【表紙】
大口喜六述
《題:豊橋市史談》
序 言
明治四十四年二月から参陽新報の付録に掲載した豊橋市談は四ケ年半の長年月
に亘つて大正四年七月に至り幸に完結した
そこで折角の長講演を其儘に放棄するのは惜い事であると云ふので今度同新聞
社に於て取纏め之を一冊子となして汎く一般に発行する計画を定めたのが此書
である
講述者たる小生に取りては寧ろ慚愧に堪へぬ次第であるが一面からは又た深く
之を喜ぶべき理由があると考へる
元来豊橋市には纏つた市史がない啻に市史がないのみならす豊橋市の歴史を知
るに足るべき書物は殆どないと云つてもよい状態であつた
之れは甚だ遺憾であると云ふのて先年豊橋市に於て市史編纂の企をなしたが市
史の編纂よりも先づ史料の蒐集が必要であると云ふ事になつた
そこで当時の市参事会は相当の計画を立てゝ市会の協賛を得其目的を進むると
同時に市史資料の展覧会なども開いたが当時此事業に対する各方面の同情は容
易ならざりしもので特に時の助役永野武三君を初め市吏員諸君は勿論田部井市
立八町高等小学校長を初め市立各学校長並に職員諸君の如きも普通勤務の余暇
を以て非常の助力を与へられたものである
又資料の所有者にしても不思議な程喜むで其提供に応じたもので寧ろ進むで資
料を提出せられた向も少くなかつたのである此の如き訳で各神社並に寺院を初
め各個人の厚意を受けたるは枚挙に遑あらざりし次第であるが就中大河内子爵
家の如き三上文学博士の如き文学士渡邊世祐君等の如き孰れも貴重なる資料の
閲覧謄写を許されたるのみならず教示を与へられた事も亦た些少でなかつた
かゝる事情によつて次第に曙光を認むるに至つたのが豊橋市市史あるから此豊
橋史談の如きも小生の手によつて成つたものには相違ないが其実は全く豊橋市
の力と之等同情者の余沢とによつて出来たので若しこれが社会に対して寸効で
もありとすれば其功績は之れ等法人又は個人の力に帰せねばならぬと考へる
勿論此史談は其初めに申述べてある如くまだ資料の調査研究中に未定稿を発表
し大方の教を請はむとしたものであるのみならず四ケ年有余に亘つてボツ〳〵
と発表したものであるから実に出物としては体をなさぬ処がある此点に当事者
たる小生が不文無識の致す処に帰せねばならぬので如何にも愧入る次第である
が只資料のあらむ限りを発表し頁数や月日に頓着なく委曲を画した点は到底再
びなし難い事業であつたと確信する
要するに豊橋市史資料の能く蒐集せられたのは或意味に於て豊橋市と之に同情
せる人々との力の塊である而して此史談は其外形こそ粗末であれ其内容に至つ
ては全く其塊から発した余迸であるに相違ない小生が茲に巳れの不文無識をも
顧みず本社が汎く発行せられて永久に保存せられむとするのを喜ぶと云ふのは
実にこの此点を思ふからである
終に望むでて小生は参陽新報社が多年克く困難と戦つて此史談を完結せしめ更に
進むで冊子として発行せられむとするの拳を感謝して止まぬものである
大正五年四月十五日蓊山楼上に於て
大 口 喜 六 識
付記
本書には印刷の際魯魚の誤をなしたものも多少あるが遺憾ながら今一々之を訂正して居る暇がない併し原稿の誤
もニ三ある間部詮房と詮勝との名を錯誤せしめたる処や吉祥院が田原一色氏の菩提所であつたのを牛久保一色氏
の菩提所であるとなしたなどは其著しきものであるこれ等は他日を俟つて詳しく訂正する考である
【右頁空白】
【左頁】
【欄外】
参陽新報五千二十一号附録 ( 大正四年七月十三日発行 )
【本文】
豊橋市史談目次
築城以前の豊橋
初めて文書に残れる豊橋 飽海の地名 幡太の地名 渡津 三河古跡考 三河の国府幷に国
司 東海道通路の変更 志香須賀の渡し 豊川宿 源頼朝上洛 東海道通路の復旧 駅家郷
今橋之地名 神領地 薑の地名 浄業院の創立 悟眞寺二世慈智上人納経 足利義教の富士
遊覧 今橋の発展程度
今橋築城と牧野古白
群雄割拠 松平氏並に戸田氏 一色城 古白の研究 今橋時代に関する史料 三河物語 家
忠日記 松平記 大三河志 牛窪密談記 寛永系図 貞享書上 寛政重修諸家譜 古白の子
孫牧野子爵家 牧野成一氏 牧野系図 古白の素性 牧野成富 成富の墳墓 福昌寺 利業
の名 古伯の古白 宗長手記 馬見塚 牧野成勝
牧野古白の戦死
古白戦死の月日 吉田城主考 光輝庵過去帳 古白非戦死説の誤謬 今川氏親攻撃説 松平
長親逆襲説 今川松平二氏矢矧川合戦 岡崎古記 妙源寺文書 古白の人物 古白平姓を称
す 古白の墳墓 戸田金七郎
牧野成三と吉田の地名
牧野成三今橋城を復す 牧野信成 鵜津山 吉田の地名 天野文書 吉田山龍拈寺
牧野信成等の戦死
牧野氏の勢力 松平清康 吉田合戦の月日 享禄二年説の有力なる証拠 古河系図戦の状
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 一
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 二
【本文】
祝 新蔵新次信成等の墳墓 信成等の戒名 龍拈寺文書
二連木城と戸田氏
戸田家系校正余録 寛正六年三河一揆 十田と戸田 宗光逝去の年月 全久院 光圀禅師
全久院と二連木城との関係 戸田憲光 戸田政光 戸田康光 戸田金七郎再び吉田城に拠る
今川義元吉田城を略取す 天野安芸守 康光竹千代を奪ふ 潮見坂 戸田堯光 田原落城
田原戸田と二連木戸田 浪の上戸田
●補遺 牧野古白の戦死に就て
今川義元と吉田
松平広忠卒去 竹千代岡崎に帰り更に駿河に質たり 吉田城代 朝比奈岡部一氏 伊東左近
将監 小原肥向守 今川義元の実績 吉田神社 石田正利 石田正治 笹踊 熊野神社 石
田鈴木両家 魚問屋 伝馬定状 東三河の形勢 山家三方 東国紀行 牧野保成 菅沼織部
正 織部新城 竹千代名を元信と命ず 元信名を元康と改む 徳川家康大高城兵糧入 桶狭
間役 家康岡崎城に帰る
桶狭間役後の情況
岡崎城代 家康氏眞を促す 石瀬合戦 家康氏眞と絶ち信長と和す 中嶋の戦 小原鉄実東
三河諸将士の質を吉田城外に惨殺す 菅沼定盈の妹 家康東條義昭を攻む 牧野貞成西尾城
を守る 荒川甲斐守 貞成牛久保に退く 野田の戦 新城の戦 五本松 月谷 西郷正勝等
の戦死 定盈野田城を復す 鳥屋根の戦 鵜殿長照戦死 信康岡崎に帰る 家康一の宮の後
詰牧野保成戦死 牛久保の諸士 稲垣平右衛門 清洲の会見 家康改名 一向専修の乱
吉田合戦
御油の戦 八幡の戦 糟塚 喜見寺 戸田宜光の卒去 戸田重貞其質を奪ふ 本多忠勝牧野
宗次郎と一番鎗を合す 城所助之丞 峰屋貞次戦死 貞次の母 吉田城明渡の年月 合戦の
結末 家康吉田城を酒井忠次に賜ふ
酒井忠次と東三河の諸士
家康が家人に城主を命ぜし濫觴 本多広孝 田原城明渡し 豊河の架橋 忠次夫人寄進の画
像 里村紹巴の富士紀行 酒井氏系図 東三河に於ける諸士 戸田忠重 戸田康長 戸田氏
輝 戸田氏光 戸田一西 牧新兵衛 牛久保に於ける牧野党 牧野成定の墳墓 牧野新次郎
康成 牧野惣次郎康成 過銭の茶壺 金扇馬標 徳川家の具足祝日 牛久保に於ける牧野氏
の家系 段峯の菅沼 長篠の菅沼 野田の菅沼 菅沼氏系図 奥平氏 深溝松平氏 竹谷松
平氏 形原松平氏 伊奈の本多氏 葵紋の説
今川氏の衰亡と武田氏の侵入
小原鉄実の素性 三浦右衛門佐 駿河国政の紊乱 武田氏侵入の径路 武田信虎 甲陽軍鑑
山本勘介の子 武田今川二氏の連合 山本勘介 信玄自立 武田北条二氏の連合 信玄の信
濃侵略 上杉謙信 川中島合戦 北条氏 北条氏綱 北条氏康 北条氏康駿河に侵入す 今
川武田北条三氏の連合 善徳寺の会盟 北条氏の関東征略 武田氏の飛騨侵略 今川義元の
西上 桶狭間の敗死 武田氏駿河を窺ふ 北条氏今川氏を助く 徳川真田二氏の盟約 武田
氏駿河に侵入す 徳川氏遠江に侵入す 北条今川二氏援を謙信に求む 信玄家康の盟約破る
家康今川氏眞と和す 信玄の退軍 北条氏駿河を占有す謙信玄小田原に侵入す 信玄駿河の
諸城を略す 信玄遠江に侵入す 武田氏の兵三河を抄掠す 家康浜松の新城に移る 姉川の
合戦 山家三方武田氏に属す 信玄吉田城に迫る 二連木合戦 信玄の西上計画 信玄北条
氏と和す 信玄と里見佐竹両氏 謙信に対する方策 足利義昭と信玄 上杉織田徳川三氏の
連合 林十右衛門景政
三方ヶ原役前後の事情
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 三
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 四
【本文】
信玄大軍を率ゐて再び遠江に入る 山縣昌景三河の北部に入る 遠江侵略 一言坂の戦 信
玄東三河に入らむとす 三方ヶ原の戦 信玄三河に入り野田城を囲む 大恩寺文書 野田城
落つ 信玄病を獲 信玄の卒去
長篠役と武田氏の滅亡
家康長篠城を復す 奥平貞能の帰降 家康長篠城を修し奥平貞昌をして之を守らしむ 高天
神城武田氏に降る 織田武田諸氏と足利将軍との関係 大賀弥四郎の叛逆 武田勝頼の侵入
二連木の戦 勝頼長篠城を包囲す 家康信康旗を野田に進む 織田信長の来援 鳥居弥右衛
門勝啇 長篠合戦 鳶巣山の襲撃 武田氏の大敗 家康三遠両国を平定す 上杉武田北条三
氏の同盟 武田氏の滅亡
松平信康の自刃並に厳龍和尚
信長の富士遊覧 信長の吉田宿営 築山殿前関口氏 信康夫人織田氏 織田氏書を父信長に
送る 厳龍和尚と大久保忠世との関係 信康と厳龍和尚
本能寺の変及び山崎役の大要
家康安土に至る 信長の勢力 家康の堺遊覧 信長の西征 本能寺の変 山崎役 光秀殺さ
る 家康の帰国
本能寺事変後の織田氏
清洲会議 信勝と信孝 勝家と秀吉 大徳寺の法会 秀吉岐阜を攻む 伊勢征伐 柳ケ瀬役
賤ケ岳 勝家亡ぶ 信孝自殺
小牧役と牧野成里
峰城 忠次桑名に陣す 犬城山陥る 忠次長可を羽黒に破る 家康塁を小牧山に構ふ 秀吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報五千三十八号附録 ( 大正四年八月三日発行 )
【本文】
犬山に至る 長久手合戦 信輝支援を率ゐて西三河に侵入せむとす 篠木柏井 木幡城 岩
崎城 丹羽氏重戦死 家康の追撃 水野支援 白山林の戦 細ケ根 檜ケ根 富士ケ根 信
輝長可等の戦死
秀吉と信雄家康の媾和
秀吉信雄の媾和 矢田河原の会見 秀吉家康媾和成る 両雄の計策 豊臣徳川二氏の婚約
豊臣氏吉田に滞在す 大政所岡崎に来る 家康の上洛 酒井忠次の意見 家康の決心
酒井忠次の退隠
惣河原の宴 家康忠次の邸に猿楽を見る 忠次の退隠 忠次薙髪して一智と号す 忠次卒す
光樹夫人の卒年月日 忠次と吉田 東観音寺文書 普門寺文書 忠次と家康 酒井家次
小田原役
真田昌幸 北条氏上洛に肯せず 秀吉昌幸をして沼田を北条氏に致さしむ 氏直約に叛く
氏政氏直天下の大勢に通ぜず 家康長丸を質とす 家次の伝令 伊奈備前守忠次 征討軍の
兵站 豊臣秀長の兵吉田に駐屯す 酒井家次の従軍 秀吉の吉田逗留 山中城陥る 韮山の
孤立 小田原包囲攻撃 関東諸城の攻略 家次の戦功 氏政等の自裁氏直高野に放たる
徳川氏の関東移封
北条氏の籠城策 家康関東に移封せらる 織田信雄信濃に放たる 家康国替の迅速 秀吉の
諸侯配置策 東参河に於ける諸将士の分封 酒井家次上州碓井に移る 江戸は三河の粋を集
めたるもの 奥羽の平定 秀吉の検地 彦坂小刑部文書
●補遺 酒井忠次夫人寄進の画像に就て
池田輝政と吉田
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 五
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 六
【本文】
池田輝政吉田に封せらる 伊木清兵衛 荒尾平左衛門 二連木廃城となる 貫高と石高 輝
政の事業 豊河の橋梁 悟眞寺の移転を企つ 城池の拡張 柳生門 豊川の治水事業 輝政
の略歴 文禄の役 督姫輝政に嫁す 妙円寺 輝政と日円
池田輝政の人物
輝政の人物 輝政の幼時 輝政の質素 輝政士を愛す 克く過を改む 租税を軽くす 輝政
の寛大 伊木清兵衛の諫言 倭舞
関ケ原役
秀吉の晩年 秀吉関白職を秀次に譲る 淀君 秀頼生る 石田三成 秀次亡ぶ 戦勝と外交
桃山城 醍醐の花見 秀吉薨去 外征の師還る 文治武断両派の軋轢 家康私に婚を約す 前
田利家 三成屏居 家康大阪の西城に入る 家康質を江戸に収む 上杉景勝城塁を修す 家
康景勝の入観を促す 家康自ら会津を征す 鳥居元忠松平家忠等伏見城に留守す 京極高次
輝政家康を吉田に饗す 輝政の従軍 家康小山に於て伏見の警報に接す 諸客将等西上に決
す 松平家乗 東軍質を吉田に集む 三成兵を挙ぐ 大谷吉継 三成関門を愛知川に設く
毛利輝元 細川忠興の妻自刃す 田辺伏見両城の攻撃 鳥居元忠等の勇戦 島津惟新伏見城
を守らむと請ふ 小早川秀秋亦た城守を請ふ 元忠家忠等の戦死 東軍の先鋒清洲城に集合す
岐阜城の攻略 輝政の戦功 織田秀信の請降 東軍の諸将赤坂に集る 家康自ら西上す 秀
忠東山道を西上す 家康の吉田通過 上田城 真田信幸 東軍諸将の謀議 株瀬川の戦 西
軍諸将敵を関ケ原に扼せむとす 東軍の進撃 桃配山 輝政南宮山の敵に備ふ 両軍の決戦
小早川秀秋の応援 西軍の不統一 佐和山城攻略 秀忠草津に着す 家康秀忠大阪城に入
る 家康自ら賞罰を行ふ 輝政姫路五十二万石に移封せらる 輝政の卒年並に墳墓 国清寺
松平家清吉田に封せらる
家康の諸侯配置法 松平玄蕃頭家清 土地の発展と藩主 竹谷の松平 家清武蔵八幡山より
吉田に移封せらる 家康征夷大将軍に任ぜらる 家康軍職を秀忠に譲る 家清卒す 松平玄
蕃頭忠清 忠清卒す 松平清昌 家清忠清の病因 慶長九年の路次賃銭定状 寛政重修諸家
譜抄録
松平忠利の移封
松平主殿助忠利 深溝の松平 大炊助好景 主殿助伊忠 主殿助家忠 父祖三代相続で主家
の為に戦死す 鐘銘事件 大阪冬の役 家康大阪出征の途次吉田に着す 軍隊供給に関する
制法 林文書 秀忠の出発 和議成る 忠利の戦功 大阪の再挙 夏の役 豊臣氏亡ぶ 庄
九郎忠一 家康薨去 秀忠辞職 家光征夷大将軍となる 秀忠の上洛 林文書 寛永と改元
利忠卒す 子忠房襲封刈屋に移さる 徳川実記の記事 秀忠東帰吉田に過る 丙辰紀行 吉
田の大橋 あつまつ道の記 城の建築 小堀遠州と忠利の親交 鍛冶町の移転 元鍛冶町
水野忠清刈屋より此地に移封せらる
水野隼人正
水野隼人正忠清松平主殿頭忠房と交代す 水野忠政 家康の実母伝通院 水野信元 水野忠
重 忠清加増 将軍家光の上洛 吉田宿泊当時の出来事 家光の帰還 寛永新銭の鋳造 松
平伊豆守信綱 吉田の駒曳 新銭町 吉田大橋の架替 忠清松本に移封せらる
水野監物
水野忠膳善吉田に封ぜらる 水野忠政 水野忠守 水野忠元 忠善岡崎に移さる 忠善の言行
明良洪庵の記事
小笠原壱岐守
小笠原忠知 小笠原長時 小笠原秀政 魚町権現社の朱印請願 家光薨去家綱継ぐ 忠知の
卒去 臨済寺 日東玄暘禅師 神宮寺の寺格 瓦町開発の覚書
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 七
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 八
【本文】
山田宗偏と小笠原忠知
山田宗偏 宗偏父 共に吉田に住す 小堀遠州に学ぶ 千宗旦の門に入る 口斉の号 宗
偏忠知に仕ふ 不審庵の号を継ぐ 利休茶道具図絵 茶道便蒙抄 宝永五年四月二日歿
茶道要録 港町神明社の庭園 呉竹の清水 宗偏自作の木像 宗偏と忠知
小笠原氏歴代と吉田の情勢
小笠原長矩 小笠原長定 小笠原長秋 長矩自写の経文 神明社の石華表 長矩卒す 小笠
原長祐 元禄時代 吉田の花火 笹踊の装束 貞享書上 市勢調査 元禄元年吉田の地図
橋梁の架替 井上通女の帰家日記 船町庄屋口上の覚 長祐卒す 小笠原長重 長重武蔵岩
槻城に移封せらる 補遺
久世出雲守
久世重之吉田に封せらる 久世広宣 久世広之 重之復■関宿に移封せらる 生類御憐み
孝子旌表
牧野備前守
牧野成春 長岡牧野家 牧野成貞 笠間牧野家 吉田の地籍図
牧野大学と其治蹟
牧野成春 寛永四年の大震災 吉田の被害数 震災の救済 造船の補助 用下水道の改修
松本信祝
土肥二三
土肥二三
【左頁】
【欄外】
参陽新報五千四十四号附録 ( 大正四年八月十日発行 )
【本文】
大河内氏と其祖先
大河内氏と吉田 大河内氏の祖先 大河内顕綱 大河内卿 吉良荘 吉良長氏 大河内政顕
長縄の大河内氏 秋池窪田杉臥蝶の大河内氏 桃井の大河内氏 大河内元網 華陽院夫人
大河内政局 大河内光綱 大河内信政 義光院 大河内貞綱 大河内善兵衛政綱 大河内基
孝 大河内信貞 金剛院 大河内秀綱 臥蝶城 秀綱家康 仕へ遠江国稗原の地を領す 秀
綱参遠両国租税の事を司る 平林寺 大河内久綱 大河内政綱 正綱長沢松平氏を継ぐ 正
綱吏務に長ず 正綱の日光殖林 松平信綱 信綱の伝記 島原役 信綱別に一家を立つ 大
多喜の大河内氏 高崎の大河内氏 大河内輝綱 輝綱の人物 泰西学芸の先覚者 大河内信
輝 大河内輝貞 信輝の書状 於種夫人 龍泉院の書翰
松平信祝と其時代
松平信祝 元禄時代 幕府財政の紊乱 六代将軍家宣 信祝古河より吉田に移封せらる 吉
田城の授受 遊佐平馬 藩士並に寺社町在への触書 信祝移封当時の地図 七代将軍家継
将軍家宣と新井白石並に間部詮勝 八代将軍吉宗 信祝大阪城代に任ぜらる 信祝浜松に移
封せらる 信祝輝貞と同時に老中に擢用せらる
信祝の人物並に事蹟の一班
信祝の日記 大河内家譜 三浦竹渓 吉田刈谷交代参観の制 吉田藩主と新居の関所 吉田
藩表日記 大橋の修繕 仮橋の廃止 河川取締の制札 参観前信祝の発せし告示
京極氏と永井局
信祝夫人京極氏 永井局本名尼崎里也 尼崎里也父の仇を復す
松平資訓と其事蹟
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 九
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 十
【本文】
松平信祝と松平資訓との交代 本庄宗資 本庄宗俊浜松に封せられ性松平を賜ふ 松平資訓
復び大河内氏と交代して浜松に封ぜらる 松平資訓在城中の事蹟 出火頻々 市中の困弊
都市と行政との関係 吉田神社の石華表 船町保存の文書類 孝子旌表
大河内氏復び吉田に転封せらる
松平伊豆守信復 天下の大勢 信復時代の吉田 謙光院
松平信復と其時代に於ける人物
信復の人格 林正森 僧教春 三河国二葉松の著者
松平伊豆守信禮
松平信禮
松平信明の幼時
松平信明の幼時 伊豆公の親和 十代将軍家治の治世 田沼意次
松平信明と白河楽翁公
松平定信 十一代将軍家斉 定信と信明 定信より信明に贈りし書簡 意次の解職 意次封
地を減ぜらる 天明の饑饉 定信信明の親交 信明の性行 定信の襟度 定信補佐職となる
信明老中に推挙せらる 寛政の政治
尊号事件と信明
尊号事件の端緒 定信の意見 尊号事件再燃 事件の落着 中山正親町二卿の東下 信明の
弁論 信明の上京 信明非礼を受けず
定信の退職
定信の退職
信明老中を辞す
信明の退職 信明の極諫 大御所問題 久田縫殿頭 久田等の専横 林述斉と信明 述斉と
書翰
信明再び老職に任ず
信明と和歌 さみだれの侍従 信明国に就く 久田立花の蟄啓 信明の復職
信明復職当時の形勢
我隻隠居 水野忠友 水野忠政 露国の使節レサノツトの来航 英艦長崎へ来る 松平康英
の憤死 深川八幡祭礼の珍事 述斉の予言
松平信明と外交関係
松本伊豆守 最上徳内 露国我が漂流民を送り来る 露国使節に信牌を与ふ 寛政九年の発
令 渡邊糺等を蝦夷に派遣す 近藤重蔵 箱松蝦深秘考 長島忠親 幕府自ら蝦夷開拓の事
を決す 本多忠籌辞職事件 松平信濃守 羽太正養の休明光記 間宮林蔵 伊能忠敬の地
図 伊能忠敬と松平信明 蝦夷奉行 露国使節レサノツト長崎に来る 露船北海に冠す 述
斉の信明に上りし意見 松前若狭守の転封 松前奉行 将軍の女浅姫を伊達政千代に嫁す
文化四年六月廿八日の対外命 幕吏露船の乗組員を擒にす 高田屋嘉兵衛 信明の対外政策
北海の警備 信明の卒去と共に政局一変す 蝦夷経営の廃止
松平信明の逸事
信明の性行に関する甲子夜話の記事 信明の仁慈 信明権威に屈せず 信明諫を容る 信明
の精力 信明の質素 信明の廉潔 文学の奨励 信明と古賀精里 寛政重諸家譜の編纂
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 十一
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 十二
【本文】
徳川実記並に朝野旧聞衰稿編纂 信明と伊能忠敬 日光山殖林 小金原の狩獲 信明の勤王
心
太田錦城と信明
太田錦城 錦城と信明 時習館 太田晴軒
信明と其城主時代に於ける吉田の情況
信明の体質 信明の葬儀 時習館の創立 信明時習館を拡張す 西岡善助 平民子弟の教育
文化十四年の触書 渡船に関する記録 領地の異動 安永八年の大火 火消組 四時庵北莱
恩田三省 佐藤南澗 服部弥助 刀工重喜
松平信順の襲職
松平信順 水野忠成の弊政 大阪城代としての信順 京都所司代としての信順 大阪入城の
絵巻 大久保忠眞 将軍家斉隠居 家慶襲職 水野忠邦の改革 渡邉崋山等の疑獄 蟄居中
の崋山 崋山の格天井 崋山の日記 家斉の薨去 矢部駿州の憤死 鳥居忠耀 忠邦の失敗
水戸斉昭の謹慎 信順の隠居 信順の卒去 信順隠居の事情
松平信順の人物並に其藩時代に於ける吉田の状況
信順の性行 山田洞雪 中山美石 公事記 大阪日記 京都日記 後撰集新抄の出版 本居
大平門人々名 鈴木土佐 鈴木陸奥 安永八年吉田大火に関する鈴木土佐の手記 山田洞雪
は横山文堂の誤 僧了願 大珍彭仙 大口三緘 四時庵北溟 孝子初蔵
松平伊豆守信宝
松平信宝 信宝卒去 信宝自書の仰渡 諸侯財政の窮状 時習館に関する触書 倹約に関す
る席触 信宝の逸事
【左頁】
【欄外】
参陽新報五千五十号附録 ( 大正四年八月十七日発行 )
【本文】
松平伊豆守信璋と其時代
松平信璋 信璋襲職当時の仰渡書 外交問題の紛糾 尊王攘夷論の勃興 水野忠邦の復職と
罷免 信璋卒去 藩の財政内情 封事を徴す 太田晴軒 金子荊山 村井楽所 川西士龍
山田洞雪 山田香雪 恩田石峯 吉田名蹝踪録の著 佐藤大寛 福谷水竹 鈴木三岳 鈴木吉
兵衛 柴田猪助の米価記 弘化嘉永間の吉田の人口
●正誤
松平信古の襲職
信古襲職後に於ける天下の形勢 米国使節リペー【ペリーの誤り】の来航 ペリー来航以前に於ける外交問題
の概要 ペリーの出発 ペリー琉球に至る ペリー浦賀湾に投錨す 与力中島三郎助 浦賀
湾頭の光景 久里浜の会見 幕府当局者と水戸斉昭 将軍家慶の薨去 世子家定の襲職
外交問題と吉田
和田肇 西村治右衛門 西岡翠園 児島閑牕 諸侯諸士等の建議 露国使節の来航 ペリー
の再航 神奈川条約の締結 英艦の来航 英国と協約成る 露使の再航 日露条約成る 外
船渡来が及ぼせる影響 江川太郎左衛門 高嶋秋帆 観光丸 海軍制設の端緒 講武所 彦
坂菊作 福谷啓吉 初期の海軍伝習生 咸臨丸の遠洋航海 福谷啓吉の渡米 穂積清軒 蘭
医坪井信道 村田蔵六 高畑五郎
攘夷論の勃興
外交と内治の紛糾 斉昭と伊賀守等の衝突 溜間詰諸侯の反抗 堀田備中守再び閣老となる
開国攘夷二党軋轢の原因 ハリスの来着 ハリスの要求 ハリスの登城謁見 列侯の異論
尾水両藩の態度 阿部伊勢守の卒去 斉昭の京都手入 蘭露両国と追加条約を締結す 藩書
調所の応接 諸侯の意見 外交に関し勅許を奏請すべしとの議起る 光圀の大日本史と山陽
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 十三
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 十四
【本文】
の日本外史 幕末勢力の推移 斉昭の放言 朝議幕府を詰責す 堀田閣老の上京 将軍継嗣
問題の紛糾 一橋派と南紀派の確執 松平慶永の奔走 井伊直弼と南紀派 志士の京都入説
王室家 堀田閣老等の入京 朝議幕府をして再び諸侯の意見を徴せしめむとす 条約締結に
関する勅答 堀田閣老の帰東 南紀派と一橋派との軋轢 井伊掃部頭
井伊掃部頭の執政
松平伊賀守と井伊大老 井伊大老の果断 建儲の発表 各国軍艦の沓至 幕議条約に調印せ
むとす 堀田備中守松平伊賀守の免職 間部詮勝等老中となる 田安一橋両卿の大老を面折
す 水戸斉昭尾張慶怒の不時登城 紀伊慶福将軍の世子として発表せらる 水戸尾張越前の
厳譴
戊午の大獄と小野湖山
間部詮勝の上京 将軍家定薨去 水戸並に幕府に勅諚を下賜せらる 梅田源次郎等の奔走
幕府と水戸藩との乖離益甚しきを加ふ 九条関白の辞職 井伊大老等閣中の決心 梅田源次
郎の捕縛 幕府斉昭を朝廷に弾劾す 主膳下総守に会す 鵜飼父子の捕縛 下総守の入京
志士続々捕縛せらる 九条公の復職 連累者東送せらる 攘夷猶予の朝旨下る 下総守の帰
府 連累者の鞠間と其処罰 小野湖山 湖山の幽閉 吉田藩の青年と湖山 湖山時習館に教
鞭を執る
吉田に於ける国学者と羽田野敬雄
吉田に於ける国学者 岩上登波子 羽田野敬雄 敬雄と平田篤胤 佐野蓬宇 敬雄と志士
湖山と敬雄との交通 楠公の祭祀 湖南拙庵 三河古蹟考の著 逢宇の日記
●補正 小野湖山に就て
桜田門外の変
別勅奉還事件の紛擾 桜田門外の変 松平信古寺社奉行に任ず
井伊大老遭害後に於ける天下の大勢並に信古の
大阪坂城代就任
安藤対馬守信正 和宮の降嫁 水戸斉昭の薨去 薩長ニ藩漸く勢力を張る 坂下門外の変
勅使大原三位並に島津久光等の東下 慶喜後見職となり慶永政事総裁となる 信古大坂城代
に任ず 児島閑牕の御内命請書 信古の人材登用 慶喜慶永等大に幕政を改革せむとす
●補遺 羽田野敬雄に就て
攘夷党の極盛と其蹉跌
勅使再東下 山内容堂の斡旋 長藩の公武合体論と尊王攘夷論 薩長二藩の不和 井伊間部
等の処罰 三職並に国事会議所の設置 浪士の暴行 松平容保京都守護職に任ず 新微組並
に壬生浪士 将軍家茂の上洛 慶永将軍を説く 慶永私かに国に就く 将軍吉田通過の日記
倒幕の計画漸く行はれんとす 開港論者と攘夷論者の種類 加茂並に男山行幸 将軍遂に攘
夷期限を奏上す 慶喜の東下 将軍大阪城に入り更に摂海を巡視す 生麦事件と小笠原図書
頭 将軍の東帰 急激派の蹉跌 文久三年八月十八日の政変 長藩の京師引き払ひ 七卿の
長州落 生野の挙兵 武田耕雲斎 元治と改元す 薩藩の意向 長藩士の入京 西郷隆盛の
卓見 蛤門の戦闘
大阪在府中の吉田藩と山本速夫
信古大阪に着す 攘夷の布告 幕府の指命と朝議との齟齬 松平相模守抗弁 八月十八日の
政変に関する通知書 十津川事件の報告 山本速夫 速男の脱藩 能勢辰蔵 坂部大作 森
暁助 物価高騰 心覚記
大阪坂城代の交代及び其後の形勢
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 十五
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 十六
【本文】
第一回長州征伐 信古の大阪城代交代 信古刑部大輔と改称 信古溜の間詰を命ぜらる 各
国軍艦摂海に入航す 朝廷阿部松前両閣老を罷免せらる 将軍家茂辞表を呈出す 長州再征
の挙 将軍家茂薨去 慶喜将軍に任ず
薩長二藩の連合
長州再征の止戦 幕長の消長と外交の関係 薩長二藩の連和成る
王政復古と吉田藩
孝明天皇の崩御 岩倉西郷等の計画 薩長芸三藩の大同盟 土佐藩の建白 大政の奉還 討
幕の密勅 徳川氏に対する処分 慶喜大阪城に退く 江戸に於ける薩邸の攻撃 慶喜上洛せ
んとす 伏見鳥羽の戦 慶喜海路江戸に皈る 吉田藩の動静 児島閑牕の意見書 穂積清軒
幕府の翻訳方に任ぜらる 清軒の建白書 清軒致堂の邂逅 致堂の出府に就ての詩 清軒洋
学塾を開く 清軒の帰藩 信古の下阪 君前会議の激論 信古亦た竊【蜜】に大阪を脱して吉田に
帰る 児島閑牕の夢物語 信古長岡侯と共に吉田城に入る 藩論帰順に決す 荒井関所に関
する問題 東征大総督宮任命 山本速夫の斡旋
●補正
吉田藩東征総督府総軍兵糧並に輺重方を命ぜらる 吉田藩の従軍者 先鋒の東上 大総督府
の模様 総督府の駿府出発 兵食規則の改正 信古の西上 大阪親征 勝安房と西郷隆盛
江戸城の落着 彰義隊 彰義隊と藩邸 穂積児島等の厄 大総督宮江戸城に入る
吉田藩の大多喜出陣
吉田藩の大多喜出陣 楠光院の賊徒戦闘 猪俣一二三
●補正
三河国裁判所の開始
【左頁】
【欄外】
参陽新報五千五十六号附録 ( 大正四年八月二十四日発行 )
【本文】
三職七科の制 太政官代を置かる 三職八局の制 徴士貢士 山本速夫の帰藩 三河裁判所
の設置 平松甲斐権介 山本速夫権判事に任ず 三河裁判所の廃止と三政分掌の制 府
の地方三治 三河県の設置 藩知職制
車駕東幸と小野湖山の任官
江戸を改めて東京とす 年号を明治と改む 車駕東幸 吉田駐輦 木戸孝允と小野湖山の会
見 小野湖山徴士として召る 小野湖山権弁事に任ぜらる 大総督府付の吉田藩士人名
大総督廃止 車駕西還 車駕再び東京に行幸 小野湖山の辞職 羽田野栄木の任官
孝子旌表
孝子旌表 呉服町の七孝子安藤吉太郎の一家 中村しきの旌表 藩主信古羽田野栄木の家に
吉田の孝子を召す 孝子紋次郎与之助 鈴木虎吉
版籍奉還と地名の改称
版籍奉還の議起る 戊辰己巳の功績により大河内信古に賞詞を賜ふ 吉田の地名改称 改
の原因並に豊橋の地名
廃藩置県
廃藩置県 額田県の設立 照憲皇太后陛下御駐輦 本市史談は廃藩置県を以て一段落となす
信古が藩主時代に於ける吉田の人物
西村治右衛門 児島閑牕 穂積清軒 小野湖山 羽田野栄木 佐野蓬宇 福谷啓吉 山本速
夫 信古時代に於ける漢学者 中山繁樹 中村清行 鈴木玄仲 豊橋の三医 森暁助 坂部
大作 能勢辰蔵 福島献吉 橋本弘道 佐藤白磷 佐藤梅隣 稲田文笠 稲田文萊 原田圭
岳 榊原翠塘 山田永豊 松坂秀峯 金子竹四郎 金子荊山 山田太古 福谷水竹
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 十七
【欄外】
豊橋市史談 (豊橋市史談目次) 十八
【本文】
吉田藩制の大要
大河内家時代の職制 役扶持 各部の機関 藩士人名 伝馬役と平役 年寄と庄屋 御用達
本陣 租税 吉田の戸数 伝馬の賦課法 年貢地と町地 伝馬賃銭の定 運上 司法制度
吉田藩の学風 平民の教育 武道指南役 蔵米の取扱 商工業に対する政策 魚問屋 前芝
村の漁業 造船の補助 番中 米穀取引所 旧豊橋藩封土調
●補正
市勢の変遷
飽海時代 街道が豊川宿に移した時代 今橋時代 築城以後の状況 正行寺悟眞寺の寺院続
々建立せせらる 装遊橋 改元紀行
豊橋市史談の終了に方りて
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千六百七十六号附録 ( 明治四十四年二月七日発行 )
【本文】
豊橋市史談
本市史談は豊橋市長大口喜六氏が特に本社の為め講述せられたるものを筆記し同氏の厳密なる校訂を経て之を印刷に附し普く
本紙の受講者に領たんとするものなり
私(わたくし)が近来市(きんらいし)の事業(じげう)として調査(てうさ)しつゝある豊橋市史(とよはしゝ)の事(こと)に就(つい)ては其幾分(そのいくぶん)なりとも発表(はつぺう)して貰(もら)ひたいと
望(のぞ)む人(ひと)が多(おほ)く既(すで)に各地(かくち)の或(あ)る新聞記者(しんぶんきしや)諸氏(しよし)から其要求(そのようきう)があつたが尚(なほ)調査中(てうさちう)に属(ぞく)して居(を)るので公(おほやけ)にす
るの機(き)が熟(じゆく)しないと共(とも)に之(これ)を憚(はゞ)かつたのである然(しか)し追々(おひ〳〵)調査(てうさ)の進行(しんこう)するに従(したが)ひ今(いま)は未定稿(みていこう)ながら之(これ)を
発表(はつぺう)して広(ひろ)く世(よ)の識者(しきしや)に問(と)ひ其教(そのおしへ)を請(こ)ふのが利益(りえき)であると云(い)ふ考(かんがへ)から自分(じぶん)が信(しん)じて居(お)る所(ところ)だけを漸次(ぜんじ)
御話(おはな)しする事(こと)と致(いた)すのである。
⦿築城以前の豊橋
豊橋(とよはし)の地(ち)は昔(むかし)吉田(よしだ)と称(せう)したので即(すなは)ち今(いま)の豊橋(とよはし)と改称(かいせう)するに至(いた)つたのは明治(めいじ)二 年(ねん)の事(こと)である、 吉田(よしだ)以前(いぜん)
は今橋(いまはし)と呼(よ)ばれた尚(なほ)其(その)以前(いぜん)にも飽海(あくみ)と云(い)ふ地名(ちめい)があつたのは明(あき)らかな事実(じじつ)である、 而(しか)して此(この)地方(ちほう)には
貝塚(かいつか)を初(はじ)め石器時代(せつきじだい)の遺跡(ゐせき)幷(ならび)に多数(たすう)の古墳(こふんが)があつて数多(あまた)の遺物(いぶつ)を発見(はつけん)する処(ところ)より見(み)れば余程(よほど)古(ふる)き時代(じだい)
に於(おい)て既(すで)に之等(これら)の遺物(ゐぶつ)に関係(かんけい)ある人々(ひと〳〵)が住居(ぢうきよ)して居(を)つた事実(じじつ)が分(わか)るが此(この)研究(けんきう)は所謂(いはゆる)考古学(こうこがく)の範囲(はんゐ)に属(ぞく)
する事(こと)と思(おも)ふから今度(このたび)の調査(てうさ)には加(くは)えぬのである、ソコデ此地方(このちほう)の事柄(ことがら)が最(もつと)も古(ふる)く確実(かくじつ)なる文書(ぶんしよ)に残(のこ)
《割書:初めて文書|に残れる豊》 つて居(を)るのは私(わたくし)の信ずる処(ところ)によれば類聚(るいしう)三 代格(だいかく)に載(の)せられてある太政官符(だじようくわんふ)であると思(おも)ふ、 此書(このしよ)は藤原(ふぢはら)
《割書:橋》 冬嗣(ふゆつぐ)等(とう)が勅(ちよく)を奉(ほう)じて撰(えら)んだ弘仁格(こうにんかく)十 巻(かん)と藤原氏宗(ふぢはらうぢむね)等(とう)の勅撰(ちよくせん)にかゝる貞観格(じようかんかく)十二 巻(かん)と藤原時平(ふぢはらときひら)等(とう)の勅撰(ちよくせん)
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 一
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 二
【本文】
延喜格(えんきかく)十二 巻(かん)此(こ)の三 代(だい)の格(かく)を聚(あつ)めて之(これ)を各部類(かくぶるい)々々に区分(くわ)けをした所謂(いはゆる)類聚(るいしう)である、 此(こ)の三十四 巻中(かんちう)
年(とし)を経(ふ)るに従(したがつ)て湮滅(えんめつ)した処(ところ)があつて全部(ぜんぶ)は現存(げんぞん)して居(ゐ)ないが近年(きんねん)経済(けいざい)雑誌社(ざつししや)に於(おい)て出版(しゆつぱん)した国史(こくし)大系(だいけい)
本(ほん)の内(うち)には二十 冊(さつ)丈(だ)け納(おさ)められて居(を)る、 而(しか)して格(かく)とは何(なん)ぞやと云(い)ふに、律令(りつれい)を政府(せいふ)か出(だ)した後(のち)詔勅官(せうちよくかん)
符(ふ)を以(もつ)て律令(りつれい)の定法(ていほう)を改(あらた)め或(あるひ)は臨時(りんじ)の新制(しんせい)を設(もう)けたる類(るい)を彙集(ゐしう)したものである事(こと)は詳(くは)しく云(い)はずとも
既(すで)に諸君(しよくん)も知(し)らるゝ事(こと)と思(おも)ふ、此(この)類聚(るいしう)三 代格(だいかく)の中(うち)に船瀬(ふなせ)幷(ならび)に浮橋(うきはし)布施屋事(ふせやこと)と書(か)いた部類(ぶるい)がある、 浮橋(うきはし)
とは勿論(もちろん)橋梁(けうれう)の事(こと)で、 船瀬(ふなせ)は渡船(とせん)、 布施屋(ふせや)は一 般通行人(ぱんつうこうにん)が無代価(むだいか)で宿泊(しゆくはく)する事(こと)の出来(でき)る官立(かくりつ)の宿舎(しゆくしや)と
云(い)ふ様(よう)な性質(せいしつ)のもので渡船(とせん)のある辺(ほとり)に多(おほ)く設(もう)けられたのである、 其部類(そのぶるい)に承和(せうわ)二 年(ねん)(今(いま)を去(さ)る一千七
十七年)六月二十九日に発布(はつぷ)せられた太政官符(だじようくわんふ)が載(の)つて居(を)る、 而(しか)して其文中(そのぶんちう)に
加増渡船(かぞうとせん)十六 艘(そう) (中略)三河国(みかはのくに)飽海(あくみ)矢作(やはぎ)両河(れうが)各(かく)四 艘(そう)
と書(説説か)いてあつて其次(そのつぎ)に左(さ)の意味(いみ)の事(こと)が記(しる)されてある即(すなは)ち右(みぎ)の河(かは)は岸(きし)が広(ひろ)くして到底(たうてい)架橋(かけう)する事(こと)か不可(ふか)
能(のふ)である因(よつ)て其(その)渡船(とせん)を増(ま)すのである 、聞(き)く処(ところ)によれば此河(このかは)は東海道(とうかいどう)枢要(すうよう)の地点(ちてん)に該当(がいとう)して居(を)るのに橋(けう)
梁(れう)の設備(せつび)がなく之迄(これまで)渡船(とせん)が少(すくな)いので貢物(みつぎもの)を運搬(うんぱん)する人夫等(にんぷら)が何(いづ)れも河辺(かわべ)に寄(よ)り集(つど)い日(ひ)を累(かさ)ね旬(じゆん)を経(ふ)る
も渡(わた)る事(こと)が出来(でき)ぬ遂(つひ)には喧嘩口論(けんくわこうろん)が起(おこ)り貢物(みつぎもの)は流失(りうしつ)する動(やゝ)もすれば人命(じんめい)迄(まで)をも害(がい)する等(とう)の事(こと)があつて
宜敷(よろし)くない故(ゆへ)に国司(こくじ)初(はじ)め注意(ちうゐ)して此事(このこと)なきを期(き)せよと先(ま)づコウ云(い)ふ意味(ゐみ)である、 此記事(このきじ)から考(かんが)えて見(み)
るも今(いま)の豊橋(とよはし)の地(ち)は千 余年以前(よねんいぜん)の当時(たうじ)東海道枢要(とうかいどうすうよう)の場所(ばしよ)で河幅(かははゞ)は余程(よほど)広(ひろ)かつたものと思(おも)はるゝが今(いま)の
豊河(とよかは)に当(あた)るべきものが其頃(そのころ)飽海河(あくみかは)と云(い)つたものと信(しん)せらるゝ、 又(ま)た和名類聚抄(わめうるいしうしょう)と云(い)ふ書物(しよもつ)があるが之(こ)
れも諸君(しよくん)が既(すで)に知(し)つて居(を)らるゝ事(こと)であらう、 彼(か)の源順(みなもとのじゆん)と云(い)ふ人(ひと)の選(えら)んだもので延長年間(えんてうねんかん)の著述(ちよじゆつ)だ
と伝(つた)えられて居(を)る果(はた)して然(しか)りとすれば今(いま)を去(さ)ること九百八十 余年前(よねんぜん)である、 此書物(このしよもつ)の中(うち)の渥美郡(あつみごほり)の条(くだり)に
飽海の地名 郷名(ごうな)が列記(れつき)されてあるが其中(そのうち)に渥美(あくみ)(阿久美(あくみ))と云(い)ふ名(な)がある、 之(こ)れは即(すなは)ち類聚(るいしう)三 代格(だいかく)飽海河(あくみかは)とある飽(あく)
海(み)の名(な)に一 致(ち)するものと云(い)ふてよかろう、 今(いま)も尚(な)ほ豊橋市内(とよはししない)の字名(あざな)に飽海(あくみ)と云(い)ふのが残(のこ)つて居(を)るのは
幡太の地名 実(じつ)に其(その)名残(なごり)として面白(おもしろ)い事(こと)ではあるまいか、 又(また)仝書仝条(どうしよどうでう)の中(うち)に幡太(はだ)と云(い)ふち地名(ちめい)が記(しる)されてあるが之(これ)は
果(はた)して現在(げんざい)豊橋市(とよはしし)大字花田(おほあざはなだ)にある羽田(はだ)の地名(ちめい)に相当(さうとう)するや否疑問(いなぎもん)ではあるが羽田野敬雄翁(はだのたかををう)が考証(こうせう)せら
れた処(ところ)に依(よ)れば矢張(やはり)古(いにしへ)の幡太(はだ)は今(いま)の羽田(はだ)だとしてある、 又(ま)た近来(きんらい)吉田東伍氏著(よしだとうごしちよ)の地名辞書(ちめいじしよ)にも其通(そのとほ)
り認(したゝ)められて居(を)る、 或(あるひ)は奥郡(おくごほり)の福江町(ふくえてう)にも畠(はた)と云(い)ふ地名(ちめい)がある又(また)秦氏(はだうぢ)に因(ちな)むだ処(ところ)が外(ほか)にあるであろう
などの説(せつ)がないではないが之(これ)に就(つい)ては私(わたくし)は羽田野翁(はだのをう)の説(せつ)に従(したが)ふものである、 而(しか)して仝(おな)じ和名類聚抄(わめうるいしうしょう)の
渡津 宝飯郡(ほゐごほり)の条(でう)に渡津(わたんづ)(和多無都(わたむつ))と云(い)ふ地名(ちめい)がある此(この)渡津(わたんづ)と云(い)ふ処(ところ)が飽海(あくみ)と相対(あひたい)して河(かは)の両岸(れうがん)に当(あた)り其間(そのあひだ)
に渡船(とせん)したものであることは事実(じじつ)である、 而(しか)して渡津(わたんづ)と云(い)ふ処(ところ)は今(いま)の何処(どこ)に当(あた)るかと云(い)ふに小坂井(こさかゐ)以南(いなん)
平井前芝(ひらゐまへしば)の辺迄(へんまで)に亘(わた)り西(にし)は旧宿村(きうしゆくむら)の辺迄(へんまで)を称(せう)したものゝ様(よう)であるが応安(おうあん)三 年(ねん)元小坂井村(もとこさかゐむら)兎足神社(うかるじんしや)の洪(つり)
鐘(がね)にも矢張(やはり)渡津郷(わたんづごう)と書(か)いてあるのである、 又(また)牟呂(むろ)にも渡船場(とせんば)があつて渡津(わたんづ)から渡(わた)つたものだとの事(こと)が
伝(つた)はつて居(を)るが或(あるひ)はそれもあつたであらう、 併(しか)し東海道(とうかいどう)の本線(ほんせん)ではなかつたものに相違(さうゐ)ない。
一千 年以前(ねんいぜん)の豊橋(とよはし)の状態(ぜうたい)は以上(いぜう)説(と)いた処(ところ)の如(ごと)くであるが尚(な)ほ後世出来(こうせでき)た書物(しよもつ)で此(この)時分(じぶん)の事(こと)を書(か)いたも
のがないではない、 之等(これら)は大(おほい)に研究上(けんきうぜう)の参考(さんこう)となる事(こと)であるが中(なか)にも羽田野敬雄翁(はだのたかををう)の著書(ちよしよ)に三河古跡(みかはこせき)
三河古跡考 考(こう)と云(い)ふものがある事(こと)は是非(ぜひ)之(これ)を世間(せけん)に紹介(せうかい)したいと思(おも)ふ、 此書(このしよ)は総計(そうけい)十 冊(さつ)で三河国歴代事蹟考(みかはのくにれきだいじせきこう)四 冊(さつ)
参河国古歌名跡考(みかはのくにこかめいせきこう)二 冊(さつ)倭名抄三河国郡郷考(わめうせうみかはのくにぐんごうこう)一 冊(さつ)三河国官社私考(みかはのくにくわんしやしこう)二 冊(さつ)参河国総国風土記考(みかはのくにそうこくふうどきこう)一 冊(さつ)より成立(なりた)
つて居(ゐ)て多(おほ)くは古代(こだい)より鎌倉初期(かまくらしよき)迄(まで)の事(こと)が研究(けんきう)されてある、 元来(がんらい)羽田野敬雄(はだのたかを)と云(い)ふ人(ひと)は羽田八幡宮(はだはちまんぐう)の
神職(しんしよく)で国学家(こくがくか)であるが維新前参考書(ゐしんぜんさんこうしよ)を得(う)るに困難(こんなん)なる時代(じだい)に於(おい)て斯(か)くの如(ごと)き著書(ちよしよ)をする迄(まで)に研究(けんきう)した
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 三二
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 四
【本文】
のは実(じつ)に感服(かんぷく)の外(ほか)はないので私(わたくし)は常(つね)に翁(をう)の遺徳(ゐとく)に対(たい)して尊敬(そんけい)の念(ねん)を払(はら)つて居(を)るのである、 従(したが)つて其(その)遺(ゐ)
徳(とく)を永久(えいきう)に伝(つた)えたいと切望(せつぼう)するものである、 扨(さて)翻(ひるがへ)つて前(まへ)に述(の)べた時代(じだい)即(すなは)ち一千 余年(よねん)前(ぜん)から九百 余年(よねん)
前迄(ぜんまで)の頃(ころ)に於(お)ける我国(わがくに)の形勢(けいせい)は如何(いかゞ)であつたかと云(い)ふに、 類聚(るいしう)三 代格(だいかく)の太政官符(だじよううくわんふ)にある承和(せうわ)二 年(ねん)と云(い)
ふ年(とし)は恰(あたか)も仁明天皇(にんめいてんのう)の御宇(ごう)で彼(か)の橘逸勢(たちばなのはやなり)の乱(らん)のあつた承和(せうわ)九 年(ねん)より七 年前(ねんぜん)である、それから和名類(わめうるい)
聚抄(しうせう)の出来(でき)たと伝(つた)ふる延長年間(えんてうねんかん)は醍醐帝(だいごてい)の御代(みよ)で承和(せうわ)から延長(えんてう)の間(あひだ)は凡(およ)そ百 年内外(ねんないがい)を距(へだ)て文徳(ぶんとく)、 清和(せいわ)
《割書:三河の国府|幷に国司》 陽成(やうせい)、 光孝(こう〳〵)、 宇多(うた)の朝(てう)を経(へ)て平安朝(へいあんてう)の文物(ぶんぶつ)は方(まさ)に隆盛(りうせい)を極(きは)むるの時(とき)であつた、 而(しか)して其頃(そのころ)三河(みかは)の国府(こくふ)
は宝飯郡(ほゐぐん)に置(お)かれて今(いま)より云(い)へば其(そ)の所在地(しよざいち)に異説(ゐせつ)があるが大体(だいたい)に於(おい)ては現在(げんざい)の国府町(こふまち)から北(きた)にかけ
て八幡村(やはたむら)附近(ふきん)に位置(ゐち)してあつたことは事実(じじつ)と信(しん)でられる、 当時(とうじ)国司(こくし)となつて来(こ)られ人(ひと)を挙(あ)げて見(み)ると
橘本継(たちばなもとつぐ)、 豊前王(ぶぜんわう)、 管原継門(すかはらつぐかど)、 安部氏主(あべうぢぬし)、 同良行(どうよしゆき)、 藤原安棟(ふぢはらやすむね)、 長岡秀雄(ながをかひでを)、 藤原善友(ふぢはらよしとも)、 源進(みなもとのすゝむ)などで
之(これ)は続日本後記(ぞくにほんごき)、 文徳実録(ぶんとくじつろく)、三 代実録(だいじつろく)等(とう)に載(のつ)て居(を)る、 此時分(このじぶん)の国司(こくし)の年限(ねんげん)は四ケ年(ねん)であつたが中(なか)には
再任(さいにん)して八ケ年(ねん)乃至(ないし)十ケ年(ねん)も勤続(きんぞく)した人(ひと)がある。
《割書:東海道通路|の変更》 ソコで前(まへ)にも云(い)つた如(ごと)く今(いま)の豊橋(とよはし)の地(ち)は此頃(このころ)に於(お)ける東海道(とうかいどう)の要路(ようろ)であつたが何分(なにぶん)にも河巾(かははゞ)が広(ひろ)くて
通行(つうこう)に不便(ふべん)であつたが為(た)め其後(そのご)に至(いた)つて遂(つひ)に往来(おうらい)を変更(へんこう)して川(かは)を上流(ぜうりう)の処(ところ)より渡(わた)りて豊川宿(とよかはしゆく)即(すなは)ち今(いま)
の古宿(ふるじゆく)にかゝるに至(いた)つたものと思(おも)はれる、 今(いま)を去(さ)る九百二十四 年前(ねんぜん)永観元年(えいかんがんねん)一 条相国障子絵歌(ぜうさうこくせうじえうた)の中(なか)に
《割書:志香須賀の|渡し》 行(ゆ)き通(かよ)ふ船路(ふねぢ)はあれど志香須賀(しがすが)の渡(わた)しは跡(あと)もなくぞなりける
と云(い)ふのがある志香須賀(しがすが)の渡(わたし)とは即(すなは)ち此渡津(このわたんづ)と飽海(あくみ)との間(あひだ)を指(さ)したるもので清少納言(せいせうなごん)の枕草紙(まくらざうし)初(はじ)め古(ふる)
き撰集(せんしう)などにあるのが矢張(やはり)皆(みな)此処(ここ)を云(い)つたものと思(おも)はれる、 然(しか)るに更級日記(さらしなにつき)には此(この)志香須賀(しがすが)の渡(わたし)を尾(を)
張三河(はりみかは)の境(さかひ)のように記(しる)してあるが此(この)日記(につき)には錯誤脱漏(さくごだつろう)等(とう)が多(おほ)いから余(あま)り証拠(せうこ)にはならぬと思(おも)はれる、
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千六百八十二号附録 ( 明治四十四年二月十四日発行 )
【本文】
此(この)日記(につき)は藤原孝標(ふぢはらこうひよう)の娘(むすめ)で橘俊道(たちばなとしみち)の妻(つま)になつた女(おんな)が書(か)いたもので八百四十 年許(ねんばかり)以前(いぜん)のものである、 中(なか)
に東(あづま)から京都(けうと)への帰途(きと)を書(か)いたものがあるが其間(そのあひだ)に右(みぎ)の記事(きじ)があるのである、 又(また)同(おな)じ条(くだり)に高師(たかし)の浜(はま)と
ある次(つぎ)に八橋(やつはし)の事(こと)がありそれより二 村山(むらやま)とありて後(のち)に宮路山(みやぢやま)とあるなど如何(いか)にも前後(ぜんご)を顛倒(てんとう)した処(ところ)が
ある、 併(しか)しながら二山村(ふたむらやま)の山中(さんちう)にて道辺(みちのべ)の家(いへ)に宿(やど)りたるに大(だい)なる柿(かき)の木(き)があつて其(そ)の実(み)が夜中(やちう)ポトリ
〳〵と落(お)ちたと云(い)ふ事(こと)が書(か)いてあるのは誠(まこと)に面白(おもしろ)いと思(おも)ふ、 徳川時代(とくがはじだい)には往来(おうらい)の両側(れうがは)に松杉(まつすぎ)又(また)一 里塚(りづか)
としては榎(えのき)等(とう)を植(う)へたものであるが、 奈良朝時代(ならてうじだい)には多(おほ)く菓物(くだもの)のなる木(き)を植(う)へて旅人(たびびと)が疲労(ひろう)を感(かん)じた
時(とき)随意(ずいゐ)に取(と)つて食(た)べるのを容(ゆる)したものである、 即(すなは)ち此(この)記事(きじ)はドウモ此事(このこと)が証拠(せうこ)立(た)てられるように思(おも)は
れて私(わたくし)は趣味(しゆみ)を感(かん)ずるのである、 扨(さ)て此(こ)の街道(かいどう)の変(かは)つた事(こと)を証拠(せうこ)立(だて)るには色々(いろ〳〵)のものがあるが茲(こゝ)に貞(てい)
応(おう)二 年(ねん)源光行(みなもとみつゆき)が書(か)いた海道記(かいどうき)と云(い)ふものがある、 今(いま)を去(さ)る六百八十七 年前(ねんぜん)の著(ちよ)で古来(こらい)鴨(かも)の長明(ちようめい)が書(か)
いたと伝(つた)へ長明海道記(てふめいかいどうき)と唱(とな)へられて居(を)るが其(その)光行(みつゆき)の著(ちよ)なる事(こと)は諸先輩(しよせんぱい)の説(せつ)がある、 此記(このき)の中(うち)には本野(ほんの)
豊川宿 ケ原(はら)を通過(つうくわ)して豊川宿(とよかはしゆく)に泊(とま)り深夜(しんや)に立出(たちい)でゝ見(み)れば川(かは)の流(ながれ)が広(ひろ)く誠(まこと)に豊(ゆた)かなる渡(わたし)である河(かは)の石瀬(いしせ)に落(おち)
る浪(なみ)の音(おと)は月(つき)の光(ひかり)に超(こ)へ川辺(かはべ)に過(すぎ)る風(かぜ)の響(ひゞき)は夜(よ)の色白(いろしろ)く渚(なぎさ)ひなの住家(すみか)には月(つき)より外(ほか)に詠(よみ)なれたるもの
はないとの意(い)が書(か)いてある、 即(すなは)ち光行(みつゆき)は此時(このとき)新街道(しんかいどう)を通(とは)りて豊川宿(とよかはしゆく)にかゝつたものであるが無論(むろん)其(その)当(とう)
時(じ)の河流(かりう)は今(いま)の状態(ぜうたい)とは違(ちが)つて居(を)つたもので、 今(いま)の流域(りうゐき)は明応(めいおう)八 年(ねん)の大震災(だいしんさい)に変(へん)じたものであるとの
源頼朝上洛 事(こと)である、 又(また)之(これ)より先(さ)き源頼朝(みなもとよりとも)が天下(てんか)を統(とう)一して今(いま)を距(さ)ること七百十二 年前(ねんぜん)建久元年(けんきうがんねん)の十月に鎌倉(かまくら)を
発(はつ)して京都(けうと)へ上洛(ぜうらく)した事(こと)がある、 其頃(そのころ)には弟(おとゝ)の範頼(のりより)が参河守(みかはのかみ)で安達盛長(あだちもりなが)か其(その)奉行(ぶげう)であつたが頼朝(よりとも)は其(その)
時(とき)にも遠州(えんしう)の橋本(はしもと)の宿(しゆく)から三河(みかは)の雲(う)の谷(や)に入(い)り普門寺(ふもんじ)を過(よ)ぎつて岩崎(いはざき)に出(い)で鞍(くら)を神社(じんしや)に奉納(ほうのふ)したと伝(つた)
へられて今(いま)も鞍掛神社(くらかけじんしや)と云(い)ふがある、 此(この)橋本(はしもと)と云(い)ふ処(ところ)は明応(めいおう)八 年(ねん)の大地震(だいぢしん)に陥落(かんらく)して海(うみ)となり今(いま)は跡(あと)
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 五
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 六
【本文】
方(かた)をも止(と)めぬが鎌倉幕府(かまくらばくふ)の日誌(につし)で其頃(そのころ)に於(お)ける大切(たいせつ)の史料(しれう)たる吾妻鏡(あづまかゞみ)には此時(このとき)の記事(きじ)に脱漏(だつらう)があつて
十月十八日に頼朝(よりとも)が橋本(はしもと)の宿(しゆく)に宿(とま)られたことを記(しる)せるより二十五日 尾張(をはり)の野間(のま)に至(いた)れる事を記(しる)せる迄(まで)は
記事(きじ)全(まつた)く欠(か)けて其前(そのあひだ)のこと事は何(なん)とも判(わか)らない、 併(しか)しながら二十五日には尾張(をはり)の野間(のま)に立(た)ち寄(よ)つて父(ちゝ)義朝(よしとも)
の墓(はか)を吊(とむ)らはれた事か記(しる)してあるから橋本(はしもと)から一 週間目(しうかんめ)で野間(のま)に到着(とうちやく)されたものと見(み)へる、 従(したが)つて其(その)
日数(にちすう)から推(お)して雲谷(うのや)の普門寺(ふもんじ)に一二日は滞在(たいざい)せられたものと思(おも)はれるが之(これ)は確証(かくせう)がなく此処(こゝ)には又(ま)た
之(これ)を詮索(せんさく)する必要(ひつよう)もなかろう、 然(しか)るに其(その)十二月 下落(げらく)の条(くだり)には吾妻鏡(あづまかゞみ)に
十九日巳亥入夜令宿宮路山中給
と書(か)いてある即(すなは)ち宮路山中(みやぢさんちう)に宿(やど)られたのであるから之(これ)より本野(ほんの)ケ原(はら)を通(とほ)り豊川(とよかは)の宿(しゆく)へ出(い)て川(かは)の上流(ぜうりう)を
渡(わた)られたものゝ如(ごと)く推定(すゐてい)せられる、 而(しか)して嘉禎(かてい)四 年(ねん)二月(距今(いまをさる)六百七十二 年(ねん))に至(いた)つて将軍(せうぐん)頼経(よりつね)上洛(ぜうらく)に
関(くわん)しては仝書(どうしよ)に二月八日 豊川(とよかは)の宿(しゆく)に宿(やど)した事が書(か)いてあり仝年(どうねん)十月十九日 其(その)下落(げらく)の条(くだり)に矢張(やはり)仝宿(どうしゆく)に
着(ちやく)した事が記(しる)されてある、 斯(かく)の如(ごと)く此(この)時代(じだい)には橋本(はしもと)から豊川(とよかは)を稍々(やゝ)上流(ぜうりう)の処(ところ)へ出(で)て豊川宿(とよかはしゆく)即(すなは)ち今(いま)の
古宿(ふるじゆく)にかゝり本野(ほんの)ケ原(はら)を通(とほ)つたもので羽田野翁(はだのをう)の三河古蹟考(みかはこせきこう)にも、 赤坂(あかさか)の北(きた)から鷺坂(さぎさか)にかゝり八幡(やはた)を
経(へ)て豊川宿(とよかはしゆく)に出(い)で今(いま)の三 明寺(めうじ)の辺(ほとり)から当古(とうご)、 和田(わだ)、 金田(かなだ)、 岩崎(いはざき)等(とう)を経(へ)て山坂(やまさか)を越(こ)へ雲(う)の谷(や)に出(い)で橋本(はしもと)
に至(いた)つたものとして古老(ころう)の説(せつ)が載(の)せてある。
《割書:東海道通路|の復旧》 然(しか)るに此(この)新街道(しんかいどう)も永続(えいぞく)しなかつたもので又(ま)た元(もと)の渡津道(わたんづみち)に復(ふく)したのである、 仁治(にんじ)三 年(ねん)(距今(いまをさる)六百廿 年(ねん)
前(ぜん))源親行(みなもとちかゆき)が書(か)いた東関紀行(とうかんきこう)と云(い)ふものがある其(そ)の中(なか)に、 豊川(とよかは)と云(い)ふ宿(しく)の前(まへ)を過(す)ぐるに近頃(ちかごろ)より俄(には)
かに渡津(わたんづ)の今道(いまみち)と云(い)ふが出来(でき)て旅人(たびびと)は多(おほ)く其(そ)の街道(かいどう)にかゝるので現今(げんこん)では豊川宿(とよかはしく)の住民(ぢうみん)は家居(いへ)をさへ
移転(いてん)せんと企(くわだ)つる模様(もよう)である、との意(い)を記(しる)されてある、 之(これ)を以(もつ)て見(み)ると既(すで)に其当時(そのとうじ)復(ふたゝ)び渡津(わたんづ)の方(ほう)へ街(かい)
道(どう)が開(ひら)かれたものであるのは慥(たしか)である、 然(しか)るに吾妻鏡(あづまかゞみ)寛文(かんぶん)四 年(ねん)(距今(いまをさる)六百六十六 年前(ねんぜん))の七月 大納言入(だいなごんにう)
道(どう)が鎌倉(かまくら)から京都(けうと)へ帰(かへ)られた時(とき)の記事(きじ)には、二十日の日(ひ)に豊川(とよかは)に宿(やど)つたと記(しる)してあるから此時(このとき)はまだ
旧道(きうどう)を通(とほ)られたものであるが、六百六十一 年前(ねんぜん)の建長(けんてう)三 年(ねん)三月に三 品親王(ほんしんわう)が鎌倉(かまくら)へ下(くだ)られた時(とき)には慥(たしか)
に新街道(しんかいどう)の渡津(わたんづ)に泊(とま)られたものゝように同書(どうしよ)見(み)へて居(を)る、 而(しか)して建治(けんじ)三 年(ねん)彼(か)の阿仏尼(あぶつに)の十六夜日記(いざよいにつき)
(距今(いまをさる)六百四十三 年前(ねんぜん))には、日(ひ)は入(い)り果(は)てゝ 尚(な)ほものゝあやめも分(わ)かぬ程(ほど)にわたうどとかや云(い)ふ処(ところ)に
宿(やど)りぬと記(しる)してある、 即(すなは)ち此頃(このころ)に至(いた)つては盛(さかん)に新街道(しんかいどう)たる渡津(わたんづ)を通行(つうこう)したものである事が確(たしか)まるので
ある、 然(しか)らば此(この)二 度目(どめ)に出来(でき)た渡津(わたんづ)は矢張(やはり)以前(いぜん)の処(ところ)であるかと云(い)ふに之(これ)には説(せつ)があるので此時分(このじぶん)には
漸(やうや)く豊川(とよかは)の瀬(せ)も変(かは)り地形(ちけい)も余程(よほど)異動(ゐどう)して来(き)たものであらうが、 吉田博士(よしだはかせ)の地名辞書(ちめいじしよ)には和名抄(わめうせう)の宝飯(ほゐ)
駅家郷 郡(こほり)駅家郷(えきかごう)と云(いふ)のは今(いま)の下地(しもぢ)附近(ふきん)の事で延喜式(えんきしき)の渡津(わたんづ)(ワタウド)は即(すなは)ち之(これ)であると書(か)いてある此説(このせつ)が或(あるひ)
は当(あた)つて居(を)る事であろうと思(おも)ふ、 元来(がんらい)此(この)駅家郷(えきかごう)は同(おな)じ和名抄(わめうせう)でも高山寺(こうざんじ)本(ほん)には載(の)つて居(を)ららぬので村岡(むらをか)
氏(し)の日本地誌料(にほんちしれう)には渡津郷(わたんづごう)の処(ところ)に小書(こがき)すべきものとしてある、 即(すなは)ち吉田氏(よしだし)の説(せつ)と異(ほ)ぼ一 致(ち)せるやうに
考(かんが)へられるのである而(しか)して此(この)街道(かいどう)の事に就(つ)いてはズント後世(こうせ)の書物(しよもつ)ではあるが元禄(げんろく)十二 年(ねん)法源(ほうげん)の著(ちよ)し
た武蔵野路草(むさしのみちぐさ)と云(い)ふ書(しよ)に、 古(いにし)へは三河(みかは)の二た見道(みみち)とて別道(べつどう)あれど末(すへ)は一つになるにや鴨長明(かもてうめい)は之(これ)より
本野(ほんの)ケ原(はら)にかゝり豊川(とよかは)に行(ゆ)くと見(み)へたり阿仏尼(あぶつに)は之(これ)より渡津(わたんづ)にかゝり志香須賀(しがすが)の渡(わたし)を越(こ)ゆなど見(み)へた
り今(いま)は御油(ごゆ)にかゝり吉田(よしだ)へ行(ゆ)くと記(しる)されてあるのは頗(すこぶ)る参考(さんこう)になると信(しん)ずる、 即(すなは)ち豊橋(とよはし)の地(ち)は壹千 年(ねん)
以前(いぜん)には東海道(とうかいどう)の本線(ほんせん)であつたのが九百廿 余年前(よねんぜん)永観(えいかん)の頃(ころ)には之(これ)が豊川宿(とよかはしく)の方(ほう)にかわり六百廿 年許前(ねんばかりぜん)
仁治(にんじ)の頃(ころ)から又々(また〳〵)此方(こちら)を通行(つうこう)するに至(いた)つたのであるが、 此(かく)の如(ごと)く再(ふたゝ)び街道(かいどう)が此処(こゝ)を通(つう)ずるに至(いた)つて以(い)
今橋之地名 来(らい)我(わが)豊橋(とよはし)の地(ち)は次第(しだい)に発展(はつてん)して古(ふる)く飽海(あくみ)、 幡太(はだ)なとの郷(ごう)のあつた間(あひだ)に初(はじ)めて今橋(いまはし)と云(い)ふ地名(ちめい)が起(おこ)つて
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 七二
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 八
【本文】
それが遂(つひ)には吉田(よしだ)となり豊橋(とよはし)となり今日(こんにち)の状況(ぜうけふ)に至(いた)つたのである。
●補遺(●●) 続日本記(ぞくにほんき)聖武天皇(せいむてんくわう)天平(てんぺい)十二 年(ねん)六月の条(くだり)に牟礼大野(むれおほの)、 飽海古良比(あくみこらひ)が罪(つみ)を犯(おか)した事が載(の)つて居(を)
るが村岡氏(むらをかし)の日本地理史料(にほんちりしれう)には此(こ)の牟礼(むれ)とあるは渥美郡(あつみごほり)牟呂(むろ)の事で飽海(あくみ)とあるのは此地(このち)の古名(こめい)た
る飽海(あくみ)であるとしてある果(はた)して然(しか)らば飽海(あくみ)の地名(ちめい)は今(いま)を去(さ)る千二百七十二 年(ねん)の古(いにし)へにも既(すで)にあつ
たものであると云(い)ふ証拠(せうこ)になるのである此所(こゝ)に追補(つひほ)して諸君(しよくん)の御参考(ごさんこう)に資(し)せたいと思(おも)ふ。
以上(いぜう)述(の)べた処(ところ)が先(ま)づ今橋(いまはし)の起因(きゐん)とも云(い)ふべきものであるが、サテ 此地方(このちほう)は元来(がんらい)如何(いか)なる支配(しはい)を受(う)けた
神領地 ものであつたかと云(い)ふに古(ふる)くより大神宮(だいじんぐう)の神領地(しんれうち)であつたのである、 此(この)神領地(しんれうち)は戦国時代(せんごくじだい)に至(いた)つて武(ぶ)
家(け)の横領(わうれう)する処(ところ)となつたのである、 現(げん)に此地方(このちほう)には神明宮(しんめいぐう)が多数(たすう)にある之(これ)は全(まつた)く元(も)と神領地(しんれうち)であつた
結果(けつくわ)である、 又(ま)た今(いま)の豊橋(とよはし)の市内(しない)に古(ふる)くより薑(はぢかみ)と呼(よ)んだ地(ち)があつた、 之(これ)は恰度(てふど)今日(こんにち)で云(い)ふ二連木(にれんぎ)の地(ち)
薑の地名 に当(あた)るので今(いま)も尚(な)ほ薑(はぢかみ)と云(い)ふ字名(あざな)が残(のこ)つて居(を)るのである、 此(この)薑(はぢかみ)幷(ならひ)に飽海(あくみ)、 幡太(はだ)などが古(ふる)く大神宮(だいじんぐう)の
神領地(しんれうち)であつた事は大神宮(だいじんぐう)の事を記(しる)した神鳳抄(しんほうせう)の中(うち)にも其他(そのた)大神宮(だいじんぐう)雑例集(ざつれいしふ)は勿論(もちろん)吾妻鏡(あづまかゞみ)氏経記(うぢつねき)などに
見(み)へて居(を)るが今(いま)詳(くわ)しく此処(こゝ)に之(これ)を述(のべ)ることは余(あま)り必要(ひつよう)がなかろう。
扨(さ)て今橋(いまはし)の地名(ちめい)なるもの何年(なんねん)の頃(ころ)より起(おこ)つたものであるかと云(い)ふ確(たしか)なることに就(つい)ては残念(ざんねん)なが之(こ)れ
を証拠(せうこ)立(だ)つるものがないので明(あきら)かに云(い)ふ事が出来(でき)ぬのである、 此事(このこと)を記(しる)した書物(しよもつ)は沢山(たくさん)にあるが信用(しんよう)
を措(お)くに足(た)る程(ほど)のものがないから遺憾(ゐかん)である、 併(しか)し稍々(やゝ)参考(さんこう)に資(し)するの価値(かち)ありと思(おも)ふものは悟眞寺(ごしんじ)
の古記(こき)であつて此(この)書物(しよもつ)は貞享(じやうきよう)元禄(げんろく)時分(じぶん)に記(しる)したものであろうと察(さつ)せられる、と云(い)ふのは此書(このしよ)の初(はじ)めよ
り元禄(げんろく)近辺(きんぺん)迄(まで)の記事(きじ)は何(いづ)れも同(おな)じ手筋(てすじ)で同(おな)じ墨色(すみいろ)で書(か)いてある上(うへ)から観測(かんそく)したのであるが此(この)書物(しよもつ)の中(うち)
《割書:浄業院の創|立》 に、 善忠上人(ぜんちうせうにん)は東三河(ひがしみかは)の地(ち)に来(きた)り今橋(いまはし)に着(ちやく)し貞治(ていじ)五 年(ねん)に始(はじ)めて浄業院(ぜうげういん)と云(い)ふ寺(てら)を建立(こんりつ)した即(すなは)ち之(これ)が現(げん)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市西八町一番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野笹吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千六百八十八号附録 ( 明治四十四年二月二十一日発行 )
【本文】
在(ざい)の悟眞寺(ごしんじ)の起(おこ)りであると記(しる)してある、 貞治(ていじ)五 年(ねん)は北朝(ほくてう)の年号(ねんごう)で南朝(なんてう)の正平(せいへい)二十一 年(ねん)(距今(いまをさる)五百二十
二 年(ねん)に当(あた)るが此(こ)の年(とし)に此(こ)の寺(てら)を建(た)てたと云(い)ふ事に就(つい)ては別(べつ)に屈竟(くつけう)の確証(かくせう)が遺(のこ)つて居(を)る、それは善忠上(ぜんちうぜう)
人(にん)の画像(ぐわぞう)で悟眞寺(ごしんじ)の所蔵(しよぞう)であるが全(まつた)く当時(とうじ)のものと鑑定(かんてい)せられる、 而(しか)して其(その)頭書(とうしよ)に「放行万木尽花開
地住于山却竾猜在寺春秋満三十天元不動地恢々肯応永貳暦八月二十八日」と云(い)ふ賛(さん)がある、 之(こ)れに依(よ)
れば悟眞寺(ごしんじ)の開山(かいざん)善忠上人(ぜんちうぜうにん)は応永(おうえい)二 年(ねん)に寂(じやく)せられて在寺(ざいじ)が三十ケ 年(ねん)であつた事が分(わか)る、 即(すなは)ち応永(おうえい)二 年(ねん)
から遡(さかのぼ)つて三十 年(ねん)は貞治(ていじ)五 年(ねん)に当(あた)るのであるから其年(そのとし)に上人(ぜうにん)が初(はじ)めて寺(てら)を此地(このち)に創(おこ)された事は確実(かくじつ)に
なるのである、 併(しか)し其頃(そのころ)果(はた)して悟眞寺(ごしんじ)旧記(きうき)にある如(ごと)く此地(このち)を既(すで)に今橋(いまはし)と云(い)ひしや否(いな)やは少(すこ)しく断定(だんてい)に
苦(くる)むのである。
《割書:悟眞寺二世|慈智上人納》 然(しか)るに仝寺(どうじ)二 代目(だいめ)の慈智上人(じちぜうにん)か宝飯郡(ほゐごほり)の御津神社(みとじんしや)へ納(おさ)めた経文(けふもん)があつた之(これ)には其(その)奥書(おくしよ)に応永(おうえい)十六 年(ねん)十
《割書:経| 》 二月二十九日 写(うつ)し終(をは)る参州(さんしう)今橋(いまはし)悟眞寺(ごしんじ)に於(おい)てと云(い)ふことが書(か)いてある、 応永(おうえい)十六 年(ねん)は今(いま)を去(さ)る五百〇三
年(ねん)の昔(むかし)で之(これ)は我(わが)豊橋(とよはし)に取(と)り大切(たいせつ)なものであるが惜(おし)いことには其(その)経文(けふもん)が今(いま)現存(げんぞん)して居(ゐ)ない、 併(しか)し羽田野敬(はだのたか)
雄翁(ををう)が生前(せいぜん)に実地調査(じつちてうさ)をされた時(とき)には実物(じつぶつ)を見(み)られたものゝ様(よう)で仝翁(どうをう)の遺著(ゐちよ)の記事(きじ)で察(さつ)せられるのみ
ならず宝飯郡(ほゐごほり)下地町(しもぢまち)の人(ひと)山本貞晨(やまもとていしん)の著(ちよ)吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)の中(うち)にも其(その)写(うつし)を載(の)せられて居(を)る処(ところ)より見(み)れば其(その)経(けふ)
文(もん)は嘗(かつ)て有(あ)つたものに相違(さうゐ)ない、 私(わたくし)も此頃(このころ)仝神社(どうじんしや)に就(つい)て調査(てうさ)して見(み)たが成程(なるほど)応永(おうえい)以前(いぜん)の納経(のうけふ)が三十 巻(くわん)
以上(いぜう)もあつて実(じつ)に珍重(ちんちよう)すべきものである、 其(そ)の中(なか)には七八 分(ぶ)通(とほ)りも腐朽(ふきう)してボロ〴〵に成(な)つたのがあ
る、 此点(このてん)から考(かんがふ)れば豊橋(とよはし)に取(と)つて大切(たいせつ)な右(みぎ)の経文(けふもん)も多分(たぶん)腐朽(ふきう)したものと思(おも)われる、 返(かへ)す〳〵も惜(おし)むべ
き事であるが兎(と)に角(かく)五百 余年前(よねんぜん)悟眞寺(ごしんじ)二 代目(だいめ)の時(とき)には明(あきら)かに此地(このち)を今橋(いまはし)と云(い)つたものであることは先(ま)づ
確信(かくしん)すべきものであると断(だん)じてよかろう、 降(くだつ)て永享(えいけう)四 年(ねん)九月(距今(いまをさる)四百八十 年前(ねんぜん))になつて将軍(せうぐん)足利義(あしかゞよし)
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 九
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十
【本文】
《割書:足利義教の|富士遊覧》 教(のり)が富士遊覧(ふぢいうらん)の為(た)め京都(けうと)より下向(げこう)の事があつた、 其時(そのとき)随行者(ずいこうしや)に藤原雅世(ふぢはらまさよ)と釈堯行(しやくぎようこう)と云(い)ふ二人(ふたり)があつた
両人(れうにん)共(とも)に道中記(どうちうき)を書(か)いた、 雅世(まさよ)のは富士記行(ふぢきこう)、 堯行(ぎようこう)のは覧富士記(らんふぢき)と称(せう)せられて居(を)る、 何(いづ)れも内容(ないよう)は大(だい)
同小異(どうせうゐ)で今橋(いまはし)と云(い)ふ地名(ちめい)は行(ゆ)き帰(かへ)りに記(しる)されてあるが茲(こゝ)に疑問(ぎもん)となつて居(を)るのは其当時(そのとうじ)に於(お)ける今橋(いまはし)
の発展(はつてん)程度(ていど)如何(いかん)である、 覧富士記(らんふぢき)の九月十四日の項(こう)に「今橋(いまはし)の御泊(おとま)りにてあかす明(あ)け行(ゆ)く月(つき)を見(み)て」
とあつて「夜(よ)と共(とも)に月(つき)澄(す)み渡(わた)る今橋(いまはし)や明(あ)け過(す)ぐるまでたちぞやすろう」と云(い)ふ歌(うた)が載(の)つて居(を)る、 此記(このき)
事(じ)から推(お)して此日(このひ)には将軍(せうぐん)が今橋(いまはし)に一 泊(ぱく)されたのであるとの説(せつ)がある、 殊(こと)に仝日(どうじつ)は其(その)朝(あさ)矢作(やはぎ)を出発(しゆつぱつ)さ
れたのであるから今橋(いまはし)に宿(やど)されるのに道程(みちのり)の上(うへ)より見(み)るも適当(てきとう)な様(よう)に思(おも)はれる、 処(ところ)が一 方(ぱう)富士記行(ふぢきこう)の
方(ほう)には 宿(やど)られた事が見(み)えぬのみならず今橋(いまはし)の事を書いた処(ところ)に一日の相違(さうゐ)がある、 又(また)帰途(きと)には二十四日
に此処(こゝ)を通過(つうくわ)せられたのであるが宿泊(しくはく)はされなんだ、 然(しか)るに吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)には前(ぜん)の覧富士記(らんふぢき)の歌(うた)を引(ひ)
ゐて義教公(よしのりこう)の宿泊(しくはく)せられたるに就(つい)ては当時(とうじ)此地(このち)に巍然(きぜん)たる城廓(ぜうくわく)と迄(まで)にあらずともかき上(あげ)如(ごと)きの城壁(ぜうへき)な
らんにはかりそめにも将軍(せうぐん)の御止宿(おんししく)あるべけんやと論(ろん)じて既(すで)に相当(さうとう)の城塁(ぜうるい)のあつたものだと説(と)いて居(を)
《割書:今橋の発展|程度》 るが此節(このせつ)は少(すこ)しく穿(うが)ち過(す)ぎては居(を)るまいか、 併(しか)し五百 年内外(ねんないがい)の以前(いぜん)に於(おい)て此地(このち)が既(すで)に宿駅(しくえき)の状態(ぜうたい)に迄(ま)
で発達(はつたつ)して居(ゐ)たと云(い)ふ事は判然(はんぜん)たるものであると思(おも)ふ、 以上(いぜう)述(の)べ来(きた)つた処(ところ)は今橋(いまはし)築城以前(ぜちくぜういぜん)の事に属(ぞく)す
るのであるが之(これ)より築城(ちくぜう)当時(とうじ)の事に就(つい)て御話(おはな)しする。
⦿今橋築城と牧野古白
今橋(いまはし)の城(しろ)の出来上(できあが)つたのは永正(えいせう)二 年(ねん)(距今(いまをさる)四百〇七 年前(ねんぜん))で牧野古白(まきのこはく)と云(い)ふ人(ひと)によつて築(きづ)かれたのであ
る、 其頃(そのころ)の事情(じぜう)を詳(くは)しく御話(おはなし)するには先(ま)づ当時(とうじ)に於(お)ける天下(てんか)の大勢(たいせい)から説(と)き起(おこ)す必要(ひつよう)があると思(おも)ふ、
抑(そもそ)も其頃(そのころ)は将軍(せうぐん)足利義澄(あしかゞよしずみ)が職(しよく)を退(しりぞい)て足利義稙(あしかゞよしたね)が再(ふたゝ)び将軍職(せうぐんしよく)に就(つ)くと云(い)ふ時代(じだい)で西(にし)には大内義興(おほうちよしおき)が威(い)
群雄割拠 を振(ふる)ひ東(ひがし)には今川氏親(いまかはうぢちか)は勿論(もちろん)北条早雲(ほうぜうさううん)が斬(やうや)く関東(くわんとう)で巾(はゞ)を利(き)かせんとする有様(ありさま)で所謂(いはゆる)群雄割拠(ぐんゆうかつきよ)して将(まさ)に
血腥(ちなまぐ)さき戦国時代(せんこくじだい)に入(い)らむとする時(とき)であつた、 其当時(そのとうじ)の三河(みかは)の守護職(しゆごしよく)は吉良氏(きらうぢ)であつて其(その)根拠地(こんきよち)は幡(は)
豆郡(づごほり)の今(いま)の西尾(にしを)であつたが西尾町(にしをまち)より約(やく)一 里(り)許(ばかり)の処(ところ)に駮馬村(まだらめむら)と云(い)ふ所(ところ)がある、 此処(こゝ)に其(その)新家(しんけ)が分(わか)れて
居(ゐ)て此(こ)の両家(れうけ)を東条家(とうぜうけ)西条家(せいぜうけ)と称(とな)へたのである、 此(この)両家(れうけ)は非常(ひぜう)な軋轢(あつれき)をして屡々(しば〴〵)擾乱(ぜうらん)を醸(かも)し到底(とうてい)国内(こくない)
が一 致(ち)しないので、 足利幕府(あしかゞばくふ)は更(さら)に細川讃岐守成之(ほそかはさぬきのかみしげゆき)を三河(みかは)の守護職(しゆごしよく)に任(にん)じたが此人(このひと)も矢張(やはり)京都(けうと)に居(ゐ)て
国内(こくない)を平定(へいてい)しようと仕(し)ない又(ま)た出来(でき)もしなかつたであらう国(くに)は益々(ます〳〵)乱(みだ)れて豪族(ごうぞく)は諸処(しよ〳〵)に割拠(かつきよ)し兵乱(へいらん)を
起(おこ)す様(よう)になつた、 其(その)乱(らん)が到底(とうてい)取鎮(とりしづ)められぬ処(ところ)から足利幕府(あしかゞばくふ)の伊勢貞親(いせさだちか)は寛正(かんせい)六 年(ねん)五月二十六日 附(づけ)(距(いまを)
《割書:松平氏並に|戸田氏》 今(さる)四百四十七 年前(ねんぜん))で三河(みかは)の豪族(ごうぞく)松平和泉守信光(まつだひらいづみのかみのぶみつ)及(およ)び十田弾正宗光(とだだんぜうむねみつ)へ手紙(てがみ)を以(もつ)て頼(たの)みに寄越(よこ)した現(げん)に
其(その)文書(ぶんしよ)の写(うつし)は今(いま)も確実(かくじつ)に遺(や)つて居(を)ることである、 此(この)十田(とだ)と云(い)ふのは当時(とうじ)田原(たはら)に居(を)つた戸田(とだ)の事(こと)で松平信(まつだひらのぶ)
光(みつ)は即(すなは)ち徳川家康(とくがはいへやす)六 世(せ)の祖(そ)である之(これ)より松平(まつだひら)、 戸田(とだ)の両氏(れうし)が世(よ)に現(あら)はるゝに至(いた)つたので特(とく)に松平信光(まつだひらのぶみつ)
と云(い)ふ人(ひと)は子(こ)が沢山(たくさん)あつて之(これ)を一々 分家(ぶんけ)したのであるが徳川氏(とくがはし)の基礎(きそ)は実(じつ)に此時(このとき)既(すで)に出来(でき)たものと云
一色城 ふてよかろうと思(おも)ふ、 当時(とうじ)宝飯郡(ほゐごほり)に一 色城(しきぜう)と云(い)ふのがあつたが、 今(いま)の牛久保(うしくぼ)に該当(がいとう)する、 古図(こづ)で見(み)る
と現今(げんこん)の牛久保(うしくぼ)停車場(ていしやぜう)以南(いなん)の地(ち)に当(あた)つて居(を)るけれども城跡(ぜうせき)は更(さら)に止(とゞ)めて居(ゐ)ない、 現(げん)に停車場(ていしやぜう)附近(ふきん)に城(ぜう)
跡(せき)と見(み)ゆる処(ところ)があるがあれは牛久保城(うしくぼぜう)となつてからのでなくてはならぬ 此(この)一 色城(しきぜう)と云(い)ふのは元(も)と鎌(かま)
倉(くら)足利氏(あしかゞし)の臣(しん)一色刑部(いしきけうぶ)某(なにがし)が来(きた)つて拠(よ)つた所(ところ)であるが文明年中(ぶんめいねんちう)其(そ)の臣(しん)秦野全慶(はたのぜんけい)と云(い)ふ者(もの)の為(た)めの横領(わうれう)さ
れた一色刑部(いしきけうぶ)の墓(はか)は現(げん)に牛久保(うしくぼ)の大聖寺(だいせいじ)にある、 其後(そのご)明応(めいおう)二 年(ねん)(距今(いまをさる)四百十九 年前(ねんぜん))に至(いたつ)て牧野古白(まきのこはく)は
宝飯郡(ほゐぐん)の牧野村(まきのむら)から起(おこ)つて此(この)全慶(ぜんけい)を誅(ちう)し一 色城(しきぜう)を掌握(せうあく)したのである。
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十一
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十二
【本文】
古白の研究 扨(さ)て之(これ)からが此(この)牧野古白(まきのこはく)の研究(けんきう)であるが之(これ)が実(じつ)に困難(こんなん)であると云(い)ふのは、 其(その)時代(じだい)に於(お)ける此(この)地方(ちほう)に関(かん)
する史料(しれう)を得(う)るのが実(じつ)に六ケ 敷(しい)事業(じげう)で、 又(ま)た、 到底(とうてい)得(う)る事が出来(でき)ぬと云(い)ふのが其(その)原因(げんいん)である、 元来(がんらい)史(し)
実(じつ)の研究(けんきう)は其(その)当時(とうじ)に於(お)ける文書(ぶんしよ)を得(う)るのが第(だい)一の必要(ひつよう)であるが、 此(この)時代(じだい)に於(お)ける其種(そのしゆ)のものはニ三の
棟札(むねふだ)位(ぐらゐ)より外(ほか)には無(な)いのみならず之(これ)に関(かん)する書物(しよもつ)と云(い)ふものも沢山(たくさん)にはあるが殆(ほとん)ど材料(ざいれう)とすべきもの
が少(すくな)いと云(い)つてよい、一 例(れい)を挙(あ)ぐれば、 書物(しよもつ)として吉田城廓由来記(よしだぜうかくゆらいき)だの吉田城主記(よしだぜうしゆき)だの三 州吉田記(しうよしだき)だ
のと云(い)ふようなものは幾種類(いくしゆるい)もあるが、 皆(みな)後世(こうせい)好事(こうじ)の人(ひと)の作(つく)つたもので的(あて)にならぬ事(こと)が多(おほ)い、 又(また)其(その)時(じ)
《割書:今橋時代に|関する史料》 代(だい)前後(ぜんご)の事を書(か)いたもので三 河後風土記(かはごふうどき)の如(ごと)きものもあるが、 之(これ)は平岩親吉(ひらいはしんきち)の著(ちよ)だと称(せう)せられて居(を)る
にも拘(かゝは)らず其実(そのじつ)は全(まつた)く偽作(ぎさく)であることは伊勢貞丈(いせてんぜう)初(はじ)めが証拠(せうこ)立(だ)てゝ 居(を)る、 其他(そのた)創業記(さうげうき)を初(はじ)め三河記(みかはき)の如(ごと)
き数(かぞ)へ切(き)れぬ程(ほど)であつて、 此(この)三河記(みかはき)には更(さら)に三河記(みかはき)異本考(ゐほんこう)と云(い)つて其本(そのほん)の種類(しゆるい)に就(つい)て研究(けんきう)した本(ほん)があ
る位(くらい)で種類(しゆるい)の多(おほ)き事が分(わか)る、 又(また)三河後風土記(みかはごふうどき)にも成島司直(なるしまじちよく)等(ら)が校訂(こうてい)した改正(かいせい)三河後風土記(みかはごふうどき)と云(い)ふのが
あるし創業記(さうげうき)にも紀州家(きしうけ)で研究(けんきう)した創業記(さうげうき)考異(こうい)と云(い)ふのがある、 此(かく)の如(ごと)き状態(ぜうたい)であるから書物(しよもつ)の種類(しゆるい)
は成程(なるほど)少(すくな)くないが其(その)多(おほ)くは後世(こうせい)の作(さく)で到底(とうてい)直(たゞ)ちに史料(しれう)とすることの出来(でき)ぬのが当然(とうぜん)である、 只(た)だ大久保(おほくぼ)
三河物語 彦左衛門忠教(ひこざえもんたゞのり)の書(か)き遺(のこ)して置(お)いた三河物語(みかはものがたり)と云(い)ふのがある、 之(これ)にも同名(どうめい)異書(ゐしよ)があつて三河記(みかはき)の多(おほ)くは
之(これ)から出(で)たと云(い)ふ事であるが其(その)原本(げんほん)は今(いま)徳川公爵家(とくがはこうしやくけ)の所蔵(しよぞう)で確実(かくじつ)なものと認(みと)められる又(ま)た深溝(ふかみぞ)松平氏(まつだひらし)
家忠日記 の祖(そ)家忠(いへたゞ)の書(か)いた日記(につき)があつて其(その)原本(げんほん)は今(いま)尚(な)ほ松平子爵家(まつだひらししやくけ)に存(ぞん)して居(を)る此(この)家忠(いへたゞ)と云(い)ふ人(ひと)は慶長(けいてう)五 年(ねん)伏(ふし)
見(み)の戦争(せんそう)で鳥井元忠(とりゐもとたゞ)と共(とも)に討死(うちじに)した人(ひと)であるが日記(につき)は其(その)若(わか)い時(とき)から書(か)いたもので最(もつと)も確実(かくじつ)なものとし
て貴(たつと)ばれて居(を)る併(しか)し此(この)日記(につき)にも矢張(やはり)同名(どうめい)異書(ゐしよ)があつて其(その)異書(ゐしよ)の如(ごと)きは全然(ぜん〴〵)偽本(ぎほん)であるから注意(ちうゐ)を要(よう)す
松平記 る処(ところ)である尚(なほ)其他(そのた)に松平記(まつだひらき)なる書物(しよもつ)がある、 著者(ちよしや)は不明(ふめい)であつて之(これ)にも偽本(ぎほん)があるが其(その)原本(げんほん)は余程(よほど)確(かく)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千六百九十四号附録 ( 明治四十四年二月二十八日発行 )
【本文】
実(じつ)なものとして信(しん)ぜられてある、 尤(もつと)も此(この)家忠日記(いへたゝにつき)松平記(まつだひらき)は孰(いづ)れも天文(てんぶん)以後(いご)の事を書(か)いたものであるか
ら、 今橋(いまはし)築城(ちくぜう)時代(じだい)より後(のち)のものであるが、 橋本(はしもと)にはズツト前(まへ)の今橋(いまはし)築城(ちくぜう)時分(じぶん)の事迄(ことまで)書(か)いてあるのであ
るから、 参考(さんこう)の為(た)めに此処(ここ)に掲(かゝ)げたのである、 又(また)後世(こうせい)三河(みかは)地方(ちほう)の事を調(しら)べたもので三河堤(みかはつゝみ)、 三河名蹤(みかはめいじう)
大三河志 綜録(そうろく)、 三河名所図会(みかはめいしよづえ)、 三河水(みかはみづ)、 三河船(みかはふね)、 三河志(みかはし)、 大三河志(たいみかはし)等(とう)色々(いろ〳〵)のものがある、 其中(そのなか)で 大三河志(たいみかはし)は寛(かん)
政(せい)年間(ねんかん)の著(ちよ)で西尾候(にしおこう)松平頼慎氏(まつだひららいしんし)の撰(えらみ)であるが頗(すこふ)る確実(かくじつ)なものであるとの評(へう)がある併(しか)し不幸(ふこう)にして私(わたくし)は
未(いま)だ見(み)た事がないのは遺憾(いかん)である、 又(また) 三河名所図会(みかはめいしよづえ)は吉田(よしだ)上伝馬(かみでんま)の金物商(かなものせう)で夏目重蔵(なつめぢうぞう)と云(い)ふ人(ひと)が全財(ぜんざい)
牛窪密談記 産(さん)を投(とう)じて熱心(ねつしん)に編集(へんしう)したものであるが如何(いかん)せむ引用書(いんようしよ)などが確実(かくじつ)でないから十 分(ぶん)なる参考(さんこう)に資(し)せら
れぬのは惜(おし)むべきである三河堤(みかはつゝみ)の如(ごと)きも矢張(やはり)同様(どうよう)で 今橋(いまはし)築城(ちくぜう)時代(じだい)の事などは多(おほ)く偽本(ぎほん)の家忠日記(いへたゝにつき)を唯(ゆ)
一の材料(ざいれう)として引用(いんよう)してあるから信(しん)ぜられぬ点(てん)が多(おほ)いのである然(しか)るに、 牛窪密談記(うしくぼみつだんき)と云(い)ふ書物(しよもつ)があつ
て単(たん)に牛久保記(うしくぼき)とも唱(とな)へられて居(を)るが古白(こはく)の事を主(しゆ)として其(その)以来(いらい)牛窪(うしくぼ)の事を書(か)いたものである之(これ)は元(げん)
禄(ろく)以後(いご)の著(ちよ)と思(おも)はるゝが続群書類従(ぞくぐんしよるいじう)の中(なか)にも納(おさ)められて参考(さんこう)とすべき点(てん)が多(おほ)いま又(ま)た宮嶋伝記(みやしまてんき)と云(い)ふも
のがあるか之(これ)は牛久保密談記(うしくぼみつだんき)に似寄(によ)つた者(もの)である外(ほか)に元文(げんぶん)年中(ねんちう)に著述(ちよじゆつ)された三河国二葉松(みかはのくにふたばまつ)幷(ならび)に後世(こうせい)之(これ)
が補正(ほせい)として作(つく)られた三河国刷補松(みかはのくにさつほまつ)と云(い)ふのがある、 又(また)三河雀(みかはすゝめ)と云(い)ふのがあるが之等(これら)は当時(とうじ)目撃(もくげき)した
る事 及(およ)び伝説(でんせつ)を正直(せうぢき)に記(しる)したものであるから却(かへつ)て材料(ざいれう)となるものが多(おほ)いのである其他(そのた)三河国古文書(みかはのくにこぶんしよ)三(み)
河雑書(かはざつしよ)などと云(い)ふ書物(しよもつ)は愛知県庁(あいちけんてう)の所蔵(しよぞう)で史料(しれう)となるべきことが少(すくな)くない三河聞書(みかはぶんしよ)、 田原近郷聞書(たはらきんごうぶんしよ)等(とう)も
捨(すて)られぬ処(ところ)があると思(おも)ふ。
右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)であるから到底(とうてい)此時代(このじだい)の古文書類(こぶんしよるい)は勿論(もちろん)此地方(このちほう)の事のみを書(か)き記(しる)した適確(てきかく)の材料(ざいれう)は得(え)ら
れぬ、 従(したがつ)て汎(ひろ)く一 般(ぱん)に渉(めくつ)て調(しら)べ出(いた)すより外(ほか)はない、ソコで一 般(ぱん)に通(つう)じたもので飯田氏(ゐゝだし)の野史(やし)の如(ごと)きも
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十三
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十四
【本文】
のもがある、 又(ま)た武徳大成記(ぶとくたいせいき)の如(ごと)きものもある、 勿論(もちろん)前(まへ)に述(の)べた、 三河記(みかはき)の内(うち)には十 分(ぶん)なる校正(こうせい)を経(へ)
たるものがあるが之(これ)は殆(ほとん)ど同性質(どうせいしつ)のものである、 其他(そのた)武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)の如(ごと)きもあれば有名(いうめい)なる新井白石(あらゐはくせき)
の藩翰譜(はんかんふ)もある中井竹山(なかゐちくざん)の逸史(いつし)もある之等(これら)の類(るい)も亦(また)数(かぞ)へ切(き)れぬであろうが併(しか)し徳川幕府(とくがはばくふ)に於(おい)て史官(しかん)を
寛永系図 置(お)き多(おほ)くの時日(じじつ)を費(つひや)して調(しら)べ上(あ)げたものがある、三 代将軍(だいせうぐん)時代(じだい)の寛永系図(かんえいけいづ)は其(その)一であるが之(これ)はまだ十
分(ぶん)のものではない様(よう)に思(おも)はれる、 然(しか)るに五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の時代(じだい)には各大名(かくだいめう)幷(ならび)に旗本(はたもと)は勿論(もちろん)地方(ちほう)の郷士(ごうし)に
貞享書上 到(いた)る迄(まで)家系(かけい)の調査(てうさ)を命(めい)じ 祖先(そせん)以来(いらい)の事を書上(かきあ)げしめたので之(これ)は貞享書上(ていけうかきあげ)と称(とな)へて今(いま)東京帝国大学(とうけうていこくだいがく)の
史料編纂係(しれうへんさんかゝり)に保存(ほぞん)せられて居(を)る何処(いづこ)十 何騎(なんき)だとか云(い)つて頻(しき)りに家系(かけい)などを調(しら)べる事の流行(りうこう)したのも実(じつ)
に此時(このとき)が多(おほ)いので地方(ちほう)に流布(るふ)して居(を)るものゝ 中(なか)にはワザト拵(こしら)えたものも少(すくな)くないのであるから余程(よほど)注(ちう)
意(ゐ)を要(えう)する事と思(おも)ふが我地方(わがちほう)に於(おい)ても続々(ぞく〴〵)発見(はつけん)する記録(きろく)の類(るい)が段々(だん〴〵)研究(けんきう)して見(み)ると矢張(やはり)此時代(このじだい)以後(いご)に
於(おい)て出来(でき)たものが多(おほ)いのである、サテ其後(そのご)更(さら)に幕府(ばくふ)に於(おい)て歴史(れきし)の研究(けんきう)を初(はじ)めたのが例(れい)の寛政(かんせい)時代(じだい)で若(わか)
《割書:寛政重修諸|家譜》 年寄(としより)の堀田正敦(ほつたまさあつ)が総裁(さうさい)となつて文化(ぶんか)年間(ねんかん)迄(まで)かゝつて作(つく)り上(あ)げたのが彼(か)の寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)で壹千五百二
十五 巻(かん)と云(い)ふ大部(たいぶ)のものである、 之(これ)に続(つゞ)いて出来(でき)上(あが)つたのが彼(か)の徳川御実記(とくがはごじつき)幷(ならび)に朝野旧聞裒稿(てうやきんぶんほうこう)で何(いづ)れ
も千 有余巻(いうよかん)の大部(たいぶ)であるが之(これ)は林大学頭述斉(はやしだいがくのかみじゆつさい)の監督(かんとく)で成島司直(なるしまじちよく)等(ら)が編纂(へんさん)の任(にん)に当(あた)つたとのこ事である
此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから我地方(わがちはう)の史実(しじつ)を得(う)るには先(ま)づ之等(これら)の諸書(しよ〳〵)を初(はじ)め親元日記(ちかもとにつき)だの宗長手記(しうちうしゆき)の如(ごと)き当(とう)
時(じ)の日記(につき)随筆(ずゐしつ)などあらゆる方面(はうめん)に渉(わた)りて調(しら)べ出(だ)すより外(ほか)はない、コウなると専門的(せんもんてき)で到底(とうてい)私(わたくし)の如(ごと)き
