災害の記憶展の翻刻テキスト

このテキストはみんなで翻刻で作成したものです.利用条件はCC BY-SAです.

京都出火略図

【上段】
京都出火略図
【下段】
安政五午年六月四日午刻
スハノ丁松原下辺ゟ火燃出
北風はけしく飛火数ヶ所
燃上り翌日朝辰刻に火
鎮まり候
【下段左端に逆さに記されている文字】
いろ〳〵もる御座候得共
          此通り聊も相違無之候




西


六条村

七条新ち

キコク【枳殻邸】
東御堂

塩小路
七条通
北小路
御前通
花屋町
魚棚

はし
五条通り
万寿寺
松原

寺町
御幸町
ふや町
富小路
柳馬ば
堺町
高倉
間之町
東洞いん

烏丸
すはの町
室町
衣たな
西洞院


島原半島之図

安政二年十月二日夜亥刻大地震焼失市中騒動図

安政二稔【「年」の意】
十月二日
夜亥剋【「刻」の意】
大地震
焼失
市中
撥動

明暦大火回向院供養の図

大阪今昔三度の大火

【頭部枠外】文久三年癸亥十一月大新板
火之用心【黒地に白抜き文字】 大阪/今昔(むかしよりいままで)三度の大火【表題 四角い枠取り】
【上段】文久三亥年大火【四角で囲む】 細見/本(ほん)/調(しらべ)【四角い枠取り】
天保八酉年大火《割書:大坂焼と|いふ》【四角で囲む】嶋ノ内ノ部【四角で囲む】
享保九辰年大火《割書:金屋妙智|焼といふ》【四角で囲む】

【中段】心得の為
世に火はおそろしきものとは
しりなから足にてふみけす人
多し 大に心得ちかひなり
火は陽にして木火土金水の
司なり火は実に有用の随一
にして勿体なきものなり
ただ大切にして火に礼をいふ
心得にて始末をすればた【起」ヵ】る
火災をまぬがるべし
よく〳〵人々の心を合せて
火を用ひ給ふべし火災は
ただ火を麁末にするもの
を天よりいましめ給ふなり
よく〳〵心得給ふべし
むかしより今年にいたる迄
かゝる大火は三ヶ度也ゆへに
今三ツを図して出すものなり

【下段】【一番右】
文久三癸亥年十一月廿一日
夜五ツ時新町橋東詰北入所より
出火いだし候所西風はげしく
して東へ一時に焼行夫より北西風に
なり巽【東南】へうつる又西南に風かわり
丑寅へやけゆく事はげしく夫より
上町へ飛火にて火勢ますゝはげしく
せんば上町とも一事にもへあがり誠に
大坂中火となるやう相見へ候まことに
老若男女のおどろき筆紙につくし
がたし終には大坂東のはしまて焼失仕候
見る人大坂市中のそうどふさつし給ふべし
同月廿三日昼四ツ時に火鎮り申候

  町数 百五十二町【「丁」は「町」の略字】
  家数 四千七百余
  竈数 二万五千余
  土蔵 三百二十余
神仏 八十余 死人四十六人
けが人数しれず

【右から2番目】
住吉より大坂にてはかゝる大火めづ
らしき事也依而後世咄しの種且は
火の元心得のためにもならんか【本文では歟。「や」の読みもある】と
一紙に図して諸人の見覧にそなへ
たてまつる

【右から3番目】
天保八酉二月十九日朝五ツ時
天満より出火風はけしくして
所ゝ々へ飛火いたし上町御城辺まて
焼失北せんば長者町大家
処々焼失夫より南え【(助詞の)江】本町まで
やけ燃【然】るに火事場にて何者とも
しれずあやしき風俗にて大坂市中
あれ廻り人々の昆【ママ】雑いわんかたなき
次第それゆへ諸国在々へ逃【迯】る事
実に蜘の子をちらすがごとく
にて日本国中に其節は此大火の
噂さはかりなり
実に希代の大火大そうどふ也
 町数  百十二町
 家数  三千三百八十九軒
 かまど 一万八千五百七十八軒
 土蔵  四百十一ヶ所
 穴蔵  百三十ヶ所
 寺社  三十六ヶ所
 死人 怪我人数しらず
【右から4番目】
享保九年辰三月廿一日之ひる
九ツ半時南堀江橘通り弐丁目
金屋妙智といふ人の宅より出火いたし
南風はげしく新町へやけ出終に北野迄
焼抜西はあみた池迄東は木綿はし辺
にて火鎮り西横堀北へ焼行博労町
北がはへ火移り夫より北は船場のこらず
焼失又天満へ飛火川崎迄中ノ島
堂島西天満東天満のこらず焼失
廿二日朝北東風になり上町へ飛火致
追々北風はげしく上町一面に成それより
高津へ移り島ノ内一円【円(の旧字体)】それより道頓ほり
芝居へ飛火いたし火先いくつにも相なり
難波新地長町不残焼失す
其節大坂四百八十余町之内四百丗町余
実に大坂初《割書:マッテ|》の大火にて親子兄弟
はなれ〴〵となり五畿内は勿論丹波
丹後伊賀伊勢江州播磨淡州等へ
にけ誠に其なんぎいわんかたなし
 家数  弐万八千余
 かまど 九万八千七百余
 土蔵  弐千八百余
 死人  凡三万余人
 けが人 十二万余

ほね抜どぞう/なまづおなんぎ大家場焼

【一枚目から続く】
ろうのふしかしおれ
たちもあのときには
どうしようと
おもつたが
この
あん
ばい
では
すこ
しは
おち
ついた
ようだが
しかし
まだ〳〵
わからねへ

藝人
〽いやおまへさん
がたはこのたい
へんでもそう
たいそうにを
しよつてあるき
なさつてもづん〳〵
うれるからあんしん
だかわたしらなぞの
みぶんではこれからは
まことにこまりきります
しかしもうそろ〳〵とほう〴〵が
おだやかになつてきたかららい
はるはよなをしでござりましやう

人足
〽アゝうめへさけだしてこのおゝなまづの
かばやきはまたかくべつにうめへわへこのあじ【「ら」に見え、それでも意味は通じるが「じ」の誤記だろう】
をしつてはこてへられねへしかしこんな
ことはそうたび〳〵はねへとかしまのおやぶん
いつたからいまのうちおもいれ【注】くつてやろふ

【注 「思い入れ」の約。思う存分。】

【中段】
しやかん
〽いやアこれは
ありがてへ
このこと〳〵
どれ
はやく
して
やりてへ
すぐにか
わりを
たの□【み?】


【下段】
あまりながく
つゞいてはあとが
わりいからは
やくよなをし
〳〵

くら持
〽ヘイおまへさんかね
おあつらへができました
いやもこんどのぢしん
にはおゝきなめに
あいましたはやく
おあがりなさり
まし

大工
〽ヲイ〳〵あねさん
もうひとさら
はやくやいてくんな
このあじをしめ
てはこてへられねへ
そしてさけもよ
はやくしてくんな

【別本 石本コレクション】
【https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ishimoto/document/0c3cb45a-0c0c-4c70-84d0-41378c6fe2f3#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=-1191%2C-1%2C7373%2C3328】

島原市街傍近現景

嘉永七寅年大地震記

嘉永七寅年
六月十四日夜八ッ時 大地震記
【上段】
          崩家七百軒計
伊州上野      土蔵百二十余
          即死凡六百人計
          けが人数 不知

          凡家八部崩れ
勢州四日市     其上出火にて
          即死人数不知
          けが人数不知

   白子     右何れも大あれ
 〃 庄野     野小家住居多し
   亀山     即死人未不知
          けが百七十人余

          崩家凡百三十
江州 土山     土蔵四十五よ
   水口     即死都合十六人
          けが五十人計

          崩家百二十軒
 〃 石部     土蔵二十一計
          即死十六人
          けが七十人よ

          崩れ 土蔵
 〃 膳所       二十四計
十三日出火     たをれ家
            九十八計
          即死七人
          けか 五十人よ

 〃 信楽     崩れ家百件よ
          土蔵十六計
          即死四十五人
          けが 百人よ

 〃 大津     崩家八九十
  并尾花川    土蔵二十八
          即死三十二人
          けか六十人

和州 奈良     町崩家五百計
 又廿一日夜地しん 土蔵 八十七
 木ツ辺大あれ   即死百五十人よ
          けか人数 不知

 〃 郡山     崩家七十二三
          土蔵十八計
          即死二十三人
          けか七十人計
京大坂并に外〳〵之ぎは
少々之事ゆへ略す
【下段】
六月十三日朝ゟ
    〃夜四ッ時迄 町数二百よ丁
越前福井       家数五千五百計
  大火       寺社百十三
           土蔵六七十
 咒哥        大黒柱にはるへし
 ゆるくともよもやぬけしの要石
   鹿嶋の神のあらんかきりは

京都出火略図

京都出火略図《割書:寅四月六日|正ひる時より》
      《割書:翌七日朝鎮火》
【朱印 上田文庫】

京都大火之略図

京都大火之略圖
元治元年甲子七月十九日朝五ツ時と思敷ころ
川原丁二条下ル長州屋家内出火暫時に火鎮る
同しく四ツ半時烏丸中立売辺ゟ【より】又々出火いたし、
人々驚きアハヤト見る間に又堺丁丸太丁辺ニテ黒
煙立登り折節南風つれ両口の火四方に
焼広かり寺町通り町家を始寺院のこらず
焼失其外寺町ゟ西は堀川迄敷浪のことくに
焼行堂社小宮の分ちなく皆一時に火灰となる
南は七条のはづれ迄焼行、所々に飛火数多
にして東願寺仏光寺周幡堂六角堂誓願
寺は勿論、和泉式部ゟ錦天神まて焼行金蓮寺
ゟ南は東側無別条西は堀川迄諸御大名屋舗
一軒ものこらずやけつくし松原通は東へ焼込み
それより南は加茂川筋西側のこらずやけ行
又山崎伏見嵯峨天龍寺に出火市中の人民
四方に走り八方に立まよひ東山山科醍醐大津

近江路辺に逃行男女うしほ
のわくがごとくあられの玉ちる
ごとく立さわぐありさま誠ニ
前代未聞之次第なり火は
やう〳〵と廿一日朝五ッ時ニ鎮り
申候◯ 町数凢一千余町、家数
凢六萬余軒といふ未た委
敷は相不分何分古今の大火也、
此印●大名御やしき方

京都大火之図

《題:京都大火之圖》
【題字下】
嘉永七寅四月六日正午之刻御所様近辺より出火いたし
折節東風はげしく御所之内過半焼中立売御門より
西に出堀川西へ焼ぬけ西は凡千本通り迄東は寺町 西
かは迄六十七年已来之大火也翌七日五ツ時之刻火鎮り申候

【頭部欄外】
嘉永七寅四月六日午の刻より京 御所 近辺より翌七日五ツ時に鎮申

痘瘡治療法

をさな子か
うしにひかれて
かろ〳〵と【軽々とヵ】
あそひを
するを
見るそ
たのしき
  春雄

牛痘法は古今無比の良
法にしていまは偏境僻地
まてもひろまり流行痘の
大厄をまぬかれ非命の死
を遁るゝ孩児いく億萬とも
はかるへからすまことに仁
術といふへし然るに今も
なほふかくうたかひて信用
せぬ人すくなからすかゝる仁術
ありなから年々痘瘡のはやる
ごとに孩児をおほくそこなふ事
実になけかはしき事なり若世上
一般これを信用するにいたらは痘瘡
に死するものは一人もなき事となりぬ
へしこれ吾輩の企望するところなり
                 濵町永久橋
                 本夛内西村【朱印】

信州大地震届書写し

【一枚目】
弘化四未年三月
 信州大地震之手紙

当三月廿四日之夜四ツ時頃俄に大地震有之
中之条陣屋構塀大半ゆり崩し候得共建
家別条無之元村にも同様庇等震動候得共
潰家幷怪我人等無之陣内に而も庭中野陣
を張本家に住居いたし候もの無之同夜暁
迄に八九十度も大小震動致し日に百七拾度
又は百度程も其内大地震五六度有之
当月朔日ゟ五日迄は日に三四度程も間遠
に相成候得共其内大地震弐三度有之今に震動
相止不申候未た村々に而も野宿いたし居候
者多分御座候
一支配所は水内郡之内に六ヶ村民家皆潰
 同様死人多き場所に候得共其余は破損
 之分多く見分手代遣し置候得共未た取
 調出来兼申候
一松代領水内郡に山中と唱候一郷有之三万
 石余之場所に候処右村之別而地震強く
 山崩れ村毎に有之家居悉く潰死人夥
 敷同郡水内橋之下犀川之両縁に手林
 長井と申両村有之右枝郷之山両方ゟ
 崩れ落岩石犀川を塞き人家木立とも
 右崩落候土上に其儘有之大土手築き候
 姿に而敷八丁程も有之自然之山を現し候
 如く川下え水一滴も落不申川上瀬水之
 如く数ヶ村水下たに相成中六七丁又は十四五
 丁長さ五六里余   廿四日ゟ今日迄十日
 余に相成候得共未た水落不申右崩落候場
 所是迄之手水ゟは大凡八九十間も高く
 候処追々水  三十間余も水上え有之此節
 照続候故歟犀川減水致候右広場えたゝ
 へ候水嵩一昼夜に弐三尺位も之由此上大雨
 に而も有之候得は格別無左候而は二三十日
 相過不申候而は流れ落申間敷哉之由然る処
 川下村々に而は一時に切れ落亡村に可相成と
 食物に携山上え逃登或一村不残他所え
 立退抔騒居候風聞に付見分之者差遣し
 水上之様子為見届候処当時之姿に而は易
 容に切れ落可申様子は無之仮令満水に而も
 銚子之口之如く自然流れ落可申哉之由に御座候
一松代城下町は潰家弐た通り有之由に候得共
 場所に寄強弱有之領分一体に而は夥敷
 潰家死人に而是迄届有之候分弐千人余右山
 中郷之分未相見分不申候得共大凡壱万人
 程之死失に而も可有之由同藩之噂にも御座候
【二枚目】
一善光寺町は此節開帳中に付諸国ゟ
 参詣之道者夥敷同夜之地震俄にゆり
 に而逃げ出し候者も押潰二た足とも歩行致
 候間合せ無之押潰拾人之家内六七人死失
 又は一家不残死亡も有之死人之山を築候
 由其上三四ヶ所より出火致烈風に而焼払ひ
 町家九分通り焼失本堂山門本坊は
 相残候而已其余不残類焼前代未聞
 之大変に而追々承り候へは寺領八千人之
 人割三千人余死且参詣之道者凡弐千人余
 死失其外右道中筋に而同様死候者
 何千人と申事相知不申候由
一飯山城下幷上田領稲荷山村右善光寺
 町同様地震之上出火に付土地之者は勿論
 止宿之道者も夥敷死亡其外水内郡更
 科郡両郡之内北国往還筋は同様潰家
 幷死人も有之未た取片付け出来兼候場所も
 有之丹波嶋ゟ善光寺辺今に臭気甚
 敷往来之者鼻を掩候由に御座候
一此度之地震之模様は信濃国水内郡根本
 と相見へ山崩れ地破夥敷又壱村皆潰之
 場所も有之高井更科 【埴脱ヵ】料【科誤ヵ】筑摩安曇
 之五郡は同様山崩れ潰家多分之場所に候へ共
 先つ枝葉之姿其内にも地脈寄候哉所々
 強弱有之小県佐久両郡は余勢而已に而及
 潰候程之家居無之夫に而も平常之地震に
 引くらへ候得は大地震とも可申哉之由
一越後国も同様大地震之由に候へとも風聞に而
 事実一向相分り不申候以上
  弘化四未三月
        信濃国
 支配所     御代官
  高五万石之内  高木清右衛門

  一弐千百十五軒   潰家
     内 拾軒   焼失
     内拾六軒   土中埋
  一七百八十弐軒   半潰
  一拾弐ヶ所     潰高札場
  一弐拾六ヶ所    潰堂宮
  一三百三拾壱ヶ所  潰土蔵
  一五百拾八人    即死
  一千四百六拾人   怪我人
  一百五十六匹    死馬
  一弐   疋    死牛

  右之通に御坐候依之御届け申上候以上
   未四月    御代官高木清右衛門

焼死大法会図

焼(しやう)死(し)大(たい)法(ほう)会(ゑの)図(づ)

高(かう)名(めう)
変(へん)死(し)
滅(めつ)法(ほう)世(よ)界(かい)
念(ねん)仏(ぶつ)種(しゆ)焼(しやう)
拙(せつ)者(しゆ)冨(ふ)者(しや)
南無阿弥陀佛
みななみだ

南無阿弥陀佛
皆なみだ
  〳〵〳〵
キンノヲト
 「ガアン〳〵〳〵

大地震記事

【右頁上段】
于時安政二乙卯年十月二日夜四ッ半時地震
発し一時に騒動して関東一円存亡夥敷く
人民肝を消て大路に転ふ天救を請て漸に命を
保もの官府の仁恵を乞て始て人心に帰す
 第一〇和田倉内〇大名小路
   〇大手前 〇日比谷内
先振動焼亡の所は和田倉内馬場崎先内
    《割書:  |会津二十三万石》        《割書: |武州忍十万石》      
「家紋」松平肥後守様やける「家紋」松平下総守焼る
       《割書:一 |越後村上五万九千石》
夫より「家紋」内藤紀伊守様やける此辺西丸下御屋
しき桜田内共崩れ多く損し広大なり
           《割書: |下サ生実一万石》
▲龍の口北之角「家紋」森川出羽守様やける
                 《割書: |姫路十五万石》
夫よりかた様御向屋敷やける「家紋」酒井雅樂
頭様やける但表御門残る此辺神田橋ぎは
左衛門尉小笠原右京太夫様松平越前守
道三橋辺御やきすべて崩おびたゝしく是より
向川岸は細川越中守様別条なく秋元但馬守様
此辺御やしき少しツヽくづれ多し松平丹波守様
水野壱岐守様松平越後守様何れも少ツヽくづるゝ
                  《割書: |江州三上》
大名小路は両側共崩所々也西側角「家ね紋」遠藤
《割書: |一万二千石》
但馬守様うしろ定火消御やき共やける
   《割書: |因州鳥取三十二万五千石》
「家紋」松平相模守様やけ御長家少しのこる
          《割書: |三州岡崎 五万石》
日比谷御門内「家紋」本多中務太輔様やける
    《割書: |摂州高槻三万六千石》
「家紋」永井遠江守様やける此辺いたみつよく
すきやばし通りかぢ橋通り共損亡おびたゝし
【左頁上段】
第弐 ○外桜田辺 〇かうじ丁 〇番町
   〇幸橋内  〇四谷赤坂 〇青山辺
外桜田ない芸州様御屋敷別条なく黒田様御屋敷は
角矢倉之御物見残り表御門きはまで御長家くづるゝ
此辺諸家様崩多く南は溜池へん西は赤坂
御門山王永田丁辺諸々崩る猶又新橋内東角
   《割書: |石州ツワノ 四万三千石》
「家紋」亀井隠岐守様御屋敷内にて長家一ト棟焼る
       《割書: |日向おび 五万千八十余石》     《割書:一行目|和州郡山十五万千三百》
それゟ「家紋」伊東修理太夫様やける「家紋」松平時之助
《割書: |八十石》         《割書: |奥州もり岡 廿万石》
様やけ又向がはゝ「家紋」南部美濃守様「家紋」薩州様
御装束屋敷表側やける其外有馬様丹羽様
北条様大岡様水野様鍋島様等いづれも崩
多し上杉様少し崩る「家紋」長州様うら御門内
        《割書: |肥前佐賀 三十五万七千石よ》
少しやける「家紋」松平肥前守様崩候上やける夫ゟ
山下御門内は長手通り不残中にも阿部播磨守
様大崩れ又井伊かもん頭様ゟ三軒家辺
平川丁崩少なく麹町通所〳〵崩あり
谷町隼人山本町少しいたむ四ツ谷御門内は
尾州様紀州様共其両御やしき崩少し番丁崩なし
是ゟ四ッ谷伝馬町市谷は高地よ宜しく
鮫がばし丁抔ひくき場所いたみつよし当所は
上水万年樋そんし水あふれ諸人難義す
新宿成子大久保辺千駄か谷辺別してさはりなし
青山赤坂は所々そんし多く分けて田町伝馬丁辺
崩れ多く麻布龍土日がくほ辺すべて崩れなし
【右頁下段】
第六 ○上野広小路 ○坂本金杉辺
   ○根津池之端 ○御成道山下辺
東叡山御山内は御別条なく宿院諸所いたむ
池の端茅町弐丁目ゟ出火境稲荷より上は
七軒丁根津辺迄崩多く且共類焼なし
茅町は壱丁め木戸際にて焼とまる山側少々しのこる
出雲様榊原様無事也切通し下町家大崩なり
天神下通り崩つよく御すきや丁皆崩るゝ仲丁は
片側崩多く両かは丁は少し広小路山下辺崩多し
広小路東側中程ゟ出火上野元黒門町北大門丁
上野丁一丁目二丁目下谷同朋丁新黒門町上野
          《割書: |下サ一万石》
御家来屋敷向側「家紋」井上筑後守様東北の
角少し焼ける車坂丁大門丁長者丁壱丁め二丁め
下谷町二丁目代地是ゟ中御徒町通へやけの也
長者丁向片側御屋敷上野丁うら中おかち丁
一円御武家地やける山下通御かち丁は和泉橋
通り迄所々崩るゝ妻恋下建部様内藤様
               《割書: |いせ亀山六万石》
表長家崩るゝ下谷大名小路は「家紋」石川主殿頭
 《割書: |房州かつ山一万石》
様「家紋」酒井安芸守様二軒焼ける▲夫ゟ下谷坂本は
二丁目三丁目やけて金杉三之輪は崩多し大音寺前
根岸共少しふるひ谷中は多分の事なし又車坂下
山崎丁辺広徳寺前辺少し崩るゝ三味せんほりゟ
七曲辺大名方塀土蔵大半崩るゝ尤外神田
境は格別のことなく久右衛門丁餌鳥屋敷辺少し崩る
【左頁下段】
第七 ○浅草辺一円
   ○下谷境迄
北は千住宿崩多く小塚原丁のこらずやける
山谷通新鳥越は寺院共大崩れに新吉原
江戸丁ゟ出火五丁不残やける浅草田町二丁め
山下丁竹門馬道町寺院不残聖天横丁ゟ
芝居丁やける東かはにて森田勘弥羽左衛門
福助しうか竹三菊次郎などの家のこる聖天丁
山の宿はやけす九品寺ゟ西側花川戸半丁ほど
入やけとまる是ゟ金龍山観世音恙なく地内
崩多し並木田原丁多分也駒形崩多く中頃ゟ
出火して諏訪丁黒船丁三好丁御うまやがしにてとまる
夫ゟ御蔵前浅草見附迄所々崩多く鳥越新堀
寺丁辺所々崩る菊屋橋きは新寺丁角より
出火して両側小半丁やけこみ本立寺行安寺
正行寺三門前やけるこの裏てこうむね仁太夫の
こやうち潰の上やける堂前辺所々くずれ崩る猶又
八軒寺丁四軒寺丁の寺院大半潰る東門跡は
本堂恙なし地中大破也西東の門倒るゝ也
森下三間町堀田原辺所々崩れ潰共多し
小揚丁御組下長屋潰る稲富丁富坂丁
は潰れ多く又誓願寺店日輪寺店辺崩
所々也浅草溜少し崩る観世音五十の塔
九りん北の方まがる雷神門の雷神損じ落

嘉永七年十一月大阪大地震大津波

嘉永七年大阪地震大津浪
寅十一月
  大地

諸国珍事末代記録鑑

諸(しょ)国(こく)珍(ちん)事(じ)末(まつ)代(だい)記(き)録(ろく)鑑(かゝみ)

嘉永七寅年中極細吟大新版 【枠外】

【右一段目】
【上部横書き 右から】東之方
大関《割書:十一月|五日》大坂地震津波
関脇《割書:九月|十八》同天保異国船
小結《割書:十月|六日》《割書:八代目|団十郎》乗込并病死
前頭《割書:閏七月|寅ノ日》信貴出寅守
前頭《割書:六月|十四日》奈良大地震
前頭九月《割書:大坂|長町》お市三ツ子産
前頭《割書:十一月|五日》阿州徳島大火
前頭《割書:六月|十四日》郡山大地震

【右二段目】
前十一月 岡崎矢矧落ル
同九月  湊死去
同十一月 宮大津波
同〃   平野大地震
同七月  北ノ新地踊り
 二月《割書:八丁目|寺町》地獄戻り
同六月 なんバ砂持
 十一月河内松原地震
同〃  堺津波
同〃  原吉原丸焼
 四月 坂町いてう娘
同十一月岡山大あれ
同六月 いてう丼酒

【右三段目】
同十一月播州《割書:ちしんにて|どろ吹上る》【液状化】
同〃  兵庫大地しん
 〃  江州彦根同
 〃  紀州高野同
同〃  鳴海同
    ちりふ《割書:ぢしん|大つなみ》【池鯉鮒=現在の「知立」】
同〃  藤川同《割書:七部|くつれ》
    赤坂同《割書:のこらす|くつれ》
同〃  御油《割書:ぢしんニ而|大あれ》
    よし田同《割書:五部|くつれ》
同〃  二タ川同《割書:五部|くづれ》
    白すか同《割書:八部|くづれ》
同〃  舞坂同《割書:四部|くづれ》

【右側四段目】
【上部横書き 右から】世話人
天王寺清水
 ぶたいおちる
大阪御堂
 二尊堂こける
ふくしま
 五百らかんこける
座摩鳥居
 ぢしんにてこける
天満天神同
 井戸やかたくだける
下寺町同
 浄国寺本堂こける

頭《割書:大》御堂地付
取《割書:坂》天王寺大黒堂建

【中央部 上から】
《割書:次第|不同》 御免

《割書:行》 《割書: 紀州湯浅津波|身延山《割書:大坂へ|御通行》》
《割書:司   江戸|    猿若町》《割書:三芝居大火》

《割書: 壹朱銀通用|近国近在《割書:豊年踊り|神事地車出 ̄ル》》
《割書: 大坂素人角力大はづみ》

《割書:勧進元諸国大豊年|差添人大坂町々御千度》

【左側一段目】
【上部横書き 右から】西之方
大関二月浦賀美国船
関脇《割書:四月|六日》京大火
小結五月堀江孝行娘
前頭三月大坂遊行寺参詣
前頭《割書:六月|十四日》伊賀上野地震
前頭七月上酒ばゝ
前頭《割書:十一月|四日》勢州鳥羽津浪
前頭《割書:六月|十四日》山城木津大水

【左側二段目】
前十一月富士川埋 ̄ル
同 四月《割書:多見蔵|寅吉》同座
同十一月荒井津浪
 十一月尼大地震
同 六月九郎右衛門上ヶ物
  九月《割書:東寺|かけ所》弁天出現
同 四月天神小宮正遷宮
同十一月尾ノ道津浪
 〃  西ノ宮地震
同〃  浜松同
  四月なんち尼出
同十一月桑名大あれ
同 五月ちよい出 ̄シ豆屋

【左側三段目】
同十一月かん原大ぢしん
 〃  岩淵同
同   おきつ同
 〃  江じり同丸やけ
同   ふちう同《割書:四部|やけ》
 〃  まりこ同《割書:家|くつれ》
同   岡部同
 〃  藤枝同
    島田同《割書:五部|くつれ》
同〃  金や《割書:七部|丸やけ》
    かけ川同丸やけ
同〃  袋井同
同〃  見付同

【左側四段目】
【上部横書き 右から】世話人
天王寺
 たいこ堂こける
同亀井ノ水くだける
佐のやはし
 高へいこける
中寺町
  寺門こける
生玉
 神楽所こける
大坂戸や町すじ
 ぢしんにてこける

頭 紀州日高あれ
取 奈良石灯籠《割書:こ|ける》


大阪大火之図

大坂大火之図
【上段】
文久三年
亥十一月
廿一日之夜
新町はし
東詰より
出火いたし
折節西風
烈敷玉造
迄焼失同
廿三日朝火
鎮り申候
【下段】
船場之分町数五十七町

町数凡百八十町
家数七千軒
竃凡二万軒
火入蔵二百五十
寺院凡五十軒
御屋敷数不知

大阪今昔四度の大火

【方角記号】【地図の題字】大阪/今昔(むかしよりいままで)四度の大火【四角で囲む】
【題名下】
火事の恐るべき事は誰も知らぬ者は無けれども消防機関の整はぬ昔は兎も角今日にては
水道あり蒸気ポンプあり決して火事は大きくならぬと枕を高ふするは誤りなり一朝風はげ
しく水の手悪しければ今回の如き大惨狀を起すにゆめ〳〵用心にも用心をして火を麁
末にすべからず爰に今昔の大火事を封照して恐るべき大火災の惨狀を我人共に後々の心得
の篇にかくは記しぬ
【地図 右上から】
明治四十二年北区大火【四角で囲む】
享保九辰年大火【四角で囲む】《割書:金屋妙智|焼といふ》
天保八酉年大火【四角で囲む】《割書:大塩焼と|いふ》
文久三亥年大火【四角で囲む】《割書:新町橘より玉造まで焼ける|俗に新町焼と云ふ》【割書部朱書き】
【下段】
明治四十二年天満の大火
明治四十二年七月丗一日午前三時三十分頃大阪市北区空心町二丁目天満橋筋西側
莫大小製造商玉田より出火折節東北の大暴風加ふるに土用炎天纉きにてかわき切
つたる事なれば何狀たまるべき見る〳〵附近の松ヶ枝小學校を焼き拂ひ火勢西南
に延焼し第一の防火点たる堀川にて防ぎ得ず爰に於て火勢いよく猛悪となり南
は堂嶋一圓北は曾根崎及梅田附近を焼拂ひ上下福嶋迄延焼し翌八月一日午前五時
四十分頃終に鎮火せり其延長賽に一里半幅員十餘町なり焼失表左の如し
町数 百数十町
橋梁 十三ヶ所
戸数 一萬二千餘戸
劇場 五ヶ所
學校 八ヶ所
神社佛閣 二十ヶ所
第四師團全部消防に従事す 京都 神戸 東京 より消防隊應援す此人員約五千名
損害高 無慮壹億圓
【縦線】
享保九年の大火
享保九年辰三月丗一日(百八十六年前)のひる九ツ半時南堀江橘通り弐丁目金屋
妙智といふ人の宅より出火いたし南風はげしく新町へやけ出終に北野迄焼払西は
あみた池迄東は木綿はし邊にて火鎮り西横堀北へ焼行博労町北がはへ火移り夫よ
り北は船場のこらず焼失又天満へ飛火川崎迄中ノ島堂島西天満のこらず焼
失廿二日朝北東風になり上町へ飛火致追々北風はげしく上町一面に成それより高
津へ移り嶋ノ内一圓それより道頓ぼり芝居へ飛火いたし火先いくつにも相なり難
波新地長町不残焼失す  其節大阪四百八十余町之内四百丗町余実に大阪初マツテ
の大火にて親子兄弟はなれ〴〵となり五畿内は勿論丹波丹後伊賀伊勢江州播磨淡
州等へにげ誠に其なんぎいわんかたなし
かまど数 九萬八千七百余
土蔵 二千八百余
死人 凡三萬余人
けが人 十弐萬余
【縦線】
天保八年の大火
天保八年酉二月十九日(七十三年前)朝五ツ時天満より出火風はけしくして所々へ
飛火いたし上町御城邊まて焼失北せんば長者町大家處々焼失夫より南本町までや
け然るに火事塲にて何物ともしれずあやしき風俗にて大阪市中あれ廻り人々の混
雑いわんかたなき次第それゆへ諸国在々へ逃る事実に蜘の子をちらすがごとくに
て日本國中に其節は此大火の噂サばかりなり実に希代の大火大そうどふ也
町数 百十二丁
かまど数 一萬八千五百七十八軒
土蔵 四百十一ヶ所
穴蔵 百三十ヶ所
寺社 三十六ヶ所 死人怪我人 数しらず
【縦線】
文久三年の大火
文久三癸亥年十一月廿一日(四十七年前)夜五ツ時新町橋詰北へ入所より出火い
だし候所西風はげしくして東へ一時に焼行夫より北西風になり巽へうつる又西南
に風かわり丑寅へやけゆく事はげしく夫より上町へ飛火にて火勢ます〳〵はげし
くせんば上町とも一事にもへあがり誠に大阪中火となるやう相見へ候まことに老
若男女の驚き筆紙につくしがたし終には大阪東のはしまて焼失仕候見る人大
阪市中のそうどうさつし玉ふべし同月廿三日晝四ツ時火鎮り申候
町数 百五十二丁
竈数 二萬五千余
土蔵 三百二十余
神佛 八十余 死人 四十六人 けが人 数しれず
【縦線】

【紙面左側欄外】
複製
不許

明治四十二年八月七日印刷    大阪市東区糸屋町二丁目六〇
仝   年八月十一日発行  《割書:印刷兼|発行人》高橋五之助 

  東区松屋町博物場北ノ辻角
《割書:発売元》 家村文翫堂

  東区南本町壹丁目
《割書:特約店》 西岡商店












疫癘速かに治する妙薬法

  疫癘(ゑきれい)速(すみやか)に治(ぢ)する妙薬法(めうやくほう)

□【一?】時疫(じゑき)を治するには。芭蕉(ばせを)の白根(しろね)掛目五匁おろししぼりて。
其生汁(そのなましる)を冷水(れいすい)一合にくはへ呑(のめ)は治する事/速(すみやか)也。熱(ねつ)つよきには
□て呑(のむ)べし。若(もし)ねつ裏(り)に入(いり)てはつさんしがたきには。四五日も
つゝけ呑(のめ)は熱(ねつ)はつさんして命(いのち)にさはりなし。近頃江州日野住人(ちかころこうしうひのゝちうにん)
中井/某(それかし)此/同方(とうはう)をしるし。印施(いんぜ)【注①】ありて疫難(ゑきなん)をすくふの功大(こうおゝ)ひ也
一七/曜(よう)の中の月/曜星(ようせい)もし五月五日にあたれはそのとし疾疫(しつゑき)
の愁(うれ)ひ多(おゝ)しと或経(あるきやう)に説(とけ)り。然るに当亥(とうい)のとし五月五日月曜に
あたれり。よつて其/愁(うれ)ひあらんことをおそる此ごろ間々(まゝ)疫病(やくひやう)
の流(はや)る事をきく。凡病の難治(なんぢ)なる傷寒(しやうかん)【注②】温寒(うんかん)疫癘(ゑきれい)【注③】に
越(こゆ)るものなしと。此/妙方(めうはう)我家(わかいへ)にもむかしよりつたへてあまた
の人に用ひこゝろむるに一人として治せざるはなし誠に仰(あを)ぎ
用ゆへき珍方(ちんはう)なれば。今/先人(せんじん)の志(こゝろざ)しをついで弥(いよ〳〵)この薬方(やくはう)
をひろめて。世(よ)にひとしく益(ゑき)あ□【ら】んことをこひねがふのみ
 熱症(ねつしやう)は冷水(れいすい)を用ゆべし。若(もし)陰症(いんしやう)【注④】か又水を好(この)まざる人には
 湯(ゆ)をくわへ用ゆべし但はせをのなき所にてはめうが
 の汁(しる)を多くのみてよし又/牛房汁(ごぼうしる)を呑(のみ)てもよし
附リ
 痢疾(りびやう)の治しかたきに。はせをの根(ね)をせんじ服(ふく)すれは治する事
 すみやか也

  文化十二□【乙】亥夏    平安 三笑洞印施

【注① 世のためになることを印刷して世人に知らせること。またそのもの。】
【注② 昔の、高熱を伴う疾患。いまのチフスの類。】
【注③ 悪性の流行病。疫病。】
【注④ 漢方医学で、病勢が体内にこもって外に発しない状態。発熱などの症状が現れない病気。】

京洛中大焼節届の次第

【一枚目】
天明八申歳
さるのとし正月廿九日あさ
     あけ六ツゟやけ
さゝや  助左衛門
かなや  利兵衛
まつや  弥兵衛
ふじや  おみつ
ますや  源右衛門
いつゝや 庄兵衛
大文じや 治右衛門
万や   かん左衛門
山かたや 嘉兵衛
はせ川  弥三郎
はせ川  与介
大こくや 長右衛門
     おいこの
大こくや 源吉
はりまや 久兵衛
さゝや  治兵衛
さゝや  三之介
たわらや 権右衛門

 今年卯としまてに
 三十弐年かとそんし候【存じ候】
一ほかにもいつけは御さ候【他にも一家は御座候】
 これはつきやいはなし【これは付き合いは無し】
右之内いゑたいてんは【家、退転は】
わかさや治郎左衛門けふだい【兄弟】
はかりにて候
  右るいやけのとき【類焼けの時】
一そのもととのゝ心ざし
 やけ見まいとして
一金子弐両わた入ぬのこ
一白米五斗
一みそ 壱おけ
一かうのもの壱おけ
一さわら十本
一たひいろ〳〵〆【鯛、色々、しめて】
 五十壱そく
一おわり大こんの
 きりほし
一壱貫目これもさて〳〵
 けつかうちやうほうの【結構、重宝の】
 しなに御さ候ゆへに
 つかうたひ〳〵に【使(つこ)う度々に】
 あまりかたしけ【余り忝(かたじけ)】
【二枚目】
のふてありがた
なみだこぼして
つかい申てくわじ
みまいくたされ候て
あや徳へもしんぜ【「あや徳(尼僧・僧の名ヵ)」へも進ぜ】
そのほかいつけも
すこしづゝしんせ【少しづゝ進ぜ】
とのやうにみな〳〵
よろこひ申され候
なを〳〵いつまても
わすれおきわ不申候【忘れ置きは申さず候】
そのせつていきやうが【その節「ていきょう」が】
ひやうきにも【病気にも】
一白銀おひたゝしく
 くたされたひ〳〵【下され、度々】
 かす〳〵ありがたい【数々、有難い】
 事とそんし候【存じ候】
 れいつくしかたく候
 十七けんの内にて
いへたいてんは【家、退転は】
わかさやけふだい
はかりにて候
ほかはあといつち申候【他はあと一致申し候】
右やつかいになるほと
の事に
まつ〳〵壱人も
やけし人なく
これかありかたい事
一むゑん〳〵ほうかい【無縁〳〵法界】
 なむあみたふつ
かとのそ【ママ】たけの【*】
やけ人はおひ
たゝしく事【焼け人は夥しく事】
此所ゆめになれ候
なむあみたふつ
  ていきやう【貞教ヵ、本書状の著者名で尼僧の可能性が高い】
 善左衛門との
みへまいわかる【見えまい、判る】
まいすいさつで【まい、推察で】
よみくたされ候

