時疫流行の節此薬を用ひてその煩ひをのがるべし
一 時疫にハ大つぶなる黒大豆を能いりて壱合かんぞう壱匁
水にてせんじ出し時々 飲(のみ)てよし右 医(い)涯(がい)ニ出ル
一 時疫には茗(めう)荷(が)の根と葉をつきくだき汁をとり多く飲
てよし右 肘(ちう)後(ご)備(び)急(きう)方(はう)ニ出ル
一 時疫には牛房をつきくだき汁をしぼり茶碗に半分づゝ
二度飲てそのうへ桑の葉を一 握(にぎり)ほど火にてあぶ黄色に成
たる時茶碗に水四盃入二盃にせんじて一度飲て汗(あせ)をかきて
よし若桑の葉なくハ枝にてもよし右 孫(そん)真(しん)人(じん)食(しよく)忌(き)ニ出ル
一 時疫にてねつ殊之外つよく気違のことくさわぎてくるしむ
にハ芭(は)蕉(せを)の根をつきくだき汁をしほりて飲てよし右肘後備
急方ニ出ル
一切の食物の毒にあたり又いろ〳〵草木きのこ魚鳥 獣(けだもの)
など喰ひ煩に用ひてその死をのがるべし
一 一切の食物の毒にあたりてくるしむにハいりたる塩をなめ又ハ
ぬるき湯にかきたて飲てよし
但草木の葉を喰ひて毒にあたりたるにいよ〳〵よし
右 農(のう)政(せい)全(ぜん)書(しよ)ニ出ル
一 一切の食物の毒にあたりてむねくるしく腹張いたむには苦参(くらゝ)
を水にてよくせんじ飲食を吐いだしてよし右同断
一 一切の食物にあたりくるしむにハ大麦の粉をかうばしくいりて
さゆにて度々飲てよし右 本草(ほんざう)綱目(かうもく)ニ出ル
一 一切の食物にあてられて口鼻より血出てもだへくるしむには
ねぎをきざみて一合水にて能せんじひやし置て幾度も
飲べし血出てやむまで用ひてよし右 衛生(ゑいせう)易(い)簡(かん)ニ出ル
一 一切食物の毒にあたり煩に大つぶなる黒大豆を水にてせんじ
幾度も用ひてよし魚にあたりたるにハいよ〳〵よし
一 一切の食物の毒にあたり煩に赤(あか)小豆(あつき)の黒焼を粉にしてはま
一 一切食物の毒にあたり煩に大つぶなる黒大豆を水にてせんじ
幾度も用ひてよし魚にあたりたるにハいよ〳〵よし
一 一切の食物の毒にあたり煩に 赤あか 小豆あつき の黒焼を粉にしてはま
ぐり貝に壱ツ程づゝ水にて用ゆべし獣の毒にあたりたるに
いよ〳〵よし右 千金方(せんきんはう)ニ出ル
菌(きのこ)を喰あてられたるに忍冬(すいかつら)の茎葉(くきは)とも生(なま)にてかみ汁を飲
てよし右 夷堅志(いけんし)ニ出ル
右之薬法凶年の節辺土のもの雑食毒にあたり又凶年の後必
疫病流行事有其為に簡便方(こゝろやすき)を撰むべき旨依被 仰付諸書
の内より致吟味出也
享保十八辛丑年十二月 望月三英
丹羽正伯
□□享保十八辛丑年 飢饉(ききん)の後時疫流行候処町奉行江板行被
仰付御料所村々江被下候写
右は爾時諸国村々疫病致流行又は軽きもの共雑食の毒□あ
たり□煩ひ致難儀候趣相聞候処前書享保十八丑年村々江被下置候
御薬法書付之儀年久敷事故村々ニ而致遣失候儀も可有之候付此度
為 御救右之写村々江触知候様被仰渡候間御料所村々之分銘々支配限り
不洩様可被相触候
辰五月
右は享保天明厚
御仁恵を以軽きもの共為 御救御薬法書被下候処年久敷事故
遣失のみのも可有之哉ニ付猶又右写村々江差遣候間厚
御仁恵の行届弁候様村役人共より不洩様可為読聞もの也
酉十二月
宝暦八年寅
正月ヨリ十二月迄
日記
宝暦八寅正月ゟ
控帳
宝暦八年寅正月元日
一天山宮え 御名代
御参銀三匁
殿様ゟ 松田弥兵衛
御参銀三匁御内ゟ出ル
御前様ゟ 徳嶋忠兵衛
【右側】
御参銀三匁右同
喜三郎様ゟ 馬場清左衛門
御参銀三匁ツヽ右同
艶菊様
ゟ 下川利兵衛
伊三郎様
一両御寺え 御名代 服部清左衛門
【左側】
一丹州様え年始之為御祝義従
殿様 御立太刀一腰御馬代銀壱枚
御使者
中林太治馬
一御同人様え従 御前様三本入御扇子
一箱 御使者
富岡弥一左衛門
一 信州様えは御在府に付御使者江戸に而
相証也
一 二丸え御家中惣代蓑田作左衛門
藤嶋清左衛門久保藤十勤之并佐嘉
寺社え 御名代西丸勤御参銀
三匁ツゝ也
一 備前守様 於清様え年始之為御祝義
従 殿様 御前様三本入御扇子
一箱ツゝ都而四箱右は川原小路迄御使者
西丸勤
一 殿様え 御前様ゟ弐本入御扇子
壱箱
【右項】
一 殿様ゟ 御前様え弐本入御扇子
一箱
一 殿様ゟ 喜三郎様え御破魔弓
一餝
一 御前様ゟ 御同人様え 右同一飾
【左項】
一 殿様 御前様ゟ 艶菊様え御羽子
板壱枚むつろ共に弐ツ宛
一 殿様 御前様ゟ 伊三郎様え御
破魔弓弐餝
一 殿様 御前様え 喜三郎様ゟ弐本入
御扇子一箱ツゝ弐箱
【右項】
一 大和様え 殿様 御前様ゟ弐本入
御扇子一箱ツゝ弐箱御使者西丸勤
一 於久米様ゟ対馬殿二方え弐本入
御扇子一箱ツゝ弐箱御使者西丸勤
献上左之通
【左項】
一 殿様え弐本入御扇子三箱
大蔵殿
靱負殿
監物殿
一 御前様え弐本入御扇子三箱
大蔵殿
靱負殿
監物殿
【右項】
一 殿様 御前様え三本入御扇子一箱ツゝ
弐箱御舫に而 御仕切之御方除て
西太郎兵衛
水町舎人
園田善左衛門
西 弾正
一 殿様え弐本入御扇子壱箱 番頭中
【左項】
一 喜三郎様え御破魔弓一飾御舫弐本入
御扇子三箱
大蔵殿
靱負殿
監物殿
一 御同人様え右同一餝三本入御扇子一箱
御仕切之御方除て
西太郎兵衛
水町舎人
園田善左衛門
西 弾正
一 喜三郎様え御破魔弓一折
南里権右衛門
艶菊様え
一 御羽子板弐枚 右同人
一 伊三郎様え御破魔弓一折
右同人
一 艶菊様え御羽子板壱枚
太田蔵人
一 御前様え御目見之次第
大蔵殿
【右頁】
靱負殿
図書殿
監物殿
西太郎兵衛
水町舎人
【左頁】
園田善左衛門
野口進之允
太田左治馬
横尾久右衛門
中尾次郎右衛門
【右頁】
東十左衛門
遠岳伝右衛門
宮地新五右衛門
木下与左衛門
一於御新宅
御姫様え【江】御目見
【左頁】
大蔵殿
靱負殿
図書殿
監物殿
西太郎兵衛
水町舎人
園田善左衛門
野口進之允
正月二日
一 両獅子参上御玄関前に而相調候
被下物跡方【先例】之通り
同月三日
一 於無量寺 玉真院様え
御代香御使者番勤御香奠
線香壱束
一宗智寺え 御名代西丸勤
正月四日
一 日向筑前嶋原え年始飛脚差立候也
同五日
一 二丸御祝に進之允殿被相越候也
同六日
一 美麗参上御酒并青銅壱貫文
被下之候
一 初御参会に付御親類御家老方え吸物一
取肴共に肴二元〆役御相談役御
目付役受役付候えは肴弐ツに而出し候
其外御蔵方役御納戸役銀蔵方
役吟味方役御修り方役郡方役
勘定所役郷目附地方普請方役
井樋方役牛津御蔵床役右何茂
肴一ツに而出候也
同七日
一 今夜鬼豆囃子例之通御蔵方役勤之候
同八日
一 善左衛門殿御事御用に付大坂被指越
之段先達而被 仰付置候末今日ゟ
爰許御発足也東嶋与惣右衛門儀も
被御連越候也此節江戸大坂え之御
用簡差越候
正月九日
一 般若寺事去春ゟ為聖教/仕立/高野
相越被居候処昨夜帰寺被致候
同十日
一 松尾山え 御名代御使者番勤
御香奠線香壱束
一 上廻上乗帰便に而江戸大坂ゟ之御用
簡文箱到着
正月十一日
一 宗智寺え 御名代 木下牧太
御香奠白麻【白麻紙】廿帖
一 祥光山え 御名代御使者番勤
御香奠線香壱束
一 大和様え年始為御祝義御家中
惣代木下牧太其外は西丸勤に而
相澄【済】也
正月十二日
一 円覚院様え 御名代水町舎人
御香奠線香壱束御寺納
一 上屋敷便に而江戸ゟ之御用簡到来
正月十三日
一 御参会例之通御出 殿被成候
一 京都女中りう去冬被指返候に付
為宰領足軽岡弥五兵衛且手男進左衛門
右両人被相付被指登候処今日致帰着候
正月十四日
一 諫早小舩越御陣場之百姓為御祝儀
罷越に付青銅弐貫文跡方之通被下之候
同 十五日
一 当日為御祝儀各方御出仕被成候
正月十六日
一両 御姫様今日四ツ時御供揃に而祥光山江
御堂参被遊候
正月十七日
一対馬殿家来江原惣右衛門と申人先日芦刈
於御私領鶴を打候付大庄やゟ郡方并
佐嘉諸猟方へ届有之候由鳥柄之儀は
此御方ゟ御構無之候得共御私領に而鉄炮を
放候付其侭難被差置に付蓑田作左衛門迄
無屹度彼家来え被取合候様左之通り
申行
其御方御家来先日芦刈於私領鶴を
打被申候鳥柄之儀は此御方ゟ曽而御構
【右項】
無之候得共於私領鉄炮を扱被申候儀
畢竟入交候場所には候得共此跡も右躰之儀
有之度々打重り候而は御間柄之儀若
表立候御取合等も有之間敷ものに而も無之
甚気之毒抔候条以後紛等敷儀無之様
被仰付置度候此旨無屹度申達候様
役人共申候
右之通対馬殿家来迄作左衛門ゟ取合被申
【左項】
候様御相談人中ゟ同人え手渡行
【封紙表書】
寛延四年未十一月
対馬殿家来芦刈於御私領鳥打
候節此□□□□取合之ひかへ
一阿蘭陀今晩牛津止宿に付郡方其外
諸役跡方之通被指越候也
正月十八日
一本良院様え 御名代野口進之允
御香奠線香壱束
正月十九日
一年始為御祝儀今日 大和様御越被成候
御中宿般若寺桜岡御出被成外御居間に而
御酒上ル御吸物一御肴二取肴一御相伴大蔵殿
御挨拶北嶋三折御給仕麻上下着用也
御相談人方迄被渡 御目左候而御内
御出被成あな■相澄御新宅へ御出被成候
御供侍中え於小松間肴両種に而御酒
被差出候相伴御広間番ゟ被致候
一当月御祈祷岩蔵寺於小松間
今日ゟ二夜三日例之通執行之事
正月廿日
一 於玉毫寺 金栗様え之 御名代
持永助左衛門御香奠線香一束
一 於祥光山 寿昌院様え之 御名代
右同人御香典右同断
一 今日於使者ノ間稽古仕廻囃子
有之候此節 御前様 御子様方
御覧被遊候
正月廿一日
同廿二日
一 於祥光山 放光院様え之 御名代
宮地五左衛門御香奠線香壱束御寺納
一御参会例之通御出仕被成候
正月廿三日
一御前様今日天山宮え御社参被成候御席に
般若寺え聖教為 御拝見御寄被成候
一江原平次郎世倅覚左衛門勢州大神宮参詣
仕度御願候処願之通被仰付候尤御在国
之節は伺に相成御在府之節は各方御聞
届に而御届に申越段御格式帳有り
正月廿四日
一江戸大坂え之御用簡今日仕廻に而足軽
江頭次兵衛勢州大神宮え参詣いたし候
便に而大坂迄差越候尤右為太儀料
彼者え銀拾五匁被下之候
正月廿五日
一 今度大坂表御借銀一通り尖【先】に
為相澄候於般若寺御祈祷御執行
被成候依之為御祈祷料廿文銭五百目
被指出候也
同廿六日
一 於祥光山 弘徳院様え之 御代香
戸田三郎兵衛御香奠線香壱束
一 於同寺 長寿院様え之 御代香
右同人御香奠右同
正月廿七日
一 廻米上乗帰便に而江戸大坂ゟ之
御用簡文箱到来
一 丹州様為山御狩今朝西目筋御越被成候
跡方之通郡方諸役牛津差越候
同廿八日
同廿九日
一 御前様五ツ半時御供揃に而祥光山
西礼寺え御堂参被遊候
同丗日
一 於祥光山 □【見】性院様え之 御代香
神代目兵衛御香奠線香壱束
一 小城町狂言今日御玄関前に而
御前様 御姫様方 御子様方
御覧被成候此節狂言役者中え五升
樽一塩鯛弐枚被下候尤御内ゟ出ル
一 江戸大坂ゟ之御用簡文箱町飛脚
に而今日到来
二月朔日
同二日
一 御参会無之
一 鹿嶋え為年始御祝儀太郎兵衛殿
中尾次郎右衛門今日被罷越候也
一 喜三郎様御眼躰未御快不被成御座
に付御様子為伺佐嘉目医師
松隈甫安今日又々被罷越候此節
御酒等且/一汁三菜之/懸合御内に而被指出候
二月三日
一 無量寺え之 御名代御使者両勤
二月四日
二月五日
一 御用に付各方御出 殿被成候
一 喜三郎様先頃ゟ少々御眼病気
被成御座未御勝不被成に付今日
岩蔵寺
御同人様御部屋罷出大般若
壱部執行被致候
一 善左衛門殿大坂御越御留守中太郎兵衛殿
舎人殿進之允殿御三人に而御請役
被相勤候処善左衛門殿何月頃御帰着之
程も不相知其間御自力に而被相勤兼
候付御三人え銘々に銀拾匁ツ丶被為
拝領候先以判突に而出ル
二月六日
一 青雲院殿廿五年回忌山代親種寺に
おいて執行有之付御代香を以
線香壱束被進
一 丹州様先月廿七日白石御狩ゟ
御帰路之節牛津縄手に而中嶋貞之允
於保源吾御無礼仕候付於二丸
中溝孫右衛門ゟ蓑田作左衛門へ相渡被申候
達書付左之通り
紀伊守殿家来
中嶋貞之允
於保源吾
去ル廿七日白石御狩ゟ御帰路之節
右両人牛津西入口南田道ゟ参掛
候付御先掃之者其外御供ゟも
下座之儀段々相告候得共不承入
御無礼仕候御通り之儀を存間敷
様も無之無調法之至候向後右躰
之儀無之様可被申付候以上
寅正月晦日
右之通附衆川浪助右衛門宅に而同人ゟ右両人え
被申渡此御方ゟも猶又向後左様之儀
不仕候様稠敷演達仕候事左候而
佐嘉えは此御方ゟも稠敷被仰付候段
且○【右に「あ」を付記】なたゟも無何事軽ク相澄候挨拶
彼是宜取繕二丸え被申達候様蓑田
作左衛門へ御相談人中ゟ申行
一 対馬殿家来石井彼面と申仁西丸迄
罷出申候は先日芦刈御私領之内
に而江原惣右衛門鶴打留メ候付而向後
右躰之儀無之様可相達置候而【候而→旨?】委細
御口能之趣詰合之者共承知仕候
其節早速御断旁として得御意
筈之処千万奉痛入候先年も
右躰之儀有之又々右之次第対馬殿
にも被承甚気之毒に思召候依之
江原惣右衛門義先日牢人被申付候扨又
向後私領方之者共右躰之儀不仕様
端々迄懇に被申付候
右之通彼家来西丸迄罷出申候由
蓑田作左衛門ゟ申越候に付此御方ゟも又々
作左衛門迄申行候向後右躰之儀無之様
相被仰付候惣右衛門牢人被仰付候儀は
甚気之毒存候条何卒御免被成度
存候由役人中何も申候由彼家来へ
取合置被申候様申行
一 若殿様為伺御機嫌各方御出仕被成候
一 江戸大坂え之御用簡文箱今日仕廻に而
小倉迄指越候飛脚大園彦左衛門
二月七日
一 御家中養子縁組之儀間には不相応之
人柄に養子親を名付【名指して】取組相願候段
御格にも迦【はずれ】甚不宜に付左之通触出候
御家中養子縁組之儀御格も
有之候処間には不相応之人柄に
養子親を名付取組相願候様に
相聞心得違之儀御格にも迦甚
不宜候寄親としては尚又紛等敷
儀無之様時々可入念候以後相違
之儀も有之節は可被及御吟味候条
此段端々迄懇に可被相達旨候
月日
右之通大組代中へ触出候
一 若殿様御眼病気に被成御座候付
今日ゟ岩蔵寺小松間においてニ夜
三日大般若執行有之候事
一 三浦勘左衛門儀修理方役鴨打勘左衛門
代被 仰付候也
一 喜三郎様御病気に付而御匕原口宗祝へ
被 仰付候
一 喜三郎様為伺御機嫌各方御出仕
被成候
二月八日 御祈祷
二月九日
同十日
一 松尾山え之 御名代御使者番勤
一 喜三郎様御病気一円御替不被成に付
為御平安於般若寺御祈祷執行
被 仰付候依之為料銀拾匁被指出
候也
一 為伺御機嫌各方御出仕被成候
二月十一日
一 祥光山え之 御名代御使者番勤之事
一 江戸○【右に大坂】ゟ之御用簡文箱町飛脚便に而
到来
一 為伺御機嫌各方御出仕被成候
二月十二日
一 円覚院様え之 御名代南里権左衛門
一 若殿様為伺御機嫌各方御出仕被成候
一 若殿様為伺御容躰今日松隈甫安被罷越候
二月十三日
一 御参会例之通御出仕被成候也
一 江戸へ之御用簡今日仕廻に而二丸便を以
差越候
二月十四日
二月十五日
一 上屋敷便に而江戸ゟ之御用簡到来
一 当日為御祝儀各方御出仕被成候
同十六日
一 霜月諸願今日被 仰渡候
一 持永助左衛門方姉を太郎兵衛殿御養子有之
末は弾正殿え嫁娵有之度旨霜月
諸願え被相願候処願之通不相澄
追而 御賢慮之上可被 仰出由申
来候依之其段助左衛門方へは御相談人方ゟ
達有之候也
一 鴨打勘左衛門儀吟味方役三浦勘左衛門代り
被 仰付候尤只今之通御蔵方役ゟ
兼勤候様被 仰付候也
一 今泉惣左衛門組足軽今泉作右衛門儀
表具為稽古京都罷越度旨
尤向五ヶ年之御暇相願候処御
吟味之上願之通被仰付候足軽には
候得共年限程久敷有之候ゆへ
江戸へ御届に被仰越候事
一 下川利兵衛儀当分
若殿様御側差次被仰付候庄新兵衛
御免被成候事
与次右衛門
二月十八日
一 本良院様え之 御名代持永助左衛門
薬王寺惣次郎
脇方
野口次郎兵衛
高木忠右衛門
地謠 横尾内蔵允
辻 金太夫
右之通御能方稽古有之候様被 仰付候也
二月十九日
同 廿日
一 玉毫寺え之 御名代御使者番勤
一 祥光山え之 御名代右同
一 若殿様御眼躰為伺今日松隈甫庵被罷出候
此節懸合之料理且御酒等御内に而出る
二月廿一日
一 江戸大坂ゟ之御用簡文箱町飛脚に而
今日到来
一 今日仕廻に而江戸大坂え之文箱小倉まて
差越飛脚武藤新六
二月廿二日
一 祥光山え 御名代御使者番勤
一 御参会例之通御出仕也
同 廿三日
同 廿四日
同 廿五日
同 廿六日
一 丹州様今日伊万里え御越被成候此節
多久屋敷え為御昼休御入被成候依之
通り切之人馬之分は小城郡之人馬多久ゟ
伊万里迄被差出候郡次之人馬之儀は
牛津ゟ川古迄被差出候右に付多久牛津
両所へ郡方其外諸役被指越候也
一 若殿様御眼躰伺として今日松隈
甫庵御内被罷出候此節懸合之御
料理御酒等被差出候也
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
二月廿七日
一 図書殿御事蓮池御親類鍋嶋右近方
娘と縁組之儀被相願候処願之通り
被仰付候此段彼御宅へ舎人殿為
上使被罷出候被相達候尤裏付上下
御着用に而御出候也
二月廿八日
奉願口上之覚 村川平八
私儀近年内證殊之外差閊
通年困窮仕候依之何卒相続
仕末々相応之御奉公申上度奉存
候条向き五年之間臨時之御奉公
御免被下度奉願候責而仕切を相
願門戸を閉候而専倹約仕度尤
年始歳暮扨又御参勤御着座
其外重き御祝儀之節は可罷出候
此段筋々宜敷被仰上可被下候分【以上ヵ】
丑十二月八日
右願之趣江戸へ被伺越候処願之通り
被仰付候旨申来候に付同人呼出に而
御相談人方ゟ被相達候也
一 唯情院様明廿九日御三年回忌に付
殿様ゟ 御前様え御野菜左之通
被指送候
一山いも 一くわい
御野菜品 一わらび 一氷こんにやく
一上ヶとうふ
一 池田武十儀御留守御武具方当分小寺
友之進手伝被仰付候
一 御前様七ツ時御供揃に而念仏堂御参詣
被成候
二月廿九日
一 祥光山え 御名代御使者番勤
一 満八様今度於江戸御家督被蒙
仰出候付此御方ゟ御祝儀物左之通り
被進候
一御太刀 一腰
一御馬代 銀壱枚
一干鯛 一箱
一御樽代 金三百疋
右は満八様え
一干鯛 一箱
右は玉泉院様え
右之通於江戸被進候段申来候也
三月朔日
一 当日為御祝儀各方御出仕被成候
一 江戸え之御用簡今日仕廻に而二丸便を以
差越す
三月二日
一 御参会例之通御出仕被成候也
一 若殿様御匕村田元栄に被 仰付候
原口宗祝儀折々御断に付御匕御免
被成候
三月三日
一 丹州様え 御前様ゟ当日御祝儀
御使者西丸勤且御家中惣代
同所ゟ勤之
一 当日為御祝儀各方御出仕被成候也
一 若殿様御病気為御見廻今日
大和様此御方御越被成候此節対面所に
少し之間御屯被成候に付御茶たばこ上る
御親類御家老方御出合被成候左候而
御内御入被成あなたに而一汁五菜之御料理
且御吸物に而御酒なと上る御内御仕廻被成候
而ゟ御新宅へ御出被成候也
一 御供中えは茶たばこ計出る
三月四日
一 若殿様御眼病気一円御替不被成に付
為御快然今日○【「より」と付記】岩蔵寺於小松間五日
五夜御祈祷執行被 仰付候御施物
一通御納戸に扣有り
三月五日
福田寺破壊いたし候に付本寺潮音寺へ被遣候也
草葉村
一金子百疋 福田寺
一銀六匁 南昌坊
右は御先代金剛院と申す仏説座頭
無調法有之生害被 仰付候由今度
若殿様御眼病気に付為御祈祷右之通
一福田寺に而は六十年以前
右之霊たゝり有之故寺ゟ
金剛天神と祝置候由
申伝候也
被差出候尤南昌坊へは此御方ゟ相立被
置候塔有り左之通り
承応三甲午四月廿五日
前検挟覚心了栄大徳
当寅ノ年迄百五年に成る
右に付潮音寺へ米壱石
御寄附被成候此段為申達
城嶋九左衛門被差越候也
四月十二日
一 川上一ノ井樋部替に付佐嘉役々今日
立会有之候此節跡方之通此御方ゟも
役々罷越被申候付而酒一汁三菜之料理
仕立御台所ゟ差越候也
三月六日
同七日
同八日
一 留守八郎左衛門儀御広間番御使者番役
被 仰付候
一 若殿様今度御眼病気に付為御
順快桜岡詰侍中拾壱人ゟ左之通
御願文上る
一天山宮え 祓五十座之事
一稲荷社え 三ケ月放生之事
一薬師尊え 五十灯明之事
一 右同断に付桜岡詰小頭中ゟ祇園社
天山宮清水観音え百日参詣之御
願文上る
一 大和様御事旧冬御婚礼首尾好
被相調候に付而御祝儀御使者之儀
江戸に而御承知被遊候上
当二月に被進筈相聞居候得共
段々御指合有之今日被進候御
祝物左之通り
拾枚
一干鯛 一折
一御樽代 三百疋
右は従 殿様 大和様え御使者
嬉野弥七左衛門勤之
八枚
一 干鯛 一折
一 御樽代 弐百疋
右は従 殿様御新造様へ 御使者
右同人
大和様へ
一 干鯛 六枚 一折
一 御樽代 百疋
御新造様へ
一 干鯛 六枚 一折
一 御樽代 百疋
右従 御前様御使者右
同人
大和様御夫婦様御銘々え
一 三本入御扇子 一箱宛
一 御肴塩鯛弐ツツヽ 一折宛
右 御姫様御両人様御舫に而
被遣候御使者同人
大和様え
一 鯣 三連 一折
右御親類方ゟ御使之義附者
相勤候様御頼に付中原又左衛門勤之
大和様え
一 塩鯛弐枚 一折
御家老方ゟ
一 御家老方ゟ進之允殿被相越候御家中
惣代宮地五左衛門藤嶋清左衛門御進物
介副中原文左衛門足軽両人
三月九日
同十日
一 松尾山え之 御名代御使者番勤
同十一日
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
一 若殿様為伺御眼躰松隈甫庵今日
罷越被申候此節懸合之御料理御酒等
被差出候也
同十二日
一 円覚院様え之 御名代戸田三郎兵衛
一 江戸へ之御用簡今日仕廻に而二丸便
を以指越候也
一 監物殿知行所山代郷里村焚瀧右衛門と
申者唐津領呼子忠右衛門と申者え
竹木売渡候に付右旅出津口切府
之儀此御方ゟ不被相願候得は不相澄付
佐嘉へ此御方ゟ被相願候也
三月十三日
一 為御留守詰左之人数今日ゟ爰許
被指立候
庄新兵衛
東嶋市右衛門
梅崎与右衛門
上瀧久兵衛
村岡弥平次
太駄八郎右衛門
野口源之允
足軽
中山七右衛門
諸隈伊左衛門
松山二左衛門
原口重右衛門
一 御参会例之通御出仕被成候
一 丹州様今日白石山御狩此節牛津
御通路に付跡方之通り諸役被
指越候也
三月十四日
一 上屋敷便に而江戸ゟ之御用簡
到来
一 崎川弥一儀今度
若殿様御眼病気に付英彦山
大宰府天神え 御代参被
仰付候尤来る十七日ゟ被指立之旨
御相談人方ゟ被相達候也
一 横尾久右衛門儀当分御相談役兼勤
候様被 仰付候
三月十五日
一 伊三郎様今日初御誕生日に付
御祝左之通
一御床餝 一三方敷紙土器洗米
一三方 瓶子二 一三方 餅二
のし
殿様ゟ 伊三郎様え
一 御肴 一折
一 御樽 弐升入
御前様ゟ 御同人様え
一 御肴 一折
一 御樽 右同
喜三郎様ゟ 御同人様え
一 御肴 一折
一 御樽 右同
御前様え 伊三郎様ゟ
一 御肴 一折
一 御樽 弐升入
喜三郎様え 伊三郎様ゟ
一 御肴 一折
一 御樽 右同
一殿様え之御返礼之儀
追而江戸に而被進筈也
お三様 お久米様 お美濃様え
一御肴 一折
一御樽 三升入
伊三郎様ゟ
一 御祝之御料理壱汁五菜
一 御吸物 壱 一御肴 弐ツ
一 御取肴 一御菓子
一御酒拝領【横に「肴一ツに而」と付記】左之人数
南里権右衛門
中尾次郎右衛門
同人 女房
冨岡小兵衛
池上藤太
松田与四右衛門
庄次郎太夫
岩松七右衛門
下川利兵衛
銀弐匁 小嶋三折
同壱匁 川久保順悦
同壱匁 原口宗祝
岩蔵寺
殿様
御新宅ゟ 御使者両人
高瀬
のわ
うち
いを
もへ
鎖口詰御徒士中
御内惣女中
一青銅五百文 取上ばゝ
一同三百文 手代り
一同弐百文 御腰上
一同弐百文 御跡副
一壱汁弐菜御料理拝領
左之人数
中尾次郎右衛門
女房
取上ばゝ
御腰上
御跡副
手代り
一 右御祝に付各方御出仕也左候而
御到来之御酒御啓を御拝領被成候也
一 若殿様今度御眼病気に付而
御家中侍通ゟ於般若寺○【横に付記 薬師善逝法】五夜
五日之御祈祷執行致候事
三月十六日
同十七日
一 崎川弥一英彦山宰府へ為 御代参今日ゟ
出立
一 両織嶋ヶ里岡本ヶ里ゟ例年之通
玉無し鉄砲相願候処願之通相澄
候也
同十八日
一本良院様え之 御名代宮地五左衛門
一 若殿様為伺御眼躰松隈甫庵
今日又々御内被罷出候此節懸合之
御料理御酒出
三月十九日
一 大和様御婚礼首尾能被相調候付而
為御祝儀先頃此御方ゟ御使者被進候
右御返礼御使者今日彼御方ゟ被
進候御祝物左之通御到来
一鯣 七連 一折
一御樽代 弐百疋
右は
殿様え 大和様ゟ
一鯣十連 一折
右は
殿様え奥方様ゟ
一鯣七連宛 二折
右は
御前様え 大和様御夫婦様ゟ
一干鱈五枚 一折
右は
お三様 お久米様え 大和様
御夫婦様ゟ
御使者
深堀左内
介副
徒士壱人
右之通御到来被成候也
一 右御使者深堀左内え小松間に而吸物三ツ
取肴迄肴三ツに而御酒拝領且白麻
廿帖被為拝領候介副へは鑓懸之下に而
吸物一ツ肴三ツに而御酒被下其上白麻
十帖被下候也
一 若殿様御病気に付而佐嘉ゟ池尻元寅
と申町醫御内被召呼御様躰御見
被成候此節一汁三菜之料理酒出る
三月廿日
一 寿昌院様御正当に付祥光山え之
御代香水町舎人御香典線香一束
一 玉毫寺え之 御名代御使者番勤
一 若殿様今度御眼病気に付御家中ゟ
於般若寺御祈祷執行仕御願文指上
候処 御前様別而御太慶被
思召上候に付右之趣御家中へ申達候様
御当役方被仰候依之 大組代中
呼出に而御太慶被 思召上候旨御相談
人方ゟ被相達候也
一 江戸へ為飛脚足軽山田七郎兵衛大里
道中二日中国九日東海道八日にして被
差越候尤渡方之儀は中国地十四日
東海道十三日にして被相渡候右急き之処は
別段に銀弐拾目被相渡候也
三月廿一日
一 御下国御船中御祈祷例之通り
於岩蔵寺御執行有之候尤為御
祈祷料銀壱枚被差出候也
一 足軽江頭次兵衛伊勢参宮帰便に而
江戸ゟ之御用簡到来
三月廿二日
一 御参会例之通御出仕被成候
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
三月廿三日
一 御迎船被差廻候付而岡三左衛門を始
其外役者跡方之通被差越今日ゟ
山代出船也
一 若殿様今度御病気に付而山伏中ゟ
於小松間一洛叉御祈祷執行仕
差上申候尤備物其外入具一通は
上ゟ出る
一 大坂え為飛脚○【○の横に「足軽」と付記】古賀源六大里道中
二日中国路九日に而被指越候尤渡方之儀は
常渡也急きに而被指越候処は外に銀
弐拾目増し被下候也此節江戸へ之
御用簡■差越候
三月廿四日
一 泰盛院様御正当に付高伝寺
え之 御代香西丸勤御香奠
白麻廿帖
一 崎川弥一儀
若殿様御眼病気に付而英彦山
太宰府へ為 御代参去る十七日ゟ
被指越候処昨夜致帰着候也
三月廿五日
同 廿六日
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
一 御用に付長崎へ為飛脚足軽久冨
作兵衛被差越候
同廿七日
一 お清様御事去廿三日御眉被為直
候付為御祝儀従
塩鯛弐枚
御前様御肴一折 今日被進候
従 殿様は日積を以追而被進筈也
三月廿八日
一 今日備前守様為御参勤御在所
御発駕牛津御通路に付御使者
関市之進御家中惣代留守八郎左衛門
小野田藤蔵庄藤兵衛其外郡方諸役
被指越候也
一 御前様ゟも御一使に而相澄候
同廿九日
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
一 喜三郎様御病気為御見廻従
丹州様今日御使者野田勘兵衛被進候
此節御使者へ小松間に而一汁三菜之
料理酒出る
四月朔日
一 天山宮御田に付 御名代中林
太治馬御参銀壱両御社納
一 同断に付警固頭人冨岡弥左衛門
勤之
一 御用に付筑前上末に罷在候田原養伯
と申目医師へ飛脚足軽原口
次右衛門今日ゟ被指越候也
四月二日
一 喜三郎様御病気為御見廻一昨日
従 丹州様御使者被進候右
御礼として今日従
御前様御使者被進候也嬉野
弥七左衛門勤之
一 御参会例之通御出仕被成候
一 喜三郎様御病気に付而於御上覧場
御手山伏五人に而御祈祷御執行被成候
四月三日
一 無量寺え之 御名代御使者番勤
一 相良柳碩儀外療為稽古長崎
罷越居候処稽古方相仕廻一昨夜
致帰着候也
四月四日
四月五日
一 大坂ゟ之御用簡町飛脚に而到来
一 村田元栄川久保順悦儀今度
喜三郎様御病気に付而当二月ゟ定詰
仕罷在候付為御合力銀五匁ツヽ被為
拝領候此段御相談人方ゟ被相達
候也
卯月六日
一 江戸大坂え之御用簡小倉ゟ之飛脚
帰便に而差越候
同七日
一 江戸ゟ之御用簡上屋敷便に而到来
之事
四月八日
一 水町右馬助儀近年内證極々差閊
相続難叶に付仕切之儀相願候に付
江戸被伺越候処願之通被仰付候段
申来候依之同人呼出に而御相談人方ゟ被
相達候
一 若殿様御病気に付而於御上覧場御
手山伏五人に而今日又々御祈祷御執行
之事
同九日
一 若殿様為伺御眼躰今日又々松隈
甫庵被罷出候此節も先頃之通り
壱汁三菜之料理酒出る
卯月十日
一 松尾山え之 御名代御使者番勤
一 例年之通於岩蔵寺般若寺五穀
豊饒御祈祷御執行に付為料米六斗
銀三枚ツヽ両所え被差出候
一 若殿様御病気に付而二丸御匕西岡
長円被遣下候様被仰入候処今日
御内罷出御容躰伺被申候此節
懸合之料理酒出る
卯月十一日
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
卯月十二日
一 円覚院様え之 御名代戸田三郎兵衛
一 岩蔵寺事先達而佐嘉ゟ江戸
護摩堂詰被仰付近々ゟ出立被致候
依之従
殿様為御餞別金子千疋被遣候尤
御使御徒士ゟ相勤候事
卯月十三日
一 御参会例之通御出仕被成候
一 村田順哲儀御家中に被召抱度
先達而佐嘉え被相願候処御願之通
相澄候委細之儀は佐嘉取合帳に
扣有り
卯月十四日
同十五日
一 般若寺法印事永々病気之処
一円快無之に付人参七分御納戸有合
之分被為拝領候
一 当日為御祝儀各方御出仕被成候
卯月十六日
一 江戸大坂え之御用簡今日仕廻に而小倉
まて差越飛脚足軽武藤新六
一 両御姫様今晩暮過ゟ護摩堂え
御歩行に而御参詣被成候
卯月十七日
一 今晩天山宮正迁【遷】宮有之候
同十八日
一 本良院様え之 御名代南里権右衛門
一 阿蘭陀人今晩牛津泊に付諸役人
跡方之通□□被□□□
一 般若寺え金十両下路銀当に
被為拝領候〇【〇の横に「尤」を付記】聖教為建立高野へ
罷越当春罷佐下被申候付而也
一 御屋敷内四社へ祓被仰付般若寺
今日相勤被申候此節為御施物金子
弐百疋被差出候
四月廿日
一 両御寺え之 御名代御使者番勤
同二十一日
同二十二日
一 今日ゟ於念仏堂郷内落方引合有之候
に付郷方役中附役迄彼寺相詰被申候
依之晩方之扇弁当被指出候
一 御参会例之通御出仕也
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
同二十三日
一 上屋敷便に而江戸ゟ之御用簡到来
同廿四日
四月二十五日
一 筑前守様長崎御越今晩牛津
御泊に付火消頭人関市之進勤之
其外郡方諸役跡方之通被差越
尤御使者無之
同二十六日
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
一 岩蔵寺法印事先達而佐嘉ゟ
江戸護摩堂詰被 仰付置候末今日より
爰元出立被致候
同廿七日
一 満八様御事御名替被成主税様と御改名
被成候段申来候也
同廿八日
卯月廿九日
同晦日
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
一 当年別而旱魃に付於岩蔵寺雨乞
御祈祷御執行有之候此節料銀三枚
被差遣候
一 御前様 御姫様方今晩暮頃ゟ祇園
川原え蛍為御見物御出被成候
五月朔日
一 筑前守様長崎ゟ御帰路今日牛津
御休に付諸役者跡方之通被指越候也
一 長崎御仕組被 仰渡候付二丸え今日
舎人殿被罷出候
五月二日
一 御参会例之通御出仕被成候
同三日
一 無量寺え之 御名代御使者番勤
一 大坂ゟ之御用簡町飛脚に而到来
同四日
一 御用に付各方御出 殿被成候
一 若殿様為伺御眼躰松隈甫庵今日
又々御内罷出被申候此節懸合之料理
等出候る
一 般若寺法印事先頃ゟ病気之処
近日猶又差重り候付為養生
昨夜ゟ【今朝ゟを見え消し】いなさへ引取被申候
一 般若寺法印事病気養生不相
叶今日遷化之段申来候
一 右に付般若寺寺番之儀当分宝珠院に被
仰付候 五月五日
一 丹州様え従 御前様当日御祝儀
御使者西丸勤
一 当日為御祝儀各方御出仕被成候
同六日
同七日
同八日
一 御暇之飛脚今朝到着いたし候
此節御親類御家老方へ
御格書到来
一 先達而大坂え為飛脚足軽古賀源六
被指越候処今夜致帰着候
五月九日
一 若殿様御眼病気に付而従
殿様江戸於山王社御祈祷被仰付候
右御成就之御礼到来に付塩御肴一尾相副
今日御内上る
同十日
一 江戸大坂え之御用簡小倉まて指越候
飛脚足軽久冨作兵衛
一 松尾山え之 御名代御使者番勤
一 御用に付各方御出仕被成候
同十一日
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
一 当御下国人馬心遣池田兵部左衛門へ
被仰付候御相談人方被相達也
一 表御門番成松祐右衛門へ被仰付候段
御相談人方ゟ達有之
五月十二日
一 円覚院様え之 御名代持永助左衛門
勤之
五月十三日
一 御参会例之通御出仕被成候
同十四日
一 般若寺円智法印先頃被致遷化
候付而為茶湯料金子百疋被遣候
五月十五日
一 星野二右衛門儀御借銀方御用に付而大坂
被差越【○の横に「置」付記」】候処与風病気指出急に養生
調急兼候付御暇相願候処願之通被
仰付罷下り今日被致帰着候
同十六日
一 今暁江戸ゟ飛脚到着
殿様去る二日江戸御発駕被遊候由申来候
一 今度御着座轟木御迎御供左之
人数被仰付候旨御相談人方被相達候
遠岳源右衛門
【「相原八郎右衛門」見え消し】
松田弥兵衛
持永彦四郎
石動安右衛門
納冨久弥
大嶋彦右衛門
秀嶋吉右衛門
高橋忠右衛門
川頭源之進
【「■■吉左衛門」を見え消し】
納富源右衛門
一 右馬乗以下八人ゟ相願被申候者当時節柄
自力に而は相勤兼候条少分成共拝借
被仰付被下度相願被申候処願之趣
無拠相聞候付銭四百文宛被貸下候
一 嬉野神兵衛儀与風病気差出中々
急に快気仕躰無之に付役方御断
申上候処願之通御免被成候
五月十七日
一 今日御舞台に而稽古能被相調候
此節 御前様 御姫様〇【〇の横に「方」付記】御覧
被成候
同十八日
一 本良院様え之 御名代宮地五左衛門
同十九日
一 大里御迎今日ゟ【被ヵ】差立候人馬心遣池田
兵部左衛門被指越廻【且ヵ】足軽四人小道具拾人
被指越候此節御用簡遣候
一 当月御祈祷例之通岩蔵寺於小松間
二夜三日〇【〇の横に「今日ゟ」付記】執行被致候
一 御前様今日四ツ半時御供指【揃ヵ】に而新宅
御出被成候尤御出懸に畑田天神え御参詣
被成候也
一 御子様方御新宅へ今日初に御出被成候付而
御姫様方へ御銚子弐升塩御肴二尾被進候
一 二月諸願今日被仰渡候
一 遠岳伝右衛門儀病気に付役方御断申上候処
願之通御免被成候
一 藤嶋善之允儀牛津上使屋番嬉野
神兵衛代役被 仰付候
五月廿日
一 両御寺え之 御名代御使者番勤
同廿一日
一 嬉野杢右衛門ゟ相願候者兼而内證指閊候上
親甚兵衛死後猶以相続端的不相叶
候条何之通にも拝借被仰付被下候様
相願被申候処拝借今有之候而は当御【御の横に「時」付記】節柄
一統之事に而
不被相叶併甚兵衛数年役方堅固に相勤
候付而右に被対米九斗被為拝領候也
五月廿二日
一 御参会例之通御出仕被成候
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
一 千々岩弥左衛門儀下郷普請方藤嶋善之允
代役被仰付候
同廿三日
同廿四日
一 秀嶋八郎左衛門儀去冬ゟ高嶋番として
差越被置候処番致交代今日被致
帰着候也
五月廿五日
一 今日於御舞台稽古仕舞囃子
有之候此節 御前様御子様方
御覧被成候
同廿六日
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
同廿七日
一 御前様今日畑田天神え御参詣被成候
同廿八日
一 水上山不動会に付 御名代渋川新右衛門
御参銀三匁
先山蕫永
一 当祇園会山人形鬮本山楠木昔ヒ【物を見え消し】語
一 大坂飛脚今日到着
殿様去る十五日大坂御着十八日御出駕
此節室路被遊廿一日ゟ御乗船被遊候段
申来候
一 右に付 丹州様え之御状到来に付而
西丸迄差越候
一 御内御新宅へ早速申上候事
一 佐嘉表御知せ之御方様えは西丸ゟ被
申上候事
五月廿九日
一 見性院様御正当に付
御名代水町舎人御香奠線香
壱束御寺納也
六月朔日
一 丹州様御厄入に付御願文左之通被進候
一山王社 放生之事
一与賀社 祓三百座事
一八幡宮 神楽料事
右は従 殿様御肴干鯛五枚一折
被相副被進候御使者西丸勤介副
中原文左衛門
一山王社 放生之事
一与賀社 祓二百座事
一八幡宮 神楽料事
右は従 御前様御肴干鯛一折三枚
被相副被進候御使者右同所勤
一 お久米様御厄入に付従
殿様御願文左之通被進候
一不動尊 護摩供三座
一金毘良宮 御神燈百燈爐
一稲荷社 魚鳥二種放生
御肴塩鯛一尾被相副候事
六月二日
一 御参会例之通御出仕被成候
同三日
一 大里ゟ之飛脚今暁参着
殿様去朔日大里御着同二日ゟ彼地
御発駕之段申来候依之轟木御迎
且神崎御迎被差越也
一 今夜轟木御泊之由申来候に付同駅迄
御家老中ゟ御機嫌伺之状差越飛脚
足軽御親類方ゟは御使札被差越也
一 佐嘉御知せ合之御方々様〇【〇の横「お清様」付記】えは西丸ゟ
被相達候事
一 今度御着懸ゟ御取次差次関市之進
一 日峯様御正当に付宗智寺え
御名代西丸勤御香典白麻廿帖
一 無量寺え之 御名代御使者番勤
六月四日
一 御前様ゟ神崎迄御見廻御使者小野田
藤蔵勤之
一 殿様昨夜轟木御泊今日神崎御休
に而昼九ツ半時比直に小城御着座被遊候
一 丹州様え御着座御知せ御使者早晩御
取次神崎ゟ直に佐嘉罷出相勤被申
候得共今度御人残に而取次一人被罷下御無
人に付而此方ゟ誰と相勤候様先達而
御道中ゟ申来居候付留守八郎左衛門勤之
【一行分、折り込まれのため、解読困難】
被差越右参着候上八郎左衛門佐嘉罷越
相勤候事
一 佐嘉表御知せ合之御方々様且
お清様えも西丸被申上候事
一 御着懸御内被為入御膳は外に而
被 召上候也
一 御着座当日両御寺え
御代香嬉野弥七左衛門御香奠白麻
十帖ツヽ
一 宗智寺え御代香西丸勤御香典
白麻廿帖
一 永松惣五郎儀祇園会太鼓役数年
相続罷出別而致太儀候付為御褒美
六月五日
一 殿様今日四ツ時御供揃に而御新宅御出
被成候御供一通年始御膳之通也
一 当祇園会役一通り今日被相達候
同六日
一 御着座為御知筑前嶋原鹿嶋蓮池え
御家老方ゟ飛礼行
六月七日
一 今度御着座に付而長崎御奉行所え之
御使者吉本源右衛門勤之御進物漬海月
一桶被差遣之候
一 右同断に付江戸へ為飛脚足軽山田五郎左衛門
大里道中一日半中国路七日東海道六日に而
今日ゟ被差越候此節大坂えも御用簡行
六月八日
一 御用に付各方御出仕被成候
一 御狩方定役侍通左之人数え被
仰付候 御左
頭人牟田三郎大夫
目付納冨七右衛門
世話役 今泉金兵衛
差合 永渕安右衛門
御中
頭人 宇都宮一勝
目附 中嶋吉右衛門
世話役 釘本源左衛門
差合 山田安右衛門
右同 高橋忠右衛門
御右
頭人 遠岳源右衛門
目附 納冨源右衛門
世話役 東嶋半右衛門
差合 久保金吾
右之通被 仰付之旨御相談人方ゟ達
有之候
六月九日
同十日
一 松尾山え之 御名代御使者番勤
一 御在国中御供番差次左之人数
被仰付候
持永彦四郎
中嶋庄兵衛
村岡市郎右衛門
田中恵十
姉川平右衛門
高比良惣次郎
一 御着座為御祝儀今日
大和様御越被成候御出懸御中宿般若寺
左候而桜岡御出被成候御料理御酒等上る
御供侍中えは御酒出る御帰懸御新宅
御立寄被成候事
六月十一日
一 祥光山え之 御名代御取次勤
同十二日
一 祥光山え 御堂参被遊候
御座敷に而 太超
探牛
御堂参之節御迎へ 江面
罷出候
右之人数未 御目見無之に付而此節
被渡 御目候也
一 大園半左衛門儀大坂御屋敷詰として被指越置
候処被 思召様有之役方御免被成候
に付罷下り昨夜致帰着候此節急場に
御免被成候故着懸早速ゟ手前ゟ遠慮
いたし罷在候事
六月十三日
一 山御狩御出被遊候尤朝計り
一 御参会例之通御出仕被成候
一 若殿様為伺御眼躰松隈甫庵御内
被罷出候此節懸合之料理酒等出る
一 吉本源右衛門儀長崎御奉行所え之御使者
相勤昨夜致帰着候也
一 徳見官左衛門儀御着座為御祝儀罷越
今日桜岡罷出候此節献上左之通り
殿様え
一干鯛 一箱
一花砂糖 一箱
一縮緬御手綱 一筋
御前様え
一縫篽簾 一間
一 相原源右衛門儀御目附役被 仰付候
六月十四日
一 徳見官左衛門え於御居間被渡
御見候左候而御料理拝領且麻御上下
一具被為拝領候相伴御取次ゟ被致候
一 御用に付各方今晩飯後御出仕被成候
六月十五日
一 両山朝六ツ半時挽懸翌十六日八ツ時比
本之所え挽届候也
一 御名代御参銀三匁 南里権右衛門
一 御家老 水町舎人殿
一 大御目附を始請役所詰中桟敷被
仰付候
一 山役一通祇園袋に扣有り
同十六日
同十七日
一 御前様 御姫様方祥光山え御堂参
被遊候
六月十八日
一 本良院様七年御回忌御法事御執行
に付祥光山え御法事料として廿文銭
六百目米五俵御寺納被成候
一 明六半時御供揃に而御堂参被遊候御
香奠白麻拾帖
一 御前様御香奠線香三束
一 御法事に付今日一日御領中殺生禁断
之事
一 寄附堪忍
遠岳源右衛門
服部清左衛門
村岡権之允
高橋忠右衛門
一 同所筆者給仕 大石惣右衛門
川副甚之允
一 門番侍弐人足軽弐人
一 斎堂番足軽弐人
一 掃除方足軽弐人
一 御親類方御香奠線香弐束宛
一 御家老方右同壱束宛
一 同三束 太田左治馬
神代友右衛門
横尾久右衛門
星野二右衛門
中尾次郎右衛門
東十左衛門
一 同弐束 宮地新五右衛門
相原源右衛門
木下与左衛門
富岡小兵衛
一 同四束 番頭中七人
一 備前守様御代香 岡村隼人
御香奠白麻廿帖
一 於清様御代香 長崎弥次右衛門
同線香弐束
一 於才様御代香 山田
同白麻廿帖
一 主水殿代香 金原源左衛門
同白麻廿帖
一 山城殿代香 安岳幸太夫
同白麻廿帖
一 阿波殿内方代香 織田清左衛門
白麻廿帖
一 大和様御堂参被成候御香典白麻廿帖
一 右御法事に付被 召仕候女中え御茶講
料として左之通被為拝領候
金子百疋 寿けい
銀三両 □□□
同壱両 ちか
同壱両 とめ
同壱両 きさ
同壱両 るも
同壱両 りを
むらさめ
同三匁宛 梅がへ
さと
一 右御法事に付地座頭共え御施物七百五拾文被下候
六月十九日
一 今晩七ッ時御供揃に而
御前様 御姫様方川原桟敷え御出
被成候
一 殿様七ッ時過御供揃に而川御狩御出被遊候
同廿日
一 玉毫寺え 御堂参被遊候
御座敷に而 曇慶
御迎に罷出候 南山
右之人数未御目見無之に付此節被渡
御目候也
一 祥光山え之 御名代御使者番勤
六月廿日
一 牛尾網場江御越被成候
同廿二日
一 祥光山江 御名代御取次勤
一 御参会例之通御出仕被成候
同廿三日
一 殿様七ツ半時御供揃ニ而佐嘉御越被成候
六月廿四日
同廿五日
同廿六日
一 祥光山江之 御名代御取次勤
一 下村卯右衛門儀佐嘉於評定所山越【代ヵ】事
一通御究之末に付左之通り佐嘉ゟ申来る
紀伊守殿家来野口進之允と
下村卯右衛門
右之人御家老中御立会可被相糺旨
候条来る廿六日明ヶ六ッ時同輩一類相附刻
限之通評定所被罷出候様縦当病たり共
此節之儀無延引押而可被罷出旨懇に
可被相達候也 井上文内
右之通佐嘉ゟ申来候付同組一類相附今日
被罷出候也
一 今晩暮比ゟ浜御茶屋え祇園会被相
立候此節御親類御家老方を始桜岡
詰侍中其外郡方御猟方御山方
御伽中参詣被 仰付候
一 同断に付 御前様 御姫様方
為御見物御出被成候
六月廿七日
一但州様ゟ御着為御祝儀御評【使ヵ】者多三郎【々良ヵ】
九郎右衛門被進候此節御評【使ヵ】者江於小松間
飛鄕【ひやヵ】麦酒等出ル相伴御取次ゟ被致候
一下村卯右衛門様【儀ヵ】佐嘉評定所ゟ昨日呼出ニ而
罷出被申候処御用無【以下不明】
其儘罷帰候被申候也
同廿八日
一浜崎御蔵番野崎弥左衛門今日為伺
御機嫌罷越候依之跡方之通御料理且
青銅壱〆文被為拝領候此節左之通り
致献上候
一 三本入扇子 一箱
一 鮑十■【一ツヵ】 一折
一 昼八ッ時御供揃に而網場え御越被成候
一 神代与兵衛儀当分御広間番役被
仰付候
六月廿九日
一 太田蔵人儀近日
丹州様御越御沙汰有之に付御修覆所等有之
彼是に付而惣心遣役被仰付候也
一 下代役左之人数被 仰付候
石丸平次
西隈只六
居付 田中平兵衛
古賀神右衛門
菖蒲利兵衛
西田又助
右御蔵方達
新に被 仰付候 陣内友右衛門
野村弥七兵衛
江副武兵衛
右御当役ゟ被相達
六月丗日
一 祥光山え 御名代御取次勤
七月朔日
一 月次之御礼五ッ時被為 請候
一 大園判左衛門大坂帳納之儀遠慮内に付如何
【二行分折り込まれ翻刻できず】
七月二日
一 御参会例之通御出仕被成候
一 玄梁院様 寂光院様御施餓鬼
に付高伝寺え 御名代御使者番
雨守八郎左衛門御香奠無之
七月三日
一 日峯様 陽泰院様御施餓鬼に付
高伝寺え 御名代留守八郎左衛門勤之
御香奠無之
一 玉真院様御施餓鬼に付無量寺え
御名代御取次勤御香奠線香壱束
御寺納也
一 右御施餓鬼に付同寺え寄附堪忍馬乗
以下侍壱人御徒士壱人
一 大坂ゟ之御用簡町飛脚に而到来
七月四日
一 法性院様御施餓鬼に付高伝寺え
御名代御使者番勤御香奠無之
一 真照院様 南祥院様御施餓鬼
に付宗智寺え 御名代御使者番勤
御香奠無し
一 六ッ半時御供揃に而網場御越被成候
一 納冨孫六儀下代役数年堅固に相勤候
に付太儀に被 思召銀弐枚被為拝領御断
に付而役方御免被成候
七月五日
一 興国院様御施餓鬼に付高伝寺え
御名代御使者番勤御香典無し
七月六日
一 天誉様御施餓鬼に付正定寺え
御名代御使者番勤御香奠白麻拾帖
一 玉山様御施餓鬼に付称念寺え
御名代御使者番勤御香典無之
一 泰盛院様 高源院様御施餓鬼
ニ付高傳寺え 御名代御使者番勤
御香奠無之
一七ツ時御供揃ニ而御狩山御出被遊候
七月七日
一当日御礼五ツ時被為 請候
一丹州様え当日御祝儀御使者御使者番ゟ
勤之尤此節御取次勤之処障に付御使者
番ゟ被相勤候
一御前様ゟ御祝儀御使者西丸勤
一御礼過網場御越被成候
七月八日
一海量院様御施餓鬼に付高傳寺え
御名代御使者番勤御香奠無之
一貞樹院様右同断に付同寺え
御名代御使者番勤御香奠無し
一於祥光山 御先祖様御施餓鬼被
相調候付料銀百目米六升御寺納被成候
一殿様御堂参不被遊ニ付 御代香
大蔵殿御香奠白麻拾帖
一御前様 御代香御内勤御香典線香
壱束
一お三様 お久米様御代香田中
彦兵衛御香奠線香壱束宛御新宅調
一お才様 御名代下川文蔵御香奠
線香壱束尤御代香御香奠共に此御方
御頼之
一お清様 御代香土井次郎左衛門御香奠
線香壱束右同断御頼之
一 大和様ゟ 御代香大坪治部御香奠
白麻廿帖
一 寄附堪忍馬上通弐人同以下弐人
筆者給仕御徒士弐人
一 門番侍弐人下番足軽弐人
一 掃除方齋堂番足軽四人
一 御先祖様え御香奠線香壱束ツヽ
一 円覚院様 本良院様御牌前え
御香奠白麻拾帖ツヽ
七月九日
一 乗輪院様 柳線院様御施餓鬼
に付高伝寺え 御名代御使者番勤
御香奠無し
七月十日
一 松尾山え 御代香御取次勤御香奠
線香壱束
一 四ッ時前之御供揃に而網場御越被成候
一 江戸ゟ之御用簡町飛脚に而昨夜到来
一 若殿様御病気に付先達而佐嘉医師
【一行折り込まれ翻刻できず】
一晒布 弐疋 松隈甫庵
一金子 五百疋
右は度々罷出相伺被申候上御薬等迄指上
被申候
一金子 三百疋 西岡長円
一金子 二百疋 池尻元寅
右両人は一度ツヽ罷出被申候
一 渡辺友右衛門儀大阪詰目附被仰付候
七月十一日
一 日峯様 陽泰院様御施餓鬼に付
宗智寺え 御代香御使者番勤御
香奠白麻拾帖
一 月堂様御施餓鬼に付同寺え
御代香戸田三郎兵衛御香奠白麻拾帖
尤御家老勤之処何も此節御障に付
番頭御雇也
一 祥光山え之 御名代御取次勤【「御使者」を見え消し】
一 円通寺え 御名代遠岳源右衛門
御香奠無之
一 御前様祥光山え御堂参被成候
七月十二日
一 五ッ時御 供揃に而御堂参被遊候
一 両御姫様今晩祥光山え御堂参被成候
同十三日
一 七ッ時御供揃に而御狩山御出被遊候尤朝計り
一 御参会例之通御出仕被成候
七月十四日
一 両御寺え御堂参被遊候
一 《割書:宗智寺|高伝寺》え 御拝塔 御名代西丸勤
一 《割書:松尾山|円通寺》え 御名代御使者番勤
一 御寺々御魂屋番并御燈爐役且又
桜岡に而 御聖霊様御給仕跡方之通
委細盆役割袋に扣有り
一 宗智寺ゟ跡方之通出家壱人十三日晩ゟ
明十五日迄桜岡相詰被申候付晒壱反料
として金子百疋被下候也
一 殿様 御前様え 御子様方御三所様ゟ
御舫に而御生身魂為御祝儀御銚子弐升に
【とじ込まれ翻刻できず】
七月十五日
同十六日
一 松本弥左衛門儀大坂御屋敷詰被 仰付候
同十七日
一 明ヶ六時楽屋入に而今日御能御興行被遊候
此節 御前様 御姫様方 御子様方
御覧被成候
一 御能役者中え昼食且にしめ肴に而御酒
被下候事
七月十八日
《割書: |昨夜》
一 寿仙院殿御死去に付今日ゟ明日迄御穏便被仰付候
一 祥光山え御堂参被遊候
同十九日
一 昼□ッ時前御供揃に而網場御出被遊候
同廿日
一 両御寺え之 御名代御取次勤
同廿一日
同二十二日
一 貞樹院様御七回忌御法事於高伝寺
御執行に付 御代香御使者番冨岡
弥左衛門勤之御香奠白麻廿帖
一 右御法事に付佐嘉触左之通申来る
一御家中自分に被申付置候軽罪之者
可被差免事
一廿二日一日御領中殺生禁断被
仰付候事
一 御参会例之通り御出仕被成候
一 祥光山え之 御名代御取次勤
七月廿三日
一 山御狩御出被遊候尤朝計り
一 今日仕廻に而江戸大坂え之御用簡小倉迄
差越候飛脚足軽北嶋嘉平次
同廿四日
一 今度於江戸御出生之御男子様御名
捨五郎様と被為附候
一 当九月以後御請役太郎兵衛殿舎人殿に
被 仰付候
一 太田蔵人儀御加判に被召成江戸御供
被 仰付候
一 今晩七ッ時御供揃に而川御狩御出被遊候
七月廿五日
同廿六日
一 長寿院様御正当に付祥光山え
御代香水町舎人御香奠線香壱束
一 弘徳院様え之 御名代御取次勤
同廿七日
一 六ッ半時御供揃に而網場御出被遊候
七月廿八日
御用人居付部屋住料 神代官右衛門
五石被相増都而拾五石に被召成候
右蔵人殿被相達候
大御目附役居付 太田左治馬
元〆役居付 横尾久右衛門
御相談役被仰付候 今泉惣左衛門
御相談役居付 東十左衛門
御加米拾石拝領
御内頭人冨岡 中尾次郎右衛門
小兵衛代り
御新宅頭人居付 西岡治兵衛
御目附役居付 宮地新五右衛門
右同 相原源右衛門
右同 木下与左衛門
西丸聞番役居付 蓑田作左衛門
山代目代役居付 藤山一郎兵衛
御猟方頭人居付 南里二左衛門
《割書:麻御上下一具ツヽ|拝領に而当役》 早野二右衛門
《割書:御免被成候| 》 冨岡小兵衛
右太郎兵衛殿被相達候
役方御免 藤嶋清左衛門
一 御前様今晩念仏堂え御参詣被成候
七月廿九日
一 祥光山え 御名代御取次勤
八月朔日
一 当日御礼朝五時被成 請候
御使者番
一 丹州様え当日御祝儀御使者○嬉野弥七左衛門
勤之従 御前様も御一使に而御祝義
被仰進候事
一 昼八時御供揃に而川御狩御出被遊候
八月二日
一 御参会例之通御出仕被成候
一 岩蔵筋両織嶋ヶ里岡本ヶ里ゟ
例年之通玉無し鉄炮相願候処
願之通被指免候
八月三日
一 寿仙院殿中陰内に付本行寺え
御代香御使者番勤御香奠白麻
廿帖
一 □□□□□御名代御使者番勤
一 般若寺におゐて時行病転除之御祈祷
被 仰付今日ゟ執行有之候依之料銀
として弐枚被指出候事
一 小柳孫右衛門儀
大和様附松木弥左衛門代役被仰付候
八月四日
一 牧瀬源左衛門儀下代役菖蒲利兵衛
代り被仰付候
一 七時御供揃に而山御狩御出被遊候尤朝計り
一 御狩方定役并御馳走之面々え今晩
御猟之猪被為 拝領候
八月五日
一 朝計り板御狩被成候
一 大坂ゟ之御用簡町飛脚に而到来
一 御用に付各方御出仕被成候
一 桜岡詰侍中郡方迄不残今日御次に而
御猟之猪被為 拝領候尤御供番御広間
番は詰合計
八月六日
一 明六時御供揃に而網場御越被遊候
一 筑前守様長崎御奉行所為御見舞御越被成候得共此節
浜崎筋被相越候付牛津御通路無之
八月七日
一 御用に付各方御出仕被成候
同八日
一 御前御用被 聞召候付各方御出仕被成候
同九日
一 鳥御打として郷筋御越被遊候
川浪助右衛門
改判勘略方
居付 御加米三石 崎川弥一
拝領
附衆兼
江嶋清八
出米方兼
御加米三石 村崎七左衛門
拝領
納方兼
御蔵方居付 辻小左衛門
御加米三石 鴨井勘左衛門
拝領
取納方兼
銀蔵居付 兵動十郎右衛門
鴨井勘左衛門代り
吟味方役 橋本文右衛門
吟味方居付 伊東伝兵衛
勘定所居付 香月与次兵衛
上り地方兼 蒲原平内
郡方居付 福岡与惣右衛門
田嶋藤右衛門
山代地方居付 納冨安左衛門
地方居付 溝口神兵衛
地方被仰付候 野口久左衛門
三浦勘左衛門代り
修理方被 千々岩弥左衛門
仰付候
野口久左衛門代り
深町判右衛門
郷目附被 中島兵蔵代り
仰付候 溝口惣左衛門
御境方 古館内蔵右衛門代り
御小物成方 秀嶋八郎左衛門
櫨方
納冨幾右衛門代り
上郷普請方 永松惣五郎
千々岩弥左衛門代り
下郷普請方 古館内蔵右衛門
居付
山方目附 牟田藤左衛門
田中彦兵衛
志波太郎右衛門
御猟方 羽館兵馬
居付 横尾弥左衛門
牛津上使屋 藤嶋善之允
居付
岩松久兵衛代り
八段原 岩松杢之允
大山留
石井権兵衛
松隈久左衛門
大山留居付 城戸五郎左衛門
村岡権之允
増田平治
水尾五右衛門代り
山代郷目附 石井貞右衛門
大津番居付 斎藤小右衛門
無津呂番 横尾源蔵
居付
浦崎居付 斎藤用之助
馬渡七郎左衛門代り
塩硝蔵 伊東七郎兵衛
河上河口居付 納冨一郎兵衛
池上藤太
御内鎖口居付 庄次郎太夫
松田与四右衛門
若殿様御傍 岩松七右衛門
居付
若殿様御傍被 下川利兵衛
仰付候
御新宅居付 西川八右衛門
【折り込まれているため翻刻できず】
右同御台所 高間七兵衛
下川五左衛門代り
御書物方 下川文蔵
御数寄方 村崎卜也
居付
山本与左衛門代り
牛津御蔵床 安本権右衛門
深町判右衛門代り
井樋方 香月源右衛門
鹿嶋居付 長崎弥次右衛門
浜御茶屋 堤玄節
居付
御鷹方 牟田素益
居付
右同 牟田素伯
御内御匕 北島三折
御新宅 川久保順悦
御匕御加米
三石拝領
右之通当役代り被 仰付候
八月十日
一 松尾山え 御名代御使者番勤
八月十一日
一 祥光山え 御名代御取次勤
同十二日
一 祥光山え御堂参被遊候
一 御用に付各方御出仕被成候
同十三日
一 七時御供揃に而山御狩御出被遊候
一 御参会例之通御出仕被成候
八月十四日
一 吉田次右衛門儀
大和様附下目附ゟ兼勤候様被 仰付候
八月十五日
一 松本弥左衛門渡辺友右衛門大坂詰として
今日ゟ爰元被差立候
一 木下与左衛門儀御相談役今泉惣左衛門代り
被 仰付候
一 三浦諸左衛門儀御目附木下与左衛門代り被
仰付候
一 今日朝五時楽屋入に而御能御興行被遊候
此節 御前様 御姫様方御覧被遊候
上り物此通跡方之通り且御能役者中え
壱汁壱菜之昼飯にしめ肴に而酒《割書:三升出る|被下候》
八月十六日
一 昼九ッ半時御供揃に而鳥御打御出被遊候
同十七日
一 大坂ゟ之御用簡参宮人帰便に而到来
一 水町右馬助儀西丸聞番蓑田作左衛門
代役被 仰付候
八月十八日
一 祥光山え御堂参被遊候
一 御用に付各方御出仕被成候
同月十九日
一 □ッ時御供揃に而□□御越被遊候
一 御前様今晩稲荷社護摩堂え御参詣
被成候
八月廿日
一 五半時御供揃に而玉毫寺江御堂参
被遊候
一 御前様今晩西礼寺え御参詣被成候
一 江戸大坂ゟ之御用簡町便に而到来
八月廿一日
居付
祐筆 上瀧惣右衛門 請役所給仕 池田武十
居付 小寺友之進 弥永六左衛門代り
同断 西田清左衛門
横尾平左衛門
御蔵方 青木又兵衛 御台所 綾部治右衛門
居付 右近形右衛門 居付
馬場崎安兵衛 銀蔵 川副弥惣右衛門
居付
山田善次郎代り
同断 田中平兵衛
取□方 □□七右衛門 郡方 山田治左衛門
居付 松岡郡右衛門
御納戸 平嶋官兵衛
居付 久本金右衛門 森六郎右衛門
大坪利左衛門
勘定所 大嶋文蔵 御内 永渕久七
居付 下川孫平 居付 古川新五兵衛
北村茂兵衛
西野庄左衛門 中嶋宇左衛門
御新宅 綾部竹右衛門
居付 福嶋太郎右衛門 若殿様附 北村忠太 飯田杢兵衛 居付
水田弥次右衛門 小物成下代居付 靏田弥右衛門
南里政右衛門 右同居付 婦川善右衛門
松尾平太左衛門 川上川口居付 中野庄左衛門
下目附 吉田次右衛門 本役に成る
居付 小池平次兵衛 右同断 立石孫兵衛
久本源右衛門 大久保源五右衛門
山本利左衛門 地方 末永権六
飯盛孫三郎代り 居付 江頭新吾
下目附 荒木伝右衛門 吉岡神吾
田中平兵衛代り 吉冨源吾代り
上郷普請方 松隈弥右衛門 井樋方 轟木卯十
居付 石井孫助 奥村又三郎代り
轟木卯十代り 同所 持永祐右衛門
同所 飯盛孫三郎 肩被 召替候
居付
下郷右同 岡杢左衛門 宗門方 大木千右衛門
川崎弥平次代り 居付 吉村弥一左衛門
同断 音成八左衛門 西丸 中原文左衛門
牛津御蔵 牟田口諸右衛門 居付
居付 岡小左衛門 鹿嶋 牧瀬吉左衛門
牧瀬源左衛門代り 居付
右同断 弥永六左衛門 お才様付 吉田五郎右衛門
居付
平与左衛門代り
修り方 牟田伝兵衛 御境目方 木村治平
居付 江頭十蔵 境方居付 山下吉左衛門
御猟方 福嶋房右衛門 御船方目付 深江文平
居付 居付
表御門 成松祐右衛門 御船方 松田源左衛門
居付 居付
裏御門 江嶋卯右衛門 油部屋 古賀林斎
居付 居付
山代目附 田代政右衛門 御鷹屋 鹿郡蔵
居付 居付
栗原庄蔵代り
御鷹屋 川崎弥平次 右同断 大坪六三郎
八月廿二日
一 放光院様御正当に付祥光山え
御代香太田蔵人御香奠線香壱束
一 御参会例之通御出仕被成候
同廿三日
八月廿四日
奉願口上覚
私内証極々指□【閊ヵ】其上知行所近年別而
致零落候ニ付過分之落米申付偖又
無拠相払と【候ハヵ】而不相叶借銀筋多々在之
端的相続難仕参掛御座候老父義最早
餘命も無之極難之参掛り見苦敷躰ニ而
【一行不明】
所存殊ニ親義大録を為被下置者年
罷寄候得者当分之所作も不相叶又何事
屋分之いとなミハ難仕極難義仕候御時節
柄と申相願候義至極奉痛入候故【得共ヵ】拙父
牢人内御捨扶持被下置候右之内何分
成とも御憐愍を以老父江被下置候て【ハヽヵ】
極難を可相凌と難有奉存候近来□□【恐多ヵ】
奉存候故【得共ヵ】此節御介抱被 仰付度深重
奉願候此段筋々宜被仰達可被下候
右願之趣無拠被 思召上以前之通三人扶持
捨扶持にして被為 拝領段同人呼出に而今日
舎人殿被相達候事
古賀久蔵
当秋 水田宇左衛門
俵改役 久本安左衛門
西岡神右衛門
【綴込に付翻刻できず】
八月廿五日
同廿六日
一 弘徳院様御正当に付祥光山え
御代香水町舎人御香奠線香壱束
同廿七日
一 七ッ時御供揃に而山御狩御出被遊候
一 蓑田又左衛門儀忌御免被成亡父作左衛門
跡式無相違被 仰付且西丸聞番
見習被 仰付候
八月廿八日
一 大坂え之御用簡今日ゟ七日着に而被指越飛脚
足軽江頭次兵衛
一 網場え御越被成候
一 御用に付各方御出仕被成候事
八月廿九日
一 昼過ゟ鳥御打御出被遊候
同晦日
一 祥光山え 御名代御取次勤
九月朔日
一 月次之御礼朝五時被為 請候
一 御礼過鳥御打御出被遊候
九月二日
一 御参会例之通御出仕被成候
一 善左衛門殿大坂ゟ今日御帰着有之候
九月三日
一 無量寺え 御名代御使者番勤
一 舎人殿御曾祖母一昨日死去に付而
御笑止之 上使御取次勤之事
同四日
九月五日
一 丹州様今日御能為御遊覧此御方
御入被遊候尤朝五時前桜岡御入御内
えも御通り被遊左候而御能相始候此節
為御伽 大和様兵庫殿御出也
一 御能御中入に浜御茶屋御出被遊候事
丹州様ゟ 殿様え
一御樽代 金子五百疋
一干鱈 一折
御前様え
一紅白紗綾 三巻
若殿様え
一紗綾 弐巻
一 御能役者中え銀拾枚被為拝領候事
一 惣御家中え一種一荷被為 拝領候依之
《割書:|翌日》
為御礼《割書:〇|》二丸え進之允殿計被相越候事
一 右御入に付則日御礼御使者御使者番勤
従 御前様之御使者西丸勤
一 右御入御仕組一通り委細之儀は御仕組方
帳に扣有り
九月六日
一 丹州様昨日御入に付為御礼今日
殿様佐嘉御越被遊候
九月七日
一 丹州様ゟ御家中え被下候御酒今日
大物頭番頭物頭大組代小組代
桜岡詰侍中え被為 拝領候
一 丹州様御越に相懸り太儀仕候人々え
今日にしめ肴一種に而御酒被為 拝領候
九月八日
同九日
一 二丸え当日御祝儀御使者御取次勤
従 御前様之御使者御一使に而相澄
一 殿様 御前様 御姫様方今朝
七ッ時御供揃に而牛津口え御船為
遊山御越被遊候
一御船般若丸之事
一御召場御蔵前ゟ之事
一同所道補理普請方ゟ被致候也
一 御供中え弁当被指出候尤女中
抔へは外ににしめ物一種副
一 御船補理修り方ゟ被致候事
一 柳靏番所え御案内之儀田嶋藤右衛門自分ゟ
参候形にして被申達候は今度 殿様江筋御越被
九月十日 遊候此節 御前様にも御越被成候条
此段為心得申入置候旨自分ゟ之形にして
一 松尾山え 御名代御使者番勤 被申達候
同十一日
一 祥光山え 御名代御取次勤
同十二日
一 祥光山え御堂参被遊候
一 御用に付各方御出仕被成候
一 御前様祥光山え御堂参被成候
一 円覚院様御正当に付祥光山へ
お才様ゟ御代香此御方御頼に付
平士ゟ勤之
一 源正殿事当春御下国之節
御減少に而江戸被御残置候処今日
着有之候也
九月十三日
一 御参会例之通御出仕被成候
一 お清様今日ゟ御越被遊候此節直に
御新宅御入之事
一 七ッ時御供揃に而山御狩御出被遊候
九月十四日
同十五日
一 天山宮祭礼に付 御名代留守八郎左衛門
御参銀三匁
《割書: |御参銀御内ゟ出る》
一 御前様 御名代 山田安右衛門
《割書: |右同》
一 若殿様 御名代 東嶋半右衛門
一 艶菊様 伊三郎様ゟ 御名代
右同人勤御参銀何も御内ゟ出る
一 天山え警固頭人冨岡左金吾
勤之
一 岩蔵え狂言相仕立候に付今日桜岡
被召呼御覧被遊候此節狂言
役者中え酒五升肴一種被下候
御台所ゟ出る
一 両注連本御門被指通候也
一 英彦山上迁宮有之候に付今日二丸え
御祝有之候此節御家老方ゟ御壱人
御出候様申来候に付舎人殿被相越候也
九月十六日
一 八月諸願今日被仰渡候事
一 野口新 □来名字に相改度 □に
被 改 別紙に□□□ 有り
一 馬場清左衛門弟伝四郎を当分
殿様御傍に被 召仕候段清左衛門呼出
に而御相談人方ゟ達有之候
九月十七日
一 筑前守様長崎御越【「ゟ御帰路」見え消し】今日
牛津御休に付跡方之通諸役人
被指越候
一 御前様今日御新宅へ御出被遊候
九月十八日
一 祥光山え 御堂参被遊候此節同寺へ
被為 成候也
一 御用に付各方御出仕被成候
一 お清様 両御姫様今晩御歩行
に而西礼寺え御参詣被成候
九月十九日
一 明六ッ時御供揃に而鳥御打御出被遊候
一 丹州様先頃御入之節致太儀候面々え
左之通被為 拝領候
御年寄
樽代三百疋 江副彦次郎
宛
受肴一折 竹田文右衛門
御近習頭
山本神右衛門
石川左次兵衛
御側目附
横尾弾兵衛
御進物方
村松太郎右衛門
広紙三束 御台所頭人
宛 大瀬勝右衛門
受肴一折 御医師
花房良庵
外請御医師
佐野仲庵
御茶道
田口清水
御傍
金子五百疋 拾人
御給仕
御台所附手明鑓
古賀次兵衛
福岡幸太夫
中牟田貞十
松村一郎兵衛
同足軽目附下役
田代久左衛門
副嶋治左衛門
金子三百疋 田中龍七
千綿武右衛門
田中安兵衛
金子三百疋 御煮立九人
手明鑓
金子三百疋 西村八十右衛門
右は前辺ゟ罷出諸事申談等有之別而
太儀被致候付而被下候
九月二十日
一 両御寺え 御名代御取次勤
一 御狩方定役山田安右衛門代り中嶋庄兵衛に
被仰付候
一 江戸大坂え之御用簡小倉迄差越飛脚
足軽武藤新六
九月廿一日
一 七ッ時御供揃に而山御狩御出被遊候
一 お清様 両御姫様今日五ッ時御供揃
に而天山え御社参被遊候
一 池田与四右衛門儀浜【○の横「崎」】御蔵御米取納役被
仰付候
一 秀嶋八郎左衛門儀大蔵殿御方家作 上ゟ御作被下
九月廿二日 候付而家作方被 仰付候
一 祥光山え 御名代御取次勤
一 御参会例之通御出仕被成候
一 お清様 お久米様五ッ時御供揃に而
両御寺え御堂参被成候
一 田尻文太儀大蔵殿宅家作方
秀嶋八郎左衛門付役被 仰付候
一 佐野回庵儀倅順哲医学
為稽古佐嘉御家中横尾
長軒え差遣度候間当年ゟ
向三ヶ年之御暇被為拝領度
被相願候右に付而は相応之物入
等も有之時節柄自力に而は難
相調候条在佐嘉之間奉公前
並【前を見え消し】出来被差返被下度旨□
被相願候処願之通被 仰付候也
一 当月御祈祷於小松間岩蔵寺
例之通二夜三日昨日執行被致候
九月廿三日
一 筑前守様長崎ゟ御帰路今日
牛津御休に付郡方其外諸役人
跡方之通被差越候也
一 お清様今日於御新宅御親類
御家老方え被渡 御目候
一 昼八ッ時御供揃に而鳥御打御出被遊候
一 大園半左衛門え今晩寄親靭負殿御宅
に而御手次【頭ヵ】を以仰渡事有之候委細
□□【罰ヵ】帳に扣有り
九月廿四日
一 丹州様来る廿六日御発駕に付為御
暇乞今日 殿様佐嘉御越被
遊候
一 右同断に付従
御前様為御暇乞御使者を以生御
肴一種被進候御使者西丸勤
九月二十五日
同廿六日
一 丹州様為御参勤今日御発駕被遊
候付御家中為惣代弾正殿嬉野
弥七左衛門藤嶋清左衛門被罷越尤外に両人
西丸ゟ被相勤候也
一 祥光山え 御名代御取次勤
一 西川に相仕立候狂言被召呼今晩
桜岡に而 上々様方御覧被遊候此節
浜御茶屋に而昼御させ被成筈に而
狂言役者共昼ゟ参居候得共大雨
に而外舞台不相叶に付今晩急に
此御方に而御させ被成筈に相成候依之及
夜陰候に付狂言役者中え扇弁当
被下且又外に酒五升肴一種被下候也
九月廿七日
一 昼八時過ゟ鳥御打御出被遊候
一 大村弾正少弼様今晩牛津御泊
《割書: |御取次》
に付御使者〇関市之進御進物無之
郡方其外諸役者跡方之通被指
九月廿八日
一 六ッ時御供揃に而鳥御打御出被遊候
一 本庄社祭礼に付 御名代西丸
勤御参銀三匁御社納
一 大和様今日此御方御出被成候御中宿
般若寺桜岡えは御対面所迄双度
御出被成候御茶たはこ餅菓子上る
左候而御新宅へ御出被成候也此節
殿様え松茸一籠被進候
一 諫早兵庫殿御事此御方御兵法之
御弟子に被相成候付昨日神代官右衛門
《割書: |先以誓詞計》
彼御屋敷に御誓紙被致持参〇被相
調候依之右御祝物として今日使者
を以御樽一ツ三升入御肴一折塩鯛一掛被進候
右使者えは於小松間壱汁【以下綴じ込まれ翻刻できず】
酒出候也
一 太田弥五之允儀大坂ゟ昨夜致下
着候也
九月廿九日
一 与賀社祭礼に付 御名代
西丸勤御参銀三匁御社納
一 七ッ時御供揃に而犬御仕飼御出被遊候
九月晦日
一 祥光山え 御名代御取次勤
十月朔日
一 月次之御礼被為 請候
一 昼八ッ時比ゟ鳥御打御出被遊候
一 御前様御新宅御出被成候
十月二日
一 御参会例之通御出仕被成候
一 村川伝右衛門大坂ゟ昨夜致下着
候事
一 足軽堤清右衛門儀浜崎御蔵目附
被 仰付候事
十月三日
一 明ヶ六時楽屋入に而御能御興行被遊候
此節 御前様 お清様 御姫様方
御覧被成候上り物一通り御台所に扣有り
御能役者中えはにしめ肴一種に而
御酒且昼飯被下候従
お清様も此節にしめ肴に而御酒
【綴じ込まれ翻刻できず】
御能御番組
弥五兵衛 ̄ツレ庄兵衛 新左衛門 孫六 八郎左衛門
加茂 天女十兵衛 平八 藤蔵 市郎右衛門
惣次郎
利兵衛
吉右衛門
御田 八左衛門 藤右衛門
平内
三作清左衛門 久弥
朝長 与兵衛 清左衛門 嶋之允
惣右衛門 権兵衛
間 吉右衛門
御 惣次郎 彦兵衛
采女 九右衛門 十兵衛
左馬助 与一左衛門
間 源吾
清左衛門 平八 利右衛門 藤太
龍田 源兵衛 藤蔵 権兵衛
間 吉右衛門
先次郎
次郎左衛門 ヨリトモ
七騎落 十兵衛 惣左衛門 彦兵衛 十兵衛
惣次郎 惣右衛門
左馬助
太郎左衛門
三作
ヨシ共子 庄兵衛
間 久弥
御 新左衛門 八右衛門
天鼓 新蔵 源左衛門
間 源吾
十兵衛
弥一 弥五兵衛 源兵衛
紅葉狩 太郎左衛門 利右衛門 藤兵衛
惣左衛門 清八 一郎右衛門
間 久弥
八左衛門
弥兵衛熊之助
海人 九右衛門 孫六 左源太
与兵衛 四郎左衛門 権兵衛
間 吉右衛門
外に御所望
【綴じ込まれ翻刻できず】
船弁慶 太郎左衛門 孫六 袈裟五郎
新左衛門 藤蔵 源右衛門
狂言
粟田口 平内 藤右衛門
源吾
名取川 吉右衛門 利兵衛
栗燒 吉右衛門 久弥
附子 利兵衛 平内
久弥
鏡男 源吾 八左衛門
以上
一 無量寺え 御名代御使者番勤
十月四日
一 御用に付各方御出仕被成候
同五日
一 朝七ッ時御供揃に而鳥御打御出被遊候
一 山伏泉鏡坊今度御着到面に
被相加候に付弾正殿心遣組に被召加候
此段呼出に而御出陣方役太田左治馬ゟ
達有之候
一 持永祐右衛門儀肩被召替候付今度
進之允殿組被相加候此段太田左治馬ゟ
達有之候
十月六日
一 朝七ッ時御供揃に而山御狩御出遊候
同七日
一 横尾平左衛門儀御借銀方御用に付
今日ゟ長崎被指越候
同八日
一 当春御小城町え相仕立候狂言又々
桜岡被召呼 上々様御覧被
遊候此節狂言役者中え酒五升
肴一種被下候也尤御台所ゟ出る
十月九日
一 朝七時過御供揃に而鳥打御出被遊候
一 菊池玄春儀倅宗益於佐嘉
医学稽古願之通被仰付置候
処最早当年迄に年限相満候得共
未稽古方色々不仕廻之儀有之由
に而今又向三ヶ年御暇被下置候様
願次被申候処願之通被 仰付候也
十月十日
一 お清様先頃ゟ此御方御越被成御逗留
之処今日御帰被成候也
一 高岳院様御正当に付松尾山え
御代香御取次勤御香奠線香壱束
一 吉岡神七儀大蔵殿家作方田尻
文太代り被仰付候
一 大石次右衛門儀去秋已来ゟ御能之節
作り物方被 仰付毎度罷出致
太儀候付為太儀料米三斗被下候也
一 佐野友達倅春庵儀医学
稽古として向五ヶ年上京相願
被申候処願之通被仰付候依之年
限内為御合力毎歳銀五百目
被為拝領候也
十月十一日
一 祥光山え 御名代御取次勤
一 御前様今日九ッ時御供揃に而高雄山へ
茸狩に御出被成候
十月十二日
一 祥光山え 御堂参被遊候
一 横尾平左衛門儀長崎ゟ昨夜帰着いたし候
一 今晩七ッ時御供揃に而御夜待
御出被遊候
一 御前様今晩西礼寺え御参詣
十月十三日
一 明六時御供揃に而犬御仕飼御出被遊候
一 御参会例之通御出仕被成候
一 信州様於江戸去月十一日首尾能
御婚礼被相調候段二丸ゟ達有之
候付御祝儀御使者として御取次
役今泉惣左衛門江戸被指越旨
舎人殿被相達候尤御使者相勤
候上は為馴居留りに罷在候様被
仰付候也
十月十四日
一 今晩七ッ時御供揃に而御夜待
御出被遊候
一 月次之御礼不被為 請候
一 明六ッ時御供揃に而鳥御打御出
被遊候也
一 御印御書宣拾弐紙慥に
請取申候
寅十月十五日 辻小左衛門
鴨打勘左衛門
村崎七左衛門
一 今泉惣左衛門儀今度為御使者
近々江戸え被指越候付依願金十両
拝領被 仰付候也
十月十六日
一 御用に付各方御出 殿被成候
一 今晩七時御供揃に而御夜待
御出被遊候
十月十七日
一 御徒士通り御狩方定役左之
人数被相立候
村岡長谷右衛門
大久保源吾
川副九平次
一 御前様今晩西礼寺え御参詣
被成候
十月十八日
一 五半時御供揃に而祥光山え
御堂参被遊候
十月十九日
一 鳥御打御出被遊候
十月廿日
一 玉毫寺え 御名代御取次勤
一 祥光山え 御名代御使者番勤
一 於保村に相仕立候狂言今日
御前様御覧被成候此節狂言役者
【「酒」「種」以外綴じ込まれ翻刻できず】
台所調也
十月廿一日
一 七ッ時御供揃に而山御狩御出被遊候
十月廿二日
一 祥光山え 御名代御取次勤
一 御参会例之通御出仕被成候
十月廿三日
一 今泉惣左衛門儀今度於江戸
信州様御婚礼被相調候に付御祝儀
為御使者江戸被指越旨先達而被
仰付置候末今日ゟ出立被致候也
一 七ッ時御供揃に而江筋御越被成候
同廿四日
同廿五日
同廿六日
一 祥光山え 御名代御取次勤
一 長崎御奉行坪内駿河守様御下り
今晩牛津御止宿に付御使者
御取次勤御進物鴨一番火消
頭人御使者番冨岡弥一左衛門
御目附相原源左衛門被罷越其外郡方
諸役人跡方之通被指越候尤郡方
頭人は不快に而此節不被罷越候也
十月廿七日
一 七ッ時御供揃に而鳥御打として
芦刈え御越被成候
一 御用に付各方御出 殿被成候也
十月廿八日
一 鳥御打御出被遊候
一 下川五左衛門儀
お美濃様御学問方御師匠被
仰付旨御相談人方ゟ被相達候也
十月廿九日
一 七ッ時御供揃に而山御狩御出被成候
同晦日
一 祥光山え 御名代御取次勤之事
十一月朔日
一 月次之御礼五ッ時被為 請候
御礼過鳥御打御出被遊候
一 辻小左衛門儀御借銀方御用に付而
今日ゟ長崎被指越候此節倅与次右衛門
連越度旨相願被申候処願之通り
相澄候也
一 今日稲荷社注連卸し付左之通
相調般若寺へ遣候事
一葉篠竹 拾本 一榊 拾本
一小竹 拾本 一小注連 弐筋
一すほ注連 壱筋
【綴じ込まれ翻刻できず】
一杉原紙 弐帖 一溝口紙 五帖
一御酒 壱升 一花米 三升
右は御納戸調之事
十一月二日
一 御参会例之通御出仕被成候
十一月三日
一 玉真院様御正当に付無量寺え
御代香御取次勤御香奠線香
壱束御寺納
同四日
一 御用に付大坂え飛脚として足軽西
十兵衛今日ゟ指越候也
一 明六時御供揃に而鳥御打御出被遊候
一 曇慶事栄照庵住職被 仰付
段今日呼出に而寺社方ゟ被相達候
一 宝蓮院殿御事先月廿三日御死去
に付佐嘉ゟ之御穏便触左之通到来
一 昨三日ゟ来る九日迄日数七日
御領中御穏便被 仰付候事
一 作事は昨三日ゟ来る五日迄日数
三日相止候様申来候事
十一月五日
一 □□□□様御事近日御機嫌御勝不
被成候に付御容躰為伺村田元栄
川久保順悦原口宗祝何も御内
罷出候様被 仰付候
一 右同断に付為御順快於般若寺
明日ゟ一七日之御祈祷執行被 仰付候
依之為料銀拾枚被指出候也
十一月六日
同七日
一 水田弥次右衛門義上方三社え 御代参
被 仰付旨御当役ゟ被相達候也
一 曇慶事今日祥光山役僧立合に而
【綴じ込まれ翻刻できず】
壱人被遣候也
一 安心格之御供廻に而御遊猟御出被遊候
十一月八日
一 宮嶋武蔵恒例之通稲荷社え今日
神楽相勤候般若寺武蔵え之
御施物跡方之通り
十一月九日
一 曇慶事今日栄照庵え入院
被致候
一 喜三郎様当春御病気之節宰府
天神え御願相掛被置候御成就之
絵馬被指越候に付 御代参光野
金左衛門え被 仰付候
一 七ッ時御供揃に而御夜待御出被成候
十一月十日
一 松尾山え 御名代御使者番勤
一 御用に付各方御出仕被成候
一 御前様今晩七ッ時御供揃に而般若寺え
御参詣被成候
十一月十一日
一 月堂様御正当に付宗智寺え
御代香水町舎人御香奠白麻
廿帖御寺納
一 右同断に付祥光山え之 御名代
十一月十二日
一 五ッ半時御供揃に而祥光山え
御堂参被遊候
一 御用に付各方御出仕被成候
一 今晩七時御供揃に而御夜待御出
被成候
十一月十三日
一 明六時御供揃に而鳥御打御出被遊候
一 御参会例之通御出 殿被成候
一 渡辺友右衛門儀御用に付而大坂ゟ罷下り今晩
十一月十四日 致帰着候也
一 長崎御奉行正木志摩守様御御登り
【綴じ込まれ翻刻できず】
御進物葛粉一箱郡方其外
諸役人跡方之通牛津被指越候也
一 お美濃様御筆取初今日被相調
候付御祝御取替左之通
一御のし 一御銚子
《割書: |三外に》
一御吸物二 一御肴 御取肴
一 御膳一汁三菜外に香物
一 御くわし
お美濃様え
一御樽 一 三升
一御肴 一折 生鯛二枚
右は従 殿様 御前様御舫に而
お美濃様え
【綴じ込まれ翻刻できず】
右は従 両御姫様御舫に而
一御樽 一 三升入
一御肴 一折二枚
右は 殿様 ご御前様え
お美濃様ゟ
一御肴 一折
右は両御姫様え お美濃様ゟ
一御樽 一弐升入
生鯛一枚
一御肴 一折
右は 御子様方 御三所様え
お美濃様ゟ
一 右御祝に付
殿様 御前様御新宅御出被成候
【綴じ込まれ翻刻できず】
一銀弐両 中尾次郎右衛門
女房え
一料理一汁弐菜吸物一肴
弐ッに而御酒被下候
一御酒肴一 桜岡
御供女中え
一料理一汁弐菜 御新宅
一御酒肴一 惣女中
同所
鎖口詰中
御内 御供の鎖口詰
人数え
一 光野金左衛門儀宰府天神え
御代参相勤罷帰今日桜岡罷出
候付鰹肴に而御酒被下候也
一 今晩七時御供揃に而御夜待御出被成候
十一月十五日
一 月次之御礼朝五時被為 受候御礼
過板御狩御出被成候
同十六日
一 安心格に而鳥御打御出被成候
十一月十七日
一 諸御礼今日被為 受候此節
宇都宮不求え被渡 御目候也
一 お三様御事当年別而御年柄
悪敷殊に近頃御病気勝に而
被成御座候故於般若寺悪星消除之
御祈祷二夜三日御執行有之候
依之為料銀百五拾目被差出候事
一 喜三郎様先比ゟ之御病気一円
御快不被成御座に付御親類御家老
方ゟ御願文左之通上る
一天山宮 最勝王経七部
一金毘羅 五十燈明之事
一稲荷社 絵馬之事
右は御親類方御四人ゟ
一天山宮 心経千巻
一祇園社 三十三座祓
一金毘羅 御供献備
右は御家老方六人ゟ上る
一 御用に付各方御出仕被成候
十一月十八日
一 祥光山え 御名代番頭勤之事
一 急御用に付大坂え飛脚として
足軽古賀源六大里道中一日一夜
中国路七日にして今夜ゟ指越候
一 御用に付而御当役方今夜御出仕有之候
十一月十九日
一 明六ッ時御供揃に而鳥御打御出被成候
十一月廿日
一 玉毫寺え 御名代御取次勤
一 祥光山え 御名代御使者番勤
一 白山八幡宮御祭礼に付 御名代
西丸勤御参銀三匁御社納
浮立
一 正徳町に相仕立之稲荷祭礼狂言《割書:〇|》今日
桜岡え被ヵ 召呼 上々様方御覧被遊候
此節狂言役者中え跡方之通り
酒肴被下候
十一月廿一日
一 七ッ時御供揃に而山御狩御出被遊候
一 御用に付各方御出仕被成候
十一月廿二日
一 渡辺友右衛門儀御用に付而今日ゟ又々
大坂被指越候
一 御参会例之通御出仕被成候
一 祥光山え 御名代御取次勤
七時御供揃に而鳥御打として芦刈え
御越被成候
同廿四日
同廿五日
一 今日明六時楽屋入に而稽古御能御
興行被遊候左之通
御番組
次郎右衛門 天女庄兵衛 新左衛門 利右衛門 八郎右衛門
天山 与兵衛 新蔵 十兵衛
左馬助
間 吉右衛門
御 藤右衛門
田村 九右衛門 孫六
惣右衛門 一郎右衛門
間 仲蔵
次郎右衛門 庄兵衛
熊野 源兵衛 孫六
惣次郎 頼母 権兵衛
清左衛門
熊坂 平八 清左衛門 袈裟五郎
清八 忠右衛門
間 仲蔵
弥五兵衛 三佐
春栄 熊之助 太郎左衛門 八右衛門
左馬助 藤蔵 十兵衛
間 久弥
弥一 岩次郎 彦兵衛 嶋之允
鞍馬天狗 熊之助 与兵衛 与一左衛門 権兵衛
間 吉右衛門
十兵衛 源吾
金札 新兵衛 利右衛門 源次郎
惣右衛門 一郎右衛門
狂言
今参 藤右衛門 吉右衛門
源太
颯果 八左衛門 吉右衛門
飛越 源吾 平内
盆山 藤右衛門 仲蔵
以上
一斗五升出る
一 御能役者中えにしめ肴一種に而御酒
被下候弁当は手前持参也
十一月廿六日
一 祥光山え 御名代御取次勤
十一月廿七日
一 昨夜九ッ半時御供揃に而御鳥打
として白石御越被遊候此節牛津ゟ
御乗船被成深通迄御船行に而白石
御出被成候委細之儀は御用人方に扣有り
同月廿八日
一 白石ゟ今夜四ッ時比御帰館被遊候
十一月廿九日
一 真如院様御拾三回忌御法事
御執越御執行に付御法事料として
祥光山へ銀弐枚御寺納被成候
一 殿様 御代香持永助左衛門御香典
白麻拾帖
一 御前様 御姫様方御香奠線香
壱束ツヽ 御代香鎖口勤之事
一 お清様 お才様 大和様ゟ之
御香奠線香壱束ツヽ 御代香
之儀は此御方御頼に付何も馬乗以下ゟ
勤之
一 右御法事に付今日一日御領中殺生
禁断被仰付候
一 寄付堪忍
馬乗以上壱人
馬乗以下壱人
同所筆者給仕
御徒士壱人
一 掃除方足軽弐人
一 御親類御家老方御香典并御参詣
勝手次第之事
一 右御法事に付 御同人様被 召仕候女中え
御茶構料として左之通拝領
銀弐両 寿桂
同壱両 妙恵
砂田村定右衛門女房
同壱両 おさし
御末
同三匁 野分
十二月朔日
一 月次之御礼被為 受候
一 御礼過鳥御打御出被遊候也
十二月二日
一 御参会例之通御出仕被成候
一 昼八ッ時御供揃に而鳥御打御出被成候
同三日
一 無量寺え 御名代御使者番勤
一 大坂銀主平野屋善兵衛今日罷下候
同四日
一 七ッ時御供揃に而山御狩御出被成
一 城戸平太夫儀皆木御番所親跡役
被仰付候
同五日
一 六時御供揃に而鳥御打御出被遊候
十二月六日
一 大和様為山御狩今日此御方御越被成候
此節御往来共に般若寺え御立宿
被成桜岡へは御入不被成候御狩御仕与一通
別帳に扣有り御弁当一通は御台所に
扣有之候此節御本家御家中中野
【綴じ込まれ翻刻できず】壱人被召連之候
同七日
一 明六時過御供揃に而鳥御打御出被遊候
一 西山田村百姓形右衛門と申者宅一昨夜
出火に而不残焼失致候
同八日
一 年越御祈祷今日ゟ岩蔵寺於小松間
二夜三日執行有之候也
一 大坂銀主平野善兵衛先日ゟ御当地
罷下居候処明日ゟ致出立候に付
今日桜岡被召呼被渡 御目御
料理御酒被下候其上御小袖一ツ
金子五百疋被為 拝領候
一 横尾久右衛門儀御用に付而大坂被指越
候段被仰付候依之留守中元〆役
【綴込翻刻不能】被仰付候尤御相談役も
兼勤候様有之候也
一 御前様御懐胎に付今日御着帯之
御祝被相調候御規式左之通
産神
御床餝
末広
白木三方 熨斗 五
一鳥子餅 改敷け■らい草敷
紙 一重
一瓶子 常之通に而上る
くり
こんぶ 五
一赤飯 改敷根松薮てうし
敷紙 一重
御祝儀物御取替
一御纈帯 長のし
一御肴 一折 生鯛二
一御樽 三升
右は従 殿様 御前様え
一御肴 一折 生鯛二
一御樽 三升入
右は 殿様え従 御前様
御祝儀物披露之事
一 御纈帯 御召初
玉女神
関神
木地三方 詰昆布
一 御熨斗 山拝
八十八
白木三方 敷紙
一 鳥子餅 長のし 一重
右 御夫婦様え上る
一 御引渡
昆布 五 尺箸
熨斗 五 三土器
栗 五 平土器
御したみかわらけ
御銚子 御加
右御盃事相澄御産掛之役人え
被渡 御目御熨斗拝領
南里権右衛門
中尾次郎右衛門
池上藤太
松田与四右衛門
庄 次郎太夫
北嶋三折
【綴じ込まれ翻刻できず】
一汁五菜
一御料理 一御銚子
一御吸物二 一肴三 一御菓子
御施物銀壱匁
一御纈帯覚性坊御加持之事
一 御姫様方ゟ為御祝儀御使者被進候
尤御祝物無之
御二方様え
一 弐本入御扇子 一箱ツヽ 南里権右衛門
御二方様え 都而四箱
一 弐本入御扇子一箱宛 中尾次郎右衛門
夫婦銘々ゟ
右同断
一 同一箱ツヽ 池上藤太
松田与四右衛門舫
庄 次郎太夫
北嶋三折
右同断 御内
一 生鯛 一折宛ニ 御側惣女中
御新宅御衆
拝領物左之通
御前様ゟ
一 銀弐両 取揚ばゝえ
右同
一 同六匁 手代り え
右同
一 同壱両宛 御腰揚え
御後副
一 御内女中鎖口詰御徒士迄不残御酒
拝領肴一 取肴
一 御祝物持参之御使者え御酒拝領肴二ッ
一 中尾次郎右衛門女房并ばゝ共四人えは一汁
弐菜之御料理被下候
一 御産懸之役人於鎖口御酒拝領肴一ッ
取肴
十二月九日
一 朝七ッ半時御供揃に而鳥御打御出被遊候
一 御用に付而各方御出仕被成候
一 お栄様御事御病気之処御養生不被
相叶先月十九日御死去之段江戸ゟ
申来候由に付而昨八日ゟ明十日迄日数
三日御領中御穏便被仰付候旨佐嘉
ゟ申来候也
十二月十日
一 松尾山え 御名代御使者番勤
一 藤山一郎兵衛義当分御相談役兼勤
候様被仰付候
一 村崎七左衛門儀御用に付而大坂被指越
段被仰付候
同十一日
一 祥光山え 御名代御取次勤
同十二日
一 祥光山え 御堂参被遊候
同十三日
一 御参会無し
一 昼九ッ時御供揃に而鳥御打御出被遊候
一 水田弥次右衛門儀上方三社 御代参
として今日ゟ出立有之候
十二月十四日
一 今晩七ッ時御供揃に而御夜待御出被遊候
同十五日
一 月次之御礼五ッ時被為 受候御礼過鳥
御打御出被遊候
一 霜月諸願今日被仰渡候
同十六日
同十七日
同十八日
一 五ッ半時御供揃に而祥光山え
御堂参被遊候
一 御前御用被 聞召上候付各方御出仕
被成候
一 お久米様祥光山え 御堂参被成候
一 今晩七ッ時御供揃に而御夜待御出被遊候
十二月十九日
一 七ッ時御供揃に而鳥御打として芦刈え
御越被遊候
一 下代中何も取立方致出情候付為太儀
【綴じ込まれ翻刻できず】
一 玉毫寺え 御堂参被遊候
同廿日
一 反米下代小物成下代何も役方致
出情候付米六斗ツヽ為太儀料
被下候此段呼出に而御相談人方被
相達候也
一 昨夜九ッ時御供揃に而鳥御打として
白石御越尤御供廻り新庄御越格
此節は御立帰りに而御出被成候牛津ゟ
深通り迄先頃之通り御船行被成候
一 御前様今晩念仏堂え御参詣被成候
十二月廿二日
一 祥光山え 御名代御取次勤
一 御参会例之通御出仕被成候
同月廿三日
一 七ッ時御供揃に而山御狩御出被遊候
同廿四日
同廿五日
同廿六日
一 祥光山え 御名代御取次勤
一 今日明六時楽屋入御狂能御興行
被遊候此節 上々様方御覧被成候
一 右に付而御親類方御家老中其外詰中
ゟ之献上左之通
一 御銚子 三升
一 交肴 一折
右は御親類方ゟ
一 御銚子 五升
一 交肴 一折
右は御家老中ゟ
一 御銚子 五升
一 交肴 一折
右は詰中且御狂能役者中
十二月廿七日
一 鳥御打御出被成候
同二十八日
一 休息前に而御能方相勤罷在候面々え
為御褒美左之通被下候
冨岡弥五兵衛
松崎十兵衛
金子百疋宛 黒木新左衛門
薬王寺惣次郎
星野九右衛門
馬場清左衛門
藤嶋三郎左衛門
少身衆
同弐百疋ツヽ 石井岩五郎
藤太次男
池上袈裟五郎
一 岡町罷在候陣内安兵衛儀兼而親
孝行仕候故米六斗被下候
一 役方堅固に相勤候人数え左之通御褒
美被下候
麻御上下 太田左治馬
麻御上下 神代官右衛門
銀壱枚 東十左衛門
麻御上下 横尾久右衛門
銀壱枚 藤山一郎兵衛
木下与左衛門
金子弐百疋ツヽ
中尾次郎右衛門
御酒 西岡治兵衛
宮地新五右衛門
銀壱枚ツヽ
南里二左衛門
一 今日於 御前御加増左之人数被仰付候
香月与次兵衛
三石宛 辻 小左衛門
佐野弥兵衛
《割書:肩被 召替|弐石御加増》 大石源五右衛門
川浪助右衛門
金子百疋ツヽ 崎川弥一
江嶋清八
福岡与惣右衛門
金子二百疋ツヽ 溝口神兵衛
三浦勘左衛門
納冨安左衛門
銀壱枚ツヽ
牟田藤左衛門
村崎七左衛門
鴨打勘左衛門
伊東伝兵衛
金子百疋ツヽ 橋本文右衛門
田嶋藤右衛門
兵動十郎右衛門
池上藤太
庄次郎太夫
松田与四右衛門
岩松七右衛門
西川八右衛門
久保藤十
深町判右衛門
金子百疋ツヽ 千々岩弥左衛門
古舘内蔵右衛門
石井権兵衛
益田平治
北嶋三折
牟田素益
秀嶋八右衛門
銀弐枚宛
甘木神右衛門
銀壱枚 高木又兵衛
石丸杢
田中保内
金子弐百疋ツヽ 松隈亨安
城嶋徳斎
成冨兎毛
福地亨元
堤玄益
金子壱百疋ツヽ 吉本段右衛門
城嶋与四右衛門
岡左源太
麻上下一具 村川伝右衛門
兵動波門
蒲原平内
野口久左衛門
志波太郎右衛門
羽館兵馬
御酒拝領 横尾弥左衛門
藤嶋善之允
松隈級休左衛門
村岡権之允
長崎弥次右衛門
藤嶋左馬助
村崎□□□
上瀧惣右衛門
小寺友之進
横尾平左衛門
銀五匁ツヽ 青木又兵衛
久本金右衛門
牟田伝兵衛
水田弥次右衛門
山本利左衛門
江頭新吾
右近形右衛門
平嶋官兵衛
大嶋文蔵
牟田口諸右衛門
中嶋卯左衛門
銀三匁宛 吉村弥一左衛門
綾部竹右衛門
【綴じ込まれ翻刻できず】
中野路左衛門
山下吉左衛門
山田治左衛門
岡杢左衛門
馬々崎安兵衛
渡辺友右衛門
銀二匁ツヽ 小池平次兵衛
江頭十蔵
江嶋卯右衛門
西野正左衛門
福嶋太郎右衛門
西田又助
古賀神右衛門
水田卯兵衛
金子弐百疋宛
横尾八左衛門
銀壱枚 池田□□兵衛
伊東源太
銀五両宛 徳本勇右衛門
牧瀬長左衛門
納冨弥五兵衛
今村治右衛門
平石孫右衛門
金子百疋宛 中嶋与四右衛門
江頭平次兵衛
空閑弥七左衛門
池田武十
川副弥惣右衛門
森六郎右衛門
大坪利左衛門
長渕久七
古川新五兵衛
北村茂兵衛
太田弥五之允
【綴じ込まれ翻刻できず】
御酒拝領 南里政右衛門
久本源兵衛
吉田次右衛門
西隈只六
石丸平次
婦川善右衛門
牧瀬吉左衛門
田代政右衛門
松田源左衛門
田中平兵衛
飯盛孫三郎
石田逸八
本村郡八
中西奥蔵
古部久甫
古賀林斎
鹿嶋手男
足軽に被召成候 次右衛門
野口武右衛門
米壱駄宛
藤戸分五右衛門
勘定所付
西九左衛門
小奉行
米三斗宛 田中伝右衛門
右同
長崎浜右衛門
右同
青銅五百文 村岡惣之允
御新宅
銀二匁 森利久内
裏御門番 森永五郎左衛門
西辻 香田具仁平
表御門 大山与八
御茶屋御門 相良祐右衛門
定警固 原口次右衛門
銀弐両ツヽ 右同 飯盛市右衛門
右同 香田新五左衛門
右同 川原田村右衛門
米六斗 村岡□左衛門
御酒 右同 池田甚右衛門
深川義右衛門
米六斗 山方付足軽 原 源内
同三斗 炭やき 吉冨幸左衛門
小物成方 中願寺神兵衛
御酒 右同 伊東祐右衛門
御出陣方 西 文内
米六斗 辻千左衛門
古賀新左衛門
青銅壱貫文ツヽ 酒井藤右衛門
石橋丈右衛門
古川進左衛門
森 八左衛門
銀三両ツヽ 大坪次左衛門
御茶弁当
小西源七
【綴じ込まれ翻刻できず】
善助
御納戸使前
九右衛門
米三斗ツヽ 西丸右同
九助
請役所右同
吉左衛門
御新宅
助右衛門
御納戸使前
金平
御蔵方右同
青銅三百文ツヽ 伴右衛門
幾右衛門
受役所使前
幸十
右同
利右衛門
青銅五百文ツヽ 銀蔵右同
源六
手男頭
覚兵衛
はり付
友右衛門
家ふき
同壱貫文ツヽ 新六
右同
内蔵允
右同
勝右衛門
【綴じ込まれ翻刻できず】
弥左衛門
同三百文ツヽ 神左衛門
孫右衛門
半右衛門
大工
米六斗ツヽ 忠左衛門
桶屋
長右衛門
屋ねや
清左衛門
青銅三百文ツヽ 畳屋
二兵衛
下戸田村右同
源之允
佐深村右同
弥平次
権田村右同
善右衛門
久留間村右同
八右衛門
五条刈右同
杢兵衛
久米ヶ里右同
金左衛門
久本刈右同
藤兵衛
伐ヶ里右同
源右衛門
【綴じ込まれ翻刻できず】
二右衛門
樋口刈右同
甚蔵
永田村点役庄や
政右衛門
下古賀村右同
与右衛門
乙柳村右同
彦兵衛
源ヶ里右同
弥左衛門
上栗原刈右同
平右衛門
砂田刈右同
嘉平次
久蘇刈右同
善六
高柳刈右同
常右衛門
舟田刈右同
神右衛門
牛津馬散使
作右衛門
同宿継
庄右衛門
本町暁
弥三左衛門
右は御酒被下候也
極月廿九日
一 信州様え歳暮御祝義として
殿様 御前様ゟ御使者被進候
西丸勤也
一 丹州様へは御在府に付江戸に而相澄也
一 お清様へ 殿様 御前様より
弐本入御扇子一箱ツヽ右は河原小路
迄御使者西丸勤也
一 殿様へ 御前様ゟ弐本入御扇子
壱箱
一 殿様ゟ 御前様え右同五返礼
一 祥光山え 御名代御取次勤也
一 今夜二丸御祝に蔵人殿被相越筈
【綴じ込まれ翻刻できず】
御不快形■■て不被相越尤二丸■
右之趣に西丸ゟ相達也
一 今夜御祝暮時也
寛政五丑正月元旦
一天山社江
御代参 馬乗已上勤
御参銀壱匁
一国武社江
御代参 御家老勤
御参銀壱匁
一天山社へ
御前様 御代参馬上
已上勤御参銀御内ゟ出ル
一同社江
静明院様 御代参馬上
已上勤御参銀西岡ゟ出ル
一同社江
於佐保様 御代参平士勤
御参銀濱御西ゟ出ル
一佐嘉表諸社へ之
御代参西丸勤御参銀三匁ツゝ
一両御寺へ之
御代香 馬乗已上勤
一高伝寺宗智寺へ之
御代香西丸勤御香典
銀三匁ツゝ
一玉毫寺へ
静明院様ゟ之 御代香
馬上已上勤
一肥州様江従
上々様御歳暮年始御
祝物御在府二付江戸
二而調ㇽ
一年始御取替左之通
一白木弐本入御扇子一箱折共
一御円鏡一錺
一御肴一折
右は
静明院様江従
殿様
一白木弐本入御扇子一箱折共
右は
御前様江従
殿様
一於佐保様へは御祝詞
計
一廉嶋山城殿其外へ之御
取替御仕切中二付無之
尤御祝詞之義は西丸ゟ被相勤
候様懸合相成候也
一二丸へ御家中惣代三人之内
御使者番ゟ壱人其外は
西丸勤
一結扇子 一結ツゝ
天山社人
河上命婦
与賀社壱人
献上左之通
一弐本入御扇子 三箱
右は
殿様 御前様 静明院様へ
大蔵殿
左近殿
監物殿
殿様 御前様 静明院様
一同三箱
頼 母殿
十太夫殿
造 酒殿
権右衛門殿
殿様
一同壱箱
持永左馬
太田幸三郎
重松与次右衛門
木下求馬
東嶋右衛門
正月二日
一初御参会例之通左二付
御親類御家老御役所詰中。
御目付方御蔵方役郡方
勘定所地方郷目附普請方
代官牛津御蔵床惣座
御茶屋番井樋方右之通
肴一種《割書:にしめ物并|へき鰹二而》御酒被為
拝領候尤御蔵方ゟ外役ハ
小松間ニ而拝領御徒士給仕
弐人
一恒例之通両獅子於御対面所
まへ相調候付被下物一通御台所
存也
一慈広院様御正当ニ付栄照庵
へ之 御代香御取次勤
御香典線香壱束
正月三日
一静明院様御半時御親類
御家老相談役御目付旧記方
請役付其外被渡 御目候
一於佐保様九つ時右之通被渡
御目候
一玉真院様初御忌日ニ付
御代香御取次初御香典無之
正月四日
同 五日
同 六日
一新庄郷ゟ美麗共恒例之通
罷出候付小松間ニ而御酒并
青銅壱〆文被下候也下目附
存也
正月七日
〃 八日
一諫早小舟を御陣場百姓恒例
之通罷出候二付御酒并青銅
壱〆文被下之候御台所二而御出陣
方附役存也
〃九日
正月十日
一高岳院様初御忌日二付松尾山
へ之 御代香番頭勤御
香典無之
同十一日
一月堂様初御忌日二付宗智寺へ
之 御代香御家老勤
御香典白麻拾帖
一右同断二付祥光山江之
御代香御取次勤御香典無之
一国武社へ之
御代参御家老勤御参銀無之
正月十二日
一御参会例之通
一円覚院様初御忌日二付
祥光山へ之
御代香番頭勤御香典
線香壱束
同十三日
一今朝六ッ半時於
御前左之通被 仰出候
《割書:当春江戸|御供》 権右衛門殿
《割書:御用人|御近習頭兼》 田次左衛門
大御目附 木下求馬
《割書:目附使番|石丸左太夫跡》 関勘ヶ由
一左之通於請役所十太夫殿
被相達候
惣御目附ゟ
御在国中 木下内蔵進
御用人相談役兼
《割書:御加米|拾石》 藤田次左衛門
《割書:御料理人頭|下村三郎左衛門元組被相付候》石丸左太夫
正月十四日
同 十五日
一当日御祝例刻被為 請候
一徳見官左衛門遺跡四拾石二而
実子郡四郎へ被 仰付
之処同人呼出二而御当役被
相達候右二付官左衛門養子
弥三郎義は元之通太田
幸三郎へ被差返候様双方へ
被相達候也
一殿様初御誕生日二付
天山社へ 御代参
御取次勤御参銀無之
正月十六日
一諸御礼今朝五ッ時被為
請候
一番頭物頭隠居席之義
無組之次席二此節被相改
候也右二付諸御礼席之
義も外一畳目二御礼物
相備候事
一目附使番より本組二
被召成候節是迄は組替
之内二而諸御礼二は相除
候得共以来は物頭之御礼
被為 請候事
一当月御祈祷岩蔵寺
参上二而於小松間昨日ゟ
二夜三日御執行有之候
料銀御台所存也
正月十七日
同 十八日
一本良院様初忌日二付
御代香番頭勤御香典
無之
一江戸大坂之文箱町便
二而今朝ゟ被差越小倉まて
飛脚足軽早田吉兵衛
同十九日
一左之通兼役被 仰付候
御出陣方兼
麟太郎様 木下求馬
懸合
寺社方兼 木下内蔵進
千賀姫様
懸合 前山宗右衛門
相談役旁
本役同然二 村川平八郎
相勤侯様被仰付候
且外御近習方兼
正月廿日
一金栗様 寿昌院様初御
正月廿一日
一上々様御星供御祈祷
於福智院今日より二夜
三日執行有之料銀壱枚
一殿様当年御年並悪敷
二付於岩蔵寺御祈祷御
執行有之料銀壱枚
一山内大串村亡伊兵衛娘三才二
相成候処去年流行病気
二而両親兄弟共二相果孤二
付其御筋へ相達候付而八木啀?
五俵被相副同村善右衛門と申
百姓養娘被 仰付候右善右衛門ゟ
御目付方へ差出置候手形
左之通
覚
大串村亡伊兵衛娘いね
三才二相成候右両親兄弟
之者迄旧冬流行病気
相煩相果三才之娘斗
相残村中噍【啀】喫乳
にて是迄日を送罷在
候段相響今度
御上ゟ八木五俵被相副
右娘某養娘二被
仰付難有仕合奉存候
於向々無疎相育生長
仕候通相調義二御座候
万一疎之義も御座候処
何分之御手当二も可被
仰付候為其印形手形
差上申候已上
丑正月十四日 大串村養子親
善右衛門
同村横目
左馬之允
同村庄や
藤右衛門
御目附中様
一芦田ヶ里罷在候藤嶋清左衛門
被官忠右衛門と申者兼而貧
窮者二而老人之祖母母親
叔父家内二罷在候処妻
扨又子供両人妻方へ相預
自身ハ半分身売いたし
其際に罷帰り右三人之老人
相肯其上兼而孝心者
之段相聞候付而為御褒
美忠右衛門へ八木六斗被為
拝領候
一村川佐一郎
公金一件二付佐嘉より御呼下
相成居候処今夜佐嘉表へ
下着二左候而兵庫殿へ御預
相成候也
正月廿二日
同 廿三日
同 廿四日
一今朝五ッ時左之御寺々江被渡
御目候
外御居間二而
独礼其未御用人 岩蔵寺
部屋二而御酒雑煮
出ㇽ但伴僧迄
献上物ハ 宗智寺
前辺上 円通寺
候事 松尾山
右は御対面所上間二而
独礼委細は年始御礼一通
扣帳二有り其末宗智寺
江は御対面所次ノ間二而
雑煮出ㇽ相伴十太夫殿
伴僧使者之間縁頬二而
雑煮出ㇽ尤円通寺松
尾山へハ小松間二而雑煮
出ㇽ
一右御礼過直御供揃二而
玉毫寺御堂参被遊候
一御前様四ッ時御供揃二而祥光山
玉毫寺円通寺御参詣
被遊候
正月廿五日
同 廿六日
一弘徳院様 長寿院様
初御忌日二付 御代香番
頭勤御香典無之
一諫早小船越御陣場百姓
恒例之通罷出候二付御酒并
青銅壱〆文被下候御台所存也
正月廿七日
一今朝正六時揃切二而御能
御興行被遊候翁三番御替
之御能也尤翁之囃子方
素袍烏帽子地諷のしめ
長上下也御番組左之通
翁
千歳 牧太
三番叟 平七
面箱
御 牧太 藤右衛門
養老 内蔵之進 二兵衛 藤十
雅楽之允 宗右衛門 新平
正木 次左衛門
四郎左衛門
間 藤右衛門
監物殿
箙 頼母 武之進 弥左衛門
次左衛門
間
御 武司郎 次郎兵衛
巻絹 雅楽之允 武之進 藤十
轍 弥左衛門
間 平七
十太夫 北村 次郎
頼母
鎮九郎
土蜘 八郎右衛門 左太夫 与四右衛門
喜左衛門 太一郎
甚九郎
土方 要之助
正木
間 官右衛門
御 鎮九郎
三井寺 内蔵之進 武之進 新平
甚九郎 次左衛門
要之助
間 紋
平七
監物殿
黒塚 頼母 二兵衛 与四右衛門
甚九郎 里左衛門 太一郎
間 源太左衛門
牧太
岩松 八郎右衛門 多前膳 藤十
四郎左衛門 弥左衛門
雅楽之允
猶人
地謡
将曹
勘ヶ由
次郎兵衛
四郎兵衛
弥右衛門
七兵衛
伝之助
狂言
源太左衛門
麻生 十右衛門 官右衛門
次郎兵衛
ぶす 源太左衛門 平七
官右衛門
祐善 平七 藤右衛門
綱手
蟹山伏 平七 源太左衛門
十右衛門
以上
正月廿八日
惣御目附江戸
大御目附御 宮地二兵衛
侍目附兼
右之通被 仰付候
同廿九日
同 晦日
一見性院様初御忌日二付
御代香番頭勤御香典無之
二月 朔日
一当日御礼例刻被為 請候
同 二日
一御参会例之通 御出座被遊候也
二月三日
同 四日
一嶋原領去年変事二付
此御方より御使者被差出置候
右御礼為御使者片山大弐
上下廿四人二而御当地罷越
候段先触到来二付旅宿
牛津新町鐘ヶ江清三郎
宅手当二相成居候付右宅へ
見干足軽より引付酒食
右之通宿為心遣下目付
野口武右衛門被差越尤酒食
一通此御方より御心遣也左二
翌五日御使者被相勤候尤使者屋
定原大庄屋篠原文左衛門
宅也使者屋二而御料理
御酒被差出候同所
為心遣左之人数前暁より
罷越候
村川平八郎
嬉野伝之助
大坪七兵衛
下目附両人
一使者屋門番心二門内二足軽
壱人差出置候事
一使者屋番心二玄関板
間まて篠原文左衛門次肩衣
二而出向候事
一高木左九馬玄関局内二
出向居座敷引候事
一若党歩行江之相伴
下目付藤戸文五右衛門篠原
文左衛門
一座敷給仕御徒士三人
袴着
一若党徒士之給仕足軽
四人袴着
一中間給仕無袴二而牛津童
とも御雇也
一殿様并御家老中江之
御口上書左之通右ハ去年
御使者被差出候御挨拶二而申
置候姿二付御答は無之事
加賀守様江 主殿頭口上
弥御安全可被成御座
珍重之御事被存候去年
四月嶋原表変事有之
節は以御使者柄御尋
被下被入御念候御事忝
次第被存候右為御礼
以使者被申述候
正月 使者
片山大弐
御家老中江
家老共口上
加賀守様増御機嫌能被成
御座奉恐悦候次各様
弥御堅固可被成御勤珍重
存候去年四月嶋原表
変事有之節は段々
御丁寧被仰聞不浅忝
存候此度其御許様へ従
主殿頭使者被差立候付
乍序御礼申述候
一右御使者之人番頭格之由
行列鑓鋏箱刀筒牽馬
合羽籠弐荷長持右之通也
二月五日
同 六日
同七 日
一正一位社初午御祭二付
御代参御取次勤御参銀
壱匁右二付御施物左之通
一銀弐匁 岩蔵寺
一同五分ツゝ 伴僧 三人
一同壱匁 宮嶋岩見
一左之通兼役被
仰付候
勘定所頭人
御境目方 日出嶋環
御絵図方
御武具方
一今朝七ッ半時御供揃二而
鳥御打として御出被遊候也
二月八日
同 九日
一左之通被 仰付候
屯詰 横尾尉右衛門代
御衣装方 藤木惣助
当春江戸御供
一去ㇽ五日御家老御呼出二而
兵庫殿主水殿十左衛門殿
列席二而左之通被相達候
御当家之儀以御武徳
被遊 御剣業其上
長崎御番方被為蒙
仰
御代々様百五拾年来
被御請縺於武門御規模之
御家柄二而武義強従
脇々も相羨侯程之儀侯
雖然数百年天下一統
太平之和二流右体之
風俗を失候通二相成
御家中之儀も時世二連
柔弱二移候処と被相歎
厚以
御賢慮先年弘道館
等被相建文武之御勤
有之御建初二は相進候
人多有之候得共近は心
懸之人少文武之守
薄惣而衣食住之儀
分限不相応成儀可
仕様無之儀は勿論之
事二候得共猶又心得違
抔有之候而不相叶二付
兼而衣服等之御定も
有之候付而は其旨を
相守候半而不相叶第一
酒食之参会等無用
之筋二財用を費
質素之道は却而賤敷
事之様二心得候通相成
候処よりいつとなく日用之
乏二到り候故其心懸乍
有之自然と武事之
備等不行届儀可有之
哉も難斗国之御内外
役々平日之心掛猶又
質素二相基萬般御
倹約之御仕成を守兼而
被 仰付置候武備之
御手配厚加讃請行届
候通之御仕組有之事二候
然処於
公辺も武事之御穿鑿
有之自然異船漂流
之節兼而人数御手配之
次第御役人席を以
御見分も可有之且は
御隣領へ伝合之趣等
被相届候様先般被
仰渡も有之御家之儀は
御番方二付格別累年
厚御仕組被
仰渡全其心得有之
儀二而是等御案中之
事候得は右御仕組之
大意可被 仰達事候
乍然其業専御家中
之覚悟二相懸事候条
旬時異変之儀有之候
共間二合候通猶亦心懸
勿論候就中於武門不束
之儀等有之候而は末代
為恥辱事と能々
致勘弁万事奢
ヶ間敷義を不仕平日
瑣細之事二而も聊心
得違等無之御家風を
厚奉守急度其際
相露候様懇二可相達
旨被
仰出候以上
丑二月
二月十日
同十一日
一左之通被
仰付候
御侍江戸 黒木雅楽之允
御供
御状方兼 秀嶋利右衛門
御道中計 松田与四右衛門
御供目附兼
祐筆 山田 定助
当春江戸御供
屯御衣装 七田幸右衛門
方兼
御行水方 辻 伝助
兼
二月十二日
一御参会例之通
一中林四郎左衛門西小路屋敷冨岡
小兵衛相対二買取候段
双方より御届有之候
二月十三日
一永橋泰助儀江戸表急
御用有之候付急キ二而昨夜
下着
同十四日
同十五日
一今朝六ツ時御供揃二而雉
子為御待御出被遊候
一右二付当日御礼不被為請
尤御祝義斗
一菊池宗垣より左之通被
相願候付願之通被仰付候
願口上覚
私忰玄達義於江戸
医学稽古為仕度三ヶ年
之御暇去ㇽ戌年奉願
候処願之通被
仰付難有奉存候尤
其節は於彼地一孤之
兵粮被為拝領度奉願
候処右は御仕組二付是
迄之稽古之人罷下候
上可被差出旨御達候付
見合罷在候処追々
年長二罷成稽古之
汐も迦【外れ】二相成義と奉存候
付而は家業柄之義
御座候得は何卒自分ゟ
稽古為仕度奉存候
併江戸表迄は路用
丈も不少義故京都二而
稽古為仕度奉存
候間猶亦三ヶ年之
御暇被為拝領被下度
奉願候尤私内証極
差支半二は御座候得共
家業柄難略奉存候故
路用彼是之義成丈ヶ
自分ゟ相調義御座候条
何卒願之通御暇被為
拝領被下候様深重
奉願候此段筋々宜
被仰上可被下候以上
二月十一日 菊池宗垣
嬉野伝之助殿
江嶋金兵衛殿
一木下内蔵進預組足軽金嶋
長兵衛より左之通相願候付
願之通被仰付候
乍恐奉重訴口上覚
某一類卯平次義所々二而
悪事仕候末去冬御糺明
被成下候右二付而揚り屋
覚悟方之義最早永々
之義二而何分二も某相調
兼ね申候処ゟ 御上より
被仰付被下度去暮御願
申上候処不被為叶由承知
仕候右之末又々奉願
候義別而恐入奉存候へ共
某義右卯平次一件二付
数年過分之入方御座
候末二而至極差支
唯今二は商売之道も
相絶候方相続とも
不相叶体二罷成候得は
反的卯平次覚悟方
不及手参掛御座候条
御慈悲を以卯平次
御裁許迄之処覚悟
方自余之処御格
同様被仰付被下度
今又深重奉願候
此段筋々宜仰上可被下候
以上
丑二月
願主 金崎長兵衛
同与 吉次伊右衛門
与心遣 服部幸七
木下内蔵進殿
二月十六日
同十七日
一今暁七ッ時御供揃二而為御
犬仕飼御出被遊候
同十八日
同十九日
同 廿日
同廿一日
同廿二日
一御参会例之通
一松浦壱岐守様為御参勤
牛津御通路二付御途中
御使者同所被差出候御進物等
無之右二付郡方其外
同所出張
二月廿三日
同 廿四日
一今朝五半時御供揃二而玉毫寺
御堂参被遊侯
同廿五日
同廿六日
同廿七日
一江戸御仕送銀三拾弐〆目
大里道中一日半中国路
七日限〆大垣迄被差越侯
才領足軽副嶋権七相良
籐右衛門今暁ゟ出立此節江戸
大坂へ之御用簡参ル
二月廿八日
一今暁八半時御供揃二而
御犬飼として御出被遊候
此節小城岡両町御
馳走勢子被仰付候
一図書殿先達而隠居
被相願置候処願之通被
仰付御家督采男殿江
無相違被 仰付候段被
仰出候右御達為
上使頼母殿十太夫殿彼屋敷
被相越右御口上左之通
図書殿江
御手前様御老年
被相成付御隠居再往
被相願候末二付御願之通
御隠居被差免候尤
御用向之義は只今之通
御承知被成候様被
仰出候且又兼而被遣置候
御合力米三拾石御隠居
料二被
仰付候彼是懇に御達
仕候様被 仰出候
以上
采男殿江
御親父様御隠居被相
願候末御願之通被差
免候御家督之義
御手前様江被仰付候
猶又御席之義も御仲
ヶ間様上席に被
仰付候此段御達仕候様
被 仰出候以上
一右御家老方被相越候案内
彼役人迄請役附ゟ手紙
二而申遣候事
二月廿九日
同 晦日
三月朔日
一今朝七ッ時御供揃二而御犬
仕飼として御出被遊候尤朝斗
其末御鳥打として芦刈
筋御越被遊候
一右御出二付当日御礼不被
為請候尤御祝詞計
一御前様昨夜九ッ時御供揃
二而芦刈御越被遊候
三月二日
一兼役左之通被 仰付候
相談役
御相続方 中尾次郎右衛門
御船方兼
一去秋田作大虫入二付里四郷
山内山代ゟ数千人之御介抱
願有之候得共御格之通中々
不及御手二付而郷役中
其外吟味之上人数二不相拘
一村之見斗を以被相渡候条
麦作出来立候迄不及飢候通
取斗候様村々庄屋共へ御
打懸有之候右員数其外
委細書付旧記方箪笥に納
置候事
三月三日
一当日御礼御不例二付不被
為 請候尤御祝義斗
一御前様四ッ時御親類御家老
中へ被渡 御目候
一肥州様江当日御祝義
御使者被差出候御取次勤
御前様 静明院様
御使者西丸勤
一右二付御家中惣代三人
何も此節は西丸二而相済
一国武社へ
御代参御取次勤御参銀
無之
三月四日
同 五日
一来ㇽ九日御参勤御発駕被
遊候筈之処此間ゟ御持病之
御持疾被御差発候二付九日
御発駕御延引被遊候城之
二丸へ左之通御書付を以御
使者被差出候尤御使者西
丸勤
口上覚
弥御勇健可被成御座
珍重御儀奉存候然は私儀
為参勤来ㇽ九日出足仕
心得二罷在候処頃日ゟ
持病之痔疾差発折角
療養仕候得共一円不相
勝長途押而も乗輿仕
候体無御座候二付乍迷惑
延引仕候少も快方二御座
候半は発足可仕奉存候
此段御老中迄宜被仰
達可被下候自私も
御届仕儀御座候右為
可申上使者差上候
三月五日
一公辺御届相成候御病症
書も写西丸差越左二但此の
節迄は二丸御病症書は
不被差出候
御病症書写
兼而持病之痔疾御
座候之処腫痛強気体
不相勝候
一御延引二付
公辺御届二相成候様右御
病症書を以江戸申越二成ル
尤御手飛脚足軽金原
伊兵衛へ差越候事
一右二付蓮池鹿嶋御家老
中へ此御方御家老中ゟ之為
御知案紙左之通
一筆致啓上候加賀守様
為御参勤来ル九日御
発足被成筈之処御持病
之痔疾被差発候二付
御延引有之候此段為御知
如是御座候恐惶謹言
三月六日 御家老方
蓮池 御家老中
鹿嶋 御家老中
一右之趣佐嘉表兼而為御知
合せ之御方々江為御知有之候
様西丸申越二成ル
一右御延引之趣御家中被相触
候様大組代中呼出二而被相達候
実は御金御差支二付御病気
形也
一右之段
上々様へ為御知有之候也
三月六日
一役方左之通被
仰付候
請役所 与五兵衛次男
祐筆方二 弥永十兵衛
御雇給仕兼
過代夫方 池田庄兵衛代り
内田清右衛門
三月七日
一相良十郎助儀被相糺御用
有之候条同輩付二而被罷出
候様佐嘉評定所より
申来候条今日ゟ被罷出候様
同所御居籠二相成候尤
江戸
公金一件二付其節御目
付懸合二付而之由也
同八日
一勝妙寺修善院江御心願
之義被成御座候二付永代米
五石ツゝ御寄付被成候二付右
両寺桜岡御呼出善左衛門殿
小松間二而被相達候右寺社方
ゟ之手充書左二
今度貴寺江米五石
永代寄付有之候仍為
後年如斯候以上
寛政五年
丑三月 木下内蔵進判
《割書:勝妙寺|修善寺》銘々
三月九日
同 十日
同十一日
一国武社江
御直参被遊候
一京都 千賀姫様御附
玉嶋女御用二付旧冬より
罷超居候処今朝ゟ被差立候
三月十二日
一御参会例之通
三月十三日
同 十四日
同 十五日
一当御祝義有之
一殿様正御誕生日二付
天山社へ 御代参
御取次勤御参銀壱匁
三月十六日
一陣内文右衛門義不調法有之
先達而隠居牢人被
仰付候二付弟徳次郎へ家続
被 仰付候同人呼出二而
御当役被相達候
一近頃降雨打続郷内麦作
実入時分二付止雨之御祈祷
福智院へ被 仰付去ㇽ十日ゟ
今日迄執行有之料銀
弐枚
一当二月諸願 仰渡御
書付を以於小松間善左衛門殿
被相達候
三月十七日
同 十八日
同 十九日
同 廿日
一寿昌院様御正当二付
御代香御家老勤御香典
線香壱束
同廿一日
一二丸ゟ左之通触達申来候
御前様御事
穆(アツ)姫様と御名替被
遊候条右之趣筋々
可被相達候以上
丑三月十七日 二丸請役所
三月廿二日
同 廿三日
一横尾内蔵允へ高嶋番被
仰付候
同 廿四日
一法眼院様へ之
御代香番頭勤
一永々之降雨二付止雨之
御祈祷岩蔵寺江被
仰付今日より五夜五日
執行有之料銀三枚被差出候
三月廿五日
同 廿六日
同 廿七日
一岩蔵寺二而御祈祷中二付
郷内千人参詣被 仰付候
同廿八日
一天山社江
為止雨御親類御家老中并
役々郷役迄素足参籠
之御願相立居候付今日御成就
として参籠有之軽酒食
出ㇽ御台所存也
同 廿九日
四月 朔日
一天山宮御田祭礼二付
御代参御取次勤御参銀
壱匁
一同断二付同所へ警固頭人
馬乗己上勤并警固足軽三人
相詰候事
一当日為御祝義各方御出仕也
四月二日
一御参会例之通
同 三日
同 四日
一大村信濃守様御下国牛津
御通路二付御見舞御使者
同所被差出候御進物等ハ無之
右二付郡方其外役々同所出張
有之候也此節は牛津御休泊
無之二付同所二而御途中御使者
也
四月五日
一正一位社初卯御祭礼二付
御代参御取次勤御参銀
壱匁右二付御施物左之通
一銀弐匁 岩蔵寺
一同五分ツゝ 伴僧三人
一御初穂銀壱匁 宮嶋岩見
同六日
同七日
同八日
同九日
一御前様今朝五ツ時御供揃二而
丹坂大日堂へ御参詣被遊候
同 十日
同十一日
同十二日
同十三日
同十四日
同十五日
一当日御祝義有之尤御
病気二付御礼不被為請候
同十六日
一千岩忠兵衛義御内御台所
御広式番兼被仰付候
一松平主殿頭様御入部二付
今夜牛津御泊二付御見廻
御使者差出候御取次勤御
進物等之義御断二付無之右二付
郡方元〆方其外役々
同所出張有之候
同十八日
同十九日
一祥太郎様今日岩蔵寺御
越被遊候付御道筋掃除等
相調候様御手当二成候外二
此御方より何之御構無之
尤同寺へ為心遣請役附
江嶋金兵衛罷越候也
四月廿日
同廿一日
同廿二日
一長崎ゟ医学稽古として
川久保順庵へ致随身居候
外療林文民江御出入被
仰付弐人扶持被差出候尤
順庵ゟ之滞在二而罷在候也
同廿三日
一牛津新町別当石橋庄右衛門
義数年堅固二相勤候付
為御褒美新足軽被召成
御切米弐石被為拝領候
一加藤専右衛門大内浪兎
公金一件二付二丸ゟ被相調
御用有之候条御呼下相成
候様先達而御達相成居候末
先以御用無之被差下候不
相及候段西丸迄被相達候
右二付今日仕廻奥向ゟ飛脚
町便二而被差越候付当役二而
其段注進二成ル
四月廿四日
一法眼院様江之
御代香番頭勤
四月廿五日
一上佐嘉草場村金剛天神江
西岡ゟ之 御代参西丸詰
御徒士中原文太勤之御参銀
三匁
同廿六日
一形部卿様御逝去二付二丸ゟ
左之通触達有之候
形部卿様御病気候処
御養生不被為叶去ル八日
御逝去被成候段江戸より
申来候依之則ゟ来ル
廿九日迄之日数五日御領中
御穏便被 仰付候条
謡乱舞鳴物等相止候様
尤作事は一日相止候様
筋々懇に可被相達旨十左衛門殿
御申候以上
丑 二丸
四月廿五日 請役所
四月廿七日
同 廿八日
同 廿九日
同 晦日
五月 朔日
一当日御祝義有之御病気
二而御礼不被為請候
同二日
一御参会例之通
同三日
同四日
一今度二丸御部屋
御出生様御名
総(フサ)吉様と御附被成候由申承候也
五月五日
一当日御祝儀有之尤御病中
二付御礼不被為請候
一御前様四ッ時御親類御家
老中へ被渡 御目候
一右二付
肥州様へ御祝義御使者
御取次より被差越候御家中
惣代何も西丸詰二而相済
御前様 静明院様
ゟ之御使者西丸勤也
五月六日
同 七日
一松平筑前守様御入部初而
長崎御越今夜牛津御止宿
二付御見廻御使者被差出候
御取次勤尤御使者御進物
体一向御断二付御進物無之
併御使者之義は御入部
初而之御通路二付被差出候也
右二付郡方元〆方其外
同所出張有之火消方頭
人之義は御使者之人をも
兼二而被相勤候也
五月八日
一筑前守様御附副二而長崎
被罷越候
公儀御医師橘隆庵殿
今夜牛津止宿二付御見廻
御使者上使屋番吉本段右衛門
勤之御進物葛粉一箱
被差出候右二付郡方其外
役々同所出張有之
一二丸御部屋
徹之助様此御方へ御養子
被遊度 御内存候趣
先以御内々御家中へ為
御聞被置候段番頭物頭
大組代中呼出二而善左衛門殿
被相達候
五月九日
同 十日
同十一日
同十二日
一御参会例之通
同十三日
同十四日
一文京院様御正当二付
御代香御取次勤
御香典無之
五月十五日
一殿様御誕生日二付
天山社へ
御代参御取次勤
御参銀無之
一松平筑前守様長崎より
御帰路今夜牛津御泊
二付郡方元〆方其外
役々同所出張有之候火消
頭人御使者番ゟ被罷越候
御使者之義は御帰路二付
無之
一野口弥右衛門義勘定究役
千々岩忠兵衛代被仰付候
五月十六日
一松平筑前守様御附副
公儀御医師橘隆庵殿
帰路今夜牛津止宿二付
郡方元〆方其外役々
出張帰路二付御使者御進物
無之
一宮地勘左衛門神代官右衛門村川
佐一郎相良十郎助
公金御調一件二付佐嘉
御預相成居候処先以同輩へ
被相預宿元々へ被差返候段
西丸呼出二而被相達候旨申
来候右同輩御預候義ハ大組代
呼出被相達候
五月十七日
同 十八日
同 十九日
一右近孫右衛門娘を
御前様被召仕候段
被 仰出候二付孫右衛門呼出
二而被 仰付候相談役
達候也
同 廿日
同廿一被
同廿二日
一御参会例之通
同廿三日
同廿四日
一法眼院様へ之
御代香 番頭勤
五月廿五日
一当祇園会之義去秋
大損毛之上当春麦作
以之外之不熟二而郷内
極々差支何分二も祇園会
出夫不相叶段郷内ゟ相願
候付六月義は被差延
八月十五日二御祭被相調候
右之趣二丸へ被相届候様西丸
申越被成其外宮崎七右衛門へ
も寺社方より達二成ル
一右之段郡方よりも佐嘉表
御届二成ル
一祇園会被差延候義二丸
被相届候様西丸申越二相成候処
左之通御届被差出候段申
来候
小城当六月十五日祇園会
之義去秋大損毛之上
麦作以之外不熟二而
郷内極々差支候付
差延八月十五日二祭礼
相調申候此段御届申上
候様従在所申越候已上
五月 嬉野小右衛門
五月廿六日
同 廿七日
一桃天院殿三回忌法事
於左近殿宅被相調候付
御代香被差出候平士勤
御香典線香壱束
同 廿八日
一水上山不動会二付
御代参 御取次勤
<割書:御前様|静明院様> ゟ之
御代参 平士勤
御参銀御自分方〳〵ゟ出ル
五月廿九日
一見性院様御正当二付
御代香御家老勤
御香典線香壱束
一米倉権兵衛御機嫌伺二て
被罷出候付御逢被成候小松間
二而餅菓子出ㇽ
六月朔日
一当日御祝義有之
一備前守様御下進今日
此御方御立寄被成候尤
殿様御病気之御取扱二付
御外ゟ御入之義は御断被成
裏御門より直二西岡御出
被成候也御手数左之通
一御道筋御私領中
掃除相調候様郡方達
之事
一内外掃除等之義村崎
卜周并修り方達候事
一御馬屋達候事
一御出并御帰之節御
私領境迄御先立
御道心遣
足軽目附
壱人
看板着
足軽
弐人
一津野出離迄見テ宿
引付使番兼
足軽弐人
一御立宿興譲館之事
一同所役人達候事
一同所補理并掃除一通
修り方達候事
一同所へ御茶道具并御た
ばこ盃御湯桶手洗
御手拭炭油蝋燭御
草履御包ミ紙等油部屋
より差越候事
一同所へ御徒士給仕弐人
使番足軽壱人参候事
一御供下宿六軒下目附
達候事
但袴着用
一表御門上番御徒士壱
人被仰付候事
一小路廻掃除触之事
一上り物一通西岡御頼
御次出物同断
一御帰之上御親類御家老
中ゟ廉嶋御家老中
迄御機嫌伺之飛札
西丸差越候事
已上
六月二日
一御参会例之通
一備前守様今日四ツ時御
帰被成候
六月三日
一日峯社御祭礼ニ付
御代参 御取次勤
御参銀壱両 折二段くり
一於宗智寺
日峯様御正当ニ付
御代香 西丸勤
御香典白麻十帖 折人候
同四日
同五日
一大蔵殿内方昨夕御出産
候付き血着御届有之候御女子
御出生之由也
一備前守様御在着為御
祝儀廉嶋へ御使者被差越候
御取次勤尤前方御祝物等
有之候得共御仕切中二付不
被進候其段は御使者之人より
取次迄沙汰有之筈也
静明院様ゟも右御一使二而
御祝詞被仰進候
六月七日
同 八日
同 九日
一郡方御附役石井杢左衛門為御
機嫌伺今日桜岡被罷出
候二付於小松間御酒被為拝領
候相伴東嶋杢右衛門郡方両人
其末金子三百疋被為拝領候
書物一通外御台所相知居ㇽ
六月十日
同十一日
一公儀
惇信院様三十三年御
忌御法事於正定寺
御執行二付二丸ゟ左之通
触達申来候
来ㇽ十一日ゟ十二日迄
惇信院様三十三年御
忌御法事於正定寺
御執行二付
一十二月一日御領中殺生
禁断被 仰付候事
一御家中自分二被申付置候
軽罪之物被差免候事
右之通申来候条端々迄
懇二可被相達候以上
丑六月七日 二丸
請役所
六月十二日
同 十三日
同 十四日
同 十五日
一祇園会御祭礼当年柄
二付而八月十五日へ被差延候
二丸御届其外之義委細去月
廿五日之所二記置
六月十六日
同 十七日
一円通寺十七夜十八堂
例年之通尤警固之義は
祇園会等も被指延候得は
他方ゟ之御参詣も有之間敷
候条警固之義は被差出及
申間敷相心得候付相願可申
候段円通寺ゟ相達被申二付
不被差出候也
六月十八日
一本良院様御正当二付祥
光山江之
御代香 御家老勤
御香典線香壱束
同十九日
一足軽小原安兵衛義急御用銀
調達被 仰付候処急速ニ
出来致出情候付為御褒美
御徒士被召成御切米五石
被為拝領候段御当役被相達候
御浜達書左之通
足軽小原安兵衛
御家中一統及大難儀
候二付右御扶助金調
達候義被
仰付候処粉骨相働
候付此節調義出来
乍少金も危急之場合
御用立候宜御大慶被遊候
依之御褒美として
御徒士二被召成御切米
五石被為拝領候段被
仰出候此旨相達候也
丑五月
一吉富左兵衛妹を江口左五兵衛
妻二被為拝領候段双方呼出
相談役ゟ被相達候
一左二付左之通拝領
銀二枚 吉富左兵衛
同三枚 江口左五兵衛
一御家中極々差支候付
少々ツゝ御扶助被 仰付候段
今夕七ッ時番頭物頭
大組代中呼出御当役
被相達候御書付其外
委細仰渡帳二有り
六月廿日
同廿一日
同廿二日
同廿三日
同廿四日
一法眼院様御正当二付
御代香 御家老勤
御香典線香壱束
同廿五日
同廿六日
同廿七日
同廿八日
同廿九日
同 晦日
七月朔日
一当日御祝義有之
同 二日
一御参会例之通
一泰盛院様 一高源院様
一玄梁院様 一寂光院様
一法性院様 一光徳院様
一寿綱院様
右御施餓鬼於高伝寺
御経営ニ付左之通
一御代香 御取次勤
御前様 御使者番勤
一同 御香典白麻拾帖
静明院様
一同 西丸勤
御香典無之
七月三日
一於無量寺
玉真院様御施餓鬼是迄
御執行被成来候得共御
取〆二付而御施餓鬼之義は
去々亥年ゟ被相止御志迄二
鳥目壱〆文被差出候
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
一薪三荷
一夫丸七人薪取
一日峯様 一陽泰院様
一興国院様 一乗輪院様
一柳線院様
右御施餓鬼於高伝寺
御執行ニ付
一御代香 御取次勤
一御代香 御取次勤
御香典無之
一志波屋於真龍寺
梅聖院様御施餓鬼
御執行ニ付
御代香 御取次勤
御香典無之
七月四日
一御前様御不例二付五夜
五日御祈祷岩蔵寺江
被 仰付候今日より
御執行有之料銀三枚
一海量院様 一貞樹院様
一大弘院様 一霊松院様
一龍宝院様
右御施餓鬼於高伝寺
御執行ニ付
御代香 御取次勤
御香典無之
御前様
同 御使者番勤
御香典白麻拾帖御内調
右は
大弘院様
灵松院様 江
静明院様
同 西丸勤
御香典無之
一真照院様
一南祥院様
右御施餓鬼於宗智寺
御執行二付
御代香 御取次勤
御香典無之
七月五日
同 六日
一御前様御不例二付
為伺御機嫌各方
御出仕有之
一於正定寺
天誉様御施餓鬼ニ付
御代香 御取次勤
御香典白麻拾帖
一於称念寺
玉山様御施餓鬼ニ付
御代香 西丸勤
御香典無之
一宮地二兵衛江御内頭人懸り合
被 仰付候尤高木右衛門
痛二付出勤迄之処被
仰付候也
七月七日
一当日御祝義有之
一御前様四ツ時御親類御
家老中へ被為請 御礼候
一国武社へ
御代参 御取次勤
御参銀無之
一節句二付
肥州様へ御祝義御使者
御取次勤
御前様 静明院様
ゟ之御使者西丸勤御家中
惣代とも同所詰二而相済
一二丸ゟ左之通触達申来ㇽ
御家中始下々迄惣
之字と名許二相用
候義致用捨候処尤
右は總吉様總之字二差障
候二付此段相達候様
二と有之候間可被相達候
已上
丑六月 伊東四郎兵衛
其外
七月八日
一於祥光山
御先祖様方御施餓
鬼ニ付左之通尤御香典
前方線香九束二候処御
仕組二付子ノ年ゟ御舫ニ而
三束ニ被相減候
一御代香 大蔵殿
御前様
一同 御附頭 不快二付
御使者番勤
御香典御内ゟ出ル
静明院様
一同 御附頭別勤二付
御使者番勤
御香典線香壱束
西岡ゟ出ル
於佐保様
一同 兵士勤
御香典右同濱御西ゟ出ル
一寄附堪忍
馬乗已上壱人
平士壱人
一門番 平士弐人
足軽弐人
一筆者給仕小頭弐人
一使番斉堂番掃除方
兼 足軽壱人
右役々江割籠弁当
晩斗出る但朝飯後六半時
出勤二付而也
一御親類御家老中請役所
詰中出席有之
一銀弐枚
一米三斗
一薪九荷
一夫丸拾人 薪取跡遣迄
右之通御寺納
七月九日 公儀若君様御逝去
一公儀
若君様御逝去二付来二丸
より左之通触達有之候
若君様御不例之通
御養生不被為叶先月
廿四日御逝去被遊候段
江戸ゟ申来候依之則ゟ
来ル十七日迄日数十日
御領中御穏便可被仰付候条
謡乱舞鳴物等相止候様
筋々懇二可被相達旨御
当役御申候以上
丑七月八日 二丸請役所
一備前守様今朝御忍二而
廉嶋より直二濱御茶屋
御越二付左之通
一御内外掃除村崎卜周并
修り方達候事
一南小路東小路下岡
小路掃除触之事
一御出御帰共二御領境迄
御道心遣
下目附壱人
看板着
足軽弐人
一見干足軽壱人使番
宿引付兼
一御供中下宿目附
達候事
一濱御門番へ達候事
一郡方達候事
一御馬屋達候事
已上
七月十日
一於玉毫寺
法眼院様御施餓鬼
二付左之通
一御代香 左近殿
御香典線香壱束
御前様
一同 御使者番勤
同 御内ゟ出ㇽ
静明院様
一御代香 御使者番勤
御香典西岡ゟ出ㇽ
於佐保様
一同 平士勤
御香典御西ゟ出ㇽ
千賀姫様 右同
一同
【1行隠れ】
一寄附堪忍
馬乗已上壱人
平士 壱人
一門番
平士弐人
足軽弐人
一筆者給仕 小頭弐人
一使番并掃除方兼
足軽壱人
右役々へ割籠并弁当出ㇽ
一御親類御家老中請役所
詰中出席有之
一銀五拾匁
一米三斗
一薪八荷
一夫丸八人 薪取
跡遣迄
右之通御寺納
一於本行寺
慈広院様御施餓鬼
二付 御代香
西丸勤御香典無之
一於大興寺
祥雲院様御施餓鬼ニ付
御代香御取次勤御香典
無之 静明院様ゟ之
御代香西丸勤御香典
無之
一於松尾山
高岳院様御施餓鬼
二付 御代香御取次勤
御香典線香壱束
七月十一日
一於宗智寺
日峯様 陽泰院様
御施餓鬼ニ付
御代香 御取次勤御香典
無之
一於同寺
月堂様御施餓鬼ニ付
御代香御家老勤御
香典線香壱束
一於円通寺
御先祖様方御施餓鬼
ニ付 御代香御取次勤
御香典無之
一龍宝院様十七年御忌
御法事二付左之通触達
申来候
来ㇽ十一日ゟ十二日迄
龍宝院様十七年忌
御法事於高伝寺就
御執行
一御家中自分二申付
被置候軽罪之者被差免
候事
一十二日一日御領中殺
生禁断之事
右之通被仰付候条
筋々懇二可被相達旨ニ
候以上
丑七月六日 二丸
請役所
七月十二日
一御参会例之通
一龍宝院様十七ヶ年御忌
御法事於高伝寺御経営
二付左之通
一御代香 御取次勤
御香典杉原白麻廿帖
一御前様
一同 御使者番勤
静明院様
一同 右同
御香典右同断外方ゟ出ㇽ
七月十三日
一今日ゟ於御対面所
御聖灵様御祭毎歳之通
右二付宗智寺ゟ僧衆被
罷出今日ゟ十五日晩迄
相詰被申候付御布施
金子百疋被為拝領候也
七月十四日
同 十五日
一当日御祝義有之
一鹿島普明寺二おゐて
定恵院様御施餓鬼ニ付
御代香 御取次勤
御香典無之
一静明院様江従
殿様御生身魂為御祝義
左之通被進候尤御在国二付
奥様二而上ル御在府之節は
外方存也
一生御肴一折
一御樽 一弐升入
七月十六日
一於栄照庵
御先祖様方御施餓鬼
是迄御経営被成候得共
御取〆二付而亥ノ年より
御施餓鬼之義は相止御志
迄二鳥目壱〆文二被減候
尤左之通被差出候
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
一薪三荷
一夫丸六人 <割書:薪取|跡遣迄>
七月十七日
同 十八日
同 十九日
同 廿一日
同 廿二日
一御参会例之通
同 廿三日
同 廿四日
一法眼院様へ之
御代香 番頭勤
七月廿五日
同 廿六日
一長寿院院様御正当二付
御代香御家老勤
御香典線香壱束
一佐嘉評定所ゟ左之通
申来候付何も被罷出候也
加賀守殿家来
村川佐一郎
宮地勘左衛門
神代官右衛門
相良十郎助
右之人々明後廿六日
御家老中御立合
可被相糺旨候候条銘々
同輩相付明ヶ六ッ時
評定所被罷出候様
縦何分之当病たり共
押而刻限無遅滞
被罷出候様懇二可被相達
候已上
丑七月廿四日
香田左馬之允
石井新五左衛門
中嶋弥太夫
一久保三左衛門義牛津上使屋
御建方二付而万端致心配
候付金子五百疋御肴一折被
為拝領候御使西丸詰持永
源兵衛相勤候也
七月廿八日
同 廿九日
八月 朔日
一当日御祝義有之
一肥州様へ当日御祝義御使者
被差出候御取次勤
御前様へ静明院様
ゟ之御使者西丸勤御家中
惣代とも西丸詰二而相済
一瑞林院様御命日己後
十二日二被相定候段被 仰出候
八月二日
一御参会例之通
同 三日
同 四日
同 五日
一左之通被 仰付候
<割書:持役ゟ|相談役> 永橋泰助
相談役 村川平八郎
本役二被
仰付御
相続方兼
同 六日
同 七日
同 八日
同 九日
同 十日
同十一日
一今日ゟ明日迄
瑞林院様十七年御忌
御法事於祥光山
御経営二付左之通
御法事料
一米六斗
一銀弐枚
一殺生之事
一十二日一日殺生禁断
之事
一御代香御香典左之通
一御代香 番頭勤
御香典白麻拾帖
御前様
一同 馬乗已上勤
御香典線香壱束
静明院様
一同 御附頭勤
御香典線香壱束
於佐保様
一同 平士勤
御香典右同
千賀姫様
一同 右同
御香典無之
一寄附堪忍
馬乗已上壱人
平士 壱人
御徒士壱人
一御代香宿 禅休庵
御徒士 壱人
手引足軽壱人
献備
一御香典線香 三束
大蔵殿
左近殿
監物殿
一同三束
頼母殿
善左衛門殿
十太夫殿
権右衛門殿
造酒殿
又左衛門殿
一同弐束
大御目附
元 〆
相談役
惣御目附
旧記方頭人
一同断二付
於佐保様江御野菜一折
被進候
一御同人様江御茶講料
銀五拾匁被差出候
一御茶講料拝領
一銀壱匁 中嶋
一同三匁 いそ
一壱匁ツゝ <割書:のよ|しの>
一同弐匁 あけは
一御家中参詣御香典
勝手次第之事
八月十二日
同 十三日
同 十四日
同 十五日
一当日御祝儀有之
一当祇園会当年柄二付而は
六月之義は被差延置候付
興例年之通御祭挽
山二而被相調候先山五ツ時
上川原挽届跡山同夕七
半時挽届直二引返候得共
両山共上町之方迄二而
夜二入損所等有之候付被相止
翌朝解崩二相成候也
一桟敷御酒拝領其外御手数
毎歳之通也桟敷詰左之通
善左衛門殿
<割書:御名代|御参銀三匁> 太田幸三郎
大御目附 木下求馬
相談役
惣御目附 木下内蔵進
兼二テ出席
請役附 嬉野伝之助
祐筆
給仕
一上々様へ御団さなた御扇子
御納戸ゟ上り候得共御仕切
中ニ付子之年ゟ被相止候也
一登り山之節先山跡押
相勤候今泉能登路与足軽
飯盛官左衛門義蓮寺橋
下辺二而本山綱を先山
跡備二たくり懸候付備内二
入不通棒二而さゝへ候得とも
夫丸共承引不致二付多久
夫丸之内壱人棒二而打怪
我致候付跡より数人之
夫丸取巻キ所々二取付一
向両手働も不相叶理不
尽二多久夫丸宿連越候付
則郡方ゟ大木清吾差越
大庄屋申談右官右衛門は
連帰り申候右怪我人療治
方として桟敷ゟ相良
柳印被差越候気体不
相勝候趣二付本道原口
宗益へ早速被 仰付
療養有之候
八月十六日
同 十七日
一相原四兵衛義江戸御取次被
仰付候段権右衛門殿於御用人
部屋被達候
八月十八日
同 十九日
同 廿日
一金栗様御正当二付
御代香 御家老勤
御香典線香壱束
同廿一日
同廿二日
一放光院様御正当二付
御代香 御取次勤
御香典 線香一束
一肥州様ゟ
御前様急御用被成御座
候条早速よりも御越被成
候様申来候付今夜暮時
御供揃二而夜明ゟ御越
被遊候
一鍵山勘兵衛今日為伺御
機嫌桜岡罷出候付於小
松間酒食出ㇽ元締永橋
泰助ゟ挨拶有之相伴
御蔵方役ゟ且又金子弐百疋
被為拝領候同人ゟ献上左之通
一御扇子 一箱
一御酒肴
右は
殿様へ
一御菓子 一箱ツゝ
右ハ
御前様
静明院様江
八月廿三日
同 廿四日
一法眼院様へ之
御代香 番頭勤
御香典無之
一左之通被
仰付候
代官役 <割書:東嶋市郎右衛門|綾部十郎右衛門>
江口平次
下第居付 水田彦七
相続役達 綾部左九兵衛
奥村又兵衛
古賀良助
池田彦兵衛
八月廿五日
一御用二付
備前守様今日此御方
御越
同廿六日
一弘徳院様御正当二付
御代香御家老勤御香典
線香壱束
八月廿七日
一備前守様今夜佐嘉より
又々御越被成候
一山城殿今夜九ツ時過此御方
被相越候立宿護摩堂
一川浪助右衛門隠居孫平
去々年此御方揚り屋を
破佐嘉評定所駆込居候付
段々一類中其外御調候等
有之去ㇽ廿六日御家老
御立合相済候付孫平
御私領方被相預候段相達候
右二付西丸ゟ預手形左之通
差出被申候
預手形覚
加賀守様家来之川浪
幸次郎親 孫平
隠居
右之者被相糺二付御評定所
居籠被置候得共今日ゟ
私領方へ相預被置候条
他参文通申談等ハ不及
沙汰万端無疎心遣可仕
旨奉畏候自然不念之
義も御座候半は私領方無
調法可被仰付候已上
丑八月廿六日
嬉野小右衛門
石井新五左衛門殿
吉田左馬允殿
八月廿八日
同 廿九日
同 晦 日
一殿様御退身御決定二付
備前様山城殿へ今日
御請被仰進候事
九月朔日
一当日御祝有之
一今度従
肥州様 殿様
御退身被成候様御沙汰二付
其通御決定被遊候付御請
昨晦日被仰進候右二付
肥州様へ 被恐入御差扣被遊
候段御使者を以被仰進候
一右御差扣二付御家中
足軽小道具舸子組迄
長髪二而相慎罷在候様
郷町之義は謡乱舞鳴物
相止相慎ま罷在候様被
仰付候段触達出
一長崎下向之御奉行高尾
伊賀守様御支配勘定
内藤兵右衛門殿御普請役小嶋
市五郎殿今夜牛津止宿
二付御見廻御使者御取次勤
御勘定役御普請役へハ上使
屋番吉本段右衛門勤之御
進物葛粉一箱ツゝ右二付
惣御目附ゟ壱人為心遣
被罷越其外郡方元〆方
人馬方役々同所出張
九月二日
一御参会例之通
一殿様御差扣二付而御家中
長髪被 仰付置候得共
長髪ニは不及趣西丸ゟ
申来二付今夜其段触達
出ル
九月三日
一備前守様今日此御方御越
被成筈之処 殿様御差
扣之段昨日為御知之趣
御承知被成其上於佐嘉
表此御方御一類方二も御差扣
御座候趣被 聞召候付
備前守様二も御差扣之義
今日二丸へ以御使被仰入候付
此御方御越候義御用捨被成
候段廉嶋ゟ申来候
九月四日
九月五日
同六日
同七日
一宮地二兵衛義急二御用有之
江戸え差越候段御当役被
相達候
一殿様御退身二付御跡目
麟太郎様江被相願候通
御決定被成候段
御印之御書附を以御
家中へ今夕七ツ時御用
二而於小松間被相達候左候而
御請書二連印有之候委
細別帳二有り
九月八日
同 九日
一佐嘉ゟ左之通触達有
之候付触達出ㇽ
御老中松平和泉守様
御病気御養生不被相叶
先月十九日御卒去之段申来候
依之則ゟ明後十日迄
日数三日御領中御穏便
被 仰付候条謡乱舞
鳴物等相止候様尤作事ハ
不苦候条此段筋々懇二
可被相達旨御当役御申候以上
丑九月八日 二丸
請役所
一御差扣中二付祭礼
神事被相延候也
九月十四日
御親類方御家老中并
重役人二丸へ差扣御届
相成居候処先以不及用捨
旨西丸迄相達有之候段
今夜申来候尤善左衛門殿二は
何レ共無之候委細別帳二
有り
九月十一日
一円覚院様五十年御忌
御法事於祥光山今日ゟ
明日迄御経営二付左之通
一御法事料 <割書:米壱石五斗|銀七枚>
一十二日一日御領中殺生
禁断之事
一軽罪之者御赦免之事
一御家中御寺参詣御
香典勝手次第之事
一放生之事
一寄附堪忍番
馬乗已上壱人
平士 壱人
一筆者給仕
御徒士 壱人
一火消 馬乗已上壱人
御徒士壱人
足軽 弐人
一門番
平士 弐人
足軽 弐人
一御代番 御親類勤
御香奠白麻二十帖
御前様
一同 御附頭勤
同白麻 十帖
静明院様
一同 右同
同白麻 十帖
於佐保様
一同 平士勤
同白麻 十帖
献備
一線香弐束宛
御親類方
一同壱束ツゝ
御家老中
一同三束
番頭中
一同五束
御用人
元〆
相談役
惣御目附
御内頭人
旧記方頭人
一右二付
上々様江御野菜献上
左之通
殿様江
一御野菜一折
御親類方三人
御家老方三人
御用人様へ
一同一折
大御目附
御用人
元〆
相談役
惣御目附
旧記方頭人
静明院様江
一同一折
御同人様へ<割書:御親類|御家老中>
一同一折 右役人中
於佐保様江
一同一折 <割書:御親類|御家老中>
御同人様へ
一同一折 右役人中
以上
九月十二日
九月十三日
一十太夫殿権右衛門殿御請役
被 仰付候段御親類より
被相達候右は於
御前被 仰渡筈之処
御不快被成御座候付而也
一左之通被 仰付候
大目附 東嶋杢右衛門
江戸御屋敷
頭人元〆 中尾次郎右衛門
兼帯
一高嶋番并二丸ゟ左之通
申来候
一相原左次兵衛義大坂ゟ昨夜
帰着田中小兵衛義も一同下着
九月十四日
同 十五日
一殿様御退身一件二付
二丸へ先日御差扣被 仰入
置御差扣中二付当日御祝儀
無之
一右同断二付祭礼神事
被差延勿論注連も被相止
候也
一天山社へ
殿様御誕生日二付
御代参 御取次勤
御参銀無之
一筑前守様長崎御番所
御見廻として御越候付
牛津御通路今夜同所
御止宿二付郡方元〆方
其外役々出張御見廻御使者
御断候付無之
九月十六日
一木下求馬義
麟太郎様御用人被
仰付候段御親類ゟ被相達候
同十七日
一善左衛門殿御請役今日被成
御免候
九月十八日
同 十九日
同 廿日
同 廿一日
一当月御祈祷今日ゟ
二夜三日於小松間岩蔵寺
参上二而御執行有之
一橋本弥五郎八木長右衛門佐嘉
より左之通申来候付其段
相達被置候也
加賀守殿鍛冶
矢根師 橋本弥五郎
右同弓師
八木長右衛門
右は今度御家作方
御飾道具御作立付而
懸り合致太儀候段達
御耳御酒被為拝領候
九月廿三日
一松平筑前守様長崎より
御帰路今夜牛津御止宿二付
郡方元〆方其外役々
同所出張有之
同廿四日
一法眼院様へ之
御代香 番頭勤
同廿五日
同廿六日
同廿七日
九月廿八日
一帰府之長崎御奉行
平賀式部少輔様御普請勘
定役牛津休二付御見廻
御使者被差出候御進物葛粉
一箱ツゝ右二付郡方其外
役々出張有之
一本庄社与賀社御祭礼
二付
御代参御差扣中二付
不被差出候
一八月諸願如願被
仰付候段
御書付を以於小松間御
当役十太夫殿被相達候
九月廿九日
一神代太一郎召仕同人屋敷
内二小屋懸致罷在候甚八
と申者今朝首を鎰罷在
候一身者二而何レ之訳とも不相知
相果罷在候付下目附ゟ
相改太一郎召仕ゟ手形
を取右召仕江死体相
渡候也
同 晦日
一殿様御差扣被成
御免之旨御旅中ゟ被
仰出越候段今日二丸より
相達有之候
十月朔日
一当日御祝義有之
同二日
一御参会例之通
同三日
同四日
同五日
一灵松院様三十三年
御忌御法事於髙伝寺
御執行二付
殿様
御代香 御取次勤
御香典溝口白麻廿帖
御前様
御代香 大岡七兵衛
御香典右同断御内調
一右御法事二付左之通触達
有之
一御家中自分二被申
付置候軽罪候者被差免
候事
一五日一日殺生禁断 被
仰付候事
右之通被 仰付候条懇二
可被相達由候
十月朔日 二丸受役所
一権右衛門殿御用二付廉嶋
被相越候
十月六日
一左之通被 仰付候
<割書:御隠居|御家督方兼> 秀嶋八右衛門
右同 高木左九馬
一圖書殿事西雄殿之
改名有之候
同七日
一今度
御隠居御家督御願今日
権右衛門殿二丸被御持出候
右一通委細別帳二記置
同八日
十月九日
同 十日
一高岳院様百五拾年御忌
御法事一昨八日より
今日迄於松尾山御経営
二付左之通
一御法事料
米五俵
銀七枚
薪三拾荷
夫丸三拾人
同於次拾人
一御法事料外二銀三百匁
普請料として被差出候
一十日一日殺生禁断之事
一軽罪之者御赦免之事
一御家中御寺参詣
御香典勝手次第之事
一寄附堪忍 馬乗已上弐人
平士弐人
筆者給仕
御徒士弐人
一調経宿心遣給仕兼
御徒士壱人
手引使番
足軽壱人
一御代香宿心遣給仕兼
御徒士壱人
手引
足軽壱人
一門番 足軽弐人
一御魂屋番 足軽弐人
一御代香 御家老勤
御線香金子百疋
御前様
一同 御内頭人勤
同白麻拾帖
静明院様
一同 御附頭勤
御香典白麻拾帖
於佐保様
一同 平士勤
御香典線香弐束
献備
一線香弐束ツゝ 御親類方
一同 壱束ツゞ 御家老中
一同 三束 番頭中
一同五束 御用人
元 〆
相談役
惣御目附
御内頭人
旧記方頭人
一鍋島主水殿家来中村
藤七と申人孝誉妙
忠尼と申追腹之子
孫二付金子百疋為茶場
料被下候事当時中村
武左衛門と申候
一右二付左之通御奉納
前机用
一御打敷壱枚 同五尺長サ六尺
但御仏前用
一蝋燭立弐対
但蓋共二
一御霊膳御紋附茶碗弐対
一同中茶碗弐束
但蓋共
一御紋附平皿壱ツ
但大
一同皿壱ツ
一同中皿弐ツ
但御紋附御仏前御魂屋用
一御水向鉢
但高サ壱尺弐寸位
一御花立四本
但御仏前御魂屋用
一御香炉弐ツ
但御紋付黒塗
一御霊前御箸 壱具
但御仏前
一水和茶碗弐ツ 台共
一御敷蓙弐枚
右之通新御調入御奉納
相成候其外修覆物等有之
候二付見分之上修覆成ル
不足物等ハ両御寺より
借り入二而調ル
十月十一日
同 十二日
一円覚院様五十年御忌
御法事先月十二日表向
御法事ハ被相調候得共其節
殿様御差扣中二付今又
御内論御法事昨日ゟ今日迄
於祥光山御経営二付御法事料左之通
勿論先月十二日二は
御代香御香典等も無之二付
此節被相備候也御法事料<割書:銀百五拾目|米六斗>
一寿綱院様十三年御忌
御法事於高伝寺御執行
二付
一御代香 御取次勤
御香典杉原白麻廿帖
御前様
一同 大岡七兵衛
御香典溝口白麻廿帖
静明院様
一同 御使者番勤
御香典杉原白麻廿帖
一監物殿御嫡子又三郎殿
今朝死去候段御届有之
右二付御笑止御使被差出候
御取次勤
十月十三日
一二丸ゟ左之人々へ被仰渡
御用有之候条今昼四ツ時
同輩付二而評定所被罷出
候様申来候付何も被罷出
候処従
公儀御買揚米代金拝借
之末納方不埒二付御本方ゟ
御振替等を以相納り候一件
二付左之通御手当有之
牢人 村川佐一郎
宮地勘左衛門
隠居牢人 神代官右衛門
真嶋助次郎
一右二付銘々一類遠慮有之
一右同断二付江戸納戸役加藤
専右衛門大内浪兎目附藤嶋
左馬之助御裁許左之通被
仰付候段御書付此御方相
渡候
隠居蟄居 加藤専右衛門
大内浪兎
逼塞 藤島左馬之助
一菊池宗垣伜玄達義先
達而ゟ於京都医学稽古
として罷越度三ヶ年御暇
願相済居候付此節宮地
二兵衛一同と出京有之候御切手
之義は御用切手二而五ヶ年
限候也
一役方左之通被 仰付候
浜崎御米
取納役 嬉野助右衛門
御内御台所ゟ
勘定所 千々岩忠兵衛
兼帯
<割書:御蔵方|付役> 石橋弥五右衛門
次廻職方 小原安兵衛
右は御当役達候也
<割書:地方ゟ|御相談方兼帯> 江頭源五左衛門
<割書:普請方付役|井樋方付役兼> 松尾九右衛門
一今度二丸ゟ左之人々江御
手当左之通被
仰付候段御書付相渡候
委細罰帳記ス尤善左衛門殿
二は佐嘉評定所におゐて
被 仰渡御用有之候条
一類同輩付二而御出候様申来
候得共御不快二而其義不被
相叶二付其段西丸迄申越二
相成候
大蔵殿
御呵捨 左近殿
監物殿
頼母殿
逼塞 十太夫殿
権右衛門殿
東嶋杢右衛門
木下求馬
御呵 藤田次左衛門
永橋泰助
中尾次郎右衛門
木下内蔵之進
十月十四日
一左之人々ゟ昨日従佐嘉御
裁許候付而書載之通引取
候段御届有之
<割書:西郷右原村へ|引取候事> 宮地勘左衛門
<割書:山内於川内村二|引取候事> 神代官右衛門
<割書:先以平原村へ|引取候事> 村川佐一郎
一左之人々役方御減少二付御免
地方付役 山田藤兵衛
<割書:牛津御蔵床|付役> 田口八郎右衛門
普請方付役 太田久右衛門
吟味方付役 志波助次郎
井樋方御免二而
御蔵床付役一篇二 弥永小兵衛
被仰付候
十月十五日
一当日御祝儀有之
一天山社御祭礼先月十五日
殿様御差扣中二付被差延
置候付今日御祭礼有之両
注連共御門内被差通候
一右御祭礼二付
天山社江 御代参
御取次勤御参銀壱匁
一右二付警固頭人壱人
御使者番勤右付足軽三人
岩蔵寺出勤有之候也
十月十六日
同 十七日
同 十八日
同 十九日
同 廿日
一監物殿御二男亀二郎殿
今朝死去候段御届有之依之」
御笑止之御使被差出候御取次
勤
同廿一日
同廿二日
同廿三日
同廿四日
一法眼院様へ之
御代香 番頭勤
十月廿五日
一十太夫殿権右衛門殿御隠宅
御家作之義二付無調法有之
今夜閉門被 仰付候大御
目附惣御目付附其外宅々
罷出被相達候委細罰帳
有り
十月廿六日
同 廿七日
一善左衛門殿佐嘉評定所御用
二付今日被罷出候所御政雑
二付御不束の義有之
殿様御隠居被成候様
肥州様被 仰出候一件
之義二付隠居牢人被
仰付候段於同所仰渡有之
一右二付御同人一類中より
遠慮御届有之
一右御裁許に付善左衛門殿藤
折村ニ御引取候段御届有之
一宮田十右衛門義今度御隠宅
御家作に付地開方之義二付
不行届之義有之被御呵捨候
委細罰帳二有り
一左之人々御家作方二付無調法
之義有之候付遠慮御届
有之
藤田次左衛門
城嶋武之進
中原唯右衛門
十月廿八日
同廿 九日
十一月朔日
一当日御祝儀有之
同 二日
一御参会例之通
同 三日
一玉真院様五十年御忌
御法事於無量寺昨二日
ゟ御経営二付左之通
一御法事料
一米六斗
一銀弐枚
一薪五荷
一三日一日御領中殺生
禁断被仰付候事
一御家中御寺参詣
御香典勝手次第之事
一寄附堪忍
馬乗已上壱人
平士 壱人
筆者給仕
御徒士壱人
一門内仮番所相建候付
門番
足軽弐人
一御代香 御取次勤
御香典白麻拾帖
御前様
一同 御内頭人勤
御香典線香弐束
静明院様
一同 西岡頭人勤
御香典線香弐束
於佐保様
一同 平士勤
御香典線香壱束
献備
一線香弐束
御親類方三人
一同 壱束 番頭弐人
一同 弐束
相談役
御内頭人
惣御目附
旧記方頭人
一御家老方二は当時佐嘉
御差扣中二付献備無之
已上
一京都ゟ急町便ニ而今朝
文箱到着
千賀姫様御事連々及
注進候通御病気先月
中旬頃は少々御快方被成
御座候処同廿日頃ゟ以之外
被御差重様々御養生被
尽御手を候得共終二御養生
不被相叶同廿三日申ノ
下刻御逝去被遊候段申来候
一右御逝去二付御領中御穏便
左之通被仰付候
一御家中月代立候事
一謡乱舞鳴物高声作事并
触売見世蔀卸油〆
から臼綿打停止候事
右之通今晩触出二相成候
一千賀姫様御法号左之通
貞静院殿妙元恵性大夫人
一上々様御忌左之通
一殿様 <割書:御忌廿日|御服九十日>
一御前様 <割書:御忌二日|御服四日>
一麟太郎様 <割書:御忌廿日|御服九十日>
一静明院様 <割書:御忌十日|御服三十日>
一於佐保様 <割書:御忌三日|御服七日>
一御前様御忌之儀聢と不
差分候付而二丸へ御尋二
相成候得共如何共不相知候
十一月四日
一右御逝去候儀二丸蓮池
於加殿并兼而為御知合之
御方々へ西丸ゟ為御知有之
廉嶋へは此御方ゟ為御知
相成候伊豫守様へは江戸
御屋敷ゟ御しらせ相成候様
申越相成候也
同五日
一貞静院様御逝去二付御穏
便被 仰付置候処左之
廉々今日ゟ被成 御免候
一油〆之事
一からうす蹈之事
一見世蔀明候事
一振売之事
一綿打之事
一御同霊様御四十九日
御法会御経営之義左之通
二而祥光山へ御頼相成候也
一米壱石弐斗
一餅米三斗
一鳥目六〆文
一薪十荷
一同寺江御位牌被相立候
十一月六日
同 七日
同 八日
同 九日
一大納言様其外御子様方へ
御悔御使者之義田中兵右衛門へ
相勤候様仰越相成候也
尤御同所へ御朦気御見廻
御進物之義も兵右衛門へ是又申
越相成候
一伊豫守様へは江戸二而御進物
等有之候様同様江戸申越二
相成候
同十四日
十一月十一日
同 十二日
同 十三日
一貞静院様御逝去二付去ㇽ
三日ゟ御穏便其外被 仰付
置候廉々左之通被差免候
一御家中月代剃明十四日
より被差免候事
一御領中御穏便明十四日
ゟ被差免候尤四十九日
迄ハ一統相慎罷在候様
被仰付候
右之通触達出ㇽ山代
郷へも申越候也
一京都御不幸二付
殿様 静明院様
於佐保様江御機嫌伺
として御野菜左之通献上
殿様江
一御野菜一折 揚豆婦廿切
こん若丗五切
山芋
大蔵殿
左近殿
監物殿
十太夫殿
権右衛門殿
御同人様江
同一折 右同
大御目附
元〆
相談役
惣御目附
静明院様へ 旧記方頭人
一同一折 右同
御親類三人
御同人様江 御家老弐人
一同一折
於佐保様江 役人中
一同一折
御親類三人
御同人様 御家老弐人
一同一折 役人中
一相原四兵衛義御留守居介
兼帯被仰付候
一太田六右衛門義円心寺担那二
候処此節改宗被 仰付松
尾山担那二被召成候其段
銘々被相達候円心寺へは寺
社方役ゟ書札二而被相達候
十一月十四日
一貞静院様御中陰昨十三日
晩ゟ十五日迄於祥光山御
法事御経営二付左之通
一御法事料
米六斗
銭六貫文
一十五日一日御領中殺生
禁断之事
一御家中御寺御参詣
勝手次第之事
一御中陰中寄附堪忍
馬乗已上壱人
平士壱人
筆者給仕
御徒士弐人
一御代香宿 禅林庵
一同所心遣給仕兼
御徒士壱人
足軽壱人
一御代香 番頭勤
御香典白麻拾帖
御前様
一同 御附頭勤
静明院様
一同 右同断
御香典右同断
於佐保様
一同 平士勤
御香典右同断
已上
一左之人々佐嘉ゟ遠慮
御免被成候旨今日西丸呼出
二而相達有之候段申来候
加賀守殿家来
木下求馬
藤田次左衛門
東嶋杢右衛門
中尾次郎左衛門
永橋泰助
木下内蔵之進
其方共義
御呵被置候得共被差免候
右之通可被申渡候已上
丑十一月十四日
十一月十五日
一当日御祝儀有之
同 十六日
同 十七日
同 十八日
一高嶋番として太田六右衛門并
足軽左之人数今朝ゟ被差立候
尤当冬番大番通遠見
相懸候様二丸ゟ相達候付
足軽之義は大番之通二〆
被差越候
目附 田中武兵衛
立石右衛門允
中嶋飛佐右衛門
十一月十九日
同 廿日
同 廿一日
一肥州様御着府之為御
知有之候二付二丸へ御祝義
御使者 殿様 静明院様
ゟ被差出候西丸勤也
十一月廿二日
同 廿三日
同 廿四日
一法眼院様へ之
御代香 番頭勤
一御家老方へ先達而二丸ゟ
逼塞被 仰付置候処今日
被成御免候段被相達候旨
西丸より申来候
一藤嶋左馬助義二丸ゟ逼塞
被 仰付置候処是又被成
御免候段申来候依之近便
江戸注進二相成筈也
同 廿五日
十一月廿六日
同 廿七日
<割書:親勘左衛門|家続> 宮地久五郎
<割書:親友右衛門|右同> 神代彦蔵
<割書:親十郎助|右同> 相良千蔵
<割書:亡父文右衛門|跡式> 橋本司書
<割書:亡父千兵衛|跡切米>小頭山領官兵衛
右何モ無相違被 仰付
候之旨御当役被相達候
一薬王寺弼義
麟太郎様御傍被
仰付候旨御当役被相達候
十一月廿八日
同 廿九日
同 晦日
一千賀姫様御逝去二付従
肥州様 殿様 静明院様江
御朦中為御見廻左之通
西丸迄御使者を以被進候
殿様へ
一葛粉一箱
静明院様へ
一御菓子一棬
右御礼御使者於江戸江
差出候筈也
十二月朔日
一当日御祝儀有之
同 二日
同 三日
同 四日
同 五日
一神代喜兵衛伜与次右衛門義勢
州大神宮へ宿願有之候付
此節相原左次兵衛出坂二付
同人随身いたし罷登度
被相願候処願之通被仰付候
同 六日
同 七日
一東嶋杢右衛門役方被成御免候
十二月八日
同 九日
同 十日
同 十一日
同 十二日
同 十三日
同 十四日
一二丸御進物西方ゟ左之通
被相達候段西丸ゟ申来候
加賀守様御病気二付
御退身御家督
麟太郎様江御願被成
候段今般請役所ゟ申上
其通被
仰出候段は請役所ゟ
御達二相成筈二候御病気
付而は素御引篭可被成
御座候得共万一御保養
之ため抔と候而御近辺
江も御出被成候義等有之
候而は不可然当時は
諸国共ニ隠密相廻
候趣付而は自然御
病躰御不相応之義
等有之候ては不相叶候間
其
思召被為在候様此段
為御心得貴様迄私ゟ
致御達候様申来候
十二月十五日
一当日御祝義有之
同 十六日
同 十七日
一上々様へ寒中御機嫌伺
として各方御出仕有之
十二月十八日
一備前守様此御方御越二付
御手数前々御越之通也
尤福智院御中宿二而裏御
門ゟ直二西岡御出被成候也
同 十九日
一今朝於
御前左之通組被相付候
御右備大物頭
御加判 造酒殿
十太夫殿次席
御左備
番頭 持永左馬
宮地新五右衛門元組
一ノ先
鉄砲 小田村多仲
大将小田村源右衛門元組
御旗本
鳥居奉行 村川平八郎
永嶋泰助元組
一組替御当役達
御右備徒士
大筒頭 永島泰助
馬ゝ清左衛門元組
一霜月諸願如願被
仰付候旨御書付を以
於小松間御当役被相達候
十二月廿日
同 廿一日
同 廿二日
同 廿三日
同 廿四日
一法眼院様へ
御代香 番頭勤
同廿五日
水町半与足軽
馬々崎村右衛門
先達而江副兵部左衛門
組足軽之内ゟ小原安兵衛
御徒士被 召成候依之
右村右衛門先年御加増被
仰付四石切米二付安兵衛
跡兵部左衛門組二被 仰付候
水町半与新足軽
牧瀬貞右衛門
右村右衛門跡ニ組入被
仰付候右は兼而新足軽
之内二而御切米弐石拝領
被仰付置候付而也
十二月廿六日
同 廿七日
同 廿八日
同 廿九日
一舎人殿蟄居被成
御免候今度
円覚院様御法事二付而也
一神代杢之助義元地之内
拾石御加増右は今度
円覚院様被対御法事
切米二而右之通被相増候也
一左之人数今度
円覚院様被対御法事
路次 御免被成候
田代拝左衛門
平石七左衛門
中園文右衛門
吉岡神吾
藤光弥左衛門
野副儀兵衛
覚
一御印之御書宣八紙
一御書宣四紙
右之通慥請取申候已上
丑十二月 中原唯右衛門
常富与三兵衛
大坪七兵衛
寛政五
【裏表紙】
病中須佐美
病中須佐美
室直 清著
昔漢の文帝露臺を作らしめんとて匠をめして其價をとひ
玉ひしに百金に當るよしを奏しけれは百金は中民十家の産
なり吾今臺をつくる為に十家の産を費すことあるへからすと
て纔かの露臺さへやめ玉ひしとなり其事今に至りて青史を照
し千歳の美談となることに今の 大君御代をしろしめす初め
より聊声色の御好おはしまさす御身の栄耀を事ことく玉はす
物ことに華奢をいましめ天下の為に財を惜給ふことは漢文景に
も恐しくは越給ふへし然るに近年米價賤しくして下部には
凍餒の民有り幸ひに菜色を免るゝといへとも豊年打続て米
価あまりに賤しく成り行ほとに微禄を賜る群臣其禄をとり
て衣服以下の諸費をするに財乏して用たらす困窮に及ふ事
のよしを聞召され頻りに賑恤の御政ありといへとも昔より太平
久しくなりぬれは自から世の風俗驕惰に成り行ならいなれは貴
賤となく唯奢侈を好みそれに冨商大賈時勢に乗して貨利
の権を擅にするままに諸の物価未た平ならさる折しも米価
のみ俄に賤しくなれは是を以て諸価を償にたらさるよし又聞し
めし今年より徳素の令御定めある為にそれまての怠を調せ
よとて去年臘月の末つかた先立て有司に命して府庫の財を発
かしめ巨萬の金を散して微禄の輩にあまねく恩貸して下は
府史胥徒の賤しきに及へり誠にかたしけなき御事といふへし今
より後此たひ恩貸に預りし面々自新にして身を脩め奉公を慎
しみ御令を守り偏に徳素を務て置て 上の御恩慮を労
し奉しさるやうまと常に心かけなはせめて御恩の萬一を報する
の志ともいふへしいかなれは庵堂の高きにいまして下の困窮をお
ほしめし忘れず朝夕に御心にかけさせ玉ふ其かたしけなきをも
おもひしらすして己を省る心なく酒色にふけり遊楽をの
み好み身を持崩して 上の御恩を空しくすることあらは
人たる心もてる人とやいふへき禽獣にもおとりぬへし素より有
へき事ならねど近年士の風儀日々に散【敗?】て廉恥のこゝろ有
る参星のことくなれはかゝるうへにもさる人あるましと定かたしさ
れは老のひかめる心にや其事をあらかしめ深くなけきて徒にも
たし難きまゝに筆にまかせてしるし置伝るもし此言の葉ちり
うせすして世にとり伝へて見る人あらはかくいふ予を評して
世を戒るとやいはん又世に論【謟?】とやいはん其評人の心によるへし
楼後【緩?】かいへる母よりいへは賢とし妻よりいへは妬のたくひなりそ
れはあなかちに論する所にあらす享保辛亥年正月十三日
鳩巣老人駿臺の草の庵に筆をとる
病中須佐美終
上近衛公書
享和癸亥孟夏新鐫【横書き】
《題:麻疹戯言》
式亭三馬先生 編
《割書:毎部定價|紋銀三戔》 《割書:勝手次第|不構翻刻》
いふは姓名(せいめい)なる歟 字号(じごう)なるか。 俳名(はいめう)なるか。
表徳(ひやうとく)なる歟。そも諡号(おくりな)なる歟。そも混名(あだな)
なる歟。 孰(いづ)れ本名 紛(まぎらは)しき病名(べうめい)也とて。 我(わが)
大御国(おほみくに)のやまとたましい。 些些(ささい)な字義(じぎ)
にはかまひ申さぬと。 唯手(たゞて)がるくハシカ
と訓(くん)じて通用(つうよう)す。 其(その)旧(いにしへ)【「古の記紀を」】
索(さぐ)るに。 稲目瘡(いなめかさ)とあり。 赤疱(あかも)【「瘡とあるは。」】
今いふ麻疹(はしか)の事(こと)なるよし
大人(うし)が説(せつ)にも見えたり。
疱瘡(ほうそう)麻疹(はしか)といへども。 似(に)ぬ物(もの)もまた
疱瘡(ほうそう)麻疹(はしか)なるべし。 形容同(かたちおな)じう
して心の異(こと)なるをたとへば。 水僊(すいせん)と
冬葱(ねぎ)のごとく浄(かたきやく)と諢又浄(はんどうがたき)の如(ごと)し。され
ども世俗(せぞく)似(に)た物(もの)なれば是(これ)を菖蒲(あやめ)
と杜若(かきつばた)にたぐへて。 彼(かれ)を媚定(みめさだめ)とし。
是(これ)を命定(いのちさだめ)とす。 麻疹(はしか)は命定(いのちさだめ)に
あらず。 疱瘡(ほうそう)命定(いのちさだめ)なるべし。 夫(それ)は
ともあれ。 此(この)ごろの人は。 疱瘡鬼(ほうそうがみ)か
合棚(あひだな)に。 麻疹(はしか)の神(かみ)のあるとまで
心得(こヽろえ)けん。 源八(げんぱち)も才陸(さいろく)も。 執(と)り
つかれしとおそれあへるは。 片腹(かたはら)
痛(いた)き事なれども。しばらく俗(ぞく)に
したがひて。さらば神(かみ)とも。 申(まをす)べけれど。
疱瘡神(ほうそうかみ)は棚(たな)に祭(まつ)りて。 赤(あか)い尽(づく)
しをさ〻げ立(たて)。 木兎(みゝづく)のお伽(とぎ)も
あれど。 麻疹(はしか)は神(かみ)といふまで
にて。 赤(あか)の飯(めし)の沙汰(さた)もなく。 鴞(ふくろう)の
張籠(はりこ)も見えず。 神(かみ)でもない物(もの)
神〳〵と利(り)を付るは。しりもことし
の行童謡(はやりうた)。でこでもないもの。でこ
〳〵といふにひとしく。 何(なに)をもつて
神(かみ)といふや。何をもつてでことか
いふや。 夢中(むちう)でしらぬ俗物(ぞくぶつ)が。 初発(ぞやみ)の
熱(ねつ)のうはことなるべし。 噫(あゝ)この
夏(なつ)いかなれば。かゝる天疫(てんゑき)の
災(わざわひ)を下(くだ)して。 吏民(りみん)にくるしみを
かけ給ふぞ。ねがはくば天神(てんじん)地(ぢ)
祇(ぎ)。 哀愍(あひみん)のまなじりをたれ給ひ。
まこと麻疹(はしか)の神(かみ)あらず。すみ
やかにちくら【筑羅】が沖(おき)え送(おく)り給へ。
さらばおのれも御幣(ごへい)を振立(ふりたて)。
鐘(かね)と太鼓(たいこ)をうちならして。
おくれ〳〵とちからを合せ奉る
べし。 撫(なで)つさすりつ看病人(かんべうにん)の。
丹精(たんせい)を抽(ぬきんで)て告(つけ)奉る微志(びし)を
それ見そなはし給(たま)へ。
ちゝんぷいぷい
〳〵
麻疹(はしか)と(と)海鹿之(あしかとのべん)弁
旅行(りよこう)を思はぬものは。 名所(めいしよ)図会(づゑ)も面白(おもしろ)
からず。 戯場(しばゐ)を看(み)ぬものは。 俳優(やくしや)話説(ばなし)も
耳(みゝ)にいらず。 和州順歴(やまとめぐり)して自家(うち)へ回(もど)れば。
旧地(めいしよ)勝景(こせき)を思ひ出(だ)して。 卒然(にはか)に道中記(だうちうき)
が見(み)たくなり。 一回勾欄(ひとたびしばゐ)を覗(のぞい)ては。 今(いま)まで
嫌(きらひ)の優子説(やくしやはなし)も。 自己(おのづ)とする気(き)になるは。
彼串童嫌(かのかげまきらひ)が傍椅(ねきよ)らん勢の愛敬(あひけう)に。
ぐにやとなつたる一般(たぐひ)にして。 見(み)ぬ洛陽(みやこ)
談話(ものがたり)。もとより感情(おもしろみ)ある味道(あぢはひ)をしら
ざる所以(ゆえ)也。 細見(さいけん)を開(ひら)けばまづ旧敷娼(あひかた)
の名(な)をしのばれ。 麻疹(はしか)がはやれば。 俄(にわか)に
麻疹(はしか)の書を見(み)たく思(おも)ふは。 都(すべ)て世間(よのなか)の
人情(にんぜう)なるべし。ちかきまで段義衣装(だんぎいしやう)に
定(さだま)つたる。 正銕色(てうじちや)がはやり出(だ)すと。そこら
だらけが丁子茶(てうじちや)だらけ。 流行物(はやりもの)とはいひ
ながら。 男(おとこ)の䰎(はけ)はます〳〵短(みぢか)く。 女(おんな)の髷(まげ)
は面(かほ)より強大(おほきく)。 五歩真田(ごぶさなだ)の腰帯(こしおび)は
男子(おとこ)のしめるものとなり。 洒(さらし)の手巾(てぬぐひ)は。
婦人(おんな)のかぶるものにきまりて。 往古来今(おうこらいこん)
さま〴〵に移(うつ)り変(かは)るもまた浮世(うきよ)也。されば
御江都(おゑど)の消金場(せいきんぜう)。 繁華(はんくは)の地方(とち)の新(し)
様物(だしもの)。 一(いち)ばん中(あた)つた物(もの)あれば。 贋(にせ)の出(で)る事 速(すみやか)
なり。 時花東西(はやりもの)には喬人(にせて)が多(おほ)く。この衙衕(まち)
にも七種茗漬(なゝいろちやづけ)。かしこの十字街(つじ)にも福徳(ふくとく)
煎餅(せんべい)。 煮(に)たり炙(やひ)たり虚擬(おつかぶせ)。 仮物(にせ)が正舗(ほんけ)
歟。 本家(ほんけ)が偽物(にせ)歟。 汝(われ)が予(おれ)歟。 不侫(おれ)が足下(われ)
やら吾勝(われがち)に。 利(り)を射(ゐ)る們(やから)の多(おほ)き世にも。
流行(はやつ)て喬的(にせて)のなきものは。 這般(このたび)の麻(はし)
疹(か)也。 斵工(さいくにん)は本来(もとより)无(な)く。 有(あつ)た処(ところ)が仮(にせ)て
もつまらず。 没法(よんどころなく)匙(さじ)を放下(なぐ)れば。又 拾(ひろ)ふ
ものありて。 医人(おゐしや)の仮佀(まね)する素人療治(しろうとりやうぢ)は。
包紙(つゝみがみ)の表書(うはがき)にも。 煎法如常(せんじやうつねのごとし)と。
清朝風(せいちやうふう)で嚇詐(おどか)して。 段疋舗(ごふくや)の売契(うりあげ)
歟。 魚市街(おだはらてう)の交盤冊(ひかへてう)歟と。よめぬやうに
にじくらねば。 国手(ぜうず)めりぬと心得(こゝろえ)るが。 白癡(こけ)
諕(おどし)の初熱(ぞやみ)なり。さるが中にも販茶生(きぐすりや)。
を似(に)する売茶多(ばいやくおほ)く。 横町(よこてう)のしまふたや。
新道(しんみち)のあやしの出格子(でがうし)。 連牆(かどなみ)に麻疹(はしか)
の妙薬(めうやく)〳〵と。 ■標的(かんはんかき)の筆意(ひつい) を露(あら)
はし。 筆(ふで)ぶとに見しらせたる。 松板(まついた)の
間(ま)に合招牌(あひかんばん)。■【ふりがな「いど」。井桁のマーク】の牌(しるし)を斜(よこめ)に瞅(に)らんで。
路次(ろじ)口(くち)にまでぶらさげしは。 欲心(よくしん)表(おもて)に
出透(でそろひ)なり。 其効験(そのこうげん)の妙(めう)々 奇(き)々。
孰(いづ)れを聴(きい)ても神(しん)の如(ごと)し。 鳴呼(あゝ)大(おほ)いなる
かな。 痧疹(はしか)の行(おこな)はるゝ。 夫是(それこれ)を見て察(さつ)
せよ。おのれも頃日(このごろ)麻疹(はしか)を患(うれへ)て。 漸(やうや)く
出透(でそろひ)のけふとなれど。うちつゞく【談じて?】
霖雨(ながあめ)のはれ間もなければ。つれ〴〵
なるまゝのかはよと。 節前(ものまへ)の心機(やりくり)も。なく
子(こ)と病(やまひ)に勝(かた)れねど。 債主(かけとり)の分説(いひわけ)には。
恰好(さいはひ)の病也と。ひとりつぶやきて居(ゐ)る
扉(とぼそ)を。ほと〳〵とおとづるゝは。 欠込(かけこ)んで
来(く)る女児(むすめ)のあてもなし。 爰(こゝ)で水鶏(くゐな)も
古いやつずつと押(おし)たり〳〵と。 寢(ね)て居(ゐ)
ながらの応答(あいさつ)も。例の懶堕的(ぶしやうもの)なれば
他(ひと)もおのづからゆるし給へと。 入来(いりく)る客(きやく)の
面(かほ)を看(み)るに。 鹿子(かのこ)まだらの鍋墨(なべずみ)だらけ。
顔色(がんしよく)すべて正黒(まつくろ)なるは。 牛児(うし)に引(ひか)れ
て善灮精舎(ぜんくはうじ)の自慢(じまん)する。 信濃(しなの)の国(くに)の
人民(じうにん)。 大食冠(たいしよくくはん)の苗裔(べうえい)と聞(きこ)へたる。 隣家(となり)
の甚太(ちんだ)といふ焚飯漢(めしたきおのこ)也。 賓主(ひんしゆ)の礼(れい)も
へちまもかまはず。つか〳〵と入り来(く)るにぞ。
又 故郷(くにもと)の書牘(てがみ)をよませにや来(きた)る。 下漢(おしな)
何(なに)事なるやと起身(おきなほ)るに彼(かれ)が曰(いはく)。ちと承(うけ給は)り
たき子細(しさい)あれば。 竈下(かまもと)を終(しまふ)や否(いな)。 即便(そんま)
参(まい)つたり。 先生(せんせい)に伺(うかゞ)ふ事 余(よ)の儀(ぎ)にあらず。
頃日(このごろ)世間(せけん)に行(おこな)はるゝ病名(べうめい)をハシカといふ
もの七人あれば。アシカといふ人(ひと)三ン人あり
いづれ歟 是(ぜ)なるや。いづれか非(ひ)なりや。 同僚(ほうばひ)
子弟(どうし)の争論昼夜(そうろんちうや)にやまず。 負業(まけわざ)を
贖(あがな)ふに。 大福餅(だいふくもち)を以(もつ)てし。 二合半酒(こなからざけ)を
もつてす。 其甚(そのはなはだ)しきに至(いた)つては。 身價(みのしろ)
の方銀三片(ほうぎんさんぺん)これが為(ため)に危(あやう)し。 先生(せんせい)
よろしく我(わ)が為(ため)に教示(きやうじ)し給へと。 左右(さゆう)の
跟(きびす)を屁腰(へごし)にかいしき。 居(ゐ)ざまは草書(さうしよ)
の道(みち)の字(じ)なして。 襦袢(じゆばん)にまがふ綿布袷(もめんあはせ)
の。 染模様(そめもやう)の色(いろ)までも。いと興(けう)さめて覚(おぼ)
ゆるにぞ。 含笑半分正面(おかしさはんぶんまじめ)に殺(ころ)し。 冷(さめ)た
薬(くすり)をぐつと吃(のみ)。 恰好(さいはひ)の咳払(せきばら)ひに。
勿体(もつたい)をつけて答(こたへ)て曰(いはく)。 嗚呼(あゝ)其争(そのあらそひ)や
君子(くんし)なる。 尤(もつとも)あしかといふ病(やまひ)は別(べつ)に一種(いつしゆ)
ありといへども。 当時はやるははしか也。
はしかとあしかと比(くらべ)ては。 奉書(ほうしよ)に炭団(たどん)。
木履(げた)と炙噌(やきみそ)。 亀児(かめのこ)と天道(てんとう)さまほど
違(ちが)ふ也。 早(はや)く賭(かけもの)【?】の酒(さけ)を吃(の)め。ハシカ〳〵と
答(こた)ふるにぞ。しからばはしかに疑(うたがひ)なき。
しかとしたる証拠(せうこ)を給(たま)へ。 先月(あとのつき)の
事なりしが。 東国方(とうごくへん)の里医(おいしや)の言(ことば)に。
あしか〳〵といふ事を吾慥(われたしか)に聞(きけ)り。
こゝに於(おい)て疑惑(ぎわく)を生(せう)ず。それでお飯(めし)を
食(く)ふ人すらあしかといふは心得(こゝろえ)す。先生
これは奈何(いかに)と言(い)ふ。イヤ〳〵夫(それ)は僻耳(ひがみゝ)
なるべし。 假(かり)にも神農(しんのう)の真佀(まね)をする。
生薬師(いきやくし)の身分(みぶん)として。 病名(べうめい)しらぬ
ものやはある。すべて東奥(とうおく)の人(ひと)。 言語(げんぎよ)
鼻(はな)にかゝがるゆえに。 五音律呂(ごいんりつりよ)の開悟(かいご)
わるくて。はしかもあしかと聞(きこ)ふる也。
国(くに)々の方言(ほうげん)さま〴〵にて。 一(ふと)ツ二(ひた)ツを爰(こゝ)に
いはゞ。びる(蛭)ばち(蜂)どんぼう(蛉)がに(蟹)げへる(蟇)とて。
清濁(せいだく)わからぬ言(ことば)もあり。 江戸(ゑど)から一夜(いちや)
に乗附(のりつけ)る。 眼(め)と鼻(はな)の間(あいだ)ですら。ふき(引)
窓(まど)のふぼ(紐)を。ふつぱ(引張)るな〳〵といふに。
ふつ(引)ぱつたから。がらふつ(引)切(きれ)といふ。
がこどく【ごとく?】。 国癖(くにくせ)の事は夷曲(きやうか)にも。 大和(やまと)かい
西(にし)はあぢかを【左ルビ「西国 ナゼト云コト」】関東(くはんと)べい。 都(みやこ)ござんす伊勢(いせ)
おりやりますとよみたれば。 浪速(なには)の蘆(あし)も
勢陽(いせ)の浜萩(はまおぎ)。 其国其所(そのくにそのところ)によりて。
言語(げんぎよ)もさま〴〵変(かは)りあれども。アシカ
はハシカの僻耳(ひがみゝ)に。 疑(うたが)ひなしと弁(べん)ずれ
ば。 甚太(ぢんだ)反面(かたほ)に微笑(ゑみ)を含(ふく)み。 有(あり)がた
し〳〵。先生のおかげにて。 銅壺(とうこ)を灰汁(あく)
で磨(みがい)た如く。 麻疹(はしか)の生疑(うたがひ)さらりと
解(とけ)たり。シテ又あしかといふ病(やまひ)。 別(べつ)に有
やと根問(ねどひ)の疑問(ぎもん)。せんかた案(つくえ)をトンと
うち。 口(くち)から出(で)まかせ。 方底円蓋(こじつけ)て
曰(いはく)。 夫(それ)熟(つら〳〵)あしかの病症(べうせう)を監(かんがみ)るに
本草綱目(ほんざうこうもく)獣之部(ぢうのぶ)に。 海獺(かいらい)ウミウソ
といふものあり。大きさ狗(いぬ)のごとく。 脚(あし)の下
に皮あり。 頭(かしら)は馬(うま)の如(ごと)く。 腰(こし)より以下(いか)
蝙蝠(かはほり)に似(に)たり。 其毛(そのけ)獺(かはうそ)に似(に)て大(おほい)なる
もの也 其形(そのかたち)獣(けもの)と魚(うを)との生浄二役(ぢつな?くふたやく)。
乞丐(こじき)演戯(しばゐ)の定九郎(さだくらう)。 当今(たゞいま)のお笑(わらひ)
種(ぐさ)。 是(これ) 日本(につぽん)の海鹿(あしか)なるべし。 紀州(きのくに)
海鹿島(あしかしま)に多(おほ)く群居(むれゐ)て幾千(いくせん)と
なく砂上(しゃせう)に眠(ねむ)る啼声(なくこえ)於宇(おう)〳〵と響(ひゞ)き。
鼾息(いびき)の音(おと)。 殊(こと)にすさまじ。 班(その)中に
お針(はり)の老(お)婆さんともおぼしきもの。只
一頭(いつとう)起番(おきはん)にて。もし漁船(りやうせん)近つく
時は。 寝ごかしされた雛妓(しんんざう)を。 鴨婆(やりて)
が起(おこ)すに異(こと)ならず。 許多(あまた)の海鹿(あしか)を
ゆり起して。 皆(みな)水中へ転(ころひ)入といへり。
此もの人に害(かい)する事。 数回(あまたたび)なりとて。
其いにしへ夢想国師(むそうこくし)といへる。 道徳(たうとく)
いみしき聖(ひじり)のおはして。一 扁(へん)の真(しん)言
を唱(となへ)へ給ふ。 其文曰(そのもんにいはく)
〇〇〇〇(アシカハ)。 〇〇〇〇(トウカラ)。 〇(ヲン)〇〇〇〇(ヒンナレ)
〇〇(ヲンイン)〇〇(ノコ)。〇(イン)〇〇(ノコ)。 〇(ソワ)〇(カ)【〇は凡字】
唵犬兒狛子(おんいんのこいんのこ)娑婆訶(そはか)と。 耳(みゝ)の傍(あたり)え
さしよりて大喝一声(たいくわついつせい)耳(みゝ)つ遠(とを)。 耳(みゝ)つ
遠(とを)と高(たか)らかに偈(げ)を授(さづ)け給ひ。又 二首(にしゆ)の
歌をもつて化度(けど)し給ふ。 其歌(そのうた)に
世(よ)の中に寝(ね)るほど楽(らく)はなきものを
しらであほうがおきてはたらく
朝寝坊(あさねぼう)宵寝(よひね)をこのみ昼寝(ひるね)して
とき〴〵おきて居(ゐ)ねふりぞする
此 咏歌(ゑいか)の奇特(きどく)にやよりけん。その後(のち)
絶(たえ)て障礙(しやうげ)をなさずとかや。猶 委(くは)しくは
寝惚先生(ねぶけせんせい)。 睡眠(すいみん)夢語(ぼうご)に見えたり。今
も時として此ものにおそはるゝもの。 箇(こ)の
病(やまひ)となりて。 提燈(あんどう)を見る時は。 頻(しきり)に
睡気(ねふけ)を催(もよほ)す。 路(みち)をつくる老夫(ぢゝ)老婦(ばゝ)
より寝(ね)るがお役(やく)のうなゐ子まで。ゴウ〳〵
とうなり。ムニヤ〳〵と苦(くる)しむ事。 便(すなはち)病(やまひ)
の業(な)す処にして。 振新名代(ふりしんめうだい)と
なつては。 客(きやく)を看(み)て忽(たちま)ち高鼾息(たかいひき)を
生じ。 小二(でつち)夜食(やしよく)を食(くら)つては算盤(そろばん)を
見て。 頓(とみ)に鼻(はな)呼吸(いき)荒(あら)し。あるひは
刺懸鶉(つぎあてがひ)に。 涎(よだれ)を垂(た)らし。 或(あるひ)は苧(を)を【懸鶉ケンジュン 破れ衣】
捻(ひねつ)て。舟を漕(こ)くの類(たぐひ)。 都(すべ)て是アシカ
の病症(べうせう)なり。 仮令(たとひ)面上(かほぢう)へのしこし山
を写(か)き。 踉(かゝと)へ大の艾(もぐさ)を用(もち)ひて。 呪(まじな)ふ
とも忽(たちま)ち再発(さいほつ)して。 起(おき)て居(ゐ)て啽囈(ねごと)
を吐(は)き。 寝(ね)て居(ゐ)て小通(せうべん)をたれるに至(いた)る。
故(ゆえ)に張景岳(ちやうけいがく)といふとも。 孫真人(そんしんじん)と
いふとも。 宿昔(いにしへ)より方論(ほうろん)ある事を聞(きか)ず。
誠(まこと)なるかな。 国(お)医(いしや)さんでも。 神祇(かみ)さん
でもあしか病(やまひ)は治(なほ)りやせぬとうたへる。
実(じつ)に難治(なんぢ)の症(せう)なる事 金(かね)の草鞋(わらぢ)
で尋(たづね)るとも。 外(ほか)にはないぞやあしかの
妙薬(めうやく)。 海獺(うみうそ)といふ獺(うそ)話説(はなし)。 因縁此(いんゑんかく)
の通(とを)りぞと。 弁(べん)にまかせて説付(ときつけ)れば。
おまへの僻説(へきせつ)御尤(ごもつとも)。 唯唯(いゝいゝ)として
点頭去(うなづきさん)ぬ。
維峕享和三ツのとし皐月
端午。 痘疤(あばた)の上(うへ)へ痧病(はしか)をして。
むかしにまさる好男(いろおとこ)。しかも六日目
出透(でそろひ)の熱(ねつ)に犯(おか)され。
癚語(うはこと)を蚊帳中(かやのうち)に
吐(は)くものは。
江戸前の隠士
遊戯堂主人
跋
北川氏船(きたかはうじふね)にて契約(やくそく)の事(こと)と書(かき)たる
招状(はりふだ)は、 爺(ぢゝい)と姥(ばゝあ)の話説(はなし)に残(のこ)りて、
二十八年(にじうはちねん)のむかし〳〵に廃(すた)れ
ども、かせての後(のち)は我(わ)が身に
請合(うけあ)ふ、 麦殿(むぎどの)の歌(うた)の徳(とく)は
今茲(ことし)も麻疹(はしか)の流行(りうこう)に
後(おく)れず、されば痧疹(はしか)は
養生(ようぜう)にあり、 初発(ぞやみ)の熱(ねつ)の
癚語(うはこと)は、 醒(さめ)ての後(のち)の御了簡(ごりやうけん)
と、 寺岡(てらおか)もうけ合(あ)ふべけれど、
治疹(かせ)ての后(のち)のふ了簡(りやうけん)は、
了竹(りやうちく)が忘【し?】るゝ処にあらず、【『仮名手本忠臣蔵』の寺岡と医者了竹か】
身体髪膚(しんたいはつぷ)を筍(たけのこ)に換(かゆ)るは、
口(くち)に孝行(こう〳〵)をつくして、 親(おや)に
不孝(ふこう)なるをしらず、 長生(ちやうぜい)
ふ老(らう)を鰹(かつを)に縮(ちゞむ)るは、 口(くち)に
初物(はつもの)を食(くら)つて、 生延(いきのび)る
味(あぢは)ひをしらざる也、 鰻(うなぎ)の樺焼(かばやき)
三串(みくし)か四(よ)くし、にくしと思(おも)はぬ
己(おの)が身(み)を、 捨売(すてうり)にして裸(はだか)
百貫(ひやつくはん)、 丈夫(ぜうぶ)につかつて五十 年(ねん)、
人間(にんげん)わづか二百孔(にひやくもん)の價(あたひ)に、
御壱人前(ごいちにんまへ)の命(めい)をあやまつ
は嘆(なげか)はしき事ならずや、予
頃日(このごろ)麻疹(はしか)に罹(かゝ)りて、 営生(えいせい)を
休(やむ)るの間(ひま)?、 箇(こ)の劇文(げきぶん)を著(あらは)し、
て、 題(だひ)するに、 来舶(たいはく)の書名(しよめい)を
借(か)り、 花陣(くはぢん)綺言(きげん)の響(ひゞ)きを
採(と)つて、 麻疹戯言(ましんきげん)と題号(だいごう)
しこれを弘(ひろむ)るに、 彼杵(かのきね)と鈴(すゞ)の、
如くなさんとす、しかはあれど呪(まじ)
術(なひ)の猴(さる)の人(ひと)真似(まね)にして、 多羅(たら)
葉(えう)の、たらはぬがちなれば、
世間(よなみ)の善痧(よき)には引(ひき)かへて、
悪評(あくへう)をするものあるべし、
さら婆 噴嚔(くさめ)をするのみ
にて、 人(ひと)の噂(うはさ)も禁物(どくだて)も、
七十五日のすゑを待(ま)つと
云而、
たらり楼に於いて
三馬題
江戸数寄屋橋御門通
南<割書:江|>一丁下ル山下町
書林 万屋太治右衛門
蔵板
式亭三馬著 袁倉山か随園詩話に
縮 緬 詩 譚(ちりめんしわ) 傚て江戸諸名家秀
巾箱本一冊近刻 作なる懐旧の狂詩話
なればちりめんしわと
号くるもの也
傳染病ニ於ケル
免疫
ニ關スル研究
パストウール研究所教授
醫學博士 ア,べスレドカ著
北海道帝國大學教授
醫學博士 井上善十郎譯
昭和八・八・二九・内交
1933
親しき同僚の友よ
貴下が拙著『傳染病に於ける免疫に關する研究』の日本譯を
完成せられしを拝承し衷心より欣ぶものに候 小生は貴下が
日本に於て局所免疫學の普及に如何に努力せられつつあるか
を悉知致し居り候
従つて貴下が日本譯御出版に關しては貴下が任意に敢行せ
らるゝ事當然に御座候
小生は貴下が當地に御滞在中に於ける懐しき種々の憶出を
常に有し居り候
小生等は幸にも貴下がかつてパスツール研究所に於て行は
れたる御研究に關與出來得ることを欣び居り候
巴里パスツール研究所
ア,べスレドカ
一九三二年十二月九日
Institut Pasteur PARIS, le 9 XII 1932
25, RUE DUTOT
(XVe arrondi)
TÉLÉPHONE : SÉGUR 01-10
【左翻刻素案】
Mon cher Collègue et Ami,
Je tres veux que Vous félicitez de l’achevée
que Vous avez écrit de traduction au japonais
”les a(?) études sur l'immunité dans les maladies
infectieuses” Je sais combine Votre (centre)
leur(?) à la propagation de la contribution
【以下難解】
Je prendrai (xxxxx p_ecale) dans Votre fait
Aussi est-il tout naturel que ce fait à
(xxx) que (revieuche) la réduction de l'édition
japonaise Nous avons (pontché) de Notre
le jour ferme(?) dans le (heulleur) souvenir
Et nous nous rappelons la heure Vos
(tra_xxxx), si(?) heureusement (xxxxxxxxxx) à
l’Institut Pasteur
【本行殊ニ難解ニ付略】
les (heulleurs) et tout journée
A Besredka
【Arexandre Mikhalovich Besredka: 一八七〇年 三月二十七日於ウクライナ・オデッサ生、一九四〇年二月二十八日於パリ没】
免疫ノ喰菌學説ノ創設者
恩師
Elie Metchnikoff
ノ尊キ靈ニ捧グ
A, Besredka
序文
本出版物の含む15章は主として吾人がl'Institut Pas-
teurに於て過去30年間に、実験的見地に於て、研究せる
問題に捧げたのである。顕著なる諸問題中、実際に同一
問題で異る外見を呈するは、予防的及び治療的接種方
法の問題である。他の研究者の材料を採用せるために、
本問題に関する最初の結構が屡々著しく増大するを免
かれない、亦、意見を確定するために、適宜に時々流用する
ことも已むも得なかつた。本冊子に総括せる所のもの
は、嘗て発表せる評論の統一である。
(著者)
邦訳に際し
最近我国に於て経口的予防法及びAntivirus治療法の実際化を見んとす
る時に当り、苟もその理論の何処に存するかを理解することは、之等の研究
又は実施の上に極めて重要である。而して之が理解に際しては先ず局所免疫
学の創設者なるA,Besredka先生の説述するところ所に聞き、本学説の拠つて来
る所を探索する必要がある。
それには同先生の著”Etudes sur l'immuité dans les maladies infectieuses”
が最も好適なりと思考する。本書は先生の実験を経とし多数の研究者のそれ
を緯とし、以て縦横に而も平易簡明に免疫学説の変遷、局所免疫の理論並び
にその応用方面の如き多数の重要事項を記載してゐる。
訳者は嘗て巴里のPasteur研究所に同師の教を受けた者である。茲に恩
師の許可を得て本書を邦訳し江湖に照会するの先栄を得たが、浅学菲才加之
訳文拙劣、恩師の真意を充分に伝へ得ざるを怖れるのである。
幸ひに大方諸腎【賢】の諒恕を得、一読の栄に接するを得ば、訳者の恩師に対す
る微意は酬ひられたと謂ふべきである。
昭和8年1月16日
札幌にて 井上善十郎
目次
概要
第Ⅰ章 白血球の殺菌力・・・・・・・・1
免疫中に於けるalexineの意義に関するBuchnerの意見。Emmerich et
Tsuboi の実験;Fodor 及び Nuttal の実験。細菌及び毒素の注射後に於
ける液体の殺菌力の変化;Bastinの説明。Denys による液体の殺菌力
の重要性。血液の殺菌力の減少と白血球の消失との間の平衡: Denys
et Havet の実験。生活せる白血球原形質による殺菌性物質の分泌に関す
るBuchnerの意見。Pfeiffer氏現像に対する Metchnikoff の反対。Jacob
の白血球浸出物。白血球数に対する血液の殺菌作用に関する Löwit の研
究。Löwit の白血球浸出物の性質。Schattenfroh の反対。Schattenfroh
の白血球浸出物。種々なる浸出物の比較解説。白血球の消化力。文献。
第Ⅱ章 細菌性溶血素・・・・・・・・10
溶血素と毒素。破傷風溶血素;種々なる種属の赤血球に対するその作用。
その不安定。抗溶血素。tétanolysine と tétanospasmine との不同一。
tétanolysine の構造。staphylolysine;その製造方法。高温度に対するそ
の反応。in vitro 及び in vivo に於ける作用。加熱による完全破壊。an-
tistaphylohysine の製法。皮下経路による免疫の長所ーーpyocyanolysi-
ne;Bulloch et Hunter による製造方法。Weingeroff et Breymann の
実験。耐熱性。--typholysine;staphylolysine と pyocyanolysine と
の耐熱性の中間性質。犬の赤血球に対する作用。antitypholysine 血清の
2 目 次
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製法。--colilysine;Kayser によるその製法。培養基の「アルカリ」性
の意義。120°に於けるcolilysine の抵抗。正常血清による中和。特異
anticolilysine 血清。--streptocolysine;in vivo に於ける溶血必発能
力。in vitro に於けるその形成条件。種々なる種属の「ヘマチー」に対
するその作用。高温度に於ける抵抗力。塩類の意義。透析の作用。毒力
の消失。正常血清の抗溶血力。文献
第Ⅲ章 連鎖状球菌は一種か多種か・・・・・・・・23
一元説と多元説。肉眼的及び顕微鏡学的形態の性質に基く分類。Fehleisen
及び Rosenbach の臨床的起原による連鎖状球菌の異同の試み。生化学
的性質及び抗連鎖状球菌血清の作用方法に基く Marmorek の一元的仮
説。血清の凝集性、予防及び補体結合性に基く連鎖状球菌分類上の論拠
ーー猩紅熱連鎖状球菌と Moser の血清。Aronson 及び Neufeld により
確定されたる種々なる種々なる連鎖状球菌間の類属関係。氏等の実験の誤謬なる
説明;動物通過連鎖状球菌。連鎖状球菌の一種類に左袒する証明の欠
如。補体結合反応に於ける新研究の指針。文献。
第Ⅳ章 抗連鎖状球菌血清療法・・・・・・・・38
連鎖状球菌の一元又は多元の意見の相違。抗連鎖状球菌血清の調製に対す
る予備手段。菌株保存及び培養菌蒐集に資する培地: 血清「ブイヨン」
と血清寒天。経静脈による免疫;その不利と長所。「マウス」及び家兎に
於ける血清の定量。人間に於ける血清の価値;Pinard の意見。
抗猩紅熱血清。Bokay et Escherich の臨床的試用。Buywid et Gertler,
Pospischill の観察。露西亜及びポーランド【二重下線】臨床家の保留。特異性に左袒
する生物学的証拠の不足。猩紅熱患者に於ける連鎖状球菌の頻度:
Hektoen 及び Weaver の観察。特異凝集力及び補体結合物質の欠如。
Moser の血清の真の価値。
Gabritchevsky の猩紅熱予防「ワクチン」;その製造方法;その効力に関す
目 次 3
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る保留。猿に於ける猩紅熱再発試験。文献。
第Ⅴ章 細菌々体内毒素・・・・・・・・52
菌体内及び菌体外毒素の限界に関する Pfeiffer氏の研究。第一及び第二毒
素;Burgers による毒素二元説の批判。種々の実験者による菌体内毒素
の抽出試験。「グルコーゼ」加「ブイヨン」に於ける弧菌の培養濾液に関す
るHorowitz の研究。Pfeiffer氏現像。in vitro 及び in vivo に於ける
菌体内毒素の作用。
「チフス」菌体内毒素。Macfadyen et Rowland による液体空気使用による
抽出方法。著作の方法:一方に於ては菌及び馬血清使用、他方に於ては
菌及び乾燥食塩の破砕による法。「チフス」菌体内毒素の性質;高温度の
作用;動物に於ける作用;特異能力。
赤痢菌体内毒素; 破砕による製法;物理的及び生物学的性質。
「ペスト」菌体内毒素。Lustig et Galeotti Albrecht et Ghon の古き試験。
通常の2方法によるその製法。鼠及び「マウス」に対する性状と作用。
virus 及び毒素自身による予防接種。抗「ペスト」血清による中和。
百日咳菌体内毒素;Bordet et Gengou によるその製法。海猽及び家兎に
於けるその作用。皮下注射の効果。毒素自身による予防効果の欠如。調
製血清による中和の不充分。
Pfeiffer氏球状桿菌の菌体内毒素;Slatineanu によるその製法。脳及び腹
腔内注射による病変。ーーマルタ【二重下線】熱菌の菌体内毒素。N,Bernard氏に
よるその製法。高温度に対する態度。脳内接種による海猽の感受
性。「ヂフテリア」菌体内毒素。Rist,Cruveilhier, Aviragnet の研究。海
猽に及ぼす作用。抗「ヂフテリア」血清による中和の欠如。--他の絲状
菌の菌体内毒素。
抗菌体内毒素血清。製造方法。受働的及び活働的見地に於ける経静脈の重
要性。感染経路に於ける菌体内毒素の意義。文献。
4 目 次
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第Ⅵ章 感作病毒による予防接種・・・・・・・・74
Ⅰ。Vaccins 及び血清により賦与せられたる免疫;長所と短所。感作「ワク
チン」、の原理。製造技術:「ペスト」、「チフス」、「コレラ」予防「ワ
クチン」。種々の「チフス」予防「ワクチン」の比較。
感作狂犬病予防「ワクチン」。A,Marie によるその製法。完全無害;作用
確実;迅速、永続。
感作赤痢「ワクチン」。Dopter の研究、結論は毒性の欠如、免疫確実、迅
速、永続。
感作「ヂフテリア=ワクチン」。Theobald Smith によるその製造方法;そ
の作用無害にして永続。文献。
Ⅱ。感作胆汁加結核菌。犢の予防接種に関する Calmette et Guérin の研
究。F,Meyer の通常感作結核菌に関する実験;弱毒性と予防効力;海猽及び人間に於ける治療試験。
感作「ツベルクリン」。牛及び人間に於ける Vallée et Guinard の研究。
感作肺炎球菌。Levy et Aoki による予防及び治療実験。通常肺炎球菌に
対する長所。
感作連鎖状球菌。家兎についての Marxer の実験。Lévy et Hamm の妊
婦に於ける予防及び治療処置の試験。
感作羊痘。Bridré et Boquet の研究。確実有効の証明;羊郡に於ける限定。
Alegérie 及び Egypte に於ける綿羊の感作virus による強制種痘。1913
より 1926 年に至る間に交付せる量は約16 millions 。
感作「チフス」生菌「ワクチン」。「シムパンゼー」についての Metchnikoff 及
び Besredka の実験。
感作「パラチフス」予防「ワクチン」。その長所。遊離血清の全痕跡を感作
「ワクチン」より除去する必要。
感作「ワクチン」の作用方法。 Garbat et Meyer の比較研究。文献。
目 次 5
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第Ⅶ章「チフス」予防接種・・・・・・・・98
Vaccins の多種多様。予防接種なる考の起源。Roux et Chamberland の敗
血症に関する研究; Chantemesse et Widal の研究。 Pfeiffer et Kolle
の vaccin。Paladino-Blandini, Vincunt, Nègre による「チフス」予防「ワ
クチン」の比較研究。経口的及び経肛門的予防接種に関する J,Cour-
mont et Rochaix の実験。120°加熱菌による予防接種: Loeffler 静脈
内予防接種: Friedberger et Moreschi ; Ch,Nicolle, Connor et Conseil。
Castellani の Vaccin (49-50°C)。海猽の「チフス」性腹膜炎と人間の
「チフス」。「シムパンゼー」に於ける実験的「チフス」。死菌、融解物及び
感作加熱菌による「シムパンゼー」の予防接種試験。感作生菌による予防
接種。反対。人間に於ける本予防接種法の無害なる証明。文献。
第Ⅷ章「コレラ」予防接種・・・・・・・・115
細菌学者及び流行病学者間の論争。 Ferran の発見; 仏蘭西調査委員会に
よる評価。 Haffkine の固定毒及び減弱毒。死滅せる弧菌を以てせる
Gamaléa の実験;Brieger, Kitasato et Wassermann の同じ実験。血清
の殺菌力に関する R, Pfeiffer の研究。 Metchnikoff の反対;幼弱家兎
に於ける氏の研究。 Choukévitch の新実験。Shiga, Takano et Yabé の
実験に於ける感作「コレラ」予防「ワクチン」。
印度に於ける Haffkine の予防接種の第一次成績。二本、ペルシヤ、露西
亜、ギリシヤに於ける流行病学的観察。Cantacuzéne の報告せる”ルー
マニアの実験”。陰性期の意義。東京の流行時に於ける感作加熱「ワク
チン」の使用。 Masaki の実験による感作生菌「ワクチン」の無害。細菌
学者及び流行病学者間の相違の説明。「コレラ」予防接種の問題の新指針。
第Ⅸ章 感染及び免疫に於ける皮膚の意義・・・・・・・・134
免疫を抗体の存在に帰せしめる意見。抗体と無関係に作用する皮内予防接
6 目 次
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種。生体防御に於ける皮膚組織の重要なる意義。
表皮の構造;剥離による永久的更新。Malpighi氏 層内の食菌要素の存在。
皮膚の結締織要素の部位に於ける遊走細胞の存在。皮膚の作用の多種多
様。皮膚呼吸。皮脂の作用。皮膚吸収力。汗腺。皮膚の機械的作用。無
脊椎及び有脊椎動物に於ける自然免疫。
大動物及び海猽に於ける脾脱疽病。各動物に於ける予防接種。脾脱疽病感
染に於ける皮膚の意義。皮膚感受性の証明。皮膚感染及び皮膚免疫。皮
膚の活動的予防接種及び他の臓器の先天的免疫状態より結果する全身免
疫。層中の皮内予防接種。脾脱疽菌毒素。Vaccin の侵入門口の重要性。
皮下経路による免疫: 家兎についての Plotz の実験。綿羊に於ける免
疫の証明。
葡萄状球菌及び連鎖状球菌症に於ける皮膚の意義。皮膚病変に対し皮内死
菌接種による予防接種。免疫の迅速発現。Antivirus 貼布法による免疫。
人間に於ける「ワクチン」療法。その作用の説明。抗体の不明なる参加。
「ワクチン」療法の転機: 健康なる摂受細胞の予防。人間に於ける葡萄
状球菌及び連鎖状球菌症の皮膚起源。
豚「コレラ」に於ける皮膚感染及び皮膚免疫についての Jenney の実験。鼠
の pasteurella を以てする皮膚予防接種についての Meyer et Batcheld
の研究。
皮膚免疫に於ける網状織内皮細胞系統の確実らしき意義。局所免疫の機転
文献。
第Ⅹ章 皮膚免疫法・・・・・・・・154
予防的免疫法。脾脱疽に対する綿羊の予防接種に関する Mazucchi の実験;
Velu の同様なる実験。脾脱疽に対する経膚免疫せる馬匹に関する Bro-
eq-Rousseu et Urbain の研究。本法によるものにありては、皮下予防接
種せるものに於ける反応の重篤なるに比し、軽度なること。 Levant 軍
隊に於ける Nicolas による馬及び騾馬の皮膚予防接種; 1924-1925 年
目 次 7
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に至る戦役の成績。Monod et Velu による、 Maroc に於ける大多数の
綿羊及び牛の予防接種。
治療的免疫法。種々なる葡萄状球菌及び連鎖状球菌症に於ける臨床的観
察: 「フルンケル」、「カルブンケル」、瘭疽、乳房炎、感冒性化膿性耳
炎、中耳の「アブセス」、髭瘡、初生児の化膿性皮膚炎、小膿疱疹、「オツエ
ナ」、角膜の感染創傷、涙嚢の慢性「アブセス」、涙嚢炎、潰瘍性眼瞼縁炎、
口内炎及び歯槽骨膜炎、火傷、感染創傷、「フレグモーネ」、骨髄炎、汚染
穿刺、牡牛に於ける瘭疽、馬に於ける多発性「アブセス」を伴へる慢性「フ
レグモーネ」、牝牛に於ける蜂窩織状骨膜炎、産褥熱、産褥熱の予防的処
置、汚染性子宮内膜炎及び産褥熱潰瘍、膀胱炎、腎盂兼腎実質炎。手術
前後に於ける局所予防接種法。文献。
第Ⅺ章 赤痢、「チフス」及び「コレラ」に於ける
腸の意義・・・・・・・・・・・・180
或る組織に対する Virus の選択的親和性ー脾脱疽菌、痘苗、葡萄状球菌、
連鎖状球菌ーー;感染経路と免疫経路との間の相互関係。実験室内動物
に於ける赤痢、「チフス」及び「コレラ」病毒の選択的親和性の外見的欠
如。赤痢菌の静脈内注入に次ぐ肉眼的変化と菌の選択的限局。腸の摂受
細胞と「チフス」「パラチフス」及び「コレラ」病毒との間に腸粘液の介在。
牛胆汁による感作法の利用。腸壁に対する「チフス=パラチフス」 Virus
の親和性。腸壁に対する「コレラ」 Virus の親和性に関する Masaki の
実験。 Glotoff, Horowitz-Wlassowa 及び Pirojnikowa の研究による確
認。毒力の意義を変更する必要:二要素の毒力作用。免疫の研究に対す
るこの意義の重要性。免疫に帰著する感染の種々相の図解。文献。
第Ⅻ章 赤痢、「チフス」、「コレラ」に対する経口免疫・190
皮下経路による予防接種の起源。海猽についての Benner et Peiper の実
験。Pfeiffer et Kolle による、予防接種された海猽の血清中に殺菌力の
8 目 次
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発見。海猽の「チフス」腹膜炎に対する予防接種は腸「チフス」に対する予
防接種を含まず。皮下予防接種に賛否する統計。ジエンナー【二重下線】氏法、臨床
及び実験より引用さるる教訓。腸壁に対する死菌の親和力;皮下注射せ
る Vaccins の作用方法の説明。
赤痢に対する経口的実験室内動物の予防接種。之等実験の最初の考案。
Alivisatos et Jovanovic の研究による肯定。赤痢予防免疫の性質。抗体
の不参加。Ch, Nicolle et Conseil の人間についての実験。Versailles 及
びギリシア【二重下線】に於ける避難民営地の流行に際し per os の予防接種経口的赤
痢「ワクチン」療法。 Alivisatos の Nisch に於ける、Glonkhof の Lenin-
grad に於ける観察。
経口的による「チフス」又は「コレラ」感染に対し動物を予防接種することの
困難。牛胆汁による感法作の利用。胆汁を嚥下せずしてなせる人間の予
防接種。即【印ヵ】度に於ける Pondichéry Rajbari にて行へる「コレラ」対する
Bilivaccination。Lodz Saint-Paola にて行へる「チフス」に対する Bili-
vaccination。
経口的及び皮下経路による免疫の機転。免疫の喰菌学説の拡大する必要、
感染及び免疫に関する摂受細胞の自治制。文献。
第ⅩⅢ章 感染及び免疫に於ける感作物の意義・・・211
菌と生体細胞との間に存する自然免疫に於ける包容状態。物理的、化学的
及び生物学的感作物による免疫の変化。類人猿及び実験室動物に於ける
経口的感染に対する感受性の不平等。感受性たらしむるために後者の感
作を必要とすること。胆汁の作用方法。感受性を支配する腸の柵の重要性。
胆汁による感作及び非感作動物に於ける「コレラ」Virus の投与:Masaki、
Horowitz-Wlassowa, Klukhine et Wygodchykoff の実験。
大腸菌感染に対する胆汁の感作作用: Golovanoff、Gratia et Doyle の実
験。化膿性敗血症に対する胆汁の感作作用。Webster の実験;「チフス」
感染に対し: Sedan et Hermann の実験;
「ヘルペス」Virus に対し:
目 次 9
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Remlinger et Bailly の実験; Ductus Choledoctus を拮紮せる動物に於
ける「コレラ」Virus に対し: Olsen et Ray の実績。
食物性過敏症に於ける胆汁の感作作用: Makaroff, Arloing の実験;破傷
風毒素に対し: Dietrich,Ramon et Grasset の実験;抗毒素に対し:
Grasset の実験。
Metchnikoff et Besredka による「シムパンゼー」の経口的予防接種。 J,
Courmont et Rochaix, Lumière et Chevrotier, Loeffler, Kutschera et
Meinicke, Wolf, Bruckner の実験。胆汁投与せずして、「チフス」又は
「コレラ」感染に対し実験室内動物を per os に予防接種することの不可能。
胆汁投与による per os の予防接種;抗「チフス」免疫の機転。経口的「コ
レラ」予防接種に於ける胆汁の意義; Bacterium gallinarum に対する予
防接種に於けるそれ。
皮膚感染及び皮膚免疫に於ける感作物の作用。文献。
第ⅩⅣ章 貼布法と免疫 ・・・・・・・・・・・・227
汚染貼布。有史前。西暦の当初及び中世記に於ける化膿の治療。Ambroise
Paré と氏の創傷治療の意見。ⅩⅨ西紀の半ばに至るまで「ポマード」
と罨法の時代。
殺菌的貼布。Lister の第一回報告。当初の無関心。外科技術の革命。消毒
法の勝利。二三の手術家に於ける保留。石炭酸の短所。
防腐的貼布。パストウール【下線】時代の君臨。防腐の原理。手術上の技術。防腐
法の危険性。
特異貼布;その原理。特異血清及び Antivirus に基く貼布法。Antivirus 療
法の実際的応用。
外科に於ける貼布法の発達と内科に於ける免疫学説との間に存する平衡に
関する結論。
第ⅩⅤ章 免疫 Antivirus ・・・・・・・・・・・・236
10 目 次
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直接病原体に作用する物質に基く免疫上の見解。生体の仲介に基く喰菌的
見解。Bordet により、喰菌細胞及び液体学説の領域の境界限定。二種
物質の学説。赤血球又は Virus の注射の際に於ける生体の反応相異。
脾脱疽。予防接種動物の血清に於ける補体結合物質の欠如。Bordet によ
る皮膚予防接種の説明。本説明に対する反対。抗脾脱疽血清; Ascoli の
消盡についての実験。
葡萄状球菌及び連鎖状球菌症。抗体の意義。皮膚面に於ける Antivirus 適
用による予防接種と「ワクチン」療法。
赤痢「コレラ」及び「チフス」感染。抗体の関与せざる経腸免疫の実現。人間
に於ける免疫度と抗体の存在との間と平衡関係の欠如。
「リチン」中毒。皮膚及び腸に対する ricine の親和力。抗「リチン」経腸及
び経膚免疫。抗体の欠如。
結核。治療機転との関係欠如。
痘瘡及び痘苗。痘毒滅殺素;予防的又は治療的使用に於けるその無効。
狂犬病。狂犬病毒滅殺血清; Virus 混合に対し保留せらるるその効力;各
自別々に注射する際に於ける無効。経膚的予防接種。
Cordylobia anthropophaga によつて発生する myiasis の病原体に関する
Blacklock te Gordon の研究。幼虫により予め感染せる上皮の免疫。動
物免疫に於ける抗体の欠如。皮下又は腹腔内に幼虫の抽出物注入による
免疫賦与の不可能;直接抽出物の皮膚適用による予防接種。一般循環系
外に於て免疫部位に於ける幼虫の破壊。厳密なる局所免疫。結論。文献。
Ⅰ
白血球の殺菌力
Pouvoir Bactéricide Des Leucocytes(1)
数年来血液特に、白血球の殺菌力に関する幾多の業績が発表された、之等
の業績は免疫問題を液体の殺菌作用に結びつけるのを目的としてゐる。
著者等の考では、体液は外用に使用さるゝ消毒薬の如く生体の消毒に与る
使命を有するものであると。
此の純液体的考へ方は、皮相にして単純に見えるが、然し多数の研究を生
ずる価値を持つて居た。血液の殺菌力の研究は将来多くの進展を要求するで
あらう、それ故吾人は本章に於ては血清の殺菌性物質の起原の研究に止める
こととする。
* * *
液体学説に極端なる思潮を表はす Emmerlich et Tsuboi と共に、本学説
の最も権威ある代表者は Munich (ミユンヘン)【二重下線】の Buchner なることは
異論なき所である。
Buchner は血清の殺菌力をば一生活現象として考へた。 Emmerlich et Tsu-
boi はこれを純粋簡単なる化学反応と見做した。氏等によれば、血清の殺菌
性物質は血清蛋白 Sérine であると。55°加熱により此の物質の消失するこ
とは次の事実で説明される、即ち血清蛋白の複分子がこの温度で分解し、そ
の「アルカリ」要素を失ひ、「アルカリ」要素は遊離して、血清中に存する遊離
酸素と結合する。加熱後殺菌力を回復し得ないのは加熱された血清の化学的
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(1)1898年7月16日 Pasteur 研究所にてなされたる講演; les Annales de l'
Institut Pasteur, t, Ⅻ,p, 607,参照。
2 白血球の殺菌力
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
構造の変化に基くのであらう。かく解釈せるは、「アルカリ」の希釈溶液にて
処置せる加熱血清はその殺菌力を回復する事実より生じたものらしい。
此の実験の重要点を Buchner は見逃しはしなかつた;よつて早速研究す
ることとなつた。問題とする所は、化学的物質を単に加ふることによつて、
殺菌力を失つた血清が生体の干渉なく之を回復し得るや否やを見ることで
ある。然るに、対照実験は Emmerlich et Tsuboi の研究を肯定することは
出来なかつた;故に Buchner としては氏の最初の意見を甘受するに過ぎな
かつた。
且つ Buchner 以前に、多くの研究者は生体の血液及び他の液体と接触せ
る菌の破壊を認めた。それ故、 Fordor は家兎に於て脾脱疽菌を全身循環系
統中に注射する時は、血液中の脾脱疽菌の消失することを証明した。氏は之
を血漿が破壊作用を営むと結論した。次いで、試験管内の血液についてなさ
れた実験により、氏は決定的証明を齎し得たと信じた。
之につぎ脾脱疽菌に対する脱繊維血液の作用が Nuttal によつて研究され
た。同氏は Fordor によつてなされた観察を水溶液及び生体の他の液に拡充
した。氏は殺菌力は55°の加熱により消失することを認めた。
之等の事実及び Behring 及び Flügge の観察せる他の事実に基いて、Bu-
chner は氏の液体免疫学説を建てた。之によれば、殺菌力は血液の細胞要素
を除ける血清に一様に発現する特徴を有する”l’alexine 攻撃素”の存在に関
係する、一生活現象であると。
攻撃素の性質に関する知識は当時は極めて制限されてゐた。更にその易熱
性に就ては、 Alexine は低温には障害されず、而してその作用を表はすため
には、塩類の存在を必要とした。Buchner の知識内では、生体内に於ても生
体外に於けると同様の作用を果すことが、この Alexine なる要素より免疫
の甚だ重要なるを知り得た殆ど全部であつたのである。
* * *
免疫液体学説は Louvain, の Denys その人に熱心なる門人を見出した。
この学者は Buchner の意見を極めて熱心に擁護せる多数の研究報告を発表
白血球の殺菌力 3
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し特に之を鼓吹した。
Denys の門弟、 Bastin は、血液中に細菌又はその製産物を注入する時は、
血清の殺菌力は著しく減弱するを確めたので、毒素でさへも血清の alexine に
より容易に中和されると結論した。翌年発表された Denys et Kaidin の研究
は同じ意味のことを結論した。血液の血清及び淋巴液の如き液体は、之等の
著者によれば、真の消毒液を形成する。”この見地よりすれば、吾人の業績
は完全に Nuttal, Buchner, Emmerich 及び他の多数のものが見た所を確め
たのである” と之等の著者等は断言した。同じ報告書中に吾人は次の信仰
的宣言を認める;”吾人は生体の防御には体液の強力なる作用に賛成するも
のである”。
免疫に於ける真の意義を血液の殺菌能力に帰し、少しも白血球に触れるこ
となき多数の発表が続出した。
之は免疫学説の白血球前駆時代であつた。然るに喰菌作用はその存在十年
後にして入つて来た。
* * *
免疫学説のありゆる進展が之を示す如く、喰菌学説はその反対者に極めて
麗はしき「ペイジ」を負ふのである。反対者がいつもかの学説の倒壞を証明し
得たりと信ずる時は、彼等は更に細胞学説を支持する証拠を齎した。血液の
殺菌能力の研究中に一新指針を創設すべく保留されたのは Denys 自身に対
してであつた。この能力は特に白血球にあらはれ血清には極めて少くあらは
れることを証明したのは彼によるのである。Denys の実験は明瞭にして且つ
簡単であつた。濾過なる天才的技術により血液残余より白血球を分離し得た。
次いで氏は全血液の殺菌力と白血球を除去せる血液のそれとを比較した。氏
は白血球を失へば、血液は大部分その殺菌性効力を消失することを何の苦も
なく認めた。それ故この殺菌力の主要なる根源は白血球に存在してゐるので
ある。次に、Denys は対照試験をやつた: 即ち非働性になれる血液に膿球
を加ふるに、之を復活すること、即ち血液に再び殺菌性能力を賦与すること
に成功した。
4 白血球の殺菌力
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之等の実験にも拘はらず、Denys は細胞免疫学説を理解しなかつた。議論
の余地なき白血球の意義を知悉せるに拘はらず、氏は白血球が殺菌力の唯一
の源であることを信じなかつた、と云ふのは殺菌力は、彼によれば、同じく
血清にも現はれ得るものとした。
然し之等の新知見が明かにされたので、殺菌性物質による細菌及び毒素の
中和に関する Bastin 以前の実験は、再検する必要に迫られ、Denys の他の
門弟 Havet に之が課せられた。
Havet は細菌を血液内に注射する時は、血清の殺菌力が減少すること;こ
の減少は白血球の消失と平行して進行すること、何となればこの殺菌力の再
現は、注射後数時間にして観察するに、血液中に白血球の回復するのと一致
するからであることを見た。同様の類似は血液内に溶解性細菌製剤を送入せ
る時にも確められた。
之等の事実の存在するために、 Bastin の研究は余儀なく支持されざるに
至つた。それ以後血清の殺菌力に関してなされた如何なる仕事も白血球の干
与を、真面目なる考えを以て考慮せなければならなかつたことは明白であつ
た。Buchner は之を了解し、免疫についての彼の最初の概念に或る矯正を齎
した。
* * *
免疫に於ける最初の意義を白血球に認めたにも拘はらず、Buchner は1894
年に、白血球は遠距離にも同様に作用を及ぼし得るものである、即ち、体外
即ち、血漿の部にある細菌を破壊し得るものであると宣言した。
Denys の実験を復試して、氏は殺菌力を復活せしむるために非働性血清に
白血球を加ふれば充分なることを承認した。Denys と同じく、氏は細胞内の
作用過程の重要なることを知つた。白血球の浸出液を研究して、氏も亦、”喰
菌作用に極めて有効なる援助をせり、”と宣言した。然し之にも拘はらず細菌
の破壊に於けるこの作用過程に帰すべき部分に就ては保留することを妨げな
かつた。彼によれば、吾人が述べたる如く、血漿中に喰菌細胞が分泌する産
物によつて、細菌は喰菌細胞の体外に於ても亦体内に於けると同様に破壊さ
白血球の殺菌力 5
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れると。例へば冷凍によりその生活力を害された白血球は、それがために喰
菌細胞としての役目はしないがその殺菌作用を同等強く表はし得る事を氏は
証明しなかつたであらうか?