浅学(せんがく)の者(もの)では及(およ)ばぬのである、 右(みぎ)は只(た)だ大要(たいえう)に就(つい)ての話(はなし)であるが兎(と)に角(かく)予(あらかじ)め此事(このこと)は御承知(ごせうち)置(お)きを願(ねが)
ひ度(た)いのである。
古白の子孫 此時代(このじだい)に於(お)ける参考(さんこう)材料(ざいれう)としては以上(いぜう)述(の)べた如(ごと)くであるが尚(な)ほ古白(こはく)を初(はじ)め牧野氏(まきのし)の事に就(つい)て研究(けんきう)する
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
し■ ■
【左頁】
【本文】
には先(ま)づ其(その)子孫(しそん)を尋(たづ)ね其(その)家(いへ)に就(つい)て調査(てうさ)するのも至極(しごく)必要(ひつえう)なる事と思(おも)ふ、ソコデ試(こゝろみ)に現在(げんざい)の華族(くわぞく)の中(なか)で
牧野姓(まきのせい)を称(とな)へて居(を)らるゝのが何軒(なんげん)あるかと云(い)ふに、五 軒(けん)ある之(これ)は何(いづ)れも子爵家(しゝやくけ)であるが一々 挙(あげ)て見(み)る
と、 旧越後長岡藩主(きうえちごながおかはんしゆ)の牧野氏(まきのし)、 越後峰山藩主(えちごみねやまはんしゆ)の牧野氏(まきのし)、 信州小諸藩主(しんしうこもろはんしゆ)牧野氏(まきのし)、 常陸笠間藩主(ひたちかさまはんしゆ)の牧野氏(まきのし)
牧野子爵家 丹後田辺(たんごたなべ)現今舞鶴藩主(げんこんまいづるはんしゆ)の牧野氏(まきのし)であつて何(いづ)れも先祖(せんそ)は東三河(ひがしみかは)から出(いで)て宝飯郡(ほゐぐん)の牛久保(うしくぼ)を中心(ちうしん)として
勃興(ぼつこう)したものであるが、 右(みぎ)の内(うち)笠間(かさま)峰山(みねやま)小諸(こもろ)の三 家(け)は元(も)と長岡家(ながおかけ)から分(わか)れたものであるから祖先(そせん)は同(どう)
一であつて牧野新次郎(まきのしんじらう)後(のち)に右馬允成定(うまのすけなりさだ)と称(とな)へた人(ひと)を祖先(そせん)として居(を)る、 此(こ)の人(ひと)の伝記(でんき)に就(つい)ては後(のち)に詳(くは)し
く御話(おはな)しする事とするが此(こ)の人(ひと)は後(のち)に徳川家康(とくがはいへやす)に従(したが)つた人(ひと)である又(ま)た丹後田辺(たんごたなべ)の牧野氏(まきのし)は当主(とうしゆ)を弼成(すけしげ)
君(ぎみ)と云(い)はれるが此家(このいへ)は牧野(まきの)八 太夫(だいう)後(のち)に山城守(やましろのかみ)と称(とな)へた定成(さだしげ)を祖先(そせん)として居(を)る、 此人(このひと)は成定(なりさだ)よりは後(のち)に
至(いた)つて初(はじ)めて家康(いへやす)に仕(つか)へた人(ひと)で其(その)家系(かけい)に於(おい)ては古白(こはく)の孫(まご)であるとなつて居(を)る、 面白(おもしろ)いのは此家(このいへ)は代々(だい〴〵)
成(なり)と云(い)ふ字(じ)を「シゲ」と読(よ)むで居(を)るのに前(まへ)の長岡家(ながをかけ)一 統(とう)は必(かなら)ず「ナリ」と読(よ)むので自(おのづ)から其(その)系統(けいとう)を明(あきらか)にし
て居(を)る様(やう)に思(おも)はれる、 殊(こと)に古白(こはく)の名乗(なのり)は成時(しげとき)であつて「シゲトキ」を読(よ)むのであるから田辺家(たなべけ)の家系(かけい)に
如何(いか)にもと首肯(しゆこう)せられて其(その)古白(こはく)系統(けいとう)の家(いへ)たる事は疑(うたがひ)なき様(やう)に思(おも)はるゝのである、 併(しか)し長岡家(ながをかけ)一統(いつとう)にも
田辺家(たなべけ)にも其(その)祖先(そせん)に就(つい)ては旧来(きうらい)議論(ぎろん)があつて寛政重修譜(かんせいちようしうふ)又(また)は武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)などと異説(ゐせつ)が載(の)つて居(を)るが
之(これ)は後日(ごにち)論(ろん)ずる事とする、 而(しか)しで右(みぎ)の外(ほか)別(べつ)に古白(こはく)直系(ちよくけい)の子孫(しそん)として認(みと)められて居(を)る家(いへ)がある、 之(これ)は静(しづ)
牧野成一氏 岡県(をかけん)の士族(しぞく)で牧野茂一(まきのしげかづ)氏(し)である茂一(しげかづ)君(きみ)の父(ちゝ)は名(な)を茂行(しげゆき)と云(い)はれて今(いま)も存命(ぞんめい)で東京本郷区(とうけうほんごうく)の真砂町(まさごてう)に住(すま)
つて居(を)られるが維新(ゐしん)当時(とうじ)は伊予守(いよのかみ)と云(い)ひ三千 石(ごく)の旗本(はたもと)であつた此家(このいへ)は代々(だい〴〵)名(な)を伝蔵(でんざう)と称(せう)し矢張(やはり)成(なり)の字(じ)
を「シゲ」と読(よ)むで居(を)る、 又(ま)た浜松在(はままつざい)に住(ぢう)して維新(ゐしん)前(ぜん)五百 石(こく)の旗本(はたもと)であつた方(かた)で牧野斧之丞(まきのをののぜう)と云(い)ふ人(ひと)が
あるが之(これ)は成一君(しげかづくん)の家(いへ)から分(わ)かれたものである、 即(すなは)ち此(こ)の伊予守(いよのかみ)の家(いへ)は寛政重修家譜(かんせいちようしうかふ)にも亦(ま)た帝国大(ていこくだい)
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十五
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十六
【本文】
学(がく)で出版(しゆつぱん)する大日本史料(だいにほんしれう)にも明(あきらか)に古白(こはく)直系(ちよくけい)の子孫(しそん)として確信(かくしん)されて居(を)る、 蓋(けだ)し古白(こはく)の後(あと)は其子(そのこ)成三(しげかづ)が
継(つゝ)いたが成三(しげかづ)は更(さら)に其弟(そのおとゝ)信成(のぶしげ)を養子(やうし)とした此(この)信成(のぶしげ)が松平清康(まつだひらきよやす)に攻(せめ)られて討死(うちじに)の時(とき)妊娠中(にんしんちう)の妻(つま)は尾張国(をはりのくに)
知多郡(ちたぐん)に逃(のが)れて後(のち)に生(う)んだ子(こ)が成継(しげつぐ)である、 成継(しげつぐ)の子(こ)を成里(しげさと)と称(とな)へたが此人(このひと)は頗(すこぶ)る武勇(ぶゆう)であつて池田(いけだ)
輝政(てるまさ)の紹介(せうかい)で徳川家康(とくがはいへやす)に召(め)されて二 代将軍(だいせうぐん)秀忠(ひでたゝ)付(づき)として仕(つか)へたのである之(こ)れが伊予守家(いよのかみけい)の祖先(そせん)になる
牧野系図 のであるから、 先(ま)づ同家(どうけい)に就(つい)て調査(てうさ)の必要(ひつえう)を認(みと)めたのであるが同家(どうけい)には新旧(しんきう)二つの系図(けいづ)が伝(つた)はつて居(を)
る、 而(しか)して其(その)古(ふる)い方(ほう)は多少(たせう)の相違(さうゐ)こそあれ大体(だい〳〵)に於(おい)ては寛永系図(かんえいけいづ)に一 致(ち)するもので又(ま)た野史(やし)に引用(いんよう)し
てある牧野系図(まきのけいづ)と云(い)ふのに一 致(ち)する点(てん)が多(おほ)い、 然(しか)るに新(あたらし)い方(ほう)のは余程(よほど)後世(こうせい)に出来(でき)たもので頗(すこぶ)る詳(つまびらか)に
調査(てうさ)されてあるが寛政(かんせい)以後(いご)に調(しら)べて作(つく)つたものと思(おも)はれる、 兎(と)に角(かく)之(これ)等(ら)の系図(けいづ)は勿論(もちろん)前(ぜん)にも述(の)べた長(なが)
岡(をか)、 田辺(たなべ)、 両家(れうけ)を始(はじ)め此(この)牧野氏(まきのし)一 統(とう)の家(いへ)に伝(つた)はれる記録(きろく)の類(るい)は寛永系図(かんえいけいづ)寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよけふ)等(とう)の諸書(しよ〳〵)と共(とも)
古白の素性 に大(おほい)に参考(さんこう)となるものであると信(しん)ずる、 扨(さて)牧野古白(まきのこはく)の出所(しゆつしよ)に就(つい)ては以上(いぜう)述(の)べた如(ごと)き事情(じぜう)で諸書(しよ〳〵)の記(き)す
る処(ところ)が一 致(ち)しないが寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)の記(き)する処(ところ)によれば此(この)古白(こはく)と云(い)ふ人(ひと)は牧野成富(まきのしげとみ)の子(こ)で、 成富(しげとみ)と云(い)
ふ人(ひと)は一 名(めい)を頼成(よりしげ)と云(い)ひ左衛門尉(さゑもんのぜう)と称(とな)へたが応永(おうえう)年中(ねんちう)に将軍(せうぐん)足利義持(あしかゝよしもち)の命(めい)によつて初(はじ)めて三河国宝飯(みかはのくにほゐ)
牧野成富 郡(ぐん)中條郷(ちうぜうごう)牧野村(まきのむら)へ来(き)て牧野(まきの)の姓(せい)を名乗(なの)つたのである、 元(も)と此(こ)の人(ひと)は平家(へいけ)の士(し)田口重能(たぐちしげよし)(成能(しげよし))の末孫(ばつそん)で
重能(しげよし)の子(こ)に田内左衛門教能(たうちさゑもんのりよし)一に成直(しげなを)と云(い)ふ人(ひと)があつたが平家(へいけ)没落(ぼつらく)の後(のち)離散(りさん)して系図(けいづ)が分(わか)らなくなつた
然(しか)るに其(その)後胤(こういん)に田口左衛門尉成保(たぐちさゑもんのぜうしげやす)と云(い)ふ人(ひと)があり其子(そのこ)に田三左衛門成清(たみさゑもんしげきよ)と云(い)ふのがあつて、 之(これ)が即(すなは)ち
成冨(しげとみ)の親(おや)で此人(このひと)の代迄(だいまで)は讃岐国(さぬきのくに)に住(じう)して居(ゐ)たものであるが 成冨(しげとみ)の代(だい)に至(いた)つて讃岐国(さぬきのくに)から此(この)牧野村(まきのむら)へ来(き)
成富の墳墓 たものであるとなつて居(を)る現(げん)に成冨(しげとみ)の墓(はか)は牧野村(まきのむら)柳貝津(やなかいづ)と云ふ処(ところ)に遺(のこ)つて居(を)るが此(この)墓(はか)は確実(かくじつ)のものと
して認定(にんてい)が出来(でき)るのである、 又(ま)た牧野村(まきのむら)牧野(まきの)さち氏(し)の家(いへ)に福昌寺(ふくせうじ)の僧(そう)実山(じつざん)手写(てうつし)の経文(けうもん)と牧野村(まきのむら)の古地(こち)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百号附録 ( 明治四十四年三月七日発行 )
【本文】
福昌寺 図(づ)とが蔵(ざう)せられてある、 此(この)経文(けうもん)は中々(なか〳〵)見事(みごと)なものであつて此(この)福昌寺(ふくせうじ)と云(い)ふのは成富(しげとみ)が深(ふか)く皈依(きえ)した寺(てら)
だと云(い)ふ事であるが、 其(その)古地図(こちづ)の中(なか)にも寺(てら)の跡(あと)は載(の)せられてある、ソコデ古白(こはく)が名乗(なのり)を成時(しげとき)と云(い)つた
事は前(ぜん)に述(の)べた通(とほ)りで又(また)左衛門尉(さえもんのぜう)と称(とな)へたのであるが、 初(はじ)め名(な)を利業(としなり)とも称(とな)へた形跡(けいせき)がある、ソレは
宝飯郡(ほゐぐん)財賀寺(ざいがじ)の棟札(むなふだ)に文明(ぶんめい)十五年 牧野修理進利業(まきのしゆりのしんとしなり)と書(か)いてあるのがあつて田辺牧野家(たなべまきのけ)の記録(きろく)及(およ)び宮嶋(みやじま)
利業の名 伝記(でんき)に利業(としなり)は古白(こはく)の若(わか)き時(とき)の名乗(なのり)にやとあり、 又(また)仝(どう)牧野家(まきのけ)の家譜(かふ)に成時(しげとき)初(はじめて)利成(としなり)とあるからである、 勿(もち)
論(ろん)古白(こはく)と云(い)ふ名(な)薙髪(ちばつ)してからの号(ごう)であるが藩翰譜(はんかんふ)には之(これ)を古柏(こはく)としてある、 又(また)古伯(こはく)と書(か)いた書物(しよもつ)は
古伯と古白 沢山(たくさん)あるが私(わたくし)は古白(こはく)と書(か)くのが確実(かくじつ)であると信(しん)ずる、 之(これ)に就(つい)て最(もつと)も証拠(せうこ)となるべきものは財賀寺(ざいがじ)明応(めいおう)
四 年(ねん)の棟札(むなふだ)並(ならび)に豊橋市(とよはしし)中(なか)八 神明社(しんめいしや)明応(めいおう)六 年(ねん)の棟札(むなふだ)で神明社(しんめいしや)のは今(いま)も現存(げんぞん)して居(を)るが何(いづ)れも古白(こはく)と書(か)い
てある又(また)連歌師(れんがし)宗長(そうてう)の宗長手記(そうてうしゆき)であるが此(この)宗長(そうてう)と云(い)ふ人(ひと)は今川義忠(いまがはよしたゞ)に仕(つか)へた小姓(こせう)であつて後(のち)に宗祇(そうぎ)の
宗長手記 門人(もんじん)となつて連歌(れんが)を学(まな)び再(ふたゝ)び氏親(うじちか)に召(め)され古白(こはく)とは最(もつと)も親密(しんみつ)な間柄(あひだがら)で当時(とうじ)屡々(しば〳〵)今橋(いまはし)に来(きた)り連歌(れんが)の相手(あひて)
をしたものである、 宗長手記(そうてうしゆき)は即(すなは)ち此人(このひと)の書(か)いたもので塙保巳一(はなわほきいち)の 群書類従(ぐんしよるいじう)の中(なか)に入(はい)つて居(を)る、 此(この)宗(そう)
長手記(てうしゆき)は大永(たいえい)四 年(ねん)より同(どう)七 年(ねん)迄(まで)の事を書(か)いた日記様(につきやう)のもので勿論(もちろん)古白(こはく)死去(しきよ)後(ご)の事ではあるが其中(そのなか)に古(こ)
白(はく)と交際(こうさい)のあつた事を明記(めいき)してある、 然(しか)るに之(これ)にも矢張(やはり)古白(こはく)となつて居(ゐ)て古柏(こはく)又(また)は古伯(こはく)とは書(か)いてな
いのである、 蓋(けだ)し此処(ここ)に一 問題(もんだい)として研究(けんきう)を要(えう)するのは財賀寺(ざいがじ)文明(ぶんめい)三 年(ねん)の棟札(むなふだ)に願主(がんしゆ)牧野古伯(まきのこはく)とした
のが存在(ぞんざい)せる事 である、 之迄(これまで)此(こ)の古伯(こはく)は古白(こはく)成時(しげとき)と同(どう)一人(にん)に見做(みな)されて居(を)るが此時代(このじだい)より推(お)して或(あるひ)は
別人(べつにん)ではなからうかと思(おも)はるゝのである、 如何(いかん)となれば古白(こはく)は永正(えいせう)三 年(ねん)に討死(うちじに)したので此(この)棟札(むなふだ)にある
文明(ぶんめい)三 年(ねん)とは相距(あいはな)ること卅六 年(ねん)目(め)になるのである、 而(しか)して古白(こはく)と云(い)ふ名(な)は前(ぜん)にも述(のべ)たる通(とほ)り薙髪(ちはつ)してか
らの号(ごう)であるから其(その)古白(こはく)と号(ごう)したのはマサカ十 代(だい)や廿 代(だい)ではなからう少(すくな)くも卅 歳(さい)以上(いぜう)でなくてはなら
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十七
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十八
【本文】
ぬと思(おも)ふ、 従(したがつ)て文明(ぶんめい)三 年(ねん)に古白(こはく)三十 歳(さい)たりしものとするも其(その)討死(うちじに)の時(とき)は六十六 歳(さい)となる訳(わけ)であるが此(この)
時(とき)に嫡子(ちやくし)の成三(しげかづ)が五 歳(さい)であつたと書(か)いたものがあるし又(また)其(その)弟(おとゝ)の信成(のぶしげ)があつたのあるから如何(いか)にも古(こ)
白(はく)の年齢(ねんれい)と不権衡(ふけんこう)の事になると思(おも)ふのである、 特(とく)に此(この)信成(のぶしげ)は後(のち)に至(いた)りて矢張(やはり)湖泊(こはく)と号(ごう)したのであるが
宗長(そうてう)にも亦(ま)た二 代目(だいめ)の宗長(そうてう)があつたのであるから古白(こはく)の号(ごう)も先人(せんにん)に古伯(こはく)と云(い)つた人(ひと)のあるのに因(ちな)むで
名(なづ)けたものと考(かんが)へても強(しい)て無利(むり)なる説(せつ)ではないと信(しん)ずる、 夫(そ)れのみならず豊川(とよかは)の花井寺(はなゐじ)に養林院(やうりんゐん)方順(はうじゆん)
大禅門(だいぜんもん)と云(い)ふ位牌(ゐはい)がある、 此人(このひと)は文明(ぶんめい)十四 年(ねん)七月七日に死(し)んだ人(ひと)であるが牧野村(まきのむら)牧野(まきの)さち氏(し)方(かた)の記録(きろく)
には之(これ)が古白(こはく)の戒名(かいめう)だと伝(つた)へられて居(を)るのみならず現(げん)に新(あた)らしき位牌(ゐはい)には古白(こはく)の二 字(じ)を加(くは)えて方順(はうじゆん)古(こ)
白(はく)と刻(こく)してある、 又(ま)た柳貝津(やながいつ)の成富(しげとみ)の墓(はか)の隣(とな)りに一 基(き)の古墳(こふん)があるが口碑(こうひ)には古白(こはく)の墓(はか)と伝(つた)へられて
ある、 然(しか)れ共(ども)古白(こはく)成時(しげとき)は前(ぜん)にも云(い)ひし如(ごと)く永正(えいせう)三 年(ねん)の死(し)で今橋城(いまはしぜう)に於(おい)て戦死(せんし)したのであるから此(この)位牌(ゐはい)
の人(ひと)とは年代(ねんだい)が違(ちが)ふのみならず牧野村(まきのむら)に墓(はか)のあるのは道理(どうり)に合(あ)はぬ、 従(したがつ)て此(この)位牌(ゐはい)又(また)は古墳(こふん)の人(ひと)が「コ
ハク」と云(い)つた人(ひと)であると云(い)ふ伝説(でんせつ)口碑(こうひ)は捨(す)てられぬが之(これ)と同時(どうじ)に此(この)「コハク」は今橋(いまはし)に築城(ちくぜう)した古白(こはく)
成時(しげとき)ではないと云(い)ふことも信(しん)ぜられるのである、 然(しか)らは此(この)位牌(ゐはい)の人(ひと)は古白(こはく)の父(ちゝ)成冨(しげとみ)であるかと云(い)ふに成(しげ)
冨(とみ)は文明(ぶんめい)より前(まへ)の文正(ぶんせい)三 年(ねん)に死(しん)で居(を)るから夫(そ)れでもない、 即(すなは)ち此(この)位牌(ゐはい)の人(ひと)は成冨(しげとみ)でもなく成時(しげとき)でもな
く別(べつ)に古伯(こはく)と号(ごう)した人(ひと)であつて文明(ぶんめい)三 年(ねん)財賀寺(ざいがじ)に棟札(むなふだ)を上(あ)げた願主(がんしゆ)ではなかろうか、 夫(そ)れ等(ら)こ之(こ)れ等(ら)の
点(てん)より考(かんが)へてドウモ古伯(こはく)と古白(こはく)とは仝(おな)じ牧野(まきの)の一 族(ぞく)ではあるが別人(べつじん)であるように信(しん)ぜられるのである
古白(こはく)の素性(すぜう)に関(くわん)しては大要(たいえう)以上(いぜう)述(のべ)た如(ごと)くであるが寛政重修諸家譜(かんせいしうしうしよかふ)に古白(こはく)は明応(めいおう)四 年(ねん)四月八日 足利義稙(あしかゞよしたね)
の命(めい)によつて三河国(みかはのくに)諸士(しよし)の旗頭(はたがしら)となつたとしてある、 蓋(けだ)し其頃(そのころ)の足利将軍(あしかゞせうぐん)の勢望(せいぼう)は頗(すこぶ)る衰(おとろ)へたもので
あるから、 仮令(たとへ)三河諸士(みかはしよし)の旗頭(はたがしら)を命(めい)ぜられた処(ところ)で、 事実(じじつ)に於(おい)ては余(あま)り巾(はゞ)の利(き)いたものでもなかつたで
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
【左頁】
【本文】
あろうが兎(と)に角(かく)、 当時(とうじ)古白(こはく)が三河(みかは)に於(おい)て漸(やうや)く頭角(とうかく)を現(あら)はすに至(いた)つたことは事実(じじつ)である、 又(また)古白(こはく)が今(いま)の豊(とよ)
橋市(はしし)中(なか)八の神明社殿(しんめいしやでん)の造営(ざうえい)をしたのは此(この)明応(めいおう)の六 年(ねん)であるが、明応(めいおう)も 九 年(ねん)で文亀(ぶんき)と改(あらた)まり文亀(ぶんき)は僅(わづか)に
三 年(ねん)で四 年目(ねんめ)には永正(えいせう)となつたのである、 即(すなは)ち其(その)二 年(ねん)に今橋城(いまはしぜう)は落成(らくせい)したのであるが古白(こはく)が初(はじ)めて此(この)
今橋城(いまはしぜう)を築(きづ)いた時の事情(じぜう)に付(つい)ては矢張(やはり)色々(いろ〳〵)の説(せつ)がある、二 葉松(ばまつ)には今川氏親(いまがはうじちか)の命(めい)によつて築(きづ)いたもの
であるとしてあつて牛久保(うしくぼ)密談記(みつだんき)にも四月八日 古白(こはく)が牛窪(うしくぼ)の若宮(わかみや)八 幡(まん)に参詣(さんけい)の時に駿河(するが)から使者(ししや)が到(とう)
着(ちやく)して当国(とうごく)馬見塚(まみづか)辺(へん)に一 城(ぜう)を築(きづ)くべしとの命(めい)で、 古白(こはく)は身(み)の誉(ほま)れ何事(なにごと)か之(これ)に如(し)かんと喜(よろこ)んだとの事が
書(か)いてある、 併(しか)し此(この)築城(ちくぜう)が氏親(うじちか)の命(めい)であると云(い)ふことは今(いま)確実(かくじつ)なる証拠(せうこ)がなく又(ま)た其他(そのた)の信(しん)ずべき書物(しよもつ)
には熟(いづ)れも認(したゝめ)めて居(ゐ)ないから先(ま)づ疑問(ぎもん)であるが、 同(おな)じ密談記(みつだんき)に築城(ちくぜう)当時(とうじ)の模様(もやう)を記(しる)して
牧野成時(まきのしげとき)は牛窪(うしくぼ)組与力(くみよりき)の面々(めん〳〵)召連(めしつ)れ給(たま)ひ、 馬見塚(まみづか)の岡(をか)を撿分(けんぶん)して入道(にうどう)ケ淵(ふち)と云(い)ふ所(ところ)を城地(ぜうち)に定(さだ)め数(すう)
千の人歩(にんぷ)を集(あつ)め、 此(この)淵(ふち)半(なか)ば埋(うづ)めんとし給(たま)へ共(ども)、 豊川(とよかは)の流岸(ながれきし)を洗(あら)ひ其上(そのうへ)差(さ)し来(きた)る潮先(しほさき)にて中々(なか〳〵)事(こと)ゆか
ず、かゝる深淵(しんえん)には主有(ぬしあ)るものなり之(これ)を蔑(ないがしろ)にする時(とき)は祟(たゝ)り障(さは)りをなすもの也、さらば仏神(ほとけかみ)の力(ちから)を
からむ幸(さいはひ)当国(とうごく)吉祥山(きちぜうざん)は霊地(れいち)也(なり)此山(このやま)の塊(つちくれ)を申下(もうしくだ)して、 之(これ)にて埋初(うめはじ)めそれより岡土(こうど)を運(はこ)ぶ、其外(そのほか)貴僧(きそう)
高僧(こうそう)の御祈祷(ごきとう)別(べつ)して天王宮(てんわうぐう)若宮(わかみや)熊野(くまの)大権現(だいごんげん)祈願(きがん)川社(かはやしろ)の祭(まつり)執行(しつこう)抽丹(たんぜい)誠(ぬきんで)給(たま)へは、 水筋(みづすじ)息(いき)ながらかに永(えい)
正(せう)二 丑年(うしのとし)成就(ぜうじゆ)し、 名(なづ)けて今橋城(いまはしぜう)と云(い)ふ
とあるのは俗間(ぞくかん)の伝説(でんせつ)を書(か)いたもので牽強附会(けんけうふくわい)の様(やう)ではあるが又(ま)た実(じつ)に味(あじは)ふべき点(てん)があると思(おも)ふ、 即(すなは)
ち古白(こはく)が此時(このとき)に築(きづ)いた城(しろ)は矢張(やはり)今(いま)の豊橋城址(とよはしぜうし)の地(ち)で歩兵(ほへい)第十八 連隊(れんたい)のある処(ところ)であるが、 勿論(もちろん)其(その)当時(とうじ)は
今日(こんにち)の如(ごと)く広大(こうだい)なる城(しろ)ではなかつたに相違(さうゐ)ない、 併(しか)し其頃(そのころ)此川幅(このかははゞ)はまだ中々(なか〳〵)広(ひろ)くて流(なが)れも激(はげ)しく深淵(しんえん)
であつたのは事実(じじつ)と信(しん)ぜられる、 又(また)馬見塚(まみづか)の地名(ちめい)であるが此(この)城(しろ)の築(きづ)かれた永正(えいせう)の頃(ころ)に果(はた)して此辺(このへん)を馬(ま)
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十九
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 二十
【本文】
馬見塚 見塚(みづか)と呼(よ)びしや否(いなや)は元(もと)より疑問(ぎもん)である、 併(しか)しながら此(この)記事(きじ)は却(かへつ)て牛久保密談(うしくぼみつだんき)の著(あらは)された元禄(げんろく)の当時(とうじ)
此地(このち)が吉田(よしだ)の内(うち)でも馬見塚(まみづか)に属(ぞく)した村地(そんち)であつて町地(てうち)の部(ぶ)ではなかつたと云(い)ふ参考(さんこう)となるものである
と信(しん)ぜられる、 又(ま)た、 此時(このとき)に吉祥山(きちぜうざん)の吉(きち)の字(じ)と牧野氏(まきのし)の本姓(ほんせい)たる田口(たぐち)の田(た)の字(じ)とを取(とつ)て、 此地(このち)を吉田(よしだ)
と命名(めい〳〵)したのであると云(い)ふ説(せつ)が伝(つた)はつて居(を)るが、 之(これ)は全然(ぜん〴〵)誤(あやまり)で今橋(いまはし)の地名(ちめい)を吉田(よしだ)と改(あらた)めたのは、之
より以後(いご)の事である、 之(これ)は後(のち)に至(いた)つて詳論(せうろん)する考(かんが)へである爾来(じらい)古白(こはく)は自(みづか)ら今橋城(いまはしぜう)に移(うつ)つたのであるが
牧野成勝 一 色城(しきぜう)をば牧野成勝(まきのなりかつ)に譲(ゆづ)つたと云ふ事は之(これ)亦(ま)た牛久保密談(うしくぼみつだんき)幷(ならび)にみ宮嶋伝記(みやしまでんき)に載(の)つて居(を)る処(ところ)である、 此(この)
成勝(なりかつ)と云ふ人(ひと)は初(はじ)め新次郎(しんじろう)と云ひ後(のち)に民部丞(みんぶのぜう)又(また)右馬允(うまのすけ)と云つたので宮島伝記(みやしまでんき)には、 古白(こはく)の子(こ)であると
してあるが其(その)新次郎(しんじろう)又(また)は右馬允(うまのすけ)と云つた処(ところ)より見(み)ると長岡(ながをか)牧野氏(まきのし)の祖先(そせん)成定(なりさだ)に関係(かんけい)のある様(やう)に思(おも)はれ
る即(すなは)ち成定(なりさだ)も亦(ま)た新次郎(しんじらう)右馬允(うまのすけ)と称(とな)へたのである、 従(したがつ)て私(わたくし)は其(その)古白(こはく)の子(こ)にあらざることを信(しん)ずるもの
であるが田辺(たなべ)牧野家(まきのけ)の調(しら)べによると果(はた)して成定(なりさだ)の養祖父(やうそふ)に成勝(なりかつ)と云ふのがある而(しか)して此(この)成勝(なりかつ)と云ふ人(ひと)
が享禄(けうろく)二 年(ねん)(今(いま)を距(さ)る三百八十三 年(ねん))に初(はじ)めて一 色(しき)を改(あらた)めて牛窪(うしくぼ)と命名(めい〳〵)したとの事であるから牛久保町(うしくぼてう)
に取(と)つては歴史上(れきしぜう)研究(けんきう)すべき人物(じんぶつ)であると思(おも)ふ。
⦿牧野古白の戦死
此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で牧野古白(まきのこはく)は今橋(いまはし)の城主(ぜうしゆ)となつたのであるが其(その)翌(よく)永正(えいせう)三 年(ねん)には城(しろ)は遂(つひ)に陥(おちい)りて古白(こはく)を初(はじ)め
《割書:古白戦死の|月日》 其(その)一 類(るい)のお多(おほ)くは戦死(せんし)したのである、 然(しか)るに此(この)戦(たゝかひ)の事に就(つい)ても異説(ゐせつ)紛々(ふん〳〵)で、 頗(すこぶ)る困難(こんなん)なる研究(けんきう)である
が先(ま)づ、 此(この)古白(こはく)戦死(せんし)の月日(つきひ)に就(つい)ても之(これ)を十一月三日であると云(い)ふのと十一月四日であると云(い)ふのと、
仝(どう)十二日であると云(い)ふのと合(あは)せて三 説(せつ)あるのである、 此(この)十一月三日と云(い)ふ説(せつ)は寛政重修諸家譜(かんせいじうしうしよかふ)幷(ならび)に牧(まき)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百六号附録 ( 明治四十四年三月十四日発行 )
【本文】
吉田城主考 野家譜(のかふ)を初(はじ)め書(か)いたものゝ 種類(しゆるい)が多(おほ)いのであるが十一月四日と云ふ説(せつ)は吉田城主考(よしだぜうしゆこう)と云(い)ふ書物(しよもつ)の説(せつ)で
ある、 此(この)吉田城主考(よしだぜうしゆこう)と云(い)ふ書物(しよもつ)は戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)と云(い)ふ書物(しよもつ)の中(なか)の一 部(ぶ)で、 之(これ)は二 連木戸田(れんぎとだ)即(すなは)ち、
維新前(ゐしんぜん)信州(しんしう)松本(まつもと)の藩主(はんしゆ)たりし戸田家(とだけ)の家臣(かしん)が主家(しゆか)の家系(かけい)を研究(けんきう)したもので、 天保年間(てんほうねんかん)の著書(ちよしよ)であるが
頗(すこぶ)る精細(せうさい)に調査(てうさ)したもので参考(さんこう)とすべき処(ところ)が多(おほ)いのである、 而(しか)して此書(このしよ)は何故(なにゆえ)に古白の死(し)を十一月の
《割書:光輝庵過去|帳》 四日であると断定(だんてい)したかと云ふに、 牛久保(うしくぼ)の光輝庵(こうきあん)の過去帳(くわこてう)に拠(よ)つたもので光輝庵(こうきあん)の過去帳(くわこてう)に月(げつ)誉(よ)古(こ)
白(はく)居士(こじ)とあつて十一月四日の条(くだり)に記入(きにふ)せられてあるからである、 因(よつ)て光輝庵(こうきあん)に就(つい)て調(しら)べて見(み)ると現在(げんぞん)
せる過去帳(くわこてう)では、 元禄(げんろく)四 年(ねん)と仝七年との序(ぢよ)と跋(ばつ)とのあるものが、 最(もつと)も古(ふる)いので成程(なるほど)其中(そのなか)には其通(そのとほ)りに
記(しる)されてある、 併(しか)し能(よ)く〳〵 研究(けんきう)して見(み)ると、それと仝月日(どうがつひ)の処(ところ)に古白(こはく)の子(こ)成三(しげかづ)信成(のぶしげ)等(ら)の浄土宗(ぜうどしう)にて
付(つ)けた戒名(かいめう)が列記(れつき)せられて居(を)る、 此(この)成三(しげかづ)信成(のぶしげ)の事に就(つい)ては、 後(のち)に詳論(せうろん)する考(かんがへ)であるから其時(そのとき)に会得(えとく)
せらるゝ事であろうと信(しん)ずるが、 如何(いか)にしても父(ちゝ)の古白(こはく)と仝月日の戦死(せんし)ではない、それのみならず六
日の処(ところ)に更(さら)に同(おな)じ成三(しげかづ)信成(のぶしげ)等(ら)の曹洞宗(そうどうしう)にて付(つ)けた戒名(かいめう)が記入(きにう)せられて居(を)る、 此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)であるから
吉田城主考(よしだぜうしゆこう)の著者(ちよしや)が調査(てうさ)した過去帳(くわこてう)が果(はた)して、 此(こ)の現存(げんぞん)せるものであつたならば、 殆(ほとん)ど証拠(せうこ)とする丈(だけ)
のものではなかろうと思(おも)ふ、 又(ま)た十二日 説(せつ)を取(と)つて居(を)るのは何(なん)であるかと云(い)ふに、 朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)であ
る此書(このしよ)は三 州本間氏(しうほんまし)の覚書(おぼへがき)と云ふものを主(おも)なる論拠(ろんきよ)として居(を)るのであるが、 此(この)覚書(おぼへがき)と云(い)ふものも直(たゞ)ち
に之(これ)を確信(かくしん)すべきものなるや否(いな)や、 大(だい)なる疑問(ぎもん)である、 従(したがつ)て私(わたくし)は他(た)に確実(かくじつ)なる証拠(せうこ)を発見(はつけん)する迄(まで)は
今(いま)は広(ひろ)く伝(つた)はつて居(を)る、 第(だい)一 説(せつ)即(すなは)ち十一月三日 説(せつ)に従(したが)ふの外(ほか)はないと信(しん)するのである、 然(しか)るに牛久保(うしくぼ)
《割書:古白非戦死|説の誤謬》 密談記(みつだんき)には此時(このとき)古白は戦死(せんし)の事に偽(いつは)り其実(そのじつ)は宝飯郡(ほゐぐん)の瀬木(せぎ)に落(お)ち延(の)びたものであると記(しる)してあるが茲(こゝ)
に面白(おもしろ)いのは宮島伝記(みやしまでんき)幷(ならび)に享保(けうほ)十六 年(ねん)に牧野伊予守家(まきのいよのかみけ)からの依頼(いらい)でニ 葉松(ばまつ)の著者(ちよしや)佐野監物(さのけんもつ)渡邊自休(わたなべじきう)両(れう)
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 廿一
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 廿二
【本文】
人(にん)より書(か)き上(あ)げた牧野家御由緒(まきのけごゆうしよ)と名(なづ)けられて居(を)る書物(しよもつ)があるが、 此等(これら)の書物(しよもつ)では例(れい)の豊橋市(とよはしし)中(なか)八 神明(しんめい)
社(しや)にある古白の棟札(むなふだ)を証拠(せうこ)として牛久保密談記(うしくぼみつだんき)の説(せつ)を是認(ぜにん)して居(を)る事である、それは如何(いか)なる処(ところ)から
間違(まちがつ)たものであるか右(みぎ)の棟札(むなふだ)は明応(めいおう)六 年(ねん)のものであるのに古来(こらい)之(これ)を永正(えいせう)六 年(ねん)と誤写(ごしや)し伝(つた)えたもので、
此(この)間違(まちがひ)は独(ひと)り宮島伝記(みやじまでんき)牧野家御由緒(まきのけごゆうしよ)のみでなくほ外(ほか)にも沢山(たくさん)あるのである、 然(しか)るに此(この)棟札(むなふだ)に永正(えいせう)六 年(ねん)と
あると云(い)ふので之(これ)を証拠(せうこ)に古白は永正(えいせう)三 年(ねん)に死(し)んだ筈(はず)はないと主張(しゆてう)して古白の戦死(せんし)を否認(ひにん)して居(を)るの
であるから、 此(この)古白非戦死(こはくひせんし)の説(せつ)は既(すで)に其(その)根本(こんぽん)に於て誤(あやま)つて居(を)ることとなるのである、 古白戦死(こはくせんし)の月日に
就(つい)ては大要(たいえう)前(まへ)に述(の)べた如(ごと)くであるがサテ此(この)戦(たゝかひ)に於(お)ける古白の相手(あひて)方(がた)は誰(たれ)であつたかと云(い)ふに、 不思(ふし)
議(ぎ)な事には之(これ)が亦(ま)た疑問(ぎもん)であつて、 旧来(きうらい)から解決(かいけつ)することの出来難(できがた)い問題(もんだい)になつて居(を)るのである、 即(すなは)ち
之(これ)には二 説(せつ)あるので、
《割書:今川氏親攻|撃説》 一、 田原(たはら)の戸田弾正憲光(とだだんぜうのりみつ)の讒(ざん)により今川氏親(いまがはうぢちか)の攻撃(こうげき)せりとなすもの
《割書:松平長親逆|襲説》 二、 松平長親(まつだひらながちか)の逆襲(ぎやくしう)によるとなすもの
此(この)両説(れうせつ)である、 現(げん)に牧野伊予守家(まきのいよのかみけ)の系図(けいづ)に於(おい)ても古(ふる)い方(ほう)には此(こ)の第二の説(せつ)が取(と)つてあるが新(あたらし)い方(ほう)に
は反(かへつ)て第一の説(せつ)が記(しる)されてあると云(い)ふ訳(わけ)で又(ま)た同(おな)じ時代(じだい)に同(おな)じ人の監督(かんとく)の下(もと)に出来(でき)たと云(い)ふのである
のに朝野旧聞襃稿(てうやきうぶんほうこう)と徳川実記(とくがはじつき)とは矢張(やはり)説(せつ)が違(ちが)つて前者(ぜんしや)は第一 説(せつ)を取(と)つて後者(こうしや)には第二 説(せつ)が載(の)つて居(を)る
のである而(しか)して同(おな)じ幕府(ばくふ)の編纂(へんさん)である寛永系図(かんえいけいづ)には第一 説(せつ)が記(しる)されてあつて寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には第二
説(せつ)を採用(さいよう)してある又(ま)た藩翰譜(はんかんふ)の如(ごと)きは創業記(さうげうき)を引用(いんよう)して第一 説(せつ)を取(と)つて居(を)るが野史(やし)の如(ごと)きは古(ふる)き牧野(まきの)
系図(けいづ)に重(おも)きを置(お)いて第二 説(せつ)を是認(ぜにん)して居(を)る、 此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)であるから其他(そのた)種々(しゆ〴〵)の記録類(きろくるい)は熟(いづ)れも区々(くゝ)
の説(せつ)をなして居(を)るのである、 然(しか)るに此事(このこと)に関連(かんれん)して茲(こゝ)に大(おほい)に考究(こうきう)を要(えう)するのは今川(いまがは)松平(まつだひら)二 氏(し)が此年(このとし)の
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
【左頁】
【本文】
《割書:今川松平二|氏矢矧川会》 八月二十日から二十二日にかけて矢矧川(やはぎがは)に於(おい)て会戦(くわいせん)せしことである元来(がんらい)此(この)松平長親(まつだひらながちか)と云(い)ふ人は信光(のぶみつ)の孫(まご)
《割書:戦| 》 で親忠(ちかたゞ)の子(こ)であるが徳川家康(とくがはいへやす)から云(い)ふと曽祖々父(そうそゝふ)に当(あた)るのである此人(このひと)は中々(なか〳〵)人望(じんぼう)のあつた人で自(みづか)ら安(あん)
祥(じやう)の城(しろ)に居(を)つたが西(にし)三 河(かは)の将士(せうし)は次第(しだい)に皈服(きふく)して勢力(せいりよく)日(ひ)に盛(さかん)であつた、かゝる処(ところ)から駿河(するが)の今川氏親(いまがはうぢちか)
は兵(へい)を出(いだ)して之(これ)を攻(せ)めむとし伊勢新(いせしん)九 郎(ろう)(北条早雲(ほゝでうそううん))は其(その)将(せう)として先(ま)づ岩津(いわづ)の城(しろ)を犯(おか)さむとしたのであ
る、ソコデ長親(ながちか)は捨置(すてお)かれず安祥(あんじやう)より出(い)でゝ 之(これ)を救(すく)はむとし遂(つひ)に矢矧川(やはぎがは)の会戦(くわいせん)を見(み)るに至(いた)つたので此(この)
戦(たゝかひ)の事は詳(くは)しく彦左衛門(ひこざえもん)の三 河物語(かはものがたり)にも載(の)つて居(を)るが、 諸記録(しよきろく)の記(き)する処(ところ)も略(ほ)ぼ一 致(ち)して居(を)るので
ある、 結局(けつきよく)此(この)戦(たゝかひ)は今川方(いまがはかた)の不利(ふり)に終(をは)つたのであるが伊勢新(いせしん)九 郎(らう)は此時(このとき)田原(たはら)の城主(ぜうしゆ)戸田弾正憲光(とだだんぜうのりみつ)が長(なが)
親(ちか)に心(こゝろ)を寄(よ)せ反旗(はんき)を翻(ひるがへ)すべしと聞(き)き急(いそ)ぎ今橋城(いまはしぜう)に引揚(ひきあ)げたので此事(このこと)も同(おな)じ三 河物語(かはものがたり)に記(しる)してあるので
ある、 又(ま)た仝書(どうしよ)に此(この)戦(たゝかひ)に於(お)ける今川勢(いまがはぜい)の名前(なまへ)が列記(れつき)してあるが其中(そのなか)に吉田衆(よしだしう)と云(い)ふのがある即(すなは)ち之(これ)
は今橋(いまはし)の古白勢(こはくぜい)を指(さ)したものと思(おも)はれる、モツトモ其頃(そのころ)はまだ吉田(よしだ)の地名(ちめい)はなく今橋(いまはし)であつたに相違(さうゐ)
ないが、 之(これ)は彦左衛門(ひこざえもん)が此書(このしよ)を記(き)するに当(あた)り深(ふか)く前(まへ)の事迄(ことまで)も詮索(せんさく)せずに記(しる)したものと信(しん)じて疑(うたが)はぬの
である特(とく)に牧野家譜(まきのかふ)には
永正三年、伊勢新九郎代今川、帥五個国兵、発向三州、古白属今川、八月二十日、新九郎率東三河
国勢、於矢矧川辺、與松平長親大戦、勝負未決、日暮 明日約可遂一戦、入夜新九郎還吉田城、置
東三河制法、収兵而還駿河
とあるが寛永新田嫡流譜(かんえいしんでんちやくりうふ)には明(あきら)かに「 長親(ながちか)五百 余騎(よき)を引(ひき)ゐて矢矧川(やはぎがは)を渡(わた)り合戦(かつせん)す、 今川(いまがは)が兵(へい)破(やぶ)れ走(はし)る
夜(よ)に入(いり)て、 吉田(よしだ)の城(しろ)を引退(ひきしりぞ)き、 牧野古白(●●●●) をして(●●●) 是(●)を(●)守(●)らしめ(●●●)、 諸勢(しよぜい)を引(ひい)て駿河(するが)に帰(かへ)る」となつて居(を)る
ので之等(これら)の点(てん)から考(かんが)えて見(み)ると如何(いか)に戦国(せんごく)の事とは云(い)へ氏親(うじちか)が僅(わづか)か三四ケ月 前(ぜん)に敵(てき)に内通(ないつう)しはしまい
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 廿三
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 廿四
【本文】
かと疑(うたが)つた戸田(とだ)の讒言(ざんげん)を信(しん)じて忽(たちま)ち以前(いぜん)に信任(しんにん)した古白(こはく)を攻(せ)むるに至(いた)るとは少(すこ)しく受取(うけと)れぬ話(はなし)である
と思(おも)ふ、シテ見(み)ると前(まへ)に述(の)べた第一 説(せつ)は誤(あやまり)であつて第二の長親逆襲説(ながちかぎやくしせつ)が有理(ゆうり)であるようになるのであ
る、 然(しか)るに之(これ)にも亦(ま)た一つの反証(はんせう)とも見(み)るべきものがあるので当時(とうじ)長親(ながちか)に逆襲(ぎやくしう)などの意気込(いきごみ)のなかつ
た事は矢張(やはり)三 河物語(かはものがたり)初(はじ)め諸書(しよ〳〵)に見(み)ゆる処(ところ)であるが長親(ながちか)は到底(とうてい)勝(か)つことの出来(でき)まいかと心痛(しつう)した戦(たゝかひ)に首尾(しゆび)
よく勝(か)つたので長駆(てうく)なとする考(かんがへ)はなく翼(つばさ)を収(おさ)めて安祥(あんじやう)の城(しろ)に引(ひ)き籠(こも)つた様子(やうす)が見(み)えて居(を)るのである、
岡崎古記 それのみならず岡崎古記(をかざきこき)と云(い)ふ書に「 今川氏親(いまがはうぢちか)は三 河(かは)を従(したが)へん為(た)めに発向(はつこう)し東(ひがし)三 河(かは)の今橋(いまはし)に於(おい)て合戦(かつせん)
あり城主(ぜうしゆ)牧野氏(まきのし)討死(うちじに)し氏親(うぢちか)はそれより猶(なほ)進(すゝん)で西(にし)三 河(かは)に向(むか)ふ之(これ)に依(よつ)て山中妙大寺(やまなかめうだいじ)矢作寺(やはぎじ)所々(しよ〳〵)方々(はう〴〵)にて合(かつ)
戦(せん)あり此時(このとき)桑子村(くわこむら)明源寺(めうげんじ)の扱(あつかひ)にて和談(わだん)になり仝年十一月十五日 桑子村(くわこむら)明源寺(めうげんじ)え今川氏親(いまがはうぢちか)より制札(せいさつ)を出(いだ)
妙源寺文書 され今(いま)に所持(しよじ)す」と云(い)ふ事が記(し)るされて居(を)る、ソコで碧海郡(へきかいぐん)の矢作町(やはぎまち)大字(おほあざ)桑子(くわこ)の妙源寺(めうげんじ)に行(いつ)て見(み)ると
成程(なるほど)永正(えいせう)三 年(ねん)十一月十五日 付(つけ)の制札(せいさつ)がある併(しか)し此(この)制札(せいさつ)には氏親(うぢちか)の名前(なまへ)はなくて只(た)だ花押(くわこう)が一つある丈(だけ)
であるが、 此(この)花押(くわこう)は花押籔(くわこうそう)と云ふ書物(しよもつ)にある氏親(うぢちか)のとは少(すこ)しく違(ちが)ふ点(てん)がないではない併(しか)し決(けつ)して後世(こうせい)
の製作物(せいさくぶつ)ではないと信(しん)ずる、スルト氏親(うぢちか)が此日(このひ)に此処(ここ)に来(きた)つた事は事実(じじつ)であるとせねばならぬ朝野旧(てうやきう)
聞裒稿(ぶんほうこう)幷(ならび)に吉田城主考(よしだぜうしゆこう)は即(すなは)ち此点(このてん)によつて岡崎古記(をかざきこき)の説(せつ)を信(しん)じ所謂(いはゆる)第一 説(せつ)を取(と)つて居(を)るのである、 然(しか)
れ共(ども)之(こ)れも見様(みやう)によつてはコウもなるので即(すなは)ち古白(こはく)が長親(ながちか)の逆襲(ぎやくしう)によつて苦(くるし)められて居(を)ると云ふ事を
氏親(うぢちか)が聞(き)ゐて直(たゞ)ちに駿河(するが)から兵(へい)を率(ひき)ゐて来(きた)つたが長親(ながちか)は既(すで)に引(ひ)き還(かへ)つた後(のち)であつたから其後(そのご)を追(お)つて
十一月の十五日 桑子(くわ)迄(まで)達(たつ)したのである之(これ)でも理屈(りくつ)は合(あ)うのである要(えう)するに此(この)両説(れうせつ)は前(まへ)にも述(の)べたる如(ごと)
く古来(こらい)からの疑問(ぎもん)であるから今新(いまあらた)に確実(かくじつ)なる証拠(せうこ)を発見(はつけん)するに至(いた)るまでは先(ま)づ不明(ふめい)である只(た)だ私(わたくし)は
説(せつ)としては暫(しばら)く寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)中(ちう)古白(こはく)の譜(ふ)に
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百十二号附録 ( 明治四十四年四月二十一日発行 )
【本文】
永正(えいせう)三年 伊勢新(いせしん)九 郎(らう)長氏(ながうぢ)今川氏親(いまがはうじちか)に代(かは)り駿遠(すんえん)三及び豆相(づさう)五 箇国(かこく)の兵を率(ひき)ゐて三河国に発向(はつこう)す之の時
今川家(いまがはけ)に属(ぞく)す九月 長親(ながちか)数(すう)十 騎(き)を率(ひき)ゐて吉田城(よしだぜう)を攻(せめ)たまふ十一月三日 城中(ぜうちう)勢(いきほ)ひ屈(くつ)して士率(しそつ)散走(さんさう)し残兵(ざんぺい)
僅(わづか)に六七十人 城(しろ)を出(い)で相戦(あいたゝか)ひこと〴〵く討死(うちじに)す
とあるに従(したが)はむとするものである尚(なほ)参考(さんこう)の為(ため)に第一説に属(ぞく)するものゝ 内(うち)で藩翰譜(はんかんふ)の記事(きじ)を掲(かゝ)ぐれば左(さ)
の如(ごと)くである
(牧野氏(まきのし)の条(くだり))
初(はじ)め牧野古白入道(まきのこはくにふどう)今橋の城(しろ)にありて田原(たはら)の戸田(とだ)と心(こゝろ)よからず今川(いまがは)治部大輔(じぶたゆう)氏親(うぢちか)戸田を助(たす)けて今橋(いまはし)の
城(しろ)を攻(せ)む永正(えいせう)三年十一月 城(しろ)破(やぶ)れて牧野入道(まきのにふどう)腹切(はらきつ)て死(し)す城(しろ)をば戸田(とだ)で取(と)りたりける
(戸田氏(とだし)の条(くだり))
其(その)男(だん)弾正忠憲光(だんぜうたゞのりみつ)田原にあり同国(どうこく)今橋(いまはし)の住人(ぢうにん)牧野入道古白(まきのにふどうこはく)と互(たがひ)に地を争(あらそ)ふ今川(いまがは)治部大輔(じぶたゆう)氏親(うぢちか)戸田を助(たす)
く永正(えいせう)三年七月 駿河(するが)の国(くに)を立(たつ)て同き八月二十六日 今橋(いまはし)の城(しろ)に押(おし)よせ攻(せ)め戦(たゝか)ふ事六十余日 牧野(まきの)終(つひ)に打(うち)
まけて切腹(はらきつ)て死(し)す
古白の人物 次(つぎ)に古白(こはく)の人物(じんぶつ)に就(つい)ての話(はなし)であるが元来(がんらい)古白(こはく)と云ふ人は前(まへ)にも述(の)べた如(ごと)く連歌(れんか)の達人(たつじん)で宗長(そうてう)とは余程(よほど)
深(ふか)い交際(こうさい)があつたものである、 然(しか)るに古白(こはく)の書(か)いたものは全(まつた)く何(なん)にも今日に残(のこ)つて居(を)らぬので、 殆(ほとん)ど
其(その)人物(じんぶつ)如何(いかん)を知(し)るの材料(ざいれう)がないと云ふ訳(わけ)である、 只(たゝ)豊橋市(とよはしし)吉屋(よしや)龍拈寺(りうねんじ)に古白(こはく)内室(ないしつ)の画像(ぐわぞう)があるが之(これ)は
其子(そのこ)成三(しげかづ)が納(をさ)めたものに相違(さうゐ)なく思(おも)はるゝので其像(そのぞう)の人品(じんぴん)と云ひ服装(ふくそう)等(とう)から推(お)して当時(とうじ)に於ける牧野(まきの)
氏(し)の位置(ゐち)が中々(なか〳〵)低(ひく)からざりしものであつたことが思(おも)はるゝのである、 而(しか)して若(も)しも豊橋市中八の神明社
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 廿五
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 廿六
【本文】
にある棟札(むなふだ)が古白の自筆(じしつ)であると云ふならば面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふ、 此(この)棟札(むなふだ)の文字(もじ)は余(あま)り名筆(めいしつ)では
ないが無邪気(むじやき)な飾(かざ)り気(け)のない豪傑風(ごうけつふう)の書(しよ)であつて中々(なか〳〵)味(あじは)ふべきものがあるのである、 又(ま)た此(この)棟札(むなふだ)にも
《割書:古白平姓を|称す》 平朝臣(たひらのあそん)古白(こはく)とあるが其外(そのほか)にも平姓(たひらせい)を名乗(なの)つた証拠(せうこ)は三四あるので当時(とうじ)此(この)牧野家(まきのけ)が平姓(たひらせい)を名乗(なの)つた事
に付(つい)ては疑問(ぎもん)の様(よう)であるが其頃(そのころ)は所謂(いはゆる)戦国時代(せんこくじだい)で歴史(れきし)や系図(けいづ)の研究(けんきう)は行届(ゆきとゞ)かず其(その)祖先(そせん)が平家(へいけ)の士(し)であ
つた処(ところ)から単純(たんじゆん)に平姓(たひらせい)を称(せう)したものと思(おも)はれる、 其(その)田口氏(たぐちし)で紀姓(きせい)であるなどゝ云ふ事は寛永(かんえい)以後(いご)徳川(とくがは)
古白の墳墓 時代(じだい)に至(いた)つて系図(けいづ)調(しら)べの結果(けつくわ)分(はか)つたものであると信(しん)ずる、 又(ま)た古白(こはく)の墳墓(ふんぼ)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)な説(せつ)があるが
私(わたくし)の知(し)る処(ところ)によると豊橋市(とよはしし)吉屋(よしや)龍拈寺(りうねんじ)前(まへ)の墳墓(ふんぼ)、 宝飯郡(ほゐぐん)御津村(みとむら)大恩寺(だいおんじ)の墳墓(ふんぼ)、 幷(ならび)に仝郡(どうぐん)牧野村(まきのむら)柳貝(やながい)
津(づ)の墳墓(ふんぼ)である、 而(しか)して三 州(しう)吉田記(よしだき)には豊橋市 上伝馬(かみでんま)興徳寺(こうとくじ)に葬(ほうむ)つたものゝ 如(ごと)く記(しる)してあつて新(あたらし)い
方(はう)の牧野家譜(まきのかふ)には赤岩法言寺(あかいわはうげんじ)に葬(ほうむ)ると記(しる)してある此(この)三 州(しう)吉田記(よしだき)と云ふ書物(しよもつ)は吉田呉服町の人で林自見(はやしじけん)
の著(ちよ)であるが此人(このひと)の事に就(つい)てはいづれ後(のち)に至(いたつ)て申上(まうしあ)ぐる考(かんがへ)である然(しか)るに此(この)興徳寺(こうとくじ)には今何(いまなん)にも残(のこ)つ
て居(を)らぬので一の証拠(せうこ)となるものもなく法言寺(はうげんじ)にも更(さら)に其(その)形跡(けいせき)がないのである、 又(ま)た牧野村(まきのむら)柳貝津(やながいづ)の
墳墓(ふんぼ)に就(つい)ては前章(ぜんせう)に評論(へうろん)した如(ごと)くで全(まつた)く別人(べつじん)のものと信(しん)ぜられる而(しか)して大恩寺(だいおんじ)の墳墓(ふんぼ)は後世(こうせい)に至つて
建(た)てたもので古白(こはく)の戒名(かいめう)は慥(たしか)に彫(ほ)り込(こ)むではあるが無論(むろん)当時(とうじ)のものではないのであるが独(ひと)り龍拈寺(りうねんじ)
前(まへ)の墓(はか)に至(いた)つては充分(じんぶん)信(しん)を置(を)くに足(た)るものであると思(おも)ふ併(しか)しながら其(その)時代(じだい)にはまだ龍拈寺(りうねんじ)と云ふもの
は建立(こんりう)されなかつたので寧(むし)ろ寺(てら)の方(はう)が後(あと)に出来(でき)た訳(わけ)になつて居(を)るのである即(すなは)ち寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)に
法名(はうめい)古白(こはく)其(その)地(ち)に葬(ほうむ)る乃(すなは)ち男伝左衛門(だんでんざゑもん)が時(とき)一寺を其辺(そのへん)に造立(ざうりつ)して龍拈寺(りうねんじ)と云ふ今(いま)其(その)墳(つか)を古白墳(こはくつか)と号(ごう)す
とあつて全(まつた)く今日(こんにち)残(のこ)つて居(を)る龍拈寺(りうねんじ)の伝説(でんせつ)とも一 致(ち)するのである従(したがつ)て古白(こはく)の墳墓(ふんぼ)に付(つい)ては私(わたくし)は深(ふか)
戸田金七郎 く此説(このせつ)を信(しん)ずるものである、ソコデ古白(こはく)戦死(せんし)の後(のち)は如何(いか)なる人が今橋城(いまはしぜう)を守(まも)つたかと云ふに戸田金(とだきん)七
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□ □
【左頁】
【本文】
郎(らう)と云ふ人が居(を)つたと云ふことは諸説(しよせつ)の一 致(ち)する処である従(したがつ)て此(この)戸田金(とだきん)七 郎(らう)はどう云ふ人であつて当(とう)
時(じ)今川方(いまがはがた)に属(ぞく)してあつたか又(ま)た松平方(まつだひらがた)に属(ぞく)してあつたかと云(い)ふことが判然(はんぜん)すると自然(しぜん)前(ぜん)述(の)べた古白(こはく)の相(あひ)
手方(てがた)も分(わか)る理(り)であるが遺憾(ゐかん)な事には之(これ)も亦(また)明瞭(めいれう)ならぬのである藩翰譜系図(はんかんふけいづ)には此(この)金七郎を宣成(のぶなり)として
あつて憲光(のりみつ)の二 男(なん)だと書(か)いてあるが吉田城主考(よしだぜうしゆこう)には頗(すこぶ)る精細(せいさい)に考証(こうせう)して小松原(こまつばら)観音寺(くわんおんじ)を初(はじ)め大久保(おほくぼ)の
長興寺(てうこうじ)其他(そのた)高野山(こうやさん)平等院(へいどうゐん)等(とう)の文書(ぶんしよ)に橘(たちばな)七 郎(らう)宣成(のぶなり)と云ふのがあるがそれが此人(このひと)の事に相違(さうゐ)ないと記(しる)し
てある即(すなは)ち結局(けつきよく)は藩翰譜(はんかんふ)と仝論(どうろん)になるのであるが併(しか)し 尚(な)ほ疑問(ぎもん)は存(ぞん) せられて居(を)る然(しか)るに寛政重修諸家(かんせいぢうしうしよか)
譜(ふ)には宣成(のぶしげ)と云ふのは載(の)つて居(を)らぬので却(かへつ)て憲光(のりみつ)の孫(まご)で政光(まさみつ)の子(こ)の康光(やすみつ)が金七郎と云つた事が書(か)いて
ある而(しか)して全久院(ぜんきうゐん)の系図(けいづ)には康光(やすみつ)は政光(まさみつ)の弟(おとゝ)であつて其後(そのあと)を継(つ)いだものゝようになつて居(を)る処(ところ)かある
モツトモ此(この)戸田家(とだけ)に就(つい)ては後章(こうせう)に至(いた)つて詳説(せうせつ)する考(かんがへ)であるが此処(ここ)に以上(いぜう)の事を付説(ふせつ)して参考(さんこう)に資(し)せ
たいと思(おも)ふのである。
⦿牧野成三と吉田の地名
扨(さて)戦死(せんし)の時(とき)古白には一人(ひとり)の男児(だんぢ)があつたが之(これ)が後(のち)に成三(しげかづ)と名乗(なの)つたのて牛久保密談記(うしくぼみつだんき)並(ならび)に寛永系図(かんえいけいづ)に
は落城(らくぜう)の当時(とうじ)僅(わづか)に五歳であつたとしてある又(また)外(ほか)の書物(しよもつ)にも幼少(ようせう)であつたとしてあるが之(これ)が家臣(かしん)の富田(とみた)
某(なにがし)と云ふのに扶(たす)けられて尾張(をはり)の知多郡(ちたぐん)に逃(のが)れたのである之(これ)には又(ま)た一人の弟(おとゝ)があつて名(な)を信成(のぶしげ)と云(い)
《割書:牧野成三今|橋城を復す》 つたが成長(せいてう)の後(のち)共(とも)に今橋城(いまはしぜう)を復(ふく)し再(ふたゝ)び之(これ)に拠(よ)つたのである此(この)成三(しげかづ)と云ふ人は初(はじ)め田三と称(とな)へたのであ
牧野信成 るが多病(たびやう)の為(た)め弟(おとゝ)の信成(のぶしげ)を養(やしなつ)て子(こ)となし程(ほど)なく家(いへ)を譲(ゆづ)つて巳(おの)れは傳左衛門(ぜんざゑもん)と改(あらた)め信成(のぶしげ)は更(さら)に田三又
傳蔵と称(せう)した然(しか)るに両人(れうにん)が此(この)今橋城(いまはしぜう)を取(と)り返(かへ)した年月に就(つい)てはどの書物(しよもつ)にも記(しる)してない只(た)だ吉田城主(よしだぜうしゆ)
【欄外】
豊橋市史談 (牧野成三と吉田の地名) 廿七
【欄外】
豊橋市史談 (牧野成三と吉田の地名) 廿八
【本文】
考(こう)の著者(ちよしや)は之を大永元年(たいえいがんねん)の頃(ころ)であるとして居(を)る私(わたくし)も亦(ま)た大永(たいえい)の初年(しよねん)である事を信(しん)じて疑(うたが)はぬものであ
るが其(その)理由(りゆう)は前(ぜん)にも述(の)べた宗長手記(そうてうしゆき)大永六年三月の条(くだり)に「三河国(みかはのくに)今橋(いまはし)牧野(まきの)田三 彼(かの)父(ちゝ)おほぢより知人(ちじん)に
て国(くに)の境(さかひ)わづらはしきに人多(ひとおほ)く物(もの)の具(ぐ)などして迎(むかひ)にとてこと〴〵しくぞ覚(おぼ)えし此所(ここ)一日 熊谷越後守(くまがひゑちごのかみ)来(きた)り
物語(ものがたり)夜更(よふけ)侍(はべ)りし」とあり又(ま)た大永(たいえい)七年四月の条(くだり)に「今橋(いまはし)牧野(まきの)田三 宿所(しくしよ)一日 興行(こうぎよう)、こゝは古白(こはく)以来(いらい)年々(ねん〳〵)
歳々(さい〳〵)芳恩(ほうおん)の所(ところ)なり興行(こうぎよう)あはれにも昔(むかし)覚(おぼ)えて老屈(らうくつ)を忘(わす)るなるべし、けふ更(さら)に五月まつ花(はな)の宿(やど)りかな」と
ありて憾慨(かんがい)の情(ぜう)が溢(あふ)れて居る之(これ)によつて見(み)ると宗長(そうてう)が年々歳々 此(この)牧野家(まきのけ)に往来(おうらい)せるのは古白(こはく)以来(いらい)の事
で而(しか)も彼(かの)父(ちゝ)おほぢより知人(ちじん)であると云ふ処(ところ)から推及(すゐきう)すると其(その)おほぢと云ふのは古白(こはく)に当(あた)り父(ちゝ)と云ふの
は成三(しげかづ)に当(あた)るので今(いま)は田三信成(でんざうのぶしげ)の代(だい)であると云ふ事(こと)になるのである従(したがつ)て大永(たいえい)六年には既(すで)に信成(のぶしげ)が相(さう)
続(ぞく)して居(を)るのであるから成三(しげかづ)が僅(わづか)三四年で信成に譲(ゆづ)つたものと仮定(かてい)すれが成三(しげかづ)の此(この)城(しろ)を復(ふく)したのは大
永のニ三年に当(あた)るからで恰(あたか)も成三(しげかづ)廿一二歳の時(とき)になるのである序(ついで)だから申述(もうしの)べるが前(まへ)の熊谷越後守(くまがひゑちごのかみ)と
鵜津山 云ふのは宇理(うり)の城守(ぜうしゆ)であるが尚(なほ)宗長(そうてう)日記(につき)大永七年の条(くだり)の続(つゞ)きに「国(くに)の境(さかひ)の城(しろ)鵜津山(うづやま)に至(いた)りぬ此(この)鵜津山(うづやま)
の館(やかた)と云ふは尾張(おはり)三河 信濃(しなの)の境(さかひ)やゝもすれば競望(けうぼう)する族(やから)ありて番衆(ばんしう)日夜(にちや)無油断(ゆだんなき)城(しろ)なり東南北(とうなんぼく)浜名(はまな)の海(うみ)
廻(まは)りて山のあひ〳〵せき入(いり)堀(ほり)いれたる水の如(ごと)く城(しろ)の岸(きし)を廻(まは)る(中略)三ケ国の敵(てき)の境(さかひ)昼夜(ちうや)の太鼓(たいこ)夜番(よばん)の
声(こゑ)寸暇(すんか)なくきこゆ」と書(か)いてあるモツトモ此(この)鵜津山(うづやま)と云ふのは遠江国(とほとふみのくに)の内(うち)で三 河境(かはさかひ)に当(あた)るのである
から三 国(こく)の境(さかひ)とあるのは少(すこ)しく可笑(おか)しく思(おも)はるゝが兎(と)も角(かく)此(この)記事(きじ)は群雄割拠(ぐんゆうかつきよ)当時(とうじ)に於(お)ける実況(じつけう)が忍(しの)ば
るゝようで面白(おもしろ)く感(かん)ずるのである。
吉田の地名 此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)で牧野成三(まきのしげかづ)は再(ふたゝ)び此今橋城を復(ふく)したのであるがソコで申述(もうしの)べたいのは吉田(よしだ)の地名(ちめい)の事で
あつて私(わたくし)は此(この)吉田(よしだ)の改名(かいめい)を以(もつ)て実(じつ)に大永の初年(しよねん)成三(しげかづ)が此(この)城(しろ)を復(ふく)した当時(とうじ)に於て行(おこな)つたものであると
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百十七号附録 ( 明治四十四年四月二十八日発行 )
【本文】
確信(かくしん)して疑(うたが)はぬのである即(すなは)ち牛久保密談記(うしくぼみつだんき)に
今橋城(いまはしぜう)古白(こはく)落失(らくしつ)の時 尾張(おはり)に隠(かく)れてをはせし御息(おんそく)今は星霜(せいさう)おし移(うつ)り牧野傳左衛門 三成(かづしげ)と号(ごう)し其子(そのこ)傳蔵(でんざう)
信成(のぶしげ)(実は弟)父子(ふし)時(とき)を待(ま)ち三州に起(おこり)て今橋の城元(しろもと)の如(ごと)く取立(とりたて)吉田(よしだ)と名(なづ)けゝる
とあるのは大(おほい)に参考(さんこう)になるものであると思(おも)ふ又(ま)た三 河聞書(かはきゝがき)の中(なか)にも
大永二壬午牧野傳蔵信成改今橋号吉田
とあるが大永(たいえい)二年には前(まへ)にも述(の)べた通(とほ)り未(いま)だ信成(のぶしげ)の代(だい)ではなく成三(しげかづ)の時でなくてはならぬ併(しか)し今橋を吉
田と改(あらた)めた年代(ねんだい)に就(つい)ては誠(まこと)に同感(どうかん)である蓋(けだ)し之にも古来(こらい)種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があつて永正(えいせう)二年 古白(こはく)築城(ちくぜう)の時に改(かい)
名(めい)したのだと云ふものもある又(ま)たズツト後(のち)に至(いた)つて天文(てんもん)の中頃(なかごろ)に今川義元(いまがはよしもと)の命名(めい〳〵)したもので今橋(いまはし)と云
ふ名(な)は「イマワシ」と聞(きこ)ゆるから之(これ)を避(さ)けたものだと云ふ説(せつ)もあるモツトモ前(まへ)の永正二年説は何(なに)も深(ふか)き
根拠(こんきよ)はないのであるが後(のち)の今川義元(いまがはよしもと)改名(かいめい)説(せつ)は一ト通(とほ)り理由(りゆう)のある事で即(すなは)ち大永七年の頃(ころ)にはまだ宗長(そうてう)
手記(しゆき)にも此地(このち)を今橋と書(か)いてある又(また)其後(そのご)天文二年の尊海僧正(そんかいそうぜう)道(みち)の記(き)にも矢張(やはり)今橋の名(な)があるが殊(こと)に天
文十六年の天野文書(あまのぶんしよ)今川義元(いまがはよしもと)感状(かんぜう)の中(なか)に
今橋城(いまはしぜう)小口(こぐち)取寄(とりよせ)候(そうろう)時(とき)了念寺(れうねんじ)え可相移(あひうつるべき)之(の)由(よし)下知(げち)最前(さいぜん)馳入(はせいり)云々(うんぬん)
と云(い)ふことがある而(しか)して之と同年(どうねん)に義元(よしもと)の参謀(さんぼう)雪斎(せつさい)長老(てうらう)から此(この)天野(あまの)に与(あた)へた文書(ぶんしよ)の中には初(はじ)めて「吉田」
と云ふ名(な)があらはれて居(を)る又(ま)た豊橋市花田 字(あざ)羽田(はだ)の清源寺(せいげんじ)にも義元(よしもと)の寄付状(きふぜう)があつたが矢張(やはり)吉田の名
が記(しる)されて天文(てんぶん)中(ちう)のものであると云ふ処から此(この)吉田(よしだ)の地名(ちめい)は其頃(そのころ)初(はじ)めて現(あら)はれたものであると云ふの
が義元(よしもと)改名(かいめい)説(せつ)の論拠(ろんよき)になるのである併(しか)しながら茲(こゝ)に注意(ちうゐ)を要(えう)するのは豊橋市(とよはしし)吉屋(よしや)の龍拈寺(りうねんじ)と云ふ寺(てら)は
《割書:吉田山龍拈|寺》 寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)にも認(みと)めて居る通り牧野成三(まきのしげかづ)の建立(こうりう)であるが当時(とうじ)より之を吉田山(きちでんさん)と称(せう)して居るのであ
【欄外】
豊橋市史談 (牧野成三と吉田の地名) 廿九
【欄外】
豊橋市史談 (牧野信成等の戦死) 三十
【本文】
る元来(がんらい)此(この)寺(てら)の初祖(しよそ)は休屋宗官和尚(きうやそうかんおせう)と云つて豊橋市 上伝馬(かみでんま)興徳寺(こうとくじ)四代目の僧(そう)であるが爾来(じらい)此(この)興徳寺(こうとくじ)には
住職(ぢうしよく)を置(を)かず龍拈寺(りうねんじ)と兼務(けんむ)の事に定(さだ)められたのである而(しか)して此(この)興徳寺(こうとくじ)は今橋山(こんきようざん)と称(とな)へたものでる此(この)
事実(じじつ)から推(お)して考(かんが)えれば成三(しげかづ)が大永の初年に城(しろ)を復(ふく)した時 地名(ちめい)を吉田と改称(かいせう)し程(ほど)なく父(ちゝ)古白(こはく)の墓辺(ぼへん)に
龍拈寺(りうねんじ)を建立(こんりう)し興徳寺(こうとくじ)がこれ迄の地名(ちめい)によつて今橋山(こんきようざん)と号(ごう)した例(れい)により龍拈寺(りうねんじ)に新地名(しんちめい)を冠(かん)して吉田
山と命(めい)じたものと信(しん)ぜねばならぬのである然(しか)らば宗長(そうてう)手記(しゆき)を初(はじ)め前に述べた様に其後(そのご)の天文(てんぶん)年間(ねんかん)迄(まで)も
今橋の地名(ちめい)を記(しる)した文書(ぶんしよ)が残(のこ)つて居るのは如何(どう)かと云ふ疑問(ぎもん)が起(おこ)るであらうが此事(このこと)に付(つい)ては地名は改(かい)
称(せう)されても尚(なほ)何年(なんねん)かは旧慣(きうかん)によつて通(とほり)のよい名前(なまへ)を呼(よ)ぶのは世間(せけん)には沢山(たくさん)あることで現(げん)に江戸(えど)の地名(ちめい)の
如き旧習(きうしう)の人は何時迄(いつまで)も其名(そのな)を呼(よ)んで居つた事実(じじつ)があるので況(いはん)や当時(とうじ)の如き戦国時代(せんごくじだい)に於ては改名(かいめい)後(ご)
と雖(いへど)も尚(なほ)十年や十五年位は今橋(いまはし)の旧名(きうめい)が用(もち)ゐられたと云(い)ふのは敢(あへ)て怪(あやし)むに足(た)らぬ事(こと)であると思ふ因(よつ)て
前(ぜん)に述(の)べた龍拈寺の事跡(じせき)から考(かんが)へて私(わたくし)は深(ふか)く成三(しげかづ)の時代(じだい)に於て地名(ちめい)の改称(かいせう)があつたのであると云ふこと
を信(しん)ずるものである尚(なほ)之(これ)に就(つい)て龍拈寺に何(なに)かよい文書であると(ぶんしよ)は残(のこ)つて居(を)らぬかと云ふので十 分(ぶん)なる調査(てうさ)を遂(と)
げて見(み)たが此寺(このてら)は過去帳(くわこてう)の孰(いづ)れも元禄(げんろく)以後(いご)のもので記録(きろく)と云ふのも正徳(せうとく)二年 初(はじ)めて松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)が
此地(このち)に来(こ)られた時に書上(かきあげ)たものが最(もつと)も古(ふる)いので吉田城主記(よしだぜうしゆき)位(ぐらゐ)に拠(よ)つたものらしく証拠(せうこ)となるべき点(てん)が
少(すくな)い只(た)だ休屋宗官和尚(きうやそうかんおせう)の遺書(ゐしよ)は貴重(きてう)のものであるが之(これ)は此章(このせう)に関係(かんけい)がないから後(のち)に至(いたつ)て説(と)くこととする
⦿牧野信成等の戦死
前章(ぜんせう)述(の)べたる如くで牧野成三(まきのしげかづ)が隠居(ゐんきよ)し其(その)弟(おゝと)信成(のぶしげ)が代(かはつ)て吉田城主となつたのは大永(たいえい)五六年の頃(ころ)と推測(すいそく)せ
《割書:牧野氏の勢|力》 らるゝのであるが信成(のぶしげ)相続(さうぞく)の後(のち)は牧野氏(まきのし)の勢力(せいりよく)は次第(しだい)に強大(けうだい)となつて東三河の諸豪傑(しよごうけつ)は皆(みな)其(その)下風(したかぜ)に立(た)
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【本文】
つに至(いた)つたのである当時(とうじ)西三河に於(お)ける形勢(けいせい)は如何(いかん)であつたかと云ふに嘗(かつ)て古白(こはく)時代(じだい)にあつた松平長(まつだひらなが)
親(ちか)は最(もつと)も衆望(しうぼう)の帰(き)した人であつたにも拘(かゝは)らず夙(つと)に逃世(とうせい)の志(こゝろざし)があつて剃髪(ていはつ)して道閲(どうえつ)と号(ごう)し其子(そのこ)信忠(のぶたゞ)が
相続(さうぞく)したが此人は多病(たべう)で軍務(ぐんむ)に堪(た)へず人心(じんしん)漸(やうや)く離散(りさん)する処から之(こ)れ亦(ま)た碧海群(へきかいぐん)大浜(おほはま)の称名寺(せうめいじ)に退隠(たいゐん)し
て剃髪(ていはつ)し春夢(しゆんむ)と号(ごう)したのであるソコで其子(そのこ)の清康(きよやす)が其後(そのあと)を襲(つ)いだのであるがそれが恰(あたか)も大永三年四月
松平清康 四日の事で清康(きよやす)は時に年(とし)僅(わづか)に十三であつた此人(このひと)は即(すなは)ち徳川家康(とくがはいへやす)の祖父(そふ)であるが幼(よう)にして胆略(たんりやく)あり武勇(ぶゆう)
絶倫(ぜつりん)で其(その)翌年(よくねん)十四歳の時 曩(さき)に叛(そむ)いて居つた岡崎(をかざき)並(ならび)に山中城(やまなかぜう)を快復(くわいふく)し自身(じしん)は矢張(やはり)安祥(あんぜう)に居つて殆(ほとん)ど西三
河を平定(へいてい)したので恰(あたか)も牧野信成(まきののぶしげ)と東西(とうざい)相対(あひたい)して遂(つひ)に衝突(せうとつ)は免(まぬが)れぬ事になつたのであるソコで清康(きよやす)の方(はう)
から吉田の城に攻寄(せめよ)せて戦争(せんそう)となつたのであるが此(この)戦争(せんそう)は古来(こらい)有名(ゆうめい)のもので豊橋市史(とよはししゝ)の上(うへ)から云ふて
《割書:吉田合戦の|年月》 も大切(たいこう)【ルビママ】なる出来事(できごと)であるが之(これ)が又(ま)た異説(ゐせつ)があつて六ケ敷(し)き研究(けんきう)である即(すなは)ち此(この)戦争(せんそう)の時日(じじつ)は何時(いつ)であつ
たかと云ふに大体(だいたい)に於(おい)て三 説(せつ)に分(わか)れて居(を)るので
一、享禄(けうろく)二年 説(せつ)
二、天文(てんぶん)元年(がんねん)説(せつ)
三、戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)
である外(ほか)に明応(めいおう)二年 説(せつ)天文(てんぶん)十年 説(せつ)があるが之(これ)は論(ろん)ずる迄(まで)もなく原本(げんほん)謄写(とうしや)の誤(あやまり)より来(きた)つた間違(まちがひ)である
と思(おも)ふ而(しか)して一、二、の両説(れうせつ)は孰(いづ)れも其月日を五月廿八日であるとして居(を)るが第三の戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)にあ
りては其月日を判然(はんぜん)することが出来(でき)ぬ併(しか)し牛久保密談記(うしくぼみつだんき)は享禄(けうろく)二年の役(えき)を十一月四日であると記(しる)して居(を)
るかゝる次第(しだい)で何(いづ)れを是(ぜ)とすべきや疑問(ぎもん)であるが寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を初め朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)当代記(とうだいき)牧野家譜(まきのかふ)
等(とう)有力(ゆうりよく)なる書物(しよもつ)は多(おほ)く此第一説を取(と)つて居る又た家忠日記増補(いへたゞにつきぞうほ)と云ふ書物(しよもつ)があるが之(これ)は家忠(いへたゞ)の孫(まご)忠冬(たゞふゆ)
【欄外】
豊橋市史談 (牧野信成等の戦死) 卅一
【欄外】
豊橋市史談 (牧野信成等の戦死) 卅二
【本文】
が書(か)いたもので参考(さんこう)となる点(てん)があるが之(こ)れ亦(ま)た第一説に従(したがつ)て居る而(しか)して第二説に属(ぞく)するものは藩翰(はんかん)
譜(ふ)三 河聞書(かはきゝがき)吉田城主記(よしだぜいしゆき)或種(あるしゆ)の三 河記(かはき)等(とう)で藩翰譜(はんかんふ)は矢張(やはり)創業記(そうげうき)を引用(いんよう)して居るのである又(ま)た第三説を取(と)
つて居(を)るのは牛久保密談記(うしくぼみつだんき)と宮島伝記(みやしまでんき)で吉田城主考(よしだぜいしゆこう)も亦(ま)た熱心(ねしん)なる戦争(せんそう)両度(れうど)論(ろん)である而(しか)して戦争(せんそう)一度
説から云ふと此(この)戦(たゝかひ)に於(おい)て牧野氏(まきのし)は敗北(はいぼく)し信成(のぶしげ)初(はじ)め一 族郎等(ぞくらうとう)多(おほ)くは戦死(せんし)し殆(ほとん)ど滅亡(めつぼう)に終(をは)つたと云ふの
《割書:享禄二年説|の有力なる》 であるが戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)から云ふと前(まへ)の戦(たゝかひ)に於て成三(しげかづ)は自殺(じさつ)し更(さら)に後(のち)の戦争(せんそう)に於て信成(のぶしげ)等(ら)一 族(ぞく)の多(おほ)くは
《割書:証拠| 》 敗死(はいし)したと云ふのである此点(このてん)より見(み)ると戦争(せんそう)両度(れうど)説(せつ)は有理(もつとも)らしくも信(しん)ぜられるのであるが併(しか)し茲(こゝ)に第
一説の享禄(けうろく)二年説が有力(ゆうりよく)たる所以(ゆゑん)があるので夫(それ)は例(れい)の貞享書上(ていけうかきあげ)であるが渥美太郎左衛門(あつみたらうざゑもん)大岡忠(おほをかちう)四 郎(らう)、
小林惣兵衛(こばやしそうべゑ)等(ら)の書(き)上(あ)げたものゝ中(なか)に其(その)祖先(そせん)の功(こう)を書(か)いた処があるが孰(いづ)れも此(この)戦(たゝかひ)を享禄(けうろく)二年として
ある殊(こと)に佐野與(さのよ)八 郎(らう)書上(かきあげ)には五 代(だい)以前(いぜん)の與八郎と云ふ者(もの)は此(この)戦(たゝかひ)に一 番鎗(ばんやり)で牧野伝蔵(まきのでんざう)傳次(でんじ)を鎗付(やりつき)柴田(しばた)
中務(なかつかさ)大岡忠右衛門(おほかちううゑもん)に首(くび)を取(と)らせ云々と書(か)いてある又 大岡忠(おほかちう)四 郎(らう)の書上(かきあげ)の方(はう)にも同様(どうよう)五 代(だい)前(ぜん)の忠右衛門
が傳次(でんじ)を討取(うちと)つたと記(しる)してある其他(そのた)石川主殿頭(いしかはとのものかみ)の書上(かきあげ)にも柴田中務(しばたなかつかさ)が牧野傳蔵を打取(うちとつ)た事が記(しる)してあ
古河系図 ると云ふ訳(わけ)で傳蔵(でんざう)傳次(でんじ)等(ら)牧野(まきの)一 族(ぞく)の戦死(せんし)は享禄(けうろく)二年で動(うご)かすべからざるように見(み)へて居る只(たゞ)之(こ)れが反(はん)
証(せう)ともなすべきものは田辺牧野家(たなべまきのけ)の家臣(かしん)に古河勝通(ふるかはせうつう)と云ふ人があつて此人(このひと)は宝飯郡(ほゐぐん)古河村(ふるかはむら)(今の大村
附近)に住(すむ)で由緒(ゆうしよ)ある家(いへ)であつたが此(この)吉田落城(よしだらくぜう)の時に田辺牧野家(たなべまきのけ)の祖先(そせん)定成(さだしげ)が手疵(てきづ)を負(お)ふて落延(おちの)びた
のを救(すく)ふた縁故(ゑんこ)で遂(つひ)に其(その)家来(けらい)筋(すじ)として仕(つか)へたのである此家(このいへ)は今も連綿(れんめん)と継続(けいぞく)して居るので其家(そのいへ)に古河(ふるかは)
系図(けいづ)と云ふものが残(のこ)つて居る之(これ)は参考(さんこう)とするに値(あたひ)するのであるが此(この)系図(けいづ)には此(この)戦(たゝかひ)を以(もつ)て天文元年と
なして居(を)る事である併(しか)しながら多(おほ)くの家(いへ)に伝(つた)はつて居る記録(きろく)が大多数(だいたすう)享禄(けうろく)二年の戦争(せんそう)一 度説(どせつ)であるか
ら結局(けつきよく)今(いま)は此説(このせつ)に従(したが)ふの外(ほか)はないと信(しん)ずるのである
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百二十三号附録 ( 明治四十四年四月五日発行 )
【本文】
戦の状況 ソコで此(この)戦(たゝかひ)の模様(もよう)であるが之(これ)は幸(さいはひ)に大久保彦左衛門(おほくぼひこざゑもん)の三 河物語(かはものがたり)に詳(くは)しくあるので大要(たいえう)の事情(じぜう)を明(あきらか)に
する事が出来(でき)ると思(おも)ふモツトモ此(この)物語(ものがたり)には年月日がないが兎(と)に角(かく)戦(たゝかひ)の事は一 度(たび)しか記録(きろく)してないの
である即(すなは)ち此(この)物語(ものがたり)によると清康(きよやす)は先(ま)づ岡崎(をかざき)を出発(しゆつぱつ)して赤坂(あかさか)に陣取(ぢんど)り先手(さきて)は御油国府(ごゆこうふ)に陣(ぢん)を構(かま)へたので
あるが明(あ)くれば赤坂(あかさか)を出発(しゆつぱつ)し小坂井(こさかゐ)に旗(はた)を立(た)て先手(さきて)は下地(しもぢ)に放火(はうくわ)したのである牧野方(まきのがは)は之(これ)を見(み)て茲(こゝ)に
雌雄(しゆう)を決(けつ)せんとの意気込(いきごみ)鋭(するど)く豊川を渡(わた)りて対岸(たいがん)に上陸(ぜうりく)し悉(こと〴〵)く舟(ふね)を押流(おしなが)して所謂(いはゆる)背水(はいすゐ)の陣(ぢん)を布(し)いた清(きよ)
康(やす)は依(よつ)て小坂井より進(すゝん)で下地の堤塘(ていとう)に於て衝突(せうとつ)し互(たがひ)に此(この)堤(つゝみ)を乗取(のりと)らむとして対抗(たいこう)したのである三 河物(かはもの)
語(がたり)には此(この)有様(ありさま)を記(しる)して
清康(きよやす)は下地の塘(つゝみ)へ押上(おしあが)らむとし給(たま)ふ傳蔵も塘(つゝみ)へ押上(おしあが)らむとす両方(れうはう)塘(つゝみ)の両(れう)の腹(はら)にしばづきて半日はか
り念仏(ねんぶつ)の声(こゑ)はかりして大事(だいじ)に思(おも)ひてシン〳〵と心(こゝろ)を静(しづ)め居(ゐ)たり
とある実(じつ)に此(この)時代(じだい)の戦争(せんそう)の状態(ぜうたい)を見る上に於(おい)て無限(むげん)の趣味(しゆみ)を感(かん)ずる記録(きろく)ではあるまいか而(しか)して清康(きよやす)は
家臣(かしん)の諌(いさめ)をも聴(き)かず自(みづか)ら松平内膳信定(まつだひらないぜんのぶさだ)と共に敵陣(てきじん)へ突貫(とつかん)したのであるが牧野(まきの)方(かは)の勢(いきほひ)鋭(するど)く一時は清康(きよやす)
方(かた)の敗(はい)となつた然(しか)るに再(ふたゝ)び逆襲(ぎやくしう)して遂(つひ)に牧野方を河(かは)に押(お)し蹇(ちゞ)め信成(のぶしげ)を初(はじ)め牧野の一 族(ぞく)は殆(ほとん)ど之(これ)に戦死(せんし)
し尽(つく)したのである蓋(けだ)し清康(きよやす)方(かは)に於ても容易(ようい)ならざる損害(そんがい)を蒙(こうむ)つたので貞享書上(ていけうかきあげ)に拠(よ)るも
相当(さうとう)の人々が
多数(たす)討死(うちじに)して居(を)るのである三 河物語(かはものがたり)に又た傳蔵(でんぞう)等(ら)打取(うちとり)当時(とうじ)の状況(ぜうけう)を書(か)いて
傳蔵(でんぞう)傳次(でんじ)新蔵(しんぞう)新次(しんじ)兄弟(けいてい)四人を打取(うちと)る吉田の城には女房(にようはう)共(ども)出(い)で見(み)て下地をふうするに出(い)で見(み)よとて「
コンガウ」をはいて出(い)で堀(へい)より見越(みこえ)て見(み)る清康(きよやす)は思(おもひ)のまゝに合戦(かつせん)に打勝(うちかつ)て吉田河(よしだがは)の上(かみ)の瀬(せ)へまわり
て河(かは)を騎越(のりこえ)吉田の城へ即(すなは)ち責入(せめいり)給(たま)へば女房(にようばう)共(ども)は「コンガウ」をはきて田原(たはら)へ落行(おちゆく)
としてあるが私(わたくし)は此(この)城中(ぜうちう)にありし女房(にようはう)共(ども)が「コンガウ」をはいて田原(たはら)へ落行(おちゆ)くとあるのは実(じつ)に当時(とうじ)の
【欄外】
豊橋市史談 (牧野信成等の戦死) 卅三
【欄外】
豊橋市史談 (牧野信成等の戦死) 卅四
【本文】
風俗(ふうぞく)迄(まで)が目前(めのまへ)に見ゆる様(よう)で頗(すこぶ)る面白(おもしろ)い記事(きじ)であると感(かん)ずるのである「コンコウ」は恐(おそら) は金剛(こんごう)であつて
草履(ぞうり)の事であるが昔(むかし)は板(いた)で作(つく)つた履物(はきもの)があつたので今日の婦人(ふじん)が空気草履(くうきぞうり)でもはいたと云ふ様な訳(わけ)で
あつたのではあるまいかと思(おも)ふそれより清康(きよやす)は吉田に一日 滞在(たいざい)して直(たゞ)ちに田原に押寄(おしよ)せたが田原の戸田
は降参(こうさん)をしたので三日の後(のち)再(ふたゝ)び吉田に引返(ひきかへ)し更(さら)に十日 間(かん)此処(こゝ)に逗留(とうりう)されたとの事である此(この)戦(たゝかひ)に於て
牧野(まきの)方(かた)では所謂(いはゆる)背水(はいすい)の陣(ぢん)を布(し)いたのであるにも拘(かゝは)らず遂(つひ)に失敗(しつぱい)に終(をは)つたのは全(まつた)く河(かは)一つを隔(へだ)てゝ其(その)家(か)
族(ぞく)等(ら)がワイ〳〵と騒(さわ)いだので将士(せうし)は皆(みな)之(これ)に心を引(ひ)かされたが為(ため)であると云ふので此事(このこと)は三 河物語(かはものがたり)にも
記(しる)されてあるが誠(まこと)に味(あじは)ふべき事柄(ことがら)であると思(おも)ふのである
扨(さて)戦(たゝかひ)の話(はなし)はこゝに止(とゝ)むるとして尚(なほ)少(すこ)しく研究(けんきう)を要(えう)するのは前(まへ)の三 河物語(かはものがたり)の文中にもあつた傳蔵(でんぞう)傳次(でんじ)
新蔵新次 新蔵(しんぞう)新次(しんじ)兄弟(けうだい)四人と云ふ事である傳蔵(でんぞう)は勿論(もちろん)信成(のぶしげ)の事であるが尚(なほ)之(これ)に傳次と云ふ弟(おとゝ)のあつた事は諸説(しよせつ)
の一 致(ち)する処で疑(うたが)ひはないが只(たゞ)新蔵新次の事に就(つい)ては大(たい)なる疑問(ぎもん)である殊(こと)に牛久保密談記(うしくぼみつだんき)には之(これ)を新
三郎新次郎としてあつて「新三郎は討死(うちじに)と云て赤岩(あかいわ)の法言寺(はふごんじ)に退(しりぞ)き後(のち)戸田家を続(つ)ぐ」とある之(これ)は益々(ます〳〵)疑(ぎ)
問(もん)である俗説(ぞくせつ)には之(これ)が大垣戸田氏(おほがきとだし)の祖(そ)であるようにも伝(つた)えるが全然(ぜん〴〵)誤(あやま)りで之に就(つい)ては後(のち)に研究(けんきう)の結果(けつくわ)
を申述(もうしの)ぶるであろうが私(わたくし)は大体(だいたい)に於て藩翰譜(はんかんふ)に
又(また)三 河物語(かはものがたり)に享禄(けうろく)の初(はじめ)に二郎三郎殿吉田の城を攻(せ)められしに牧野(まきの)傳蔵(でんぞう)傳次(でんじ)新蔵新次 兄弟(けうだい)四人 戦死(せんし)し
て城(しろ)を取(と)られしと云ふ事あり康成(やすなり)の家(いへ)代々(だい〴〵)其(その)初(はじめ)名(な)を新次郎と云ひしかば傳蔵(でんぞう)が子(こ)の後(あと)たるにやあら
んされど傳蔵の後人云ふ所の如きは新三新二の事 詳(つまびらか)ならず吉田の城に戦死(せんし)せし者共(ものども)の事(こと)傳左衛門
尉 父子(ふし)三人 並(ならび)に新二新三と記(しる)せるものゝあれば新二新三二人は傳左衛門尉(でんざゑもんのぜう)が子とは見(み)えずと云ふな
り思(おも)ふに之(これ)等(ら)只(た)だ其(その)一 族(ぞく)にして正(たゞ)しき兄弟(けいてい)なりと云ふにはあらざるべし
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【本文】
とあるのを当(あた)れりとなすものである蓋(けだ)し文中(ぶんちう)康成(やすなり)とあるのは長岡家(ながをかけ)の祖先(そせん)で成定(なりさだ)の子(こ)を指(さ)したもので
《割書:信成等の墳|墓》 ある次(つぎ)に信成(のぶしげ)等(ら)の墳墓(ふんぼ)の事であるが三州吉田記には宝飯郡(ほゐぐん)下地町(しもぢてう)水神社の傍(かたわら)に一 叢(むら)の小藪(こやぶ)があつて
之(これ)が即(すなは)ち傳蔵等の墓(はか)であると云ふ事が書(か)いてある成程(なるほど)実地(じつち)を調査(てうさ)して見ると豊橋城址(とよはしぜうし)対岸(たんがん)の地に今も
尚ほ其形(そのかたち)が残(のこ)つて居る又(ま)た吉田城主考(よしだぜうしゆこう)には著者(ちよしや)自身(じしん)其所(そこ)に大(たい)なる松樹(まつのき)があるのを見(み)たと記(しる)して居るが
豊橋市役所で模写(もしや)した元禄(げんろく)年間(ねんかん)の古図(こづ)にも松の木が画(ゑが)いてあるから当時(とうじ)は其通(そのとほり)であつたに相違(さうゐ)ない
併(しか)しながら之(これ)は必(かなら)ず当時に於ける戦死者(せんししや)の屍体(したい)を合埋(ごうまい)したものであろうと思(おも)ふ信成(のぶしげ)等(ら)の死体(したい)は後(のち)に火(くわ)
葬(そう)して龍拈寺(りうねんじ)前(まへ)の墓(はか)に葬(ほうむ)つたとい云ふ事は大恩寺(たいおんじ)の記録(きろく)にあるが此(この)記録(きろく)も割合(わりあひ)に新(あたら)しいもので深(ふか)い研究(けんきう)
をしたのでもないようである併(しか)し二葉松(ふたばまつ)にも
吉田龍拈寺前在牧野田三信成及田次成高小田次成国三墳
と書(か)いてあつて龍拈寺(りうねんじ)正徳(せうとく)二年の書上(かきあげ)にも
即当寺休屋和尚焼香之、為当寺開基、法名者以天清公居士、声外音公庵主、三休位公上座也、総而
牧野一統廟所厳然有寺前、御位牌御老母御影到今存在
とあるので墳墓(ふんぼ)としては此(この)龍拈寺(りうねんじ)のものを正(たゞ)しきものとせねばならぬと思(おも)ふモツトモ此(この)墓地(ぼち)には前(まへ)に
述(の)べた古白(こはく)墳(づか)の外(ほか)に五 輪(りん)の古塔(ことう)が三つ四つ並(なら)むで居(を)つたとの事(こと)で七十歳以上の人は今(いま)も尚(な)ほ記憶(きをく)して
居るとの事であるが今(いま)は只(た)だ朽(く)ちたる古松(ふるまつ)の株(かぶ)と一 個(こ)の石(いし)とが横(よこ)たはつて居るのみで近来(きんらい)何処(いづこ)からか
《割書:信成等の戒|名》 一基の古塔(ことう)を運(はこ)むで墓標(ぼへう)にしてあるが兎(と)に角(かく)三 間(げん)四 方(ほう)許(ばかり)の間(あひだ)は割然(くわくぜん)として旧態(きうたい)が忍(しの)ばるゝのみならず
近年迄(きんねんまで)三四百年にもなるべき大松(おほまつ)が生(お)ひ立(た)つて居(を)つたのである而(しか)して此以天清公、声外音公、三休位
公と云ふ戒名(かいめう)に就(つい)ては之れ亦た説(せつ)があつて少(すこ)しく定(さだ)め難(がた)い点があるが私(わたくし)は以天清公(いてんせいこう)が成三(しげかづ)、声外音(せいぐわいおん)
【欄外】
豊橋市史談 (牧野信成等の戦死) 卅五
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 卅六
【本文】
公(こう)が信成(のぶしげ)、 三 休位公(きうゐこう)が傳次(でんじ)成高(しげたか)であると信(しん)ずる勿論(もちろん)成高の戒名(かいめう)に就ては古来(こらい)から異説(ゐせつ)はない様(よう)である
が成三(しげかづ)と信成(のぶしげ)とに就ては何(いづ)れを何(いづ)れとも定(さだ)め難(にく)いように両説(れうせつ)になつて居(を)るのである然(しか)るに前章(ぜんせう)に述べ
龍拈寺文書 て置いた龍拈寺(りうねんじ)の始祖(しそ)休屋宗官和尚(きうをくそうかんおせう)自筆(じしつ)の遺書(ゐしよ)中(ちう)に同寺(どうじ)祠堂(しどう)の覚書(おほえがき)があつて「畠五貫文以天受清牧野
田三」と記(しる)してある之(これ)は其(その)当時(とうじ)のもので疑(うたがひ)なき処であるが元来(がんらい)以天受清(いてんじゆせい)が戒名(かいめう)であるのを其人(そのひと)を敬(けい)
して以天清公(いてんせいこう)と云ふので畠五貫文(はけかんもん)は此寺を創立(さうりつ)した時に寄進(きしん)したものと信(しん)せらるゝ点(てん)から考(かんが)ふれば之
は慥(たしか)に成三(しげかづ)に当(あた)ると思ふのである而(しか)して龍拈寺(りうねんじ)には今(いま)尚(なほ)
声外音公居士
(表) 当寺開基 以天清公上座
三休位公庵主
(裏) 享禄二巳丑年五月廿八日
と刻(こく)した位牌(ゐはい)があるので幸(さいはひ)に此(この)位牌(ゐはい)が当時(とうじ)のものであつたならば屈竟(くつけう)史料(しれう)であるが如何(いかん)せん時代(じだい)の
上から見て到底(とうてい)当時(とうじ)を去(さ)る遠(とほ)き後世(こうせい)の製作(せいさく)であろうと思(おも)はるゝのである但(たゞ)し正徳(せうとく)二年 書上(かきあげ)以前(いぜん)のもの
ではあると思(おも)ふ
⦿二連木城と戸田氏
今回(こんかい)は二 連木城(れんぎぜう)と戸田氏の事に就(つい)て申述(もうしの)ぶる順序(じゆんじよ)であるが夫(それ)には又た自然(しぜん)今橋(いまはし)落城(らくぜう)後(ご)の概況(がいけう)から御話(おはなし)
する必要(ひつよう)があると思(おも)ふ扨(さて)前章(ぜんせう)に述(の)べたような訳(わけ)で今橋の築城者(ちくぜうしや)たる牧野氏は松平清康(まつだひらきよやす)の為(ため)に一時 滅亡(めつぼう)