【*、京都市内に佐竹の名の町が二箇所ある。上京区佐竹町は今出川通と千本通との角に位置する。】。

【端裏書】
親父様は天明七未年
       五月廿五日御誓言大に御仕合
《題: 京洛中大焼節届の次第》
此時に大坂御■へ出■善左衛門廿六才の■

安政二卯年十月二日夜地震大花場所一覧図

慶応四戊辰年大洪水細見図

【右側欄外 上部】極本細しらべ 【同 下部】近在難渋人大坂町内中より施行致候事誠におびたゞしく筆記かたく

【上段】
四月中旬より閏四月中旬迄雨天多く閏月十五日
入梅に相成候て七八日続て御天気の所廿日過より
五月八日迄大体雨天計り九日十日天気十一日より十五日
明方迄昼夜降通し候ゆへ堺大和橋より二三丁計り
川上にてうりの村南の方の堤十三日申上刻凡巾
四十間余切れ込其水勢三尺計りの波打うづ巻立て
水先戌の方へ押行其おそろしさ見る物目のまはるごと
またゝく間に押流れ死人夥敷同所中程より北なにはや
松は申に不及住吉鳥居前より壱丁余北まて
往来にて四五尺の水ゆへ船にて見舞いたし候誠に
愁至極目もあてられぬ次第に候○又淀川筋は淀の
小橋落候ゆへ其材木天満橋へかゝり十二日夜七ツ時
天満橋中ほど卅間余流れ落候天神橋浪花橋は
いまた無難なれ共十三日より往来とまり候又川上は平太と申
所にてきれ込み候ゆへ中嶋郷は江口三番新家新庄国じま
宗禅寺馬場其外村々一円家根迄水漬りに相成候○
中津川に而は横ぜきと申所切れこみ三番村十三村ゑび江ひゑ
嶋浦江其余村々北野辺迄一円大洪水○東はとくあん堤
辺に而切れこみ候ゆへすみのどう辺より東の山ぎは申に
不及大坂より東の在一円のこらず白海のことくに有之候
○西は下福島野田村伝法等に而堤小川所々切れこみ何れも
大水に御座候○大坂市中に而は北の新地三丁目より
西は往来にて深き所は壱尺四五寸水下 ̄タ ばらに而は【注】
床の上にて二尺三尺の水なり堂島の下も中の島
の下も其ほかすべて川々の水下も場所にては川と
往来と一流に相成候所有之候又往来にて所々より
壱尺或は二尺往来に穴あき候も有之死人けが
人等こゝかしこに有之候誠に八九十年来の間未聞の
大洪水にて中々筆紙に尽しがたくいまだ高水に而
諸方の往来とまり候ゆへ此外遠方之儀はおい〳〵
相知れ候はんあゝ誠に古今の大洪水なれかし
【下段】
《題:《割書:慶応四|戊辰年》大洪水細見図》 
此外 近江 丹波 播州 阿州 讃岐 伊予 土佐 紀州 勢州
所国路 山城 大和 美濃 尾州 関東すしにいたるまで諸国
一円の大洪水のよしなれ共不便にてくわしくはしるしかたく略之

【注 東京大学情報学環本館蔵小野秀雄コレクション『大洪水細見図』慶応4年(1868)。の飜刻文は「下タばら之内は」とあり。一方、大阪市立図書館デジタルアーカイブの『大洪水の次第』(http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/viewer?cls=ancient&pkey=n0044001&lCls=media&lPkey=195975)は被害状況の記事部分が殆ど同文で筆跡も似ていることから恐らく同一人物の書いたものと思われる。それには該当部分がこの資料の様に行尾に詰めて書いたようではなく、行の中程にはっきりと「下タ(小さく) ばらニてハ」とありますのでそれに決定する。】

京都大火本しらべ

京都大火  本しらべ  伏見焼之づ

              京
              町数凡
               八百九十余丁
             家数
              弐万三千軒
                   余
            神社廿ヶ所
           寺院弐百六十ヶ寺
                  余
            此外さか
             天龍寺
             壬生焼失
            御城
             別状
              ナシ


元治元年子七月十九日朝五ツ時《割書:ョ| リ》出火同廿一日朝火鎮《割書:リ|》申候

鯰を蹴散らす伊勢神宮神馬

ここに安政二年
十月二日の夜
大地震(おほぢしん)ありて
家(いへ)たをれ
蔵(くら)くづるゝを
おびたゞしく
猶(なほ)死亡(しぼう)の人(ひと)多(おほ)かる
中(なか)にけがもなく
あやうき命(いのち)を
たすかりたる
人々(ひと〴〵)は伊勢(いせ)

太神宮(だいじんぐう)の
御たすけ也
その故(ゆゑ)は
彼時(かのとき)御馬
御府内(こふない)を
はせめぐり
信心(しん〴〵)の輩(ともがら)を
すくひ玉ふにや
たすかりし人々(ひと〳〵)の衣類(いるゐ)の袂(たもと)に
神馬(じんめ)の毛(け)入(いり)てある
といふをきゝてその人々
あらため見るにはたして
馬(うま)の毛(け)出(いづ)る也 是(これ)こそ
大御神(おほんかみ)の守(まも)らしむる所なりと云々

〽かみさまがでてはおれ
たちはかなわねえはやく
にげだせ〳〵

アゝいてへ〳〵もふ〳〵
でませんごめん〳〵


鯰に金銀を吐かされる持丸

【一段目】
盲人
「てもさてもいくじは
 ねへせつかくこうり
 をかしてためたこの
 かねをせめては▲


もと
きんば
かりても
のこして
くれゝば
いゝにそれ
までとは
たまらねへ

じしん
「なんとどうたこう
 ゆすぶつたらありつ
 たけたさずはなるまい
 さあいまゝでためたその
 かねをのこらすはきだして
 しまへそうするとおゝくの人が
 よろこぶわ
かね持
「あゝせつねへせつかくしほをなめてためた
 このかねをのこらずはかしてしまうとは
 なさけねへしかしためたときよりまことに
 せわなしにでゝしまつた

【二段目】
かね持
「やれ〳〵きさまははいたかおれはしりを
 ふまれるゆへみんなくたつてしまつた
 いましい

【三段目】
「諸(しよ)しよの人よろこぶこゑこや〴〵
 かや〳〵〳〵わんや〳〵〳〵〳〵

いしや
「やれ〳〵これは
 こていねいに
 ぐちし【?】までこゝへ
 おだしくださるとは
 かたじけない

嘉永七年寅十一月大阪大地震大津浪

《割書:嘉永七年|寅十一月》大坂大 地震(ぢしん)大 津浪(つなみ)
【紙面上から一段目】
《割書:十一月四日|五ツ半時》大地しん
清水舞台願教寺たいめん所崩れ
天満天神井戸屋形▲座摩石鳥居
絵馬堂崩れ▲本町狐小路高塀崩れ
▲西寺町金ひら絵馬堂▲福島上ノ
天神うら門鳥居崩▲中ノ天神拝でん
▲下ノ天神絵馬堂▲五百らかん門そで
かべらかん堂同台所光智院玄関
▲なんば鉄げん寺つりかね堂▲御まへ井
戸やかた▲両御堂境内所々大にそんじ
安如寺しゆろう【鐘楼】堂▲天王寺たいこ堂
▲ふとうじ菱に成▲其外宮寺所々
有之といへども一々爰にしるしがたし
  町々崩家記す
▲さのやばし塩町北入高塀崩死人ありはご板橋北
詰角崩出火▲小間物棚戸や町此辺多く崩
帯や町北がは土蔵崩▲永代はま大安蔵くづれ
▲堂島さくらばし南詰西へ七八軒崩れ▲あじ川
明正寺本堂崩▲幸町東樋より南へ七八けん
▲北ほりへ四丁目五六軒▲両国橋かくや町西
南角十四五軒▲常安寺南詰十六七軒
▲のばく【畑地】蝋納や崩蝋墨土砂と成▲汐津橋北詰
五軒▲西口井戸辻▲北久太郎町丼池順けい町
丼池此外裏長や等多く有之筆につくしがたし
▲九条村▲前たの辺▲勘助島▲寺島▲富島
▲戎島▲江ノ子島▲ざこば辺▲長柄大仁村
▲梅田辺▲天王寺村▲天下茶や村▲今宮
此外木津
なんば所々
新田近在
所々有之と
いへども事
しげき故
略之
【挿絵の文】
大坂市中
毎夜
 〳〵
野宿
 図

【二段目】
   津浪の次第
翌五日
十一月五日【「昼」と右に傍記】七ツ時大地しんとなり候所何方ともなく
千万の雷落かゝる如く鳴ひゞき皆々大におそれ
ふしきに思ふ内暮方より二丈余りの大つなみ打来り
大船小舟のきらいなく津浪のために打あげられ
或は打われみぢんと成又内川へ押上られ大船の
帆柱にて橋々を打落し道頓堀川大黒橋まで
千五百余艘の大船押登り船の上へ舟二重
三重にかさなり亀の甲を干すがごとく其中にも
あはれなるは昨今の地しんにおそれ町々の老若
男女貴賤の別ちなくうろたへさはぎて茶船
けん先き家形舟あるひは上荷三十石おもひ〳〵に
乗りうつりゆりつぶされるうれひなしと悦ぶ
かいもあらかなしや一時に津浪押かゝり舟もろ
ともに水底へひつくりかへりし啼声は大坂中へひゞ
きわたり誠にあはれ至極目も当られぬ次第也其外
西辺の人々蜘の子ちらすか如く上町さして逃る人数しれず
【右から横書きの所】
川へ押上けられたる舟凡

 安治川口      木津川口
千石以上 六十艘  千石以上 二百艘余
千石以下九十五艘  千石以下 四百艘余
いさば【注】  三十艘  茶 船  八十四艘
上荷  百十五艘  上荷 六百七十四艘
〆         いさば  五十艘
此外みぢん半割れ凡六百余艘あり
【注 魚問屋、魚の仲買人の意。】

【右から横書きの所】
水死一寸荒増
▲橋通にて四十八人▲南ほりへ《割書:四丁メ|五丁メ》凡三十三人
▲よしや町二人▲下はくろ四十三人▲四郎兵衛町四十五人
▲玉手町九人▲幸町凡弐百人▲金や町十一人▲寺
島四十二人▲勘助島五十三人▲大国町六人▲新
戎町八人▲あじ川口凡百五十人
  死人凡〆 《割書:男弐百六十三人|女三百八十七人》
右之外所々の川に死人有之候へとも
未其数不分他国より入込又は船頭是
等人には未幾千人とも相わからす候

【三段目 地図中の文】
 川岸心得之事
▲コレハ橋々の落たる印ナリ
●川の両側船ニウタレ人家
 大崩レ不当家スケガ
 ナシ損シ船ニ■乗ぬ
        ■■也

【四段目】
《割書:宝永|年中》大阪《割書:大地震|大津波》 《割書:次|第》
宝永四年《割書:亥》十月四日午下刻南西の方より
震い出し西横堀を始伏見堀立売堀
南ほりへ心斎橋南より北へ不残崩れ西横堀
通り不残崩其上沖鳴動いたし大津
浪逆登り大船の帆柱にて橋々を打
落し道頓堀日本橋迄大船を【※】押込
安治川口も同断也四日朝より廿五日迄毎日〳〵の
大地震故家蔵夥しく破損有誠に【※】〳〵
恐しき大地しんなり

【※ 大阪歴史博物館所蔵の資料より】

  北組
潰家 五百七十九軒
死人凡二百七十八人 《割書:男百十四人|女百六十四人》
  南組
潰家 三百十四軒
死人凡三百四十五人 《割書:男百四十八人|女弐百八十七人》【計算が合わない】
  天満組
潰家 百六十八軒
死人凡百十壱人  《割書:男三十一人|女八十人》
右三郷潰家〆千六十一軒 死人〆7百
三十四人あり けが人数しれず
大地震大津浪にて破損家死人舟橋左之通
家数六百三軒 橋数五十 船数大小千
三百余艘水亡人七千人余洪水にて死人一万人
右宝永四年より宝暦六《割書:子》年迄五十年に
相当る梅田墓所にて三月十七日より
二七日の間万燈会供養諸宗大法事
修行するとあり
宝永四より嘉永七年迄百四十八年になる

【右から横書きの所】
嘉永七寅年中末代噺
正月 相州浦賀へアメリカ舟来る
二月 品川に御台場立同廿日異国船帰る
三月 さくらの宮正せんぐう
四月 六日午刻より京出火内裏炎上
五月 大坂御城石かけくづる
六月 大坂二本松町孝女御褒美
七月 同宮々御千度町々より出る
閏月 信貴山寅の守り出る
八月 大坂両みどう地築き
九月 十八日天保山沖へヲロシヤ船来る
十月 大坂長町男子三人産
十一月 大坂下【左の傍記■■】ばくろにて水死大せがき
十二月 廿八日大火神田より日本橋近迄




地しんの辯(8K)

【頭部】
安政二《割書:乙》卯年初冬発市
【縦の仕切り線有り】
《題:地しんの弁》
【縦の仕切り線有り】
 東都  天文書屋鐫

【本文】
 《題:ぢしんの弁(べん)》
【題字の下部の色分け索引】
「黄色い○」此色は嘉永七《割書:甲》寅年十一月四日
      大 地震(ぢしん)ありし国〳〵なり
「青い○」 此色は同月同日地震の後(ご)沖合(おきあひ)鳴出(なりだ)し
      夜(よ)五半時 頃(ころ)大津波(おほつなみ)となりし場所(ばしよ)なり
「赤い○」 此色は安政二年十月二日夜四ッ時 関(くわん)
      東(とう)諸国(しよこく)大地震(おほぢしん)の分(ぶん) 但 此節(このとき)津波(つなみ)は
      なし

およそ天地(てんち)の間(あひだ)は陰陽(いんやう)の二気(にき)を以(もつ)て元(もと)とすこの二気(にき)和順(くわじゆん)なる時(とき)は穏(おだやか)なりそれ地(ち)の厚(あつ)き事九万 里(り)にして四囲(しゐ)に竅(あな)あること
或(ある)ひは蜂(はち)の巣(す)の如(ごと)くまた菌(くさびら)の弁(すぢ)【瓣】に似(に)たり水火(すゐくわ)これを潜(くゞ)りて出入(しゆつにふ)す然(しか)るに陰気(いんき)
上(かみ)に閉(と)ぢ陽気 下(しも)に伏(ふく)するとき升(のぼ)らんとするに升ることを得(え)ず因(よつ)て
地 漸々(だん〳〵)【ママ】に脹(ふく)れ時をまち陰気を突破(つきやぶ)つて騰(のぼ)るこのとき
大地(たいち)大(おほい)に震(ふる)ふたとへば餅(もち)を焼(やき)て火気(くわき)その心(しん)に透(とほ)れば
漸々(だん〳〵)【ママ】に脹れあがるが如し故(ゆゑ)に強(つよ)き地 震(しん)は始(はじ)め発(はつ)する時
地 下(か)より泥(どろ)沙(すな)を吹(ふき)出し大地 陥(おちいる)が如く覚(おぼ)ゆるは陽気
発(はつ)してかの脹れたる地中の空穴(くうけつ)縮(しゞ)まる也されども一時(いちじ)に
縮み尽(つく)さず因(よつ)て一昼夜(いつちうや)に三五十 度(ど)或(ある)ひは
二三十 度(ど)少(すこ)しく震(ふる)ひて漸々(ぜん〴〵)に元に復す
かゝれば大地震の後(のち)度々震ふとも始の
ごとき大震はあらざるの理(り)と
しるべし昔(むかし)より今(いま)に至(いた)り和漢(わかん)の
大 地震(ぢしん)度々(たび〳〵)にて既(すで)に史(ふみ)にも
記(しる)し人(ひと)の譚(ものがたり)をきくにみな斯(かく)の如(ごと)し
然(しか)るをまたもや大に震(ふる)はんかと日(ひ)を重(かさ)ねて
大 道(だう)に仮家(かりや)をしつらへ寒風(かんふう)にあひ夜気(やき)をうけて
竟(つひ)に疾(やま)ひを発(はつ)するを思はず少しもこの理(ことわり)を
知れらん人は婦(をんな)児(こども)によく諭(さと)して久(ひさ)しく路傍(みちはた)に
宿(しゆく)することなかれ
○俗説(ぞくせつ)にいふ地下(ちか)に鯰(なまづ)ありその尾鰭(をひれ)を動(うご)
かす時(とき)地(ち)これが為(ため)に震(ふる)ふといふその拠(よりところ)を
詳(つばら)にせざれど建久(けんきう)九年の暦(こよみ)の表紙(へうし)に地震(ぢしん)の
虫(むし)とてその形(かたち)を画(ゑが)き日本(にほん)六十六 州(しう)の名(な)を記(しる)したり
六七百年以前よりかゝる説(せつ)は行(おこな)はれき仏経(ぶつきやう)には竜(りう)【龍】の
所為(わざ)といふ古代の説(せつ)はかくの如(ごと)しと地震考(ぢしんかう)といふ書(しよ)に
記(しる)せり思(おも)ふに当時(たうじ)雑書(ざつしよ)には必(かならず)この図を載(のせ)ざる事
なくその形(かたち)もまた鯰(なまづ)にあらず竜(りゆう)【龍】に類(るい)せる異形(いぎやう)のものなり
今またその図(づ)をこゝに仮(かり)て寅卯(とらう)二ヶ 年(ねん)地震(ぢしん)津波(つなみ)の
災異(さいい)ありし国々を一眼(ひとめ)に見(み)する目的(めあて)となすのみ

安政二卯十月二日地震焼場所附

安政二卯十月二日地震焼場所附

焼方一瞬

   坂本  吉原             石原
              田町【注】
              馬道
千住                   芝居
                     マチ
          上野
                      竪川
小川町            本所
                       六間
           御成道         ボリ


        駒形
和田   辰ノ口
ダラ
                    深川

           中橋
       カヂ
       橋内
  馬バ
  サキ

山下                   八幡
ゴモン                  マヱ
          京橋
             芝口
桜田   幸橋            霊岸     鉄砲洲
                   ジマ

【「石原」左下の記事】
此間
 多田薬師
 番場酒井下総守
    下やしき
 所々小やしき
 土井様
  下やしき
 向井将監様
 諸寺此辺《割書:ニ》
   多し


【「千住」の左下の記事】
●小石川
  百けん長屋少々
      やける

【「六間ボリ」下の記事】
此間所々破損
 おびたゞし

【「辰ノ口」下の記事】
  此辺
    酒井左ヱ門尉
   松平越前守
   太田摂津守
  夏目左近将監
小ふしん方
   御作事方
   御ふしん方
   ●道三ばし
    ●銭かめ橋

【「深川」上の記事】
浅草御門大石がき
 とびいだしくづれる
  馬喰町
   小伝馬町
  少々
   破損
    あり

【「中橋」右の記事】
すじかひ御門より神田通り
 日本橋南北通町すじ
  格別の
     いたみなし

【「深川」左斜め下の記事】
此辺また木場
  へん浄心寺
 霊がん寺辺
  崩れ多し

【馬バサキ」上の記事】
此間
 松平伊賀守
 松平玄蕃頭
 牧野備前守
   酒井右京亮
 本庄安芸守
  御廏諏訪部
     八十郎
  本多越中守
●桜田御門
 上杉弾正大弼
 毛利大膳大夫

【「カヂ橋内」左の記事】
久世大和守
池田様
 中やしき
松平和泉守
  鳥居
松平能登守
松平土佐守
松平阿波守
 所々少々ツヽ
    いたみ有
南御町奉行

此間
 松平主殿頭
 牧野備後守
      ●数寄屋橋御門

【「芝口」下の記事】
是より新両替丁
 をはり町所々
  破損あり
   しん橋むかふ
  表通り
   うら通り
      とも
  大崩れ
  日かげ丁
   わけて
    大破
     損

【八幡マエ」上から左の記事】
此間
八丁ぼり
へん至て
 おたやか
  にて
  かいぞく橋通り
   表南かやば町かし
    新川すじ土蔵
    悉く大くづれ
    又小舟町小網町同断

【注 「丁」は「町」の略字という事もあり、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/owariya/01/1849/1-064.html.ja・ 江戸マップβ版を参照して「町」に訂正・以下同断。】

弘化丁未信濃国大地震之図

【本文】
        けふ文月の末つかた一百二□
        そのなごり猶しば〳〵なり
しかるに犀川の流とゞまる事二旬すでに一月をへ
沿流(ナガレニソフ)の 村落(ムラ〳〵)ために水底に沉没(シツミ)し上は筑摩(ツカマ)安曇(アヅミ)の
二郡を浸淩(ヒタ)す凡八九里その際(アヒタ)山つらなり川めぐりて広さ
また測(ハカ)るべからすこゝに四月六日以来 暴風(カゼアラビ)霖雨(ナガアメ)して
土ながれ水もれ第二の山隄(ツヽミ)水数丈を湛(タヽ)ゆ同十三日《割書:申|刻》
西南の山 鳴(ナリ)水声耳をつらぬく俄(ニワカ)にして雲霧(ウンム)谷を出
東北にはしる《割書:コレ水煙ノ|山ヲイヅルニ》時に疾風(シツフウ)いさごを飛(トバ)し濆波(フンハ)雨を
降す魁水(サキミツ)のほとばしるさま百万の奔馬(ホンバ)原野(ゲンヤ)を駆(カル)が
ごとく巨濤(ヲホナミ)のみなぎる天地をたゞよはすかとうたがふ夜
更刻にいたり東西五七里南北こし路(ヂ)《割書:翌十四日申剋北越|新潟ニ至ル五十余里》に及び
高低ともに水ならざる所なしあかつき逈(ハルカ)に奥郡を望に
渺茫(ベウボウ)として長 江(コウ)の雲をしのぐに似たり数日の後水をち
土かはきて常のごとしと嘗(カツ)てきく【小字】「三代実録及扶桑略記」
光孝帝の御宇仁和丁未 地震(ナヰ)大にして山 崩(クツ)れ川 塞(フサガ)り我国
六郡こと〴〵く以て蕩盡(ナガレツクル)と至今九百六十一年その地得て
考ふへからず今又水災の及ぶ殆(ホトンド)六郡その害の大なるも亦
仁和の記の如しと誰かしらん千載の後如_レ是一大変に
遇(アハ)むとはつゝしまさるへけんや

濃尾大地震後図

【見出し】
《割書:明治廿四年|十月廿八日》大地震後図

【見出し下部】
豊原国輝画

明治廿四年十一月 日《割書:印刷|出板》
深川区常盤町一丁目
    十一バンチ
《割書:印刷|発行》兼 石井六之助

【本文】
明治廿四年十月廿八日
午前六時すきの地震
はわけてぎふ名古屋大垣
地方はけしくしんどう
おひたゝしく山くづれ家
屋ことごとくつぶれ死人
何万人なるかかつしれ
づおやにわかれおつと
にわかれわつか二三才の小
児一人のこる死したる
親にとりすがりなき
さけびたるありさまは目
も当られぬふびんなり
さつそく所々へきう
助おもうけけがにんは
お手あてなしたり
じつに古今まれなる
大地震といふへし

本しらべ京都大火の説後編

【題字】
甲子七月風聞
《割書:後 |編》《割書:本|しらべ》京都大火之説
【題字下】
  九百五十町  十九日朝
凡 七万八千軒  六ツ時より
  土蔵三千七百 廿一日ひる
         八ツ時に鎮火
【右上】
らく中の
■【四角印】
辻ゟ辻一丁町なり

ふしみ
上りば
表町
住よし
まで
やける
【左下】
堺町御門辺ゟ火【「丁」は「町」の略字】
又々かわら町二条
辺ゟ火上には一条ゟ
七条辺迄火又々
伏見火みぶとび火

安政二年大地震の絵

比は安政二卯十月二日の夜四ッ時俄に大地震ゆり出し江戸廿里四方人家損亡おびたゞしく
北の■【方ヵ方はヵ】御府内千住宿大にゆりつふれ小塚原は家置残らす崩れて中程より出火して一軒も
残りなく焼失新吉原は一時に五丁まち残らず崩れ其上江戸丁一丁目より出火諸々にもへうつり又々
角丁より出火して大門口迄焼五十間西側半分残る也その先幸手辺まで花川戸山の宿聖天町【注】
此へん焼る芝居町三丁共残りなり【「く」の誤ヵ】焼る馬道大半崩れ焼る也浅草観音はつゝがなくかみなり門
崩れ地内残らず崩れ並木通り残らずすわ町より出火して夫より駒形迄焼る又田原丁三軒丁
辺は少々なり御蔵前通りかや町二丁目大にゆり浅草見附は石垣飛出る又馬喰丁辺横山町
大門通大伝馬町塩丁子伝馬丁へん裏表通り大半崩れ両国むかふ本所は石原より出火
して立川通り相生町林町緑町辺迄焼る又小梅通り引船へん迄出火深川は八幡の鳥居の
所より相川町蛤町まで一えんに焼る又下谷辺は坂本より車坂辺諸々崩三枚橋広小路伊東松坂
の所迄焼る夫より池の端仲町裏通り崩表通りあらまし残る御成道石川様焼る根津二丁茅屋町通り
壱丁目より二丁目迄焼るむゑん坂上は松平備後守様御屋敷焼る千駄木団子坂此辺三軒つぶれ谷中
善光寺坂上少々残るなり根津二丁共惣崩れ中程に而二三間残るなり又丸山向山けいせいがくほ辺大ぶ
崩れ本郷より出火して湯嶋切通しまで焼此所加州様御火消にて消口をとる湯嶋天神の社
少々いたみ門前は三組丁まで残らず崩れ両側土蔵残りなくもふ又裏通りはだるま横丁新町家大川
ばたけ横根坂此辺かるしむろわれて大地一尺程さけ妻恋坂は稲荷本社の土蔵少々崩れ御宮は
つゝがなし町内は一軒も崩れず夫より坂下建部様内藤様御屋敷表長屋崩れ東えい山地中大半崩れ
本堂つゝがなし昌平橋通は神田同御台所町旅籠町金沢町残らずくずれ筋違御見附少々いたみ
内神田外神田共残らずふるふ也大通りは神田須田町新石町鍋町かぢ町今川橋迄裏町
表町百三十六ヶ所ほど残らずくずれ先は十間店より日本橋裏通り西川岸より呉服町近辺
東中通りは四日市魚がしよりくれ正町へん迄所々大くづれ又大通りは南かぢ町より出火して南伝馬町
二丁目南大工丁畳町五郎兵衛町東は具足町常磐町因幡丁しら魚屋西こんや丁迄焼る京橋
向ふは新橋辺まで崩れる夫より芝口は柴井町宇田川町残らず焼る也又神明前より□
へん残らず崩れ又金杉より芝橋までしよ〳〵崩れる高なわ十八丁のこらず大地壱尺
ほどわれたり品川までそんじ芝表通りは御浜御殿少々いたむ佃島も右同断夫より芝
赤羽根通りより麻布広尾へんまでしよ〳〵崩れ出火ありまた山の手は四ッ谷かうじ町
武家地寺院堂社のくづるゝことおびたゞしく御城内は寅の御門よりかすみが関は大小名
あまたそんずといへども安芸様黒田様は格別のことなし八代洲河岸はうへ村様
松平相模守様火消やしきのこらず焼るなり又和田倉内は松平下ふさの守様松平
肥後守様此へん大にふるふ夫より神田橋御門内は酒井左衛門様森川出羽守様大に崩れ小川
丁は本郷丹後守様松平紀伊守様榊原式部大輔様板くら様戸田様此へん残らず
焼る又牛込より小石川伝通院門前のこらず崩ればん町より飯田町お茶の水辺大に
ふるふ筑地門跡本堂はつゝがなく地中過半崩る小田原丁よりあさりがし向は御はた本様方御家人衆御屋敷残り
なくふるふおよそ町の間出火三拾七ヶ所家数寺院堂社の損亡いち〳〵かぞへあぐるにいとま
あらず又東海道は川崎宿少々神奈川宿は大にふるひ大半崩れ程ヶ谷宿は少々戸塚
宿はしよ〳〵ふるふ又藤沢平塚大磯小田原辺迄格別の事なしといへども諸々ふるひいたむ仲仙道
は板橋よりわらび宿浦和あげ尾大宮迄は大にふるひ其先は熊が谷宿迄所々ふるふ日光街道は草加宿
越ヶ谷格別の事なしといへどもしよ〳〵いたみさ■づ大もりへん御府内四里四方五千七百余
諸々ふるふ又水戸街道は市川松戸うしく宿辺下総口は行徳船橋辺はわけておびたゞしくふるふ奥州街
道は宇都の宮辺までふるふ又青梅街道は半能■ざきちゝぶ大宮辺迄ゆりふるふかゝる凶変は
古今未曽有にして明暦火災の度にいやまして死亡おひたゞしくその数いくばくといふこと量しるべからす死人は車
馬につみ船にのせて寺院へ送る誠にめもあてられぬ形勢也かゝる大変も翌日になりては火も消地表も折〳〵ふるふど
いへども格別の事なし一町数五千三百七十余崩一御屋敷弐千五百六十余軒損そ一寺院
堂社三万九千六百三十ヶ所一土蔵の数五億八万九千七百八十六ヶ所かく家中きを失
ひたる軽き者へはそれ〳〵御手当御救米被下置四民安堵に帰し鼓腹して御仁徳あふぎ
奉るは実に目出度事どもなり

【注 「丁」は「町」の略字ということもあり、江戸マップβ版等を参考にして添削しました。以下同断。】


関東大地震並出火

《題:関東大地震《割書:並|》出火》
夫人として考なきは人にあらず江戸大地
しん大火と聞いては遠国の親兄諸親類の
嘆き悲み何斗りそやこれ一時もはやく人々の
安か尼存亡をしらしむる一助たらんこと巨
細にしるすと頃は安政二年卯十月二日夜四つ
すき雨御丸下数形備後守様本庄女芸せい様
本多越中守様酒井右京様此辺の御屋
敷少損じ松平下総守様焼る松平肥後守
様同向やしきやける松平伊賀守様内藤紀伊守様
松平玄蕃頭様少し損じ也八代すがし一は松平相模
守様同添やしき火消やしき遠藤但馬守様
ふ残やける鍛治橋御門うち松平三河守様
鳥居丹波守様松平和泉守様松平安芸
守様少々そんじ内水野周防守様
松平丹波守様久世大和守様備前様少々
細川越中守様松平伊豆守様秋元
但馬守様てんそう御屋敷少々いたみなり
大名小路は河津伊勢守様松平内蔵頭様
松平和泉守様織田言少輔様御やしき
少々つかの損じなり日比谷御門内土井
大炊頭様本多中務様松平右京様
長井遠江守様少々そんじ松平河内守様
松平土佐守様牧野備後守様松平主膳頭様少々損じ
常盤橋内松平越前守様夏目左近将監様
間部様太田様小笠原様酒井左衛門様一ツ橋様少々也
山下御門内松平肥前守様阿部様播磨様松平大膳
大夫様御屋敷損じる外桜田は上杉弾正大弼様板倉
周防守様大岡越前守様大久保駿河守様石川近江
守様西尾隠岐守様相馬大膳亨様少々損じ阿部因幡
守様水野出羽守様小笠原佐渡守様北条美濃守様
松平伯耆守様三浦志摩守様少々そんじ霞ケ
関長田馬場山王辺少々いたみ幸橋御門内松平
時之助様薩摩宰相やしき鍋島加賀守様少々
有馬備後守様丹波長門守様少々あたらし橋内
亀井隠岐守様真田信濃守様少々そんじ
愛宕下辺は場上馬芝三田辺田申輪前川
此へん少々是より南み方は川崎宿あたり
宿中少々やける神奈川宿少々損じなり
一新吉原五丁町大ひと崩れ東町より出火
■■■は内ふ残焼る又一口は小塚はらやける也


千住宿少々いたみ其外田まち辺■■丁芝はた
町三丁やける役若しん道かた側のこる浅草観音
境内は少々の損じ駒形丁すは丁黒舟丁焼
並木通門跡前此辺そんじ少くあべ川町少々
やけるしんほりばたほつた原辺御蔵前
どふり茅丁辺少々いたみ又一口は下谷辺
上野町壱丁め辺より広小路はんかはどふり
長者町石川主頭様黒田様井上様小笠
原様やける千だん木だんこ坂此辺少々谷中
根津少々の損じ本郷辺は湯しま少々焼る
菊坂駒込辺向山板はし少々いたみ物又
筋かへうち神田須田丁辺今川はし通少々損
十軒店むろまち日本しとふり少々のそんじ
南伝馬丁二丁目三丁目南鍛冶丁五ら言へ丁大工
丁具足丁畳丁柳丁ときは丁経木丁しら魚
やしき大根し竹がし辺迄横立十焼けのこり
本八丁ほり鉄ほうづ築地へん少々のいたみ
つくだ島少々やける八丁ぼりへんはかく別の事なし
霊かんじま南しんほり大川た少しやける
永代ばし少々そんじ深川あい川丁富吉丁
中しま丁北がは丁大しま丁はまぐり丁くろ井丁
さいねん寺ゆぐらした永代寺門前やける八幡宮
本社別条なく寺内少々損じ三十三軒堂
少々いたみ高はしとききは丁八名川丁六けんほり
大はしきは迄くずれ本所たて川通り石原林丁
津軽様御中やしきみとり丁のこらずやけるなり
西の方小川町へんより出火にて飯田町近へん迄
やける小石川辺は松平讃岐守様少々崩れ岩城
椎五郎様御やしき崩れ其外大小名少々損じ
四ツ谷赤坂かうし町辺青やまあざぶ辺少々そんじ
前代聞未の大ぢしん然れ共御城内無別条なし
御江戸五里四方の損じ大方ならす御こり三日夜しづまる
諸人安堵のおもひをなしぬ目出度し〳〵
一御公儀さまより御憐醫以て
貧民野宿の者へ御救ため
幸橋御門外深川海辺大
工丁浅草広小路右三ヶ所
九軒と七十一軒之小屋を建
        御上様
御仁恵御徳沢余ぉ
奉行史に難有奉共也
一江戸町数五千七百廿三丁未日は土蔵〆
十一万三千二ひゃく八十余神社仏閣損じ也

動いて
  なき
御代の
 栄を増神
かきてそいのる
   伊勢のかみ江


かわりけん

   かわりけん
〽さてはけんのん【剣呑】信州(しんしう)じゝん開帳(かいてう)
人(ひと)ゆり身(み)ゆり〳〵内(うち)はぶら〳〵
ゆるいでまゑりやしよじやん〳〵じ
やけんの善光寺(ぜんくわうじ)ばさまにじさ
まがつぶされたかはゝくわ
ゑて土手(どて)つくてんさあきづ
かゑたまゑりまひやう

爰(こゝ)に弘化四年三月二十四日夜四ツ時
比より信州(しんしう)大 地震(じしん)にて善光寺(せうくわうじ)をはじめ
川 中島(なかじま)辺(へん)より丹波島渡(たんばじまわた)し同く小市の
川むかふなる山々川中へゆりくづれ川水をせき
とめ人家へ溢(あふ)れ出し田 畑(ばた)の損(そん)じ少からずたゞ善光寺御堂
のみ破却(はきやく)に及ず扨 越後路(ゑちごじ)の方は柏原関(かしはばらせき)【「ば」が「わ」に「”」がついているのは誤記と思われる】川越後高田
辺又上州口之方は追(おひ)分 沓掛(くつかけ)軽(かる)井 沢(ざは)小諸(こもろ)飯(いゝ)山辺殊に
はげしく南は会(あい)田辺より松下松 代(しろ)上田近辺は筑摩(ちくま)
川を押埋(おしうめ)洪(かう)水一時にをし出し人馬の泣(なき)さけぶ声目も当ら
れぬばかりなり扨 翌(あす)六ツ時頃 漸(やうや)【サンズイ(氵)偏の欠落】く治(をさま)り人々 安堵(あんど)しけるとなり

【落款】
貞重改
 国輝画


江戸鯰と信州鯰

【右頁上側】

〽これはたひへんだ
これではおれなん
ぞはとてもかな
わねへから おや
じ【親父】や かじ【火事】にも
そういおふ

かしま【鹿島大明神のこと】
〽これはたいへんはやく
いつておさへてやらずば
なるめへ

【右頁下側】
【おでん屋看板】
おでん四文
かん酒

おでん
〽ふるかねや【古金屋】さん ごらんな
みんなよつて あんなに
いじめるに
なさけへねへ
のふ

【左頁上側】
水かみの
つげに命を
たすかりて
六分の
内に
入るぞ

しき
【水神のお告げのお陰で生き残った6割の側に入った~という和歌】

〽もふこれからは
ひつこみ〳〵

【左頁左端中央】
いなか【田舎者の意】
〽ヤア〳〵これは
たいへんのこんだこれ
そんねへにおすなへ まんざいらく〳〵

【左頁下側】
職人
〽マア〳〵だんながたそん
なにせずと もうかん
にんしておやんなナせへ
それではわつちらが
こまります〳〵

〽かないません めくらといざりに
いのちだけの ごほうしやくだ
さりまし アゝ〳〵これはたいへんだ
これではおもらいにこまりきる

慶応二年京坂地方大風雨之図

尓時慶応二年寅八月七日
夜四ツ半比より辰巳の方より風
ふき出し追々大風となりて
天地震動する事言語にたへたり
人家屋根こと〳〵く吹あけかへ
ふきおとしいつれも鳥籠のことし
尤吹たをしたる人家おひたゝし
上は加茂を始諸山又神社仏閣の損し
数多し東寺大そんし樹木凡八十本
計打たをれ東山祇園知恩院清水其外
諸境内大そんし諸堂はいふに及はす
樹木三百八十本計大木打たをれたり
東本願寺諸御堂ふしん出来たるをこと〳〵く
吹たをし元のあれ地と成たる事残念の
いたり也町家凡八十六七軒計打たをれ損し家
      数しれす死人凡弐百余けか人は
      これも数しれす桂川三り余大水
           一面の海のことしと舟にて往来す
           伏見淀大水大橋落る
           大坂天神はし安治川はし落る
           高つき南山城小倉
           大あれのよし中々
              筆につくしかたし
            誠前代未聞の大風のよし
               恐れつゝしむ
                   へき事也