Buchner は冷凍用混合物中で白血球の抽出液を氷結し、次ぎに之を再び融
解すると、周囲の液に殺菌性物質を瀰散せしむる時に、白血球の原形質が死
滅することを了解しなかつた。かくの如き器械的の浸出液は普通に生ずるも
のであり、而して生活せる白血球の原形質よりの生理的分泌液と同一視さる
べきものなることを吾人をして少しも想定せしめない。此の実験がもたらす
唯一の結論は冷凍せる白血球は殺菌性物質を放出することである、この結論
よりしては免疫問題の全部を支配せる生活現象に関することを知るには、
Buchner の引用せるものより距離があるのである。
1894 年以来かなり多数の業績が Buchner の研究室で発表された;いずれ
の業績も彼の学説に左袒する確証をもたらすことが出来なかつた。氏の一門
弟 Schattenfroh は Buchner やその共著者、(M,Hahn を含む,)によつて主
張された事実はいずれも白血球の分泌なる考で説明さるべきものでないと宣
言さへするに至つた。
もし白血球が、 Buchner の信ずる如く、生体内で分泌すれば、その分泌能
力は Pfeiffer の現象の際更に高度に達しなければならないであらう。「ブイ
ヨン」注射により腹腔内を処置するとき極めて烈しい白血球外破壊が起り次
いで白血球の増殖を伴ふべきではなからうか?然るに、起る結果は反対であ
る: 腹腔内の白血球系統がその活働の頂点にある間は、 Pfeiffer の現象は
全く欠如する。故に白血球の分泌と云つてはならぬ、と Metchnikoff は結論
した;彼は追加して曰く Buchner の実験に於ては、それは単に喰菌細胞の
苦悶に基く phagolyse (喰菌細胞の溶解)に関するものである。
* * *
扨て白血球の機能方法に関する問題を離れ、而してその内部に含有される
活働的原理は如何に現はれるかを見ることにしやう。
Hankin et Kanthack は殺菌性物質は白血球の嗜好性顆粒によつて現はさ
6 白血球の殺菌力
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れると信じた。Vaughan et Kossel によれば、白血球に殺菌作用を賦与する
のは核質及び核酸であると。
近来、本問題に関する多くの報告が発表された。著者としては Jacob,
Löwit et Schattenfroh の如きがゐた。 之等の著者の研究は白血球の細胞体よ
り抽出せる「浸出液」について行つた共通点を有してゐる。
白血球に関する研究によりよく知らせたる Jacob はその抽出液を造るた
めに次の方法を行つた。頸動脈に集めた血液に炭酸曹達を0,5%の割に加へ
次いで「クロロホルム」(1%)を加へた。24 時間温室に放置せる混合液を濾
過器で濾過する。更に「クロロホルム」を加へた濾液が求むる所の抽出液を
なす。
血液はある時は hypoleucocytose,ある時は hyperleucocytose の状態に集
められることを付加しやう。各潟血液は三部より成る: 一部はそのまま使
用に供し、他は血清を得るために用ひ;第二部は浸出液を造るために用ゐた。
之等の各部は次いで肺炎球菌の致死量に対する防御作用の見地に於て、比較
研究された。
詳細に渡るを避け、注意すべきことは之等の研究が到達せる結論は白血球
浸出液よりも作用大;次に全血液は血清自身よりは作用更に大であることで
ある。
* * *
1897 年 Löwit は白血病と殺菌力との間に存する関係につき主要なる発表を
なした。そこでは2問題が特に研究された: 第一は殺菌力を有するは白血
球なりや否や;第二は、肯定の場合にこの力を現はす物質を in vivo にて浸
出することが可能なりや否や。
濾液により血液から白血球を分離する代りに、Denys の技術に従ひ、 Löwit
は tronc brachio-céphalique (膊頭琳巴幹)の露出後直ちに Aorta を結紮する
如き極めて「デリケイト」なる手術を行つた。この手術中実験者は絶えず肺
浮腫を起さぬ様に注意した。動物を「クラーレ」で麻痺し、人口呼吸を行ひ
衰弱せんとする心臓を注意する等の手段を講じなければならぬ。手術者が如
白血球の殺菌力 7
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何に巧みであつても、最も幸福な場合でも、動物は2時間位しか生きない;
屢々家兎は手術後直ちに斃死する。
Löwit は Aorta の結紮後白血球は1「ミリメートル」立方に 800 以下に
下降する時は常に、血清の殺菌力は著しく減少し或は消失することさへある
を認めた。この減少は多核白血球に関係する故に、Löwit は殺菌性物質を
含むものは多核白血球なりと結論した。この結論は、あらゆる probabilité
によれば、実際に適合する。不幸にも、この実際には hypoleucocytose のほ
かに、動物は2時間目に既に死ぬ如き烈しき現象が起つてゐる。Löwit 自身
が指摘せる如く、血液は白血球の破片を含み;動物の体温は29-25°に下降
する。それ故生体の斯の如き変調の雰囲気にあつては白血球の数或は質とそ
の殺菌力との間の正確なる関係を求むるための研究をなしてはならぬものら
しい。
白血球の浸出液を造るために、Löwit は次の如き方法を講じた; 出来る
だけ注意して白血球を血液の他の成分より分離し、次に硝子の粉末と共に擦
りつぶした。顕微鏡的検査により完全な細胞を最早認めざるに至るまで擦り
つぶし、生理的食塩水を加えその全体を遠心沈殿した。かゝる条件で得られ
た蛋白石様液体は弱「アルカリ」性にして、酢酸で沈殿し熱ではあまり沈殿
しなかつた;之は5分間の煮沸に耐えた;然し特に主要なるは殺菌性極めて
強きことであつた。
Löwit によれば、該液は Buchner の考に従ひ、白血球が生理的状態で分
泌するものとなした。Schattenfroh が-兎も角実験に基き-最近の発表中に
その考をのべてゐる意見は之と異り、 Löwit の殺菌性物質は白血球自身より
は寧ろ白血球の研磨に使用せる硝子より来るものであると。
* * *
Schattenfroh の論文は、先づ、著者がその実験に齎らせる正確さに於て、
次ぎに亦氏が免疫に関する概念の発展上に一行程を印せるために、支持さる
べき価値がある。吾人が、始めて、Buchner の一門人に於て、喰菌作用の研
究に捧げたる全章を見るのはこの研究である。
8 白血球の殺菌力
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氏の先人が受けたる反対を避けるために Schattenfroh は白血球を動物血
清の代りに生理的食塩水の如き無関係の「メヂウム」の中に入れて実験した。
種々なる操作--之に就てはこゝに強調しないが--によつて、氏は結論し
て曰く血液中に存する殺菌力の殆ど全部を蓄積するものは白血球なりと。氏
は血清は白血球の死後にのみ殺菌性となるを見た、固より白血球は動物の生
体即ち生理的状態に産生し得るのである。白血球を60°23分加熱するか、或
は粉砕後2時間乃至3時間浸漬せしめて、 Schattenfroh は非常に強き殺菌力
を賦与する液を得ることに成功した;この能力は80°-87°の加熱により消失
した。
* * *
白血球浸出液を造るために、本問題を物理学又は化学の領域に導かんとす
る企ては、吾人が後に述ぶる如く、解釈するに困難なる結果に直面した。吾
人は今ここに多数の殺菌性物質の存在することを述べよう。55°で消失する
Buchner の alexine の他に、吾人は今日知る所では Löwit の白血球浸出液
は煮沸に抵抗し、Jacob のそれは破壊温度不明であり、 Schattenfroh の浸出
液は80°―87°にて破壊するに過ぎず、云ふ迄もなく Bail の leucocidine 方法
で得たそれは65°には抵抗しない。
之を以て白血球の内部に同時に存在する殺菌性物質の差別性を結論すべき
であるか?之を以て吾人の浸出方法の欠点に罪を帰すべきであるか?
Bail によれば、列挙せる浸出液の各自はその固有の特色を有する殺菌性の
単一を表はす。之は吾人の感じではない。結合して又は分離して取られたる
之等の浸出物は吾人には真の白血球よりの物質とは思はれない。白血球の原
形質内に含まれた殺菌性物質は、確かに今日まで使用された原始的方法によ
つて浸出さるる如き余り単純なる化学的構造ではない。吾人は如何に白血球
の原形質が物理学的及び化学的要素に対し感受性が大であるか、また硝子粉
末と共に単に粉砕し、「クロロフォルム」又は生理的食塩水の中で腐敗させる
ことが白血球の活働分子を純粋なる状態に取り出すために充分なりと仮定す
るには、如何にこの小天地の作用が複雑なるかを知るに過ぎない。
白血球の殺菌力 9
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必然的に経験を経べき浸出方法を始むる前に、生白血球につき物理的及び
化学的要素に対する反応を一層よく研究せんと企てるのがよいのではなから
うか?種々なる「メヂウム」に於て種々なる温度及び他の要素に対しその態
度如何を学びたる後、之を合理的なる浸出方法に結合すべきものなりと信ず
るのである。
* * *
以上列記せる成績より判断するに、著者等は白血球の殺菌力に多くの関心
を持ち而してその必要なる特性なる消化力には余り関心を持たない。白血
球は細菌を包含し特に之を殺す使命を有すと信ずる程に、殺菌力の観念が実
際上に免疫の問題全部を支配する様になつた。吾人は細胞又はあらゆる種類
の毒性産物は白血球の側より同様なる貪喰作用をうけることを知れる今日で
は、殺菌力は、高等動物に於て、予め起る唾液消化、次に胃腸消化の如き喰嚍
作用の一楷梯として見做されるに過ぎない。この最後の考へ方は研究の範囲
を広め、消化酵素の領域内に研究を持ち来らしめ而して吾人をして自然界に
存する如き生物学的現象に一層接近せしめる長所を有するであらう。
―――――――――――――
Mémoires Cités
Emmerich et Tsuboi, Centralbl f, Bacter,,1892, pp, 364, 417, 449; 1893, p, 575,
Buchner’ Centralbl, f, Bacter,, 1889, p, 817,561 ;1890, p, 65; Archiv f, Hyg,,,
1890, 1893; Fortschr, Der Medisin, 1892; München, mediz,Woch, 1891, 1894,
Fodor, Deutsché mediz, Woch,, 1887,
Nuttal, Zeitschr, f, Hyg,, 1888,
Behring Centralbl f, klin, Mediz,, 1888,
Flügge, Zeitschr, f, Hyg,, 1888, p, 223,
Bastin, La Cellule, 1892,
Denys et Kaisin, La Cellule,1893,
Havet, La Cellule, 1893,
Vaughan, The medical News, 1893,
Hahn, Arch, f, Hyg,, 1893, p, 138; Berlin, Klin, Woch,, 1896, p, 869,
Schattenfroh, Müuchen mediz, Woch,, 1897, nos 1 et 16; Arch, f, Hyg,, 1897,
Löwit, Beitr, zur pathol, Anat, u, allgem, Pathol,, 1897, P, 172; Centralbl, f, Bakter,,
1898, p, 1025,
Jacob, Zeitschr, f, klin, Mediz,, 1897, P, 466,
Bail, Arch, f, Hyg,, t, ⅩⅩⅩ, ⅩⅩⅩⅡ; Berl, klin, Woch,, 1897, no 41; 1898, no 22,
Ⅱ
細菌性溶血素
Hémolysines Bactériennes (1)
細菌の生物学は「ヂフテリア」毒素を in vitro で得ることに成功せる今日
著しき進歩を見るに至つた。之は細菌性感染に於て溶解性産物に当つべき意
義の最もよき実例であつた。1888 年Roux et Yersin によつてなされたる此
の発見に次ぎ多数の他の毒素――破傷風、「ボトリヌス」、「コレラ」等のそれ
が続出した。数年経過せる今日、既知病原菌の種類は甚だ多いのに対して毒
素の数は尚ほ極めて制限せるを見るは驚くべき程である。
遠く離れた細胞を攻撃し得る有害なる菌の存在する時の溶解性産物の仲介
することを考へなければならない。之等溶解性産物が最も屢々存在すること
は確である、而して仮令尚之を明になし得なくとも、これは吾人の実験方法
の不完全なるに過ぎない。
細菌性溶血素の発見は真正細菌性毒素を知るための第一歩と考へらるべき
である。
仮令溶血素は毒性少くとも、真正毒素即ち致死的毒素との親族関係を否定
してはならぬ。或る種の細菌が赤血球を溶解し得る性質は、明に偶然的の出
来事ではない、之はあらゆる probabilité によれば細菌の反応の一様式であ
る; 溶血素は溶解性産物の一つであり之により生体の細胞に作用すべきであ
る。或は伝染病例へば緑膿菌又は「チフス」菌の如き場合には比較的著明で
ないが、溶解性物質の意義は例へば連鎖状球菌に於ては可成り判明してヰる。
この所見により吾人は既知細菌性溶血素に関し吾人の知る所を記載せん。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) Bulletin de I’Institut Pasteur, t, I, pp, 537, 569;1903
細菌性溶血素 11
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* * *
最初に見られたのは破傷風溶血素であつた。破傷風菌の培養濾液中に於て、
Ehrlich により発表され、その門弟 Madsen により慎重に研究された。之は
破傷風毒素――tétanospasmine――並にその製造方法と共通ならざる Sui ge-
neris なる物質である
tétanolysine は大多数の家畜の赤血球特に家兎及び馬のそれを溶解す; 山
羊の血球は之に反し比較的抵抗力が強い。赤血球と接触せしむるに、tétano-
lysine は赤血球を一気苛性【呵成】に溶解しない;血色素の瀰散は潜伏期間の先立つ
のを見る、この期間は過剰の溶血素により又は適当なる温度の選択により短
縮される。この温度は著しき役目を営む、其の他、あらゆる細菌性及び細胞
性溶血素に対し同様にして: 孵卵器内の滞在時間は著しく tétanolysine の
作用を促進する。
固有の破傷風毒素と異り、破傷風溶血素は極めて容易に変化す。50°20分
間の加熱により完全に破壊す。これを見るには少量の生理的食塩水で希釈す
れば充分にして、1時間後には著しく減弱す。濃厚なる食塩溶液(4%)に於
ても、20°に5時間放置された tetanolysine は溶血力の半分を失ふ。少く
とも24時間保存に成功するには、密閉試験管にて、0°に置かなければな
らない。「硫酸アンモニウム」により沈殿し、粉末状になれるものは、長期間
保存し得。
故に tétanolysine は極めて不安定の物質である、且つ、すべての既知溶血
素中最も不安定なりと付言することが出来る。この性質だけで既に破傷風毒
素と混同する心配はない、即ち破傷風毒素は暫くの間は殆ど変化しない又稀
釈も少し位の温度の上昇も恐るるに足りない。
之等の二つの物質――tétanolysine と tétanospasmine――は分離するに至ら
ないが、確かに異る物質である。tétanolyine に富める破傷風菌培養濾液を以
て免疫せる動物は、既知破傷風抗毒素の他に、更に抗溶血素 antihémolysine
を生ず。この二種の抗毒素は種々の量に形成される;亦破傷風に対し極めて
12 細菌性溶血素
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活動性の血清が、殆ど抗溶血性能力を欠如するを見るは稀でない。
若し破傷風菌の分泌する之等の二つの物質の同一ならざる他の証拠を挙げ
んとするならば、之等が赤血球に対する態度に之を認めるであろう: 即ち
赤血球を二物質の混合を含む破傷風の培養濾液に加へ、暫くの間低温に放置
す。一定時間の後、本液は唯々一つの物質 tétanospasmine のみを含むを認
むるであらう、他の物質、tétanolysine, は全部赤血球に吸着される。
tétanolysine の構造に関しては、抗毒素を以て部分的飽和を行ふ時に、 Ma-
dsen はこの lysine と「ヂフテリア」毒素との間に一定の類似点の成立し得た
ことは注意すべきである; この「ヂフテリア」毒素の如く、tetanolysine は
各自特有なる作用を表はす一列の物質に分解される。
* * *
Ehrlich et Madren が破傷風菌の溶血素の問題につき観察せる事実は、溶
血性細菌に関する一貫せる研究の端緒となつた。年代順に云ふと、 tétanoly-
sine に関する研究を確定して後、その観察を他の多数の菌に及ぼして研究せ
るは Kraus et Clairmont であつた。之についで Bulloch et Hunter,de Wein-
geroff et de Breymann の pyocyanolysine に関する業績;次ぎに、 Neisser
et Wechsberg の Staphylolysine に関する興味ある研究; typholysine に関す
る E, et P, Levy の短い報告; streptocolysine に関するBesredka の業績及
び間もなく Kayser によつてなされた colilysine に関する研究が発表された。
すべて之等の物質は同一価値を有するものでなく又同一関係を呈するもの
でない。容易にその「ヂアスターゼ」を周囲の液体に瀰散せしめる菌がある
と思へば、そこには極めて屢々見らるる場合であるが――血液を菌体即ち濾
過せざる培養と密接せしめた状態でなければ明かに溶血素を証明し得ない程
極めて少量を分泌する菌がある。之等の溶血素は細菌体より分離し得ない、
精密なる研究をなすことは不可能である。「コレラ」菌の培養は其の例である
が、その或る種類は、 Kraus et Clairmont によれば、或る種の血球に対し
強大なる溶血能力を営む。之は種々なる葡萄状球菌、大腸菌及び連鎖状球菌
についても同様である。 Lubenau は赤血球を「チフス」菌、連鎖状球菌、「ヂ
細菌性溶血素 13
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フテリア」菌、 Diplococcus catarrhalis 等の培養中に置く時は、溶血の起る
を見た。
本問題の真の研究は細菌より分離せる純粋溶血素を取り扱ひ得る時でなけ
れば始まらない。恰も細菌毒素の研究が毒素のみで全培養が起す如き病変を
起し得る時でなければ始まらないと同じである。
吾人は staphylolysine より始めることにしよう。この研究は多くの注意を
以てなされただけに重要であり、その製法は typholysine, colilysine 及び一
部は pyocyanolysine のそれに役立つた。吾人は streptolysine の研究を以て
本章を終わらんとす、該 lysine は、その性質上、細菌性溶血素と認むべき部
分的地位を占む。
* * *
葡萄状球菌の「ブイヨン」培養3-4日のものに家兎の脱繊維血液の一滴を
加ふれば、容易に staphylolysine の存在するを知る。2時間孵卵器に置
き、次いで18時間氷室に置けば、血液は完全に溶解するを見る。同一の現
象は家兎の血液を葡萄状球菌の培養濾液に加ふる時にも見られる。 Neisser
et Wechsberg により採用されたる staphylolysine の製法は次の如くである:
「ブイヨン」培養は9乃至13日間孵卵器に置く。之を濾過し、濾液に保存
の目的を以て少量の石炭酸「グリセリン」を加へる。重要なるは「ブイヨン」
は充分「アルカリ」性となすことを注意すべきである。
種々培養日数を異にするものに就き検査するに、著者等は staphylolysine
は接種後4日間に発現するを認めた。2週間の終りに達するまで増加した。
この時になると、溶血素の形成に停止を来した。最も多量に形成さるるのは
10日乃至14日の間である。
すべての葡萄状球菌が溶血素を作るのでなく之を作るものも皆同じ強さ
で作用するのではない。この関係につき、 Neisser et Wechsberg は次の興味
ある観察をした: 化膿性黄色葡萄状球菌と化膿性白色葡萄状球菌とは常に
同一なる溶血素を形成する、之に反して化膿性ならざる白色又は黄色葡萄状
球菌は血液を溶解することが出来ない。溶血力は人間に対する葡萄状球菌の
14 細菌性溶血素
――――――――――――――――――――――――――――――――――
毒力とは関係しない。
石炭酸加「グリセリン」を加へ氷室に保存せる staphylolysine は数週間又
は数か月間その能力を保存する。室温特に孵卵器の温度に於ては、その能力
は速に減弱する;該能力は之等の条件に於ては、15日後に完全に消失し得。
高温度に対しては、溶血素は多くの細菌性毒素の如く作用する: 48°20分
間の加熱は著しく之を減弱し; 56°同時間の加熱は完全に之を破壊す。
すべての細菌性溶血素と同じく葡萄状球菌により分泌された溶血素は、多
数の種族の血液に対し活動的なるを示す。家兎の血球は最もよく溶解され;
次は犬、豚、羊、海猽及び馬の血球である; 人間、鵞鳥及び山羊の血球は溶
解するに困難である。
研究室内動物(家兎、山羊)は staphylolysine の注射に対し無関心ではない。
少量(例へば0,2cc,) では発熱を起し、注射部位の浸潤を起すに充分である。
この浸潤は数日間継続し、脱毛及び時として皮膚の壊疽を伴ふ。仮令免疫の
終り頃に動物は一種の硬結せる甲殻を以て蔽はれるも、新に注射する毎に同
一なる局所症状を伴ふのである。或る動物、特に山羊、は特殊の感受性を有
し;時として「カヘキシー」の症状を呈して斃れる。
staphylolysine の反復注射はそのために血清に抗溶血素を賦与した。尚、或
る正常血清は staphylolysine に対して阻止能力を有す。この能力は人間の血
清中に認められた;之は特に馬の血清に於て強力である: 馬血清 0,01cc,
は時々 staphylolysine の最少量の作用を中和するに充分である。正常馬血清
のこの抗溶血性作用は既に Kraus により多数の溶血性細菌について証明さ
れた; tétanolysine について始めて之を認めたのは Ehrlich なることを附加
しよう。
正常血清の抗溶血素又は免疫法によつて造れる抗溶血素に関しては、その
性状は同一である。58°30分の加熱は殆ど変化せしめない。この耐熱性は、
Neisser et Wechsberg をして毒素抗毒素の混合を加熱するにある有名なる実
験を追試すべく鼓舞せしめた。若し之が単なる混合であるならば、 staphylo-
lysine は56°で破壊し、Antistaphylolysine は破壊せず、後者は加熱により
細菌性溶血素 15
――――――――――――――――――――――――――――――――――
遊離すべきであつた。然るに、抗毒素はこの実験では遊離されない、之は加
熱によるも分離することの出来ない真正なる化学的結合をなすことを証明す
る如く見える。
加熱により非動性となれる staphylolysine を以てせる免疫は抗体を形成し
ない;故に加熱は単に staphylolysine を減弱するのみならず完全に之を破壊
するものの如くである。
注意すべき点は: 皮下免疫法は常に抗溶血素を形成し、経静脈免疫法は
成績良好ならず;腹膜内注射に至つては全く之を形成しない。
* * *
pyocyanolysine, typholysine 及び colilysine は重要なる共通の性
質を有す、即ち高温度にて破壊されない、故に之を一分類となし、耐熱性 ba-
cteriolysines と称す。
pyocyanolysine は結果が常に一定せざる多数発表の目的物となつた。
始めて詳細なる研究をせる Bulloch et Hanter は出所を異にする緑膿菌を中
性反応を呈する「ペプトン」(1,5%)加「ブイヨン」中に接種した。種々な
る時を置き――7日乃至34日後に――氏等は或は濾過せざるも
常に toluol 又は加熱(60°,15分)により殺菌せる培養につきその溶血力を
調査した。氏等の普通用ひたる指示薬は新鮮なる牛の脱繊維血液であつた。
氏等は他の血球(綿羊、海猽)も亦、種々なる期間孵卵器内に置ける後は、
溶解することを確めることが出来た。
Weingeroff の実験によれば、 pyocyanolysine (10-50日間の「ブイヨン」培
養を濾過せるもの)により最もよく溶解する血球は犬のそれである;次に来
るものは馬、海猽及び家兎の血球であると。
緑膿菌培養の溶血力は培養日数と共に増加する、かかる点より Bulloch et
Hunter は幼弱培養は全く pyocyanolysine を欠如するものと考へた。既に
48時間の濾液中に綿羊の血球に対する溶血素を証明することが出来たのは
Margareth Breymann の意見ばかりではないが、唯々3-4週間培養のみが
pyocyanolysine としてよい成績を与ふることは確である。陳旧培養は強「ア
16 細菌性溶血素
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ルカリ」性なることは序でながら注意して置かう。
Bulloch et Hunter の実験によれば、溶血性物質は細菌体に固着してゐる。
加熱により滅菌せる全培養と、 Chamberland 濾過器で濾過せる同一培養と
を比較する時は、後者の溶血力は全培養のそれより約5倍弱いことを認める。
イギリスの著者等はこの点で Margareth Breymann と相反してゐる。後
者は濾過せざる培養は濾液より以上に溶血することなく、従つて、 pyocyan-
olysine \tは細菌体の内部に含まれざることを確定してゐる。
pyocyanolysine の歴史のうちで最も不思議なる点は勿論、多数の酵素が破
壊される温度に対する対抗力である。
pyocyanolysine を以て行へるすべての業績は一様に、緑膿菌は、その溶血
力を失ふことなく、100°15分間加熱し得ることを述べてゐる。濾過せる培
養は、 Bulloch et Hunter によれば、抵抗力が少いことになるであらう。こ
の問題につき Weingeroff 並びに更に遅れて Breymann によつてなされた実
験は、明にイギリスの学者が誤つてゐなければならぬことを示した: 緑膿
菌の全培養も、 pyocyanolysine のみを含む濾液も、120°30分加熱後に少し
も変化を受けない。この同様なる実験によれば濾液の毒力も亦少しもこの温
度にて消失せざることを示した。 Weingeroff は緑膿菌溶血素と緑膿菌毒素
とは構造を異にすることを信じてゐる。
之等の研究者のいずれも Antipyocyanolysine の問題に触れなかった。
pyocyanolysine の甚しく耐熱性なるに加ふるに緑膿菌は陳旧培養が甚だ「ア
ルカリ」性なるだけそれだけ残念なることは、pyocyanolysine の酵素性々質
に本来多少の疑問を置くべきである。
* * *
E, et Proper Levy が分離せる typholysine は氏等側の人々は pyocya-
nolysine に類似すと云ひ; 他の著者等は staphylolysine に類似すと云ふ。
「チフス」菌を接種せる「ブイヨン」を濾過せるものは、既に2日後に溶
血性を現はし、培養日数の経過と共に益々強くなつた。作用の最適時は sta-
phylolysine の場合の如く約2週間後にみられる。
細菌性溶血素 17
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犬の赤血球は typholysine に対し極めて感じ易く0,01㏄, で溶血を起こすに
充分である。
pyocyanolysine と同じく、「チフス」菌の溶血性物質は耐熱性である。
加熱「チフス」菌を数回反復して注射せる二匹の犬は、明に antitypholy-
sine の血清を得た: この血清の0,25cc,の typholysine の2倍の溶血量を
中和す、然るに正常の犬の血清は少しもこの性質を有つてゐなかつた。
この antitypholysine は55°の加熱に抵抗す。乃ちすべての細菌性溶血素
中明かに甚大なる興味あるものの一つなるこの物質に、吾人の全知識を集中
しやう。之は新研究が企てられ而して今日までなされざりし以上遥か彼方に
進展せんことを望むのである。
* * *
耐熱性溶血素群に関する事項を終わるに当り、極めて最近 Kayser が記載せ
る colilysine の性質を示すことが残つてゐる。
「メヂウム」の問題は此の場合極めて大切である。「ブイヨン」は、菌を接種
する時に、かなり高度であつても、酸性でなければならない。100cc, 中の「ブ
イヨン」に含有せらるゝ酸量が蓚酸の「デシノルマール」溶液の8cc,に相
当する時に溶血価は最大となる。弱「アルカリ」性「ブイヨン」は微量の溶
血素を造るに過ぎない;「ブイヨン」が極めて酸性(蓚酸の1∖10N溶液の8cc,
の代りに12,5cc, に等しき酸度)なる時も同様である。
Colilysine の試験に適当なる指示薬は犬の血液である; 馬、牛及び家兎の
血球は余りよく溶解しない; 他の種族(人間、海猽、綿羊、豚、鳩、鵞鳥)の
血球は極めて僅か溶解するか或は全く溶解しない。
Colilysine の活動性の概念を与ふるために、注意することは犬の血液の一
滴(1∖16cc,) を溶解する最少量は0,25と 0,1cc,の間にあることである。
溶血力は接種後2日目に現はれ; 4日目まで増加し、間もなく最高に達し
而してこの状態で2週間の終り迄持続する。
毎日「ブイヨン」の性を検する時は、最初の2日目は酸性であり、3日目
に「アルカリ」性となるを認む;「アルカリ」性は5日目まで増加し以後固
18 細菌性溶血素
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定的となる。溶血力の発現と「アルカリ」性の発現との間に対比を定めんと
する傾向がある。之等の二つの要素の間には極めて密接なる関係が存するこ
とは確実らしい;「アルカリ」性が全現象でないことは勿論確実である。何と
なれば若し此培養を37°の孵卵器に置く代わりに23°に置く時は「アルカリ」
性は5日目頃に最高に達す; 然し溶血力は甚だ遅れて現はれるに過ぎない:
12日目になつてさへも、孵卵器に4日間放置せる4日間培養の有するもの
よりも更に劣つてゐる。
他方に於ては、colilysine の「アルカリ」性は重要である; このことは coli-
lysine を蓚酸で中和するや否や、その溶血力を著しく低下する事実から解釈
される。
大腸菌の溶血素を120°に30分間加熱してもその溶血力を減弱しない。
或る特殊の場合には、Kayser は colilysine が偶然的に弱くなるを見た; 然
し一般の規則として、colilysine は数か月間その能力を保有した。
colilysine の溶血性能力は或る正常血清、特に、馬及び人間のそれによつて
麻痺され得る; 之は先天性 anticolysines である。
その血清が通常は之を欠如する動物に於て人工的に anticolysine を造り
得。家兎又は犬に於て、皮下に、4日間の「ブイヨン」培養を注射する時、
正常の Anticolilysines のそれより約4倍強き Anticolilysine の能力を有す
る血清を得ることが出来る。
* * *
連鎖状球菌の溶血素、即ち streptocolysine, は細菌性溶血素の一部位
を占め、而して種々なる程度を有す。先づ連鎖状球菌は生体内に於ても、溶
血を起す唯一の菌である、この点は他の細菌と本質的に異る所である。
次に、多数の細菌は、人工培養基に数日間又は数週間放置後、陳旧になれ
る時に溶血性を獲得するのであるが、連鎖状球菌は、反対に、云ひ得べくん
ば、本質的に溶血性なる菌である。他のすべての菌と異り、本菌はその活動の
旺盛なる時のみ溶血作用を現はすに過ぎない、この性状はその陳旧となり且
つ人工培養基に培養さるるに従つて次第に衰へる。最後に、streptocolysine
細菌性溶血素 19
――――――――――――――――――――――――――――――――――
は in vitro に於ける産生方法並びに物理化学的及び生物学的性質の二三に
より、そのすべての同種属より区別される。
連鎖状球菌の溶血性物質を得んと企てた時、考慮に浮べる最初の思ひ付き
は、勿論「ブイヨン」特に選択培養基なる腹水「ブイヨン」中に於ける培養
を使用せんとするにあつた、何となれば溶血は濾過せざる全培養に血液を加
ふる時の優秀な条件で起るからである。然るに、奇妙なることは、極めてよ
く溶血する之等の培養は、一回 Chamberland 濾過器で濾過する時は全溶血
力を減弱せるものであることが分つた。
強力なる濾液を得るために、必要なる条件の一つは、培養基として、血清
のみか又は「ブイヨン」を加へたものを使用すべきである。更に、重要なる
ことは連鎖状球菌感染から死亡せる家兎より採取し、既に溶血せる血液を加
へた培養基に接種することである。
ここに吾人の方法を述べる。
吾人は腹水「ブイヨン」に培養せる毒力強き連鎖状球菌の24時間培養
数滴を家兎の皮下に注射することから始める。翌日、家兎が死するや否や、
血液が溶解することを確めて後、吾人は「ピペット」を以て心臓より2,3滴
の血液を採り、之を家兎のみの血清又は家兎の血清と綿羊或は山羊の血清と
混合せるものを入れた試験管に接種す。同様に馬血清と「ブイヨン」とを等
量に混合せるものを使用するもよい。試験管を孵卵器に24時間納め; 次に
其培養を生理的食塩水の同量で薄めて後、Chamberland 濾過器で濾過する。
濾過後吸引された液は streptocolysine である。之は容易に家兎、人間、海
猽、綿羊の血球を溶かし、之より少しく馬及び牛の血球を溶す。
奇妙なことは streptocolysine を造るに使用する血清の性質により血球の態
度が異るのである。二例のみを挙ぐれば牡山羊の血清を以て造れる strepto-
colysine はよく海猽、家兎及び人間の血球を溶す; が牡の山羊の血球も綿羊
のそれも溶解しない。
人間の血清を以て造れる streptocolysine は前記の如く海猽、家兎及び人間
の血球を溶かすが、然し亦牡の山羊及び綿羊のそれをも溶かす。
20 細菌性溶血素
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云ふ迄もなく、この二つの場合に於て連鎖状球菌は同一である。此の事実
はかかる点に於ても、連鎖状球菌は培養基の極めて僅かなる変化によるも感
受性大にして、この感受性は使用せる血清に従い種々なる多数の streptoco-
lysine を形成することによっても証明される。
上昇せる温度に対するその抵抗力の点よりすれば、streptocolysine は易熱
性溶血素 (tétanolysine, staphylolysine) と耐熱性溶血素 (pyocyanolysine,
typholysine, colilysine) との中間の地位を占む。
staphylolysine は既に48°で減弱し、56°20分の加熱により全く破壊す
るが、streptocolysine は55-56°に30分間耐え、殆ど破壊することがない;
只溶血の発現に少しく遅延するを認めるのみ、然しこの遅延は著明でない。
65°(1∖2h) に於ても、streptocolysine は著しく減弱することはない。70°に
2時間加熱する時にのみ非動性となるに過ぎない。同様なる結果は55°に10
時間放置する時にも得られる。
室温 (15°-18°) も亦、長ければ有毒作用を及ぼす。15日目には既に著し
く弱り、20日後には streptocolysine は痕跡すら認められなくなる。
血液に対する作用は室温に於けるよりも孵卵器の温度に於て遥かに強大と
なる。寒冷は極めて顕著に阻止作用を及ぼす。塩類の存在は甚しく溶血を遅
延す。
透析 (la dialyse) は何等の影響なし: streptocolysine は透析膜を通過し
ない。
streptocolysine の毒性はない; 実験室内動物は大量 (10-20cc,) に堪へ、少
しも認むべき反応を顕はさない。
antistreptocolysine 血清を得んとの目的からなされた、多数の免疫試験も、
成功の栄冠を冠せられたものはない。streptocolysine を注射せる家兎に於て、
Breton が最近認めたる極めて軽度の抗溶血性効果は恐らく吾人も亦既に認
めた種類のものであろう; 之は、すべての probabilitéによれば、或る正常
血清に固有なる自然の抗溶血力に関係するのである。
* * *
細菌性溶血素 21
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吾人は細菌性溶血素の大多数が多少有害なるを見た。人は毒性が之等溶血
素の必要なる一要素であると信ずることが出来たであろう。吾人は此結論は
誤りであって溶血素の本態は、之に反して、毒性がないと信ずる。陳旧培養
に於ては、吾人は常に固有の溶血素と真正の毒素との混合を得るが故に、之
等が動物を羸痩せしめ屡々之を死亡せしめる。
tétanolysine に於て、及び pyocyanolysine に於ては、此の分離は容易に実
現し得た。staphylolysine に関しては、分離は今尚出来て居らぬ、然しそれ
も同一であるべきことは殆ど確実である、而して其の理由を述べよう。之等
の研究者によれば、山羊は特に staphylolysine に対し感受性がある。山羊の
赤血球は staphylolysine に対し抵抗力あるが故に、staphylo-hémolysine に毒
性を結びつける事は不可能である。tétanolysine に於ては、tétanospasmine が
存在すると同一理由から、staphylolysine に於ても亦、赤血球に作用しない
所の staphylotoxine があるべきである。
streptolysine に関しては、吾人は全く毒性なきを知る。colilysine 及び ty-
pholysine の毒性に就ては吾人は其の知識を欠く。
要するに、最もよく研究された4種の細菌性溶血素については、いづれも
固有の毒性を有しない。
感染せる生体内に於て之等の物質の作用をよく了解するために、指示薬と
しての赤血球の選択は単に後者の都合により授けられたる意見を失はざるこ
とが有利である。恐らく之等の溶血素は生体の他の細胞に対し赤血球に対す
るよりも更に大なる親和力を有するであろう。換言すれば之等細菌性溶血素
は寧ろ néphrolysines 又は névro-lysines, 又は他の名称を付すべき価値なき
や否やはこれを知らず。吾人が溶血素の性質に就て述べた之等の細菌生産物
は細菌と結合して或る作用を営むか否やは、誰が之を知るであろう。
之は、勿論、仮説である。常に細菌性溶血素の章は未だ解決されるに至ら
ず、新しい研究を必要とする。
22 細菌性溶血素
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Mémories Cités
Ehrlich, Berlin, klin, Wochensch,, 1898, n 12, o, 273,
Madsen, Zeitsch, f, Hyg,, t, XXXII, 1899, pp, 214-238,
Kraus et Clairmont, Wiener klin, Woch,, 1900, n 3, pp, 49-56,
Bulloch et Hunter, Centralbl, f, Bacter,, t, XXVIII, 1900, n 25, pp, 865-876
Weingeroff, Centralbl, f, Bacter,, t, XXVIX, 1901, n 29, pp, 777-781,
Breymann, Centralbl, f, Bacter,, t, XXXI, 1902, n 11, pp, 482-502,
Neisser et Wechsberg, Zeitsch, f, Hyg,, t, XXXI, 1901, pp, 299-349,
Lubenau, Centralbl, f, Bacter,, t, XXX, 1901, n 10, pp, 402-405,
E, Levy, et Prosper Levy, Centralbl, f, Bacter,, t, XXX, 1901, n 10, p, 405,
Kayser, Zeitsch, f, Hyg,, t, XLII, 1903, pp, 118-138,
Besredka, Annales de l’ Institut Pasteur, t, XV, pp, 880-893, 1901,
Breton, Compt, rend, de la Soc, de Biel, Séance du 4 juillet 1903,
Ⅲ
連鎖状球菌は一種か多種か?
Existe-t-II Un ou Plusieurs Streptocoques? (1)
吾人の細菌学上の知識の略ぼ当初に於て、始めて課せられてから久しきに
渡る、この問題は常にその回答を待つてゐるのである。この問題についての
研究は欠如してゐない : 寧ろ甚だ多く研究されてゐる位である。困難なる
点は分類方法なることに一致してゐる。
この問題は然しながら次第に重要視されて来た。之は単に科学上の好奇心
を満足さするのみならず、すべての抗連鎖状球菌血清の指針となる。
実用領域に置かれたる問題は次の如く還元される : 是か非か、一定の連
鎖状球菌を以て造られたる血清は、他のすべての連鎖状球菌に対して、作
用するか?この質問は勿論すべての問題を包含してゐないが、然し解決す
べき最も緊急なる点を目的とする。
此の問題に就て述べられたすべての意見は次の二点に帰する : 一元論者
は連鎖状球菌の異る菌株間に観察せる個々の傾向は連鎖状球菌の全体に共通
なる一般的特徴の前に解消するものと見てゐる ; 之に反し、多元論者は之等
の傾向は必要欠くべからざるものであり而してすべての連鎖をなすものを同
じ旗織の下に総括することは全く正当ならずと考へてゐる。
之等反対の意見の間に於て一定方針の講義をなすために、吾人は統一せる
見解を妨げるに過ぎざる詳細なる記述や統計を出来るだけ避けて、各方面よ
り齎らされた論文をば述べることにしよう。吾人は吾人に対し種々なる論文
の価値あるものを捜し、而して若し講義に賛成するもの反対するものすべて
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) Bulletin de l'Insitut Pasteur, t, 11, 1904, pp, 657, 689,
24 連鎖状球菌は一種か多種か?
――――――――――――――――――――――――――――――――――
を考量し、本問の現状につき判然として而も個人的なる意見を造るに至るな
らば、吾人の努力は大に酬ひられるものであらう。
著者等が彼等の仮設【説】――或は一元説或は多元説――に対し価値を与ふる論
文は、之は当然ではあるが、極く最初は純然たる形態学上の種類のものであ
る。更に遅れて、分析方法の完成と共に、連鎖状球菌の生物学的性質又は特
異血清のそれより演釋【繹】せる論文を参考とした。
主として両領域に於ける議論の基礎に役立つ目標は、連鎖状球菌の肉眼的
及び顕微鏡的研究、その起原、その生化学的性質、その溶血性、予防力及び
最後に、抗連鎖状球菌血清の補体結合反応の如き研究により満足された。
吾人は逐次的に之等の各論文を列挙しよう。
* * *
純形態的の識別に就ては余り管々しく述べまい。
Pane は丹毒の連鎖状球菌と化膿性連鎖状球菌とを、「グルコーゼ」加「ブ
イヨン」に於ける培養の外観により、肉眼的に区別することが出来ると信じ
た。前者は「ブイヨン」の管底に沈澱を形成するが後者は「グルコーゼ」の
存在により殆ど影響されず「グルコーゼ」の有無に拘らず同様の状態に発育
す。
Lingelsheim の意見は之と異る : 同氏によれば、連鎖状球菌は「ブイヨ
ン」が「グルコーゼ」を含む時は常に管底に集合する、而して之は「グルコ
ーゼ」が酸を発生し之が連鎖状球菌を凝集するためであると。
Kurth によれば、「ブイヨン」培養の肉眼的所見より連鎖状球菌を4群に
分類することが出来ると : 之等の各群に連鎖の独特なる顕微鏡的所見が一
致するものの如くであると。
「ブイヨン」培養の所見に基き、Pasquale は連鎖状球菌の三型を区別し得る
に過ぎずと信じた。
顕微鏡的所見は同様に分類に与つた。就中、連鎖の長さに応じ、連鎖状球
菌の二型(longus et brevis) を定むべきことを提唱した。この分類を採用す
れば、長い連鎖は決して短い連鎖にならず、又その反対も決して見ないこと
連鎖状球菌は一種か多種か? 25
――――――――――――――――――――――――――――――――――
を是認することとなる。其の他、すべて之等の分類は、或は肉眼的にせよ、
或は顕微鏡的にせよ、何等鞏固なる根拠に基かざることを付言すべきである
か? この分類法は或る詰め将棋の前を走つて居り而して之は同様なる試み
の無駄なることを証明するだけの役にしか立たない。
* * *
出所により、即ち菌の分離されたる疾病により、連鎖状球菌を分類せんと
の意見は、更に多く接する機会があつた。之は当初の研修者の思ひついた意
見であつた ; 亦之は Fehleisen により熱心に支持された、氏は執拗に丹毒菌
の特異性を擁護し、何としても膿痬の連鎖状球菌と同一なりと認めやうとは
しなかつた、
同様に、Rosenbach は化膿性連鎖状球菌の培養と丹毒の連鎖状球菌の培養
とを確実に区別し得ることを肯定した。
然し氏は Petruschky が同一連鎖状球菌を以て、人間に於ても亦動物に於
ても、丹毒、膿痬及び全身性敗血症を起せる後には、疾病による区別を全然
抛棄せねばならなくなつた。
臨床家は、更に、丹毒の連鎖状球菌は余り注意せざる産婆の手により産褥
熱の原因となることを証明せる場合を一例以上報告した。
かくして連鎖状球菌の感染は各人の抵抗に依り、接種部位の内部の構造に
より、連鎖状球菌の性質又は最初の出所とは全然無関係なる臨床上異る型を
起し得ることが定められた。
確に、Moser の報告の刺戟により猩紅熱又は天然痘に於て遭遇する如き或
種の連鎖状球菌に特異の性質を帰せしむべき傾向の新に現はれるを見た。然
し、少い賛成者のうち、かかる見方は未だ決定的承認を得なかつた。
連鎖状球菌を多数の群に分類せんとする無益なる傾向は多分に一元的仮説
に意見を傾ける様に貢献した、而して、1895 年に、Marmorek が後者に左
袒する決定的宣言をせる時は、氏は自分自身殆ど細菌学者の一元説であつた。
この事件は、勿論、2,3 の抗議なく経過することはなかつた。Van de Vekle,
Méry, J, Courmont は、連鎖状球菌感染が Marmorek, の単価血清に適合しな
26 連鎖状球菌は一種か多種か?
――――――――――――――――――――――――――――――――――
い場合を指摘した ; 然し多数の細菌学者は之等の事実は寧ろ連鎖状球菌の差
異に帰するよりも血清の不完全に帰すべきものとして支持した。
* * *
之等の反対者に答ふるために、Marmorek は 1902 年に重要なる報告を書
いた、その中で氏は新なる論拠に立つてその一元的意見を全然支持した。
1895 年、氏は顆粒の大さ、連鎖の長さ又は「ブイヨン」培養の混濁度の如
き連鎖状球菌の外在性々質には少しも重要性を帰すべきでないと宣言した。
同氏によれば、何よりも大切なることは生化学的性質である。然るに、生化
学的性質は、氏によれば、人間を出所とする連鎖状球菌の間には親族関係を
造らしめる。連鎖状球菌の生化学的性質を以て、氏は一方では溶血現象を主
張し、他方では連鎖状球菌濾液中に連鎖状球菌の発育不可能なることを主張
した。
人間を出所とする連鎖状球菌 40 株以上に就き Marmorek は溶血の見地
から研究した ; この報告によればすべての菌株が陽性の結果を与へた。唯々、
猩紅熱患者より分離せる連鎖状球菌は余りよく溶血しなかつた、然し溶血性
は、仮令軽度であつても、すべての場合に証明された。
第二の性質――濾液中の発育阻止――に関しては、同氏によれば、すべて
の連鎖状球菌に等しく共通である。若し連鎖状球菌を同一の株菌又は異る菌
株の濾液中に接種すれば、「ブイヨン」は混濁することはないが、他のすべて
の菌、例へば葡萄状球菌又は肺炎菌を連鎖状球菌濾液中に接種せるものは、
著明なる培養を与へる。
Marmorek の試用せる連鎖状球菌の大多数はこの生化学的仮説に適合し
た : 氏は結論して曰く、故に之等は一元にして同一種族に属すと。猩紅熱
に見らるる連鎖状球菌は少しく此の規定より距つてゐる ; 本菌は、上記の条
件に於て、極めて軽度の培養を与え得ることは確実である。湿疹の連鎖状球
菌を見るに、他のすべてのものから明かに区別される : 即ち連鎖状球菌濾
液中に異種細菌と殆ど同様によく発育する。
Marmorek は連鎖状球菌の一元説に有利なる第三の証拠を、猩紅熱連鎖状
連鎖状球菌は一種か多種か? 27
――――――――――――――――――――――――――――――――――
球菌を含める全連鎖状球菌に対しその血清の特異作用中に見てゐる。此の報
告に於ても、同様に、湿疹の連鎖状球菌は異彩を放てる唯一のもので、血清
は之に対し何等の作用を持つてゐない。
以上の事実を総括して見るに、Marmorek は、湿疹のそれを除く、すべて
の連鎖状球菌を同一種族に属せしむることを躊躇しなかつた ; 何となれば
之を再言して見るに、すべてが家兎の赤血球を溶解し、すべてが連鎖状球菌
濾液に発育不可能なるを示し、。すべてが同一なる抗連鎖状球菌血清に適合す
るものであるからである。
* * *
連鎖状球菌が其濾液中に発育し得ないことは今日まで何等反対を起さない
事実である。然し他の二つの性質に関しては異論のある所で同一視されない。
Marmorek の考は譲歩して承認するだけに過ぎない ; 例へば溶血素に就ては
Marmorek の信ずる如く一般的のものではないらしい。
Schlesinger は屡々全く溶血せざる雑菌性並びに病原性連鎖状球菌を認め
た。我々自身も亦屡々抗連鎖状球菌血清に関する研究の際に動物体内に於て
「ヘマチー」を溶解せざるのみならず試験管内に於ても24時間赤血球と接触
せしむるも「ヘモグロビン」を瀰散することなきを見た。従つて家兎の血液
を溶解し又は溶解せざるこの性質は、Marmorek の固持せんと欲する重要な
るものであるにせよ、そこに既に連鎖状球菌の一元説に反対する峻厳なる論
拠を見るに至つた。
吾人はそれより何者かの結論を誘導しようとは思はない、何となれば、吾
人に取つては連鎖状球菌が赤血球を溶解すべく有する性質は余り重要ならざ
る現象であつた、吾人が茲に述べんとする問題中に入るべき価値のないもの
である。
それ故吾人は殆どすべての細菌が多少の程度に溶血力を賦与されてゐるこ
とを知らぬであらう? Marmorek の例に於て、連鎖状球菌の此性質の一部
を引用せんと欲するも、吾人の意見によれば、全培養ではなく培養濾液即ち
Streptocolysine の名で記載せる物質に帰するが当然である。濾過せるStrep-
28 連鎖状球菌は一種か多種か?
――――――――――――――――――――――――――――――――――
tocolysine は他の何れの溶血素と混同を許さざる性質を有する ; 大多数の細
菌は之を濾過するや否や溶血性でなくなる。
* * *
扨て抗連鎖状球菌血清、特に其の凝集性、防御性及び補体結合性の研究よ
り引用せる論拠につき一瞥しやう。
或る菌の形態学的性質が其の同一性に疑を抱く時はいつでも特異血清によ
るのが甚だ有効である。例へば弧状菌の種々なる種類に対しては血清による
より外には鑑別することを知らぬが如きである。同様なる方法は屡々「チフ
ス」菌、赤痢菌、大腸菌の場合に大に利用されるを見る。連鎖状球菌の場合
にも同様に試みられることは甚だ当然である。
連鎖状球菌の凝集反応は始めて Van de Velde により唱へられた。種々の
連鎖状球菌を以て馬を免疫するとき、著者は該血清は使用せる連鎖状球菌に
対し防御作用並びに凝集作用を呈するが、他の菌株に対しては殆どかかる性
質なきことを確めた。この類似は『凝集反応に於て或一定の菌が或一定の血
清に対し適合するや否やを知るに確実にして容易なる方法なきや否や』を要
求せるが如きである。
同じ考は Tavel により企圖された。吾人は今日では之等の二つの性質――
防御作用と凝集作用――は彼等の間に共通するものでないことを知つてゐ
る。更に吾人は今日では連鎖状球菌の凝集作用は著しく変化する現象なるこ
とを知つてゐる。既に Van de Velde は同じ連鎖状球菌が場合場合により種
々に凝集することを認めた。氏は曰く『此事実は分類の標準として凝集反応
に対する価値の大部分を奪ひ去るは当然である』。
此報告は 1897 年になされ、而して既に此の時代には凝集反応は連鎖状球
菌の分類に有用でなければならぬことが認められたのであるから、特に興味
がある。
然し Meyer は、1902 年に、凝集反応により連鎖状球菌を二群に分類し得
ることを信じた : 第一群中には、氏は「アンギナ」連鎖状球菌(猩紅熱、
「リウマチス」、単純なる「アンギナ」)を置き ; 第二群中には、氏は化膿性感
連鎖状球菌は一種か多種か? 29
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染を起す連鎖状球菌を配列した。
* * *
審判され而して全く忘却の中に突き落された様に見えた此の問題が、新に
復活されたのは特に Moser の反響ある報告に従ふものである。猩紅熱連鎖
状球菌の特異性又は非特異性を定めんとする傾向は吾人に多数の仕事に価値
を付せしめて、その仕事の或るものは甚だ著明なるものがある。之等の業績は
Aronson, Neufeld, Weaver, Moser et v, Pirquet, Baginsky et Sommerfeld,
Tavel, Wlassiewsky, Solge et Hasenknopf, Dopter 等の著者名を有す。
之等の著者により連鎖状球菌の特異性の有無につきなされた主なる論拠は
種々なる連鎖状球菌に対する血清の凝集価を現はす数字の周りを廻つてゐる
ことを見ぬくことが出来る。吾人はすべて之等の業績より、殊に特異性に左
袒する業績より誘導された一般の結論は凝集反応が本問を解決せねばならぬ
ことである以上、之等の詳細に亘らぬこととする。
仮令、患者の血清が猩紅熱連鎖球菌を 1:150 の比で凝集するを認めた
Solge et Hasenknopf の臨床上の 2,3 観察の抄録せるものはあるも、同種の
他の臨床上の事実は少しも知らないのである。
Moser 自身も V, Pirquet と協力して、猩紅熱にかかれる 51人の患者の
血清及び他の患者の大多数の血清を検査した、氏等は結論に於て曰く『凝集
反応は猩紅熱患者に於ては非猩紅熱患者に於けるより屡々見られ、重症者に
ありては軽症者に於けるより更に屡々見られる』。
斯くの如き結論は勿論特異性に有力なる証明を与ふるものではない。之に
付加せんとするものは Baginsky et Sommerfeld, Weaver 及び極めて最近に
Dopter が陰性なる成績を証明せるに過ぎぬことである。
以上が臨床上に於て得たる知見である。
免疫動物の血清による猩紅熱連鎖状球菌の凝集反応に関しては、更に其特
異性に有力とはならない。それには他の多数が認めた一事実を述ぶれは充分
である ; 吾人の引用せんとするのは Aronson の業績による。此著者は猩紅
熱患者連鎖状球菌を以て一頭の馬を免疫し、敗血症患者より分離せる連鎖状
30 連鎖状球菌は一種か多種か?
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球菌を以て他の馬を免疫した。免疫の終り頃に氏はこの二種の血清を猩紅熱
患者連鎖状球菌の新株に対して試みたるに、該株は猩紅熱免疫馬血清による
よりも敗血症免疫馬血清によりよく凝集せらるるを見た。
其の他免疫血清による連鎖状球菌の凝集性は著しく変化するものである。
同様に、Neufeld は、極めて屡々、或る血清は之を造るに使用せる菌株より
他の異株連鎖状球菌をよりよく凝集することを確めることが出来た。血清中
に、或る物質例へば「トリクレゾール」の如きものが存在する時は、その凝
集力を破壊するに充分である。凝集力は「メヂウム」の反応が少しく変化す
るも影響される。奇妙なることは、同一連鎖状球菌が、その毒力の多少に従
ひ、種々なる凝集価を有ち得ることである。Neufeld は同一出処(F)である
が毒力を異にする連鎖状球菌二株を調査し之を確定することが出来た。維納
の所謂抗連鎖状球菌血清は毒力低き変種に対し極めて高き凝集価(1:20,000)
を示した ; 之を毒力高き変種と接触せしむる時には100倍希釈に於ても凝集
反応が起らなかつた。著者は「マウス」を数回通過し毒力減弱せる培養の毒
力を高めた時、強毒となれる連鎖状球菌は凝集能力を失ふを見た。
連鎖状球菌は屡々集合して発育し、凝集反応を施行する前に予め平等なる
浮遊液に変形する必要がある程の大なる凝塊をなすことあるを付加して置か
う。この予備捜査は勿論各実験者により異り、之によつて成績は余り比較し
得られない。
之等の困難があるから、連鎖状球菌の一元であるか多元であるかに対する
結論を唯一つの凝集反応なる現象に基礎を置かんとすることは危険と云ふべ
きである。
* * *
吾人が既に本章の始めに注意せる如く、若し本問につき特に研究せりとせ
ば、それは主として抗連鎖状球菌血清の製造方法に関する極めて重要なる実
際問題に関係するからである。然し当面の問題を限局し、而じて単価血清が
すべての連鎖状球菌に対し作用するか否かを見ることが更に簡単である様で
ある ; 何となれば、之を総括するに、吾人が上述せるすべてを之等の議論より
連鎖状球菌は一種か多種か? 31
――――――――――――――――――――――――――――――――――
帰結するのは其の点であるからである。
実際に、此の問題は一度ならず此の形式で課せられた ; 然し同一形式を以
て答へられたことはなかつた。
Marmorek(1895)は、家兎に極めて強毒なる唯、一株の連鎖状球菌を注射
して調整せる血清はすべての連鎖状球菌感染を防御せることを報告せる後、
Méry(1896)が先づ、J, Churmont (1898)が之に次ぎ此の確承と一致せざ
る観察を発表した。Méry の使用せる連鎖状球菌は猩紅熱にかかれる小児よ
り分離したものである。動物に注射するに、この連鎖状球菌は血清を以て処
置せる動物に於ても対照と同じく致死的感染を引き起した。この事実は多数
の動物でも複試されたので、Méry は結論して曰く『人間の疾病で認められ
る連鎖状球菌の一元性は決定的意義なきものと思はれる』。
之より2年遅れて[1898], Courmont は他の連鎖状球菌を以て同様の現
象を観察した。氏は7株に就て試みたがその中の一株は Marmorek のそれ
であつた ; 唯一つ、この最後のものが Marmorek の血清で影響された。此の
成績は氏をして次のことを考へしめた『連鎖状球菌とは区別不可能なる一群
の変種より成る分類不充分なる細胞属を代表し ; 一株に対し免疫性ある血清
は、他種に対し免疫性はない』。
之等の批判は、Marmorek の信念を動揺しなかつた、即ち氏は1902年の論
文に於て、毒力強き連鎖状球菌を以て調製せる血清は総ての連鎖状球菌に対
し活働性あることを新に是認した。
* * *
連鎖状球菌の一元説に左袒する研究は他の2名の有名なる細菌学者 Aron-
son et Neufeld に於て断乎たる支持者を見出した。
Aronson は明白に連鎖状球菌の多元説を否定した。氏によれば、すべての
連鎖状球菌の間に『極めて大なる』親族関係があると。氏の言を支持するた
めに、氏は唯、一株を以て調製せる氏の血清はその出所の如何に拘らず、す
べての連鎖状球菌を防御せりと述べた。
同様に、Neufeld は、極めて速なる方法を以て家兎を免疫することに成功
32 連鎖状球菌は一種か多種か?
――――――――――――――――――――――――――――――――――
せるが、毒力強き唯一つの菌株を以て得たる氏の血清は、単に此の菌株のみ
ならず、Aronson 又は Marmorek のそれの如き異種連鎖状球菌に対しても
同様に、「マウス」を防御せりと宣言した。
即ちかくして異種動物につき操作せる両学者は、異る免疫方法を使用し而
して Marmorek が毎常氏の結論を得たると同様なる結論に到達した、即ち
単価血清はすべての人間の連鎖状球菌に対し作用するが故に、連鎖状球菌は
一元なりとの結論である。
かくの如きが最近の業績より見たる、本問題に対する最後の言葉である。
* * *
実際上本問題は斯く解決されたりと見るべきか? 吾人の意見によれば、
Aronson の実験も、Neufeld の実験も連鎖状球菌の一元なる事を証明してゐ
ない。以下説明しやう。
先づ Aronson の場合から始めて見やう。
同氏は「マウス」より「マウス」に通過せしめ極めて強毒にせる連鎖状球
菌を以て馬を免疫した。氏は単に免疫に使用せる連鎖状球菌に対してのみな
らず、更に氏の云ふ所によれば、出所を異にする他の連鎖状球菌に対しても
亦極めて大なる活働性に富める血清を得た。かくして氏は猩紅熱連鎖状球菌
は此の血清に対しその固有の連鎖状球菌と同じ「チーテル」に作用すること
を確め得た。
吾人は直接人間より分離せる菌株は一般に「マウス」に対し病原性なきこ
とを知つてゐる。之を有毒ならしめるために、Aronson は数回「マウス」を
通過せしめなければならなかつた。之が連鎖状球菌の最初の出所が何であら
うと、血清が常に活働的なるを見るに至らしめた。吾人は之より著者の引用
せる結論を知る。然るに、吾人はこの結論の誤れることを確定することが出
来る。
菌の毒力を増強する見地から、出所を異にする連鎖状球菌を「マウス」の
生体を通過せしむることにより、Aronson は菌の個性を没却したのである。
氏はすべての菌を一種類即ち「マウス」に病原性ある種類に変化して了ふた
連鎖状球菌は一種か多種か? 33
――――――――――――――――――――――――――――――――――
のである。
仮令 Aronson の単価血清が試用せるすべての連鎖状球菌に対し活働性あ
りとするも、之はその出処が同一種族なるがためでなく、Aronson が「マウ
ス」より「マウス」に連続的に通過し、人工的に平等ならしめたためである。
それ故、「マウス」を数回通過せる一連鎖状球菌を以て調製せる氏の血清が
Aronson の一様化せるこの菌株に対し活働性なることを示すのは敢て怪しむ
に当らない。
此の実験者が一度「マウス」に対し病原性ある一連連鎖状球菌を目標とする
時は、腺疫の菌の場合の如く、この血清が治療的効力を欠如する事は極めて
当然である。然し外見上驚異とすべきは、同一菌が「マウス」の数回通過に
より、その毒力が本菌が嘗て有せざる迄に増強する時は、同一血清が不活働
性より活働性になる事である。
ここに矛盾と見ゆる事実がある : 即ち余り有毒ならざる連鎖状球菌に対
し作用なき血清が、この連鎖状球菌が毒力を増加するや否や活働的になるこ
とである。
然し此の説明は極めて簡単である。自然界に遭遇する如き腺疫の連鎖状球
菌は Aronson のそれと異り、Aronson の血清に作用しない。然し此の同一
腺疫連鎖状球菌が、その個性を失ひ「マウス」通過により特殊なる連鎖状球
菌に変化する時、吾人はかかる菌を特に通過連鎖状球菌と称するが、之に類似
する連鎖状球菌即ち通過連鎖状球菌を以て造れる血清に適合する様になる。
故に Aronson が猩紅熱、安巍那等の連鎖状球菌についてなした血清のす
べての試験は、実際上は、唯一の連鎖状球菌、即ち鼠の連鎖状球菌、所謂通
過連鎖状球菌に就てなされたるに過ぎぬことになるのである。
猩紅熱連鎖状球菌は人間の他の連鎖状球菌の存在する場合、この単価血
清が有効なりや否やを知らんとする事は、今後尚解決すべき問題として残さ
れてゐる。
Aronson 自身も亦之を認めなければならなかつたのである。何となれば、
氏の馬を免疫するには、動物通過をなさなかつた他の有毒なる連鎖状球菌を
34 連鎖状球菌は一種か多種か?
――――――――――――――――――――――――――――――――――
加へてゐるからである。
* * *
Neufeld の実験に関しては、勿論、連鎖状球菌の一元性を結論することを
許さざるものの如くに見える。
具体的の一例は一層よく吾人の考を了解せしめる。
同氏は極めて有毒なる連鎖状球菌F に対し急速方法により免疫せる家兎
の経歴を述べてゐる。
此の家兎の血清は単にこの連鎖状球菌F に対してのみならず他の二種の
連鎖状球菌即ち猩紅熱より分離せる Aronson のそれ、並びに安巍那より分
離せる Marmorek のそれに対しても極めて活働的なることを示した、之よ
り氏は単価血清の有利なることを結論した。
此の実験を仔細に見給へ。此の連鎖状球菌F とは何であるか? Neufeld
が吾人に語る所によれば、之は Phlegmone より分離せるもので ; 分量0,00
001cc で 36 時間以内に家兎を殺すものである。氏は之につきそれ以上述べ
てゐない。
然し先づ知らんと欲する重要なることは、このF の過去に関する詳細な
る点である。
此の連鎖状球菌は動物を通過せりや否や? 実験のすべての重要関係は其
所にある。
吾人が既に認めたるが加く、直接人間より分離せる連鎖状球菌は動物に対
し病原性あることは稀である。吾人は連鎖状球菌F は同断であり、本菌は
家兎又は「マウス」を通過せる後にあらざれば家兎を殺すに至らざることを
固く信ずるものである。若し然りとせば何故に連鎖状球菌F を以て調製せ
る血清が Aronson の連鎖状球菌又は Marmorek の連鎖状球菌に対し同様に
作用するかは直ちに了解し得られる。之等の三種の連鎖状球菌は実際上は一
種に過ぎない、即ちその祖先は一つは猩紅熱連鎖状球菌であり、他は安巍那
連鎖状球菌であり、第三は Phlegmone 連鎖状球菌であつても動物通過連鎖
状球菌なのである。動物通過により、祖先の有する性質は時と共に消失し、
連鎖状球菌は一種か多種か? 35
――――――――――――――――――――――――――――――――――
之に代はるに新に獲得せる「マウス」の連鎖状球菌の性質が表はれる。
この合理的なることは、勿論、F の出所に関する吾人の仮設が真実なりと
の条件の下でなければ適合しないのである ; 吾人はこの連鎖状球菌F が凝
集反応二点に於ても Marmorek 及び Aronson のそれと同様なればなる程
益々之を信ずるのが当然と思はれる。
血清の予防作用に基く連鎖状球菌一元説の証明は、かくして全部総括され
る。
此の方法によつて嘗て証明されなかつたか? 之は殆ど不可能である、而
してその故は動物に対し人間の連鎖状球菌が一様に病原性ある如き動物を現
在所有せざるためである。勿論、時によつて人間から家兎も「マウス」も殺
す如き連鎖状球菌を分離することはある ; が然し之は稀に見る例外である。
* * *
之を要するに、本章の題目に揚げたる問題を解決するために、今日まで使
用せられた方法はいづれも、決定的論拠を持ち来さなかつた。
全々解決されぬものとして抛棄すべきか又はその注射材料を少しも知らず
に少しの僥倖で馬を免疫するに止むるか?
吾人はかく考へない。尚二三の望みを吾人に遂げしむる手段がある。吾人
は補体結合反応に就て述べたいと思ふ。之は現今屡々問題になる所のもので
ある。
其の特異性はここに申し述べる必要がない位知れ渡つてゐる。一言申し述
べたいことは、細胞に取つても、細菌に取つても補体結合物質は今日まで
著しき特異性を示せることである。殆どすべての殺菌性血清に之を認めた。
抗連鎖状球菌血清はこれ迄補体結合物質が観察されなかつた殆ど唯一のもの
である。然し実験の一定条件に於ては、之を証明することは容易である。連
鎖状球菌の補体結合物質は、他のすべてのものと同じく特異性である。各自
独特の補体結合物質を有する連鎖状球菌もあれば、共通の一個の補体結合物
質を有するものもある。かくして吾人は共通なる補体結合物質から種々なる
出所より得たる連鎖状球菌を三種に分類し得た。即ち之等の連鎖状球菌の一
36 連鎖状球菌は一種か多種か?
――――――――――――――――――――――――――――――――――
つは敗血症で死亡せる子供より分離せるもの、他は丹毒より分離せるもの及
び第三は猩紅熱で死亡せる子供から分離せるものである。一方に於ては、吾
人は猩紅熱患者の心臓血液より分離せる連鎖状球菌は同一補体結合物質に対
し異る作用を呈することを観察した。
之より連鎖状球菌の更に合理的なる分類法を設くべき標準点を見出し得ぬ
であらうか?
今迄殆どなされなかつたこの種の研究は、決定的方法を宣言する前に、更
に長期間の追求をなすを要す。然し乍ら、爾今又は過去に、この種の考でな
された少数実験から、吾人は連鎖状球菌は弧状菌又は螺旋菌と同じ関係であ
ると信ずる。換言すれば、吾人は一種の連鎖状球菌があるのでなく、「コレラ」
弧菌が Vibrio Metchnikovi から区別されると同じく互に区別さるべき多数
の種類があると考へる。吾人の意見によれば、同一疾病、例へば猩紅熱の経
過中に遭遇する連鎖状球菌は多数の種類をあらはし得るものであり ; 他面に
於いては同一種類の連鎖状球菌が臨床的に異る疾病の経過中に遭遇し得るので
ある。
―――――
Bibliographie
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Ⅳ
抗連鎖状球菌血清治療法(1)
Sérothérapie Antistreptococcique
抗連鎖状球菌血清は数年来人間の治療界に入つては来たが、発売権を得る
には未であつた。反対に、その発見以来、非難があるげけ最近に至るも少し
も隆昌を呈するに至らなかつた。この事実は本血清が大多数の抗細菌血清と
共に分担すべき不完全さの他に、一つの弱点があるのである。之は本質的に
見らるるものにして、常に連鎖状球菌の同一性に下さるべき不確実さより由
来する所のものである。
抗連鎖状球菌の血清療法に多年従事せる Marmorek は最近に至るまで、そ
の出所の如何に拘はらず、すべての連鎖状球菌は唯一同種なることを支持し
た。
この意見は、満場一致ではないが、一般に唱導せる意見であつた : 即ち
内科医に於て尚亦細菌学の実習に於てさへも、普通に du Streptocoque (即
ち単数冠詞を附す)と呼んでゐる。
今日では、反対の意見が勝つてゐる様である。相似たる連鎖状球菌は二つ
ではないらしい。連鎖状球菌は一つの疾患より他の疾患に於て変るのみなら
ず、例へば猩紅熱の如く充分臨床上に決定された同一疾病に於ても、相互に
異つてゐるのである。
意見のかくも大なる相違は抗連鎖状球菌血清療法の上に反動なきを得ない
と信ずる。以下何故にこの点が臨床方面に道を切り開くに幾多の年月を要し
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) \tGilbert et Carnot 著 Bibliothéque Thérapeutique 参照
抗連鎖状球菌血清治療法 39
――――――――――――――――――――――――――――――――――
たかを述べやう。
連鎖状球菌の生物学的性状に関する吾人の知識は今尚不完全なることは疑
なき所である。変形連鎖状球菌を到る所に常に見る現在の傾向は、連鎖をな
せる球菌の形態上の類似により催眠術にかけられた一元論者の意見と同じく
大して深いものでないことは少からず確実なものである。
現在課せられた問題は連鎖状球菌を分類する手段を見出さんとすることで
ある。このことは抗連鎖状球菌の将来に懸はる問題であると思ふ。この問題
が解決せざる限り暗中模索となり多少僥倖なる経験本位に帰するであらう。
今日では吾人は連鎖状球菌を純科学的方法によつて分類すべき状態になつ
てゐない。今尚多数の学者のうち、かなり多数が連鎖状球菌の一元説を信じ、
他のものは之と反対の意見を持つてゐるから、現在、吾人に残されてゐるこ
とは、出来るだけ多株の連鎖状球菌で馬を注射することのみである。たとへ
多数の中には馬が同じ様に作用する多くの同じ菌株を含んでゐても、之によ
る害はさまで大ではない。
之に反し、菌株の数が増すほど、吾人は日常の実用に応ずる真の多価血清
を得る機会が増すのである。
連鎖状球菌の一元又は多元の問題を論じ、なすべき手段として、現今使用
せる血清の主なる「タイプ」を指示したのである。扨て吾人は吾人が Pasteur
研究所で造つてゐる血清に就て記載しやう。
* * *
培養基の問題は、連鎖状球菌にとりては、常に最も多く細菌学者を煩はし
た問題の一つであつた。多数の培養基を試みた Marmorek は最後に腹水加「ブ
イヨン」に留つた。我々の側では、Aronson に吾人が最も活働的なる血清を
欲したるに、氏は「グルコーゼ」加「ブイヨン」を使用した、之は優秀なる
培養基であるが、然し甚だ変化し易い。他の細菌学者は多少複雑なる培養基
を使用した、が然し常に「ブイヨン」を基礎とした。
吾人は「ブイヨン」の使用と牴触した : 即ち固形培養基上に培養せる連
鎖状球菌について処置をなした。寒天上に於ては、連鎖状球菌は極めて小な
40 抗連鎖状球菌血清治療法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
る集落を形成し屡々――Marmorek の菌株の場合の如く――培養の白金の痕
と殆ど区別し得ないことがある。馬を免疫するには、細菌体の大量を必要と
するが故に、吾人は次の方法に頼つたのである。
すべての連鎖状球菌々株――吾人は40以上を有する――を Martin の「ブ
イヨン」と加熱馬血清とを等量に混じたる吾人の培養基に接種し保存した。
この培養基内に於て、連鎖状球菌は長く生活しその生物学的性状をよく保存
する。
斯く血清の存在中に生存を慣らして後は、連鎖状球菌は馬血清の少量を予
め注意して塗布して置けばその寒天上に極めて夥しく発育する様になる。
吾人は長さ22糎、幅11糎ある Roux の「コルベン」に培養した。移植
を行ふ1時間前に、寒天を容れた各「コルベン」に加熱馬血清1-2立方糎
を加へた。かく処置し次いで幅広く移植せる寒天上には、24時間後に、馬
の静脈内に注射するためには約100立方糎の生理的食塩水で希釈する必要あ
る位の豊富なる培養を得。
この血清寒天培養基は、多量の細菌体が得られるので、注射すべき菌量を
かなり正確に計量し得る長所を与ふ、この長所は吾人が免疫に実施せる唯一
の静脈内注射に際し馬に烈しき感受性を与ふる故馬鹿にならぬ点である。
* * *
各注射毎に、吾人は10種の異る連鎖状球菌を送入した、そのうち唯一つ
を除き、すべてのものは人間の連鎖状球菌(猩紅熱、丹毒、産褥熱、膿瘍、
敗血症等)から分離したものである。人間より得た連鎖状球菌は、実験室の
動物には一般に毒性がないので、殆ど血清の「チーテル」測定は出来ない。
この理由のために、吾人は之に累代通過により「マウス」又は家兎に対し強
毒となれる一株の連鎖状球菌を付加してゐるのである。
之は仮設に過ぎないが――馬が之に接種されたすべての連鎖状球菌に対し
略々同様に免疫せるものと認むれば、強毒なる連鎖状球菌即ち同部通過連鎖
状球菌は全体の連鎖状球菌に対する馬の免疫度の或る尺度に役立ち得るので
ある。
抗連鎖状球菌血清治療法 41
――――――――――――――――――――――――――――――――――
各注射毎に烈しい熱反応(40°以上)が起る、之は、更に、長く続かない ;
48時間後には全部が順調に復する。
時々次の如きことを観察する : 即ち全く健康を恢復した様に見えた馬が、
注射後10日から15日目に新に発熱する。ある時は関節の違和を表はし、
ある時は関節より少し離れて炎衝症状を呈する。後者に於ては筋肉の腫脹せ
る中に槳液を認める。之は外部へ道を開けば失くなるのである。この動物は
瘠せ数週間で不要に帰する。ある場合には、馬は数日病んで死亡する。剖検
するに、病竈部の筋肉は「ゲラチン」様物質で浸潤され、無菌的なる槳液中
に浸れるを見る。同様なる変化は同様の症状を呈し撲殺せる馬に於ても観察
された。
原因不明の之等の事故は免疫操作のすべての階程に突発する ; この事故は
明かに吾人の免疫方法と関係がある。然し、たとへ此の方法即ち経静脈的免
疫方法が苦悶を伴ふにせよ、一方には価値ある長所もある、何となれば短期
間に、極めて著しき予防的及び治療的効果ある血清を得ることが出来るから
である。
* * *
ここに Pasteur 研究所の抗連鎖状球菌血清の治療的効果の概念を与ふる
ために二三の数字を挙げやう。
量の測定は「マウス」及び家兎について行ふ。
連鎖状球菌の致死量の10倍以上の量を皮下に注入されたる「マウス」は
之に18時間乃至24時間後に血清の1∖1000cc を腹腔内に注入すれば、防御さ
れ得る。1∖40cc 乃至 1∖400cc の血清を以てせば、同じ条件に於て、少くとも
2,000 倍の致死量に対し防御し得。単位として取れる致死量は吾人の実験に
於ては「ブイヨン」血清に於ける24時間培養の1∖16,000,000cc に相当するもの
であつた。実際には、更に遥かに弱い分量で「マウス」を殺し得 ; 吾人は余
り大なる稀釈を避けるために上記の数字に留めたのである。
血清の予防効果に関しては、治療効果を得るために必要なる分量より 10
倍も少い分量にて既に顕著なるものがあつた。
42 抗連鎖状球菌血清治療法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
家兎に於ては、更に大量を使用する必要がある。即ち家兎の皮下に一定量
即ち致死量の100倍(1∖40,000c,c)の連鎖状球菌を注入せる後、2時間後に、
血清の1,5 c,c 乃至2 c,c を静脈内又は腹腔内に注入すれば、確実に之を防御
し得る。
* * *
人間に於て抗連鎖状球菌血清の価値を正確に定めることは更に甚だ困難で
あるか、然らずんば不可能である。抗連鎖状球菌血清療法開始以来、数千の
観察が発表された、然し之等の観察は、「ヂフテリア」の患者で得た統計の如
き唯一つの良き統計すらなしと云はざるを得ない程に両者は全く比較になら
ぬものである。
連鎖状球菌の感染は「ヂフテリー」の如きものではない。連鎖状球菌は多
種多様であり、その犯せる器官により極めて種々なる臨床上の型を呈する。
更に、連鎖状球菌は細菌学的意味の用語に於て純粋なることは罕である ;
甚だ屡々、混合感染に遭遇する。顕微鏡を以て感染経過中に連鎖状球菌の存
在を証明し以て一種の連鎖状球菌によるものとし、従つて、抗連鎖状球菌血
清を用ゐる必要があると結論するのは充分でない。実際開業に於ては、吾人
は平素連鎖状球菌の意義が全く第二次的なる疾病に此の方法を応用するのを
見る。抗連鎖状球菌血清を関節「リウマチス」に、痘瘡に、結核に、今尚問
題となれる猩紅熱は別として、使用して居らぬであらうか? すべての産褥
熱敗血症の型に、予め本病が実際連鎖状球菌性のものか否かを確定せずに試
用しては居らぬか?
すべて之等の理由のために、確信を誘導し得る立派な統計を得ることが甚
だ困難である。この理由のために、抗連鎖状球菌血清療法を承認する賛成者
の他に、余り是認せざる中傷者があるのである。
然し、其の重要性を閑却してゐない事実がある : 即ち抗連鎖状球菌血清の
使用は年一年と増加してゐる。之を確めるためには、Pasteur の研究所に寄せ
られた各方面の請求を参照するより他にはない。甚だ遺憾なことは何千「リ
ートル」を云ふ血清が、之による効果を正確に知ることも得ずして、年々少
抗連鎖状球菌血清治療法 43
――――――――――――――――――――――――――――――――――
しの痕跡も残さずに出て行くことである。
吾人は材料の監督をなせる Pinard 教授が産褥熱の治療に就て Budapest
の万国医学大会に報告せる所の意見を述べることが出来る。氏は曰く『正し
く、抗連鎖状球菌血清は確実有効なる手段を成すものではない ; 本血清は感
染せるすべての婦人を癒したこともなく癒すこともないであらう。然し余は
現在に於て、婦人が連鎖状球菌血清の感染に苦しんでゐる時に之以上に有利
に戦ひ得る武器を掌中に有するものとは信じない。余は抗連鎖状球菌血清中
には産褥熱感染の合理的治療を有するものと信ずる、何となればこの武器は
他の如何なるものよりも、連鎖状球菌が病原的要素なる時には、生体の抵抗
率を増加する様に見えるからである』。
* * *
維納の Moser の発表に次いで甚だ問題であつた所謂抗猩紅熱血清の作用
に就いてよく教へられた。
即ち以前より連鎖状球菌は猩紅熱患者には極めて屡々あることが分つてゐ
る。その存在は常に雑菌として考へられ、稀ではあるが単なる付随細菌とし
て見てゐるものもあつた。
1902年に、Moser は Carlsbad の学会に於て非常な評判となり此の見方を
いたく動揺せしめた講演をなした。
此の著者は、猩紅熱にかかれる子供に於て見出せる連鎖状球菌は特異のも
のであり。更に之等は種々の患者に於ては独自の性質を呈するとの意見を述
べた。
此の意見を信じて、Moser は猩紅熱で死せる子供の血液より分離せる連鎖
状球菌を使用し血清を造つた。
氏は抗猩紅熱に相当する血清を得た。
オーストリアにて Bokay et Escherich によりなされたる、最初の臨床的
試験は有効であつたので、間もなく猩紅熱連鎖状球菌の特異性並びに血清の
治療的価値に関する多数の発表を見た。
臨床家方面から始めやう。
44 抗連鎖状球菌血清治療法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
最初の発表に引き続き、Escherich はマドリッドの学会に可成り多数の例を
報告した、その結果によれば、Moser の血清使用以来、猩紅熱による死亡率
は16,41% から6,70% に減少した。同氏は宣言して曰く、初期に於て多量
の血清(100-200c,c) を以て患者を処置する時には、体温は殆ど直ぐに低下
し、一般状態は血清で処置せざる子供に比較すれば署名に良好となると。
Bujwid et Gertler は重篤なる猩紅熱に罹れる子供を Moser の方法により
氏等自ら調製せる血清を以て処置した。46人の罹患者中、14人が死亡した ;
この14人の死亡者中、二人の子供は病院に到着して1時間生存してゐた。血
清使用後に得た死亡率を前年度以前の総死亡率と比較すれば、著者等は該年
度は約三倍死亡率を減少せしめたと結論した。
26例だけ血清を以て処置せる Pospischill は、血清の治療的価値を判定す
るために、特に疾病の発生と統計全体の結果の少いことを斟酌したと述べて
ゐる。
氏は患者に一回に100-200c,c の血清を注入すると、著しく体温の低下す
るを認めた。氏は脈膊や呼吸が其の数を減じ ; 「チアノーゼ」は去り ; 一定
数の患者に於ては、血清は呼気の臭気と疼痛症状を消失するのを見た。
1904年1月即ち第一回報告後約一年後に、Bokay は多少重篤なる猩紅熱
新患12人を処置した。
唯一回に注入せる血清の最少量は100c,c とし、最大量を200c,c とした。
すべての患者に於て、血清は一般状態を著しく恢復せしめ、既に注射後24時
間にして顕はれる。知覚を失ひ譫語に苦しんでゐる子供は、注射の翌日には
正常の外観を呈した。
体温は0°9乃至3°4下降した。同時に脈膊は良好となり回数を減じた。
発疹さへも血清に影響され著しく快方に向つた。Bokay は血清の優秀なる効
果を咽頭、腎臓、眼球の如き猩紅熱を呈すべき種々なる個所に於ても観察し
た。之等の事実の存在によつて、氏は自ら血清による猩紅熱治療の有力なる
賛成者となつた ; 氏は血清は中毒中和の性質によつて作用すると称する Mo-
Ser et Escherich の意見に加担した。
抗連鎖状球菌血清治療法 45
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1905 年9月、同臨床家は Moser の血清による治療例17名の病歴を報
告した。今回も亦氏は血清の特異作用によると結論した。
1905年末に出た発表中に、Schick は維納の「クリニク」に於て60人の
患者になせる観察の結果を報告した。氏は Moser の血清を甚だよきものと
なし、その使用を関係諸国に普及せしむべき草案を作成せんことを宣言した。
有力なる結果は他の臨床医家殊に猩紅熱が屡々極めて重篤なる性質を帯び
る露西亜、ポーランドに於ても指摘された。吾人は玆にワルサウの Palmir-
ski et Zebrowski, Kasan の Menchikoff 並びに約400人の患者につき報告
せるモスコウの二名に医師 Eghise et Langowoï の業績のほかは示すことは
出来ない。
* * *
然し乍ら可成り多数の臨床家は差し控へて居り、又他の臨床家は今尚抗連
鎖状球菌血清に治療的価値を全々拒否してゐる。
血清にて処置された重症猩紅熱患者133人をモスコウにて観察せる Molt-
chanoff は次のことを証明した : 1°注射後最初の二日間見らるる温度の低下
は継続しなかつた(恢復者26人中4人の患者に於て温度は稽留した) ; 2°一般
状態の恢復は温度の低下と共に平衡しなかつた。 ; 3°咽頭部病竈に於ける局
所作用は著明ではなかつた。 ; 4°血清は合併症を防御することなく且つ、一
般的に、疾病の進行に影響を及ぼさない。血清により処置された患者に於て
は、有熱期間及び疾病の継続期間は、この著者によれば、非処置者に於けると
同じく少しも短縮しなかつた。
Quest, Troïtsky, Iasni et Mitzkewitch の如き他の研究者は同様の意味を
述べてゐる。
Bilik の仕事は10例に過ぎなかつたとは云へ、充分の注意を以て各患者の
病歴が研究されたので、価値がある。この臨床医家は抗連鎖状球菌血清はす
べての特異作用を奪はれたものと結論した。
Bilik は先刻述べたる Eghise et Langowoï の統計を詳細に調査したのに、
之等の臨床医家によつて得らたる成績は、実際上、彼等が信ずる程鼓舞推
46 抗連鎖状球菌血清治療法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
称すべきものでないと云ふ結論に到達した。
実際、Eghise 及び Longwoï の患者を、疾病の軽重により四群(I, II, III,
IV)に分類すれば、何人も死亡率が相当上つてゐたことを認めるに躊躇せぬ
であらう。それ故、もし全数(384)から最初の24時間以内に死亡せる患者22
人更に予後良好なる第II群の95人を控除すれば、257人にしてうち54人の死
亡があつたのであるから、その死亡率は21%である。死亡率は予後重篤なる
第IV群の患者に於ては更に遥に上つた(50%)。
17人の小児の解剖に於tr(第IV群の死亡者26人中)、敗血症が認められ
た第III群の小児14人(28人中)に於ても同様であつた。
Bilik は之に就いて血清で処置された小児に於ける敗血症の回数は Heub-
ner によつても亦注目されたと述べた。死を招来すべき敗血症の場合には、
たとへ頻回血清の注射をなすも体温を直に低下させることはなかつた。
浮腫、「アデノフレグモーネ」、腎臓炎の如き合併症がある場合には、血清
によつて処置されたものに於て敗血症が非処置者に於けるよりも少いことは
なかつた。
故に抗猩紅熱患者血清のよき効果は誇張されてゐるらしい。
その他では、独逸、墺太利に於て、大に初期の熱心に立ち返つた ; 即ち、
材用を取り扱つてゐる小児科医、例へば伯林の Baginsky, プレスロウの
Czerny, プラーグの Ganghofner 及び他の人々は今日では抗連鎖状球菌血清
の使用を開始した。
* * *
固より、生物学的見地よりすれば、かくの如き血清の特異性は少しも証明
されない。
連鎖状球菌が屡々猩紅熱患者の咽頭或は患者の血液中にさへも認めらるる
事実に就ては、それが必然的に該疾患の病原菌であるとは未だ結論されない。
患者の血液中に連鎖状球菌の存することは、尚、人の云へる如く屡々では
ない。
Hektoen はこの関係につき100人の患者を調べた。各患者より血液を1∖2
抗連鎖状球菌血清治療法 47
――――――――――――――――――――――――――――――――――
乃至1cc を採取し、直ちに「グリセリン」加「ブイヨン」100乃至150cc に移植
した。然るに、連鎖状球菌は12名の患者に発見されたに過ぎない。兎に角、
疾病の軽重に応じその頻度が如何なるものか、ここに示して見ると。
軽症 稍々重症 重症 死亡 合計
患者数………………………45 40 11 4 100
そのうちの連鎖状球菌……5 5 2 0 12
略々同時期に、Weaver は95人の猩紅熱患者の咽頭を検査した。氏は殆
どすべての患者に於て、殊に病の初期に、連鎖状球菌を証明した。同著者は
猩紅熱患者の咽頭より分離せる連鎖状球菌の24株を極めて精細に研究した。
この研究は之等の連鎖状球菌は他の出処の連鎖状球菌と少しも異らずとの結
論に導いた。
凝集反応は少しも特異性に有利になる如き弁護をしない。且つ、他の仕事
に於て、Weaver は猩紅熱に罹患せる患者の血清が猩紅熱より分離せる連鎖
状球菌を特異的に凝集せざるや否やを尋ねた。
同著者の極めて正しい研究によれば、之等の連鎖状球菌の凝集反応は全く
特異性ではなかつた。Weaver は多数の種類の疾病(猩紅熱、肺炎、丹毒、麻
疹、心臓内膜炎、腸チフス等)に罹患せる人の血清が、猩紅熱、産褥熱、潰
瘍性心臓内膜炎及び腹膜炎の患者より分離せる連鎖状球菌に対し少しも著明
でないことを研究した。之は亦 Dopter の結論である。
略々同様なる結果は、Jogichès の仕事のうちにも書き記るされた。同著者
は猩紅熱患者血清は連鎖状球菌を(1:500 に)凝集せること、この反応は特に
5週又は6週の経過中に著明に表はれることを見た。氏は亦猩紅熱患者血清
を猩紅熱連鎖状球菌を他の疾病より分離せるものと同じ程度に凝集するを見
た。
故に凝集反応は猩紅熱に於ては特異性がない。
人は猩紅熱患者血清は猩紅熱連鎖状球菌に対し特異結合物、即ち補体結合
物質を含有せざるや否やを要求することも出来る。
Besredka et Dopter はこの考を以て多数の実験を行つた。氏等は疾病の種
48 抗連鎖状球菌血清治療法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
々の時期に於て血清を採集し、次いで確実なる猩紅熱より分離せる種々の連
鎖状球菌株に対し血清を試験した。
之等の実験は明に陰性なる成績を与へた。連鎖状球菌は猩紅熱に於て何等
の役目を演ずるものにあらずと分類上より結論することなく、著者等は全く
特異性なきことを結論した。著者等によれば、連鎖状球菌は猩紅熱に於ては
付随菌の役目しか演ずるに過ぎない ; 猩紅熱の真の病原については更に発見
さるべきものであると。
* * *
すべて之等の臨床的並に実験的論拠を決定的に、如何に結論すべきか猩紅
熱にて見らるる連鎖状球菌は特異病原菌でないことは、今日では疑ひないも
のらしい ; 然し猩紅熱に於ける頻度が極めて大なることは確実である。今日
では抗猩紅熱血清に特異治療的作用を決定しやうとはしない ; 恐らく付随せ
る連鎖状球菌に有効なることは本当でないとは云へない。
一程度まで当該血清の価値につき臨床家の非常に相違せる意見を説明して
ゐる : 即ち特異作用を主張するものは勿論欺かれてゐる、此の血清は随伴す
る連鎖状球菌に対し効果ありと称するものは多数の場合に充分認められる。
Moser の血清は Menzer の血清が結核に於て或は関節性「リウマチス」に於
て特異性がない以上に特異性のないものらしい。
Menzer は結核の初期に於て屡々存する連鎖状球菌は原発病竈の拡大に与
ると云ふ主義から出発して、抗連鎖状球菌血清によつて結核患者を治療した。
氏は22人の結核患者を血清で処置した、うち11人は第一期にして3人んは第
二期であつた。11人の患者のうち抗連鎖状球菌血清の影響により8人が恢復
し ; 第二期の3人の患者のうち1人が恢復し ; 第三期の患者は唯体重を増加
せしめたと記載した。Menzer は同様に「リウマチス」患者を抗連鎖状球菌血
清で処置した ; 氏によれば、この治療はすべての他の治療に優ると、心臓内
膜の側の合併症は同様適当であつた。
結核並に「リウマチス」中に連鎖状球菌を見、之等の疾病に罹れる患者が抗
連鎖状球菌血清でよくなると云ふ事実は、何人も之等の連鎖状球菌の特異性
抗連鎖状球菌血清治療法 49
――――――――――――――――――――――――――――――――――
を結論する考にはならぬであらう ; 更に天然痘に見出さるる連鎖状球菌が特
異的要素であることを肯定しないであらう。
たとへ吾人が長い間抗猩紅熱連鎖状球菌血清につき主張したにせい、之は之
に関係せる臨床家の観察が一般に抗連鎖状球菌血清療法の研究に一貢献をな
したからである。
猩紅熱の流行的性質は連鎖状球菌による他のすべての疾病より一層よき血
清療法の研究に適当する。もし抗連鎖状球菌血清が役に立ち得るとせば、特
に全身的連鎖状球菌感染に於て、予後が一般に極めて重篤なる場合であるこ
とは確実である。不幸にして、之等の感染の散在性のために、比較条件に於
ける大多数の観察例を得ることは困難であり場合によつては不可能である。
* * *
本章を終るに当り、抗猩紅熱「ワクチン」につき数語を述ぶることが残され
てゐる。
馬の腺疫と猩紅熱の間に存する類似に基き、Gabritchewsky はこの後者の
疾病に対する「ワクチン」を調整せんとの考を有つた。
この「ワクチン」は猩紅熱患者より分離せる連鎖状球菌の「ブイヨン」培養で
ある。本培養を60°に加熱し0,5%の石炭酸を加へたものである。
少量中に多数の菌体を得るために、Gabritchewsky は培養を遠心沈澱し
た : 上澄液の部を傾瀉し、「ワクチン」の1cc が乾燥菌0,005gr を含むに必
要なる分量だけを残した。
氏はこの「ワクチン」液の0,5cc の注射を開始した(2歳より10歳の子供)次
いで二回注射を反復し、各回に「ワクチン」の量を1倍半乃至2倍に増量した。
注射は極めて屡々かなり軽度の局所及び全身反応を伴つた。或る場合には、
猩紅熱の発疹を思はせるもの、更に安巍那を起す場合を証明した。そこで
Gabritchewsky はこれを氏の「ワクチン」の特異性の証明となした。
氏によれば、連鎖状球菌は猩紅熱の病原的要素であるにせよ、又は本病に
於て二次的意義しかないにせよ、加熱培養による予防接種の方法は『小児に
50 抗連鎖状球菌血清治療法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
取り最も重症の一つを予防する新しく同時に有効なる方法である』と述べて
ゐる。
然し、今日までこの「ワクチン」の有効に関する著者の楽天主義に賛成すべ
き何物も吾人に許されない。
加熱連鎖状球菌によつて、腺疫を予防するに至れることが証明されたにせ
よ、同じ方法が腺疫とはかなり掛け離れた類似点しかない猩紅熱に適応され
るとは云はれない。
Gabritchewsky の「ワクチン」が猩紅熱を防御するとせば、何よりも、連鎖
状球菌が該疾病に於て重要なる要素でなければならぬ。連鎖状球菌が猩紅熱
の真の病原菌なることを承認するとしても、本病に対し加熱培養を以て予防
接種することに成功せることの証明は少しもない。連鎖状球菌による感染は
大多数の細菌感染と異り死菌を以てする方法では動物を予防接種し得ざるこ
と確実なりと云ひ得るや否や。
すべて之等の理由に対しては、猩紅熱予防「ワクチン」の効果に就ての保留
をなすことを殆ど妨げ得ない。
然し、Cantacuzène, Bernhardt 次いで Landsteiner, Levaditi et Pracek
によつて猿に就いてなされた最近の研究は之等の保留を証拠立てたものと見
られる。
Cantacuzène の実験は下等の猿(Cercopithecus cephus, Macacus rhesus,
M, sinicus, Cereopithecus griseo-viridis),に猩紅熱患者の血液、心嚢液、又は
気管―気管枝淋巴腺を注射した。5乃至37日の潜伏期間の後に、之等の猿は
次の如き症状を呈した : 3日間発熱は40°と41°の間を昇降し、adénopathie
となり、胴体、顔面、前膊にさへも赤紫色の発疹を生じ約36時間継続した。
この発疹は顔面に於ては大きな鱗をなし、背部に於ては小さな鱗をなして剥
離し、四肢に於ては五日間で消褪した。一匹の猿は更に尾の基底部、臀部、
大腿部に著しき浮腫を呈した。
間もなく Bernhardt は実験的猩紅熱に関する研究を公にした ; 氏は特に
猩紅熱病毒は決して連鎖状球菌と共に見られざること、濾過器を通過する不
抗連鎖状球菌血清治療法 51
――――――――――――――――――――――――――――――――――
可視性の Virus が関係することを力説した。Berkefeld 濾過器を通過せる
Virus を以て、Bernhardt は四頭の猿のうち二頭に於て疾病を起すことに成
功した。
略々同じ時に、Landsteiner, Levaditi et Pracek は猩紅熱患者より採取せ
る扁桃腺付着物を以て猿の咽頭に塗布し、この動物に体温の上昇、扁桃腺の
発赤及び腫張、次いで一般の発疹を生ぜしめることに成功した。
すべて之等の実験は、終結したとは云へないが、今では連鎖状球菌は猩紅
熱の真の病原体として考へられない、従つて連鎖状球菌の加熱培養を以て造
れる Vaccin は予防作用をあらはすことなきを示すものである。
――――――
Mémotres Citsés
Marmorek , Annales de l’Institut Pasteur, 1905, p, 553; 1902, p, 172,
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Ⅴ
菌体内毒素(1)
Endotoxines Microbiennes
菌体内毒素とは、菌と共に菌体を形成し、菌が多少高度に破壊するにあら
ざれば分離出来ない、菌体内部の毒素を意味する。
菌体内毒素は菌体外毒素即ち所謂固有の毒素と異る理由である。後者は同
じく菌株に関係あるが、菌の生活力は著しく障礙されることなく、その形成
に従ひ、周囲の培養基中に算出されるのである。
菌体内毒素の遊離するのは、細菌細胞の崩壊が先行する故、死後の現象で
ある。菌体外毒素の産製は菌の生活と両立するを以て、生理的作用、分泌作
用である。
菌体内及び菌体外毒素の相違は之に止まらない: 吾人はその相違を次の叙
述に見る如く、之等両物質の物理化学的性質特に生物学的性質中に認める。
今日尚、細菌製産物の性質に就ては誤報されてゐる。当時は今を去る20年
足らずであつた。この時代に菌の排泄する毒物を区別することは何れ程困難
であるか信じ得られる。若しこの考で、いくらか進歩したとするも、それは
長い間菌体内毒素説の選手であつた R,Pfeiffer に価値を示したに過ぎない。
* * *
如何にして Pfeiffer は菌体内毒素と菌体外毒素との境界線を設けたかを此
所に述べて見やう。
「コレラ」弧菌の研究に於て、同氏は幼い「ブイヨン」培養を濾過器で濾過せ
るものは、比較的大量に於ても殆ど有毒でない: 之に反して数か月間経過せ
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) Bulletin de I’Institut Pasteur, t, ⅩⅡ,pp, 145,193;19145,
菌体内毒素 53
――――――――――――――――――――――――――――――――――
る陳旧「ブイヨン」培養は濾過すれば著明なる活動性毒素を生ずることを確め
た。
然らば陳旧培養中に存するこの溶解性毒素は何であるか、之は「コレラ」弧
菌の分泌する固有の毒素であるか、又は他の毒素であるか。
本問を解決するために、Pfeiffer は「ブイヨン」でなく寒天上に培養せる幼
い弧菌を使用した。之等の弧菌を「クロロホルム」により又は55°cの加熱に
より殺して後、之等の死菌の数「ミリグラム」を海猽の腹腔内に注入した。
注射を受けて18時間以内に海猽は死亡する。対照実験では、かく注射せる
弧菌の大量中、生きてた菌は只一個に過きなかつたことを示した。故に海猽
は感染によつて斃れたのではなく、一種の中毒によつて斃れたのである。こ
の場合に於て分泌による生産物を主張することは出来ないからして、何うし
てもその死は弧菌の内部に含有される毒素に帰さなければならないのであ
る。
従つて、陳旧培養の「ブイヨン」濾液を注入せる海猽を斃死せしむるのは細
胞内毒素即ち菌体内毒素であることが分つた。このものは必然的に細菌の崩
壊産物を含むべきものである。
細胞内細菌毒素の存在は確定された事実となつたのであるから、細菌学者
の努力は細菌体内のこの毒素を多少純粋の状態に抽出し、最後に細菌体外に
於てこの抽出物を研究し得る様に向いて来た。
之等の研究の大部分は先づ弧菌に就いて、特に久しく、之等の研究の選択
菌として考へられた Massaouah の弧菌に就いてなされた。間もなく、他の
弧菌及び他の菌に就いて研究された。
細菌の菌体内毒素を抽出するために、種々なる物理化学的要素(種々なる
温度、自家融解作用、圧力、粉砕、振盪、化学的製剤)を作用させた。Pfeiffer
及び Wassermann が第一毒素、第二毒素の語を採用したのは之等の実験の
際であつた。
之等研究者によれば、細菌体内に含有せらるる毒素は、極めて脆弱である;
54 菌体内毒素
――――――――――――――――――――――――――――――――――
この理由のために第一毒素(Gamaléia の nucléoalbumine)と呼ぶ。若し化学
薬品を以て少しく烈しくこの毒素を抽出するか、又は細菌を沸騰点又は80°
―90°に長時間持ち来せば、氏等によれば、常に第一毒素は第二毒素(Gama-
léia nucléine)に変化すると。この第二毒素は尚有毒性であるが、然し第一毒
素より10倍乃至20倍微弱である。第二毒素は第一毒素の如く特異性を有する
ことなく、高温度又は消化酵素の作用に対し抵抗が強い。
第一毒素と第二毒素との区別は Bürgers の実験によれば之を認め得なか
つた。此の著者は Pfeiffer et Wassermann により或は第一毒素或は第二毒
素となる前に、種々に加熱せる培養の毒性を比較研究した。之によれば、両
者の場合に於ける毒効果は明に同一なるを認めた。
たとへ毒素の此の二元説を考へ得るにせよ、弧菌は固有の毒性を有するこ
とは確実である。之は一方では、幼い培養濾液を注入し、他方では、細菌体
に操作を施す時は之等の同一死菌の毒性より解決し得。毒素産製菌例へば赤
痢菌の如き、菌体内毒素の菌例へば「コレラ」弧菌の如き菌の間の差異は従
つて顕著なりと云はれない。
「ブイヨン」に培養し次に遠心沈澱されたる之等両者の菌は、上澄液及び沈
査を別々に検査する時は、次の如きことを示す、「ヂフテリア」菌培養の液体
の部分は著明に有毒であるが、菌体によつて形成された沈査は殆ど毒性がな
い。「コレラ」菌の培養にて証明せられることは反対である。上澄液の部は殆
ど無害であるが、沈査、即ち菌体の死滅せるものと同一であるが、之は大な
る毒性を賦与されてゐる。
弧菌の沈査は粗製の菌体内毒素を形成してゐる。吾人は粗製と云ふ、何と
なればこの沈査の中には菌体内毒素だけではない: 細菌の形体に加ふるに、
種々なる酵素の有毒性物質及び菌体内毒素の如き他のものを認めるからで
ある。
* * *
如何にして弧菌の内部から特殊毒素を抽出するか?すべての精製試験は
――而も多数にあるが――平凡なる結果に終るに過ぎなかつた。
菌体内毒素 55
――――――――――――――――――――――――――――――――――
すべての菌体内毒素性細菌のうち、弧菌は恐く抽出操作があまり容易でな
い所のものであることは、注意すべきである: 弧菌性菌体内毒素は細胞の
原形質と密接に結合し、細胞が崩壊し又は溶解する時にのみ放出され而も極
めて不完全の形である。
Buchner の Zymase 抽出に関する研究に「ヒント」を得、Hahn は弧菌を強
大なる圧力下に置き「コレラ」菌体内毒素の抽出を試みた。氏は Plasmine と
称する溶解性有毒物を得ることに成功した。
Macfadyen et Rowland は粉砕と高度の低温例へば液体空気を用ひて生ず
る如き低温(―190°)とを併用した。
Carriere et Tormarkin は弧菌を蒸溜水中に於ける自家溶解と適当装置に
よる長期間の振盪との協同作用を行つた。
Bürgers は単に弧菌を生理的食塩水に浮遊し55°―60°に加熱し、菌体内
毒素を抽出する研究をなした。遅れて、同じ目的にてKrawkow は「ヌクレ
オプロテイド」を製するために使用する方法を施した。
「コレラ」菌体内毒素を抽出するために、吾人は弧菌に後に述ぶる如き方法
を適用し、他菌を以てするもよく成功した; よつて得たる抽出物は余り毒性
がない。
要約するに、「コレラ」菌体内毒素を精製せんとする試みは多数であつたが、
余り結果は好くなかつた。吾人の意見によれば、種々の著者によつて得られ
たるすべての製剤のうち、最も純粋なる菌体内毒素に接近せるものは、粗製
の菌体内毒素、即ち何等他の処置を受けざる死菌である。
弧菌属に就て溶解性菌体内毒素を研究せんと欲することは、その研究の対
象の選択を誤つてゐる。此の研究は「ペスト」菌、赤痢菌の如き菌又は他の菌
を以て更に遥に有効になし得られる。
然し吾人は L,Horowitz の興味に満てる最近の研究を引用しなければなら
ぬ。著者は最も有毒なる濾過性培養は「グルコーゼ」加(1%)「ブイヨン」より
生ぜるものなることを証明した。この「ブイヨン」中にありては、氏の実験が
示す如く、弧菌は極めて速かに死滅し三日目には培養は全く無菌状態とな
【「沈査」は「沈渣」の誤植】
56 菌体内毒素
――――――――――――――――――――――――――――――――――
る。もしこの「グルコーゼ」加培養を濾過すれば、濾液は1cc,の分量で12-
18時間に海猽を殺し、時として1∖2ccの分量で同一結果を呈することを証明し
た。
明に特に「コレラ」菌体内毒素を含有するこの濾液は、耐熱性である。この
可溶性毒素を60°1時間加熱するか、或は之を沸騰点に置くとき、Horowitz
は毒性の減少を観察し得なかつた。他方にては、著者は弧菌属の加熱培養と
交叉予防接種試験を行ひ、この毒性物質の特異性を確めた。
菌体内毒素の他に、弧菌が他の物質なる真の「コレラ」毒素を分泌し得るか
何うかは検査して見ない。この問題は吾人の追求せる範囲外である。吾人が
ここに解決せんと欲する所のものは、感染の際に於ける菌体内毒素の精製方
法とその意義とである。
* * *
細胞学説の賛成者は、顕微鏡下に、海猽の腹腔内に送入せる弧菌は白血球
の内部にて消化せらるることを宣言したのを想ひ起すであらう。之に反して
液体学説の賛成者は、弧菌は生体内に侵入するや否や、水中に於て、即ち細
胞の体外に於て砂糖の様に溶解すると主張した。この細菌の細胞外溶解説に
Pfeiffer 及びその一派は人の知る如く氏等の免疫学説の全部を押し建てた。
之等の研究者によれば、病原菌の危険となるのは、菌が繁殖する事実でも
なく、毒素を分泌する事でもない、即ち、菌が侵入せる生体内に生活し増
殖するためではない; 真の危険は、氏等によれば、菌が死亡する時から始ま
るに過ぎない; 何となれば、感染せる生体の体液中にて死滅し溶解し、動物
を死に至らしむる菌体内毒素を遊離するからである。故に細菌の感染は菌体
内の中毒に帰すべきである。
かかる事柄が、Pfeiffer の信じた如く、自然界にて起るか? 若し然りと
せば、菌体内毒素が伝染病にて占むる位置は如何に重大であるであらうか。
詳細は申さずとも、感染及び免疫に関する意見はそれ以後開け、現今では
『Pfeiffer の現象』と呼ぶことに同意せる所のものを一般の法則中に建てんと
する傾向ある学者は少いことを想起すれば充分である。
菌体内毒素 57
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細胞説に対し最も反抗せるものは、両極端の学説の間に橋をかけることを
好都合とした。
如何に誇張するも、菌体内毒素の意義は不明であつた。菌体内毒素は確に
感染の際に関係がある。菌体内毒素は体液にて細菌の溶解せる時に、極めて
少量が関係する。然し、之と共に数ふべきことは、白血球の内部に於て細菌
の消化せる時である。別々に考へた場合、白血球の喰菌に先つて細胞外溶解
の存在することは、何人も証明せざる所である。重要なることは、細菌のす
べての消化は必然的に菌体内毒素の遊離と関係あることである; 之より生ず
るすべての興味は菌体内毒素を知ることである。
* * *
すべての病原菌は菌体内毒素を有るか? 此の質問に対し一様に答ふる
ことを知らぬ。肯定し得ることは大多数の菌が該毒素を有することである;
之を確める最も手取り早い方法は死菌の毒性を検査することである。
死菌が中毒症状を惹起する疑あることを確めた時は、或る菌に菌体内毒素
が有ると結論するに躊躇してはならない。然し葡萄状球菌又は連鎖状球菌の
如きは之を殺し、之等に対し感受性ありと思はるる動物に大量を与へてさへ
も何ともないのは、何う考へたらよいか? 之等の菌は菌体内毒素を殆ど持
つてゐないと結論すべきであるか? 吾人は敢へて之を肯定し得ない。
吾人は連鎖状球菌は加熱により凝固せる後には試験管内に於て菌体内毒素
を瀰撒せしめない、が然し動物体内に於ては生活細胞のみがその秘密を知る
如き手段を使用すれば毒素を遊離せしむるものと簡単に信じてゐる。
現在の知識状態に於ては、菌体内毒素の作用を普及せしむること、即ち病
原菌全部に及ぼすことは早計である。吾人の意見によれば、多くの菌は菌体
内毒素を有するが、然しそのうちには菌体内毒素の今尚未知のものがある。
吾人は菌体内毒素の既に研究された菌に就て述ぶるに過ぎない故、後者の点
は保留することとする。
1905年に、吾人は「チフス」及び「ペスト」の菌体内毒素を抽出すべき方法を
記載した。翌年、吾人は更に簡単なる方法を提案した。之によれば菌体内毒
58 「チフス」菌体内毒素
――――――――――――――――――――――――――――――――――
素特に、「チフス」菌、「ペスト」菌及び赤痢菌の菌体内毒素の物理学的及び生
物学的性質を更によく検査することが出来る。
之等の研究に次いで、種々の学者は同じ方法を他の菌体内毒素の抽出に摘
用した。例へば、Bordet et Gengou は百日咳の球菌様桿菌の菌体内毒素を
得た; P,N,Bernard はマルタ熱菌のそれを、Slatineano は「インフルエンザ」
の球菌様桿菌のそれを、Cruveilhier は淋菌のそれを得た。
主なる菌体内毒素を逐次述べて後、レフレル氏菌、糸状菌、Prodigiosus 及
び Sarcina lutea で造れる多少有毒なる抽出物につき数言述べやう。
「チフス」菌体内毒素
Endotoxine Typhique
すべて吾人の実験の出発点に使用せる「チフス」菌は、「チフス」病の極期に、
患者の血液より分離したのである。この菌は決して動物通過をしなかつたも
のである。海猽に対する本菌の毒力は少しも変化しなかつた: 寒天に24時
間培養の 1∖7 を腹腔内に注射し350瓦の海猽を殺した。60°に加熱し、次に
真空内に乾燥する時は10―15mg の分量にて海猽は斃れる。
「チフス」菌体内毒素を遊離するために、吾人は先づ乾燥菌(15 Centigr,)食
塩水(2cc,)]及び正常馬血清(2cc)の混合を造つた。「チフス」菌は間もなく血清
により凝集される、二時間接触せる後に、之を遠心沈澱した。
遠心沈澱の前では、混合物の毒性ある部は始めに加へたる乾燥菌のそれで
あつて、液体の部は毒性がなかつた。遠心沈澱の後は、二層の各の毒性は反
対となつた。即ち、細菌体は血清と生理的食塩水とを接触せる後には、殆ど
毒性がなくなつた: 処置せざる菌の10―15mgの菌量で斃れる海猽は、処
置せる菌の 10 Centigr, まで何の障害なく耐えた。他方に於て、混合物の液
体の部分は、始め血清と生理的食塩水より成り、その時は全く無毒であつた
ものが、有毒となり、1,5cc, の腹腔内注射にて、300瓦の海猽は斃れた。
「チフス」菌体内毒素 59
――――――――――――――――――――――――――――――――――
即ち次の如き事が起つたのである: 「チフス」菌はその内容の一部を瀰撒
せしめた; この瀰撒のお蔭で、二つの新物質が造られた: 一部は無毒なる
「チフス」菌であり、他部は溶解性「チフス」菌体内毒素である。
* * *
吾人は曩に Macfadyen et Rowland の抽出法の原理を述べた。之は菌を
凍結させ極めて強力なる杵を用ひ低温で粉砕するのである。液体空気を注ぎ
固い塊となれる細菌を液体空気の中で二時間粉砕する。操作の終りに、乳鉢
内に細菌の残骸よりなる半流動体の「パテー」を得。
出発点にて使用せる培養はたとへ生きて居り毒素が強くとも、最終の粉砕
物は無菌状態である。零点下190°なる液体空気の温度は無菌となすことが
出来ないのであるから、英国の学者たち(上記の著者等)は之は細菌の粉砕及び
寸断の結果なりと結論してゐる。
上記の方法にて採取し次いで細菌残査【渣】を遠心沈澱により除去せる細胞汁は
溶解性の「チフス」菌体内毒素を示す。
Macfadyen et Rowland によれば、この菌体内毒素は極めて活動的である;
之は使用せる菌が始めに毒力強き程毒性が強い。該菌体内毒素は腹腔内注射
に於て1cc,―0,5cc, の分量で3―4時間に海猽を殺すことが出来る。著者等
は常に本法は極めて骨の折れるもので、いつも甚だ活動的なる製剤を得るも
のでないことを記載してゐる; 屡々何故か正確には分らぬが、細胞汁は余り
毒性のないことがある。
Macfadyen et Rowland の方法は、確かに、甚だ天才的である; 之はすべ
ての研究室で出来るものではない。
* * *
吾人が1906年に記載せる菌体内毒素の抽出方法は、特別の装置を必要とし
ない; 之は吾人が以前に更に重要なる生産能率を与ふるために使用した方法
に優つてゐる。
此所に此の技術を記載することにしやう。
本法は今日では「ペスト」、赤痢、百日咳、マルタ熱「インフルエンザ」等の
60 「チフス」菌体内毒素
――――――――――――――――――――――――――――――――――
如き菌の菌体内毒素を製するに役立つてゐる。
16-48時間経過せる寒天培養を生理的食塩水の中に0,75%の割に稀釈し、
60°1時間加熱し、次いで真空内で乾燥せしめる。
一定量(1 gramme) の乾燥菌を乾燥食塩(0,30-0,45gr)と混じ、次いで瑪
瑙の乳針【鉢】で粉砕し、微細なる粉末となさしむ。この操作は約1時間を要する。
乳棒を放すことなく、乳鉢内に1滴宛蒸溜水を1-2竓注ぐ。之は速に食
塩を溶解す: 之によつて濃厚なる食塩溶液の浸潤せる細菌の「パテー」が出
来る。細菌の大部分が一種の凝集を起す。該浮遊液を試験管に移し、次いで
生理的食塩水の濃度になる様に水を加える時には、平等なる「エムルジオン」
を造る代りに、菌は試験管底に集合する傾向があることを確めた。
数回混合を振盪して後、菌を翌日まで放置せしめる。
10-12時間静置すると、細菌の沈澱物の上部には固形浮遊物を含有せざる
液層を造る。この液は透明にして且つ乳白書を呈し液状の菌体内毒素を含有
す。
氷室又は室温に保存すると、本法によつて得たる「チフス」菌体内毒素は、
屡々菌と見まがふ雲絮状物を浮遊状に発現せしめることがある。顕微鏡にて
検するに、色素を取ることが不良で、漿液性沈澱と称すべき有機質の塵埃に
他ならぬのである。100°に加熱すれば「チフス」の菌体内毒素は全く透明とな
り; 1-2時間60°に加熱するも同様である。
後に論ずる所の「ペスト」の菌体内毒素は既に65°で混濁するに反し、「チフ
ス」の菌体内毒素は高温度に置けば置く程益々透明となり、120°の「アウト
クラーフ」に30分間置いた後では透明度は最大に達する。
菌体内毒素を65°の重盪煎に置くと、その毒性を減ずることなく、寧ろ反
対に毒性を賦与するものの様である。之は明に高温度にて再び溶解する問題
の塵埃状物質に帰さねばならぬ。
「チフス」菌の菌体内毒素は耐熱性である; 吾人は之を100°に1時間以上、又
は120°に30分加熱し、その毒性を少しも除去せしめざることが出来る。
この体内毒素は馬、家兎、海猽、鼠及び「マウス」にて、吾人の実験が示せ
赤痢菌々体内毒素 61
――――――――――――――――――――――――――――――――――
る如く活動性がある。腹腔内又は静脈内注射では極めて活動性があり、皮下
注射では余り活動性がない。
乾燥菌1gr,より出発し、0,30gr,のNaClと30cc,の H₂O を以て250gr,
の海猽に対し毒性が製剤により1∖8 より1∖4cc, に変化する液体を得、この液
体の1cc を、腹腔内に注入すれば、海猽を3時間にして殺し得。
1,800gr, の家兎は腹腔内又は静脈内に注入するに、1-1,5cc, の分量で死
す。
50gr, の鼠を殺すためには腹腔内に1∖8cc, を注入しなければならなかつた、
即ち、殆ど 250gr, の海猽を殺すだけの分量である。
「マウス」は一般に菌体内毒素に対し極めて感受性の強いものであるが、「チ
フス」菌体内毒素には比較的よく堪へ、之に対する致死量は約 0,05cc, であ
つた。
特に「チフス」菌体内毒素の特徴にしてその特異性を示すことは、血清即ち
抗菌体内毒素に接触すれば非活動性となることである; 吾人は之に就て再び
述べやう。
赤痢菌々体内毒素
Endotoxine Dysentérique
製造方法は「チフス」菌体内毒素のそれと同一である。吾人の採用せる割合
を挙げると: 0,4gr, の志賀菌; 0,15gr, の NaCl;2 0cc の H₂O。
外観よりすれば、赤痢菌体内毒素は「チフス」菌のそれを思はせる: 後者
と同じく、前者は薄層なる時は卵白色を呈し、厚層なる時は明かに溷濁す;
遠心沈澱を長く行ふも、透明にはならぬ。溷濁は勿論細菌破片より成る小顆
粒の集合のためである。
その熱に対する抵抗性の点では、赤痢菌体内毒素は「チフス」菌体内毒素と
「ペスト」菌体内毒素との中間を占む: 75-77°30分加熱では之を無害とな
し得ず; 然るに78,5-80°の温度に於ては完全に之を非活動性たらしむるに
62 「ペスト」菌体内毒素
――――――――――――――――――――――――――――――――――
足る。「マウス」は不快の状態なく、かく処置せる菌体内毒素の致死量の400倍
まで堪へ得。
加熱せざる赤痢菌体内毒素は家兎、鼠及び「マウス」に対し極めて猛毒なる
を示す; 之は吾人が所有せるすべての菌体内毒素のうち最も活動性あるもの
である。
静脈内に注射せる1∖80cc, の菌体内毒素を以て 1,800gr の家兎を2-3日で
殺した; 1∖20cc を以て、之を24時間で殺した。死ぬ前の症状は赤痢菌の培養
濾液を注射せる時に観察せるものと同一症状である。
50gr の鼠は1∖200cc を腹腔内に注入すれば4-5日で斃れる; 1∖80cc では2
日である。
赤痢菌体内毒素の研究に選んだ動物は、吾人の実験では、白色「マウス」で
ある。既に皮下注射に対し極めて感受性があるので(1∖640cc)、此の動物は腹
腔内注射をなせば更に感受性となる。最小致死量に達するためには、0,0006
より更に0,003cc, まで下降せねばならなかった。一般に48時間で死亡す。時
として苦悶は長引き; 他の場合には死が突然来ることがある。屡々接種後、
尚元気に見える「マウス」を手に取り之を脊を下に裏返へすと、間もなく強直
し、数秒で斃死することがあつた。
正常馬血清の添加により、菌体内毒素の作用は遅延するも、決して絶無に
なることはない。之に反し抗赤痢血清(1∖16 cc)を以て、吾人は致死量の150倍
まで中和することが出来た。
「ペスト」菌体内毒素
Endotoxine Pesteuse
Yersin, Calmette 及び Borrel は始めて「ペスト」菌の「ブイヨン」培養は濾
過する時、動物に対し何等有害作用を及ぼさぬことを確めた。之に反し、菌
体は58°1時間加熱するも之を腹腔内又は静脈内に注入する時は海猽及び家
兎を殺し易きことを知る。
赤痢菌々体内毒素 63
――――――――――――――――――――――――――――――――――
この事実は始めに Wernicke により証明され、次いで多数の実験者により
確められた。
Lustig et Galeotti は「ペスト」菌体内毒素を抽出することを研究した、そ
れには12-24時間培養の菌を加里の稀釈溶液にて処置し、次いで酢酸又は
塩酸を以て液体を沈澱せしむるのである。此の条件にて形成せる沈澱は菌体
内毒素を含有す、之が証明には沈澱物を以て鼠、海猽及び家兎に於て重篤致
死的障礙を起し得るのである。
Albrecht et Ghon は「ブイヨン」培養濾液は一定時期に毒性を帯びること;
この毒性は培養日数と共に増し遂に停止することを認めた。この事実は或る
著者等(Dieudonné et Otto)により真の毒素の形成なる考で説明された。こ
の説明は吾人自身の研究とはよく一致しない、吾人は研究では「ペスト」菌の
抽出液と同一にして菌体内毒素の性状なることは疑なき所である。
「チフス」菌に於ける如く「ペスト」菌に於て菌体内毒素を遊離するために引
続き吾人の二方法を適用した。
吾人の使用せる菌は60°に加熱し、乾燥し、皮下に注射せるに5「デシミ
リグラム」の量で「マウス」を殺した。
第一の抽出方法は一定の比に細菌(0,02 Centigr) 生理的食塩水(1cc,)及び
馬血清(4cc) を混じ、一夜接触せしめたる後混合液を遠心沈澱す。一部は透
明の液となり「ペスト」菌体内毒素を含有し、他部は「ペスト」菌体よりなる
「パテー」状の硬さを有する菌沈渣にして無毒性となる。
この「ペスト」菌体内毒素は「マウス」に対し可成り活動的なるを示す: 即
ち1∖4cc, の分量である。之を濃厚にすれば、更に活動的になすことは容易で
あつた。
かくして造れる菌体内毒素は数か月間氷室に保存することが出来た。55°
1時間の加熱で変化なし; 65°(1時間)の温度で梢々軽減す。毒素は抗「ペス
ト」血清で完全に中和さる。
遠心沈澱後試験管底に残れる細菌を以てなせる反対の試験では、このもの
は、その毒性を大部分消失せることを示した。馬血清と生理的食塩水とを接
64 「ペスト」菌体内毒素
――――――――――――――――――――――――――――――――――
触せる後は、始めに於て「マウス」を 0,0005gr, の分量で殺した「ペスト」菌は
殆ど無毒となり 0,01gr, の量で即ち20倍以上の分量で「マウス」は何の障害も
なかつた。
因みに、無毒になれる菌は優秀なる「ワクチン」となり、吾人の実験より見
らるる如く、「チフス」又は「ペスト」菌にても然りとす。
* * *
「ペスト」菌に於て「チフス」菌々体内毒素の場合に前述の粉砕に基ける抽出
方法を適用すれば、軽度に卵白光を呈する液体を得。この液は間もなく細菌
体内破壊物の沈澱を容器の底に残し透明となる。
密閉せる試験管では「ペスト」菌体内毒素を氷室に於て数か月保存すること
が出来た。
之に反し、高温度の影響により、その外観を変じ、同時にその毒性を著し
く減少した。
かくして、100°に30分間保てば、粉砕法により浸出された「ペスト」菌体
内毒素は、煮沸卵蛋白に類する可成り多量の白色粗大の浮遊物を生ず。80°
にして既に、凝固は略々完全となる; 然るに100°になれば容積は却つて減
少す。70°(1時間)で、菌体内毒素は蛋白石様液体の外観を呈す; 65°(1時間)
で、溷濁し始める。而して、毒性は凝固(65°)の最初の兆候が現はれると共に
著しく減少し始め、80°-100°の温度に達すれば全く消失する。
乾燥「ペスト」菌0,40gr, Nacl 0,15gr, 及びH₂O 20cc, を分注すれば、皮下
注射に於て、15gr, の「マウス」を24時間以内に1∖50-1∖80cc, の分量で殺し得
る菌体内毒素を得た。更に大量(1∖20-1∖10cc,)を以てすれば、4-5時間で之を
殺した。
腹腔内注射では更に有毒である: 確実なる致死量は、10-12時間に於て、
17-18gr, の「マウス」に対しては、1∖160cc, であつた。
白色の鼠(50gr,)は、皮下に注入せる 1∖8cc, の分量、又は腹腔内に注入セル
1∖25cc, の分量で斃る。
かく「マウス」に対し有毒なる「ペスト」菌体内毒素は、吾人が先に云へる如
百日咳菌体内毒素 65
――――――――――――――――――――――――――――――――――
く、毒素が凝固を始めるや否や、「マウス」を殺さない様になる。100°では
完全にその毒性を奪ふ。既に70°(1時間)では毒性は著しく変化し、「マウス」
に1cc, 即ち致死量の50-80倍を皮下に注射するも無害にして、「マウス」は
発病することがない。
菌体内毒素の減弱は65°で始まる。
何うして加熱菌体内毒素が無毒となるのであるか,? すべてのものは毒素
は破壊されたと信ぜしめられる、何となれば凝固せる菌体内毒素を注入せら
れたる「マウス」は少しも免疫を得ないからである。
非加熱「ペスト」菌体内毒素にありては、細菌体と全く同じく、生活せる
Virus に対する免疫を与へ、毒素自身に対する免疫を与へぬものである。
かくして、吾人の実験では、皮下に、第一回に、致死量以下の菌体内毒素
量を受けた「マウス」は、8日後に菌体内毒素の最小致死量を受けたのに、全
く対照と同じく斃死した。
故に少くとも「マウス」に於ては菌体内毒素に対する活働性免疫は現はれな
い様である。
「ペスト」菌体内毒素は極めて容易に抗「ペスト」菌体内毒素血清により中和
さる: 即ちこの血清 0,25cc, と菌体内毒素の致死量の50倍との混合を受け
たる「マウス」は生存確実となる。
百日咳菌体内毒素
Endotoxine Coquelucheuse
通常使用せらるる技術により百日咳菌毒素を得ることに成功しなかつたの
で、Bordet et Gengou は百日咳菌体内毒素を抽出するために、吾人が「チフ
ス」「ペスト」及び赤痢の如き菌に推称せる粉砕方法によつたのである。
之等の研究者は3日間培養を選んだ。15本の試験管より集めた厚い細菌屑
を20cc, の生理的食塩水に浮遊し、次いで煆【苛】性曹達の存在の下に、37°で真空
乾燥をした。残渣は乾燥食塩0,33gr, と混じ粉砕し、之を出来るだけ微細に
66 百日咳菌体内毒素
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して、一様なる粉末を得るに至らしめた。次ぎにこの粉末に少量宛蒸溜水を
加へた。Bordet et Gengou はかくして得たる濁つた液に於て吾人が既に他の
菌体内毒素に就を【て】述べたものと同様なる雲絮状物質を生ずるのをかなり屡々
見た。粉砕し次いで生理的食塩水に浮遊液とせる百日咳菌をば、24時間氷室
に放置し、次いで遠心沈澱した。上層の液は透明か或は極めて軽度に蛋白石
様色を呈した。
海猽の腹腔内に1∖4 乃至 1∖2cc, の分量を注入すると、百日咳菌体内毒素を
含有するこの液体は24時間にして動物を殺す。剖検するに、百日咳菌の腹腔
内注射によつて生ぜるそれと類似せる病竈を認む: 極めて多量の、出血性
の腹腔滲出液、多数の腹膜下溢血、腸の烈しき充血及び多量の肋膜充血があ
つた。この充血は動物が斃死前数時間呈する烈しき呼吸困難を説明するもの
である。
同じ症状は菌体内毒素を腹腔内に注入する時家兎に於て観察される。静脈
内注射では該動物を約18時間にして、1-2cc, の量で殺す。
百日咳菌体内毒素の皮下注射では極めて興味ある事実を確めることが出来
る。この経路により海猽を殺すためには Bordet et Gengou によれば菌体内
毒素の大量を必要とする。少量(例へば0,2cc,)では既に一程度の重い局所病
竈を起す; 翌日頃になれば、出血性浮腫を発生しその翌日は増加するを見
る; 次ぎに、この浮腫は衰へ、その跡に拡大せる黒色の斑痕を残し、之が壊
疽となり大なる潰瘍を残して陥没す。
之により何故に海猽や家兎に於て百日咳菌を接種する時、細菌の繁殖する
こともなく又は注入せる菌が殆ど全部消失しても、重篤にして然も致死的障
礙を来すかを説明し得。Bordet et Gengou は云ふ『百日咳菌により決定され
たる病竈は動物に於て寄生菌により恐らくこのものの破壊する時に遊離せる
毒素に因ることを全部承認するものである。又吾人が研修室動物に於て観察
せると同じ種類の病変が百日咳に犯された子供に於ても同様に起れるものと
考へるのは理論的である』。
吾人が「ペスト」菌体内毒素の問題にて観察せる所のものに関係ある興味あ
ファイフェル氏球状桿菌の菌体内毒素 65
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る事実は、百日咳菌体内毒素に対する動物の予防接種が極めて困難なること
である。皮下に第一回に菌体内毒素の少量(0,2cc)を受け、之によつて生ぜる
潰瘍の治癒せる海猽は最初と同じ様に将来の注射に反応する、即ち菌体内毒
素量を増すことさへ出来ない。
55°30分間加熱する時は、百日咳菌体内毒素は大に減弱す。「クロロフォ
ルム」「トルオール」「チモール」及び特に「アルコール」は殆ど全部その活働性
を奪ふ。Chamberland 濾過管による濾過は大部分の菌体内毒素を奪ひ取る。
熱は局所病竈を造ることが出来ない程度まで変質す。加熱せる百日咳菌体
内毒素は加熱ペスト菌体内毒素と全く同様に非加熱体内毒素に対し予防効
力を生ぜず。
百日咳菌の頻回注射により調製せる馬血清は、百日咳菌々体内毒素を中和
しない。
ファイフェル氏球状桿菌の菌体内毒素
Endotoxine du Coccobacille de Pfeiffer
多数の試みがファイフェル氏菌体の菌体内毒素を抽出せんがためになされ
た; 之は培養死滅菌の毒性は周知なるに拘はらず、常に効果を挙げ得なかつ
た。
吾人が1905年菌体内毒素の抽出に関し記載せる技術に従ひ、Slatineano は
Pfeiffer 氏菌より出発し、液状の菌体内毒素を得ることに成功し; その性質
を研究した。
血液加寒天に24時間培養せる Pfeiffer 氏菌を乾燥し(0,25gr)蒸餾【溜】水(5cc)
と正常馬血清(5cc)とを加へる。混合物は氷室に12時間置き次いで遠心沈澱
す。遠心沈澱後、上層液は毒性を示し動物に於て Pfeiffer 氏菌自身と同様な
る症状を起した。
脳内に注入すると、本菌の菌体内毒素は1∖20cc,の量で6-10時間にして海
猽を殺す。腹腔内注射で海猽を斃すためには、5cc, 以下であつてはならぬ;
68 Micrococcus Melitensisの菌体内毒素
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動物は4-5日で肝臓の脂肪変性と脾臓の著明なる肥大を呈して死す。
菌体内毒素の効果は生菌又は55°加熱菌によりて生ずる成績と同様であ
る。
Micrococcus Melitensis の菌体内毒素
Endotoxine du 『Micrococcus Melitensis』
マルタ熱の小球菌の培養より発足して、P,Noel Bernard は神経細胞に選
択的親和力を有する毒性抽出物を得た。
4日間寒天培養より生ぜる乾燥菌1瓦を NaCl の 0,20 と共に粉砕し、微
細の粉末を得るに至らしむ。この粉末を蒸餾【溜】水25cc,の中に浮遊す。この混
合物を強く振盪す。20時間孵卵器中に放置して後、この混合物を58°1時間
加熱し、次いで12時間氷室に置く。形成する沈澱物の上に、橙色蛋白石様の
色を呈する液体の浮ぶを見る、この液は溶解せる菌体内毒素を含む。この液
は450瓦の海猽を脳内注入により1∖100cc, の量で8-10時間にして殺す。腹
腔内経路により18時間で殺すめた【ため】には、300瓦の海猽に対しては10cc, 以下
であつてはならぬ。
該菌体内毒素は58°に抵抗す。蛋白の凝固する温度付近(78-80°)では、
その毒性は減少す。100°に於ては、凝固物より分離せる透明の液は始めの菌
体内毒素より10倍も毒性は減ず。更に加熱を継続すれば完全に菌体内毒素を
破壊す。濾過管による濾過は之を減弱す。
海猽は菌体内毒素の脳内注射(致死量=1∖100cc)に対し腹腔内に於てなせし
もの(致死量=10乃至20cc)よりも千倍乃至二千倍感受性がある。後者に於け
る動物の比較的免疫性なるは毒素が特異親和力を有する神経細胞に到達する
ことが困難なるためである; この親和力はマルタ熱の重篤なる場合に神経症
状の存在することを説明するものである。
「ヂフテリア」菌体内毒素 69
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「ヂフテリア」菌体内毒素
Endotoxine Diphtérique
Rist は Loeffler 菌体内には「ヂフテリア」毒素以外に、菌体内毒素が存在
し、特に之が注射を反覆する時は海猽に対し致死的となることを証明した。
最も屡々、ある時は麻痺、ある時は偽膜様腹膜炎の病竈を見る。家兎に於て、
Rist は一回に、「ヂフテリア菌の 0,05gr を腹腔内又は0,002gr-0,003gr を
静脈内に注射し、3週間で、死を決定することが出来た。抗「ヂフテリア」血
清を加へてもその死を防御しなかつた。
「ヂフテリア」菌体内毒素の研究は Cruveilhier により極めて精密になされ
た。この著者は24時間の寒天培養より出発した。菌は洗滌され、次いで溶解
性毒素の全痕跡をも破壊するために加熱された。
死菌の毒性に関する研究中に、Cruveilhier は最も不変なる成績を与ふる
道は脳の経路なることを見出した。脳内に固形培養一斜面の1∖4,即ち乾燥菌
の1「センチグラム」に相当する量を受けたる海猽は24時間以内に死す。
如何なる場合にも抗「ヂフテリア」血清は防御することもなく、又死を数時
間遅延することもなかつた。
Aviragnet 及び其の共著者の Bloch-Michel 及び Dorlencourt は15日培
養の菌を105-110°で滅菌し、真空内で乾燥し粉末にせるものから出発した。
この粉末状菌体内毒素0,05gr の分量は6-10日で海猽を殺した。この菌体内
毒素量の千倍でも、死を早めることは出来なかつた、之は明かに細胞内に摂
取されたる菌体内毒素の瀰撒度が極めて遅いためである。
之等の著者等は「ヂフテリア」の菌体内毒素により局所に生ぜる病変並びに
離れた部位に生ぜる病変を研究した: 彼等は肝臓の壊疽、実質性腎臓炎及び
副腎に於ける出血を認めた。
* * *
Victor C, Vaughan 及びその門弟、Andrew Detweiler, Max Wheeler,
70 糸状菌属の菌体内毒素
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Mary Leach, Charles Marshall, Louis Gelston 及び Walter Vaughan は
種々なる菌体の内容に就て系統的研究をなした、(Micrococccus prodigiosus,
sarcina lutea, bacilles diphtériques, bacille du charbon,colibacille, etc・・・)。
彼等は乾燥し微細に粉砕せる大量の菌(50 grammes に至るまで)に就いて行
つた。この研究に際し、彼等は次の如き興味ある事実を認めた、即ち菌の毒
性は菌が益々微細なる粉末となるに従ひ益々大となること、更に Sarcina lu-
tea 及び Micrococcus prodigiosus の如き全く病原性なき菌が脾脱疽菌のそ
れより遥かに勝れたる菌体内毒素性の能力を有することである。
此の事実は本章の始めに於て菌体内毒素の一般性につき述べたる考に関係
がある。
糸状菌属の菌体内毒素
Endotoxine des Champignons
H, Roger は Endomyces albicans の培養を加熱殺菌せるものは、之を皮
下及び腹腔内に注射するに、家兎に対し毒性あることを証明した。彼はこの
毒性は液体に関係し培養の液状部に関係なきを見た。同種の考で、Concetti
は Endomyces の原形質を粉砕し遠心沈澱して後二層を得た; 上層は毒性に
して原形質の蛋白及び脂肪質より成り、下層は無毒にして細胞膜の破片より
成る。
Aspergillus fumigatus の菌体内毒素抽出の試みは外観上反対の成績を与へ
た。それ故、H,Roger はこの糸状菌の培養を粉砕し遠心沈澱せるものには二
つの層をなすを見た: 即ち上層は家兎に対し全く毒性を消失し; 下層は家
兎に於て下半身不随障礙を生ず。此の現症の反対する原因は恐らく Asper-
Gillus はその菌体内毒素を周囲の「メヂウム」に殆ど瀰散さしめ又事実に存す
るものであらう。
Penicillium glaucum も恐らく亦、H,Roger の研究による如く、活働性菌
体内毒素を含有するであらう。
糸状菌属の菌体内毒素 71
――――――――――――――――――――――――――――――――――
Gougerot et Blanchetière により Sporotrichum beurmanni の菌体内毒素
が記載された。実際に、之は菌体内毒素よりは寧ろ「エーテル」「クロロホル
ム」「アルコール」その他の抽出液に関係する。
以前Auclair が結核菌で得た製剤も同様である。使用する溶媒によつてそ
れ等相互に異る之等の物質は皆、多少人工的に細菌の原形質より浸出された
ものである。かく云へば、すべて之等の浸出物は部分的菌体内毒素と同一で
ある; 之等のものは一方では一つの地位に値するものであるが、然し之を真
の菌体内毒素なる、「ペスト」、赤痢、百日咳の如きものと同列には置かれな
い; 後者は動物に於て菌自身が生ずると同様なる症状と病変とを決定するも
のである。
* * *
先に挙げたる記載の中に、菌体内毒素の性質を列挙するに当り、吾人はそ
の特殊性状を特に注意した。この性質は菌体内毒素のうちのあるものは特異
血清即ち抗菌体内毒素血清によつて中和さるるに過ぎざる事実を著明とす。
この血清は何であるか:
ある種の菌体内毒素例へば、「ペスト」菌又は百日咳菌を以て得たる毒素に
就て述べた際、吾人は菌体内毒素の大量に抵抗せる動物が、この同じ菌体内
毒素に対し、而も単に致死量だけを用ゐても、免疫されてゐる事実を認めな
いのは注目すべきこととなした。
菌体内毒素に対し免疫不可能なる事は永い間実験者をして、抗体を形成せ
ざる性質が菌体内毒素の定義そのものに加へらるる点なりと感じさせた。故
に、ここに如何に菌体内毒素を定義し、之を所謂固有の毒素力から区別する
のが適当であるかを述べやう。曰く、毒素は抗体を生ぜしむ、然し菌体内毒
素は注射方法の如何に拘はらず之を生ずることは不可能である: 動物に注
射するも、このものは血清中に溶菌素 bactériolysines の他は発生しない。
この区別は R,Pfeiffer の旧弟子なる、Wolff-Eisner によつて信ぜられた、
彼のこの問題に対する意見は、吾人の知る如く、菌体内毒素の考を引き起し
た業績をその師に帰すれば帰する程重きを加へた。Wolff-Eisner は、人間の
72 糸状菌属の菌体内毒素
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治療に於て所謂殺菌性血清の失敗をば、抗菌体内毒素を得ることの不可能に
帰した。”血清の不満足は菌体内毒素に対する抗体の形成が生体にて不可能
なるに因る。……今日まで、抗菌体内毒素を得んとするすべての努力は無駄
になつた、而して将来にて於も同様なるべきを信ずるのみである,,。
然し、吾人の実験から再び抗菌体内毒素は立派に存在することが分つた;
このものは既知抗体と同列なるものであつた。之を造るために、最も確実に
して最も速かなる方法は全培養を以て経静脈的に動物を免疫するにある。
ここには吾人が特に「チフス」免疫血清に就て研究せる本問題の詳細には亘
らぬこととする。唯々報告すべきことは、本法により吾人は1-2cc, の量で
溶解性「チフス」菌体内毒素の致死量の30倍以上を中和する抗菌体内毒素性
「チフス」免疫血清を造るに至つた。
次いで、吾人は「ペスト」菌及び赤痢菌を以てせる研究に基き、菌体内毒素
を有する最近はすべて――「チフス」菌、大腸菌、「ペスト」菌、「コレラ」弧菌、
赤痢菌、緑膿菌及びその他の菌――菌体を直接一般循環系中に送入すると血
清中に確実なる抗菌体内毒素性性質を証明することを結論するに至つた。他
方に於ては、斯様にして調製すれば、すべての他の抗体を造るを以て、これ
こそ最も有効なる血清を供給する免疫方法である。吾人が1906年に実験的に
得たこの事実は、その後なされたる多数の実験によつて確認された。今日で
は、「チフス」、赤痢、「コレラ」、連鎖状球菌、淋菌の免疫血清は経静脈的に
造られてゐる。尚且つ、短期間に確実に活働性免疫を賦与するために、経静
脈的方法による、之は抗菌体内毒素を形成せしむる唯一の方法である。吾人
は「チフス」菌に就ての Pfeffer et Friedberger の実験、及び更に近年に至り、
Ch,Nicolle 及びその共著者なる Conseil et Conor が人間になしたる極めて
興味ある予防接種の試験を報告するに止める。
* * *
要するに、溶解性菌体内毒素の意義は何であるか? 之より如何なる実際
上の知識を引き出し得るか? 感染の経過中に於て Pfeiffer 及びその一派が
之に帰した意義は誇張的であることは疑ふまでもない。之等の研究者は現象
糸状菌属の菌体内毒素 73
――――――――――――――――――――――――――――――――――
の一方を見たに過ぎない; 彼等は細菌体自身が、生物なる以上、自己を防御
し増殖し、毒素を分泌することが出来るものであることを考へなかつた。
吾人のあらゆる努力を支配する免疫の問題は、勿論菌体内毒素に対する争闘
に縮小すべきものでない。確かに、この事は感染経過中には低く評価されて
はならない、その重要さは第二次的であるに過ぎない。
理論上の興味以外に、溶解性菌体内毒素の調製は実際上の見地に於ても重
要である。新毒素の同一性を定めんとする時は常に――「チフス」「ペスト」赤
痢又はその他の毒素につき――菌体内毒素か又は真の毒素に属するかを決定
するために菌体内毒素の標準の性質を参照するに過ぎない。
最後に、溶解性菌体内毒素でなし得る少からざる利用のうちの一つは、一
般に生菌を以て、抗菌体内毒素性血清の効力測定に使用出来ることである。
――――――――
引用文献
Mémoires Cités
R, Pfeiffer, Zeitschr, f, Hygiene, 1892-1896,
Bürgers, Hygicnische Rundschau, 190,p, 169,
Hahn, München mediz, Wochenschr,, 1910, p, 736,
Macfadyen et Rowland, Proceed, Royal Soc,, t, IV, p, 30,
Carrière et Tomarkin, Zeitschr, f, Immunitätsf, I, Origin,, t,IV , p, 30,
Besredka, Annales de l’ Inst, Pasteur,juillet 1905, avril, 1906,
Horowitz, Zeitschr,f, Immunitätsf,, t, XIX, p, 44,
Bordet et gengou, Annales de l’ Inst, Pasteur, 1909, p, 415,
Slatineano, Centralbl, f, baktr, I, Origin,, t, XLI,1906, p,185
Noel bernard, C, R, Soc, Biologie, t, LXIX,1910, p, 37,
E, Rist, C, R, Soc, Biologie, t,IV,1903, p, 978,
Cruveihier, C, R, Soc, Biologie, t, XLVI, 1909, p, 1029,
Aviragnet, Bloch-Michel, Dorlencourt, C, R, Soc, Biologie, t, LXX, 1911, p,325,
Victor C, Vaughan, Transaction of the Asssociat, of Americ, physic,, 1902, pp, 1-89,
H,Roger, C, R, Soc, Biologie, t, LXVII, p, 161,
Gougerot et Blanchetière, C, R, Soc, Biologie, t, LXVII, p, 159,
Wolff-Eisner, Centralbl, f, Bakter, I, Origin,, t, XXXVII, 1904, p, 319,
Ⅵ
感作 Virus による予防接種
Vaccination par Virus Sensibilisés
第一章
Première Partie
活動性免疫として知らるるすべての型のうち、痘苗によつて実現さるるも
のが最も理想的予防接種法に接近せるものである、が然しなほ、此の場合に
免疫は人の希望する程早く成立しない。時間的因子を除去すれば、痘苗はす
べての希望を満足する; 確実なる効力に加ふるに痘苗は第一位に属する二つ
の性質を有す: 即ち無害にしてその効力は永続する。
血清による予防接種については、たとへそれ等のうちの優秀なるものを以
てするも、余り云へない。仮令予防効果が異論ないとするも、仮令無害なり
とするも、その期間は一時的であつて、15日経過せる後は之に信頼すること
は慎重を欠くであらう。
Vaccins のうちには効力の永続するものがある; 之は加熱死菌のそれであ
る。然し之等の Vaccins を以てすると、屡々予防注射をするよりも寧ろ病
気に罹る危険に遭遇するを望む位の犠牲を払はなければ免疫を獲ない場合が
ある。之は、就中、「チフス」Vaccin の場合であつて、注射後屡々可成り不
愉快なる障礙がつづいて起ることがある。Haffkine の「ペスト」Vaccin は
更に温和なる救済薬なりとの好評を受けない。之等の欠点の中、特に実験室
内動物に於て、加熱「ペスト」菌の注射に続き、必要量を少しく超過するため
に、屡々重篤なる中毒症状時としては死亡する場合に遭遇する。
Première Partie 75
――――――――――――――――――――――――――――――――――
加熱培養による予防接種法の結果を軽減するために、ある学者は死菌に少
量の該当する血清を加ふることを提唱した。かかる方法に於ては、他動的な
る血清免疫の例に再び堕するので即ち余り永続せざることを速に認めた。実
際に、実験によると、たとへ死菌と血清と混合せるものが無害であり血清自
身と同様に速かなる作用を呈する長所があるにしても、反対に、血清と共に
次の如き欠点を配分することを示した: 即ち之等の混合が賦与する免疫性は
極めて短期間で決して実際に使用する方法としては許し得ないものである。
然しその困難を転向し無害にして一定度まで有効、迅速、永続的なる Vac-
cins を得ることは可能である。
吾人は研究室の言葉で感作「ワクチン」”Vaccins Sensibilisée,,の名称の下
に認可せる製剤を見る。
之は1902年 Académie des sciences に提出せる報告中にある、即ち吾人は
「ペスト」,「コレラ」及び「チフス」感染に関する研究室の最初の試験の結果を
纏めた。
之等感作「ワクチン」製剤の根拠となる原理を簡単に申し述べやう。
特異血清を菌体に付加することは免疫持続期間に関し有害として認められ
たので、吾人は血清中に存する蛋白質及び其の他を全く除去せる特異物質以
外の血清を使用しないことを提唱した。
この選択を実現するためには、勿論菌自身を使用するよりよい手段がなか
つた。Ehrlich 及び Morgenroth の研究以来、すべての細胞、特にすべての
菌は、之に該当する抗体と接触せしめると、之と結合し、かくして血清中に
含有さるる他のすべての物質を排除することを知る。
かく抗体を結合せる細菌は最早や之を放さなくなる。菌の浸つてゐる血清
から之を取り出し、生理的食塩水で洗つても無駄である。菌は少からず抗体
によつて滲み込まれてゐる。血清より抗体を自体に引きつけ、云はば、特異
感作物と称するものから染色されてゐる之等の菌は”Vaccins Sensiblisés,,
(感作「ワクチン」)を形成する。
* * *
76 Première Partie
――――――――――――――――――――――――――――――――――
最初の感作「ワクチン」は「ペスト」菌、「コレラ」弧菌及び「チフス」菌で調製
した。ここに吾人が採用せる「テクニク」を申し述べる。
Roux の「コルベン」に於ける、48時間の寒天培養を箆を以て掻き取り、次
ぎに少量の生理的食塩水を注ぐ。「ペスト」菌の場合には60°(1時間)で殺し、
無害とならしめる様にす。水中に浮遊せる菌体は非加熱、凝集力強き抗「ペ
スト」血清を入れたる円筒の容器に入る、
やがて二層の重なるを見る: 上層は細菌、下層は血清である。更に数時
間遅れて、菌は集合し雲絮状となり、次第に大きくなり、次いで容器の底部
に沈澱するに至る。軽度に蛋白石様の色を呈する上層液を傾瀉す。菌の沈澱
は生理的食塩水を以て数回洗滌し、血清の最後の痕跡をも分離せしむ。
かくして得たる白色の凝塊は半流動体の「パテー」状の固ざである、之に生
理的食塩水を加ふれば、微細にして極めて「ホモゲン」の浮遊液となる。この
凝塊は「ペストワクチン」を形成するものである(1)。
「チフス」及び「コレラ」予防「ワクチン」は同様に造られる、只次の如き相違
だけである。即ち菌体を加熱前にそれぞれの血清で処置する。此の方法は抗
体の結合の点より見て良好である。感作菌は次いで反復洗滌する。血清の全
痕跡が完全に除去されて後、之をそのまま使用するか又は56°30分に持ち来す。
吾人は既に前に感作菌から菌の浸つてゐる血清の全痕跡を除去することが
如何に必要なるかを注意した、之は血清の免疫持続期に及ぼす有害なる作
用を除く目的である。然し余りに注意し過ぎ菌を水中に長く浸して置いては
ならぬ、何となれば此の場合には感作菌は活動性物質の一部を周囲の水に移
行せしめるからである。感作 Virus の洗滌はそれ故速かに継続し、全操作は
同日に終了する如くなすべきである。
* * *
「ペスト」予防感作「ワクチン」は通常の「ペスト」予防「ワクチン」即ち Haff-
Kine の Vaccin より、実際上毒性の作用は全く消失せる長所を有す。斯くの
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1)この「ペストワクチン」は仏蘭西薬局方の最近の出版に入れてある(1908,Co-
dex medicamentarius gallicus, p, 792,), 而して”Vaccin Antipesteux Seusibilisé,,
の名称の下に存する。
Première Partie 77
――――――――――――――――――――――――――――――――――
如く、Haffkine の Vaccin は寒天24時間培養の1∖10-1∖15 の量で「マウス」
を殺す。感作「ワクチン」は全培養2けの分量即ち、30倍量以上を注射するも
「マウス」に於て認むべき症状を決定することが出来ない。
人間に於ても同様に、「ペスト」予防感作「ワクチン」は何等過劇なる症状を
起さない(自己観察)。
通常「ワクチン」の大なる障礙となる局所症状は感作「ワクチン」を接種せる
動物では全く認められない。之を確むるために、家兎に於て、体の一側には、
単に加熱せる菌――「コレラ」弧菌「チフス」菌又は「ペスト」菌――他例には、
同種同量なるも感作せる菌を注射すればよい。通常「ワクチン」を注射せる側
では硬結及び「アプセス」を有する炎衝反応を見るが、感作菌を接種されたも
のは局所反応は全く起らずに留まる。
感作「ワクチン」は無害である、何となれば細菌の菌体内毒素は血清の特異
性物質で中和されてゐるからである、この毒性なきために之等の Vaccins を
以てしては一般症状を観察しないのである。他方に於ては感作物質の存在が
喰菌作用を助ける。また組織は速に異物、同種類の感作菌の消失されるのを
見る。之が何故に之等の Vaccins を接種せる部位に於て決して烈しい局所
症状を観察し得ないかの理由である。
* * *
検査すべき事項として残されたものは: 1°感作「ワクチン」注射後いつ
免疫は発顕するか、2°何の位の期間此の免疫は、継続し得るか?
免疫の発現時期に関しては、実験の示す所では Virus の性状と共に変化
するが、然し一般的には Vaccin 免疫は注射後間もなく起る。
所で、「ペスト」の場合には、「マウス」は感作「ワクチン」送入後48時間で脚
内に於ける Virus の致死量の注射に対し感染しなくなる。
「チフス」及び「コレラ」予防感作「ワクチン」は海猽に対し更に速に免疫を賦
与する。寒天培養の一定量を皮下に注射すると、之等の Vaccins は翌日頃に
腹腔内に接種せる Virus の致死量に対し海猽を防御する。海猽を単に加熱せ
る通常の培養を以て予防接種をなし、翌日之に試験する時は、海猽は予防接種
78 Première Partie
――――――――――――――――――――――――――――――――――
されざる対照動物と同じく「チフス」又は「コレラ」感染で死ぬことを確めた。
即ち、感作「ワクチン」によつて賦与された免疫性は極めて速にして注射後
24又は48時間で顕はれる。
之は持続性のものであるか? 之は少くとも通常の「ワクチン」の注射に相次
ぐ免疫性と同じ位継続する。
数字を以て、極めて正確に免疫持続期間を確定することは不可能である。
単に Vaccin の性質を考慮に容れるのみならず、更に Vaccin の量、注射部
位、動物の種類、Vaccin の製造方法は云はずとも、それだけで免疫期間を
変へしむる変化し易い要素となる。
所が「ペスト」予防感作「ワクチン」を海猽の皮下又は腹腔内に注射せる場合
には、免疫性は1か月半位しか継続しない。之は非感作加熱「ペスト菌体の
注射に次ぐ免疫性の消失する時期と略々同じである。
之は例へば「マウス」に於てはちがふ: このものは感作「ワクチン」を受け
て後、4-5か月又はそれ以上「ペスト」に対する免疫性を保持する。
「チフス」及び「コレラ」予防「ワクチン」は5か月以上継続する免疫性を海猽
に賦与する、此の免疫性は「ペスト」予防「ワクチン」が賦与するものよりも著
しく強固である。
然らば、感作「ワクチン」は、少数のものは問題であるが、無害にして、速
に且つ確実なる手段となり、長期間の活動性免疫を実現し得させる。
* * *
吾人の第1回発表以来、吾人の研究を確定し、吾人が研究せる以外の他の
Virus に感作の原理を拡張する目的を以てなされた一定数の業績が出た。
吾人は1905年に発表された Paladino-Blandini の研究について先づ数言述
べやう。
此の著者は「チフス」防予接種法の材料についてなされた全部について重要
なる実験的業績を発表した。氏は各国に於てなされた発表を記載するのに満
足せずして、氏自らすべての Vaccins を調査する仕事に従事し、効力の点、
局所反応及び発熱、免疫期間等の点を調べた。
Première Partie 79
――――――――――――――――――――――――――――――――――
Paladino-Blandini は17種の Vaccins を研究した: 1)「ブイヨン」培養生
菌強毒のもの; 2)加熱40°3日間にして弱毒せる生菌; 3)Pfeiffer et Kolle
の Vaccin; 4)Wright et Semple のVaccin; 5)Chantemesse の毒素; 6)
Werner の毒素; 7)Rodet, Lagriffoul et Wahly の毒素; 8)腹腔滲出液の
濾過せるもの; 9)「チフス」菌核蛋白質; 10)Macfadyan et Rowland の抽出
物; 11)Brieger et Mayer の抽出物; 12)Balthazard の毒素; 13)Shiga の
抽出物; 14)Wassermann の抽出物; 15)Berne の「チフス」予防血清; 16)
Jez の抽出物; 17)Besredka の Vaccin 。
吾人は著者がその比較研究の結果を綜括せるこの「モノグラフ」の結論を云
ふだけに止める。
”Besredka の「チフス」予防「ワクチン」は単に24時間の期間で免疫を賦与
する長所がある許りでなく、更に全免疫方法のうちで一層よいものと考へら
れる。即ち局所症状も全身症状も起さず、感染に対する素因となることもな
く、動物には他のすべての既知 Vaccin によつて得らるるものより更に持
続的の免疫を与ふる点から見て然りとなす”。
* * *
今度は他の感作「ワクチン」に就て述べやう。
最初行はれたのは狂犬病予防接種である。既に吾人の最初の報告後間もな
く、Pasteur 研究所の A, Marie が吾人の方法を狂犬病毒に適用せんとする
祝福すべき意見を持つた。
狂犬病 Vaccin の製造方法は一般に感作「ワクチン」に使用せる方法を模倣
した: 固定毒の浮遊液を抗狂犬病血清と混合す: 混合物は24時間接触して
置く、次ぎに遊離血清の過剰を除去するために生理的食塩水で洗ふ。
特異感作物より浸された狂犬病毒より成るかかる調製物は狂犬病予防感作
「ワクチン」を構成す(1)。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1)若し吾人がすべて之等の Vaccins ――「チフス」予防、「ペスト」予防、狂犬病
予防その他――を感作「ワクチン」の名称で呼び、ある学者が造る如き Virus-Sérum
(血清ワクチン)の名称で呼ばないとすれば、精確にその主なる特色を注意するた
めには、そが遊離血清を含まざる点である。吾人の意見では、Sérum-Vaccin なる
言葉は、混合予防注射の際に使用さるる Virus と血清との混合物に限るべきである
80 Première Fartie
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Marie は家兎、海猽及び犬に就て研究をなした、彼は狂犬病予防「ワクチ
ン」の場合も他の感作「ワクチン」の場合と同様に行ふことを確めた。
実際、この Vaccin は全く無害である; 之を直接脳内に注射し而も動物に
少しの障害を起さない。
その作用は速かである: 本法により接種された動物は予防接種後同日又
は翌日或は翌々日前房内に注入せる Virus に抵抗する状態となる。Marie
曰く”この狂犬病予防免疫法の特長の一つはその形成が速かである。然るに
Pasteur 氏予防接種法に於ては動物の抵抗力を証明する前に極めて長き一列
の注射の後約15日待たねばならぬ、吾人は此の新治療法は極めて迅速なる免
疫性を賦与するを見る、何となればこの免疫は強毒にして且つ前眼房内に於
ける注射と同様に烈しい病毒の注射後3日目に動物を狂犬病より防御するか
らである,,。
狂犬病予防「ワクチン」により賦与された免疫性は永続する。Marie の実験
によれば、本法で免疫された海猽及び家兎は「ワクチン」接種後6か月は眼球
内試験に抵抗することが出来た。1904年2月に接種された二匹の犬は、一
年後の1905年の2月及び5月に2回反覆してなせる眼球内接種に抵抗した
が、之に対し対照は斃死した。
本法の少からざる長所の一つは、唯1回の注射により動物は狂犬病に対し
免疫し得らるることである。この事実は Marie により観察された。之は亦
Remlinger によつてなされた。氏は綿羊に於て眼球感染後3日の間隔を置き
Vaccin を1回注射をなし之を防御し得た。
3頭の犬に行つた実験で、Marie は皮下に1回接種された之等の動物は直
ちに前眼房内に於ける狂犬病毒の注入に抵抗し; 同様に注入された対照は麻
痺性狂犬病で死亡するを確めた。
狂犬病予防感作「ワクチン」によつて賦与された免疫は免疫動物が眼球内試
験にも抵抗する点より見れば鞏固なるものである; この感染方法は狂犬病に
かかれる動物の咬傷より重症なることは人の知る所である。
簡単に云へば、狂犬病予防感作「ワクチン」に於ても吾人が同種の他の
Première Partie 81
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Vaccins に於て既に証明せる性質を認むるのである: 即ち絶対無害にして
作用確実、迅速、持続性なることである。
この感作「ワクチン」は人間に於ける狂犬病の予防的処置に使用された。”通
過せる家兎の延髄(固定毒)の1gr, を細かに粉砕し稀釈「ブイヨン」又は生理
的食塩水9cc 中に入れ浮遊液を造り之を「リンネル」で濾す。この10倍稀釈液
の2cc に予め56,°30分加熱せる綿羊の狂犬病予防血清4cc を加ふ。この混
液 6cc,,――Virus の過剰を含有するもの――を腹部の皮下に二ヵ所接種す
る。同様の注射を続いて3日間反覆す、その後、6日目より患者は乾燥せる
脊髄の接種を受ける,,。
1904年以来、多数の咬傷者が本法で治療され、その結果は、Marie によれ
ば、優秀であつた。氏の意見によれば、本法は特に患者が咬傷後久しくして
治療に来れる場合、並びに重症なる咬傷の全部に適用さるべきであると。
* * *
「チフス」菌と赤痢菌との間に存する親族関係、並びに赤痢に対する予防接
種が人間の場合に表はす重要性があるので、赤痢予防感作「ワクチン」を考ふ
ることは出来なかつた。赤痢の治療手段に随分貢献せる Dopter は亦予防手
段にも貢献する所があつた。
実験室内小動物を通常の方法により赤痢菌に対して予防接種をなすことは
可成り困難なることは人の知る所である。たとへ免疫が表はれるにしても決
して12-15日前に現はれない。「マウス」を予防接種せんと試むる時は、予防
接種の経過中に少くとも40乃至50「パーセント」を失ふ。
加熱赤痢菌の注射はかなり重症なる局所及び全身症状を呈する。生存せる
「マウス」に於て、症状は注射部位に於ける一時的の浮腫と軽度の羸痩とを起
すだけである。家兎に於ては、著しき炎衝性浮腫、体温の上昇及び高度にし
て急劇なる羸痩を認める。
得らるる免疫はその期間が短い; 免疫は殆ど4乃至6週間以上には及ばな
い。然し更に注意すべき点は動物がその免疫経過中には、対照動物より更に
感染に対し感受性が大となることである。故に流行時には加熱培養による予
82 Première Partie
――――――――――――――――――――――――――――――――――
防接種方法は危険となる事がある。Dopter によれば、赤痢の潜伏期間内の
患者又は保菌者に使用せるに、この予防接種は赤痢感染を助長するに過ぎな
いと。
之を要するに、死菌を以て実験室内動物を予防接種することは局所及び全
身症状の危険に遭遇せしめる; 本法は半数に於て致死的中毒症状を起す; 免
疫は12-15日目に現はれる; 潜伏期間内に、予防接種された動物は抵抗力減
少状態となり、最後に、免疫は4-6週間しか続かない。
すべての点に類似する事実は、Dopter により菌の自家融解産物による予
防接種の際に確められた。故に之等の方法のいづれもが人間に実施してはな
らぬ特に流行時に然りとする。それ故 Dopter は感作 Virus による予防接
種方法を試みんとする考を抱いた。
ここに2,3の技術を挙げる; 赤痢菌は赤痢予防血清と混合する。混液は実
験室温度に12時間静置する。数時間後に菌は凝集し感作されて試験管底に落
下する。上清液を傾瀉す; 菌の沈澱を数回生理的食塩水で洗滌し、然る後生
理的食塩水中に感作菌を浮遊すればよい。
実験の示す所ではかく造られたる赤痢予防 Vaccin は全く無害である:
通常の菌の致死量の百倍に相当する分量に敢えた「マウス」は何等体重の減少
を来すことなく認むべき最小の障害も呈しない。
予防接種効力に関しては、吾人は Dopter の結論を述べるより他には更に
よいものを知らない:。
,,1°感作菌による Vaccin は少しも毒性がない; また局所反応も全身反応
も起さない;
,,2°感作菌によつて予防接種された「マウス」は大多数の場合に4日目に抗
赤痢免疫を獲得する; 然し5日目でなければ現はれないものもある;
,,3°免疫形成機関に於て; 本動物は致死量測定試験に対し対照より感受性
大なることはない;
,,4°獲得せる免疫は少くも4か月半継続する,,。
吾人は、更に再び、赤痢予防 Vaccin のうちに感作 Vaccin の特徴とする
Première Partie 83
――――――――――――――――――――――――――――――――――
4 性質を認める: 即ち毒性のなきこと免疫の確実、速かにして持続的なる
こと。
Dopter 曰く”すべての点に於て此の新法は以前提供されたるすべての方
法に断然優る様に見える……陰性期が存在しない……; もし本法が他日人間
の群集生活に使用され、更に流行時に使用される様になれば、此の点は実施
上の見地より見て最も重要なる注意事項である,,。
* * *
今までは有形生菌又は死菌を以て調整せる感作 Vaccins を問題にした; 吾
人の記載すべく残されたものは「ヂフテリア」毒素を以て製せる Vaccin で
ある。
その調整方法は感作 Vaccins に対し一般に使用せる所のものであつた。
「ヂフテリア」毒素を抗「ヂフテリア」血清の混合液を造り之を以て開始した。
この混合液を遠心沈澱し過剰の血清を除去することは殆ど不可能事であるか
ら、毒素を中和するために丁度血清の厳密に必要なる分量を加ふる注意を要
す。この混液に固形菌の場合に於ける如く数時間接触せしめて後予防接種を
行つた。抗毒素の滲み込んだ毒素は一種の「ヂフテリア」予防感作 Vaccin と
見るべきである。
この最後の考を有してゐたのは Théobald Smith である。之を調整するに
当り、氏は始めに於ては真の感作「ワクチン」を実現せんとするほかには他を
顧みなかつたことは疑ひなき所である。
毒素と抗毒素とを一定量に混合するに当り、吾人が指示せる血清の最小過
剰を避けんとする教義に基き、Th, Smith は単に絶対に無害なるばかりでな
く、著しき予防効力を有する物質を得た。困難なる点は毒素の厳密なる感作
に到達することである: 即ち余り多量ならば余り少量ならざる血清を加へ
なければならぬ。若し多量の血清を加ふるならば、免疫は「チフス」予防「ワ
クチン」から過剰の抗「チフス」血清を除去し得ざる時の如く期間が短いので
ある。若し余り少量の血清を加ふるならば、混液は局所症状を起し、屡々極
めて重篤なることがある。故にそこには抗「ヂフテリア」血清の厳重なる必要
84 Première Partie
――――――――――――――――――――――――――――――――――
量があることを注意しなければならぬ。かくして安易に数年間継続し且つ人
間は弱反応又は無反応にして之を獲得すれば益々価値ある免疫性を得。
感作 Virus の場合に於ける如く、「ヂフテリア」毒素とその抗毒素とを接
触することは可成り長くなければならぬ。T,Smith によれば、この接触は
予防接種の使用を実施する前に48時間維持する必要があると。
此の予防接種によつて賦与せらるる、持続性免疫に加ふるに、Smith によ
れば、このものは全然無害である。この感作毒素を使用することは毒素だけ
のそれよりも遥かに好都合である。後者は亦免疫を賦与することは出来るが
然し此の場合には免疫は鞏固でなく且つ局所症状の代価によつて獲られる。
若し免疫の形成する速度について知ることを得れば、この「ヂフテリア」予
防「ワクチン」は完全に理想的のものであるであらう。Smith の報告は此の問
題に触れてゐない; 恐らく此の報告に於て「ヂフテリア」予防「ワクチン」は殆
ど他の Vaccin と異る所がない、即ち、速に免疫を賦与するのではなからう
かと思はれる。
之を総括するに、Virus の性質が何であらうと、例へば「ペスト」、赤痢、
「コレラ」又は「チフス」菌であらうと、狂犬病毒又は「ヂフテリア」毒素でら
うと、死菌又は生菌であらうと、感作は之等に新性質を賦与する即ち Vacc-
ins をしてその性状が確実、迅速、無害にして持続的なる作用を発揮せしむ
る様になすのである。
―――――――――――
Mémoires Cités
A, Besredka, C, R, Académie des Sciences,juin,1902, p, 1330; Annales Inst, Pasteur,
décembre 1902,
Paladino-Blandini, Annali d’ Igiene sperimental, pp,, 295-411, 1905,
A, Marie, C, R, Soc, Biologie, 29 novembre, 1902; 16 déeembre, 1905; Bulletin
de l’ Institut Passteur, t, VI, 30 aoun et 15 sept, 1908,
Dopter , Annales de l’ Inst, Pasteur, t, XXIII, p, 677,
Th, Smith, Journ, of expererim, medic,, t, XI, 402; 1909,
Ⅵ
感作 Virus による予防接種
Vaccination par Virus Sensibilisés
第二章
Deuxième Partie (1)
吾人は前に述べたる性質を、始めに肺炎球菌、連鎖状球菌、「ヂフテリア」
菌、羊痘毒及び結核菌に於ける感作「ワクチン」に於ても亦見出すのである。
結核菌から始めやう。
すべての医師及び獣医は、v, Behring の牛の結核予防接種に於ける反響
多き実験に思を致した。種々の国に於て、事実上牛に極めて著明なる結核に
対する抵抗性を賦与した、即ち対照に於ては、結核菌の接種は速に重篤にし
て屡々致死的なる病竈形成を伴ふものであるが、予防接種されたものでは、
かなり長い間病竈を造らざることを確めた。単に、若し単なる肉眼的検査に
満足せず且つ厳密に臓器を観察すれば、特に淋巴腺内に、生きた毒力の高い
結核菌を認める。換言すれば、試験的注射の際に生体内に送入された菌は完
全に破壊されない。この完全なる破壊の欠如することが v, Behring の方法
に於て大なる危険を形成する; 之が牛の結核予防接種の問題が今なほ解決さ
れたと考へるには遥か距りのある理由である。
本問の解決に向つて重要なる一歩は Calmette et Guerin により実現され
た。氏等は結核菌を「グリセリン」加牛胆汁の存在のもとに馬鈴薯の培養する
と、著しく結核菌の性質を変化することを示した。かかる菌は25mgr の分
――――――――――――――――――――――
(1) Bulletin de l’Institut Pasteur, t, X, 30 juin 1912,
86 Deuxième Partie
――――――――――――――――――――――――――――――――――
量を犢の静脈内に注入する時は、小時間に犢を免疫する。然し、この場合に
も亦、生菌を接種後120日間も気管枝淋巴腺内に認むるのである。
之等の事実は胆汁加感作菌を使用する時嘗て起つた所のものである。
Calmette et Guérin は大量に注射しても是等の菌は容易に吸収されるのを
見た。然る時は感作のために試験的接種の際に生菌の吸収を活発にし得なく
なるか何うかと云ふ質問が起る。
実験によれば、この場合には、菌の吸収は明かに活動的となり、従つて吸
収は完全に経過する。
胆汁加感作 Virus を以て予防接種され、次に30日後に、試験的注射(強毒
の牛型菌 3mgr:)を受けた牝牛は90日後には殆ど菌を含まない; 120日後に
は全く含有せざるに至る。之に反し、対照として、感作せざる胆汁加菌を以
て予防接種されたものは、試験後120日後と雖も、気管枝及び中隔の淋巴腺
内に、生きた毒力強き菌を含有してゐる。
* * *
Calmetet et Guérin の実験に先立つこと数か月前に於ける F, Meyer の実
験は普通の菌と比較して感作せる結核菌の大量注射を試みた。之によれば感
作せる菌は容易に吸収されることが分つた。更に注意すべき点はその予防接
種能力である。
同氏は感作結核菌は結核海猽により非感作通常菌のそれに対し5倍以上の
分量を堪え得られたことを証明した。
氏は更に健康動物は何の障礙なく感作菌の反覆注射に堪えるが、非感作菌
の反覆注射に対しては一般に斃死することを見た。感作菌は一般に局所反応
然も多くは最小の反応を与へて後、速かに吸収される。
Vaccin の予防効果に関し、F, Meyer は次のことを確めた; 長期間感作菌
で処置され、次に通常結核菌を注射された海猽は罹患するが、対照よりは8-
10倍遅れて発病する。
既に結核病勢にある海猽に於てさへも、感作菌による治療は、同氏によれ
ば、臨床的に、動物が治癒したと思はれる位に快方に向はしめる。
Deuxième Partie 87
――――――――――――――――――――――――――――――――――
Meyer は淋巴腺の菌を消失せしむるに至らなかつたことを認めた; 可能な
ることは体重の減少を停止し生命を数か月間延長させることである。氏はか
くして処置せる動物に於ては対照より9か月長い生存を与ふることに成功
した。
かく有望なる是等の成績を得たので、Meyer はこの感作 Vaccin を、人間
に於て、治療の意味で、使用せんと決心した。氏は結核の種々の期間にある
もの47人を処置した。効果は限局性結核の場合に特に著明であつた: あら
ゆる治療に抵抗せる瘻管又は「アプセス」は感作菌の影響により速かに瘢痕形
成をなした。少からず良好の成績は骨、関節及び眼の結核感染に於て示され
た。肺結核に於ては、良好の効果は発熱、羸痩、夜間盗汗、心臓障礙、即ち
中毒症状に見られた。之に反して、固有の肺の病変並に喀痰の含菌量は少し
も変化がなかつた。かく処置された47人の患者につきては、Meyer によれ
ば、40人の患者が著明に良好となつた。(1)
* * *
結核菌浸出液、又は「ツベルクリン」は同様に感作に適当である。
Vallée et Guinard は”濃縮し感作せる結核菌沈降物,, の性質を研究した
が、是等の物は結核動物に取つても無害なることを認めた。即ち、6週間以上
結核菌を以て接種された海猽は粗製「ツベルクリン」の0,5-2gr, に相当する量
の感作沈降物の注射に抵抗する。牛に於ても同様であつた。数か月来感染せ
る牛は、発熱を起す量の 10-20 倍を表はす粗製「ツベルクリン」の1-2gr, に
相当する量の沈降物を受けても反応熱を出すことがなかつた。
感作せる結核菌毒素は無害なることを知つたので、Vallée et Guinard は
之を人間に試みた。この試験は種々の程度に肺結核に犯された30人の婦人に
就いて行つた。著者等は曰く”Koch の「ツベルクリン」の最少量(1∖100’ 1∖50’
1∖10mgr)を注射するに、不快の症状が起るのに対し、酒精で沈澱せる純粋「ツ
ベルクリン」の 1∖2-4mgr, に相当する量の感作沈降物を注射するに熱反応も
――――――――――――――――――――――――
(1) 独逸に於ては、感作結核菌は結核予防血清「ワクチン」”S, B,E,, の名称で
使用されてゐる。
88 Deuxième Partie
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なく病竈の反応もなかつた,,。著者は最初の注射では一般に軽度の浮腫を生
ずるが、間もなく慣れの状態が成立し、それ以後の注射に於ては増量的分量
でも患者に何等不快を起さざることを認めた。
それ故、感作後濃縮せる結核毒は海猽に於ても、牛に於ても亦人間に於て
も、極めて無害となるのである。
* * *
研究室内動物は容易に肺炎球菌に対し活動性免疫を得ることは人の知る所
である。感作肺炎球菌を使用する時は E, Levy et Aoki の研究が解決せる
如く、その予防接種は特に良好なる条件で実施される。
免疫の発生速度に関しては、著者等は次のことを証明した: 即ち肺炎球菌
の死菌(0,5%の石炭酸添加)によつて予防接種された家兎に於ては免疫は6日
過ぎてから成立するが、感作せる肺炎球菌を以て予防接種せる家兎に於ては
一般に3日後に完成する。免疫は更に極めて速かに成立得: 即ち、実験
の際、著者等は感作 Virus を以て予防接種せる家兎を、24時間後、10時間後
及び6時間後に致死量測定試験に用ゐた。是等の家兎は全部試験的接種に対
し抵抗した。
陰性期は、死滅肺炎球菌を使用せる時に既に稀であるが、感作肺炎球菌を
以てしては決して観察されない。
更に、極めて矛盾して見えることは、感作肺炎球菌は一定の治療的効果を
表はすことなきにしもあらず: もし毒力強き肺炎球菌の1∖100,000 を身体の一部
に注射し、他の部に感作肺炎球菌の適当量を注射する時は、一定期間生存せ
しめ或は完全に生存せしめることが出来た。実験の結果は Vaccin の量に関
係する: 1-2cc, の量では不充分であり、4cc, の量では4匹のうち3匹を防御
し、6-8cc では確実に動物の全部を予防接種し得た。
非感作肺炎球菌でなされた同様の実験では、遥かに香ばしからぬ成績を示
した: Vaccin の4cc, は家兎5頭中1頭を防御し; 6cc, では3頭中2頭を
防御し、8cc, でどの家兎も生存する様になつたに過ぎなかつた。
之を要するに、感作肺炎球菌は通常の肺炎球菌に対し次の如き長所を有す、
Deuxième Partie 89
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即ち之を予防的に注射すれば、本「ワクチン」は更に迅速に更に鞏固なる免疫
性を賦与す; この注射は決して陰性期を伴はず; 更に、或る場合には、本「ワ
クチン」は疑ひなき治療的効果を表はす。
* * *
連鎖状球菌は肺炎球菌と更に多くの共通点を示す; 亦感作された場合、後
者と同様なる態度を取ることは驚くまでもない。
Marxer は感作連鎖状球菌で接種された家兎は極めて速に免疫性を獲得す
ることを確めた; 24時間目に既に致死量の数倍に抵抗する様になる。
「ガラクトーゼ」加「ワクチン」の発案者の一人なるこの実験者は次の如く宣
言した、即ち単に「ガラクトーゼ」の作用下に置かれたる連鎖状球菌を以て同
様なる結果を得ることは極めて稀であると。
是等の実験に刺激され、Marxer は感作連鎖状球菌を治療方面に使用せん
と企てた。期待し得た如く、Virus 接種後24時間にして試みられたこの治療
成績は輝かしいものではなかつた。然し他のすべての条件が同様なる時、感
作連鎖状球菌は対照に比し処置動物を4-6日生存せしむる意味に於て非感作
に優る。
Levy et Hamm の企画せる感作連鎖状球菌を以てする予防的及び治療的
処置の試験を述べやう。人間に於て正確なる対照実験をなすことの不可能は
実験室内実験の厳格さを欠如してゐる。この制限はあるが、吾人は是等の治
療的試験から生ずる印象は動物にてなされた観察を強くすることを認めねば
ならぬ。
Levy et Hamm は妊婦を予防接種せんがために感作連鎖状球菌を使用し
た。注射は分娩前約8-10 日になされた。之は注射部位に軽度の疼痛を生じ
たが、然し熱を伴ふことはなかつた。かく処置された14人の婦人のうち、
1名は不慮の災害のために死亡した; 他の全部は極めて良好の状態で分娩し
た。
治療的方面には、感作連鎖状球菌は既に発生せる産褥熱の際、並びに化膿
性の付属器官の炎衝又は子宮外膜炎の如き種々なる連鎖状球菌症の際に使用
90 Deuxième Partie
――――――――――――――――――――――――――――――――――
された。明白なる状態で提唱することは出来ないが、著者等はこの治療法は
active なるものと考へ、且つ兎に角、最も重篤なる敗血症の際に於ても全く
無害なりと考へらるる点に於て、良好なる効果あるものと認められたと云つ
てゐる。
* * *
吾人は純毒性ある菌が若し感作された時に何うなるかと云ふことに就ては
未だ少しも触れてゐなかつた。Dopter の研究のお蔭で、吾人は毒性があり
同時に伝染性がある赤痢菌は、感作の後には、高度の予防効力を得ることを
知つた。
有毒なる菌、例へば「ヂフテリア」菌及び破傷風菌の如きものにつき此の種
の研究をなすことは興味がある。
「ヂフテリア」菌に関しては。吾人は Rolla の実験以来感作される時は毒性
が劣ることを知つてるのみである。種々なる種類の問題についてなされた氏
の研究に於て、同著者は偶然に全く他の Virus と同じく、Loeffler 氏菌の
感作は、その結果は、非感作の場合は4-5日で確実なる致死的の量に対し動
物を防御せしむることを認めた。
* * *
感作「ワクチン」なる武器庫は最近理論的並びに実際的に大なる興味を提供
する産物に富んでゐる。吾人は羊痘予防 Vaccin について述べやうと思ふ。
羊痘の Virus は不可視性 Virus で、特異血清(Borrel)で感作せしむるこ
とを妨げずして、之より極めて高度の Vaccin を形成する。
アルジエリアにて施行されてる衛生法規によれば、輸出すべき綿羊は之を
乗船する前に羊痘接種をするか又は抗羊痘血清で処置すべきである。血清に
よる予防は高価なると短期間なるとの不利がある。羊痘接種そのものは、羊
痘の巣窟地方に容易に飼育し得る点より見れば、危険はない。
Bridré et Boquet は幸に羊痘接種の見地に於て感作 Virus を試みんとす
る意見を有した。他の Virus と同様に、感作せる当該 Virus は綿羊に同時
に迅速鞏固長期の免疫を得べく; 更に全く無害なること、即ち、通常の
Deuxième Partie 91
――――――――――――――――――――――――――――――――――
Virus に由来する危険を生じない筈である。実際、実験の示す所では羊痘菌
を抗羊痘血清と接触せしめ、次いで遠心沈澱により後者より分離せしめたも
のは、予期せるすべての性質を得た。
綿羊の皮下に感作 Virus を0,25cc, の分量に注射すると、動物により軽度
の熱症状と、多少烈しき局所症状とを起す。2-4 日目に皮下浮腫は消失す、
唯徐々に逓減する浸潤を残す。重要なる事実は、Vaccin の接種部位が閉鎖
されてることである。
Bridré et Boquet は、始めに、成熟せる綿羊及び8-10 か月の子羊 1,200
頭以上に種痘した。氏等の観察によれば感作羊痘 Virus による予防接種は
通常の Virus による予防接種より更に確実なる免疫を与へ; 同時に種痘さ
れた動物に対し全く危険がないと云ふ結果になつた。接種部位は閉鎖する故
すべての伝染の機会は除かれる。羊痘の潜伏期間に動物に就いて実施せる所
では、感作 Virus による予防接種は疾病の発育を変化せざる様に見える;
故に感染地域に使用すべく、その適用は家畜間の流行を直ちに停止する結果
となるであらう。
最後に、Bridré et Boquet の実験が解決せる重要なる事実は、免疫が速
に形成することである、免疫は既に48時間後に生ず; 本予防接種法により賦
与される免疫の持続期間は、11か月以上である。
氏等の研究を綜合すると、著者等は結論して曰く ”感作 Virus による羊痘
予防接種は予防上の有効なる方法と称するも過言ならざる安全と有効のあら
ゆる保証を提供するものである。アルジエリアの如く羊痘が家畜の地方病の
状態で存する地方に適用することは、その結果は羊痘の巣窟を制限し、従つ
て引いては疾病を消失せしめる,,。(1)
* * *
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) ”Algerie,Tunisie 及びモロツコ王国仏領より来る羊属動物は、積込前最小
15日最大11か月内に羊痘に対し予防接種(感作 Vaccin を使用し)するにあらざ
れば、仏蘭西に輸入するを得ず,,(1921 年, 2 月5日発令)。
エジプトは同様に強制的に同国に輸入する全羊属を感作羊痘 Vaccin にて予防接
種すべきことを宣言した。
1913年より1926年までに Algerie の Pasteur 研究所より感作羊痘予防 Vaccin の
15,852,604 の分量が交付された。
92 Deuxième Partie
――――――――――――――――――――――――――――――――――
了解を容易ならしめる理由として、最も屡々 Vaccin の製造に使用する感
作 Virus は、予め加熱により或は消毒薬により殺したものである。生菌の造
る免疫は死菌の付与する免疫よりも確実にして而も鞏固である。然し実際上
には、特に人間では、生菌を使用せざることを望む。
然し死菌は生菌より遥かに有効である――而して此の事実は実験により証
明されてゐる。この就中「チフス」菌の場合である。
実験的「チフス」熱に関する研究の際に、Metchnikoff et Besredka は通常の
Vaccins 即ち、死菌又は菌体の浸出物を使用して、類人猿を予防接種し得な
かつた事は人の知る所である。再三失敗したので、一体「チフス」熱に対し猖
々を免疫し得るや否やと質問する様にさえなつた。之等の研究を遂行して居
る際に、著者等は彼等自身に取り思ひ設けざる事柄から、「チフス」生菌を使
用せる時に、鞏固なる「チフス」予防免疫を実験する様に誘導された。
「チフス」生菌の注射は局所及び全身の烈しい症状を伴ふを以て、氏等は
Virus を感作せんとの考に思ひ当つた。
実験は感作せる「チフス」生菌は実際上完全なる「チフス」予防 Vaccin なる
ことを示すに躊躇しなかつた。この Vaccin を受けた猖々は何等発熱症状を
呈さなかつた: この注射に引続いて起る局所反応は最小であり、而して之
に続いて起る免疫は絶対的であつた。次いで大量の「チフス」菌を嚥下せしめ
るに、之等の動物は試験に抵抗し、少しの反応をも表はすことがなかつた、
同様に感染せしめた対照動物は充分定型的の「チフス」に感染した。
之は一例である――更に他の場合にも確に見出し得るものであらう――即
ちこの例は死菌は殆ど効果はなくして、感作により毒力を軽減せる生菌の使
用が、その目的を達せしめる唯一のものである。
* * *
猖々にて真実なることは、当然かくあるべきことであるが、人間でも亦か
くあらねばならぬ。然し人間に「チフス」生菌を敢て注射し得らるるか?生
菌を注射するのは危険でないか? 吾人は今日ではこの問題に関する恐怖は
根本から無くすることを確めることが出来た。
Deuxième Partie 93
――――――――――――――――――――――――――――――――――
吾人は「チフス」の感作生菌を2名に注射せる戦々競々【兢々】たる試験に次いで、
之等の実験を継続する様、Broughton-Alcock に依頼した。著者は44名に就
てこの予防接種は無害なる操作なることを確めた。
予防注射を受くべき人員を、その受くる Vaccin の量に従ひ3群に分つた。
第一群は14名に行つた: これ等は寒天24時間培養を100倍に稀釈せしもの
1cc を接種された。18日後に、第1回注射より2倍多き第2回注射をなし
た。局所反応は認むべきものはなかつた: 体温は正常であつた; 注射部位
に疼痛はなかつた; 而して注射当日に被接種者は少しの苦痛もなく彼らの仕
事に従事することが出来た。
第2群は10名に行つた; 之等は第1回注射に前記と同様に稀釈せるもの1,
5cc, を受け、次いで、更に9日後に 3cc, を受けた。反応は特に体躯の小さ
い人に顕はれた; 彼等は5「フラン」の貨幣大の發赤を局所に呈した。彼等に
於て何等全身症状をも認めなかつた。
最後に、第3群は20人に就て行つた; 之等は始めに2cc, の Vaccin 、次ぎ
に、8-10日後に、3cc, の第2回注射を受けた。すべてのものに、軽度の局所
反応があつた。2名に於て、接種者は頭痛と全身疲労の感を訴へた。極めて
矮小なる婦人に於ては、体温は38°に上昇した; 然し之等20人中一人もその
仕事の従事をやめたものはなかつた。
比較するために、4人がLeishman の使用せる Vaccin を以て接種され
た。之等の人々全部に於て、Leishman 自身の記載に応じて、第1回注射後
に体温の軽度の上昇2日間継続する疼痛性の發赤、全部に一般並びに頭部の
疲労感を伴ふことが、証明された。
之等の観察より感作生菌は、同量にて、死菌より構成される Vaccin より
遥に弱い全身及び局所の反応を生ずることが分る。
極めて最近に、「チフス」の感作生菌を以て約700人が接種された; すべて
之等の人々に於ては、全身症状は顕著でなく局所症状は殆ど無であつた; 故
94 Deuxième Partie
――――――――――――――――――――――――――――――――――
にこの Vaccin の無害は疑ふ余地なきものであらう。(1)
* * *
現今に於ては、感作の試みを免れた病原菌は餘り多くない、之等の Vac-
cins の多数が既に広く実施に供されてゐる。
実験室内並に実際上に、その効果を批判せる人々はすべて之に対して通常
Vaccins より優秀なることを認むることに一致した、この優秀なる点は第一
にその無害なるを知る点であり、次にその作用が速かなると同時に、確実に
して持続的なる点である。然し屡々起り得る如く、その摘用の領域が拡大す
るに従つて、その製造を支配する原理が等閑にされることである。吾人は亦
時々その方法を累はし易い誤りがなされるのを目撃した。
之等の誤りを吾人に専属する人々の間にも確めたので、吾人はBasseches と
共同で、製造を指導する前に意見を決定するのがよいと考へたので、新しい
実験を企てることが必要であると信じた。吾人は「パラチフス」B菌を使用し
た; 病原菌の場合には、未だ感作されずに残ることは稀である。吾人はこの
研究は一般に興味ある事実を確め得たので、その選択に後悔はしなかつた。
* * *
種々なる予防接種の方法の長所及び短所を知らんがために、吾人は「マウ
ス」に於て、Vaccins の名称ある次の如き製剤に就て試験した:
a) パラチフツ生菌又は死菌、非感作;
b) パラチフス生菌又は死菌、種々なる分量の抗パラチフス血清の存在す
る場合
c) パラチフス生菌、感作。
すべて之等の製剤は皮下注射で使用された。詳細に渡ることを避け、之等
の実験は次の点を示すことを注意しやう:
1) パラチフスB菌は感作により毒力を減少す、之は非感作菌に対する割
合は100 倍以上となる。
―――
(1) 数千人がそれ以後各国に於て感作「チフス」の生菌 Vaccin を以て予防接種
された(Les Annales de l’Institut Pasteur, 8月 1913)。
Deuxième Partie 95
――――――――――――――――――――――――――――――――――
2) パラチフス感作生菌は通常の毒力強き「パラチフス」菌の致死量の数倍
―50倍までーを防御する;
3) パラチフス感作菌によつて賦与せらるる免疫は活働性免疫である; 之
は予防接種の翌日に形成される;
4) 活働性、強固にして数か月継続する免疫を造る之等の製剤に反し、抗
「パラチフス」血清を混加されたものは製剤が血清を多く含有すればする程、
一時的の免疫を賦与する。換言すれば、Vaccin なるものは極めて大量の菌
体を含有し得、仮令血清の痕跡を含有するも、免疫は活働性でなくなり: 受
働性となる。
* * *
本章を終るに当り感作「ワクチン」の作用方法に就て、少しく述べやう。
吾人の実験の始めに於て、吾人は注射部位に起ることを知らんがために研
究した。吾人は之等の Vaccins は生体に侵入するや間もなく白血球の好餌
となるを見た。亦吾人の最初の発表に於て、吾人は殆ど即時に起る感作菌の
喰菌作用の中に、その表はす性質の秘密があるのではなからうかと考へた。
吾人は吾人の研究を経過の始めの時期に限つたのに対し、Garbat et Mey-
er の研究は将来の時期に及んだ。この研究は吾人自身が為し得なかつた問
題を一層深く追求したものである。之等の研究者は予防接種された人の血清
が得る性質に注意を向けた、この研究は注意すべき価値ある事実を含んでゐ
る。
Garbat et Meyer は家兎に就て行つた。一群の家兎は通常の「チフス」菌を
以て予防接種され、他の一群は感作「チフス」菌を以て接種された。両者共注
射は静脈内に行はれた、菌量、並びに注射間隔及び採血はすべての動物につ
き同様にした。場合に応じ、血清は菌の第1回、第2回又は第3回注射後に
試験した。
ここに著者等の確めたる成績を述べる。
両群の動物のうちに於て、先づ熱反応に相違があつた: 感作せる家兎に
於ては、体温は注射後1時間にして既に2-3度上昇し、次いで急劇に(6-10
96 Deuxième Partie
――――――――――――――――――――――――――――――――――
時間後に)正常に復した; 通常の Vaccin を受けた家兎に於ては、体温は徐
々に上昇し24-36時間に及ぶまで下降しなかつた。
感作せる家兎は、発熱の最高期に於ても、略々正常の外観を保つた、他の
家兎は病状を呈し屡々下痢を起した。第3回注射に於て、通常「ワクチン」の
家兎は斃死せるが、感作家兎は充分に堪へ得た。
Garbat et Meyer の研究の主なる興味は、両群の家兎の血清の研究にあ
る。通常「ワクチン」の家兎の血清は、第1回注射後既に6日にして、強く凝
集(1:100-1:500)するを示した。同じ時期に於て、感作家兎の血清は殆ど凝
集しなかつた(1:10-1:20)。第2回及び第3回注射後凝集価は通常の家兎に
於ては著しく上昇した; 感作家兎に於ては著しい変化はなかつた。
補体を結合する血清の能力に関しても同様であつた: 通常の家兎の血清
に於ては極めて上昇した。この性質は感作家兎に於ては殆ど認められなかつ
た。
是等の実証は著者等をして感作動物の血清中には抗体の存在せざることを
結論せしめなければならなかつた。然し、予防的効果を研究するを目的とす
る時は、氏等は感作家兎の血清は単に予防的抗体(anticorps préventifs)を殆
ど欠如せざるのみならず、通常の家兎(註、通常「ワクチン」注射家兎)の血清
よりも更に多くの該抗体を含有することを確めた。即ち、感作家兎血清は接
種後2乃至4時間なるも、「チフス」感染に対し新鮮なる海猽を防御すること
が出来たが、通常の家兎の血清は同じ条件に於て全く無効なることを示し
た。
Garbat et Meyer の是等の実験は多くの点で興味がある。この実験は感作
「ワクチン」の作用機転並びにその通常「ワクチン」に優る以所【マヽ】を示す。この実
験は、更に、in vitro と in vivo に起るものの間に何等の相互関係なきこと、
凝集反応も、補体結合反応も免疫度の指標として主張し得られざることを示
す。
Deuxième Partie 97
――――――――――――――――――――――――――――――――――
Mémoires Cités
A, Besredka, C, R, Acad, Sciences, 1902, t, CXXXIV, p, 1330; Annales de l’Inst,
Pasteur, 1902, P, 918; Bulletiu de l’Institut Pasteur, 1910, p, 241,
A, Calmette et Guérin, C, R, Acad, Sciences, 1910, t, CLI, p, 32,
Fr, Meyer, Berlin, klin, Wochenschr,, 1910, p, 926,
W, G, Ruppel et, W, Rickmann, Zeitschr, f, Immunitätsforsch,, 1910, p, 344,
W, G, Ruppel, Münchener mediz, Woch,, 1910, n 46,
Vallée et Guinard, C, R, Acad, Sciences, 1910, , CLI, p, 1141,
Levy et Aoki, Zeitschr, f, Immunitätsf,, 1910, p, 435,
A, Marxer, Zeitschr, f, Immunitätsf,, 1910, p, 194,
Levy et Hamm, Münchener mediz, Wochenschr,, 1909, p, 1728,
C, Rolla, Centralbl, f, Bakter, I, Origin,, 1910, p, 495,
J, Bridré et, A, Borquet, C, R, Acad, Sciences, 1912, t, CLIV, p, 144;p, 1256; t,
CLV, p, 306, Annales de l’Institut Pasteur, 1913, p, 797; 1923, p, 229,
E, Metchnikoff et A, Besredka, Annales de l’Institut Pasteur, 1911, p, 865,
Alcock, C, R, Acad, des Sciences, 1912, t, CLIV, p, 1253,
A, Garbat et F, Meyer, Zeitschr, f, experim, Pathol,,1910, p, 1,
A, Besredka et S, Basseches, Annales de l’Institut Pasteur t, XXXII, mai 1918,
P,193,
VII
腸チフス予防接種実験的根拠(1)
Vaccinations Antityphiques
Bases expérimentales
予防接種なる武装が広く施行せらるる疾病は、「チフス」に如くものはな
い。天然痘又は狂犬病に対しては一種の「ワクチン」あるに過ぎざるも腸「チ
フス」は各国共に同一病なるに拘らず、「ワクチン」の種類は20以上とまで行
かなくとも少くも20位を有する特権があるのである。各国には殆ど一種類の
「ワクチン」がある。例へば独逸は Pfeiffer-Kolle の「ワクチン」を、英吉利は
Wright-Leishman のそれを、亜米利加及び日本はそれそれ自国のものを有し、
仏蘭西は多数の「ワクチン」を有するの長所がある。
各研究者は自己の「ワクチン」を推称し他に優るものと信じてゐる。之等多
数の「ワクチン」の実験的根拠に通ぜざるものは、その進むべき方向も分から
ず、更にまた最初から、歴史的異論の対象となれる「プリオリテー」の問題も
あまり分らないことになる。
本章は論説に際し非難的要素は之を除去し、実験的対照の正確なるものを
採取することとした。価値なきにしもあらざる統計に関しては、1906 年に
M, Netter が Bulletin de l’ Institut Pasteur で発表した調査より再録するこ
ととした。
* * *
「チフス」予防注射なる考案の紀元を探求せんとせば、1886-1890 年頃にな
されたる研究を再検する必要がある。Eberth-Gaffky-Koch による「チフス」
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) Bulletin de l’ Institut Pasteur, t, XI, 15 et 30 août 1913,
腸チフス予防接種実験的根拠 99
――――――――――――――――――――――――――――――――――
菌の発見は独逸に於て特に実験室内動物を「チフス」に罹患せしめんとする目
的のために幾多重要なる業績の出発点となつた。之等の仕事は E, Fraenkel
et Simmonds, Sirotinine 及びBeumer et Peiper によつてなされた。
海猽、家兎及び「マウス」に於て「チフス」感染を誘起せしめる生物学的性状
を研究するに際し、氏等は偶然に屡々生存せる動物は再感染の際に更に抵抗
力の強くなれるを確認した。この種の免疫性は Fraenkel et Simmonds によ
つて注意された。この事実はSitrotinine も同様之を指摘したが、然し之に
主要性を附すべきことを信じてはゐなかつた。この事実は最後に Beumer et
Peiper により承認された、氏等は其価値を認めたのである。
ここに如何にして上記研究者がその点に到れるかその経路を述べて見や
う。実験的チフス感染の研究は非常に多数の動物を必要とするので、之等の
研究者はある日海猽の欠乏を来したのである。最早新しい動物を手に入れる
ことが出来ないので、既に使用せる動物を用ふることにした。所が彼等は致
死的感染を免かれた動物は新鮮動物と全く異り「チフス」菌の第二次感染に対
し能く堪えるものなることを認めた。
「マウス」に就き同様の考を以てなされた新しい実験は此の条件にて獲得せ
る免疫性の実在に関しては著者等の期待に何等疑を挟む余地はなかつた。著
者等は更に考を遠きに及ぼし必然的に次の様に要求するに至つた”「チホト
キシン」又は他の「プトマイン」を含有せる殺菌培養が、同様なる免疫性を賦
与するや否やと。この仮説が実現せる場合に、人間に”「チフス」死菌,,を試
みることは敢て異とする所ではないと附言した。
* * *
1886年であつた。この時に始めて生菌ならざる「チフス」予防「ワクチン」
が確実に実験されたのである。
然し附言せねばならぬことは、その当時としては新しいものであつたにせ
よ、人の信ずる如く決して劃世的のものではなかつた。吾人は1886年頃独逸
特に仏蘭西に於てパストウール学派の間に発表された報告中の意向より推察
100 腸チフス予防接種実験的根拠
――――――――――――――――――――――――――――――――――
するに過ぎない。Pasteur 自身は既に伝染病経過中に化学的製剤に主要性を
与えてゐた。氏は陶器にて濾過せる培養を注射し鶏「コレラ」の一定症状を起
し得なかつたであらうか?同様な考へ方から、氏は狂犬病予防注射の作用
を生活せる狂犬病毒以外の物質に帰した。
勿論、本体を捕へんがために、化学的「ワクチン」の考は明確なる実験の追
加を必要とした。而して之は Roux et Chamberland による敗血症に関する
研究の際に満足された。ここに之を記載して見やう。
之等の研究者以前に既に、Charrin は濾過せる緑膿菌培養の大量を注射せ
る家兎はそれにより緑膿菌に対し一定度の抵抗力を現はすと云ふ重要なる事
実を報告した。同じ時代に Salmon は亜米利加に於て殺菌培養を注射するも
hog-cholera (豚疫)に対し鳩を予防し得た。Salmon とは無関係に彼と同時代
に、Roux et Chamberland は其の意をよく示した表題”溶解性物質による
敗血症に対する免疫に就て,, の下に、吾人に暗示を与ふる如き Vibrion sep-
tique に関する研究を公にした。実に死菌免疫に関する其の後のすべての業
績の出発点として考ふべきものは Roux et Chamberland の仕事である。
Chantemesse et Widal の適確なる評によれば、この敗血症に関する研究が
細菌学に新分野を建設したのであると。Roux et Chamberland の論文の始
めに見ることは”すべての生活菌体を除去せる化学的物質を生体内に注入す
るのみにて毒性強き疾病に対し動物を不感受性ならしむことを得れば、免
疫の原因は鮮明せらるべきものと信ずるのである,,。同時に氏等は実験的証
明をなし、極めて毒力強き疾病の一つ即ち急性敗血症に対し動物を不感受性
にならしめ得てゐる。
Vibrions septique の加熱培養(105°―110°に10分間)を三回接種を受けた
海猽と、同数の対照動物とに同時に毒力強き弧菌を接種した。対照動物は18
時間以内に斃死したが、前処置された海猽は生存した。この簡単しに【マヽ】て雄弁
なる実験は死菌を使用する全予防法の根拠となれるものである。
Vibrions septique に関する研究発表の約数か月経過後 Chantemesse et
Widal は「チフス」菌に関する研究を発表した。
腸チフス予防接種実験的根拠 101
――――――――――――――――――――――――――――――――――
Roux et Chamberland と同じく、両氏は高温にて殺菌せる培養による予防
接種法に拠つた。即ち120°10分間加熱せる「チフス」菌を「マウス」の腹腔内
に反覆接種した、次いで之に「チフス」菌の確実なる致死量を接種した。かく
予防接種をなせる12匹の「マウス」中、4匹は処置中に死亡し、生存せる8匹
は確実に予防されたることを証した。(1)
* * *
動物にて成立せる「チフス」予防接種の事実は之を人間に行ふには僅かに一
歩に過ぎないものと見られる。所でこの歩を進めるために Chantemesse et Wi-
dal の発表日1888年より Pfeiffer et Kolle の発表日1896年次いてWright
の同年まで待つことになつたのである。
Pfeiffer et Kolle の研究は其当時重要と見えし二つの事実が目につく。1°
「チフス」患者の恢復期血清中には「チフス」菌に対し殺菌性に作用する特殊物
質が発現する。2°同様の性質は「チフス」菌の増量的分量を以て免疫せる山
羊の血清中にも見出される。他の関係では、人工的に免疫せる動物は新感染
に対し「チフス」恢復患者に免疫性を賦与すると同一なる物質を有する。Pfei-
ffer et Kolle は曰く、もし然りとせば「チフス菌を人間に注射して該物質を
造ることが出来ないであらうか? 正に付言すべきことは、この時に於て人
間を予防接種せんとの考は既に Haffkine の印度に於ける「コレラ」撲滅に関
する根気強き闘ひのお蔭で多くの道程が出来てゐたのである。
寒天培養を集め、「ブイヨン」中に浮遊液となし、次ぎに56°に加熱せる
「チフス」菌を Pfeiffer et Kolle は二人の個体に皮下注射をなした。6日後に
之等の人の血清は著者等が数か月前に、「ワクチン」を射したる山羊の血清及
び恢復患者血清中に指摘せると同様なる殺菌性物質を含有した。この「チフ
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) 非常な高温度に「チフス予防ワクチン」を加熱しないのが有効であると云ふ
ことが屡々問題となる。その他問題は Roux et Chamberland により炭疽菌
に関する研究に於て既に前から論ぜられた。ここには著者等が炭疽病予防注射
の題目につき述べたる所を原文のまま挙げて見る”菌は殺すが、ワクチン性物
質を破壊しない程度になるべく温度を下げる必要がある、即ち55°から58°
の間に保たねばならぬ,,(Annales de l’Institut Pasteur, t, II,1888,p, 410,)
102 腸チフス予防接種実験的根拠
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ス」菌の注射は当時「チフス」に対し人間を予防するために考案された全部で
あつたらしい。
略々同じ頃に、Wright は常に注意深く応用の意向を以て、学理より実用
に進んで行つた。勇敢にも彼は1896年より1904年に至るまで「チフス」予防
注射なる戦端を企てた。
吾人は之等の予防注射の実際的成績には触れずに置く。尚「ワクチン」の製
法も予防接種に続発する臨床上の所見も述べないこととする。吾人がここに
特筆大書せんとするものは、予防接種の問題が経過せる時代相及び彼れ此れ
と「ワクチン」選択の動機となつた実験的研究の経過せる種々なる時代相に就
いてである。
* * *
「チフス」死菌より成立せる「ワクチン」製剤の他に、予防効果を強大にし、
或は注射による副作用を軽減する目的を以て、種々なる種類の「ワクチン」が
考案された。此の種の考を以てなせる比較研究は Paladino-Blandini 次いで
吾人と前後して Vincent によつて行はれたものである。
今日知られたるすべての「ワクチン」製剤を一々詳細に述べることは冗長で
あり無味乾燥である。2,3の例外を除いては、之等は「チフス」死菌の培養全
部を基礎としてゐる。Paladino-Blandini の極めて詳細なる単行本は其の製
法及び効価の大部分を知らしめる。同著者は既知「ワクチン」のすべてを製造
するに困難なる仕事に従事し、之を以て実験的対照試験をやつたのである。
「ワクチン」製剤の各につき、局所並びに全身反応を研究し次いで予防接種の
効果、免疫期間等を調査した。
彼は之等の比較研究から Werner の毒素、Rodet-Lagriffoul-Wahly 及び
Brieger et Mayer の「エキストラクト」を除いては、すべての「ワクチン」製
剤は一定量を以て海猽に「チフス」に対する免疫性を賦与し易きことを知つ
た。種々の Vaccin によつて定めた局所及び全身症状を考慮に入れ、特にそ
の効価及び獲得せる免疫期間を斟酌して、著者は一種の階梯を造りその高位
に感作「ワクチン」を置いたのである。
腸チフス予防接種実験的根拠 103
――――――――――――――――――――――――――――――――――
稍々相違せる結果は Vincent が人間に使用せんための更によき Vaccin に
関する研究の際に得た所のものである。Paladino-Blandini の実際に於ける
如く、実験動物は海猽であつた。「ワクチン」の接種は10日間の間隔を置き3
乃至4回の皮下注射を行つた。最後の注射より15日後に、Vincent は腹腔内
に48時間の「チフス」菌の「ブイヨン」培養1ccを注入し、皮下に10%の食塩
溶液2-4cc又は「アニリン」油を1∖10-1∖8cc注射した。この最後の皮下注射の
目的は「チフス」菌を宿主の全身に蔓延するを促すためである。
Vincent の試みた Vaccins は次の如くであつた: 24時間乃至10日間の「チ
フス」生菌; 53-55°加熱菌、感作死菌; 生理的食塩水で自家溶解せる菌の「エ
キストラクト」; 消化器に投与せる生菌又は死菌。
この研究項目を済まし、Vincent は次の如き結論に到達した; ”海猽に最
も鞏固なる免疫性を賦与するのは24時間又はそれ以上(10間)の培養の生菌で
ある。生菌を浸漬し之を遠心沈澱し次いで「エーテル」又は「クロロホルム」で
殺菌せるものは同じく極めて「ワクチン」効果大である。「アンチゲン」として
は24時間培養55°1時間加熱殺菌せるものの使用は同様よき防御力を賦与
す。感作「ワクチン」は満足なる免疫を与ふるが、余り永続性でない。他の
Vaccins は効価更に少し,,
15日後に発表された報告中、特に人体に応用せる Vaccin の選択を目的と
する同一題目に就いて見るに、Vincent は単に3種類の「ワクチン」を一列に
配列せるは注目に値ひする。曰く、生菌、53-55°加熱菌及び自家融解物。
* * *
之等三種のうちいずれを選択すべきか? Vincent は最初のもの即ち生菌
がすべてのうちで最も効価ありと宣言するに躊躇しなかつた。然し彼は本
「ワクチン」は危険なりと考ふるを以て、彼は他の二種のうちその生物学的性
状が最も生菌に近い所のものを選んだ。Vincent の意見によれば、人間に安
全にして有効なる全保証を与ふる唯一の Vaccin は生菌の「アウトリザート」
であると
此の「アウトリザート」は既に Conradi, Brieger et Bassenge の推称せる所
104 腸チフス予防接種実験的根拠
――――――――――――――――――――――――――――――――――
であるが Vincent の Vaccin と名付けるのが全く正常と云ふべきである。
何となればこの著者の研究によつて之が周く知れ渡り、人間に使用する Vac-
cins の中最も優秀なるものとして発表されたからである。
すべての混乱を避くるために簡単に述べると、Vincent が自分の手で施行
し Avignon, Maroe 及び他の地方で良効なる成績を得た Vaccin は問題にさ
れてる Vaccin ではない。即ち「チフス」菌の「アウトリザーブ」ではなく、「エ
ーテル」で殺菌せる「チフス」菌を以て製せる Vaccin であつたのである。
実験的立場より「エーテル」で殺菌せる「チフス」菌は何んな価値があるか?