の状態(ぜうたい)となつたのであるが其後(そのご)清康(きよやす)は牧野傳兵衛(まきのでんべゑ)と云ふ人をして今橋城(いまはしぜう)を守(まも)らしめて置(お)いたのである
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百二十八号附録 ( 明治四十四年四月十一日発行 )
【本文】
此(この)傳兵衛(でんべゑ)と云うふのは或(ある)記録(きろく)によると古白(こはく)の弟であるとしてあるが之(これ)は未(いま)だ疑問(ぎもん)と云はねばならぬ併(しか)し
傳蔵の一 族(ぞく)であるには相違(さうゐ)ないので初(はじ)め宝飯郡の益岡(ますをか)と云ふ処に居つたが其頃(そのころ)此人(このひと)が宝飯郡(ほゐぐん)八幡村(やはたむら)の
八 幡社(まんしや)に納(をさ)めた文書(ぶんしよ)があつて之(こ)にも矢張(やはり)平信成(たひらのぶしげ)と記(しる)されてあるが今(いま)も残(のこ)つて居る事と思ふ然(しか)るに宗家(しうか)
と不和(ふわ)の事が起(おこ)つて曩(さき)に款(かん)を松平氏に通じたのである当時(とうじ)田原(たはら)には戸田(とだ)弾正少弼(だんぜうせうしつ)康光(やすみつ)が居り牛久保に
は牧野新次郎貞成等が居つたが孰(いづ)れも和(わ)を清康(きよやす)に需(もと)めたので其他(そのた)西郷(さいごう)の西郷氏 田峯(たみね)野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)を初
め東三河の人々は概(おほむ)ね其(その)旗下(きか)に属(ぞく)するに至つたのである而(しか)して此(この)牧野貞成(まきのさだなり)と云ふ人は彼(か)の長岡(ながをか)牧野家(まきのけ)
の祖先(そせん)新次郎成定の養父(やうふ)であつてズツト前(まへ)に御話(はなし)して置いた牧野成勝(まきのしげかつ)と云ふ人の子であるモツトモ寛(かん)
政重修諸家譜(せいぢうしうしよかふ)には貞成(さだなり)の父を氏勝(うじかつ)としてあるが之(これ)は成勝(しげかつ)の別名(べつめい)であると思(おも)ふサテ清康(きよやす)の勢力(せいりよく)は此の如
き訳で中々(なか〳〵)強大(けうだい)のものであつたが天文四年十二月五日 例(れい)の尾張国(をはりのくに)森山(もりやま)の陣(ぢん)で其(その)臣(しん)の阿部弥(あべや)七と云ふ者
の為に年(とし)僅(わづか)に廿五歳で誤(あやまつ)て殺(ころ)されてしまつたので所謂(いはゆる)森山(もりやま)崩(くづ)れと云ふのは之(これ)であるが松平氏(まつだひらし)は茲(こゝ)に其(その)
主領(しゆれう)を失(うしな)つたのみならず内乱(ないらん)か起(おこ)つたソコで弥七の父(ちゝ)阿部定吉(あべさだよし)は実(じつ)に主家(しゆか)に対(たい)して申訳(もうしわけ)がないと云ふ
ので清康(きよやす)の子(こ)広忠(ひらたゞ)がまだ十歳で仙千代(せんちよ)と云つたのを一 身(しん)に引受(ひきう)け伊勢(いせ)に逃(のが)れて神戸(かんべ)の東條持広(とうぜうもちひろ)に依つ
たのである此(この)持広(もちひろ)と云ふ人は東條(とうぜう)の吉良氏(きらし)で広忠(ひろたゞ)には叔母(おば)の夫(おつと)に当(あた)るのであるが衷心(ちうしん)広忠(ひろたゞ)を庇護(ひご)して
援(えん)を今川義元(いまがはよしもと)に請(こ)つたのであるモツトモ之にも異説(ゐせつ)があつて持広(もちひろ)が死去(しきよ)して其子が広忠(ひろたゞ)に不利(ふり)である
ので広忠(ひろたゞ)は転(てん)じて遠江(とほとおみ)の掛塚(かけつか)に流寓(りうぐう)し遂(つひ)に今川氏に依(よ)るに至(いた)つたのであると云ふ説(せつ)もあるが持広(もちひろ)の死(し)
は実(じつ)は天文八年の十月で広忠(ひろたゞ)が義元(よしもと)に依つたのは天文五年の春であるからドウモ前(まへ)の説(せつ)が正(たゞ)しいよう
である蓋(けだ)し今川氏に於(おい)ても氏親(うじちか)は既(すで)に大永六年六月を以(もつ)て卒(そつ)し其子(そのこ)氏輝(うじてる)が相続(さうぞく)したか之(こ)れ亦(ま)た天文五
年三月を以(もつ)て卒(そつ)したので矢張(やはり)内(うち)に紛擾(ふんぜう)が起つた時に氏輝(うじてる)の弟(おとゝ)は二人共に僧(そう)であつたが終(つひ)に其(その)末弟(まつてい)の方
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 卅七
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 卅八
【本文】
が相続(さうぞく)するに至(いた)つたのが即(すなは)ち義元(よしもと)で其時(そのとき)年(とし)十九歳であつたが広忠(ひろたゞ)の今川氏に依(よ)つたのは此年(このとし)であるソ
コで義元(よしもと)は先(ま)づ広忠を輔(たす)けて牟呂(むろ)の城(しろ)に入れ其翌(そのよく)六年の六月 遂(つひ)に岡崎に迎(むか)へしめたのであるが此(この)牟呂(むろ)
の城(しろ)と云ふのは大概(たいがい)のものに渥美郡(あつみぐん)の牟呂(むろ)であると解釈(かいしやく)されて居る併(しか)し私は未(いま)だ研究(けんきう)を遂(と)げぬので明
言は出来(でき)ぬが其頃(そのころ)渥美郡の牟呂(むろ)の地(ち)にも砦(とりで)のようなものでもあつたのではなかろうかと思(おも)はるゝ記録(きろく)が
間々(まゝ)散見(さんけん)せらるゝ処であるのみならず豊橋市(とよはしゝ)守上(もりうゑ)の称名院(せうめうゐん)には此時(このとき)広忠(ひろたゞ)に従(したが)つて来た傅女(しうじよ)の墓(はか)があつ
てそれ故 其地(そのち)を守上(もりうゑ)守下(もりした)と称(とな)ゆるのであると云ふ伝説(でんせつ)がある此事(このこと)は吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)などにも記載(きさい)されて
居るが之(これ)は一寸 当(あ)てにならぬのである然(しか)るに朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には之は幡豆郡(はづぐん)の茂呂(もろ)で室(むろ)とも書(か)くが其処(そこ)
の事であるとしてある私(わたくし)は如何(いか)にも之が事実(じじつ)であると信(しん)ぜられるのである兎(と)に角(かく)此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)で今
川松平二氏間の和親(わしん)は堅(かた)く成(な)つたので爾来(じらい)松平家は云はゞ今川氏の保護国(ほごこく)の様(よう)な形(かたち)となつたのである
が当時(とうじ)松平氏は勿論(もちろん)今川義元に於(おい)ても襲家(しうか)尚(な)ほ日が浅い場合(ばあひ)で十分に力(ちから)を遠(とほ)くまで伸(のば)すの暇(いとま)がなかつ
たのである此機(このき)に方(あた)つて漸(やうや)く羽翼(つばさ)を此(この)地方(ちほう)に張(は)らむとしたのは即(すなは)ち戸田氏(とだし)である
戸田氏(とだし)の根拠地(こんきよち)は元来(がんらい)渥美郡の田原であつて此(この)田原(たはら)の城(しろ)と云ふのは前章(ぜんせう)に御話(おはなし)した弾正左衛門宗光(だんぜうさゑもんむねみつ)が
築(きづ)いたものであるが宗光(むねみつ)の子は即(すなは)ち弾正忠憲光(だんぜうちうのりみつ)で憲光(のりみつ)の子が左近尉政光(さこんのぜうまさみつ)である全久院(ぜんきうゐん)の系譜(けいふ)中(ちう)には前
にも一寸 申述(もうしの)べて置(お)いた如く政光(まさみつ)は実(じつ)は憲光(のりみつ)の弟であるとしてあるが之(これ)は余(あま)り外(ほか)で見(み)ざる一 説(せつ)である
と思(おも)ふ而(しか)して其(その)政光(まさみつ)の子が弾正少弼康光(だんぜうせうしつやすみつ)で康光(やすみつ)の子が即(すなは)ち二 連木(れんぎ)戸田家 中興(ちうこう)の祖(そ)たる宜光(よしみつ)である、 今(いま)
試(こゝろみ)に寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)によつて其(その)系図(けいづ)の大要(たいえう)を示(しめ)せば左(さ)の通(とほり)である
●宗光 憲光 政光 康光
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【本文】
吉光 盛光 忠政
吉国 光忠
宜光 重貞
女子 忠重 康長
政直
重眞
モツトモ此(こ)の中(なか)には異説(ゐせつ)もあるがそれは漸次(ぜんじ)に申述(もうしの)べる考である扨(さて)二 連木(れんぎ)と云(い)ふ処は前(ぜん)にも述(の)べた如
く古来(こらい)薑(はじかみ)と称(とな)へた処で後(のち)に之(これ)を橋上(はじかみ)と書し更(さら)に二連木の地名(ちめい)を生(せう)ずるに至つたのであるが宜光(よしみつ)と云
ふ人は初(はじ)め牛窪(うしくぼ)の加治村(かぢむら)に住(ぢう)して居(を)つたのを天文十年 此(この)二 連木(れんぎ)にやつて来(き)て城(しろ)を搆(かま)へたのである此事(このこと)
は寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)初(はじ)め戸田家譜 其他(そのた)二葉松(ふたばまつ)など諸書(しよ〳〵)の記(しる)する所であるが尚(な)ほ此処(こゝ)にはズツト以前(いぜん)から
戸田氏の城(しろ)があつたもので藩翰譜(はんかんふ)の如きは宗光(むねみつ)の時(とき)既(すで)に此地に城を築(きづ)いたものであるとして居る蓋(けだ)し
戸田氏の根拠地(こんきよち)たる田原と云ふ処は御承知(ごせうち)の如(ごと)く一方に僻在(へきざい)して居るから地形(ちけい)の上(うへ)からドウしても先(ま)
づ力(ちから)を今(いま)の豊橋方面に用(もち)ゐ此処(こゝ)と連絡(れんらく)を取(と)ろうとするのは当然(とうぜん)の勢(いきほひ)である而して宗光(むねみつ)が田原に城き住
したのは明応(めいおう)年間(ねんかん)であると云ふ事は諸書(しよ〳〵)に見る処であるがドウモ之(これ)は時代(じだい)が合(あ)はぬように思(おも)はれる宗(むね)
光(みつ)が田原に住(ぢう)したのはズツト其(その)以前(いぜん)て明応(めいおう)年間(ねんかん)と云ふのは却(かへつ)て此(この)二 連木城(れんぎぜう)を築(きづ)いた年ではあるまいか
と思(おも)ふモツトモ此事(このこと)に就(つい)ては藩翰譜(はんかんふ)幷(ならび)に戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)等(とう)に論(ろん)じてあるので頗(すこぶ)る参考(さんこう)になる点(てん)が多
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 卅九
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十
【本文】
いのである抑(そも〳〵)此(この)宗光(むねみつ)と云ふ人は三 条家(ぜうけ)の庶流(ちよりう)で内大臣(ないだいじん)公保(きみやす)の子であるが一 説(せつ)には大納言(だいなごん)公治(きみはる)の子に
実興(さねおき)と云ふのがあつて此人(このひと)が近江国(あふみのくに)に寓居(ぐきよ)し其子の実光(さねみつ)と云ふ人が初(はじ)めて三河に来(きた)り田原に住(ぢう)して外(がい)
家(け)の号(ごう)十田を冒(おか)し後(のち)に戸田と改(あらた)めたので之(これ)が即(すなは)ち宗光(むねみつ)の父(ちゝ)であるとしてある併(しか)し此説(このせつ)は公卿補任(くげほにん)など
の記事(きじ)から比較(ひかく)してドウモ事実(じじつ)と符号(ふごう)せぬので矢張(はやはり)前説(ぜんせつ)が正(たゞ)しいようである又(ま)た実光(さねみつ)と云ふ名は宗光(むねみつ)
最初(さいしよ)の名(な)であると云ふのは校正余録(こうせいよろく)の説(せつ)であるが之(これ)は従(したが)ふべきであると思(おも)ふ而(しか)して宗光(むねみつ)は最初(さいしよ)尾張国(をはりのくに)
海東郡(かいとうぐん)戸田に住(ぢう)したので戸田氏を名乗(なの)つたのであるという云ふ説(せつ)があるが之(こ)れ亦(ま)た全(まつた)く証拠(せうこ)がないので信(しん)
ずる事が出来(でき)ぬ然(しか)れ共(ども)宗光が三 河国(かはのくに)碧海郡(へきかいぐん)の上野(うへの)に来(きた)り戸田弾正(とだだんぜう)の後(あと)を襲(おそ)ゐて戸田孫次郎と称(せう)し後(のち)に
弾正左衛門尉(だんぜうざゑもんのぜう)と改(あらた)め松平和泉入道信光(まつだひらいづみにふどうのぶみつ)の女を娶(めと)つたと云ふ事は種々(しゆ〴〵)な証拠(せうこ)のある事で余(あま)り繁雑(はんざつ)に渉(わた)る
から一々 此処(こゝ)には論(ろん)ぜぬが信(しん)ずべきであると思(おも)ふ後(のち)宗光(むねみつ)は渥美郡の大津(おほつ)に移(うつ)り住(ぢう)したが之(これ)は浪上(なみのうへ)戸田
氏 家伝(かでん)及びニ三の記録(きろく)にあるので文明八年の事(こと)であるとなつて居る当時(とうじ)田原(たはら)には一 色兵部少輔義遠(しきへうぶせうゆうよしとほ)と
云ふが居(を)つて文明十三年四月朔日に死(し)した人で其事(そのころ)は渥美郡(あつみぐん)大久保(おほくぼ)の長興寺(てうこうじ)並に東観音寺(ひがしかんおんじ)等(とう)の記録(きろく)に
見ゆる処であるが宗光(むねみつ)は又(ま)た此(この)一 色氏(しきし)の後(あと)を享(う)けて初(はじ)めて田原に根拠(こんきよ)を搆(かま)へたのである即(すなは)ち長興寺(てうこうじ)と
云ふ寺(てら)は一色氏 菩提(ぼだい)の為(ため)に文明十四年 宗光(むねみつ)の建立(こんりう)したもので之(こ)れ亦(また)長興寺の記録(きろく)其他(そのた)に載(の)つて居る処
であるかゝる訳(わけ)であるから前(まへ)に述(の)べた如(ごと)く宗光が田原(たはら)に住(ぢう)したのを明応(めいおう)年中(ねんちう)となすのは当(とう)を得(え)ないので
ドウしても之(これ)は文明十三四年頃でなくてはならぬ道理(どうり)になるのである従(したがつ)て明応(めいおう)の初(はじめ)に至つて田原の城
を其子(そのこ)憲光(のりみつ)に譲(ゆづ)り宗光(むねみつ)自身(じしん)には更(さら)に二連木に築城(ちくぜう)して之(これ)に移(うつ)り住(ぢう)したのであると云ふ説(せつ)が有理(もつとも)と思(おも)は
るゝのである之(これ)は矢張(やはり)校正余録(こうせいよろく)の詳論(せうろん)する所であるが此(この)戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)と云ふ書物(しよもつ)は前(まへ)にも屡々(しば〴〵)申(もうし)
述(の)べた如くで吉田城主考(よしだぜうしゆこう)と云うふのも亦(ま)た此(この)書物(しよもつ)中(ちう)の一部であるが合計(ごうけい)十四 冊(さつ)ある総(すべ)て写本(うつしほん)で原本(げんほん)は戸(と)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百三十四号附録 ( 明治四十四年四月十八日発行 )
【本文】
《割書:戸田家系|校正余録》 田子爵家(だしゝやくけ)(松本侯)の所蔵(しよざう)である天保(てんぽう)年間(ねんかん)戸田家の臣(しん)鈴木重諧(すゝきじうかい)と云ふ人の撰(せん)で十ケ年許りを費(つひや)して居る
様子(ようす)であるが実(じつ)に細密(さいみつ)に調査(てうさ)したもので議論(ぎろん)も概(がい)して正確(せいかく)と認(みと)められるので戸田氏の研究(けんきう)をする人は
是非(ぜひ)一度は参考(さんこう)とする必要(ひつえう)があると思(おも)ふ、サテ此(この)宗光(むねみつ)と云ふ人がまだ碧海郡(へきかいぐん)の上野(うへの)に居(を)つた頃(ころ)寛正(かんせい)六
年(ねん)に松平信光(まつだひらのぶみつ)と共(とも)に三河の一 揆(き)を平(たひら)げた事があるが之(これ)は有名(ゆうめい)な話(はなし)で前章(ぜんせう)にも一寸 申述(もうしの)べて置(を)いたので
ある然(しか)るに其時(そのとき)に述べたのは誠(まこと)に簡単(かんたん)であるのみならず筆記(しつき)の上(うへ)から見(み)ると少(すこ)しく語弊(ごへい)もあつたよう
に思(おも)ふから訂正(ていせい)旁々(かた〴〵)重(かさ)ねて此処(こゝ)に概説(がいせつ)したいと思(おも)ふ蓋し此事(このこと)を記(しる)せるもので最(もつと)も確実(かくじつ)なるは例(れい)の蜷川(にながは)
親元(ちかもと)の日記(につき)であるが此(この)日記(につき)中(ちう)寛正六の処に 親元(ちかもと)を初(はじ)め室町幕府(むろまちばくふ)の伊勢貞親(いせさだちか)並に蜷川淳親(にながはあつちか)等(とう)が宗光と
信光(のぶみつ)とに与(あた)へた奉書(ほうしよ)の文案(ぶんあん)が幾通(いくとほり)も載(の)つて居るのである而(しか)して其中(そのなか)には孰(いづ)れも被官(ひかん)十田弾正左衛門尉(とだだんぜうざゑもんのぜう)
宗光(むねみつ)又(また)は被官(ひかん)松平和泉入道(まつだひらいづみにふどう)と云ふように書(か)いてある然(しか)るに今川記(いまがはき)には此(この)両人(れうにん)の事(こと)を三河国の御家人(ごけにん)と
記(しる)してあるので藩翰譜(はんかんふ)などにも説(せつ)があるが兎(と)に角(かく)之(これ)は室町幕府(むろまちばくふ)から云ふと御家人(ごけにん)で而(しか)して伊勢貞親(いせさだちか)の
被官(ひかん)であつたと云ふのが定説(ていせつ)のようである殊(こと)に宗光(むねみつ)は寛正(かんせい)六年四月の十七日には京都(けうと)に上(のぼ)つて室町幕(むろまちばく)
府(ふ)の御供衆(おんともしう)伊勢兵庫貞宗(いせへうごさだむね)に行逢(ゆきあ)つて居る其時(そのとき)に蜷川掃部助淳親(にながはかもんのすけあつちか)から其(その)領地(れうち)三 河国(かはのくに)額田郡(ぬかたぐん)大平(おほひら)の代官(だいかん)を
《割書:寛正六年|三河一揆》 托(たく)せられたのである然(しか)るに三河の国侍(こくじ)丸山中務丞(まるやまなかつかさぜう)大庭次郎左衛門(おほばじらうざゑもん)などゝ云ふ者(もの)等(ら)が額田郡(ぬかたぐん)の井(ゐ)の口(くち)と
云ふ処に立(た)て籠(こも)つて狼藉(ろうぜき)を働(はたら)いたので当時(とうじ)の守護(しゆご)細川成之(ほそかはなりゆき)から兵を出して之(これ)を攻(せ)め落(おと)し丸山(まるやま)は此時(このとき)打(うち)
死(じに)したが其他(そのた)の大将株(たいせうかぶ)のものは勿論(もちろん)余党(よとう)が散乱(さんらん)して容易(ようい)に始末(しまつ)が付(つ)かぬ其上(そのうへ)宗光(むねみつ)と信光(のぶみつ)とは寧(むし)ろ之(これ)等(ら)
のものを隠匿(ゐんとく)する疑(うたがひ)があると云ふので細川成之(ほそかはなりゆき)から伊勢貞親(いせさだちか)の処へ依頼(いらい)になつたソコで五月の廿六日
付を以(もつ)て貞親(さだちか)から其(その)追捕(つひほ)の事を宗光(むねみつ)信光(のぶみつ)両人(れうにん)へ申送(もうしおく)り更(さら)に淳親(あつちか)からも宗光へ申送つたので余党(よとう)の内(うち)丸(まる)
山(やま)某(なにがし)は大平(おほひら)に於て宗光の為(ため)に討たれ大庭(おほば)は深溝(ふかみぞ)に於(おい)て信光の手で討取(うちと)られ宗光(むねみつ)信光(のぶみつ)から其(その)首(くび)を京都(けうと)に
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十一
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十二
【本文】
送(おく)つたと云ふのが事実(じじつ)の大要(たいえう)である余(あま)り複雑(ふくざつ)になるから一々 之(これ)に関(かん)する文書(ぶんしよ)は掲(かゝ)げぬが此事(このこと)に就ては
諸家(しよけ)の系図(けいづ)に事実の真相(しんさう)を間違(まちが)へて居る処が多いから其(その)大要(たいえう)を述(の)べたのであるモツトモ精細(せいさい)の事は直(ちよく)
接(せつ)親元日記にある文書(ぶんしよ)等(とう)に就て研究(けんきう)すれば自然(しぜん)分明(ぶんめい)になる事と思ふ又(ま)た宗光(むねみつ)の氏(うぢ)を十田と書(か)いてある
十田と戸田 事であるが寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)其他(そのた)にも之は初(はじ)め十田と称(せう)して後(のち)に戸田と改(あらた)めたのであると記(しる)してある併(しか)
し之は余(あま)り堅(かた)くなり過(す)ぎた説(せつ)であると思ふ当時(とうじ)はかゝる事には殆(ほとん)ど頓着(とうちやく)しなかつたもので勝手(かつて)に当(あ)て
字(じ)を用(もち)いたのである今川義元(いまがはよしもと)を吉光(よしみつ)と書いたのもあればモツト後世(こうせい)で池田輝政(いけだてるまさ)を照政(てるまさ)としたものもある
恐(おそら)くは此(この)類(るい)であろうと思ふ即ち校正余録(こうせいよろく)なども此(この)説(せつ)を取(と)つて居るのである尚(なほ)此処(こゝ)に一寸 御断(おことは)りして置(お)
きたいのは「今橋築城(いまはしちくぜう)と牧野古白(まきのこはく)」と云ふ処で私(わたくし)が此(この)件(けん)に就(つい)て一寸申述べた中(なか)に「此十田と云ふのは当(とう)
時(じ)田原(たはら)に居つた戸田の事(こと)で」となつて居(を)るが当時(とうじ)宗光(むねみつ)はまだ碧海郡(へきかいぐん)の上野城(うへのぜう)に居つたことは前(まへ)にも申述(もうしの)
べた通(とほ)りであるからそれは「当時(とうじ)」とあるのを「其後(そのご)」と訂正(ていせい)して貰(もら)ひたいのである然(しか)るに此(この)宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の年
《割書:宗光逝去の|年月》 月であるが之(これ)は疑問(ぎもん)であつて寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を初め諸種(しよしゆ)の系譜(けいふ)には概(おほむ)ね永正五年六月十九日 田原(たはら)に於(おい)
て死(し)すとなつて居るが之(これ)は誤(あやま)りで明応(めいおう)八年五月三日より翌九年七月までの間(あひだ)に逝去(せいきよ)したものであると
云ふのが校正余録(こうせいよろく)の説(せつ)であるそれは何故(なにゆへ)であるかと云ふに明応(めいおう)八年五月三日にはまだ宗光(むねみつ)の名(な)を以(もつ)て
長興寺(てうこうじ)に出した文書(ぶんしよ)があるから当時(とうじ)宗光(むねみつ)は未だ生存(せいぞん)して居つたものと信(しん)ぜられる然(しか)るに其(その)翌年(よくねん)の七月
に其子の憲光(のりみつ)が同寺(どうじ)へ納(をさ)めた板本(はんほん)法華経(ほけけふ)の奥書(おくがき)に
先者全久、夙有願力関妙経之板、厥功末終逝矣、憲光紹家業、而護終其志也、盖酬罔極之恩者也
(下略)
明応九年七月 日 弾正忠藤原憲光敬誌
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
【左頁】
【本文】
とあつて尾張国(をはりのくに)知多郡(ちたぐん)羽豆神社(はねづじんしや)の棟札(むなふだ)にも
明応九年庚申八月十二日 願主 藤原朝臣田原弾正忠憲光
と云ふのがある之(これ)によつて見(み)れば明応九年七月には早や宗光(むねみつ)は逝去(せいきよ)した後で憲光(のりみつ)が其後(そののち)を継(つ)いたもの
であると云ふ事は証明(せうめい)さるゝのである私(わたくし)はまだ暇(ひま)がないので此(この)経文(けふもん)も棟札(むなふだ)も実見(じつけん)はせぬのであるが如(い)
何(か)にも此(この)説(せつ)は確(たしか)なるものと信(しん)ぜられる従(したがつ)て明応九年を去(さ)ること九年後の永正五年に宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)せりとの説(せつ)
は誤(あやまり)であると思(おも)ふのである
全久院 ソコで申述(もうしの)べたいのは全久院(ぜんきうゐん)と云ふ寺(てら)の事である全久院(ぜんきうゐん)と云ふ寺は今(いま)も尚(な)ほ二 連木(れんぎ)にあるが元来(がんらい)全久(ぜんきう)
と云ふ名(な)は宗光(むねみつ)の法名(はうめい)であるから此(この)寺(てら)が宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の後(のち)其(その)菩提(ぼだい)の為に建立(こんりう)せられたものである事は推測(すいそく)
せらるゝのであつて之(これ)には異説(ゐせつ)はないが其(その)建立(こんりう)の時代(じだい)に就(つい)ては中々(なか〳〵)議論(ぎろん)がある寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には之
を冝光(よしみつ)の開基(かいき)としてあつて全久院(ぜんきうゐん)の記録(きろく)の或(ある)ものには弘治(こうぢ)二年 戸田全香(とだぜんこう)の創建(さうけん)であるとしてある全香(ぜんこう)
とは即(すなは)ち冝光(よしみつ)の法名(ほうめい)である然(しか)るに此(この)説(せつ)に就ては大(だい)なる疑問(ぎもん)を挟(さしはさ)まねばならぬと云ふのは元来(がんらい)宗光(むねみつ)の菩(ぼ)
提(だい)の為(ため)に寺を起(おこ)すなれば先(ま)づ其子(そのこ)の憲光(のりみつ)がなさねばならぬと思(おも)ふ殊(こと)に憲光(のりみつ)相続(さうぞく)の時代(じだい)は戸田氏は頗(すこぶ)る
勢(いきほひ)のよい時で寺(てら)の一つ位(ぐらい)建立(こんりう)するのは強(あなが)ちに困難(こんなん)なる事業(じげう)とも思(おも)はれない然(しか)るを五十余年の後(のち)に至
つて其(その)玄孫(げんそん)が初(はじ)めてこれ建立(こんりう)すると云ふのは如何(いか)にも受取(うけと)れぬ事である加之(しかのみならす)全久院(ぜんきうゐん)の記録(きろく)の或(ある)るも
のには大永三未年正月十一日の創建(さうけん)だと書(か)いてある之(これ)も到底(とうてい)信(しん)ぜられぬ説(せつ)であるが抑(そも〳〵)此(この)全久院(ぜんきうゐん)の住(ぢう)
光国禅師 僧(そう)と云ふのは最初(さいしよ)が光国禅師(こうこくぜんし)で此人は自(みづつ)ら二世と称(せう)して其師(そのし)の克補和尚(こくほおせう)を以て開山(かいざん)と呼(よ)むでは居るが
克補和尚(こくほおせう)は住職(ぢうしよく)したものではない而(しか)して光国(こうこく)の次(つぎ)が三世 巧安和尚(こうあんおせう)其(その)次(つぎ)が四世の栄歳和尚(えいさいおせう)であるソコで
三世の巧安(こうあん)は天文廿一年十月朔日の入寂(にふせき)であることは過去帳(くわこてう)の記する処である天文廿一年は弘治(こうぢ)二 年(ねん)よ
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十三
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十四
【本文】
り五年前であるから全久院(ぜんきうゐん)の創立(さうりつ)が弘治二年では三世 巧安(こうあん)の住職(ぢうしよく)した日はない訳(わけ)になるので従(したがつ)て此(この)説(せつ)
は益々(ます〳〵)信(しん)ぜられぬ事になるそれのみならず二世の光国(こうこく)は全久院(ぜんきうゐん)を三世の巧安(こうあん)に譲(ゆづ)つた後(のち)信濃国(しなのゝくに)に瑞光(ずゐこう)
院(ゐん)渥美郡(あつみぐん)振草(ふりくさ)に長養院(てうようゐん)と云ふ寺を開(ひら)いて居るがこ此(この)長養院(てうようゐん)にあつた古鐘(かね)は天文十一年 巧安(こうあん)の鋳(い)る処で光
国の銘(めい)であると云ふことが全久院(ぜんきうゐん)十七世 万里和尚(ばんりおせう)の説(せつ)に記(しる)されて居る而(しか)して信濃国(しなのゝくに)下伊那郡(しもいなぐん)新野村(にひのむら)の二
善寺(ぜんじ)と云ふ寺に存(ぞん)して居る棟札(むなふだ)には
肯天文二年癸巳菊月初六日前永平 瑞光現住光国舜玉叟書(●●●●●●●●●●)
と云ふのがある之等(これら)の事実(じじつ)に依(よ)れば長養院(てうようゐん)の出来(でき)たのが少(すくな)くも天文十一年 以前(いぜん)で光国(こうこく)が瑞光院(ずいこうゐん)に移(うつ)つ
たのは天文二年 以前(いぜん)になるので従(したがつ)て此時(このとき)全久院(ぜんきうゐん)は既(すで)に三世 巧安(こうあん)の代(だい)であるから全久院が天文二年より
も尚(なほ)ズツト以前(いぜん)から存在(ぞんざい)したものであると云ふ事は証拠(せうこ)立(だ)てられるのである尚(なほ)其上(そのうへ)に此説(このせつ)を有力(ゆうりよく)なら
しむるのは全久院(ぜんきうゐん)に現存(げんぞん)せる光国(こうこく)自写(じしや)の仏書(ぶつしよ)で其(その)多(おほ)くは永正(えいせう)年間(ねんかん)のものである之等の点から推測(すいそく)する
と矢張(やはり)全久院の建立(こんりう)は前に申述べた如く冝光(よしみつ)の創建(さうけん)ではなくて宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の後(のち)其子(そのこ)の憲光(のりみつ)が父(ちゝ)の為に建(こん)
立(りう)したので其(その)年代(ねんだい)は明応(めいおう)の末年(まつねん)又は永正の初年にありとするのが穏当(おんとう)であると信(しん)ぜられるのである従(したがつ)
て此(この)事実(じじつ)から論及(ろんきう)する縁故(えんこ)のない処に寺を建(た)つる筈(はづ)はないから二 連木城(れんぎぜう)こそ全久院(ぜんきうゐん)の創建(さうけん)以前(いぜん)即(すなは)ち
《割書:全久院と二|連木城との》 少(すくな)く共(とも)明応(めいおう)の初年(しよねん)に方(あた)つて宗光の築(きづ)いたものでそれを天文十年に至(いた)つて冝光(よしみつ)が修築(しうちく)したのであると云
《割書:関係| 》 ふ説(せつ)が正(たゞ)しいように信(しん)ぜられるのであるモツトモ全久院(ぜんきうゐん)に対(たい)しても冝光(よしみつ)住居(ぢうきよ)の後(のち)大(おほい)に伽藍(がらん)を興(おこ)したも
ので夫(それ)は又た証拠(せうこ)のある事(こと)であるがら其(その)修築(しうちく)の時が即(すなは)ち弘治二年であつたものと信(しん)ぜられるのである
サテ宗光(むねみつ)逝去(せいきよ)の後(のち)は前に述べた如く憲光(のりみつ)が田原を襲(つ)いだのであるが此人(このひと)は弾正忠(だんぜうちう)と称(とな)へたので永正三
年 今橋(いまはし)が落城(らくぜう)して牧野古白(まきのこはく)戦死(せんし)の時は即(すなは)ち此人(このひと)が田原の城主(ぜうしゆ)であつたのである然(しか)るに落城(らくぜう)後(ご)の今橋(いまはし)は
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百四十号附録 ( 明治四十四年四月二十五日発行 )
【本文】
戸田金七郎と云ふ人が守(まも)つたので此(この)金(きん)七 郎(らう)は即ち憲光(のりみつ)の二 男(なん)であると云ふ事は諸種(しよしゆ)の記録(きろく)に見ゆる処
戸田憲光 であるが其頃(そのころ)の戸田氏は余程(よほど)盛(さかん)であつたもので藩翰譜(はんかんふ)にも創業記(さうげうき)を引(ひ)いて「田原(たはら)を初(はじ)め二 連木(れんぎ)今橋(いまはし)等(とう)
の城(しろ)を併(あわ)せ領(れう)して其(その)嫡男(ちようなん)右近尉(うこんのぜう)政光(まさみつ)は二連木にあり二 男(なん)金七は今橋(いまはし)にあり」と云ふように記(しる)されてあ
る而(しか)して此(この)憲光(のりみつ)と云ふ人は法名(ほうめい)を全忠(ぜんちう)と云つたが一 般(ぱん)に永正十年十一月朔日 田原(たはら)に於(おい)て逝去(せいきよ)し矢張(やはり)長(てう)
戸田政光 興寺(こうじ)に葬(ほうむ)つたことに伝(つた)へられて居る併(しか)し事実(じじつ)は永正十三年から仝十五年の間(あひだ)の頃(ころ)に田原城(たはらぜう)をば其子(そのこ)の右(う)
近尉(こんのぜう)政光(まさみつ)に譲(ゆづ)つて自(みづか)らは知多郡(ちたぐん)の河和(かはわ)に移(うつ)り住(ぢう)し其処(そこ)にて逝去(せいきよ)したもので少(すくな)くも大永七年迄は存生(ぞんせい)し
たのである今(いま)も尚(な)ほ河和(かはわ)に全忠寺(ぜんちうじ)と云ふのがあつて之(これ)は政光(まさみつ)が父(ちゝ)の為(ため)に建立(こんりう)したものであるとの事で
あるかゝる次第(しだい)で政光(まさみつ)は父に継(つい)で田原城(たはらぜう)の主(しゆ)となつたが程(ほど)なく渥美郡(あつみぐん)の仁崎(にさき)に隠居(ゐんきよ)して田原をば其子(そのこ)
戸田康光 の弾正小弼康光(だんぜうせうひつやすみつ)に譲(ゆづ)つたのである然(しか)るに前章(ぜんせう)にも申述(もうしの)へた如く大永の初年(しよねん)に当(あた)て古白(こはく)の子(こ)成三(しげかづ)等(ら)が起(おこ)
つて再(ふたゝ)び今橋城を取(と)つたので金七郎は止(や)むを得(え)ず此処(こゝ)を退(しりぞ)くに至(いた)つたのであるが其後(そのご)牧野氏(まきのし)の勢力(せいりよく)は
漸(やうや)く強大(けうだい)となつたので戸田氏に於(おい)ても寧(むし)ろ之(これ)と和(わ)を結(むす)むだ様子(ようす)が見へる然(しか)るに享禄(けうろく)二年に至つて牧野(まきの)
氏(し)の一 族(ぞく)は松平清康(まつだひらきよやす)の為(ため)に敗亡(はいぼう)に皈(き)するに至つたのであるが元来(がんらい)此(この)田原(たはら)の戸田氏と松平氏(まつだひらし)とは親密(しんみつ)な
間柄(あひだがら)で前にも申述(もうしの)べて置いた通りであるから宗光(むねみつ)以来(いらい)両者(れうしや)間(かん)の和親(わしん)は変(かは)る事がなく現(げん)に文亀(ぶんき)元年(がんねん)大樹(だいじゆ)
寺(じ)の連書(れんしよ)と云ふ有名(ゆうめい)な文書(ぶんしよ)の中には田原孫次郎家光(たはらまごじらういへみつ)と云ふのが松平家(まつだひらけ)一 統(とう)の中に加(くは)はつて連署(れんしよ)して居
るのである此(この)家光(いへみつ)と云ふ人に就(つい)ては説(せつ)があるが憲光(のりみつ)の兄弟(けうだい)であると云ふのが正(たゞ)しい様(よう)に思(おも)ふ兎(と)に角(かく)此(かく)
の如(ごと)き訳(わけ)であつたが永正(えいせう)三年今川氏の侵入(しんにう)に方(あた)つては憲光(のりみつ)が初(はじ)めて之(これ)に加担(かたん)したので一時は松平氏と
敵味方(てきみかた)の事になつたが程(ほど)なく松平今川二氏の間(あひだ)が和睦(わぼく)になつたから松平(まつだひら)戸田(とだ)二 氏(し)の間(あひだ)も自然(しぜん)旧態(きうたい)に復(ふく)
したのである然(しか)るに松平氏は長親(ながちか)の子(こ)信忠(のぶたゞ)の代(だい)となつて国人(こくじん)が服(ふく)せざる状態(じやうたい)であつたから此(この)二 家(け)の間
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十五
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十六
【本文】
も多年(たねん)疎々(うと〳〵)しくなつて居(を)つたのであるが今度(このたび)清康(きよやす)が東三河に攻(せ)め入(い)りて吉田の牧野氏(まきのし)を敗(やぶ)つたので直(たゞ)
ちに田原に押寄(おしよ)せたのである併(しか)し旧交(きうこう)の厚(あつ)かりし此(この)二 家(け)の事であるから忽(たちま)ち樽俎折衝(そんそせつせう)の間(あひだ)に和親(わしん)が温(あたゝ)
まつたので清康(きよやす)は僅(わづか)三日の後に再(ふたゝ)び吉田に引返(ひきかへ)したのである併(しか)し何(いづ)れの記録(きろく)を見ても此時(このとき)の事に就(つい)て
は田原(たはら)の戸田は風(かぜ)を望(のぞ)むで降参(こうさん)したと云ふような事になつて居るから私(わたくし)も先(さ)きにソウ云ふ語気(ごき)を用(もち)い
たので筆記(しつき)に残(のこ)つて居るが之(これ)は矢張(やはり)語弊(ごへい)であるから茲(こゝ)に正(たゞ)して置(お)きたいと思(おも)ふ然(しか)るに天文四年には清(きよ)
康(やす)横死(わうし)の事がありそれから松平家(まつだひらけ)には内乱(ないらん)があつて清康(きよやす)の子(こ)広忠(ひろたゞ)は他国(たこく)に流寓(るぐう)し其六年 漸(やうや)く国に皈(かへ)る
《割書:戸田金七郎|再び吉田城》 を得(ゑ)たる事は之(こ)れ亦(ま)た先(さ)きに述(の)べた如(ごと)くであるが其年(そのとし)(距今三百七十四年)金七郎は謀略(ぼうりやく)を以(もつ)て復(ま)た吉
《割書:に拠る| 》 田城の守将(しゆせう)牧野傳兵衛を遂(お)つて之(これ)に代(かは)つたのである而(しか)して其十年には冝光(よしみつ)が二 連木城(れんぎぜう)を修築(しうちく)して之(これ)に
拠(よ)つたと云ふのであるから戸田氏(とだし)一 門(もん)の勢力(せいりよく)は復(ふたゝ)び此(この)地方(ちほう)に振(ふる)つた次第(しだい)である
尚(な)ほ此処(こゝ)に重(かさ)ねて御話(おはなし)して置(お)きたいのは此(この)金七郎と云ふ人の事で之(これ)は前(まへ)にも申述(もうしの)べて置(お)いた如く多(おほ)く
の書物(しよもつ)に憲光(のりみつ)の二 男(なん)であるとなつて居(を)るがドウモ系図(けいづ)の上(うへ)からは憲光(のりみつ)の二男に金七郎と云ふ人は見当(みあた)
らぬのである吉田城主考(よしだぜうしゆこう)の如きは橘(たちばな)七郎 宣成(のぶなり)の事であろうと記(しる)して居るが只(た)だ藩翰譜(はんかんふ)系図(けいづ)にのみは
明(あきら)かに宣成(のぶなり)を以(もつ)て金七郎として居(を)るのである然(しか)るに寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には却(かへつ)て康光(やすみつ)が金七郎と云つた事
が記(しる)してある併(しか)し此(この)金七郎は到底(とうてい)康光(やすみつ)では理屈(りくつ)に合(あ)はぬのである宣成(のぶなり)と云ふ人にしても矢張(やはり)天文十年
六月十八日に死去(しきよ)して居る処から見(み)ると齟齬(そご)する点(てん)がある様に思ふ併(しか)し朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)に「金七郎は渥(あつ)
美郡(みぐん)田原(たはら)の城主(ぜうしゆ)戸田弾正忠康光(とだだんぜうちうやすみつ)が一 族(ぞく)なれば康光(やすみつ)が指揮(しき)をうけて当城(とうぜう)を守(まも)りしなるべし」とあるは誤(あやま)
らざる処(ところ)である
《割書:康光の女婚|嫁 》 サテ以上(いぜう)述(の)べた如き有様(ありさま)で経過(けいくわ)したのであるが天文十年には康光(やすみつ)の女が松平広忠(まつだひらひろたゞ)に嫁(か)したので戸田
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□ □
【左頁】
【欄外】
豊橋市史談
【本文】
家と松平家(まつだひらけ)とは姻戚(ゐんせき)の関係(かんけい)を重(かさ)ねた訳(わけ)になつたのであるモツトモ広忠(ひろたゞ)は先(さ)きに刈谷(かりや)の城主(ぜうしゆ)水野忠政(みづのたゞまさ)の
女を娶(めとつ)て竹千代(たけちよ)を生(う)むだので之(これ)が即(すなは)ち後(のち)に徳川家康(とくがはいへやす)となつたのであるが忠政(たゞまさ)死去(しきよ)の後(のち)其子(そのこ)信元(のぶもと)は広忠(ひろたゞ)
内室(ないしつ)の兄(あに)であつたにも拘(かゝは)らず松平家(まつだひらけ)と絶(た)つて当時(とうじ)其(その)敵国(てきこく)であつた尾張(をはり)の織田氏(をだし)に欵(かん)を通(つう)じたのである
ソコで広忠(ひろたゞ)は怒(いか)つて遂(つひ)に其(その)妻(つま)水野氏を離縁(りゑん)したのであるソレは天文十三年の事であるが此(この)水野氏(みづのし)と云
ふ人は中々(なか〳〵)の女丈夫(ぢよぜうぶ)で之(これ)が後(のち)に至つて伝通院(でんつうゐん)と諡(おくりな)され東京(とうけう)小石川(こいしかは)の伝通院(でんつうゐん)と云ふ寺(てら)は其為(そのため)に建立(こんりう)され
たものである康光(やすみつ)の女は即(すなは)ち其(その)跡(あと)へ嫁(か)したので田原御前(たはらごぜん)と称(せう)せられたのであるが男子(だんし)はなかつたので
《割書:今川義元吉|田城を略取》 ある此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたが如何(いか)なる訳(わけ)か天文十五年の十月に今川義元(いまがはよしもと)は天野安芸守(あまのあきのかみ)と云ふ人などを
《割書:す|天野安芸守》 寄越(よこ)して此(この)吉田城(よしだぜう)を攻撃(こうげき)し戸田氏の手(て)から之(これ)を奪(うば)つたのである此事(このこと)は勿論(もちろん)藩翰譜(はんかんふ)などにも載(の)つて居る
が朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には
十月 戸田(とだ)金七郎 某(ぼう)吉田城(よしだぜう)に住(ぢう)して今川家(いまがはけ)に属(ぞく)せしが此頃(このころ)叛(そむ)くにより広忠(ひろたゞ)君(きみ)義元(よしもと)と共に御出陣(ごしゆつぢん)ありて
攻(せ)め給(たま)ふ此時(このとき)石川式部(いしかはしきぶ)某(ぼう)酒井将監忠賀(さかゐせうげんちうが)等(ら)はげしく戦(たゝか)ひ遂(つひ)に落城(らくぜう)す
とあつて此時(このとき)松平氏(まつだひらし)も亦(ま)た今川氏に加勢(かせい)して戸田氏を攻(せ)めた事になつて居る吉田城主考(よしだぜうしゆこう)にも矢張(やはり)之(これ)と
同(おな)じ説(せつ)が記(しる)されて居(を)るので当時(とうじ)既(すで)に松平戸田二氏の間(あひだ)は釁(きん)を生(せう)じたものと思(おも)はれる而(しか)して私が先(さ)きに
吉田の地名(ちめい)の事を説(と)いた時(とき)一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置いた天野文書(あまのぶんしよ)の内(うち)今川義元(いまがはよしもと)より此(この)天野安芸守(あまのあきのかみ)に与(あた)へた咸状(かんぜう)
即(すなは)ち「今橋城(いまはしぜう)小口(こぐち)取寄(とりよせ)候(そうろう)時(とき)了念寺(れうねんじ)え云々(うんぬん)」とあるのは実(じつ)に此時(このとき)のもので考証(こうしよ)に資(し)すべきものと思(おも)ふから
重複(ぢうふく)を厭(いと)はず此処(こゝ)に其(その)全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)ぐる事(こと)とする
今度三州今橋之城小口取寄候時了念寺え可相移候由成下知候処不及異儀最前馳入堅固相踏候旨大功
之至感悦申候今月十五日辰刻同城外搆乗崩之刻不暁宿成へ乗入自身盡粉骨殊同名親類被官以下蒙疵
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十七
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十八
【本文】
頭可討捕之條各別紙遣感状申候誠以度々軍功神妙之至也弥可抽忠勤之状如件
十一月廿五日 義 元(判)
天 野 安 芸 守 殿
此(この)文書(ぶんしよ)で見ると今川勢(いまがはぜい)は十一月の十五日に外搆(がいこう)乗(の)り崩(くづ)しの為(た)め黎明(れいめい)から吉田城(よしだぜう)の攻撃(こうげき)に取(とり)かゝつたも
のと見(み)へる然(しか)るに之(これ)に年号(ねんごう)がないので種々(しゆ〴〵)の説(せつ)がある吉田博士(よしだはかせ)の地名辞書(ちめいじしよ)の如きは之(これ)を天文十四年の
ものとなし尚(なほ)一 通(つう)の雪斎(せつさい)より送(おく)つた文書(ぶんしよ)と同時(どうじ)であるとして居(を)るが之(これ)は全然(ぜん〴〵)誤(あやまり)であると思(おも)ふ私は此(この)
義元(よしもと)の文書(ぶんしよ)は天文十五年 吉田城(よしだぜう)攻撃(こうげき)当時(とうじ)のものに相違(さうゐ)なく尚(なほ)一 通(つう)の雪斎(せつさい)の文書(ぶんしよ)は其(その)翌(よく)十六年で田原城(たはらぜう)
攻撃(こうげき)の時(とき)のものであると確信(かくしん)する雪斎(せつさい)の文書(ぶんしよ)に就(つい)ては後(のち)に詳説(せうせつ)するが此(この)義元(よしもと)の文書(ぶんしよ)に就(つい)ては朝野旧聞(てうやきうぶん)
裒考(ほうこう)にも天文十五年の条(くだり)に於(おい)て「按(あん)ずるに此(この)文書(ぶんしよ)年(とし)を記(しる)さゞれとも今橋(いまはし)落城(らくぜう)の時のものなれば今年(こんねん)な
るべし是(これ)による時(とき)は十一月に及(およん)で落城(らくぜう)ありしなり」と記(しる)されて居(を)るのであるモツトモ私(わたくし)が先(さ)きに吉田
の地名(ちめい)の事を御話(おはなし)した時 此(この)文書(ぶんしよ)を二 通共(つうとも)に天文十六年のものであると申述(もうしの)べたようになつて居(を)るのは
言葉(ことば)の足(た)らぬ所(ところ)であるから其事(そのこと)に御承知(ごせうち)を願(ねが)いたいのである
《割書:康光竹千代|を奪ふ》 ソコで其(その)翌(よく)天文十六年に至(いたつ)て更(さら)に一 事件(じけん)が起(おこ)つたのであるソレは有名(ゆうめい)な話(はなし)で竹千代(たけちよ)が今川氏(いまがはし)に質(しち)とな
つて駿河(するが)の国(くに)に行(い)かうと云ふのを此(こ)の田原(たはら)の戸田が途中(とちう)で奪(うば)つたと云ふ事抦(ことがら)であ
る其時(そのとき)竹千代は六歳
であつたが之(これ)に就(つい)ても説(せつ)は色々(いろ〳〵)ある松平記(まつだひらき)には
田原(たはら)住人(ぢうにん)戸田弾正(とだだんぜう)弟(おとゝ)戸田(とだ)五 郎(らう)と申者(もをすもの)志本見坂(しほみざか)にて竹千代(たけちよ)殿(どの)の乗物(のりもの)を奪(うばひ)とり船(ふね)にて尾張(をはり)の国(くに)に参(まい)る
とあるが此(この)五郎と云ふのは政直(まさなほ)の事であるから実(じつ)は弾正少弼康光(だんぜうせうひつやすみつ)の子(こ)でなくてはならぬのである而(しか)し
て徳川実記(とくがはじつき)には
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百四十六号附録 ( 明治四十四年五月二日発行 )
【本文】
竹千代(たけちよ)君(ぎみ)僅(わづか)に六歳にならせ給(たま)ふを駿河(するが)に質子(しちこ)たるべしとの事(こと)に定(さだ)まり(中略)すべて廿八人 雑兵(ざうへい)五十
余人(よにん)阿部(あべ)甚(じん)五 郎(らう)正宣(まさのぶ)が子(こ)徳千代(とくちよ)(《割:伊予守正|勝なり》)六歳なりしを御遊(おんあそび)の友(とも)として御輿(みこし)に同(おな)じく乗(の)せて遣(つかは)さるゝ
に田原(たはら)の戸田弾正少弼康光(とだだんぜうせうひつやすみつ)は広忠(ひろたゞ)卿(けう)今(いま)の北方(きたかた)の御父(おんちゝ)なれば此(この)御(おん)ゆかりをもて陸地(りくち)は敵地(てきち)多(おほ)し船(ふね)にて
我(わ)が領地(れうち)より送(おく)り申さんと約(やく)し西郡(にしのこほり)より吉田へ入(い)らせ給(たま)ふ所(ところ)を康光(やすみつ)と其子五郎 政直(まさなほ)と心を合(あは)せ御(お)
供(とも)の人々を偽(いつは)りたばかり船(ふね)に乗(の)せて尾州(びしう)熱田(あつた)におくり織田信秀(をたのぶひで)にわたしければ信秀(のぶひで)悦(えつ)大方(おほかた)ならず熱(あつ)
田(た)の加藤図書順盛(かとうとしよじゆんせい)が許(もと)へ預(あづ)けしとぞ
と記(しる)してあつて即(すなは)ち康光(やすみつ)が其子(そのこ)政直(まさなほ)と心を合(あは)せて此(この)吉田(よしだ)で竹千代を奪(うば)つた事になつて居る然(しか)るに彦左(ひこざ)
衛門(ゑもん)の三 河物語(かはものがたり)には
竹千代様(たけちよさま)。御年(おんとし)六歳の御時(おんとき)。シチ物(もつ)トシテ。駿河(するが)得(え)御下向(ごけこう)被成(なされ)ケリ。然(しかる)間(あひだ)西郡(にしのこほり)ニテ。御船(おんふね)ニ召(めさ)
シテ。田原(たはら)エ。アガラセ給日(たまひ)而(て)。田原(たはら)寄(より)駿河(するが)得(え)御下向(ごけこう)可被成(なさるべく)トノ儀(ぎ)成(なり)。田原(たはら)之 戸田弾正少弼(とだだんぜうせうひつ)殿(との)ハ。広忠(ひろたゞ)
之(の)御(おん)タメニハ。御婚成(おんしうとなり)。竹千代様之 御(おん)タメニハ。マヽ祖父(をうぢ)成(なり)。然供(しかれども)。少弼(せうひつ)殿(との)。小田(をだ)之(の)弾正之忠(だんぜうのちう)得(え)。
エイラク(永楽)。□(せん)【前の下に木】。千貫メニ。竹千代様ヲ売(うら)サセラレ給日(たまひ)而(て)。御舟(おんふね)ニ召(めし)而(て)。アツ田ノ宮(たのみや)得(え)。アガラセ給(たま)
日(ひ)。大宮地(だいぐうじ)馮給日(あづかりたまひ)而(て)。明ノ年(あけのとし)迄(まで)御(おはします)
とあつて竹千代(たけちよ)を永楽銭(えいらくせん)千 貫文(ぐわんもん)に売(う)つたと云ふのはドウであるかと思(おも)はるゝが其他(そのた)は先(ま)づ此(この)説(せつ)が事実(じじつ)
に近(ちか)いように信(しん)ぜられるのである殊(こと)に竹千代を奪(うば)つた場所(ばしよ)を汐見坂(しほみざか)となすの説(せつ)は朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)にも見
へて居るが之(これ)は地形上(ちけいぜう)到底(とうてい)信(しん)ぜられぬ事抦(ことがら)であると思(おも)ふ強(しひ)て潮見坂(しほみざか)と云ふのを臆測(おくそく)すれば今(いま)の豊橋市
外 高師村(たかしむら)福岡内(ふくをかない)に潮満(しほみち)の観音(くわんおん)と云ふのがあるがあの辺(へん)迄(まで)は旧来(きうらい)海(うみ)が入り込(こ)むで居つたのであるから其(その)
辺(へん)をでも呼(よ)むだものともなすべきであろうか元(もと)より之(これ)は当(あ)て推量(すゐれう)で何(な)にも論拠(ろんきよ)はないのであるが兎(と)に
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 四十九
【欄外】
豊橋市史談□□□□□(二連木城と戸田氏)□□□□□□□□□□五十
【本文】
角(かく)一 般(ぱん)に通(とほ)つて居る遠江(とほとふみ)の潮見坂(しほみざか)では全(まつた)く道理(どうり)に合(あ)はぬ事になると思(おも)はれる又(また)藩翰譜(はんかんふ)にも此時(このとき)の事情(じぜう)
は詳(くは)しく書(か)いてあつて中(なか)に竹千代を奪(うば)つたのは政光(まさみつ)であると云ふ一 説(せつ)も載(の)つて居るが浪(なみ)の上(うへ)戸田系譜(とだけいふ)
にも同様(どうよう)の記事(きじ)がある併(しか)し之(これ)亦(ま)た疑問(ぎもん)でドウしても時代(じだい)から推(お)して康光(やすみつ)と云ふ説(せつ)が事実(じじつ)であると信(しん)ぜ
戸田尭光 られるモツトモ校正余録(こうせいよろく)には康光(やすみつ)は其頃(そのころ)退隠(たいゐん)して家を其(その)長子(てうし)尭光(たかみつ)に譲(ゆづ)つたので即(すなは)ち此(この)事件(じけん)の当事者(とうじしや)は
尭光(たかみつ)であるが其(その)謀主(ぼうしゆ)たるものは矢張(やはり)康光(やすみつ)であると論(ろん)じて居る此(この)説(せつ)は一 層(そう)的確(てきかく)であると思(おも)はれるが一 方(ぽう)
には此(この)尭光(たかみつ)と云ふ人は冝光(よしみつ)の前名(ぜんめい)でソレと同一人であると云ふ説(せつ)が行(おこな)はれて居る寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)の如
きも前(まへ)に掲(かヽ)げた系図(けいづ)の如く康光(やすみつ)の長子(てうし)を冝光(よしみつ)として居るので尭光(たかみつ)と云ふ人は見(み)へて居らぬ併(しか)しながら
尭光(たかみつ)と冝光(よしみつ)とは何処迄(どこまで)も別人(べつじん)で之(これ)には種々(しゆ〴〵)な証拠(せうこ)のある事である現(げん)に渥美郡(あつみぐん)老津村(おひつむら)の太平寺(たいへいじ)に存(ぞん)せる
文書(ぶんしよ)に「天文十三年甲辰十二月十六日 孫(まご)四 郎(らう)尭光(たかみつ)」と云ふのがあるが此(この)孫四郎と云ふ名称(めいせう)は田原(たはら)戸田
氏の嫡男(ちようなん)が代々(だい〴〵)称(とな)へたもので冝光(よしみつ)は初(はじ)めから甚(じん)五 郎(らう)と云つたのであるからソレと之(これ)とは自(おのづか)ら違(ちが)はね
ばならぬ殊(こと)に冝光(よしみつ)は初(はじ)め牛久保の加治村(かぢむら)に住(ぢう)して後(のち)に二 連木(れんぎ)の城(しろ)を修築(しうちく)して移(うつ)つたのであるから田原(たはら)
城(ぜう)は長子(てうし)の尭光(たかみつ)が襲(つ)いで冝光(よしみつ)の方(はう)は二 男(なん)であつたと云ふ校正余録(こうせいよろく)の説が益々(ます〳〵)事実(じじつ)らしくなる又(ま)た康光(やすみつ)
は田原城(たはらぜう)をば其(その)弟(おとゝ)の光忠(みつたゞ)に譲(ゆづ)つたのであると云ふ説(せつ)があるが光忠(みつたゞ)と云ふ人は総左衛門(そうざゑもん)と称(せう)して別家(べつけ)の
筋(すじ)で右衛門光高(うゑもんみつたか)に至つて絶家(ぜつけ)したのであるから其(その)説(せつ)の誤(あやまり)なることは明(あきらか)であると思(おも)ふ又た此(この)光忠(みつたゞ)を庄左(せうざ)
衛門(ゑもん)と称(せう)したと記(しる)したものが多(おほ)くあつて校正余録(こうせいよろく)も亦(ま)た其(その)流(りう)であるが庄左衛門(せうざゑもん)と称(せう)したのは光忠(みつたゞ)の兄(あに)
で康光(やすみつ)の弟(おとゝ)に当(あた)る忠政(たゞまさ)の事である之(これ)は寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)の系図(けいづ)が正(たゞ)しいと信(しん)ずる而(しか)して当時(とうじ)戸田家と松
平家とは舅(しうと)姑(しうとめ)の間抦(あひだがら)であるのに戦国(せんこく)の習(ならひ)とは云ひながら何故(なにゆへ)に此(かく)の如(ごと)く竹千代を奪(うば)ふと云ふような
挙(きよ)に出(い)でたのであるか朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には天文十五年 吉田城(よしだぜう)合戦(かつせん)の条(くだり)に「此時(このとき)力盡(ちからつ)きて今川家に降(くだ)りし
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談
【本文】
かど翌(よく)十六年 竹千代(たけちよ)君(ぎみ)を奪(うば)ひ奉(たてまつ)りしは全(まつた)く此時(このとき)の鬱憤(うつぷん)より起(おこ)りしものにや考(かんが)ふべし」と記(しる)してある
然(しか)るに校正余録(こうせいよろく)に於(おい)ては当時(とうじ)康光(やすみつ)は到底(とうてい)今川氏の頼(たの)むに足(た)らざるを観波(くわんぱ)し自身(じしん)は勿論(もちろん)ドウかして松平
氏をも織田氏(をだし)の方(はう)に依(よ)らしめたいものであると云ふので遂(つひ)にかゝる挙(きよ)に出(い)でたのあろうと弁明(べんめい)して
居(を)る
兎(と)も角(かく)右(みぎ)の訳(わけ)で竹千代を奪(うば)ひ之(これ)を敵国(てきこく)たる織田氏(をだし)に送(おく)つたのは今川氏(いまがはし)に於ても打捨(うちす)て置(お)かれぬと云ふ
田原落城 事になつて又々(また〳〵)天野安芸守(あまのあきのかみ)を以(もつ)て其年(そのとし)の九月 田原(たはら)を攻撃(こうげき)せしめて五日に戦(たゝかひ)があつたのである而(しか)して
田原は遂(つひ)に落城(らくぜう)に及(およ)むだのであるが天野文書(あまのぶんしよ)の内(うち)に此時(このとき)義元(よしもと)の参謀(さんぼう)たる雪斎(せつさい)長老(てうらう)から安芸守(あきのかみ)に贈(おく)つた
書翰(しよかん)がある之(これ)は前(まへ)にも度々(たび〴〵)申述(もうしのべ)て置いたので其(その)全文(ぜぶん)は左(さ)の如(ごと)くである
其後は久不申通候仍今度於田原御働之様子承誠以無比類儀に候則御感状被遣候又去年於吉田之城御
粉骨之儀是又愚僧存知之分不残申上候三州御陣番御苦労無申計候今少之儀候間御奉公肝要存候猶重
而可申候恐惶謹言
十一月十四日 駿州臨済寺住持
雪 斎
天 野 安 芸 守 殿
御 宿 所
此(この)文書(ぶんしよ)にも亦(ま)た年号(ねんごう)がないので矢張(やはり)種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があるが天文十六年の九月五日に田原(たはら)攻(ぜめ)のあつた事並(ならび)に
此(この)天野安芸守(あまのあきのかみ)が之に与(あづか)つた事は此時(このとき)別(べつ)に義元(よしもと)から天野に贈(おく)つた感状(かんぜう)か残(のこ)つて居るので証拠(せうこ)立(だ)てられる
モツトモ余(あま)り繁雑(はんざつ)に渉(わた)るから其(その)感状(かんぜう)は此処(こゝ)に掲載(けいさい)せぬが尚(なほ)其他(そのた)にも確実(かくじつ)なる根本史料(こんぽんしれう)があるのである
【欄外】
豊橋市史談□□□□□(二連木城と戸田氏)□□□□□□□□□□五十一
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 五十二
【本文】
からソレ等(ら)の事実(じじつ)と対照(たいせう)して右(みぎ)の文書(ぶんしよ)が天文十六年のものであると云ふ事は明(あきら)かである従(したがつ)て去年(きよねん)於吉(よしだ)
田城粉骨(ぜうにおいてふんこつ)の儀(ぎ)云々(うんぬん)とあるのは之(こ)れ亦(ま)た前(まへ)に述(の)べた十五年の吉田(よしだ)攻(ぜめ)と相対(あひたい)して益々(ます〳〵)其(その)事実(じじつ)を確(たしか)むること
が出来(でき)るのみならず三 州(しう)御陣な番(ごぢんばん)御苦労(ごくらう)云々(うんぬん)等(とう)の文意(ぶんい)より見れば昨年(さくねん)以来(いらい)安芸守(あきのかみ)は吉田城に留(とゞめ)て之(これ)を守(しゆ)
護(ご)して居つたものとも思(おも)はれるさサテ田原(たはら)に於(お)ける戸田氏は此(この)戦(たゝかい)に於て一 時(じ)敗亡(はいぼう)に皈(き)した状態(ぜうたい)となつた
《割書:田原戸田と|二連木戸田》 のであるが此処(こゝ)が田原(たはら)戸田と二 連木(れんぎ)戸田と判然(はんぜん)両家(れうけ)の相分(あひわか)れた処で其後(そのご)前(まへ)に述(の)べた康光(やすみつ)の弟(おとゝ)忠政(たゞまさ)が西
三河で松平氏の為(ため)に忠義(ちうぎ)を立(た)て子(こ)忠次(たゞつく)を経(へ)尊次(たかつぐ)の時に及び家康(いへやす)の為(ため)に再(ふたゝ)び田原に封(ほう)せられて諸侯(しよこう)の列(れつ)
に入つたのが所謂(いはゆる)後世(こうせい)の田原戸田になるので維新(ゐしん)の当時(とうじ)下野国(しもつけのくに)宇都宮(うつのみや)の城主(ぜうしゆ)であられたのは即(すなは)ち其(その)末(まつ)
孫(そん)である又(ま)た二 連木(れんぎ)に城(しろ)を搆(かま)へた冝光(よしみつ)は幸(さいはひ)に此(この)天文十五十六 両度(れうど)の戦(たゝかひ)に影響(えいけう)を受(うけ)なかつたので依然(いぜん)
其(その)城(しろ)を保(たも)つて居(を)つたのであるが此家(このいへ)が即(すなは)ち二 連木(れんぎ)戸田であるので其(その)子孫(しそん)は維新(ゐしん)当時(とうじ)信州(しんしう)松本(まつもと)の城主(ぜうしゆ)で
あつたのである尚(な)ほ申添(もうしそ)へたいのは政光(まさみつ)の弟(おとゝ)吉光(よしみつ)の事で此人(このひと)は天文十六年 田原(たはら)落城(らくぜう)後(ご)田原(たはら)在(ざい)の加治(かぢ)に
浪の上戸田 居つたが後(のち)又(ま)た二 連木(れんぎ)に移(うつ)つて永禄(えいろく)八年九月廿五日に死去(しきよ)したので八 名郡(なぐん)浪(なみ)の上(うへ)の正円寺(せうゑんじ)に葬(ほうむ)つたの
である俗(ぞく)に浪(なみ)の上(うへ)の戸田と呼(よ)ぶのは即(すなは)ち此人(このひと)の家(いへ)である
● 補遺(●●) 牧野古白(○○○○)の(○)戦死(○○○)に(○)就(○)て(○)
牧野古白(まきのこはく)の戦死(せんし)は永正三年の十一月三日で之(これ) に 就(つい)ては今川氏親(いまがはうぢちか)攻撃(こうげき)説(せつ)と松平長親(まつだひらながちか)逆襲(ぎやくしう)説(せつ)との二
説ある事は既(すで)に前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述べた如くであるが此年(このとし)の八月廿日から廿二日にかけて今川(いまがは)松平(まつだひら)
二氏の間(あひだ)に矢矧川(やはぎがは)の戦(たゝかひ)があつて今川(いまがは)勢(ぜい)が不利(ふり)となり遂(つひ)に軍(ぐん)を今橋(いまはし)迄(まで)収(をさ)め次で駿河(するが)に引退(ひきの)いたの
で此(この)戦(たゝかひ)に古白(こはく)は今川(いまがは)勢(ぜい)に属(ぞく)して居(を)るから寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)が古白(こはく)戦死(せんし)に関(かん)して松平長親(まつだひらながちか)逆襲(ぎやくしう)説(せつ)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百五十二号附録 ( 明治四十四年五月九日発行 )
【本文】
を取(と)つたのは従(したが)ふべきであると云ふ事も之(これ)亦(ま)た其(その)章(せう)に於て申述(もうしの)べた如(ごと)くである併(しか)し額田郡(ぬかたぐん)桑子村(くわこむら)
妙源寺(めうげんじ)の文書(もんしよ)を引(ひ)いて尚(な)ほ其(その)間(あひだ)に疑(うたがひ)の存(ぞん)することも又(ま)た当時(とうじ)申述(もうしの)べて置いた処である然(しか)るに其後(そのご)
三 上文学博士(かみぶんがくはかせ)並(ならび)に文学士(ぶんがくし)渡邊世祐氏の好意(こうゐ)によつて東京文科大学(とうけうぶんくわだいがく)史料編纂係(しれうへんさんかゝり)所蔵(しよぞう)の文書(もんしよ)で此(この)事実(じじつ)
に対し頗(すこぶ)る証拠(せうこ)となるべきものを見(み)ることを得(う)るに至(いた)つたのである之(これ)は史料編纂係(しれうへんさんかゝり)に於ても偶然(ぐうぜん)に
得(え)られた文書(もんしよ)で又た極(きは)めて最近(さいきん)の事である而(しか)して此(この)文書(もんしよ)の所持者(しよぢしや)は美作国(みまさかのくに)の人で伊達某(だてなにがし)と云つて
古(ふる)くは旧(きう)仙台侯(せんだいこう)の伊達氏(だてし)と祖先(そせん)を一にする家であると伝(つた)へられて居るが此(この)文書(もんしよ)は即(すなは)ち其(その)祖先(そせん)の伊(だ)
達蔵人丞(てくらんどのぜう)と云ふ人が永正(えいせう)年中(ねんちう)三河国に住(ぢう)して今川氏の為(ため)に働(はたら)いたので今川氏親(いまがはうぢちか)並(ならび)に北条早雲(ほうでうさううん)から
与(あた)へられた感状(かんぜう)である今(いま)其(その)全文(ぜんぶん)を掲(あ)ぐれば左(さ)の如(ごと)くである
於今度三州陣抽而令粉骨由候神妙尤感悦候於向後弥可走廻候段喜悦候猶朝比奈弥三郎可申聞候
恐々謹言
十一月十六日 氏 親 (花押)
伊 達 蔵 人 丞 殿
今度於参州十月十九日合戦当手小勢之処預御合力候祝着候御粉骨無比類の段屋形様に申入候猶
ゟ朝比奈弥三郎方可有伝聞候恐々謹言
十一月十一日 宗 瑞
伊 達 蔵 人 丞 殿
右(みぎ)の内(うち)宗瑞(そうずゐ)とある文書(もんしよ)は段々(だん〴〵)に調査(てうさ)して見ると不思議(ふしぎ)なことには既(すで)に三 河古文書(かはこぶんしよ)と云ふ書物(しよもつ)の中(なか)に
収録(しうろく)せられて居るので旧来(きうらい)既(すで)に世に知(し)られて居(を)つたものと見(み)ゆるのである而(しか)して前(ぜん)の氏親(うぢちか)の文書(もんしよ)
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 五十三
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 五十四
【本文】
には蔵人丞(くらんどのぜう)とあつて後(のち)の北条早雲(ほうでうさううん)の文書(もんしよ)には蔵人佑(くらんどゆう)とあるが之(これ)は此(こ)の文書(もんしよ)の連絡(れんらく)上(ぜう)同一人である
ことは疑(うたがひ)なき処(ところ)であると思(おも)ふ而(しか)して此(この)文書(もんしよ)には孰(いづ)れも年号(ねんごう)がないが旧来(きうらい)分(わか)つて居(を)る文書(もんしよ)其(その)
他(た)の記録(きろく)等(とう)と対照(たいせう)して研究(けんきう)した結果(けつくわ)永正三年のものでなくてはならぬと云ふことに皈着(きちやく)したので私
も深(ふか)く之(これ)を信(しん)ずるものであるソウなると此年(このとし)の十月十九日には今川(いまがは)勢(ぜい)が三河に攻(せ)め入(い)つて合戦(かつせん)の
あつた事が証拠(せうこ)立(た)てられるのであるが同(おな)じ永正三年のものとして朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には又(ま)た左(さ)の文書(もんしよ)
が記載(きさい)されて居(を)る
如来状近年は遠路故不申通候処懇切に〇給悦着候仍三州之義駿州へ被相談去年向彼国被走軍安
城之要害則時々被破候由候毎度御戦功奇特候殊岡崎之儀自其国就相押候駿州にも今橋被致本意
候其以後萬其国相違之候哉因茲彼国被相詰候由承候無余義趣候就中駿州此方間之儀預御尋候近
年雖遂一和自彼国疑心無止候間迷惑候抑自清須御使並預貴札忝候何様御礼自是可申入候委細は
使者可有演説候恐々今度氏親御供申三州罷越候節種々御懇切上意共忝令存候然は氏親被得本意
候至于我等式令満足候是等之儀可申上候処遮而御書誠忝令存候如斯趣猶巨海越中守方被露可被
申候也可預御披露候恐惶頓首謹言
閏十一月七日 北 条 早 雲
宗 瑞
巨 海 越 中 守 殿
此(この)巨海越中守(きよかいゑつちうのかみ)と云ふのは織田家(をだけ)の人と察(さつ)せられるが文中(ぶんちう)には解(かい)し兼(か)ぬる事実(じじつ)もある併(しか)し閏(うるふ)とある
処(ところ)から推(お)すと朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)の説(せつ)の如(ごと)く永正三年のものであると信(しん)ずるの外(ほか)はないソコで之(これ)を前(まへ)の
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談
【本文】
伊達文書(だてもんしよ)と対照(たいせう)すると愈々(いよ〳〵)今橋城(いまはしぜう)は此年(このとし)に今川勢(いまがはぜい)が攻(せ)め落(おと)したように見(み)ゆるのである尚(なお)それのみ
ならず前(まへ)に申述(もうしの)べた妙源寺(めうげんじ)文書(もんしよ)があるので之(これ)には明(あきら)かに永正三年十一月十五日とあるから益々(ます〳〵)之(これ)
等(ら)の文書(もんしよ)に依(よ)つて此年(このとし)の十月から十一月にかけて氏親(うぢちか)が三河に侵入(しんにふ)したものである事(こと)が証拠(せうこ)立(だ)て
られる従(したがつ)て之(これ)等(ら)の証拠(せうこ)によれば十一月三日の古白(こはく)戦死(せんし)は反(かへ)つて今川氏親(いまがはうぢちか)攻撃(こうげき)説(せつ)が事実(じじつ)であると
云ふように確(たしか)まる訳(わけ)になるのである併(しか)しソウなると更(さら)に新疑問(しんぎもん)として研究(けんきう)を要(えう)する事になるのが
例(れい)の矢矧川(やはぎがは)合戦(くわいせん)問題(もんだい)である此(この)合戦(くわいせん)の事は前(まへ)にも申述(もうしのべ)た如く三 河物語(かはものがたり)等(とう)にも記載(きさい)されてあるので事(じ)
実(じつ)として旧来(きうらい)疑(うたがひ)なき処であるが果(はた)して之(これ)が一 般(ぱん)にお行(おこな)はれて居る説(せつ)の如(ごと)く此年の八月二十日から
廿二日迄の出来事(できごと)であるとすると如何(いか)にも前(まへ)の事実(じじつ)と符号(ふごう)せぬ事となる、ト云ふのは此(この)矢矧川(やはぎがは)の
戦(たゝかひ)には古白(こはく)は今川方(いまがはがた)に属(ぞく)して居(を)つたのであるのみならず氏親(うぢちか)の将(せう)早雲(さううん)は利(り)あらずして此(この)今橋(いまはし)に
引取(ひきと)り更(さら)に駿河(するが)に引退(ひきしりぞ)いた事は度々(たび〴〵)申述(もうしのべ)た如くである然(しか)るに程(ほど)なく再(ふたゝ)び駿河(するが)より氏親(うぢちか)早雲(さううん)共(とも)に出(しゆつ)
陣(ぢん)して先(ま)づ此(この)古白(こはく)を攻(せ)め殺(ころ)し忽(たちまち)にして西三河迄 攻(せ)め込(こ)むだと云ふ事は如何(いか)に戦国(せんごく)の事と云つて
もドウも理屈(りくつ)が合(あ)はぬ況(いは)んや今橋城(いまはしぜう)は落城(らくぜう)までに六十日もかゝつたと記(しる)したものが多(おほ)いので之(これ)を
事実(じじつ)とすれば早雲(さううん)が一度軍(ひとたびぐん)を駿河(するが)に返(かへ)すや否(いなや)直(す)ぐに復(ま)た引(ひ)き返(かへ)して襲来(しうらい)した事にならねばならぬ
ので益々(ます〳〵)道理(どうり)に合(あ)はぬ事(こと)になるソコで一 層(そう)研究(けんきう)を進(すゝ)めて見(み)ると此(この)矢矧川(やはぎがは)の合戦(かつせん)に就(つ)いては文亀(ぶんき)元(がん)
年(ねん)説(せつ)かあるので此説(このせつ)が岡崎本松平系図(をかざきほんまつもとけいづ)及(および)浪上戸田氏記録(なみのうへとだしきろく)並(ならび)に高月院由緒書(こうげつゐんゆうしよがき)に載(の)つて居(を)ると云ふ事
は校正余禄(こうせいよろく)の記(き)する処である又(ま)た例(れい)の三 河後風土記(かはのちふうどき)にも記(しる)されて居(を)るが朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)にも亦(ま)た此(この)
戦(たゝかひ)に関(かん)して「大(おゝ)三 川志(かはし)文亀(ぶんき)元年(がんねん)九月にかけしは何(なん)に拠(よ)れるを知(し)らず」と記(しる)してある即(すなは)ち大(おゝ)三 川志(かはし)
は文亀(ぶんき)元年(がんねん)説(せつ)を取(と)つて居(を)るものと思(おも)はれるコウなれば総(すべ)ての事実(じじつ)が先(ま)づ対照(たいせう)宜(よろ)しきを得(う)るのであ
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 五十五
【欄外】
豊橋市史談 (二連木城と戸田氏) 五十六
【本文】
るが今橋城(いまはしぜう)は前(まへ)にも述(の)べた如(ごと)く永正二年に落城(らくぜう)したものであるから文亀(ぶんき)元年(がんねん)は築城前(ちくぜうぜん)四年に当(あた)る
ので前(まへ)の如(ごと)く矢矧川(やはぎがは)合戦(がつせん)を文亀(ぶんき)元年(がんねん)とすると当時(とうじ)今川氏(いまがはし)の軍勢(ぐんぜい)が此処(こゝ)迄(まで)引上(ひきあ)げたと云ふ時には果(はた)
して如何(いか)なる状態(ぜうたい)であつたか之(これ)に就(つい)ては又(ま)た更(さら)に新問題(しんもんだい)が起(おこ)る訳(わけ)であるモツトモ当時(とうじ)と雖(いへど)も既(すで)に
此地(このち)が古白(こはく)の勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)であつた事は事実(じじつ)でソレは明応六年に此地(このち)の神明宮(しんめいぐう)を古白が造営(ざうえい)して其時(そのとき)
の棟札(むなふだ)が今(いま)も尚(なほ)存在(そんざい)するのでも証拠(せうこ)立(だ)てらるゝのである右(みぎ)は尚(な)ほ余程(よほど)の研究(けんきう)を要(えう)する問題(もんだい)で速断(そくだん)
は出来(でき)ぬのであるが兎(と)に角(かく)之(これ)迄(まで)に調査(てうさ)した結果(けつくわ)は此際(このさい)申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ尚(な)ほ序(ついで)だか
ら申述(もうしの)ぶるが宗長手記(そうてうしゆき)に「義忠(よしたゞ)帰国(きこく)途中(とちう)の凶事(けうじ)廿余年にや氏親(うぢちか)入国(にふこく)静謐(せいひつ)とはいへども隣国(りんこく)の凶徒(けうと)
等(ら)絶(た)ゆることなし三 河国(かはのくに)境(さかひ)舟方(ふながた)と云ふ山に味方(みかた)あり田原弾正忠(たはらだんぜうちう)、 諏訪信濃守(すはしなのゝかみ)以下(いか)浪人衆(らうにんしう)催(もよほ)し舟方(ふながた)
の城(しろ)討落(うちおと)す城守(しろもり)多末又(たすえまた)三 郎(らう)討死(うちじに)す敵(てき)此(この)城(しろ)を持(も)つ泰以(やすゆき)時(とき)を移(うつ)さず浜名(はまな)の海(うみ)渡海(とかい)して則(すなはち)打落(うちおと)し数輩(すうはい)
討捕(うちとり)則(すなはち)奥郡(おくごほり)過半(くわはん)発向(はつこう)して懸川(かけがは)に皈城(きぜう)」と云ふことがある之(これ)は大永二年の条(くだり)に書(か)いてはあるが昔(むかし)
物語(ものがたり)として記(しる)されたものであるソコで此(この)事実(じじつ)に就(つい)て考(かんが)へて見(み)ると此(この)舟方(ふながた)と云ふ処は今(いま)の雲(う)の谷(や)の
普門寺(ふもんじ)のある山で其(その)当時(とうじ)其処(そこ)に今川氏(いまがはし)の城(しろ)があつたものである然(しか)るに今川氏親(いまがはうぢちか)の父(ちゝ)義忠(よしたゞ)は文明九
年 不慮(ふりよ)の凶変(けうへん)で討死(うちじに)し其後(そのご)国(くに)が乱(みだ)れたがヨウ〳〵 其子(そのこ)の氏親(うぢちか)が入国(にふこく)し漸(やうや)く静謐(せいひつ)に皈(き)したにも拘(かゝは)ら
ず尚(な)ほ隣国(りんこく)に国境(こくけう)を窺(うかゞ)ふものがあつて此(この)舟方(ふながた)の城(しろ)は陥落(かんらく)したものであると云ふことになるのである
而(しか)して此(この)田原弾正忠(たはらだんぜうちう)とあるのは勿論(もちろん)戸田憲光(とだのりみつ)の事で泰以(やすゆき)と云ふのは掛川(かけがは)の城主(ぜうしゆ)朝比奈泰能(あさひなやすよし)の叔父(おぢ)
で今川氏の将(せう)であつたが泰能(やすよし)がまだ年少(ねんせう)であつたので之(これ)を補佐(ほさ)して居(を)つたものである即(すなは)ち宗長手(そうてうしゆ)
記(き)の文(ふみ)と憲光(のりみつ)泰以(やすゆき)など関係者(かんけいしや)の時代(じだい)から推(お)すと此(この)事実(じじつ)は永正十二三年頃の事のように見(み)ゆるので
あるが宗長手記(そうてうしゆき)の記事(きじ)も年代(ねんだい)に関(かん)しては漠然(ばくぜん)として居るので確(たしか)には云ひ兼(か)ぬるのである兎(と)に角(かく)其(その)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百五十八号附録 ( 明治四十四年五月十六日発行 )
【本文】
頃(ころ)憲光(のりみつ)は二 連木(れんぎ)城(ぜう)をも其(その)勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)として居(を)つたのであるから其(その)隣境(りんけう)なる舟方(ふながた)を攻(せ)めたものと信(しん)せ
られる従(したがつ)て前に述べた如く永正(えいせう)三 年(ねん)古白(こはく)の戦死(せんし)を以て今川氏親(いまがはうぢちか)攻撃(こうげき)説(せつ)に帰(き)し其(その)原因(げんゐん)を憲光(のりみつ)の讒(ざん)
言(げん)であつたと云ふ事にすると戸田氏(とだし)の今川氏(いまがはし)に対(たい)する態度(たいど)は永正(えいせう)の初年(しよねん)だけは相(あい)近(ちかづ)いて居(を)つたも
のと見(み)ねばならぬが其(その)前後(ぜんご)は孰(いづ)れも敵対(てきたい)して居(を)つたものとなすべきであると思ふう右(みぎ)は前(まへ)に述(の)べ
て置(お)いた各章(かくせう)に対(たい)して参考(さんこう)となる事であると思ふから茲(こゝ)に補遺(ほゐ)として付(つ)け加(くは)へた次第(しだい)である
◉今川義元と吉田
扨(さて)前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く吉田(よしだ)の城(しろ)は天文十五年に今川義元(いまがはよしもと)の為(た)めに領有(れうゆう)せられ次(つい)で其(その)翌(よく)十六年には田原(たはら)
城(ぜう)も亦(ま)た其(その)占領(せんれう)する処となつたので田原(たはら)戸田(とだ)の一 族(ぞく)は一 時(じ)離散(りさん)するに至(いた)つたのであるが今川家(いまがはけ)からは
新(あらた)に城代(ぜうだい)を此(この)吉田(よしだ)田原(たはら)両城(れうぜう)に置いて東三河を鎮圧(ちんあつ)したのである而(しか)して岡崎(をかざき)の松平氏(まつだひらし)は其(その)当時(とうじ)如何(いか)なる
《割書:松平広忠卒|去》 状態(ぜうたい)であつたかと云ふに天文十八年三月六日に当主(とうしゆ)松平広忠(まつだひらひろたゞ)は年僅(としわづか)に二十四で病(やまひ)を以て卒去(そつきよ)したので
あるが其子(そのこ)の竹千代(たけちよ)は尚(な)ほ尾張(をはり)に抑留(よくりう)せられて居(を)つたのである然(しか)るに今川義元(いまがはよしもと)は屡々(しば〳〵)兵(へい)をに西三河に出
して松平氏(まつだひらし)を助(たす)け尾張(をはり)の織田氏(をたし)と合戦(かつせん)をしたので其(そ)の年(とし)即(すなは)ち天文十八年の十一月には安祥(あんしやう)の城(しろ)に攻(せ)め
寄(よ)せて遂(つひ)に之(これ)を陥(おとしい)れたのである其時(そのとき)安祥(あんしやう)の城(しろ)には織田信広(をたのぶひろ)が居(を)つたが織田氏(をたし)に於(おい)ても信秀(のぶひで)は此春(このはる)既(すで)
に死(し)し信長(のぶなが)が相続(そうぞく)したので此(この)信広(のぶひろ)と云ふのは即(すなは)ち信長(のぶなが)の庶兄(しよけい)であるから此時(このとき)今川方の総将(そうせう)たる彼(か)の雪(せつ) 斎(さい)の計(はか)らいで其(その)信広(のぶひろ)と竹千代(たけちよ)とを互(たがひ)に交換(こうかん)しようと云ふ事を織田家(をたけ)に申込(もうしこ)んだのであるソコで信長(のぶなが)に
《割書:竹千代岡崎|に帰り更に》 於(おい)ても色々(いろ〳〵)考(かんが)ふる処(ところ)があつたのであろうが遂(つひ)に其(その)旨(むね)を承諾(せうだく)して竹千代と信広(のぶひろ)とを交換(こうかん)する事となつた
《割書:駿河に質た|り》 のである即(すなは)ち其(その)年(とし)の十一月十日に笠寺(かさでら)と云ふ処で引渡(ひきわたし)が済(す)むで竹千代は初(はじ)めて故郷(こけう)の岡崎(をかざき)に帰(かへ)る事が
【欄外】
豊橋市史談 (今川義元と吉田) 五十七
【欄外】
豊橋市史談 (今川義元と吉田) 五十八
【本文】
出来(でき)たのである然(しか)るに義元(よしもと)の請求(せいきう)で竹千代は又々(また〳〵)直(たゞ)ちに其(その)二十二日を以(もつ)て今川氏に人質(ひとしち)となつて駿河(するが)
に行(ゆ)く事(こと)となつた此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから其後(そのご)と云ふものは東(ひがし)三 河(かは)は勿論(もちろん)西(にし)三 河(かは)の大部分(だいぶぶん)迄(まで)も今川氏の
勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)となつたので松平氏(まつだひらし)の領分(れうぶん)は宛(さなが)ら今川の属国(ぞくこく)とも云ふべき観(かん)を呈(てい)するに至(いた)つたのである
ソコデ其頃(そのころ)駿河(するが)から吉田(よしだ)の城代(ぜうだい)に来(き)たのは如何(いか)なる人々であつたかと云ふに之(これ)は屡々(しば〳〵)交代(こうたい)したものゝ
ようである最初(さいしよ)は例(れい)の天野安芸守(あまのあきのかみ)であつたと推定(すゐてい)されるのであるが天文十九年の大字(おほあざ)中(なか)八 神明社(しんめいしや)の棟(むな)
吉田城代 札(ふだ)には今川義元(いまがはよしもと)の名(な)の下(した)に朝比奈(あさひな)筑前守(ちくぜんのかみ)輝勝(てるかつ)奉行衆(ぶげうしう)岡崎(をかざき)出雲守(いづものかみ)輝綱(てるつな)と云ふ名(な)が記(しる)されて居(を)る此(この)朝比奈(あさひな)
岡部(をかべ)の二 氏(し)は今川家(いまがはけ)重要(ぢうえう)の家臣(かしん)で其頃(そのころ)田原の城代(ぜうだい)であつた人にも朝比奈(あさひな)肥後守(ひごのかみ)元智(もととも)と云ふ人があつて
《割書:朝比奈岡部|二氏》 今(いま)も尚(な)ほ青津(あおづ)の傳法寺(でんぽうじ)外(ほか)一二ケ所(しよ)に其人(そのひと)の文書(もんしよ)が残(のこ)つて居(を)るが之(これ)等(ら)の朝比奈(あさひな)は皆(みな)同族(どうぞく)で当時(とうじ)此(この)地方(ちほう)に
来(きた)つて事を執(と)つたものと見(み)える又(ま)た天文二十年 石巻神社(いしまきじんしや)の棟札(むなふだ)には「吉田(よしだ)城代(ぜうだい)駿河(するが)住人(ぢうにん)伊東左近将(いとうさこんせう)
《割書:伊東左近将|監》 監(げん)」と記(しる)してあるが此(この)伊東左近将監(いとうさこんせうげん)祐時(すけとき)と云ふ人の事は種々(しゆ〴〵)の記録(きろく)にも見(み)ゆるので之(こ)れ亦(ま)た其頃(そのころ)から
城代(ぜうだい)として此地(このち)に居つたものと信(しん)ぜられる而(しか)して彼(か)の有名(ゆうめい)なる小原(おはら)肥前守(ひぜんのかみ)鎮実(しげさね)は此地(このち)に於(お)ける今川(いまがは)
小原肥前守 氏(し)最後(さいご)の 城代(ぜうだい)であつたが此人(このひと)は余程(よほど)権勢(けんせい)があつたもので当時(とうじ)吉田の城は東三に於(お)ける重鎮(ぢうちん)であつたも
のである或書(あるしよ)には此人(このひと)の名字(めうじ)を大原(おほはら)と記(しる)し又(ま)た名乗(なのり)を資良(すけよし)としてあるが名字(めうじ)は小原(おはら)で最後(さいご)の名乗(なのり)は鎮(しげ)
実(さね)であつたものと思(おも)ふモツトモ此人(このひと)の事に就(つい)て詳(くは)しくは後章(こうせう)に申述(もうしのべ)る考(かんが)へであるから此処(こゝ)には大体(だいたい)に
止(とゞ)めて置(お)く事とする兎(と)に角(かく)天文十五年から永禄(えいろく)七年 迄(まで)は此(この)城(しろ)は全(まつた)く今川義元の勢力(せいりよく)範囲(はんゐ)に属(ぞく)して居(をつ)た
《割書:今川義元の|事績》 のであるが此際(このさい)御話(おはなし)して置(お)きたいのは今川義元(いまがはよしもと)と云ふ人の此(この)地方(ちほう)に遺(のこ)した事跡(じせき)の一 端(たん)である元来(がんらい)此人(このひと)
は余程(よほど)行政(ぎようせい)上(ぜう)の事にも注意(ちうゐ)した人で且(か)つ豪邁(ごうまい)にして大将(たいせう)としても相当(さうとう)に器量(きれう)を備(そな)へた人であつたよう
に思(おも)はれる殊(こと)に今川家(いまがはけ)は其(その)以前(いぜん)からの名家(めいか)で公卿(くげ)の間(あひだ)にも姻戚(ゐんせき)関係(かんけい)があつて常(つね)に紳縉(しん〳〵)の間(あひだ)に往来(おうらい)した
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談
【本文】
ものであるから義元(よしもと)の如(ごと)きも自(みづか)ら歯(は)を涅(こん)して額髪(がくばつ)を蓄(たくは)へて居(を)つたので是非(ぜひ)上洛(ぜうらく)して京紳(けうしん)と伍(ご)し覇(は)を天
下に称(せう)せむと希(こひねが)つて居(を)つたものであるが之(これ)には先(ま)づ第一に尾張(をはり)の織田信長(をたのぶなが)を征服(せいふく)せねばならぬと云
ふので種々(しゆ〴〵)に意(こゝろ)を用(もち)いたものである即(すなは)ち天文十年五月には令(れい)を出(いだ)して領分(れうぶん)内(ない)に於(お)ける租税(そぜい)の法(ほふ)を改(あらた)め
て増税(ぞうぜい)を行(おこな)ひ又(ま)た撿地(けんち)を行(おこな)つた形跡(けいせき)がある従(したがつ)て吉田を掌握(せうあく)してからも頗(すこぶ)る民政(みんせい)に意(こゝろ)を用(もち)いたもので
第一に此(この)地方(ちほう)の神社(じんしや)仏閣(ぶつかく)に対(たい)しては盛(さかん)に造営(ざうえい)を行(おこな)つたものである又(ま)た社領(しやれう)寺領(じれう)をも寄進(きしん)したもので之(これ)
は実際(じつさい)敬神尊仏(けいしんそんふつ)の念(ねん)からも出(で)たものであろうが一 方(ぽう)には人心(じんしん)を収攬(しうらん)する一 種(しゆ)の政略(せいりやく)としても行(おこな)つたも
のであろうと思(おも)ふモツトモ此事(このこと)は啻(たゞ)に義元(よしもと)ばかりではない牧野(まきの)古白(こはく)なども之(これ)を行(おこな)つたものではあるが
義元(よしもと)のやり方(かた)は特(とく)に著(いちじる)しきものがあるのである現(げん)に寄附状(きふぜう)棟札(むなふだ)等(とう)の残(のこ)つて居(を)るのは此(この)附近(ふきん)で郷社(ごうしや)の
吉田神社(よしだじんしや)石巻神社(いしまきじんしや)中八の神明社(しんめいしや)幷(ならび)に全久院(ぜんきうゐん)花田(はなだ)の清源寺(せいげんじ)雲(う)の谷(や)の普門寺(ふもんじ)等(とう)であるが此寺(このてら)に対(たい)する寄付(きふ)
状(ぜう)などが普通(ふつう)の文章(ぶんせう)と違(ちが)つて居(を)るのが面白(おもしろ)いと思(おも)ふ現(げん)に普門寺(ふもんじ)に現存(げんぞん)して居(を)るのは天文十八年と同二
十四年のものであるが寄付状(きふぜう)と云ふよりは寧(むし)ろ寺法(じほう)の定状(さだめぜう)と云ふべきもので何(なん)となく法律的(ほうりつてき)に出来(でき)て
吉田神社 居(を)るのは義元(よしもと)の人物(じんぶつ)を知(し)る上(うへ)に於(おい)て最(もつと)も参考(さんこう)となるべきものであると思(おも)ふ又(ま)た吉田神社(よしだじんしや)にある棟札(むなふだ)は
神輿(みこし)の棟札(むなふだ)であつて大原雪斎(おほはらせつさい)の自筆(じしつ)で天文十六年のものであるが即(すなは)ち吉田城(よしだぜう)を取(と)つた翌年(よくねん)で田原(たはら)を取(と)
つた其年(そのとし)に当(あた)るのである且(か)つ六月十三日と云ふ日付(ひづけ)があるから其(その)祭礼(さいれい)に当(あた)つて寄進(きしん)をしたものである
と思(おも)はれる又(ま)た同社(どうしや)に木彫(ぼくてう)の獅子(しゝ)の頭(かしら)があるが之(こ)れ亦(また)義元(よしもと)が献納(けんなふ)したものであると云ふ事であるモツ
トモ之(こ)れには確(たしか)な証拠(せうこ)は無(な)いが時代(じだい)と云ひ彫刻(てうこく)と云ひ如何(いか)にも当時(とうじ)のものと信(しん)ぜられる果(はた)して然(しか)りと
すれば中八の神明社(しんめいしや)にも殆(ほとん)ど之(これ)と同様(どうよう)の獅子(しゝ)頭(かしら)があるが之(これ)亦(また)天文十九年に義元(よしもと)が同社(どうしや)を造営(ざうえい)した時に
寄進(きしん)したものではなかろうか兎(と)に角(かく)義元(よしもと)が盛(さかん)に神社(じんしや)仏閣(ぶつかく)に寄進(きしん)した事は見(み)るべきものがあると思(おも)ふソ
【欄外】
豊橋市史談 (今川義元と吉田) 五十九
【欄外】
豊橋市史談 (今川義元と吉田) 六十
【本文】
コで此(この)吉田神社(よしだじんしや)の事に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べたいのであるが元来(がんらい)同社(どうしや)は何時頃(いつごろ)からあつたものであるかと
石田正利 云(い)ふに元(もと)神官(しんかん)の家(いへ)であつた石田氏(いしだし)の家(いへ)に古縁起(こゑんき)が伝(つた)はつて居る之(これ)は石田正利(いしだまさとし)の書(か)いたものであるが此(この)
正利(まさとし)と云ふ人は石田家(いしだけ)の記録(きろく)によると所謂(いはゆる)元亀(げんき)天正(てんせう)時代(じだい)の人で父(ちゝ)を友利(ともとし)と云ひ叔父(おぢ)正治(まさはる)は天正十九年
石田正治 前田利家(まへだとしいへ)の召状(めしぜう)によつて上京(ぜうけう)せんとして途中(とちう)で病没(びやうぼつ)したと云ふ事であるが此(この)縁起(えんき)が此(この)正利(まさとし)の書(か)いたも
のであるとすると天文を去(さ)る事(こと)甚(はなは)だ遠(とほ)からぬ時代(じだい)のものである即(すなは)ち其(その)記(き)する処(ところ)によると此(この)社(やしろ)は天治元
年 崇徳院(すとくゐん)の時の創建(さうけん)であるが其後(そのご)源頼朝(みなもとよりとも)が天下を統(とう)一して鎌倉(かまくら)にあつた時 遥(はるか)に此(この)社(やしろ)の霊験(れいけん)著(いちじる)しき
を聞(き)き及(およ)んで神領(しんれう)を寄附(きふ)したものであるとなつて居(を)る又(ま)た伝説(でんせつ)には頼朝(よりとも)の臣(しん)安達盛長(あだちもりなが)が社殿(しやでん)を造営(ざうえい)し
たと称(とな)へられて居る成程(なるほど)盛長(もりなが)は三河の国の奉行(ぶぎよう)であつたので三河には処々(しよ〳〵)に其(その)造営(ざうえい)であると伝(つた)えられ
て居(を)るものがある鳳来寺(ほうらいじ)財賀寺(ざいがじ)の如きも其(その)類(るい)で鳳来寺(ほうらいじ)には現(げん)に鎌倉時代(かまくらじだい)の遺風(ゐふう)たる田楽(でんがく)の古式(こしき)が遺(のこ)つ