本しらべ城州伏見大火の図


 しらべ
城州
  伏見
 大火
   の図

慶応四年
 辰正月三日
   申の刻より
 出火いたし候
《割書:伏見|淀其外》同五日鎮火
《割書:所々合て竈(かまど)|数凡四千五百》いたし候
《割書:六拾七軒 土蔵数凡三十八ヶ|》
《割書:所と云 神社仏格もあまた|あるといへとも今しばしつまひか》
《割書:ならず|》

前山破裂当時の図

三陸海嘯絵報

【上部に右から横書き】
三陸(さんりく)海嘯(つなみ)繪報(ゑほう)

【上段・右コマ】
四丈有余ノ荒波(アラナミ)
釜石町ノ人家ヲ
引込(ヒキコム)ム図

【上段・中コマ】
三陸地図

明治廿九年六月十五日
午後八時頃釜石ノ
海辺ニ海底地震
ヨリ海嘯ヲ起ス

被害一覧
岩手縣 死者二万二千百八十六人 其外流失
宮城縣 仝 三千一百〇三人   家屋傷者
青森縣 仝 三百六十八人    牛馬ノ死傷
                算ナシ
【上段・中コマ・地図の地名】
陸奥 尻ヤ岬 小田野沢 白糠 尾駿 平沼 岩屋 泊村 出戸
 倉内 根井戸 潟三沢 百石 八戸 湊 種市 石ハマ
陸中 川尻 有家 久慈 宇部 普代 黒崎【ヵ、黒埼灯台の場所】 母衣野 小木
 田老 宮古 津軽石 閉伊ケ崎 山田 大槌 釜石 箱ケ崎
陸前 小白濱 吉濱 越喜来 盛 森 伊里前嵜 今泉 気仙沼
 志津川 月ハマ 神割岬 十三ハマ 雄勝 女川 萩ハマ 
 金華山 石巻 松島
羽後 
羽前

【上段・左コマ】
明治廿九年六月十
五日ノ夜海嘯ノ為
メ金毘羅丸長安丸
難船ノ図

【中段・右コマ】
樹木(ジユボク)ニ登(ノボ)リテ
一 命(メイ)を助(タス)カリ
タル図

【中段・中コマ】
宮城縣気仙郡
教員佐藤陣
氏ノ忠烈

【中段・左コマ】
宮城縣 志津(シツ)
村(ムラ)ノ芝居(シバイ)大 混(コン)
雑(ザツ)ノ図

【下段・右コマ】
釜石ヨリ盛口
一【ニの誤刻ヵ】至ル海岸一
帯ノ惨状

【下段・中コマ】
海嘯後
 盛町ノ
   惨状

【下段・左コマ】
板垣伯(イタガキハク)被害(ヒガイ)
地(チ)巡検(ジユンケン)之(ノ)図(ヅ)

【下部に一行で右から横書き】
明治廿九年七月十一日印刷仝年七月十六日發行
著作印刷兼發行者
大阪市南區瓦屋町一番丁五十九番邸
三木直吉

京大坂伏見大地震

【朱書】
文政十三年(天保元)
【題字】
京大坂伏見
大地震
【本文】
頃は
七月二日ひる
  七ツ時ゟ
ゆりいたし
京大坂伏見
らく中落かへ
にし東本かんし
町家土蔵に此へん
へつしてつよく
牛馬命うしのふ
事かづしれず

二日三日四日
其内五六度
ほとは
殊の外
つよく
其せつは
をふらいへ
たゝみ
戸なぞ
侍【持誤ヵ】出し
 其上に而  【朱丸印「上田文庫」】
老若男女とも神ふつをいのりおかけにや四日の夜あけ
七ツ時よふ〳〵しつまり夫より大あめしきりにふり
出し殊に伏見なとに而は三日の内しんとお【1】いたし老
若男女きい【2】のおもひをなし候得ともこれまつ
たく王城之地ゆへけかもなくしつまりしにとかや

【1,振動ヵ】
【2、奇異ヵ】

弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頹川塞湛水之図

弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
〇三代実録《割書:五|十》曰 光孝天皇仁和三年丁未七月晦日《割書:辛|丑》申 ̄ノ時地大 ̄ニ震動 ̄シ経_二歴 ̄シテ数剋_一 ̄ヲ震 ̄コト猶不_レ止 天皇出_二 ̄テ仁寿殿_一 ̄ニ御_二 ̄ス
紫宸殿 ̄ノ南庭_一 ̄ニ命_二大蔵 ̄ノ省_一 ̄ニ立_二 ̄テ七丈幄二_一 ̄ツ為_二 ̄ス御在所_一 ̄ト諸司 ̄ノ舎屋及東西 ̄ノ京盧舎往々 ̄ニ顚覆圧殺 ̄スル者衆 ̄シ或 ̄ハ有_二失_レ ̄ヒ神 ̄ヲ頓死 ̄スル者_一亥ノ
時亦震三度五畿七道 ̄ノ諸国同日 ̄ニ大震 ̄ヒ官舎多 ̄ク損 ̄シ海潮漲_レ ̄リ陸 ̄ニ溺死 ̄スル者不_レ ̄ト可_二勝 ̄テ計_一 ̄フ云_二
〇扶桑略記《割書:廿|二》曰《割書:上略|如録文》今日信乃国大山頽崩 ̄レ巨河溢流 ̄シ六郡城盧払_レ ̄テ地 ̄ヲ漂 ̄ヒ流 ̄ル牛馬男女流死成_レ ̄スト丘 ̄ヲ云_二
   私考_レ之距_二 ̄コト於今弘化丁未_一凡九百六十一年矣然シテ仁和丁未ノ変我国六郡ミナ以テ蕩尽スト史籍スデニソノ
   地名ヲ不_レ戴暦数僅ニ千年口碑伝ルコトナシ偏ニ雖_レ不_レ可_レ徴(チヤウ) ̄ス按ルニ六郡ヲ貫通スル巨河恐クハ犀千隈ノ
   雨流ニ過ズ《割書:岐蘇天龍大井|姫川等不及之》這回(コノタビ)ノ大変最甚キモノ水内(ミヌチ)更級(サラシナ)ニシテ上ハ筑摩(ツカマ)安曇(アヅミ)ヲ浸淩シ下ハ埴科(ハジナ)高井ヲ漂
   蕩ス概(オホムネ)水災ノ所_レ及殆 ̄ト六郡人畜圧溺セラルヽ者亦仁和ノ厄ノ如シ今俗以為古今未曽有ナリト僕コヽニ有_二
   微志_一即ソノ境ニ到リ攀渉スルコト数次シ後遂ニ是図を製シ竊ニ家筺ニ蔵シテ聊 ̄カ後戒ニ便ゼントス事倉卒
   ニ出 ̄ヅ精粗マタ見聞ニ任スト云        信中      平昌言識【落款】
【上下二段の内上段】
〇古伝 ̄ニ曰 推古帝十五年大仁《割書:六位|官名》鳥臣(トリノオミヲ)往_二 ̄シニ東国 ̄ニ【一点脱ヵ】廻_二 ̄リ箕野(ミノ)_一 ̄ニ至_二 ̄リ科野(シナノ)_一 ̄ニ治_二水内(ミヌチノ)海_一 ̄ヲ至_二 上毛(カミツケ)_一 ̄ニ
治_二 ̄ム利根(トネノ)海_一 ̄ヲ乃 ̄チ割_二 ̄リ戸河 ̄ノ瀧磐(イハ)_一 ̄ヲ入_二雁越(カリコシ)_一 ̄ニ開_二 ̄ク栗柄 ̄ノ路及 上邑(アゲロノ)路_一 ̄ヲ云_二
       按るに水内郡水内邑は本郡初発の地にして上古に
  水内の海と聞へしも此辺をいへるにや今なを北の郡に大沼あまたあり
  これそのなごりなるべしこの地北は戸隠の峻嶮(けはしき)により東南に犀川を
  帯ひ西に境川あり東に澣花川(すゝはな)川ありいはゆる島をなせり実に水内
  橋の奇巧(たくみ)なかりせは便りなかるべしおもふにみぬちの谷こゝに出し
  にやあらん《割書:壒襄鈔 善光寺 ̄ノ来由ノ条 ̄ニ云信乃ハ高キ地ナルニ殊ニコノ郡ノ高ケレハ水落ノ郡也トイヘレド我国|十郡ノ地最厚高ニシテ天下ノ上流タリナンゾ是郡ヲ以テ高シトセンオボツカナシ》
水内の曲橋《割書:又久米路ノ橋トモ云歌枕名寄ニ信乃トス又来目ノ岩橋ナド詠ルハ大和ノ葛城ニ在ト|拾遺集 埋木は中むしはむといふめればくめぢの橋は心してゆけ よみ人しらす》
〇日本紀曰 推古天皇二十年自_二百済国_一有_二化来者_一其面身皆班白巧 ̄ニ掛_二長橋_一 ̄ヲ時
人號_二 ̄シテ其人_一 ̄ニ曰_二路子工_一 ̄ト又号_二 ̄クト芝耆麻呂_一 ̄ト云_二
〇古伝 ̄ニ曰 推古帝二十年百済国 帰化(オノヅカラクル) ̄ノ人《割書:中略|如紀文》巧(タクミ) ̄ニ掛_二長橋_一令_レ造_下遣_二 ̄シテ諸国_一 ̄ニ三河国
八 脛(ハギノ)長橋水内 ̄ノ曲橋 木襲(キソノ)梯(カケハシ)遠江国浜名 ̄ノ橋会津 闇(クロ)川 ̄ノ橋 兜岩(カヒノ)猿橋等其外一百八十橋_上 ̄ヲ
云_二これらの説出処詳ならざるのよしは先輩已に考按あれは今更に
 贅(ぜい)するに及はずたゞその一二を抄略してこゝに掲(かゝぐ)るのみ
此地両山はなはだ狭り犀河の水たぎりて落かの北 涯(きし)の半腹(なかば)を
うがちて酉(にし)より卯(ひかし)へゆく事五丈四尺曲て南へ大橋をわたす長 ̄サ十丈
五尺広 ̄サ壱丈四尺 欄(らん)基の高 ̄サ三尺橋と水との間尋常にて凡
十五丈《割書:或云三|十三尋》碧潭(あをきふち)のみなぎるさまみるに肝(きも)すさまし
心してゆけとよみしいにしへにそもなをかはらざりける
 しかるに今災(こんさい)《割書:弘化|丁未》三月下旬 湛(たゝへ)水既に橋上数丈に及ひ
 橋梁(はしげた)さかしまに浮みながれて穂刈(ほかり)《割書:村|名》の水面に漂(たゝよ)ふ
 四月十三日崩流してゆく処をしらす《割書:下流奥郡に|漂着するもの》
 《割書:徑り三尺余長 ̄サ十丈余|これその橋材なるにや》此頃歩を徙(うつ)してかの遺跡に臨(のそ)み
 里人についてこれを尋るに両岸《割書:立|岩》こと〴〵く
 崩れ落残水たゝへてなを数丈 再架(ふゝたひかくる)の
 術(てだて)ほとんど絶たりと嗚呼陵谷の変ある
 千載の名蹟こゝにほろびん欤又をしむ
 へき事ならすや

穂高(ホタカ)神社《割書:延喜式神名帳名神大|安曇郡穂高邑に坐す》
〇古事記曰 綿(ワタ)津見 ̄ノ神は阿 曇連(ツミノムラシ)等之(ノ)祖 ̄ト云_二
〇姓氏録曰安曇 ̄ノ宿祢 ̄ハ海 ̄ノ神綿 積(ツミ)豊玉
 彦 ̄ノ子穂高見 ̄ノ命 ̄ノ後 ̄ト云_二
 此地草昧の時水を治め玉ひし神に
 ませはその勲功(みいさほ)かしこみて仰べし
【下段】
いはゆる川中島四郡ははじなさらしな
みぬちたかゐなり盛衰記東鑑等 ̄ニ云
しなの奥郡にして今も里言おくの郡といふ

大坂・堺・伏見火災絵図

慶応四歳辰正月
【右上の右上の文章】
正月七日の夜
八ッ時大坂なん
    ばゟ   家数凡二百五十
    出火       焼火
【右上の左上の文章】
さかい大火
此度は堺はじ
     まつて
       の
     大火也
正月七日夜八ッ時
      より
にしきの町ゟ  【「丁」は「町」の略字】
出火あやの町大道
西は中はままで
東はのうにん町迄
    やける
【右上の右下の文章】
此度出火にて大いに
おどろく人々又は遠近
の親類ゑん者の人々
の心をしづめ安心為
此画図を出し民
の人々安心致すたよ
りにもならんかと
    見覧に備る
【右上の左下の文章】
正月三日
 夜七ッ時
大坂
  土佐堀

 摩様
 御蔵
  やしき
     辺
     出火
十日
 夜五ッ時
天満  町
    出火
【右下の文章】
 伏見大火の次第
辰正月三日夜四ッ時いたはしより出火
薩摩様御やしき辺夫ゟ京橋北詰
浜通り西壱丁ばかりみどう
前又東新町迄夫より
御奉行所夫より
 ぶんごばしまで
    焼る
  ▲家数凡
  四千五百八拾
    二軒余と
      言ふ
  土蔵
   百八ヶ所
  寺院十ヶ寺
  神社三ヶ所

  同四日より
  鳥羽辺より
  ふた口堀横
      大路
  淀城下
    焼る
  同六日
  八幡辺
    焼る
  橋本
    焼る
  淀大はし
   小はし
    落る
  又
   楠葉
  ひらかた
  出火の由

  七日
   火鎮る
【左上の文章】
大坂

正月九日卯ノ刻
御城筋がね御門
      ノ内
火の手上る次に京はし
       御門の内
夫ゟ玉造御門外小家
 夫ゟ火の手三【注】ッになる
追手御門の内火の手二ッになる
 十日辰ノこくゑんしよくらやける
【左下の文章】
極本しらべ

正月
 六日
枚方
 出火
家数
 凡八十軒
   余と
    言ふ

【注 他の資料(「大阪・伏見出火の図」)による。】








関東類焼大地震

【上段右】
関東
類焼
 大
 地
 震
【上段左】
御救御小
屋三ヶ所
浅草広小路
深川海辺大工町
幸橋御見附外
【下段】
乾坤和順せざるときは陰地中に満て一時に発す是地上に地震といひ海上に津浪といふ山中に発する時は洞のぬけたるなど
皆風雨不順の為す所にして恐るべきの大事なり于茲安政二年乙卯冬十月二日夜四ッ時過るころ関東の国には
地震のとゝかさることなく一時に舎房を崩し人命を絶こと風前のともしびの如し其中に先御府内焼亡の地は千住小塚原
不残焼け千住宿は大半崩れ山谷橋はのこらず崩れ今戸橋きは数十軒やける新吉原は五丁共不残焼死人おびたゞしく
田丁壱丁目弐丁目山川町浅草竹門北馬道聖天横町芝居町三町北谷中谷の寺院南馬道ゟ花川戸半町程やける山の宿町
聖天町は崩る浅草寺は無事にて雷門の雷神ゆるぎ出す広小路並木辺残らす崩れ駒形町中頃ゟ出火諏訪町黒船町御馬や
河岸にてやけどまる御蔵前茅町辺冨坂町森下辺大破東門跡恙なし菊屋橋きは新寺町新堀共少しやける大音寺より
三の輪金杉辺崩れ坂本は三丁目やける山崎町東坂広徳寺前通り崩多し又は山本仁太夫矢来内死人多く家不残崩る其外寺院は
大破損亡おびたゞし〇谷中三崎千駄木駒込は崩少し根津門前は大半崩池の端茅町弐丁目境いなり向よりやけ同壱丁目不残
木戸際にて留る切通し坂下大崩仲町は片側丁崩多く両かは丁すくなし御すきや町は大崩広小路東がは中程より伊東松坂屋角迄
上野町より長者町辺やける御徒町近辺より三味せん堀七まがりは大名方組屋敷共崩るといへとも多分のことなし御成通より明神下
破れ多く外神田町家の分崩少し湯島天神は崩少し門前町崩多く妻恋町少しも不崩稲荷の社無事也本郷台破
少し筋違御門より日本橋通り左右神田東西共崩多し小川町本郷様松平紀伊守様板倉様戸田様やける榊原様外かは
焼神田橋内酒井雅樂頭様同御向やしき龍之口角森川出羽守様又下口は八代洲河岸植村但馬守様因州様御火消屋敷
等なり和田倉御門内は松平肥後守様松平下総守様やける近所崩れ其外丸の内御大名方所々崩多し鍋嶋様御上屋敷
不残やける山下御門内阿部様のこらす大崩となり夫より幸橋内松平甲斐守様伊東様亀井様共やける薩州様装束屋敷崩る
露関は諸家様大半くづれ黒田様御物見のこる永田町三間家かうじ町辺は崩少し四ッ谷市ヶ谷牛込小日向小石川番町辺
何れも損亡おほし赤坂青山麻布渋谷白銀品川高輪台町共崩少し赤羽根三田飯倉西ノ久保は崩多し増上寺無事
〇北本所は中の郷松平周防守様やける此辺大崩にて所々より出火あり同所番場丁弁天小路辺やける其外寺院損亡多し法恩寺橋
町家やける亀戸町二ヶ所やける又竪川通りは桐生町緑町三ッめ花町迄やける又御船蔵前町より黒八名川町六間堀森下町高橋にて
留る又下口は深川相川町より黒江町大嶋町はまぐ里町永代寺門前町八幡宮鳥居きはにて止る又乙女橋向角大川端少しやける
本所深川おしなへて地震つよく損亡おびたゝし〇日本橋より南東西中通り河岸通り共大崩にて南伝馬町弐ヶ月三丁目左右川岸
京橋川通り迄やける銀座町三十間堀尾張町辺少したるみ新橋向築地木挽町桜田久保町あたご下崩れ多し芝口通り少し
露月丁崩れ柴井町やける神明町三島町大崩怪我人多し神明宮恙なし浜手御屋敷残すいたむ中門前片門前浜松町金杉本
芝辺崩少し田町大木戸品川宿格別の崩なし翌三日より七日迄明日すこしづゝふるひけれ共別にさはることなく追々静鑑におよひ下々へは
御救を被下置御救小屋三ヶ所へ御立被下御仁徳の御国恩を拝謝し奉らん人こそなかりけれあらありがたき
事共なり  但し出火のせつわ三十二口なれともやけるところは図のことし   火の用心〳〵

大阪南船場大火

【紙面右側】
嘉永五子年十一月十九日南船場出火

火よりかゝる大火となればよく〳〵つゝしみ
大せつにすべきは火の用慎也〳〵

【紙面左側】
○くろきはのこる

大坂心斎橋通り
 江戸屋金蔵板

伊勢伊賀志摩近江尾張美濃大地震の図

【見出し】
《割書:伊勢伊賀志摩|近江尾張美濃》大地震の図
【本文】
頃は嘉永七寅年六月十四日
夜八ツ時伊勢国は東海道
四日市宿をはしめとし
て東は尾張西は近江国
北は美濃南は伊賀志摩
の国にいたるまて大地しん
にて其ひゝき大かたならず
取わけ伊勢国四日市宿は
甚つよくしてまづ北町不残南川原
不残南町は半丁ほど打倒夫より
出火して砂けぶりをふきたてざん
し【暫時】に家数九十軒余焼失すはま
だ赤堀落合橋かはけばし【鹿化橋】長田
ばし加太夫ばし日永砂川うねめ
村つへつき村こと〴〵くあれ橋々は落流
れる也折から老若男女いかてあわてざらん
ものはなく各々にけ出さんとなせども大地
大にわれ心当べき方角だに定めがたく
してけが死亡の者凡五百人余となり牛
馬即死凡百六十疋余なりとかや又桑
名十一万石松平越中守様御領分在方【在所】甚つ
よく御城下やた【矢田】町屋敷〳〵大門やす永村
町屋川辺土蔵大にそんじあるひはつぶれ
春日の社八幡はづ明神社いたむ二重
つゞみかねいば村みやつかいそ川辺七ツや
みたき【三滝】川すへ土橋おちる也長島は二万石増山
河内守様御領分御城下大にそんじ在々【あちらこちらの村里】
こと〴〵くあれる石やくし【薬師】庄の【野】亀山は
六万石石川主殿頭【とのものかみ】様御城下并に在々
こと〴〵く【濁点の位置の誤記】大にそんじ又江近【ママ】路は関
坂の下すゞか【鈴鹿】山田村社そんじ土山
宿水口は二万五千石加藤越中守御城
下在々いしべ【石部】草津大津京都迄も
大方ならず相震中仙道はもり山
より大田辺迄都合十六宿間
大にふるう大垣高須御領分
尾張は津島佐や【屋】まんば【万場】みや【宮】
犬山辺迄伊せは神戸一万五千石
本多伊与【ママ】守様御領分甚しくふるう
白子津は卅二万三千石藤堂和泉守様
御領分御城下共いたつてつよく
所々そんじ夫より宿々山田近
辺大にそんずるといへども両宮
は別条なしあさま【朝熊】山大にあれ
田丸久居五万三千石藤堂佐
渡守様御領分八田辺つよく
してそんず近江は彦根三十
五万石井伊かもん頭様御領分
すべて湖水のめぐりは甚
しく相震よく【翌】十五
日の朝よう〳〵慎り
諸人あんどをなし
にける

○伊勢両宮近辺は殊
更あれるといへども両
御社はいさゝかも別
条なし御神
の尊こと是を
もつて
知り
 給ふべし


じしん百万遍

じしん百万遍

 一此たびわたくし八千年からくに〴〵を
  なやめ鹿嶋様へたび〳〵わび入
  こんど又大江戸をらんぼふに
 いずふり家居をたほし人をおふく
つぶしもふこんどわ申わけなく
出家いたし諸國かい国に出る
 ところ以又此せつ金もふけの
 人がけさ衣をもつて一どふの
 たのみにはなにもをどけの
  ためだから百万べんを
   してくだされとゆふか
    らいたします
     南無阿弥陀佛
         〳〵
     なますた
      〳〵〳〵
         〳〵

平安大火末代噺

【紙面右端 上段】
元治元年甲子七月 火の用心







【紙面右端 下段】
今迄出板せし早摺画図と此画図旁見合可被成候■■此図は悉く細見せしを図す
されば遠近の縁者知音へ火難の安危をしらする便りともならんかと後編をだす
【紙面本文】
元治元甲子七月十九日暁かわら町二条下る辺より出火同四つ時
堺町御門辺よりも出火孟火はげしくして所々へ飛火又同日に
伏見出火山崎辺出火嵯峨天龍寺へ飛火暫時の間に洛中
一面の火と成候様見ゆる市中の混雑筆紙つくしがたし老若男女
共火勢に恐れ逃げさまよひけが人等も有之由誠に希代の大火ゆへ
近在は勿論大坂などへも若哉飛火もあらんかと逃支度の
外他事なく安き心もなき程の大火也同廿一日七ッ半頃火鎮り申候
【上部】
      家数
洛 伏 見  弐百卅九軒
  山崎村  焼   失
  天王山  焼   失
外 円明寺  焼   失
  さが
  天龍寺  焼   失
之 二尊院  焼   失

  逃る 近郷 近在其外
部 人  江州 摂州 丹波
     丹後 和泉 河内
【下部】
洛中町数  五百六十七町
同 家数  七千五百五十軒
同かまど  五万八千三百廿軒
同 土蔵  五百七十八戸前
《割書:洛中|洛外》寺院《割書:堂|大小共》百廿ヶ所
同 神社《割書:宮|大小共》百ヶ所
洛外《割書:家数|かまと》 五百軒余
けが人   数多あるよし
【墨消し部分】七百余人有よし



京都近世大火略図

嘉永三年江戸落雷の図

              夫天地不時の変動は
              陰陽混じてげきする也
               地にいれば動いて地
                震となすてんに
                 ある時は雷声を
                  はつすとか
                  や頃は嘉永
                   三年戌の
                     八月
                八日の夜江戸表
                  国々ともに
                雷のなることおびたゞ
                しくいなびかりは
大地にも入べくかゞやきわたり げに 出来秋のみ入
よしとぞおもわれける又雷は よう気のはつする
所にして陰気をはらひ邪気をさんずるがゆへに田畑
に生ずる五こくはさら也もろ〳〵のやさい物又はなりくだ物
にいたるまでよく熟してみのりよしとかやされば天幸ひ
を万民に下し玉ふ所なれば幸ひの下りし場所を小細しるす
       鳴神御下り場所
●日本ばしくぎ店  ●もと大工町  ●尾はり丁
●芝口三丁目    ●うだ川丁裏通 ●つきぢ
          ●神明丁うみ手 ●西久ぼ尾町
                  ●西久ぼ森本
                  ●あたごした
                  ●青松寺山
                  ●本所うまや堀
                   《割書:此所にてらい獣|いけ取て今に有》
                  ●芝松本丁
                  ●赤ばね
                  ●七まかり

●白かねたい丁   ●ふなほり   ●柴井丁海手
●麻ふ広尾二ヶ所  ●品川沖へ三ヶ所●青山二ヶ所
●神田多丁     ●いつみ橋向  ●下谷二ヶ所
●ゆしま      ●妻ごひ坂上  ●本郷元町
●ごちんが原二ヶ所 ●番丁九ヶ所  ●小石川二ヶ所
●いゝたまち    ●青山久ほ町  ●本所竪川三ヶ所
●権之田はら
●霊かん橋茅ば丁
●ふか川北川丁
●同六けん堀柳川丁
惣〆五十四ヶ所余
右之通に候得共人々にけが
なきは全く神国の御
いとく也万々歳目出度一條〳〵

四ツ目ヨリ天神川通リ堤上ニテ江戸ノ方ヲ見ル図

【安政見聞誌上の中の挿絵、別本も参照して翻刻】

【下側左、左から右へ縦書】
四ツ目ヨリ天神川通リ堤上ニテ江戸ノ方ヲ見ル

【右丁遠景の説明文、右より】
吉原
サル若丁
金リウ山
本願寺
坂本
石ハラ
レウセンジ【霊山寺】
ホウヲンジ【法恩寺】
コマカタ
下谷シロコウシ

【左丁遠景の説明文、右より】
本丁カシニ当ミユル
立川ミトリ丁
京ハシ山下御門ニ当ミユル
徳右衛門丁
深川仲丁

岐阜県愛知県大地震実況

《割書:岐阜県|愛知県》大地震実況

天変地異(てんへんちゐ)は往古(おふこ)より間々(まゝ)
有事(あること)書(しよ)にも見(み)へ古老(こらう)の咄(はなし)
に聞伝(きゝつた)へしが今回(こたび)尾州(びしう)濃(のう)
州(しう)両国(りうごく)非常(ひじやう)の震災(しんさい)に邁(あひ)【遭ヵ】
し人民(じんみん)が其惨苦(そのざんく)筆紙(しつし)言(こと)
葉(ば)に尽(つく)しがたし其(そ)があらましを
記(しる)さんに明治廿四年十月廿八日
午前六時十五分 忽(たちま)ち大地(たいぢ)一(いち)
時(じ)に震(ふるい)幾千(いくせん)の家屋(かおく)を倒(たほ)し幾(いく)
百名(ひやくにん)の人(ひと)を圧(あつ)し山(やま)は崩(くづれ)地(ち)は亀(き)
裂(れつ)し加(くわ)ふに火(ひ)を出(しゆつ)し岐阜大垣(ぎふおほがき)
のごときは全市(せんし)悉(ことごと)く焼失(しやうしゆつ)す
又(また)名古屋にては潰家災後(つぶれやさいご)
の類焼(るいしやう)人畜(にんちく)の死傷(ししよう)家屋(かをく)
の損害(そんがひ)その他(た)近県(きんけん)の
破損等(はそんとう)おびたゞしく前代(せんたい)
未聞(みもん)の珍事(ちんじ)なり

【紙面左下】
明治廿四年十一月四日印刷
仝  年十一月四日出版
日本橋区長谷川町十九バンチ
《割書:印刷兼|発行者》福田俣次郎

【コマ1に同じ】

家苦ばらい/ほうぼうへ逃状の事

【上の資料】
家苦(やく)はらひ
〽アヽラ
うるさいな〳〵
今(こん)ばんこよひの雨風(あめかぜ)に家(いへ)くら堂社(どうしや)おしなべて町(まち)もやしきも
おに瓦(かはら)屋根板(やねいた)迄(まで)もさらひませう去(きよ)ねんのやくの鯰(なまづ)めが
一周忌(いつしうき)にははやて風(かぜ)八月すへの五日(いつか)はや軒(のき)なみそろふ家々(いへ〳〵)も
きのふの無事(ぶじ)はけふの苦とかはるもはやき飛鳥川(あすかがは)岡(おか)は渕瀬(ふちせ)の
大出水(おほでみづ)かぜにはおそれ入豆(いりまめ)のさて〳〵ふくは福(ふく)はうち旦那(だんな)お門(かど)を
ながむればそらに戸板(といた)が舞上(まひあが)り平地(ひらち)の池(いけ)となるかみに泪(なみだ)の
雨(あめ)の水(みづ)ましてながるゝ船や竹(たけ)いかだながいものにはまきはしら
立(たち)よるかげの大木(たいぼく)も根(ね)から折口(おれくち)死出(しで)の山寺(やまでら)にはかなきおり
からにこのやくはらひがとんで出ふくろの中へさらり〳〵
             風雷散人戯述【巴文様】


【下の資料】
     ほう〴〵へ逃状(にげじやう)の事
一此あら四郎と申もの生国(しやうこく)は風(かぜ)さの国(くに)辰巳郡(たつみこうり)
 早手村(はやてむら)出生(しゆつせう)にて怪気(あやしげ)なる風来(ふうらい)ものに御 座(ざ)候間
 荒魔(あらま)ども失人(うせにん)に相立(あいたち)雷(らい)でん方(かた)へほう〴〵に
 逃出(にげいて)候所 殺生(せつせう)なり並木(なみき)之 義(ぎ)は当吹折(とうふきおり)の
 八月二十五日の夜(よ)より翌(よく)六ッ時までと
 相(あい)きはめ困窮人(こんきうにん)の義は損料(そんりやう)七分(しちぶ)の
 割合(わりあい)を以(もつて)風雲(かざぐも)吹(ふき)かへしとして家根板(やねいた)瓦(かはら)
 ふらさればく【ママ】候 御仕(おんし)きせの義は
 夏(なつ)は佃島(つくだじま)の水浅黄(みづあさぎ)ひとへもの一ツ
 冬(ふゆ)は破格子(やぶれごうし)のすのこ一枚(いちまい)可被下候
一 諸方(しよほう)木様(きさま)御破損(ごはそん)の義は
 申におよばず御家(おいへ)のぶさ
 ほう相(あい)たをし申ましく候
一 愁傷(しうせう)の義は代々(だい〳〵)一向夢(いつこうむ)
 中(ちう)にて寺は人(ひと)□築地(つきじ)
 門(もん)ぜつ地中(ちちう)本堂院(ほんどういん)つぶれんじ
 大破(たいは)に紛(まぎ)れ御座なく候もし
 この者お女中方(じよちうがた)の閨(ねや)をつぶしうんすうの鼻(はな)あらしをさせ
 松杉(まつすき)の大木(たいぼく)をねこきとなし折逃(おりにげ)屋根落等(やねおちとう)致(いたし)候はゝ荒魔(あらま)
 早速(さつそく)うかれ出 雨戸(あまど)こぢあけ可申(もうすべく)候あらしの雨(あめ)ふつてむさんの如(ごと)し
               難渋(なんじう)ふきやしき
                 家(いへ)なし飛蔵店(とびぞうたな)
   大風(たいふう)百年目      失人(うせにん) 並木(なみき)や多尾(たを)四鶴
      八月二十五日   とんださはぎ町
   浅草雷神門前(あさくさらいじんもんまへ)    木戸(きど)なし ふみぬきや釘蔵(くぎぞう)
     鳴神屋(なるかみや)
       五郎右衛門殿


痲疹養生法

 此節世上もつぱら麻疹(はしか)流行(りうかう)いたすの処 初(はじ)めは随分(ずいぶん)病躰(びやうてい)宜敷やうなれ共 後(あと)の不養生(ふようぜう)にて
 仕損(しそん)ずるものも多くこれ有哉に見聞(みきゝ)いたし候 医師(いし)方(がた)とても病用(びやうよう)繁多(いそがしき)おりから故 後(あと)の
 禁忌(いましめ)まで行届(ゆきとゞ)かれぬも間々(まゝ)有べきなれは自分(わが)推量(すいりよう)にて聊(いさゝか)の食物(くいもの)より怪我(けが)
 いたし候様なる事ある時は悔(くい)てかへらぬ事なるべし是 我身(わがみ)我子の一大事なれば
 よく〳〵慎(つゝし)み養生(ようぜう)肝要(かんよう)にいたすべき事なるべし
一麻疹 発熱(ほつねつ)のとき外(そと)は冷風(ひやかぜ)をふせぎ内(うち)は冷(つめた)き物の類を食(くは)する事なかれ内外
 とも熱(ねつ)つよきものなればかならず病人は外より冷(ひへ)る事をこのみまた内には
 生物(なまもの)冷(つめた)きものを好(この)むゆへに此 禁(いましめ)をせざれば内外より冷(ひへ)て麻疹(はしか)出る事
 なく終(つい)には悪症(わるきせう)に変(かは)りまたは余病(ほかのやまひ)を引出もの也只 食物(くいもの)を深(ふか)くつゝしみ
 蒲団(ふとん)着類(きもの)をあつく着(き)する事第一也尤 暑(あつ)き時節(じせつ)は病間(ひやうま)を気(き)の透(とほ)る様にして
 むれざる様いたす事 宜(よろ)しと承る但(たゞ)し冷水(ひやみづ)を用るもあれども症(せう)によるよしなれば
 猥(みだり)に与(あた)ふべからず渇(かわ)くとも茶(ちや)を飲(のま)す事なかれ吐泄瀉(はきくだし)をなす也
 菉豆(やへなり)炒米(いりごめ)燈心(とうしん)を煎(せん)じ置 湯(ゆ)茶に代(かへ)て用る事よしと承る
    麻疹(はしか)禁忌(きんもつ)荒増(あらまし)
一 生魚(なまうを)一切殊に鱗(こけ)なき魚は猶さら也 一 鳥(とり)獣(けもの)の肉一切 一 豆腐(とうふ) 一豆
一茶 一酒 一 餅菓子(もちぐわし) 一 饅頭(まんぢう) 一 麪類(めんるい) 一油気 一 炒(いり)たるもの 一 蜜(みつ)
一 牛蒡(ごぼう) 一 葱(ねぎ) 一酢并一切の酸(すき)物 一 菓物(くだもの)一切《割書:くねんほ|なし  》は少しはよし 一 砂糖(さとう)《割書:少しは宜し|極甘きは不宜》
一一切 臭(くさ)みある野菜(やさい) 一 菌(きのこ)類 一 瓜(うり)類 一 辛(からき)物 一 塩(しほ)からき物 一 当坐漬香物(とうざづけかうのもの)
一一切 不浄(ふじやう)の物に触(ふれ)べからず惣(すべ)てあしき匂(にほひ)をかぐべからず
   以上食物 熱(ねつ)さめて後(のち)五十日或は七十五日 重(おも)きは百日 忌(いむ)べし男女 交合(かうごう)は必ず
   百日つゝしむべし
        食して宜物(よきもの)大概(たいがい)
一ゆり 一ふき 一くわゐ 一かんぴやう 一ぜんまい 一長いも 一ふ 一 冬瓜(とうぐわ)
一くず 一 白瓜(しろうり) 一 小豆(あづき) 一やへなり 一さゝげ類 一大根 一にんじん
一 菜(な) 一 椎茸(しいたけ) 一 鰹節(かつをぶし) 右何れも極(ごく)やはらかに仕立(したて)食すべし
一古人の禁(いましめ)に痘前(とうぜん)疹後(しんご)と言事有といへり如何にも疱瘡(ほうそう)はその毒膿汁(どくうみしる)に出去(いでさる)
 といへども麻疹(はしか)はその毒 一旦(いつたん)あらはれて又 元(もと)に皮肉(ひにく)に引 篭(こも)るなりこの故に
 後々(あと〳〵)の養生(ようぜう)極大切(ごくたいせつ)の事なるべし平常(つね)のごとく成候とて必ず夜風(よかぜ)夜 露(つゆ)にあたらぬ
 やうにし土間(とま)板(いた)の間(ま)などにて冷(ひへ)ざる様 子童(こども)は其 親々(おや〳〵)心付 余(よ)病を引出さぬやうに
 心懸る事第一たるべき事也
  此一紙は己れ其業体にあらざれども少しは病者の助にもならんかと愚文を憚らず斯
  板行いたすもの也御縁者御懇意の御方々□広く御風聴被下候はゞ大幸ならん

                    大正二、七、十九

浮世辻うらなひ

【見出し】浮世辻うらなひ 古井震賀先生
卯(う)の年の難事(なんじ)あきらかにはらはせ給へ難事(なんじ)が
大勢依_レ ̄ル非_レ常 北震(ほくしん)妙見大ぼさつ

  乾元(けん〴〵)高利(かうり)貸(たい) 〃〃〃
おまへさんのはんだんは大地震と云易の夜も
二 更(かう)のへんで火場有(くはちやうう)となるこれにいたつて
あぶなきかたちだが今は大によしいづれ
おまさんはこゝにふらついていては甚よろしからず
しやうばいちうしよ【住所】をかへ二度心を入かへずんば
御とうちにちう居【住居】なりかたし心をあらためて
人をゆすらず家住居をうごかすことなかれ
よく〳〵つゝしみ給ふべし
家 仰(きやう)天の義に付はなはだくろうありしかし
苦(く)はやまいなれば気(きを)つけてよし今ねん十月は
あしく十一月より来(らい)年気づかいなし
方角は北東あしく是大くづし
西南はさはりなし又 騒(そう)をみるにおまへ
さんの相は色くろくひげ甚ながし
これあく相にしてうなぎやなどに
とらへらるゝ時は家破(かば)やきとなるしかればよく用心をして早く
土間こくへかへるがよかろふ依_レ之身の上の吉凶(きつきやう)かくのごとし外に別(へつ)条なし