「チフスワクチン」の如何なる階級に之を属せしむべきか?
L, Nègre の実験はかなり正確な報告を齎した。著者は家兎を三種の Vac-
cins で比較免疫をやつた。1°感作せる「チフス」生菌; 2°56°1時間加熱「チ
フス」死菌、3°「エーテル」にて殺菌せる「チフス」菌。すべての動物は同じ回
数、同じ分量の Vaccin を受け、次いで同一条件にて採血した。
彼は之等の研究より次の結果を得た。感作生菌を以て注射された動物は凝
集力は弱く、殺菌力は高い。動物は極めて抗体に富む。加熱菌を以て免疫さ
れた動物は凝集力は高く、殺菌力は弱く、抗体に富む。最後に「エーテル」に
て殺菌せる菌を以て免疫せる家兎は凝集価高きも殺菌力弱く抗体も少い。
換言すれば有効なる抗体に富む点よりすれば、「エーテル」にて殺菌せる菌
は加熱による死菌に劣ることを示し、而して此の両者は感作生菌に劣ること
を示すのである。
* * *
Vincent 以前既に、細菌学者は細菌を全部殺し出来るだけ少く抗原性作用
を変ずる如き化学的方法を見出さんとする考に驅られてゐた。この考から出
発し、Levy, Blumenthal et Marxer は細菌の物理学的性質に最小なる変化を
与ふる方法として、出来るだけ温和なる物質を細菌に作用せしめた。之等の
著者はその物質として「グリセリン」尿素又は「ガラクトーゼ」を使用した。之
等の実験から25%の尿素溶液に24時間作用せる「チフス」菌は、乾燥量で1-2
mgr, の割に皮下注射せる時は、腹腔内に接種せる毒力菌の致死量の5-10
腸チフス予防接種実験的根拠 105
――――――――――――――――――――――――――――――――――
倍を確実に防御し得る如き成績を得た。
最小の副作用を以て最大の予防効果を収めんとする他の試みは、一方では
胃腸の経路に行つた j, Courmont et Rochaix のそれであり、他方では予防
接種をするために静脈の経路を選んだ Loeffler Friedberger et Moreschi 及
び Ch, Nicolle のそれであることを述べねばならぬ。
* * *
J,Courmont et Rochaix によれば、胃腸の経路は最も無害であり、確実
なる長所を有すと。氏等の予防的投与試験は山羊、海猽、家兎並びに人間に
為された。使用せる Vaccin は8日間培養で53°に加熱せるものであるつた。
Vaccin 投与は或は空腹時に経口的に送入し、或は浣腸により経腸的に与
へた。著者等は寧ろ第二の方法を選んだ。家兎にはその分量は各洗腸毎に100
cc とし、山羊には280-350cc とした。著者等は3回洗腸を行ひ、数日間
の間隔を置いた。
既に、一回洗腸後に、氏等によれば、血清中に凝集性殺菌性及び溶菌性能
力の発現するを見た。10-15日後には動物は免疫され28時間にして対照動物
を殺し得る「チフス」菌の毒力強き培養の1cc の静脈内注射にも堪える様にな
つた。
興味あることは、J, Courmont et Rochaix による経直腸免疫動物は単に
「チフス」の致死的感染に堪ゆるのみならず、更に「チフス」菌の菌体外及び菌
体内毒素による中毒にも堪え得るのである。かくして又、多価「ワクチン」100
cc を5-6日の間隔を以て洗腸により受けたる家兎は、53°に加熱せる培養
の40cc の分量でも生存することが出来る。然るに対照動物はこの同じ培養
10-15cc のの分量で既に数時間で死亡する。
かくの如く「ワクチン」を投与されたる家兎の血清はCourmont et Rochaix
によれば抗毒性能力を獲得する。この血清の1cc の一部分(1∖3-1∖20cc)は毒
素(「ブイヨン」全培養を53°に加熱)の致死量の三倍を中和するに足る。所が
正常血清(1∖3cc)と単に致死量だけとを混じたるものは不可避的に死を招来す
るのである。
106 腸チフス予防接種実験的根拠
――――――――――――――――――――――――――――――――――
* * *
吾人が指摘せる如く、静脈内注射にも亦その賛成者がある。
Pfeiffer et Kolle、Wright 及び特に Leischman は出来るだけ低温度で Vac-
cin を加熱せんとしたのに反し、Loeffler は120-150°の温度に菌を曝ら
すべきことを推称した。勿論之等の菌は予め乾燥し、次いで乾燥加熱するの
である。かの易熱性の酵素も乾燥した後には極めて高温に堪えその性質を失
ふことなきは周知の事実である。之は乾燥せる「チフス」菌に対しても同様で
ある、即ち120°に加熱せる菌を接種せる動物は殺菌性及び凝集性抗体を形
成する。
Friedberger et Moreschi によつて行はれた分量測定の実験によると、抗体
形成の見地よりすれば、Loeffler の抗原は Pfeiffer-Kolle のそれと同等なる
価値あることを示してゐる。
この証明を行つて、著者等は「チフス予防ワクチン」の代りに乾燥高温加熱
菌を人間に於て静脈内注射に使用せんとの意見を抱いた。実際、吾人が抗菌
体内毒素の存在を証明して以来、之を造るに最も確実にして最も速かなる方
法は培養の全部を経静脈的に注入するにあることは明らかである。この条件
で得たる血清は、他の血清と同じ性質即ち予防効果があり凝集性があるほか
に、抗菌体内毒素なる長所を有する; 即ち経静脈的投与により抗体の獲得を
最大ならしむることが出来る。
Friedberger et Moreschi は Loeffler の推称せる如く150°ではなく120°
に菌を加熱することを以て満足した。何となれば150°では菌は一部分抗原
性能力を失ひ、更に「ホモゲン」の浮遊液を造るのが困難であるからである。
序でながら、之等の実験中 Friedberger et Moreschi は血清中の抗体量は
必ずしも注射せる抗原量に比例して増加するに非ずとの矛盾せる事実を認め
てゐる点は注目に値ひする。即ち著者等は1∖100白金耳を以て1白金耳と同量
の抗体を得たのである。
13人が乾燥加熱せる「チフス」菌の静脈内接種を受けた。注射分量は1∖50か
ら1∖4000白金耳に変化させた; 之は Kolle-Pfeiffer の方法で注射せるものよ
腸チフス予防接種実験的根拠 107
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りも6,000乃至24,000倍弱かつた。然し、著者等の意見によれば、その結
果は Kolle-Pfeiffer の方法によりて得たものと同じく良好であつたと。本「ワ
クチン」の使用は、彼等によれば、非常なる長所があると。即ち本「ワクチ
ン」は自家融解することなく長く保存さる; 正確なる量の測定に適用である;
最後に静脈内注射なる事は局所反応を避け得。全身反応に関しては、Pfeiffer
et Kolle の Vaccin を以てするよりも更に著明なる如きことはない。
Ch, Nicolle, A, Conor et E, Conseil は「コレラ」及び赤痢の生菌の静脈内
注射を試みて勇気を得たので、之を「チフス」菌に実施せんとした。然し後者
の方法の相違は52°,30分間加熱せるものを注射した。生理的食塩水中に浮遊
せる「チフス」菌を加熱し、次いでよく洗浄するために数回遠心沈澱した。終
末の浮遊液は1滴の中に400乃至500「ミリオン」を含む。始め浮遊液の1滴
を生理的食塩水10cc中に稀釈せるものを注射し、次に15日後に2滴を注射し
た。60人がかかる方法で予防接種された。之によつて起れる反応は普通より
も著明なることはなかつた。(1)
吾人が実証せる如く、今日まで使用せられたる Vaccins は殆ど常に細菌の
「エキス」よりなるか、或は消毒薬又は熱の方法により死滅せる菌より成るも
のである。之は死菌であつた。1905年以来Castellani は人間に於て49―
50°の重盪煎に一時間置き減毒せる生菌を試用した。この著者によれば49―
50°の温度は少数の菌を殺すに過ぎずと。かくして製せる Vaccin は第一回
に500「ミリオン」の分量に、第二回にその倍量を注射するのである。局所又
は全身反応は余り著しくなく且つ24―36時間以上継続しない。
同様生活せる他の「チフス予防ワクチン」がある。之は感作「ワクチン」であ
る。この最後の問題の研究に先立ち、一般に Vaccins の取締りに関する問題
を調査して見やう。
* * *
――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) 極めて最近、之等の学者は予防接種の目的で「チフス」生菌、単に46°25分
加熱せる菌を使用した、之等の菌はいずれも二回400乃至1,200「ミリオン」を
静脈内に注入されたのである。
108 腸チフス予防接種実験的根拠
――――――――――――――――――――――――――――――――――
今迄は、既知「ワクチン」はすべて家兎又は海猽に就て Control を行つた。
これ等の動物にありては、多数の Vaccins は多少有効なるを示す。ある「ワ
クチン」は他の「ワクチン」より一層速に一層永続する免疫を賦与するものが
ある。然し殆どすべてが、全部でないにしても、海猽の腹腔内に送入された
る「チフス」菌の一倍乃至数倍の致死量に対し海猽を防御する。
確に、Vaccins の階段中には、実験者の一元説の考へ方とはちがつたもの
がある。之は生菌「ワクチン」である。其の他の Vaccins は人間にも海猽に
も同様に作用する確実さがあるか何うかは斟酌することは出来なかつたにせ
よ、その相違は本当に著しいものではない。
所が、この確実さは不幸にも未だ欠くる所がある。
原則として海猽より人間に移すことを認容されてゐることは、吾人は故意
にそれに意義を申立て様とするのではない。然しそれがためには、海猽に於
ても人間に於ても、同様な疾患を起すことが出来なければならない。それに
は只同一細菌の作用のみでは充分でない; 更に出来るだけ同一なる解剖臨床
的所見を呈しなければならぬ。
その考へ方を確むるために具体的の一例を引いて見やう。「コレラ」弧菌は
小家兎に於て腹腔内注入によるか経口的投与によるかに従つて或は腹膜炎を
或は腸管の「コレラ」を起す。所が「コレラ」性腹膜炎に対して予防することは
極めて容易なるに反し、腸管の「コレラ」に対しては全く無防備状態である。
そこで、接種材料に就ては、単に菌のみならず更に菌が局限すべき器官を精
査することが大切である。
再び「チフス」菌に帰つて来よう。少くとも24時間以内に発生する海猽の腹
膜炎又は「チフス」敗血症と、その発病に長期間を要する人間の「チフス」発熱
との間には、細菌以外には共通性はないのである。解剖臨床的見地よりすれ
ば両疾病の差異は少くとも「コレラ」菌による腹膜炎と腸管「コレラ」との間に
於けると同じく深いものである。菌又は菌生産物の注射に続いて表はれて来
る細菌の性質に関しては、その意義は殆ど之を証明するに足りない。皮下に
細菌体又は細菌の「アウトリザート」を注入せる個体は、凝集素、補体結合物
腸チフス予防接種実験的根拠 109
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質又は溶菌素を産生するに過ぎない。之を結論するに真実の「チフス」免疫の
発現することだけは、偶然ではないらしい。
所で、予防接種方法が、海猽の「チフス」による腹膜炎の場合に有効なる故
を以て、人間の腸「チフス」にも必ずや成功すべきものであると何うして結論
することが出来やうか!
* * *
真の実験的取締法は最近に至るまで出来てはゐなかつた。Metchnikoff が
人間の腸「チフス」に極めて類似し海猽の「チフス」の感染とは全く異る疾患に
罹病し得る一つの動物即ち類人猿があることを示して以来、今日ではそれが
可能になつた。
類人猿に経口的に「チフス」菌を送入する時は当日も翌日も病気に罹らな
い。各例により差異あるが、病気の最初の徴候が表はれる前に、5,6,8日を
経過する。この潜伏期間は感染が重篤ならざる程更に長くなる。
発病は6,7又は8日目の夕方に温度が上昇するので分る。体温は翌日も
上昇しつづけ40°又はそれ以上に達する。体温は4乃至8日間は朝は軽度の
下降を示すも決して正常体温に復することはない。この状態の時期を過ぎる
と、体温は徐々に下降する。平均三日目の始めに、平温に復帰する。
熱の最高期には、毎常血液中に「チフス」菌を証明する。血清は1∖50―1∖400ま
で凝集する。糞便は屡々下痢状を呈す。
多くの場合、「シムパンゼー」は治癒す。腸「チフス」は、比較するならば、
子供のそれを思はせる。猿の死せる場合は「チフス」菌は肝臓、脾臓、淋巴腺
中に純培養の状に見られる。Peyer 氏腺は強度の肥大し充血してゐる、特
に Valvule liéo-caecale(廻盲弁)の付近に於て強い。
* * *
前に述べた所で明なる如く、人間に於ける「チフス予防ワクチン」の効価を
判断するには、最も適当なる実験動物は「シムパンゼー」である。
この考へより出発し、Metchnikoff と吾人同僚は最も普通に使用されてゐ
る「ワクチン」の検定を開始した。即ち一方では死菌につき、他方では生菌よ
110 腸チフス予防接種実験的根拠
――――――――――――――――――――――――――――――――――
り製せる「アウトリザート」について行つた。
死菌「ワクチン」のうち最も普通に考へらるるものは、海猽に於ては、感作
せる菌によつて代表されて居るものであるから、吾人は二頭の若い「シムパ
ンゼー」に本法によつて接種をなした。
第一のものは二回反覆し皮下に死菌感作「ワクチン」を受けた。第一回注射
後12日目にこの「シムパンゼー」及び対照の「シンパンゼー」に経口的に「チフ
ス」菌培養と「チフス」材料との混合を投与した。6日間の潜伏期間後に、両者
共に「チフス」に罹患した。感作せる菌を注射された「シムパンゼー」の表はせ
る熱の上昇中、兎に角軽度(38°6―38°2)であつたが、吾人はその血液中より
「チフス」菌を分離することが出来た。
死滅感作菌を以て接種する第二回試験は第一回と同様有効ではなかつた。
「シムパンゼー」を使用し、死菌感作「ワクチン」を三回皮膚に接種せる後、試
験材料(「チフス」培養及「チフス」材料)嚥下後七日目に、最も定型的なる「チ
フス」疾病を表はし、血液中にエーベルト氏菌を証明した。
かく死滅感作菌を以てせる予防接種に失敗せるを以て、吾人は Vincent 氏
法による「チフス」菌の「アウトリザート」を使用した。
ここに之等の実験の一つを挙げて見る。一頭の「シムパンゼー」は皮下に三
回反覆して「アウトリザート」の1ccを受けた。第一回接種後14日目に、一頭
の対照「シムパンゼー」と同じく、経口的に人間の「チフス」菌及び「チフス」材
料の混合を処方した。この試験材料嚥下後9日目に二頭の猿は温度の上昇を
表はした。対照では体温は翌日下降し引続き2回上昇せるも極めて褪め易い
状態のものであつた。血液は1:400―1:800まで凝集した、然し常に無菌で
あつた。「アウトリザート」を注射せる猿では全く別であつた。対照とは反
対に、極めて高熱(40°8に達し)2週間継続し、動物は遂に死に至つた。血液
は1:400に凝集し、「チフス」菌は大量に存在した。之は吾人が使用せる「シ
ムパンゼー」にて観察せる最も重篤なる「チフス」であつた。
二頭の「シムパンゼー」に於ける反応を比較して見ると、「アウトリザート」
の三回注射は、予防所でなく、動物を感受性ならしめ、その病患を重篤なら
腸チフス予防接種実験的根拠 111
――――――――――――――――――――――――――――――――――
しめたと云う印象をはつきりと抱くのである。
二種の「ワクチン」――加熱感作菌及び生菌の「アウトリザート」――は「シ
ムパンゼー」には有効でないことを示す。同一の日に海猽に試みた実験では、
腹腔内に注射せる「チフス」菌の致死量の数倍を防御し得ることをしめした。
* * *
「シムパンゼー」の腸チフス病と海猽の「チフス」性腹膜炎とは、それ故単独
同一なる疾患として考へられないのである。従つて、海猽で得た成績に基い
て、腸チフス病に対する予防接種の方法を樹てる権限はない。
人間に於て予防接種の試験で示された他の事実はその血清中に殺菌性又は
溶菌性能力の発現することが比較的稀なることである。此の能力の発現が抗
チフス免疫性の獲得に必要なることを意味することは屡々反覆して述べられ
た所である。此の問題の詳細に入る必要はないが、嘗てはこの液体の性質に
主要性を置いた独逸に於てさへもこの説を去り、之に余り考慮を払ふことが
なくなつた。
繰り返し失敗せる後、吾人は人工的方法によつて腸チフス病に対する免疫
性を動物に起させることは困難であるか、乃至は不可能であると考へたので
ある。が実験は反証を吾人に供給するに至つたのである。
腸「チフス」に関する吾人の研究の際に、Metchnikoff 及び吾人同人に課せ
られた問題の一つは、「チフス」菌を皮下に接種することにより、之を経口的
に与ふると同様なる疾患を「シンパンゼー」に起すことが出来るか何うかを知
ることであつた。吾人はそこで類人猿に寒天培養の「チフス」生菌の10分の1
[(註)寒天斜面の培養全量を10ccの食塩水浮遊液とし、その10分の1のこと)]
を1ccの液に浮遊せるものを皮下接種をなした。殆ど即時に烈しい局所及び
全身の反応を起し、13日間継続した。吾人は菌の嚥下に特有なる何等の症状
をも認めなかつた。
その後しばらく過ぎてから、吾人はこの「シンパンゼー」を使用せんとの考
を持つた。吾人は猿に「チフス」菌を経口的に投与し、同時に対照となるべき
他のものにも投与した。吾人の一驚せるは前者は何等症状を起さなかつたの
112 腸チフス予防接種実験的根拠
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に、同時に同じ条件で感染せしめたる対照は定型的の「チフス」に罹患した。
この事実は「チフス予防接種は可能なることを結論せしむるものである。
勿論毒力強き「チフス」生菌より成る「ワクチン」は、不便を呈することな
しとは云はれない。吾人が前に云へる如く、我が「シムパンゼー」は生菌の皮
下注射に続き、烈しき局所反応を呈し、引き続き衰弱状態を呈した。人間は「シ
ムパンゼー」より更にニエーベルト氏菌に対し感受性が大なるが故に、同様な
る接種方法によれば非常に重篤なる症状を起すべきを怖れるのである。
この偶発事件を避くるために、Metchnikoff と我々同人とは感作「ワクチン」
を使用したのである。吾人は8日間の間隔を置き2回注射をなした後、「シ
ムパンゼー」では更に強固なる「チフス予防免疫の発現するを見た。かく予防
接種をした後に、培養又は有毒なる糞便材料の形で「チフス」菌を多量に嚥下
せしめたのに、対照又は他の「ワクチン」で処置されたものは「チフス」に罹患
した。
感作生菌「ワクチン」の効果は多くの顕著なる実験に於て五頭の「シムパン
ゼー」にて確めることが出来たので、吾人は人間に於ける試験を行つて差し
支へないものと信じたのである。
* * *
誰でも、今日では; 死菌又は菌浸出液より成る「ワクチン」より生菌「ワク
チン」の優れることに異議を申し立てるものはない。人間並びに動物に於け
る、予防接種の長い実施は、充分に之を証明した。吾人は種痘、狂犬病又は
炭疽病の歴史を想起するまでもない。然し「チフス」の場合には、そを極めて
危険なりとなすに躊躇しない。近来でもなほ極めて有力なる学者等がこの
「ワクチン」に対し極めて烈しき誹謗を投げはしなかつたであらうか?。人は
また吾人の「ワクチン」を接種されたものは慢性保菌者たらしむ、即「チフス」
流行の尽きざる源となすと云はなかつたか?。人は之を殺人「ワクチン」とま
で難癖つけるに至つた。かかる品質形容詞までが使用された。
かくの如き評価は吾人の方法を施して見んと欲する人達を意気阻喪せしむ
ることはなかつた。吾人は然しながら注射並び我が共同研究者と共に男女子
腸チフス予防接種実験的根拠 113
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共10,000人に至るまで接種することに成功した。今日まで良心に誓つて一人
の死亡せるものなく、のみならず吾人の知れる所では唯一人の「チフス」菌
保
有者もなかつた。
吾人は我々自身及び我々の周囲の人々を予防注射した後、六か月以上幾度
も繰り返へして、糞便や尿を検査した。吾人は吾人の被接種者の家のものの
糞便、尿、血液を検査し又検査せしめた。吾人は一度も「チフス」菌の最小痕
跡をも見出したことはなかつた。
吾人は自分自身の経験から付加出来ることは、被接種者が、予防接種をせ
る当日も、其翌日も以後も、仕事の従事をやめたるものなきことである。
以前より、何故と云ふことは分らぬが、被接種者に於て発赤及び触はる際
に疼痛感を表はす如き、局所の反応を認めてゐる。稀な場合に例外として
39°に体温の上昇することがある。然し確むることの出来るのは同一分量で
は生菌感作「ワクチン」は、局所に於ても全身に於ても、死菌を以て製せる
「ワクチン」より遥に温和なる反応を呈することである。
吾人の「ワクチン」に対しも一つの非難はかうである。他日不幸にして
「チフス」の潜伏期の間の人を接種する様なことがあれば、「ワクチン」中に含
まるる「チフス」菌が既に生体中を順環する菌に加はるを以て、著しく「チフ
ス」症状を重篤にすることが必ずあり得ると云ふのである。
この非難は事実によつて証明されたものではない。Ardin-Delteil,Nègre
et Raynaud がアルジエリーに於ける臨床的観察、Boinet がマルセイユに
於ける、Netter が巴里に於ける、及び他の人々の観察は、「チフス」菌の感作
生菌は、之を「チフス」経過中に注入する時は、寧ろ疾病に良好を呈す; 即
ち病日を短縮し、再発の数を著しく減じ、死亡率を強度に低下する。故に疾
病の経過中に良好に作用する Vaccin は潜伏期間に於て有害なることは恐ら
くあり得ないことである。
「シムパンゼー」に於ける吾人の実験の綜合及び人間に於ける観察に基き、
感作「チフス」生菌は皮下に注射するに全く無害にして、人間に於ては、異議
なき予防接種用性質を賦与せられたるものなることを肯定することが出来る
114 腸チフス予防接種実験的根拠
――――――――――――――――――――――――――――――――――
Mémoires Cités
Pasteur, Annales de l’Institut Pasteur, t, I, p, 10,
Roux et Chamberlnd , Annales de l’Institut Pasteur, t, I, p,561,
Chantemesse et Widal ,Annales de l’Institut Pasteur,t, II, p, 54,
Pfeiffer et Kolle ,Zeitschr, f, Hygiene, 1896、p、202,
Paladino-Blandini, Annali d' Igiene sperimentale, 1305, p, 295
Vincent, C, R, Académie des Sciences, février 1910, pp,355 et 482,
Nègre, C,R,Société de Biologie, t, LXXIV, 31 mai 1913
Levy, Blumenthal, Marxer, Centralbl, f, Bacteriol,,t, XLII, 1906, p, 265,
Courmont et Rochaix, C, R, Acadèmie des Sciences, t, CLII,
Ⅷ
「コレラ」予防接種
Vaccinations Anticholériques(1)
「コレラ」の予防「ワクチン」に吾人の考を押し進めることは学ぶべき所大で
ある。細菌学者がその威厳のために反対ではないにしても、自重せる態度は
教訓なきにしもあらずである。
現今に於て最も有効視さるるこの Vaccin は長い間予防方法として最も怪
しげなものとされて来た。有名なる学者達のその中には世界的権威あるもの
もあるが、無下に之を棄てて了つた。Vaccin の効価は研究室の方法によつ
ては証明されなかつた。彼等は之を無効にして価値少きものと考へた。然し、
流行時に際会し、予防接種の効果を見たる人々はかかる意見ではなかつた。
彼等は之を有効なりと感じたることを自ら禁ずることが出来なかつた。然し
臨床方面の領域よりの論拠は研究室の精密なる事実と争ふことは出来なかつ
た。かくしてまた「コレラ」予防接種の問題は二つの反対の流れの間を長い間、
約三十年間動揺してゐた。
今日、吾人は吾人以後にも幾多の大流行の経験を有する。「コレラ」予防
Vaccin の予防的意義は異論の余地はない。もし現今我々がその価値を肯定
したにせよ、その効価に就ての実験的証明が遂に見出されたがためではない。
之は Vaccin が疑惑と不確実との長期間から勝利を得るに至つたのは流行病
学者のお蔭である。「コレラ」予防ワクチン」が研究室の人間にも施行されな
ければならないのはたとへ誹謗はあつても――それは最も屡々理由のあるこ
とであるが――統計学者のお蔭である。
――――――――――――――――――――――――――――――
(1) Bulletin de l‘Institut Pasteur, t, XX, 15―30 janvier 1922,
116 「コレラ」予防接種
――――――――――――――――――――――――――――――――――
Ⅰ 実験的部門
Partie Expérimentale
「コレラ」弧菌は1884年に発見された。1885年に、Jaime Ferran が「コレ
ラ」に対する「ワクチン」を調製せることを告げた。研究室内の実験に従事す
ることなく、スペインに勃発した流行に恐らくは脅かされて、Ferran は直
接人間に於ける接種を行つた。彼は多数の人々を接種しその結果に満足を表
した。隣接する諸国に流行の拡大せんとする兆候は官権を心配せしめた。仏
蘭西政府は Ferran の許に学者よりなる派遣団を送つた。不幸にして、その
調査は悪い条件の下に行はれた。調査班は「ワクチン」製造方法の齟齬の点
で衝突した。彼等は判断すべき要素を見出さんと希望せる悲惨なる「コレラ」
流行地に於て悪い手助をなし、仏蘭西に悪い報告をなした。彼等が政府に寄
せたる報告書に宣言して曰く『Ferran によつて行はれつつある「コレラ」予防
接種の予防的価値の証明はなされてゐない』。
この判断は Vaccin の前途に重くかかつて来た。しばらくして後、Ferran
の製剤は患者よりは分離せる「コレラ」生菌よりなることを知つた。
五年間が経過してた。Virus ―Vaccin に就てのパストウール氏の創意が次第次
第に生物学者の間に侵入して来た。パストウール研究所の若い技術家なる
W, Haffkine は予防接種の問題を再燃さすべく決心した。彼は Pasteur が狂
犬病及び炭疽病になした所のものを「コレラ」に応用せんことを申し出た。彼
は先づ固定毒を得んことを努め、之より出発して、弱毒菌を製することに力
を致した。
Haffkine は「コレラ」弧菌を海猽より海猽に通過せしめた。一列の腹腔内接
種の後、彼は毒力不変なる浸出液を得た。之は「固定毒」である。弱毒菌を得
るために Roux 及び Yersin の実験より思ひ付き絶えず喚気を行へる場処で固
定毒を39°に培養した。菌は弱くなり、一定時期に於ては菌は最早海猽の皮
下に壊疽を造らなくなる。更にこの海猽に強毒菌を注射する時には nécrose
を防御し得るのである。ここに於て「弱毒菌」を発見し得た。
「コレラ」予防接種 117
――――――――――――――――――――――――――――――――――
Haffkine は同時に弱毒菌を使用して生ずる免疫は単に局所病竈に資する
のみならず、かく処置されたる海猽は菌の致死量の1倍乃至数倍に抗する能
力を獲得するを確めた。
彼は固定毒及び弱毒菌を得たるに際し、その目的は達せられ、只余す所は
人間に於ける接種の実行のみと考へた。
1903年2月「コレラ」流行地の目さるる印度に向け出帆した。そこで本問題
の決定的解決をなすに疑はしき一大実験を実現せんことを期待した。不幸に
して意外なる障礙が至る所から起つた。この困難に打ち勝ち人間に於ける予
防接種の効価に関する厳正なる最初の報告を吾人に供給することに成功せる
は実に彼の不撓不掘の争闘のためのみによるものであつた。吾人は之を再録
しよう。
* * *
Ferran の如く、Haffkine は予防接種のために、「コレラ」生菌を使用した。
二種の Vaccins 調製中に、Haffkine はその純粋さとその毒力に関し完全なる
技術を用ひた。かくしてパストウール氏の教義による接種方法を制定し、氏
は少しも偶然に委することなきを信じた。
所で、狂犬病や脾脱疽に対する予防接種には実際上全く必要なるこの毒力
の測定を Haffkine はかくも重大視してゐるが、之は「コレラ」の場合に必要
欠くべからざるものであるか?。強弱毒力の二種の生菌系統の代りに、唯一
の死菌の使用が代用でもぬ【?】であらうか。之が当時の若きパストウール派の
Gamaléia の不審とせる所であつた。
Gamaléia は120°に加熱して弧菌を殺した。之を新鮮海猽に注射せるに、
彼は之等の海猽は「コレラ」生菌に対し防御され得ることを確めた。
この免疫は Brieger, Kitasato et Wassermann の実験に於て更に鞏固なる
ことが分つた。之等の研究者は120°の培養を加熱する代りに、65°15分間
加熱殺菌せる「コレラ」菌を使用した。之等の研究についで、「コレラ」予防接
種の歴史が新局面に進入したのである。
特に独逸に於て、接種動物に於ける血清の性質研究に従事するに至れるこ
118 「コレラ」予防接種
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とは R, Pfeiffer の刺戟によるのである。体液の殺菌性能力は特に学者の注
意を惹いた。
免疫の鍵を探さねばならぬのは、溶菌作用の中にありと、Pfeiffer 及び彼と
共に多数の細菌学者が宣言した。之に反して、感染能力に於て動物の運命を決
すべきものは喰菌作用なることを、Metchnikoff 及びその門下が確定した。
「コレラ」弧菌が殆どすべての負担をかけた一つの争闘が両派の首長の間に
進入した。液体学説と細胞学説との間にあるこの決闘の結末は今尚精神的に
残存してゐる;吾人はここに停まることを避ける。
只最初には、実験は Pfeifferに有利なる様に見えたことを注目しよう。
実際「ワクチン」接種者に於ては、血清が殺菌性物質に富むことと、獲得せ
る免疫度との間に密接なる関係が存在しないものであらうか。
此の関係は絶対的のものでないことを示すには、Metchnikoff の研究で充
分である;この関係は、反対に、弧状菌によつて生ずる感染以外の感染では
却つて一定不変なりと云ひ得ないのである。然しこの考は棄てられた。仮令
個体の抵抗力の尺度を溶菌作用の中に見出すを以て万事終れりとなせるも、
その考だけに留むることは困難であつた。それ故よりよき Vaccin は高度の
殺菌性能力を与ふるものであると結論する必要は少しもなかつた。
次いで、Kolle 及び他の研究者は加熱菌の使用を推称したが、之は一様に
in vitro に於ける実験に基いたものである:死菌を注入されたる動物に於て
はその血清は生菌を注射された動物に於けると同じく殺菌性なきや?
最も長所あるものは Vibriolyse (弧菌溶解作用)である。この Vibriolyse
が Vaccin の選択を決定すべきものである。勿論、時々この方法を以て見る
ことの適用でない事実は唱へられた。この問題が「コレラ」に関して決定的に
定められたかの如く見えたのは、少からず本当である。かくの如きは細菌学
者殊に独逸語使用の学者の大多数の意見となつた。
然し、彼らは Metchnikoff を包含してゐない。
* * *
動物は皮下に死滅せる弧菌の注射を受けたる後、殺菌性血清を得ることは、
「コレラ」予防接種 119
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全々正確ではない。之によつて動物はこの事実から「コレラ」の腸内感染に対
し予防接種さるべきことを証明してゐるか?。
皮下に弧菌を接種せられたる海猽は次いで腹腔内に致死病毒を接種するも
之に抵抗することは全々正常とは考へない。;弧菌による腹膜炎に対する予防
接種は勿論実現するに最も容易なる手段の一つである。然し、かく処理せら
れた動物は真の「コレラ」即ち弧菌による腸炎に対し予防接種せられたと云ひ
得るか?。
動物が極めて少量に皮下注射をされたとき、若し試験感染が腹腔の経路によ
らずして、経口的に実施さるるならば、その処見は全く変ることを、Metch-
nikoff は認めた。たとへ強硬に腹膜炎に対し防御されても、たとへ大量に殺
菌性物質が出来ても、処置動物は「コレラ」に感染しないことは稀であつて、
これがために斃れるのである。
Metchnikoff の幼弱家兎の試験例は矛盾と思はるるこの現象を説明し而も
之以上よく説明し得ない。
幼弱家兎がその母親の乳で養はれてゐる間でも、家兎の処生兒は経口的
「コレラ」感染に罹り易い。平均六日目で死ぬ。経口的に送入された弧菌は胃
を通過し小腸内及び盲腸に落ちつく。病の経過中、独特なる米粥状の下痢を
見る;之は無色、無臭、漿液性にして、明黄色に着色せる粘液の凝塊を含有
する液体より成る。動物の体温は30°以下に低下す。
解剖学的病理学的所見は臨床的症状と同じく特徴がある。解剖学的病竈の
主なる部位は小腸にして、ここには極めて多量に弧菌が存在する。弧菌は又
胆嚢内稀に胃内に見らる。
幼少なる家兎の「コレラ」と人間の「コレラ」との此の大なる類似の存するこ
とに就いて、一つを以て他を結論することを認許しないでよいものか?即
ち幼少家兎は加熱菌を以てしては、経口感染に対し予防接種に適当でない。
強ひて結論すれば之は人間に於ても同様であるべきである。
Metchnikoff はこの点につき述べて曰く『家兎の腸内「コレラ」は消化管内
にて造られたる毒素による中毒である。即ち之は多くの業績中に示せる如く、
120 「コレラ」予防接種
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予防接種は生体の中毒に対しては防御するものでない。故に組織内送入の
「コレラ」弧菌に対し充分に予防接種をせられたる動物が腸内容中に造られた
る毒素による中毒に抵抗し得ないことは先ず以て容易に信じられる。』
* * *
幼弱家兎に行へる今日では「クラシツク」となれる之等の実験により、「コ
レラ」の予防「ワクチン」の理由は、全く無意義のものとならないまでも、著
しく危くなつた様である。
然しこれがために、血球の点より、或は他の点より、人体に対する新試験
を妨げることはなかつた。到る所に始めは戦々競々として次いで次第次第に
肯定的に予防接種に賛成する声の上るのを聞いたのである。
彼らの圧迫の下に、Metchnikoff は、疑を抱き、1910年に、既に十四年
間幼弱家兎に就て観察せる彼の実験を再び為すべく決心した。氏はChouke-
vitch にその実施をなすことを委嘱した。
Metchnikoff が1896年に確定せる如く、幼弱家兎は生後20日間は、病毒の
嚥下により「コレラ」に罹患し易いものである。
Choukevitch は免疫操作が始めの20日以内に終了する様にその実験を準備
した。次いでその家兎を経口的方法による試験に供し、接種の効果を観察す
るために更に数日間を置いた。
家兎処生兒は二回に皮下注射を施行された;即ち第一回注射は生後2,3日
で行ひ;第二回注射は4日乃至6日遅れて行はれた。
次いで動物に7日間の休息を与へ;次ぎに試験に供した。予防接種された
家兎並びに同一腹、対照家兎は生後15日目頃に経口的に同量の生弧菌を受け
た。
実験には合計31頭の家兎を供し、19は処置動物、12は対照とした。
接種動物19頭中、14頭が試験後に斃れた。即ち73%である。
対照動物12頭中、6頭が試験後に斃れた。即ち50%である。
故に、Metchnikoff が1896年に皮下注射は真の「コレラ」に対して無力な
ることを肯定せるは正当であつた。即ちこの事柄はかくの如く家兎処生兒に
「コレラ」予防接種 121
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施せるこの新実験より引用さるる唯一の結論であつた。
若し何人かが、実験に供せる動物は予防接種を受くべく余りに幼弱である
と云つて反対せんと欲するならば、Metchnikoff は別に断乎たる返答を持つ
てゐる: 即ち問題になれると同年齢の家兎処生兒にして加熱弧菌の皮下注
射二回を受けたるものは、試験を per os に行ふ代りに腹腔内に行ふ時は万
事に充分に予防されてゐることを示すのである。
この新実験により、皮下接種法による「コレラ」予防接種は実際上人間に関
係ある唯一の型なる腸「コレラ」に於ては更に無効なることが宣言された。
* * *
「コレラ」予防「ワクチン」に対する実験室の研究は少からず追究された。尚
1902年に、感作「ワクチン」による予防接種の理論が書かれた時、これに用ひ
られた最初の菌の一つは「コレラ弧菌であつた。それ以来、多数の病原菌が
感作され或は医学に又は獣医学に広く実用に供された。唯々感作コレラ弧菌
のみが、吾人が説明せる理由に基き、実験室の入り口を飛び越えなかつたので
ある。然し乍ら動物に於ける研究では感作コレラ予防ワクチン」は局所及び
全身反応が極めて少きか又は全々なくして免疫を獲得することを示した。而
もこの免疫は所謂陰性期の前駆することなく、鞏固にして極めて速に生ずる
長所を有することを示した。
一般に支配する意見は人間に於ける「コレラ予防ワクチン」使用の次第に不
利となれるを以て、之れ以上に渡ることなく是等の事実を記載するを以て満
足としたのである。(1)
* * *
かかる状態で16年間停滞した。その結果、吾人は感作弧状菌に関する新研
究を再び見出すために1902年より1918年まで一足飛びに過ぎければならな
かつた。是等の研究は日本の細菌学者三氏:K, Shiga, R, Takano et S, Ya-
be により慎重になされた。氏等の実験の詳細に就てはここに記載すること
―――――――――――――――――――――――
(1) 感作コレラ弧菌による予防接種は現今に於ては殆ど日本で使用されてゐる
だけである。
122 「コレラ」予防接種
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は出来ないが、それに就いての一般の順序を述べて見やう。
独逸の業績特に Pfeiffer 派の業績より「ヒント」を得た是等の著者は彼等の
研究を溶菌素に求めた。通常の弧菌並びに感作せる弧菌にて処置せる動物の
血清を比較研究して見たのに、氏等はこの最後の場合に、細菌溶解性抗体は
より速に発現することを確めた。
氏等は他の検証を行つた、之は吾人の眼から見れば更に重要なるもので、
in vivo に於ける免疫を取り扱つたものである。氏等の実験より結論せるこ
とは、静脈内注射により、感作「ワクチン」を使用せる場合には、動物は「ワ
クチン」接種後六時間にして既に致死量の弧菌の感染に耐へる、然るに非感
作コレラ弧菌は同一条件の下に於て24時間後に始めて免疫を賦与するに過ぎ
ない。
著者等が正当に之を認むる如く、この免疫性の早く出現することは、実際
問題の見地からすれば、殆ど常に大流行に於ける措置を必要とするが故に、
侮るべからざる点である。
感作弧菌の場合に於ては「ワクチン」の反応は極めて軽度なるに加ふるに、
この長所は通常「ワクチン」に優る優越性を感作「ワクチン」に与ふるものであ
る。
是等の著者によれば、感作「ワクチン」は1)速に且つ容易に生体により吸
収され――、2)殆ど組織を刺激することなく又之による反応も著しくない、
之と同じく有利なる条件は陰性期の期間を減少する。然し、この陰性期は
「コレラ」の場合には、後に見る如く確定されてはゐない。
「コレラ」予防「ワクチン」の応用を述べる前に、実験的見地より此の問題に
関係せる種々の工程を述べた所を総括して見やう。
「コレラ」に対し人間を予防接種せんとする考を抱けるは Ferran その人で
あつた。本問題の既知の事実の範囲に取り入れ、殊に広大なる階梯に予防接
種を施行したのは Haffkine その人であつた。両者共に生弧状菌を使用した。
R, Pfeiffer は、血清中に殺菌性能力を証明したので、生菌に代ふるに、加
熱菌体を用ひた。
「コレラ」予防接種 123
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Metchnikoff は「コレラ」予防免疫の機転を明にした;氏は溶菌素の意義を
実際の比例に引き戻し、そして本物質の存在は腸内「コレラ」を防御するには
殆ど足らざることを証明した。
Ⅱ 臨床的部門
Partie Clinique
「コレラ」予防接種の問題は実験的成績の点より見れば、全く異れる姿で表
はれてゐる。細菌学者が免疫の軌範に就て論じてゐる間に、彼等が皮下注射
の価値を承認し、遂には之に全価値を撒くに到らなかつた間に、流行病学者
は Vaccin の製造に加へられた各新機軸を利用し続けた。彼等はその豊富と
その重要性とに於ては充分なる材料を蒐集し逐ふせた。
確に、最初の統計は性質上確信を得なかつた。之を云ふものはあるが、然
し之を詳論することを躊躇した。然しながら之等の統計はすべて将来有利と
なるべきことを欠如せざる特長を呈供した。之はその同一性であつた。流行
病が小さい範囲又は人口多き所に起つても、流行が重いにせよ軽いにせよ、
流行が印度、ペルシア、露西亜にあるにせよ、罹患率は接種者に於ては非接
種者に於けるよりも常に低いのである。決してこの規則に例外を唱ふるもの
はなかつた。
たとへ、始めには、偶然を主著したとは云へ、予防接種の技術が改良され
るに従つて益々この疑は範囲をせばめた。即ち予防接種の効果は異議なく次
第次第に浸み渡る様になつた。
* * *
望む所の充分なる精確さを以て記載されたる流行病学的の最初の観察は
Haffkine のそれである。其の歴史的興味の理由に於て、その一つを述べて見
やう。
一つの流行が印度の Gaïa 牢獄に爆発した。そこで囚人に予防接種をやる
ことにした。未だ新方法で得た経験が少いから半分だけに施行しその利益を
受けしめる様にした。
124 「コレラ」予防接種
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最初の注射につづく始めの五日間に、衛生状態は次の様にあらはれた。
非接種者210人中: 「コレラ」患者7人(3,33%)、死亡5人(2,38%)
接種者 212人中: 「コレラ」患者5人(2,36%)、死亡4人(1,89%)
故に罹患率も死亡率も初めの五日間は両群共著しく似通よつてゐた。第二
回注射を行つた。次の五日間で状況は次の様に変つた。
非接種者192人中: 「コレラ」患者4人(2,09%)、死亡1人
接種者 201人中: 患者0 死亡0
たとへ数字は少数に就て求めたとは云へ、是等の数字は雄弁に物語つてゐ
る。これより免るる有利なる印象を減少するものは、死亡率が接種者に於て
も非接種者に於て同様に増加する事実である。換言すれば、接種者で「コレ
ラ」に感染せるものはその注射のために何等恩恵を蒙つてゐない: 即ち接種
者も亦非接種者と同じく重篤である。
兎も角、Heffkine が初めて注意したこの確証は懐疑派に一つの武器を提
供した; この事実は賛成派に一つの疑念を投じた。
印度の滞在中、Haffkine は40,000人以上を予防接種した。その結果はい
つも Gaïa の牢獄に於けると同じく良好と云ふのではないが、一般の状況か
らすれば本法に極めて有利なるを示した。
* * *
液体の殺菌性能力に関する Pfeiffer の研究及び免疫に関する報告に次いで
Kolle は「コレラ」に対し予防接種された人の血清は多量に溶菌素を含むこと
を発見した。この溶菌素は注射せる弧菌が生菌であつても死菌であつても殆
ど同様夥しく出現するを以て、Kolle は加熱菌の使用を推称した。之に就て
氏は曰く加熱菌は Hoffkine が印度にて使用せる培養よりも更に安全なるも
のであると。
1902年に日本(兵庫)に発生した流行の際に、加熱「ワクチン」が始めて大
規模に使用された。
非接種者825,287 人中: 患者0,13%, 死者 0,10%
接種者 77,907 人中: 患者0,06%, 死者 0,02%
「コレラ」予防接種 125
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同じ程度の成績はペルシアに於て1904年に Zlatogoroff によつて得られ、
更に遅れて露西亜に於て Zabolotny によつて得られた。
異論を挟む余地なく、「コレラ」予防接種に全々賛意を表する是等の数字は、
然し、確証し得たのではない。ここにその理由を述べて見ま【ママ】う。人口が広汎
に亘る場合には、予防接種者の職業、抵抗力、年齢等に関する正確なる情報
を得ることが極めて必要である。従つて彼らの住居する地方から見て、職業
から見て、感染に曝露することが平等でない人々を同じ統計に集めてはなら
ないのである。
すべて是等の統計あるにかかわらず、「ワクチン」の効果を達観するために
不正確の存続するのは、そこに理由の一つがある。
1914年に、Arnaud によつて発表された数字はこの反対を受けるもので
はない。その統計は軍隊にて採られたもので、同一条件に生活せる人に就い
て取り扱はれた。この統計は第二回バルカン戦争の際ギリシヤ軍に発生せる
流行に就いて行はれたものである。
「コレラ」流行地帯で作業せる軍隊108,000人中非接種者にありては「コレ
ラ」患者を5,75%観察した:然るに一回注射を受けたものの「コレラ」罹患の
百分比は3,12%であつた。二回注射を受けたものは罹患率0,41%に過ぎ
なかつた。
* * *
Cantacuzène が使用せる条件が吾人に役立てるは、ルーマニアに於ける大
規模の実施にして、氏は吾人に異論の余地なき価値ある流行病学上の参考資
料を供給した。
この実施は二回に行はれた: 即ち1913年に、ブルガリアの戦疫の時、1
916年に、独逸に布告せるルーマニアの戦争の始めに於てであつた。
この実施は1,500,000人以上に及んだ。
吾人は Cantacuzène の重要なる研究報告のうち局部的流行の二三の関係
を借用し、之をここに簡単に要約することとする。是等の流行を実験室内の
実験に比較して見ると、殆ど真実とは思はれない。この実施は動物に於ける
126 「コレラ」予防接種
――――――――――――――――――――――――――――――――――
実験以上に或る点では、価値がある。即ち実験に供せる材料の質に於て、又
その数に於て二、三の例を挙げて之を判断し得るであらう。
4,500人を包含する或る聯隊は流行より痛く悩まされた: 即ち10日間のう
ちに、「コレラ」患者386人が登録され、そのうち166人が死亡した。
そこで予防接種を開始した。第一回及び第二回注射の間に於て、新患が発
生してゐる。衛生状態は依然同一であつた。第二回注射を行つた。二日後に、
流行は急劇にやんだ。次いで一例も新患の申告はなかつた。(観察のII)
他の隊に於ては、流行の初期に於て、患者280人を算し死者120人を出し
た。「ワクチン」の第一回注射は少しも良好に導くことがなかつた:即ち毎日
新患約13人を登録した。6日頃、全部急劇に停止した;只隊中唯々一人予防
接種を拒絶せる中隊長を除き、一名の患者も出なかつた。(観察のIII)
180人を有する兵営に於いて、予防の目的を以て、予防接種をなした。唯々
四人の伝令将校が予防接種を受けなかつた。しばらくして、「コレラ」患者三
人が兵営で申告された;之は予防注射を受けなかつたものの四人のうちの三
人であつた。その他すべてのものものは罹患しなかつた。(観察のV)
ある聯隊では、聯隊長がその部下の予防接種をなすことを反対した。イス
ラエル出身の軍隊、人員200、は予防注射を強要したので、その通りこれに
従つた。次いで、この聯隊は450人の「コレラ」患者を出した。予防注射せ
るイスラエルの兵士は一名も罹患しなかつた(観察のVI)。
「チフス」に罹患せる軍人に充当せる病院内に、露西亜人及びルーマニア人
がゐた。ルーマニア人のみは「コレラ」の予防接種を受けた。特に烈しき「コ
レラ」の流行が発生した;死亡率は40%に及んだ。只露西亜の軍人のみが罹
患した。一名もルーマニアの軍人には発生しなかそ【つ】た、唯々予防注射を巧み
に逃れた軍曹だけが例外であつた(観察のIX)、
吾人が要約せる上記数例の観察は実験室内にてなし得たものより更に美は
しき実験を以て敵対せんとする状況にある。
* * *
「コレラ」予防接種は常に無害であるか?
「コレラ」予防接種 127
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この質問をなしたのは、細菌の毎回の注射に続発する局所又は全身の反応
を目的とするのではない。この反応は、たとへ非難があつても、「コレラ」に
罹患する脅威の前には計算に入らぬであらう。大切なることは大流行に際し
予防接種を実行するに際し危険があるか何うかを知ることである。
流行病学者を信用せしめることは、最初の「ワクチン」注射に次ぐ2―3日間
に流行の再発を起すことが稀ではない、その際に同時に患者数の増加するこ
と並びに既に予防接種された人々の症状が増悪することが起る。
吾人は此の種の多数の事実を Cantacuzène の同じ報告中に見るのである。
外観上健康に見ゆる二人の婦人が「コレラ」予防接種を受けた。注射後6-
10時間で、二名の婦人は烈しい「コレラ」の感染を受けた。
他の例は、ある聯隊に於て数日間の間隔に於て、270人の「コレラ」患者と
28人の死者を記載してゐる。速に全人員に予防注射を施した。「コレラ」予防
接種の第一回注射後3日以内に、罹患率及び死亡率に著しき増加を来した。
此の聯隊の提案に基き、Cantacuzène は『この増悪は種々の医師により他の
聯隊にても観察された、そしてこの事実は陰性期並に流行せる所に予防接種
をなすことの危険なることに就いての異論に注意を喚起せしめるものであ
る』ことを認めた。氏は、尚ほ、大流行に際し之がために予防接種を逃れる
ことがあつてはならぬ、更に「アナフイラキシイ」の偶発事故を恐れて抗「ヂ
フテリア」血清の使用を抛棄するかも知れぬ様なことがあつてはならぬこと
を極力付け加へてゐる。
「コレラ」の流行の極期の於ても、予防接種をなすべきことは当然である、
然しその場合に経過する増悪の危険を最小に減少することを研究するは吾人
の義務ではなからうか? 如何にして之を達するか?
* * *
すべて個体の抵抗を減少し又は劣性の状態の期間を延長する疑ある理由は
陰性期を強くするに有利である。
この陰性期が短ければ短い程、免疫が早く出来れば出来る程、大流行に行
はれた予防接種の災害を免るるに都合がいいのである。
128 「コレラ」予防接種
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この説明の最初の問題となつた所のもので感作「ワクチン」についてなされ
た所の研究を思ひ起すであらう。当該「ワクチン」を接種せる動物に於ては、
局所及び全身症状は極めて軽度にまで減じた、患者の場合に於ても、症状は
存在しない。更に、感作「コレラ」菌を注射せる動物に於ては普通「ワクチン」
の場合には見られざる速さを以て免疫が現はれる。之は人間に於ても同一で
ないであらうか?
東京の流行は、この見地よりせば、特に教訓的である。
この流行は1916年に日本の首都及びその郊外に発生した。之はバルカンに
於て前に述べたるルーマニアの大実験をなしたと同じ時である。即ちバルカ
ンでは加熱弧菌を使用し、東京では感作「ワクチン」を使用した。この流行は最
初の重大流行にしてこの際に Vaccin が広く使用されたことを付言しよう。
此の流行の詳細は Yabe によつて書かかれ1920年に発表されたる更に教
訓的な研究中に詳記された。
「ワクチン」を民衆に施すべく決定する前に予備実験が必要なりと断じ:
北里研究所に属する15人が感作弧菌を皮下に受けた。
「ワクチン」による副作用は著しきものはなかった;「ワクチン」を接種され
たものはその血清中に多量の溶菌素を示した: 即ち条件によれば、日本の
学者の眼には、広大なる範囲に Vaccin を使用することの正当なりと映じた
のである。
流行の猛威を逞うせる時に開始し、予防注射は特に感染に曝露すると考へ
らるる人々(漁業家、飲食店員等)に実施された。
結論に到達するために流行病学者に取り極めて有益なる詳細を述べやう。
┌非接種者 2,244,796 人中 382人の「コレラ」患者、即ち人
東京市中の調査┤口100,000 に対し 18,5である。接種者 238,936 人中3人
└の「コレラ」患者、即ち人口100,000に就き1,3である。
┌非接種者811,150人中、229人の「コレラ」患者即ち人口
東京郊外調査 ┤100,000につき 30,9 である。
└接種者 61,988については「コレラ」患者なし。
「コレラ」予防接種 129
――――――――――――――――――――――――――――――――――
市部と郡部とを合計すれば、予防接種者にありては、罹患率は非接種者に
於けるより約25倍も少いのである。
この「コレラ」予防区域の成績は実際上は上記の統計表に見えし以上に顕著
なものである。実際調査の示す所によれば、接種者に於て見られたる「コレ
ラ」患者は三名だけであるが、之は Vaccin の注射量が不充分なるものに起
つたのであつた。
東京の流行に際して、非接種者中に数百の犠牲者を出したが、バルカンの
それに於けると同じく、実験室の実験の価値ある事実として記載された。市
のある区に於て、その三分の一の住民に「ワクチン」を施したが、一名も「コ
レラ」に罹患しなかつた;其の区の残りの非接種者に於ては、18人の患者が
あつた。他の一つの区は全部流行を免かれた、その住民の全部が一度に予防
接種をされた。
多人数より成る家族に於ては、非接種者のみが罹患した;他の者即ち接種
者は同じ条件の下に生活せるに拘らず罹患しなかつた。
接種による反応に就ては、日本の研究者によれば、著しくないか又は大多
数では全くない(80―95%),
予防接種が、流行せる大区域に行はれたに拘はらず、陰性期に罪を帰し得
る増悪の場合が一例も報告されなかつた。
東京のこの実験は、感作「コレラ」予防「ワクチン」が大規模に使用された始
めてのもので、特に顕著なるものとして見逃してはならぬ。
* * *
吾人が要約せる流行の数種の報告によれば、「コレラ」予防接種の効力に異
議を申し立てるのはよくないこととなるであらう。然しかくの如きは吾人の
説明の最初の部分より来る印象ではない。実際と実験室との間のこの不一致
は何処からくるのか?
複雑なる理由が之に関係してゐる。
先ず第一に、精神的の理由がある。1885年に仏蘭西委員会の不充分に支持
せる決議並びに始めに於ける Ferran の過度の謙遜がその方法に甚しく不満
130 「コレラ」予防接種
――――――――――――――――――――――――――――――――――
を懐かしめたことは確かである。次に又理論上の理由がある。即ち「コレラ」は
主として中毒による、従つて抗細菌性「ワクチン」を使用することは余り正当
ではないとなした。然しまた幼弱家兎の歴史があつた。
Metchnikoff のなしたる事実は確乎たるものである: 即ち処生児家兎は
経口的に「コレラ」に罹り得る唯一の実験室内動物である、即ち真の腸管「コ
レラ」を起し得るものである;他面に於て、幼弱家兎は皮下注射によつて殆
ど予防接種し得ぬことは確である。
幼少家兎に相呼応して臨床例がある: 即ち臨床では二度と「コレラ」に罹
らぬことを指摘してゐる。故に「コレラ」は之を予防接種し得る疾病の圏内に
入るべきものである。
疾病の自然感染によつて予防された人は、人工的に皮下の経路より接種せ
る人と同一であると認めてよいか?
勿論、それぞれの場合に血清中に殺菌性能力あるを認める。然しこの性質
は免疫を支配する要素の複雑なる集合に於て価値があるのである!
免疫機転を更に深く究むるに従ひ、益々 Metchnikoff が殺菌性能力に主要
性を置かず、又其所に伝染病に対する免疫の意義を見やうとしなかつたのは
誠に正当なるを知るのである。
勿論、免疫度の測定を与へ又は使用せる「ワクチン」の効力を指示し得るも
のは、各個体の血清中に存する溶菌素の割合ではない。
Metchnikoff その人は、「ワクチン」の効力は腸管「コレラ」に対して動物
を保護する能力より算定すべしとなした。之が何故に氏が「コレラ」菌の腹膜
炎又は敗血症を防御する研究の少かつたか、又氏が腸管内に見出さるる弧菌
に就て正当なる唯一の真の「コレラ」予防「ワクチン」はかかる性質を備ふべし
となしたかは、以上の理由による。
やがて見る如く、最近得たる事実は明かに Metchnikoff の考を正当とする
ものである。この事実は又実際と実験室内に極めて長い間存在せる矛盾をい
とも満足に説明するのである。
* * *
「コレラ」予防接種 131
――――――――――――――――――――――――――――――――――
吾人がほのめかした事柄は免疫の研究後間もなく感じた新方向にその出処
があるのである。
之等の研究の詳細に渡るを避け、ここには主要なる点を述ぶるに止める。
海猽に生弧菌の致死量乃至その数倍を皮下に注射し、12―18時間にして死
の来る時、出来るだけ早く剖検すれば、経口的に接種せられたる処生児家兎
に於ける同様なる状態に弧菌は分布してゐるのを見る、即ち常に弧菌は小腸
内に存し、而もそこに屡々純培養の状態にある;また盲腸及び大腸にありては
或る時は純粋の状態に、或る時は大腸菌と共に――約半数に於て――混在し
てゐるのを見る。之に付加すべきことは、弧菌は時として血液中に、稀に腹
腔内並びに胆嚢内に見るが、決して尿中には見ないのである。
海猽は消化管より最も遠き経路により「コレラ」病毒を接種されても、その
死は主として腸管感染によつて起る、即ち真の「コレラ」に因るのである。
吾人が「コレラ予防ワクチン」が皮下に接種せる病毒より海猽を防御するの
を見る時、之は真の「コレラ」感染を防ぐので、実際上、動物は予防接種され
てゐるのである。故に Vaccin が人間に於て「コレラ」に対し有効なるを示す
のは少しも驚くに足らない。
されば今この理由から25年来の論争の後に細菌学者と流行病学者とが協調
出来たのである。
今日では細菌学者でさへも「コレラ」予防接種の効力を疑はない様になつた
にせよ、之等の予防接種を更に有効ならしむることが出来るか何うかを要求
するのである。
生菌「ワクチン」が死菌「ワクチン」に優ることは大多数の菌について充分に
証明された所である。生菌の使用に限るとすると、不慮の災害や全身感染の
心配があり――又屡々実現されることがある。然し、「コレラ」生菌の場合に
は、これ等の心配は特に予め感作せる弧菌を使用する時には要らぬことであ
る。
吾人の同僚 Masaki (真崎)の実験は感作後「コレラ」生菌注射の新証明を行
つた。この実験によれば、たとへ「コレラ」生菌が培養の1∖50 の分量の腹腔内
132 「コレラ」予防接種
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注射で海猽を斃すか、又は培養の1∖30の分量の皮下注射により海猽を斃すに
せよ、一度び感作されたる同一弧菌は全培養又は二倍の培養量を以てしても
海猽を殺し得ないのである。
感作せる弧菌はその生活力を保ち、容易に之を証明し得、只生体に対する
其毒力が Masaki が皮下注射法により致死量を見出し得なかつた程に減弱し
てゐるのである。
重要なる処見は次の如し: 即ち感作生弧菌の大量(2-3培養)の量を接種
する時に、腹腔内経路に於て海猽を殺す時には、死の機転が非感作弧菌の場
合に認むるものと異ることを確めた。たとへ腸の内容を移植するも、弧菌の
痕跡だに認めない: 即ち速に注射部位を離れて腸に限局せんとする代りに、
一度び感作せらるたる弧菌は Masaki が確めたる如く注射部位を超えないの
である。海猽が死ぬのは腹膜炎のために、或は菌体内毒素の遊離するために
即刻に死ぬのであつて、敗血症を起すためではない。
即ち、感作生弧菌の大量を以て接種してさへも、被接種者をして保菌者た
らしめる危険もなく、更にまた彼等に於て全身感染を見る如き危険もない。
* * *
皮下注射による現在の予防接種法は最近の用語として「コレラ」予防接種の
材料と考へらるべきか?経口的予防接種法を研究しないでよいものである
か?
現在に於ては、実験室の研究は今尚この予防接種方法を適当とするに至ら
ない。然しながら、「チフス」赤痢菌簇と「コレラ」弧菌との間の感染機転に関
する類似は「コレラ」予防接種に関しても同一機転なることを推知してよい。
すべて抗コレラ免疫は、抗「チフス」及び抗赤痢免疫と全く同じく局所的本質
なることを先づ第一に信ぜしめる(1)。もしこの考が将来確認されるならば、
「コレラ」を予防接種するには、長く迂廻せる経路即ち皮下注射によるよりも、
直接の道なる経口経腸による方が更に合理的となるであらう。
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(1) XII章参章
「コレラ」予防接種 133
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Mèmoires Cités
Metchnikoff, Annales de l’Institut Pasteur,t, VIII, p, 529,
Choukévitch Ibid,, t, XXV,p,433,
Cantacuzène, Ibid,t, XXXIV,p, 57,
Masaki, Ibid,, t, XXXVI,pp, 273, 399,
Ⅸ
感染並に免疫に於ける皮膚の意義
Role de la Peau Dans l’Ifection et l’Immunité(1)
細菌予防「ワクチン」の大多数は非経口的に生体内に送入される: 即ち皮
下、筋肉内又は静脈内によるのである。この予防接種についで必ず見逃すこ
となきものは血液中の抗体の存在することであるから、最近までは殆ど他に
免疫性なしと説得されてゐた。此の確証の上に、後天性免疫更にまた活働性
並びに受働性免疫のすべての現在の理論が建てられた。
戦争前に始めた一列の研究中に、吾人は経口的又は経膚的に処方して免疫
を形成することの可能なるを知つた。吾人はかくして免疫された動物の血清
は極めて少量の抗体を含有するか又は全く含有せざるを証した。之によつて
吾人は免疫性は抗体の存在と密接不離の関係あるものでないことを結論し
た。
もし然りとせば、二つの事柄のうち一つは: 自然には二つの免疫方法が
存在するか、或は又只一つしか存在しないかである、而してこの最後の場合
には、抗体は之に決定的意義を与ふることを剥奪さるべきものである。吾人
の選ばんとする所のものはこの第二の仮定である。
径膚又は経口的感染の場合の機転を厳密に調査すれば、吾人は或る細胞群
に属する固有の自治制に帰せねばならなくなる。全生体が全く固体であると
すれば、この細胞は彼等固有の宿主に対し之を感染し防御する贈り物を持た
ねばならぬと考へた。この考から、皮膚感染及び腸管感染の如き局所感染の
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) Bulletin de l’Institut Pasteur, t, XXIII, No 20; 1925
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 135
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考、並びに局所免疫の考が出た。この二つの手段は所謂 \Cellules réceptiv-
es”攝受細胞のみに関係あるものとなした。之に代はるべき抗体は、我々の
仮説によれば、原因となるべき病原菌に対し、意義少きものか又無意義のも
のである。
Immunisation Iocale (局所免疫法)と称するものは、必ずしも Immunité lo-
cale(局所免疫)と称するものではない。今日まで眼の免疫法の結果より「ア
ブリン」によつて与えられたる局所免疫のほかは全く知らなかつたのである。
今では局所に適用せる病毒は全身に広がり免疫性を賦与することの出来る事
を知つた。後に述ぶる如く、脾脱疽菌の免疫の場合がそれである: 即ち皮
内接種法によつて獲得したにせよ、その免疫は全身性で更に強固なるもので
ある。同様に、軽度ではあるが、葡萄状球菌又は連鎖状球菌に対する皮内接
種法、「チフス=パラチフス」赤痢又は「コレラ」病毒に対する腸管免疫法は全
身に広がる免疫性を与ふるものである。
局所免疫法を起すべき免疫は常に、局所解剖学的に云はば直接「ワクチン」
の触るべき細胞群に厳重に限られてゐる。然し、生理学的見地よりすれば、
起るべき事柄は免疫が全身的なるが否かである。然り、もし生菌を使用すれ
ば、その作用は、たとへ身体の限局せる一点に適用するも、次から次へと進
行し、全攝受組織に及ぶのである。類似の事柄は死菌「ワクチン」を使用する
時にも起り得る: 海猽の全腹壁面に適用せる葡萄状球菌又は連鎖状球菌製
剤の濕布繃帯の場合には、細菌性物質の関与する区域は極めて広がり、遂に
は免疫は局所であつたものが全身免疫を得るに至るのである。
Immunisation Iocale (局所免疫法)が Immunité locale(局所免疫性)又は
Immuité géuérale (全身免疫性)に帰着するか、いずれにせよ、本法は両者共
抗体を離れて細胞内にて完成されるのである。
吾人は、次の叙述に於て、ある種の伝染病経過中に於ける皮膚組織の意義
及び此の組織が免疫の機転に与る要素を調べて見やう。
* * *
仮令、生理学者の目には、皮膚の作用は諸種の器官相互の間によき調和を
136 感染並に免疫に於ける皮膚の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
保つために必要なりと映ずるも、病理学者にとりては皮膚は今日まで同様な
る重要性を持つことは距りがあつた。
その広大なる面積と下界と直接関係のある理由から、皮膚なる機関は、他
の機関以上に、「シヨック」や外傷や汚染に曝露されてゐる。均衡の継続が減
少し又は之が破壊すると土壌又は空気から来る細菌或は表皮の表面を常に覆
ふてゐる細菌に乗ぜられる。殊に葡萄状球菌は毛囊の管内に好んで常住する
習性を要するもので、細胞の内部に侵入するすべての機会を捉ふるものであ
る。局所又は全身の抵抗が欠如することの少い場合にも、皮膚の損傷は起り
得るものである。侵入する細菌の毒性により、犯さるる細胞の性質に従ひ、又
個体の抵抗に応じ、病竈は多少著明なる重篤症状をあらはす。
皮膚の表面の破損によつて生ずる病竈の他に、他の原因はあまり変化はな
いもので内在性のものである; 即ち「チフス」発疹「チフス」及び他の発疹性
疾患の経過中に之を見るが如きものである。
病原菌が外界又は内部から皮膚包被を犯し、第二次的に其所に土着するこ
とのために、皮膚は常に感染を受けるだけであり、生体防御の意義は寧ろ受
身で、Methnikoff の表言的なる定義によれば『身を守るための鞘』なる意義
に帰着する。
此の考へ方は今日では最近吾人の知れる事実によれば最早適応しないもの
である。之等の事実を調ぶる前に皮膚の構造と主なる作用に就て述べ度い、
この作用の協力が生理的状態に於て自然免疫を確実になすのである。
* * *
皮膚は胎生学上並に組織学上判然区別さるる二部より成る。: 即ち「エク
トプラズマ」より生ぜる上皮と「メソプラズマ」より生ぜる真皮とである。
上皮は石畳状に重つた上皮細胞より成り、その上部は相継続し角質状に変
化してゐる。上皮細胞の鱗屑は、やがて剥離し、深部より来り、表面に向ふ
細胞により補はれる。その脱落の際に、剥離せる角質細胞は細菌を伴ひ同時
に細菌を含む残屑を伴ふ; 角質細胞はかくして皮膚の浄化とその永久の更新
とに与るのである。
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 137
――――――――――――――――――――――――――――――――――
この表面の部分即ち角質層を去るや否や上皮の深部に到達する前に移行部
の細胞層に遭遇する: 即ち之は無色透明の要素より成る Stratum lucidum
である。
すぐ此の下にある上皮の部は粘液体即ち Malpighi 氏網により占められて
ゐる。多数の細胞層が協同してこの網を構成する;之は外被を有せざる原形
質細胞である。之等の細胞はその性質については久しく決定されなかつた分
枝せる淋巴性要素を以て相互に隣接してゐることを注意するであらう。即ち
之等の淋巴性要素――吾人は之を今日知つてゐるが――白血球即喰菌性要素
に他ならぬのである。
外傷又は感染の場合には、之等の喰菌細胞は多数に流れ行き細胞間隙中に
侵入し而して、極めてよく知られたるその固有性により、陽性走化性と称す
べき所には何所にも接近するを見る。
上皮を超えると、外被の基礎をなる第二層即ち真皮に到達する。この真皮
は極めて強靭なる弾力繊維の網より成る、之は結締織要素と交叉してゐる。
全組織は游走性淋巴細胞の移動するを見る。最も著明なる喰菌作用を有する
之等の淋巴細胞は外被の炎衝の際に特に数多く表はれる。更に真皮はその全
表面に多数の小乳頭並びに緻密なる組織を認むる多量の汗腺皮脂腺を示すこ
とを思ひ起すであらう。
吾人が述べた簡単なる解剖は吾人にその自然免疫性の保存に於ける皮膚の
意義を知らしめた;之は感染の機転及び人口免疫の機転に関する或る問題の
理解を容易ならしむるであらう。
* * *
皮膚の構造の複雑なるためにその作用の多様なることを答へねばならぬ。
従つてここには吾人の学べる生理を述べやう。
皮膚なる被服は感覚鋭敏なる広大なる表面を示す。皮膚は吾人の感覚の大
部分の出発点なる種々の刺激を受ける: 即ち触覚、温覚、冷覚及び痛覚で
ある。之等の感覚は外部の有害なる要素に対し吾入を保護する而して自然免
疫の維持に貢献する。
138 感染並に免疫に於ける皮膚の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
皮膚の作用は之に止まらない。皮膚は呼吸する。皮膚は吸着する。皮膚は
温度の変化を調節する。その主なる作用だけを述べても、皮膚は「シヨック」
を和げる。
ある種族では、皮膚呼吸が、かく名付ければ、計算のうちに入る唯一のも
のであるものがある。又蛙類及び爬虫類では皮膚と外界との間の変化は充分
に肺呼吸の代理をなしてゐる如くである。
温血動物に於ては同一ではない。人間は、例へば、24時間内に経膚的に体
重の約1∖67を減ずる。成人では平均1瓱【瓩】なるこの消失のうち、排泄される炭
酸瓦斯は5乃至10瓦を秤量するに過ぎず;余は水分の蒸発に帰する。人間及
び哺乳動物では、皮膚は呼吸器官としてはかなり制限された意義を有する。
皮膚は炭酸瓦斯を発散し空気中の酸素を吸収する感受性あることは少からず
真実である。
皮膚はすべての種類の瓦斯体及び揮発性物質を通過せしめる。人は一肢を
腐敗瓦斯の雰囲気に入れた Bichat の古い実験を知つてゐる: しばらくして
瓦斯は皮膚の表面より吸収され、腸管から排泄された。
この吸収性あるために、実際上重要なる唯一の問題は皮膚は一般に水及び
液体に対し如何に作用するかが分かつた。長い間論争された問題が現今では解
決され、そして陰性の意義なるものとなつた。今日では人間の正常の皮膚は
水を吸収しないことが確定された様だ。浴槽中に一週間及び数か月間さへんも
浸つてゐた患者は絶えず喝【渇】の感じを感じ、而も自由なる空気中に生活せる人
と同じ程度であつた。食塩、薬物、毒物の水溶液も同様である。: 即ち健康
なる皮膚はそれ等のものを少しも吸収しない。
* * *
皮膚外被の不透性は大部分皮脂腺より分泌さるる脂肪性産物なる皮脂によ
る。毛孔の口を閉じ、表皮に油を塗り、以て皮脂は皮膚組織を不透性となす。
かくして、皮脂は水中にて柵を造り、之によつて正常の状態では殆ど越え得
ないのである。
吸収の現象は皮膚が正常の状態にない時には根本的に変化する。その結果
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 139
――――――――――――――――――――――――――――――――――
は、湿布を施す時には、皮膚と水との接触が一定の限界以上に長引くと、上
皮は液体を吸い込むことが止み、膨脹する。上皮の柵がくずれ、多少通過せ
しめる様になる。更に深部への侵入は外皮の侵害の場合、例へば毛髪に富む
部を強く摩擦する場合に起る。毛髪の上に施された塗擦は潰瘍を起す;之は、
肉眼では見えなくとも、皮膚により液体を吸収せしむるに充分である。
脂状物は異物の侵入に対し皮膚組織を防御するが、軽蔑し得ざる他の作用
を有す:即ち皮膚の乾燥を防ぎかくして皮膚にその感受性を保たしめる。
汗腺も其所にあつて同様の貢献をなす:即ち、皮膚の表面に行はるる絶え
間なき蒸発は、皮膚を絶えず湿潤状態に保たしめる;それによつてその柔軟
性と外界より来る微細なる刺激を認知する能力が生ずる。
汗腺は更に第一に重要なる他の作用を有する: 即ち動物の体液の調節を
確実ならしめる。汗の分泌は温度と共に増す、周囲の温度の上昇を起さしむ
る害悪を矯正するのは汗腺である。
皮膚なる外被の純器械的意義は自然免疫の見地よりすれば価値のないもの
である。皮膚毛細管に及ぼす圧力により、この外皮が構成される種々なる層
は過度の滲出に対し障害をなす。他方に於ては、角質層、上部の上皮細胞、
弾力性移動性の真皮は相合して外部の衝動を和らげ得る鐙【鎧ヵ】を構成する。
皮膚なる組織に当てられた重要なる作用に関しては、防御する鞘の様に器
官を保護する単なる嚢と云ふ考では了解することは困難である。上皮及び真
皮の複雑なる構造を考ふる時、即ちそこにはすべての種類の細胞――神経性、
血液性、淋巴性、腺質性、結締織性及び筋肉性の要素、その他先には少しも
述べなかつた特種細胞もあるが之を別にして――を認めるが、かく種々なる
細胞に富むことは、ある作用は恐く未だ知られざるものもあるが、複雑なる
作用の標識として考ふることは妨げ得ない。
* * *
無脊椎動物では自然の防御機転は単純である:即ちその大多数に於ては身
体の表面は多少固く厚い「キチン」層でおはれてゐる。
脊椎動物では、少くとも、ある種のものは皮膚が同様に不透性の鞘で覆は
140 感染並に免疫に於ける皮膚の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
れてゐる;かくの如きは、就中、魚類及び爬虫類の鱗である。人間は、この
点では、余り有利ではない。最も屡々菌の侵入を避け得るとせば、之は特に
角質細胞が規則正しく剥離し、新細胞を以て補はれるからである。Sabouraud
の云へる如く”壊疽に罹れる層が絶えず剥離する、そして若し此の層が細菌
性のものであるならば、之に生活する細菌の絶えざる追奪がある”。言ひ換
へれば、皮膚は、云ひ得べくんば、絶えず上皮細胞を脱ぎ、そして之に侵入
する細菌の種類を除くのである。
純器械的なるこの防御作用の他に、皮膚はその部位に喰菌細胞系統を有つ
てゐる。ある病原菌が皮内に侵入するや否や結締織は肥厚し、繊維性「カプ
セル」が出来、之が病毒を幽閉する。感染はそこで限局される。
この操作は主として既に前に論じたる局所の「マクロファゲン」の作用であ
る。之は例へば、結核菌の場合に於て巨大細胞中に集合し、之に結締織繊維
の極めて著明なる発育を与ふるのは「モマクロフアゲン」の作用である。
淋巴性要素、即ち上皮及び真皮の内部に認めたる遊走性細胞は感染の際に
も同様に移動する。病毒の周囲に、之等の細胞は集りて多少大となり時には
肉眼で見得る塊となる。真皮内に幽閉された白血球群は摘出されて終りとな
る様になる。生体はこの方法で病毒と同時にその救助に尽せる喰菌細胞より
免れる。
始めは皮膚の限局せる一点に局限した感染が広がり領域を拡張することが
ある。この場合には局所の喰菌細胞はその職責を充分に果し得ない。生体は
然る時はその救助に遊走性喰菌細胞を送る: 即ちかくして特異性なく、感染
に脅かされた到る所の器官に同様の性質を呈する細胞を戦闘に向はせるので
ある。
皮膚組織の免疫性は故に一方ではその特殊なる構造により、他方では之を
必要とするすべての組織に一様にその恩恵を施す喰菌細胞系統による。
最近得たる事実はこの考を大きくさせた。吾人は葡萄状球菌及び連鎖状球
菌の如き細菌に関するこの考をここに述ぶるは満足とする所である。
* * *
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 141
――――――――――――――――――――――――――――――――――
脾脱疽病は、以前は”脾臓の血液”又は”黒色病”として知られてゐたが
Pasteur 以前には毎年数百万「フラン」を算する損失を来した。牛、羊、馬、
騾馬は炭疽病のために驚くべき割合で斃死した。本病は罹患しないものは、
人の知る如く、甚だ種類が少い。実験室の動物さへ甚しく感受性がある;海
猽に於ては屡々唯一個の菌を注射し之を殺すに充分である。解剖処見に於て、
気のつくことは、すべての臓器が――例外なく――桿菌で蟻集されてゐるこ
とである。血液は赤血球と同じ位に桿菌に富む。よつて又常に炭疽病は敗血
性伝染病の好模範として考へたのである。
Pastur の「ワクチン」の発見は牛、馬、綿羊を保護し得る。唯々実験室動物、
特に海猽は、この発見の恩恵を蒙ることが出来なかつた。多数の試験に不拘、
大動物にてかく容易に得た免疫に比し、之に匹敵する免疫或は之より距つた
免疫さへも与ふることに成功しなかつた。実験者は海猽の予防接種を再実験
し、その失敗の原因を本動物の極めて大なる感受性なる説明に求めた。
真の原因は、今日知れる所では、他にある。
吾人はここには実験の記載は述べないが、それによれば、海猽に於ては、
菌が繁殖し、その内部より毒素を造り出す唯一の臓器は皮膚であることが判
明した。この臓器以外には、菌はたとへ毒力が強くとも、恰も雑菌の如きも
ので、之を感染することもなければ、之を予防接種することもない。
病毒を注射するに当り、皮膚の汚染を避ける時は、海猽に何の危険をも与
へない。吾人は亦海猽に於て、気管内、腹腔内、腸管内、脳又は他の場処に、
少しも障礙を見ることなく、Virus の致死量の100倍を注入し得た。
炭疽病に対する海猽の感受性は故に全身的ではない、本動物は主要部位と
して寧ろ絶対的部位として皮膚組織を有する。Virus の接種に次いで起る浮
腫は――侵入門口であるか何うか――新の皮膚感染の証明である。実験者が
皮膚を傷けるのは Virus の注射針を送入し、之を引抜く際に疑もなく汚染す
るからである。剖検によれば、動物は勿論定型的の敗血症を起してゐる;然
し、死の最初の原因は皮膚感染と云ふよりは寧ろ皮膚中毒である。兎に角、
菌が最後まで血液中に現はれないことを見るためには、時間毎に感染を追求
142 感染並に免疫に於ける皮膚の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
するより他に仕方がない。菌が流血中に侵入するのを見るのは、瀕死期に先
立つ数分の間である。故に炭疽病に特有なるは中毒であり ; 敗血症は後に来
るに過ぎない。
* * *
若し海猽が炭疽菌に非常に感染性がある様に見えるならば、吾人によれば
それは、その皮膚組織のためでなければならぬ。皮膚以外の組織や臓器は実
際上には感受性はないのである。
若し然りとすれば、吾人の云へる如く、すぐれた感受性組織を予防接種す
る様に全努力をなせば、菌に対し海猽を予防接種し得るであらう。
実験はこの予想を正当なものとなした。塗布によつて或は更によいのは皮
内注射によつて皮膚を免疫すると、大なる苦痛なく海猽に非常に強固なる炭
疽病に対する免疫力を与ふることに成功した。
皮膚予防接種は単に皮膚免疫を造る効果があるのみでないことは付け加へ
る必要はない。該海猽は、全身的に同時に、炭疽病に罹らなくなる。之は何
より先に容易に了解出来る。海猽は皮膚なる感受性に富む唯一の臓器しか持
つてゐないので、この臓器が予防接種された時から病気に罹らなくなるので
ある。次いで腹腔内、気管内、腸管内、又は他の部に注入せる菌に対し、海
猽は始めて予防接種された皮膚の免疫、次に他の臓器の先天性自然免疫にて
対抗させる。
矛盾を支持せんとすることなく、吾人は実験室の長い経験に於て、炭疽病
に対し海猽に与へることに成功したと同じ位の鞏固の免疫の例はめつたに遭
遇したことはないと云ふことが出来る。有効なる予防接種をなすために、必
要なる条件は経膚的に行ふことである ; 他の経験は、この中に皮下の経路を
含むが、効果はない。
『層中に於ける皮内接種』と称する方法を行ふ時、即ち同時に多数の皮内接
種を身体の各部に行ふ時、人は特に鞏固にして迅速なる免疫力を得る。かく
して免疫方法を大なる表面に施せば、最小時に最大の免疫を発現する。
海猽又家兎に於て、Pasteur の「ワクチン」を新しく剃つた皮膚に適用す
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 143
――――――――――――――――――――――――――――――――――
れば、よき成績を得ることが出来る。継続して第一、次に第二の Vaccin を
使用すれば、可成り速かにこの動物を大量の致死量の病毒に対し免疫し得る
のである。
* * *
炭疽病と同じ程度に、一般感染の症状を呈する疾患は少い。臨床上の症候
並びに細菌学的証明も全く炭疽病は全身敗血症を起すことに一致してゐる。然
しこの感染経過に関係するものは唯々皮膚のみである ; 炭疽菌免疫の発生に
参与するのは唯々皮膚のみである。
若し炭疽病に対する予防接種が経膚的による他は実現されないとせば、そ
れは明に菌が皮膚と接触する時にのみ毒素を分泌するためである。吾人によ
れば抗炭疽菌免疫を実現させるのは又炭疽菌毒素である。皮膚の細胞以外の
細胞に対しては、菌はその毒素を分泌し得ない筈である。 ; 尚又、腹腔内、気
管内又は腸管内の経路によつては海猽を予防接種することは不可能である。
炭疽菌は、吾人の見解によれば、「ボトリヌス」菌又は「ヂフテリア」菌と同
じく毒素を分泌する菌である。更に、生体の自然抵抗が破られて後に増殖す
るのである。 : 恰も大砲によつて破壊された陣地から突撃に飛躍する歩兵の
如きものである。吾人が菌の毒力に帰著せしむる習慣を有する所のものは毒
素の結果である。この理由のために、所謂超毒力菌即ち超毒素菌の場合には
注射部位に浮腫を証明することは出来ない。
吾人が見た様に、予防接種に対し之に与るものは皮膚のみである。たとへ
困難なることは勿論であるが――皮下の経路によつても亦予防接種は達せら
れる、然し、かくして得た免疫は皮内経路によつて得る免疫より遥に鞏固で
はない。
海猽に於ける実験的炭疽病の歴史は次の二つの項目中に総括し得 ; 一つ
は、感受性は皮膚の細胞に限られ生体の他の細胞は之を欠く、他は、免疫は
皮膚組織の攝受細胞の予防接種することにより成立する。
皮内接種をなせる動物の血液中に凝集素、補体結合物質、沈降素を検索す
るも結果は陰性か或は抗体の痕跡を現はすに過ぎないことは注意すべきであ
144 感染並に免疫に於ける皮膚の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
る。
後刻記載する如く、炭疽病で観察せる事実は、全体でないにせよ、少くも
大部分に於て、ある種の他の菌に適合する。予防接種せんがために通常の経
路、皮下又は腹腔内を使用するに拘はらず、失敗する ; 抗体を造る考を抛棄
し、攝受細胞の予防接種を目的とする時は、免疫は直ちに出来る。
Vaccin の侵入門口はそれ故極めて重要なるものである。故に吾人は Wri-
ght と意見を異にする。氏は Vaccin の性質に触れることなく”皮下経路は
有効なり、されど静脈内経路は選ぶべき経路なり”と確言してゐる。Wright
が重要視せるは「オプソニン」 の形成である ; 従つて、この点よりすれば、す
べての経路が、略々同等の価値がある。吾人は反対に、侵入門口の選択は Vac-
cin 自身の選択程に重要ではないと信ずる。攝受細胞は特異であるので、予
防接種をなさんと欲する経路は同様に特異的でなければならぬ。即ち Vaccin
の性質に適合しなければならぬ、この点は人が今日まで考慮に入れることを
忘却してゐた所である。
* * *
若し脾脱疽病に於て皮内接種の動物で観察せる事実が海猽に於て特別生物
学上奇異なる特長をあらはさずとせば、又若し家兎、馬、牛に於ける最近の
観察が之を承認する如く、他種の動物にも適用さるとせば、如何にして皮下
注射法により綿羊に於て同じく優秀なる成績を挙げたのあるか?Plotz
の最近の実験はすべて家兎を皮下注射法により脾脱疽を免疫することが、不
可能とは云はないが、如何に困難であるかを示せる所を見ると、以上の事実
は更に説明し得ない様に見える。
Plotz は Virus の大量(1cc, 乃至 3cc,=家兎に対する致死量の 1,000 倍乃
至 3,000 倍) を硝子製の「アムプレー」内に封入し、皮膚を切開して後、之を
皮下の細胞組織内に送入した。4―5日間、即ち傷口が完全に瘢痕を形成する
に必要なる時間を持つて後、氏は之をその場所即ち皮下で破壊した、もし手
術が巧みに行はれた時は、本法で感染せる家兎は死亡しない。然し、いづれ
の家兎も免疫になつてゐないのを見る : 即ち遅れて比較的少量の Virus
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 145
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1∖500―1∖1,000cc) を皮内に接種する試験によれば、之等の家兎はたとへ Virus
の驚くべき大量1cc を皮下に受けたとは云へ、対照動物と同じ日限内に脾脱
疽病で斃死した。
即ち皮下の経路に於ては、家兎では、抗脾脱疽免疫を与へない ; 此の事実
は全く確定された。
Plotz はその研究中に於て、氏に興味を引ける失敗を記載した。家兎の瘢
痕形成が充分ならざる前に、挿入せる「アムプレー」を破壊せる少数では、家
兎は脾脱疽に罹患して斃死した : 即ち皮膚の極めて小なる傷も細菌を吸引
するに充分であり、致死的脾脱疽病を発揮せしむるに充分である。
此の観察によれば、若し大動物例へば綿羊が皮下接種法によつて脾脱疽予
防接種が極めて奏効するとせば、その細胞組織と皮膚との間に「カナール」(邃
洞)を造る注射針に帰するものと認め得ないであらうか?或は淋巴液の流
れにより運搬された菌が、皮下「トンネル」の長い経路を逆流して、攝受細胞
を感染し(Cutiinfection)、之を免疫し(Cutivaccination) 動物に抗脾脱疽免
疫性(Cutiimmunité) を賦与し得るものと認めてよいのではなからうか?
* * *
吾人が脾脱疽の問題に就て述べた事柄は、特に脾脱疽菌だけについてであ
らうか? 人間又は動物の他の感染で同様なる事柄の観察される場合はない
であらうか?
最初に同じ階梯の現象を見得る可能性ある疾患の二三は、葡萄状球菌及び
連鎖状球菌によつて生ずる現象であると思ふ。
之等の感染の大部分は殆ど全部が皮膚に関係あることは人の知れる所であ
る。之等の患者の血清は、たとへ抗体を有することあるも、一般に甚だ少な
い。然し之は――確定せる事実であるが――「ワクチン」療法の最も有効なる
疾病の部類に属する。然りとせば、吾人の要求する所は、感染の重荷を全部
荷担ひ、予防接種の負担を確実にし而して生体に免疫性を確実に付与するで
あらう所のものは、皮膚組織でないであるうか?
実験的に葡萄状球菌及び連鎖状球菌による皮膚病竈を生ずる可能性はこの
146 感染並に免疫に於ける皮膚の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
仮説を検印し得た。
葡萄状球菌は海猽に対し極めて毒性強きことを証明した。皮下に注射すれ
ば、この細菌は「ブイヨン」培養の1―2cc, で 2―3 日目に該動物を斃死せし
めた ; 生き残つた場合には、独特なる皮膚病竈の形成を伴つた。注射後48時
間以内に、浮腫が少し宛浸潤し全腹部表面に拡がるを見た。皮膚は始め赤く、
中央が黒変し、次いで漏出するに至る。2 乃至3日後に、壊疽組織に陥るを
見た。この壊疽は剥離し、化膿せる大なる結痂を露出せしめる。更に大量を
注射すると、海猽は数日で葡萄状球菌の全身感染を起して斃れる。
* * *
海猽は皮膚病竈に対し予防接種せしめ得るか?海猽を致死的葡萄状球菌
の感染に対し防御し得るか? その詳細に入ることなく、之等両問題に対し、
実験は肯定を以て答ふることを認めしめよ。実験は、免疫を与ふるために、
経膚的にせよ、全身的にせよ。最良を示す接種方法は皮膚の経路を借りるこ
とであることを示す。
皮内に葡萄状球菌死菌を注入すれば動物は局所感染を避け得る ; 之は特に
Vaccin を剃毛又は単に脱毛せる皮膚面に適用するので、最も大なる効果を
生ずる。
腹部表面を脱毛せる海猽を取り、之にその胴体の周囲に葡萄状球菌予防「ワ
クチン」を浸せる繃帯を適合する時は、葡萄状球菌の皮下注入に対する抵抗
力は著しく増加するを認めた。繃帯を施せるものでは、海猽は皮膚の局所病
竈は極めて小なるが、その対照動物は腹部に甚だ大なる化膿性結痂を生じた。
或は又――同様驚くべき事実は――葡萄状球菌予防「ワクチン」繃帯を施せ
る海猽或は皮下層に Vaccin を接種された海猽は、屡々生存するが、処置せ
ざる対照の海猽は全身感染のために斃死する。
この場合免疫性は尋常ならざる速度で形成する : 24時間にして足る。
皮下の経路を借りる時、時として同様の効果を得、之は皮膚の付近に於て
Vaccin の一部がこの皮膚内に侵入するために引き起される。
之に反し、Vaccin を腹腔内に注入する時は、免疫の痕跡も認められない :
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 147
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該処置動物は、本試験注射の際に、対照の結痂と同じ大さを呈する結痂をあ
らはす。
換言すれば、葡萄状球菌の感染に対しては、攝受細胞を予防接種する以外
には有効に動物を免疫し得ないのである
* * *
此の結論は通常の Vaccin で行ふ代りに、葡萄状球菌の培養濾液で行ふ時、
観察せる所により、確実と認められる。吾人は8日乃至10日間の「ブイヨン」
培養を使用した。濾過管で濾過して得られた液体は吾人の予期せるものより
かけ離れた予防的効果を賦与されてゐた。海猽に於て皮下接種する時は活動
性は極めて少く、皮内に接種する時はやや活動性がある、此の液体は脱毛せ
る皮膚に湿布の形で適用される時は著しく動物を防御する。免疫は湿布適用
後24時間で発現する。
この葡萄状球菌は吾人が Antivirus と称へるものであるが、新に接
種せる葡萄状球菌に取りては不良なる培養基である。其予防接種能力は特異
性である ; 例へば、この濾液は連鎖状球菌の接種に対し予防しない。該濾
液は120℃20分間に置ける後でさへも、全部その能力を保有する。
濾液の作用方法及びそれによる動物防御の速度より見て、全々抗体の関与
する所でないことは、殆どつけ加へる必要はない : 即ち之は皮膚の局所免
疫の存在による。
吾人がここに記載せる実験と全く同一なる実験を海猽に有毒なる連鎖状球
菌株を以て行つた。重複を避けるために、単に次の点を記載するに止めるが、
この菌を以て観察せる結果は大体の点までは葡萄状球菌で記載せる所のもの
と同一であつた。連鎖状球菌の場合に於ては、予防接種の効果は、特異にし
て速かで、培養濾液で一回湿布繃帯せる後にあらはれる。この場合皮膚の攝
受細胞を予防接種せることは少しも疑を容れない。この予防接種は皮膚免疫
に帰するのである、この免疫は多くの場合に於て、同時に局所及び全身の連
鎖状球菌感染の結果に対し動物を保護するに充分である。
* * *
148 感染並に免疫に於ける皮膚の意義
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吾人が総括せる実験で明瞭となりたるため、人間に於ける「ワクチン療法」
の問題は現今では判然した。
この治療法は日一日と臨床方面に領域を占めた。英語使用国に於ては、「ワ
クチン」の使用は特に拡つた。其所では、極めて軽度の鼻加答留から最も重
篤なる敗血性に至るまで、殆ど全部に感染を注射で治療してゐる。仏蘭西で
は、皮下注射は余りやらない。特に葡萄状球菌による感染 : 「フルンケル」
癰(「カルブンケル」)、中耳炎、「ニキビ」、骨髄炎、骨膜炎、膿瘍及び其の他
に於ては之に頼る。この治療は多くの場合満足を与ふることはない。連鎖状
球菌の或る型に於て、「プソイド=ヂフテリア」菌、肺炎球菌、フリードレン
デル氏菌による或る病竈に於て一様に発売にかかる Vaccin 又は Autobvaccin
を使用してゐる。この治療の比較的幸福なる結果は患者自身によつて造らる
る抗体の「オプソニン」作用に帰せらるるのである。生体内に既に形成された
抗体の作用に之等の作用が加つて、かくして結合せる抗体が感染に対し強力
なる武器を形成するからであらう。人が「ワクチン」療法を説明するのは斯く
の如くである。之は今日では全く証明のない殆ど独断説に過ぎない。
然し「ワクチン」療法のこの解説中には、何かしら既知の事実と融合し得な
いものがある。実験室内にて葡萄状球菌を使用せる人々は、その抗元性能力
は如何に無力であるかを知つてゐる。細菌学者にして有効なる抗葡萄状球菌
血清を掌中に所有せりと自負し得るものは少い。誇張なりと咎むることなく、
葡萄状球菌と同じく抗体の形成悪しき病原菌は余り知らざる所であることは
肯定出来る。然るにも拘らず、臨床家は――余り習慣となつてゐないが一様
に――「ワクチン」療法の処置によつて得たものと同じく著明に治癒すること
を知らざることを肯定してゐる。
実際的なる臨床上の成功は、発現に困難にして屡々問題とせらるる抗体に
帰すべきであらうか? 単純なる推理は此の点に保留を設くる様吾人を強ひ
ざるか? 葡萄状球菌は抗体のお蔭で治癒するものと仮定して、皮下に注射
せる数百万の菌体の補給は、既に生体は極めて多数の生菌に犯されてゐる時、
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 149
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その重要性はあまりに誇張されてはゐないか?
* * *
研究室と臨床との間に於ける不一致は、「ワクチン」療法が攝受細胞層に限
局されてゐる方法に基くことを承認すれば消失するのである。
Wright によれば”「ワクチン」療法”は殺菌素、「オプソニン」及び喰菌素
の協同作用なりと云ふに反し、葡萄状球菌及び連鎖状球菌に関する吾人の実
験の証する所によれば、この治療は局所免疫より生じたるものであると考量
するものである。
臨床家は「ワクチン」療法のこの新案を霊感するに躊躇しなかつた。葡萄状
球菌及び連鎖状球菌の感染に対し海猽を防御することの可能性が証明される
や否や、特殊の湿布繃帯を単に使用することから、彼等はこれ等の試みを速
に人間に応用せんと努めた。臨床上得たる結果を玆に縷述する余裕はない。
只次のことを云ふに留めて置く、即ち現今に於ては皮膚並びに粘膜に限局せる
数千の患者が抗細菌性湿布によりその治療に成功してゐるのである。
* * *
多くの場合に於て、濾過器を通過せる培養即ち細菌体を含有せざる無毒性
の液が使用された。「フルンケル」、癰、瘭疽、骨炎、骨髄炎、瘻官の痕跡を
有する又は有せざる種々なる漏膿、肋膜炎、腹膜炎、産褥熱等が通常の「ワ
クチン」接種では挙げることの出来なかつた成績を以て処置された。
人間に於て得られた治療効果は動物に於ける実験に基いてゐた。そして合
理的なる「ワクチン」療法は抗体の形成に基くのではなく罹患せる器官又は組
織の Vaccination に基くべきことの意見を実証した。
ここに吾人は「ワクチン」療法の機転を如何に考ふべきか。この治療方法は
人の信ずる如く抗体の形成に基くものではない。浸蝕されない様に、生体は
病中、それ自身出来るだけの最大努力を払ふのである。「ワクチン」治療剤は
病細胞を治癒するのではなく、単に未だ犯されざる細胞を保護するのである。
既に発生せる病気の経過中に、「ワクチン」は特に未だ障礙を受けざる攝受
細胞が Virus に感ずる所の親和力を飽和する効力を有する : 即ち「ワクチ
150 感染並に免疫に於ける皮膚の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ン」は之等の細胞を非感受性となしかくして Virus と作用することを不可能
ならしめる。
かく考慮せる「ワクチン」療法は健康なる攝受細胞の予防に誘導される ; そ
の目的は之等健康なる細胞を新感染の餌となすことの不可能なる状態とし、
感染病竈を局限するのである。既に感染せる細胞に関しては、喰菌細胞の種
類では医薬的性質は之に侵入せる菌だけに制限すれば充分である。
* * *
脾脱疽桿菌の作用方法と葡萄状及び連鎖状球菌の作用方法との間に認めら
れた類似点は、初めに、実験室内の研究に保留された様である。何となれば、
たとへ海猽に於ては、脾脱疽桿菌と葡萄状球菌との皮膚組織に対する親和力
が鞏固であるとは云へ、人間に於ては葡萄状球菌の寄生部位が著しく異るの
であるから、どの人間に於ても同様であるとは云ひ得ないからである。
従つて、葡萄状球菌の又は連鎖状球菌が海猽の皮膚に対し脾脱疽菌に於て見
たると同一の親和力を人間の皮膚に対しても有つてゐると演釋【繹】するのは早計
である。この場合に於て、人間に於ても亦皮膚が最初の感染器官であること
は確実性がないとは云はれない。多数の場合に感染の或時期に全疾病を構成
するものは皮膚又は粘膜の感染である。
それ故人間の葡萄状球菌及び連鎖状球菌の大多数の起原に逆上つて見や
う。それ等の菌は宿る部位として関節、肋膜、腎臓又は他の器関を有するが、
最も屡々該病毒を同じ起原 : 即ち皮膚粘膜の包皮中に見出すのである。球
菌類が血液又は内臓器官に移行するために出発するのは其所からである。尚
また海猽に於けると全く同じく、人間に於ても、葡萄状球菌又は連鎖状球菌
による感染の大部分の病原性は皮膚感染が支配すると称するも過言ではな
い。この病原性は「フルンケル」、毛囊炎、瘭疽、眼瞼炎、乳房炎、バルトリ
ン氏腺炎、子宮炎、角膜炎並びに口腔内の或る種の感染につき明瞭である。
この病原性は骨関節、心臓血管又は腎臓の寄生部位では著明でない ; 然し其
所でも亦皮膚の初発病竈の意義は疑なき所である。
骨髄炎の中には、最初の原因が屡々「フルンケル」、膿瘍又は単なる皮膚の
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 151
――――――――――――――――――――――――――――――――――
剥離であるではないか?伝染性心臓内膜炎は、疑はしいにせよ、時によつ
て皮膚又は粘膜の葡萄状球菌感染によるではないか?腎臓内に粟粒膿瘍を
伴ふ膿毒症さへもその原因を葡萄状球菌より汚染せられたる皮膚より継続し
て解決されるではないか?ある時は顔面の「フルンケル」であり、ある時は
頸部の癰であり、ある時は安巍那であつて、一見良性のものが敗血症への門
口を開くのである。
之を要するに良性の口唇「ヘルペス」より潰瘍性の心臓内膜炎に至るまで、
葡萄状球菌に由来する臨床上の変化は多種多様であるが、多くの場合に、最
初の皮膚感染を見逃すことはない。
* * *
皮膚の役目は単に疾病の本態に極めて最初の楷梯となるのみならず、更に
免疫のそれに於ても同様である。吾人は抗脾脱疽免疫に皮膚組織が予防接種
の方法に関係なしと云ふことは殆ど不可能である。綿羊、牛、馬の皮膚接種
の方法を応用せる良効なる結果は数へるまでもない。
同じ種類の事実は近頃豚「コレラ」の疾病に於て観察された。Salmon et
Smith,Schweitzer によつてなされた予防接種の不成巧なる試験並びに Citron
の「アグレッシン」に就ての研究を想い起すのである。
近来の研究に於て、吾人の同僚 Jeney は豚「コレラ」菌は経膚的による方
がすべての他の経路によるよりも遥に毒力強きことを示した ; 換言すれば、
海猽に於ては、恰も豚「コレラ」が特に皮膚感染なる如く、皮膚は優秀なる攝
受器官であるのである。
その根拠から、Jeney は皮膚接種を行つた。これによつて特殊「アンチウ
ヰルス」を侵せる繃帯を以て単に腹部に適用せるのみにて、更に強固なる免
疫を成立することが出来た。かく繃帯された海猽は特異血清を与ふる免疫に
優る所の免疫を得た。即ち、之等の繃帯法は皮下に注射せる病毒に対し動物
を防御するが、腹腔内に於ける病毒の注入に対しては之を防御すること無力
なるを示した、即ち之は豚「コレラ」に対する防御は皮膚免疫なることを明か
に証明するものである。
152 感染並に免疫に於ける皮膚の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
同じ種類の事実は近来 Meyer et Batchelder により鼠の Iasteurella にし
て海猽に極めて強毒なる例に就いて記載された。経膚的に此の病毒を注射す
ると1乃至2日で海猽の死を招来することを確めたので、著者等は同一経路
により、特に特異「アンチウヰルス」を以て之を予防接種出来ないものか何う
かを試みた。氏等は一群の海猽には皮内に0,3ccの「アンチウヰルス」を注射
し、他の群には「アンチウヰルス」を造るに使用せる普通「ブイヨン」の0,3cc
を注入した。種々の間隔を置いて、氏等は之等の動物を厳重なる実験に供し、
病原菌に富める脾臓の碎片を軽度に亂切せる皮膚面にあてがつた。
対照動物は全部死亡せるに、「アンチウヰルス」を以て経膚免疫せられたる
海猽は生残つた。免疫は既に18時間後に証明された ; これは約三週間続【継】続し
た。興味ある事実は、皮膚接種により免疫を得た海猽は供試菌の注射を皮膚
の代りに、皮下経路を使用する時には、対照と同じく感受性あることを示
した。
更に付言すべきは経膚免疫をなせる海猽は血液中に抗体を証明しなかつ
た。
* * *
培養濾液を用ゐ皮下経路により予防接種を行ふこと、皮内経路は湿布繃帯
法によることと、免疫機転は殆ど変化がない。すべて之等の場合に、抗体に
関係なく免疫は獲られる : 之は皮膚組織の内部で出来るのであるから、局
所免疫である。
如何なる細胞が関係するか? 正確に之に答ふることを知らぬ。皮膚予防
接種は網状織内皮細胞の固定せる攝受細胞内で起ることは確実らしい、この
網状織内皮細胞は皮膚の局所喰菌細胞の門口である ; 游走性白血球は第二次
的に参加するに過ぎない。Virus と接触し、予防接種を受けるのは固定せる
細胞である ; Virus に慣れ、それ自身に於て感受性を消失して了ふ、即ち免
疫を獲得するのは固定せる細胞である。
新感染が生ずる場合に、一度 Virus に慣れた攝受細胞は、彼等は恰も雑菌
が存在する如くに、振舞ふのである。白血球を遠けることの出来る毒性物質
感染並に免疫に於ける皮膚の意義 153
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は少しも遊離して来ないので、喰菌細胞は生来の貪食性により新に到来する
病原菌に襲ひかかる。之等を捕獲して後、喰菌細胞は自ら生体に侵入するす
べての異物に対し之を貯留する運命を担はしめる。
局所予防接種に次いで現はれる免疫は、一面に於ては、攝受細胞か又は喰
菌細胞が慣れて Virus に不感受性になることに基因し、他面に於ては、白血
球或は遊走性喰菌細胞の関与に基因するのである。
「ワクチン」療法に次いで表はるる免疫は、同じ機転なることを知る。即ち
Wright によれば、免疫を確立するのは抗体であるとなし、吾人によれば、
Antivirus により免疫されるのは感染せる細胞に直接する健康攝受細胞であ
るとする。動物体内にて菌体より遊離し又は培養濾液より生ずる Antivirus
は二様の意義にその作用をなす : 即ち之は特に健康攝受細胞を不感受性に
して、Virus の繁殖を妨げ、攝受細胞をして Virus に冒されない様にする。
かく考へると皮膚の局所喰菌細胞によるのであるから「ワクチン」療法は予
防的手段であつて治療的手段ではない ; 感染より免疫に至るまでの方法の全
相に拡がるのは喰菌細胞の本来の性質に帰するのである。
――――
Mémoires Cités
Besredka, Annales de l’Institut Pasteur, t, XXXV,juillet 1921, p, 421,
Metchnikoff, L’ immunité dans les maladies infectieuses,
Balteano, Annales de l’Institut Pasteur, t, XXXVI,1922, p, 805,
Brocq-Rousseu et Urbain, Rec, mèdec, vètérin,, t, XCIX, 1923, p, 482,
Vallée, Bullet, Société Centorale mèd, vétér,, t, XCIX, 1923, p,285,
Plotz Annales de l’Institut Pasteur, t, XXXVIII, 1924 p, 169,
Besredka, C, R, Soc, Bologie, t, LXXXVIII, 19 mai 1923, p, 1273; t, LXX-
XIX, 2 juin 1923, p, 7,
Besredka et Usbain,C, R, Soc, Biologie, t, LXXXIX, p, 506,
Rivalier, Thèse de la Faculté de médec de Paris, 1924,
Solovieff, Veterinarnoie Dielo, n 10, 1926,
Jeney, C, R, Soc, Biologie, t, XCII, 1925, p, 921,
Meyer et Batchelder, Proc, Soc, Exp, Biol, and Medic,, t, XXIII, 1926, p, 730,
Wright, Annales de l’Institut Pasteur, t, XXXVII, p, 107,
Ⅹ
経膚的免疫法
Immunisation Par la Voie Cutanée(1)
経膚的予防接種法は予防の目的で広汎なる範囲に、脾脱疽の感染の際に使
用された。
最初の試験は伊太利に於て Mazucchi が綿羊に行つた。皮内経路により次
第次第に強毒なる菌を以て予防接種せるに、此の実験者は綿羊に極めて鞏固
なる免疫を賦与し得た。次いで大量の Virus を以て試験せるに、綿羊は体
温を軽度に上昇せる以外には他の反応を示すことなく、之に耐え得た。
同種の実験を Maroc に於て Velu がやつた。その実験は11頭の山羊で行
はれた。之等の動物は一回だけ皮膚接種を受けた。皆が皆同量の Vaccin を
受けたのではない ; 即ち1∖5量から20倍量に変へたので、その一単位は皮
下注射に使用される通常量を以て表はさるるものである。
一回の皮膚接種の後14日目に、すべての綿羊が試験的菌注入を得た : 氏
は羊に家兎に対する致死量の5,000倍量に相当する Virus の量を接種した。
只「ワクチン」量1∖5を皮内に受けた綿羊が死亡せるのみにて、他はすべて生
残つた。
鞏固なる免疫はかくして綿羊に於ては皮内に只一回「ワクチン」を注射した
だけで発現せしめ得た。
* * *
皮内予防接種の試みは続いて馬でなされた。最初の実験は Brocq-Rousseu
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) Presse médicale, 12 juillet 1924, 27 octobre 1926; Annales de l’Institut Pas-
Teur, juin 1927,
経膚的免疫法 155
――――――――――――――――――――――――――――――――――
et Urbain に属する。その実験の始めに当り、著者等は馬が甚しく感受性が
あるので、細心の注意を払つた。詳細を述べることを避け、単に述べんと欲
するは皮内接種を受けたる三頭の馬は鞏固なる免疫を得たが、而もそのいづ
れもが血液中に抗体の痕跡を現はさなかつたのである。
皮内接種反応は Brocq-Rousseu et Urbain の観察せる所によれば良性に
して、通常馬に於て観察さるる偶然の重篤症と比すべき程度に過ぎない。脾
脱疽流行の際に Villars の獣医なる Saint-Cyr は最近 Ain 県に於て多
数の動物に予防接種をなした、そのうちに40頭の馬を含んでゐた。馬の場合
に於ては、その感受性として知らるる反応を避くるためにあるゆる注意がな
された。皮下に第二回の「ワクチン」を接種して後4-5日で7頭の馬は極めて
重篤なる症状を呈し、そのうち3頭は脾脱疽で斃れた。
予防接種の事業関係を終るに当り、著者は記載して曰く『氏がなしたる結果
によれば、氏は将来馬の予防接種を実行することは大に躊躇するであらう』と。
問題となれる Brocq-Rousseu et Urbain の有益なる試験に続いて、大規模
なる皮内接種法が Asie 鉱山及び Maroc に於て近来実行された。
Levant の軍隊に於ては、最近5年来、脾脱疽が可成り猖獗を極めた。大
多数が馬及び驢馬より成る此の軍隊の動物はその地で採集せる秣、大麦及び
teben を飼料とした。bled(草叢)の中を歩き廻はれる獣群は脾脱疽地帯の野
営で感染した。かくして、仏蘭西軍馬がシリアに到着して以来甚しき損失を
嘆くに至つた。
感染せる部隊に実施せるパストウール氏予防接種は夥しき数に上つた。血
清加「ワクチン」注射更に血清による予防注射さへも行はれた。従来の予防接
種法によつて得たる之等の不成功により、軍馬獣医課長 Nicolas は一部に皮内
接種法を採用した。氏は先づ一定数の馬に試みた ; 次いで、本法の無害なるを
確めたので、氏は之を有効に全軍隊に拡めた、即ち約9,000頭の動物に行つた。
ここに1925年1月1日に於けるこの脾脱疽皮内予防注射の第一回の仕事の
結果が何うであつたかを述べやう。
1924年の始めに皮内接種をせる馬及び驢馬8,912頭のうち、4頭が死んだ、
156 経膚的免疫法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
そのうち2頭は予防接種経過中であり2頭は接種後である、即ち0,45%に当る。
然るに、1919年より1923年に至る5ヶ年に於て、その期間には他の予防
接種法が実施されてゐたのであるが、平均一ヶ年に88頭の損失があつた、即
ち8,1%に当る。即ち皮内接種法は5ヶ年の平均死亡率を約20倍減少したの
である。
ここに獣医課長が如何なる言葉を以て陸軍大佐に報告してゐるかを述べて
見やう : ”之は馬匹の脾脱疽予防注射の歴史中前例なき成功である、成功は
皮内接種法の殆ど全く無害なること及び有効なることに帰すべきである。”
同様の接種法が翌年(1925年)に適用された。”この最近の実施成績は、吾
人が大臣に寄せたる報告書に述べたる1924年の成績を明に立証した、即ち
Besredka の方法による予防接種は反応少きこと――予防接種による致死的
災害は少しも認めず――又馬匹に鞏固にして一年間持続する免疫を賦与せる
ことを知つたからである。”
1925年には、6,994頭の馬と驢馬のうち、5頭が死んだ、即ち0,72%に当
る ; この結果は1925年はシリヤに於ける”脾脱疽の年”(1)であつたことを
考慮すれば更に顕著なるものがある。
* * *
我国に於て、脾脱疽予防接種の恩恵を最も多く蒙ると称せられる動物は、
綿羊と牛とである。1924年内に Moroc に於て、Monod et Velu の発案で牛
類及び羊類に21,640 の予防接種を実施した(14,405 の牛、12,520 の綿羊、
4,640 の豚、及び75の馬)。
注意すべき重要点は、之等の予防接種は甚しく病毒濃厚なる地方に実施し
たことである。之に劣らざる重要点は、予防接種はパストウール氏法で行ふ
如く二回に実施する代わりに唯の一回で行つた、之は獣医及び耕作者の側で大
なる価値ある長所である。
Maroc の獣医は、この皮内接種方を採用したので、一様に本法の無害なる
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) 獣医課長の陸軍大臣に宛てたる報告。Revue Vétèrin, milit, 1926 を参照、
経膚的免疫法 157
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この、更に既に感染せる獣群に実施されること、有効なること、その優秀な
るために採用すべき方法なることさへも承認するに至つた。
爾来、500,000 以上の予防接種が Maroc に於て Monod et Velu の指揮の
下になされた。
ここに予防接種成績の綜合より得たる知見は如何なる者か、述べてみやう。
”Maroc に於て企てられた一般の実験と実際とは、一般に流布せる意見に
反し、唯一回の皮内注射は、発熱反応も、局部反応も、全身反応も起すこと
なく、鞏固なる免疫の発現を決定するに充分なることを証明した。
”免疫は殆ど即時に得られる。一回の皮内接種は殆ど爆発的の免疫を与へ
る、その故は Vaccin の干渉が大多数の場合に、甚だ稀であるが、最も重篤
なる獣疫を、48時間以内に一度に押さへつけることが出来るからである。之
がために予め感染せる家畜群の動物に高価なる血清注射を行ふ必要がない。
”免疫は鞏固である、何となれば皮下注射による最小免疫量の5分の1で
皮内注射の場合には之を予防接種するに充分であり従つて予防接種にはこの
分量の5倍を使用し得るからである。
”免疫は強烈である、何となればかくして予防接種せられた動物は強毒な
る脾脱疽菌の最小致死量の1,000倍量の皮下注射に抵抗し、感染地域に於て
2-3回の皮下「ワクチン」注射を受けたる動物と同様に平然たるものであるか
らである。
”免疫は持続する、何となれば之を実施せる大部分に於て、一年間「ワクチ
ン」を接種せる動物に於ては、一例の脾脱疽病も認められず、尚之等の動物
が、獣疫の発生せる地方に於て、感染地域に存する場合に於ても同様であつ
たやうである。
最後に、Velu は観察の総括より次の結論を誘導してゐる、之を吾人は原
文通りに再録することとする。
”脾脱疽菌に対する一回皮内接種法は単純にして経済的なる方法である。
その無害にして効力の確実なること、血清注射を駆逐し得る免疫性の爆発的
発現、同時に予防接種の可能なることは、その地位は広大なる範囲の飼育地
158 経膚的免疫法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
では明に必要のものとなつた。即ちかかる所に於ては獣医は極めて遠く、動
物は半ば野生にして、取り扱ひに始末悪く、畜群はさまよひ、之を引続き2
回又は3回全部集めることは困難である。
”故に皮内接種法の研究は之以上技術の簡単にして、その実施に於て之以
上無害にして、その結果の之以上確実なる方法を要求することは出来ぬと思
はれる、かくの如き方法は殖民地の実施に貢献するものと断言することが出
来る。”
* * *
治療上には皮膚又は粘膜による予防接種は人間又は獣医の臨床方面に多数
にして多種なるものが用ゐられてゐる。吾人は Bouchaud, Cacan, Coignete,
Latil, Laseigne, Philippeau, Ravina の論文並びに Bass, Bonneau, Chevalley,
Demetriadès, Gerlach et Kralicek, Hababou-Sala, Kandyba et Natanson, Ki-
ssine, Levy-Solal et Simard, Lobre-Francillon, Lotheisen, Naudin, Nicolas,
Nicolaewa, Normet, Ribadeau, Roux, Schlein, Tonnat, Tron により種々なる
定期雑誌に発表された研究を借用し、一定数の観察を報告することとしやう。
「フルンクロージス」
Furonculose,
「フルンケル」が孤立又は密集するにせよ、四肢、胴体、外聴道内、又は顔
面にあるにせよ、近年の実験では湿布繃帯、膏薬、沃度丁幾の塗布に、抗葡
萄状球菌濾液により特殊繃帯を代用し優秀なる成績を挙げ得た。
初期に処置すれば、「フルンケル」は頓挫する、充分成熟せる時に処置すれ
ば、速に進行する。いづれの場合にも、特殊繃帯の速に痛みを止め膿塊癤心
が消褪するや否や結痂形成を促す。
観察I,-p,…尾骶骨部位に激痛を有する「フルンケル」を生じ、殆ど睡眠を防ぐ。
5月7日以来、患者は運動をなし得ず臥床す、疼痛は極めて烈しく患者は号泣
せざるために堪えなければならぬ程である。
5月10日に初めて抗葡萄状菌繃帯を試む。痛みは間もなく減じ、次に全く消失
経膚的免疫法 159
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し、患者は睡眠す。
4時間後に、湿布は乾燥し痛みが再発す。午後8時に新に繃帯す ; 痛みは直ちに
消失す。5月11日朝4時、次に正午に包帯を新にす。膿塊は除去さる。
5月12日、炎衝症状は遞減す。患者の容体は益々満足すべきものとなる。
観察 II,―G,……「フルンケル」が左側の腿に生ず ; 中央部は強く充血し「チアノ
ーゼ」をなす。膿汁を排泄することなく、小なる口を認む。浸潤は深く硬し。疼
痛烈し。患者は杖に倚り歩行困難である。
1月29日、抗葡萄状球菌の湿布繃帯を始めて行ふ。翌日痛みは消失す。發赤は
消褪し、炎衝減少す。
2月1日、發赤も、浮腫も認めず。最後の特異繃帯を施す。
観察III,―旋盤工、3ヶ月以来「フルンクロージス」に罹患す。頸部に大なる「フ
ルンケル」を呈す ; 膿塊癤心の口は浸み出るに過ぎない ; 頸部の疼痛と「シコリ」
は通常の治療に拘はらず数日来継続。
「ブイヨンーワクチン」による湿布繃帯を適用す ; 数時間にして、患者は緩和せ
るを認めた。翌日、起床に際し、”患者は少しも悪く感じないで全く自由に頭を廻
転す。”。24時間で、「フルンケル」は窪み漏出は止む。
観察 IIII,―青年、二ヶ月来、一列の「フルンケル」が頸部に発生す。種々なる治
療を試みたるも効果なし。発生せる時には、その頸部は17個の「フルンケル」が散
在しうち4個は大である。患者は頭を動し得ず又睡眠し得ず。膿疱の清拭と切開
の後に、抗葡萄状球菌濾液を浸せる圧迫繃帯を施す。
直接の効果は疼痛の去れることで知らる。翌日、炎衝症状は消失す。葡萄酒の糟
色を呈せる頸部は正常の外観を呈す。淋巴腺膨脹は容積を減ず。三回の湿布繃帯
の後に大なる「フルンケル」の膿塊は除去し、小なる「フルンケル」は乾燥す。
観察 V,―30歳の男、朝覚醒と共に鼻の先端は赤く、腫大し疼痛あり。右側の
鼻翼の内面に固くして圧迫により痛みを感ずる小塊を認む。葡萄状球菌「アンチ
ウヰルス」を浸せる湿布繃帯を施す、殆ど即時に、患者は緩和す ; 發赤及び疼痛
は速に消失す。特異繃帯は午後と翌日に新たにさる。この時、患者は治癒せるを認
む。「フルンケル」は去り、再発は起らなかつた。
観察 VI,(Montpellier, Dr R……の自己観察)―数日来、余は右側鼻孔の大なる
「フルンケル」に犯さる : 3―4日以来痛く苦しむ。余は感染せる鼻孔内に「フル
ンケル」と接触し、「ブイヨンーワクチン」を浸せる綿の「タムポン」を一夜中入れ
て置いた。白状するがその結果を少しく疑つてゐた。然し、起床の際全く軽減せ
160 経膚的免疫法
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るを認む。余の鼻は柔軟になつた ; その發赤は充分褪せ、24時間後には、「フルン
ケル」は治癒した。
観察VII,(Marseille Dr R……の自己観察)―外聴道に於ける刺戟性にして疼痛
ある葡萄状球菌感染にかかる。余は二回反覆し該感染を消褪せしめ同時に化膿期
前の刺す如き痛みを消失せしめることが出来た。二日にしてすべてが順調となつ
た、諸君余の満足を思つて下さい。
癰
Anthrax
Antivirus による湿布繃帯は之を初期に施す時は屡々癰を頓挫せしめる。
感染部位は蒼白となる ; 浮腫疼痛は減少す ; 熱は低下し患者は休臭【息】感を覚え
る。
発病の極期に於ては、小なる切開にて足る。「アプセス」の腔内に Antivirus
を滴入するか又は其所に Antivirus を浸せる心(しん)を挿入する。かくして切
開による創痕を避け、顔面癰の場合には、全身感染の危険を避ける。
観察I、-MC、……、39歳、12月11日に Saint-Germain 病院に入院す。2病竈存
す : 左側腓腸の癰の大さ3cm の盃状托を有す、右側腿の後面の癰同上の大さ
を有す。患者は疼痛による不眠のために疲労す。食慾減退するも熱なし。
各盃状托の部に、葡萄状球菌及び連鎖状球菌を認む。第一日に抗葡萄状球菌濾
液による湿布繃帯を適用し ; 翌日混合濾液を使用した。
12月14日、各の癰の囲繞せる烈しい浸潤区域は減退す。之を蔽ふてゐる水疱は
は空虚となる ; 水疱は新に生ずることなし。盃状托は清拭され充満する傾向あり。
患者は熟睡し、食慾を回復す。此の時より局所症状は速に良好となる。
観察II,―60歳の女、糖尿病 ; 初めに背部両肩胛骨間に大なる癰を生ず。之を
「テルモカウテル」にて開き、通常の湿布繃帯にて処置す。
20日後に腰背部に2個の新生癰の発生を認む ; 之を「テルモカウテル」にて切閉
し、此度は Antivirus による湿布繃帯で処置す。
最初の癰には相異を見るために、故意に単純繃帯にて治療されたもの、瘢痕と
他の二個の特異繃帯を以て治療されたものの瘢痕とを比較するに、次の事が証明
された : 最初のものより15日後に発生せる二個の癰は、少くとも最初のものよ
経膚的免疫法 161
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り15日早く治癒した。
観察III,―吾人はDrM……の報告を受けてから2ヶ月である、余は「約15日を
経過せる癰を有する一婦人の患者に呼ばれた。余は「テルモカウテル」で一眼より
他眼に及ぶ手掌大の全頸背部に亘る病竈部を切り取つた。之は血膿及び脱疽屑で
満ちてきた ; 余は実際同大の創痕を残すことを恐れた。余は「ブイヨンーワクチ
ン」による繃帯を適用した ; 48時間後に、余は他の繃帯をなし軽度の快方を認め
た ; 患者は苦痛が軽減した。
余は余の住居より甚だ遠隔なるため患者のため娘に他の三回の繃帯を委嘱した。最
初の適用後10日目に、余が訪ねた時、余はその結果に全く吃驚した。即ち目前に
は少しの膿痕もなく生気ある赤色で蔽はれたる創痕を見たのみである。
現在では、創痕は全く癒着した。
観察IIII,―M,夫人、68歳16―22gr, の糖尿病。1926年8月3日、余は患者を見
た : 全頸背部を占むる巨大なる癰あり。手術(「クロール=エチール」の吸入) : 全
病竈を截除、緑色又は脱疽状を呈する部分を全部摘出。垂直に上昇する切開は創
面の各側より頭頂に向つて上り、幅約4cm, 長さ約12cm の毛髪を発生せる皮膚
片を剥離した。剥離せる皮膚片の端は顱頂部の毛髪発生皮膚と Florence 毛によ
り固定さる。体温は38°と39°の間を上下す。
8月9日頸部の右側部位に壊疽様の浸潤が起つた。第二回の手術 : 脊椎上部
及び頸動脈部の全柔軟組織を肩峰突起に至るまで摘出した。
柔軟組織の覆蓋を一度び除去するや、直下にある筋肉は壊疽で浸潤せるを見た、
余は胸鎖乳嘴筋の下半分と僧帽筋の大切片とを切り取つた。頸部大脈管が共通の
鞘に包まれ傷面の底部に見えた。
細菌学的検査の回答を待ちつつ、抗葡萄状球菌の販売濾液の繃帯を施した。検
査の結果は葡萄状球菌及び連鎖状球菌なることを明にした。この時より、混合販
売濾液を1日2―3回、3―4週間使用した。
9月1日、毛髪発生皮膚片をつなぐ連糸を切断し、之を赤色にして充血し充分
に肉芽状となれる創面に付着せしむ。そこで脂肪を塗つた紗布の繃帯をなす。9
月14日頃、患者は病院を去つた。彼女の表在性の創面は尚長さの最大15cm,幅
の最大8cm を算した。容体極めて良好。
瘭疽
Panaris,
M……嬢右手の中指に深在性瘭疽あり。表在性瘭疽の結果軽度の切開を受けた
る後、患者は注意せず自宅療養をなし創面を汚染す。指は浮腫を呈し、發赤疼痛
162 経膚的免疫法
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を訴ふ。腱鞘を犯される心配があるので、吾人は Vaccin による繃帯を施した。
之は翌日取り代へたが、浮腫、發赤疼痛は減退し、皮下に膿を誘導す。完全なる
治癒は9日で得られた。
乳房炎
Mammite,
乳腺の炎衝の中に瘙痒、發赤、疼痛性腫脹を呈する場合には即時に特異繃
帯を使用せるに、極めて屡々化膿することなく吸収を促進す。膿の形成ある
場合には、切開の後濾液で洗滌し且つ濾液を浸せる「ガーゼ」を插入すれば速
に瘢痕を形成せしむ。
観察I,―L……(Franoçise,), 18日前発生せる乳房の「アプセス」のために1
月5日 Saint Germain 病院に入院す。局所に極めて烈しき疼痛あり。体温39°2
cm の切開により、多量の膿汁を排泄す ; この中に連鎖状球菌を発見す。
「アプセス」の空洞には「ワクチン」濾液に浸せる「ガーゼ」を確り填める。殆ど直
ぐに、疼痛及び発熱の消失せるを認む。
20日で完全に治癒す。
観察II,―乳房の巨大なる「アプセス」, 車輪の輻状に四個の切開をなし、管を
以て大なる排膿をなす必要あり。腺は炎衝硬結の所在部位となり、硬化深在性に
して、遂には化膿せんとして居る。
排膿管を通じて、「ブイヨン=ワクチン」を充せる蒸気噴霧を行ひ、この同液に
浸せる「ガーゼ」を出来るだけ深部に挿入す。
感染が殆ど全乳房に及ぶ時には常に長期間を要するものが、著しく速に経過し :
20日以内に、乳房は正常の外観に復し、その柔軟性は5―6週の器官を待つまで
となる。
感冒性化膿耳炎
Otite Suppurée Grippale
耳の「アプセス」が1月13日に穿孔す。耳浴の処方に昇汞化「グリセリン」次いで
硼酸「アルコール」とす。この洗滌は毎日行はれ2月5日に及ぶも著効なし ; その
感染は慢性になる恐れがあつた。
2月5日耳浴に数滴の「ブイヨン=ワクチン」を加へたものを用ひ ; 同じ液に浸
経膚的免疫法 163
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せる綿を耳介上に適用す。
2月6日、流出は全く乾く。
中耳の「アプセス」
Abcés de l’Oreille Moyenne
中耳の「アプセス」、鼓膜穿孔し乳嘴突起炎始まらんとし、まさに専門医を訪れ
穿骨術を受けんとせる程であつた。
「ブイヨン=ワクチン」を適用して後、患者は間もなく軽快し ; その第一夜に熟
睡し、手術することなく恢復す。
鬚瘡
Sycosis de la Moustache
M……氏は一年に二回規則的に鬚瘡の罹つた。普通に、「ポマード」及び種々の
洗滌液を使用するに不拘、感染は皮膚の広範囲を浸し数週間継続す。患者が罷り
出た時は、病竈は前日あらはれ2―3平方糎の表面を占む。最も著明なる化膿性
病竈を火で焼灼し、「ピンセット」で脱毛をなす ; その上に「ブイヨン=ワクチン」
の繃帯を施す。その晩は極めてよく過ぎた ; 瘙痒は数時間で癒ゆ。翌朝、患者は、
繃帯を取りつつ、”それが治癒せる”ことを認めて非常に吃驚した。明に、脱毛
せる皮膚はきれいになり、全く周囲の健康なる皮膚に比較し得。此の患者につき
Dr N, を認めしめた皮膚接種の優秀なることは、それまで使用せられたるすべて
の消毒剤に勝れることを示す。
處生兒の化膿性皮膚炎
Pyodermite des Nourrissons
広くひろがれるこの疾患はその頑固なると種々なる治療に対し抵抗強きと
により絶望的のものである。
観察I,―V,R……, 生後6か月、1925年10月13日、Marfan 教授の病室に入院
す。彼女は二度の栄養不良の状態、肋骨の珠数状を有せる軽度の佝僂病、頸部
腋窩及び鼠蹊部の矮小多発性腺病を呈す。
10月23日、頸部に限局し天疱水より成る多数の発疹をあらはす。他の部、顔面
164 経膚的免疫法
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の付近、胸部の上部に数個の「アセモ」を認む。
天疱水の漿液検査によれば葡萄状球菌が純粋の状にあることを示す。葡萄状球
菌「ワクチン」を以てせる繃帯の作用により、天疱水の発疹は2日で癒ゆ。感染せ
る粟粒疹は少しく長く続く。
烈しい頑固なる鼻加答児は通常の医薬(ユーカリ樹油の「コラルゴール」溶液)に
抵抗し、移植するに特に連鎖状球菌を示したので、連鎖状球菌濾液を鼻腔に注入
せるに数日で消失した。
観察II,―小児 Hélène H, ……, 1925年7月10日生れ、8月18日左側内髁付近の
部位に生ぜる「アプセス」のために小児救済病院(Parrot 哺育育)に入院す ; 浮腫
が足の背部、脛の前部、膝に至るまで存す。軟き点を呈せる「アプセス」は翌日瘻
管を形成す ; 浮腫と發赤は継続し ; 体温は38°8で稽留す。
「ブイヨン=ワクチン」で処置せるに、浮腫上の腫脹は消失し、完全治癒は5日
間で得られた。
10月15日、全夏中消化不良を呈せる小児は第二度の栄養不良の状態である ; 腹
部及び四肢の脂肪膜は消失した。小児は新に毛髪部の皮膚に皮膚性又は皮下性の
多発性「アプセス」を有する化膿性皮膚炎を呈す ; 頸背部に限界極めて悪しき巨大
なる腫物を生じ、浮腫性腫脹は頸部一円に及び更に側方顳顬部位に達す ; 左側耳
朶に出血を認む。之は栄養不良者に於ける毛髪発生皮膚の膿瘍にして Marfan 氏
は特に重篤と考へ、屡々死の転帰を取るものと考へる。切開す ; 漿液帯血色性液
体が流出し、その内容を対物硝子にて検し更に培養して葡萄状球菌の存在を知る。
葡萄状球菌濾液を以てせる繃帯の作用により、頸及び毛髪部浮腫性の腫脹は消失
し、膿は切開部に於て排除す ; 浸潤性膿瘍の治癒は3日で得らる。
観察III,―小児 Georgette L……, 1925年2月5日生れ、気管枝肺炎を併発せ
る麻疹のために、1925年4月の初めに小児救済病院(伝染病室)に入院す。
数日にして前額及び右側顳顬の膿疱性化膿皮膚炎の小疱を発生す ; 之に「ワク
チン」含有「ポマード」を使用す : 即ち「ラノリン」と葡萄状球菌濾液との混合で
ある。
日毎に、病竈の快方に向ふを認む。6日目に膿疱疹は消失し、乾燥し痂皮を以
て蔽はれた。
右側上眼瞼の部位に、「ポマード」を貼用し得ざる発疹があつた、之が対照の発
疹となつた。その炎衝症状は継続し、膿を含有せる小嚢を形成し、明に他のもの
より区別さる。
観察IIII,―Jeannine S, ……1925年8月26日生れ、1925年11月10日小児救済
病院(Pavillon Pasteur)に入院す。入院させた理由は小児が発育せず、体に吹出
経膚的免疫法 165
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もの、甚しき発汗による「アセモ」を発生したためである。之は佝僂病である :
頭蓋消削病及び珠数状肋骨をなす。小児は左側臀部に巨大なる「アプセス」を示す。
「ブイヨン=ワクチン」にて処置するに、化膿性皮膚炎の病竈が治癒せるを以て、
1925年11月23日に退院す。
小膿疱疹
Impétigo
初期は葡萄状球菌に由来するこの感染は屡々多種細菌の第二次感染を併発
す。適当なる Antivirus を局所に適用することが選択すべき治療法である ;
この場合約10日の期間を継過することは稀である。
観察I,―M,S,S,B, ……左側の耳に受けた刀傷に次いで、耳殻、乳嘴突起部及
び耳下腺部に潰瘍と独特なる痂皮とを有せる Impetigo を生ず。
1924年3月15日より3月20日まで、3回「ワクチン」を適用せるに、根治するに
至る。第一回の適用後に、痂皮は剥離す、3月20日、全部位が上皮を生ず。
観察II,―M,G,G, ……,指物師、屡々木片にて指を損傷し、時々損傷部に潰瘍
性大膿疱疹の発生を見、全作業を中止せねばならなたつた。吾人は1924年3月之
を見る機会を得た、之は1ケ月以来生ぜる化膿性膿疱疹で少しもよくならない。
2日の間隔で3回「ワクチン」を適用せる後、完全に治癒した。患者は「ワクチ
ン」の適用後一年半で再び訪れた ; 彼は屡々皮膚に外傷を受くる如き仕事を継続
せるに拘はらず、更に病竈を生じなかつた。
観察III,―Mlle P,V, ……6ヶ月以来化膿せる乳嘴突起炎のために手術せる妙齢
の患者に於て、前頭部に約1糎平方、後頭部に3―4糎平方の Impétigo 様の二病
竈を毛髪発生部の皮膚に生ず。2月以来、之等の病竈は癒着する傾向がない。
吾人は1924年3月20日より28日まで「ブイヨン=ワクチン」を2日目毎に前頭部
に適用し治癒せしめ得た ; 3月20日より4月8日まで後頭部病竈に適用し同様の
結果を得た。
オツエナ
Ozéne
鼻腔粘膜に局所的に適用せる、Antivirus 浸潤「ガーゼ」は、Jacques, Nancy, Re-
battu et Proby, Lyon の管轄内並びに Doviol-Valcroze 及び Leplat の管轄内で、
166 経膚的免疫法
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良好なる結果を与へた、特に粘膜に予め胆汁を塗布せる場合が有効であつた。
, 角膜の感染創傷
Plaie Infetée de la Cornée
F,G, は10月8日角膜に異物を受けた。間もなく葡行性進行をなす「アプセス」
ついで前房蓄膿症を起した。患者は烈しく苦しみ、一睡せず。
10月20日、第一回「ブイヨン=ワクチン」適用。21日「アトロピン」をやめたにも
拘はらず、疼痛は消退す、もはや前房蓄膿症なく ; 「アプセス」は洗滌さる。「アプ
セス」の場処には洗滌された深部の潰瘍が残存するのみである。この良好の経過
は27日まで続き、その日に癒着が充分に行はれ、感染は消失し視力が恢復せるを
見る。
涙嚢の慢性「アプセス」
Abcés Chronique de Sac Lacrymal
糖尿病患者で治療手術を行ふことを躊躇せるものに於て起る。Antivirus 濾液
を以て涙嚢を四回洗滌し全化膿を消褪退せしめた。
, 涙嚢炎
Dacryocystite
観察I,―16歳の若き娘、1924年12月4日、涙嚢の感染で来る。彼女は3年来病
気である。右側涙嚢から多量の膿が流る。この膿は極めて速に形成さる。幼少の
頃、彼女は風邪に罹患し、「カテーテル」及び涙嚢内に種々の物質を注入して処置
された。二年間で、涙嚢の部位に「アプセス」が形成さる。
細菌学的検査は肺炎菌を証明す。12月18日自家「アンチウヰルス」を涙嚢内に第
一回の滴入をなす。自家「アンチウヰルス」による治療は12月30日まで継続さる ;
全部で6回の注射がなされた。1月10日患者は治癒し退院す。彼女は2年半この
方観察され、再発がなかつた。
観察II,―38歳の婦人、1925年2月24日右側涙嚢炎衝のため訪る。彼女は4年
来病気である。多量の膿が涙嚢より流出す。患者は専門医に治療されたが成功せ
ず。最近手術を薦める者があつたが彼女は之に従ふことを拒否した。
細菌学的検査によれば短連鎖をなす双球菌を発見す。3月12日、涙嚢内に自家
経膚的免疫法 167
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「アンチウヰルス」を注入す。注入は七回反覆された。3月31日患者は治療退院す。
彼女は二ヶ年来観察さる。
観察III,―45歳の婦人、1925年3月3日涙嚢の炎衝のため訪問す。彼女は6年来
病気である。濃厚多量の膿が右側涙嚢より流出す。患者は種々の治療を置けた ;
屡々「カテーテル」で洗滌された。
細菌学的検査で、肺炎双球菌を発見す。3月21日右側涙嚢内に自家「アンチウ
ヰルス」の第一回注入を行ふ。之に続いて11回注入をなした。4月18日、患者は
治癒退院す ; 彼女は尚2年来観察のため残る。
, 潰瘍性眼瞼縁炎
Blépharite Uleéreuse
観察I,-35歳の男子 ; 2年来眼瞼炎に罹患す ; 眼瞼縁の發赤と浸潤、毛根に
於て深部性潰瘍を伴ふ癒着性痂皮あり。黄色葡萄状球菌を発見す。患者は「フル
ンクロージス」の傾向がある。Wright 氏法による「ワクチン」療法を行つた ; 患
者は次いで砒素剤の皮下注射の一巡を受け、内服に麦酒の酵母を摂つたがいづれ
も効果はなかつた。
葡萄状球菌「アンチウヰルス」による湿布繃帯の適用に続いて、眼瞼は速に正常
の外観に復した。5ヶ月間患者は観察されたが、少しも再発はなかつた。
観察II,―右側眼瞼の湿疹性眼瞼炎にして定型的浸出性潰瘍を伴ひ薄皮を以て
蔽はる ; 睫毛の縁に添うて小潰瘍を認む ; 眼背区域に於ては赤色の皮膚はひびだ
らけとなり潰瘍とならんとする傾向を示す。左側では、更に發赤は広がり糖粃状
の鱗脱皮あり、中央に白点を有する二個の麦粒炎存す。
この感染が慢性化する前、Antivirus による繃帯湿布をなした。5回の繃帯後
即ち治療後一週にしてすべての治療を拒否し、傷口は閉ぢた。”麦粒炎は二回の
繃帯後に妖術による如く消失した”。
観察III,-14歳の少年 ; 一年来眼瞼にその縁に固着する痂皮を有す。之を剥離
すると出血性の小なる潰瘍が露出する。眼瞼縁は充血し軽度に浸潤す。黄色葡萄
状球菌を認む。葡萄状球菌「アンチウヰルス」による湿布繃帯は快癒に導く。患者
は2ヶ月間観察のため留まる。
168 経膚的免疫法
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口内炎及び歯槽骨-骨膜炎
Stomatite et Ostéo-Périostite Alvéolaire,
30歳の患者、特長ある潰瘍性口内炎(口の悪臭、顎下腺の疼痛と腫脹)、3ヶ月
来治療もさまで快癒の兆候なし。混合「アンチウヰルス」を適用す。疼痛消失し、
三日後に、完全に治癒す。
他の患者、彼自身医師、急性歯槽骨―骨膜炎の症状にて「クリニク」を訪る。之
に在来の治癒法(穿骨、洗滌等)を受けさす。疼痛去らず、3晩継続せる不眠の後、
患者は抜歯を要求す。最後の手段として彼に葡萄状連鎖状球菌「アンチウヰルス」
を試用せむことを薦む : 之の歯根管の中に少し注入し、その後にその出口を密
閉す。
この適用後二時間で、痛みは止む。翌日その歯は全く感じない様になつた、然
るに前日までは軽く触るるも極めて烈しい疼痛を起したのである。
火傷
Brulures
更に押し広むれば、之は病原菌の侵入門口に役立つ ; 治療は傷口の上皮形
成を促し、感染を防ぐことを目的とす。この場合には Antivirus はすべて指
示せる生物学的消毒剤となる : 即ち化膿に反抗し、細胞に有害作用を及ぼ
さず、却つてその抵抗を強める。瘢痕形成上皮形成は特異繃帯の適用後直ち
に促進され、負傷者は充分よくなれる様な感じを懐く。
観察I,―O,D……嬢、16歳、三度の火傷、左側上肢の全内面、両乳房の表面、
左側の手の両面、右側の手の半面に及ぶ。火傷は極めて感染さる。
1924年3月20日、Vaccin を浸せる湿布を露出せる皮膚が多少深く犯された全部
位に適用す。翌日、損傷せる全部分は既に当該表面の1∖3が恢復す ; 尚露出せる
部は少しも感染せず又夥しき吹出ものもなし。3月25日表皮形成は左腕全表面に
起る。唯々数個の小なる体液の流出物の尚認めらる。右側乳房の傷面は治癒す ;
左側乳房の傷面はその面積の半分以上に上皮を生ず。3月27日、恢復著明となる
最後の「ワクチン」繃帯は3月29日 ; 次いで乾燥繃帯をなす。
観察II, ―M,J……夫人、22歳。4度の火傷、左側肩の前部より手の両面に及ぶ。
中央に、一大結痂あつて排除口を有す。皮下の細胞組織は露出し著しく化膿す。
5月12日 Antivirus の繃帯を適用す。14日、脱疽部は極めて容易に剥離す。す
経膚的免疫法 169
――――――――――――――――――――――――――――――――――
べての部分が露出し鮮紅色の血液が浸出し、化膿は極めて少くなる。煮沸水を以
て洗滌せる後、16日に乾燥繃帯を適用す ; 浸出液は次第に増加す ; 或る点は尚ほ
感染し、吾人は之に「クレーム」状にせる Antivirus 層を適用することとす。18
日、傷口は瘢痕形成のよき経路を示し、更に化膿せざるに至る。
感染創傷及び「フレグモーネ」
Plaies Infectées et Phlegmones
観察I,―手の「フレグモーネ」前腕の淋巴腺炎を伴ふ。手掌及び手頸の上の屈折
筋及び伸張筋の腱鞘を開いて後、「ブイヨン=ワクチン」を創傷内に注入す。消毒
的繃帯と特異繃帯とを交互にす。12日間で治癒す。結果は極めてよい、と Sanit-
Mihiel の Dr P……は付加す、何となれば最初の6日目にすべてが空虚となり、
何の病弱を残すことなく治癒は確実となれるからである。
観察II,―男子膝の「フレグモーネ」に犯さる、発熱38°皮膚は強く浸潤し、光
沢があり、膿疱で蔽はる ; 疼痛烈しく快癒する傾向少し、疼痛は Antivirus の繃
帯の適用を受けて10分以内で軽減す。
12時間で、体温は正常に復帰し、腫脹は消失し、膿疱は乾燥し、患者はその膝
を plié (「ダンス」の時膝を曲げる動作)をするまで矯正することが出来た。
治療3日後に、患者は歩行することが出来た。
観察III,―下顎角の「フレグモーネ」智歯の「カリエス」に継続す。化膿性洞腔を
穿刺し空虚にし、毎日2回「ブイヨン=ワクチン」の一筒を注入す。乾燥し瘻管を
形成することなく治癒し敢えて切開に頼る必要がなかつた。
観察IV,―骨髄炎、数ヶ処もの手術(膝の載除、徐々に排除する腐骨片、新な
る手術の際の数回の擦剥)に引続ける永久性漏洩を伴ふ瘻管のため一年半以来治
療す。八月に、急性に進展す : 発熱、局所の疼痛、腫脹、發赤。「アプセス」を
形成す ; 切開により、200gr 膿汁流出す。葡萄状球菌「アンチウヰルス」を多量
に浸せる「ガーゼ」を挿入し排膿す。同じ「アンチヴヰルス」を浸せる圧迫繃帯をな
す。
翌日、圧迫繃帯は膿汁を含有せざる漿液を以て濕潤す。
3日目頃から、烈しい分泌は著明でなくなる。「ガーゼ」は除去さる。更に数日
経過し、創傷は閉塞し、少しの化膿性流出もなくなる。
即ち、二回の反復で、患者は同一場所に嘗て同様なる「アプセス」を造つた ; 切
開と排膿によれば軽快するには毎回約3週間を要した、然るに Antivirus の影響
170 経膚的免疫法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
によれば「アプセス」は6日間で縮少し完全に治癒した。
観察V,―手術後の「フレグモーネ」、「ヘルニア」の手術に引続き、体温上昇し、
3日目に38°5となる ; 4日目に、体温は40°となる。腹膜炎の症状はなく ; 然し、
手術創傷部位には、例へは掌大の發赤、疼痛及び腫脹がある。縫合は癒合せず ;
二個の排膿管が置かれた。翌日、腹壁の化膿と剥脱とは大なる「フレグモーネ」の
特長を示す。炎衝性外観は著しく大となる ; 体温は39°5に達す。翌日、同じ炎衝
症候は排膿管より多量の膿を排泄し、絶えず増悪する傾向あり。
この時排膿管を Antivirus で浸せる「ガーゼ」と交替し ; 同じ液で浸せる圧迫繃帯
を赤色浮腫の全部位に適用す。夕方、体温は38°5に低下す。患者は苦痛を訴へず ;
明に快癒せるを証す。翌日、体温は正常となり ; 更に上昇せず。炎衝症状は消失
す。切開により壊疽に陥り排除口となれる下部接続組織より来る膿を流出せしむ。
6日間で完全に治癒す。
観察VI,―手の汚染穿刺、巨大なる腫脹、淋巴腺炎、腋下「ガングリオン」,「フ
レグモーネ」化する脅威、烈しき疼痛、指を動かすこと不可能、Antivirus による
第一回繃帯後二時間で、疼痛消失し、指は運動し得る様になつた。3日目に、更
に2回の繃帯後、治癒は完全となつた。治療医は、この患者の病歴を報告して、
次の言葉で結んでゐる : ”この世の中に完全なものはない、然しこの治療は私
には殆どそれに近いものと思はれる”。
観察VII,―患者は錆びた釘を足につき刺し足の「フレグモーネ」を呈し、脚部
及び臀部の淋巴腺炎を併発した。Antivirus による繃帯を受けて、患者は48時間
で炎衝症状が消失するのを見た。4日後に歩行し始めた。
観察VIII,―農夫、肥料運搬車を造ることに従事せる際手を碎いた : 多数の
指骨の開放性骨折、組織の裂傷、土及び肥料の侵入、通常ならば、切断は避くべ
からざる様に見えた。
特異繃帯により、患者は何等認むべき化膿もなく非常によく癒着した。
観察IX,―Mme J, ……陰門周囲の多数の潰瘍のために Hué(安南)の婦人病棟
に入院すー化膿性海綿腫状の創瘍、周囲組織の脱疽の傾向あり、消毒薬によるす
べての治療が失敗に帰し 又菌の培養で葡萄状球菌と緑膿菌との存在を証明した
ので、特異「ブイヨン=ワクチン」が繃帯の形で、一日2回使用された。極めて速
に、疼痛は減弱し、潰瘍は清浄となり脱疽となる傾向は已む。治療の5日目、上
皮形成が始まり、肉芽が現はる; 7日目に感染状態は特異治療を中止する位と
なりそして生理的食塩水による繃帯と交替す。癒着は何等異状なく行はる。
経膚的免疫法 171
――――――――――――――――――――――――――――――――――
付言すべきことは此の局所治療法は抗化膿菌「リボ=ワクチン」注射の型で行へ
る一般療法により完成されたことである。
観察X,―Le Thi C……頸部の後側面に存する大なる潰瘍、化膿甚しく、深く、
周囲の組織に脱疽を生ずる傾向あるために、Hué の検疫所で治療さる、熱は4日
以来38°と39°2、の間を上下す : 衰弱甚しく、脈搏速にして微弱 ; 炎衝性浮腫
は同側の全顔面を占む。創傷部位にてなせる培養は、連鎖状球菌の純培養を得た
ので、4日目の午後のうちに特異製剤による局所の繃帯と同時に連鎖状球菌「ブ
イヨン=ワクチン」の15cc, の静脈内注射を行ふ。翌日、熱は39°2より37°8に
降る ; 脈搏はよくなる ; 傷面は清浄になり始む。この日より、注射をやめ、只局
所療法の形で、1日2回の繃帯をなす。極めて速に、脱疽になる傾向はやみ、炎
衝性の浮腫は消失し、体温は正常に持続す。
牡牛の於ける瘭疽
Panaris Chez un Boeuf
5歳の牡牛、左側前肢の先端に瘭疽を生ず。蹄冠の部に廔管あり。動物は強度
に跛行す ; 動物は横臥し絶食す。14日間「ポマード」を貼用するも、動物の容体は
悪化するに過ぎない。最早起死再生は望まれない。脈搏は90°全く食慾はなくな
る。死期の切迫のため、屠殺することとす。
かく決定するに先立ち、Antivirus による湿布繃帯を患部に適用し、30分間目
に12時間交換した。驚くべき効果に逢着す : 間もなく、動物は身を起し、起き
た状態で止まる。更に数日間繃帯を継続す、之により完全治癒に導き速に正常体
重に復す。
馬に於ける多発性「アプセス」を
伴へる慢性「フレグモーネ」
Phlegmon Cronique Avec Abcès Multiples Chez Cheval
馬、3ヶ月来、後肢先端部位に、多発性「アプセス」を伴ふ慢性「フレグモーネ」
に罹患す。人頭大の巨大なる腫瘍をなす。脱毛 ; 漿液性膿状の分泌物 ; 諸所に波
動性瀦留物あり。「アプセス」の一つを切開するに大量の膿汁流出す。脚内に烈し
き疼痛あり ; 食慾不振 ; 温度39°6。
治療(「アプセス」の切開、消毒薬、繃帯、沃度丁幾の塗布)に拘はらず、新なる「ア
プセス」と皮膚炎の悪化を認む。馬を犠牲にせんと決心す。然るに、之を殺す前
172 経膚的免疫法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
に、葡萄状球菌「アンチウヰルス」による繃帯を試む。
翌日になるや否や、馬は通常の如く食しその患脚を動かす。「アプセス」は数日
間で治癒す。動作の障害は全く消失す。治療は8日間継続した。
:牝牛に於ける蜂窩織状骨膜炎
Periostite Alveolaire Chez une Vache
大なる波動性腫脹、下顎部位に疼痛、之に葡萄状及び連鎖状球菌「アンチウヰ
ルス」による繃帯を施す。
翌日になるや、圧痛は消失し食慾は恢復す。三回の繃帯の後、腫脹は吸収され
瘻管を残さず。
産褥熱
Infection Puerpérale
産褥熱防止のための方法は著しく多数あり。之等の方法は子宮内を手又は
器械による掻爬ににより洗滌するにあるか、又は消毒薬又は「ショック」を使用
するにあるか、又は「ワクチン」接種或は血清療法による治療をなすにある。
之等の方法はいづれも真に満足すべき結果を与へないことを認めざるを得な
い。
連鎖状球菌濾液を浸せる「ガーゼ」の子宮膣内挿入による治療法は予防上及
び治療上に今日実施されてゐる : 予防上には、子宮内操作の場合、分娩の
際長時間で困難なる場合、後期重篤感染の怖れがある時である ; 治療上には、
既に感染の症候ある場合である。特異貼布は、子宮周囲の病竈の時、流産の
時、帝王切開の時、同様にその適応症となる。最後に、静脈内に直接注入せ
る濾液は屡々一般感染の場合に役立ち得るものである。
観察I,―T,……, 3回の経産婦。1926年1月24日、市街にて産婆にて自然分
娩をなす。分娩は可成り速に正常に経過した。自然の出産は完全に行はれたと宣
告された。翌日、産婦は戦慄を感ず。翌々日、1月26日、体温は40°となる。不
安。悪寒戦慄反復す。
27日、午後、分娩の3日目、患者は Saint-Antoine の産科院に運ばれた。
入院時の検査 : 産褥熱の定型的状態 ; 体温40°2 ; 脈搏128 不安。半譫語。
経膚的免疫法 173
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悪寒戦慄頻繁。猩紅熱様発疹は腹部及び胸部に及ぶ。腹壁は柔軟子宮は臍の高さ
に達す、何等疼痛なし。
麻酔の下に手を以て子宮の再検をなす ; 子宮は空虚、内壁は離る。その直後に
濾液の子宮内充填を行ふ。
同時に血液培養を実行せるに12時間で陽性を示す : 溶血性連鎖状球菌 ; 一部
採取せる悪露の中にも同様に連鎖状球菌の純培養を見る。
4日目 ; 朝、体温は38°5 ; 脈搏116。一般状態はよくなる ; 悪寒戦慄は再発せ
ず。猩紅熱様発疹は増加せず。夕刻、体温は39°、脈搏124°第二回の「タムポン」
をなす。悪露中には連鎖状球菌は極めて多く又大腸菌も存す。
5日目 ; 朝、体温は37°8 ; 脈搏116°恢復極めて著明。患者は安静。夕刻、
体温38°8 ; 脈搏124。第三回「タムポン」。悪露中 : 連鎖状球菌余り多からず ;
大腸菌 ; 白色及び黄色葡萄状球菌を見る。血液培養陰性。6日目 ; 朝、体温38°4 ;
脈搏110。極めて良好の状態。猩紅熱様発疹は略々消失す。第四回「タムポン」。
悪露中 ; 連鎖状球菌は稀有、大腸菌、葡萄状球菌あり。
7日目 ; 体温38° ; 脈搏100°すべての敗血症状去る ; 翌日体温は正常に復し ;
脈搏は80となる。
産婦は治癒退院す ; 入院後11日目にして、分娩後14日目である。
観察II,―1回経産婦、27歳。看護婦。3月12日自然分娩。出産は自然に完全
に行はる。
最初の2日間は無熱。3日目の夕方、体温40°1 ; 脈搏160°痙攣。一時性譫妄。
戦慄。血液培養は12時間で陽性 ; 溶血性連鎖状球菌。悪露中 : 連鎖状球菌純
培養。濾液を以て第一回膣栓塞法をなす。
4日目 ; 朝、体温38°5 ; 脈搏110 ; 夕刻、体温39° ; 脈搏120。一般症状は快
方。濾液による第2回栓塞。悪露中 : 連鎖状球菌。
5日目 ; 朝、体温37°5 ; 脈搏100 ; 夕刻、体温38°2 ; 脈搏100、第3回「タ
ムポン」。血液培養陰性。
6日目 ; 体温36°8 ; 脈搏80。正常に復帰。18日目に離床 ; 非常によくなつて
退院。
観察III,―P……,2回経産婦、35歳。子宮線維腫。5月3日 : 胎児渋滞のた
めにO,P,にて鉗子分娩をなす。
5月6日、朝、体温37°3 ; 脈搏84 ; 夕刻、体温37°5 ; 脈搏87。夜中 : 悪
寒戦慄、不安。
5月7日、朝、体温40° ; 脈搏140。顔面痙攣 ; 新たに悪寒戦慄。子宮は臍部
中央に達す ; 臭気なき悪露の流出あり。夕刻。体温41°。脈搏小 ; 急速、154。
【本コマの途中より「脈搏」を「脈膊」と植字しているが、「脈搏」に統一する。次コマ以降も同】
174 経膚的免疫法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
悪寒戦慄。予め子宮内を検査し胎盤破片も膜も破片もないことを見てから、子宮
内に「ガーゼ」挿入。午前2時、烈しき戦慄、脈搏計算不可能 ; 「カンフル」油、
20cc。
5月8日、朝、39° ; 脈搏120、搏動可。一般状態快方。新機戦慄なし。蕁麻
疹全身。夕方、体温38°2 ; 脈搏110°第2回「タンポン」。患者は不安なく睡眠
し得た。
5月9日、体温37°2 ; 脈搏98°新たに全身性蕁麻疹発生。口中に「ブイヨン」
の味覚。夕刻、36°9 ; 脈搏88。第3回、「タムポン」。
5月10日、体温36°9 ; 脈搏80。つづいて全く正常となる。20日目に、一般状
態よく起床
観察IV,―M, …,29歳 ; 4回経産婦。5日以来自宅にて分娩。1925年3月28日、
夥しき子宮出血のために Saint-Antoine の産院に運搬さる。胎盤全付着面上にあ
る多数の小破片を取り出す。出血は継続し多量である。消毒「ガーゼ」による子宮
内「タムポン」をなす。2日後即ち分娩後8日目の午後、体温は38°8に上昇、次
いで39°5、更に40°となる。始めて濾液による子宮内「タムポン」を行ふ。悪露を
採取して培養するに連鎖状球菌の純粋培養を示す。一般状態は憂慮さる。顔面痙
攣、鉛色。昂奮と沈鬱とが交互に来る。
9日目 : 体温39° ; 午後体温39°9。第2回「タンポン」。一般状態は明に快
方。
10日目 : 体温37°3 ; 午後体温38°3。著しく快方。第3回「タムポン」。
翌日以後、体温は37°5と38°4との間を上下す ; 次いで15日目に全く無熱と
なる。患者は3週間目に快癒退院す。
観察V,―F,C, …2回経産婦、25歳。2ヶ月半月経遅る。
1925年10月24日、子宮出血 : 胎児駆逐。
25日、烈しき悪寒戦慄 ; 26日、数回の悪寒戦慄、各5分間続く。患者は Saint-
Antoine の産科院に収容さる。入院時には、体温40°7 ; 脈搏120。直ちに掻爬し
胎盤を取り出す。採取 : 溶血性連鎖状球菌の純培養。濾液による子宮内「タム
ポン」。
27日、体温36°8 ; 脈搏88。第二回「タムポン」を24時間後に取り出す。無熱
となる。8日目に退院す。
重要にして特に多数の研究が近来 Saint-Antoine の産院に於て産褥熱感染
の早期治療に関して行はれた。
この研究は産院にてなされた3,010 の分娩、自宅で始まり次いで産院の隔
離に送られた 1,244 の分娩に就て行ふ。治療は連鎖状球菌「アンチウヰルス」
経膚的免疫法 175
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による子宮内「タムポン」を使用するのである。この「タムポン」は24時間放置
し、次に連続3日間更新す。
予防上 Antivirus による「タムポン」は分娩困難の場合(鉗子剔出、子宮傾
斜、人工分娩、前置胎盤等)になされた。35例中、35例が成功した。1例は
特に興味があつた : 101時間の作業と二度の鉗子使用の試みと1回の頭蓋
破碎法を行へる後に、体温は37°7を越えず、正常に下るためには48時間臥
床した。
治療法として「タンポン」使用は Antivirus による子宮内「タムポン」を子
宮内感染の症状が既に存する場合に、分娩後直ちに行ふのである。21例中20
例が成功した ; 唯々一つの失敗は全腹膜炎の症候を呈せる婦人にて観察され
た ; この例は、然し、当該治療の正常なる範囲内に入るものではない。
二次的にして後期の治療「タムポン」は出産後3―4日目か又は分娩1週間
後に行はれた。治療16例中、16例が成功した。
膜の停留の際の「タムポン」は8例に行はれた ; 之は常に重要にして、時と
して全き停留を起す。すべての場合第2回又は第3回「タムポン」後、体温は
正常に下り。子宮の局所状態は極めて速に恢復するを見た。
最後に、敗血病を起せる流産10例中、Antivirus で治療されたもの10例は
成功した。
極めて有力なる統計は同様なる条件に於て平均40%の罹患率を示すことを
考ふる時は、Saint-Antoine 病院の産院で得れらた結果はすべて我々の注意
せる所に値ひすることを認めるであらう。
汚染性子宮内膜炎、産褥熱潰瘍
Endométrite Septique, Ulcérations Puerpérales,
観察I,―初産婦。分娩当日、体温38°9。翌日頃、腹部は膨満し、緊張し疼痛
あり。3日目及びその翌日、明かに腐敗臭ある多量の褐分色泌物【ママ】。
7日目、会陰の縫合に使用せる糸は取らる ; その前に化膿せる膜と壊疽となれ
る組織で蔽はれた大創傷あり ; 創傷の底部は充血し浸潤す ; 周囲は強く浮腫を呈
す。子宮頸は壊疽組織で蔽はれた多数の烈目存す。子宮は多量の膿汁を分泌す :
176 経膚的免疫法
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その中に連鎖状球菌を認む。血液は無菌である。子宮内及び膣内に連鎖状球菌の
濾液で浸せる「タムポン」を挿入す。午後、患者は10分間継続せる悪寒戦慄を起す。
8日目、子宮高は臍部の下二横指である。舌は苔を生じ乾燥す。子宮は化膿性
褐色液を絶えず分泌す。第三回「タムポン」
10日目、創傷の表面はきれいとなる ; 殆ど浮腫がなくなる。第四回「タムポン」
11日目、創傷は全く清浄となる ; 生殖器官の浮腫は消失した ; 分泌液は著しく
減少した。第五回「タムポン」。翌日、創傷は速に癒着す ; 患者は24日にして治癒
退院した。
之を要するに、重篤なる全身性感染又は局所の強度の炎衝に犯された婦人に於
ては、連鎖状球菌濾液による「タムポン」は浮腫を極めて速に消散し少からず速に
創傷を癒着する効果を有す。
観察II,―初産婦、26歳。分娩の翌日、体温39°3に上る。大陰唇の浮腫。悪
寒戦慄。3日目、体温39°7 ; 脈搏110 ; 腹部膨満 ; 子宮疼痛あり。
5日目、腹部膨満、緊張、疼痛。子宮より悪臭の褐色の液体流る。体温40°。
会陰裂傷、浮腫、膜にて蔽はる。子宮頸部は脂肪質にて蔽はる。子宮分泌液中に
連鎖状球菌。血液は無菌なり。
膣及び子宮の「タムポン」として最初は混合濾液(細菌学的検査前)、次に連鎖状
球菌濾液による方法を講ず。午後、悪寒戦慄30分継続す。
5日目、即ち第1回「タムポン」を施せる翌日、体温は39°6 ; 連鎖状球菌「タム
ポン」の新摘要。6日及び7日目、子宮分泌液は分量減ず、然し体温は稽留し、
39°6に達す。
8日目、多量の発汗に続き、熱は分利し37°2に下降す。子宮は最早疼痛なし。
2日後、分泌液は漿液性となる。患者は13日目に退院す。
この例に於て、骨盤内結締織炎を併発せる、連鎖状球菌による慢性敗血性子宮
内膜炎が影響す。Antivirus の影響により、腹膜炎の症状は消失した ; 膜は第1
回の「タムポン」で弱くなつた ; 疼痛及発熱は濾液の4回適用後に消失した。
膀胱炎
Cystite
観察―Mme N…18歳の時に虫様垂突起炎の手術に続いて「ゾンデ」を使用して
後、第一回膀膀炎の発作があつた。此の膀胱炎は少しも完全治癒をしなかつた ;
その妊娠中患者は腎盂兼腎実質炎(Pyélonéphrite)を起した。この時期に於ても、
亦将来に於ても、膀胱炎の局所治療をなすのは適当でなかつた。疲労に続いて又
は湿潤時に膀胱の疼痛現はるる時には常に「ウロトロピン」のみを与へた。1921年、
経膚的免疫法 177
――――――――――――――――――――――――――――――――――
少しく酒精を含有せる飲料を嚥下せる後に、患者は膀胱炎の烈しい発作を起し ;
尿を検査して後 Argyrol による洗滌を行つた。この時には尿及び膿の検査によ
つて大腸菌及び「エンテロコツケン」を発見した。
Dr M, …の薦めにより、大腸菌曹達の自家「ワクチン」を注入した ; 洗滌も継続
した。発作は止んだ、然し数月後に再び起つた ; 而して尿は放尿により更に疼痛
なき時にも常に溷濁した。
1923年、余は静脈内にBactériophage の注入を患者に行つた。余は膀胱内に20
cc, を注入した ; 同時に皮下に10cc を注射し、患者は経口的に Bactériophage を
20cc, 摂取した。この治療に次いで、尿は以前より透明となつたが、然し強度の
極めて不愉快なる石炭酸様の臭気を発した。之は膀胱の新しい発作が現はれる時
には増強した ; 治療せるにも拘はらず新発作は1924年と1925年に現はれた。
1925年9月、患者はその尿の石炭酸様の臭気のために苦しみ続けた。細菌学的
検査により葡萄状球菌を証明したので、葡萄状球菌の膀胱内注入を行つた。3時
間濾液を保留して後、患者は尿、濾液及び濃厚なる膿汁を排泄した。
翌日になるや、石炭酸様臭気は尿より消失した。八日間遅れて、Antivirus を
新に注入す ; 液は3時間保留し、放尿後も疼痛なし。更に5日遅れて新注入をなす、
この時は放尿後一時的の疼痛性発作を生じた。以後疼痛もなければ、尿の臭気も
なくなつた。
腎盂兼腎実質炎
Pyélonéphrite
観察I―Mme G…,30歳、第2回妊娠、第1回妊娠中に、夫人は腎盂兼腎実
質炎により蛋白尿を起し、之がために分娩時に子癇 éclampsie の発作を起した。
患者は妊娠4ヶ月、Pyélonéyhrite を有す。腎臓の疼痛。膀胱炎。膿汁を含む蛋
白尿。体温は高からず : 37°5。大腸菌。
Antivirus を膀胱内に始めて注入するや、快癒著しく尿中の膿は減少す、体温
は低下し、腎臓疼痛及び膀胱炎は消失す。
患者は完全にその活働力を恢復した。
観察II,―Mme J…25歳。第1回妊娠 ; 5ヶ月 ; 体温上昇。
患者は右側腎臓部に極めて烈しき疼痛あり又放尿後に疼痛あり。尿は少く、濃
厚にして膀胱底に濃厚なる膿汁の沈澱を残す。
一般症状は可成り悪い。患者は吐き、睡眠せず、妊娠の中絶可能を思はしむ。
膀胱内に Antivirus の第1回注入。その午後体温は下がり下降し続けた。患者は
快方に向ひ : 苦しむことなく、食事は出来、1週間後には数時間は起きられる
178 経膚的免疫法
――――――――――――――――――――――――――――――――――
様になつた。
余り成功せざる自家濾液を注入する時に体温は軽度に上昇す ; 患者は新に苦し
む。以前の濾液を全く規則正しく使用す。患者は3週後に分娩し非常に健康な子
供を産んだ。患者は現今健康である。
観察III,―Mme B…, 35歳。1925年7月虫様垂突起切除。緑膿菌で化膿せる
Hematome を1925年8月に手術。15日後に、患者は溷濁せる尿を排泄す。検査
するに多量の大腸菌の存在を証明す。体温上昇 ; 40°
膀胱に注入せる Antivirus は体温を下降し、尿を透明にし、一般状態を快方に
す。本治療を尿中に全く細菌が消失するまで数ヶ月間継続した。
* * *
少なからず有効なる結果の記載された場合は、欧氏管の「アプセス」、口腔の
「アプセス」、歯槽漏、乳嘴突起炎、丹毒、膿胸、直腸炎、軟性下疳、静脈潰
瘍である。
上述せる如く、Antivirus による皮下「ワクチン」療法の適当なる場合は非
常に多様である。之等の場合は外科、産科、婦人科、泌尿器科、皮膚科、眼
科、耳鼻咽喉科、口腔科に属する。
活動の重要なる領域は尚 Antivirus に保有さる : 吾人は手術前及び後の
局所「ワクチン」療法を目的とす。
局所免疫の形成は極めて速かであるから、或る重要なる全外科的行為は多
量の Antivirus の洗滌をするに或は必要に応じ後になさるべきことは合理的
と見らる。この手段は特に利尿生殖器官又は胃腸の器官につき手術を行ふ際
になさるべきものである。例へは、胃の切除又は胃腸吻合術の如き手術は最
も熟練せる外科医の最も厳重なる消毒をも屡々疑はれる。この場合、局所免
疫を施せる組織を手術せんとせざるか? 予め Antivirus を「メス」を加ふべ
き組織に灌ぎ、手術する部位、手術者の手、「タムポン」糸を Antivirus に浸
し、合併症を防ぐ機会を得んとせざるか?組織の自然免疫を特異的に強め
ることにより、外より来る菌の発育を防御するであらう、勿論潜伏性状態で
生体内に存する菌ばかりでなく、遠方にあつてまさに巣を離れんとしてゐる
菌に対しても同様に作用するであらう。
経膚的免疫法 179
――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――
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Ⅺ
赤痢、「チフス」及び「コレラ」に於ける
腸の意義(1)
Role de l’Intestin Dans la Dysenterie,
la Fièvre Typhoïde et le Choléra(1)
脾脱疽に於ける感染機転を研究せる時に、吾人は海猽が脾脱疽感染に対し
抵抗性あること、唯々その皮膚のみが脾脱疽菌に対し感受性があることの意
外なる事実を確めた。記憶せらるる如く、もし海猽の皮膚より脱毛し、全く
生かして置くか、そしてもし生きたまま皮を剥いで脾脱疽病毒を注入すれば、
海猽は脾脱疽病毒に対し全く無頓着なるを見るであらう。
従つて、海猽の腹腔内に、人の知る如き注意を以て、脾脱疽病毒を送入す
る時は、脾脱疽菌は速に喰菌され、次いで消失するのを見る。その破壊は完
全にして、その一つも感受性器官にさへも現はれない位である。また、皮膚
が脾脱疽菌感染外に置かれるならば、皮膚は施さるる接種を全く知らざるも
のの如くである。換言すれば、動物はこの接種の後にも亦前と同様に脾脱疽
に対し感受性を有する。
脾脱疽の感染は、吾人が見たる如く、一様に皮膚の細胞の内部に起る程敏
感である。ここに、吾人が脾脱疽菌の予防接種の機転を同様に了解し得る主
なる注意を挙げよう。
脾脱疽の場合は一様でない。同様なる現症は種痘用病毒の研究の際に観察
された。剃毛は脱毛又は脱毛せる皮膚に適用すれば、この病毒は、4―5日の潜伏期
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) Bulletin de l’Institut Pasteur, t, XVIII, 1920, p, 121,
赤痢「チフス」及び「コレラ」に於ける腸の意義 181
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間後に、人の知る如き皮膚の発疹を生ず。若し、剃毛せる皮膚に淋巴液を適
用する代りに、皮膚を傷けない様に注意しつつこれを腹腔内に注射すれば、
その結果は全く同一ではない : 動物は感染しない。その證拠を挙げるのは
容易である ; 唯々発疹が出来ないのみならず、更に動物は新感染に対し恰
も新機なると同一の感受性をあらはす。吾人はそれ故次の様に結論するので
ある。即ち痘毒は自然に定められた道筋と異る経路に置かれる時は感染能力
はないものである。
綜括 : 皮膚外に置かれた脾脱疽菌は感染せず。又この場合には予防をな
し得ず。之は痘毒でも同様である。之は葡萄状球菌及び連鎖状球菌の場合も
略々同様である。故に感染経路と免疫経路との間には議論の余地なき関係が
存する。相互は互に相対的関係があるから、この教義を赤痢、「チフス」及び
「コレラ」に適用し、感染機転の研究よりせる之等の疾患に対する予防接種方
法の研究をなすことは全く合理的である。
* * *
赤痢、「チフス」及び「コレラ」の病毒は、最初に、少くとも研究室内動物に
ありては、一定器官に対し選択的の親和力を有つてゐない様に見える。適当
量を以て之等の病毒は脳内に於ても亦腹腔内に於ても、内臓内注射に於ても
亦静脈内注射に於ても殺し得。
研究室内にて使用する習慣となれるすべての経路のうち、疾病を起すに余
り感受性なき様に見えるのは経口的経路である。之等の病毒の大量が、大多
数の場合、最も少き罹患的結果をも起すことなく、経口的 per os に与へ得る
のである。然し吾人が次に見る如く、之等の感染の病原性に於て第一義を司
るものは研究室動物に於ても人間に於ても、経口的経路である。而して、顕
微鏡を以て、厳密に、病の経過中種々の器官及び液体中に起る事実を検査す
る時は、すべての之等の感染中最も関係ある器官は腸管なるべきことを結論
するも不可でない
自然の状態に於ては、研究室内の動物は経口的感染に対し消化管に添うて
配列せる一例の堆積物により保護されてゐる。経口的に之を感染せしめんと
182 赤痢「チフス」及び「コレラ」に於ける腸の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
努むる時には、殆ど取り去るに不可能なる種々の分泌物によつて代表せらる
る一つの防御系統に直面するのである。然し動物は防御されてゐないことを
証明するには感染の間接門口を選べば充分である : その腸は露出して居り、
病毒はそこに到着するに全く自由である。
* * *
赤痢菌より始めやう。
あらゆる試みによるも無益な感染に終る口腔―咽頭―胃の障礙柵を避けん
と欲し、志賀菌を家兎耳縁静脈に注入す。約48時間にて斃す病毒の分量を選
ぶ。
死後直ちに剖検す ; 之が生体内に於ける菌の分布を正確に了解する唯一の
手段である。更に少し遅れると勿論、速かに赤痢菌が自家融解しそれがため
に菌の培養に失敗することがあるから、その結果を誤ることがある。
既に、肉眼的検査に於て、腸管に添うて変化せる選択的部位に驚くのであ
る。此の選択性は顕微鏡的に検査する時は一層著明である。器官の内部及び
生体の体液を寒天上に培養すると、接種せられたる菌は極めて不平等に分布
し、而も之は常に同一なることを示す。血液も、尿も志賀菌の痕跡を含まず ;
脾臓、肺臓、腎臓、副腎囊は極めて少量を含有するか或は全く含有しない。
之に反し、腸内容は自然に種々の菌を蔵するが、全々菌の種類を変へる。腸
の或る高さに於て採取すると、殆ど志賀菌のみを認める ; 胆嚢より盲腸に至
る腸の全面に亘つて、志賀菌は、極めて屡々、純培養の状態にある ; 大腸菌
の集落のあるべき場所に、このものだけとなる。
即ち之は可成り意外の事実である : 菌は直接に一般循環系統中に注入さ
れたのである ; 菌は動物の器官又は液体内に多少不平等に分布するのを見るの
は予期し得る所であらう。実際には、全く違つた事柄が起る: たとへ循環
血液中に侵入せるにせよ、赤痢菌は全部一の器官中に逃避するに至る。若し
殆ど変化せざる規律を以て菌が腸内に赴くとせば、菌は明かにこの器官より
来る抵抗し得ざる力によつて引きつけらるるものと見らる。
赤痢「チフス」及び「コレラ」に於ける腸の意義 183
――――――――――――――――――――――――――――――――――
静脈内に注入された時菌の限局する場処の選択的なることの存在する時、
如何にしてかの脾脱疽菌の親和力が皮膚の細胞に対し特異性あると略々同様
に、腸に対して親和力の存在することを考へないのであるか?
この親和力が更に驚くまでに現はれるのは、赤痢菌を血液内でなく、皮下
充実細胞組織に送入せる時である。
事実、かく注入せられたる動物をその病の経過中又はその死の直前に犠牲
に供す。全臓器、血液、胆汁、尿を培養せよ!この場合に於ても亦、腸を除
くほかは、吾人は接種せる菌を何処にも認めないのである。故にこの器官は
菌にある引力の作用を及ぼし、このために菌はその全道程にて遭遇するあら
ゆる障礙を排して到着するのである。然し、之等の障礙は菌がその終局点な
る腸管に到達する前に種々の組織を通過し道を切り開くのである以上、等閑
視してはならぬものである。
すべての菌がそこに到達するのでなく、失敗するものがある。彼等の多く
のものは道程に於て迷ふ ; 彼等は崩壊し自家融解する。宿主を過ぎる濾過作
用を免かれたものは、最後に胆嚢内及び小腸内に座礁するに至る。故に他の
場所を探すのは無駄である ; 血液の中、尿の中、いずれの重要器官の中にも、
痕跡だにも認められない。
空腸及び十二指腸の中にー而も一様にーかくも遠方を出発せる菌を認める
ことは可成り意義深きことではないか? この発見は、腸は志賀菌に対し優
秀なる親和性器官であり且つ腸壁が本菌に対する関係は皮膚が脾脱疽菌、種
痘病毒又は葡萄状球菌に対すると同様なることを肯定せしむる権利を与へる
充分なる證処をなるのではないか?
それ故動物は病毒の嚥下に対し全々或は殆ど感受性を示さない、その腸管
は親和性あるものと考へらるべきものではなければならぬ。
之を要するに ; 若し脾脱疽、痘毒、葡萄状球菌が皮膚感染ならば、赤痢
は腸感染と認むべきである。若し腸壁が障礙さるる器官ならば、之に向つて
不感受性となし動物に免疫性を賦与する様に努力すべきである。赤痢に対す
る免疫方法を選ぶためには当然その感受性に就て述べる必要がある。
184 赤痢「チフス」及び「コレラ」に於ける腸の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
* * *
「チフス=パラチフス」病毒の場合にも、感受性器官は同様に腸であるか?
先づ第一に、特に若しも研究室の動物に拠るならば、之は全々さうらしく
はない様である ; 動物は経口的に摂取せるこの病毒に対し全く無頓着なるを
示す。実験は吾人に海猽、家兎、あらゆる種類の低級猿類に「チフス」菌培養
の多量を経口的に与へ彼等に何等異常症状を現はすことなきを示した。
病毒の嚥下に対しかく感受性なき之等の動物に於て、すべての器官中感受
性あるものは腸なりとなすは真実である。此の感受性を引立たせるためには、
細菌に対し力を籍りるほかはない ; 即ち、細菌をして腸壁の摂取細胞(Cellu-
les réceptives) の本質に接近することを容易ならしめなければならぬ。通常
は、之等の細胞は可成り厚い粘液層により病原菌の侵入に対し保護されてゐ
る。この粘液層は Virus を嚥下する時は Virus と感受性細胞との間に置か
れる。もし少しでも此の粘液柵を除去することが出来れば腸管感受性を発現
せしむるのである。
腸壁から粘液層を除去するために、その内面を磨くために、何人の吾人の
実験の場合になした如く、牛胆汁を嚥下させたものはなかつた
胆汁は、その種々なる性質のうち、優秀なる胆汁分泌促進剤を形成する性
質を有す。此の性質によつて、胆汁は家兎及び海猽に於て極めて多量なる胆
汁の分泌を起す。かかる種類の効果により、胆汁は腸壁の表面の層の烈しき
剥離を生ず。腸壁面の粘液を掃除して、腸壁は腸内面を露出する而して更に
正確に云へば摂受細胞を露出する。かかる時には、嚥下されたる Virus は之
等の細胞と直接々触する様になる。
研究室の実験は吾人の予想を確めた。即ち正常家兎は処置されない時は
「チフス=パラチフス」病毒の殆ど無限の分量に堪へるが、胆汁で処置された
後には、比較的少量の Virus に対し感受性となるを示す ; 動物は死ぬこと
さへもあり得る。
興味ある事実は、全生体が牛胆汁の嚥下に次いで著しくその抵抗力が衰へ
るのを見るのである。胆汁の感受性賦加作用は細菌が血液中に侵入してさへ
赤痢「チフス」及び「コレラ」に於ける腸の意義 185
――――――――――――――――――――――――――――――――――
も感ぜられる
それ故、もし静脈内注射により感作されざる正常家兎を殺すためには、「パ
ラチフス」培養の1∖6ー1∖20 を要すとぜば(註、1∖6―1∖20は寒天培養1斜面の1∖6
―1∖20を示す)、予め胆汁で感作せる同じ体重の家兎の死を招来するためには
2―3倍少き量(1∖15―1∖45)を必要とすることを示す。故に胆汁の嚥下は動物に
於て特に経口的又は血行的に投与されたる「チフス=パラチフス」病毒に対す
る感受性を賦与する。
感作された動物の剖検では、次の所見を認める。
腸は殆どその全面が充血す。その小腸の部位は殆ど透明にして粘液で充満
さる ; この粘液の中には剥離せる上皮の全体が浮遊するを見る。
顕微鏡的検査では亦 Virus の選択的限局性を示す : 臓器より培養する
に「パラチフス」菌は主要なる部位として、絶対的ではないにしても、腸内容
及び胆嚢を選び、そこに菌は屡々純培養の状態にあるのである。
肉眼的病竈が腸の部に於て優越なること且亦培養によつて証明せる菌の選
択的分布は、之等の菌が腸管に対して有する親和力に左袒する証拠となる。
此の親和力は Virus の侵入部位がいづこであらうと常に同一である。Virus
が直接に血液内、腹腔内又は皮下に送入されても、最後の結果は同一であ
る : 一定不変に、Virus は腸管粘膜に来る。
故に、「チフス」菌簇を経口的に投与せるに拘はらず、胆汁で感作せる動物
に於ては、他の全器官を除き、腸に於て見らるるのである。故に之等の感染
は赤痢感染と同列に腸感染 entéro-infection として考へられる
* * *
吾人が「チフス=パラチフス」菌の問題で説明せる所は、範囲を広めて、「コ
レラ」弧菌にも適用される。
動物に於ける「コレラ」感染の機転を研究するに当り、吾人の共著者正木は
上述せる症状を想起する症状を記載し得た。
腹腔内に送入された弧菌は速に一般循環系に達し、次ぎに之を過ぎつて腸
内に来り、ここに2―3日間滞在し得。培養によるに、弧菌は空腸、廻腸及
186 赤痢「チフス」及び「コレラ」に於ける腸の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
び盲腸内に認め、血液、胆汁、尿中には認めない。
同様に、皮下に注射された弧菌は決して腸粘膜に向ふことを誤たない、そ
の部位に於て既に接種後6時間目に之を証明し得。
故に菌の分布状態は、菌の接種が腹腔内、皮下又は血液内になされても、
略々同様になる。弧菌が生体内を游走する道程は常に同一の目的地に向つて
集る、腸管壁が「コレラ」弧菌に作用する選択的引力がその方向を定めるので
ある。
吾人が述べたる研究に引き続き、E,Glottof は実験的「コレラ」に関する研
究を再試した。この実験者は Virus の限局部位、胆汁感作の意義及び経口
的予防法の可能を研究せんと企てた。確実に死ぬ様に実施して、各器官から
系統的に培養せる結果 Glottof は病竈の性質並びに感染臓器内に分布せる弧
菌の状態を報告した。之等の研究は解剖的病竈並びに菌の分布の所見上より
すれば、「コレラ」にて観察された症状は吾人が赤痢及び「パラチフス」にて記
載せる症状を模倣せることを示した : 血行中に送入された弧菌は主として
腸管内に宿るに至る。著者は胆汁を用ゐ家兎を感作し次いで経口的に弧菌を
投与せるに、静脈内弧菌注入の際に観察せる如き「コレラ」感染を惹起し得る
ことを確め得た。かくして著者は「コレラ」感染に於ては腸は、赤痢の場合及
び「チフス=パラチフス」感染の場合に於けると全く同様に、感受性器官なる
ことを結論するに至つた。
Horowitz-Wlassova et Pirojnikowa は海猽について同様なる証明をなした ;
之等の著者は、胆汁を使用し予め動物を感作せる状態に於て、Virus を per os
に投与する時は該動物に於て腸「コレラ」を起し得ることを見た。
* * *
脾脱疽脱疽の問題に就ての之等の記載に敷桁して、吾人の報告せんとする事実
は、毒力の注意の再検、細胞の特異なる結合性の注意の必然的帰結を必要と
することである。
今日までは菌の毒力は全々動物に比較して考へられた。然し、此の考は実
験によるに反対なることが分る。或る菌は或る種の動物に対しては毒性があ
赤痢「チフス」及び「コレラ」に於ける腸の意義 187
――――――――――――――――――――――――――――――――――
るが他の動物に対しては欠如することは明らかである : 海猽に就ては可成
り怖れられる脾脱疽菌は鼠に対しては殆ど無害の様である。脾脱疽の感染の
歴史は更にその毒力は動物の種類によつて異るのみならず、同一個体に於て
も、細胞群によつて異ることを吾人に教へた。
皮膚と接触する時は極めて猛毒なる脾脱疽菌も之を腹腔内、気管内、血液
内、皮下細胞組織内に入れる時は雑菌の様になる。その毒性は少しもその生
活力を長くさせることなくして忽ちに消失する。皮膚の細胞に代へるに脾脱
疽菌が親和力を呈せざる他の細胞を以てする唯一の行為が、その毒力を零に
なすに充分である。
菌の毒力は、如何に強くなつてゐても、もしその表面に菌が置かれた細胞
が結合性がないか又は結合性がなくなつた場合には、何等の障礙をも表はさ
ない。此の最後の出来事は、例へば、皮膚予防接種を行はれた海猽に起るの
で、その際には皮膚は脾脱疽菌に対する親和力を失つてゐる。
毒力は二つの要素からの作用があるので、お互に作用することにより、之
を増強し又は減弱することが出来る。動物通過をなし、動物界に於ける菌の
結合力を促せば、即ちその細胞に対する親和力を強くすれば、其の毒力を増
す。反対に、Virus を物理的又は化学的要素の凝固作用下に置けば、即ちそ
の反応する「エネルギー」を弱くすれば、その毒力を減少する。
若し、Virus を変化せずに残し、単に摂受細胞に作用せしむれば、全く同
じ結果を得ることが出来る。同様に、外傷(打傷、剃刀、火)によりその抵抗
を減少するか、又は胆汁により軽度に障礙されると、細菌の毒力を増強す :
殺さない程度の Virus の量で殺す様になる。
他方では、摂受細胞の抵抗力を増強すると、極めて毒力強き菌の作用を無
効にさせる : 之は摂受細胞の感受性を弱める時又は予め Virus ―Vaccin と
接触してその作用を溷濁せしむる時、例へば皮膚免疫又は腸管免疫の際に於
ける如き場合に観察する所である。
それ故に動物に毒力強き菌を接種すると云ふことばかりでない ; 更にこの
菌がその攻撃すべき生体内に存在すること即ち菌が摂受細胞に出逢はなけれ
188 赤痢「チフス」及び「コレラ」に於ける腸の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ばならない。予防接種後、之等の細胞が充分結合せる時は、菌は――たとへ
毒性極めて強くとも――無害に止まる。雑菌として取扱はれ、その運命に従
ふ : 菌は容易に喰菌細胞の餌となる。このことは云ふまでもなく、其の後摂
受細胞と接触して置かれた同一菌はその最初の毒力を回復し得ないことにな
るであらう。ここに一例を挙げると、海猽に必要なる注意を払つて強毒なる
脾脱疽菌を腹腔内に注射せよ。そこには摂受細胞がないので、之等の脾脱疽
菌は動物に少しも害毒を与ふることは出来ない ; 却つて脾脱疽菌は白血球に
よつて破壊されるのである。然しもし、その完全破壊を待たずに、空虚の注
射針を以て腹腔内注射を行ふ様なことをすれば、腹腔内に健全なる脾脱疽菌
が一個でも存在すれば、海猽を殺し損ふことはない : 腹腔内では雑菌であ
つても、脾脱疽菌は再び皮膚を通過する間に有毒性となるのである。「ヂフ
テリア」の如き毒素も、鼠に注射され、その体内を循環するも生命を危くす
ることはないが、而も感受性強き他動物に対する毒性は尚保有してゐる。
* * *
毒力に就いて見た事実は、或る性質が生体の全部に平等に拡がれるもので、
一定群の細胞にあるのでないとしては、免疫の或る種の現像の説明に誤解の
汚点を付さなければならぬ。然し、脾脱疽に於ける免疫に関する多くの研究
は皮膚の意義の不明を感じなければならなかつたことは明らかである。何と
なれば、Virus を皮下又は腹腔内に注入して後、皮下又は腹腔内滲出液内に
起る事柄のみを見ると、真実を看過する : 之は皮膚内に起る所のもの、即
ち吾人の全手術によるこの永久の創傷を調査するのである。たとへ脾脱疽菌
が注射された場所だけで菌の運命を追求することに満足する時でも、感染の
主要なる部位は他にありとの反響を集めるに過ぎない。
脾脱疽の場合になされたこの観察は、亦「チフス」菌、赤痢菌及び「コレラ」菌
の如き Virus に取つても価値がある。今日まで、一回接種をなした正常又は免
疫動物の反応を知らんと欲する時はいつでも、――菌の侵入門口に従ひ――
血液内、腹腔内又は皮下に菌の運命を追求する習慣となつてゐる。平等に全
器官を検査するが、腸壁部位に起る特種の態度を見てゐない ; 然し其所が主
赤痢「チフス」及び「コレラ」に於ける腸の意義 189
――――――――――――――――――――――――――――――――――
として動物の運命に関するのである。吾人は細胞の結合力に関しその自治制
が何れ程大なるかを知れる今日、結合器官の内部なる、その実際的範囲内に
免疫性に関する研究を置かねばならぬであらう。
ここに、やや図解式に、感染の種々相、次いで、免疫に帰着する所のそれ
等を如何に表はし得るかを挙げやう。
如何に感染が強くとも、皮膚又は粘膜の侵害の場合、その侵入の衝撃に最
初に関与し之を最初に受くるものは常に白血球である。白血球がすべての菌
又は単にその一部分を捕ふることに成功しても、感染が次いで来るのは主と
して摂受細胞の部位に於てである。
感染が重篤でない時は、菌は摂受細胞の層を突破することはない。その親
和力の強大なる細胞は Virus 又は喰菌細胞に【よ】り遊離された Antivirus の大
部分を吸着する。かくして細胞は感染の全身に拡がるを防ぐ。その Virus に
対する貪欲が満足されて居れば、新感染は最早細胞を攻撃しない。何となれ
ば細胞はそれ以後反応に与ることが出来ないからである。
感染が重篤なる場合に白血球が喰菌不可能となると、菌は侵入的行進を続
け、摂受細胞によつて表はさるる第二線の柵に衝突するに至る。その存在の
危険の際には、摂受細胞は出来るだけ多くの Virus を吸着する ; 然しその
楯としての意義は充分でない。之等の細胞は充満しやがて次から次に溢れる
様になる。個体の運命は Virus と血液の喰菌細胞との間の争闘の結果に懸
る。この争闘の結末は Metchnikoff の記念すべき研究以来極めて詳細に知ら
れてゐるので、吾人はここに之を主張するは蛇足なりと思ふ。
――――――――――
Mémoires Cités
A, Besredka, Annales de l’Institut Pasteur t, XXXV,juillet 1921, p, 421;t, XX-
XIV, juin 1920, p, 362; t, XXXIII, mai août, déc, 1919, pp, 3 1,557,882,
Masaki, Annales de l’Institut Pasteur t、XXXVI,p,399,
Glotoff, C,R, Soc, Biologie, t, LXXXIX, 7 juill, 1923, p, 368,
Harowitz-Wlassova et Pirojnikova, C, R, Soc, Biol,, t, XCIV, 1926, p, 1067,
Ⅻ
赤痢、「チフス」、「コレラ」に対する
経口免疫
Immunisation Par Voie Bucclale Contre la Dysenterie,
la Fièvre Typhoïde et le Choléra (1)
”すべての生活元子は一定の免疫度を獲得す”Metchnikoff
(L’immunité dans les maladies infectienses,)
腸「チフス」又は「コレラ」に対し予防接種をせんとする時は常に、皮下経路
に施行す。30年以上の実施歳月を閲したこの習慣は、殆ど反抗するものなき
一種の反射となつた。
使用すべき Vaccin に就て、選択困難があるに過ぎない。今日では約10種
の「ワクチン」製剤が知られ、すべてそれぞれ、長所がある : 死菌 Vaccin
もあれば生菌 Vaccin もあり、乾熱120°加熱 Vaccin もあれば53°加熱
Vaccin もあり、自家融解 Vaccin もあれば感作 Vaccin もある ; 脂で調製
せるものもあれば「エーテル」で調製したのもあり ; 沃度、弗素加等の Vaccin
もある。
之等の Vaccin は何を根拠とせるか? 之は時として専門家でさへも当惑
せしめずには置かぬ問題である。然し衛生学者の精神の中に何等疑念を起さ
ない様に見えるのは、Vaccin の適用方法である。腸「チフス」又は「コレラ」
に対し免疫を賦与するためには、使用する Vaccin の性質が何であらうと、
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) 巴里医科大学衛生学教室に於ける。万国衛生講習会にてなせる講演(1927年
1月26日)
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 191
――――――――――――――――――――――――――――――――――
施行する唯一の経路は皮下であることに全部が一致してゐる。
何所からこの十中八九の確信は来てゐるか? 之を知るがためにその原因
に逆つて見やう。それには吾人をして現今の技術の出発点となれる当初の実
験の遠い過去の時代を追憶せしめよ。
* * *
独逸の二名の研究者、Beumer et Peiper は1888年に海猽に於て「チフス」
感染を研究した。氏等はその動物に Virus の種々なる量を注射した : 或る
ものは死し、他のものは生存した。或る日、Virus の確実致死量を使用しな
ければならぬ実験をなすべきだつたので、対照を置く必要を認めた。稍々躊
躇せる後、氏等は既に使用せる一群の海猽中より対照を取るべく決心した。
氏等は「チフス」菌の致死量を注射せるすべてのうち、対照はその晩のうちに
死ぬであらうことを確信した。然るに翌日対照の大多数が生存し何等の障礙
を呈せざるを見た時、彼等の驚きは如何許りなるかを知らなかつた。氏等は
調査を行つた、それによれば生き残つた対照は明かに予め「チフス」菌の少量
を受けたものであることが分つた。
此の事件は続く者なく : 間もなく忘れた。その後8年に過ぎずして、他の
2名の独逸の細菌学者なる R, Pfeiffer et Kolle が当時説明出来なかつたこ
の実験に立ちかへる必要ありと判断した。Beumer et Peiper の実験に起つ
た事柄を了解せんとの研究に際し、氏等は菌を接種された海猽の血液中に厳
密に特異なる殺菌性物質、即ち、「チフス」菌にのみ作用する物質を発見した。
之等の研究者は、之がBeumer et Peiper の海猽にて観察された免疫の鍵
であると宣言した。氏等は曰く、人間に於ても同様であるべきである、何と
なれば若し「チフス」の免疫が殺菌力の作用であるならば、この同様なる能力
を「チフス」を経過し、このために「チフス」の新感染に対し免疫となれる人の
血清中にも認め得べきである。実際上、腸「チフス」の恢復患者の血液を検査
するに、Pfeiffer et Kolle 氏等が菌を接種せる海猽にて曩に見たと同様なる
殺菌性物質を認めた。
かくして大二研究すべき価値ある極めて興味ある事実に直面した。此の殺
192 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
菌力が「チフス」免疫中に演じ得る意義を確めなければならなかつた ; 換言す
れば、之はこの免疫の全部又は一部を表はすものか、或は亦単に随伴現像即
ち免疫と無関係なるか何うかを見なければならぬ。
Pfeiffer et Kolle は長い間此の研究に手間取ることはなかつた。幸にも予
防接種せる人の血液中にそれまで疑はざりし特異物質を発見したので、氏等
は「チフス」の全免疫を該物質に帰せんとする誘惑――固より全く自然の誘惑
ではあるが――に対し抵抗しなかつた。人工的に動物又は人間を予防接種す
るためには氏等によれば自然を模倣しなければならなかつた、即ち殺菌性物
質を血液中に生ぜしめなければならなかつた、而して之に達するために「チ
フス」菌を皮下に注射したに過ぎなかつた。以上が即ち「チフス」予防接種の
現今の技術の由来となつた理由である。
現今広く使用せらるるこの技術は、殺菌力と「チフス」免疫に於けるその意
義とを勝手に云ふに過ぎないから、不充分なる動機的及び早急的説明に基く
ものである。
* * *
吾人は今日では殺菌能力は生体が反応し得る一つの態度を表はすに過ぎぬ
ことを知つてゐる ; 更に此の反応は制限された数の伝染病に表はれるに過ぎ
ない。免疫度の秤に於て、殺菌性物質は適応する抗原の存在する際に於ける
凝集素又は補体結合物質以上に重さがあるものではない。
Pfeiffer et Kolle の説明に対し重要にして真実らしき外観を与ふる事は
Peiper et Beumer の実験に於ける海猽の生存である。
此の生存が殺菌素の証明であることを承認するとしても、問題となれる論
拠は、海猽の感染が人間の腸「チフス」性腹膜炎に対しては皮下予防接種は極め
て容易に作用するが、この腹膜炎は人間の腸「チフス」とは甚しく類似しない
ものである。唯々病原要素が両疾患に於て同一であるだけである ; 固より、
之等の疾患はその進行並びに Virus の存在部位の点からすれば全く異るも
のである。
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 193
――――――――――――――――――――――――――――――――――
人間は腸「チフス」又は「コレラ」に感染するのは一様に経口的である。海猽
は、全く他の実験室内動物と同じく、per os の感染には絶対的に不感受性
である。唯々類人猿――大猖々、手長猿及び猖々――は、Metchnikoff の示
せる如く、全く人間と同じく、経口的感染により罹患す。よつて、Pfeiffer
et Kolle が推称せる如き「チフス」予防「ワクチン」、即ち皮下注射に於て人間
に効果あるか否かを知らんがためには、その疑問の解決に適当なのは海猽で
はなく類人猿である。此の実験は Metchnikoff 及吾人自身でなされた。ここ
にはその詳細に亘ることなく、結論を述べるだけに止める : 皮下経路によ
り接種され次に経口的に感染された「シムパンゼー」は腸「チフス」に感染し
た : 海猽の皮下に注射さたる同一「ワクチン」は致死的「チフス」性腹膜炎よ
り海猽を防御した。
故に海猽の結論より人間に移してはならぬ。海猽の生存せることは殺菌素
の存在に基くと仮定するも、証明は不充分である、本物質が人間に於て評価
さるべき利用価値ありとは云はれない。
以上は人間に於ける皮下経路による予防接種に対し主張し得る実験的部門
の論拠である。
実験的部門の之等の事実に対しては確かに、「チフス」又は「コレラ」の流行
の際に作成された多数の有利なる統計より演繹せる論拠より反対することが
出来る。
吾人は価値ある統計には重要性を置くべく用意するものである。皮下予防
接種法は多くの場合確かに有効であつた ; 吾人は此の問題については後に説
明するであらう。然し多数の場合に就て研究室で厳重に監督されてなされた
ので余り満足でない統計を看過してはならない。実際に、よい条件で皮下に
接種された人が予防注射後2,3又は4ヶ月内に腸「チフス」に感染した多くの
例を知る。
さきに述べたことから、吾人の意見によれば、今は之を支持すべきではな
い : 「チフス」の皮下予防接種は、たとへ有効であつても必然的のものでな
い ; 予防法に完全なるものとなる様に改良されるであらう。
194 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
之を要的するに : 皮下予防接種法の広く実施さるる三点――殺菌素、海
猽に於ける防御力及び人間に於ける統計――は之を期待する権利ある鞏固性
を提供しない、故に他の問題の解決を探求しなければならない。
* * *
予防接種の問題――「チフス」予防、「コレラ」予防及びその他――は、仮令始め
の頃は殺菌素の足跡を辿らなかつたとは云へ又仮令単に天然痘予防法の例を
感得してゐたとは云へ、今日では全く異る外観の下に吾人の面前に表はれた。
天然痘に於ては、本病を支配する症状は皮膚及び粘膜の部に限局してゐる。
Jenner が現今知らるる最も鞏固にして最も有効なる種痘疱を行ふために選
んだ所は皮膚である。
腸「チフス」に於ては、「コレラ」に於ける如く、赤痢に於ける如く、主なる
局在部位は腸にある ; 其所が「チフス」又は「コレラ」が劇の主要なる部分を演
ずる所である。それ故有効なる予防接種法を行ふために目ざすべき所は、論
理上、腸である。
此の結論は、全く類推上からも、臨床的に又実験的にも確められた。
臨床上ではかつて腸「チフス」に罹患せる人即ちその腸が「チフス」菌と接触
せる人の獲得せる程度の免疫性はないと云ふことを教へないであらうか?
かく顕著なる鞏固の免疫は吾人をして自然を模倣し、感染を起すと同じ経路
によつて予防法を実行すべく励ましめないであらうか?
此の臨床的部門の暗示は実験が吾人に教へる事実に於て充分正当なるを認
める。
* * *
先づ以て腸壁に対する Virus の親和力を解決するために、吾人は生菌につ
いて調べた。然し同じ菌が一度死滅するも殆ど別の菌の如くならぬことは略
々確実である : 何故に菌がその親和力を保存せずとなすや? 且又実験上
より、かくあるべきことを証明することが出来る。若し家兎に赤痢或は「コレ
ラ」弧菌の殺した培養を静脈内に注入すれば、肉眼的検査に於て、生菌を注射
せる場合に於けると同一の限局的存在と腸病変とを見る。さだうとすれば、
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 195
――――――――――――――――――――――――――――――――――
免疫の目的を以て皮下に注射された「ワクチン」類――「チフス」赤痢又は「コ
レラ」の――は腸にまで達せざるや否やを質ねるに至るであらう。勿論、有
形の形態では其所に到達しない、然し恐らく菌体内毒素又は Antivirus の形
であらう。腸に侵入する前に彼等は恐らく多分、所謂摂受細胞に接触するに
至る。
この仮説を明にすれば、何故に皮下に注射された Vaccins がよい結果を与
ふるかを合点する : 即ち作用方法は吾人が彼等に許してゐるものとは全く
異るものである。若し之等の Vaccins が皮下に注射された場合有効なりとす
れば、一般に人に考ふる如く、それが抗体を産製するためでなく、腸に到達
して摂受細胞に吸着されるためである : そこで腸の局所免疫が成立するか
らである。
* * *
若し赤痢に於ける感受性器官が腸であるならば、予防接種の見地に就て、
――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1) 事柄の何んな連絡から、吾人が腸管局所免疫の意見を抱くに至つたか、こ
こに述べることは興味がないことはない。既に戦争前 Mlle Basseches と共同で
「パラチフス」B予防接種に関する研究の際(Ann, Inst, Pasteur, t, XXXII, P,
193),奇妙なる事実を観察した、之をここに述べる。或る日、対照実験のための
新しい「マウス」がなかつたので、吾人は一ヶ月前に経口的に「パラチフス」菌を受
けた「マウス」を使用せんとの考を持つた。吾人はこの「マウス」に前日強毒なる
「パラチフス」培養の1∖100,即ち確実致死量を注射したのに、恰も何事もなきもの
の如く、その穀物を噛つてゐるのを認めた時には、吾人の驚きは大であつた。何
か間違があると信じ、同列の他の「マウス」を調べた。之も同じく生存した。この
思ひ設けぬ結果のために、実験の条件を代へて、一定数の「マウス」に就て研究を
繰り返へした。然るに per os に送入された Virus は免除を賦与する事実の前に屈
服せざるを得なかつた、それまでは之は皮下に注射された Virus の釆地として考
へられてゐた。免疫の機転が二つの場合に同一なりと考へたので、吾人は腸は皮
下注射の場合に於けると同様なる分け前をなすべきものと申した。若しさうだと
すれば、皮下に注射された Virus は与へられた機会に腸壁を過ぎり、腸管内に出
て来る筈である。戦争が来り、戦争と共にすべての研究を4年間中絶した。吾人
が研究室に復帰するや否や、吾人の最初の考から家兎に就て之他の研究を再び行
つた ; 之等の研究の成績は戦後に於ける吾人の最初の発行物となつた(C,R,Acad,
Sciences, t, CLXVII, p, 212, 29 juillet 1918)。
196 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
吾人の進む所は全部描写されてゐる。腸管免疫法(entéro-vaccination)を実
行する研究をしないでよいであらうか?
この予防接種方法は、吾人が後述する如く、研究室の研究により証明され
た。
吾人が家兎又は「マウス」に就てなせる多数の実験から――それ以後他の研
究者により確定れさ【ママ】た実験から――之等の動物はかなり容易に経口的に予防
されることが分る。彼等に赤痢の死菌を嚥下せしむると、既に短時日後に、
彼等がかなり著明なる赤痢免疫を得ることを確めた : 之等の動物は皮下、
血液内、腹腔内に注射するか或は経口的に投与せる Virus の確実致死量に抵
抗する。[(1)前頁にあり]
極く最近に、Alivisatos rt Iovanovic は吾人の実験なる経口的赤痢予防接種
を家兎で行つた。Vaccin の量を種々に変へ、彼等は per os に Vaccin の70
mg を投与する時、何等の障礙を起すことなく、致死量の4倍に対し確実に
免疫せるを認めた。免疫の形成は速かであるために、彼等は同時に本法は非
経口的免疫法に観察せるものより優秀なるを見た。即ち、彼等は免疫は既に
2日後に生じ、4日目にこの免疫は既に鞏固となり、動物は Virus の致死量
の4倍に抵抗するに至ることを確めた。
之等の著者は、更に、経口的に実現された免疫は厳密に特異的なるを見た。
即ち、赤痢菌の種々の種類に就て実験するに、彼等は交叉免疫の存在さぜる
を見た : 経口的に志賀菌にて調製せる Vaccin を投与する時にのみ本菌に対
して防御す ; 若し Vaccin が Strong, Flexner 又は Y の如き菌で調製され
るならば、防御しない。
* * *
此の免疫の本態は何であるか?
免疫の成立の速かなることは、今日一般に信ずる如き一般免疫には左袒し
ない。実際に、吾人の実験の結果によると、経口的予防接種に次いで、、免疫
は動物に於ては2乃至3日目に成立し得る、之は抗体産製には不充分なる期
間と考へられる。且つ per os に免疫せる動物の血液を検査すると抗体の参
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 197
――――――――――――――――――――――――――――――――――
加に左袒する弁護とならない。
然し、赤痢「ワクチン」を一回投与せる後しばらくして血液を検する時は、
かなり屡々凝集素を発見する。然し免疫の発生を支配するのは凝集素であら
うか? 之は余り本当らしくない、その理由を述べて見やう。
若し之等の抗体が免疫に関係するとせば、免疫が鞏固になればなる程抗体
は多くならなければならない。換言すれば、血清の凝集素含有は Vaccin を
新に嚥下する毎に増加しなければならない。然るに、観察する所は正反対と
なる : Vaccin の第一回嚥下後赤痢菌を凝集する血清は、第二回嚥下後には
凝集素は遥に少くなる、更に屡々、Vaccin の第三回嚥下後には最早全く凝
集しなくなる。
如何なる理由によるか? ここに吾人に最も正当と思はれる説明を述べや
う。Vaccin の第一回吸着についで、Vaccin 中に含まるる菌体内毒素によ
り、腸壁内に潰瘍を生ず ; 之は実際に接種後間もなく動物を犠牲にする時、
肉眼的検査で証明し得らるる ; 之等の潰瘍は一種の粗造赤痢を形成す。腸内
にある Vaccin は腸粘膜の之等の裂傷を過ぎ、一般循環系に侵入し、そこで
抗体、特に凝集素を形成する。
一定期間を過ぎると、短期間と云へ、之等の潰瘍は瘢痕化す。この時を過
ぎると、腸管壁は赤痢菌に対し特異的に不透性となる。動物は之等の菌の一
定量を新に嚥下するも無駄であつて、腸は菌に対し通過し得ぬ柵として抵抗
するので菌は最早生体中に侵入し得ない。亦抗体も最早形成しない。之は免
疫が最も強固となれる時に起るので、血液中には少しの抗体を見るのみか或
は殆ど全く見ない。
それ故吾人は赤痢菌に対し経口的に免疫された動物の免疫性は抗体の存在
に関係はないが、然し特に腸の局所細胞性のものであることを確定すること
が出来る。吾人は尚この腸の免疫性はかなり重要なることを付言することが
出来る。何となれば腸の免疫で動物全体が赤痢菌に対し免疫性をなるに充分
であるからである。
* * *
198 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
経口的赤痢予防接種法は今日では実験室内研究の範囲を出た。本法は仏蘭
西並びに外国に於て、多数の流行の際に実際に適用された。実用に移る前に
Ch, Nicolle et Conseil により、Tunis に於て、人体になされた実験を述べな
ければならぬ。
その周囲の有志2名が、3日間継続して、赤痢「ワクチン」即ち72°―75°
で殺した志賀菌を嚥下した。最後の嚥下後15日目と18日目に、之等2名並び
に対照として無処置の2名が生きた強毒なる気が菌100億を嚥下した。2名
の対照は定型的の赤痢に罹患し糞便中に志賀菌を排泄した、処置せる2名は
罹患しなかつた。
実験室内の動物に就ての多数の実験に加へた、この人体実験は、人類に流
行の際に多数の試験を企画することになつた。
経口免疫法によるこの試験は、赤痢の場合には、赤痢「ワクチン」を皮下に
注射せる後に人間にて見る局所又は全身症状があるために、皮下注射法は殆
ど禁じられてゐるだけに益々支持される様に見えた。
* * *
ここに多数の中より選抜せる二三の流行の報告を挙げやう。
1923年7月、細菌性赤痢の流行が Versailles の営舎に起つた。最初の三
例は速かに死亡した。新罹患者の数が憂慮すべき状態に増加したので、経口
的免疫法を施行すべく決心した。当時 Anglade により記載せられたる詳細
に就ては申さない。ここには流行の終りに記載された結果が何うなつたかを
述べる :
「ワクチン」非服用者の群では赤痢患者は27,75%;
「ワクチン」服用者の群では赤痢患者は7,6%。
少からず参考となるは、ギリシヤに於て国際聯盟の流行病調査委員会 Com-
mission des épidémies の監督の下に企てられた赤痢予防接種の成績である。
之は特に流行の蔓延を助くる地域として知らるる営地に囲まれたギリシヤの
避難民に関係たし【ママ】ものである。
ここには吾人が調査委員会の報告より抜粋せるこの営地の二三の挿話を述
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 199
――――――――――――――――――――――――――――――――――
べやう。
a) 1923年5月、Hydra 島内に700名を収容せる避難民中に烈しい赤痢
の流行が爆発した。
既に22名の患者と3名の死亡者とが報告された。そこで全避難民の予防接
種を行ふ。間もなく流行は終熄す。以後一名の新患の報告を見ない。
b) 1923年8月シシリー島より来れる2,800人の避難民が Saint-Georges
の海港検疫所に上陸した。7日間継続せる航海中、36名が赤痢で死亡し水葬
された。上陸に続き始めの48時間内に、44人の新死亡があり、殆どすべてが
赤痢のためであつた。そこで避難民の一般的予防接種を行ふ。8日後に、流
行は完全に已んだ。
之等の避難民の全部は Salonique に移されたがそこで赤痢の新患を一名も
見なかつた。
c) 1923年8月と9月とに、Kokinia の営地に赤痢の流行が爆発した。
400名以上の患者が4,800名の避難民よりなるこの群居生活中に発生した。
流行は前の如く悪性と報告された、何となれば予防注射をせる時には既に50
人の死者を数へたからである。経口免疫による予防接種を命じた。只、此の
予防接種は人口の三分の二に適用したに過ぎなかつた ; 後者は研究室の実験
に於ける場合の如く他の者の対照として役立つた。
予防接種の後間もなく、流行は予防接種者の群に於ては已んだ ; 流行は非
服用者の群に於ては継続して犠牲者を出し、194人の新患が報告された。
* * *
吾人が報告せる例では、赤痢「ワクチン」は予防の意味で使用された。此の
Vaccin は亦治療の意味で使用される。ここに二三の例を挙げやう。
Nisch の伝染病研究所で、Alivisatos により赤痢患者117人に「ワクチ
ン」療法を試みた。Shiga,Strong 及び Flexner の培養を混合し、58°で加熱
せるものより成る Vaccin を経口的に投与した。培養は遠心沈澱されその沈
渣を生理的食塩水に浮游す ; 浮游液の1ccは菌体の10「ミリグラム」を含有
す。大人は第一日にこの浮游液のXX-XXX滴づつ、2回又は数回 ; 2日
200 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
目はL滴 ; 第3日はLX―LXX滴とす。
かく経口的に処置された患者117名中、唯々1名が入院後間もなく死亡し
た ; 5人の患者は治療によつてよくならなかつた。その他のものでは、111
人が治療後4―5日後に治癒した。失敗せる「プロセント」は5%であつた、
然れば抗赤痢治療血清による治療後見る失敗に率より遥に弱い。
稍々類似する結果は露西亜に於て Gloukhof 及びその共著者によつて得れ
れた。1925年夏、Leningrad で発生した流行の際に、之等の著者は赤痢罹
患者105人を経口的に「ワクチン」療法を行つた。此のうち、81人の患者は経
過を観察し得た。之等の患者のうち、19例は重篤で中毒症状を伴ひ、体温上
昇、嘔吐、便通頻回、腹部の劇痛あり、中等度の罹患者20人、軽症の赤痢患
者42人あつた。
治療は志賀及び Flexner 型の赤痢菌を各10億を含有する錠剤を嚥下するに
あり。之等の錠剤は食塩水50cc 中に溶かし ; かくして造れる浮游液をば空
腹時に嚥下させた。大人に対する1日の量は2―3錠剤とす。他のすべての
医薬は禁止された。
最初の48時間位で、大多数の患者は一般状態の良好を現はし、後裏重急、便
通の回数は減少し、嘔吐は止むに至る。只疼痛は大腸に添うて尚暫らくの間
継続する。特異血清により同じ病院にて同時に処置された他の赤痢患者と比
較して、「ワクチン」療法を受けた患者は更に大に良好なる成績を示した。も
し唯々重症及び中等度の患者のみを考ふれば、血清による被治者の死亡率は
27,7%であつたが、Vaccin を以て per os に治療されたものは死亡率7,7%
を示したに過ぎなかつた。
この「ワクチン」療法の機転はと云へば、吾人によれば、予防免疫法のそれ
と同一である : 健康に残れる腸粘膜が per os による Vaccin の作用を受け
免疫される。腸粘膜は非感受性、非通過性となり ; 従つて菌も、毒素も、い
づれも腸壁を通過し体内に侵入し得ない様になる。
* * *
腸「チフス」及び「コレラ」の場合に於ても亦、吾人が曩に証明したるが如く、
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 201
――――――――――――――――――――――――――――――――――
優秀なる結合機関(l’organe réceptif)は矢張り小腸である。若し然りとせば、
明に予防の研究をすべき器官はこのものである。若し感染の全重要性を引受
くるものが小腸とせば、動物に免疫性を賦与するために、entéro-vaccination
(腸管内予防接種法)の実施を試みないでよいか?