て居(を)るし財賀寺(ざいがじ)の山門(さんもん)は又(ま)た鎌倉時代(かまくらじだい)の建築(けんちく)として特別保護建築物(とくべつほごけんちくぶつ)になつて居る吉田神社(よしだじんしや)にも祭礼(さいれい)の
笹 踊 神事(じんじ)に頼朝(よりとも)を初(はじ)め鎌倉時代(かまくらじだい)の武士(ぶし)の装(よそおひ)をしたものが出(で)るし又(また)笹踊(さゝをどり)と云ふがあるが之(これ)は矢張(やはり)田楽(でんがく)の余(よ)
風(ふう)かとも思(おも)はれる此処(こゝ)から見(み)ると如何(いか)にも頼朝(よりとも)に関係(かんけい)がある様(よう)にも思(おも)はれるがドウモ之(これ)は少(すこ)しの根拠(こんきよ)
も発見(はつけん)することが出来(でき)ぬ然(しか)るに悟眞寺(ごしんじ)古記(こき)の中(なか)に吉田神社(よしだじんしや)は元(も)と悟眞寺(ごしんじ)の境内(けいだい)にあつたもので悟眞寺(ごしんじ)
は其(その)頃(ころ)今(いま)の城地(ぜうち)の処(ところ)にあつたものであるが永正(えいせう)二 年(ねん)牧野氏(まきのし)が今川氏親(いまがはうぢちか)の命(めい)で初(はじ)めて今橋城(いまはしぜう)を築(きづ)いた時(とき)
悟眞寺(ごしんじ)は今(いま)の処(ところ)に移転(いてん)せしめられた ので其(その)移転(いてん)費用(ひよう)の如(ごと)きは今川家(いまがはけ)から貰(もら)つたのである其(その)時(とき)牧野家(まきのけ)の
依願(いがん)に依(よ)つて吉田神社(よしだじんしや)のみは旧来(きうらい)の侭(まゝ)取遺(とりのこ)して置(お)いたのであると書(か)いてある如何(いか)にも之(こ)れは事実(じじつ)の様(よう)
に思(おも)はれるのであるが吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)に載(の)つて居(を)る義元(よしもと)幷(なら)びに其(その)子(こ)氏眞(うじさね)の文書(もんしよ)によると牧野田三(まきのでんざう)から神(しん)
領(れう)六貫百文が此(この)社(やしろ)に寄進(きしん)されて居(を)つた事が見(み)へる従(したがつ)て此(この)社(やしろ)は悟眞寺(ごしんじ)と共(とも)に古(ふる)くからあつたものに相(さう)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百六十四号附録 ( 明治四十四年五月廿三日発行 )
【本文】
違(ゐ)ないが独立(どくりつ)の社(やしろ)として存在(ぞんざい)するに至つたのは今橋城(いまはしぜう)の出来(でき)た時で牧野古白は之(これ)を城(しろ)の鎮守(ちんじゆ)として祭(まつ)
り其(その)子(こ)の成三(しげかづ)又は信成(のぶしげ)の時に至つて一 層(そう)其(その)基礎(きそ)を定(さだ)めたものであると云ふのが最(もつと)も事実(じじつ)らしく思(おも)はる
ゝのである殊(こと)に此(この)祭神(まつりがみ)は素戔嗚尊(すさのうのみこと)であるが俗(ぞく)に牛頭天皇(ぎうとうてんのう)と呼(よ)ばれて居るので牧野氏(まきのし)は牛久保(うしくぼ)に居つた
時から尊敬(そんけい)して居つた神(かみ)である然(しか)るに其(その)後(ご)度々(たび〴〵)の兵乱(へいらん)で一時は頽廃(たいはい)にも及(およ)ばむとして居つたのを義元(よしもと)
が此処(こゝ)に大造営(だいざうえい)をして神輿(みこし)をも寄進(きしん)し祭典(さいてん)の式(しき)をも興(おこ)したものであると信(しん)ずる而(しか)して此(この)吉田神社(よしだじんしや)と云
ふ名前(なまへ)の如きも勿論(もちろん)此(この)地(ち)の地名が吉田と改(あらた)まつてから付(つ)けられたものであるに相違(さうゐ)ないから牧野成三(まきのしげかづ)
か然(しか)らざれば今川義元(いまがはよしもと)が命名(めい〳〵)したものでなくてはならぬと信(しん)ずるのである義元(よしもと)が吉田神社(よしだじんしや)を経営(けいえい)した
熊野神社 事は先(ま)づ一ト通(とほ)り右(みぎ)の如(ごと)くであるが大字(おほあざ)魚熊野神社(うをくまのじんしや)の元(もと)神官(しんかん)の家(いへ)である鈴木延路(すゞきのぶぢ)氏(し)の家(いへ)にも中々(なか〳〵)味(あぢは)ふ
べき古文書(こもんしよ)が伝(つた)はつて居(を)る之(これ)は天文廿三年のもので熊野神社(くまのじんしや)幷(ならび)に其(その)末社(まつしや)たる白山(はくさん)天白(てんぱく)両社(れうしや)の領地(れうち)を撿(けん)
して禰宜(ねぎ)の取(と)り分(ぶん)迄(まで)をも定(さだ)めた書付(かきつけ)であるモツトモ之(これ)は断簡(だんかん)ではあるが実(じつ)に義元(よしもと)が行政上(ぎようせいぜう)のヤリ口(ぐち)が
伺(うかゞ)ひ知(し)れるので大切(たいせつ)なものであると思(おも)ふ併(しか)し右(みぎ)の文書(ぶんしよ)は果(はた)して其(その)当時(とうじ)のものであるか又(また)は謄本(とうほん)である
か少(すこ)しく断(だん)じ兼(か)ぬる点(てん)があるが要(えう)するに後世(こうせい)の偽作(ぎさく)等(とう)でない事は云ふ迄もない尚(な)ほ序(ついで)たから御話(おはなし)する
《割書:石田鈴木両|家》 が前(まへ)に申述(もうしの)べた石田家(いしだけ)と此(この)鈴木家(すゞきけ)とは共(とも)に当(とう)市内(しない)の旧家(きうか)で其(その)家系(かけい)によると鈴木家の祖先(そせん)は文治年間に
紀伊(きい)の熊野(くまの)から此(この)地(ち)に来(き)たものだと伝(つた)へられて居(を)る又天文九年 龍拈寺(りうねんじ)宗官(そうかん)和尚(おせう)の遺書(ゐしよ)に依(よ)れば其(その)中(なか)に
石田家(いしだけ)一 統(とう)から興徳寺(こうとくじ)へ畠(はたけ)壱貫九百文を寄進(きしん)して居る事か載(の)せてある従(したがつ)て石田家も亦(ま)た天文(てんぶん)以前(いぜん)に
於て既(すで)に立派(りつぱ)なる家柄(いへがら)をなして居(を)つた事(こと)が分(わか)るのである
神社(じんしや)仏閣(ぶつかく)に対(たい)する事は大要(たいえう)右の如くであるがそれのみならず義元(よしもと)は市場(いちば)並(ならび)に駅馬(ゑきば)の法(ほう)をも定(さだ)めたもの
で今(いま)から云ふと余程(よほ)法律(ほうりつ)思想(しさう)のあつた人とでも云つてよかろうと思(おも)ふ当地(とうち)に於(お)ける魚問屋(うをとんや)の如(ごと)きも義
【欄外】
豊橋市史談 (今川義元と吉田) 六十一
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十二
【本文】
元が其(その)制法(せいほう)を定(さだ)めたものであると伝説(でんせつ)せられて居るが之(これ)も恐(おそら)くは事実(じじつ)であると信(しん)ぜられる元来(がんらい)今( いま)の大(おほ)
魚問屋 字(あざ)魚(うを)にある熊野権現社(くまのごんげんしや)は大字札木にあつたものでその其(その)境内(けいだい)で魚(うを)の市(いち)が立(た)つたものであるが其(その)口銭(こうせん)の二 割(わり)
は社殿(しやでん)の造営費(ざうえうひ)に充(あ)てる事になつて居(を)つたのである此事(このこと)は慶長(けいてう)六年に徳川家康(とくがはいへやす)の臣(しん)伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみたゞつぐ)が
此(この)権現社(ごんげんしや)の神官(しんかん)に与(あた)へた文書(ぶんしよ)にも記(しる)されてある此(この)文書(ぶんしよ)は本書(もとがき)が今(いま)存在(ぞんざい)せぬ併(しか)し其(その)文中(ぶんちう)に往古(わうこ)より云々(うんぬん)
と云ふ文句(もんく)があるので権現社(ごんげんしや)並(ならび)に魚市(うをいち)が義元(よしもと)の当時(とうじ)既(すで)に存在(ぞんざい)して居(を)つたものであることが認(みと)められるの
であるサスレば義元(よしもと)が此地(このち)を領(れう)するに及(およ)むで此(この)市場(いちば)に制法(せいほう)を設(もう)けたと云ふのは全(まつた)く信(しん)ぜられぬ説(せつ)では
ないと思ふ又(また)駅馬(えきば)の事であるが宝飯郡(ほゐぐん)御油町(ごゆまち)の林小次郎(はやしこじらう)氏(し)の家(いへ)に義元(よしもと)の定状(さだめぜう)が遺(のこ)つて居る之(これ)は永禄(えいろく)元(がん)
伝馬定状 年(ねん)のもので其(その)全文(ぜんぶん)は左(さ)の如(ごと)くである
(義元花押)
当宿伝馬之儀天文廿三年仁以判形五箇條議定之処一里十銭不及沙汰之由申條重相定條々
一雖為如何様之公方用並境目急用一里十銭於不沙汰者不可出伝馬事
一毎日五疋之外者可為一里十五銭事
一号此一返奉行人雖有副状可取一里十銭事
附一里十銭依不沙汰伝馬不立之上荷物打付雖有通過不可許容縦荷物雖失之不可為町人之誤事
右條々如先判不可有相違若於有違背輩者注進交名者也仍如件
永禄元戊午
八月十六日
之(これ)で見(み)ると天文廿三年 既(すで)に五個条の定法(ていほう)が発表(はつぴよう)されて居(を)つたのであるのを此年(このとし)重(かさ)ねて此(この)定状(さだめぜう)を交付(ここうふ)さ
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談
【本文】
れたものと見(み)える而(しか)して伝馬(てんま)は五 疋(ひき)迄(まで)は一里を拾銭と 定(さだ)め六 疋(ぴき)以上(いぜう)は十五 銭 宛(づゝ)取(と)ることを許(ゆる)したもので
あるが賃銭(ちんせん)を払(はら)はず荷物(にもつ)を押付(おしつ)けて通(とほ)り過(す)ぐるものがあつても其(その)荷物(にもつ)に対(たい)して伝馬(てんま)を扱(あつか)ふものに責任(せきにん)
はないと云ふことを定(さだ)めたのは頗(すこぶ)る味(あぢは)ふべきものがあると思(おも)ふ
サテ翻(ひるがへつ)て其(その)頃(ころ)に於(お)ける東三河(ひがしみかは)地方(ちほう)の形勢(けいせい)に就(つい)て少しく述(の)べたいと思(おも)ふが当時(とうじ)今(いま)の南北(なんぼく)設楽郡(したらぐん)の地に
《割書:東三河の形|勢》 は山家(やまが)三方(みかた)と呼(よ)ばれて頗(すこぶ)る勢力(せいりよく)ある家(いへ)があつた即(すなは)ち作手(つくて)の奥平氏(おくだひらし)田峯(たみね)の菅沼氏(すがぬまし)並(ならび)に野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)であ
るが其後(そのご)長篠(ながしの)にも城(しろ)が出来(でき)て田峯(たみね)の支流(しりう)が之(これ)に居(を)つたので或(あるひ)は作手(つくて)田峯(たみね)長篠(ながしの)を呼(よ)むで山家三方(やまがみかた)とも云
山家三方 つたようである兎(と)に角(かく)奥平(おくだひら)菅沼(すがぬま)の二 氏(し)は東三河の北部(ほくぶ)に於て優勢(いうせい)のものであつたが其他(そのた)設楽(したら)の設楽氏(したらし)
西郷(さいごう)の西郷氏(さいごうし)宝飯郡(ほゐぐん)では伊奈(いな)の本多氏(ほんだし)西郡(にしのこほり)の鵜殿氏(うどのし)並(ならび)に深溝(ふかみぞ)形原(かたのはら)竹谷(たけのや)等(とう)の松平氏(まつだひらし)は著名(ちよめい)のものであ
つた又(また)牛久保(うしくぼ)は牧野氏(まきのし)の拠(よ)る処(ところ)であつたが伊奈(いな)にも其(その)一 族(ぞく)が住(す)むて居(ゐ)たのである而(しか)して大塚(おほつか)に居つた
岩瀬氏(いわせし)と云ふのも其(その)一 類(るい)であつたと信(しん)ぜられる之(これ)等(ら)の人々は或(あるひ)は心(こゝろ)を今川氏に寄(よ)せ又(また)は全(まつた)く岡崎(をかざき)の松
平氏に服(ふく)して居る処から松平家(まつだひらけ)の再興(さいこう)迄(まで)は余儀(よぎ)なく今川(いまがは)の頤使(いし)に甘(あま)んじて居(を)つたと云ふ有様(ありさま)であつた
即(すなは)ち牛久保(うしくぼ)の牧野氏の如きは頗(すこぶ)る今川氏に接近(せつきん)して居つたが伊奈(いな)の本多氏 野田(のだ)の菅沼氏の如(ごと)きは夙(とつ)に
松平氏の為(ため)に忠勤(ちうきん)を擢(ぬきん)でゝ居つたものである然(しか)るに田峯(たみね)長篠(ながしの)の菅沼(すがぬま)並(ならび)に作手(つくて)の奥平氏(おくだひらし)の如きは寧(むし)ろ欵(かん)
を織田氏(をだし)に通(つう)づるのを得策(とくさく)とした様子(やうす)で之(これ)が為(ため)に今川氏から攻(せ)められた事(こと)もあつたと云ふのが先(ま)づ概(がい)
況(けう)であるが宗牧(しうぼく)と云ふ有名(いうめい)な連歌師(れんがし)の東国紀行(とうごくきこう)と云ふものにも当時(とうじ)に於(お)ける此(この)地方(ちほう)の事が書(か)いてある
モツトモ此(こ)の時代(じだい)には連歌(れんが)は尚(な)ほ頗(すこぶ)る流行(りうこう)したもので連歌師(れんがし)は絶(た)へず武家(ぶけ)の間(あひだ)を往来(わうらい)して興行(こうぎよう)が盛(さかん)に
東国紀行 行(おこな)はれたものである東国紀行(とうごくきこう)天文十三年十二月の条(くだり)に
牛窪(うしくぼ)より迎(むかひ)の人に逢(あ)ふまでと、 藤太郎(とうたらう)又(また)三 郎(らう)以下(いか)駒(こま)なべて行(ゆ)くに、 大塚(おほつか)といふ里(さと)あり、 此所(こゝ)に昔(むかし)逗(とう)
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十三
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十四
【本文】
留(りう)せし事など思(おも)ひ出(いで)て、 岩瀬式部(いわせしきぶ)方(かた)へ案内(あんない)しつゝ 行(ゆ)けば、 程(ほど)なく牛窪(うしくぼ)の迎(むかひ)来(き)たり、さらば是(これ)よりと
て西郡(にしのこほり)の衆(しゆう)は返(かへ)しつ、 又(また)牧野平(まきのへい)四 郎(らう)已下(いか)来(きたり)迎(むか)はれて、 田(でん)三 郎(らう)豊河(とよかは)の寺(てら)にて待(ま)たれけるよしなり、
長老(てうらう)も出座(しゆつざ)有(あつ)て、 盃(さかづき)たび〳〵歴々(れき〳〵)のしたて過分(くわぶん)なり、 酒(さけ)半(なか)ば無理(むり)にまかり立(た)ちたれば、 道迄(みちまで)色々(いろ〳〵)持(も)
たせられて、 平(へい)四 郎(らう)平(へい)三 郎(らう)其(その)外(ほか)同名(どうめい)中(ちう)、 富長(とみなが)近(ちか)くまで送(おく)られて、 織部入道息達(をりべにふどうそくたつ)、 今泉弥(いまいづみや)四 郎(らう)已下(いか)、
早々(さう〳〵)寄合(よりあ)ひ待(ま)ちたるよしなり、 去年(さるとし)以来(いらい)、 山家(やまが)国中(こくちう)とりあひ出来(でき)て、この道(みち)は一 向(こう)不通(ふつう)にて侍(はべ)るを
敵味方(てきみかた)送(おく)り迎(むか)ひ、 参会(さんくわい)して行別(ゆきわか)れたり、そのかみ鳳来寺(ほうらいじ)参詣(さんけい)して見(み)しわたりなり、 織部(をりべ)新城(しんぜう)目(め)を驚(おどろ)
かしけり、 年(とし)経(へ)て出頭 息(そく)新(しん)八 郎(らう)を始(はじ)め、 子供(こども)あまたいづれも器量(きれう)に見(み)えたり、 旅宿(りよしゆく)とても別(べつ)の搆(かまへ)も
なく、 数寄(すき)の座敷(ざしき)へむざ〳〵なる旅(たび)の具(ぐ)ども運(はこ)ばせ、 頓(やが)て風呂(ふろ)夕食(ゆうしよく)くらひ、 雁(かり)が音(ね)の料理(れうり)、 尾州(びしう)遠(ゑん)
の名酒(めいしゆ)、 路次(ろじ)不通(ふつう)の時分(じぶん)奇特(きとく)の事(こと)なり
とある此(この)中(うち)に藤太郎(とうたらう)とあるのは西郡(にしのこほり)の城主(ぜうしゆ)鵜殿(うどの)の事であるが牧野田(まきのでん)三 郎(らう)と云ふのは牧野出羽守保成(まきのではのかみやすなり)
牧野保成 の子(こ)で成元(なりもと)と云ふた人であると信(しん)ずる即(すなは)ち此(この)頃(ころ)牛久保(うしくぼ)では保成(やすなり)が勢力(せいりよく)を持(も)つて居つたものと思(おも)はれる
平四郎平三郎は勿論(もちろん)其(その)一 族(ぞく)で平三郎と云ふのは伊奈(いな)に住(ぢう)して居(を)つた人である宗長手記(そうてうしゆき)の中(なか)にも伊奈(いな)の
牧野平(まきのへい)三 郎(らう)と云ふこと事が書(か)いてあるが矢張(やはり)同(どう)一 人(にん)であると思(おも)ふ又(ま)た織部入道(をりべにふどう)と云のは菅沼織部正定則(すがぬまをりべのせうさだのり)
菅沼織部正 の事で其子(そのこ)が定村(さだむら)其孫(そのまご)が後(のち)に野田(のだ)の城(しろ)を守(まも)つて武田信玄(たけだしんげん)に当(あた)つた有名(ゆうめい)なる定盈(さだみつ)である而(しか)して此中(このなか)に織(をり)
部新城(べしんぜう)目(め)を驚(おどろ)かし云々(うんぬん)とあるのは果(はた)して何処(どこ)の事であるか少(すこ)しく疑問(ぎもん)であるが私(わたくし)は今(いま)の新城町(しんしろてう)の事に
織部新城 相当(さうとう)すると思(おも)ふ当時(とうじ)織部正(をりべのせう)の居城(きよぜう)は野田(のだ)にあつたのであるが其頃(そのころ)今(いま)の新城町(しんしろてう)の辺(へん)に新塞(しんざい)を築(きづ)いたので
之(これ)を新城(しんぜう)と呼(よ)むだものではあるまいか文中(ぶんちう)富長(とみなが)近(ちか)くまで送(おく)られてとあるが富長(とみなが)と云ふ処は今(いま)富永(とみなが)と書(か)
くが岩座村(いわくらむら)の内(うち)にあつて新城町(しんしろてう)と境(さかひ)を接(せつ)して居(を)るのである或人(あるひと)は嘗(かつ)て此(この)新城(しんしろ)と云ふのは野田(のだ)の城(しろ)を指(さ)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百七十号附録□□□( 明治四十四年五月三十日発行 )
【本文】
したので今(いま)の新城町(しんしろてう)ではない今(いま)の新城町に城(しろ)の出来(でき)たのは尚(なほ)其(その)以後(いご)の事であると云ふた事があるが此(この)
新城(しんしろ)と云ふ処に就(つい)ては旧来(きうらい)区々(くゝ)の説(せつ)があるが新城聞書(しんしろきゝがき)の如きは此(この)城(しろ)を以(もつ)て天文中 平井郷(ひらゐごう)大屋(おほや)の城主(ぜうしゆ)菅沼(すがぬま)
大膳亮定継(たいぜんのすけさだつぐ)の築(きづ)いたものであると書(か)いてあるが此(この)城(しろ)は頗(すこぶ)る多(おほ)くの変遷(へんせん)を受けて一時は荒廃(こうはい)に皈(き)した事
もあるので甚(はなは)だ明証(めいせう)を得難(えがた)い事情(じぜう)がある併(しか)し乍(なが)ら此(この)東国紀行(とうごくきこう)にある新城(しんしろ)と云ふ事に就(つい)ては此頃(このころ)吉田東
伍氏の地名辞書(ちめいじしよ)を見(み)るに矢張(やはり)前(まへ)に述(の)べた私の説(せつ)と同(おな)じ意見(いけん)が載(の)つて居(を)るのであるドウモ之(これ)は其説(そのせつ)がよ
いように信(しん)ぜられるのである
《割書:竹千代名を|元信と命ず》 扨(さて)天文(てんもん)の次(つぎ)が弘治(こうぢ)であるが今川家(いまがはけ)にある松平竹千代(まつだひらたけちよ)は其二年に至(いた)つて十五歳の正月十五日に加冠(かくわん)し義(よし)
《割書:元信名を元|康と改む》 元(もと)の偏諱(へんい)を貰(もら)つて名(な)を元信(もとのぶ)と命(めい)じたのである之(これ)にも弘治(こうぢ)元年(がんねん)三月 説(せつ)があるが余(あま)り必要(ひつよう)がないから今(いま)詳(くはし)
徳川家康 くは申述(もうしの)べぬ而(しか)して其翌(そのよく)三年には更(さら)に元康(もとやす)と改名(かいめい)したが諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の通(とほ)り之(これ)が後(のち)に徳川家康(とくがはいへやす)となつ
たのである然(しか)るに其(その)翌年(よくねん)に年号(ねんごう)が又た永禄(えいろく)と改(あらた)まつたが家康(いへやす)は其年(そのとし)十七歳で西三河へ出陣(しゆつぢん)したモツト
モ初陣(ういぢん)は弘治(こうぢ)二年二月 額田郡(ぬかたぐん)名之内(なのうち)の城(しろ)を攻(せ)めたのにあるが夫(それ)からは度々(たび〴〵)の戦争(せんそう)に与(あづか)つたのである例(れい)
《割書:大高城兵糧|入》 の大高城(おほたかぜう)の兵糧入(へうれうい)れなどと云ふのも其頃(そのころ)の事であるが彼(か)の永禄(えいろく)三年(距今(いまをさる)三百六十二年)の桶狭間(おけはさま)役(えき)に
方(あた)つては勿論(もちろん)今川軍(いまがはぐん)に加(くは)はつて先(ま)づ丸根(まるね)の城(しろ)を抜(ぬ)き鵜殿長助(うどのながすけ)に代(かは)つて大高城(おほたかぜう)に入つたのが恰(あだか)も五月十
桶狭間役 九日 桶狭間(おけはざま)合戦(かつせん)の当日である元来(がんらい)此(この)大高城(おほたかぜう)と云ふのは今(いま)の大高停車場(おほたかていしやぜう)の南方(なんぽう)に当(あた)る小丘(せうきう)の地(ち)にあつた
ので当時(とうじ)は海水(かいすゐ)が深(ふか)く鳴海(なるみ)附近(ふきん)まで灣入(わんにう)し且つ敵地(てきち)に突出(とつしゆつ)して居(を)つたのであるから頗(すこぶ)る守(まも)り難(がた)い処(ところ)で
あつた而(しか)して義元(よしもと)は五月の十日に駿府(しゆんぷ)を発(はつ)し十四日には此(この)吉田(よしだ)に陣(ぢん)し段々(だん〴〵)進(すゝ)むで其(その)十九日には桶狭間(おけはさま)
の傍(かたはら)の田楽狭間(でんがくはさま)と云ふ処に陣取(ぢんど)つたのである即(すなは)ち此日(このひ)織田信長(をたのぶなが)の為(ため)に襲撃(しうげき)せられて戦死(せんし)した事は普(あまね)
く人の知る処であるが余(あま)り突然(とつぜん)の事であつたので今川方(いまがはがた)は非常(ひぜう)に狼狽(ろうばい)して岡崎(をかざき)の守将(しゆせう)の如きも城(しろ)を捨(す)
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(今川義元と吉田)□□□□□□□□□□六十五
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況) 六十六
【本文】
《割書:家康岡崎城|に帰る》 てゝ駿河(するが)へ逃(に)げ還(かへ)つたのであるソコで家康(いへやす)は初(はじ)めて岡崎(をかざき)の本城(ほんぜう)に入つたのであるが其(その)後(ご)義元(よしもと)の子(こ)氏真(うぢさね)
と云ふ人は到底(とうてい)頼(たの)み甲斐(かひ)のない人であると云ふので遂(つひ)に今川氏(いまがはし)と絶(た)つて織田氏(をたし)と相(あひ)提携(てうけい)するに至(いた)つた
ので徳川(とくがは)今川(いまがは)両氏(れうし)の間(あひだ)には之(これ)から戦争(せんそう)が絶間(たへま)のない事となつて此(この)豊橋(とよはし)地方(ちほう)も殆(ほとん)ど其(その)戦場(せんぜう)となつたので
あるそれ等(ら)の状況(ぜうけう)に就(つひ)ては追々(おひ〳〵)後章(こうせう)に於(おい)て申述(もうしの)べたいと思(おも)ふ
⦿桶狭間役後の情況
扨(さて)前(まへ)にも申述(もうしの)べた如く家康(いへやす)は今川義元(いまがはよしもと)の戦死(せんし)した時 大高城(おほたかぜう)にあつたが其(その)戦死(せんし)を確(たしか)めて後(のち)其夜(そのよ)月(つき)の出(い)づ
岡崎城代 るを待(ま)つて軍(ぐん)を大樹寺(だいじゆじ)まで引上(ひきあ)げたのである然(しか)るに岡崎城(をかざきぜう)の城代(ぜうだい)は廿三日に至(いた)つて駿河(するが)に逃還(にげかへ)つたの
で家康(いへやす)は初(はじ)めて其(その)本城(ほんぜう)に入(い)つたのであるが其頃(そのころ)の城代(ぜうだい)は何(なん)と云ふ人であつたか審(つまびらか)でないが勿論(もちろん)今川
氏の家人(かじん)で三浦上総介義保(みうらかづさのすけよしやす)、 飯尾弥次右衛門(いゝをやじうゑもん)など云う人であつたようである最初(さいしよ)石川右近(いしかはうこん)と云ふ人(ひと)等(ら)
が居(を)つた事は諸種(しよしゆ)の記録(きろく)に見ゆる処であるが此時(このとき)は既(すで)に交代(こうたい)したものと思(おも)はれるソコで織田信長(をたのぶなが)に於
《割書:家康氏真を|促す》 ては義元(よしもと)も既(すで)に戦死(せんし)した事であるから家康(いへやす)は自然(しぜん)己(おの)れに従(したが)ふであろうと思(おも)ふて居(を)つたであろうが家康(いへやす)
は中(なか)々そうでない屡々(しば〳〵)使(つかひ)を駿府(すんぷ)に遣(つか)はして父(ちゝ)の為(ため)に吊(とむらひ)戦(いくさ)をするように義元(よしもと)の子(こ)氏真(うぢさね)に申送(もうしおく)つたので
ある然(しか)るに氏真(うぢさね)は一 向(こう)之(これ)に応(おう)ずる様子(ようす)が見(み)えぬにも拘(かゝは)らず家康(いへやす)は着々(ちやく〳〵)兵(へい)を出(いだ)して挙母(ころも)、 梅坪(うめつぼ)、 広瀬(ひろせ)、
刈谷(かりや)など織田氏(をたし)に属(ぞく)する諸城(しよぜう)を攻撃(こうげき)し其翌(そのよく)永禄四年には尾張(をはり)の知多郡(ちたぐん)に攻(せ)め入(い)り二月の七日には石瀬(いしせ)
石瀬合戦 に於て水野信元(みづののぶもと)の兵(へい)と戦(たゝか)つたのであるケレども氏真(うぢさね)は相替(あひかは)らず之(これ)に応援(おうゑん)しようともせぬので徳川氏(とくがはし)に
《割書:家康氏真と|絶ち信長と》 於ては遂(つひ)に意(い)を決(けつ)して今川氏と絶(た)ち却(かへつ)て織田氏(をたし)と相和(あわ)するに至(いた)つたのである松平記(まつだひらき)で見(み)ると此事(このこと)は其
和す 年の初(はじめ)であつたようにも推察(すいさつ)せらるゝが兎(と)に角(かく)石瀬合戦(いしせかつせん)の後(のち)であつたに相違(さうゐ)ないのである又(また)かくなる
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談
【本文】
迄の事情(じぜう)に就(つい)ては種々(しゆ〳〵)の説(せつ)があるが家康(いへやす)が今川氏に人質(ひとしち)となつて居(を)つた頃(ころ)の徳川氏の嶮岨艱難(けんそかんなん)と云ふ
ものは容易(ようい)ならぬ事で家人(かじん)等(ら)は毎度(まいど)の合戦(かつせん)に先鋒(せんぽう)に用(もち)ゐられて悪戦苦闘(あくせんくとう)を続(つゞ)けて少(しこ)しも怨(うら)む所(ところ)なく偏(ひとへ)
に主君(しゆくん)の成長(せいてう)を希(こひねが)つて居つたのであるのに家康(いへやす)が成長(せいてう)してからも義元(よしもと)はハカ〴〵しく其(その)領地(れうち)を返(かへ)さ
うともせず頗(すこぶ)る徳川氏をして疑(うたがひ)を大(だい)ならしめた点(てん)がある殊(こと)に氏真(うぢさね)の頼(たの)むに足(た)らざることは前(まへ)の如(こと)き事(じ)
情(ぜう)であるから最早(もはや)今日(こんにち)まで尽(つく)した以上(いぜう)は仮令(たとへ)盟(ちかい)をかゆるとも決(けつ)して武士(ぶし)の面目(めんもく)に背(そむ)く訳(わけ)ではないと云
ふのが一つの理由(りゆう)であつた事と思(おも)はれる且(か)つ此(この)水野信元(みづののぶもと)と云ふ人は前章(ぜんせう)にも申述(もうしのべ)た如く家康(いへやす)の生母(せいぼ)後(のち)
に伝通院(でんつうゐん)と云はれた人の兄弟(けうだい)であるので此(この)和議(わぎ)に就(つい)ては余程(よほど)斡旋(あつせん)の労(ろう)を取(と)つたものと見(み)ゑるソコで信(のぶ)
長(なが)と家康(いへやす)とは互(たがひ)に誓書(せいしよ)を取替(とりか)はしたのであるが之(これ)が駿府(すんぷ)へ知(し)れたから氏真(うぢさね)は大(おほい)に怒(いか)り使(つかひ)を以(もつ)て責問(せきもん)し
中島の戦 たが余(あま)り功能(こうのう)がなかつたのみならず家康(いへやす)は兵(へい)を出(いだ)して今川方の板倉弾正重定(いたくらだんじようしげさだ)を中島(なかじま)並(ならび)に岡(をか)(額田郡)と
云ふ処に攻(せ)め重定(しげさだ)は遂(つひ)に城(しろ)を捨(す)てゝ東三河に逃(のが)れたので中島(なかじま)をば深溝松平(ふかうづまつだひら)の大炊助好景(おほひのすけよしかげ)に賜(たまは)つたので
ある而(しか)して形原(かたのはら)の松平又(まつだひらまた)七 家広(いへひろ)、 竹谷(たけのや)の松平玄蕃允清善(まつだひらげんばのぜうきよよし)、 野田(のだ)の菅沼新(すがぬましん)八 郎定盈(らうさだみつ)、段峯(だんみね)の菅沼小法師(すがぬまこほうし)
定直(さだなほ)、 長篠(ながしの)の菅沼左衛門貞景(すがぬまさゑもんさだかげ)、 作手(つくて)の奥平(おくだひら)九八 郎貞能(らうさだよし)、 川路(かはぢ)の設楽越中守貞通(したらゑつちうのかみさだつう)、 西郷(さいごう)の西郷弾正左(さいごうだんぜうさ)
《割書:小原鎮実東|三河諸将士》 衛門正勝(ゑもんまさかつ)等(とう)は孰(いづ)れも旗幟(きしよく)を明(あきらか)にして徳川氏に属(ぞく)したので氏真(うぢさね)は小原鎮実(こはらしげさね)に命(めい)じて之(これ)等(ら)の人々の質(しち)が
《割書:の質を吉田|城外に惨殺》 吉田城(よしだぜう)に籠(こ)め置(お)いてあつたのを殺害(さつがい)せしめたのであるモツトモ此事(このこと)に就(つい)ては種々(しゆ〳〵)の説(せつ)があつて永禄(えいろく)三
す 年の事であると云ふ説(せつ)も仝五年であると云ふ説(せつ)も又(ま)た七年であると云ふ説もあるが朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には
諸記録(しよきろく)を考証(こうせう)して此年(このとし)の事であるとしてある兎(と)に角(かく)惨酷(さんごく)極(きは)まる事をしたもので此時(このとき)殺害(さつがひ)されたのは松(まつ)
平家広(だひらいへひろ)、 松平清善(まつだひらきよよし)、 菅沼定盈(すがぬまさだみつ)、 菅沼定直(すがぬまさだなほ)、 菅沼貞景(すがぬまさだかげ)、 奥平貞能(おくだひらさだよし)、 西郷正勝(さいごうまさかつ)、 設楽貞通(したらさだつう)、 奥山修理(おくやましうり)、 水(みづ)
野藤兵衛(のとうべゑ)、 大竹兵右衛門(おほたけへうゑもん)、 浅羽(あさば)三 太夫(たいう)、 大竹麦右衛門(おほたけむぎうゑもん)、 梁田某(れうたなにがし)等(とう)の妻子(さいし)で十三人であると書(か)いたもの
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況) 六十七
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況) 六十八
【本文】
も十一人であると記(しる)したのもあるが此(この)人名(じんめい)で見(み)ると尚(な)ほ多数(たすう)であつたものと思(おも)はれる松平記(まつだひらき)には吉田(よしだ)
城(ぜう)外(ぐわい)龍念寺(りうねんじ)口(くち)にて串刺(くしざし)に致(いた)すと書(か)いてあるが龍拈寺(りうねんじ)と云ふのは即(すなは)ち龍拈寺(りうねんじ)の事で其頃(そのころ)龍拈寺(りうねんじ)口(くち)と云ふ
のは城廓(ぜうくわく)の一 方(ぽう)の口(くち)に当(あた)つて居(を)つたものであるが此(この)惨殺(ざんさつ)は頗(すこぶ)る史家(しか)の問題(もんだい)とする処で実(じつ)に今川氏の滅(めつ)
亡(ばう)は当然(とうぜん)の事であるとまで論(ろん)ぜられて居(を)るのである而(しか)して今(いま)も渥美郡(あつみぐん)高師村(たかしむら)福岡(ふくをか)の地内(ちない)に十三 本塚(ほんづか)と
云ふ処があるが之(これ)は其(その)質(しち)の屍体(したい)を葬(ほうむ)つたので其(その)名(な)があると伝説(でんせつ)せられて居る果(はた)して如何(いか)なるものか之(これ)
は少(すこ)しく当(あて)にならぬように思(おも)ふ又(ま)た此処(こゝ)に一つの話(はなし)があるが之(これ)は菅沼氏(すがぬまし)の貞享書上(ていけうかきあげ)にあるので悲惨(ひさん)な
《割書:菅沼定盈の|妹》 る事抦(ことがら)であるが此時(このとき)多(おほ)くの人質(ひとしち)の中(なか)に菅沼定盈(すがぬまさだみつ)の妹(いもと)で「ヲミイ」と云ふのが十一歳であつたが矢張(やはり)串(くし)に
貫(つらぬ)いて殺(ころ)す事に定(さだ)まつたのを其(その)乳母(うば)が竊(ひそ)かに知(し)つて菅沼家(すがぬまけ)譜代(ふだい)の家人(けじん)の末流(まつりう)で寄田助(よりたすけ)四 郎(らう)と云ふもの
が城中(ぜうちう)にあつたのを頼(たの)むで夜中(やちう)に抜(ぬ)け出(い)でたのであるそれで此(この)妹(いもと)と乳母(うば)とは助(たす)かつたが寄田(よりた)は後(のち)に至(いた)
つて事が露顕(ろけん)して吉田(よしだ)城外(ぜうぐわい)で磔殺(けつさつ)せられたのである随分(ずいぶん)此(この)時代(じだい)には惨酷(ざんこく)の事が多(おほ)かつたものであるが
此(かく)の如(ごと)く其(その)質(しち)を殺(ころ)された将士(せうし)にありては益々(ます〳〵)今川氏に対(たい)して反抗(はんこう)の度(ど)を高(たか)め東三河の形勢(けいせい)は愈々(いよ〳〵)険悪(けんあく)
《割書:家康東条義|昭を攻む》 となり来(きた)つたのである此時(このとき)に方(あた)り西三河に於(おい)ては其四月 家康(いへやす)は自(みづか)ら兵(へい)を卒(ひき)ゐて東条(とうぜう)の吉良義昭(きらよしあきら)を攻(せ)め
たのであるが此(この)義昭(よしあきら)と云ふ人は左兵衛佐義尭(さへうえのすけよしたか)の子(こ)で義郷(よしさと)の弟(おとゝ)であつて義諦、義明、義顕など色々(いろ〳〵)に書(か)
いたものがあるが皆(みな)此(この)義昭(よしあきら)の事である元来(がんらい)吉良氏(きらし)は前章(ぜんせう)にも申述た如く足利氏(あしかゞし)の分(わか)れで長氏(てうし)の子(こ)の満(みつる)
氏(し)と云ふ人が三河の守護(しゆご)として幡豆郡(はづぐん)に居(を)り初(はじ)めて吉良氏(きらし)を称(せう)したのである義尭(よしたか)は即(すなは)ち其(その)八 世(せい)の孫(まご)に
当(あた)るのであるが天文五年 欵(かん)を織田氏(をたし)に通(つう)じ松平氏(まつだひらし)を図(はか)つて巳(おの)れの旧領(きうれう)を復(ふく)せんとしたので今川義元(いまがはよしもと)の
為(ため)に攻殺(こうさつ)せられたが其子(そのこ)の上野介義安(こうづけのすけよしやす)は義元(よしもと)の旨(むね)により駿河(するが)の薮田(やぶた)と云ふ処に居(を)つて其(その)弟(おとゝ)の義昭(よしあきら)をし
て西尾(にしを)の城(しろ)を守(まも)らしめたのである然(しか)るに此(この)義昭(よしあきら)も亦(ま)た弘治二年に義元(よしもと)に叛(そむ)きて欵(かん)を信長(のぶなが)に通(つう)じたが程(ほど)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百七十六号附録□□□( 明治四十四年六月六日発行 )
【本文】
《割書:牧野貞成西|尾城を守る》 なく又(ま)た今川氏(いまがはし)に服従(ふくじう)したのである而(しか)して其頃(そのころ)義昭(よしあきら)は自(みづか)ら東條(とうぜう)の城(しろ)に移(うつ)り西尾の城をば牛久保(うしくぼ)の牧野(まきの)
新次郎貞成(しんじらうさだなり)を招(まね)いて守(まも)らしめたのであるが此(この)貞成(さだなり)は即ち長岡侯(ながをかこう)牧野氏の祖先(そせん)で既(すで)に前章(ぜんせう)に申述べて置
いた通(とほ)りであるトコロが此事(このこと)を以て貞成(さだなり)ではなく其子(そのこ)の成定(なりさだ)であるように書(か)いた記録(きろく)が沢山(たくさん)にあるの
で疑(うたがひ)を生(せう)ずるが之(これ)は父子(ふし)孰(いづ)れも初(はじ)めに新次郎と称(せう)した処(ところ)から来(きた)つた間違(まちがひ)である成定(なりさだ)ではドウしても時(じ)
代(だい)が合(あ)はぬので父(ちゝ)の貞成(さだなり)であるのが事実(じじつ)であるモツトモ義昭(よしあきら)が今川氏に叛(そむ)いた事 並(ならび)に貞成(さだなり)が西尾城(にしおぜう)に
入(い)つた事に就(つい)ては年代(ねんだい)に疑問(ぎもん)があつて牧野子爵家(まきのしゝやくけ)の調査(てうさ)で見(み)ても数説(すうせつ)あるし又(ま)た三 河物語(かはものがたり)で見ると桶(おけ)
狭間(はざま)戦後(たゝかひご)義昭(よしあきら)並に貞成(さだなり)は織田氏(をたし)に属(ぞく)して居つて織田(をた)徳川(とくがは)二 氏(し)の和(わ)する頃(ころ)より却(かへつ)て今川方に属(ぞく)したよう
に推及(すいきう)せらるゝのであるが三 河物語(かはものがたり)は只(た)だ其(その)記憶(きおく)によりて書(か)き列(つら)ねたものであるから論理的(ろんりてき)に之(これ)を研(けん)
究(きう)するのは少(すこ)しく無理(むり)であろうと思(おも)ふ従(したがつ)て私は前に述べた説(せつ)を信(しん)ずるものであるがサテ家康(いへやす)が愈々(いよ〳〵)
織田氏(をたし)と提携(ていけい)したのに義昭(よしあきら)等(など)今川方である処(ところ)から遂(つひ)に今度(このたび)之(これ)をせ攻(せ)むるに至(いた)つたのである即(すなは)ち幡豆郡(はづぐん)
の善明寺(ぜんみようじ)堤(つゝみ)に於(おい)て松平好景(まつだひらよしかげ)が討死(うちじに)したのも此時(このとき)の事であるが前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)き事情(じぜう)から此時(このとき)の事(こと)と弘
治二年の事とを混(こん)一した記録(きろく)が少(すくな)くないので此事(このこと)に関(かん)する松平記(まつだひらき)の記事(きじ)の如(ごと)きも矢張(やはり)同様(どうやう)であると信(しん)
荒川甲斐守 ずる然(しか)るに其頃(そのころ)義昭(よしあきら)の一 族(ぞく)に荒川甲斐守義広(あらかはかひのかみよしひろ)と云ふ人があつて此人(このひと)の名(な)は頼持(よりもち)、義等、 義虎(よしとら)など色々(いろ〳〵)
に書(か)くが義昭(よしあきら)と隙(げき)があつた結果(けつくわ)欵(かん)を徳川方(とくがはがた)に通(つう)じ力(ちから)を合(あは)せて西尾城(にしおぜう)を攻(せ)めたので牧野貞成(まきのさだなり)は遂(つひ)に守(まも)り
《割書:貞成牛久保|に退く》 切(き)れなくなつて牛久保(うしくぼ)へ引返(ひきかへ)つたのである夫(それ)より尚(な)ほ戦(たゝかひ)は継続(けいぞく)して九月十三日には藤浪畷(ふぢなみなはて)の戦(たゝかひ)などゝ
云ふのがあつたが力(ちから)及(およ)ばずして義昭(よしあきら)は遂(つひ)に徳川氏に降参(こうさん)したのである之(これ)で先(ま)づ西三河の方は一時 平定(へいてい)
に帰(き)したのであるが東三河に於(おい)ては前(まへ)にも申述(もうしのべ)た如(ごと)く小原鎮実(こはらしげさね)が此吉田城に居て所謂(いはゆる)今川氏(いまがはし)の重鎮(ぢうちん)と
野田の城 なり其年(そのとし)の七月廿九日に牛久保(うしくぼ)、二 連木(れんぎ)、 伊奈(いな)等(とう)の兵を率(ひき)ゐて野田(のだ)の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)を攻(せ)めたのであるソコ
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況) 六十九
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十
【本文】
で定盈(さだみつ)は西郷正勝(さいごうまさかつ)の子(こ)、 孫(まご)六 郎元正(らうもとまさ)と共(とも)に之(これ)を固守(こしゆ)したが敵(てき)から和(わ)を求(もと)められたので到底(とうてい)衆寡(しうくわ)敵(てき)せさ
る場合(ばあひ)であつたから遂(つひ)に之(これ)に応(おう)じ城(しろ)を明渡(あけわた)して自(みづか)らは元正(もとまさ)と共に正勝(まさかつ)の処へ引退(ひきしりぞ)いたのであるか鎮実(しげさね)
は更(さら)に新城(しんしろ)に菅沼定直(すがぬまさだなほ)を攻(せ)めたのであるモツトモ定直(さだなほ)は当時(とうじ)段峯(だみね)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へて居(を)つたのであるから
新城の戦 新城(しんしろ)には城代(ぜうだい)が居つた事であろうが菅沼伊賀守定勝(すがぬまいがのかみさだかつ)などが奮戦(ふんせん)したので鎮実(しげさね)は遂(つひ)に軍(ぐん)を退(しりぞ)けた其後(そののち)定(さだ)
盈(みつ)は自(みづか)ら西郷(さいごう)の高城(たかしろ)に砦(とりで)を設(もう)け正勝(まさかつ)は同(おな)じ八 名郡(なぐん)の堂山(どうやま)と云ふ所に居(きよ)を搆(かま)へたので今川方(いまがはがた)に於(おい)ては牛
久保の牧野出羽守保成(まきのではのかみやすなり)仝新次郎 貞成(さだなり)を先陣(せんぢん)として之(これ)を攻(せめ)しめたと云ふ訳(わけ)で戦争(せんそう)の絶(た)ゆる間(ま)はなかつた
《割書:五本松|月谷》 のである其後(そのご)正勝(まさかつ)は又(ま)た城(しろ)を中山(なかやま)の五 本松(ほんまつ)(八名郡)と云ふ処(ところ)と嵩山(すせ)の月谷(つきのや)と云ふ処に築(きづ)いて自(みづか)らは五
本松に居(を)り其子(そのこ)の元正(もとまさ)をして月谷(つきのや)に居(を)らしめたが此(この)年(とし)の九月廿六日に今川方(いまがはがた)の将(せう)朝比奈紀伊守泰長(あさひなきいのかみやすなが)が
《割書:西郷正勝等|の戦死》 やつて来(き)て西郷氏(さいごうし)が新(あらた)に搆(かま)へた此(この)五 本松(ほんまつ)の城(しろ)を攻(せ)め正勝(まさかつ)、 元正(もとまさ)は皆(みな)之(これ)に戦死(せんし)したので自然(しぜん)月谷(つきのや)の城(しろ)も
《割書:定盈野田城|を復す》 陥(おちゐ)つたのであるが其(その)翌(よく)永禄(えいろく)五 年(ねん)の六月二日には菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が夜(よ)に乗(ぜう)じて野田(のだ)の城(しろ)を襲撃(しうげき)し今川勢(いまがはぜい)を追(お)つ
て復(ふたゝ)び之(これ)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へたのであるソコで今川方(いまがはがた)に於(おい)ては又(ま)た之(これ)を攻撃(こうげき)したが今度(このたび)は到底(とうてい)抜(ぬ)くことが出来(でき)
ぬ新城聞書(しんしろきゝがき)によると新城(しんしろ)攻(せ)めのあつたのは此時(このとき)の事で当時(とうじ)、 新城(しんしろ)、 段峯(だみね)の菅沼氏(すがぬまし)は欵(かん)を武田氏(たけだし)に通(つう)じ
たものであると記(しる)してあるが此説(このせつ)は輙(たやす)く信(しん)せられぬように思(おも)ふ兎(と)に角(かく)其頃(そのころ)に於(お)ける此(この)地方(ちはう)と云ふもの
は紛乱(ふんらん)を極(きは)めたので史実(しじつ)の混淆(こんこう)は言(い)ふ迄(まで)もなく従(したがつ)て年月などの相違(さうゐ)は記(き)するものによつて異(ことな)つて居(を)
るのであるから研究者(けんきうしや)の最(もつと)も苦(くるし)む処(ところ)であるかゝる場合(ばあひ)に方(あた)つて家康(いへやす)は又た屡々(しば〳〵)兵(へい)を東三河に進(すゝ)めたの
鳥屋根の戦 で永禄(えいろく)四年四月十一日に牛窪(うしくぼ)に襲来(しうらい)したのであるが其(その)八月には長沢(ながさわ)の鳥屋根(とやね)の城(しろ)を陥(おとしゐ)れ更(さら)に十月 晦(みそ)
《割書:鵜殿長照戦|死》 日(か)には牛窪原(うしくぼはら)に於て合戦(かつせん)があつたのである而(しか)して仝五年の二月には宝飯郡(ほゐぐん)上郷村(かみごうむら)の鵜殿藤太郎長照(うどのとうたらうながてる)を
攻(せ)めて之(これ)を陥(おとしゐ)れ長照(ながてる)は討死(うちじに)をしたのであるが其(その)二 子(し)は遂(つひ)に徳川方(とくがはがた)に生擒(いけどり)となつたのである此(この)長照(ながてる)と
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談
【本文】
云ふのは長持(ながもち)の子(こ)で三 河物語(かはものがたり)には此時(このとき)討死(うちじに)したのを長持(ながもち)であるとしてあるが松平記(まつだひらき)其他(そのた)にも擒(とりこ)となつ
たのを藤太郎(とうたらう)及(およ)び其(その)弟(おとゝ)であると記(しる)してある併(しか)し之(これ)に就(つい)ては前(まへ)に述(の)べたのが事実(じじつ)であると思(おも)ふ然(しか)るに当(とう)
時(じ)家康(いへやす)の長子(てうし)の信康(のぶやす)はまだ竹千代(たけちよ)と云つて居(を)つたが母(はゝ)関口氏(せきぐちし)と共に駿河(するが)にあつたので実(じつ)に危急(ききう)の有様(ありさま)で
《割書:信康岡崎に|帰る》 あつたソコで石川数正(いしかはかずまさ)の計(はか)らひで今川氏実(いまがはうぢさね)に説(と)ひて此(この)鵜殿(うどの)の二 子(し)と信康(のぶやす)とを交換(こうくわん)することが成立(なりた)つて信(のぶ)
康(やす)は初(はじ)めて国(くに)に帰(かへ)る事が出来(でき)関口氏(せきぐちし)も程(ほど)なく三河に来(きた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て家康(いへやす)は益々(ます〳〵)兵(へい)を東三河に
出(いだ)したが長岡牧野家(ながをかまきのけ)及(およ)び田邉牧野家(たなべまきのけ)に蔵(ぞう)する氏真(うぢさね)の感状(かんぜう)によると其後(そのご)永禄(えいろく)五年五月七日 富永(とみなが)、同九月
廿九日八 幡(はた)、同九月廿二日 夜(よ)より廿三日 大塚(おほつか)、同六年四月 牛窪(うしくぼ)に於(おい)て孰(いづ)れも徳川(とくがは)今川(いまがは)両勢(れうせい)の間(あひだ)に合戦(かつせん)
があつたものであるかゝる有様(ありさま)であるから今川方(いまがはがた)に於ては佐脇(さわき)八 幡(はた)に新砦(しんさい)を設(もう)け徳川方に於(おい)ても一の
《割書:家康一の宮|の後詰》 宮(みや)に砦(とりで)を搆(かま)へて本多(ほんだ)百 助信俊(すけのぶとし)をして之(これ)を守(まも)らしめたのである彼(か)の家康(いへやす)が一の宮(みや)の後詰(あとづめ)とて有名(ゆうめい)なる話(はなし)
も亦(ま)た其頃(このころ)の事で松平記(まつだひらき)によると永禄(えいろく)五年六月であつたと見(み)えるが此話(このはなし)は三 河物語(かはものがたり)にも記(しる)されて居(を)る
事である即(すなは)ち氏真(うぢさね)が一 万余騎(まんよき)を率(ひき)ゐて牛久保に張陣(てうぢん)し一の宮は僅(わづか)に五六百の人数(にんず)で実(じつ)に危急(ききん)を告(つ)げた
ので家康(いへやす)は自(みづか)ら手兵(しゆへい)三千 許(ばかり)を以(もつ)て八 幡佐脇(はたさわき)の敵前(てきぜん)を過(す)ぎて此一の宮に応援(おうえん)したあるが此時(このとき)老臣(ろうしん)等(ら)
は切(しき)りに其(その)危険(きけん)なることを諌(いさ)めたのである然(しか)るに家康(いへやす)が言(い)ふには家人(けじん)に敵地(てきち)の番(ばん)をさせて置(おき)ながら敵(てき)寄(よ)
せ来(く)ると聞(きい)て救(すく)はざらむには信(しん)も義(ぎ)もなきと云ふものなり万(まん)一 後詰(あとづめ)を仕損(しそん)じ討死(うちじに)せんも天命(てんめい)なり適(てき)の
大軍(たいぐん)も小勢(せうぜい)も云ふべき処(ところ)にあらずとて顧(かへり)みなかつたとの事である之(これ)は信義(しんぎ)を重(おもん)ずると云ふ事に就(つい)て一
の美談(びだん)として後世(こうせい)迄(まで)も伝(つた)はつて居(を)る処である而(しか)して牛久保密談記(うしくぼみつだんき)によると其翌(そのよく)六年の三月六日に又た
牛久保原(うしくぼはら)に合戦(かつせん)があつて家康(いへやす)自(みづか)ら千五百 余騎(よき)を率(ひき)ひて攻(せ)め来(きた)つたのであるが当時(とうじ)牧野新次郎(まきのしんじらう)は民部丞(みんぶのぜう)
成継(しげつぐ)と云つた頃(ころ)であるが既(すで)に心(こゝろ)を徳川方に傾(かたむ)けて居(を)つたから病(やまひ)と称(せう)して此(この)戦(たゝかひ)には加(くは)はらず其子(そのこ)の右(う)
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十一
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十二
【本文】
《割書:牧野保成戦|死》 馬允(まのじよう)をして出羽守保成(ではのかみやすなり)に従て戦(たゝか)はしめたのであるが此(この)戦(たゝかひ)に於て保成(やすなり)は遂(つひ)に戦死(せんし)したのであると云ふ
ことが記(しる)されてある或(あるひ)は之(これ)は保成(やすなり)が強硬(けうこう)で徳川氏に属(ぞく)することを承知(せうち)せぬ処から止(やむ)を得(え)ず右馬允(うまのじよう)が殺(ころ)した
ものであるそれ故(ゆゑ)に此(この)戦(たゝかひ)の後(のち)右馬允(うまのじよう)は暫(しばら)く遠江(とふとほみ)の鵜津山(うつやま)朝比奈紀伊守(あさひなきいのかみ)の処に退(しりぞ)いて居(を)つたのである
と云ふ伝説(でんせつ)がある併(しか)し之(これ)は全(まつた)く俗説(ぞくせつ)で到底(とうてい)信(しん)ずる事の出来(でき)ぬ話(はなし)であると思(おも)ふが此(この)保成(やすなり)と云ふ人は余程(よほど)
の勇者(ゆうしや)であつた様子(やうす)で殊(こと)に牛久保(うしくぼ)に於ては最(もつと)も勢力(せいりよく)のあつたものと信(しん)ぜられる宝飯郡(ほゐぐん)御津村(みとむら)大恩寺(だいおんじ)阿(あ)
弥陀堂(みだどう)の棟札(むなふだ)にも
牧野出羽守保成 家督伝三郎成元
大檀那
牧野右馬允成守
天文廿二丑年五月十三日
と云ふのが残(のこ)つて居(を)る而(しか)して前(まへ)の密談記(みつだんき)にある民部丞成継(みんぶのぜうしげつぐ)及(およ)び其子(そのこ)の右馬允(うまのじよう)と云ふのは果(はた)して誰(たれ)を指(さ)
したものであろうか疑問(ぎもん)ではあるが長岡牧野家(ながをかまきのけ)に於ては祖先(そせん)以来(いらい)代々(だい〳〵)新次郎、 右馬允(うまのじよう)、 民部丞(みんぶのぜう)と称(とな)へ
たので此(この)時代(じだい)は丁度(てうど)貞成(さだなり)幷(ならび)に其子の成定(なりさだ)の時に相当(さうとう)するのである或(あるひ)は成継(しげつぐ)と云ふのは成勝(しげかつ)一に氏勝(うじかつ)と
云つた人の事であるとの説(せつ)があるが果(はた)してソウなると時代(じだい)が合(あ)はぬから密談記(みつだんき)の記事(きじ)が誤(あやまり)であると
云ふ事になるのである又た此(この)棟札(むなふだ)に成守(なりもり)とあるのは牛久保密談記(うしくぼみつだんき)によれば貞成(さだなり)に当(あた)るようでもあるが
《割書:牛久保の諸|士》 併(しか)し之(これ)は成定(なりさだ)の事であるとの説(せつ)が正(たゞ)しいと信(しん)ずる而(しか)して当時(とうじ)牛窪(うしくぼ)には如何(いか)なる人々が主(おも)なるものであ
つたかと云ふに永禄(えいろく)八年の二月 氏真(うぢさね)が出した吉田城中取替兵糧(よしだぜうちうとりかへへうれう)の文書(ぶんしよ)があつて左(さ)の連名(れんめい)が記(しる)されて居(を)
るのである
吉田城中取替兵糧之事
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百八十二号附録□□□( 明治四十四年六月十三日発行 )
【本文】
合参百俵
右此内貮百俵者鵜殿休庵大原弥左衛門相残百俵ハ隠岐越前守立合城中江入候間忠節之至也然レバ
此返済之事於望之地申付者也
永禄八乙丑二月二日
牧野右馬允殿
牧野山城守殿
野瀬丹羽守殿
岩瀬和泉守殿
眞木越中守殿
眞木善兵衛殿
これ等(ら)の人々は皆(みな)牛久保(うしくぼ)に居(を)つたので此時(このとき)はまだ孰(いづ)れも今川方であつたものと見(み)へる勿論(もちろん)保成(やすなり)は既(すで)に
戦死(せんし)の後(のち)であるが此(この)右馬允(うまのぜう)と云ふのは即(すなは)ち前(まへ)にも申述(もうしの)べた成定(なりさだ)の事で山城守(やましろのかみ)と云ふのは之(これ)亦(ま)たズツト
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖先(そせん)定成(さだしげ)の事である而(しか)して其他(そのた)の人々は其後(そのご)孰(いづ)れも長岡牧野家(ながをかまきのけ)の家臣(かしん)と
なつたので今日も尚(な)ほ子孫(しそん)が長岡(ながをか)の家中(かちう)に遺(のこ)つて居(を)るとの事である尚(なほ)此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたいのは其(その)
《割書:稲垣平右衛|門》 頃(ころ)牛久保(うしくぼ)に稲垣平右衛門(いながきへいうゑもん)と云ふ人があつた事である此人(このひと)は亦(ま)た余程(よほど)の勇者(ゆうしや)で保成(やすなり)戦死(せんし)の時(とき)部下(ぶか)の者(もの)十
六人は悉(こと〴〵)く討死(うちじに)し自分(じぶん)も深手(ふかで)を負(あ)ふたが幸(さいはひ)に全快(ぜんかい)して後(のち)に長岡牧野家(ながをかまきのけ)が上州(ぜうしう)の大胡(おほご)に移封(いふう)せられて
から其処(こそ)で終(をはり)を全(まつた)ふしたのであるが当時(とうじ)氏真(うぢさね)から此人(このひと)に与(あた)へた感状(かんぜう)は幾通(いくつう)もあつて今(いま)長岡(ながをか)の牧野子爵(まきのしゝやく)
家(け)に遺(のこ)つて居るが毎度(まいど)激賞(げきせう)の意味(いみ)が書(か)かれて居(を)るのである又た牛窪(うしくぼ)に今(いま)も「ウブメ塚」と云ふのが残(のこ)つ
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十三
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(桶狭間役後の情況)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十四
【本文】
て居(を)るが之(これ)は右(みぎ)の十六人を合葬(がつさう)した処(ところ)だとい云ふことである
清洲の会見 扨(さて)家康(いへやす)に於ては之(これ)より先(さ)き永禄(えいろく)五年の正月に清洲(きよす)へ行(い)つて信長(のぶなが)に対面(たいめん)したのであるが引続(ひきつゞ)いて信長(のぶなが)か
らも使者(ししや)が来(き)たと云ふ訳(わけ)で其翌(そのよく)永禄(えいろく)六年三月には信長(のぶなが)の女徳姫(ぢよとくひめ)を以て信康(のぶやす)に配(はい)することに定(さだ)まつたので
家康改名 ある而(しか)して其秋(そのあき)家康(いへやす)は之(これ)迄(まで)元康(もとやす)と称(とな)へて居(を)つたのを茲(こゝ)に家康(いへやす)と改(あらた)めたのである此(この)改名(かいめい)に就(つい)ても説(せつ)は区(まち)
区( まち)であるが此年(このとし)の六月 松平(まつだひら)三 蔵信次(ざうのぶつく)に与(あた)へられた文書(ぶんしよ)にはまだ元康(もとやす)とあつて其(その)十月廿四日 松平亀千代(まつだひらかめちよ)
松井左近(まつゐさこん)に賜(たまは)つた文書(ぶんしよ)には家康(いへやす)と署名(しよめい)されてあるのだから此(この)改名(かいめい)は必(かなら)ず其(その)間(あひだ)でなくてはならぬと云ふ
のが正(たゞ)しい説(せつ)であると思(おも)ふ然(しか)るに此(この)年(とし)の九月徳川氏に取(と)りては実(じつ)に不慮(ふりよ)の災難(さいなん)とも云ふべき大事件(だいじけん)が
起(おこ)つたのである之(これ)は外(ほか)でもない彼(か)の一 向専修(こうせんしう)の乱(らん)である
《割書:一向専修の|乱》 此(この)乱(らん)の起(おこ)りは実(じつ)に一寸(ちよつと)した事で永禄(えいろく)六年の九月に菅沼藤(すがぬまとう)十 郎定顕(らうさだあき)が家康(いへやす)の旨(むね)を受(う)けて碧海郡(へきかいぐん)佐崎(ささき)と云
ふ処に砦(とりで)を搆(かま)へたのであるが兵糧(へうれう)の乏(とぼ)しい処から上宮寺(ぜうぐうじ)と云ふ寺(てら)に蓄(たくわ)へて居つた籾(もみ)を強(しひ)て徴発(てうはつ)したの
であるソコで寺僧(じそう)は怒(いかつ)て野寺(のでら)の本証寺(ほんせうじ)、 針崎(はりざき)の勝曼寺(せうまんじ)などと云ふ同宗(どうしう)の寺(てら)を語(かた)らつて衆徒(しうと)を催(もよほ)し定顕(さだあき)
が砦(とりで)に狼藉(らうぜき)したのである之(これ)が原因(げんゐん)となつて徳川方(とくがはがた)の将士(せうし)の中(なか)でも一向宗(こうしう)を信(しん)ずることの厚(あつ)きものは皆(みな)此(こ)
の寺(てら)の方(ほう)に党(とう)して之(これ)を取鎮(とりしづ)めようとする家康(いへやす)に向(むかて)鉾(ほこ)を向(む)けるに至(いた)つたのである従(したがつ)て味方(みかた)同志(どうし)が互(たがひ)に
入乱(いりみだ)れて戦(たゝか)ふこととなつたのであるから西(にし)三 河(かは)の天地(てんち)と云ふものは実(じつ)に鼎(かなへ)の沸(わ)くが如(ごと)くで吉良義昭(きらよしあきら)の如
きも矢張(やはり)寺方(てらがた)の党(とう)に組(く)みし曩(さき)には義昭(よしあきら)に隙(げき)があつたと云ふ荒川義広(あらかはよしひろ)さへも之(これ)と相(あい)党(とう)するに至(いた)つたので
あるが竹谷(たけのや)、 形原(かたのはら)、 深溝(ふかうづ)の松平氏(まつだひらし)の如きは東(ひがし)には長沢(ながさわ)御油(ごゆ)を界(さかひ)に今川方を扣(ひか)へ西(にし)には土呂(とろ)、 針崎(はりざき)の反(はん)
徒(と)と相対(あひたい)した訳(わけ)であるから腹背(ふくはい)敵(てき)を受(う)けて屡々(しば〳〵)苦戦(くせん)したのである実(じつ)に三 河国内(かはこくない)の擾乱(ぜうらん)した事は前代未(ぜんだいみ)
聞(ぶん)の事で恐(おそら)くは上神代(ぜうかみよ)から今日に至(いた)る迄(まで)にもあるまいと思(おも)ふのであるモツトモ此(この)一 揆(き)の起(おこ)りに就(つい)ては
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談
【本文】
矢張(やはり)異説(ゐせつ)があつて永禄(えいろく)五年の事であると云ふ説(せつ)がある三 河物語(かはものがたり)にも
永禄(えいろく)五年 壬戌(みずのえいぬ)に野寺(のでら)の寺内(じない)に徒者(いたづらもの)の有(あり)けるを坂井雅樂助(さかゐうたのすけ)押(をし)コ見(み)てケンダンシケレバ永禄(えいろく)癸亥(みづのとゐ)正月
に各々(おの〳〵)門徒衆(もんとしう)寄合(よりあひ)て土呂(とろ)、 鍼崎(はりさき)、 野寺(のでら)、 佐々起(さゝき)に取(とり)コモリて一 揆(き)をヲコシて御敵(おんてき)となる
と記(しる)してあるが社領(しやれう)寺領(じれう)の地(ち)には如何(いか)なるものが入(い)つても武家(ぶけ)が直(たゞ)ちに之(これ)を逮捕(たいほ)することが出来(でき)ぬのは
古(ふる)くよりの掟(おきて)であるが之(これ)で見(み)ると其(その)習慣(しうかん)の遺(のこ)つて居る処から此(この)一 揆(き)を惹起(ひきおこ)したようである兎(と)に角(かく)僅(わづか)の
事から大事件(だいじけん)となつたもので翌(よく)七年の初迄(はじめまで)は此(この)紛乱(ふんらん)が継続(けいぞく)されたのである然(しか)るに一時は宗教(しうけう)の為(ため)に主(しゆ)
君(くん)に反対(はんたい)した将士(せうし)等(ら)も次第(しだい)に其(その)非(ひ)を悔(く)ゐて或(あるひ)は改宗(かいしう)し或(あるひ)は詫(わび)を入(い)れて帰参(きさん)したので漸(やうや)く此(この)一 揆(き)も静(しづ)ま
るに至(いた)つたのであるがソコで家康(いへやす)は更(さら)に之(これ)より兵(へい)を東三河に出(いだ)して其(その)中堅(ちうけん)たる此(この)吉田城(よしだぜう)を攻撃(こうげき)するに
至(いた)つたのである
⦿吉田合戦
サテ永禄(えいろく)七年の初(はじめ)に至(いたつ)て一 向専修(こうせんしう)の一 揆(き)も平定(へいてい)に皈(き)したので家康(いへやす)は其三月兵を東(ひがし)三 河(かは)に出(いだ)して先(ま)づ長(なが)
沢(さわ)の城(しろ)を破(やぶ)つたのである此(この)城(しろ)は前章(ぜんせう)に申述べた通(とほ)り永禄(えいろく)四年八月 既(すで)に徳川方(とくがはがた)に於て攻取(せめと)つたのである
が其後(そののち)西三河の紛乱(ふんらん)に際(さい)して再(ふたゝ)び今川方の勢(せい)が籠(こも)つたものと見(み)ゆるそれを今度(このたび)又々(また〳〵)徳川方(とくがはがた)に於て打破(うちやぶ)
つたのである徳川方(とくがはがた)に於(おい)てはそれから次第(しだい)に牛久保に攻寄(せめよ)せて来(き)たのであるが此(この)戦(たゝかひ)に就(つい)ても異説(ゐせつ)が
あつて此時(このとき)には長沢(ながさわ)の戦(たゝかひ)を載(の)せざる記録(きろく)が多(おほ)い又た前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた牛久保に於(お)ける牧野保成(まきのやすなり)戦死(せんし)の戦
を以て却(かへつ)て今度(このたび)の事であると記(しる)して居(を)るものがある即(すなは)ち朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)の如きも此点(このてん)に関(かん)しては其説(そのせつ)を
取(と)つて居(を)るが永禄(えいろく)四年 以来(いらい)徳川方が牛久保(うしくぼ)まで攻寄(せめよ)せて来(き)たのは度々(たび〳〵)の事で両(れう)牧野家(まきのけ)並(ならび)に其(その)家中(かちう)に伝(つた)
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(吉 田 合 戦)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十五
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(吉 田 合 戦)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十六
【本文】
はつて居る感状(かんぜう)によるも慥(たしか)に其事(そのこと)が証拠(せうこ)立てられるのである従(したがつ)て相互(さうご)の事実(じじつ)は錯雑(さくざつ)して前後(ぜんご)を混淆(こんこう)し
た記録(きろく)も少(すくな)くない事であるが兎(と)に角(かく)孰(いづ)れにも戦(たゝかひ)はあつたに相違(さうゐ)ない従(したがつ)て氏真(うじさね)が八 幡佐脇(はたさわき)に砦(とりで)を設(もう)け
た事 並(ならび)に家康(いへやす)か一の宮の後詰(あとづめ)の事をも矢張(やはり)今年ので出来事(できごと)であると記(しる)したものがある私は前章(ぜんせう)に此事(このこと)を
松平記(まつだひらき)並(ならび)に牧野家文書(まきのけぶんしよ)等(とう)に拠(よつ)て御話(おはなし)したのであるが朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)には官本三河記等を引用(ゐんよう)して右(みぎ)の説(せつ)
を取(と)つて居(を)るから之(これ)も御参考(ごさんこう)までに申述(もうしの)ぶるのである
御油の戦 かくて徳川方(とくがはがた)に於ては同(おな)じ永禄(えいろく)七年の三月に兵(へい)を出(いだ)して御油(ごゆ)に攻(せ)め寄(よ)せ今川方に於ては御油(ごゆ)の東台(とうだい)に
陣取(ぢんど)つて之(これ)と戦(たゝか)つたのであるが此時(このとき)は徳川方の形勢(けいせい)が非(ひ)であつたので家康(いへやす)は又た自(みづか)ら出馬(しゆつば)して味方(みかた)を
八幡の戦 援(たす)けたのであるソコで今川方の勢(せい)は兵を八 幡(はた)に引退(ひきしりぞ)けたが家康は進(すゝん)で之(これ)を攻撃(こうげき)した然(しか)るに当時(とうじ)八 幡(はた)の
砦(とりで)には板倉弾正重定(いたくらだんぜうしげさだ)が居つて城(しろ)を突(つい)て赤坂(あかさか)に出で奮戦(ふんせん)したので徳川方の先鋒(せんぽう)酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゝつぐ)の兵は
多く討死(うちじに)して一時は敗北(はいぼく)に及(およ)むだが此時(このとき)彼(か)の渡邊半蔵守綱(わたなべはんぞうもりつな)が徳川方に後殿(しんがり)して取(とつ)て返(かへ)し勇戦(ゆうせん)したので
味方(みかた)は之(これ)に力(ちから)を得(え)て遂(つひ)に重定(しげさだ)を討取(うちとつ)て八 幡(はた)並に佐脇(さわき)の砦(とりで)を陥(おとしゐ)れたのである此時(このとき)八 幡村(はたむら)西明寺の住僧(ぢうそう)
快翁(くわいおう)と云ふ人が粥(かゆ)を煮(に)て徳川方の将士(せうし)を労(らう)し又た凱陣(がいぢん)の時(とき)家康は此寺(このてら)に宿(しゆく)したので家康(いへやす)が天下を平定(へいてい)
してから此寺(このてら)には朱印(しゆいん)廿石を与(あた)へたと云ふ話(はなし)があるソコで家康は愈々(いよ〳〵)敵(てき)の重鎮(ぢうちん)たる此(この)吉田城(よしだぜう)を攻略(こうりやく)し
ようと云ふので先(ま)づ小坂井(こさかゐ)牛久保(うしくぼ)並(ならび)に吉田へ向(むか)つて砦(とりで)を搆(かま)へ再(ふたゝ)び岡崎より出馬(しゆつば)して小坂井に於(おい)て吉田(よしだ)
城兵(ぜうへい)と衝突(せうとつ)したのであるが此時(このとき)渡邊半蔵守綱(わたなべはんぞうもりつな)蜂屋半之亟貞次(はちやはんのぜうさだつく)等(ら)は先(ま)づ鎗(やり)を合(あは)せ平岩(ひらいは)七 之助親吉(のすけちかよし)等(ら)も力(りき)
戦(せん)したので城兵(ぜうへい)は遂(つひ)に利(り)あらずして退(しりぞ)いたのであるモツトモ之(これ)等(ら)の事は三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)等(とう)にも詳(くは)し
く記(しる)されて居るから此処(こゝ)には大要(たいえう)の筋(すぢ)だけを申述(もうしの)ぶるに留(とゝ)めておきたい置(お)きたいと思ふが之(これ)より家康(いへやす)は砦(とりで)を糟
塚 並(ならび)に喜見寺に設(もう)けて漸(やうや)く吉田城に肉薄(にくはく)せむとしたので其事は種々(しゆ〳〵)の記録(きろく)に記(しる)されて居る然(しか)るに此糟
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百八十八号附録□□□( 明治四十四年六月二十日発行 )
【本文】
糟塚 塚と云ふのは小坂井(こさかゐ)の内(うち)にあるのであるが喜見寺(きけんじ)と云ふのは頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)である今(いま)の豊橋市内大字新銭に
喜見寺 喜見寺(きけんじ)と云ふ寺(てら)があるが此(この)寺(てら)は古(ふる)くは鎌倉(かまくら)の建長寺(けんてうじ)門末(もんまつ)で規摸(きぼ)も宏大(くわうだい)であつたと伝(つた)へられて居る此時(このとき)
家康(いへやす)が砦(とりで)を搆(かま)へたのは即(すなは)ち此(この)寺内(じない)であると云ふ説(せつ)がある併(しか)し之(これ)は甚(はなは)だ確実(かくじつ)でない又た地形(ちけい)から推(お)して
見ても疑(うたがひ)を容(い)るべき余地(よち)があると思(おも)ふ兎に角此の如き形勢(けいせい)で吉田城は徳川勢(とくがはぜい)の攻(せ)め寄(よ)する処となつ
たのであるが当時(とうじ)二 連木(れんぎ)の戸田は宜光(よしみつ)の子(こ)重貞(しげさだ)の時で重貞(しげさだ)は主殿助(とのものすけ)と称(せう)し一に尚舎(せうしや)、 光成(みつなり)などゝ書(か)い
《割書:戸田宜光の|卒年》 たものがあるモツトモ父(ちゝ)の宜光(よしみつ)は其(その)没年(ぼつねん)が不明(ふめい)で多(おほ)くは永禄三年の卒去(そつきよ)であると伝(つた)へて居(を)るが此(この)年(とし)(
永禄七年)には未(いま)だ慥(たしか)に生存(せいぞん)して居つた証拠(せうこ)があるので戸田家系校正余録(とだかけいこうせうよろく)には永禄十一年の死(し)である
と論(ろん)じてある従(したがつ)て此時(このとき)には未(いま)だ存命(ぞんめい)であつたものと信(しん)ずるのであるが此(この)戸田氏(とだし)と徳川氏(とくがはし)との関係(くわんけい)は
前章(ぜんせう)に屡々(しば〳〵)申述(もうしの)べた通(とほ)りであるから之(これ)迄(まで)は拠(よんどころ)なく今川方に従属(じうぞく)して居(を)つたものゝ時もあらば欵(かん)を徳
川方に通(つう)せむと望(のぞ)むで居つたものであると思(おも)はれる然(しか)るに一の困難(こんなん)と云ふのは重貞(しげさだ)の母(はゝ)が吉田城に人(ひと)
質(しち)となつて居る事である凡(およ)そ人質(ひとしち)と云ふものは多(おほ)く目下(めした)のものを遣(つか)はすので其(その)母(はゝ)を質(しち)とすると云ふが
《割書:戸田重貞其|質を奪ふ》 如き事は殆(ほとん)ど稀(まれ)なる事であるから之(これ)は宜光(よしみつ)の時に於て遣(つか)はしたものに相違(さうゐ)ないと思(おも)ふが重貞(しげさだ)としては
先(ま)づ之(これ)を奪(うば)ひ返(かへ)すのが差当(さしあた)り講究(こうきう)すべき処であつたソコで重定(しげさだ)は勉(つと)めて鎮実(しげさね)に接近(せつきん)して其(その)歓心(くわんしん)を求め
弐心(ふたこゝろ)なきことを示(しめ)したが此年(このとし)(永禄七年)の五月十二日 重定(しげさだ)は例(れい)の如く吉田城(よしだぜう)に鎮実(しげさね)を訪(と)ふて共に双六(すころく)の
遊(あそび)をなし其(その)隙(すき)に従者(じうしや)をして母を盗(ぬす)み出(いだ)さしめて二 連木(れんぎ)につれ帰(かへ)つたのである此事(このこと)は古来(こらい)有名(ゆうめい)な話(はなし)であ
るから伝説(でんせつ)なども色々(いろ〳〵)であるが松平記(まつだひらき)及(およ)び三 河物語(かはものがたり)に記(き)する処は略(ほ)ほ相似(あひに)て居るので此時(このとき)重定(しげさだ)は家臣(かしん)
に長持(ながもち)を持(も)たせて之(これ)に風流(ふうるう)の道具(どうぐ)菓子(くわし)などを入(い)れ入門(にふもん)の際(さい)能(よ)く〳〵門番(もんばん)に断(ことは)つて置(お)いたので帰途(きと)には
之(これ)を咎(とが)めず通(つう)した然(しか)るに重定(しげさだ)の方(ほう)では予(かね)て計(はか)つてあることであるから家臣(かしん)等(ら)は途(みち)に之(これ)を迎(むか)へて無事(ぶじ)に
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□(吉 田 合 戦)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□七十七
【欄外】
豊橋市史談 (吉 田 合 戦) 七十八
【本文】
二 連木城(れんぎぜう)に引取(ひきと)つたとの事であるモツトモ母(はゝ)を容(い)れたものに就(つい)ては長持(ながもち)ではなく具足櫃(ぐそくひつ)であると云ふ
説(せつ)があつて現(げん)に戸田子爵家(とだしゝやくけ)には今(いま)尚(な)ほ其(その)櫃(ひつ)が所蔵(しよぞう)せられてあるとの事であるが或(あるひ)は初(はじ)め長持(ながもち)に入れて
盗(ぬす)み出(だ)し途中(とちう)から具足櫃(ぐそくひつ)に入(い)れ替(か)へて遁(のが)れたものであろうと云ふような事は雑話筆記(ざつわひつき)と云ふ本にも書(か)
いてある又(ま)た三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)は孰(いづ)れも此事に就て戸田丹波守(とだたんばのかみ)を当事者(とうじしや)として記(しる)して居る丹波守(たんばのかみ)と云へ
ば宜光(よしみつ)の事になるのてあるが此時(このとき)宜光(よしみつ)はまだ存命(ぞんめい)であつたにしても既(すで)に重貞(しげさだ)が当主(とうしゆ)であつたのである
から之(これ)は重貞(しげさだ)説(せつ)が正(たゞ)しい事と信(しん)ずる兎(と)に角(かく)此の如き訳(わけ)で首尾(しゆび)克(よ)くは母を奪(うば)ひ返(かへ)したから重貞(しげさだ)は直(たゞ)ちに火
を放(はな)つて之(これ)を徳川方(とくがはがた)に報(ほう)じ翌日 家康(いへやす)から三千貫の地 幷(ならび)に誓書(せいしよ)を与(あた)へられたのであるかくて徳川方(とくがはがた)に於
ては愈々(いよ〳〵)此(この)吉田城(よしだぜう)を包囲(はうゐ)して攻撃(こうげき)にかゝつたが今川方に於(おい)ても城(しろ)を突(つい)て出戦(しゆつせん)し五月十四日に下地(しもぢ)に於
《割書:本多忠勝牧|野宗次郎と》 て合戦(かつせん)があつたのである此時(このとき)家康(いへやす)の将(せう)本多平(ほんだへい)八 郎忠勝(らうたゞかつ)はまだ十七歳であつたが今川方(いまがはがた)の牧野宗次郎(まきのそうじらう)と
《割書:一番鎗を合|す》 一番に鎗(やり)を合(あは)せたのである武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)などには此(この)牧野宗次郎(まきのそうじらう)と云ふのも矢張(やはり)此時(このとき)十七歳であつたと
記(しる)してあるが此人(このひと)に就(つい)ては旧来(きうらい)から疑問(ぎもん)があつて参謀本部(さんぼうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)桶狭間役補伝(おけはざまえきほでん)には本多家武功聞(ほんだけぶこうきゝ)
書(がき)を引き牧宗次郎(まきそうじらう)の立志(りし)と題(だい)して此(この)宗次郎(そうじらう)は牧孫左衛門(まきまござゑもん)と云ふ人の子(こ)であるが父(ちゝ)の同僚(どうれう)城所助之允(きどころすけのぜう)の
武勇(ぶゆう)を聞(き)いて志(こゝろざし)を起(おこ)して遂(つひ)に此(この)吉田合戦(よしだかつせん)に於て本多忠勝(ほんだたゞかつ)と鎗(やり)を合(あは)するに至(いた)つたと云ふ事が詳説(せうせつ)してあ
る然(しか)るに寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)幷(ならび)に牧野家々譜(まきのけかふ)によると田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖(そ)定成(さだしげ)の子(こ)康成(やすしげ)は恰(あたか)も此(この)宗次郎(そうじらう)に相当(さうとう)
するのである元来(がんらい)此(この)康成(やすしげ)と云ふ人は本多忠勝(ほんだたゞかつ)と同年の生(うま)れで此頃(このころ)父(ちゝ)と共(とも)に牛久保(うしくぼ)に居つたが此(この)戦(たゝかひ)には
牛久保(うしくぼ)を引上(ひきあ)げて吉田城中(よしだぜうちう)に籠(こも)つたのである而(しか)も武勇抜群(ぶゆうばつぐん)の人で能(よ)く忠勝(たゞかつ)と角(かく)したのである而(しか)して城(き)
城所助之丞 所助之丞(じよすけのぜう)と云ふのは康成(やすしげ)の家臣(かしん)であつて曩(さき)に牛久保(うしくぼ)に於て一 度(ど)忠勝(たゞかつ)と鎗(やり)を合(あは)せた事があるが此時(このとき)も亦(ま)
た互(たがひ)に鎗(やり)を合(あは)せたのである然(しか)るに忠勝(たゞかつ)の家臣(かしん)が横合(よこあひ)から助之丞(すけのぜう)の腕(うで)に斬付(きづつ)けたので康成(やすしげ)は直(たゞ)ちに進(すゝ)む
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
【左頁】
【欄外】
豊橋市史談 □□□□
【本文】
で自(みづか)ら忠勝(たゞかつ)と力戦(りきせん)し共に創(きづ)を被(かうむ)つたが時に康成(やすしげ)は既(すで)に徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)したいと云ふ志(こゝろざし)があつたので竊(ひそか)に
其(その)志(こゝろざし)を忠勝(たゞかつ)に告(つ)げて引退(ひきしりぞ)いたとのことである之(これ)は前(まへ)にも申述(もうしのべ)た通(とほ)り寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)等(とう)の説(せつ)であるが康(やす)
成(しげ)は初(はじ)め惣次郎(さうじらう)、 半右衛門(はんうゑもん)と称(せう)し後(のち)に讃岐守(さぬきのかみ)となつたので宗(そう)と惣(さう)と字(じ)の違(ちが)ひはあるが時代(じだい)其他(そのた)の事情(じぜう)
から推(お)して私(わたくし)は此(この)一番 鎗(やり)の宗次郎(そうじらう)と云ふのは前(まへ)に述(の)べた康成(やすしげ)の事であると信(しん)ずるものであるサテ此時(このとき)
《割書:蜂屋貞次戦|死》 徳川方の蜂屋半之丞貞次(はちやはんのぜうさだつぐ)も真先(まつさき)に進(すゝ)むだが忠勝(たゞかつ)の為(ため)に一番 鎗(やり)の功(こう)を得(え)られたと云ふので鎗(やり)を捨(す)て刀(かたな)を
抜(ぬ)いて敵陣(てきじん)に切(き)り込(こ)むだ然(しか)るに今川方の河合正徳(かあひせうとく)と云ふものゝ為(ため)に鉄砲(てつぽう)に打(う)たれて疵(きづ)を被(かうむ)つたのであ
る多(おほ)くの記録(きろく)には此時(このとき)半之丞(はんのぜう)は即死(そくし)したとも云ひ陣営(じんえい)に皈(かへ)つて死(し)むだともあるが寛永譜(かんえいふ)には故郷(こけう)三 州(しう)
ムツナ村に於(おい)て其(その)疵(きづ)の為(ため)に死(し)すと記(しる)してある年(とし)は僅(わづか)に廿六であつたが其(その)母(はゝ)か実(じつ)に女丈夫(ぢよぜうぶ)である三 河物(かはもの)
貞次の母 語(がたり)によると半之丞(はんのぜう)が討死(うちじに)したと云ふ事を母(はゝ)の方(ほう)へ知(し)らせた時(とき)其(その)母(はゝ)は半之丞(はんのぜう)が打死(うちじに)の事は承知(せうち)しました
が扨(さて)最後(さいご)の様(さま)は如何(どう)であつたかと云つて問(と)ひ返(かへ)したソコで其(その)者(もの)から比類(ひるい)なき働(はたらき)であつた事を話(はな)した
処が母は誠(まこと)に安心(あんしん)してソレでこそ嬉敷(うれしく)思(おも)ふのである打死(うちじに)は武士(ぶし)の習(ならひ)であるから悔(くや)むには及(およ)ばぬが若(も)し
半之丞(はんのぜう)が最後(さいご)悪(あ)しくと聞(き)くならば我(われ)も命(いのち)長(なが)らへて詮(せん)もなきことであると云つたとの事である実(じつ)に当時(とうじ)の
武人(ぶじん)の母を代表(だいひよう)して居(を)るものと云つてよいと思(おも)ふ其他(そのた)此(この)合戦(かつせん)に於ては敵味方(てきみかた)共(とも)に数多(あまた)の死傷(しせう)があつた
が五月廿日には家康(いへやす)自(みづか)ら出馬(しゆつば)して益々(ます〳〵)此(この)城(しろ)を攻撃(こうげき)し殊(こと)に先手(さきて)の大将(たいせう)たる酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)の鉾先(ほこさき)は中(なか)
中(なか)鋭(するど)かつたもので鎮実(しげさね)も遂(つひ)に力(ちから)及(およ)ばずなつたのである然(しか)るに此(この)戦(たゝかひ)の始末(しまつ)は何時(いつ)ついたか其年月に関(くわん)
《割書:吉田城明渡|の年月》 しては頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)がある即(すなは)ち此(この)城(しろ)の明渡(あけわた)しとなつたのは此年(このとし)の五月廿日であると云ふのと六月であると
云ふのと其翌(そのよく)八年の五月であると云ふのと大体(だい〳〵)に於(おい)ても既(すで)に三 説(せつ)あるモツトモ家康(いへやす)が酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に此(この)城(しろ)
を与(あた)へた文書(ぶんしよ)が諸書(しよ〳〵)に載(の)つて居るのでそれが永禄(えいろく)七年六月廿二日 付(づけ)であるから此(この)城(しろ)の明渡(あけわたし)はむ無論(むろん)其(その)以(い)
【欄外】
豊橋市史談 (吉 田 合 戦) 七十九
【欄外】
豊橋市史談 (吉 田 合 戦) 八十
【本文】
前(ぜん)であると云ふのが普通(ふつう)行(おこな)はるゝ説(せつ)であるがよく〳〵考(かんが)へて見(み)ると此(この)城責(しろせめ)が五月の十四日に初(はじ)まつて
廿日に片付(かたづ)いては余(あま)りに早過(はやす)ぐる様(よう)である其上(そのうへ)二 連木(れんぎ)の戸田重貞(とだしげさだ)は永禄(えいろく)七年十一月十二日 吉田(よしだ)に於て
戦死(せんし)して居(を)るのである併(しか)し之(これ)は戦死(せんし)ではないように記(しる)したものもあるが寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を初(はじ)め比較的(ひかくてき)
信(しん)ずべきものには多(おほ)く戦死(せんし)となつて居(を)るのであるサスレが此(この)城責(しろぜめ)はまだ其頃(そのころ)迄(まで)も続(つゞ)いたものと思(おも)はね
ばならぬ又(ま)た前章(ぜんせう)に申述べた取替兵糧(とりかへへうれう)の書付(かきつけ)の如きは果(はた)して当時(とうじ)のものであるか否(いな)や元(もと)より疑問(ぎもん)では
あるが若(も)し之(これ)を事実(じじつ)のものとすれば永禄(えいろく)八年二月のものであるから其頃(そのころ)までは今川方(いまがはがた)に於て吉田城(よしだぜう)を
保(たも)つて居(を)つた事に見(み)ねばならぬ一 説(せつ)には此城(このしろ)の明渡(あけわたし)に就(つい)ては戸田丹波守(とだたんばのかみ)が主(おも)に双方(そうはう)の間(あひだ)に立(た)つて斡旋(あつせん)
の労(らう)を取(と)つたものであるが此(この)丹波守(たんばのかみ)と云ふのは重貞(しげさだ)を指(さ)したものでなくてはならぬ従(したがつ)て其(その)結末(けつまつ)は重(しげ)
貞(さだ)死去(しきよ)以前(いぜん)の事であるべき道理(どうり)であると云つて居る勿論(もちろん)此(この)論者(ろんしや)は重貞(しげさだ)の死(し)を以(もつ)て戦死(せんし)でないとして居(を)
るのであらうが私は此(この)城明渡(しろあけわたし)の斡旋者(あつせんしや)は重貞(しげさだ)でなくて其(その)父(ちゝ)の宜光(よしみつ)であると信(しん)ずるのである前(まへ)にも申述(もうしの)
べた如く宜光(よしみつ)は多(おほ)く永禄(えいろく)三年に死(し)むたものとして伝(つた)へられては居(を)るが其実(そのじつ)は永禄(えいろく)十一年まで生存(せいぞん)して
居(を)つたのであるから重貞(しげさだ)戦死(せんし)の後(のち)宜光(よしみつ)の斡旋(あつせん)になつたものであるとするのは強(あなが)ちに理(り)のない説(せつ)ではな
いと思(おも)ふ其他(そのた)以下(いか)に述(の)ぶるような種々(しゆ〳〵)の事情(じぜう)から推測(すゐそく)すると益(ます〳〵)此城(このしろ)の明渡(あけわたし)は永禄(えいろく)八年五月 説(せつ)が正(たゞ)し
いように信(しん)ずるのである
合戦の結果 サテ合戦(かつせん)結末(けつまつ)の時日に就(つい)ては右(みぎ)の如(ごと)くであるが戸田丹波守(とだたんばのかみ)の外(ほか)に本多彦(ほんだひこ)八 郎忠次(らうたゞつぐ)等(ら)も鎮実(しげさね)に勧告(かんこく)して
結局(けつきよく)城(しろ)を明渡(あけわた)さしむることとなつたのである然(しか)るに鎮実(しげさね)に於(おい)ては和議(わぎ)を取結(とりむす)むで城(しろ)を明渡(あけわた)す事には異議(ゐぎ)
がないが其(その)替(かは)りとして人質(ひとしち)を得(え)たいものであると云ふ要求(えうきう)をしたのであるソコで徳川方(とくがはがた)に於(おい)ては家康(いへやす)
の異父弟(いふてい)松平源(まつだひらげん)三 郎勝俊(らうかつとし)並(ならび)に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の女阿風(ぢよおふう)と云ふのを人質(ひとしち)として今川方(いまがはがた)に遣(つか)はすことなつて之(これ)で
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百九十四号附録 ( 明治四十四年六月二十七日発行 )
【本文】
《割書:家康吉田城|を酒井忠次》 一 段落(だんらく)を告(つ)げ城(しろ)は全(まつた)く家康(いへやす)の手(て)に帰(き)して家康(いへやす)は之(これ)を酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に賜(たま)はつたのであるが此城(このしろ)を賜(たま)はるに就
に賜ふ て家康(いへやす)が忠次(たゞつぐ)に与(あた)へたと云ふ文書(ぶんしよ)は松平記(まつだひらき)に載(の)つて居(を)るものと治世元記(ぢせいもとき)に載(の)つて居(を)るものとは文句(もんく)に
多少(たせう)の相違(さうゐ)がある併(しか)し日付(ひづけ)は孰(いづ)れも前(まへ)に申述(もうしの)べた如く永禄(えいろく)七年六月廿二日 付(つけ)であるソウすると此(この)城(しろ)の
明渡(あけわたし)を以(もつ)て永禄(えいろく)八年であるとなすのは不合理(ふごうり)であるようであるが戦国時代(せんごくじだい)にあつては其(その)城(しろ)を取(と)る事(こと)を
予期(よき)してまだ之(これ)を取(と)り終(をは)らざる以前(いぜん)に其(その)授与(じゆよ)を家臣(かしん)に約(やく)したことは外(ほか)に例(れい)のない事ではないのでかゝる
文書(ぶんしよ)を俗(ぞく)宛文(あてぶみ)と称(せう)するそうであるが私(わたくし)は此時(このとき)家康(いへやす)が忠次(たゞつぐ)に与(あた)へた文書(ぶんしよ)の中(なか)に「到吉田小郷一円出置
候其上於入城者新知可申付」 云々(うんぬん)となる処などから考(かんが)へて之(これ)も矢張(やはり)其(その)類(るい)のものであると信(しん)ずる次第(しだい)で
ある松平記(まつだひらき)所載(しよさい)の文書(ぶんしよ)は其(その)全文(ぜんぶん)左(さ)の如(ごと)くである
吉田東三河之義申付候異見可仕候到吉田小郷一円出置候其上於入城者新知可申付之由来如承山中之
義可有所務之縦借銭等向候共不可有異議者也仍如件
永禄七甲子 蔵 人
六月廿二日 家 康
酒井左衛門尉殿
尚(な)ほ此処(こゝ)に御断(おことは)りして置(お)きたいのは前(まへ)に此(この)吉田城(よしだぜう)明渡(あけわたし)の時日に就(つい)て永禄(えいろく)八年 五(〇)月を正(たゞし)いように申上げ
て置いたのであるが之(これ)は全(まつた)く永禄(えいろく)八年 三(〇)月の誤(あやまり)で私の申違(もうしちが)ひである而(しか)して此説(このせつ)は藩翰譜(はんかんふ)元禄随筆(げんろくずゐしつ)三
河紀聞(かはきぶん)岡崎古記(をかざきこき)吉田城主考(よしだぜうしゆこう)等(とう)の説(せつ)であるから其事(そのこと)に御承知(ごせうち)を願(ねが)ひたいのである
【欄外】
豊橋市史談 (吉 田 合 戦) 八十一
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十二
【本文】
◉酒井忠次と東三河の諸士
《割書:家康が家人|に城主を命》 前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べたような訳(わけ)で吉田の城は永禄(えいろく)八年三月 家康(いへやす)の有(ゆう)に帰(き)し家康(いへやす)は之(これ)を其(その)臣(しん)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に与(あた)へた
ぜし濫觴 が徳川実記(とくがはじつき)には此事(このこと)に就(つい)て「之(こ)れ当家(とうけ)の御家人(ごけにん)に始(はじめ)て城主を命(めい)ぜられたる濫觴(らんてう)とぞ」と書(か)いてある之(これ)よ
本多広孝 り先(さ)き家康(いへやす)は本多豊後守広孝(ほんだぶんごのかみひろたか)をして田原(たはら)の城(しろ)を攻(せ)めしめたのであるがこゝに至(いた)つて城兵(ぜうへい)力(ちから)尽(つ)きて矢張(やはり)
城(しろ)を明渡(あけわたし)たのである当時(とうじ)田原(たはら)の城(しろ)には今川氏の城代(ぜうだい)として朝比奈肥後守元智(あさひなひごのかみもととも)と云ふ人が居(を)つたのであ
るが此人(このひと)の寄附状(きふぜう)で永禄(えいろく)八年二月九日付のものが田原神明宮(たはらしんめいぐう)の神主(じんしゆ)金田氏の家(いへ)に遺(のこ)つて居(を)ると云ふ事
《割書:田原城明渡|し》 が戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)に書いてある果(はた)して然(しか)らば田原城(たはらぜう)の明渡(あけわたし)は其(その)以後(いご)の事でなくてはならぬ事(こと)になる
ので結局(けつきよく)田原城(たはらぜう)明渡(あけわた)しに続(つづ)いての事であると信(しん)ずる而(しか)して田原(たはら)の城(しろ)は勿論(もちろん)加治(かぢ)仁崎(にさき)などの砦(とりで)をも合(あは)せ
て此(この)本多広孝(ほんだひろたか)に賜(たまは)つたのであるが牛久保(うしくぼ)の牧野成定(まきのなりさだ)牧野定成(まきのさだしげ)等(ら)の一 統(とう)も亦(ま)た公然(こうぜん)家康(いへやす)に従(したが)ふ事となり
其他(そのた)東三河の諸士(しよし)は悉(こと〴〵)く之(これ)に帰(き)したので三河一国は茲(こゝ)に初(はじ)めて家康(いへやす)の統(とう)一する処となつたのであるソ