北越震動誌

北越震動誌 夫地震は陰中の大陽、なり故に冬より
      春迄に多く雷は夏秋におほし易に
      田震為雷▲地雷後則これなり扨し
      も此たび北越の大地しんを見るに
頃は安政五年午の二月廿五日夜四ッ時北国一ゑんに山川海谷振動
して所々にわかにゆり出し地さけて泥水を噴出し山くづれて平地と成
田はたはたちまち沼川にへんじけるまつ越前国、福井、の御城下辺所々損
じ村岡、大野、勝山、舟はし、みくに、辺うみなりひゞき人家をゆり崩し
土蔵宮寺立木のたぐひまで多く
そんじ候由又同国板とり、今庄、
ゆの尾、わき出、今宿、府中、辺
所々破損いたし扨越中国は新
川郡、大いたみ家蔵神社仏閣
くづれそんじ富山、御城下
町々かまど数五千有余軒
こと〳〵く大損じ並木をたをし候由
并ニ高岡、小杉、下村、岩瀬、水橋、
なめり川、辺不動の瀧少々魚津
三日市、辺いたみありいろは川、あい
本の橋、無事也夫ゟ舟見、泊り、
さかい、辺八ッ尾、紙すき場、大いに
崩るゝゆりて、立山、大岩山、損所多し
加州は金沢、御城下町々宮のこし、つばた
二日市、辺いたみ少々にて大聖寺、御城
下辺湯出、不残大そんじ夫ゟ吉崎
立花、さくみ、いぶり橋、月津、□□□、少々
また、小松、寺井、あを□島、柏野、松とう
野々市、辺其外所々はそん多し能登国飛騨の
国は右のひゞきにてよほどの動きあれども人家の
損じるほどにてはなし扨又越後国は格別の事
なしといへとも市ぶり、糸魚川、かじやしき、鬼伏、有間、
長はま、中屋敷、高田、辺少々いたみもこれあり候よし
今町、春日、くろ井、梯崎、かしは崎、出雲崎、三条、辺まで
ところ〴〵すこしつゝ損じの場所もありといへどもさしたる事
なくことに国々に火なんのうれひなく候もつとも其のち少々の
小地しんまでゆり納りて目出たく泰年静穏の御代とぞ成にける

江戸地震施餓鬼の図

今度の地震にて
横死の人民多き趣
天災とは申しながら
不便に思召につき
十一月二日より左の寺院
におひて施餓鬼修行
仰付られ候なり

天台 東叡山学頭
   凌雲院前大僧正
浄土 本所  回向院
 
古義真言芝二本榎
高野山学侶方■【在】番  西南院

同 麻布白銀台町
同行人方在番   円満院  
新義真言
浅草御■【蔵】前 大護院
済家 品川    東海寺
曹洞 あたこ下  青松寺
黄檗 本所五ツ目 羅漢寺
法華一致 下谷  宗延寺
同 勝劣 浅草  慶印寺

《割書:西本願寺掛所|築地輪番》 与楽寺
東本願寺掛所   遠慶寺
浅草輪番

時宗 浅草    洞雲院
 日輪寺院代

 いやたかき
  妙の御法に
   浮雲の
 まよひを
   はらす
 鷲の山風
   五大葊
      可一

         一燈斎
          芳綱画
            

震雷考説

大嵐水入場所明細書之写

安政三年辰八月廿五日夜
 大江都御屋敷方寺社市中共
 大嵐水入場所明細書之写
  并街道筋近郷聞書

【上中下段の内上段の右】
 頃は安政三年辰八月廿五日夜
 五ツ時ころより南大風はけしく大
 雨ふりいだし嵐と相成家をこは
 し火之見を吹落し川辺海岸
 にては汐波を打よせ舟《割書:ヲ》陸え押上《割書:ケ》
 土蔵家を破損数しれす此時に
 雷鳴渡り電光ひらめき地震出火
 も有之候次第を見聞之まゝ明細に
 左に書しるしぬ
○日本橋より辰巳之方は元四日市
 御納屋崩青物町【注】材木町辺少々破也
 坂本丁牧野様御屋鋪少々こわれ茅
 場町新堀新川辺格別之事なし
 霊岸島大川端大いたみ永代ばし
 中ばはしぐい二ケ所流落往来留る
 西舟御番所いたみ橋詰え帆掛大舟
 壱艘押上又川口えも一艘打上ヶ小家は
 片側こわれ往来え茶舟四五艘打上
 有之箱崎北新堀少々いたみ田安様大
 いたみに相見へ候
 深川熊井町長島丁佐賀町辺少々破也
 新地御屋鋪松平下総守様大こわれ
 其上汐打よせ家蔵多く打流し
 外御屋鋪も余程いたみ有之相見へ

【上中下段の内上段の左】
 蛤町仲丁通り牧野屋仮宅大黒屋
 湊屋永久岡本屋吾妻屋大丸屋木村屋
 三浦屋倉田屋小知屋多方家根吹こは
 しさの槌屋はみじんにこわれ山本町から
 百川屋多分いたみ河岸通りは水いで
 大にそんじ八幡宮御社無事有之弁
 財天御開帳小屋奉納物見せ物迄不残
 打こわれ社内小橋十間斗飛有之
 其外諸木根よりぬけ出たおれ多く
 三十三間堂少々いたみ佃町家こわれ
 久喜万字屋平墻少々いたみ入舟一へん
 料理屋長家多分こわれ波にて流
 洲崎弁天御社無事茶屋近辺小家
 不残こわれ流原の如し木場材木
 打たおれ又は水にて流れ川も陸も一面に
 相わからず小橋は不残こわれ高杉様
 御下屋鋪水にて流れ大筒五六てう
 残り有之すな村六万坪中川近在
 殊之外大波にて百姓家は不及申田
 畑迄も一面沼の如し怪我人も余程有
 之由
 深川黒江町網【綱は誤】打ば辺大そんじ寺町
 寺方所々いたみ有蔵屋鋪かし蔵等
 崩相見へ油堀辺仙台堀辺大崩

【上中下段の内中段の右】
 仙台様御蔵屋鋪半分こわれ川端へ
 舟二艘押上け有之新大橋無事茶屋
 舟宿不残こわれ橋之下江こわれ材木多
 流陸之如く大川辺所々に舟打上《割書:ケ》有
 之柳川丁新き家こわれ往来無く
 御籏本御屋鋪火の見家蔵大そんし所々
 に有之あたけ御舟蔵四ヶ所崩此へん
 崩家多し六尺やしき仮宅多方
 家根吹こわし田子ヤ少々いたみ万の
 亀ヤ大こわれ八幡宮弁天御社少々破レ
 万字や山口や家根吹こわし松井町
 丸亀稲本藤本伊せや岡田や長屋迄
 多方や根は無桜屋大崩高橋半分落往来留
 常は町辺崩家所々有扇橋辺御屋鋪
 寺方こわれ家多く相見へすべて水四五尺
 程出流しも有之可候
 本所一ツ目橋詰崩家多く川中舟の
 こわれ沢山有之回向院本堂無事
 立川通り相生町川岸通り大いにこはれ
 天神祭のぼり三四本おれ緑町花町
 向林町川岸通りこわれ家多く有
 五ツ目辺五百らかん堂大そんし近へん
 在々田畑え水出百姓家流しこわれし
 有之候
【上中下段の内中段の左】
 両国橋世事見せ物小屋不残こわれ横
 網辺御屋鋪いたみ有土屋様御屋鋪崩れ
 亀沢町辺崩家多し割下水□【「水」或は「外」ヵ】吹出?
 往来も下水て一面大川之如し御竹蔵
 いたみ吉田丁辺大そんし亀井戸水出
 家吹こはし一面川筋けか人有之由
 天神社無事柳島土手通り百姓家
 崩所々相見へ押上寺方下屋鋪そんじ
 多し一体本所深川水にて諸人難
 澁目もあてらぬ次第に候
 ○日本橋より南之方は通町西河岸辺
 呉服町檜物町槙町中橋南伝馬町
 東中通り辺格別の事なし八町堀向
 本八町堀鉄炮洲稲荷御社無事
 本湊町海辺崩家有之湊町御舟
 役所辺え帆掛舟二艘押上《割書:ケ》川え所々の
 舟吹よせ鉄炮す【洲】船松町十軒町海
 岸通り小橋舟にて打こわし海岸
 家蔵崩多し汐留さむさ橋半分
 落石掛くつれ小田原町こわれ家多
 汐留川へ大木数本流家多方崩
 築地御門跡御堂大崩
     有之候海岸御屋敷
 御手舟余程流しけか人有之候由
【上中下段の内下段の右】
 京橋五郎兵町弓町銀座辺かく別の
 事無三十間堀木挽町辺御屋鋪多く
 崩家有之尾張町新橋土橋八官丁
 久保町辺いたみすくなし芝口三丁源助
 町脇坂様仙台様御屋鋪少々いたみ有
 御濱御殿芸州様紀州様御屋しき
 いたみ有之新佃辺海岸崩家所々に
 有芝片門前より出火して半丁計焼
 神明社残り浜松町一丁目片かは神明町
 三島丁両かは不残宇田川町二三軒やけ
 出る柴井町露【落は誤ヵ】月町へん火の見不残吹
 こわす増上寺山門寺院大いたみ有之
 弁天茶屋こわれ三田通り格別之事
 無有馬様火の見こわれ阿波様土州様
 御屋しきそんじ有之金杉海辺え
 異国舟遠《割書:ク》之大舟一艘吹上《割書:ケ》有之
 本芝浦漁船波にまかれ死人多く
 有之所々御陣屋破損田町札辻辺崩
 薩州様破少々有之牛町崩家相見へ
 高輪寺院門壁不残打こわし大仏
 家大そんじ品川新宿こわれ家多く
 本宿海辺多方こわれけか人有之候由
 御台場格別之事無舟多こわれ数《割書:ス》
 しれずけが人余程有之候由
【上中下段の内下段の左】
○日本橋より北之方ハ室町舟町小田
 原町両かへ町本町石町辺かく別之事
 無銀町今川橋辺少々いたみ有神田辺
 新土手くずれ所有之
 小佃町大坂町住吉町かく別の事なし
 松島丁多こわれ大川より汐打上《割書:ケ》崩
 家多し浜丁大川端因州様一ツ橋様
 三川様井上様波打よせ大そんし往来
 へ舟押上《割書:ケ》又は大材木流打こわれし所
 多有之安藤様すか沼様御やしきも
 舟にて打こわし余程のいたみ有之
 矢の倉辺御や敷破多相見へ両国やけ
 ん堀辺もいたみ有同朋丁横山町馬喰
 町辺格別之事なし大伝馬町大川通り
 人形丁辺同小舟町掘留少々土蔵いたみ
 有之弁慶橋豊島町橋本町こわれ
 家所々有柳原米御蔵そんじ有之
 神田鍛冶町鍋町須田町辺格別の事
 無く三川【河】町かま倉河岸そんじ多し
 田町横大工町ろうそく丁辺崩家所々有
 小川町辺御家敷火の見へい多方こわれ
 けが人有之候由
 浅草御門外柳橋そんじ多く平右衛門町
 代地河岸通りこわれ所々有のかや町瓦町

【注 「丁」は「町」の略字ということもあり、 江戸マップβ版 - ROIS-DS人文学オープンデータ .を参照して「丁」を「町」に訂正す。以下同断。】

【頭部挿絵中の記事】
五ヶ所御台          海岸通り
場無事            大こわれ有
御台場
無くんば
大川筋わ
大へん
に候所
大川下
風よけに
 相成か
         築地
         御門跡大崩



永代橋
落死人
余程有之
陸え舟押
上家こわれ
多し
舟こわれ
数しれず

  浅草寺
  大木打折
   家 ̄ヲ こわす     大川端
              はま丁
              辺舟押
              上《割書:ケ》所々
              に有之

厄除わらふ門 初編・二編

【見出し】
厄除わらふ門 初編
【上段】
ほんとう         おだましで
   かへ           ないよ
 〽ころりの        〽八ツでの
    うわさ           やくよけ

うれしい         もつとこつ
   ねへ         ちへおよりよ
 〽ほどこし        〽やきばの
     ぐすり          こみあい

ひとが          はやく
  みるよ           おしよ
 〽とむらひの       〽おまじ
    のべつゞけ         ない

それ〳〵そこ       よくなつて
    だよ         きたよ
 〽けさしんだ       〽もちなをした
    人のうち         びやうにん

あれさ          日本ぢうが
 ぬけるよ         ひとつに
 〽四とだるの         よるヨ
    はやをけ      〽めいどのみちづれ

がつかり         あアよかつた
  したよ             ねへ
 〽みうちの        〽びやうにんの
   しにわかれ          ねだやし

【見出し】
厄除わらふ門 二編
おや〳〵         あわてゝは
 大きいねへ        いけない ̄よ
 〽おふせの        〽かんびやう
    あがりだか          にん
   
もつとわり        あれし
 こんでおくれ        ぬる
 〽はやをけの       〽きうしいつせう
      おきどころ

きがとをく        いきそう
  なるよ           だよ
 〽さしこんで       〽はきくだし
    きたびやう人

いのちを         ヱゝもう
 かきむしるよ       どうせう ̄ね
 〽しつてん        〽ていしゆの
     ばつたう      しにわかれ

ほねがなけりや ̄ア    くちをよせて
 いつしよになるよ      おくれよ
 〽こつあげのよまいごと  〽いちこの
                  みづむけ

たまら          あれ〳〵
  ないよ         こぼれるよ
 〽やくびやうの      〽おすくひ【御救い】の
       りうかう      こなだわら


こんでこぼれるよ

大坂大火場所附

大坂大火場所附
【上段】
比は文久
三亥年
十一月
廿一日夜
四ッ時
西横ぼり
辺より
出火いたし
折しも西北
風はげしく
平右衛門町【注】勘四郎
町しほ町通り
安堂寺通り
じゆんけい町金沢町
久宝寺町通り
久太郎町唐物町
通り
南本町
通り
残らす
やける
それよりいよ〳〵風はげしく
して向川岸へうつり
両替町ふしみ町
のうにん町通り
追手町江戸町泉【和泉の誤】町
さいもく町此辺のこらず
【下段】
やけるしゆもく町
すゞき町しみづ町
山家屋町
はんにう【半入】町
かしは町
此辺
残らす
御屋
しき
様方
やける
にしは
堺すじ
南は

ほり
 迄
東は
玉造り
いなり
ば々【馬場】
杉山迄
明る
廿二日
七ッ時
よう〳〵
火しづ
まり
人々
あんどの
思ひを
なしに
ける

【注 大坂の町名に「町」の略字「丁」が用いられているのですべて「町」に訂正す。】

大日本数量附暴病御救人別之写

【一段目】
はやる         百二十九年
▲同四年又はやる    百二十五年
▲寛延二年秋関東大かう水
▲同三年夏大あられふる 百二十一年
▲宝暦三年諸国はしかはやり人
多く死す        百十七年
▲同七年中国関東大かう水にて
でんばたをそんず    百十二年
▲同九年 加州金沢大火 百十年
▲同十三年大坂大風船そんじ人
多く死す        百三年ヵ
▲明和六年引風はやる  九十七年
▲安永元年江戸大火人多く
死す          七十三年
▲同二年ゑきれいはやり上より
人参を被下       七十二年
▲同五年諸国はしかはやる六十八年
▲同六年関東こう水十月甲州
みのぶ山大火      六十七年
▲天明二年七月大ぢしん大■【洪ヵ】水
人多く死す       六十三年
  ▲          ㊄
▲同三年浅間山やけて上州とろ
水押いだし馬多く死て諸国に灰
ふる          六十一年
▲同四年関東奥州大きゝん四年
つゞく         六十二年
▲同七年諸国きゝんつゞき御すく
ひまい下さる去年江戸大火の
上からつ水       五十八年
▲寛政三年八月関東大風雨
其うへつなみ入て人多く死す御救
米下さる        五十四年
▲享和二年諸国引かぜはやる
去年住吉ゑん上天王寺雷火四十三年
▲同三年はしかはやる  四十二年
▲文化三年二月江戸大火御救
小屋所々へ立      五十四年
▲同四年八月十九日深川八まん
祭礼に付永代ばしをふみ落して
人多く死す       五十一年
▲文政四年諸国引かぜはやる
御すくひ被下      四十二年
【二段目】
▲同七年はしか風はやる 三十五年
▲同十二年丑年神田佐久間町
より大火御救小屋所々へ立ほどこし
おほく出す       三十年
▲天保四年米高直にて御救ひ
被下る         廿六年
▲同五年さくま町より大火にて
御救小屋所々へ立ほどこし多く
出る          二十五年
▲天保七年きゝんにて人多く死す
御すくひ被下御救小屋諸々へ立
物持町人よりほどこし多く
いだす         二十三年
▲弘化二年青山より大火御救ひ
小屋立ほどこし     十四年
▲同三年正月十五日大火御救ひ
小屋所々に立ほどこし出る十三年
▲嘉永四亥年前年より引かぜ
はやり并に諸品高直にて御救ひ
被下物持町人よりほどこし
あまた出る       八 年
 ▲           ㊅
▲安政二年十月二日夜大地震
にて所々大火八万余人死す
御救被下おすくひ小屋所々へ立
物持町人よりほどこしおひたゞ
しく筆にかきつくし難し 四年
▲同三年八月廿五日の夜大風雨
にて樹木家々を吹たふし異国
船壱艘芝金杉橋のきわに
かゝり船そこへめりこむ事なかば
また永代ばしに二千石積の親船
壱艘かゝりて橋杭をつらぬくを
郷近在大洪水      三年
▲同四年春より夏に至り引
かぜ大ひに流行して病ざる者
壱人もなし       二年
▲同五年八月中旬夕方より西之方に
あたりてえふ年星の大キサ三丈余
にみゆる又暁方は東の方にあたり
見ゆること九月におよべり
【三段目】
井原庄之助
   ■■【「申候」ヵ】
 【横書き赤字】
 井原庄之助

【一段目】
  安政五戊午年
大日本
   暴病御救人別之写
数量附
  九月十日改正

暴病微細記
 ㊀大日本六十余州数量
凡日本の広さは東西五百余里南
北は三百三十里余人皇三十二代五機内
に定めらるその後四十三代の御宇六
十六ヶ国に定め給ふ此時郡名村名
を定め又五十三代の御時七道に分
ち給ふ壱岐対馬二ヶ国を入て六十
八州となる
 ●石高 二千三百八万五千四百八十二石余
 ●城数 百五十ヶ城なり
 ●郡数 六百三十一郡なり
 ●郷数 一万三千六百五十四郷なり
 ●村数 九十万八千百五十八ヶ村なり
 ●寺院 四十五万九千四十四ヶ寺
 ㊁御府内四里四方数量
町かず三千八百十八町各三十六丁一里に
して百六十八里十三町なり
 ●表店 八十五万十三軒なり
 ●男  三百四十万十四人
   壱人五合ぶちとして

【二段目】
米高一万七十石七升
 ●女  百七十万二十八人
   壱人三合ぶちとして
米高五千百石八升四合
 ●裏店 九十二万五千二百に二軒
 ●男  百十一万千百二十人
此米高五千百万十五石六斗
  女  八千五万千百八人
此米高二千五百五十三石六斗二升
 ●盲人 九千百十三人
 ●出家 七万百十人
 ●尼  三千九百九十人
 ●神主 八千九百八十人
 ●山伏 六千八百四十八人
 〆九万九千四十八人
此米高
 四百九十五石二斗四升五合
  御府内惣人数
 〆七百十万千三百十八人なり
  御武家方町家合算高
 〆三千二百十三万八千五十一石余
 ●御大名  二百六十余頭
此御高合
 〆千八百八十一石
  御旗本 八万余軒
此御高合
 〆四百一万五千三十石余
 
  二十四万九千二百六十四人
 ●惣御武家方
  凡二千万人余
此米高十万石余
 ●御武家方御高数
 〆二千二百九十二万六千七百七十
  三石余
 ㊂暴瀉病死人高
御府内右之人別惣高之内当七
月下旬ゟ流行病にて死亡人数
多なれば窮民へ御救被下置るゝに
つき死亡人別御調べ有之候事
左の如し
  八月
【三段目】

忘れまい沼津見立

【紙面右側欄外】
天保十亥の年正月大新板

【紙面頭部欄外】
上【黒丸の中に白抜き字】

【見出し】
《割書:天保八年|酉のとし中の》  忘(わすれ)まい沼津(ぬまづの)「見(あい)+立(そ)」
《割書:めづらしい事|おぼへて置(おき)たい》

【本文上段】
わたしゆへに    白米壱升
 そうどうおこり   四百文

何のこなたに    麦一升弐百八十文
 引とらすやうな事  《割書:あづき弐百七十文|大豆弐百弐十文》

三がいにふみまよふ  朝昼夕三度
 こそどうりなれ    かゆのしのぎ

おも荷(に)はねた    毎日米やの札
  間もやすまぬ   見てなきがほ

われもつゞいて    朝七ツおき切手もらひ
  あとからこい     籾(もみ)ずり買

それか是かと     米屋見せ
 よく〳〵ながめ    よりぐひ

其 代(かわり)り【ママ】に身の廻りくし 四五六月
 かうがいまで売はらひ       だん〳〵高直

うき世わたりは     米麦しやうゆ
   さま〴〵に      よ見せ

かほが見たい〳〵    七月のすへ
 かほが見たいわいャィ   新こく入の

ハテがてんのゆかぬ   ぬか【糠】きらず【おから】の
            まぜた喰物

此うへの悦びは     豊作きいた
 ござりませぬ       九月頃

ムウト心のもくさん   百姓高持
   しあんをきはめ    米屋

肴はほしか【干鰯】  諸方《割書:一ぜんめし》弐十四文
 一疋なし       はたご金壱朱アテ

そうあろう心底(しんてい)    塩壱升六十四文
 しごく尤じやが    《割書:ぬか 六十四文|きらず玉【注①】 百もん》

ヱゝかたじけない〳〵  諸方大家
              せぎやう
しゆみ【須弥】大海に     御救 国恩(こくおん)
 まさつたる

【注① おからを球形に丸めたもの】

【本文下段】
こけつまろびつ     二月大火
   はしりゆく

なにかのやうすは    何かなしに堺八尾
   道にてきかん   ■【原ヵ】野辺《割書:マ|デ》にげた人

さま〴〵るろういたす人 □保山でにぎり
            □しくふたの

宵(よひ)月夜で        ばんばで
 あんどはいらぬ      野じゆく

たのみかけられ     やけのこり
   ぜひなくも      しんるい

ゆるりとちゞかまつて  れき〳〵の出家たち
  御寐(ぎよしん)なりませ    出入内へとうじ居候

どうやら爰(こゝ)に根がはへた せんばやける
             なすびなんきん畠(はたけ)

そう聞まして申     質□□ら
 やうもござり升□     □□がへ

どなたもさやうに    香の物□
 おつしやります     □□□弐朱

一日ぐらしに     町おそら豆□□見せ
  日をおくる     《割書:げんこどりもち【注②】|なんきん小ざらうり》

それをきひてとんと   酒
  おもひ切りました   三百六十四文

かげに巣(す)をはり     諸方そうか【注③】
  まちかける      おびたゝし

何のびやうきでは    悪病はやり
  思□□よらず

何ゆへに此ありさま   知因(ちいん)【「知音(ちいん)」】近づきの
             おちた人

何 ̄ン のいんぐわで    毎日はし〴〵
 此やうななさけない    こじきの荷つくり

南無阿みだ仏〳〵〳〵  悪病ゑきれい【疫癘】
             餓死(がし)かずしれず

【注② 江戸時代、街道などで売った、一個五文の餅】
【注③ 総嫁。 江戸時代、京阪地方で路上で客を引く最下級の売春婦をいう語。】

【紙面左側欄外】
後の年世なをり見立 下【黒丸に白抜き字】之分 ̄ニ御座候
追加 有難やかゝる可美のなかりせばつくりし罪のいつか消へなん

早飛脚廻りにてくわしき所本しらべ大地震

【全体】
嘉永七年寅ノ年
早飛脚廻りにて   大地震 諸国国々少々ツヽ不同あれ
くわしき所本しらべ     ども大体同時同やうの地しんなり
              六月十四日より地震廿一日くれ半時に
              又ゆり夜発八ッ時に又ゆり都合八日ノ
              間に凡弐百七十五度の大じしん也
【上段】
 和州奈良
六月十四日夜九ッ半時ゆり始め大小共度々
ゆり朝六ッより半時計【斗】大地震ゆり奈良末町
あちこちの図の如くくすれ其時家の内に一人も
いる事ならず皆々野文之興福寺其外広き
明地抔に而夜あかし南は清水通不残木辻の四ツ
辻より十軒計【斗】り崩れ鳴川町辺はさつはり北西手貝通り
北半田西町南北大崩れ川久保町細川町北向町北風呂辻子町
此辺別して大くづれ死人凡百三十人けか人かすしれつ

 同郡山   死人凡七十五人計【斗】り
       けが人多し
同十四日夜八ッ時より十五日朝五ッ時ゆりつゞけの大地震にて町家
壱軒も無事なるはなく勿論一人も家内に居る事ならず皆々野
はたけなどの広き所の明地或はやぶなどにて夜を明し大道往来のもの
一人もなく皆門をしめよせいつれに入ともわからず十六日くれ方迄大小五十
七度ゆる毎夜〳〵〳〵野宿にて目も当られむ次第也柳町一丁目より四丁目迄
凡七十五六軒くつれる其外町々右同やうの事なり
 同古市
同十四日夜八ッ時大地震度々ゆり朝明六ッ
半時より大じしん町家一軒ものこらずくづれ家
の内にいながら死者も有川へ出て死者も有
誠に〳〵あはれなるときゝおよぶ又はおやしき
町家少々のこる誠にまれなるおそろしき
大じしん也 死人凡大人百五十人れ
      い  小児三十七人 けが人かずしれず
 伊賀上野
右同日同時大地震にてお城大手御門口大そんじ市中凡六部とふり【六分通り】
くづれ鍵の辻より出火に而黒門まへ迄やけ夫より嶋の原といふ処より大川
原といふ処迄ほらのために一面のどろうみのごとく其そうどう
筆につくしがたし十六日くれかたまてに五十七度のじしん也
         死人凡弐百余けが人おびたゝし
 伊勢四日市
同十四日夜四ッ時よりゆり始明六ッ時の大地
しん也崩れ家凡三百六十軒あまり昼
五ッ時より出火に而崩れ家とも四百七十軒
計【斗】りやけ大じしんの上出火に付死人かず
しれず凡五百余りと所の人のうわさ

六月廿日やはり少々ヅヽ地しんゆりなが
らくれ半過よりかみなり鳴出し
大小とも度々なり近近へ七所
おちる明廿一日九ッ時前鳴やむ

【下段】
 摂州大坂なんば新地
此度諸国大地震に付て
どこもかも大そふとう也大坂
にて尼出の地震といふ者有
此地震は人もゆり上け其時にはよう
がらし〳〵〳〵と言(い)ふ此地しんは
    中〳〵又おそろしい
     地しんにて家蔵粉も
      なふして呑事おそろしき事なり
       其中にも大坂は一ばんゆりようが
        ぬるしゆゑつく〴〵かんがへば
         尼出におそれてじや

        なら
        〽さらしやの
          うちはつぶれる
              大地震

大津近辺石ば船のか【「り」ヵ】ば大石とうろう湖水へたをれこみ辺同石舟ばん所
同断横死両三人も有之候余は右にじゆんじはそんしよもあまた御坐候

丹波亀山十四日夜四ッ半時ごろより近辺の山うなり出しまもなく
大じしん人家崩れはげしき事人々の咄しよりおそろしきてい也

江州信楽同日同時ごろに大じしんゆり人家はそんしことに
土蔵おびたゝしくかへ土をちひゞきわれ凡蔵のかず廿七八
たをれ家数南北弐百五十軒計【斗】り崩れけが人数しれず

 南山城木津
同十四日夜九ッ半時より
東西南北のあやちなく黒雲
振下り石ふり笠置山より大岩等
吹出し図の如く近辺大水となり
家十軒計【斗】りツヽ崩れながら流れ命をしく
ともにけ行処無之夜中の事なれば
誠にあわれなる次第なり死人いまだ
数相わからず水十五日九ッ時比にさつはり引くなり

 越前福井
六月十三日五ッ時塩町かちや町辺出火大風はげしく東西南北共不残やけ二百丁
計【斗】寺院百ヶ所両本願寺とも焼近在凡十ヶ所やけ夜四ッ時にしづまり申候
又其夜八ッ時より大じしん田地などもとろ海と成所々の家くづ
れ死人凡七十五六人まことに〳〵其こんざつ筆につくしかたし
十六日くれかたまさにたひ〳〵の大じしんなり

【全体】
此度大地震かみなり出火に付諸方御しらせのため▲おわらいにちよと尼出をさしくわへるなり
           【朱文字書込み】大正元・九・十四

【題箋】
嘉永七甲寅六月十四日
 大坂 大地震
 諸国

呉服橋外桶町河岸つむじ風之図

【袋】
【表題】
つむじ風

【右上囲み部分】
町々(まちまち)焼(しやう)
失(しつ)場(ば)
所(しょ)附(づけ)



呉服橋(ごふくばし)外桶町(そとをけちやう)河岸(がし)飆(つむじかせ)之(の)図(つ)

 安政五戊午年十一月十五日
  下谷(したや)ねりべい小路(かうじ)より出(しゆつ)火して右に記す所の
町々(まち〳〵)尽(こと〴〵)く類焼(るいしやう)す殊(こと)に火中につむじ風あり
桶町(おけちゃう)河岸(がし)において大に巻(まく)こと三度(さんど)是(これ)が為(ため)に火(ひ)ひろがり
  人なやむこと大かたならず実(じつ)に恐(おそ)るべきの甚(はなはだ)しきもの也
   よつて今(いま)図(づ)ぐわしてもて後来(こうらい)の心得(こヽろえ)と為(なす)ことしかり

守礼 大矢山日行寺

恵志迺【えしの】上手御作
南無大火【注①】大事安全妙王

   ほうほう【方々】かじの
    うれゐをのかし給ふ

今日不吹誰詰【誥ヵ】合
春風柏子木【注②】一時来

   おんそろそろ
    ふいたりやそわか

供物 のし水引におよばず只清らかに
   正のものを正で御備可被成候

【注① 別本では大火をダイヒと読ませており、大火を大悲(ダイヒ)に掛けているようです】
【注② 柏+子の漢字は造字、柏+子木で拍子木(ひょうしぎ)と読ませたいのだろう】
【類似画像が以下にあり、上側の切れている部分はここより読み取っています】
【国立国会図書館デジタルコレクション 火水風災雑輯. [2]の29コマ】
【https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592141】

越後の国大地震

【右頁】
十一月十二日同しく
あさ五つ時より
大地しんゆりいだし
十四日迄三日の
あいたちうや
ゆりやます
うみべとふり
いつもざき
【左頁】
八彦明神の
山大にくづれて
海の中へおしいだし
同所
三條まち
つばめ町
また
東御門ぜきみどう大門
のこらすゆりたおし其外田はた
山川くずれこぼり大地へ
あぶれいて人馬けが人
数しれず
凡いへかず八千げん余
たをれくずれ牛馬三千余
も打ころされ
こゝんまれなる大地しん
そのあらましを
こゝにうつしぬ

〔落雷骨接泥鏝療治〕

小石川出戸通御門

外科骨接の名人

足のりやうじ
〽アヽもちつとしづかにやつておくんなさいまし
わたくしはこんどかやば丁【茅場町】の米ぐらへ?やした
所がたちまち火事に成て買こんで置た米
を不残やいてしまう程の火事だがもと
より火の中に斗いるのだから火はなん
ともないが左の足をくじいて??のがなら
ぬ所を雲かきてやつとたすかつたの
でござります【升】

背骨りやうじ


尾にて尻を打やぶる
〽ア
はいつていたものをいてへはづだモシ
おいしやさん わたしは小石川の御屋
敷の御門の家根へおちたのさ そこ
で家根瓦でこんなに尻をやぶ
つて大け我【ヵ】しておせわに
成ます

ひはらを強くうつ
〽モシ

腕のりやうじ
〽アイタ〳〵うでがぬける〳〵

角ヺ折牛の角ト植かへる
〽アゝいてへ〳〵此当り角をおる

子雷首くじき
〽モシおいしやさま 此子にはこまります
いふ事を聞ませぬから

【下の欄外】
嘉永三歳八月廿二日夜

【下の図】
落雷之場所附
【看板】外科骨接泥鏝療治

新板東海道地震双六

新版東海道地震双六
東都 亀名堂板
ふり出し

【以下右下より五十三次の順番】
【起点.日本橋】
日本橋 ニり
大きい
じしんは
江戸では
ゆられまいじしん
ばんにおそれて
【町内警備の自身番を地震番に掛ける】
【絵は自身番と鯰】

【1.品川】
品川 三り半
いそがしいとき
じしんが
ゆり用を品川
にげる
【忙しい時に地震が来たので用をしないで逃げる、しなを品川に掛ける】
【絵は逃げ出す女性】

【2.品川】
川さき ニり半
どんな
人でも
かほは
川さき
【顔を先にし逃げるの意、顔先を川崎に掛ける】
【絵の右側は走って逃げる男性】

【3.神奈川】
かながわ 一り九丁
しんぶつを
いのつても
とても
かな川
【神仏に祈っても叶わない,かなを神奈川に掛ける】
【絵は祈っている女性】

【4.保土ケ谷】
ほどがや 二り九丁
むさしの
内はすこし
ゆへきもはつぶ
してもいへは
つぶれぬ
【ほどがやのやを家と見立てる】
【絵はつぶれていない家々】

【5.戸塚】
泊 とつか 二り
うちをこは
されてもあい
てがぢしん
ゆへとつか
まらぬ
【とつかまらぬを戸塚に掛ける】
【絵はつぶれている家から逃げ出している男性】

【6.藤沢】
ふじ沢 三り半
これが
ほんの
ふじ
さはだ
【不時(ふじ)の障(さわ)りで、ふじさわの洒落】
【絵は突然生理になった女性ヵ】

【7.平塚】
平つか 廿七丁
てんさゐと
いふことを
平つか
【まっぴらを平つかに掛けるヵ】
【絵は腰を抜かしている男性】

【8.大磯】
大いそ 四り
いたんだ所は
きうのふしん
で大いそぎ
【大急ぎを大いそに掛ける】
【絵は新しく建てた蔵】

【9.小田原】
小田原 四り八丁
よめのそう
だんもこの
ぢしんで
小田はら
になり
【小田原評定、つまり長話になった意】
【絵は長話している嫁】

【10.箱根】
はこね 三り廿九丁
はこねの山もこの
ぢしんてよこに
なつたといふ
ことだそれでは
よこねの
とうげだ
【箱根の山が地震で横になったので、箱根の峠でなく横ねの峠だと洒落る】
【絵は箱根の峠】

【11.三島】
三しま 一り半
つぶれ
てやけた
あとを
みしま
【見しを三島に掛ける】
【絵は焼けている家々】

【12.沼津】
ぬまづ 一り半
この宿も半
ぶんやけて大
さはぎ ししんの
ゐるうちはぬまず
よいたろう
【ぬまず→住まずをぬまづに掛ける】
【絵は焼けている家々】

【13.原】
はら 二り六丁
ぢしんでくわ
づに【食わずに】あるいたら
はらが
へつた
【腹が減ったを原に掛ける】
【絵は富士山】

【14.吉原】
泊 よし原 二り十九丁
ぢしんでたし
かけた名ぶつ
のしろ
ざけ
【出すは酒店用語で買うの意で、買いかけた白酒の意】
【絵は白酒の看板】

【15.蒲原】
かんばら 一り
くそやけだ
くつと一ッぱゐ
さけの
かん原
【酒の燗をかん原に掛ける】

【16.由比】
ゆい 二り十二丁

【17.興津】
おきつ 十九丁
内はみんな
つなみでなが
れ ねどころ
かない【寝どころ】
かないからはやく
おさ【きの誤刻ヵ】つ
【早く起きつを興津に掛ける】
【絵は津波】

【18.江尻】
ゑぢり 二り半
つなみでながれた
人はさめや
くじらの
ゑぢりと
なる
【鮫や鯨の餌食をゑぢりに掛ける】
【絵は津波】

【19.府中】
ふちう ニり半
いのちが
ほしいとて
主人おいて
にげるのは
ふちうだ
【不忠を府中に掛ける】
【絵は逃げる武士】

【20.鞠子】
泊 まりこ 二り
ぢしんのこにめはなが
ついたとき
それは名物
じしんの
かたまり
【かたまりでまりこに掛ける】
【絵は赤子をおんぶしている女性、看板は名物のとろろ汁】
【歌川広重の「東海道五拾三次之内鞠子」に登場する子守の姿】

【21.岡部】
おかべ 一り半
このじしんは
おかべでみた
よりまた
おゝきい
【岡目(おかめ、傍目のこと)で見るより大きい。おかめをおかべに掛ける】
【絵は腰の抜けた男性】

【22.藤枝】
ふじ枝 二り
このじしんてわたしの
内はたをれました
それはとんだ
ふじゑだ
【内(うち)は家のこと】
【藤枝→ふじゑだ→不時家だ、災難の家だの洒落】
【絵は倒れた家】

【23.島田】
しまだ 一り
大井川大水で
とうりう【逗留】の内
あのしまだを
ひとゆりゆら
してみたい
【京都の島田で遊んでみたいの意】
【絵は大井川】

【24.金谷】
かなや 一り三十丁
さよの
中山あめ
のもち【飴の餅】が
つぶれた
それはとん
だめに相の宿
【小夜の中山は、金谷宿と日坂宿の途中の峠】
【飴の餅は、小夜の中山の名物和菓子】
【とんだめにあい→とんだ飴にあいの洒落】
【絵は中山の峠ヵ】