然し、吾人がこの後者の実現を試みた頃は、吾人は赤痢に就ての研究では
知らざる所の困難の生ずるを見た。赤痢の場合には、Vaccin 中に含まれた
る菌体内毒素が腸の内壁を敷きつめたる粘液を駆逐しかくして Vaccins と免
疫さるべき細胞との間に必要なる接触を起さしむるに役立つ。
「チフス」又は「コレラ」予防「ワクチン」の場合には事柄は同様にならない。
之等の Vaccins 内に含有せらるる菌体内毒素は志賀菌のそれと比較にならな
い。之等の Vaccins はその固有の力により粘液を過ぎりて摂受細胞の方に通
路を通ずることは出来ない。亦、動物に「チフス」又は「コレラ」予防「ワクチ
ン」を嚥下せしむる時、彼等は摂受細胞に作用することなく、即ちその免疫
能力を発揮することなく腸管を通過する。この効力を発揮するために、Vac-
cins に助力を求めねばならぬ、Vaccins に道を造らねばならぬ。所で、実
験によると赤痢予防「ワクチン」が作用する様に、腸壁を磨くことよりよい方
法はないことを示す。
それ以来、当該「ワクチン」の嚥下に先立ち、牛胆汁の使用が全部行はれた。
実際、実験の示すところでは、もし胆汁を以て腸管を感作して後、Vaccin
を家兎に服用せしむれば、直ちに「チフス」又は「コレラ」の如き当該 Virus の
確実なる致死量に抵抗し得る様になる。同一 Vaccin を胆汁を加ふることな
く、単独に per os に投与せるものは、動物に何等免疫性を与へない。
この実験が経口的予防法の極めて重要なる問題の基礎となるものである。
又之は種々なる方面より繰り返へされた。詳細に亘ることなく、予め感作す
る手段は単に「コレラ」及び「チフス」予防接種に関して確められた許りでな
く、更に人及び動物の他の疾患にも及ぼさる【ママ】た。
* * *
経口的免疫法は既に大槻【規】模に人間に実施された。多数の人々が既に本法に
202 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
より免疫された。人間に於てその価値を確定的に云ひ得るためには、多分、
尚必要なる期間を欠くかも知れぬ。今から確定し得ることは、経口免疫法は
決して少しの災害を惹起することなく、皮下注射法と共に実施された際に、
結果は通常の予防接種法によつて得られたものに殆ど劣つてゐなかつたこ
とである。
経口免疫の主意に反対するのではないが、何等か尚保留されてる問題とな
るのは : 特に要求すべきことは、人間は「チフス」菌又は「コレラ」弧菌に対
し感受性が大であるから、胆汁を加ふることは――今日では確定せる事実と
なつたが――感作されなければ免疫を獲得しない研究室動物の場合に於ける
が如く必要であるか何うかである。
学説としては、この保留は支持された : 実際には之に反する多数の事実が
ある。ここに近頃観察せる事実を挙げやう。
1925年9月末、Roscoff の結核療養所に於て、1名の「チフス」患者が発生し
た。直ぐに、この療養所の子供全部と看護人とが経口的に予防接種された。
然し乍ら胆汁による予備的感作の免疫方法を行ふことを怠つた。所が予防接
種を受けた月内に、服用者中に9名の「チフス」患者を報告するに至つた。10
月には、10名の他の子供が罹患した。同じ方面で予防的服用をせしめた。12
日遅れて最後に予防せるもののうち、一名の「チフス」患者を認めた。
此の不成功は経口的予防法の価値に帰せられた ; 実際上は、非難すべきは
その技術である。「チフス」又は「コレラ」予防「ワクチン」を感作することなく
服用せる人間は、我々の実験に於ける家兎と同様になる : 即ち免疫は成立
しない。Vaccin は腸管を添ふて滑り降り、摂受細胞と接触することなく、
体外に排泄されてしまふ。
* * *
「チフス」又は「コレラ」予防「ビリワクチン」投与は既に広汎に亘り施行され
た。
「コレラ」に対する予防接種法に関しては、之が使用され始めて以来、余り
久しくはなかつた。ここに簡単に印度に起つた流行の際に報告された二三の
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 203
――――――――――――――――――――――――――――――――――
記録を綜括しやう :
a) 1925年11月末、烈しい流行が Pondichéry の地域に発生した ; 12月一
杯継続し、1926年1月上旬に終熄した。故にこの流行は期間は短つた : 即
ち約40日間であつた。多数の犠牲者があつた : 患者1,039うち831死亡。
流行の当初に、住民の一部に予防接種を行つた。総数5,200人が、胆汁に
て前処置をなして後、経口的に免疫された。ここに殖民大臣に報告せる保健
課の報告により、この地域の終局が如何なるものであつたかを述べやう :
「コレラ」に対する「ビリワクチン」を服用せるもの5,200人中、既に疑もな
く潜伏期間にありたるものに於て僅かに2死亡が記載された。特に感染に暴
露せる警察官のうち、唯々1名が罹患した ; この警察官は予防接種の時に休
暇中でそれを服用しなかつたものである。
b) 多数の「コレラ」発生地が近来 Rajbari 及びその付近に見られた。ここ
に流行の終わりに確められたものを総括する :
予防接種を実施せる前には、人工8,680人のうち41人の患者と23人の死亡
者が報告された。
693人に予防接種をした。流行は依然として継続し犠牲者を出した ; 予防
接種の施工後尚41人の「コレラ」新患者と17人の死亡者が記載された。
所が、之等の新患者はすべて非接種者中に発生した。経口免疫者からは1
名も罹患しなかつた。
c)「コレラ」に対し経口的及び皮下の予防接種法の比較試験は印度に於て
A, I, H, Russel の指揮の下に実施された。「コレラ」予防の仕事は、1925年
の終りに始められ1927年の始めまで継続された。之は栄養の点並びに衛生
の点に於て同じ条件の下に生活せる印度人に就てなされた。
236の村落に於て皮下予防接種法が行はれ ; 52の村落に於て経口的「ビリ
ワクチン」接種 ; 72の村落に於て、両方が同時に使用された。
ここに国際聯盟によつて公表された報告(1927年10月末)より抜粋せる主な
る結果を挙げやう。
A, 経口的「ビリワクチン」予防を行ひたる村落 :
204 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
服用者 4,982人中、「コレラ」患者18人あつた(0,36%)。
非服用者 11,004人中、「コレラ」患者222人あつた(2,02%)。
B, 皮下予防注射を行ひたる村落 :
注射者 8,485人中、「コレラ」患者31人あつた(0,37%)。
非注射者 29,254人中、「コレラ」患者489人あつた(1,67%)。
C, 両方による予防接種法を行ひたる村落 :
「ビリワクチン」服用者 3,085人中、「コレラ」患者15人(0,49%)。
皮下注射者 1,448人中、「コレラ」患者6人(0,41%)。
非予防接種者 7,664人中、「コレラ」患者160人(2,1%)。
故に経口的予防接種法は皮下注射法のそれと同じ効果を示した : 「ワクチ
ン」の接種者の両群に於ては、「コレラ」患者の数は非予防接種者に於けるもの
より約5倍少かつた。
* * *
「チフス」予防接種に関しては既に、現今に於て、かなり多数の報告がある。
吾人は最近あつた2例の流行を報告するに止める、この流行の際には「ビ
リワクチン」内服が行はれた : 一つは Pologue, 他は Brésil である。
1923年11月より1927年1月までに60,000人以上「チフス」予防接種が
Lodz の町に於て衛生視察官 Starzynski の指揮の下に行はれた。之等の予防
接種の効果特に遠方の効果を報告するためには、正確なる統計が必要である ;
且つ又予防接種者にありても非接種者にありても、「チフス」患者の調査は、
1925年の1月1日にやめた。この時までに28,166人が per os に胆汁加「ワ
クチン」を受けた。この数のうち、52人の「チフス」患者が記載された、その
分類は次の如くである :
予防内服せる家屋151戸の住民 20,867 49患者
患者の周囲の人 2,368 3
小学校児童 3,500 0〃
有志者 807 0〃
警察官 624 0〃
―――― ――――
28,166 52患者
之等52名の「チフス」患者のうち、3名は第1週内即ち潜伏期間内に発生し、
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 205
――――――――――――――――――――――――――――――――――
6名は「ワクチン」投与後1年以上で発生したのであるから之を除去する。そ
の残り43人の患者が28,166人の内服者より発生せるもので、即ち0,15%に
当る。
非内服者に於ける罹患率を知るために、唯一人の「チフス」患者が発生せる
全住宅の人員を計算した ; その数は73,494であつた。この数の中に、993例
の「チフス」患者を認めた、即ち1,35%であつた。
従つて罹患率は内服者に於ては非内服者に於けるよりも遥に弱く、確実に
9倍(1,35:0,15=9)の差があつた。
以上は一括して考へた場合の予防接種の効果であつた。然し、少しく詳細
に入れば、数字を脱せる結論は更により有効に見える。
即ち問題となれる疑はしい住宅151個に予防接種を施行せる当時、3,051の
住人が不在であつた ; 彼等は予防接種されなかつた。これ等後者に就てなせ
る調査によれば、之等の不在者は彼等だけのうちに、28,166の住人に於て記
載された全数49例の「チフス」患者のうち47例を出してゐることを知つた。
他の事実も少からず重要のものである。予防接種に応じたる151戸のうち
全住人が例外なく予防内服をなせるものは27戸に過ぎなかつた。之等の住宅
の住人は4,615であつた。このうち、唯1例の「チフス」患者が出たに過ぎな
かつた ; 更に問題となるのはその人に於て最初の症状は予防接種に次で1週
間以内に発生してゐる。
二ヶ年以上の期間に及ぶ之等の観察を総括しての Starzynski は次の如き
結論を述べた : 胆汁付加「ワクチン」による経口免疫法は全く無害であり、
腸「チフス」流行に対し強固なる武器を形成す。
* * *
ブラジルの Saint-Paolo にて1925年の始めに爆発せる流行病の歴史を述べ
やう。この流行は特に興味がある、と云ふのは此の流行の際に皮下注射法と
経口免疫法とを使用したからである。
印刷物で大に努め、皮下注射法の有益なるを説明せるにも拘はらず、大多
数の住民は之に従ふことを躊躇した : 皮下注射を行ふことに用意せるもの
206 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
は約10,000人を算した。
流行は継続して犠牲を出したから、衛生当局に住民に経口的に免疫せしめ
やうと提案した。1925年5月1日から9月7日に至るまで、衛生局の監督に
より、胆汁付加「ワクチン」を以て、28,000人に予防接種をなした ; 更に衛生
局に請求せる有志に同一「ワクチン」38,000人分を配布した。故に総計で63,0
00人が経口的に予防接種されたのである。
1月1日より10月31日までに、Saint-Paolo の衛生課により84例の「チフス」
患者は記載された。この数から、14例は1年以上の予防接種者に起り、25例
は予防接種不完全であり最後に14例使用せる「ワクチン」の性質又は予防接
種の日付を定むること不可能なるを以て、之等を除去しなければならぬ、故
に残り31例の「チフス」患者は予防接種者から1年内に発生し、之に就ての精
密なる記載を得た。
之等31名のうち :
20人は皮下に接種された。
10人は経口的に投与された。
1人は両方法により接種された。
皮下に接種された20名のうち :
4人は予防接種後30日内に感染した。
16人は30日次後に罹患した。
経口的に接種された10名のうち :
7人は予防接種後30日以内に罹患した。
3人は30日次後に罹患した。
両法により接種された唯一名は、予防接種後1ヶ月半で罹患した。
皮下に接種せる人員数を10,000人(類似数)と見積り潜伏期間30日以後の
申告患者(17人)を計算すると、罹患率百分比は0,17%に等しくなる。
経口免疫せる人につき同様の方法を施し、若し衛生局の監督にて接種せる
28,000人だけを目当てとすれば0,01%の比率を得る、若し胆汁加「ワクチ
ン」を請求せる35,000をも計算に入れると、0,006%となる。
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 207
――――――――――――――――――――――――――――――――――
故に per os による予防接種法は皮下によるそれよりも著しく良好なる成
績を挙げた。
之を綜括するに : 研究室の実験及び人間に於ける試験は予防的意義必要
によつては治療的意義に使用された経口的免疫法は赤痢、「チフス」、「コレ
ラ」に対し有効なるを思はしむ。
* * *
普通一般に使用さるる予防接種法の効果に疑を置き皮下経路の代りに全く
経口的経路を代用せんと欲するのは吾人の考より距りがある。今日課せられ
た問題は予防接種のこの両方法が同じ機転に基き同じ免疫に達するか否かで
ある。
経口的に実施された予防接種は、今日吾人の知る所では、腸壁の部位に起
る ; 本法は一般反応なく抗体の形成なく成就し、極めて短時間に成立する。
他面に於ては、吾人は皮下経路による予防接種法は著明なる白血球反応、血
液内の抗体の形成、一般反応を伴ふことを知つてゐる ; 本法は更にその成立
するために少なくとも5―6日の期間を必要とする。
之等の相違があるので、皮下に Vaccins を接種することにより得たる免疫
は per os に同一 Vaccins を嚥下することにより相続く免疫と異る性質のも
のであり得ると云ふ考を先づ遠ざけなければならぬ。勿論、吾人は皮下に注
射せられたる Virus は腸内に再現することを認ることが出来た、このこ
とは予防接種の両方法の間に既に起るのである、然し、もし免疫機転が両者
に於て同一なりとすれば、如何にして免疫に必要欠くべからざるものとして
考へられる抗体が、或る場合には存し他の場合には欠如することがあり得る
であらうか? Vaccin を嚥下する場合にかく速に免疫が表はれるが、注射
の場合には免疫の形成がかく遅いかを如何にして説明するか?それだけ外
見上異る両免疫性の可能を正当と認むるのは心配なる点である。
問題を判然とするために、両方法が吾人に提供する所のものは : Vaccin
の嚥下に続いて来る抗体の形成を伴ひ或は Vaccin を皮下に注射すると抗体
なく、速かなる潜伏期間なき免疫性、簡単に云へば経口予防接種法の与ふる
208 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
免疫性とすべての点で比較し得る免疫性を与へ得ることを証明しなければな
らぬ。
この最後の証明に、Golovanoff と共同で、吾人は吾人の試験を向けた。
* * *
吾人は前に、葡萄状球菌及び連鎖状球菌の問題で、皮膚の摂受細胞は単に
菌体によるのみならず、更に之等の菌体より浸出せる溶解性物質によつても
容易に予防接種せらるることを見た。吾人は特に人間並びに動物に於ける特
異的湿布繃帯の適用の有効なる効果に注意を喚起した。その時当然同様の物
質が腸に選択的親和力を有する Virus を以て得られざるものか何うか質問
を発したのである。
この事に基いて「コレラ」弧菌を以てなされた実験は明かに吾人の予想の正
当なるを示した。「ブイヨン」の陳旧培養より出発し、吾人は120°に抵抗す
る無毒の液体を得た。之は皮下に注射する時は、特異予防的能力を有し24時
間後に抗体を発生することなく「コレラ」感染に対し免疫性を賦与するのであ
る。
即ち之は皮下経路の予防接種の際に遭遇する習慣となつてゐない性質で、
却つて経口的予防接種の場合に観察する性質の綜合的存在を見る。吾人は之
を如何に結論するか?
到達せる結論は「コレラ」に於ける免疫は――而して赤痢に於て、「チフス」
疾患に於て更に他の疾病に於て極めた真実らしきことである――一様なる機
転に過ぎず、而して消化器経路又非経口経路を採用するも同一なることで
ある。この免疫性は、その発現の速かなる点に於て、明かに抗体以外に作用
するものである。この免疫性は、換言すれば、組織性であり摂受細胞の内部
に成立するものである。
Vaccin 皮下注射に付随する抗体は、明かに活働性免疫の成立に必要欠く
べからざるものではない。吾人の意見によれば、単に皮膚又は粘膜に於ける
破損及び自然に見る如き経路によらずして循環系内に異種蛋白質の侵入せる
を示すのである。
赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫 209
――――――――――――――――――――――――――――――――――
非経口的に Vaccin を使用する時5―6日後に免疫の成立するを見る期間
に関しては吾人は偶然の一致に過ぎないと信ずる : よし普通使用さるる「コ
レラ」予防「ワクチン」が5―6日後に免疫するに過ぎないとするも、之は動物
がその喰菌細胞により弧菌を消化し、次いで之等の弧菌内に含有さるる特異
物質を遊離するためにこの期間を必要とするからである。遊離するや、否や
この物質――Antivirus は摂受細胞に結合するに至り、之に続いて免疫は直
ちに成立するに至る。
* * *
之等の事実を綜合して、免疫により無闇に抗体の形成に耳を貸すべきでな
いと云ふ考を起す。吾人は抗体は常に不必要であると云ふことは云ひたくな
い。即ち腸感染と考へらるる「コレラ」に於て、感染が腸にあるに拘はらず、
生体は抗体を生じ得る ; この場合、腸免疫が感染動物の保護を確実なるしむ
るに充分である。他の場合に、腸が溢れ、弧菌が全生体に侵入する大量感染
の場合もある。かかる出来事に於ては、動物はその処理する全防御手段、こ
の中に抗体も含まるるが、之を使用しなければならないのである。
* * *
「コレラ」感染及び「コレラ」免疫の研究の上に殆ど全部分が打ち建てられた
のは、免疫の液体学説である。人は之に細胞学説の左担者がなしたる応酬を
知つてゐる。炎衝の比較病理の記念すべき研究の後に、高級有脊椎動物に於
ては動物界の他の代表者に於けると異る防御手段の存することを如何に思考
すべきか? また Metchnikoff の一般学説は殆ど一致の賛成を獲得した。喰
菌学説は全部高級有脊椎動物の領域に置き換へられた。
然るに、この学説は主として無脊椎動物の研究から出発した。之等後者に
於ては、白血球は、実質上、感染及び免疫の際に、絶対的ではないが主要な
る役目を演じてゐる。
然し、高級有脊椎動物に於ては、固定食侭細胞に特種の役目を決定しては
ならぬものか何うかを質問し得る。Virus と高級生物との間の争闘に於ては、
吾人の意見によれば第一楷級の要素に参与するのは摂受細胞である。器官の
210 赤痢「チフス」「コレラ」に対する経口免疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
中に存する之等の細胞は略々その全費用をかけたる感染に与る ; この細胞は
同様に遊走性食侭細胞と同程度に防御作用にも与る。すべての Virus 並びに
すべての異物に対し唯々裏に対抗するこの者、即ち摂受細胞――固定食侭細
胞――はと云へば、それが特異選択的親和性を示す細菌の存在する場合に作
用するに過ぎない。
簡単に云へば、それ全体として生体と共同責任ある摂受細胞はその固有の
態度を以て、且つまた感染並に免疫に場合に於ても反応する ; この反応はそ
の属する器官が異る程益々明白となる。この自治制はやや図解式に一律に云
つても殆ど差し支へない位のものである、即ち各 Virus は各自の細胞を有
し各自の細胞は各自の免疫を有すと。
――――――――――
Mémoires Citès
Alivisatos et Iovanovic, Centralbl, f, Bakteriol,, Origin,, t, XCVIII, 1926, p, 311,
Alivisatos, Deutsche mediz, Woch,, 1925, p, 1728,
CH, Nicolle, C, R, Acad, Sciences, t, CLXXIV, 13 mars 1922, p, 724,
Gloukhoff, Wolkowa, Erousalimtchique, Panine, La médecine prophylactique (en
russe), juillet-août 1926, p, 64,
Guerner, C, R, Soc, Biologie, t, XCVI, 1927、p、330,
Starzynsky, C, R, Soc, Biologie, t, XCV,1926, p, 947,
Besredka et Golovanoff, C, R, Soc, Biologie, t, LXXXIX, p, 933,
XIII
感染及び免疫に於ける感作物の意義
Role des Mordants Dans l’Infection et l’Immunité(1)
出産するや否や、人間及び動物は自然腔、表皮及び粘膜を覆ふはんと努む
う雲霞の群の如き菌の侵入を受ける。たとへ生理的作用は何等認め得べき困
難を示すことなく継続して成し遂げらるるとは云へ、耐へ得る状態は之等の
菌と生体の細胞との間に成立する。
皮膚及び粘膜はその有する自然免疫は通常の生活状態に於ては、最も危険
なる細菌に対しても充分である。人間に於ては、病的状態以外に、すべての
種類の葡萄状球菌連鎖状球菌は挙げなくても、赤痢菌「チフス」菌「コレラ」弧
菌に遭遇することが如何に屡々であるかは人の知る所である。実験室内動物
に於ては之等の Virus を表皮の上に適用し又は消化管内に送入するも何等障
礙を表はすことなきは人の知る所である。極めて毒力高き脾脱疽菌は少しの
感染を起すことなく結膜嚢内に点滴することが出来る。
皮膚及び粘膜が解剖学的に完全に維持さるる限り、その免疫性は犯されな
い。然し細胞と Virus との間の平衡が潰れると潜伏性感染を喚び起すに足
る : その時まで細胞と共棲して生活せる細菌は突然毒力を賦与され発揮す
ることは人の殆ど疑ふことが出来ない。
* * *
自然免疫の破れることは種々の理由により起り得る ; 之等の理由は物理的
化学的又は生物学的性質のことがあり得る。
肉眼に見えざる継続性の間隙は皮膚及び粘膜に与へられた最も強固なる防
――――
(1) Gane に於ける衛生国際会議に於ける講演(1927,6月1―6日)
212 感染及び免疫に於ける感作物の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
禦系統を零に低下しめることが出来る。剃刀の閃き、上皮を膨脹せしめる
湿布繃帯、烈しき塗擦はその時までは沈黙を守れる Virus に対し受容する状
態を形成するに至る。腸の上皮に作用し得る生産物によるも又は無害菌を嚥
下するも同様の結果を起し得。自然免疫が損傷すると、その時には皮膚又は
消化管の細胞は容易に犯される ; 或る時は隣接細菌が之を攻撃しある時は外
界より来る菌が感染の原因となる。局所の病変が起り次いで全身感染が起る。
破傷風菌及び瓦斯壊疽菌は外界にも、而して又、従つて、吾人の腸管内に
も屡々あることは人の知る所である。皮膚又は粘膜が健康なる限り彼等は何
もなし得ない。然しそこに裂傷又は挫傷が少しでもあれば、粉砕せる細胞は
之等の最近に取り極めて良好なる培地となるから、最も重篤なる災害が起る
疑ひがある。
突然の寒冷、火傷又は化学薬品による腐蝕が菌を同伴すれば、細胞の自然
抵抗力を弱むべき要素となる。吾人は「コレラ」の際に於ける促進作用をなす
菌の意義に関する Metchnikoff の古き実験、並びに付随嫌気性菌によつて惹
起さるる感染に関する最近の実験を思ひ起すのである。
生体の欠陥、生理的窮乏、中毒、麻醉剤、鎮痛剤、神経の衝動、約言すれ
ば、極めて種々なる原因が細胞を下級状態に置き感染に対し極めて大なる門
戸を開放し得るのである。ある場合には、局所で分泌される毒素が細菌に導
火線を与へ一般感染を促すのである。多くの人の傾向として、自然に於ては、
物理的又は化学的の変質に先立たれざる感染はないと信ずる。且つまた、実
験的に感染を起さしめんと欲する時、自然を模倣する様に感作物 mordants
を使用すべきではないか何うか質ぬるのは全く当然である。
この考から出発して、腸管感染に於ける実験には吾人は胆汁を用ゐ、皮膚
に関するそれには吾人は塗擦又は抜毛により皮膚を感作(変質)せしめんと試
みた。
* * *
実験的「チフス」感染に就ての研究の際に、先づ類人猿に於て、恩師 Metch-
nikoff と共著で、更に遅れて家兎に於て、吾人の注意は二つの事実に注が
感染及び免疫に於ける感作物の意義 213
――――――――――――――――――――――――――――――――――
れた : 病変の主要部は腸壁の部位にあり、Virus の選択的分布は腸胆嚢に
添ふてある。之等の所見より、類人猿及び家兎は単に類似するのみならず、
解剖学的細菌学的に真の一致を示す。彼等の相違する所、而して絶対的の相
違は、経口的に摂取された Virus に対する彼等の感受性の点だけである。大
猖々、手長猿又猖々は「チフス」菌の嚥下後に罹患する ; 家兎はこの接種方
法に対しては全く罹患しない。吾人は家兎、海猽、種々なる下級猿に「チフ
ス」材料の大量を嚥下せしめて、之等の罹患せしめやうと何度となく試みた
ではないか! 之は無益であつた。之等の試みに於ては吾人は決して「チフ
ス」感染の最小の症状をも得ることは出来なかつた。
経口的によれば実験室内動物は不感受性なるも之を他の経路特に血行又は
腹腔内に投与すればその感受性を排斥することはない。それ故、吾人が考へ
たことは、胃腸管内には柵(barrière) が存在し Virus が宿主内に侵入する
を妨げるにちがひない。この柵は、吾人の云へる如く、粘液層によつて表は
さるべきである、この粘液層は腸管壁を覆ひ嚥下された Virus と腸の摂受
細胞との間に挿入するに至る。もしこの仮説が真ならば、吾人はこの柵を除
去して、実験室内動物に於て嚥下せる Virus に対する感受性を発現せしめ得
なければならぬ。
故に解決すべき問題は家兎に於てその生理的作用に著しき変化を起すこと
なく表皮の剥離を生ずる物質を見出すことである。吾人の選択は、人の知る
如く、牛胆汁に停つてゐる。このものは之が大量に嚥下さるる時は腸壁を変
化するが、然し、少量なる時は全く無害である。また吾人は Virus よりも
少し前に投与せる胆汁はこの Virus に対し道を造り之をして容易に摂受細
胞に接近せしむるものと考へた。実験は吾人の予想を肯定した。
* * *
実験の示す所では胆汁で処置された家兎に於ては、感染状態はすべての点
に於て嘗て類人猿にて認めたるそれを思はしる。
それ故生体全体が反動を受け而して正常動物には無害なる分量の Virus
が感作された動物には致死的となる点に於てその全身免疫が屈するためには
214 感染及び免疫に於ける感作物の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
腸の通過性の条件を変へるだけで充分であつた。その固有の毒力は零なるが
故に、この結果を生ずるのは確かに胆汁自身ではない。もし動物の自然免疫
が破れるとすれば、之は胆汁が腸粘膜のうちに破損部を造るためである ; こ
の損傷は、たとへ顕微鏡的楷梯のものでも、菌をして摂受細胞に到達せしむ
るに充分である。胆汁により生じたる局所の裂傷は感染機転の一般的発現の
上にその反響がある : 即ち Virus の侵入門口が何であらうと、Virus が嚥
下されても又は血液中に注射されても、最後の結果は常に同一である。この
胆汁の作用は、吾人の意見によれば、主として胆汁分泌促進作用に存する。
動物の固有の分泌を強くすれば、胆汁は腸の上皮層の剥離を容易にし、腸を
して更に透過性となす。そこで、その親和力によつて腸に引きつけられた細
菌は、そこに感染病竈を造り得ることは何人も反対しない ; 疾病は始めは局
所に、次いで敗血症状の性質を帯び得る。
吾人をして之を綜括せしめんに : 健康動物の腸粘膜の完全が「チフス」菌
に対する自然免疫を確実ならしめる ; 胆汁による粘膜の破損がこの免疫性の
部分的消失の原因となる。換言すれば、生理的状態に於ては動物の抵抗力又
は感受性は当該 Virus に対しては腸の柵の演ずる所に従ふのである。
* * *
「チフス=パラチフス」簇の細菌のみが吾人が示した様な作用を営むのでは
ない。「コレラ」弧菌に対しても胆汁は同様に誘導的作用を演ずるであらうこ
とはすべてが想像される所である。吾人は共著者 Masaki をして此の方面の
研究の担当に従事せしめた。
その最初の実験に当り、著者は、事実上、「コレラ」感染と「チフス=パラ
チフス」感染の間には類似点のあることを観察した。この類似は解剖学的病
変所在、生体内に於ける弧菌の分布、並びに嚥下せる胆汁に対する動物の反
応に置かれた。
皮下に「コレラ」Virus を接種された海猽及び家兎に於て、Masaki は弧菌が
腸粘膜の部位に注射後2,3時間にして既に現はれるのを確めることが出来た。
10時間後に、弧菌は腸管内に極めて多数となることは、培養によつて証明さ
感染及び免疫に於ける感作物の意義 215
――――――――――――――――――――――――――――――――――
れる所である。故に弧菌が腸壁に著明なる親和力を有することは確実であ
る。然るに、この親和力あるに拘はらず、弧菌を極めて大量に嚥下するも動
物は完全に障礙を起さない : 成熟動物に於て腸壁型「コレラ」を実験的に造
ることは「チフス=パラチフス」感染のそれの如く常に失敗した。海猽や家兎
は長い間空腹に保つて後、Roux の「コルベン」の寒天培養1―2個の菌量に相
当する量の生弧菌を嚥下せしむるも無益であつて、彼等の症状をも感
じない。消化管内に侵入せる弧菌は腸粘膜に添うて滑り下り、次いで瞬時も
腸も細胞と密接することなく排除される。
かかる事柄は予め感作せる動物に於ては同一経過を取らぬ。吾人が上述せ
る「コレラ」菌の量では予め牛胆汁を嚥下せる家兎をば烈しく犯す。細菌を食
して後最初の3,4日間は動物は外見上何等罹患症状を呈しない。唯その様子
が病気を潜伏せしめてゐるのではないかと思はれる : 動物は籠の中で動か
ずにゐる、恰も少しでも動くことが苦痛であるかの如くである。感染したこ
との疑ひなきかかる症状に接するや否や、体温は上昇し、糞便は下痢状とな
り、食慾は消失し、急に羸痩が起る。一般に死が「カヘキシー」の状態で2―3
週目に突然来る。剖検に際し、培養するに少しも嚥下せる菌を認めない、之
は明かに長期間の病気の経過中に弧菌の溶解せるためである。
之等の観察は家兎に就てなされた。最近に至り、Masaki のそれに劣らざ
る判然たる成績が Horowitz-Wlassowa et Pirojnikowa によつて海猽につい
て記載された。著者等は海猽を牛胆汁を以て感作し彼等をば per os に腸管
「コレラ」を起すことに成功した。
同様に、感染せる家兎に吾人の実験を引用して、Klukhine et Wigodchi-
-koff は経口的経路を借りて「チフス」感染並びに「コレラ」感染を起した。
之等の動物は牛胆汁を以て予め感作された特殊の状態に於て当該疾患に容
易に罹患することを示す。
* * *
同じような事実は他の Virus についても記載された。吾人の共著者 Golova-
noff は大腸菌の経口感染に置かれたる家兎に於て胆汁の促進的作用を認め
216 感染及び免疫に於ける感作物の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
た。類似の観察は Gratia et Doyle により海猽にてなされた。之等の著者は
大腸菌の培養に就て実験し、腹腔内注射では極めて有毒なるも、服用せしめ
ると全く無害なるを見た。少量の胆汁を食せしめて菌の服用を施行せしめた
時に、之等の著者は海猽に於て大腸菌に対し真の敗血症を起し得た。
胆汁による感作は Webster により化膿菌による敗血症に於ける研究の際
に実施された。胆汁は海猽の「チフス」感染の際に Sedan et Hermann によ
つて使用された。2―3日間空腹に置いて後、「チフス」菌を臀部に注射すれば
動物は選択的に腸管内に局在する病変を表わした。空腹を長引かすと海猽の
固有の胆汁分泌を増強し、実験家兎に於て胆汁の嚥下に於て生ずる如き上皮
の剥離を起す。更に追加すべきことは之等の著者は「チフス」菌を結膜下経路
によるも亦腸の病変を起し得たのである。
極めて最近に Remlinger et Bailly は消化管の経路による「ヘルペス」Virus
の毒力に就ての研究の際に胆汁の効力を研究した。10頭の家兎が「ヘルペス」
に犯された家兎の脳を食した ; そのうち5頭が予め胆汁を嚥下した、他の5
頭は胆汁のない Virus のみを嚥下した。最初の全部は死亡した : 胆汁によ
つて感作されざる5頭は唯1頭が死亡せるのみであつた。同様なる条件にて
処理せる12匹の家兎に就てなしたる他の実験では、結果は同様であつた。
* * *
少しく異つた考で、胆汁の感作能力を対照するために、吾人は Martin
Hahn の研究室でなされた Olsen et Rey の実験を挙げなければならぬ。之
等の実験者は先づ海猽の皮下に注射せる「コレラ」弧菌は須臾にして腸管内に
認められることを確めた、此の事項は嘗て腸管局所免疫の吾人の観念の出発
点となれる志賀菌について吾人が観察せる所のものであることを記憶さるる
であらう。弧菌が腸管内に移行することを確めて後、著者等は Ductus cho-
ledoctus の拮【結】紮を行つた ; 次いで、氏等は海猽の皮下に「コレラ」弧菌を注射
した。4―6日後に、氏等は海猽を犠牲に供したるに、氏等は極めて特異なる
腸管の充血も、腸管内の生弧菌の存在も認めることが出来なかつた。然るに
処置を行ひ次いで皮下に接種されたる海猽に牛胆汁を与ふれば「コレラ」弧菌
感染及び免疫に於ける感作物の意義 217
――――――――――――――――――――――――――――――――――
を腸管内容中に認るに充分であつた。経口的に投与された牛胆汁は、それ
故、胆汁の自然の分泌の停止を補足することが出来た : 他の場合に於ける
如くある一つの場合に――例へば胆汁が正常に分泌されるか又は異種動物か
か来る場合に――腸壁は「コレラ」弧菌に対し通過可能となるまでに感作され
るを見る。
* * *
牛胆汁に固有なる感作物 Mordant の作用は毒素、抗毒素又は食物の製産
物の如きすべての種類の非有形の物質に対しても表はれ得る。腸の内面を磨
くので、胆汁は腸壁を通じ之等の物質の移行を促進し又彼等の宿主内への侵
入を容易ならしむるのである。之等の同一物質――毒素、抗毒素、食物製品―
が予め感作することなく摂取されると、腸粘膜に添うて下り何等移行せる痕
跡を止めずして生体を去る。曩に問題とせる Virus についても全く同様に
して、胆汁による感作が腸の通過性の条件並びに摂取の条件を変へる。「チフ
ス」、「コレラ」その他の Virus もついての実験を極めて幸福に完成せる Ma-
karoff, Dietrich, Ramon, grasset の極めて暗示的なる実験を証処として挙げ
る。
Mme Makaroff は次の如き考から出発した。即ち食物に対し屡々見らるる
過敏症 hypersensibilité はある人に於ては之等の食物が極めて容易に粘膜柵
を通過するためであり得ると。之は出発点に於て食物性過敏症 anaphylaxie
は成熟動物では造ることは不可能であるが反対に極めて若い動物では実現す
ることは容易なること即ちこの場合には腸粘膜は容易に破り得るからである
と云ふ事実を有する単なる仮設に過ぎなかつた。
この観察に力を得て、Makaroff は人工的に成熟動物に過敏症 hypersensi-
bilité を造らんと試みた。既に牛胆汁は当時「チフス」菌に対し感受性能力あ
ることが知られてゐたので之をこの試験のために使用した : 成熟海猽に胆
汁次に牛乳を嚥下せしめると幼弱海猽の如く感作に適当する様になる : 更
に遅れて試験注射に牛乳を使用すると、動物は反応し独特なる過敏症状を表
はした。
218 感染及び免疫に於ける感作物の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
食物過敏症に於ける胆汁の意義についての立証的実験は後になつて Ar-
loing 及びその共著者により報告された。
* * *
Wassermann の指導の下に破傷風毒素に就てなした Dietrich の研究は、
同じ「カテゴリー」に含まる。著者は「マウス」に牛胆汁を服用せしめ、次いで
2時間後に、経口的に破傷風毒(0,4cc)を投与した。胆汁によつて感作されざ
る対照の「マウス」は per os に同量の毒素を摂取した。この最後のものは罹
患しなかつたが、最初のものは破傷風に感染した。
海猽及び家兎についてなされたる同様の実験は最近、Ramon et Grasset
により記載された。「マウス」と全く同様に、之等の動物は破傷風毒素の純粋
にして簡単なるものを嚥下せるに障礙はなかつた。之に牛胆汁の少量(2―3
cc) を破傷風毒素と共に摂取せしめたるに、著者等は成熟家兎に速かに死を
致す全身性破傷風を起すことが出来た。海猽に於ても亦胆汁の嚥下に次いで
破傷風毒素を投与せる時には同様に経過した。
胆汁の感作能力は、Grasset の実験で明なる如く、抗毒素にも同様に及ぶ
のである。著者は家兎に空腹時に3cc の牛胆汁を嚥下せしめ次いで抗破傷風
血清を嚥下せしめた。服用後24時間は、反覆して血液を採取した。Grasset
は antitoxine の服用後1―4時間で操作採血により得たる血清は1ccを以て
毒素の10倍量の致死量を中和し得ることを確めた。それ以後即ち antitoxine
服用後7―24時間になせる瀉血によつて得た血清は毒素の100倍の致死量ま
で中和することが出来た。同様の結果は抗「ヂフテリア」血清と同じ条件にて
摂取せる家兎に於て得られた。
之に反して、胆汁を以て感作を受けざる動物に於ては、その結果は全くち
がつて来る。2頭の家兎に、Grasset は空腹時に純粋化せる抗破傷風血清の
6cc即ち抗毒素量1,500単位を摂取せしめた ; 血清服用後氏は1,4,7,24時
間の間隔を以て家兎を瀉血した。今回は、種々なる瀉血により得たる血清は
いづれも抗毒素の痕跡も含まない。同じ結果は抗「ヂフテリア」血清を以て得
られた : 即ち予め感作することなく、経口的に投与する時には、この血清
感染及び免疫に於ける感作物の意義 219
――――――――――――――――――――――――――――――――――
は少しも血液内に移行することなく、腸管を通過するのである。
* * *
それ故、受働性免疫の場合には活働性免疫の場合の如く、予め腸壁を感作
することは全く必要のことである。
免疫の本質的機転は両者に於て同一ならざることは云はずに置く : 受働
免疫の場合には抗毒素は腸壁を通つて全身の循環系統に移行するが、之に反
して活働性の免疫の場合には Virus-vaccin は腸壁の部位に抑留される。然
しいづれの場合に於ても、胆汁は実際上その領域を掃除し腸壁との直接接触
を促すのである。
吾人の初めの研究に次いで、一定数の学者は胆汁に代ふるに同様なる性質
を賦与する他の物質を使用せんとの研究をなした。「アルコール」(Zabolotny)、
「カカオ」硫酸曹達。安息香酸曹達(Reiter)、Chatel-Guyon の水(Goehlinger)
最後に、赤痢菌の死滅培養(Nedrigaïloff)を使用せんと提唱するものがあつ
た。
之等の物質のいづれかを以て腸を感作せんとすることは、第二の重要なる
問題である。他日全く無害にして且つ多分牛胆汁より有効でさへある感作物
を発見することは可能であらう。重要なることは、感作と同じ原理で少しの
費用で、腸壁の不透過性に打ち勝つことが出来ることである。
* * *
たとへ最近に至るまで経口的予防接種が進歩しなかつたとしても、それ
は確乎たる科学的基礎を欠けるためである。支配せる教義はすべて免疫の発
現は抗体に負ふべきことを欲した、亦、腸内に於て Vaccins より受けた損害
があるので、何故に経口的経路が免疫を確実にするには不適当なるかを容易
に説明したのである。
今日では、同じ様な説明は承認してはならぬ。抗脾脱疽免疫の歴史は吾人
に免疫は抗体の作用を必要としないことを教へた。脾脱疽病に対し真実なる
ことは亦他の疾患に対しても同様であるべきである。もし今日まで経口的免
疫に失敗したとすれば、之は抗体の欠陥よりは寧ろ適当なる技術の欠陥では
220 感染及び免疫に於ける感作物の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ないであらうか?
吾人が経口免疫に行つた研究を調査する前に、最初の時にこの考の範囲内
にあつた既に古くなれる実験を簡単に申し述べやう ; 之は15年以上をさかの
ぼる。之は最初の経口的「チフス」予防接種であつた ; 之は Metchnikoff 及び
吾人自らによつて類人猿に実施されたのである。
種々の「チフス」予防 Vaccins の価値を試験する目的を以て、類人猿につい
て研究せる際、吾人は猖々に生きた毒力の強い「チフス」菌を摂取せしめた。
この動物は既に前に経口的に加熱「チフス」菌を受けたのである。然し吾人は
――之は1910年であつた――正常動物と考へた、それは加熱菌を摂取した
事実は免疫の痕跡に過ぎぬと考へ得らるることはほんの瞬間も承認すること
が出来なかつたからである。吾人の猖々はそれ故――吾人の考では――恰も
完全に新しいものの如く、腸「チフス」に罹患すべきであつた。然るに之は何
の障礙も起すことなく止まつた。
局所免疫の考は当時は吾人の希望に影響を及ぼす事が出来なかつたので、
此の結果は全く吾人を困惑させた。事実は少からず明白であつた。他の猖々
を手に入れることが可能であつたので、吾人に残されたことは事実を記載す
るだけであつた。たとへ per os による実験的予防接種の最初の例を観察す
ることがかかる風に Metchnikoff 及び吾人に残されてあつたとしても、之は
全く意外であつてそれについて吾人の例に何等の価値もなかつたのである。
翌年(1911年)、経口的予防接種の同様なる実験が、J,Courmont et Rochaix
により、3年遅れて(1914年)A,Lumière et Chevrotier により、実験室内
動物について繰り返へされた。その頃、同種の試験が独逸に於て一連の学者
達―Loeffler, Kutscher et Meinicke, Wolf, Bruckner により「パラチフス」菌
の培養を以て追求された。あらゆる実験が嚥下せる之等の菌に対し特に感受
性大なる動物なる「マウス」に実施された。
* * *
之等の研究を綜合すると、一定の研究条件に於ては経口的予防接種は実現
性あることを知るに至つた。之等の条件の正確に決定すること並びに動物に
感染及び免疫に於ける感作物の意義 221
――――――――――――――――――――――――――――――――――
於て免疫経過中に起ることを更に厳重に検査することは保留する。普通一般
の考があるので、特に血清の抗体含有量を追求しなければならない。体躯倭【矮】
小なる「マウス」はこの種の研究には不適当であるので、吾人は家兎を使用す
ることにした。
第一歩に於て、吾人は大なる困難に遭遇した。吾人は「マウス」及び猖々と
は異り、家兎は経口的には「チフス」又は「パラチフス」感染に対し予防接種さ
れぬことを認めた。吾人は無益に家兎に加熱菌のみならず、更に生きた毒力
強き菌を嚥下せしめたが、家兎は免疫性の獲得を拒否した。嚥下されたる菌
は少しも停滞することなく速かに腸を通過する、恰も雑菌に対する場合の如
くである。
「パラチフス」感染に於ける腸壁の意義に就ては吾人の以前の実験にはなき
所であり ; 他面に於ては、胆汁の付加をなし得る方法を知つてゐるので、吾
人は遂に胆汁を免疫に使用せんとの考に到達した。吾人はそこで先づ腸の上
皮を磨き、かくして腸壁の透過性を変化し、次いで、経口的に生「パラチフ
ス」菌を投与せんことを提唱した。
明かに、胆汁で処置された腸は嚥下せる菌を吸着することが出来ることを
示した、従つてかく処置された家兎は強いて血液内に入れたる菌の致死量に
抵抗することが出来る様になる。
この結果は多数の要項に対して得る所が極めて多かつた。先づ、胆汁を予
め嚥下することは免疫形成に極めて必要なること ; 次に、この免疫が経口的
に得られたと同一なる機転は吾人の新天地を示した。
この実験の実際的価値に関しては、勿論零であつた。その興味は純学理的
であつた、何人も生菌の服用を予防接種の手段として推称する考を抱いてゐ
なかつた。
然しこの実験より励まされて、吾人は、他の条件は全部同一にし、生菌に
代ふるに死菌を以てする場合に、何のやうなことになるかを知らんと欲し
た。吾人の驚異せることは、実験の結果は著しく同一なることを示した。実
際上、実験の示す所では、胆汁で感作された腸と接触せる「パラチフス」死菌
222 感染及び免疫に於ける感作物の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
は、吸着され、動物は次いで静脈内に注射せる Virus の確実致死量に対し抵
抗する様になる。
それ故、吾人はここに、無害にし迅速なる予防接種方法の存在することを
知つた――吾人に及ぶまでには長い間かかつたであらう所の実験が之を証明
した――「チフス=パラチフス」感染に犯された人間に見る免疫になぞらふべ
き方法の存在を知つた。
* * *
経口的経路によるこの予防接種法は如何なる機転であるか? 之は勿論抗
元が腸壁を過つて移行し、血液内に抗体を形成するに基くのではない、仮令、
ある場合に、予防接種の始めに抗体が血液内に表はるることあるも、抗体は
予防接種の進行すると共に次第に消失する ; 免疫が最高の強さに到達せる時
に抗体を少しも見出さないことが却つて屡々ある。それ故血清の抗体含有度
と生体の免疫度との間には何等の関係も存在しない。
吾人の意見によれば、予防接種の機転は感染の機転と同一である : 両者
の場合に、胆汁は粘膜を感作し、菌と腸の摂受細胞との密接なる接触を促す。
摂受細胞は腸壁の厚層内に存在し、胆汁の作用により露出され、Virus 又は
Vaccin と結合する : 之によつて、場合に応じて、感染又は予防接種に与
る摂受細胞の親和力が飽和されるや否や、之は最早 Virus を結合し又は吸
着しない状態となる、尚亦、その後に生体がその既に受けたるものに類する
感染に爆【暴】露する時、その摂受細胞は無関心に止まる ; 即ちその親和力が消
燼されたために反応し得ない様になり、細胞は殆ど感染に与らなくなる。換
言すれば、摂受細胞は、一度び Antivirus 吸着により感作が破れると、最
早何等危険がない : 之より腸免疫は生体の全身免疫と同一視される。之は
吾人が脾脱疽菌予防接種をなせる海猽にて既に見た所のものである : 皮膚の
細胞は、パストウール氏「ワクチン」により感作がなくなると、強毒なる脾脱
疽菌が存在する時にも、最早作用しなくなる ; 之より皮膚の免疫は同時に脾
脱疽菌に対する海猽の全身免疫である。
* * *
感染及び免疫に於ける感作物の意義 223
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「コレラ」は極めて「チフス」と類似する。
研究室内の動物は全く「コレラ」弧菌の嚥下に対し感受性がない。亦「コレ
ラ」弧菌を大量に嚥下した後に、弧菌の注射に対し全く免疫性を得ることは
出来ないことは予期しなければならない ; 之は実際上実験の示す所である。
然らずんば腸が予め牛胆汁を以て感作された時は起り得る事柄である。
吾人は既に胆汁で前処置して弧菌を服せしめると甚しい障礙を引き起すこ
とを示した ; 之は家兎に於ても海猽にありても真実である。この障礙の程度
は摂取せる Virus の量に従ひ多少がある : 2―3日の潜伏期の後、最初の症
状が現はれるのを見る ; 食慾不振、下痢、羸痩 ; 之等の症状は、動物により、
恢復し或は「カヘキシー」のために死の転帰を取る。
実験は疾病より生き残つた動物は血液内に弧菌の致死量の接種に対し抵抗
する ; かくして得たる免疫は抗体に無関係である。実際上 Masaki の観察に
よれば「コレラ」に対する免疫は多少強き「コレラ」感染が先駆する時に成立す
るに過ぎない。この事は胆汁を以て処置されざる動物では決して見られぬか
らして、胆汁を加へざる純粋にして単純なる「コレラ」弧菌の嚥下は抗「コレ
ラ」免疫は出来ぬものと信ぜられる。
この結論は同様に始めは Glotoff,次ぎに最近一面には Horowitz-Wlassowa
et Pirojnikowa の海猽に於ける、他面には Klukhine et Wygodchikoff の家
兎に於ける研究を導いた。
* * *
Horowitz-Wlassowa et Pirojnikowa は胆汁で感作せる海猽に「コレラ」死菌
を嚥下せしめた。数日遅れて、之等の海猽並びに対照動物は経口的に試験さ
れた。対照は「コレラ」感染で斃れた ; 処置せる海猽は生存した。予防接種さ
れた海猽の血清中の抗体の検索では陽性の成績を示さなかつた。
Klukhine et Wygodchikoff は海猽に就て実験した。氏等は家兎を赤痢菌
を用ゐて感作した、この方法は Nedrigaïloff et Linnikowa により胆汁の代
りに腸壁に作用させたのである。志賀菌の感作量を定めて、氏等は家兎に経
口的予防接種法を施した。実験は多数の動物に行はれた ; 一つは「コレラ」に
224 感染及び免疫に於ける感作物の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
対して予防接種され、他は「チフス」感染に対して行はれた。ここで之等の実
験の詳細を述べることは管々しい ; 只々注意すべきことは之等の研究より流
れ出た結論は吾人の結論及び Masaki の結論と一致した点である。志賀菌の
培養によりあらはされた、感作物質は抗赤痢免疫と同時に抗「コレラ」又は
抗「チフス」免疫を賦与することは胆汁に優る。著者は腸の感作を行ふことを
省いた時は、ある失敗に直面せる事に基き次の如く主張す : 「チフス」感染
又は「コレラ」感染に対する予防接種に関する問題は、免疫は家兎が予め感作
された時にのみ per os に得らるるに過ぎないのである。
同種の事実は Brocq-Rousseu, Truche et Urbain が Bacterium gallinarum
に対する雞の予防接種に関する研究の際に唱へられた: 牛胆汁を以て処置
された雞のみが静脈内注射による Virus の致死量の数倍に能く堪えることを
示した。
* * *
仮令吾人が長い間、予防接種法の見地に於て予め腸を感作すべきことの重
要性にこだはつてゐたにせよ、之はその事実が吾人の研究の始めに確められ
たためである。ある学者は服用せしめた少量の牛胆汁は動物に於ては通常分
泌される大量の胆汁の他に重要性はある筈がないと宣言してゐる。
感染を引き起さんとする時はいつでも、或は経口的に予防接種を実現せん
とする時はいつでも、予め感作することが必要欠くべからざることであると
主張するには距離がある。吾人の最初の実験では――之は実験的赤痢に就て
行つた――吾人は志賀菌はその固有の性質により腸の研磨を行ひ得るから、
予め胆汁を嚥下することは不必要である。同様に、特に感受性強き動物では、
特殊の感作物の使用は全く必要なるものにあらざることを示した。即ち、吾
人は予め感作を行ふことなく「パラチフス」菌に対して「マウス」を又、「チフ
ス」菌に対して猖々を予防接種することに成功した。細菌の内部に含有され
た菌体内毒素は同様に使用さる ; 当該動物に於て、菌体内毒素は他の事情に
於て胆汁に代用される。然し吾人は感受性動物に於ても亦、感作物の使用は
有効なりと評価するものである。胃腸液は著しく不定である : その充満、の【ママ】
感染及び免疫に於ける感作物の意義 225
――――――――――――――――――――――――――――――――――
状態、その反応、酵素の含有量は刻一刻と変化し得。胆汁を服用させると、
測定可能の範囲に於て、之等の条件を一様にすれば、腸壁と Vaccin との密
接なる接触を一層確実になす。吾人の関係せる Virus にありては、人間は
実験室内動物より遥に感受性大である ; 人間は類人猿と比較するも更に感受
性に富む。それ故、人間は人工的感作物に依頼する必要なく、経口的に予防
接種されるものと推量したであらう。然し之を若し疫学的観察に拠れば、殆
どある疑を抱くことを禦ぎ得ない ; 他面に於ては、予め感作することは更に
確実なる免疫を得させるから、吾人は人間に於ても同様に之を実行する意見
を有するものである。
* * *
仮令、腸が主要部なる感染に於ては、感作物質の役目は必要なることが証
明されても、皮膚から発生する感染に関係する場合にはこの証明は無益と見
える。皮膚が健康なる限り、すべての Virus に対し殆ど無限の抵抗性を以
て対抗する。皮膚組織に選択的親和力を有する Virus 例へば連鎖状球菌、葡
萄状球菌、「ペスト」菌、結核菌、脾脱疽菌の如きものすら、皮膚に少しも継
続の破損がない状態に於ては、全く安全無害の状態で皮膚に沈着し得。皮膚
感受性を造るために、皮膚は先づ物理的又は化学的損傷を受けなければなら
ぬ ; 同じ種類の感受性は、吾人が既にこの講演の始めに示したる如く、極め
て種々なる要素によつて引き起され得。
皮膚と腸との間の類似は感染機転に制限されてゐない ; この類似は同じ程
度に免疫の機転に及ぶ。即ち、皮膚及び粘膜を大量の Vaccin と密接せしむ
るも、その結果は少しも自然免疫を強くしないのである。然し、始めに如何
なる形であらうとも感作物質を皮膚に作用せしめた小数では、人工的免疫の
発現に通当なる条件を造つた。Antivirus の歴史はすべてその使用の対照と
して、その必要は云はずとして後天性免疫を得るために皮膚又は粘膜を予め
感作することである。
之を綜括するに : 器官が包蔵せらるる皮膚粘膜なる外被は正常状態に於
ては防御系統として役立ち皮膚又は粘膜組織を通過すべき菌の全侵入を妨
226 感染及び免疫に於ける感作物の意義
――――――――――――――――――――――――――――――――――
げ、動物をしてその自然免疫を確立せしめる ; この免疫性は外被の表面が健
全なる限り鞏固である。
動物に人工免疫を与ふるために、更に先天的に抵抗性ある動物に感染を起
すために、この外被は先づ適当なる感作作用を受け、極めて軽度に過ぎない
が、自然の安全性を破り易くすることが大切である。
―――――――――――
Mémoires Cités
Metchnikoff et Besredka, Annales de l’Institut Pasteur, t, XXV, 1911, pp, 193,
868; t, XXVII, août 1913・
Masaki, Annales de l’Institut Pasteur, t, XXXVI, p, 399, 1922,
Horowitz-Wlassova et Pirojnikova, C, R, Soc, Biologie, t, XCIV, p, 1067,
ⅩⅣ
貼 布 法 と 免 疫
Pansements et Immunité
外科に於ける貼布法(以下湿布繃帯と記す)の発達は疾病に打ち克つよりよ
き手段に基き医学に於て成功せる考察に基く。湿布繃帯に移行せる主なる行
程は――それが殺菌、防腐又は特異的のものであるにせよ――病原菌を破壊
する考から全部誘導された。之等種々なる湿布繃帯の異る所はその作用方法
である。この最後の作用方法はある場合には免疫の液体学説、ある時は細胞
学説或は特異的組織局所免疫学説からである。
外科学の粗造時代の最初の湿布繃帯は石の年齢に逆上る程である。之は有
史前の人間により使用され、燧石を以て穿孔を行ひ又は肉の中に埋つた矢を
引き抜くと称せらる。すべてがよい : 樹皮、手近に見出さるる草、鳥賊の
墨汁等。要点は速に流血を止め、瘡面を塞ぐにある。儀式上の仕草は余り湿
布の效果を完成しない。Homére(ホーマー)の信ずる如く Ulysse の場合が
それである。
Autolyticus に於ける狩猟の際に野猪のために脚部に負傷した時、彼はそ
の外科医が負傷せる脚を拮紮するのに長い間呪文を唱へつつその仕事を終る
のを見た。
現代より五世紀前に Hippocrates の仕事のうちには屡々骨折、負傷及び湿
布繃帯を問題としてゐる ; 然し不幸なことには、このものの成分又はその使
用方法に関しては、吾人は全く詳細を欠くのである。
Ⅰ
漏膿及びその処置は西暦の始めに漸く医家の注意を惹き始めた。
228 貼 布 法 と 免 疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
吾人は Celse の有名なる仕事、De re medica の中にこの問題に関する詳
細なる記載を見出す。Celse の意見によると、「アプセス」は切開しその内容
はそこに存するすべての腐敗物を除去するまで吸引すべきである。19世紀後
に、外科医 Bier はこの方法を彼のものとなした。
キリスト【四文字に二重下線】文明の到来と共に外科学の更新を待ち設けなければならなかつ
た。それは何でもなかつた : Ecclesia abhornet a sanguine (宗教は血を嫌
ふ)。亦吾人は、教会が流血のために養つたこの嫌忌の理由のために、中世
紀の全期間外科学の萎靡を来したことを附加しやう。かの理髪師-外科医師
は西暦の初年の同業者以上に知者であり得なかつた。然し竹帛に残る唯一の
功労者は XIV 世紀の仏蘭西の外科医 Mondevill にして、氏はその時代の
師表となれる Galénistes (Galén 派) に対抗し漏濃が瘡傷の治癒に必要欠く
べからざること、瘡傷は膿を持たぬ時は却つてよく瘢痕形成をなすものなる
ことを確定するの勇気を持つてゐた。Mondeville のみが自家の見解を持つ
てゐた。
「ポマード」及び膏薬は化膿及び痕面に好んで論議し続けられた。汚染せる
貼布は Galén 派の教養により祝聖された ; その地位を顛倒さすることは個々
の力では及ばなかつた。
*\t * *
復興期が来た。当時の最も代表的なる外科医 Ambroise Paré は、かの有
名なる Traité sur les plaies par armes à feu (銃瘡に関する治療)を出版し
た。氏は当時評判となれる灼熱又は煮沸油による腐蝕を非難するに躊躇しな
かつた。氏の意見によれば、感染の恐怖より「ヒント」を得た本法は、之を施
す所の組織の破損のために手術の経過を増悪するに過ぎないと。氏は合併瘡
plaies compliquées の治療には葡萄酒又は l’eau-de-vie (「アブサン」の類)或
は硫酸銅の溶液を以て患部を反覆洗滌することを勧めた。Paré こそ始めて
組織を劣つた状態に置いてはならぬ、組織をして最大の生活力と最大の防禦
手段を保存せしめねばならぬと云ふ重要性に気がついた。亦彼こそ文献以前
貼 布 法 と 免 疫 229
――――――――――――――――――――――――――――――――――
に防腐剤を使用したものである(1)。
Ambroise Paré の考は理解されなかつた。2,3 の熱心なる賛成者があつた
中に、XVIII 世紀の有名なる外科医 J,-L, Petit は理髪師の灼熱法を排し
て揮発油による湿布繃帯、没薬及び「キンキナ」の粉末による湿布繃帯を代用
した。然し、之を総括するに此の時代に於ける外科学は西暦当初以上の進歩
はなさなかつた。
「ポマード」や罨法は XIX 世紀の半ばに至るまで外科学の室を去らなかつ
た。更に、局所炎衝に関する Broussais の意見に誘惑されて、外科医は、全
く、内科医と同じく負傷者及び手術者から大量に採血する習慣になつた。彼
等は患者を衰弱状態に置いてしまつたのでかかる最小手術が感染に対する口
実となる位であつた。手術後の死亡率は最も熟練せる外科医をして再び「メ
ス」を執ることを断念せしめる位の割合に達した。黒変群 Séries noires と説
明すべき ,,化膿性炎衝,, の起らぬ様祈祷しても、手術の不幸なる結果を防ぐ
ことは出来なかつた。
Ⅱ
1867年が来る。手術者、器械又は湿布繃帯によつて齎らさるる感染し易い
伝染の観念が、新しい領域を開拓す。恰も魔術師の杖の下に変化する如く、
外科学の技術は一変す。
,,開放性骨折及び「アプセス」の新治療法; 化膿の原因に関する観察,,、か
かる表題の記念すべき報告書が Lister によつて発表された。石炭酸水又は
石炭酸加油による瘡面貼布の問題は広い範囲に流布した。
この最初の発表は余り認められずに過ぎた。亦、しばらくして後、Lister
は新しい報告書を発表するを必要と判断した。此の度は、極めて簡単な表題
をつけた : “消毒薬の意義,, 之は新貼布法を外科学に感銘せんと企てた新
方針以外には少しも関係しないことを充分指示せんとした。
その同時代の人を説得せんがために、氏はその技術によりよき結果に導く
に至つた多数の重要なる手術の病歴を挙げた。
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(1) Je le pansay, Dieu le guarit,, (私が手当して、神が治す, 1517-1590)
230 貼 布 法 と 免 疫
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屡々かかる場合に遭遇する如く或る新しい考案も従つて普及するに至らな
い如く、新法はこれに対する嫉妬と無能の結合の湧き立つのを見ずには樹立
しない。Lister の場合にもその大胆なる発見を許すためには多数の歳月を要
した。その間、氏は洗滌に関し、石炭酸「ガーゼ」及び「カツトグート」に関し、
器具のための石炭酸槽に関しての一列の仕事を発表した。氏の考の中には、
空気中に存する菌は石炭酸のかくの如き使用の前には最早恐るる余地なし
と。亦氏は手術室の化膿を全々追ひ去ることを望んでゐない。
明かに、消毒薬の貼布を以て病院の腐敗、丹毒及び膿毒症を除き去るを見
た。手術後の死亡率は負傷者及び被手術者をして、その時までは不明なる割
合にまで速に減少した。外科医は重篤患者を手術するに自惚が出た。手術家
の大胆はその手術が無障礙なだけに医界を驚嘆させた。
*\t * *
之に続く10ケ年間(1875-1885)、消毒薬は些の曇りなく風靡した。勿論、
石炭酸、昇汞及び沃度「フオルム」に代用するために、本法を完全ならしむる
研究をするものはなかつた。Lister の教義は此の長き全期間に亙り両半球の
外科医界に少からず君臨した。
仮令 Lister 以前に外科手術は極めて屡々成功に帰したとは云へ、然しあ
ちらこちらに幸福なる例外がなかつたと信ずるのは誤りであらう。即ち、仏
蘭西に於て、Koeberlé は消毒剤を使用することなく、子宮繊維腫及び卵巣
嚢腫の手術に成功した。英吉利に於ても亦、Lawson Tait は石炭酸水に拠る
ことなく極めてよくその手術に成功した。後者はその同国人 Lister の方法
を手術の際に不必要なる操作と考へるのに殆ど遠慮しなかつた。
何故に他の外科医がかくも哀れに失敗せる場合に之等の外科医は成功した
のであるか? 少しも之は説明出来なかつた。該手術者は清潔であつた。そ
れがすべてである。彼等は沢山の石鹸と煮沸水とを使用した。彼等はその糸
及び海綿を煮沸した。彼等は剖検をやらなかつた。
Ⅲ
Lister より説伏せられた味方さへも、然し、Koeberlé, Lawson Tait 及び
貼 布 法 と 免 疫 231
――――――――――――――――――――――――――――――――――
その門弟により当時挙げられた成績に感動せざるを得なかつた。常に石炭酸
又昇承【ママ】の使用を賞揚しただけそれ丈之等の結果に驚嘆した。之等の物質の毒
性とその組織の上に特に腹膜に関する手術の際に及ぼす不快なる作用との為
めに、被手術者は屡々元気阻喪の状態となり創面の瘢痕形成を痛く害するの
を見る。
消毒薬の貼用の原理は生物学的の考へ方よりも寧ろ生体の防禦を化学的考
へ方から行ふものであることを注意せよ。本質は一般に消毒的作用により行
ふものでないことを知る : 皮膚又は粘膜を保護するために生体が営む所の
分泌液の産物は、一般に殺菌作用がない。菌を除去するために、皮膚及び粘
膜は極めて屡々その腺の分泌液を利用する。即ち純化学的手段に拠る。
同時代の人は未だ吾人の仲間うちに生存してゐるが、その当時を想ひ起す
ものは少いから、Lister の研究及び特に Pasteur のそれによつて作られた
る進歩せる考は防腐法(asepsie)に対し既に熟してゐなければならぬと解釈さ
れる。吾人の云はんとする所の Koeberlé の如き外科医によつて実施された
のはこの経験による防腐法に関係するのではなく、実験室の否定し得ない実
験に基く合理的防腐法に関係するのである。亦、石炭酸、昇汞及び他の殺菌
剤は漸次高圧蒸気にその地位を譲るに至つた : Lister 氏「ガーゼ」貼布法は
無菌貼布法の優秀なる前に解消した。
1885-1890 年代に於ては如何。
「タムポン」、圧迫繃帯、糸、器具は蒸気又は乾熱により消毒された。只手
術者の手だけは、同様の処置をなし得ないので、石鹸「ブラシ」を使用して後
昇汞、酒精及び過「マンガン」酸加里で洗ふ。ある日、手は充分に「ブラシ」を
かけ、洗滌し、消毒せるに拘はらず、菌が生存するを認めた。更にかくの如
き操作の影響は長ければ手が荒れるだけである。そこで高圧蒸気で滅菌せる
護謨の手袋を使用せんとする考を持つた。防腐の原理はその当時は望み得ら
るる広い範囲に実現された。
現今に於ては、仮令 “石炭酸の酒宴,, をやる如き少数の忠実者を除いたに
しても、無菌貼布法は一般に採用されてゐることを肯定し得る。吾人の組織
232 貼 布 法 と 免 疫
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の細胞は圧迫繃帯又は器具と接触せしむるもその生活力を失ふ危険は殆どな
い ; 生体は総体としてその自然免疫性を生体に賦与する全防禦作用を営み得
るのである。
然し防腐法は害され易い側面がある。感染に対する活働的闘争を止めるの
で、防腐法はその大なる不安は Primum non nocere なるために、自然の治
癒力に一任される。然も、防腐法は完全なる状態なる以外には效果はない。
一大手術は塵埃の最も少い巣窟をも除かれる様な特殊の場処を必要とする厳
格なる防腐の方式により行はれねばならなかつた。之は偶然的感染の原因と
なるを以て、助手も操作も又談話もなるべく少きを要す。手術は時間が短け
れば短いだけよく成功する、然るにもし何か彼にかの理由で、之等の条件を
実現し得ないならば、防腐的手術よりも更に心配なる結果を持ち来し得: こ
の場合には劣る。最後に無菌的繃帯、禁忌の場合がある : 之は多数に病原
菌の存在する時である。
殺菌的繃帯の目的とする所は直接に完全に菌を破壊することである。細胞
の生活力を考慮することが如何に必要であるかを了解すれば、菌の破壊は二
次的計画に委ねられ、自然の治癒效力、即ち組織の自然免疫に腐心した。
Ⅳ
然るに、最も活働的なる防禦手段に従事せるこの免疫は、人工的要素によ
り更に強固となり而して手術者の手に於て創面の治療上極めて高価なる要素
となり易いのである。吾人は特異繃帯に就て述べやうと思ふ。之等の繃帯は
血清又は Antivirus に基くのである。
特異血清を基礎とする繃帯は殆ど普遍的実行に入らない。その使用は其の
当時抗破傷風血清を以てせる実験に基く。
之等の実験は抗破傷風局所免疫を得ることが出来ることを示した。之以上
簡単なものはない : 海猽の剃毛せる皮膚に抗破傷風血清を浸せる圧迫繃帯
を適用するか又は腹部の皮膚を「ラノリン」に混入せる破傷風抗毒素を以て塗
抹するだけでよい。
之等の方法のいづれかを以て、破傷風毒素の確実なる致死量に対し動物を
貼 布 法 と 免 疫 233
――――――――――――――――――――――――――――――――――
防禦す。繃帯は毒素の注射の前日又は毒素注射後間隔は3時間を越えざる状
態で――適用すれば、海猽は致死的破傷風に対し防禦さるるを見る。
抗破傷風血清繃帯は有效なるためには、それを毒素を受けた部位と直接に
接触せしむることが必要である。腹部の皮膚に適用すれば、繃帯は腹部の皮
下に注射せる毒素に対して防禦す : 他の場処例へば一脚の皮下に注射せる毒
素に対しては防禦しない。
換言すれば、抗破傷風繃帯により実現された免疫は局所的である ; 之は厳
密に特異的である。
この局所予防接種 loco loeso は多くの場合、抗破傷風血清の注射に代用し
得。本法は更に異種血清の非経口的侵入に由来する――直接又は間接の――
不都合を少しも持ち来さざる長所を提供する。
*\t * *
外科医の実際上に極めて多数の適用を見るのは Vaccin 又は Antivirus に
基く繃帯である。その作用は、仮令局所性ではあるが極めて広汎なる適用の
領域を呈する。之は一種の特異的要素と関係する。その特異性は二重の意義
がある : 即ち一方ではそれ等が Virus の発育を阻止する Virus に対するも
のであり、他方には――而して之は特に価値ある長所であるが――それ等が
抵抗力を増強する生体の細胞に対するものである。この二重の作用は、何の
不都合を表はすことなく、殺菌及び無菌の結合せる繃帯の長所を兼ねる様に
なす。この特異繃帯を使用し脾脱疽に対する皮膚予防接種又は「チフス」に対
する経口的予防接種に於けると全く同じく、皮膚及び粘膜の自然免疫性を強
くなすのである。Antivirus を満す生物学的殺菌作用は之が細胞に対して行
ふ作用により増強される。
葡萄状球菌及び連鎖状球菌の遍在することは特異繃帯が皮膚及び粘膜に関
する感染の際に多数の適用を見るに至らしめた。
癤(フルンケル)、癰(カルブンケル)、あらゆる種類の「アプセス」産褥熱及
び他の疾患に於て、 Antivirus による繃帯は普ねく使用されるに至つた ; 之
はここに主張する必要はない。戦争中屡々見られたもので、大なる損傷によ
234 貼 布 法 と 免 疫
――――――――――――――――――――――――――――――――――
り又は衣類の破片による汚染により特長を呈する場合は吾人の注意を引くに
値ひした。寸断され、血液で氾濫され、打傷により生命を失へる組織は、余
りよく分らないが、病原菌に対し選択的の培養基を提供する。毀損し、その
自然免疫性を減少せる細胞は菌の増加に対し 何等障壁を提供しやうとしな
い。最も厳格なる殺菌作用は同様の場合に如何ともなし得ない。
生体の自然の資力を分担せしめる Antivirus 療法は、吾人の意見により次
の如き場合と同様に適用された、例へば Lister の最初の記念物となり而し
て今日なほ外科医の関心する瓦斯壊疽、骨髄炎、化膿性関節炎又は開放性骨
端骨折の場合の如きである。最も熟練せる手術家は今日でも尚之等骨折を受
けたる患者に於ては死亡率が多いことを告白してゐる。常に骨折の上の傷は
或は縫合して感染の危険を冒すか或は縫合せずに法外に治療を延期し、而も
骨炎及び腐骨片を確実に避け得ないのである。この大なる矛盾の前に、傷面
を Antivirus に充分浸すか、継続的に或は断片的に死滅せる組織の中に
Antivirus を滴下することは合理的でないであらうか? Carrel の排膿管の
「システーム」に使用する Dakin 氏液の代りに Antivirus を用ふることは、
上述の如き類似の場合に何うであらうか?
助膜腔内及び特に腹腔内に限局せる膿汁の採取は既に Antivirus を局所に
適用してその処置に成功した。吾人の考によれば Antivirus が特に有效なる
場合は、手術前の予防接種の場合である。器官の局所免疫は極めて速かに得
られたので、手術後の「ワクチン」療法に同様希望を開いた。
*\t * *
貼布法の経過せる種々なる時代を考究し、之を免疫学説に参照すると、相
互の間に相関的関係の成立することを殆ど妨げることは出来ない。
医学の有史前の全期間は、而して細菌の意義を少しも知らざる期間は、汚
染せる繃帯貼用期であつた。
病原菌の作用が発見された時は、内科も外科も一つの目的を持つてゐたに
過ぎない : 即ち殺菌性物質を用ゐ直接作用により之を除かうとするのであ
る ; 一方には液体免疫の考からであり、他方には消毒薬による繃帯貼用で
貼 布 法 と 免 疫 235
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ある。
喰菌作用の発見は、生体の意義を細菌の破壊作用に 価値を帰してゐるの
で、内科に於ては細胞免疫説、外科に於ては防腐的繃帯の凱歌を挙げるを見
た。
今日では、白血球のみが生体の防禦を確実ならしめるのでなく、すべての
細胞が感染され易く又本当の意味に於て免疫され易いことを知つたのである
から、吾人は新時代即ち、一方に於ては局所免疫の学説に、他方に於ては自
然的当然の帰結として特異繃帯の時代に遭遇した。
ⅩⅤ
免 疫 と Antivirus
Immunité et Antivirus (1)
“何人も嘗て抗体の発顕なき鞏固なる免疫性の発生を非難する事なく証明せ
るものはない,,。Jules Bordet (Traité de Physiologie normale et pathologique,
de H, Roger et Binet, 1927, p, 354)
実験的見地に於て非難し得ない、免疫の機転に関する吾人の知識は、なほ
異論を受くべき観察に基いてゐる。Metchnikoff, Bordet, Ehrlich 及び他の
人々の古典的研究に拘わらず、免疫学説は今日なほ成長期にあつて、将来の
安定を洞察し得ない。吾人も亦二三の私的意見を容易に発表し得るを感ずる
ものでなければならぬ。
いつの時でも、所謂伝染性又は「ミアスマ」性の疾患を治療せんとするもの
は、必ずや之等の疾患の原因と予想さるべき要素を直接目的とすることが必
要であると断定した ; 疾病の発育する身体に関しては、殆ど問題としてゐな
かつた。既に Hiéronyme Fracastor は水銀の吸入及び塗擦を黴毒に対し推奨
せる時は、この治療的考を持つてゐた : 彼の考では、皮膚から除去される
水銀は、毛孔を通過する際に、その当時皮膚疾患と考へられた黴毒病原体を
破壊すべきであると。
4世紀遅れて、細菌学時代が到来しても、伝染病を治療するこの方法に認
むべき変化を持ち来さなかつた ; 一層具体的の形状を取れる病原菌より他の
考はなかつた。見つ猶太教の道士と外科医とは最も確実に細菌を殺し易い物
質の捜索に相対峙した。
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(1) Bruxelles の医学会に於てなせる講演(1927年, 1月, 25日)
免 疫 と Antivirus 237
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Metchnikoff による喰菌作用の発見は伝染病に対する争闘を他の方向に変
向させる結果となった。その研究に際し生体自身の中には Virus に対し殺
菌作用を営み得る装置が先天的に存在することを知った。
人の知る如く、極めて劃然と喰菌細胞の領域と液体領域との間に境界を
定めたのは Bordet である。
更に吾人に極めて近接せる所に、自然免疫の機転を説明するために、液体
の殺菌作用を主張せる時代がある。
Behring は鼠の脾脱疽に対する免疫は脾脱疽菌に対する血清の溶菌的作用
に負ふものとは信じなかった ; 氏は之がすべての免疫の覆蓋の鍵であると主
張しなかつたか?
今日では、Behring の此の考は歴史に属する。大多数の場合に、自然免疫
は喰嚍作用より起ることを知る。
後天性免疫の場合には、確に、喰菌細胞に実際上の関係があることは否定
し得ない、然しその意義は自然免疫の場合に於けるよりも更にうすい。現今
最も多くの味方を有する教義によれば、第一位に立つものは液体の力である;
“後天性免疫は血液中に発顕せる本来特異性抗体の発生より本質的に生ずる
結果である,, (Bordet)
溶菌作用は今日では、Bordet 以来、二つの物質の共働作用に帰せられて
ゐる : 一方では特異補体結合物質及び他方では非特異性の alexine (攻撃
素)である。”alexine は云はば正常動物が既に有する一種の武器を表はすが
然し、このものは之がある補体結合物質と共存する場合には更に作用顕著と
なるので、それ以後は、Vaccin 注射による抗体のお蔭で、それに対して動
物が免疫された菌を特異的に目的とするのである,, (Bordet)。
* \t* *
今日一般に承認せらるる二元物質の学説は、人の知る如く、溶血素に関す
る Bordet の記念すべき研究に端を発し ; 之より、本学説は抗細菌免疫の領
域に移植された。創案者が吾人に語る所によれば”溶血性血清は、その組成
に於てその作用方法に於て、抗「コレラ」血清に極めてよく一致する,,。其の
238 免 疫 と Antivirus
――――――――――――――――――――――――――――――――――
他氏の云ふ所は”生体は異種動物より来る細胞に対し、全く細菌に対する如
く振舞ふ ; 即ちかかる細胞の注射は細菌に対応し同じ様に作用する抗体に実
によく一致する、特異抗体の発顕を促す,,。それ故 Bordet は結論して曰く
“同じ機転により生体は或は細菌に対し、或は非伝染性異種細胞、赤血球に
対し免疫される,,。
此の結論は厳密に実験さるべきものである。生体は伝染性細胞又は赤血球
の存在するに従ひ、全々同様に振舞ふものであるか?赤血球はその増殖せざ
る点、毒素を分泌せざる点に於て細菌と異らずと云へるか? それ故赤血球
は生体内に於て細菌と同様なる変化を生ずとは余り事実らしくない。
異種細胞を注射された動物は不快になることは、事実である ; 然しよい差
引勘定で之を除去するに至つた。例へば「コレラ」弧菌を接種せる動物に就て
は之は同一でない ; 該動物は之によつてまさに死なんとする苦しみを受け
る。生き残る時は、予防された状態になる。
二つの場合に於て生体が作用する要素の見地よりすれば、人の知らねばな
らぬ一つの相異がある。
赤血球及び細菌に共通なる点はその構成をなす蛋白質の性状である、之に
対して生体は作用して溶解性又は凝集性抗体を発生する。
若し細菌に対する免疫が赤血球に就て証明せる免疫を全々模写したもの
らば、即ち若し免疫が二種の物質補体結合物質 (Sensibilisatrice) と攻撃素
(Alexine) に支配されるとせば、当該抗体を有せざる抗細菌免疫は認められ
ない筈である。然るに、補体結合物質と免疫とが足並揃へて進行せざる場合
が極めて屡々ある。亦吾人は一般に溶血素及び細胞溶解素の形成を極めて明
瞭に説明せる両物質学説は、卒直に簡単に抗伝染性免疫の領域に移植しては
ならぬことを信ずる。
脾脱疽菌、連鎖状球菌、葡萄状球菌及び更に他の細菌についての研究は、
吾人に細胞溶解性血清に特徴なる現象の範囲内に入れしむること不可能なる
事実を明にした。吾人は屡々いづれの時にも既知抗体を発現するを見ること
なく、局所及び全身の鞏固なる免疫を実現し得た。
免 疫 と Antivirus 239
――――――――――――――――――――――――――――――――――
それ故吾人をして敢て結論せしめることは之等の抗体は必要欠くべからざ
るものではなく而して他の免疫の原因を探さなければならぬものであると。
簡単に綜括せんとする研究に次いで、吾人は感染に対する争闘に於て、菌に
直接作用することを探ぬるよりも更に容易に生体を強くせんと試みてその目
的を達せざるや、質問するに至つた。
ここに吾人の出発点が如何なるものかを述べやう。脾脱疽菌は如何に危害
の大なるものかを知る : 唯一個の脾脱疽菌は「マウス」、海猽及び家兎さへも
殺すに充分である。剖検するに、多数の桿菌が血液及び他の臓器に増殖するを
見て吃驚する。なほ亦常に人は脾脱疽病を敗血症の典型的なるものと考へた。
厳密にこの病気を研究するに、脾脱疽に対する実験室内動物の結合性は同
様にすべての臓器に顕はれる代りに、厳格に皮膚粘膜の包被内に限局してゐ
る。
吾人は一定の実験条件に於ては、海猽は如何なる組織に於ても、悪結果を
生ずることなく一度に10倍、100倍、1000倍の量に堪へ得ることを見た、之が
ために“皮膚が Virus の接触するに至らない様に接種を行ふよりほかには
なかつた。脾脱疽菌は極めて危害大なる如く見えるのは接種を行ふ時はいつ
でも、皮膚を通過し、疑もなく、その度に皮膚感染を起すからである。
若し、脾脱疽に於て、皮膚が感受性の器官であれば、全く論理的に云へば
予防接種を行ふべき所は皮膚である。実際に於て、予防接種の見地から、皮
膚経路を借りて、吾人は海猽に於て皮膚免疫を実現した、この免疫は単に第
1回及び第2回 Vaccin に非感受性となるのみならず、更に Virus 自身に
対しても非感受性となる。
それ以後、海猽に膜腔内、肋膜内、腎臓内、脳内に殆ど無制限量の Virus
を注射し得た、動物は少しも反応しないか軽度に反応するに過ぎなかつた。
かく皮膚接種によつて得られた脾脱疽免疫は血清中にある二つの物質の存
在に基くのであるか?
先づ第一に他のすべてを排除せる皮膚経路のみが実験室内動物に於てこの
免疫を得せしめるのであるから、二つの物質の存在は最早や事実らしくない。
240 免 疫 と Antivirus
――――――――――――――――――――――――――――――――――
直接実験が猶予することなく証明せることは、皮膚免疫による海猽に於て
は、鞏固なる抗脾脱疽免疫が存在するが、血液中には抗体の痕跡も存在しな
い。
* * *
仮令、今日では既にその試験が実行に移された皮膚接種の幸福なる結果を
何人も最早抗議はしないが、その機転は今なほ議論の的である。Bordet に
よれば,,皮膚接種は極めて有效なる予防接種の手段を表はす,,何となれば氏
は曰く,, 脾脱疽菌は腹腔内よりも皮内に於て更によく繁殖する。更に、氏は
附加して曰く、皮膚はそれが他のものと同様に処することなくして免疫性を
得ることは承認せず,,。
吾人の畏友の免疫物質に於ける権威は、この意見が生まし得た誤解を解く
べき義務を生じた。
若し吾人が Bordet の考を充分に了解すれば、皮膚免疫をなせる海猽の免
疫は局所的ではなく、全身的である、何となれば単に皮膚のみならずすべて
の臓器は同時に免疫を得るからである。吾人に想ひ起さしめることは臓器の
免疫は、Bordet は暗示してゐるが、後天性免疫ではなく、自然免疫である
と、該免疫は皮膚接種に次ぐのではない、之は前から在するのですべての正
常海猽に於て不侵害地帯を形成する。
第2の意見は、ちよつと見ると、いかにも道理らしく見える。’’弱毒にせ
る脾脱疽菌は之を海猽の腹腔内に少量を注入するに、そこで発育することは
ない ; 之が、皮膚又は皮内に於て更によく成功するのである,,。之が、Bor-
det によれば、経膚的予防接種が他のいづれの経路よりもよりよき成功を与
ふる理由である。
若し之が皮膚接種の成功せる真実なる理由とせば、之は単に生菌を以ての
み成功すべきである。然るに、実験の示す所では同様なる成績は無菌的なる
浮腫の液を以てしても得られる。この液――真実の脾脱疽菌 Antivirus であ
る――皮内に接種すると之を皮下に注射する時よりも更に鞏固にして更に持
続する免疫を賦与する。
免 疫 と Antivirus 241
――――――――――――――――――――――――――――――――――
なほ又之は葡萄状球菌又は連鎖状球菌に対する皮膚予防接種の場合と全々
同一である : 即ち当該 Antivirus は後に述ぶる如く皮内に球菌数の発育及
び繁殖状態を起すことなく免疫を賦与するのである。
脾脱疽に関する問題を終るに当り、受働性免疫の問題につき数言述ぶるこ
とが残つてゐる。既知抗細菌性血清中、抗脾脱疽菌血清は実用上に最も屡々
満足を与ふる所のものである。之は抗体の含量が原因であるか? 之は恐ら
くさうでない、ここにその理由を述べやう。
吾人をして Ascoli の実験を回顧せしめよ、氏は抗脾脱疽血清を脾脱疽菌
と接触せしめ、かくして血清より抗体を奪つた後に、この血清は操作後も以
前と同じく同様に活働的であることを確めた。
故に抗脾脱疽血清にその特異的能力を与へるのは抗体ではない、更に亦そ
の活働的免疫の発生を支配するのは抗体でない。
*\t * *
葡萄状球菌と連鎖状球菌は脾脱疽菌感染に関係する皮膚に対して親和性あ
るのが特長である。
葡萄状球菌及び連鎖状球菌は充分普通抗原たり得る、而してこの考へ方は
広く認められる。
抗葡萄状球菌血清は殆ど血清療法の武器の一地位を占める資格はない。然
し人間に於て Vaccin 療法はあまり成功を納めない所の Wright の仕事以来
何人も無知ではなかつた : 抗葡萄状菌免疫はそれ故否定さるべきではない
然るに、此の免疫を与ふる所の血清中には所謂保証物即ち抗体を決して見な
いのである。
実験室内動物に於て、全く人間に於けると同じく、抗葡萄状球菌又は抗連
鎖状菌免疫を造ることが出来る。然し、主要なることは、このためには抗体
の発生を目的とする通常の方法を断念しなければならぬ。皮下経路又は腹腔
内による海猽の予防接種は香しからぬ結果又は全く零の結果を与へるのに、
抗体の形成最小とせらるる皮内「ワクチン」接種法は実際上鞏固なる免疫性を
賦与するのである。更に興味ある事実は、Vaccin が単に剃毛又は脱毛せる
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皮膚に適用される時、この免疫は特に高まる。この最後の場合には、免疫は
固より血清中に発見し得ざる抗体の作用でないことは明らかである。
葡萄状球菌又は連鎖状球菌 Vaccins を皮膚面に適用する時、作用するもの
は、固形体なる以上勿論細菌体自身でなくして、特にその溶解性誘導物であ
る。その他、直接方法により之を確めることが出来る。海猽は葡萄状球菌又
は連鎖状球菌によつて生ぜる皮膚病竈に対し、陳旧培養を濾過器にて濾過
し、湿布繃帯の形で用ふる方法により免疫される。
之等濾液の活働的起因は、人の知る如く、Antivirus の名を受けた。之等
の Antivirus は無毒性にして特異的である。その誘導されたる球菌自身の親
和力なるその親和力のために、Antivirns は摂受細胞に吸着される、即、著
しく、皮膚粘膜の包被に吸着され易い。Antivirus で浸されると、之等の細
胞はその自然免疫性を増加する様に見える、即ち之に次いで感染が起る時に
彼等は恰も彼等が雑菌に対する如くに作用するのである。感受性の細胞は非
感受性となる : 彼等は免疫されたり、と吾人は云ふのである。
この主なる作用の他に、Antivirus は余り主要ではないが、然し看過し得
ない他の作用を表はす、之は即ち感染部位に於ける Virus の繁殖を麻痺せ
しむる作用である。
Antivirus のこの二つの作用は内科に外科に多くの適用を見るに至つた。
特異繃帯又は Antivirus を基礎とする洗滌は現今極めて種々なる疾病に使用
されてゐる。本問題に関しては第Ⅸ章及び第Ⅹ章を参照ありたし。
*\t * *
今もし吾人が腸壁に対し選択的親和力を有する Virus につき述べるなら
ば、吾人は同じ法則を見出すであらう : 即ち最適の免疫は感受性器官の予
防接種より結果する免疫である。赤痢に於て、「コレラ」に於て、「チフス」感
染に於て、免疫を造るのは腸管内免疫である ; 此の免疫は抗体の発顕とは無
関係に成立する。
実験室内動物に就ての実験は容易に経口的に赤痢に対し予防接種せしめ
る。赤痢予防「ワクチン」を最初に摂取するや間もなく、細菌体内に含まるる
免 疫 と Antivirus 243
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菌体内毒素のために、粗造赤痢を思はせる、特異的潰瘍を腸の部位に生ずる
且つ表在性の之等の潰瘍のために、Vaccin の一部は腸を過り血流中に侵入
しそこで抗体殊に凝集素を発生す。第1回 Vaccin 嚥下後間もなく、Vaccin
により生ぜる裂傷が瘢痕形成をなす。この時以後は、腸壁は菌体内毒素に対
し非感受性となる : 即ち腸壁は赤痢抗原に対し超ゆべからざる柵を提供す
る ; 且つ抗体はも早や形成されなくなる。血液中に既に存在するものに関し
ては、之等は少しづづ除去されて消失する。それ故このことは Vaccin の第
2回摂取に次いで起り、そして第3回目についで更に強くなる、即ち免疫は
極めて高度なるに、抗体は血液中に認められない。この抗体の消失は鞏固な
る免疫の発生と一致するので、吾人は抗赤痢免疫は、全体でないにせよ、少
くとも大部分は腸壁の部位で得られるものと考へてよい ; 換言すれば、局所
免疫に関係する。
*\t * *
「チフス」及び「コレラ」感染に対する経口的予防接種は、吾人が既に他の所
で述べた様に、困難を提供しないわけではなかつた。
赤痢の場合には、Vaccin 内に含有される菌体内毒素が腸壁の表面をおふ
粘液を駆逐し予防接種すべき細胞に菌の近接するを妨げる作用をする。「チ
フス」又は「コレラ」の感染の場合に於ては、それは同一でない : 「チフス」予
防 Vaccin も「コレラ」予防 Vaccin も、動物に於ては、少くとも、腸に於け
る剥離性能力を持つてゐない。それ故之等の Vaccins に対してはその固有
の手段で摂受細胞に至る経路を通ずることは不可能である。亦、per os に投
与されると、之等の Vaccins は腸壁に添うて滑べり降り感受性細胞に擦過傷
を造ることなく排泄されてしまふのである。
それ故該 Vaccins は有用なる作用を、それ自身及ぼすことは不明である。
之に反し、家兎に於ける実験は、もし胆汁を以て腸を処置することにより
上皮層を剥離するならば、困難なく経口的に免疫を得るに至ることを吾人に
示した。空腹時に胆汁を嚥下せしめ、次にしばらくして、「チフス=パラチ
フス」 Vaccin 又は「コレラ」 Vaccin を嚥下せしめた家兎又は海猽の如き動
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物は之に次いで当該 Virus の致死量に抵抗し得るに至る ; 同じ条件である
が胆汁を加へずに予防接種された対照動物は同じ試験に於て変はることなく
斃死した。
人間に於ては、赤痢、「コレラ」及び「チフス」に対する経口的予防接種は既
に広範囲に実施された。数十万の人間が流行の際に、欧羅巴並に東洋に於て
保護された。今日ではこの予防接種の方法は全く無害であり、今日まで記載
された結果は皮下注射による予防接種が与ふる結果に少しも劣らぬことを肯
定することが出来る。
抗「チフス」又は抗「コレラ」免疫の機転に関しては、赤痢の場合に於けると
同一である : 之等の免疫は全く腸の部で完成される。腸の内部で遊離する
「チフス」又は「コレラ」 Antivirus は腸壁に吸着される ; 之等は腸壁を非感受
性となし、かくして之を無害になす。腸――感受性器官――のこの免疫は全
生体の免疫と混同される。この免疫は抗体の協力なくして成立する。
之は全々 probabilité によれば人間に於ては同一である ; 人間に於ては、
何等の平衡も血清中の抗体と免疫度との間には存在しない。「コレラ」感染を
受けた人は屡々その血清は抗体に乏しい、之は「コレラ」の新感染に対し抵抗
することを妨げない ; 之は人工的に免疫されその血液は抗体で満ちてゐる人
に於けるよりも更によく抵抗する。
同じ様な現象は「チフス」の場合に見られる。皮下経路による予防接種は多
量の抗体の産生を来す ; 然し、かくして人工的免疫は「チフス」の真の罹患に
よつて起る免疫と比較すべくもない、この場合久しき以前より抗体の全痕跡
は血液より消失してゐても、この免疫は数年間に亙つて持続する。
*\t * *
吾人が記載せる所のものに類似せる現象は、「リチン」の投与により免疫せ
る人につき、Columbia 大学の Lee Hazen によつて最近観察された。
ricine は腸に対し「チフス」、赤痢又は「コレラ」弧菌の親和力に比較すべき
選択的親和力を有する ; ricine は亦皮膚に対し遥に軽度ではあるが、葡萄状
又は連鎖状球菌のそれを思はしめる親和力を有する。
免 疫 と Antivirus 245
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然る所、ricine のこの二重感受性――腸及び皮膚に対する――は必然的結
果として二重の局所免疫――真の腸管及び皮膚免疫――を起した。
直腸の経路より家兎を免疫し、次いで種々の経路――皮膚、静脈及び直腸
より試験せるに、著者は ricine の致死量を注射する時は、経直腸的に試験
された動物のみが生存するを確めた。
他方に於ては、毒素抗毒素の混合を以て、経膚的(皮内)に家兎を免疫する
に、著者は混合を注射せる部位に厳格に限局して、免疫が成立するのを確め
た。皮膚免疫された皮膚の断片並に腸免疫せる動物の血清中に抗体を捜索す
るに、著者は少しも抗体の痕跡を発見し得なかつた。
抗 ricine 免疫は抗体を発生することなく、鞏固なる局所免疫の可能なるた
めに、否定し得ざる新しき弁証を吾人に提供する。
*\t * *
結核に於ける免疫の機転は今日尚神秘的に残されてゐる。然し予知し始め
たことは次の点である : 免疫を完成するのは多分固定せる細胞部位にある、
抗体はそこでは全く異物の如く見える。結核病竈の治癒機転の問題について
Bordet 自身は述べてゐる”治癒機転と一定せる抗体の発現との間に極めて
正確なる関係を成立させることに成功しなかつた,,と。吾人は Bordet-Gen-
gou の抗体を、速かに死の終局に向はんとしてゐる極めて進行せる結核患者
の血液中に、証明することは稀でない。
同じ様な考で、結核菌体を注射せる人に於ては、抗体は多量に発顕するが
そのものには免疫の片鱗さへもないことを想起せしめる。
之を要するに、免疫を得ることなく抗体を多量に供給され得る、而して反
対に : 抗体が乏しいか又は全々之を所有しないで――過去に罹患せる「チ
フス」又は「コレラ」の場合がそれである――而も少しも劣らず鞏固なる免疫
を営み得るのである。
*\t * *
この説明を長くせざるために、不可視性 Virus による二つの疾患、痘瘡と
狂犬病に於ける免疫について知る所を簡単に述べやう。
246 免 疫 と Antivirus
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,,最近種痘され又は痘瘡より治癒せる人の血清・・・・・・狂犬病に対して免疫さ
れた生体の血清は、in vitro で天然痘又は狂犬病の Virus を中和する・・・・・・
之等の血清の予防的価値を試験して、血清が抗体を含有することを容易に証
明する,,(Brodet)。
天然痘又は狂犬病の Virus が抗体を発生し得ることは確実である ; 之等
抗体が免疫の機構に与ることは、余り多くはない。
抗天然痘血清は決して天然痘患者を治癒せることもなく防禦せることもな
い。別々に注射された抗天然痘血清は天然痘の発疹を防禦することは出来な
い; この血清は天然痘 Virusと密接に混合される時の他はこの Virus を中
和しない。乱切せる皮膚に淋巴を受けたる人に於ては、確に、血液中に滅殺
素(Anticorps virulicides) を見出す、然し之等の抗体と免疫度との間には、
「コレラ」に対し又は「チフス」及び夫々の Virus に対し予防接種された人に平
衡が存在せざると同じく、殆ど平衡はないものである。
*\t * *
狂犬病に於ては、天然痘に於ける如く、抗体は、少しも、免疫体形成に活
動的要素を取らぬものの如くに見える。
狂犬病毒滅殺性血清は、痘苗に於ける Virus 滅殺性血清と全く同じく、
狂犬病毒と混合される時の他は活動的なるを示さない。予防の意味で、それ
のみを注射するも、この血清は狂犬病症状の発生に対し防禦し得ない。その
治療效果に関しては、同様に零である : 抗狂犬病抗体は既に感染が起つた
場合には免疫を賦与することは出来ない。
活働性免疫は、全々真実らしい所によれば、抗体は何も関係せざる如き機
転によつて得られる。既に最初にすべては、パストウール氏法による狂犬病
に対する免疫も局所免疫の原理によることを想像せしめる。最初露西亜の
Georges により、南亜米利加の Biglieri et Villagas により、極めて最近に、
仏蘭西の Remlinger et Bailly によつてなされた近来の研究は、実際に此の
状態を見ることを確証した。後出の著者は、剃毛せる皮膚の上に乾燥又は
「エーテル」にて処置せる狂犬病毒乳剤を以て、塗擦をすることにより、経膚
免 疫 と Antivirus 247
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的に海猽を予防接種することに成功した。次いで、街上毒を剃毛せる皮膚に
刷毛を以て塗布し試験するに、皮膚免疫せる之等の海猽は大多数生存したが、
対照は狂犬病の独特なる症状を起して斃死した。
それ故、抗狂犬病免疫を得るためには、局所的皮内免疫を以て充分であ
る。序ながら注意することは、この免疫は通常方法、即ち抗体形成に取り最
も好んで使用する経路なる皮下経路によつて得られたる免疫より更に鞏固で
あるらしい。
*\t * *
Blacklock et Thompson は Cordylobia anthropophaga なる蚊の幼虫に就
いて、極めて奇妙なる免疫の事実を記載した。之等の幼虫は人間及び動物の
皮膚内に侵入しそこに10日位滞在する。そこで発育する間、之等の幼虫は
「フルンケル」を思はせる様な病竈を造る ; かかる感染を受けた人は、その後
は新攻撃に対し犯されない様になる。
極めて最近、Blacklock et Gordon は之等の研究を復試した。かくして得
た免疫の性状を知らんと欲して、氏等は甚だ重要なる確証に導かるるに至つ
た。氏等は Cordylobia の幼虫を海猽の皮膚の上に置き、次ぎに氏等は6日
間その発育を追及した。実験は既に以前幼虫をかくまつた海猽の皮膚に置か
れた幼虫は新しい海猽に置けるよりも遥に発育率は少いことを示した。即ち
一つの実験に於て新しい海猽の皮膚の上に宿所を取れる501幼虫のうち、30
はその発育の最後に達した、然るに既に前以て試験せる部位に置かれた50の
幼虫のうち、唯の一匹も発育しなかつた。
著者は皮膚の最初の罹患せる部位に限られた当該免疫は一定数の場合には
この部位より外に拡がり得ることを確めることが出来た。
氏等の研究の始めに当り、 Blacklock et Gordon は氏等は全身免疫を造り
得たと認定した ; 氏等は、次いで、意見を変向し局所免疫と結論せねばなら
なくなつた。
不感受性になれる動物の血清は抗体を含有しない。この血清は幼虫に対し
少しも殺菌性作用(?)を営まない ; 血清は新しい動物に受働性免疫を賦与す
248 免 疫 と Antivirus
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ることも出来ない。
幼虫の乳剤を皮下又は腹腔内に注射するも免疫を形成しない ; 之に反し、
この乳剤を皮膚上に適用すれば免疫性を賦与することが出来る。
興味あることは、幼虫が皮膚免疫を行へる皮膚の部位に侵入する時は幼虫
は通常40時間以内で消失する、即ちこの時は幼虫は尚皮膚の水平面にあり、
従つて、血管網より遠く離れてゐる。
非感受性になれる動物より切除せる皮膚の一片を、直ぐに新しい動物に移
植するに、その免疫性を保存する、此の免疫は次いで隣接する部位の皮膚に
拡がる。逆に新しい動物より切除し次いで予防接種せる動物に移植せる皮膚
の一片は免疫を得易くなる。
非感受性になれる動物に於て、幼虫の皮膚に侵入することは、免疫せる部
位に於て、烈しき皮膚反応を伴ふ ; この皮膚反応は新動物の皮膚の部位には
欠如す。
英国の著者が、吾人が細菌につき記載せる、抗体なき免疫に全々比すべき、
局所免疫の存在することを結論せることに対しては最早や附加する必要はな
い。之は今日多細胞性原虫について知らるる局所免疫の最初の例である。
* * *
吾人は伝染病の最も代表的なるものを列挙した。吾人は如何に抗体は免疫
の均衡を保つこと少きかを見た。之は吾人をして容易に目録を引延ばし他の
疾病をも云ひ易からしめた : 「ペスト」、黴毒、肺炎、脳脊髄膜炎、原虫に
よる疾患及び更に同一例に属する他の疾患。「ヂフテリア」、破傷風、及び「ボ
トリスムス」を除いては――Virus に対する抗体の作用が免疫の主なる原因
となる如き疾病は少いと云つても殆ど差支へあるまい。
今まで述べた感染の大部分に於て、免疫の原因は血液内の抗体の存在より
も摂受細胞の部位にある Antivirus の存在に一層顕著に関係する様に見える。
之を要するに、Antivirusthérapie――予防的又は治療的――は抗体なき局
所免疫の原理に基くもので、今日実施せる如き血清療法は Vaccin 療法の
作用を免るる、多数の病的経過に於て顕著なる地位を占める。
免 疫 と Autivirus 249
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Mèmoires【ママ】 Cités
J, Bordet, Immunité, Traité de Physiologie normale et pathologique, publié sous la
direction de H, Roger et Binet, 1927, Masson et C,
Lee Hazen, Jonrn, of, Immunol,, t, XIII, mars 1927, p, 171,
de Georges, C, R, Soc, Biologie, t, XCV, 1926, p, 1096,
Biglieri et Villagas, C, R, Soc, Biologie, t, XCV, 1926, p, 1176,
Remlinger et Bailly, C, R, Biologie, t, XCVI, 1927, p, 826,
Blacklock et Gordon, Lancet, 30 avril 1927, p, 923,
【Jules Bordet:一八七〇年六月十三日於ベルギー・スワニー生、一九六一年四月六日於ベルギー・ブリュクセル没。一九一九年、ノーベル生理・医学賞受賞。(Wikipédia)】
【奥書】
昭和八年八月十日 第一版印刷
昭和八年八月十五日 第一版発行
伝染病に於ける免
疫に関する研究
正価 金三円
訳者兼
発行者 井上善十郎
札 幌 市 南 七 条 西 十 六 丁 目
印刷者 加 藤 晴 吉
東京市本郷区湯島切通坂町五十一番地
印刷所 《割書:合資|会社》正文舎第一工場
東京市本郷区湯島切通坂町五十一番地
売 捌 所
南 江 堂 書 店 南 江 堂 京 都 支 店
東京市本郷区春木町三丁目 京都市中京区寺町通御池南
電・小・三五一〇・三九六九 電話 上 二〇三 〇
振 替 東 京 一 四 九 振 替 大坂 一一五〇五
【原著出版 Impr, Barnéoud, 1928】
【定期預金記入票あり】
【裏表紙・ラベルあり】
【帙書題箋】泰西疫論
【帙背書題箋】泰西疫論 二冊
【帙書題箋】泰西疫論
泰西疫論 《割書:前|編》 《割書:神経疫部|》 乾
【枠外上部横書】文政甲申鏤行
新宮涼庭訳述
泰西疫論
《割書:神経|疫部》 駆豎斎蔵板
泰西疫論序
丁丑之秋与_二新宮涼庭氏。訪_二蘭医 抜(バ)-的(テ)-
乙(ヰ)之客寮_一。抜-的-乙嘗 ̄テ受_二業 ̄ヲ於彼邦大医
布(プ)-歛(レン)-已(キ)_一。其学最 ̄モ精_二 ̄シ於内科_一。此時吾崎嶴
災後。人多 ̄ク病_レ ̄ム疫。闔門駢 ̄ヒ殪 ̄レ。猖獗勢 ̄ヒ極 ̄ル。其
症大-率 ̄ネ似_二 ̄テ温疫傷寒_一。而治療皆無_レ験。罹_二 ̄ル
其患_一者。頭-痛譫-妄或 ̄ハ下利泄-血。変症百
態出_二乎不側_一 ̄ニ。諸医愕眙相 ̄ヒ視。技窮 ̄リ術尽 ̄ク。
竟 ̄ニ不_レ知_三病為_二 ̄ルヿヲ何名_一也。抜-的-乙聴 ̄テ審_二 ̄カニシ其状_一。
拍_レ手曰。是我邦所謂神経熱者也。論究_二 ̄シテ
繊悉_一。与_レ此合符 ̄ス。乃出_二 二冊子_一。授_二 ̄テ涼庭氏_一
曰。是、翼(ヒユツ)-歇(ヘ)-郎(ラン)-突(ド)及 公(コン)-私(ス)-布(プ)-律(リユ)-倔(グ)者 ̄ノ所_レ著。
我邦近世所_二推重_一 ̄スル也。子熟-読翫-味則。於_二 ̄テ
治_レ此之方_一。無_レ有_二遺欠_一矣。涼庭得_レ之手不
_レ釈_レ巻数月。訳 ̄シテ併_二 ̄セ二書_一。芟_レ繁拾_レ約。淘汰精
粋。傍加_レ所_二自験_一。収録編_二 ̄ス疫論_一。余読_レ之三
復。不_二翅 ̄ニ原書義理精 妙_一 ̄ノミ。而 ̄シテ其所_レ訳如_レ受_二
面命_一。閒有_下警_二-起 ̄セシムル人_一者_上。嗚-呼抜-的-乙之恵。
涼庭氏之功。皆可_レ謂_レ有_レ大_二-補于世_一矣。欣
喜之余弁 ̄スルニ以_二 ̄スルヿ鄙辞_一如_レ此。
文政六年癸未春三月
長崎和蘭訳司 吉雄永民撰
附言
○先生嘗 ̄テ訳_二西-洋内-科-書十余篇_一、遂 ̄ニ著_二内-科-則若干巻_一、香
等今就_二其 ̄ノ書_一抄_二-出 ̄シ神-経-疫-篇_一、総_二-括 ̄シテ其綱-要_一作_二此 ̄ノ冊子_一 上
梓公_二于世_一、此篇最 ̄モ係_二翼(ヒユツ)-歇(ヘ)-郎(ラン)-突(ド)。公(コン)-私(ス)-布(プ)-律(リユ)-倔(グ)之所_一_レ ̄ニ著、二
書皆近世所_二鏤-行_一、論最 ̄モ明-確、術極_二 ̄ム精良_一、伹〱原書多記_下軍
陣致_二此患_一之弊_上、文-脈枝-分、事属_二 ̄ス無用_一、故 ̄ニ今略 ̄シテ而不_レ挙、然 ̄レトモ
自_二病-症替-転之目_一、至_二治-療機-変之策_一、一切不_レ用_二臆断_一、皆
以出_二全説_一見者察 ̄セヨ諸、
○原名 写(セー)-紐(ニユー)歌(コー)-爾(ル)-都(ツ)、訳為_二神-経-熱_一、蓋 ̄シ熱之所_レ発係_二於神経_一、
其 ̄ノ病亦伝_二于人_一李-東-垣 ̄カ所-謂 ̄ル労-役感-冒之類是也、原書
故 ̄ト有_二疫名_一今為_二神-経-疫_一者取_二其旧_一也、
○此篇所_レ載之薬方、多出_二原書_一而其 ̄ノ品或不_レ易_レ得_二于我邦、
且 ̄ツ先-輩所_二 ̄ノ仮充_一之薬品 ̄モ亦未_二穏当_一、故 ̄ニ存_二原名_一以 ̄テ俟_二 ̄ツ後之
学者_一、如_三 ̄キハ夫 ̄ノ附_二 ̄スルカ自-験-方_一、意在_レ便_二 ̄ナルニ於使-用_一 ̄ニ、方或 ̄ハ出_二西-医之口
訣_一、皆掲_二自-験二字_一以 ̄テ別_レ之、読者審_レ焉、
○各-章註-解抄_二-出 ̄シ諸-書_一皆用_二俚語_一者、使_三読者 ̄ヲシテ易_二暁解_一、且 ̄ツ恐_二
微-意之遺-漏_一也、況 ̄ヤ香等不_レ嫺_二文辞_一、先生亦非_二操-觚之専
門_一、読者莫_下 ̄レ以_二文之鄙-俚、言之重-複_一而罪_中原書_上、
○余 ̄カ家世〱奉_二職 ̄ヲ于山廟_一、領_二荘-園若干頃_一、窮-民属_二部下_一 ̄ニ者、病
則不_レ得_レ不_二 ̄ヿヲ問 ̄テ而救_一_レ之、是以累-世摂_二医業_一、余亦不_レ可_レ廃_二先
志_一、乃出 ̄テ、就_二都下 ̄ノ諸名家_一、潜-心苦-学其所_レ奉之教、薬方不
_レ出_二汗吐下和之外_一、治-療唯在_下随_二顕症_一而処_上_レ ̄スルニ方、率-然了-悟 ̄シ
取_二 一-斑 ̄ヲ於全-豹_一、乃卜_二-居 ̄シ伏-水_一始 ̄テ得_下取_二所_レ学之法_一而接_中 ̄ヿヲ多-
少患-者_上、始 ̄シテ聞 ̄テ如_レ可_レ悦、漸 ̄ニシテ而思_レ之則其為_二 ̄ヤ囫圇_一也亦甚 ̄シ矣、
何 ̄ナレハ則病之原_二於虚-脱_一者、非_三 ̄レハナリ汗吐下和之所_二能 ̄ク治_一、施治愈〱
博 ̄クシテ、疑-難愈〱多、於_レ是幡-然脱_二其窟_一、更 ̄ニ渉_二-猟 ̄シ唐-宋以-下之医
籍_一、而欲_レ成_二汰-沙択_レ金之功_一、晨-誦夜-読到_レ忘_二飲啖_一、独奈 ̄セン其 ̄ノ
説 ̄ノ牽-強附-会、茫-乎 ̄トシテ如_レ捕_レ影、無_二 一 ̄モ所_一_レ得矣、当_二 ̄テ此 ̄ノ時_一喎-蘭医
説頗 ̄ル藉_二于我邦_一、翻-訳之書不_二 一 ̄ニシテ而足_一、因 ̄テ投_二其社_一、借-観一-
瓻、饞-涎三-尺、染_二 ̄シテ指 ̄ヲ於異-味_一、雖_レ拾_二 ̄ト他-人牙-後之恵_一、纔 ̄ニ不_レ ̄ノミ過
_レ弁_二内-景解-屍之大略_一而巳、傍 ̄ラ見_二 ̄ルニ其徒 ̄ノ所_レ施之治術_一、亦不
_レ異_二庸-医之所_一_レ為楚既 ̄ニ失_レ之斉亦不_レ為_レ得_レ之、学愈〱務 ̄テ拙愈〱
加 ̄ハル、於_レ是初 ̄テ悟 ̄ル不-才如_レ香 ̄カ者無_レ益_二于医術_一、満-腔慚-媿、遂 ̄ニ抛_二
刀-圭_一、帰_二郷里_一折_レ節学_二国典_一、旁 ̄ラ嗜_二点-茶挿-花之伎_一、泊-然終 ̄ントス
_レ身是無_レ他、与_三 ̄ヨリハ其益_二 ̄セン于人_一 ̄ニ寧 ̄ロ無_レ ̄ランニハ害_二于人_一 ̄ニ者乎、居 ̄コト十数年、客
歳豚-児患_レ痘、請_二 ̄テ数医_一治_レ之、皆日稀-痘不_レ足慮、既及_レ引_レ日、
症愈〱加 ̄ハリ、児漸 ̄ク疲 ̄ル、薬-餌皆無_レ験、於_レ是請_一診 ̄ヲ於新宮先生_一、先
生診曰是痘雖_レ不_レ重病元 ̄ト挟_二丹毒_一、初 ̄メ無_レ ̄ヤ発_二赤斑_一乎、余曰
有_レ之、先生曰不_レ清_二可_レ ̄ノ清之熱_一、不_レ放_二可_レ ̄ノ放之血_一、徒 ̄ニ務_二 ̄ム発出_一、
今也周-身 ̄ノ血無_レ所_レ不_二腐敗_一、瘡皆変_二脱疽_一恐 ̄クハ難_二救護_一、言未
_レ畢、悪-候蜂-起、遂 ̄ニ上_二 ̄ル鬼籍_一、状態症-候皆不_レ違_レ所_二 ̄ニ予 ̄メ示_一、其論
可_二 ̄ク感欽_一其事可_二 ̄シ徴証_一、余痛慟之餘、深 ̄ク服_二其卓-識_一、因 ̄テ意 ̄フ良-
手如_二先生_一何病 ̄カ不_レ可_レ察、何症 ̄カ不_レ可_レ救、於_レ是宿-癖復 ̄ヒ動 ̄キ、旧
然立_レ志、舍_レ家得_三 ̄タリ且-暮奉_二其 ̄ノ教_一、惟憾 ̄クハ齢踰_二 四旬_一、記-神大減 ̄シ、
加_レ ̄ルニ之二豎為_レ崇、雖_レ未_三全 ̄ク尽_二其志_一及_レ聴_二其大-略_一、実 ̄ニ有_二発蒙
刮-目之妙_一也、而 ̄シテ其為_レ学 也(ヤ)従_二 人-身生-活之理_一、至_二 ̄マテ薬-石之
性-質_一、拠_レ実審_レ用 ̄ヲ、徴_二之 ̄ヲ疾病_一、施_二之 ̄ヲ治療_一、玄-妙幽-微、瞭-然如
_レ指_二諸 ̄ヲ掌_一、況 ̄ヤ先生之業出_二蘭医之親授_一 ̄ニ、講-究巳 ̄ニ至 ̄レリ、与_二時流
之所_一_レ伝、不_レ可_二同_レ日而論_一也、感服不_二自 ̄ラ勝_一、遂 ̄ニ忘_二謭劣_一、敢 ̄テ吐_二
情実_一、娓-娓 ̄タル贅-言取_二 ̄ハ笑 ̄ヲ於四方_一固 ̄ヨリ所_レ不_レ辞云、
文政甲申秋八月
山城 交部晁采《割書:香|》 謹識
泰西疫論巻之上
目次
神経疫部 総論
第一章 源因
第二章 感受
第三章 流行
第四章 初起見症
第五章 病進_二険路_一
第六章 解後気力難_レ復
第七章 急症
第八章 慢症
第九章 分_二軽重_一為_二 三等_一
第十章 軽症
第十一章 重症
第十二章 死症
第十三章 脈候
第十四章 脈候時変
第十五章 舌候
第十六章 発熱
第十七章 尿候
第十八章 悪候
第十九章 善候
第二十章 治法大要
第二十一章 初起平症治法
第二十二章 溏泄不_レ可_レ忽
第二十三章 重症治法
第二十四章 揮発薬品
第二十五章 調理配剤
第二十六章 阿片気味効能
第二十七章 阿片主治
第二十八章 麝香気味効能
第二十九章 麝香主治
第三十章 竜脳気味効能
第三十一章 竜脳主治
第三十二章 葡萄酒気味効能
第三十三章 葡萄酒主治
第三十四章 遏(アツ)-的(テ)-児(ル)油気味効能
第三十五章 諾(ナ)-布(プ)-多(ター)油気味効能
第三十六章 桂皮気味効能
第三十七章 分量可_レ審
第三十八章 重症転_二薬味_一
第三十九章 重症倍_レ量
第四十章 香竄揮発与_二収歛補益_一有_レ別論
第四十一章 熱皮及収歛剤為_レ害論
泰西疫論巻之上目次畢
泰西疫論巻之上《割書:前|編》
新宮碩涼庭 訳述
山城 交部《割書:香|》晁采
門人 下総 猪野《割書:恭|》允碩 纂訂
周防 中嶋《割書:郁|》玄潭
神経疫部
総論
神経疫之病、邃古邈 ̄タリ焉、中世以来亦未_レ有_二明論_一也、
余遊_二-学四方_一 ̄ニ、視_二 ̄ルニ当-今所-謂疫熱 ̄ナル者_一、病原_二 ̄シ於疲労_一 ̄ニ、症
係_二 ̄ル於意識_一者、十中七八、於_レ是妄 ̄ニ投_二発-汗清-解之剤_一、
輙 ̄チ必 ̄ス誤矣、世業_レ医者、徒 ̄ニ口_二 ̄ニシテ温疫傷寒_一、而不_レ能_三堅 ̄ク持_二
其方論_一、是-以遇_二 ̄テ此症_一而施_二之 ̄カ治_一、大抵非_二 ̄ルトキハ柴胡_一則附
子、或用_二平和無為之薬_一、軽者僥_二-倖於不_一_レ ̄ルニ死、重者束
_レ手而待_レ斃、無_レ他無_二 ̄カ明論_一故也、夫 ̄レ仲-景著_二傷寒論_一、而-
後天下知_レ治_二傷寒_一、又-可著_二温疫論_一、而-後天下知_レ治_二
温疫_一、後之施_レ治 ̄ヲ者不_レ能_レ外_二 ̄スルヿ於二家_一 ̄ニ、而至_二於此症_一、未
_レ能_レ無_二疑惑_一焉、唐宋以降東垣之輩並 ̄ヒ起、立_二労役感
冒内傷外感等之目_一 ̄ヲ、於_二蘭書_一雖_レ説_二神経熱_一、廑廑唯
見_二 一斑_一、而未_レ覩_二其全且 ̄ツ備_一也、我邦方今昇平日久
民慣_二遊惰_一、意-智相 ̄ヒ傾、機-巧競 ̄ヒ与、瞢_二 ̄シ於守内防外之
術_一、是以到_二此病_一者漸 ̄ク多、而為_レ医者不_レ知_二救_レ ̄ノ之之方_一 ̄ヲ、
転〱相 ̄ヒ感染、死者枕籍、嗚-呼此豈明者之所_レ ̄ナランヤ忍_二坐視_一
也哉、余雖_二不敏_一、為_レ之 ̄カ殫_二-竭心力_一、挙_四西医所_レ伝之精
論 ̄ト与_三 ̄ヲ平日所_二自験_一、以公_二之 ̄ヲ世_一、庶幾 ̄クハ其 ̄レ可_レ救矣、夫傷
寒 ̄ハ為_二風寒_一 ̄ノ所_レ傷、温疫 ̄ハ感_二 ̄ス天地之厲気_一 ̄ニ、漢人固 ̄ヨリ有_二定
論_一、如_二 ̄キハ此疫_一則不_レ然、蓋 ̄シ其人本 ̄ト思慮損_レ神、労動傷_レ筋、
飢飽害_二腸胃_一、精神因 ̄テ以 ̄テ疲困、血液因 ̄テ以 ̄テ虧乏、運行
為_レ ̄メニ之阻閼 ̄シ、敗壊随 ̄テ生、邪毒以成 ̄ル、成 ̄ハ則著_二 ̄ク於神経_一 ̄ニ矣、
是 ̄レ所_三-以 ̄ニシテ得_二其名_一而其所_二由 ̄テ発_一与_二温疫傷寒_一自 ̄ラ有_二氷
炭之別_一、是 ̄ノ故 ̄ニ罹_二 ̄ル此患_一者、当_二 ̄テ其邪熱未_一_レ発、大率 ̄ネ皆患_二 ̄フ
頭痛眩暈懊鬱倦惰不寐不食等症_一、与_二彼 ̄ノ外邪猝 ̄カニ
乗 ̄シ倏-然悪寒発熱 ̄スル者_一自 ̄ラ相迥別、医家臨_二此際、苟 ̄モ知_三 ̄テ
其為_二神経疫_一、而処_二 ̄トキハ之 ̄カ方法_一則 雖_二危症_一猶或 ̄ハ可_二以済_一
矣、唯恐 ̄ル吾党医学未_レ布、方書未_レ具則雖_三昭 ̄カニ掲_二其方
論_一乎、観 ̄ル者不_三 ̄トキハ以 ̄テ為_二怪異_一則以 ̄テ為_二 ̄ス妄誕_一 ̄ト或以-為逖 ̄タル矣
泰西之説、何 ̄ソ足_二深 ̄ク信_一 ̄スルニ、是 ̄レ皆因_二 ̄テ用心之未_レ切更事之
未_一_レ ̄ルニ多而然 ̄ル也、読_二此書_一者丁寧反復徴_二 ̄シ諸 ̄ヲ実事_一 ̄ニ備 ̄ニ嘗_二
艱苦_一則、其説之非_二 ̄シテ怪異妄誕_一、而可_レ ̄キヿ信如_二蓍亀_一、不_レ待
_レ弁而可_レ知也、
第一章 源因
此疫之為_レ因、其人煩慮損_レ神、労動困_レ ̄メ身、或飲食不調、
或不寐、或過房、或群居受_二其敗気_一 ̄ヲ、気血失_レ常、神経不
_レ旧、所_二由 ̄テ而生_一 ̄スル也、又有_下他病波_二-及 ̄シテ神経_一 ̄ニ而致_レ此者_上、病巳 ̄ニ
成 ̄トキハ則又能伝_二於人_一 ̄ニ、行旅冒_二 ̄シ風水_一、災変失_二 ̄スルノ常居_一 ̄ヲ之間、此
患必多 ̄シ、其源莫_下不_レ出_二于茲_一 ̄ニ者_上、
凡ソ悲憂驚駭スルヿアレバ、神経牽攣シテ運営宜キ
ヲ失ヒ、身体ヲ労スルヿアレバ、筋骨運転ノ機ヲ損
ヒ、飲食宜キヲ得ザレバ、胃化自ラ衰ヘテ血液給セ
ズ、不寐スルヿアレバ、血頭-脳ニ升リ、過房スレバ、精
液亡失スル等ノ弊アルヲ以テ、究-竟 ̄ニ此患ヲ発セザ
ルヿ能ハズ○又衆人群居スルトキハ、気中ノ活精【左ルビ「シユールストフ」】《割書:出_二|于》
《割書:以(イ)-莂(ペ)-伊(ヰ)|分離書_一 ̄ニ》ナル者、衆人ノ吸気ニ入テ消耗ス、故ニ其気
ヲ呼吸スルノ徒、其血皆活精ヲ失ヒ、頭-痛倦-惰懊-鬱
ヲ覚ユルニ至ル、是ヲ以テ西書ニ此疫ハ軍陣洋舶
ノ如キ、衆人群居シテ神身ヲ損傷シ、不調ノ飲食ス
ル間ニ流行シ易シト謂ヘリ○碩按スルニ戯-場角
觗-場ニ集ルノ人、病ムニ至ラズト雖モ往-往疲-倦頭
痛ヲ覚ユルヲ以テ其事得テ徴スベシ、又三国志ニ
操 ̄カ軍衆巳 ̄ニ有_二疾疫トハ、是水土ニ習ハズシテ衆人群居
スルノ致ス所ナリ、
第二章 感受
邪 ̄ノ之従_レ外伝 ̄フ、無_レ論_二男女強弱_一、触_レ ̄レハ之 ̄ニ即 ̄チ病 ̄ム、就_レ ̄ク中年少多
血、或 ̄ハ天資簿脆、感-触之人《割書:訳者曰猶_二|畏漆之人_一 ̄ノ》最為_レ易_レ感、且 ̄ツ其
症多 ̄クハ危険、比_二 ̄スレハ諸 ̄ヲ老者_一 ̄ニ不_レ同也、又従_レ内発者、其人虚損
運化不_レ全、神経牽蹙、蒸気壅閉、閉蹙巳 ̄ニ極 ̄テ而不_レ能_二通
暢_一 ̄スルヿ、旺火涌_レ血、邪熱以 ̄テ成 ̄ル、此内外 ̄ノ之別也、
邪毒ハ本ト人身ニ醸シナシテ、其性揮-発風-化《割書:揮発|風化》
《割書:出_二于 翼(ヒユツ)-|歇(ヘ)-郎(ラン)-突(ド)_一》スルガユヘニ能ク気中ニ泳游ス、故ニ呼吸
腠理ヨリ感ズ、感ズレバ必ズ神経ニ牴触ス、其事会
スベクシテ見ルベカラズ、何 ̄ン トナレバ此 ̄ノ熱ニテ死
シタル屍ヲ解剖シテモ神経ニ変アルヿハ未ダ視
ルヿ能ハズ《割書:解屍論見_二 ̄タリ于|公(コン)-私(ス)-布(プ)-律(リユ)-倔(グ)_一》○又少年ノ人感シ易キ者
ハ、神経ノ知-覚敏-捷ニシテ、血液充満スルヲ以テ、少
シク触ルヽヿアレバ、神経衝-動血液奔-流シ、火気随
テ集リ以テ熱ヲ発スルニ至ル、老人ハ知覚頑-鈍ナ
ルヲ以テ之ト相反ス、乃チ公(コン)-私(ス)-布(プ)-律(リユ)-倔(グ)ニ所謂ル諸
般ノ神経ヲ困メテ知覚ヲシテ敏ナラシムル事件ハ
悉ク此 ̄ノ疫ノ因タリト、一言ニシテ尽セリト謂ツベ
シ○或問老-少知-覚鋭-鈍ノ異ナル所以ハ如何、答曰
老人ハ凝体剛-靭、少年ハ柔-軟ナルヲ以テナリ、
第三章 流行
四時皆有_二此疫_一、而 ̄レトモ秋冬之際特 ̄ニ多 ̄シ矣、其症初起多 ̄クハ泄
瀉、伹在_二杪冬立春_一 ̄ニ者不_二必 ̄シモ然_一也、
碩按スルニ世医或ハ暑疫又ハ疫痢ト称シ、其症急
劇ニシテ発病四五日ニシテ斃ル者、立秋ノ頃オヒ
ニ流行スルコトアリ、其病 間(マヽ)此疫ニ属スル者アリ、
学者参考ノ為メ此ニ贅ス、
第四章 初起見症
初起必先 ̄ツ悪寒 ̄シテ而後発熱脈数目赤 ̄ク口乾 ̄キ四肢疼痛
状 ̄チ類_二 ̄ス冒寒_一 ̄ニ、而神思昏眩、頭痛如_レ割、泄瀉疲倦、勢如_二不
勝_レ邪者_一 ̄ノ、是凶邪内伏、経_レ日将_二大 ̄ニ発_一 ̄セント、其候与_二尋常膚浅
之感冒_一自不_二 一般_一、
或有_二睡中筋愓肉瞤 ̄スル者_一、或有_二噯気悪心 ̄スル者_一、或有_下吐_二粘
沫黄水_一者_上、有_下目中不_二了-了_一者_上、有_二眼光如_レ火者_一、有_下 下利
兼_二腹痛_一者_上、其他変症百出不_レ可_二枚挙_一、
初起八日若 ̄クハ十四日、昼夜純熱、邪伝_二腸襞_一、下利不_レ止、
動 ̄モスレハ入_二険地_一、治法宜_二急 ̄ニ救_一_レ之、否 ̄ラサレハ則腸襞萎弱、溏泄亡_レ液、
或渋閉薀_レ熱、血愈く涸 ̄レ肉愈く削 ̄レ、雖_レ有_二良手_一至_二于不_一_レ ̄ルニ可_レ救
病毒著_二 ̄ク腸襞_一 ̄ニ者十中七八、其著 ̄ヿ一日 ̄ナレハ有_二 一日之害_一、一
時有_二 一時之害_一不_レ可_レ忽 ̄ニ、看過移_レ ̄セハ晷凶不_レ暇_レ措_レ ̄ニ手、
神思昏眩、頭痛如_レ割、眼精失_レ常ノ諸症、邪ノ脳ニ客ス
ルヿ得テ見ツベシ、乃チ察病書ニ載ス諸般ノ熱病、
其眼閃-閃タルハ脳膜焮腫ノ候ニシテ、後遂ニ精神
錯乱ヲ発スト○邪ノ腸襞ニ著 ̄ク者ハ此熱ノ通弊ニ
シテ、医ノ最モ注心スベキ要ナリ、溏泄秘閉俱ニ此症
ニ属ス○或問溏秘ノ異アル者ハ何ソ、答曰腸襞麻
痺スレバ秘閉シ、萎薾スレバ溏泄ス、
第五章 病進_二険路_一 ̄ニ
病勢進_二危険_一者、泄瀉頻数雑_二 ̄ヘ-下 ̄シ泡沫_一 ̄ヲ、腰以下触_レ物則
痛 ̄ミ、或気韻如_レ常、或譫妄如_レ狂、搐搦攣急、掮衣摸牀、撮
空理線、或悪_レ ̄ミ声羞_レ ̄チ明、或眼不_レ能_レ視、耳不_レ能_レ聴、或頭眩
不_レ得_レ仰、或如_二見_レ鬼状_一 ̄ノ、或昏睡虚極、脈極 ̄メテ細数、嘔吐噦
逆、漏汗失血、或舌胎焦爛、小溲敗臭、大便腐穢状 ̄チ如_二
藕泥_一、凡備_二 ̄ル此症_一者、血敗 ̄レ肉腐 ̄レ死在_二旦夕_一 ̄ニ、
病候五官ニ係ル者ハ、邪毒頭脳ヲ犯シテ神経麻痺
不遂スルニ因ル、漏汗出血腐壊ノ諸症ハ、血肉腐敗
一身脱疽ノ如ク変ズルノ徴ナリ、
第六章 解後気力難_レ復
邪熱盛 ̄ナル者解後有_下経_二 一月_一而不_レ能_レ起者_上、或有_下経_二 三月_一
而気力難_レ復者_上、邪之猖獗毒_二 ̄スルヿ於人_一 ̄ニ如_レ此、
解後有_下健忘身熱越_二 ̄テ半年_一而不_レ退者_上、是当_二 ̄テ其身熱如
_レ焼時_一 ̄ニ、計_二 ̄リ目前之快_一、灌水劫_レ ̄カス熱者、後毎 ̄ニ有_二此弊_一、不_レ可_レ不
_レ知也、
気-力常ニ復シ難キ者ハ、邪ノ神経ヲ痿弱セシムル
ニ因ル、灌-水熱ヲ涼フスルノ人、健忘ノ患ヲ余ス者
ハ、熱冷-水ニ劫カサレテ、邪毒醸-熟分-利スルヿ能ハ
ザルニ因ル○或問醸熟分利トハ何ソ、答曰元運自
然ノ良能ナル者、熱ヲ発シ血液ヲ煮テ、凝膠【左ルビ「コルスト」】《割書:出_二于 ̄□(ゴ)-|爾(ル)-徳(ト)-児(ル)_一》
膿ノ如キ物ヲ製シ、邪毒ヲ包裏シテ発-汗利-尿吐-痰
等ヨリ、外ニ排出スルヲ謂フナリ○碩長崎ニ在シ
トキ、打橋某ノ女重症ニ罹リシヲ幸ニ救ヒ得タレ
𪜈、健忘一年余モ治セザリキ、灌水ハ処セザレ𪜈、想
フニ病毒化熟ノ功ヲ遂ザルナラン、
第七章 急症
煩慮飢倦、内既 ̄ニ造_二-成邪毒_一、慢-爾 ̄トシテ発_二寒熱_一、諸症漸 ̄ク具 ̄ル、此 ̄ヲ
為_二常症_一、所-謂 ̄ル急発 ̄ノ者 ̄ハ、少壮之輩、或自恃_二 ̄ミ勇健_一無_レ所_二顧
忌_一、入_二蒸-熱汚-穢之病室_一、頓 ̄ニ受 ̄テ頓 ̄ニ発 ̄シ、嘔逆寒慄、頃刻 ̄ニシテ而
腰痿 ̄ヘ、数日之際危症蜂起、疲労転〱加 ̄リ、殆 ̄ント入_二死地_一之類
也、
或問急発ノ症ハ、必ズ少壮ノ輩ニ多クシテ、四旬以
上ノ輩ニ有コト稀ナルハ何ソヤ、答曰年少ノ輩ハ
神経柔-軟知-覚敏ナルヲ以テ、邪来リ犯スヿ有バ速
カニ感動シ、邪ト戦フノ勢ヲ張レバナリ、老人ハ神
経鞕-靱感-知鈍キヲ以テ、邪大ニ牴触スルニ至ラザ
レバ、神経邪ト戦フノ勢ヲ張ラザルガ故ナリ、
第八章 慢症
杪冬立春之際、最 ̄モ多_二慢発之症_一、其為_レ ̄ル症始 ̄メ得_レ之気力
疲倦、或頭重 ̄クシテ不_レ寐、飲食無_レ味、而尚未_レ就_二牀蓐_一、迢_二 ̄テ経日
既 ̄ニ久 ̄ク病勢漸 ̄ク張_一 ̄ルニ、身体疼痛、精神昏沈、嗇-嗇悪寒、灼-灼
発熱、脈数急 ̄ニシテ而不斉、小水垽濁、筋愓肉瞤、下利頻数、
或敏聡悪_レ声羞明好_レ暗、劇者 ̄ハ不_レ省_二 人事_一、危篤亦甚 ̄シ、其
来雖_レ漸 ̄ナリト而不_レ易_レ救也、
此 ̄ノ熱感受ノ内外緩急ニ因テ軽重ノ差アルヿナシ、
治療ニ於テモ亦然リ○或問発スルニ急慢ノ異ア
ル者ハ如何、答曰矢張リ神経感触ノ鋭鈍ト血ノ稀
稠トニ因ルナリ、猶薪ノ火ヲ受ルニ遅速ノ等アル
ハ、薪ノ脂-油多-少ニ因ルガ如シ、
第九章 分_二軽重_一為_二 三等_一
分_二 ̄テ病之軽重_一為_二 三等_一、曰軽症、精神不_レ乱者是也、曰重
症、精神錯乱者是也、曰死症、見_二血液腐敗之候_一者是
也、
精神乱レザル者ハ、邪熱神経ヲ犯スノ深カラザル
ナリ、乱ルヽモノハ、神経ヲ犯スノ酷シキナリ、血液
腐敗スルハ、流-凝俱ニ妙-和分-離スルナリ、
第十章 軽症
軽症 ̄ハ神思不_レ乱無_レ見_二悪候_一、雖_レ不_レ薬或可_レ治、然而病不
_レ経_二 二旬_一則身熱不_レ退、尿状亦難_二速 ̄ニ復_一、
病軽シト雖モ速カニ治シ難キ者ハ、邪純ラ神経ニ
著 ̄ケ バナリ、蓋シ神経ハ一身ノ主宰生-生万機ノ政ヲ
主トルヲ以テナリ、仮令ハ良-相病ンテ一-国乱ルヽ
ガ如シ、尿状ノ変速カニ復シ難キハ、熱ノ血ニ変ヲ
致スノ甚シキナリ、
第十一章 重症
重症 ̄ハ危険 ̄ノ諸症悉 ̄ク具、雖_レ有_二良工_一不_レ易_レ済 ̄ヒ也、如 ̄シ不_レ得_二其
治_一大概 ̄ネ不_レ起、或延纏越_二 二旬_一者、雖_レ有_二危症_一亦不_レ抵_レ ̄ラ斃、
然 ̄レトモ而身-熱妄-語搐-搦 ̄ノ諸症、遅留不_レ退勢 ̄ヒ或将_二顚覆_一、亦
不_レ可_レ忽諸、
此症二旬余ヲ過レバ死ヲ免カルヽヿ多ク、又二旬
ヲ経ルニ非ラザレバ、良治ヲ処スト雖モ治シ易カ
ラズ、医此-間毫-髪ヲ剖テ術ヲ施スニ非ザレバ、反掌
ノ変ヲ招クヿ多シ○碩京-師ニ於テ一-婦-人ノ危症
ヲ療ズ、始メヨリ妄-語撮-空、変-症百-出、驚-癇痙-攣ヲモ
発シ、脈モ殆ント絶スルニ及ブコト三次、昼-夜胆ヲ
嘗テ治ヲ処スルコト五十余日、精神モ常ニ復シ稍〱
食味ヲ知ニ及ンデ、遂ニ昏睡ニ陥リ六十余日ニシテ
死タリ、余力ヲ極メ内外ノ術ヲ尽シテ治ヲ処セシ
ヿナレバ、今ニ其誤リヲ解セズ、翼(ヒユツ)-歇(ヘ)-郎(ラン)-突(ド)ノ所-謂 ̄ル危
症ニ至テハ、意-思毫-髪ヲ剖キ歴-験事ヲ究ムルニ非
ザレバ救フコトヲ得ズトハ至言ナリ、
第十二章 死症
漏汗流-漓、大便敗-臭、五官失_レ守者、因_二神経麻-痺内臟
萎-薾_一、是血敗 ̄レ肉壊 ̄レ、運化将_レ絶之候也、雖_レ有_二良手_一無_二如
_レ之 ̄ヲ何_一、其変大-率 ̄ネ在_二病発 ̄シテ第十一日第十四日第十八
日_一 ̄ニ
病ノ暴ナル者、其治ヲ得ザレハ二三日ニシテ死ス
ル者アリ、今茲ニ載スル日-期ハ、良医ノ治法ヲ得ル
者ヲ謂フノミ、
第十三章 脈候
脈数者 ̄ハ病固 ̄ヨリ重、飛躍不_レ斉者概 ̄ネ属_二危険_一、蓋 ̄シ病之軽重、
命之安危、必係_二脈之遅数_一、数 ̄ハ則危 ̄ク遅 ̄ハ則安 ̄シ、其数漸 ̄ク減
則危症 ̄モ亦減 ̄ス、脈不_レ数者雖_レ有_二危症_一不_レ足_レ為_レ憂也、夫脈 ̄ハ
起_二 ̄リ於心臓_一 ̄ニ、活気之所_レ由、血液之所_レ環、一身之妙-機従
_レ此出 ̄ツ、故 ̄ニ弁_二 ̄シ順逆_一決_二成敗_一無_レ要_レ ̄ナルハ於_レ脈 ̄ヨリ、
凡ソ脈ノ不-斉飛-躍スルハ、神経牽引シテ血液順環
ノ機ヲ妨ゲラレ、内-景常-機ヲ失フノ候ナリ○或問
遅速ハ何ヲ以テ純ラ安危ノ機ニ係ルヤ、答曰数ハ
血液疾行シ、遅ハ血液緩流ス、此ラ算スルニ心臟脈
管ノ血ヲ輸送スルノ機、其困シムコト人意ノ表ニ
出ツ《割書:詳説見_二于余 ̄カ|生-理-則血-論_一》
第十四章 脈候時変
脈候時時不_レ同、遅数細大、毎動不_レ斉、故非_二 ̄サレハ屢〱診_一_レ之則
病態難_レ窮、変症難_レ察、
西医ノ治験ニ、危重ノ症ヲ半時毎ニ一診シタル例
アリ、想フニ昼間十二診スル者ナリ、用心ノ深切ナ
ルヿ斯ノ如クナラザレバ、険症ニ臨テ其状-態ヲ尽
スヿ能ハズ、
第十五章 舌候
舌乾 ̄テ而無_レ胎、或淡胎帯_レ白者為_二平症_一、黒胎如_二 ̄ク煙煤_一、燥
裂如_レ脱_レ皮者為_二重症_一、状如_レ炙_二 ̄ルカ雞肝_一赤爛作_レ麹者、危甚_二 ̄シ
於累卵_一 ̄ヨリ、
舌乾テ無胎ハ、此熱ノ通候ナリ、黒胎煙煤ノ如クシ
テ苦味ヲ覚ユルハ胃中ノ穢物ニ属ス、或ハ吐スベ
キノ症アリ、然レ𪜈日ヲ経テ見ハレ、或ハ潤フテ燥
カザルハ必ス揮発ノ薬ヲ用ユベシ、夫敗-疫ノ黒胎、
多クハ燥芒ヲ生ス、俱ニ皆吐下ノ剤ヲ処スベキノ
候ナリ、此熱ノ黒胎トハ混論シ難シ、又如炙雞肝者
ハ血-液腐-敗胃腸潰-爛スルノ候ナリ、麹胎ハ血液酸
敗腐-穢スルノ候ナリ、《割書:酸敗出_二于|□(ゴ)-爾(ル)-徳(ト)-児(ル)_一》是ヲ以テ舌ハ血液
ノ状態ト、胃腸ノ内面トヲ候フノ要具ナリ、
第十六章 発熱
発熱稽留雖_三昼夜無_二間断_一、大-率 ̄ネ平-明稍〱減、其不_レ減者
亦不_レ得_レ無_二 ̄ヿ少 ̄ク進退_一、劇者 ̄ハ昼夜二発、昼始_二 ̄リ於午前_一、熾_二於
午後_一、夜 ̄ノ始_二 ̄リ於初更_一熾_二於三更_一、
式(シ)-建(ケン)-吉(キ)《割書:人|名》ノ血論ニ、凡ソ平全無病ノ人、其血-行朝ハ
緩クシテ午後ヨリ夜半ニ至ルノ間ハ稍〱疾ク、凡ソ一-
分時-刻ニ七八動ノ差アリト謂ヘリ、常人スラ血行
昼夜ニ此ノ如キノ差アレバ、熱ヲ患フル人ハ午後
夜半ニ烈シキ所-以ナリ
第十七章 尿候
小水垽濁、随_三病之有_二劇易_一、不_レ能_レ無_二 ̄コト多-寡濃-淡之差_一、病-
勢進 ̄ム者、色如_二麦酒_一、白垽沈-著質似_二溶膠_一、其積 ̄ヿ大-抵寸
許、又有_二尿閉難_レ通者_一、有_二熱-尿淋-瀝者_一、有_二尿即 ̄チ澄 ̄ミ垽即
消者_一、俱 ̄ニ為_二凶兆_一、又尿如_二清水_一者、搐-搦攣-急将_レ発之候
也、凶莫_レ甚_レ焉 ̄ヨリ○凡験_レ尿之法、盛_二 ̄リ之 ̄ヲ硝子器_一 ̄ニ安置経_レ時
則得_レ審_二 ̄コトヲ其状_一、
病赴_二 ̄ク平路_一者、尿漸 ̄ク澄 ̄ミ垽漸 ̄ク減、色如_二柑汁_一、垽溶 ̄テ而不_レ凝、
其尿経_レ ̄テ日不_レ変者 ̄ハ為_二吉兆_一、
尿面結_レ衣、状如_二鍼芒_一、不_レ ̄シテ久而散解、混淪為_二雲状_一 ̄ヲ者 ̄ハ為_二
危険_一、又清尿如_二列(レ)-応(イン)-酒_一《割書:彼邦|酒名》垽如_レ混_二繊-微撒-糸_一者 ̄ハ属_二 ̄ス
死候_一、凡如_レ此者、発_レ痙而就_レ死、以_レ之断_二 ̄ス死生_一 十不_レ誤_レ 一
碩按スルニ尿垽ハ病-毒分-利ヲ候フノ要物ニシテ軽-
蔑シ難シ、是ヲ以テ此熱ニ論ナク、凡-百ノ血液ニ係
ルノ病ハ、尿ニ変ヲ見ハサヾルハナシ、凡ソ溶-膠良
膿ノ如キ垽ハ、病-毒化-熟分-利ノ候ニシテ、鍼-芒小-胞
撒-糸ノ如キ垽ハ、流-体妙-和ヲ失テ塩-質分-解シ、或ハ
凝体ノ繊-維自ラ腐壊シテ漏泄スル者ナラン、内景
ノ成-敗之ヨリ著ルシキハナシ、事ヲ会セザルノ輩
認メテ迂トスルヿ勿レ○又 翼(ヒユツ)-歇(ヘ)-郎(ラン)-突(ド)ノ書ニ、吸(ヒ)-卜(ポノ)
葛(カ)-刺(ラー)-的(テ)-斯(ス)及ヒ質(チ)-設(セ)-伊(イ)ノ説ヲ引テ、鍼-芒撒-糸ノ如キ
垽ハ、十四日モ経ザレバ消セズト謂ヘリ、是 ̄レ最モ悪
徴ト会得セヨトアリ、
第十八章 悪候
邪毒浸淫、無_二分利之候_一者 ̄ハ、必発_二悪症_一、如_二夫 ̄ノ筋-愓肉-瞤
循-衣弄-手_一勢固 ̄ヨリ険-悪、至_二 ̄テハ理-線撚-指_一危最 ̄モ甚 ̄シ、且得_レ病未
_レ久、爾垤(ルデ)二音不_二明朗_一、属_二凶兆_一、又語-言艱-渋、或不_レ能_レ言
大-凶之兆也、俱 ̄ニ是因_下 ̄ル邪著_二脳中_一圧_二 ̄シ神経_一遂 ̄ニ使_中_レ ̄ムルニ之 ̄ヲシテ麻-痺
不-遂_上、其危可_レ知、
病発 ̄シテ四日若 ̄クハ七日、有_下気力暴脱 ̄シ発_二昏-暈痙-攣畏-水_一而
就_レ死者_上如_二火滅_一然 ̄リ、事出_二不意_一 ̄ニ亦不_レ可_レ不_レ ̄ンハアル諳、
病経_レ日之後、喜 ̄テ嘔 ̄シ喜 ̄テ吐 ̄スル者 ̄ハ危険可_レ徴、且 ̄ソ采聴不_レ ̄ハ亮則 ̄チ
安 ̄ク、或 ̄ハ時 ̄ニ聡或 ̄ハ時 ̄ニ聾 ̄ハ危 ̄シ、
黙-黙嗜_レ眠者非_二善候_一、昏-睡鼾-息 ̄スル者 ̄ハ為_二悪候_一、大便秘閉
之人、多 ̄ク発_二此症_一、
碩按スルニ筋-愓肉-瞤ハ邪-毒神-経ヲ刺侵スルノ候
ナリ、循-衣摸-牀ハ意-識守ヲ失フノ候ナリ、爾垤(ルデ)二音
弁シ難ハ第-五-対神-経ノ麻痺ニシテ、他ノ神経ニモ
殆ント波及セントスルノ候ナリ、昏-睡痙-攣畏-水ハ
邪熱ノ脳及ビ神経ヲ強ク害スルノ候ナリ○畏水
トハ何ソ、患-者水ヲ見テ怯レテ驚癇ヲ発スルナリ、
犬-毒驚-癇ノ人 間(マヽ)此症アリ、
第十九章 善候
病毒分利、大-率在_二 二旬 ̄ノ後_一 ̄ニ、咳-嗽吐-痰、自-汗流-漓、小-水
垽-濁、此 ̄ヲ為_二順利_一、又有_二発_レ疹者_一、有_二発_レ班者_一、有_二発_レ癰者_一、是
邪毒崩-潰従_レ ̄シテ此而去 ̄ル、此 ̄ヲ為_二逆利_一、又有_二危症持久口流
_レ涎者_一、毒雖_二外 ̄ニ潰_一、而非_レ ̄サレハ引_レ ̄ニ日則其治不_レ昜_レ冀也、凡吐涎
之症、不_レ涎則邪不_レ去、邪不_レ去則病不_レ癒、不_三必属_二凶兆_一、
此 ̄ノ諸症ハ病ノ軽重ヲ論ゼズ、自然ノ運化、病毒ヲ排
出分-利スルノ徴ナレバ、何レヨリスルモ邪毒解-散
ノ候ト知ルベシ、然レ𪜈順路ヨリスレバ運-化困シ
マズシテ分利シ、険路ヨリスレハ運-化困ンデ分利
ス、是順-逆ノ別ナリ○凡ソ有毒ノ病ハ、運化ノ妙機
ニ排出分利セラルヽ者ナレバ、病重カラズト雖モ
分利ノ候ナキハ治シ昜カラズ、是ヲ以テ病ニ臨テ
分利ノ有無ハ成敗ノ分ルヽ所ニシテ、察病ノ一大緊
要ナリ、
第二十章 治法大要
治法之大要、在_丁 ̄ルノミ揚_二神気_一復_二麻痺_一使_丙_二 ̄ルニ邪熱_一 ̄ラシテ不_乙沈-固_甲耳、故 ̄ニ
主_二香-竄揮-発之薬_一、此 ̄ノ外更 ̄ニ無_二薬之可_一_レ与也、何 ̄ナレハ則患伹
因_三 ̄ハナリ神気不_レ揚而熱邪致_二沈固_一也、蓋 ̄シ神経者、意識之所
_レ由、妙-化之所_レ発、一身之主-宰必出_二於此_一、故 ̄ニ邪苟 ̄モ有_レ侵 ̄コト
則 ̄チ正不_レ得_レ不_レ争、於_レ ̄テ是欲_下奮-発 ̄シテ而攘_中 ̄ヒ-除 ̄カント之_上、然 ̄レトモ而邪勁 ̄ケレハ則
正不_レ能_レ勝 ̄ヿ、正不_レ ̄レハ能_レ勝則分-排之機、必将_二廃絶_一、正愈〱衰
邪愈〱盛、不_レ ̄レハ死不_レ休、是所_三-以 ̄ナリ用_二揮発之薬_一也、
此 ̄ノ熱ハ邪-毒神-経ニ著テ、之ヲシテ麻-痺不-遂セシム
ル者ナルガ故ニ、治法ハ神経ヲ侵-刺衝-動シテ、邪ヲ
排-出攘-徐セシムルノ働ヲ鼓舞スルナリ、是乃チ一
書ノ大旨ナリ○或問此 ̄ノ邪毒ハ他ノ熱毒ヲ治スル
ガ如ク、汗吐下ノ方ヲ以テ捷-徑ニ徐キ難キハ何ソ
ヤ、答曰此 ̄ノ症邪先ヅ神経ニ著テ、神経ノ働キヲ奪フ
ガ故ニ、徒ラニ攻撃ヲ用ユレバ、虚ヲ擣キ正ヲ伐ノ
害アリテ、排発ノ力自カラ挫ケ、邪-毒沈-固スルコト
ヲ免レズ、尋-常疫熱ト治法ノ異アルハ、邪ノ神経ニ
著ト否ラザルトニ依ルノミ○碩按スルニ諸般ノ
熱病ニ時期ノ定マレル者アリ、此 ̄ノ熱ニ於テモ亦然
リ、則チ発生醸-熟分-利是ナリ、凡ソ此疫ニ於テハ初
メ七日ヲ発生ト定メテ、病増-長スルノ期ナリ、中七
日ヲ醸熟ト定メテ、病-毒化-熟スルノ期ナリ、後七日
ヲ分利ト定メテ、病毒謝-出スルノ期ナリ、然ルニ元-
運自-然ノ良-能健カナラズシテ、熟セラルヽヿ能ハ
ザルカ、又仮-令ヒ熟スト雖モ、元-運其 ̄ノ労ニ勝ズシテ、
分利スルヿ能ハザルカ、何レ其終リハ成敗ノ二途
ニ出デズ、猶痘ニ序-熱見-点出-斉灌-膿結-痂ヲ立テヽ
論ズルガ如シ、是医-見ノ標準ヲ立テヽ示スm者ニシテ、
治-疾察-病ノ用ニ設ク、凡テ治療ノ大旨ハ運化ノ機
転ヲ扶ケテ、自-然分-利ノ功ヲ遂ゲ成サシムルニア
リ、余之ヲ熟思スルニ、熱病ニ限ラズ悉ク皆アリ、蓋
シ天地一切ノ事物ニモ本-末終-始アリテ、盛ナレハ
衰ヘ、生ズレバ死スルノ理有ガ如シ、高明ノ君子ハ
我蘭-説ヲ俟ズトモ早ク巳ニ了解スルナレ𪜈、今茲
ニ載スル者ハ、近来 歇(ヘツ)-怯(ケ)-児(ル)《割書:人|名》ノ書ヲ見テ、喟嘆ノ余
リ贅言ヲ記シテ同志ニ示スノミ、
第二十一章 初起平症治法
初起及軽症《割書:症候出_二于第|四章第八章_一》宜_レ与_二左方_一
第一揮発飲《割書:翼-歇-郎-|突方》
花(ハア)-列(レ)-里(リ)-亜(ヤ)-那(ナ)根《割書:三銭 春女郎花(ハルノヲミナメシ)|気味形状類之》
右一味以_二水一合五勺_一、上_二武火_一煮 ̄ヿ四五沸、下_レ鍋安-
定少-時、加_二安(アン)-模(モ)-密(ミ)-□(ユ)-母(ム)。亜(ア)-絶(ゼ)-質(チ)-屈(キユ)-謨(ム)二分 里(リ)-屈(キユ)-胡(-)-
爾(ル)。亜(ア)-諾(ノ)-篤(ト)。福(ホ)-夫(フ)-満(マン)一分_一、《割書:福-夫-満服-量昼夜以_二 五分_一|為_レ度○碩按西-医福-夫-満》
《割書:者所_二創-製_一|止-痛-水-剤》乗_レ温頓-服、昼夜四五服、又兼 ̄テ用_下接-骨-木【左ルビ「フリールブルーム」】-
花擺-湯加_二葡萄酒【左ルビ「ウヱヰン」】_一者_上、服後温-覆 ̄シテ而眠 ̄シム、是一-定之治
法也、
之有_二香気_一者_上、而交〱用_レ之、又外貼_二白-芥-糊_一《割書:方出_二于下|巻第三章_一》
初起脈堅実、面赤 ̄ク眼-光爛-爛、頭疼如_レ割者、貼_二水蛭 ̄ヲ於
顳顬_一、又嘔-吐下-利、舌-胎穢-黄、胃中挟_レ毒之症、可_三少 ̄ク与_二
吐下之剤_一、《割書:方出_二于下巻第|十章第十一章_一》病既 ̄ニ経_レ日者宜_二斟酌_一
第一揮発飲《割書:自験|方》 主治初起悪-寒発-熱、脈-数頭-痛、
四-肢疼-痛者、
春女郎花《割書:二|銭》 接骨木花《割書:五|分》 蛇根《割書:二分或以_二|細辛_一代_レ之》
右三味以_二水一合三勺_一、煮取_二 一合_一、去_レ滓温服、
下利者、加_二阿片融-液五滴_一、脈堅-実挟_二焮腫_一之症、加_二
精硝石一分、或葡萄酢十滴_一、
蛇根気味芬-芳辛-苦稍〱収-歛シテ、神経ヲ健カニシ、汗
ヲ発シ、痺ヲ復シ、邪毒ヲ駆ルノ功アリ、又能ク諸毒
ヲ解ス、
第二十二章 溏泄不_レ可_レ忽
下利如_レ傾 ̄カ、気血倶 ̄ニ脱 ̄スル者、多 ̄クハ致_二反掌之変_一、其原係_二 ̄ル於腸-
襞萎-薾_一 ̄ニ、急 ̄ニ可_二保止_一、不_レ及則斃 ̄ル、凡此 ̄ノ症下-利止 ̄ヰハ則余症
不_レ治而自 ̄ラ退、
初発ヨリ溏泄シテ目陥リ、熱手-足ニ達セザル者ハ、
速カニ下利ヲ止ムベシ、甚シキ者ハ一二日ニシテ
斃ル、阿片ニ非ザレバ功ナシ、余ハ此症ニ初メヨリ
軽量ノ阿片ヲ数次ニ用ヒ、第二揮発飲ヲ兼用シテ
効ヲ取ルヿ多シ、凡ソ下利アリト雖モ熱ノ烈シク
シテ焮腫ヲ挿ム者ニハ、阿-片附-子俱ニ用ユルヿヲ
許サズ○碩按ズルニ附子ハ味薟ニシテ、且神-経ヲ
刺戟シテ麻痺ヲ復シ、牽攣ヲ鎮メ汗ヲ発ス、然レ𪜈
其性慓-悍量多ケレバ人ヲシテ麻廃セシメ、血脈ヲ傷
リ火気ヲ旺ゼシム、軽-量連-進スルニヨロシ、
第二十三章 重症治法
病-勢頗 ̄ル進、脈数而弱、昼夜純-熱、妄-語撮-空、筋-愓瞤-動、
下-利嘔-逆者、宜_レ用_二此湯_一、
第二揮発飲《割書:翼-歇-即-|突方》
蛇根《割書:一|銭》 花-列-里-亜-那《割書:二|銭》 泥菖【左ルビ「カラミユス」】《割書:一|銭》
右以_二泉一合五勺_一 上_二文火_一煮 ̄ヿ一-少-時、下_レ鍋期_二薬沈-
著_一去_レ滓加_二 ̄フ後方水-薬十滴_一《割書:水薬方、熱-皮-融-液、鹿-角-|熬-煎、諾(ナ)-布(プ)-多(タ)。肸(ヒツ)-的(テ)-里(リ)-要(ヨー)-》
《割書:児(ル)各二銭、右|三-味調-勻》服量毎_二 一時_一 一食匕、更 ̄ニ飲_二好-葡-萄-酒
一食匕_一、毎半時二次、又兼用_二揮発散_一、其方
揮発散《割書:同|上》 主治数-脈下-利、精-神昏-沈、或循-衣摸-牀
者、
麝香【左ルビ「ミユスキユス」】《割書:上|品》 竜脳【左ルビ「カンポル」】《割書:上品各|四毛》 阿片【左ルビ「ヲピユム」】《割書:二|毛》
白糖【左ルビ「ソヒクル」】《割書:二|銭》
右四味細末調勻、毎半時服二次、
脈微弱者、貼_二健-心-剤 ̄ヲ於距里_一 ̄ニ、以_二 ̄スルモ蒸剤_一亦可 ̄ナリ《割書:方出_二于下|巻第五章_一》
神気沈衰者、擦_二竜脳油 ̄ヲ於周身_一 ̄ニ《割書:碩按 ̄ルニ以_二 ̄スルモ第-二揮-発-擦-|液_一亦可 ̄ナリ、方出_二于下巻》
《割書:第二|章_一》
下利難_レ止者、可_レ施_二閉止灌腸_一《割書:方出_二于下|巻第六章》
下肢麻痺、或昏-昏難_二醒覚_一者、貼_二白-芥-糊 ̄ヲ於腓腸_一 ̄ニ、《割書:方出_二|于下》
《割書:巻第|三章_一》吐逆不_レ止者、宜_レ施_二揮-発-蒸-剤 ̄ヲ於胃部_一 ̄ニ、
第二揮発飲《割書:自験|方》 主治数脈無_レ力、純熱不_レ解、筋愓
肉瞤、妄語撮空、舌上乾燥、下利嘔吐者、
春女郎花《割書:二|銭》 蛇根《割書:五|分》 附子《割書:二|分》
泥菖《割書:六|分》
右三味以_二泉二合_一煮取_二 一合五勺_一、内_二女郎花_一、再煮
三四沸、下_レ鍋安定少時、去_レ滓毎-時服_二 六勺_一、日 ̄ニ十二
三次○咽喉不利、好_二熱飲_一者、加_二貝母三四分_一、
碩嘗テ此 ̄ノ疫-症ヲ解セザリシ日、患者ノ口-舌俱ニ乾
燥スルヲ見テ、頻リニ麦-門-冬桔-梗甘-草ノゴトキ品
ヲ用ユルニ、咽-喉益〱不-利シテ、甚シキハ沸湯ヲ好ム
ニモ至ル、然レ𪜈当(ソノ)-時(カミ)其不-利本ヨリ神-経不-遂、粘-痰
食道ニ絡フヨリ来ルコトヲ解セザレバ、其薬-品モ
得ルコト能ハズ、近来刺-戟稀-痰ノ能アル貝母ヲ用
ヒ試ミテ良効ヲ取コト多シ、今斯ニ掲ケ出ス者ハ、
僅ニ芹味ヲ同志ニ分ツノ意ノミ、
兼用丸剤《割書:自験|方》
麝香 《割書:上品|五厘》 竜脳 《割書: 上品|七厘》 阿片《割書:上品一|厘五毛》
砂糖 《割書:一|銭》
右分 ̄ヲ為_二 十二丸_一、毎_二 一時_一湯液送_二-下一丸_一、
漏汗難_レ止者、去_二麝香_一倍_二竜脳_一、肌-膚乾-燥者、去_二竜脳_一
倍_二麝香_一、昏-昏難_二醒覚_一、或有_二焮腫之候_一者、去_二阿片_一貼_二
白-芥-糊 ̄ヲ於足蹍_一 ̄ニ、
病頗 ̄ル重者、神沈 ̄ミ邪膠 ̄シ、漸 ̄ク見_二内-外諸-器麻-痺之候_一、是-以
投_二揮-発敏-捷之薬_一、蓋 ̄シ非_レ此則不_レ能_下鼓_二-舞精-神_一攘_中-除 ̄スルヿ邪-
毒_上 ̄ヲ也、凡薬品雖_レ有_二揮発之性_一、稍〱帯_二渋飲_一者、不_二趐 ̄ニ不_一_レ ̄ノミ能
_レ奏_レ功、即 ̄チ致_二沈-衰不-遂之症_一、不_レ可_レ不_レ戒也、伹其性揮-発 ̄ニシテ
而気-味純-粋者、得_三善 ̄ク全_二其功_一、故 ̄ニ普 ̄ク採 ̄リ互 ̄ニ用、然 ̄レトモ而軽-重
有_レ度、施-舎有_レ権、雖_三薬得_二其当_一、而過-用 ̄スレハ引_レ禍、不_レ ̄レハ如無_レ効
也、
第二十四章 揮発薬品
香-竄揮-発之薬、所_二-以 ̄ノ当_一_レ撰者 ̄ハ、無_レ他功在_二 ̄ルナリ発-越飛-散_一 ̄ニ也、
是-以尚_二薬気升_レ脳而持-久難_レ消者_一 ̄ヲ、竜-脳麝-香阿-片桂【左ルビ「カネール」】-
皮 遏(アツ)-的(テ)-児(ル)酒-精及 ̄ヒ油葡-萄-酒蛇-根女-郎-花南-五-味-子
之類是也、而葡-萄-酒最 ̄モ効 ̄アリ、
性揮-発ニシテ気味峻烈ナル者ハ、強ク徹シテ気-味
消シ易シ乃チ火酒ニ酔者ハ麴-気速カニ発シテ、一-
且其 ̄ノ酔ニ勝ヘズト雖モ醒ムルヿモ亦早シ、故ニ此
病ニ益スルヿ少シ、葡萄ノ醇醪ノ如キハ、酔-者自カ
ラ其醒酔ヲ覚ヘズ、是其ノ気、神-経ニ触ルヽノ勢ヒ
緩急ノ分アル一因 ̄ル ナリ、譬ヘバ眠リヲ覚スニ痒笑(コソバカ)
シテ覚スト、揑(ツメ)リテ覚ストノ異有ルガ如クニシテ、医
家疾-病ニ臨デ方ヲ撰ムノ目的ナリ、
第二十五章 調理配剤
香-竄揮-発之薬、気味雖_レ鋭、独-行 ̄スレハ則勢 ̄ヒ孤力弱 ̄ノ不_レ足_レ奏
_レ功、宜_三摘_レ類聚_レ味以 ̄テ取_二佐-使之利_一、芬-芳平-和如_二花-列-里-
亜-那蛇-根_一者、乃 ̄チ其尤也、
碩按ズルニ配剤ハ、調-餐塩-梅ノ如ク、五味ヲ調理セ
ルヲ法トス、美味アリト雖モ一味ノ以テ口ヲ悦バ
シムルニ足ザルガ如シ、然リト雖モ妄リニ数品ヲ
調シテ可ナリト謂フニ非ズ、其配-調塩-梅ニ心ヲ用
ヒヨーノ義ナリ、若シ塩梅其宜キヲ得ザレバ、山海
ノ珍ヲ尽スト雖モ一臠ノ味ニモ劣ルガ如シ、故ニ
漢人モ剤ニ君臣佐使ノ説アリ、其起ル所亦偶然ニ
アラズ、
第二十六章 阿片気味効能
阿片其性侵-刺揮-発、保_二精神_一張_二血脈_一、使_二 人 ̄ヲシテ酔且眠_一、而
其力不_レ似_二麴-気之動_一_レ ̄ニ血、是-以正邪紛争之際、不_レ能_レ克
_レ邪者、暫 ̄ク仮_レ之静_二-養 ̄シ元気_一、以冀_二再-挙之効_一、彼 ̄レ雖_レ有_二風-化
飛-散之性_一、不_下以_二駆邪_一為_上_レ効 ̄ト、
阿片気味敏-捷苦-烈有_レ毒、軽-量連-進為_レ可、如 ̄シ一-時過_二 ̄セハ
其量_一、則徒 ̄ニ搏_二元気_一逞_二病勢_一、然 ̄トモ遇_二劇症_一量軽 ̄モ亦無_レ功、宜_下
仮_二 ̄テ異-物同-趣其 ̄ノ力稍〱緩者_一、以 ̄テ助_レ ̄ケ効和_レ ̄シテ性而調_中之剤_上、走-
竄芳-香之品乃 ̄チ是也、葢 ̄シ芳香之性、摩-痒以 ̄テ悦_二精神_一発_二
沈衰_一、故 ̄ニ不_レ使_二_レ之 ̄ヲシテ至_一_レ為_レ ̄スニ害、使-用之妙、必 ̄ス在_レ此矣、
刺-撃走-竄之諸薬、多-量急進則招_下 ̄ク神経不_レ ̄ノ耐_二薬気_一之
弊_上、若_二夫 ̄ノ阿片_一奪-知安-神、用持_二両端_一、故 ̄ニ能 ̄ク使_下_二諸薬_一 ̄ヲシテ無_中衝-
撃以 ̄テ起_レ痙之害_上、急-劇之際建_二奇勲_一、非_一他薬之所_一_レ ̄ニ匹也、
阿片ヲ内服シテ試ムルニ、諸般ノ疼-痛痙-攣ヲ鎮ム
ルノミナラズ、喘-急咳-嗽下-利ノ如キモ、之ヲ服スレ
バ先ツ病勢ヲ穏カニシテ眠リヲ催シ、其 ̄ノ人暫クハ
必ス患苦ヲ免カル○碩按スルニ其理奪-知ノ能ア
ルヨリシテ然ルヿヲ得ルナリ、今茲ニ譬喩シテ論
スルニ凡ソ病アリテ神経ヲ犯スヿアレバ、神経牽
攣シテ之ト衡キヲ争ヒ種-種ノ変症ヲ発シ、一時ニ
其勝-敗ヲ決セント牽-攣怒-張シテ休ムヿナシ、感動
ノ甚シキ者ニ至テハ、病-毒格-別ニ迫リ侵サズトモ、
巳レト独リ鬩(ヲ)メキシテ、自-尽ノ敗ヲ取ルヿアリ、是
ニ於テ阿片ヲ用ユレバ、阿片ノ揮-発-塩頭-脳ニ升リ
テ、血-脈盈-充邪ト闘フノ神経ヲ圧シ、神気ノ感-注之
ガ為メニ阻テラレテ知-覚自ラ廃ス、又傍ラ阿片ノ
異-味怪-臭ニ感応シ、病ヲ棄テヽ阿片ノ気味ト稍(ヤヽ)闘
ヲ始ルニ至ルナリ、猶附-子蜀-椒蟾-蜍ノ如キ奪-知ノ
能有 ̄ル者ヲ甞ムレバ、本ヨリ舌ニ他-味有ト雖モ、忽チ
本味ヲ忘レテ其味ヲ知ルガ如シ、阿片ノ如キモ其
異味ヲ以テ、神経ノ感知ヲ巳レニ奪ヒ取リテ、病ノ
感触ヲ緩フス、布(プ)-歛(レン)-巳(キ)ノ説ニ阿片ヲ多ク甞レバ舌
ヲシテ腫シムト、是ヲ以テ阿片ノ使用ハ自-然ノ病ト
戦フテ克ツヿ能ハズ、其儘ニ棄置ハ自尽ヲ取ノ症
ニ用ユルナリ○或問風茄子ノ如キハ甚ダ辛味ナ
シト雖モ奪知ノ功アルハ如-何、答曰此モ亦揮-発-塩
ナル者アリテ、神液ノ感注ヲ阻テ遮ギルニ因 ̄ル ナリ
○又問他ノ奪知剤ハ人ヲシテ阿片ノ如クニ眠ラ
シメザルハ何ソ、答曰布-歛-巳ノ説ニ、阿片ノ質ハ多
分ノ揮-発風-化ノ油塩アルヲ以テ、服スレバ直チニ
頭脳ニ升リ、其人速カニ睡リヲ催ス、是ヲ以テ外-用
シテハ催-睡奪-知ノ功ナシト
第二十七章 阿片主治
妄-語撮-空、筋-愓肉-瞤、身-体疼-痛、羞-明向_レ暗、不-寐怔-忡、
下-利難_レ休、有_二知-覚敏-触之候_一者悉 ̄ク用_レ之○焮-腫昏-睡
有_下血注_二頭脳_一之候_上者太 ̄タ禁_レ之、
第二十八章 麝香気味効能
麝香揮-発走-竄、力持_二刺痒_一、無_レ所_レ不_レ通、亦無_二渋-滞凝-著
之弊_一、安_レ神 行(ヤリ)_レ血、除_二伏邪_一駆_二悪気_一、美-質良-才、固無_二凶徳_一
雖_二虚極之人_一単味可_レ用、
第二十九章 麝香主治
精-神昏-沈、血-液敗-脱之人、単味服_レ之、奮_レ神揚_レ沈、駆_二熱
邪_一、其功絶-倫、又与_二阿片_一並 ̄ヘ用 ̄ル則 ̄ハ二味合_二其力_一以 ̄テ成_二輔-
車相-依之利_一、
筋-愓肉-瞤、搐-搦攣-急、精-神昏-瞶、不_レ省_二 人事_一、或撮-空妄-
語、皮-膚乾-燥者、皆宜_二 ̄シ麝香_一、又胸-膜攣-急、喘-鳴咳-嗽者
殊 ̄ニ験 ̄アリ○漏汗不_レ止者可_二斟酌_一、
麝香ハ愛スベキ香アリ、愛ハ神-経悦ヒ好ムノ義ア
リ、是ヲ以テ其揮-発スルノ塩-梅、神経ヲ苦シメズシ
テ痒(コソバカ)-笑シ勇マシム、虚極ノ患者ニ用ヒテ害ナシ、他
ノ刺-戟-剤ノ如キハ、神-経愛シ好ムノ性ナキヲ以テ、
其刺-撃スルノ塩-梅、猶 揑(ツメ)リ叱テ起スガ如ク、虚極ノ
人ニ害ヲナスコト少カラズ、虚極ノ人ニハ用ヒ難
シ、
第三十章 竜脳気味効能
竜脳気味苦辛、風化揮発、有_下健_二 ̄ニシ生-動_一固_二萎薾_一保_二亡脱_一
挽_二-回 ̄スルノ腐敗_一之功_上、亦与_二麝香_一相去 ̄ヿ不_レ遠也、配_二阿片_一則能 ̄ク
補_二其所_一_レ不_レ足、達_二其所_一_レ ̄ニ不_レ至、唯竜脳有_二異味_一、非_二常-服之
薬_一、量重 ̄ケレハ則有_二触_レ胃 ̄ニ之害_一也、眩-暈嘔-噦之人或禁_レ之、
第三十一章 竜脳主治
脈細弱 ̄ニシテ而無_レ力、腠-理弛-開、汗不_レ止者有_二奇効_一、又内-部
麻-痺、形-容憔-悴、或虚-煩不_レ能_レ眠者亦験 ̄アリ
脈堅 ̄ニシテ而不_レ弱、腠-理乾-燥無_レ汗者、竜脳或有_レ害、伹麝香
主_レ之、是竜麝之所_レ異也、
竜脳気-味涼ニシテ苦-辛其 ̄ノ香愛スベシ、蓋シ竜脳ハ其
原-質ニ乾-固揮-発ノ塩、油、脂モナク、唯〱天-然一-箇ノ揮-
発香-竄ノ樹-脂ニシテ、甚ダ火ヲ受易シ、此ヲ以テ焮-
腫-性ノ熱ヲ挿ム者ニ於テハ、微量ニ非ザレバ害ヲ
ナスヿ多シ○碩平-日之ヲ諸般ノ熱病ニ験ムルニ、
腠理ノ収リ悪クシテ、漏-汗悪-寒ヲ兼ヌル悪-性-熱ニ
功アリ、純-熱ノ症ニハ硝石砂糖ヲ配シ用ユ○翼-歇-
郎-突曰竜脳ノ異-味胃ニ触レテ嘔-噦ヲ発スル者ニ
ハ、亜(ア)-勒(ロ)-瑪(マ)-底(チ)-加(カ)。諾(ナ)-布(ブ)-多(ター)ノ類ヲ用ヒテ功アリト、
第三十二章 葡萄酒気味効能
葡萄酒、質重 ̄ク味醇、其 ̄ノ気不_二峻烈_一、雖_レ有_二収歛之性_一、而無_二
壅-滞痞-寒之害_一、令_下_レ 人 ̄ヲシテ漸 ̄ク入_二 ̄テ酔-郷_一 ̄ニ而難_中醒-覚_上、如_二 ̄キハ夫 ̄ノ火-酒_一
則与_レ此異 ̄ナリ、其慓-悍之気、能令_二_レ 人 ̄ヲシテ酔-倒_一、然亦風-化走-竄 ̄ニシテ
而令_二早醒_一、所-謂 ̄ル勇 ̄ニシテ而無_レ剛者耳、不_レ可_二混論_一、
第三十三章 葡萄酒主治
胃-気不_レ振、乳-糜不_レ給、神-経衰-弱、諸薬無_レ効者、服_レ ̄スレハ之佐_二 ̄ケ
胃化_一、益_二 ̄シ養液_一、煽_二-発 ̄シ沈-衰_一、使_下_二熱邪_一 ̄ヲシテ不_中膠-固_上、又血-液亡-脱
羸-痩極 ̄ル者、配_二鹿-角-膠-汁_一殊 ̄ニ験 ̄アリ○葡萄酒、新-醸未-熟 ̄ノ者
品劣 ̄ニシテ不_レ勝_レ ̄ヘ用、唯経-年純-熟 ̄ノ者為_レ佳、
赤-葡-萄-酒ハ衰-弱ヲ強-健ニシ、沈-固ヲ発-揚シ、腐-敗ヲ
防-止ス、白-葡-萄-酒ハ其 ̄ノ力稍〱緩シ、其最モ宜シキ者ハ、
古キ福(ホ)-倔(グ)-訛(ヘエ)-墨(メ)-爾(ル)葡-萄-酒カ、払(フ)-郎(ラン)-察(ス)葡萄酒カ、説(セ)-吉(キ)-烈(レ)
斯(ス)葡萄酒ヲ絶品トス《割書:翼-歇-|郎-突》○布(プ) - 歛(レン) - 巳(キ)曰、葡萄酒ノ本
質ハ、土ト酸-水ト塩ト揮-発-精-気ト妙-合シテ成タル
物ナリト、是ヲ以テ其 ̄ノ醸-熟宜シキヲ得テ、年ヲ経ル
者ニ非ザレバ、妙-化自ラ分-解シテ敗シ易シ、腐-敗未-
熟ノ者ハ、衰-弊ニ害アリ、撰マズンバアラズ、
第三十四章 遏(アツ)-的(テ)-児(ル)油気味効能
遏-的-児油、其性醇-和通-達、無_二衝-撃之害_一、有_二救_レ脱伸_レ急
之効_一、配_二香-竄刺-撃之薬_一、用_レ之則和-緩以得_二佐-使之任_一、
且使_下_二芳-香飛-散之薬_一 ̄ヲシテ不_中風-化_上也、乃 阿(ヲ)-必(ピ)-□(ユ)-母(ム)。亜(ア)-的(テ)-律(リユ)
母(ム)花(ハア)-列(レ)-里(リ)-亜(ヤ)-那(ナ)及 ̄ヒ福(ホ)-夫(フ)-満(マン)。秡(バ)-爾(シ)-撒(サ)-密(ミ)-□(ユ)-私(ス)-多(ター)之二方、
殊 ̄ニ有_二効験_一、亦不_レ可_レ不_レ用、
第三十五章 諾(ナ)- 布(プ)- 多(ター)油気味効能
諾-布-多諸剤及諾-布-多 率(シユ)-利(リ)-翼(ヒユ)-胡(ウ)-葛(カ)亜(ア)-絶(ゼ)-質(チ)-加(カ)、其性
揮-発走-竄、行_二 ̄リ渋-滞_一、保_二 ̄チ亡-脱_一、功-力俊-敏、不_レ可_二軽-視_一、又与_二
阿片_一合-用、則制_二其慓-悍_一、又能 ̄ク輔-翼 ̄ス、功与_二遏-的-児油_一大-
同小-異、
第三十六章 桂皮気味効能
桂皮気味辛-甘微-渋、有_二強-心活-血発-汗之功_一、又能 ̄ク佐_二 ̄ケ
胃-化_一、健_二頭脳_一、凡焮-腫-熱熾-盛-熱之症、不_レ許_レ服_レ之、
翼-歇-郎-突曰、安(アン)-模(モ)-密(ミ)-□(ユ)-母(ヘ)ヲ称誉スル者アレ𪜈、此 ̄ノ熱
ニ的-当ノ薬ニ非ズ、妄用スレバ漏-汗止ザラシム、
第三十七章 分量可_レ審
治療之権、在_レ ̄ノミ使_下_二 ̄ルニ薬-量_一 ̄ヲシテ無_中過-不-及_上耳、蓋熱-邪盛者、其害
最 ̄モ著 ̄シ、若 ̄シ過_二其量_一則、神-経不_レ勝_二薬-気_一、不_二怒-脹発-痙_一、則 ̄チ塞
蹙不_レ舒、忽 ̄チ致_二殄-滅之禍_一、猶_下 ̄シ火雖_二得_レ風而熾_一亦得_レ風而
滅_上 ̄スルカ、可_レ ̄ンヤ不_二深 ̄ク思_一哉、
第三十八章 重症転_二薬味_一
薬之一旦奏_レ功者、服_レ之及_二数剤_一、慣 ̄テ而無_レ効、猶_下入_二鮑-魚
之肆_一者、自 ̄ラ不_上_レ知_二其腥_一、医宜_二見_レ機而処置_一、勿_二守-株失_一_レ治、
且薬不_レ ̄シテ見_レ効、而猶用 ̄テ不_レ休、則或至_レ招_レ害、如_二阿片_一為_レ甚、
第三十九章 重症倍_レ量
凡用_二刺-発之薬_一、因-循延_レ日之際、無_二熱-邪解-散之候_一、転
加_二虚耗_一者、或病深 ̄ク薬浅 ̄シ也、宜_三審 ̄カニ料 ̄テ以 ̄テ倍_二其量_一、医家或
察-病不_レ達、歴-験未_レ遍、半-途生_レ疑、遑-遽 ̄トシテ議_二 ̄ル他薬_一、是非_二其
治_一也、
邪毒 ̄ト与_二正気_一、勢不_二両立_一、邪勁 ̄ケレハ則正蹙 ̄シテ不_レ伸、方_二是時_一欲_下
以_二長-策_一取_上_レ勝、徒 ̄ニ議_二退守_一、足_二以失_一_レ機、宜_三精-兵衝-突制_二捷 ̄ヲ
於一時_一、故 ̄ニ治-法之要、不_レ事_二補-虚救-脱_一、務 ̄メ在_二輔-正駆-邪_一、
正-気一 ̄タヒ奮則、分-排之機自 ̄ラ発 ̄シ、邪不_レ能_二持久_一、将_二 ̄ニ崩 ̄レテ而逃_一、
是 ̄レ西-哲之所_レ ̄ニシテ伝、而余之所_二服-膺_一、万-世不-易之公-論、雖
_レ有_二来者_一不_レ能_二間然_一、
第四十章 香-竄揮-発与_二収-歛補-益_一有_レ別論
香竄揮発之薬、味辛 ̄ク質軽 ̄ク、走而不_レ止、散而不_レ聚、経-脈
筋-骨毫-末之間、無_レ所_レ不_レ達、通_レ ̄シ気行_レ ̄リ血、以 ̄テ佐_二 ̄ク生-生運-化
之機_一、使_下_二邪毒_一 ̄ヲシテ無_上_レ所_二聚注_一、故 ̄ニ能 ̄ク輔_レ正駆_レ邪、如_二収-歛補-益_一
則 ̄チ不_レ然、質重 ̄ク味渋 ̄リ、以_レ実塡_レ虚、故 ̄ニ能 ̄ク療_二無-毒漏-脱之病_一、
与_二破-結駆-邪之薬_一、自有_二黒-白之易_レ弁者_一、
香-竄揮-発ノ薬ハ、性軽クシテ気-中ニ升散ス、乃チ密
封シテ蔵ムト雖モ、其香ノ鼻ヲ撲ヲ以テ証スベシ、
故ニ之ヲ服スレバ、脈-絡筋-骨繊-微ノ間ニ至ルマデ
モ穿チ入ルヿヲ得、故ニ邪ニ会テハ之ヲ解-散シ、神
経ニ触レテハ之ヲ刺-撃衝-動シテ、邪ノ為メニ圧-閉
セラレテ、其働キ将ニ廃-絶セントスルヲ発セシム、
是ニ於テ神-経動クヿヲ得テ、排-発ノ機自ラ生シ、駆
邪ノ功由テ成 ̄ル者ナリ、然ルニ収-歛補-益ノ薬ハ、凝-体
弛-緩シテ繊-微ノ処ハ糜-爛ニモ至ルガ如キ者ヲ膠-
固収-歛シ、流体ノ溶-渙シタル者モ之ニ歛メラレテ
濃-稠ニナル者ナリ、故ニ無-毒衰-弱ノ症ニ功アリ、此
熱ノ如キハ疲-労有ト雖モ、神-経邪ノ為メニ抑-圧セ
ラルヽ者ナレバ、某害浅カラザル所-以ナリ、是 ̄レ他ナ
シ標ヲ治シテ本ヲ棄ルノ理ナレバナリ、之ヲ譬ル
ニ樹木ノ枝梢ヲ洗芟スレバ、根愈〱固クナルガ如ク
然リ、
第四十一章 熱-皮及収-歛-剤為_レ害論
収-歛補-益之薬、害_二於此 ̄ノ病_一 ̄ニ不_レ可_レ用、若_二夫 ̄ノ熱-皮【左ルビ「キナ」】_一、質膠 ̄ニシテ而
味渋 ̄リ、入_レ ̄テ胃不_レ化、以_レ実塡_レ実、使_二_レ邪 ̄ヲシテ愈〱固_一、使_二_レ熱 ̄ヲシテ愈〱淫_一、強 ̄テ用
_レ之則、足_レ招_二数-脈下-利発-熱痞-満亡-脱等之症_一、不_レ可_レ不
_レ戒也、世医或 ̄ハ謂 ̄フ熱皮補-益解-熱、不_レ察_二毒之有-無_一、不_レ論_二
熱之虚-実_一、吠-声捕-影、認 ̄メテ為_二熱-病之奇-薬_一、謾-投妄-施、未
甞 ̄テ無_一_レ ̄ンハ害也、夫 ̄レ熱皮効_二 ̄アリ於神-経衰-弱血-液漏-脱之人_一、而 ̄ルニ
今用_レ之、不_二啻 ̄ニ無_一_レ功、却 ̄テ招_レ害者 ̄ハ何 ̄ヤ也、蓋 ̄シ其虚非_二真-虚_一、因
_レ邪而虚 ̄ス、邪去 ̄レハ則虚自 ̄ラ復、与_二尋-常虚-熱之類_一、異_二 ̄ニス其治_一可_二
_レ以知_一耳、
人或ハ熱皮ノ名ニ泥ンデ、熱皮ハ偏ニ解-熱ノ奇品
ナリト誤リ認メ、焮-腫-熱疫-熱ヲ論ゼズ、妄用シテ其
害アルコトヲ疑カハズ、是薬-性ニ通ゼザルノ弊ノ
ミ○花(ハ)-伊(イ)-列(レ)分-離-術ノ書ニ載ス、熱皮ノ質ハ膠脂土
鉄ノ四ツノ者、妙-合シタル者ナリト、蓋シ凝-体弛-緩
血-液稀-釈ノ熱病ニハ功其 ̄ノ右ニ出ル者ナシ、然レ𪜈
揮-発走-竄ノ薬ト自ラ氷炭ノ別アリ、故ニ焮-腫-熱疫-
熱ニハ得テ用ヒ易カラズ、同志ノ輩妄-用シテ罪ヲ
熱皮ニ帰スルヿナカレ、
泰西疫論巻之上《割書:終|》
【裏表紙】
泰西疫論 《割書:前|編》 神経疫部 坤
泰西疫論巻之下
目次
神経疫部
第一章 胃府麻痺者内薬無_レ効説
第二章 擦油効験
第三章 白芥糊剤効験
第四章 発泡効験
第五章 蒸剤効験
第六章 灌腸効験
第七章 浴湯効験
第八章 空気
第九章 吐剤効験
第十章 下剤
第十一章 発汗剤
第十二章 鉱性酸渋剤効験
第十三章 小水頻数
第十四章 小水閉止
第十五章 嘔逆不_レ止
第十六章 水銀効験
第十七章 腸襞萎爾
第十八章 経験
第十九章 除防法
泰西疫論巻之下目次畢
泰西疫論巻之下《割書:前|編》
新宮碩涼庭 訳述
山城 交部《割書:香|》晁采
門人 下総 猪野《割書:恭|》允碩 纂訂
周防 中嶋《割書:郁|》玄潭
神経疫部
第一章 胃府麻痺者内薬無レ効説
神気益〱微、火-熱愈〱旺 ̄ン、患-者瀕_レ ̄ルヿ死二三旬、勢欲_レ危者此-
比皆是、此 ̄ノ際医之投_レ薬、宜_レ ̄ク如_レ扇_二 ̄クカ火之将_一_レ滅、烈_レ ̄スレハ之則消、
軽 ̄レハ則不_レ可_レ及、其収_二 ̄ルヤ全効_一也亦難 ̄シ矣、蓋 ̄シ此 ̄ノ症易_レ慣_レ薬、朝
有_レ応者夕用無_レ効、甚者 ̄ハ胃-官衰-廃、服-薬断 ̄テ無_レ功、然 ̄トモ当_二
此時_一術未_二必 ̄ス窮_一、宜_三 ̄タ別 ̄ニ用_二外-敷灌-腸浴-湯等之法_一、頗有_二
殊効、所-謂 ̄ル正-戦不_レ得_レ利奇-攻抜_レ城之策也、
此 ̄ノ症的-治ヲ施スト雖モ、熱-勢日ニ烈シテ精-神日ニ
衰ヘ、二三十日ノ間ハ危険ヲ免カレズ、医此 ̄ノ間ノ治
法ハ、薬剤ノ分-量太タ難シ、少シク過レバ反テ精神
ヲ脱セシメ、足ザレハ功ナシ、他ノ熱病ノ如ク薬-剤
的-当スレバ熱速カニ退クノ類ナラズ、劇-症ハ純-熱
五六十日モ解セズシテ、動モスレバ悪症ヲ発スル
ノ勢アリ、此症多クハ胃-腸麻-痺シテ内-薬絶テ功無
キニ至ル、或ハ数-日便-秘スル者アリ、之ニ下剤ヲ用
ヒテモ容易ニ通利セザルヲ以テ其 ̄ノ徴著-明ナリ、是
ヲ以テ外部ヨリ治ヲ処スベシ、人-身機-悷ノ理ニ通
ゼザル輩ハ、外-薬ハ内-症ニ迂-遠ニシテ効無シトノミ
認ムル者ナリ、□(レー)-問(ウヱン)-仏(フツ)-窟(ク)《割書:人|名》ノ説ニ薬-液ヲ血-脈ニ注-
納スレバ速カニ達シテ、内-服スルヨリハ其効十-倍
ナリト謂ヘリ、近ク試ミヨ水-銀-膏ヲ外-貼シテ吐-涎
ヲ発シ、巴豆ヲ握テ暴-瀉スルヲ以テモ外用ノ薬効
アルヿヲ○或問初メ効ヲ奏スルノ薬、胃ニ慣ルヽ
ノ理如何、答曰神経ノ知-覚慣ルヽノ理ハ、近ク譬ヲ
取ルニ発-泡-膏ヲ長ク貼シ試ムルニ、其 ̄ノ初メハ其部
芫青ニ感シテ痛痒ヲ起シ、甚シキハ感-触一-身ニ及
ンデ寒熱ヲ発スル者モ、続ヒテ長ク貼スレバ、水ヲ
流シ膿ヲ出スモ自ラ止ンデ遂ニ白キ厚-皮ヲ生シ、
膏峻ナリト雖モ痛-痒モ起サズ頑-乎トシテ死-物ニ貼
スルニ同シク、癒テ後モ其部ヲ撫スルニ、麻痺シテ
知覚ナキニ至ル、是 ̄レ神経ハ良-知-能アル者故ニ、強ク
物ニ触レバ巳レト内-部ニ遁レ潜(ヒソ)ンデ頑-皮ヲ生シ
之ヲ楯ニスルナリ、乃チ肉ノ強ク物ニ触ルヽ部、頑
皮ヲ生スルモ其理一般ナリ、内部トテモ屢〱刺-戟ノ
薬ヲ用ユレバ、神-経右ノ如クニナリテ効ナキニ至
ル者ナラン、
第二章 擦油効験
腸-胃既 ̄ニ麻-痺、運-転之機将_レ ̄ニ廃者、内-服之薬為_レ無_レ益、若 ̄シ
過_レ量則徒 ̄ニ傷_二胃-膜_一損_二血-脈_一、其害亦不_レ浅矣、宜_下擦_二滲-透
刺-発之油_一而由_二外-路_一攻_上_レ之、
外-路ハ腠理ノ吸-脈ナリ、吸-脈ハ静-脈ノ末-梢ニ属ス、
故ニ薬直チニ血-脈ニ入ルノ捷-徑ニシテ其 ̄ノ効浅カ
ラス、
第一揮発擦液《割書:翼-歇-郎-|突 方》 主治精-神錯-乱昏-睡体-器
麻-痺
諳(アン)-厄(ゲ)-利(リ)-加(カ)精
右一味擦_二 四肢下身_一、昼夜七八次、
第二揮発擦-液《割書:同|上》
馬(マ)-的(テ)-里(リ)-加(カ)-児(ル)精 竜脳《割書:各三 翁(ヲン)-私(ス)○一翁|私、凡我邦八銭強》
抜(バ)-爾(ル)-撒(サ)-謨(ム)-肸(ヒ)-他(ター)。福(ホ)-夫(フ)-満(マン)《割書:二翁-私○碩按福-夫-満|所_二創製_一之抜-爾-撒-謨》
右三味擂-盆内 ̄ニ攪-勻 ̄シ供用○神-気沈-衰将_レ絶者、方
中加_二硇砂精液四銭_一、宜_レ ̄ク擦_二 四-肢及 ̄ヒ諸部_一、昼夜七八
次、劇症毎時一次、
揮発擦油《割書:自験|方》
胆八油《割書:十|銭》 鹿角精《割書:二|銭》 竜脳油《割書:一|銭》
右擂-盆内 ̄ニ調勻 ̄シ供用、
翼-歇-郎-突曰ク此方諸-般ノ熱-病劇シキ者ニ処シテ
奇功アリト、此 ̄ノ剤精-神昏-沈ヲ復シ、数脈ヲ減スルノ
功アリ○硇砂精ハ硇砂ヨリ分チ収メタル精液ナ
リ、其 ̄ノ性滲-透揮-発ニシテ気噴シテ鼻ヲ撲ツ○碩按
スルニ此 ̄ノ擦-剤ヲ用ユルニ法アリ論ゼズンバアラ
ズ、脈弱ナル者ニハ距里ニ擦シ、嘔-吐吃-逆アル者ニ
ハ胃府ニ擦シ、喘急スル者ニハ胸膈ニ擦シ、下利ア
ル者ニハ臍部ニ擦シ、尿閉スル者ニハ臍下ニ擦ス、
蒸剤ト雖モ亦然リ、
第三章 白芥糊剤効験
白芥辛刺走竄、通_レ ̄シ鬱行_レ ̄リ滞、撥_レ沈復_レ ̄ス痺、是以邪-熱上-炎
下-身冷者、貼_二 ̄ス足-蹠或腓-腸_一、起_二 ̄シ焮腫_一発_二 ̄スル水泡_一者極 ̄テ験 ̄アリ、
辛刺糊剤《割書:陬(スー)-以(イ)-|天(テン) 方》 主治頭-痛昏-睡
白芥子【左ルビ「モスタルト」】《割書:新者|麤末》 麺粉《割書:各等|分》 厳酢《割書:適|宜》
右二味混-和為_レ泥、気噴 ̄シテ如_レ裂_レ鼻者充_レ ̄ツ用 ̄ニ
白芥ハ味ヒ辛ク気奔テ一身ニ達ス殊ニ神経ヲ刺
戟ス、故ニ麻痺ヲ復シ滞ヲ行リ結ヲ解ク、
第四章 発泡効験
芫青侵-刺滲-透、質有_二惨毒_一不_レ可_二謾用_一、邪著_二 ̄キ内臓_一其 ̄ノ部
焮-熱鑚-痛、消-散之薬無_レ功、勢将_レ変_二脱疽_一者便 ̄チ可_レ処_レ之、
其方
発泡膏《割書:同|上》 主治胃-痛胸-痛難_レ止者
芫青【左ルビ「カンタリデス」】《割書:細末三|十二銭》 黄蠟 松香《割書:各九十|六銭》
鶏脂《割書:三十|二銭》 厳酢《割書:五十|六銭》
右文火煉為_レ膏収 ̄シテ貯、
用-法攤_二綿布_一貼_二患処_一、唯不_レ宜_レ ̄ク貼_二 下肢_一恐 ̄クハ膏-痕或変_二
脱疽_一 ̄ニ也、
芫青ハ質ニ揮-発-塩ヲ含ミ《割書:布-歛-巳|薬 性 論》其 ̄ノ性峻-烈ニシテ、
能ク奔リ結ヲ破リ痺ヲ復ス、油ニ配シテハ其 ̄ノ力劣
リ、酢ニ配スレハ力優ル○或問芫青ノ水泡ヲ発ス
ル其 ̄ノ理如-何、答曰辛-烈ノ揮-発-塩、吸-脈ヨリ入リ直チ
ニ脈管ノ神経ヲ侵刺ス、神-経之ニ感シテ愓-然トシ
テ奮ヒ水-液ヲ注キ聚メ、其 ̄ノ毒-塩ヲ包裏シテ再ヒ其
入来ルノ路ヘ推シ輸リ出ス者ナリ、芫青ニ吸ヒ引
ノ性有ニハアラズ、
第五章 蒸剤効験
蒸剤者薬気不_レ易_レ消、有_二発-散強-壮之効_一、又邪-毒著_二胃
府_一吐-噦不_レ止者、必蒸_二 ̄ス胃脘_一其方
揮発蒸剤《割書:翼-歇-郎-|突 方》 主治嘔-吐吃-逆気-急咳-嗽
葡萄酒《割書:百二|十銭》 芳香草【左ルビ「アロマチセコロイト」】《割書:性有_二揮-発芬|芳_一者二握》
右煮四五沸乗_レ ̄シテ熱置_二患処_一冷 ̄レハ則 ̄チ更 ̄ム、衰-弱之人宜_レ ̄ク蒸_二
距-里下-肢_一、
第六章 灌腸効験
邪著_二腸襞_一、転-輸之機殆 ̄ント廃 ̄シ、内-服無_レ功者、不_レ如_下 ̄カ灌_二 ̄キ薬液 ̄ヲ
於腸_一而取_中 ̄ルニ捷-径之利_上、夫人-身稟-受之不_レ同如_二其面_一雖
_レ不_レ可_二 一-例而論_一也、大-率 ̄ネ胃-化不_レ振者用_レ之則功出_二於
内-薬 ̄ノ之右_一、西-哲 ̄ノ歴-験見_二 ̄タリ于諸書_一、固不_レ俟_二余 ̄カ弁_一、今掲_二 ̄ケテ三
方_一各分_二主能_一以 ̄テ示_二 ̄スヿ学者_一如_レ左○一曰閉止方、能 ̄ク止_二瀉
泄_一、二曰刺発方、能 ̄ク撥_二沈固_一、三曰滑泄方、能 ̄ク導_二 ̄ク秘閉_一、
閉止灌腸方《割書:同|上》 主治下-利不_レ止者
麺粉煮汁《割書:三四|盞【左ルビ「コツプ」】》 阿片《割書:一釐六毛或|三釐二毛強》
右二味相得適_二 ̄シテ寒暖_一、以_二水-銃_一灌_二 ̄ク肛-内_一 二三盞日 ̄ニ三
四次、薬液不_二泄出_一為_レ佳、
刺発灌腸方《割書:同|上》 主治五体痿-弱、楯-衣摸-牀、或下-利
嘔-吐者
前方中加_二葡-萄-酒半盞【左ルビ「コツプ」】或 ̄ハ蛇-根花-列-里-亜-那煎
汁半盞_一、
右照_レ ̄シテ前供用、
又方
閉止方中加_二麝香竜脳各四五釐_一
右照_レ前供用○昏-睡難_レ覚者、去_二阿片_一、凡虚-極之人
用_レ之不_レ過_二 二盞_一、
滑泄灌腸方《割書:自験|方》
凝菜煎汁《割書:九十|六銭》 蜂蜜《割書:八|銭》 麝香《割書:四|釐》
右混和相得灌_二 ̄ク肛中_一、凡六十四錢、得_二 ̄テ宿糞_一止 ̄ハ○焮
熱甚者、加_二厳酢半盞_一、
以上三方各異_二 ̄ニス主能_一、要_レ ̄ルニ之採_下 ̄テ性有_二刺発_一者_上以 ̄テ調_レ剤
蓋其所_レ来有_レ旨不_レ可_レ不_レ察、
閉止方中ノ麺粉ハ阿片ノ気味ヲシテ強ク腸ニ触
レシメザルノ埋メ草ナリ、此 ̄ノ方下-利ヲ止ムルノ功
速カニシテ、内服スル如クニ睡ラシメズ、余之ヲ試
ムルニ平穏ニシテ功アリ、
第七章 浴湯効験
浴湯之為_レ方、潤_レ燥行_レ ̄リ滞以 ̄テ発_二邪-毒分-利之機_一、功迥 ̄カニ超_二 ̄タリ
於蒸-熨摩-擦之薬_一、
主治舒_二-和 ̄シ経脈_一、平_二-均 ̄シ血行_一、心-悸不-寐、筋-愓肉-瞤、精神
錯-乱、数-脈不-斉、或病-毒結_二 ̄ヒ頭胸_一、或邪-火沈-滞、神-気已 ̄ニ
衰者必効 ̄アリ、又臟-腑麻-痺、或慣_二 ̄テ薬味_一而内-服之薬絶 ̄ヘテ無
_レ効者一切用_レ之、其方
菊花【左ルビ「カモミラ」】 刺(ラ)-賢(ヘン)-垤(デ)-爾(ル)花 帖(テ)-以(ヰ)-謨(ム)草
瑪(マ)-要(ヨー)-刺(ラ)-那(ナ)草《割書:各二|翁-私》 泥菖根《割書:四翁-|私》
墨(メ)-利(リ)-私(ス)草《割書:二翁-|私》 泉《割書:適|宜》
右煮 ̄ルヿ二三分時、和_二葡萄酒三罎、火酒半罎_一、供用
浴湯有_レ法不_レ可_二軽忽_一 ̄ナル、温煖適_レ宜、外慮_二風寒_一、内虞_二 ̄ル耳-
鳴眩-暈_一 ̄ヲ、且要_レ ̄ス不_レ ̄ヿヲ使_二患者 ̄ヲシテ失-気絶-倒_一、此 ̄ノ間医宜【左ルビ「ベシ」】_二 ̄ク看護_一、
劇-症気-力衰-脱之人、浴_レ ̄スル之不_レ過_二 八分時刻_一 ̄ニ、粗-慢 ̄ナレバ則
瞬-間殺_レ 人 ̄ヲ、
浴 ̄シ畢 ̄テ速 ̄ニ取_二香-竄薬液_一、擦_二 ̄シ遍-頭-胸_一 ̄ニ、乗_レ煖服_二 ̄セシシテ綿衣_一、設_二 ̄ケ蓐 ̄ヲ
暖室_一 ̄ニ、令_二 ̄ム穏卧_一、隔_レ衣摩_二-擦 ̄スルヿ周身_一、小半時許 ̄カリ、温覆 ̄シテ取_二微
汗_一 ̄ヲ汗出 ̄ル者殊験 ̄アリ、一日一次 ̄ヲ為_レ法、
碩按スルニ湯浴ハ熱自重シテ病-毒分利ノ候ナク、
或ハ麻痺ノ候ヲ顯ハシテ、内-藥應ゼズ蒸擦ノ諸藥
モ及ビ難キ者、則チ之ヲ用ユ、故ニ浴後ニ汗ヲ取ル
ヲ要トス、之ヲ處スレバ多ク病毒ノ分利ヲ促シテ、
功常-藥ニ超ヘタリ、然レトモ此法ヲ處スルニハ、醫必
ス心ヲ用イテ漏ヲ捧シ焦ニ沃クガ如クスベシ、毫
モ輕忽ナルコトアレバ必ズ人ヲ殺ス、
第八章 空氣
病室内最 ̄モ要_下 ̄ス引_二新氣_一 ̄ヲ散_中 ̄スルコトヲ敗氣_上 ̄ヲ、及 ̄チ放_二揮發芳香之藥_一、以
身分離ノ書ニ氣中ノ
【右頁端 半分切れている】
疫□
【右頁】
余心疑之十餘年于今矣【?】。近聞涼
進【?】氏所傅於西医抜的乙【?】神經寝
之説。始鬼宿隷【?】頓消治得其方也。
夫気運之不常有昔有而今無
者。有今有而昔無者。疑者能究其
由。不疑者則終於晦々。鳴呼世之不
【左頁】
疑者能疑余所終【?】。而日【?】此以得啓【?】
其明則此書之蓋於世豈鮮少
矣哉。蓋治此証率以揮發刺戟
為主而患其憤【?】而不勅【?】也。附子新【?】
戟之力。獨能耐久則余嚮之所施
或庶幾所謂出新意於法度
【左頁端】
疫論 神經疫部下【?】
之中乎。余将分涼庭氏而質之
抜的乙
文政甲申冬日平安小石龍題于
究理堂西軒
【印二つ】
《題:痳疹要論 全》
那賀山先生著
痳疹要論
浪花書肆 《割書:文海堂|文言堂》
麻疹要論題辞
余少負多識之/学(○)年踰耳
順(○)討究不/廃(○)近日得那賀
山國/手(○)□【裡?】益居/多(○)殆使人
有死可之歎/哉(○)國手嘗著
麻疹要/論(○)其子弟謀而梓
之(○)来求一/語(○)余毫不知求毉
事(○)何敢容/吻(○)唯於利家/学(○)
益我己必此/則(○)彼家学所
在(○)夫豈不大益於人/哉(○)余
之所徴是而已/矣(○)
寛政己未春正月下浣
浪速隠士木邨孔恭識
於兼葭堂南軒之下
(印)(印)
友人 森世黄書
(印)(印)
麻疹要論
法橋那賀山彰元先生著
佐倉醫官山 元孝 朔元
門人 考訂
浪花 岡山 為武 元周
因症論
夫/麻疹(マシン、ハシカ)ナルモノハ人一生ニ一/度(ト)痘瘡(トウソウ)ニ同ジク
病(ヤム)モノ也痘瘡ハ先天ノ胎毒(タイドク)血分(ケツフン)ニアルモノ天
行ノ疫(エキ)ニフレテ発(ハツ)スルモノナリ麻疹ハ先天ノ
胎毒/気(キ)分ニアルモノコレモ気運(キウン)ニヨツテ十二
支(シ)/二(フタ)メグリ前後(ゼンゴ)ニ行(ハヤ)ル天行ノ疫邪(ヱキジャ)ニヨツテ表(ヒョウ)
発(ハツ)スルモノナリ故ニ痘瘡ハ膿(ウミ)ヲモチ麻疹ハウ
ミヲモタズ支那州(シナシウ、モロコシ)/古(イニシヘ)ヨリアルベケレドモ唐宋(トウソウ)
ヨリ書籍(ショジャク)ニ見(ミ)ヱタリ明人(ミンシン)ハ痧麻(シャマ)トイヽ清人(シンジン)ハ
痧子(シャシ)ト云(イフ)熱毒(ネツドク)ツヨキ病(ヤマイ)ユヘ痧病ト混(コン)ジテ云ト
見ヱタリ痘瘡ハ日本/初(ハジメ)テ流行(リウコウ)ノ年月国史ニタ
シカニアラハルレトモ麻疹ハ往古(ムカシ)ノコトハシレ
ズ天疫ニツレテ発スルモノナレハ往昔(ムカシ)ノ人モ
サゾヤムベケレトモシンズ国史ニ疫邪(ヱキジャ)/行(ヲコナハ)ルコト
ヲ記(シル)シタル内(ウチ)ニ麻疹モアルベシサテ大テイ二
十三五年メニ天下一マイニ流行(リウコウ)ス元禄(ゲンロク)/庚(カノヱ)/未(ヒツジ)年【庚未は存在しない】
宝永(ホヲヱイ)五/戊(ツチノヘ)子年/享保(キヤウホウ)十五庚戌年/宝暦(ホヲリヤク)三/癸(ミズノヘ)【ミズノトの誤記】酉年/安(アン)
永(ヱイ)四五未申年流行ス宝永ト宝暦ノ麻疹ハ至(イタツ)テ
重(ヲモ)ク死亡(シボウ)ノモノ多(ヲヽ)ク安永ノ麻疹ハ軽シ俗(ゾク)ノ諺(コトハザ)
ニモ痘瘡ハ美面(ミメ)/定(サダ)メ麻疹ハ命(イノチ)定トイフ支那ノ
方(ホウ)ニモ痘瘡ト同ジク論(ロン)ジタル書(ショ)アレバ此(コノ)/病(ヤマイ)/治(ジ)
方大切(タイセツ)ノコトナリ古(イニシヘ)ヨリ二十三四五年メニ流(ハヤ)
行(ル)トイヘトモ其(ソノ)ハヤリニ一/度(ト)ハ重(ヲモ)ク一度ハ軽(カロ)ク
流行(リウコウ)シヲモキモカロキモツヾクコトモ其年ノ
気候(キコウ)ニヨツテアルベキナリ明人(ミンジン)孫文胤(ソンブンイン)ガ六腑(フ)
ヨリ発スル熱(ネツ)ト云ハ非(ヒ)/也(ナリ)清(シンノ)張路玉(チヤウロギヨク)ハ手足大陰(シュソクタイイン)
陽明(ヨウメイ)ニ経(ケイ)ノ縕熱(ウンネツ)ガ麻疹ニナルトイヘトモ左(サ)ニハ
アラズウンネツガ二経ニアラハ諸経ニモミナ
ウンネツアツテ諸経ノウンネツモトモニ発ス
ベシ又麻ハ邪熱ナリトモ云リ邪熱ナラバ一/生(セウ)
涯(ガイ)ニ一度ニカギラズ幾度(イクタビ)モヤムハズナリ痘疹
ト同シク一生ニ一度スルニテ天疫ニヨツテ一
/種(シュ)ノ胎毒/表発(ヒヤウハツ)スルヲ麻疹トシルベシ疫邪ニヨ
ツテ癮疹(カサボロセ)イズルヲ俗ニ三日ハシカト云コレハ
カロキモノニテ小児(セウニ)/弱(ジャク)年ノ人ヤムコトアリコ
レト麻疹ト一ツニ心(コヽロ)ヱタルトミヱタリ麻疹ハ
大病也/和漢(ワカン)ノ書ニキツトシタル書モナク二十
四五年メニハヤル病ユヘ医師モタビ〳〵手(テ)ニ
カケヌユヱ此/病(ヤマイ)治方ニ心ヲ用ヒズ療治(リヤウジ)スルモ
麻疹ハヤリイダスト俄ニ諸書ノ巻末(クワンマツ)ニアルザ
ツトシタル杜撰(ズサン)ノ考(カンガヘ)ヤ麻疹(マシン)/精要(セイヨウ)ヲ閲(ミ)テ治方ヲ
【左ページ上部文章】
痘瘡麻疹二度
ヤムハ前后ノ
内痘ハ水痘痳
ハ癮疹也痳痘
流行ノ時ニ水
痘癮疹必ス交
リ行ルヽモノ
也
下(クタ)スユヱサグリ〳〵ノ療治也チト合点(ガツテン)行(ユキ)カヽ
ルト流行(ハヤリ)シマイ又(マタ)後(ノチ)ノハヤリヲ待(マツ)ウチニハ死(シン)
デシマイ幸(サイワイ)ニ生(イキ)テイテモ老耄(ロウモウ)シテ人ノ療治処
ニテモナシ夫(ソレ)ユヘ天下ニ麻疹ニ功者(カウシャ)と云医師
マレナリ又/俗(ゾク)人ハ升麻葛根湯(セウマカツコントウ)ニテスムヤウニ
心ヱタルモノモアリヤミテミタレバシルベシ
中(ナカ)々カロキ病ニテハナシマヱニ云如ク麻疹ハ
書籍(ショヂャク)徴(チャウ)スルニタラヌユヱ予/自(ミツカ)ラ経験(ケイケン)ヲセント
思(ヲモフ)トコロニ安永ノ麻疹ニ多(ヲヽ)ク療治シテ今古(コンコ)ノ
方法を縦横(ジウヲウ)ニ用(モチ)ヒ予/憶見(ヲクケン)ヲマゼテ治方ヲ下シ
コヽロミ所謂(イハユル)ナマモノヽ稽古(ケイコ)ニテ麻疹ノ治方
合点(ガテン)セシナリ /昇平(セウヘイ)ノ御代(ミヨ)諸道(ショドウ)大イニヒラケ我(ワカ)
道(ミチ)ニ心ヲ用ユル人モ多(ヲヽ)キコトナレバ専門(センモン)ソノ
門人ニ示(シメ)ス高案(カウアン)モアルベシコノ書ハ予ガ門子弟(モンシテイ)
ニ口授(クジユ)スルコトヲ記(キ)スルノミナリ
麻疹病状并治方之論
一 麻疹流行ノマエニ必(カナラズ)疫邪(ヱキジヤ)大ニ行(ヲコナハ)ルソノヽチ
少壮(セウソウ)大人/老(ロウ)人トモイマダ麻疹ヤマザル人ハ皆(ミナ)
ヤムナリ始(ハジメ)咽(ノンド)ハシカクイラツキイタミ灼熱(シャクネツ)ス
ソノネツ三四日六七日ニ至(イタ)ル尤(モツトモ)熱ニ軽重(キヤウドウ)アリ
強(ツヨキ)ハ譫語(センゴ)妄言(モウゲン)ス面(ヲモテ)赤目(アカメ)ハレナミダイデ頭痛(ヅツウ)シ
咽(ノンド)イタミ咳(セキ)イデ嚏(ハナヒ)シ嘔(カラヱヅキ)シタンイデ煩渇(ハンカツ)一/身(シン)疼(イタム)
コレラノ症(セウ)虚実(キョジツ)ヲ論(ロン)ゼズ一/角(カク)ヲ用(モチ)ユ薬(クスリ)ハ三黄
瀉心湯ヲ與(アタ)フ初(ハジメ)ニ身ニウルホヒ汗(アセ)出(イデ)大/便(ベン)瀉下(シャゲ)
スルハ大ニヨシ順症(ジュンセウ)也三黄湯與ルニ及(ヲヨバ)ズサテ
大便瀉スル症ト三黄ヲ用テ二三行下レバ排毒(ハイドク)
湯ヲ與(アタフ)ベシ
三黄瀉心湯
大黄 一㦮 黄芩 一㦮 黄連 五分
右三味水一合半入湯ヲヨク沸(ワカシ)諸薬ヲ入一合
ヲ取再服小児半/減(ゲンス)
排毒湯
午房子 七分 荊芥 三分 羗活 窮芎
黄芩 防風 葛根 各五分 柴胡三分
甘艸 一分
右八味水一合半入一合ヲ取頓服小児半減ノ
服法 大人小児トモネツ強(ツヨ)ク初発ニハ多ク
服サスヘシ生冷粘滑五辛酢酒臭腥(セイレイネンクワツゴシンスシュシウセイ)
一 麻疹発シテ粟(アハ)ノ粥(カユ)ヲ打(ウチ)ツケタル如(ゴト)ク凸(ナカタカ)ニ尖(トカリ)
色(イロ)/紅潤(カウジユン)ナルハ順疹ナリ色/紫赤(シセキ)ニテ唇(クチヒル)焦(コガ)レ或(アルヒ)ハ
色/赤暗(セキアン)ニテ乾枯(カンコ)/潤(ウルヲヒ)ナク唇/燥(カワキ)/裂(サケ)/舌苔(ゼツタイ)/黄黒(ヲウコク)大小/便(ベン)
秘渋(ヒジュウ)/痰喘(タンゼン)シ神昏(シンコン)/眩瞑(メマイシ)/煩悶(ハンモン)スル症(セウ)ハ悪症(アクセウ)ナリ委(イ)
中(チウ)/尺澤(シャクタク)ヨリ血(チ)ヲトルベシ小児百病熱/強(ツヨ)キ症別
シテ丹毒(タンドク)ニ大推(チリケノ)/身柱(アタリ)ヲ吸(ス)ヱハ血/集(アツマ)ル処ヲツケ
バ血/出(イヅ)ル手(テ)ニシタガツテ解熱(ゲネツ)シ治スルコト妙ナ
リ右ニ云麻疹ハ悪症也三黄加石膏黄連白虎湯
ヲシキリニ用ヒ兼(カネ)テ洎夫藍(サフラン)ヲフリ出(イダ)シ用ベシ
熱(ネツ)/強(ツヨク)色々ノ症アツテ呀牙(カウゲ、ハギリ)シテ頻渇(ハンカツ)スルモノニ
白虎湯ニ芩連玄参ヲ加用ベシ麻疹ハ清涼(セイリヤウ)ノ剤(ザイ)
可(カ)也/温熱(ウンネツ)ノ薬ヲ忌(イム)ベシシカシナガラ其症ニヨ
リ用ベキコトナリ寒気(カンキ)ノ節(セツ)/風寒(フウカン)ニフレテ表気(ヒヤウキ)
閉(トヂ)フレ悪寒(ヲカン)ツヨク麻表発シカヌルニハ葛根湯
ヲ用ユベシ
白虎湯
知母 石膏 粳米 黄連 甘艸
右水煎服
葛根湯
麻黄 桂枝 葛根 芍薬 生姜
右水煎服
麻初ニ下利スル症発表排毒ノ剤ヲ用テ表発ス
レハ熱解シ下利/止(ヤム)ナリ表発シテ熱サメズ下利
強キモノニ葛根芩連芍薬湯ヲ与フモシ熱解シ
下利/清穀(セイコク)色白黄/腹(ハラ)/痛(イタ)ミ紅潤ナラザルモノニハ
理中湯或ハ黄蓍建中湯/四肢(シシ)/厥令(ケツレイ)スルモノニハ
附子理中湯ヲ与フ瘟疫(ウンエキ)麻疹ハ熱毒病ユヘ温(ウン)薬
ハ用ラレヌト一/向(コウ)ニ云ハ非(ヒ)ナリ四肢/微冷(ビレイ)下利
清水(セイスイ)ノ症ニ大承気湯ヲ用ユル症モアリ寒熱/虚(キョ)
実(ジツ)ノ目(メ)ノ付/処(ドコロ)/肝要(カンヨウ)ナリ外感(グハイカン)/内症(ナイセウ)寒熱虚実ヲ察(サツ)
知(チ)シ温涼補瀉(ウンリヤウホシャ)ノ薬(クスリ)ヲ用ユルコト治方ノ常(ツネ)ナリ
病ハ貴賤(キセン)老少ノ別(ベツ)ナクツクモノナレハ医タル
モノ治術(ジジュツ)ヲナスニハ仁心(ジンシン)ヲ以(モツ)テ仁/術(ジュツ)ヲ行(ヲコナ)フ身(ミ)
ナレハ貴賤(キセン)ノ隔(ヘタテ)ナク其病/因(イン)ト其症ヲヨク診察(シンサツ)
シ寒熱温涼ノ薬ヲ与(アタ)フベキコトナリ当今ノ医
能(ヨク)云コトニ吾(ワレ)ハ古方医者ユヘ後世(コウセイ)ノ薬方ハ用
ヒズ或ハ東垣流(トウヱンリウ)ユヱ古方ノ薬ハ調合(チヤウゴウ)セズト云
儒学(ジュガク)ニコソ漢(カン)以上ヲ古学(コガク)トシ以下ヲ後トシ宋(ソウ)
朝(テウ)風ノ堅(カタ)キ学者ハ老荘(ロウサウ)ノ書ハ講(カウ)ゼヌト云コト
アレトモ医道ハ病ヲ治スルヲ以テ主(シュ)トス今古(コンコ)ト
云/差別(サベツ)アルベケンヤ予常ニ諸生ニ教ルニ我門
医術ヲ行ニハ貴尊(キソン)トイヱトモ懼(ヲソ)レズ権門(ケンモン)トイヱ
トモ愐愉(メンユ)セズ野夫(ヤフ)/貧婆(ヒンバ)トイヱトモ軽慢(キヤウマン)セズ古人名
医ノ説(セツ)トイヱトモ考試(コウシ)シテ験(シルシ)ナケレバトラズ后(コウ)
世(セイ)/蒭蕘(スウショウ)ノ言(コト)トイエトモ治方ニ益(ヱキ)アレバ是(コレ)ヲ取(シュ)
用(ヤウ)ス徃年門生肥藩ノ医/官(クワン)/某(ソレガシ)/業(ギヤウ)ナツテ帰(カヘ)ルヲ送(ヲク)
序(ジョ)ノ中ニ医之治法ハ賢君(ケンクン)ノ国(クニ)ヲ治(ヲサメ)/良将(リヤウセウ)ノ兵(ヘイ)ヲ
用ル如ク寛猛(クハンモウ)ノ政(マツリゴト)/背水(ハイスイ)ノ陣(ヂン)ノコトヲイヱリコ
レラノ語ハ古人モイヽ能人ノ口(クチ)ニ膾炙(クワイシャ)スルコト
ナレトモ麻疹ニ温薬ヲ其症ニヨリ用テ害(カイ)ナキコト
ヲイフチナミニ記(キ)スル也
熱(ネツ)/強(ツヨク)二便/秘渋(ヒジウ)ノモノニハ三黄湯小便/不通(フツウ)ノモ
ノニハ四芩散加滑石舌苔アリテ煩渇冷水ヲ好(コノム)
モノニハ白虎湯寒熱往来アリテ胸脇(キャウ〳〵)/苦満(クマン)シ嘔(カラエヅキ)
モアリテ小便少ク渇キアルモノニハ柴芩湯ヲ
与フベシ
四芩散
猪芩 沢瀉 白求 茯芩
右水煎服
小柴胡湯
柴胡 黄芩 半夏 人参 大棗
甘艸 生姜
右水煎服
始下利シ麻疹発シ熱解シ麻カセ食スヽムハ順
ナリ食スヽマズ下利止テ舌ニ黄苔ツキ大便秘
シ腹脹熱アルモノニハ三黄湯黄連解毒湯撰テ
用ヘシ腹満(フクマン)シ熱實大便四五日通ゼズ譫語(センゴ)スル
モノニハ大承気湯ヲ与テ可ナリ当歳ノ小児/肥(ヒ)
満(マン)/強(ツヨ)ク大便秘スルアリ此児(コノジ)ソノマヽヲケバ短(タン)
命(メイ)ナリ紫圓(シヱン)ヲヲリ〳〵用ヒ甘連加大黄湯ヲツ
ネニ用ユルトキハ鬱(ウツ)熱胎毒/泄下(セツゲ)シ長寿(チヤウジュ)ス此児