コで酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は此(この)吉田城(よしだぜう)に根拠(こんきよ)を搆(かま)へ東三河に於(お)ける旗頭(はたがしら)となつて采配(さいはい)を揮(ふる)つたのであるが先(ま)づ此(この)吉(よし)
豊河の架橋 田城(だぜう)を修築(しうちく)して市区(しく)の整理(せいり)をも行(おこな)つた様子(やうす)であるそれのみならず初(はじ)めて橋(はし)を豊河(とよかは)に架(か)したので之(これ)は元(げん)
亀(き)元年(距去(いまをさる)三百四十二年)の事であると云ふ説(せつ)が正(たゞ)しい様(やう)に思(おも)ふ元亀(げんき)と云ふ年号(ねんごう)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の通
り永禄(えいろく)の次(つぎ)に当(あた)るので永禄(えいろく)が十二年 其(その)十三 年目(ねんめ)は即(すなは)ち元亀元年であるから此(この)架橋(かきよう)は忠次(たゞつぐ)が吉田城(よしだぜう)に来
つてから六年目に当(あた)るのである当時(とうじ)架橋(かきよう)の地点(ちてん)は今(いま)の関屋(せきや)の処から対岸(たいがん)の下地へ向(むか)つたもので此事(このこと)に
就ては宝暦(ほうれき)十年大字船町の記録(きろく)にも書(か)き遺(のこ)されて居(を)るのであるが御名誉聞書(ごめいよきゝがき)幷(ならび)に甲陽軍鑑(こうようぐんかん)には元亀二
年四月 甲斐(かひ)の武田信玄(たけだしんげん)が三河に攻(せ)め入(い)つて此(この)吉田城(よしだぜう)に攻(せ)め寄(よ)せた事が記(しる)されてある其(その)中(うち)御名誉聞書(ごめいよきゝがき)の
方には武田方(たけだがた)が土橋(どばし)まで進(すゝ)み来(きた)つたと云ふ事が書(か)いてあり又(ま)た甲陽軍鑑(こうようぐんかん)の方には武田勢(たけだぜい)が総軍(そうぐん)を以て
大手(おほて)へ押寄(おしよ)せ其(その)上(うえ)搦手(からめて)の方(ほう)へも回(まは)つた事が載(の)つて居るので之(これ)を子細(しさい)に対照(たいせう)して考(かんが)ゆると此(この)土橋(どばし)と云ふ
のは所謂(いはゆる)搦手(からめて)に当(あた)るので豊河(とよかは)の架橋(かきよう)を指(さ)したものに相違(さうゐ)なく信(しん)ずるのである、シテ見(み)ると忠次(たゞつぐ)が初め
て此(この)豊河(とよかは)に架(か)したのは土橋(どばし)であつて此(この)戦(たゝかひ)の以前(いぜん)既(すで)に出来上(できあが)つて居つたものでなくてはならぬから前(まへ)
に申述(もうしのべ)た如く此(この)架橋(かきよう)を以(もつ)て元亀元年とする説(せつ)は先ず(ま)づ当(あた)つて居(を)るとせねばならぬモツトモ此(この)甲陽軍鑑(こうようぐんかん)と
云ふ書物(しよもつ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如く主(おも)に武田家(たけだけ)の兵法(へいほう)などを記(しる)したものであるが之(これ)を全然(ぜんぜん)信用(しんよう)することは如(ど)
何(う)であると思(おも)ふ併(しか)し前(まへ)の記事(きじ)に就ては御名誉聞書(ごめいよきゝがき)と対照(たいせう)して大(おほい)に参考(さんこう)となると信(しん)ずるから此処(こゝ)に申述
べた次第(しだい)である又(ま)た忠次(たゞつぐ)は頻(しき)りに此(この)地方(ちほう)の神社仏閣(じんしやぶつかく)を経営(けいえい)し之(これ)に寄進(きしん)したもので今尚(いまな)ほ其(その)棟札(むなふだ)寄付状(きふぜう)
《割書:忠次夫人寄|進の画像》 などの遺(のこ)つて居(を)るものが少(すくな)くない殊(こと)に龍拈寺(りうねんじ)の什物中(じうぶつちう)に忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)から寄付(きふ)になつた其(その)母堂(ぼどう)の画像(ぐわぞう)が
ある之(これ)は中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いもので大(おほい)に歴史(れきし)の参考(さんこう)となるものであると思(おも)ふが元来(がんらい)忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)と云ふのは松平(まつだひら)
清康(きよやす)の女で広忠(ひろたゞ)の妹(いもと)であるから家康(いへやす)から云ふと叔母(おば)である世(よ)に光樹夫人(こうじゆふじん)と呼(よ)ばれた人であるが此(この)清康(きよやす)
と云ふ人(ひと)は三たび夫人(ふじん)が替(かは)つたので光樹夫人(こうじゆふじん)の母(はゝ)は果(はた)して其(その)何(いづ)れであるかゞ一寸(ちよつと)分(わか)らぬのである従(したがつ)
て此(この)画像(ぐわぞう)の主(ぬし)は今(いま)明言(めいげん)が出来(でき)ぬので後日(ごじつ)調査(てうさ)して之(これ)を明(あきらか)にする考(かんがへ)であるが兎(と)に角(かく)頗(すこぶ)る貴重(きちよう)のものであ
《割書:里村紹巴の|富士紀行》 る事を信(しん)ずるのである又(ま)た話(はなし)は少(すこ)し違(ちが)ふが例(れい)の連歌師(れんがし)に有名(ゆうめい)な里村紹巴(りそんそうは)と云ふ人がある此人(このひと)は慶長(けいてう)七
年四月七十九 歳(さい)で没(ぼつ)したが此人(このひと)の永禄十年に書(か)いたので富士紀行(ふじきこう)と云ふのがあつて之(これ)は京都(けうと)から富士(ふじ)
遊覧(ゆうらん)の為(ため)に東海道(とうかいどう)を下(くだ)つた時の紀行文(きこうぶん)である其(その)中(なか)には丁度(てうど)尾張(をはり)に戦争(せんそう)があつて兵火(へいくわ)天(てん)を焦(こ)がす如き処
を望(のぞ)むで通行(つうこう)したなどゝ云ふ事が書(か)いてあるので中々(なか〳〵)参考(さんこう)となるものであるが又(ま)た其中(そのなか)に此(この)吉田(よしだ)の事
を書(か)いた処がある即(すなは)ち「同国(どうこく)吉田(よしだ)と云ふ城主(ぜうしゆ)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんのぜう)、 同臨川(どうりんせん)、 風呂(ふろ)に入(い)り山海(さんかい)の景(けい)二 階(かい)にて眺(なが)
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十三
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十四
【本文】
め釣竿(つりさを)を取(と)り寄(よ)せ来(く)る湊(みなと)なれば味(あぢ)一入(ひとしほ)なり」と記(しる)してあるが文章(ぶんせう)は極(きは)めて簡短(かんたん)である併(しか)し当時(とうじ)に於け
る此地(このち)の状況(ぜうけう)が何(なん)となく窺(うかゞ)ひ知(し)られるように思(おも)はれるので当時(とうじ)既(すで)に此地(このち)は湊(みなと)として余程(よほど)繁盛(はんせい)の状態(ぜうたい)を
示(しめ)して居(を)つたものではなかろうかと思(おも)ふ又(ま)た之迄(これまで)度々(たび〳〵)申述(もうしの)べてある家忠日記(いへたゞにつき)と云ふ書物(しよもつ)は天正(てんせう)以後(いご)の
事を書(か)いたものであるが其中(そのなか)にも此(この)記者(きしや)たる家忠(いへたゞ)が数々(しば〳〵)吉田へ来(きた)つた事が載(の)つて居る殊(こと)に其中(そのなか)に「吉(よし)
田(だ)へ借銭納所(しやくせんのうしよ)へ人(ひと)をつかはし候」などゝ云ふ記事(きじ)がある即(すなは)ち其頃(そのころ)忠次(たゞつぐ)が東三河の旗頭(はたがしら)であつて此(この)城(しろ)が
東三の重鎮(ぢうちん)たりし有様(ありさま)が推察(すいさつ)さるゝように思(おも)はるゝのである
酒井氏系図 以上(いぜう)は忠次(たゞつぐ)が吉田在城(よしだざいぜう)の頃(ころ)に於ける状況(ぜうけう)の大要(だいえう)であるがサテ此処(こゝ)に忠次(たゞつぐ)の系図(けいづ)に就(つい)て少(すこ)しく御話(おはなし)して
置く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ元来(がんらい)酒井氏(さかゐし)は徳川家(とくがはけ)に取(と)つては容易(ようい)ならぬ関係(くわんけい)のある家である併(しか)し徳川家の系(けい)
図(づ)と云ふものに就(つい)ては旧来(きうらい)疑問(ぎもん)であつて容易(ようい)に解決(かいけつ)する事は出来(でき)ぬのである従(したがつ)て酒井氏(さかゐし)の系図(けいづ)も同様(どうよう)
であるが旧来(きうらい)伝(つと)ふる処(ところ)によれば此(この)両家(れうけ)の関係(くわんけい)は先(ま)づコウである徳川氏(とくがはし)は元(も)と新田氏(につたし)で新田氏(につたし)と云ふの
は即(すなは)ち源義家(みなもとよしいへ)から出(い)でたのである義家(よしいへ)の子(こ)の義国(よしくに)が上野国(かうづけのくに)に居つて新田(につた)足利(あしかゞ)両邑(れうゆう)を領(れう)したが其子(そのこ)に
義重(よししげ)義康(よしやす)の二人があつて義重(よししげ)は新田(につた)の邑(ゆう)を領(れう)し義康(よしやす)は足利(あしかゞ)の邑(ゆう)を領(れう)した之(これ)が孰(いづ)れも新田(につた)足利(あしかゞ)両氏(れうし)の祖(そ)
である而(しか)して義重(よししげ)の第四子に義季(よしすへ)と云ふ人があつたが其(その)六 世(せい)の孫(そん)に有親(ありちか)と云ふ人があつて之(これ)が足利(あしかゞし)
の為(ため)に窮追(きうつひ)せられて遂(つひ)に三河に来(きた)つた其之(そのこ)に親氏(ちかうぢ)泰親(やすちか)の二人があつて親氏(ちかうぢ)は酒井家(さかゐけ)の養子(やうし)となり泰親(やすちか)
は松平家(まつだひらけ)の子(こ)となつたが之(これ)が酒井(さかゐ)松平(まつだひら)両家(れうけ)の祖(そ)となつたのであると云ふのが一 説(せつ)で之(これ)は日本外史(にほんぐわいし)にも
記(しる)されてある然(しか)るに他(た)の説(せつ)は親氏(ちかうぢ)と云ふ人が初(はじ)めて三河に来(きた)つたので初(はじ)め酒井家(さかゐけ)に入(い)つて男(だん)広親(ひろちか)を生(う)
み更(さら)に松平家(まつだひらけ)に入つて男(だん)泰親(やすちか)を生(う)むだのであると云つて居る尚(な)ほ藩翰譜(はんかんふ)などには酒井家(さかゐけ)に就(つい)ても異説(ゐせつ)
を並(なら)べて記(しる)してある如く何(いづ)れが確実(かくじつ)やら私共(わたくしども)では元(もと)より断定(だんてい)し兼(か)ぬるのである而(しか)して此(この)忠次(たゞつぐ)の家(いへ)に
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百号附録 ( 明治四十四年七月四日発行 )
【本文】
就(つい)て寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には左(さ)の如(ごと)くに載(の)せられてある
親氏二男
〇広 親《割書:徳太郎|小五郎》 氏 忠 小五郎 忠 勝《割書:小五郎|左衛門尉》
政 親 雅樂頭の祖
康 忠《割書:小五郎|左衛門尉》 忠 親 左衛門尉 忠 善 左衛門尉
忠 次《割書:小平次|小五郎》
《割書:左衛門尉| 》
然(しか)るに此(この)系図(けいづ)が又た酒井雅樂頭(さかゐうたのかみ)の家(いへ)の系図(けいづ)とは符号(ふごう)せぬ点(てん)があるので之(これ)に就ては寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)にも
疑(うたがひ)が存(ぞん)してある次第(しだい)である
忠次(たゞつぐ)の系図(けいづ)に就(つい)ては先(ま)づザツト右(みぎ)の如(ごと)くであるが忠次(たゞつぐ)の兄(あに)忠善(たゞよし)の子に忠尚(たゞなほ)と云ふ人があつて此人(このひと)は徳(とく)
川氏(がはし)が今川方と離(はな)れて織田氏(をたし)と提携(ていけい)するのを危(あやぶ)むだので遂(つひ)に徳川氏に叛(そむ)いて駿河(するが)に奔(はし)るに至(いた)つたので
あるが忠次(たゞつぐ)は徳川氏に取(と)りては終始(しうし)一 貫(くわん)無(む)二の忠臣(ちうしん)で兄(あに)の家(いへ)が右(みぎ)の如(ごと)くであるから其(その)後(のち)を受(う)けて家(いへ)を
継(つ)いだのである而(しか)して忠次(たゞつぐ)は大永(たいえい)七年に生(うま)れ慶長(けいてう)元年(がんねん)十月 年(とし)七十で卒去(そつきよ)したので吉田城主(よしだぜうしゆ)となつたの
は恰(あたか)も其(その)三十九 歳(さい)の時に相当(さうとう)するのであるモツトモ忠次(たゞつぐ)の戦功(せんこう)に関(くわん)しては一々 茲(こゝ)に申述(もうしのぶ)るのは余(あま)り長(なが)
くなることであるから之(こ)れ以後(いご)の事柄(ことがら)は追々(おい〳〵)に其(その)時代(じだい)々々に当(あた)つて御話(おはなし)することに致(いた)したいと思(おも)ふが尚(な)ほ
《割書:東三河に於|ける諸士》 此処(こゝ)に東三河に於(お)ける諸士(しよし)の家(いへ)に就(つい)て稍々(やゝ)申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ
戸田忠重 前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた通(とほ)り吉田(よしだ)の城(しろ)に接近(せつきん)して二 連木(れんぎ)の城(しろ)があつたので此(この)二 連木(れんぎ)の戸田氏は爾来(じらい)酒井氏(さかゐし)
に属(ぞく)して徳川家(とくがはけ)の為(た)めに尽(つく)したのであるが前(まへ)に御話(おはなし)した戸田主殿助重貞(とだとのものすけしげさだ)は永禄(えいろく)七年十一月 吉田城下(よしだぜうか)の
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十五
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十六
【本文】
戦(たゝかひ)に打死(うちじに)したので其(その)当時(とうじ)は父(ちゝ)の宜光(よしみつ)はまだ生存(せいぞん)して居(を)つたが結局(けつきよく)重貞(しげさだ)の後(あと)は弟(おとゝ)の忠重(たゞしげ)が継(つ)いだので
ある此人(このひと)は初(はじ)め甚平(じんぺい)後(のち)に弾正(だんぜう)と称(せう)したが永禄(えいろく)十年五月廿五日二 連木(れんぎ)に於て没(ぼつ)したので其子(そのこ)の虎千代(とらちよ)が
戸田康長 後(あと)を継(つ)いだのである此(この)虎千代(とらちよ)は後(のち)に康長(やすなが)と称(せう)し丹波守(たんばのか)と云つたが家康(いへやす)から特(とく)に松平(まつだひら)の姓(せい)を賜(たまは)つたので
ある然(しか)るに相続(さうぞく)の当時(とうじ)はまだ六歳であつたので戸田伝(とだでん)十 郎吉国(らうよしくに)が陣代(ぢんだい)の役(やく)を勤(つと)めて此(この)康長(やすなが)を補佐(ほさ)して
居(を)つたのである蓋(けだ)し此(この)康長(やすなが)は多(おほ)くのものに忠重(たゞしげ)の子(こ)であると記(しる)してあるが実(じつ)は重貞(しげさだ)の子で重貞(しげさだ)戦死(せんし)の
時はまだ生(うま)れなかつたものであるとの説(せつ)がある之(これ)は戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)の説(せつ)であるが甚(はなは)だ耳新(みゝあたら)しい説(せつ)であ
るから申添(もうしそ)へて置(お)きたいと思(おも)ふ尚(な)ほ此処(こゝ)に御話(おはなし)したいのは維新前(ゐしんぜん)大垣(おほがき)の藩主(はんしゆ)であられた今(いま)の戸田伯爵(とだはくしやく)
家(け)祖先(そせん)の事である此(この)家(いへ)は一西(かづあき)と云ふ人を以(もつ)て中興(ちうこう)の祖(そ)として居(を)るが寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)には一西(かづあき)の祖父(そふ)氏(うぢ)
戸田氏輝 輝(てる)から系図(けいづ)が起(おこ)してある此(この)氏輝(うじてる)と云ふ人は新(しん)二 郎(らう)又(ま)た孫右衛門(まごうゑもん)と称(とな)へ享禄(けうろく)二年から松平清康(まつだひらきよやす)に仕(つか)へ後(のち)
に至(いた)つて広忠(ひろたゞ)にも仕(つか)へたのである弘治(こうぢ)三年七月六十五歳で没(ぼつ)したのであるが戸田宗光(とだむねみつ)四世の孫(そん)である
と伝え(つた)へられて居る何分(なにぶん)にも古(ふる)く吉田(よしだ)に於(おい)て火災(くわさい)に罹(か)つて系図(けいづ)類(るい)を悉(こと〴〵)く失(うしな)つたから寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)に
戸田氏光 も詳(くは)しく分(わか)り難(がた)いと記(しる)してあるが此人(このひと)の子の吉兵衛氏光(きちべゑうぢみつ)と云ふ人は永禄(えいろく)七年 家康(いへやす)が此(この)吉田城(よしだぜう)を攻(せ)む
るに当(あた)つて其(その)母(はゝ)が今川方に質(しち)となつて城中(ぜうちう)にあるにも拘(かゝは)らず累世(るいせ)の恩義(おんぎ)を重(をも)むじて力(ちから)を徳川方に尽(つく)し
其(その)後(のち)も屡々(しば〳〵)戦場(せんぜう)に臨(のぞ)むで凡(およ)そ三十六所に疵(きづ)を被(かうむ)るに至(いた)つたとの事である天正(てんせう)十五年(或(あるひ)は十七年とも
戸田一西 云ふ)九月八日に年(とし)七十五で没(ぼつ)したが其子(そのこ)が即(すなは)ち一西(かづあき)である此(この)一西(かづあき)と云ふ人は初(はじ)め政成(まさなり)、 信世(のぶよ)、 康次(やすつぐ)
などゝ名乗(なの)り又(ま)た新二郎、十 兵衛(べゑ)、 左門(さもん)、 采女正(うねめせう)と称(とな)へ天文(てんぶん)十年 此(この)吉田(よしだ)に於(おい)て生(うま)れたのである徳川氏(とくがはし)
の為(ため)には頗(すこぶ)る戦功(せんこう)のあつた人で最後(さいご)に近江国(あふみのくに)膳所(ぜぜ)に城(きづ)いて之(これ)に居(を)り三万石を領(れう)したが慶長(けいてう)八年七月廿
五日六十二 歳(さい)で卒去(そつきよ)したのである然(しか)るにズツト前章(ぜんせう)に申述べて置いた通(とほ)り牧野傳蔵信成(まきのでんぞうのぶしげ)が松平清康(まつだひらきよやす)の
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【本文】
為(ため)に敗亡(はいぼう)した時 其(その)弟(おとゝ)に新次(しんじ)、 新蔵(しんぞう)と云ふのがあつて新次(しんじ)は牛久保(うしくぼ)に退(しりぞ)いたが新蔵(しんぞう)は八名郡(やなぐん)赤岩(あかいわ)の法言(ほうげん)
寺(じ)に逃(のが)れて後(のち)に戸田氏を継(つ)ぎ戸田左門(とださもん)と云ふたとの事を書(か)いたものがある戸田左門(とださもん)と云へば此(この)一西(かづあき)の
事に当(あた)るのであるが併(しか)し此(この)説(せつ)は到底(とうてい)取(と)るに足(た)らぬ説(せつ)であると思(おも)ふ時代(じだい)も合(は)はず其他(そのた)反証(はんせう)もあつて前(まへ)に
牧新兵衛 御話(おはなし)した如(ごと)く藩翰譜(はんかんふ)にも論評(ろんひよう)がある通(とほ)りである只(た)だ此(この)戸田氏(とだし)は代々(だい〴〵)幼名(ようめよう)を新(しん)二 郎(らう)と称(とな)へた事と氏光(うぢみつ)の
弟(おとゝ)氏好(うぢよし)が牧新兵衛(まきしんべゑ)と称(とな)へて子孫(しそん)が宗家(そうけ)の家臣(かしん)となつた事などから引(ひ)き付(つ)けて右(みぎ)の様(よう)な伝説(でんせつ)が起(おこ)つたも
のではなかろうか兎(と)に角(かく)此(この)伝説(でんせつ)は法言寺(ほうげんじ)なとには今(いま)尚ほ伝(つた)はつて居(を)るのであるから一 言(げん)付加(ふか)して置(お)き
たいと思(おも)ふ此(この)一西(かづあき)の事に就(つい)てはまだ御話(おはなし)したい事もあるが追々(おい〳〵)に申述(もうしの)ぶる事としてサテ当時(とうじ)牛久保(うしくぼ)の
《割書:牛久保に於|ける牧野党》 方(ほう)は如何(どう)であつたかと云ふに之(こ)れ亦(ま)た前章(ぜんせう)に度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた如く長岡牧野家(ながをかまきのけ)の祖(そ)、 成定(なりさだ)と田邊牧野家(たなべまきのけ)の
祖(そ)、 定成(さだしげ)とが其(その)主(おも)なるもので 成定(なりさだ)は既(すで)に吉田(よしだ)合戦(がつせん)の当時(とうじ)から竊(ひそか)に欵(かん)を徳川氏に通(つう)じて居つた様子(ようす)に信(しん)
ぜられるが而(しか)して吉田城(よしだぜう)明渡(あけわたし)後(ご)は両家(れうけ)共(とも)に公然(こうぜん)徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)するに至(いた)つたのである成定(なりさだ)は初(はじ)め新次郎(しんじらう)と
云ひ後(のち)に民部丞(みんぶのぜう)又は右馬允(うまのぜう)と云つたが頗(すこぶ)る勢力(せいりよく)のあつたもので牧野党(まきのとう)の領袖(りようしゆ)であつた然(しか)るに永禄(えいろく)九年
《割書:牧野成定の|墳墓》 十月廿三日 牛久保(うしくぼ)に於て年(とし)四十二で卒去(そつきよ)したのである今(いま)も其(その)墳(つか)が牛久保(うしくぼ)の光輝庵(こうきあん)の裏手(うらで)にあるモツト
モ成定(なりさだ)の墓(はか)は上州(ぜうしう)大胡(おほご)の養林寺(やうりんじ)と云ふにもあると云ふ事であるが之(これ)は恐(おそら)くは天正(てんせう)十八年 牧野家(まきのけ)が大胡(おほご)
に封(ほう)ぜられてから後(のち)に移(うつ)されたもので事実(じじつ)に葬(ほうむ)られたのは此(この)牛久保(うしくぼ)であるに相違(さうゐ)ない光輝庵(こうきあん)の墓表(ぼひよう)は
貞享(ていけう)元年其三世の孫女(そんぢよ)の建(た)てられたもので松(まつ)の大木(たいぼく)も残(のこ)つて居る然(しか)るに此(この)成定(なりさだ)卒去(そつきよ)の後(のち)遺領(ゐりよう)の争(あらそひ)が
《割書:牧野新次郎|康成》 あつた様子(やうす)で之(これ)は前(まへ)に申述(もうしの)べた出羽守保成(ではのかみやすしげ)の子(こ)出羽守成元(ではのかみなりもと)から起(おこ)つた訴訟(そせう)であるが結局(けつきよく)家康(いへやす)の裁断(さいだん)で
成定(なりさだ)の子(こ)新次郎康成(しんじらうやすなり)が之(これ)を続(つ)いだのである此時(このとき)水野下野守信元(みずのしもつけのかみのぶもと)から贈(おく)つた文書(ぶんしよ)が今(いま)も長岡牧野家(ながをかまきのけ)に保(ほ)
存(ぞん)されて居るが其中(そのなか)に「就其出羽殿父子従何方帰宅有度之由訴訟候共云々」と云ふ事が書(か)いてあるので
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十七
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十八
【本文】
先(さ)きに御話(おはなし)した出羽守保成(ではのかみやすなり)は牛久保原(うしくぼはら)の合戦(かつせん)で打死(うちじに)したものでなくまだ生存(せいぞん)して居(を)つたものであると
云ふ説(せつ)をなすものがあるが之(これ)は其(その)文書(ぶんしよ)をヨク〳〵翫味(ぎんみ)すれば決(けつ)してソウ云ふ訳(わけ)でない事が分(わか)る即ち此
出羽殿父子と云ふのは出羽守成元(ではのかみなりもと)と及び其子を指(さ)したものであると信(しん)ずる併(しか)し此事(このこと)は余(あま)り本市史(ほんしし)には
関係(くわんけい)が少(すくな)いからこの位(くらゐ)で止(と)めて置(お)きたいと思(おも)ふ次(つぎ)に田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖(そ)定成(さだしげ)の話(はなし)であるが此人(このひと)は前(まへ)にも申(もう)
述(しのべ)た如く同家(どうけ)の系譜(けいふ)に古白(こはく)の孫(そん)と記(しる)してある而(しか)して古河系図(ふるかはけいづ)に拠(よ)ると松平清康(まつだひらきよやす)が吉田城(よしだぜう)を攻(せ)めて牧野(まきの)
傳蔵信成(でんぞうのぶしげ)等(ら)が戦死(せんし)した時(とき)定成(さだしげ)は吉田城軍(よしだぜうぐん)の中(なか)にあつて創(きづ)を被(かうむ)り古河村(ふるかはむら)(《割書:今の大村|付近》)辺(へん)まで退(しりぞ)いたが此時(このとき)古(ふる)
河家(かはけ)の祖先(そせん)古河勝通(ふるかはかつみち)と云ふ人が之(これ)を援(たす)けて牛久保城(うしくぼぜう)に入(い)れたとのことである爾来(じらい)此(この)勝通(かつみち)は定成(さだしげ)に属(ぞく)して
家臣(かしん)同様(どうやう)になつたのである定成(さだしげ)は初(はじ)めは八 太夫(たゆう)と称(せう)し後(のち)に山城守(やましろのかみ)と云つたが之れ亦(ま)た牛久保(うしくぼ)に於(おい)て錚々(そう〳〵)
《割書:牧野惣次郎|康成》 たるものとなつたのである此人(このひと)は天正(てんせう)元年(がんねん)八月十三日に没(ぼつ)し其(その)子(こ)の康成(やすしげ)と云ふのは初(はじ)め惣次郎(そうじらう)半右衛(はんうゑ)
門(もん)後(のち)に讃岐守(さぬきのかみ)と云つたので頗(すこぶ)る武勇(ぶゆう)の人であつた即(すなは)ち永禄(えいろく)八年に父(ちゝ)と共(とも)に徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)し爾来(じらい)戸田康長(とだやすなが)
過銭の茶壺 牧野新次郎康成(まきのしんじらうやすなり)等(ら)と共(とも)に数(しば〳〵)の戦功(せんこう)を尽(つく)したのであるが此人(このひと)に就(つい)ては一つ面白(おもしろ)い話(はなし)があるそれはズツト
晩年(ばんねん)の事であるが嘗(かつ)て高価(こうか)の茶壷(ちやつぼ)を買入(かひい)れたのを豊太閤(ほうたいこう)が聴(き)き込(こ)まれて一つには欽羨(きんせん)の余(あま)り戯(たはむ)れにか
ゝる翫物(がんぶつ)に高価(こうか)を払(はら)ふのは益(えき)もないことであるから過銭(くわせん)として黄金(おうごん)一 枚(まい)を出(だ)して罪(つみ)を贖(あがな)へと云はれて遂(つひ)
に過料(くわりよう)を取(と)られたのである其後(そのご)数々(しば〳〵)家康(いへやす)が此事(このこと)を話(はな)し出(だ)しては笑(わら)ひ興(けう)じたとの事で今(いま)も其(その)壷(つぼ)は田邉牧(たなべまき)
野家(のけ)に蔵(ぞう)せられて過銭(くわせん)の茶壷(ちやつぼ)と名(な)づけられて居(を)るのである而(しか)して当時(とうじ)牛久保(うしくぼ)の牧野氏(まきのし)には前述(ぜんじゆつ)の如く
同時代(どうじだい)に同(おな)じ名乗(なのり)の人やよく似(に)た名前(なまへ)の人があつたのである即(すなは)ち長岡牧野家(ながをかまきのけ)に於ては貞成(さだなり)、 成定(なりさだ)、 康(やす)
成(なり)と続(つゞ)いて此(この)康成(やすなり)も初(はじ)めは祖父(そふ)と同(おな)じく貞成(さだなり)と云つた而(しか)も田邉牧野家(たなべまきのけ)に於ても定成(さだしげ)、 康成(やすしげ)と続(つゞ)いたの
金扇馬標 であるから間々(まゝ)その事蹟(じせき)の混淆(こんこう)されて居る事があると思(おも)はれる現(げん)に家康(いへやす)の馬標(うまじるし)たる金扇(きんせん)の出所(でどころ)に就(つい)ても
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百六号附録 ( 明治四十四年七月十一日発行 )
【本文】
種々(しゆ〳〵)な説(せつ)があるので頗(すこぶ)る惑(まどひ)を生(せう)ずるのである此(この)金扇(きんせん)の事に就(つい)て牛久保密談記(うしくぼみつだんき)には前後(ぜんご)二ケ所(しよ)に記(しる)され
てあるので最初(さいしよ)には永禄(えいろく)八年 家康(いへやす)が吉田城(よしだぜう)を攻(せ)めた時 下地(しもぢ)の聖眼寺(せうげんじ)に休憩(きうけい)したのであるが其(その)時(とき)成定(なりさだ)は
家康(いへやす)に属(ぞく)してから初(はじ)めての軍(いくさ)であるから一 手抦(てがら)なくてはとて聖徳太子(せうとくたいし)の尊前(そんぜん)で祈念(きねん)して金扇(きんせん)二 本(ほん)を籠(こ)
め置(お)いて退(しりぞ)いたが此事(このこと)は誰(だれ)も知(し)るものがなく後(のち)に至(いた)つて寺僧(じそう)が此(この)金扇(きんせん)を発見(はつけん)して家康(いへやす)に告(つ)げたので不(ふ)
思儀(しぎ)の事である吉兆(きつちよう)だと云ふので此時(このとき)から家康(いへやす)は之(これ)を馬標(うまじるし)に用(もち)ゆる事となつた又(ま)た成定(なりさだ)は家康(いへやす)の命(めい)で
小原鎮実(をはらしげさね)に城(しろ)の明渡(あけわた)しを交渉(こうせう)して大(だい)なる手抦(てがら)を現(あら)はしたのであると書(か)いてあるが前(まへ)にも申述(もうしの)ぶる如く
当時(とうじ)成定(なりさだ)は裏面(りめん)は兎(と)に角(かく)表向(おもてむ)きはまだ今川方であつたのであるからドウモ此(この)記事(きじ)には疑(うたがひ)なき事(こと)能(あた)は
ずであ■併(しか)し乍(なが)ら此時(このとき)扇(あふぎ)の吉兆(きちちよう)があつて家康(いへやす)が此(この)戦(たゝかひ)に金扇(きんせん)を以(もつ)て採配(さいはい)の代(かは)りとなしたと云ふ事は徳(とく)
《割書:徳川家の具|足祝日》 川家(がはけ)にも伝(つた)へられて居る説(せつ)で朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)にも之(これ)が廿日の日であつたから爾来(じらい)家康(いへやす)は廿日を以(もつ)て具足(ぐそく)
祝(いはひ)の日(ひ)と定(さだ)められたと記(しる)してあるシテ見(み)れば当時(とうじ)成定(なりさだ)は既(すで)に欵(くわん)を家康(いへやす)に通(つう)ぜる場合(ばあひ)で竊(ひそ)かに一 身(しん)の前(ぜん)
途(と)を太子(たいし)の尊前(そんぜん)に祈(いの)つたと云うふ事は強(あなが)ちに捨(す)つべからざる説(せつ)であるソレに密談記(みつだんき)がイロ〳〵と説(せつ)を付(ふ)
加(か)したから反(かへ)つて疑(うたがひ)を増(ま)した訳(わけ)ではなかろうかと思(おも)ふ又(ま)た密談記(みつだんき)に記(しる)してある第二の説と云ふのは
天正十八年 小田原(おだはら)攻(ぜめ)の時 家康(いへやす)は牧野半右衛門(まきのはんうゑもん)が巳(おの)れに遠慮(えんりよ)して其(その)家(いへ)伝来(でんらい)の扇(あふぎ)の馬標(うまじるし)を用ゐて居らぬの
を見(み)て曩(さき)に下地(しもぢ)聖眼寺(せうげんじ)太子堂(たいしどう)にての事を話(はな)し出(だ)して決(けつ)して苦(くる)しからぬから汝(なんぢ)も亦(ま)た扇(あふぎ)の馬標(うまじるし)を用ゆる
ようにせよと云はれたとの事柄(ことがら)である因(よつ)て考(かんが)ふるに此(この)半右衛門(はんうゑもん)と云ふのは即(すなは)ち田邉牧野家(たなべまきのけ)の祖(そ)康成(やすしげ)の
事で長岡牧野家(ながをかまきのけ)の成定(なりさだ)とは自(おのづか)ら別人(べつじん)である然(しか)るに此処(こゝ)に太子堂(たいしどう)云々(うんぬん)の事を持(も)ち出(だ)してあるのは疑(うたがひ)に
堪(た)へぬが併(しか)し半右衛門康成(はんうゑもんやすしげ)が家康(いへやす)の為(ため)に金扇(きんせん)を請(こ)はれたのは永禄(えいろく)八年の事で吉田合戦(よしだかつせん)の後(のち)康成(やすしげ)は家康(いへやす)
に属(ぞく)し其(その)十二月 初(はじ)めて岡崎(をかざき)へ行(い)つて面謁(めんえつ)した時の話(はなし)であるモツトモ此時(このとき)は成定(なりさだ)も同行(どうこう)したので公儀(こうぎ)日(につ)
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 八十九
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十
【本文】
記(き)には此(この)話(はなし)も亦(ま)た成定(なりさだ)であるように記(しる)してあるが之(これ)は康成(やすしげ)であると云ふ説が有力(ゆうりよく)であるように思ふ之(これ)
に拠(よ)れば馬標(うまじるし)の起(おこ)りは田邉牧野家(たなべまきのけ)の方(ほう)にあるとなすのが穏当(おんとう)であると思(おも)ふが同家(どうけ)の伝説(でんせつ)も亦(ま)た之(これ)と同(どう)
様(よう)である而(しか)して其後(そのご)康成(やすしげ)は徳川氏のものと区別(くべつ)する為(ため)に従前(じうぜん)五本 骨(ほね)であつた金扇(きんせん)を七本 骨(ほね)に改(あらた)め作(つく)つ
て指物(さしもの)に用(もち)ゐたとの事で今(いま)も尚(な)ほ同家(どうけ)に所蔵(しよぞう)せられて居る之(これ)と同時(どうじ)に私(わたくし)は前(まへ)に申述(もうしの)べた家康(いへやす)の具足(ぐそく)
初(はじ)めに関(くわん)する起因(きゐん)と云ふものは却(かへつ)て長岡牧野家(ながをかまきのけ)の成定(なりさだ)より出(い)でたもので之(これ)にも矢張(やはり)金扇(きんせん)が伴(ともな)つて居(を)る
ものであると云ふ事を信(しん)ずるのである
《割書:牛久保に於|ける牧野氏》 尚(な)ほ此処(こゝ)に此(この)両(れう)牧野家(まきのけ)の家系(かけい)に就(つい)て少(すこ)しく申述べたいのであるが元来(がんらい)此(この)両家(れうけ)は屡々(しば〳〵)前章(ぜんせう)に申述べた如
の家系 く平家(へいけ)の士(し)田口成能(たぐちしげよし)から出(い)でたので牧野古白(まきのこはく)の家(いへ)とは全(まつた)く同系統(どうけいとう)であることに伝(つた)へられて居(を)る然(しか)るに古(こ)
来(らい)其(その)由(よつ)て来(きた)る処(ところ)に分明(ぶんめい)ならざる点(てん)があつて寛永系図(かんえいけいづ)及(およ)び寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)にも共に其(その)流(ながれ)を異(こと)にして掲載(けいさい)
してある殊(こと)に武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)の如きは此(この)両(れう)牧野氏(まきのし)を以て孰(いづ)れも元(もと)と眞木氏(まきし)であつて後(のち)に牧野(まきの)に改(あらた)めたも
ので古白(こはく)の家(いへ)とは自(おのづか)ら其(その)系統(けいとう)を異(こと)にするものであるとなして居る併(しか)し乍(なが)ら此(この)説(せつ)は余程(よほど)離(はな)れた説(せつ)で容(よう)
易(い)に断(だん)ずることは出来(でき)ぬ兎(と)に角(かく)其(その)祖先(そせん)が孰(いづ)れの家(いへ)も成能(しげよし)であると云ふことは先(ま)ず争(あらそ)はれぬ事と信(しん)ずるがサ
テ其後(そのご)初(はじ)めて三 河国(かはのくに)に来(きた)つたのは果(はた)して誰(たれ)であつたかと云ふ事に就(つい)ては各々(おの〳〵)家伝(かでん)に相違(さうゐ)があつて頗(すこぶ)る
研究(けんきう)を要(えう)することと思ふ寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)によると古白(こはく)の家(いへ)は前章(ぜんせう)に詳(くは)しく御話(おはなし)して置(お)いた通(とほ)り成能(しげよし)の子
に教能(のりよし)と云ふ人があつて其(その)後胤(こうゐん)成保(しげやす)の子 成清(しげきよ)までは代々(だい〳〵)讃岐国(さぬきのくに)に居つたが其子(そのこ)成富(しげとみ)が初(はじ)めて三河国に
来(き)たので之(これ)が即(すなは)ち古白(こはく)の父(ちゝ)であると云ふ事になつて居る田邉牧野家(たなべまきのけ)の譜(ふ)は略(ほ)ほ之(これ)と同(どう)一であるが長岡(ながをか)
牧野家(まきのけ)の譜(ふ)は少(すこ)しく之(これ)と違(ちが)つて成能(しげよし)が後胤(こうゐん)成朝(しげとも)に至つて初(はじ)めて三河国に来(きた)つたが成朝(しげとも)から成定(なりさだ)の父(ちゝ)氏(うぢ)
勝(かつ)までは世系(せいけい)が詳(つまびらか)でないとしてある然(しか)るに此(この)長岡(ながをか)田邉(たなべ)両牧野家(れうまきのけ)に就(つい)て其(その)家譜(かふ)を調(しら)べて見(み)ると頗(すこぶ)る精密(せいみつ)
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【本文】
なものがあるのみならず旧来(きうらい)余程(よほど)研究(けんきう)が重(かさ)ねてあるように見(み)ゆる殊(こと)に長岡牧野家(ながをかまきのけ)の御系図類記(おんけいづるいき)と云ふ
ものは考証(こうせう)も正確(せいかく)で拠(よ)るべき点が少(すくな)くないと思うふ之(これ)等(ら)に就(つい)て見(み)ると成朝(しげとも)と云ふ人は成能(しげよし)の嫡孫(ちやくそう)で教能(のりよし)
の子であると記(しる)してあるスルト此(この)牧野氏(まきのし)と云ふものは余程(よほど)古(ふる)くから三河国に来(きた)つたもので此(この)説(せつ)は実(じつ)に
研究上(けんきうぜう)価値(かち)あるものであると信(しん)ずる如何(いかん)となれば古白(こはく)の父(ちゝ)成富(しげとみ)が始(はじ)めて三河国へ来(きた)つたにしては古白(こはく)
時代(じだい)に於ける牧野党(まきのとう)の繁殖(はんしよく)が余(あま)りに過大(くわだい)であると信(しん)ずるのであつて之(これ)は私(わたくし)の常(つね)に疑(うたがひ)を懐(いだ)いて居つ
た処である又(ま)た此(この)両牧野家(れうまきのけ)の調査(てうさ)によると古白(こはく)の父(ちゝ)成富(しげとみ)と成清(しげきよ)との間(あひだ)に成方(なりかた)と云ふ人が一 代(だい)あるので
あるが之(これ)も或(あるひ)は其(その)方(ほう)が正(たゞ)しいであろうと思(おも)ふ要(えう)するに牧野(まきの)の一 党(とう)と云ふものは宝飯郡(ほゐぐん)牧野村(まきのむら)から起(おこ)つ
て後(のち)に牛久保(うしくぼ)に拠(よ)つたのであるが当時(とうじ)其(その)一 族(ぞく)中(ちう)の主(おも)なるものであつた古白(こはく)は城(しろ)を今(いま)の豊橋の地に築(きづ)い
て之(これ)に移(うつ)り牛久保は長岡牧野家(ながをかまきのけ)の祖先(そせん)初(はじ)めが守(まも)つたのである然(しか)るに豊橋の方は前(まへ)に申述べた如く一 時(じ)
敗亡(はんぼう)に皈(き)したが牛久保(うしくぼ)の方(ほう)は継続(けいぞく)して今日に至(いた)つたと云ふ次第(しだい)であるサテ其(その)次(つぎ)が菅沼氏(すがぬまし)の話(はなし)である前(まへ)
に申述(もうしの)べて置いた通(とほ)り有名(ゆうめい)なる東三河の山家(やまが)三 方(ほう)と云はれたのは当時(とうじ)段峯(だみね)(《割書:一に|田峯》)に居つた菅沼氏(すがぬまし)並(ならび)に
《割書:段峯の菅沼|長篠の菅沼》 長篠(ながしの)に居つた菅沼氏(すがぬまし)及(およ)び作手(つくて)の奥平氏(おくだひらし)であるモツトモ野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)をも之(これ)に加(くは)へた記事(きじ)が朝野旧聞裒(てうやきうぶんほう)
《割書:野田の菅沼| 》 稿(こう)の中(なか)に見(み)へて居(を)るがそれは同(おな)じ菅沼氏(すがぬまし)の一 族(ぞく)であるから右(みぎ)の如き場合(ばあひ)もあつたかと思(おも)ふ兎(と)に角(かく)菅沼(すがぬま)
氏(し)と云ふものは段峯(だみね)が元(もと)でそれから長篠(ながしの)野田(のだ)などゝ分(わか)れたものである今(いま)寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)によつて系図(けいづ)
菅沼氏系図 の大要(たいえう)を示(しめ)せば左(さ)の通(とほり)である
〇資長《割書:伊賀守|田峯に住す》 定成 文明七年十一月十五日死
満成《割書:三郎左衛門|長篠に住す長篠菅沼と称す》
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十一
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十二
【本文】
元成 新九郎 俊則 下野守 元直
俊弘 《割書:次郎右衛門|伊予守が祖》 満直 武田勝頼に仕ふ
貞吉
貞景 《割書:新九郎、三郎右衛門、左衛門尉|家康に仕へ永禄十二年正月廿三日遠江天王山に打死》 正貞 《割書:新九郎|初め家康に仕へ後武田信玄に属す》
貞俊
正勝 《割書:紀伊徳川家に仕へ二千|五百石を与へらる》
貞行 伊賀守 定家 伊賀守
定信 《割書:新三郎信濃守 刑部少輔|田峰に住し田峰菅沼と称す》 定忠 《割書:大膳太夫 新三郎|一に大膳亮新八郎に作る》
定房
定廣 《割書:新三郎 大膳亮|今川氏親に属し父と共に水巻の城を守る》
某 ■雲 文翼
定則 《割書:竹千代新八郎織部正|野田に住し野田の菅沼と称す》 定村 《割書:竹千代新八郎|織部正》
某 新七 《割書:弘治二年八月奥平監物貞勝宝飯郡雨山に砦を搆へ今川義元|に抗す義元東三河の諸士をして之を攻めしむ定村先登之に》
《割書:討死す年三十六法名道雲野田の道雲寺は男定盈の開基なり| 》
定盈 《割書:竹千代 新八郎 織部正|天文十一年野田に生る永禄四年家康に属し爾来戦功多く後》 定仍
《割書:伊勢国長島城に封せられ一万石を領し六十三歳を以て卒す| 》
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百十二号附録 ( 明治四十四年七月十八日発行 )
【本文】
定成
定芳 《割書:伊勢国亀山にて|四万千余石を領》
《割書:す| 》
定昭 嗣なし
定実 《割書:定昭死し嗣なきを以て兄|の後を分ちニ千石を賜ふ》
定継 《割書:新太郎大膳亮|弘治二年奥平貞勝等と共に》 某 《割書:小法師刑部少輔|父が遺跡を継ぎ田峯新城武節三城を守る》
《割書:今川義元に抗し為に自殺す| 》 《割書:永禄四年家康に属し数々戦功あり元亀二|年奥平貞能と共に武田信玄に属し勝頼敗》
某 《割書:後降を請ひしも許されず天正十年五月十|七日徳川氏の為に殺さる》
定直 弥三右衛門
定氏 《割書:十郎兵衛信濃守|清康広忠家康に歴仕し戦功あり》 定吉 《割書:新三郎藤十郎|越後守》
《割書:慶長九年七月廿六日死年八十四| 》
定仙 《割書:八右衛門常陸介|初今川氏に属し後家康に従ひ又た武田》
《割書:信玄に属し元亀二年再び家康に従ふ| 》
定俊 藤十郎 定政 藤十郎
定利 《割書:小大膳|元亀二年田峯を退き菅沼定盈に》 忠政 《割書:実は奥平信昌の三男|美濃加納十万石》
《割書:依て家康に仕へ後上野国吉井二|万石に封せらる》
忠種 某 嗣なく家絶ゆ
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十三
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十四
【本文】
定盛 伊賀守 定勝 《割書:久■伊賀守入道源長井道の砦に住し|永禄四年小原鎮実小法師が新城を来》
《割書:り攻むる時一族と共に之を拒ぎ敵兵|松井某を打取る》
某 《割書:孫太夫|弘治元年大膳亮 ■と共に奥平貞勝に与》
《割書:みし今川氏に叛き二年八月廿一日定継と|同じく自殺す》
三照 定房
某 定重
三春 以下略
ザツト右(みぎ)の通(とほり)であるが頗(すこぶ)る入り組むだ系図(けいづ)である従(したがつ)て文明(ぶんめ)の頃(ころ)から元亀(げんき)天正(てんせう)の頃(ころ)に亘(わた)つて此(この)菅沼氏(すがぬまし)
の一 族(ぞく)と云ふものは東三河の山方(やまがた)へは瀰満(びまん)したものである然(しか)るに地勢(ちせい)の関係(くわんけい)から常(つね)に大勢(おほぜい)に逆(さから)ふ事が
多(おほ)く不幸(ふこう)に陥(おちゐ)つて居る状態(ぜうたい)である独(ひと)り野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)は終始(しうし)一 貫(かん)克(よ)く徳川氏の為(ため)に忠勤(ちうきん)を尽(つく)して今川氏(いまがはうぢ)
実(さね)や武田信玄(たけだしんげん)などに容易(ようい)ならず苦(くるし)められたが遂(つひ)には最後(さいご)の勝利者(せうりしや)となつたのである然(しか)るに田峯(たみね)長篠(ながしの)な
どの菅沼氏(すがぬまし)は頗(すこぶ)る大勢(たいせい)に通(つう)せず又は到底(たうてい)独立(どくりつ)の出来(でき)難(がた)い処(ところ)から初(はじ)め今川義元(いまがはよしもと)に叛(そむ)いて失敗(しつぱい)し永禄(えいろく)四年
の変(へん)に徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)して幸(さいはひ)に好都合(こうつごう)であつたものも後(のち)には又た武田信玄(たけだしんげん)に従(したが)つて其身(そのみ)を亡(ほろぼ)すに至つた
ものがあるので実(じつ)に気(き)の毒(どく)千万に思(おも)はるゝのである殊(こと)に徳川氏が天下(てんが)を平定(へいてい)してから後(のち)幸(さいはひ)に諸侯(しよこう)の
列(れつ)に加(くわ)はつた家(いへ)も悉(こと〴〵)く嗣(よつぎ)なくして断絶(だんぜつ)に及(およ)ぶなど菅沼氏(すがぬまし)の一 族(ぞく)に対(たい)しては同情(どうぜう)に堪(た)へぬのである
奥平氏 ソコで此(この)菅沼氏(すがぬまし)と共に山家(やまが)三 方(はう)の中に数(かぞ)へられて居る奥平氏(おくだひらし)は如何(いか)なる筋合(すじあひ)の家(いへ)であるかと云ふに其(その)
出所(しゆつしよ)に就(つい)ては之にもイロ〳〵の説があるが貞能(さだよし)四 世(せ)の祖(そ)の左衛門尉貞俊(さゑもんのぜうさだとし)と云ふ人が初(はじ)めて上野国(かうづけのくに)から
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【本文】
此三河国に来(き)て作手(つくて)を領(れう)したとの事である貞能(さだよし)の子は後(のち)に長篠籠城(ながしのろうぜう)で有名(ゆうめい)なる信昌(のぶまさ)であるが貞能(さだよし)の父
と云ふのは監物貞勝(かんもつさだかつ)で後(のち)に入道(にふどう)して道文(どうもん)と云つた人である此(この)道文(どうもん)と云ふ人は初(はじ)め松平清康(まつだひらきよやす)に従つた事
があるが後(のち)に今川氏に属(ぞく)した然(しか)るに貞能(さだよし)は永禄(えいろく)八年の頃(ころ)から再(ふたゝ)び今川氏真(いまがはうぢさね)に叛(そむ)いて徳川氏に従(したが)ひ中々(なか〳〵)
戦功(せんこう)があつたが元亀(げんき)二年に至(いた)つて父(ちゝ)道文(どうもん)初(はじ)め一 族(ぞく)と共に武田信玄(たけだしんげん)に属(ぞく)したのであるトコロが中途(ちうと)にし
て志(こゝろざし)を決(けつ)して一 族(ぞく)のものと別(わか)れ再(ふたゝ)び家康(いへやす)に属(ぞく)したのである之等(これら)の事に就(つい)ては詳(くは)しい話(はなし)もあるがソレ
《割書:深溝松平氏|竹谷松平氏》 は追々(おひ〳〵)に申述(もうしの)ぶる事として次(つぎ)に深溝(ふかふづ)、 竹谷(たけのや)、 形原(かたのはら)などの松平氏(まつだひらし)の事を申述べたいと思(おも)ふ此(この)三 松平家(まつだひらけ)は
《割書:形原松平氏| 》 前章(ぜんせう)にも申述(もうしの)べたと通(とほ)り松平和泉守信光(まつだひらいづみのかみのぶみつ)から出(で)たものであるが信光(のぶみつ)の子 親忠(ちかたゞ)其子(そのこ)の長親(ながちか)及(およ)び其子(そのこ)の信忠(のぶたゞ)
の代(だい)にもそれ〳〵分家(ぶんけ)したもので之(これ)が孰(いづ)れも松平(まつだひら)を名乗(なの)つたのである今(いま)多(おゝ)く人(ひと)の知(し)つて居るものに就(つい)
て其(その)流(ながれ)を分(わか)つて見(みる)ると大略(たいりやく)左(さ)の如(ごと)くである
〇信光の流
竹 谷 形 原 大 草 深 溝 能 見 長 沢
〇親忠の流
大 給 西福釜 安 祥 瀧 脇
〇長親の流
福 釜 桜 井 東 條 藤 井
〇信忠の流
三 木 鵜 殿
而(しか)して度々(たび〳〵)引(ひ)き合(あ)ひに出(だ)される家忠日記(いへたゞにつき)の記者(きしや)松平家忠(まつだひらいへたゞ)と云ふ人は此(この)深溝(ふかうず)松平氏(まつだひらし)であるが御承知(ごせうち)の宝(ほ)
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十五
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次と東三河の諸士) 九十六
【本文】
飯郡(ゐぐん)深溝(ふかうず)に城(しろ)を搆(かま)へて居つたのである祖父(そふ)大炊助好景(たいすいのすけよしかげ)は前にも申述べた如く曩(さき)に幡豆郡(はづぐん)善明寺(ぜんめうじ)堤(つゝみ)に於
て吉良義昭(きらよしあきら)の兵と戦(たゝかつ)て打死(うちじに)し父の伊忠(これたゞ)は長篠合戦(ながしのかつせん)で打死(うちじに)したが自分(じぶん)も亦(ま)た後(のち)に鳥居元忠(とりゐもとたゞ)と共に伏見(ふしみの)
城(しろ)を守(まも)つて遂(つひ)に戦死(せんし)したのである即(すなは)ち三 代(だい)引(ひ)き続(つゞ)いて徳川家(とくがはけ)の為(ため)に忠死(ちうし)したので之(これ)も亦(ま)た実(じつ)に同情(どうぜう)す
べき家(いへ)であると思(おも)ふ又(ま)た竹谷(たけのや)の松平氏(まつだひらし)は彼(か)の肥後守清善(ひごのかみきよよし)の家(いへ)で清善(きよよし)は信光(のぶみつ)から凡(およ)そ五 代(だい)に当(あた)るのであ
るが此人(このひと)が初(はじ)めて竹谷(たけのや)に住(ぢう)したのである而(しか)して孫(そん)の玄蕃頭家清(げんばのかみいへきよ)は後(のち)に此(この)吉田(よしだ)の城主(ぜうしゆ)に封(ほう)せられたので
詳(くは)しい事は其(その)時代(じだい)に当(あた)つて申述(もうしの)ぶる考(かんがへ)である又た形原(かたのはら)松平(まつだひら)と云ふのはの信光(のぶみつ)の第五子 佐渡守興嗣(さどのかみおきつぐ)か
ら出でゝ居るので初(はじ)め岩津殿(いわづどの)と云はれたのであるが吉田合戦(よしだかつせん)の頃(ころ)は紀伊守家嗣(きいのかみいへつぐ)と云ふ人の頃(ころ)である此(この)
人(ひと)は興嗣(おきつぐ)五代の孫(そん)で父を紀伊守家忠(きいのかみいへたゞ)と云ひ其子(そのこ)は紀伊守家信(きいのかみいへのぶ)である此(この)人々(ひと〳〵)も亦(ま)た徳川家の為(ため)には忠勤(ちうきん)
を尽(つく)したもので此(この)家(いへ)も矢張(やはり)後(のち)に諸侯(しよこう)の列(れつ)に加(くは)はつたのである
《割書:伊奈の本多|氏》 其(その)次(つぎ)が伊奈(いな)の本多氏(ほんだし)に就(つい)てであるが本多氏(ほんだし)は元来(がんらい)藤原氏(ふぢはらし)で九 条関白師輔(じょうくわんぱくもろすけ)十二世の孫(そん)助秀(すけひで)と云ふ人が
豊後国(ぶんごのくに)本多(ほんだ)と云ふ処に住(ぢう)して本多(ほんだ)を氏(うぢ)としたのが始(はじめ)であると云ふ事である其子(そのこ)に助定(すけさだ)と云ふ人があつ
て尾張国(をはりのくに)に来(きた)りそれから六 世(せ)の孫(そん)に助時(すけとき)と云ふひと人があつたが之(これ)が初(はじ)めて三河国に来(きた)つて松平長親(まつだひらながちか)に仕(つか)
へたのであると云ふのが普通(ふつう)に伝(つた)はつて居る説(せつ)である即(すなは)ち平八郎 忠勝(たゞかつ)の家(いへ)も、 前(まへ)に御話(おはなし)して置(お)いた豊(ぶん)
後守広孝(ごのかみひろたか)の家(いへ)も、 作左衛門重次(さくざゑもんしげつぐ)の家も皆(みな)同族(どうぞく)で元(もと)は互(たがひ)に分(わ)れたものである而(しか)して伊奈(いな)の本多氏(ほんだし)は正時(まさとき)
と云ふ人を祖(そ)として居つて其子(そのこ)が正助(まさすけ)其孫(そのそん)が即(すなは)ち縫殿助正忠(ぬひどのすけまさたゞ)である此人(このひと)は天文二十二年に卒去(そつきよ)した人
であるが松平清康(まつだひらきよやす)が吉田城(よしだぜう)に牧野傳蔵信成(まきのでんぞうのぶしげ)等(ら)を攻(せ)めた時には最初(さいしよ)から清康(きよやす)に属(ぞく)して戦功(せんこう)が多(おほ)くあつた
葵紋の説 のである世(よ)の伝(つた)ふる所によると此時(このとき)正忠(まさたゞ)は巳(おの)れが伊奈(いな)の城(しろ)に清康(きよやす)を請(こう)じて酒肴(しゆこう)を進(すゝ)め肴盤(こうばん)に池(いけ)なる水(みづ)
葵(あふい)の葉(は)を藉(かり)て出(だ)したのである清康(きよやす)は之(これ)を見て立葵(たちあふひ)は本多家(ほんだけ)の紋(もん)であるのに今度(こんたび)の勝利(せうり)は正忠(まさたゞ)が最初(さいしよ)に
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百十八号附録 ( 明治四十四年七月廿五日発行 )
【本文】
味方(みかた)したからである之(これ)は誠(まこと)に吉例(きちれい)であると云ふので之(これ)から徳川氏(とくがはし)に於ては三 葵(あほひ)の紋所(もんどころ)を用ゆることにな
つたのであると云ふ事である然(しか)るに徳川家の三 葵(あほひ)の紋所(もんどころ)に就(つい)ては古来(こらい)紛々(ふん〳〵)の説(せつ)があつて殆(ほとん)ど確実(かくじつ)なる
ものがない即(すなは)ち右(みぎ)の説(せつ)の外(ほか)に此(この)葵(あほひ)の紋(もん)は最初(さいしよ)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんのぜう)の家(いへ)から上(あ)げたものであるとも云ひ又(ま)た酒(さか)
井雅樂頭(ゐうたのかみ)家(け)からであるとも云ひ其他(そのた)本多中務大輔(ほんだなかつとたいゆう)の家(いへ)からであるとか高力村(たかりきむら)の老翁(らうおう)から献(けん)じたもので
あるとか種々(しゆ〳〵)な説(せつ)が行(おこな)はれて居るが元来(がんらい)新田家(につたけ)には古(ふる)くから葵(あほひ)の紋(もん)を用ゐた流(ながれ)があると云ふ説(せつ)がある
又(ま)た松平氏(まつだひらし)にも矢張(やはり)清康(きよやす)以前(いぜん)から既(すで)に葵(あほひ)を紋(もん)となした流(ながれ)があると云ふ説(せつ)があるので文政(ぶんせい)年間(ねんかん)に竹尾次(たけをつぐ)
春(はる)と云ふ人が著(あらは)した旧考余録(きうこうよろく)と云ふ書物(しよもつ)などには頗(すこぶ)る精細(せいさい)に此事(このこと)が考証(こうせう)してある従(したがつ)て葵(あほひ)の紋(もん)の事は
尚(な)ほ余程(よほど)研究(けんきう)の余地(よち)があるもので世(よ)の伝説(でんせつ)のみに拠(よ)り得(え)らるべきものではあるまいと信(しん)ずるのである
サテ正忠(まさたゞ)の子は忠俊(たゞとし)で忠俊(たゞとし)の子が光忠(みつたゞ)と忠次(たゞつぐ)とであるが光忠(みつたゞ)の所労(しよろう)によりて弟(おとゝ)の忠次(たゞつぐ)が父(ちゝ)の後(あと)を相続(さうぞく)
したのである兎(と)に角(かく)此家(このいへ)は歴代(れきだい)徳川氏の為(た)には忠勤(ちうきん)を励(はげ)むだものであるが忠次(たゞつぐ)の子の康俊(やすとし)と云ふのは
実(じつ)は酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)の子で本多家(ほんだけ)の養子(やうし)となつたのである此(この)人々(ひと〳〵)の事に付ても話(はなし)は沢山(たくさん)にあるが矢(や)
張(はり)追々(おひ〳〵)折(をり)に触(ふ)れて申述ぶることに致(いた)したい考(かんがへ)である尚(な)ほ右(みぎ)諸家(しよけ)の外(ほか)にも西郷氏(さいごうし)の如(ごと)き御話(おはなし)したいもの
もあるが前章(ぜんせう)に於て既(すで)に略(ほ)ぼ申述(もうしの)べてあるように思(おも)ふから先(ま)づ此話(このはなし)はこゝに止(とゞ)めて酒井忠次(さかゐたゞつぐ)が吉田城(よしだぜう)
に入(はい)つてより後(のち)の状態(ぜうたい)に立戻(たともど)つて次章(じせう)から申述(もうしの)べたいと思(おも)ふのである
⦿今川氏の衰亡と武田氏の侵入
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如く吉田(よしだ)の城(しろ)は永禄(えいろく)八年三月 遂(つひ)に徳川家康(とくがはいへやす)の手に帰(き)し家康(いへやす)は之(これ)を酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に与(あた)へたの
であるが今川方(いまがはがた)の小原鎮実(をはらしげさね)は此城(このしろ)を明渡(あけわた)して後(のち)暫(しばら)くは遠江(とほとふみ)鵜津山(うつやま)の城(しろ)に居(を)つたのである後(のち)に駿河国(するがのくに)花(はな)
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 九十七
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 九十八
【本文】
沢(さわ)の城(しろ)に籠(こも)り武田氏(たけだし)の為(ため)に攻(せめ)られて高天神(たかてんじん)に走(はし)りて討死(うちじに)したのであるが元来(がんらい)此(この)鎮実(しげさね)と云ふ人は如何(いか)な
《割書:小原鎮実の|素性》 る素性(すぜう)のものであるか種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があつて甚(はなは)だ確(たしか)でない併(しか)し今川家(いまがはけ)に於ては中々(なか〳〵)勢力(せいりよく)のあつたもので松(まつ)
平記(だひらき)に拠(よ)ると初(はじ)め近江(あふみ)の住人(ぢうにん)で小倉(をぐら)三 河守(かはのかみ)と云ふ人が伊豆(いづ)の熱海(あたみ)に湯治(とうぢ)をした時(とき)図(はか)らず義元(よしもと)に遇(あ)つて
召抱(めしかゝ)へられる事になつたが自分(じぶん)は老人(らうじん)であると云ふので其子(そのこ)の與助(よすけ)と云ふものを薦(すゝ)めたのである鎮実(しげさね)
《割書:三浦右衛門|佐》 も亦(ま)た近江(あふみ)の人で即(すなは)ち此(この)與助(よすけ)の紹介(せうかい)で今川家に仕(つか)ゆるに至(いた)つたのである而(しか)して其子(そのこ)の右衛門佐(うゑもんすけ)と云ふ
のは今川家(いまがはけ)の家老(からう)三浦次郎右衛門(みうらじらううゑもん)の遺跡(ゐせき)を継(つ)いで武勇(ぶゆう)もあつたが特(とく)に美男(びだん)であつたので氏真(うぢさね)の嬖臣(へいしん)で
あつたと云ふ事である又(ま)た同書(どうしよ)によれば永禄(えいろく)十年の頃(ころ)から駿河国(するがのくに)には風流(ふうりう)の踊(おどり)が流行(りうこう)して氏真(うぢさね)は之(これ)等(ら)
《割書:駿河国政の|紊乱》 の嬖臣(へいしん)と踊(おど)り囃(はや)して日夜(にちや)遊宴(ゆうゑん)に耽(ふけ)つて居つたと云ふ事である併(しか)し之(これ)等(ら)の事柄(ことがら)に就(つい)ては頗(すこぶ)る他(た)に説(せつ)があ
るから深(ふか)き研究(けんきう)もなくて断定(だんてい)はし兼(か)ぬるが兎(と)に角(かく)駿河(するが)の国政(こくせい)と云ふものは其頃(そのころ)に至(いた)つて大(おほい)に紊乱(びんらん)し人(じん)
心(しん)は漸(やうや)く離反(りはん)せむとしたのである此機(このき)に乗(ぜう)じて逸早(いつはや)く駿河(するが)を窺(うかゞ)つたのは甲斐(かひ)の武田信玄(たけだしんげん)であつた
《割書:武田氏侵入|の経路》 之(これ)より武田氏(たけだし)侵入(しんにふ)の事を申述(もうしのべ)るに就(つい)ては其(その)経路(けいろ)として武田氏(たけだし)の事は勿論(もちろん)関東(くわんとう)諸将(しよせう)の事に就(つい)て少(すこ)しく申
述べねばならぬと思(おも)ふが武田信玄(たけだしんげん)の事に就(つい)ては私(わたくし)が申上(もうしあ)ずとも既(すで)に諸君(しよくん)が能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)
武田信虎 ふ元来(がんらい)信玄(しんげん)の父(ちゝ)信虎(のぶとら)と云ふ人は頗(すこぶ)る武威(ぶゐ)を振(ふる)つたもので甲斐国内(かひのこくない)の諸族(しよぞく)を威服(ゐふく)したのである此人(このひと)は実(じつ)
に強暴(けうぼう)不慈(ふじ)の行(おこない)が多(おほ)く国人(こくじん)の怨望(えんぼう)が甚(はなはだ)しかつた処から天文(てんぶん)十年六月四十八歳の時(とき)に駿河(するが)に退隠(たいゐん)し
甲陽軍鑑 たのであるが此(この)事(こと)に関(くわん)し従来(じうらい)甲陽軍鑑(かうようぐんかん)などの説(せつ)が最(もつと)も世(よ)に流布(るふ)せられて居るので信玄(しんげん)が父(ちゝ)を遂(を)つて自(じ)
立(りつ)したものであるように伝(つた)へられて居る併(しか)し前(まへ)にも申述(もうしの)べた如く甲陽軍鑑(かうようぐんかん)と云ふ書物(しよもつ)は十 分(ぶん)に信用(しんよう)す
ることの出来(でき)ぬもので其(その)著者(ちよしや)に就(つい)ても色々(いろ〳〵)の説(せつ)がある史家(しか)の通説(つうせつ)としては木幡勘兵衛景憲(こはたかんべゑかげのり)と云ふ人が武(たけ)
田家(だけ)の兵法(へいほう)を寓(ぐう)し合戦(かつせん)の輸嬴韜略(ゆえいたうりやく)の得失(とくしつ)などを述(の)べて信玄(しんげん)の遺風(ゐふう)を伝(つた)へむが為(た)めに高坂弾正(たかさかだんぜう)の遺記(ゐき)だ
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談 □□□□
【本文】
《割書:山本勘介の|子》 の山本勘介(やまもとかんすけ)の子(こ)関山(せきやま)僧(そう)学文(がくぶん)の覚書(おぼえがき)だのを斟酌(しんしやく)し之(これ)に仮托架空(かたくかくう)の潤飾(じゆんしよく)を加(くは)へたものであると云ふ事で
ある従(したがつ)て其(その)書(しよ)に拠(よ)れる説(せつ)は信(しん)じ難(がた)いのみならず西原文書(にしはらぶんしよ)幷(ならび)に妙法寺記(みようほうじき)などによると信虎(のぶとら)退隠(たいゐん)に就(つい)て
は武田家(たけだけ)の老臣(らうしん)と今川家(いまがけ)の家老(からう)岡部美濃守(をかべみのゝかみ)幷(ならび)に雪斎(せつさい)長老(てうらう)などとの計(はか)らひで先(ま)づ信虎(のぶとら)を駿河(するが)に招(まね)いて退(たい)
隠(ゐん)を勧(すゝ)めたので信虎(のぶとら)も遂(つひ)に之(これ)を承諾(せうだく)したものであると云うのが事実(じじつ)であるように思(おも)ふモツトモ当時(とうじ)駿(する)
《割書:武田今川二|氏の連合》 河(が)に於(おい)ては今川義元(いまがはよしもと)が盛(さかん)な時代(じだい)で義元(よしもと)の妻(つま)は即(すなは)ち信虎(のぶとら)の女(ぢよ)であるので武田(たけだ)今川(いまがは)二 氏(し)の間(あひだ)は和親(わしん)が固(かた)か
山本勘介 つたのであるからかゝる計(はか)らひに出(い)でたものと信(しん)ぜられるのであるソコで一寸(ちょつと)御話(おはなし)して置(お)きたいのは
山本勘介(やまもとかんすけ)の事であるが今日の研究(けんきう)によると此人(このひと)にはドウモ旧来(きうらい)世(よ)に称(せう)せられて居(を)るような形跡(けいせき)はない
ので此人(このひと)は全(まつた)く山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(らうべうゑまさかげ)の一 兵卒(へいそつ)であつたに過(す)ぎなかつた様子(やうす)である然(しか)るに前(まへ)に申述(もうしの)べた
如(ごと)く其子(そのこ)の学文(がくぶん)と云ふ僧(そう)が稍々(やゝ)文筆(ぶんひつ)のあつたもので父(ちゝ)の事蹟(じせき)を色々(いろ〳〵)と潤飾(じゆんしよく)して記録(きろく)して置(お)いたので
あるが甲陽軍鑑(かうようぐんかん)の著者(ちよしや)が更(さら)にソレを材料(ざいりよう)に架空(かくう)の説(せつ)を加(くは)えたので遂(つひ)に今日(こんにち)行(おこな)はれて居(を)るような伝説(でんせつ)を
生(う)み出(いだ)したものであると云ふ説(せつ)が正(たゞし)い事(こと)と信(しん)ずる例(れい)の東海道名所図絵(とうかいどうめいしよづゑ)などには恰(あたか)も劉元徳(りうげんとく)が孔明(こうめい)の処
へ三 顧(こ)せる図(づ)のようなものが載(の)せてあつて信玄(しんげん)が勘介(かんすけ)を牛久保(うしくぼ)の僑居(きようきよ)へ訪問(ほうもん)した様(さま)が書(かい)いてあるが之(これ)
等(ら)は無論(むろん)仮托(かたく)の説(せつ)で取(と)るに足(た)らぬにも拘(かゝは)らず却(かへつ)て世(よ)に誤(あやま)れる伝説(でんせつ)の流布(るふ)せる原因(げんゐん)ともなつて居(を)る事と
信玄自立 思(おも)ふサテ信玄(しんげん)は大永(たいえい)元年(がんねん)巳(み)の歳(とし)の生(うまれ)であるから父(ちゝ)信虎(のぶとら)に替(かは)つて甲斐国主(かひのこくしゆ)となつた時は廿一歳であつた
《割書:武田北条二|氏の連合》 が夙(つと)に旗(はた)を京畿(けいき)に立(た)つる志(こゝろざし)があつたソレには路(みち)を信濃(しなの)飛騨(ひだ)に取(と)るより外(ほか)には差当(さしあた)り方法(はうほう)がないと云
ふので却(かへつ)て関東(くわんとう)の北条氏(ほうじようし)とは和親(わしん)を結(むす)むで専(もつぱ)ら信濃(しなの)攻略(こうりやく)に力(ちから)を用(もち)ゐたのであるソコで天文十一年に兵(へい)
《割書:信玄の信濃|侵略》 を信濃(しなの)に出(いだ)して己(おの)れの妹聟(いもとむこ)である諏訪頼重(すはよりしげ)を亡(ほろ)ぼしたのを初(はじ)めとして十二年には深志(ふかし)の城主(ぜうしゆ)(《割書:今の松|本の地》)小(を)
笠原長時(がさはらながとき)を破(やぶ)り十四年十五年には引続(ひきつゞ)いて兵(へい)を伊奈(いな)佐久(さく)の両地方(れうちはう)に出(いだ)したが十六年には二 回(くわい)の出兵(しゆつへい)を
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 九十九
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百
【本文】
したのみならず漸(やうや)く北進(ほくしん)して十七年二月には埴科郡(はにしなぐん)葛尾(かつを)の城主(ぜうしゆ)村上義清(むらかみよしきよ)と上田原(うへだはら)に対陣(たいぢん)し其(その)七月には
小笠原勢(をがさはらぜい)を塩尻峠(しほじりとほげ)に破(やぶ)つたのであるかゝる次第(しだい)で村上(むらかみ)小笠原(をがさはら)二 氏(し)も其(その)勢(せい)漸(やうや)く慼(ちゞ)まつて長時(ながとき)は廿一年十
上杉謙信 二月 義清(よしきよ)は廿二年八月に孰(いづ)れも越後(えちご)に逃(のが)れて上杉謙信(うへすぎけんしん)に依(よ)つたのであるが之(これ)が抑(そもそ)も川中島合戦(かはなかじまかつせん)の起(おこ)る
川中島合戦 原因(げんゐん)である此(この)川中島合戦(かはなかじまかつせん)に就(つい)ても旧来(きうらい)多(おほ)く甲陽軍鑑(かうようぐんかん)又(また)は甲越軍記(かうえつぐんき)川中島(かはなかじま)五 戦記(せんき)などの説(せつ)が行(おこな)はれて居
るので甚(はなは)た誤(あやまり)を伝(つた)へられて居る事が多い然(しか)るに近来(きんらい)は段々(だん〳〵)之(これ)に関係(くわんけい)ある根本史料(こんぽんしりよう)も発見(はつけん)され田中義(たなかよし)
成(なり)博士(はかせ)などの考証(こうせう)もあるが之(これ)等(ら)は余(あま)り本史談(ほんしだん)に関係(くわんけい)もないように思(おも)ふから私(わたくし)の如(ごと)き専門(せんもん)の智識(ちしき)がない
ものが此処(こゝ)に申述(もうしの)ぶるのは却(かへつ)て宜敷(よろし)くあるまいかと思(おも)ふ
兎(と)に角(かく)川中島合戦(かはなかじまかつせん)の初度(しよど)は弘治(こうぢ)元年(がんねん)七月であるが此時(このとき)は其(その)年(とし)の閏(うるふ)十月 迄(まで)相対峙(あひたいじ)したものである併(しか)し今(いま)
川義元(がはよしもと)の調停(てうてい)で一たびは解(と)け去(さ)つたが其(その)後(ご)七年を経(へ)て永禄(えいろく)四年十月 再(ふたゝ)び相衝突(あひせうとつ)して激戦(げきせん)があつたので
あるモツトモ其七年間には尚(な)ほ幾多(いくた)の小戦(せうせん)はあつた様子(やうす)であるが此(この)間(あひだ)に双方(そうはう)が他(た)の方面(はうめん)に向(むかつ)て活動(かつどう)し
た事は又(ま)た格別(かくべつ)であつたのである
北条氏 ソコで少(すこ)しく北条氏(ほうじようし)の話(はなし)を述(の)べねばならぬ事になつたのであるが初(はじ)め北条早雲(ほうじようさううん)と云ふ人は今川氏(いまがはし)の将(せう)
で遂(つひ)に自(みづか)ら伊豆(いづ)を定(さだ)め小田原(おだはら)を略(りやく)し将(まさ)に関東(くわんとう)八 州(しう)を席巻(せきくわん)せむとする勢(いきほひ)で屡々(しば〳〵)甲州(かうしう)へも攻(せ)め入(い)つたの
北条氏綱 である永正(えいせう)十六年八月に卒(そつ)したが其子(そのこ)の氏綱(うぢつな)は父のあと後(あと)を嗣(つ)いで益々(ます〳〵)版図(はんと)を拡張(くわくてう)し大永(たいえい)四年正月 江戸城(えどぜう)
を抜(ぬ)き天文六年七月 河越(かはごゑ)を陥(おとしい)れ七年十月 鴻(こう)の台(だい)に勝(か)つて既(すで)に伊豆(いづ)相模(さがみ)武蔵(むさし)を併(あは)せ上総(かづさ)下総(しもおさ)の一 部(ぶ)を
略(りやく)し次第(しだい)に上州(ぜうしう)に及(およ)ばむとしたのであるトコロで武田信虎(たけだのぶとら)は当時(とうじ)到底(とうてい)之(これ)に抗(こう)することの出来(でき)ぬのを慮(おもんば)つ
て深(ふか)く今川氏(いまがはし)に結(むす)むで防禦(ぼうぎよ)の策(さく)を立(た)てたのあるが氏綱(うぢつな)に於(おい)ては此(この)二 氏(し)の連合(れんごう)を以(もつ)て己(おの)れに不利(ふり)であ
北条氏康 るとなして更(さら)に駿河(するが)に攻(せ)め入(い)つたのである然(しか)るに氏綱(うぢつな)も天文(てんぶん)十年七月に卒去(そつきよ)したので其子(そのこ)の氏康(うぢやす)が嗣(し)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百三十号附録 ( 明治四十四年八月八日発行 )
【本文】
立(りつ)したが此(この)氏康(うぢやす)と云ふ人は文武両道(ぶんぶれうどう)に達(たつ)した人で有名(ゆうめい)なる武将(ぶせう)であつた此(この)人(ひと)の著(ちよ)で武蔵野紀行(むさしのきこう)などゝ
云ふものがあるが之(これ)は諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の事と思ふ而(しか)して氏康(うぢやす)嗣立(しりつ)の時は恰(あたか)も二十六歳であつたが前(まへ)にも
申述(もうしのべ)た如く丁度(ちようど)此年(このとし)に武田信玄(たけだしんげん)は二十一歳で自立(じりつ)したのである而(しか)も信濃(しなの)攻略(こうりやく)忙(せわ)しかつたから寧(むし)ろ北(ほう)
条氏(ぜうし)と和(わ)するに如(し)かずと考(かんが)へたので天文十三年十二月 小林宮内助(こばやしくなひすけ)と云ふものに旨(むね)を啣めて欵(くわん)を通(つう)ぜん
事(こと)を求(もと)めしめたのであるが其頃(そのころ)今川義元(いまがはよしもと)は上杉憲政(うへすぎのりまさ)と相約(あいやく)して北条氏(ほうぜうし)を爽撃(さうげき)せむとし兵(へい)を出(いだ)したので
信玄(しんげん)は却(かへつ)て其間(そのあひだ)にあつて調停(ちようてい)したと云ふ訳(わけ)で之(これ)も一時は相和(あひわ)するに至(いた)つたのである然(しか)るに其後(そののち)氏康(うぢやす)は
《割書:北條氏康駿|河に侵入す》 益々(ます〳〵)関東(くわんとう)に志(こゝろざし)を得(え)て天文二十三年二月 今川義元(いまがはよしもと)が自(みづか)ら三河に出陣(しゆつぢん)した其(その)隙(げき)に乗(じよう)じ復(ま)た兵(へい)を遣(つか)はして
駿河(するが)に侵入(しんにふ)したのである此時(このとき)信玄(しんげん)は義元(よしもと)の請(こひ)に依(よつ)て出(い)でゝ刈屋川(かりやがは)に陣(ぢん)し河(かは)を隔(へだ)てゝ相(あひ)戦(たゝか)つたが北条勢(ほうぜうぜい)
《割書:今川武田北|条三氏の連》 の破(やぶ)る処(ところ)となつて退却(たいきやく)したのである此際(このさい)瀬古(せこ)の善徳寺(ぜんとくじ)の和尚(おしよう)は雪斎(せつさい)長老(ちようらう)の兄弟(けいてい)であつたので今川(いまがは)武田(たけだ)
《割書:合|善徳寺の会》 北条(ほうぜう)の三 氏(し)の間(あひだ)に奔走(ほんさう)して更(さら)に調停(ちようてい)の労(らう)を取(と)り三 氏(し)も各々(おの〳〵)利害関係(りがいくわんけい)の上(うへ)から之(これ)を承諾(しようだく)して互(たがひ)に相連合(あひれんごう)
《割書:盟| 》 するのを望(のぞ)むだので其三月三人の大将(たいしよう)は此(この)善徳寺(ぜんとくじ)に相会合(あひくわいごう)して盟約(めいやく)を結(むす)むだのである之(これ)より武田(たけだ)今川(いまがは)
北条(ほうぜう)の三 氏(し)は各々(おの〳〵)後顧(こうこ)の患(うれい)を去(さ)つたのでソレ〴〵向(むか)ふ処(ところ)に突進(とつしん)したのであるが氏康(うぢやす)は其年(そのとし)の十月 兵(へい)を
《割書:北条氏の関|東征略》 発(はつ)し下総(しもふさ)の古河城(こがじよう)を攻(せ)め遂(つひ)に足利晴氏(あしかゞはるうぢ)を虜(とりこ)にし之(これ)を相州(さうしう)の波多野(はだの)に幽閉(ゆうへい)した併(しか)し後(のち)に其子(そのこ)の義氏(よしうぢ)を
奉(ほう)じて古河城(こがじよう)に復(ふく)し晴氏(はるうぢ)の幽閉(ゆうへい)をも解(と)いて下総(しもふさ)の関宿城(せきじくじよう)に居(を)らしめたが此(かく)の如(ごと)くして一方には関東(くわんとう)
の人心(じんしん)を収攬(しうらん)し一方には勢力推移(せいりよくすゐい)の方法(はうほう)となしたのである而(しか)して武田氏(たけだし)に於(おい)ては前(まへ)にも御話(おはなし)した通(とほ)り
《割書:武田氏の飛|騨侵略》 之(これ)から川中島(かはなかじま)の合戦(かつせん)が起(おこ)つたにも拘(かゝは)らず着々(ちやく〳〵)信濃(しなの)を平定(へいてい)することを勉(つと)めたので遂(つひ)には兵(へい)を飛騨(ひだ)に出(いだ)して
永禄(えいろく)七年七月には其(その)将(しよう)山縣政昌景(やまがたまさかげ)を遣(つか)はして千光寺(ちくわうじ)と云ふ有名(ゆうめい)なる寺院(じゐん)を焼(や)いて大(おほい)に松倉城主(まつくらじようしゆ)三木自綱(みきよりつな)
の勢力(せいりよく)を殺(そ)いだのである又(ま)た今川義元(いまがはよしもと)の方(はう)はドウであるかと云ふに之(こ)れ亦(ま)た前(まへ)に申述べた如く今(いま)は後(こう)
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百一
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百二
【本文】
《割書:今川義元の|西上》 顧(こ)の患(うれひ)も少(すくな)く準備(じゆんび)も十 分(ぶん)であると云ふので愈々(いよ〳〵)西上(せいじやう)の目的(もくてき)を達(たつ)せむとの意気込(いきこみ)から尾張(をはり)に入つたが永
《割書:桶狭間の敗|死》 禄三年五月 桶狭間(おけはざま)に於(おい)て織田信長(をだのぶなが)の為(ため)に敢(はか)なく最後(さいご)を遂(と)げたのである
之(こ)れが先(ま)づ話(はなし)の大要(たいえう)であるが当時(とうじ)は言(い)ふ迄(まで)もなく戦国(せんごく)策士(さくし)の集(あつま)りで由来(ゆらい)多(おほ)く術数(じゆつすう)の行(おこな)はれた時代(じだい)であ
《割書:武田氏駿河|を窺ふ》 るから今川氏真(いまがはうぢさね)の国政(こくせい)が紊(みだ)るゝに方(あたつ)ては三 氏(し)の盟約(めいやく)も決(けつ)して此(この)まゝに継続(けいぞく)さるゝ筈(はづ)はないので武田氏(たけだし)
は漸(やうや)く其機(そのき)に乗(じよう)じて爪牙(さうが)を駿遠(すんゑん)の地(ち)に逞(たくまし)ふせむと企(くはだ)てたのであるモツトモ当時(とうじ)信虎(のぶとら)はまだ駿河(するが)に居(を)
つて常(つね)に今川氏(いまがはし)の内情(ないじやう)を信玄(しんげん)に報(ほう)じ又た将士(しようし)の内応(ないおう)を媒介(ばいかい)して先(ま)づ氏真(うぢさね)を追(お)はむとしたのである然(しか)る
に庵原安房守(あんばらあはのかみ)と云ふ人があつて其(その)才略(さいりやく)を以(もつ)て却(かへつ)て信虎(のぶとら)を斥(しりぞ)けたので信虎(のぶとら)は一たび京都(きようと)に逃(のが)れたのであ
るが連(しき)りに謀(はかりごと)を信玄(しんげん)に通(つう)じて駿河(するが)に侵入(しんにふ)せしめたのである之(これ)より先(さ)き信玄(しんげん)は使(し)を北条氏(ほうぜうし)に遣(つか)はして
駿河(するが)を分取(ぶんしゆ)せる事を申込(もうしこ)むだのであるが北条氏(ほうぜうし)に於(おい)ては之(これ)に応(おう)ぜざるのみならず今川氏(いまがはし)は自家防禦(じかぼうぎよ)の
《割書:北条氏今川|氏を助く》 前衛(ぜんゑい)とでも云ふべき訳(わけ)であるから寧(むし)ろ前約(ぜんやく)を守(まも)り氏真(うぢさね)を助(たす)けて武田氏(たけだし)に当(あた)るの策(さく)に出(い)でたのである併(しか)
しソレが中々(なか〳〵)旨(うま)いので一 方(ほう)には今川氏(いまがはし)の嬴弱(えいじやく)なるに乗(ぜう)じて恩(おん)を施(ほどこ)し義(ぎ)を結(むす)び勉(つと)めて懐柔(くわいじう)の策(さく)を取(と)り而(しか)
して一方には陰(ゐん)に術策(じゆつさく)を施(ほどこ)して其(その)領土(れうど)を得(え)む事(こと)を計(はか)つたのである又(ま)た信玄(しんげん)に於(おい)ては徳川氏(とくがはし)に対(たい)しても
永禄七年十一月 既(すで)に下條弾正信氏(しもぢようたんぜうのぶうぢ)を使(し)として酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の処(ところ)まで書(しよ)を送(おく)つて好(よしみ)を求(もと)めたのであるが十一
《割書:徳川真田二|氏の盟約》 年二月に至(いた)り更(さら)に大井河(おほゐがは)を境界(けうかい)として駿遠(すんゑん)分割(ぶんかつ)の事を徳川方(とくがはがた)と盟約(めいやく)し互(たがひ)に誓書(せいしよ)を交換(こうくわん)するに至(いた)つたの
である其(その)時(とき)信玄(しんげん)から家康(いへやす)に送(おく)つた文書(ぶんしよ)は左(さ)の通(とほ)りである
聊雖不存疑心候、誓紙之儀所望申候処則調給候祝着候、信玄事茂如案文書写於使者眼前致血判進之
候弥御入魂所希候恐々謹言
二月十六日 信 玄 判
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□□□□□□□□□
【本文】
徳 川 殿
《割書:武田氏駿河|に侵入す》 ソコで信玄(しんげん)は其(その)十二月の六日に甲府(こうふ)を出発(しゆつぱつ)して駿河(するが)に攻入(せめい)り家康(いへやす)も亦(ま)た十二月十一日 吉田城(よしだじよう)に於て諸(しよ)
将(しよう)を部署(ぶしよ)し兵(へい)を遠江(とふとうみ)に進(すゝ)めて其(その)西北部(せいほくぶ)を略(りやく)し井伊谷(いゐのや)、 鵜津山(うづやま)、 刑部(おさかべ)、 白須賀(しらすが)等(とう)の地を占領(せんれう)したのであ
《割書:徳川氏遠江|に侵入す》 るが此際(このさい)に於ける菅沼定盈(すがぬまさだみつ)の周旋(しうせん)は最(もつと)も有功(ゆうこう)のものであつたのである此(こゝ)に於(おい)て北条氏(ほうぜうし)は坐師(ざし)する訳(わけ)に
行(ゆ)かぬので氏康(うぢやす)は其(その)子(こ)氏政(うぢまさ)と共(とも)に兵(へい)を駿河(するが)に出(いだ)して信玄(しんげん)に対抗(たいこう)したのであるが氏真(うぢさね)は遂(つひ)に武田勢(たけだぜい)の為
《割書:北条今川二|氏援を謙信》 に破(やぶ)られて遠江(とふとほみ)掛川(かけがは)の城(しろ)に逃(のが)れ更(さら)に家康(いへやす)の為に囲(かこ)まるゝに至(いた)つたのであるかゝる始末(しまつ)であるから今川
《割書:に求む | 》 氏 並(ならび)に北条氏(ほうぜうし)に於ては孰(いづ)れも援(ゑん)を越後(えちご)の上杉氏(うへすぎし)に求(もとむ)るより外(ほか)にはないと云ふので連(しき)りに使(し)を謙信(けんしん)に送(おく)
つたのであるがサテ謙信(けんしん)に於ては之(これ)よりズツト以前(いぜん)天文廿一年正月に上杉憲政(うへすぎのりまさ)が来(きた)り投(とう)じたので之(これ)を
輔(たす)け兵(へい)を上野(うへの)に出し厩橋(うまやばし)に牙城(がじよう)を保(たも)つて屡々(しば〳〵)北条氏(ほうぜうし)と戦(たゝか)つたものであるそれのみならず憲政(のりまさ)と父子(ふし)の
約(やく)を結(むす)むで上杉氏(うへすぎし)を冒(おか)し一方には信玄(しんげん)と信濃(しなの)に対峙(たいじ)せるにも拘(かゝは)らず永禄二年四月 入京(にふきよう)して天子(てんし)、 将軍(せうぐん)
に謁見(えつけん)し関東管領(くわんとうくわんれう)の命(めい)を拝(はい)し永禄四年三月には十一万の兵を率(ひき)ひ遂(つひ)に長駆(ちようく)して北条氏(ほうぜうし)の根拠(こんきよ)たる小(お)
田原(たはら)に迫(せま)つたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)は武田(たけだ)北条(ほうぜう)二 氏(し)の連合(れんごう)が成(な)つて居(を)つたのでサスガの謙信(けんしん)も志(こゝろざし)を得
る事が出来(でき)なかつたのであるが今度(こんど)却(かへつ)て北条氏から頻(しき)りに連合(れんごう)の事を申込(もうしこ)むだと云ふ訳(わけ)である併(しか)し当(とう)
《割書:信玄家康の|盟約破る》 時(じ)は恰(あたか)も雪(ゆき)が深(ふか)くて謙信(けんしん)も容易(ようい)に之(これ)に応(おう)ずる事が出来(でき)なかつたのである然(しか)るに一方に於(おい)て信玄(しんげん)家康(いへやす)二
人の関係(くわんけい)は右(みぎ)の如(ごと)くであつたにも拘(かゝは)らず動(やゝ)もすれば信玄(しんげん)の方で約(やく)を破(やぶ)つて遠江(とふとほみ)に迄(まで)も切(き)り込(こ)む形勢(けいせい)が
あるので家康(いへやす)は遂(つひ)に之(これ)を怒(おこ)つて相絶(あひた)つに至(いた)つたのである而(しか)も之(これ)と同時(どうじ)に氏真(うぢさね)に勧告(くわんこく)して遠江(とふとほみ)全国(ぜんこく)を譲(ゆづ)
《割書:家康今川氏|眞と和す》 り受(う)くる約束(やくそく)を結(むす)むで之(これ)と講話(こうわ)し之(これ)も亦(ま)た使(し)を謙信(けんしん)に送(おく)つて相連合(あひれんごう)せむことを申込(もうしこ)むだのみならず武田(たけだ)
氏(し)の将(せう)山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(ろべゑまさかげ)を府中(ふちう)に攻(せ)めてこ之(これ)を追(お)ひ更(さら)に北条氏とも結(むす)むだのであるソコで信玄(しんげん)は全(まつた)く四
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百三
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百四
【本文】
信玄の退軍 面(めん)に敵(てき)を受(うけ)る事となつて止(やむ)を得(え)ず翌年四月の廿七日夜を以(もつ)てに竊(ひそか)に軍(ぐん)を甲州(こうしう)へ引(ひ)き退(しりぞ)けたのであるトコ
ロが北条氏(ほうぜうし)の遣(や)り方(かた)と云ふものは中々(なか〳〵)上手(ぜうづ)なので氏政(うぢまさ)の子(こ)氏直(うぢなを)を以(もつ)て今川氏真(いまがはうぢさね)の養子(やうし)となして自然(しぜん)に
其(その)領土(れうど)が己(おの)れに転(ころが)り込(こ)むで来(く)るように仕向(しむ)けたのである且(か)つ氏真(うぢさね)をば沼津城(ぬまづのしろ)に置(お)いて其(その)監視(かんし)の下(もと)にあ
らしめたのである
《割書:北条氏駿河|を占有す》 要(えう)するに武田氏(たけだし)が今度(このたび)の挙(きよ)は徳川氏(とくがはし)に遠江(とふとほみ)を取(と)らしめ北条氏(ほうぜうし)をして漁夫(ぎよふ)の利(り)を占(し)めしめたのに終(をは)つて
自己(じこ)は全然(ぜん〴〵)失敗(しつぱい)となつたので到底(とうてい)此(この)まゝ黙止(もくし)する訳(わけ)に行(ゆ)かぬのは当然(とうぜん)であるソコで永禄十二年六月 信(しん)
《割書:信玄小田原|に侵入す》 玄(げん)は再(ふたゝ)び兵を率(ひき)ゐて駿河(するが)の東部(とうぶ)に攻(せ)め入(い)つたが八月下旬には更(さら)に佐久郡(さくぐん)から西上野(にしうへの)に出で武蔵(むさし)に入り
十月には遂(つひ)に小田原(をたはら)に迫(せま)り一 色(しき)、 酒匂(さかわ)の近邑(きんゆう)に火(ひ)を放(はな)つたのである併(しか)し氏康(うぢやす)氏政(うぢまさ)父子(ふし)は既(すで)に謙信(けんしん)侵入(しんにふ)
の時に於て経験(けいけん)があるので背(そむい)て出(い)で戦(たゝか)はなかつたのである而(しか)も信玄(しんげん)に於ては小田原(をたはら)を攻(せ)むるのが目的(もくてき)
ではなく結局(けつきよく)駿河(するが)を侵略(しんりやく)する為(た)めの索制(さくせい)手段(しゆだん)であつたのだから幾何(いくばく)もなく兵を甲斐(かひ)に班(はん)したが十一月
《割書:信玄駿河の|諸城を略す》 直(たゞ)ちに又た兵を駿河(するが)に出(いだ)して北条氏(ほうぜうし)の属城(ぞくぜう)を攻(せ)めたのである然(しか)るに此方(このほう)略(りやく)か着々(ちやく〳〵)成功(せいこう)して続(つゞ)いて府中(ふちう)
を略(りやく)し蒲原城(かんばらぜう)を陥(おとしゐ)れ翌(よく)元亀元年には更(さら)に進(すゝ)むで志太郡(したぐん)花沢城(はなざわぜう)を攻(せ)めたが此(この)城(しろ)には前(まへ)にも申述(もうしの)べた如
く当時(とうじ)小原肥前守鎮実(をはらひぜんのかみしげさね)が居(を)つたのである併(しか)し之(これ)も亦(ま)た到底(とうてい)支(さゝ)ゆることが出来(でき)なくて鎮実(しづさね)は城(しろ)を捨(す)てゝ逃(のが)
れ続々(ぞく〳〵)藤枝(ふぢえだ)、 徳野(とくの)、一 色(しき)などの城(しろ)も信玄(しんげん)の占領(せんれう)する処(ところ)となつたのである信玄(しんげん)は乃(すなは)ち藤枝城(ふぢえだぜう)を修築(しうちく)して
田中城(たなかぜう)と名(な)つけ馬場信房(ばゞのぶふさ)をして之(これ)を守(まも)らしめ更(さら)に江尻(えじり)にも城(しろ)を築(きづ)いて山縣昌景(やまがたまさかげ)を之(これ)に置(お)いたのである
がかゝる有様(ありさま)で僅(わづか)の間(あひだ)に駿河国(するがのくに)は大半(たいはん)信玄(しんげん)の占有(せんゆう)する処となつたので氏康(うぢやす)父子(ふし)は小田原(をだはら)にあつて遂(つひ)に
之(これ)を救(すく)ふに遑(いとま)あらざりしのみならず連(しき)りに謙信(けんしん)に向(むかつ)て応援(おうゑん)を請(こ)つたのであるが当時(とうじ)まだ雪(ゆき)の深(ふか)かつた
為(ため)か将(は)た其他(そのた)に理由(りゆう)のあつたものか謙信(けんしん)は遂(つひ)に一兵をも動(うご)さなかつたのであるかくて武田(たけだ)徳川(とくがは)二 氏(し)は
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百三十六号附録 ( 明治四十四年八月十五日発行 )
【本文】
自然(しぜん)に又(ま)た大井河(おほゐがは)を境(さかひ)して相対峙(あひたいたいじ)するに至(いた)つたのである
此(こゝ)に於(おい)て信玄(しんげん)は愈々(いよ〳〵)遠江(とふとほみ)三河(みかは)に侵入(しんにふ)して徳川氏の腕前(うでまへ)を試(ためし)みようとしたのであるが之(これ)には先(ま)づ後顧(こうこ)の
患(うれひ)を少(すくな)からしむる為(ため)に北条氏を脅(おびや)かして十分に其(その)勢力(せいりよく)を殺(そ)いで置(お)く必要(ひつえう)があると云ふので元亀元年四
月 伊豆(いづ)に攻(せ)め入(い)つて韮山城(にらやまぜう)を囲(かこ)み氏政(うぢまさ)と三 島(しま)に相峙(あひぢ)して軍(ぐん)を退(しりぞ)けたのである然(しか)る後(のち)イヨ〳〵兵(へい)を遠江(とふとほみ)
に入(い)れたのであるが之(これ)が即(すなは)ち信玄(しんげん)が初(はじ)めて三河に侵入(しんにふ)するに至(いた)れる経路(けいろ)である而(しか)して其(その)侵入(しんにふ)の順序(じゆんじよ)と
《割書:信玄遠江に|侵入す》 云うふものは先(ま)づ元亀二年二月に兵(へい)を出(いだ)して遠江(とふとほみ)の小山(こやま)、 相良(さがら)に城(しろ)を築(きづ)き三月には進(すゝ)むで高天神城(たかてんじんのしろ)に徳
川氏の将(せう)小笠原長忠(をがさはらながたゞ)を攻(せ)め一 方(ぱう)には水軍(すゐぐん)を編成(へんせい)して天龍川口(てんりうがはぐち)に当(あた)る掛塚(かけつか)を侵(をか)さしめたのである而(しか)して