【25.日坂】
泊 日坂 一り三十丁

【26.掛川】
かけ川 二り半
つぶれて
やけて内には
いられない
みんなほかへ
かけ川
【他へかけ川→他へ出かけの洒落】
【絵は焼けた家々】

【27.袋井】
ふくろ井 一り半
この宿はじしんが
やすいから袋井
へいれて江戸へ
おみやげ
【地震を袋に入れてお土産にする】
【絵は地震を入れた袋】

【28.見付】
見つけ 四り八丁
ないしやう【内証】で
やつたじしんを
みつけられ
【みつけられ→見付の洒落】
【絵は屏風に隠れていたところを見付けられた所ヵ】

【29.浜松】
はま松 三り廿丁
はま松で
ふられた客
人となりのじしんか
うら山しい
【はままつから待つに掛けている】
【絵は待ちぼうけの客】

【30.舞坂】
まい坂 一り
この宿はゆら
はなしじしん
がよはいに
でかけたなら
御女ちうかたは
まいさかの御用心
【まいさか→まさかのご用心と掛ける】
【絵は夜這いで断れている光景ヵ】

【31.新居】
あらい 一り廿七丁
御せき所より
一里ほど
あらゐつなみ
でながされた
【津波があらゐ→あらいの洒落】
【絵は荒い津波】

【32.白須賀】
泊 しらすか 一り
しらすかと
ふた川との
二宿じしんの
大やすうり
【絵は女性が男性客を客引きしているが素通りするところ】

【33.二川、ふたがわ】
二川 一り半
三百文で
ゆりしだい
そんなら
こゝでとまりま
しよふ
【絵は女性が男性客を強引に客引きしているところ】

【34.吉田】
よしだ 一り半
しつゝこい
じしんだもう
よし田
さい
【地震がしつこいので、よし田さい→よしなさいの洒落】
【絵は嫌がっている女性】

【35.御油】
ごゆ 十八丁
なんぼじしん
がしやうばゐ【商売】
でもこうゆられ
てはたまらぬ
ごゆるし〳〵
【ご許し→ごゆに掛ける】
【絵はしつこい男から逃げようとする女性】

【36.赤坂】
泊 赤さか 二り
こむすめがぢしん
のはなしで
かほを
あかさか
【顔を赤らめ→あかさかの洒落】
【絵は顔を赤らめている娘】

【37.藤川】
ふじ川 二り半
みかはゝじしん
がゐるはづだ
まんざい
らくので所だ
【絵は三河万歳の男性】

【38.岡崎】
岡ざき 四り
おかざきの
ほうはいた
まないかね
やはぎ【矢矧】いたみ
ました
【やはりと、やはぎを掛けている】
【絵は矢矧(やはぎ)の橋】
【歌川広重の東海道五拾三次の岡崎 矢矧之橋を写している模様】

【39.池鯉鮒】
ちりう 三り
ちりふと
なるみの
あいの宿
ある丁の
【末尾1行分の文字が消えているヵ】
【なるみの合いの宿と「なるみの藍」を掛けている、「なるみの藍」は藍色の絞り染め】
【絵は三河地方の特産品であった木綿】

【40.鳴海】
なるみ 一り
しぼりやも
このぢしんでは
しんしやう【身上】を
しぼりました
【鳴海絞りとしぼりを掛けている】
【鳴海絞りとは、鳴海町付近で生産される絞り染め、綿布をさまざまに絞って藍染めしたもの】
【絵はしぼりやの男性】

【41.宮】
泊 みや 七り
みやとくわな
つなみでながれ
るはづた
□□
たまつた
【絵は津波】

【42.桑名】
くわな 三り八丁

【43.四日市】
四日市 三り
ぢしんは五日
ほどゆり
ました てうと
四日市にちだ
【5日揺れたから、4日+1日で四日市と洒落る】
【絵は歌川広重の東海道五拾三次の四日市宿に登場する旅人】

【44.石薬師】
泊 石やくし 二り廿七丁
やくしの宿を【「と」では】
いふはづだめし
もり【飯盛】のつらが
しやくしだ
【いしやくしと杓子を掛ける】
【つらが杓子だとは額とあごが張り出て中凹の顔つき。】
【絵は顔を鏡で見ている女性】

【45.庄野】
しやうの 一り
これは大
へんどう
しやう
のう
【どうしようの→庄野の洒落】 
【絵は慌てている女性】

【46.亀山】
かめ山 二り
おれが内
さへのこれば
かめやま
【家さえ残ればかめやま→かまやしないの洒落】
【絵は無事に残った家】

【47.関】
せき 一り半
ぢしんを
すまふ【相撲】に
とりくんたら
こんどのがせき
【関取→関の洒落】
【絵は相撲取り】

【48.坂下】
坂の下 二り半
石がころげて
あふない
坂の下
【絵は坂の下の石】

【49.土山】
泊 土山 一り半

【50.水口】
みな口 三り
まんざ【「い」の漏ヵ】
らく【万歳楽】とみな
くち〳〵に
いふばかり
【絵は万歳楽を示すヵ】
【みなくち〳〵を水口に掛ける】

【51.石部】
いしべ 二り
ぢしんのさい中
いしべを
すかし はなを
つまんでおゝ
くさつ
【屁からいしべ、おお臭から草津に掛ける】
【絵は屁をすかしている男性】

【52.草津】
くさつ 三り廿丁

【53.大津】
大津 四り半
ぜに【銭】のない
きやく【客】ぢしん
くひにけ【食ひ逃げ】を
し とつかまつて
とんだめに大津
【とんだ目におおた→大津の洒落】
【絵は食い逃げして捕まった客】

【京都】

京はゆりませんが
しまばらに
ぢしんのとひや【問屋】が
こさります
【島原は京都市下京区に位置する、幕府公許の遊郭街】
【絵は島原の大門を吉原の大門風に表現したものヵ】

一ッあまれば大津へかへる
二ッ〃   くさつへ〃
三ッ〃   いしべへ〃
四ッ〃   みな口へ〃
五ッ〃   みやへ〃

はしか毒いみ心得艸

【表紙】

文久二壬戌七月出板
はしか/毒(どく)いみ/心得(こころえ)艸
   福岡屋右兵衛板

/麻疹流行(はしかりうこう)年紀
○天平九丁丑 人多く死す ○享保十五庚戌
○延暦九庚午       ○宝暦三癸亥 人多くしす
○長徳四戊戌       ○安永五丙申
○文明三辛卯       ○享和三癸亥
○永正三丙寅       ○文政七甲申
○慶安二己丑       ○天保八丁酉
○元禄三庚午
  よく四年はるまでに
至り人多くしす

【下頁】
  【印】○はしかのこゝろ得
一はしかまへにむらさき草の根せんじてのめばかるくする
 こと妙なり
一はしかの気ざし有としらばふきの根をせんじのむべし
 はしかのんどの穴へてきずまたしほ漬のきんかんをまる
 飲にしてもよし
一はしかをやむと思はヾ俗にごりう柳またには柳などゝ
 となゆる木のはをせんじ飲べし妙薬なり
一はしかのねつにて手足だるくとも身うちをもみ按

 摩をとらすることはなはだ悪しなでこすりするもよろし
 からず堅くいむべし
一はしかをやみ早くはつしさせんとするにも極寒の時ぶんは
 ひとへものを一まい着綿入くらいをおほひ寝てゐるがよし餘りに
 あつぎをして汗(あせ)をしぼればしやうかん【傷寒 注①】おこり【瘧 注②】などに成なり
 ただし風のあたらぬやうにたてこめて置べし
一はしかは餘の病より後のやうじやう至てむづかしくもしふやう
 じやうにするときは種々の病とへんじ身命をそこなひ五体をふ
 ぐにするをてきめん也よつて今食してよろしき品をえらみ

【注① 昔の、高熱を伴う疾患。いまのチフスの類。】
【注② 間欠熱の一種。悪寒、発熱が隔日または毎日、時を定めておこる病気。マラリア性の熱病。】


【上頁】
そのあらましをこゝにしるす
  病はじめてよりおわりまで食してよろしきもの
一大こん  一かぶ   一にんじん 一小かぶ   一ながいも
一じねん生 一むかご  一さつま芋 一かんひやう 一しそ
一ゆり   一ぜんまい 一くわい  一いんげん  一ふき
一ゆば   一くず   一ふ    一ほし大こん 一さゝげ
一やへなり 一冬瓜   一大豆   一小豆    一むぎ
一うんどん 一しろ瓜  一なし   一ごぼう 《割書: 出そろいて|のちはいむべし》
一かつをぶし 《割書: 出そろいてのちには|せう〳〵ならばよし》

  十二日すぎてよろしき品
一菜   一ちさ   一つく芋  一とうふ  一はすのね
魚るい  一きす   一さより  一あいなめ 一石もち 
一小だい 一小がれい 一酒しほ 《割書:廿一日後ねつ|  さめてのちはよし》
  三十日過てより宜しき品
一ねいも 一なすび《割書:つけたのは|わろし》一のり 一めうがたけ 一木のめ
一つけな 一こんぶ  一水こんにやく 一しいたけ 一しようろ
一みかん 一くねんぼ
魚るい 一なまだい  一小びらめ 一いしがれい 一むしがれい
                       ○三
【下頁】
一あこふ 一もうを 一ほうぼう
  五十日過てより宜しき品
一せり    一ずいき  一わさび  一生が  一さといも
一えだ豆   一あらめ  一ひじき  一けし  一さんしよ
一梅ぼし   一かちぐり 一きくらげ 一ゆず  一りんご
一まるづけ瓜 一すいくわ 一そば   一そうめん
魚るい    一せいご  一しらうを 一わらさ 一あじ
一かさご   一ひしこ  一こひ   一ふな  一赤がい
一しじみ   一きんこ  一かき   一いか  一あんこう

  七十五日過ぎてより宜しき品
一生椎たけ  一生松たけ 一たで  一唐がらし 一からし
一かき    一桃    一びわ  一ぶどう
魚るい    一大だい  一ふつこ 一いなだ 一こち
一かながしら 一たこ   一さざい 一あわび
  百日過てより宜しき品
一じゆんさい 一こんにやく 一そらまめ  一きうり 一唐もろこし
一くり    一ごま    一まくわうり 一ねぎ  一はまぐり 
魚るい    一なまこ   一すゞき   一いな  一あゆ
                       四

一いせゑび 一しばゑび  一さわら 一たら 一いさき
一いわし  一なまりぶし 一するめ 一酢せう〳〵はよろし
  なるたけ長くいむべき品
一竹の子 一かに   一むつ  一赤にし 一からすみ
一どぜう 一鮭    一まぐろ 一ふぐ  一くじら
一ぼら 一がん。かも 一油るい 一もちるい 一たまご
一酒  一房事
人々の症によりて何事なしといへどあたるときには必害あり一口ものゝ
為に百年の寿をそこなふことあらば後悔のなからんや穴覧々々

大合戦図

【画題 他に文字無し】
大合戦図

岐阜県下大地震災之統計略表

岐阜県下大地震災之統計略表

市郡名 総戸数        家屋全潰      家屋半潰   総人口        死亡      負傷     火災戸数
岐阜  五千八百五十二    九千【漏レ】百四十八    二千九百十六 二万五千六百七十六  二百五十    七百人    二千二百廿五
厚見  七千八百三十五    四千八百四十四   千百七十   四万千九百五十五   六百三十一   五百九十八  三十四
各務  四千二百十五     千二百十八     五百三十三  二万●●三十七    九十四     百二十三   ナシ
方県  五千七百七十九    二千四百四十五   ナシ     二万八千七百十九   二百九十三   六十八    三
中嶋  四千六百十五     三千五百五十八   三百四    二万二千六百六六   三百五十六   五百八十六  五百七十
羽栗  六千三百十一     四千五百●     六百廿九   三万二千四百二    三百四十三   六百八十二  五百四十七
下石津 三千●七十五     六百六十五     ナシ     一万四百二十五    二十七     三十四    ナシ
海西  千九百二十二     九百七十五     〃      八万八千五十     四十二     五十六    〃
多藝  五千八百卅四     千五百五十七    五百四十二  二万八千八十一    八十五     百二十四   二
上石津 二千三百八十六    ナシ        ナシ     一万四百三十三    ナシ      ナシ     ナシ
不破  六千六百八十九    四百十       百二十五   三万八十二      二十      三      〃
安八  一万五千二百九十二  五千二百七十七   八百五十三  七万三千三百六十七  九百九十六   千八百十九  二千九戸
大野  七千百十四      千八百十二     ナシ     三千【万の間違いヵ】四百三十二    七十四     九十九    ナシ
池田  六千百●九      七十四       百●四    二万八千九百七十五  一       四      〃
本巣  六千五百九十二    五千三百三十    七十     三万千八十六     五百六十    六百人    〃
席田  七百十四       六         二十五    三千五百十九     五       十五     〃
山縣  五千五百十四     二千五百      三百     二万六千九百六十   二百二十七   三百八十   〃
郡上  九千九百六十一    一         ナシ     五万八千四百七十   ナシ      ナシ     〃
武儀  一万六千百六十五   五百四十四     三百九十二  八万五千六百二十一  百●      百二十三   九十二
加茂  一万二千七百四十二  三百七       ナシ     六万千九百五十六   十四      四十一    ナシ
可児  七千二百卅七     六十二       百五十    三万三千七百五十三  十五      六十     〃
土岐  九千●三十二     四十五       四十八    三万九千九百五十四  一       七      〃
恵那  一万三千三百八十五   〃        ナシ     七万 五       ナシ      ナシ     〃
ヒダ【飛騨】
益田  四千五百●一      〃        〃      二万八千二百七十九  〃       〃      〃
大野  九千百二十一      〃        〃      四万八千二百九十二  〃       〃      〃
吉城  四千五百●一      〃        〃
合計  十八万二千四百九十九 三万七千四百七十二 八千百五十七 九十一万六千三百三十四 四千百三十四 六千百二十二 五千五百六十四

【左欄上段】
お手許金下賜
一金壱万三千円也
 此度当県下非常ノ震災ニ付目下ノ
 救助ノ資ニ充ヘキ思召ヲ以テ聖
 上皇后両陛下ヨリ下賜セラレタリ
▲各慈善者ヨリ若干金ヲ送附アリタリ
▲総理大臣松方伯ハ被害実況視
 察ノ為十一月二日来岐セラレタリ
【左欄下段】
▲今般当県下ノ大地震ニ付山潰岩田村明西寺山巾
 二十間程長良川ヘ落下シ其他堤坊数《割書:ケ》所崩レ
 道路七八尺モ破裂シ夫レカ為一時汽車電
 信郵便共不通トナリ県下人民困難大カタ
 ナラス十月廿八日以来毎口数十度震動ス
 ルヲ以テ家屋ノ残ル人ト雖夫々平地仮小屋
 ヲ設ケ住居セル

明治廿四年十一月三日印刷 編輯兼出版発行人
〃   年 同月三日出版   安江文五郎
    岐阜県岐阜市小熊町二百二十六番戸平民

京都大火大功記十段目抜文句

【紙面右側欄外】
元治二乙丑年三月十九日於京地
             求々

【見出し】
《割書:京都|大火》大功記十段(古めかしく候得共)目抜文句
【一段目、二段目】
しあん     かり家
なけ首(く)    建る人

はや本
国引取る人     奉公人衆

あらわれ     長
出たる       浪人衆

聞ゆる物音(ものおと)    御固(おかため)の 
心得たりと     人 々

末世(まつせ)の記録(きろく)に   焼絵(やけゑ)つ
のこしてたへ

行方(ゆきかた)しれす    品(しな)もの焼(やけ)
なりにけり     あと

女童(おんなわらんへ)の    町(まち)々の
しる事にあらす   うわさ

浜(はま)手の方に    ふしみ
陣所(しんしよ)をかまへ   御かため

操(みさを)のかゝみ   祇園(きおん)の
くもりなき    御旅所(おたひしよ)

是今世(これこんしよ)の    家(いへ)を出る時(とき)
いとまこひ

ぬきあしさし   蛤御門(はまぐりこもん)
足うかゞいよる

たかひの身(み)の   焼残(やけのこり)り【送り仮名の重複】の
しやわせ          人々

あたりまば    御かため
ゆき出立(いてたち)は   交代(こうたい)の人

【三段目、四段目】
左様(さよう)なれは    同居(どうきよ)する
御遠慮(ごゑんりよう)なしに   人々
 
詞(ことば)はゆるかぬ  御築内(おついぢうち)
大□ん石(しやく)

百万石にも        いろ〳〵
ま□【「さ」ヵ】るそよ  施行(せきよう)出す
                   人
おかむわい    見舞(みまい)に
のと手を合(あわ)せ  来(く)る人に

心残(こゝろのこり)り【送り仮名の重複】の無(な)い  焼残(やけのこり)うり払(はらい)
ように                  田舎(いなか)へ行(ゆく)人

残念至極(ざんねんしごく)と    祇園(ぎおん)山の
ばかりにて     角(す) 力(もう)

他家縁付(たけへゑんつき)   《割書:四条》両側(りやうかは)の
して下され     しはい

追々(おい〳〵)都(みやこ)に    諸国(しよこく)
はせのほる     の
           材木(ざいもく)
一心変(いつしんへん)せぬ      《割書:|烏丸下立売》
ゆうきの眼(かん)色(しよく)  天満宮の
              こま犬

とこう云(いふ)内    道具(どうく)かた付
時(じ)こくがのひる   る 人

われ又(または)孫呉(そんご)【注】の 手 細工(ざいく)に
ひじゆつを尽(つく)し     小屋 建(たて)る人

御恩(ごほん)は海山(うみやま)   御救(おすくい)
かへかたし      米(まい)

印(しるし)は目前(もくぜん)   西山(にしやま)の
これを見よ    かゝり火

目出(めて)たい     家内(かない)に
  〳〵      けかの無 ̄イの


【注 中国、戦国時代の兵法家である孫武と呉起。その著した「孫子」「呉子」の二つの兵法書。転じて、兵法、用兵のこと。】


大坂下りなまずのかるわざ

《題:大坂下り
なまづの
かるわざ》
安政二卯年十月二日【注①】
江戸にて興行

〽この大うをは どろの
なかにてそだち くに〴〵
のぬまを しゆぎやう
つかまつり 下ふさ【下総】のくに
いんばぬま【印旛沼】を よんどころ
なく おいだされ それより
信しう【信州】ぜんくわうじ【善光寺】にて
はじめて かるわざいたし
なを又京大坂へのほり【上り】
大ひやうばんにあづかり
みやうがしごく ありがたく
ぞんじ どなたのおすゝめは
ござりませんが こんど
御とうち【当地】へくだり大ゆりのげい
たう【芸当】 いへからいへの がんどうがえし【注②】
みなさまがたのおめのさめます
やうごらんに入ます まづさいしよは
ぢひゞきにとりかゝります▲

【下段】
▲〽さて〳〵〳〵〳〵
このたびのじしん
さわぎでゆりちらし
二かいや【二階屋】 どざう【土蔵】 ながや
だて【長屋建】 かはらをおとしてふるふ
ところが ぐら〳〵〳〵〳〵これをば
なつけて どこからどこまではい
ます ところが大のじ〳〵
〽さて〳〵〳〵〳〵そこでひがでゝほや〳〵
やける ホ□【イヵ】〳〵〳〵〳〵いへにかい【交い】ます まる
たんぼ【丸太棒】 のき【軒】のはしにて しつかとゆはへ やねは
こなたへかへらぬやふに のきからのきへ ずらりと
ならぶ これをなづけて のだのさかりぶじしや【注③】
それ〳〵あんまはあぶない〳〵くらはさゆふへ
ぐらりとかへるなかに ひらや【平屋】がちよぼんと
のこる だるま大し【達磨大師】のざぜん【座禅】のかたち
サアこれからがみなさんのほねおり【骨折り】だ
みなどつとはたらけ〳〵

【注① 安政江戸地震が発生した日、この地震は関東南部を震源地とするマグニチュード7クラスの大地震で、最大震度は6と想定されています。】
【注② 「がんどう返し」とは、歌舞伎用語で舞台装置を垂直回転させて舞台転換すること、ここでは鯰が家をひっくり返すことを指します。】
【注③ 大阪市福島区野田地区の藤は約六百年前からその美しさで知られ、「吉野の桜、野田の藤、高雄の紅葉」は三大名所といいました。ここではずらりと並んだ藤(ふじ)と無事(ぶじ)を掛けています。】


るいせう道しるベ 上・中・下

【一枚目(上段右)】
●御上屋敷
▲御中屋敷 るいせう道しるべ 上
■御下屋敷
【本文】
頃は文化八未のとし二月十一日昼七ツ時一ヶ谷
谷町より出火しておりふし西北風はけし
く念仏坂より二た口になり此へんの御組屋
しき残らずかつぱ坂安龍寺京恩寺此辺
一面になり西と北との大風三方へふきちらし
それより尾張様御長屋すみ少しむかふは
●松平摂津守様御屋しき残らず法弘寺より
四谷おたんす町坂町しほ町竹丁通は麹
まち十一丁目十二丁目十三丁目伝馬丁四丁目
角まで若まつ町おし丁おし原横町此辺
御組屋しき石きり横町てん王横丁くはん
おん坂蓮浄院真浄院安らく寺西念寺四
谷御門外■尾張様是より北風はげしく
石をとばすことく御堀はた通酒井様●松平
佐渡守様大久保豊前守様村松様此へん御
簱本様方あまたさめかはし坂迄残らすや
ける紀州様御屋しきへ出このときゑん〳〵
として四角八めんにさんらんす已にきのくに
坂下ふるや町ゆや町それよりあか坂御門
外よりそのつきにくわしきをしるす
【二枚目(上段左)】
 おなしく  中
それより表うら伝馬町残らず御火消屋
しき○竹腰山城守様△松平出羽守様○井上
佐太夫様此へん御簱本様御屋しきあまた
黒鍬谷此へん御組屋敷残らず浄土寺浄げ
ん寺△松平安芸守様それよりにしか西風つよく
して火は下へ出るまた一ト口八田町一丁目より五
丁目までうらおもて不残○三浦長門守様一ツ
木町しんまち仲の町此へん御簱本様かた
御屋しきあまた△黒田びぜんの守様△相良
壱岐守様○水野日向守様なつめ様また谷町
八町家残らず相馬様御中屋敷御長屋ばかり
すこし此あたり御組屋しきよりなたれ
坂へ出る○真田様○松平日向守様○岡部様
○土岐ちから様○山口周防守様○松平大和守様御
うしろ長屋不残御火けし屋敷ようせんじ
てうせんじ○井上様○石川若狭守様○牧野
半右衛門様○本多兵庫様本多越中守様御上
屋しき○酒井出雲守様○稲垣摂津守様南
部内蔵守様御上屋しき此へん御簱本様かた
あまた市谷人町不残仲の町御簱本様方あまた
【三枚目(下段)】
  そのおわり   下
扨また江戸見坂○土岐美濃守様山城御簱本
御屋敷あまた西の久保吹出町入門前てん徳
じ神谷町残らず○仙石越ぜんの守様○木下様
それより広こうじ清光寺青龍寺両門前町
切通し薬師堂境内にてやけとまる上は○水の
左近将監様永井町金池院宇津様○馬場
大助様かはらけ町通り不残○青木甲斐守様
○瀧川様森もとへんすこし此とき風は
すこししづまりて赤ばねばしへ出るとき
よふ〳〵八方の火せいしづまりてしめりしら
するかねの音におや子兄弟くんしん夫婦
あいおふてよろこびのこへ【「ゑ」とあるところか】ともろともに
明かたちかくなりにけり
右るいせうひのもとよりけし口迄のみちのり凡
壱里半御大名様御屋敷凡三拾ヶ所寺院町
家はかぞふるにいとまあらず
此三まいずりをゑんきんにかきらずこけふに
親をもてる人ははやく書状にふうじこみ
そのつゝがなきをしらさは一家一もんの人々
あんしんせばげに孝行の一助ともならんか

流行痲疹やくばらい

  《割書:流|行》麻疹やくはらい

▲やアラはしかいな〳〵今度
 世上へりうこうのはしか
 病ではやりませうおい
 しやおかどをながむ
 ればむかいの人がまつ
 かざりはやくいそいで
 薬ばこまだ若水のき
 むすめもぞやみ【注①】は一ト二タ
 三ヶ日おかめにばらりとまめ
 まきや福は内へのおみまいは
 いんげん豆におにまめや鶴は
 ちとせの御じゆめうとながくのば
 したかんひやうにかめにいれたる
 水あめもよひ初夢のふじの山
 あげれば〆たきぐすりやかごやの
 あしもかるやきや七草かゆより白
 かいとのどをならづけくすりぐひひだち
 かげんのそのとこへふらつきものゝ風の神
 さまたげなさんとするならば虎のいせいの
 やぶいしやがうさい角【注②】にておさいつけちく
 らがおき【注③】へさらり〳〵

【注① 「そやみ」ともいう。天然痘・労咳(ろうがい=肺結核)などの病気の最初の時期をいう。】
【注② 烏犀角(うさいかく)=犀の黒色の角(つの)。漢方だ、子供の解熱剤に用いる。特に疱瘡に唯一の良薬とされた。】
【注③ 「ちくらが沖」=朝鮮と日本との潮境にあたる海。また日本海の海の果てを漠然という。】








地震百万遍

一此度私義先年から国々をなやめ
 猶亦今度大江戸江罷出らんほう
  に家蔵をゆりくずし多
         くの人を
          つぶし
          申わけ
          なく鹿嶌様へ
          わび入出家致
          かい国にてるね
          い又此せつ金もふけ
          の人がけさころもを
               もつて一どう
               のたのみには
               なにも仏の
               ためたから
               百万へん
                を



                 してくた
                 されたはうが
                 よう御厶り升
                 しやうと申ゆへ
                 いたします
                 南無阿弥陀佛〳〵
                 なまずだ〳〵〳〵

嘉永七年大和外二か国大地震

嘉永七年六月十三日
ひる九ツ時よりゆり出十四日ゟ
よる九ツ八ツのころ大ぢしん
にてあふみの国みづうみの
廻り大あれにてぜかしろ【膳所城ヵ】
みなくちいしべ其ほとり家
をそんじ人死凡千五百人余山城国
きづのほとり山くづれ岩石出て家をそんじ人死凡
九百人余大和国こふり山寺々大とふ家くづれ人死
七百人余いが国うへの在々人死千百人余いせ国四日市
其□所々家をそんじ火なんにて人死のかず
しれづ人々おどろきて神〳〵へ祈をかけ
ふしぎなるかなしんとくにてお【?】しにかゝりても
たすかる人もあり地しんも
しづかになりまことに神国の
ありがたき事人々とゝ
    まさるものなしと
    まち〳〵のとりさた
          なり

鯰と職人たち/鯰大尽の遊び

【鯰大尽】
〽しよくにん
でへなんぞ
おもしろいことを
くれ〳〵〳〵

【幇間】
〽女郎
との〳〵は
かいてくん
ねへ
【かくは掻くで、三味線を弾じる意】

【三味線弾き】
〽なんぞ
おやんな
はいな

ウタ【歌、幇間が歌っている】
〽のじ【野地板の意、】
どうやうな
ふきさま【葺き様】
でも
あめさへ
もら
ねは
よい
はひ


【大工】
〽ちと
きが
おもくて
やれねへ
〳〵

【左官】
〽大工さん
おめへが一ばん
ゑらからう
なんそ
くりだし
ねへナ

弘化四年信州地方大地震

かゝる目出度御代なれ共天変地異にて
ぜひもなし爰に弘化四未年三月廿四日夜
四ツ時頃より信州水内郡遠近大地震ありし
場所をくわしくたつぬるに先善光寺を初メ
堂塔からん未社寺院其外人家おひたゞし并
川々は洪水し里々は出火し人馬の損亡は多く
東ハ丹波島川田松代屋代戸倉坂木上田此辺
殊に強くかい道筋大石等道ゆり出し大地も
さくるが如也 こゝにふしきなるは善光寺如来也
抑信濃国 善光寺は本多善光開きに
  して霊現あらきなる事は
  世の知る所なれ共此たびの
  大地震に境内は申に及ず
  新田町後町大門町西
  権堂町岩石桜小路西門
  丁東門左右あまねくゆり
  くつれ騒動斜ならずと
  いへ共本堂は少も破却なく
御堂にこもる輩は 怪我のなきはひとへに喜
尊霊のおう護ならん と諸人かつこうの
思ひぞ深かりけれ猶又
越後路の方は井戸橋より
おし鐘村吉田宿荒町宿
田子村吉村平出村三本松村
牟礼宿大古間宿小古間宿柏原
宿黒姫山野尻宿関川宿等也此所
信濃と越後の国境にして関川の
御関所有夫より越後の国中山二宿初メ
同国高田辺迄也右の場所より又上州口の
方は小諸追分宿沓掛宿軽井沢宿
碓氷の御関所此所信濃上野の国境也
南は稲荷山宿青柳宿会田宿刈谷原
宿岡田宿松本辺これ又殊之外しん
どうし人家等多く焼失してその

明暦大火の図

京都所々図絵

頃は嘉永七寅の四月六日午の上こく仙洞御所上の方辺より
出火おりふし辰巳の風にて禁裏御所へ火うつり上の御てより
一條様へ此外このへん御公家様方焼近衛様半やけ夫より
町方へ火うつり大宮辺り椹木町まて上立売大みやへ
かへりこれよりにしのかた   上方御炎上蛤御門外
よりとび火西は千本通り東則北は今出川かへるまて南
は上立売下へ丁迄翌七日辰のこく漸々火しづまりけるとかや

流行暴瀉病療治方

此節流行の暴瀉病は其療治方種々ある趣に候へども其中素人
心得べき法を示す豫(あらかし)めこれを防くには都て身を冷すことなく
腹には木綿を巻き大酒大食を慎み其外こなれ難き食物
を一切たべ申間敷候若此症催し候はゝはやく寝床に入りて
飲食を慎み惣身をあたゝめ左に記す芳香散といふ薬を
用ゆべし是のみにして治するもの少からず且又吐瀉甚
敷惣身冷ゆる程にいたりしものはしょう焼酎壱弐合の中に
龍脳又は樟脳壱弐匁を入れあたゝめて木綿の切にひたし
腹并に手足へ静にすり込み芥子(からし)泥を心下腹并手足へ小
半時位ヅヽ度々張るべし
     芳香散
《割書:上品》 桂枝《割書: 細末》  益智《割書: 同》  乾姜 《割書:同》  各等分
右調合いたし壱弐分ヅヽ時々用ゆべし
     芥子泥
からし粉  うどん粉  各等分
右あつき醋(す)にて堅くねり木綿の切にのばし張り候事
   但し間に合ざる時はあつき湯にて芥子粉計ねり候ても宜し
       又法
あつき茶に其三分へ焼酎を和し砂糖を少し加へ用ゆべし
   但し座敷を閉布木綿等に焼酎を付 頻(しき)りに惣身をこするべし
     但し手足の先并腹ひえる所を温鉄または温石を布に
     つゝみ湯をつかひたるごときこゝろもちになる程
     こするも亦よし

安芸国大水図

嘉永三戌年六月二日より五日迄
安芸国大水図
【右下】
  三万石
岡田 伊東はりまの守さま
【絵図上側】
橋立
高山

石 
 見
  国

二日より
五日まで
海水引
ことなく
毎日大汐
の如し

廿万
【黒塗り山の下側川筋右側:目安は上から下、右から左の順】
かべ山宿   今づ  備後福山
            十万石
             阿部伊世守様
沽市宿
特庄
  宿
きおん宿  三原    おの
             みち
                 海田市
       本郷  西条
                   岩
                   はな
【一本目二本目の川の間】
横川丁 高丁 十日市 池や丁 此所家ながれ えんこうばし あたご丁
            つか本
               古丁
              本川丁
                まつ原
                 土手
                牛の舌湊
【二本目三本目の川間】


四十
二万
六千石に
松平
安芸守様
       榎■
       土丁
       平田丁【牟田丁】      本川ばし
       ゑびす丁   出水一丈八尺
       ■丁
【三本目の川筋左:川筋に沿って】
中通り いなり丁  京■土■  廿日■■宿 竹島湊
             ■【此】へん不残家をながす  しほはま有

   御家老
浅野孫左衛門様◦上田水主様
古御両人御さしづ候て
   郡奉行
石井主計様◦間宮四平様◦小田刈大学様
松原の土手をふせがるゝに土俵まに合ざる故米俵
にてふせき給ふ誠にそく妙の御はからいを国たみ申候
よこび【よろこび?】あんどいたしける
【鳥居の下】宮嶋

しんぱんない物づくし

文久二戌年
      神喜板
 しんぱん   
  ない物づくし
又もない〳〵ない物は      やぼと/化物(ばけもの)お江戸にない
御上のせいとにそつがない    今としのはしかはほうづがない【限りがない】
なれども此頃もうすへない    ふうふではしかはしようがない
女ぼがあつてもつまらない    七十五日はやられない
やつたら大へん命がない     しくじるお方も/少(すくな)くない
ていしゆすきならしがたがない  それでもせけんへみつともない
しんるいゑんしやへめんぼくない がまんをするより外はない
はしかのあけぐ【「あげく」ヵ】はくう物ない   おつけ【おつゆ】にたくわんむまくない
さかなも当ぶんくわれない    お酒はなほさらのまれない
やらかいやつてはたまらない   それではせがれもなさけない

地震よけのお守り札

これを五つに切わけ
天井(てんじやう)へ一まい枚あと四方へ
はり並べし
ちしんゆり候ども
たをるゝ患なし

肥前国島原之図

【上段】
肥前国島原之図
 子三月九日飛脚見聞之図也
 
穴底谷深底谷とも兼て
百間余ある谷にて此せつはげ
しくやけ岩石を吹上け四方の
山同前に高くなり次第にやけ
広まり里の方にやけ下り村々
も段々やけ申なり

琵琶のはち山常に煙なし子三月朔日より
山々大きに震動して同六日この山より煙り立
次第に盛になり穴底谷まて一里余段々
やけ下る

普賢嶽此山兼て煙なし
子の正月十八日よりけむり吹出して
山上に池二つ出来せり閏二月ころは
煙少し立し処又々三月末より盛に
なり第一の高山にて上(の)よ(ほ)り三里有
此山より琵琶の撥山まて二里程有

温泉嶽高来郡に有故に高来山とも云
又土俗の説に住吉大明神白楽天詩歌
ありしはこの山とも云り是故に衣笠山
とも称す又あるせつに三笠山則是也とも云

此山常に煙立てともこのせつすこしも
常にかはることなし
   普賢嶽まて二里余
          あり
【下段】
島原侯御退去の山田は
御城の北六里にあり

やけ出せしころまて
は此辺に御用船
移置三月頃迄は
ありしか四月
朔日の津波後は
一面に行方
   しれず

三月九日飛脚に
行しまては
御場よりやけ場
まて五十町計り
有之しが当月
初は甚た近く
なり今は七八丁
の外は無之よし

松田三英咄しも
使に参りし
太兵衛申もをなし
     ことなり

七面山とも云三月已来震動
つよく追々崩落しところ
四月朔日震動はけしく左右
朱引の処より一時にくり
たるやうに崩れをち山下の
町在とも土下になり
海中の方につき出したるとも云
もつとも朔日夜よりやけ出る

此辺土を一里余つき出し
島大小数しれす出来
あいだには草木生
なからのしまも有て
もとよりありし
    しまのことし

此寺前山の
土下になり
五間程の
松の木のすゑ
はかり見る

船津御番所波にて
うち崩れこれより
南海辺村々不残
打崩れたるよし
    三英物語りなり
     【朱書】
     大二、十、廿九

打身骨抜即席御りやう治

打身 即席御りやう治 火出し仕候
骨抜           外家医前■【銭ヵ】

【挿絵内のれん】  【挿絵内看板】
  瓢磐亭       江戸前 鯰大家破焼
            なまづ 大かばやき

【本文】
       御披露(ごひらう)
一御町中様 万歳楽々(まんざいらく〳〵) 御軒別(ごけんべつ) にゆらせられ仰天(ぎようてん )
 地獄(ぢごく) に奉存候しづまつて私義 先達中(さきだつてぢう)江戸前(えどまへ)
 鯰(なまづ)大家破焼(おほかばやき)自身(じしん)大道(たいどう)ざき仕候所ゆり出し焼失(しやうしつ )より
 家蔵(いへくら)身代迄(しんたいまで)御ゆりあげ動揺(どうよう)向(むき)被仰付候段 大変(たいへん )時(じ)こく
 古今(ここん)に有(あり)がたく奉損(そんじたてまつり )候 猶又(なほまた)今磐(こんばん)御 愁(うれ)ひの為(ため)市中(しちう)なんぎめし
 此末(このすゑ)どうぜう汁(しる)打身(うちみ)骨抜(ほねぬき)即席(そくせき)御りやうぢ取合(とりあはせ)格別(かくべつ)
 風儀宜(ふうぎよろし)く世直(よなほ)し仕差上可申候間 民(たみ)の竈(かまど)の御 賑々(にぎ〳〵)しく
 御威光(ごいくわう)駕(が)の程 一偏(ひとへ)に奉願上候以上

【挿絵内の札図】
  市ちうなんきめし  御■御一人前 五合宛
  此末どうせう汁   ことし一ぱい 難渋見聞

卯十月二日夜よりゆり出し     神座鹿島町
 みせひらき焼失          かなめ屋石蔵
   麁かゆ差上申候

鯰を押える鹿島大明神

   かこいもの
我は旦那さまがつぶされまして
このせつはあいてか御さりませんが
 どうか横丁の大工さんか目をかけて
  下さい升からとうかあの人を旦なに
  いたしとう
     ごさいます

   左官
さてわたくしもあなたの御かげで土蔵かべともに仕ごとか
御ざりましてこのような事わこざりませんゆへ来年は
御本社へも参けいいたしますが なまづさまえもよろしく
 御ねがひ申ます又土蔵一ツとどうかとそんしますが
      これもよろしく
         ねがひ上ます