痘瘡麻疹ト見タレバ紫圓ヲツネヨリ多ク用ヒ
初発ニ大ニクタスベキナリ忽(ユルカセ)ニセバ悪症必ス
出テ救(スク)ハレザル也麻疹痘瘡モ初発ニ直視(ジキシ、メヲミツメ)スル
コトアリ便秘ノ児ハクルシカラス下セハ治ル
ナリ熱強ク腹クタル児ハタビ〳〵発シ慢驚風(マンキヤウフウ)
ノ如クニナルハ治シガタシ始ニ下利ヲイトワ
ヅ清熱浄腑(セイネツジヤウフ)ノ薬ヲ用テ可ナリ補渋理中ノ剤/斟(シン)
酌(シャク)有ベシ
麻疹/衄血(シュクケツ)出ルハヨシ熾(シ)熱血分ヨリ解スル也排毒
解毒ノ剤ヲ用テ可ナリ傷寒論ノ例ニヨツテ桂
麻ノ剤必用ベカラズ
汗出ルコト大ニ多ク鼻血(ハナヂ)ヤマサルモノニ
清寧湯 丹臺玉案
當帰 連翹 石膏 黄連 玄参
生地黄 麥門冬 甘艸
右水煎服
麻毒強ク汗(アセ)大ニ出テ血/流(ナガレ)テヤマズ又/吐血(トケツ)/止(ヤマ)ヌ
モノニハカナノウルヲ握(ニギラ)シヲキテ三黄加 犀角(サイカク)
湯ヲ興フ大便/瀉下(シヤゲ)スルニハ犀角地黄湯/総(スベ)テ吐
血ノ症ニ薬ヲ調合(チヤウガフ)シ煎(セン)ズルヒマモアレバ先/藕(ハス)
根(ネ)白芨(シランノネ)蘿萄(ダイコン)等(トウ)手ヂカニアルモノヲヲロシテ生
姜ノ自然汁(ジネンヂウ)ヲ加ヘ用ユヘキ也
犀角地黄湯
犀角 地黄 牡丹皮 芍薬
右水煎服
麻/嘔吐(ヲヽト)スルハツネ也/食薬共(シヨクヤクトモ)ニ吐スルモノニハ
半夏茯苓湯生姜ヲ加用 ソレニテモ納(ヲサマ)ラズ嘔吐
ツヨキモノニハ三黄湯ヲ用ユベシ吐スレバ用
ヒ吐スレハ用ヒ再三スレハ薬気(ヤクキ)胃(イ)中ニノコリ
テ嘔吐ヤム
諸病 嘔吐ヤマズ甚(ハナハタ)シキハ食薬水湯(シヨクヤクスイトウ)咽(ノンド)ヲ下レバ
ソノマヽ吐ハイカナル良(リヨウ)方/妙(メウ)薬モ及(ヲヨ)バズ座視(サナカラミ)
スルノミタトヱハ紙袋(カミフクロ)ニモノヲ入ルヤウナル
モノナリハジメニフツト風(カゼ)ヲ吹(フキ)入ルレバ口(クチ)ハ
ル其処へ入ルレバ這(ハイ)ル也始ニフツトイワサレ
バ袋ノ口(クチ)シマリテアルユヘナニホドイレテモ
ワキヘ泄(モル)ルナリソノ如(ゴト)ク昼夜(チウヤ)ノ嘔吐ニ胃(イ)ノキ
上ヘツキ胃中ハ空虚(クウキヨ)ニナリ心下ハ堅(カタ)クナツテ
イルユヱ胃ハ上ヨリモノヲウケコク化(クワ)シテ下
ヘ送(オク)ルガ役(ヤク)ナルニソノ常度(ジヤウト)ヲ失(ウシナ)イ吐 斗(バカリ)ニナツ
テイルヲ病人にソリヤ薬ト云ト起(オキ)テノムソノ
クスリ胃中ニ納(オサ)マラズ食道胃ノ上 口(クチ)ヱ行トコ
ロテ病人元ノ如クネルユヘスグニ吐スルナリ
ソノ病人ニアヱハ愚按(グアン)ニテ皆(ミナ)嘔吐ヤム也 愚按(グアン)
左(サ)ノ如シマツ病人ヲソノマヽネサセオキ管ヲ
以テ水ヲ一口 吸(スハ)スナリサテソノアトノナニモ
ナキモノヲ今一口ノマスナリ初ノ一吸ノ水食
道ヨリ胃ノ上口ニアルトコロヲアトノカラヲ
ノムテハニハジメノ水胃ヘヲサマルナリソノト
コロニテ病人気ヲシヅメ胸(ムネ)ヲ一二度サスリサ
テ一味半夏湯ニテモ甘草乾姜湯ニテモ竹葉石
膏湯附子粳米湯三黄湯呉茱曳湯ニテモ病症 相(ソウ)
応(オウ)ノ薬ヲ水ヲノマセシ服㳒(フクホウ)【法の異体字】ヲ以テノミカゲン
ヨキヲ管(クタ)ニテ一口/吸(スハ)セソノアトノ空(カラ)ヲクダヲ
トリテ空(カラ)ヲノマセサヘスレハイカヤウノ吐逆(トギャク)
症ニテモ百/発(ホツ)百/中(チウ)ニクスリハ納(ヲサマ)ルナリ
咽喉(インコウ)イタミ咳嗽(ガイソウ)ニ甘桔梗湯嘔気アルニ竹石湯
竹葉石膏湯
竹葉 石膏 半夏 甘艸 粳米
人参 麥門冬
右水煎服
咽喉大ニ腫(ハレ)イタムニ玄桔湯
玄桔湯 丹臺玉案
玄胡索 桔梗 午房子 石膏
甘艸 淡竹二十片入水煎服
麻疹発熱外風寒ニ襲(ヲソハ)レ発表シガタク肩背(ケンハイ)/強(コハヾ)リ
悪寒(ヲカン)シ頭痛(ヅツウ)発熱ツヨク咳嗽(ガイソウ)/微喘(ビゼン)シ一身/疼痛(トウツウ)シ
麻疹出カヌルユヱ瘟疫傷(ウンエキセウ)寒ト見(ミ)マガフ症アリ
眼中(ガンチウ)/赤(アカ)ク灼熱(シャクネツ)シ脈(ミヤク)/弦數(ケンサク)/咽(ノンド)イラツクニテ麻疹ト
シルベシ其症ニハ小/続命(ゾクメイ)湯大青龍湯ヲ用/温覆(ウンフ)
シテ汗ヲ取ベシ麻発シ諸症穏也
富貴(フウキ)ノ家(イヘ)ニ生(ムマ)レタル児(ジ)ハ常ニ衣衾(イキン)/重煖(ヂウダン)ニスキ
ルユヱ肌肉(キニク)/蒸熱(ゼウネツ)シテ皮膚(ヒフ)/脆柔(キヂウ)ナルユヱ麻痘表
発シヤスケレトモ蒸爛(ゼウラン)ノ肌肉(キニク)ユヱ麻痘/重(ヲモ)キ方也
貧賤(ヒンセン)ノ児ハ寒風/凛烈(リンレツ)ニモ衣服(イフク)/薄麁(ハクソ)ニテ温暖(ウンダン)ス
クナク育長(イクチヤウ)スルユヱ皮肉(ヒニク)/堅実(ケンジツ)ニテ壮健(ソウケン)ナリコ
レニモ又ツイヱアリテ麻痘発表シガタク食物(ショクモツ)
麁淡(ソタン)/又(マタ)/却(カヘッ)テ小児/不相応(フサウヲウ)ノ膏梁(カウリヤウ)ナル肉食ヲサシ
孕婦(ヨウフ)モ飲(イン)食/節禁(セツキン)ナク乳母(ニウボ)モ食禁セザルユヱ小
児胎毒強ク麻痘トモニ重(ヲモ)シシカシナガラ貴賤(キセン)
トナク兄(アニ)/重(ヲモ)クテ弟(ヲトヲト)/軽(カロ)キモアリ姉(アネ)軽クテ妹(イモヲト)重キ
モアレハ先天ノ毒気血ニ稟(ウク)ル時(トキ)ノ深浅(シンセン)ニヨツ
テ軽重トナルモノナレハ貴賤トモ医療(イリャウ)ノコト
ハ大/切(セツ)ノ事ナリ孝子(カウシ)医ヲ知(シラ)ザレバアルベカラ
ズ古言也/夫(ソレ)子(コ)ハ育長(イクチャウ)サセテ父祖(フソ)ノ業(ゲウ)ヲ譲(ユヅ)ルモ
ノナレバ子孫(シソン)ノ病気ニ養生(ヤウゼウ)ヲ加(クワヘ)ルモ孝ノ一ナ
レバユルカセニスベキ事ニアラザルナリ
小児ニ父母(フボ)ノ遺(イ)毒ニテ胎毒アル児ハ麻疹痘瘡
毒フカシ心ヲツケテ療治スベシ犀角ヲ多ク用
テヨシ大人当今ノ人/?(バイ)【(疒に黴)】毒(ドク)ノ人多/或(アルヒ)ハ疳瘡(カンソウ)/便毒(ベンドク)
骨痛(コツツウ)/等(トウ)服薬シテ其人ハ病/平愈(ヘイユ)シタリト思(ヲモ)ヱトモ
此(コノ)/病(ヤマイ)/根深(ネフカ)キモノニテ遺毒ナヲアルモノ麻疹ヲ
病ニ毒キハメテ深(フカ)ク変症(ヘンセウ)イヅルモノナリ初ニ
三黄加芎ヲ用ヒ解毒排毒ヲユルカセニスベカ
ラサル也
解毒湯
防風 薄荷 荊芥 石膏 芎窮
桔梗 午房子 連翹 大黄 甘艸
右水煎服
麻疹/内攻(ナイコウ)スルコレ至テ大事也発表ノ剤ニ穿山(センザン)
甲(カウ)ヲ加(クハ)ヘ用ユ痰喘(タンゼン)/壅塞 (ヨウソク)アルニハテリヤアカヲ
生姜ノ自然汁(ジネンジウ)ニテ用ヒ煎湯ハ麻黄連翹赤小豆
商陸大黄杏仁枳實甘艸ヲ用ユ安永流行ノトキ
一角ヲ与(アタヘ)テ多(ヲヽ)ク即(ソク)/功(カウ)ヲヱタリ其時ノ治方(ジホウ)ハ麻
疹精要ノ透表(トウヘウ)/不透表(フトウヘウ)/没早(ホツサウ)ノ條(ゼウ)ノ治方ニテ功ア
リ精要ノ治方ヨキユヱコヽニ贅(ゼイ)セズ行テ閲(ミ)ル
ベシ
麻疹毒熱ニヨリ癇発(カンハツ)/狂乱(キヤウラン)スルモノアリ辰砂ヲ
白湯ニテ與ウベシ薬剤ハ白虎三黄/等(トウ)ヲ用ユベ
シサテ発狂ニ治方サマ〳〵アルウチ吐剤ハミ
ダリニ與ウベカラス予吐剤ヲ與ヱテ功モ多ク
トリタレトモ吐剤ニテ吐後(トゴ)/体気(タイキ)/脱(ダツ)シ死(シ)シタルモ
アリ在辱(ザイヂヨク)ノモノハ吐スベカラズト吐方(トホウ)/家(カ)ノ制(セイ)
令(レイ)也/発狂(ハッキヤウ)ノ人/元気(ゲンキ)ニ見(ミ)ユレトモ不心(フシン)ノモノユヘ
体気ヲヽヰニ虚労(キョロウ)スルモノナレハ攻撃(コウゲキ)ハ体気
ノ虚實ヲハカツテ與フヘキナリ発狂ノモノ治
セザレハ終ハ死(シ)スルモノナレトモ人ノ妻子タル
モノハ乱心(ランシン)ナカラモ夫父(フフ)ノ長生(チョウセイ)シテアルヲ悦(ヨロコ)
ブベキニ吐剤(トザイ)ニテ命期(メイキ)ヲ促(ウナガ)シヌレバ夫父ノ敵(カタキ)
トサゾウラムベキト惻隠(ソクイン)ノ心マイ〳〵出テ其
一/族(ゾク)ヲ見レバ耳熱(ジネツ)ヲ生スルコト也シカシナガ
ラ医タルモノ療治ハ褒貶(ホウヘン)ニカヽワルコトナク
仁心(ジンシン)ヲ以治方ヲ下スハ人ノ親子(シンシ)ノ病ヲ見コト
我(ワガ)/父子(フシ)ヲ見ル如(ゴト)ク深切(シンセツ)ヲ以薬ヲ與フレトモ病症
悪症(アクセウ)発シテ死スルハカレガ天命也/愚婦(グフ)/鈍妾(トンセウ)ガ
ウラムトモ内(ウチ)ニ顧(カヘリミ)/見(ミ)テヤマシカラザルベシ
麻疹/咽喉(インコウ)大ニ腫(ハレ)/飲食(インショク)スルコトアタハズ呼吸(コキウ)モ
息(イキ)/閉(フサカリ)セントスルニハ指(ユヒ)ノ高陽(カウヤウ)ノ穴足(ケツアシ)ノ隠白(インハク)ヨ
リ鍼(ハリ)ヲ以(モツ)テ刺(サ)シ血(チ)ヲ取(トル)ベシ血出レバ速(スミヤカ)ニヨシ
妙ナリ
麻疹舌イタミ舌瘡ノ如クニナルハ雌黄(シヲウ)蒲黄(ホヲウ)ヲ
ヌルモヨシ真砂(シンシャ)モヨシ
目(メ)/痛(イタ)ミ赤(アカク)/爛(タダ)ルヽモノニ排毒湯ヲ用ヒ芦眼石(ロカンセキ)氷(ヘウ)
片(ヘン)ヲ水ニテトキアライテヨシ
麻後/耳(ミヽ)ヨリ膿(ウミ)出ルモノ或ハカユミイタミアル
モノ
清黄湯 証治準縄
防風 滑石 木丹 霍香 黄連
紫蘇 甘艸
右水煎服
麻後/牙疳(ゲカン)/齦(ハグキ)/腐爛(フラン)スルハ餘毒アツテ胃中ノ熱気
上/衝(セウ)スルユヘナリ解毒ノ剤ヲ用ユヘシ腐爛ツ
ヨキハ死スルモノ也解毒清熱ノ薬モトヾキカ
ヌルモノナリ生々(セイ〳〵)乳化毒丸(ニウクワトククワン)ヲ與ヱテ功(コウ)ヲトリ
タリ
婦人五十以上麻疹/平生(ヘイセイ)/怒(ド)キ強(ツヨ)ク癇症(カンセウ)ニテ腹内(フクナイ)
トヽノワズ素(モト)ヨリ月水モ少(スクナ)ク四十/有餘(アマリ)ニテ早(ハヤク)
ク【重複】経断(アガリ)タルモノハ初熱強ク悪症アラワルベシ
毒気/熾盛(シセイ)ニテ大小便/秘渋(ヒヂウ)ス三黄湯ニ紅花ヲ加
ヘ用ユ
六十以上ノ麻疹熱ツヨク初発ノ諸生ニテ体気
労(ツカ)レ病/危篤(キトク)ニシテ皮(カワ)/厚(アツ)ク麻疹/透(トウ)発シガタク痰(タン)
喘(ゼン)/壅塞(ヨウソク)スコレモ始ニ解毒排毒ヲ速(スミヤカ)ニスベシ予
安永ノ麻疹ニ多ク療治ノ内七十二歳ノ老婆(ロウバ)/死(シ)
シタリコレモ発表セズ喘急ノ処ユヱ楽/的中(テキチウ)セ
ザルカ治方ノ過(アヤマ)リシカ予ガ手ニ死シタリ
六十以上/老叟(ロウソウ)ハ麻毒強キハ不治也/老男(ロウナン)ハ老/婆(バ)
ヨリ熱ニタヱスト見(ミ)ユルナリ
妊娠(ニンシン)ノ婦(フ)人痘瘡麻疹トモニ熱ニヨツテ堕胎(ダタイ)ス
ルモノナリ初ニ解毒排毒ヲ速ニスベシ治方孕
婦タリトテカワルコトナシ張氏(チョウシ)ハ滋血(ジケツ)/安胎(アンタイ)ノ
薬を兼(カヌ)ベキヤウニイヘトモ滋血安胎ノ薬ハ麻疹
表発解熱ノサワリアルベシモシ胎ヲチハ産後(サンゴ)
ノ治方ニ麻熱ノ血室(ケツシツ)ヘ入ザルヤウニ心ヲツケ
テ治スベシスベテ産後(サンゴ)ニ補血(ホケツ)ノ薬/和漢(ワカン)トモニ
用ヒ来(キタ)レリコレハ産後ニ悪露(ヲロ)/多(ヲヽ)ク下ルヲ見テ
俗(ソク)ニ言(イフ)/猿(サル)ガ血ヲ見テ泣(ナク)ノ意(イ)ニテ恐(ヲソレ)テ補血ノ剤
ヲ用ル也産後血下ルハ十箇月経血下ラザルガ
ヲリルコトニテ別(ヘツ)ニヨキ血ガ下ルニテハナシ
スデニサンゴ悪露(ヲリモノ)スクナケレバ害(カイ)アルニテ知(シル)
ベシ常(ツネ)ニ女ハ血(チ)/有餘(イフヨ)ト云コトヲシリツヽ産後
ニナレハ補血ノ剤ヲ与ルユヱモチマヘノ癇癪(カンシャク)
ニナズミテ餘症ヲヒキ出スモノナリ別(ベツ)シテ痘
麻ノ産後解熱ノ事/肝要(カンヨウ)ナリ十四五ヨリ二十四
五歳マデノ男女トモニ麻後/微(ビ)ネツアリテ手足(テアシ)ノ
裏(ウチ)ネツスルモノ骨蒸労熱(コツゼウラウネツ)ニナルモノアリ由断(ユダン)
ナクテアテスベシ小柴胡湯ニ知母地骨皮ヲ加
エ用ユベシ竹葉石膏湯ヲ用ヒ背面(ハイメン)ニ灸治(キウジ)スベ
シ俗人(ゾクジン)ハ石膏ヲ寒薬トヲソルヽハ軽粉トヽリ
チガヘタル也又麻疹ニ石膏ハ悪シキト云コト
モ俗人ノ云ヒナラワセテ老女少婦ノキイテイ
ルコト也コレハマヱドノ流行(リウカウ)ノトキ毒気強ク
必死(ヒツシ)ノ麻疹ニ石膏ヲヤムコトヲヱズ用ヒシヲ
見テ石膏ニテ死シタルヨウニ心ヱタル也カネ
テ麻疹ハ熱毒病ユヘ石膏ヲ用ヒルモノト云フ
コトヲコンイノ人ヤ病家ニテ話(ハナ)シヲクモ済世(サイセイ)
ノ一/助(ヂヨ)カ
此外麻疹変症色々発セハ前ニ述(ノブ)ル如ク軽重寒
熱虚実ヲ察(サツ)シテ療治スベシ吉益東洞(ヨシマストウ〳〵)ナルモノ
病因(ビヤウイン)ヲ論(ロン)ゼザレトモ百病ソノ病因ヲ正糺(セイキウ)シテ治
方ヲ施(ホドコ)スコト肝要(カンヨウ)也麻疹ハ気分ニウケタル胎
毒天疫ニヨツテ表発スル病ナレハ変症発スル
モ胎毒ノ軽重表発ト不表発ニヨルコト也人心
ノ同シカラサルコトソノ面(ヲモテ)ノ如クナレハ千状(センジヤウ)
万態(バンタイ)/変症(ヘンセウ)アラワルベシ所謂(イハユル)臨機応変(リンキヲウヘン)ニテ治方
ヲ與フベキ事也
麻疹要論終
桃李園藏板【角印】
寛政十一巳未歳二月発行
大阪書林 《割書:敦賀屋久兵衛| 誉田屋伊右衛門》
【裏表紙】
【表紙】
温疫論札記 乾坤
温疫論札記跋
余弱冠与友人対読温疫論、読次参攷諸書、以標記
於上層、天保癸卯、又講此書、乃集為小冊子、以便講
肄、蓋所攷猶太倉之稊米耳、掛一漏百、読者紏【糾ヵ】繆補
遺則幸甚、椿庭山田業広識
天保癸卯草此書、塗抹紛雑、殆不可観、今茲文久癸
亥、大洲医官梅林元【玄=欄外朱記修正】瑞、白川医官乗附春海、逐条対
勘之原書、然後体裁略可観、然区々小冊子、豈足謂
之著述乎、但二子之勤、亦不忍廃、因再装釘為冊、挿
之架云、椿庭又識
四庫全書総目巻一百四
子部十四 医家類二
温疫論二巻、補遺一巻、《割書:通行|本》
明呉有性撰、有性字又可、震沢人、是書成於崇禎
壬午、以四時不正之気、発為温疫、其病与傷寒相
似而迥殊、古書未能分別、乃著論以発明之、大抵
謂、傷寒自毫竅而入、中於脈絡、従表入裏、故其伝
経有六、自陽至陰、以次而深、瘟疫自口鼻而入、伏
於募原、其邪在不表不裏之間、其伝変有九、或表
或裏、各自為病、有但表而不裏者、有表而再表者、
【「、」は青色で追記されている】
【温疫は瘟疫を略記したもの。瘟は悪性の感染症、疫は流行病】
有但裏而不表者、有裏而再裏者、有表裏分伝者、
有表裏分伝而再分伝者、有表勝於裏者、有先表
而後裏者、有先裏而後表者、其間有与傷寒相反
十一事、又有変証兼証、種々不同、並著論制方、一
々弁别、其顕然易見者、則脈在不伏不沈之間、中
取之乃見、舌必有胎、初則白、甚則黄、太甚則黒、而 芒刺也、其謂数百瘟疫之中、乃偶有一傷寒、数百
傷寒之中、乃偶有一陰証、未免矯枉過直、然古人
以瘟疫為雑証、医書徃々附見、不立専門、又或誤
解素問冬傷於寒春必病温之文、妄施治療、有性
因崇禎辛巳、南北直隷、山東浙江大疫、以傷寒法
治之不效、乃推究病源、参稽医案、著為此書、瘟疫
一証、始有縄墨之可守、亦可謂有功於世矣、其書
不甚詮次、似随筆箚録而成、今姑存其旧、其下卷
労復食復条中、載安神養血湯、小児時疫条中、載
太極丸、並有方而無証、又疫痢兼証一条、亦有録
而無書、故别為補遺於末、又正名一篇、傷寒例正
誤一篇、諸家瘟疫正誤一篇、原目不載、蓋成書以
後所続入、今亦併録為一為【巻=欄外修正】、成完書焉、
醒医六書瘟疫論引
其伝有九《割書:一|オ》下巻統論疫有九伝治方条、可攷、《割書:下巻|卅六ウ》
屠龍之芸雖成而無所施《割書:一|ウ》 荘子列御冠篇、朱泙
漫学屠龍於支離益、単千金之家、三年技成、而無
所用其巧、
指鹿為馬《割書:一|ウ》 史記秦本紀曰、趙高欲為乱、恐群【辟を修正】臣不
聴、乃先設験、持鹿献於二世曰、馬也、二世笑曰、丞
相誤邪、謂鹿為馬、問左右、左右或黙、或言馬、以阿
順趙高、或言鹿者、高因陰中諸言鹿者以法、
或謂瘟疫之証仲景原別有方論《割書:二|オ》 王安道遡洄
集、張仲景立法攷云、仲景為温暑立方、必別有法、
但惜其遺佚不伝、致使後人有多岐之患云々、
崇禎辛巳《割書:二|オ》 明思宗十四年、
所感之気《割書:三|オ》 謂天地間一種異気、
所入之門《割書:三|オ》 謂口鼻也、
所受之処《割書:三|オ》 謂募原也、
伝変之体《割書:三|オ》 謂疫有九伝也、
按西塘感証篇、引傷寒心法云、見今世甚少太陽
証、又鼓峰云、世甚少太陽症、
劉茝庭先生云、竊想当時之疫、皆進勢肆厲、遽犯
半表裏、故呉氏随立其説乎、西塘感証引傷寒心
法云々、其書適与呉氏時世相近、乃可以見也、
温疫論札記上
原病《割書:類編巻一《割書:二|ウ》作瘟疫病情総論》・本篇補遺
可攷、《割書:六》
昔以為非其時有其気春応温而反大寒夏応熱而
反大涼秋応涼而反大熱冬応寒而反大温得非時
之気長幼之病相似以【欄外挿入】為疫《割書:一|オ》 傷寒論傷寒例文、
邪自口鼻而入《割書:一|ウ》 医賸曰、仁斎直指云、暑気自口
鼻而入、凝之於牙頬、達之於心胞絡、如響応声、此
暑自口鼻而入也、呉崑升麻葛根湯考云、冬月応
寒而反大温、民受其湿厲之気、名曰冬温、非時不
正之気、由鼻而入、皮毛未得受邪、故無汗、又疫瘧
五神丸塞鼻法考云、以疫気無形由鼻而入、故亦
就鼻而塞之、此冬瘟疫気并自鼻而入也、又太無
神术散考云、山嵐瘴気、謂山谷間障霧湿土敦阜
之気也、湿気蒸騰由鼻而入、呼吸伝変、邪正分争、
又医学全書云、瘴気之病、東南雨広山峻水悪地
温漚熱、春秋時月、外感霧毒、寒熱胸満少食、此毒
従口鼻入也、此瘴気自口鼻而入也、広筆記云、傷
寒温疫三陽証中、往々多帯陽明者、以手陽明経
属大腸、与肺為表裏、同開竅於口、凡邪気之入、従
口鼻、故兼陽明証者独多、此陽明病、従口鼻而入
也、張錫駒傷寒直解云、霍乱者、不従表入、不渉形
層、大邪従口鼻而入、直中於内、為病最急、又云、痧
者、即天地間不正之気、湿熱熏蒸、従口鼻而入、不
吐不瀉、腹中絞痛、俗所謂絞腸痧是也、此霍乱及
痧、并自口鼻而入也、沈明宗金匱註云、中悪之証、
俗謂絞腸痧、即臭穢悪毒之気、直従口鼻入於心
胸腸胃臓腑也、此中悪従口鼻而入也、諸書所載
已如此、世人徒因呉又可之言、而知瘟疫自口鼻
而已、
鍼経所謂横連膜原《割書:一|ウ》 四字、見霊樞歳露篇、案素
問瘧論、其間日発者、由邪気内薄於五蔵、横連募
原也、其道遠、其気深、其行遅、不能与衛気俱行、不
得皆出、故間日乃作也、王注、募原謂鬲募之原系、」
挙痛論、寒気客於腸胃之間、膜原之下、血不得散、
小絡急引、故痛、按之則血気散、故按之痛止、寒気
客於侠脊之脈、則深按之不能及、故按之無益也、
王注、膜謂鬲間之膜、原謂鬲肓之原、侠脊之脈者、
当中督脈也、桂山先生有膜原考、載医賸、可攷、
昔有三人《割書:二|オ》 博物志云、王爾張衡馬均、昔冒長霧
行、一人無恙、一人病、一人死、問其故、無恙人曰我
飲酒、病者食、死者空腹、《割書:十巻|二ウ》
労碌《割書:ニ|ウ》 或曰、碌力音通、後世医書、労力多作労碌、
鈴木順亭曰、荀子労辱篇、軥録疾力、注云、軥与拘
同、拘録、謂自撿束也、拘録、又見君道篇、謝氏云、淮
南子主術訓、勇力弁慧、捷疾劬録、軥録蓋労身苦
体之意、楊訓為拘録、非也、順亭按、労碌之碌与劬
録之録、蓋同義、老子碌々、一本作録々、可以徴、力
録相対用、則或以為碌力通者、恐誤、盧文弨鍾山
札記云、荀子栄辱篇、孝弟愿愨、軥録疾力、以敦比
其事業、而不敢怠傲、是庶人之所以取煖衣飽食、
長生久視、以免於刑戮也、楊倞注云、軥与拘同、拘
録、謂自撿束也、疾力、謂速力而作也、蓋以君道篇、
有愿愨拘録語、故謂軥同拘、然淮南子主術訓、人
之性、莫貴於仁、莫急於智、両者為本、而加之以勇
力弁慧、捷疾劬録、則劬録【欄外補充】猶今人之所謂労碌、但以撿束
為言、非也、泰族訓又云、劬禄疾力、作劬是也、禄当
作録、或古人以音同、得借用也、君道篇、以愿愨拘
録為官人使吏之材、則尤当作勤労解為是、
精気自内由膜原以達表《割書:三|オ》 劉松峯精改邪云、精
字不妥、按精気謂裏気也、達原飲方後云、邪気盤
踞於膜原、内外隔絶、表気不能通於内、裏気不能
達於外、
戦汗《割書:三|オ》 本巻戦汗条可攷、《割書:廿四|ウ》
瘟疫初起《割書:類篇巻二《割書:一|ウ》作瘟疫初起治法》
例
嶺南瘴気《割書:四|ウ》 医賸曰、巣源、嶺南瘴、猶如嶺北傷寒
也、外台引備急、嶺南率称為瘴、江北総号為瘧、此
由方言不同、非是別有異病、按後漢書馬援伝、軍
吏経瘴疫、又宋均伝、則云及馬援卒於師、軍士多
温湿病、由此観之、瘴即温湿之気、特以南方嶺嶂
之地、此気最酷烈、故謂之瘴気也、
舌上胎如積粉《割書:五|ウ》 又見下巻応下諸症中、《割書:十四|ウ》
達原飲《割書:四|ウ》 薬治通義云、又按呉又可以為温疫邪
初犯募原、宜用達原飲、方中檳榔厚朴草菓三味、
協力直達其巣穴、使邪気潰敗速、離募原云云、攷
又可本従瘧論立見、而此方亦胚胎於療瘧清脾
諸湯、今質之視聴、在京師則盛称其有験、如東都
則用之少効、蓋地気之使然也、然募原即半表半
裏之位、而其得病実為少陽、乃是柴胡所主、豈須
他求乎、如三消飲証、亦係大柴胡所宜、而其方泛
雑、尤覚無謂矣、又可務急立言、故制此諸方、而以
柴胡僅為余熱之治、庶幾学者勿拘執焉、《割書:八巻|四オ》
淹々摂々《割書:六|オ》 劉松峯云、淹纏不快之状、
毒易伝化《割書:六|オ》 劉松峯云、伝者、邪気流行之勢、化者、
邪気変動之機、
陡然《割書:六|オ》 劉松峯云、陡音斗、忽然也、按段玉裁曰、斗
十升也、叚借為斗陗之斗、因斗形方直也、俗之製
陡字、《割書:説文十四|斗字注》
伝変不常《割書:類編巻一《割書:十四|オ》文大異作伝変不常論》
導赤散《割書:七|オ》 局方
五皮《割書:七|オ》 局方
得大承気一服小便如注而愈《割書:七|オ》 下巻応下諸証、
小便閉条《割書:十五|ウ》 云、大便不通、気結不舒、大便行、小
便立解、誤服行気利水薬無益、又劉松峯説疫巻
二、二便不通条云、若止小便閉者、行大便則小便
通、徒利小便無益、
注者受之《割書:七|オ》 類編、注作窪、
但治其疫而旧病自愈《割書:七|オ》 肢体浮腫条云、向有単
腹脹而後疫者、治在疫、若先年曽患水腫、因疫而
発者、但治在疫、腹脹水腫自愈《割書:下ノ|廿三オ》
急証急攻《割書:類編巻一《割書:卅八|ウ》作|急症急攻論》劉松峯曰、此篇当著眼
急証二字、若無急証而用此法、則又鮮不敗
事矣、所当細々体認、粗心人不可不知、
表裏分伝《割書:類編巻二《割書:七|オ》作瘟疫十伝治法》
熱邪散漫《割書:類編巻三《割書:十六|ウ》》
白虎湯【欄外補充】辛涼発散之剤清粛肌表気分薬也《割書:九|オ》 傷寒
総病論云、夏至以後、雖宜白虎、詳白虎湯、自非新
中暍、而変暑病、乃汗後解表薬耳、《割書:一ノ|三オ》
活人書巻三《割書:二ノ|ウ》云、夏月天気大熱、玄府開、脈洪大、
宜正発汗、但不可用麻黄桂枝熱性薬、須是桂枝
麻黄湯加黄芩石膏知母升麻也、夏月有桂枝麻
黄証、不可黄芩輩服之、転助熱気、便発黄班出也、
白虎湯雖可用、然治中暑与汗後、一解表薬耳、一
白虎未能駆逐表邪、況夏月陰気在内、或患熱病
而気虚人、妄投白虎、往々有成結胸者、以白虎性
寒、非治傷寒薬也、同巻六云《割書:五ノ|オ》又問夏至後、皆可
行白虎湯液耶、白虎湯治中暑、与汗後一解表薬
耳、
揚湯止沸《割書:九|オ》 前漢書巻五十六、董仲舒伝云、如以
湯止沸、抱薪救火愈甚、亡益也、
若邪已入胃《割書:九|オ》 劉松峯曰、舌胎黄燥、腹満譫語、或
不大便、
陽証得陰脈《割書:九|ウ》 傷寒論、弁脈法曰、凡陰病見陽脈
者生、陽病見陰脈者死、
内壅不汗《割書:類編巻三《割書:七|オ》》
経論先解其表乃攻其裏《割書:九|ウ》 傷寒論傷寒例云、凡
傷寒之病、多従風寒得之、始表中風寒、入裏則不
消矣、未有温覆而当不消散者、不在証治、擬欲攻
之、猶当先解表、乃可下之、若表已解、而内不消、非
大満、猶生寒熱、則病不除、若表已解、而内不消、大
満大実堅、有燥屎、自可除下之、雖四五日、不能為
禍也、若不宜下、而便攻之、内虚熱入、恊熱遂利、煩
燥諸変、不可勝数、軽者困篤、重者必死矣、
由中以達表《割書:九|ウ》 劉方舟本、无由中二字、類編刪由
中以三字、《割書:按原病篇、有精気自内由膜原以達表文、則|由中二字不必刪、蓋内字句、中者指膜原而》
《割書:言也、》
下後脈浮 《割書:類編巻三《割書:廿|オ》》
脈浮而微数身微熱神気或不爽《割書:十|オ》 微字、或字、字
眼、
覆盃則汗解《割書:十|ウ》 霊枢邪客篇云、其病新発者、覆盃
則臥、汗出則已矣、久者三飲而矣已也、
下後脈浮而数《割書:十|ウ》 劉松峯云、此仍承篇首裡症二
句来、乃遥接法、非緊頂上句、
週《割書:十|ウ》 周同、
劉松峯曰、此時石膏不宜多用、因下後也、恐其寒
胃、況有他病先虧【左は虚】等虚症乎、
下後脈復沈《割書:類編巻三《割書:廿一|オ》》
邪気復聚 《割書:類編巻三作下後邪復聚《割書:廿一|オ》》
下後身反熱《割書:類編巻三《割書:廿一|ウ》》
薬煩《割書:十一|ウ》 本巻薬煩条可攷、
下後脈反数 《割書:類編巻三《割書:廿二|オ》》
壅被《割書:十一|ウ》 壅、当作擁、
随其性而升泄之《割書:十二|オ》 劉松峯曰、其字指病言、性宜
解作勢字、升清気、泄余燄、
因証数攻《割書:類編巻一《割書:四十二オ》作因証数下大下更宜臨時斟|酌論》
塑《割書:十二|ウ》 塑与塐同、音素、埏土象物也、
病愈結存《割書:類編巻三《割書:廿五|ウ》》
下隔 《割書:類編巻三《割書:廿六|オ》作病愈下格》
宜調胃承気熱服頓下病結及溏糞粘膠悪物臭不
可当者嘔吐立止《割書:十四|オ》 下後反嘔条云、疫邪留於心
胸、胃口熱甚、皆令嘔不止、下之嘔当去、又云、有患
疫時、心下脹満、口渇発熱而嘔、此応下之証也、下
之諸証減去六七、嘔亦減半、再下之、脹除熱退渇
止、向則数日不眠、今則少寐、嘔独転甚、此疫毒去
而諸証除、胃続寒而嘔甚、与半夏藿香湯一剤而
嘔即止、《割書:三十|ニウ》
欲求南風須開北牖《割書:十四|オ》 法華玄義、如開北窓則南
風至、摩訶止観、如門開則来風、閉扉則静、
毫釐之差遂有千里之異【欄外補充】《割書:十四|オ》 礼経解引易曰、君子慎始、
差若毫釐、謬以千里、按易語即易緯之文、詳見孫
奕示児編巻四、《割書:五|オ》
注意逐邪勿拘結糞《割書:類編巻一卅九オ作注意逐邪勿|拘結糞論》
開門袪賊之法《割書:十四|ウ》 外台巻十九、《割書:三十|八オ》論陰陽表裏灸
法、蘇恭云、凡灸不廃湯薬、々攻其内、灸洩其外、譬
如開門駆賊、々則易出、若閉戸逐之、賊無出路、当
反害人耳、
掣肘《割書:十四|ウ》 家語巻八屈節解《割書:十六|オ》云、令二史書、方書、輒
掣其肘、書不善則従而怒之、
下不厭遅之説《割書:十五|オ》 此事難知、下不厭晩、是為善
守、
養虎遺患《割書:十五|オ》 史記項羽本紀、此所謂養虎自遺患
也、
不更衣十日無所苦《割書:十五|ウ》 傷寒論陽明篇、五苓散条
語、
滞下《割書:十六|オ》 厳用和済生方曰、今之所論痢疾者、即古
方所謂滞下是也、
芍薬湯《割書:十六|オ》 方出戦汗条、《割書:廿五|オ》
其人平素大便不実《割書:十六|ウ》 大便条云、《割書:四十|三ウ》 大腸膠
閉者、其人平素大便不実、設遇疫邪伝裡、但蒸作
極臭之物、如粘膠然、至死不結、愈蒸愈閉、以致胃
気不能下行、疫毒無路而出、不下即死、但得粘膠
一去、下証自除、霍然而愈、又下巻、応下諸証中、有
大腸膠閉条、文与大便条略同、《割書:下ノ|十六オ》
経論初硬後必溏不可攻《割書:十六|ウ》 傷寒論陽明篇云、
陽明病、潮熱、大便微鞕者、可与大承気湯、不鞕者、
不可与之、若不大便六七日、恐有燥屎、欲知之法、
少与小承気湯、々入腹中、転失気者、此有燥屎也、
乃可攻之、若不転失気者、此但初頭鞕、後必溏、不
可攻之、攻之必脹満、不能食也、欲飲水者、与水則
噦、其後発熱者、必大便復鞕而少也、以小承気湯
和之、不転失気者、慎不可攻也、
三承気湯功用彷彿《割書:十七|オ》 多紀茝庭先生曰、後世妙
用承気者、莫如呉又可、然其云注意逐邪、勿拘結
糞者、自此言出、往々有下早之誤、又云、三承気功
用彷彿、殊欠弁晰、又云、功効俱在大黄、余皆治標
之品也、此似不知制立之旨者、其他於臨処之方、
則実多所発明焉、《割書:傷寒|述義》薬治通義巻五、《割書:十三》用下勿
拘結糞条可攷、
畜血《割書:類編巻三《割書:七ウ》》
波及《割書:十七|ウ》 左伝僖公二十三年、羽毛歯革則君地
生焉、其波及晋国者、君之余也、
胃移熱於下焦気分小便不利熱結膀胱也《割書:十八|オ》 本
巻小便条云、熱到膀胱、小便赤色、邪到膀胱、干於
気分、小便膠瀒、又云、熱到膀胱者、其邪在胃、々熱
灼於下焦在膀胱、但有熱而無邪、惟令小便赤色
而已、其治在胃、邪到膀胱者、乃疫邪分布下焦、膀
胱実有之邪、不止於熱也、従胃家来、治在胃、兼治
膀胱、若純治膀胱、胃気乗勢、擁入膀胱、非其治也、
若腸胃無邪、独小便急数、或白膏如馬遺、其治在
膀胱、宜猪苓湯、邪干気分者宜之、《割書:四十|五オ》
移熱於下焦血分、膀胱畜血也小腹硬満《割書:十八|オ》 小便
条又云、邪干於血分、溺血畜血、又桃仁湯方、邪干
血分者宜之、小腹痛、按之硬痛、小便自調、有畜血
也、加大黄三銭、甚則抵当湯、《割書:四十|五ウ》
癉瘧《割書:十八|ウ》 瘧論、其但熱而不寒者、陰気先絶、陽気独
発、則少気煩寃、手足熱而欲嘔、名曰癉瘧、又但熱
而不寒、気内蔵於心、而外舎於分肉之間、令人消
爍脱肉、故命曰癉瘧、王氷曰、癉熱也、瘧候詳見下
巻瘟瘧条、《割書:卅|ウ》熱入血室、詳見下巻婦人時疫条、《割書:卅|オウ》
犀角地黄湯《割書:十九|オ》 張路玉曰、血得辛温則散、得苦
寒則凝、此方別開寒冷散血之門、特創清熱解毒
之法、全在犀角、通利陽明、以解地黄之滞、猶頼赤
芍牡丹、下気散血、允為犀角地黄之良佐、裏実則
加大黄、表熱則加黄芩、脈遅腹不満、自言満者、為無
熱、但依本法、不応則加桂心、此千金不言之秘、不
覚為之発露、《割書:千金方衍義|十二吐血門》
発黄疸是府病非経病也《割書:類編巻三十|一オ作発黄》 劉方舟
本、原題、更有発黄二字、此十字提頭為本文、
劉松峯刪疸以下八字、
旧論発黄《割書:廿|ウ》 此条、劉本類編並脱、而別有一条、曰
愚按旧論発黄、有従湿熱、有従陰寒者、陰陽発黄、
確有其症、何得云妄湿熱発黄尤多、大約如合麯
然、飲入于胃、々気薫蒸則成湿熱、透人肌腠、遂成
黄病、燥火焉有発黄之理、此言為呉君白珪之玷、
業広按、此係駁呉氏説、而脱原文、当依年氏本補
劉本類編也、劉松峯云、呉君原未有燥火発黄之
説、何云白珪之玷耶、是誰人批者、殊不可解、至云
原有陰黄、又云燥火無発黄之理、却是確論、第陰
黄亦是傷寒与雑病中有之、瘟疫無此、松峯不見
原文故有是説、
多岐之惑《割書:廿|ウ》 列子説符篇、楊子之鄰人亡羊、既率
其党、又請楊子之豎追之、楊子曰、嘻亡一羊、何追
者之衆、鄰人曰、多岐路、既反、問獲羊乎、曰、亡之矣、
曰、奚亡之、曰、岐路之中、又有岐焉、吾不知所之、所
以反也、
辟如氷炭《割書:廿|ウ》 塩鉄論云、氷炭不同器、日月不並明、」
邪在胸膈《割書:類編巻三《割書:十六|ウ》》
疫邪留於胸膈《割書:廿一|オ》 疫邪留於心胸者下証也、此膈
字字眼、下後反痞、下後反嘔条可攷、《割書:卅一ウ|卅二ウ》
生山梔仁《割書:廿一|ウ》 徐霊胎曰、古方梔子皆生用、故入口
即吐、後人作湯、以梔子炒黒、不復作吐、全失用梔
子之意、然服之於虚煩証、亦有験、想其清肺除煩
之性故在也、終当従古法生用為妙、《割書:傷寒類方》
弁明傷寒時疫 《割書:類編巻一《割書:八ウ》作傷寒与瘟疫不同論》
子言傷寒与時疫有霄壌之隔《割書:廿一|ウ》 呉氏序文、
時疫発班則病衰《割書:廿二|ウ》 劉松峯云、瘟疫発斑、竟有病
不衰者、
邪不出而疾不瘳《割書:廿三|オ》 劉松峯、而改則、
仮如《割書:廿三|ウ》 二字、管到無復有風寒之分矣六十六字、
発班戦汗合論《割書:類編巻三《割書:一ウ》作発班戦汗合説》
従戦汗者可使頓解従発斑者当圗漸愈《割書:廿四|オ》 劉松
峯曰、戦汗亦有未能頓解者、発斑亦有不待漸愈
而便脱然者、未可概論、
当与発斑条、《割書:上ノ|廿八》疫有九伝治法、《割書:下ノ|卅七ウ》 条参攷、
戦汗《割書:類編巻三《割書:三オ》》
疫邪表裏分伝云云 瘟疫下後煩渇減云云、《割書:廿四ウ》
劉松峯云、上二段、与戦汗無関、
応下失下《割書:廿五|オ》 葉天士曰、邪始終在気分流連者、可
冀其戦汗、透邪法宜益胃、令邪与汗併、熱達腠開、
邪従汗出、解後胃気空虚、当膚冷一昼夜、待気還、
自温暖如常矣、蓋戦汗而解、邪退正虚、陽従汗泄、
故漸膚冷、未必即成脱症、此時宜安舒静臥、以養
陽気来復、旁人切勿驚惶、頻々呼喚、擾其元気、但
診其脈、若虚軟和緩、雖倦臥不語、汗出膚冷、却非
脱証、若脈急疾、躁擾不臥、膚冷汗出、便為気脱之
証矣、更有邪盛正虚、不能一戦而解、停一二日、再
戦汗而愈者、不可不知、《割書:呉医彙講巻一》
戦汗後復下後《割書:廿五|オ》 劉松峯云、復字存疑、
腹痛不止者欲作滞下也《割書:廿五|オ》 劉松峯云、解後亦有
因余熱未清而腹痛者、不可尽作滞下論、当合脈
証細参之、
自汗 《割書:類編巻三《割書:四|ウ》》
三陽随経加減法《割書:廿六|オ》 見瘟疫初起達原飲方後、《割書:五|オ》
与恊熱下利投承気同義云云、《割書:廿六|オ》 劉松峯刪此十
八字、又移若誤認以下廿二字于編篇末、按与協熱
以下四十字、当移表解則汗止句下看、不必刪改
人参養栄湯《割書:二十|八ウ》 方見補瀉兼施条条《割書:卅五ウ》
盗汗 《割書:類編巻三《割書:五|オ》》
若邪甚云云作戦汗矣《割書:廿八|ウ》 劉松峯云、此四句推開
説、非本題正面、
柴胡湯以佐之《割書:廿八|ウ》 徐東荘云、仲景和解、只清解熱
邪、而津液自存、陰汁既充、湧出肌表、而外邪自然
渙散、此養汗以開玄府、与開玄府以出汗逈乎不
同也、《割書:西塘感証》
汗未止加麻黄浄根《割書:廿七|ウ》 証類本草麻黄条下、陶隠
居云、今出青州彭城栄陽中牟者為勝、色青而多
沫、蜀中亦有、不好、用之折除節、々止汗故也、先煮
一両沸、去上沫、々令人煩、其根亦止汗、夏月雑粉
用之、俗用療傷寒、解肌第一、
本草綱目、李時珍曰、麻黄発汗之気駃、不能禦、而
根節止汗、効如影響、物理之妙、不可測度如此、自
汗有風湿・傷風・々温・気虚・血虚・脾虚・陰虚・胃熱・痰
飲・中暑・亡陽・柔痓諸証、皆可随証加而用之、当帰
六黄湯加麻黄根、治盗汗尤捷、蓋其性能行周身
肌表、故能引諸薬、外【欄外補充】至衛分而固膜理也、本草但知
撲之之法、而不知服餌之功尤良也、
邪気盛為実正気奪為虚《割書:廿七|ウ》 素問通評虚実論、邪
気盛則実、正気奪則虚、
実々虚々之誤《割書:廿七|ウ》 霊枢九針十二原篇、無実々虚
々、損不足而益有余、
狂汗 《割書:類編巻三《割書:六ウ》》
狂汗《割書:廿七|ウ》 傷寒論陽明篇、陽明病初欲食、小便反不
利、大便自調、其人骨節疼、翕々如有熱状、奄然発
狂、濈然汗出而解者、此水不勝穀気、与汗共并、脈
緊則愈、按是即狂汗也、
発斑《割書:類編巻三《割書:二オ》当与発斑戦汗合論《割書:上ノ廿|四オ》疫有九伝|治法第二条《割書:下ノ卅|七ウ》参攷》
托裏挙斑湯《割書:廿八|オ》 劉松峯云、用帰芍以托裡、升柴白
芷以挙斑、山甲以走竄経絡、則衛気疏暢而斑漸
設有下証云云《割書:廿八|ウ》 劉松峯云、此句宜重看、有下証、
方且少与緩下之、若無下証、断不可与承気矣、
劉松峯曰、発斑総因邪毒不解、留於血分所致、有
当汗不汗、而表邪不解者、有当下不下、而裏邪不
解者、有当清不清、而熱極不解者、有疫気鍾厚、而
蓄毒不解者、有誤用温保補、而陽亢不解者、有過服
寒涼、而陰凝不解者、有当補不補、而無力不解者、
致病非一途、故療之亦多術、篇内治斑、止有一承
気、奚足以尽其変哉、至于挙斑湯、亦第補救大下
受傷之剤、並非治斑正方、挙一廃百、何其疎略乎、
数下亡陰 《割書:類編巻三《割書:廿オ》》
解後宜養陰忌投三朮 《割書:類編巻一《割書:四十|三オ》作解後宜陰|養忌投参朮論》
暴解之後余焔尚在陰血未復大忌参茋白朮《割書:廿九|オ》
孫真人曰、凡病服利湯得瘥者、此後慎不中服補
湯也、若初瘥、気力未甚平復者、但消息之、須服薬
者、当以平薬和之、《割書:千金方一》
朱奉義議曰、下後慎不中服補薬、孫真人云、服大承
気湯、得利差、慎不中服補薬也、熱気得補復成、更
復下之、是重困也、宜消息安養之、《割書:活人書巻三》
陶節庵曰、凡治傷寒、若汗下後不可便用参茋大
補、宜用小柴胡加減和之、若大補、使邪気得補而
熱愈盛、復変生他証矣、所謂治傷寒無補法也、《割書:家|秘》
《割書:的本》
流火《割書:廿九|オ》 或曰、痧脹玉衡、有流火流痰痧、瘍医大全、
凡腿上或頭面、紅赤腫熱、流散無定、以堿水掃上、
旋起白霜者、此流火也、
大抵時疫愈後調理之剤投之不当莫如静養節飲
食為第一《割書:廿九|オ》 傷寒論、風家表解、不了々者、十二日
愈、方有執【報を修正】云、蓋暁人当静養以待、勿多事反擾之
意、呉儀洛云、経中凡勿薬而俟其自愈之条甚多、
今人凡有診視、無不与薬、致自愈之証、反多不愈
矣、
清燥養栄湯《割書:廿九|オ》 劉松峯曰、帰地芍薬、皆養栄之品、
而地黄用汁、大能清燥、知母寒滑、潤腎燥而滋陰、
花粉亦潤燥而瀉火、又恐其凝滞、加陳皮以利気
疎通之、与甘草共臻太和也、
柴胡養栄湯《割書:廿九|ウ》 劉松峯曰、表有余熱、尚宜散宜清、
故加柴芩、前方当帰用身、因陰枯血燥、以此養之、
此用全帰以和血足矣、不専清燥、故生地亦不須
取汁、此方白芍宜減、以表有熱、応散不応歛也、原
用棗煎、亦宜減去、
承気養栄湯《割書:廿九|ウ》 劉松峯曰、枳朴大黄、小承気也、余
薬所以養栄、此解後尚有裡症者、曰未尽是已衰
其半矣、故不敢専用承気、而以帰地芍薬佐之、此
方又当用白芍矣、
瓜貝養栄湯《割書:卅|オ》 劉松峯曰、蔞貝所以化痰、陳蘇所
以理気、気順而痰自清也、知母花粉亦清潤之品、
而花粉亦能清痰理膈、帰芍所以養栄、不用地黄
者、因有痰涎胸膈不清之証、恐其膩滞也、四方俱
和平穏妥、
用参宜忌有前利後害之不同 《割書:類編巻一作用|参宜酌表裏更》
《割書:有暫利旋害之|不同論《割書:四十五ウ》》
人参所忌者裏証耳《割書:三十|オ》 人参宜忌、又見補瀉兼施
条、黄龍湯条、《割書:卅五|下オ》乗除条、《割書:五十ウ|五十一ウ》応補諸証条、《割書:下巻|十七ウ》
不至脹《割書:卅|ウ》 類編改作不甚害、按下文因而不脹之
脹同、謂壅閉也、
下後間服緩剤《割書:卅一|オ》《割書:類編巻三《割書:廿二|ウ》作下後熱不除》
下後反痞《割書:類編同》
下後脈実《割書:卅一|オ》 実字々眼、劉松峯曰、重読、
参附養栄湯《割書:卅二|オ》 劉松峯曰、生地帰芍、所以養栄、以
生地為君、大能生血、而栄血之生也、必益其気、故
用人参以補気、且益脾土而消痞也、姜附亦無非
治虚痞之剤、得附子之走竄、勝於行気破気之薬
多矣、
下後反嘔《割書:類編巻三《割書:廿三|ウ》》
皆令嘔不止《割書:卅二|ウ》 劉松峯曰、皆字承止二句、
半夏霍香湯《割書:卅二|ウ》 本出魏氏家蔵、無乾姜、有人参、名
人参霍香散、和気利膈、進食化痰、
下之諸証減去六七《割書:卅三|オ》 下隔条曰、瘟疫愈後、脈証
俱平、大便二三旬不行、時々作嘔、飲食不進、雖少
与湯水、嘔吐愈加、此為下隔云云、宜調胃承気熱
服、頓下宿結及溏糞粘膠悪物、臭不可当者、嘔吐
立止、《割書:十四|オ》按依之此又宜調胃承気、
奪液無汗 《割書:類編巻三《割書:廿四|オ》作下後奪液無汗》
時疫得下証《割書:卅三|ウ》 類編、補一人二字、
熱結旁流《割書:卅三|ウ》 劉松峯曰、糞為熱結而不下、止旁流
臭水也、 注意逐邪勿拘結糞条、《割書:十四|ウ》大便条、《割書:四十|三ウ》可
攷、
積流而渠自通也《割書:卅四|オ》
昔人以為奪血無汗《割書:卅四|オ》 霊枢営衛生会篇、営衛者、
精気也、血者神気也、故血之与気、異名同類焉、故
奪血者無汗、奪汗者無血、
補瀉兼施 《割書:類編巻一《割書:卅一|ウ》施下有与先瀉後補合論七字》
搏血《割書:卅四|オ》 劉松峯云、搏撃也、
黄龍湯《割書:卅四|ウ》 原見傷寒六書、
此補瀉兼施之法也《割書:卅五|ウ》 下巻応補諸証、可参攷、《割書:下|巻》
《割書:十七》
人参《割書:卅五|オ》 用参宜忌条、《割書:卅オ|ウ》乗除条、《割書:五十|一》下巻応補諸証
条、《割書:十七|ウ》
薬煩 《割書:類編巻四《割書:九ウ》》
停薬 《割書:類編巻四《割書:十オ》作曰停薬》
虚煩似狂 《割書:類編巻三《割書:十九|オ》》
撚指《割書:卅六|ウ》 劉松峯曰、撚音輦、手摂物、
辟如城郭空虚《割書:卅七|オ》 類編無辟以下廿余字、按此即
接上文之意、
神虚譫語 《割書:類編巻三《割書:十九ウ》》
数下之《割書:卅七|オ》 劉松峯曰、数下不宜、
鄭声譫語態度無二《割書:卅七|ウ》 劉松峯曰、声乃声音、而語
乃言語、焉得云無二、云有虚実之分極是、至云不
応両立名色則又誤矣、
清燥養栄湯《割書:卅七|ウ》 方見解後宜養陰条、《割書:廿九オ》
奪気不語 《割書:類編巻三《割書:廿五|オ》奪上補下後二字》
時疫云云常向裏床睡《割書:卅七|ウ》 劉松峯曰、類陰証而実
非、
此正気奪《割書:卅七|ウ》 脈要精微論、言而微、終日乃復言者、
此奪気也、
人参養栄湯《割書:卅七|ウ》 方見補瀉兼施条、《割書:卅五|ウ》
劉松峯曰、瘟疫失于汗下、原有不語一証、此悪候
也、唯多服竹瀝、可以奏効、此之不語、当着眼下後
奪気四字、与失汗失下之不語、逈不侔矣、
老少異治 《割書:類編巻一《割書:廿八ウ》作老少異治論》
妄投破気薬論 《割書:類編巻一《割書:卅三|オ》妄投改作純用》
所謂一竅通諸竅皆通大関通而百関尽通也《割書:卅九|オ》
妄投補剤論 《割書:類編巻一《割書:卅六|オ》》
妄投寒涼薬論 《割書:類編巻一《割書:卅三|オ》作|妄投寒剤論》孫鳳亭曰、二論、
専重妄投二字、若用之得宜、亦自無妨、《割書:類|編》下
巻服寒剤反熱条、《割書:廿四|ウ》可参看、
癉瘧熱短《割書:四十|オ》 畜血条云、至夜発熱、亦有癉瘧、《割書:十八|ウ》
黄連瀉心湯《割書:四十|ウ》 又見下巻標本条、《割書:十一ウ》
素問熱淫所勝治以寒涼《割書:四十|ウ》 至真要論、熱淫所勝、
平以鹹寒、
捷徑《割書:四十|ウ》 屈原離騒、何桀紂之昌披兮、夫唯捷徑以
窘歩、
有等《割書:四十|一オ》 或曰、謂有一等如是之証也、
大便《割書:類編巻四《割書:三オ》》
恊熱下利《割書:四十三|オ》 劉松峯曰、傷寒恊熱下利、与此不同、
又曰、凡遇瘟疫下利之症、当先問其平日大便調
否、以便施治、
利止二三日後《割書:四十|三オ》 類編接前章曰、原本擡頭、別為
一節、今接抄、
劉松峯曰、瘟疫而見下利、病亦不軽矣、大抵属寒
者三、熱者七、湿則其僅見者也、而呉又可瘟疫論
中、恊熱下利等説、単以熱論、不亦偏乎、弟瘟病下
利之属寒者軽浅、自不得与冬月感寒、与直中陰
経者、同日而語也、《割書:説疫二下利条》
熱結傍流《割書:四十|三ウ》 劉松峯曰、熱邪将糞結住、不能下、糞
旁止能流下臭水、并所進湯薬、此句当如是講、
大腸膠閉《割書:四十|三ウ》 注意逐邪条、《割書:十六|オウ》応下諸証、《割書:下ノ|十六オ》文頗同、
非前病原也《割書:四十|四オ》 類編、原作復、
芍薬湯《割書:四十|四オ》 方見戦汗条、《割書:廿五|ウ》
夯悶《割書:四十|四オ》 劉松峯曰、夯壑上声、大用力、
蜜煎導《割書:四十|四オ》 下巻応下諸証、大便閉条曰、有血液枯
竭者、無表裏証為虚燥、宜蜜煎導反謄導、《割書:下ノ|十六》 按
類編、此条補或謄導三字、
毎至黎明或夜半後便作泄瀉《割書:四十|四オ》、劉松峯曰、此瀉
絶不干瘟疫事、乃病後腎瀉也、故以五更溏瀉法
治之、
大黄丸《割書:四十|四ウ》 外壱巻四、温病労復方、引古今録験大
黄丸方、大黄巴豆消石桂心乾姜、右五味、
六成湯《割書:四十|四ウ》 天一生水、地六成之之義、
七成湯《割書:四十|四ウ》 天二生火、地七成之之義、
六味丸少減沢瀉《割書:四十|四ウ》 過利水、故減沢瀉、劉松峯曰、
六成湯乃潤燥之剤、明白易解、至云用六味丸少
減沢瀉、不如尽行減去、即茯苓亦不当用、蓋此二
薬大利小便、小便益利、大便益結也、不可不知、
倍加附子《割書:四十|五オ》 助命門之火、故倍、
小便 類編巻四《割書:五ウ》
馬遺《割書:四十|五ウ》 遺、溺也、ゝ
業広曰、小便閉塞、宜大承気者、見伝変不常条、《割書:七|オ》
小便不利、即熱結膀胱、小便自利、責之畜血、見畜
血条、《割書:十八|オ》以小便赤白、分陰陽法、見陽証似陰条、《割書:下|巻》
《割書:廿|オ》並当参攷、此篇題以小便而不及之、何、
薬分三等《割書:四十|六オ》 劉松峯曰、原方一也、加大黄二也、抵
当三也、
前後虚実 《割書:類編巻一《割書:廿二ウ》作先後虚実論》
仮令先実而後虚者云云《割書:四十|六ウ》 劉松峯曰、此虚乃因
先下、血液搏尽之虚、非同平日虚怯之虚、
脈厥 《割書:類編巻三《割書:十五|オ》》
微細而軟《割書:四十|七オ》 劉松峯曰、輭尤易誤認為虚、
脈証不応 《割書:類編巻一《割書:廿一|ウ》作脈症不応論》
濇脈也《割書:四十|八オ》 劉松峯曰、渋脈不過不流利、非有止歇、
此説欠妥、桂山先生曰、脈経濇脈細而遅、往来且
散、或一止、復来而云濇脈無歇止、亦何不考也、
杏桔湯《割書:四十|八オ》
体厥 《割書:類編巻三《割書:十三|ウ》》
陽証陰脈《割書:四十|八ウ》 劉松峯曰、細微如蛛糸然、
身冷如氷《割書:四十|八ウ》 劉松峯曰、全身皆涼、火逼在内、
体厥《割書:四十|八ウ》 又名陽厥、見陰証世間罕有条、《割書:下巻|十八ウ》陽証似
陰条、《割書:下巻|十九オ》可参看、
稟賦肥甚《割書:四十|八ウ》 伏邪易壅閉案、
引陶氏全生集《割書:四十|八ウ》 傷寒全生集一巻、傷寒陰症身
熱面赤認作陽症誤治論第十二、
群龍無首《割書:四十|九オ》 易、乾卦用九、
急投大承気湯嘱其緩々下之《割書:四十|九オ》 劉松峯曰、急投
者速服、緩下者少与、
陰毒須灸丹田《割書:四十|九ウ》 活人書曰、問手足逆冷、臍腹築
痛、咽喉疼、嘔吐下利、身体如被杖、或冷汗煩渇、脈
細欲絶、 此名陰毒也、陰毒之為病、始得病、手足
冷、背強、咽痛、糜粥不下、毒気攻心、心腹痛短気、四
肢厥逆、嘔吐下利、体如被杖宜服陰毒甘草湯、白
朮散、附子散、正陽散、肉桂散、回陽丹、返陰丹、天雄
散、正元散、退陰散之類、可選用之、○大抵陰毒、本
因腎気虚寒、或因冷物傷脾、外傷風寒、内既伏陰、
外又感寒、或先感外寒而内伏陰、内外皆陰、則陽
気不守、遂発頭疼、腰重腹痛、眼晴疼、身体倦怠、四
肢逆冷、額上手背冷、汗不止、或多煩渇、精神恍惚、
如有所失、三二日間、或可起行、不甚覚重、称【言偏】之則
六脈俱沈細而疾、尺部短小、寸口脈或大、若誤服
涼薬、則渇転甚、躁転急、有此病証者、便須急服辛
熱之薬、一日或二日便安、○若陰毒漸深、其候沈
重、四肢逆冷、腹痛転甚、或咽喉不利、心下脹満、結
硬躁渇、虚汗不止、或時鄭声、指甲面色青黒、六脈
沈細而疾、一息七至已来、有此証者、速於気海或
関元二穴、灸三二百壮、以手足和緩為効、仍兼服
正陽散・肉桂散・回陽丹・返陰丹・天雄散・白朮散・内
外通逐、令陽気復而大汗解矣、○若陰毒已深、疾
勢困重、六脈附骨取之方有、按之即無、一息八至
已上、或不可数、至此則薬餌難為攻矣、但於臍中
用葱熨法、或灼艾三五百以来、手足不温者、不可
治也、如得手足温、更服前熱薬以助之、若陰気散、
陽気来、即漸減熱薬而調治之、《割書:巻四》
乗除《割書:類編巻一《割書:廿三|オ》作病之既虚且実者当|補瀉間用論、曰原題乗除不亮之至、》
乗除《割書:四十|九ウ》 算法、添算曰乗、減算曰除、
【末尾】
温疫論札記上《割書:終》
瘟疫論札記下
雑気論 《割書:類編巻一《割書:五ウ》》
山嵐瘴気嶺南毒霧《割書:一|オ》 後漢書馬援伝、援将楼船
大小二千余艘、戦士二万余人、撃九真賊徴側余
党都羊等、自無功至居風、斬獲五千余人、嶠南悉
平、《割書:注、嶠、嶺|嶠也、》二十年秋、振旅還京師、軍吏経瘴疫、死
者十四、
野葛《割書:一|ウ》 神農本草経、鈎吻一名野葛、味辛温、生山
谷、治金瘡乳痙中悪風欬逆上気水腫、殺鬼注蠱
毒、《割書:下巻|四ウ》
羅計熒惑《割書:一|ウ》 或曰、羅計即羅睺計会二星也、広博
物志云、羅計二星、人多忌之、考歴代天文志、無此
星也、不知此説、倣自何時、而宋蠡海録有之、則其
説久矣、広雅云、熒惑謂之罰星、
大頭瘟《割書:一|ウ》 説疫曰、其症発於頭上并脳後項腮頬
与目、赤腫而痛、発熱、症似傷寒、治療散見各医書
本門、茲不多贅、用前刺法亦妙、《割書:三ノ|二ウ》
蝦蟆瘟《割書:一|ウ》 説疫曰、其症咽喉腫痛、涕唾稠粘、甚則
往来寒熱身痛拘急、大便秘結、有類傷寒、亦与捻
頸瘟相似、但以不腹脹為異、治法涼散和解攻下
敗毒、随症施治、無不獲愈、方俱散見各医書本門、
不多贅、其治療捷法、於初起時、用手在病人両臂、
自肩項極力、将其中凝滞癘気悪血、赴至手腕数
次、用帯子将手腕札住、不令悪血走散、用針刺少
啇穴、并十指近甲蓋薄肉正中処、捻出悪血則愈、
《割書:三巻|二ウ》
疔瘇《割書:二|オ》 瘇与腫同、劉松峯、為足腫非、
瓜瓤瘟《割書:二|オ》 説疫曰、其症胸高脇起、嘔汁如血、宜生
犀飲、《割書:三巻|三ウ》
探頭瘟 《割書:二|オ》 森立夫曰、所暴下之物如瓜瓤、故名瓜
瓤瘟、所嘔之血、如探頭脳而出、故名探頭瘟、
癭痎《割書:二|オ》 痎即核从疒者、蓋癭瘤結核之義、或為瘤
字譌、非是、
疙瘩瘟《割書:二|オ》 尚論駁正序例云、世俗所称、疙瘩瘟者、
遍身紅腫発塊、如瘤者是也、○説疫曰、其症発塊
如瘤、遍身流走、旦発夕死、三稜針刺入委中三分
出血、並服人中黄散、《割書:三巻|四ウ》
大麻風《割書:三|オ》 丹台玉案巻二、癘風門曰、夫癘風者、即
大麻風也、又名曰癩、《割書:五十|六オ》
諸痛瘡瘍皆属心火《割書:三|オ》 至真要論文、
絞腸痧《割書:三|オ》 丹台玉案巻四、腹痛門曰、絞腸沙痛、不
吐不瀉、痢痛後重、○危氏得効方云、乾霍乱俗謂
攪腸沙、
大易所謂或繋之牛行人之得邑人之災也、《割書:三|オ》 易、
上経无妄六三、
劉河間《割書:三|ウ》 劉完素、字守真、金河間人、
論気盛衰《割書:類編巻一《割書:十一|オ》作瘟疫歳々不断但有盛衰|多寡軽重之殊論》
似覚無有《割書:四|オ》 似、類編作反、
論気所傷不同 《割書:類編巻一《割書:十九|ウ》作気所|傷不同論》
由方土之気也《割書:四|ウ》 尚書禹貢、素問異方法宜論、
猫制鼠鼠制象《割書:五|オ》 森立夫曰、蘇軾曰、養猫以捕鼠、紀
効新書、霊猫捉鼠勢、事物紺珠、猫称鼠将、五雑俎、
猫之良者、端然黙然、而鼠自屏息、識其気也、劉基
擬連珠、千斤之象、不惴虎而惴鼠、
蟹得霧則死棗得霧則枯《割書:五|オ》 瑯瑘代酔相感下、霧
滃而蟹螯枯、物類相感志、落蟹怕露、《割書:森立夫曰、|露恐霧訛、》
投甕随筆、秋露降、棗葉尽落、森立夫曰、据此、則本
文霧字、恐是露訛、
蜒蚰解蜈蚣之毒《割書:五|ウ》 本草衍義蜈蚣条曰、蜈蚣畏
蛞蝓、不敢過所行之路、触其身、則蜈蚣死、人故取
以治蜈蚣毒、《割書:十七ノ|十二ウ》
猫肉治鼠瘻之潰《割書:五|ウ》 淮南子説山訓、狸頭愈鼠、
蚘厥 《割書:類編巻三《割書:十五|ウ》》
蚘厥《割書:六|オ》 馬印麟曰、蚘厥者、手足冷而吐蚘也、有熱
渇者、黄連解毒湯、有下症者、承気湯、《割書:類|編》 劉松峯
曰、蚘厥原有属寒者、唯瘟症吐蚘属熱、一症而寒
熱之不同、有如此者、
臓寒蚘上入膈其人当吐蚘《割書:六|オ》 傷寒論厥陰篇、烏
梅丸主治文、
胃中冷必吐蚘《割書:六|オ》 傷寒論、太陽中篇曰、病人有寒
復発汗、胃中冷必吐蚘、
呃逆 《割書:類編巻三《割書:十二|ウ》》
見白虎証則投白虎見承気証則投承気《割書:六|ウ》 劉松
峯曰、此二証、瘟疫中恒有、○按金匱嘔吐噦下利
篇、噦而腹満、視其前後、知何部不利、利之即愈、
丁香柿蒂散《割書:六|ウ》 全生集、丁香柿蒂散、治陰症呃逆
及胸中虚寒、呃逆不止者、丁香柿蒂《割書:各一匁|五分》茴香乾
姜良姜陳皮《割書:各一|匁》各為細末、用熱姜湯調下、未止宜
再服、 劉松峯曰、柿蒂治呃、寒熱薬中俱可治入、猶
茵陳之兼治陰黄陽黄也、不可不知、
四逆湯功効殊絶《割書:六|ウ》 劉松峯曰、胃寒呃逆、瘟疫所
無、不過連類及之、
劉松峯曰、瘟疫呃逆、大是凶候、然治之得法、亦自
無妨、
似表非表似裏非裏《割書:類編巻一《割書:十八|オ》作似表|不表似裏不裏論》
若汗若下後云云渾身支節反加痛甚《割書:七|ウ》 疫有九
伝治法条、《割書:四十|ウ》 文異義同、可参攷、按此証仲景桂
枝加芍薬生姜人参新加湯、及霍乱篇桂枝湯主
治与此合、
時疫初起便作潮熱々甚亦能譫語《割書:七|ウ》 劉松峯曰、
余子秉淦、毎感風寒、必善作譫語、若不習知者、遇
此認為裡証、妄施攻下、寧有不殆者乎、
論食《割書:類編巻四《割書:二|オ》当与調理法|相参攷《割書:下巻三十六オ》》
切不可絶其飲食但不宜過食耳《割書:八|ウ》 張氏医戒云、
今之方家、一見発熱、便以傷寒目之、一概禁其飲
食、 徐大椿云、桂枝湯方後、歠粥、育胃気以達於
肺也、観此可知、傷寒不禁食矣、依二氏所言、清俗
有傷寒禁食之習、故其言如此、
食復《割書:八|ウ》 見本巻食復条、可参看、《割書:廿|ウ》
論飲《割書:類編巻四《割書:一ウ》舎病治弊条当参看《割書:廿ウ》》
煩渇思飲酌量与之《割書:九|オ》 王叔和曰、凡得時気病、至
五六日而渇、欲飲水、飲不能多、不当与也、何者以
腹中熱尚少、不能消之、便更与人作病也、至七八
日、大渇欲飲水者、猶当依証与之、与之常令不足、
勿極意也、言能飲一斗与五升、若飲而腹満、小便
不利、若喘若噦、不可与之、《割書:傷寒|例》張戴人曰、欲飲水
之人、慎勿禁水、但飲之後、頻与按摩、按摩之法、当
按摩其腹、則心下自動、若按摩其中脘久則必痛、
病人獲痛、若有水結、則不敢按矣、《割書:儒門事親一》
西瓜《割書:九|オ》 家塾事親曰、西瓜性温、熟者可食、解暑名
白虎湯、《割書:遵生八牋四》
損復 《割書:類編巻一《割書:四十|六ウ》作損復論》
天傾西北地陥東南《割書:十|オ》 素問陰陽応象論、天不足
西北、故西北方陰也、而人右耳目不如左明也、地
不満東南、故東南方陽也、人左手足不如右強也、又五常
政大論、帝曰、天不足西北、左寒而右涼、地不満東
南、右熱而左温、其故何也、岐伯曰、東南方陽也、陽
者其精降于下、故右熱而左温、西北方陰也、陰者
其精奉于上、故左寒而右涼、列子湯問篇、共工氏
与顓頊争為帝、怒而触不周之山、折天柱、絶地維、
故天傾西北、日月星辰帰焉、地不満東南、故百川
水潦帰焉、
別無所苦《割書:十|オ》 劉松峯曰、著眼、
気復也《割書:十|オ》 肢体浮腫条《割書:廿三|ウ》文略同、
張徳甫《割書:十|ウ》 以上二章、徴上文気復之義、
兪桂玉室云云《割書:十一|オ》 徴上文女先復右之義、
標本 《割書:類編巻一《割書:廿一|オ》作治邪不治熱論》
経曰《割書:十|オ》 熱論云、其未満三日者、可汗而已、其満三
日者、可泄而已、
麻徴君復増汗吐下三法《割書:十一|オ》 麻徴君、麻九疇也、字
知幾、金莫州人、按隠士就聘者、曰徴君、後【徴を欄外修正】漢書黄
憲伝、竟無所就、年四十八終、天下号曰徴君、又郭
太伝、徴辟並不起、号曰徴君、李濂医史云、儒門事
親十四巻、蓋子和草創之、知幾潤色之、
打《割書:十一|オ》 開打也、
黄連解毒湯黄連瀉心湯《割書:十一|ウ》 又見上巻妄投寒涼
薬条、《割書:上ノ|四十ウ》
行邪伏邪之別 《割書:類編巻一《割書:廿七|オ》作行邪伏邪論》
万挙万全《割書:十二|ウ》 至真要論語、
風燭《割書:十三|オ》 庾信傷心賦、一朝風燭、万古埃塵、活人書
性命之寄、危於風燭、
応下諸証 《割書:類編巻四《割書:六ウ》》
有津液潤沢作軟黒胎者有舌上乾燥作硬黒胎者
《割書:十三|ウ》 劉松峯曰、軟胎尚当細参、未可必其当下、 葉
天士曰、舌黒而滑者、水来剋火、為陰証、当温之、若
見短縮、此腎気竭也、為難治、惟加人参五味子、或
救万一、舌黒而乾者、津枯火熾、急々瀉南補北、若
黒燥而中心厚者、土燥水竭、急以醎苦下之、《割書:呉医|彙攷一》
一種舌上俱黒而無胎《割書:十三|ウ》 葉天士曰、舌無苔而有
如煙煤隠々者、慎不可忽視、如口渇煩熱而燥者、
平時胃燥也、不可攻之、宜甘寒益胃、若不渇肢寒
而潤者、乃挟陰病、宜甘温扶中、此何以故、外露而
裏無也、
舌裂《割書:十四|オ》 劉松峯曰、凡舌裂摠難満、雖病愈終不能
無痕、
舌短《割書:十四|オ》 按属難治、説見上葉天士論、
胎如積粉満布《割書:十四|ウ》 文又出上巻達原飲方後、《割書:上ノ|五ウ》
鼻孔如烟煤《割書:十四|ウ》 見急証急攻条、《割書:上ノ|七ウ》
大汗脈長洪而渇未可下宜白虎湯《割書:十五|オ》 上巻達原
飲方後、《割書:上ノ|六オ》 自汗条、《割書:廿五|オ》熱邪散漫条、《割書:八|ウ》
似裏非裏条《割書:十五|オ》 下巻《割書:七ウ》
熱入血室条《割書:十五|オ》 謂婦人時疫条也、《割書:下ノ|卅一オ》 又見畜血
条、《割書:上ノ|十八ウ》
神虚譫語条《割書:十五|オ》 上巻《割書:三十|七ウ》
善太息《割書:十五|ウ》 劉松峯曰、古人所謂長太息者、即此之
謂、乃嘆息之声、長吁気也、因気不舒暢、毎一吁気
始覚寛鬆、茲解以呼吸不利引気下行、尚不甚真
切、
頭脹痛《割書:十五|ウ》 見似表非表条、《割書:七|オ》
小便閉《割書:十六|オ》 見上巻伝変不常条、《割書:上ノ|七オ》 劉松峯曰、亦
有不因大便閉者、
更有下証《割書:十六|オ》 更字当著眼、
有血液枯竭者《割書:十六|オ》 大便条曰、愈後大便数日不行、
別無他証、此足三陰不足、以致大腸虚燥、此不可
攻、飲食漸加、津液流通、自能潤下也、覚穀道夯悶、
宜作蜜煎導、甚則宜六成湯、《割書:上ノ四|十四オ》
大腸膠閉《割書:十六|オ》 大便条文頗同、《割書:上ノ四|十三ウ》
脈厥《割書:十六|ウ》 上巻脈厥条、《割書:四十|六ウ》
体厥《割書:十六|ウ》 上巻体厥条、《割書:四十八|オウ》
虚煩似狂《割書:十六|ウ》 上巻《割書:卅六ウ》
因欲汗作狂《割書:十六|ウ》 上巻狂汗、《割書:廿七ウ》
応補諸証《割書:類編巻四《割書:八ウ》》
傷寒無補法《割書:十七|オ》 和剤局方、許洪指南総論、
補瀉兼施《割書:十七|オ》 上巻《割書:卅四》
因行而増虚証《割書:十七|オ》 行謂下利也、軽疫誤治条、《割書:廿一|ウ》用
参宜忌条、《割書:上ノ|卅》黄龍湯方後、《割書:上ノ卅|五ウ》停薬条、《割書:上ノ|卅六オ》可証、類編
作因独、曰句不亮、非也、
宜急峻補《割書:十七|オ》 宜用人参養栄湯、見黄龍湯方後、《割書:上ノ卅|五オ》
見前虚後実《割書:十七|オ》 上巻本条、《割書:四十六|ウ》 又黄龍湯方後、
可参攷、
人参為益元気之極品云云《割書:十七|ウ》 人参利害、見用参
宜忌条、《割書:上ノ|卅》黄龍湯方後、《割書:上ノ|卅五オ》乗除条、《割書:五十一|オウ》
論陰証世間罕有 《割書:類編巻一《割書:十五|オ》作陰症世間罕有論》
少艾《割書:十八|オ》 孟子、知好色則慕少艾、
房事後得病《割書:十八|オ》 劉松峯曰、当慾後感瘟、不過身体
虚怯、較壮者、為難治耳、○方有執曰、謡俗専以交
合陰陽、偶爾中傷、執為陰証、下医又快售、乃膠迷
而同酔、遂致普通大謬、《割書:傷寒論条|弁五《割書:一ウ》》楊雲峰曰、三陰
各有分証、今人却以房労後得病、輙命曰陰証、致
令病家諱言悪聞、亦可笑、房労後得病、乃挟虚、感
有陰有陽、非必為陰也、《割書:西塘感|症評注》徐霊胎曰、凡治病之
法、総視目前之現証現脈、如果六脈沈遅、表裏皆
畏寒、的係三陰之寒証、即使其本領強壮、又絶慾
十年、亦従陰治、若使所現脈症、的係陽邪、発熱煩
渇、並无三陰之症、即使其人本体虚弱、又復房労
過度、亦従陽治、如傷寒論中陽明大熱之症、宜用
葛根白虎等方者、瞬息之間、転入三陰、即改用温
補、若陰症転陽証、亦即用涼散、此一定之法也、近
世唯喩嘉言先生能知此義、有寓意草中、黄長人
之傷寒按、可見、余人皆不知之、其殺人可勝道哉、
《割書:医学源流論腎虚非陰症論》
曠夫《割書:十八|オ》 孟子梁恵王下篇、外無曠夫、
閹宦《割書:十八|オ》 奄、精気閉蔵者、今謂之宦人、《割書:周礼天宦|序官注》
陽厥《割書:十八|ウ》 体厥条可攷、《割書:上ノ|四十八》
又曰《割書:十八|ウ》 類編、改作経曰、似是、案二句、傷寒論厥陰
篇文、
論陽証似陰 《割書:類編巻一《割書:十六|ウ》作陽症似陰論》
凡陽厥《割書:十九|オ》 体厥条施幼声案、可参攷、《割書:上ノ四|十八ウ》
成片【ヒトムラ=左ルビ】《割書:十九|オ》 片、即片雲之片、
傷寒実録《割書:十九|ウ》 逸
但以小便赤白為拠《割書:廿|オ》 劉松峯曰、以小便赤白定
陰陽、第語其常耳、又曰、陰症亦有小便黄赤者、第
知常而不知変、豈足以言医乎、
舎病治薬《割書:類編巻一《割書:卅七オ》作舎病治薬論》
慓悍《割書:廿|ウ》 劉松峯曰、慓音飃、又上声、急也、疾也、悍音
汗、勇急、又上声、
舎病治弊 《割書:類編巻一《割書:卅七|ウ》作舎病治弊論》
誤投升散《割書:廿一|オ》 類編、誤上、補此時若三字、
除弊便是興利《割書:廿一|オ》 元耶律楚材曰、興一利不若除
一害、生一事不若減一事、
論軽疫誤治毎成痼疾《割書:類編巻一《割書:卅オ》作軽瘟|誤治毎成痼疾論》
東垣労倦傷脾元気下陥乃執甘温除大熱之句《割書:廿二|オ》
内外傷弁惑論、
丹渓五火相煽之説《割書:廿二|ウ》 詳見格致余論相火論条、
可攷、
冲撃《割書:廿二|ウ》 冲、衝也、
凝住《割書:廿二|ウ》 類編、住作泣、按泣渋同、離合真邪論、天寒
地凍則経水凝泣、
肢体浮腫 《割書:類編巻三《割書:十七ウ》》
但治其疫水腫自已《割書:廿三|オ》 伝変不常条曰、因疫而発
旧病、治法無論某経某病、但治其疫而旧病自愈、
《割書:上ノ七オ》
不喘《割書:廿三|ウ》 与上文水気有喘急証者反、
別無所苦《割書:廿三|ウ》 謂脈症俱平也、
気復《割書:廿三|ウ》 本巻損復条同、《割書:十オ》
言不足以聴《割書:廿四|オ》 劉松峯曰、声微、
気不足以息《割書:廿四|オ》 劉松峯曰、気弱、
煩寃《割書:廿四|オ》 寃、悶同、
宜微汗之《割書:廿四|オ》 劉松峯曰、瘟疫不宜発汗、而此云汗
之、蘇麻固不能発瘟疫之汗、即羗防芷葛、止宜用
為臣使、唯有浮苹可発瘟疫之汗、且与腫脹更覚
相宜也、
或見絶穀期月云云必劇《割書:廿四|ウ》 劉松峯曰、此節無絶
穀字様、此三句疑在上節中、錯簡在此、
妊娠更多此証《割書:廿四|ウ》 劉松峯曰、此字又指本節、
服寒剤反熱 《割書:類編巻一《割書:三十|六ウ》作服薬剤反熱論》
人身之火無処不有云云《割書:廿四|ウ》 夢筆録曰、土中石中
金中海中樹中、敲之、撃之、鑽之、無不有火出焉、則
此火能蔵神于万物、而又能生万物也、又云、此火
一散則百骸廃、人初死時、百骸俱存、独此煖気一
去、則四大皆潰散矣、
百病発熱皆由於壅欝《割書:廿四|ウ》・呂氏春秋達欝篇曰、病
之留、悪之生也、精気欝也、
今投寒剤抑遏胃気《割書:廿五|オ》 妄投寒涼薬条可参攷、《割書:上ノ|四十オ》
知一 《割書:類編巻一《割書:十二オ》作瘟疫百端受邪則一論》
有潜消者《割書:廿六|オ》 劉松峯曰、此処挿此句、不倫、移在下
文、《割書:類編移有無故最|善反復者句上》
発頤疙瘩瘡《割書:廿六|ウ》 又見雑気篇、《割書:一ウ》
首尾能食者《割書:廿六|ウ》 劉松峯曰、順証、
絶穀一両月《割書:廿六|ウ》 劉松峯曰、逆証、
按劉松峯所増添、更有有嘔逆者、有嘔吐噦者、喘嗽
者、有蚘厥者、有浮腫者、有善怒者、昏迷時、眼皮自
動、抽扯如中風状、舌短、狂走狂語、呼号詈罵、敺打、
笑哂、脈厥体厥等十余句、並本書之所漏、当参互、
知其一万事畢《割書:廿七|オ》 荘子天地篇、通於一而万事
畢、
知其要者一言而終云云《割書:廿七|オ》 霊九針十二原文、又
見素問至真要論六元正紀論、
統而言之《割書:廿七|ウ》 類編、統改推、
四損不可正治《割書:類編巻一《割書:廿八|ウ》作四損不可正治論》
四損《割書:廿七|ウ》 劉松峯曰、四字不過撮其要而言之、
諺有云傷寒偏死下虚人《割書:廿七|ウ》 谷道人云、大風先倒
無根樹、傷寒偏死下虚人、《割書:可攷【朱見消】》呂滄州傷寒外編、
陶節庵傷寒全生集、可攷、【朱記追記】
気不足以息《割書:廿七|ウ》 劉松峯曰、状其気之細微、
言不足以聴《割書:廿七|ウ》 劉松峯曰、状其言之虚弱、
腸風蔵毒《割書:廿八|オ》 医法指南云、先血後便近血也、大腸
血也、感而即発、俗謂之腸風、赤小豆当帰散主之、
先便後血遠血也、胃血也、積久而発、俗謂之臓毒、
黄土湯主之、
面目又無陽色《割書:廿八|オ》 類編、又作反、
四肢厥逆《割書:廿八|オ》 劉松峯曰、陽気不能達尾於四末、
委頓《割書:廿八|ウ》 襄公四年左伝、甲兵不頓、正義曰、頓謂挫
傷折壊、今俗語委頓是也、
五液《割書:廿八|ウ》 宣明五気篇、五蔵化液、心為汗、肺為涕、肝
為涙、脾為涎、腎為唾、是謂五液、
肌体悪寒《割書:廿八|オ》 劉松峯曰、陽虚生外寒、
至夜益甚《割書:廿八|オ》 劉松峯曰、陰盛陽衰、
凡遇此等《割書:廿八|ウ》 劉松峯曰、等字妙、四者之外尚多也、」
当従其損而調之調之不愈者稍以常法治之《割書:廿八|ウ》
劉松峯曰、従其損三字妙、其中包羅無限治法、調
字更妙、有如許斟酌、稍字又妙、
盧扁《割書:廿八|ウ》 史記正義曰、扁鵲家於盧国、因名之曰盧
医、
労復 食復 自復 《割書:類編巻三《割書:廿七|オ》 》
労復《割書:廿九|オ》 巣源、復者謂復病如初也、
安神養血湯《割書:廿九|ウ》 見補遺、
感冒兼疫 《割書:類編巻三《割書:廿九|オ》作感冒触瘟》
一二日続得云云《割書:卅|オ》 劉松峯曰、如何知其為瘟症
之発、当于潮熱下三症参之方得、
瘧疫兼証 《割書:類編巻三《割書:廿九|オ》分為二篇作|先瘧後瘟先瘟後瘧》
此瘟疫著瘧疾隠也云云《割書:卅|オ》 類編、改訂作此原先
瘟疫被瘧疾掩也、今既顕瘟症、当以治瘟法治之、
瘟瘧 《割書:類編巻三《割書:廿八|ウ》》
瘟瘧《割書:卅|ウ》 案呉氏所説非素問金匱等温瘧之義、又
非瘧疫相兼之謂、乃似瘧而伝胃者名之瘟瘧、但
論中瘟疫減云云句等、並糢糊不了、
清脾飲《割書:卅|ウ》 済生方
不二飲《割書:卅|ウ》 万病回春
四君子《割書:卅|ウ》 和剤局方
婦人時疫 《割書:類編巻四《割書:十一|ウ》作婦人瘟疫》
衝任脈《割書:卅一|オ》 五音五味篇、衝脈任脈、皆起於胞中、上
循背裏、為経絡之海、
経曰《割書:卅一|オ》 傷寒論、
発熱而不譫語者亦為熱入血室《割書:卅一|オ》 畜血《割書:上ノ|十八ウ》 応
下諸証、《割書:下ノ|十五オ》
血因邪結也《割書:卅一|ウ》 後世所謂血結胸也、
刺期門《割書:卅一|ウ》 成無已曰、期門肝之募、肝主血、刺期門
者、瀉血室之熱、《割書:傷寒論|注解》徐霊胎曰、血結則為有形
之証、湯剤一時難効、刺期門以瀉厥陰有余之熱、
千金方両乳下、
血虚血実之分《割書:卅一|ウ》 劉松峯曰、血虚、経水適断之後、
血実、経水適来之時、
血兦後《割書:卅一|ウ》 類編、作後亡血似是、
馬印麟曰、経水適断、瘟邪内搏、血結不散、邪無出
路、昼則熱軽、夜則熱重、譫語発渇、此熱結瘀血也、
用小柴胡去半夏加花粉桃仁紅花丹皮生地犀
角等味、以破血逐邪、如腹満而痛、不大便者、前方
中酌加熟大黄微利之、劉松峯曰、馬印麟治法、与
呉又可稍異、附録之以俟臨症者酌云云、業広按、
呉氏所用、殆小柴胡加地黄之意、馬氏所言、近千
金犀角地黄加大黄之義、
小児時疫《割書:類編巻四《割書:十四|ウ》作小児瘟疫》
問切之義《割書:卅二|オ》 六十一難曰、経言、望而知之、謂之神、
聞而知之、謂之聖、問而知之、謂之工、切脈而知之、
謂之功、
延捱失治《割書:卅二|オ》 類編、作延挨、《割書:延挨又見九伝治法《割書:四十一オ》》
抱龍丸《割書:卅二|ウ》
安神丸《割書:卅二|ウ》
神門《割書:卅二|ウ》 神門穴、手少陰、
眉心《割書:卅二|ウ》 証治準縄、小児急驚、灸前頂穴、若不差、灸
両眉心、及鼻下人中穴、
艾火雖微内攻甚急《割書:卅二|ウ》 傷寒論、火攻雖微、内攻有
力、
妊娠時疫《割書:類編巻四《割書:十三|オ》作妊娠瘟疫移于婦人瘟疫》
参朮安胎之説《割書:卅三|オ》 証治準縄、治婦人傷寒妊娠薬
例、若胎不安者、不離人参阿膠白朮黄芩、
嘈雑《割書:卅三|オ》 或曰、嘈䜊同、
古人有懸鐘之喩《割書:卅三|オ》 王節斎曰、養胎全在脾胃、譬
猶鐘懸於梁、々軟則鐘下墜、故白朮養脾為安胎
君薬、
反見大黄為安胎之聖薬《割書:卅三|ウ》 六元正紀大論、婦人
重身毒之何如、岐伯曰、有故無殞、亦無殞也、
孕婦而投承気《割書:卅三|ウ》 馬印麟曰、芒消乃軟堅之物、用
之能使胎化為水、劉松峯曰、孕婦而投承気、定当
減去芒消、不得已用之、止可損胎存母、不如止用
大黄為妥、又曰、此之用大黄、不過専為孕婦而得
裡症応下者言之、若邪尚在表者、当速逐其表邪、
母使内陥為上、
四損《割書:卅四|オ》 本巻《割書:廿七|ウ》
従其損而調之《割書:卅四|オ》 劉松峯曰、暫用補法、
主客交 《割書:類編巻一《割書:廿四|ウ》作邪膠固於血脈結為痼疾|論十二字》
劉松峯曰、原題主客交三字、未妥、論中言主
客交渾、交渾二字連読方明、若截去渾字不
通、
尫臝《割書:卅四|オ》 劉松峯曰、尫音汪、瘠病、
脈近于数《割書:卅四|オ》 劉松峯曰、虚損之脈多数、不止于邪火
也、邪火特其一耳、
交卸《割書:卅|五オ》 字書、脱衣解甲曰卸、
三甲散《割書:卅五|オ》 劉松峯曰、鼈甲色青、入肝益陰除熱、治
瘧疾瘧母血瘕、亀甲入腎、味厚純陰、亦能滋陰、兼
理久瘧血枯遺精、以二味為君、治客邪膠固于血
脈、更以山甲之走鼠佐之、引二甲之功能協力并
入于蔵府経絡、以成厥功、故取三甲為名、蝉退取
其善脱、殭蚕取其散微結、䗪虫取其破血、当帰取其
養血活血、甘草取其敗毒、蓋客邪在身血必受傷、
更兼凝積且邪毒蘊厚、用当帰生甘草、亦大有見
解、唯牡蠣性渋、似不宜用云々、白芍性歛、亦似不
宜云云、
外台秘要、引張文仲方、療傷寒八九日不差、名為
敗傷寒、諸薬不能消者方、鼈甲蜀升麻前胡烏梅
枳実犀角黄芩甘草生地黄右九味、蘭軒先生曰、
傷寒壊症用之、有奇効、当代用三甲散、
括蔞霜《割書:卅五|ウ》 時珍曰、有研爛以紙包圧去油者、謂之
巴豆霜、
調理法《割書:類編巻四《割書:十|ウ》》当与論食条参攷《割書:下ノ|八ウ》
死灰而求復燃《割書:卅六|オ》 漢書韓安国伝、死灰独不復然
乎、
統論疫有九伝治法《割書:類編巻二《割書:四ウ》作瘟疫十伝治法|曰、伝本有十、而題止言九、是遺》
《割書:却一条矣、》
可咏《割書:卅七|ウ》 咏、劉本作求、
但治其証《割書:卅七|ウ》 劉松峯曰、見頭治頭、見脚治脚、
白虎湯挙斑湯《割書:卅八|オ》 方見熱邪散漫条、《割書:上ノ|八ウ》発斑条、《割書:上ノ廿|八オ》
按此章、当与発斑戦汗合論、《割書:上ノ廿|四オ》発斑条、《割書:上ノ廿|八オ》参
攷、
三斑《割書:卅八|オ》 斑疹、桃花斑、紫雲斑、
四汗《割書:卅八|オ》 自汗、盗汗、狂汗、戦汗、
宜白虎湯宜白虎湯汗之《割書:四十|オ》 劉松峯曰、此二証、宜
小柴胡加羗防、始為対証、臧盧渓曰、先裡而後
表節云、下之裡証除、二三日内、又発熱云々、此時
如脈洪数而兼長大、現陽明証、方可用白虎、如所
云反加頭痛身痛脈浮者、乃太陽証也、白虎大非
所宜、且是証下後気血虚者、亦有之、不若用小柴
胡加減出入之為穏也、《割書:類編巻二《割書:九ウ》》
此近表裏分伝之証不在此例《割書:四十|ウ》 類編此以下八
字為注文、無不在此例四字、
若大下後大汗後《割書:四十|ウ》 似表非表条同、《割書:下ノ|七ウ》
趲行《割書:四十|一オ》 字書、散走也、
日暮途長《割書:四十|一オ》 史記伍子胥伝、日暮途遠、
瘟疫論補遺
安神養血湯《割書:一|オ》 類編三、移在労復条、《割書:三ノ|廿ハ》
円眼肉《割書:一|オ》 龍眼肉、俗名、
劉松峯曰、茯神遠志棗仁円肉所以安神、而棗仁
円肉亦能入心而生血、熟地帰芍所以養血、陳皮
利気、甘草和中、唯桔梗再酌、
疫利兼証《割書:類編巻三《割書:卅オ》作瘟疫兼痢》
載毒《割書:一ウ》 劉松峯曰、瘟毒、
檳芍順気湯《割書:一ウ》 劉松峯曰、此湯、小承気加檳榔白
芍、係治瘟疫之裡証而兼痢者、若有外証仍当解
表、必如喩嘉言分三次治法、始足以尽其変、
小児太極丸《割書:ニ|オ》 類編、移于小児時疫条後、曰、方内
皆治小児驚癇風痰之薬、唯大黄尚属治瘟之品、
此方与篇内議論不合、《割書:四ノ|十五ウ》
天竺黄《割書:ニ|オ》 時珍曰、按呉僧賛寧云、竹黄生南海鏞
竹中、此竹極大、又名天竹、其内有黄、可以療疾、本
草作天竺者、非矣、
胆星《割書:ニ|オ》 時珍曰、造胆星法、以南星生研末、臘月取
黄牯牛胆汁、和剤、納入胆中、繋懸風処、乾之、年久
者弥佳、
氷片《割書:ニ|オ》 時珍曰、龍脳者、因其状如貴重之称也、以
白瑩如氷、及作梅花片者、為良、故俗呼為氷片脳、
端午日《割書:ニ|オ》 容斎随筆、凡月之五日、皆可称端午也、
五雑組、古人午五二字想通用、端午猶言
初五耳、案十形三療、外傷治法、有端四日字、
正名 《割書:類編巻一《割書:一ウ》作正名論》
傷寒例正誤 《割書:類編巻五《割書:一ウ》》
凡病先有病因云々《割書:五|ウ》 依類編、当低行、
香薷飲《割書:五|ウ》
春温云々乃四時之常《割書:六|ウ》 又見原病、《割書:上ノ|一》
爍石流金《割書:七|ウ》 楚辞招魂曰、十日代出、流金鑠石些、
既済《割書:八|ウ》 易
矛盾《割書:九|ウ》 韓非子難一曰、楚人有鬻楯与矛者、誉之
曰、吾楯之堅、莫能陥也、又誉其矛曰、吾矛之利於
物無不陥也、或曰、以子之矛、陥子之楯、何如、其人
弗能応也、夫不可陥之楯、与無不陥之矛、不可同
世而立、今尭舜之不可両誉、矛楯之説也、
画蛇添足《割書:九|ウ》 史記楚世家云、人有遺其舎人一巵
酒者、舎人相謂曰、数人飲此、不足以徧、請遂画地
為蛇、蛇先成者、独飲之、一人曰、吾蛇先成、挙酒而
飲之、曰、蛇固無足、今為之足、是非蛇也、
諸家温疫正誤 《割書:類編巻五《割書:七オ》》 諸家温疫諸条、
並出傷寒準縄七、
雲岐子《割書:九|ウ》 張璧、号雲岐子、潔古之子、
汪《割書:十|ウ》 汪機、字石山、
若遇温気則為温病《割書:十|ウ》
支離《割書:十二|ウ》 荘子人間世云、夫支離其形者、猶足以養
其身終其天年、又況支離其徳者乎、
膠柱鼓瑟《割書:十五|ウ》 楊子法言、先知篇云、以往聖人之法、
治将来、譬猶膠柱而調瑟、
于時慶応三《割書:丁》卯夏五月写於
九折堂 倉俣三折
温疫論札記下《割書:終》
【裏表紙 文字なし】
安永八亥二月朔日
一 月次之御礼被為 請候
古川杢之助大坂ゟ昨日下着彼地御借銀方
以外【意外】八ヶ間敷に相成候に付右之御用筋に付
罷下候依之近日各方杢之助ゟ直に御承知有之
同日
一 御参会例之通御出仕有之候
一 大坂御用一件
【右項】
御前被 聞召上候古川杢之助罷出申上
舎人殿助左衛門殿被罷出候也
一 丹州様ゟ今夜御使者を以御自猟之五位壱
小鴨を被進候に付右御使者鹿江藤十へ小松間
に而吸物一肴三に而酒并一汁三菜之懸合出ル
相伴御取次ゟ介副徒士へも中ノ口鑓懸之下に而
酒食出る外御居間に而 御直答被
仰進候也
【左項】
二月三日
一 今日初午に付 正一位社御祭
御社参被遊候御参銀三匁
一 右御祭に付左之通御施物出
銀三匁 岩蔵寺
同壱匁ツゝ 伴僧三人
神楽上候に付
同壱匁五分 宮嶋石見
同四日
【右項】
一 大坂御借銀筋彼に相成に付右御懸合事有之
小倉迄足軽飛脚被差越候江戸之御用翰をも
参申候
一 右同断之義に付大坂ゟ御用文箱町便に而
到来致候
日出嶋卯右衛門義御借銀方として大坂被差
越候段助左衛門殿被相達候
二月五日
【左項】
同六日
一 江戸大坂御借銀筋首尾好相調偖又御参
府をも無御滞為被遊候岩蔵寺般若寺え
御祈祷被 仰付候料銀五枚ツヽ被差出候也
一 御両殿様北山野為御狩御出被遊候此節
若手之侍通り并岡町勢子御馳走也
同七日
一 二丸ゟ御用呼出申来候に付助左衛門殿被相越候也
【右項】
二月八日
同九日
一 助左衛門殿昨日二丸御出之処左之通之御達書相渡候
加賀守殿大坂借銀筋返済米渡方相滞
先月廿一日出訴之者有之同廿四日彼地御奉
行所ゟ役人呼出有之候得共病気又は当時
爰元へ罷越居候由相断立石与市罷出
候得共趣意不相心得に付先不被及御吟味
【左項】
由に而聞番御呼出別紙写之通御書付を以
被相達候段大坂役人中ゟ申越候去年も
右之通及出訴漸く内済相整り候へ共已後
蔵方取〆り之義急度申聞置候様被相達
置候処無間右之次第御手当不行届様
相聞以之外不宜候間急速内済相調り
候様其手当可有之候惣而切手筋之義
に而は従 公儀重き御触達も
【右項】
為有之儀候所是迄数度及出訴致受殊更
右筋存之役人被召呼候而も病気等を申
立取引不存役人罷出候由重き御書面対
御公儀心外之至甚不安心儀候自余只
今迄御大法相破候儀も無之候処此度
及破手初に被相成候通に而は誠以言語道断
之義候間役人中等閑之心得無之御難
題不仕出来様粉骨差部り何レ程能
鎮方相整候通急度可被取計候此段相
達候以上
二月
正月廿五日京極伊予守殿御直に被相渡候御書付
松平肥前守家来下村三郎兵衛
鍋島加賀守蔵米渡方相滞去廿一日出訴
之者両人有之に付昨廿四日加賀守役人共
呼出候所春木又兵衛吉冨三郎兵衛者病気
田中庄左衛門は当時国許罷越居候由相断立石
与市罷出候得共当表居付之役人にも無之
此節蔵屋敷登合候儀候而切手取引等之
趣無拠不存旨申聞候に付先不及吟味候
加賀守蔵米渡方相滞候義は是迄数度
之事に而既去年中出訴有之節は秀嶋
貢呼出為取計程之義に候所猶又此度
出訴有之候段切手筋兼而之被
仰出を粗略に心得候仕形殊更役人共病気
を申立不罷出右躰へ取引之儀不存役人
差出候始末旁如何之事候間三郎兵衛又兵衛
当病候ハ丶押而も罷出候様被取計且又田中
庄左衛門古川杢之助義も国許へ参居候由候間
是又早々被呼返両人共帰着次第可被申聞候
正月
右同様之御書付大坂に而も御本家御留守居ゟ
吉冨三郎兵衛へ被相渡候に付吉冨三郎兵衛ゟ早速此元へ
致注進候也
一 舎人殿助左衛門殿并受役所詰中に
御自猟之鹿被為拝領候也
二月十日
一 松尾山え之御代香御取次勤
一 日出嶋卯右衛門大坂被差越候に付銀十五枚
被為拝領候也
同十一日
一 御借銀方に付助左衛門殿大坂被差越段図書殿
被相達候尤仕廻方為用銀弐拾枚拝領
一 宮地二兵衛儀於
御前元〆役被 仰付候相談役をも兼
勤に被 仰付段是は御当役被相達候
一 嬉野善右衛門義於
御前元〆役兼勤に被 仰出候也
一 祥光山え 御代香 御取次勤
二月十二日
一 納冨五郎太輔弟子中戸田流釼術并組打
御居間前に而 御覧被遊候也
一 祥光山へ 御代香 御取次勤
一 御母公様祥光山西礼寺玉毫寺御堂参被成候
同十三日
一 御参会例之通各方御出仕也
一 田中庄左衛門同道に而諸津屋利右衛門橘屋半右衛門今日
致下着候
同十四日
同十五日
一 月次之御礼被為 請候
同十六日
同十七日
一 御両殿様為山御狩御出被遊候也
二月十八日
一 祥甲光山え 御代香御取次勤
同十九日
一 山代郷里村監物殿家来田尻官左衛門と申者を
同家来田尻右源太と申者致切害右源太
儀は同村墓所え参切腹いたし居候段を
監物殿役人ゟも届有之候山代大庄やゟも届
来に付為見分下目附弐人差越候也
同廿日
一 橘屋半右衛門諸津屋利右衛門外御居間に而被渡
御目候畢而小松之間に而御料理被為拝領候
相伴古川杢之助偖又舎人殿助左衛門殿元〆相談
役も酒相伴有之候也
一 両御寺え 御代香御取次勤
同廿一日
一 今日御婚礼被遊候御刻限巳ノ上刻也万端
【右頁】
御婚礼方帳に有り依之此帳に不記
一関太郎右衛門御目附役被 仰付候
二月廿ニ日
一主水殿ゟ御婚礼為御祝義使者有之候
御進物は奥に相知居候右使者へ相応之酒食
被差出候
同廿三日
一今日御婚礼方懸役々其外御相談役御目付迄
【左頁】
被渡 御目候且又御婚礼方懸之
上役中桜岡浜御用人御傍目付西岡御
新宅詰侍并 喜三郎様御側目付へ
御新造様被渡 御目候
一御婚礼御祝義御使者佐嘉へ被進候
殿様 ゟ 御使者
数姫様 宮地勘左衛門
大殿様 右同
御母公ゟ 江副兵部左衛門
介副徒士
福島藤右衛門
右御進物は御婚礼方帳に扣有り
一 泉州様山城殿ゟ御祝儀御使者有之候御祝物有り
一 於御内御三ツ目御祝被相調候也
一 御婚礼御祝儀に付左之通御扶持被下候
壱人扶持拝領 江原覚左衛門
御着列面被相加壱人扶持拝領 仏師 馬場忠慶
右之通御当役被相達候
一 藤田次左衛門義御使者番ゟ御取次兼勤に被 仰付候
一 御蔵方附役栗原儀左衛門義勘定方に付は急に大
坂被差越候段被 仰付候
二月廿四日
一 町便に而従大坂文箱到来
同廿五日
同廿六日
一 今度御婚礼御祝に付左之通御料理御酒被為
拝領候
一 御親類御家老方御嫡子迄一汁弐菜御料理并
吸物一肴二ツ取肴一也尤請役所に而
一 番頭中は小松ノ間上之間に而吸物一肴二ツに而酒
一 惣侍中は直代計使者之間寄附之間御広間迄
肴三品片木盛付銘々土器也酒
二月廿七日
一 桜岡諸侍中并御婚礼掛懸役々吸物一肴二
に而御酒拝領
一 小頭徒士通直代計御広間に而御酒拝領足軽
小道具は組代計中ノ口鑓懸之下に而被為拝領候
何レ茂昨日之返也
同廿八日
一 善左衛門殿御事助左衛門殿御留守中御請役被
仰付候旨於
御前被 仰付候
一 横尾内蔵允義元〆役兼勤に被 仰付近々ゟ
大坂被差越候段被 仰付候
二月廿九日
一 御婚礼に付而頃日両御丸へ御祝物被進候為祝礼
今日御使者被差越候御進物一通御婚礼方へ扣有り
肥州様御使者 高木伊太夫
丹州様御使者 古賀十兵衛
其外様ゟは御附使者候也
介副手明鑓弐人
右御使者へ御対面所に而御直答畢而小松ノ間に而
相応之酒食被差出候相伴御取次ゟ介副弐人は御広
間に而酒計出宰領足軽は御構なし
二月晦日
一 祥光山へ 御代香御取次勤
三月朔日
一 御発駕之義当月五日御日取に而其通御届被置候
所御金不相揃に付御病気分に而御延引被遊候
に付今日 御本家様へも御届被仰入候
一 右同断に付当日御礼不被為 請候御祝義計
一 蓮池玉泉院様ゟ 御内へ婚礼御祝義御
使者被遣候御祝物も有之候也
御両殿様 御母公様へは祝詞計右御使者え
小松ノ間に而酒出ル
三月二日
一 御参会例之通各方御出仕
同三日
一 両御丸え当日御祝儀御使者留守権之助勤
大殿様 御母公様 数姫様 久兼様ゟ之御
使者は都而西丸勤也
一 当日御礼之義御病気分に付而御親類方御家
老中并年始奥向に而御礼申上候人数計ニ
外御居間に而被渡 御目候其外は御帳
に而御祝義也
一 栗原儀左衛門諸津屋利右衛門と朝ゟ被差置候
三月四日
一 町便に而大坂ゟ之御用翰今日到来
同五日
同六日
一 御婚礼為御祝儀今日鍋嶋喜左衛門鍋嶋左太夫
被罷出候に付御内に而御酒等被差出其末外
に而も小松間に而一汁五菜之御料理并吸物に【二ヵ】
肴四ツに而酒被差出候相伴助左衛門殿
一 御借銀方御用に付嬉野善右衛門本日ゟ長崎被差
越候也依之銀三枚被為拝領候也
同七日
一 吉冨三郎兵衛今夕致下着候
同八日
一 吉冨三郎兵衛大坂御用向申上候に付各方御出仕
御承知有之候也
一 栗原儀左衛門并諸津屋利右衛門筑州黒崎松原迄
罷越候所同所に而吉冨三郎兵衛へ致面談候得は此節
大坂罷越候而は決而不宜候条先此元へ引返候様
被申候に付同駅ゟ立返り今夜当所致着候
三月九日
一 大坂御用被 聞召上候に付吉冨三郎兵衛義
御前罷出御直に申上候
一 御用に付江戸ゟ西川多門罷下今日致着候旧冬
上方三社為 御代参野村菅左衛門被差
越候処大坂御屋敷別而御用繁半御無人に付而
被差留置候末是又一同に致下着候
三月十日
一 西川多門江戸御用向申上候に付各方御出仕御承知有之
一 肥前様御国許へ之御暇先月十三日被
仰出同十五日御暇之御礼被 仰上候段申来候
一 大納言様御不例之末去月廿四日被遊
薨御之段二丸ゟ西丸迄御知せ有之且又同断に付而
殿様 大殿様は御月代御用捨被遊候様倍臣之
義は夫に不及候由申来候
一 公儀御不幸に付而は二丸ゟ左之通触状到来
大納言様先月廿四日薨御之段江戸ゟ申
来候依之今十日ゟ御領中逼塞被仰付候
条謡乱舞高聲鳴物作事等相止町屋は
見世をさし触売不仕扨又殺生禁断
被仰付候条端々迄懇に可被為達候尤口数
之義は追而可相達候以上
二丸
亥三月十日 請役所
三月十一日
一 於浜従
御殿様御親類方御家老中被 召出猶又
御倹約之義被 仰出候
一 同断に付各方初役々今夜出仕御倹約之
吟味有之候也
一 祥光山へ 御代香御取次勤
三月十二日
一 吉冨三郎兵衛役方御免被成候
一 今夜も各方御出仕御簡略御吟味有之候也
一 祥光山へ 御代香御取次勤也
同十三日
一 御参会例之通御出仕
同十四日
同十五日
一 殿様正御誕生日に付 天山宮え御代参御
取次勤御参銀三匁御社納也
一 高嶋当夏番徳嶋八右衛門へ被 仰付候旨助左衛門殿
被為達候也
一 山代郷立岩村百姓城八と申者老母有之候所
城八を初妻子弟共迄致孝行之段相聞候に付
家之者へ為御褒美鳥目弐貫文被下之候也
一 蓮池玉泉院様御病気之末御養生不相叶
昨日御死去之段昨夜西丸ゟ申来候
一 同断に付
丹州様御為に御伯母様に付而
殿様 御前様 大殿様 西岡様 久菊様
ゟ之御悔御使者御取次勤 尤御取次罷越而は間に
不合に付西丸勤に成る
一 肥州様 常丸様へは御悔御在府に付江戸へ
仰越に相成筈也
一 公儀御穏便内に付当日御祝義無之
一 御用談に付各方御出仕也
一 町便に而大坂ゟ御用文箱到着
一 玉泉院様御死去に付而昨十四日ゟ日数五日御穏
便佐嘉触到来
一 嬉野善右衛門長崎ゟ今夕致帰着候
三月十六日
一 大納言様薨御に付而御穏便被 仰付置候内
作事町屋見世蔀明ヶ触売殺生禁断
右之分今日ゟ被差免候
三月十七日
同十八日
一 法性院様五十年御忌御法事高伝寺に而
昨日ゟ御執行に付 御代香
殿様御香奠金子百疋 宮地勘左衛門
大殿様同白麻弐十帖 江副兵部左衛門
数姫様同白麻十帖 西岡金吾
御母公様同白麻十帖 冨岡小兵衛
一 右御法事に付今日一日殺生禁断被
仰付旨申来候
一 嬉野善右衛門義御借銀方に付而豊後日田へ被差
越候由御当役被相達候是又右に付而仕廻方に
銀三枚被為拝領候
一 祥光山へ 御代香御取次勤
三月十九日
一 蓮池御不幸に付而伺御機嫌御家老惣代に今日
太郎兵衛殿被相越候
同廿日
一 横尾内蔵允義御借銀方に付而大坂被差越候
今朝ゟ出立此節仕送銀三拾五貫目参る宰
領足軽北嶋平次兵衛
一 寿昌院様御正当に付而祥光山へ 御代香
善左衛門殿御香奠線香壱束
一 大殿様御代香番頭勤御香典なし
一 去年泉鏡坊詫演に小路廻り火災相見へ候由
相聞候に付為転除同坊へ御祈祷被仰付候料
金百疋出る
三月廿一日
一 古川杢之助今日ゟ大坂被差越候
一 芦刈水道普請場為見分助左衛門殿初元〆
相談役惣目附附役御蔵方役郡方郷方
役々罷越候
三月廿二日
一 御参会例之通各方御出仕也
同廿三日
一 大納言様薨御に付而御逼塞被仰付置候得共
来月二日ゟ御免被成段二丸触到来
一 今度御簡略被 仰付候御趣法出来立候付
濱へ被聞召上候依之御親類御家老方元〆
相談役被罷出候
同廿四日
一 恭盛院様御正当に付高伝寺へ御代香西
丸勤御香奠白麻十帖
一 松平飛騨守様御下国今夜牛津御泊に付御見廻
御使者東嶋杢右衛門御進物は無之郡方其外
諸役人同所罷越候也
一 御簡略 御趣法被 聞召上候に付御親類
御家老方元〆相談役
御前被召出候
三月廿五日
同廿六日
一 嬉野善右衛門御借銀方御用に付而今日ゟ豊後
日田被差越候也
一 長崎下向之勘定役中村与兵衛殿并普請役中田
代右衛門殿今夜牛津止宿に付御見廻御使者御茶や
番ゟ相勤候御進物梅干一曲宛
三月廿七日
一 蓮池玉泉院様御葬送に付従
数姫様御代香大園七兵衛被差越御香奠無之
同廿八日
一 玉泉院様御中陰に付 御代香左之通被差越候也
殿様ゟ御香典白麻廿帖 藤田次左衛門
御前様ゟ右同十帖 西岡金吾
三月廿九日
一 町便に而大坂ゟ之御用文箱到来
四月朔日
一 今日 天山宮御田祭り有之筈之所御穏便中
に付延引明後三日に有之筈也此段佐嘉役筋
へは西丸ゟ届に而相澄
一 御穏便中に付当日御祝義不被為 請候
同二日
一 御参会に付各方御出仕候也
一 今度御簡略に付而浜詰ゟ左之人数役方御免被成候
崎川覚兵衛
御側 溝口甚兵衛
城嶋幸悦
御茶道 松本宗意
御伏方 田代尉右衛門
小頭ゟ 石田逸八
野田孫兵衛
鹿 文治
川副九平治
栗原与助
徳本勇右衛門
太田義十
福嶋太郎右衛門
牧瀬両左衛門
古賀林 斉
足軽 江り口林右衛門
小道具永松平内
一 今日仕廻に而江戸大坂へ之御用簡小倉迄足軽飛
脚を以差越候
四月三日
一 天山宮御田祭礼に付同所へ警固頭人関隼人
并足軽六人差出候
一 同断に付 御代参御取次勤御参銀三匁
一 西岡 御代参平士勤御参銀同所ゟ出候
一 其外様 御代参其詰所ゟ相勤候御参銀も
同処ゟ出候也
四月四日
同五日
一 御用談之義有今日舎人殿助左衛門殿佐賀被相越候
同六日
一 御婚礼為御祝義今日相良源兵衛御外御内へ被罷
出候且御用談之義有之に付退出懸左治馬殿
南ヶ相様御当役方御出会有之相応之酒食
被差出候に付入方用に銭百五拾目被差出候也
一 肥州様ゟ御内分に御婚礼為祝義御使者外御小姓より
多々良九郎右衛門被差越候御進物
御夫婦様へ鰡二一折ツヽ被進候右御使者へ小松之間に而
御料理酒出る 御二方様ゟ金子百疋ツヽ被為拝領候
一 御用談に付今日各方御出仕也
四月七日
同八日
一 馬場清左衛門義御内頭人ゟ西岡をも兼勤に被 仰付候
四月九日
同 十日
一 御支配勘定役内藤神右衛門殿并御普請役西原
幸八郎殿帰府今日牛津休に付御使者を以葛粉
一曲ツヽ被差出候御使者御茶屋番ゟ相勤候也
一 旱魃に付雨乞御祈祷岩蔵寺へ被仰付今日
ゟ二夜三日執行有之料銀弐枚被差出候也
同十一日
一 肥州様今日御着城に付御家中惣代
助左衛門殿
冨岡小兵衛
冨岡友之允
持永治兵衛
江口弥兵衛
一 同断に付御歓御使者御取次勤
大殿様 御母公様 久菊様ゟ之御使者西丸勤也
御前様ゟ之御使者大園七兵衛是神崎御一宿
迄御見廻御使者相勤候上直に佐嘉罷越御歓之
御使者をも相勤候也
四月十二日
一 端午御献上用に金百両江戸へ御仕送有之今朝ゟ
足軽岡八兵衛大里道中一日一夜中国七日東海道
十一日限に〆被差越候
一 祥光山へ 御代香御取次勤
同十三日
一 今日卯ノ日に付 正一位社御祭被相調候
御代参御側方ゟ被相勤御参銀三匁御施物左に
銀三匁 岩蔵寺
同壱匁ツヽ 伴僧三人
神楽上候に付
同壱匁五分 宮嶋石見
此外御祭方岩蔵寺ゟ相調 上ゟは御構なし
同十四日
同十五日
一 当日御祝義計被為 請候
一 和泉守様御元服被成候段為御知有之候に付各方
初詰中御祝義被申上候
四月十六日
一 旱魃に付岩蔵寺に而比日も雨乞御祈祷有之候へ共
一円降雨無之に付又々岩蔵寺へ御祈祷被仰付
明日ゟ五夜五日執行料銀五枚被差出候也偖又
郷中之義は千石庄やへ被 仰付其懸之神社へ
銘々存寄之祈願相懸候様有之尤
上ゟ為御加勢一懸一庄やへ鳥目壱貫文ツヽ被下候
一 江里山村に先比ゟ流行疫病有之数拾人病付相
果候段相聞候に付為転山伏抔三人同村に而祓相
勤候様被 仰付候左候而江り山村之者共祇園社
参籠致候様願をも相懸置通り被仰付候也
同十七日
一 田嶋藤右衛門義今度御仕法に付而 上々様方御一所に
御集り被成御台所一御台所に相成候に付
殿様 御前様 御母公様 喜三郎様 御姫様方
右之御台所藤右衛門壱人え被 仰付候
四月十八日
一 祥光山へ 御代香御取次勤
一 於大坂小柳孫右衛門死去之段申来る
同十九日
同廿日
一 下向之紅毛人今夜牛津止宿に付役々跡方之通
同所罷越候也
一 両御寺え御代香御取次勤
同廿一日
一 岩蔵寺に而雨請御祈祷今日結願に付御当役
方三人并御目付御蔵方郡方郷方役中
天山社え素足に而参詣有之御家老方三人ゟ
参銀壱両其外は舫に而参銀壱両上る郷内之
者共千人素足に而参詣被 仰付候昼過ゟ大雨
同廿二日
一 今日仕廻に而大坂へ之御用文箱小倉迄足軽飛脚
を以被差越候
一 御参会例之通各方御出仕也
一 祥光山へ 御代香御取次勤也
一 江戸大坂ゟ之御用簡町便に而今夜到着
四月廿三日
一 安本友平義 浜御側被 仰付候也
同廿四日
一 上佐嘉草葉村潮音寺金剛天神へ毎年之通り
西岡ゟ御代参被差出候右は佐嘉在小頭通ゟ相勤候
御参銀壱両外ゟ出る
一 於佐保様御局岩瀬永之病気に付御暇被下依之
一生壱人扶持被為拝領候右之趣一類永橋一郎右衛門へ善
左衛門殿被相達候也
一 御用談之義有之舎人殿助左衛門殿今日佐嘉被相越候
四月廿五日
四月廿六日
一 祥光山へ 御代香御取次勤
一 上屋敷便に而江戸へ文箱奥ゟ被差越候由是は五月
中御参府不被為叶由也
同廿七日
一 小寺伝平義浜御供番被 仰付候
一 御病気に而五月中御参府不被為叶由御届之
飛脚小倉迄参る今日立也尤昨日二丸便に而も同様注進
同廿八日
同廿九日
五月朔日
一 当日御礼無之御祝義計被為 請候
一 五穀豊饒御祈祷毎年之通岩蔵寺般若寺へ
被仰付御祈祷米六斗銀弐枚ツヽ被差出候也
一 肥州様ゟ御土産被送候左之通
殿様え
一御手綱 五筋
数姫様へ
一 御たは粉入 五ツ
一 御香包 五ツ
一 御盃 壱箱
一 御菓子 壱捲
大殿様 西ノ岡様へ
一 御たは粉入 十を箱入 壱箱ツヽ
一 鱸 一折一唯
右之通西丸迄御年寄中ゟ奉礼に而参候
一 栗原儀左衛門御用に付大坂ゟ急きに而罷下り今夜
致下着候
五月二日
一 肥州様ゟ昨日御土産被達候に而右御礼御使者被遣候
殿様御夫婦様ゟ 藤田次左衛門
大殿様御夫婦様ゟ 江副兵部左衛門
一 御参会例之通各方御出仕也
同三日
同四日
一 今度御取〆に付
上々様方御台所御寄被成候に付附役西隈藤七
徳本勇右衛門へ被 仰付候
同五日
一 当日両御丸へ御祝義御使者 藤田次左衛門
大殿様 御母公様 数姫様 久菊様ゟ之御祝義
御使者西丸勤に而相澄御家中惣代も西丸一手
に而相澄申候也
一 御親類御家老方并受役所詰中御側鎖口詰中
外御居間に而被渡 御目候也
五月六日
一 川上河口為見分御当役并大目付元〆惣御目付受役付
御蔵方役郡方役郷役中被罷越候弁当御台所ゟ出
同七日
一 厳有院様百年御忌御法事法琳院に而御経営に付
明日一日御領中殺生禁断被仰付旨二丸触到来
五月八日
一 野口弥右衛門義勘定所付ゟ御台所付に転役被 仰付候
同九日
同十日
一 松尾山へ 御代香御取次勤
同十一日
一 御取〆に付而御新宅詰ゟ高木作左衛門村田忠悦御減少
に而御免被成候也
一 祥光山へ 御代香御取次勤
同十二日
一 江口神右衛門義被 思召上様有之に付役方御免被成候
旨附役高木又兵衛ゟ申達候に付則引入遠慮
致候也
一 御内御台所役江口神右衛門代持永九郎左衛門へ当分被
仰付鎖口詰九郎左衛門代当分神代与兵衛へ被 仰付候也
同十三日
一 御参会例之通各方御出仕也
五月十四日
同十五日
一 当日御礼無之御祝義計被為 請候
一 御誕生日に付 天山社へ御代参御取次勤御参銀三匁
一 三月十八日
法性院様五十年御忌に被対左之通御救免
加賀守殿家来
相原文左衛門
冨岡惣八
其方共義無調法有之牢人被 仰付置候得共
今度 法性院様五十年御忌に被対
御法事道広に被 召成候
元加賀守殿家来侍通
川浪嘉右衛門
其方義不届有之御城下払被仰付置候得共
今度 法性院様五十年御忌被対御法
事被差免候
右之通二丸ゟ書付相渡候一類〳〵呼出に而相談役
ゟ申達候也
五月十六日
一 御台所附役之義最前徳本勇右衛門へ被
仰付候所病身に而御断申上候に付右代野口弥左衛門へ被
仰付候
一 喜三郎様附之内ゟ堤刑部左衛門寺崎郡治御減少に而
役方御免被成候
一 嬉野善右衛門儀御借銀方に付豊後日向被差越段
御当役ゟ被相達候
一 喜三郎様今日新御座被御引移候
一 舎人殿事被 思召上様有之江戸御供被差免蟄居
被 仰付候
右之通今夜御同人宅へ大御目付惣御目付被差
越被仰渡御書付読蓑田作左衛門尤前辺相談役ゟ
案内有之
五月十八日
一 祥光山へ 御代香御取次勤
一 御用に付助左衛門殿西丸被相越候
一 山代郷立岩村百姓城八と申者兼而親へ孝行
致候段相聞候に付佐嘉ゟ鳥目五貫文被為拝領候
一 同村百姓新右衛門と申者当年八十八歳罷成り
三夫婦相揃罷在珎敷候義故佐嘉ゟ被相祝御酒
被為拝領候
五月十九日
一 山本利左衛門御米売方に付長崎被差越候に付飛乗料
金弐百疋被為拝領候也
一 当月御祈祷岩蔵寺今日ゟ小松間に而例之通
二夜三日執行有之候也
一 嬉野善右衛門今日ゟ日田へ被差立仕廻用として
金子五百疋拝領也
一 今日仕廻に而江戸大坂へ之御用文箱小倉迄足軽
飛脚を以差越
五月廿日
一 両御寺え 御代香御取次勤
同廿一日
同廿二日
一 御参会例之通各方御出仕
一 祥光山へ 御代香御取次勤
仝廿三日
一 平石孫右衛門義勘定所付役被 仰付候
同廿四日
同廿五日
一 御新宅詰小頭之内田中吉郎右衛門牧瀬平治御減少
に付役方御免被成候也
同廿六日
一 祥光山へ 御代香御取次勤
同廿七日
同廿八日
一 郡方御付役石井左之助御婚礼為御祝義被出
干鱈一折八枚献上被致に付小松間に而吸物一肴
三に而酒出る相伴御取次ゟ致候
一 池田増之進義浜屯詰被 仰付候
一 助左衛門殿事江戸御供被 仰付御当役は善左衛門殿
被仰付候
一 水上山不動会に付御代参御取次役勤御参銀三匁
一 当祇園会人形鬮
先山 閔子騫
本山 女庭訓
一 於上【一字見消】佐保様今夕浜へ御引越被遊候
同廿九日
同晦日
一 御前様春已来御不例勝に被成御座候に付般若寺へ
御祈祷被 仰付候料銀弐枚被差出候也
一 見性院様御正当に付祥光山へ御代香助左衛門殿
御香奠線香壱束御寺納被成候也
一 大殿様御代香番頭勤御香典なし
六月朔日
一 当日御礼無之御祝義計被為 請候
一 御婚礼御祝義として常丸様ゟ御使者を以左之通
御到来
殿様へ
一 干鱈一折
一 昆布一折
一 御樽代五百疋
御前様へ
一 干鱈一折
一 御樽代三百疋
大殿様え
一 干鱈一折
西ノ岡様へ
一 右同断
一 和泉守様ゟ初而御暇被蒙 仰候御祝義之返礼
扨又御元服御祝義之御返礼今日御使者を以左之通
御到来也
殿様へ
一 干鯛 一箱
一 御樽代三百疋
御前様へ
一 干鯛 一箱
一 御樽代三百疋
大殿様へ
一 干鯛 一箱
一 干鯛 一箱
西ノ岡様へ
一 干鯛 一箱
一 干鯛 一箱
右之通御到来也 右御使者抔へ小松ノ間に而
一汁并三菜之懸合并吸物一肴三ツに而酒出る相伴
御取次ゟ致候也
六月二日
一 御参会例之通各方御出仕也
【右項】
一 大坂へ之御用翰今日仕廻に而足軽野田与右衛門を以
被差越大里道中一日一夜中国路八日江戸へ之御用文箱
をも参申し候
六月三日
一 日峯社御祭礼に付 御代参戸田要助御参銀
二両
大殿様ゟ之 御代参西丸勤御参銀御賄方ゟ出る
一 日峯様御正当に付宗智寺へ之御代香西丸
【左項】
勤御香典白麻弐十帖御寺納
同四日
一 御用談之義有之候に付助左衛門殿佐嘉被相越候
同五日
一 祇園会山役一通今日善左衛門殿被相達候也
一 大組代中小組代中へ左之通勤方被 仰付候
一 御広間番
一 御使者方
【右項】
一 御社参御仏参御供
一 御狩方
右は大組代中八人
一 御社参御仏参御供
一 御狩方
右は小組代七人へ
右之通今度御仕法に付而被 仰付旨善左衛門殿
被相達候
【左項】
一 御手当米六石 大組代八人え
一 同三石壱斗五升 小組代七人え
一 御広間番一昼夜弐人ツヽ相勤候事
一 筆紙墨は上ゟ被差出候事
一 触落過代当番ゟ相懸候事
一 御供当病障之節大組代ゟ当次之事尤触出
名前は附役名出し之事
一 徒士足軽触達之義町方中触迄小屋男ゟ
使之事惣触之義は大組代ゟ触達致候事
右之通相定り候事
六月六日
一 御減少に而堤春可川副竹斎并下坊主吉次郎佐
此三人役方御免被成候也
一 御前様先比已来ゟ御不例被成御座に付為伺
御機嫌各方御出仕
同七日
同八日
一 殿様二十五之御厄入に付御祝左之通尤朔日は
日柄悪敷に付今日被相調候
一 御吸物 一
一 御肴 三
一 御夜食 素麵
一 御菓子
右に付而
【右項】
上々様御集り被成候
久菊様 態菊様御厄晴御祝御一所に御舫
被成候に付吸物一御肴一相増候也
一 右御厄入に付左之通御願文上る
一 天山宮へ 祓百座
一 祇園社へ 神楽
一 稲荷社へ 百燈明
【左項】
右 御親類方御四人ゟ
一 天山宮へ 神楽
一 祇園社へ 百燈明
一 不動寺へ 心経百巻
右 太郎兵衛殿 善左衛門殿 助左衛門殿左治馬殿
内蔵助殿 縫殿助殿
一 天山宮へ 祓百座
一 祇園社へ 絵馬
一 清水山へ 普門品十五巻
右 神代自兵衛宮地二兵衛嬉野善右衛門横尾
内蔵允日出嶋卯右衛門東嶋杢衛門関
太郎右衛門藤嶋清左衛門
右何れも御熨斗副
六月九日
一 青木又兵衛大坂ゟ昨日下着今日彼地御用向申上候
に付各方御出仕に而御承知也
一 両御姫様去年御厄入之節御願書被進置候は
昨日御厄晴御祝に付而御成就有之候也御礼に塩鯛一
折壱御舫に而相副上る
六月十日
一 松尾山え御代香御取次勤
同十一日
一 二丸御年寄中ゟ御用有之舎人殿助左衛門殿被相
越候様申来候併舎人殿には当時御引入内
助左衛門殿には御痛に付善左衛門殿被相越候処御取
〆り之義に付 上々様御打寄被遊候義に付
仕組御不都合に被 思召候由仰出之書付御年
寄ゟ被相達候也
六月十二日
一 栴葉院様十七回御忌御法事高伝寺に而御経
営に付 御代香左之通
殿様ゟ 御香奠白麻廿帖 小田村源右衛門
御前様ゟ右同 十帖 関 隼人
大殿様ゟ右同 廿帖 江副兵部左衛門
西ノ谷様ゟ右同 十帖 冨岡友之允
御両殿様御代香は番頭勤の処何れも当
番に付物頭ゟ相勤候也
一 右御法事に付今日一日御領中殺生禁断申
来候
一 祥光山へ御代香御取次勤
一 善左衛門殿今夜佐嘉ゟ御帰御年寄ゟ左通書付渡る
加賀守様御勝手向至而被差支候に付
此度減少之仕組被相立候就右は
数姫様御住居所へ
松姫様其外御連枝中一所に被相住
積之由委細之趣
紀州様被 聞召候御差支に付而倹約
被相用候義は尤之義被思召候併減少
に而何も被御打寄儀に候はゝ惣躰
松姫様并御女子方には
紀伊守様一所に可被相住筈之処
数姫様一所に御打寄と有之義御婚礼
以前之儀にも候はゝ格別今更其通には不
都合之儀と申殊に何分省略之仕組
と候而も被対此御方勘弁も可有之事
に而畢竟此節之仕組役人共心得違
等閑之仕方と相見へ不吟味之至候右躰之
役人は差替候而も
数姫様には屋敷只今之形に而被相住候様
被 思召候此旨屹度可相達由被 仰出候
六月
六月十三日
一 昨日二丸ゟ御達に付而御仕組方役々左之
人数遠慮
御請役 持永助左衛門
御用人 南里太郎三郎
元〆相談役 宮地二兵衛
日出嶋卯右衛門
御側目付 藤山惣右衛門
相原左次兵衛
右之通今夜夜通に而西丸へ申参候
一 御参会例之通御出仕也
一 暑中為御見廻
大殿様へ交生御肴一折
御母公様へ塩小鯛一折十五被進候
六月十四日
同十五日
一 祇園会に付桟敷勤左之通也
御家老 善左衛門殿
御名代御参銀三匁 松田九郎兵衛
大御目付
大殿様御名代御参銀浜ゟ出る 神谷自兵衛
嬉野善右衛門
是は役々差扣内に而御無人に付而也惣御目付無出勤
附役人壱人
祐筆
給仕
一 山挽立朝七ツ時迄両山昼四ツ時迄川原挽
届下り山先山は上町中程次山は中町中程
迄参り今日一日に而右場所に而解崩に相成る
一 山挽夫丸へ昼食被下候
一 祇園会為御祝義左之通被進候
大殿様へ 一 団弐本 包のし
御母公様へ一 右同
御前様へ 一 右同
一 嶋越後 壱反
一 生御肴 一折
右は御引越初而之祇園会に付被進候
一 恒例之通御納戸ゟ
上々様へ真田扇壱本団壱本宛
御悉皆様へ 上る
六月十六日
同十七日
同十八日
一 本良院様御正当に付祥光山へ御代香被差出
太郎兵衛殿御香奠線香壱束
一 大殿様同寺御堂参被成候
六月十九日
同廿日
一 和泉守様御入部昨夜神崎御泊に而今日
佐嘉御勤被成今夜牛津御泊也川原小路
御屋敷へ西丸ゟ御附使者に而
上々様御悉皆様ゟ御見廻御歓旁被
仰進候其末牛津御泊へ御見廻御使者に而
御進物左之通
殿様ゟ
一 卵 一箱 百
御前様ゟ
一 塩小鯛 一折 十五
右御一使に而御使者 東嶋杢右衛門
大殿様ゟ
一 塩小鯛 一折 十五
西ノ岡様ゟ
一 大西瓜 一折 二
右御一使に而御使者 江副兵部左衛門
一 御連枝様方 お佐保様ゟは御言葉計
一 右同断に付而為伺御機嫌御家老惣代太田左治馬殿
并御家中惣代関隼人伊東伝兵衛秀嶋階火
消頭人関隼人兼勤也
一 元〆相談役ゟ壱人惣御目付ゟ壱人并郡方其外
諸役罷越候也
一 両御寺へ 御代香御取次勤
六月廿一日
一 和泉守様今朝八ツ半時無御別条牛津御出駕也
同廿二日
一 祥光山へ 御代香御取次勤
一 御家老方御痛且御引入共に付而御参会無之
一 仲姫様御病気御療養不被為叶去二日御卒去に付
昨廿一日ゟ日数五日御領中御穏便被 仰付候条謡乱舞鳴
物相止候様尤作事は二日相止候様にと二丸ゟ触達有之
一 同断に付而
肥州様昨日一日御遠慮被成候段御年寄中ゟ為御知
之奉札西丸迄参候右は 円締院様御妹女様に而
肥州様 数姫様御為に 御叔母様御続成
一 御前様には今朝御承知被成に付今日一日御遠慮
被成段被仰出候
一 右御不幸に付而
御前様へ各方御機嫌伺被申上候也
一 肥州様へ御悔御使者御取次勤
大殿様御初 其外様ゟは西丸勤也
六月廿三日
同廿四日
一 長崎町代官高木作右衛門殿同菊次殿下国今夜
牛津泊に付御使者を以葛粉一箱ツヽ被差遣候御
使者同所御茶屋番ゟ為勤候也
同廿五日
同廿六日
同廿七日
一 江戸大坂ゟ之文箱到来但先達而大坂へ
為飛脚足軽野田与右衛門被差越候帰
便に而参る
一 和泉守様御入部に付為御祝義御使者
被進而
御使者
殿様 御前様兼 藤田次左衛門
大殿様 西ノ岡様御連枝様兼
江副兵部左衛門
御進物
殿様ゟ
一 干鯛 一折 七枚
一 昆布 一折 七抱
一 御樽代 五百疋
御前様ゟ
一 干鯛 一折 五枚
一 御樽代 二百疋
大殿様ゟ
一 干鯛 一折 五枚
一 御樽代 三百疋
西岡様ゟ
一 干鯛 一折五枚
一 御樽代 二百疋
御連枝様方 お佐保様ゟは御言葉計仰進候
一 素麵 一箱
一 鱈 一折五枚
右は
殿様 御前様へ
一 素麵 一箱
一 塩鯛 一折弐
右は
大殿様 西ノ岡様へ
右之通兵庫殿ゟ暑中為御見廻乍延引被
進候由也 兵庫殿使者 高柳音人
右使者へ酒食被差出候 取次 藤田次左衛門
一 和泉守様御入部為御土産御惣客様へ品々御使者
を以被進候左之通
殿様え
一 御帯 壱筋
一 御扇 壱箱
御前様へ
一 御手拭 壱包
一 御多葉粉入 壱包
一 御扇 壱包
大殿様へ
一 御帷子 壱反
一 御扇子 壱包
一 御多葉粉入 壱包
一 御盃 壱箱
西ノ岡様へ
一 御帷子 壱反
一 御扇子 壱包
一 御多葉粉入 壱包
一 御手拭 壱包
一 浄瑠璃本 壱包
お佐保様へ
一 御手拭 壱包
一 御多葉粉入 壱包
喜三郎様へ
一 御印 壱筋
一 御多葉粉入 壱包
久菊様 熊菊様へ
一 御扇子 壱包ツヽ
一 御手拭 壱包ツヽ
一 絵本 壱包
鹿嶋御使者
永田佐一右衛門
取次
関隼人
右御使者へ酒食被差出候也
六月廿八日
一 和泉守様御入部に付為御祝義左之人数鹿嶋被相越候
御家老惣代太郎兵衛殿
御家中惣代木下伝左衛門
一 常丸様へ御婚礼為御祝答御使者
藤田次左衛門
右御進物は御進物方扣に有り略之
才領足軽 西 文七
一 江戸へ之文箱小倉迄足軽平野利兵衛被差越候
六月廿九日
一 山代殿ゟ使者を以暑中為御見廻左之通被進候
一 塩小鯛 一折 廿壱
殿様 御前様え
一 素麵 一箱
大殿様 西ノ岡様え
お美濃殿ゟ同様御伺被申進候由
熊菊様へも御伺被申進候由
使者 高木黯左衛門
取次 藤田次左衛門
右使者へ酒食出る也
一 二丸御年寄中ゟ申談候御用有之候に付
御家老方之内年老ゟ両人去る廿六日七日間
被相越候様申来候得は何れも不快に付今日左
之人数被相越候 太郎兵衛殿
佐治馬殿
七月朔日
一 今日御祝義御礼御不例に付不被為 請候
同二日
一 御施餓鬼に付高伝寺へ御代香
御香典なし 関隼人
一 大坂へ御仕送銀五貫目急きに而足軽岡八兵衛
に而被差越候
一 於禅林庵今晩 慈広院御施餓鬼
に付前方夫丸拾人ツヽ差出被成候処右庵
無住に付致中絶居候処今又住持相定候
に付夫丸五人被差出候
七月三日
一 御施餓鬼に付高伝寺へ 御代香
御香典なし 木下伝左衛門
一 右に付神崎志波屋真龍寺へ 御代香
御香典なし 小野源蔵
一 大坂注進状到来但先達而平野利兵衛為飛脚
小倉迄被差越候所小倉ゟ請取致帰着候
一 於無量寺 玉真院様御施餓鬼に付
青銅弐貫六百文御寺納并掃除夫丸五人
被差出候也
一 寄付堪忍 福岡勝十
一 筆者給仕 御徒士壱人
一 門番足軽 弐人
一 御代香御香典線香壱束 関隼人
一 右に付同寺詰役之人々へ割籠御台所ゟ
被差送候也
一 例年之通山代郷ゟ早稲米三俵差上候
跡方之通目達銭壱貫文被下候右三俵之内
弐俵は
御両殿様へ壱俵ツヽ上る残壱俵は受役
所に而解崩し御内西岡浜御西へ包のし
相副差上る
七月四日
一 宗智寺へ御代香
御香典なし 藤田次左衛門
一 高伝寺へ右同
右同 右同人
七月五日
一 高伝寺へ御代香御香典なし 関隼人
一 牛津郡継庄左衛門無調法有之佐嘉ゟ役方被
差免逼塞被仰付候右に付而此御方ゟも
被呵置候委細は郡方申渡帳に有り
一 木嶋溝刈利平次親へ孝行致候聞へ有之
御目付方ゟ聞合有之候所相違無之に付為
御褒美青銅壱貫文被為拝領候也
同六日
一 高伝寺へ御代香御香典なし 木下伝左衛門
一 正定寺へ 右同 右同人
一 祢念寺へ 右同 西丸勤
同七日
一 当日御祝義御礼詰中計奥に而被為 請候
一 当日二丸御祝義御使者 小野源蔵
一 大殿様其外様ゟ之二丸へ当日御祝義御使者
例之通西丸勤
一 左治馬殿二丸被相越候尤此間之御用御返答
之由也
七月八日
一 於祥光山 御先祖様方御施餓鬼に付
左之通被差出候也
一 銀百目
一 米六斗
一 薪 拾荷
一 夫丸拾弐人
一 同所寄付堪忍 馬乗以上壱人
同以下壱人
筆者給仕 御徒士弐人
門番 平士弐人
足軽弐人
斎堂心遣并掃除方心遣 足軽弐人
一 御先祖様方へ御香典都而線香壱束ツヽ八束
御代香 図書殿
一 大殿様御代香御家老勤御香典線香壱束
浜ゟ出る
一 御前様御代香御内頭人
一 御母公様御代香西岡頭人
一 お佐保様御代香同所平士御香典も同所ゟ出る
一 御親類御家老中并番頭請役所詰中
出席有之候
一 於高伝寺
海量院様 貞徳院様御施餓鬼に付
御代香御使者番勤御香奠無し
七月九日
一 蓑田作左衛門当分相談役被 仰付候
一 於高伝寺
大弘院様 互聖院様御施餓鬼に付
御代香御使者番勤御香典なし
同十日
一 大弘院様え 御前様ゟ御代香大園七兵衛
御香典無し
一 御同霊様え 御母公様ゟ西丸勤御香典なし
一 与賀本行寺に而慈広院様御施餓鬼に付
御代香西丸勤御香典無し
一 三溝村大興寺 に而 祥光院様御施餓鬼に付
御代香左之通何れも御香奠無し
殿様御代香御使者番勤
大殿様右同断
御母公様右同断
一 於松尾山 高岳院様御施餓鬼に付
米六斗
御幕壱張被指出候
御代香藤田次左衛門御香奠線香壱束
七月十一日
一 日峯様 陽泰院様御施餓鬼に付
宗智寺に而御執行御代香御使者番勤御
香典白麻拾帖
一 月堂様同断に付同寺へ御代香御家老勤
御香典白麻拾帖
一 於円通寺 月堂様御施餓鬼に付
御代香東次郎兵衛御香典無し
七月十二日
一 龍宝院様御三年御忌於高伝寺
御執行に付御代香左之通
殿様御代香 宮地勘左衛門
御香奠椙原白麻弐拾帖但御一周忌迄は
金子百疋被指上候得共御省略に付向後右之
通に被相定候也
大殿様御代香 江副兵部左衛門
御香奠溝口白麻弐拾帖
御前様御代香 大園七兵衛
御香奠右同断
西ノ岡様御代香 御使者番勤
御香奠右同断
一 右御法事に付今日一日御領中殺生禁断之事
御家中自分に申付置候軽罪之者差免候事
右二ヶ條二丸ゟ申来候
一 橘屋半左衛門当春以来ゟ罷越居候所明十三日より
出立致候に付左之通被為 拝領候
一 御目渡御詞拝領
一 御垢付御帷子弐ツ拝領
一 御料理一汁三菜小松間に而拝領
相伴御蔵方役吸物一肴三種
七月十三日
一 御生御魂之為御祝義
御親類様え左之通被進候
一 生御肴 一折
一 御樽 三升入
右は
大殿様え
一 生御肴 一折
一 御樽 二升入
右は
御母公様え
一 今日橘屋半右衛門出立に付道中不馴故為手
引北嶋平次兵衛被相付度旨半右衛門ゟ相願候に付
被相付候尤此節大坂御仕送として銀拾貫目
同人に而被指越候江戸大坂へ之御用翰も被指越候
一 今晩ゟ於御対面所
御聖霊様御祭り被相調依之宗智寺ゟ
出家壱人被参候に付御施物金子百疋被下候
一 御寺々盆役并桜岡給仕手長例年之通也
七月十四日
七月十五日
一 服部忠左衛門へ当分御茶殿取差次被
仰付候尤田中円次郎相痛候に付而也
一 鹿嶋於普明寺
定恵院様御施餓鬼に付
御代香御使者番勤御香典無之従
大殿様御代香 江副兵部左衛門
同十六日
一 祥雲院様御施餓鬼於栄照庵御執行に付
左之通
一 銭弐貫六百文
一 薪五荷
一 夫丸八人
右之通被差出候
一 殿様御代香御香典線香壱束 木下伝左衛門
一 大殿様御代香御香典浜ゟ出る 江副兵部左衛門
一 御内西ノ岡浜御西へ御施餓鬼有之義御知せ申上候也
七月十七日
同十八日
一 今八つ半時御供揃に而
上々様為御涼川原御出被遊候右に付而
同所へ補理出来候也
御内鎖口指次吉本弾右衛門へ被 仰付候
一 大坂へ御仕送銀拾貫目足軽飯盛善五郎
に而被差越候尤橘屋半右衛門兵庫へ着致居候
追懸ケ被差越候也
七月十九日
同廿日
一 御借銀方に付野副政右衛門今日ゟ日田被差越候
一 肥州様今日長崎ゟ御帰城被成候也
同廿一日
同廿二日
一 御当役其外御家老中痛共に付御参会無之
七月廿三日
同廿四日
同廿五日
一 町便に而江戸大坂ゟ之文箱到着
一 御借銀方に付而大道寺役僧罷下居候今日
桜岡罷出元〆并御蔵方役々小松間に而
対談有之候 餅菓子計出る
七月廿六日
一 長寿院様御正当に付祥光山へ御代香
御家老勤之処痛共に付番頭勤御香典線
香壱束
同廿七日
一 晴気九郎森脇川端に石搦有之候を前
前ゟ此御方ゟ普請相整被来当春例
之通普請被相整候所晴気村庄屋村役共
ゟ差留め候に付二丸へ前断之趣此御方御普
請場所之処何之訳を以指留候哉之旨書
付を以被相達候得共埒付不申候末佐賀御
蔵入之内相建候御山方制札七ヶ所取
除に相成候様佐嘉ゟ相達有之候に付御内々
に而佐嘉役々へも申談有之色々御取合
有之候得共是又埒付不申右に付昨夜ゟ
佐嘉諸猟方下目附両人西郷大庄やへ参り
先達而相達有之候制札七ヶ所共に最早御取除
可相成右為見分罷越候由未御取除けに不相
成候はゝ我々取除庄やへ相預置様役頭ゟ
相達有之候由大庄やゟ此段注進有之右に付
郡方役晴気番所山田源左衛門其外郷役中
打寄色々吟味等有之候得共何れ之謂に而
相建居候哉証拠無之其上右搦普請
差留め候節為内済申談散分庄や村役ゟ
佐嘉御本帳内之場所に候へは向後普請致間敷
候段手形書付晴気庄やへ差出置候
得は尚又何共二丸へ被仰入候様無之に付今夜
中に左之通制札御取除に相成候明朝目付
見分相整筈に候
一 制札壱ヶ所 寺浦御番所前
御蔵入之内
一 同壱ヶ所 松尾村東寺領之内
一 同壱ヶ処 本 ̄ン山村寺領之内
一 同壱ヶ処 晴気村前御蔵入
之内
一 同壱ヶ所 西晴気村前御
蔵入之内
一 同壱ヶ所 九郎森脇御蔵入内
一 同壱ヶ所 黒原村御蔵入之内
右七ヶ所共今晩取除に相成候也
七月廿八日
一 被 思召上様有之に付左之人数役方
御免被成候
元〆役 日出嶋卯右衛門
御傍目附 相原佐次兵衛
藤山惣右衛門
七月廿九日
一 江戸大坂へ之御用翰飛脚足軽高園
金左衛門に而小倉迄被差越候
八月朔日
一 当日御礼奥に而被為 請候七夕之通也
一 両御丸へ御祝義御使者 御取次勤
大殿様初 上々様ゟ之御使者は都而西丸勤
に而相澄且又御家中惣代も西丸ゟ両人相勤候也
一 御礼過御親類御家老方へは
数姫様被渡 御目候也
一 二丸年寄衆ゟ御家老壱人被罷出候様申
来候に付内蔵助殿被相越候也
一 大坂ゟ之文箱町便に而到着
八月二日
一 内蔵助殿昨日二丸被罷越候処御年寄中ゟ左
之通之書付渡る
八重野由羅野ゟ私迄
被申達候□□□□□□
一 右之通に付各方御出仕御吟味有之候也
同三日
一 無量寺へ御代香御取次勤
同四日
同五日
一 高木忠右衛門義御側目付被 仰付候段縫殿
助殿被相達候御当役御痛其外御家老方も
御痛共に而差懸候義ゆへ同人被相達候也
一 郷中作方虫入に而枯穂以外之儀に付岩蔵寺へ
御祈祷被仰付料銀弐枚被差出候
同六日
一 当月初比ゟ雨降続之末昨夜中稠敷
降雨に付御領中所々夥敷切渡有之候段
村々ゟ届有之候也
八月七日
一 切渡田見分助左衛門殿并相談役惣御目付
郷方役中被罷出候也
一 般若寺へ御祈祷被仰付料銀弐枚出訳
之義は不相知
八月八日
一 和泉守様今明日間に御越被成候様先達而
彼聞番迄申参居候末明日御越被成候由
申来候
一 御同人様明日御越に付而立宿并下宿
為心遣中小性ゟ壱人今日ゟ大手町迄参
居候に付相良十郎助出会申談之事
一 御立宿般若寺
一 御供廻り夫丸迄下宿下町ゟ堀子丁迄
八軒御取被差出候
八月九日
一 昨夜九ツ時御供揃に而
和泉守様此御方御越被成候に付而西郷
之宿に壱人津野町出口に壱人見歩
足軽相付置候
一 今昼九ツ半時般若寺迄御着被成候桜
岡へ御入被成候御時分は此御方ゟ御懸合有之
八ツ時比桜岡へ御入被成候御下乗御格之通
御門内に而御下乗被成候
一 御玄関下座敷へ図書殿徳次郎殿同
所前北屏際に善左衛門殿内蔵助殿其餘は
当病障り其次に大御目付元〆相談役
御内西岡頭人惣御目付迄
御目見有之御家老方ゟ下計鹿嶋御側
頭ゟ誉者被致候
一 御取次藤田次左衛門御取持山田玄寿御刀番
高木忠右衛門也
一 外御居間に而
御両殿様御出会被成候
一 御座付御餅菓子
一 御銚子
一 御吸物三ツ
一 御肴 六ツ
一 御料理二汁五菜
一 御菓子
一 御供御用人壱人御側頭弐人御医師壱人小松
間上之間に而吸物一肴三ツに而酒料理壱汁
三菜香物共此酒之相伴相談役ゟ食はとれも
相伴なし
一 御供侍六人山伏壱人中小性壱人同所下
之間に而吸物一肴二ツに而酒料理一汁二菜
此相伴御供番ゟ中小姓侍末席に罷出候
一 御徒士通七人御広間に而吸物一肴二ツに而酒
此相伴屯目付ゟ右は酒計拝領済候而何も
下宿へ下り被申候也足軽以下は御構なし
一 此御方御座相済候而御内へ御入被成候あな
たにて御吸物一御肴三ツに而御盞事等被遊候
其末
喜三郎様御郡屋被成御のし計り
一 暮比ゟ浜へ御出被成候上り物左之通
一 御餅菓子
一 御銚子
一 御吸物三
一 御肴 六ツ
一 御料理二汁五菜
一 御菓子
一 浜夜四ツ時比御仕廻被成夫ゟ西ノ岡へ御出被成候
吸物一御肴三ツ労御酒御夜食上る朝七ツ時
過御仕廻御外へ御出被成候御菓子計上る
八月十日
一 今朝六ッ時過ゟ御出駕双度般若寺へ御立
寄に被成候御弁当此御方ゟ御仕立被差上候
殿様へ
一 御樽 弐升入一
一 塩小鯛一折 十五
其外様へも御進物大形御同様之由也
一 和泉守様ゟ御礼御使者之義般若寺ゟ被差
上候に付此御方ゟも同寺迄御使者被差上候也
一 御帰之節御供中御徒士通迄肴二ッに而酒
出る 御親類御家老方ゟ御帰以後御機嫌
伺役御家老中迄即日書礼足軽飛脚
を以差越候
八月十日
一 郷内切渡沼田為見分内蔵助殿并元〆惣
御目付御蔵方郡方郷役中被罷出候
八月十一日
一 祥光山へ 御代香御取次勤
同月十二日
一 比日ゟ打続候雨に而切渡所及難義作方弥支に
相成候に付般若寺に而日乞五穀豊饒之御祈
祷有之料銀三枚被差出候也
八月十三日
一 朝七ッ時御供揃に而
御両殿様御狩山御出被遊候
一 御参会例之通各方御出仕也
一 小田村源右衛門義御側役被 仰付候
一 御前様天山社正一位社祇園社え御
参詣被成候尤祇園社へは川原ゟ御拝礼也
同十四日
一 此間ゟ木嶋溝切渡普請有之候に付相談役惣
御目付其外役々普請場立合に罷出候也
八月十五日
一 御快然に付月次之御礼外に而被為 請候尤麻
上下に不及候也
同十六日
一 瑞林院様御三年忌御法事祥光山於方丈
御経営に付
一 白米六斗 御法事料
一 銀百目
一 十六日一日御領中殺生禁断之事
一 御家中御寺参詣并御香典勝手次第《割書:半上下着|》
一 御香典白麻拾帖 御直参
一 大殿様御香典右同《割書:浜ゟ|出る》御直参
一 御母公様右同線香弐束《割書:御代香|西岡ゟ出る》馬乗以上勤
一 お佐保様右同右同《割書: |あなたゟ出る》御直参
一 喜三郎様御代香御側ゟ相勤
一 久菊様 熊菊様御代香平士勤御舫に而
御香奠無之
一 御寺寄附堪忍 馬乗以上壱人
同以下壱人
筆者給仕 御徒士弐人
一 諷経宿禅林庵 世話役 御徒士壱人
《割書:手引用|使番迄》足軽弐人
一 線香弐束 御親類方四人
一 同三束 御家老中六人
一 同三束 役人中《割書:大目附外浜御用人|元〆相談役御内西岡》
《割書:頭人惣御目付達也 |》
一 御法事に付御茶料拝領
銀弐両 寿貞尼
同弐両 つ代
同三匁 だひ
同二匁 あけ羽
民恵
野代
銭六百文舫 柴野
柳
りそ
一 御法事に付
大殿様 お佐保様え御野菜一折ツヽ
被進候
お佐保様え為御茶講料銀五拾目被差上候
八月十七日
一 松平右近将監様先月廿五日御死去に付
昨日ゟ明日迄日数三日御領中御穏便被仰付候
段佐嘉触到来
同十八日
一 両御寺え御堂参被遊候
一 御用談に付各方御出仕也
同十九日
一 今日役方左之通被 仰付候
浜御用人 松田九郎兵衛
右は於
御前被 仰付候
御用人居付 南里太郎三郎
元〆相談役兼居付 宮地ニ兵衛
嬉野善右衛門
相談役居付 蓑田作左衛門
御内頭人居付 馬々清左衛門
惣御目付居付 関太郎右衛門
御内御匕 佐野芳庵
右は善左衛門殿被相達候
御用人 宮地新五右衛門
右は 御直に被 仰付筈之所病気に而罷出候
躰無之為差懸候義に付御当役大御目付同道
自宅に而被相達候也
八月廿日
一 金栗様御正当に付玉毫寺へ御代香助左衛門殿
御香奠線香壱束
同廿一日
一 泉州様去十六日夕ゟ御風邪之様被成御座候
末昨日迄御熱気不被相退に付為御伺山田
玄寿村田忠悦間今日中に被差越候様彼
御用人ゟ此御方御用人迄今朝申来候に付
山田玄寿早速ゟ被 仰付越候
一 右に付御見廻御使者御取次被差越候
一 今日役方左之通被 仰付候
西丸聞番居付 冨岡小兵衛
御猟方居付 松崎十兵衛
御仕法方頭人 吉冨三郎兵衛
右に付御加米拾石被為拝領役中馬乗以上格に被 仰付候
八月廿二日
一 助左衛門殿舎弟幸治を従者にして江戸召連度旨
一 南り太郎三郎儀上瀧定左衛門倅惣右衛門を同断召連度旨
右願之趣
一 御両殿様へ御届に而相済
一 放光院様御正当に付祥光山へ御代香番頭
勤御香奠線香壱束
一 御参府海陸御祈祷岩蔵寺へ被仰付候料
銀壱枚出る
八月廿三日
一 為御暇乞朝七ッ時御供揃に而両御丸御越被遊候
一 御引談に付今夜各方御出仕也
一 泉州様御様躰為相伺山田玄寿鹿嶋被
差越候所御様躰書持帰候也
同月廿四日
一 徳見官左衛門ゟ相願候に付倅弥三郎嫡子被仰付候
後長崎一類共へは未面談不為致候に付百日之
長崎御暇願有之候所願之通被差免候に付
明日ゟ長崎出立也
八月廿五日
一 今日御首途御社参被遊候御参銀左之通
一 天山社え 銀三【弐を見え消し】両
一 本地堂え 同弐両
一 正一位社え 同三匁
一 稲荷社え 銀弐両
一 護摩堂え 銀三匁
八月廿六日
一 弘徳院様御正当に付祥光山へ御代香内蔵之助殿御香
奠線一束
一 轟木御供左之人数え被 仰付候
銀七匁七分八厘 番頭 太田采女
夫丸弐人ツヽ相渡る 松井小三治
番小 北川清八
【右項は90項で翻刻済み】
【左項】
十太夫殿
相原四兵衛
昨十三日 高木忠右衛門
御暇願 星野二右衛門
益田平七
銀五匁壱分五厘 松田七右衛門
夫丸壱人半ツヽ相渡る 甘木与四右衛門
土山平右衛門
右近孫右衛門
大木弥右衛門
丹宗千十
一 神崎御供御徒士八人路銀壱匁三分ツヽ渡
供夫丸は舫に而四人渡る
一 轟木迄長柄猩々皮足軽廿人路用外に
着替持夫丸弐人出る
一 御先道具轟木迄小道具拾人路用外に
夫丸壱人出る
一 大里迄臺弓持足軽四人御供
八月廿七日
一 御家中え御発駕之義触出候也
一 堤春可儀御留守中御数寄方心遣被仰付也
一 御発駕御知せ之飛脚足軽江戸御供立之内ゟ
野田源左衛門と申者被差越候東海道中六日着也
一 今夜御親類御家老中被為 召候
一 舎人殿事五月中旬ゟ蟄居被仰付置候処
今夜御免被成候
八月廿八日
一 今朝七ッ時御供揃に而御発駕被遊候御暇乞
御目見左之通り
図書殿
健次郎殿
織之助殿
西岡頭人 永橋一郎右衛門
当番御目付 関太郎右衛門
浜御側 松木弥左衛門
五郎川作馬
田中九十九
安本官平
御茶道 堤春可
御状方 秀嶋八右衛門
藤嶋左馬助
御内西ノ岡詰 香月源右衛門
田嶋藤右衛門
持永九郎左衛門
野口重右衛門
堤作兵衛
同所差次 綾部十郎左衛門
吉本弾右衛門
村田元悦
佐野芳庵
喜三郎様御側 岩松藤十
岩松左五六
吉富清右衛門
浜御西詰 三浦勘助
池田与四右衛門
御広間番 伊東伝兵衛
水町甚五兵衛
詰小頭
詰御徒士
御門番之者
右は御式台前に而侍通は名披露あり
御門外に而 太郎兵衛
舎人
善左衛門
内蔵之助
清太郎
慶之助
城次郎
縫殿助
御相談役 嬉野善右衛門
蓑田作左衛門
御取次 東嶋杢右衛門
江副兵部左衛門
御仕法方頭人 吉富三郎兵衛
惣御目附 藤嶋清左衛門
高木又兵衛
附役 中嶋吉右衛門
江嶋金兵衛
宮地勘左衛門
神代自兵衛
番頭 松田九郎兵衛
重松又左衛門
木下求馬
右何も名披露
一 御発駕に付 天山社へ御代参被差出候
御参銀三匁
一 神崎御休迄御内ゟ御見廻御使者被差越候
同所詰侍ゟ相勤
一 浜西ノ岡 喜三郎様ゟ御休迄御見廻御
使者被追来候得共此節ゟ被相減御文箱参候
一 御親類御家老方ゟ御一宿迄伺御機嫌之御連札
足軽飛脚を以被差出候也
一 筑前嶋原蓮池鹿嶋へ御発駕御知せ
御家老方ゟ被仰越筑前長崎御奉行へは
御文箱出嶋原は大頓御屋敷迄差越候
一 佐嘉表兼而御知せ合之御方には西丸ゟ相達候也
一 青木又兵衛役方堅固相勤候に付太儀被
思召御加米三石被為拝領候
一 長崎御奉行柘植長門守殿并支配勘定役
御普請役下向今夜牛津御泊に付御見廻御
使者御取次勤御進物葛粉一箱勘定役
普請役には梅干一曲ツヽ御使者藤嶋千右衛門
相勤右御泊に付而元〆役惣御目付郡方其外
役々同所罷越す火消頭人御使者番ゟ兼勤
八月廿九日
一 関隼人義浜御側被 仰付候
一 松隈亨安ゟ医学為稽古江戸御供立に而
倅意仙を差越度尤道中は手前覚悟
に而滞府中は一孤兵粮被仰付被下度旨
相願申候所願之通被仰付候
同晦日
一 祥光山へ御代香御使者番勤
一 溜池 御前様向後 大御前様と
唱候様にと二丸ゟ達有之候也
九月朔日
一 当日為御祝儀各方御出仕也
一 御内に而買渡御祝被相調候に付
上々様方御集り被成候上り物一通御台所へ
控有之略爰
九月二日
一 二丸年寄衆ゟ御家老壱人呼出申来候に付
内蔵助殿被相越候也
一 蓮池御家老松枝千兵衛へ御用談之義有之
善左衛門殿今日彼地へ被相越候尤千兵衛近日
被罷下候に付御祝義心三升樽交肴一折
被持越候
一 嬉野善右衛門義
西ノ岡 喜三郎様御用懸兼帯に被仰付候
一 長崎ゟ谷山仲蔵と申銀主当所罷越居候に付
今日桜岡被召出小松間に而御料理被為拝
領候元〆相談役并御蔵方役抔会釈有之候
九月三日
一 無量寺へ御代香御使者番勤
同四日
同五日
一 蓮池御家老松枝千兵衛口入に而江戸方御相
続之金主相立右之末に付而為申談千
兵衛今日此元被罷越候参り懸舎人殿宅に而
茶懸抔出左候而桜岡被罷出候に付御家老
方并元〆相談役御蔵方役中対談有之候
吸物に而酒出る扨又麻上下一具金子弐
千疋被為拝領候桜岡相済候而舎人殿
宅へ被罷出候に付同所に而御家老方御参
会有之吸物に肴四ツに而酒一汁三菜之料理
出る今夜は舎人殿宅へ致一宿明朝ゟ塩田
之方へ被罷越筈也依之かこ舁夫丸等は
此御方ゟ被差出候也
一 小野田何馬義浜御側神代杢之允代り
被 仰付候
九月六日
一 今日仕廻に而江戸大坂へ之御用文箱小倉迄
足軽飛脚を以差越す此節松枝千兵衛より
江戸金衆なとへ取合之書状此元に而相認被
差越候也
九月七日
一 今日仕廻に而江戸へ之文箱小倉迄足軽飛
脚を以差越す
一 今日左之通役替被 仰付候
御蔵方 成冨兔毛
郡方介役 藤嶋千右衛門代 江頭友次郎
地方御小物成方見立方里山方 江頭治右衛門
櫨方御境目方兼
地方井樋方下郷普請方 千々岩忠兵衛
小物成方里山方櫨方兼
郷目附上郷普請方兼 藤嶋千右衛門
神代与兵衛代
御内鎖口詰同所御台所懸り合迄 吉本弾右衛門
晴気番所 永渕源右衛門
川内御番所 持永彦左衛門代 高木治左衛門
大串御番所 永渕源右衛門代 山田源左衛門
郡方居付 常冨与惣兵衛
青木又兵衛
御蔵方居付 飯田貞之進
末永権六
御内鎖口居付 香月源右衛門
持永九郎左衛門
お佐保様鎖口居付 池田与四右衛門
右之通善左衛門殿被相達也
一 城嶋幸悦義被相調候御義有之に付今夜一類同
組相付寄親健次郎殿宅罷出候右に付は御目付
御究役罷出候
九月八日
同九日
一 両御丸へ当日御祝儀御使者藤田次左衛門勤之
大殿様初其外様ゟ之御使者は都而西丸勤
に而相済御家中惣代も西丸一手に而相済候也
一 御親類御家老中へ
御前様被渡 御目候其内御幼年は無之
九月十日
同十一日
一 御前様祥光山へ初日御堂参被成候御香典
線香弐束方丈へ為御野菜料金子百疋
被遣御内調也
一 役替左之通り
御猟目付犬奉行兼 横尾太郎右衛門
郷目付牛津上使屋番并両町代官 小林藤次兵衛
公儀荷物改御境目方見立方兼
右之通御当役ゟ被相達候也
御蔵床井樋方兼 納冨五郎太輔
右相談役ゟ被相達候也
九月十二日
一 円覚院様御正当に付祥光山へ御代香
善左衛門殿御香典線香壱束
一 大殿様祥光山へ御堂参被成候
一 御家中前後少々宛被差出候也
九月十三日
一 御参会例之通各方御出仕也
同月十四日
一 嬉野善右衛門義御借銀方御用に付而日田え
差越段被仰付候右に付而金子五百疋
被為拝領候
一 野副政右衛門義御借銀方致太儀候に付御合力
米弐石被為拝領段御当役被相達也
九月十五日
一 天山宮祭礼に付
上々様御名代左之通
一 御名代 御参銀三匁 御使者番勤
一 大殿様右同 御参銀浜ゟ出る 江副兵部左衛門
一 御前様右同 御参銀御内ゟ出る 馬乗以上 ゟ
御参銀西岡ゟ出る
一 御母公様右同 馬乗以上ゟ
御参銀同所ゟ出る
一 御連枝様方右同 馬乗以下ゟ
一 右同断に付 天山宮え警固頭人藤田次左衛門
并足軽六人被差出候也
一 今日岩蔵村狂言桜岡被召呼御式台前に而
相調候に付
上々様御覧被成候御台所ゟ狂言役者え
酒五升被下候両注連元御門内被差通
御覧被成候也
九月十六日
一 関太郎右衛門義
喜三郎様御部屋懸合被 仰付候
一 松本友弥御借銀方に致太儀候に付御合力米
弐石被為拝領候也
同十七日
同十八日
一 祥光山え御代香御使者番勤
一 城嶋幸悦比日之末又々今夜寄親宅に
御調へ有之候
九月十九日
一 宮地新五右衛門御用人被仰付置御供立被罷登
筈之所病気に而延引漸相調候に付今日ゟ
致出立候此節松隈意仙同道北嶋養伯
も京学罷登候に付一処に出立致候也
一 当月御祈祷岩蔵寺罷出於小松間今日
ゟ例之通二夜三日執行有之候也
九月廿日
一 両御寺え御代香御使者番勤
同廿一日
一 番頭惣頭惣侍中今日呼出に而当秋御
仕法扨又一統部渡之義抔善左衛門殿より
被相達候也
九月廿二日
一 田中庄左衛門義浜御台所附役平伝次
代被仰付候
一 御参会例之通各方御出仕也
一 祥光山へ御代香御使者番勤
同廿三日
一 六半時御供揃に而
御前様清水え御参詣被成候此節
久菊様 熊菊様御同道被成候御参物扨又宝
地院へ御野菜料等被遣候何も御内ゟ被差出候也
外ゟは御構なし宝地院へ案内は受役所ゟ
申遣候也
九月廿四日
一 左之通役方被 仰付候也
惣目付 蓑田作左衛門
石井権兵衛代
喜三郎様御側目付 藤嶋左馬助
岩松左五六
喜三郎様御側居付 岩松藤十
城嶋清吉
同定差次居付 吉冨清右衛門
一 肥州様長崎ゟ御帰路今日牛津御通路也
九月廿五日
一 帰府之長崎御奉行久世丹後守殿今日牛津
休に付御使者を以葛粉一箱被進候且又御支
配勘定役御普請役も同様休に付是又
梅干一曲ツヽ被遣候也此御使者牛津御茶屋番ゟ
相勤候也郡方人馬方其外役々跡方之通
同所罷越す
一 相原左次兵衛藤山惣右衛門先比ゟ之末今夜
又々評定所に而御調へ有之候也
九月に廿六日
一 太田自兵衛義相談役ゟ元〆兼に被 仰付候
一 祥光山へ御代香御使者番勤
一 石井権兵衛義数年役方堅固相勤今度
喜三郎様御側御免被成候に付
御同人様ゟ金子百疋被為拝領段善左衛門殿
ゟ被相達候右金子は外ゟ出る
九月廿七日
一 町便に而大坂文箱到来
殿様益御機嫌好去十四日大坂御着被
遊候段申来候
一 同断に付
肥州様へ御知せ御状参候
泉州様へも御状参る
一 丹州様へは跡方之通西丸ゟ御知せ御使者相
勤候也
一 御徒士通荒々役替被 仰付候
給仕旧記方兼 野口平太
御蔵方付役取調方吟味方兼 弥永与五兵衛
御納戸付役 田中恵十
勘定所附役 石田逸八
修り方附役 田尻郡平
井樋方附役 小寺岡之允
下目付 水田卯兵衛
右之通被 仰付段善左衛門殿被相達候也
御内御台所附役御膳立兼居付 大嶋文蔵
同所御料理人御台所附役鎖口兼居付 江頭甚兵衛
右相談役ゟ相達候也
九月廿八日
一 本庄社祭礼に付 御代参西丸勤御参銀三匁
一 蓮池御家老松枝千兵衛へ御用談之義有之に付
舎人殿善左衛門殿今日同所へ被相越候也
同廿九日
一 与賀社祭礼に付 御代参西丸勤御参銀三匁
一 江戸銀主杉本左兵衛比日ゟ罷下り今日桜岡
罷出候に付元〆中御蔵方役対談有之
相応之肴に而酒出る
十月朔日
一 当日御祝義各方御出仕有之候
同月二日
一 御用談之義有之今日ゟ御当役佐嘉被相越候
右に付御参会無之
同三日
一 為高嶋番伊東伝兵衛并足軽壱人
今日ゟ被指立候壱人は夏番ゟ詰続に罷在候
惣躰当月朔日交代之処訳有之切手乞出
延引に付出立も差延候也
同四日
同五日
一 西川八右衛門義西岡御台所役野口重右衛門
代被 仰付候
一 御狩方役々御減少に而御免被成候左候而
御狩之節は大組代小組代中ゟ相勤筈也
今度御仕法に付而右之通り也
十月六日
一 横尾内蔵之允大坂ゟ昨夜下着也
同七日
同八日
一 寺社家当秋部渡り之義今日呼出に而寺
社方役ゟ相達候也
一 野口重右衛門堤作兵衛役方数年堅固に相勤
此節被成御免候に付金子百疋ツヽ被為拝
領候段御当役被相達候
十月九日
一 真照院様百年御忌御法事に付於宗智
寺昨日ゟ今日迄御執行
一 御法事料 《割書:銀三匁|米九斗》
一 寄付堪忍御魂屋番也
西丸詰 犬塚伝兵衛
江口弥兵衛
一 筆者給仕 右近忠蔵
一 御魂屋番 足軽弐人
一 門番 同 弐人
右之人数へはわりこ弁当昨八日昼ゟ今日
中出る西丸ゟ仕出也
一 御代香園田善左衛門殿御香奠白麻廿帖御寺納
一 大殿様御代香番頭勤御香典同廿帖
一 御親類御家老方御堂参勝手次第
一 今日一日御領中殺生禁断被 仰付候事
一 肥州様 丹州様ゟ御代香有之御香典無之
一 真照寺自分ゟ御法事被相調に付為茶湯
料銀壱枚米六斗御寺納被成候也
十月十日
一 橋本次左衛門立石与市栗原儀左衛門大坂ゟ昨夕
致下着候
一 高岳院様御正当に付松尾山へ御代香御使
者番勤御香奠線香壱束
一 横尾内蔵允儀元〆被 仰付候
一 野口弥右衛門義浜崎御米取納役被仰付候
十月十一日
一 祥光山へ御代香御使者番勤
同十二日
一 同寺へ御代香右同断
同十三日
一 御参会例之通り各方御出仕
同十四日
同十五日
一 当日為御祝義各方御出仕也
一 徳嶋八右衛門并足軽共高嶋番為交代致帰着候
一 野口初次郎義兼而内證極々差支罷在候末
当秋は部渡等被相減尚以相続不相叶に付
暫之間在郷住居願有之候処
大殿様達 御聴願之通被指免候也
十月十六日
同十七日
一 今日二丸ゟ御家老呼出に付善左衛門殿御出候所
別紙書付被相渡候
加賀守殿御事来春御役被蒙
仰候御沙汰有之候由江戸ゟ申来候併打
追御物入之義に付此節は何卒被相除候通
御役人方へ御内々御手入之儀江戸表へ懇に
可申参義には候得共
公辺之義難計押而被 仰付候節は何
分被相勤候半而不叶儀に候条只今ゟ内々
其覚悟可有之候至其節不相整節は
跡方相応の御助力等も被差出候得共御蔵方
年来極々御差支之上大坂浜方不意に
及破数百貫目之上銀等有之御取鎮半
江戸表御勤向は勿論地内御日用も不相調
此上何分之御不興出来可仕哉も難計江
戸御国共に言語同断誠に苦々敷御行
詰に而如何共可被成様無之御時節に候右之
次第に付は御助力等少分に而も被差出候義
決而参道無之儀に候処御合力等も
可被差出なとゝ差懸目論見違等に相
成候而は不叶儀候間其心得可有之候先年
有栖川宮御馳走役被蒙 仰候節も畢
竟等閑之取計有之候処ゟ大御難題
にも相成たる事に候条急度其覚悟可
有之候此段前を以相達置以上
十月
十月十八日
一 右御達に付各方御出仕御吟味有之候
一 祥光山へ之御代香御使者番勤
一 御前様玉毫寺へ御堂参被成候
十月十九日
一 長崎ゟ銀主参候に付桜岡被召呼元〆相談
役御蔵方役中対談有之相応之酒食出る
同廿日
一 両御寺へ御代香御使者番勤
同廿一日
同廿二日
一 御参会例之通各方御出仕有之候
一 祥光山へ御代香御使者番勤
同廿三日
同廿四日
同廿五日
一 日出嶋卯右衛門義大坂御借銀方元〆兼帯
に被 仰付候
一 太田自兵衛元〆御免御相談役計被仰付候
一 縫殿助殿先比ゟ病気候所昨夜別而差
重候段御届有之候に付
大殿様御内分為御尋御徒士使被差出候
一 縫殿助殿昼過病死之段御届有之とて
御笑止之 上使被差出候也部屋住に付
御穏便等無之
十月廿六日
一 江戸大坂へ之御用文箱足軽北嶋平次兵衛
を以被差越候大里道中三日中国八日東海道
七日限り此節金五百両江戸へ御仕送有之候也
一 嬉野善右衛門義御借銀方に付而今日ゟ豊後
日田え被差越候依之為仕廻用金子五百疋
被拝領候也
十月廿七日
一 御用之義有之善左衛門殿今日ゟ佐嘉被相越候也
同廿八日
十月廿九日
一 縫殿助殿比日不幸に付従
大殿様佐治馬殿へ御笑止之
上使被差出候平士ゟ相勤彼役人迄案内申遣也
十月晦日
一 町便に而江戸御文箱到着
殿様益御機嫌好去る二日御着府被遊候
尤御痔疾被御差発候形りに而同七日
以御使者御参勤之御献上物御首尾好相済候由
依之御親類方へは御銘々へ御直書御家老方
へも御旅書御到来
一 肥州様泉州様長崎御奉行柘植長門守
殿へ御知せ御状参る
一 丹州様へは御使者を以御知せ被仰上西丸勤
其外佐嘉表兼而御知合之御方々は西
丸ゟ御知せ申遣候也
一 右に付而
上々様方へ御祝義翌日各方始何れも被申上候
十一月朔日
一 当日御祝義各方御出仕也
同二日
一 御参勤之御献上物首尾好相済候に付
御家老方へ参候御書之趣御家中へ達有
之候也
一 嬉野善右衛門日田ゟ昨夜罷帰候
一 御借銀方其外為御無難於般若寺一七日之御祈祷
被仰付料銀三枚被差出也
一 御参会例之通各方御出仕也
霜月三日
一 玉真院様御正当に付無量寺は御代香御
使者番勤御香典線香壱束
一 大殿様御蔵方向御用被 聞召上候
に付御親類方御家老中并元〆御蔵方役
浜罷出被達候
一 岩蔵寺へ来子ノ三月迄長日御祈祷被
仰付候依之銀五枚被差出候也
一 太駄庄蔵義御納戸附役被 仰付候
霜月四日
一 御相続方頭人深堀新左衛門ゟ御相談【「続」を見え消し】之義
有之舎人殿内蔵之助殿被相越候様申来
候に付今日ゟ佐嘉へ被相越候
同五日
一 御母公様御誕生日に付
上々様今夕西岡へ御集被成御祝有之御
外ゟは跡方ゟも御祝物等之義無之
同六日
同七日
一 今日仕舞に而江戸大坂へ之御用簡小倉迄
足軽飛脚を以差越候
霜月八日
一 稲荷社御祭に付跡方之通般若寺罷出
被相勤候也
一 舎人殿内蔵之助殿佐嘉ゟ昨夜被罷帰候今度
御領中へ人別銀被相懸候に付而申談之由也
同九日
一 太郎兵衛殿舎人殿左治馬殿内蔵助殿右御
四人御廻り番に御出勤有之御当役同前被相勤
候様浜ゟ被 仰出候善左衛門殿ゟ御同役え
相願候末に付而也
一 昨夜二丸請役所ゟ西丸役人呼出に而人別銀
被相懸段相達有之左之通
十一月十日
一 金毘羅社御祭りに付般若寺師弟子罷出
被相勤候油部屋に而酒被差出候
一 相原佐次兵衛藤山惣右衛門秋已来之末今夜
評定所に而被相糺候御調方不相決に付同
所被差留置候也
同十一日
一 月堂様御正当に付宗智寺へ御代香御家
老勤之所何も被相障候に付番頭勤御香典
白麻弐十帖
一 右同断に付祥光山へ御代香御使者番勤
御香典線香壱束
一 大殿様御代香番頭勤
一 今日も昨日之人数評定所に而御究有之
同十二日
一 祥光山へ御代香御使者番勤
一 町便に而江戸文箱到着是は御着府之
注進也
一 一昨日之人数今日も評定所に而御究有之
霜月十三日
一 御参会例之通各方御出仕
同十四日
一 法華宗日建と申僧御老中田沼
主殿頭様へ致御出入候今度明春之御役
御沙汰有之に付同人へ御遁之御手入御頼被成
度近々出府有之候様御頼被成に付今日
桜岡被召呼御家老中御頼之御対談有之
相応之酒食出る
霜月十五日
一 当日御祝義各方御出仕也
一 牛津上使屋稲荷祭りに付般若寺并
宮嶋石見罷越相勤御施物は御納戸ゟ出る
一 今度従佐嘉御領中人別銀被相懸候に付
御断之御申談蓮池鹿嶋御家老被相招
に付今日桜岡被罷出蓮池ゟは鍋嶋数馬
鹿嶋ゟは久布白平太夫原雅楽之允被
罷出に付小松間に而御家老中御対談有之
吸物二肴四ッ取肴二に而酒并一汁三菜
之懸合出る
霜月十六日
同十七日
一 三嶋社御祭に付跡方之通り般若寺
罷出被相勤相応之酒食出る
《題:《割書:袖|珍》防疫必携》
《割書:袖|珍 》防疫必携目次
總論
頁
傅染病の定義‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥一
法定傅染病………‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥二
細菌の區分………‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥二
細菌の生活………‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥三
細菌の繁殖………‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥三
各論
膓窒扶私‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥四
(原因…誘因…膓窒扶私菌の巢窟…傅染徑路…膓の病変…症候
…診断…免疫性)
一
二
パラチフス‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥一四
(原因…症候等)
赤痢‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥一五
(原因…誘因…赤痢菌の巢窟…傅染徑路…腸の病變…症候
…診斷…免疫性)
實布垤利亞‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥二〇
(原因…誘因…實布垤利亞菌の巢窟…傅染徑路…症候…診斷
…免疫性)
猩紅熱‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥二三
(原因…病毒の所在…傅染徑路…罹病年齡…症候…免疫性)
《割書:膓窒扶私、パラ|チフス、赤痢 》豫防法‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥二五
(甲) 傅染病未發生時即平時豫防法
(乙) 傅染病發生時豫防法
實布垤利亞の豫防及治療法‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥三六
猩紅熱豫防法‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥四一
消毒法‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥四三
(日光曝露…燒却法…煮沸消毒…蒸氣消毒…藥品消毒)
病類による消毒の程度‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥四三
(甲) 虎列刺、赤痢、腸窒扶私、パラチフスに對する消毒の
程度
(乙) 發疹窒扶私、痘瘡、猩紅熱、實布垤利亞に對する消毒
の程度
附 錄
赤痢、虎列刺、膓窒扶私患家其他の消毒方法施行に
關する心得‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥六三
赤痢、膓窒扶私豫防心得‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥七八
三
【図中文字】
第一圖
膓窒扶私菌
(約千倍)
【図中文字】
第二圖
膓窒扶私菌鞭毛
(約千倍)
第三圖
(1) 食道
(2) 胃
(3) 小膓
(4) 盲膓
(5) 大膓
(6) 直膓
(7) 肛門
(8) 肝臟
(9) 脾臟
(10) 膵臟
第四圖
赤痢菌
(約千倍)
第五圖
實布垤利亞菌
(約千倍)
第六圖 頬部を切り上下顎骨を開き舌を前方に牽引し扁
桃腺を示す
(1) 扁桃腺
(2) 懸壅垂
(3) 舌
(4) 歯
一、瀘床面積一平方メートル(直圣【径】三尺六寸)なる時は一時間約六斗を瀘過す
二、細砂層は最重要なる部分なり其厚さ三尺以下なるべからず
三、毎月一回細砂の表層二三寸を取り清水にて能く洗滌するを可とす
四、全部の細砂層を洗滌して詰め換ふるは毎年一ニ回にて足る
五、寒氣の烈しき處にては常に器内に水を満たせ置き且器の外囲を菰の如きものにて
包み以て其氷結するを防くを要す
【図中文字】
第七圖
瀘水器
二尺 三尺 一尺
水層 細砂層 粗砂 礫 卵大石
棕梠
有孔板
【文中の「瀘」は「濾」の誤記】
《割書:袖|珍》防疫必携
總論
傅染病の定義
傅染病とは生活せる微生体(顯微鏡によりて初めて認め得
べき極めて微細なる有機体)が人体若くは動物体内に入り
て發育增殖するが爲に起り多少重症の一般症狀を呈する疾
患を云ふ
微生体 細菌(植物) …例へば膓窒扶私菌、赤痢菌の如し
原蟲(動物)…例へば「マラリア」、原因たる「マヤ
リア原虫」熱帶地方に流行する赤痢
の原因たる「赤痢アメーバ」の如し
一
二
上記の定義によれば苟も傅染病と稱する以上は必ず一定の
微生体ありて之が原因たらざるべからざる筈なれとも實際に
於ては傅染の事實顯著なるにも拘らず今尚其病原体を發見
し得ざるものあり然れども是等も亦た早晩其病原体を發見
し得らるべく期待せらるゝが故に今は病原の不明なるにも
拘らず之を傅染病中に數へ置くなり
法定傅染病
法定九種傅染病 病原体の明なるもの…膓窒扶私、パラチフ
ス、赤痢、虎列刺、實布垤利亞(《割書:格魯布|を含む》)ペスト
病原体の不明なるもの…痘瘡、発疹窒扶私
猩紅熱
細菌の區分
細菌 一、球菌…化膿菌、淋菌の如し
二、桿菌…膓窒扶私菌、赤痢菌の如し
三、螺旋菌…虎列刺菌、再歸熱菌の如し
細菌の生活
細菌の生活に欠くべからざるものは吾人の攝取するか如き
食物、水分、空氣(例外あり)等にして其他一定の温度(人
の体溫位を適度とす)を要す故に試験管に牛乳、肉汁、馬
鈴薯等の營養物を入れ一定の溫度に保つ時は人工的に發育
增殖せしむることを得、之を培養(●●)と云ふ斯の如く各種の細
菌を培養する時は各特異の發育狀態を呈するが故に依て以
て細菌鑑別の有力なる一助となすことを得るなり
細菌の繁殖
三
四
桿菌及螺旋菌は先づ其長さを增し中央に於て分裂して二箇
となる次て分れたるもの直に生長して更に分裂す球菌は初
め短桿狀となり次て中央に於て分裂す若し營養、温度等適
當なる時は此の如く連綿分裂して繁殖するなり而して繁殖
の速度には遲速あれども槪して一箇の細菌は十二時間を經
れば凡三百四十億箇に增加すと云ふ
各論
膓窒扶私
原因 今を距ること三十二年前「エーベルト」氏が膓窒扶私
患者の屍体より発見したる膓窒扶私菌による該菌は中等大
の桿菌にして両端鈍圓なり(第一圖)菌体の周圍に十乃至十
二條の鞭毛あり(第二圖)之に依りて活潑なる運動を營む
抵抗力 温度(●●)―攝氏六十度にて半時間乃至一時間熱すれば死
滅す 乾燥(●●)―軍服に附着して八十七日間、麻布に附着して
六十乃至七十日間生活したる例あり 日光(●●)―殊に直射光線
には長く抵抗することを能はず 藥液(●●)―千倍昇汞及二十倍
石炭酸水にて半時間にして死滅す 糞便中(●●●)―四ヶ月間生存
す 埋葬(●●)せる(●●)屍体(●●)―三ヶ月後尚本菌を証明す 土中(●●)―三
乃至五ヶ月間生存す尚十一ヶ月間生存するを証明したる人
あり 水中(●●)―水流、水質、温度等外圍の狀況により生存期間
に甚しき差異あり、從來本菌の水中に於ける生存は二三週
を出てざるものとせしが近來の研究によりそれよりも遥に
永く生存し得るを証明するに至れり 牛乳中(●●●)―二十一日乃
至三十五日間生活す
五
六
誘因 胃膓病、感冒、心身の過勞等
膓窒扶私菌の巢窟 一、膓窒扶私患者 二、膓窒扶私
菌携帶者 三、排泄物
膓窒扶私携帶者(●●●●●●●)に三種あり次の如し
(イ)膓窒扶私回復後數週間尚本菌を糞便及尿中に排泄する
者(糞便中には長きは三年半或は數年以上に亘りて本菌
の消失せざる場合あり尿中には七ヶ月間証明せられたり)
(ロ)軽症膓窒扶私等にして臨床上膓窒扶私の診斷を下す能
はずして經過したるものして本菌を排泄するもの(軽症
膓窒扶私は殊に小兒に多し)
(ハ)全く健康にして而も本菌を排泄するもの
排泄物(●●●) 本菌の体外に排泄せらるゝ路は糞便、尿及咯痰の
三あるのみ故に本菌の巢窟として危險なる排泄物は糞便、
尿及咯痰の三者なり
膓窒扶私の傅染徑路 膓窒扶私菌の吾人の身体に侵入
する門戸は只消化器の入口たる口あるのみ而して膓窒扶私
菌が其巢窟より吾人の口に迄達するの路即ち傅染徑路には
近道と廻り道とあり直接傅染及間接伝染之なり
直接傅染(●●●●)とは細菌の巢窟たる患者、菌携帶者及其排泄物に
直接に接近して傅染する塲合を云ふ
間接傅染(●●●●)とは或中間物を介して傅染するを云ふ其主なる塲
合を擧くれば次の如し
(一)營養品 種々なる飮食物例ば牛乳、豆腐、刺身、野菜等
(二)水 飮料水又は用水(井戸、掘、川等)
七
八
(三)物品 患者の使用したる被服、夜具其他病毒に汚染
せられたる種々なる物品
(四)昆蟲 蠅等
(五)空氣 病毒が衣服器具等に附着し乾燥して塵埃と共
に空中に飛散するに當り該空氣を口中に吸入
する場合
(六)土壤 患者の排泄物等によりて汚染せられたる土地
膓の病變 人若し膓窒扶私菌の侵入を受くる時は本菌は
主として小膓の下部及盲腸部(右下腹部)等の粘膜に病變を
起す、即該部は發病第一週に於て充血腫脹し第二週に至れ
ば腐痂を生し第三週には腐痂剥脫して潰瘍となる第四週に
至りて潰瘍は治癒に向ひ第五週(快復期)に及ひて全く治癒し
瘢痕を残す
症候 病の輕重により甚しく差異あれとも中等症に於ては大
畧次の如し
潜伏期(●●●) 短きは五六日長きは二三週日通常十日乃至十四日
前驅症候(●●●●) 全身又は四肢の倦怠、疲勞、食慾不振、腰痛、
頭痛、耳鳴、血衂、多くは便秘
發病第一週(●●●●●) 惡寒發熱に始まる、頭痛、眩暈、全身又は四
肢の倦怠、腰痛、左上腹部刺痛、睡眠不安、食思缺乏、舌苔あ
り体温(●●)は(●)日々階段狀(●●●●●)に(●)上昇(●●)し(●)一週の末に至れば三十九度
乃至四十度に達す尚本病の大切なる徴候たる脾臟腫大及(●●●●●)
薔薇疹(●●●)も一週の末又は二週の初めに現る薔薇疹は胸部及
腹部に生す腹部は多少膨満し右下腹部(●●●●)に(●)壓痛及雷鳴(●●●●●)あり
九
一〇
便通は一定せず初期には多く異常なく或は僅に秘結する
も第一週の終り或は第二週の初めより過半數に於て下痢
(一日二三回乃至四五回)を發す便の性質は特異にして
稀薄淡黄色(豌豆羹汁様便(●●●●●●))を呈す
第二週(●●●) 体温(●●)は(●)三十九度乃至四十度に達して稽留(●●)す(●)脉搏(●●)は(●)
熱(●)に(●)比(●)して(●●)少(●)く(●)四十度の熱に於ても九十乃至百位なり患
者は無慾(●●)の(●)顏貌(●●)を呈し聽力の障害を來すことあり或は不
眠又は反対に嗜眠に陷り時々 譫語(●●)を發す又殆と常に氣管
枝加答兒を起し咳嗽を發す
第三週(●●●) 熱(●)は(●)朝夕(●●)の(●)差著(●●)しく(●●)(一度乃至二度以上)なり諸症
漸次減退し患者は輕快の感ありされど重症の塲合には此
期に於て心臟衰弱、膓出血又は穿孔性腹膜炎等を起して
死亡することあり
第四週(●●●) 諸症益減退し此週の終りに於て漸く無熱となる
第五週(●●●) 体温は三十六度乃至三十六度五分となり食慾亢進
し体力增進す
診斷 上記の徴候を完備する時は診斷容易なるも初期に於
て未だ本病の特徴を發せざる時又は輕症の塲合には臨床上
の診斷は殆不可能なることありかゝる際には細菌學的診斷
に依らざるべからず即次の如し
(一)ウィダール(●●●●●)氏反應(●●●)(凝集反應(●●●●))檢査(●●) ウィダール氏反應と
は初めて此試驗を行ひたる人がウィダール氏なるにより
斯く名けたる者なり此檢査に要する者二あり一は患者の
上膞又は胸部に發疱膏と稱する膏藥を貼して得たる液
一一
一二
(發疱液(●●●))にして一は膓窒扶私菌を一定の割合に食鹽水に
混したる菌液(所謂 膓窒扶私診斷液(●●●●●●●))なり今此兩液を試驗
管内に於て種々なる割合に混和する際膓窒扶私菌凝集し
て雲絮狀を呈するを見ばウィダール氏反應陽性と稱し其
患者は膓窒扶私なりと診斷す若し之に反し膓窒扶私菌凝
集せざる時はウィダール氏反應陰性にして膓窒扶私に非
ずと認定す該反應は發病後通常七日乃至十日頃に現出す
るも早きは第二日に於て旣に現はるゝことなきにあらず
而して此試驗に要する時間は三乃至二十四時間なりとす
(二)培養試験(●●●●) 通常患者の糞便、尿或は血液を採りて培養し
以て膓窒扶私菌の有無を檢す此試驗に要する時日は三四
日なりとす而して試驗の結果若し膓窒扶私菌を見出し得
れば其患者の病は即膓窒扶私なるや明なり但し糞便中に
は發病後五日以内に於て已に本菌の排泄を見るヿあるも
最多量に現るゝは發病後第二週及第三週なり、尿中には
第一週の終り或は第二週以後に現るゝヿあるも多くは恢
復期及其以後に來る而して血液中の膓窒扶私菌は發病第
一週に於て最多く存在するが故に「ウィダール氏」反應の
未だ現出せざるに旣に血液の培養によりて陽性成績を得
ることあり
上記二種の試驗は本縣衛生課に於て何時にても施行し得る
か故に必要ある場合には患者より發疱液及糞尿を採取し(血
液は警察醫出張して採取すへし)淸潔なる小瓶に入れて密栓
し封臘又は鬢附の如きものにて封じ堅固なる容器(底のあ
一三
一四
る竹筒に木栓を施し或はブリキ茶入罐等)に納め成るべく
迅速に郵送せられたし(赤痢の糞便を送附せらる々塲合亦
同じ)但赤痢便採取の際は可成粘液又は粘液血液の部分を
撰ぶを可とす而して郵送する際には容器の上に檢査物在中
醫師何某藥剤師何某又は何々役塲何々警察署と記すを要す
免疫性 一旦本病を經過すれば免疫性を得るが故に再感す
るもの稀なり但し絕無にはあらず
パラチフス
原因 一八九六年(明治二十九年)アシヤール及びベンソード
氏の発見したるパラチフス菌(中等大の桿菌)に因る
症候 槪して稍輕症なる膓窒扶私に似たり或は膓窒扶私と
は多少異りたる症候を呈することあるも單に症候のみに依り
て本病の診斷を確定することは極めて困難なるが故に疑はし
き塲合には是非共細菌學的診斷(發疱液及糞尿檢査等)に依
らざるべからず
傅染の關係其他殆んど膓窒扶私に同じ
赤痢
原因 明治三十年東京に於ける赤痢流行に際し志賀博士の
發見せられたる赤痢菌(膓窒扶私菌より稍短き桿菌にして
鞭毛を有せず(第四圖)従て運動なし)に因る但し其後の研究
により赤痢菌は志賀菌(本型菌)一種に非ずして多少宛性質
を異にせる所謂異型菌の存するを知るに至れり又主として
一五
一六
熱帶地方に流行する赤痢の原因は赤痢にあらずして赤痢
アメーバと稱する原虫なり
抵抗力(●●●) 膓窒扶私菌に比すれば幾分か弱き點なきにあらざ
るも畧相似たり
誘因 暴食過飮、腐敗食物又は不熟果物の攝取、便秘、腹
部の冷却等
赤痢菌の巢窟 (一)赤痢患者 (二)赤痢菌携帶者 (三)排泄物
赤痢菌携帯者(●●●●●●)に三種あり即次の如し
(イ)赤痢回復後十九日間尚本菌を糞便中に排泄せるを証明
したるものあり然れとも又數ヶ月の長きに亘るものなきに
あらさるか如し
(ロ)輕症赤痢にて而も赤痢の診斷を受くることなく治癒した
るものにして本菌を排泄するもの少からず
(ハ)全く健康にして尚且本菌を排泄するものあり
排泄物(●●●)として危險なるは唯糞便あるのみ何となれば赤痢菌
の体外に排泄せらるゝ路は一に糞便に依るのみなればなり
赤痢の傅染經路 膓窒扶私の場合に同じ
膓の病變 本病に於ては主として直膓及其上部(左下腹
部に病變を呈す然れとも又小膓を侵す塲合なきにあらず殊に
小兒に於て然りとす而して其變化は初め粘膜充血腫脹し諸
處に無數の小出血點を生ず次て粘膜表面に膜様物を生し痂
皮狀となる痂皮は遂に剝脫して潰瘍となり終に瘢痕を生し
て治癒す
症候 潜伏期(●●●) 通常に三日なれ𪜈又三日乃至八日なること
一七
一八
あり
前驅期(●●●) 之を缺き又は數日間の便通異常或は稀に倦怠食思
不振、舌苔、嘔吐、腹部の雷鳴及疼痛等を訴ふることあり
發病(●●) 數回の下痢(●●)を以て初まり漸次回數を增し一日數十回
甚しきは百回以上に達す便(●)には(●●)粘液及血液(●●●●●)を(●)混(●)し(●)便通時
に腹部雷鳴(●●●●)、腹痛(●●)、左下腹部(●●●●)の(●)壓痛(●●)、裏急後痛(●●●●)(便通あるも便
意止まず肛門部に苦痛あるを云ふ)を發す、輕症(●●)なるは發
熱もなく食慾も害されず數日にして恢復し中等症(●●●)は体温
卅八度前後に達し食慾欠損、嘔気、胃部苦悶、頭痛等あり一
二週の後治癒す重症(●●)は初期より高度の發熱あり全身の苦
悶頭痛を訴ふ尿量は減じ食慾は乏失す大便は腐肉様にし
て臭氣甚し斯くて一二日にして死亡するものあり小兒(●●)の(●)
赤痢(●●)に於ては發熱甚しく痙攣を發し嘔吐を來す便通は全
く無く或は僅に一日一ニ回の下痢(粘液便或は粘液血液便)
あり發病後十二時間乃至四十八時間内に死亡するものあ
り
診斷 前記の症状完備する時は容易なれとも輕症なる時單
純膓カタルとの鑑別困難なることあり小兒の赤痢に於ては
屢腦膜炎と誤診せらる又小膓の赤痢或は盲膓部の赤痢は其
症狀頗る膓窒扶私に類似し殆んと其何れなるかを診定する
能はさることありかゝる塲合には糞便の細菌學的檢査に依ら
さるべからず「ウィダール」氏反應は膓窒扶私の如く初期に
發現せさるが故に診斷上に應用しうる塲合割合に少なし
免疫性 一旦本病に罹るも長く免疫性を保有せず時として
一九
二〇
は再感することあり
實布垤利亞
原因 一八八三年(二十九年前)「クレープス」氏の發見に係
り實布垤利亞(中等大の桿菌にして棍棒狀を呈し(第五圖)
運動なし)にして本病の病狀は本菌の產生する毒素により
て起る中毒症狀なり
抵抗力(●●●) 溫度(●●)…攝氏五十八度にて十分間にて死滅す 乾燥(●●)
…玩具に附着して六ヶ月間生存せし例あり 藥品(●●)…千倍昇
汞水又は二十倍石炭酸水中にては半分時間にして死す
誘因 感冒等
年齡(●●)は大に關係あり哺乳兒は本病に罹る少く二歳乃至十歳
に於ては最屢感染しそれより漸次減少し大人の侵さるゝは
比較的稀なり
實布垤利亞菌の巢窟 (一)實布垤利亞患者 (二)實布垤利
亞菌携帶者 (三)義膜及分泌液
實布垤利亞菌は實布垤利亞患者の義膜中及義膜の附着せる
粘膜面に局在す從て唾液喀痰は最も危險なり而して本菌は
該粘膜部に於て本病回復後通常數日の後消失するも所謂菌
携帶者に於ては往々三週乃至三ヶ月の後尚本菌の遺存を認
むることあり又大人に於ては其咽頭に强毒の本菌を有しつゝ
も全く健康にして何等の症候を呈せさるものあり
實布垤利亞傅染徑路 (一) 直接傅染(●●●●) 患者の咳嗽時等に
ありて義膜又は分泌液直接に健康者の口鼻に達するによる
二一
二二
(二) 間接傅染(●●●●) 患者の使用せる飮食器、衣類、玩具等に義膜又
は分泌液附着せる際健康者は是等の物品を介し又は物品に
觸れたる手を介して病毒を口鼻に送入するによる尚本菌薼【塵】
埃に混して飛散し空氣を介して傳染することあり
症候 潜伏期(●●●) 二日乃至七日
發病(●●) 多くは惡寒若くは戰慄を以て起り体温上昇し咽頭部
に疼痛を發す殊に嚥下時に於て然り此際開口せしめ舌を壓
して咽頭を檢するに兩側の扁桃腺(第六圖)は發赤腫脹し灰
白色の義膜又は黄色の分泌物を認む之れ咽頭實布垤利亞の
症候なるも進て喉頭實布垤利亞(一名喉頭クループ)を續發
する時は聲音嘶嗄し一種の特有なる犬吠樣咳嗽を發す吸息
は延長し一種の響を帶ぶ斯くて呼吸困難增進し遂に窒息に
陷りて死亡す
診斷 前記の症狀著明なる時は診斷を誤らざるも若し明な
らざる時は義膜の細菌檢査により確定することを得べし
免疫性 罹病後は一定の免疫性を得るも人により其期間に
長短あり從て再感し或は甚しきは一年間に三回本病に罹り
し例あり
猩紅熱
原因 未だ明ならず
病毒の所在 病毒は恐くは皮膚(水胞液、落屑)及咽頭、鼻
腔等の粘液内に存するものゝ如く尚延て周圍の諸物に附着
し長く傳染力を保有す
二三
二四
傳染徑路 直接(●●)に患者に接觸し或は間接(●●)に什器、玩具、
書状、空氣等を介して傳染す而して病毒の侵入門(●●●)は呼吸器、
皮膚の創傷及消化器粘膜殊に咽頭ならん
罹病年齢 二歳乃至七歳の小兒は最多く本病の侵す所と
なる大人も亦感染することあり
症候 潜伏期(●●●) 一日乃至七日
發病(●●) 惡寒(●●)若くは戰慄(●●)を以て初まり次て体温三十九度乃至
四十度に達し脈搏增し惡心、嘔吐(●●)、心悸亢進、全身倦怠、頭痛
を伴ふ而して患者は咽頭(●●)の(●●)疼痛(●●)を訴へ爲に嚥下困難(●●●●)に苦む
此際開口せしめて檢するに顯著なる咽頭の發赤腫脹を認む
次て頸部に於て本病の特徴たる赤色(●●)の(●)發疹(●●)現はれ一二日間
にして全身(●●)に(●)蔓延(●●)す但し頣部及鼻部(●●●●●)は(●)蒼白色(●●●)を呈す此期に
於ける舌(●)の(●)狀態(●●)を見るに深紅色にして凹凸あり恰も猫舌(●●)の
如し而して發疹は三四日間持續するの後徐に褪色を初め其
後一週を經て皮膚は平常の外觀に復し次て落屑(●●)(多くは膜
狀)を生ず体溫は發疹の褪色と共に漸次下降す斯くて發病
後第四週の終りに於て全癒するものなり
免疫性 一回本病に罹る時は多くは免疫性を得れとも時とし
て三四回感染するものあり
《割書:膓窒扶私、パラ|チフス、赤痢》豫防法
豫防法は之を(甲)傅染病の未だ發生せさる塲合と(乙)其己【已】に
發生したる塲合とに分つことを得
(甲) 傅染病未發生時即平時(●●●●●●●●●●)の(●)豫防法(●●●)
二五
二六
(一)淸潔法を勵行すること 家屋及其周圍の淸潔殊に便所及
井戸の構造に注意し病毒の土地及水中に侵淫するを防き
溝渠を渫ひ下水の疏通を計るべし(上下水の完全なる設
備をなさば固より申分なし)又屢厩舎の掃除を行ひ以て
蠅の發生を防ぐを要す(旣に發生したる蠅に對しては蠅
取の方法を講し食品には蠅等の來襲を防く爲に蚊帳覆を
用ふべし)
(二)身体の健康に注意すること 感冒及胃膓障害等は屢傅染
病感染の誘因となるが故に平素十分に注意して身体の健
康を保持するを要す即日常殊に傅染病流行期に近かば飮
料水は勿論盥嗽の際又は食器の洗淨等にも必ず一旦煑沸
したるものを用ひ食物は煑或は燒きたるものにあらされ
ば食せさるを安全とす
尚會葬等の際は成るべく飮食せさるを可とす何となれば
會葬時の飮食によりて俄然傅染病の爆發を見ること少な
からざればなり若し飮料水にして夾雜物多き時は濾水器
にて濾過したるものを煮沸して用ゆるを良とす(第七圖)
(三)衛生展覧會、衛生講和又は幻燈等によりて一般衛生思想
の發達を計ること
(四)菌携帶者に對する所置をなすこと
膓窒扶私又は赤痢の流行一旦止みたる後數週乃至數ヶ月
の間隔ありて更に發生し而も其傅染徑路不明なる場合多
しこれ主として菌携帶者なるものが其源泉をなすものな
るが故に平時に於て菌携帶者の排泄物を消毒するは防疫
二七
二八
上極めて重要のことなりとす然れとも何人が菌携帶者なる
やを知るは極めて手數を要するを以て寧ろ流行期に先つ
一か月の頃より一定期間前年流行したる大字或は全町村
の各人悉く上圊毎に成るべく多量の石灰を投入して糞尿
の消毒をなす時は若し菌携帶者ありとするも最早他に傅
染するの危險割合に少きに至るへし
若し出來得へくんは流行ありし町村及附近の町村は町村
費又は衛生組合費を以て一定の人夫を雇ひ上け之に石灰
乳を持たせ毎日一回各戸の便所に對し之を注入せしむる
の方法を採るを尤も安全なりとす而して此塲合には人夫
の作業を監督する爲め衛生組合役員又は町村吏員は必す
人夫に附隨すへきものとす
(五)若し傅染病流行地より來り又は流行地に往復したる者あ
るときは該病の潜伏期間内發病するや否やを監視すべき
こと
(乙) 傅染病發生時(●●●●●●)の(●)豫防法(●●●)
(一)前揭せる平時豫防法を更に嚴行するを要す殊に蠅の驅除
に付ては特別の注意を拂い飮食の際は蚊帳内に於て爲す
を可とす
(二)隱蔽の弊を矯正せさるべからず
(三)疑はしき患者を成るべく早く發見して醫師の診察を受け
しむること肝要なり
(四)本縣在住の醫師にして膓窒扶私、パラチフス、赤痢患者
及赤痢疑似症を診察したる塲合には之が届出をなすべき
二九
三〇
義務あることは勿論なるも若し膓窒扶私に類似の點あるも
未だ膓窒扶私なりと斷定し能はざるが如き塲合には之を
注意患者として一應申告すると同時に早期診斷の方法を
講し患者には萬一を慮りて消毒等を實行せしむる様にな
すを可とす
(五)傅染病患者を早期に診斷することは其蔓延を豫防する上
に於て頗る大切なる事に屬す若し臨床上決定し難き塲合
には發疱液、尿(膓窒扶私、パラチフス)糞便(膓窒扶私、
パラチフス、赤痢)を採りて細菌學的檢査をなし以て診斷
を確定するを要す
(六)患者發生せば少くとも其發病前膓窒扶私、パラチフスは三
週前赤痢は八日前に遡り左の事項を調査して傅染系統を
確め以て適切なる豫防消毒の法を講せさるべからず
(イ)患家に於て近時病者又は死者あらざりしか若しありしと
すれば其發病病月日及病狀は如何
(ロ)患者及其家族が傅染病若くは傅染病の疑ある病者死者あ
る家又は有りし家若くは傅染病流行地との間に直接間接
の交通ありしや若しありしとすれば其際飮食せしことあ
りや便所を使用したることありや又は物品を受取りたる
ことありや否や
(ハ)患者又は家人にして病毒汚染の疑ある河川、溝渠、井戸等
を使用したることありや
斯く如く調査するも尚最近の事實に於て傳染の系統を見出
すことを得さる塲合少からず是れ調査の不充分なるかため
三一
三二
か或は恐くは菌携帶者之が源泉をなしたるものなるへし
(七)傅染病患者發生の届出ありたる時は患者は成るべく速に
傅染病院又は隔離病舎に収容するを原則とし自宅の治療
は十分の條件を具備するにあらさればなさしめさるを可
とす
(八)患者を傅染病院若くは隔離病舎に送りたる後患家殊に病
室を初めとし患者の使用したる食器並に家族の食器、衣
類、夜具、其他の物品を消毒せさるべからず殊に汚染の
疑ある井戸及患者の出入したる便所の消毒(戸、引手、内
壁、床、睪隱、手洗鉢、柄杓、手拭、草履等迄)には注
意せさるべからず而して消毒を終りたる便所は直に使用
し得べく糞尿は消毒後一週を經れば肥料に供するも妨げ
なし
(九)腸窒扶私、パラチフスに對しては交通遮斷及健康者隔離
の必要を認めさるは勿論なるも赤痢發生の際には村落に
在りては交通遮斷及隔離を行ふこと必要なり但し市街地
と雖も必要ありと認めたる塲合は之を行ふことあるべし
(十)患者發見後赤痢は十日間腸窒扶私、パラチフスは二十日
間患者の家族又は家族以外の者と雖も病毒に汚染し或は
汚染の疑あるものには上圊毎に石灰末を投入せしめ尚患
者の治癒後赤痢は二十日間腸窒扶私は一ヶ月以上成るべ
く長く上圊毎に石灰末を投入せしめ同時に石炭酸水を以
て手指を消毒せしむべし尚時々褌等の消毒を行ふを可と
す又腸窒扶私、パラチフス回復者は一定期間尿中にも尚
三三
三四
該細菌を排泄するが故に便所以外の放尿は成るべく禁せ
さるべからす然れとも赤痢患者及赤痢回復者の尿中には赤
痢菌を排泄せず従て尿を消毒する必要なし
(十一)患者發生後に於ける病毒散蔓の程度を知るは豫防上必要
の事に屬するが故に少くとも左の各項を調査し適切なる豫
防措置を講するを要す
(イ)患者發生後の家族の健康狀態如何
(ロ)患者發病後患者及其家族が他家を訪れたることありや
又は他より患家に來りしものありや
(ハ)若しありしてとすれば其際飮食物攝取、便所使用、物品授
與等の事なかりしや
(二)患者排泄物の処置を如何にせしや
(ニ)患家に於て使用したる河、堀、井戸等を使用したる人あ
りや
(十二)前項調査の結果患家以外の家屋、井戸、便所等にして病毒
に汚染し若しくは汚染の疑ある塲合にも之が消毒を行ふべ
きは論を俟たず
(十三)患家に交通したる人あらは其人の着衣、食器等に対し消
毒方法を施行し赤痢は少くも十日間膓窒扶私、パラチフ
スは二十日間其人に對し相當の監視をなすべし
(十四)病毒汚染の溝渠は消毒を行ひ河川は一定期間使用(勿論
遊泳も)を禁ずべし
(十五)患者發見後患家に對しては凡二週間尚其附近に對しても
一定期間健康視察又は健康診斷をなすを可とす
三五
三六
(十六)疑はしき死者あらば之を檢案するを要す
(十七)多人數の會食を禁ずべし
(十八)流行の勢猛烈にして容易に消滅の傾向なき時は必要と認
むる範圍内に豫防注射(●●●●)を行ふを可とす其有効期間は半ヶ
年乃至一ヶ年なり但し豫防注射によりて全然罹病者を斷
つ能はされとも大に其數を減少し且假令發病するも多くは
輕症にして治癒の速なると死亡數を減ずることは統計の
示す所なり
(注意)後に揭くる「病類による消毒の程度」及巻末の附録参
照
實布垤利亞の豫防及治療法
一、小兒をして感冒に罹らしめざる様平素の注意肝要なり
二、小兒にして惡寒又は戰慄、發熱、咽喉部疼痛、咽頭發赤、義
膜附着、聲音嘶嗄、特有の咳嗽等疑はしき症狀の一二を呈す
ることあらば直に醫師の診察を受くること必要なり
三、斯くして實布垤利亞の診斷を早期に下すを得ば實布垤利
亞血清の注射によりて治癒するを得べし若し本病にあらさ
るも注射せる爲に害を來すこと無し故に疑はしき場合には
寧ろ早く直に血淸療法を施すを可とす
四、若し醫師の診察を受くること遅く從て血淸注射の時期後
るゝ時は折角の注射も其効なく遂に死の傳歸を取るの巳【已】む
なきに至るべし
五、假令早期に診斷したりとするも交通不便の地にして直に
三七
三八
血淸を得る能はさるが如きことあらば遺憾乍ら手を拱いて
患兒を死に赴くを傍觀するの外なし故に之を救ふの途他な
し各町村役塲に於て平時血淸を購入貯藏し置くにあり
六、血淸注射によりて治癒するは血淸の成分によりて實布垤
利亞菌の產生する毒素を中和するが爲にして實布垤利亞菌
を殺滅するが爲にあらず故に血淸注射後と雖も本菌は尚一
定期間無害の儘病竈部に生存するものなり但し傳染力は依
然として存在するか故に他人を侵すことは勿論なり
七、血淸注射後時として早きは一二日遲きは一二週の後發疹
し或は稀に關節痛、筋肉痛等を發し体溫少しく上昇する等
の副作用あれとも是等の症狀は多くは一二日にして消失する
が故に決して危險なるものにあらず
八、患者發生せば其家に甞て實布垤利亞患者ありしか又は近
時實布垤利亞患者に接したることありや若くは實布垤利亞
患者の使用したる物品に觸れたることありや家族就中母親
に咽頭炎等なきや否やを調査して傅染系統を明にすべし
九、患者發病後患家を訪問したるもの(殊に小兒)ありしや若
しありしとすれば其人に對し其後の健康狀態に注意せざる
べからず
十、患者の家族殊に健兒に傳染するを確實に豫防せんと欲せ
ば宜しく實布垤利亞血淸の豫防注射を行ふべし但し其有効
期間は二三週に過ぎす
十一、實布垤利亞患者は之を隔離し成るべく専任の看護者を
定むへし
三九
四〇
十二、若し患者を別室に隔離したる塲合には是迄の病室は勿
論病毒汚染の虞ある室、患者の使用せる器具及家族の食器
類等は適宜に消毒するを要す
十三、井戸、便所、下水溝、薼溜等は患者の使用したる飮食器、
衣類、玩具等によりて汚染せられ若くは其疑ある塲合に限
り消毒すべし
十四、病中患兒及看護者の食器等は毎回煮沸消毒すべし
十五、看護に従事したるものは被服及手を消毒すたる後にあ
らざれば健児を触るべからず
十六、患者全快後病室及患兒に關係ある諸物品を嚴重に消毒
すべきは云ふまでもなし但し床下等を消毒するの必要殆と
なし
十七、症狀は全く快復するも其後尚數日或は三週乃至三ヶ月
間咽頭部に實布垤利亞菌を存し傳染力依然たるが故に該期
間は成るべく食器等の消毒を持續し少くとも快復後四週間は
登校を禁するを可とす
(注意)後に揭くる「病類による消毒の程度」参照
猩紅熱豫防法
一、猩紅熱流行地と交通上の關係あるものに對しては該病の
潜伏期間發病するや否やを監視すべし
二、惡寒、發熱、嘔吐、咽頭疼痛等の疑はしき症狀ある塲合には
速に醫師の診察を受くること必要なり
三、患者發生の届出ありたる時は患者は成るべく速に傅染病
四一
四二
院又は隔離病舎に収容するを原則とすること膓窒扶私赤痢
等の場合に同じ
四、患者を入院又は入舎せしめたる後の消毒方法は後に揭く
る「病院による消毒の程度」を參照すべし
五、患者發生せば其家に甞て猩紅熱若くは猩紅熱に疑はしき
患者ありしか又は近時猩紅熱患者に接したることありや若
くは該患者の使用したる物品に觸れたることありや等を調査
し以て其傅染系統を明にすべし
六、患者發生後に於ける病毒散蔓の程度を知り以て適當なる
豫防処置を爲さんが爲めに少くとも左の各項を調査するを要
す
(イ)患者發生後の家族の健康狀態如何
(ロ)患者發病後患者及其家族が他家を訪れたることありや
又は他より患家に來りしものありや
(ハ)患者に接觸したる物(衣類器具等)又は痰壺等の處置如
何又夫等の物によりて汚染せられたる河、堀、井戸等を
使用したる人ありや
七、患者發見後患家に對しては少くも一週間尚其附近に對し
ても一定期間健康視察又は健康診斷をなすを可とす
八、患兒は快復後六週間登校を禁するを可とす
消毒法
消毒(●●)とは汚染せる傅染病毒を殺滅するを云ふ而して消毒法を
別ちて日光曝露、燒却法、煑沸消毒、蒸氣消毒、藥品消毒の五とす
四三
四四
(甲)日光曝露(●●●●) 病毒の附着せる疊、家具等を直射日光(曇天の
際又は障子越の光線は力弱し)に曝すこと數時間なる
時は稍や消毒の目的を達することを得べし尚數日間之を
反覆すれば愈可なり但し日光の殺菌作用は唯表部にのみ
行はれ深部に迄及ばざるの欠點あり故に此方法は他の消
毒法を行ひたる後其効力を確實ならしむる爲に行ふとこ
ろの補助の方法となすへく只單獨に日光曝露にのみ依り
て消毒の目的を達すべしと思料するは不可なり
(乙)燒却法(●●●) 此法は確實に消毒の目的を達し得れとも之唯廉價
にして消毒後再び實用に供する目的なき物か又は消毒の
費用却つて其物品より高價なる物にのみ應用すべきもの
なり而して燒却の際は完全に燒却して餘りなき様注意す
べし彼の傅染病の屍体を火葬に附するは即燒却による消
毒法に外ならず
(丙)煮沸消毒(●●●●) 煮沸消毒は最も簡單なる消毒方法なり即ち釜
鍋の如き器に消毒すへき物品を入れ一定時間煮沸すれは足れり
一、煮沸消毒に適する物品は次の如し
(イ)硝子器、陶磁器、木製品(都合により藥品消毒、蒸氣
消毒にても可なり)
(ロ)衣類、臥具、布片類(蒸氣消毒器ある時は蒸氣消毒
を可とす)
二、煮沸釜の内部には之に適合する籠を備へ其中に被消
毒物を投入するを便とす
三、煮沸の際は器物を全部水中に浸し蓋を被ふべし
四五
四六
四、糞便、尿等の排泄物は提環を附したる石油空鑵に入
れ之を三叉に釣し下方に火力を加へ時々攪拌するを
可とす其際内容は下方三分の一位迄を適度とす若し
排泄物少量なるか又は水分に乏しき塲合には適宜に
水を加ふべし
五、すべて煑沸時間は沸騰後少くも三十分間持續すべし
(丁)蒸氣消毒(●●●●) 之れ消毒法中に王とも稱すべきものにして之
には蒸氣消毒器を使用す其際注意すべき事項次の如し
一、蒸氣消毒に適する物品……衣類、夜具、布片、硝子器、
陶磁器、木製品、金屬製品等
二、蒸氣消毒に滴せさる物品……革類、漆器、護謨製品、糊
附品、膠附品、毛皮、象牙、鼈甲、角類、諸種の排泄物等
三、被服類は豫め檢索し彈藥、燐寸等爆發又は發火し易
き物品ある時は之を取り出すべし
四、不潔なる物又は消毒中他物に染色の虞ある物は淸潔
なる物品と混同積載すべからず
五、數多の衣類等を嚴密に束包したる儘積載する時は蒸
氣の滲透十分ならざるの虞あるが故に消毒物品の積
載は成るべく緩踈なるをよしとす
六、消毒器内に被消毒物を納むる際には消毒衣を着用し
て事に從ひ運び入れたる後は直に其手を石炭酸水に
て消毒し然る後蓋をなすべし而して消毒完了の上は
淸潔なる消毒衣を着し消毒したる手を以て取り出す
べし
四七
四八
七、消毒時間は攝氏百度の蒸氣に觸れしむること一時間
以上なるを要す
(戊)藥品消毒(●●●●)
イ、石炭酸
石炭酸水製法(●●●●●●) 石炭酸は最も廣く用ひらるゝ消毒薬にし
て白色針狀の結晶をなす光線に遇へば赤褐色に變すれ
とも消毒力には變化なし、而して消毒の目的には二十倍
稀釋(結晶石炭酸五分、鹽酸一分、水九十四分)を用ふ其
製造法は先づ一瓶(一ポンド入)の結晶防疫用石炭酸を
爐邊又は湯中にて溶解し之を大なる容器に移し少量の
水(温湯を用ふれば溶解速なり)を加へて能く攪拌又は振
蘯し(瓶を用ふる塲合)次て再び少量の水を加へて攪拌
又は振蘯す此の如く幾度となく繰り返し水四升七合五
勺(嚴格に言はゝ此の如くなれとも普通には一磅の石炭
酸に水五升と記臆しても差支なし、一番の「バケツ」は
水五升入なるが故に一磅の石炭酸を以て一番「バケツ」
に一杯の水に溶解すれば即ち二十倍の石炭酸水を得へ
きなり)を加ふれば初め白色に溷濁せし液は透明とな
る尚之に純䀋酸約四勺(七十八立方センチメートル)を
加ふれば所要の廿倍石炭酸水を得べし斯の如く製した
る鹽酸加石炭酸水は鹽酸加へさる石炭酸水に比ぬれ
ば消毒力遥に强し
二十倍石炭酸水用法(●●●●●●●●)
四九
五〇
一、使用に先ち毎回振蘯するをよしとす
二、吐瀉物及其他の排泄物には同容量を加へ丁寧に攪拌
すべし
三、家具、疊、床板、側壁、柱及前記の蒸氣消毒に不適當な
る物品等の消毒には石炭酸水に浸したる布片を以て
丁寧に洗拭するか又は大なる噴霧器にて十分に噴霧
すべし但し毛皮製品の有毛面は石炭酸水を以て濕し
たる刷毛にて反覆擦拭したる後乾燥し更に日光に曝
露すべし
四、手指等を消毒するには石炭酸水中に浸漬して十分に
擦拭し更に溫湯及石鹼を用ひて洗滌すべし
五、衣類布片等の消毒には鹽酸を加へさる石炭酸水中に
數時間浸漬したる後普通の如く洗濯す
六、傅染病患者死亡する時は屍室に移すに先ち其被服に
石炭酸水を十分に撒布し又は石炭酸水に浸したる布
片を以て全身を被包すべし
七、傅染病患者又は死体の運搬器は使用の都度石炭酸水
にて擦拭すべし
ロ、石灰
生石灰(酸化カルシウム)は炭酸石灰を灼熱して製したるもの
なり故に又煆性石灰とも云ふ、本品は元來塊狀をなせとも若し
之を外氣中に曝露すれば氣中の水分吸取して粉末に變ず之
れ即ち生石灰灰末(水酸化カルシウム)なり尚之れを其儘に放置
五一
五二
すれば遂に氣中の炭酸を攝取して炭酸石灰に復すべし此の如
く炭酸石灰に化する時は消毒力微弱となるものなり、而して
消毒用としては常に生石灰末若くは石灰乳と爲して使用す
生石灰末製法(●●●●●●) 生石灰塊に少量の水を注加する時は高熱を發
し爆破して白色の粉末となる是れ即ち生石灰末なり此の如
く生石灰末製造に當りては熱を發するが故に破裂し易き器
物内に於てすべからず
石灰乳(●●●)の(●)製法(●●) 右の如くして生したる生石灰末に更に水を徐
々に混和して充分に攪拌すれば白色乳狀の液となる是れ即
ち石灰乳なり、規定によれば生石灰一分に水九分を加へた
るもの即十倍石灰乳として使用す故に一鑵の生石灰(約五
貫目)に水一石加ふれば所定の石灰乳を得べし或は一鑵
の生石灰を十分し其一分(凡五百目)を取りて一斗入石油空
鑵に入れ攪拌しつゝ水を注加し鑵の口邊に至るを度とす
用法(●●)
一、生石灰末及石灰乳は共に用に臨みて其直前に之を製す
るを要す何となれば製造後時を經るに從ひ漸次炭酸石灰
に化し其消毒力を減弱すればなり、故に一度生石灰の鑵
を開く時は之を其際残りなく使用し盡すを原則とせさる
べからず但し殘部を直に密封すれば差支なし
二、生石灰末及石灰乳は吐瀉物其他の排泄物、溝渠、薼【塵】溜、
井戸、浴槽等の消毒に適す從來屢床下に用ひられたしともそ
は病毒に汚染し若くは汚染の疑ある塲合に限り用ふるを
良とす而して其際の用量は地面を見るを得ざるを度とす
五三
五四
三、石灰乳はペンキ塗面の消毒に適せず
四、石灰乳は用に臨み丁寧に攪拌すべし何となれば靜置す
る時は其上層稀薄となればなり
五、生石灰末は少くとも被消毒物(例之は糞便)の五十分の一
容量を用ひ石灰乳は四分の一容量を混し(石灰鑵を開
封の儘放置したるもの又は普通の俵入石灰末を代用す
るの巳【已】むを得さる塲合には生石灰の倍量を用ふべし)
其際十分に攪拌するを要す若し攪拌不十分なる時は消
毒の目的を達すること能はず
六、石灰乳を以て牀壁の消毒に用ふることあれとも効力充分な
らず况や雪隱のはめ板等に點々的に散布するに於てを
や此の如きは啻に効なきのみならず外觀上甚た不体裁
にして隅々以て消毒從事者の無學なるを表示するもの
と謂ふへく徒に具眼者の嘲笑を買ふに過きす
七、井戸、浴槽、糞池等の消毒に要する石灰の分量は別表の
如くし能く攪拌したる後十二時間以上放置して再三井
戸浚ひをなすべし
八、傅染病の死体を納棺するには棺底に生石灰又はクロー
ル石灰を入れ或は木灰、藁灰、鋸屑等の吸収性物質を敷
き汁の棺外に漏るゝを防くべし
ハ、格魯兒石灰(晒粉)
クロール石灰は白色の粉末なり日光に觸れ又は温度上昇する
時は分解を起して爆發することあるが故に之を貯藏するには
五五
五六
冷暗所に置かさるべからず
用法は二〇倍液(クロール石灰五分水九十五分)となし石灰乳
と同量に且同一の場合に使用するものとす但し用に臨みて製
すべし
二、「クレゾール」水
クレゾール水を製するにはクレゾール石鹼液(褐色)六分に水
九十四分を加ふべし
クレゾール水は石鹼を含むが故に各種物件殊に不潔なる床板
等の消毒に適し其容量及應用は石炭酸に準ずべし
此外 千倍昇汞水(○○○○○)(昇汞一分䀋酸十分水九百八十九分)綠石鹼又(○○○○)
は加里石鹼(○○○○)、フオルムアルデヒード(○○○○○○○○○○)等の消毒藥あれとも其詳細
は略す
病類による消毒の程度
病原体は各其性狀を異にするが故に疾病によりて病毒の所在
同じからず從て其消毒の部位程度も之に應して變化せさるべ
からず今左に之が標準を揭げんとす
(甲)虎列刺(●●●)、赤痢(●●)、膓窒扶私(●●●●)、パラチフス(●●●●●●)に(●)對(●)する(●●)消毒(●●)の(●)程度(●●)
(一)臺所(●●) (イ)食器及庖厨用具類は煮沸消毒を行ふこと但し之
に適せさるものは石炭酸水に浸漬したる後淨水を以て洗
滌すべし
(ロ)食器棚は其内外を石炭酸水を以て擦拭したる後更に淨水
を以て擦拭すること
(ハ)飯、野菜、煑物其た飮食物の殘餘にして病毒汚染の虞ある
ものは家人に說示したる後汚物として處分すること、但し
五七
❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘
| 井戸及便所に対する消毒薬量計算 |
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
|口 径|水量 |深|
| |生石灰|一 尺 | 一尺五寸 | 二尺 | 二尺五寸 |
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 |
|二尺 |水量 | 四、八五〇| 七、二七〇| 九、六九〇| 一二、一二〇|
| |生石灰| 一〇七| 一四六| 一九三| 二四三|
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|二尺一寸|水量 | 五、三四〇| 八、〇一〇| 一〇、六九〇| 一三、三六〇|
| |生石灰| 九七| 一六一| 二一四| 二六八|
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|二尺二寸|水量 | 五、八六〇| 八、八〇〇| 一一、七三〇| 一四、六六〇|
| |生石灰| 一一八| 一七六| 二三五| 二九四|
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|二尺三寸|水量 | 六、四一〇| 九、六一〇| 一二、八二〇| 一六、〇二〇|
| |生石灰| 一二九| 一九三| 二五七| 三二一|
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|二尺四寸|水量 | 六、九八〇| 一〇、四七〇| 一三、九六〇| 一七、四五〇|
| |生石灰| 一四〇| 二一〇| 二八〇| 三四九|
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|二尺五寸|水量 | 七、五七〇| 一一、三六〇| 一五、一四〇| 一八、九三〇|
| |生石灰| 一五二| 二二八| 三〇三| 三七九|
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|二尺六寸|水量 | 八、一九〇| 一二、二九〇| 一六、三八〇| 二〇、四八〇|
| |生石灰| 一六四| 二四六| 三二八| 四一〇|
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|二尺七寸|水量 | 八、八三〇| 一三、二四〇| 一七、六六〇| 二二、〇八〇|
| |生石灰| 一七七| 二六五| 三五四| 四四一|
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|二尺八寸|水量 | 九、五〇〇| 一四、二四〇| 一八、九九〇| 二三、七四〇|
| |生石灰| 一九〇| 二八五| 三八〇| 四七五|
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|二尺九寸|水量 | 一〇、一九〇| 一五、二八〇| 二〇、三八〇| 二五、四七〇|
| |生石灰| 二〇四| 三〇六| 四〇八| 五一〇|
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|三 尺|水量 | 一〇、九〇〇| 一六、三六〇| 二一、八一〇| 二七、二六〇|
| |生石灰| 二一八| 三二八| 四三七| 五四六|
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|三尺一寸|水量 | 一一、六四〇| 一七、四六〇| 二三、二九〇| 二九、一一〇|
| |生石灰| 二三三| 三〇五| 四六六| 五八三|
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|三尺二寸|水量 | 一二、四一〇| 一八、六一〇| 二四、八一〇| 三一、〇二〇|
| |生石灰| 二四九| 三七三| 四九七| 六二一|
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|三尺三寸|水量 | 一三、一九〇| 一九、七九〇| 二六、三九〇| 三二、九八〇|