《割書:武田氏の兵|三河を抄掠》 其四月には遠江(とふとほみ)の土兵(どへい)を煽動(せんどう)して西三河に入らしめ岩津(いわづ)、 岡崎(をかざき)二 城(ぜう)を脅(おびや)かし次(つい)で兵(へい)を率(ひき)ゐて信州(しんしう)
《割書:す | 》 から三河の西部(せいぶ)に入(い)り先(ま)づ足助城(あすけぜう)を抜(ぬ)き更(さら)に東(ひがし)に転(てん)じて作手(つくて)方面(はうめん)から南下(なんか)して野田(のだ)、 牛久保(うしくぼ)、 長沢(ながさわ)、
《割書:家康浜松の|新城に移る》 二 連木(れんぎ)を抄掠(せうれう)して此(この)吉田城(よしだぜう)に迫(せま)つたのである之(これ)より先(さ)き元亀元年正月に浜松(はままつ)の新城(しんぜう)が落成(らくせい)して家康(いへやす)は
姉川の合戦 岡崎(をかざき)から移(うつ)つて之(これ)に居(を)り岡崎(をかざき)の城(しろ)には其子(そのこ)の信康(のぶやす)を置(お)いたのであるが其年(そのとし)の六月には有名(ゆうめい)なる姉川(あねがは)の
合戦(かつせん)があつたので織田信長(をたのぶなが)の請(こひ)によつて家康(いへやす)は勿論(もちろん)徳川氏(とくがはし)の将士(せうし)は酒井忠次(さかゐたゞつぐ)等(ら)を初(はじ)め多(おほ)く之(これ)に参加(さんか)し
て孰(いづ)れも殊功(しゆこう)を顕(あらは)したのであるモツトモ当時(とうじ)武田信玄(たけだしんげん)は前に申述べた通り恰(あたか)も伊豆(いづ)に攻(せ)め入(い)つて北条氏(ほうぜうし)
の軍(ぐん)と対峙(たいじ)せる時(とき)であつたから其後(そののち)を窺(うかゞ)ふの暇(いとま)がなかつたのであるがイヨ〳〵今度(このたび)信玄(しんげん)自(みづか)ら三河に攻(せめ)
《割書:山家三方武|田氏に属す》 入(い)つて来(く)るに就(つい)ては先(ま)づ遠江(とふとほみ)の秋山信友(あきやまのぶとも)等(ら)をして東三河の北部(ほくぶ)に於(お)ける山家(やまが)三 方(ほう)の人々を誘致(ゆうち)せしめ
たのであるソコで野田(のだ)の菅沼氏(すがぬまし)並(ならび)に菅沼定氏(すがぬまさだうぢ)等(ら)の一 類(るい)を除(のぞ)くの外(ほか)は奥平道文(おくだひらみちぶみ)等(ら)を初(はじ)め菅沼(すがぬま)の一 族(ぞく)は徳(とく)
川氏(がはし)に叛(そむ)きて武田氏(たけだし)に属(ぞく)したと云ふ訳(わけ)であるがこ之(これ)等(ら)の人々の手引(てびき)によつて遂(つひ)に吉田城(よしだぜう)に迫(せま)るに至(いた)つた
《割書:信玄吉田城|に迫る》 のである此時(このとき)二 連木(れんぎ)の城主(ぜうしゆ)戸田康長(とだやすなが)はまだ虎千代(とらちよ)と云つた頃(ころ)で僅(わづか)に十歳であつたが戸田吉国(とだよしくに)が陣代(ぢんだい)を
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百五
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百六
【本文】
して居(を)つて之(これ)を拒(ふせ)いだのである又(ま)た此時(このとき)家康(いへやす)は浜松(はままつ)から出陣(しゆつぢん)して此(この)吉田城中(よしだぜうちう)にあつたのであるが前に
二連木合戦 も一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)く徳川実記(とくがはじつき)には御名誉聞書(ごめいよきゝがき)を引(ひ)いて此時(このとき)の戦(たゝかひ)の様(さま)が載(の)せてある後其(その)原文(げんぶん)は左(さ)
の通(とほ)りである
元亀(げんき)二年四月 武田信玄(たけだしんげん)三 州(しう)へ攻入由(せめいりしよし)聞取(きゝとり)浜松(はままつ)より吉田城(よしだぜう)へ御皈座(ごきざ)あり信玄(しんげん)の先鋒(せんぱう)山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(らうべゑまさかげ)
多勢(たぜい)率(ひ)きつれ攻(せ)め来(きた)る君(きみ)三の輪(わ)の櫓(やぐら)に扇(あふぎ)の御馬標(おうまじるし)立(た)て敵陣(てきぢん)の様(さま)つく〳〵御覧(ごらん)あり酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)
が打(うつ)て出(いで)むと云(い)ふを制(せい)し給(たま)ひ敵陣(てきぢん)の様(さま)を見(み)るに城(しろ)を責(せ)むとにあらず我(われ)をおびき出(だ)し彼(か)の松原(まつはら)にて伏(ふく)
兵(へい)もて打(う)たむとするならんよく見(み)よ今(いま)に彼方(かなた)より武功(ぶこう)の者(もの)を出(いだ)して戦(たゝかひ)を挑(いど)むべし此方(こなた)よりも一 騎(き)
当千(とうせん)の者(もの)出(いだ)して鎗(やり)ばかり合(あは)せしめよと宣(のたま)ひしが果(はた)して敵方(てきがた)より廣瀬郷右衛門(ひろせごううゑもん)、 三枝伝右衛門(さいぐさでんうゑもん)、 孕石(はらみい)
源右衛門(しげんうゑもん)など土橋(どばし)まで進(すゝ)み来(きた)りしかば城中(ぜうちう)よりも酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)、 戸田左門一西(とださもんかづあき)、 大津土左衛門(おほつどさゑもんの)
尉時隆(ぜうときたか)等(ら)打(う)つて出(い)で互(たがひ)に詞(ことば)をかはして渡(わた)り合(あ)ひしが頓(やが)て彼方(かなた)より引(ひ)き取(と)りしなり
而(しか)して試(こゝろみ)に甲陽軍鑑(かうようぐんかん)の記事(きじ)を掲(かゝげ)て見(み)ると之(こ)れ亦(ま)た前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く
元亀(げんき)二年四月、 信玄(しんげん)吉田(よしだ)へ御馬(おんうま)を向(むけ)らる、二 連木(れんぎ)と云所(いふところ)に取出仕(とりいでつかまつり)、 家康(いへやす)衆(しう)防居(ふせぎを)る、 総軍(そうぐん)を以(もつ)て大(おほ)
手(て)へ被寄(よせられ)其上(そのうへ)搦手(からめて)へ山家(やさか)三 方(ぱう)、 小笠原(をがさはら)、 山縣衆(やまがたしう)働(はたらく)、 之(これ)を見(み)て、城(しろ)を明け、 引取(ひきとり)也
とあるのである又(ま)た当時(とうじ)山縣(やまがた)三 郎兵衛昌景(らうべゑまさかげ)から孕石主水(はらみいしもんど)へ贈(おく)つた文書(ぶんしよ)があるが之(これ)に拠(よ)るも亦(ま)た其時(そのとき)の
状況(ぜうけう)が分(わか)ると思(おも)ふから其中(そのなか)で必要(ひつえう)なる処(ところ)を左(さ)に抄出(しようしゆつ)することとする
一、足助之地、以_二御先衆_一去十五日被_二取詰_一候処、城主鈴木越後父子様々就_二懇望_一、被_レ助_二身命_一、十
九日被_レ立候、彼地一段堅固之間、御抱之為御番勢、伊奈之下條被_二指置_一候、
一、近辺之小城為_レ始浅賀井、阿須利、八桑、大沼、田代等自落、彼筋被_レ明御隙之条、至_二東三河_一
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□□□豊橋市史談□□□□□□□□□□□□□
【本文】
被_レ遂_二御陣_一候、野田築_二執出(トリデ)_一菅沼新八郎居住候、因_レ茲山家三方衆為_二案内_一者、小笠原掃部大
夫拙者人数相添、作手を打立、夜中働候処、旗先を見付、明城城罷退候、追懸悉討取候、雖_レ然
新八郎討漏無念、(下略)
一、昨廿九日向_二吉田_一被_レ及_二御行_一候処、号_二 二連木_一 地相蹈候間、三方衆小掃拙者廻_二搦手_一、作を見
届、明_レ城敗北、切所故不_二打留_一、口惜存候、
一、後刻家康自身従_二半途_一出備候間、御屋形様御眼前之事候条、右之衆申合、二連木之際押崩、吉
田城内迄追入候、敵二千余之人数に候間、執_二切所_一退散候条、不_二討留_一、所存之外候
(前後省略)
卯 月 晦 日 山 三 兵 昌 景
孕 主 殿 (孕石主水)
御 報
此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で信玄(しんげん)は三河に入(い)つて諸方(しよほう)を抄掠(しようれう)したが此(この)時(とき)は遂(つひ)に大合戦(たいかつせん)もなくて程(ほど)なく退軍(たいぐん)したのであ
る併(しか)し信玄(しんげん)の方(ほう)から云ふと此(この)時(とき)の戦(たゝかひ)は先(ま)づ斥候戦(せつこうせん)とも云ふべきもので所謂(いはゆる)信玄(しんげん)が西上(せいぜう)の計画(けいくわく)は之(これ)より
《割書:信玄の西上|計画》 益々(ます〳〵)進抄(しんしよう)したのである而(しか)して其(その)計画(けいくわく)と云ふものが又(ま)た中々(なか〳〵)の大仕掛(おほしかけ)であつて今度(このたび)は東(ひがし)、 北条氏(ほうぜうし)に対(たい)す
《割書:信玄北条氏|と和す》 る方策(ほうさく)を一 変(ぺん)し第一に後顧(こうこ)の患(うれひ)なからしむる為(ため)には之迄(これまで)の行(ゆ)き掛(がゝ)りがあるにも抅(かゝは)らず寧(むし)ろ之(これ)と講話(こうわ)す
るに如(し)かずとなしたのであるが北条氏(ほうぜうし)に於(おい)ても其後(そのご)謙信(けんしん)が到底(とうてい)十 分(ぶん)なる後援(こうえん)をしてくれぬ処(ところ)から矢張(やはり)
此(この)講話(こうわ)を以(もつ)て止(やむ)を得(え)ざるものとなして遂(つひ)に断然(だんぜん)武田氏(たけだし)に和(わ)を求(もと)むるの決心(けつしん)をしたのであるモツトモ当(とう)
時(じ)恰(あたか)も氏康(うぢやす)が卒去(そつきよ)したので却(かへつ)て其(その)話(はなし)が早(はや)く熟(じゆく)して元亀三年正月 氏政(うぢまさ)は其(その)二 弟(てい)氏忠(うぢたゞ)、 氏堯(うぢゆき)を甲斐(かひ)に質(しち)た
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百七
【欄外】
豊橋市史談 (今川氏の衰亡と武田氏の侵入) 百八
【本文】
《割書:信玄と里見|佐竹両氏》 らしめて愈々(いよ〳〵)親厚(しんこう)を堅(かた)むる事となつたが之(これ)より先(さ)き信玄(しんげん)は安房(あは)の里見氏(さとみし)並(ならび)に常陸(ひたち)の佐竹氏(さたけし)にも好(よしみ)を通(つう)
じて居(お)つたので此(こゝ)に至(いた)つて尚(なほ)相(あひ)結托(けつたく)して此上(このうへ)にも北条氏(ほうでうし)万一の場合(ばあひ)に備(そなへ)むとしたのであるが之(これ)で先(ま)づ
北条氏(ほうでうし)に対(たい)する政策(せいさく)は立(た)つたのであるサテ北方(ほつほう)上杉謙信(うへすぎけんしん)に対(たい)する方策(ほうさく)は如何(どう)であるかと云ふに之(これ)には
《割書:謙信に対す|る方策》 大(おほい)に本願寺(ほんぐわんじ)を利用(りよう)したのである元来(がんらい)信玄(しんげん)と本願寺(ほんぐわんじ)とは深(ふか)き縁故(ゑんこ)があるのであるが其他(そのた)にも種々(しゆ〴〵)なる理(り)
由(ゆう)を付(つ)けて其(その)力(ちから)を藉(か)りソレデ加賀(かが)越中(ゑつちう)に於(お)ける一 向宗(こうしう)の一 揆(き)を煽動(せんどう)し尚(な)ほ椎名(しゐな)、 神保(しんほ)の両氏(れうし)と結(むす)むで
謙信(けんしん)に当(あた)らしめ以(もつ)て其(その)西上(せいぜう)の途(と)を壅塞(えうさい)せしめんとしたのである加之 近江(あふみ)の浅井(あさゐ)越前(ゑつぜん)の朝倉(あさくら)二 氏(し)とも連(れん)
《割書:利足義昭と|玄信》 合(ごう)して織田信長(をたのぶなが)を牽制(けんせい)し松永久秀(まつながひさひで)と通(つう)じて将軍(せうぐん)足利義昭(あしかゞよしあきら)に取(と)り入(い)り且(か)つ義昭(よしあきら)と信長(のぶなが)との間(あひだ)を離間(りかん)せむ
ことを計(はか)つたのであるモツトモ松永久秀(まつながひさひで)の方(ほう)でも依(よつ)て以(もつ)て己(おの)れの後援(こうゑん)となさむと考(かんが)ふる処から旨(うま)く信玄(しんげん)
と義昭(よしあきら)との間(あひだ)を取(とり)なし文書(ぶんしよ)の往復(おうふく)も度々(たび〴〵)あつたもので信玄(しんげん)は遂(つひ)に駿河(するが)に於(おい)て地(ち)を義昭(よしあきら)、 久秀(ひさひで)に贈(おく)るに
至(いた)つたと云ふ訳(わけ)であるかゝる状況(ぜうけう)であつたが織田信長(をだのぶなが)と云ふ人は初(はじ)めから頗(すこぶ)る信玄(しんげん)を恐(おそ)れた様子(やうす)で之(これ)
《割書:上杉織田徳|川三氏の連》 迄(まで)勉(つと)めて其(その)歓心(くわんしん)を得(え)むことを計(はか)つたのであるが今度(このたび)も連(しき)りに家康(いへやす)に勧告(くわんこく)して浜松(はままつ)を退(しりぞ)き復(ふたゝ)び岡崎(をかざき)に拠(よ)る
合 ようにせしめむとしたのである然(しか)るに家康(いへやす)は之(これ)を肯(がへん)せざるのみならず反(かへつ)て深(ふか)く上杉謙信(うへすぎけんし)とむ結(むす)むで武田(たけだ)
氏(し)に対(たい)する策(さく)を講(こう)じたのであるソコで元亀(げんき)元年(がんねん)七月 使(し)を越後(ゑつご)に遣(つか)はしたのであるが爾来(じらい)は数々(しば〳〵)参越(さんゑつ)
の間(あひだ)に往復(おうふく)があつて其(その)翌(よく)二年には徳川氏(とくがはし)から遠州(ゑんしう)秋葉山(あきはさん)権現堂(ごんげんどう)加納(かのう)坊(ぼう)浄全(ぜうぜん)と云ふものに熊谷直高(くまがいなをたか)を副(そ)
へて越後(ゑつご)に使(つか)はし締盟(ていめい)を堅固(けんご)にせしめたのである而(しか)して信長(のぶなが)に於(おい)ても其翌三年十一月廿日 遂(つひ)に誓書(せいしよ)を
謙信(けんしん)に入(い)れ益(ます〳〵)其(その)連合(れんごう)は鞏固(けうこ)となつたので茲(こゝ)に三国の攻守同盟(こうしゆどうめい)は確立(かくりつ)するに至(いた)つたのであるが之(これ)は全(まつた)
く信玄(しんげん)が劃割策(くわくさく)の反応(はんおう)とも云ふべきもので茲(こゝ)に至(いた)つては早晩(さうはん)武田氏(たけだし)と徳川(とくがは)織田(をだ)両氏(れうし)との間(あひだ)に一 大衝突(だいせうとく)が
《割書:林十右衛門|景政》 起(おこ)らねばならぬ道理(どうり)と相成(あひな)つたのである尚(な)ほ此処(こゝ)に一寸(ちよつと)付(つ)け加(くは)へて置(お)きたいのは此(この)吉田(よしだ)に其(その)頃(ころ)林(はやし)十 右(う)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百四十二号附録 ( 明治四十四年八月廿二日発行 )
【本文】
衛門(ゑもん)と云ふ人があつて弓(ゆみ)の達人(たつじん)であつたが此(この)元亀(げんき)二年四月 武田勢(たけだぜい)の攻入(せめいり)に際(さい)して吉田勢(よしだぜい)に加(くは)はり殊功(しゆこう)
を著(あら)はしたと云ふ事である此(この)人(ひと)は即(すなは)ち三 州(しう)吉田記(よしだき)の著者(ちよしや)林弥次右衛門(はやしやじうゑもん)一(いち)に自見(じけん)と号(ごう)した人の祖先(そせん)で右(みぎ)
の話(はなし)は其(その)吉田記(よしだき)に記(しる)されて居(を)る事であるが林家(はやしけ)は代々(だい〳〵)吉田(よしだ)の年寄役(としよりやく)又(また)は庄屋(せうや)などを勤(つと)めたので其(その)子孫(しそん)
は今(いま)も当市(とうし)に残(のこ)つて居(を)つて旧記(きうき)なども所持(しよぢ)して居(を)るのである
⦿三方ヶ原役前後の事情
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)き次第(しだい)で武田信玄(たけだしんげん)は元亀(げんき)一年三月 兵(へい)を遠江(とふとほみ)に出(いだ)して徳川氏(とくがはし)の領地(りようち)を攻撃(こうげき)し更(さら)に其四
月には山家(やまが)二 方(ほう)を服従(ふくじう)せしめて三河の北部(ほくぶ)に攻(せ)め入(い)り足助(あすけ)方面(ほうめん)から東三河(ひがしみかは)に転(てん)じて遂(つひ)に此(この)吉田城下(よしだじようか)迄(まで)
も侵入(しんにふ)したのであるが之(これ)は先(ま)づ斥候戦(せきこうせん)とも見(み)るべきもので信玄(しんげん)が西上(せいじよう)の計画(けいくわく)は爾来(じらい)益々(ます〳〵)進抄(しんしよう)せられた
のであるソコで徳川方(とくがはがた)に於(おい)ても之(これ)に対(たい)するの策(さく)を怠(おこた)らなかつたので織田氏(をたし)とは勿論(もちろん)深(ふか)く上杉氏(うへすぎし)とも結(けつ)
托(たく)したのであるが其(その)五月には家康(いへやす)も駿河(するが)に攻(せ)め入(い)つて島田(しまだ)附近(ふきん)に放火(はうくわ)し其翌二年三月には謙信(けんしん)も亦(ま)た
兵(へい)を武蔵(むさし)に出(いだ)して武田方(たけだがた)の同盟国(どうめいこく)たる北条氏(ほうでうし)を侵(をか)し更(さら)に信濃(しなの)に入(い)りて武田氏(たけだし)の領地(りようち)を攻撃(こうげき)したのであ
る此(こゝ)に於(おい)て家康(いへやす)は遥(はるか)に之(これ)に声援(せいゑん)して其五月 兵(へい)を東三河の北方(ほくぶ)に出(いだ)し其(その)叛将(はんせう)たる菅沼氏(すがぬまし)の長篠城(ながしのじよう)附近(ふきん)を
攻撃(こうげき)し又(ま)た岡崎(をかざき)の守備(しゆび)を増(ま)し砦(とりで)を遠江(とふとほみ)の掛塚(かけつか)附近(ふきん)に築(きづ)いて武田氏(たけだし)の水軍(すいぐん)に備(そな)ふるなど防備(ばうび)おさ〳〵怠(おこた)
らざる有様(ありさま)であつた然(しか)る処(ところ)武田信玄(たけだしんげん)に於(おい)ては準備(じゆんび)愈々(いよ〳〵)成(な)つたと云ふので今度(このたび)こそ兼(かね)ての素志(そし)である
西上(せいじよう)の目的(もくてき)を達(たつ)せむと云ふ意気込(いきご)みで先(ま)づ途(みち)を遠江(とふとほみ)参河(みかは)に取(と)ると云ふ方針(ほうしん)から元亀(げんき)三年の十月三日 愈(いよ)
《割書:信玄大軍を|率ゐて再び》 愈(いよ)自(みづか)ら兵(へい)二万を率(ひき)ひ別(べつ)に北条氏(ほうぜうし)よりの援兵(ゑんぺい)二千余人を加(くは)えて甲州(かうしう)を発(はつ)し信濃(しなの)上伊奈郡(かみいなごほり)から青崩峠(あおくずれとほげ)を越(こ)
《割書:遠江に入る| 》 えて所謂(いはゆる)秋葉路(あきはぢ)を経(へ)遠江(とふとほみ)へ侵入(しんにふ)したのであるモツトモ其(その)外(ほか)に兵(へい)五千を山縣昌景(やまがたまさかげ)に付(ふ)して九月廿九日を
【欄外】
豊橋市史談 (三方ヶ原役前後の事情) 百九
【欄外】
豊橋市史談 (三方ヶ原役前後の事情) 百十
【本文】
《割書:山縣昌景三|河の北部に》 以(もつ)て甲州(かうしう)を発(はつ)せしめ先(ま)づ上伊那郡(かみいなごほり)から東三河の北部(ほくぶ)に入(い)らしめ山家(やまが)三 方(はう)の兵(へい)を合(あは)せしめて更(さら)に遠江(とふとほみ)に
《割書:入る |遠江侵略 》 出(い)で本軍(ほんぐん)に会(くわい)せしめたのであるが信玄(しんげん)は十月十日 遠江(とふとほみ)に入(い)り只来(たゞらい)飯嶋(ゐゝしま)の二 城(じよう)を攻(せ)め降(くだ)し更(さら)に南下(なんか)して
太田川(おほたがは)の左岸(さがん)木原(きはら)、 西島(にしじま)幷(ならび)に袋井(ふくろゐ)地方(ちほう)に分屯(ぶんとん)しそれから久野(くの)の城(しろ)を攻(せ)めたのであるソコで家康(いへやす)は十三
日に大久保忠世(おほくぼたゝよ)本多忠勝(ほんだたゞかつ)内藤信成(ないとうのぶなり)の三人に兵(へい)三千を率(ひき)ゐて敵(てき)の様子(やうす)を偵察(ていさつ)せしめたのであるが之(これ)が三
一言坂の戦 ケ野原(のはら)の高地(こうち)に於(おい)て敵軍(てきぐん)に発見(はつけん)され退(しりぞ)いて見付(みつけ)の一 言坂(ことざか)に来(きた)つた処(ところ)で両軍(れうぐん)衝突(せうとつ)したので徳川方(とくがはがた)は殆(ほとん)ど
衆寡(しうくわ)敵(てき)せざる場合(ばあひ)であつたが本多忠勝(ほんだたゞかつ)の働(はたらき)と云ふものは実(じつ)に目覚(めざ)ましかつたもので遂(つひ)に全隊(ぜんたい)を傷(きづゝ)け
ずして偵察(ていさつ)の任務(にんむ)を終(を)えて浜松(はままつ)に皈(かへ)つたのである有名(ゆうめい)なる見付一言坂(みつけひとことざか)の戦(たゝかひ)と云ふのは即(すなは)ち之(これ)であるが
かくて信玄(しんげん)は本軍(ほんぐん)を進(すゝ)めて二 俣城(またじよう)を攻(せ)め山縣昌景(やまがたまさかげ)も亦(ま)た東三河から来(きた)り会(くわい)したので家康(いへやす)は松平清善(まつだひらきよよし)を
して宇津山(うつやま)の砦(とりで)を守(まも)らしめて遠参(ゑんさん)の連絡(れんらく)を保(たも)ち又た松平忠正(まつだひらたゝまさ)設楽貞通(したらさだみち)を野田(のだ)に遣(つか)はして菅沼定盈(すがぬまさだみつ)を輔(たす)
けしめたが自(みづか)らは兵を率(ひき)ゐて二 俣城(またじよう)に声援(せいゑん)したのである然(しか)るに二 俣城(またじよう)は遂(つひ)に支(さゝ)ふる事が出来(でき)なくて開城(かいじよう)
するに至(いた)つたのであるが之(これ)で信玄(しんげん)は殆(ほとん)ど徳川氏(とくがはし)を牽制(けんせい)するに足(た)るべき手段(しゆだん)を終(をは)つたので此(この)新占領地(しんせんれうち)は
一々 其(その)部下(ぶか)の将士(せうし)をして之(これ)を守備(しゆび)せしめ十二月廿二日を以(もつ)てイヨ〳〵其(その)営(えい)を撤(てつ)して路(みち)を祝田(しゆくだ)刑部(をさかべ)に取(と)
《割書:信玄東三河|に入らむと》 り井伊谷(いゐのや)を経(へ)て遂(つひ)に東三河に出(い)でむとしたのである元来(がんらい)信玄(しんげん)が今回(こんくわい)の挙(きよ)は前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた如く其
《割書:す | 》 目的(もくてき)は旗(はた)を京師(けうし)に樹(た)つるにあるので強(しい)て徳川氏(とくがはし)を滅亡(めつぼう)して其(その)領地(れうち)を併(あは)せむとするが如き訳(わけ)ではない殊(こと)
に武田方(たけだがた)の偵察(ていさつ)では此際(このさい)織田(をた)の援軍(ゑんぐん)と云ふものは数隊(すうたい)既(すで)に浜松(はままつ)に到着(とうちやく)し居(を)つて且(か)つ此(この)吉田(よしだ)から白須(しらす)
賀(が)にかけては其(その)兵(へい)が充満(じうまん)して居(を)ると云ふ事を信(しん)じて居(を)つたので漫(みだ)りに徳川氏の根拠(こんきよ)たる浜松城(はままつじよう)などを
攻撃(こうげき)して日数(につすう)を取(と)つて居(を)る内(うち)には益々(ます〳〵)織田(をた)の援軍(ゑんぐん)が集(あつま)つて我(わ)が疲労(ひらう)に乗(ぜう)ずる事になるであろうソウす
ると西上(せいぜう)の目的(もくてき)は大(おほい)に此処(こゝ)で阻害(そがい)せれる事になるから寧(むし)ろ無益(むえき)の攻戦(こうせん)は避(さ)けて最後(さいご)の目的(もくてき)に急(いそ)いだ方(ほう)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
がよいと云ふのが信玄(しんげん)の意見(いけん)であつたものと思(おも)はれる然(しか)るに家康(いへやす)に於(おい)ては如何(いか)に衆寡(しうくわ)敵(てき)せざる場合(ばあひ)な
るにもせよ敵軍(てきぐん)が近(ちか)く城外(じようくわい)を踏藉(とうせき)するのに之(これ)に一 矢(し)をも加(くは)へぬと云ふのは武士(ぶし)の面目(めんもく)でない勝敗(せうはい)は
天(てん)に在(あ)ると云ふので老臣(らうしん)等(ら)の諌(いさめ)をも斥(しりぞ)けて遂(つひ)に出戦(しゆつせん)に決(けつ)したのであるが徳川方(とくがはがた)の兵数(へいすう)は此時(このとき)織田氏(をたし)の
援軍(ゑんぐん)約(やく)三千を加(くは)ふるも尚(な)ほ一万 内外(ないぐわい)しかなかつたのである
《割書:三方ヶ原の|戦》 ソコで家康(いへやす)は兵(へい)を三方(みかた)ヶ原(はら)に出(いだ)して犀(さい)ケ崖(くぼ)の北方(ほくほう)に布陣(ふぢん)し武田方(たけだがた)の通過(つうくわ)を待(ま)つて居(を)たのであるが此時(このとき)
酒井忠次(さかゐたゝつぐ)は吉田衆(よしだしう)を率(ひき)ゐて織田氏(をたし)の援将(ゑんせう)佐久間(さくま)平手(ひらて)瀧川(たきがは)等(ら)と共(とも)に其(その)右翼(うよく)となり石川数正(いしかはかずまさ)小笠原長忠(をがさはらながたゞ)松(まつ)
平家忠(だひらいへたゞ)本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)は其(その)左翼(さよく)となり家康(いへやす)は自(みづか)ら予備隊(よびたい)を率(ひき)ゐて横隊(わうたい)に陣取(ぢんど)つたのである然(しか)るに信玄(しんげん)は之(これ)
を見(み)て尚(な)ほ二三の武将(ぶせう)に其(その)要撃(えうげき)を拒(ふせ)がしめつゝ本隊(ほんたい)は行進(こうしん)を続(つゞ)けようとしたのであるが連(しき)りに其(その)偵察(ていさつ)
が徳川方(とくがはがた)の微弱(びじやく)なるを報(ほう)じた処から遂(つひ)に会戦(くわいせん)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)結果(けつくわ)は諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の通(とほ)
り武田方(たけだがた)の勝利(せうり)と相成(あひな)つたのであるが併(しか)し信玄(しんげん)の立(た)ち場(ば)から云ふと結局(けつきよく)此(この)戦(たゝかひ)は余(あま)り利盛(りえき)ではなかつ
たものと信(しん)ずるのである
サテ此(この)戦(たゝかひ)に就(つい)ては色々(いろ〳〵)書(か)いたものがあつて三 河物語(かはものがたり)の如(ごと)きにも頗(すこぶ)る味(あぢは)ふべき記事(きじ)があるが茲(こゝ)には余(あま)
り必要(ひつえう)がないと思(おも)ふから只(た)だ其(その)経路(けいろ)だけを申述ぶるに止(とゞ)めたいと思(おも)ふ而(しか)して此(この)戦(たゝかひ)のあつたのは諸君(しよくん)
も知(し)らるゝ通(とほ)り十二月の廿二日で午後(ごゞ)四時 頃(ごろ)から始(はじ)まつて仝六時頃には既(すで)に終(をは)つたのであるが戦(たゝかひ)終(をは)
つて家康(いへやす)は城中(じようちう)に退(しりぞ)いた後(のち)城廓(じようくわく)の各(かく)入口(いりぐち)を鎖(とざ)さしめずに置(お)いたので武田方(たけだがた)から追撃(つひげき)して来(き)た馬場(ばゞ)、
山縣(やまがた)などの将(せう)が却(かへつ)て躊躇(ちうちよ)してそれより内(うち)には攻(せ)め入(い)らなかつた事(こと)並(ならび)に此夜(このよ)天野康景(あまのやすかげ)、 大久保忠世(おほくぼたゝよ)等(ら)が
銃手(じうしゆ)を集(あつ)めて武田方(たけだがた)の陣(ぢん)を犀(さい)ケ崖(くぼ)に射撃(しやげき)して奇捷(きせう)を得(え)た等(とう)の事(こと)があるが之(これ)は有名(ゆうめい)なる話(はなし)であるから言(い)
ふ迄(まで)もなく諸君(しよくん)は既(すで)に御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふソコで其(その)翌(よく)廿三日 武田方(たけだがた)に於(おい)ては色々(いろ〳〵)評議(ひようぎ)があつたの
【欄外】
豊橋市史談 (三方ヶ原役前後の事情) 百十一
【欄外】
豊橋市史談 (三方ヶ原役前後の事情) 百十二
【本文】
であるが此際(このさい)一 層(そう)の事に浜松城(はままつじよう)をも攻略(こうりやく)しようではないかと云ふ議論(ぎろん)も起(おこ)つたのであるトコロが独(ひと)り
高坂昌宜(たかさかまさのぶ)は之(これ)を不可(ふか)として一日も早(はや)く兵(へい)を上国(じようこく)に進(すゝ)むるのを得策(とくさく)としたので信玄(しんげん)も初(はじ)めからの意志(いし)が
其処(そこ)にあるのであるから深(ふか)く其説(そのせつ)に同意(どうい)して即(すなは)ち廿四日には兵(へい)を刑部(をさかべ)に移(うつ)し遂(つひ)に此処(こゝ)に越年(ゑつねん)することと
《割書:信玄三河に|入り野田城》 なつて兵馬(へいば)の休養(きうやう)をなしたのであるが其(その)翌(よく)天正(てんせう)元年(がんねん)の正月には愈々(いよ〳〵)三河に侵入(しんにふ)して十一日 野田(のだ)の城(しろ)を
《割書:を囲む | 》 攻撃(こうげき)するに至(いた)つたのである此時(このとき)山縣昌景(やまがたまさかげ)は矢張(やはり)先鋒(せんはう)として正月 早々(さう〳〵)三河に入(い)つたので昌景(まさかげ)が正月三日
大恩寺文書 付で出(いだ)した宝飯郡(ほゐぐん)御津村(みとむら)大恩寺(たいおんじ)の制札(せいさつ)か今(いま)も同寺(どうじ)に保存(ほぞん)されて居(を)るのは実(じつ)に珍(ちん)とすべきものであると
思(おも)ふ
サテ此(この)野田(のだ)の城(しろ)には前(まへ)に申述(もうしの)べた如く当時(とうじ)菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が援将(ゑんせう)松平忠正(まつだひらたゞまさ)等(ら)と見兵(けんぺい)僅(わづか)に四百余人を以(もつ)て守備(しゆび)
して居(を)つたのであるが之(これ)を固守(こしゆ)すると共(とも)に急(きう)を浜松(はままつ)に報(ほう)じたのであるソコで家康(いへやす)は赴援(ふゑん)して八 名郡(なぐん)の
八名井(やなゐ)まで来(き)て笠頭山(りうづさん)に陣取(ぢんど)つたが何分(なにぶん)にも兵数(へいすう)が少(すくな)いので如何(いかん)ともすることが出来(でき)ぬ依(よつ)て使(し)を岐阜(ぎふ)に
やつて援(ゑん)を求(もと)めたが信長(のぶなが)は辞(じ)して之(これ)に応(おう)ぜない拠(よんどころ)なく書(しよ)を謙信(けんしん)に送(おく)つて兵を信濃(しなの)に出(いだ)し以(もつ)て信玄(しんげん)を
牽制(けんせい)せむことを請(こ)ふに至(いた)つたのである其(その)内(うち)に城(しろ)は遂(つひ)に支(さゝ)ふる事が出来(でき)ぬ処から定盈(さだみつ)等(ら)は止(やむ)を得(え)ず自(みづか)ら屠(と)
腹(ふく)して部下(ぶか)の士卒(しそつ)を宥(ゆる)さむことを武田方(たけだがた)に求(もと)めたのであるが信玄(しんげん)が之(これ)を許(ゆる)したので二月十日に定盈(さだみつ)等(ら)二
野田城落つ 将(せう)は城(しろ)を出(い)で潔(いさぎよ)く自殺(じさつ)せんとしたのである然(しか)るに信玄(しんげん)は頻(しき)りに之(これ)に降(こう)を勧(すゝ)めたが二 将(せう)は之(これ)に応(おう)ぜぬ
ので遂(つひ)に長篠(ながしの)に幽閉(ゆうへい)されたトコロが例(れい)の山家(やまが)三 方(はう)の人々(ひと〴〵)の質(しち)と云ふものはまだ浜松(はままつ)にあつたので此(この)人(ひと)
人(〴〵)から己(おの)れ等(ら)の質(しち)と此(この)二 将(せう)との交替(こうたい)をしたいと云ふ事を信玄(しんげん)に申出(もうしい)でた而(しか)して此事(このこと)は徳川方(とくがはがた)とも交渉(こうせう)
が纏(まとま)つて其(その)月(つき)の十五日に俘虜(ふりよ)の交替(こうたい)が出来(でき)たと云ふ訳(わけ)で定盈(さだみつ)等(ら)は幸(さいはひ)に一 命(めい)を全(まつた)ふして浜松(はままつ)に皈(かへ)る事
になつたのである私(わたくし)は実(じつ)に此(この)定盈(さだみつ)の忠節(ちうせつ)と云ふものに対(たい)しては常(つね)に何(なん)とも云へぬ感嘆(かんたん)の意(い)を表(ひよう)して居(を)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百四十八号附録 ( 明治四十四年八月廿九日発行 )
【本文】
信玄病を獲 るのである蓋(けだ)し此(この)際(さい)に於(お)ける徳川方(とくがはがた)の逆境(ぎやくけう)と云ふものは頗(すこぶ)る甚(はなはだ)しかつたものであると思(おも)ふが信玄(しんげん)も
亦(ま)た此(この)野田(のだ)の城攻(しろぜ)めに於(おい)て病(やまひ)を獲(ゑ)たので之(これ)が原因(げんゐん)となつて遂(つひ)に大志(たいし)を齎(もたら)したるまゝ不皈(ふき)の客(きやく)となつた
のである兎(と)に角(かく)定盈(さだみつ)は僅(わづか)に四百余の手兵(しゆへい)を以(もつ)て三万の大軍(たいぐん)を引受(ひきう)け渺(ひよう)たる野田(のだ)の城(しろ)に籠(こも)つて三 旬(じゆん)余(よ)を
支(さゝ)えたと云ふものは莫大(ばくだい)の功(こう)で私(わたくし)は信玄(しんげん)から云ふと実(じつ)に余計(よけい)な事をして不慮(ふりよ)の大害(たいがい)を受(う)けたような
ものであると思(おも)ふのである三 河物語(かはものがたり)には
(信玄(しんげん))そこを引(ひき)のけ給(たま)ひて伊(い)の谷(や)へ入て長篠(ながしの)へ出(で)給(たま)ふ其(それ)よりおくかうりへはたらかんとて出(いで)させ給(たま)
ふ所(ところ)に爰(こゝ)にやぶの内(うち)に小城(せうじよう)有(あり)ける何城(なにじよう)ぞととはせ給(たま)へば野田之城(のだのしろ)と申(もうす)信玄(しんげん)はきゝ及(および)たる野田(のだ)は是(これ)に
て有(ある)か其(その)儀(ぎ)ならはとおりがけにふみちらせと仰(あふせ)あつて押寄(おしよせ)給(たま)へば
と書(か)いてあるが之(これ)で見(み)ると少(すくな)くとも此(この)時(とき)此(この)吉田城(よしだじよう)をば攻略(こうりやく)して然(しか)る後(のち)西上(せいぜう)せむとしたものと思(おも)はれる
モツトモ此(この)記事(きじ)が果(はた)して事実(じじつ)であるかどうか確証(かくせう)はし兼(か)ぬる事と思(おも)ふが兎(と)に角(かく)文中(ぶんちう)には如何(いか)にも信玄(しんげん)
の性格(せいかく)と其(その)新勝気鋭(しんせうきえい)の有様(ありさま)が見(み)ゆるようであるのみならず如何(いか)に野田城(のだじよう)の小(せう)なるものであつたかゞ分(わか)
信玄の卒去 るようである果(はた)して此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたものとすれば遺憾(ゐかん)ながら信玄(しんげん)が大志(たいし)を抱(いだ)いて而(しか)も遂(つひ)に成功(せいこう)
する事が出来(でき)なかつたのも当然(とうぜん)であるとなさねばならぬのであるサテ又(ま)た此(この)信玄(しんげん)の死(し)であるが之(これ)にも
旧来(きうらい)種々(しゆ〴〵)の説(せつ)があるので松平記(まつだひらき)には
家康(いへやす)も後詰(あとづめ)として笠頭山(りうづさん)迄(まで)御出張(ごしゆつちよう)有(あり)しかとも城中(じようちう)にては是(これ)をしらす水(みづ)を呑(のま)す数日(すうじつ)過(すぎ)し程(ほど)に軍勢(ぐんぜい)人馬(じんば)
何(なん)とも不叶(かなはず)菅沼方(すがぬまがた)より敵(てき)へ使(し)を以(もつ)て申(もうし)けるは我等(われら)一 人(にん)罷出(まかりいで)腹(はら)を可切(きるべく)候間(そうろうあひだ)軍勢(ぐんぜい)をは助(たす)けのかさせ給(たまへ)
と信玄(しんげん)聞(きゝ)尤(もつとも)きとくの被申様成(もうされやうなり)とて軍勢(ぐんぜい)をはのかせ可申(もうしべく)と堅(かた)く契約(けいやく)にて菅沼新(すがぬましん)八 郎(らう)城(しろ)を出(いで)る処(ところ)に信玄(しんげん)
衆(しう)待請(まちうけ)生捕(いけどり)にしける此(この)間(あひだ)城中(じようちう)の者(もの)ともは過半(くわはん)出(いで)るを甲州衆(かうしうしう)とゝめんとすそのせり合(あひ)に信玄(しんげん)鉄砲(てつぽう)に
【欄外】
豊橋市史談 (三方ヶ原役前後の事情) 百十三
【欄外】
豊橋市史談 (三方ヶ原役前後の事情) 百十四
【本文】
あたり給(たま)ひ山城(やまじろ)なれば誰(たれ)か打(うち)けん落矢(おや)に打(うたれ)けるそれより色々(いろ〳〵)養生(やうぜう)有(あり)しと聞(きこ)えし とあるが武徳編年修成(ぶとくへんねんしうせい)には又(ま)た其(その)頃(ころ)の伝説(でんせつ)を記(しる)して
爰(こゝ)に勢州(せいしう)山田(やまだ)の住人(ぢうにん)村松芳休(むらまつほうきう)と云者(いふもの)適々(たま〳〵)野田(のた)の城内(じようない)に在(あ)りて毎夜(まいよ)笛(ふえ)を吹(ふき)其(その)音(ね)精妙(せいみよう)なるゆへ敵軍(てきぐん)喜(よろこ)び
聞(きく)一日 兵士(へいし)来(きたり)て紙(かみ)を竹竿(たけさを)に掲(かゝげ)て丘上(きゆうぜう)に建置(たてをき)けるを城中(じようちう)鳥居(とりゐ)三 左衛門(ざゑもん)是(これ)を見咎(みとが)め疑(うたが)ふらくは蜜々(みつ〳〵)主将(しゆせう)
来(きたつ)て笛(ふゑ)を聞(きく)の符(ふ)ならん歟(か)と彼(かの)竹竿(たけざを)を標的(ひようてき)として火砲(くわはう)を備(そな)へ相待処(あひまつところ)に其(その)夜(よ)果(はた)して芳休(ほうきう)笛(ふゑ)を吹(ふき)けれは信(しん)
玄(げん)彼(かの)丘上(きうぜう)に来(きた)りて笛(ふゑ)を聞処(きくところ)鳥居(とりゐ)火砲(くわはう)を発(はつ)し其(その)耳(みゝ)の際(きは)をかすり打殪(うちなほ)し即(すなはち)絶入(ぜつにふ)す敵(てき)大(おほい)に周章(しうせう)し陣営(ぢんえん)に
携(たづさ)へ皈(かへ)り医療(ゐれう)を尽(つく)す
としてある然(しか)るに文学士(ぶんがくし)渡邊世祐君(わたなべせゆうくん)の安土桃山時代史(あづちもゝやまじだいし)には右(みぎ)の両説(れうせつ)を評(ひよう)して
前者(ぜんしや)は余(あま)りに詩的(してき)後者(こうしや)は実際(じつさい)あり難(がた)き不合理(ふごうり)の事たり元来(がんらい)両説(れうせつ)とも当時(とうじ)の伝説(でんせつ)なれは直(たゝち)に否定(ひてい)し難(がた)
きも尚(な)ほ彼(か)の武家事記所載(ぶけじきしよさい)の御宿大監物(みしゆくだいけんもつ)の書中(しよちう)の説(せつ)史料(しれう)として前(ぜん)二 者(しや)より正確(せいかく)にして又(また)実際(じつさい)の事実(じじつ)
と思(おも)はるゝには若(し)かざるなり監物(けんもつ)の書中(しよちう)に「元来玄公懸_二望干天下_一胸呑_二於四海_一巻_二舌於九河_一振_二家
名於海内_一可_レ被貽_二名於後代_一襟懐徹_二骨髄_一由_レ苦_二肺肝_一病患忽萌腹心不_レ安切也由_レ是尽_二倉公華佗
術_一雖_レ用_二君臣佐使之薬_一業病更不_レ愈追_レ日沈_二病枕_一」と云ふ文(ぶん)あり此(これ)に依(よ)り其(その)病気(びようき)なりしを知(し)るを
得(え)ん
と記(しる)してあるのである之(これ)は如何(いか)にも正(たゞ)しき説(せつ)であると思(おも)ふサテ信玄(しんげん)は病(やまひ)起(おこ)るの後(のち)二月十六日を以(もつ)て鳳(ほう)
来寺(らいじ)に移(うつ)つて療養(れうやう)したが当時(とうじ)将軍(せうぐん)義昭(よしあきら)は織田信長(をだのぶなが)と不和(ふわ)で之(これ)を除(のぞ)かむ事を画(はか)つて居(を)つたのであるから
従(したがつ)て信玄(しんげん)の上京(ぜうけう)を促(うなが)すことが急(きう)であつたそれのみならず伊勢(いせ)の北畠具教(きたはたけとものり)の如(ごと)きは信玄(しんげん)の上洛(ぜうらく)に就(つい)ては
船(ふね)を此(この)吉田(よしだ)まで回(まわ)してもよいと云ふ事を申送(もうしおく)つた位(くらゐ)であるソコで信玄(しんげん)は一 度(ど)は勝頼(かつより)をして徳川方(とくがはがた)に当(あた)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
らしめて本軍(ほんぐん)をば直(たゞ)ちに西(にし)へ進(すゝ)ましめむとしたのであるが再(ふたゝ)び病(やまひ)が重(おも)つたので遺憾(ゐかん)極(きはま)りない事であつ
たであろうが遂(つひ)に国(くに)に引返(ひきかへ)す事となつて其(その)途中(とちう)四月十二日を以(もつ)て信州(しんしう)駒場(こまば)に於(おい)て卒去(そつきよ)したのである併(しか)
し之(これ)にも旧来(きうらい)波合(なみあひ)に於(おい)て卒去(そつきよ)されたと云ふ説(せつ)があるが今(いま)は前説(ぜんせつ)が先(ま)づ確(たしか)な事となつて居(を)る様(やう)である
◉長篠役と武田氏の滅亡
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如く武田信玄(たけだしんげん)は天正(てんせう)元年(がんねん)四月 卒去(そつきよ)し其(その)子(こ)の勝頼(かつより)が其(その)後(あと)を襲(つ)いたが父(ちゝ)の遺命(ゐめい)によりて固(かた)
く其(その)喪(も)を秘(ひ)したのである然(しか)るに徳川家康(とくがはいへやす)はイヨ〳〵武田勢(たけだぜい)が東三河を去(さつ)つたのを見(み)て其(その)翌月(よくげつ)には兵(へい)を
駿河(するが)に出(いだ)して岡部(をかべ)附近(ふきん)に放火(はうくわ)し更(さら)に自(みづか)ら此(この)吉田(よしだ)の城(しろ)に屯(たむろ)して東三河の北部(ほくぶ)に於(お)ける敵状(てきぜう)を偵察(ていさつ)し又(ま)た
《割書:家康長篠城|を復す》 遠州(ゑんしう)二 俣(また)の敵城(てきぜう)に対(たい)しても社山(やしろやま)、 合代島(あひしろじま)、 渡島(どんど)などゝ云ふ処(ところ)に砦(とりで)を設(もう)けて之(これ)に備(そな)へ七月に至(いた)つて長篠(ながしの)
城(じよう)を攻撃(こうげき)したのである此(この)長篠城(ながしのじよう)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り菅沼(すがぬま)三 郎左衛門満成(らうさゑもんみつなり)が初(はじ)めて住(ぢう)した処(ところ)で之(これ)は田(た)
峯(みね)の支流(しりう)であるが其(その)年代(ねんだい)は詳(つまびらか)でない併(しか)し文明(ぶんめい)年間(ねんかん)の頃(ころ)であると推定(すいてい)せられるモツトモ此処(こゝ)に城(しろ)の出(で)
来(き)たのは永正(えいせう)五年の五月で其(その)子(こ)元成(もとなり)の時(とき)であると云ふ説(せつ)があるが当時(とうじ)は今川氏(いまがはし)に属(ぞく)したものである然(しか)
るに永禄(えいろく)四 年(ねん)満成(みつなり)五 世(せ)の孫(そん)貞景(さだかげ)に至(いた)つて初(はじ)めて徳川家康(とくがはいへやす)に属(ぞく)したのである此(この)人(ひと)は其(その)十二年正月に家康(いへやす)
か今川氏真(いまがはうぢさね)を遠江国(とふとほみのくに)掛川城(かけがはじよう)に攻(せ)むるに方(あた)つて徳川氏(とくがはし)の為(ため)に天王山(てんわうざん)に於(おい)て討死(うちじに)したのであるが其(その)子(こ)の
新(しん)九 郎正貞(らうまささだ)は元亀(げんき)二年に至(いた)つて武田信玄(たけだしんげん)の誘導(ゆうどう)に応(おう)じ家康(いへやす)に叛(そむ)いて遂(つひ)に之(これ)に属(ぞく)するに至(いた)つたので今度(このたび)
却(かへつ)て家康(いへやす)の攻撃(こうげき)を受(う)くることとなつたのである此(この)時(とき)徳川方(とくがはがた)に於(おい)ては試(こゝろみ)に火箭(くわせん)を放(はな)つて城(しろ)を攻(せ)めたので
あるが之(これ)が予想外(よそうぐわい)に成功(せいこう)し城兵(じようへい)は遂(つひ)に支(さゝ)へ兼(か)ねて降伏(こうふく)したので三 河物語(かはものがたり)には七月十九日に徳川方(とくがはがた)に於(おい)
て城(しろ)を受取(うけと)つたと書(か)いてあるモツトモ武田勝頼(たけだかつより)は城兵(じようへい)の応援(おうゑん)として其(その)族将(ぞくせう)武田信豊(けだのぶとよ)幷(ならび)に馬場信春(ばゞのぶはる)小山(こやま)
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百十五
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百十六
【本文】
田信義(だのぶよし)等(ら)を寄越(よこ)して鳳来寺(ほうらいじ)の黒瀬(くろせ)辺(へん)迄(まで)入(い)り来(きた)つたのであるが遂(つひ)に及(およ)ばなかつたのである。サテ其(その)頃(ころ)作(つく)
《割書:奥平貞能の|帰降》 手(て)の城(しろ)には武田氏(たけだし)の将(せう)甘利左衛門清吉(あまりさゑもんきよよし)と云ふ人が居(を)つたが其(その)後(ご)黒瀬(くろせ)に屯(たむろ)して居(を)つた土屋右衛門直村(つちやうゑもんなをむら)も
之(これ)に移(うつ)つたのである而(しか)して兼(かね)て申述(もうしのべ)てある山家(やまが)三 方(はう)の一なる例(れい)の奥平父子(おくだひらふし)は其(その)外廓(ぐわいくわく)に居(を)つたのであ
るが奥平貞能(おくだひらさだよし)の子(こ)九八郎 貞昌(さだまさ)は後(のち)に信昌(のぶまさ)と改名(かいめい)した人であるが之(これ)より先(さ)き信玄(しんげん)死去(しきよ)の事を知(し)つて頻(しきり)り
に父(ちゝ)貞能(さだよし)に向(むか)つて徳川氏(とくがはし)へ帰降(きこう)する事を勧(すゝ)めたのである家康(いへやす)も亦(ま)た本多広孝(ほんだひろたか)仝(おなじく)信俊(のぶとし)等(ら)から勧告(くわんこく)せし
めたので貞能(さだよし)も遂(つひ)に其(その)事(こと)に決心(けつしん)したのであるが武田方(たけだがた)に於(おい)てはドウモ此(この)頃(ころ)貞能(さだよし)の挙動(きよどう)が怪(あやし)いと云ふの
で今度(このたび)黒瀬(くろせ)に滞陣中(たいぢんちう)の信豊(のぶとよ)は之(これ)を招(まね)いて詰問(きつもん)せしめたのである然(しか)るに此(この)時(とき)貞能(さだよし)は神色自若(しんしよくじじやく)として其(その)異(ゐ)
心(しん)なき旨(むね)を答(こた)へたのみならず緩々(ゆる〳〵)碁(こ)を囲(かこ)むだり茶漬(ちやづけ)を馳走(ちさう)になつたりして落付(おちつ)き払(はら)つて居(を)つたのであ
るそれのみならず貞能(さだよし)の従者(じうしや)が門外(もんぐわい)に蹲踞(そんきよ)して主人(しゆじん)の出(い)づるのを待(ま)つて居(を)つたのに向(むかつ)て御前方(おまへがた)の主人(しゆじん)
は今(いま)其(その)叛逆(はんぎやく)が現(あら)はれて討(う)たれたぞと嚇(おど)したトコロが従者共(じうしやども)は驚(おどろ)かない一 向(こう)平気(へいき)で微笑(びせう)して居(を)つたとの
事である之(これ)は貞能(さだよし)が平常(へいぜう)従者(じうしや)に向(むかつ)て武田方(たけだがた)のものから何(なん)と申掛(もうしかけ)らるゝ事があつても決(けつ)して自分(じぶん)の首(くび)を
見(み)ぬ中(うち)は驚(おどろ)くではないぞと申付(もうしつ)けて深(ふか)く戒(いまし)めてあつた結果(けつくわ)であると云ふ事であるが此(この)事(こと)は武徳編年集(ぶとくへんねんしう)
成(せい)などにも記(しる)してあるかゝる様(さま)であつたから武田方(たけだがた)に於(おい)ても半信半疑(はんしんはんぎ)の中(うち)に此(この)時(とき)貞能(さだよし)を皈(き)したのであ
るが貞能(さだよし)は作手(つくて)に皈(かへ)るや否(いな)や今(いま)は猶予(ゆうよ)すべきではないと云ふので直(たゞ)ちに一 族郎党(ぞくらうとう)を挙(あ)げて瀧山(たきやま)の砦(とりで)に走(はし)
つたので家康(いへやす)は兵(へい)を遣(つか)はして之(これ)を迎(むか)へしめたのであるソコで武田方(たけだがた)に於(おい)ては之(これ)を追(おつ)て小戦争(せうせんさう)があつた
《割書:家康長篠城|を修し奥平》 が悉(こと〴〵)く打(う)ち退(しりぞ)けられたので遂(つひ)に怒(いかつ)て貞能(さだよし)の質(しち)子(こ)仙千代(せんちよ)初(はじ)めを鳳来寺(ほうらいじ)に於(おい)て磔殺(ろころ)したのである此(かく)の如(ごと)
《割書:貞昌をして|之を守らし》 き訳(わけ)で貞能(さだよし)は勿論(もちろん)信昌(のぶまさ)も亦(ま)た益々(ます〳〵)家康(いへやす)に重(おもん)せらるゝに至(いた)つたのであるが特(とく)に信昌(のぶまさ)は弱年(じやくねん)ながら大(おほい)に見(みど)
《割書:む | 》 処(ころ)のあるものであると云ので其(その)翌々年(よく〳〵ねん)即(すなは)ち天正三年の二月 長篠城(ながしのじよう)の改築(かいちく)が成(な)つてイヨ〳〵此(この)城(しろ)を以(もつ)て
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百五十四号附録 ( 明治四十四年九月五日発行 )
【本文】
甲信軍(かうしんぐん)侵入(しんにう)の要衝(えうしよ)に当(あた)らしめむとするに方(あた)つて其(その)守将(しゆせう)を命(めい)ぜられたのである
サテ長篠城(ながしのじよう)が家康(いへやす)の手に入つて後(のち)の事(こと)であるが遠江(とふとほみ)方面(ほうめん)に於(おい)て数々(しば〴〵)徳川(とくがは)武田(たけだ)二 氏(し)の間(あひだ)にセリ合(あ)ひがあ
《割書:高天神城武|田氏に降る》 つたが天正二年五月 勝頼(かつより)は兵(へい)三万を率(ひき)いて高天神城(たかてんじんのしろ)を包囲(はうゐ)したのであるソコで家康(いへやす)は急(きう)を聞(き)いて援(ゑん)を
信長(のぶなが)に求(もと)めたので信長(のぶなが)は之(これ)を援(たす)くる為(ため)に自(みづか)ら兵(へい)を率(ひき)ひて其(その)先鋒(せんはう)は六月十八日に今切(いまぎり)の渡(わたし)までやつて来(き)
たが高天神(たかてんじん)の守将(しゆせう)小笠原長忠(をがさはらながたゞ)は其(その)以前(いぜん)遂(つひ)に勝頼(かつより)に降(くだ)つたので信長(のぶなが)は途中(とちう)から引(ひ)き返(かへ)したのである此(この)時(とき)
家康(いへやす)は之(これ)を出迎(でむか)へたが酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)は此(この)吉田(よしだ)の城(しろ)に於(おい)て信長(のぶなが)を饗(けう)し信長(のぶなが)は又(ま)た此(この)城(しろ)の広間(ひろま)に於(おい)て
黄金(わうごん)一 袋(ふくろ)を家康(いへやす)に贈(おく)り貞宗(さだむね)の刀(かたな)を酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に授(さづ)けたと云ふ事である之(こ)れ亦(ま)た松平記(まつだひらき)及(およ)び武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)
などに記(しる)されてある
《割書:織田武田諸|氏と足利将》 然(しか)るに当時(とうじ)上方(かみがた)に於(おい)ては既(すで)に前(まへ)にも申述(もうしのべ)た通(とほ)り信長(のぶなが)と将軍(せうぐん)義昭(よしあきら)との間柄(あひだがら)が益(ます〳〵)険悪(けんあく)となつて頗(すこぶ)る危急(ききう)
《割書:軍との関係| 》 に迫(せま)つて居(を)るので義昭(よしあきら)は又た屡々(しば〳〵)書(しよ)を勝頼(かつより)に送(おく)つて一日も早(はや)く上京(ぜうけう)して己(おの)れを助(たす)くる様(やう)にと申送(もうしおく)つた
のであるソコで勝頼(かつより)は父(ちゝ)の志(こゝざし)を継(つ)いで是非(ぜひ)共(とも)其(その)旗(はた)を京師(けうし)に立(た)てたいものであると云ふ志(こゝろざし)は益々(ます〳〵)盛(さかん)
になつて来(き)たものに相違(さうゐ)ないが其(その)頃(ころ)の形勢(けいせい)に就(つい)ては徳川実記(とくがはじつき)の註(ちう)に於(おい)て既(すで)に成島司直(なりしましちよく)も左(さ)の如(ごと)く論(ろん)じ
て居(を)るのである
当時(とうじ)天下(てんか)の形勢(けいせい)を考(かんが)ふるに織田殿(をたどの)足利義昭(あしかゞよしあきら)将軍(せうぐん)を̪翅戴(したい)し三好(みよし)松永(まつなが)を降参(こうさん)せしめ佐々木(さゝき)六 角(かく)を討(う)ち亡(ほろ)
し足利家(あしかゞけ)恢復(くわいふく)の功(こう)をなすに至(いた)り強傲専肆(けうがうせんし)かぎりなく跋扈(ばつこ)のふるまひ多(おほ)きを以(もつ)て義昭(よしあきら)殆(ほとんど)これにうみ
苦(うる)しみ陽(やう)には織田殿(をたどの)を任用(にんよう)するといへどもその実(じつ)は是(これ)を傾覆(けいふく)せんとして潜(ひそか)に越前(ゑつぜん)の朝倉(あさくら)近江(あふみ)の浅井(あさゐ)
甲州(かうしう)の武田(たけだ)に含(ふく)めらるゝ密旨(みつし)ありこれ姉川(あねがは)の戦(たゝかひ)起(おこ)る所以(ゆゑん)なりその明証(めいせう)は高野山(かうやさん)蓮華定院(れんげてうゐん)吉野山(よしのやま)勝(せう)
光院(こうゐん)に存(ぞん)する文書(ぶんしよ)に見(み)ゑさ又(また)其(その)後(のち)に至(いた)り甲州(かうしう)の武田(たけだ)越後(ゑつご)の上杉(うへすぎ)相模(さがみ)の北条(ほうでう)は関東(くわんとう)北国(ほくこく)割拠(かつきよ)中(ちう)最(もつとも)第
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百十七
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百十八
【本文】
一の豪傑(ごうけつ)なる由(よし)聞(き)きてこの三国へ大和淡路守(やまとあわぢのかみ)等(ら)を密使(みつし)として信長(のぶなが)誅伐(ちうばつ)の事をたのまれけるその文書(ぶんしよ)
も又(また)吉野山(よしのやま)勝光院(せうこうゐん)に存(ぞん)す然(しか)れば織田氏(をたし)を誅伐(ちうばつ)せんには当時(とうじ)徳川家(とくがはけ)興国(こうこく)の第一にて織田氏(をだし)のたのむ所(ところ)
は徳川家(とくがはけ)なり故(ゆへ)に先(まづ)徳川家(とくがはけ)を傾(かたむ)けて後(のち)尾州(びしう)へ攻(せ)め入(い)りて織田(をだ)を亡(ほろぼ)し中国(ちうごく)へ旗(はた)を挙(あ)げんとて信玄(しんげん)盟約(めいやく)
を背(そむ)き無名(むめい)の軍(いくさ)興(おこ)し遠(ゑん)三を侵掠(しんれう)せんとす是(これ)三方ヶ原の大戦(たいせん)起(おこ)る所以(ゆゑん)なり勝頼(かつより)が時(とき)に至(いた)り又(また)義昭(よしあきら)より
北条氏(ほうでう)謀(はかりごと)を同(おな)じくして織田(をた)を滅(ほろぼ)すべき事を頼(たの)まるゝその使(つかひ)は眞木島玄蕃允(まきしよげんばのすけ)なり此(この)文書(ぶんしよ)又(また)勝光院(せうこうゐん)に
伝(つた)ふ是(これ)勝頼(かつより)がしば〳〵三 遠(ゑん)を襲(おそ)はんとする所(ところ)にて長篠大戦(ながしのたいせん)の起(おこ)る所以(ゆえん)なり義昭(よしあきら)終(つひ)に本意(ほんい)を遂(と)げず後(のち)
に芸州(げいしう)へ下(くだ)り毛利(もうり)を頼(たの)まるこれ豊臣氏(とよとみし)中国(ちうごく)語征伐(ごせいばつ)の起(おこ)る所(ところ)なり然(しか)れば姉川(あねがは)三 方(かた)ヶ原(はら)長篠(ながしの)の三 大戦(たいせん)は
当家(とうけ)においては剣難危急(けんなんききう)なりといへどもその実(じつ)は足利義昭(あしかゞよしあきら)の作謀(さくぼう)に起(おこ)り朝倉(あさくら)武田(たけだ)等(ら)巳(おのれ)が姦計(かんけい)を以(もつ)て
又(また)簒奪(さんだつ)の志(こゝざし)を成就(せうじゆ)せんとせしものなりすべて等持院(とうぢゐん)将軍(せうぐん)よりこのかた室町気(むろまちけ)は人の力(ちから)をかりて功(こう)
をなしその功成(こうな)りて後(のち)又(また)他人(たにん)の手(て)をかりてその功臣(こうしん)を除(のぞ)くを以(もつ)て万古不易(ばんこふえき)の良法(れうほう)として国(くに)を建(た)てし
余習(よしふ)十五 代(だい)の間(あひだ)其(その)故智(こち)を用(もち)ひざる者(もの)なし終(つひ)に其(その)故智(こち)を以(もつ)て国家(こくか)をも失(うしな)ひしこと豈(あに)天(てん)ならずや
《割書:大賀弥四郎|の叛逆》 此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるが其(その)頃(ころ)徳川氏(とくがはし)の代官(だいくわん)に大賀弥(おほがや)四 郎(らう)と云ふものがあつて奥郡(おくごほり)廿 余郷(よこう)の賦租(ぶそ)を支配(しは)して
何不足(なにふそく)もないのに頗(すこぶ)る非望(ひぼう)を懐(いだ)いて竊(ひそか)に武田氏(たけだし)に内応(ないおう)し岡崎城(をかざきじよう)を奪略(だつりやく)しようと云ふような事を謀(はか)つた
《割書:武田勝頼の|侵入》 のであるが之(これ)等(ら)も一つの近因(きんゐん)となつたので天正(てんせう)三年の四月 勝頼(かつより)はイヨ〳〵一万二千余の大軍(たいぐん)を率(ひき)ゐて
信濃(しなの)から三 河(かは)に攻(せ)め入(い)つたのである然(しか)るに之(これ)に先(さきだ)つて大賀(おほが)は事が露顕(ろけん)に及(およ)むで一 類(るい)孰(いづ)れも捕(とら)へられた
ので勝頼(かつより)も此(この)事(こと)は少(すこ)しく当(あ)てがはづれた形(かたち)であつたがソレ等(ら)には頓着(とんちやく)なく直(たゞ)ちに二千 余(よ)の兵(へい)を分(わか)つて
先(ま)づ長篠城(ながしのじよう)を囲(かこ)ましめ自(みづか)らは其(その)余(よ)の大軍(たいぐん)を引連(ひきつ)れて五月六日 牛久保(うしくぼ)並(ならび)に二 連木(れんぎ)に放火(はうくわ)し此(この)吉田城(よしだじよう)に攻(せ)
め寄(よ)せたのである
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
二連木の戦 此(この)時(とき)家康(いへやす)は浜松(はままつ)から来(きた)つて吉田城(よしだじよう)にあつたのであるが先(ま)づ武田氏(たけだし)の兵(へい)と二 連木(れんぎ)の兵(へい)との戦(たゝかひ)があつた
もので二 連木(れんぎ)城主(じようしゆ)戸田康長(とだやすなが)はまだ幼少(ようせう)であつたが其(その)家臣(かしん)等(ら)ハ敵(てき)の首(くび)十八 級(きう)を獲(ゑ)て家康(いへやす)の台覧(たいらん)に供(そな)へた
と云ふ事は寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)中(ちう)康長(やすなが)の譜(ふ)に載(の)つて居(を)る処(ところ)である又(ま)た三 河物語(かはものがたり)にもは薑(はじかみ)ケ原(はら)に於(おい)て戦闘(せんとう)が
あつた事が記(しる)してあるが此(この)薑(はじかみ)ケ原(はら)と云ふのは即(すなは)ち今(いま)の二 連木(れんぎ)の地(ち)である其(その)時(とき)家康(いへやす)は五千の兵(へい)を以(もつ)て
吉田(よしだ)の郊外(こうぐわい)に陣(ぢん)したが酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の意見(いけん)で兵(へい)を城中(じようちう)に引(ひ)き入(い)るゝ事となつて忠次(たゝつぐ)が殿(しんがり)の役(やく)を勤(つと)めたの
であるトコロで武田方(たけだがた)の先鋒(せんぽう)山縣昌景(やまがたまさかげ)は之(これ)を追撃(つひげき)したので忠次(たゝつぐ)は馬(うま)を返(かへ)して之(これ)と戦(たゝか)ひ全軍(ぜんぐん)を傷(きづゝ)けずし
て兵(へい)を城中(じようちう)に収(をさ)めたが其(その)翌日(よくじつ)も亦(ま)た両軍(れうぐん)の戦(たゝか)ふことが三度(みたび)で忠次(たゝつぐ)と昌景(まさかげ)とは互(たがひ)に言(げん)を交(か)はして戦(たゝかひ)を決(けつ)す
《割書:勝頼長篠城|を包囲す》 ることか再度(さいど)に及(およ)むだとの事である然(しか)るに勝頼(かつより)は敢(あへ)て城(しろ)に逼(せま)ることをなさず其(その)翌(よく)八日には全軍(ぜんぐん)を長篠(ながしの)に集(あつ)
《割書:家康信康旗|を野田に進》 めて茲(こゝ)に長篠城(ながしのじよう)を重囲(ぢうゐ)するに至(いた)つたのである其(その)時(とき)家康(いへやす)の長子(てうし)信康(のぶやす)は出(い)でゝ山中(やまなか)の法蔵寺(ほうざうじ)に陣取(ぢんど)つて居(を)
《割書:む | 》 つたが三 河物語(かはものがたり)によるとそれより家康(いへやす)、 信康(のぶやす)両旗(れうき)にて野田(のだ)へ押寄(おしよ)させ給(たま)ふとなつて居(を)るが一 方(はう)には又(ま)
《割書:織田信長の|来援》 た十日に早馬(はやうま)を以(もつ)て援軍(ゑんぐん)を織田信長(をたのぶなが)に請(こ)つたと云ふ事が松平記(まつだひらき)に書(か)いてあるソコで信長(のぶなが)は応援(おうゑん)の為(ため)に
岐阜(ぎふ)を出立(しゆつたつ)したのが十三日で其(その)夜(よ)は熱田(あつた)に宿(しゆく)し翌(よく)十四日 其(その)子(こ)信忠(のぶたゝ)が岡崎(をかざき)に到着(とうちやく)した頃(ころ)自分(じぶん)は知立(ちりう)に来(きた)
つたのである松平記(まつだひらき)には信長(のぶなが)の岡崎(をかざき)到着(とうちやく)は十五日だと書(か)いてあるが参謀本部(さんばうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)長篠役(ながしのえき)に十
四日の内(うち)に着(ちやく)した事になつて居(を)る兎(と)に角(かく)信長(のぶなが)が十五日に岡崎(をかざき)にあつた事は事実(じじつ)と信(しん)ぜられるのである
此(この)時(とき)に当(あた)つて長篠城中(ながしのじようちう)の有様(ありさま)は如何(どう)であつたかと云ふと奥平信昌(おくだひらのぶまさ)(貞昌)が大将(たいせう)で松平景忠次(まつだひらかげたゞ)伊昌(いせう)父子(ふし)並(ならび)
に松平親俊(まつだひらちかとし)が之(これ)を輔(たす)けて居(を)つたが兵数(へいすう)は僅(わづか)に五百 内外(ないぐわい)で兎(と)に角(かく)一万参千の大軍(たいぐん)を敵(てき)に扣(ひか)へて(《割書:勝頼の兵|数は二万》
《割書:であると称して居るが事実は一|万三千余であつた事と信ずる》)糧食(れうしよく)は此(この)上(うへ)僅(わづか)に四五日 分(ぶん)より外(ほか)ないと云ふ始末(しまつ)であるから是非(ぜひ)此(この)事情(じぜう)を家(いへ)
康(やす)に報(ほう)じ更(さら)に織田(をた)の援軍(ゑんぐん)が何(いづ)れの辺(へん)まで来(き)たかを確(たしか)めたいと云ふので武田方(たけだがた)の総攻撃(そうこうげき)のあつた十四日
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百十九
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百二十
【本文】
《割書:鳥居強右衛|門勝商》 の夜(よ)彼(か)の有名(ゆうめい)なる鳥居強右衛門勝商(とりゐすねうゑもんかつあき)が其(その)使命(しめい)を帯(お)むで城(しろ)を抜(ぬ)け出(い)でたのである而(しか)して直(たゞ)ちに家康(いへやす)の陣(ぢん)
に使(つかひ)したのであるが此(この)時(とき)の家康(いへやす)のあつた位置(ゐち)と云ふものが旧来(きうらい)疑問(ぎもん)である文部省(もんぶせう)で出来(でき)た国定教科書(こくていけうくわしよ)
の高等小学読本(かうとうせうがくどくほん)には之(これ)が浜松(はままつ)だとしてあつたが其(その)後(のち)改正(かいせい)せられたものには岡崎(をかざき)だとなつて居(を)る前(まへ)に申(もうし)
述(の)べた参謀本部(さんばうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)にも亦(ま)た同様(どうやう)に岡崎(をかざき)だとしてあるが之(これ)に就(つい)ては私(わたくし)は別(べつ)に説(せつ)があるのであ
る武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)には十五日の処(ところ)に勝商(かつあき)が岡崎(をかざき)に行(い)つて家康(いへやす)に遇(あ)つたように書(か)いてあるかと思(おも)ふと十六
日の処(ところ)には家康(いへやす)が宝川(たからがは)まで信長(のぶなが)を迎(むかひ)に出(い)て対顔(たいがん)ありて出馬(しゆつば)の事を謝(しや)したと書(か)いてある宝川(たからがは)と云へば無(む)
論(ろん)南設楽郡(みなみしたらぐん)で野田(のだ)の手前(てまへ)であるから家康(いへやす)が十五日に岡崎(をかざき)に居(を)つたものなれば其(その)時(とき)既(すで)に信長(のぶなが)に遭(あ)つて居(を)
らねばならぬ訳(わけ)で其(その)翌日(よくじつ)更(さら)に事々(こと〴〵)しく宝川(たからがは)まで迎(むかひ)に出(で)て対顔(たいがん)したと云ふ記事(きじ)を載(の)するのは甚(はなは)だ不合理(ふごうり)
の事と思(おも)ふ又(ま)た津坂孝綽(つさかかうしやく)の勝商伝(かつあきでん)には此(この)事(こと)を吉田(よしだ)であると記(しる)してあるが私(わたくし)の説(せつ)と云ふのは外(ほか)ではない
ので矢張(やはり)三 河物語(かはものがたり)の記事(きじ)に重(おも)きを置(お)くに過(す)ぎぬのである即(すなは)ち仝書(どうしよ)の勝商(かつあき)が武田方(たけだがた)に捕(とら)はれて愈(いよ〳〵)最後(さいご)
の時に城中(じようちう)の者(もの)に向(むかつ)て大音声(だいおんぜう)に呼(よは)はつたと云ふ言葉(ことば)の中(なか)に
信長(のぶなが)は岡崎(をかざき)迄(まで)御出馬(ごしゆつば)あるぞ城(しろ)の介殿(すけどの)は八幡(やはた)迄(まで)御出馬(ごしゆつば)なり先手(さきて)は一の宮(みや)本野(ほんの)ケ原(はら)にまん〳〵ト陣取(ぢんどつ)て
あり家康(いへやす)信康(のぶやす)は野田(のだ)へ移(うつ)らせ給(たま)ひてあり城(しろ)堅固(けんご)に持給(もちたま)へ三日の内(うち)に御運(おんうん)を開(ひら)かせ給(たま)ふべし
とあるが私(わたくし)はドウモ之(これ)が事実(じじつ)であると信(しん)ずるのである前(まへ)にも申述(もうしのべ)た如(ごと)く勝商(かつあき)が城(しろ)抜(ぬ)け出(い)てたのは十
四日の夜(よ)であるが其(その)夜(よ)直(たゞ)ちに家康(いへやす)には野田(のだ)の陣(ぢん)で逢(あ)つたものであると思(おも)ふ而(しか)して家康(いへやす)の指図(さしづ)で直(す)ぐに
又(ま)た岡崎(をかざき)に向(むか)つたので其(その)翌(よく)十五日の夜(よ)更(さら)に其処(そこ)で信長(のぶなが)に逢(あ)つて城中(じようちう)の事情(じぜう)を述(の)べたのであるに相違(さうゐ)な
い同(おな)じ三 河物語(かはものがたり)に
然(しか)る所(ところ)信長(のぶなが)御出馬(ごしゆつば)ありて先手(さきて)の衆(しう)は早(は)や八幡(やはた)一の宮(みや)本野(ほんの)ケ原(はら)に陣(ぢん)をとれば城(しろ)の介殿(すけどの)は岡崎(をかざき)へ着(つ)か
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百六十号附録 ( 明治四十四年九月十二日発行 )
【本文】
せ給(たま)へば信長(のぶなが)は知立(ちりう)へ着(つ)かせ給(たま)ふ然(しか)れ共(ども)長篠城(ながしのじよう)はきつく攻(せめ)られ早(は)や殊(こと)の外(ほか)つまりければ忍(しの)びて鳥(とり)
居強右衛門(ゐすねうゑもん)と申者(もうすもの)出(いだ)して信長(のぶなが)は御出馬(ごしゆつば)か見(み)て参(まい)れとて出(いだ)す城(しろ)よりはやす〳〵と出(いで)て此(この)由(よし)を家康(いへやす)へ申(もうし)
上(あ)ければ信長(のぶなが)へさし越(こ)されければ信長(のぶなが)御悦(おんよろこ)びなされて御出馬(ごしゆつば)の由(よし)仰(あふせ)遣(つかは)されければ
とあるのは実(じつ)に其(その)消息(せうそく)を漏(もら)して余(あま)りがあるものと思(おも)ふ然(しか)るに武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)には前(まへ)に申述(もうしのべ)た通(とほ)り此(この)時(とき)勝(かつ)
商(あき)は家康(いへやす)に岡崎(をかざき)で面会(めんくわい)したとしてあるのに却(かへつ)て信長(のぶなが)には牛久保(うしくぼ)で逢(あ)つたように記(しる)してあるが之(これ)は順序(じゆんぢよ)
としても信(しん)ぜられぬ説(せつ)であると思(おも)ふ又(ま)た文部省(もんぶせう)の国定読本(こくていどくほん)や参謀本部(さんばうほんぶ)の日本戦史(にほんせんし)は何(なに)に拠(よつ)て此(この)時(とき)家康(いへやす)
信長(のぶなが)共(とも)に岡崎(をかざき)にあつたと云ふ説(せつ)を採(と)つたものか浅学(せんがく)の私(わたくし)共(ども)が彼是(かれこれ)評(ひよう)するのは善(よ)くあるまいと思(おも)ふが
併(しか)し家康(いへやす)の性格(せいかく)及(およ)び之(こ)れ迄(まで)の経歴(けいれき)から推(お)しても自(みづか)ら七日 迄(まで)吉田(よしだ)に於(おい)て武田(たけだ)の大軍(たいぐん)と対陣(たいぢん)し其(その)大軍(たいぐん)が八
日に長篠(ながしの)方面(ほうめん)に引(ひ)き退(しりぞ)いたのであるから其(その)日(ひ)から長篠(ながしの)が重囲(ぢうゐ)された事を知らずに居る筈(はづ)はないと信(しん)ず
る之(これ)を知(し)りつゝ巳(おのれ)の股肱(ここう)とも頼(たの)むもの等(ら)の危急(ききう)を顧(かへり)みず兵(へい)を岡崎(をかざき)に収(おさ)むるが如きは断(だん)じてあり得(う)べか
らざる事と思(おも)ふ従(したがつ)て此処(こゝ)は矢張(やはり)前(まへ)に申述(もうしの)べた三 河物語(かはものがたり)の記事(きじ)の如く家康(いへやす)は其(その)時(とき)吉田(よしだ)から直(たゞ)ちに長篠(ながしの)の
後詰(あとづめ)をせんとして野田(のだ)迄(まで)出陣(しゆつぢん)したものであるが武田方(たけだがた)の大勢(たいせい)に対(たい)して軽率(けいそつ)の事は出来(でき)ぬと云ふ処から
急(きう)に使(つかひ)を信長(のぶなが)に派(は)して加勢(かせい)の来(く)る迄(まで)は此処(こゝ)で持長(ぢちよう)して居(を)つたのであると云ふのが事実(じじつ)でなくてはなら
ぬと確信(かくしん)する松平記(まつだひらき)にも亦(ま)た其(その)時(とき)の事を記(しる)して
家康(いへやす)一 手(て)にて後詰(あとづめ)せんと用意(ようい)有(あり)しかとも奥平方(おくだひらがた)忍(しのび)を以(もつ)て内通(ないつう)申(もう)すは甲州(かうしう)勢(ぜい)大勢(たいせい)にて中々(なか〳〵)一 手(て)計(ばかり)に
ては御合戦(ごかつせん)あやうし信長公(のぶながこう)を引出(ひきいだ)し申(もう)され早々(さう〳〵)御後詰(おんあとづめ)下(くだ)さるべく候(そろ)さなくは城中(じようちう)兵糧(へうれう)尽(つ)きて頓(やが)て落(らく)
城(じよう)疑(うたがひ)なしと申(もうす)間(あひだ)五月十日 早馬(はやうま)を以(もつ)て信長(のぶなが)へ注進(ちうしん)あり
とあるのは誠(まこと)によく実情(じつぜう)を穿(うが)つて居(を)るものと思(おも)ふのである併(しか)し此処(こゝ)には一つの説(せつ)があつて家康(いへやす)は矢張(やはり)
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百廿一
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百廿二
【本文】
十四日 迄(まで)は野田(のだ)に居(を)つたが十五日に信長(のぶなが)を迎(むかへ)の為(ため)に岡崎(をかざき)に行(い)つたものであると云ふのである之(これ)は強(あなが)ち
に非認(ひにん)の出来(でき)ぬ説(せつ)ではあるが仮令(たとへ)それを事実(じじつ)であつたとしても長篠城中(ながしのじようちう)に於(おい)ては当時(とうじ)加様(かやう)な細(こま)かい処(ところ)
迄(まで)分(わか)つて居(を)る筈(はづ)はない而(しか)も三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)等(とう)の記事(きじ)を味(あじは)つて見(み)ても家康(いへやす)が野田(のだ)あたりまで来(き)て居(を)る事
は信(しん)じて居(を)つたものと思(おも)はれる即(すなは)ち強右衛門(すねうゑもん)の出(で)た目的(もくてき)は先(ま)づ家康(いへやす)に逢(あ)つて信長(のぶなが)の消息(せうそく)如何(いかん)を聴(き)くの
にあつたものと確信(かくしん)せねばならぬので何(いづ)れにしても強右衛門(すねうゑもん)か初(はじめ)から岡崎(をかざき)へ行(ゆ)くのを目的(もくてき)として城(しろ)を
出(い)でたように云ふのは結局(けつきよく)間違(まちがひ)を惹起(ひきおこ)す源(みなもと)であると信(しん)じて疑(うたが)はぬのであるサテ信長(のぶなが)は十六日 岡崎(をかざき)か
ら直(たゞ)ちに軍(ぐん)を進(すゝ)めて牛久保城(うしくぼじよう)に到着(たうちやく)し十七日に野田(のだ)に至(いた)つたのであるが勝商(かつあき)は信長(のぶなが)の勧告(くわんこく)があつたに
も拘(かゝは)らず一 刻(こく)も早(はや)く此(この)赴(おもむき)を城中(じようちう)に知(し)らせたいと云ふので十五日の夜(よ)直(たゞ)ちに岡崎(をかざき)を立(たつ)て長篠城(ながしのじよう)附近(ふきん)に
着(ちやく)し武田方(たけだがた)の担夫(たんふ)の中(なか)に混(こん)じて城(しろ)に近(ちか)づくの機会(きくわい)を俟(ま)つて居(を)つたのであるが遂(つひ)に穴山勢(あなやまぜい)の為(ため)に発見(はつけん)せ
られて捕(とら)へられたソコで勝頼(かつより)の前(まへ)に引出(ひきいだ)されて勝頼(かつより)から懇々(こん〳〵)と城兵(じようへい)をして断念(だんねん)せしめ巳(おの)れに降伏(こうふく)する
ように伝(つた)へよと云ふ事を説(と)かれたのであるが勝商(かつあき)は佯(いつはつ)て其(その)旨(むね)に従(したが)ひ幸(さいはひ)に城(しろ)に近(つか)づくの機会(きくわい)を得(え)て大(だい)
音声(おんせい)を張(は)り上(あ)げ前(まへ)にも三 河物語(かはものがたり)の文章(ぶんせう)を引用(いんよう)して申述(もうしのべ)た如く信長(のぶなが)家康(いへやす)の援兵(ゑんぺい)は近(ちか)づいて居(を)るから城(しろ)を
堅固(けんご)に守(まも)り給(たま)へ三日 間(かん)には必(かなら)ず開展(かいてん)の道(みち)があると云ふ事を叫(さけ)むだのであるソコで武田方(たけだがた)に於(おい)ては驚(おどろ)き
且(か)つ怒(いか)つたので遂(つひ)に勝商(かつあき)を殺(ころ)したのである之(これ)も篠場野(しのばの)で磔殺(ろくさつ)したと云ふ説(せつ)があるが実(じつ)は其(その)場(ば)で直(たゞ)ちに
刺殺(しさつ)されたもので私(わたくし)は矢張(やはり)三 河物語(かはものがたり)に
却(かへつ)て敵(てき)の強(つよ)みを云(い)ふやつなれば早(はや)くとゞめを刺(さ)せとてとゞめをぞ刺(さ)しける
とあるのが如何(いか)にも事実(じじつ)であると信(しん)ずるのである
長篠合戦 かくて十八日には信長(のぶなが)家康(いへやす)共(とも)に陣(ぢん)を設楽原(したらばら)に張(は)つたのであるが特(とく)に信長(のぶなが)の考案(こうあん)で厳重(げんぢう)なる搆(かま)へをした
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
ので長柵(てうさく)を樹(た)て銃手(じうしゆ)中(ちう)より選手(せんしゆ)を出(いだ)して之(これ)を前列(ぜんれつ)に配置(はいち)し又(ま)た長柵(てうさく)の間(あひだ)には三十 間(けん)乃至(ないし)五十 間(けん)位(ぐらゐ)づゝ
の門戸(もんこ)を置(お)いて進撃(しんげき)便(べん)に供(けう)したと云ふ事であるソコで武田方(たけだがた)に於(おい)ては十九日に諸将(しよせう)を会(くわい)して進撃(しんげき)の
方略(ほうりやく)を定(さだ)め廿日には勝頼(かつより)自(みづか)ら全軍(ぜんぐん)を率(ひき)ゐて瀧川(たきがは)を渡(わた)り廿一日には愈(いよ〳〵)両軍(れうぐん)の会戦(くわいせん)と相成(あひな)つたのである
が此(この)時(とき)勝頼(かつより)の寵臣(ちようしん)長坂釣閑(ながさかこうかん)、 跡部大炊介(あとべおほいのすけ)の両人(れうにん)が信長(のぶなが)の将(せう)佐久間信盛(さくまもりのぶ)の為(ため)に利(り)を以(もつ)て喰(くら)はされ其(その)計策(けいさく)
に陥(おちい)つて為(ため)に武田方(たけだがた)の方略(ほうりやく)を誤(あやま)らしめたと云ふ説(せつ)がある併(しか)し長坂(ながさか)は此(この)戦(たゝかひ)に参加(さんか)せなかつたのが事実(じじつ)
で其(その)証拠(せうこ)となるべき文書(ぶんしよ)は今日(こんにち)既(すで)に発見(はつけん)されて動(うごか)すべからざる事(こと)となつて居(を)る之(これ)は嘗(かつ)て文学士(ぶんがくし)渡邊世(わたなべせ)
祐(ゆう)君(くん)が新城町(しんしろてう)で長篠(ながしの)に関(くわん)する講演(こうゑん)をせられた時(とき)にも論(ろん)ぜられた様(やう)に思(おも)ふ兎(と)に角(かく)此(この)戦(たゝかひ)に於(おい)ては織田(をた)徳(とく)
川(がは)二 氏(し)は共(とも)に出来得(できう)るだけの力(ちから)を挙(あ)げて之(これ)に対(たい)したので両氏(れうし)の兵数(へいすう)は殆(ほとん)ど武田方(たけだがた)に三 倍(ばい)し殊(こと)に前(まへ)に申(もうし)
述(の)べた如(ごと)く多数(たすう)の銃手(じうしゆ)があつたので此(この)点(てん)に於(おい)て既(すで)に勝敗(せうはい)の数(すう)は歴然(れきぜん)たるものがあつたように思(おも)はるゝ
《割書:鳶巣山の襲|撃》 のであるが廿日の夜(よ)に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)が鳶巣山(とびのすやま)の敵塁(てきるい)に襲撃(しうげき)したのは又(ま)た武田方(たけだがた)の勇気(ゆうき)を挫折(ざせつ)せしめた事が
ドノ位(くらゐ)であつたか分(わか)らぬと思(おも)ふ従(したがつ)て忠次(たゞつぐ)は此(この)戦(たゝかひ)に於(おけ)る織田(をた)徳川方(とくがはがた)の殊功者(しゆこうしや)であるのは云ふ迄も
ない事であるが之(これ)に就(つい)てコウ云ふ話(はなし)がある初(はじめ)め忠次(たゞつぐ)が此(この)鳶巣(とびのす)襲撃(しうげき)の計(けい)を信長(のぶなが)に建議(けんぎ)したのは軍議(ぐんぎ)の席(せき)
上(ぜう)であつたが此(この)時(とき)信長(のぶなが)は以(もつ)ての外(ほか)の立腹(りつぷく)で之(これ)を斥(しりぞ)けた然(しか)るに軍議(ぐんぎ)が果(は)てゝ諸将(しよせう)が退(しりぞ)いた後(のち)信長(のぶなが)は改(あらた)め
て極(ごく)内密(ないみつ)に家康(いへやす)と忠次(たゞつぐ)とを側近(そばちか)く呼(よ)むで大(おほい)に先(さ)きの献策(けんさく)を賞賛(せうさん)し早速(さつそく)之(これ)を実行(じつこう)せしめたが蓋(けだ)し前(まへ)に佯(いつは)
り斥(しりぞ)けたのは全(まつた)く謀(はかりごと)の漏泄(ろうせい)せむことを恐(おそ)れたからであると云ふ事であるが如何(いか)にも之(これ)は作(つく)り物語(ものがたり)にで
もありそうな話(はなし)であるが寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)などにも載(の)つて居(を)る説(せつ)で一 概(がい)に非認(ひにん)も出来(でき)ぬと思(おも)ふ而(しか)して此(この)
鳶巣(とびのす)の襲撃(しうげき)と云ふものは実(じつ)に奇捷(きせう)を得(ゑ)たもので織田方(をたがた)からは金森(かなもり)五 郎(らう)八 長近(ながちか)、 佐藤(さとう)六 左衛門方秀(ざえゑもんのりひで)、 徳(とく)
川方(がはがた)では本多豊後守広孝(ほんだぶぶんごのかみひろたか)、 松平主殿助伊忠(まつだひらとのものすけこれたゞ)、 松平周防守康親(まつだひらすほうのかみやすちか)、 牧野新次郎康成(まきのしんじらうやすなり)、 菅沼新(すがぬましん)八 郎定盈(らうさだみつ)、本(ほん)
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百廿三
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百廿四
【本文】
多彦(だひこ)八 郎忠次(らうたゞつぐ)、 西郷孫(さいごうまご)九 郎家貞(らういえさだ)並(ならび)に戸田一西(とだかづあき)等(ら)二 連木(れんぎ)戸田(とだ)の勢(せい)など三千 余人(よにん)が之(これ)に従(したが)ひ云(い)ふ迄(まで)もなく
忠次(たゞつぐ)が総指揮者(そうしきしや)で夜(よ)に乗(ぜう)じ竊(ひそか)かに敵塁(てきるい)に近(ちか)づき払暁(ふつけう)を以(もつ)て之(これ)を襲(おそは)つたのであるが武田方(たけだがた)に於(おい)ては全(まつた)く
不意打(ふいうち)に過(あ)つたので之(これ)が為(ため)に其(その)一 根拠(こんきよ)を失(うしな)つた訳(わけ)であるから大(おほい)に前軍(ぜんぐん)の士気(しき)に関(くわん)した事(こと)は云(い)ふ迄(まで)もな
い而(しか)も一 方(はう)に於(おい)て勝頼(かつより)は此(この)時(とき)全軍(ぜんぐん)に進撃(しんげき)を号令(ごうれい)したのであるが織田(をた)徳川方(とくがはがた)では前(まへ)に申述(もうしの)べた通(とほ)り長柵(てうさく)
を列(つら)ねて待(ま)ち搆(かま)へて居(を)つたのであるから武田勢(たけだぜい)は先(ま)づ之(これ)に迫(せま)つて却(かへつ)て多(おほ)く銃手(じうしゆ)の為(ため)に打(う)ち仆(たほ)され尚(な)ほ
奮闘(ふんとう)するものは側面(そくめん)攻撃(こうげき)を受(う)けたのである勿論(もちろん)武田方(たけだがた)の将士(せうし)と雖(いへど)も決(けつ)して弱(よわ)かつた訳(わけ)ではない実(じつ)に勇(ゆう)
敢(かん)の働(はたらき)が多(おほ)かつたのであるが何分(なにぶん)にも武器(ぶき)が十 分(ぶん)でなかつたと云ふ事は第一の不利益(ふりえき)であつたと云
はねばならぬソコで織田(をた)徳川氏(とくがは)二 氏(し)に於(おい)ては十 分(ぶん)に機(き)の熟(じゆく)した処(ところ)を察(さつ)して全軍(ぜんぐん)の総進撃(そうしんげき)をやつたもので
《割書:武田氏の大|敗》 あるから武田方(たけだがた)は遂(つひ)に大敗(たいはい)して支離滅裂(しりめつれつ)馬場信房(ばゞのぶふさ)、 山縣昌景(やまがたまさかげ)等(ら)を初(はじ)め精鋭(せいえつ)の将士(せうし)は多(おほ)く之(これ)に殪(たほ)れたの
である実(じつ)に武田氏(たけだし)滅亡(めつばう)の原因(げんゐん)は既(すで)に茲(こゝ)にありと云ふも過言(くわげん)ではあるまいと思(おも)ふ尚(な)ほ此(この)戦(たゝかひ)に就(つい)ては申(もうし)
述(の)ぶべき話(はなし)は沢山(たくさん)にあるが成(な)るべく経過(けいくわ)の大要(たいえう)を摘(つま)むで進行(しんこう)したいと思(おも)ふから之(こ)れ位(くらゐ)で止(とゞ)めたいと思(おも)
ふが兎(と)に角(かく)此(この)戦(たゝかひ)は午前(ごぜん)五 時頃(じごろ)から初(はじ)まつて午後(ごゞ)三 時頃(じごろ)に畢(をは)つたと云ふ事で頗(すこぶ)る長時間(てうじかん)であつた而(しか)し
て徳川方(とくがはがた)の斬獲(ざんくわく)した首級(しゆきう)は一万余で其(その)死傷(しせう)も亦(ま)た六千を下(くだ)らなかつたと云ふのであるから其(その)激烈(げきれつ)であ
つた事も分(わか)るのである
《割書:家康三遠両|国を平定す》 かくて勝頼(かつより)は一 時(じ)武節(ぶせつ)の城(しろ)に遁(のが)れたのであるが遂(つひ)に敗軍(はいぐん)を纏(まと)めて甲州(かうしう)に引(ひ)き退(しりぞ)いたのであるソコで織(を)
田(た)徳川(とくがは)二 氏(し)に於(おい)ては大(おほい)に進取(しんしゆ)の方針(ほうしん)を定(さだ)め家康(いへやす)は凱旋(がいせん)後(ご)直(たゞ)ちに武田方(たけだがた)に属(ぞく)する諸城(しよじよう)の攻略(こうりやく)に勉(つと)めたの
であるが其(その)月(つき)には直(たゞ)ちに足助(あすけ)を取(と)り六月には作手(つくて)田峯(たみね)七月には武節(ぶせつ)と云ふように続々(ぞく〴〵)三 河(かは)の北部(ほくぶ)を征(せい)
服(ふく)し更(さら)に六月から遠江(とふとほみ)の二 俣城(またじやう)を攻(せ)めて其(その)十二月 之(これ)を復(ふく)し又(ま)た七月から八月にかけて遠江(とふとほみ)諏訪原(すぼうはら)の城(しろ)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百六十六号附録 ( 明治四十四年九月十九日発行 )
【本文】
を攻(せ)めて之(これ)を取(と)り松井忠次(まつゐたゞつぐ)及(およ)び牧野新次郎康成(まきのしんじらうやすなり)をして之(これ)を守(まも)らしめたが周(しう)の武王(ぶわう)が殷(ゐん)の紂王(ちうわう)を牧野(まきの)に
討(う)つたと云ふ故事(こじ)に倣(なら)つて此処(こゝ)の名(な)を牧野原(まきのはら)と改(あらた)め又(ま)た松井忠次(まつゐたゞつぐ)を周防守(すぼうのかみ)と称(せう)せしむる事にしたとの
事である其(その)後(のち)も駿河(するが)遠江(とふとほみ)の間(あひだ)には武田(たけだ)徳川(とくがは)二 氏(し)の間(あひだ)に連年(れんねん)小戦争(せうせんそう)は絶(た)へなかつたが独(ひと)り高天神(たかてんじん)の城(しろ)は
中々(なか〳〵)の要害(えうがい)であつたので武田方(たけだがた)の守将(しゆせう)岡部長教(をかべながのり)が固守(こしゆ)して容易(ようい)に下(くだ)らなかつたヨウ〳〵天正九年三月
に至(いた)つて落城(らくじよう)したが之(これ)と相前後(あひぜんご)して乾(いぬゐ)、 小山(こやま)等(ら)の城(しろ)も家康(いへやす)の手(て)に皈(き)したので遂(つひ)に遠江(とふとほみ)も亦(ま)た全(まつた)く徳川(とくがは)
氏(し)の平定(へいてい)する処(ところ)となつたのである
此(かく)の如(ごと)き情況(じようけう)で三 遠(ゑん)両国(れうこく)に於(お)ける武田氏(たけだし)の勢力(せいりよく)は全(まつた)く減退(げんたい)したのであるが之(これ)より先(さ)き越後(ゑちご)の上杉謙信(うゑすぎけんしん)
は多年(たねん)の行掛(ゆきがゝ)りを捨(す)てゝ武田氏(たけだし)と和(わ)し之(これ)と同時(どうじ)に織田氏(をたし)とは相絶(あひた)つに至(いた)つたのである天正五年 信長(のぶなが)の
伊達右京太夫(だてうけうたいう)に送(おく)つた文書(ぶんしよ)には謙信(けんしん)を呼(よ)むで悪逆(あくぎやく)となした位(くらひ)であるが此(かく)の如(ごと)き事情(じじよう)に立至(たちいた)るには種々(しゆ〴〵)
《割書:上杉武田北|條三氏の同》 なる原因(げんゐん)があつたので一 言(げん)には申述(もうしの)べ兼(か)ぬるが蓋(けだ)し前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(もうしの)べた如(ごと)く将軍(せうぐん)足利義昭(あしかゞよしあきら)の勧誘(くわんゆう)と云
《割書:盟 | 》 ふものが大(おほい)に與(あづか)つて力(ちから)あつたことと思(おも)ふソコで謙信(けんしん)は一 方(ほう)には武田(たけだ)、 北條(ほうでう)と三 国同盟(ごくどうめい)を形成(かたちずく)つて自(みづか)らは
其翌天正六年三月を以(もつ)て越後(ゑちご)を出発(しゆつぱつ)し大(おほい)に兵(へい)を上国(じようこく)に動(うご)かして信長(のぶなが)と雌雄(しゆう)を決(けつ)せむとしたのであるが
其(その)出発(しゆつぱつ)に先(さきだ)つ僅(わづか)に二日、三月十三日に中風(ちうふう)に罹(かゝ)つて遂(つひ)に年(とし)四十九を以(もつ)て春日山城中(かすがやまじようちう)に卒(そつ)したのである
之(これ)は誠(まこと)に謙信(けんしん)の為(ため)には遺憾(ゐかん)極(きはま)りなき事であるが信長(のぶなが)に取(と)つては寧(むし)ろ僥倖(げうこう)ともなすべきもので之(これ)よりは
上杉氏(うゑすぎし)の振(ふる)はざるのは勿論(もちろん)の事であるが北條氏(ほうでうし)も亦(ま)た徳川氏(とくがはし)によつて欵(くわん)を織田氏(をたし)に通(つう)ずるに至(いた)つたの
で武田氏(たけだし)は遂(つひ)に孤立(こりつ)の勢(いきほひ)となつたのであるソコで信長(のぶなが)は天正十年二月イヨ〳〵武田氏(たけだし)を滅亡(めつばう)せしむ
《割書:武田氏の滅|亡》 べきの時機(じき)が至(いた)つたものとなして兵(へい)を信濃(しなの)から進(すゝ)め自身(じしん)も亦(ま)た出陣(しゆつぢん)して其(その)根拠(こんきよ)に侵入(しんにふ)したのである此(こゝ)
に於(おい)て家康(いへやす)は之(これ)に応(おう)じて二月十八日 浜松(はままつ)を発(はつ)して二十日 駿河(するが)の田中城(たなかじよう)を攻(せ)め廿一日には府中(ふちう)に入(い)り三
【欄外】
豊橋市史談 (長篠役と武田氏の滅亡) 百廿五
【欄外】
豊橋市史談 (松平信康の自刃並に厳龍和尚) 百廿六
【本文】
月八日 興津(おきつ)に次し十一日に甲斐(かひ)の古府(こふ)に於(おい)て信長(のぶなが)の先鋒(せんぱう)信忠(のぶたゞ)に会(くわい)したのである此(この)時(とき)信長(のぶなが)は信濃(しなの)の上諏(かみす)
訪(わ)まで来(き)て居(を)つたのであるが結局(けつきよく)勝頼(かつより)は其(その)日(ひ)に哀(あは)れなる最後(さいご)を遂(と)げ武田氏(たけだし)は茲(こゝ)に滅亡(めつばう)の運命(うんめい)と相成(あひな)つ