   子供
わたしやおかゝさんか死ましてから
 とうそ御とつさんかかわゆかつて
  四文八文くれるように
   御願申
     まする

   金持
さて我はこのたびの大そうどうて真事に
              こまり升
しかしこの上
 何事もないように御ねがひ
           申上ます

   屋ねや
わたくし共はあなたおかけを
持まして金もうけかでき升からこのうへ
百万両の大じんになされて下さい升よう
         御ねがひ申上まする

   
     とふど御上共に
かわらや みんなかわら
        やねに致す
     ように御ねかひ
         申ます

   とびのもの
このはるよりもせわしう
ごさりま【「ま」は衍】升がこのせつは別たん
の事ゆへ金はたんと有升から
    御上も御ねかひ申
      あけます

   大工
わたくしは仕事も沢さんこさり升か
   真事に材木か高いゆへこまり升
    とうか御りやくを持まして
      大仕事を御さづけ下さり升ように
       御ねかひ申あげます

      安女郎
   我はあなた御かけて命はたすかりましたか
とうそいヽ御客の男のいヽ金のたんと有人に
      御さすけ■【な或は下?】さり升

京都大火記事

元治元年甲子七月十九日
京都大火に付類焼之有無に
拘らす洛中洛外寺社境内に至迄
町人共へ為 御救玄米壱万石被
下置猶又類焼之者えは別段玄米
壱万石増被 下其外種々難有き
事共筆紙に尽し難く其類焼之
絵図在といへとも只荒ましを記して
くはしく知りがたし仍而町数殿舎等之
員数を細記して
御恩沢之深く厚き事を遠き国々え
知らしむる人之便り且は幼童婦女子に
至る迄 御恩徳を忘れさらしめんとす

  宮御門跡方  三ヶ所   同御里坊  壱ヶ所
  堂上方    十八軒   同御抱屋敷 二ヶ所
  御所御役人方 七十七軒  堂上御家来衆 弐百七十六軒
  東六条御家来 百六十七軒 仏光寺御家来 八軒
  諸家御屋敷  五十一ヶ所 武家家来衆  七十軒
  御医師    二十九軒  寺社 弐百五十三ヶ所
  町数八百十一丁 村一ヶ所 塔頭 九十五ヶ寺
  惣竃数  弐万七千五百十三軒
  境内建家 百五十五軒   明き家 四百弐軒
  焼土蔵  千弐百十六軒  地蔵堂 四百廿ヶ所
  番部や  五百六十二ヶ所 物入  弐百六十七ヶ所
  髪結床  百三十二ヶ所  日小屋 五十九軒
  芝居   弐ヶ所 辻打芝居 壱ヶ所
  橋大小  四十一
     外に   非人小屋  壱ヶ所
          穢多村   三ヶ所
          此小屋数合 四百四十三軒
   右既略

地震吉凶之弁

地震(ぢしん)吉凶(きつきよう)之(の)弁(べん)【辯】
地震は豊年(はうねん)の基(もと)ひ也何無愁事秋は草木土(さうもくつち)に
もとり冬の気より土(ち)ちうに芽(め)をふくみ天のめぐみを
地にはらみ万物(ばんもつ)を生ずるところ時のふしゆんを
いかりすでに発(はつ)して地しんとなる地震は
地の煩(わづら)ひゆゑ野(の)人は不 息(やま)人は天地を父母と
して万物の長 四海(しかい)みな兄弟(けいてい)也ゆゑに
老(おひ)の若(わか)きを導(みちび)き若(わか)きは老を助(たすく)ること
人りんの常也然る処(ところ) 近来(きんらい)かろきところは
人情(にんじやう) 薄(うす)く
自他(じた)の隔(へだて) 強(つよ)く美飯(びはん)を
好(この)み時ならざる花を楽(たの)しみ高金(かうきん)を費(ついや)すこと天理にかなはずたとへ
地震のなんをのがるゝとも教(をしへ)に背(そむ)き一身全からず恐れつゝしむべし
夫(それ)天は陽也上に位(くらゐ)して覆(おほ)ふこれ父の徳也
地は陰なり下に位してのする母の道也然して
陰陽(いんやう) 交(かう)かんして五行(ごぎやう)を生ず其(その)気(き)天にかへりて四(しい)
時(じ)行(おこなは)れ其 形(かた)ち地に布(しひ)【「しい」とあるところ】て人及び禽獣(きんじう)魚虫(ぎよちう)
草木(さうもく)を生ず故に天地を大 父母(ふぼ)と称(しやう)す
人は秀(ひい)でたる五行の気をうけて生するを以(もつ)て
万物(ばんもつ)の霊(れい)といふ也されば天地の父母に順(したが)ふ
を孝(かう)といひ日月 君(くん)后(かう)【別本による】に従ふを忠といふ
実(まこと)に人は其 性(せい)を天地にうくるがゆゑに天地の
あひだに備(そなは)るもの人に備らずといふ事なし天 円(まろ) 
きがゆゑに人の頭(かしら)丸し天に日月あつて人に両 眼(がん)
あり天に列星(れつせい)あり人に歯牙(しが)あり天に風雨(ふうう)
あり人に喜怒(きど)あり天に雷鳴(らいめい)あり人に音声(おんせい)
あり天に陰陽(いんやう)あり人に男女あり天に四時(しいじ)あり
人に四肢(しし)あり天に炎冷(えんれい)あり人に寒熱(かんねつ)有
天に昼夜(ちうや)あり人に起臥(きぐわ)あり
天に五音(ごいん)あり人に五蔵(ごぞう)有天に六(りく)
律(りつ)あり人に六腑(ろつふ)あり天に十干(じつかん)有
人に十指(じつし)あり天に十二 辰(とき)あり人に足(あし)の
十指と茎垂(きやうすい)【左ルビ インフグリ】あり女は此二ツなし故に胞胎(はうたい)を
なす年十二月なれば人に十二 節(ふし)あり一年三百六
十日なれば人に三百六十の骨節(こつせつ)有或は地形成(ちかたなる)が故に人の
足形(あしかた)也地に十二 経水(けいすい)有ば人に十二経 脈(みやく)有地に高(かう)
山あり人に肩(かた)ひざあり
地に泉脈(せんみやく)【左ルビ】あり人に気血(きけつ)あり
地に草木有人に毫毛(かうもう)
募筋(けんきん)あり
地に
  ▲
▲砂石(しやせき)あり
人に骨肉(こつにく)あり
その余(よ)天地の間(あひだ)たにあらゆる
もの人に具(そなは)らずといふものなし仏(ぶつ)
経(きやう)に説(とく)所(ところ)の須弥山(しゆみせん)といへとも皆(みな)一身(いつしん)に具(そなは)る也
既(すで)に須弥(しゆみ)の頂(いただき)に忉利天(とうりてん)ありといふも人の頂(いただき)の天 骨(こつ)なり
須弥(しゆみ)の円生樹(ゑんせいしゆ)は頭(かしら)の円(まろき)に生(しやう)する毛髪(もうはつ)也 帝釈(たいしやく)は額(ひたへ)喜見城(きけんしやう)は
眉毛(まゆげ)也これ喜(よろこ)びの眉(まゆ)を開(ひら)くのいひ也 善法堂(ぜんほふだう)は人 皆(みな)具足(ぐそく)する所の仏心也
須弥の四方に持 国(ごく)増長(そうちやう)広目(くわうもく)多聞(たもん)の四天 居住(きよぢう)すといふものまづ広目 両眼(りやうがん)也
多聞(たもん)耳(みゝ)也 増長(ぞうちやう)鼻(はな)也口は一切(いつさい)の食(よく)を以(もつ)て一身の国を持(たも)つ即(すなはち) 持国(ぢこく)也須弥の九山は肩(かた)肘(ひぢ)胸(むね)
腹(はら)陰(いん)膝(ひざ)背(せ)腰(こし)臀(しり)の九ツ也八 海(かい)は胸中(きやうちう)八織(はつしよく)の湛水(たんすい)也四 州(しう)【「りう」に見えるが誤】は四肢(しし)なり又須弥の哥に
北は黄(き)にといへるは黄黒(くわうこく)の夜(よる)のいろをさとす也東は
白くといへるは東方 黎明(しのゝめ)の
しらむ色をさすなり
南は青(あを)くといへるは白日 青(せい)
天(てん)昼(ひる)の空(そら)をさす也西くれなゐは夕陽(せきやう)の
影(かげ)の赤(あか)きをさす也是又此 世界(せかい)の一昼夜(いつちうや)
なり蘇命(そめい)路の山は日東山に出て西山
に入(入り)且(まさ)【「また」に見えるが「まさ」の誤記】にまた東へ蘇命(よみがへる)也人又東
の陽(やう)に生れて西の陰(いん)に没(ぼつ)し東へめぐりて
蘇命(よみかへる)也是を以て省(みる)刻(とき)は嗚呼(あゝ)貴(たつと)き哉(かな)人天の道を修(しゆ)し地の理に
順(したか)はずんばあるべからず甲(キノヘ)乙(キノト)丙(ヒノヘ)丁(ヒノト)戊(ツチノヘ)己(ツチノト)庚(カノヘ)辛(カノト)壬(ミツノヘ)癸(ミツノト)是天なりきのへは木(き)の兄(あに)也
東方の春に位(くらゐ)し五常(ごじやう)の仁(じん)に配(はい)す十 幹(かん)の魁(さきがけ)なるを以て甲(はじめ)とも訓(よむ)也是 春(はる)の始(はじめ)なり木と世の
はしめ也きのとは木の弟(をと)也東方の春に位す是此 土(と)也ひのへは火の兄(あに)也南方の夏を司(つかさど)り五常の義に配す
又曰丙は炳也日 輪(りん)火と【?】熱等の火也是を君火と云ひのと火の弟也又南方を司る又曰 丁(てい)は灯(てい)也民家日用の火也是 相火(さうくわ)と云つちのへ土の兄也 央(ちうおう)に
位し四季の土用を主り五常の信に配す又曰戊は母也五こく草木を生るの母也つちのとは土の弟也又曰己は
起也一切の器物を起して人民の作(さく)用を助る也かのへは金の兄也西方の秋を司り
五常の礼に配(はい)し万物を収る方位也故に云 庚(かう)は更(かう)也 更更(あらためかえる)也万物 木(こ)の世に
生じ金の世に更(かわり)り収(をさま)る也かのとは金の弟也又秋に配す又云 辛(しん)は新也
万物更新なる也みつのへは水の兄也北の方の冬を司り
五常の智に配す又云 壬(しん)は拰也萬物 金(か)の世に収り木の
世に生ずみつのとは水の弟也又曰 癸(き)は揆也水は万物を
揆るの始智は万計を揆の本也
《割書:■|也》子(九)《割書:ハシメ|北》丑(八)《割書:ムスブ》寅(七)《割書:ヒラク》卯(六)《割書:シゲル|東》辰(五)《割書:フルウ》巳(四)《割書:トドマル》午(九)《割書:フ【ソヵ】タツ|南》未(八)《割書:アジワウ》申(七)《割書:ミ》酉(六)《割書:シシム|西》
戌(五)《割書:ヤブル|カヱル》亥(四)《割書:タエル|ツキル》ねは根也夜九ツ夜半と云是陰の終陽の始也故に子の字(じ) 了(をわる)と
一の字(はじめじ)を合して子とす万物を生るの根也うしは極陰(ごくいん)にして陽気(ようき)をうしなふ也夜八ツ鶏(けい)めいと云物の終也
寅(とら)は陰気陽気にとらるゝ也朝七ツ平旦(へいたん)と云平に旦てのぼるの気ありうは日をうむ也朝六ツ
夜明と云人戸をひらくの時也故に卯の字は戸の字を左右に開きたる形也たつは日上りたつ也
朝五ツ食時と云陽の極数也みは日の気みつ昼(ひる)四ツ禺中と云日禺《割書: |レ》中《割書:ニ》也陽気みちのぼる也午は
陽気うまるゝ也ひる九ツ日中と云日中天にのほれば傾くの外なしひつし日通じ也則日のつじ也
ひる八ツ日昳と云さるは日去也昏七ツ晡時(ほじ)と云 猿(さる)の性のさわがしきは晡まへのせわしきに□【應ヵ】す
とりは日収る也昏六ツ日入と云閂の字は卯に反(はん)して戸を打あはせ横木を入たるのかたち也いぬは陽
気いぬる也 昏(くれ)五ツ黄昏と云又 戌(いぬ)は戌(やぶる)也陰気陽気を戌る也草木霜にやぶれ滅(をつ)る也ゐぬは陽気
ゐかへる也夜四ツ人定と云 微陽盛陰(ひやうせいゐん)と【にてヵ】交(まじは)り人定まって妊(はらむ)の時也草
木ゐかへりて蒔(きざし)をはらむ也《割書:五|》戌ヤブル《割書:四》亥にて地震はツキル也《割書:九》子ヨイハジメテ末広の春
行後より地震をサシテ萬歳楽《割書:ト》云 既(すで)に十月二日の大地しんは辰(たつ)の日にて
夜の五ツ過四ツ前にて戌の下刻也戌亥西北に当り戌は土に主り亥は水に
司(つかさ)どる辰は東南に当り土に主どる処此節土中ウルホイ多く其気万もつ
更らんとすれど未だ上の陽気/若(わか)く時至らずして発(はつ)すること能はす其気
変(へん)じて地しんと
なる辰に振ふこゑ也戌はヤブル亥はタヱルノ■【諭ヵ】にして一年の
終り一日の仕舞也一旦吹出震崩とも其翌日己の日にて己は
とどまる故に地震の元を失ふ也過れば子の刻(こく)に移(うつ)り子は九ツにして陰の終りやうのはじめなれば▲
▲是天地
乾坤万物五
こくを生る根也以て此処(ここ)を押
ときは凶年の非にあらず豊(はう)年の基
実(げ)に治れる御世(みよ)の祥陽たるを示(しめ)し
て人の惑をとき忌(いみ)うたがふ人ならんこと
を庶幾(こひねがふ)と云爾(しか[いふ])
尤地形定るまで其気ありと
いへとも再(ふたた)び大地【し抜け】ん
の愁(うれ)ひなきかしかしなから
天質(しつ)ははかり
がたし御用じん
肝用なり

大阪・伏見出火の図

【枠外】
慶應四辰正月人のうわさ
【上段】
此度諸ゝの出火におどろき住所離散の人ゝ
其こんさついわんかたなし夫故遠近の親るい
ゑんじや其人ゝの心をあんどなんしめんが為に
此図を出していさゝかたより共ならんかト見読に備

天下泰平
国家安穂
御代万歳
目出度
  〳〵

薩州様
御陣営

長州様
御陣営

大阪
御城
正月九日
  卯の刻
御城筋がね御門ノ内
火の手上ル
次に京ばし
御門内夫より
玉造御門
外小家夫より
火の手三ツに成
追手御門の内
 火の手二つになり
  十日辰の刻
   ゑんしよぐらやける

正月三日夜七ツ時
大阪とさぼり
薩州様御くら
  やしき辺出火
同十日夜五ツ時
 天満与力町
   出火

【下段 中央】
   伏見大火之次第
辰正月三日夜四ツ時いたばしより出火
薩州様御やしき辺夫より肥後様御やしき辺
京ばし北づめはま通り西壱丁ばかり御堂前東
新町迄御奉行所夫よりぶんごばし迄やける《割書:▲家かず|凡八百けん余》
   鳥羽かい道
同五日辰ノ刻ど【ママ】ばおせきもちやより南ふたくちやより南へ二丁計り
よこおぢより淀迄淀ノ城下やける小ばし切落未ノ刻火鎮り申候
                ▲家かず凡二百八十けん余


【下段 左端 堺の町の地図の下部】
むかし神明ノ町
大火といへども
此度の大火は
さかいはしまつての
   大火なり

辰正月七日
夜八ツ時にしきの町より
出火あやの町大道
西は中はままで
 東はのうにん町まで
  やけぬける


なまづの力ばなし/なまづの夫婦やきもちばなし

  なまづの力ばなし
このころ地震のうはさ遠国まできこえ信州のなまづ
御当地へ下り地震の見舞は申さねども江戸のなまづと
こんいをむすびしばらくこゝにとうりうしてありけるにあるひ
あまりとぜん【徒然】なればなまつどじ【同志 濁点の位置がズレている】ひげとひけとをむすび
あひそうはう【双方】のゑりにかけ首引(くびつぴき)をなさんとてたがひに
ちからをあらそひしが女房のあまづこれを見つけ
きもをけしてはしりより〽コレ〳〵そんなわるいことをなぜ
しなさるのじやどちらにけがゝあつてもわるいよしな
され〳〵〽とめるな〳〵〽イヤ〳〵ならぬ〽イヤサなまづの
ひげのきれるぐらゐはいといはせぬは〽そりやまた
なぜへ〽イヤサ伊賀越の平作はな〽どうしたへ
沼津(ぬまづ)ではらさへ切つたはへ

  《割書:なまづの|婦夫》やきもちばなし
扨またなまづはくひッ引をしけるにいつまで
はてしなくしやうぶもつかざりしがとかく
女房は信州のなまづのひいきをするにぞ
男鯰(をなまづ)はじんすけをおこし【やきもちをやき】女にむかひいひけるは
〽コレおなまわりやァおつとのひゝきをしもせずに
あの男のかたをもち亭主(ていしゆ)をしりにひきずりあまめ
水くさいやつとはかねてしつてはゐたが大かたうぬ【相手を卑しめていう。おのれ】から
膳(ぜん)をすへたらう〽イヘ〳〵そんな〽そうではないなぜあつちへ
ついた〽ソリヤつくにはわけが〽あるならいへ〳〵〽本膳を見なせへ
向づけはなまづだはね


即席鯰はなし

即席
 鯰はなし

〽これは此たびの地しんにつき
まして多くの蔵や立家を
くづしましたるゆゑ人々うれひ
かなしみゐたるにやう〳〵
月もたち日をおひけるに
あるひかのなまづぼんにんの
かたちをなしつゝ町々をめぐり
あるき〽ヲヤ〳〵でへぶこゝの
内はくづれたヲヤ此くらもひどく
ふるつたアこんなにぶちこわすつもり
ではなかつたトひとりごとをいふをきゝて
あたりよりかけいで〽これ〳〵てめへはぢしん
しやァねへか〽ナニちしんだウヌ手めへのおかげで
かあいゝつま子にわかれたり〽ソウヨおやをころした
かたきのぢしんかくごしろトてん〳〵にゑもの〳〵
をもちきたりさん〴〵に打擲(ちやうちやく)いたしければ
ぢしんもいろ〳〵わびけれどもいかなりやうけんなり
がたくぢしんはすか所【数ヶ所】のきずをうけたをれけるを
おほぜいうちより見るにからた中あざだらけなれば
〽コレ〳〵このあざを見なせへ〽ヱゝこりやァあざじやァねへ
〽ナゼヘ〽イヤサこれはなまづたものを

京都大阪近世大火略図

【枠外上部横書】
極本しらべ大新板

《題:《割書:京都|大阪》近世(きんせい)大火/略図(りやくづ)》
【題字下】
伏見京橋南詰表町ゟ
   凡一二丁焼失
但し七月十八日夜より
     朝鎮り申候
【右図題字枠内】
元治元《割書:甲| 子》京大火
【題字下左枠内 上段】
元治元子七月十九日
五ツ時堺町御門より出火
夫より四方へひろかり東は
川はら町下は かもかは
西はほり川北は中立売
南は野がきり新【「漸」の扁が消失か】廿日
くれ時に火鎮り申候
【下段】
町数凡六百余町
家数へ〃二万五千余り
かまど〃四万七千余り
土蔵火入〃千百ヶ所斗
神社〃五百ヶ所斗
【中図題字枠内】
文久三《割書:癸| 亥》大阪大火
【下部中程枠内】
文久三亥十一月廿一日
夜五ツ時新町はし東
詰北入所ゟ出火し西
風はけしく東へ一時に
焼失夫ゟ北西風に
なり東南へ焼また
西南かぜにかはり上町へ【「丁」は「町」の略字】
飛火 東は玉つくり
二軒茶屋まで南は
長ほり迄上町南北へ
ひろかり同月廿三日ひる
四ツ時に漸火鎮り申候

町数凡百五十二町
家数へ四千七百余
かまど〃二万五千余
土蔵〃三百廿余ヶ所
神社〃八十余
【左図題字枠内】
天保八《割書:丁| 酉》大阪大火
【引続の枠内】
天保八酉ニ月十九日朝
五ツ時より東天満辺より
出火風はけしくして所々へ
飛火いたし北せんば大家
焼失上町御城辺迄
やけぬけ同廿一日に
やう〳〵火鎮り申候

町数凡百十二町
家数ヽ三千三百八十余
かまどヽ一万千五百七十余
土蔵ヽ四百十一ヶ所
穴蔵ヽ百三十ヶ所
寺社ヽ三十六ヶ所

尾濃大地震

尾濃大地震
 明治辛卯冬十一月
     廣業画 【落款 白文角印】廣【落款 朱文角印】業

濃尾大地震図

【見出し】
《割書:明治廿四年|十月廿八日》大地震図

于時明治廿四年十月廿八日
午前六時 過(すぎ)の地震(じしん)は別(わけ)て
岐阜(ぎふ)名古屋(なごや)大垣(おほがき)地方 劇(はげ)
烈(しき)なる地震にて震動(しんどう)おび
たゞしく地(ぢ)裂(さ)け家(いへ)倒(たほ)れ死人 何(なん)
千人 成(なる)か数(かづ)しれず加(くわ)ふるに所々(しよ〳〵)
出火し半身家にしかれ出(いづ)る
ことならす傍(かたわら)より火うつり生(いき)
ながら焼(や)け死したるもあり
わづか四五才の小児一人 残り死し
たる親(おや)に取(とり)すがり泣(なき)き【活用語尾の重複】わめ
くありさま目も当(あて)られぬ不便(ふびん)と
いふもおろかなり進行(しんかう)之 汽車(きしや)
転動(てんどう)常(つね)ならず乗客(じやうきやく)ふしんに
思(おも)ふ折(おり)進行を止(とゞむ)るや否(いな)前後(せんご)
の山 崩(くづ)れて進退(しんたい)する能(あた)わず
乗客(じやうきやく)終日(しゆうじつ)車中に居(ゐ)て食(しよく)を
求(もと)むる事叶わず各(おの〳〵)下車(おり)し独(ひ)
歩(とり)にて夫々へ出 行(ゆき)ける又 近江(あふみ)
の湖水(こすい)は水あふれ之(これ)が為(ため)人 命(めい)
を失(うしな)ひ家庫(いへくら)を押流(おしなが)す名古
屋 電信局(でんしんきよく)并に傍(かたわら)なる旅舎(はたこや)
秋琴楼(しうきんらう)破壊(はくわい)し又一家 残(のこ)
らす生死(せうし)分(わか)らぬもあり負傷者(けがにん)
は或(あるひ)は手を挫(くじ)き足(あし)を折(お)り頭(かしら)く
だけ腹(はら)やふるゝなど実(じつ)に筆(ふで)
に尽(つく)しがたし景況(けいきやう)あらましを
             図す

本しらべ大阪大地震の次第初編

【紙面右側欄外】
嘉永七寅年十一月四日五ツ半時より半時計【斗】りゆる 本しらべ《割書:同五日七ツ半時|大ゆりは後出す》

《割書:本|し》 大阪大地震の次第《割書:初|編》
《割書:ら|べ》
【上段】
せんば【黒地白抜き文字】座摩宮鳥居并に
石どうろう門くづれ候事
北久太郎町どうふや北へ入所家
二三げんくづれ候事
塩町さのやばし角高塀
西へくづれ死人けが人三人
南御堂本堂北西手少々
そんじ
本町きつね小路東がは寺
高へいくづれ
御霊宮社内井戸やかた
大くづれ
順けい町丼池角家大そんじ
長ほりさのやばし北ずめ
東竹や裏家七八軒大くづれ
本町丼池近辺地しんにて手
あやまち【失火】有
長堀板やばし北詰東入角大そんじ
川西【黒地に白抜き文字】あはざ戸や町小間物
棚西南角大いがみ
同それより少し西北がわ家
七八軒大くつれ候事
同それより半丁西角やしき
両かは人家廿五軒大くづれ
同それより少し西北東角人家
十軒ばかり大くづれ
願きやう寺たいめん所
大くづれ
同前すじ北へ入ねり塀大ゆがみ
あわざ堀岡崎はし南づめ
半丁東南へ入人家五六軒くづれ
永代浜半丁東土蔵一ヶ所崩れ
両国ばし北づめ壱丁北西南角
角やしき七八軒大くづれ
常安ばし北づめ角大ゆがみ
京町堀羽子板ばし北づめ角凡三間
ばかり崩手あやまちに相成候事
新中ばし北づめ東北角凡九部通
大そんじ犬才はし【犬斉橋】北づめ東へ入蔵立の
家かべおちる又辻より東高へい崩る
同横町塀大そんじ有之

【中段】
堂島
福島【この二行黒地白抜き文字】五百らかん羅漢堂東
手惣くづれ大どころ大そんじ
同門袖かべ惣くつれ
光智院玄関大くづれ
同此近辺宮寺そんじ候事の
数しれず
しをつばし北づめ東ふろ■や大崩
同南づめ凡長さ十五間土蔵
一ヶ所惣壁をち柱ばかり
同上天神門くづれうら門鳥居大ゆがみ
同中天神はいでん大くづれ
同下天神絵馬堂大くづれ
北野ふどう寺本堂ひしに成崩
梅田ばし南づめ西へ入のべ岡御屋敷
八まん宮絵馬堂大そんじ
又梅田ばし北詰西へ入うら町家二
軒崩る同東へ入高 塀(へい)くだける
此近辺四五軒大そんじ
北しんちみどりばし北づめ西角
にうりや西へ四五けん計【斗】り大そんじ
桜ばし南詰西へ入浜家二三【「け」の脱字ヵ】ん
崩る此近辺少々つゝのくづれ有
西へ辻より西へ入おだれ【注】をちる
【注 軒先の垂木の木口を隠すのに使う横板。屋根の庇の意にも。】

天満【黒地に白抜き文字】天神社内井戸やかた
くづれうら門近辺の小家損し
池田町近へん少々そんじ有
此近辺より東天満所々少々づゝ
の損じ▲《割書:上|町》のばく【畑地】蝋納屋
十三軒ばかり崩れ蝋と壁
土まぜり大こんさつといふ
本町おはらひすじ近辺所々
少々そんじ有▲天王寺境内
所々ねり塀くづれそんじ有之
候得ども外に別条なし
清水ふたい大くづれ損じ
あり下寺町大れん寺表の塀
ゆがみそんじ有とのうわさ
此近辺寺々所々少々づゝそんじ有
長町毘沙門大鳥居くづれて候
此近辺長町うらあちこち大
そんじ有之候事

【下段】
玉造二けん茶屋新宅人家凡十軒計【斗】
大そんじ天満ほり川戎近へん大そんじ解船町
西よこぼり少し南家大ゆがみ▲新町東の扇や此畳の
四本柱の座敷大くず【ママ】れ其ほか少々つゝそんじは
町中に数しれず并にけが人は少々づゝ御座候へ
ども死人なし

【下段の上方】
南辺【黒地に白抜き文字】幸町東うらがは樋より
南へ四五軒そんじ幸栄ばし
西つめ一丁西角家三げん計【斗】
崩る同幸町かまやたゝらば
大くづれ此辺に大そんし有
新川辺より土ばし近辺あち
こち損じありなんば新地
みぞの川西裏家四五軒
大そんじ木津市中
あちこちそんじ安にう寺【安養寺】
つりがね堂くづれなんば
むら所々大損じ有之
新家右同断住よし
境内石どうろう等凡八部
どふり損じ其外末社少々
づつのそんじ有之今宮右同断

【下段下方】
ほりへ【黒地に白抜き文字】橘通り三丁め凡半丁
はかり大そんじ有此近辺浜
すじ新立の蔵少々そんじ有之
ほり江いなり社おたび地内
神楽所相撲場大そんじ
四ツばし南づめ壱丁西東角
蔵少々そんじ有之
御池通五丁目南東角四
けん計【斗】りくづれ
土佐家敷塀三間ばかり
そんじ又あみだ池横門すじ
六丁目東角三軒計【斗】りくづれ
損じ有○寺島うらがは少々
そんじ南安治川九条此
近辺所々少々づゝのそんじ
あり草々述がたし

【紙面左側欄外 上部】
五日七ツ半ゆりそれより大ゆりどうし
同夜五ツ時□□□□□大ゆり

【同 下部】
是に洩たる近国近在は委しき後篇に出す
           大正元、九、十四


【紙面外部】
嘉永七寅年十一月四日朝五ツ半時
大地震 大坂之部



大坂南堀江出火記事

【一段目】
享保九甲辰歳三月廿一日午の
中刻南堀江三町目金屋次兵衛
祖母妙知尼隠居屋鋪ゟ出火
西南大風に而北東へ度々風替り
翌廿二日申の上刻火鎮り申候
焼失之覚
一町数 四百八丁
 内
  百六拾三町 北組
  百七拾五町 南組
  七拾町 天満与
一家員 壱万千七百六拾五軒
 内
  四千三百廿八軒 北組
  四千九百六拾八軒 南与
  弐千四百六拾九軒 天満与
一竈数六万弐百九拾弐軒
 内
 弐万六百七拾軒   同
 弐万七千百六拾九軒 同
 壱万弐千四百五拾三軒同
一土蔵千九拾七ヶ所【内訳不一致】
 内
 三百九拾六ヶ所  同
 三百八拾六ヶ所  同
 三百拾八ヶ所   同
一浜納屋千五百四十四軒
 内
 七百拾壱ヶ所  同
 七百五拾四ヶ所 同
 七拾九ヶ所   同
一公儀橋 九ヶ所
但し天満橋長サ百拾五間五尺
 内七拾五間弐尺焼失
  天神橋長サ百廿弐間三尺八寸
 内五拾八間弐尺八寸焼失
 難波橋 高麗橋 本町橋
 濃【農】人橋 長堀橋 日本橋
 野田橋
 右七ヶ所不残焼失
一町橋四拾五ヶ所
一尾張中納言殿屋敷一ヶ所
【二段目】
一紀伊中納言殿屋鋪一ヶ所
一西本願寺御堂 一ヶ所
一興照寺天満御堂一ヶ所
一東本願寺天満御堂一ヶ所
一町中一向宗道場
 百七拾ヶ寺
一社 八ヶ所
 座摩宮 御霊宮 神明宮
 朝日宮 天満権現宮 同
 天神宮 同神明宮 同戎宮
一浄土宗法華宗寺
   廿六ヶ寺
一伊勢慶光院屋敷
   壱ヶ所
一死人弐百九拾三人
  同男 百四拾三人
   女 百弐人
男女難見分ヶ死人四十八人
外に川流野末又は生死不
知死人七千五百人余
一焼馬 壱疋
一御城代酒井讃岐守下屋
 鋪内
  家中屋敷弐軒
一御城番松平大内蔵少
 輔中屋敷拾五軒
一御町奉行鈴木飛騨守
 御役屋敷同家中与力
 屋敷廿八軒同同心四拾四軒
一御町奉行松平日向守御
 役屋敷同組与力屋敷
 廿九軒同同心屋敷廿五軒
一破損奉行窪田又左衛門屋敷
 支配同心五軒
一窪田宗重良同組同心
 五軒
【三段目】
一御弓奉行青木甚四良
 同組同心八軒
一小笠原蔵人同組同心九軒
一御鉄鉋奉行石野六左衛門
 同与同心七軒
一服部源五良同与同心十一軒
一御金奉行井関弥右衛門
 同手代弐軒
 冨士市左衛門同手代壱軒
 角井三左衛門同  壱軒
 戸田忠兵衛同   壱軒
一御蔵奉行 加藤安左衛門
      筒井主税
 同手代拾六軒内三軒は町宅
 御代官  久下藤重良
 御大工  林 藤重良
 御塗師  粕谷遠江
一川崎御材木蔵
一本町浜塩噌御蔵
一牢屋敷
 但し牢拾人無恙済也
一米拾壱万千七百四十石余
一大豆壱万三千九百五十石余
一麦八千百八拾石余
右之外川船に(  )【鰯ヵ】并商売
書上ヶ不申分ヶ御座候
一鍋嶋加賀守  一松平丹後守
一津軽土佐守  一毛利周防守
一松平遠江守  一宗対馬守
一石川主殿頭  一前田権之助
一藤堂和泉守  一岡部内膳守
一秋元伊賀守  一松平隠岐守
         但し二ヶ所
一本多中務少輔 一松平浅五郎
一松原右京太夫 一森越中守
一山崎兵庫頭  一伊達いつみ守
一中川内膳正  一渡辺備中守
一船越五郎右衛門一有馬玄蕃頭
一小笠原佐渡守 一土屋但馬守【守ヵ】
一松平三次   一池田内膳守
一小堀備中守  一松平主殿頭
【四段目】
一小堀備中守  一松平主殿頭

其節は
御城代
 酒井讃岐守様
御町奉行
 鈴木飛騨守様
 松平日向守様



大坂
辰ノ年大変一件留

   岩谷七兵衛所持
    大正元.九・十四

安政二年十月二日大地震附類焼場所

   安政二卯十月二日
   大地震附類焼場所
 上野御山内は宿坊少々崩れ御本坊中堂其外恙なし
 同門前町いたみ多く広小路中程より出火上野町より長者町に
 至り伊藤松坂南より御成通井上様小笠原様御中屋敷
 御類焼に而此火中御かち町にてやけ留る猶又御すきや町【注】
 天神下同朋町は別して崩多し切通し坂下は
 倒る家あまた也此辺御やしき多分崩る
 池のはた仲町は片かは町の分崩多し茅町弐丁めより
 出火して壱丁目木戸際まで二丁うら表とも焼る
 谷中天王寺五重の塔九りんのみ折落て土中に
 埋る此辺格別のそんじなし三崎より駒込辺は
 崩多く根津も大分崩所あり本郷は崩少く
 候得共かうじむろくゑ落て家そんじたるあり
 御茶水湯島通りは崩少なし神田明神無事也
 神田橋外三川【河】町ゟ西御屋敷すべて崩多分にて
 小川町辺松平駿河守様松平豊後守様榊原
 式部大輔様内藤駿河守様戸田武二郎様
 本郷丹後守様等其外小やしき所々やける
 尤此へん崩て飯田町番丁格別のさたなし
 するが台猶更事なく昌平橋通りは両側共
   いたみ多し又明神下
   通り内藤様建部様を
   はじめ御成道は
   堀様酒井様石川様
    黒田様大関様など也
    御成道町家共に崩るゝ
     事おび
      たゞし

【注 「丁」は「町」の略字。現在の町名に照らし改む。】

 小石川は百間長屋向
 御はた本飛々やける牛天神下
 崩多く水道橋通より下馬坂崩
 つよく伝通院前より大つか辺くづれ
 少し


 小日向早稲田音羽
 目白はそんじ少なし牛込は改代丁辺
 崩多し其外上水べり崩所々なり
 ■小石川御門内崩多くいひた町は下町
 崩れ上町よろし番町辺は格別の大崩
 なくかうじ町うらて所々崩あり
 此辺出火無之死人等なし
 牛込かぐら坂より寺町通り若宮町辺
 やらい下通土蔵大半くづれそんじ
 多し高田雑司谷辺はかくへつのことなし
 市谷御門外尾張様御長屋下町家
 少しくつれ本村辺少崩れかゞやしき辺
 崩所々なり柳町は所々崩見ゆる
 大久保通りより柏木村辺崩所々有
 成子町内藤宿大木戸辺は大還少し
 わきみちは崩多く見ゆる又千駄が谷
 辺権田原六道の辻百人町辺は無事也
 すべ青山しぶや道玄坂北沢下目黒
 桐ケ谷駒場辺おだやかなりおんでん原宿
 熊野前少し崩る龍土辺笄橋長者丸辺
 桜田町三軒家辺ゆれ少く善福寺門前より
 一本松仙だい坂辺土蔵のみいたむ
 日がくほ通りより飯倉永坂辺いたみつよく
 谷町市兵衛町もいたみ多し
 夫より溜池上御やしき所々いたむ
 又赤坂は田町通伝馬町
 元赤坂町一ツ木町辺
 いたみつよく崩多分也
 紀州様御やしき恙なく
 さめがはし町所々いたみ
 四谷塩町忍町伝馬町は
 表通いたみ少なく横町〳〵は
 大半崩見ゆる尤御上水
 万年どい石がきくづれ水あふるゝ
 麹町十一丁目十二十三丁目は右に
 同じ四ツ谷御門内かうじ町は
 平川町山本町隼町谷町共
 かくべつ崩所なし

 三軒家辺御やしき永田町辺崩少なし山王御社
 無事なり江戸見坂より外桜田虎の門内は崩甚しく
 南部みのの守様やける薩州装束屋敷表がはやけ
 其外くづるゝ幸橋御門内は柳沢甲斐守様やける
 伊東修理大夫様やける亀井をきの守様半分やける
 此辺御やしき不残崩多く山下御門内猶々きびしく
 大鍋島様不残やける虎之御門外あたらし橋外御やしき
 あたご下辺崩過半なり西の久保よりいひぐら町赤羽年
 辺崩〳〵一二回小山辺十番まみ穴辺崩少なし増上寺
 御山内崩少なく又金杉より上手本芝田町伊皿子三田
 高輪品川台町二本榎白金古川辺目黒永峯辺
 何れも格別の崩なく尤土蔵多くいたむ事一円なり
 芝浜松町片門前中門前浜手御やしきはそんじ大半なり
 神明町三島町は大くづれにて怪我多し神明宮御社
 少もさはりなし柴井町のみ一丁目やける前後つふれ多し
 尤芝口は町家御やしき共さはりなく又桜田くほ町辺崩多し
 是より京橋まで地震たるみてそんじ少なし木挽町辺
 築地御浜辺もさはりなく鉄砲州はあたりつよく船松町
 松平淡路守様やける此辺崩れ多く八丁堀一円中へんなり▼▲