| |生石灰| 二六四| 三九六| 五二八| 六六〇|
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|三尺四寸|水量 | 一四、〇一〇| 二一、〇一〇| 二八、〇一〇| 三五、〇一〇|
| |生石灰| 二八一| 四二一| 五六一| 七〇一|
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|三尺五寸|水量 | 一四、八四〇| 二二、二六〇| 二九、六八〇| 三七、一〇〇|
| |生石灰| 二九七| 四四六| 五九四| 七四二|
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|三尺六寸|水量 | 一五、七〇〇| 二三、五五〇| 三一、四〇〇| 三九、二五〇|
| |生石灰| 三三二| 四七一| 六二八| 七八五|
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|三尺七寸|水量 | 一六、五九〇| 二四、八八〇| 三三、一七〇| 四一、四七〇|
| |生石灰| 九七| 四九八| 六六四| 八三〇|
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|三尺八寸|水量 | 一七、五〇〇| 二六、二四〇| 三四、九九〇| 四三、七四〇|
| |生石灰| 三五〇| 五二五| 七〇〇| 八七五|
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|三尺九寸|水量 | 一八、四三〇| 二七、六四〇| 三六、八六〇| 四六、〇七〇|
| |生石灰| 三六九| 五五三| 七三八| 九二二t
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|四 尺|水量 | 一九、三九〇| 二九、〇八〇| 三八、七七〇| 四八、四六〇|
| |生石灰| 三八八| 五八二| 七七六| 九七〇|
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| 井戸及便所に対する消毒薬量計算
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| 三 尺 | 三尺五寸 | 四 尺 | 四尺五寸 | 五 尺 |五尺五
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| 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 |石斗升
| 一四、四五〇| 一六、九六〇| 一九、三八〇| 二一、八一〇| 二四、二三〇|二六、
| 二九一| 三四〇| 三八八| 四三七| 四八五|
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| 一六、〇三〇| 一八、七〇〇| 二一、三七〇| 二四、〇四〇| 二六、七一〇|二九、
| 三二一| 三七四| 四二八| 八四一| 五三五|
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| 一七、五九〇| 二〇、五二〇| 二三、四六〇| 二六、三八〇| 二九、三二〇|三二、
| 三五二| 四一一| 四七〇| 五二八| 五八七|
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| 一九、二三〇| 二二、四三〇| 二五、六四〇| 二八、八四〇| 三二、〇五〇|三五、
| 三八五| 四四九| 五一三| 五七七| 六四一|
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| 二〇、九四〇| 二四、四二〇| 二七、九一〇| 三一、四〇〇| 三四、八九〇|三八、
| 四一九| 四八九| 五五九| 六二九| 六九八|
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| 二二、七二〇| 二六、五〇〇| 三〇、二九〇| 三四、〇八〇| 三七、八六〇|四一、
| 四五五| 五三〇| 六〇六| 七三八| 七五八|
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| 二四、五七〇| 二八、六七〇| 三二、七六〇| 三六、八六〇| 四〇、九五〇|四五、
| 四九二| 五七四| 六五六| 一九三| 八一九|
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| 二六、五〇〇| 三〇、九一〇| 三五、三三〇| 三九、七三〇| 四四、一六〇|四八、
| 五三〇| 六一九| 七〇七| 七九五| 八八四|
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| 二八、五〇〇| 三三、二四〇| 三七、九九〇| 四二、七三〇| 四七、四九〇|五二、
| 五七〇| 六六五| 七六〇| 八五五| 九五〇| 一、
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| 三〇、五七〇| 三五、六六〇| 四〇、七六〇| 四五、八五〇| 五〇、九五〇|五六、
| 六一ニ| 七一四| 八一六| 九一七| 一、〇一九| 一、
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| 三二、七一〇| 三八、一六〇| 四三、六二〇| 四九、〇七〇| 五四、五二〇|五九、
| 六五五| 七六四| 八七三| 九八二| 一、〇九一| 一、
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| 三四、九三〇| 四〇、七五〇| 四六、五七〇| 五二、三九〇| 五八、二二〇|六四、
| 六九九| 八一五| 九三二| 一、〇四八| 一、一六五| 一、
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| 三七、二二〇| 四三、四二〇| 四九、六二〇| 五五、八三〇| 六二、〇三〇|六八
| 七四五| 八六九| 九九四| 一、一一七| 一、二四一| 一、
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| 三九、五八〇| 四六、一八〇| 五二、七七〇| 五九、三七〇| 六五、九七〇|七ニ、
| 七九二| 九二四| 一、〇五六| 一、一八八| 一、三二〇| 一、
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| 四二、〇二〇| 四九、〇二〇| 五六、〇二〇| 六三、〇三〇| 七〇、〇三〇|七七、
| 八四一| 九八一| 一、一ニ一| 一、二六一| 一、四〇一| 一、
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| 四四、五二〇| 五一、九五〇| 五九、三六〇| 六六、七九〇| 七四、二一〇|八一、
| 八九一| 一、〇三九| 一、一八八| 一、三三六| 一、四八五| 一、
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| 四七、一〇〇| 五四、九五〇| 六二、八〇〇| 七〇、六五〇| 七八、五一〇|八六、
| 九四二| 一、一〇〇| 一、二五六| 一、四一四| 一、五七一| 一、
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| 四九、七六〇| 五八、〇五〇| 六六、三四〇| 七四、六四〇| 八二、九三〇|九一、
| 九九六| 一、一六一| 一、三二七| 一、四九三| 一、六五九| 一、
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| 五二、四八〇| 六一、二三〇| 六九、九八〇| 七八、七三〇| 八七、四七〇|九六、
| 一、〇五〇| 一、二二 | 一、四〇〇| 一、五七五| 一、七五〇|
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| 五五、二八〇| 六四、五〇〇| 七一、七一〇| 八二、九三〇| 九二、一四〇|一〇一、
| 一、一〇六| 一、二九〇| 一、四七四| 一、六五九| 一、八四三| 二、
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| 五八、一五〇| 六七、八五〇| 七七、五四〇| 八七、二三〇| 九六、九三〇|一〇六、
| 一、一六三| 一、三五七| 一、五五一| 一、七四五| 一、九三九| 二、
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備考
井水を消毒するには其水量の五十分の一の生石灰を乳状となし投入し能く攪拌し十二時間以上を経て後充分浚渫を行
さるはからず井戸は其構造種々にして円筒形なるあり或は長方形なるあり瓢箪形なるあり或は口径及底径を異にする
に円筒形のものとン見做し左記算式により測定す但実際に臨み其井戸の構造により適宜斟酌するを要す 算式口径×
即ち五石四斗五升二合なることを知るへし 併し右方法は稍々複雑なるを以て比較的簡易なる方法により算出すると
せし量は其実際の量より僅かの増量を見る 本評は計算の労を省略する為め口径二尺より四尺迄深さ一尺より一丈ン迄
其中間の数假は 一寸 二寸、三寸、四寸、六寸、七寸、八寸、九寸等を得ることあり此等の場合に於ては深さ一尺
に加へ二尺二寸なれは之の原数を二倍し二尺相当欄生石灰の量に加へ三尺六寸なれは三尺五寸相当欄生石灰の量に
様式により測定し且つ本表を参照し其容量を算出すへし 但し糞池は大抵其口径及底径相同しからすして底部に
に於ける糞便量は実際の量より増多するも該量に対し石灰乳(十倍)を四分の一以上混和し充分攪拌すれは安全なり
【一、位置表が大きいので分割標示した】
【二、備考表記は40ページと分割されていたので、41ぺージに通して表記した】
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| 毒薬量計算表 |
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|口 径|水量 |深 |
| |生石灰| 四尺五寸 | 五尺 | 五尺五寸 | 六尺 |
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| | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 |
|二尺 |水量 | 二一、八一〇| 二四、二三〇| 二六、六五〇| 二九、〇八〇
| |生石灰| 四三七| 四八五| 五三三| 五八二|
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|二尺一寸|水量 | 二四、〇四〇| 二六、七一〇| 二九、三九〇| 三二、〇六〇|
| |生石灰| 八四| 五三五| 五八八| 六四二|
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|二尺二寸|水量 | 二六、三八〇| 二九、三二〇| 三二、二四〇| 三五、一九〇|
| |生石灰| 五二八| 五八七| 六四五| 七〇四|
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|二尺三寸|水量 | 二八、八四〇| 三二、〇五〇| 三五、二五〇| 三八、六四〇|
| |生石灰| 五七七| 六四一| 七〇五| 七七〇|
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|二尺四寸|水量 | 三一、四〇〇| 三四、八九〇| 三八、三八〇| 四一、八七〇|
| |生石灰| 六八二| 六九八| 七六八| 八三八|
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|二尺五寸|水量 | 三四、〇八〇| 三七、八六〇| 四一、六五〇| 四五、四三〇|
| |生石灰| 一五二| 七五八| 八三三| 九〇九|
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|二尺六寸|水量 | 三六、ハ六〇| 四〇、九五〇| 四五、〇五〇| 四九、一四〇|
| |生石灰| 七三八| 八一九| 九〇一| 九八三|
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|二尺七寸|水量 | 三九、七三〇| 四四、一六〇| 四八、五八〇| 五二、九九〇|
| |生石灰| 七九五| 八八四| 九七二| 一、〇六〇|
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|二尺八寸|水量 | 四二、七三〇| 四七、四九〇| 五二、二四〇| 五六、九九〇|
| |生石灰| 八五五| 九五〇| 一、〇四五| 一、一四〇|
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|二尺九寸|水量 | 四五、八五〇| 五〇、九五〇| 五六、〇四〇| 六一、一四〇|
| |生石灰| 九一七| 一、〇一九| 一、一ニ一| 一、二二三|
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|三 尺|水量 | 四九、〇七〇| 五四、五二〇| 五九、九七〇| 六五、四ニ〇|
| |生石灰| 九八二| 一、〇九一| 一、二〇〇| 一、三〇九|
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|三尺一寸|水量 | 五二、三九〇| 五八、二二〇| 六四、〇四〇| 六九、八六〇|
| |生石灰| 一、〇四八| 一、一六五| 一、二八一| 一、三九八|
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|三尺二寸|水量 | 五五、八三〇| 六二、〇三〇| 六八、二三〇| 七四、四四〇|
| |生石灰| 一、一一七| 一、二四一| 一、三六五| 一、四八九|
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|三尺三寸|水量 | 五九、三七〇| 六五、九七〇| 七二、五七〇| 七九、一六〇|
| |生石灰| 一、一八八| 一、三二〇| 一、四五二| 一、五八四|
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|三尺四寸|水量 | 六三、〇三〇| 七〇、〇三〇| 七七、〇三〇| 八四、〇三〇|
| |生石灰| 一、二六一| 一、四〇一| 一、五四一| 一、六八三|
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|三尺五寸|水量 | 六六、七九〇| 七四、二一〇| 八一、六三〇| 八九、〇五〇|
| |生石灰| 一、三三六| 一、四八五| 一、六三三| 一、七八一|
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|三尺六寸|水量 | 七〇、六五〇| 七八、五一〇| 八六、三六〇| 九四、二一〇|
| |生石灰| 一、四一四| 一、五七一| 一、七ニ八| 一、八八五|
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|三尺七寸|水量 | 七四、六四〇| 八二、九三〇| 九一、二二〇| 九九、五二〇|
| |生石灰| 一、四九三| 一、六五九| 一、八ニ五| 一、九九一|
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|三尺八寸|水量 | 七八、七三〇| 八七、四七〇| 九六、二二〇|一〇四、九六〇|
| |生石灰| 一、五七五| 一、七五〇| 一、九二五| 二、一〇〇|
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|三尺九寸|水量 | 八二、九三〇| 九二、一四〇|一〇一、三五〇|一一〇、五六〇|
| |生石灰| 一、六五九| 一、八四三| 二、〇二七| 二、二一二|
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|四 尺|水量 | 八七、二三〇| 九六、九三〇|一〇六、六二〇|一一六、三一〇|
| |生石灰| 一、七四五| 一、九三九| 二、一三三| 二、三三六|
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| 井戸及便所に対する消毒薬量計算
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| 六尺五寸 | 七 尺 | 七尺五寸 | 八 尺 | 八尺五寸|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 |
| 三一、四〇〇| 三三、九二〇| 三六、三五〇| 三八、七七〇| 四一、一九〇|
| 六三〇| 六七九| 八〇二| 七七六| 八二四|
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| 三四、七三〇| 三七、四〇〇| 四〇、〇七〇| 四二、七四〇| 四五、四一〇|
| 六九五| 七四八| 四二八| 八五五| 九〇九|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 三八、一〇〇| 四一、〇五〇| 四三、九七〇| 四六、九一〇| 四九、八四〇|
| 七六二| 八二一| 八八〇| 九三九| 九六九|
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| 四一、六五〇| 四四、八六〇| 四八、〇六〇| 五一、二七〇| 五四、四八〇|
| 八三三| 八九八| 九六二| 一、〇二六| 一、〇九〇|
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| 四五、三六〇| 四八、八五〇| 五二、三四〇| 五五、八三〇| 五九、三二〇|
| 九〇八| 九七七| 一、〇四七| 一、一一七| 一、一八七|
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| 四九、二二〇| 五三、〇一〇| 五六、七九〇| 六〇、五八〇| 六四、三六〇|
| 九八五| 一、〇六一| 一、一三六| 一、二一二| 一、二八八|
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| 五三、二四〇| 五七、三三〇| 六一、四三〇| 六五、五二〇| 六九、六二〇|
| 一、〇六五| 一、一四七| 一、二二九| 一、三一一| 一、三九三|
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| 五七、四一〇| 六一、八三〇| 六六、二四〇| 七〇、六六〇| 七五、〇七〇|
| 一、一四八| 一、二三七| 一、三二五| 一、四一四| 一、五〇二|
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| 六一、七四〇| 六六、四九〇| 七一、二四〇| 七五、九九〇| 八〇、七四〇|
| 一、二三五| 一、三三 | 一、四ニ五| 一、五二〇| 一、六一五|
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| 六六、二三〇| 七一、三三〇| 七六、四ニ〇| 八一、五一〇| 八六、六一〇|
| 一、三二五| 一、四ニ七| 一、五二九| 一、六三一| 一、七三三|
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| 七〇、八八〇| 七六、三三〇| 八一、七八〇| 八七、二三〇| 九二、六九〇|
| 一、四一八| 一、五二七| 一、六三六| 一、七四五| 一、八五四|
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| 七五、六八〇| 八一、五〇〇| 八七、三二〇| 九三、一五〇| 九八、九七〇|
| 一、五一四| 一、六三〇| 一、七四七| 一、八六三| 一、九八〇|
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| 八〇、六四〇| 八六、八四〇| 九三、〇五〇| 九九、二五〇|一〇五、四五〇|
| 一、六一三| 一、七三七| 一、八六一| 一、九八五| 二、一〇九|
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| 八五、七六〇| 九二、三六〇| 九八、九五〇|一〇五、五五〇|一一二、一五〇|
| 一、七一六| 一、八四八| 一、九七九| 二、一一一| 二、二四三|
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| 九一、三六〇| 九八、〇四〇|一〇五、〇四〇|一一二、〇五〇|一一九、〇五〇|
| 一、八ニ一| 一、九六一| 二、一〇一| 二、二四一| 二、三八一|
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| 九六、四八〇|一〇三、八九〇|一一一、三一〇|一一八、七三〇|一ニ六、一五〇|
| 一、九三〇| 二、〇七九| 二、二二七| 二、三七五| 二、五二三|
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|一〇二、〇五〇|一〇九、九一〇|一一七、七六〇|一ニ五、六一〇|一三三、四六〇|
| 二、〇四一| 二、一九九| 二、三五六| 二、五一三| 二、六七〇|
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|一〇七、八一〇|一一六、一〇〇|一ニ四、四〇〇|一三二、六九〇|一四〇、九八〇|
| 二、一五七| 二、三二二| 二、四八八| 二、六五四| 二、八二〇|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
|一一三、七一〇|一ニ二、四六〇|一三一、二一〇|一三九、九六〇|一四鉢、七一〇|
| 二、二七五| 二、四五〇| 二、六二五| 二、八〇〇| 二、九七五|
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|一一九、八一〇|一ニ八、九九〇|一三八、二一〇|一四七、四二〇|一五六、六四 |
| 二、三九六| 二、五八〇| 二、七六五| 二、九四九| 三、一三三|
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|一ニ五、一〇〇|一三五、六九〇|一四五、三九〇|一五五、〇八〇|一六四、七七〇|、
| 二、五二〇| 二、七一四| 二、九〇八| 三、一〇二| 三、二九六|、
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| 井戸及便所に対する消毒薬量計算 |
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| 九 尺 | 九尺五寸 | 一 丈 |
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| 石斗升合尺 | 石斗升合尺 | 石斗升合尺 |
| 四四、五二〇| 四六、〇四〇| 四八、四六〇|
| 八九〇| 九二一| 九七〇|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 四八、〇九〇| 五〇、七六〇| 五三、四三〇|
| 一、〇五六| 一、〇一六| 一、〇六九|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 五二、七八〇| 五五、七一〇| 五八、六四〇|
| 三五二| 一、一一五| 一、一七三|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 五七、六九〇| 六〇、八九〇| 六四、〇九〇|
| 一、一五四| |、二一八 一、二八二|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 六二、八一〇| 六六、三〇〇| 六九、七九〇|
| 一、二五七| 一、三二六| 一、三九六|
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| 六八、一五〇| 七一、九四〇| 七五、七二〇|
| 一、三六三| 一、四三九| 一、五一五|
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| 七三、七一〇| 七七、八一〇| 八一、九〇〇|
| 一、四七五| 一、五五七| 一、六三八|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 七九、四九〇| 八三、九一〇| 八八、三二〇|
| 一、五九〇| 一、六七九| 一、七六六|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 八五、四九〇| 九〇、二四〇| 九四、九九〇|
| 一、七一〇| 一、八〇五| 一、九〇〇|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 九一、七〇〇| 九六、八〇〇|一〇一、八九〇|
| 一、八三四| 一、九三六| 二、〇三八|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
| 九八、一四〇|一〇三、五九〇|一〇九、〇四〇|
| 一、九六三| 二、〇七二| 四、一八一|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
|一〇四、七九〇|一一〇、六一〇|一一六、四三〇|
| 二、〇九六| 二、二一三| 二、三二九|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘
|一一一、六六〇|一一七、八六〇|一ニ四、〇六〇|
| 二、二三四| 二、三五八| 二、四八二|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
|一一八、七五〇|一ニ五、三四〇|一三一、九四〇|
| 二、三七五| 二、五七三| 二、六三五|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
|一ニ六、〇五〇|一三三、〇五〇|一四〇、〇六〇|
| 二、五二一| 二、六七一| 二、四〇一|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
|一三三、五七〇|一四一、〇〇〇|一四八、四二〇|
| 二、六七二| 二、八ニ〇| 二、九六九|
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
|一四一、三一〇|一四九、一七〇|一五七、〇二〇|
| 二、八ニ七| 二、九八四| 三、一四一|
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|一四九、二八〇|一五七、五七〇|一六五、八六〇|
| 二、九八六| 三、一五二| 三、三一八|
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|一五七、四五〇|一六六、二〇〇|一七四、九五〇|
| 三、一四九| 三、三二四| 三、四九五|
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|一六五、八五〇|一七五、〇六〇|一八四、二八〇|
| 三、三一七| 三、五〇二| 三、六八六|
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|一七四、四六〇|一八四、一六〇|一九三、八五〇|
| 三、四九〇| 三、六八四| 一三、八七七|
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備考
井水を消毒するには其水量の五十分の一の生石灰を乳状となし投入し能く攪拌し十二時間以上を経て後充分浚渫を行ひ使用し得へきは内務省令の定むる所なり故に先つ其水量を測定し其投入すへき消毒薬 分量を定め
さるはからず井戸は其構造種々にして円筒形なるあり或は長方形なるあり瓢箪形なるあり或は口径及底径を異にするあり其他種々に不正形なるあり従て水量の測定は常に正確に之を算出すること能はすと雖とも一様
に円筒形のものとン見做し左記算式により測定す但実際に臨み其井戸の構造により適宜斟酌するを要す 算式口径×口径×深×0,7854×15,26 3×3×5×3×4,04 即ち水量五石四斗五升四合を得後法により測定
即ち五石四斗五升二合なることを知るへし 併し右方法は稍々複雑なるを以て比較的簡易なる方法により算出すると
せし量は其実際の量より僅かの増量を見る 本評は計算の労を省略する為め口径二尺より四尺迄深さ一尺より一丈迄の水量及之に投入すへき生石灰の分量を掲く 但し本表は其深さ五寸毎に計算しあるも実際に臨み
其中間の数假は 一寸 二寸、三寸、四寸、六寸、七寸、八寸、九寸等を得ることあり此等の場合に於ては深さ一尺欄生石灰の量を十分し之を原数となし深さ一尺一寸なれは之の原数を一尺相当欄記載の生石灰の量
に加へ二尺二寸なれは之の原数を二倍し二尺相当欄生石灰の量に加へ三尺六寸なれは三尺五寸相当欄生石灰の量に原数を加へ四尺七寸なれは原数を二倍し四尺五寸相当欄石灰の量に加入すへし 糞池内糞便量とも右同
様式により測定し且つ本表を参照し其容量を算出すへし 但し糞池は大抵其口径及底径相同しからすして底部に向つて漸々其径を減するもの多しと雖とも先つ円筒形のものと見做し算出するを便なりとす此の場合
に於ける糞便量は実際の量より増多するも該量に対し石灰乳(十倍)を四分の一以上混和し充分攪拌すれは安全なりとす
五八
已むを得さるものは煮沸消毒に附したる後飮食に供せし
むるも妨げなし
(ニ)流塲は其全面に石灰乳注加し置き十二時間經過の後淨
水を以て洗滌すること
(ホ)板の間は石炭酸水を以て擦拭すること
(へ)壁、戸及障子等は手の達し得る高さ迄石炭酸水を撒布し
又は同藥液を以て擦拭すること
(二)病毒汚染(●●●●)の(●)虞少(●●)なき(●●)室(●)(例之客間)(イ)柱、敷居、廊下及疊
等は塲合により石炭酸水にて擦拭すること
(ロ)戸、障子等襖等は三項(ロ)に準すること
(三)病毒汚染(●●●●)の(●)虞(●)ある(●●)室(●)(例之茶の間)(イ)柱、敷居、廊下及
疊等は四項(イ)に準する事
(ロ)戸、障子及襖等は摘み、引手、辺椽等常に手の觸るゝ部
分を石炭酸水を以て擦拭し次で直射日光に曝露すること
(ハ)其他病毒汚染の虞ある物品は適宜の方法によりて消毒
(四)病毒汚染(●●●●)の(●)虞多(●●)き(●)室(●)(例之病室)
(イ)柱、敷居、廊下及疊等は表面に石炭酸水を撒布し又は
同藥液を以て擦拭し畳は更に直射日光に曝露すること
(ロ)戸、障子、襖及壁等は通常手の達し得る部分迄石炭酸
水を撒布し又は同藥液を以て擦拭し次て直射日光に曝
露すること但し雨戸は手の觸るゝ部分を消毒すること
(ハ)床板及床下の消毒は汚物の滲透を受け若しくは其疑あ
る塲合に限り行ふこと
五九
六〇
(ニ)天井の消毒は蠅の多數発生等により病毒に汚染したり
と認めたる場合に限り行ふこと
(ホ)衣類、臥具、布片等は蒸氣消毒に附し其他の器具物品も
亦適宜消毒すること
(五) 便所(●●)、(便器(●●))、下水溜(●●●)、下水溝(●●●)、塵芥溜及井戸(●●●●●●)(水槽(●●))
(イ)便所の天井、内壁(窓障子を含む)、踏板、睪隱、朝顏、戸
及其摘みには十分石炭酸水を撒布し又は同藥液を以て
擦拭すること
踏板裏、敲面、汲取口及蓋、内羽目板、外羽目板及土
臺には石炭酸水を撒布すること
糞池及尿池の消毒には生石灰末を用ふること但し其内
容物により石灰乳を用ふるも妨げなし
便器は石灰乳を以て消毒すること
手洗鉢の内容物は其儘糞池又は尿池に投入すること
但し糞尿池の消毒前に投入すること
手洗鉢、手洗流塲は石炭酸水を以て消毒すること
手洗柄杓及手拭掛は石炭酸水を以て消毒すること
便所箒、塵拂、草履、紙箱(紙共)及手拭は石炭酸水中
に浸漬するか又は燒却すること
(ロ)下水溜及下水溝の消毒には生石灰末又は石灰乳を用ふ
ること
塵芥溜は石灰乳を以て消毒し其内容物は燒却すること
(ハ)井戸(水槽)は飮料たると雜用たるとに拘らず生石灰末
を以て消毒すること
六一
六二
釣瓶、釣瓶車、縄は石灰を投したる井中に浸漬し井戸
浚を爲すに至る迄放置すへし井戸側、釣瓶竿、柄杓は石
炭酸又は石灰を以て消毒すへし
(乙)發疹窒扶私(●●●●●)、痘瘡(●●)、猩紅熱(●●●)、實布垤利亞(●●●●●)に(●)對(●)する(●●)消毒(●●)の(●)程(●)
度(●)
(一)臺所(●●) (ニ)病毒汚染(●●●●●)の(●)虞少(●●)き(●)室(●) (三)病毒汚染(●●●●●)の(●)虞(●)ある(●●)室(●)
以上は甲に準ずること
(四) 病毒汚染(●●●●●)の(●)虞多(●●)き(●)室(●)
(イ)柱、敷居、廊下及疊は(甲)の如く石炭酸水を撒布し又は
同藥液を以て擦拭すること
(ロ)衣類、臥具、布片、其他の器具、物品等の消毒は(甲)に準す
ること
(ハ)戸、障子、襖、壁、天井、鴨居及額裏は全部に石炭酸
水を撒布すること但し掛物又は額面等汚損の虞あるも
のは十分に日光に曝露すべし
(五)便所(●●)(便器(●●))、下水溜(●●●)、下水溝(●●●)、塵芥溜及井戸(●●●●●)(水槽(●●))
是等は病毒に汚染し又は病毒混入の疑ある塲合に限り(甲)
に準ずること
◎附録
赤痢、虎列刺、膓窒扶私患家其他の消
毒方法施行に關する心得
訓令第四十六号號(明治三十八年八月十二日)
群市役所、警察署、警察分署、町村役場
赤痢、虎列刺、膓窒扶私患者其他の消毒方法は左の心得に依
六三
六四
り施行すべし
消毒方法施行に關する心得
第一條 市町村は傅染病發生患家消毒施行に充つる爲め左の
藥品及器具を準備し必要に應し患家に輸送すべし
但患家の器具にして使用し得へきものは輸送せさるも妨
けなし
一、器具
一、輸送車若くは擔荷 二、大桶(但三斗以上を容るへ
きもの) 三、小桶 四、馬喫(五升入) 五、如露 六、
手桶 七、柄杓 八、煑沸消毒用釜 九、桝(一升)漏斗
十、メートルグラス(五百グラム) 十一、攪拌用棒 十
二、消毒衣及帽 十三、履物 十四、雑巾手拭 十五、
箒 十六、熊手 十七、汚物運搬用具 十八、釘抜、釘、
金槌、鑵切 十九、釜、薪(燐寸共) 二十、鍬、鋸、蓆、
縄、風呂桶
二、藥品
一、生石灰 二、石炭酸 三、䀋酸 四、クレゾール水
三、其他必要なる器具藥品
第二條 消毒人夫には消毒施行中左の事項を確守せしむへし
一、飮食及喫煙すへからす
二、濫りに消毒區域外に立ち去るへからす
三、手、足、消毒衣等の病毒に汚染したるときは直に消毒
すへし
四、塵芥を飛揚せしめさる様注意すへし
六五
六六
五、家具、物品の取扱を鄭重にすへし
六、家人に對し言語を叮嚀にすへし
第三條 患家に至らは屋内に入る前先つ消毒衣及帽を着用し
履物を穿き換ふへし
第四條 消毒著手前左の各號を調査し消毒の程度順序を定め
以て遺漏なきを期すへし
一、家族及同居人の數及老幼 二、病の輕重 三、發病の
系統 四、患者の起臥せし室 五、患者に接せし家具、物品
六、看護に従事せし者 七、患者の上りたる便所及使用せ
し便器、襁褓 八、汚物を洗滌せし器物及塲所 九、汚物
を埋沒又は投棄せし塲所 十、汚染せる家具、物品 十一、
飮食物殘餘の有無 十二、其他必要と認むる事項
第五條 前條調査と共に一面左の各號を準備すへし
一、煑沸消毒 二、藥品溶解及擦拭等に用ゆる湯 三、消
毒藥 四、消毒及完了後入浴すへき浴湯
第六條 便所及現に病毒の附著せる物件は槪ね左の方法によ
り處置すへし但此消毒に從事したる者は一旦手足其他の消
毒をなしたる上にあらされは他の部分の消毒に從事せしめ
さること
一、便所
(イ) 糞池には糞便量の四分の一以上の石灰乳を加へ叮
嚀に攪拌すへし
(ロ) 糞池の周圍には充分石灰乳を灌くへし
(ハ) 便所の床、壁、柱、戸扉(特に引手に注意すへし)
六七
六八
等は充分石炭酸水又はクレゾール水を撒布又は擦
拭すへし
(ニ) 便所の履物、手洗柄杓、手拭、箒の類は石炭酸水
又は「クレゾール」水を以て相當の消毒を行ふへし
但高價ならさるものは燒却するを可とす
(ホ) 手洗水の流塲には石灰乳を注くへし
二、現に病毒の附着せる物件
(イ) 衣服、臥具、敷物の類は其汚染せる部分に充分石
炭酸水又は「クレゾール」水を注き途中病毒の散逸
せさる様嚴重に注意し汚物運搬用具内に収め病院
又は病舎に送り煮沸若くは蒸氣消毒を行ふへし
(ロ) 便器は其内外に充分石炭酸水クレゾール水又は石
灰乳を灌き内部は小なる藁箒の類を以て擦拭して
其液を糞池に投入し更らに同藥液を注き二十四時
間以上家人の交通せさる塲所に置くへし
但襁褓は之を燒却すへし
第七條 各室及物品等は左の方法により處置すへし
但著手の順序は病毒汚染の虞少なき塲所より初め順次に
及ほすへし
一、病毒汚染の虞少なき室(例令は座敷)
(イ) 戸障子を外し疊を揚け家具、物品と共に屋外に搬
出し充分日光に曝すへし
(ロ) 塵芥は掃き集め燒却すへし
二、病毒汚染の虞ある室(例令は茶の間)
六九
七〇
(イ) 疊、敷物は表面及邊椽に石炭酸水を撒布し更に石
炭酸水又はクレゾール水に浸せし布片を以て擦拭
すへし
(ロ) 戸、障子は石炭酸水を撒布し襖はその邊椽を石炭酸
水若くはクレゾール水を以て擦拭し戸、障子、襖
は特に其引手、邊椽等常に手に觸るゝ部分に注意
し充分消毒すへし
(ハ) 病毒汚染の虞ある器物は(イ)(ロ)に準し消毒すへ
し
(二) 消毒を要せすと認むる家具も消毒したる建具、疊
其他の物品と共に屋外に搬出し日光に曝すへし
但病毒汚染の虞なき居室より搬出したる物品と
置塲を區別すへし
(ホ) 次に壁、柱、敷居、板間等は石炭酸水又はクレゾー
ル水を以て擦拭すへし但通常手の達し得へき部分
より以上は之を行ふを要せす尚擦拭に用ゆる布片
は不潔となれる儘使用せす時々淸洗して用ゆへし
三、病毒汚染の虞多き室(例令は臺所)
(イ) 戸、障子、壁、柱、敷居、疊等は前項(イ)
(ロ)(ニ)の方法に依るへし
(ロ) 飮食器具は煑沸消毒を行ひ其消毒に適せさるもの
は石炭酸水若くはクレゾール水を以て洗滌又は擦
拭すへし石炭酸水又はクレゾール水を以て消毒し
たる器物は乾燥後煮沸水を以て洗滌すへし
七一
七二
(ハ) 食器棚は其内外を石炭酸水若くはクレゾール水を
以て擦拭し乾燥したる後更らに煮沸水を以て擦拭
し成る可く日光に晒すへし食器及食器棚擦拭用の
布片は他に用ゆるものと區別すへし
(ニ) 飯、煑物其他飮食物の殘餘は燒却すへし
但已むを得さるものは充分煮沸したる後飮食用
に供するも妨けなし
(ホ) 流塲は石炭酸水、クレゾール水又は石灰乳を其全
面に注ぐへし
但十二時間以上を經過したる後煮沸水を以て洗
滌し使用するも妨けなし
(へ) 浴塲は流塲に準し消毒すへし
(ト) 塵芥は消毒の上掃き集め燒却すへし
四、病毒汚染の虞最も多き室(例令は患者の居室)
(イ) 戸、障子、襖、疊、敷物、壁、柱、敷居、板間等
は第二項(イ)(ロ)と同様の消毒法を行ふへし
但疊、敷物は裏面を消毒し其他の消毒法も一層
嚴重なるを要す
(ロ) 患者の使用せるものは勿論其他の器具、物品も悉
く其種類に依り適當の消毒をなすへし
(ハ) 消毒したる疊、敷物、建具及家具用品は屋外に搬
出し日光に晒すべし
但し他室の物品の置塲と區別すべし
(ニ) 貴重の物品にして病毒汚染の虞少く且藥物煑沸及
七三
七四
蒸氣消毒に適せさるものは四時間以上日光に晒す
こと
(ホ) 床板は石炭酸水若しくは「クレゾール」水を撒布し
以て藁箒の類を以て普く擦拭すへし
(へ) 床下は床板を剝離し石灰乳を全面均等に散布すへ
し
構造緊密にして病毒汚染の虞なしと認むる者は床
板を剝離するを要せす
(ト) 床、藁床、籾糠の類は燒却し新らしきものと敷き
換ふること
第八条 井戸、土間、下水、溝渠、塵芥溜其他不潔の塲所に
對しては左の順序により消毒及淸潔方法を施行すへし
一、井戸、水槽
(イ) 井水及水槽は水量五十分一以上の生石灰を乳狀と
なして投入し能く攪拌したる後其を以て井側、井
筒を洗滌すへし
(ロ) 右の施工を終り十二時間以上を經過したる後數回
井戸浚を爲し淸水に復したるときは使用するも妨
けなし
(ハ) 釣瓶縄、釣瓶竹は可成燒却すへし
但已むを得さる事情あるときは釣瓶縄は三十分以
上煑沸するか又は六時間以上石炭酸水又は「クレ
ゾール」水に浸漬したる後煮沸水を以て洗滌し之
を乾燥すへし
七五
七六
(ニ) 釣瓶及釣瓶車等は石灰乳を投したる井中に浸漬し
井戸を使用するに至る迄放置すへし
(ホ) 完全なる構造にして病毒汚染の虞なしと認むる井
戸は單に浚渫するに止め消毒せさるも妨けなし
二、下水、溝渠、塵芥溜、濕地其他
(イ) 土間には石灰乳を灌きて下水、溝渠、濕地には生石
灰末又は石灰乳を撒布すへし汚水あるときは其量
に對し糞便消毒に準し規定の藥量を用ゆへし
(ロ) 塵芥溜は先つ石灰乳を注き其塵芥は燒却すへし
(ハ) 便所以外の肥料及厩の不潔なる箇所には其表面に
充分石灰乳を撒布すへし
但病毒の混入を認めたるときは尚能く石灰乳を混
和せしめさるへからす
第九條 消毒後は可成屋内に日光の射入空氣の流通を良くす
へし
第十條 消毒法施行の際剝離したる床板其他破損したる箇所
等は原形に復すへし
第十一條 病毒汚染の虞なき部分の床下と雖も不潔と認むる
ときは通常の消毒法を行ふへし
第十二條 夜間其他事故の爲め直に消毒を施行し能はさると
きは危險多き部分に限り應急的消毒を施し其部分に家人の
交通を禁すへし
第十三條 消毒完了せは消毒用器具を消毒し次に消毒衣及帽
を脫して消毒し履物を燒却し次に自己の手足を消毒し準備
七七
七八
せる湯に浴すへし浴後は最初の履物を穿つへし家人に對し
ては手足を消毒し入浴換衣せしめ入浴前の衣服は消毒すべ
し
附則
第十四條 傅染病毒に汚染し若くは汚染の疑ある家に對して
は本心得に準し消毒を行ふへし
赤痢、膓窒扶私豫防心得
訓令第二十九號(明治四十四年五月十六日)
群市役所、警察官署、町村役場
第一條 患者發生したる塲合に於ては患家其他病毒に汚染し
若くは汚染の疑ひある家に對し左の各號を行はしめ且つ健
康視察又は健康診斷を行ふへし
一、家屋内外の淸潔及消毒
二、病毒に汚染し又は汚染の疑ひある衣類臥具其他の清毒
三、便所の消毒
四、井戸の消毒
五、上圊時に於ける石灰末の投入
第二條 前條以外の井戸及便所にして患者又は病毒に汚染し
若くは汚染の疑ひある者の使用したるため病毒混入の疑ひ
あるものに對しては消毒くを行はしむへし
第三條 患者の屎尿は一室の容器に之れを受け燒却又は煮沸
せしむへし治癒したる者に對しては治癒の日より起算し左
の期間上圊毎に可成多量の石灰末を投入せしむへし
七九
八〇
赤痢 二十日間
膓窒扶私 三十日間
第四條 本心得第一條石灰末の投入は病毒に汚染し又は汚染
の疑ある者に對して患者發見の日より起算し左の期間上圊
毎に之れを行はしむへし但看護人等患者に觸接する者に對
しては患者治癒の日より起算すへし
赤痢 十日間
膓窒扶私 二十日間
第五條 本心得第三條第二項及ひ第四條の屎尿は消毒を為し
たる後にあらされは搬出すへからす
第六條 本心得第一條の健康視察は患者發見の日より起算し
十四日間毎日之れを行ふへし
前項の健康視察に依り健康狀態に異狀ありと認むる者ある
ときは健康診斷を行ふへし
第七條 病毒蔓延の虞あるときは必要と認むる區域内に對し健
康視察又は健康診斷を行ひ可成多量の石灰末を糞池に投入
せしむへし
第八條 自宅治療患者ある家に對しては別紙様式の注意書を
配布し其他實行を監視すへし
第九條 飮料水と雜用水とを間はす病毒混入の疑ひある塲合
に於て他に良水を得るに途なきときは其間煑沸水を使用せ
しむへし
第十條 郡長及警察官署長は患者發生の塲合に於て其感染地
他所轄内に係るものと認むるときは感染地、患者治癒後本
八一
八二
心得第三條第二項の期間内に他所轄内に移轉したるときは
移轉地所轄の郡長又は警察官署長に通報すへし前項の通報
を受けたる郡長又は警察官署長は本心得第一條乃至第六條
に依り必要なる措置をなすへし傅染病豫防法令施行細則第
九條に於ける患者移轉の通報ありたる塲合亦同じ
(別紙)
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| 赤痢、膓窒扶私患者自宅治療注意書 |
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|発病月日 | |患者|福島県 郡 町 大字 字 |
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|診断月日時|明治 年 月 日午前後 時 |氏名| 番地戸主 (戸主又は家) |
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|年齢| (長との続柄) |
|届出月日時|明治 年 月 日午前後 時 |戸主| 患者 氏 名 |
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|との| 当 年 |
|傳帰及 | |続柄| |
|傳出別 | | | |
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘| | |
|同上年 |明治 年 月 日午前 時| | |
|月日時 | 後 | | |
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|届出医師 |医師 | | |
|氏名 | | | |
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|❘❘|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|
|発生届受理 |明治 年 月 日午前 時| 傅| |
|月日時 | 後 | 染| |
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|病| |
|消毒施行 |明治 年 月 日午前 時| 経| |
|月日時 | 後 | 路| |
|❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘|の| |
|転帰届出及受理|明治 年 月 日午 時 | 概| |
|年月日時 | 月 日午 時 | 要| |
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|消毒施行 |明治 年 月 日午前 | | |
|月日時 | 後 | | |
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| 注意事項 |
| 患者ある家の戸主又は家長は左に記載したる各號を遵守し豫防及ひ治療 |
| 上の實行を奏するに努むへし若し注意事項竝に當該吏員の指示に從はす |
| 豫防及ひ治療上不適當と認むるときは傅染病院、隔離病舎又は相當設備 |
| ある病院に収容を命することあるへし |
| 一、病室には醫師、看護人又は看護婦の外交通せしむへからす且つ看 |
| 護人は可成素養ある看護婦を雇ひ入るること |
八三
八四
| 二、看護人又は看護婦は家人の居室に出入すへからす |
| 三、病室に於て患者の外飮食すへからす |
| 四、患者に供したる飮食物の残餘は一定の器物に入れ其都度消毒又は |
| 燒却すへし |
| 五、患者に用ひたる食器等は使用の都度煮沸消毒を行ふべし |
| 六、醫師の指定せさる飮食物の外一切之れを興ふへからす |
| 七、患者排泄物、分泌物及病毒汚染物は一定の器物に受け其都度消毒 |
| を行ひ且つ糞尿は煮沸又は燒却すへし |
| 治癒したる時は治癒の日より起算し赤痢に付ては二十日間膓窒扶 |
| 私に付ては三十日間上圊毎に可成適量の石灰末を投入すへし |
| 八、病室内は時々掃除を爲し其掃き集めたる塵芥、紙屑は一定の器物 |
| に溜め消毒又は燒却をなすへし |
| 九、蚊蠅の驅除を行ふへし |
| 十、消毒藥品及消毒器具を具へ消毒を嚴重に行ふへし |
| 十一、患者の沐浴したる湯水は充分に消毒したる上人家遠隔の地にして |
| 河川に關係なき土中を堀り投棄すへし |
| 十二、患家の家人は患者發生の日より起算し赤痢に付ては十日間膓窒扶 |
| 私に付ては二十日間上圊毎に石灰末を投入すへし看護人等患者に |
| 觸接するものは患者治癒後前期間石灰末の投入をなすへし |
| 十三、家族中赤痢又は膓窒扶私に疑はしきものあるときは速かに警察官 |
| 吏町村吏員に申出つべし |
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○本書を配付したるときは注意事項其他豫防及治療上心付き
たることは懇篤諭示し實行を監視すべし
八五
大正元年八月五日印刷
大正元年八月八日発行
発行代表部 福島縣警察部
陸 壯三郎
福島市五月町六番地
印刷人 寺田 鍛
福島市大町二十番地
印刷所 福島印刷所
【記載なし】
仲冬臥病累日肴懐
登山□因賦長句遣悶
吟社幾時□子歓参□【音あるいは高?】□里
陽雲□言論京
【表紙】
【貼紙】
嘉永二己酉年新雕
去今卯十有九年
両体 生力
資生力 覚機
感応力 動機
各異感応機
刺衝物
生力抗抵
【題簽】
病学通論 共三冊 一【「共三冊」は朱記挿入】
【下に「千葉医科大学千葉本」印】
【右】
【上辺横書】嘉永二年己酉初夏新雕
【枠内】
洪庵緒方先生訳本【「初篇」の朱印】
病学通論 【上部に千葉医科大学の蔵書印】
適適斎蔵 青藜閣発兌 【上部に薄い朱印】
【左】
【欄外上に「千葉本家文庫之章」朱印】
【欄外右に「東洋医学研究室」印】
【右の印下に「千葉医科大学千葉本」印】
【枠内本文】【「、」は朱記挿入】
病学通論序
泰西医学之入我 邦蓋百有余年于茲矣、
而其始也率皆蒙昧無稽非親■【受ヵ】其法而読
其書、唯観西医所施、為臆度而摸倣之僅挟一
二所得之技、以衒世而已、厥後豪傑並興学
術大闢、洋舶齎来之書益多、翻訳鏤行之
書、絡繹争出、大抵医学之書莫求而不在焉、
可謂盛矣、独至於病学之科、則未見有能唱
之者、是無他以文理極深艱論弁亦頗幽賾、
自非学術精錬者、不可了解也、浪華緒方公
裁、資性寛厚学術淵邃、誨生徒諄々不倦、是
以千里負笈、執贄于門者、趾相接、実我社之
一大家也、先是公裁、来遊于江都、時吾先王父
榛斎先生、適著名物考補遺知、公裁寸学倶
優兼長算数、乃託以枝正新製度量之事、公
裁欣然承命、参攷群藉夙夜僶勉、以卒功巳
載在于補遺焉、此書也先王父又所嘗嘱、公裁
復能継其志、講習余間、必脩之而不措、公裁
平生所訳之書、蔚能成帙者、若干部、未敢
開雕以問世、及此書成首鍥之桙、将先達先
師之志、而後及其余其一心弁香不忘師
恩、忠誠敦篤、一何若是哉、抑此書之要在
於察_下 一身機、性之官能、与_中病理之所以然_上、【訓点は朱記挿入】
而審百端病機、皆帰於此実測之一揆病
学之書出于我 邦、実以此為嚆矢、於是
乎泰西医学之科、始備且㒰矣、其功頤不
偉矣乎、若夫体裁精確叙事明兇、世所共
知、固不待吾言、嗚呼俾先王父猶在則、
撃節嘆賞果如何哉、感欣追慕之余恭
代記其喜如此
嘉永紀元歳次戊申春三月
作州 宇田川瀛撰
【落款「宇田川瀛」「葯舟氏」】
上毛 生方寛書
【落款「寛印」「記号」】
【左】
病学通論序
自享保中始 允読洋書於今百有余年賢豪
輩出、其医書経訳者、不下数十百種、然解体新
書、医範提綱之外、大抵方薬書而、及原生原病
之学者、未曽聞之、豈非由学者、欲速成哉、蓋西
医之道、以明人身内景、為本、原生、原病、次之而
後薬剤、治方従之、譬諸構室内景礎也、原生原
病柱也、薬剤治方楼屋也、今也礎而未柱、遽然
架屋無此理也、我榛斎先生、有見於此、使緒方
公裁、青木周弼、訳原病書数部、欲以折衷衆説
帰諸簡明也亡幾先生捐館、遺命公裁、継其志
公裁乃遊長崎、親接蘭客、反覆質疑、再取原書
而鑚研之、又参考諸書、苦心焦思十換裘褐更
稿者七八、今春始克成編将上木伝世、乃郵寄
請矣、一言余受而読之、文気通暢而義理明晰、
自非真積力文目諳心熟庸能至此、々書之出可
使天下学者、知西医之道本末、兼䛟費隠倶尽
実済生、躋寿之学而決非衒奇、競新之流矣、公
裁之継述師志、使榛斎先生死猶生者、其功不
亦偉乎、公裁為人、深沈縝密事親而孝、与人交
而信、往年単身、卸担于浪華、年未四十、其術大
行、然名未暢実也、此編一出学者必将裏糧負
笈蟻集其門、矣昔者香川太仲、著行余医言、後
藤艮山、謂之曰、子之門従此多事矣、余於此編
亦云、弘化戊申仲春坪井信道撰
【落款「坪井□□」「誠軒」か】
鼎斎生方寛書【落款「寛印」】
自序
章成童、従家君於大阪之邸、学文習武、多病不能勉強、
時聞、有天游中先生者、唱西洋医学、覈驅骸柝疾病、精
密窅賾、出人之意表也、於是憣然、改轍、服従先生、先生
愍章駑鈍、教導究渥慈愛特深、居四年当時之訳書、渉
猟殆尽、頗得闞西学大略矣、先生謂章曰方今西学日
隆、訳書月多、然以其有所未全備、猶有隔履抓痒之憾
焉、吾老不能為卿等、宐就原書学也、於是東游江戸、委
質於誠軒坪井先生、先生恩諭超衆、薫陶冶鎔読原書
数十巻、始覚得如面上脱一膜、而指爪達痒処矣、誠軒
【冒頭の「章」は諱で原文では細字右寄せ、以下同】
先生亦謂章曰、子欲質彼我薬品之名称、宐就榛斎宇
田川先生学也、於是又傍出入榛斎先生之門、先生亦
叩端傾底而相掲示益得弘所学矣、既而先生即世其
所訳述病学一書、稿未成遺命章継之章、陋劣固不当
其任、積日累年之久、纔得卒其業矣、嗚呼章此挙雖榛
斎先生所賜也、非有天游誠軒二先生慈恩、安能得有
今日乎、因記其由以代自序、云弘化丁未孟春足守侍
医緒方章書于大阪之僑居
題言
一病学ハ和蘭ニ 施機的桾垤(シーキテキュンデ)ト謂 ̄ヒ羅甸ニ 把篤魯芰(パトロギー)
ト謂 ̄フ是 ̄レ諸病ノ本然ヲ覈知シ病因病証ヲ究識シ
以テ標本治不治ヲ弁晰スル所ノ学ナリ《割書:先哲之 ̄レ|ヲ原病》
《割書:学ト訳ス固 ̄ヨリ穏当スト雖トモ今 ̄マ|原語 ̄ノ名義ニ随テ原字ヲ省ク》毎病一 ̄ニ之 ̄レ ヲ論ズル
ヲ病学各論《割書:ベイソンデレ、シ|ーキテキュンデ》ト謂 ̄フ然 ̄レ トモ疾病百般
殆 ̄ント極 ̄リ ナシ故ニ普 ̄ク諸病ノ本然ト病因病証ヲ統括
シテ其総論ヲ立 ̄ツ是 ̄レ ヲ病学通論《割書:アルゲメーネ、シ|ーキテキュンデ》ト
謂 ̄フ」蓋 ̄シ此学ニ熟達スレハ百病条縷判然トシテ自 ̄ラ分
拆スベク治療準則決然トシテ自 ̄ラ極定スベシ故ニ
此学ハ医家必究ノ要鍵ト謂 ̄フ ヘキ者ナリ近世西
洋此学大ニ備リ其書 皇国ニ齎 ̄シ来 ̄ル者多 ̄シ ト雖トモ
其文義淵邃ニシテ議論艱渋卒 ̄カ ニ解シ易カラズ加
《割書: |レ》之支那 皇国共ニ未 ̄タ此学ナク名称等允当シ難 ̄キ
ヲ以テ未 ̄タ之ヲ訳述スル者アルヲ聞 ̄カ ス榛斎先生
嘗テ青木周弼《割書:長州|人》ヲシテ 扶歇蘭土(ヒユヘランド)《割書:人|名》ノ病学書ヲ
訳セシメ章ニ命シテ 昆斯貌律窟(コンスブリユク)《割書:人|名》 公刺地(コンラヂー)《割書:人|名》等ノ
病学書ヲ訳セシメ参攷折衷シテ一書ヲ編シ以テ
之ヲ世ニ公ニセントス而 ̄シテ草稿未 ̄タ_レ半先生溘焉ト
シテ簀ヲ易 ̄ヘ タリ」先生病篤 ̄キ日章ニ嘱シテ曰 ̄ク病学ノ一
書未 ̄タ稿ヲ脱セズ予 ̄カ遺憾ナリ子其 ̄レ予 ̄カ志ヲ継 ̄ク ト章
不才浅学何 ̄ソ能 ̄ク此大任ヲ奉スルニ耐ン然 ̄レ トモ亦既
ニ遺命トナリテ辞スルニ所ナシ先生没後其遺
稿ヲ乞 ̄ヒ更ニ其原書ヲ取テ鑽研考覈シ旁 ̄ラ華爾篤(ハルト)
満(マン)《割書:病学|書》利設蘭土(リセランド)《割書:人身究|理書》貌律面抜苦(ブリュメンバツク)《割書:同|上》羅設(ローゼ)《割書:同|上》 私(ス)
布斂傑児(プレンゲル)《割書:治法|総説》等ノ書及 ̄ヒ舎密(セミ)術窮理学内外科ノ
群籍ヲ参攷シテ以テ其遺稿ヲ刪定補正シ纔 ̄カ ニ始 ̄メ
テ其稿ヲ脱スルコトヲ得タリ」章固 ̄ヨリ文辞蒙昧唯嘲 ̄リ
ヲ取 ̄ル ニ足 ̄レ リ学者若 ̄シ其文辞ヲ以テセスシテ幸ニ其
学ノ本旨ヲ領解シ済世ニ少補アルコトヲ得ハ則
師恩ノ万一ニ報スルニ足 ̄ル章カ大幸亦何 ̄ソ之 ̄レ ニ過 ̄キ
ン
一編中諸説毫 ̄モ臆按ヲ交ヘス諸書ヲ纂集シ彼此相
綴テ文章ヲ作為ス故ニ或 ̄ハ前後照応セサル所有 ̄ラ
ン看者其 ̄レ之 ̄レ ヲ恕セヨ偶《割書:々》章ガ愚按ヲ加ル所ニハ
按字ヲ冠ス
一諸名称大概榛斎先生ノ訳例ニ随フ其闕如スル
者ハ章ガ膚見ヲ以テ之 ̄レ ヲ構成ス固 ̄ヨリ穏当ナラサ
ル者居多 ̄シ故ニ毎名条下各《割書:々》原名ヲ附シテ考照ニ具
ヘ以テ後ノ君子ヲ俟 ̄ツ」但其原名ハ和蘭語羅甸語
ニ限ラス之 ̄レ ヲ襲用ス人ノ慣習スル所ニ随テ参
閲ニ便スルノミ《割書:編中原名ノ仮字ニ半濁ノ記号|ヲ副 ̄ヘ タルカ゚キ゚ク゚ケ゚コ゚ハガギグ》
《割書:ゲゴノ喉ヨリ出ル者ニシテハ|ヒフヘホニ近似セル音ナリ》
一或云此編意義通達論理精密ヲ尽セリト謂ベシ
惜哉文字鄙俗ニシテ雅ナラス恰 ̄モ美羹ヲ馬槽ニ盛 ̄レ
ルガ如シ人顧 ̄ル者アルコト尠 ̄カ ラン蓋 ̄シ此挙ハ所謂病
学ノ嚆矢ナリ一 ̄タヒ世ニ布 ̄カ ハ天下後世必 ̄ス軌範ヲ之 ̄レ
ニ資 ̄ラ ン実ニ凡庸ノ事業ニアラス願 ̄ク ハ子意ヲ事
物 ̄ノ名称等ニ注 ̄ヒ テ再三之 ̄レ ニ改正ヲ加 ̄ヘ ヨ」章云 ̄ク然リ
余 ̄モ亦嘗テ文字ヲ正シ章句ヲ明ニシ法ヲ後世ニ
垂 ̄ン コトヲ庶幾セリ然 ̄レ トモ余少 ̄フ シテ西学ニ志シ東西ニ
奔走シテ文ヲ学 ̄フ ノ余暇ヲ得ズ卑拙浅陋悔 ̄ユ トモ及バ
ス以為 ̄ラク遺_レ芳ノ備 ̄ラ サランヨリハ寧 ̄ロ臭ヲ伝 ̄ヘ ザル者
勝 ̄レ リト将 ̄サ ニ此稿ヲ擲テ篋中ニ投シ終歳顧ルー【ヿ(こと)か】
亡 ̄ラ ントス」【原文では鈎なしの横棒、以下区別せず】比 ̄ロ四方有志ノ士余 ̄カ此挙アルヲ聞テ其
公行ノ遅 ̄キ ヲ責 ̄ム ル者多ク或 ̄ハ之 ̄レ ヲ請テ止 ̄マ サルコト饑
渇ノ飲食ヲ望 ̄ム カ如 ̄キ者アリ斯ニ於テ復 ̄タ遺命ノ遅
遅ス可 ̄ラ サルコトヲ念ヒ其卑陋ヲ省 ̄ミ ス遂ニ梓シテ以
テ後ノ君子ヲ俟 ̄ツ ノミ」鳩摩羅什与_二彗壑_一書ニ云 ̄ク天
竺 ̄ノ国俗甚重 ̄ス_レ文《割書:中|略》但改 ̄テ_レ梵為 ̄ス_レ秦 ̄ト失 ̄フ_二其藻蔚_一雖_レ得 ̄ト_二大意 ̄ヲ_一
殊 ̄ニ隔 ̄ツ_二文体 ̄ヲ_一有_レ似 ̄タル_二嚼 ̄テ_レ飯 ̄ヲ与 ̄ルニ_一_レ 人 ̄ニ不_二徒 ̄ニ失 ̄フノミ_一_レ味 ̄ヲ乃令 ̄ル_二嘔噦 ̄セ_一也ト
余 ̄カ聞 ̄ク所ヲ以テスルニ梵経ハ支那碩儒会議シテ訳
セシ所ナリ而 ̄シテ尚 ̄ホ此 ̄ノ非毀アリ」況 ̄ン ヤ余 ̄カ嚼与ノ飯。人
必 ̄ス数里ノ外ニ唾セン嘔噦モ何 ̄ソ得ベケンヤ然 ̄リ ト
雖トモ亦之 ̄レ ヲ以テ夫 ̄ノ饑者ニ与 ̄ヘ ハ其徒 ̄ラ ニ溝壑ニ塡
ルヲ忍 ̄ヒ視 ̄ル ニハ勝ランカ豈 ̄ニ勝ラズヤ
緒方章公裁謹誌
病学通論巻之一目次
生機論
両体
有機体 無機体
《割書:附|》 黙加尼私謬斯(メカニスミユス)《割書:黙加力。引力。聚|力。張力。重力。》
舍密私謬斯(セミスミユス)《割書:舍密力。|親交力。》
納那密私謬斯(デイナミスミユス)
生力
資生力《割書:一名補給力|》
賦機力 成形力
感応力
感受力 抗抵力
覚機《割書:一名神経力|》
神経識力 神経動力
動機《割書:一名筋力|》
各異感応機
刺衝物
内刺衝物 外刺衝物
生力抗抵
病学通論総目次
巻之一 生機論
巻之二 疾病総論《割書:第一|》
巻之三 疾病総論《割書:第二|》
巻之四 疾病総論《割書:第三上|》
巻之五 疾病総論《割書:第三中|》
巻之六 疾病総論《割書:第三下|》
巻之七 病因総論《割書:第一|》
巻之八 病因総論《割書:第二|》
巻之九 病因総論《割書:第三|》
巻之十 病証総論《割書:第一|》
巻之十一 病証総論《割書:第二|》
巻之十二 病証総論《割書:第三|》
総目次《割書:終|》
病学通論巻之一
足守 緒方章公裁 訳述
生機論
両体
宇宙間万物ノ品類蕃庶 ̄ナリ ト雖トモ之 ̄レ ヲ統テ両体ト
ス其一ヲ[有機体]《割書:ベウェルキトヰ|ク゚デ、リカ゚ ーム》ト謂 ̄フ動物植物是
ナリ」機器ヲ具へ生力ヲ舎シ生滅ニ係ル而 ̄シテ滋養
ヲ異類ニ資テ内ヨリ化生シ以テ形質ヲ成ス
動物ハ穀肉菓菜大気ヲ以テ資養シ植物亦大
気及土壌津液ヲ以テ資養ス是 ̄レ其養ヲ異類ニ
資ル者ナリ
其一ヲ[無機体]《割書:オンベウェルキト|ヰク゚デ、リカ゚ ーム》ト謂 ̄フ生機ナク生
滅ニ係 ̄ラ ス養ヲ同類ニ資テ外ヨリ増添シ形質ヲ
成ス《割書:気水金石|土ノ類》動植二物ヲ除 ̄ク ノ他皆是 ̄レ ナリ
凡 ̄ソ天地万物剛柔屈伸動静変化得テ究極スヘカ
ラスト雖トモ一モ造化力《割書:アルケ゚メーネ、ナ|チュールカラク゚ト 》ノ三作
用ヨリ出 ̄テ サル者ナシ
造化力ノ三作用ハ 黙加尼私謬斯(メカニスミユス)。舍密私謬斯(セミスミユス)。 納那密私謬斯(デイナミスミユス)是 ̄レ ナリ
[黙加尼私謬斯(メカニスミユス)]《割書:以下略シテ黙|加ト記ス》触ル者之 ̄レ フ【ヲヵ】碍エ。抵
ル者之 ̄レ ヲ弾キ衝テ之 ̄レ ヲ動 ̄カ シ撲テ之 ̄レ ヲ砕キ截
テ之 ̄レ ヲ分チ圧シテ之 ̄レ ニ迫ル等ノ如 ̄キ器械底ノ作
用ヲ総称ス」其然 ̄ル所以ノ力之 ̄レ ヲ[黙加(メカ)力]《割書:メカニ|セ、カラ》
《割書:ク゚|ト》ト謂 ̄フ即 ̄チ引力聚力張力重力等是 ̄レ ナリ」其[引力]
《割書:アーンテレッキン|ク゚ス、カラク゚ト 》ト云 ̄フ ハ喩 ̄ヘ ハ水ニ油ヲ注 ̄ヒ テ撹
和スレハ水ハ水ト合シ油ハ油ト合スルカ如 ̄ク
同類相引 ̄ク力 ̄ラ ナリ《割書:其実ハ同類ノミ相引 ̄ク ニアラ|ス万物共ニ異同ヲ択ハズ相》
《割書:引 ̄ク力ナリ只次ニ挙 ̄ク ル交力ト比較シテ解シ易カ|ラン為 ̄メ ニ暫 ̄ク同類相引 ̄ク力 ̄ラ トシテ之 ̄レ ヲ示スノミ》
其[聚力]《割書:サーメンハン|ク゚ス、カラク゚ト》ト云 ̄フ ハ物ノ質分互 ̄ヒ ニ聚
凝シテ以テ其形体ヲ維持スル力ナリ《割書:是 ̄レ亦引力|ナリ但離 ̄ル》
《割書:者ノ引テ合スルハ引力作用トシ合スル者ノ|益《割書:々》凝テ離 ̄レ サラントスルハ聚力作用トス故ニ》
《割書:編中或 ̄ハ凝力ト訳シ或 ̄ハ|縮力ト訳ス皆一ナリ》其[張力]《割書:オイトセッテン|デ、カラク゚ト》ト
云 ̄フ ハ物質ノ拡張分散セントスル力ニシテ正 ̄シ ク
聚力ト相反対ス蓋 ̄シ万物ノ剛柔皆此 ̄ノ聚張二力
ノ強弱ニ係ル乃 ̄チ凝体ハ聚力ノ偏勝セルナリ
気類ハ張力ノ偏勝セルナリ流体ハ其中間ニ
在 ̄リ トス」其[重力]《割書:ズワールテ、|カラク゚ト》ト云 ̄フ ハ万物墜下シテ
地ニ落ル力ナリ亦是 ̄レ大地ト万物ト相引 ̄ク ノ引
力ナルノミ
[舍密私謬斯(セミスミユス)]《割書:以下略シテ舎|密ト記ス》異類ノ物質互 ̄ヒ ニ相抱
和シテ更ニ一体ヲ生シ或 ̄ハ渾全ノ一体分拆シテ復 ̄タ
異類ノ各質トナル等皆此作用ナリ」其然 ̄ル所以
ノ者ヲ指シテ[舍密(セミ)力]《割書:セミセ、カ|ラク゚ト》ト謂 ̄フ」喩 ̄ヘ ハ水分ト
水分ト合シテ水ヲ成 ̄シ塩分ト塩分ト合シテ塩ヲ成 ̄ス
カ如 ̄キ ハ同類相引 ̄ク者ニシテ所謂引力作用ナリ然 ̄レ
トモ今塩ヲ取テ水ニ投スレハ溶化シテ鹵汁トナ
リ其鹵汁一点モ純水有 ̄ル コトナク一点モ純塩有 ̄ル
コトナシ是 ̄レ塩ト水トノ異類親交融和シ全鹵汁
ヲ成 ̄ス者ニシテ乃 ̄チ舍密(セミ)力作用ナリ」故ニ亦之 ̄レ ヲ指
テ[親交力]《割書:フルワントシカッ|プス、カラク゚ト》ト謂 ̄フ蓋 ̄シ異類相親ム
ノ義ニ采 ̄ル《割書:以下略シテ交|力ト記ス》但此力ノ物ニ於 ̄ケ ル有無
アリ親疎アリ是ヲ以テ水ハ塩ト交力有 ̄レ トモ油
トハ交力ナク又硫酸ト 麻倔涅失亜(マグネシア)ト交力親
密ナレトモ硫酸ト 剥篤亜斯(ポットアス)トノ至親ナルニハ
如(シカ)ズ故ニ凝水石《割書:硫酸ト麻倔涅失|亜ノ抱合ニ成ル》ノ溶水ニ剥
篤亜斯ヲ加レハ硫酸自 ̄ラ麻倔涅失亜ヲ離 ̄レ テ剥
篤亜斯ト抱合シ《割書:孕礬酒石ト|為テ溶解ス》麻倔涅失亜ハ特 ̄リ
配偶ヲ失テ沈底スルナリ
[納那密私謬斯(デイナミスミユス )]《割書:以下略シテ納|那ト記ス》温素。光素。越列幾(エレキ)。瓦(カ)
爾華尼(ルハニ)。末倔涅質(マク゚ネチ)。等 ノ如 ̄ク権衡以テ測ル可ラザ
ル元素ノ作用ヲ総称ス」蓋 ̄シ此諸元素ハ殆 ̄ント無形
ニ属スルヲ以テ其作用自 ̄ラ黙加力舎密力ト其
景況ヲ異ニス《割書:以上三力ハ造化妙機ノ淵源ニ|シテ詳 ̄カ ニ解説セサレハ卒 ̄カ ニ理会》
《割書:シ難シト雖トモ此書ノ本旨ニ非 ̄ル カ故ニ唯其大|概ヲ示スノミ尚名物考補遺。気海観瀾。舍密開》
《割書:宗等其他諸書ニ|就テ参考スベシ》
今 ̄マ其三作用ノ一二ヲ言 ̄ハ ンニ水ハ大気ヨリ重 ̄キ
ヲ以テ地面ニ流動ス《割書:黙|加》ト雖トモ温素之 ̄レ ニ加 ̄ハ レ
ハ《割書:納|那》張力増発シテ軽虚トナリ気中ニ浮游ス《割書:黙|加》
升テ冷際ニ至 ̄レ ハ温素奪却セラレテ《割書:納|那》引力其
権ヲ擅 ̄マヽ ニシ将ニ凝テ形ヲ成 ̄サ ントス《割書:黙|加》然 ̄レ トモ 越(ヱ)
【麻倔涅失亜=マグネシウム 剥篤亜斯=カリウム 凝水石=硫酸マグネシウム 孕礬酒石=硫酸カリウム、カリ明礬】
【温素=熱 光素=光 越列幾=電気 瓦爾華尼=ガルバニ(銅亜鉛電池) 末倔涅質=磁気】
列幾(レキ)過剰ニシテ尚 ̄ホ聚力ヲ妨碍スルガ故ニ《割書:納|那》暫 ̄ク
雲ト為テ陰靄ス此時若 ̄シ新 ̄タ ニ升 ̄リ来 ̄ル所ノ水蒸気。
越列幾不足ニシテ平均ヲ求メ其過剰ノ越列幾
ヲ奪 ̄ヘ ハ 《割書:納|那》其雲乍 ̄チ凝聚シテ故形ニ復シ重力ヲ以
テ下降ス《割書:黙|加》是乃 ̄チ雨滴ナリ」又 ̄タ油中含ム所ノ水
素ハ気中ノ酸素ト交力ヲ有テトモ《割書:舎|密》冷ナル時
ハ油ノ聚力ニ妨 ̄ケ ラレテ《割書:黙|加》之 ̄レ ト合スルコト能ハ
ス偶《割書:々》火ヲ点シテ温素ヲ与 ̄フ レハ聚力之 ̄レ ガ為 ̄メ ニ減
却セラレテ《割書:納|那》其水素交力ヲ逞シ夫 ̄ノ酸素ト合
シテ水蒸気トナル《割書:舎|密》此時ニ当テ酸素含蓄ノ温
素光素排擯セラレテ亦共ニ升騰ス《割書:納|那》是灯火
ノ燃 ̄ユ ルナリ」又水ハ其質分互ニ引著シ凝テ形 ̄チ
ヲ成 ̄サ ントスレトモ《割書:黙|加》温素ヲ含 ̄ム コトノ多 ̄キ カ故ニ之 ̄レ
ニ拡張セラレテ《割書:納|那》固結スルコト能ハズ若シ大気
寒冷ナルコト甚 ̄フ シテ其温素ヲ奪却スレハ《割書:納|那》引力
聚力権ヲ専ニシ相引 ̄キ相聚テ乍 ̄チ形ヲ結フ《割書:黙|加》是 ̄レ
水ノ氷ト為 ̄ル ナリ《割書:凡 ̄ソ流体ノ凝体トナリ凝体ノ|流体ニ変スル所以皆此 ̄レ ニ出》
《割書:ツ|》」爾余森羅万象皆此 ̄ノ三作用ニ帰ス
特 ̄リ動植二物ハ此 ̄ノ三作用ヲ以テ其変幻ヲ究 ̄ム ベカ
ラズ是 ̄レ生力有テ内ニ存スルニヨル
生力《割書:レーフェンス、カラク゚ト」漢人所謂元|運生気、元気、正気、真気、皆是ナリ》
生力 ̄ト ハ動植二物ノ生活運営ヲ主司スル力 ̄ラ ナリ
其物タルノ本原実ニ未 ̄タ究識スベカラスト雖トモ
唯其作用ニ徴シテ之 ̄レ ヲ言 ̄フ ノミ猶夫 ̄ノ引力 ̄モ交力 ̄モ其本
原ハ推測ス可ラザルト一般ナリ《割書:按ニ華爾篤満(ハルトマン)|《割書:人|名》云 ̄ク生力本原》
《割書:ハ万物共ニ具 ̄フ ル所ノ張力縮力 ̄ノミ故ニ諸運動皆此|両力ノ作用ニ他ナラス」ト其議論精密取 ̄ル ヘキニ》
《割書:似タリト雖トモ亦未 ̄タ全 ̄ク信ス可ラサ|ル所アリ故ニ今 ̄マ之 ̄レ ヲ収用セス》
有機体《割書:動物|植物》モ固 ̄ヨリ造化ノ一物ナレハ造化 ̄ノ三力《割書:黙|加、》
《割書:舎密、|納那、》ヲ具 ̄フ ルコト論無 ̄シ ト雖トモ生力有テ之 ̄レ ヲ主宰ス
ルカ故ニ三力共ニ転化セラレテ造化普通ノ自
性ヲ擅 ̄マヽ ニスルコト能ハス」喩ハ血液ノ如 ̄キ固 ̄ヨリ流体ナ
ル故ニ重力ヲ以テ下 ̄キ ニ就 ̄ク コト其自性ナレドモ人身
ニ在テハ上下左右偏勝ナク斉 ̄シ ク循環流通シテ必 ̄シモ
下体ニ聚 ̄ラ ス高組技【ツナワタリ=左ルビ】身ヲ倒 ̄マ ニスレトモ血液頭脳ニ
偏流セズ是 ̄レ血液ノ重力脈管ヲ圧迫スレバ脈管
ノ生力亦激搏シテ之 ̄レ ヲ抗拒スルニ由 ̄ル」然 ̄レ トモ身ヲ倒 ̄マ
ニスルコト久 ̄フ シテ休 ̄マ ザレバ重力漸 ̄ク偏勝シテ生力之 ̄レ ヲ
制スルコト能ハズ血液遂ニ頭脳ニ充積シテ病患ヲ
発現ス」故ニ久病後生力虚憊セル者久 ̄シ ク立歩ス
レハ則 ̄チ足脚浮腫ヲ生ス」聚力 ̄モ亦生体ニ在テハ死
体ト其致ヲ同 ̄フ セス試ニ活人ノ提持ニ堪 ̄ユ ヘキ重
錘ヲ取テ死者ノ手ニ結縛スレハ其皮肉必 ̄ス破綻
ス是故ニ有機体ノ黙加(メカ)力ハ無機体ト同 ̄シ カラズ
転シテ生機ノ作用ヲ輔ク依テ亦之 ̄レ ヲ[有機黙加力]
《割書:ベウェルキトヰク゚デ、|メカニセカラク゚ト》ト謂 ̄フ」故ニ繊維ノ聚結。血球ノ
推盪。心肺脈管ノ排張。胃腸襀襞ノ摩擦。肝横隔膜
ノ胃ヲ圧迫シ屎尿ノ腸尿道ヲ推行スル等自 ̄ラ無
機黙加力作用ト同 ̄シ カラス」然 ̄レ トモ其黙加力偏勝シテ
生力ノ化ニ随 ̄ハ サレハ或 ̄ハ血液凝泣シテ《割書:聚|力》脈管ニ塡
塞シ或 ̄ハ水液墜下シテ《割書:重|力》諸腔ニ瀦溜シ或 ̄ハ諸竅ノ狭
窄閉縮《割書:聚|力》ヲ起シ或 ̄ハ諸部ノ膨張 貌僂屈(ブレウク)等《割書:張|力》ヲ発
ス
舎密(セミ)力 ̄モ亦有機体ニ於テハ造化無生ノ作用ヲ擅 ̄マヽ
ニセス更ニ転シテ生活運営ヲ為スナリ是 ̄レ ヲ[有機
舎密力]《割書:ベウェルキトヰク゚デ、|セミセカラク゚ト》ト謂 ̄フ人身ニ在テハ飲
食ヲ消化シテ血液ヲ醸成シ血液ヲ分拆シテ諸器諸
液ヲ造為シ吸気ニ由テ酸素ヲ血中ニ布化シ呼
気ニ由テ炭水二素ヲ排除スル等体内物質ノ離
合聚散新陳代謝総テ無機舎密力ト其轍ヲ異ニ
ス」又同圃ニ培栽セル草木土性津液大気等ノ資
養同一般ナレトモ形質性味猶葵ト大戟トノ如ク
全 ̄ク相霄壌スル者アリ是 ̄レ其各自ノ生力其舎密力
ヲ化シテ然 ̄ラ シムルナリ故ニ若 ̄シ人身 ̄ノ舍密力偏勝シテ
生力之 ̄レ ヲ制スルコト能 ̄ハ サレバ諸液調和ヲ失テ溶
崩腐敗シ或 ̄ハ酸素 亜児加利(アルカリ)血中ニ游離シ或 ̄ハ土質
凝固シテ結石ヲ生スル等諸般ノ病ヲ発ス」抑《割書:々》血液
体内ニ在 ̄レ ハ腐敗セズ体外ニ出セバ乍 ̄チ腐敗ス是 ̄レ
生力ヲ離 ̄レ テ舍密力ノ化ニ随 ̄ヘ ハナリ
諸《割書:々》無機体ノ寒暖ハ大気ノ寒暖ニ凖 ̄フ ト雖トモ有機
体ニ在テハ決シテ然ラス人身血液ノ温ハ盛夏炎
熱ノ候ニモ華氏験温管《割書:補ニ|出ツ》九十六度ナリ厳冬
冱寒ノ時モ亦九十六度ナリ無機体ノ夏日ニ灼
熱シ厳冬ニ冱凍スル比ニ非ス」昆虫ノ厳冬中頑
然トシテ死セルカ如 ̄ク蟄伏スルモ生力潜蔵スル故
ニ凍死セス是 ̄レ納那力。生力ニ抑制セラルヽヲ以
テ温素自性ノ平均作用ヲ為 ̄ス コト能 ̄ハ サレハナリ」試
ニ縛帯ヲ以テ膝膕ヲ緊扎スレハ血液通セスシテ
足脚厥冷ス斯ニ於テ嚢ニ熱沙ヲ盛テ之 ̄レ ニ置 ̄ケ ハ
其部太甚 ̄ク熱ス是生力専ナルコト能 ̄ハ サルヲ以テ其
温素恣 ̄マヽ ニ偏勝スルナリ転シテ之 ̄レ ヲ他部ニ徙セハ
其温大ニ加 ̄ハ ラズ是 ̄レ生力其温素ヲ抑制シテ調節ス
レハナリ」越列幾ノ如 ̄キ モ亦厥損スレバ補充シ鬱
積スレハ排除スル等有機体ニ在テハ造化普通
ノ作用ト異ナリ
由_レ此観_レ之生力ハ有機体ニ稟舎セル霊妙不測ノ
力ナリ」蓋 ̄シ其有機体ニ在 ̄ル ヤ無生ノ物質ヲ化シテ生
活区域ニ輸シ諸器ヲ営ミ諸液ヲ醸シ活動ヲ起
シ生命ヲ保続セシム而 ̄シテ其妙用千態万状《割書:也》ト雖 トモ
之 ̄レ ヲ統 ̄フ レハ畢竟唯発生化育ノ機ト感覚活動ノ
用ト二般ノミ」故ニ今 ̄マ之ヲ綱トシ其目ヲ分ツコト
左ノ如シ
凡 ̄ソ有機体其具有ノ機器。寡簡ナル者ハ生力発
見 ̄モ亦随テ寡少ナリ故ニ植物ノ如 ̄キ ハ唯発育ノ
機 ̄ノミ有テ覚動ノ用ナシ人身ニ至テハ諸器饒多
ニシテ経絡貫通シ尚且 ̄ツ弁識智慧ヲ具スルカ故
ニ生力発見多端ニシテ殆 ̄ント究極ナシ
資生力《割書:プラスチセ、|カラク゚ト》
資生力ハ有機体ノ形質資生ヲ宰 ̄ト リ且 ̄ツ尋 ̄ヒ テ其培
養補給ヲナス力 ̄ラ ナリ故ニ亦[補給力]《割書:ウェーデルフォ|ールトブレ》
《割書:ンキ゚ンク゚ス、|カラク゚ト》ノ名アリ」之ヲ分テハ左ノ二力ニ帰
ス
[賦機力]《割書:ベウェルキトヰケ゚|ンデ、カラク゚ト》無機 舍密(セミ)力ヲ剋制シテ有
機舍密力トナシ無生 ̄ノ物質ヲ転化シテ有生物質ト
ナス力ヲ云 ̄フ」人身ニ在テハ飲食消化シテ妙合調和
シ乳糜ト為リ血液ト為リ酸素ヲ含テ全体ヲ環
廻シ活気《割書:資生|力》ヲ増発シテ諸器ヲ滋養スル所以 ̄ン皆
此力ノ作用ナリ
[成形力]《割書:フォルメンデ、|カラク゚ト》有機物質ヲシテ結テ形ヲ成 ̄サ シ
ムル力ナリ」蓋 ̄シ衆器全体共ニ有形ノ始 ̄メ ヨリ其形
質合織ヲ差ヘス各《割書:々》一定ノ型ヲ守テ発生長育ス
ル所以此力ノ賦セルニ由 ̄ル」乃 ̄チ人身ニ在テハ衆器
諸液ノ質日夜弊耗息 ̄ム時ナシト雖トモ飲食大気ニ
資テ之 ̄レ ヲ培補シ筋骨爪牙血球ニ至 ̄ル マデ其形ヲ
保続ス且 ̄ツ夫 ̄ノ外傷ニ由テ毀損セル部 ̄モ更ニ補綴シテ
前形ノ新肉ヲ生スル等亦皆此力ノ作用ニ出 ̄ツ
按ニ賦機力ハ有生物質ノ混合調和ヲ主 ̄ト リ成
形力ハ其聚結成形ヲ主 ̄ト ル乃 ̄チ是有機舍密力ト
有機黙加力トニ属ス」蓋 ̄シ脈管化骨等ノ如 ̄キ ハ成
形力常ヲ差ヘスシテ賦機力変性スルナリ骨瘤
贅肉等ノ如 ̄キ ハ賦機力自若トシテ成形力常ニ違 ̄フ
ナリ以テ二力ノ差ヲ知 ̄ル ヘシ
蓋 ̄シ資生力ハ凝流二体ニ普 ̄ネ ケレトモ殊ニ多ク血質
ニ賦シテ衆器諸液ヲ化成ス霊液ノ神経ニ流通シテ
百体ヲ活動セシメ男精ノ母体ニ入テ孕胎セシ
ムルモ皆其力ヲ血ニ資 ̄ラ サルハナシ」乃 ̄チ一涓滴ノ
精液寂然不生ノ渾体《割書:婦人卵巣中ノ卵液ナリ不|生ハ活動無キヲ云 ̄フ絶テ生》
《割書:機ナシト云 ̄フ|ニハ非ス》ニ感舍シテ之ニ成形力ヲ賦与シ抱合
シテ胚渾トナル其成形力則 ̄チ一滴ノ男精ヨリ受ル
コトハ形貌状態 所生【チヽ=左ルビ】ニ象似スルコト有 ̄ル ヲ以テ徴ス
ヘシ」肢節頑麻不遂ノ症ニ於テ知覚運動共ニ廃
スレトモ仍能 ̄ク形体ヲ保持スルハ血質ノ資生力之 ̄レ
ヲ滋養スレハナリ」然 ̄ル ニ或 ̄ハ緊扎シ或 ̄ハ動脈化骨セ
ル等ニ由テ血ノ運行ヲ遏絶スレハ知覚運動有 ̄リ
ト雖トモ其部必 ̄ス腐壊ス是 ̄レ資生力消亡【兦】シテ無機舍密
力ノ化ニ帰スレハナリ」故ニ資生力ハ知覚運動
《割書:神経脳髄及 ̄ヒ|諸筋ノ力》ニ関ラスシテ殊ニ血質ニ舍スル者ト
ス」然 ̄リ ト雖トモ所謂感応力《割書:知覚運動ヲ主司ス|ル力ナリ次ニ出ツ》モ資
生力モ本来一原ノ生力ナリ故ニ脈管ノ運動増
進スレハ血質ノ凝力《割書:資生|力》旺盛ス《割書:焮衝病ニ於|テ見ルカ如 ̄シ》又
咽喉。焮衝ノ為 ̄メ ニ義膜ヲ造シ刄創。毒ニ値テ異肉
ヲ生シ黴毒伝染シテ贅肉骨腫ヲ発シ癌毒侵淫シテ
危劇ノ水棉様肉ヲ作ス等ノ如ク刺衝劇シケレ
ハ成形力亦随テ増進ス」然 ̄リ而 ̄シテ資生力ト感応力ト
ハ其運用亦互ニ相頡頏ス故ニ資生力衰弊シテ羸
痩骨立スレハ感応力随テ亢過シ脈細数感動鋭
敏トナル《割書:労瘵病ニ於|テ見 ̄ル カ如シ》是ヲ以テ植物ノ如 ̄キ感応力
極テ微ナル者ニ至テハ資生力益《割書:々》大ニ盛ナリ
人身ハ一支節モ之 ̄レ ヲ截断スレハ復 ̄タヒ補綴スル
コト難シ而 ̄シテ昆虫類ハ截テ両段トナセトモ更ニ首
尾ヲ生シテ活動スル者アリ草木ニ至テハ其幹
ヲ伐 ̄ル ト雖トモ又新芽ヲ生シテ再 ̄ヒ蘩茂ス亦以テ資
生感応両力ノ反対ヲ見 ̄ル ヘシ
感応力《割書:オプウェ キバールヘイド又 ̄タ プ|リッケルファットバールヘイド》
眼 ̄ノ物ヲ視ル耳 ̄ノ音ヲ聴ク鼻 ̄ノ臭ヲ嗅ク舌 ̄ノ食ヲ味フ
肺 ̄ノ気ヲ槖籥スル心 ̄ノ血ヲ出納スル胃 ̄ノ飲食ヲ化ス
ル腎 ̄ノ小便ヲ利スル等皆是 ̄レ外ニ感シテ内ニ応スル
者有 ̄ル ニ由 ̄ル」其然 ̄ル所以ノ者ヲ感応力ト謂 ̄フ」賦機力成
形力ノ如 ̄ク流体凝体植物等一般ニ具有セス独 ̄リ動
物ノ凝体ニ稟舎シテ一切ノ運動ヲ主司スル力ナ
リ」亦之ヲ二力ニ分ツ
其一 ̄ヲ [感受力]《割書:オントファンク゚|バールヘイド》ト云 ̄ヒ
其一 ̄ヲ [抗抵力]《割書:テリュク゚ウェルケン|デ、フルモーケ゚ン》ト云 ̄フ」感受力ハ外物 ̄ノ
刺衝ヲ感受スル力ナリ抗抵力ハ之 ̄レ ニ抗抵シテ発
動スル力ナリ」蓋 ̄シ感受抗抵原 ̄ト是一力 ̄ノ作用《割書:也》ト雖トモ
体内ノ器。感受敏捷ニシテ抗抵強実ナラサル者ア
リ《割書:脳、神経|ノ如シ》抗抵強実ニシテ感受敏捷ナラサル者ア
リ《割書:筋、靭帯|ノ如シ》以テ其別アルコト知 ̄ル ヘシ」人身諸部各《割書:々》其
感応ノ景況ヲ異ニスル者ハ乃 ̄チ此二力ノ対待其
致ヲ同 ̄フ セザルニ係ル
生力ヲ指シテ直 ̄チ ニ感応力ト謂 ̄フ ヘカラス感応力
ハ只是生力現候ノ一ナルノミ」故ニ感応力ナ
クシテ生力存スル者アリ之 ̄レ ヲ[潜生]《割書:ケ゚ボンデン|ツースタン》
《割書:ド、デル、レイフェ|ンスカラク゚ト》ト云 ̄フ喩 ̄ヘ ハ鳥卵ノ如シ頑然タル
一流体ナレトモ数週腐敗ニ陥ラス之 ̄レ ヲ覆熰ス
レハ感応力乍 ̄チ発動シ闖然トシテ孵化スルコトヲ
得是 ̄レ其生力ノ潜蔵セル者以テ知 ̄ル ヘシ
生力感応ノ機用百般《割書:也》ト雖トモ之 ̄レ ヲ統 ̄フ レハ三等ニ
帰ス覚機。動機。各異感応機。是 ̄レ ナリ
覚機《割書:ケ゚フーリ|ク゚ヘイド》
覚機ハ触知感覚スル所以ノ機ニシテ乃 ̄チ神経。脳髄。
脊髄ノ本然固有力ナリ故ニ亦[神経力]《割書:セーニュー|カラク゚ト》
ノ名アリ」蓋 ̄シ神経外物ニ感スレハ其感動ヲ脳ト
筋トニ達ス」其脳ニ達スルハ支末ヨリ原本ニ遡
洄シテ脳髄ニ届 ̄タ リ以テ痛痒寒熱ヲ知 ̄ラ シメ以テ百
爾ノ事理ヲ弁セシム是 ̄レ ヲ[神経識力]《割書:ケ゚ワールフ|ルヂンク゚ス、》
《割書:カラ|ク゚ト》ト謂 ̄フ
所謂識力ハ精神 ̄ノ力 ̄ラ ヲ指シテ云 ̄フ ニ非ズ精神ヲシテ
弁識セシムル神経 ̄ノ力 ̄ラ ヲ云 ̄フ《割書:次ニ挙ル神経動力 ̄モ|神経自 ̄ラ運動スルニ》
《割書:非ス筋ヲシテ運動セシ|ムル力 ̄ラ ナルガ如シ》蓋 ̄シ精神ハ動物ノ脳髄ニ
舎スル者ニシテ生力ト自 ̄ラ別アリ故ニ生力有 ̄リ ト
雖トモ精神ナキ者アリ植物是 ̄レ ナリ」動物 ̄モ亦 剥列(ポレイ)
編(ペン)《割書:植学啓|原ニ出 ̄ツ》ノ如 ̄キ ハ脳髄ナク精神無 ̄シ ト雖トモ生力
有テ長育活動ス」人 ̄モ亦癇。卒厥。睡痱ノ類ニ於テ
ハ弁識無 ̄ク シテ生活シ手脚ノ頑麻不遂セル部モ
精神感動ナクシテ保生シ歯髪爪骨靭帯等ハ弁
識触覚無 ̄シ ト雖トモ生生長育シテ形質ヲ保全ス以
テ精神ト生力ト混同ス可 ̄ラ サルコト知 ̄ル ヘシ
其筋ニ達スルハ受ル所ノ感動《割書:精神若 ̄ク ハ|外物刺衝》ヲ原本
ヨリ支末ニ伝 ̄ヘ テ筋ニ届 ̄タ リ其繊維ヲ刺衝シテ以テ
縮張 ̄ノ運動ヲ起サシム是 ̄レ ヲ[神経動力]《割書:ベウェーキ゚ン|ク゚ス、カラク゚》
《割書:ト、デル、セ|ーニュウェン》ト謂 ̄フ」其両用《割書:識力|動力》共ニ神経ノ一覚機ニ
シテ唯嚮路ノ異ナルノミ
精神ハ直 ̄チ ニ筋ヲ動スコトヲ得ス必 ̄ス覚機ノ媒介
ヲ須ツ」試ニ筋ニ循行セル神経ノ一部ヲ暴露
シテ此 ̄レ ニ抵触スレハ疼痛ヲ其部ニ覚エ《割書:識|力》又其
神経支末ノ循 ̄レ ル筋。自意ニ随 ̄ハ サル運動《割書:痙攣|搐掣》ヲ
発ス《割書:動|力》故ニ諸筋ノ運動ハ神経覚機ノ主ル所
ニシテ精神直逹ノ感動ニ非ルコト知 ̄ル ヘシ
然 ̄レ トモ其本ニ達スルモ弁識ヲナサス其末ニ伝 ̄フ ル
モ精神ノ感動ニ関ラスシテ不随意ノ運動ヲ起ス
神経アリ乃胸腹諸蔵ニ循行スル者《割書:所謂運|化神経》是ナ
リ」此神経ハ直径ニ脳ト連属セス神経節及 ̄ヒ神経
叢ヨリ出テ諸器ニ循行ス故ニ刺衝ヲ受 ̄ク レトモ之
ヲ精神ニ告 ̄ケ ス特 ̄リ之 ̄レ ニ抗抵シテ自家運営ヲ致ス
蔓延対神経等ノ支別頸胸腹ノ諸部ニ於テ互
ニ相聚結シ小節ヲ成 ̄ス者之 ̄レ ヲ神経節ト云 ̄ヒ」其錯
綜シテ網状ヲ成 ̄ス者之 ̄レ ヲ神経叢ト云 ̄フ」此 ̄レ ヨリ更ニ
幾多ノ神経ヲ分チ胸腹ノ諸蔵諸器内外筋膜
等意識ニ関渉セサル諸部ニ瀰蔓ス《割書:肋間対神|経ハ乃 ̄チ其》
《割書:最幹ヲナ|ス者ナリ》故ニ此神経ハ別域ヲ為 ̄シ テ其用ヲ異
ニシ脳神ト交渉セサルナリ」然 ̄レ トモ所謂運化神
経モ非常ノ抗抵ヲ発スレハ其区域ヲ過越シテ
脳神ニ達シ之 ̄レ ヲ弁識セシムルニ至ル喩 ̄ヘ ハ胃
腸ノ刺衝《割書:下薬蛔|虫等》強 ̄ケ レハ疼痛ヲ知覚スルカ如
シ
脳神経 ̄モ亦其感動ヲ脳ニ達スレトモ精神ヲ待 ̄タ ス
単(ヒトリ)脳髄 ̄ノミ ノ抗抵ニ由テ動力ヲ発スルコトアリ喩
ハ眼𥄹【目偏に包。「眼𥄹」は「瞼」の俗称】ノ開闔瞳孔ノ縮張及 ̄ヒ痙攣搐搦ノ諸病
ニ於テ見 ̄ル カ如シ
動機《割書:プリッケルバ|ールヘイド》
動機ハ動物繊維。外来刺衝ニ抗抵シテ牽縮スル所
以ノ機ナリ」其機殊ニ筋繊維ニ見 ̄ハ ル故ニ又 [筋力]
《割書:スピール、|カラク゚ト》ノ名アリ全身諸器ノ運動咸 ̄ナ此機ニ出 ̄ツ
然レトモ動機ハ覚機ノ如 ̄ク感動ヲ他部ニ伝 ̄ル コトナク
唯其刺衝ノ部ニ抗抵ヲ発スルノミ」然 ̄ノ亦此ニ二
般アリ一 ̄ハ神経力《割書:神経|動力》ノ刺衝ニ感動シテ随意不随
意ノ運動ヲ作 ̄コ スナリ一 ̄ハ神経力ニ係ラス血液等
ノ刺衝ニ感動シテ蜎蜎瞤動スルナリ乃 ̄チ心動脈ノ
縮張胃腸ノ蠕動機ノ如シ」蓋 ̄シ心臓ノ筋繊維ハ神
経ノ錯綜スルコト甚 ̄タ微ナレトモ常ニ血液ノ刺衝ニ
抗抵シ縮張シテ大ニ運動ス」以テ筋繊維ノ運動ハ
必 ̄シモ神経力ニ係 ̄ラ サルコト知 ̄ル ヘシ
按ニ動機ハ筋繊維 ̄ノ固有力ト云 ̄フ ト雖トモ筋繊維
ナキ部ニモ亦此機アリ肺蔵大気ヲ受テ槖籥
シ子宮分娩ニ当テ縮窄シ草木花開テ雄蕊自 ̄ラ
雌蕊ニ触 ̄ルヽ カ如シ蓋 ̄シ夫 ̄ノ肺蔵子宮ハ共ニ蜂窠質
ニシテ筋繊維ナク花蕊亦固 ̄ヨリ筋繊維ノ有 ̄ル ベキナ
シ而 ̄シテ猶此 ̄ノ運動アリ然 ̄レ ハ則動機ナル者ハ必 ̄シモ筋
繊維 ̄ノ固有力《割書:也》トシ難シ」覚機モ亦必 ̄シモ神経ニ限 ̄レ ル
力ニ非ス神経ナキ部ト雖トモ病患ニ由テハ知
覚ヲ発スルコトアリ黴毒 ̄ノ骨痛。糾髪病ノ髪痛ノ
如シ是故ニ動機モ覚機モ共ニ同一ノ感応力
ナレトモ其繊維ノ差等ニ由テ或 ̄ハ感受力旺盛シ
或 ̄ハ抗抵力偏勝シ筋ニ在テハ動機トナリ神経
ニ在テハ覚機トナリ子宮ニ在テハ子宮自家
ノ感応機トナリ肺ニ在テハ肺蔵自家ノ感応
機トナル」畢竟覚機。動機共ニ皆各異感応機ト
謂テ可ナル者ナリ《割書:筋及神経 ̄モ病患ニ由テ其繊|維ノ合織等常ヲ違フコトア》
《割書:レハ覚動ノ機ヲ現スルコト能 ̄ハ ス爾余ノ器モ亦|其合織等常ヲ錯テ筋神経ニ類似スルコトヲ得》
《割書:ハ亦覚動ノ機ヲ発|セスト云コト無 ̄ル ヘシ》唯筋繊維ト神経繊維トハ
汎 ̄ク諸器ニ渉 ̄ル ヲ以テ全身運営殆 ̄ント其機ニ関 ̄ラ サル
者ナシ故ニ別ニ区別ヲ立テ其部門ヲ分テル
ノミ
凡 ̄ソ人身ノ運営ハ殆 ̄ント覚動両機ニ係 ̄ラ サル者ナシ而 ̄シテ
其両機自 ̄ラ分別アリ」是故ニ天造ノ妙用ヲ窺測シテ
病機ヲ推究セント欲セハ先 ̄ツ其両機ノ用ヲ分晰
スルコト最要ナリ故ニ今之ヲ対較シテ分別ヲ示 ̄メ ス
コト左ノ如シ」 [一]動機ニ由テハ筋繊維牽縮スレトモ
覚機ニ由テハ神経繊維毫 ̄モ牽縮スルコトナシ [二]覚
機阻遏シ或 ̄ハ虚憊スル時ニ当テ動機ハ減損セス
却テ過盛スルコトアリ」睡痱癇痙等ハ知覚ヲ失 ̄ヘ トモ
諸筋ノ力 ̄ラ仍強 ̄ク シテ心蔵動脈能運動スルカ如シ」 [三]
覚機ヲ減損シテ動機ヲ増発セシムル物アリ阿芙
蓉暝眩。酒醪 ̄ノ酩酊ノ如シ」又蔫煙ヲ腸中ニ薫入ス
レハ其覚機《割書:疼|痛》減損シテ動機《割書:蠕動|機》増発シ以テ大便
通利スルカ如シ [四]嬰児婦人労瘵患者ノ如 ̄キ ハ覚
機敏捷ナレトモ筋力《割書:動|機》脆弱ニシテ労力ニ堪 ̄ヘ ス」 [五]覚
機ハ精神ノ如 ̄キ無形ノ刺衝ニモ感応スレトモ動機
ハ植物ノ如 ̄キ粗樸ノ質ニモ発見スルコトアリ」[六]活
獣ノ肉ヲ其神経ト共ニ宰割シ取 ̄リ試ニ瓦爾華尼(ガルハニ)
ヲ以テ独 ̄リ其神経ニ触 ̄ル レハ其肉繊維忽 ̄チ感動シテ牽
縮ス《割書:此時其神経既ニ脳髄ヲ離 ̄レ テ精|神通セスト雖トモ尚此感動アリ》然 ̄ル ニ其触 ̄ルヽ コト
久 ̄フ シテ歇 ̄マ サレハ神経遂ニ罷弊シテ肉繊維ノ牽縮自 ̄ラ
弛縦ス此時直 ̄チ ニ其肉ニ触 ̄ル レハ亦牽縮ノ力アリ」
然 ̄レ ハ覚機ハ動機ト自 ̄ラ別有テ精神トモ同 ̄シ カラサ
ル一個ノ神経固有力ナルコト昭昭タリ
各異感応機《割書:ベイソンデレプリッケ|ルファットバールヘイド》
凡 ̄ソ人身ハ凡百機器ノ合集ニ成 ̄ル而 ̄シテ其衆器 ̄ノ製造千
種万類ナリ故ニ全軀同一 ̄ノ生力ヲ稟舎スレトモ毎
器毎蔵覚動各《割書:々|》差 ̄ヒ感受抗抵互ニ乖ク之ヲ各異感
応機ト謂 ̄フ」亦此 ̄レ ニ二般アリ」一 ̄ハ諸部ニ於テ毫 ̄モ感応
セサル物ヲ独 ̄リ那 ̄ノ一部ニ於テ感応スルナリ光響 ̄ハ
眼耳 ̄ノミ感応シテ鼻舌之 ̄レ ヲ知 ̄ラ ス臭味ハ鼻舌 ̄ノミ感応スレ
トモ眼耳之 ̄レ ヲ弁セサルカ如シ」一 ̄ハ同一 ̄ノ刺衝ト雖トモ
其部ノ差等ニ随テ各《割書:々|》其感応ヲ異ニスルナリ吐
酒石ハ胃ヲ刺衝シテ吐ヲ起セトモ皮膚ニ貼スレハ
疹疱ヲ発シ山萮菜白芥子ハ口舌皮膚ニ劇 ̄ク焮熱
ヲ起セトモ胃ニ下テハ刺衝ヲ覚エス炭酸瓦斯ハ
胃ニ功有テ肺ニ害ヲナシ水銀ハ唾腺ヲ刺衝シテ
吐涎ヲ起シ芫菁ハ腎ヲ刺衝シテ尿ヲ利スルカ如
シ」又血液刺衝ハ全軀同一般ナレトモ肝ハ之 ̄レ ニ抗
抵シテ胆液ヲ醸成シ腎ハ之 ̄レ ニ抗抵シテ尿ヲ分利シ
脳ハ之 ̄レ ニ抗抵シテ霊液ヲ製造スル等各《割書:々|》其感応力
ノ機用ヲ異ニスルニ関ル」是故ニ人身ハ衆域ノ
各生機。相聚テ一団ノ大生機ヲ営成セシ者トス
按ニ生力ノ区目ヲ立 ̄ル コト諸家大同小異アリ」貌(ブ)
律面抜苦(リュメンバック)《割書:人|名》ハ之 ̄レ ヲ神経力。筋力。収縮力。補給力。
各器固有力ノ五等ニ分ツ乃 ̄チ収縮力ヲ除 ̄ク ノ他
ハ此編説 ̄ク所ト異ナラス《割書:但 ̄シ此編説 ̄ク所ハ扶歇蘭|土、公刺地、昆斯貌律屈、》
《割書:三家|同説《割書:也》》其説ニ云 ̄ク牽引短促スルハ筋繊維 ̄ノ固有力
ニシテ収閉斂縮スルハ蜂窠質 ̄ノ固有力ナリ故ニ
筋力ト収縮力トハ混同ス可ラス」ト《割書:羅説(ローセ)《割書:人|名》之|ヲ非毀シテ》
《割書:云 ̄ク収縮力ハ無機体モ共ニ一般具有スル所|ノ黙加力《割書:聚|力》ナリ生力作用トスヘカラス》利(リ)
設蘭土(セランド)《割書:人|名》毘加多(ビカト)《割書:人|名》ハ生機咸 ̄ナ感受ト収縮 ̄ト ノ両
機ニ出 ̄ル者ニシテ唯顕潜ノ別有 ̄ル ノミ」ト云 ̄フ《割書:羅設モ|殆 ̄ント同説》
《割書:ナレトモ小|異アリ》乃 ̄チ植物繊維 ̄ノ養 ̄ヒ ヲ土壌津液ニ資リ動
物繊維 ̄ノ之 ̄レ ヲ血液ニ資 ̄ル カ如 ̄キ ハ潜感受。潜収縮。両
機ノ所為《割書:也|》トシ心蔵胃腸ノ運動ノ如 ̄キ ハ潜感受
顕収縮。両機ノ所為《割書:也|》トシ諸筋ノ随意運動ノ如 ̄キ
ハ顕感受。顕収縮両機ノ所為《割書:也|》トス」華爾篤満(ハルトマン)《割書:人|名》
ハ生力ヲ以テ万物共ニ具有セル張力縮力ノ
和□シテ資生感応両機共ニ縮張両力ノ作用《割書:也|》ト
ス而 ̄シテ人身諸運営ヲ統 ̄ヘ テ養機ト動機トニ大別
シ動機ヲ蜂窠動機。筋動機。神経動機ニ区分シ
養機ヲ[進化機]《割書:フォールワァールツ、カ゚ |ーンデ、ノォルミンク゚》ト[退化機]《割書:テ|リュ》
《割書:ク゚ワールツ、カ゚ ー|ンデ、フォルミンク゚》トニ区分ス」然 ̄レ トモ其論説ニ至
テハ諸家咸 ̄ナ大ニ差異スル所有 ̄ル コトナシ
刺衝物《割書:プリッ|ケル》
有機体ハ生力ヲ舎シテ覚動両機ヲ具 ̄ヘ衆器亦 ̄タ固有
ノ感応機有 ̄リ ト雖トモ之 ̄レ ヲ挑テ発動セシムル者無 ̄ケ
レハ其生力ノ機用ヲ現 ̄ハ スコト能ハス猶 ̄ホ鳥卵ノ未 ̄タ
覆熰セサル者ノ如 ̄ク ンノミ」其挑起シテ抗抵ヲ発セ
シムル者総テ是 ̄レ ヲ刺衝物ト謂 ̄フ」故ニ刺衝物ハ生
活ノ為 ̄メ ニ須臾モ闕 ̄ク コト能 ̄ハ サル者ナリ若 ̄シ之 ̄レ ヲ闕 ̄ケ ハ
則諸器運営必 ̄ス遏絶ス
蓋 ̄シ刺衝物ハ生力ヲ挑起シテ運動ヲ揚発スル者 ̄ノミ ナ
ラス亦之 ̄レ ヲ抑頓シテ運動ヲ減損スル者ヲ謂 ̄フ故ニ
所謂刺衝物ハ其有形無形ヲ論セス生力ニ感シテ
其変動ヲ起スヘキ一切事物ノ総称《割書:也|》トス」是故ニ
体内ニ在テハ諸液諸気寤寐動静神思七情一 ̄モ刺
衝物ナラサルハナシ是ヲ[内刺衝物]《割書:インウェンヂ|ケ゚プリッケル》
ト謂 ̄フ」喩 ̄ヘ ハ血液ハ心肺及 ̄ヒ総身ノ脈管ヲ刺衝シ意
識ハ神経力ヲ刺衝シ神経力ハ筋ノ動機ヲ刺衝
シ各部分泌液ハ各部分泌器ヲ刺衝スルカ如シ」
但 ̄シ分泌器ハ各自ノ液ヲ分泌シ其液復 ̄タ各自分泌
器ノ刺衝物トナル」故ニ胆液ハ肝ニ生シテ肝ヲ刺
衝シ肝之 ̄レ ニ抗抵シテ逾胆液ヲ分泌シ胃液ハ胃ニ
分泌シテ胃ヲ刺衝シ胃之 ̄レ ニ抗抵シテ蠕動機ヲ逞発
シ尿及 ̄ヒ精液モ各《割書:々|》其器ヲ刺衝シテ復 ̄タ分泌ヲ催進ス」
且 ̄ツ人身ニ於テハ諸器連属シテ貫通シ其運営交《割書:々|》感
シテ互相【タカヒ=左ルビ】 ̄ニ刺衝物トナル故ニ一部ニ変動有 ̄レ ハ必 ̄ス延
テ他部ニ及フ」喩 ̄ヘ ハ脳病ノ胃ニ及ヒ胃病ノ脳ニ
感スルカ如シ是 ̄レ胃ト脳ト互ニ刺衝物トナルナ
リ《割書:後ニ詳|説ス》」体外ニ於テハ大気飲食光声臭味有形
無形ヲ論セス咸 ̄ナ刺衝物ナリ之 ̄レ ヲ[外刺衝物] 《割書:オイ|トウェ》
《割書:ンヂケ゚プ|リッケル》ト謂 ̄フ
刺衝物ハ生力ヲ変動セシムル者ノ総称ナリ
故ニ体中物質ヲ増与スルハ固 ̄ヨリ刺衝トシ之 ̄レ ヲ
奪却スルモ亦刺衝トス是ヲ以テ温素。越列幾
ノ卒 ̄カ ニ謝退スルモ刺衝トシ諸液ノ頓ニ脱泄
スルモ刺衝トシ燿光急ニ滅 ̄エ テ暗然タルモ刺
衝トシ劇声俄 ̄カ ニ歇テ寂寞タルモ刺衝トスル
ナリ
生力抗抵《割書:ウェーデルウェルキンク゚又 ̄タ オプ|ウェッキンク゚又 ̄タ プリッケリンク゚》
生力 ̄ノ刺衝ヲ受テ発動スル者之 ̄レ ヲ抗抵ト謂 ̄フ」故ニ
凡百ノ生活運営悉ク皆抗抵ニ非ルハナシ」眼ノ
視ル舌ノ味フ心ノ縮張スル肺ノ槖籥スル皆其
刺衝ニ抗抵スルナリ」是故ニ生力有 ̄リ ト雖トモ刺衝
物之 ̄レ ヲ挑ムト雖トモ亦抗抵無 ̄ケ レハ生活運営其処
ヲ得ス」蓋 ̄シ抗抵 ̄モ亦其運営ノ興憤発起スルヲ指シテ
言ノミナラス総テ感動ノ外ニ発見スルヲ称ス
故ニ其運営ノ脱スル者亦之 ̄レ ヲ抗抵トス喩ハ寒
気ニ冒触シテ厥冷スルハ之 ̄レ ヲ皮膚ノ抗抵トシ血
液ヲ失亡シテ暈倒スルハ之 ̄レ ヲ脳髄ノ抗抵トスル
カ如シ
病学通論巻之一《割書:終|》
【裏表紙】
三
瘧病法《割書:酉酉|》
瘧病水
先病者 ̄ヲ向_レ ̄ニ南 ̄ニ居 ̄ヨ其 ̄ノ/後(ウシロニ)行者可_レ居
先護身 次結界《割書:如常|》
次結_二阿弥陀定印_一 ̄ヲ観_二 ̄ヨ病者 ̄ノ心月
輪上 ̄ニ有_二□□□□□【梵字】 ̄ノ五字_一
□【梵字】字変 ̄メ成_二 ̄ハ塔婆_一 ̄ト々々変 ̄メ成_二 ̄ル大日尊_一 ̄ト
□【梵字】字変成_二 ̄ル五古_一 ̄ト々々変 ̄メ成_二 ̄ル阿閦
如来_一 ̄ト□【梵字】字変 ̄メ成_二 ̄ル如意宝珠_一 ̄ト々々
変 ̄メ成_二 ̄ル宝生尊_一 ̄ト□【梵字】字変成_二 ̄ル八葉
紅蓮花_一 ̄ト々々変成_二阿弥陀如来_一 ̄ト□【梵字】
字変成_二 十字羊石_一 ̄ト々々変成_二 ̄ル不
空成就仏_一 ̄ト此五智如来成_二 ̄ル五大明
王_一 ̄ト□【梵字】字変成_レ釼_一々変成_二不動明
王_一 ̄ト□【梵字】字変成_二 五古_一 ̄ト々々変成_二降
三世明王_一 ̄ト次□【梵字】字変成_二 三古_二 ̄ト々々
変成_二軍荼利明王_一 ̄ト□【梵字】字変成_二
宝/捧(フ)_一 ̄ト々々変成_二大威徳明王_一 ̄ト□【梵字】字
変成_二金剛牙_一 ̄ト々変成_二金剛夜叉
明王_一 ̄ト不動明王 ̄ハ降_二伏 ̄シ一切諸魔_一 ̄ヲ
降三世 ̄ハ降_二伏 ̄シ天魔_一軍荼利降_二伏 ̄シ
身魔_一大威徳 ̄ハ降_二伏 ̄シ人魔_一 ̄ヲ金剛夜
叉明王 ̄ハ降_二伏 ̄ス地魔 ̄ヲ次慈救呪百変
満 ̄テ病者 ̄ヲ加持 ̄セヨ次立 ̄テ行者病者 ̄ノ頂 ̄ニ
以_二頭指_一 ̄ヲ不動明王 ̄ノ□【梵字】書 ̄ケ次病
者 ̄ノ肩 ̄ヲ/抜(ヌカセ) ̄テ左 ̄ノ肩 ̄ニ降三世明王 ̄ノ□【梵字】書
胸 ̄ニ軍荼利明王□【梵字】書 ̄ケ右肩 ̄ニ大威徳
明王 ̄ノ【梵字】書 ̄ケ/項(ウシロニ )【左振り仮名 ウナジニ】 金剛薬叉明王 ̄ヲ□【梵字】書 ̄ケ背 ̄ニ
五□【梵字】字 ̄ヲ書 ̄ケ中 ̄ニ□□【梵字】字 ̄ノ上□【梵字】
字□【梵字】字左□【梵字】字下□【梵字】字
□【梵字】字右□【梵字】字也前□□□【梵字】
□□【梵字】五字書左 ̄ノ/臂(ヒヂ)唵三摩耶
薩埵□【梵字】書右 ̄ノ カイナニ阿闍梨位
真言書額 ̄ニ□【梵字】書左□【梵字】右□【梵字】 ̄ヲ
書後居 ̄メ慈救呪百変/許(ハカリ)満後 ̄ロヲ
不_レ ̄スメ見 ̄セ立行 ̄カセヨ
阿闍梨位真言
厄病除鬼面蟹冩真(やくびやうよけきめんがにのしよううつし)
森光親冩
皇朝(わがくに)西海中(さいかいちう)に湧出(わきいづ)る鬼面蟹(きめんがに)は
古代(むかし)管領高國(くわんれいたかくに)の臣(しん)嶌村弾(しまむらだん)
正髙則(じやうたかのり)摂州(せつしう)大物浦(だいもつのうら)の合戦敗(たゝかいやぶれ)
逆浪(あらなみ)に身(み)を投(たう)じ其霊化(そのれいけ)して蟹(かに)
となる土俗(どぞ) 称(よん)で嶌村蟹(しまむらがに)といふ此(この)
説(せつ)おそらくは附會(ふくわい)ならんか鑑(おもふ)に水土(すいど)の
気(き)によりて生(せうづ)る物(もの)なり其(その)甲(かうら)をもて門戸(もんこ)に
釣(つる)せばよく諸(もろ〳〵)の厄(やく)を除(のぞ)き疫癘(ときのけ)をはらふこと
實(じつ)に神霊(しんれい)あるがごとし然(しか)れども東海(とうかひ)には得(うる)こと
かたし依(より)て其(その)本形(ありのまゝ)を冩真(うつし)とりて一紙(いつし)におさめ
衆人(しうじん)に見(み)せしむ常(つね)に門戸(かどのと)室壁(いへのかべ)に張置(はりおき)て
四時(とき〴〵)禍(まがつみ)を決(さく)べきなり
金屯道人謹識
【右肩管理ラベル】
【大日本教育会書籍館管理ラベル】
驅疫法《割書:コレラヲ ヨケ並 ̄ニ|ナホス シカタ》
このよけかた。なほし方は。もとより。たやすきをむ
ねとするものなれは。此うちにて。とちらなりとも。
手はやくなしやすきかたを。志たくしおきて。ほと
よくするものと志るべし。くれ〳〵も左になした
る。よけの志かたをよくすれは。うつりくることは。
なきはづなれは。あん志んして。はたらき給へ。その
病源を志りて。よける志かたをよくすれは。これら
のうつる。きづかへはなしと志るべし。
【落款】
避疫之要
旨預防之
【枠外】
勅賜学士杉田玄端先生題字
このよけかた。なほし方は。もとより。たやすきをむ
ねとするものなれは。此うちにて。どちらなりとも。
手はやくなしやすきかたを。したくしおきて。ほと
よくするものとしるべし。くれ〳〵も左になした
る。よけのしかたをよくすれは。うつりくることは。
なきはづなれは。あんしんして。はたらき給へ。その
病源をしりて。よけるしかたをよくすれは。これら
のうつる。きづかへはなしとしるべし。
明治十九年九月十三日内務省交付775 貸教育会
【落款】
避疫之要
旨預防之
【枠外】
勅賜学士杉田玄端先生題字
秘訣
明治十九丙戌年八月
六十九叟 桜所散人題
【落款二】
雖小
【枠外】
元老院議官従四位勲三等揖取公題字
【楫取素彦】
而必
防
【枠外】
元老院議官従四位勲三等揖取公題字
荀子語
畊翁 【落款】
我開_二交 ̄ヲ於欧米諸国_一 ̄ニ也。其利極 ̄テ博 ̄シ矣。而害 ̄モ亦随焉。其
尤大 ̄ナル者有_レ 二。曰毒疫也。曰邪教也。毒疫 ̄ハ害_二 人身_一 ̄ヲ。邪教 ̄ハ
害_二 ̄ス人心_一 ̄ヲ。後来数百年。為_二深患大過_一 ̄ヲ者。蓋莫_レ ̄シ甚_二 ̄キハ於二者_一 ̄ヨリ
而防_二拒 ̄スル之_一 ̄ヲ者。又須有_二其人_一矣。防_二毒疫_一 ̄ヲ者医人也。拒_二 ̄ク邪
教_一者儒者也。世以_二儒医_一 ̄ヲ自居 ̄ル者。豈可_レ不_レ任_二 ̄セ其責_一 ̄ニ乎。余
視_乙 ̄ルニ世之以_二儒与医_一為_レ業者_甲 ̄ヲ。不_レ過_下 ̄キ僅 ̄ニ視_二其未流_一 ̄ヲ以 ̄テ抑_二遏 ̄スル
之_一 ̄ヲ而止_上。余常慨焉。余友茂木充実。慷概之士。非_レ医亦
非_レ儒也。深患_三 二者貽_二 ̄スヲ大害 ̄ヲ於海内_一 ̄ニ。常欲_下抜_二其本_一 ̄ヲ塞_二 ̄キ其
源_一 ̄ヲ。以杜_中 ̄カント禍乱 ̄ヲ於未萌_上 ̄ニ也久矣。頃者。又見_二 ̄テ毒疫肆_一レ ̄スルヲ瘧 ̄ヲ。不
_レ堪_二 ̄ヘ憂憤_一 ̄ニ。乃書_二 ̄シテ嘗 ̄テ所_レ ̄ノ得駆疫術_一 ̄ヲ。以 ̄テ為_二 一冊子_一 ̄ト。欲_下頒_二 ̄テ之世
人_一 ̄ニ以救_中 ̄ハント 其害_上 ̄ヲ。其法簡易。其言深摯。一読_レ之 ̄ヲ者。誰 ̄カ不_二 ̄ル感
歎_一 ̄セ。余読了 ̄テ慨然 ̄トシテ曰。開交以来。人身罹_二 ̄ル此惨毒_一 ̄ニ。以 ̄テ致_二 ̄ス喪
亡_一 ̄ヲ者。不_レ止_二 ̄ラ於数千万人_一 ̄ニ。使_三 ̄シハ其皆知_二 ̄ヲ此術_一 ̄ヲ。庶幾 ̄クハ免_レ ̄レ死 ̄ヲ保 ̄チ
_レ生 ̄ヲ独 ̄リ収_二大利_一 ̄ヲ也。勧 ̄メテ速 ̄カニ梓_二行 ̄ス之_一 ̄ヲ。抑至_下 ̄テハ 邪教 ̄ノ害_二 ̄スル人心_一 ̄ヲ者_上 ̄ニ。則
其拒_レ ̄ク之 ̄ヲ之方。充実亦既 ̄ニ講_レ ̄スル之詳 ̄カナリ矣。蓋将_二 ̄ニ俟_レ ̄テ機 ̄ヲ而発_一 ̄セント也。
明治十九年八月 碧海老人 内藤正直撰
叙言
夫天地の間。万物の體をなすもの。皆其原質。微
細なる者。集りて以て之をなす者に非るはな
し。其至微。至細の極。復析すへからざるに至る。
故に凡そ一體をなす者。之を分てば。百千萬分
の多きに至りて盡きず。色の水に染る。香の物
に薫するも。此微分の致す所なり。獣の過る
所。必す其臭を遺す。人之を覚らざるも。田犬よ
く之を踪迹する者は。犬の嗅覚の人に優れは
なり。伝染疫毒の気の衣被の間等に伏蔵し。經
一
【右ページ】
二
久して之を發するも。又此極微に吸入より。生
するに外ならす。
原始要終。易簡而天下之理解得者。唯神也夫。
【左ページ】
驅疫法
上野 茂 木 充 實 述
抑も。近頃。悪疫流行の。原因を考ふるに。一は往
時に於て被りたる。外邪の。体中に潜伏する者。
《割書:これを陰|邪とす》一は今俄に受る所の。窒気に卒中す
る者《割書:これを陽|邪とす》二者互に相応一致して。此病を
發するなり。譬へは。砲中に容る所の。硝薬の一
点の火を。得て爆発するに異ならず。内に硝薬
あるも。火気なければ。之に応せず。又外に火気
あるも。硝薬なければ。爆発することなし。内外相
三
【右ぺージ】
四
須つて。此害を生ずるか如し。
人生は。天地と共に。万有の気海中に生活して。
清濁の二気を。呼吸し。其新陳交替するに依て。
生育する者なり。其中に窒気なる者は。其性窒
碍にして。もと吸すべからざるの。殺気とす。若
し単に。此気を以てせば。火も燃るあたはす。然
れとも清気に交れば。乃ち生活を助くる所の。効
力も随て大なり。又窒気は。雰囲気中《割書:大地に囲|繞する重》
《割書:気を|云ふ》に含有して。低地及ひ。人家稠密海辺等に
は。重密なり高地及ひ人家希踈山間等には。輕
【左ぺージ】
踈なり。
雰囲気は。啻に地より。升騰する蒸気のみなら
ず。種々の原質より生し。常に窒気と。清気との。
二者より相交り出つ。之を四分すれば。窒気は
三に居り。清気は一に居る。以て此一調和の気
をなす。是乃ち人の生活に宣しき所の。気とな
るなり。《割書:又燃気あり、硬気あり、|共に気中の別種とす、》
此窒気を。含有する所の。雰囲気たるや。猶。茵褥
を。重畳するが如く。其最下なる者は。壓する所。
特に甚しく。下よりして上れは。稍々其重を減
五
【右ページ】
六
し。愈々高ければ。愈々軽し是高山に升れは。其気常
に軽踈なる所以なり。《割書:
銓気管を、以て、之を験す|れは、高山の上に於ては、》
《割書:著しく、低降をみ|る者、亦此理なり、》
人身の表皮は。気孔最多く。此孔に由て。身中の
廃液を蒸発し。或は他質を。吸収し、凡そ飲食す
る所の、元気身体を。養栄する者。終に此気孔よ
り。發泄する者。其八分の五に居る。余は他道よ
り。導泄するを以て常とす。故若し此蒸発気を。
窒塞することあれば。尤も危害をなすことあり。
此気の。利害をなす。理由を。解得せんと欲せば。
【左ページ】
試に衰気器と。排気鐘とを。以て。気をあつめ。分
つの。作用によりて。動物《割書:狗、猫、鼠|雀の類》一二分時間に
して。之を死せしめ。又之を活せしむることを。得
るなり。これ。天地間の。万有は、気の効要により
て。生死する所以の。理由をしるべきなり。
しかればしかれば。今考ふる所の。悪疫の原因は。かの。窒
気と。嘗て潜伏する所の。外邪と。相応して。此大
害を。発することをしる時は。之に因て。其予防芟
除の。方法を。講究せざるべからざる者と。確信
するなり。
七
【右ページ】
八
悪疫予防幷芟除法
第一 流行病。予防の方法は。毎朝早く。起き。壚
を以て口を/漱(そゝき)其漱たる。唾(つばき)と。壚と水と交り
たるを以て。眼縁より顔並に臍。足のうらとを。
摩擦(なでこすり)し。又手に水をつけ。面部を始め。項(くびすぢ)両 肩(かた)
より。総身を。摩擦すること。凡そ十五分時。而し
て。乾きたる。布を以て。之を拭ふべし。
是一身の。生気。血脈を。運動して。窒塞を開き。
新舊気の。交替を。促かす所以なり。
但し一晝夜に。眠ること二十四時間の。四
【左ページ】
分一。則ち六時間に。過くべからす。
第二 食事の時。生 葱(ねぎ)。生 薤(らつきよ)の類を。少々つゝ。菜
の取合せにして。《割書:味噌か、壚を付るか、又|やくみの、如くにしても》適宜に
之を食すべし。若しきらひの人も。悪疫の予
防薬と。知れは。甚(こらえ)て。食用すへし。《割書:口に容ること|の、ならぬ、人》
《割書:は膳の上に置|てもよろし》又小児には随身してよろし
《割書:きれに包み、ふところ|か、こしに、つけてよし》
但此二物は、至て。気強く。清潔(きよくいさきよし)にして。外気
を防くに。大丈夫なること。鬼神の如し。試て
知る可し。《割書:土をさり。何れの所に、かけ置も、|かれることの、なきにても、知る、べ》
九
【右ページ】
十
《割書:し、効能の弁は|別に記すべし》
第三 噦気(えつき)の兆(きさし)少しく。おこりたらは。之を抑
へ。忍ことを孜(つとめ)。唾も吐ずして。居ること肝要なり。玆
を/暫(しばらく)すれは。必らす下回して。大小便。或は放(おな)
屁(ら)か。其他に。反通分泌して。發泄すること。疑ひ
なかるべし
但平素にても。啖は吐へし。唾は吐くべか
らす。唾は常に飲食物を消化し。其他人の
生気を。保養栄育する。貴重なる。効液にして。
妄に吐棄すへからす。其効能も。別記に詳
【左ページ】
述すべし。
第四 水を 深大(ふかきおほきな)の陶器(ちやわん)。又はコップ。形のもの
に盈。其口に平なる板。又は盆か。膳を蓋の如
にあて。之を 顚反(ひつくりかへし)。病蓐(ねや)の側に。三四カ所も。置
べし
但是は。前に述る。排気鐘の。作用を軽便に
する者なり。又平
常にも。暑中など
臭気を除んとす
るときは。一二カ所
【図中文字上】
水を盛
たる図
【図中文字下】
盆の上に
覆する図
十一
【右ページ】
十二
椽側室内等に。置は尤もよし」前に叙する
所に参考すべし復た月経ある娼妓。客に
接せんとするとき。室内(へや)にて。此術を施せば。
三時間ほどは。必。月経。来らずといふ。以て
其功をしるべし
第五 灸を行うこと。腹部上脘。一穴に。十五壮よ
り百壮まて施(ほどこす)へし。尤も十五壮より試て。其
病体により。三十壮。五十壮まても。施すべし。
此内五十壮は。中脘に施灸するも。適宜に行
ふべし
【左ページ】
但上脘とは。天突より。臍まてを。はかり其
長さを十五節にして。上脘は。臍より上へ。五
節目。中脘は。四節目。《割書:則ち、上脘より、下ること|一節、乃ち図の如し》
と知るべし
火は太陽の光火。又は華ほくちの。火を用
てすべし。但し尋常(つね)の灸艾にては。落ち易き
故に。小篠竹軸(こしのたけじく)の如き。管状(くだのかたち)の物ゑ艾をつ
め。之を灸處にあてゝ。施す方よろし。左の
図をみて能く合点すべし。
十三
【右ページ図中分】
十四
灸穴點之図
灸壮管
天突 上脘 中脘 臍
管状をなす
上と下た少々せまきかよろし
【左ページ】
第六 湯を熱(あつく)わかして。風呂桶。又は大/盤(たらい)。其他
何にの桶にても。/汲(くみ)湯に/芥子(からし)を。/混和(いれ)して/浴(ゆあみ)
すべし
第七 薬を用んとするも。/傭醫(いしや)の間にあはぬ
ときは。神薬。朱雀円。宝丹等の如き。売薬を。/求(もとめ)て。
試用す可し。但しこれは。其効能書を。読み信
して。述ることなれば。何れも又薬用する人も。能
書の用法を読て。分量等。斟酌して用ふべし
第一二条の。予防方を常に用意するも。なほ近
十五
【右ページ】
十六
地に悪疫流行するときは。/豫(あらかじめ)。第三条以下の。豫備
をなし。/速(すみやか)に。/芟除(なをす)の術を施すべし
【左ページ】
野生醫を学はす。素人にて如此の説を演るは。
老婆心も又甚しと。世人の嘲を受け。信用する
人もなからんかと。一旦躊躇せしか。頃ろ病勢
倍々盛んにして。追日蔓延するを聞き。もし其山
間僻地。醫なく薬なきの地に。流行するに至ら
ば。術の施しすべきなく。徒らに死を待つの外。為
す所をしらざる者あらんかと。常に思得たる
所の簡易便宜の方法を記して。以て一時備急
の。助けとなさんとする也。読者察せよ
明治十九年丙戌八月上浣東京神田区佐柄木
十七
【右ページ】
十八
町寓於春輝樓上充實書
【左ページ】
明治十九年八月十七日御届
群馬県平民
《割書:編集兼|出版人》 茂木充實
東京神田区佐柄木
廿壱番地
弘所 はるのや にすけ
春野屋仁助
東京神田区佐柄木
廿壱番地
【右ページ】
十八
町寓於春輝樓上充實書
【左ページ】
明治十九年八月十七日御届
群馬県平民
《割書:編集兼|出版人》 茂木充實
東京神田区佐柄木
廿壱番地
弘所 はるのや、にすけ
春野屋仁助
東京神田区佐柄木
廿壱番地
【前コマ左ページの裏、印透け文字なし】
【右画像 横書 下にバーコード】
059187
特24-238
駆疫法 -コレラヲヨケ並ニナホスシカター
茂木 充実/述
M19
CBF-0040
【左画像 表紙の写し、コマ1と同じ】
[安政五年流行病治方]
【左頁】
當秋流行ノ變病ハ
文政五年壬午秋ノ流行ノ病證ト異ナル
ヿナリ城趾市山埜海濵ニ至ルマテ免ルヽ者■
シ依テ之ヲ一種ノ疫ト称スヘシ
預防方
生姜或ハ葱白ヲ生ニテ噛ム
外治方
【右頁】
破鍼 灸點
藥劑
三隂病篇并ニ霍乱病等ノ規
矩ニ隨テ之ヲ療ス詳ナルヿハ活物ニ臨
ミ目撃親視シテ直傳スルニアラザ
レハ恐ハ其治ヲ誤ル者アラン
療治中病者考定《割書:|大原村》醫師道澤
【左頁】
【表紙、貼付け題箋】
疫病除之藥
【右丁】
【蔵書印「慶應義塾」」大學醫學」部之圖書」】
【左丁、本文は次コマ】
【付箋】九
【左丁】
【蔵書印「慶應義塾大學」醫學部之圖書」】
●疫病除の薬 朝比奈五郎三郎殿傳之
毎年五月四日ニ百草ヲ取其日一日干候而直ニ其夜
一夜斗夜露ヲ當テ翌朝取込能包置テ
其翌六日ニ取出シ又候日々能干上ケ置是を
黒焼ニして施薬ニ出ス若大病ニ候ハヽしきみ
の葉五枚ト松葉一握ヲ入茶碗ニ水 盃入
せんじ此ゆ【湯】ニ而右黒焼ヲ給る也
但つる出る草且又水草ハ少シも入不申候
●小児虫の薬
蝉(セミ)のぬけがらヲせんじ七夜の内ニのませる也
きやう風ニ不成又十五才迄ハ虫気の者可_レ飲
四百八十二
【右丁】
薬氣根ヲ切る妙薬也
料【朱】●ゆかりの色法
梅漬の通りニ漬置候上々しそ能々日々
干上ケ又ほいろニかけ能干上りたる時
粉ニしてふるひ置候事
●きやうふうの薬
若右やうの節者早速かる石ヲ粉ニして水を
井戸ゟくみ上ケ候釣のまゝ直ニ薬わんニ請入
此水ニ而右の粉を為呑べし是妙薬也
●出生(あかご)の子見よふの事
赤子鳴く時男女ともニ口ヲ大キク明クは吉なり
【左丁】
口小クあくハ虫気有り随分心付毛ケ妙薬用べし
口を明キかね又聲小ク慥不成ハほふづき虫か又ハ
きやう風の類出るもの也是小児家之傳所也
●毛虫を止る法
毛虫子之内巣ニ籠り居る時右巣の中へ
燈油をたら〳〵と少シ落入べし程なく
不残たへ申候 又方毛虫生じたる木の枝へ竹の筒ニ水ヲ入
此中へ生のするめヲさきて入枝々へ五ケ所程釣
置ば毛虫委【悉の誤記ヵ】ク去る事妙なり
●蜘(くも)の巣を取たる跡ニ而又巣を掛
ざる法
くもの巣を取候ハヽ其跡江茄子の皮ヲ
水ニ漬置此あく出て赤く成たる水を
【右丁】
右巣の跡又其辺ニ懸置べし巣を懸る
事なし蛾ニは茄子のあく大敵薬也
●歯(は)みがきの法 若林秀悦傳
大ク磨砂 中位肉桂 少シ丁子 中位はつか
右四味細末を求メ一ツニ能交ゼて袋ニ入又
箱ニ入て能ふたいたし置べし
但右四品合る時少し口ニ入かげんヲ見ニして
又かげんすべし袋ハ薬袋紙が賣物ニ吉
料【朱】●蓮葉田楽の法 中川吉右衛門傳之
蓮の壱巻葉を得とあぶり夫ゟ味噌を付る也
【右丁】
「濟」 ●蜂不_レ指咒
ごふどふみやうはちあびらうんけんそわか
如此三遍となへ候得者さゝれぬ也
「濟」 ●狐おとす法
市谷柳町ニ而薬王寺江行頼候得者
直ニ落シ呉申候代者請不申由
但是者護持院内日輪寺の隠居所也
尤落候印ニ一聲鳴て出行候様好候得者
右之通ニいたし候由
又方神代の哥の由
昔より人のわさにハ限有り刀【力】を添えよ天地(あめつち)の神
【「濟」は墨角印】
【右丁】
●疝気妙薬 甲斐徳本直傳秘
一むきくるみ弐匁 一紅花壱匁 又方浅草並木道
〆弐味 一月寺番所ト傳法院
裏門際火の見との間
向なめし茶やニて
上刕屋ニ有こより也
代十二文に
又水道丁こ
より薬下谷
仲丁加藤殿【?】
うら門向裏
に有り
右之通常のかげんニせんじ七日用る
但疝積有之人常ニ用るよし
●吹出物 疾 水虫 田虫 鳫瘡
右之外万出来物ニ妙湯神田鎌倉河岸
地蔵屋敷ニ有之薬湯也
但是ハ伊豆国かづら谷朱禅寺出湯ニて
道法凡三十六里又同所こなト申所ニも少シ又
【左丁】
和らか成出湯も有之
●百日咳の妙薬 又方ときといふ鳥ヲ黒焼ニして
度々呑べし黒焼屋ニ有之
三夫婦有之方の飯ヲ為給るが吉
●吹出物せぬ法 又咒小石川春日町弓師
堀卯兵衛方ニ而いたし無代也
毎月々三日今ニ生豆腐ヲ上ケて鹿嶋様ヲ
可相願決而出来ぬもの也 又方正月飾の裏白ヲ
黒焼ニしてごま油ニ而付る
但万々一三日ヲわするゝ時ハ十三日ニ上る也
●婦人巡りニ吉又懐妊なれば三ケ月
四ケ月位之分者下り候薬
【右丁】
くじきニも吉由
湯嶋天神男坂ゟ御成道江出ル辺ニ而
本因坊隣か御籏本屋敷長家より
出ス丸薬一包代百文の由 植村平右衛門之弟
藤次郎殿傳授也
料【朱】●浅草のり貯ふ法 又方石しやうの根ト水引草の
黄色成花ヲ指込もよし
ふらそこニ而も只の箱ニ而も宜候間米ヲ能いりて
此米ニ而右海苔を能まきてうづめ置べし
尤風いらぬよふニいたすべし是傳也
●馬のいき相の薬人ニも用る吉 岩尾次郎右衛門殿家傳
梅の肉 黒砂 人参 右三味能すりまぜ
吞すべし是妙薬也
【左丁】
●切レ類江金銀箔置やう法
姫のり ふのり 當分ニ入 しやうがのしほり汁ニ而
能クとき是ニ而附るべし傳也 但ちりめん斗へハ
右箔置たる裏
の所江斗裏のり
いたし候
●うんのまじない
毎月 辛(かのとの)土にあたる日ニ家の内西ニあたる
所の土を取て紙ニつゝミ封置てしん〴〵
すれバ三ケ年の内にうんをひらく事
うだか【たが】ひなし又右の土をむじん場へ
持行時ハあたるなり
●ひゞ薬 文化十一戌年十月下旬
四谷右兵衛丁小普請奥田主馬支配
大岡治兵衛殿傳授也
もつやく 丁子 酒ニ漬置付而吉
【右丁】
料【朱】●くづあんねりやう あわ雪みせの傳也
何成とも一器ニ 葛壱盃 酒ハ弐ツ
正ゆは三ツ 水は四ツ 但入物ハ猪口ニ而も
茶わんニ而も升ニ而も分料ハ
同事
右酒醤油水ヲ一所ニ入是江葛を入能々
かきまぜ夫ゟ火ニかけて煉る也
但よくねれたる時夫ゟハ湯せんニかけ置べし
何時迄置ても堅ク成る事なし
●せんき幷
疾邪拂薬
やくもふそう にんどう 右當分ニして
せんじ用る
【左丁】
●腰足痛テ不叶ニ妙薬 かさニも妙薬也
せんきにもよし
ひきがいるヲ皮ヲむき股の所斗取り正ゆ
付燒ニして弐三疋ヲ食ス其風味きじ
燒鳥ニ不違匂ひも同し是ハ文化年中比
御目付高井山城守殿家来是ヲ給テ治ス
其外ニも平愈せし人多シ妙薬なり
但蟇蛙の大ク腹赤キヲがまといふ都而
蟇の類ニ毒なし又かさの妙薬ニハ
ひきヲ丸ニ而ゆでぞうふともニ食ス也
●痔の妙薬 又方五月五日朝日の出前に田の水ヲ
取て付る妙也
亀ヲ煑テ給テ吉七度程給る時ハ厳敷直る也
尤身斗ニ而吉
【右丁】
●安産の咒 又方毎年寺々ニてせがきニ上ケ有之
蓮飯を包テ詰たるわらを腹帯ニ入
〆て居べしけがなく安産也
一京大坂ニ而大御番衆部や之道具ニ遣イ候
すりこ木ヲ頼遣シ是ヲ箱ニ入置産之間ニ
釣置べし安産也
但右すりこぎハ女が手ヲ付候而ハ一切きゝ不申間
一寸ニも女ニ者手ヲ付させ候事無用也
●加持の上手有之所 ろふがい
りういん 其外とも
本所大川橋向横丁ニ而原庭ト申所ニ而
真言宗幸徳寺毎月二七ノ日斗朝四ツ時限
十二銅斗上ル事文化十一戌年冬承之
但人ハ銅しんちうの品ニて湯茶ヲせんし吞ハ甚大毒也
りういんハ是ゟ生ス依之銀トからかねも無用也
【左丁】
●物もらいヲ直ス法
物もらい出来たる當人ゟいふ わりや何ヲむすぶㇳ問
咒ニ懸る前に清キわらのみごヲ洗イ清メて手一そくに
三本切リテ置なり
咒ふ人口の内ニ而答て いもらいヲむすふト答なから此
みごヲ壱度
〳〵ニ一ツ結ぶ
此のことしく當人ゟ聞事三度咒人答も其度ニて
是又都合三度なり如此いたし済候ハヽその結びたる
みご三ツともニ火ニ入焼候へハばち〳〵とはねるト早速
直る物なり但真より出来する吹出来の物貰
もらいニ而不聞候事植村平右衛門殿養母傳之
●のんどへとげ立テぬきの法
又方手の平ラ内江梶木一草ト書て
なめるべし妙也
はくてう木の葉ヲ生ニてのむべしぬける
こと妙なり
【右丁】
●のんどの内江はれもの出来の時吹切薬
赤とんぼふ羽迄も赤キが吉黒燒ニしてさゆ
にて吞べし妙薬なり 植村平衛門殿母隠居傳
●醫者の上手有所の事
加古良元といふて文化年中の比牛込神楽坂ニ居
其後者神田 轉宅いたし候事此比
四十才余の医者なり 植村平衛門殿弟藤次郎殿
傳之
●洗ひ粉ニ妙薬 石原侍半次傳之
朝皃の種ヲ粉ニして遣ふべし最上也
●そこまめニ薬
【左丁】
桑の木ヲ三ツ目きりのごとくニ拵是を以押べし
尤永く押シ候得者膿血不残出候事
●犬ニ喰付れたるニ妙薬ゆずの花なり
早速薬種屋ニ而とこ柚を求メ常のごとく
せんじ出し吞てよし又此せんじたる湯ニて
度々洗ふべし毒氣去ル事妙なり
●田虫の薬
極上々の樟脳をそくいニ而能おし少シ水ヲ入
とき付るへし
又至てかゆミ有之時ハ鉄ヲ押付居る
此つめたきニ而一たんのしのきニ成なり
【右丁】
●烟入ふミ出シ形細工人
文化年中小普請組近藤左京殿支配柴山熊太郎
本所津軽越中守殿表門通ヲ先江東の方
二丁程行二ツ目ニ有之横丁右江二軒目之由
岩尾次郎右衛門殿文化十二亥年四月上旬
申聞候
●無妙ゑんの能の次第 無名異(むめうい)也
是ハ石州ゟ出る無妙ゑん最上之品也是ヲ
御勘定所江たのミ石州の御代官ゟ取寄て
貰ふ也水どくヲけス又打身痛ニ酒ニ而解
付る
【左丁】
●通ジ薬 又方竹の粉吞てよし
又方 大根しぼり汁江小豆を漬置テハ干
〳〵幾度も
して干上ケ仕廻置のみてよし
蝦夷地ニ而さりがにトいふ是ハおくりかんきりの
題ニ用る薬なり松前奉行支配小役人所持也
●金はく置やうの傳
せしめうるしへ極上の弁がらヲ少シ入レ
能交置是ヲ下地江すり込置程よくかわく
時ニ金箔ヲ上より置方全わたニ而そろ〳〵と
おし付る也
●引風の時熱早ク發る法
そば粉ヲ煎てそば湯ヲいたし中へ白砂糖
を入給る事度々ニ而妙也
【右丁】
●おどり装束幷道具賣所
冨沢町橋を東の方へ渡り北より二三軒目
古着屋ニ而しろと賣いたし候直段ヲ申候ハヽ
半分直ゟ付テ段々少ツヽ付上ルなり 大和屋治兵衛傳
又久上ニ而おしへ候ニハ久松町堺橋通りにて
大黒屋清六方也尤向ニ鮨屋有之
又道具者芝口三丁目右かわ大尾屋ニ有之
又目白坂中程北かわニ細工人有之
●雷除の法
山谷浄生院滿谷和尚口授雷除咒文
阿伽陀(あきやだ) 刹帝魯(せつていろ) 須陀皇(しゆだくわう) 蘇陀摩尼(そだまに)
【左丁】
くわんくわらいしん
くわんくわくらいしん
愚道之法孫(ぐだうのほうそん) 謹刻
弘道 湯川姓
●年中諸薬ニ入飲妙薬 文化十二亥年七月二日
御留守居番万年七郎左衛門殿
より傳授之事
毎年八月三日ニ蓼(たで)を沢山取大釜ニ水壱斗入レ
五升ニせんじ詰此水斗を貯置四季ニ不構何
薬江入入テ吞べし其薬格別ニ功能甚敷能
功能有物なり尤右何薬の中江も少々入交
て用べし
【右丁】
●腰ノ物彫物師遣候形ヲ押候土覚【朱筆】二千六百法
京都ゟ出ル キヨミ土が吉是ヲねり置候
目ぬき其外とも押べし此土大傳馬丁絵の具や
村田宗清方ニ有之
●虫歯痛ニ虫ヲ取法 又方本郷壱岐坂御籏本衆
石川与次右衛門殿釘打咒妙也
又方湯嶋六丁目こま物屋ニ而
村尾忠兵衛方のるりの粉が吉
白キ粉代廿文
土器ヲ火の上ニ置能々燒而瓦か杯の上ニ置
此中へねぎの種ヲ少シ入ごまヲいるごとくに
ぱち〳〵とはね燒る処江古きかさへ
筆のじくクヲ差右土器のふたニして中たね
燒る煙ヲ右くだゟ請虫歯痛方の耳へ
當テ暫居る夫ゟ跡ヲ見べし此中へ細き虫が
沢山出有之物なり
【左丁】
●又方
榎ヲ切テ火ニおこし此火ニ而此火江韮の実ヲ燒此
煙をくだニ而口中へ請吸入其つわヲ右くだの中へ吐也
尤圖之ごとし
又方湯嶋六丁目北がわしつくいや
裏割たばこや甚兵衛咒も吉 鉢ニ水ヲ入火入ヲ中へ入置
「図 鉢に管を指して口元にあてる」
花井政蔵殿直傳
●びんほう神を追出しテ入れぬ法
毎月朔日 十五日 廿八日 定式ニ小豆飯ヲたき
手前ニ而豆腐を取寄置たる其とふふヲ手前ニ而
燒とふふニいたし此にをひヲ家内中へちらし
【右丁】
候得者びんぼう神殊之外きらい恐るゝ也
又小豆飯も彼神大禁物也如此いたし
候時ハ其家江びんぼう神決而不来自然と
万事都合宜福貴ニ成る物也
諸事談三巻目 九十五ニ有丹後国竹野郡之内船木の廣
船木村うがの神といふハウガメの神也
同七十九ニも有分銅之事
又 一ツ本
好古真説の内八十四ニ有大国天の事
渕瀬物語の内八メニも有地福和合神の事
此妙薬帳弐百六十九ニも有之同帳二十九ニも有
同帳二百五十四メ初音草の事同三百七十五メ唐もろこしの事
【左丁】
●突眼(つきめ)ニ妙薬
白砥石(しろといし)の粉細末ニして乳(ちゝ)ニて解付る妙薬也
●白雲の薬 又方桃の皮をせんじ吞てよし
正月の餅青クかびたるヲ黒燒ニして酢ニ而解き
附る二度付れバ直る也
●舌(した)江 出来(でき)物いたし候時
又法昆布黒燒ヲくゝむ
べし直る也
しうかいどうの根ヲ其根の大サ程飯ヲそくいニ押交ゼ
足の土ふまずへ張置妙薬也
●くじき薬
【右丁】
からす瓜の根ヲ能干置て細末しごまの
油ニ而解付る若又日を経(へ)候ハヽきわだの粉ヲ
少シ交テよし
料【朱】●なめ物 羽田藤右衛門殿傳秘也
赤みそヲ能すり【抹消あり】此中へしそのミ
しやうが くるみ此三味ヲ能細ニきざミ能交ぜて
是をさとふみつニ而ゆるめる也ときわ味噌是也
●持薬 せいきヲまし
たんの薬りういんニも吉田沢久左衛門殿傳之
黒ごま壱升是ハ摺鉢ニて能する尤ごまハ油のしとり
出てすれがたき物也咒ニハ米ヲ少シ入するなり
さんやく 唐かしう 白刀豆 各十六匁ツヽ 白砂糖廿匁
くこし【枸杞子】
【左丁】
燒塩二十部一入是ヲ何レも粉ニしてさゆニて常ニ
のむなり都合七味也
但少ツヽ拵候方直よし壱升之胡麻四分一之割合を以拵候ハヽ
ごま二合五勺江くこしさんやく唐かしう白なたまめ
各此四味壱両月ニ而吉 白砂糖後五匁 燒塩の割合准之
●紙江書損したるヲぬく法
薬種屋ニ有之
木通の小口へ水ヲ付て書損たる字の所江斗
上下ゟ白紙ヲあて木通の小口へ水ヲ付そろ〳〵と
心永ニ打ぬくべし尤上下の紙江墨しみ込候ハヽ
新キニ又白紙ヲあてかへるべし
●朱墨つやよく仕法 又法ところヲ寒中
水ニ漬置氷らぬよふニ
ほし上ケ堅メ置遣ふ也
右之木通がよし是ハ朱墨ヲ能すりたる
【右丁】
時朱墨ヲやめて夫ゟ右の木通の小口ニて
朱硯の中を能こすり夫ゟ認物ニ遣ふべし
至而つやよく出るもの也
●ゑぞにべの事
是ハ蝦夷国ニて用るにべ也町鮫の腹ゟ出る
こはくの如く成る品ニて是ヲゆせんニ入熊【能】あたゝめ
とかし候へハさ水のごとく也是ヲ以竹か木成とも
継候ハヽ放れぬもの也但是ハ松前奉行衆幷ニ
吟味役其外下役人方ニも有之
●歯薬の事 文化十二亥十月五日御腰物方
中村八十郎殿傳之
松のみどり 但みどり無之時ハ す桃の梅干
松かさニ而よし
【左丁】
右弐品當分ニして黒燒となし細末して
貯へ置常に毎朝口中へ含居其後うがい仕る
一生口中痛のうれいなし
●銀燒付の傳 小石川戸崎町正運寺門前
鎗屋長左衛門傳之
しんちう銅の差別なく能みがき夫ゟ炭ニて
能とぎ上ケ能ふきて苗わらにて後とみがき
夫ゟ梅酢を能すり付其上へ水かねヲゆび
にてすり付其上へ銀はくヲ置べし是職人
の法也 但梅干ヲすり付ても出来候得ども
是にてハ跡ニて錆るもの也
又水かねハ沢山付るハ悪し少ツヽ程よくゆびニて
そろ〳〵とすり付べし
【右丁】
●鮫さや幷木地ろいろとぎ出シ法
ろいろハ燈油ヲ少加へ上粉の糖ヲ交セ手ニて
そろ〳〵とぎこする也つや能出るまた
石持の石又ハ鮫等ハむくの葉て鮫も石も
そろ〳〵とぎ出ス
●木櫛の色黄色ニ色能つや出ス法
木櫛の分は何木ニよらずくるみの油を以
切レニ包能念入てこすり其上ヲ上粉の
ふるいたる石灰ヲ以こする也
「濟」 ●来月朔日のヱトヲ早ク知方
【左丁】
大七 小六ト知べし たとへバ今月大の月ニハ
右大の月の朔日子ノ日なれバ子丑寅卯辰巳午と七日目午也
来月朔日午の日ト
知べし是ニ准シて小の月ニ来月朔日ヲ知ニは
其小の月の朔日亥の日なれハ亥子牛寅卯辰
来月朔日ハ辰ト可知
是右朔日亥の日ゟ六日目ニ當るなり
●中氣大妙薬 又方駿河臺ニ而二万石松平備前守いし
文化年中勤居候若林秀悦
名灸いたし候事
深川辺
中木場藤店茶屋之向之方ニ而看板出有之
代三百銅ツヽ右者中氣ニ成三日之内に
用候得者速ニ直ル三日過候而も用候得者
段々快氣也 せんよふ幷用よふハ委細ヲ
のふ書ニ記有之
【「濟」は黒角印】
【右丁】
【上右、右手図】
疳筋(かんすじ)
男子ハ左より
血ヲ取初ル
右の手は
跡ニて取ル
【上左、左手図】
相印
△
【朱筆】圖之通人さしゆびの一トふし
寸ヲ取是ヲ圖之ことくニ
折返シて一トふしの折目ヲ中の真ニ當テ左右へ点ス
【下、男児圖右】
寸尺取ルハ白キ
元結がよし
【男児圖下】
血ヲ取針の圖
【男児圖左】
此寸ハ
ゆひ一トふし
相印△
くびニ當ル
寸ヲ取たる元結の先の
所の圖
【左丁】
一小児十五才迄五疳の名灸ニて何程成疳症ニても
不治といふ事なし委細圖ニ記置なり
一圖の如く小児しやんとかしこまり頭もしやんと
して座ス夫ゟ白キ元結を以圖の朱のごとく
ゑりニかけくるりと前江廻し胸ゟきうびニ
當テ切夫ゟ其切たる元結の先ヲ人さし
ゆび圖の朱のごとく一トふしゟ其一トふしの間ヲ
寸ヲ取其元結ヲ其長差サニ又今一ツ折返ス都合
二タ折ト成を印ヲして圖のごとく真中を
きうびニ當其左右へ点ヲして夫より又
うしろヲむかせ前のごとくのんどゟ右の
元結をうしろへ引下脊骨の真中へ
【右丁】
きうびの節のごとくニ當テ夫ゟ胸のごとく
左右へ点ヲいたし尤何レも灸数壱ケ所へ
十五火ツヽすへる也
一 圖ニ有之手の疳筋より血を取事都合
三度ニて三度目ニ跡ニ而灸点いたし扨又血を
取ニ者木綿針がよし男子ハ左ゟ取初メ跡ニ而
右手ゟ血を取ル但突たる穴より出るたけハ
何度も血をしぼり取ル病強キ程血多ク出る也
一 寸尺ヲ取ニハ白元結がよし
一 灸点いたし候ても不就成日が又ハ宅ニ而取込の
事あらバ翌日ニても吉 一灸数ハ一ケ所十五火ツヽ
【左丁】
一 忌中又ハ服中ニ而も構なし
一 寸を取たる元結ハ焼捨べし
一 乳をふきたる紙ハ雪隠ニ入べし
一 眼病の躰ニ見請候節者左のことく灸点いたし遣候
【小指、薬指を折った右手掌】尤何レか両眼之内あしき
方江点スべし又両目とも
不宜時ハ左右とも点ス灸
数右同断ツヽ日々一ト廻り也
此帳百三十六枚目ニも有之
おこりの灸点ニ似たり
但法ハ本所逆井渡向四軒
茶屋ゟ右江行徳海道半道程
行左江西一の江村ニ而大杉
権五郎方ニも有之由
【朱筆】圖のごとく小ゆびの先の
あたる所灸点スル也
【右丁】
●ぬいもよふいたし法
糸類ハ何糸何色にてもぬいをいたすぬい糸をいふ
丸金糸幷大白糸等ヲぬい付るハふせ糸といふ
金糸ハかば色のふせ糸ニて是ニのりヲいたし
能干上ケて遣ふ
艸木の葉ニハもへぎ糸又ハひわもへぎ糸等也
水ヲ縫ふニハ大白糸二筋幷てふせ糸を以付る
但都而何糸ニてもよりヲ懸るハ悪しよりヲ
掛ると糸のつや不出
一切のもよふぬい上ケて枠(わく)ヲはづす前ニぬいもよふ
の裏ゟ薄キおしのりを以付る此のり能干上りて
【左丁】
わくよりはづすべし
下絵ハ水ヲ不入只の粉おしろいニ而書也
地の切レハ左右ともわくへからぬいニぬい付る
ぬうニハ上へよりハ左り手ニ而針ヲ遣ひ右の手ハ
下江入置下ゟ針ヲ上へ突出スべし
縫い初ハ糸の崎へ結び玉ヲいたしテぬい初メ仕廻ニハ
糸の先ヲ長クのこし置テ是ヲのりニ而付る也
●虫歯其外歯薬 又方節分の柊葉ヲ
水ニ入置和らかニしてたゝミ
痛歯ニくわへ居るべし
青山宮様御門向横丁 かわ二軒目ニ而
御家人之由前田氏方ゟ出ス代三十二銅ツヽ
又方赤にしの貝塩ヲ詰て白燒ニして常々歯みがきニ遣ふ也
(表紙)
明和六丑年
日記
(左丁)
(蔵書印「佐賀大学図書館之印」)
明和六年正月元日
一 天山宮江 大殿様御名代馬乗以
上南里杢之助御参銀御賄方ゟ出
一 同所江御前様右同馬乗以上東
嶋杢右衛門御参銀御内ゟ出
一 丹州様江【挿入「従」】大殿様年頭之為御祝
義御使者を以御扇子一箱三本入
真之熨斗右御使者者馬乗以上相原
八郎右衛門
一 丹州様江従御前様右同御使者西
丸勤尤御祝物無シ
一 鹿嶋御三所様ヘ従 大殿様
御前様右同御使者西丸勤お清様ヘハ
大殿様ゟ弐本入御扇子一箱尤川原小路迄
一 於才様ヘ従 大殿様 御前様
右同御使者西丸勤尤御祝物無シ
一 於奥 大殿様御規式役人幷
御目見之次第
一 御若水迎 松本弥左衛門
一【次行目との間に括弧あり】御年男 宮地新五右衛門
御開事 【二項目一繋ぎ】
一 御若水迎幷湯御手水
御鬢 田中九十九
御衣装上 【三項目一括り】
一 御手掛副
御規式御通 星野九右衛門
藤田次左衛門
中尾九十九
藤山惣右衛門
【二項目一括り】
一 御引渡 御目見
間内壱畳目
富岡弥一左衛門
右奏者 宮地新五右衛門
鋪居外弐畳目
石丸 杢
甘木甚右衛門
兵動波門
小島元靱
城嶋徳斎
堤玄答
堤春可
藤嶋佐馬助
秀嶋利右衛門
松本弥左衛門
同内壱畳目
一郎右衛門儀元〆役ゟ 御新宅頭人
兼勤ニ付上席也 永橋一郎右衛門
御猟方頭人
馬場清左衛門
御内頭人
藤山一郎兵衛
同外弐畳目
石井権兵衛
辻 小左衛門
堤作兵衛
山口八郎左衛門
岩松七右衛門
岩松杢之允
長崎弥次右衛門
持永九郎左衛門
村田忠悦
北嶋三折
城嶋清吉
大坪段右衛門
武藤弥一右衛門
志波太郎右衛門
同 官左衛門
横尾弥左衛門
右奏者 富岡弥一左衛門
御鷹匠共
右近形右衛門
小頭御徒士之者共
足軽之者共
御頭ニ並居 御持鑓之者共
御挟箱之者共
【次コマにかけて一括り】
御馬屋之者共
御乗物之者共
御傘之者共
痛ニ付不罷出 御茶弁当之者共
御無地敷方之者共
【前コマから一括り】
右奏者 冨岡弥一左衛門
一大殿様 御前様御新宅
御二方計年始御規式有之也
一去年十二月十三日 於美濃様御逝去
ニ付 殿様御忌内ニ付於外者
年始御規式無之右ニ付而ハ御家中
下々迄年始規式不相調也
一御当役を始諸役人出仕無之
同二日
一栄照庵へ 殿様 御代香
御使者番勤御香奠線香壱束
一御当役之始諸役之出仕無之
同三日
一今日 殿様御忌被為明候就而ハ
御家中月代仕候
一御相談人方を始諸役々今日より
出勤尤御当役ハ御出仕無之
一無量寺へ 殿様 御代香御
使者番勤御香典線香壱束
同四日
一今朝早天御餅搗有之候
一御門松立之事
一御すヽみて例之通大石源右衛門相
勤候事
一明五日元日御規式有之筈ニ候得ハ
今夜歳暮之御規式ニ付左之通
一大殿様へ従 殿様歳暮為御
祝義鰤一本弐本入御扇子壱箱
右御使附衆勤
一御前様へ従 殿様右同塩鯛一折一
弐本入御扇子一箱御使右同
一丹州様へ御祝義之儀ハ如何可
被成哉与北丸御進物方へ西丸より
内々聞合有之候処今日ニ相成候得ハ
御祝義御使者被差上ニ及申間敷
由ニ付御使者不被指越候右ニ付而ハ
鹿嶋御三所様幷お才様へも御
祝義御使者無之
一今夜歳暮之御規式ニハ候得とも
御親類方を始御家中御祝義
無之
同五日
一今日元日御規式左之通
一天山宮江 御名代馬乗以上水町
郎之助御参銀三匁
一同所へ 喜三郎様 艶菊様
熊菊様 守三郎様 御名代
馬乗以下嬉野甚兵衛御参銀
御内より出ル
一両御寺へ 御名代服部尉右衛門
一丹州様へ従 殿様年頭之為御
祝義三本入御扇子一箱真ノ熨斗
御使者馬乗已上相原八郎右衛門勤之
一信州様へ従 殿様御祝義物之義ハ
御在府ニ付江戸二而被進候
一二丸江御家中惣代不被差出候
尤今日ニ相成候ニ付而也
一鹿嶋 御三所様へ従
殿様年頭之為御祝義御使者
西丸勤 お清様へハ御扇子一箱
尤川原小路迄也
一お才様へ右同御使者西丸勤
一佐嘉表寺社へ 御名代西丸勤
御参銀三匁ツヽ
一御円鏡 一重
一塩鯛一折 二
一弐本入御扇子一箱
右者
大殿様へ従 殿様
一御円鏡 一重
一塩鯛一折 一
一弐本入御扇子一箱
右者
御前様へ従 殿様
一塩鯛一折 一
一弐本入御扇子一箱
右者
喜三郎様へ従 殿様
一弐本入御扇子一箱
右者
艶菊様へ従 殿様
一同御扇子一箱
右者
熊菊様ヘ 殿様ゟ
一御破魔弓一餝
右者
守三郎様ヘ 殿様ゟ
献上
一殿様へ五本入御扇子一箱
大蔵殿
監物殿
一大殿様へ同一箱
右御両人ゟ
一大前様へ同一箱
右御両人ゟ
一殿様へ三本入御扇子一箱
典 膳
蔵 人
文次郎
助左衛門
五左衛門
一大殿様へ同一箱
右御家老方ゟ
一大前様へ同一箱
右同断
一殿様へ弐本入御扇子一箱
重松又左衛門
南里仁左衛門
木下求馬
一守三郎様ヘ御破魔弓一餝
東 十左衛門
一弐本入御扇子一箱
右ハ
御前様ゟ 殿様江
一大殿様左之人数江於外御居間被渡
御目候
二間四畳目
大蔵殿
図書殿
監物殿
同五畳目
典 膳
蔵 人
文次郎
助左衛門
五左衛門
太郎兵衛
采 女
同内壱畳目
相原八郎右衛門
右奏者者宮地新五右衛門
同弐畳目
重松又左衛門
南里二左衛門
木下求馬
同一畳目
松田九郎兵衛
太田自兵衛
相浦千兵衛
相原文左衛門
遠岳伝右衛門
小田村多仲
藤嶋清左衛門
同敷居外一畳目
川浪助左衛門
今泉安左衛門
田中兵右衛門
右奏者相原八郎右衛門
右之通 御目見相済
一御前様 御目見左之通
御親類中
御家老中
太郎兵衛
采 女
大御目附
御蔵方頭人
御相談役
旧記方
惣御目附
一大殿様御新宅へ年始為御祝義
御出被遊候御行列御社参之通
本御門ゟ御出
一二丸江文次郎殿被相越候御料理為拝領也
正月六日
【右丁】
一両獅子参上於御式台前例年
之通相勤候被下物青銅壱貫文ツヽ
出物等跡方之通
一新庄美麗参上例之通相勤候
被下物跡方之通
一日向筑前島原家老中へ此御方
【左丁】
御家老方ゟ之年始御祝義書状
飛脚を以差越
一松平主殿様三浦志摩守様御
家老中へ此御方御家老方ゟ之
御書状相認置右は【者】江戸飛脚
之節差越筈也
同七日
【右頁】
一今朝五時
大殿様御鎧祝右ニ付而今昼
御親類方を始詰中請役所ニ而
御餅拝領也
一今朝五ツ時於奥
御謡初番付并役々左之通
高砂 弓八幡 祝言
【左頁】
土井次郎左衛門
兵動波門
石井六郎右衛門
一今夜鬼豆打永福一郎右衛門池田
儀兵衛相勤候
同八日
同□□【「九日」】
【右頁】
一御前様 御子様方年始為
御祝義御新宅被遊御出候尤
此節本御門ゟ御出也
【左頁】
一左之通御褒美被仰付之旨
大蔵殿被仰達候
御小袖一 監物殿
典膳殿
御羽織一宛 蔵人殿【典膳から文次郎まで3名の上に大括弧あり】
文次郎殿
一為御褒美左之通御加増被
仰付之旨監物殿被仰達候
御加増米七石 藤山一郎兵衛
右同 三石 深町判右衛門
右者此跡ゟ御加増【見せ消ち、右旁に米】被下置候を此節御
加増ニ被召成也
一為御褒美左之通御加米被
仰付之旨御当役典膳殿被相達候
御加米五石 冨岡弥一左衛門
川浪助右衛門
蒲原平内
右同三石宛 岩松七右衛門
堤 玄答
城嶋徳斎
【右五人一括り】
一左之通御加増米被 仰付之旨御
当役典膳殿被相達候
御加増米三石
侍格ニ被 召成候 八十嶋勾当
御加増米弐石宛 田中平兵衛
藤戸分五右衛門
【右二名一括り】
右者此跡ゟ御合力米弐石宛被下置候
此節御加増ニ被相成也
御加増米弐石宛 山田治左衛門
納冨弥五兵衛
【右二名一括り】
壱人飯米被 召上
切米五石ニ被 召成候 吉次順斎
【右二行一括り】
弐石御加増
御徒士ニ被 召成候 森田亀次郎
【右二行一括り】
肩被 召替
御徒士ニ被 召成候 原 善兵衛
【右二行一括り】
一為御褒美左之通被 仰付之旨
御当役御達
南里二左衛門
宮地新五右衛門
御上下壱具宛 松田九郎兵衛
永橋一郎右衛門
太田自兵衛
【右五人一括り】
金子弐百疋 相浦千兵衛
銀壱枚 遠岳傳右衛門
金子五百疋 小田村多仲
銀壱枚 藤嶋清左衛門
御上下一具 渋川新右衛門
金子弐百疋 馬場清左衛門
右同断 三浦諸左衛門
金子弐百疋 相原八郎右衛門
石丸 杢
藤田次左衛門
金子弐百疋宛 藤嶋左馬之助
秀嶋利右衛門
【右四人一括り】
同五百疋 星野九右衛門
同五百疋宛 甘木甚右衛門
中尾筑【ママ、頼ヵ】母
【右二人一括り】
同三百疋宛 藤山惣右衛門
兵動波門
【右二人一括り】
銀弐枚 田中九十九
金子五百疋 松本弥左衛門
同弐百疋 北嶋元叔【ママ、教ヵ】
金子弐百疋 堤 春可
同三百疋 野口久左衛門
大石凉右衛門
崎川弥一
同弐百疋宛 辻 小左衛門
納冨九左衛門
【綴じ目にて読めず】
【右五人一括り】
池田儀兵衛
成冨文之進
同百疋宛 三浦勘左衛門
千々岩弥左衛門
【右四人一括り】
銀弐枚 深江平兵衛
金子百疋宛 石井権兵衛
長崎弥次右衛門
【右二人一括り】
銀壱枚 持永九郎左衛門
古館内蔵右衛門
金子百疋宛 納冨五郎太輔
安本権右衛門
【右三人一括り】
永松甚右衛門
志波太郎右衛門
同弐百疋宛 武藤弥一右衛門
横尾弥左衛門
【右四人一括り】
吉冨十兵衛
城戸五郎左衛門
同百疋宛 今泉近兵衛
土山半兵衛
【右四人一括り】
同百疋 志波官左衛門
同百疋 土井次郎左衛門
金子弐百疋 橋本文右衛門
溝口惣左衛門
江口神右衛門
香月源右衛門
川副与左衛門
松隈久左衛門
西川八右衛門
御酒 東嶋市右衛門
牟田惣右衛門
藤嶋千右衛門
山口八郎左衛門
岩松杢之允
斎藤小右衛門
安本神右衛門
【右十三人一括り】
金子百疋 村田忠悦
銀壱【見せ消ち、右旁に「三」】枚 松隈亨安
同壱枚 北嶋三折
同壱枚 八十嶋勾当
御合力米弐石 牧瀬藤次左衛門
銀弐両宛 伊東貞右衛門
野口卯十
【右二人一括り】
同壱枚宛 青木又兵衛
末永権六
【右二人一括り】
金子弐百疋宛 村岡弥平次
徳本勇右衛門
【右二人一括り】
同百疋 石田逸八
銀壱枚宛 牟田伝兵衛
中野庄左衛門
【右二人一括り】
銀壱枚 野村弥七兵衛
中原文左衛門
西隈只六
轟木卯十
吉田弥五之允
田中吉郎右衛門
西田又助
同弐両宛 江頭十蔵
本村郡八
江口平次
大石弥兵衛
深町彦右衛門
北嶋友右衛門
水田卯左衛門
【右十三人一括り】
岡 杢左衛門
【前コマと一括り】
金子弐百疋宛 嬉野六兵衛
江頭治右衛門
【右二人一括り】
志波弥太六
同百疋宛 吉岡神吾
川崎清右衛門
【右三人一括り】
銀三両宛 松岡郡右衛門【撮影不鮮明、小城藩日記記事目録で補足】
石井忠兵衛
川崎弥平次
【右三人一括り】
水役堅固ニ相勤候付
同三両 古賀和田右衛門
牧瀬福右衛門
金子百疋宛 今村弥七右衛門
松田太兵衛
【右三人一括り】
銀壱両宛 陳【ママ、陣】内利右衛門
北村惣左衛門
【右二人一括り】
同壱枚 持永勇右衛門
金子百疋 久本常右衛門
銀五両宛 荒木伝次兵衛
田代政右衛門
【右二人一括り】
同弐両 山田善次郎
同三両宛 田中新左衛門
小池久右衛門
【右二人一括り】
同壱枚 水田宇兵衛
金子百疋 岡 小左衛門
田中兼十
金子百疋宛 平 伝次
梅崎武太輔
【右三人一括り】
横尾八左衛門
金子百疋宛 栗原儀左衛門
森永文右衛門
牧瀬恵左衛門
【右四人一括り】
銀壱枚 牧瀬長左衛門
金子弐百疋 松田武平
吉田次郎右衛門
横尾常右衛門
中嶋善次郎
御酒 西川惣太左衛門
大木千右衛門
馬々崎定助
吉村弥一左衛門
馬渡清八
【右八人一括り】
【小城藩日記データベースでは「牧瀬兼左衛門」としている。しかし、ほぼ同時期に「牧瀬恵左衛門」も存在しているため、このままとした。】
古賀作左衛門
福嶋房右衛門
大塚文右衛門
御酒 江頭三郎右衛門
西野庄左衛門
高津八兵衛
【綴代にて読めず、江口源兵衛】
【右七人一括り】
光野進左衛門
靍田弥右衛門
御酒 佐藤吉左衛門
奥村又左衛門
右近形右衛門
江嶋卯右衛門
森徳左衛門
【右七人一括り】
御酒 山本利左衛門
平野利十
【右二人一括り】
金子百疋 古賀林斎
銀三両宛 大坪六三郎
鹿郡蔵
【右二人一括り】
一為御褒美左之通被 仰付之旨
御相談役達
数年役方ヵ堅固相勤候付 与右衛門
先年無足足軽ニ被 召成候
其末當年ゟ御合力米弐石ツヽ
組明キ候迄被下候
上無津呂村横目
足軽ニ被 召成候 善之允
下熊野川村横目
右同断 嘉右衛門
一為御褒美左之通被 仰付之旨
請役附ゟ相達
村岡拝左衛門
米三駄宛 池田神右衛門
坂井長次兵衛
【右三人一括り】
同壱駄宛 中願寺神兵衛
副嶋治左衛門
【右二人一括り】
青銅壱貫文 森 久左衛門
銀弐両 金丸源右衛門
御酒 石井与惣兵衛
米三駄【見せ消ち、右旁に「斗」】宛
大坪二右衛門
村田勘左衛門
【右二人一括り】
御酒 岩瀬源右衛門
米三斗 香田孫兵衛
同三斗 中川忠兵衛
米三斗ツヽ 松山九右衛門
原口次右衛門
【右二名一括り】
銀三両ツヽ 伊東祐右衛門
三宮清右衛門
【右二名一括り】
青銅五百文ツヽ 馬々崎吉右衛門
飯盛市右衛門
岸川【カ】儀右衛門
同三百文ツヽ 大家八左衛門
加藤忠兵衛
相良八郎左衛門
【右四名一括り】
米壱駄 深川幾右衛門
鳥目五百文 蒲原徳左衛門
御酒 渕田儀右衛門
青銅三百文 岡 神之允
御酒 酒井次右衛門
銀壱両 松山二左衛門
小道具
御酒 野口市右衛門
【上段】
御馬屋
米壱駄 又右衛門
青銅五百文 久右衛門
【綴代にて読めず】
■右衛門
【右三人一括り】
御酒 庄助
御無地敷方
青銅三百文 岩右衛門
御台所男
同壱貫文ツヽ 万右衛門
平兵衛
【右二人一括り】
同弐百文ツヽ 与四右衛門
久七
【右二人一括り】
御酒 久五郎
【右五人一括り】
【下段】
御挟箱
銀壱両 市右衛門
御乗物
青銅三百文
吉川卯右衛門
右同 平助
同弐百文ツヽ 文蔵
千助
【右二人一括り】
御酒 源助
【右四人一括り】
御賄方手男
青銅壱貫文 杢右衛門
手男
同三百文 与兵衛
【上段】
定八
貞七
鳥目 庄右衛門
五百文ツヽ 五兵衛
千助
【右五人一括り】
吉左衛門
御酒 幸十
【右二人一括り】
神之允
新右衛門
御酒 近左衛門
与八
繁右衛門
【右五人一括り】
勘定所使前
鳥目三百文 文右衛門
銀蔵右同
右同 又三郎
【下段】
御茶や掃除男
青銅五百文 五兵衛
同弐百文 新右衛門
御鷹屋
右同 清右衛門
庄助
鳥目弐百文 吉左衛門
ツヽ 奥右衛門
【右三人一括り】
長右衛門
鳥目 平右衛門
三百文ツヽ 増右衛門
善七
清右衛門
【右五人一括り】
同壱貫五百文 利平次
同壱貫文 利助
【上段】
横町掛り山留
涼右衛門
鳥目 幸七
三百文ツヽ 儀右衛門
貞右衛門
宣右衛門
【右五人一括り】
米三斗 吉左衛門
晴気懸り山留
甚助
鳥目 左平
三百文ツヽ 孫兵衛
弥五右衛門
【右四人一括り】
川内懸り下山留
右同 平内
庄右衛門
【右二人一括り】
銀弐両
【下段】
皆木掛り山留
佐五右衛門
鳥目 七右衛門
三百文ツヽ 与一兵衛
弥五六
【右四人一括り】
寺浦懸り山留
六郎兵衛
鳥目 作右衛門
三百文ツヽ 安左衛門
甚八
【右四人一括り】
副山留と
本山留ニ被 千左衛門
召成候
山内中山留
西國三右衛門
御酒 吉冨幸左衛門
中嶋吉右衛門
【右二人一括り】
米三斗 姉川弥右衛門
【前コマ末尾共に右四人一括り】
【上段】
山内下山留
上熊川
勝右衛門
鳥目 八段原
三百文ツヽ 太右衛門
大串
【綴代にて読めず】
【右三人一括り】
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
才五郎
鳥目 上合瀬
三百文ツヽ 茂右衛門
下無津呂
五右衛門
【右三人一括り】
杉山
九右衛門
市川
御酒 六右衛門
摩那古
孫六
【右三人一括り】
【下段】
山内下山留
小川内
米三斗 近左衛門
鳥目 右同
七百文 平左衛門
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
忠五郎
右同
吉右衛門
右同
儀右衛門
御酒 下熊川
貞兵衛
破瀬
市兵衛
杉山
藤右衛門
【右六人一括り】
【上段】
小野村
形右衛門
古場
吉右衛門
御酒 右同
右衛門之允
藤ノ瀬
弥右衛門
【右四人一括り】
西川番
治右衛門
米壱俵ツヽ 庄右衛門
【右二人一括り】
【下段】
川土井筋
木嶋溝
新兵衛
平田
三郎左衛門
鳥目 晴氣小物成庄や
三百文ツヽ 新兵衛
牛津糀庄や
次右衛門
川越山留
長左衛門
【右五人一括り】
一郷内町方之者江左之通御褒美被
仰付之旨於郡方相達
牛津本町別當
鳥目弐貫文 井手彦右衛門
岡町別當
同壱貫文 池田崎右衛門
新町別當
同壱貫文 石橋庄右衛門
小城町丁役
同壱貫文 木下善右衛門
【上段】
牛津宿継庄や
鳥目壱貫文 庄右衛門
平吉郷大散使
右同 利右衛門
北郷点役庄屋共
樋口刈
銭 甚蔵
壱貫文 大寺刈
ツヽ 貞右衛門
【右二人一括り】
【綴代にて読めず、「佐織刈」ヵ】
同三百文 清右衛門
赤司刈
右同 権左衛門
土生刈
同弐百文 長左衛門
甲柳原刈
同弐百文 勘左衛門
久米刈
同六百文
利右衛門
【下段】
西郷大散使
鳥目壱貫文 浅右衛門
佐保川嶋郷点役庄や共
三ケ嶋刈
米壱駄 甚六
大願寺村足軽
米弐石ツヽ 与右衛門
年々御合力ニ被下候
右同御役方小奉行兼役
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
銭六百文 与四兵衛
佐保村
右同 弥平次
東山田村
同三百文 善兵衛
堀江村
右同 忠左衛門
今古賀村
同弐百文 利右衛門
【上段】
江口刈
銭弐百文 傳右衛門
平吉郷点役庄や共
中津村
銭弐百文 利右衛門
永田村
同壱貫文 政右衛門
下古賀村
同弐百文 与右衛門
友田村郡継庄や
同三百文 七右衛門
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
右同 ■之丞
東道宿村
近之允
同弐百文ツヽ 弥兵衛
【右二人一括り】
江津村
同五百文 善次
川上一ノ井樋番
米三斗 孫六
【下段】
池上村
銭弐百文 弥惣右衛門
猶田村
右同 市郎兵衛
立物刈
右同 勘【右旁に「太」挿入】左衛門
中極町別當
右同 庄左衛門
木嶋溝刈
右同 長右衛門
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
西郷点役庄屋共
高柳刈
米壱駄 常右衛門
船田刈
銭壱貫文 甚右衛門
砂田刈
嘉平次
下久須刈
同弐百文ツヽ 権之允
九所刈
善六
【右三人一括り】
上栗原刈
銭弐百文 平右衛門
畑田刈
右同 市左衛門
一左之通御褒美被 仰付之旨於
御蔵方達
【上段】
山内古場村庄や
米六斗 与左衛門
同村横目
同三斗 形右衛門
摩那古村横目
米三斗 傳右衛門
大願寺村横目
同六斗 五郎左衛門
東山田村横目
銭弐百文 惣右衛門
堀口村右同
同五百文 七郎右衛門
お保村庄や
右同 新六
【下段】
市ノ川村庄や
銭五百文 八右衛門
八段原村庄や
同壱貫文 忠兵衛
■■■庄や
銭三百文 源右衛門
緑刈右同
米三斗 九郎右衛門
久米刈
銭三百文 政右衛門
北浦村庄や
同三百文 七右衛門
九所刈右同
米三斗 藤右衛門
【上段】
牛尾村庄や
銭三百文 藤右衛門
池上刈村庄や【二文字見せ消ち、右旁に「横目」】
同五百文 森右衛門
金田刈庄や
同弐貫文 権兵衛
樋口刈庄や
同六百文 善右衛門
四条刈右同
同六百文 久兵衛
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
同弐百文 甚内
永田村庄や
米三斗 覚左衛門
下古賀村横目
銭三百文 文六
同村庄や
同三百文 八内
舎人村庄や
同三百文 覚之允
【下段】
生立刈
銭五百文 重右衛門
江口刈村横目
同三百文 与右衛門
金田刈右同
同三百文 新六
木嶋溝刈右同
同三百文 卯兵衛
生立刈右同
同三百文 新吾
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
米六斗 惣左衛門
町分村右同
銭弐百文 杢左衛門
濱中村横目
同三百文 長左衛門
八枝村庄や
同弐百文 八右衛門
舎人村筆者
同弐貫文 三根右衛門
【上段】
柿樋瀬村庄や【二文字見せ消ち、右旁に「筆者」】
同壱貫文 善右衛門
高柳刈筆者
同六百文 次右衛門
久本刈右同
同五百文 善五郎
三ケ嶋刈庄や
同五百文 源之允
織嶋刈右同
同三百文 弥右衛門
【下段】
赤司刈村横目
銭三百文 忠右衛門
高柳刈筆者
常右衛門【この一行見せ消ち】
三ケ嶋刈
米三斗 太右衛門
社刈
銭弐百文 藤蔵
山代東分村庄や
米三斗 幸右衛門
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
銭弐百文 市左衛門
一為御褒美左之通被 仰付之旨
於修理方達
木挽 畳屋
米三斗 磯右衛門 米三斗 嘉左衛門
屋祢や 手男頭
右同 清左衛門 御合力米六斗 覚兵衛
【上段】
張付や
米三斗 友右衛門
掃除方
銭三百文 八左衛門
右同
千兵衛
同弐百文ツヽ藤八
【右二人一括り】
【下段】
御修り方使前
太郎左衛門
銭弐百文ツヽ正之允
【右二人一括り】
催促方手男
同三百文 九右衛門
普請方
同五百文ツヽ四人
右同
数年相勤 勝右衛門
【一行あり、綴代にて読めず】
右之通去子ノ暮御褒美今日被
仰渡候尤去暮者
殿様御忌中ニ付而也右人数之内
別勤幷當病等ニ而今日之間ニ合
不申人々ハ追々被相達候
御薬数三百拾八ニ付
金子千疋 松隈亨安
御薬数九百七拾貼ニ付
金五両 北嶋三折
同五両 村田忠悦
右者去年中御薬差上候付
為御薬料銘々書載之通被
下之旨御相談人達
一去暮於江戸御褒美左之通被
仰付候由申来候
御加増五石 増田孫兵衛
右同弐石ツヽ 相良十郎助
大嶋文蔵
【右二人一括り】
一生之間壱ケ年ニ
弐石ツヽ御合力 吉冨三郎兵衛
御切米三拾石 松井与市
右者紀伊國屋与兵衛孫ニ而与兵衛ゟ
江戸納戸役迄内々相願候訳有之
候付新ニ御切米三拾石被下候尤新ニ
御抱と申儀者殊之外御手数
六ケ敷儀ニ付松井小膳養子分
ニ而名字をも松井と相名乗候也
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
弐石之御切米を 山田五郎左衛門
四石ニ被 召成候尤原善兵衛肩被
召替御徒士ニ被召成候跡切米也
但御国元ニ而被 仰付候 無足足軽
御切米弐石被 下候 小西八兵衛
尤山田五郎左衛門四石組ニ被召成候跡切米也
【左丁】
一今日仕舞ニ而江戸へ年始之御飛脚
小倉迄被差越筈之処不仕廻ニ付
明十日仕廻被差立筈也
同十日
一高岳院様へ 殿様御代香
御使者番勤御香奠線香一束
同十一日
一宗智寺へ 殿様御代香
御家老水町典膳殿御香典
白麻弐拾帖
一祥光山へ 御代香御使者番勤
御香典線香一束
一大殿様左之人数へ被渡
御目候
岩蔵寺
般若寺
祥光寺【「寺」見せ消ち、右旁に「山」】
玉毫寺
御礼過出物有之跡方之通也
同十二日
一今朝五ツ時御供揃ニ而両御寺へ
大殿様御堂参被遊候
一殿様 御代香御家老野口文次郎殿
御香奠線香一束
正月十三日
一御参會例之通
一祥雲院様初御銘【ママ】日ニ付栄照庵江
従 殿様御代香御使者番勤
一被御談御用ニ付各方御出仕【一行分見せ消ち】
同十四日
同十五日
一當日為御祝義各方御出仕
一去子ノ十一月諸願例之通 御印之御書
附を以御當役文次郎殿被仰渡候
一水田卯兵衛義亡父弥次右衛門跡切米無相違
被仰付之旨文次郎殿被相達候
一去ル九日仰渡残リ之人々へ御褒美被
仰付候尤御褒美之品ハ九日之扣ニ有り
同十六日
一西丸聞番介役久保三郎兵衛義役方被
差免一類同組之者へ被相預今日西丸ゟ
引取申候妻子ハ一類へ被相預家才等者
是又一類ゟ押取成遣致候様被仰付候
同十七日
祥雲院様三十五日御法事ニ付
栄照庵へ 殿様御代香御使者番勤
一阿蘭陀人牛津止宿ニ付跡方之通
役之被触越候
同十八日
一祥光山へ 大殿様朝五ツ時御供揃
ニ而 御堂参被 遊候
一殿様 御代香典膳殿御香典線
香一束
一下川利兵衛義長病之末昨十七日相果候
右者数年 喜三郎様御側相勤
尤大病ニ付先送而役方為被指免義ニハ
候得とも数ケ年相勤之者ニ付親次衛門
金子弐百疋被為拝領候
同十九日
一於評定所御究有之
一於下高田村鵜仕候義被指免度旨
佐嘉諸猟方相勤居候大隈嘉一郎
より相願ニ付来ル廿三日一日被指免候
右罷越候節者此御方御猟方より
壱人為立合被参筈也
同廿日
一玉毫寺 祥光山へ
殿様 御代香番頭勤御香奠
線香壱束ツヽ
一大殿様 御代香御使者番勤御香
典御賄方ゟ出ル
一久保三郎兵衛勤番同組中ゟ数日之
義ニ付不相叶ニ付重松又左衛門方預り
組ゟ勤番被致候様大組代達ヵ【見せ消ち、右旁に「迄」】申達
同廿一日
一大殿様朝七ツ時御供揃ニ而為山御狩
御出被遊候
一飯盛忠左衛門義下目附役被仰付候旨
御當役御達
正月廿二日
一祥光山へ 殿様 御代香番頭
重松又左衛門御香典線香一束
一大殿様御代香御使者番冨岡弥一左衛門
御香奠御賄方ゟ出ル
同廿三日
一御前様 天山社幷 般若寺
稲荷社へ御社参被遊候此節
岩蔵寺般若寺護摩堂へも被遊
御入候御供中御徒士通迄年始
ニ付麻上下着用
同廿四日
一猶田村庄や江金子百疋被拝領候但無據儀願也
同廿五日
一久保三郎兵衛勤番数日之義ニ付
一ノ先御組明日より勤番被仰付之旨
大組代迄手紙出ル
正月廿六日
一於祥光山 弘徳院様 長寿院様へ
従 殿様之 御代香番頭木下
求馬御香奠線香壱束ツヽ
一大殿様 御代香御使者番勤御香
典御賄方ゟ出ル
一於評定所清八被相糺候
一外御居間前ニテ 大殿様相撲
為御取御覧被遊候此節外より
御構無之
一大石涼右衛門義御用ニ付濱崎被差
越候足軽目附村岡拝左衛門相附
罷越候此節拝領金幷渡方之義
御納戸帳ニ扣有之也
一御用ニ付蔵人殿西丸被相越候
正月廿七日
一御究○【「事」挿入】申披露有之
一今夜久保三郎兵衛義寄親重松
又左衛門方宅ニ而御調へ事有之候
此節一類同組相預候
同廿八日
一東嶋新兵衛義亡父久左衛門跡式無相違
被仰付之旨典膳殿被相達候
一久保三郎兵衛義御調へ事今日披露
有之
正月廿九日
一御前様四ツ時御供揃ニ而祥光山へ
御堂参被遊候
一二丸便ニ而江戸ゟ之御用翰昨夜
到来
一町便ニて江戸ゟ之御文箱到来
一久保三郎兵衛義於評定所被相糺候
究役相原八郎右衛門服部尉右衛門中嶋
庄兵衛鴨井勘左衛門御目附小田村多仲
祐筆光野進左衛門
一御掛硯帳納有之
一久保三郎兵衛義大小一類之者へ御預
揚り屋へ被差置候
二月朔日
一當日御祝義例之通各方御出仕
一去十一月中旬比佐嘉御什物方ゟ
直英様已来之御系圖被相調へ被
差出候様申○【「来」挿入】居候ニ付相仕立今日
西丸迄指越西丸より御什物方へ
被差出候様申越候此節大蔵殿
御系圖も同様差越候右被差出候
御系圖写旧記方へ有り
一信州様去十二月十八日御着府成ニ付
丹州様へ従 殿様御歓御使者
西丸勤尤昨日之江戸便ニ申承候付
被差出候
一備前守様 お清様より
殿様へ寒中為御見廻御
屋鋪へ御使者御到来ニ付右御
挨拶御使者川原小路迄西丸勤
一昨日於評定所久保三郎兵衛被相究候
旨今日披露有之
一江頭治右衛門義侍ニ被召成御合力米
三石を御加増ニ被仰付之旨監物殿
御達
一今日左之通役替被 仰付之旨
文次郎殿御達
久保三郎兵衛代
西丸介役 崎川弥一
崎川弥一代
郡方役 深江平兵衛
深江平兵衛代
同介役 池田儀兵衛
池田儀兵衛代
御蔵方 三浦勘左衛門
三浦勘左衛門代
目附兼
勘定所 蒲原平内
蒲原平内代
地方役 江頭治右衛門
二月二日
一祥雲院様御四十九日御法事於
栄照房御執行ニ付左之通
一大殿様 御名代御香典共ニ奥ゟ
一殿様 御名代御使者〇【「番」挿入】勤御香
典線香弐束
一御前様 御名代平士勤御香
典なし
御新宅
一御二方様 御名代右同御香典
なし
一於三溝村大興寺
祥雲院様御四十九日御法事豊前殿
方ゟ執行有之候付
大殿様 御名代御使者番勤御
香奠白麻拾帖
一御参會例之通
一大石涼右衛門義就御用先日より濱崎
罷越居候処今日罷帰候
二月三日
一外御居之間前ニ而 大殿様角力
被遊 御覧候外ゟ御構無之
一於評定所御究事有之
同四日
一大殿様為山御狩御出被成候尤朝八半
時御供揃也
此両人御褒美之義ハ正月九日扣ニ有之也其節病氣ニ付今日
被仰付候
一渋川新右衛門義役方堅固ニ相勤
候ニ付麻御上下一具被為拝領候
一三浦諸左衛門義同様ニ付金子弐百疋
被為拝領候
一中町清八御究事御當役へ御披露
有之
二月五日
一大殿様四ツ時御供揃ニ而天山宮幷
護摩堂御帰ニ般若寺へ御参詣
被遊候
同六日
一昨夜町便ニて江戸ゟ之御用翰到着
此節申来候者去年
殿様御防方被蒙 仰是まて
御勤被遊候処去秋御領中御損毛
之御届御本家様ゟ有之候付去
月十三日被為蒙 御免候由申来候
依之 丹州様其外為御知合之
御方へ為御知有之候
一無量寺住持瑞岩和尚去年
十二月五日被致死去候就而ハ無量寺【「無量寺」見せ消ち】
無量寺無住ニ付右瑞岩弟子
蘭州江無量寺看坊被
仰付之旨寺社方役太田自兵衛
方被相達候
一今日北浦村堤浚ニ付御郷人馳
有之候此節為見分永橋一郎右衛門
遠岡傳右衛門被罷越候其外郡方
役を始郷役中へ者外御臺所
より弁當出ル大庄屋中へハ御酒
被下候
一徳見官左衛門義従
大殿様急々罷越候様被仰出ニ付
早々此方罷越候様飛脚を以申
越候
二月七日
一御新宅 御姫様方四ツ時御供
揃ニ而天山宮般若寺へ御参詣
被遊候御供中麻上下着用也
一中園文右衛門義地方附役被仰付
之旨御當役御達尤江頭治右衛門
代り也
同八日
一於美濃様御道具豊前殿屋鋪
より昨夜差返候尤此方より
取ニ夫丸幷才領足軽被差越候
二月九日
一諫早豊前殿方より使者を以
祥雲院様御遺物手覚書付
左之通
手覚
一中古歌仙手鑑
右者
紀州様江
一黒繻子御衣装地
一紅羽二重 一端
右者
松姫様江
一六歌仙繪賛哥
右者
伊三郎様江
一御硯箱 一
右ハ
喜三郎様江
一御手附小童
一赤綿
右ハ
艶菊様江
一御手附小童
一赤綿
右ハ
熊菊様江
一御三徳
一御人形 一
一御水入 一
一御けさん 一
右者
守三郎様江
一もふる御帯地
右者
於佐保様江
一郡内嶋 一端
一紅羽二重 一端
右者
於久米様へ
以上
右之通豊前殿ゟ被差上候
一於評定所久保三郎兵衛被相糺候
二月十日
一於評定所久保三郎兵衛被相糺候
同十一日
一一昨日昨日之御究事今日披露有之
一今日仕舞ニ而江戸大坂へ之御用簡小
倉迄被差越候
同十二日
一大殿様 御新宅 御二方様
祥光山幷栄照房へ御参詣被遊候
一深江平兵衛義役方勤兼候付銀
十枚被為拝領候
一崎川弥一義同様之義ニ付金拾両
被為拝領候
一池田儀兵衛義同様之義ニ付銀五枚
被為拝領候
右三人共ニ相談人より相達
同十三日
一御前様栄照房へ御参詣被遊候
一御参會例之通
同十四日
同十五日
一當日為御祝義各方御出仕
一宇佐宮小坂坊より御巻数差上ニ付
銀三両被下候
同十六日
一今日より川上一ノ井樋御郡替仕懸り
ニ付為立會跡方之通諸役ニ罷越候
委細別帳ニ扣有之
二月十七日
一町便ニ而江戸より之御用簡到来
同十八日
一旧臘罷越候飛脚足軽北嶋平次兵衛
帰便ニ而江戸ゟ御用簡至来
同十九日
一大塚文右衛門義亡父茂左衛門跡切米無
相違被仰付之旨御當役被相達候
同廿日
一今日迄一ノ井樋郡替相澄也
一御究事御用ニ付各方御出仕
一丹州様御事當二月迄御暇之月
限相満候付今又二十ケ月御暇従
信州様御願被成候処御願之通相済候付
御歡御使者西丸勤
一信州様旧臘廿七日為上使松平
右近将監様御出翌廿八日御登
城御参勤之御礼首尾能被仰上候付
丹州様へ従 殿様御歡御使者
西丸勤
一備前守様 於清様より江戸江
年始為御祝義御使者御至来ニ付
右御礼御使者川原小路迄西丸勤
一十一月三日
淑姫様へ
大御奥御老女中より御奉文を以
御鷹之雁御拝領被成候段江戸江
為御知有之候付
丹州様ヘ 殿様より御歓御使者
西丸勤
一淑姫様へ
大御奥より 上使を以歳暮為
御祝義従
公方様白銀弐拾枚綿廿抱従
御臺様白銀拾枚干鯛一箱御
拝領被成候由為御知申来候付
丹州様へ従 殿様御歓御使者
西丸勤
一猫石山御狩倉之内より井樋角
五百挺被差出候御印出ル
二月廿一日
江戸ゟ之御用簡到来尤古賀儀兵衛
帰便也
一於評定所久保三郎兵衛先日より
被相糺候処役内銀米引違私
欲姧謀仕候由今日致落着候付
格合被召替揚屋へ被召置候
一右ニ付太田自兵衛去八月迄彼之者
頭人被相勤居候付遠慮仕候段御
届有之候処其義ニ不及段被 仰出候
二月廿二日
一御参會例之通
同廿三日
一春渡り三郡之内より五勺【ヵ】被相渡之旨
大組代中へ相達
二月廿四日
同廿五日
一徳見官左衛門義御用ニ付被召呼候付
今日罷越也
同廿六日
同廿七日
一黒木次郎兵衛義内證差閊候付而向
三ケ年山内居住仕度旨被相願候処
願之通被差免之旨被仰出候
一般若寺義来月四日ゟ同十六日まて
川上宮経法會罷出度ニ付右之日数
御暇被相願候処願之通相澄
同廿八日
同廿九日
一豊前殿家来田中平馬早田嘉左衛門へ
西丸ニ而御用為御對談今日文次郎殿
被相越候此節茶くわし出ル
一於才様御用ニ朝鮮人参五分被指
出候也
一お喜代様今日平九郎殿御宅御引越
ニ付左之通
一塩鯛一折 二
一御樽三升入 一
一弐【一字見せ消ち】本入扇子一折
右ハ於み恵殿へ
一弐本入扇子一箱
右ハ彼御方御附人相勤居候ニ付
大園半左衛門へ
一酒壱斗
一塩鯛一折 二
右ハ彼之屋敷家来中へ
一御供左之通
一平士 弐人
一徒士 弐人
一御挟箱 一挺
一御さし守り上候而御出
一女中
同晦日
一於外御居之間前相撲為御取
大殿様御覧被遊候従外ハ御構無之
一於評定所下町源右衛門安兵衛被相糺候
三月朔日
一當日御祝義例之通
同二日
一御参會例之通
一お美濃様へ相附候女中今日豊前殿
屋敷ゟ引取被申候
同三日
一今朝四ツ時於外御居間左之人数へ
大殿様被渡 御目候
御親類中
御家老中
太郎兵衛
采 女
大御目附
元 〆
御相談役
御相談見習
旧記方頭人
惣御目附
附 衆
御状方
御賄方役
御内詰
御新宅詰
御子様方御傍中
一徳見官左衛門義高嶋番被仰付候
一昼九ツ時御親類御家老中太郎兵衛殿
采女殿へ
御前様被渡 御目候
一丹州様へ従 殿様當日御祝義
御使者馬乗以上勤
一御同人様へ 大殿様より御使者
西丸勤
一御前様より右同西丸勤
一御家中惣代両人西丸勤
一今朝町便ニ而江戸大坂ゟ之御用簡
到来
三月四日
一大殿様為山御狩御出被遊候
同五日
同六人
一大殿様 お佐保様 お久米様
松田九郎兵衛宅へ被為成候
三月七日
一徳見官左衛門今朝より罷帰候尤逗留
中之主従賄料 御上ゟ被差
出候但御用ニ付被召呼候付而也
同八日
一松田九郎兵衛義御借銀方取鎮且又
河野源三取組筋等之義ニ付大坂
被差越之旨被 仰付候就而ハ御
相談役兼勤被成 御免候
一小田村多仲義嬉野善右衛門江戸ゟ
罷帰候迄御相談役兼勤被
仰付候何れも御當役御達
同九日
三月十日
同十一日
一江戸ゟ之御用簡二丸便ニテ到来
一今朝四ツ時御供揃ニ而
大殿様玉毫寺へ被為成候
一村川利右衛門一類佐嘉評定所より
呼出ニ付而両人被罷越候
同十二日
一去月十三日 信州様へ
上使を以御國元江之御暇被蒙
仰御拝領物有之 大納言様ゟも
上使を以御巻物御拝領同十五日
為御礼御登 城被成候処御懇之
上意を以長崎御番不相替被
蒙 仰候段為御知有之候付右
御歓 丹州様へ従
殿様御使者西丸勤
一お美濃様御逝去ニ付江戸御屋舗へ
従備前守様お清様御悔御使者
有之候付右御會拶御使者川原
小路迄西丸勤
三月十三日
一御参會例之通各方御出仕
同十四日
一東嶋市右衛門ゟ相願候ハ知行所於
遠江刈拾五石先年御預ケ申
上置候を此節被返下候ハヽ自分ニ
支配仕度尤右内五石ハ 上筋
返上方ニ差分置拾石之所被返下
度被相願候処願之通被仰付候
三月十五日
一當日御祝義例之通
一今日 御前様 お佐保様
お久米様為御遊船江筋御越被
遊候尤今朝より御出被遊候而ハ汐相
悪敷御船被為 召候御間ニ合兼
候故昨十四日暮時御供揃ニ而牛津
上使屋迄御出同夜内ニ牛津大橋
より御乗船今夜四ツ時御帰館
此節御供不時御堂参之格也
上々様へ上使屋幷御船ニ而之上り物
扠又惣御供中へ両度之弁當外
御臺所より被差出候委細御臺
所帳ニ扣有之也
一右ニ付御借船数左之通
御召
一六百俵積久次郎船一艘
一御供船壱艘
一御臺所船壱艘
一御引船壱艘
一通伝間船壱艘
右之通御船借集舸子雇等
之義岡三左衛門へ被仰付候寺井
御手舸子五人牛津御手舸子
十人船役者弐人へハ弁當被
差出候
一御船補理一通御修り方より
相整候事
一御乗場道補理等普請方より
相整候事
一右御越ニ付而柳靏御番所へ案内
之義昨日郡方役池田儀兵衛自分
より参候形ニ〆被申達候其時十五日
大殿様江筋被遊御越候此節
御前様 御姫様方ニも御越被成候
此段為御心得申入置候由ニ而三升樽
交肴一折自分ゟ之形ニ〆持越
被申達候
一大殿様七ツ時御供揃ニ而江筋御越
被遊候御船等早暁之通
一天山宮江 殿様御名代御使者
番勤
右ハ御誕生日ニ付被仰付之旨江戸
より申来候付而也
一佐嘉役々江進物左之通
一鯣 鍋嶋隼人
三升樽一
右ハ蔵人殿より自分之首尾
にして被差送候尤先達而
川上川口荒籠除川堰留メ常
径さらへ御願書等二丸へ被差
出置候末ニ付而也
代判役
堤弥左衛門
御普請方
一羽織地一反 諸隈儀右衛門
交肴一折ツヽ 田口庄兵衛
【右三人一括り】
右ハ渋川新右衛門ゟ遣
役内目附
岡本善右衛門
一同
右ハ深江平兵衛ゟ遣
一三升樽一
交肴一折ツヽ 重松八十右衛門
迎治兵衛
案文方何某
【右三人一括り】
右ハ渋川新右衛門ゟ被差送候尤
案文方役ニハ江戸飛脚等
之節此御方より文箱御頼
被成度ニ付被相知セ呉候由頼ニ
付而也
三月十六日
一今曉ゟ江戸大坂へ之御用簡小倉
まて被差越候是控武藤○新云
同十七日
一今日左之通大組代中へ相達
於小路廻り植立杉を伐又者据石
等ヲこがし扠亦浄瑠璃小
哥をうたひあるき候者跡方
有之候節右躰無之様相達
被置候然處近キ比緩ミに相成
間々者右躰之義有之趣ニ相聞
甚不宜敷候尚又自今者
主人々ゟ召仕候者へも稠敷
相達被置晝夜ニ不限疎之
儀無之様氣を付罷在候若ヵ
相背者於有之ハ早速召捕へ
候様被相整其段筋々被
申出候様訖度相達可被
置儀ニ候
三月十八日
一大殿様御堂参被遊候
一旧冬調達銀被仰付置候小頭徒士
足軽ヵ呼出ニて調達銀納メ残り来ル
廿八日限ニ皆納仕候様附衆ゟ相達
一相良源兵衛より蔵人介迄被相
願候ハ居宅見苦敷殊ニ世倅
求馬義も町奉行等相勤候得者
勝手不如意而已ニ御座候付近来
如何敷奉存候得とも二間ニ二間之
座敷其外部屋位之家作候分
之竹木被差出被下候様帳面
を以被相願候得とも近年別而
竹木御拂底ニ付願之通ニハ不
被相叶左之通被遣候
一小杉拾六本
一松木拾五本
一壱人持丸太弐拾弐本
一六寸廻竹弐百本
一五寸廻竹弐拾本
一三寸廻同七束
一小竹拾七束
右之通被遣候尤山内より
被差出川下シ相成筈之由
三月十九日
一二月諸願御請役典膳殿被仰渡候
委細仰渡帳ニ有り
三月廿日
一寿昌院様御正當日ニ付
殿様 御代香御家老勤御香奠
線香壱束
一大殿様 御代香番頭勤御香典
御賄方より出ル
一江戸大坂ゟ之御用簡町便ニて到来
同廿一日
同廿二日
一心諦院殿一周忌法事於高木
父母寺有之候付従
殿様 御代香馬乗以下勤御香典
線香弐束
一諫早豊前殿昨廿一日死去ニ付日数
三日之御領中御隠便二丸より之
觸状到来
一於美濃様御逝去ニ付
大殿様 御前様江従
殿様御朦中為御見廻何そ被指
上之通相調候様江戸ゟ申来居候付
今日左之通被差上候
一素麺一折
一御野菜一折 上とうふ
れんこん
うど
山いも
右者
大殿様へ
一御野菜一折 右同
右者 御前様江
右御使附衆勤
三月廿三日
一豊前殿死去ニ付今朝卯ノ刻屋敷
出棺ニ付平侍弐人足軽三人
西丸前へ辻固被差出候
一祥雲院様御百ケ日御法事栄照庵
ニおゐて被相整候付左之通
■■
一鳥目弐貫文
一米三斗
一薪五荷
一大殿様 御名代物頭勤御香奠
線香弐束
一殿様 御名代右同御香奠白麻
拾帖
一御前様 御名代右同御香奠線
香弐束
一御新宅 御二方様 御名代平侍勤
御香奠○線香壱束ツヽ
一同日三溝村大興寺へ 御名代
左之通
一大殿様 御名代物頭勤御香奠
白麻弐拾帖
一殿様 御名代右同御香典右同
一御前様 御名代西丸勤御香典
白麻拾帖
一御新宅 御二方様 御名代右同
御香典白麻拾帖ツヽ
一町便ニて江戸大坂ゟ之御用翰到来
三月廿四日
一泰盛院様御正當ニ付高傳寺へ
殿様より 御代香西丸勤御香典
白麻弐拾帖
一御前様 御子様方為花御折
三根山御出被遊候跡方之通御桟敷
出来在候事
同廿五日
同廿六日
一今泉平太義高嶋御番被仰付之
旨御當役被相達候尤徳見官左衛門へ
被仰付置候処病氣ニ付御断申上
候付被成御免故也
一今日仕廻ニ而江戸大坂へ之御用翰
幷御仕送金五拾両大坂迄被差
越候飛脚足軽平野段六
一御勘定○衆御普請役今夜牛津止宿
ニ付跡方之通旅中為御見舞
御使者を以三升入葛粉一箱ツヽ被
遣候右御使者深町平兵衛勤之
一右ニ付諸役々跡方之通罷越候
三月廿七日
一被仰談御用ニ付各方御出仕
同廿八日
一川上川口之義ニ付二丸へ御願書
被差出候佐嘉御取合帳ニ扣置也
一
同廿九日
一今夜暮時比より
大殿様 御前様
於佐保様 於久米様宮地新五右衛門
宅へ被為入候
四月朔日
一天山宮江 御名代相原八郎右衛門
御参銀三匁 大殿様 御名代
冨岡弥一左衛門御参銀御賄方ゟ出
一於岩蔵警固頭人木下傳左衛門
足軽六人
一當日御祝義例之通
同二日
一御参會例之通
同三日
一大殿様彦嶋曇華院江被為
成候御供御堂参之通
四月四日
一昨夜二丸便ニて江戸より之御用簡
到来
一今日仕舞ニ而江戸大坂江之御用簡
小倉迄被差越候飛脚足軽
小原貞右衛門
一村川利右衛門義佐嘉御引合事も
末相澄候得とも當時御事多ニ付
先以此御方へ被差返之段二丸より
相達有之候由西丸より申来候
同五日
一今日仕舞二丸便ニ而江戸江
御文箱被差越候
一殿様御誕生日御祝ニ付 御内江
御銚子壱斗樽御肴一折《割書:ぐち|あわび》
被差上候惣躰去月十五日之所処
大殿様 御前様 御姫様方
去月十五日ニハ江筋御越ニて御留守ニ付
今日御祝之御手数被相調候
一村川利右衛門義爰許へ被差返之旨
昨夜相達有之候付今日右為請取
足軽目附壱人定警固四人を西丸
聞番差次犬塚傳左衛門召連評定
所罷越受取直ニ此御方評定所
揚り屋へ被召置候
四月六日
一於江戸當月御役御差繰等有之候
月ニ付御除キ被成候様ニ於般若寺ニ
五夜五日御祈禱御執行尤料金
三両被遣候
一久保三郎兵衛義今夜久留間籠へ
被差遣候
四月七日
一今日仕舞ニ而江戸へ之御用簡大坂
まて差越され候飛脚足軽江頭
平治次兵衛
同八日
一松田九郎兵衛義御借銀方御用ニ付
大坂被差登之旨先日被仰付置候
付今朝より被致出立候此節
足軽目附池田甚右衛門相付罷越候
渡方壱通り御納戸へ相知居候
一於三ツ溝村大興寺豊前守中陰
有之候付 大殿様 御代香御
使者番勤御香奠白麻弐拾帖
御前様 御代香西丸勤御香典
白麻拾帖
四月九日
一御修理方頭人千々岩弥左衛門幷附役
三人遠慮御届申上候尤濵御
茶屋御造作之義ニ付而也
同十日
一今日ゟ於岩蔵寺五夜五日御祈禱
御執行尤今度松田九郎兵衛義
江戸御仕送方為取組大坂被差
越候付而ハ首尾能相談相澄候
ため也料金三両被遣候
四月十一日
一今度帰府之御勘定衆御普請
役今夜牛津止宿ニ付跡方之通
元〆方郡方其外役々罷越候
且又旅中為御見廻御使者を以
三升入葛粉一箱ツヽ被遣候右
御使者香月源右衛門勤之
同十二日
一今日仕廻ニ而江戸大坂へ之御用簡
扠亦江戸御仕送銀三貫弐百
四拾匁大坂迄被差越候飛脚
足軽山田七郎兵衛中国路八日也
四月十三日
一御参會例之通各方御出勤
同十四日
一大組代中呼出ニて左之通附衆ゟ
演達有之候
小路廻り掃除等無油断有之
候様兼而被 仰付置候然処
近キ比緩セニ相成所々ニ箒溜
等有之殊之外見苦敷儀ニ候
惣躰小路廻り之儀ハ他方之人
通行も有之義ニ候得ハ只今
之通無掃除ニ而ハ甚不宜
義ニ候条尚又向後屋鋪前
之儀主人々被心懸召仕共
へも稠敷被申付無油断掃
除有之箒溜等も急速ニ
取除候様偖又間々ハ蛇類不
浄之物を道中ニ取散し
有之是又到而不宜事ニ候
万一左様之義有之節ハ其
屋鋪〳〵ゟ早速取除尤右躰
之儀致し候旨見當り候ハヽ
差咎候様ニ召仕共江も兼而
申付被置候様旁懇ニ可
被相達由ニ候
四月十五日
一当日御祝義例之通
一殿様御誕生日ニ付於般若寺御放生
被成候尤去月十五日御放生有之筈
之処間落ニ相成今日被相調候
四月十六日
同十七日
一栄照房於浦山
大殿様御鉄砲的 被遊候付御
親類中御家老中幷御相談人
御目附中附衆迄被為 召候也
同十八日
一大殿様御堂参被遊候尤朝五半時
御供揃也
同十九日
一先達而大坂被指越候飛脚足軽平野
段六帰着致し候
四月廿日
同廿一日
同廿二日
一御参會例之通
一御式臺前ニおゐて相撲為御取
大殿様御覧被遊候此節下目附
幷警固足軽御修り方小奉行
都合五拾人餘ニ外御臺所ゟ晝弁
當被差出候扠亦相撲取幷見物人
表御門ゟ被差通候
一今夜町便ニて江戸ゟ之御用翰
到来
同廿【五を見せ消ち】三日
一今日も昨日之通相撲御覧被遊候万
端昨日之通
四月廿四日
同廿五日
一上佐嘉 金剛天満宮江 御代参
山田孫次郎御参銀金子百疋
同廿六日
同廿七日
一守三郎様今日御学問御手習
始被遊候尤右一通之御道具御
納戸ゟ相調差上候事且御師範
橋本文右衛門へ被仰付候付御内ニて
御酒被為拝領候酒壱升肴一種渡
切尤外ゟ
同廿八日
同廿九日
五月朔日
一當日御祝儀例之通
一郷方為見分元〆役永橋一郎右衛門御目附
遠岳傳右衛門其外所諸役人被罷越候外
役人中へハ御臺所ゟ弁當被罷出候尤
永橋氏遠岳氏へハ其儀無之
同二日
一御参會例之通
一先日於評定所御究之口書今日披露
有之候
一渋川新右衛門御用ニ付西丸ゟ被罷越候
一乙柳村清泉寺江金子百疋被下候但
郷役中毎度彼ノ寺相集り御用
相整候ニ付而也
五月三日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
一山伏吉祥坊ゟ相願候者倅宝娶【ママ、聚】院
義兼而不行跡ニ御座候付毎度
異見等相加候得共承引不仕今更ハ
如何共可仕様無御座候右ニ付而者
惣領之義為引取度旨相願候付願
之通被 仰付候右之趣○願書付寄親
大寄親点合之上組代筋ゟ差出候也
五月四日
同五日
一當日御祝儀例之通四ツ時於外
御居之間ニ左之人数江
大殿様被渡 御目候
御親類中
御家老中
大御目附
元締役
御相談役中
御相談役見習
御記方頭人
御内頭人
惣御目附
請役附
大殿様
御状方
右同
御賄方頭人
御内詰
御新宅詰
御子様方御傍
一九ツ時比御親類方御家老方へ
御前様被渡 御目候
一丹州様江従 殿様當日御祝義
御使者相原八郎右衛門勤之
一丹州様へ従 大殿様右同御使者
西丸勤 御前様ゟも右同人ニ而相勤
一御家中惣代両人西丸勤
一帰路之阿蘭陀人今夜牛津止宿
ニ付郡方役を始諸役人罷越跡方
之通相整候
五月六日
同七日
同八日
一於評定所牟田玄益下人熊右衛門義
被相糺候
一寺社方役太田自兵衛方宅ニ而山伏
宝娶【ママ、聚】院被相調候
五月九日
同十日
一高岳院様江 御代香御使者番
勤之
同十一日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
同十二日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
同十三日
一御参會例之通
五月十四日
一當月御祈禱今日ゟ弐夜三日於
小松之間岩蔵寺執行之御布施
其外御供物幷出物等之儀委細
御臺所江相知居候
同十五日
一當日御祝儀例之通
一天山宮江 御代参御使者番勤
御参銀無之右者
殿様御誕生日ニ付被 仰付候様
江戸ゟ申来候付而也
一御差支之趣承傳候由ニ而牛津新町
罷在候鐘ケ江久太郎ゟ銀五貫目
献上仕度旨申上其内銀弐貫○五百目
相納候付先以為御褒美御酒
被為拝領之旨附衆ゟ相達尤相應
之場所無之ニ付納戸ニ而被為拝領候
相伴下目付也
同十六日
同十七日
一例年之通五穀豊饒御祈祷岩
蔵寺般若寺へ被 仰付候寺社方
役ゟ相達右ニ付料物として
米六斗銀弐枚ツヽ被差出候
同十八日
一川上川口ゟ芦刈水道筋為見分當役
典膳殿大御目附南里二左衛門元締役
永橋一郎右衛門御相談役太田自兵衛
惣御目附藤嶋清左衛門請役附川浪
助右衛門郡方役深江平兵衛御蔵方役
三浦勘助其外郷役中被相越候
此節馬乗以下役人中へ者御臺所ゟ
晝弁當被差出候
一今夜二丸便ニ而江戸ゟ之御用翰
到来也
一祥光山江 御代香御使者番勤之
五月十九日
同廿日
一玉毫寺祥光山江 御代香御使者
番勤之
一町便ニ而江戸大坂ゟ之御用翰到来
五月廿一日
同廿二日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
一御参會例之通
一金沢安兵衛儀御用ニ付御當地
罷下候付今日到着
同廿三日
一野村弥七兵衛儀下代役相勤居候処
懸り郷之分都而皆納仕候付先以
為御褒美御酒被為拝領候御相談人
より被相達候
一横尾内蔵之允犬塚隼人へ新ニ組被
仰付之旨於請役所監物殿御達
被成候其外御組替有之候右ハ御當役
御達御前澄帳ニ委細扣有之候
五月廿四日
同廿五日
同廿六日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
同廿七日
一町便ニ而江戸大坂ゟ之御用翰
到来也
一今日仕舞ニ而大坂江之御用翰一通
小倉迄被差越候
一御居之間御修覆有之筈ニ付
大殿様今日ゟ濵御茶屋江御引移
被遊候右ニ付御茶屋近邊之
人々へ右之心得有之候様請役所へ
呼出附衆ゟ相達
一右之通御居間御修覆ニ付右相澄迄
修理方大頭人遠岳傳右衛門へ兼勤被
仰付候
一右之通御居間御修覆殿濵御茶や
御引移ニ付而ハ桜岡御次へハ御用
御人附藤嶋左馬助秀嶋利右衛門両人
ニ而壱人ツヽ不差明之通相詰候様
被 仰付段御用人ゟ被相達候由也
(左丁)
一江戸表御用金御仕送一通於大坂
大和屋江被相頼候為申組先比ゟ
松田九郎兵衛大坂被差越置候右御
申組ニ付而ハ同所罷在候河野源三と
申人江口入被相頼候処右源三御當
地相越御役人中御相談弥相決候上
出金等可仕由ニ而今度源三罷下り候
此節金沢安兵衛致同道罷下り候処
源三儀者用事有之由ニ而筑前
立寄安兵衛計先日御當地致到着候
右ニ付源三江為迎筑前江山本利左衛門
幷足軽壱人今朝ゟ被差越候御渡
方一通之儀御納戸へ相知居候
五月廿八日
一水上山江 御名代御使者番勤
御参銀三匁
大殿様 御名代右同人御参銀
御賄方ゟ
御前様 御名代御徒士勤御参銀
御内より
一来月祇園会両山人形左之通
鬮相知候段郡方ゟ申来
先山 しんのもうそう
本山 しんこう記
一和泉守様御縁組御願之通被為澄
候付備前守様 於清様へ
殿様 大殿様ゟ為御祝儀御使者
を以左之通被進候
御前様ゟも御祝儀之御口上被
仰進候右御使者相原八郎右衛門鹿
嶋迄相勤
干鯛一折五枚 白木折 宛
右者備前守様
於清様江従
殿様
干鯛一折五枚宛【右ヨセ】白木折
右者備前守様
於清様江従
大殿様
右何も御目録添
一右ニ付被為名札料相原八郎右衛門へ銀弐両
一七田助右衛門儀太田自兵衛組被相加候
御出陣方頭人相達
一松井与市儀野口文次郎殿御組被
相加候
五月晦日
一見性院様江 御名代御家老持永
助左衛門殿被相勤候御香典線香一束
大殿様 御名代番頭木下求馬
御香典御賄方ゟ但御正當ニ付而也
六月朔日
一當月御祝儀例之通
一於小松之間監物殿を始御當役方
南里二左衛門幷御相談人方金沢安兵衛へ
御對談被成候
同二日
一御参會例之通
一平野利十儀
大殿様御草履取被 仰付置候処
病氣ニ付被成 御免候依之右
代役當分野村重五郎へ被 仰付候
御相談人達
一去月廿七日ゟ河野源三為迎筑前江
山本利左衛門被差越候末源三致同道
今夕方致到着候中町ニおひて七田
長兵衛宅へ旅宿被仰付候
六月三日
一日峯様御正當日ニ付宗智寺江
殿様 御代香西丸勤御香典
白麻弐拾帖
一祥光山江 御代香御使者番勤之
一河野源三江為對談永橋一郎右衛門今夕
源三旅宿へ被参候此節自分之
為進物菓子一重肴一折差送り
候通被相調候
六月四日
一中尾筑母へ旗奉行西原佐一右衛門元組
被 仰付候監物殿御達被成候
一御飼鳥方役相勤居候足軽岡神之允
長病故役方御断申上候付被成
御免候
一河野源三江監物殿典膳殿文次郎殿
より御自分之御音物ニ〆左之通被
差送候通被相調候
一肴一折なよし一本
やうかん
一菓子一重 さつさもち
やきまんちう
右者源三旅宿へ御納戸附役
石田逸八持参候也
一河野源三ゟ
大殿様 御前様 御子様方へ
品々献上仕候
一河野源三江太田自兵衛小田村多仲
より自分之進物ニ〆索麪一折
六月五日
一来ル十五日祇園會役方被 仰付之
旨於小松之間御當役御達其後両
山頭人ゟも委細演達有之候其末
役割帳附役持出山之絵圖郡方
役持出【右寄せ】役割帳請役所へ直置也
一當祇園會幷十七夜十八堂警固
帳面を以大御目附ゟ相達之事
一今晩河野源三江為對談永橋一郎右衛門
太田自兵衛小田村多仲下町東嶋
武兵衛宅ニ而面談此節右三人ゟ之
為取持酒食被差出候通被相調候
一信州様御病気ニ付大坂御滞留
被成候就而者長崎御番之儀者
為 御名代和泉守様被差越度旨
公儀へ被相願候段左之通二丸ゟ書附
到来
殿様御痛所被成御障大坂表
御逗留被遊候処少々御快方ニ
被為成候付先月廿六日御發駕
御議定之處前日夕方より
御腫痛甚敷御平臥ニ被成
御座御出途不被為叶御
發駕之程昆難相知候然者
長崎御番御請取之儀異国
船入津之時分ニも差向候處
御延引被遊候儀別而御氣之毒
被 思召候右ニ付而者摂津守殿
和泉守殿御間御番方
御名代御勤被成様被 思召
其内和泉守殿儀御在所長崎
手寄之儀ニ付差詰御願被成
松平筑前守殿江之御奉書
大坂ゟ被差越之御番御請取
長崎表江も為
御名代被相越候様被遊且前断
之御容躰ニ候得者異国船
入津帰帆之節も自然御越不
被為叶節者是亦為 御名代
被相越候様被御願置度被
思召右之趣江戸江早飛脚を以
被仰遣候間否
仰出之上ニ而者追而可被相達候
右之御知せ被相達候様申来候
六月六日
同七日
一蓮池御家老中ゟ此御方御家老中へ
書札到来右ハ 摂津守様御帰国
被成候為御知也伴之為御祝儀仕懸之
書状被差越候
一河野源三今度御用ニ付罷越居
候付今日於小松之間御料理左之通
被為拝領候相伴永橋一郎右衛門太田自兵衛
小田村多仲金沢安兵衛儀○も罷出候此節
監物殿典膳殿文次郎殿御面談
被成御盃事有之候扠亦御蔵方役
野口久左衛門三浦勘助大石涼右衛門儀も
致面談會尺等仕候也
一餅菓子【右寄せ】品々
一御料理【右寄せ】二汁五菜
一菓子
一惣菓子
一御酒
一吸物三ツ
一肴 五ツ
一取肴弐ツ
外ニ
一取肴壱ツ
右ハ各方御盃事之節
右委細献達御臺所へ扣有之
一右河野源三召連候若黨幷草り取
於鑓懸之間一汁三菜之料理幷
御酒吸物一肴弐ツ取肴壱ツニ而被
為拝領候相伴足軽目附
一右河野源三江上方拾人扶持幷御
帷子壱ツ被為拝領候
右者無據訳相有之御断申上御請
不申上候
大殿様ゟ御上下一具幷陶器二箱
被下候御用人小松之間江持出相渡
被申候
御前様ゟ御内頭人を以御言葉被下候
左候而出立前氷砂糖一箱被下候也
六月八日
同九日
一河野源三江為餞別左ニ書載之通
被差送候通被被相調候
一香爐壱ツ青磁唐獅子
右者監物殿ゟ
一引者皿弐束
右者典膳殿ゟ
一るり金絵皿弐束
右者文次郎殿ゟ
一奈良茶茶碗壱束
一團拾本
右者永橋一郎右衛門ゟ
一菊【見せけち、右旁に蘭】彩長皿壱束
一團五本
右者太田自兵衛小田村多仲ゟ
一唐茶三斤
右者南里二左衛門宮地新五右衛門ゟ
一唐茶三斤
右者相浦千兵衛遠岳傳右衛門
藤嶋清左衛門ゟ
一廣紙三束
右者野口久左衛門三浦勘助
大石涼右衛門ゟ
一杉原紙弐束
右者大蔵殿圖書殿ゟ
一唐茶五斤箱入
右者蔵人殿助左衛門殿五左衛門殿
より
一唐茶三斤
右者松田九郎兵衛家内ゟ
一廣紙弐束
右者山本利左衛門ゟ
左之通也
六月十日
一大坂ゟ之御用翰町便ニ而到来
一大殿様今晩般若寺へ御参詣被成
終夜御滞座被遊候
一和泉守様今度御帰國ニ付今晩
牛津御止宿被成候伴之従
殿様御旅中為御見舞御使者
冨岡弥一左衛門被差越候【右寄せ】御進物無之
大殿様 御前様ゟも御旅中
御見舞之御口上右弥一左衛門ニ而被
仰進候御進物無之
一右ニ付為伺御機嫌御家老助左衛門殿
牛津被相越候
一右ニ付郡方役其外諸役人跡方之通
罷越相整候事
一松尾山江 御代香御使者番勤之
六月十一日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
一河野源三儀御用相澄候付今朝ゟ
御當地致出立候
一當祇園会山恒例之通今日結立
夕方起シ之節両山頭人被罷出候事
此節鑓持手男小屋ゟ出ル
同十二日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
一大殿様御堂参被遊候朝五ツ時之
御供揃也
一栴葉院様七回御忌御法事於
高傳寺御修行有之候由ニ付
殿様ゟ之 御名代物頭勤御香典
白麻弐拾帖
大殿様 御名代物頭勤御香典
白麻弐拾帖
御前様 御名代御使者番勤御
香典白麻拾帖
右 殿様 大殿様 御名代
跡方三回御忌之節共者番頭
勤ニ付此節も番頭江被 仰付
候処何も不快ニ而出勤不被相叶
ニ付無據物頭江被 仰付候也
一右御法事ニ付今日一日御領中殺生
禁断之觸状先日到来
一金沢安兵衛儀御用筋相澄候付而
近日中ゟ致帰坂筈ニ付左書載之通
被差送候通被相整候
一長皿弐束
右者監物殿ゟ
一角松絵皿壱束
右者典膳殿ゟ
一るり無地皿壱束
右者文次郎殿ゟ
一引物皿壱束
一うち己五本 【二行一括り】
右者永橋一郎右衛門ゟ
一唐茶七斤
右者南里二左衛門宮地新五右衛門
太田自兵衛小田村多仲相浦
千兵衛藤山一郎兵衛ゟ
一唐茶弐斤
右者野口久左衛門三浦勘助
大石涼右衛門ゟ
一唐茶弐斤
右者川浪助右衛門今泉安左衛門
田中兵右衛門成冨文之進ゟ
一廣紙弐束
右者山本利左衛門ゟ
六月十三日
一柴田作右衛門儀先比銀調達被
仰付置候末段々致調義相納候付
為御褒美先以御酒被為 拝領
之旨於請役所御當役被相達候
一和泉守様御縁組被為澄候付先日
備前守様 於清様江従
殿様御使者を以御祝物被差遣候
為御返礼備前守様 於清様ゟ
御使者を以
殿様江干鯛一折ツヽ御到来被成候
六月十四日
一金沢安兵衛江銀五枚被為拝領候
右者今度御當地罷越河野源三
御取組之筋ニ付何角致太儀候付
被下候也於御蔵方永橋一郎右衛門ゟ
相達
一當祇園會役幷桟敷勤之面々
御時節柄何も自力ニ而者難相勤
ニ付馬乗以上江廿文銭五拾目前
賣代銭三拾目ツヽ被貸下候尤夜
勤之面々者御貸方四拾目也前
賣代銭右同断馬乗以下之侍者
御貸方三拾匁前賣代銭三拾匁
ツヽ也御徒士ハ壱人前銭弐百文ツヽ
足軽ハ壱組ニ銭七百文前賣代銭
三拾匁ツヽ被貸下候
六月十五日
一祇園会山挽朝七ツ時諸役人幷
夫丸揃切ニ而挽懸り
一祇園社江
殿様 御名代重松又左衛門御参銀
三匁御社納左候而桟敷出席
大殿様 御名代木下求馬御参銀
御賄方より
一山挽夫丸中へ晝食被相渡候右ハ
勘定所役人町宿ニ而相渡
一祇園会桟敷詰之面々左之人数
御家老 水町典膳殿
大御目附 南里二左衛門
御相談役 相浦千兵衛
惣御目附 遠岳傳右衛門
請役附 川浪助右衛門
御祐筆一人
給仕之者
一當日為御祝儀
上々様江左之通
一御團壱本
一真田扇子壱本宛 【二行一括り】
右者
殿様 大殿様 御前様