た事は之(こ)れ亦(ま)た諸君(しよくん)か既(すで)に御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふソコで家康(いへやす)は其二十日に上諏訪(かみすわ)まで出掛(でか)けて信長(のぶなが)
に面会(めんくわい)したが信長(のぶなが)が武田氏(たけだし)の故国(ここく)を諸将(しよせう)に分配(ぶんぱい)するに方(あた)り家康(いへやす)は更(さら)に駿河(するが)一 国(こく)を得(う)ることとなつたので
ある
⦿松平信康の自刃並に厳龍和尚
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く武田氏(たけだし)は遂(つひ)に天正十年三月十一日を以(もつ)て滅亡(めつばう)に帰(き)したのであるが夫(それ)より信長(のぶなが)は四
月二日 信濃(しなの)の諏訪(すわ)を発(はつ)して甲州(かうしう)に入(い)り武田氏(たけだし)滅亡(めつばう)の跡(あと)を検分(けんぶん)して駿河(するが)に出(い)で富士(ふじ)を遊覧(ゆうらん)して東海道(とうかいどう)に
《割書:信長の富士|遊覧》 かゝり岐阜(ぎふ)に帰(かへ)つたのであるが徳川氏(とくがはし)に於(おい)ては沿道(えんどう)を修(しう)し河(かは)には舟橋(ふねはし)を架(か)するなど注意(ちうい)周到(しうとう)で特(とく)に陣(ぢん)
《割書:信長の吉田|宿営》 営(えい)仮舘(かりやかた)などの設備(せつび)には意(い)を用(もち)ゐたものである而(しか)して信長(のぶなが)が其(その)途次(とじ)此(この)吉田(よしだ)に宿(しゆく)したのは四月十七日で酒(さか)
井忠次(ゐたゞつぐ)は饗(けう)を尽(つく)し信長(のぶなが)も亦(ま)た眞光(さねみつ)の太刀(たち)並(ならび)に黄金(おうごん)二百両を忠次(たゞつく)に与(あた)へたのであるが之(これ)は種々(しゆ〴〵)の記録(きろく)に
散見(さんけん)する処(ところ)であるサテ之(これ)で先(ま)づ長(なが)い間(あひだ)結(むす)むで解(と)けなかつた武田氏(たけだし)との関係(くわんけい)は一 段落(だんらく)を告(つ)げたので之(これ)か
らは専(もつぱ)ら徳川氏(とくがはし)と織田(をた)夫(それ)からは豊臣氏(とよとみし)との関係(くわんけい)に説(と)き及(およは)すべきであるが此処(こゝ)に一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置(を)きたい
のは家康(いへやす)の子(こ)信康(のぶやす)が最後(さいご)の話(はなし)で之(これ)が又(ま)た龍拈寺(りうねんじ)の住僧(ぢうそう)白州(はくしゆう)厳龍和尚(げんりうおせう)の話(はなし)に関連(くわんれん)するのである
《割書:築山御前関|口氏》 信康(のぶやす)は御承知(ごせうち)の通(とほ)り家康(いへやす)の長子(てうし)で家康(いへやす)の夫人(ふじん)関口氏(せきぐちし)の出(しゆつ)であるが此(この)関口氏(せきぐちし)は今川義元(いまがはよしもと)の姪(めい)に当(あた)るので
関口刑部少輔親永(せきぐちけいぶのせうゆうちかなが)の娘(むすめ)である即(すなは)ち家康(いへやす)がまだ今川家(いまがはけ)に世話(せわ)になつて居(を)る頃(ころ)に義元(よしもと)の意(い)によつて之(これ)を迎(むか)
へたのであるが家康(いへやす)が三 河(かは)に帰(かへ)つて後(のち)も人質(ひとしち)として長(なが)く駿河(するが)に留(とゝ)まつたので其(その)後(ご)三 河(かは)に迎(むか)へらるゝに
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
及(およ)むではドウモ家康(いへやす)との間(あひだ)が面白(おもしろ)く行(ゆ)かなかつたのであるソコで之(これ)を築山(つきやま)と云(い)ふ処(ところ)に置(お)いたので世(よ)に
築山御前(つきやまごぜん)と称(せう)するのであるが其(その)後(ご)関口氏(せきぐちし)の嫉妬(しつと)は益々(ます〳〵)募(つの)つたのみならず乱行(らんぎよう)があつた事は松平記(まつだひらき)など
に記(しる)されてある而(しか)も遂(つひ)には武田氏(たけだし)に内通(ないつう)して家康(いへやす)を殪(たほ)し信康(のぶやす)を擁立(えうりつ)せむとする計画(けいくわく)があつたとまで伝(つた)
へられ居(を)る而(しか)して信康(のぶやす)も亦(ま)た剛勇(ごうゆう)の人(ひと)ではあつたが数々(しば〳〵)残酷(ざんこく)非道(ひどう)の行(おこなひ)があつて人心(じんしん)の離反(りはん)を招(まね)いて
居(を)つたこと事が記(しる)されてある併(しか)しサスがは徳川氏(とくがはし)柱石(ちうせき)の臣(しん)だけあつて大久保彦左衛門(おほくぼひこざゑもん)は其(その)三 河物語(かはものがたり)に於(おい)て
《割書:信康夫人織|田氏》 もそれ等(ら)の事は明記(めいき)して居(を)らぬが信康(のぶやす)の夫人(ふじん)は即(すなは)ち織田信長(をたのぶなが)の娘(むすめ)で此(この)人(ひと)と関口氏(せきぐちし)とは又(ま)た余程(よほど)中(なか)が悪(わる)
かつたのである之(これ)に反(はん)して信康(のぶやす)は能(よ)く其(その)母(はゝ)関口氏(せきぐちし)に仕(つか)へた様子(やうす)である而(しか)も信康(のぶやす)と其(その)夫人(ふじん)とは之(これ)亦(ま)
た次第(しだい)に夫婦(ふうふ)仲(なか)が悪(わる)くなつたのであるソコで此(この)夫人(ふじん)織田氏(をたし)は十二ケ条(ぜう)の意見(いけん)を書(か)いて父(ちゝ)信長(のぶなが)に送(おく)つた
《割書:織田氏書を|父信長に送》 のであるがソレは天正七年六月の事で之(これ)が原因(げんゐん)となつて関口氏(せきぐちし)は討(う)たれ信康(のぶやす)遂(つひ)に自害(じがい)するに至(いた)つたの
《割書:る | 》 である而(しか)して三 河物語(かはものがたり)によると此(この)十二ケ条(でう)の意見書(いけんしよ)を信長(のぶなが)の処(ところ)へ持(も)つて行(ゆ)つた使(つかひ)は酒井忠次(さかゐたゞつぐ)であつた
としてある其(その)時(とき)信長(のぶなが)は此(この)織田氏(をたし)から送(おく)つた手紙(てがみ)を読(よ)み下(くだ)して十ケ条(でう)まで忠次(たゞつぐ)に対(たい)し一々 其(その)実否(じつひ)を質問(しつもん)
したが忠次(たゞつぐ)は孰(いづ)れも之(これ)を事実(じじつ)なりと答(こた)へたので信長(のぶなが)は遂(つひ)に最後(さいご)二ケ条(でう)は披(ひら)き見るに及(およ)ばずに家(いへ)の重臣(ぢうしん)
が一々 之(これ)を承知(せうち)して居(を)る以上(いぜう)は最早(もはや)疑(うたが)ふ処(ところ)はないから此(この)上(うへ)は信康(のぶやす)に切腹(せつぷく)させるように家康(いへやす)へ申伝(もうしつた)へて
呉(く)れと云はれたが忠次(たゞつく)は之(これ)をも御受(おうけ)をしたと書(か)いてある併(しか)し松平記(まつだひらき)の記(き)する処(ところ)は少(すこ)しく違(ちが)ふので其(その)時(とき)
の事情(じじよう)に就(つい)ては左(さ)の如(ごと)くに書(か)いてある
三 郎殿(らうどの)の御前(ごぜん)其(その)比(ころ)三 郎殿(らうどの)と御中(おんなか)悪敷(あしく)おはしければ此(この)由(よし)一つ書(しよ)になされ御父(おんちゝ)信長(のぶなが)へ遣(つか)はさるゝ先(まづ)第(だい)一
は御鷹野場(おんたかのば)にて出家(しゆつけ)を縛(しば)り殺(ころ)し給(たま)ふ事(こと)又(また)踊(おど)り悪敷(あしく)候(そそろ)とて弓(ゆみ)にて町(まち)の踊子(おどりこ)を射(ゐ)給(たま)ふ事(こと)其(その)外(ほか)あらき御振(おんふる)
舞(まひ)家康(いへやす)と御不審(ごふしん)の事(こと)人(ひと)の申(もうす)より過(あやまつ)て仰(あふせ)遣(つかは)さる御母儀(おんはゝぎ)の不行儀(ふぎようぎ)又(また)は甲州方(かうしうがた)より唐人(からびと)を召(めし)よせ御謀(ごむ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信康の自刃並に厳龍和尚) 百廿七
【欄外】
豊橋市史談 (松平信康の自刃並に厳龍和尚) 百廿八
【本文】
反(ほん)の沙汰(さた)ある事(こと)色々(いろ〳〵)細(こまか)に遊(あそば)され岐阜(ぎふ)へ御越(おこし)あり信長(のぶなが)驚(おどろ)き給(たま)ひ則(すなはち)浜松(はままつ)へ御使(おつかひ)ありて酒井左衛門尉(さかゐさえもんのぜう)大(おほ)
久保(くぼ)七 郎右衛門(らううゑもん)を呼(よび)て三 郎殿(らうどの)へ内々(ない〳〵)酒井(さかゐ)を初(はじめ)て皆々(みな〳〵)家老衆(からうしう)数度(すうど)異見(ゐけん)ありしかども用給(もちゐたま)はず其(その)比(ころ)酒井(さかゐ)
とも大久保(おほくぼ)とも三 郎殿(らうどの)不快(ふくわい)にて御座候(ござそろ)時分(じぶん)なりし間(あひだ)信長(のぶなが)御腹立(おんはらたち)加様(かよう)の悪人(あくにん)にて家康(いへやす)の家(いへ)を何(なん)として
相続(さうぞく)あらん後(のち)には必(かならず)家(いへ)の大事(だいじ)と成(な)らんと怒(いか)り給(たま)ふ両人(れうにん)の者共(ものども)爰(こゝ)にて申分(もうしぶん)を致(いた)し何様(なにさま)にも陳答(ちんとう)に及(およぶ)
ならは是程(これほど)の大事(だいじ)には及(およぶ)ましきに日比(ひごろ)三 郎殿(らうどの)と中(なか)悪(あ)しくて両人(れうにん)なからあきはて尤(もつとも)御意(ぎよい)の通(とほり)悪逆(あくぎやく)人(にん)
にて御座候(ござそろ)御前(ごぜん)の御恨(おんうらみ)尤(もつとも)なりと申(もうし)家康(いへやす)も御腹立(おんはらだち)あり然(しかる)者(もの)生害(せうがい)に又(およ)ふへきとの事(こと)にて天正七年八月
朔日 信長(のぶなが)へ此(この)由(よし)被仰上(あふせあげらる)信長(のぶなが)も内々(ない〳〵)御腹立(おんはらたち)の事(こと)なれは如何様(いかよう)にも存分(ぞんぶん)次第(じだい)と御返事(ごへんじ)あつて八月五日 家(いへ)
康(やす)岡崎(をかざき)へ御越(おんこし)あり三 郎殿(らうどの)を大浜(おほはま)へ出(いだ)し被申(もうされ)岡崎(をかざき)へは本多作左衛門(ほんださくざゑもん)を移(うつ)し給(たま)ふ三 郎殿(らうどの)は当座(とうざ)の御勘気(ごかんき)
と思召(おばしめし)けるに家康(いへやす)は西尾(にしを)の城(しろ)へ御座候 而(しかし)三 郎殿(らうどの)をは遠州(ゑんしう)堀江(ほりえ)へ移(うつ)したてまつり同九月十五日 遠州(ゑんしう)二
俣(また)にて生害(せうがい)し奉(たてまつ)る御母(おんはゝ)築山殿(つきやまどの)も日比(ひごろ)の御悪逆(おんあくぎやく)有(あり)しとて同(おなじく)生害(せうがい)に及(およ)ふ
之(これ)で見(み)ると忠次(たゞつぐ)が織田氏(をだし)の使(つかひ)をしたと云ふ訳(わけ)ではないようであるモツトモ此(この)時(とき)会々(たま〳〵)忠次(たゞつぐ)は家康(いへやす)の用事(ようじ)
で安土(あづち)へ行(い)つたのであるがソレを信長(のぶなが)が呼(よ)んで竊(ひそ)かに十二ケ 条(でう)の手紙(てがみ)に就(つい)て尋(たづ)ねたものであると云ふ
説(せつ)もある其(その)外(ほか)此(この)事(こと)に就(つい)ては未(いま)だ種々(しゆ〳〵)の穿(うが)つた説(せつ)も伝(つた)はつて居(を)るが一々 此処(こゝ)にそれを申述(もうしの)ぶる必要(ひつえう)はな
かろうと思(おも)ふ併(しか)し何(いづ)れの方面(はうめん)から観察(くわんさつ)しても結局(けつきよく)此(この)時(とき)忠世(たゞよ)、 忠次(たゞつぐ)両人(れうにん)の取計(とりはか)らひ方(かた)如何(いかん)によつては信(のぶ)
康(やす)は死(し)なぬでもよかつた様(よう)に見(み)ゆるのである又(ま)た家康(いへやす)も此(この)時(とき)信康(のぶやす)をして死(し)にまで至(いた)らめたのは余義(よぎ)な
き事情(じじよう)とは言(い)ひながら何(なん)となく残(のこり)多(おほ)く思(おも)つて居(を)つたように伝(つた)へられて居(を)る夫(それ)に就(つい)て二三の話(はなし)を申述(もうしのべ)る
と始(はじ)め野中(のなか)三五 郎重政(らうしげまさ)と云ふものが言付(いひつけ)られて関口氏(せきぐちし)を打取(うちと)つたのであるが之(これ)を家康(いへやす)に復命(ふくめい)した処(ところ)が
家康(いへやす)は女(おんな)の事(こと)であるから討取(うちと)れと言付(いひつ)けはしたものゝ何(なん)とか中(なか)に這入(はい)つた者(もの)で取計(とりはか)らひようもあつた
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百七十二号附録 ( 明治四十四年九月廿六日発行 )
【本文】
であろうに心(こゝろ)幼(おさ)なくも遂(つひ)に討取(うちと)つたかと云はれたので重政(しげまさ)は実(じつ)に恐縮(けうしゆく)して爾来(じらい)蟄居(ちつきよ)したと云ふ事が其(その)
家伝(かでん)に見(み)へて居(を)ると云ふ事である又(ま)た信康(のぶやす)の傅(ふ)平岩親吉(ひらいわちかよし)が信康(のぶやす)の罪(つみ)を獲(え)た事を聞(き)いて大(おほひ)に驚(おどろ)き早速(さつそく)家(いへ)
康(やす)に面(めん)して信康(のぶやす)に不行跡(ふぎようせき)があつたと云ふなれば其(その)傅(ふ)たる自分(じぶん)の責任(せきにん)であるからドウカ自分(じぶん)の頸(くび)を刎(は)ね
て信長(のぶなが)に謝(しや)して下(くだ)さいと願(ねが)つた処(ところ)が其(その)時(とき)家康(いへやす)の言ふには信康(のぶやす)が武田(たけだ)に加担(かたん)して謀反(ほうはん)をするなどゝ言(い)ふ
ことは信(しん)ぜぬが我(われ)は今(いま)乱世(らんせ)に当(あた)り強敵(きようてき)の間(あひだ)に夾(はさ)まつて頼(たの)む処は独(ひと)り信長(のぶなが)であるのに今(いま)其(その)後援(こうゑん)を失(うしな)ふ事と
なれば我国(わがくに)は明日(あす)を出(い)でずして亡(ほろ)ぶべきである父子(ふし)の恩愛(おんあい)の捨(す)て難(がた)い為(た)めに累代(るいだい)の家国(かこく)を亡(ほろぼ)すと云ふ
事は子(こ)を愛(あい)する事を知(し)つて祖先(そせん)を思(おも)はざるものである此(この)点(てん)がなければ罪(つみ)なき子(こ)を失(うしな)つて我独(われひと)りつれな
き生(せい)を貪(むさぼ)ると云ふ事は忍(しの)ばるゝ処でない今(いま)汝(なんぢ)の頸(くび)を刎(はね)たとて到底(とうてい)それで信康(のぶやす)が助(たす)かるとは思(おも)はぬから
今(いま)汝(なんぢ)を殺(ころ)すのは無益(むえき)に一人の忠臣(ちうしん)を死(し)せしむるのであると云つて涙(なみだ)を流(なが)されたと云ふ事である尚(な)ほ其(その)
外(ほか)にも此(この)信康(のぶやす)を最後(さいご)に二 俣(また)に移(うつ)して忠世(たゞよ)に預(あづ)けられたと云ふものは深(ふか)き意味(いみ)のあつた事であるのに忠(たゞ)
世(よ)は終(つひ)に其(その)意(い)を解(かい)せなかつたのであるが其(その)後(のち)幸若舞(こうじやくまひ)を見(み)られた時(とき)満仲(みつなか)が家人(けにん)の仲光(なかみつ)に向(むか)つて其(その)子(こ)美女(みめ)
丸(まる)を討(う)てと命(めい)じたのに仲光(なかみつ)は反(かへつ)て我子(わがこ)を殺(ころ)して其(その)身替(みがは)りとしたと云ふ処に至(いたつ)て家康(いへやす)は忠世(たゞよ)を顧(かへり)みて能(よく)
能(よく)此(この)舞(まひ)を見(み)よと云はれたので忠世(たゞよ)は大(おほい)に恐懼(きようく)したと云ふ事も伝(つた)へられ居(を)る兎(と)に角(かく)此(この)事(こと)に就(つい)ては忠次(たゞつぐ)と
忠世(たゞよ)の行動(こうどう)が余程(よほど)の疑問(ぎもん)となつて居(を)るので研究(けんきう)の余地(よち)あるものと思(おも)ふが之(これ)に関連(くわんれん)して此処(こゝ)に申述(もうしの)べた
いと思(おも)ふのは白州(はくしう)厳龍和尚(げんりうおしよう)の事柄(ことがら)である
《割書:厳龍和尚と|大久保忠世》 厳龍和尚(げんりうおしよう)は前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述(もうしの)べてある彼(か)の龍拈寺(りうねんじ)の住僧(ぢうそう)で龍拈寺(りうねんじ)の開山(かいざん)休屋宗官(きうやそうくわん)和尚(おしよう)から云ふと四代
《割書:との関係 | 》 目の人であるが此(この)人(ひと)は所謂(いはゆる)名僧(めいそう)智識(ちしき)であつて後(のち)に法輝円明禅師(はうきゑんめいぜんし)と云ふ勅賜号(ちよくしごう)を下(くだ)された程(ほど)の人である
龍拈寺(りうねんじ)歴代(れきだい)三十六 世(せ)中(ちう)で勅賜号(ちよくしごう)の下(くだ)つたのは此(この)人(ひと)只(た)だ一人であるが此(この)人(ひと)が龍拈寺(りうねんじ)に住職(ぢうしよく)の頃(ころ)は即(すなは)ち忠(たゞ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信康の自刃並に厳龍和尚) 百廿八
【欄外】
豊橋市史談 (松平信康の自刃並に厳龍和尚) 百廿九
【本文】
次(つぐ)が吉田城主(よしだじようしゆ)たるの時(とき)で忠次(たゞつぐ)も亦(ま)た此(この)厳龍和尚(げんりうおしよう)に帰依(きえ)して其(その)夫人(ふじん)からも母堂(ぼどう)の画像(くわぞう)などを此(この)寺(てら)に納(をさ)め
それが今(いま)も保存(ほぞん)してある事は前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もうしの)べた如(ごと)くである而(しか)して大久保忠世(おほくたゞよ)は実(じつ)に此(この)人(ひと)に対(たい)する絶大(ぜつだい)
の帰依者(きえしや)で常(つね)に此(この)和尚(おしよう)を請(しよう)じて参禅(さんぜん)したと云ふ事は龍拈寺(りうねんじ)の記録(きろく)にも載(の)せられてある其(その)後(のち)忠世(たゞよ)が二 俣(また)
城(じよう)に移(う)つてからは久遠治寺(きうゑんじ)と云ふ寺(てら)を建(た)てゝ其処(そこ)に此(この)和尚(おしよう)を招(せう)じ又(ま)たズツト後(のち)に小田原(をだはら)に封(ほう)せられてか
らは其(その)近在(きんざい)の風祭村(ふうさいむら)と云ふ処(ところ)に万松院(ばんせうゐん)と云ふ寺(てら)を建(た)てゝ更(さら)に之(これ)へ此(この)人(ひと)を連(つ)れて行(い)つたものである此(この)両(れう)
寺(じ)は今(いま)も尚(な)ほ存在(ぞんざい)して相変(あひかは)らず龍拈寺(りうねんじ)の末寺(まつじ)になつて居(を)るのであるが此(この)万松院(ばんせうゐん)は即(すなは)ち厳龍和尚(げんりうおしよう)最終(さいしう)の
住所(ぢうしよ)であるから此(この)寺(てら)に当時(とうじ)の文書類(ぶんしよるい)が残(のこ)つて居(を)れば頗(すこぶ)る有益(いうえき)な事であると思(おも)ふが惜(おし)い事(こと)には忠世(たゞよ)の子(こ)
忠隣(たゞちか)の時(とき)大久保氏(おほくぼし)は一 時(じ)不首尾(ふしゆび)で寺(てら)も亦(ま)た荒廃(こうはい)に皈(き)せむとしたのであるから宝物(ほうもつ)等(とう)の殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)は湮(ゑん)
滅(めつ)したのであるが只(た)だ信康(のぶやす)が生前(せいぜん)に信仰(しんこう)した弥陀(みだ)三 尊(そん)の画像(くわぞう)が遺(のこ)つて居(を)る此(この)画像(くわぞう)は信康(のぶやす)死亡(しばう)の後(のち)忠世(たゞよ)
《割書:信康と厳龍|和尚》 から其(その)菩提(ぼだい)の為(ため)に納(をさ)めたものであるが此(この)寺(てら)頽廃(たいはい)の頃(ころ)は一 時(じ)龍拈寺(りうねんじ)に於(おい)て保存(ほぞん)して居(を)つたものである然(しか)
るに大久保家(おほくぼけ)が再(ふたゝ)び小田原(おだはら)へ封(ほう)せられて後(のち)正徳(せうとく)二年に当主(とうしゆ)忠増(たゞます)の時(とき)龍拈寺(りうねんじ)から伺済(うかゞひすみ)の上(うへ)で再(ふたゝ)び之(これ)を
万松院(ばんせうゐん)に返(かへ)したもので之(これ)には其(その)裏面(りめん)に信康(のぶやす)の自筆(じしつ)で「三尊弥陀現光不思儀在松平三郎矣」と書(か)いてあ
る筈(はづ)である併(しか)し私(わたくし)はまだ之(これ)を実見(じつけん)した事(こと)がないから何(なん)とも云へぬが正徳(せうとく)二年に龍拈寺(りうねんじ)から大久保家(おほくぼけ)へ
出(だ)した伺書(うかゞひしよ)の写(うつし)と云ふものは今(いま)尚(な)ほ龍拈寺(りうねんじ)に残(のこ)つて居(を)る又(ま)た寛政(かんせい)九年五月に龍拈寺(りうねんじ)の旧記(きうき)から此(この)
事(こと)に関(くわん)して抜萃(ばつすゐ)したものも残(のこ)つて居(を)るが之(これ)等(ら)の記事(きじ)によると厳龍和尚(げんりうおしよう)と云ふ人は独(ひと)り忠世(たゞよ)の皈依(きえ)した
のみではなくて信康(のぶやす)も亦(ま)た皈依(きえ)参禅(さんぜん)したものである而(しか)して前(まへ)に申述(もうしの)べた万松院(ばんせうゐん)は信康(のぶやす)菩提(ぼだい)の為(ため)に建立(こんりう)
したものであると云ふ事である又(ま)た龍拈寺(りうねんじ)には信康(のぶやす)忠世(たゞよ)の位牌(ゐはい)があつて今(いま)も尚(な)ほ祀(まつ)つてあるが孰(いづ)れも
当時(とうじ)の製作(せいさく)と覚(おぼ)しく決(けつ)して後世(こうせ)のものとは思(おも)はれぬ必(かなら)ず厳龍和尚(げんりうおしよう)との関係(くわんけい)から此処(こゝ)に安置(あんち)してあるも
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
のと思(おも)ふ兎(と)に角(かく)夫(それ)等(ら)の事に就(つい)て能(よ)く研究(けんきう)を重(かさ)ね而(しか)して一 方(はう)に三 河物語(かはものがたり)松平記(まつだひらき)などの説(せつ)と対照(たいせう)して見(み)る
と何(なん)となく信康(のぶやす)最後(さいご)の事情(じぜう)に関(くわん)して多少(たせう)の消息(せうそく)が得(え)らるゝような心持(こゝろもち)がするがまだ私(わたくし)もそれまで深(ふか)き
調査(てうさ)をする暇(いとま)がないので茲(こゝ)には只(た)だ不(ふ)十 分(ぶん)ながら大体(だいたい)を申述(もうしの)べて諸君(しよくん)の御参考(ごさんこう)に供(けう)するに止(とゞ)めて置(お)く
のである尚(な)ほ申添(もうしそへ)て置(お)きたいのは信康(のぶやす)自刃(じじん)の年(とし)で之(これ)は三 河物語(かはものがたり)には天正六年の事としてあるが松平記(まつだひらき)
初(はじ)め種々(しゆ〳〵)の記録(きろく)には仝七年であると記(しる)してあるのみならず家忠日記(いへたゞにつき)によれば確(たしか)に其(その)事(こと)が信(しん)ぜられる即(すなは)
ち信康(のぶやす)は二十一 歳(さい)であつた訳(わけ)である而(しか)して自刃(じじん)の日(ひ)は九月十五日で異説(ゐせつ)はない様(よう)に思(おも)ふ又(ま)た厳龍和尚(げんりうおしよう)
は慶長(けいてう)七年二月に寂(じやく)したが其(その)画像(ぐわぞう)は元和六年の賛(さん)のあるものが今(いま)龍拈寺(りうねんじ)に保存(ほぞん)されて居(を)つて頗(すこぶ)る資料(しれう)
となるべきものである
⦿本能寺の変及び山崎役の大要
サテ前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)くで信長(のぶなが)は武田氏(たけだし)を亡(ほろ)ぼして天正十年の四月 皈城(きじよう)したが其(その)後(のち)徳川家康(とくがはいへやす)は武田氏(たけだし)
《割書:家康安土に|至る》 の降将(こうせう)穴山信君(あなやまのぶきみ)を伴(ともな)つて安土(あづち)に至(いた)り謝意(しやい)を表(ひよう)したのである勿論(もちろん)其(その)頃(ころ)の信長(のぶなが)の勢(いきおひ)と云ふものは容易(ようい)なら
信長の勢力 ぬものて家康(いへやす)に於(おい)ても殆(ほとん)ど之(これ)を主家(しゆけ)同様(どうよう)に崇(あが)めたのであるが当時(とうじ)松平家忠(まつだひらいへたゞ)の手記(しゆき)した家忠日記(いへたゞにつき)にも家(いへ)
康(やす)の事をば却(かへつ)て明(あきらか)に家康(いへやす)と記(しる)してあるのに信長(のぶなが)に対(たい)しては上様(うへさま)又(また)は信長様(のぶながさま)と敬称(けいせう)が加(くは)へてある又(ま)た
家康(いへやす)の一 行(こう)が安土(あづち)に到着(とうちやく)したのは其(その)年(とし)の五月十五日であつたが酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は無論(むろん)随行(ずいこう)したのである此(この)時(とき)
信長(のぶなが)は其(その)臣下(しんか)に接待役(せつたいやく)を命(めい)じて盛(さかん)に之(これ)に饗応(けうおう)したが家康(いへやす)の膳(ぜん)は手(て)づから之(これ)を据(す)へ忠次(たゞつぐ)等(ら)将士(せうし)にも自(みづか)ら
肴(さかな)を取(と)つて授(さづ)けたとの事で此(この)事(こと)に就(つい)ては随行(ずいこう)の鵜殿善(うどのぜん)六から態々(わざ〳〵)飛脚(ひきやく)で折紙(をりがみ)を寄越(よこ)した中(なか)に書(か)いてあ
つたと云ふ事が家忠日記(いへたゞにつき)五月廿日の条(くだり)に記(しる)してある即(すなは)ち当時(とうじ)に於(お)ける徳川氏(とくがはし)が信長(のぶなが)に対(たい)する観念(くわんねん)幷(ならび)
【欄外】
豊橋市史談 (本能寺の変及び山崎役の大要) 百三十
【欄外】
豊橋市史談 (本能寺の変及び山崎役の大要) 百卅一
【本文】
《割書:家康の堺遊|覧》 に信長(のぶなが)自身(じしん)の性行(せいこう)等(とう)が見(み)ゆるようで面白(おもしろ)いと思(おも)ふが夫(それ)より家康(いへやす)一 行(こう)は京都(けうと)に出(い)で堺湊(さかひみなと)の繁栄(はんえい)を遊覧(ゆうらん)
信長の西征 すると云ふ事になつて先(ま)づ信忠(のぶたゞ)と共(とも)に京都(けうと)に出(い)で信忠(のぶたゞ)は妙覚寺(みようかくじ)に陣(ぢん)したが家康(いへやす)等(ら)は更(さら)に堺(さかひ)に下(くだ)つたの
である然(しか)るに当時(とうじ)信長(のぶなが)に於(おい)ては西(にし)毛利氏(もうりし)を攻撃中(こうげきちう)で之(これ)には羽柴秀吉(はしばひでよし)が大将(たいせう)として出征(しゆつせい)てし居(を)つたが恰(あたか)
も備中(びつちう)の高松城(たかまつじよう)水責(みづぜめ)の最中(さいちう)であつたソコで信長(のぶなが)は之(これ)を応援(おうゑん)する為(ため)に五月の廿九日に入京(にふけう)して六 角油小路(かくあぶらこ)
本能寺の変 路(ぢ)の本能寺(ほんのうじ)に舘(くわん)し諸国(しよこく)から将士(せうし)の集(あつま)るのを待(ま)つて居(を)つたのであるが其(その)六月二日の黎明(れいめい)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)
の如(ごと)く其(その)臣(しん)明智光秀(あけちみつひで)の叛逆(はんぎやく)に遭(あ)ひ手兵(しゆへい)僅(わづか)に二三十人で如何(いかん)ともすることが出来(でき)ず遂(つひ)に自殺(じさつ)し信忠(のぶたゞ)も亦(ま)た
之(これ)に殉(じゆん)じたのであつたが実(じつ)に意外(いぐわい)の一 大変事(だいへんじ)と云ふべきで信長(のぶなが)は時(とき)に年(とし)四十九 信忠(のぶたゞ)は二十六歳(一に
二十八に作る)であつたのである元来(がんらい)此(この)光秀(みつひで)と云う人は次第(しだい)に信長(のぶなが)の任用(にんよう)を蒙(かうむ)つて遂(つひ)に丹波(たんば)及(およ)び近江(あふみ)
滋賀郡(しがごほり)の領主(れうしゆ)となつて最(もつと)も恩恵(おんけい)を受(う)けて居(を)る訳(わけ)であるがドウモ性行(せいこう)が信長(のぶなが)と相合(あひあ)はぬ処(ところ)から屡々(しば〳〵)信長(のぶなが)
の為(ため)に侮辱(ぶじよく)を受(う)けて怨憤(えんふん)を積(つ)み殊(こと)に家康(いへやす)等(とう)の来土(らいど)に就(つい)ては初(はじ)めに接待役(せつたいやく)を云ひ付(つ)かつたから熱心(ねつしん)に其(その)
準備(じゆんび)をした処が突然(とつぜん)中国行(ちうごくゆき)の先鋒(せんぽう)を命(めい)ぜられて急(きう)に出帥(しゆつすゐ)準備(じんゆび)の為(ため)に国(くに)に就(つ)かねばならぬ事に至(いた)つたの
で益々(ます〳〵)其(その)叛意(はんい)を決(けつ)せしめた形(かたち)がある兎(と)に角(かく)一万の大軍(たいぐん)を以(もつ)て全(まつた)く備(そなへ)のなき信長(のぶなが)を襲(おそは)つたのであるから
光秀(みつひで)は容易(ようい)に目的(もくてき)を達(たつ)した訳(わけ)であつたが夫(それ)より近畿(きんき)の諸将(しよせう)へ使(つかひ)を発(はつ)して応諾(おうたく)を需(もと)めた処(ところ)かドウモ思(おも)ふ
ように行(ゆ)かぬ夫(それ)のみならず信長(のぶなが)の第二子 信雄(のぶを)は伊勢(いせ)の松(まつ)ヶ島城(しまじよう)にあり其(その)弟(おとゝ)信孝(のぶたか)は恰(あたか)も四 国征伐(こくせいばつ)の途(と)に
上(のぼ)らむとして大坂(おほさか)にあり孰(いづ)れも凶変(けうへん)を聴(き)いて立(たゝ)むとし其(その)他(た)光秀(みつひで)と共(とも)に中国軍(ちうごくぐん)の先鋒(せんはう)として出発(しゆつぱつ)せんと
して居(を)つた丹後(たんご)宮津(みやず)の城主(じようしゆ)細川藤孝(ほそかはふぢたか)幷(ならび)に其(その)子(こ)忠興(たゞおき)は姻戚(ゐんせき)の関係(くわんけい)があるにも拘(かゝは)らず絶縁(ぜつゑん)を示(しめ)したと云
ふような訳(わけ)であるから光秀(みつひで)は益々(ます〳〵)急(きう)に其(その)根拠(こんきよ)を堅(かた)くすることに勉(つと)めたので五日 安土(あづち)に到(いた)つて其(その)城(しろ)を収(おさ)め
又(ま)た長浜(ながはま)、 佐和山(さわやま)の二 城(じよう)をも取(と)つたのである然(しか)るに羽柴秀吉(はしばひでよし)は三日の夜(よ)其(その)出征地(しゆつせいち)に於(おい)て此(この)変報(へんはう)を得(え)た
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百七十八号附録 ( 明治四十四年十月三日発行 )
【本文】
が急(きう)に復讐(ふくしう)の師(し)を起(おこ)さむことを計(はか)つて翌日(よくじつ)直(たゞ)ちに毛利方(もうりがた)との媾和(こうわ)を成立(せいりつ)せしめ五日より兵(へい)を班(はん)して六日
には其(その)居城(きよじよう)姫路(ひめぢ)に帰(かへ)り夫(それ)より池田信輝(いけだのぶてる)、 中川清秀(なかがはきよひで)、 高山長房(たかやまながふさ)、 神戸信孝(かんべのぶたか)《割書:織|田》丹羽長秀(にはながひで)、 蜂屋頼隆(はちやよりたか)六 氏(し)
山崎役 の軍(ぐん)を合(あは)して光秀(みつひで)と十三日に山崎(やまざき)に於(おい)て決戦(けつせん)したのであるが此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)の年(とし)は四十六 歳(さい)光秀(みつひで)は五十五
歳(さい)であつた勿論(もちろん)諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)戦(たゝかひ)は光秀(みつひで)の敗北(はいぼく)となつて光秀(みつひで)は其(その)夜(よ)深更(しんこう)従者(じんしや)僅(わづか)に数人(すうにん)と共(とも)に
遁(のが)れて近江(あふみ)の坂本城(さかもとじよう)に入(い)らむとしたが途中(とちう)小栗栖(をぐりす)附近(ふきん)に於(おい)て土寇(どこう)の為(ため)に要撃(えうげき)せられて刺(さ)し殺(ころ)されて仕(し)
光秀殺さる 舞(ま)つたのである而(しか)も其(その)翌日(よくじつ)及(およ)び翌々日(よく〳〵じつ)二日 間(かん)に其(その)一 類(るい)も亦(ま)た殆(ほとん)ど打(う)ち平(たひら)げられたので誠(まこと)に脆(もろ)い訳(わけ)であ
つたのであるがサテ話(はなし)は少(すこ)し前(まへ)に戻(もど)つて六月二日 本能寺(ほんのうじ)の事変(じへん)に方(あた)つて家康(いへやす)は前(まへ)に申述(もうしのべ)た通(とほ)り丁度(ちようど)堺(さかひ)
湊(みなと)にあつたのである此(このひ)再(ふたゝ)び入京(にふきよう)せむとした処(ところ)此(この)凶報(けうほう)に接(せつ)したのであるが従者(じうしや)は勿論(もちろん)少数(せうすう)であるので
家康の帰国 殆(ほとん)ど進退(しんたい)に苦(くるし)むだ様子(ようす)が見(み)ゆる併(しか)し幸(さいはひ)に伊賀(いが)を経(へ)間道(かんどう)を抜(ぬ)け通(とほ)してヨウ〳〵四日に《割書:家忠日記|による》伊勢(いせ)の
白子(しらこ)に着(ちやく)し夫(それ)から船(ふね)にて三 河(かは)の大浜(おほはま)へ着(ちやく)することを得(え)たのであるが道中(どうちう)は頗(すこぶ)る困難(こんなん)したので種々(しゆ〳〵)な話(はなし)が
あるが穴山信君(あなやまのぶきみ)は途中(とちう)から家康(いへやす)に別(わか)れた為(ため)に遂(つひ)に伊賀(いが)に於(おい)て土寇(どこう)の為(ため)に殺(ころ)されたと云ふような事もあ
るソコで家康(いへやす)は皈国(きこく)早々(さう〳〵)兵(へい)を募(つの)つて再(ふたゝ)び西上(せいぜう)を企(くわだ)て酒井忠次(さかゐたゞつぐ)等(ら)は矢張(やはり)先鋒(せんぽう)となつて十七日には尾張(をはり)の
津島(つしま)に陣(ぢん)したが十九日に秀吉(ひでよし)から光秀(みつひで)等(ら)平定(へいてい)の報知(ほうち)があつたので遂(つひ)に軍(ぐん)を班(はん)したのである以上(いぜう)は余(あま)り
本市史(ほんしし)に直接(ちよくせつ)の関係(くわんけい)はないようであるが兎(と)に角(かく)天下(てんか)の一 大事変(だいじへん)で時代(じだい)を区割(くぐわく)する出来事(できごと)であるのみな
らず酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の履歴(りれき)の上(うへ)にも関連(くわんけい)することであるから大要(たいえう)の筋道(すぢみち)だけを申述(もうしの)べた次第(しだい)であるが尚(なほ)之(これ)に続(つゞい)
て小牧役(こまきえき)の原因(げんゐん)結果(けつくわ)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ
⦿本能寺事変後の織田氏
【欄外】
豊橋市史談 (本能寺事変後の織田氏) 百卅三
【欄外】
豊橋市史談 (本能寺事変後の織田氏) 百卅四
【本文】
豊橋市史(とよはししゝ)には直接(ちよくせつ)関係(くわんけい)を持(も)たぬようであるが話(はなし)の連絡上(れんらくぜう)から此処(こゝ)に信長(のぶなが)が弑逆(しいぎやく)に遇(あ)つてから後(のち)の織(を)
田氏(たし)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ
サテ前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)くで光秀(みつひで)の一 族(ぞく)は僅(わづか)の間(あひだ)に打(う)ち平(たひら)げられたのであるが秀吉(ひでよし)信孝(のぶたか)等(ら)は光秀(みつひで)を亡(ほろ)ぼ
して後(のち)共(とも)に安土(あづち)に入(い)つて当時(とうじ)恰(あたか)も伊勢(いせ)から来(きた)つた織田信雄(をたのぶを)とも会合(くわいごう)しそれから美濃(みの)尾張(をはり)に入(い)つて織田(をた)
氏(し)の旧国(きうこく)を平定(へいてい)したが更(さら)に清須(きよす)に至(いた)つて信忠(のぶたゞ)の嫡子(ちやくし)三 法師(ほうし)に謁(えつ)したのである三 法師(ほうし)は即(すなは)ち信長(のぶなが)から云
ふと嫡孫(ちやくそん)であるが信忠(のぶたゞ)打死(うちじに)の時(とき)二 条城(でうじよう)に於(おい)て之(これ)を前田玄以(まへだげんい)に托(たく)し玄以(げんい)は其(その)遺命(ゐめい)を奉(ほう)じて岐阜(ぎふ)に至(いた)りそ
清須会議 れより此(この)清須(きよす)の城(しろ)に入(い)つたのである然(しか)るに秀吉(ひでよし)等(ら)が此処(こゝ)に到着(とうちやく)すると殆(ほとん)ど同時(どうじ)に柴田勝家(しばたかついへ)等(ら)は越中(えつちう)か
ら又(ま)た瀧川一益(たきがはかずます)等(ら)は上野(うへの)から、 森長可(もりながよし)等(ら)は信濃(しなの)からと云ふ訳(わけ)で遠征(ゑんせい)の諸宿将(しよしゆくせう)は続々(ぞく〳〵)本能寺(ほんのうじ)の変報(へんはう)を聞(き)
いて此処(こゝ)に集(あつ)まつて来(き)たのであるソコで先(ま)づ起(おこ)つたのが織田氏(をだし)の継嗣(けいし)問題(もんだい)であつたが信雄(のぶを)信孝(のぶたか)は共(とも)に
信雄と信孝 信長(のぶなが)の子(こ)で恰(あたか)も両人(れうにん)の生年月(せいねんげつ)は仝(おな)じであるが信孝(のぶたか)の方(ほう)が二十 余日(よにち)先(さ)きに生(うま)れたにも拘(かゝは)らず其(その)生母(せいぼ)が卑(ひ)
賎(せん)であつたのと生誕(せいたん)の報知(ほうち)が後(あと)になつた為(ため)に信雄(のぶを)の方(ほう)が兄(あに)となつて居(を)るのである其(その)上(うへ)今度(このたび)光秀(みつひで)征討(せいとう)に
就(つい)ては信孝(のぶたか)の方(ほう)が頗(すこぶ)る功(こう)があつたのであるから無論(むろん)信孝(のぶたか)に於(おい)ては己(おの)れが継嗣(けいし)たるべしとの志(こゝろざし)があつ
たのであるが之(これ)に対(たい)して信雄(のぶを)と雖(いへど)も決(けつ)して相(あひ)下(くだ)らないので其(その)間(あひだ)は中々(なか〳〵)六ケ敷(し)き状態(ぜうたい)となつた而(しか)も諸宿(しよしゆく)
将(せう)の間(あひだ)にもま亦(ま)た此(こ)の両党(れうとう)に分(わか)れたので議論(ぎろん)は数日(すうじつ)にも亘(わた)つたのであるが結局(けつきよく)三 法師(ほうし)が嫡孫(ちやくそん)であると云
ふ処(ところ)から之(これ)を継嗣(けいし)とすることに決(けつ)し当分(とうぶん)は岐阜(ぎふ)に置(お)いて信孝(のぶたか)が之(これ)を預(あづか)ることとなり信雄(のぶを)も共(とも)に補佐(ほさ)すると
云ふので事(こと)は落着(らくちやく)したのであるが之(これ)と同時(どうじ)に柴田(しばた)、 羽柴(はしば)、 丹羽(には)、 池田(いけだ)の四 氏(し)は互(たがひ)に交代(こうたい)して京師(けうし)に吏(り)
を置(お)き庶務(しよむ)を決行(けつこう)することとなつたのであるソコで光秀(みつひで)の旧領地(きうれうち)並(ならび)に信長(のぶなが)の遺領(ゐれう)を戦功者(せんこうしや)に分配(ぶんぱい)すること
となつたが信雄(のぶを)は尾張(おはり)、 信孝(のぶたか)は美濃(みの)、 秀吉(ひでよし)は山城(やましろ)、 勝家(かついへ)は江州(ごうしう)の長浜(ながはま)、 池田信輝(いけだのぶてる)は大阪(おほさか)、 尼(あま)ケ崎(さき)、 兵(へう)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
勝家と秀吉 庫(ご)、 丹羽長秀(にはながひで)は江州(ごうしう)の高島(たかしま)、 志賀(しが)の二 郡(ぐん)と云ふような工合(ぐあひ)に各(おの〳〵)得(う)る処(ところ)があつたのである然(しか)るに其(その)中(なか)
で勝家(かついへ)の得(え)た長浜(ながはま)と云ふものは元来(がんらい)秀吉(ひでよし)領地(れうち)であつたのを請(こ)ひ求(もと)めた訳(わけ)で之(これ)は暗(あん)に己(おの)れの本領(ほんれう)越前(えちぜん)
との連絡(れんらく)を取(と)つて秀吉(ひでよし)を索制(さくせい)する為(ため)の手段(しゆだん)であつたのである勿論(もちろん)秀吉(ひでよし)は之(これ)を知(し)らぬではないが将来(せうらい)に
大企望(だいきぼう)を包蔵(ほうぞう)して居(を)る処(ところ)から唯々(ゆゝ)諾々(たく〳〵)として此(この)事(こと)を聴(き)いたのみならず今度(このたび)の偉功者(ゐこうしや)であるにも拘(かゝは)らず
只(た)だそれに替(か)ゆるに山城(やましろ)一 国(こく)を以(もつ)てして一 向(こう)所領(しよれう)を争(あらそ)はなかつたのは大(おほい)に他(た)に期(き)する処があつたもの
《割書:大徳寺の法|会》 と信(しん)ぜられるのである兎(と)に角(かく)諸宿将(しよしゆくせう)は此(この)時(とき)互(たがひ)に誓紙(せいし)を交換(こうくわん)し親密(しんみつ)を約(やく)して各(おの〳〵)其(その)国(くに)に就(つ)いたのである
が秀吉(ひでよし)はそれから京都(けうと)に入(い)つて先(ま)づ信長(のぶなが)の法会(ほうゑ)を紫野(むらさきの)の大徳寺(だいとくじ)で営(いとな)むだのであるソレは其十月十一日
から十七日 迄(まで)七日 間(かん)で十五日の葬式(そうしき)と云ふものは実(じつ)に前代未聞(ぜんだいみぶん)の盛儀(せいぎ)であつたと云ふ事であるそれの
みならず時(とき)の天子(てんし)からも勅命(ちよくめい)が下(さが)つたと云ふ訳(わけ)で何(なに)につけ秀吉(ひでよし)の勢力(せいりよく)を増(ま)すような事(こと)が多(おほ)く其(その)威望(ゐぼう)と
云ふものは爾来(じらい)益(ます〳〵)旭日沖天(きよくじつちうてん)の様(さま)であつた、サア、ソーなると不平(ふへい)で堪(たま)らないのが信孝(のぶたか)であつたが勝(かつ)
家(いへ)、 一益(かづます)も亦(ま)た頗(すこぶ)る面白(おもしろ)くなく感(かん)じたので遂(つひ)に此(この)両人(れうにん)は信孝(のぶたか)と通(つう)じて竊(ひそ)かに秀吉(ひでよし)を除(のぞ)かむ事を図(はか)つた
のである然(しか)るに之(これ)は反対(はんたい)に秀吉(ひでよし)の方(ほう)から先(さき)んぜられたと云ふ事実(じじつ)になつたのであるが前(まへ)にも申述(もうしの)べた
如(ごと)く三 法師(ほうし)は一 時(じ)岐阜(ぎふ)に置(お)く事(こと)にはなつて居(を)るが岐阜(ぎふ)は結局(けつきよく)信孝(のぶたか)の居城(きよじよう)であるから安土城(あづちじよう)の修築(しうちく)が出(で)
来上(きあが)つた以上(いぜう)は之(これ)に移(うつ)るのが相当(さうとう)なので又(ま)た其(その)筈(はづ)に決定(けつてい)して居(を)つたのであるソコで秀吉(ひでよし)は頻(しき)りに安土(あづち)
城(じよう)の修築(しうちく)を急(いそ)がしたのであるが其(その)出来上(できあが)るに及(およ)むで三 法師(ほうし)の移住(いぢう)を促(うなが)したのであるトコロが胸(むね)に一 物(もつ)
ある信孝(のぶたか)は之(これ)に肯(がゑん)ぜないので之(これ)が直接(ちよくせつ)の問題(もんだい)となつて反(かへつ)て秀吉(ひでよし)から先(ま)づ旗(はた)を揚(あ)げられたのである即(すなは)ち
《割書:秀吉岐阜を|攻む》 秀吉(ひでよし)は信雄(のぶを)の認諾(にんだく)を得(ゑ)て此(この)年(とし)(天正十年)の十二月 兵(へい)を起(おこ)し先(ま)づ近江(あふみ)に入(い)つて勝家(かついへ)の長浜城(ながはまじよう)を攻(せ)めて之(これ)
を降(くだ)し更(さら)に転(てん)じて美濃(みの)に向(むか)ひ岐阜(ぎふ)に迫(せま)つたが之(これ)には丹羽長秀(にはながひで)、 筒井順慶(つゝゐじゆんけい)、 細川忠興(ほそかはたゞおき)、 池田信輝(いけだのぶてる)、 蜂屋(はちや)
【欄外】
豊橋市史談 (本能寺事変後の織田氏) 百卅五
【欄外】
豊橋市史談 (本能寺事変後の織田氏) 百卅六
【本文】
頼隆(よりたか)等(ら)が従(したが)つたので兵数(へいすう)は約(やく)三万余もあつたのであるから信孝(のぶたか)は到底(とうてい)支(さゝ)ゆることが出来(でき)なくて老母(らうぼ)並(ならび)に
三 法師(ほうし)を出(いだ)して和(わ)を請(こ)つたのであるソコで秀吉(ひでよし)は之(これ)を許(ゆる)し三 法師(ほうし)をば目的(もくてき)通(とほ)りに安土(あづち)へ移(うつ)して此(この)時(とき)は
先(ま)づ之(こ)れで一 段落(だんらく)を告(つ)げたのであるが到底(とうてい)之(こ)れだけでは事(こと)が済(す)まぬので其(その)翌(よく)天正(てんせう)十一年の正月 秀吉(ひでよし)は
伊勢征伐 更(さら)に信雄(のぶを)と相図(あひはか)つて瀧川一益(たきがはかずます)を伊勢(いせ)に攻(せ)むる計割(けいくわく)を進(すゝ)めたが遂(つひ)に自(みづか)らも兵(へい)を率(ひき)ひて伊勢(いせ)に入(い)りイヨ
〳〵一益(かづます)の根拠(こんきよ)たる長島城(ながしまじよう)に迫(せま)らむとしたのであるトコロが此(この)時(とき)忽(たちま)ち飛報(ひほう)があつて越前(えちぜん)から柴田勝家(しばたかついへ)
が兵(へい)を出(いだ)して北近江(きたあふみ)に侵入(しんにふ)したと云ふので秀吉(ひでよし)は急(きう)に守兵(しゆへい)を置(お)いて一益(かづます)に備(そな)へしめ己(おの)れは直(たゞ)ちに近江(あふみ)
に引(ひ)き返(かへ)して勝家(かついへ)と雌雄(しゆう)を決(けつ)せむとしたのである初(はじ)め勝家(かついへ)が前田利家(まへだとしいへ)、 佐々成政(さゝなりまさ)、 佐久間盛政(さくまもりまさ)等(ら)と共(とも)
柳ケ瀬役 に兵(へい)を率(ひき)ゐて近江(あふみ)に入(い)り柳(やな)ケ瀬(せ)附近(ふきん)に陣取(ぢんど)つたのは二月の朔日(つひたち)の事(こと)であつたが秀吉(ひでよし)が賤(しづ)ケ岳(たけ)に至(いた)り天(てん)
神山(じんやま)に陣取(ぢんど)つたのは其(その)十七日である然(しか)るに勝家(かついへ)は固(かた)く持(じ)してドウしても応戦(おうせん)しないので秀吉(ひでよし)は一 時(じ)持(ぢ)
久(きう)の策(さく)を設(もう)けて其(その)廿七日 己(おの)れは長浜(ながはま)に退(しりぞ)き四月 中旬(ちうじゆん)まで其処(そこ)に居(を)つたが此(この)時(とき)信孝(のぶたか)は岐阜(ぎふ)に居(を)つて曩(さ)き
の媾和(こうわ)に反(そむ)き勝家(かついへ)等(ら)に応(おう)じて又(ま)た秀吉(ひでよし)の背後(はいご)を襲(おそ)はむとしたのであるソコで秀吉(ひでよし)は四月十七日 長浜(ながはま)か
ら美濃(みの)に入(い)つて十九日には一 挙(きよ)に岐阜(ぎふ)を屠(ほう)らむとしたのであるが丁度(ちようど)其(その)前夜(ぜんや)から大雨(たいう)で河水(かすゐ)の氾濫(はんらん)が
甚(はなはだ)しく遂(つひ)に其(その)目的(もくてき)を達(たつ)し得(ゑ)なかつたのである然(しか)るに勝家(かついへ)の方(ほう)では此(この)秀吉(ひでよし)の留守(るす)を窺(うかゞ)つて廿日の黎明(れいめい)
大岩山(おほいわやま)の砦(とりで)に向(むかつ)て奇襲(きしう)を試(こゝろ)み秀吉(ひでよし)の守将(しゆせう)中川清秀(なかがはきよひで)は遂(つひ)に之(これ)に戦死(せんし)したのであるが元来(がんらい)此(この)襲撃(しうげき)は佐久間(さくま)
賤ケ岳 盛政(もりまさ)のやつた事で勝家(かついへ)は最初(さいしよ)から之(これ)を危(あや)むだのであるが盛政(もりまさ)は遂(つひ)に勢(いきほひ)に乗(ぜう)して勝家(かついへ)の命令(めいれい)をも顧(かへり)み
ず益々(ます〳〵)深入(ふかい)りをしたのであるトコロが秀吉(ひでよし)は大垣(おほがき)に居(を)つて廿日の正午(せうご)頃(ころ)此(この)事(こと)を聞(き)いたのであるか直(たゞ)ち
に馳(は)せて近江(あふみ)に皈(かへ)つたのである其(その)時(とき)の従者(じうしや)は選抜兵(せんばつへい)僅(わづか)に五十 余人(よにん)に過(す)ぎなかつたと云ふ事であるが行(ゆ)
く〳〵兵(へい)を集(あつ)めて此(この)日(ひ)の午後(ごゞ)九時には既(すで)に木(き)の本(もと)に達(たつ)し田上山(たがみやま)に上(あが)つて盛(さかん)に喊声(かんせい)を発(はつ)せしめたのであ
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百八十三号附録 ( 明治四十四年十月十日発行 )
【本文】
るドウモ其(その)敏速(びんそく)なることと云ふものは驚(おどろ)くの外(ほか)はないと思(おも)ふのであるが果(はた)して盛政(もりまさ)は其(その)形勢(けいせい)を偵察(ていさつ)して
大(おほい)に驚(おどろ)き急(きう)に兵(へい)を退(しりぞ)くる事に決(けつ)して十一時頃から退却(たいきやく)を初(はじ)めたが遂(つひ)に秀吉(ひでよし)の為(ため)に追撃(つひげき)を蒙(かうむ)つて廿一日
の午前六時頃には頗(すこぶ)る激戦(げきせん)となつたのである例(れい)の賤(しづ)ケ岳(たけ)七 槍(そう)の話(はなし)のあるのは此(この)時(とき)の事(こと)であるが秀吉(ひでよし)
勝家亡ぶ は勢(いきほひ)に乗(ぜう)じて勝家(かついへ)が柳(やな)ケ瀬(せ)の本陣(ほんぢん)に向(むかつ)て総攻撃(そうこうげき)を開始(かいし)し此(この)日(ひ)の正午(せうご)勝家(かついへ)は大敗(たいはい)して越前(ゑつぜん)の北荘城(ほくせうじよう)に
遁(のが)れ遂(つひ)に窮追(きうつひ)せられて廿四日 午後(ごゞ)自(みづか)ら火(ひ)を放(はな)つて自殺(じさつ)したのである此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)は越前(ゑつぜん)の府中城(ふちうじよう)に於(おい)て前(まへ)
田利家(たとしいへ)と和(わ)し又(ま)た佐々成政(さゝなりまさ)の降(こう)を許(ゆる)し使(つかひ)を越後(ゑちご)に遣(つか)はして上杉景勝(うへすぎかげかつ)の盟約(めいやく)を徴(ちよう)し五月五日に至(いた)つて長(なが)
浜(はま)に皈(かへ)つたのである
ソコで信孝(のぶたか)の事であるが岐阜(ぎふ)に於(おい)ては既(すで)に柳(やな)ケ瀬(せ)の敗報(はいほう)を得(え)て将士(せうし)は離散(りさん)し勢(いきほひ)益(ます〳〵)窘窮(くつきう)せる処(ところ)へ信(のぶ)
雄(を)が伊勢(いせ)から攻(せ)め来(きた)つて之(これ)を囲(かこ)むだので又(ま)た如何(いかん)ともすることが出来(でき)ず進退(しんたい)維(こ)れ谷(きはま)つたのであるが遂(つひ)に
信孝自殺 誘(さそ)はれて長良川(ながらがは)を下(くだ)り尾張(をはり)の知多郡(ちたぐん)に船行(せんかう)して内海(うつみ)に上陸(ぜうりく)した処を信雄(のぶを)は其(その)士(し)中川雄忠(なかがはたけたゞ)を遣(つか)はして処(しよ)
決(けつ)を迫(せま)つたので之(こ)れ亦(ま)た自殺(じさつ)するに至(いた)つたのであるがソレは恰(あたか)も五月二日の事である其(その)後(のち)六月 中旬(ちうじゆん)に
至(いた)つて瀧川一益(たきがはかづます)も亦(ま)た力(ちから)屈(くつ)して降参(こうさん)したが秀吉(ひでよし)は特(とく)に其(その)武勇(ぶゆう)を惜(おし)むで之(これ)を越前(ゑつぜん)に置(お)き五千石を給(きう)した
のである而(しか)して長島城(ながしまじよう)には之(これ)より信雄(のぶを)が移(うつ)り居(を)つたのである
⦿小牧役と牧野成里
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く信長(のぶなが)の弑逆(しいぎやく)に遇(あ)つた後(のち)上方(かみがた)に於(おい)ては種々(しゆ〴〵)の紛乱(ふんらん)があつて独(ひと)り秀吉(ひでよし)の威忘(いぼう)は益(ます〳〵)熾(さかん)
になつたのであるが此(この)間(あひだ)に於(おい)て三 河(かは)遠江(とふとほみ)駿河(するが)を領有(れうゆう)して居(を)つた徳川家康(とくがはいへやす)は如何(いか)なる行動(こうどう)をなしたか之(こ)
れ亦(ま)た先(ま)づ此処(こゝ)に申述(もうしの)べねばならぬのである
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百卅七
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百卅八
【本文】
本能寺(ほんのうじ)事変(じへん)の時(とき)家康(いへやす)は会々(たま〳〵)摂津(せつゝ)の堺(さかひ)に居(を)つたが急(きう)に伊賀越(いがごゑ)の難(なん)を冒(おか)して伊勢(いせ)に出(い)で三 河(かは)に上陸(ぜうりく)し夫(それ)よ
り直(たゞ)ちに兵(へい)を集(あつ)めて光秀(みつひで)征討(せいとう)の軍(ぐん)を出(いだ)し尾張(をはり)まで出陣(しゆつぢん)したのである然(しか)るに光秀(みつひで)は既(すで)に山崎(やまざき)に敗(やぶ)れ誅戮(ちうりく)
されたと云ふ報知(ほうち)を得(え)て軍(ぐん)を班(はん)した事は前(まへ)に申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)くである然(しか)るに当時(とうじ)甲州(かうしう)には河尻肥後(かはじりひごの)
守鎮吉(かみしげよし)があつて織田氏(おだし)の為(ため)に守衛(しゆゑい)して居(を)つたが家康(いへやす)は直(たゞ)ちに本多百助(ほんだもゝすけ)を遣(つかは)して之(これ)を見舞(みま)はしめたので
あるモツトモ此(この)河尻(かはじり)と本多(ほんだ)との間(あひだ)は従来(じうらい)別懇(べつこん)であつたが此(この)時(とき)河尻(かはじり)は大(おほい)に本多(ほんだ)の来意(らいい)を疑(うたが)つて其(その)寝込(ねごみ)に
付(つ)け入(い)つて之(これ)を刺(さ)し殺(ころ)したのであるトコロが州人(しんにん)は最初(さいしよ)から河尻(かはじり)に快(こゝろよ)くなかつたので諸方(しよほう)に一 揆(き)が
起(おこ)つて遂(つひ)に此(この)河尻(かはじり)をも撃殺(げきさつ)して仕舞(しま)つたので甲州(かうしう)には全(まつた)く主(ぬし)がなくなつたのであるソコで国(くに)は大(おほい)に乱(みだ)
れたが家康(いへやす)は此(この)機(き)に方(あた)つて大須賀康高(おほすがやすたか)等(ら)を遣(つか)はして兵(へい)を率(ひき)ゐ国内(こくない)を徇(したが)へしめたのである続(つゞい)で大久保忠(おほくぼたゞ)
世(よ)石川康通(いしかはやすみつ)本多広孝(ほんだひろたか)父子(ちし)等(ら)をも出陣(しゆつぢん)せしめたので程(ほど)なく国内(こくない)は平定(へいてい)し武田氏(たけだし)の故旧(こきう)にして来(きた)り属(ぞく)する
ものが多(おほ)かつた然(しか)るに其(その)頃(ころ)信濃(しなの)を守(まも)つて居(を)つた織田氏(をだし)の将(せう)森長可(もりながよし)も亦(ま)た本能寺(ほんのうじ)の変(へん)を聞(き)いて西上(せいぜう)した
ので矢張(やはり)国内(こくない)は乱(みだ)れて統(とう)一する処(ところ)がないソコで越後(ゑちご)の上杉景勝(うへすぎかげかつ)は兵(へい)を出(いだ)して川中島(かはなかじま)四 郡(ぐん)の地(ち)を占領(せんれう)し
たが家康(いへやす)も亦(ま)た兵(へい)をを甲州(かうしう)から入(い)れて之(これ)を平定(へいてい)せむことを計(はか)つたのである、かくて其(その)(天正十年)七月には
家康(いへやす)自(みづか)ら兵(へい)を率(ひき)ゐて甲州(かうしう)に入(い)り新府(しんぷ)に居(を)つて甲州(かうしう)二 州(しう)の軍事(ぐんじ)を督(とく)したのであるトコロが此(こゝ)に至(いた)つては
隣国(りんごく)の北條氏政(ほうでうぢまさ)が黙(だま)つては居(を)らぬので子(こ)氏直(うぢなほ)をして兵(へい)を率(ひき)ゐて碓氷峠(うすゐとほげ)から信州(しんしう)に入(い)らしめ徳川氏(とくがはし)の軍(ぐん)
と屡々(しば〳〵)衝突(せうとつ)したのである此(この)時(とき)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)も亦(ま)た東(ひがし)三 河(かは)の諸将士(しよせうし)を率(ひき)ゐて信州(しんしう)に入(い)り戦功(せんこう)が多(おほ)くあつたが
北條氏(ほうでうし)の兵(へい)と梶(かぢ)ケ原(はら)に対陣(たいぢん)の時(とき)大久保忠世(おほくぼたゞよ)と意見(いけん)が合(あ)はなくて相争(あひあらそ)つたと云ふような話(はなし)もある併(しか)し之(こ)
れ等(ら)は余(あま)り冗長(じようてう)に渉(わた)ると思(おも)ふから総(すべ)て略(りやく)して申述(もうしの)べぬ考(かんがへ)であるが結局(けつきよく)其(その)十月に至(いた)つて家康(いへやす)と氏直(うぢなほ)と
は和睦(わぼく)が出来(でき)て北條氏(ほうでうし)は上州(ぜうしう)を収(おさ)め家康(いへやす)は甲州(かうしう)二 州(しう)を併(へい)する事(こと)となつて氏直(うぢなほ)に嫁(か)するに家康(いへやす)の女督姫(ぢよとくひめ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
を以(もつ)てすることを約(やく)したのであるかくの如(ごと)き訳(わけ)で家康(いへやす)は遂(つひ)に三 遠駿(ゑんすん)三 国(こく)の外(ほか)は甲州(かうしう)二 州(しう)の大略(たいりやく)を有(ゆう)する
こととなつたので其(その)十二月 平岩親吉(ひらいわちかよし)をして甲府(かうふ)を守(まも)り鳥居元忠(とりゐもとたゞ)をして甲州(かうしう)の都留郡(つるごほり)を鎮(ちん)せしめ成瀬(なるせ)一 斉(さい)
を甲州奉行(かうしうぶぎよう)として更(さら)に信州(しんしう)衛備(ゑいび)の為(ため)に大久保忠世(おほくぼたゞよ)菅沼大膳(すがぬまだいぜん)等(ら)を甲州(かうしう)に残(のこ)して自(みづか)らは浜松(はままつ)に皈(かへ)つたので
あるが此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で家康(いへやす)の勢(いきほひ)は漸(やうや)く東海(とうかい)を圧(あつ)し威望(いぼう)益(ます〳〵)加(くは)はつたのである
先(ま)づザツト右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で織田氏(をだし)に於(おい)ては継嗣(けいし)問題(もんだい)から信雄(のぶを)信孝(のぶたか)等(ら)の内訌(ないこう)でゴタ〳〵して居(を)る間(あひだ)に家(いへ)
康(やす)は新(あらた)に甲州(かうしう)二 州(しう)を平定(へいてい)して己(おの)れの領分(れうぶん)としたので云(い)はゞ漁夫(ぎよふ)の利(り)を得(え)たようなものであるが其(その)頃(ころ)秀(ひで)
吉(よし)との関係(くわんけい)は至極(しごく)円満(ゑんまん)に見(み)えて居(を)つたのである即(すなは)ち秀吉(ひでよし)が柴田勝家(しばたかついへ)に克(か)つた時(とき)にも家康(いへやす)は石川数正(いしかはかずまさ)を
使(つかひ)にやつて初花(はつはな)と云(い)ふ名器(めいき)(茶碗(ちやわん))を贈(おく)つて戦勝(せんせう)を賀(が)せしめ秀吉(ひでよし)も亦(ま)た家康(いへやす)の為(ため)に奏請(さうせい)して己(おの)れより上(ぜう)
位(ゐ)である処(ところ)の従(じゆう)三 位(ゐ)に叙(ぢよ)し参議(さんぎ)に任(にん)ぜしむるなど頗(すこぶ)る其(その)歓心(くわんしん)を求(もと)めたる様子(やうす)が見(み)ゆるのである然(しか)るに
此処(こゝ)に一つの葛藤(かつとう)を生(せう)ずるに至(いた)つた原因(げんゐん)と云(い)ふものは信雄(のぶを)と秀吉(ひでよし)との関係(くわんけい)である初(はじ)め信孝(のぶたか)が秀吉(ひでよし)を図(はか)
つて反(かへつ)て其(その)窮迫(きうはく)する処(ところ)となつた頃(ころ)には前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く信雄(のぶを)は寧(むし)ろ之(これ)を以(もつ)て己(おの)れに利(り)なるものとな
して信孝(のぶたか)を匡救(きようきう)せざるのみならず其(その)滅亡(めつぼう)を容易(ようい)ならしめたのであるがサテ信孝(のぶたか)滅亡(めつぼう)の今日(こんにち)に至(いた)つて見(み)
ると所謂(いはゆる)唇亡(くちびるほろ)びて歯(は)寒(さむ)しで頗(すこぶ)る孤立(こりつ)の境遇(けうぐう)に立(た)つに至(いた)つたのである秀吉(ひでよし)も亦(ま)た信孝(のぶたか)の事情(じぜう)に鑑(かんが)みて其(その)
二の舞(まひ)をするものは信雄(のぶを)であると思(おも)ふ処(ところ)から何(なん)とかして之(これ)を除(のぞ)きたいものであると云(い)ふので一 策(さく)とし
て其(その)老臣(らうしん)岡田重孝(をかだしげたか)、津川義冬(つがはよしふゆ)、 浅井長時(あさゐながとき)との間(あひだ)を離間(りかん)したのであるが信雄(のぶを)と云ふ人は頗(すこぶ)る思慮浅薄(しりよせんぱく)で
あつたので遂(つひ)に此(この)策(さく)に乗(の)せこれて此(この)三 老臣(らうしん)を殺(ころ)した上(うへ)に秀吉(ひでよし)と絶(た)つに至(いた)つたのであるトコロが信雄(のぶを)の
力(ちから)では到底(とうてい)秀吉(ひでよし)に敵(てき)すべくもあらぬので応援(おうゑん)を家康(いへやす)に請(こ)つたのであるが此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)からも家康(いへやす)に向(むかつ)ては
種々(しゆ〳〵)と勧誘(くわんゆう)する処(ところ)があつたのである然(しか)るに家康(いへやす)は秀吉(ひでよし)の申込(もうしこみ)を斥(しりぞ)けて一には旧誼(きうぎ)一には隣国(りんこく)と云(い)ふ地(ち)
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百卅九
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十
【本文】
理(り)の関係(くわんけい)から遂(つひ)に信雄(のぶを)を援(たす)くる事(こと)に至(いた)つたので之(これ)が即(すなは)ち小牧役(こまきえき)の発端(はつたん)とも云(い)ふべきである
ソコで家康(いへやす)が自(みづか)ら浜松(はままつ)を発(はつ)して尾張(をはり)に向(むか)つたのは天正(てんせう)十二年の三月七日であるが浜松(はままつ)には大久保忠世(おほくぼたゞよ)
を留守居(るすゐ)に置(お)き又(ま)た近来(きんらい)姻戚関係(ゐんせきくわんけい)は出来(でき)たものゝ最(もつと)も疑惧(ぎぐ)したのは北條氏(ほうでうし)であるから駿相(すんさう)の境(さかひ)に当(あた)る
長窪(ながぐは)に牧野右馬允康成(まきのうまのぜうやすなり)を置き(お)興国寺城(こうこくじじよう)には天野康景(あまのやすかげ)を置(お)くと云(い)ふ工合(ぐあひ)に注意(ちうゐ)を怠(おこた)らなかつたのみなら
ず北條氏(ほうでうし)から云ふと敵(てき)に当(あた)る処(ところ)の佐竹氏(さたけし)にも好(よしみ)を通(つう)ぜむとしたのであるが此(この)佐竹氏(さたけし)は恰(あたか)も秀吉(ひでよし)からも
礼遇(れいぐう)を受(う)けて殆(ほとん)ど双方(そうほう)から引張(ひつぱ)り合(あ)ひに遇(あ)つたと云ふ状態(ぜうたい)であつた其(その)他(た)此(この)東軍(とうぐん)の側(がは)に於(おい)ては先(ま)づ佐々(さゝ)
成政(なりまさ)に通(つう)じて加賀(かゝ)越前(ゑつぜん)を図(はか)らしめ長宗我部元親(ちようそがべもとちか)に結(むす)むで四 国(こく)から大阪(おほさか)を窺(うかゞ)ふ事(こと)を計(はか)り紀州(きしう)雑賀党(ざうがとう)や本(ほん)
願寺(ぐわんじ)一 派(ぱ)をも誘(いざな)つて秀吉(ひでよし)の後(あと)を衝(つ)かしめむとするなど外交政策(ぐわいこうせいさく)は中々(なか〳〵)広(ひろ)く行(おこな)はれたもので之(これ)に向(むか)つて
は秀吉(ひでよし)も亦(ま)たヌカらず対抗策(たいこうさく)を弄(ろう)したのであるが一 方(ぽう)には大垣(おほがき)の池田信輝(いけだのぶてる)並(ならび)に金山(かなやま)に居(を)つた森長可(もりながよし)を
誘(いざな)つて味方(みかた)となし更(さら)に瀧川一益(たきがはかづます)をも起(おこ)して伊勢(いせ)五 郡(ぐん)を与(あた)へ之(これ)に伊勢(いせ)の故旧(こきう)を集(あつ)めしめて第一に信雄(のぶを)の
所領(しよれう)を掠奪(れうだつ)せしめたのである
ソコで戦(たゝかひ)は先(ま)づ伊勢(いせ)から始(はじ)まつたのであるが信雄(のぶを)は三月九日に其(その)将(せう)佐久間正勝(さくままさかつ)等(ら)をして関信盛(せきのぶもり)父子(ふし)
峰城 の籠(こも)れる亀山(かめやま)の城(しろ)を攻(せ)めしめ別(べつ)に峰(みね)の故城(こじよう)を修築(しうちく)して秀吉(ひでよし)の来攻(らいこう)に備(そな)へたが秀吉(ひでよし)は蒲生氏郷(がまふうぢさと)瀧川一益(たきがはかづます)
等(ら)をして急(きう)に此(この)峰城(みねのしろ)を攻(せ)めしめたので信雄(のぶを)は犬山城主(いぬやまじようしゆ)中川貞成(なかがはさだなり)等(ら)をして正勝(まさかつ)に応援(おうゑん)せしめたが遂(つひ)に支(さゝ)
ゆることが出来(でき)なくて孰(いづ)れも長島城(ながしまじよう)まで引退(ひきしりぞ)かむとしたのである然(しか)るに追撃(つひげき)が急(きう)で貞成(さだなり)は途(みち)に敵(てき)の為(ため)に
《割書:忠次桑名に|陣す》 要撃(えうげき)せられ頗(すこぶ)る苦戦(くせん)に陥(おちい)つたのであるが此(この)時(とき)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は家康(いへやす)の命(めい)により東(とう)三の諸勢(しよぜい)を率(ひき)ゐ援軍(ゑんぐん)として
桑名(くわな)まで出陣(しゆつぢん)したので氏郷(うぢさと)一益(かづます)等(ら)も一 時(じ)兵(へい)を退(しりぞ)くるに至(いた)つたのである之(これ)より尾張(をはり)の西南部(せいなんぶ)並(ならび)に伊勢(いせ)地(ち)
犬山城陥る 方(ほう)に大小(だいせう)の数戦(すうせう)があつたが更(さら)に尾張(おはり)の東北部(とうほくぶ)に於(おい)ても別(べつ)に戦端(せんたん)が開(ひら)かれたのでそれは今度(このたび)秀吉(ひでよし)方(がた)に属(ぞく)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百八十九号附録 ( 明治四十四年十月十七日発行 )
【本文】
した池田信輝(いけだのぶてる)が犬山城(いぬやまじよう)を襲(おそ)つたからである元来(がんらい)信輝(のぶてる)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り大垣(おほがき)に居(を)つたのであるが犬(いぬ)
山(やま)の城主(じようしゆ)中川貞成(なかがはさだなり)は峰城(みねのしろ)に応援(おうゑん)の為(た)め其(その)居城(きよじよう)をば叔父(おぢ)の僧(そう)清蔵主(せいぞうしゆ)に任(まか)せて伊勢(いせ)に出陣(しゆつぢん)したので此(この)事(こと)を
偵知(ていち)した信輝(のぶてる)は其(その)機(き)乗(ぜう)すべしとなしたのである殊(こと)に信輝(のぶてる)は嘗(かつ)て犬山城(いぬやまじよう)に居(を)つた事があるので勝手(かつて)の明(あきら)
かである事から三月十三日の夜陰(やいん)自(みづか)ら大垣(おほがき)を発(はつ)して直(たゞ)ちに襲撃(しうげき)を試(こゝろ)みたのであるが果(はた)して城(しろ)は忽(たちま)ち陥(おちい)
り清蔵主(せいぞうしゆ)は戦死(せんし)したので信輝(のぶてる)は其(その)子(こ)之助(やすすけ)と共(とも)に城(しろ)に入(い)り十五日 更(さら)に小牧山(こまきやま)附近(ふきん)に進(すゝ)むで近郷(きんごう)に放火(はうか)し
たのである此(この)時(とき)信雄(のぶを)は長島(ながしま)から清洲城(きよすじよう)に移(うつ)つて居(を)つたが家康(いへやす)も亦(ま)た十三日に此処(こゝ)に到着(とうちやく)して信雄(のぶを)に会(くわい)
見(けん)し且(か)つ右(みぎ)の報知(ほうち)を得(え)たので直(たゞ)ちに忠次(たゞつぐ)等(ら)を桑名(くわな)から呼寄(よびよ)せて其(その)衛(ゑい)としたのであるが前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(もうしのべ)
《割書:忠次長可を|羽黒に破る》 た如(ごと)く此(この)時(とき)信輝(のぶてる)の聟(むこ)森長可(もりながよし)も亦(ま)た秀吉(ひでよし)に応(おう)じたので美濃国(みのゝくに)金山(かなやま)の城(しろ)から出(い)でゝ尾張(おはり)の羽黒(はぐろ)を掠(かす)めたが
家康(いへやす)は忠次(たゞつぐ)の意見(いけん)を容(い)れて先(ま)づ之(これ)を攻(せ)めしめたのである即(すなは)ち忠次(たゞつぐ)は奥平信昌(おくだひらのぶまさ)松平家忠(まつだひらいへたゞ)等(ら)を初(はじ)め東三の
諸士(しよし)を率(ひき)ゐて之(これ)に当(あた)り大(おほい)に長可(ながよし)の軍(ぐん)を敗(やぶ)つたのである其(その)時(とき)信昌(のぶまさ)が勇敢(ゆうかん)の働(はたらき)をした事は色々(いろ〳〵)の記録(きろく)に
載(の)つて居(を)る事であるが此処(こゝ)には只(た)だ其(その)大要(たいえう)を申述(もうしの)ぶるに止(とゞ)めたいと思(おも)ふ而(しか)して此(この)時(とき)信輝(のぶてる)は長可(ながよし)の敗(はい)を
聞(き)いて之(これ)を援(たす)けむとしたのであるが諌(いさ)むる者(もの)があつて果(はた)さなかつた而(しか)も家康(いへやす)も亦(ま)た直(たゞ)ちに忠次(たゞつぐ)等(ら)を呼(よ)
び返(かへ)したのである
《割書:家康塁を小|牧山に搆ふ》 ソコで家康(いへやす)は先(ま)づ小牧山(こまきやま)に陣(ぢん)を搆(かま)へたのであるが此処(こゝ)には本多広孝(ほんだひろたか)を主将(しゆせう)として準備(じゆんび)オサ〳〵怠(おこた)りな
かつたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)秀吉(ひでよし)は大坂(おほさか)に築城中(ちくじようちう)で其処(そこ)に居(を)つたのであるが三月十九日に大坂(おほさか)を発(はつ)し尾(お)
張(はり)に向(むか)はむとしたトコロが紀伊(きい)雑賀(ざつが)根来(ねごろ)の一 揆(き)が信雄(のぶを)家康(いへやす)の誘導(ゆうどう)に応(おう)じて大坂(おほさか)に攻(せ)め寄(よ)せんとしたの
《割書:秀吉犬山に|至る》 で其(その)意(い)の如(ごと)くに運(はこ)ぶ事が出来(でき)ずヨウ〳〵廿一日に至(いた)つて大坂(おほさか)を発(はつ)し廿七日に犬山(いぬやま)に来(きた)つて楽田(がくでん)、 羽黒(はぐろ)
返(へん)を巡視(じゆんし)し小牧山(こまきやま)に対(たい)して塁(るい)を搆(かま)へしめたのである此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)の兵力(へいりよく)は十二万五千と称(せう)したとの事であ
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十一
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十二
【本文】
るが互(たがひ)に動静(どうせい)を窺(うかゞ)つて共(とも)に兵(へい)を動(うご)かさなかつた然(しか)るに信輝(のぶてる)長可(ながよし)は頻(しき)りに此(この)虚(きよ)に乗(ぜう)じて三 河(かは)を衝(つ)かむと
長久手会戦 云ふので其(その)実行(じつこう)を秀吉(ひでよし)に強請(きようせい)したから秀吉(ひでよし)も遂(つひ)に之(これ)を許(ゆる)したのであるが之(これ)が長久手(ながくて)会戦(くわいせん)の起(おこ)つた所以(ゆえん)
で結局(けつきよく)西軍(せいぐん)は賤(しづ)ケ岳(たけ)の時(とき)柴田勢(しばたぜい)のやつた覆轍(ふくてつ)を踏(ふ)むだ訳(わけ)になつたのである
《割書:信輝支隊を|率ゐて西三》 サテ池田信輝(いけだのぶてる)は其(その)頃(ころ)薙髪(ちはつ)して勝入(かついり)と称(せう)して居(を)つたが森長可(もりながよし)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く其(その)聟(むこ)である之(これ)に同(おな)じ
《割書:河に侵入せ|むとす》 女婿(ぢよせい)の三好秀次(みよしひでつぐ)が加(くは)はつて更(さら)に秀吉(ひでよし)から軍監(ぐんかん)とも云ふべき訳(わけ)で寄越(よこ)した堀秀政(ほりひでまさ)を加(くは)へ之(これ)を四 隊(たい)に分(わか)ち
第一 隊(たい)は総指揮者(そうしきしや)たる勝入(かついり)が自(みづか)ら之(これ)を率(ひき)ひ兵(へい)凡(およそ)六千人第二 隊(たい)は森長可(もりながよし)が之(これ)を率(ひき)ゐて兵(へい)凡(およそ)三千人第三
隊は堀秀政(ほりひでまさ)が之(これ)を率(ひき)ゐて兵(へい)凡(およそ)三千人第四隊は三好秀次(みよしひでつぐ)が之(これ)を率(ひき)ゐて兵(へい)凡(およそ)八千人と云ふのでイヨ〳〵一
支 隊(たい)を編成(へんせい)して四月六日の夜半(やはん)から其(その)陣地(ぢんち)、 小口(おぐち)、 楽田(がくでん)附近(ふきん)を出発(しゆつぱ)して潜(ひそ)かに西三河に入(い)り岡崎(をかざき)を撃(しう)
篠木柏井 撃(げき)すると云ふ目的(もくてき)で行進(こうしん)を初(はじ)めたのであるが七日は関田(せきだ)から篠木(しのぎ)、 柏井(かしわい)地方(ちはう)に至(いた)り砦(とりで)を築(きづ)いて各(かく)隊(たい)宿(しゆく)
営(えい)に就(つ)いたのである而(しか)して八日は早朝(さうてう)に令(れい)を伝(つた)へてイヨ〳〵明(めう)九日は遥(はる)かに東軍(とうぐん)即(すなは)ち徳川(とくがは)織田(をだ)方(がた)の右(う)
翼(よく)を回(まは)つて潜(こつそ)りと長久手(ながくて)藤島(ふじしま)附近(ふきん)から西(にし)三 河(かは)に侵入(しんにう)するのであると云ふことを告(つ)げ其(その)夜(よ)十時 頃(ころ)に至(いた)つて
一 同(どう)宿営(しゆくえい)を撤(てつ)し全軍(ぜんぐん)を二 縦隊(じうたい)に分(わ)けて各(おの〳〵)庄内川(せうないがは)を渡(わた)り再(ふたゝ)び第一隊から順次(じゆんじ)単縦列(たんじうれつ)をなして諏訪(すわ)ケ原(はら)
を過(す)ぎ平子山(ひらこやま)を越(こ)へて印場(いんば)に出(い)で瀬戸街道(せとかいどう)を横(よこ)ぎつて矢田川(やだがは)を渡(わた)つたのであるトコロで此(この)平子山(ひらこやま)の西(せい)
木幡城 麓(ろく)瀬戸街道(せとかいどう)を北(きた)に去(さ)ること遠(とほ)からざる処(ところ)に小幡(こはた)の城(しろ)があつて此処(こゝ)には本多広孝(ほんだひろたか)等(ら)が小牧(こまき)から移(うつ)つて守備(しゆび)
して居(を)つたので云はゞ徳川方(とくがはがた)の最右翼(さいうよく)の後部(こうぶ)に当(あた)つて居(を)つたのであるそれ故(ゆへ)に勝入(かついり)の支隊(したい)は之(これ)に覚(さと)ら
れぬように注意(ちうい)しつゝ更(さら)に香流川(かなれがは)を渡(わた)つて其(その)第一隊は九日の未明(みめい)長久手(ながくて)を過(す)ぎて藤島(ふじしま)方面(はうめん)に進(すゝ)むだの
岩崎城 である然(しか)るに其(その)西北(せいほく)に岩崎城(いわざきじよう)と云ふのがあつて之(これ)には丹羽氏次(にはうぢつぐ)の弟(おとゝ)氏重(うぢしげ)が徳川方(とくがはがた)の為(ため)に留守(るす)をして居(を)
つたので兵数(へいすう)は長久手(ながくて)の領主(れうしゆ)加藤忠景(かとうたゞかげ)を初(はじ)め僅(わづか)に二百三十九人であつたモツトモ城主(じようしゆ)氏次(うぢつぐ)は小牧(こまき)に出(しゆつ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
陣中(ぢんちう)であつたのであるが氏重(うぢしげ)は此(この)際(さい)敵兵(てきへい)の城下(じようか)を前進(ぜんしん)するのを見(み)て傍観(ばうくわん)すべきにあらずとなして急(きう)に
出撃(しゆつげき)したのであるソコで勝入(かついり)も初(はじめ)は前途(ぜんしん)に大目的(だいもくてき)があるのであるから之(これ)等(ら)には頓着(とんちやく)なく前進(ぜんしん)する考(かんが)で
あつたが城兵(じようへい)の攻撃(こうげき)が余(あま)りに激(はげ)しいので遂(つひ)には大(おほい)に怒(いか)つて此(この)城(しろ)を屠(ほうむ)らむとしたのである即(すなは)ち前衛(ぜんえい)に命(めい)
《割書:丹羽氏重戦|死》 じて之(これ)を攻(せ)めしめたが午前(ごぜん)四時 頃(ごろ)から同(どう)六 時(じ)頃(ごろ)迄(まで)の間(あひだ)に城兵(じようへい)は遂(つひ)に衆寡(しうくわ)敵(てき)せぬので丹羽義次(にはよしつぐ)をして事(じ)
情(ぜう)を小牧(こまき)に報(ほう)ぜしめ其(その)余(よ)は殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)戦死(せんし)したのである此(かく)の如(ごと)く此(この)城(しろ)は忽(たちまち)の中(うち)に勝入(かついり)の手(て)に皈(き)したので
はあるが併(しか)し其(その)間(あひだ)に容易(ようい)ならぬ時間(じかん)と手数(てすう)とを要(えう)することとなつたので此(この)岩崎城(いわさきじよう)に対(たい)する始末(しまつ)の付(つ)く間(あひだ)
は各隊(かくたい)皆(みな)行進(こうしん)を休(やす)むで縦列(じうれつ)のまゝ第一第二 両隊(れうたい)は生牛原(ふぎうばら)、第三隊は金萩原(かねはぎばら)(《割書:孰れも長久|手の南方》)第四隊は白山林(はくさんりん)
(《割書:長久手|の北方》)と云ふように長久手(ながくて)を隔(へだ)てゝ駐屯(ちうとん)して居(を)つたのであるトコロが東軍(とうぐん)即(すなは)ち徳川(とくがは)織田(をた)方(がた)に於(おい)ては七
日の午後四時頃に篠木(しのぎ)の農民(のうみん)から敵兵(てきへい)の其処(そこ)に屯営(とんえい)せる報知(ほうち)を得(え)たのであるが当時(とうじ)家康(いへやす)は遽(にはか)に之(これ)を信(しん)
ぜなかつた然(しか)るに其(その)後(ご)続々(ぞく〴〵)其(その)報告(ほうこく)があるので八日 朝(あさ)に至(いた)つて家康(いへやす)はイヨ〳〵敵兵(てきへい)の目的(もくてき)が岡崎(をかざき)辺(へん)を脅(けう)
家康の追撃 威(い)するにあることを覚(さと)つたので直(たゞ)ちに之(これ)を追撃(つひげき)せむことを欲(ほつ)して先(ま)づ小牧(こまき)の留守(るす)としては酒井忠次(さかゐたゞつぐ)と石川(いしかは)
数正(かづまさ)、 本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)を置(お)いて織田勢(をたぜい)を合(あは)せて兵(へい)凡(およ)そ六千五百余人を残(のこ)し自(みづか)らは信雄(のぶを)と共(とも)に兵(へい)九千三百余
を率(ひき)ゐ井伊直正(ゐいなほまさ)を前衛(ぜんえい)として此(この)日(ひ)の午後八時 潜(ひそか)に小牧(こまき)を発(はつ)して勝川(かつがは)を経(へ)夜半(やはん)十二時頃には既(すで)に小幡城(こはたのしろ)
水野支隊 に入(い)つたのであるモツトモ家康(いへやす)は別(べつ)に水野忠重(みづのたゞしげ)等(ら)に兵(へい)三千を随(したが)へて己(おの)れに先(さきだ)つこと一時間前に小牧(こまき)を発(はつ)
せしめたが之(これ)は午後十時頃には小幡城(こはたのしろ)に達(たつ)したので直(たゞ)ちに守将(しゆせう)本多広孝(ほんだひろたか)と議(ぎ)して斥候(せつこう)を放(はな)ち敵情(てきぜう)を探(さぐ)
らしめて大略(たいりやく)其(その)進路(しんろ)並(ならび)に勢力(せいりよく)等(とう)を知(し)つたのであるソコで家康(いへやす)は先(ま)づ此(この)水野隊(みづのたい)をして敵(てき)の後列(こうれつ)を襲(おそ)はし
め己(おの)れは敵(てき)の中央(ちうおう)に出(い)でゝ其(その)兵力(へいりよく)を両断(れうだん)し而(しか)して先頭(せんとう)部隊(ぶたい)に当(あた)らむと決心(けつしん)し其(その)手筈(てはづ)を定(さだ)めて其(その)夜(よ)午前
二時頃 水野隊(みづのたい)をして先(ま)づ出発(しゆつぱつ)せじめたのであるが水野隊(みづのたい)は又(ま)た之(これ)を三 隊(たい)に区分(くぶん)して右翼隊(うよくたい)は大須賀康(おほすがやす)
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十三
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十四
【本文】
高(たか)之(これ)を率(ひき)ゐ左翼隊(さよくたい)は榊原康政(さかきばらやすまさ)が率(ひき)ゐて忠重(たゞしげ)は自(みづか)ら予備隊(よびたい)を率(ひき)ゐたのである而(しか)して初(はじ)めから郷導(きようどう)の任(にん)に
白山林の戦 当(あた)つた岩崎城主(いわさきじようしゆ)丹羽氏次(にはうじつぎ)は尚(な)ほ之(これ)が郷導(きようどう)をなしたのであるソコで此(この)右翼隊(うよくたい)と予備隊(よびたい)とは猪子石原(ゐのこいしはら)を経(へ)
て直(たゞ)ちに白山林(はくさばやや)にある敵(てき)の後列(こうれつ)第四隊に逼(せま)つたのであるが左翼隊(さよくたい)は瀬戸街道(せとかいどう)を通(とほ)つて稲葉(いなば)に出(い)で迂回(うくわい)
して敵(てき)隊(たい)の左側(さそく)に当(あた)つたので此(この)戦闘(せんとう)の開始(かいし)は九日の黎明(れいめい)であつたが敵(てき)の第四隊は実(じつ)に不意(ふい)の襲撃(しうげき)で殊(こと)
細ケ根 に夾撃(きうげき)の状(ぜう)に陥(おちい)つたのであるからサン〴〵の体(てい)で敗走(はいそう)し隊長(たいてう)秀次(ひでつぐ)は香流川(かなれがは)を渉(わた)つて長久手(ながくて)附近(ふきん)の細(さい)ケ
根(ね)と云ふ処に拠(よ)つたが東軍(とうぐん)の追撃(つひげき)が激(はげ)しくて纔(わづか)に身(み)を以(もつ)て逃(のが)るゝに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)ては所謂(いはゆる)騎(き)
虎(こ)の勢(いきほひ)で東軍(とうぐん)支隊(したい)は何処(どこ)迄(まで)も前進(ぜんしん)するので忠重(たゞしげ)は之(これ)を制(せい)したが到底(とうてい)号令(ごうれい)が行(おこな)はれぬ然(しか)るに此(この)時(とき)西軍(せいぐん)
即(すなは)ち勝入(しようにう)の率(ひき)ゆる支隊(したい)の第三隊は方(まさ)に金萩原(かねはぎばら)に休憩中(きうけいちう)であつたが後隊(こうたい)に方(あた)つて銃声(ぢうせい)が聞(きこ)ゆるので恠訝(けゞん)
し斥候(せきこう)を派(はつ)した処(ところ)が東軍(とうぐん)の襲撃(しうげき)である事が分(わか)つたのみならず第四隊からも続々(ぞく〳〵)急報(きうほう)に接(せつ)したので隊長(たいてう)
檜ケ根 の堀秀政(ほりひでまさ)は直(たゞ)ちに隊(たい)を回(くわい)して長久手(ながくて)に至(いた)り檜(ひのき)ケ根(ね)と云ふ高地(こうち)を占領(せんれう)して之(これ)に兵(へい)を配列(はいれつ)し香流川(かなれがは)を前(まへ)に
して陣取(ぢんど)つたのであるが恰(あたか)も其処(そこ)へと東軍(とうぐん)の支隊(したい)は一 処(しよ)になつて攻(せ)め寄(よ)せて来(き)たのであるソコで西軍(せいぐん)の
堀隊(ほりたい)は高地(こうち)から之(これ)を俯射(ふしや)したのであるから今度(こんど)は東軍(とうぐん)の方(ほう)が大敗(たいはい)したので其(その)予備(よび)及(およ)び右翼隊(うよくたい)は猪子石(ゐのこいし)
方面(ほうめん)に左翼隊(さよくたい)は岩作(いわさ)方面(ほうめん)に退却(たいきやく)したのである秀政(ひでまさ)は因(よつ)て兵(へい)を分(わか)つて之(これ)を追撃(つひげき)したが其(その)時(とき)丁度(ちようど)家康(いへやす)信雄(のぶを)
富士ケ根 は共(とも)に東軍(とうぐん)の本隊(ほんたい)を率(ひき)ゐて瀬戸街道(せとかいどう)に沿(そ)ひズツト西軍(せいぐん)の右翼(うよく)(《割書:初めの|左翼》)を迂回(うくわい)して檜(ひのき)ケ根(ね)の裏手(うらて)に当(あた)る富(ふ)
士(じ)ケ根(ね)と云ふ処に現(あら)はれたので驚(おどろ)いたのは秀政(ひでまさ)である遂(つひ)に稲葉(いなば)から楽田(がくでん)の本陣(ほんぢん)に向(むか)つて逃(に)げ皈(かへ)つたの
であるが結局(けつきよく)取残(とりのこ)されたのか西軍(せいぐん)の第一第二 両隊(れうたい)で孰(いづ)れも後隊(こうたい)警報(けいほう)を聞(き)いて隊(たい)を回(くわい)した処(ところ)が既(すで)に皈(き)
路(ろ)は家康(いへやす)の為(ため)に遮断(しやだん)せられたと云ふ訳(わけ)で余義(よぎ)なく長久手(ながくて)に於(おい)て会戦(くわいせん)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)結(けつ)
《割書:信輝長可等|の戦死》 果(くわ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く池田勝入(いけだかついり)並(ならび)に其(その)子之助(このすけ)及(およ)び森長可(もりながよし)の主将(しゆせう)は孰(いづ)れも討死(うちじに)し之助(ゆのすけ)の弟(おとゝ)輝政(てるまさ)独(ひと)り逃(のが)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千八百九十四号附録 ( 明治四十四年十月二十四日発行 )
【本文】
れたのであるが此(この)時(とき)家康(いへやす)は追撃(つひげき)を矢田川(やだがは)までに止(とゞ)めしめ午後一時には戦闘(せんとう)を終(をは)つて四時頃には既(すで)に小(を)
幡城(はたじよう)に入(い)たのである
トコロで秀吉(ひでよし)である自(みづか)ら楽田(がくでん)の陣(ぢん)に居(を)つて信輝(のぶてる)等(ら)の運動(うんどう)を容易(ようい)ならしむる為(た)めに六日 及(およ)び九日に小牧(こまき)
の塁(るい)を攻撃(こうげき)せしめたが余(あま)り功(こう)がなかつた然(しか)るに九日の正午(せうご)に至(いた)つて先(ま)づ白山林(はくさんばやし)の敗報(はいほう)が至(いた)つたので大(おほい)
に驚(おどろ)き急(きう)に応援(おうゑん)の方針(ほうしん)を定(さだ)め午後一時頃には自(みづか)ら兵(へい)二万許を率(ひき)ゐて出発(しゆつぱつ)したが途中(とちう)で岩崎城(いわざきじよう)攻撃(こうげき)に関(かん)
する報告(ほうこく)を得(え)たので益(ます〳〵)前途(ぜんと)を気遣(きづか)つて急行(きうこう)したのであるが此(この)時(とき)小牧山(こまきやま)に留守(るす)をして居(を)つた徳川方(とくがはがた)で
は諜(しゆ)して此(この)事(こと)を知(し)つたので評議(ひようぎ)をした処が酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は此(この)機(き)に乗(ぜう)じて前面(ぜんめん)の敵塁(てきるい)を突(つ)くならば敵(てき)は必(かなら)ず
敗軍(はいぐん)するであろうと云ふので之(これ)を主張(しゆてう)し本多忠勝(ほんだたゞかつ)も同意(どうい)であつたが独(ひと)り石川数正(いしかはかづまさ)は之(これ)に同意(どうい)せぬので
忠次(たゞつぐ)は非常(ひじやう)に残念(ざんねん)がつたが到底(とうてい)打捨(うちす)てゝ置(お)く訳(わけ)に行(ゆ)かぬと云ふ処から本多忠勝(ほんだたゞかつ)は石川康通(いしかはやすみち)と共(とも)に手兵(しゆへい)
僅(わづか)に五百人を率(ひき)ゐて秀吉(ひでよし)の大軍(たいぐん)に尾(び)し遂(つひ)に其(その)本部(ほんぶ)と駢行(へいこう)して行(ゆ)く〳〵之(これ)を銃撃(じうげき)したのである之(これ)は忠勝(たゞかつ)
が抜群(ばつぐん)の功(こう)として有名(ゆうめい)なる事であるが此(この)時(とき)の事情(じぜう)に付(つい)ても種々(しゆ〴〵)の説(せつ)がある例(しか)私(わたくし)は今(いま)三 河物語(かはものがたり)に拠(よ)
つたので同書(どうしよ)には左(さ)の如(ごと)くに記(しる)されてある
然(しかる)処(ところ)に小牧山(こまきやま)に相残(あひのこり)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんじよう)申(もうし)けるは関白殿(くわんぱくどの)押(おし)て出(いで)られければ小幡筋(をはたすぢ)の儀(ぎ)を心元(こゝろもと)なく存(ぞん)ずれ
之(これ)より二 重堀(ぢうほり)を押破(おしやぶ)りて悉(こと〴〵)く陣屋(ぢんや)に火(ひ)を掛(か)けて焼払(やきはら)ふものならば関白殿(くわんぱくどの)も敗軍(はいぐん)有(あ)るべしとすゝみ
給(たま)へ共(ども)其(その)比(ころ)より石川伯耆守(いしかはほうきのかみ)は関白殿(くわんぱくどの)へ心(こゝろ)のある間(あひだ)其(その)儀(ぎ)然(しか)るべからずとて伯耆守(ほうきのかみ)一ゑんに進(すゝ)まざれば
左衛門尉(さゑもんじよう)は手(て)に汗(あせ)を握(にぎ)つて白沫(はくまつ)をかみて伯耆守(ほうきのかみ)進(すゝ)まざれば打(うち)おきぬ本多中務守左衛門尉(ほんだなかづかさのかみさゑもんじよう)と同意(どうい)なれ
ば伯耆守(ほうきのかみ)進(すゝ)まぬと見(み)さらば我等(われら)は小幡(をはた)へ迎(むかへ)に参(まゐ)らむと五百 計(ばかり)にて関白殿(くわんぱくどの)のそないの下(した)を推(おし)て通(とほ)り
小幡(をはた)の城(しろ)へ行(ゆ)きて御供(おんとも)を申(もうし)て小牧山(こまきやま)へ来(きた)る敵味方(てきみかた)共(とも)に本多中務(ほんだなかづかさ)を褒(ほ)めたり
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十五
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十六
【本文】