▼▲霊岸島は一円くつれつよく土蔵数か所ふるひ
  塩町はま南新堀に而二丁余程やける北新ほりは
  箱崎共崩多し小網町崩おひたゝしく浜町は崩少し
  甚左衛門町大坂町人形町通大伝馬町本町石町室町辺崩多し
  両ごく吉川町米沢町横山町馬喰町は崩少し橘町より田所町富沢町
  高砂町住吉難波町和泉町芳町辺崩多し今川橋辺内神田は不残
  東西共崩つよく筋違御門より柳原通御もみ蔵そんじつよく
  豊島町江川町辺ゆるがせ也外神田は佐久間町辺よろしく御成道通り
  はたご町金沢町すべて此辺大崩なり夫より神田橋内は酒井うたの頭様やけ
  表御門のこる同向御やしきやける龍の口角森川出羽守様やける
  酒井左衛門尉様越前様小笠原様崩多く一橋様同様なり
  八代洲川岸は増山様林様くつれ多く松平相模守様やける御火消やしき
  やけ御やぐらのこる尤屋根ゆり落す遠藤但馬守様やけ又本多中務大輔様
  永井遠江守様やける其外御大名方御役屋敷共かち橋すきやはし常磐橋内不残崩多し


▲東海道は品川ゆるし
 川さき神奈川つよくふるひ金沢
 江の島浦賀辺程が谷戸塚は甚しく
 小田原辺をかきり也日光道中は宇都宮限り
 水戸街道は土浦辺まて甲州道は八王子辺迄
 青梅飯能所沢多くゆるぎ秩父辺を限り也◑


◑中仙道は板橋
 より蕨大宮辺
 つよく桶川鴻巣
 辺おたやかにて本庄辺
 少しゆるく上州は高崎
 辺まて也
 又二合半領葛西領は
 大半くつれ上総は木更
 津辺おびたゞしく尤房総
 共大地しんなり先御府
 内のみ凡を書とり其
 あらましを挙くる
 町数五千三百七十余町崩
 御屋敷弐万四千
  六百三 十四軒也
 寺院は
 一万六千二ヶ寺
 土蔵ハ
 焼失之分
  六千八百戸前
 崩高分
 七億二万
  六千三十
    八なり
 男女
  死人之分
  十万九千七百三十余人也

 十月二日夜亥の
 上刻より出火起り
 翌朝火しつまる
 深川と浅くさ
 花川戸は
  四ツ頃
   しづまる

 即時御公儀様より
 御救御手当被下
 かほとの大変に
 あふ人々かつして
 死すもの一人も
 なくまことに〳〵
 ありかたき御代
 といふべし
  めでたし
    〳〵〳〵

●坂本町は二丁目三丁目
 御たんす町せんさいばやける
 東がはたこぜんよこ丁へ
 やけこむ此辺つふれ
     多し

 通しん町辺くつれ多し

 三のわ金杉つふれ多し

 山谷町新鳥越は大くつれにて人家 
 山の如し此辺寺院寺院二軒のこり跡
 みなつぶるゝ●橋場は崩多く
 銭坐やける●今戸は崩れ
 少なく橋ぎは
   小半丁やける
    浅草新丁
      崩多し

 千住宿
  大半くづれ
  小つか原町のこらす
  つふるゝうへやける

●しん吉原は
 江戸町より
 出火して五丁
 のこらずやける
 大門外西かはのこる

●大音寺前崩多し

●浅草寺町の寺院大半
 そんじ堂前山本仁太夫矢来
 内もらひ人出火いてゝ多く死す
 此辺家つふれ多し
 御門跡本堂恙なく
 地中いたみ東門たをるゝ
 ●茶やばしきは角より出火して
 山下の方へ半丁程やける
 新ほりはた前後へ
 やけ入る

●浅草田町辺はつぶれつよく弐丁めより出火して
 同一丁め山川町竹門金竜北谷の寺院不残聖天横丁より
 芝居町三丁共やける東がは少しのこる聖天町
 山之宿はくつれ多分にて怪我多し
 北馬道南馬道やけ中谷の両側寺院共
 のこりなくやける馬道より戸沢長家へ出
 花川戸町半丁片かはにて火とまる
 金竜山地中崩多し本堂恙なし
 五十の塔九輪北の方へまがる
 浅草広小路雷門前
 崩おひたゞし

 御救小屋場所
 一幸橋御門外
 一浅草広小路
 一深川海辺新田

 一上野広小路
 一深川八幡境内
 東叡山御門主様より御すくひ小屋
       上の御山下火除地


 此辺亀戸村そんじ多し
 亀戸町二ヶ所やける
 天神よほと
    あれる

●浅くさ並木田原町辺
 くつれ多く
●こ□□□□□□して
 すは町くろ船町やける
 かや寺門にてとまる
 又東がはゝ三よし町
 御馬やがしにて
 とまる
 御くら前
 通り
 かや町
 まで
 大崩

【地図の中に書かれた記事を上から時計廻に刻字】
此辺寺院町家共
くづれ多く
   御やしきは
      無事なり

三すぢ町
しんぼりへん
崩れ 
 おほし

おかち町通
山下より
和泉橋迄
 両かはとも
 崩おひたゝし

三味せんほり
御やしきは崩
   少なし
        鳥こへ辺
向柳原      きつら少なし
 七まがりは
 崩れ多く
  松浦さま
   御門たを
     るゝ
           東両国は
            大半崩れ
            相生町辺
            おひたゝしく

●石原あらゐ町
辺より辺弁天
  こうじへん             ●法おんじ橋ぎは町家少し
  とび〳〵やける            やける此辺くつれ多し
  尤多しやける

津かる様御やしきを
はじめわり下水
辺のこらすいたみ
つよくけが多し              御やしき
少しツゝの出火所々也           類焼は🔳印
                     町方地名は
●緑町壱丁めより同二丁目          ●印やけば也
 やける三丁め二丁のこり
 四丁目五丁めやけ
 三ツめ花町にて
    やけどまる向川岸徳右エ門町
    二丁め三丁めやける
                   柳はら町
●御籾蔵前より八名川町六間ぼり     其外
 南北森下町常磐町            つふれ候所
  井上さま小笠原様            おひ
   太田様やける              たゞし
    高ばしにて留る
     又深川西町
      半丁余やける

           小名木川両岸共
            大崩にて人多く
            死すくつれぬ
            家まれなり
いせさき町      木ば丁も
  やける       崩多し

  ●相川町熊井町         其外
   とみ吉町中しま町       くつれ
   北川町大しま町        多分
    下はまぐり町永代寺     なり
     門前仲町山本町
         やける▲

           ▲わぐ
            らは
           本所代
           地さか【佐賀】町
           代ち
            やける

【御城の上部】
 番町
多分事
  なし

千早振
 神のしづめし
  二荒山(ふたらやま)
   ふたゝび
    とだに
   御代は
    うご
     かじ

此辺
 崩少なし

 小川町崩多く
御大名小やしき
   とも多分
     やける

するがたい
 一ゑん
  かくべつの
   崩なし

西神田は     東神田つぶれ
土蔵立家     多く豊島町辺は
 くづれ        少なし
  多く

                 はま町は
                  かくべつの
                   さはりなし


【地震と火災の災害情報の記事のみを翻刻し、完了とします。町名や屋敷の配置図の地図本来の情報は、繁雑になる事から国立国会図書館 デジタルコレクション『〔江戸切絵図〕を参照下さい。】

流行暴瀉病療治の御觸書の写

     御触書之写
一此節流行の暴瀉(ほふしや)病之療治種々ある趣に候
 得共其中に素人か心得法を示すあらかじめ是を
 防く物はすへて身を冷し事なくはらには木綿巻
 大酒大食を慎み其外こなれがたき食物一切慎み
 若此病受候はゝ早々寝床に入飲食を慎み惣身温め
 左に記す芳香散といふ薬用ゆべし且又吐【「咄」は誤記と思われる。】瀉甚しき惣
 身冷ゆる者は焼酎一二合の中に龍脳一二包入温め木綿
 の切にしたし腹并手足温めからしをかきすりこむべし
 芳香散上に桂皮細末益智細末乾姜細末故【右ヵ】調合
 致し用べし辛の粉うんどん粉あつき湯にて堅くねり
 木綿の切にのべはるべし但し間に合さる時はからし斗りねりてよし
       又法
あつき茶にて三分一焼酎と和砂糖少々用べし但座敷
とち木綿え焼酎を付しきりに惣身えなするべし
但し手足の先并に腹冷ゆる所あたゝめ鉄又は温石を
つゝみ湯を遣ふ如くの心持になる程すべし
右は此節流行病甚しく諸人難義致候に付其病に
不拘早速用候薬法諸人心得のため急度可相
達候事
右御書付之趣従町奉行所被
仰渡候事
   八月廿二        【蔵書印】上田文庫



天明八年戊申年正月晦日京都大火ニ付諸事聞書

天明八戊申年正月晦日京都大火に付
諸事聞書
              中尾方治

一正月晦日暁七ツ時頃川東四条下るとん栗の辻子ゟ【*】
 出火之処丑寅の風強く川西寺町松【原文の「松」は異体字の「枩」】原通え飛火夫
 より次第に焼広かり仏光寺其外町方寺社段々
 焼東本願寺本国寺大宮通野まて焼秡風替り
 辰巳風烈敷相成東は寺町西は大宮通迄一面大
 火に相成北西え焼立四ツ時の頃牢屋敷両町御奉行
 所両組屋敷小堀数馬様両御屋敷不残焼
 御城番両組屋敷過半焼両御門頭御役屋敷
 始其辺御所司代組屋敷相残り候併右組屋敷

【『天明八年京都大火図』に建仁寺西側・賀茂川沿いに「ドングリ辻子」がある】
【「ドングリ辻子」は鴨川東側の宮川町の団栗辻子で、現在の京都市東山区宮川筋付近に該当】

 御所諸家こと〳〵く焼亡同四年丙辰十二月廿六日の夜
 仙洞御所女院御所炎上皇居には至らす東山院の御宇
 宝永五年戊子三月八日同炎上天明八戊申年正月晦日
 内裏炎上宝永五より八十一年目なり古へよりかく計
 焼亡のためしもあれと今度のことくなる大火は見へ
 すとなり

鯰筆を震

【座敷部分の右から左廻りに】
〽一生かけ
 ものに
 いたし
  升

〽これは
 おれが
 もらつて
  おこう
 こんな
 しこと
  でも
 うけ
  とり
   てへ

〽あり
 がてへ
 〳〵〳〵

【画題】
鯰筆を震

  〽これも
 かいてもら
へはあとへ
  のこる
    ものだ

明治丙申三陸大海嘯之実況

《割書:明治|丙申》三陸大海嘯之実況          小国政 梅堂
 

時(とき)は惟(こ)れ明治二十
九年六月十五日 岩手(いわて)
宮城(みやぎ)青森(あをもり)の三県海辺(けんかいへん)に
起(おこ)りし大海嘯(をほつなみ)は実(じつ)に猛烈(もうれつ)を極(きは)め
たり此日(このひ)は恰(あたか)も旧暦(きふれき)の端午(たんご)にて家族(かぞく)友(いう)
人(しん)相会(あいくわい)し宴飲歓(ゑんゐんくわん)を尽(つく)しつゝありしが突(とつ)
然(ぜん)沖合(をきあい)に当(あた)つて巨砲(きよはう)を発(はつ)したるが如(ごと)き響(ひゞき)
あり人々 怪(あやし)み屋外(をくゞわい)に出(いて)んとする一 瞬(しゆん)間(かん)数(す)
丈(じやう)の狂瀾(きやうらん)襲(をそ)ひ来(きた)り三万に近(ちか)き人命(じんめい)を
家屋(かをく)と共(とも)に一 掃(そう)せり幸(さひはひ)に逃(のが)れしも
或(あるひ)は為(ため)に不具者(かたわ)となり或(あるひ)は食(くら)
ふに粟(あは)なく其惨憺悽愴(そのさんたんせいそう)た
るの状(じやう)能(よ)く筆舌(ひつぜつ)の尽(つくす)
す所(ところ)にあらず

弊堂(へいどう)今回(こんくわい)稀有(けう)の大海嘯(をほつなみ)
実況(じつきやう)を出版(しいつぱん)して博(ひろ)く天下(てんか)の
仁人(じんしん)に照会(せうくわい)し此同胞目前(このどうはうもくぜん)の
急(きふ)を救助(きふじよ)するの義務(ぎむ)を
尽(つく)せられんことを
希望(きばう)す
                明治廿九年七月《割書:一日印刷| 日発行》
                臨写印刷兼発行者
                日本橋区長谷川町十九バンチ
                 福田初次郎





米高直ニ付大阪市中にほどこし名前録後編

天保八酉のとし新版  後編
米(こめ)高直(かうじき)に付
      ほどこし名前録(なまえろく)
大坂 市中(まちぢう)え

【一段目】
大坂市中家数
〆五万七千四百廿三軒へ
 壱竈《割書:ニ》付百文ツヽ施行
此銭〆高    大川町【「丁」は「町」に略字】
凡五千七百    加嶋屋
四十弐貫三百文   久左衛門

        立売八
弐百五十貫文   近 権

        本一
百五拾貫文    伊丹四郎

        同町
七拾貫文     いづ三郎
          外《割書:ニ》八人

        堂嶋永来町
拾五貫文     建家持

        天マ【天満】ひノうへ
拾貫文      大根安

        三郷納家物
金五両     雑穀問屋
         嶋  佐
         さぬ 安

        同
同二両      肥後武
         大 儀

        同
同五百疋     平 市

        同
         万与三
         いづ八
同壱両ヅヽ    大谷家
         なだ利
         新 傳

        同
         三田家
同三百疋     西 愛
         国分小

        同
         河 清
同弐百疋ヅヽ   近 松
         いづ治
         平 専

【二段目】
        同
         河 治
         紙 長
         山 藤
         鳴 貞
金弐百疋ヅヽ   大野傳
         なだ清
         近 戈
         いづ源
         柳 市
         〆

        同
         松 宅
金百五拾疋    三河金
    ツヽ   わかさ佐
         阿波利
         〆

        同
         近 安
         亀 善
         わた弥
右同断      山 平
         鍋 平
         平 武
         有馬卯
         〆

        同
         平 和
         平 仁
         山 佶
         川 新
         岸 武
         亀 世
金百疋ヅヽ    三音五
         みの与
         山 伊
         綿 卯
         大 忠
         ひし勘
         油 源
         〆

        同
         金 正
金弐朱ヅヽ    嶋 久

【三段目】
        同
         あこ忠
         阿波太
金弐朱      吉 五
   ヅヽ    河 佐
         米 甚
         池 半
         〆

        同年行司
         升 猶
銀拾枚      丹 庄
         いづ又

        同
同拾枚      菊 利
         加嶋利
        同
同五枚      長 喜

        同
同三枚      さか勘

        同
         木 善
同弐枚ヅヽ    備 弥
         河 善
        同
同壱枚      長 傳

        同
同壱枚      吉 喜
   ヅヽ    豊嶋又

        同
金五両      袋 重
         不二五郎

        同仲買
         なだ利
         麩 卯
         小 伊
銭百貫文     小 作
         小 定
         ひぜん篤
         柴 覚
         河 長

【四段目】
銭廿貫文     布 長
         ひぜん篤

         高 忠
         あこ喜
同拾貫文     小 作
         木 市
         升喜知

同六貫文     山 利

         河 善
同五貫文     升 太
         なら五

同拾貫文     中 勘

        長ほり
銭七百貫文    住友
         甚兵衛

米ノ代間銀   さつま堀中ノ町
弐百石      錺屋
  分      六兵衛

同       堂嶋二丁め
三百石      播磨屋
  分      仁兵衛

        天マひノ上町
         大根屋
同弐壱百     小十郎
 八拾六石
    分    大根屋
         小兵衛

同六十七石   同旅籠町
    分    伊賀半

同三十石分   堂嶋二
         神崎源

        天マいせ町
同百三拾     茶 佶
  四石分   江戸堀三
         平四郎

【左段】
右施行銭高壱万八千八百八拾八貫文余○北組壱万九千七拾軒《割書:并ニ》類焼かし家
北組丈ヶ三千六百六拾七軒〆弐万二千七百卅七軒○南組三万九百四拾壱軒《割書:并ニ》類焼借家
南組丈ヶ千百六拾八軒外《割書:ニ》端々七ヶ所百九拾三軒〆三万弐千三百弐軒○天満組六千六百
三十八軒《割書:并ニ》類焼かし家天満組丈ヶ四千九百五軒外《割書:ニ》端々九ヶ所三百八軒〆壱万千八百五十
壱軒三郷竈数高惣〆六万六千八百九拾軒但し三郷共類焼の家相除キ五万七千四百二十
三軒へ壱竈《割書:ニ》付三百文ヅヽ此所へかじ久【加嶋屋久左衛門のこと】より一竈《割書:ニ》百文ヅヽ都合四百文ヅヽ《割書:ニ》相成申候尤類焼人へは一貫文ヅヽ
施行有之由承る誠《割書:ニ》難有事ならずや然ば施しせらるゝ家々は大金なれば四百文の銭といへ共□らで【汚損で判読困難】【「必らず」ヵ】
疎略《割書:ニ》いたさず米代と助けとして厚恩を尊み家業大事と働けば天の恵み目のあたりなるべし

【左欄外】
右《割書:ニ》もれたる家々は前編《割書:ニ》くはしくしるし御座候へば前後ニまい御求御一覧可被下候以上

神馬と鯰

【上段】
いせの馬
「どうた
 一ばんへこんだ
 ろうこれといふ
 のもおらがおや
 ぶんの太(だい)神(しん)宮(ぐう)さまの
 おさしづだからしかたが
 あるまい井(い)戸(と)をほつたら
 水(みつ)がでる江戸がちしんなら
 かみがでると思やれさ

【下段】
じゝんのゑんきよ
「これはたいへんたなんでもこんとの一ばん
 おちをとろふと思つたにとんだ
 けだものがてしやばつて
 ひけをとつたはざん
 ねんなこれた
 いせのかみのつげ
 なればぜひかなへ

安政二乙卯年大震大火の図

【右下枠外】
●やけ○《割書:半|やけ》▲くづれ△《割書:半|くづれ》



【上段の最後の部分】
かかる大災の中 御城内は申に及ばす両御山御国ゆき御蔵等御そん亡
これなし扨万々歳 御仁政の有がたさには 御公儀様ゟ幸橋御門外深川
海辺大工町海辺しんでん浅草広小路上の山下同所へ上野 宮様ゟ一ケ所右之通
直に御小屋建たせられ不残民御救入その外御すくいの御手当種々有之誠に
御恩沢の難有事申も中々恐る也寝食の間も忘れ■天地に拝謝し

十箇国大地震の図

《割書:十|箇》 大地震之図
《割書:国》

【紙面右下】
御大名様方御城下十八ヶ所
郡 数    五十六ヶ所
寺 社   千二百余ヶ所
里 数    《割書:立 百二十り余|巾 七十り余》

夫天地不時の変動は陰
陽混して雷雨をなす地に
入れば地震をなすアゝ神仏の
庇護も是を納ることかたし
頃は嘉永七甲寅年十一月四日
五ツ時大地震にてまづ伊豆の国は大島かんず【神津島のことか】三
倉三宅其外島〳〵大小ゆりつぶれ下田はいろ
が崎戸田河津いなし赤沢いとう北条にら山
仁田しゆぜんじあたみをせ【大瀬】いづれも地をく
つがへすかとあやしむばかりにて家はしやうぎ
だをし【将棋倒し】にたをれ一人として生ある心ちはなかりし
とかやしかるに時刻半時ほど過ると思ふころ
むさんなるかなしゆぜんじ山一度くずれこの
もの音すごきことたとへんかたなし下田千軒の町大
はんつなみにておしながし大船四十五そう小舟数多
行ゑ【衛】しれずやう〳〵のかれ侍たる大船は遠州三州の辺迄
浪にひかれ行しとなり箱根宿山中三ツたに大いにあれ
三島はこと〳〵くつぶれ明神社より西へ五六軒東へ二丁余焼け
駿州は沼津五万石水野出羽守様御城下しやうぎだをしにたをれ
宿半より先は焼失する浜手はつなみにて人家損亡多し原宿柏
原吉原宿冨士の元市場ふじの根がた大にあれつふれ家多し富士川がけ崩れ二丁余り埋
川水りうくわん【柳岸】流れ岩淵此辺家あまたそんじ山々大にあれ崩るゝかん原甚つよく由井の宿は
焼失する倉沢さつたとうげくずれ興津川大水におよび興津宿大に
つぶれ出火いたす所
是又名にしおふ興津しら浪と古哥の吟のごとくびやう〳〵たる風景も一度に大津なみとなり
て清見寺の辺迄おしかさなるばかりに来り宿内人家あまた引かれ真事に目もあてられぬ
ありさまなり尤此興津宿はむかしか□【「ゝ」ヵ】るつなみありし所なるとかや清水三保の松ばら
甚つよく江じり宿大半つぶれ小吉田辺も同断也府中御城下つふれ焼失す弥勒
辺あべ川是又水かさなり留る小島一万石松平丹後守様御陣屋下まりこ宿うつの谷峠
の峯大にあれくずれるなりおかべ宿藤枝宿甚つよく田中四万石本多豊前守様
御城下こと〳〵くそんじやける瀬戸川常に水なき川なれども古今の大水にて是又渡
りを留る三軒家辺しまた宿つふれ大井川いにしへよりならびなき
大水にして是を
見聞く者きもたましいをひやせしとかや又遠州は金谷宿つぶれ日坂とうげさよ
の中山大ぢごく小ぢごくこと〳〵くあれ実に是らを大小のぢごくかとあやしむばかり
なり日坂宿大にそんじ掛川六万石太田摂津守様御城下いたつてつよくゆりつぶ
れ焼失す原川袋井宿見附宿池田いづれも大かたならず大天龍小天龍此川一ツ
一ツになるにもたらずしてつゝみ五百軒ほど切れ込人家あまたそんずる也横須賀三万
三千石西尾隠岐守様御城下相良一万石田沼玄蕃頭様御陣屋下浜松六万石井上河内守様
御城下ともにそんじ是より尾州路にいたりてもひゞき甚つよく相州根ぶ川辺つよく箱
根山は御関所手前畑湯本風の神へんつよく小田原十一万三千百廿九石大久保加賀守様御
城下大いそ小いそ平つか四ッ谷ふじ沢辺かくべつそんしもなくかまくら江のしま
辺はいたつてつよくりやうし町其外浜手大にそんじるなり三崎浦長州萩の
御大守三十六万石松平大膳大夫様御持場りやうし町其外浦々人家つなみにて家数
二百軒余引ながれる浦賀金ざはつなみにてそん亡多くなか〳〵もつて筆につくし
がたし大津は肥後熊本の御大守五十四万石細川越中守様御持場近辺つよくそんしるなり
又とつか宿ひゞきつよくほとかやかな川かわ崎大師かわら【河原】へん江戸は山の手
下町とも所々少々つゝのそんじ所有て甲州は身のぶ山大にあれるはたこや町近辺
つるせかつ沼いわさ【石和】辺殊さら甲府は御城下大にそんしにらさき【韮崎】たいがはら【台ヶ原】武州はちゝぶ四万
此辺山々大にあれる中仙道は信州わだ峠辺より下のすは【下の諏訪】しほ【塩尻ヵ】せば【洗馬】元山【本山】ならは【「奈良井」と思われる。とすれば「は」は「い」の誤記か。】八五原【藪原ヵ】宮こし福
しま御関所辺上ヶ松す原の尻辺つよく山々崩れあるひは谷々大いにそんしるなり又飯田
二万七千石堀大和守様御城下こと〳〵くつよくふるびかたさか【?】みや田宿そんじて
高遠三万三千石内藤駿河守様御城下是またいたつてつよく上のすは高しま
三万石諏訪因幡守様御城下甚つよく松本六万石松平丹波守御城下是又
大いにそんじ殊さらしやうしつにおよぶ惣して人家牛馬のそんぼう
大かたならす【並み大抵でない】松代十万石真田しなの守様御城下上田辺飯山二万石本多
豊後守様御城下辺いつれ大かたならさるそんしにてぜんかうじ近辺
までもひゞきいたつてつよし又房州上総の両国ともいたつてつよく房
州なかう【鵜】の浜津なみ人家そんぼう多くなか〳〵もつてあわれといふもお
ろかなり惣して人家はいふにおよはず土蔵并に大船小舟のそんぼういくばく
どもごんご【言語】にのへかたしやう〳〵七日夜日かづ四日にしてゆりやみ諸人あんとな
すとはいへども未だきやうぶの思ひはさらさりしとかやかゝる折から諸国のゑん
者いかで人じやうとしてあんじさらんものはあるべからず一刻もはやくこの
あんび【安否】を告げあんどなさしめんと専一なれば其たよりにもなるへきまゝ
委細を図面にあらわしかくはしるす

【紙面右側中程 図の上部】
今切御関所
より一りほど
つなみにて
引ながす

【紙面左側中程】
○此辺つなみ
にてりやう
し町
大にな
かれる


当時流行病療養妙伝

    当時 流(はやり)行 病(やまひ)療(りやう)養(じ)妙伝(みやうでん)
一夫すてに腹いたみ出しなば
 釜(かま)にて塩(しほ)湯をわかしにたて
 茶わんにていつぱいのみ釜の
 ゆはたらゐへとり二ッの手ぬぐひ
 にひたしとりかへ引かへいく
 度(たひ)もへそにあて腹(はら)中(ぢう)を
 あたゝめべし 但(たゝし)しぬるき湯
 にてはきか須(ず)【須に「”」が付く】と知(しる)るべししかるうちに
 そう身(しん)よりあせの出ること瀧(たき)の如し
 やがて腹いたみやむなり後又々
 いたみだしなば又々前の如く
 してあたゝめべし病のおもき
 かろきにかゝわらず少しも
 はやく是を用ひたまへばさんじ
 に気分よく功能 眼(がん)ぜんなり右は  
 しかるべき御 方(はう)様之御 伝授(でんしゆ)なるよし
 なればかろしめなげやり給ふこと
 なかれ是にて全快いたし助る人
 多かりければ諸人の助にも相なり
 候間こゝに記す
  ▲まじないのうた是を門口へ張置べし
    〽いかでかわ身(み)もすそ川の流(なが)れくむ
          人にたよらじゑきれいの神(かみ)
【下段】
右しほゆの中へ
やぶからしと申草
を入れ用ゆべし
なほ〳〵きゝめよし
九死たりとも助命
する霊草なり

此うた
  ついでなれば
     こゝにあらわす也

地しんの辯

ぢしんの辨(べん)

およそ天地(てんち)の間(あひだ)は陰陽(いんやう)の二気(にき)を以(もつ)て元(もと)とすこの二気(にき) 和順(くわじゆん)なる時(とき)は穏(おだやか)なりそれ地(ち)の厚(あつ)き事九万 里(り)にして四圍(しゐ)に竅(あな)あること
或(ある)ひは蜂(はち)の巣(す)の如(ごと)くまた菌(くさびら)の瓣(すぢ)に似(に)たり水火(すゐくわ)これを潜(くぐ)りて出入(しゆつにふ)す然(しか)るに陰気(いんき)
上(うえ)に閉(と)ぢ陽気 下(しも)に伏(ふく)するとき昇(のぼ)【「升」は「昇」の略字】らんとするに昇ることを得(え)ず因(よつ)て
地 漸々(だん〳〵)に脹(ふく)れ時を待ち陰気を突破(つきやぶ)って騰(のぼ)るこのとき 
大地(たいち) 大(おほい)に震(ふる)ふたとへば餅(もち)を焼(やき)て火気(くわき)その心(しん)に透(とほ)れば
漸々(だん〳〵)に脹れあがるが如し故(ゆゑ)に強(つよ)き地 震(しん)は始(はじ)め発(はつ)する時
地 下(か)より泥砂(どろすな)を吹(ふき)出し大地 陥(おちいる)が如く覚(おぼ)ゆるは陽気
発(はつ)してかの脹れたる地中の空穴(くうけつ)縮(しゞ)まる也なされども一時(いちじ)に
縮み尽(つ)くさず因(よつ)て一昼夜(いつちうや)に三五十 度(ど)或(ある)ひは
二三十 度(ど)少(すこ)しく震(ふる)ひて漸々(ぜん〳〵)に元に復す
かゝれば大地震の後(のち)度〳〵震ふとも始の
ごとき大震はあらざるの理(り)と
しるべし昔(むかし)より今(いま)に至(いた)り和漢(わかん)の
大 地震(ぢしん) 度(たび)〳〵にて既(すで)に史(ふみ)にも
記(しる)し人(ひと)の譚(ものがたり)をきくにみな斯(かく)の如(ごと)し
然(しか)るをまたもや大に震(ふる)はんかと日(ひ)を重(かさ)ねて
大 道(だう)に仮家(かりや)をしつらへ寒風(かんふう)にあひ夜気(やき)をうけて
竟(つひ)に疾(やま)ひを発(はつ)するを思はず少しもこの理(ことわり)を
知れらん人は婦(をんな) 児(こども)によく諭(さと)して久(ひさ)しく路傍(みちはた)に
宿(しゆく)することなかれ
○俗説(ぞくせつ)にいふ地下(ちか)に鯰(なまづ)ありその尾鰭(おひれ)を動(うご)
かす時(とき) 地(ち)これが為(ため)に震(ふる)ふといふその據(よりところ)を
詳(つまびら)にせざれど建久(けんきう)九年の暦(こよみ)の表紙(へうし)に地震(ぢしん)の
蟲(むし)とてその形(かたち)を画(えが)き日本(にほん)六十六 州(しゆう)の名(な)を記(しる)したり
六七百年以前よりかゝる説(せつ)は行(おこな)はれき佛経(ぶつきやう)には龍(りう)の
所為(わざ)といふ古代の説(せつ)はかくの如(ごと)しと地震考(ぢしんかう)といふ書(しよ)に
記(しる)せり思(おも)ふに當時(とうじ) 雑書(ざつしよ)には必(かならず)この図を載(のせ)ざる事
なくその形(かたち)もまた鯰(なまず)にあらず龍(りゆう)に類(るい)せる異形(いぎやう)のものなり
今またその図(づ)をこゝに假(かり)て寅卯(とらう)二ケ 年(ねん)地震(ぢしん) 津波(つなみ)の
災異(さいい)ありし国々を一眼(ひとめ)に見(み)する目的(めあて)となすのみ

【右下】
【丸に黄色】此色は嘉永七甲寅年十一月四日
大 地震(ぢしん)ありし国〳〵なり

【丸に青】此色は同月同日地震の後(ご)沖合(おきあひ) 鳴出(なりだ)し
夜(よ)五半時 頃(ころ) 大津波(おほつなみ)となりし場所(ばしよ)なり

【丸に赤】此色は安政二年十月二日夜四ツ時 関(くわん)
東(とう) 諸国(しよこく) 大地震(おほぢしん)の分(ぶん)但 此節(このとき)津波(つなみ)は
なし

【頭部欄外】
安政二乙卯年初冬発市
地しんの弁
東都 天文書屋鐫

新版京絵図

【左欄外】
新板 京絵図 全

【右欄外】
天明八申年正月晦日四条川東建仁寺《割書:ト》宮川町《割書:ト■》間新道ドングリノ辻子角近江屋春兵衛ヨリ出火二月二日昼火鎮

【下側欄外】
寺町通二条下《割書:ル》町野田弥兵衛開板

江戸十里四方大風出水焼失場所附

江戸十里四方
      場所附
大風出水焼失
〇頃は安政三丙辰年八月廿五日夜五ッ半時風雨はげしく家蔵堂社をそんする
事おひたゞしく南は品川宿海がは大半そんじ折ふし海上より大なみを打あげ是が為にそんじ
流るゝ樹木おびたゞしく東海寺うら門海晏寺品川寺ねりべいそんじ御殿山大木倒るゝ
事数しれず尤御台場は恙なし夫より高なわ海手出茶や海中に吹入寺院の大樹往来へ
たをるゝ夫より田町本芝さつ州様御はまやしき少々そんじさつ州様御製造の大船金杉ばしの
きはに着す又札の辻より三田麻布古川広尾辺こと〴〵くそんじまた芝浜御てんはつゝがなく尾州様
御蔵やしき少々そんじ同片門前より出火して表通りは宇田川町少々やけうら通りは神明まへの両かは残らず三島町の
かどにて焼どまる又増上寺御山内恙なく宿坊ねりべいはかば樹木所々たおれ同切通しより西のくぼ迄町家屋敷共大半
そんじ又あたご下通り同断桜田久保町【注】一円格別の事なく芝口より尾張町迄のあいだ大通りはつゝがなく両仲通りは
表うら共に所々はそんあり銀座三丁目自身番火の見やぐら半鐘つりあるまゝにて往来へおちる京橋通りは大根がしへ
薪材木おびたゞしく流れきたる又日本通りは今川橋迄格別の事なく東中通り所々つぶれ家多し西中通り同断また
本町伝馬町通りは格別の事なし石町鉄炮町小伝馬町馬喰町所々はそんあり油町塩丁横山町右同断夫より橘町
二丁目三丁目西がは大半潰れ米沢町久松町此辺少々そんじはま丁は大川より水あがり安藤長門守様御やしきうちへ
茶船一艘ながれこみ此辺一ゑん出水の為におし流され小網町北しんぼり永代橋中程へ八百石づみの親船かゝり是が為に
橋杭大いにそんず又南しんぼり辺北は茅場町八丁堀辺迄所々破損あり南は霊かんじま鉄炮洲つき地小田原町へん
所々大半そんじ其うへ出水おびたゞしく西本願寺御本堂はじめ寺中大半つぶれ講武所あき様一ツ橋様ゑつ中様
御屋敷所々破損あり〇又東の方は深川洲さき大出水八幡まへ仲丁同断遊女屋かりたく五十六七軒押ながされ
あるひは破損なしてわづかに残るは久喜万字や一軒のみ夫より六間堀辺高ばし右同断にて少き所は床うへ三尺の出水
なり又本所竪川通り林町緑町松井町常盤町御旅一ッ目弁天御船蔵辺大出水家々の損じ大方ならず又南北わり
下水法恩寺橋出水おびたゞしく夫より亀井戸天神門前社内共右同断又五百羅かん辺さゝい堂大半破損なり
又本所石原番場多田薬師辺大にそんじ東橋の欄干(らんかん)中ほどそんじ又浅草雷門まへ広小路同観音地中所々
はそん同所あは島の社銅の鳥居たをれ奥山見せ物小屋樹木等こと〴〵く折れたをるゝ其うへ仁王門雷門の大挑灯
とびちりてゆきがたしれず又矢大臣門そと松田屋かり宅つぶれ北馬道田町通り大半そんじ大音寺まへよし原出火の上
所々そんじ南馬道は少々やぶの内西がは残らずつぶれ並木通りより浅草御見附迄表裏共につぶれ家二百二三十
けん余なり〇又北のかたは千住宿少々小塚原焼失夫より箕の輪金杉根ぎし坂本東坂町東えい山下黒門
まへ茶やその外少々づゝつぶれ家あり尤御山内大樹数百本打折れ下寺坊舎のうち所々そんじ夫より不忍弁財天
居廻り茶や〴〵所々そんじ善光寺坂うへ下清水門茶や町団子坂通り所々潰れ多し同端林寺残らずつぶれ同■
幡随院境内樹木打たおれ三浦坂下川ばた御籏本やしき両かは一軒残らすひらつぶし同所祖師堂恙なくくり本堂
丸つぶれ夫より根津惣門うちあかづ組御やしき所々そんじ潰れ家よほどこれあり森様内藤様くづれ宮永町門前町
表裏家百六十間余潰れ惣門は屋根少々そんじ権現社別条なく茅町比沙門堂大つぶれ同所うら池の端仲町
うら表所々そんじ潰れ家十四五軒又無えんざか上加しう様榊原様御長屋少々いたみからたち寺めくら御長屋少々
そんじ本郷通り壱丁目より六丁目迄表家格別の事なし裏通り御祖やしき所々そんじ同丸山本妙寺辺所々潰れ
そのほか梨坂たどんざか菊坂辺少々そんじ森川宿本多様并に御組やしき追分町両かはそんじ九軒屋敷町家其外
小屋敷潰れ多し夫より片町所々そんじ樹木倒れ又竹町通り鶏声がくぼ丸山新町浄心寺辺大にそんじ同坂下指ヶ谷町
小屋敷町家等潰れ多し又巣鴨酒井雅楽頭様御下屋敷土井大炊頭様御下屋敷樹木大にたをれ御篭【駕籠】町通り
表通りは格別の事なし裏通りは所々そんじ伝通院領少々破損夫より板橋通り庚申塚辺樹木倒れ人家破
損なし板橋宿はたごや両かは共大そんじ又大塚浪切不動辺所々そんじ松平大学頭様御屋敷大木たをれ御長屋
少々そんじ小石川一円格別の事なしといへども所々にくづれ家あり同安藤坂辺伝通院寺中所々そんじ牛天神金杉
水道町水戸様御門通り水道橋御茶の水火消屋敷此辺所々そんじ桜の馬場前田様内田様聖堂前通り
御屋敷所々そんじ又湯島天神社内別当所潰れ其外銅鳥居同裏門鳥居倒るゝ其外芝居小屋揚弓場
茶見せ等損所多し同切通し天源寺前少々つぶれ棟梁屋敷所々そんじ又天神門前三組町御かご町御手代町
まで潰れ家所々に是あり大半は破そん妻乞坂稲荷社少々損じ島田様裏門つぶれ三枝様少々はそん町家
壱間つぶれ大半破損す同坂下黒田様酒井様内藤様芦野様少々づゝ破損昌平橋通り同朋町
御台所町神田明神石坂下表長屋所々破そん裏長屋大半つぶれ旅籠町金沢町外神田一ゑん
所々に潰れ家ありといへとも多分の事なし明神表門通り潰れ家二三軒あり昌平橋はその夜薪材木流れ
来り水すじ止まる夫より駿河だい小川町通り両かは御屋敷大半破損土屋様十の字内藤様稲葉様
土井様戸田様本多様残らず潰るゝ三河町表裏一えん所々破損つぶれ家あり○御くるわ内は神田橋
酒井左衛門尉様御長屋一棟凡百間ほど潰れ小笠原左京太夫様御長屋片かは御作事定小屋つぶれときは
ばし御門内間部下総守様残らず潰れ龍の口にて御屋敷壱軒潰れ大名小路松平内蔵頭様裏御門通り
織田兵部少輔様小笠原様右同断鍜治橋御門内松平阿波守様御玄関御殿潰れ銅がわら残らずおちる長井
肥前守様つぶれ松平主殿頭様御辻番より半分つぶれ内御長屋両かは倒れ土井大炊頭様一長屋たをれ日比谷
御門外松平大膳大夫様御長屋半分余つぶれ阿部播磨守様通用門より凡右御長屋残らず潰れ秋田様
さつ州様装【𫌏(この字辞書に無し)】束やしき右同断とらの御門内亀井様御殿御二かい半分なし西尾様表門一むねつぶれ相馬様
御長屋表門御玄関たをれ上杉様横長屋つぶれ夫より霞ヶ関芸州様御住居少々破損赤坂御門内
松平出羽守様御長屋片かはそんじ渡辺様同断三軒家小屋敷残らずたをれ糀町平河天神うら門
町家大半つぶれ惣じて桜田御門内より馬場先和田倉迄御植込の大樹およそ六十本倒るゝ又西御丸
下は池田様御長屋残らずたをれ会津様両御屋敷共つぶれ其外山の手は市ヶ谷牛込四ッ谷大久保辺町家
其外土蔵くづるゝ事数しれず又赤城明神近辺早稲田一ッ橋様御抱屋敷穴八幡まへどふり所々破損多し
夫より鮫ヶ橋紀州様御やかた辺町家寺院等多く損ずすべて青山百人町通り渋谷道玄坂のあいだ
格別の事なしといへども所々に潰れ家あり凡御府内并に近在十里余方五海道一えん潰れ家破損
神社仏閣樹木山泉人家の存亡場所によりて多少ありといへどもいち〳〵かぞへあぐるにいとまあらず
広大無辺の珍事なりといへ共神国の奇瑞いちじるくよく廿六日暁六ッ半時雨やみ
狂風しづまり人々あんどの思ひをなしぬそのあらましを一帋【紙】に録して山海を
へだつ遠国の親るい縁者へ安否をしらせんが為にしるすものなり