於佐保様 於久米様
喜三郎様 艶菊様
熊菊様 守三郎様江
外方ゟ
一御團弐本
一御肴一折【右寄せ】塩小鯛拾ツ宛 【二行一括り】
右者
大殿様 御前様 喜三郎様へ
殿様ゟ
一御團壱本宛
御のし
右者 於佐保様
於久米様江従
殿様
右之通被差上候御使請役附勤
候様先日申来居候故典膳殿當年ハ祇園会桟敷
被相勤候付為名代宮地五左衛門殿二丸江被相越候尤典膳殿
桟敷勤ニ付為名代五左衛門殿
被相越趣ハ前廣西丸ゟ二丸へ申達置
六月十六日
一昨日之挽山今日四ツ時前下町江
挽届候
同十七日
一暑中為伺御機嫌各方御出
一金沢安兵衛儀御用相澄候付今朝
より致出立候
一宮崎七右衛門より恒例之通伴綱弐筋
塩貝七ツ鯖拾ツ致献上候
大殿様江も塩貝鯖致献上候
一成冨兎毛宅今夜四ツ時過燒失
六月十八日
一本良院様御正當ニ付従
殿様之 御代香御家老勤御
香典線香壱束
一大殿様祥光山江御堂参被遊候
朝五ツ時御供揃也
一於久米様祥光山江御堂参被遊候
晝八ツ時御供揃也
一本良院様江従 於才様之御
代香此御方江御頼ニ付平士勤
六月十九日
一鉄山殿弐拾五年法事於宝珠寺
執行有之候付従
殿様 御名代平士勤御香奠
線香弐束
同廿日
一玉毫寺祥光山江 御代香御使者
番勤之
一摂津守様御娘おれき様昨日不斗
御卒去被成候段西丸迄為御知有之
候由申来候
一右ニ付御領中二日之御穏便二丸
ゟ之觸状到来
一今晩左之人数寄親大蔵殿於御宅
御手頭を以御呵置被仰渡候御目附
小田村多仲御手頭読高木孫六
東嶋杢右衛門 蓑田作左衛門
松崎十兵衛 藤嶋三郎左衛門
水町右馬助 水町市之助
右御呵置之訳相罰帳ニ記之
一今晩
上々様上川原桟敷江為御涼御出
被遊候
六月廿一日
一左之人数江御酒被為拝領之旨於
請役所御當役被相達候右者當
祇園會役之内十三日ニ相成御免
被成候人々有之候付當【見せ消ち】右代役被
仰付候処無異儀被相勤候付為御
褒美也
戸田三郎兵衛 今泉鹿之進
服部尉右衛門 高木忠右衛門
木下傳左衛門
一昨晩御呵置之人々一類中遠慮
御届有之○其内役懸り之人者早速
御免被成候
六月廿二日
一上屋便ニ而江戸より之御用翰数通
到来也
一御参會例之通各方御出仕
同廿三日
一今日仕廻ニ而江戸大坂之御用翰
小倉迄被差越候飛脚足軽武藤
新六
一暑中為御見舞
大殿様 御前様江従
殿様鯔壱本宛被差上候右御使
附役勤
一於評定所御究事有之
六月四日
一信州様御痛所御快被成御座候付
去十三日ゟ大坂御発駕被遊之由
西丸ゟ申来候
同廿五日
同廿六日
一祥光山江 御代香御使者番勤
一川副玄佐儀寄親殿於御宅御調事
有之候右ニ付而ハ早速遠慮之
御届有之
同廿七日
一佐嘉表江左書載之通被差送候
通ニ被相整候尤暑中為見舞也
一肴一折《割書:大なよし 一|大塩貝 七盃|ミる 壱升》
右者相良源兵衛へ蔵人殿文次郎殿ゟ
一同一折《割書:大なよし 一|大塩貝 三盃|ミる 壱升》
右者原田吉右衛門同内蔵助へ右両人ゟ
一同一折 右同断
一日田
御代官楫斐十太夫殿ゟ
殿様江御文箱壱飛脚を以到来ニ付
跡方之通右飛脚へ鳥目五百文
被下候
一二風丸便幷町便ニ而江戸大坂ゟ之
御用翰数通到来
一暑中為御見舞
信州様 丹州様江従 殿様
御使者被差越候冨岡弥一佐衛門勤之
一大殿様江御當役方ゟ左之通被
差上候
一大鯔壱本
一御帷子【右寄せ】越後縞弐反
右者先頃大坂ゟ銀主口入人河野源三
罷越候節御米千俵被相渡候ハ而ハ
御申組出来不申ニ付右千俵
大殿様御自分米を外方ゟ御拝借
被成候付為御礼御献上也素り御本方
より被相整候也附役ゟ御次迄相渡
六月廿八日
同廿九日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
七月朔日
一當月御祝儀例之通
一於佐保様 於久米様江従
殿様御肴一折鱸一被差上候右者
久々御見廻をも被仰上候ハす御無礼
被成候付而也御使附役勤
一當年風祭御祈祷例年之通り
岩蔵寺江被 仰付候
一御家中春渡三郡通之内五杓通ハ
先達而被相渡残ル弐郡五杓之内
五杓通り
大殿様御自分方より御米被指出
被相渡之旨相残り候弐郡之内壱郡ハ
当秋ニ至可被相渡壱郡ハ当秋ニ至り
候而も御渡方不被相叶之旨旁委細
口達書を以番頭物頭大組代小組代
中へ於小松之間御当役被相達候上
口達書ハ附役読之委細仰渡帳ニ
相記之
七月二日
一於高傳寺
玄梁院様 寂光院様御施餓鬼
ニ付 御名代木下傳左衛門勤之
一御参会例之通
七月三日
一於無量寺
玉真院様御施餓鬼ニ付
殿様 御代香戸田三郎兵衛御香典
線香壱束
大殿様 御代香右同人御香典
無之
一右御施餓鬼ニ付役々左之通
寄附堪忍 《割書:常富五兵衛|南里吉十》
門番 足軽弐人
一於高傳寺
日峯様 陽泰院様御施餓鬼
ニ付而 御代香御使者番勤
一渋川新右衛門儀長病ニ付役方御断
有之候得共御聞立無之候
一久野丹波守様御妹冷勝院様御
急病ニ而今月九日御死去被成候段
御内頭人藤山一郎兵衛迄申来候右者
御前様御伯母様之由ニ付御親類
御家老を始請役所詰中
御前様御機嫌被相伺候
一祥光山江 御代香御使者番勤之
七月四日
一於高傳寺
法性院様御施餓鬼ニ付而
御代香御支使者番勤之御香典無之
一於宗智寺
真照院様 南祥院様御施餓鬼
ニ付而御代香御使者番勤之
御香典無之
佐織刈大乗庵より廿文銭拾貫目
献上仕候
七月五日
一於高傳寺
興国院様御施餓鬼ニ付而
御代香御支使者番勤之御香典
一信州様御年寄江副彦次郎先日
江戸より被致下着候付為祝儀蔵人殿
文次郎殿ゟ大なよし弐本被差送
候通被相調候
一疫病流行候由ニ付右轉除山伏両人へ
被 仰付候依之御臺所幷御内
御新宅祓相澄候迄御屋鋪内幷
【四~五文字不明】被相廻候此節御酒被下候
委細御臺所ニ相知居候
一崎川弥市儀先達而西丸聞番介役
被 仰付置候末内々相願置候者
先頃迄郡方役被 仰付置候末
此節西丸聞番介役被 仰付候就而ハ
同役西川八右衛門儀某ゟハ過分之身上
高ニ候得者連名等之節者何レ某
末筆之義御座候一躰郡方役之儀ハ
御格相も有之殊に佐嘉表へ
相知居候御事ニ御座候得者先頃迄
郡方役相勤居今又西丸聞番
介役相勤殊ニ末筆ニ罷在候而者
乍憚御家之格式も如何と相聞へ
申間敷ものニても無御座候条表立
書状等取合之節者某儀連名
被相除被下度旨相願候儀依之重畳
御吟味有之候處至極尤之儀ニ付
弥一を筆頭ニ被 仰付連名被相加
候也
七月六日
一於正定寺
天誉様御施餓鬼ニ付 御名代
御支使者番勤御香典白麻拾帖
一於祢念寺
玉山様御施餓鬼ニ付
西丸勤御香典無之
一於高傳寺
泰盛院様 高源院様御施餓鬼
ニ付而 御名代御使者番勤之
御香典無之
一下代中江御酒被為拝領之旨御相談
人被相達之右者六月晦日限郷内
皆済相整候付為御褒美也於御
蔵方拝領
一嬉野善右衛門江戸ゟ今夜到着
有之候
七月七日
一両御丸江従
殿様当日御祝儀御使者御使者
番勤従
大殿様 御前様右同御使者
西丸詰ゟ勤之
一二丸江御家中惣代両人西丸勤
一大殿様当日御礼不被為
請候御親類御家老方請役所詰中
御用人迠御祝儀有之候尤今日
御礼不被為 請訳ハ御居間御
修覆ニ付先頃ゟ浜御茶屋江御移
被成御座候故也
一御前様今九ツ時頃御親類御家老
中江被渡 御目候
一於清様御用ニ付鹿嶋ゟ中林尉右衛門
被罷越候付於小松之間太田自兵衛
小田村多仲対談左候而吸物一肴二
取肴ニ而御酒被為拝領其上冷麦
被為拝領候相伴右両人
七月八日
一於高傳寺
海量院様 貞樹院様 灵松院様
御施餓鬼ニ付御名代御使者番
勤之御香典無之
一今晩 於祥光山
御先組様御施餓鬼ニ付左之通
一殿様 御代香監物殿
御先祖様江之御香典線香
壱束宛
円覚院様 本良院様江之
御香典白麻拾帖宛
一大殿様 御代香文次郎殿
御香典御賄方ゟ
一御前様 御代香服部尉右衛門
御香典御内ゟ
一於佐保様 於久米様
御代香斎藤杢左衛門御香典
御新宅ゟ
一御施餓鬼料銀百目米六斗
例年之通
一寄附堪忍馬乗以上弐人同以下
二人
一御寺御門番馬乗以下弐人
足軽弐人
一斎堂番掃除方足軽弐人ツヽ
一御親類御家老幷請役所一手
御目附御堂参本堂御出席
跡方之通
一右施餓鬼ニ付
於清様 於才様 御代香此御方へ
御頼ニ付古館平兵衛吉本弥兵衛
勤之
七月九日
一於高傳寺
乗輪院様 柳線院様御施餓鬼
ニ付而 御名代御使者番勤御
香奠無之
一御前様栄照庵西礼寺江御参詣
被遊候昼八ツ時之御供揃也
一一昨日長崎御番方佐嘉ゟ被差越候
役々牛津通路之節人馬不懸合ニ付
郡方ゟ二丸筋へ左之通口達書指出
被申候
口達覚
一昨七日江副彦次郎殿初長崎
被相越候付牛津之駅被懸御出候処
寄人馬無之ニ付大庄屋江其段
被相達候ゆへ郡方へ右之趣即
刻申遣候得共前邊相知不申
儀ニ而寄セ人馬之儀筋々へ相達
置不申右之段大庄屋ゟ注進仕
候付而早速役々差遣近村より
寄人馬為致候然処西丸ゟ六日
出之文箱漸七日朝五ツ時過到
着致披見候処去ル五日夕方於會所
右寄人馬【挿入〇】之儀被相達之趣申来候畢竟
前邊不相知義ニ而右之通御用
間近ニ相成甚気之毒奉存候
尤右使之者何之訳ニ而致遅着
候哉相調候処別紙書付之通申
出候右者何分ニも手当申付義
御座候条右之趣御筋々宜被
仰上可被下候已上
丑七月 郡方役
深江平兵衛
右使之者申出候書付之趣ハ途中ニ而
相痛及遅着候由委細之書付也
右ニ付而者西丸聞番渋川新右衛門義も
奉痛入差扣罷在之旨二丸筋へ被相届
候也
一松尾山江 御名代今泉鹿之進
勤之御香典線香壱束
一於本行寺
慈廣院様御施餓鬼ニ付
御名代西丸勤御香典無之
一二丸便ニ而江戸ゟ之御用翰到来
七月十一日
一於宗智寺
日峯院様御施餓鬼幷
陽泰院様右同断ニ付 御名代
御使者番勤御香典白麻拾帖
一於宗智寺
月堂様御施餓鬼ニ付而 御名代
助左衛門殿御香典白麻拾帖
一於圓通寺
御先祖様御施餓鬼ニ付 御名代
横尾内蔵允御香典無之
七月十二日
一御前様昼八ツ時御供揃ニ而祥光山江
御堂参被遊候
一於佐保様 於久米様夕方ゟ御供揃
ニ而祥光山栄照庵江御参詣被遊候
一今晩於栄照庵《割書:此節寺社方役幷惣御目付|壱人出席》
祥雲院様御施餓鬼ニ付左之通
一御施餓鬼料鳥目弐貫六百文
御寺納之事外ニ薪等被差出候
一殿様 御名代御使者番勤
御香典線香弐束
一大殿様 御代香右同御香典
右同御賄方ゟ
一御前様 於佐保様
於久米様 御代香馬乗以下
勤御香典無之
一御子様方 御代香御舫ニ而
馬乗以下勤御香典無之
一今日於三溝村大【見せ消ち】大興寺
祥雲院様御施餓鬼幷功徳院殿
施餓鬼有之候付左之通
一殿様 御名代御使者番
勤御香典白麻弐拾帖
一大殿様右同断【右寄せ】御香典外ゟ
一御前様 御名代西丸勤
御香典白麻拾帖【右寄せ】右同
七月十三日
一町便ニ而江戸ゟ之御文箱幷大坂ゟも
文箱至来
山代郷ゟ例年之通早稲米三俵差上
候付而跡方之通目達銭壱貫文被下候
右三俵之内一俵ハ
大殿様江上残弐俵ハ請役所ニ而解崩
殿様幷御内御新宅へ上
一去月廿日晩大蔵殿於御宅御呵被
置候東嶋杢右衛門松崎十兵衛蓑田作左衛門
藤嶋三郎左衛門水町右馬助水町市之助
何も今日被成 御免候
一西太郎兵衛殿被官牛津新町罷在候鐘ケ江
久太郎儀先達而ゟ毎度銀献上仕
候付為御褒美下地町人扶持三石被
下置候上今又弐石御加増合切米
五石御徒士ニ被召成カ候御内役□
当秋下代□□□□□被 仰付之旨
御相談人達
一今日ゟ於御對回面所例年之通
御聖霊様御条祭有之就而者恒例
之通宗智寺ゟ僧衆壱人今昼ゟ
被罷出候
七月十四日
一高傳寺宗智寺江 御名代西丸勤
一祥光山玉毫寺圓通寺松尾山江
御名代御使者番勤
一祥光山栄照庵江御香典御内ゟ
御前様 御名代永橋清右衛門勤之
一大殿様祥光山玉毫寺栄照庵江被成
御堂参候朝七ツ半時之御供揃也
一大殿様 御前様江従
殿様御生身魂御祝儀として御肴
一折赤目七ツ御樽弐升入一ツ御銘々
様江被差上候御使附役勤
一当盆御寺々寄附幷御魂屋番御
焼爐役扨又於桜園
御聖灵様御かよひ役割委細別紙
請役所江扣有之
七月十五日
一当日御祝儀無之
同十六日
一高嶋番今泉平太より左之通
注進有之候
一筆啓上仕候残暑強御座
候得とも弥御堅勝可被成御謹勤仕
珍重奉存候然者阿蘭陀船
来ル四日追々弐艘参申候
注進次第一番ハ佐嘉御番所
脇津弐番ハ高嶋三番ハ
御公儀御番所其外所々
御番所追々注進御座候
此節ハ足軽中請被出候故
白帆役方私注進之趣
殊之外首尾能相調申候
此段宜様被 仰上可被下候
尤壱艘之義ハ其夜五ツ頃
伊王嶋迄入津仕風浪強
候故四日間懸り申候処長崎
御奉行所より役方中詰切
ニ而伊王御番所至極物入ニ而
御座候と承知仕候高嶋懸り内
道船仕旁以太義奉存候
遠見之義も先以仕舞相成
申候但来ル十日ニ申来候故片便
ニ而申上候条宜様被 仰上可
被下候此段為可申上黒札愚札を以
如此御座候恐惶謹言
七月十三日 今泉平太
小田村多仲様
太田自兵衛様
一野村弥七兵衛儀数年役方堅固相勤
候付為御褒美弐石御加増被
仰付候御当役被相達候
一佐織刈大乗庵義先達而弐拾文銭
拾貫目献上仕候付為御褒美地米
三石之田地居村ゟ被為拝領候寺社
方役太田自兵衛相達
一御用ニ付文次郎殿西丸被相越候
七月十七日
一心諦院殿御遺骨去ル十二日江戸ゟ
佐嘉高木父母寺ニ直ニ到着有之候
尤早速ゟ中陰等有之筈候処盆ニ
付而万端差□候義□ニ付而昨十六日
今月迠中陰有之納骨被相整候付
殿様 大殿様御銘々ゟ御代香馬
乗以下勤御香奠線香弐束ツヽ被成
御寺納候
一被仰談御用ニ付大蔵殿図書殿
御出仕
七月十八日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
郷内田ニ虫入候付右為轉除五夜五日
御祈祷岩蔵寺江被 仰付候義也
新料銀五枚被差出候
同十九日
【一行不明】
罷越候
一祥光山玉毫寺江 御代香御使者
番勤之
一町便ニ而大坂より之御用翰到来
一五條様御息女梁姫様御婚礼被
為澄候付左之通御使者を以御祝物
被進候
一昆布 一箱
一干鯛 一箱
一御樽 一荷
右者梁姫様江従
殿様
一干鯛 一箱
一御樽 一荷
右者梁姫様江従
大殿様
一干鯛 一箱
一御樽 一荷
右者梁姫様江従
御前様
一干鯛 一箱
一御樽 一荷
右者少納言様江従
殿様
一干鯛 一箱
右者乾良院様江従
殿様
一干鯛 一箱
右者少納言様乾良院様江従
大殿様
一干鯛 一箱ツヽ
右者少納言様乾良院様江従
御前様
右御使者京都におひて吉村吉左衛門
勤之
右者御祝物於大坂相調京都
差越御使者之儀吉村吉左衛門被
相勤候通被相整候様先達而
大坂御屋敷迠被仰越置之末右之通
相整候段大坂ゟ申来候
七月廿一日
同廿二日
一五参會例之通
一祥光山江 御代香御使者番勤之
七月廿三日
一古賀甚右衛門儀当秋御賄方下代役
被 仰付之旨御当役被相達候
一和泉守様御事
信州様御病気ニ付長崎 御番為
御名代御越被成御首尾能被相澄
去ル十五日御帰国被成候付為御歓従
大殿様御使者を以干鯛一折五枚被
進候備前守様 於清様江も右之
御歓被仰進候扨又従
御前様も御三所様江御歓同御使者
ニ而被仰進候
一右御使者富岡弥一左衛門勤之就而者
跡方之通於彼之地為宿礼料銀弐両
被差出候
一上屋敷便ニ而江戸ゟ之御文箱到来
一木下傳左衛門義当月御寺々御施餓
鬼ニ付毎度 御代香等被
仰付被致太儀候付為御手当八木
壱石五斗被為拝領候御相談人達
七月廿四日
一濱御茶屋御門外天満宮江今暁
より工燈爐御燃有之候付左之通
一御燈爐心遣役嬉野善右衛門
川浪助右衛門へ被 仰付夕飯後
七ツ時ゟ足軽四人召連彼場
所出勤有之候事
一貴賤群衆有之義ニ付郡方
役新□【手男の造字ヵ】拾人召連右場所出勤
神代太郎左衛門長屋之所へ桟敷
御修理方ゟ補理有之臺
燈爐一張相燃候事
一右ニ付而他方之者も入込候趣ニ付
小路廻り夜廻り足軽八人
被差廻候事
一右ニ付而ハ下目附幷小奉行
定警固不残棒突足軽
弐拾人辻固足軽八人夜廻り
足軽八人御燈爐方付足軽
四人新□【手男の造字ヵ】拾人御修理方差
次足軽四人右之者共へ外御臺所
より夜食被下候事
七月廿五日
一今日仕廻ニ而江戸大坂江之御用翰
小倉迄被差越候飛脚足軽
山田七郎兵衛
一今晩も天満宮へ工燈爐御燃
有之候万端共昨晩之通
同廿六日
一長壽院様御正當ニ付
殿様 御名代御家老勤御香奠
線香一束 大殿様 御名代
番頭勤御香典無之
一今晩も天満宮へ工燈爐御燃シ
有之万端共昨晩之通
七月廿七日
一今晩迄ハ昨夜之通小路廻り
夜廻り足軽八人被差廻候
同廿八日
一昼八ツ時頃大地震也
一今晩川副玄佐大久保源五右衛門
寄親宅ニおゐて御裁許被
仰渡候委細罰帳ニ控有之候
右之外下々之者郡方ニおゐて
御裁許有之是亦郡方申渡
罰帳ニ扣有之候扨又山伏吉祥坊
忰宝聚院先頃首盗候付而ハ是又
今晩御裁許有之筈ニ候得とも
少々訳為有之候付被指延候尤
御裁許被 仰渡迄之間ハ宝聚院
蟄居被 仰付候旨寺社方役太田
自兵衛宅ニ而吉祥坊へ同人ゟ被相達候
惣御目附立會也
一右之人々一類之者何も遠慮御届
有之
一星岩寺塔頭真照寺小僧鹿珍
先頃首盗候付脱衣之上御領下
三里四方払星岩寺ゟ被申付
候様被相達候委細御手数寺
社方諸扣ニ有り
一安本権右衛門へ米三斗被下候右者
今度御家中へ五拾通之御渡方
御米正徳町荒木傳次兵衛屋敷内之
蔵床ゟ御渡被成候付権右衛門幷附
役中計年扨又立會下目附
数日相詰小屋賄等相立御渡方
相仕廻候付右何もへ被下候也
一荒木傳次兵衛へ米九斗被下候右者
御家中御渡方之御米傳次兵衛
屋敷内之蔵床御借り被成相被渡
候付被下候也
七月廿九日
八月朔日
一両御丸へ従 殿様之御祝義
御使者相原八郎右衛門勤之
大殿様 御前様ゟ右日御使者
壱人西丸勤御家中惣代
両人西丸ゟ勤之
一大殿様御礼之義御居間御修【挿入】覆
ニ付濱御茶屋へ被成御座候付御
禮無之各方を始請役所
詰中御用人迠御祝義有之
一今四ツ時御親類御家老中へ
御前様被渡 御目候
小田村多仲方御相談人兼勤
被成 御免候
八月二日
一御参會例之通
一昨日之大風雨ニ而権田土井久留間
土井小城川筋袴田土井大江
ケ里土井等破損有之
八月三日
一祥光山江御代香御使者番勤
同四日
同五日
一今日四ツ時揃切ニ而濱御茶屋御門
外於小路 大殿様相撲為
御取 御上覧被遊候此節
懸心遣役小田村多仲川浪助右衛門へ
被 仰付彼場所出勤有之且郡方
役も 仰付ニ仍而新□【手偏+男の造字】八人召連
役場所出席此節棒突足軽
幷辻固足軽都而拾四人其外下
目附拾人定警固四人都合四拾
四人へ御臺所ゟ昼食被差出候
一先日川副玄佐大久保源五右衛門吉祥坊
世忰宝聚院御裁許ニ付右一類
遠慮仕居候を今日被成御免候
八月六日
同七日
一多久長門殿長病之末昨六日晩
死去候段西丸より申来候右ハ
大殿様御従弟之續ニ而候得とも
御忌はハ不被為請候
一右ニ付御領中三日之御穏便二丸
ゟ之触状到来依之早速触
達有之候
八月八日
一相良源兵衛之へ従
殿様樽代金千疋肴一折被下候
右ハ此御方御用向ニ付毎度
被致世話趣 殿様被
聞召上御太儀 思召上依之
被下候旨【左見せ消ち】典膳殿文次郎殿ゟ之
奉礼ニ而被差遣候宰領足軽
佐賀儀兵衛
一御用ニ付文次郎殿佐嘉へ御越候
此節相良源兵衛へ為土産やう
かん一重御持參有之候通御臺所
より被相調候
一今夜町便ニ而江戸大坂より之
御用簡数通到来
同九日
一御老中阿部伊勢守殿七月十六日
御卒去ニ付而去八日より明十日迄
日数三日御領中御穏便被
仰付候旨ニ丸ゟ触状到来
八月十日
一高岳院様へ御代香御使者番勤
一被 仰談御用ニ付各方御出仕
一二丸便ニ而江戸之御用翰到来
一鍋嶋造酒殿江戸ゟ昨九日下着
有之候由西丸ゟ申来候
同十一日
一永橋卯十義亡父武平太跡式
無相違被 仰付候旨於請役所
御当役被相達候
一今晝時仕廻ニ而江戸大坂へ之御
用翰中国路七日ニシテ大坂迄被
差越候此節御山方納り之内
銀弐貫目被差越候飛脚足軽
山田七郎兵衛
八月十二日
一祥光山へ 御代香御使者番勤
八月十三日
一御参會例之通
同十四日
同十五日
一名月ニ付為御祝義
殿様ゟ左之通被差上候
一御樽 弐升入
一御肴一折《割書:なよし一|かさミ|いものこ》
右ハ 大殿様江
一御樽二升入
一御肴一折《割書:赤目一|かさミ|いものこ》
右ハ 御前様へ
右使者番附衆勤
同十六日
一濱御茶や於御門前相撲被為取
被遊 御覧候此節御家中
之義御見物勝手次第被
仰付候尤従者之義ハ壱人にニ而も
不被相叶候御親類御家老従者
之義ハ格別之事ニ而差通候
扨亦佐嘉道地鹿嶋御家中ゟ
見物之義相願人有之候付達
御聴 仰出次第指通候事
町人百姓之義一向見物不被相叶
此節去五日之通郡方役出席
出勤之下目附定警固棒突
足軽郡方附之新□【手偏+男の造字】へハ外御
臺所ゟ昼食被差出候
一右ニ付而ハ他所之人等入込義故
小路廻も火用心有之候様
足軽を以口達ニ而触達有之候
同十七日
同十八日
一祥光山江之 御代香御使者番勤
八月十九日
同廿日
一金栗様御正当【祥月命日】ニ付而
殿様 御代香御家老助左衛門殿御
香典線香一束
大殿様 御代香番頭勤御香典
無之
一ニ丸便ニ而江戸ゟ之御用翰到来
同廿一日
一今昼時仕廻ニ而江戸江之御用翰
并御仕送金五拾両中国路
七日ニシテ【合字】大坂迄被差越候飛脚
足軽古賀儀兵衛
一南里杢之助野副太左衛門木下伝左衛門
崎川弥一太宰府参詣仕度旨
ニ而日数十日御暇被相願候処願
之通相澄候
八月廿ニ日
一御参会例之通
一放光院様御正当ニ付而
殿様 御代香五左衛門殿御香典
線香一束
大殿様 御代香番頭勤御香典
無之
同廿三日
一大坂ゟ之御用翰到来
同廿四日
一文次郎殿御事江戸并大坂御借銀
【この日記では「済」の意に「澄」を充てている】
方被 仰付銀三拾枚被為
拝領之旨於請役所図書殿被
相達候
一御前様御側数年堅固ニ相勤居候
佐野回庵妹よゑへ金子弐百疋
被為拝領候尤此節御暇被下候付
殿様ゟ為御褒美也御相談人
より回庵へ相達
同廿五日
一志波太郎右衛門次男利十義
大殿様御傍役被 仰付之旨於
請役所利十へ御当役被相達候
一今度下向之長崎御奉行并
御勘定衆御普請役明廿六日晩
牛津止宿之向触到来
同廿六日
一弘徳院様御正当日ニ付祥光山へ
殿様 御代香御家老勤御香典
線香一束
大殿様 御代香番頭勤御香典
無之
一今度下向之長崎御奉行并
御勘定衆御普請役今晩牛津
御止宿ニ付相談役太田自兵衛
右ハ元〆役永橋一郎右衛門被罷越
筈之処病気ニ付其義不被相叶
ニ付為名代自兵衛被罷越候尤
御目附遠岳伝右衛門郡方役其外
跡方之通諸役人罷越万端例
之通相調候
一右ニ付殿様ゟ旅中為御見廻
御使者を以左之通被遣候
一葛粉一箱 五升入
右ハ御奉行衆へ
御使者 冨岡弥一左衛門
一葛粉一箱 三升入
右ハ御勘定衆御普請役江
御使者 香月源右衛門
一右ニ付火消頭人冨岡弥一左衛門
兼勤也
一右通路ニ付而ハ郡方役人両人共
罷越候半而不相叶義候之処池田
与四右衛門相痛居出勤不相叶
就而ハ深江平兵衛壱人ニ而ハ相勤
兼候条止宿之間誰差次被
仰付被下度平兵衛ゟ相願候付而
溝口惣左衛門へ被仰付候
八月廿七日
一被仰渡御用ニ付各方御出仕
一志波利十義先日 仰付之末今日
御請申上候
一文次郎殿御用ニ付佐嘉被相越候
同廿八日
一鍋島造酒殿御病気之末昨廿七日
死去之段西丸ゟ申来候
一右ニ付 お才様主水殿へ御悔
として 大殿様ゟ御使者
被差越候、此節従
御前様 お佐保様
お久米様御同人様へ右御使者
ニ而被 仰進候相原八郎右衛門勤候
一造酒殿死去ニ付御領中一日御
穏便二丸ゟ之触状到来
一造酒殿御事ハ
大殿様御甥ニ候得とも御忌ハ不
被為 請候
一文次郎殿へ先日 仰付之江戸
大坂御借銀方今日御請相澄候
一三浦勘助義江戸并大坂御借銀
方被 仰付今度文次郎殿へ
相附罷登候様被 仰付候旨御
当役御達之筈候処御不快ニ而
御出勤無之ニ付御相談人より
相達
一志波利十義名を為治と
大殿様御附被成候
同廿八日
一大殿様左之通被 仰上候
諸役人役方之義毎歳之様ニ御
断申上義候自今以後何分御断
申上候而も不被遊 御聞立候尤
病気其外訳相有之相勤兼
候之人ハ御目附方へ見聞被
仰付置候得ハ右躰之人ハ御見
聞候上 上ゟ被差替事候
弥も手前ゟ之御断と申義
一向御聴不被遊候
一右之通被仰付候付頭人筋ゟ御
徒士通役々迄被相達候尤江戸
へも被仰越候
同廿九日
一一昨日造酒殿死去ニ付
お才様主水殿へ御家老方より
御悔為惣代宮地五左衛門殿彼ノ
御屋敷被相越候
一被仰渡御用ニ付各方御出勤
一当秋御積御当役御聞届有之
同晦日
一祥光山へ 御名代御使者番勤
九月朔日
一当日御祝義例之通
一三浦勘助義江戸并大坂御備【借ヵ】銀方
先日被 仰付候付銀拾枚被為拝領候
同二日
一御参会例之通
一蔵人殿母義死去ニ付従
大殿様御笑止之上使奥附衆勤之
同三日
一祥光山江 御代香御使者番勤之
同四日
一今朝七ツ時御供揃ニ而
大殿様山御狩御出被遊候
一造酒殿御葬送志波屋新龍寺ニ
おひて有之候付跡方平五郎殿
御葬送之節之畢竟を以寄附堪忍
として馬乗以下侍弐人御葬所
被指越候
一江添兵部左衛門義御究役被 仰付候旨
御相談人達
九月五日
一急町便ニ而江戸大坂ゟ之御用翰到来
一今日左之通役々御差繰被
仰付之旨於請役所御當役被相達候
今泉安左衛門代
請役附 江嶋清八
成冨文之進代
御納戸 溝口甚兵衛
斎藤小右衛門代
大串御番所 山田源左衛門
西原九平次代
無津呂御番所 馬場政右衛門
松本弥左衛門同役
御賄方 成冨文之進
岩松杢之允同役
守三郎様御傍 斎藤用之助
一役方御免之人数左之通
今泉安左衛門
西原九平次
斎藤小右衛門
同六日
一造酒殿御中陰志波屋新龍寺ニテ
去ル四日ゟ今日迄修行有之候付
大殿様ゟ 御代香御使者番勤御
香典白麻弐拾帖尤外方ゟ被
差出候
一信州様御病気ニ付 御名代
和泉守様長崎御番所御越
御勤方相澄候付従
殿様
丹州様へ御歓御使者北丸へ西丸ゟ
勤之
一和泉守様江右同御歓御使者川原
小路迄西丸勤
右之通相調候様江戸ゟ申来候付而也
一江戸御馬屋之者欠落いたし候由
江戸ゟ申来候付二丸へ御届跡方
之通被相調候様西丸迄申越
同七日
同八日
一松田九郎兵衛義大坂ゟ今日下着有之候
一當月御祈祷今日ゟ弐夜三日於
小松間岩蔵寺修行之此節
御供物幷僧衆へ出物御布施等
委細御臺所へ相知居候
九月九日
一當日御祝義
大殿様御礼不被為 請候尤御居間
御修覆ニ付濱御茶やへ御移
被成御座候付而也御親類御家老
中を始請役所一手ハ御用人迄
御祝義被申上候
一御前様御親類御家老へ被渡
御目候
一信州様 丹州様へ従
殿様當日御祝義御使者冨岡
弥一佐衛門勤之
一右御両所様へ従
大殿様 御前様右同御使者一人
西丸勤之
一二丸江御家中惣代両人之内壱人ハ
西丸勤壱人ハ神代与兵衛勤之
例ハ両人共西丸勤候得とも病人勝
ゆへ壱人ハ此御方ゟ差越候
同十日
一松尾山江 御代香御使者番勤
一高間玄可西小路居屋敷を綾部
政治へ相對に賣渡度旨双方
より先達而被相願候付願之通
被 仰付候旨御相談人達
一西丸聞番渋川新右衛門義去月九日
より訳相有之《割書:訳合之儀ハ去月|九日之扣ニ有之候》二丸筋へ
致遠慮被居候末先日二丸筋より
遠慮被差免候上ニ而御呵捨有之候
右ニ付而此御方ゟ崎川弥一を以御呵
被置候尤新右衛門介役西川八右衛門
同差次犬塚傳左衛門義ハ此御方御當
役ゟ御呵被成之趣是亦弥一を以被
相達候尤右之通新右衛門義御呵
被置候趣ハ二丸受役所へ弥一ゟ
相届置候様被 仰付候右何れも
御手頭無之弥一口達ニ而被相達候
扠又崎川弥一義も西丸聞番介役
相勤居候得とも是ハ去月六日より
彼表引越候得ハ其節之間落等
不存ニ付御手當テ無之也
九月十一日
一祥光山江 御代香御使者番勤
一御前様祥光山玉毫寺へ被遊
御堂参候
同十二日
一大殿様今朝五ツ時御供揃ニて
祥光山 御堂参被遊候
一於佐保様祥光山栄照庵へ被遊
御堂参候尤今朝四ツ時御供揃也
一圓覚院様御正當日ニ付
殿様 御名代御家老勤御香典
線香壱束
九月十三日
一御参會例之通
一今日左之通御徒士通役方御差繰
被 仰付之旨御當役被相達候
太田弥五之允代
御新宅御臺所付役 池田兵部左衛門
同目附 石橋弥五右衛門
山田善次郎代
下目附 横尾八左衛門
飯盛忠左衛門代
陣内彦兵衛
【右二人一括り】
江口源兵衛代
御境目方小物成兼 内田清右衛門
光野金左衛門代
御山方幕張兼 光野八太夫
馬渡清八代
上御普請方 進藤茂十
大嶋文蔵代
江戸御納戸 太田弥五之允
田中庄左衛門代
右同 前隈平兵衛
池田武十代
江戸御臺所 江口源兵衛
御境目方ゟ川土井方兼 轟木藤次
【綴代にて一行読めず】
一役方御免候人数左之通
渡辺友右衛門
山田善次郎
飯盛忠左衛門
光野金左衛門
馬渡清八
當秋ゟ山内普請方被相止
候ニ付被成 御免候 平野勘蔵
先達而江戸御臺所役
被仰付置候得とも 奥村二兵衛
病氣ニ付出府不相叶
ニ付被成 御免候
九月十三日
一今夜江戸ゟ急飛脚山田五郎左衛門
下着右ハ江戸表先月廿六日風雨
烈敷御屋敷中破損所多々有之
西御長屋不残吹倒候付而注進也
一御印之御書宣拾紙被相渡請取之
申候
丑九月十六日 野口久左衛門【黒丸印】
三浦勘助
大石涼右衛門
【左丁】
同十四日
同十五日
一天山宮御祭礼ニ付 御名代左之通
一殿様 遠岳甚九郎
御参銀三匁
一大殿様 東嶋杢右衛門
右同御賄方ゟ出ル
一御前様 馬乗以下勤
御参銀御内ゟ出ル
一右ニ付警固頭人蓑田作左衛門足軽六人
一岩蔵狂言被召呼四ツ時楽や入ニ而
御式臺前ニおひて
御前様 御子様方被成 御覧候
此節狂言役者中へ酒五升被下也
一両注連本御門内被差通被遊
御覧候
一今度帰府之御支配勘定衆御普
請役今日牛津休ニ付跡方之通
諸役人罷越候此節旅中為見廻
御使者を以葛粉一箱三升ツヽ被指遣候
尤御使者香月源右衛門勤之
一川添竹斎先比親玄佐御裁許
ニ付而遠慮仕居候を今日被成御免候
九月十六日
一水町作右衛門義濱崎御蔵米取納役
被 仰付之旨御當役被相達候
一田代忠右衛門義高嶋御番被
仰付之旨御當役被相達候
一古賀佐左衛門義修理方小奉行
頭取幷立奉行役被 仰付之旨
御當役被相達候
一平傳次義御賄方附役兼勤被
仰付之旨御相談人達
一江戸大坂江之御用翰中国路七日
着にして大坂迄被指越候此節
金百両江戸江御仕送有之候飛脚
足軽石橋定右衛門
九月十七日
一信州様御下国ニ付昨日神埼之駅
御着ニ付 大殿様ゟ為御見舞
御使者今日神埼へ被指越候御使者
番勤尤此節之儀ハ御旅中
御病氣ニ而段々御延引漸神埼へ
御着被成ニ付為伺御機嫌也
一御廻米御積込為見届大坂ゟ吉井
茂藤次昨晩御當地罷着候
同十八日
一祥光山江 御代香御使者番勤
一江戸ゟ之御用翰町便ニ而今夜到着
九月十九日
一信州様今日御着城ニ付従
殿様御使者冨岡弥一左衛門尤御道中
御痛勝ニ而押々御着城被遊候付
御機嫌被相伺候付被差越候御歓
御使者南里杢之助従
大殿様 御前様右同御使者西丸
勤一使ニ而相澄候
一右ニ付御家中惣代左之人数
御家老
持永助左衛門殿
西丸在勤
渋川新右衛門
西川八右衛門
【右二人一括り】
西川多門
崎川覚兵衛
九月廿日
一玉毫寺江 御名代御使者番勤
同廿一日
一八月諸願之面々願之通被 仰付之旨
御印之御書付を以御當役ゟ被相達候此節
東十左衛門ゟ隠居願有之候得ともいまた
極老人ニ而無之候得ハ願之通ニ者
不被相叶先以隠居之義ハ見合候様
被 仰出候此段御相談人方ゟ被相
達候扠又松隈亨安ゟ相願候者
倅隆順義家業方不心懸ニ付
嫡子引取孫万九郎を惣領ニ養子
仕度旨願有之候処亨安家業方
之義ハ自余ニ無之孫万九郎義
いまた幼年ニ付而ハ急ニ御用立
不申候条倅隆順へ専醫道心懸候
様被申付家業方をも惣傳有之
候様亨安へ被 仰付候隆順へも家業
方専心懸惣傳を受候様御相談人
より○父子へ被相達候事
一今朝七ツ時御供揃ニ而山御狩御出被遊候
此節御狩方之銘々急而追方不
心懸ニ有之今日又々追方不宜
ニ付山ニ而 御直々何も御呵被成候
依之三手之頭人を始定役之銘々
奉痛入差扣被申候其内三手頭人ハ
臨時當りニ候得ハ指扣ニ不及段被
仰出候定役ハ遠慮仕罷在候也
九月廿二日
一祥光山江 御名代御使者番勤
一御参會例之通
一當秋御家中出米幷 上筋諸
借銀米諸立聞銀納不足扠又
上ゟ差出被置之人参代銀右何も
御取納被成候段番頭中物頭中へ
小松間ニ而御當役ゟ相達候尤各方
御家来へハ附衆ゟ相達委細仰渡
帳ニ有り
一荒木傳次兵衛義今度野口文次郎殿三浦
勘助御借銀方御用ニ付大坂被
罷越候付而立會目附として被
差越候段御相談人方ゟ被相達候
九月廿三日
一多久長門殿先比死去ニ付従
殿様御悔御使者今日被差越候尤
江戸ニおひて御承知之日積也
御使者西丸勤
同廿四日
一長門殿四拾九日ニ被相當候付而御
菩提所多久藤河内圓通寺へ
殿様ゟ 御名代御使者番勤御
香典白摩廿帖従
大殿様 御名代相原八郎右衛門御香典
白麻廿帖外方ゟ指出候
同廿五日
一大組代伊東七郎兵衛を昨晩御當役より
御呵被成候旨川浪助右衛門宅ニ而同人
相達右ハ先日山御狩之節勢子頭人
を戸田三郎兵衛へ被仰付候を觸落し
候付而也
同廿六日
一長崎御奉行石谷備後守様御帰府
今日牛津駅御休ニ付跡方之通
郡方役を始諸役人罷越尤元〆
役ハ○不被相越候扠又路中為御見廻
葛粉壱箱五升入御使者を以被進候
御使者番勤
高木孫六
嬉野甚兵衛
松田次右衛門
村川覚左衛門
中嶋吉右衛門
深町平兵衛
岡嶋之允
吉本弥兵衛
神代杢之助
松崎左十
右之人数去秋ゟ御廣間番幷
御狩役被 仰付置候末御狩之節
追方不宜候義度々有之就中
去廿一日御狩之節追方殊之外
不被為入 御意就而ハ御直々少々
御呵被遊候由ニ付而奉痛入何も遠
慮仕居候其末今晩惣御目附
遠岳傳右衛門方宅何れも呼出ニ而
川浪助右衛門を以被相達候者何れもへ
御狩役被 仰付置之処勤方不宜
ニ付被指迦御廣間番をも被指免
之旨被相達候就而ハ尚又何れも奉
痛入遠慮仕候御届申上候尤右人
数之内神代杢之助松崎左十義ハ
仰付為被置候義ニハ無之候得とも訳合
有之定役同前相勤居候付右両人
江ハ追而不宜趣を被相達候
一右ニ付右之銘々一類中遠慮之
御届有之
一松田九郎兵衛義寄親大蔵殿御宅ニ而
御手頭を以御呵捨有之候惣御目附
小田村多仲御手頭讀岩松左五六
一右ニ付一類中遠慮御届有之候
一江口源兵衛義江戸御臺所附役被
仰付置候得とも訳合有之被成
御免候
九月廿七日
一溝口神兵衛義三浦勘助大坂在勤
留守中御蔵方兼勤ニ被
【一行ありヵ、綴代にて読めず】
一先年ゟ 上筋ゟ差出被置候諸借銀
米等當暮ゟ向十ケ年ニ御取納
ニ付取納方大頭人遠岳傳右衛門へ
被 仰付候扠亦右付役野口久左衛門
御蔵方ゟ兼勤ニ被 仰付候
一高嶋番田代忠左衛門足軽三人今朝ゟ罷越候
一昨夜 仰渡之人一類中遠慮被成御免候
一左之人数御廣間番幷御狩役被
仰付其外臨時之義兼勤被 仰之旨
御相談人方ゟ相達 納冨弥七左衛門
小野田但馬
秀嶋亘
常富五兵衛
本庄権左衛門
北川清八
綾部政治
永田文助
千々岩安兵衛
宮田十右衛門
一先達而為飛脚江戸ゟ被差下候足軽
山田五郎左衛門明日ゟ為帰府被指立候依之
御用翰幷御仕送金百両被差遣候
尤中国路七日東海道六日着也
九月廿八日
一八天狗江 御代参御使者番勤被
仰付候御参銀壱両右者先達而江戸
大風之節西御長や吹倒候付
所々ゟ火燃出候得とも大災ニハ不相成
就而ハ毎月八天狗江火祈禱等有
之故欤と被 思召上所ゟ御礼之
御代参江戸ゟ申来候付而也
一泉鏡坊へ御酒被為拝領候右ハ前條
之通火祈禱致祈誠ニ付為御褒美
也御相談人ゟ被相達於小松間拝領
吸物一肴弐種
一本庄社祭礼ニ付 御名代西丸勤
御参銀三匁
九月廿九日
一与賀社祭礼ニ付 御名代西丸勤
御参銀三匁
一今日御徒士通役差繰有之候左之通
銀蔵方附役 飯田貞之進
取納方同 田中吉郎右衛門
【一行あり、綴代にて読めず】
江戸御臺所 牧瀬平治
一祥光山江 御名代御使者番勤
十月朔日
一當日御祝義例之通
同二日
一御参會例之通
十月三日
一祥光山江 御代香御使者番勤
一文次郎殿三浦勘助下目附荒木傳次兵衛
江戸大坂御借銀方御用ニ付被差越
之旨先達而被 仰付置候末今日晝
より出立有之候此節之御便ニ而江戸
大坂江之御用翰被差越候扠又御差
支ニ付而ハ□□御減少ニ付今度出立
之人々従者左之通被相減候
一文次郎殿主従六人
一三浦勘助主従弐人
一荒木傳次兵衛無従者
右之外諸渡方御納戸相知居候
一濱御茶屋御玄関前ニ而相撲為被取
被遊候
十月四日
同五日
同六日
一今日濱御茶や御門前於小路相撲
被遊 上覧候此節外ゟ万端御手数
當八月初旬有之節同様相調候
【一行あり、綴代にて読めず】
一足軽伊東瀧右衛門へ御飼鳥方役被仰付候
同七日
一松田九郎兵衛義御旗元番頭被 召成神代
官右衛門元組被 仰付之旨監物殿ゟ
被相達候扠亦同人役方之義重畳御
断ニ付被差免之旨太田自兵衛相達
一御船方松田太兵衛次男を御本家様御船手ニ
養子ニ遣度旨相願ニ付願之通被
仰付之旨御相談人被相達候
一今日も昨日之場所ニ而相撲為御取被遊
御覧候尤今日之義ハ御親類御
家老方ゟ献上也諸御手数ハ昨日之
通ニ候
一松尾山義去年夏ゟ上方被罷登候末
昨日帰寺仕候由ニ而使僧を以被申上候
大殿様 御前様へ献上物等有之
候由也
一蔵人殿孫娘を相浦千兵衛養子仕度
旨双方被相願ニ付願之通被 仰付候旨
蔵人殿幷千兵衛へ御當役被相達候
一大石涼右衛門義先年部屋住料米五石被
下置候処當二月親次郎左衛門隠居仕候付
右部屋住料を御加米ニ被召成之旨
御相談人達
十月九日
一今泉平太義高嶋番相勤今日到着
同十日
一高岳院様御正當日ニ付而 御代香
御使者番勤御香典線香壱束
一田中九十九義先年ゟ部屋住料米三石
被下置候を御加米ニ被召成之旨御
相談人達尤親彦兵衛當二月隠居
被差免候付而也
同十一日
一木下新右衛門義
大殿様御武具方役被 仰付之旨
御當役被相達候
十月十二日
一大和國世尊寺此御方ゟ御渡方等相滞
居候付而先日ゟ御當地罷下被居候尤
大坂大道寺へ之御渡方等相滞居候
をも右世尊寺ゟ書付等一同ニ差出
被申候其末今日世尊寺旅宿中町
七田長兵衛宅ニ而弐汁五菜御料理被
為拝領候相伴元〆役永橋一郎右衛門
相談役太田自兵衛嬉野善右衛門御蔵方
中頭人野口久左衛門大石涼右衛門溝口甚兵衛也
一鍋嶋造酒殿先比死去ニ付主水殿幷
於才様江従 殿様御悔御使者西丸
勤尤江戸往返之日積候ニ而也
十月十三日
一御参會例之通
同十四日
一成冨久太郎へ亡父五郎右衛門跡式無
相違被 仰付之旨御當役被相達候
一諸御寺之御寄附米當秋出米之欠数
左之通被 仰付之旨役僧呼出ニ而
寺社方役ゟ相達有之候
一両御寺幷般若寺壱部引
一宗智寺祢念寺弐部引
一左之外御寺々三部引
同十五日
一當日御祝義例之通
一諫早兵庫殿義亡父豊前殿跡式
被 仰付右御礼先日首尾能被相澄候由
為知有之ニ付為御歓従
大殿様御使者を以御樽代金子弐百疋
干鯛一箱五枚入被遣候御使者冨岡
弥一佐衛門此節先日為御知之御挨拶も
被 仰進候従 御前様も右御歓御言
葉同使ニ而被 仰進候
一松尾山義先日帰寺ニ付従
殿様為御祝義昆布壱折金子
三百疋被遣候右ハ帰寺之上相調
候様江戸ゟ申来居ニ付而也
一鹿嶋役人酒見代右衛門
於清様御賄料之義ニ付而罷越
候由ニ而今日桜岡被罷出候依之
御廣間ニ而永橋一郎右衛門對談有之
茶たはこ計被差出候尤右代右衛門ハ
鹿嶋相談役之由也
十月十六日
一大蔵殿七拾歳年賀ニ付従
殿様御樽三升入御肴一折生鯛弐枚
被差遣候御使者附役川浪助右衛門勤之
大殿様 御前様 喜三郎様ゟも
御使者を以御酒肴等被差遣候
一殿様江大蔵殿ゟ御酒肴献上有之
尤年賀ニ付而也
一大蔵殿御事隠居法躰御家督
圖書殿へ被 仰付度旨先日被相願
候末願之通被 仰付之旨
大殿様被 仰出候付今日典膳殿
助左衛門殿為上使大蔵殿御宅御出
右之趣被 相達候尤大蔵殿へ被相附
置候殿備組圖書殿へ被
仰付候段是又此節被相達候扠又
大蔵殿へ為隠居料現米三拾石ツヽ毎歳
全被差遣候旨左之通書付を以右
両人ゟ被相達候
大蔵へ
現米三拾石ツヽ為隠居料毎歳全て
遣之候此旨可申達候以上
丑十月
右之通奉書半切を認折懸包ニして
典膳殿助左衛門殿持参也
一右之通ニ付大蔵殿圖書殿早速御
出 殿御請被 仰上候
一芦刈筋為見分元〆役永橋一郎右衛門
惣御目附遠岳傳右衛門其外郡方役
御蔵方役郷役中被相越候
此節郡方役ゟ以下へ御臺所ゟ弁當
被差遣候扠亦元〆役惣御目附江ハ
鑓持手男駕籠舁夫丸上ゟ出ル
一今日造酒殿四拾九日ニ付御菩提所
志波や新龍寺へ 御代香を以 御
香典白摩弐拾帖御寺納被成候
尤御使者番勤也右ハ
殿様御在府御聞届之日積也
十月十七日
一大蔵殿御隠居ニ付名を徹翁殿と被
相改候由御届有之候
同十八日
一蔵人殿御母儀去月二日死去ニ付
殿様ゟ御笑止之御使高木治左衛門
勤之右ハ御在府御聞届之日積也
一千葉太郎介鍋嶋左平太江典膳殿
蔵人殿ゟ交肴一折手樽一ツヽ被差
送之通被相調候右ハ両人共今般
二丸相談役被仰付候由ニ付為歓也
向以御用等も被相頼候付而之由也
一北御丸御妾腹御出生様御名を
吉次郎様と御附被成候為存二丸ゟ
相達有之候由西丸ゟ申来候
一多久美作殿御事長門殿御跡式
無相違去ル十五日被 仰渡右御礼同日
被相澄候由使者を以西丸迄為御知
有之候
十月十九日
一江戸江之御文箱二丸便ニ而被差越候
一村崎弁吉城嶋幸悦へ御数寄方被
仰付之旨御當役被相達候
同廿日
一祥光山玉毫寺へ之 御名代御使者
番勤
同廿一日
一大殿様為御狩山御出被遊候此節小城町
より御馳走申上候
一今日仕舞ニ而江戸大坂へ之御用翰
大坂迄被差越候此節金弐百両
御仕送有之候飛脚足軽平野段六
十月廿二日
一御参會例之通
一祥光山江 御代香御使者番勤
同廿二日
同廿三日
一於清様御賄料之義ニ付鹿嶋御家中
酒見代右衛門先日ゟ御當地罷越被居
桜岡江度々罷出永橋一郎右衛門太田
自兵衛嬉野善右衛門對談有之候
其末今日於小松間御酒被為拝領候
吸物一肴三取肴其上うとん被指出候
嬉野善右衛門相伴也此節御用御返答
手覚書ニ而被相達候委細別帳ニ
写有之候
十月廿五日
同廿六日
一祥光山江 御代香御使者番勤
一江戸大坂へ之御用翰幷江戸江之御
仕送銀拾弐貫目大坂江銀五拾貫目
大坂迄被指越候飛脚足軽山田
七郎兵衛
同廿七日
一牟田傳兵衛義先日
大殿様御猟御出御供使丸當付之
刻限書誤御出之間ニ合不申ニ付而
遠慮仕居候其末今日御當役ゟ御呵
被成之段請役付河浪助右衛門宅ニ而
同人相達
十月廿七日
同廿八日
同晦日
一先達而相達被置候御家中へ
上筋ゟ差出被置之諸借銀米幷
人参代銀立聞銀返上不足等十ケ年
以前ゟ去秋迄之所を向十ケ年
に取納被成候付而ハ当年納前今日まて
取納方へ相納候
一鴨打勘左衛門義右返上筋莫大
有之候由ニ而知行上地相願候
ニ付其通被 仰付候
一祥光山江御代香御使者番勤
一来ル九日十日両日諸御礼御代礼
被遊御請候付而右觸状今日大組代
中請役所呼出相渡候尤御親類
御家老方へハ附衆ゟ手紙出ル
一佐保川嶋筋為見分元〆役永橋一郎右衛門
惣御目附藤嶋清左衛門其外郡方役
を初郷役中不残被相越候尤郡方役
已下へハ弁當被差出候也
十一月朔日
一當日御祝義例之通
同二日
一御参會例之通
同三日
一祥光山江之 御代香御使者番勤
一玉真院様江之 御代香右同断
御香典線香壱束
同四日
一御用ニ付典膳殿二丸被相越候尤銀
御拝借御願書付御持越也扠又當
正月三岳寺事ニ付御願書被差出
置候得とも未何共相達無之候条
急ニ御吟味被相決否候義被相達度
旨御催促有之候也
一牟田傳兵衛義遠慮被成御免候
一大坂ゟ急飛脚を以文次郎殿ゟ御用翰
到来也
十一月五日
一平野屋善兵衛御當地罷越候由ニて
今日致到着候
同六日
一大坂ゟ文箱到来
一先頃ゟ罷下り居候大坂金主手代
吉井茂藤次於御蔵方役所永橋
一郎右衛門太田自兵衛嬉野善右衛門對談
有之候
十一月七日
一今日三嶋御祭りニ付御備物左之通
一壱双錫
一懸魚 三懸 土器
一御供 右同 同
一餅 三重 敷紙
一溝口紙壱帖
一杉原紙壱帖
一菓子《割書:干品々|外ニ弐品》
一右ニ付般若寺幷伴僧壱人被罷出候
御用人部屋ニ而左之通被差出候
一吸物一 酒
一肴 二
一料理壱汁三菜 飯
一御旗本小役人組松田九郎兵衛元組渋川
新右衛門へ被仰付之旨御當役被相達候
一 十一月八日
一今日恒例之通稲荷社御祭り左
之通
一壱双錫 《割書:同紙|水引》
一御供 弐本 土器
一懸魚 弐懸 右同
一和物 なすし 右同
一蓙 壱枚
一溝口紙 壱帖
一月並御布施銀七分
一御酒壱升
但御納戸ゟ
一御布施
右之通外御臺所方ゟ大宮司
石見へ被相渡候也
一中嶋七左衛門義亡父弥兵衛跡式無
相違被 仰付之旨御當役被相達候
一於佐保様先頃ゟ御痛被成候處御
快方ニも不被成御座ニ付御祈禱御修行
有之候様 大殿様被 仰出候付
今日ゟ三日三夜不動明王二洛叉
御修行御新宅 於佐保様
御居間ニ而修行之此節山伏左之
人数 道士 常堅院
城満坊
宝善坊
新 坊
伴僧 圓実坊
西福院
常圓坊
善宗坊
歓喜院
智楽院
【前コマ「城満坊」より一括り】
一御布施左之通
一今度御祈禱諸御入方外方ゟ被差出候
委細御納戸御臺所へ相知居候也
十一月九日
一今日御親類方を初御家中侍通
計諸御礼 御代礼被為 請候尤御
名代之御方ハ無之御對面所上之間
北之内東ニ付南向キニ御親類方御列座
其次之間ニ御家老方御列座中之間
南之内北向キニ大御目附着座也番
頭元〆御相談役惣御目附ハ鑓懸之
下東向キニ着座也左候而御礼申上
候人々ハ萬端御在国ニ而
其身様被為請候通也御礼物も
殿様へ上り候分御通り持出御在国之
通御親類方ハ新御座中之間一
畳目ニ而御礼有之御礼物ハ弐畳
目ニ上る也尤太刀馬代献上之義
御通り持出置之上ニ而御出御礼也
此節下之間北之内ニ御親類御家老
其次ニ大御目附着座也奏者御
相談役太田自兵衛被相勤候尤御
親類方御礼次第
圖書殿
家督之御礼
平九郎殿
名代
監物殿
跡方之御礼
圖書殿
組付御礼
徹翁殿
隠居之御礼
一御礼物等之義ハ委細帳面袋ニ入受
役所ニ直置候也
一家老方ゟ以下ハ御對面所ニ而御礼也
御家老方御礼物之内太刀馬代者
自身持参也
一宮地五左衛門殿加判被相勤候付而ハ嫡子
勘左衛門方席之義御吟味之上番頭
同格ニ被 仰付候
一吉田蔵人殿御家老加列先年ゟ
被相勤候嫡子左次馬方ハ番頭ニ被
仰付置候就而ハ左次馬倅縫殿助
方席之義御吟味之上物頭上席ニ
被 仰付候
十一月十日
一今日小頭徒士通諸御礼被為
請候萬端とも昨日之通此節右近
形右衛門御礼之義小頭徒士通家
督隠居跡式等之御礼不相始最初
に形右衛門義養子加増等之御礼
申上候也
一昨日今日共奏者相原八郎右衛門木下
傳左衛門勤之御通り両日共侍通也
一今度諸御礼御礼物代銀下目附ゟ
取納有之
一松尾山へ 御名代御使者番勤之
一平九郎殿ゟ相願候由ニ而御付人
大園半左衛門ゟ被申上候ハ今度平九郎殿
御事圖書殿次席ニ被相定候
幼少之義ニも有之 仰出之事ニ
候得ハ素り其通可被改義御座候
併先年鉄山殿へ別紙写之通
為被 仰出義御座候就而ハ向之
義ハ何卒先年仰出之通席
之義被 仰付度候不被相願候共向々ハ
其通可被 仰付義ニ候得者強被相願ニ
及不申御事ニ而も可有之候得とも尚又
相願被置候由別紙書付持出相達候也
定
一三浦之名跡相続知行三百石申付候
一名字之義ハ鍋嶋ニ可相改候
一留守居組申付候
一松次郎を養子ニ差遣候尤其方へ
引取候義ハ来【以下、「覚写」一通の上置にて読めず】
一【以下右同にて読めず】
享■【保ヵ】【以下右同にて読めず】
寅極月十四日
右之通被 仰出候申写置候也
十一月十一日
一月堂様御正當ニ付宗智寺へ
殿様 御代香助左衛門殿御香典
白摩弐拾帖
大殿様 御代香西丸勤御香典
御賄方ゟ出ル
一右ニ付祥光山へ 御代香御使者番
勤御香典線香壱束
一徳見官左衛門長崎往来切手東嶋武兵衛
手代長崎罷越候付而官左衛門へ為持
差越也
十一月十二日
一祥光山ヘ 御代香御使者番勤
大殿様御代香右同断
同十三日
一御参會例之通
一白山八幡宮御祭礼ニ付 御代参
西丸勤御参銀三匁
同十四日
一江戸ゟ之御用翰大坂へ先頃差越被
置候足軽平野段六帰次ニて
到来参り此節大坂ゟも重立候御用翰
数通到来也
一今日 熊菊様御下細召初御祝
左之通
御床飾
一瓶子 二双
御口祝
一三方 《割書:八十八|のし》
一御引渡
御膳部
一御膳一汁三菜御香物
一御酒
一御吸物弐
一御肴三 御取肴共
御酒拝領
一酒
一肴一種
太田左治馬
女房
御内
惣女中
鎖口
詰中
同
御徒士迄
右ハ渡切也
御祝物御取替左之通
一三本入御扇子一箱
右ハ 熊菊様江 殿様ゟ
一同 一箱
右ハ 御同人様江 大殿様ゟ
一同 一箱
右ハ 熊菊様江 御前様ゟ
一三本入御扇子一箱ツヽ
右ハ 御同人様へ 於佐保様
於久米様ゟ
一同 一箱
右ハ 御同人様へ 喜三郎様
艶菊様 守三郎様御舫ニ而
献上
一弐本入御扇子一箱
太田左治馬
女房
一御銘々様へ御返禮右同断
拝領
一弐本入御扇子一箱
太田佐治馬
女房へ
一御下細用紅白羽二重拾尺
一同糸弐反【?】
右御祝一通外方ゟ相調也
一先頃ゟ罷下り居候大坂銀主手代
吉井茂藤次へ於小松間典膳殿
御面談元〆御相談人中も對談也
菓たばこ計尤御徒士給仕也
一江戸大坂江之御用翰大坂迄中国路
八日ニシテ被指越候此節先日諸御
礼御礼物金三拾両余下目付ゟ
江戸御駕籠副へ差越候飛脚
足軽秀嶋平右衛門
一綾部文治義亡父嘉兵衛跡切米無
相違被 仰付之旨御當役被相達候
一古川杢之助母お貞江一生之間弐人扶持
被為 拝領之旨右一類千手六之允江
御當役被相達候右ハ
紀州様御幼少之節御傍相勤其
末 御子様方御傍数年堅固
相勤去年御免被成候右之通
数年堅固相勤候者ニ付弐人扶持
被 仰付候様 御前様被
仰出候付而也
一城戸五郎左衛門義中嶋七左衛門妹を縁
組仕度旨去八月ニ七左衛門親弥兵衛
存生内双方相願置候弥兵衛
相果候付御達延引ニ相成居候
依之七左衛門忌明先日跡式等被
仰付候付右願之通被 仰出候段
両人江御當役被相達候
一於才様去々年已来御痛ニ付去々
年六月同十二月両度ニ
上々様を初御親類御家老中
請役所詰中ゟ御願文差上被
置候処御痛所少々御快方被成
御座候付今日両度之御願御成就
有之御札御糈御肴等左之通被
相副今日 於才様へ被差上候
御使西丸勤
一御札御糈等一折
一御肴一折鯛二
右ハ 殿様ゟ
一右同断
右ハ 大殿様ゟ尤御賄方ゟ
一御札御糈一折
一御肴一折鯛一
右ハ 御前様ゟ
一御札御糈一折
右ハ 於佐保様 於久米様ゟ
一御札御糈一折
一包のし
右ハ御親類中
一右同断
右ハ御家老方
一右同断
右ハ西太郎兵衛殿園田采女殿ゟ
一右同断
右ハ請役所詰中
一右同断
右ハ 御内老女永岡ゟ
同十五日
一當日御祝義例之通
一昨日 熊菊様御下細御召初御
祝相澄候付御親類御家老中
受役所詰中右御祝義今日被
仰上候
同十六日
同十七日
一上方三社江 御代参 【牧脱ヵ】瀬平治江
仰付之旨御當役御達尤江戸
御臺所附役先日被仰付候得ハ
御代参相勤直ニ江戸罷越御臺所
相勤筈也
一於佐保様御痛気ニ付智楽院義
一七日御加持申上候付御馳物として
金子百疋被為拝領候付目録御
新宅へ遣ス
十一月十八日
一祥光山江 御代香御使者番勤
同十九日
一八天狗御祭ニ付 殿様ゟ
御代参御使者番勤御参銀壱匁
《割書:但例年ハ 御代参無之候得共當年ハ 御代参|被 仰付候様 御前様ゟ被 仰出候故也》
十二月【ママ】廿日
一玉毫寺祥光山江 御代香御使者番勤
同廿一日
一足軽土山藤右衛門へ樋方下付被
仰付候
一足軽組代村田善兵衛義先日御猟
御出御供市川勘平へ被 仰付候を觸落
候付早速遠慮仕居候其末御當役
より川浪助右衛門宅ニ而御呵被成候
一今日御狩山御出被遊候此節御召
勢子奉行納冨弥七左衛門本庄権左衛門
常富五兵衛無調法有之候付遠慮
御届有之候
一三浦勘助義御借銀方ニ付先頃ゟ
大坂被差越置候末書中ニ而不相澄
御用ニ付今晩下着致し候
同廿二日
一御参會例之通
一祥光山へ 御代香御使者番勤
一御掛硯方之義ニ付佐嘉役々被致
世話候付左之通被差送候尤銘々
自分之首尾ニ入也
一丹波嶋弐反
一交肴一折
右ハ相良源兵衛へ 典膳殿
蔵人殿ゟ
一丹波嶋弐反
一交肴一折
右ハ北原有右衛門へ渋川新右衛門ゟ
一金子五百疋
一交肴一折
右ハ吉岡治兵衛へ中原嘉兵衛ゟ
十一月廿三日
同廿四日
一於佐保様先日ゟ之御病気一圓御
快方無之ニ付今日ゟ五夜五日御祈禱
於御新宅御修行有之
修法
一仁王経百部迹護摩一洛叉五大尊
法火生三妹【ママ、昧】
山伏左之人数
道士 常賢院
城満坊
智楽院
西福院
圓実坊
伴僧 新 坊
歓喜院
正寿院
興隆院
宝善坊 【ここまで一括り】
同廿五日
一三浦勘助義又々今日ゟ大坂江
被差越候此節江戸大坂江之御用
翰被指越候
一高間礎卜へ亡父玄可跡式無
相違被 仰付之旨御當役被相達候
同廿六日
祥光山江 御代香御使者番勤之
十一月廿七日
一今夜町便ニ而大坂ゟ之御用翰到来
同廿八日
一先達而大坂ゟ為飛脚罷下居候中使
七郎兵衛明日ゟ被差返候此節江戸
大坂へ之御用翰被指越候
同廿九日
一上屋敷便ニ而江戸ゟ之御用翰昨夜
致到着候
一祥光山へ 御代香御使者番勤之
十二月朔日
一當日御祝義例之通
同二日
一御参會例之通
十二月三日
一無量寺江 御代香御使者番勤
一江副兵部左衛門義御使者番被
仰付之旨典膳殿被相達候御廣間
幷御究役兼勤被 仰付之旨御相談
人ゟ相達有之候
一徳本武兵衛義
大殿様御供番被 仰付之旨御相談
人ゟ相達候
一八十嶋勾當へ正金拾両被為拝領候
右ハ京都へ引次之官金拾両當面
差登せ候半而ハ格合等も相違イ
勝手向ニおひても殊之外不繰合ニ
相成候義ニ御座候得とも内證極々指支
右金差登セ候義何分ニも不相叶
就而ハ御時節柄ニ申上兼候得とも何卒
右金拝領被仰付被下候様重々奉
願候付而也
一鴨打清兵衛高木孫六永田文助へ
銀壱枚ツヽ被為拝領候右ハ何も
鴨打勘左衛門弟子ニ而軍法稽古方
致出精候殊ニ勘左衛門儀最早老
年ニ相成候付右三人江天部傳仕
度候得共少々入方銀等有之候付而ハ
當時節柄何も自力ニ而ハ天部傳
相調兼候間何分か御手當被
仰付被下候ハヽ御蔭を以天部傳仕度
旨勘左衛門ゟ重畳相願候付御吟味
有之候處當時少分義も被相減
御時節ニ候得共右躰之義ハ向キ以御
用相立儀ニ付右之通銀壱枚ツヽ
被為拝領候条天部傳仕候様右
三人江御相談人ゟ被相達候
一牧瀬平治義當暮上方三社
御代参相勤直ニ江戸罷越御臺所
附役相勤候様先頃被 仰付来ル十三日
より被差立候付而ハ自力ニ而仕廻方
相調兼候由ニ付銀百目被為拝領候
其上銀弐百目御貸被成候
一神代太郎左衛門幷深町平兵衛へ為稽
古料米壱石弐斗ツヽ被為拝領候
尤太郎左衛門ハ馬術也平兵衛ハ砲術也
十二月四日
一今日為御狩山御出被遊候
一圖書殿ゟ被相願候ハ内證極々指支
何分ニも相続之手段無御座候条
何之通ニも相続仕候様御堅慮を以
被 仰付度旨ニ而横帳面等を以重畳
被相願候付御吟味有之候末被達
御聴候上左之通御取計被成之旨
御相談人ゟ御付人石井六郎右衛門へ
被相達候
手覚
御内證被差支候付而先達而被
相願候末達 御聴候處出米を
初諸納方其外御相對借銀等
上ゟ被御取捌義ニ候依之當丑ノ
年ゟ向キ五ケ年之間御知行所
上ゟ被相預為御賄料壱ケ年ニ
米百弐拾石ツヽ被遣夫丸入菊
百弐拾石ニ相當り候分被差出候以上
丑十二月
右之通手覚書相認六郎右衛門へ
被相渡候
十二月五日
一北丸御妾腹吉次郎様御事昨日
御卒去被成候依之日数五日御領中
御穏便二丸ゟ之觸状到来
一岡町江り口平左衛門へ銀五貫目調達
被 仰付候依之御酒被為拝領候
吸物一肴二也
十二月六日
一牧瀬福右衛門義御用ニ付鹿嶋より
夜通しに罷越左候而押返し
鹿嶋罷越候付御酒被為拝領候
肴二種也
同七日
一 同八日
一御佐保様御病気ニ付横尾水漚江
鳴弦修行先日被仰付置候付今日
より御新宅ニ而修行之明後十日
迄相仕廻候筈也
一岩蔵寺住持老母去四日被相果候
ニ付忌中御届有之就而ハ忌
中之間御祈禱方幷寺役
之義末寺東楽寺へ被仰付度
旨岩蔵寺ゟ被相伺候付其段
筋々御伺有之候処其通被相調
候様ニと被仰出候依之岩蔵寺へ
寺社方役太田自兵衛ゟ手紙出ル
一八十嶋勾當義引次之官金為納メ
京都罷登候付来二月迄御暇
奉願候付其通相澄候其段附衆
ゟ勾當へ相達
一相浦千兵衛儀西丸聞番見習
被 仰付之旨御當役被相達候
一藤嶋清左衛門義旧記方頭人兼勤
被 仰付之旨御當役被相達候
十二月九日
一恒例之通橋村肥前太夫ゟ
大殿様へ大麻幷暦御熨斗
五把差上候
一御前様へも大麻幷暦御熨斗
弐把差上候也
一今日仕廻ニ而江戸大坂へ之御用翰
幷御仕送銀四拾貫目大坂迄被
指越候飛脚足軽古賀儀兵衛
一崎川弥一義西丸目付兼勤
西川八右衛門代り被 仰付之旨御
當役被相達候
一西川八右衛門義於鹿嶋
於清様附東嶋市右衛門代幷御臺所
頭人被 仰付之旨御當役被相達候
一綾部文治義於鹿嶋
於清様御料理人被仰付之旨
御當役被相達候
一東嶋市右衛門義
於清様付御免被成候臨時御免
ニ付遠慮之御届申上候得とも不及
其儀段被相達候
十二月十日
一祥雲院様御一周忌御法事
今十日ゟ明十一日迄於栄照庵
御修行有之候尤御銘【ママ】日一明後
十二日ニ御修行有之筈候得とも右ハ
大殿様ゟ御自分御法事相調り
候付今日ゟ明日迄也
一今晩於栄照庵従
御前様御施餓鬼御修行有之由也
十二月十一日
一祥光山へ 御代香御使者番勤
一祥雲院様御一周忌御法事
於栄照庵御修行左之通
一御法事料 鳥目三貫文
米三斗
薪五荷 【以上一括り】
一殿様 御代香物頭勤御香典
白麻十帖
一大殿様 御代香右同断御
香典線香弐束
一御前様御参詣被成候御香典
線香弐束
一於佐保様 御代香平士勤御
香典線香壱束
一於久米様御参詣被成候御香典
線香壱束
一足軽飛脚帰便ニ而大坂ゟ御用翰到来
一江副兵部左衛門義御使者番幷御廣間
番御究役先日被 仰付候就而ハ
大殿様御取次役も兼勤被仰付之旨
於受役所御相談人ゟ被相達候
一丹州様江左之通被進候
一枝柿 一箱三百入
右ハ 大殿様ゟ
一葛粉 一箱三升入
右ハ 御前様ゟ
右之通被進候右ハ先日御妾腹
吉次郎様被成御卒去候付御朦中
御見舞之為御心持也御使者西丸勤
十二月十二日
一大殿様祥光山栄照庵ヘ 御堂参
被遊候
一昨日ゟ今日迄従
大殿様御自分方
祥雲院様御一周忌御法事被相調
候由也
一三溝村大興寺ニおひて
祥雲院様御一周忌御法事諫早
屋鋪ゟ修行有之候付左之通
一殿様 御代香御使者番勤御香典
白麻弐拾帖
一大殿様 御代香右同御香典右同断
一御前様 御代香西丸勤御香典
白麻拾帖
一於佐保様 於久米様 御代香
西丸勤御香典白麻拾帖ツヽ
一大殿様 御前様江
殿様ゟ御野菜一折ツヽ被進候
右ハ 祥雲院様御一周忌ニ付
為御見廻被差上候御使者附衆勤
同十三日
一上方三社江年越為 御代参牧瀬
平治今朝ゟ御膳之通被指立候
吸物一肴弐ニ而御酒拝領之上御玄関
より表御門通罷立候手男壱人
被相附候此節江戸江之御用翰
幷近年御到来物代銀下目付
より仕送有之候也
一今日仕舞ニ而江戸大坂へ之御用翰中国
路七日ニシテ大坂迄被差越候飛脚
足軽山田七郎兵衛
一高木忠右衛門伯父出奔被致之由先日
被相届候依之忠右衛門遠慮致被居
候を今日被成 御免候
一被 仰談御用ニ付各方御出仕
同十四日
同十五日
一當日御祝義例之通
一北浦村ニおひて親孝行仕候者有之
候付左之通
北浦村
五十歳位 病者 市左衛門
同 女房
十五才 同 子
十一才 同 弟
六ツ 同 妹
右市左衛門病者ニ而渡世方も成兼
極難之参懸りニ付而ハ十五才十一才
之子共両人野山江参枯柴等をひ
ろひ集賣代なし或ハあなた
此方使とも被頼一日〳〵暮方ニ而両
親之者へ別而孝行仕候由
右市左衛門
子共両人
右之者共親病身ニ而渡世方不
相成ニ付若手ニ而到て孝行を尽
候趣被 聞召届貞実之到ニ被
思召上候依之米六斗被為拝領候以上
一水上山ゟ左之通書付を以寺社方
迄願有之候依之御吟味之上茅
百荷被差出之旨役僧を受役所へ
呼出寺社方役ゟ被相達候
御繁多半近頃申上兼候得とも
當山勅願之開山神子禅師
五百年之祭忌向卯ノ年ニ相當
申候寺格柄ニ付國中之諸宗門ハ
不及沙汰遠国之使僧等も
来足仕儀ニ付而ハ堂殿之修造
も局方成共相調置度御座候得共
纔之寺領ニ而何分ニも不得所存
儀ニ御座候条薄茅三百荷餘
被為 寄附被下度奉願候於就ハ
大壇越之御蔭を以諸堂之葺
替仕年忌之法會相調度右
之趣奉願候条筋々宜被 仰達可
被下候以上
水上山
丑十一月 納所 龍徳院全峰
維那 大同庵生山
侍真 宝珠庵陽堂
一陣内友右衛門義
於清様御臺所附役被 仰付之旨
御當役被相達候左候而御料理人
兼勤候様御相談人被相達候
一牧瀬福右衛門義
於清様御臺所目附被 仰付之旨
御當役被 相達候
十二月十六日
同十七日
一先年ゟ之御仕切五ケ年當年迄年
限相満候付又々明年ゟ向キ五ケ
年御仕切御願二丸へ先日西丸ゟ
被指出候処 御願之通當年迄
之通向キ五ケ年相澄候也委細
佐嘉御仕合帳ニ扣有之候
一先達而ゟ罷下居候大坂銀主手代
吉井茂藤次幷儀八為帰坂今朝ゟ
致出立候此節大坂へ御用翰被
差越候
一多久美作殿御亡父長門殿跡式
無相違先達而被蒙 仰候段
西丸迄使者を以為知有之候依之
右為御祝義
殿様ゟ御使者被差遣候尤江戸
御聞届之日積也御使者西丸勤
同十八日
一大殿様 御堂参被成候
一殿様ゟ
本良院様へ之 御代香御使者番勤
一東十左衛門ゟ左之通書付を以筋々
相願候付御吟味之上
大殿様へ被相伺候処願之通被仰付
之旨ニ付其段十左衛門へ御相談人
ゟ被相達候
奉願口上覚
私儀兼而内證差支罷在候末到
當暮尚以極々之躰相成反的相續
難相成何共迷惑至極之参懸御座候
右ニ付取續之手段色々作略仕候へ共
時節柄ニ付而ハ何分ニも相續之参道
無之候右之通ニ御座候得ハ當前外ニ
致方無御座賣而在方江引移候て専
倹約を相用相續之営仕度奉
存候条何卒在方居住被差免
被下候様奉願候願之通於被 仰付ハ
押々ニも取続私義ハ最早老年
罷成候得ハ倅傳兵衛義向共相應
之御奉公をも為仕度奉存候条何
卒願之通被差免候様宜被仰上
可被下候以上
丑十二月 東十左衛門
同十九日
一横尾水漚へ金子三百疋被為拝領候
右ハ 於佐保様御病気ニ付
鳴弦修行被仰付去ル八日ゟ十日迄
相整御病躰も御快方ニ被為成候
依之為御褒美也
一鴨打勘左衛門へ金子弐百疋被為拝領
右ハ倅清兵衛高木孫六永田文助へ
天部傳仕候付而也
一吉祥坊宝聚院今七時寺社方
太田自兵衛宅ニ而御裁許被仰渡候
依之吉祥坊遠慮委細罰帳
幷寺社方諸扣帳ニ扣有之候
一綾部政治義寄親典膳殿宅ニ而
御手頭を以御呵被成候依之遠慮
御届委細罰帳ニ扣有之候
一吉祥坊一類竹内傳右衛門馬渡傳治
遠慮御届申上候
同廿日
一祥光山玉毫寺へ 御代香御使者番
勤之
一綾部吉十郎義寄親木下求馬宅
ニ而御手頭を以御裁許有之候委細
罰帳ニ扣有之候
同廿一日
一於郡方御裁許事有之委細
罰帳ニ写之
同廿二日
一御参會例之通
一祥光山へ 御代香御使者番勤
同廿三日
一上々様へ寒風御機嫌被相伺候御
親類方御家老方西太郎兵衛園田
采女請役所詰中也
一於鹿嶋 於清様御臺所方
此御方ゟ役人被罷越被相調候付
先日被 仰付置之通西川八右衛門
牧瀬福右衛門陣内友右衛門綾部文治
次ニ御臺所男弐人今日ゟ鹿嶋へ
被差越候
一當歳暮御祈禱今日ゟ三日三夜
恒例之通小松間ニおひて岩蔵寺
修行之尤岩蔵寺法印ハ実母
被相果忌中ニ付道士ハ東楽寺
被相勤候
一竹内傳右衛門馬渡傳治遠慮被成
御免候
十二月廿四日
同廿五日
上林三入江御茶料之内銀弐百目
被相渡候
一長崎願成寺へ米五石筈ニ而被指出候
但御陣場ニ付御寄附米八石ツヽ被下候内也
十二月廿六日
一祥光山江之 御代香御使者番勤
同廿七日
一十一月諸願何も願之通被 仰付之旨
御格之通御印之御書付を以被
仰渡候其外御相談人幷附役ゟ之
手紙等御格之通出ル
一原虎之助存生内御目附方へ印討
願致置候ハ蒙急病等指出相果
候節ハ葉二右衛門甥徳久和吉
を嫡子に被 仰付度旨相願置候
処先日致病死候付願之通被
仰付之旨和吉へ御當役被相達候
一下代反米下代幷大石惣右衛門地方
附役小物成下代同下附足軽両人江
御合力米跡方之通被下候旨御相談
人被相達候
一信州様 丹州様江 殿様より
寒気為御見廻御使者江副
兵部左衛門勤之
一右御両所様へ 大殿様
御前様ゟ右御見舞御使者西丸
詰勤之
一大殿様 御前様へ
殿様より寒気為御見舞御使者
を以生鯛二ツヽ被差上候
一於佐保様 於久米様へ
殿様ゟ寒気為御見廻交肴一折
御使者を以被指上候右御使者何も
付役勤
一諫早兵庫殿ゟ西丸迄使者を以
功徳院様遺物左之通被指上候
一和歌 一箱
殿様へ
一花生 一ツ
大殿様へ
一香箱 一ツ
御前様へ
一嬉野善右衛門へ為御褒美麻御上下一具
被為拝領之旨御當役被相達候
一今日仕廻ニ而江戸大坂へ之御用翰大坂
迄被差越候
一今日江戸大坂ゟ之御用翰到来
同廿八日
一當日為御祝義各方御出仕
同廿九日
一祥雲院様へ相附居候左之人数へ當
月御一周忌御法事ニ付而御茶代
左之通被下候
藤戸平兵衛伯母
一銀三匁 妙知
犬塚隼人母
一同弐匁 浅田
田代羽左衛門妹
一同壱匁ツヽ ちせ
田代久兵衛娘
ちわ
八十嶋勾当娘
つて
足軽山川平兵衛妹
一銭弐百文 御末女中
右之通被為拝領之旨右之人々
親へ御相談役相達也
一御懸硯方ニ付別而致太義ニ付為御褒美
左之通被為 拝領候尤御懸硯ゟ出ル
一金子弐百疋 川浪助右衛門
一同 百疋 野口卯十
一遠岳傳右衛門へ御酒被為拝領之旨御
當役被相達候右ハ本役之上御居之間
御修覆方心遣別而致太儀候付為
御褒美也
一千々岩弥左衛門幷附役牟田傳兵衛江頭
十蔵定差次大木清吾へ御酒被為拝領
之旨弥左衛門へ御當役被相達候右者
下地御用多上御居之間御修覆偖又
御鷹や御門等相立候付而別而致
太儀候付為御褒美也
一福地亨元へ銀弐枚被為拝領候右ハ
上々様御用ニ付而度々罷出致太義
候付被下候尤御相談人相達也
銀弐枚ツヽ
与賀社
本庄社
大堂社
右ハ例年之通明年中常
燈料として被指上候
十二月晦日
一金五両 北嶋三折
一金子千疋 松隈亨安
一金子弐百疋 福地亨元
右之通為御薬料被下之旨目
録を以御相談人相達也
一燒杉三本入御扇子一箱
右者 信州様へ 殿様ゟ御使者
西丸勤
一同三本入御扇子一箱
右ハ 丹州様へ 殿様ゟ御使者
右同断
一鰤壱本
一白木弐本入御扇子一箱
右ハ 大殿様へ 殿様ゟ
一塩鯛一折一
一白木弐本入御扇子一箱
右ハ 御前様へ 殿様ゟ
一今夜二丸御祝ニ付助左衛門殿被相越候
一歳暮為御祝義各方を始受役所
詰中出仕有之
一今夜六ツ時於奥
大殿様御祝有之
「佐賀大学附属図書館」蔵書印
裏見返し
裏表紙
告病傷寒温疫家説(こくびょうしょうかんおんえきかせつ)
告病傷寒温疫家説 各一計二
告病傷寒温疫家説
告病傷寒温疫家説
方堂長尾先生著
告病傷寒温疫家説
穀詒堂蔵
友人尾子明常窃悪西洋医術之威行三十人
心酔信其怪誕流毒有霊乃欲作文而辨折之
近頃其一小冊子成或薦公之於世因【囙の異字体】上梓木
云爾愚興子明居相近日互往来共以吾道之
広【廣】為勢間所論説少係洋医之術子明張
目怒臀叱曰彼 狗鼠(くそ)歯奔(しほん)【ここの読みが不安です】之輩何知吾仁術
之至要特在以所辨感世人其気概如此耳
子明去月嬰祝融【?】災家累蕩書無遺錨銖
【右頁】
下_一。方堂主人鉄面居士執_レ筆。
越後 新井貞
三河 池町幸 校
【左頁】
近日洋医、徘_二 【入力できず】都下_一、吊詭惑_レ衆、無識之
徒、無_下不_二驚異_一者_上、到_二師門_一乞_二治験_一之人、必
談話及_二于此_一、平等応接、不_レ勝_レ煩、刀圭之
餘暇、嘗取_下先生所_二手録_一 一篇之説_上、上_二于
梓木_一、以替_二口舌_一、此書曽非_レ所_下以、公_二于世_一、
而招_上レ謗、只為_二未訪病客_一示_レ之、弟子等聊
欲_レ脱_レ煩而己、
相陽廣川生 秩齋窪田東作記
【表紙 下部に管理ラベル】
【右上に逆さ】
寛政六
【以下本文】
正月元日
一天山社え 御代参
馬乗已上勤御参銀壱匁
一国武社え 御代参
御家老勤御参銀壱匁
一天山社え 御前様
御代参馬乗已上勤御参銀
御内ゟ出る
一同社え 静明院様
御代参馬乗已上勤御参銀
西岡ゟ出る
一同社へ 於佐保様
御代参平士勤御参銀
浜御西ゟ出る
一佐嘉諸社へ之 御代参
西丸勤御参銀三匁つゝ
一両御手寺へ之 御代香馬
乗已上勤御香典無之
一高伝寺宗智寺へ之
御代香西丸勤御香典銀
三匁つゝ
一玉毫寺へ従 静明院様
御代香馬乗已上勤
一肥州様へ従 上々様歳暮
年始御祝物御在府ニ付
江戸ニ而調る
一年始御取替左之通
一白木弐本入御扇子壱箱折共
一御円鏡壱錺
一御肴一折塩鯛壱
右は
静明院様へ従
殿様
一白木弐本入御扇子壱箱折共
右は
御前様へ従
殿様
一於佐保様へは御祝詞計
一鹿島山城殿其外へ之御取替
御仕切中ニ付無之尤御祝詞
之義は西丸ゟ被相勤候様懸合に
相成候也
一結扇子 一結つゝ
天山社人
川上命婦
与賀社番人
一献上左之通
一弐本入御扇子三箱
右は
殿様 御前様
静明院様え
大蔵殿
左近殿
監物殿
殿様 御前様
一同三箱
静明院様へ
頼母殿
十太夫殿
造酒殿
権右衛門殿
殿様へ
一同壱箱
持永左馬
吉田幸三郎
重松与次右衛門
木下求馬
東嶋杢右衛門
一殿様御病気分ニ付御家中
其外 御目渡無之尤外
於御居間朝五つ時御親類
御家老中詰役人中へ御内分
被渡 御目候
正月二日
一初御参会例之通右ニ付御
親類御家老御役所詰中
御目付方御蔵方郡方
勘定所地方郷目附普請
方代官牛津御蔵床惣座御
茶屋番井樋方右之通
肴一種 煮〆物并 御酒被為
へき鰹ニ而
拝領候御蔵方ゟ外役は小松間
ニ而拝領御徒士給仕弐人
一恒例之通両獅子於御対面所
前相踊候付被下物一通御台所
存也
一慈広院様御正当ニ付栄照庵
え之 御代香御取次勤
御香典線香壱朱
正月三日
一静明院様御筆付御親類
御家老相談役御目付方旧記方
請役付其外被渡
御目候
一於佐保様九つ時右之通被渡
御目候
一玉真院様初御忌日ニ付
御代香御取次初御香典無之
正月四日
同 五日
同 六日
一新庄郷ゟ美麗共恒例之通罷
出候付小松間ニ而御酒并青銅
壱〆文被下候也下目附存也
同 七日
同 八日
一諫早小船を御陣場百姓共恒例
之通罷出候付御酒并青銅壱〆文
被下し候御台所ニ而御出陣方
付役存也
正月九日
同 十日
一高岳院様初忌日ニ付松尾山へ
御代香番頭勤御香典御仕切
中無之
同十一日
一月堂様初御忌日ニ付宗智寺
へ之 御代香御家老勤
御香典白麻拾帖
一右同断ニ付祥光山へ之
御代香御取次勤御香典無之
一国武社へ 御代参御家老勤
御参銀無之
正月十二日
一御参会例之通
一円覚院様初御忌日ニ付
祥光寺へ之 御代香番頭勤
御香典無之
同 十三日
同 十四日
一文景院様初御忌日ニ付
御代香御取次勤御香典無之
同 十五日
一当日御祝義有之
一殿様初御誕生日ニ付
天山社へ 御代参御取次勤
御参銀三匁
一於佐保様御寿算七拾歳
御年賀御祝左之通
一御床錺
一御口祝
一大御引渡
一御料理一汁五菜
一御吸物一
一御肴弐
被進候品ニ而
一御島台
一御押
一御菓子
一御濃茶
一御菓子
一御薄茶
後御座
一御吸物弐
一御肴三
一御取肴
右御祝ニ付御取替左之通
一御円鏡一重
一御肴一折生鯛弐
一御樽弐斗入
一御島台
一御押台
一御衣装壱 此節不間合ニ付
御目録
右は従
殿様
一寿饅頭一折 百ツ
一御まな一折 塩鯛壱
右は従
静明院様
於佐保様ゟ御祝善左之通
一御肴一折 塩鯛弐
右は 殿様え
一御肴一折 塩鯛壱
右は 静明院様え
一浜御西詰男女え肴弐種
ニ而御酒拝領付握飯之事
一上々様御供男女并御伽中へ
右同断
一右御祝ニ付御親類中
御家老中并請役所
詰中ゟ御祝義申上候事
已上
正月十六日
一備前守様今日此御方御出
被成候此節表御門ゟ御式台
外御居間へ御入被成候右ニ付
御親類方御家老中相談役
御目付御式台被罷出候也右
御手数前方御越候通也
同 十七日
同 十八日
一本良院様初御忌日ニ付
御代香番頭勤御香典無之
正月十九日
同 廿日
一金栗様 寿昌院様初
御代香番頭勤御香典無之
御忌日ニ付
同 廿一日
同 廿二日
一去る十日江戸桜田御屋敷
御類焼ニ付
肥州様へ御見廻御使者二丸へ
被差出候御取次勤御家老惣代
権右衛門殿被相勤候袴着也右之通
蓮池御家老相勤被申候趣彼方
ゟ西丸迄為知有之ニ付被相勤候也
正月廿三日
一村川平八郎義
麟太郎様御用人兼帯
被仰付候段御当役被相達候
同 廿四日
一法眼院様初御忌日ニ付
御代香御家老勤御香典無之
同 廿五日
一去る十一月
国武社御祭
殿様御服中ニ付被差延
置候付今夜より明朝迄
御祭被相調候御囃子左之通
高砂 東北 金札
右役者中へ御酒被為
拝領候
一殿様御出座無之
一暮時ゟ左之通出席
御祭主
左近殿
造酒殿
御祭方
木下内蔵進
御目付方ゟ
壱人
御祭方嬉野伝之助
江島金兵衛
岩松左五六
正月廿六日
一今朝卯刻御祭初る御
祭主左近殿御神前相済
百手的始る右一通委細御祭
事帳に有り
一殿様御出座無之
一御親類御家老中御用人
受役所詰中其外懸り合役々
扨又追服之子孫出席有之也
一上々様御名代左之通
一御参銀弐匁
静明院様
一御代参 御附頭勤
御参銀西岡ゟ出る
於佐保様
一同 平士勤
右同
於加殿
一同 右同
右同西岡ゟ出る
一右ニ付左之通御神酒被為
拝領候
肴二種 御親類
御家老中
煮〆 御用人
肴壱 元〆
相談役
御目附方
御傍中
御状方
請役附
御蔵方
勘定方
百手的人数
御祭懸り合
役々
追服子孫
一此表諸社并佐嘉表諸社え
当年始
御代参 殿様御服中ニ付
差延置候付今日佐嘉其外
総社へ 御代参被差出候也
正月廿七日
同 廿八日
一佐嘉より左之通触達申来候
種姫君様御不予之処
御養生不被為叶去る八日
御逝去之段江戸ゟ申来候
依之今廿八日ゟ来月四日迄
日数七日御領中御穏便
被 仰付候条謡乱舞鳴物等
相止候様尤作事は明後晦日
迄三日相止候様旁筋々
懇に可被相達旨御当役
御申候已上
寅正月廿八日 二丸
請役所
一長崎外治林文民滞在願
二丸請役所差出被置候処
願之通被 仰付候段左之通
被相達候付年行司へ百日完
之滞在段々被相願候也
正月廿九日
同 晦日
二月朔日
一当月御祝義御穏便中ニ付
無之
一加藤専右衛門義先達て佐嘉ゟ
蟄居仰付被置候処被差免候段
二丸ゟ相達有之
同 二日
同 三日
同 四日
一昨三日より今日迄
貞静院様御百ケ日御法事
於祥光山御経営ニ付左之通
一鳥目弐〆文
一米三斗
一薪五荷
一御代香 御取次勤
御香典白麻拾帖
静明院様
一同 御附頭勤
御香典線香弐束
於佐保様
一同 平士勤
御香典線香壱束
已上
二月五日
一又左衛門殿嫡子無御座候付専斎宮
十五才に相成候と嫡子に養子仕度
旨被相願候処願之通被仰付候
一左之通役方被 仰付候
御山目付 蒲原平内
御山心遣 北門清八
兼
二月六日
一木下求馬義於
御前御加判被 仰付候依之
御加米三拾石被為 拝領候段
御親類ゟ被相達候
同 七日
同 八日
同 九日
同 十日
同 十一日
同 十二日
一正一位社初午御祭礼ニ付
御代参御取次勤御参銀壱匁
右ニ付御施物左之通
一銀弐匁 岩蔵寺
一同五分つゝ 伴僧三人
一同壱匁 宮島石見
二月十三日
同 十四日
同 十五日
一当日御祝義有之
一浜長局今夕出産有之
御男子様御出生也
一於加殿今日ゟ西岡御出有之候也
同 十六日
一備前守様今日此御方御出
被成候尤此節は御中宿より
直に裏御門より西岡御出被成候
右御手数之義は前方御越之通也
同 十七日
同 十八日
同 十九日
二月廿日
同 廿一日
一御新屋御出生様昌右衛門様
と御附被上候右ニ付御家中
郷中へ触達有之尤昌之
字は用捨致候様被仰付候
庄右衛門と申名は手前ゟ用捨
致候様被相達候也
同 廿二日
一御参会例之通
同 廿三日
同 廿四日
同 廿五日
一権右衛門殿今日於
御前
麟太郎様御出府之節江戸
御供被仰付候段被仰出候
二月廿六日
同 廿七日
同 廿八日
同 廿九日
三月朔日
一当日御祝義有之
同 二日
一御参会例之通
同 三日
一当日御祝義有之
一二丸へ御家中惣代三人之内壱人
此御方より被差越候余は西丸勤
一二丸御部屋
於釐様御卒去ニ付左之通触達
申来る
於釐様御事御病気
御養生不被為叶今二日
夜御卒去被成候依之則ゟ
来る六日迄日数五日御領中
御穏便被 仰付候条謡乱
舞鳴物等相止候様尤作事は
日数二日相止候様之事
【頭註】御法名春深院様申上候
一月代之義来る四日迄日数
三日各様方着座中御用捨
之事
右之通被 仰付候条
此段端々迄懇に可被相達
旨十左衛門殿御申候已上
三月二日 二丸請役所
三月四日
同 五日
同 六日
同 七日
一備前守様近々御出府且去秋
以来此御方之義ニ付厚御世話
被成進候御礼御餞別旁として
左之通御使者を以被進候
拾丁懸り
一蝋燭五百丁 箱入
一塩鯛一折 二
一御前様御事御離縁之義
先達て 肥州様被仰出
候ニ付従 静明院様何卒
此節は被立帰候通色々御
願書等被指出置候末西丸呼出
ニ而左之通被相達候段申来候
御離縁一件委細御退身一件之
帳に有り
今日御進物方ゟ呼出
有之罷出候処先達て
数姫様御離縁ニ付従
静明院様被仰上候書付
江戸申越候処右は
数姫様御病身ニ付御双方
御熟談之上御離縁被成候趣ニ而
最早
公辺御届相済居候付
今更
肥州様御聴に可相達様
も無之旨ニ而別紙差返り
申候此段御家老方へ可致
御達候得共此節御応変
其外甚御用多候付私迄
相達候由藤瀬要助ゟ申達候
此段御家老方へ御達可
被成候已上
三月五日 西丸
相談役
一右之趣
上々様并御家中大組代
呼出ニ而被相達候
三月八日
同 九日
一於釐様御中陰払ニ付善応庵へ
従 殿様御代香西丸勤
御香典杉原白麻廿帖従
静明院様は無之
三月十日
一松尾山へ
御代香御取次勤
一日田御代官御交代有之羽倉権九郎殿
旧臘下向有之候付為御歓御使者
江戸左五兵衛今朝ゟ被差越御進物
左之通
一干鯛一箱 三枚入
一毛せん 弐枚
一御樽代 三百疋
一元〆四人用人壱人へ金子弐百疋
つゝ被下之候也
一此節浜側御蔵床之義共御懸合に相成
右は別帳に有り
三月十一日
一祥光山え
御代香御取次勤
同 十二日
一祥光山え
御代香御取次勤
一御参会例之通
三月十三日
一西雄殿七十之年賀祝有之候付
従 殿様被相祝左之通
被遣候也御取次勤
一御肴一折 塩鯛二
一御樽一 三升入
三月十四日
同 十五日
一殿様正御誕生日ニ付
天山社え 御代参
御取次勤御参銀壱匁御社納也
同 十六日
一備前守様為御参勤御発駕
今日牛津御通行ニ付同所え為
伺御機嫌御家老惣代造酒殿被
相越候
一同断ニ付従
殿様同所へ御見廻御使者水町半
従 静明院様も御一使ニ而
相証也
三月十七日
一出府之阿蘭陀人牛津通路
今夜止宿ニ付郡方元〆方
其外役々同所出張有之
同 十八日
同 十九日
同 廿日
一寿昌院様御正当ニ付祥光山へ
御代香御家老勤御香典線香
壱束
一御内御祝道具請取として
左之人々被相越候
八重野宅へ致 由良野
中宿諸賄此 於まつ
御方ゟ御心遣也 御中居
明廿一日ゟ被罷越 横田善左衛門
着也尤町宿 宮地小右衛門
三軒御手当に 手明鑓両人
相成候也 足軽両人
手男共
三月廿一日
同 廿二日
同 廿三日
三月廿四日
一法眼院様へ之
御代香番頭勤御香典無之
一恭盛院様御正当ニ付高伝寺へ之
御代香西丸勤御香典白麻
廿帖
同 廿五日
同 廿六日
同 廿七日
同 廿八日
一馬場大允義永々病気ニ而
役方御断ニ付願之通被成
御免候就ては猶又情々療養
を加へ末々御用にも相立候様被
思召候段被 仰出候且又是迄
役方被致太儀候ニ付御酒被為
拝領候旨御当役被相達候
三月廿九日
同 晦日
四月朔日
一当日御祝義有之
一天山社御田御祭礼ニ付
御代参御取次勤御参銀
壱匁
一右ニ付警固頭人壱人馬乗
已上勤同附足軽三人何も
朝飯後より岩蔵寺出勤有之
一左之通役替被
仰付候
大御目附被仰付候
且又数年役方被 木下内蔵進
致情勤候ニ付為御褒美
御加米七石被為拝領候
相談役被 宮地二兵衛
仰付候
右は御親類方ゟ被相達候
惣御目附被 東次郎兵衛
仰付候
御当役達也
一今日二丸ゟ御家老両人御用申
来候付十太夫殿求馬殿御出候処
先達て相願被置候御隠居御
家替之義御願之通被
仰出候段十左衛門殿を以被相達候
右御達書并諸御手数委細
御隠居御家替方帳に在り
四月二日
同 三日
一御隠居御家替御願之通被
仰出候付
肥州様へ従
御両殿様御礼御使者今日二丸へ
被差出候番頭ゟ両人勤之
御口上書其外委く御仕組方
帳に有り
四月四日
同 五日
一左之通兼役被 仰付候
寺社方 宮地二兵衛
御相続方兼
於佐保様 永橋泰助
御附懸り合
小路方外
御懸硯方 東次郎兵衛
御能御衣装方
御■
四月六日
一二丸御年寄中ゟ別紙之通奉礼【札カ】
ニ而為御知有候ニ付
肥州様へ従
大殿様静明院様之御挨拶
御使者西丸勤
以手紙申達候
於栄様御事今般
御前様御養娘被成進向後
栄姫様と奉称候様被
仰出候
加賀守様静明院様へ右
為御知従私共可申上由
肥州様被
仰付越如是候宜有御申上
候以上
四月七日
四月七日
一今度 御代替ニ付て
如御先格御乗輿弐本鑓
御願二丸へ被差出候御取次勤
惣ては御用人勤に候得共障ニ付
御取次也右御書付其外委く
御仕組方帳に有り
四月八日
四月九日
一今日
麟太郎様え御家老壱人
御使ニ而
御嫡子様に被成上候段被
仰達候其末右為御仰桜岡へ
御出御式台ゟ外御居間御通
御用人御呼出御礼被 仰上候末
殿様御面談ニ而御盃事
御祝被相調候右御手数委く
御仕組方帳に有り
一右ニ付大組代御呼出左之通
御当役被相置候
麟太郎様御事
御嫡子様に被 成上候付
自今
若殿様と奉称候之様
被 仰出候此段各御触内
無洩可被相達旨御当役
方御申候已上
寅四月九日
一右ニ付従
若殿様
御代参左之通被差出候御
取次勤
御参銀壱匁
一天山社
右同断
一国武社
一若殿様御附左之通被
仰付候
御供目附 高木左九馬
御駕篭 野村菅左衛門
副
四月十日
一正一位社初卯御祭礼ニ付
御代参御取次勤御参銀壱匁
一右ニ付御施物左之通
一銀弐匁 岩蔵寺
一同五分つゝ 伴僧三人
一同壱匁 宮島岩見
四月十一日
一御隠居御家替御祝今日
被相調候旨鹿島并於加殿へ
御内々為御知西丸ゟ奉礼【札カ】ニ而
出る
一今朝
若殿様え従
殿様御実名
直知公と御改被達候付御用人
ゟ御使被相勤候
一今日
若殿様え御家替御譲
被成候段御親類壱人御家老
壱人御使を以被
仰達候麻上下着
一右御使ニ而御請被
仰上其末桜岡へ為御礼御出
被成候御供其外御仕組方帳に
有り
一殿様桜岡御出御式台ゟ御
入被成候節御出迎
大殿様御用人壱人御傍
弐人麻上下着用
一殿様外御居間へ御通被成
藤田次左衛門御呼出御礼被
仰上候其末御借座被成
御両殿様外御居間御出
座左之通上る
一御出懸
御両殿様え
一御手懸 長のし
よね
一大御引渡
一長柄御銚子御加へ
右畢て
一御吸物
御引盃 御銚子上る
御囃子始る
高砂 仕手鳴物方
長上下脇地謡
半上下
一御平
御引盃 御銚子上る
東北
一御差身
右同 御銚子上る
呉服
右相済順々に下る御給仕
御両殿様御傍打込申談
相勤候長上下着
一右相済
御両殿様外御居間ニ而左之通
被渡 御目候
御親類中
西雄殿
清記殿
御家老中
御取次壱人
右御奏者御用人
当時無之
詰番頭
大御目附
御両殿様
御付御打込ニ而
聞之 御用人
元〆
相談役
御屋敷
頭人
惣御目附
旧記方
頭人
御両殿様御付
御付御打込ニ而聞之
御側中
右同断 御状方
請役附
西岡浜御西
御広式詰
右奏者御取次
右御目渡相済
大殿様奥へ被為入候後御親
類中御家老中壱人も
被 召出従
殿様継御熨斗被下候事
一右相済西岡へ為御礼八メ橋
御通ニ而御出被成候右御帰
之上外御居間より先以御帰
被成候
一右御帰後早々御供揃ニ而
御案内次第御対面所ゟ
御出被成其末
御両殿様
御同座ニ而御祝左之通
一御料理一汁五菜外香物
一御吸物壱
一御肴弐
御盃事
一御島台 壱
一御押 壱
一御茶菓子
一御濃茶
一御菓子
一御薄茶
後
一御吸物 弐
一御肴 三
一御取肴 弐
上々様御取替御酒肴
一御啓
一御夜食
以上
一御次御伽へ肴一種ニ而御酒
被為拝領候
一御囃子役者中へ御酒
被為拝領候肴一種也
一御家替御祝ニ付
上々様御祝物御取替
左之通
一御肴一折 塩鯛弐
白木
一御樽代金弐百疋 竪目録真
文字金子折
白木
右は
大殿様
一御肴一折 塩鯛二
塗
一御樽 三升入 右同
右は
静明院様え
但包御のし
一御扇子 弐本入
右は
於佐保様え
一御肴一折 塩鯛弐
白木
一御樽 五升入ぬり
右は
殿様え従 大殿様
一御肴一折 塩鯛二
ぬり
右は
大殿様え 静明院様ゟ
一御扇子 弐本入
包御のし
右は
大殿様え 於佐保様ゟ
右御取替御同様之事
右御使御互に御用人
御附頭勤麻上下着
一右ニ付番頭物頭大組代中
被召呼御当役被相達候其末
相談役ゟ達書左之通
今般御隠居御家督
之義御願被置候処去る
朔日二丸ゟ御家老両人
御呼出有之御願之通
公辺相済候段被相達候
右ニ付向後御隠居様と
大殿様
若殿様と
殿様と奉称候様被
仰出候偖又
御実名
直知公と奉称候之条
御家中之面々仮名実名
右御字之義用捨可有之候
今日御家督御祝被相
調候付被 仰達候旁之趣
各御触内懇に可被相達旨
御当役方御申候已上
月日
一右御願済ニ付ては
殿様早速桜岡へ御引移可被成
筈之処御隠宅松谷へ御普請
其外御引越彼是御手数
急に不被相調候付暫之処
興譲館仮御住居之事
一右ニ付興譲館稽古人
文武共に引払之事
一右同所御門番足軽弐人被
仰付候
一御用人役所桜岡へ相立候事
一御親類御家老方其外ゟ之御祝義
事桜岡ニ而御用人迄申上
候事
一今度御祝ニ付左之通御到来
一塩鯛一折二塗
右は山城殿於加殿より
殿様え御家督御祝儀
として也
一塩鯛一折二塗
右は 大殿様え右
御二方より御隠居御祝義
として也
右使者江口左馬助依之
左之通被為拝領候
一御料理一汁三菜
一吸物一
一肴 三 取肴共
御代参御代香
御参銀壱匁
一天山社へ 御家老勤
右同
一国武社え 御家老勤
右同
一正一位社へ 番頭勤
右同
一稲荷社へ 右同
御参銀三匁
一太神宮 西丸勤
右同
一本庄社 右同
右同
一与賀社 右同
右同
一大堂社 右同
御香典白麻拾帖
一祥光山 御家老勤
右同
一玉毫寺 右同
右同
一宗智寺 右同
御香典線香壱束
一松尾山 番頭勤
右同
一円通寺 右同
右同
一無量寺 右同
右同
一栄照庵 右同
御香典白麻拾帖
一高伝寺へ 西丸勤
四月十二日
同 十三日
一御家中侍限於御対面所
殿様初て被渡
御目候 番頭中
物頭中
惣侍中
右何れも名披露年始
之通也
同 十四日
一兵庫殿ゟ今度御祝ニ付而以使者
左之通御到来
一塩鯛一折二白木
一手桝 壱 右同
わらひ縄巻
右は殿様へ御家督
為御祝義也
一塩鯛一折 右同
一手桝 一 右同
右は 大殿様へ御隠居
為御祝義也
一静明院様へは御祝伺計
右使者へ於小松間次左之通
被為拝領
一御料理一汁三菜
一吸物一
一肴 三 取肴共
四月十五日
御家督後初て月次御礼ニ付御家中何れも麻上下着也
一殿様初て月次御礼被為 請候
五人立也 大殿様御祝義
於御広間御帳ニ而被申上候事
四月十六日
一鹿島へ御使者被差出候御口上左の通
御家老勤
向暖気候処弥御勇健被成
御勤珍重思召候然は今般
加賀守様御隠居御家督
麟太郎様へ如御願相済忝
思召候別て御幼年之義
御座候得は以来内外共被
御心副被下候様猶又御出府
之上御差引御頼被成候
為其以御使者被仰述候
加賀守様ゟも御同様被仰述候
以上
月日 木下求馬
四月十七日
一今朝五つ時小頭御徒士通へ左之通
被渡 御目候
一御鷹師山水間西頭北向
並居 御出懸
御覧被成候其末小頭御
徒士通於御対面所五人
立名披露なし
一右相済御船頭使者
之間東南頭西向
一御料理人番附之間南頭
一下坊主寄附之間北の方
一野副伝職人組御広間
南頭
一薬王寺只之允職人組
伝組跡南頭
一御親類方御家来小松の間
中の縁北の方東頭名披露無し
右何も年始之通並居
名披露なし
献上
殿様へ
一干鯛五枚 一折 白木
昆布三枚 一折 同
御樽五升入 一 同
大殿様へ
一干鯛三枚 一折 ぬり
御樽三升入 一 同
右御親類中ゟ舫ニ而
殿様へ
一御扇子弐本入一箱
大殿様へ
一右同
右は西雄殿清記殿ゟ舫ニ而
殿様え
一干鯛五枚 一折 白木
昆布三把 一折 同
大殿様え
一干鯛三枚 一折 ぬり
御樽三升入 一 同
右御家老中ゟ舫ニ而
殿様へ
一干鯛三枚 一折 白木
御扇子弐本入一箱
大殿様へ
一干鯛弐枚 一折 ぬり
右は両頭中
殿様へ
一干鯛五枚 一折 白木
一昆布三把 一折 右同
一御樽五升入一荷
大殿様へ
一干鯛三枚 一折 ぬり
一御樽五升入 一 同
右は物頭惣侍限
殿様へ
一干鯛七枚 一折 白木
大殿様へ
一干鯛五枚 一折 ぬり
殿様へ
一干鯛五枚 一折 白木
大殿様へ
一御扇子弐本入一箱
右は足軽新足軽小道具中
一御酒拝領左之通
一吸物壱
一肴弐種 煮染
酢肴
右は御親類御家老中
小松間ニ而御酒被為拝領候
一肴二種 煮染
酢肴
一酒
番頭中
請役所詰中
御目附方
御両殿様 御用人
右同 御傍中
御取次
御状方
請役附
御蔵方
勘定所
御広間当番
西岡詰中
浜御西詰中
右詰侍中へ於小松間次間
被為拝領候
一肴 一種
一酒
右は西岡浜御西詰女中へ
被為拝領候
一今度江戸御詰被 仰付候人数
左之通
御近習頭
御傍目付兼 藤山宗右衛門
御馬方御取次江戸
表ゟ御用之節被仰越
次第出府有之候様被
仰付置候 冨岡将曹
御傍目附
御在国中 秀嶋八右衛門
御傍 薬王寺弼
右同 持永藤九郎
右同 馬渡七郎左衛門
右同 納冨伝之允
右同 川副織江
右同 西岡有助
御匙 川久保順庵
御状方御供番兼 秀嶋利左衛門
御供目附御状方 高木左九馬
御道中納戸兼 益田平七
御供番御道中御供目附兼
御駕籠副屯目附 野村菅左衛門
御道中納戸兼
御祐筆 西岡藤次兵衛
御納戸付役 松岡郡兵衛
御台所附役 石井園右衛門
屯詰御供番 牧瀬与助
右同 藤木彦兵衛
右同 藤戸和三郎
御草履取 姉川忠蔵
御料理人 牧瀬長左衛門
御膳立 村山弥七兵衛
御台子 吉次松斎
四月十八日
同 十九日
一今朝七つ時御供揃ニ而
大殿様松谷御茶屋御移徙
被遊候
一村川織義今日於御前御用人
被 仰付候様被 仰出候
同 廿日
一両御寺へ之 御代香御取次勤
同 廿一日
一御家督初て 殿様左之通
今朝五半時御通懸被渡
御目候
御対面所次の間ゟ 里足軽
順之通並居年始 新足軽
之通也 山代足軽
小道具
右相済候上ニ而左之通
使者之間ゟ 大庄屋
御広間迄 別当
順之通右 御用聞
同断 町人
諸物屋
右相済
御対面所 山内
次間より 山代
順之通右 無足足軽
同断 御船役者
右之通同日三段に相渡
御目候
一木下内蔵進義御在国中御用人
兼帯被 仰付候
四月廿二日
同 廿三日
一蓮池へ御使者被遣候御口上左之通
御家老勤
御使者
南里権右衛門
ーー【省略】之節弥御堅固
被成御勤珍重思召候
然は今般加賀守様御隠居
御願之通相済御家督
麟太郎様へ被仰付忝思召候
御幼年之義御座候得は以来
万端被副御心可被下猶又
追々御出府之上は御引廻
御願被成候為其以使者
被仰述候加賀守様ゟも御同様
被仰述候
四月廿四日
一法眼院様え従 殿様
御代香御取次勤御香典無之
一肥州様今日御着
城ニ付御家老惣代権右衛門殿
御家中惣代御使者番ゟ壱人
余は西丸詰ニ而相済
一右ニ付二丸え 大殿様ゟ之
御祝義御使者被差出候従
静明院様之御使者西丸勤
殿様御祝義之義は二丸
聞合有之候処右は御家督
御祝義物被進候上ニ而御勤向
相始候由ニ付此節迄は御勤向無之
四月廿五日
一今朝五つ半時
殿様初て岩蔵寺へ被渡
御目候尤場所之義は御対面所
上の間弐畳目位御同間ニ而
御礼有之同所中切襖立切
南の方障子一枚明け僧衆は使者
之間縁頬通御取次之脇より
被罷出候也右御礼相済御
対面所次の間ニ而左之通御酒
被差出候相伴無し御取次より
挨拶有之伴僧迄出る
一吸物壱
一肴 三 取肴共
一今度御隠居御家督御祝義
として鹿島ゟ左之人々被罷出候
御家老惣代 犬塚蔵人
御家中惣代 嬉野五百人
右ニ付御家老は小松の間上の間
ニ而御料理出る相伴無し挨拶之義
権右衛門殿御用人ゟ有之御家中
惣代之人へは同所次の間ニ而出る
挨拶御取次ゟ有之
一御料理一汁三菜
一吸物壱
一肴三 取肴共
一左之通兼役被 仰付候
大殿様御取次 水町半
御猟方兼帯
興譲館懸り合 永橋泰助
外御懸硯方 宮地二兵衛
御小物成方 日出嶋環
御山方
里山方
搦方兼帯
興譲館懸り合
四月廿六日
一御隠居御家督御祝ニ付物頭
惣侍中へ於使者間御酒被為
拝領候右場所ニ而居余り候分は
寄附之間迄も相懸り候也給仕
御徒士袴着
片木盃付
一肴五品
楊子
一土器盃
右御酒拝領御達御当役達
四月廿七日
一今朝六半時御供揃ニ而興譲館
ゟ御行列ニ而
殿様桜岡へ御引移被遊候
左候而御膳御銚子被召上
則御供揃ニ而初て
天山社 国武社御参詣被遊候
御供左之通
御跡乗弐騎
御帰之上 麻上下
御徒士迄 侍御供六人
御酒拝領 御侍入テ
肴一種 右同
御徒士拾人
足軽四人
小道具五人
右御道筋大手口ゟ岡町
御通行御参勤之節之通也
御帰懸松谷へ初て御立寄
被遊候 国武社え南小路ゟ
下岡御帰同様之事
一右御社参ニ付
御奉納左之通
一御太刀一腰
一御馬 一疋 代金百疋
一銀壱両 岩蔵寺護摩堂え
一昆布一折 二把
一金子弐百疋 法印え
一同 百疋 社僧え
一同 百疋 社人命婦へ
国武社え御奉納
一御太刀一腰
一御馬 一疋 代金百疋
一銀弐両 社人え
一松渓え初て御出ニ付左之通被
進候
一塩鯛一折二
一御樽一 三升入
御使
秀嶋八右衛門
一初て御社参被遊候御祝として
御帰館後左之通
大殿様え被進候
一御肴一折 塩鯛壱
御取次勤
一御殿様ゟ御返礼右同断
一桜岡御引移且初て御社参
御祝義御親類御家老中
詰役人被申上候也
一今度御祝ニ付小頭御徒士中え
於寄附間御酒被為拝領候
片木盃付
一肴三品
一土器盃
右拝領御達相談役足軽給仕
袴着
四月廿八日
一昨日初て御社参被遊候御祝
今日被相調候付
大殿様 静明院様桜岡御出
被遊候上り物其外奥へ知る
於佐保様には御不例ニ付御出無之
一今度御祝ニ付今日足軽中并
新足軽山代足軽一組小道具
中へ於御広間御酒被為拝領候
尤御広間へ居余り候分は
鑓懸の間西縁頬小松間の間
次の間迄給仕詰手男
共より
片木盃付
一肴二品
一土器盃
右付役達之
四月廿九日
五月朔日
一当日御礼五つ時被為 請候
一今度御祝ニ付左之通御酒被為
拝領候給仕手男也
山内山代無足
御広間 足軽中
御船役者
同所西鑓懸間 大庄屋中
中の口鑓懸間 別当
右同 御用聞
諸物屋
片木盃付
一肴二品
一土器盃
右付役連也
一肥州様長崎御越牛津御通路
ニ付郡方其外出張有之
一郡方御附役石井杢左衛門御隠居
御家督為御祝義桜岡被罷出候
依之金子弐百疋被為拝領候
御用人達其末於郡方御料理
御酒被為拝領候尤前方桜岡ニ而
被差出候得共今日は足軽
其外御酒拝領ニ而御取紛候付
其訳同嶋藤右衛門ゟ内々申達
右役所ニ而被差出候也
五月二日
一御参会例之通
同 三日
同 四日
一殿様正御誕生日ニ付 天山社え
御代参御取次勤御参銀壱匁
一右ニ付放生鳥納戸ゟ上り候事
五月五日
一当日御礼例刻被為 請候
一右ニ付
肥州様え 大殿様ゟ之
御祝義御使者西丸勤従
静明院様之御使者右同断
御家中惣代何れも西丸詰ニ而
相済
同 六日
同 七日
同 八日
一肥州様今日従長崎御帰
城牛津御通行ニ付郡方其外
役々出張有之右ニ付二丸従
大殿様静明院様之御祝義
御使者何れも西丸詰ニ而相済
五月九日
同 十日
一松尾山へ之 御代香御取次勤
一近頃郷町疫病流行ニ付
為転除桜岡内小路廻り
山伏両人え祓被 仰付候て
執行有之折銭百五拾文つゝ
被差出候
同 十一日
一今度御隠居御家督ニ付て
筑前島原日田え今朝より
態て飛脚を以左之通為御知
有之尤日田へは大坂迄被差越
候也
一筆致啓上候加賀守義
病気差出
公務不相計候付隠居
被相願候依之嫡子
麟太郎頓て被致出府
筈御座候此段為御知
為可得御意如斯御座候
恐惶謹言
月日 御家老中
日向
筑前 御家老中
嶋原
日田 元〆中え
五月十二日
一松平主殿頭様為御参勤
今日牛津御休ニ付御使者被差出候
御取次勤御進物等は無之右
ニ付郡方元〆方其外役々
同所出張有之
一長崎下向之御普請役西田
要蔵殿并御手付役両人
牛津休ニ付役々出張有之御
使者御進物等はいまた御家督
後 公辺御手数不相済
候ニ付何れも不差出候尤其訳
亭主役ゟ申達候也
一兵庫殿ゟ西丸迄使者を以
左之通為御知有之使者
手覚書左之通
手覚
暖気相成候処弥御勇健
可被成御座珍重奉存候
然は大和殿年来
病気之処此間ゟ弥増
病勢相募爾今は至て
大切之為体ニ付自然快
復無之候半私二男駒三郎
と養子跡式被相願度
旨相談有之候併内分
色々存合候義も有之候付
深々辞退仕候得共兼て
重縁も有之病体之義も
至て危急之趣を以重畳
被申聞候付最早旦夕に
差懸り強て何角難申立
無拠伺其意領掌仕候
惣ては前辺御内慮之程
をも御相談仕候上返答
可仕之処急場差懸り
候儀故右之次第御座候
此段御知旁以使者申上候
以上
五月十三日
同 十四日
五月十五日
一当日御礼有之
一肥州様え今度御隠居御家督
為御礼左之通御使者を以
被進候委細御仕組方帳に有り
殿様御使者
長袴着 十太夫殿
一御太刀 一腰
一御馬 一疋
代黄金壱枚御目録には代
黄金十両と書載す
右御目録檀紙一重立合
横目録真文字
御名御実名付
一昆布 一箱
一干鯛 一箱
一鯣 一箱
一御樽 二荷
箱の書付
真文字進上
御名あり
右竪目録一枚大奉書
御名計真文字
御実名無し
右は従
殿様被遣候
大殿様御使者
長袴着 持永左馬
此使者御用人勤に候得共其節不
差合ニ付両頭勤ニ而済
一御太刀 一腰
一御馬 一疋
代銀三枚御目録には
代白銀三十両と書載
右御目録前に同し
一昆布 一箱
一干鯛 一箱
一御樽代 千疋
箱書様前に同し
右御目録前に同し
右は従
大殿様被進候
静明院様御使者
半上下着 水町半
一干鯛 一箱
箱の書付
しん上
御名有り
御目録同様に
御名書載す
右御目録大奉書竪弐枚
重草文字 御名有り静明いんと
書載す
右は従
静明院様被進候
一何れも御進上物介副
西丸詰
御徒士両人
才領
足軽両人
はつひ着
持人
一右御使者之人々え
肥州様於外 御居間
被渡 御目候掲礼也右
相済於御料理間縁頬御酒
拝領有之右達御事寄
鍋島左太夫出物左之通有之由
也
一御吸物一
一御肴 三
一御酒
一右御酒拝領相済候上左之通
拝領被 仰付候
縮緬二巻 十太夫殿
銀二枚 持永左馬
金子三百疋 水町半
御使者御介副相勤二丸被罷出候付
金子三百疋 嬉野小右衛門
西丸聞番也
右拝領達鍋島左太夫ゟ
相達被申候付自分御礼
之義同人宅へ何も直に被罷出
候て被申上候
一御隠居御家督ニ付被相祝佐嘉
役々え左之通被為拝領候御使者
西丸勤今日
肥州様へ之御進上物被差上
候ニ付同日に被差出候
御年寄
鍋島伝兵衛
但ぬり折 成冨十右衛門
一干鯛一折 鍋島左太夫
一樽代五百疋 相良権左衛門
つゝ
中奉書一枚竪目録仕立
樽代は中奉書横二枚重目録に
附折に据る
右同断
一塩鯛一折二
一金子三百疋つゝ
御年寄相談人
杉本兵刀
御近習頭
松村七郎左衛門
松崎武兵衛
石井五郎右衛門
空閑九郎太夫
但中奉書壱枚竪目録に附金ニ而
一金子三百疋つゝ
御進物方
馬場左太夫
藤瀬要助
中山嘉兵衛
清水源七郎
但右同断
一同三百疋つゝ
御使目附
吉村二兵衛
馬渡九郎右衛門
但右同断
一同弐百疋
御祐筆頭
秀嶋弥八郎
江口和兵衛
島内源十
副島完四郎
右御年寄ゟ御近習頭迄
御使者其已下は西丸より
奉礼【札カ】ニ而出る
一於加殿今日より此御方御出有之候
五月十六日
同 十七日
一肥州様え御家督後是迄
御勤無之内御歓御挨拶事等
有之候分左之廉々今日御使者
を以被仰進候御取次勤尤御
家督御礼御祝物御使者不被
差出内は御勤向無之由ニ付
是迄差延被置一昨日御礼
御使者被差出候付て也尤右之趣は
前辺二丸御聞合有之右之通
御差図有之候也
一肥州様大坂御着御祝義
一御同人様先月廿四日御着
城之御祝義并御着
城之為御知有之候御挨拶
一御同人様長崎ゟ御帰
城之御祝義
一一昨日御家督御礼御祝物
被進候節御使者之人々え拝領
物有之候御礼
但此廉は
大殿様
静明院様ゟも御礼被仰進候
一足軽松山忠助義於大坂役方
出情致候付為御褒美御合力
米六斗役中被為拝領候
付役達
五月十八日
一浜御茶屋
昌右衛門様先達てゟ御病気
之処昨今被御差募今昼共ゟ
猶又被御差重御太切之
御様子ニ付
大殿様え各方始請役所
詰中
御機嫌伺有之
一今度
御代替ニ付て今朝五つ時
左之寺院へ被渡 御目候
掲礼
御扇子 福智院
壱束壱本 星岩寺
つゝ 玉毫寺
外御居間敷居内二畳目
献上物は御傍ゟ持出御礼席
少し上え置
真照寺
御断 栄照庵
禅林庵
右同 掬泉庵
右同 無量寺
御対面所次の間北西頭南向に
並居銘々献上物御扇子
一箱つゝ前備御礼
一右相済福智院え於御用
人部屋左之通被差出候
一銚子
一吸物壱
一肴 二
一星岩寺玉毫寺其外僧衆
伴僧迄餅菓子小松間
ニ而被差出候
一餅菓子 向煮染品々
一左之通転役被 仰付候
興譲館目付 横尾与四郎
右同所
銀米方 松坂大助
右同
銀米方 徳本庄助
付役
五月十九日
一昌右衛門様御養生不被相叶
昨夜四つ半時頃御卒去被成候
乍然御取啓め之義は御差合
之義等有之明廿日御啓
被成候段 大殿様仰出ニ付
平日之通也
一先達て此御方御隠居御家督
為御祝義山城殿於加殿并
兵庫殿ゟ御酒肴御到来被成
候ニ付右為御祝答今日左之通
被差出候御使者西丸勤也
但ぬり折
一塩鯛一折二白木折 宛
右は山城殿於加殿
御両殿様ゟ
一塩鯛一折二白木折
一手桝一三升入白木 宛
右は兵庫殿え
御両殿様ゟ
一右両屋敷ゟ先達て御祝義
使者として罷出候人々え被相祝
金子百疋つゝ被為拝領候今日
西丸より相達被申趣御用人
部屋より申越に成る
山城殿家来
江口左馬助
兵庫殿家来
中島弥七右衛門
一昌右衛門様御事今夕於浜御部屋
御入棺被成御堂参之御振合
ニ而暮過御出棺栄照庵へ
御出被成候
五月廿日
一昌右衛門様今暁御卒去被成
候段今日御啓め有之右ニ付
左之通
一上々様え右之段申上
相成候事
一上々様え各方始詰役人中
御機嫌伺奉候事尤御
家中は御広間御帳ニ而
御両殿様え申上候事
一今廿日ゟ廿四日迄日数五日
御領中御穏便被 仰付候事
尤作事は三日相止候様被
仰付候事
一同夜栄照庵ニ而御葬送
被相調候事右ニ付御引導
祥光山方丈被相勤栄照庵
并伴僧弐人罷出相勤候事
一上々様御代香無之事
一各方并役人中不罷出
候事
一御中陰無之事
一備前守様於加殿へ御内々
為御知藤田次左衛門ゟ西丸迄
申越被成事
一右御不幸ニ付て御四十九日迄
御法事料左之通栄照庵へ
大殿様御賄方ゟ被差出候
一銀弐枚
一米六斗
一右御葬式一通其外
大殿様御一手ニ而被相調候
右一通御手数委細之義は
松谷御用人方日記扣有り
五月廿一日
五月廿二日
一昌右衛門様御法名左之通
法雲真瑞禅童子
同 廿三日
一二丸御年寄中ゟ西丸まて
左之通奉礼【札カ】ニ而為御知有之
以手紙申達候
栄姫様御事柳原
式部太夫様御嫡兵部太夫様
御縁組当月朔日仰合
相済候段自江戸申上被
聞召
麟太郎様 加賀守様
静明院様へ右為御知
我々ゟ可申上旨
肥州様被 仰付如是候
宜有御申上候以上
二丸
五月廿三日 御年寄中
嬉野小右衛門様
一右御歓且為御知之御挨拶
御使者を以従 御三所様
被仰進候尤西丸勤也
五月廿四日
一昨日西丸迄甲斐守様より
御隠居御家督御祝義として
左之通御到来被成候由ニ而西丸ゟ
為持来候也
手覚
一御肴一折 塩鯛二
白木折
右は
麟太郎様へ従 甲斐守様
御家督御祝義
加賀守様 静明院様へ
従御同人様
御隠居御家督御祝義
右之通以御使者被仰進候
御使者
北島文左衛門
一殿様御出府之上御在府
中御猟方一式
大殿様御支配被遊候由従
大殿様被 仰出候
五月廿五日
一今度御譲に相成候御鎧
御鑓御打物今日於小松間
岩蔵寺へ被 仰付御加持
被相調候右ニ付岩蔵寺へ
左之通出る
一干菓子 伴僧迄
一御布施 銀壱両
一同 壱匁 伴僧壱人
一法雲様初御七日被為当
候ニ付 大殿様へ従
殿様御野菜一折左之通
御傍御使を以被進候
一御野菜一折 上とうふ
牛房
なすひ
一右ニ付
大殿様え御親類御家老
役人中ゟ左之通御野菜献上
有之
一素麺一折 壱〆五百目
御親類
御家老中ゟ
一御野菜一折
大御目附
御用人
元〆
相談役
惣御目附
旧記方頭人
請役附
御蔵方役
五月廿六日
同 廿七日
一今朝
殿様御鎧召初御馬召初
被遊候御祝御規式被相調候
右御手数相済於新御座
五つ時御親類御家老中
番頭中迄御熨斗頂戴
之上元之座え着座有之
其末 殿様御鎧餅
上る御親類御家老番頭迄
年始之通出る左候て詰侍中
於 御前御餠頂戴弐人立
年始之通也右御規式
御両殿様御祝御座配之次第
上り物一通委細御仕組方帳并
御用人方日記に扣有り御餅
頂戴詰侍左之通
大御目附
元〆
相談役
惣御目附
御取次
旧記方頭人
御用人始
御傍方迄
大殿様
御用人始
御用繁ニ付 御使其外
御断 松谷詰侍
中迄
西岡詰中
浜御西詰中
請役附
御蔵方役
勘定所
御広間当番
壱人
御給仕罷出候
侍六人
五月廿八日
一今日水上山不動会今度
公儀御穏便ニ付被差延候由
同寺より申来候付
御代参不被指出候
同 廿九日
一去八月祇園会山挽之節
先山跡押被相勤候処不行届
義有之左之通今夜於寄
親宅仰渡有之委細罰帳
有之
御呵捨 江副孫太郎
江副兵部左衛門与
御呵置 足軽四人
今泉能登路与
右同 飯盛官左衛門
右同人与
御呵捨 足軽五人
一右ニ付寄親〳〵遠慮御届
有之
六月朔日
一当日御礼有之
一役方左之通被 仰付候
御広間番ゟ
請役附見習兼 水尾貢
御広間番 江島文右衛門
六月二日
一御参会例之通
同 三日
一日峯社御祭礼ニ付
御代参御取次勤御参銀壱両
従 大殿様之御代参西丸勤
御参銀三匁松谷より出る
一於宗智寺
日峯様御正当ニ付
御代香西丸勤御香典白麻十帖
六月四日
持役ゟ
大殿様御使 日出島環
目付兼
惣御目附 戸田要之助
左之通役方被 仰付候
六月五日
一当祇園会役役割帳面之通
被 仰付旨於小松間御当役
被相達候
一今朝五つ時御供揃ニ而御家督
初て 正一位社稲荷社
不動尊え御社参被遊候御参銀
壱両つゝ
一稲荷社不動尊え初て御社参
ニ付福智院へ左之通被為
拝領
一昆布一折 壱把
一金子百疋
六月六日
同 七日
同 八日
一殿様御幼年ニ付ては御書判
御用難被成御状其外に御印判
御用被成候筈に候得は御何歳迄
御印判ニ而御何歳ゟ御書判
御用被成と申義御吟味に相成
候処聢と不相分ニ付江戸ニ而
諸家様御並も可有之御聞合に
相成候処十五歳より御判
御用被成候由江戸より聞合来候
ニ付其通に被相極候
同 九日
同 十日
一大弘院様廿五年御忌御法事
於高伝寺昨夕ゟ今日迄御執行
ニ付
一御代香 番頭勤
御香典金子百疋
大殿様
一同 右同
同麁口白麻廿帖
静明院様
一同 御使者番勤
同白麻拾帖
六月十一日
一国武社へ 御直参無之ニ付
御代参御家老勤
同 十二日
同 十三日
同 十四日
六月十五日
一殿様静明院様山挽為御見物
山桟敷え今朝六つ時御供揃ニ而
御出被遊候也
一祇園会御祭礼例年之通也
挽懸り七つ時先山暮六つ時
上川原挽届跡山中町中程
迄ニ而及暮損所等有之候付
被相止明朝為御挽被成筈之処
両山共殊之外損所有之其上
両日と候ては役々難渋且郷内
専耕作時分ニ而夫丸共難渋
可致付夫迄ニ而被相止右場所
迄ニ而挽据置翌日解崩に
相成候也
一桟敷勤左之通
十太夫殿
御名代 重松与次右衛門
大御目附 木下内蔵之進
相談役 宮地二兵衛
惣御目附 東次郎兵衛
請役附 嬉野伝之助
祐筆
給仕
一右ニ付 祇園社へ従
大殿様之 御名代馬乗
已上勤御参銀松谷ゟ出る
一祇園会ニ付例年
上々様へ御団さなた御扇子
御納戸ゟ前方上り候得共近年
御仕切中ニ付被相止候也
一頼母殿先達てゟ病気之処
昨今殊之外被差重候付御預
被置候組被差上候段一類を以
被相達候
一右之通頼母殿病気以之外
被差重候付上使を以病体
御尋被成候御使平士勤従
大殿様静明院様は無之
一右之末頼母殿御養生
不被相叶今夜五つ時過
死去有之候段御届有之
一頼母殿死去ニ付則ゟ明後
十七日迄日数三日御領中
穏便謡乱舞鳴物等相止
候様被仰付候段早速触達
出る
一御同人死去ニ付左之通忌中
御届有之
権右衛門殿
求馬殿
持永左馬
戸田要之助
六月十六日
一郡方田島藤右衛門遠慮御届
有之訳は昨日先山損所
有之挽方無之畢竟
結立不宜処より跡山挽方
にも差支甚不行届由ニ而遠慮
有之
六月十七日
一一昨十五日頼母殿死去ニ付
造酒殿え
以 上使笑止被 仰遣候
右御使平士勤
一備前守様悌姫様ゟ左に書載候通
御使者を以此御方御家督
為御祝義被進候
一御太刀馬代 銀壱枚
一干鯛 一折五
一御樽代 三百疋
右は 殿様え従
備前守様
一干鯛 一枚五
一御樽代 二百疋
右は 大殿様え従
備前守様
一干鯛 一折五
右は 静明院様え従
備前守様
一干鯛 一枚五
一御樽代 二百疋
右は殿様え悌姫様ゟ
一干鯛 一枚五
右は大殿様え悌姫様ゟ
一御扇子 一箱
右は 静明院様え悌姫様ゟ
備前守様御使者
朝日巧馬
悌姫様御使者
田沢雅助
右御使者之人々え於小松間
料理御酒被為拝領候左に
一料理一汁三菜
一吸物 壱
一肴 弐種 外に取肴壱
右御使者之人々え被相祝
金子百疋つゝ被為拝領候竪
目録に金子付御取次より
被相達候也
一宮崎七右衛門より恒例之通祇園会
相済候付左之通献上物有之
一伴綱
一鯖
一塩貝
六月十八日
一本良院様御正当ニ付 御代香
御家老勤御香典線香
壱束
六月十九日
一定恵院様二十五年御忌御法事
鹿島於普明寺御経営ニ付左之通
一御代香 御取次勤
御香典白麻二帖
大殿様
一右同 右同
御香典白麻拾帖
静明院様於佐保様
一右同 平士勤
御香典白麻拾帖つゝ
一御同霊様二十五年御法事来る
十九日ゟ同廿日迄於祥光山御
経営ニ付左之通
一米三斗
一鳥目三〆文
一薪五荷
半上下着
一御代香 馬乗已上勤
御香典線香弐束
大殿様
一同 右同
同線香壱束
静明院様於佐保様ゟ
一同 鎖口勤
御香典線香壱束つゝ
一廿日一日御領中殺生禁断
之事
一御法事中請役附ゟ壱人
御寺相詰候事
已上
一鉄山殿五十年忌法事於法珠寺に
被相調候付以 御代香左之通
御香典御寺納被成候
御代香平士勤御香典線香
弐束
六月廿日
同 廿一日
同 廿二日
同 廿三日
同 廿四日
一御家督初て両御寺御堂参
被遊候御供御行列平生之通
尤侍御徒士麻上下着用
一御先祖様方え御香典金子
百疋つゝ御寺納被成候両御寺共に
初て御参詣ニ付て方丈え両
御寺共に定銀弐百疋つゝ被遣候
尤右御使は御先番之平御側ゟ
被相勤候
一両御寺共に御魂屋〳〵え御参詣
被遊候て寺え御通被遊候
一法眼院様御正当ニ付て別段
御香典線香壱束御寺納
被成候尤御直参ニ付て御代香
無之
六月廿六日
一法雲様御三十五日被為当ニ付
従 殿様栄照庵へ左之通
御寺納被成候
但御仏前え
一御野菜一折
但御茶湯料
一銀壱枚
一先達て御隠居御家督為
御祝義甲斐守様ゟ西丸迄
御使者御祝物有之候右御使者
北島文右衛門被相祝金子百疋被
下候を西丸迄為持遣同所より
相達被申候様申遣候事
六月廿六日
一先達て従 備前守様悌姫様
此御方御隠居御家督為御祝義
御使者を以御祝物御到来被成候
右御祝答御祝物左之通御使者
を以被進候御使者御取次勤但御三方様
御使者共御
一使ニ而被相勤候也
殿様ゟ悌姫様へ
一干鯛一枚五
一御樽代二百ひき
大殿様ゟ御同人様へ
一一干鯛一枚五
静明院様ゟ御同人様へ
一御扇子一箱 三本入焼杉
包御のし副
右之通銘々御目録副
備前守様へは御在府ニ付
於江戸被進候通江戸注進に
相成候也
六月廿七日
一肥州様え暑中御見廻御
使者を以被 仰上候御使者
御取次勤
一今夕七つ時御供揃ニ而祇園川筋
御川狩御出被成候
六月廿八日
一水上山不動会先月廿八日延引
之末今日相調候段申来候付
左之通
御代参被差出候
一御代参 御取次勤
御参銀三匁
大殿様
一同 右同
御参銀松谷ゟ出る
静明院様
一同 平士勤
御参銀西岡ゟ出る
六月廿九日
同 晦日
一二丸ゟ高木忠右衛門え御書付を以
逼塞被 仰付候段西丸迄相達に
相成候由ニ而西丸ゟ申来候付今晩
於寄親宅仰渡有之候委細罰帳に
有り
一右ニ付左近殿寄親処を以遠慮
御座有之候処不及夫段被仰出候
七月朔日
一当日御礼有之
七月二日
一御参会例之通
一泰盛院様 高源院様
玄梁院様 寂光院様
法性院様 光徳院様
寿綱院様
右御施餓鬼於高伝寺御経営
ニ付左之通
一御代香 御取次勤
御香典無之
静明院様
一同 西丸勤
御香典無之
七月三日
一於無量寺 玉真院様
御施餓鬼是迄御執行被成
来候得共御取〆ニ付て御施餓鬼
之義は被相止鳥目壱〆文
被差出候
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
一薪 三荷
一夫丸七人 薪取
□□□【折り目隠れ】
一日峯様 陽泰院様
興国院様 乗輪院様
柳線院様
右御施餓鬼於高伝寺御執行
ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
一志波屋於真龍寺
梅聖院様御施餓鬼御執行
ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
七月四日
一海量院様 貞樹院様
大弘院様 霊松院様
龍宝院様
右御施餓鬼於高伝寺御
執行ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
静明院様
一同 西丸勤
御香典右同断
一真照院様 南祥院様
右御施餓鬼於宗智寺
御執行ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
七月五日
一大内浪兎今日下着
同 六日
一於正定寺
天誉様御施餓鬼ニ付
一御代香 御取次勤
御香典白麻十帖
一於称念寺
玉山様御施餓鬼ニ付
一御代香 西丸勤
御香典無之
一今朝七つ時御供揃ニ而山御狩
御出被遊候尤朝計
一山内市川村先達てより折々
出火有之家三四軒焼失致
其後白昼数度もへ立候ゆへ
右転除御祈祷福智院被
仰付候付則同村罷越五夜
五日御祈祷執行有之依之
料銀弐枚被差出候也
七月七日
一当日御礼有之
一節句ニ付
肥州様え御祝義御使者御
取次勤従 大殿様
静明院さま之御使者西丸勤
御家中惣代をも同所詰ニ而済
七月八日
一造酒殿え御亡父頼母殿跡式
無相違被 仰付候段御親類より
被相達候也
一於祥光山 御先祖様方
御施餓鬼ニ付左之通御香典
御舫ニ而三束
一御代香 右近殿
大殿様
一同 御家老勤
御香典線香壱束松谷ゟ出る
静明院様
一同 御附頭勤
御香典線香壱束西岡ゟ出る
於佐保様
一同 平士勤
御香典右同浜御西ゟ出る
一寄附堪忍
馬上已上壱人
平士壱人
一門番
平士弐人
足軽弐人
一筆者給仕 小頭弐人
一使番斉堂番掃除方兼
足軽壱人
右役々え割籠弁当
朝晩出る
一銀弐枚
一米三斗
一薪九荷 裏山伐放ゟ
一夫丸拾人 薪取跡遣迄
右之通御寺納
七月九日
同 十日
一於玉毫寺
法眼院様御施餓鬼ニ付
左之通
一御代官 大蔵殿
御香典線香壱束
大殿様
一同 御家老勤
御香典右同 松谷ゟ出る
一御譲物書入之事
一佐嘉御越ニ付相良権左衛門
松村七郎左衛門へ拝領物御手数事
一西丸にて宮永へ
御目渡之節奏者事
一佐嘉御越ニ付御進物御使者
一於二丸御料理御相伴等之事
一右は御供中へいかゝ
一西丸へ御下り何時
静明院様
一同 御附頭勤
御香典西岡ゟ出る
於佐保様
一同 平士勤
御香典浜御西ゟ出る
一一寄附堪忍
馬上已上壱人
平士壱人
一門番
平士弐人
足軽弐人
一筆者給仕 小頭弐人
一使番并掃除方兼
足軽壱人
右役々え割籠弁当晩計出る
一御親類御家老中請役所
詰中出席有之
一銀五拾匁
一米三斗
一薪八荷
一夫丸八人 薪取
跡遣迄
右之通御手納
一於本行寺
慈広院様御施餓鬼ニ付
一御代香 西丸勤
御香典無之
一於大興寺
祥雲院様御施餓鬼ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
静明院様
一同 西丸勤
御香典右同断
一於松尾山
高岳院様御施餓鬼ニ付
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
大殿様
一同 馬乗已上勤め
御香典無之
一大内浪兎義 公金一件
ニ付去冬佐嘉ゟ御裁許御書付け
相渡居候付御呼下に相成
候処病気ニ付て滞府有之
去る五日下着致候付町出便「於」
於寄親宅仰渡相成候尤隠居
蟄居也家損候義は一類より
見立相願候様被相達候
七月十一日
一於宗智寺
日峯様 陽泰院様
御施餓鬼ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
一於同寺
月堂様御施餓鬼ニ付
一御代香 御家老勤
御香典線香壱束
一於円通寺
御先祖様方御施餓鬼ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
一山代郷左之者共孝養を尽し
候段相聞候付御褒美として
左之通被為拝領候也
立岩村藤吉
女房
右之者舅村右衛門存生内
至て孝養を尽し候段相聞
神妙之至に候依之御褒美
として鳥目壱〆文被下し候
西分村儀左衛門女房かめ
母親
右之者夫千左衛門先年佐嘉
評定所へ数年御居籠
被置候内難義等不致通り
遠郷を懸相働候段相聞
神妙之至に候依之御褒美
として鳥目壱〆文被下し候
一甲斐守様御使者御家老成冨
清兵衛今日御使者として桜岡
被罷出御口上左之通
先般御隠居御家督
済ニ付て御幼年之義に
御座候得は以来万端被副
御心猶又追々御出府
之上は御引廻等御頼被成
候旨此御方ゟ御家老勤ニ而
御使者を以被仰進候様於
江戸表被成御承知被入
御念義 加州様へも
右御同様御挨拶として也
右ニ付於小松間御料理被為
拝領候左に
一料理一汁三菜
一吸物壱
一肴三種
御取次
権右衛門
七月十二日
一御参会例之通
一宇都宮一勝二男志津馬事
佐嘉ゟ不届有之養子等に不
参候様被仰付置候処御免被成
候段申来候ニ付則被相達候
七月十三日
一今日ゟ於対面所 御聖霊様
御祭毎歳之通右ニ付宗智寺ゟ
僧衆被罷出今日ゟ十五日晩ん迄
相詰被申候付御布施金千百疋
被為拝領候
一造酒殿十太夫殿上席御筆頭
被 仰付候
一京都手男貞八御遣物才領ニ而
昨夜下着
一左之通役方被 仰付候
屯詰 平清八
江戸御供 福島伝之進
七月十四日
一当盆諸御寺々
御代香并御燈穂役桜岡御
給仕其外毎歳之通盆役
割帳面を以被 仰付候
同 十五日
一当日御祝義有之
一大殿様 静明院様え従
殿様御生身魂為御祝義
左之通被進候
大殿様え
一生御肴一折
一御樽一弐升入
静明院様え
一右同断
一鹿島於普明寺
定恵院様御施餓鬼ニ付
御代香御取次勤御香典無之
一左之通兼帯被 仰付候
御用人兼帯
御参府之節御供立
被召連候 中尾次郎右衛門
御部屋詰
江戸御供 古部休介
七月十六日
一於栄照庵 御先祖様方
御施餓鬼近年御取〆ニ付て
被相止御意迄に鳥目壱〆五百文
被差出候尤近年壱〆文つゝ
被差出来候処当年ゟは
法雲様御加被成候故右之通
被差出候也
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
一薪三荷
一夫丸六人 薪取
跡遣迄
七月十七日
同 十八日
同 十九日
同 廿日
一左之人々去秋代官下代役
被仰付置候処当至蔵究御
定法通不相調間迦【間外れ】に相成
候ニ付左之通今夜十太夫殿
宅ニ而御手頭を以被仰渡候
委細罰帳に有り
御呵捨 綾部十郎左衛門
東島一郎左衛門
下代
江口平次
古賀良助
服部左九兵衛
御呵置 奥村二兵衛
池田彦兵衛
水田彦七
北島市右衛門
右ニ付寄親々ゟ遠慮御座
有之候処夫不及旨被 仰出候
七月廿一日
一山田長右衛門義御究役被 仰付候
一兵庫殿御二男駒三郎殿へ大和殿
御家督被 仰付候段駒三郎殿
兵庫殿ゟ為御知御使有之候由西丸ゟ
申来候付為御祝義駒三郎殿へ
従 殿様御使者を以左之通
被差出候御使者西丸勤
一干鯛一折 三枚
一御樽代 二百疋
一右ニ付兵庫殿えは従
御両殿様御祝詞計右御使者
西丸ゟ御一使ニ而被相勤候
一駒三郎殿へ従 大殿様右同断
七月廿二日
一御参会例之通
一旱魃ニ付雨請御祈祷岩蔵寺被
仰付今日ゟ二夜三日御祈祷
執行有之料銀三枚
七月廿三日
一山代郷大旱魃ニ付大念仏
執行相願候付願之通被仰付候
右ニ付為御合力銀百五拾匁被差出候
同 廿四日
同 廿五日
同 廿六日
一長寿院様御正当ニ付
御代香御家老勤御香典
線香壱束
同 廿七日
一旱魃ニ付 天山社へ
為雨乞郷内庄屋村役々
参詣御願相立居候付今日
参詣被 仰付候
一肥州様長崎御越牛津
御通路ニ付郡方其外役々
出張有之
七月廿八日
同 廿九日
八月朔日
一当日御礼有之
一肥州様え当日御祝義御使者
御取次勤
大殿様静明院様ゟ之
御使者西丸勤御家中惣代とも
西丸詰ニ而相済
八月二日
一御参会例之通
八月三日
同 四日
同 五日
御駕籠副
屯内付兼 城島伝左衛門
江戸御供
右之通被 仰付候
八月六日
一肥州様長崎ゟ今日御帰
城ニ付牛津御通行右ニ付
郡方其外役々出張有之
一右御帰 城ニ付二丸へ御祝義
御使者被差出候御取次勤
大殿様 静明院様ゟ之
御使者西丸勤
八月七日
同 八日
同 九日
同 十日
同 十一日
同 十二日
同 十三日
同 十四日
一今度小城岡両町豆腐屋
中ゟ相願候は大豆損毛ニ而
直段殊之外高直に相成候故
豆腐屋直段廿四文に売方仕候通
被仰付候様願出候付寅ノ八月ゟ
向卯ノ八月迄願之通廿四文に売方
致様被仰付候也
一玉成社 武正社右御両社
御祭毎歳八月十四日夜ゟ十
五日迄御祭礼御手数去年
被相極置候然処従当年は御
祭礼御手数従
殿様御整可被成旨従
大殿様被 仰進候右ニ付て
已来外方存にして御祭礼相整
筈也右ニ付御手数左之通
八月十四日夜神前
花榊 御燈明石燈穂
白木三方
御神酒 二瓶 土器弐つ
右同
懸魚 二懸
同十五日朝
香花燈明 前に同
御神楽
白木三方
御神酒 二瓶土器弐
右同
御供高盛 焼塩高盛
右同
懸魚 二懸
右同
御菓子 土器盛
右ニ付社内掃除注連
張修理方ゟ相調尤修
理方心遣左之通
注連縄 二筋
葉付
小竹 四本
榊 拾弐本
丹か竹 三本
掃除砂持之事
国武社御祭用請役所存ゟ出る
白木三方
右同
御神酒瓶
幣紙其外岩見渡り外御台所請ニ而出る
溝口紙弐帖
右御祭心遣宮島岩見へ
被仰付候御備物一通御
台所仕立
右御祭方ニ付宮島石見へ
為御施物銀三匁被為
拝領候御書室ニ而納戸
方ゟ出る
八月十五日
一当日御礼有之
一左之通役方被 仰付候
金丸欠右衛門代
下目附 大島喜右衛門
同 十六日
同 十七日
同 十八日
一村川礒出府ニ付随身願何方
ゟ左之通出る
願書付
今度村川礒方御供立
ニ而出府御座候付私倅孫之進
義為物副随身為仕江戸
差越度奉存候条暫之
御暇被為拝領被下度奉願候
此段面々宜被仰上可被下候
以上
寅八月 右近孫兵衛
嬉野伝之助殿
江島金兵衛殿
願口上覚
私義今度江戸御供被
仰付罷登候付右近孫兵衛
倅孫之進義私え随身仕
為物副罷登度相願
候付幾らは御用にも相立
候通有御座度奉存候条
何卒願之通被仰付被下度尚又
私ゟも奉願候以上
八月 村川礒
嬉野伝之助殿
江島金兵衛殿
八月十九日
同 廿日
一金栗様御正当ニ付
御代香御家老勤御香典
線香壱束
同 廿一日
同 廿二日
一御参会例之通
一放光院様御正当ニ付
御代香御取次勤御香典
線香壱束
八月廿三日
一村川礒出府ニ付山下新左衛門
倅吉左衛門為物副随身為仕
江戸差越度双方ゟ被相願候処
願之通被仰付候也
一大内浪兎佐嘉ゟ隠居被仰付
候付家損候義一類中ゟ左之通
被相願候
願書写
私一類大内浪兎義今般
隠居被 仰付候処実子
無御座候付家続之義人柄
見立奉願候様被仰達奉
承知候右ニ付蓮池御
家中津田宗益弟
孫十郎当年十才相成
浪兎実甥ニ而御座候条
此者へ家続被仰付被下度
奉願候已上
大内浪兎一類
寅七月 千々岩忠兵衛
嬉野伝之助殿
江島金兵衛殿
右ニ付蓮池津田宗益
より之判突手紙左之通
右之通被相願候付願之通
孫十郎へ被 仰付候旨一類
千々岩忠兵衛呼出ニ而御当役被
相達候也
一左之通役方被 仰付候旨
御当役被相達候
浜崎御蔵
米取納役 東島市右衛門
代官 山田長右衛門
綾部十郎左衛門
下代 伊東七左衛門
古賀良助
北島市右衛門
下代居付 江口平次
相談役達 池田彦兵衛
水田彦七
綾部左九兵衛
一栄姫様御縁談御願済之
御祝義左之通御使者を以被遣候
一鯣 二折 五連つゝ
右は
肥州様 栄姫様え
殿様ゟ
一右御両人様え従
大殿様静明院様御
祝伺計何れも御使者
西丸勤
一円諦院様其外様へは
江戸表ニ而被 仰遣候様
注進に成る
八月廿四日
一今朝六つ半時御供揃ニ而両
御寺御堂卯参被遊候御香典
線香壱束つゝ御寺納
一祥光山開山潮音和尚百
年忌法事於同寺執行有之
候付此節御野菜料金百疋
御寺納被成候御使江島金兵衛勤之
一右法事ニ付
御代香馬乗已上勤御香典
線香弐束御寺納被成候
八月廿五日
一水町初次郎義今度御隠居
御家督御祝ニ付御家老
嫡子之席に被 仰付又左衛門殿
次席被 仰付候段御親類方
ゟ被相達候也
一小西金左衛門存生内印封書付
を以跡目之義相願置候通
小原安兵衛次男彦太夫へ家続
被 仰付候段金左衛門一類并彦太夫
呼出ニ而御当役被相達候也
一求馬殿於
御前御請役十太夫殿御同役
被 仰付候
八月廿六日
一弘徳院様御正当ニ付
御代香御家老勤
御香典線香壱束
一太田六右衛門亡父自兵衛先年
追放被仰付候節妻子之義は
御館下御構被置候得とも
今度御隠居御家督被対
御祝被成 御免子共之義は
養子縁組等致候義御構無
之段六右衛門へ被相達候相談役也
一陣内徳次郎祖母先年無
調法有之山内郷へ永蟄居
被 仰付置候得共今度御
隠居御家督被対御祝
御免被成候
八月廿七日
一今朝五つ時御供揃ニ而御首途
として左之通御参詣被成候
天山社 国武社 正一位社
本地堂 稲荷社
御供左之通
御跡乗壱騎
麻上下 侍御供六人
御徒士拾人
足軽四人
小道具五人
右御道筋大手口より
御通行御参勤之節
之通也
一右御社参ニ付御参銀左之通
天山社え 銀三両
国武社 正一位社 本地堂
稲荷社 右は銀壱匁つゝ
八月廿八日
同 廿九日
一来月五日
御発駕ニ付轟木御供左之人数
被 仰付候
石丸左太夫
西原団四郎
陣内七兵衛
相談役達 田島太左衛門
太田六右衛門
飯田仁四郎
今泉万平
吉富左兵衛
神崎御供御徒士
上瀧伊兵衛
石丸吉十
早坂弥右衛門
森永又兵衛
付役連 今泉清十
石丸平之
城島清助
鈴木文十
江越政之允
轟木定助
一左之通被仰付候
御使者番 留守五郎右衛門
八月晦日
一八月諸願願之通被 仰付
之旨 御書付を以於小松間
御当役被相達候
九月朔日
一当日御礼有之
一源吉郎殿初て御目見へ有之
委細御司人方日記に有り但長上下着也
一初次郎殿斎宮殿初て
御目見へ有之御場所御対面所
御家老方月次御礼之席也
但御家老方月次御礼相済
御上ニ而御礼有之
一侍通り初て 御目見相願候
人々月次御礼後直に被渡
御目候席之義は月次之席也人数
名前之義は委細御前済帳に有り
一右相済直に牛津町医辻元洞え
被渡 御目候
一栄照庵掬泉庵先達て御家督
初て 御目渡之節御断ニ付
今朝被渡 御目候御対面所
次ノ間北西頭南向に並居銘々
献上物御扇子一箱つゝ前に備御礼
九月二日
一長崎下向之御奉行平賀式部少輔様
御支配勘定役若林礒八郎殿
御普請役大越用助殿今夜
牛津止宿ニ付郡方其外役々
例之通出張有之尤御使者御進物
等之義は 御幼年中ニ而
いまた 公辺御勤向無之
ニ付不被指出候也
一明三日肥州様初て御面談可被成旨申来候付
今朝六つ時御供揃ニ而西丸迄御越被遊候惣て
御家督初て為御面談二丸御出被成候付ては
前日迄御年寄御近習頭抔桜岡被召呼候
御手数有之候付て先達て右之趣西丸より
懸合有之候処当病又は故障之人多延
引之末小城まて罷越候義難相叶段被相断
候付此節前日より西丸御越被成彼御
方え被召呼御手数被相整候
二丸御出之御行列別帳有
此節御先番 御用人
木下内蔵進
御傍頭
藤山宗右衛門
御小僧勤ニ付
西岡有助
御衣装方ニ付
秀嶋八右衛門
御鬢方ニ付
持永藤九郎
御匙
川久保順庵
一南里権右衛門殿被相越候
一御台所方川副織衛罷越御料理人も同断
一御一宿ニ付御寝間長持壱棹御茶方挟箱御台所
長持等差越候事
一西丸御着座之節同所詰中旧例ニ而御礼申上候
今九時頃御着夕御膳等差上候上左之両人被召呼候
御年寄 相良権左衛門
御近習頭 松村七右衛門
御言葉
御盃被下候
右は初て御面談ニ付万端御引廻為御頼也
【1行綴じ目で見えず】
木下内蔵進
右相済次ノ間ニ而酒食御差出候右挨拶人
権右衛門殿木下内蔵進藤山宗右衛門嬉野小右衛門
持永源兵衛 右両人へ拝領物有
一同夜御案文方役宮永次郎右衛門被召呼候右は兼て
此御方御世話申上候付猶亦御頼為旁被召呼御
詞計被下候此節は
殿様裏付御上下被為着候引取候上酒食被差
出其上島縮緬壱反被為拝領候
九月三日
一於哲様御事来年正月
諫早兵庫殿へ御引越孫九郎殿え
御婚姻御整被成筈候由ニ而
別紙之通申来候
以手紙申達候
於哲様御事来年
正月諫早兵庫え御引越
孫九郎え御婚姻御整
被成筈候
麟太郎様 加賀守様
静明院様え 右為御知
従拙者共宜申上旨
肥州様被 仰付如此候
可有御申上候以上
二丸
九月三日 御年寄中
嬉野小右衛門様
三日
一今朝左之人数被召呼候
不快付御断
田代勘左衛門
佐嘉御相談方 井上丈左衛門
此御方御加談役 冨岡喜左衛門
西山幸七
大坪忠左衛門
右は兼て御勝手方御世話申上候付被召呼被渡
御目候引取候て酒食被差出何もへ島縮緬壱反
つゝ被為拝領候
一二丸え御附上り権右衛門殿藤山宗右衛門 御出前ゟ
御城被罷出居候此節権右衛門殿え吸物一肴三ニ而
御酒拝領有
御進物左之通 御使者御取次勤
御太刀 一腰
一□□□□二丸御出被成候処
肥州様御不例之由ニ而御面談無之於外御取
御料理被差出候御相伴主水殿
御供中へ御酒拝領有之
一西丸御下り直に同所御出立暮時過御帰館
右ニ付各方始詰中御供侍限御機嫌伺御祝義有
一御帰館之上 大殿様静明院様へ以御使今日首尾
能被為済御帰館之段御知せ被仰上候尤為御土産
焼物之御銚子鍋一箱つゝ鮎一折つゝ被差上候
於佐保様へは木綿使御手拭一包鮎一折被指上候
御供中へ吸物一肴二ニ而御酒拝領有
一明四日肥州様ゟ御使者被差越候付西丸迄御進物
方ゟ此御方御案内之義尋来候付書付差遣候事
右書付控別帳に委
九月四日
今日御使者御手数一通御家督方帳に有り
一肥州様ゟ御使者被差越候付左之通
御使者中宿大手町足軽野口次右衛門宅尤宿引
足軽壱人
一御時分案内足軽差遣候但表御門通御式台に
引候事
一【綴じ目で読めず】広間番両人麻上下ニ而朝
【綴じ目で読めず】出居候事
一表御門上番御徒士壱人足軽弐人堂脇へ致下座候
一御取次御式台上之板之間迄出向直に御対面所へ
引置御進物同所相備置御用人罷出御口上承之
御口上
今般御家督御相続相済昨日 御城被成
御出殊に御馬代等被差上被入御念義被
思召候仍て被為祝御目録之通御使者を以
差送候
白縮緬十巻 御使者
伊東多仲
大殿様静明院様へ左之通
昨日は 麟太郎様初て 御城御出被成
御太慶被 思召候御使者被仰付候付御詞被
仰述候 御使者
右同人
一右御答新御座へ御出被遊同所二之間え御使者
罷出候奏者江副兵部左衛門御用人中尾次郎右衛門罷出
致御取合せ上之間御同席ニ而御直答被遊候
一大殿様御答於御対面所後家老
一静明院様御答右同所ニ而御附頭ゟ
一右ゟ同所左之通御差出候御料理一汁三菜吸物一
【綴じ目で読めず】三百疋大殿様ゟ同弐百疋
御使者退出之節御用人御取次御式台縁座迄送候
一二丸御附上り権右衛門殿え綿三把被為拝領候
一御発駕前御手配之次第書付別帳面有
九月五日
一今朝七時御供揃ニ而御発駕被遊候神崎御休
轟木御泊ニ而轟木迄御供人数左之通
一御供頭弐人
一御供番六人 御傍御供目付除て
一御徒士拾人 御刀持抔迄尤神崎駅迄
一猩々緋拾挺
一長柄拾挺
一五本搦み 小道具之者持
一神崎之駅寄人馬数
人足五十弐人 駄荷付馬弐拾五疋
乗懸馬拾疋 小城ゟ付出し
一桜岡御出立之節御家中御目見之次第
別帳面之通
一今日御発駕ニ付御代参
天山社え 御参銀弐両
国武社え 同 壱匁
【綴じ目で読めず】御代香御香奠銀壱匁つゝ
一【綴じ目で読めず】万端御頼被成候付
生御肴一折
御樽代三百疋 主水殿へ
右同断ニ付左之通被為拝領候
生御肴一折 御進物方
金弐百疋つゝ 四人
一御発駕前日
大殿様御附御用人始侍通は麻上下着用ニ而
御次迄罷出御暇乞申上候詰御徒士非番之
者は御発駕之節罷出御目見申上候也
九月五日
一天祥院様 御代香間落ニ而十月
十六日被罷出候也
九月六日
一殿様益御機嫌能昨夜五半時
轟木駅御止宿被遊候段申来候
同 七日
同 八日
一関御渡海御祝之義於御外
御祝被相調候依之
大殿様 静明院様御出
被成右御祝御手数有之
尤上り物一通り之義は委細外
御台所に知る
一当月御祈祷今日ゟ二夜
三日於小松間岩蔵寺執行
有之
九月九日
一当日御祝義有之
一二丸へ御祝義御使者御取次勤
大殿様 静明院様ゟ之
御使者西丸勤御家中惣代
とも同所勤ニ而相済候也
同 十日
同 十一日
九月十二日
一御参会例之通
一円覚院様御正当ニ付
御代香御家老勤御香典
線香壱束
同 十三日
同 十四日
一殿様益御機嫌能去る八日
昼大里駅御着岸御乗船
無御滞御渡海被成八つ時頃
下関え御着岸被成候段今朝
程進申来候
同 十五日
一当日御祝義有之
一肥州様長崎御越牛津
御通路ニ付郡方其外役々
出張有之
一天山社御祭礼ニ付
御代参御取次勤御参銀三匁
尤前方は壱匁に候得共当年之義は
御代初ニ付三匁御社納被成候也
右ニ付警固頭人壱人御使者
番勤右付足軽三人岩蔵寺
出勤有之
一岩蔵祭礼狂言被召呼於御式台前
静明院様被成 御覧候也
一両注連本とも御門内被差通
御覧被成候也右彼是ニ付御門内
警固六人
九月十六日
同 十七日
同 十八日
同 十九日
一相原左次兵衛義滞坂中
銀調儀方并御借銀方ニ付
色々情勤有之候付為御褒美
御加米拾石被為拝領候扨又
追々出坂有之候通被仰付候也
同 廿日
同 廿一日
一懶牛和尚至て老年罷成
寺役難相勤体ニ付隠居被差免
被下候様先達てゟ連々相願
被置候付願之通隠居被差免
候段於小松間上ノ間御当役
被相達候寺社方役列席也
九月廿二日
一御参会例之通
一佐嘉ゟ之御穏便触左之通申来候付
則触達に成る
松平義二郎殿御姉去る七日
御死去之段江戸ゟ申来候
依之今廿一日ゟ明後廿三日迄
日数三日御領中御穏便
被 仰付候条謡乱舞鳴物等
相止候様尤作事は不苦由
候条此段懇に可被相達旨
御当役御申候已上
九月廿一日 二丸
請役所
徳川五郎太様御事去る三日
御逝去之段江戸ゟ申来候依
之今廿一日ゟ明後廿三日迄御領中
御穏便被 仰付候条謡乱
舞鳴物等相止候様尤作事は
不苦由候条此段筋々懇に
可被相達旨御当役御申候已上
九月廿一日 二丸
請役所
九月廿三日
同 廿四日
一肥州様今日長崎ゟ御帰
城牛津御通路ニ付郡方其外
役々出張有之
一右御帰 城ニ付二丸へ御
祝義御使者被差出候御取次勤
大殿様 静明院様ゟ之御使者
西丸勤
九月廿五日
一江戸ゟ態と足軽飛脚武藤
与平次御旅中に向被差越候処
備中河辺之駅ゟ御国元へ
急御用之文箱持越候様被
仰付候由ニ而昨夜下着此節
江戸御留守居薬王寺一之允急病差出去る
五日病死之段申来候也
一帰府之長崎御奉行高尾
伊賀守様御支配勘定役内藤
兵右衛門殿御普請役小島市五郎殿
今日牛津休ニ付郡方其外
役々同所出張有之御使者
御進物等之義はいまた
公辺御勤不相始候付無之事
九月廿六日
一大村信濃守殿為御参勤牛津
御休ニ付郡方其外役々
同所出張有之
同 廿七日
同 廿八日
一十太夫殿御病気以之外被差重
候付被相預置候組被差上
候段一類を以被相達候其末
養生不被相叶今夜五つ半時
頃死去有之候段一類ゟ御届有之
且又御嫡子無之ニ付前辺
御格之通大御目附被申請
印封書付差出被置候也
一大殿様 静明院様ゟ病状
御尋無之
一十太夫殿死去ニ付則ゟ明後
晦日迄日数三日御領中穏便
被仰付候条謡乱舞鳴物等
相止候様早速触達出る
九月廿九日
同 晦日
十月朔日
一当日御祝義有之
同 二日
一大内浪兎義先達て佐嘉より
蟄居被 仰付置候処被差免
候段申来候也
十月三日
一揚り屋御居籠相成居候徳本
武兵衛大池町卯平次と申者共
揚り屋を破り今暁逃去候付
早速定警固両人え足軽六人
相副先以近辺探促方被差出候
目明筋へも御手配有之也
一右ニ付左之人数遠慮御届
有之候也 武兵衛親
徳本勇右衛門
右同弟
徳本庄助
小頭目付
此人数 野口武右衛門
遠慮 山崎利十
足軽目付
中村弥兵衛
田中藤吾
松田弥左衛門
右揚り屋を破り逃出候一件ニ付
不行届義有之候付て也
評定所定番
牧瀬福右衛門
揚り屋番
伊東浅右衛門
池田只右衛門
一右之末武兵衛卯平次両人共
佐嘉評定所駈込候段今夜
西丸ゟ申来候依之早速ゟ同所
番足軽四人つゝ被差越候様相達
相成候段従 西丸申来候付
則被差越候也
一右之者共此御方御居籠に相成
居候是迄悪行之始終口書
其外取立西丸被差越右之
次第之者共に候条則も被相渡候様
評定所談合有之候通西丸
申越被成候右之末西丸ゟ願書等
被差出候由也右書付委細西丸
相知る
一祥太郎様今日ゟ御出府に
付て御年寄中ゟ左之通為
御知申来候付
肥州様え従 大殿様
静明院様御祝義御使者被
差出候西丸勤且右為御知
之御挨拶御使者とも同所ゟ
相勤候也
以手紙申達候
祥太郎様御事為御出府
最前御議定之通昨
三日被遊
御発駕義候
加賀守様 静明院様え
右為御知従私共可申上由
肥州様被 仰付如是
候宜有御申上候已上
十月二日
十月四日
同 五日
一評定所揚り屋番左之者共
被仰付候
二ノ先直組
田中武兵衛
水町半新足軽
香田伝吾
同 六日
同 七日
一大坂ゟ之文箱町便ニ而昨夜
到着
殿様益御機嫌能御旅行
被遊去月廿二日御着坂被遊
中二日御逗留同廿五日同所
御発駕被遊候段申来候尤
大坂御屋敷焼失後いまた
御家作無之御入被遊候之通
無之ニ付鹿島御屋敷御借
被成御逗留被遊候也
一肥州様へ右為御知之御書
被差越候付則西丸ゟ被差上
候様申越に成る扨又二丸其外
兼て為御知合之御方々え為御知
有之候通申越に成る尤右御状
此節御印判御用被成候付ては
脇様へ初て御状等被遣候節は
御幼年ニ付御印判御用
被成候訳書有之候得とも
肥州様御状には御用捨
被成置候条右御状持参之
御使者之人ゟ右之趣演達
ニ而も被致置方ニ而は有之
間敷哉之旨申来候付其段
西丸へ懸合に成る
十月八日
一此御方揚り屋を破り逃出佐嘉
評定所へ駈込候武兵衛卯平次
義同所ニ而被相調候処何も被
相構候筋も無之ニ付小城え
被相渡義候間則請取候様相達
有之候段西丸ゟ申来候付早速
定警固弐人足軽相副
請取として被差越今夜五つ時
頃連来候付則両人共又々
揚り屋御居籠相成候也
十月九日
同 十日
一高岳院様御正当ニ付
御代香御家老勤御香典
線香壱束
同 十一日
十月十二日
一松尾山法事ニ付御魂屋番
足軽壱人つゝ被差出候
一右ニ付水汲夫丸五人依願
被差出候也
同 十三日
同 十四日
同 十五日
一当日御祝義有之
一造酒殿義御請役求馬殿
御同役被仰付候段御親類方ゟ
被相達候
同 十六日
一山城殿西岡へ為御見廻今日
御越有之尤此節は立宿等
無之候裏御門ゟ直に西岡へ御出
候也依之御手数左之通
一内外掃除等前方之通
相調候様修り方達候事
一津野出離迄見于足軽
壱人使番宿引付兼
一供中下宿三軒下目附
達之事
一御門上番御徒士壱人
一上り物壱通西岡御頼ニ而
調る
已上
十月十七日
同 十八日
一天祥院様廿五年御忌
御法事去月五日鹿島
於普明寺御経営有之候処
間違に相成御代香不被差出
候ニ付去る五日被差出筈之処
是又間落相成候付不時に
今日御代香被差出候御取次
勤御香典白麻廿帖
一右御代香段々間落相成
候訳永橋泰助今日鹿島
罷越彼ノ御家老中迄相
断候也
十月十九日
同 廿日
十月廿一日
一左之通被 仰付候
当分
御二丸役 秋野孫右衛門
銀蔵方
御蔵方 田中貞助
付役兼
御納戸付役ゟ
御蔵方付役兼 村岡伝蔵
同 廿二日
御用人元〆
兼帯被仰付 嬉野小右衛門
近々江戸被差越候
右之通転役被 仰付候段
御親類ゟ被相達候
同 廿三日
一貞静院様御一周忌御法事
於祥光山明廿二日ゟ今日迄
御経営ニ付左之通
米三斗
鳥目三〆文
薪 五荷
夫丸五人
半上下
一御代香 御取次勤
御香典線香弐束
大殿様
一同 右同
御香典同壱束
静明院様 於佐保様
一同 鎖口勤
御香典同壱束つゝ
一廿三日一日御領中殺生
禁断之事
一寄附堪忍 平士壱人
一筆者給仕 御徒士壱人
一御法事中寺社方
御目付方壱人請役付ゟ
壱人御寺相詰候事
一御家中御寺参詣御香典
勝手次第之事
已上
一右御法事ニ付左之通
従
殿様御野菜被進候
一揚豆腐 弐拾切
一巻ゆば 拾本
一大牛房 壱束
一山芋 壱簀
右は
大殿様え
一揚豆腐 拾五切
一白昆若 拾丁
一山芋 壱簀
一大牛房 壱束
右は
静明院様え
一前断御一周忌御法事
於京都御経営ニ付
上々様御代香并御香典
偖又正親町様御一統様え
御見廻御進物等左之通
殿様御香典
一銀拾両
大殿様右同
一同五両
静明院様右同
一同五匁
右
御三方様
御代香 田中兵右衛門
一位様え
一葛粉一箱
殿様
大殿様 御舫ニ而
静明院様
前大納言様え
一御菓子壱箱
右
御三方様御舫ニ而
中将様え
一蒸篭壱荷
右同断
久丸様三々丸様え
一御菓子壱箱
右同断
右御使者庄村新次郎
一右同断ニ付従
静明院様左之通御茶
被為拝領候
真如堂
御内外詰
男女中
赤飯 御医師方
煮〆物 三人
汁 川浪市左衛門
猪口酒 并
御病中御伽
御逝去之節
致太儀候御
出入之男女
一式
一右ニ付正親町御一統様ゟ
此御方 上々様え御見廻
として左之通被遣候
一薄雪 一箱
右は
殿様 大殿様
静明院様え 一位様ゟ
一葛粉 一箱
右は
殿様え
前大納言様
中将様
久丸様
三々丸様
一御菓子一箱
一砂糖漬一箱
右は
大殿様 静明院様え
右御四人様ゟ
已上
十月廿四日
同 廿五日
同 廿六日
同 廿七日
同 廿八日
同 廿九日
同 丗日
一むつ田十七年忌に相当候付て
天継院え吊料として銀弐両
被差出候也
十一月朔日
一当日御祝義有之
同 二日
一御参会例之通
一甘木与四右衛門義昨朔日
大殿様犬御仕飼被遊候付岡町
御馳走勢子被仰付候処右
勢子御刻限通不罷出
夜明に至り追々罷出御出
も御延引に相成候右は一体
手当不行届義ニ付今暁
寄親東島杢右衛門宅ニ而被御
呵捨候委細罰帳に有り
一右同断ニ付郡方付役
成冨恵助え附役宅ニ而仰聞
有之委細罰帳記す
一右同断ニ付田島藤右衛門ゟ遠慮
御届有之候処不及夫段被相達候
一右ニ付寄親東島杢右衛門ゟ
遠慮御届有之候処夫不及段
被相達候
十一月三日
一玉真院様御正当ニ付
御代香御取次勤御香典
線香壱束
一右同断ニ付無量寺へ施例
之通被差出候
一薪三荷
一夫丸三人 薪取
跡遣
一嬉野助右衛門義西岡鎖口詰
被 仰付候段御当役被相達候
一水町甚五兵衛ゟ左之通被相願
候処願之通被仰付候
願口上覚
私義数年宿願有之候付
倅藤一郎勢州太神宮
参詣為仕度奉存罷在
候処近年之時節柄
ニ而不任自力幸今度
相原左次兵衛出坂被仰付
候ニ付同人え為致随身
指登宿願成就仕度
御暇奉願候条左次兵衛
在坂中御暇被下置
度奉願候此段筋々
宜被仰上奉願候已上
寅十月 水町甚五兵衛
嬉野伝之助殿
江島金兵衛殿
十一月四日
同 五日
同 六日
一江戸ゟ之文箱昨夜町便ニ而
到着
殿様益御機嫌能去月九日
御着府被成候段申来候
一肥州様え右為御知之御状
被差越候付則西丸差越候事
一右ニ付兼て為御知合之御方々え
跡方之通為御知有之候様
西丸申越候事
一御家中え右為御知之触状
出る右ニ付御広間御帳ニ而
御祝義申上候事
一今度御旅中為御安全御
着府迄岩蔵寺福智院へ
長日御祈祷被 仰付置候処
御機嫌能被遊御着府候由
注進有之候付結願相済
十一月七日
一今日
上々様え各方始其外請
役所詰中御目付方まて
御着府御祝義有之
一肥州様御年賀御祝ニ付
御使者を以て御祝義被仰進候
御祝物左之通
殿様ゟ 二白木折
一生御肴一折 御取次勤
大殿様ゟ 五枚白木折
一干鯛 一折 西丸勤
静明院様ゟ 五枚白木折
一同 一折 西丸勤
一右御使者へ於二丸御酒被為
拝領候也
一造酒殿へ従 大殿様御手頭
を以今夜被仰渡候委細罰帳
有り右ニ付大御目附惣御目附
御同人宅え罷越大御目附より
被相達候御手頭読馬乗已上
勤右案内之義は一類戸田
要之助へ被相達勿論一類より
壱人彼御宅罷出被居候様旁被相達候
一宮地二兵衛義役内之義ニ付今夜
於寄親宅被御呵捨候委細
罰帳に有り
十一月八日
一江戸大坂ゟ之文箱今朝
町便ニ而到着
一稲荷社御祭ニ付浮立興業有之
御山三社并西岡其末御式台
前ニ而為御打被成候松谷へも
被成御覧候
一弘道館学頭古賀弥助ゟ
先達て西丸迄被申達候は近内
肥州様御年賀御祝被相調
候付此御方御家中ゟ奉祝
出来不出来を不撰致侍作
差出候様尤御前に可上哉は
不相知候得共右は此御方に不限蓮池
鹿島其外御親類御家老方
内へも同様達に相成候由被申達
候末其段西丸ゟ興譲館懸合に
相成候処左之人数ゟ献侍有之候
鍋島左近
持永左馬
野副 伝
下村長四郎
太田忠次郎
徳見郡四郎
松枝大助
池上市九郎
秋野孫右衛門
城島武之進
橋本良助
右献侍之人数え被相祝御樽
五升入鱈五つ被拝領候段
御祝方ゟ西丸呼出ニ而達
有之其末御酒肴参候
一右ニ付
肥州様え御挨拶御使者
被差出候尤御承知御日積考
を以也御使者西丸勤
十一月九日
一遠州様御卒去ニ付御穏便
触左之通申来候則触達出る
遠州様御事御病気
之処御養生不被相叶
去月廿日御卒去之段
江戸ゟ申来候依之則ゟ
来る十二日迄日数五日御領中
御穏便被仰付候条謡乱
舞鳴物等相止候様尤作事は
今日ゟ日数三日相止候様
筋々懇に可被相達旨御
当役御申候已上
二丸
十一月八日 請役所
十一月十日
同 十一日
一国武社御祭御穏便中ニ付
被差越候
一月堂様御正当ニ付宗智寺へ
御代香御家老勤御香典
白麻拾帖
一右同断ニ付祥光山へ之
御代香御取次勤御香典線香
壱束
一右同断ニ付宗智寺え従
大殿様之御代香西丸勤
御香典無之
十一月十二日
一御参会例之通
同 十三日
同 十四日
同 十五日
一殿様去月十八日御家督
無御相違被蒙 仰候段去る
八日江戸ゟ之飛脚到着之処
御穏便中ニ付て今日御啓め
有之其段御家老方へ之
御書左之通
一筆啓候
肥州公御名代甲斐守へ
我等名代同道登
城候様昨日御奉書
到来ニ付備前守へ相頼
今日登
城候処不相替家督
被 仰付難有仕合に候
此段家中之者共へも
可申聞者也
十月十八日御名御印判
西造酒殿
野口十太夫殿
木下求馬殿
一右ニ付御家中へ之為御知
大組代呼出ニ而被相達候
一右御祝義
上々様え各方始其外御祝義
有之
一右ニ付
肥州様え御礼御使者被差出候
御進上物左之通
一鮮鯛一折 白木折二
右御使者御家老勤造酒殿
被相勤候従
大殿様 静明院様之御使者
御使者番勤尤御進上物無之
殿様ゟ之御口上書左之通
先月十八日
肥州様為
御名代甲斐守殿麟太郎殿
名代備前守殿登
城之処麟太郎殿家督
之義
肥州様御存念之通
如加賀守殿時被
仰付之旨被
仰渡難有次第被奉存候
依之為御礼以使者
目録之通進上之被仕候
今般麟太郎殿家督
被 仰出候付ては
公辺勤向偖又家格
等前々之通可被相心得旨
肥州様御意御座候段
忝次第被奉存候此段
使者を以被申上候
一右御口上書御年寄成冨
十右衛門へ造酒殿被相渡候也
一於江戸上屋敷ゟ被相達候
書付両紙左之通申来候
一上屋敷ゟ権右衛門殿え被相渡候
御書付写左之通
今日為 御名代甲斐守殿
御登
城之処
麟太郎様御家督之儀
肥州様御存念之通如
加賀守様時被
仰付之旨被仰渡候此段
致御達候様被
仰付越置候
一江副金兵衛を以被 仰遣候
御書附写左之通
今般御家督被
仰出候付ては
公辺御勤向偖又御家格等
前々之通御心得可被成旨
御意御座候
一殿様御家督済ニ付て
肥州様ゟ今日
大殿様静明院様御歓
として西丸迄御使有之外
御小性ゟ被罷出候由也
一大殿様御快全且松浜
御移徒御祝被相調候
右ニ付
殿様左之通被進候
一鮮鯛一折二
一御樽一 弐升入
一右御祝ニ付
大殿様今朝五半時御供揃
ニ而 天山社国武社
御社参其末西岡浜御西
御出被成候尤本御行列也
一右御祝ニ付各方始番頭
請役所詰中松谷参上
御祝義有之
一惣御家中桜岡御広間
御帳ニ而御祝義申上候事
十一月十六日
一昨日従
肥州様 大殿様
静明院様え御家督済
御歓として西丸迄御使者
被差出候付御挨拶御使者
御使者番勤
十一月十七日
一永田小右衛門義山代郷目付地方兼
被 仰付旨御当役被相達候
一二丸御年寄中ゟ西丸迄奉礼【札カ】
ニ而左之通為御知有之候付御
挨拶御使者西丸勤
以手紙申達候
於哲様え来正月廿三日
諫早孫九郎ゟ御結納
差上同廿六日彼方御
引越御婚姻御整可
被成旨被 仰出候
加賀守様 静明院様え右
為御知私共ゟ可申上旨
肥州様被 仰付如是候
可有御申上候以上
二丸
十一月七日 御年寄中
嬉野小右衛門殿
十一月十八日
同 十九日
一今日白山八幡宮卯日御祭礼
ニ付 御代参西丸勤
御参銀三匁
十一月廿日
同 廿一日
同 廿二日
一御参会例之通
一求馬殿病気ニ付御請役
御断ニ付為保養被成
御免之旨従 大殿様
被 仰出候也
同 廿三日
同 廿四日
同 廿五日
一国武社御祭去る十一日御穏便
中ニ付被差延置候付今晩ゟ明朝迄
御祭被相調候
一右ニ付今夕
御神劔為請取松谷へ嬉野
伝之助被罷越候
一御囃子左之通
高砂
東北
金札
右役者中え於御宮御酒
被為拝領候
一暮付ゟ左之通出席
御祭主
大蔵殿
造酒殿
大御目附
御祭方
宮地二兵衛
御目付
東次郎兵衛
御祭方
嬉野伝之助
江島金兵衛
岩松左五六
十一月廿六日
一今朝卯ノ刻御祭初る御祭主
大蔵殿御神前相済百手
的始る右一通委は御祭方帳に
有り
一御親類御家老中番頭中
請役所詰中其外懸り合
役々扨又追服之子孫出席
有之
一上々様御名代左之通
一御参銀三匁
静明院様
一御代参 御附頭勤
御参銀西岡ゟ出る
於佐保様
一同 平士勤
一今日四つ時御供揃ニ而
大殿様本御行列ニ而
御参詣被成候尤御滞座
無之
一右ニ付左之通於桜岡
御神酒被為拝領候
御親類
肴二 中
語家老中
大御目附
元〆
相談役
惣御目附
旧記方頭人
肴壱 請役附
御蔵方
勘定所
百手的役
御祭方懸り合
追服子孫
十一月廿七日
一今般 殿様御家督
被蒙 仰候為御祝儀
甲斐守様美寿姫様ゟ従【見消】
大殿様静明院様え西丸迄
御使者を以左之通被進候
大殿様え甲斐守様ゟ
一干鯛一箱
一御樽代三百疋
大殿様へ美寿姫様ゟ
一干鯛一箱
静明院様へ甲斐守様ゟ
一干鯛一箱
御同人様え美寿姫様ゟ
一大殿様 静明院様え甲斐守様
美寿姫様ゟ
殿様去る九月廿一日大坂御着并
十月九日無御滞御着府被成候
御歓として西丸迄御使者
を以被仰進候
一二丸御年寄中ゟ左之通
奉礼【札カ】ニ而為御知有之候付
右御挨拶御使者西丸勤
以手紙申達候
於哲様え来正月廿三日
諫早孫九郎ゟ御結納
差上同廿六日彼方御引越
御婚姻御整可被成旨最前
為御知被 仰進置候然処
御結納御日限之義今又
来正月十五日に被 仰出候
加賀守様 静明院様え
右為御知自私共可申上旨
肥州様被 仰付
如是候宜有御申上候以上
十一月廿一日
一先般
殿様於江戸御家督被
蒙 仰候ニ付
上々様御祝左之通
一御手掛 長のし
八十八
一御吸物 壱
一御肴 二
一御取肴 一
右之分
上々様桜岡御出外
御居間におゐて被召上候
其末西岡御出左之通
上る
一御吸物壱
一御肴弐
一御取肴壱
一御料理一汁五菜
一御菓子
一御薄茶
一御次御供中御伽中え
一酒
一肴 一握飯
右之分於西岡相調候様
御頼之事
一右御祝ニ付
上々様御取替左之通
一塩鯛一折弐
右は
大殿様え
一同一折壱
右は
静明院様え
一同一折壱
右は
於佐保様え
右之通従
殿様被進候御使御使者
番勤御祝答御同様
於江戸被差上候様注進に
相成候
一今般
殿様御家督被蒙
仰候ニ付従
備前守様悌姫様
大殿様静明院様え西丸迄
御使者を以御歓被 仰進候御挨
拶西丸勤
一右同断ニ付悌姫様ゟは
殿様へも御歓被仰遣候右
御挨拶御使者之義は御承知御
日積考を以被差出候尤西丸勤
十一月廿八日
西丸聞番
銀方懸り合 中尾次郎右衛門
御相続方兼
右之通転役被 仰付候旨
御当役被相達候
十一月廿九日
一去る十月廿一日上屋敷ゟ権右衛門殿
御呼出ニ而江副金兵衛ゟ被相
達候は先達て御頼被置候
殿様御乗輿二本御鑓
為御持被成候義如御願御差図
相済候由ニ而左之通書付を以
被相達候
御乗輿二本鑓為御持
被成候義御願之通御
差図相済候此段御達
仕候様
肥州様被
仰付越置候
一右ニ付
肥州様え右御礼御使者
於江戸権右衛門殿被相勤候尤
肥州様御在国中ニ付此元ニ而も
右御使者被差出方ニ而は有之
間敷哉西丸ゟ御進物方聞合
相成候処於江戸相済候へは此方
ニ而は被差出に及申間敷由
内々被申聞候由ニ付不被差出候也
尤此段は従江戸注進有之候故
右之通御聞合相成候也
閏十一月朔日
一当日御祝義有之
同 二日
覚
一御印之御書宣八紙【八に押印】
一御書宣四紙【四に押印】
右之通慥請取申候以上【請取に押印】
寅閏十一月 大坪七兵衛○印
常冨与三兵衛
中原唯右衛門
一御参会例之通
一五條式部太夫様御妹伏見
宮上臈永姫様去る十一月五日
御死去之段申来候右は
静明院様又御姪様之御続
ニ付御穏便等之御手数無之
尤 静明院様へは御里
之義ニ付御親類御家老
中請役所詰中御機嫌伺
有之
閏十一月三日
同 四日
同 五日
同 六日
一十太夫殿存生内印封書付
を以被相願置候通求馬殿
次男駒之助方を養子に被
仰付候段双方一類御呼出
ニ而御当役被相達候
一亡父弥兵衛跡式 佐野弥右衛門
一亡父貞右衛門
跡切米 金丸庄五郎
右何れも無相違被 仰付
之旨御当役被相達候
一二丸御年寄中ゟ左之通申
来候付御挨拶御使者西丸勤
以手紙申達候
麟太郎様先月九日
御着府被成候段
肥州様被
聞食御太慶被
思召候
加賀守様 静明院様え
右之段従私共可申上由
被
仰付如是候宜有御申上候
以上
十一月十三日 鍋島伝兵衛
成冨十右衛門
鍋島左太夫
相良権左衛門
嬉野小右衛門様
閏十一月七日
同 八日
同 九日
一小野田何馬義八段原大山留
被 仰付候旨御当役被相達候
同 十日
一駒之助殿御事十太夫殿存生
内印封書付を以養子相願
被置候処願之通先達て
被 仰付候依之駒之助殿え
上使を以御笑止被
仰遣候平士勤
閏十一月十一日
同 十二日
一御参会例之通
同 十三日
一二丸御年寄中ゟ左之通
奉礼【札カ】ニ而為御知有之候付
肥州様え 大殿様静明院様
ゟ御歓且右為御知之御挨拶
御使者被差出候西丸勤
以手紙申達候
祥太郎様御事
御嫡子様に被遊御極
公辺御届之義此節
被仰越候
加賀守様 静明院様え
右為御知自私共
可申上旨
肥州様被
仰付如是候宜有御申上候
以上 二丸
閏十一月七日 御年寄中
西丸聞番
閏十一月十四日
閏十一月十五日
一当日御祝義有之
同 十六日
同 十七日
同 十八日
同 十九日
同 廿日
同 廿一日
一嬉野小右衛門義先達て御用人
元〆兼帯被 仰付候付
今日ゟ江戸出立有之
同 廿二日
一御参会例之通
同 廿三日
同 廿四日
閏十一月廿五日
一東次郎兵衛義当分相談役
兼帯被 仰付候旨御当役
被相達候
同 廿六日
同 廿七日
一今朝ゟ大坂へ急御用之
壱封態と飛脚を以被差越候
飛脚足軽副島権七
同 廿八日
同 廿九日
一肥州様え従
大殿様 静明院様寒中
御見廻御使者被差出候西丸勤
閏十一月晦日
十二月朔日
一当日御祝義有之
同 二日
一御参会例之通
一慈広院様来正月二日三十
三年御忌被為当候ニ付
昨日ゟ今日迄於栄照庵
御執越御法事御執行ニ付
左之通
一鳥目弐貫文
一米三斗
一夫丸三人
一薪三荷
一右ニ付同寺え
御代香左之通
一御代香 御取次勤
大殿様
一同 右同断
静明院様
一同 御広式ゟ
於佐保様
一同 右同断
何れも御香典無之
一二日一日御領中殺生禁断
被仰付候事
一同断ニ付与賀本行寺え
一御代香 御使者番勤
大殿様
一同 西丸勤
何れも御香典無之
御代香人半上下着
一右同断御法事ニ付玉毫寺
ゟ左之通被相達候
口上
明正月二日
慈広院様三十三年之御忌
御当り被遊候付ては正勝寺ニ而
御祭申上筈に御座候得共只今
寺番而已差置候得は於当寺
今晩ゟ御祭申上候義に御座候
此段御達申上候以上
十二月朔日
右之通被相達候処前方
御法事之節之扣等被相調候へ共
正勝寺ニ而之御祭候義不相知候付
請合候義委く被相達候様懸合
相成候処左之通被相達候付何之
御詳無之候
【短冊様紙片 末尾に玉毫寺】
十二月三日
十二月四日
同 五日
一寒中為御見廻
上々様え御肴左之通被遣候
御使銀役付勤
一生鯛壱
一鮑 三盃
右は
大殿様え
一一生鯛壱
一鮑 弐盃
右は
静明院様え
一生鯛壱
右は
於佐保様え
十二月六日
同 七日
同 八日
同 九日
一先達て
殿様御家督済為御
祝義 大殿様静明院様え
甲斐守様美寿姫様より
御祝物被遣候付今日御祝答
左之通
甲斐守様へ 大殿様ゟ
一干鯛 壱箱
一御樽代三百疋
美寿姫様え 大殿様ゟ
一干鯛 壱箱
甲斐守様え 静明院様ゟ
一同 壱箱
美寿姫様え 御同人様ゟ
一同 壱箱
一大殿様静明院様へ従
甲斐守様美寿姫様先般
殿様二本御鑓御乗輿
御願済御祝義西丸まて
御使者を以被仰遣候
御使者
森川忠兵衛
一右御挨拶御使者西丸勤
十二月十日
同 十一日
同 十二日
一御参会例之通
同 十三日
一真照寺え祥光山宥坊被
仰付旨左之通書付を以被相達候
星巌寺先達て願之通
隠居被 仰出候付当分
同寺宥坊被 仰付候
尤退院之義は暫被差留
置候万端同寺之義是迄
之通懶牛和尚ゟ差図も
可有之候条申談宜被相勤候
月日
十二月十四日
同 十五日
一当日御祝義有之
一一ノ先江副兵部左衛門与松永九左衛門
跡へ無足組無藤【武藤カ】与平次被相加候
右は於江戸被相達候
一二ノ先藤山宗右衛門与中川忠蔵跡え
無足組末次藤右衛門被相加候右
之通相談役ゟ被相達候
一新小路大園七兵衛被差置候
屋敷太田六右衛門拝領払願
有之候付願之通被 仰付候
尤代金壱両被差上候也
十二月十六日
同 十七日
同 十八日
同 十九日
同 廿日
同 廿一日
同 廿二日
一御参会例之通
一上林三入ゟ左方御茶料御渡方
及催促之処当年ゟ向申年迄
右御渡方被及御断候依之右
手代へ為御合力金五百疋被差出候
尤村崎卜周取扱ニ而右之通
相済候也
十二月廿三日
同 廿四日
同 廿五日
一泉鏡坊ゟ左之通書付を以
被相願候付御吟味に相成候処修り方
請銀之内ゟ鳥目□□文被差出候也
【短冊様紙片あり】
同 廿六日
一先達て大組代中ゟ御家中
一統御扶助之義連々被相願
候ニ付左之通書付を以被相達候
先達てゟ内々被相歎候末
於大坂相原左次兵衛銀調申組
過半出来立候趣ニ付為受取
才領足軽被差越候処江戸表
御積外莫太之御物入ニ付
村川職大坂表被差越
無理成調義申談取束
江戸持越候付下銀不相叶
由申来候就ては御家中へも
前辺御沙汰為有之義故
何れも致気当可被居候へは
其侭に難差置何卒
此御方ニ而御振替出来立
候之様重畳役々えも被相談
候得共佐嘉表大一体
之義も有之候得は何分
調銀出来兼候処誠以
非常之作略を以漸銀
拾五〆目調義相調候付
為御振替御家中え
被差出候義に候尤当夏日出島
環役ニ而正銀五〆目配当
有之候面々は此節御差引
有之候義に候
寅十二月
一御代替ニ付役々え御褒美
左之通被為拝領候
金子百疋 木下内蔵進
同 百疋 藤田次左衛門
御加米拾石 永橋泰助
同 五石 宮地二兵衛
金子弐百疋 日出島環
御加米三石 中尾次郎右衛門
御酒 水町半
御酒 松崎十兵衛
金子三百疋 嬉野伝之助
銀壱枚 江島金兵衛
金子百疋 伊東伝兵衛
同弐百疋 秀島吉右衛門
同百疋 岩松藤十
金子百疋 神代九兵衛
同三百疋 田島藤右衛門
同弐百文 甘木与四右衛門
御加米三石 大坪七兵衛
銀五枚 常冨与惣兵衛
同弐枚 中原唯右衛門
金子弐百疋 千々岩忠兵衛
同三枚 持永源兵衛
金子百疋 橋本司書
銀壱枚 松枝大助
御酒 稲増杢兵衛
同 中原尉之進
御加米三石 江頭源五左衛門
御酒 綾部十郎左衛門
御酒 山田長右衛門
金子三百疋 宮田十右衛門
銀壱枚 志波太郎右衛門
金子三百疋 納冨左馬之助
御酒 吉本段右衛門
金子三百疋 永田小右衛門
同百疋 本庄権左衛門
御酒 永石六郎右衛門
右同 左近孫右衛門
金子三百疋 松田次右衛門
御酒 横岳郷助
銀弐両 中島伝左衛門
同弐両 城戸五郎左衛門
御酒 水町甚五兵衛
銀弐両 山本与左衛門
同弐両 石井新平
金子弐百疋 田中兵右衛門
御酒 村崎卜周
金子弐百疋 山本与右衛門
亡父利左衛門数年堅固に相勤病死
ニ付為吊料被為拝領候
御酒 秀島八右衛門
御在国中被致太儀候付て也
右同 松隈享安
右同 池上藤十
右同 菊地宗垣
銀三両 中島半兵衛
御酒 弥永十兵衛
銀弐両 中島喜藤次
御酒 弥永与五兵衛
右同 牧瀬平次
銀弐両 牟田伝兵衛
御酒 藤戸分五右衛門
銀弐両 野口武右衛門
御酒 山崎利十
御合力米弐石 久本金右衛門
銀弐両 大木清吾
御酒 成冨惣助
御合力米弐石 立石正兵衛
銀五両 田中貞助
御合力米弐石 村岡伝蔵
御酒 古川武左衛門
御合力米弐石 中島伝蔵
同 弐石 光野甚五左衛門
銀五両 牟田藤十
御合力米弐石 山田孫次郎
銀五両 深町長左衛門
御合力米弐石と御加増
吉田次右衛門
御酒 中原文之
御酒 徳本庄助
銀五両 水田権兵衛
銀五両 深町市左衛門
銀弐両 江里口弥右衛門
銀五両 福田七郎右衛門
御酒 小寺伝平
銀弐両 西岡与平次
銀弐両 古賀作左衛門
同弐両 鶴田藤兵衛
御酒 松尾九右衛門
銀弐両 福冨勘兵衛
金子百疋 古賀良助
銀弐両 北島市右衛門
金子百疋 江口平次
銀弐両 池田彦兵衛
御酒 綾部左九兵衛
右同 水田彦七
右同 村岡九兵衛
銀五両 弥永小兵衛
御酒 森永出来助
右同 古賀与左衛門
金子弐百疋 犬山兵部左衛門
同弐百疋 山口八郎左衛門
同弐百疋 古賀善右衛門
同百疋 中原吉左衛門
同百疋 篠原文左衛門
弐人扶持 古賀佐左衛門
銀五両 田中太兵衛
御酒 牧瀬和助
右同 吉次松斎
金子百疋 古賀与次兵衛
弐人扶持 深川弥兵衛
佐嘉表御借銀方
数年致太儀候付
足軽
御合力米六斗之上
今又六斗被 久保忠兵衛
相増
御合力米九斗之上
今又六斗被相増
中山弥兵衛
御合力米六斗 松田弥左衛門
銭五百疋 田中藤吾
御酒 吉次藤左衛門
右同 江頭新兵衛
右同 轟木藤兵衛
右同 中願寺忠兵衛
右同 野副新左衛門
米六斗 岸川儀右衛門
御酒 西 二右衛門
右同 江原忠左衛門
井手貞右衛門
米六斗 山口二左衛門
松浜詰
金子百疋 小田村多仲
同三百疋 松崎牧之
同三百疋 関勘ケ由
銀壱枚 星野猶人
同壱枚 横尾両膳
金子五百疋 池田轍
同百疋 竹内浪江
同弐百文 宮崎寿斎
銀壱枚 伊東八郎右衛門
同壱枚 松田与四右衛門
金子弐百疋 城島武之進
銀弐両 牧瀬七郎兵衛
御合力米弐石 西川吉兵衛
御酒 山田定助
銀弐両 大島清兵衛
御合力米弐石 川崎弥右衛門
御酒 七田幸左衛門
右同 平石政助
右同 辻 伝助
右同 福島又兵衛
弐人扶持 村山休五郎
銀弐両 大坪藤右衛門
御挟箱之者
米六斗 長次兵衛
右同
御酒 貞兵衛
御馬屋者
銭七百文 甚之允
右同
同五百文 源右衛門
御駕籠之者
同壱〆文 九平次
御駕籠之者
御酒 新兵衛
御台所男
米六斗 久米右衛門
右同
鳥目七百文 長右衛門
手男
同壱〆文 弥右衛門
右同
同五百文 徳右衛門
右同
御酒 五郎右衛門
御茶弁当者
鳥目三百文 貞右衛門
御傘之者
同五百疋 善十
請役所使前
米六斗 定八
右同
鳥目三百文 吉十
御蔵方使前
足軽被召成候 彦左衛門
郡方使前
年々米三斗 久左衛門
勘定所使前
一生米三升つゝ 政右衛門
西丸使前
鳥目五百文 平左衛門
浜御西御台所
同三百文 作右衛門
右同
同三百文 幾右衛門
西岡右同
同弐百文 辰右衛門
右同
米三斗 常右衛門
右同
鳥目弐百文 善次
牛津御蔵床手男
米三斗 源右衛門
御馬屋者
鳥目三百文 長左衛門
手男
一生米三升つゝ 藤八
手男頭
鳥目弐百文 与四左衛門
普請男
同五百文 源兵衛
抱夫男
御酒 左平次
手男
御酒 五郎右衛門
普請男
鳥目弐百文 平兵衛
右同
同弐百文 八右衛門
右同
同弐百文 久兵衛
岡町別当
銀弐両 笠原利兵衛
佐織刈点役庄や
米三斗 吉之允
今古賀村右同
同三斗 幾右衛門
深町刈右同
同三斗 源右衛門
勝刈右同
米三斗 権兵衛
薮分村右同
同三斗 文左衛門
目明
【記載なし】 浅右衛門
牛津脇本陣亭主役
御酒 小兵衛
右同
右同 幸左衛門
牛津新町咾
鳥目弐百文 吉左衛門
岡町咾
鳥目弐百文 善右衛門
右同
同弐百文 次右衛門
岡本刈点役庄や
同弐百文 彦右衛門
織島刈右同
同弐百文 平次兵衛
東道免村右同
同弐百文 助右衛門
中組町別当
同弐百文 善右衛門
石原村点役庄や
同弐百文 安右衛門
上栗原刈右同
同弐百文 忠右衛門
牛尾村右同
同弐百文 作右衛門
川上砂漕
同弐百文 九右衛門
横町懸下山留
鳥目五百文 貞右衛門
同三百文 勝左衛門
御酒 覚右衛門
鳥目弐百文 儀左衛門
鳥目三百文 六郎右衛門
御酒 四郎兵衛
晴気懸下山留
鳥目五百文 甚助
御酒 小右衛門
右同 忠左衛門
川内懸右同
右同 長右衛門
右同 庄右衛門
寺浦懸右同
御酒 弥右衛門
皆木懸右同
鳥目弐百文 弥兵衛
同弐百文 佐左衛門
川土井筋下山留
平田村
同三百文 三郎左衛門
平野村
御酒 武兵衛
楢田村
右同 儀右衛門
瀬土井筋右同
永田弁才
右同 作右衛門
山内中山留
古場村
鳥目弐百文 吉富幸左衛門
大野村
同弐百文 中島伝兵衛
畑瀬村
御酒 姉川弥右衛門
上熊川村
米三斗 西国三右衛門
山田下山留
上合瀬新村
御酒 茂右衛門
藤瀬村
右同 又七
上熊野川村
右同 戸兵衛
同村
右同 孫六
安道寺村
右同 龍右衛門
山代郷庄屋村役其外
西分村庄屋
十右衛門
山代足軽藤島清左衛門組
増右衛門跡に被 仰付候
東分村右同
増右衛門
山代足軽と本足軽に被
召成組入迄御切米弐石
被為拝領候
西大久保村庄屋
鳥目壱〆文 二左衛門
久原村右同
同壱〆文 只右衛門
立岩村右同
同三百文 市左衛門
天神浜右同
同三百文 忠兵衛
東大久保村右同
同三百文 与右衛門
里村右同
同三百文 藤助
楠久村右同
同三百文 源左衛門
城村右同
同三百文 近兵衛
瀧川内村右同
同三百文 長右衛門
里村横目
御酒 段十
針島番
鳥目三百文 源右衛門
久原村山留
同 三百文 安右衛門
立岩村山留
御酒 治右衛門
脇野村右同
御酒 林右衛門
大山留
鳥目三百文 牟田六右衛門
井樋方大工棟梁
足軽被 召加候 九兵衛
桧物屋
壱人扶持被為 太兵衛
拝領候
御用聞畳屋
壱人扶持被為 二兵衛
拝領候
魚屋
米三斗 郡平
中溝村庄や
同三斗 利平次
立石刈右同
同三斗 新左衛門
勝刈右同
同六斗 幸右衛門
永田村横目
鳥目壱〆文 次郎左衛門
平野村右同
同壱〆文 弥左衛門
下戸田村右同
同壱〆文 次郎右衛門
下村右同
同壱〆文 正兵衛
芦田刈右同
同壱〆文 新右衛門
道辺刈横目
鳥目壱〆文 浅右衛門
佐織刈右同
同壱〆文 弥左衛門
高田刈右同
同壱〆文 利兵衛
大寺刈
同壱〆文 武兵衛
戊刈右同
同壱〆文 清吾
薮分村右同
同壱〆文 利平次
上栗原刈右同
同壱〆文 林右衛門
立石刈右同
同壱〆文 九右衛門
戸崎村右同
同壱〆文 忠蔵
下栗原刈右同
同三百文 伊右衛門
織島刈庄や
同五百文 平八
岩蔵村右同
同五百文 佐左衛門
町分村右同
同五百文 権左衛門
川越村右同
同五百文 利平次
佐保村横目
鳥目弐百文 弥惣次
吉富村右同
同弐百文 弥惣次
遠江刈右同
同弐百文 槇右衛門
樋口刈右同
同弐百文 幸右衛門
熊寄刈右同
同弐百文 孫助
甲柳原刈右同
同弐百文 源左衛門
吉原刈右同
同弐百文 徳右衛門
本谷村右同
同弐百文 利右衛門
袴田刈右同
同弐百文 安右衛門
勝刈右同
同弐百文 安右衛門
古湯村右同
同弐百文 平八
市川村庄屋
同弐百文 宇左衛門
大串村右同
同弐百文 藤右衛門
麻那古村右同
同弐百文 尉右衛門
八反原村庄や
鳥目弐百文 浅右衛門
大野村横目
同弐百文 幸之允
熊野川村右同
同弐百文 千左衛門
深町刈庄屋
役中御合力米九斗を 武左衛門
一生ケ間拝領被
仰付候
江口刈右同
一生ケ間米六斗 卯左衛門
つゝ被為拝領候
戊ケ里右同
一生ケ間米六斗 常右衛門
つゝ被為拝領候
白紙ケ里右同
弐石御加増被 萬助
仰付候
輿刈右同
役中御合力米 長右衛門
六斗被為拝領候
池上村横目
此節御免ニ付 源右衛門
米六斗被為拝領候
木島溝刈右同
役中御合力米 新蔵
六斗
雪伏刈右同
役中御合力米壱石を 伝兵衛
一生に被 仰付候
白紙刈右同
米六斗 源六
下江良刈右同
米六斗 政右衛門
牛津本町咾
御酒 又右衛門
同新町右同
右同 清左衛門
岡町右同
右同 清兵衛
右同
右同 文右衛門
小城町右同
右同 忠兵衛
右同
右同 浅右衛門
布施刈点役
右同 孫右衛門
樋口刈右同
右同 卯右衛門
江口刈右同
右同 伊左衛門
久本刈右同
右同 七内
社刈右同
右同 作兵衛
定原村右同
右同 清右衛門
浜中村右同
右同 宇左衛門
石木刈点役
御酒 伊左衛門
中溝村右同
右同 儀右衛門
生立刈右同
右同 源左衛門
東山田村右同
右同 次右衛門
楢田村右同
右同 久之允
大願寺村右同
右同 善六
右之通御達相済候也
十二月廿七日
同 廿八日
同 廿九日
一歳暮御祝義左之通
肥州様え 殿様ゟ
一焼杉三本入御扇子壱箱御熨斗
御使者
御取次勤
一御同人様え従
大殿様 静明院様は御
祝詞斗
御使者
御取次勤
大殿様え 殿様ゟ
一二本入御扇子壱箱
一御肴一折 塩鯛壱
静明院様え 殿様ゟ
一二本入御扇子壱箱
一於佐保様へは御祝詞斗
一蓮池鹿島山城殿於加殿
其外兼て御取合之御方々え
御祝詞西丸勤
【白紙 下部に佐賀大学附属図書館登録印】
【裏表紙】
高林厚齋老人旧考
《題:麻疹養生便覧》
今茲(ことし)麻疹(はしか)の流行(りうかう)諸国(しよこく)同(おな)じ少壮(せうさう)の男女(なんによ)脱(まぬが)るゝは尠(すくな)し
疾病(やまひ)は医(い)の療薬(れうやく)に在(あれ)ど養生(やうじやう)疎(そ)なれば其効(そのこう)見えず
壮少(さうせう)の人(ひと)は殊(こと)に養生(やうじやう)の道(みち)を知(し)らず食禁(しよくきん)に於(おい)て
も各自(かくず)の見識(けん き)に出(いで)て一 様(やう)ならねば惑易(まどひやす)し確実(たしか)
なる説(せつ)を記(しる)し遠近(ゑんきん)に刊布(かんふ)せば世の稗益(ひえき)にもな
らましと数書(しよしよ)の卓論(たくろん)を俗語(ぞくご)にもて一小冊(いつせうさつ)を綴(つゞ)り
書屋(しよし)に与(あた)へて上梓(はんこう)せしめ終(つい)におほやけにする事
とはなりぬ
麻疹養生鑑 (印)厚斎老人旧考
東都 隅田叟斎述
・麻疹(はしか)古(ふるく)は乃解具佐(のげぐさ)といふ乃解(のげ)は稲麦(いねむぎ)等(とう)の穂(ほ)の先(さき)の
毛(け)なり具佐(ぐさ)はかさといふに同(おな)じく瘡(できもの)をいふのげの皮(は)
膚(だへ)につきて癬(かゆき)に比(たと)へたるなり
・又(また)赤痘(あかもがさ)と云(いふ)もがさは芋瘡(いもかさ)にて疱瘡(はうさう)也《割書:痘(あと)疫をいもと|いふにてしるべし》
麻疹(はしか)は痘(もがさ)に似(に)て殊(こと)に赤(あか)きゆへかくいふなるべし
・今はしかといふも乃解具佐(けぐさ)といふに同(おな)じくサラ〳〵と
して痒(かゆ)きを云(いふ)尾張(をはり)三河(みかは)などにて麦(むぎ)の牙(ひげ)の膚(はだ)に
触(さわ)りて痒(かゆ)きをはしかゆいと云(いへ)り《割書:江戸にてイガラツホイ| といふにおなじ》此 病(やまい)
疱瘡(はうさう)と共(とも)に元(もと)瘟疾(うんゑき)《割書:はやり風のおもきをいふすべてねつびやうまた|傷かんともいへどしやうかんは冬の寒気にあた》
《割書:りしよりおこりて|うんゑきとは似てしからず》の類(るい)にて疹疫(しんゑき)とも云(いふ)或(あるひ)は二十年或は
三十年をへだちて流行(りうかう)するに此(これ)を掌(つかさど)る邪神(じやじん)あり疫(えき)
邪と異(ちが)ひ麻疹(はしか)疱瘡(はうさう)は一度 患(やみて)再感(ふたゝびうけ)ず神 気(け)たる事
最著(もつともいちじる)し疱瘡は胎内(たいなひ)より受(うけ)たる血毒(けつき)に因(よ)れば治(おさむ)るに易(たやす)
くもあらねど麻疹は外より受たる神の気 故(ゆへ)其 邪(じや)を
逐(お)ふに難(かた)からざる事 彼(かの)癬疥(ひつしぜん)に類(るい)すべし此(これ)を治(じ)し
誤(あやま)り又 死(し)に至(いた)らしむるは医(い)の拙(つたな)きと病者(びやうしや)の不養生(ふやうじやう)に在(あり)
麻疹(はしか)内攻(ないこう)し発(で)がたき故(ゆへ)に苦脳(くのう)甚(はなはた)しく他病(よのやまひ)さへ引出(ひきいだ)し又(また)
荷痂(かせ)て後(のち)毒忌(どくいみ)を忘(わす)れ再感(さいかん)するもの二件(ふたり)に依(よ)れり再感(ぶりかへし)
は病後(びやうご)身体疲労(しんたいつか)れ血液調化(けつえきちやうくわ)せず気力(きりよく)全(まつた)からぬ地(ところ)なれば
食毒(しよくどく)に誘(ひか)れて邪気(じやき)又入(またい)り或(あるい)は異病(いびやう)と変(へん)じ痼疾(こしつ)とも
なり死(し)せざるも又(また)治(ぢ)するに難(かた)し
・されば此病(このやまひ)に冒(おか)されたらば先(まづ)良医師(よきいし)を招(まね)ぎ速(すみやか)に邪熱(じやねつ)を
除(のぞ)く薬方(やくほう)を請(こひ)てよし邪熱(ぢやねつ)だに去(さ)れば発(で)る麻疹(はしか)も軽(かろ)く
発(いでる)にも滞(とゞこう)らず遅々(ちゝ)せざれば病苦(びやうく)浅(あさ)く苦痛(くつう)深からねば
体(たい)も疲(つか)れず体健(たいすこやか)なれば本 復(ふく)もはやし
・此病(このやまひ)を感(うけ)たる初(はじめ)は悪寒(さむけ)頭痛(づゝう)咳歎(せき)胸(むね)つかへ身(み)の熱強(ねつつよ)く其(その)
容体(ようだい)外邪(ぐわいじや)の重(おもき)に似(に)て所謂(いわゆる)傷寒(しやうかん)かと思(おも)ふやうなりかくの
如(ごと)くならは必 風湿(ふうしつ)【左ルビ・シツケ】を避(さく)べし
・但し綿入小袖(わたいれこそで)を重(かさ)ね紙帳(しちやう)にかくれ屏風(びやうぶ)を立廻(たてまわ)しなどせんは
厭(いと)ふに過(すぎ)て身屈(みくつ)してよろしからず
・房事(ばうし)を忌(いむ)男女同臥(なんによどうぐは)あるべからず婬慾(いんよく)の念(ねん)熾盛(さかん)なれば行
ふに異ならず酒もわろし熱(ねつ)を増(まし)苦(くる)しみ多(おほ)し禁忌(きんき)の食類(しよくるい)
を遠ざけ渇しても冷(ひや)水を飲(のむ)まじき也内を温(あたゝ)め補(おきの)ふ薬(くすり)を用べし
さて其病(そのやまひ)に軽重(かるいおもひ)あり中分なるは五六日にて発病(でそろひ)十二日を経
て落痂(かせ)余(よ)熱残らず心身(しんしん)清くとなるべし是(これ)疱瘡(ほうさう)に異る
事なし出揃(でそろひ)たるか出そろはざるかは熱 気(き)にてしるべしまた
出揃へは必(かならず)苦悩(くのう)去(さ)る・病中食事せざるは愁(うれう)にたらず平生好の
物とて和し難(がた)き品などを勧(すゝ)め食事を強(しい)るは甚(はなはだ)はろし又 吐(はく)
瀉(くだ)る事もあり赤白痂(かびやう)ならすば驚(おどろく)べからず渋(しぶ)る薬剤(くすり)など用(もち)ゐ
て止(とむ)べからず
全快(ぜんくわい)の上二七日も過(すぎ)なば先(まづ)爪(つめ)を剪(きる)べし○次(つぎ)の日 腰湯(こしゆ)○次の日
行水(きやうずい)○其間を見て髪(かみ)を束(たば)ね次の日 月代(さかやき)髭(しげ)などを剃(そり)○さて
無事(ふじ)ならば銭湯(せんとう)にも浴(いる)べし湯(ゆ)も髪(かみ)月代も一度にするはわろし
《割書:つねの病にても|同じ事也》畢竟(しつきやう)は一月も遠慮(ゑんりよ)してよし炎暑(あつさ)の時節(じせつ)余(あま)り久し
く是をせぬも欝気(うつき)を生(せう)じてよろしからず
房事(ばうじ)酒(さけ)肉食(にくじき)は百日を忌(いむ)べし軽(かろ)きは七十五日にてもよろし
・病後(ひやうこ)酒(さけ)二 合(こう)飲(のみ)て即死(そくし)し房事(はうじ)を行(おこな)ひて悶絶(もんぜつ)せしを目の
前(あたり)見たり怕(おそ)るべし〳〵喉(のど)三 寸(すん)の美食(びしよくに)五尺の身体を易く半
頃(きやう)の合(みめ)観に百年の性(せい)命を縮(ちゞむ)るは不養 生(しやう)の至極(しこく)なり
・或人(あるひと)の説(せつ)に病後(ひやうこ)は白粥(しらかゆ)に焼(やき)塩のみにて飢(うへ)を助くべし能
書(しよ)の毒(どく)の沙汰(さた)無用(むやう)といへる是(こ)は偏(かたより)たる料簡(りやうけん)也かくては病
後(ご)肥(ひ)だちがたく羸痩(やせ〳〵)して病身(びやうしん)になるべし過(すき)たるは及(およは)ざるとは
・是(これ)也 佳物(よきもの)は食(しよく)して筋骨(きんこつ)を健(すこやか)ならしむるに如かず
・熱(ねつ)にうかされて譫事(うはこと)をいふはえかみの気なれば鬼話(あやし)と
・するにたらず打捨(うちすて)て置(おく)べし
・病勢(ひやうせい)烈しく苦悩(くのう)堪かたしとて病人(びやうにん)も介 抱人(ほうにん)も泣騒(なきさわ)ぎ
などし心(こゝろ)をいらたてゝは益(ます)々苦し他の病(やまひ)と異(ちが)ひ出揃(でそろ)へば
ほどなくおこたる物(もの)にて日限(にちげん)もかきりあれば心(こゝろ)を落付(おちつけ)て
精神(せいしん)をたしかにすべし是(これ)養生(やうじやう)の専(せん)一也
・食(しよく)して能(よき)もの
・ほう〴〵《割書:どくなし| よろし》・かなかしら上同・きす上同・こち上同
・ひらめ《割書:すこしは| よし》・赤えい上同 ・かつをふし《割書:しこくよろし|尤なまりはわろし》
・あわび《割書:少し食|してよし》・蜆(しゞみ)《割書:精を増こんを増| ゆへ食してよろし》・牡蛎(かき)《割書:大に| よし》・茲(こゝに)しるす
・魚貝(うほかい)くだもの類(るい)とも能(よく)々 煮(に)て食(しよく)すべし生(なま)はわろし
・大こん・かぶら・にんじん・ゆり・冬瓜(とうくわ)・ながいも《割書:げんきを増|大によし》
・白(しろ)うり・丸づけうり《割書:すこしは| よし》・かんぴやう・ぜんまい・ごぼう《割書:げんき| 》
《割書:を増ゆへ大によし| でそろひてのちはわろし》・じゆんさい《割書:少しは| よし》・しそ・たで《割書:すこしは| よし》
・けし・ふき《割書:ねつをはつして| そのねつをくたす大によし》・黒豆(くろまめ)《割書:大に| よし》・ゆへなり
《割書:少しは| よし》 あづき上同・つけ菜(な)・小まつな・はだな・みづな
・香(かう)のものはすべて塩(しほ)おしにて食(くふ)べしぬかみそづけ甚(はなはだ)悪(わろ)し
なるべくは・ふる/漬(づけ)のたくあんのみ/用(もち)ゆべし
・みそづけ《割書:大に|よし》・うど《割書:少しは|よし》・/葛(くず)粉《割書:大に|よし》・さつまいも《割書:少しは|よし》
・やき/麩(ふ)・ゆば《割書:どくなし|用てよし》・うんどん《割書:少しはよし|外のめんるい皆わろし》・こんぶ
・あらめ・わかめ《割書:此類| さはりなし》・ひじき《割書:よく|にてくふべし》・つくいも《割書:大に|よし》
・びは《割書:すこしは|よし》・きんかん《割書:せんじて用ゆれば病にて| のとのくまゝたるをとふすゆへ大によし》【?】・九ねんぼ《割書:少しは|よし》
・たんぽゝ《割書:でかねる|によし》【?】・なし《割書:くるし|からず》・ちさ・大麦《割書:むきめし|むぎゆ》
《割書:類也病人常に|用ひてよし》・茶《割書:少しは|よし》・あは《割書:くるし|からず》・金山寺(きんさんじ)・ひしほ
・味そ汁(しる)《割書:たへず食すべし|尤しろみそはわろし》・あまざけ・ところてん・かんてん
・あめ・かろゆき・くわし類(るい)かろきものはよろし油(あふら)ぐわしは禁(きん)
ずべし・餡物(あんもの)はねりやうかんの類(るい)少しはよろし
・食(しよく)してあしき物(もの)
・鮪(しび)・かつを・くじら・鮫(さめ)・ゑび・かに・じやこ・鮭(さけ)
・たこ《割書:食すればかならず|はらいたむ》・さば・さんま・このしろ・蛤(はまぐり)《割書:大に|わろし》
・たいらげ・あか貝(かい)・すいほん《割書:食すれば|すぐに死す》・こはだ・さゞへ
・田にし《割書:貝るいみな|わろし》・かまぼこ《割書:大に|いむへし》・干魚塩物(ひうほしほもの)の類《割書:いづれも|わろし》
・又よきやうにて禁(きん)すべきは あいなめ・あぢ・いしもち
・おこじ・かます・さより・食(しよく)すべからず・獣肉(じうにく)《割書:しごく| わろし》
・鳥類(とりるい)《割書:いづれも| わろし》・せうが・からし・とうからし・さんしやう
・こせう・《割書:其外からみある| ものみなわるし》・するめ《割書:かゆがり山| あげる事おそし》・ぎんなん
・しら魚(うほ)《割書:大に| わろし》・くるみ・なつとう・とうふ・あぶらげ・すべて
油(あぶら)もの大に禁(きん)ずべし・竹(たけ)の子《割書:ねつを| うごかす》・わらび《割書:むねいたみて| はらくだる》
・しいたけ・はつだけ・たけるいみないむべし・そば・めん類(るい)《割書:右に| いだ》
《割書:すうんどんの| ほかみないむ》・れんこん・こんにやく《割書:うちへ入り| 命あやうし》・梅(うめ)ぼし《割書:大に|わろし》
・きうり・なんきん・せり・みつば《割書:食すればなほりてのち|中風ともなる 忌べし〳〵》・ぬかみそ漬(づけ)
《割書:かゆみを| しやうじる》・ねぶか《割書:ねつをうごかし| たんおこる》・くわゐ《割書:大にげんき| おとろへる》なすび《割書:ぬか| みそ》
《割書:づけ甚わるし|がんびやうとなる》・さといも・ずいき・くだ物(もの)類(るい)右にしるす外(ほか)
一切(いつせつ)忌(いむ)べし・かちぐり・椎(しい)《割書:甚だ| わろし》・だんご しんこ引(ひき)ものまんぢう
の類(るい)よろしからず・青梅(あほうめ)を食せば見病となり女は血/発(おこ)る
・なた豆を食べからず即死(そくし)すといふたとへかほどにあらずとも余病
を発出(ひきいだ)して喩するに難(かた)し・砂糖(さとう)《割書:たくさんくふは| わろし》・酢のもの《割書:うち》
《割書:をひやすゆへすべてわろし| 病重きは七十五日もいむべし》・酒《割書:ねつをうごかし血の廻りをとむる| 百日もいむへし軽は七十日もいむべし》
・餅《割書:食ばはらこなれず| 七十五日いむべし》・冷水《割書:いかにのとかわきても| のむべからす百日も其余もいむべし》
・房事(ばうじ)《割書:是前にもいふ如く病中病後とも| 第一の禁もつ也二百日忌べし》・なるべくは・煙子(たばこ)も忌(いむ)べし
すべて禁忌(きんき)の品(しな)/出揃(でそろひ)までは害(かい)浅(あさ)けれど病後(ひやうご)には却(かへつ)て懼(おそ)る
べし右/禁忌(きんき)の類(るい)必(かならず)用(もち)ゐべからず猶記余(なをきよ)の魚貝(うほかい)とも食(くふ)べからず
・収靨(かせ)て後(のち)食(しよく)してさはりなき物
・とうふ・はぜ・いしもちふ・ふな・かれい・さより
食(くふ)てもよし去(さり)ながら余(あま)り重(おも)きは三七日(はいか)も遠慮(ゑんりよ)すべし
・麻疹(はしいさう)発難(でかね)る時(とき)食(くふ)て能(よき)物
・鯛(たい)・鱓(うなぎ)・どぜう・いか・するめ・とち・ごま・せり
防風(ぼうふう) じねんじやう《割書:とろゝに| してもよし》 たまご
是等(これら)の食物精気(しよくもつせいき)を増(ま)し発揚(はつやう)するに即功(そくこう)あれば最初(さいしよ)
には用(もちゆ)べしかせての後(のち)は一切(いつせつ)禁(きん)ずべし
同かゆみを留(と)る方
黒豆(くろまめ) 陳皮(ちんび) 大麦(おほむぎ) 甘艸(かんぞう) 生姜(しやうが)
右をせんじ用(もち)ゆべし必(かならず)即功(そくこう)あり
同/熱(ねつ)ありて発(で)かねるには
欸冬根(ふきのね) 松茸(まつたけ) 此(この)二種(ふたくさ)をせんじ服(ふく)すべしまた
右の煎(せん)じ汁(しる)にて最初(さいしよ)身(み)を浴(あら)ふもよし是(こ)は大/同類衆(とうるいしゆ)
方第(ほうだい)七十之巻に載(のし)てあり其神/能用(のうもち)ゐてしるべし
・麻疹(はしか)預防(よぼう)の神方(しんぽう)《割書:・はしかを| かねてふせぐ方也》
・諸(もろ〳〵)の禁呪(まじなひ)多(おほ)くは頼(たの)むにたらず茲(こゝ)に古(むかし)より傳(つた)はる神方あり
・楊皮(やうひ)《割書:かはゆな| ぎのかわ也》 ・桃葉(もゝのは)
右二/種(いろ)を水(みづ)にて煎(せん)じ浴(ゆあみ)すべし煎ずる事/濃(こ)ければ弥(いよ〳〵)しるし
あり又/淡(うす)くして服(ふくす)もよしかくすれば大かた麻疹(はしか)をやまず
若患(もしわづら)ふとも極(きわめ)てかろし
・三豆湯(さんづとう)の方(ほう)
・赤小豆(あづき)壱合《割書:小つぶにて| いろのこきを用ゆ》・黒豆(くろまめ)壱合 ・葲豆(いんげん)壱合
甘草(かんぞう)五分 ・但し袋(ふくろ)にいれて煎(せん)ずべし
水(みづ)壱升五合入壱升に煎じ二番は水壱升入て九合に
せんじ用(もち)ゆべし
此薬/節々(とき〴〵)用(もち)ゆればすべて流行/病(やまひ)におかさる事なし
■て麻疹(はしか)と疱瘡(はうさう)に用ゆれば必(かならず)軽(かろ)し
養生鏡畢
【背表紙】
江戸 近江屋久次郎板
痧病類編
痧病類編
【背表紙】
痧病類編 二冊 【ラベル】
痧病類編 二
痧病類記
伊藩 奥廣孝編
安政五年戊午九月
一此度流行病之俄か一種熱毒之病に
して人参附子其外温補う治療不宜
事漢之医書併此度御貸渡ニ相成候
コレラ病論といふ書ニも相見へ候得ども
世俗病因をしらす清涼或は吐下之薬を
恐れ右様々薬を好み命を損するもの
あり可恐事なり尤此病者痧気といふ
毒か気口鼻より藏府に入暴に吐瀉す
る者也一二時にて手足冷く引つけなとす
れとも寒症とおもふべからす内は熱毒
之病也此毒内にある間ハ治する事
なく吐か瀉か汗にて外へ発し切されは
終にハ死す吐も瀉も毒の洩るゝ道なり
服薬ニて解散する事第一の心得也
若止る薬なと用ひ早く止る時は治す
べき理なし此事病家第一の心
得なり
一病人ありて医者を招く事遅くば
先南天葉塩にてもみ其汁を小茶碗
に半盃位のみ或は水又はぬるま湯
にて三黄丸を用ゆべし其間に惣身
冷れハ温石或は砂又はこぬか三升
程に塩一升ばかりかきまぜよく〳〵
ほうらくにて炙乾小きれニ包み背
腹猶手先足先なとへ入置べし
一病中心得は粥米湯白湯等も熱き
は禁物也ぬるくして用ゆべしまた病
止候て半日も過き大【幸】便繁く下れは元気
持がたし粥か米湯を折節飲すへし
味噌汁たまり塩の煮【糞?】を適宜に加へ
用ゆべし塩気なけれは薬を受ぬ
様子なることの也
一病人に薬よく適へは毒気はやくぬ
けて両三日ニて平癒するものあり
早く治したりとて流行病にあらすと油
断すべからす痢病或ハ脾胃虚と
なる事あり可慎事也
予防法
一第一身を冷す事なく大酒大食魚るい
柿梨其外何によらす果物類冷物よ
ろしからす酒又は焼酎二合にキナ〳〵
一匁或は川柳皮五匁を浸し置酒なれ
は温めて少しヅヽのみ猶菅【藿】香散を用
気分を引立る事第一にすべし
藿香散
藿香(青菜) 香附子四分ツヽ 薄荷 松(唐)殻
山査子 連(唐)尭 一匁ヅヽ
右六味細末湯にて用ゆ
三黄丸
大(唐)黄 黄(かゞ)芩 黄( 加州)連 各等分
右細末糊ニて丸ず
安政五年戊子八月中旬
公儀ゟ江戸町々へ御触れ■■【之冩ヵ】
此年流行暴瀉病之予防法
身を冷事なく腹ニハ木綿を巻き大酒
大食を慎其外こなれ難食物を一
切給申間敷候事
此症催し候ハヽ早く寝床に入りて飲食
を慎ミ惣身を温め左に記す芳香散と
云薬を用ゆべし是のみにして治する
もの少からす旦又吐瀉甚しく惣身冷る
程に至りし者ハ焼酎一二合の中に
龍脳又ハ樟脳一二匁を入れ温めて木綿
の切にひたし腹并ニ手足へ静にすり込
ミ芥子泥を心下并ニ手足え小半時位ツ
ヽ度々張るべし
芳香散
桂枝 益智 細末各等分 乾姜末
右三味調合至し一二匁ツヽ時々用
ゆべし
芥子泥
からし粉 饂飩粉 等分
右あつき酢ニて堅くねり木綿切に
のばし張候事
但し間に合さる時ハ熱き湯よく
芥子粉ばかりねり候てもよろし
又方
あつき茶に其三分一焼酎を和し
砂糖を少し加へ用ゆべし但し座敷
を閉布木綿等へ焼酎をつけ頻りに
惣身をこするべし
但し手足の先并ニ腹冷へる所を温
鉄又は温石を布に包みて湯を注よ
くなる水ヲ【?】心持のなる程にさする
も又よし
右は此節流行病其為諸人難治
いたし候ニ付其症に不拘早速用ひ候て
害なき薬法諸人給心得無急度相
達候事
八月
安政戊午之秋江戸ニて或人流行暴
瀉病之予防法を信州御岳山へ相伺
候処則御差当之方
茯芩弐分 肉桂一分 甘草一分
乾姜一分 干艾三分 御種人参一分
ふきの根少々
右七味水二合入一合半ニ■【煎しヵ】用ゆ
大人ハ壱貼小児ハ半貼
同年臘月八日同藩鷹取尚敬ゟ来書
其後は御文通も不申と御世之為奉るも【?】扨当
八九月中は府山不怪寄病流行御聞候
ニ相成可申暴瀉暴吐一二行【折?】ニて忽然
而斃或は一二日を保ツも聞之候?得共多
くハ一夜一日位ニて勝敗相分れ申候一二
日を保ち候者は勝利を得らる事も聞也
又ハ御国抔もいさゝか流行之由しかし
盛ニハ無之趣大慶成るニハ生薬方
ハ附中理中或半瀉加茯芩小半夏
加茯証ニ寄候ては剤下も致度証も
聞く小子ハ嘔吐ニて薬汁を受不申
ニ術居候間紫圓備急円等薬も
投候存外効を奏し様ニ覚申候
しかし偶中不定規則と存候貴地
御治驗も候ハヽ此示数奉願候先は
右迄????