【「丁」は「町」の略字である事ゆえ、「ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)の江戸マップβ版」と参照の上「町」に修正。以後同断。】

泪如来の損像

泪(なみだ)如来(によらい)の損像(そんぞう)《割書:山の宿聖天町にて|有頂天(うてうてん)五十日の間開帳》
そも〳〵かりにあんじしたてまつるはしなのゝくに【信濃国】ぜんくわうじ【善光寺】の
ほんぞんほつこく【北国 注④】でんらいしまおうごん【紫磨黄金 注③】の
なみだによらいのそんぞうなりその
むかしてれんてくだ【手練手管】うそ八百だいの
みかどけいせい【傾城】てんわうのおんとき
なまづだいじん【鯰大臣】のまつしや【末社】やけのやんはちと
いへるものこのそんぞうにあつくなり
ちうやあゆみをはこべ
ともごりやく【御利益】なきを
いきとふり【憤り】たゝらを
ふませておはくろ
とぶ【お歯黒どぶ、吉原周囲の堀のこと】へなげこみしを
わかひものとんだどしみつ【本田善光(ほんだよしみつ)のもじり 注⑤】
やう〳〵ひきあけまいらせてせなかに
おぶひたてまつりのろまのくにはなげ
むらなるおきやくさんうねぼれじ【自惚寺】へつれ
まいらせしばしかりねのおんちぎりあさ
からずこれによつてこのたび山のしゆく【宿】
せうでんてう【聖天町、注①】をおんかりや【御仮屋】としてかいてう【開帳】し
たてまつりぼんぶけちゑん【凡夫結縁】のために
おとびらをひらきぼんのう【煩悩】ほたい【菩提】を
によき〳〵とおやかし【生やかし=大きくする】たてまつるもの
なりひとたびはいする【拝する】ともがら【輩】はたいへいの
ぢしんをゆらせうつき【鬱気】をさんじ【散じ】みらいは
かならずひとつはちすのうてな【注②】でくらしうてうてん【有頂天】へ
のぼりてまんざいらく【萬歳楽】ねのたのしみにじゆめう【寿命】の
はなげ【鼻毛】をのばすことうたがひなしごしん〴〵【信心】の
おんかたは一ぶもつてとこへまはられませう

【注① 「ぜうでんつう」と読めるがせの濁点は汚損によるものと別本より判定】
【別本 石本コレクション】
【https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ishimoto/document/79236a7c-6afe-4373-b3ae-ed46005bf7fe】
【注② 「はちすのうてな」は蓮の台で、極楽浄土に往生した者が座るという蓮の花の座のこと】
【注③ 紫色を帯びた純粋の黄金。最上級の黄金をいう。】
【注④ 新吉原は江戸城から見て北側なので北国とも俗称された】
【注⑤ 本田善光(ほんだよしみつ)は善光寺の開基と元となった人物】
【阿弥陀仏が水の中から飛び出してきて、本田善光の背中におぶさったとの伝説あり】



嘉永七年寅十一月諸国大地震大津波并出火

《割書:一嘉永七年|寅十一月》諸国大地震大津波并出火
【一段目】
      阿州
十一月四日朝少しゆり出し五日七ツ時より大地しんと成り
徳島魚市場辺より出火▲新魚や町▲新シ町二丁メ
より三丁目迄▲通り町一丁メより三丁メ迄八百や町中町
きの国町紙や町三丁メ迄塀裏不残牢ヶ浜小路迄
▲稲田様御屋敷▲加島様御屋敷▲寺島様御屋敷
▲同日同刻西助任町▲八幡社内より春
日社まで
▲■富田四五十軒計りづゝ所々焼失▲橋筋少残
▲ 同日同刻小松島八部計り焼失
▲橋▲むぎ▲ゆき▲きく凡十三里計りつなみ
にて人家不残流る▲北方イノシリ▲脇町辺五
六部崩る▲撫養▲岡崎不残崩▲浜御殿
焼失▲林崎六分崩▲徳長より鯛の浜まで凡
凡二里計りの間大地二尺程つゝわれる人家に
ほら穴なとあき死人多し大地のわれ目へ
犬牛馬などはまり死す是等は希代の珍事也
▲鈴柄の渡し同夜船に乗たる人も船頭も待合す
人も津浪にて不残行方不知其外田畑海道人家
の分ちなく土砂吹上け一面の泥海となる誠に〳〵
神武以来の大あれにて死人数しれず
▲四日朝より七日暮方迄凡七十ヶ度ゆりなり

     土州
十一月四日朝五ツ時より大地しん同五日申ノ刻又々大地震
大津浪と成▲かんの浦九部通り流▲片原町▲湊町
▲白浜町▲皆々七部通り崩流▲いくて坂崩▲いく
み村崩▲のね浦九部通り流▲ふじごへのはん所崩れ
▲飛石▲はね石ごろ〳〵石大半流る▲入木村八幡崩
▲おさき村▲上みつ村▲下みつ村皆々八部通りづゝ崩
此外御城下在々浦々大あれなり都て土佐一国
大損にて死人数しれずけが人多し 

【二段目】
大地震
大津浪  東海道 
出 火  

 【上段】
吉原  大ぢしんにて
    出火丸やけ
かん原 問やより東
    やけ残り崩
岩淵  六部通り崩れ
    四部やける
不二山所々大にそんじ
不二川水なし大混雑
由井  無事

沖津  大ぢしんつなみ
    出火四部余焼
江尻  右同断

府中  江川町より出火
    四部やける
鞠子  大ぢしんにて
    八部くづれ
岡部  大ぢしんにて
    のこらず崩
藤枝  上の方六部通
    やける
島田  大ぢしんにて半崩
    大井川損る
金谷  大ぢしんにて七部
    崩残りやける
日坂  無事

掛川  大ぢしんにて
    崩残り丸やけ

 【下段】
袋井  此処かけ川
       同断
見附  大ぢしんにて六百軒
    崩けが人多し
浜松  六部くづれ

舞坂  大ぢしんにて四部崩
    残りつなみにて流る
あら井 関所町家
    舞坂同断
白すか 八部通り崩

二 ̄タ川 此所半崩

吉田  屋敷町家
    半くづれ
御油  此所四部崩

赤坂  のこらず崩

藤川  町家七部通り崩

岡崎  八部通り崩
    やはき橋少々損
ちりふ 大ぢしん大つなみ 
    町家崩死人有
鳴見  七部通り崩

宮   此処八部くづれ
    あつた宮大に損

   江戸
十一月四日朝五つ時より大地震と成所々御屋敷
大に破損あり同五日夜四つ時より猿若町近
より出火一丁目より三丁目迄芝居不残焼
失夫より聖天町山の宿町のこらず
焼失花川戸半町【丁】西迄小天道迄抜る
東は大川端迄夫より向島へ飛火小梅村
水戸様御下屋敷へ飛火いたし不残焼
失同所々焼失家数凡二千軒焼失
けが人多し

【三段目】

   志州鳥羽
十一月四日朝五つ時より大地震と成所々崩
同五日昼七つ時より又々大地震と成候所へ
大つなみにて御家■【敷ヵ】六部通り流市中も
八部通り崩又は流二部通り残りたる所は
大に破損あり惣じて志摩一ヶ国は無事
なる所一ヶ所もなく誠に〳〵日本一の大荒也
死人幾千人とも不分けが人数しれす

   伊勢
十一月四日朝五つ時大地震と成▲松阪▲津
▲白子▲神戸▲山田此辺皆々大地しん
大津浪にて大体八部通り崩流死人四五十人
づゝあるよし

   四日市
同日同刻より大地震にて人家凡五十軒余
崩同五日申刻より又々大地しんにて大地われ
土蔵八十ヶ所崩家数凡百四十軒余崩
死人凡百七十人近在十二ヶ村大半崩れけが人多し

   桑名
同日同刻より大地しんの後大つつみ
にて浜辺みな〳〵流れ其近辺
大あれ大さわぎけが人多し

   紀州
湯浅十一月四日朝五つ時より大地震と成
所々人家崩同五日七つ時より又々大地しん
暮方より大つなみにて浜辺へ船多く打上け
北町▲新屋敷▲浜町▲中町▲大少路人家
皆々流る其外川原辺の家不残流れ死人
凡三百人けか人数しれづ
▲広浦同日同刻大地震にて千軒の所
四部通り崩同五日大津浪にて不残流る
家三軒残る死人凡四百人けが人多し
▲田辺同時大地しん大津浪にて御城下
三部通崩れ流る跡七部は出火にて不残
焼失死人凡三百五十人余けが人数しれず
▲有田▲加茂▲大崎▲藤代▲名高
▲日方▲黒江▲かだ▲熊野皆々
大津浪大あれにて人家六部通りづゝ
流る▲藤代より黒江迄大道内海となる
▲若山大地震大津浪にて所々町々流
崩れ此外浦々へ大船小船とも打あがり
たるは数しれす死人少々けか人多し

【四段目】

   西国筋【横書】

▲淡路▲広島▲上ノ関▲■【下ノ】関▲長州萩▲豊前
小倉▲岩国▲肥前▲肥後▲筑前▲筑後▲周防
▲備前▲備中▲備後皆大体大坂同様の大地しん
大あれなり尤豊後鶴崎大地震にて人家六部
通り崩死人凡百五十人計り府内人家四百
軒余崩死人凡百人余別府人家弐百軒
崩死人凡六十人余けが人多し

   泉州堺【横書】

十一月四日朝五つ時より大地震にて所々崩同五日
申の刻より又々大地しん大津浪にて▲新地茶屋町【丁】
▲北島米市場所々流死人凡十人余けが人多し

 落橋名 あつま橋▲さかへ橋▲龍神橋
     住吉橋▲いさみ橋 〆五橋

嘉永七年
    諸国大地震并に出火
寅六月

【上段】

    奈良
六月十四日夜八つ時より大地震にて
一軒も無事成家はなく皆々野
又は興福寺其外明地等にて
夜をあかし大道往来のもの
一人もなく皆々いづれに居とも
不分毎夜〳〵野宿にて
誠に〳〵哀なりける次第也
▲南方清水通り不残くづれ
▲木辻より西へ十軒崩▲鳴川町
二部通り残る▲北ノ方▲西手具
通りにて三部残▲北半田町手
具通り南北大崩▲川久保町【丁】
大崩家二軒残る▲中ノ方細川
町▲北向町【丁】▲北風呂辻子町▲右三
町別して大崩▲三条通より北は少々
都て奈良中の損し前代未聞
大変也死人凡二百人けが人多し
▲古市▲木津皆人家四五軒より
不残十六日暮方迄七十三度ゆり

   伊賀
上野同日同刻より大地震御城門
崩市中凡七部通り崩三部は菱に
なる十五日朝鍵の辻より出火黒
門前迄焼失▲島の原より大川原
迄ほらの為に一面の泥海となる
其混乱一々筆につくしがたしゆり同断

【下段】
  
   越前福井
六月十三日朝塩町かじや町より出
火東西南北共不残焼失折ふし
大風にて九十九橋より二百町計り
焼失寺院百ヶ所両■■【本願ヵ】寺
焼失其夜四つ時に火鎮る
▲十四日夜八つ時より大地震にて
田地海道泥海となる誠に〳〵
言語に延がたき大荒也ゆり上に同じ

   郡山
同日同刻より大地震にて▲柳町
壱丁目より四丁目迄四十軒計り崩
其外市中三部通りくづれ
死人凡八十人けか人多し

   江州
同日同刻より大地震にて▲三井寺
下より▲尾花川迄百軒計り崩
ゼゞ【膳所】の城少々崩▲土山などは
家崩おしにうたれたる人凡廿八人
▲石山大成岩等こけ落其
外城下在町所々大に損す

   四日市
同日同刻より大地震■【に】て三百軒計
崩十五日朝出火にて四百余焼失
死人凡三百人けかに多し
其外近国近在所々大に損す

【枠外左下】
此外国々少々づゝ不同あれとも大てい大坂同断■【な】り

ゑんまの子のわけ

〽ヱへヽ安政二年の十月二日
夜 ̄ル は四ッすき関八州を
地震〳〵といふこゑ聞 ̄ケ ば
吉原大門火事の中
つぶれた人は家の中
立喰たち呑
だいど中
けんのんすまゐは
くらの中
つつかひまるたは
まちの中
いたゞく御ぜんは
はらの中
雨露しのぐは
 小屋のなかァ
   フチヤラカ
     ホヱ〳〵


ゐんまの子の
    わけ

高縄(たかなは)なる御殿山(ごてんやま)に
土持(つちもち)ありしに多く人
集(あつま)りかの土を
荷(にな)ひ運(はこ)ふ中(うち)に
業(わざ)にかしこく
人を扱(あつか)ふものあり
これがかむりものを
拵(こしら)へきせしが其かたち
閻魔王(えんまわう)の冠(かんむり)に似(に)しより
誰(たれ)いふとなくゑんまの子〳〵
と異名(いめう)せしかば又 地蔵(ぢざう)の子
いふもの出来(いでき)て後(のち)には
土方(どかた)の子などゝ
いひておのづから
流行言(はやりことば)となりぬ
ゑんやら《割書:サ|》かけ声に
似たゑんまの子
地蔵にあらで
地形するなり

本志らべ大阪大地震大破略記

嘉永七寅十一月四日巳上刻より凡半時斗り之間
本しらべ《割書:大|坂》大地震大破略記

【上段】
西宮八十軒斗
家つぶれ
一北久太郎町丼池筋西北角
 家半分斗りゆがみ
一同北どなり一軒くずれ
 同北どなり半くずれ
一順慶町どぶ池すじ東南角
 同東となり二軒余くずれ
一塩町さのやばし筋東北角より
 北へ丁さかいめまで高塀くすれ
 けが人あり
一長ほり御堂筋北づめ浜西へ入
 北かわ納屋壱ヶ所うら借家
 又六けんはかり崩れ
一さま宮表門石鳥居崩れ
一天満天神境内井戸家形崩れ
 同所土蔵くずれ
一御霊境内井戸家かたくずれ
一南御堂高塀くずれ
一福しま天神表門くずれ
一中之嶋延岡御屋鋪鎮守
 八幡宮絵馬堂くづれ
一天満梅がへ寺町行あたり正客寺
 境内金ひら社絵馬堂くづれ
一本町狐小路浄久寺西手
 横高塀くすれ
一淡路町中ばし辺大道われる
一福嶋中の天神本社拝殿共
 くずれ
一同所下の天神絵馬堂崩れ
一あみだ池壱丁西うら町
 家廿けんばかりくづれ
一せと物町本町より北
 たをれ三けんばかり
 くづれ

【中段】
尼三十軒ばかり
家くづれ
一京町ぼり羽子板ばし北づめ
 西角浜がわ家二三けん斗り
 くずれ出火に成候由
一同西両こくばしかごや町
 西南角間口十六間ばかり
 くずれ
 道空町両国橋すじ東に入
 高塀くづれ
一江戸ぼり犬才ばし北づめ東に入
 家一けんくずれ
一さつまぼりくわんきやうじ
 境内たいめん所くずれ
一同所うら手長屋廿軒斗り
 くずれ
一あわざやぶのよこ町西がわ
 家五六軒斗りくずれ
一立売ぼり中ばし筋南北
 両角くずれ
一幸町東通より南に入人家
 二三軒斗りくずれ
一堂じま桜ばし南詰西に入家
 五六軒くずれ
一福しまかうちん前家一軒
 くずれ
一高原牢御家しき前の家一軒
 くずれ
一西高津社地御蔵跡辺土蔵
 一ヶ所くづれ
一天王寺清水ぶたい大破
一ふくしま五百らかんくずれ
 いくわし【いかし(厳し)=ひどく】くすれる
一大仁むら民家多くくずゝ
一同五日七ッ時半時ばかりゆり

【下段】
同五日くれ六半より安治川口より
大つなみ凡千石舟より小舟
数しれすつぶれ幷死人かず
しれす并はしつぶれ
住吉橋 さいわひばし
しほみばし 日吉ばし
黒かねばし かなやばし
天王寺からん御殿亀井水
大こうどう生玉かくら所
下寺丁【町】両国寺本どう
つぶれ委敷ず後偏に出し





天明八年京都大火図

【絵図、縦84cm】
【右上】
洛中堅横通小路辻子
神社仏閣諸大名屋鋪
市中名家小橋之分此
図に略之委は大絵図可
見之
【凡例】
絵図部分
太黒筋竹藪
赤筋焼場
黒筋無事
此印は焼残
此書川流
【右下】
于時天明八戊申年正月晦日暁寅下刻東石垣櫧子辻子より出火北東風強寺町通高辻え【迄ヵ】飛火夫より火口数ヶ所
散乱仏光寺因幡堂至未之刻壬生本国寺二条御城辺両奉行所諸司代【所司代】屋鋪次第風烈しく
西陳【ママ】諸宗寺院酉之下刻 御築地え【迄ヵ】火移り堂上方不残同二月朔日巳之刻火鎮る同二日三日市中
土蔵追々焼失す上鞍馬口より下も七条迄市中神社仏閣不残為焼失怪我人焼死人
    平均 焼場東西凡二十町南北凡五十町
       幅一町にして行程二十七里半余
一町数合千四百廿四町
一家数合三万六千七百九拾七軒
一社数三拾壱ヶ所
   又六ヶ所
一寺数弐百壱ヶ寺
   但大寺院には塔中有之共是は数不入
一焼死人百四拾七人
   但出訴有之分
一土蔵壱万余ヶ所
一焼失之書籍壱万三千部
   但印板
【左上】
            天明八申年迄
    承応二癸巳年大内火  百卅六年に成
洛中大火延宝元癸丑年洛大火 同百十六年に成
    宝永五戊子年洛大内火同八十一年に成
【左下】
火中焼残之分
御築地庭上桜橘花山院殿梶井殿天神京極御門二条
御城上御霊本社相国寺塔中西陳【ママ】本隆寺本堂
[和]泉式部軒端梅川原町土佐屋鋪宮川町恵比須社
本国寺番神堂

弘化四年丹後地方上り山一件

【右ページ】
かかる目出度御代の印なるにこゝに
松平伯耆守様御領分丹後国
竹野郡幾野村百性権左衛門とゆふ
大百性有此人正直して常に
人にほとしを専として大冨家なり
頃は弘化四年未年正月十三日夜
五ツ半時頃也右権左衛門所持の
地面之内大い成畑有右畑之内
其おとあたかも大地より雷出る程しんだう
して其ものをと八方にひゝき夜
中の事ゆへ何事ならんと百性とも
貝をふき立近郷近村者とも鍬鎌棒の類
得もの〳〵もち来名主年寄者共一
同せはいたし其最寄の持口相かため
とかく夜の明るを相待いたりしに程な
く夜明方にをと鳴もしつまりけり一同
是を見るにこゝにふしきなるは右権左衛門
所持大い成畑の内高さ弐丈七尺余廻り八十
五間大山一夜出亦外にふしきあり同其夜
の事也しに内地面の内青石地中よりゆり
出し其ものをと地より雷出る如し大きさ三間
九尺高さ壱丈七尺八寸外に亦如図なる岩也大い成事
廣大也同地面之内事なり此岩出る時そのひゝき大龍
地より出て夫上る程しんとうしたりけり長さ弐十五間四尺余
【図中】
   高さ
    弐丈七尺余
   廻り
    八十五間
       餘
 大山

【左ページ】
元の丸さ凡廿間余先丸さ七間弐尺也
右絵図面もって名主年寄の者とも
御領主御訴相成右見分有大成
珍事成とて御領主御歓有之いに
しへの駿河国ふし山近郷の水海是も
一夜の内出来たり夫大い成ふしき
なりそのときふしのすそに一村有其村
者ともふしの出来たりしをあす
見んとていゝしを今において其
村にてはふし見へすとゆふその
むらをあす見村言かゝる事うた
かひし事也抑富士山利やく
広大成事世の人知る所也日本六十
余州高山其数多し中にも大和
 大峯あり紀州には熊野有亦
  高野山有山城には比叡山有
   さかみ箱根有大山石尊
    あり武州妙義有
     はるなありかゞに白
     山有信州に
     戸かくし山有
     出羽羽黒山
     有皆其り
     やく広大也
     事皆〳〵
     知る所也また
     宝永四年事
     なりふし中にて
     宝永頃成にて是宝永山【上段四角印】
【下段四角印】
となつく
世の人知る所也
かゝる例も有之
みな〳〵吉事なり
此度珍事是ま
つたく豊年の
印ならんと皆々
此山を豊年山
ならん言て貴■【重?賓?】
へ高覧に備
へんと也

【中段】
長さ
二十
五間
四尺余

元の丸さ凡
廿間余先
丸さ七間二尺也

大岩

大きさ三間九尺
高さ壱丈七尺八寸余
青石【22~23行目に青石の大きさを示す文言あり。】





大坂大火騒動絵図

天保八丁酉二月十九日
摂州大坂大火騒動に付
右焼跡東西広サ七百六拾五間南北
広サ千拾間右之通十九日辰ノ上刻より
天満四軒屋敷ゟ出火にて翌日廿一日辰
ノ上刻に火鎮り申候

弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図

弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図
ことし春三月廿四日《割書:癸卯|立夏》夜亥乃上刻《割書:是時星隕ㇽコト如雨或云|今日西北ニ白虹ノ如キヲ見ト》わがしなのゝ地大にふるひ山くづれて谷を埋(うづ)み川かたふ
きて陸をひたせりそが中にも殊に稀代乃大変と聞へしは更科ノ郡《割書:姨棄山|西三里余》平林むらなる虚空蔵(こくうそう)山《割書:又岩倉|山トモ》といへる
高ねいただき両端に崩れ《割書:一方高丗余丁長廿余丁|岩倉孫瀬ノ二村水中ニ陥ㇽ》名たゝる犀(さい)川をへだてゝ水内郡みぬち村にわたり《割書:久目路ノ曲橋|北一里余下》
岩(がん)石 巨(こ)木さながら堤防(つゝみ)をなし《割書:又一方高十五丁余長廿余丁|藤倉古宿ノ二村同地中ニ圧ス》さばかりの大河こゝに於て水一 滴(てき)もらす事なく下流
いくばくの船渡(せんと)《割書:長井村山小市|丹波島以下》一時水落舟くだけて人みな徒行(かちわたり)して逃(のが)れあへて踵(くびす)をぬらす事なし《割書:是辺急流ニシテ棹サスコト|難シト故ニ大縄ヲ曳舟ヲヤル》
《割書:或云コノ時小市ノワタリニ舟ヲ出ス者アリ操漕ステニ水央ニ至ントス忽焉トシテ山フルヒ川ワキ巨縄ヒトシクキレ大船《割書:馬舟|ヲ云》トモニクダケテ瀬脇ノ丘ニトブ《割書:川上|一里》|頓ニシテ水カレ地サケテ一箇ノ山河中ニワキ出ソコバクノ人馬アル処ヲシラズ只舟師ノヒトリ綱ヲトリ幸ニシテハルカノ山上ニ免ㇽ有ト方ニコレ山川位ヲ易ㇽト可謂カ》又 虫倉岳(むしぐらたけ)
といへる大山 /半腹(なから)左右(さう)にくづれ《割書:伊折藤沢地京原|等ノ数村ヲ埋ム》 /戸尻(どじり)川の流ふさがる《割書:依之 五十里(イカリ)一ノ瀬中条|等ノ舎ヲ浸シ田ヲ没ス》をなじく山 /陰(かげ)澣花(すゝばな)川の水/源(かみ)またこと〴〵く
崩れともに水路通ずる事なし其余 /鹿谷(かや)猿倉(さるくら)境川 /聖(ひじり)浅川 /八蛇(やじや)鳥居川等すべて犀 /千隈(ちくま)ながれに/添(そ)へ西北
の地くづれ/裂(さけ)ことに甚く《割書:山林田園高低変替不可記|或ハ土沙水火ヲ湧発ス》流水井泉これがために/涸(か)る《割書:又温泉ニ出没アリ中二|温却テ冷ト変ㇽ有》/舎屋(いへや)たふれ/覆(くつがへ)り《割書:瓦屋最甚シト|萱舎も亦不_レ 一》
焔火(ほのほ)忽に発り老少相かへりみるにいとまなく壮者といへども/壓傷(おされきづゝくもの)なき事あたはず/適(たま〳〵)まぬがるゝもわづかに一身を
以て/避(さけ)るのみ《割書:在_二階上【一点脱】者|多不_レ及_レ死》就中善光寺《割書:二日三夜ニシテ|余焔消ス》新町《割書:水内山中ノ市会ナリ翌日午時二至テモ火勢倍熾ナリ時ニ|犀川ノ洪水サカシマニ湛ヘ上リ水火互ニゲキシ共ニ市中ヲ没ス》上はいなりや山に至り下飯山に及ひ延
焼する事連日にして/鎮(しづま)る〇《割書:当_二是時_一善光寺如来有_二開扉之大会_一而諸国 ̄ノ群参頗如_レ雲盛儀倍 ̄ス_二毎例_一 一時震動発火及四境殊本堂楼門鐘楼|経蔵等僅無_レ異矣別当大勧進雖_レ有_二小破_一不_レ及_二顚仆 ̄ニ_一倖 ̄ニ脱 ̄ル_二火災_一其余四十八院堂塔坊舎一瞬而悉付 ̄ス烏有 ̄ニ_一》
同廿八日《割書:丁|未》暁すゝ花川 /祖(そ)山 /黒波(くらなみ)辺の滞水はしめて通す《割書:於是丹波島一小船ヲ用ユト》
同廿九日《割書:戊|申》午刻又大に震ひ諸方多く/潰(つへゆ)る《割書:北越高田及今町殊ニ甚シ廿四日ノ災ニ超ㇽト云|四月廿九日同今町尽ク焼亡ス》
                     《割書:或云治承二戊戌三月廿四日善光寺草創ノ後初回禄|応永丗四年丁未又災上スト二件今災ト支干ヲ同クス一|奇事ト云へシ》
四月七日《割書:丙|辰》巳刻大風にはかに発し雹降る《割書:是時西南 ̄ノ天如摩_レ墨大雨至_レ夜倍不_レ止|翌八日戸隠山滂沱トシテ洗ガ如ト云》
同十日《割書:己|未》自巳至未刻暴風大雨木をぬく《割書:今日人ミナ以為犀川溢レ出ト資財ヲ相携テ走ル|同時諸国共ニ大風尾濃 ̄ノ間舎屋稍傾ト云》
午刻戸尻川くづれ通す《割書:是川安曇郡ニ出テ大安寺ニシテ犀川ニ入時ニ犀 干(ヒ)川ナレトモ尋常ノ洪水ニ減セズ小市|辺ノ堤防タメニ破ル先_レ是命有 ̄テ河内ノ粟(アワ)ヲ河東ニ徒シ老幼ヲ東山ニ仮居ナサシム》
こゝに犀川の流れ/停滞(とゞまる事)すでに月をこへ日 /二旬(はつか)に及び/沿流(ながれにそふ)の/村落(むら〳〵)水 /底(そこ)に/沈(しつ)み
上は筑摩安曇を/浸凌(ひた)し《割書:水内更科二郡ヲ貫キ |生野生坂宇留加辺》凡八九里その間山 /崛曲(つらなり)し川 /盤渦(めくり)し
幅員(はゞ)広狭又《割書:或三十余丁|モシクハ十余丁》測(はか)るべからす《割書:或云三月下旬岩倉ノ隤隄一旦盈コト七八尺|四月上旬ニ至リヤゝ広ク一昼夜ゼン〳〵三尺ニ不過ト》しかるに去ㇽ七日以来
暴風(かぜあらび)林雨(ながあめ)し或ハ溢れ或は泄(もれ)て第二の隤隄(つゝみ)水数丈を湛(たゝ)ふ《割書:同十二日水涯ノ高|コトナヲ二丈アリト》
同十三日《割書:壬|戌》午剋【尅は俗字】雨至未晴申下刻西南の山鳴動す《割書:コレ岩倉第一ノ隄クツレ激浪滔々トシテ|溢レ落ル声遠ク松代須坂中野ニ達ス》
《割書:是時僕昌言海津ノ西条山ニ在テ水声ヲキクコト良久ク|アタカモ耳ヲ衝ニ似タリ須臾ニシテ烽西ノ方真神ノ山上ニナル》俄にみる雲霧(うんむ)谷を出て東北にはしるを《割書:コレ水|烟ナリ》
時に疾(はやき)風いさごを飛し濆波(いかれるなみ)雨を/降(くだ)す魁(さき)水のほとばしるさま百万の奔馬(あれうま)
を原野に駆(かる)がことく巨涛(おほなみ)のみなぎる天地を漂(たゞよは)す歟と疑ふ山岳ために
沸騰(わきあからんと)す《割書:是時真神山下|水嵩六丈六尺四寸》その水勢の迅速(すみやか)なる一道の水路南に向ひ小市小松原
を陥(をとしい)れ今里今井を経て御幣(をんべい)川に至り《割書:用水上堰|行程三里》はじめて千曲川に会す
又一道四屋中嶋を蕩尽(とらか)し南北原村《割書:千本松|ノ際》を過 /会(あひ)小森《割書:二軒|家》にして
ともにちくまに入る日既に西山に没し又一道北川原梅沢鍛冶上
氷鉋(ひがな)を/浸(ひた)し丹波島を南へ廻り両大塚小島田を貫き八幡原
に推(をし)出す於_レ是みな海津に/湊(あつまる)ると《割書:時ニ千曲ノ水嵩ムコト二丈余|水上横田篠井辺ニ沂ㇽ》夜亥の初
にして東西五七里南北 /越路(こしち)に及ひ《割書:翌十四日申剋北越新潟ニ|魁水ハシメテ達スト凡五十里》高低となく
水ならぬ処なし《割書:丑剋ニ至り水勢ヤウヤク涸レ|暁天ニ悉乾キ三四ノ大川トナル》同十四日《割書:癸卯|晴 》迥(はるか)に奥の
郡《割書:陰徳沖|木島平》を望(のぞむ)に/渺茫(べうぼう)として長江の/際(かきり)なきに似たり
数日の後水ひき土かはき常のごとし
同十七日《割書:丙|申》未刻雷鳴 /驟(にはか)に至暴風屋を破る《割書:佐久郡|及甲州》
《割書:大雹蔽_レ 地稼苗|悉枯 ̄レ農桑廃_レ業》同廿八日《割書:丁|丑》日輪紅のことく光暉なし
五月廿日《割書:戊|戌》鹿谷川の湛水くづれ通す
六月廿日《割書:丁|未》雷公数処に落《割書:寺舎ヲヤキ|馬ヲソコナフ》
七月朔《割書:戊|寅》二日三日昼夜しは〳〵震ふ
同十九日《割書:丙|申》夜丑下刻諸方大震動人みな
庭上に仮ゐす《割書:暁澣花川ノ水源瀬戸川浦辺ノ|湛水クヅレ善光寺辺人家タメニ流ル》
けふ十月の未その/余波(なこり)《割書:或驟ニ震ヒ|或鳴動シテ至》猶しば〳〵也
凡四大種の中水火風のみは常に害をなす事
あれど大地に至ては殊なる事なしと覚へしに
恐てもをそるべきは唯 /地震(なゐ)也と長明師
の方丈の記に書給ひしも実也ける

【右丁 裏 白紙】

【左丁 表紙】
《題:《割書:弘化|丁未》信濃国大地震山川崩激之図 共二》

【印】善光寺
【資料整理番号】59-08C-02

嘉永年間より米相場直段并年代記書抜大新版

【上部タイトル】
嘉永年間より米相場直段并年代記書抜大新版
【一段目】
嘉永六癸丑年ヨリ《割書:〇くは|  の木》
 米相場《割書:●百俵印|▲壱両印》
    《割書:▬百文印| 》
●四十九両
▲七斗一升
▬一升
異国
船はじ
めて浦賀へ
きたる
小田原大地しん
家定公せうぐん

安政元甲寅年《割書:一〇たにの|   みづ》
●六十両
▲五斗八升
▬八合五勺
壱朱銀通用
大坂木津川口
大つなみ人家を
ながし橋〴〵をちる

同二乙卯年《割書:一〇たにの|   みづ》
●四十五両
▲七斗八升
▬一升二合
十月二日
江戸中大
地しん人多く
しすしんよし原
はじめとして
所々出火事
御すくひ小や
五ヶ所へたつ
わけて丸
の内ひどく
して人々なん
ぎをなす

同三丙辰年《割書:〇ひさご|   のかね》
●七十二両
▲四斗八升五合
▬七合
八月廿五日大
あらし深川
大水人家を
ながす成田山
ふか川にてくわいてう

同四丁巳年《割書:〇ひさご|   のかね》
●六十三両
▲九斗五升
▬七合五勺
しば山仁王両ごく
ゑかういんにてくわい
てう大にはやりて
さんけいくんじゆう【群集】す

同五戊午年《割書:〇天上|  の火》
●八十九両
▲三斗九升
▬五合五勺
家みつ公
御たかひ
やくびやう
はやる人多く
やまひのためにしす
【二段目】
同六己未年《割書:〇天上|  の火》
●百五両
▲三斗三升
▬四合七勺
十月御本丸
ゑんじやう

横はま
かうえき
はじまり

御すくひ
まいを市中へ
くださる

万延元庚申年《割書:さくら|  の木》
●九十九両
▲三斗五升
▬五合二勺
さくら田外
上ミのたゝ
かひ
あさくさ
くわんをん
くわいてう
女人ふじ山へ
あがるをゆるす

文久元辛酉年《割書:一〇たにの|   みづ》
●百五両
▲三斗一升
▬四合六勺
□□□に
浪(ろう)人 戦(せん)そう
たかを山
ゑかういん
にてかい
てう

同二壬戌年《割書:〇大かい|  のみづ》
●百廿三両
▲二斗八升四合
▬四合
江戸はじめ
しよこくはし
か大いにはやり
人しすること
そのかづを
しらず
右につきしよにん
なんじうおゝかた
ならずよつて
御すくひくださる

同三癸亥年《割書:〇大かい|  のみづ》
●百廿五両
▲二斗八升
▬三合八勺
二月
家もち公
御上らく
文久せん
通用はじ
  まる
【三段目】
元治元甲子年《割書:〇うみ|  のかね》
●百五□両
▲二斗三升
▬三合二勺
七月
十六日
二十日
京都大火
人多くしす

慶応元乙丑年《割書:〇うみ|  のかね》
●二百五両
▲一斗七升
▬二合二勺
金花山弁財天
ゑかういんにて
かいてうあさまいり
おゝくいづ
春天ぢくよう
大そう
わたり
両国にて
しよ人に三■
本所小笠
原やしきへ
浪人屯
両国広
小じへごく
もん二つ出る
文久銭八文
青銭十二文
通用はじまる

同二丙寅年《割書:〇いろり|  の火》
●二百七十両
▲一斗二升
▬一合八勺
春市中
大町人
多くこは
されるしよはうにて
近所へほどこしいづる
九月ひんきう人
さわぎ江戸中へ
はじまる
御すくひ
小や佐久
間町へたつ
谷中天王寺にて
たきだしこれあり
しよにんくんじうす
十二月九日十日
江戸大火これある
【四段目】
同三丁卯年《割書:〇いろり|  の火》
●四百二十両
▲八升三合
▬一合一勺
市中じゆんら
御まはり
これある
しよしき
かうじきにて
御すくひ小や
たつ
千住大はし
御かためはじ
まる
大坂千ば【船場】にて
大たゝかいこれ
ある
なんきんまい
はじめてわたり
しよにんこれを
かう
十二月廿六日
あかばねにて
大火事これあり
しな川まてやける 人多くしす

同四年戊辰《割書:もりの|  木》
●三百五十両
▲一斗
▬一合二勺
しよ大みやう
のこらず国へ
ひきこむ
正月十五日
御ちょくし
御下向
三月市中町人
どうらんして
こと〴〵くさはぐ
四月中江戸
近在所々に
たゝかいこれある
五月十五日
上の御山たゝかい
大坂にて大水
はし〴〵をちる
奥しうへん
にてたゝかい
これあるよし
さいばんしよ
にて御はう
びくださる
牛頭天王
御ゑ
かはる
青銭
 廿四文
文久十六
   文
通用
  る

板元 大坂 錦沢堂
      大正元、九