痧脹玉衡抜萃
痧脹玉衡抜萃
大清康熈十四年乙卯携【槜】李郭志邃右陶著
痧症発蒙論
夫君子生于斯世、不屑為天下無所用之人、則必求
為天下所必需之人、故君子不為良相、則為良医、益
良相済世、良医済生、其所以行我心之不忍者、事有
相符、而道有相類也、余于傷寒痘疹、驚風𤺞【疒に虛】痢、与夫
胎前産後等症、俱所潜心、姑不具贅、獨是痧之一症、
緩者或可遅延、急者命懸頃刻、在病家必当誠心請
救、在医者必当急為赴援、匪若他症之可以遷延時
日、姑且慢為調治也、迩来四方疫気時行、即今丑寅
年間、痧因而発、郷邨城市之中、俱見者此等症、或為
暗痧、或為悶痧、或為痧痛、或為落弓痧、噤口痧、撲鵝
痧、角弓痧、盤腸痧、或又因傷寒𤺞痧、与夫胎前産後
等症、而痧兼発、甚至闔門被禍、隣里相傳、可不重悼、
余嘗遇此等症、臨危急救、難以屢指、其治之大略、有
三法焉、如痧在肌膚者、刮之而愈、痧在血肉者、放之
而愈、此二者、皆其痧之浅焉者也、雖重亦軽、若夫痧
之深而重者、脹塞腸胃、壅阻経絡、直攻乎少陰心君、
非懸命于斯須、即将危于且夕、扶之不起、呼之不應
即欲刮之放之、而痧脹之極、己難于刮放矣、鳴呼、病
隣于死、誰不傷心、痧症至此、信乎非薬不能救醒、非
薬能莫回生、則刮放之外、又必用薬以済之、然后三
法兼備、救生而生全、庶乎斯人之得有其命也、其如
世有刮痧放痧之人、僅有刮放之能而己、餘俱非所
長也、故痧有放之不出、刮之不起、便云凶、而且放痧
數次不愈、刮痧數次不痊、便聴命于天而垂斃者、往
々皆然、若夫業医諸友、責在救人、推其心、豈非当世
之所謂君子與、然其間、或有云諸書不載、痧名満州
因而謂非薬可療、不知載籍之内、原有云絞腸痧者、
有云乾霍乱者、有云青筋者、有云白虎症者、有云中
悪者、此皆痧之見于諸書、伹略而不詳、未有専家、然
不見有云是冝絶薬、誠彰明較著而可覩也、況痧有
為眞真頭痛、朝発夕死、夕発朝死、寄于頭痛之條、痧有
為真心痛、亦朝発夕死、夕発且死、寄于心痛之例、此
二症者、雖属不治、若知其原于痧者而療之、亦可挽
回、況痧有為頭面腫脹、一似大頭瘟、痧有為咽頭鎖
悶、一似急喉風、痧有為眩暈昏悶、少頃云殂、一似中
風中暑、痧有為喑唖沉迷、身体重痛、一似驚魂落魄
此皆其勢在危急、刮放不及者、非薬将何以救之乎、
而況痧有頭痛寒熱、類于傷寒、咳嗽煩悶、類于傷風、
與夫因𤺞而兼痧、因痧而化𤺞、或又痧以痧発、痧縁
痧生、而痧症百出、傳変多端、更不特如此而己也、諸
如鼻紅吐紅、瀉血便血、由痧而得者有之、更有大腫
大毒、流火流痰、由痧而生者有之、或又有胎前産后、
気鬱食鬱、血鬱火鬱、而痧之兼発者有之、或又有痧
而手腫足腫、手痛足痛、連及徧身、不能轉側者有之、
或又有痧而胸脇肚腹、結成痧塊、一似痞悶、一似結
胸者有之、或又有痧而吐蛔瀉蛔、食結積結血結者
有之、或又有痧而心痛脇痛、腹痛腰痛、盤腸弔痛、徧
身疼痛、幾不能生者有之、況痧嘗有内症所傷、将隣
于死者、男子犯此、一似畜血、而血分之地治法不同、女
子犯此、一似倒経、而気分之治法又異、葢痧之為病、
種々不一、難以枚挙、予特指其大略、而明其最要者、
須看脉之真假、認症之的確、然后投剤必当、用薬無
虚、如痧在肌層、当刮即刮、痧在血肉、当放即放、痧在
腸胃経絡、与脾肝腎三陰、当薬即薬、若痧気肆行、不
拘表裏、傳変皆周、当三法兼用、務在救人於将危、而
回生於将死、余之治此等症、隨処救人、確有竒験、竊
恐前人無論、■【难ヵ】啓后賢、因著為集、仍不敢秘、以公諸
世、庶幾其有以行我心之不認、而幸不為斯世無所
用之人與、
痧原論
痧症先吐瀉而心腹絞痛者、従う穢気痧発者多、先心
腹絞痛而吐瀉者、従暑気痧発者多、心胸昏悶、痰涎
膠結、従傷暑伏熱痧発者多、徧身腫脹、疼痛■【难ヵ】忍、四
肢不挙、舌強不言、従寒気冰伏過時、節為火毒而発
痧者多、
治痧三法
肌層痧、用油塩刮之、則痧毒不内攻、血肉痧、看青紫
筋刺之、則痧毒有所洩、腸胃脾肝腎三陰経絡痧、治
之須辨経絡臓腑、在気在血、則痧之攻内者、可消可
散、可駆而絶其病根也、
痧前禁忌
痧忌熱湯熱酒粥湯米食諸物、葢飲熱湯熱酒粥湯、
則軽者必重、々者立斃、喫米食諸物、恐結成痧塊、日
久家?【變ヵ】出寄【竒ヵ】疾、甚难救療、如有幸而食消、不殞命者、不
可以此為例也、
痧後禁忌
痧症略鬆、胸中覚餓、設或驟進飲食、即復痧脹、立可
変重、是必忍耐一二日為則、及可万全、
医家当識痧筋
痧症軽者脉固如常、重者脉必変異、若医家伹識夫
脉、不識痧筋、勢必據脉用薬、而脉己多変、則実病変
虚、々病変実、誠不可特、曷若取脉症不合者、認痧筋
有無、有則據痧用薬、無則據脉用薬、乃無差誤、故余
謂医家当識痧筋
放痧有十
一在頭頂百會穴 一在印堂
一在両大陽穴 一在喉中両旁
一 在 舌下両旁 一 在双乳
一 在両手十指頭 一 在両臂灣
一 在両足十指頭 一 在両腿灣
凡痧有青筋紫筋、或現於數處、或現於一處、必須用
針刺之、先去其毒血、然後據痧用薬、治其脾肝腎及
腸胃経絡痧、万不失一、
用薬大法
痧気壅遏、未有不阻塞於中、故作痛作脹、用荊芥防
風之類、従表而散、用青皮陳皮之類、従中而消、用枳
實大黄之類、従大便而下、用木通沢瀉之類、従小便
而行、用山査蔔子之類、所以治其食之阻、用金銀花
紅花之類、所以治其血之壅、用梹榔蓬等之類、所以
治其積之滞也、
痧筋不同辨
痧筋有現、有微現、有乍隠乍現、有伏而不現、痧筋之
現者、毒入於血分者多、乍隠乍現者、毒入於気分者
多、微現者、毒阻於気分者多、伏而不現者、毒結於血
分者多、夫痧筋之現者、人皆知刺而放之矣、其微現
者、乃其毒之阻於腸胃、而痧筋不能大顕、故雖刺而
無血、即微有血而點滴不流、治療之法、伹冝通其腸
下京第七区
五軒町
家持中
虎列刺病流行之
際区内へ施薬致し候儀
人民御保全之御趣意
ニ適ひ奇特ニ候事
明治十年十二月廿二日
京 都 府
泡 盛 効
萬病水療治以呂波歌 全
泡盛効
酒は百薬の長たるの古語予いまた其理を会得
せさりしゆへ愚案をめくらすに元来百薬の長
たるものは米なり其米の精気を取たる
ものなれは酒を百薬の長といふ事も理明か
なり然れとも酒ゆへに却而病を生する人多し
是酒の用ひ方を知らさるゆへなり種々の厚味を
食し無利に酒を呑事世の中のならはし
と成ゆへ終に酒の徳を失ひ古語の義理にたか
へり且は酒の品にもよる事なり酒の品と
いへるは先清酒壱升の中弐合は米の精気
なり八合程は腐れへき水にして腹中に
滞りおのつから二口醉等の害をなすもの
此水なり百薬の長たるもの有泡盛にしく
へからず清酒の中より穀気の精計を
取たるものなれは此泡盛を呑時は諸の病
治る事神の如くにして百薬の長たるの古語疑ひ
なし□□り人は米にて命をつなくものなれは
泡盛は天□人に清得たる薬なり世に金銀
珠玉を以宝ものと思ふ事誤也たからものは
米はかり米は田から生するものなれは古への
人かく名つけたるものなり故に米を積たる
船を宝舟と社申也されは米にまさる宝
ものなく米の精気を集め取たる泡盛にまさる
妙薬なし草根木はゐ【?】薬なりとも飯を
喰ぬ病人はしるしなし譬は薬は盲也
米は手引なり泡盛を以穀気を身中へ順る
事第一の養生とおもふへし日々三度の
穀気惣身へめくれは病生せす長命疑なし人寿
百二十歳を上寿とし百歳を中寿とし
八十歳を下寿短命とする事古来の説也古へ
天子公卿に百歳余の人多く武門の者抔は
三百十六歳といふは長寿の長なり今の世の
人短命なるはほしゐまゝに美味をくらひ
あくま□【でカ】酒を呑穀気をめくらす事を第一と
せさるゆへなり長寿する術如何といふに
稲を養ひ米を得るにひとし稲は用水の掛
引程よくすれは豊作なり其上稲は一年
限のものと思ふ人あり左にあらず暖気の地にて
養方よくすれは年を越て枯る事なし
幾度も刈株より生し実るものなり
近くは熱海の辺にて翌年三月頃丈ケ壱尺程に
新芽を生し其年植たる青田のことし
しかれとも実乗すくなきゆへ年々苗をふせる也
人も其如く穀気を以て身体を養ひ用水の
懸引程よきか如く百薬の長たる泡盛を以て
身中の病を去時有無病壮健にして長寿古
人のことくなるへし一年限りと思へる稲さへも
養ひ方によりて年を越ても刈株より新芽を
生し実乗るものなればまして百二十歳と定る
寿命を全ふせん事唯宝ものとする米と
妙薬とする泡盛とを以て身の養生に油断
なく心を付は亀鶴千万の齢ひを保ん事
なを安かるへし
口腹論
三度の食気惣身へよくめくれは無病長命
なる事疑ひなし其仕方いかゝといふに
腹と口とは好む処うらはらなり腹の好む
処にしたかへは無病安泰也口之好む処に
よれは万病発也先腹は寒冷を好み美味を
好まず口は腹【暖の誤記カ】熱を好み麁食を好ます人々
口の好む処に随ひ病を求め命を損る事
多し腹の意による時【?】は天性の道理に叶ふ也
其故は天地開初たる時生あるもの一体也其中に
人は万物の長にして知恵ある故に寒暑の
凌き方食物等万事己か耳目鼻口の好む処に
工夫をなし末世に至る程自在自由に成て
後は病を生し命を失ふ事心付す外の生類は
天性のまゝにて知恵もなく己か食物と備りたる
所の喰物を喰ひ偶然たる故病も生せす千鶴
万亀の齢ひを保つこと道理也知恵あるも
無もいつれか勝れりとも言かたし古へ穴に住
火食せさりし時を思ふに皆長命也是人気
質朴にして天性にしたかひ耳目鼻口の
欲に寄さる故也されは今の世とても水をあひ
冷物を食しなは無病長命なるへし是腹【?】の
好む処にして天性也爰に常陸国北條の医師に
古宇田伯明といふ老人有灌水の徳を進湯の
人に害ある事をいろはの哥につくりて
おしへたる中に
論をして病の起るみなもとを
たつねてみれは入湯なりけり
恐しきものは巨燵と入湯なり
人を丸呑するとおもへは
得手不得手飲喰ふ物は其まゝに
まつ第一に湯をはつゝしめ
其外水の徳を述たる説あまた有近世は
湯をつかひて行水といふ間違の教あり
しかれとも数ふ年湯をあひ暖熱の食をなす
事ならひとなれは今更急に水をあひ
冷物を食することも成かたしたゝ湯と
熱食は毒にして水と冷物は薬なりと
いふ事を会得なし其心得ありたき事也
腹中へ飲食治りて次なるものは直に腹中の
湯気にてこなすこと早く食気身中へ
めくるなり是を酒を造るにたとへてみれは先
米を能ふかし能さまして後麹と水をかへて
造込日を経て自然の湯気を生し能にへ和合
して酒に成也味噌醤油も同し事なり
いつれも暖熱を嫌也若しさまし方行届ず
して仕込時はかならす腐れて酒も味噌も醤油
も出来そこなふなり腹も其如く冷物はよく
こなれて食気めくりよし熱きものは腹中
にてさめるまて滞りさめて後こなす故其中に
腐る事ありて食滞とも成留飲共成病の根本
と成也古語に年寄りに冷水といふ一理なり老人は
熱火のために身体かれ食気めくらず落命する
事草木水気のほらす枯るゝに同し水を呑て
熱火をしすめ食気をめくらす時は無病にして
天性の寿を保へし年寄に冷水を年寄の冷水と
いふゆへに其利をうしなへり朝夕腹の意に心を
付く養生なす時は無病長命なる事うたかひ
なかるへし
食物弁
予学問の力なけれは書籍に引あて道理を
いふにあらす自から病身ゆへ惣身へめくらすなり
粥のこときあつき和しかたきものは腹中へ入
てもさめるまで滞りさめて後も陽気の臼にて
こなすに及す其儘通り抜る故食気めくらずして
食滞或は留飲と成て腹内を損るなり腹の冷
物を好む事は天性也かたきものをこなす事は
たとへは鳩雀は穀物のかたきを呑蛇は蛙を呑
鵜は己か丈けより長きうなきを呑皆腹中にて
こなすなりまして人は六尺のたけにて梨子
柿の類をこなす事論ずるにたらす雀の
類小さき生類といへとも腹中陽気の臼を以
穀物のかたきをこなす事安しされは人間
陽気の臼は御影石の臼にもまさるへしこわき
飯なとを毒なりといふは誠に心得ざるの甚
しきなりすへて人の手にて臼にかけ
あるいはあつく煮熟したるものは陽気の臼の
働やうなく腹中の陽気を生る事薄く
天性の理違ひて病を生し命をそこなふ
なり常陸の伯明先生のいろは哥に
会釈して主人や親に湯をすゝむ
不忠不幸のはしめなりけり
右哥の心よくかなへりとおもふなり
【左一行】
万病水療治いろは歌
【右丁文字なし】
万病水療治いろはうた
いち〳〵におしへさとすもむつかしやいろはのうたに水療をせよ
ろんをして病の起るみなもとを尋てみれは入湯なりけり
はかとらぬ病はすへて湯をは忌水をそゝぐかはや道ぞかし
にくむへき湯呑人の愚さよ耳にさかふる忠言はなを
ほんゐとて腹も痛てはく病水呑そゝぎかたくもなし
へたてねは天地人と水なるを湯にあたゝめて身をはむろ咲【室咲=温室で花を咲かせる事】
とし毎に痢病とおこりやむ人は水をそゝきて跡かたもなし
ちわやふる神のみそきの水そゝき方の病みなつきにけり
りういんは朝水のまぬゆへなるぞのみてそゝぎて跡かたもなし
ぬしよりも寒さにまけぬ奴みよからける尻を水にそゝぎて
るいを引ろうせう中風湯の咎と水にそゝきて用心をせよ
をんせんは土用中也くわん水は寒中なりとかねてしるへし
わかさかり色と酒とに朝湯ずき身を持崩し末はよひ〳〵
かほ手足ひヾとあかきれ切るのは湯にあたゝむるゆへと知らずや
よに多きせんき【疝気】すはく【寸白】にかつけ【脚気】やみ朝夕そゝき水に根をきれ
たんせきと胸や背中にこしいたみ痔も痳病もいゆるくわん水
れい水の能ある事をちかくしれいしやと薬を遠くもとむな
そむかれぬ文字をとくと味へよ垢離行水とかくにあらずや
つう風とひぜん【皮癬】さうどく【瘡毒=梅毒】骨からみ【骨がらみ 注】しうちなかちも皆水てすむ
ねまなこは水にてさませ寝あせかき頭痛めまいに寄妙也けり
なつは水けふはよしとさとれとも冬は入湯に迷ひぬるかな
らくになる心をしれや水ごりはいのらすとても神や守らん
むしけある子ともは親の育から水をそゝきてやりはなしよき
【注 梅毒が全身に広がり骨髄までも侵すこと。またその症状。】
うしとらと北風みんな身にしまは水をそゝきて東西もなし
ゐ花水のみてそゝきて湯をいまははれる病ひも中風はなし
のみすこしかしらもおもく寒けせば水をそゝきて酔さましせよ
おそろしきものはこたつに入湯也人を丸呑するとおもへは
くだりはら又はひけつ【秘結=便秘】にこまる人朝夕のみてそゝくにそよき
やかましく耳なりのほせかたいたみ風まめならは水か何より
まのあたりゆありけせつ【下説、或は解説(げせつ)ヵ】みきゝてもこりすに入はあまり也けり
けかすれは先取敢す水そゝき薬たりとも湯のけ大どく
ふゆの内寒さにこまる人あらは水をそゝきて春は来に鳧【けり。鳥の名の当て字】
こヾへなは俄にあつき物喰ふな直に入湯は猶更の事
えてふへて呑喰ふものは其侭にまつせんいちに湯をは慎め
てんきやみ火事と内しやう【一家の暮らし向き】火の車水より外に防くものなし
あしや手のしびれ草臥痛みなば水をそゝきて湯を着■りし
さんぜんご【産前後ヵ】らちあき【かたがつき】りやうし何にても急病気付け顔に水ふけ
きちかひとてんかん驚風【注】疳積【癇癪】は水より外に妙薬はなし
ゆすきでも長いきするとのたまふな水にすまさは限りしられず
【注 漢方医学で、幼児のひきつけを起こす病気をいう。脳膜炎の類。】
めの病ひ打身くじきに湯を忌て水をそゝくか第一そかし
みつ子とは水にてそゝくゆへなるそ疱瘡はしか軽くするため
しきともに朝水のみて身をそゝきはやり病はうけぬ妙ほう
ゑしやくして主人や親に湯をすゝむ不忠不幸のはしめ也けり
ひやく病の長たる風の防きには水より外の妙薬はなし
もろこしのひじりのおしへ見聞ても湯を遣ふ身のなとかしらなん
せめて湯の毒成事をしらせはや水遣ふのはとにもかくにも
すめる代につきせぬ水を身にそゝきなべて無病にくらせ世の人
長命と無病は人のねかへとも湯に入る害をしらぬおろかさ
いさきよく朝夕水に身をそゝけねかわすとても無病長命
湯に入るは大毒也と世の人のしりつゝ水ののうをしらねは
右灌斎伯明先生著也
去々申の秋右の老医にまみへて伝授の家等数年
多病にて種々医療手を尽すといへとも更に
その甲斐なく是を患る事ひさし然るに
不計灌水の伝を得て日々修行し家内は勿論
諸人にすゝめ試るに自他の諸病こと〳〵く治して
其しるし数ふるにいとまあらす妙行利益ある事を
広く諸人に伝へさるも無本意にまゝ今般令遊印也
我等も其以前は甚水を悪みて一滴ものまず
くわん水なとはそんしもよらさるゆへに人にも
いましめて水はのむなととゝめしも後悔先に
たゝすまことに無病に相成候儀はうたかひなく
候まゝ御自得可成候
よしあしの其名に迷ふおろかさよのみてそゝきてみつからにゑよ
五十まて水を悪みてそしる身の今とふとみてそゝくおかしさ
無事な身を朝夕水にそゝぐのはころはぬ先の杖てこそあれ
もろ〳〵の病のかすはおふけれと水のみそゝきねきり【根絶】はつきり【あきらか】
朝夕に水のみそゝく人ならは四百四病のわつらひはなし
つゝしみはもとより人の生つき朝夕そゝき水てつゝしめ
万病と心のあるをそゝくには水をのめ人水になれ人
江戸神田
四方新兵衛
文化十一年甲戌三月 柳下茂兵衛
笹川浦兵衛
いく千代もかわらぬ水を身にそゝき朝な夕なにのむをわするな
ろくこんをはらひ清むる修行には先あたまから水あひてみよ
はのいたみ口中あれてなやみなは日々に幾度も水をふくみて
にんしんは湯をつゝしみて水そゝきやす〳〵うみてちの道もなし
ほか〳〵と身のあたゝまる良薬は水そゝきしてふかく味へ
へいさんの守りは水としり給へ朝夕のみてつわりにもよし
ときやく【吐逆】には湯も茶もいみて水薬呑めはたちまちやむか妙やく
ちうかん【中寒=風邪をひくこと】てつゝう【頭痛】かんねつ【寒熱=悪寒や熱】するならはのみてそゝぐか第一によし
りひゃうにてくるしむ人は湯の咎と水をそゝきてのむか第一
ぬくめてもやはりからだのひへるもの水をそゝけはあたゝかになる
るいれき【瘰癧 注】て首にぐり〳〵有ならは水をそゝきてのむか何より
をんなとし月のめぐりの不順には水をそゝきて滞なし
わきがある人は水にてそゝけたゝ腹中をもそゝきぬくへし
かさほろし【かざほろし(風ほろし)=風邪の熱などのために皮膚にできる発疹】又は肴に酔たらは水をそゝきて呑むかよきなり
よなきする子には巨燵をいむかよし水をのませて灌水かよし
たいどくの出来る子供に湯をいみて水てたてたり水を呑たり
れい水のとくは朝夕あひてしれのみては腹のこなるゝを□よ
そろ〳〵とねむけのいつる病には水をそゝきてのむかくすりよ
つく〳〵と水の功能かそへてももしや言葉に尽されはせし
ねつ病はくわん水させて水のませ又水漬をくわせてそよき
なんざんにゑなもひかへて苦しまは心しつめて水をのませよ
らちあきな薬に水の妙あらはやかずきさますそのまゝにのめ
むしけ【子供の疳】有子供はなをも湯をいみて水をのませはむしの根を切
うへもなき良薬也と心得て寒くなりてもやめすくわん水
【注 結核性頸部リンパ節炎の古い呼称。多く頸のあたりに生じて瘤(こぶ)状をなし、次第に蔓延して膿をもち、終に破れて膿汁を分泌する。】
ゐの水を怠りなしにあひ給へ心ゆるせはいやになるもの
のぼせにはくわん水するもあたまからあひてみられよ奇妙也亀
おこりやみ暑気と寒気に食もたれあさゆ朝夕のみてくわん水をせよ
くわくらんやねひへをしたら水を呑くわん水すれは暑あたりもなし
やけとには先取あへす水そゝきあともつかすにいゆるみやう方
まことなる水のことくに気をもちてくわん水すれは鬼にかなほう
けつうん【血暈 注①】とけんうん【眩暈 注②】又は物忘れ水より外のみやうやくはなし
ふとりたりなつやせするも湯の咎と水にそゝきて中にく□成
こ
えんのなき人にも灌水おしへたやおのかやまひのいゆるほとなを
てや足のふし〳〵いたむ病ひには水にてもみてそゝぐにそよし
あ 神はくわん水也とみなもとをきわむる人はくすりいらすよ
さしあたるけふ一日と心得てくわん水なされあすはなきもの
きせつして呼返してもとゝかすはみつをあびせよ〳〵
ゆに入は大どくなれはつゝしみてくわん水するが身の薬也
めいわくな事は我身の薬にて気に入事はみなどくとしれ
【注① 産後に血の道でめまいがしたり、からだがふるえたりする病気】
【注② 「げんうん」ともいう。目がくらんで頭がふらふらすること。またその症状。めまい。立ち眩み】
みひいきを くわん水なされかし百病ともにいゆる妙やく
しやくつかへはら腰せなか病なはくわん水したり水を呑たり
ゑひたほれ足腰たゝぬほとならはくわん水なされ直にさめる■
ひえきつて足も覚のなきやうにつめたくならはくわん水かよし
もや〳〵と気もうつとりとふさきなはくわん水なされ忽ちによし
せい〳〵と心のうちもはれわたり病もともにはらふくわん水
すへ〳〵の世まても広くひろめたや水の流れの尽ぬとくにて
くわん水はたゝおもわくをやめにせよつめたい寒ひも思わくそかし
水療治はしめめんけん【瞑眩】せしとても肝をつふして水をやめなよ
めんけんはすゝぐにみそきのしるしにて万病のそく奇特也けり
右常湯北條灌斎古宇田伯明老医の一覧を歴て
江戸神田相生町
文化十一甲戌年四月 小川伝蔵著
【右丁左端】
文政二己卯孟夏於東都写得之
川嶋姓
【裏表紙】
痘瘡(ほうそう)麻疹(はしか)水痘(みづいぼ)
人間(にんげん)一世(いつしやう)の大厄(だいやく)なれども其(その)かろきに至(いた)りては服薬(ふくやく)をも用(もち)ひずして
治(ぢ)する其中(そのうち)に稍(やゝ)はげしく熱毒(ねつどく)さかんに足腰(あしこし)たゝず人事(じんじ)を失(うしな)ひ
夢中(むちう)の如(ごと)くなるも有(あ)り然(しか)れども養(やう)
生(じやう)をよく専(もっぱ)らにする人は第一食(たいいちしょく)
物(もつ)を用捨(ようしや)しておのづから全快(ぜんくわい)
に至(いた)る はじめ熱有(ねつあり)と思(おも)はゞよく
風(かぜ)にあたらぬやう蚊帳(かや)又は紙帳(しちやう)
を用(もちひ)て日中(ひる)も其内(そのうち)に居(ゐ)るべく
冷(ひやゝ)かなるものを食(しよく)せず渇(かは)くとも水(みづ)を
呑(のむ)こと大(おほい)にわろし白(しら)かゆ又は白湯(さゆ)
漬(づけ)寒晒(かんさらし)の粉(こ)道明寺(だうみやうじ)の粉(こ)など食(しよく)す
べし大人(だいにん)は其心(そのこころ)を得(う)れども幼稚(おさなき)ものは
わきまへもなくくるしきまゝに夜着(よぎ)をふみぬき
手足(てあし)を出(いだ)し冷(ひゆ)るをかまはざるものなれば看病人(かんびやうにん)
よく〳〵心附(こころづけ)て介抱第一(かいほうだいゝち)なり
食(しよく)して悪(あ)しきもの
一 鳥類一切(とりるいいつさい)一 玉子(たまご)《割書:百日いむ》
一 青物(あをもの)油物(あぶらけ)は《割書:七十五日いむべし》
一 豆腐(とうふ) 一こんにやく一そら豆(まめ)
一 竹(たけ)の子(こ)一 餅(もち) 一 梅(うめ)ぼし
一 麺(めん)るい《割書:うんどんは|よろし》 一 梅漬(うめづけ)
一 柿(かき) 一 菌(きのこ)るい 一もみうり
一 茄子(なす)の生漬(なまつけ)《割書:百日いむべし》
肥立(ひだち)かゝりて怒(はらたつ)ことを忌(いむ)べし又 哀事(かなしむこと)【事は異体字】すべて気(き)をつかふ
事をまぎらせんと雑談(はなし)又は草双紙(くさぞうし)などよみてたいくつせぬことよろし
結髪(かみをゆひ)月代(さかやき)を剃(そる)こと大(おほひ)ひにあしく廿日又は三十日も過(すぎ)てざつと洗足(せんそく)し
【以下は見切れ部分のため確定文字のみ翻刻】
□ 其後(そののち)沐浴(ゆあみ)髪月代(かみさかやき)し□□よろし
【表紙 文字なし 下右隅に管理ラベル】
寛政三年亥正月元旦
一天山社江 御代参馬上已上勤御
参銀三匁
一御前様 御代参右同断御参銀
御内より出
一静明院様 御名代右同断御参銀
西岡より出
一於佐保様 御名代平侍勤御参銀
鏡御西ゟ出
一佐賀表諸社へ 御名代西丸勤也
御参銀三匁宛
一両御寺江 御代香馬上已上勤
御香典なし
一高伝寺宗智寺へ之 御代香西丸勤
御香奠銀三匁宛
一玉毫寺へ 御母堂様御代香馬上
已上勤御香典西岡ゟ出
紀州様へ
一御太刀一腰
一御代銀一枚
右は従
殿様 御名代使者
御取次勤
紀州様へ
一三本入御扇子一箱 焼杉 折共御内仕立
右は従
御前様 御名代使者
大園七兵衛
御同人様
一同一箱
右は従
静明院様 右
馬上已上勤
右二丸江之御祝物前方ハ御進物方江
御頼二而相調候得とも当年よりハ御頼
之義不被相叶段被申達候付前広二
納戸へ相達置候事
一二丸へ御家中惣代三人内両人西丸
勤
一御取かはし左之通
一白木弐本入御扇子一箱
一御円鏡一錺
一御肴一折 塩鯛一
右は御母堂様へ従 殿様
一御扇子一箱
右ハ 御前様へ従 殿様
一於佐保様へは御祝詞計
一鹿嶋并山城殿其外へ之御祝物左
之通
一白木弐本入御扇子三箱
右ハ悌姫様へ従
殿様 御前様 静明院様
一備前守様へハ御在府二付江戸二而調
一同三箱
右ハ山城殿へ右 御三方様ゟ
一同四箱
右ハ於加殿江右 御三方様
於佐保様ゟ
一同三箱
右ハ於美濃殿へ右 御三方様ゟ
右御祝物年内西丸迄差越候事御
使者西丸勤尤
御前様より之御祝物ハ御内調候事
一扇子一結ツゝ
天山社人
河上命婦
与賀社人
一献上左之通
殿様 御前様 静明院様へ
一二本入御扇子三箱
図書殿
左近殿
采男殿
監物殿
御三方様へ
一同三箱
頼母殿
舎人殿
善左衛門殿
十太夫殿
権右衛門殿
殿様へ
一同一箱
持永文太郎
宮地勘左衛門
神代官右衛門
重松与次右衛門
木下求馬
村川佐一郎
東嶋杢右衛門
宮池新五右衛門
一於外御居間御規式之次第
一御若水迎 城嶋武之進
<割書:一御年男|一御開豆> 神代官右衛門
一御鬢 関 勘解由
一御衣装上 <割書:宮地二兵衛|松崎牧太>
一御規式御かよひ并御手懸副
松崎牧太
関勘ヶ由
星野猶人
一湯御手水前 御目見
宮地二兵衛
松崎牧太
関勘解由
星野猶人
右奏者神代官右衛門
一於外御居間 御目見
図書殿
弐間四畳目 左近殿
采男殿
監物殿
頼母殿
舎人殿
善左衛門殿
弐間三畳目 十太夫殿
権右衛門殿
造酒殿
幸三郎殿
采女殿
弐間一畳目 富岡将曹
右奏者神代官右衛門
敷居外一畳目 <割書:小田村多忠|横尾多膳>
二間一畳目 日出嶋環
池田 轍
竹内浪江
敷居外二畳目 宮崎元立
相良十郎助
伊東八郎右衛門
弐間一畳 相原左次兵衛
永橋泰助
敷居外一畳目 松田 定
高木忠右衛門
藤山宗右衛門
弐間一畳目 木下内蔵進
藤田次左衛門
敷居外一畳目 水町 半
嬉野伝之助
甘木与四右衛門
江嶋金兵衛
成冨 兎毛
敷居外二畳目 東嶋市郎左衛門
秀嶋吉右衛門
東嶋市右衛門
伊東伝兵衛
古館平兵衛
菊池宗垣
川久保順庵
成冨文之進
神代九兵衛
岩松藤十
敷居外一畳目 松隈亨安
敷居外二畳目 庄新兵衛
敷居外二畳目 松本鎮九郎
納冨伝之允
堤 作兵衛
敷居外二畳目 城嶋武之進
大石源右衛門
吉冨三郎兵衛
一外御居間御礼過直二
御対面所二而御礼被為請候
一御鷹師御対面所裏縁西頭北向
並居 御出懸被成御覧候
一御船頭使者間東南頭
一御料理人寄附之間南頭
一下坊主寄附之間北
一野副伝組職人御広間南頭
一薬王寺只之允組職人伝与認南頭
一御持鑓之者中ノ口北壁際西頭南向
一御挟箱御馬屋御駕籠御茶弁当
御傘之者何も小松間次間東頭
一御親類方家来小松間中ノ縁北東
頭名披露なし
一御前様外御礼過御親類御家老
大御目付元〆相談役他御目附
旧記方頭人迄被渡
御目候
正月二日
一里足軽中へ被渡
御目候御対面所次之間ゟ御広間迄
順之通並居御礼申上候
一松御囃子例之通於御対面所御祝
被相整候御親類御家老中番頭中
列座右御給仕侍十三人御供番加テ
其後御囃子役者中へ御酒拝領
一恒例之ことく両獅子於中口前相整候
惣而御対面所前に而有之
筈之処置目罷出候付松御獅子御祝二
差支候付中口前二而相整候被下物
例之通也
一初御参会二付被遊 御出座候
右二付御親類御家老中請役所詰中
御目付方御蔵方役御相談方目付
中へ御肴二種二而御酒拝領
一慈広院様御正当二付栄照庵へ
御代香御取次勤線香一束
正月三日
一隠居次男へ朝五時被渡
御目候尤月次之席二而独礼也
一大庄屋中小城岡町別当牛津両町
別当并御用聞諸物屋被渡
御目候
一御母堂様今昼四半時各方始請
役所詰中其外役々被渡
御目候
一今朝五時御供揃二而天山社正一位社
稲荷社護摩堂へ御参詣被成候御
跡乗二騎侍御供六人御側入テ御
歩行十弐人
一玉真院様初御忌日二付無量寺へ
御代香御取次御香典線香一束
正月四日
一今朝六時山内無足々軽中へ被仰
御目候
一右御礼過鳥御打として被成御出候
同五日
一筑前日向日田長崎へ年始飛脚
被差立候
同六日
一一新庄郷美麗共参上恒例之通於
小松間御酒并青銅一〆文被下之候
下目附ゟ挨拶也
一諫早小船越百姓例通罷出候付而
御酒并青銅壱〆文被下之候御台所存
なり
正月七日
一御鏡祝例之通也
一千賀姫様御懐胎二付左之通御
願文此節被差越候
一天山社へ 祓三百座
一稲荷社へ <割書:三百度|御代参>
一国武社へ 神楽
右は従
殿様
一太神宮 祓百座
一天山社 仁王経五部
一稲荷社 百夜焼
右は従御親類御家老中
一天山社 百夜焼
一観世音 普門品三十三まて
一不動尊 放生
右御役人中ゟ
正月八日
同 九日
一今暁七時御供揃二而犬御仕飼と
して被成御出候
同十日
一今朝五時諸寺々被渡
御目候左之通
外御居間二而独礼 岩蔵寺
其未御用人部屋二而 福智院
御酒雑煮出伴僧迄
外御居間二おゐて独礼 星巌寺
其未小松間二而雑煮出 玉毫寺
伴僧迄
献上ハ前辺 宗智寺
御次へ上ㇽ 円通寺
松尾山
右御対面所上間独礼委細之義は
年始御礼扣帳二有其未御対面所
次間二て雑煮出善左衛門殿相伴
尤席之義ハ宗智寺ハ南障子き際
円通寺松尾山北壁際右三ヶ寺
伴僧中へ使者之間縁頬二而雑煮出
真照寺
禅林庵
栄照庵
掬泉庵
寿福寺
無量寺
御対面所次之間北壁際献上物ハ銘々
前二備置候事其未小松間上間にて
雑煮出伴僧ハ次間也
行乗坊
御対面所東 城備坊
縁並居 吉祥坊
御対面所次間内 西礼寺
独礼其末小松間二而 宝珠寺
雑煮出 円長寺
一高岳院様初御忌日二付
御代香番頭勤線香一束
正月十一日
一今朝五時御供揃二而 天山社
正一位社 稲荷社 護摩堂
国武社御参詣被遊候御跡騎
弐騎御供六人御傍加御徒士拾弐人
何も麻上下着御参銀如左
一天山社 銀三両 片木
一本地堂 同三両
一正一位社 同壱両
一不動尊 同三両
一稲荷社 同壱両
一国武社 右同
一於宗智寺
月堂様へ之御代香御家老勤御
香典白麻廿帖
一於祥光山
御月堂様へ御代香御取次線香
壱束
正月十二日
一今朝五時御供揃二而両御寺御堂参
御香典御跡乗なし
一御参会例之通
御出座無之
同十三日
一御前様五時御供揃二而天山社
稲荷社 不動寺へ御参詣被成候
一役方左之通被仰付候
《割書:江戸大御目付御|取次兼当御参府》永橋泰助
御供被仰付候尤
御固惣御用兼帯
御取次被仰付 富岡将曹
江戸御供
明後春行義御狩 宮地勘左衛門
被遊候付御仕組被 宮地新五右衛門
仰付候
一上々様御星供御祈祷福智院被
仰付候料銀弐枚
一千賀姫様来月御臨月二付為御
安産於岩蔵寺御祈祷被仰付候
料銀壱枚被差出候也
一藤田次左衛門義当年江戸御供被
仰付置候処内分御断相立被差免候
正月十四日
一文景院様初御忌日二付御代香御
取次勤線香壱束
正月十五日
一今朝五時揃二而御家中知行取之
人々江
御印物被為拝領候一通左之通
一此節被差出候御印物御入部之年号
にて相渡候尤入部己後致死去或ハ
隠居いたし候者へハ家督跡式被
仰付候節之年号二而被為拝領候事
一御親類御家老番頭外御居間二て
御年頭被為拝領候尤何も名披露
付 御印三方二据
御前へ相備置候事
一物頭已下ハ 御対面所 御出座二て
請役御家老権右衛門殿御両人御同所
次之間敷居内三畳目二着座二而何もへ
被相渡候事
附 御印物白木折二据候事
一御親類御家老大御目付御対面所
南縁頬着座候事
一御印物頂戴之人ハ両人も一同二罷出
頂戴仕候事尤罷出懸銘々持席二而
御礼申上候事
一当病或ハ遠所勤之人ハ一類ゟ名代
二而頂戴仕候尤名代之人貴賤二かゝはら
す本人之席二而御礼仕候事
一此節 御印物書立之義水町半へ
被仰付候事
一右 御印被相渡候付当日御祝儀
御帳迄之事
一今日役方左之通被 仰付候
富岡将曹代
御究役 下村三郎右衛門
麟太郎様御側 持永藤九郎
《割書:興譲館ゟ|御同人様御側懸り合》岩松左五六
右同 《割書:松枝大助|川副織衛》
正月十六日
一今朝五時御当役始御役所御目付
中不残濱へ被為
召候
同十七日
一今朝六半時御供揃二而佐嘉御越
侍八人御徒士拾弐人御跡乗二騎
正月十八日
一本良院様初御忌日 御代香番頭
勤線香壱束
同十九日
一静明院様四時御供揃二而天山社
其外社々御参詣被遊候御跡乗一騎
一左之通役方被
仰付候旨相談役ゟ被相達候
《割書:行規御狩|仕与方》 秀嶋八右衛門
右付役 田中貞助
一川浪幸次郎親孫平先年乱気
再発いたし候二付又々被召捕揚屋へ
御居籠被置被下候様一類中ゟ被相
願去十月ゟ御居籠被置候処昨
夜中揚屋被破逃出候段番人共
より相達候付 早束探促として足
軽弐人下目付壱人ツゝ二頭被差出候
正月廿日
一金栗様 寿昌院様初御忌日
御代香番頭勤線香一束ツゝ
一相原四兵衛究役見習被
仰付候
一溝口神兵衛石橋林右衛門御不審之
義有之候間一類中へ被相預候段
銘々一類呼出二て相達候事
一菊池宗恒川久保順庵ゟ左之通被
相願候処稽古之義ハ如願被
仰付候乍然当春御供立被召連
候義不相叶候訳ハ当時江戸へ罷登居候
稽古人数多二而右へ打重候而ハ兵粮之義
過分二而不被及御手候条明春右人々
罷下候上二而御見合可被差登候間得
其意候様被相達候
奉願口上覚
悴順悦義是迄手元二而家業方
稽古いたさせ候得とも最早年頃二も
罷成候得ハ尚又江戸表差登向三ヶ
年押部医学為致度奉存候願之通
被 仰付於被下ハ路用之義ハ押て
自分ゟ調義可仕候得とも始終滞府
中の之義何分も不任自力候間江戸
着仕候上二而壱人兵粮被仰付被下度
奉願候当御時節柄いかゝ敷奉存候得共
前文之通最早年頃罷成候得ハ只今
稽古方最中之時分御座候晩学二相成
候而ハ不相叶義御座候故不顧御時節
奉願候此段御繁用半奉痛入
候得とも筋々宜被仰上可被下候已上
十二月廿三日 川久保順庵
嬉野伝之介殿
甘木与四右衛門殿
江嶋金兵衛殿
一菊池より之願書も大かた右之通
一川浪幸次郎親孫平昨夜揚屋破
抜出佐嘉評定所へ駆込候二付同所ゟ
早束西丸詰呼出二而孫平一類御用
有之一類同輩へ被相預候段相達有
之候也
正月廿一日
一今朝六ッ時御供揃二而為鳥御打
被遊御出候
一当月御祈祷於小松間岩蔵寺
参上二而今日ゟ二夜三日執行有之候
右入方御台所相知居候
同廿二日
一御参会例之通尤
御出座無之
一今昼八時揃二而山内弓組的被遊
上覧候左之通
一御場所新御座前
一寄親関与右衛門痛所有之御断二付
弓ハ不仕候尤御場所二ハ罷出候事
一射士壱人罷出一手仕候事
一足軽五人立二而一手仕候事
一的場心遣神代九兵衛被
仰付候事
一弓并拾とも御出陣方ゟ被差出候事
右二付各方請役所詰中新
御座へ出席有之中付ハ御状方
請役付より相勤候也
正月廿三日
一今朝七時御供揃二而為山御狩
被遊御出候
正月廿四日
一今朝五半時御供揃二而玉毫寺
御堂参御香典線香一束
一御前様五時御供揃二而両御寺
西礼寺円通寺御堂参
同廿五日
一溝口神兵衛石橋林右衛門於評定所
御調二付一類遠慮有之候処先以
夫二不及由也
同廿六日
一弘徳院様 長寿院様初御忌日
御代香番頭御香典線香一束ツゝ
正月廿七日
一山城殿長門殿此御方被相越候付左之
通
一中宿興譲館長門殿
一山城殿中宿なし直二桜岡御出候事
一右御両所へ外御居間二而御料理出夫ゟ
浜へ
殿様御同道二而御取持有之候御膳
図一通御台所へ有之候事
一中宿へ茶たはこ道具湯桶手洗
炭油手拭懸草履等迄油部屋ゟ
遣候事
一興譲館へ達候事
一中ノ口へ水溜湯板ひしやく用意候事
一見ほし足軽并宿引付二足軽四人
興譲館道案内迄
一馬屋之事
袴着
一御門達候事
一両供下宿下目付達候事
一濱より直二供揃二而御帰二付十太夫殿
宅へ供中喰無之事
一茶たばこ之義同所御頼候付同所へ
給仕徒士足軽参候事
一御取次之事組代ゟ弐人但継肩衣
一刀番御供番ゟ惣出候事但継肩衣
但山城殿ハ御式台上之板間二而取
長門殿ハ新御座縁頬之口二而取
一長門殿侍通へ小松間二而酒食出相伴
御広間番ゟ
侍へ
一吸物 一 一取肴
一重肴 一さしミ
料理
一汁弐菜 <割書:に物|なます>
徒士へ
一重肴 一取肴
一す肴
料理
一汁弐菜 <割書:に物|香物>
一御同人徒士へ御広間二而酒食出候相
伴下目付ゟ
一山城殿供中へハ酒食等被差出候義御断二付
侍徒士通迄御酒肴被為拝領候
交肴 一折
酒 三升
一御徒士給仕五人
一足軽給仕三人
一出物一通御台所役心遣候事
一山城殿へ出向
一長門殿へ出向御用人御取次ゟ薄縁
迄被罷出候事
山城殿へハ
一御家老下板間
一御用人相談役惣御目付白洲北
一御取次白洲南之方
一右何も御式台上之板間ゟ直二南
杉戸ゟ縁頬通二而内御居間へ出候事
一山城殿ゟ生鯛一折二尾
殿様 御前様へ被差上候
一長門殿ゟ左之通被差上候
殿様へ
一生退一折二尾
一五升入御樽一
御前様へ
一生鯛一折 一御たはこ 一箱
御母公様へ
一生鯛一折 一御菓子 一箱
正月廿八日
一御借銀方二付江口左五兵衛今朝
より日田被差越候
一大般若於小松間福智院修行
有之御料銀弐枚
同二十九日
一藤木惣助上方三社年籠
御代参相勤昨夜下着当便二而
京大坂より之御用簡到来此節
大坂御廻参上乗として罷越候足軽
今村正左衛門横尾新左衛門一同二着
一今昼八時御供揃二而深町藤兵衛
石火矢放出
上覧被遊候左之通
一玉薬其外台作并放出之節
佐嘉役人酒食諸入方として
銭弐〆五百三拾匁 御手元より
被差出候事
一放出為心遣佐嘉石火矢方より
神代甚之允古川久七罷越候
一場所之義ハ犬馬場より西二むかひ
四町五段的立五御筒放出有之候
一御出陣方三百目御筒被差出候
一藤兵衛諸遣夫丸之義も被差出候
一道留使番二足軽八人被差遣候
正月晦日
一見性院様初御忌日二付
御代香番頭線香一束
一溝口神兵衛石橋林右衛門今日より
評定所被差留候右二付一類同与へ
被相預候条無疎様大与代呼出二而
被相達候事
二月朔日
一当日御礼六半時被為
請候
一中嶋伝左衛門伜進士郎始而
御目見相願置候付月次御礼
後直二被渡
御目候席之義ハ月次之席也
一今日より於加殿御越也
一今朝六時揃切二而御能御興行
被遊候也
一初午二付正一位社へ
御代参御取次御参銀三匁
一右二付御施物左之通被差出候
一銀三匁 岩蔵寺
一壱匁ツゝ 伴僧三人
一壱匁五分 宮嶋石見
二月二日
一御参会例之通
御出座無之
二月三日
一御借銀方催促として日田役人
藤井安右衛門此御地罷越候右二付而
中町弥右衛門宅宿いたし候万事
御蔵方より心遣有之候也
同四日
一今朝六時御供揃二而為鳥御打
被成御出候
同五日
一坂部次郎左衛門米倉権兵衛此御方被
罷出候付而左之通
一中宿福智院之事
一同所茶たはこ盃炭油部屋より
差遣候事
一同所へ給仕御徒士三人
一同所へ参懸菓子蕎麦切出ㇽ
一其末裏御門ゟ中口被罷出候付御広
間番より小松間上間へ引候事
但夜二入候付くゝりゟ御門番下坐候事
一同所二て善左衛門殿権右衛門殿御挨拶
有之候左候而外御居間二而
殿様御面談候事
一小松間二而酒食等被差出筈之処
夜更二付而不被差出候御当役方
御同道二而濱御茶屋被罷出候同所二而
酒食其外出委細御台所二相知候
一福智院二而之書物一通御台所存也
一明六日山御狩御供坂部米倉両人
とも被仰付候
一中島藤兵衛悴純三郎先日ゟ佐嘉
評定所呼出有之候処不精二而不
罷出今日罷出候処同輩へ被相預同所
被御居籠置候段申来候
二月六日
一今暁七ッ時御供揃二而山御狩
被成御出候
一坂部米倉両人とも御狩より帰懸
又々福智院立寄被申候此節一汁
三菜御料理偖又差酒肴一種二而
被差出候
二月七日
一今朝七時御供揃二而為山御狩被成
御出候此節小城町御馳走也
同 八日
同 九日
一今朝六時御供揃二而為鳥御打
被成御出候
同 十日
同十一日
一国武社江御社参無之候二付而
御代参御家老御参銀なし
一今日江戸京大坂へ之御用簡小倉
まて被差越候
一中嶋純三郎義先達而佐嘉評定所
被御居籠置候処御構無之ニ付
被差返候趣二而昨夜罷帰候
二月十二日
一御参会例之通
御出座無之
一高橋段右衛門江頭源五左衛門御不審
之義有之一類へ被相預候段銘々
一類へ被相達候
同十三日
一今暁七時御供揃二而為犬御仕飼
被遊御出候
一西川文右衛門ゟ左之通相願候付如願
被仰付候
私伜伝次義兼而釼術稽古
等之義心懸罷在候得とも小身
者二而当前之相続方二取紛
何分所存不相任罷在候処
此節権右衛門殿出府候付御同人
従者二相加江戸差登度
奉願於然ハ彼地二而成共稽古
為仕度且ハ事馴之ためにも
可相成彼是二付奉願候条何
卒願之通被仰付被下候様
宜被仰達可被下候已上
西川文右衛門
亥二月
嬉野伝之介殿
甘木与四右衛門殿
江嶋金兵衛殿
一右近仲蔵伜孫之進を従者二相加
江戸連越度権右衛門殿被相願候処
其通被仰付候
一川久保順庵ゟ又々左之通相願
候付重而被相達候ハ只今被罷登被
居候人々無拠訳も有之万一明春
罷下候儀不相叶候節ハ順悦兵粮
之義手前より相調候覚悟二而有
之候哉と相尋候処其節ハ無拠
義候間手前より可相整由御請
有之候付願之通被仰付候
奉願口上覚
伜稽古方願之通被 仰付
難有奉存候尤江戸表稽古
之人数人有之候付明春
いたり一両輩引取候跡二て
出府仕候様奉畏候併先達而
申上候通伜義も最早年頃
罷成候得ハ一年たりとも空相暮
候義迷惑奉存候故色々才覚
を以他借仕明春迄之所ハ自
分より兵粮取続候通相整
可申候間此節御供立罷登候様
被仰付被下度奉願候此段
相繁多御半候得とも筋々
宜被仰上可被下義奉願候以上
正月晦日 川久保順庵
一吉冨三郎兵衛義御借銀方二付而
今朝より濱崎へ被差越候
一御前様今暁七時御供揃二而
二御丸被遊御出候
二月十四日
同 十五日
一当日御礼例刻被為請候
一麟太郎様今日興譲館へ御引移
被成右二付
殿様も被遊御出候
同十六日
一東嶋杢右衛門高木左九馬自大坂
昨夜参着
同十七日
一今暁七時御供揃二而為山御狩
被遊御出候此節岡町御馳走也
一日田役人藤井安右衛門先日ゟ罷出居
候処今日罷帰候尤御借銀筋決而
不相払候而ハ不相叶趣二付二御丸へ
御願書被差出候処御取替躰之義ハ
不被相叶尤御払方相滞候節ハ御代官
造酒介殿御迷惑二も相成此御方
御不調法二相成義候条田代勘左衛門
森川八郎左衛門両人へ急調候義被相頼
佐嘉二而三十四貫目此御方二而十壱〆め
余都合四十四〆余御払切二
相成候尤二丸へ差出され候御願書
佐嘉御取合帳二有
一右安右衛門へ此節金三千疋被為拝領候
二月十八日
同 十九日
一今暁六時御供揃二而為鳥御打
被遊御出候
一馬場雅楽助御側被
仰付候
一日出嶋環義御側被
仰付置候処長病二付為保養
先以被成御免候段一類呼出二而
相談役ゟ被相達候
一左之人々へ
麟太郎様御付兼勤候被
仰付置候処興譲館御引移二付
被差免候付左之通被為拝領候
金百疋ッゝ <割書:堤作兵衛|たも>
同弐百疋 さと
銀弐匁 大塚儀兵衛
青銅五百文 御仲居
おはした壱人
長局下女
同三百文ッゝ <割書:壱人|年男>
一麟太郎様御引移御家作方
大儀いたし候付左之ことく被為拝領候
銀三匁 橋本文右衛門
金二百疋ッゝ 川島織衛
松枝大助
銀三匁 下川文蔵
同二匁 水田卯左衛門
馬場雅楽助
相原四兵衛
三浦斧柄
納冨伝之允
御酒 小野幸吉郎
拝領 千々岩政次郎
川浪幸次郎
釘本和三郎
飯田仁四郎
兵動文九郎
大島城之介
永石平八
菊池元達
横尾与四郎
飯田小十
金丸庄五郎
二月廿日
同廿一日
同廿二日
一御参会例之通被遊
御出座候
一江戸大坂より之御用簡町便二而
昨夜到着
一幸三郎殿ゟ左之通被相願其通被
仰付候
口上覚
私祖母栄照宿願為成就
讃州金毘羅社へ参詣
為仕度候日数百日御暇被為
拝領度奉願候此段宜願披
露候已上
二月 太田幸三郎
園田善左衛門殿
南部権右衛門殿
二月廿三日
一今暁七時御供揃二而犬御仕飼
として被成御出候
廿四日
一今朝六半時御供揃二而両御寺
御堂参被成候御香典線香一束ツヽ
二月廿五日
一堤刑部左衛門へ山内御調一件二付而
二丸役御雇被成候
同廿六日
同廿七日
一今朝五半時御供揃二而鳥御打と
して被成御出候
一富岡将曹秀嶋籐三郎犬塚
新七郎へ左之通被相達候
今度三月五日御発駕被遊筈
之処右御用金今日迄不致出来
御日取之通御発駕可被相叶
哉も難計右二付御道中其外
之義も御減少二相成候依之右之
人々此節御供立二被召連筈之処
先以被御引残候尤御用之節ハ
何時も被差登義候条其心得
仕居候様被相達候事
二月廿八日
一今暁七時御供揃二而為山御狩被成
御出候此節岩蔵御馳走候也
同廿九日
三月朔日
一当日御礼例刻被為請候
一福島太郎右衛門より左之通相願候処
願のことく被仰付候
私伜学儀為物馴神代官右衛門殿へ
随身為仕江戸差越度奉願候已上
亥二月 福島太郎右衛門
嬉野伝之介殿
甘木与四右衛門度
江嶋金兵衛殿
一今度御参勤御入用銀不相整二付
御本家へ御願有之候末二御丸ゟ以書付
善左衛門殿権右衛門殿へ相達有之候付
則より御両人被差越候委細ハ佐嘉
御取合帳二有
三月二日
一御参会例之通
御出座無之
一来ル五日七時御供揃二而為御参勤御発駕
被遊候段被 仰出候
一右之趣御家中へ触達二相成候事
一小林幸左衛門義病気二付役方御断
申上候付而被差免候
一牧瀬長左衛門義病気二付御供立罷登
候儀不相叶御断申上候処右ハ快気
次第追々被差登義候間得其意罷在
候様被相達候也
一御参勤御道中海陸為御安全於
岩蔵寺御祈祷料銀壱枚
三月三日
一今朝七時御供揃二而二御丸へ為御
暇乞被成御出候
一右二付当日御礼無之
一山田元臺より先達而稽古方二付而
願書被差出候末又々左之通被相願候付而
如願被仰付候
奉願候口上覚
私義稽古方願之通被
仰付難有奉存候尤江戸表
稽古方之人数人有之候而明
春二いたり前方ゟ参居候人々引取
候上二而出府仕候様奉畏候併
先達而申上候通当時引廻候人も
無御座候付而ハ稽古方不宜敷
空相暮候義甚迷惑奉存候故
色々才覚他借仕明春迄之処
自分より兵粮取続候通相
整可申候間此節御供立二罷登候様
被仰付被下度奉願候万一明春二
いたり候ても兵粮被仰付候義不相叶
節ハ其後二いたり候ても手前より
成共相整可申候此段御繁用之
半御坐候得とも筋々宜被仰上被下度
奉願候已上
三月三日 山田元臺
三月四被
一今朝六半時御供揃二而為御首途出
天山社御参詣被遊候御跡乗二騎
御徒士通迄麻上下着用
一二月諸願仰渡於小松間十太夫殿
被相達候
一松崎十兵衛御留守御馬方被仰付候
一千賀姫様御事去月十三日御安産
被遊御男子御出生御母子様ともニ
御機嫌好被成御坐候由急便を以
京都より申来候也
一鹿嶋御家老御用有之被召呼候付
犬塚十郎左衛門被罷越候右二付料理
壱汁三菜酒吸物へ肴三ツ出
三月五日
一今朝七時御供揃二而為御参勤
御発駕被遊候右二付左之通
一御供立惣人数上下共年行事江
付出有之候事
一御発駕二付小城付出之本馬何十疋
出馬いたし候様馬究方ゟ手当有之
候様西丸ゟ被相達候通懸合候事右ハ
前辺懸合二相成候半而不間二合候事
一神崎より向荷付馬何十疋人足
何百人不差支通其筋手当有之
候様西丸懸合候事右ハ前広達二
相成候半而不間合候事
一紀州様ゟ神崎迄御使者被差出候
御挨拶西丸勤二而相済候事
一御親類御家老中ゟ御一宿迄御
機嫌伺之飛札以足軽飛脚被
差越候事
一長崎御奉行へ御発駕御しらせ之
御状足軽飛脚ヲ以被差越候事
一筑前并嶋原御家老中へ此御方
御家老方ゟ御発駕御しらせ之書状
差越候事尤嶋原へ之書状ハ大坂御
屋敷迄差越候事
一蓮池鹿嶋御家老中へ此御方御
家老中ゟ為御出之書状西丸迄差越
候事
一何時御発駕被遊候と申儀二丸江
被相達候様西丸懸合候事其外
御知合之御方々へ為御知有之候様
申越候事
一御暇乞御目見御式台前左之通
御親類方
御前様御付人 大園七兵衛
御屋敷頭人
御内西岡頭人
御広間番頭
御内西岡浜御西
鎖口詰中
御部屋付中
御広間番
詰小頭
詰
御徒士中
一冠木御門外
御家老方
大御目付
元〆
相談役
惣御目付
水町半高原迄御供二付此所二而
御目見なし
旧記方頭人
請役付
番頭中
右は名披露有
一初而
御目見之人ハ升形之内土手際二
東向名披露之事
一惣御家中勢屯より東小路迄名
披露なし
一此節之御発駕御供立至而御減少
二付長柄猩々緋五本搦御台弓
轟木御供侍神崎御供御徒士何も
被相減候也此御方より御道中御供立
之通にて御発駕被遊候也
三月六日
一殿様倍御機嫌好昨夜暮半
時頃田代駅御止宿被遊候段
申来候
同七日
一下関御渡海御祝於御内々相調
上々様上り物一通同所御台所へ
相知居候事
同八日
一高橋段右衛門江頭次五左衛門先達而
一類御預之末今日於評定所御調
有之其末一類同与へ被相預同所へ
被差留御置候事
同九日
三月十日
同十一日
一国武社へ御代参御家老御参
銀無之
同十二日
一御参会例之通
一今夕七時前より牛津本町出火二而
御茶屋を始町家百軒余即時二
致焼失候西風也
右二付二丸へ御届有之候焼失軒数
左之通注進有之候也
牛津本町焼失家数覚
一御上使屋 壱軒
一御高札家台 壱軒
一馬建 壱軒
一御蔵 一
一惣家数百五十三軒
一東西取切家七軒
一柿樋瀬村家壱軒
外二
怪我馬弐疋
右之通御座候已上
亥三月十三日 牛津本町別当
儀兵衛
一黒木次郎兵衛儀被相調義有之寄親
於図書殿御宅御調有之候
三月十三日
一殿様倍機嫌好去る七日大里
御着座被遊翌八日朝五時御乗船
別而無御滞下関御着岸被遊候段
申来候也
三月十四日
一於蓮池宗眼寺玉泉院様十三回
御法事御経宮二付従
御前様御代香松田定勤之御
香典白麻十帖御内ゟ出ㇽ
殿様御代香無之
同十五日
一当日御祝儀有之
一殿様正御誕生日二付御祝御内
御頼二而相整候
一右二付天山社へ御代参馬上已上
御参銀三匁
三月十六日
同 十七日
同 十八日
一京大坂より之御用簡町便二て
昨夜参着
一京都御出生様御名
三々(サ々)丸様と被成御付候段申来候
一三々丸様御七夜御祝二付左之通
被進候通相調候段申来候
一干鯛 一箱
一御樽代 百疋ツゝ
右は 大納言様へ従
御前様 御母公様
一干鯛 一箱ツゝ
千賀姫様へ
御前様 御母堂様ゟ
一殿様より之御祝物之儀ハ伏見駅二而
申上候由二付員数不相知右二付
大納言様 千賀姫様ゟ此御方
上々様へ御祝答として御同様之品
被進候段申来候
一窃関院様御遺物左之通被進候段
手覚書を以西丸迄被相達候
殿様より之御挨拶御使者日積を以
被差出筈也
美濃筆
一御掛物 一幅
右は
加賀守様へ
一小御提重 一箱
一自讃歌苅田 一箱
右は
数姫様へ
一宇都宮一勝義無調法有之候付
隠居被 仰付家続之義ハ伜勝馬へ
被 仰付候段於監物殿宅惣御目付ゟ
相達有之候御手頭続平侍委細
罰帳二あり
一牟田定益次男尉助義無調法
有之候付牢人被仰付候段於頼母殿
宅大御目付ゟ被相達候御年頭続
馬乗已上委細罰帳二有り
三月十九日
一千賀姫様御安産之御願成就有之
右御礼京都被差越候軽キ御肴等被
相添御坐候間京都二て見合相整被差上
候様古川杢之介迄注進被相成候尤
殿様并御親類御家老中諸役人
より之御願成就也
三月廿日
一寿昌院様御正当二付
御代香御家老御香典線香一束
一御家中侍通父子別宅不致様尤
養子ハ十四歳迄ハ実方へ差置候而不
苦候屋敷内別宅之義ハ御構無之
扨又役方二付父子無拠致別宅候
半而不相叶節ハ其訳願有之候様被
仰出候旨触達有之候委細ハ触達帳
有之
三月廿一日
同 廿二日
一御参会例之通
同廿三日
同廿四日
一静明院様へ御代香番頭御香典
なし
一泰盛院様御正当二付高伝寺へ
御代香西丸勤御香典白麻廿帖
一今朝より町便二而御旅中へむかひ
御文箱被差越此節京大坂へも参ㇽ
小倉迄足軽飛脚中溝次右衛門
一牛津出火二付西丸より左之通申
来候二付尚又町代官筋より取調候処
左のことく書出有之候付早速御進物
方被相達候江戸へも二丸便二而申越二
相成候也
急度致啓達候御進物方ゟ
爰元呼出にて被相達候ハ今般
牛津駅焼失いたし候付而は
上使屋其外焼失之軒数
公儀御届二相成候半而不相叶候而
御高札焼失候有無扨又焼死
人等之分リ委細被相調書付明
朝飯後被指出候様明後廿七日ゟ
江戸飛脚被差立候義候条無
間違明日昼時迄之内可被差越候
右二付而ハ其御方よりも
公辺御届二可相成と存候条軒数
其外間違候ハヽ不相叶候条其
御方より江戸注進被差越候明
廿四日夜分迄之内差出候様旁被
申達候右之次第二付而ハ其御方
より之御書付と二丸より之御書付
間違相成候てハ不相叶候条能々
被入御念可被差出候此段為注進
如之御坐候已上
三月廿三日 中尾次郎右衛門
相原左二兵衛様
木下求馬 様
亥三月十二日牛津町出火
二付
一御高札家台焼失
一御高札之義ハ無条相迦大庄屋
篠原文左衛門宅へ相預置候事
一上使屋焼失
一継馬立場右同断
一町家百五十四軒右同断
一取切家七軒
一焼残家十壱軒
一怪我馬弐疋
右昼七時前より焼上り同暮
時前火鎮候事
三月廿五日
一長崎御番被蒙
仰当年百五十年二相当候御祝明
廿六日被相整候付二丸より左之通
触達有之候
長崎御番被為蒙
仰候而より百五十年二相当候御
祝二付而御家来へ御樽肴被為
拝領候右目録来ㇽ廿八日朝
飯後頭立候御家来
御城罷出御側へ釣合被致頂戴
候様尤御目録頂戴仕候人ハ則日
年寄中宅へ罷出御礼被申上候様
且又右被為拝領候御礼左之通
一御三家御家来御樽肴被為拝領
候上頭立候人罷出御目付方へ御礼
申上候事
一右同断御親類中様ハ御使者を以
御目付方へ御礼被仰上候事
一右同断御同格御家老中様は
御自身様方
御城御出当番御目付方迄御礼
被仰上候事
右之通相達候様ニと御座候已上
三月廿二日 伊東四郎兵衛
田中半右衛門
村山寛三郎
中尾次郎右衛門様
小嶋文左衛門様
其外様
尚以本文御樽肴之義御側納戸へ
用意有之候条来ㇽ廿七日御受取
可被成候已上
一持永文太郎下村三郎左衛門ゟ左之通被相
願候処願之通被 仰付候也
私母痛所御座候付き筑州武蔵
湯治為仕度日数十日御暇奉
願候此段宜被仰上可被下候已上
亥三月 持永文太郎
嬉野伝之介殿
甘木与四右衛門殿
江嶋金兵衛殿
一下村三郎左衛門義よりハ妻并伜長四郎
湯治願御暇日数十日文言前二同シ
三月廿六日
一長崎御番方御祝二付
肥州様へ左之通被進候
一干鯛 七枚入 一箱
一御樽代 弐百疋
右は従
殿様 御使者
留守五郎右衛門
一干鯛 一箱ツゝ
右は従
御前様 御母公様
御使者 西丸聞番勤
一御拝領鶴御啓并右御祝二付而御
家老惣代へ御料理御酒被為拝領候
条一人
御城被罷出候様申来候付き十太夫殿
被相越候尤此節ハ御家中惣代二ハ
不及段相達有之候旨西丸ゟ申来候
右御膳図左之通
御膳図
一御吸物 <割書:鶴|大こん>
御土器
一御重引 あはひ
一御のし
御酒 三献
一御料理 二汁五菜
一御吸物
一御重引 かまほこ
一御流頂戴
已上
其後
一御囃子
高砂 羽衣 老松
一大村信濃守様下国牛津御通路
二付御見廻御使者被差出候御使者
野添【副】傅勤之御進物等無之尤上
使屋焼失二付御休泊無之御
すり通二付途中御使者被差出候也
一長崎御番被蒙候年
寛永十九年壬午三月廿六日
勝茂公六十三歳此時
公儀 家光公
三月廿七日
一佐嘉 御城内修理方昨夜致
焼失候付西丸より左之通申来候
急度致啓達候昨夜八ッ時過ゟ
今朝六ッ時頃迄
御城内修理方出火二而致焼失候
一右二付
紀州様へ
上々様方ゟ御見廻御使者被差出
御坐候通取計申候
一殿様よりも右躰之節ハ御使者被
差上候様兼而被仰付置候趣を以
御見廻御使者相勤申候
一惣而ハ御家老方よりも御機嫌伺
として被相越候半而不相叶候義
にて存候得とも最早遅〆二も相成
御越之上ハ今夜分二も可相成候条
其筋々品能申談置可申旁左様
御心得可被成候此旨為注進如斯
御坐候以上
三月廿七日 中尾次郎右衛門
東嶋杢右衛門様
相原左次兵衛様
木下 求馬様
尚以本文之趣御内西岡へも可被相達候
一右二付早速御機嫌伺として舎人殿
被相越候事
一長崎御番方御祝二付而此御方御
家中へ為拝領候御樽肴西丸より
請取左之通
一斗樽 二
一するめ五組
一右御祝二付此御方御家中へ御酒肴
被為拝領候御目録請取として重松
与次右衛門二丸江罷出候右御目六拝領
之御礼御年寄中之宅へ罷出御礼
申上左候而御家中より之御礼御目
付方へ惣代二而御礼申上候右いつれも
同人被相勤候
三月廿九日
同 晦日
四月朔日
一当日御祝儀有之
一天山社御田御祭礼二付
御代参馬乗以上勤御参銀三匁
一同断二付警固頭人馬乗以上勤同足軽
六人被差越候也
一御前様ゟ之 御代参馬乗以上
勤御参銀御内ゟ出ル
一長崎御番方御祝之御酒御親類
御家老中御嫡子迄番頭中物頭中
大組代小組代中詰侍中被為拝領候
右御達御当役御差扣二付頼母殿
被相達候鶴煮〆取肴盆盛付
銘々引盃也《割書:右拝領之御酒二金ノ粉|数多入居候事》
四月二日
一御参会例之通
一留守五郎右衛門へ高嶋番被 仰付候段
頼母殿被相達候
一今度牛津駅焼失之処次馬持
拾五人有之候内七人至而貧窮者
有之候二付佐嘉馬究方ゟ見分之上
右七人之者共へハ急々小屋掛等仕候様
御手当有之候様相達有之候付七人
之者共へ左之通被差出候
一丸太拾五本
一小竹拾束
一なは三束
一わら十〆
四月三日
同四日
一平野重蔵大坂ゟ昨夜下着此節
同所ゟ之御用簡持越候也
一今日高嶋番足軽左之人数被
仰付候
立石右門之允
久保新八
目付高園庄左衛門
犬山五右衛門
四月五日
一大坂ゟ之文箱町便二而到着左之通
申来候
一殿様益御機嫌克去廿日無
御別条御着坂被遊候尤中二日
御逗留之御仕組二候処廿三日夕ゟ
御発駕被遊候段申来候
一肥州様へ右為御知之御書被差越
候付則西丸差越候扨又二丸其外
兼而御知セ合之御方々へ為御知
有之候様申越候也
正親町
一大納言様今般為伝奏江府御
下向去月十一日御発輿被成候処御旅中
二而御病気被差出御旅行不被相
叶於岡崎之驛大林寺と申寺院御
借被成御保養被成候得共弥増御
痡強御下向不被相叶二付
仙洞様ゟ関東江被進候御品御口上
共両伝奏へ御頼被成御引返シ御
帰京之筈二而鳴海之驛迄御出
被成候処御乗輿不被相叶同駅御
滞留之由御病症は御気労二而
獨言のミ被仰候由以之外御太切
御様子之由申来候
一殿様へハ右之趣大坂二而被聞召候付御
見廻御使者御願文等被進候段御用人ゟ
申来候
四月六日
一造酒殿幸三郎殿へ諸御用見習として
御参会日出席有之候様被
仰出越候段御親類方ゟ被相達候
一宮地勘左衛門義御用有之早速出府有
之候様大坂ゟ被 仰出越候段頼母殿
被相達候
同七日
同八日
一善左衛門殿権右衛門殿先達而佐嘉御差
扣被居候様御達有之候条閉門被
仰付候今夕七ツ時於善左衛門殿宅大御
目付惣御目付被罷越御年頭読馬乗
以上一類ゟ壱人罷出居候事権左衛門殿ハ於
図書殿御宅被仰渡筈之処御不快二付
宿二て有之候手数右同断右閉門之手
数ハ此御方へ被相任段申来候付此御方
御格之通被相整候
一右二付東嶋杢右衛門相原左次兵衛吉富
三郎兵衛此御方ゟ御手当有之候右御手当
之次第御発駕前被 仰出置候二付
左之通被 仰付候
蟄居 <割書:東嶋杢右衛門|相原左次兵衛>
<割書:蟄居之上|役方御免> 吉富三郎兵衛
右何も銘々於寄親宅被
仰渡候委細之義は罰帳二有
一右何レも寄親并一類中ゟ遠慮
御届有之候得共不及遠慮旨被相
達候
四月九日
一高橋段右衛門義山内事御調一件
二付評定所差留被置候処猶豫所用
場之かべを押破窓より脇指を取
同所南之垣を脱出平井畠へ
駈出候ニ付定警固足軽服部幸七
今日は参合居候二付追々南之畑二而
走付しはらく棒二てさすり合候内棒
折レ候付幸七義は又々評定所へ棒取
参候跡二而段右衛門召仕駈付抱留申候
然処何之間候哉腹を五寸程切居候
右脇二も少々突疵有之打臥居候故
追々番人抔ゟ御目附方へ注進有之
段右衛門義は同所二舁入疵口為改藤山
宗右衛門罷越相改候処腹は五寸斗
咽二少し疵相見候付早速布上玄格
牟田玄益へ被 仰付療治被相懸候
手伝相良柳印被 仰付候事
一段右衛門一類村田順栄同与岸武源太
当番二有之候処右次第二付而早速
両人共一類へ被相預候事
四月十日
一高橋段右衛門疵口療治無別条
今日相済候事
四月十一日
一留守五郎右衛門今昼立二而高嶋被差越
候也尤前方主従四人之処此節ゟは
壱人被相減主従三人二而被差越候
足軽も壱人被相減四人被差越候
一国武社
御代参御家老勤御参銀無之
一正一位社初卯御祭礼二付
御代参馬上以上勤御参銀三匁
一右二付岩蔵寺江御施物左之通
被差出候
一御布施銀三匁 岩蔵寺
一同壱匁ツゞ 伴僧三人
一同壱匁五分 宮嶋岩見
一東嶋杢右衛門相原左次兵衛蟄居今
夕被成
御免候当時別而御用繁二付御
免日数之義も御発駕前被
仰出置候也
四月十二日
一御参会例之通
一造酒殿幸三郎殿御参会日
二付今日ゟ御出席有之筈候得
共不成就日二付来ル廿二日より
罷出度御断被申上候事
一長崎御番方御祝二付
肥州様江
上々様ゟ御祝物被進候処為御祝答
左之通西丸迄御使者を以被進候
殿様江
一干鯛 一箱
一御樽代 三百疋
御前様静明院様江
一干鯛 一箱ツゝ
一右二付御礼御使者早速被差出候
殿様御使者之義は日積を以被差出置
筈也
一中嶋純三郎佐嘉御評定所御用申来
候二付被罷出候処同輩へ被相預候条
心遣罷有候様相達有之候段組筋
を以被相達候
四月十三日
一江口左五兵衛義御借銀方二付日田
被差越候段舎人殿被相達候
四月十三日
一評定所江被御留置候人大小之義
向後はふろ敷二包御目附ゟ印封
いたし一類江相渡同人ゟ被心遣候通
相極候事
四月十四日
同 十五日
一当日御祝儀有之
四月十六日
同 十七日
同 十八日
一宮地勘左衛門出府被 仰付候付
留守中之義惣目附三人え大目附
兼帯被 仰付候段頼母殿被相達
候
四月十九日
一右近孫之進江御山方付役見習依願
被 仰付候
一今朝京大坂之御用簡町便二而
致到着候
四月廿日
四月廿一日
一宮地勘左衛門今朝より被差立候此節
江戸大坂江も御用簡被差越候也
同二日
一御参会例之通
一黒田甲斐守様長崎御越二付牛津
御通路右二付郡方其外役々跡方
之通同所被差越候御使者御進物躰
之義は前を以御断二付無之
四月廿三日
同 廿四日
同 廿五日
一草葉村金剛天神江西岡ゟ
御代参被差出候御参銀三匁
西岡詰御徒士中原文太相勤候也
四月廿六日
一長崎御仕組仰渡二付而頼母殿
二丸被相越候也
同廿七日
同廿八日
同廿九日
一黒田甲斐守様御帰邑二付今日
牛津御通路右二付郡方其外役々
同所罷越候也
一牛津出火二付火元本町紺屋正右衛門
居町払被 仰付候委細郡方
罰帳二有り尤其節佐嘉郡目
付ゟ一通取調へ手形相取置被申
候得共御本方ゟ御構は無之御私領
方江被相任段被相達候付此御方ゟ
御手当有之候也
四月晦日
一西川八右衛門浜崎より昨夜帰着
五月朔日
一当日御祝儀有之
一御前様今昼八ッ時御供揃二而
天山社大日小路大日尊川原天神江
御参詣被遊候
一当月御祈祷今日ゟ二夜三日於小松間
岩蔵寺参上二而御執行有之料銀
其外御台所存也
五月二日
一御参会例之通
五月三日
一清記殿妾腹袈裟吉殿疱瘡被
相煩居候処養生不被相叶今朝
死去有之候段御届有之候尤七
歳未満之由也
同四日
五月五日
一当日御祝儀有之也
一御前様四ッ時御親類御家老中江
被渡 御目候
一肥州様江御祝義御使者馬上以上勤
御前様 静明院様ゟ之御使者
西丸勤御家中惣代とも同所勤二而
相済尤此節西丸詰不快之人有之
候付壱人ハ秀嶋菅三郎被差越候也
一国武社 御代参馬乗以上勤
御参銀無之
五月六日
同 七日
一古川杢之介昨夜京都ゟ帰着
五月八日
同 九日
一江戸文箱昨夜町便二而到着
殿様益御機嫌能去月九日御着
府被遊同十五日御参勤御禮首尾能
被 仰上候段申来候
一肥州様江右為御知之御状被差越
候付則西丸差越候事扨又二丸
其外兼而為御知合之御方々江は
跡方之通為御知有之候様西丸申越
候事
一右二付御親類御家老中例之通御
格書御到来
一右御家中へ之為御知大組代中呼出
にて相談役ゟ被相達候
一長崎御奉行へ御状被差越候付例之通
足軽飛脚を以被差越候
五月十日
同十一日
一国武社
御代参御家老勤御参銀無之
同十二日
一御参会例之通
同十三日
一江戸文箱昨夜町便二而到着
一山内御調一件二付而合瀬村古庄や
清左衛門先達而ゟ被相調候得共不相
分二付今日於評定所水拷被相達候也
五月十四日
一文景院様御正当二付
御代香御取次勤御香典無之
同十五日
一当日御祝儀有之
一殿様御誕生日二付
天山社江 御代参被差出候
御取次勤御参銀無之
同十六日
同十七日
同十八日
同十九日
同 廿日
一江戸京大坂へ之文箱今朝より
被差越候小倉まて飛脚足軽北嶋
金兵衛
一監物殿御内方昨夜御出産二付血忌
御届有之
五月廿一日
同 廿二日
一御参会例之通
同廿三日
同廿四日
一法眼院様江之 御代香番頭
勤御香典線香壱束
同廿五日
一備前守様御下り懸此御方御越
被成候手数左之通尤此節は
裏御門より直二西岡江御出被成候也
一御道筋御私領中掃除郡方江
達候事
一内外掃除村崎卜周并修り方江
達之事
一御馬屋達之事
一御出并御帰之節御私領境迄
御先立御道心遣
足軽目附壱人
看板着
足軽弐人
一津野出離迄見干足軽壱人宿
引付使番兼
足軽弐人
一御立宿興譲館之事
一同所役人達之事
一同所補理并掃除一通修り方
達之事
一同所江御茶道具并御たは粉盆
御湯桶手洗御手拭懸御手拭
炭油蝋燭御草履御進之紙等
油部屋より差越候事
一同所江御徒士給仕弐人使番足軽
壱人参候事
一御供下宿六軒下目附達之事
但袴着用
一裏御門上番山田八郎右衛門江達之事
一小路廻掃除触之事
一上リ物壱通西岡御頼御次出物
同断
一御帰り之上御親類御家老中ゟ
廉嶋御家老中迄御機嫌伺之
飛札西丸差越候事
五月廿六日
同廿七日
一備前守様先日御在着二付廉嶋江
御次御使者被差出候東次郎兵衛
被相勤候御祝物塩小鯛一折弐拾ツ
被進候
御前様 静明院様
於佐保様ゟも右御一使二而被
仰進候也
一左近殿内方御きよ殿先日より
病気之末養生不被相叶今晩
暮時過死去有之候段御届有之候
依之今日より日数三日御領中
被穏便被 仰付候尤作事は
不苦候
一右御不幸二付左之御方々ゟ忌中
御届有之
采男殿
監物殿
造酒殿
幸三郎殿
一右二付左近殿江御笑止御使日積
を以被差出置筈也
五月廿八日
一水上山不動会二付御代参
馬乗以上勤御参銀三匁
御前様 静明院様
御代参平士勤御参銀御自分
方ゟ出ㇽ
五月廿九日
一見性院様御正当二付
御代香御家老勤御香典線香壱束
六月朔日
一当日御祝儀有之
同 二日
一御参会例之通
一長崎下向御普請役中村継次郎殿
今夜牛津止宿二付郡方其外
役々跡方之通同所被罷越候
御見廻御使者納冨左馬助御進物
葛粉一箱被差出候也
六月三日
一日峯社御祭二付
御代参馬上以上勤御参銀弐両
一日峯社御正当二付宗智寺へ之
御代香西丸勤御香典白麻廿帖
一牢人永橋左馬之允三月末比
より行衛不相知二付一類野副
伝ゟ左之通追々相達申候
口達覚
一永橋左馬之允義無調法有之
先年牢人被 仰付配所
山内郷被 仰付置候二付早速
右在所指遣置候処於彼地も
不行跡之義等有之候二付何レ
居籠所等相飭指置候半而
不相叶参掛り二付一類中も
畳々之吟味等も仕候得共時節柄
悪敷何分急二補理等不相叶
候付評定所御居籠所江指置度
被下候様一類中ゟ奉願候処願
之通被 仰付候二付暫御
居籠所指置候処左馬之允申聞
候は御居籠引取前々之通
山代郷指置呉候様以来は行跡等
相改決而一類中難題江相懸
間敷由頻二相歎見聞仕候処も
実々心体相改り候様相見へ
候付始終御居籠所指置候而は
上二も御難題相成候義甚奉恐入
候二付去々年御居籠所被差出
被下候様奉願候処其通被 仰付
候付大手町与右衛門と申者縁柄
相続候訳有之候付彼所召置
召置猶又異見等相加候得は
殊之外宜体二相見へ候付其末
山代郷へ遣候処随分落付罷有候
二付安心仕罷有候処去秋比ゟ五日
十日位右之場所不罷有候段相聞
候付其筋手当等仕候処方々
売々等も罷出候由二而無程罷帰
候由賴主ゟも申聞候乍然毎度
致外出等候而は決而不相叶候二付
右之手当仕召置候処去暮比より
又々右候場所不罷在由為知候二付
早速ゟ方々致探促候処神崎
近辺其外諸々罷有候旨沙汰
有之候付則其筋々致手当候而も
跡打而己相成候而不尋当候右之
次第二付早速御届等可仕之所
全遠行為仕義共不相見候得は
無程在所も可相知と奉存
候二付是まて御届をも不仕折角
内々探促等仕候得共最早数月二
相成在所も不相知候得は出奔等
為仕義二ては無之哉右体之者二
御座候得は何分之悪事等
仕候義も難斗候二付先以右之
次第御届仕置候以上
亥五月廿六日 野副伝
一右二付二丸并年行司江出奔
御届左之通被差出候
加賀守殿元家中牢人今に
同家中野副伝帳内永橋
左馬之允義三月末比ゟ罷有候
付方々相尋候へとも見当不申候
依之猶又御領中端々迄
探促仕候処行衛相知不申欠落二
相極申候此段御達仕候様在所ゟ
申越候以上
六月 中尾次郎右衛門
請役所
年行司 両所江
六月四日
同 五日
一当祇園会役割帳面之通
被 仰付候旨十太夫殿被相達候
一小野源蔵義大形【大袈裟】之義有之候付
今夜於十太夫殿宅御手頭
を以被相達候委細罰帳二有り右
二付寄親十太夫殿遠慮御届
有之候処夫二不及旨被相達候也
六月六日
六月七日
一近来相続之永雨二付止雨
并五穀豊饒之ため於岩蔵寺
今日ゟ二夜三日御祈祷執行
有之候料銀弐枚被差出候
同 八日
同 九日
一江戸ゟ之文箱昨夜町便二而到着
六月十日
同十一日
一国武社
御代参御家老勤
一左近殿忌被成御免候也
一長崎より帰府之御普請役
植野直八殿今日牛津休二付
御見廻御使者吉本段右衛門御進物
葛粉一箱被差出候右二付郡方
其外役々同所被罷越候也
六月十二日
一御参会例之通
一貞護院様御三年忌御法事
於泰長院御経営二付
殿様 御前様 静明院様
より 御代香被差出候何も
馬上以上勤御香典無之
六月十三日
同 十四日
一江戸大坂江之文箱今朝より
町便二而被差越候小倉まて
飛脚足軽品田吉兵衛
六月十八日
一当祇園会御祭礼例年之通
両山共十六日朝まてに下町
引届候也
一桟敷勤左之通
御参銀三匁 十太夫殿
御名代 重松与次右衛門
相談役 木下求馬
<割書:御目附|大御目附兼> 木下内蔵進
附役 甘木与四右衛門
祐筆
給仕
一例年之通御臺壱本さなた
御扇子壱本ツゝ 上々様江
上ㇽ右は御納戸存ニ而直二上り候也
一祇園会為御祝儀従
殿様 静明院様江御臺
弐本被進候御在府たり共
被進候也
六月十六日
同 十七日
一長崎下向之御目附井上図書様
御徒士目附三宅権七郎殿御
小人目附増田藤四郎西村
鉄四郎今夜牛津止宿二付
郡方其外役々同所被罷越候
上使屋焼失二付本陣篠原
文左衛門宅脇本陣正満寺也右ニ付
御見廻御使者五郎川作馬其外
へも御使者高木左九馬御進物葛粉
一箱ツゝ被差出候也
一宮崎七右衛門より例年之通左之通
被差上候也
一はつな 弐筋 【伴綱】
一さは 五さし【鯖】
一塩貝 三ツ
六月十八日
一江戸大坂ゟ之文箱町便二而
昨夜下着
一本良院様御正当二付
御代香 御家老勤御香典線香
壱束
一吉富三郎兵衛蟄居被成
御免候也
六月十九日
同 廿日
一黄檗山緑樹院住持当春ゟ
御当地被罷下御寄附米之義重畳
御願被申候無拠訳合二付而当春
米弐拾俵其末二而明子秋より
五年之間は毎歳米拾五俵ツゝ
大坂二而代銀二而可被相渡候旨相澄
候付其通御達ニ相成大坂へも注進二
相成候也
六月廿一日
一善左衛門殿権右殿閉門御免
被成候旨佐嘉ゟ昨夜申来候
右達書委細罰帳二有り
一右御両人 御發駕前ゟ
此御方へ御差扣被居候処是又
昨夜被成 御免候也
一暑中御見廻として
肥州様江御使者被差出候
松田定勤之 御前様
静明院様ゟ之御使者西丸勤也
其外佐嘉表御見廻御使者有之
廉々ハ前方之通被相勤候様
西丸申越候也
一宇都宮勝馬弟志津馬義致
博奕候付佐嘉ゟ先達而御咎被
仰付置候処被差免候付此御方
より牢人被 仰付配所山内
二差置候旨於監物殿御宅昨夜
御手頭を以被相達候͡読手馬上
以上勤委細罰帳二有り右二付
監物殿寄親所を以御差扣御届
有之候得共夫二不及旨被相達候
一甲斐守様先月廿四日御老中御
連名之 御奉書御到来被成
東海道并甲州川々御普請御
手伝御役被 仰蒙候段為
御知有之候也
六月廿二日
一大木弥右衛門先比より病気之末
今日致病死候尤実子無之二付
存生候内御格之通惣御目附より壱人
申受印封書付を以左之通相願
被申候
私儀病気罷在候付万一
病死仕候節実子無御座候間
今泉惣右衛門弟八十八を養子被
仰付可被下候此段以印封奉
願候以上
亥六月十七日 大木弥右衛門判
御目附御衆中
六月廿三日
六月廿四日
一法眼院様御正当二付
御代香御家老勤御香典線香
壱束
一御前様八ッ時御供揃二而玉毫寺
円通寺へ御堂参被遊候
同廿五日
同廿七日
同廿八日
同廿九日
同 丗日
七月朔日
一当日御祝儀有之
一舎人殿江御請役被 仰付候
尤善左衛門殿権右衛門殿御同役也
七月二日
一御参会例之通
一泰盛院様 高源院様
玄梁院様 寂光院様
法性院様 光徳院様
寿綱院様
右御施餓鬼高伝寺ニ而御経営
ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
御前様
一同 大園七兵衛
御香典白麻拾帖御内ゟ出ㇽ
静明院様
一同 西丸勤
御香典無之
七月三日
一玉真院様御施餓鬼無量寺
二而是迄御執行被成被来候得共
此節御取〆御仕組二付而諸方
被相減候付御施餓鬼之義は
被相止御志迄鳥目壱〆文
被差出候右二付左之通
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
一薪三荷
一夫丸七人 <割書:薪取|諸遣迄>
一日峯様 陽泰院様
興国院様 乗輪院様
柳線院様
右御施餓鬼於高伝寺御執行
ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
一於志波屋 真龍寺
梅聖院様
右御施餓鬼御執行ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
四日
一江戸大坂江之文箱今朝より
町便二而被差越候小倉飛脚帰
便二而被差越候長浜急船便
東海道江七日限也
七月四日
一海量院様
貞樹院様
大弘院様
霊松院様
龍宝院様
右御施餓鬼於高伝寺御執行
ニ付
一御代香 御取次勤
御香典無之
静明院様
一同 大園七兵衛
御香典拾帖
右は
大弘院様 灵松院様江
静明院様
一御代香 西丸勤
御香典無之
一真照院様
南祥院様
右御施餓鬼於宗智寺御執行
一御代香 御取次勤
御香典無之
一今日役方左之通被
仰付候
御相続方御目附
御蔵方役 中原唯右衛門
修り方兼
御納戸役 松枝大助
郡方 田嶋藤右衛門
郡方介役 甘木与四右衛門
地方 永田小右衛門
地方見習 中原尉之進
郷目附 野口弥左衛門
<割書:郷目附|郷普請方兼> 右近孫右衛門
郷普請方 稲増杢兵衛
代官役 <割書:嬉野助右衛門|山田長右衛門>
井樋方兼 納冨左馬之助
七月五日
一吉本段左衛門役方被成
御免候也
一肥州様松平能登守様御
妹娘と御縁談被為済候付御祝儀
御使者左之通被差出候
御前様
一御使者 大園七兵衛
静明院様
一同 西丸勤
七月六日
一於正定寺
天誉様御施餓鬼ニ付
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
一於称念寺
玉山様御施餓鬼ニ付
一御代香 西丸勤
御香典無之
七月七日
一当日御祝儀有之
一国武社
一御代参 御取次勤
御参銀無之
一肥州様当日御祝儀御使者
御取次勤
御前様 静明院様ゟ之
御使者西丸勤御家中惣代
をも同所勤二而相澄候也
一御前様朝五ッ時各方江被渡
御目候
七月八日
一一昨六日之風雨二而有之候付
木嶋溝土井切渡為見分
善左衛門殿其外被相越候
一於祥光山
御先祖様方御施餓鬼二付
左之通御香典線香九束
一御代香 左近殿
御前様
一御直参
静明院様
一御代香 御附頭不快二付
馬上以上勤
御香典線香一束西岡ゟ出ㇽ
於佐保様
一同 平士勤
御香典右同断濱御西ゟ出ㇽ
一寄附堪忍 <割書:馬上以上壱人|平士壱人>
一門番 <割書:兵士弐人|足軽弐人>
一筆者給仕 小頭弐人
一使番斎堂番掃除方兼
足軽弐人
右役々江割籠弁当出ㇽ
一御親類御家老請役所詰中
出席有之候也
但当年ゟ百目を弐枚二被相減
一銀弐枚
但六斗を三斗二被減
一米三斗
一薪九荷
一夫丸拾人 跡遣薪取迄
右之通御寺納
七月九日
一先達而急御用銀有之左之
人数江急銀調達被 仰付候処
致出情相調候付為御褒美御酒
被為拝領候肴六種
金丸貞右衛門
中嶋伝 蔵
野口千右衛門
七田助右衛門
荒木武太夫
足軽野口次右衛門
平野幸 助
小原安兵衛
村山勘右衛門
頼母殿家来
田中善右衛門
正徳町
古川九郎兵衛
大江刈
嘉右衛門
久保
父右衛門
七月十日
一御前様朝六ッ時御供揃二而
玉毫寺円通寺西礼寺
御堂参被遊候
一於玉毫寺
法眼院様御施餓鬼二付左
之通
一御代香 左近殿
御香典線香壱束
御前様
一同 御附頭不快二付
馬上以上勤
御香典右同断御内ゟ出ㇽ
静明院様
一同 御附頭勤
御香典右同断 西岡ゟ出ㇽ
於佐保様
一同 平士勤
御香典右同断濱御西ゟ出ㇽ
一同 右同
御香典御自分方ゟ西岡調二出ㇽ
一寄附堪忍 <割書:馬上以上壱人|平士壱人>
一門番 <割書:平士弐人|足軽弐人>
一筆者給仕 小頭 弐人
一使番并斎堂番掃除方兼
足軽弐人
右役々江割籠弁当出ㇽ
一御親類御家老請役所詰中
出席有之
但当年ゟ弐枚を五拾匁二被相減
一銀五拾匁
一米三斗
一薪八荷
一夫丸八人 薪取跡遣まて
右之通御寺納
一於本行寺
慈廣院様御施餓鬼二付
一御代香 西丸勤
御香典無之
一於大興寺
祥雲院様御施餓鬼二付
一御代香 御取次勤
御香典無之
静明院様
一同 西丸勤
御香典無之
一於松尾山
高岳院様御施餓鬼二付
一御代香 馬上以上勤
御香典線香壱束
七月十一日
一於宗智寺
日峯様
陽泰院様御施餓鬼二付
一御代香 御取次勤
御香典無之
一於同寺
月堂様
御施餓鬼二付
一御代香 御家老勤
御香典線香壱束
前方白麻二而候得共御省略二而
当年ゟ線香被相減
一於円通寺
御先祖様方御施餓鬼二付
一御代香 馬上以上勤
御香典無之
国武社
一御代参 御家老勤
御参銀無之
七月十二日
一御参会例之通
同 十三日
一於御対面所今日ゟ
御聖霊様御祭一通跡方
之通也右二付宗智寺ゟ僧衆
壱人被罷出今日ゟ十五日晩迄
相詰被申候付御布施金子百疋
被為拝領候
七月十四日
一両御寺江之
一御代候 馬上以上勤
御香典無之
一円通寺松尾山無量寺
栄照庵へ之
一御代香 馬上以上勤
御香典無之
七月十五日
一当日御祝儀有之
一廉嶋於晋明寺
定恵院様御施餓鬼二付
一御代香 御取次勤
御香典無之
一静明院様江従
殿様御生身魂為御祝儀
左之通被進候御在府二付外方
存二而御使附役勤也
一生御肴一折 やすミ弐
一御樽 一 弐斗入
七月十六日
一於栄照庵
御先祖様方御施餓鬼是迄
御執行致被来候得共此御取〆
御仕組二付而諸方被相減候付
御施餓鬼之儀は被相止御志迄二
鳥目壱〆文二被相減候右二付
左之通
一御代香 御取次勤
御香典線香一束
一薪三荷
一夫丸六人
七月十七日
一江戸大坂ゟ之御文箱町便
二而昨夜到着
同十八日
一江戸大坂江之文箱町便二而
今朝ゟ小倉飛脚帰便二而
被差越候急船便東海道
七日限也
一今夜無量寺施餓鬼二付警固
足軽両人其外幕提灯依願
被差出候
七月十九日
同 廿日
七月廿一日
一山代郷ゟ例年之通早稲束差上
候付鳥目壱〆被下候也
同廿二日
一江戸大坂ゟ之御文箱町便二而
昨夜到着
同廿三日
一法眼院様江之
一御代香 番頭勤
御香典無之
同廿五日
一左近殿内方五月廿七日死去二付
御笑止御使者日積二而今日被差出候
馬上以上勤衣服次肩衣着用
也右案内家来迄申遣候事
七月廿六日
一長寿院様御正当二付
一御代香 御家老勤
御香典線香壱束
一役方左之通被 仰付候
山田藤兵衛
西岡与平次
地方附役 水田権兵衛
深町市左衛門
北嶋市右衛門
<割書:吟味方付役|地方付役兼> 福田七郎右衛門
一当夏破損所
公儀御届二相成候条此御方ゟ
内御届左之通被申越候様二丸ゟ
被相達候付江戸御留守居迄注進二
成ㇽ
一寛政三年亥六月四日〇五日
十一日十二日両度之洪水偖又
同七月六日大風雨洪水二付而破
損所目安
一田畑五百拾四町水下
一同六拾町 砂下
一川土居切渡三百弐拾間
一同半崩九百三拾間
一道崩千三百間
一山崩六百四拾五ヶ所
一井樋崩七百五拾六ヶ所
一落橋六拾五ッ
一蛇籠崩四百八拾九間
一倒家三軒
以上
七月廿七日
同 廿八日
同 廿九日
一岩蔵寺ゟ左之通毎月自分ゟ
御祈祷執行仕御札差上候段
被相達候
口上覚
今般格別二六月廿八日より
天山社御神前二而毎月
朔日十五日廿八日大般若執行
相始
上々様御武運長久御息災
之儀は勿論御役人方御和順
御上御相続五穀豊穣御領内
安全と乍憚奉存専祈念申上候
二付右御礼
上々様江差上度奉存候間
此段宜敷様御披露奉願候以上
八月朔日 岩蔵寺
八月朔日
一当日御祝儀有之也
一御前様朝五ッ半時御親類
御家老中江被渡
御目候
一二丸江当日御祝義御使者
御取次勤
御前様 静明院様ゟ之
御使者西丸勤御家中惣代
両人とも同所勤二而相済候也
同二日
一御参会例之通
一肥州様御縁組御願書被差出置候処
御願之通被仰出候段
御前様 静明院様江為
御知有之候付右
御二方ゟ御歓御使者被
差出候西丸勤
八月四日
一今度別而御取〆二付御家中
部渡等被相減候付而御家中
為相談左之通被差免候
一御【家中=抹消】私領横山通宵待
朝帰待穂田待二而猪廉̪打
候義被差免候葉内二而致猟
候義は堅停止之事
一右相願候人々江御猟方より
猟札相渡置猪廉打留候上二而
早速御猟方相届見分之上
猪は銀弐匁鹿は銀壱匁運上
被相懸候事
七月五日
同 六日
一今日仕廻二而大坂江之御文箱船中
五日限二而被差越之小倉迄飛脚足軽
同 七日
同 八日
一静明院様今昼八ッ時御供揃二而
祥光山西礼寺御堂参被遊候
同 九日
同 十日
同十一日
一国武社
一御代参 御家老勤
八月十二日
一御参会例之通
一維巌院様御七回忌御法事
於高伝寺御経営二付
殿御 御前様
静明院様ゟ之
御代香 馬上以上勤
御香典無之 尤御内ゟは御内
分より御香典溝口白麻拾帖被差出候也
一右御法事二付
肥州様江
御三所様ゟ御見廻御使者
被差出候但西丸勤二而相済候也
八月十三日
同 十四日
一江戸京大坂ゟ之御用簡
町便二而昨夜到着
同十五日
一当日御祝義有之
一役方左之通被仰付旨於小
松間善左衛門殿被相達候
御使者番
御広間番 大組代八人
頭兼
御広間番 今永万平
臨時方兼 秀島菅三郎
田中兵右衛門
高木左九馬
成冨官右衛門
江嶋文右衛門
臨時方 上瀧伊兵衛
平石孫四郎
鶴田次左衛門
藤木惣助
南里弥十郎
野口源次郎
一京都ゟ左之通申来候
一筆致啓達候然は
壬生前中納言様御事当月
廿日ゟ暑気御当り二而御勝不
被遊候処御急変二而昨廿六日
夜御逝去被遊候此段可被
仰上候恐惶謹言
七月廿七日 <割書:庄村新次郎|江口神右衛門>
木下求馬殿
一右之通新来候付御領中御穏便
今夜ゟ十九日迄日数五日被
仰付候尤作事は二日相止候様
旁触達有之候也
一静明院様御兄様二付御忌
廿日之半減被為請候右二付
二丸其ほ外蓮池廉嶋并兼而
為御知合之御方々江為御知有之
候様西丸迄申越二成ㇽ尤〇
殿様御忌之義は御在府二付
於江戸表御伺之上
公儀江御届被仰上御手数之
由也
八月十六日
同 十七日
一上屋敷便二而江戸文箱到着
尤脇状斗共二而御用簡無之
一江戸京大坂へ之御文箱昨夜立二而
町便を以被差越候小倉まて
飛脚足軽早田吉兵衛東海道
六日限二而被差下候様大坂申越成る
八月十八日
一田中太兵衛義急御用之筋有之
大坂ゟ今夜下着此節江戸
御用翰持越候也
同十九日
一役方左之通被 仰付候旨
於小松間御当役被相達候
奥村又兵衛
江口平次
池田彦兵衛
下代 古賀良助
綾部左九兵衛
武冨孫右衛門
弥永与五兵衛
村岡惣兵衛
下郷普請方 古賀作左衛門
附役 太田久右衛門
上郷普請方 鶴田藤兵衛
附役 松尾九右衛門
牛津御蔵床付役 森永出来助
井樋方付役兼
一弥永小兵衛儀持役ゟ井樋方
附役兼二被仰付旨相談役
達候也
一水田彦七儀当分地方付役
差次被仰付候
一陣内七兵衛役方被差免候
八月廿日
一金栗様御正当二付
一御代香 御家老勤
御香典線香壱束
八月廿一日
一安本源太左衛門儀御境目方
見立方兼二被 仰付候段
権左衛門殿被相達候
同廿二日
一御参会例之通
一放光院様御正当二付
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
同廿三日
一東嶋杢右衛門御借銀方二付而急
打卸大坂被差越候段舎人殿
被相達候
同廿四日
一法眼院様江之
一御代香 番頭勤
御香典無之
一従
公儀御系譜被差出候様
御本家江被相達候付
今般右出来立此御方へ御什物方
より写弐冊被相渡候右は
御本家様御三家様御同様
御系譜被差出候写旧記方二
有り
一八十嶋藤太屋敷松井小膳江
相対申談売渡度双方ゟ
相願候処如願被
仰付候旨附役達候也
右は亡匂当江拝領之屋敷
二付相願候由也
八月廿五日
同 廿六日
一弘徳院様御正当二付
一御代香 御家老勤
御香典線香壱束
一深江舎仁義先頃ゟ病気
之処昨今差重候付被相預
置候組差上候段被相達候
一左之通被相達候
慈雲寺
円長寺
禅林寺
大乗庵
中西善次
佐嘉足軽 山崎小左衛門
右之人々先年御手伝等之節
献金仕候付而居屋敷不納地二
被 仰付置候然処今般別而
御取〆万端御省略二付三ヶ年
御仕切中御預被成候
八月廿七日
一東嶋杢右衛門義大坂御借銀方
立帰として罷越候様被 仰付
今日出立
一相原左二兵衛伜四兵衛義兼而
讃州金比羅社参詣仕度
心願御座候へ共御時節柄二付不任
所存打送罷在候然処此節
東嶋杢右衛門登坂二付而四兵衛義
随身仕らせ差登度左次兵衛
ゟ願に付其通被差免候
一権右衛門殿万事御減少二付而
御請役被成 御免候
尤妙法院宮一件其外
御用有之候節は早速御出府
有之候様被相達候
一年来御勝手向極々御
差支二付今度格別御省
略を以御永続之御仕組被相
立候付
上々様御賄料を始御家中
部渡格別減穀被 仰付候旨
惣御家中侍通迄呼出於小松間
被相達候委細仰渡帳ニ有り
一役方左之通被
仰付候
究役 水町半
兼
西岡鎖口 東嶋一郎左衛門代
目付 伊東伝兵衛
浜御西御鎖口 成冨文之進代
目付御広式 岩松藤十
兼
晴気皆木
川内平浦 松田次右衛門
大山留
御納戸付役 田中貞助
右は御当役達候也
三御台所役 御内 東嶋市右衛門
定詰被 西岡 秀嶋吉右衛門
仰付候 浜御西神代九兵衛
究役 田中兵右衛門
兼
過代夫方 甘木与四右衛門
兼
御境目方
見立方
御小物成方 永田小右衛門
搦方兼
右之通兼役被 仰付候旨
相談役達候也
一成冨文之進義老年二付役方
御断二付而役方被差免候右二付
数年役方堅固二相勤此節
御免二付為御褒美一生
ヶ間御加米三石被為拝領候
一今度格別御取〆御減少二付而
左之人数役方被差免候
見立方 黒木次郎兵衛
御内御広式 古舘平兵衛
西岡鎖口 東嶋市郎左衛門
御目附
西丸介役 池上藤十
興譲館 岩松左五六
御蔵方
同所 副嶋藤蔵
御目附
過代夫方 宮田十右衛門
田崎官左衛門
麟太郎 松本鎮九郎
御傍
川内番所 牟田藤左衛門
平浦番所 鴨打清兵衛
皆木 城戸五郎左衛門
右同
八段原 土山七兵衛
右同
山方目付 小野田何馬
御猟方
御相続方 大石涼右衛門
御目付
長房浜 堤作兵衛
御茶屋番
御船方 岡幸助
請役所 山田五郎左衛門
祐筆
下目付 嬉野勝左衛門
西岡鎖口 綾部覚右衛門
目附
御内 牧瀬惣左衛門
御料理人
浜御西 福嶋太郎右衛門
右同
長房付 大塚儀兵衛
御納戸付役 城嶋伝左衛門
西岡藤十
西岡
御料理人 寺崎五左衛門
御門上番 山田八郎左衛門
足軽目附 牟田口佐左衛門
江頭新兵衛
金原儀兵衛
上瀧十蔵
過代夫方付 野田源左衛門
鳥見 松山忠右衛門
往還小奉行 江原忠左衛門
修り方 力武林右衛門
小奉行 江里口孫右衛門
一御減少二付外御台所被相副
御内台所江被相付候段御内頭人江
被相達候
八月廿八日
一役方左之通被 仰付候
興譲館御部屋 徳本庄介
両御台所目附
句頭兼
興譲館御部屋
両御台所目附 石井園右衛門
句頭兼
一左之人々役方被差免候
御蔵方付役 栗原儀左衛門
興譲館目付 水田卯左衛門
八月廿九日
一於佐保様先頃より御不例候処
御瘡疾二御極被成候段御医師ゟ
申上候右二付於福智院今日
開日二而二夜三日御祈祷
執行被仰付候料銀弐枚被差出
候也
一当月五日江戸其外野州大
洪水之義従江戸大坂まて
申来候写
一当五日朝ゟ大風雨降続鉄炮
東濱町大川端灵岸嶋亀嶋
橋陸江水押上町夫ゟ深町
北川町新地蛤町石場山本
町八幡社前後東江水上り
佃島洲崎辺流申候沖ニ
懸り居候大船三四艘陸江吹付
申候本所菊川町五本松辺
床迄五尺余りも水上り本所
三ツ目ゟ六ツ目迄同断御座候以上
八月十五日 かゝや
喜八
野州
一当月五日夜大風雨二而所々出水
芦野越堀鍋懸大田原作山
喜連川阿久津白沢橋々
不残落宇都宮古河白坂
大高水其外山崩栗橋
相哥之間通路無之此段為御知
申上候
八月十八日 尾宗
一於佐保様御瘡疾二付菊池
宗垣川久保順庵御伺被仰付候
右御痛二付御親類御家老中
役人中ゟ
御願文被差上候左之通
天山社江 図書殿
月参詣之事 左近殿
稲荷社江 采男殿
葉雷三十座之事 監物殿
祓三十座之事
国武社江
千度参詣之事 頼母殿
舎人殿
善左衛門殿
十太夫殿
権右衛門殿
造酒殿
幸三郎殿
天山社江 相原左次兵衛
百度参詣 木下求馬
藤山宗右衛門
浜 藤田次左衛門
天満宮江 水町半
祓十五座
国武社江
三十三燈明
八月廿九日
八月晦日
一長崎下向之御奉行永井
筑前守様御支配勘定役江見
新五郎殿御普請役星野瀬助殿
牛津御摺通二而小田御休二付
同所迄御見廻御使者徳嶋
長右衛門秀嶋菅三郎勤之御進物
葛粉一箱ツゝ右二付牛津江
郡方其外役々被罷越候右
小田へ之御使者被差出候義は
二丸へも西丸ゟ被相尋御差図
之上被差出候也
一山代御目代嬉野小右衛門義今度
被相減筈之処無御手当二而相勤
度依願其通被仰付候
九月朔日
一当日御祝儀有之也
一二丸ゟ左之通先年御褒美
被 仰付候処于今存命二候哉年
齢居所相調相達候様申来候
其御方足軽松山幾右衛門子忠助
孝行成者二付安永二巳年
御褒美被 仰付候
右之通申来候付左之通被相達候
当年四拾歳
居所彦嶋村 松山忠助
当時江戸詰
同二日
一御参会例之通
九月三日
同 四日
同 五日
一江戸文箱上屋敷便二而昨夜
到着
一舎人殿義今度御仕組二付而
色々被申上御用有之候付
打卸二而江戸被差越候段図書殿
ゟ被相達候右二付銀弐枚被為
拝領候段是又御同人被相達候也
同 六日
一二丸ゟ左之通申来候
来ㇽ七日ゟ八日迄
窃関院様御一周忌御
法事於高伝寺御取越
御執行付而
一八日一日御領中殺生禁
断之事
一御家中自分二被申付置候義
軽罪之者被差免候事
右之通端々迄懇可被相
達由候已上
亥九月四日 伊東四郎兵衛
田中半右衛門
村山寛三郎
九月七日
同 八日
一窃関院様御一周忌御法事
於御高伝寺御取越御執行二付而
殿様
一御代香 東次郎兵衛
御香典金子百疋
御前様
一同 中林四郎左衛門
御香典白麻廿帖
静明院様
一同 藤嶋矢柄
御香典白麻拾帖
一右御法事二付而
肥州様江御見廻左之通
被進候事
殿様ゟ
一葛粉一曲 西丸勤
御前様ゟ佐嘉御進物方御頼二而調ル
一御野菜 右同
静明院様ゟ
一御使者斗
一小道具中ゟ左之通相願候付
願之通諸勤前之通足軽
打込二而相勤候様被仰付此段
寄親松崎十兵衛まで達有之
候也
乍恐奉願口上覚
我々仲間御切米以前は落米
計被相懸御渡方御座候処先年
御仕法二付而足軽並御渡方
相成候尤其節已来之義は
遠国御飛脚御廻米上乗蔵
御米才促役体之義諸事
御奉公方足軽同様相勤
候通被 仰付置難有打込
相勤来候処弐拾六七ヶ年前
二而も御座候哉御附衆方まて
足軽抔之内ゟ何角申上候末に
足軽打込右体勤方之義は
向後不相叶段被相達候付
奉畏於其儀は小道具中
之義は家業専一偏二仰付
被下候様奉願候付其儀被御
差支義も御座候由二而願之通
不被相叶元之通諸事
足軽打込相勤候様御再達
御座候義は寄親様二も御存知
之前二御座候然処其後
右体勤方聢と相願候者も
無御座勿論其時分は世上
時節も宜御座候付仲間内
気付候者も無御座自然と
相怠罷有候付只今二は足軽
打込勤方之義は不相成歟
之様被思召候上甚迷惑奉
存候当時は段々時節悪敷
相成候付而は何も相続難相叶
訳は御渡方之義は唯今二
足軽並二被仰付置小道具
臨時役目之儀は己前ゟは
相増候付纔之人数二而相勤
候得は手分二は壱人前二
凡六拾日程ニも相及彼是二付而は
弥難渋差迫儀義御座候右二付而ハ
乍憚御用繁之御時節
近比恐多申上兼候得共先年
御再達之通飛脚方其外
才足役体之義足軽同様
打込相勤候通被仰付可被下候
於然は生立候者共物馴二も
相成且依事は纔之御
蔭を以相続をも仕猶更難
有奉存候尤於江戸は諸勤
方是迄足軽同様打込二
被相勤来候条此段何分二も
被御聞済候通御筋々
宜被仰上可被下候己上
亥三月 組年寄
野口幾右衛門
右同
荒木武兵衛
組代
村岡惣右衛門
松崎十兵衛殿
右私組小道具中ゟ前書之通
願出候条御吟味有之願
之通被仰付候様宜被仰達
可被下候己上
松崎十兵衛
嬉野伝之助殿
甘木与四右衛門殿
江嶋金兵衛殿
九月九日
一当日御祝儀有之
一御前様四ッ時御親類御
家老中被渡
御目候
一二丸江当日御祝儀御使者
御取次勤
御前様 静明院様
ゟ之御使者西丸勤御家中
惣代をも同所勤二而相済候也
九月十日
同十一日
一国武社
一御代参 御家老勤
同十二日
一御参会例之通
一円覚院様御正当二付
一御代参 御家老勤
御香典線香壱束
九月十三日
同 十四日
同 十五日
一当日御祝義有之
一舎人殿主従弐人二而今朝
より江戸御出立有之外二
足軽遠江利左衛門附人として
被差越候也
一天山社御祭礼二付
一御代参 御取次勤
御参銀壱匁前方御
参銀三匁御社納之処今度
御仕組二付而諸方御減少二付
当年ゟ向三ヶ年御仕切
中壱匁弐被相減候也
一右御祭礼二付警固頭人
御使者番勤同足軽三人
両注連本共御門内被差通
於御玄関前
御前様被成 御覧候
一大木弥右衛門存生内印封書付
を以相願置候通今泉惣左衛門
弟八十八を養子二被仰付候段
一類并惣左衛門呼出二而善右衛門殿
被相達候
九月十六日
一横岳郷助義晴気大山番
被 仰付候段善右衛門殿相達候
尤寺浦川内皆木兼勤被
仰付候
一晴気大山留村川覚左衛門
被成御免候
一松浪亨安義今度御減少
二付役方被差免候尤
御病中之義は是迄之通
被相勤候様旁被相達候
一黒田甲斐守様長崎御越
二付今日牛津御通路二付
郡方其外役々同所被差越
候尤御摺通也御使者御進物
等御断二付無之
九月十七日
同 十八日
同十九日
一御前様正御誕生日二付
天山社
一御代参 御使者番勤
右二付於岩蔵寺御星供
御祈祷毎歳之通今日一日
御執行料銀壱枚外方ゟ
被差出候也
同廿日
一帰府之御徒目付三宅権七郎殿
御小人目付増田藤四郎西村
鉄四郎今日牛津通路尤摺
通二付御使者御進物等無之井上
図書殿二は於塚崎病死有之
候由也
九月廿一日
覚
一御印之御書宣八紙
一御書宣四紙
右之通慥請取申候以上
亥九月 中原唯右衛門
常富与惣兵衛
松永源兵衛
一池上村弥兵衛と申者山城殿ゟ
足軽被相抱度相談有之候
右支所無之候付而其通被相調
候様御当役御申二付其通申越二
相成候也
同廿二日
一備前守様此御方御越被成候段御
手数左之通尤此節ハ裏御門
ゟ直二西岡御出被成翌廿三日
九半時比御立被成候也
一御道筋御私領中掃除
郡方達候事
一内外掃除村崎卜周并修り方
達候事
一御馬屋達候事
一御出并御帰之節私領境
迄御先立御道心遣
足軽目付壱人
看板着
足軽弐人
一津野出離迄見干足軽弐人
宿引付使番兼
一御立宿興譲館之事
一同所役人達之事
一同所補理并掃除一通修り方
達之事
一同所給仕壱人右は同所詰御徒士
ゟ相勤候事
一同所江御茶道具并御たは粉
盆御湯桶手洗御手拭懸
御手拭炭油蝋燭御草履
御進之紙等油部屋ゟ差越候事
一御供下宿六軒下目附達之事
但袴着用
一裏御門上番御徒士壱人外当り
之事
一小路廻掃除触之事
一上り物壱通西岡御頼御次出物
同断
一御帰り之上御親類御家老中ゟ
鹿嶋御家老中迄御機嫌伺
之飛札西丸差越候事
九月廿三日
一黒田甲斐守様長崎ゟ御帰邑
今日牛津御通路二付郡方
其外役々同所罷越候最御摺
通也
同廿四日
一法眼院様江之
一御代香 番頭勤
御香典無之
一長崎ゟ帰府之御奉行水野
若狭守様御支配勘定役
大嶋栄次郎殿御普請役
中嶋直五郎殿小田御休二付
同所迄御見廻御使者被差出候
御使者番勤御進物葛粉一箱
ツゝ偖又牛津御摺通二付郡方
其外役々罷越候也
九月廿五日
同 廿六日
同 廿七日
同 廿八日
一本庄社祭礼二付
一御代参西丸勤御参銀三匁
一志波四郎兵衛義伜儀兵衛
去冬贋石札を拵取遣候段
及顕然右体之悪業仕出
候義不相気付候得共親として
兼而之申教不行届二付佐嘉
ゟ御呵被成候右二付此御方ゟ
逼塞被 仰付候段今夜於
権右衛門殿宅被相達候委細
罰帳二有り
一中嶋藤兵衛伜純三郎義
右義兵衛贋札一件二付而
引懸り有之候付佐嘉ゟ逼
塞被 仰付候今夜於十太夫殿
宅被相達候委細罰帳二有り
一右二付十太夫殿権右衛門殿寄
親所を以差扣御届有之
候得共夫二不及旨被相達候
一藤兵衛義伜純三郎へ佐嘉
御手当二付而奉恐入則遠慮
仕候段御届有之候
十月朔日
一当日御祝儀有之
一江戸大坂江町便二而今朝ゟ
御用簡被差越候小倉迄飛脚
足軽林喜右衛門
一山内古場村ニ流行病気有之
為転除城満坊へ同村二而祓
被 仰付差越依之御布施
彼是銀五匁被差出外二
夫丸壱人出る
一今度大坂御借銀御取組
弥致首尾候様福智院へ御
祈祷被 仰付今日より
二夜三日執行有之料銀
壱枚被差出候
十月二日
一御参会例之通
一役方左之通被 仰付候
山内代官 古館平兵衛
高嶋番 石井六郎右衛門
十月三日
同 四日
一舎人殿御姉於美代殿病気
之末養生不被相叶昨夜五時
比死去有之候
一初田刈百姓中一統申談
村方相立候通之仕法相立
御法通をも相守神妙二相
聞候付為御褒美百姓中江
苅鎌五拾八具被下之候
一於美代殿死去二付左之御人数
忌中御届有之
左近殿
采男殿
監物殿
造酒殿
十月五日
同 六日
一永橋泰助義江戸御積御用
二付昨夜下着
同 七日
一左近殿監物殿差競候御用
有之候付忌中
御免被成度
御前様江相伺候処其通
被 仰出候
同八日
一高岳院様御正当二付松尾山江
一御代香 御家老勤
御香典線香壱束
一上村町弥右衛門と申者右躰一村
黒ざし元締方致候付前々ゟ
外御懸硯方へ九六銭弐〆文ツゝ
毎歳運上納来候処近年は
右躰村二而黒さし漉立不申
余岩蔵五ヶ村二而漉立候付
運上相納兼候二付岩蔵六ヶ村
都而元締方致候様被仰付
被下候通相願候付御吟味之上
願之通被仰付依之村々
役々へも右之趣達ニ相成偖又
此節弥左衛門へは九六壱〆文運上
被相増当暮ゟ已来三〆文ツゝ
相納候通被仰付候也
十月十五日
一国武社
一御代参 御家老勤
同十二日
一御参会例之通
一松尾山法事二付御魂屋番
足軽壱人右二付而毎歳之通
水汲夫丸五人依願被差出候
同十三日
一御前様昨夜四ッ時御供揃二而
佐嘉御越被遊候此節中
一日御逗留之筈也
一清記殿御口副御借銀為御断
今朝ゟ善左衛門殿并木下
求馬常冨与惣兵衛山代被
相越候也
一高嶋冬番石井六郎右衛門主従
弐人二而今朝ゟ被差立候右
足軽両人左之通
目附 詰続ケ
高園右衛門允
吉田孫右衛門
十月十四日
同 十五日
一御前様今夕七半時御帰館
被成候也
一大組代中ゟ左之通被相願候付
御吟味之上願之通被
仰付候
奉願口上覚
去年己来我々郷方被仰付置候へ共
指而御為宜義も無御座左ニ付而ハ
我々懸合之義当秋ゟは被差免
被下度乍御内分再応御願申上候へ共
強而相勤候様於被仰付義は
押而御断之義も人ヶ間敷申上候
義甚不可然処ゟ先以御請仕罷
有候処唯今之勤向斗二而は
前段申上候通指而御為宣敷
義も無御座候処ゟ仲間吟味仕
候処今度御益方と名目
を被相付別帳面之通を以被
仰付候ハゝ何卒骨随差部り【すべり】
利金を以末は一廉之御用
金二も相成候通相調見申度
申談仕候惣而御為宣義は不閣【さしおく】
申上候様兼而任 仰付通御
願仕候間何卒御繁多之御半
と申其上新試之義二御座候へは末遂
候義如何敷ハ奉存候へ共兼而
御不勝手之御半二御座候へは
万一我々積通於相調義は
去年己来御家中ゟ之為
願格外之義も申上置候末二
御座候へは此形二而何レ之御用二
相立候廉も無御座相止候義
甚心外二奉存候依之前條
之通深重御願仕候間
筋々被仰達何卒相済
候様達而奉願義二御座候以上
亥九月 藤嶋矢柄
江副兵部左衛門
牟田伊兵衛
中村四郎左衛門
小野源蔵
東次郎兵衛
今泉次郎左衛門
徳嶋長右衛門
十月十六日
同 十七日
同 十八日
同 十九日
一江戸御用簡上屋敷便二而
昨夜到着
同 廿日
同廿一日
同廿二日
一御参会例之通
一吉本段右衛門浜崎御蔵米
取納役被 仰付候
同廿三日
一今朝ゟ江戸大坂へ之文箱
町便二而被差越候東海道
六日限也
十月廿四日
一法眼院様江之
一御代香 番頭勤
一大坂御用簡昨夜到着
同 廿五日
一松浦壱岐守様為御参勤
牛津御通路尤御摺通二付
御途中御使者被差出候御進物
無之右二付郡方其外役々
同所被差越候也
同廿六日
同 廿七日
一江戸大坂江之御用簡今日
仕廻二而二丸便被相願被差越候
同 廿八日
一永橋左馬之允出奔二付御領中
探促被仰付置候付所々探促
手形都而二拾三紙一類野副
伝より相納候付佐嘉差越候也
同 廿九日
一肥州様為御参勤今日御
発駕被遊候付御家中
惣代左之通被差出候
十太夫殿
東次郎兵衛
秀嶋菅三郎
西丸両人
一右御発駕二付二丸江御祝儀
御使者左之通
殿様
一御使者 東次郎兵衛
御前様 静明院様
一同 秀嶋菅三郎
一右二付従
御前様轟木迄御見送御使者
被差出候大園七兵衛被相勤候
路銀夫丸外方ゟ出ㇽ
一今昼山城殿宅大工小屋致
焼失候本家之義は無別条
取消相成候右二付
上々様ゟ見廻御使者西丸
より見合相勤候段同所より
申来候也
十月晦日
十一月朔日
一当日御祝儀有之也
同二日
一御参会例之通各方御出仕
同三日
一玉真院様御正当二付無量寺へ之
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
一宗智寺江入仏供養二付
一御代香被差出候御取次勤
御香典無之
一右二付為御茶料銀弐枚被
差出候也
一牟田玄益ゟ左之通相願候処
相続方之義ニ而無拠相守
候付御仕切中三ヶ年之処
如願被 仰付候
奉願口上覚
一私儀兼而内証極々差支罷在
相続不相叶二付年々御合力等奉
願御蔭を以是迄押々取続
罷有候処当秋之義は格別
御減穀等被 仰付候付反的【逆に】ゟ
飢寒二逼候参懸御座候伜素友
義も稽古方永々佐嘉差越
置前々は稽古料等被為拝領
御蔭二稽古為仕候処最早
近年は稽古料も被召上其後は
極逼迫なるにも少々ツゝ之仕続等
仕来候得共是以唯今二は更二
不任所存勿論彼者義も一通は
稽古仕候得共存分稽古致取
不申願は何卒存分稽古
致取末々は御用相立度
且御家中療治方をも為仕
度願望二御座候乍然唯今之
体二而は此義は差置国止と及
飢寒参懸り残念千万奉存候
右二付而は近来恐多奉願
候義不本意奉存候へ共御仕組
中三ヶ年之間佐嘉住居
被差免被下度奉願候
右願之通被 仰付於被下は
師匠宅素友住居所一所二
私儀も右年限中同居士仕候ハヽ
彼者義も存分稽古致取
末々御用相立将又私二も
御仕組中不及飢寒通押々
取続申度彼是難有仕合
奉存候条此段宜被為聞召啓
願之通被 仰付候様深重
奉願義二御座候尤在佐嘉中
御用之節は父子共何時二而も
罷越度御座候間旁之趣
何分二も御慈恵之御吟味
被成下願之通被 仰付
被下候様宜被仰上可被下候以上
亥十月 牟田玄益
嬉野伝之助殿
江嶋金兵衛殿
一今度御廻米船為無難御祈祷
岩蔵寺へ被 仰付候料銀壱枚
十一月五日
一恵雲和尚二十五年忌二付御
茶料として金子三百疋栄
照庵江被差出候也
同 六日
十一月七日
同 八日
一東嶋杢右衛門大坂ゟ今夕下着
此節江戸文箱到着
同 九日
同 十日
一志波四郎兵衛義先達而逼塞
被 仰付置候処被差免候
一中嶋藤兵衛伜純三郎義
先達而佐嘉より逼塞被
仰付置候処被差免候旨申来
候付其段被相達候也
一高橋段右衛門溝口甚兵衛江頭
源五左衛門石橋林右衛門当春已来
於評定所被相糺候付同所へ
被差御留候処今般手形〆
二付銘々宅々江今晩ゟ被
差返候間一類中江被相預候様
惣御目附ゟ被相達候右二付無疎
様勤番可仕旨一類中ゟ手形
御目付方へ差出置被申候也
一右四人同組番之儀ハ此節より
被相止疎之儀無之様心遣
致候様被仰付候事
一国武社宵之御祭二付御当役
并寺社方役御目附其外
御祭懸合之人々出席左候而
於拝殿小謡三番高砂弓
八幡金札其末と諷方之人々
御酒拝領有り当年ゟ御省
略二付御囃子ハ被相止候也
十一月十一日
一国武社御祭朝卯之刻
一御名代 十太夫殿
御神前御祭式相済
神前的始ㇽ其末
上々様
御名代
左之通
殿様
一御参銀弐匁
御前様
一御名代 高木忠右衛門
御参銀五分 御内調
静明院様
一同 藤山宗右衛門
右同断 西岡調
於佐保様
一同 岩松藤十
右同断 浜御西調
千賀姫様
一同 平士勤
右同断 西岡調
於加殿
一同 伊東伝兵衛
右同断 西岡調
一御親類御家老中請役所
詰中出席其外懸合候役々
■追放之子孫出席有之也
其末於桜岡左之面々并
御蔵方役納戸役勘定所外御臺所役
的之人々御神酒被為拝領候
肴一種且又当年ゟ之御祭
少々御減少之廉有之委敷
御祭方帳面二有り
一月堂様御正当二付宗智寺へ之
一御代香 御家老勤
御香典白麻拾帖前方
廿帖御奉納被成候へ共諸方
御省略二付当年ゟ扣帳二
被相減候也
一右御正当二付祥光山江之
一御代香 御取次勤
御香典線香壱束
一今朝ゟ江戸大坂へ之文便
町便二而被差越候小倉まて
飛脚足軽副嶋重蔵此節
大坂江御廻米積込手形御蔵方
ゟ参候也
一江戸ゟ之文箱町便二而昨夜
到着
一永橋左馬之允出奔二付年行司
より左之通被相達候
加賀守殿家来野副伝帳内今牢人
永橋左馬之允
右之者致欠落候付御領中
探促いたし候得共不尋当由二而
手印相納筋々御聞届之上
今又隣国探促被仰付候条
一類之内誰江人柄相極来ㇽ十五日
迄之内役筋願出候様其筋々懇二
可被相達候己上
亥十一月三日 年行司
右承届候以上
中尾次郎右衛門
一右之通相達有之候付探促
願左之通一類ゟ被差出候付
西丸差越候也
願口上覚
我々一類永橋左馬之允義先達而
致出奔候付隣国探促之義
被仰達奉畏候依之小城
山内鎌原村罷有候吉次と
申者左馬允実弟之者二
御座候間右之者へ隣国探促
方之義被 仰付被下候様奉
願候此段筋々宜被仰達可被下儀
奉願候以上
亥十二月 牟田藤左衛門
野副伝
十一月十二日
同 十三日
同 十四日
同 十五日
一当日御祝儀有之
同 十六日
一永橋泰助義急二帰府有之
候付銀五枚被為拝領候御
当役被相達候
十一月十七日
同 十八日
同 十九日
一永橋泰助江戸御用一通相済
候付今朝ゟ被差立候此節江戸
大坂江御用簡参ㇽ
同 廿日
一龍章院様御三年忌御法事
於高伝寺御経営二付
殿様
一御代香 御取次勤
御香典無之
御前様
一同 大園七兵衛
御香典白麻拾帖 御内ゟ出ㇽ
静明院様
一同 御使者番勤
御香典無之
一右御法事二付
肥州様江従
御前様之御見廻御使者
西丸勤
一志波四兵衛伜儀兵衛義佐嘉ゟ
御裁許御書付相渡候右同人
為請取定警固両人差越
連来候郡方相渡候付同所二而
被相達候五郡追放御書附
罰帳二有り
一今日白山
八幡宮卯ノ日御祭二付
一御代参 西丸勤
御参銀三匁
一公儀ゟ去々酉年御触達二相成
居候御囲籾之義当亥秋
被相備置候石数左之通二丸
御届二相成候右之次第二付而ハ
此方ゟ内御届之御年数無之
而相叶間敷二付上屋敷御
留守居ゟ此御方御留守居被申談
内御届之御手数相調被申候様
二丸便之節西丸より薬王寺
一之允江注進相成候也
覚
籾三百六拾六石三斗七升五合
右之石数当亥秋相備置■【度?】
申候尤高七萬三千弐百
七拾五石之一ヶ年囲前二
御座候以上
亥十一月 中尾次郎右衛門
二丸
請役所当
十一月廿一日
一足軽共西丸蔵出年二三度二
被相定候
一桜岡蔵出月二壱度ツゝ二被定候
右之通三ヶ年御仕切中
被仰付候也
一足軽共江戸詰其外懸合米度
当秋御減穀二付而は割方
全不致出来候条上ゟ被差出
被下候様相願候付毎歳定通
ゟ左之通減を付候処拾石
壱斗五升之石高之内上ゟ
五石被差出候
元惣懸合米拾五石六斗
一江戸詰足軽拾七人
元七分ツゝ
壱人二五斗ツゝ
此懸合米八石五斗
一西丸詰壱人
元七斗
此の懸合米弐斗五升
一定警固三人
元七斗ツゝ
此懸合米壱石弐斗
一評定所定番壱人
元四斗
此懸合米弐斗
〆米拾石壱斗五升
一大坂詰表御門裏御門御茶屋
御門番懸合被相止候事
十一月廿二日
同 廿三日
同 廿四日
一法眼院様江之
一御代香 番頭勤
同 廿五日
一八月諸願
仰渡於小松間善左衛門殿江
相達候
一富岡弥一左衛門義七拾余才罷成
向以御奉公仕候体無御座付
隠居法体被相願候処右は
炮術指南方等之義も有之候
付而は老年二而大儀二は被
思召候得共此節迄は願通
二は不相叶被御差留義二候
尤外二御奉公等被
仰付儀二而は無之やはり
隠居同様二相心得専炮術
指南方之義を相心得候様
被 仰出候段弥一左衛門不快二付
伜助之進江相談役ゟ被相達候也
十一月廿六日
同 廿七日
同 廿八日
同 廿九日
十二月 朔日
一当日御祝儀有之
同 二日
一御参会例之通各方御出仕有之
一御前様今朝五時御供揃二而
祥光山玉毫寺円通寺御
堂参被遊候
一当秋より向三ヶ年御仕切中
之処蓮池鹿嶋山城殿其外
兼而御取合之御方々江歳暮
年始御取替其外御互吉
凶二付諸御進物体之義被及
御断候扨又御使者等被差出候節
何之御構も無之候右旁之趣
西丸ゟ被相達置候様先達而
同所申越二成ル
一左之人数御免地三ヶ年御預
御達之末御免地之義は只今之
形二而被差置右地面二相懸候
御年貢之義は早速上納可仕旨
願出候付当年之義は願之通
被仰付候
大戸刈
円長寺
乙柳刈
禅林寺
佐嘉足軽
山崎小左衛門
中西善次
十二月三日
一堤玄答志波四郎兵衛松本宗弥
ゟ当年ゟ三ヶ年御仕組二而
格別御減穀被 仰付反的
相続不相叶二付時鐘撞願
有之候処御吟味之上願之通
右三人へ被 仰付候尤名前
等は銘々下人之名前二而相勤
候様被相達置候
一橋本藤十江先達而御用之
大小槌立被 仰付出来立
差上候付目利被入候処数本
瑾物【傷物】を差出御道具柄之義候へは
家業としてハ瑾之有無念を
入差出候処左もなく無調法
所二付閉戸被 仰付筈ニ付
御城下市中二付左之通
書付を以二丸并町方役所へ
御届二相成候尤御当役御聞届
之上御手当二相成候様内々差図
有之候段西丸ゟ申来候
口達覚
長瀬町罷在候此方歩行
橋本藤十と申者無調法有之
閉戸被申付候義御座候御城下
市中住居仕居候者之義二付此段
御達仕候様在所ゟ申越候己上
亥十一月 中尾次郎右衛門
二丸請役附三人
一右之末今夕於寄親野副
伝宅 仰渡有之委細
罰帳二有り尚又閉戸仕様
之義は御目附日記二有り
一佐藤郷右衛門空閑平太義当秋
御廻米上乗被
仰付被下度勿論渡方等之義は
足軽並二而勤方疎之義無之様
相勤可申段相願候付願之通
被 仰付候
十二月四日
当月御祈祷今日ゟ二夜三日
岩蔵寺参上二而於小松間御執行
有之御布施其外御台所存也
同 五日
同 六日
同 七日
一富岡弥一左衛門儀病気之処追日
以之外差募快気難計体二付
被相預置候組差上有り其末
養生不相叶病死之段御届
有之
一遠岳伝右衛門義病気二而快気
難計体二付被相預置候組
差上有り其末養生不相叶
病死之段御届有之
一足軽松山忠助義大坂下目附
御門番兼帯被 仰付今度
御廻米上乗被 仰付被差越
候也
十二月九日
同 十日
一大坪七兵衛於西丸病気差出
候付当分為差次秀嶋菅三郎
被 仰付候此段御相談役より
被相達候也
同 十一日
一国武社
一御代参 御家老勤
十二月十二日
同 十三日
同 十四日
同 十五日
一当日御祝儀有之
同十六日
同十七日
同十八日
一江戸大坂ゟ町便二而文箱昨夕
到着
同十九日
同 廿日
一池田広助義御内西岡御料理
人差次被 仰付候尤歳暮
年始御規式二付而也
一左之人々江御山心遣被仰付旨
相談役被相達候
東口 村川平七
北川清八
西口 中嶋藤兵衛
蒲原平内
城戸五郎左衛門
十二月廿一日
同 廿二日
同 廿三日
一大坂へ之文箱町便二而今朝
より被差越候小倉迄飛脚
足軽牧瀬貞右衛門
一御家中一統極難二付御
扶助として銀渡被 仰付候
委細仰渡帳二有り
十二月廿四日
同 廿五日
舎仁跡式 深江平右衛門
五郎太夫跡式 納冨左馬之助
源太跡切米 小頭高田源次郎
右之通無相違被
仰付候旨御当役被相達候也
十二月廿七日
同 廿八日
一当日御祝義有之
一静明院様江従
殿様寒中為御見舞
御肴料銀壱両被進候御包
熨斗
同 廿九日
同 晦日
一橋本藤十先達而閉戸被
仰付置候処被差免候也
一鹿嶋并山城殿其外歳暮
御取替当年ゟ三ヶ年御仕切中
御断二付無之尤御祝詞之義は
西丸ゟ被相勤候事
一肥州様江従
上々様之御祝物御在府
二付江戸御屋敷二而調ㇽ
一白木弐本入御扇子一箱
右は
御前様江従
殿様
一於佐保様江は御祝詞斗
一歳暮御祝義有之
【裏側見開き】
【右帖 佐賀大学付属図書館管理印】
【左帖末尾下隅】 寛政三
【裏表紙 文字なし】
桜井伝三著
(非売品)
《題:天然痘予防注意》
《割書:兼|》種痘者之注意
《割書:附|録》(出産期日一覧表)
天然痘(てんねんとう)/予防(よぼう)/注意(ちうい)
桜 井 伝 三 稿
請(こ)フ試(こヽろみ)ニ之(これ)ヲ諸衆(しょしう)ニ問(と)ハン、諸君(しょくん)今日(こんにち)病毒(びゃうどく)ノ恐(おそ)ルベキ何(なに)ヲ以(もっ)テ最(もっと)モ甚(はなはだ)シトナスカ、
諸君(しょくん)必(かなら)ズ答(こた)フルニ虎烈刺病(これらびゃう)ニ如(し)カザルヲ以(もっ)テセン、然(しか)リ虎烈刺病(これらびゃう)最(もっと)モ恐(おそ)ル可(べ)シ、然(しか)
レドモ諸君(しょくん)、尚(な)ホ他(た)ニ更(さら)ニ之(これ)ヨリ恐(おそ)ル可(べ)キモノハ有(あら)ザルカ、諸君(しょくん)請(こ)フ彼(か)ノ天然痘(てんねんとう)ヲ
視(み)ヨ、余(われ)ハ之(これ)ヲ以(も)テ其(その)最位(さいゝ)ニ置(お)カントスルナリ、斯(か)ク言(い)ヘバ諸君(しょくん)或(あるひ)ハ余(われ)ヲ以(もっ)テ人(ひと)ヲ
欺(あざむ)クモノトナラン、余(よ)ガ言(こと)果(はた)シテ欺(あざむ)ケルカ諸君(しょくん)先(ま)ヅ静(じづ)カニ之(こ)レヲ思(おも)ヘ、固(もと)ヨリ余(われ)モ
亦(ま)タ虎烈刺病(これらびゃう)ヲ恐(おそ)レザルニ非(あ)ラズト雖(いへど)モ、伹(た)ダ虎烈刺病(これらべう)ハ尚(な)ホ之(これ)ヲ一部(いちぶの)流行病(りうこうびゃう)トモ
見做(みな)ス可(べ)キモノニシテ、若(も)シ充分(じうぶん)能(よ)ク衣食住(いしょくじう)ニ注意(ちうい)セバ、避(さ)ケテ之(これ)ヲ免(まぬか)ル能(あた)ハザル
ニ非(あ)ラズ、唯(た)ダ如何(いか)ニ空気(くうき)新鮮(しんせん)ノ地(ち)ニ在(あ)ルモ如何(いか)ニ飲料(いんりゃう)ノ清(きよき)ヲ択(えら)ブモ綺羅(きら)錦繡(きんしう)ヲ纏(まと)
フモ滋養(じよう)ノ美味(びみ)ヲ食(くら)フモ千策(ぜんさく)万方(ばんはう)逃避(とうひ)スル能(あたは)ザルハ独(ひと)リ天然痘(てんねんとう)ヲ然(しか)リトナスノミ、
古来(こらい)計算家(けいさんか)ガ為(な)シタル統計(とうけい)ニ依(よ)ルニ、種痘(しゅとう)発明(はつめい)ノ以前(いぜん)ニ在(あ)リテハ、患者(くわんじゃ)三/人(にん)ノ中(うち)必(かなら)
一
二
ズ一人(いちにん)ヲ損(そん)シ、残(のこ)リ二人ノ中(うち)尚(な)ホ其(その)一人(いちにん)ハ必(かなら)ズ廃人(はいじん)不具者(ふぐしゃ)タルヲ免(まぬ)レザルノ割合(わりあひ)ナ
リト、是(こ)レ必(かなら)ズシモ無稽(むけい)ノ妄説(ばうせつ)ニ非(あら)ザルガ如(ごと)シ、現(げん)ニ今回(こんくわい)ノ流行(りうこう)ニ際(さい)シ、我(わ)ガ前橋(まへばし)
市中(しちう)ニ於(お)ケル初発(しょはつ)(一月四日)以来(いらい)、二月廿五日/迄(まで)痘瘡(とうさう)ノ表(ひやう)ヲ示(しめ)サンニ、
患者(くわんじゃ)三十一人{《割書:天然痘(てんねんとう) 二十四人|変(へん) 痘(とう) 七 人》
伹(たヾ)シ全治(ぜんぢ)十一人、死亡(しばう)九人、現患者(げんくわんじゃ)十二人、ニシテ則(すなは)チ其(その)二十四ニ対(たい)スルノ九ハ、
正(まさ)ニ其(そ)ノ三 分(ぶん)ノ一(いつ)強(きゃう)ナルニテ、益々(ます〳〵)/前説(ぜんせつ)ノ確(かた)キヲ致(いた)セリ、今(いま)此(この)比例(ひれい)ヲ推(お)シテ仮(か)リニ
世界(せかい)ノ人口(じんこう)ヲ十/億(おく)ト見做(みな)サンカ、若(も)シ種痘(しゅとう)ノ発明(はつめい)ナク天然痘(てんねんとう)ヲシテ流行(りうこう)ヲ緃(ほしいまヽ)ニセシ
メタランニハ、十億(じうおく)ノ人口(じんこう)ハ忽(たちま)チ其ノ三/分(ぶん)ノ一(いち)則(すなは)チ三/億(おく)ヲ減却(げんきゃく)スベク、尚(な)ホ残余(ざんよ)七
億(おく)ヲ二/分(ぶん)セル三/億(おく)五千/万(まん)ハ或(あるひ)ハ廃人(はいじん)トナリ或(あるひ)ハ不具者(ふぐしゃ)トナリ眼(まなこ)ヲ失(うしな)フアリ鼻(はな)ヲ損(そん)ス
ルアリ痘痕(とうこん)満面(まんめん)に印(いん)スルアリ光(こう)散(さん)ジ沢(たく)消(せう)シ容(かたち)ヲ変(へん)ジ色(いろ)ヲ黒(くろ)フシ緃令(たとへ)其(そ)ノ以前(いぜん)ハ清絶(せいぜつ)
三秋(さんしう)ノ月(つき)ノ如(ごと)ク麗艶(れいえん)又タ二/月(げつ)ノ花(はな)ヨリモ美(び)ナル絶世(ぜっせい)ノ佳人(かじん)ナリシ者(もの)ト雖(いへど)モ玉顔(ぎょくがん)忽(たちま)チ
砕(くだ)ケテ一朝(いっちゃう)見(み)ル影(かげ)モナキ醜婦(しうふ)ト化(くわ)シ去(さ)ルアラバ為(た)メニ伉儷(こうれい)ノ適遇(てきぐう)ヲ求(もと)ムル能(あた)ハズ一(いっ)
生(せい)ヲ不快(ふくわい)ノ境涯(きゃうがい)ニ終(おは)ル者(もの)蓋(けだ)シ枚挙(まいきょ)スルニ遑(いとま)アラザル可(べ)シ、嗚呼(あヽ)是(こ)レ此(こ)ノ害毒(がいどく)ヲ流布(りうふ)
スルモノ則(すなは)チ天然痘(てんねんとう)ハ虎烈刺病(これらびゃう)ノ害毒(がいどく)ニ比(ひ)シテ尚(な)ホ之(これ)ヨリ甚(はなはだ)シキモノアルナリ、豈(あ)
ニ恐(おそ)ル可(べ)キノ最大(さいだい)一(いち)ニ非(あ)ラズヤ、
然(しか)ルニ今日(こんにち)世人(せじん)ノ天然痘(てんねんとう)恐怖(きゃうふ)スルコト虎烈刺病(これらびゃう)ノ如(ごと)クナラザルハ、倶(とも)ニ其(その)病毒(びゃうどく)ノ猛(もう)
烈(れつ)ナルニモ係(かヽ)ハラズ、一ハ其(そ)ノ伝来(でんらい)ノ近世(きんせい)ニ係(かヽ)ルト、一(いち)ハ其(そ)ノ伝来(でんらい)己(すで)ニ久(ひさ)シク、狎(な)
レテ恐(おそ)レザル習慣(しうかん)ノ勢力(せいりょく)アルニ之(こ)レ由(よ)ルノミ、
抑(そもそ)モ天然痘(でんねんとう)ノ我(わ)ガ国(くに)ニ侵来(しんらい)セルハ、遠(とほ)ク天平(てんてい)九/年(ねん)ノ昔(むかし)ニアリ、其/始(はじ)メ筑紫(つくし)ニ流行(りうこう)セ
ルヤ、世人(せじん)ノ驚愕(きゃうがく)実(じつ)ニ名状(めいじゃう)スベカラザルモノアリシナリ、書籍(しょせき)ノ載(の)スル所(ところ)、口碑(こうひ)ノ
伝(つた)フル所ロニ依(よ)リテ、之(こ)レヲ案(あん)ズルニ、当時(とうじ)粗野(そや)朦眛(もうまい)ノ俗(ぞく)疾病(しつへい)誤過罪辟(ごくわざいへき)等(とう)苟(いやしく)モ身(しん)
心(しん)ノ調和(ちょうくわ)ヲ失(うしな)ヒ、気魄(きはく)ノ迷乱(めいらん)其/常(つね)ニ非(あら)ザルモノハ皆(みな)之(これ)ヲ以(もっ)テ悪魔(あくま)ノ所為(しょい)ニ帰(き)シタル
時代(じだい)ナリシカバ、其ノ迷想(めいそう)ヲ懐(いだ)ク殊(こと)ニ甚(はなはだ)シク、浮説(ふせつ)相(あ)ヒ喧伝(けんでん)シテ自(みづ)カラ百鬼(ひゃくき)ヲ出(いだ)シ
三
四
士人(しじん)婦女子(ふじょし)相(あ)ヒ抱(いだ)ヒテ四巷(しこう)ニ哭泣(こくきう)ノ声(こへ)ヲ絶(た)タズ、不幸(ふこう)ニシテ若(も)シ天然痘(てんねんとう)ニ感染(かんせん)スル
モノアレバ恰(あだか)モ其(その)身(み)大悪魔(だいあくま)ノ憑(よ)ル所(ところ)トナリ、大不潔(だいふけつ)ヲ蒙(こふむ)ルノ思(おも)ヒヲ為(な)シ、患者(くわんじゃ)モ亦(ま)
タ懺悔(さんげ)シテ宿業(しゅくごう)ノ果(くわ)ヲ免(まぬか)レント欲(ほっ)シ、自(みづか)ラ門頭(かど)ニ赤色(せきしょく)ノ注連(しめ)ヲ張(は)リ、其(その)頭上(とうじゃう)ニ赤色(せきしょく)
ノ片布(へんふ)ヲ捲(ま)キ、以(もっ)テ他人(たにん)ヲシテ近(ちか)ヅカザラシムルノ標示(ひゃうじ)ヲナセリ、近時(きんじ)ニ至(いた)ル迄(まで)古(こ)
老(ろう)ノ痘児(とうじ)ニ被(かふむ)ラスニ赤色(せきしょく)ノ頭巾(づきん)ヲ以(もっ)テセルハ全(まった)ク此(この)習慣(しうくわん)ヲ遺(のこ)セルモノナリト云(い)フ、
又(また)以(もっ)テ古人(こじん)ノ天然痘(てんねんとう)ヲ恐怖(きゃうふ)シテ其(その)骨髄(こつずい)ニ徹(てつ)スルノ一斑(いっぱん)ヲ見(み)ルベシ、夫(そ)レ斯(かく)ノ如(ごと)ク古(こ)
人(じん)ハ天然痘(てんねんとう)ヲ恐怖(きゃうふ)セリト雖(いへど)モ、未(いま)ダ之(これ)ヲ予防(よぼう)スルノ方策(はうさく)ヲ立(た)ツルニ至(いた)ラズ当時(とうじ)ノ惨(さん)
状(じゃう)臆(おも)フニ余(あま)リアリト云(い)フベシ、
已(すで)ニシテ其(その)後(のち)(何(いづ)レノ時代(じだい)ニテアリシカ)漸(ようや)ク一法(いつはう)ヲ案出(あんしゅつ)セルモノアリ、其(そ)ハ該(がい)患者(くわんじゃ)
ノ中(うち)ニ就(つき)テ最(もっと)モ其(その)軽症(けいしゃう)ナルヲ択(えら)ビ、其(そ)ノ膿汁(のうじふ)ヲ乞ヒ採(とり)テ未痘者(みとうしゃ)ニ移種(いしゅ)スルニアリシ
モ、患者(くわんじゃ)ハ痛(いた)ク其(そ)ノ膿汁(のうじふ)ヲ取(と)ラルヽコトヲ嫌(きら)ヒシヲ以(もっ)テ、此(この)法(はう)固(もと)ヨリ予防(よぼう)普及(ふきう)ノ方(はう)
策(さく)タラザリシト雖(いへど)モ、爾來(じらい)此(こ)ノ法(はう)ニ依(よ)リ僅(わづ)カニ其(その)病毒(びゃうどく)ノ重(おも)キヲ免(まぬが)ルヽ者(もの)ハ、無上(むじゃう)ノ
幸福(こうふく)ヲ得(え)タルモノトナシ、然(しか)ラザレバ皆(みな)天(てん)ニ任(まか)シテ其(そ)ノ運命(うんめい)ヲ期(き)シ、心細(こころぼそ)クモ幾多(いくばく)
ノ歳月(さいげつ)ヲ経過(けいくわ)セリ、
然(しか)ルニ西暦(せいれき)千八百卅二年(或(あるひ)ハ云(い)フ千七百九十六年ト今(いま)姑(しばら)ク扶氏(ふし)ノ説(せつ)ニ従(したが)フ)我(わ)ガ天(てん)
保(ぽ)八年ノ頃(ころ)ニ至(いた)リ、英国(えいこく)ノ医士(いし)ジエンネル氏(し)、始(はじ)メテ牛痘(ぎうとう)ヲ採(とり)テ人類(じんるい)ニ接種(せっしゅ)スルノ
明案(めひあん)ヲ発明(はつめい)経験(けいけん)セリ、爾来(じらい)氏(し)ノ術(じゅつ)頻(しき)リニ伝播(でんぱ)シ、十三/年(ねん)ヲ経(へ)テ嘉永(かえい)ニ年ノ頃ニハ、
已(すで)ニ其/術(じゅつ)ヲ我邦(わがくに)ニ伝(つた)フルニ至(いた)レリ、今(いま)其(そ)ノ伝播(でんは)ノ事情(じじゃう)ヲ記(しる)サズト雖(いへど)モ、既(すで)ニ其(その)ノ術(じゅつ)
ノ益々(ます〳〵)伝播(でんぱ)シテ今日(こんにち)一般(いっぱん)各所(かくしょ)ニ牛痘(ぎうとう)接種(せっしゅ)ノ行(おこ)ナハルヽハ、又(ま)タ已(すで)ニ諸君(しょくん)ノ熟知(じゅくち)スル
所(ところ)ナリトス、然(しか)レドモ諸君(しょくん)或(あるひ)ハ尚(な)ホ其(そ)ノ一(いつ)ヲ知(しり)テ未(いま)ダ其(そ)ノ二ヲ知(し)ラザルモノニ似(に)タ
リ、諸君(しょくん)ノ中(なか)ニハ恰(あだか)モ一度(ひとた)ビ種痘(しゅとう)ヲ行(おこな)ヘバ、数年(すうねん)数(すう)十/年(ねん)决(けっ)シテ復(ま)タ其(そ)ノ病毒(びゃうどく)ニ感染(かんせん)
セザル物(もの)ナルガ如(ごと)ク思惟(しい)スルモノアリ、否(い)ナ十中ノ八九ハ皆(みな)是(こ)レナリト云(い)フモ誣言(ふごん)
ニ非(あら)ザルベシ、然(しか)レ𪜈【トモ】是(こ)レ誤解(ごかい)ノ甚(はなはだ)シキノミ、天然痘(てんねんとう)ト雖(いへど)モ稀(まれ)ニハ二/回(くわい)以上/感染(かんせん)ス
ルヿ【コト】アリ、况(いは)ンヤ種痘(しゅとう)ハ一再(いっさい)ニシテ止(ま)ム可(べ)キモノニアラズ、若(も)シ諸君(しょくん)ノ思惟(しい)スル所(ところ)
五
六
ニ従(したが)ヘバ、是(こ)レ風前(ふうぜん)ニ灯火(とうくわ)ヲ置(お)クガ如(ごと)シ、危矣哉(あやふいかな)又(また)危矣哉(あやういかな)、乞(こ)フ試(こヽろ)ミニ少(すこ)シク其(その)所(ゆえ)
以(ん)ヲ陳(の)ベン、諸君(しょくん)且(か)ツ暫(しばら)ク之(これ)ヲ聴(き)ケ、夫(そ)レ凡(すべ)テ病毒(びゃうどく)ノ発生(はっせい)スルヤ、多(おほ)クハ外因(ぐわいいん)ノ刺(し)
擊(げき)誘引(いういん)ニ依(よ)ルト雖(いへど)モ、又(また)内因(ないいん)ノ積(つ)ンデ感(かん)ズルニ非(あら)ザルハナシ、故(ゆへ)ニ縱令(たと)ヒ一度(いちど)ハ能(よ)
ク其(そ)ノ病毒(びゃうどく)ヲ駆余(くじょ)【「除」の誤植】スルモ、内因(ないいん)復(ま)タ久(ひさ)シク積(つ)ンデ、一旦(いったん)外因(ぐわいいん)ノ刺擊(しげき)に会(あ)ヘバ、忽(たちま)チ
還(ま)タ其(その)害毒(がいどく)ヲ逞(たくまし)フスルニ至(いた)ルハ、百種(ひゃくしゅ)伝染病(でんせんびゃう)皆(みな)然(しか)リ、譬(たと)へバ之(これ)ヲ言(い)バヽ細管(さいくわん)ヲ通(とふ)
シテ水(みづ)ヲ桶中(とうちう)ニ注(そヽ)グガ如(ごと)シ、仮令(たとひ)其(その)水量(すゐりゃう)ハ極(きは)メテ微々(びヾ)タルニモセヨ、間断(かんだん)ナク之(これ)ヲ
注瀉(ちうしゃ)スレバ終(つい)ニハ溢(あぶ)レテ水(みづ)流出(りうしゅつ)スルニ至(いた)ラン、今(いま)桶底(とうてい)ニ穴(あな)ヲ穿(うが)ヂ一度(ひとた)ビ此(こ)ノ水(みづ)ヲ迸(へい)
出(しゅつ)セシムルニ、若(も)シ復(ま)タ木栓(もくせん)ヲ採(とり)テ此(こ)ノ穴(あな)ヲ塞(ふさ)ガバ、細管(さいくわん)ノ水(みづ)復(ま)タ久(ひさ)シク積(つ)ンデ再(ふたヽ)
ビ溢(あぶ)ルヽニ至(いた)ル可(べ)シ、痘毒(とうどく)又/此(かく)ノ如(ごと)キノミ、縱(も)シ種痘(しゅとう)シテ一旦(いったん)其/毒(どく)ヲ駆除(くじょ)スルモ、
歳月(さいげつ)ノ久(ひさ)シキニ弥(わた)ラバ忽(たちま)チ復(ま)タ感能(かんのう)ノ勢力(せいりょく)ヲ新(あらた)ニスルヤ、恰(あた)カモ彼(か)ノ微々(びヾ)タル細管(さいくわん)
ノ水(みづ)再(ふたヽ)ビ溢(あぶ)ルヽニ至(いた)ルニ似(ニ)タリ、尚(な)ホ一例(いちれい)ヲ挙(あ)ゲテ之(こ)レヲ証(しゃう)センカ、茲(こヽ)ニ迂闊(うくわつ)ナル
一(いつ)農夫(のうふ)アリ、或年(あるとし)其(そ)の所有(しょいう)ノノ畑地(はたち)ニ唐芋(とういも)ヲ作(つく)リ、多分(たぶん)ノ収穫(しうくわく)アルヲ見(み)テ、翌年(よくねん)復(ま)タ
其(そ)ノ畑地(はたち)ニ里芋(さといも)ト称(しゃう)スル他(た)ノ種類(しゅるい)の芋(いも)ヲ植(う)エ附(つ)ケタリ、然(しか)ルニ秋熟(しうじゅく)ノ期(き)ハ至(いた)ルモ毫(ごう)
モ其(そ)ノ茎葉(けいよふ)ノ生長(せいちゃう)ヲ見ザリシカバ、農夫(のうふ)怪(あやし)ミテ其/畑地(はたち)ヲ穿(うが)ツニ、豈(あ)ニ図(はか)ランヤ、初(はじ)
メ植(う)エ付(つ)ケタル親芋(おやいも)は子芋(こいも)ヲ結(むす)バズシテ腐敗(ふはい)シ影(かげ)モ無(な)ク形(カタチ)モ無(な)ク悉(こと〴〵)ク皆(み)ナ消失(せうしつ)シタ
リ、是(こ)レ農夫(のうふ)ハ一旦(いったん)芋(いも)ヲ作(つく)リタル畑地(はたち)ハ数年(すうねん)ヲ経過(けいくわ)スルニ非(あら)ザレバ、再(ふたヽ)ビ芋(いも)ノ収穫(しうくわく)
ヲ望(のぞ)ムベカラザルヲ知(し)ラズシテ、此(こ)ノ失敗(しっぱい)ヲ招(まね)ギシナリ、然(しか)レ𪜈【トモ】農夫(のうふ)ガ此(こ)ノ偶然(ぐうぜん)ノ
失敗(しっぱい)ハ恰(あだか)モ能(よ)ク種痘(しゅとう)ニ依(より)テ天然痘(てんねんとう)ヲ予防(よぼう)スルノ好適例(こうてきれい)ヲ示(しめ)セリ、見(み)ヨ其(そ)ノ唐芋(とうのいも)ヲ以(もっ)
テ牛痘(ぎうとう)ニ比(ひ)セバ、其(そ)ノ里芋(さといも)ハ是(こ)レ天然痘(てんねんとう)ニ非(あら)ズヤ、又(ま)タ見(み)ヨ其(そ)ノ数年(すうねん)ヲ経過(けいくわ)セザレ
バ、再(ふたヽ)ビ同様(どうよう)ノ収穫(しうくわく)ヲ望(のぞ)ム可(べ)カラザレバ是(こ)レ一/度(ど)ノ種痘(しゅとう)ヲ以テ数(す)年ノ真痘(しんどう)ヲ予防(よぼう)シ
得(う)ルニ異(こと)ナラザルナリ、夫(そ)レ然(しか)リ然(しか)レ𪜈【トモ】一度(いちど)種痘(しゅとう)シテ夫(そ)レニテ安心(あんしん)スルヲ得(う)ベキカ、
否(い)ナ々々(〳〵)、何(なん)トナレバ光陰(くわういん)流水(りうすい)ノ如(ごと)シ、須叟(しゅゆ)ニシテ数年(すねん)ハ経過(けいくわ)スベシ、此(こ)ノ間(あいだ)充分(じうぶん)
ナル感能力(かんのうりょく)ヲ積(つ)ム、恰(あだ)カモ又(ま)タ正(まさ)ニ農夫(のうふ)ガ再(ふたヽ)ビ芋(いも)ノ収穫(しうくわく)ヲ望(のぞ)ムノ期(き)ヲ送(おく)リ来(きた)ルヿ【コト】ナ
シトナサズ、見(み)よ况(いは)ンヤ種痘(しゅとう)ハ一再(いっさい)ニシテ止(や)ム可(べ)カラザルナリ、然(しか)ルニ諸君(しょくん)之(こ)レヲ
七
八
思(おも)ハズンバ是(こ)レ諸君(しょくん)ノ為(な)ス所(ところ)風前(ふうぜん)ノ灯火(とうくわ)ニ非(あ)ラズシテ何(なん)ゾ、豈(あ)ニ危(あやう)キニ非(あら)ズヤ豈(あ)ニ
危(あやう)キニ非(あら)ズヤ、頃者(このごろ)或(ある)人(ひと)余(よ)ヲ難(なん)ジテ、曰(いは)ク、聞(き)クガ如(ごと)クンバ、天然痘(てんねんとう)ハ種痘(しゅとう)後(ご)数年(すうねん)
ヲ経過(けいくわ)スルニ非(あら)ザレハ、決(けっ)シテ感染(かんせん)スル者(もの)ニ非(あら)ズト、然(しか)ルニ余(よ)ハ接種(せっしゅ)シテ、未(いま)ダ三
年(ねん)ニ至(いた)ラズ、已(すで)ニ天然痘(てんねんとう)ノ感染(かんせん)スル所(ところ)トナレリ、種痘(しゅとう)ノ功(こう)果(はた)シテ何(いづ)クニカアル、先(せん)
生(せい)又(また)辞(ことば)アルヲ得(え)ンヤト、即(すなは)チ就(つき)テ之ヲ診(しん)スルニ、其(その)形状(けいじゃう)稍々(やヽ)尖(とが)リ痘(とう)ノ大小(だいしゃう)一様(いちよう)ナラ
ズ、是(こ)レ天然痘(てんねんとう)ニハアラズ変痘(へんとう)ト称(しゃう)スルモノニシテ、亦(ま)タ一種(いっしゅ)ノ痘質(とうしつ)ナルニハ、相(そう)
違(ゐ)ナキモ其/性(せい)至(いた)ツテ微弱(びじゃく)ナルモノナレバ、決(けっ)シテ之(これ)ガ為(た)メニ生命(せいめい)ニ関(くわん)スル等(とう)ノ虞(をそれ)ナ
キノミナラズ、平癒(へいゆ)後(ご)ニ至(いた)リ痘痕(とうこん)ヲ留(とヾ)ムルノ憂(うれ)ヒダモアルコトナシ、然(しか)レ𪜈【トモ】若(も)シ其(そ)
ノ膿汁(のうじう)ヲ採(と)ツテ之(こ)レヲ、未痘児(みとうじ)ニ感染(かんせん)セシムル時(とき)ハ、忽(タチマ)チ真痘(しんとう)ニ戻(もど)ルモノニシテ、
且(か)ツ凡(すべ)テ此(この)変痘(へんとう)ナル者(もの)ハ種痘者(しゅとうじゃ)ニ限(かぎ)リ、感染(かんせん)スル者(もの)故(ゆへ)若(も)シ嚮(さ)キニ種痘(しゅとう)セザリシナラ
ンニハ、其(その)人(ひと)ヤ実(じつ)ニ危(あや)フカリシナリ、今(いま)更(さら)ニ一例(いつれい)ヲ設(もう)ケテ真痘(しんとう)○変痘(へんとう)の関係(くわんけい)如何(いかん)ヲ
示(しめ)サントス、諸君(しょくん)請(こ)フ、試(こヽろ)ミニ一/年(ねん)其(そ)ノ畑地(はたち)ニ粟(あは)ヲ作リ見(み)ヨ、而(しか)シテ翌年(よくねん)復(ま)タ其(そ)ノ
同一(どういつ)ノ土地(とち)ニ再(ふたヽ)ビ之(これ)ヲ蒔(ま)キ附(つ)ケタル粟(あは)ハ真(しん)ノ粟(あは)ヲ生(しゃう)ゼズシテ、草粟(くさあは)ト変(かわ)ルベシ、今(いま)
復(ま)タ其(その)草粟(くさあは)ヲ採(と)リテ之(これ)ヲ他(た)ノ新地(しんち)ニ蒔(ま)キ附(つ)ケ見(み)ヨ、其(その)草粟(くさあは)ノ種(たね)ハ草粟(くさあは)ヲ生(しゃう)ゼズシテ
却(かへっ)テ又(ま)タ元(もと)ノ粟(あは)ニ復(ふく)スルヲ見(み)ルベシ、諸君(しょくん)此(この)粟(あは)ヲ以(も)テ真痘種(しんとうしゅ)ト仮定(かてい)セヨ、其/一年(いちねん)粟(あは)
ヲ作(つく)リシ土地(とち)ハ猶(な)ホ種痘(しゅとう)ヲ施(ほどこ)セシ皮膚(ひふ)ノ如(ごと)キニ非(あら)ズヤ、見(み)ヨ其(その)翌年(よくねん)草粟(くさあは)ノ生(しゃう)ゼシハ、
是(こ)レ変痘(へんとう)ニ感柴(かんせん)【「染」の誤植】セルナリ、而(しか)シテ又(また)其/草粟(くさあは)ヲ新地(しんち)ニ移(うつ)スニ、草粟(くさあは)ヲ生(しゃう)ゼズシテ却(かへっ)テ
元(もと)ノ粟(あは)ニ復(ふく)スルヲ見(み)ルハ、又(また)恰(あた)カモ是(こ)レ変痘(へんとう)ノ膿汁(のうじふ)ヲ取(とり)テ、之(こ)レヲ未痘児(みとうじ)ニ感染(かんせん)セ
シムルニ、変痘(へんとう)ヲ生(しゃう)ゼズシテ却(かへっ)テ真痘(しんとう)ニ戻(もど)ルト一般(いっぱん)ナリ、夫(そ)レ此(これ)ニ由(より)テ之(これ)ヲ看(み)レバ、
一旦(いったん)牛痘(ぎうとう)ヲ接種(せっしゅ)セルモノヘ、其(その)後(のち)数年間(すうねんかん)或(あるひ)ハ変痘(へんとう)ニ感染(かんせん)スルコトアルモ、決(けっ)シテ天(てん)
然痘(ねんとう)ニ感染(かんせん)スルノ虞(おそ)レアルコトナシ、彼(か)ノ或(ある)人(ひと)ガ非難(ひなん)セシ要点(ようてん)則(すなは)チ種痘(しゅとう)ノ功果(こうくわ)ヲ疑(うたが)
フニ至(いた)リシ事情(じじゃう)ハ今(いま)却(かへっ)テ偶々(たま〳〵)之(これ)ヲ保証(ほしゃう)スルノ事実(じじつ)トナレリ、
嗚呼(あヽ)古代(こだい)人民(じんみん)ガ恐怖(きゃうふ)シテ、大悪魔(だいあくま)トナセシ天然痘(てんねんとう)ハ今日(こんにち)種痘(しゅとう)ノ術(じゅつ)ニ依(より)テ漸(やうや)ク予防(よぼう)ノ
法(ほう)ヲ得(え)タリト雖(いへど)モ、若(も)シ少(すこ)シク之(これ)ヲ忽諸(こつしょ)ニ附(ふ)スル時(とき)ハ、忽(たちま)チ其(その)魔翼(まよく)ヲ張(は)リ、驀地(まちヽ)風(ふう)
九
十
ヲ捲(ま)キテ各(かく)天(てん)ニ獝狂(きっきゃう)シ、勢(いきほ)ヒ又(ま)タ制止(せいし)ス可(べ)カラザルニ至(いた)ル本年ノ如(ごと)キ已(すで)ニ然(しか)リ、今(いま)
新聞紙(しんぶんし)ノ報(ほう)ズルトコロヲ見(み)ルニ、「東京府下ニ流行(りうこう)スル天然痘(てんねんとう)ハ本年一月一日ヨリ二
月二十五日/迄(まで)ニ、患者(くわんじゃ)二千八百四十四人ニシテ、死亡(しぼう)ハ五百三十三/人(にん)ナリ、之(これ)ヲ去(さ)
ル廿三/年(ねん)ノ虎烈刺(これら)ニ比(ひ)スルニ、患者(くわんじゃ)ノ多(おほ)キコト四百ヲ超(こ)ヘタリ、以(もっ)テ其(その)勢(いきほひ)ノ猖獗(しゃうけつ)
ヲ知(し)ルニ足(た)ルベシ」、ト医事(いじ)ノ進歩(しんぽ)セル東京府下(とうきゃうふか)ニ於(おい)テスラ猶(な)ホ斯(かく)ノ如(ごと)シ、豈(あに)寒心(かんしん)セ
ザル可(べ)ケンヤ、夫(そ)レ此(この)時(とき)ニ当(あた)リ之(これ)ヲ防圧(ぼうあつ)スル、宜(よろ)シク各人(かくじん)ノ恊力(きゃうりょく)セザルベカラザル
所(ところ)ナリ、経済学者(けいざいがくしゃ)、或(あるひ)ハ較(やヽ)モスレバ人口(じんこう)不可増(ますべからざる)ノ説(せつ)ヲ為(な)シテ曰(いは)ク、今日(こんにち)社会(しゃくわい)ノ疲弊(ひへい)
ハ人口(じんこう)過增(くわぞう)ノ致(いた)ストコロ、若(も)シ此(こ)ノ侭(まヽ)ニ放任(はうにん)シテ数十百千万年(すうじうひゃくせんまんねん)ヲ経過(けいくわ)セバ、社会(しゃくわい)ハ
餓鬼(がき)ノ道程(どうてい)ト化(くわ)シ去(さ)ル可(べ)ク、遂(つひ)ニ人人(ひと〴〵)ヲ食(くら)フノ惨状(さんじゃう)ヲ見(み)ルニ至(いた)ラントス、疾病(しっへい)戦争(せんそう)
ハ、是(こ)レ人口(じんこう)過増(くわぞう)ノ好制裁(こうせいさい)ニシテ、又(また)社会(しゃくわい)ノ最要件(さいようけん)ナリ、天(てん)ノ時(とき)ニ疾病(しっへい)ヲ下(く)ダス、決(けっ)
シテ厭悪(えんお)スベキニアラザルナリト、此(この)説(せつ)亦(ま)タ理(り)アリ、然(しか)レドモ人類(じんるい)能(よ)ク、同胞(どうほう)ノ四(し)
辺(へん)ニ悲泣(ひきう)スルヲ聴(きヽ)テ哀(かなし)マザルヲ得(う)ルカ、況(いは)ンヤ其(そ)ノ目前(もくぜん)ニ斃死(へいし)スルヲ見(み)テ、能(よ)ク悽(せい)
然(ぜん)タラザル者(もの)アランヤ、人情(にんじゃう)已(すで)ニ然(しか)リ、豈(あ)ニ又(ま)タ此(よの)際(さい)之(こ)レガ救済(きうせい)ノ策(さく)ヲ講(こう)ゼズシテ
可(か)ナランヤ、蓋(けだ)シ其(その)策(さく)トハ何(なん)ゾ、乞(こ)フ諸君(しょくん)先(ま)ヅ余(よ)ヲシテ之(これ)ヲ述(の)ベシメヨ、払(よ)【「余」の誤植】ハ思(おも)フ
今日(こんにち)種痘(しゅとう)ノ術(じゅつ)頗(すこぶ)ル伝播(でんぱ)セザルニ非(あら)ザルモ、尚(な)ホ一/層(そう)之ガ普及(ふきう)ヲ図(はか)リ、以(もっ)テ全(まった)ク天然(てんねん)
痘(とう)ヲ予防(よぼう)シ尽(つく)スニアリト、然(しか)ラバ其(そ)ノ之(これ)ヲ為(な)ス果(はた)シテ如何(いかん)、余(よ)亦(ま)タ思(おも)フアリ一般(いっぱん)医(い)
師社会(しヽゃくわい)ヲシテ無料(むりゃう)種痘(しゅとう)ヲ以(もっ)テ他衆庶(たしうしょ)ニ対(たい)スルノ徳義(とくぎ)トナサシメ、衆人(しうじん)ハ種痘(しゅとう)ヲ怠(おこた)ラ
ザルヲ以(もっ)テ之(こ)レニ対(たい)ス、之(これ)ト同時(どうじ)ニ又(ま)タ別(べつ)ニ天然痘(てんねんとう)治療(ぢりゃう)医員(いいん)ト云(イ)フヲ設(もふ)ケテ、(《割書:是レ|啻ニ》
《割書:天然痘流行ニ際シテノミ必用ト云フニ非ズ、伝染病|流行ノ際ニハ必ズ其治療医員ヲ置クヲ宜シトス、》)特(こと)ニ天然痘(てんねんとう)患者(くわんじゃ)ノミヲ取扱(とりあつか)ハ
シメ、尋常(じんじゃう)医師(いし)ハ一切(いっせつ)痘瘡(とうそう)ノ患者(くわんじゃ)ヲ取扱(とりあつか)ハザルモノトシ、若(も)シ知(し)ラズシテ之(これ)ヲ接(せっ)ス
ルトキハ直(たヾち)ニ其(その)治療(ぢりゃう)医員(いヽん)ニ引渡(ひきわた)シ、互(たがひ)ニ其(その)徳義(とくぎ)ノ制裁(せいさい)ヲ守(まも)リテ、義務(ぎむ)ノ如(ごと)ク之(これ)ヲ信(しん)
ゼシムルニアリト、是(こ)レ尋常(じんじゃう)医師(いし)ニ在(あ)ツテハ他諸種(たしょしゅ)ノ患者(くわんじゃ)ニ接(せっ)セザル可(べ)カラザルガ
故(ゆへ)ニ、医師(いし)却(かへっ)テ感染(かんせん)ノ媒介(ばいかい)ヲ為(な)スノ虞(おそ)レアルヲ以(もっ)テナリ、抑(そもそ)モ我(わ)ガ群馬県(ぐんまけん)前橋(まへばし)地方(ちはう)
ニ於(おい)テハ去(さ)ル明治十八年一月/以來医師(いらいヽし)同盟(どうめい)シテ無料(むりゃう)ノ種痘(しゅとう)ヲ行(おこな)フ茲(こヽ)ニ七星霜(しちせいそう)ニ余(あま)レ
十一
十二
リ、余輩(わがはい)私(ひそ)カニ謂(おもへ)ラク、是(こ)レ実(じつ)ニ前橋(まへばし)医師(いし)社会(しゃくわい)ノ美挙(びきょ)ナリト、又(ま)タ私(ひそ)カニ以為(おもへ)ラク
諸人(しょじん)ハ定(さだ)メテ之(これ)ニ由(より)テ種痘(しゅとう)ニ漏(も)ルヽノ遺憾(いかん)無(な)カル可(べ)シト、何(なん)ゾ料(はか)ラン今回(こんくわい)ノ流行(リウコウ)ニ
際(さい)シ、市人(しじん)尚(な)ホ動(やヽ)モスレバ種痘(しゅとう)ヲ等閑(とうかん)ニ看過(くわんくわ)スルモノアリ、又(ま)タ動(やヽ)モスレバ之(これ)ヲ忌(き)
避(ひ)スルモノアリ、或(あるひ)ハ風邪(ふうじゃ)ノ未(いま)ダ全(まった)ク去(さ)ラザルヲ口実(こうじつ)ト為(な)シ、以(もっ)テ苟(いやしく)モ之ヲ免(まぬか)レン
ト欲(ほっ)スルモノアリ、緩(なん)【「何」の誤植】ゾ緩急(くわんきう)ヲ誤(あやま)ルモ何(なん)ゾ一(いつ)ニ斯(こヽ)ニ至(いた)ルヤ、未(いま)ダ風邪(ふうじゃ)ニ因(よっ)テ忽(たちま)チ生(せい)
命(めい)ヲ危(あや)フスルモノニアラズ況(いは)ンヤ種痘(しゅとう)ニ於(おい)テヲヤ、又タ況(いは)ンヤ痘瘡(とうさう)ハ人(ひと)ニ非(あ)ラズ、
風邪(ふうじゃ)ノ癒(い)ユルヲ待(ま)タザルヲ、然(しか)ルニ或(あ)ルモノハ亦(ま)タ説(せつ)ヲ為(な)シテ曰(いは)ク、天然痘(てんねんとう)流行(りうこう)
ノ期(き)ニ当(あたっ)テ種痘(しゅとう)スルハ、却(かへっ)テ偶(たまた)マ之(こ)レヲ誘引(いういん)シテ並発(へいはつ)スルノ虞(おそ)レアリト、是レ現(げん)ニ
種痘(しゅとう)ノ際(さい)婦女子(ふじょし)ノ往々(わう〳〵)危(あや)ブミテ問(と)フ所(ところ)ナリ、然(しか)レドモ其時(そのとき)ニ並発(へいはつ)スルコトアルハ、
已(すで)ニ天然痘(てんねんとう)ニ感染(かんせん)シツヽアルヲ知(し)ラズシテ、種痘(しゅとう)ヲ施(ほどこ)セシモノニシテ、其(その)危篤(きとく)ニ逼(せま)
ルノ原因(げんいん)、或(あるひ)ハ種痘(しゅとう)ニ在(あ)ルガ如(ごと)ク見(み)ユルモ、是(こ)レ偶然(ぐうぜん)ノヿ【コト】ノミ、豈(あ)ニ僅(きん〳〵)数点(すうてん)ノ種(しゅ)
痘(とう)誘引(いういん)シテ以(もっ)テ俄(には)カニ斯(こヽ)ニ至(いた)ルモノナランヤ、試(こヽろ)ミニ思(おもひ)見(み)ヨ火機(くわき)ノ正(まさ)ニ伏在(ふくざい)セルニ
当(あた)リ、一炬(いっきょ)ヲ投(とう)ズルモ、投(とう)ゼザルモ、之(これ)ガ為(ため)ニ火焔(くわえん)ノ勢力(せいりょく)ヲ増減(ぞうげん)スルモノニ非(あら)ザル
ヿ【コト】ヲ甚(はなはだ)シヒ哉(かな)世人(せじん)ノ迷謬(めいびう)ヲ懐(いだ)クヤ、尚(な)ホ動(やヽ)モスレバ加持祈祷(かぢきとう)ノ力(ちから)ニ依賴(いらい)シテ、天然(てんねん)
痘(とう)ヲ隠蔽(いんぺい)シ、其(そ)ノ漸(やうや)ク危篤(きとく)ナルニ至(いた)リ、親族(しんぞく)知己(ちき)ニ苦諫(くかん)セラレテ、始(はじ)メテ医師(いし)ノ門(もん)
ニ救(すくひ)ヲ求(もと)ムルモノアリト雖(いへど)モ、是(こ)レ実(じつ)ニ痴愚(ちぐ)ノ骨頂(こっちゃう)ナルノミ、医師(いし)ハ別(べつ)ニ社会(しゃくわい)ニ対(たい)
スルノ義務(ぎむ)アリ一人(いちにん)ノ為(た)メノ故(ゆへ)ニ他(た)ノ多数(たすう)ノ患者(くわんじゃ)ニ接(せっ)スル能(あた)ハザルノ不便(ふべん)ヲ感(かん)ズル
ヲ以(もっ)テ、止(や)ムヲ得(え)ズ之(こ)レヲ謝絶(しゃぜつ)スルガ故(ゆへ)ニ、治療(ぢりゃう)医員(いいん)ノ設定(せってい)ナキ今日(こんにち)看々(みす〳〵)患者(くわんじゃ)ヲシ
テ死(し)ニ至(いた)ラシムル等(とう)世間(せけん)此種(このしゅ)ノ人(ひと)未(いま)ダ以(もっ)テ少(すくな)シト為(な)サズ、嗚呼(あヽ)何(なん)ゾ嚮(さ)キニ種痘(しゅとう)セザ
リシヤ、是(こ)レ独(ひと)リ前橋(まえばし)地方(ちはう)ニ就(つき)テノミ言(い)フニ非(あら)ズト雖(いへど)モ、現(げん)ニ今回(こんくわい)各地(かくち)ニ在(あり)テ天然(てんねん)
痘(とう)ニ感染(かんせん)セル者(もの)ノ如(ごと)キハ、皆(みな)悉(こと〴〵)ク種痘(しゅとう)ヲ怠(おこた)リシニ非(あら)ザルハナカルベシ、他方(たはう)モ亦(また)
推(お)シテ知(し)ル可(べ)キノミ見(み)ル可(べ)シ今日(こんにち)天然痘(てんねんとう)治療(ぢりゃう)医員(いいん)設置(せっち)ノ必用(ひつよう)ナルコト、
夫(そ)レ種痘(しゅとう)ハ天然痘(てんねんとう)ニ対(たい)スル、唯一(いいつ)無類(むるい)ノ予防法(よばうはう)ニシテ、而(し)カモ安全(あんぜん)確実(くわくじつ)ナル予防法(よぼうはう)
ナルナリ、然(しか)ルニ此(こ)ノ安全(あんぜん)ナル予防法(よぼうはう)アルニモ係(かヽ)ハラズ、此(こ)ノ猖獗(しゃうけつ)ナル流行期(りうこうき)ニ際(さい)
十三
十四
シ、之レヲ用(もち)ヒズシテ其(その)身(み)ヲ亡(うしな)フ者(もの)ニ至(いた)ツテハ、吾輩(わがはい)実(じつ)ニ其(そ)ノ何(なん)ノ心(こヽろ)ナルヲ知(し)ルニ
苦(くるし)ムナリ、夫(そ)レ予防(よぼう)ノ方法(はうはう)斯(かく)ノ如(ごと)ク、医師(いし)ノ尽力(じゅんりょく)斯(かく)ノ如(ごと)ク、而(しか)シテ天然痘(てんねんとう)ヲ予防(よぼう)ス
ル能(あた)ハズト云(い)ハゝ其(その)咎(とが)ハ将(は)タ誰(たれ)ニ帰(き)セン、縱(よ)シ諸君(しょくん)ハ自業自得(じごうじとく)トシテ諦(あきら)メモセン、
害(がい)ヲ他人(たにん)ニ及(およ)ボスニ至(いた)ツテハ諸君(しょくん)豈(あ)ニ責任(せきにん)ノ負(お)フトコロナカランヤ、況(いは)ンヤ青春(せいしゅん)陽(よう)
和(わ)ノ天(てん)、南園(なんえん)東隄(とうてい)、花(はな)将(ま)サニ咲(わら)ハント欲(ほっ)シ、黄鳥(くわうちゃう)晴(はれ)ヲ弄(ろう)シテ、柳条(りうじゃう)篁竹(くわうちく)ニ囀(さへ)ヅル
ノ、候(こう)独(ひと)リ痘瘡(とうそう)ニ苦悩(くのう)シテ、霜庭(そうてい)月(つき)悲秋(ひしう)哀雁(あいがん)ノ感(かん)ヲ懐(いだ)クヤ、悔(く)ヒテ既往(きわう)ヲ顧(かへりみ)レバ、
平常(へいじゃう)甞(かっ)テ身(み)ニ疾病(しっぺい)ナク強壮(きょうそう)鉄(てつ)ノ如(ごと)クナルニ誇(ほこ)リシモノ、衰弱(すいじゃく)枯槁(ここう)忽(たちま)チ此(こヽ)ニ至(いた)ラント
ハ、思(おも)ヒ依(よ)ラザリシコトナルベシ、綺羅(きら)ノ無情(むじゃう)ナル誰(たれ)ガ為(た)メニ新(あらた)ナルヤ、人(ひと)ハ霞袂(かべい)
ヲ列(つら)ネテ、三春(さんしゅん)ノ行楽(こうらく)ヲ尽(つく)ス良(ま)コトニ羨(ウラヤ)ムニ堪(た)ヱタリト、此(これ)ハ是(こ)レ諸君(しょくん)ガ心中(しんちう)ノ遺(い)
憾(かん)ナラントス、若(も)シ其(その)観(しん)【「親」の誤植】戚(せき)知己(ちき)ノ心事(しんじ)ニ至(いた)ツテハ又(ま)タ更(さ)ラニ悲傷(ひしゃう)スベキモノアルナ
リ、百卉(ひゃくき)媚(こび)ヲ呈(てい)スル時(とき)人(ひと)已(すで)ニ亡(ぼう)シ、之(これ)ヲ春風(しゅんぷう)ニ問(と)へドモ寂寞(せきばく)トシテ応(こた)ヘズ、起(たち)テ庭(てい)
前(ぜん)ニ徘徊(はいかい)スレハ、李花(りくわ)雨(あめ)ヲ帯(お)ビテ愁(うれひ)ヲ含(ふく)ムガ如(ごと)ク、音容(おんよう)彷彿(はうふつ)夢(ゆめ)カ、幻(うつヽ)カ、枝上(しじゃう)喔々(あく〳〵)
ノ鳥声(ちゃうせい)何(なん)ゾ悲(かな)シキ、地辺(ちへん)離々(りヽ)ノ草(くさ)情(じゃう)偏(ひとへ)ニ繁(しげ)シ、終(つい)ニ旧趾(きうし)ニ倚(よ)ツテ惆悵(ちうちゃう)去(さ)ル能(あた)ハザ
ラントス、而(しか)シテ是(こ)レ何(なん)ノ為(た)メニ茲(こヽ)ニ至(いた)リシヤ、無料(むりゃう)種痘(しゅとう)ヲ以(もっ)テ医師(いし)社会(しゃくわい)ノ他(た)ニ対(たい)
スルノ徳義(とくぎ)ナリト信(しん)ゼシムルト、同時(どうじ)ニ諸君(しょくん)モ亦(ま)タ少(すくな)クトモ、凡(およ)ソ五ケ年/毎(ごと)ニハ必(かなら)
ズ種痘(しゅとう)スルコトヽナシ、殊(こと)ニ流行期(りうこうき)ニ際(さい)シテハ決(けっ)シテ之レヲ怠(おこ)タラザルヲ以(も)テ、一(いつ)
般(ぱん)社会(しゃくわい)ニ対(たい)スルノ義務(ぎむ)トナシ、万一(まんいち)接種(せっしゅ)スルモ感染(かんせん)セザル時(とき)ハ、年々(ねん〳〵)歳々(さい〳〵)其(その)功(こう)ヲ見(み)
ルニ至(いた)ル迄(まで)之(こ)レヲ施(ほどこ)シテ廃(はい)セザル可(ベ)シ、之(こ)レヲ要(よう)スルニ諸君(しょくん)ト医師(いし)ト協力(きゃうりょく)シテ以(も)テ
天然痘(てんねんとう)ヲ予防(よぼう)セヨト云(い)フコトナリ、縱令(たとへ)医師(いし)ノミ如何(いか)ニ尽力(じゅんりょく)スルモ、若(も)シ諸君(しょくん)ニ
シテ種痘(しゅとう)ヲ怠(おこた)ルアランカ、到底(たうてい)満足(まんぞく)ナル予防(よぼう)ノ功果(こうくわ)ヲ奏(そう)スル能(あた)ハザルナリ、昔時(せきじ)未(いま)
ダ牛痘(ぎうとう)発明(はつめい)ノアラザリシ世(よ)ハ、天然痘(てんねんとう)ハ皆(みな)襁褓(きゃうほう)ノ中(うち)ニ感染(かんせん)セシカバ、痘瘡児(ほうそうこ)々々々(〳〵〳〵)
ト呼(よ)ビ馴(な)レ来(きた)リシガ、種痘(しゅとう)ノ行(おこな)ハルヽ今日(こんにち)嬰児(えいじ)ハ皆(みな)接種(せっしゅ)スルガ故(ゆへ)ニ殆(ほと)ンド又(ま)タ絶(た)ヱ
テ痘瘡児(ほうそうッこ)ト呼(よ)ブベキモノヲ見(み)ザルモ、之(こ)レニ反(はん)シテ大人(たいじん)ハ却(かへっ)テ自然(しぜん)種痘(しゅとう)ヲ忽(ゆる)カセニ
スルノ傾向(けいきょう)アリシガ為(た)メ、近年(きんねん)ニ来(いた)リ天然痘(てんねんとう)ノ患者(くわんじゃ)ハ、小児(しゃうじ)ハ至(いた)ツテ稀(まれ)ニシテ大人(たいじん)
十五
十六
ノミ多(おほ)ク殊(こと)ニ今回(こんくわい)ノ流行(りうこう)ノ如(ごと)キハ、惨(さん)又(たた)惨(さん)ヲ極(きは)メ一家(いっか)数口(すうこう)幼児(ようじ)ヲ残(のこ)シテ皆(み)ナ其(その)襲(おそ)フ
トコロトナルモノアリ、痘瘡(ほうそう)姉(あね)、痘瘡(ほうそう)兄(あに)、阿爺(をぢ)、阿母(をば)、亦(ま)タ枕(まくら)ヲ並(なら)ベテ臥(ふ)ス、是(こ)レ
斯(こ)ノ子(こ)此(こ)ノ親(おや)ヲ失(うじな)ハヾ将(ま)サニ何(いづ)クニ適(ゆか)ントスルヤ、諸君(しょくん)夫(そ)レ此(こヽ)ニ至(いた)ツテ尚(な)ホ種痘(しゅとう)ヲ
忽(ゆるか)セニセントスル乎(か)、嗚呼(あヽ)諸君(しょくん)嗚呼(あヽ)諸君(しょくん)若(も)シ諸君(しょくん)ニシテ身(み)ヲ惜(おし)マズンバ則(すなは)チ止(や)ム、
又(また)若(も)シ慈子(じし)愛孫(あいそん)ノ不幸(ふこう)ヲ悲(かなし)マズンバ則(すなは)チ止(や)ム、苟(いやしく)モ否(しか)ラズト云(い)ハヾ盍(なん)ゾ一刻(いっこく)モ早(はや)ク
往(ゆき)テ種痘(しゅとう)ヲ施(ほどこ)サヾル、語(ご)ニ曰(いは)ク天(てん)ノ未(いま)ダ陰雨(いんう)セザルニ及(およ)ンデ牖戸(ようこ)ノ綢繆(ちうびう)ヲ怠(おこた)ル勿(なか)レ
ト、知(し)ラズ諸君(しょくん)以(もっ)テ如何(いかん)ト為(な)スヤ、
茲(こヽ)ニ尚(な)ホ一事(いちじ)種痘者(しゅとうじゃ)ニ注意(ちうい)スベキモノアリ、本来(ほんらい)種痘後(しゅとうご)ハ時々(じヾ)医師(いし)ノ診察(しんさつ)ヲ受(う)ク
ルヲ宜(よろ)シトス、然(しか)ルニ世人(せじん)ハ膿汁(のうじう)ヲ取(と)ラレンコトヲ気遣(きづか)ヒテ、又(ま)タ医師(いし)ニ診察(しんさつ)セ
シメザル者(もの)多(おほ)シ、故(ゆゑ)ニ医師(いし)ニアツテハ其(その)真痘(しんとう)ヲ生(しゃう)セシヤ変痘(へんとう)(又(また)化痘(くわとう))ヲ生(しゃう)ゼシヤ、
(種痘(しゅとう)ニ真痘(しんとう)変痘(へんとう)アリ)将(は)タ其(その)後(のち)ノ様体(ようだい)ヲ知(し)ルコト能(あた)ハズ、是(こ)レ医師(いし)ノ最(もっと)モ遺憾(いかん)ト
スルトコロナリ、何(いかん)トナレバ時(とき)トシテ其(その)丹毒(たんどく)或(あるひ)ハ腺病(せんびゃう)皮膚病(ひふびゃう)等(とう)ヲ合併(がっぺい)スル時(とき)ハ、
其(その)治療(ぢりゃう)ヲ要(よう)シ又(ま)タ機械的(きかいてき)ノ刺衝(ししゃう)(則(すなは)チ衣服(いふく)ノ摩擦(まさつ)又(また)ハ爪破(そうは)等(とう))或(あるひ)ハ他(た)ノ原因(げんいん)ニ由(より)テ
壌癢(くわいよう)セシモノ等(とう)ノ如(ごと)キハ、往々(わう〳〵)不正(ふせい)ノ経過(けいくわ)ヲ取(と)リ縱(したがっ)テ予防(よぼう)ノ効力(こうりょく)ニ疑(うたが)ハシキコト
アレバナリ、今(いま)此(こヽ)ニ牛痘(ぎうとう)ヲ接種(せっしゅ)セル者(もの)ニシテ真痘(しんとう)ヲ生(しゃう)ゼシ者(もの)、及(およ)ビ変痘(へんとう)ヲ生(しゃう)ゼシ
者(もの)ノ経過(けいくわ)ニ付(つ)キ其(その)要点(ようてん)ヲ述(の)ベン
真痘(しんとう)ハ、初種(しょしゅ)ニ在(あり)テハ初(はじ)メ第(だい)二日ノ終(おはり)或(あるひ)ハ第(だい)三日ノ初(はじめ)ニ至(いた)リ接種部(せっしゅぶ)ニ乳嘴疹状(にうしヽんじゃう)ヲ
呈(てい)シ、第(だい)三四日ニ於(おい)テ漸次(ぜんじ)水泡疹状(すいはうしんじゃう)トナリ、第(だい)六七日ニ於(おい)テ全(まった)ク水泡(すいはう)トナリ、中(ちう)
心(しん)ニ陥凹(かんおう)ヲ呈(てい)ス、第(だい)八九日ニ至(いた)リ全(まった)ク生育(せいいく)シテ真珠色(しんじゅしょく)ヲ呈(てい)シ透明(とうめい)ノ液(えき)ヲ充(み)テ中心(ちうしん)
陥凹(かんおう)著明(ちょめい)ニシテ周辺(しうへん)硬結(こうけつ)ス、第八九日ヨリ膿熱(のうねつ)ヲ起(おこ)シ痘(とう)ノ周囲(しうい)ニ赤色(せきしょく)ノ炎(えん)ヲ発(はっ)シ
尚(な)ホ一二日/間(かん)炎症(えんしゃう)増加(ぞうか)シ、第(だい)十日ニ至(いた)リ紅暈(こうヽん)消失(しゃうしつ)シ、第(だい)十四五日ニハ褐色(かっしょく)ノ痂(か)ヲ
結(むす)ビ漸次(ぜんじ)乾燥(かんそう)シテ黒色(こくしょく)トナリ、第(だい)二/十日(じうじつ)ヨリ第(だい)二十五/日(じつ)ニ落痂(らくか)シ陥凹(かんおう)シタル瘢痕(はんこん)
ヲ遺(のこ)スベシ、而(しか)シテ爰(こヽ)ニ注意(ちうい)スベキハ紅暈(こううん)著明(ちょめい)ニシテ其(そ)ノ直径(ちょくけい)二、五/乃至(ないし)七「ミリ
メートル」ニ達(たっ)シ、多少(たしゃう)全身症(ぜんしんしゃう)ヲ伴(ともな)フヲ可(か)トス、全身症(ぜんしんしゃう)ハ嬰児(えいじ)ハ幼童(ようどう)ヨリ幼童(ようどう)ハ
十七
十八
大人(たいじん)ヨリ軽(かろ)キヲ常(つね)トス、大人(たいじん)ノ初種(しょしゅ)ハ経過(けいくわ)遅延(ちえん)シテ紅暈(こうヽん)蔓延(まんえん)シ腋下腺(えきかせん)ノ腫大(しゅだい)ヲ誘(いう)
発(はつ)スルコト多(おほ)シ、或人(あるひと)ハ一/週間(しうかん)遅延(ちえん)シタル症(しゃう)ヲ目撃(もくげき)セシコトアリト云(い)フ、然(しか)レド
モ種痘(しゅとう)ノ効力(こうりょく)ニハ関(くわん)するヿ【コト】ナシ、之(こ)レニ反(はん)シテ一両日(いちりゃうじつ)経過(けいくわ)早速(そうそく)ナルコトアルモ紅(こう)
暈(うん)十分(じうぶん)発生(はっせい)スルトキハ妨(さまた)ゲナシ、但(たヾ)シ遅延症(ちえんしゃう)ヨリモ早速症(さうそくしゃう)ニハ其(その)効力(こうりょく)ニ疑(うたがい)ヲ置(お)
クベキコト多(おほ)シトス、
変痘(へんとう)ハ接種(せっしゅ)セル日(ひ)ヨリ痒味(ようみ)ヲ生(しゃう)ジ、赤色(せきしょく)乳嘴疹状(にうししんじゃう)ヲ呈(てい)シ、漸々(ぜん〳〵)腫大(しゅだい)ニシテ其(その)形(かたち)隆(りう)
起(き)シ、著(いちじる)シク水泡期(すいほうき)ト膿期(のうき)ト不規則(ふきそく)ナルモノナリ、水泡期(すいほうき)トナルヤ否(いな)ヤ化膿期(かのうき)ト
ナリ、化膿期(かのうき)トナルヤ否(いな)ヤ結痂(けっか)シ、十日/乃至(ないし)十五日ニシテ落痂(らくか)ス、之(これ)ヲ真痘(しんとう)ニ比(ひ)
スレパ殆(ほと)ンド十日/許(ばか)リ早(はや)ク、落痂(らくか)スルモノニシテ落痂後(らくかご)真痘(しんとう)ニ在(あり)テハ、癡【「瘢」の誤植】痕(はんこん)ノ周(しう)
囲(い)ニ稍々(やヽ)鋸歯状(きょしじゃう)ヲ遺(のこ)シテ長(なが)ク消滅(しゃうめつ)セザルモ、変痘(へんとう)ハ之(これ)ニ反(はん)シテ瘢痕(はんこん)平滑(へいかつ)ニシテ毫(ごう)
モ鋸歯状(きょしじゃう)ヲ遺(のこ)サヾルノミナラズ、数月(すうげつ)ヲ経過(けいくわ)スルニ従(したが)ヒ漸々(せん〳〵)消滅(しゃうめつ)シ絶(た)エテ其(その)瘢痕(はんこん)
ヲ留(とヾ)メザルニ至(いた)ル
普通(ふつう)ノ経過(ゆいくわ)【ルビ「け」の誤植】大略(たいりゃく)此(かく)ノ如(ごと)シ諸君(しょくん)能(よ)ク之(こ)レヲ注意(ちうい)セバ大(おほい)ニ参考(さんこう)トナル可(べ)キナリ
十九
一
一五四
前橋市《割書:自明治廿五年一月|至同 年十二月》痘瘡患者調査表
月別 種別 痘瘡 《割書:真|変》痘数 全治及死亡 毎
一月 真痘 一二 全治 七
死亡 五
変痘 二 同 二
同 〇
二月 真痘 一一 同 八
同 三
変痘 三 同 三
同 〇
三月 真痘 一五 同 八
同 七
変痘 六 同 六
同 〇
四月 真痘 二一 同 一二
同 九
変痘 七 同 七
同 〇
五月 真痘 三九 同 三〇
同 九
変痘 九 同 九
同 〇
六月 真痘 一六 同 一一
同 五
変痘 六 同 六
同 〇
七月 真痘 四 同 四
同 〇
変痘 一 同 一
同 〇
八月 真痘 〇 同
同
変痘 一 同 一
同 〇
九月 真痘
変痘
十月
十一月
十二月 真痘 一 全治 〇
死亡 一
変痘
合計 真痘 一一九 全治 八〇
死亡 三九
変痘 三五 同 三五
同 〇
患 者 真痘 全治 六十七人二分
百人中 死亡 三十二人八分
変痘 全治 百人
死亡 〇
前橋市《割書:自明治廿五年一月|至同 年十二月》痘瘡患者調査表
別 種別 痘瘡 《割書:真|変》痘数 全治及死亡 毎月患者数
月 真痘 一二 全治 七 一四
死亡 五
変痘 二 同 二
同 〇
月 真痘 一一 同 八 一四
同 三
変痘 三 同 三
同 〇
月 真痘 一五 同 八 二一
同 七
変痘 六 同 六
同 〇
月 真痘 二一 同 一二 二八
同 九
変痘 七 同 七
同 〇
月 真痘 三九 同 三〇 四八
同 九
変痘 九 同 九
同 〇
月 真痘 一六 同 一一 二二
同 五
変痘 六 同 六
同 〇
月 真痘 四 同 四 五
同 〇
変痘 一 同 一
同 〇
月 真痘 〇 同 一
同
変痘 一 同 一
同 〇
月 真痘
変痘
月
一月
二月 真痘 一 全治 〇 一
死亡 一
変痘
計 真痘 一一九 全治 八〇 一五四
死亡 三九
変痘 三五 同 三五
同 〇
者 真痘 全治 六十七人二分
人 中 死亡 三十二人八分
変痘 全治 百人
死亡 〇
種痘者ノ注意
桜井伝三
余(よ)数年間(すうねんかん)種痘(しゆとう)接種(せつしゆ)ヲ実験(ぢつけん)セシニ付(つ)キ、此(こゝ)ニ 其(その)注意(ちうい)ノ 概略(がいりやく)ヲ述(のべ)テ 聊(いさゝ)カ世(よ)ノ参考(さんこう)ニ供(ぎやう)
セントス
種痘(しゆとう)摂取後(せつしゆご)ハ凡(およ)ソ三 週間(しうかん)程(ほど)沐浴(もくよく)セザルヲ宜(よろし)シトス、然(しか)レドトモ【「モ」の誤植】接種後(せつしゆご)六 時間(じかん)ヲ経過(けいくわ)セ
バ夫(そ)レヨリ三日 間(かん)ハ入湯(にふとう)【ルビ「と」右横転】スルモ妨(さまたげ)ナシ、第(だい)四日 目(め)ヨリ第(だい)廿一日 目迄(めまで)ハ入浴(にうよく)セザル様(よう)
致(いた)スベシ、但(たゞ)シ半身浴(はんしんよく)ハ行(おこな)フモ妨(さまたげ)ゲ無(な)キノミナラズ、却(かえつ)テ之(こ)レヲ行( こな)【ルビ「お」脱】フヲ宜(よろ)シトス、
殊(こと)ニ小児(しやうに)婦人(ふじん)ハ、身体(しんたい)ノ不潔(ふけつ)ニ至(いた)リ易(やす)キガ故(ゆへ)ニ半身浴(はんしんよく)ヲ行(おこな)フハ最(もつと)モ必要(ひつよう)ナリ、接種(せつしゆ)
後(ご)十四五 日(にち)ヲ経(へ)テ入湯(にふとう)為(な)シ度(たき)トキハ、両手(りやうしゆ)ヲ頭上(とじやうう)【ルビ「う」衍】ニ挙(あ)ゲ種痘部(しゆとうぶ)ヲ湯(ゆ)ニ浸(ひた)サヾル様(よう)注意(ちうい)
スベシ、又(また)三 週日(しうぢつ)ヲ経過(けいくわ)セザル内(うち)ト雖(いへど)モ、両手(リやうて)ヲ湯(ゆ)ノ中(なか)ニ入(い)レ沐浴(もくよく)為(な)シ 度(たき)トキハ医師(いし)
ニ乞(こ)フテ其(その)手術(しゆじゆつ)ニヨリ痛(いた)ミヲ覚(おぼ)【ルビ「ぼ」右横転】ヘザル様(よう)痘痂(とうか)ヲ剥離(はくり)シ而(しか)ル後(のち)入浴(にうよく)スベシ、三 週后(しうご)入(にう)
湯(とう)為(な)ストキト雖(いへど)モ 痘痂(とうか)ハ爪(つめ)ニテ剥離(はくり)シテ入浴(にふよく)スベシ、蓋(けだ)シ其(その)此(かく)ノ如(ごと)ク 痘痂(とうか)ヲ湯(ゆ)ニ浸(ひた)サ
二十一
二十二
ヾル様(よう)注意(ちうい)セザレバ入湯(にふとう)ノ為(た)メニ痘痂(とうか)軟化(なんくわ)セラレテ、痘毒(とうどく)ヲ皮膚(ひふ)ニ吸収(きうしう)シ、腺病丹(せんびやうたん)
毒等(どくとう)ヲ起(おこ)スノ虞(おそれ)有レパナリ、種痘後(しゆとうご)ハ便秘(べんひ)スルヲ常(つね)トス、故(ゆへ)ニ時々(じヽ)下剤(げざい)ヲ用(もち)ユルヲ
佳(よ)シトス、何(な)ントナレバ便秘(べんぴ)スルトキ【「ト」と「キ」の合字】ハ皮膚病等(ひふびやうとう)ヲ発(こは)シ易(やす)ケレバナリ、扶氏(ふし)ハ落痂時(らくかじ)
ニハ便秘(べんぴ)セズト雖(いへど)モ亦(また)下剤(げざい)ヲ用(もち)ユルヲ佳(よ)シト説(と)ケリ、余(よ)ハ明治(めいぢ)六〇七〇八ノ三年 間(かん)ニ
凡(およ)ソ六千人ノ未痘児(みとうじ)及ビ数(すう)千人ノ再三種者(さいさんしゆしや)ヲ種痘(しゆとう)シ爾来(じらい)今日(こんにち)ニ至(いた)ル迄(まで)ニ数万人(すうまんにん)ニ接(せつ)
種(しゆ)シ経験(けいけん)セシガ、扶氏(ふし)ノ説(せつ)ノ如(ごと)ク下剤(げざい)ヲ用(もち)ユル方(かた)宜(よろ)シキナリ、是(こ)レ皮膚(ひふ)ト腸(ちやう)トハ交(こう)
感性(かんせい)ヲ有(いう)スルガ故(ゆへ)ニ腸胃(ちやうい)ニ汚物(おぶつ)ヲ鬱積(うつせき)スルトキ【「ト」と「キ」の合字】ハ皮膚ニ反応(はんおう)シ皮膚病等(ひふびやうどう)ヲ発(はつ)シ易(やす)キヲ
以(もつ)テナリ、種痘(しゆとう)経過中(けいくわちう)ハ時日(じじつ)ヲ経過(けいくわ)セル物(もの)ヲ飲食(いんしよく)スベカラズ、何(なん)トナレバ是(こ)レ血液(けつえき)
ヲ悪性(あくせい)ニ変(へん)ズルノミナラズ腸胃(ちやうい)ニ汚物(おぶつ)ヲ鬱滞(うつたい)セシメテ、諸症(しよしやう)ヲ併発(へいはつ)スルノ媒介(ばいかい)トナ
レバナリ種痘(しゆとう)経過中(けいくわちう)ハ能(よ)ク医師(いし)ノ命(めい)ニ従(したが)ヒ注意(ちうい)ニモ尚(な)ホ注意(ちうい)ヲ要(よう)スルヿ【コト】ナリ、種痘(しゆとう)
シテ感(かん)ゼシトキ【「ト」と「キ」の合字】ハ、小児(せうに)ニハ広袖口(ひろそでぐち)ヲ着用(ちやくよう)セシメヨ、大人(たいじん)ニシテ労働(らうどう)スル者(もの)ハ肉襦袢(にくじゆばん)
ヲ着用(ちやくよう)スベシ、之(こ)レヲ要(よう)スルニ爬掻(はそう)又ハ摩擦破潰(まさつはくわい)セザル様(よう)注意(ちうい)スルヿ【こと】ヲ要(よう)ス、嬰児(えいじ)
ハ出産後(しゆさんいご)六七十日ヲ経過(けいくわ)シテ初(はじ)メテ種痘(しゆとう)ヲ施(ほとこ)スヲ常(つね)トスレ𪜈【トモ】天然痘(てんねんとう)流行(りうこう)ノ際(さい)殊(こと)ニ患(くわん)
者(じや)接近(せつきん)ノ地(ち)ニ在(あ)ルトキ【「ト」と「キ」の合字】ハ六七十日ヲ経(へ)ズシテ二週間(にしうかん)以内(いない)ノ者(もの)ト雖(いへど)モ必(かなら)ズ種痘(しゆとう)ヲ施(ほどこ)スベ
シ、余(よ)ハ現(げん)ニ生後(せいご)二 週間(しうかん)ヲ経(へ)ズシテ天然痘(てんねんとう)ヲ感(かん)ゼシ者(もの)ヲ見(み)シ事(こと)アリ、是(こ)ノ例(れい)ニ依(より)テ
見(み)ルモ生后(せいご)六七十日ヲ経過(けいくわ)セザルモノ間々(まヽ)感能者(かんのうしや)アルニ因(よ)リ天然痘(てんねんとう)流行(りうこう)ノ際(さい)ハ生后(せいご)
日数(じつすう)ヲ経過(けいくわ)セズト雖(いへど)モ必(かなら)ズ速(すみやか)ニ種痘(しゆとう)スルヿ【コト】ヲ怠(おこた)ラザルベシ、天然痘(てんねんとう)流行(りうこう)セザル時(とき)
ト雖(いへど)モ、出生後(しゆつせいご)二ヶ月(げつ)以上(いじやう)八ヶ月(げつ)以内(いない)ニハ必(かなら)ズ種痘(しゆとう)スベシ、何(なん)トナレハ八(はつ)ヶ月後(げつご)ハ
生歯期(せいしき)ニ掛(かヽ)リ小児病(しやうにひやう)ヲ発(はつ)シ易(やす)キ故(ゆへ)ニ、成(なる)ベク生歯期前(せいしきぜん)ニ種痘(しゆとう)スルヿ【コト】ヲ要(よう)スルナリ、
種痘経過中(しゆとうけいくわちう)ト雖(いへど)モ平常(へいじやう)慣用(かんよう)シ来(きた)リシ食物等(しよくもつとう)ハ総(すべ)テ禁忌(きんき)スルニ及(およ)バズ、亦(また)医薬(いやく)ヲモ要(よう)
セズ、種痘(しゆとう)ノ時期(じき)ハ春秋(しゆんじう)二 季(き)ヲ以(もつ)テ最良(さいりやう)トスレ𪜈【トモ】、四季中(しきちう)何時(なんとき)種痘(しゆとう)スルモ妨(さまた)ゲアル
コトナシ、医師(いし)ガ多(おほ)ク春秋(しゆんじう)ノ二 季(き)ニ種痘(しゆとう)スルヲ以(もつ)テ、世人(せじん)ハ種痘(しゆとう)ヲ芋種痘瘡(いもだねとうそう)ナドヽ
称(しやう)シテ、医師(いし)ハ閑暇(かんか)ノ時期(じき)ニテ丁度(ちやうど)芋種(いもだね)ヲ植付(うゑつく)ル頃(ころ)種痘(しゆとう)スルガ故(ゆへ)ニ、世人(せじん)芋種(いもだね)ヲ植(うゑ)
付(つく)ル頃(ころ)種痘(しゆとう)スル者(もの)ト思(おも)ヒ、之(これ)ヲ芋種(いもだね)ニ例(たと)ヘテ芋種(いもだね)痘瘡(とうそう)ト云(いふ)ナリ、敢(あへ)テ芋種(いもだね)ヲ植付(うへつく)ル
二十三
二十四
頃(ころ)ニ限(かぎ)ルニアラズ、四季(しき)何時(なんどき)ニテモ宜(よろ)シキナリ、決(けつ)シテ種痘(しゆとう)ヲ怠(おこた)ルベカラズ
【右頁 書誌・所蔵事項】
【左頁】
桜井伝三著
(非売品)
《題:天然痘予防注意》
《割書:兼|》種痘者之注意
《割書:附|録》(出産期日一覧表)
安政五年秋のころごひゐきあつき
片岡仁左衛門ころりといへるはやり
やまひにとりつかれくすりよきうよと
てをつくせどもすこしもしるしなく
ついにむじやうのかぜにさそわれ
かないのものはもとよりきく
人たもとをしぼりける
さてなく〳〵ものべおくりの
いとなみなどしけるゆうべふしぎやこくうにおんがく
きこへしうんたなびき日ごろしんじんなす日れん大ぼさつ
あらわれたまひみみやうのおんこへあり〳〵となんじつね〴〵
しんじんのとくによつてこのたびの大なんをすくひむびやう
そくさいをまもるべしゆめ〳〵しんじんおんこへもろとも
ゆめのさめたるごとくよみがへりもとにましたるみうちの
すこやかかないのよろこび大かたならずきく人きいのおも
ひをなしぬあらありがたの
南無妙法蓮華経〳〵〳〵