兎(と)に角(かく)右(みぎ)の様(よう)な訳(わけ)であつたが秀吉(ひでよし)は之(これ)等(ら)には一 向(こう)頓着(とんちやく)なく偏(ひとへ)に急行(きうこう)して午後五時には小幡城(をはたじよう)の直(す)ぐ東(とう)
北(ほく)に当(あた)る龍泉寺(りうせんじ)と云ふ処まで到着(とうちやく)し先(ま)づ長久手(ながくて)の様子(ようす)を探(さく)らしめた処が戦争(せんそう)は既(すで)に終(をは)つて己(おの)れの軍(ぐん)が
敗北(はいぼく)し家康(いへやす)等(ら)は小幡城(をはたじよう)に入(い)つた後(のち)であると云ふので速(すみやか)に其(その)城(しろ)を攻撃(こうげき)せようとしたのであるが日没(にちぼつ)に
近(ちか)いので明朝(みようてう)を俟(ま)つことになつたのであるトコロが家康(いへやす)は長居(ながゐ)は無用(むよう)であると云ふので兵(へい)二百 余人(よにん)を此(こ)
処(こ)に留(とゞ)めて午後八時頃から信雄(のぶを)と共(とも)に潜(ひそか)に兵(へい)を収(おさ)めて小牧(こまき)の塁(るい)に皈(かへ)つて仕舞(しま)つたので秀吉(ひでよし)も実(じつ)に其(その)迅(じん)
速(そく)なる事に一 驚(けう)を喫(きつ)したのであるが今更(いまさ)ら仕方(しかた)がなく自分(じぶん)も其(その)翌日(よくじつ)楽田(がくでん)に皈(かへ)つたのである之(これ)より両軍(れうぐん)
は益々(ます〳〵)守備(しゆび)を厳(げん)にして再(ふたゝ)び対峙(たいじ)の形勢(けいせい)を持続(ぢぞく)するに至(いた)つたのである
先(ま)づ小牧山(こまきやま)対陣(たいぢん)並(なら)びに長久手(ながくて)会戦(くわいせん)の話(はなし)はザツト右(みぎ)の如(ごと)くであるが此処(こゝ)に少(すこ)しく御話(おはなし)したいのは彼(か)の牧(まき)
野成里(のしげさと)の事である茂里(しげさと)は即(すなは)ち傳蔵(でんざう)と称(せう)した人でズツト前(まへ)に御話(おはなし)した豊橋(とよはし)の築城者(ちくじようしや)牧野古白(まきのこはく)の子(こ)傳蔵信(でんざうのぶ)
成(しげ)と云つた人の孫(まご)に当(あた)るのである信成(のぶしげ)は御承知(ごせうち)の通(とほ)り享禄(けうろく)二年(《割書:一に天文元|年に作る》)松平清康(まつだひらきよやす)の為(ため)に攻(せ)められて
戦死(せんし)したが其(その)時(とき)妻(つま)が妊娠中(にんしんちう)で里方(さとかた)の知多郡(ちたぐん)へ逃(のが)れたが後(のち)に生むだのが傳蔵成継(でんざうしげつぐ)と云ふ人である然(しか)るに
此(この)人(ひと)は廿九歳の時(とき)知多郡(ちたぐん)師崎(もろさき)の城主(じようしゆ)石川筑後守(いしかはちくごのかみ)と云ふ人と囲碁(ゐご)の事で争論(そうろん)をして遂(つひ)に殺害(さつがい)せられたが
其(この)成継(しげつぐ)の子(こ)が即(すなは)ち成里(しげさと)で幼少(ようせう)の時から旧臣(きうしん)に養育(やういく)せられ長(てう)ずるに及(およん)で復讎(ふくしう)の志(こゝろざし)があつたのである然(しか)
るに仇(かたき)の筑後守(ちくごのかみ)は其(その)事(こと)を聞(き)いて人に語(かた)つて云(い)ふには我(われ)は既(すで)に老衰(らうすい)に及(およ)むで家督(かとく)を子(こ)の隼人佑(はやとのすけ)に譲(ゆづ)つた
のであるソレにも拘(かゝは)らず成里(しげさと)が壮年(さうねん)の隼人佑(はやとのすけ)を差置(さしお)いて此(この)老衰(らうすい)の我(われ)をねらふと云ふのは実(じつ)に勇(ゆう)なきも
のであるとコウ云つたのを成里(しげさと)が聞(き)き込(こ)むで然(しか)る上(うへ)は隼人佑(はやとのすけ)を父(ちゝ)の仇(かたき)として討(う)つべきであると云ふの
で元亀二年 遂(つひ)に知多郡(ちたぐん)大野(おほの)宮山(みややま)の狩場(かりば)に於(おい)て之(これ)を殺(ころ)し父(ちゝ)の復讎(ふくしう)をしたのであるが其(その)時(とき)成里(しげさと)は年(とし)僅(わづか)に十
六歳であつた然(しか)るに当時(とうじ)伊勢(いせ)の長島城(ながしまじよう)に居(を)つた瀧川一益(たきがはかずます)が此(この)事(こと)を知(し)つて家来(けらい)を寄越(よこ)して之(これ)を助(たす)け無事(ぶじ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
に長島(ながしま)に引取(ひきと)つたのであるそれより成里(しげさと)は一益(かづます)近侍(きんじ)の臣(しん)となつて伊勢国(いせのくに)片岡(かたはま)、 浅香(あさか)、 大河内(おほかうち)並(ならび)に三河(みかは)
国(くに)長篠(ながしの)の合戦(かつせん)などに数々(しば〳〵)功(こう)があつたが一益(かづます)が一 時(じ)没落(ぼつらく)した時に初(はじ)めて織田信雄(をたのぶを)に仕(つか)へたのである而(しか)し
て今度(このたび)の小牧(こまき)の役(えき)には常(つね)に信雄(のぶを)の軍中(ぐんちう)に加(くは)はり又(ま)た長久手(ながくて)の会戦(くわいせん)には家康(いへやす)の金扇馬標(きんせんうまじるし)の後(あと)に従(したがつ)て働(はたら)
いたのである今(いま)尾張(おはり)の徳川侯爵家(とくがはこうしやくけ)に長久手(ながくて)と長篠(ながしの)の戦争(せんそう)とを画(えが)いた六 枚折(まいをり)の屏風(びようぶ)が一 双(そう)あるが之(これ)は其(その)
当時(とうじ)を去(さ)ること余(あま)り遠(とほざ)からざる時代(じだい)に出来(でき)たもので且(か)つ調査(てうさ)が能(よ)く行届(ゆきとゞ)いて居(を)ると云ふので相当(さうとう)に歴史(れきし)
の参考(さんこう)になるものであると云ふ事であるが之(これ)にも長久手(ながくて)の役(えき)で山(やま)の間(あひだ)から家康(いへやす)の金扇馬標(きんせんうまじるし)が躍(おど)り出(い)づ
る其(その)後(あと)に成里(しげさと)の幟印(のぼりじるし)が継(つ)いて来(く)る処(ところ)が書(か)いてある其(その)後(のち)此(この)成里(しげさと)は長谷川秀一(はせがはひでかづ)に属(ぞく)して文禄(ぶんろく)の役(えき)には朝鮮(てうせん)
に渡(わた)つて戦功(せんこう)があり皈朝(きてう)後(ご)豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に仕(つか)ゆることとなつたが秀次(ひでつぐ)滅亡(めつぼう)後(ご)は石田三成(いしだかづしげ)に属(ぞく)したので関(せき)ケ原(はら)
敗北(はいぼく)の後(あと)は池田輝政(いけだてるまさ)に依(よ)つたのである然(しか)るに其(その)紹介(せうかい)で最後(さいご)に家康(いへやす)に謁(えつ)して秀忠(ひでたゞ)の近侍(きんし)に採用(さいよう)せられ釆(さい)
地(ち)三千石を下野市(しもつけ)の梁田郡(れうだごほり)に貰(もら)つたのである之(これ)が即(すなは)ち先(さき)にも御話(おはなし)して置(お)いた静岡県(しづをかけん)士族(しぞく)牧野成一(まきのしげかづ)君(くん)の祖(そ)
先(せん)になるので成里(しげさと)の肖像(せうぞう)は今(いま)も同君(どうくん)の家(いへ)に蔵(ざう)せられてあるが狩野安信(かのをやすのぶ)の筆(ふで)で最(もつと)も資料(しれう)となるべきもの
である尚(な)ほ成里(しげさと)が文禄(ぶんろく)の役(えき)に朝鮮(てうせん)の晋州(しんしゆう)から持(も)ち皈(かへ)つた鼓(つゝみ)と貨狄(くわてき)の像(ぞう)とがあるが之(これ)は下野(しもつけ)梁田郡(れうだごほり)羽田(はだ)
村(むら)の龍江院(りうこうゐん)と云ふ寺(てら)に遺(のこ)つて居(を)るとの事(こと)である此(この)寺(てら)は即(すなは)ち成里(しげさと)を葬(ほうむ)つた処で成里(しげさと)は慶長(けいてう)十九年四月廿
三日 年(とし)五十九で没(ぼつ)したのであるが此(この)人(ひと)には成信(しげのぶ)成従(しげよれ)成純(しげすみ)成常(しげつね)と云ふ四人の男子(だんし)があつて家督(かとく)は三 男(なん)の
成純(しげすみ)が継(つ)いだのである然(しか)るに成純(しげすみ)は兄(あに)成信(しげのぶ)に対(たい)する義理(ぎり)の上(うへ)から自分(じぶん)は終身(しうしん)娶(めと)らずして特(とく)に成信(しげのぶ)の子(こ)
成勝(しげかつ)を養(やしなつ)て子(こ)としたが成常(しげつね)も亦(ま)た終身(しうしん)娶(めと)らなかつた人で之(これ)も矢張(やはり)成信(しげのぶ)の二 男(なん)成喬(しげたか)を養(やしなつ)て子(こ)とした
との事である又(ま)た成信(しげのぶ)と云ふ人は後(のち)に禅門(ぜんもん)に入(い)つて諸国(しよこく)を遊歴(ゆうれき)し一 時(じ)京都(けうと)の東山(ひがしやま)に閑居(かんきよ)して風車軒(ふうしやけん)と
称(せう)したが其(その)幽栖(ゆうす)の風雅(ふうが)なる処から後水尾帝(ごみづのをてい)の叡聞(えいぶん)に達(たつ)し御落飾後仙駕(ごらくしよくごせんが)を抂(まげ)られて叡覧(えいらん)があつたと云ふ
【欄外】
豊橋市史談 (小牧役と牧野成里) 百四十七
【欄外】
豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百四十八
【本文】
事が武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)に記(しる)してある次第(しだい)である今(いま)此(この)人(ひと)の画像(ぐわぞう)も狩野尚信(かのをなほのぶ)の筆(ふで)で同家(どうけ)に伝(つたは)つて居(を)るのである
⦿秀吉と信雄家康の媾和
話(はなし)は又(ま)た前(まへ)に戻(もど)つて秀吉(ひでよし)は小牧(こまき)の対陣(たいぢん)に於(おい)て到底(とうてい)東軍(とうぐん)に乗(ぜう)ずべき隙(すき)がないのを見(み)て堀秀政(ほりひでまさ)加藤光泰(かとうみつやす)等(ら)
をして楽田(がくでん)犬山(いぬやま)等(とう)に駐屯(ちうとん)せしめ自(みづか)らは五月朔日兵六万を率(ひき)ゐて美濃(みの)に退(しりぞ)き更(さら)に西尾張(にしをはり)に入(い)つて丹羽郡(にはぐん)
加賀野井(かゞのゐ)の城(しろ)を攻(せ)め更(さら)に竹(たけ)ケ鼻(はな)の城(しろ)を攻(せ)めて孰(いづ)れも之(これ)を取(と)つたのであるがそれより大垣(おほがき)に出(い)で廿一日
には西近江(にしあふみ)に入(い)り廿八日 遂(つひ)に大坂(おほさか)に皈(かへ)つたのであるソコで東軍(とうぐん)の方(ほう)でも信雄(のぶを)は五月三日一たび長島城(ながしまじよう)
に帰(かへ)り家康(いへやす)独(ひと)り留(とゞまつ)て小牧山(こまきやま)にあつたが六月十二日に至(いた)り酒井忠次(さかゐたゞつぐ)を留(とゞ)めて己(おの)れは清洲城(きよすのしろ)に入(い)つたの
である然(しか)るに蟹江城(かにえのじよう)の留守(るす)前田種利(まへだたねとし)が東軍(とうぐん)に叛(そむ)いて瀧川一益(たきがはかづます)を引(ひ)き入(い)れ長島(ながしま)清洲(きよす)間(かん)の連絡(れんらく)を絶(たゝ)むとし
たので家康(いへやす)信雄(のぶを)は此(この)城(しろ)を攻撃(こうげき)して種利(たねとし)は殺(ころ)され一益(かづます)は伊勢(いせ)に走(はし)つたと云ふような騒(さわ)ぎもあつたが結局(けつきよく)
尾張(をはり)は東軍(とうぐん)の平定(へいてい)する処となつたのであるトコロで秀吉(ひでよし)は再(ふたゝ)び八月の十五日を以(もつ)て大坂(おほさか)を発(はつ)し尾張(をはり)に
入(い)つたが此(この)時(とき)も家康(いへやす)信雄(のぶを)は出陣(しゆつぢん)した併(しか)し両軍(れうぐん)は相対峙(あひたいじ)せるのみで秀吉(ひでよし)は又(ま)たも志(こゝろざし)を得(う)る事(こと)が出来(でき)な
かつたのである当時(とうじ)両軍(れうぐん)の間(あひだ)に和議(わぎ)が起(おこ)つたが成立(せいりつ)しなかつた然(しか)るに秀吉(ひでよし)は九月十七日 大垣(おほがき)に移(うつ)り十
月六日には大坂(おほさか)に皈(かへ)つたのである而(しか)して家康(いへやす)信雄(のぶを)も亦(ま)た九月廿七日に清洲(きよす)に入(い)り十七日 家康(いへやす)は岡崎(をかざき)信(のぶ)
雄(を)は長島(ながしま)へ各々(おの〳〵)帰還(きくわん)したのである
此(かく)の如(ごと)く秀吉(ひでよし)は屡々(しば〳〵)来(きた)つて尾張(をはり)に陣(ぢん)したがドウモ志(こゝろざし)を得(う)る事(こと)が出来(でき)なかつたので十月に至(いた)つて今度(このたび)
は路(みち)を転(てん)じて伊勢(いせ)に出(い)で其廿三日 羽津(はづ)に陣(ぢん)したのであるソコで長島(ながしま)に居(を)つた織田信雄(をだのぶを)は之(これ)を聞(き)いて大(おほい)に
驚(おどろ)き急(きう)を清洲(きよす)に告(つ)げたのであるが当時(とうじ)清洲(きよす)には酒井忠次(さかゐたゞつぐ)が留守(るす)をして居(を)つたので直様(すぐさま)其(その)事(こと)を岡崎(をかざき)の家(いへ)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百号附録 ( 明治四十四年十月三十一日発行 )
【本文】
康(やす)に知(し)らせたのである因(よつ)て家康(いへやす)は十一月九日に清洲(きよす)に出陣(しゆつぢん)して信雄(のぶを)を赴援(ふゑん)する為(ため)に忠次(たゞつぐ)等(ら)を桑名(くわな)まで
出陣(しゆつぢん)せしめたのであるが此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)は再(ふたゝ)び富田知信(とみたとものぶ)津田信勝(つだのぶかつ)の両人(れうにん)を使(し)として信雄(のぶを)に媾和(こうわ)の事を交渉(こうせう)せ
《割書:秀吉信雄の|媾和》 しめたのである而(しか)して信雄(のぶを)は遂(つひ)に之(これ)を諾(だく)するに至(いた)つたのであるが此(この)事(こと)に就(つい)ても異説(ゐせつ)があつて此(この)媾和(こうわ)は
信雄(のぶを)の方(ほう)から秀吉(ひでよし)に申込(もうしこ)むだものであるとの説(せつ)がある併(しか)し当時(とうじ)秀吉(ひでよし)は海内(かいない)の統(とう)一を図(はか)ることに急(きう)であつ
た処から自(みづか)ら之(これ)を促(うなが)したものであると云ふ説(せつ)の方(ほう)が有力(ゆうりよく)のように思(おも)はるゝのである兎(と)に角(かく)此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)
《割書:矢田河原の|会見》 で其十一日に秀吉(ひでよし)と信雄(のぶを)とは共(とも)に矢田河原(やだかはら)に会見(くわいけん)し秀吉(ひでよし)からは礼(れい)を厚(あつ)ふして信雄(のぶを)を遇(ぐう)したのであるト
コロで信雄(のぶを)は頻(しき)りに家康(いへやす)と媾和(こうわ)するように秀吉(ひでよし)に熱望(ねつぼう)したのであるが秀吉(ひでよし)も元(もと)より家康(いへやす)との和親(わしん)を欲(ほつ)
したのであるソコで自身(じしん)は其十七日に坂本(さかもと)に帰(かへ)り尋(つい)で京師(けうし)に入(い)つたのであるが其(その)使(し)は廿一日に浜松(はままつ)に
至(いた)つて家康(いへやす)に会見(くわいけん)し和談(わだん)をしたのである之(これ)より先(さ)き家康(いへやす)は十二日に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)から秀吉(ひでよし)信雄(のぶを)間(かん)に和(わ)の成(な)
つたと云ふ知(し)らせを得(え)たのであるが十六日に石川数正(いしかはかづまさ)を信雄(のぶを)及(およ)び秀吉(ひでよし)の陣(ぢん)に遣(つかは)して賀詞(がし)を述(の)べしめ自(じ)
《割書:秀吉家康の|和成る》 身(しん)は其(その)日(ひ)岡崎(をかざき)に入(い)り廿一日に至(いた)つて浜松(はままつ)に帰(かへ)つたのである然(しか)るに此(この)秀吉(ひでよし)家康(いへやす)間(かん)の和(わ)も成立(なりた)つて家康(いへやす)か
ら其(その)子(こ)於義丸(おぎまる)を秀吉(ひでよし)の養子(やうし)として遣(つか)はす事になり家康(いへやす)は十二月の十二日に石川数正(いしかはかづまさ)をして於義丸(おぎまる)を大(おほ)
坂(さか)に送(おく)らしめたのであるが此(この)事(こと)に就(つい)ては信雄(のぶを)も大(おほい)に中間(ちうかん)で斡旋(あつせん)の労(らう)を取(と)つたと云ふ事である併(しか)し此(この)間(あひだ)
に於(お)ける秀吉(ひでよし)家康(いへやす)両雄(れうゆう)間(かん)の魂胆(こんたん)と云ふものは実(じつ)に味(あじは)ふべきもので双方(そうほう)共(とも)に中々(なか〳〵)巧(たくみ)なものであると思(おも)ふ
両雄の計策 元来(がんらい)此(この)度(たび)の戦争(せんそう)と云ふものは前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り最初(さいしよ)秀吉(ひでよし)と信雄(のぶを)との争(あらそひ)から起(おこ)つたもので家康(いへやす)は信(のぶ)
雄(を)からの依頼(いらい)であるから義(ぎ)の為(ため)に之(これ)を援(たす)けたと云ふ訳(わけ)になつて居(を)るのである然(しか)るに信雄(のぶを)は困(こま)つた時分(じぶん)
には家康(いへやす)の力(ちから)を借(か)りて秀吉(ひでよし)に対抗(たいこう)し和(わ)を結(むす)ぶに方(あた)つては家康(いへやす)にロク〳〵協議(けうぎ)をも遂(と)げず勝手(かつて)次第(しだい)に敵(てき)
と握手(あくしゆ)すると云ふが如(ごと)き事をなすのは私(わたくし)共(ども)から考(かんが)ふると随分(ずゐぶん)虫(むし)の善(よ)い話(はなし)であると思(おも)ふがソコは家康(いへやす)
【欄外】
豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百四十九
【欄外】
豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百五十
【本文】
である戦(たゝかひ)の張本人(てうほんにん)たる信雄(のぶを)か秀吉(ひでよし)と和(わ)した以上(いぜう)は自分(じぶん)はトチラにも関係(くわんけい)はない筈(はづ)である只(た)だ双方(そうほう)仲(なか)
善(よ)くなるのは御目出度(おめでた)い事であると云ふので苦情(くぜう)や利屈(りくつ)を云ふトコロが却(かへつ)て賀詞(がし)を述(の)べしめて自身(じしん)は
ドン〳〵兵(へい)を引(ひ)いて帰国(きこく)して仕舞(しま)つたと云ふのは誠(まこと)に味(あぢは)ふべき処で実(じつ)に家康(いへやす)の人(ひと)となりが見(み)ゆる様(よう)で
あると思(おも)ふ併(しか)し秀吉(ひでよし)も亦(ま)たサルものである直(たゞ)ちに家康(いへやす)の後(あと)を追掛(おつか)けて使(し)を浜松(はままつ)にやり和(わ)を講(こう)せしめ其(その)
上(うへ)家康(いへやす)の子(こ)於義丸(おぎまる)を養(やしなつ)て子(こ)と致(いた)したいと云ふ事を申込(もうしこ)むで結局(けつきよく)は家康(いへやす)を征服(せいふく)した形(かたち)に推移(すゐい)せしめよ
うとした手際(てぎは)は巧(たくみ)なものと云はねばならぬ然(しか)るに此(この)事(こと)に対(たい)しては家康(いへやす)は又(また)一 段(だん)其(その)上(うへ)を謀(はか)つたので於義(おぎ)
丸(まる)一人は止(やむ)を得(え)ず之(これ)を犠牲(ぎせい)としても何処(どこ)までも己(おの)れの勢(いきほひ)を支持(しぢ)することを勉(つと)めた遣(や)り方(かた)は之(こ)れ亦(ま)た英(えい)
雄(ゆう)の英雄(えいゆう)たる処とも云ふべきであろうか此(この)点(てん)がドウ見(み)ても両雄(れうゆう)の性格(せいかく)を丸出(まるだ)しにして居(を)るように思(おも)は
るゝのである
サテ此(この)於義丸(おぎまる)に対(たい)して秀吉(ひでよし)は羽柴氏(はしばし)を称(せう)せしめ名(な)を秀康(ひでやす)と命(めい)じ頗(すこぶ)る優遇(ゆうぐう)したのであるが両雄(れうゆう)の間(あひだ)には
ドウもまだ融和(ゆうわ)せざる処があつて家康(いへやす)は敢(あへ)て膝(ひざ)を屈(くつ)して大坂(おほさか)至(いた)らず又(ま)た秀吉(ひでよし)が浜松(はままつ)に出掛(でか)けて来(く)る
ような筈(はづ)もなく双方(そうほう)共(とも)に腹(はら)と腹(はら)とで睨(にら)め合(あ)つて居(を)ると云ふ形勢(けいせい)であつたが其(その)間(あひだ)に秀吉(ひでよし)は北陸(ほくりく)及(およ)び中国(ちうごく)
四国(しこく)を定(さだ)め関白(くわんぱく)に任(にん)せられて位(くらゐ)は従(じう)一 位(ゐ)の高(たか)きに至(いた)つたのであるトコロが家康(いへやす)は信州(しんしう)に真田昌幸(さなだまさゆき)の反(はん)
抗(こう)などの事はあつたが一 方(ぽう)には益(ます〳〵)北條氏(ほうでうし)と懇親(こんしん)を重(かさ)ねて秀吉(ひでよし)を防御(ばうぎよ)するだけの策(さく)は立(た)てゝ居(を)つたの
で其(その)威望(ゐばう)東海(とうかい)を圧(あつ)し容易(ようい)に秀吉(ひでよし)に下(くだ)らぬので秀吉(ひでよし)はドウカして之(これ)を服従(ふくじう)せしめたいと云ふので之(これ)には
余程(よほど)苦(くるし)むだ様子(ようし)で之(これ)は私(わ)が申述(もうしの)べずとも諸君(しよくん)のよく御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふが遂(つひ)に家康(いへやす)をして大坂(おほさか)に
《割書:豊臣徳川二|氏の婚約》 至(いた)らしむる一 策(さく)として其(その)妹(いもと)を家康(いへやす)に嫁(か)する事にしたいと云ふので天正十四年二月廿二日 使者(ししや)羽柴雄親(はしばたけちか)
土方雄久(ひぢかたたけひさ)の両人(れうにん)は先(ま)づ此(この)吉田(よしだ)に来(きた)つて酒井忠次(さかゐたゞつぐ)に面(めん)して此(この)事(こと)を談(だん)じそれより忠次(たゞつぐ)も共(とも)に浜松(はままつ)に至(いた)つて
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
《割書:豊臣氏吉田|に滞在す》 熟談(じゆくだん)した結果(けつくわ)婚約(こんやく)が成(な)つたのである而(しか)して其(その)年(とし)の四月十四日に浜松(はままつ)へ入輿(にうよ)があつたが十一日に三 河(かは)の
西野(にしの)まで忠次(たゞつぐ)の子(こ)の家次(いへつぐ)が迎(むかひ)に出(い)て輿(こし)を請取(うけと)つたのである十二日には即(すなは)ち此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)されて十三日は
滞在(たいざい)されたのであるが此(この)時(とき)忠次(たゞつぐ)は其(その)一 行(こう)を饗(けう)したのである其(その)時(とき)随行(ずいこう)して来(き)た人々(ひと〳〵)並(ならび)に其(その)宿所(しゆくしよ)などに関(くわん)
し家忠日記(いへたゞにつき)には左(さ)の如(ごと)く記(しる)してある
十二日丙午 御輿吉田迄御着候吉田にて酒左馬寄之国衆上方尾州衆振舞候浅野弥兵衛と奥平九八郎
富田平右衛門は野田西郷瀧川喜太夫は下形の原伊藤太郎左衛門は深溝五井小田源吾殿瀧川三郎兵は
二連木飯田半兵衛は設楽也女房衆は酒左衛門也いづれも金銀の仕立や伊藤殿太刀折紙杉原二束下さ
れ候此方よりは太刀折紙計進し候伊藤殿宿は戸田左門所也
即(すなは)ち此(この)時(とき)は浅野長政(あさのながまさ)が一 行(こう)を監督(かんとく)して来(き)たのである此(かく)の如(ごと)く豊臣(とよとみ)徳川(とくがは)二 氏(し)は姻戚関係(ゐんせきくわんけい)が出来(でき)たのであ
《割書:大政所岡崎|に来る》 るが家康(いへやす)は尚(なほ)容易(ようい)に大坂(おほさか)に出向(しゆつこう)がないので秀吉(ひでよし)は益(ます〳〵)苦心(くしん)して遂(つひ)に其(その)母(はゝ)大政所(おほまんどころ)をして其(その)娘(むすめ)面会(めんくわい)の為(ため)
と言(い)ふ事で岡崎(をかざき)に至(いた)らしめたので言(い)はゞ質(しち)のような訳(わけ)であつたのであるが其(そ)の上(うへ)で更(さら)に家康(いへやす)の出頭(しゆつとう)を
家康の上洛 促(うなが)したのであるから家康(いへやす)もイヨ〳〵決心(けつしん)して十月十四日を以(もつ)て浜松(はままつ)を発(はつ)し初(はじ)めて上洛(ぜうらく)の途(と)に就(つ)いたの
である然(しか)るに此(この)時(とき)徳川家(とくがはけ)の重臣(じゆうしん)と云ふものは孰(いづ)れも之(これ)を危(あやぶ)むだもので或(あるひ)は家康(いへやす)が大坂(おほさか)に入(い)つたならば
《割書:酒井忠次の|意見》 暗殺(あんさつ)でもされはしまいかと心配(しんぱい)した様子(ようす)である酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は最(もつと)も其(その)上洛(ぜうらく)を不可(ふか)とした論者(ろんしや)であつたよう
に見(み)ゆるが三 河物語(かはものがたり)に左(さ)の記事(きじ)がある
坂井左衛門尉(さかゐさゑもんじよう)被申(もうされ)けるは御上洛(ごぜうらく)之(の)儀共(ぎども)さりとはゆわれざる思召(おぼしめし)立(たて)にて御座候(ござそろ)兎角(とかく)に思召(おぼしめし)とゞまら
せ給(たま)へ御手(おんて)ぎれに罷(まかり)成申(なりもうす)共(とも)兎角(とかく)に御上洛(ごぜうらく)之(の)儀(ぎ)はふんべつに及不申候(およびもうさずそろ)何(なん)と御座候(ござそうら)へても今度(このたび)の御上(ごぜう)
洛(らく)は是非共(ぜひとも)に思召(おぼしめし)とゞまらせられ可被成(なされべく)と各々(おの〳〵)もしきつて申上(もうしあげ)給(たま)へば左衛門尉(さゑもんじよう)を初(はじ)め各々(おの〳〵)は何(なん)
【欄外】
豊橋市史談 (秀吉と信雄家康の媾和) 百五十一
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次の退隠) 百五十二
【本文】
左様(さよう)には申(もうす)ぞ我(われ)一 人(にん)腹(はら)を切(きつ)てばんみんをたすけべし我(わ)が上洛(ぜうらく)せずむば手(て)ぎれ可有(あるべく)然共(しかれども)百万 騎(き)にて寄(よせ)
くる共(とも)一合戦(ひとかつせん)にて打(うつ)はたすべけれ共(ども)陣(ぢん)のならいはさもなきものなり我(われ)一 人(にん)の覚悟(かくご)を以(もつ)て民百姓(たみひやくせう)諸(しよ)
侍(さむらひ)共(ども)を山野(さんや)にはめて殺(ころ)すならば其(その)もうれいのおもわくもおそろしき我(われ)一 人(にん)腹(はら)を切(きる)ならば諸人(しよにん)の命(いのち)
たすけおくべし其(その)方(ほう)なども必(かなら)ず何(なに)かの義(ぎ)不申共(もうさずとも)わひ事(こと)をして諸人(しよにん)の命(いのち)を助(たす)けおけと被仰(あふせられ)ければ左衛(さゑ)
門尉(もんじよう)も左様(さよう)にも思召(おぼしめし)に付(つい)ては御尤(ごもつとも)なり御上洛(ごぜうらく)可被成(なされべく)之(の)由(よし)申被上(もうしあげられ)けるをさすがにおとなの御返事(ごへんじ)には
にあひたりと申(もうし)ける
家康の決心 之(これ)で見(み)ると実(じつ)に家康(いへやす)の決心(けつしん)と云ふものは立派(りつぱ)なもので何(なん)とも敬服(けいふく)の外(ほか)はないのであるが結局(けつきよく)前(まへ)にも申(もうし)
述(の)べた如(ごと)く家康(いへやす)は遂(つひ)に上洛(ぜうらく)と決(けつ)して其(その)月(つき)の廿六日に大坂(おほさか)に着(ちやく)し更(さら)に秀吉(ひでよし)と共(とも)に京都(けうと)に出(い)でゝ大(だい)なる優(ゆう)
遇(ぐう)を受(う)けたのであるが此(この)時(とき)家康(いへやす)は志(こゝろざし)を屈(くつ)して秀吉(ひでよし)の為(ため)に一 歩(ぽ)を譲(ゆづ)つたのである蓋(けだ)し前(まへ)にも申述(もうしの)ぶる
通(とほ)り此処(ここ)が両雄(れうゆう)の性格(せいかく)を現(あら)はして居(を)る処(ところ)で若(も)しも此(この)時(とき)家康(いへやす)が何処(どこ)迄(まで)も硬骨(こうこつ)であつて上洛(ぜうらく)せなかつたな
らば其(その)結果(けつくわ)は如何(いかゞ)であつたであろうか徳川氏(とくがはし)の将士(せうし)は武骨(ぶこつ)一 偏(ぺん)で云(い)はゞ世間(せけん)狭(せま)い処(ところ)がある豊臣氏(とよとみし)の方(ほう)
は中々(なか〳〵)宏量(くわうれう)大度(たいど)で広(ひろ)く天下(てんか)の大勢(たいせい)に通(つう)じて居(を)る処(ところ)はあるがさりとてまだ種々(しゆ〴〵)なる事情(じぜう)が周囲(しうゐ)に蟠(わだかま)つ
て居(を)るので根本的(こんぽんてき)に徳川氏(とくがはし)を打(う)ち破(やぶ)ると云ふが如(ごと)き事は容易(ようい)でない或(あるひ)は徳川氏(とくがはし)仆(たふ)るゝか豊臣氏(とよとみし)破(やぶ)るゝ
か何(いづ)れにしても天下(てんか)は再(ふたゝ)び一 擾乱(ぜうらん)を醸(かも)した事と思(おも)ふのである此処(ここ)等(ら)の事情(じぜう)から両氏(れうし)の関係(くわんけい)を討究(とうきう)する
のは歴史上(れきしぜう)最(もつと)も趣味(しゆみ)のあることではあるまいかと思(おも)ふが余(あま)り長(なが)くなる事でもあるから此(この)話(はなし)は先(ま)づ此処(ここ)ら
で止(とゞ)めたいと思(おも)ふ
⦿酒井忠次の退隠
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百六号附録 ( 明治四十四年十一月七日発行 )
【本文】
サテ家康(いへやす)が上洛(ぜうらく)して之(これ)が却(かへつ)て豊臣氏(とよとみし)との間(あひだ)に長(なが)く和親(わしん)を固(かた)むるの原因(げんゐん)となつた事は前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)
くであるが併(しか)し其(その)上洛(ぜうらく)に当(あたつ)ては徳川氏(とくがはし)は頗(すこぶ)る大決心(たいけつしん)を以(もつ)てしたものでイヨ〳〵上洛(ぜうらく)すると云ふ前(まへ)には
尚(な)ほ一 層(そう)東(ひがし)北條氏(ほうでうし)との間(あひだ)に懇親(こんしん)を温(あたゝ)めて置(お)く必要(ひつえう)があると云ふので天正十四年三月 家康(いへやす)は態々(わざ〳〵)自身(じしん)に
惣河原の宴 北條氏(ほうでうし)の領地(れうち)なる伊豆(いづ)の三島(みしま)まで出張(しゆつてう)して北條氏政(ほうでううぢまさ)と会見(くわいけん)したのであつたが其(その)時(とき)惣河原(そうがはら)と云ふ処で酒(しゆ)
宴(えん)があつて其(その)席上(せきぜう)で酒井忠次(さかゐたゞつぐ)は戯(たはむれ)に舞(まひ)を舞(ま)ひそれがタイソウ氏政(うぢまさ)の気(き)に入(い)つて悦(よろこ)ばれたと云ふ話(はなし)が
《割書:家康忠次の|邸に猿楽を》 ある之(これ)は只(た)だ忠次(たゞつぐ)の履歴(りれき)として御話(おはなし)する丈(だけ)の事であるが又(ま)た其(その)翌年(よくねん)の天正十五年十一月十五日には家(いへ)
《割書:見る | 》 康(やす)が忠次(たゞつぐ)の邸(てい)に臨(のぞ)み終日(しうじつ)猿楽(さるがく)の催(もよほし)があつて家康(いへやす)も歓(くわん)を尽(つく)して皈(かへ)つたと云ふ事である然(しか)るに其(その)又(ま)た翌(よく)
忠次退隠 の天正十六年十月に至(いた)つて忠次(たゞつぐ)は遂(つひ)に退隠(たいゐん)して嫡子(ちやくし)家次(いへつぐ)に家督(かとく)を譲(ゆづ)つたのである其(その)家督(かとく)相続(さうぞく)の時(とき)の事
が矢張(やはり)家忠日記(いへたゞにつき)に書(か)いてあるが甚(はなは)だ味(あぢは)ふべき節(ふし)があると思(おも)ふから左(さ)に抄録(しようろく)する
五日 乙酉(きのととり)吉田(よしだ)酒井左衛門尉(さかゐさゑもんじよう)隠居(ゐんきよ)宮内(くない)家督(かとく)祝言(しゆうげん)に吉田(よしだ)へ越(こ)し候 宮内所(くないところ)に振舞(ふるまひ)候(そろ)城(しろ)へ三百 疋(ぴき)樽(たる)肴(さかな)隠居(ゐんきよ)へ
百疋 樽(たる)肴(さかな)
《割書:忠次薙髪し|て一智と号》 右(みぎ)の内(うち)に宮内(くない)とあるのは家次(いへつぐ)の事であるが忠次(たゞつぐ)はそれより薙髪(ちはつ)して一 智(ち)と号(ごう)し京都(けうと)桜井(さくらゐ)の邸(てい)に住(ぢう)して
《割書:す |忠次卒す》 慶長(けいてう)元年十月廿八日 天寿(てんじゆ)を以(もつ)て其(その)地(ち)に於(おい)て卒(そつ)した年(とし)は七十歳で(《割書:一に七十二歳となす今寛|政重修諸家譜等に従ふ》)法名(ほうみよう)を天誉高月縁(てんよかうげつゑん)
心先求院(しんせんきうゐん)と称(せう)して知恩院(ちおんゐん)に葬(ほうむ)つたのである蓋(けだ)し其(その)桜井(さくらゐ)の邸(てい)と云ふのは忠次(たゞつぐ)が家康(いへやす)の上洛(ぜうらく)に従(したが)つた時(とき)秀(ひで)
吉(よし)の与(あた)へたもので其(その)時(とき)には秀吉(ひでよし)から家康(いへやす)に邸宅(ていたく)を贈(おく)り又(ま)た湯沐(とうもく)の邑(ゆう)として近江国(あふみのくに)守山(もりやま)附近(ふきん)で三万石の
地(ち)を贈(おく)つたのであるが忠次(たゞつぐ)には此(この)桜井(さくらゐ)の邸(やしき)と矢張(やはり)近江(あふみ)で千石 許(ばかり)の地(ち)を与(あた)へたのである而(しか)して前(まへ)にも申(もうし)
述(の)べて置(お)いた如(ごと)く此(この)忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)と云ふのは碓井姫(うすゐひめ)後(のち)に光樹夫人(くわうじゆふじん)と云ふので松平清康(まつだひらきよやす)の女(じよ)であるが即(すなは)ち
《割書:光樹夫人の|卒年月日》 家康(いへやす)から云ふと叔母(おば)に当(あた)るのである此(この)人(ひと)も頗(すこぶ)る長寿(てうじゆ)で慶長(けいてう)十七年十一月廿七日に卒(そつ)し法名(ほうみよう)は九 心窓月(しんそうげつ)
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次の退隠) 百五十三
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次の退隠) 百五十四
【本文】
三 河国(かはのくに)額田郡(ぬかたぐん)の法蔵寺(ほうぞうじ)に葬(ほうむ)つたのであるモツトモ此(この)人(ひと)が卒(そつ)した月日に就(つい)ては十月の十七日であると云
ふ説(せつ)があるが寛政重修諸家譜(かんせいじゆうしうしよかふ)などには前(まへ)の説(せつ)を採(と)つてあるのである
忠次と吉田 ソコで此(この)忠次(たゞつぐ)と豊橋(とよはし)即(すなは)ち吉田(よしだ)との関係(くわんけい)であるが之(これ)は前(まへ)にも段々(だん〴〵)と章(せう)を重(かさ)ねて申述(もうしの)べた通(とほ)りの次第(しだい)で永
禄八年 忠次(たゞつぐ)が年(とし)三十九でこの此(この)地(ち)の城主(じようしゆ)となつてから天正十六年の退隠(たいゐん)までは其(その)間(あひだ)約(やく)二十四年で忠次(たゞつぐ)が三
方(かた)ケ原(はら)長篠(ながしの)などの戦役(せんえき)を初(はじ)め大小(だいせう)幾多(いくた)の戦(たゝかひ)にイツモ東(ひがし)三 河(かは)の諸将(しよせう)を統率(とうそつ)して参加(さんか)した事は御承知(ごせうち)の
如(ごと)くであるが其(その)頃(ころ)は家康(いへやす)の命(めい)によつて東(ひがし)三 河(かは)の旗頭(はたがしら)となつて居(を)つたので東三河の諸将(しよせう)へ号令(ごうれい)を伝(つた)ゆる
には必(かなら)ず忠次(たゞつぐ)からなしたのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから都会(とくわい)としての吉田(よしだ)の地(ち)も自然(しぜん)東三河の中心(ちうしん)
となつたので漸々(ぜん〳〵)と発達(はつたつ)したものであるが前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)く里村紹破巴(りそんせうは)の記行(きこう)などは頗(すこぶ)る参(さん)
考(こう)となるべきものであると思(おも)ふ其(その)後(のち)信長(のぶなが)の宿泊(しゆくはく)した時(とき)の事情(じぜう)又(また)は家康(いへやす)の夫人(ふじん)豊臣氏(とよとみし)入輿(にふよ)の時(とき)の模様(もよう)な
どから推測(すいそく)しても当時(とうじ)の城郭(じようくわく)と云ふものも相当(さうとう)の規模(きぼ)をなして居(を)つたに相違(さうゐ)ないと信(しん)ぜらるゝので
ある而(しか)して忠次(たゞつぐ)は入城(にふじよう)後(ご)此(この)吉田(よしだ)の市街(しがい)を整理(せいり)したもので豊河(とよかは)の橋(はし)と云ふものも初(はじ)めて忠次(たゞつぐ)が今(いま)の関屋(せきや)
の辺(へん)から対岸(たいがん)へ架(か)したものであるが当時(とうじ)は土橋(どばし)であつたと云ふ事も之(こ)れ亦(ま)た前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)
《割書:東観音寺文|書》 くであるが此(この)豊橋(とよはし)近傍(きんばう)に遺(のこ)つて居(を)る忠次(たゞつぐ)の文書(ぶんしよ)では渥美郡(あつみぐん)小松原(こまつばら)東観音寺(ひがしくわんおんじ)に永禄八年七月五日付の制(せい)
普門寺文書 札(さつ)並(ならび)に雲(う)の谷(や)の普門寺(ふもんじ)に天正十三年六月廿五日付の制札(せいさつ)があるが之(これ)には孰(いづ)れも花押(くわおう)があつて其(その)文字(もんじ)の
形態(けいたい)は何(なん)となく謹慎(きんしん)に見(み)ゆる中(なか)に延び〳〵とした処(ところ)があつて如何(いか)にも其(その)人物(じんぶつ)の幾分(いくぶん)を現(あら)はして居(を)るよ
うに思(おも)はるゝのであるモツトモ忠次(たゞつぐ)の経歴(けいれき)に就(つい)ては之(これ)迄(まで)段々(だん〴〵)申述(もうしの)べた話(はなし)の中(なか)で御承知(ごせうち)の事と思(おも)ふが此(この)
忠次と家康 人(ひと)は元来(がんらい)智勇兼備(ちゆうけんび)で而(しか)も其(その)遣(や)り口(くち)の或点(あるてん)は大(おほい)に家康(いへやす)に似(に)て居(を)る処があると思(おも)ふ蓋(けだ)し家康(いへやす)青年時代(せいねんじだい)の動(どう)
作(さ)は却(かへつ)て多(おほ)く忠次(たゞつぐ)の謀策(ちうさく)から出(い)でたものが多(おほ)くはなかろうかと思(おも)ふのであるが特(とく)に忠次(たゞつぐ)は毎戦(まいせん)必(かなら)ず家(いへ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
康(やす)に従(したが)つたもので家康(いへやす)が進(すゝ)もふと云へば忠次(たゞつぐ)か抑(おさ)へ忠次(たゞつぐ)が進(すゝ)もふと云へば家康(いへやす)が抑(おさ)ゆると云ふ工合(ぐあひ)に
互(たがひ)に軽挙(けいきよ)を戒(いまし)めて慎重(しんちよう)に慎重(しんちよう)を重(かさ)ねた形(かたち)がある即(すなは)ち大事(だいじ)の上(うへ)にも大事(だいじ)を取(と)つて急進(きうしん)せなかつた徳川流(とくがはりう)
の筆法(ひつほう)と云ふものは誠(まこと)に此(この)忠次(たゞつぐ)の人物(じんぶつ)に於(おい)て見(み)るような心地(こゝち)がするのであるソウカと云ふて忠次(たゞつぐ)は又(また)
決(けつ)して引込(ひきこ)み思案(しあん)の人(ひと)ではない一 朝(てう)機(き)の熟(じゆく)するを見込(みこ)むか又(ま)た止(やむ)を得(え)ざるに出(い)づる場合(ばあひ)は所謂(いはゆる)勇猛(ゆうもう)奮(ふん)
進(しん)の態度(たいど)で実(じつ)に其(その)武勇(ぶゆう)を現(あら)はして居(を)るのである勿論(もちろん)中年(ちうねん)以後(いご)の家康(いへやす)は頗(すこぶ)る甲州流(かうしうりう)の兵法(へいがく)に学(まな)ぶ所(ところ)があ
り又(ま)た段々(だん〳〵)老練(らうれん)の功(こう)を積(つ)むだので自(みづか)ら計画(けいくわく)判断(はんだん)した事が多(おほ)かつたのであるが其(その)以前(いぜん)の事に至(いた)つては此(この)
忠次(たゞつぐ)の力(ちから)が頗(すこぶ)る与(あづか)つて居(を)る事と思(おも)ふモツトモ忠次(たゞつぐ)以外(いぐわい)にも家康(いへやす)には智勇(ちゆう)の将士(せうし)が多(おほ)かつたのでそれ等(ら)
の力(ちから)によつた事も亦(ま)た決(けつ)して少(すくな)くはないのであるが私(わたくし)は常(つね)に徳川氏(とくがはし)が後(おく)れて天下(てんか)を取(と)るに至(いた)つた所以(ゆゑん)
又(ま)たそれが却(かへつ)て長(なが)く持続(じぞく)した所以(ゆゑん)であると云ふことを思(おも)ふ毎(つね)に其(その)因(よつ)て来(きた)る所(ところ)には無論(むろん)徳川氏(とくがはし)代々(だい〳〵)の修養(しうやう)
と云ふものゝあつた結果(けつくわ)ではあるが又(また)以(もつ)て家康(いへやす)青年時代(せいねんじだい)に忠次(たゞつぐ)等(ら)の輔翼(ほよく)が大(おほい)に源(みなもと)をなして居(を)るもの
であると思(おも)ふのである従(したがつ)て家康(いへやす)の研究(けんきう)に方(あた)つては此(この)忠次(たゞつぐ)に関(くわん)する調査(てうさ)と云ふものが最(もつと)も等閑(なほざり)になら
ぬ大切(たいせつ)な事ではあるまいかと思(おも)ふのである然(しか)るに今(いま)此(この)地(ち)に忠次(たゞつぐ)の施設(せせつ)した事物(じぶつ)に就(つい)て一二の外(ほか)具体的(ぐたいてき)
に遺(のこ)つて居(を)るものがなく其(その)委細(ゐさい)を知(し)る事の出来(でき)ぬのは誠(まこと)に遺憾(ゐかん)に堪(た)へぬのである
酒井家次 ソコで家次(いへつぐ)の話(はなし)であるが家次(いへつぐ)は初(はじ)め小五郎と云(いつ)て忠次(たゞつぐ)の嫡子(ちやくし)であるが母(はゝ)は即(すなは)ち光樹夫人(くわうじゆふじん)で永禄七年の
生(うまれ)である天正三年 長篠(ながしの)の役(えき)には年(とし)十二で父(ちゝ)に従(したがつ)て出陣(しゆつぢん)したと云ふ事であるが仝十六年十月に父(ちゝ)の後(あと)
を襲(つ)ゐで此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)となり十七年十一月廿九日 従(じゆ)五 位(ゐ)下(げ)宮内(くない)大輔(たゆう)に叙任(ぢよにん)せられたのであるが其(その)翌(よく)十
八年には御承知(ごせうち)の小田原役(おだはらえき)が起(おこ)つたのであるから此処(こゝ)には其(その)事(こと)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)く必要(ひつえう)がある
と思(おも)ふ
【欄外】
豊橋市史談 (酒井忠次の退隠) 百五十五
【欄外】
豊橋市史談 (小田原役) 百五十六
【本文】
⦿小田原役
サテ前章(ぜんせう)に述(の)べた如(ごと)く豊臣秀吉(とよとみひでよし)は徳川家康(とくがはいへやす)と和(わ)したのみならず其(その)後(のち)北陸地方(ほくりくちほう)は勿論(もちろん)四 国(こく)九 州(しう)をも次第(しだい)
に征略(せいりやく)して其(その)勢(いきほひ)は殆(ほとん)ど日本(にほん)六十 余州(よしう)を配下(はいか)たらしめむとし天正十五年には京都(けうと)聚楽(じゆらく)の邸(やしき)も出来上(できあが)つ
て其(その)翌年(よくねん)四月には時(とき)の天子(てんし)が行幸(ぎようこう)給(たまは)つたと云ふ訳(わけ)であつたが只(た)だ関東(くわんとう)八 州(しう)と奥羽(おうう)二 州(しう)は未(いま)だ秀吉(ひでよし)の
武(ぶ)を用(もち)ゆるに至(いた)らなかつたのである勿論(もちろん)此(この)関東(くわんとう)八 州(しう)の大略(たいりやく)は北條氏(ほうでうし)の割拠(かつきよ)する処で氏政(うぢまさ)並(ならび)に其(その)子(こ)氏直(うぢなを)
は小田原(をだはら)に鎮(ちん)して兎(と)に角(かく)一 方(ぽう)に覇(は)を称(せう)して居(を)つたのであるが之(これ)より先(さ)き徳川家康(とくがはいへやす)が天正十年十月に北(ほう)
真田昌幸 條氏(でうし)と媾和(こうわ)した時(とき)家康(いへやす)は信州(しんしう)を取(と)り北條氏(ほうでうし)は上野(こうづけ)の利根(とね)、 吾妻(あづま)二 郡(ぐん)を取(と)る事を約(やく)したのであるが此(この)時(とき)
上州(ぜうしう)沼田(ぬまた)の城(しろ)は信州(しんしう)上田(うへだ)の城主(じようしゆ)真田昌幸(さなだまさゆき)の領(れう)であつたが此(この)人(ひと)は頗(すこぶ)る驍勇(けうゆう)で容易(ようい)に家康(いへやす)の命(めい)を聴(き)いて之(これ)
を北條氏(ほうでうし)に明(あ)け渡(わた)さないので家康(いへやす)及(およ)び北條氏(ほうでうし)は共(とも)に兵(へい)を沼田(ぬまた)並(ならび)に上田(うへだ)に出(いだ)して昌幸(まさゆき)を攻(せ)めたが志(こゝろざし)を
得(う)ることが出来(でき)なかつたのである余義(よぎ)なくいしは其(その)侭(まゝ)になつて居(を)つたのであるが秀吉(ひでよし)がイヨ〳〵四 海(かい)を
圧(あつ)するの勢(いきほひ)を得(え)た処で是非(ぜひ)北條氏(ほうでうし)をも服従(ふくじう)せしめたいものであると云ふ処から最初(さいしよ)は先(ま)づ家康(いへやす)によつ
て北條氏(ほうでうし)に上洛(ぜうらく)するように説(と)かしめたのであるが御承知(ごせうち)の通(とほ)り家康(いへやす)の娘(むすめ)督姫(とくひめ)は北條氏直(ほうでううぢなを)の室(しつ)であるの
だから其(その)姻戚関係(ゐんせきくわんけい)の上(うへ)に於(おい)て家康(いへやす)も其(その)利(り)なる所以(ゆえん)を通(つう)じたのであるが氏政(うぢまさ)氏直(うぎなを)は之(これ)に応(おう)ぜないので天
《割書:北條氏上洛|を肯せず》 正十六年 閏(うるふ)五月 秀吉(ひでよし)は更(さら)に相国(さうこく)妙壽院(みようじゆゐん)惺窩(せいくわ)を遣(つか)はして諭(さと)さしめたのである然(しか)るに氏直(うぢなを)はだ上京(ぜうけう)せない
のみならずヨウ〳〵北條氏規(ほうでううぢのり)を西上(せぜう)せしめたが併(しか)し前(まへ)に申述(もうしの)べた沼田(ぬまた)の地(ち)を是非(ぜひ)己(おの)れに返(かへ)して貰(もら)ひた
《割書:秀吉昌幸を|して沼田を》 いと云ふ事を秀吉(ひでよし)に要求(えうきう)し其(その)地(ち)を返(か)して呉(く)れるならば上京(ぜうけう)もしましうと云ふ事を申込(もうしこ)むだのであるソ
《割書:北條氏に致|さしむ》 コで秀吉(ひでよし)は段々(だん〳〵)事情(じぜう)を調査(てうさ)した上(うへ)で其(その)翌(よく)天正十七年 遂(つひ)に昌幸(まさゆき)に命(めい)じて沼田領(ぬまたれう)の内(うち)其(その)墳墓(ふんぼ)の地(ち)奈胡(なくる)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百十一号附録 ( 明治四十四年十一月十四日発行 )
【本文】
桃(み)と云ふ処(ところ)丈(だけ)を残(のこ)して其(その)余(よ)は之(これ)を北條氏(ほうでうし)に差出(さしいだ)さしめたのであるコーなつて見(み)ると氏直(うぢなを)はモーどうし
《割書:氏直約に叛|く》 ても上京(ぜうけう)せねばならぬ訳(わけ)になつたのであるが其(その)十二月には屹度(きつと)上洛(ぜうらく)しますと云ふことを約(やく)して置(お)きなが
ら之(これ)を無視(むし)したのみならず奈胡桃(なくるみ)の地(ち)までも不意(ふい)に兵(へい)を出(いだ)して横領(わうれう)したのである此(こゝ)に至(いた)つて遂(つひ)に秀吉(ひでよし)
の怒(いかり)に触(ふ)れたので結局(けつきよく)小田原征伐(おたはらせいばつ)の事は起(おこ)つたのであるが実(じつ)は氏政(うぢまさ)氏直(うぢなを)は久(ひさ)しく関東(くわんとう)八 州(しう)の小天地(せうてんち)に
《割書:氏政氏直天|下の大勢に》 のみ割拠(かつきよ)して群雄(ぐんゆう)を凌駕(れうが)し全(まつた)く天下(てんか)の大勢(たいせい)に通(つう)ぜざる処から所謂(いはゆる)世間(せけん)見(み)ずの蛮勇(ばんゆう)で尊傲(そんごう)自(みづか)ら諮(はか)らず遂(つひ)
《割書:通ぜず | 》 に其(その)家(いへ)をも身(み)をも亡(ほろぼ)すに至(いた)つたのは返(かへ)す〳〵も気(き)の毒(どく)の次第(しだい)である而(しか)して家康(いへやす)は初(はじ)め秀吉(ひでよし)と対抗(たいこう)する
に方(あた)つては後顧(こうこ)の患(うれひ)を除(のぞ)く必要(ひつえう)から北條氏(ほうでうし)と相和(あひわ)したのであるが時世(じせい)の推移(すゐい)は其(その)関係(くわんけい)にも次第(しだい)に変化(へんくわ)
を来(きた)したので巳(おの)れは遂(つひ)に秀吉(ひでよし)の妹婿(いもとむこ)となり次(つい)で上洛(ぜうらく)した結果(けつくわ)は却(かへつ)て両氏(れうし)の間(あひだ)に堅固(けんご)なる攻守同盟(こうしゆどうめい)が出(で)
来(き)たのである然(しか)るに氏政(うぢまさ)氏直(うぢなを)は尚(な)ほ時勢(じせい)を達観(たつくわん)する事(こと)能(あた)はず我(われ)には箱根(はこね)碓井(うすゐ)の険(けん)あり秀吉(ひでよし)何(なに)をか能(よ)く
なすものぞと家康(いへやす)から再(さい)三の忠告(ちうこく)があつても之(これ)を耳(みゝ)にも入(い)れなかつたのであるが今度(このたび)イヨ〳〵秀吉(ひでよし)か
ら書面(しよめん)によつて家康(いへやす)は天正十七年十一月廿九日 駿府(すんぷ)を発(はつ)して又々(また〳〵)大坂(おほさか)に向(むか)つたので初(はじ)めて北條氏(ほうでうし)に於(おい)
ては狼狽(ろうばい)を極(きはむ)るに至(いた)つたがソレでも尚(な)ほ自(みづか)ら上洛(ぜうらく)する事をなさぬので遂(つひ)に敵兵(てきへい)をして城下(じようか)に侵入(しんにふ)せし
むるに至(いた)つた次第(しだい)である
併(しか)し乍(なが)ら又(ま)た一 方(ぱう)から考(かんが)へて見(み)れば此(この)時(とき)の行掛(ゆきがゝり)と云(い)ふものはドウしても遂(つひ)に北條氏(ほうでうし)をして戦(たゝか)ふより外(ほか)
には仕方(しかた)のない事に至(いた)らしめたので云はゞ北條氏(ほうでうし)に於(おい)ても男(おとこ)の意気地(いきぢ)で余義(よぎ)なくされた処がある此(この)点(てん)
は実(じつ)に同情(どうぜう)すべき処で私(わたくし)は頗(すこぶ)る此(この)男(おとこ)らしき武士的(ぶしてき)の動作(どうさ)に対(たい)しては北條氏(ほうでうし)の為(ため)に大(おほい)に弁護(べんご)せねばなら
ぬ処であると思(おも)ふ只(た)だ開戦(かいせん)に至(いた)るまでの名分(めいぶん)と云(い)ふものが誠(まこと)に立(た)ち兼(か)ぬるので其(その)上(うへ)父祖(ふそ)の故智(こち)に倣(なら)つ
て只(た)だ〳〵籠城(ろうじよう)の一 点張(てんばり)と極(き)め込(こ)むだのは実(じつ)に蛮勇無智(ばんゆうむち)の形(かたち)があるので慥(たしか)に失敗(しつぱい)の原因(げんゐん)であると信(しん)ず
【欄外】
豊橋市史談 (小田原役) 百五十七
【欄外】
豊橋市史談 (小田原役) 百五十八
【本文】
るのである
サテ家康(いへやす)が大坂(おほさか)に至(いた)つて秀吉(ひでよし)に面会(めんくわい)したのは天正十七年の十二月十日で其(その)途次(とじ)二日に此(この)吉田(よしだ)に一 泊(ぱく)し
たのであるが秀吉(ひでよし)は大(おほい)に家康(いへやす)の来坂(らいはん)を喜(よろこ)むで共(とも)に京都(けうと)に入(い)つて聚楽(しうらく)の邸(やしき)で北條氏(ほうでうし)討伐(とうばつ)の事を評議(ひようぎ)した
のである勿論(もちろん)家康(いへやす)は之(これ)に同意(どうい)したのであるがそれのみならず己(おの)れは前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く北條氏(ほうでうし)とは姻(ゐん)
《割書:家康長丸を|質とす》 戚関係(せきくわんけい)があるのであるから特(とく)に疑(うたがひ)を避(さ)くる為(ため)に其(その)子(こ)長丸(ながまる)(《割書:秀|忠》)を質(しち)とせむとして之(これ)を酒井忠世(さかゐたゞよ)等(ら)に送(おく)
つて早速(さつそく)長丸(ながまる)を京都(けうと)に上(のぼ)らしむる用意(ようい)をせしめたのである然(しか)るに秀吉(ひでよし)は此(この)厳寒(げんかん)の候(こう)に幼児(ようぢ)をして上洛(ぜうらく)
せしむるのは不憫(ふびん)であると云ふので明春(めうしゆん)を俟(ま)つて上洛(ぜうらく)せしむることとなつたが家康(いへやす)は其(その)十二日に皈国(きこく)の
家康の伝令 途(と)に上(のぼ)る事となつたのである此(この)時(とき)酒井家次(さかゐいへつぐ)は家康(いへやす)に随行(ずゐこう)したのであるが命(めい)を受(う)けて小田原征伐(をたはらせいばつ)の時期(じき)
並(ならび)に軍備(ぐんび)に関(くわん)することを国元(くにもと)え伝令(でんれい)したのである其(その)使(つかひ)が東(ひがし)三 河(かは)へは十三日に着(ちやく)したものと見(み)へて家忠日(いへたゞにつ)
記(き)十三日の条(くだり)には左(さ)の如(ごと)く記(しる)されてある
酒井宮内(さかゐくない)より京(けう)よりの御(おん)ふれ相州(さうしう)御陣(ごじん)候事(そうろこと)申来(もうしきたり)候(そうろ)関白様(くわんぱくさま)は明(みよう)三月朔日 尾州(びしう)大府様(おいふさま)は二月五日 家(いへ)
康様(やすさま)は正月廿八日 御出馬(ごしゆつば)之由候(のよしにそうろ)
ソコで家康(いへやす)は十八日に吉田(よしだ)へ着(ちやく)し夫(それ)より駿府(すんぷ)へ皈(かへ)つたのであるがイヨ〳〵出師(しゆつすゐ)準備(じゆんび)に取(とり)かゝつて翌(よく)天
《割書:伊奈備前守|忠次》 正十八年の二月に至(いた)り軍制(ぐんせい)十三 条(でう)を定(さだ)め秀吉(ひでよし)の征討軍(せいとうぐん)が其(その)領内(れうない)を通過(つうくわ)するのであるから伊奈備前守忠(いなびぜんのかみたゞ)
次(つぐ)に命(めい)じて舟梁(せんれう)を富士河(ふじかは)に架(か)せしむるやら其(その)他(た)駿遠参(すんゑんさん)三 国(ごく)に於(お)ける沿道(えんどう)各駅(かくえき)に茶店(ちやみせ)を設(もう)け休憩所(きうけいしよ)とな
さしむるなど用意(ようい)周到(しうとう)であつたが特(とく)に岡崎(をかざき)、 吉田(よしだ)、 浜松(はままつ)、 掛川(かけがは)、 田中(たなか)などの城(しろ)は綺麗(きれい)に掃除(そうぢよ)をして秀(ひで)
吉(よし)の至(いた)るのを待(ま)たしめたのである然(しか)して秀吉(ひでよし)に於(おい)ては天正十七年十二月の十三日に出師(しゆつすゐ)命令(めいれい)を発(はつ)し夫(それ)
より江州(ごうしう)水口(みづぐち)の城主(じようしゆ)長束正家(ながつかまさいへ)をして糧食(れうしよく)の事を司(つかさど)らしめ海路(かいろ)駿河(するが)の清水港(しみづこう)へ輸送(ゆそう)して江尻(えじり)に倉庫(そうこ)を置(お)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
《割書:征討軍の兵|站》 いて征討軍(せいとうぐん)へ兵站部(へいたんぶ)の根拠(こんきよ)となしたのである又(ま)た京都(けうと)の留守居(るすゐ)には毛利輝元(もうりてるもと)を置(お)き大坂(おほさか)は羽柴秀長(はしばひでなが)をし
《割書:豊臣秀長の|兵吉田に駐》 て守(まも)らしめ小早川隆景(こはやかはたかかげ)、 吉川広家(きつかはひろいへ)等(ら)及(およ)び秀長(ひでなが)の兵(へい)をして沿道(えんどう)の諸城(しよじよう)を守(まも)り駅伝(えきでん)兵犓(へいすう)の事を司(つかさど)らしめ
《割書:屯す | 》 たが此(この)吉田城(よしだじよう)には秀長(ひでなが)の兵(へい)が来(きた)つて駐屯(ちうとん)したのである而(しか)して徳川方(とくがはがた)の将士(せうし)は天正十八年二月 家康(いへやす)の命(めい)
によつて駿府(すんぷ)へ集(あつま)つたが松平家忠(まつだひらいへたゞ)は其(その)五日に着(ちやく)し即日(そくじつ)江尻(えじり)まで出陣(しゆつぢん)したのである其(その)翌(よく)六日には家康(いへやす)も
《割書:酒井家次の|従軍》 出発(しゆつぱつ)する筈(はづ)であつたが大雨(たいう)の為(た)め延期(えんき)となつた然(しか)るに先鋒(せんはう)七 将(せう)即(すなは)ち酒井家次(さかゐいへつぐ)、 本多忠勝(ほんだたゞかつ)、 榊原康政(さかきばらやすまさ)、
平岩親吉(ひらいわちかよし)、 鳥居元忠(とりゐもとたゞ)、 大久保忠世(おほくぼたゞよ)、 井伊直正(いゐなをまさ)等(ら)は七日にまだ雨(あめ)の止む(や)まぬのを冒(おか)して江尻(えじり)まで出発(しゆつぱつ)し家(いへ)
康(やす)は十日に至(いた)つて由井(ゆゐ)まで出陣(しゆつぢん)したのであるモツトモ此(この)時(とき)の事について就(つい)ては家忠日記(いへたゞにつき)に詳(くは)しく書(か)いてある
《割書:秀吉の吉田|逗留》 から子細(しさい)に事実(じじつ)を研究(けんきう)する方(かた)はそれを熟覧(じゆくらん)されたいものであると思(おも)ふが尚(な)ほ同日記(どうにつき)に秀吉(ひでよし)は三月の十
日に吉田(よしだ)へ着(ちやく)して其十三日まで逗留(とうりう)された事が記(しる)されてある之(これ)は雨(あめ)の為(ため)に豊川(とよかは)の水(みづ)が汎濫(はんらん)したからで
逗留(とうりう)されたのは今(いま)の下地(しもぢ)であると思(おも)ふが此(この)事(こと)に関(くわん)し徳川実記(とくがはじつき)には左(さ)の記事(きじ)が載(の)つて居(を)るのである
関白(くわんぱく)は十一日に三 河(かは)の吉田川(よしだがは)をおし渡(わた)らんとありし時(とき)この渡場(わたしば)の奉行(ぶぎよう)せし伊奈(いな)といふ男(おとこ)この程(ほど)日数(ひかず)
へし長雨(ながあめ)に川水(かすゐ)いたく水(みづ)かさそいてうづまき流(なが)るれば軍勢(ぐんぜい)をわたされん事かなふべからず今(いま)しばし
此所(こゝ)にとまらせらるべくもやと聞(きこ)えあくる関白(くわんぱく)軍法(ぐんはふ)に前(まへ)に川(かは)あらん時(とき)雨降(あめふ)りて渡(わた)らざれば後(あと)に渡(わた)る
ことを得(え)ずといへり何(なに)かくるしかるべき必(かならず)渡(わた)りなむと仰(あふ)せけるに伊奈(いな)眼(め)に角(かど)をたてこは殿下(てんか)の仰(あふせ)
とも覚(おぼ)えず雨(あめ)をいとはず川(かわ)を渡(わた)すは小軍(せうぐん)の事なり大軍(たいぐん)暴漲(ばうてう)を冒(おか)し川(かは)を渡(わた)らんとすれば人馬(じんば)沈溺(ちんでき)少(すくな)か
るべからず敵(てき)この風説(ふうせつ)を聞(き)かんに十人を百人百人を千人といひつたへ敵(てき)の心(こゝろ)には勇(ゆう)をそへ味方(みかた)には
臆(おく)をまねくものに候はんかといふ関白(くわんぱく)手(て)を拍(う)ちて亜相(あさう)の家(いへ)には賤吏(せんり)といへども皆(みな)軍旅(ぐんりよ)の智識(ちしき)多(おほ)しと
感(かん)じ給(たま)ふ事 大方(おほかた)ならずその諫(いましめ)を用(もち)ひこゝに三日 滞留(たいりう)あり十九日に駿府(すんぷ)につかせらる
【欄外】
豊橋市史談 (小田原役) 百五十九
【欄外】
豊橋市史談 (小田原役) 百六十
【本文】
右(みぎ)の中(なか)で伊奈(いな)とあるのは無論(むろん)伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみたゞつぐ)の事であると思(おも)ふ然(しか)るに武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)には此(この)事(こと)に就(つい)て之(これ)
を伊奈忠政(いなたゞまさ)であると書(か)いてあつて其(その)他(た)一二の書(しよ)にも同様(どうよう)に記(しる)してあるのを見(み)るが忠政(たゞまさ)と云へば忠次(たゞつぐ)の
子(こ)であるので忠次(たゞつぐ)は此(この)年(とし)恰(あたか)も四十歳であるから之(これ)はドウモ忠次(たゞつぐ)となすのが正(たゞし)い事と思(おも)ふのである蓋(けだ)し
忠次(たゞつぐ)は其(その)頃(ころ)熊藏(くまざう)と称(せう)したので備前守(びぜんのかみ)に叙任(ぢよにん)せられたのはズツト後(あと)の事(こと)であるが此(この)人(ひと)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く才(さい)
量(れう)のあつた人で徳川氏(とくがはし)の吏(り)となつて初(はじ)めから省歛開墾(せうれんかいこん)等(とう)の事を司(つかさど)り決断(けつだん)絶倫(ぜつりん)と云はれたのである関(せき)
ケ原(はら)の役(えき)後(ご)慶長六年付で此(この)人(ひと)の名前(なまへ)を署(しよ)した寄附状(きふぜう)だの貢税(こうぜい)などの事を定(さだ)めたものが三四 当市内(とうしない)及(およ)び
近傍(きんばう)に残(のこ)つて居(を)る又(ま)た其(その)前後(ぜんご)のものも余程(よほど)見当(みあた)る事であるが之(これ)等(ら)は孰(いづ)れも当時(とうじ)の民政(みんせい)に関(くわん)する資料(しれう)と
なるものであるから何(いづ)れ其(その)時代(じだい)に就(つい)て申述(もうしのべ)る時(とき)には引用(いんよう)する事があるであろうと思(おも)ふ又(ま)た此(この)人(ひと)は後(のち)に
家康(いへやす)の為(ため)に一万石に取立(とりたて)られ慶長(けいてう)十二年五十七歳で没(ぼつ)したので武州(ぶしう)鴻巣(こうのす)の勝願寺(せうがんじ)と云ふ寺(てら)に葬(ほうむ)つてあ
ると云ふ事である
かくて秀吉(ひでよし)は其(その)十九日に駿府(すんぷ)へ着(ちやく)したのであるが家康(いへやす)は時(とき)に長久保(ながくぼ)の興国寺城(こうこくじじよう)に在(あ)り自(みづか)ら駿府(すんぷ)に皈(かへ)つ
て秀吉(ひでよし)に面会(めんくわい)し饗応(けうおう)をしたのであるそれより秀吉(ひでよし)は廿七日に沼津(ぬまづ)の三 枚橋城(まいばしじよう)に入(い)つて段々(だん〳〵)地理(ちり)を視察(しさつ)
山中城陥る し諸将(しよせう)と相議(あひぎ)して部署(ぶしよ)を定(さだ)めたのであるが此(この)時(とき)北條氏(ほうでうし)に於(おい)ては前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く全(まつた)く退嬰主義(たいゑいしゆぎ)を取(と)
韮山の孤立 つたので箱根(はこね)山中(やまなか)の城(しろ)は直(たゞ)ちに破(やぶ)れ伊豆(いづ)の韮山城(にらやまじよう)のみ独(ひと)り最後(さいご)まで維持(ゐぢ)はしたものゝ全(まつた)く孤立(こりつ)して北(ほう)
《割書:小田原包囲|攻撃》 條氏(でうし)の根拠(こんきよ)たる小田原城(をたはらじよう)は忽(たちま)ちに重囲(ぢうゐ)の内(うち)に陥(おちゐ)つたのである此(この)包囲(はうゐ)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)年(とし)の七月
に及(およ)むだのであるが秀吉(ひでよし)は飽(あく)まで持久(じきう)の策(さく)を設(もう)けたので本営(ほんえい)は石垣山(いしがきやま)に置(お)き長囲(てうゐ)の徒然(とぜん)を慰(なぐさ)むる為(ため)に
根府川(ねふがは)に茶室(ちやしつ)を設(もう)けて茗嘸(みようむ)を楽(たのし)み又(ま)た諸将(しよせう)をして陣中(ぢんちう)に妻妾(さいせう)を招(まね)かしめ自(みづか)らも夫人(ふじん)に書状(しよぜう)を送(おく)りて淀(よど)
君(ぎみ)を寄越(よこ)さしめたと云ふ訳(わけ)で随分(ずゐぶん)気楽(きらく)な城責(しろぜ)めをやつたのである之(これ)より先(さ)き一 方(ぱう)に於(おい)ては小田原(をだはら)の包(はう)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百十七号附録 ( 明治四十四年十一月廿一日発行 )
【本文】
《割書:関東諸城の|攻略》 囲(ゐ)が初(はじ)まると同時(どうじ)に北越(ほくゑつ)及(およ)び信州(しんしう)の兵(へい)は上野(こうづけ)より侵入(しんにふ)して北條氏(ほうでうし)管内(くわんない)の属城(ぞくじよう)を攻(せ)め落(おと)したのであるが
家次の戦功 徳川氏(とくがはし)に於(おい)ても之(これ)等(ら)の諸軍(しよぐん)に応援(おうゑん)する為(ため)に将士(せうし)を其(その)方面(はうめん)に派遣(はけん)したのである藩翰譜(はんかんふ)に拠(よ)ると酒井家次(さかゐいへつぐ)
は此(この)時(とき)長沢(ながさは)仁連木(にれんぎ)の兵(へい)をも率(ひき)ひて先陣(せんぽう)の第一として下野国(しもつけのくに)碓井(うすゐ)の城(しろ)を攻(せ)めて之(これ)を降(くだ)したとしてあるの
である勿論(もちろん)此(この)役(えき)に於(おい)て家次(いへつぐ)が徳川方(とくがはがた)の先鋒(せんぽう)であつた事は前(まへ)に申述(もうしの)べた通(とほ)りで長沢(ながさは)の松平康直(まつだひらやすなほ)、 二連木(にれんぎ)
の松平(まつだひら)(戸田)康長(やすなが)が之(これ)に属(ぞく)し小田原(をだはら)に進(すゝ)み其(その)四月 更(さら)に本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)と共(とも)に上州(ぜうしう)に入(い)つたのであるが惜(おし)む
らくは此(この)碓井(うすゐ)の戦(たゝかひ)に関(くわん)しては外(ほか)に詳録(せうろく)したものを見当(みあた)らぬのである而(しか)して家忠日記(いへたゞにつき)によると五月二日
には家次(いへつぐ)が小田原(をだはら)攻囲(こうゐ)軍(ぐん)の中(なか)に居(を)つた事に見(み)ゆるので且(か)つ其(その)十八日には「酒宮内地城取候」と記(しる)されて
あるが此(この)戦功(せんこう)は果(はた)して何(いづ)れを指(さ)したものであるかまだ十 分(ぶん)なる調査(てうさ)が出来(でき)兼(か)ねて居(を)るが兎(と)に角(かく)此処(こゝ)に
は御参考(ごさんこう)迄(まで)に申述(もうしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである然(しか)るに七月六日に至(いた)つて小田原城(をだはらじよう)もイヨ〳〵開城(かいじよう)する
《割書:氏政等の自|裁氏直高野》 事となつたので氏政(うぢまさ)及(およ)び其(その)弟(おとゝ)氏照(うぢてる)は其(その)十一日 小田原(をだはら)の医師(ゐし)田村長伝(たむらてうでん)の宅(たく)で自裁(じさい)し氏直(うぢなを)は十二日 高野山(かうやさん)
《割書:に放たる | 》 に放(はな)たれて事は落着(らくちやく)するに至(いた)つたのであるが之(これ)等(ら)に関係(くわんけい)の事に就(つい)てはまだ申述(もうしの)ぶべき事も沢山(たくさん)にある
と思(おも)ふ併(しか)し余(あま)り長(なが)くなるのと本市(ほんし)の市史(しし)に直接(ちよくせつ)の必要(ひつえう)がない処から先(ま)づ此処(こゝ)らで省略(せうりやく)するが先年(せんねん)歴史(れきし)
地理学会(ちりがくくわい)で出版(しゆつぱん)せられた戦国時代史論(せんごくじだいしろん)などは其(その)中(なか)に随分(ずゐぶん)参考(さんこう)となるべき事が多(おほ)く記(しる)してあるように思(おも)
ふから或(あるひ)は之(これ)に就(つい)て見(み)らるゝのも強(あなが)ちに無益(むえき)ではなかろうと思(おも)ふのである
⦿徳川氏の関東移封
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べたような次第(しだい)で早雲(さううん)以来(いらい)殆(ほとん)ど一百年の間(あひだ)関東(くわんとう)に雄視(ゆうし)した北條氏(ほうでうし)も遂(つひ)に五 代目(だいめ)の氏直(うぢなを)に
《割書:北條氏の籠|城策》 至(いた)つて滅亡(めつばう)の悲運(ひうん)に遭遇(そうぐう)したのであるが元来(がんらい)籠城(らうじよう)などゝ云ふものは消極的(せうきよくてき)の戦略(せんりやく)で、 之(これ)が何(な)にか後詰(あとづめ)
【欄外】
豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十一
【欄外】
豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十二
【本文】
を待(ま)つとか、 兎(と)に角(かく)一 時(じ)敵軍(てきぐん)を此処(こゝ)に噛留(くいとめ)むればよいとか、 云(い)ふような他(た)に目的(もくてき)のある場合(ばあひ)は相当(さうとう)に
功(こう)を奏(そう)するのであるが外(ほか)に何(な)にも当(あ)てのないのに只(た)だ〳〵籠城(らうじよう)の一 点張(てんば)りは結局(けつきよく)座(ざ)して滅亡(めうばう)を待(ま)つに
外(ほか)ならぬ事となるのである御承知(ごせうち)の通(とほ)り曩(さき)に謙信(けんしん)が小田原(をだはら)に侵入(しんにふ)した時(とき)又(ま)た其(その)後(のち)信玄(しんげん)が来(きた)つた時(とき)は全(まつた)
く今度(このたび)とは事情(じぜう)が違(ちが)ふので之(これ)は孰(いづ)れも北條氏(ほうでうし)が籠城策(らうじようさく)で成功(せいこう)したのであるが其(その)時(とき)は云(い)ふ迄(まで)もなく謙信(けんしん)
信玄(しんげん)共(とも)に其(その)計画(けいくわく)が深(ふか)く敵地(てきち)に侵入(しんにふ)する程(ほど)の仕組(しくみ)でなかつたので、 云(い)はゞ深入(ふかい)りを仕過(しす)ぎたのであるか
ら敵(てき)に籠城(らうじよう)せられても糧食(れうしよく)は続(つゞ)かず後顧(こうこ)の患(うれひ)は益々(ます〳〵)多(おほ)いと云(い)ふので到底(とうてい)長居(ながゐ)は出来(でき)ぬ始末(しまつ)であつたが
今度(このたび)秀吉(ひでよし)は既(すで)に殆(ほとん)ど満天下(まんてんか)を切(き)り従(したが)へ只(た)だ残(のこ)す所(ところ)は関東(くわんとう)と奥羽(おうう)のみであるので更(さら)に後顧(こうこ)の患(うれひ)はないの
みならず上天子(かみてんし)を戴(いたゞ)き天下(てんか)の大軍(たいぐん)に指揮(しき)して押寄(おしよ)せたのであるから云(い)ふ迄(まで)もなく其(その)準備(じゆんび)は十 分(ぶん)である
従(したがつ)て今日(こんにち)となつては到底(とうてい)北條氏(ほうでうし)の籠城(らうじよう)によつて他(た)から急(きふ)に秀吉(ひでよし)の虚(きよ)を窺(うかゞ)ふが如(ごと)きものが出(い)でそうな
事はないのである然(しか)るにソンナ事を当(あて)にして居(を)つたならばそれこそ実(じつ)に空頼(そらだの)みと云(い)ふもので結局(けつきよく)滅亡(めつばう)
の外(ほか)はないと思(おも)ふのであるが独(ひと)り戦争(せんそう)の事のみならず世間(せけん)の事(こと)皆(みな)此(かく)の如(ごと)くならざるはないので歴史研(れきしけん)
究(きう)の趣味(しゆみ)は誠(まこと)に無限(むげん)のものであると信(しん)ずるのである
《割書:家康関東に|移封せらる》 サテ小田原(をだはら)滅亡(めつばう)の後(のち)一 変動(へんどう)とも云ふべきのは徳川氏(とくがはし)の移封(いほう)である独(ひと)り之(これ)は徳川氏(とくがはし)に取(と)つて変動(へんどう)である
のみでなく我(わが)豊橋(とよはし)を初(はじ)め此(この)地方(ちほう)の歴史(れきし)に取(と)つて一 大区画(たいくぐわく)をなすものであると思(おも)ふ即(すなは)ち徳川氏(とくがはし)が今度(このたび)駿(すん)
遠(ゑん)三 甲信(かうしん)の五 国(こく)から関東(くわんとう)八 州(しう)へ移封(いほう)されるに就(つい)ては私(わたくし)が之(こ)れまで長(なが)き間(あひだ)史談(しだん)を継続(けいぞく)して来(き)た中(なか)に段(だん)
段(だん)と申述(もうしの)べた武将(ぶせう)等(ら)も悉(こと〴〵)く同時(どうじ)に此(この)地方(ちほう)と関係(くわんけい)が離(はな)るゝ事(こと)になるのであるから何(なん)だか歴史(れきし)の上(うへ)が新(あらた)に
なるような心持(こゝろもち)がするのである実(じつ)は前(まへ)にも申述(もうしの)ぶるのを漏(もら)したようであるが家康(いへやす)は曩(さき)に駿遠(すんゑん)三三ケ国(こく)の
外(ほか)に甲信(かうしん)二 国(こく)を得(え)たに就(つい)ては其(その)根拠(こんきよ)が浜松(はまゝつ)では都合(つごふ)がよくないと云ふ処から天正十四年の九月 頃(ごろ)より
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
今川氏(いまがはし)の旧居(きうきよ)たる駿河(するが)の府中(ふちう)に移転(いてん)する準備(じゆんび)をして同(どう)十五年には城(しろ)の修築(しうちく)を初(はじ)め其(その)五月 頃(ごろ)には出来上(できあが)
つたと云ふ次第(しだい)で之(これ)を以(もつ)て五ケ国の根拠(こんきよ)としたのである然(しか)るに今度(このたび)イヨ〳〵小田原城(をだはらじよう)滅亡(めつばう)に就(つい)て秀吉(ひでよし)
は家康(いへやす)を封(ほう)ずるに関東(くわんとう)八 州(しう)を以(もつ)てしたので徳川氏(とくがはし)の一 類(るゐ)は此(この)父祖(ふそ)の国(くに)を離(はな)れねばならぬ事となつたの
である之(これ)には徳川方(とくがはがた)に於(おい)ても余程(よほど)弱(よは)つたものと思(おも)はれるのであるか三 河物語(かはものがたり)にも此(この)事(こと)に就(つい)て
又(また)家康(いへやす)は国(くに)かへ可成被(なさるべく)におひては関東(くわんとう)にかへ給(たま)へ、いやに思召(おぼしめさ)が御無用成(ごむようなり)、 何(なん)となり共(とも)御存分(ごぞんぶん)次第(しだい)
と被仰(おほせられ)ければ尤(もつとも)かへ可申(もうしべく)と被仰(おほせられ)て三 河(かは)遠江(とほとふみ)駿河(するが)甲州(かうしう)信濃(しなの)五ケ国(こく)に伊豆(いづ)相模(さがみ)武蔵(むさし)上野(こうづけ)下総(しもをさ)上総(かづさ)六ケ国(こく)
にかへさせられて関東(くわんとう)へ庚寅(かのへとら)の年(とし)うつらせ給(たま)ふ
と書(か)いてある之(これ)で見(み)ると此(この)時(とき)の秀吉(ひでよし)の権幕(けんまく)と云ふものは余程(よほど)エラかつたものと見(み)えるのであるが御承(ごせう)
《割書:織田信雄信|濃に放たる》 知(ち)の如(ごと)く当時(とうじ)織田信雄(をたのぶを)は尾張(おはり)伊勢(いせ)に替(か)ゆるに徳川氏(とくがはし)の旧領(きうれう)駿遠参甲信(すんゑんさんこうしん)の五ケ国(こく)を以(もつ)てせられたのであ
る然(しか)るに之(これ)に不服(ふゝく)を唱(とな)へたので秀吉(ひでよし)は怒(いか)つて直(たゞ)ちに信雄(のぶを)に与(あた)へんと言(い)ふた五ケ国(こく)までも没収(ぼつしう)して之(これ)を
信濃(しなの)に逐(お)つたと云ふ訳(わけ)であるから此(こ)の勢(いきほひ)では家康(いへやす)に対(たい)しても三 河物語(かはものがたり)に書(か)いてある位(くらゐ)の事(こと)は云つた
ものであると思(おも)はれる、トコロがソコは家康(いへやす)である快(こゝろよ)く国替(くにがへ)を承知(せうち)したのみならず根拠地(こんきよち)に就(つい)ては
秀吉(ひでよし)の意見(いけん)を聴(き)いて初(はじ)めて江戸(えど)と定(さだ)めたのであるが其(その)上(うへ)に着々(ちやく〳〵)国替(くにがへ)の手続(てつゞき)を運(はこ)むで早速(さつそく)旧領(きうれう)五ケ国(こく)を
《割書:家康国替の|迅速》 引渡(ひきわた)したので秀吉(ひでよし)も其(その)迅速(じんそく)なる事に驚(おどろ)いたと云ふ事であるが兎(と)に角(かく)其(その)将士(せうし)一 同(どう)も父祖(ふそ)伝来(でんらい)の故国(ここく)を去(さ)
つて新領地(しんれうち)に就(つ)く事であるから其(その)混雑(こんざつ)と云ふものは名状(めいぜう)すべからざるものがあつたであろうと思(おも)ふ家(いへ)
忠日記(たゞにつき)の記事(きじ)によるも当時(とうじ)の有様(ありさま)は目(ま)のあたり見(み)るようであるが家忠(いへたゞ)の如(ごと)きも七月十一日に北條氏政(ほうでううぢまさ)
兄弟(けうだい)の自裁(じさい)したのを見(み)て其(その)十六日に江戸(えど)へ向(むか)ひ十八日に着(ちやく)したが廿一日には直(す)ぐに故国(ここく)参河に引(ひ)き返(かへ)
したのである其(その)廿日の記事(きじ)に
【欄外】
豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十三
【欄外】
豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十四
【本文】
雨降(あめふり)明日三州へ帰候(かへりそろ)へし由(よし)御意候(ぎよいそうろ)御国(おんくに)かはり女子(ぢよし)引越(ひきこし)の事也(ことなり)
としてある即(すなは)ち此(この)時(とき)は既(すで)に国替(くにがへ)の事が定(さだ)まつて引越(ひきこし)の用意(ようい)で急(きう)に帰国(きこく)する事となつたものと見(み)へる然(しか)
るに家忠(いへたゞ)は途中(とちう)で病気(びようき)であつたのに途(みち)を急(いそ)いで八月五日 己(おの)れの城地(じようち)なる三 河(かは)の深溝(ふかうず)に着(ちやく)して居(を)る而(しか)し
て其十八日には既(すで)に用意(ようい)を整(とゝの)へて関東(くわんとう)へ出発(しゆつぱつ)したのであるが廿六日ヨウ〳〵江戸(えど)に着(ちやく)した処で使(し)を以(もつ)
て忍(おし)の城(しろ)を仰付(おほせつけ)られたとある而(しか)も廿九日には自(みづか)ら忍(おし)に入(い)つて松平周防守(まつだひらすばうのかみ)から城(しろ)を受取(うけと)つたのであるか
ら其他(そのた)の諸将(しよせう)も大概(たいがい)は先(ま)づコンナ模様(もよう)で大急(おほいそ)ぎに移転(いてん)し終(をは)つたものと思(おも)はれるモツトモ家康(いへやす)の新領地(しんれうち)
は関東(くわんとう)八 州(しう)とは云ふものゝ安房(あは)には里見氏(さとみし)あり下野(しもつけ)には宇都宮氏(うつのみやし)があつて家康(いへやす)の直轄(ちよくかつ)は六 州(しう)丈(だけ)である
が其(その)内(うち)にも尚(な)ほ結城(ゆうき)とか佐野(さの)とか皆川(みながは)とか云ふような諸氏(しよし)が割拠(かつきよ)して其(その)上(うへ)に北條氏(ほうでうし)の残党(ざんとう)は諸方(しよはう)に潜(せん)
伏(ぷく)して居(を)るので実(じつ)に統括(とうかつ)には困難(こんなん)したものであつたろうと思(おも)ふ併(しか)し秀吉(ひでよし)から云ふと頗(すこぶ)る妙策(みようさく)を行(おこな)つた
《割書:秀吉の諸侯|配置策》 訳(わけ)で家康(いへやす)には関東(くわんとう)を与(あた)へたものゝ会津(あひづ)に蒲生氏郷(かばふうぢさと)を封(ほう)じて其(その)背後(はいご)を押(おさ)へ徳川氏(とくがはし)の故国(ここく)には己(おの)れが腹心(ふくしん)
のものを配置(はいち)して尾張(をはり)伊勢(いせ)をば秀次(ひでつぐ)に与(あた)へ近江(あふみ)の佐和山(さわやま)に石田三成(いしだかづしげ)を置(お)き大和(やまと)には秀長(ひでなが)を置(お)くと云ふ
次第(しだい)で其(その)配置(はいち)と云ふものは実(じつ)に用意(ようい)周到(しうとう)を極(きは)めたものである
《割書:東参河に於|ける諸将士》 ソコで家康(いへやす)は其(その)将士(せうし)に此(この)六 州(しう)の地(ち)を分与(ぶんよ)したのであるがそれは此(この)八月廿三日に発表(はつぴよう)したようである其(その)
《割書:の分封| 》
《割書:酒井家次上|州碓井に移》 内(うち)で東(ひがし)三 河(かは)に関係(くわんけい)のある人々に就(つい)て申述(もうしの)べて見(み)ると先(ま)づ此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)であつた酒井家次(さかゐいへつぐ)は上州(ぜうしう)碓井城(うすゐじよう)
《割書:る | 》 三万石に封(ほう)せられ二連木(にれんぎ)の城主(じようしゆ)松平(まつだひら)(《割書:戸|田》)丹波守康長(たんばのかみやすなが)は武蔵国(むさしのくに)東方(ひがしかた)壹万石に其(その)頃(ころ)吉田(よしだ)に居(を)つた戸田左(とださ)
門一西(もんかづあき)即(すなは)ち今(いま)の戸田伯爵(とだはくしやく)(《割書:旧大|垣侯》)の祖先(そせん)は武蔵国(むさしのくに)久志羅井(くしらゐ)五千石に又(ま)た牛久保(うしくぼ)の牧野右馬允康成(まきのうまのぜうやすなり)は上州(ぜうしう)大(おほ)
胡(ご)弐万石に仝(どう)牧野讃岐守康成(まきのさぬきのかみやすなり)は武蔵(むさし)石戸(いしど)五千石に封(ほう)せられ其(その)他(た)深溝(ふかうず)の松平家忠(まつだひらいへたゞ)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く
武蔵(むさし)の忍(おし)一万石に又(ま)た奥平信昌(おくだひらのぶまさ)は上州(ぜうしう)宮崎(みやざき)弐万石、 本多広孝(ほんだひろたか)は上州(ぜうしう)白井(しらゐ)二万石、 菅沼小大膳定利(すがぬませうだいぜんさだとし)は上(ぜう)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百二十二号附録 ( 明治四十四年十一月廿八日発行 )
【本文】
州(しう)吉井(よしゐ)二万石、 松平玄蕃頭清宗(まつだひらげんばのかみきよむね)は武蔵(むさし)八 幡山(はたやま)一万石、 菅沼山城守定政(すがぬまやましろのかみさだまさ)は下総(しもをさ)相馬(さうま)一万石、 菅沼新(すがぬましん)八 郎(らう)
定盈(さだみつ)は上州(ぜうしう)阿布(あふ)一万石、 本多縫殿助康俊(ほんだぬひどのすけやすとし)は下総(しもをさ)佐倉領(さくられう)五千石、 戸田(とだ)三 郎右衛門忠次(らううゑもんたゞつぐ)は伊豆(いづ)下田(しもだ)五千石
西郷孫(さいごうまご)九 郎家員(らういへかづ)は下総(しもをさ)小弓(こゆみ)五千石、 設楽甚(したらじん)三 郎貞通(らうさだみつ)は武蔵(むさし)礼羽(れは)三千石と云(い)ふような訳(わけ)に封(ほう)せられたの
である尚(なほ)其(その)外(ほか)に井伊直政(ゐいなをまさ)本多忠勝(ほんだたゞかつ)などを初(はじ)め孰(いづ)れも相当(さうとう)に領地(れうち)を与(あた)へられたのであるが兎(と)に角(かく)前(まへ)に申(もうし)
述(の)べた人々は此(この)豊橋(とよはし)の地(ち)を中心(ちうしん)として之(こ)れ迄(まで)東(ひがし)三 河(かは)の内(うち)に根拠(こんきよ)を置(お)き又(また)は終始(しうし)此(この)地方(ちほう)に関係(くわんけい)のあつた
もので之迄(これまで)長々(なが〳〵)私(わたくし)の申述(もうしの)べ来(きた)つた各種(かくしゆ)の戦役(せんえき)を初(はじ)め東三河の歴史(れきし)に関係(くわんけい)を有(ゆう)せる人々であるが之(これ)等(ら)
が多年(たねん)住(す)み馴(な)れた三河を去(さ)つて之(これ)から関東(くわんとう)の開拓(かいたく)にかゝつたのであるから三河と関東(くわんとう)との関係(くわんけい)と云ふ
《割書:江戸は三河|の粋を集め》 ものは誠(まこと)に浅(あさ)からざる次第(しだい)であると思(おも)ふ従(したがつ)て其(その)中心(ちうしん)たる今(いま)の東京(とうけう)即(すなは)ち当時(とうじ)の江戸(えど)と云ふものは実(じつ)に
《割書:たるもの | 》 三河の粋(すゐ)を集(あつ)めた処であると云つても差支(さしつかへ)なき状態(ぜうたい)であつた事と信ずるのである
奥羽の平定 サテそれより秀吉(ひでよし)は自(みづか)ら進(すゝ)むで奥羽(おうゝ)に臨(のぞ)むだのであるが伊達政宗(だてまさむね)の如きは秀吉(ひでよし)が小田原(をだはら)対陣中(たいぢんちう)既(すで)に伺(し)
候(こう)して皈服(きふく)したと云ふ次第(しだい)であるから此(この)方面(はうめん)も忽(たちまち)の中(うち)に平定(へいてい)し其(その)処分(しよぶん)をも終(をは)つて八月廿三日に凱旋(がいせん)
の途(と)に就(つい)き江戸(えど)鎌倉(かまくら)を経(へ)夫(それ)より矢張(やはり)東海道(とうかいどう)を上(のぼ)つて九月に至(いた)り京師(けうし)に皈(かへ)つたのである其後(そのゝち)奥羽(おうゝ)地方(ちほう)に
は又々(また〳〵)小乱(せうらん)があつたが蒲生氏郷(がまふうぢさと)浅野長政(あさのながまさ)等(ら)が豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に従(したがつ)て之(これ)を征服(せいふく)し之(これ)で先(ま)づ天下(てんか)は初(はじ)めて平定(へいてい)
したと云ふ訳(わけ)になつたので実(じつ)に長(なが)い間(あひだ)の戦国(せんごく)状態(ぜうたい)も此処(こゝ)に一 大段落(だいだんらく)を告(つ)げた次第(しだい)であるが尚(なほ)此処(こゝ)に少(すこ)
しく御話(おはなし)して置(お)きたいのは秀吉(ひでよし)の検地(けんち)であるモツトモ検地(けんち)の事は織田信長(をたのぶなが)が既(すで)に之(これ)を行(おこな)つたと云ふ説(せつ)
があるが之(これ)には明瞭(めいれう)なる証拠(せうこ)がないようである然(しか)るに秀吉(ひでよし)は漸(やうや)く天下(てんか)を一 統(とう)せむとするに方(あた)つて全国(ぜんこく)
秀吉の検地 に亘(わた)つて此(この)検地(けんち)を行(おこな)つたもので旧来(きうらい)諸国(しよこく)に於(おい)て区々(くゝ)なる算法(さんぽう)を以(もつ)て土地(とち)又(また)は貢米(ぐまい)等(とう)を計算(けいさん)して居(をつ)たの
を同時(どうじ)に一 定(てい)しようと計(はか)つたものであるが其(その)時(とき)の新法(しんぽう)は曲尺(かねじやく)六尺三寸を以(もつ)て一 歩(ぶ)とし三十 歩(ぶ)を一 畝(せ)と
【欄外】
豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十五
【欄外】
豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十六
【本文】
し三百 歩(ぶ)を一 段(たん)とし十段を以て一町としたのである併(しか)し尚(な)ほ旧来(きうらい)の久(ひさ)しき因襲(いんしう)の為(ため)にドウモ一時には
改革(かいかく)が出来(でき)なかつたものゝようであるが此(この)吉田(よしだ)地方(ちほう)へは天正十七年の十一月頃に彦坂小刑部(ひこさかこぎようぶ)と云ふ人
《割書:彦坂小刑部|文書》 が来(き)て久(ひさ)しく滞在(たいざい)し検地(けんち)をもし又た年貢(ねんぐ)の納方(おさめかた)などをも触(ふ)れたのである此(この)彦坂小刑部(ひこさかこぎようぶ)の文書(ぶんしよ)は今(いま)小松(こまつ)
原(ばら)の東観音寺(ひがしくわんおんじ)に三 通(つう)残(のこ)つて居(を)るが其(その)中(うち)二 通(つう)は東観音寺(ひがしくわんおんじ)の住職(じうしよく)に当(あ)てた手紙(てがみ)で一 通(つう)は定法(でうはう)を書(か)いたもの
である而(しか)して孰(いづ)れも当時(とうじ)の事情(じぜう)が分るので参考(さんこう)になるべきものであると思(おも)ふ
●補遺(●●) 酒井忠次夫人寄進(●●●●●●●●)の(●)画像(●●)に(●)就(●)て(●)
曩(さき)に「酒井忠次(さかゐたゞつぐ)と東(ひがし)三 河(かは)の諸士(しよし)」と云ふ処で酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の夫人(ふじん)が寄進(きしん)せられた其(その)母堂(ぼどう)の画像(ぐわぞう)が豊橋市
吉屋 龍拈寺(りうねんじ)に遺(のこ)つて居ることを一寸申述べて置いたか其(その)時(とき)にも述(の)べ置(お)いた如く忠次(たゞつぐ)の夫人(ふじん)と云ふの
は世(よ)に光樹夫人(くわうじゆふじん)と呼(よ)ばれた人で松平清康(まつだひらきよやす)の女であるから此(この)画像(ぐわぞう)は即(すなは)ち清康(きよやす)の夫人(ふじん)であることは明(あきらか)で
あるが清康(きよやす)の夫人(ふじん)と云ふのは三 度(たび)替(かは)つたので先(ま)づ第一は松平弾正左衛門入道昌安(まつだひらだんぜうさゑもんにふどうまさやす)の女であるが之(これ)
は大永四年 清康(きよやす)十四歳の時(とき)に此(この)昌安入道(まさやすにふどう)の山中(やまなか)の城(しろ)を抜(ぬ)き更(さら)に岡崎城(をかざきじよう)を攻(せ)めた時(とき)に昌安(まさやす)は遂(つひ)に敵(てき)
し難(がた)くて城(しろ)を明渡(あけわた)して和(わ)を請(こ)ひ其(その)女(ぢよ)春姫(はるひめ)を以(もつ)て清康(きよやす)に娶(めやは)したと云ふのが之(これ)である然(しか)るに琴瑟(きんひつ)の和(わ)
せざるものがあつて清康(きよやす)は後(のち)に青木筑後守貞景(あおきちくごのかみさだかげ)と云ふ人の女(ぢよ)を以(もつ)て夫人(ふじん)とせられたが其(その)腹(はら)に広忠(ひろたゞ)
が生(うま)れたのであるトコロが此(この)夫人(ふじん)は産後(さんご)がよくなくて遂(つひ)に逝去(せいきよ)せられたので清康(きよやす)は更(さら)に大河内左(おほかうちさ)
衛門尉元網(ゑもんじようもとつな)の養女(やうぢよ)を以(もつ)て夫人(ふじん)とせられたのが三 人目(にんめ)の夫人(ふじん)である此処(こゝ)から推及(すゐきふ)すると光樹夫人(くわうじゆふじん)の
母(はゝ)と云ふのは即(すなは)ち此(この)人(ひと)であると云ふ事を確信(かくしん)せらるゝのであるが併(しか)し確実(かくじつ)にそれと記録(きろく)したもの
は見当(みあた)らぬのであるモツトモ此(この)元網(もとつな)の養女(やうぢよ)と云ふ人に就(つい)ては旧来(きうらい)種々(しゆ〳〵)の説(せつ)があつて俗説(ぞくせつ)には色々(いろ〳〵)
な事を伝(つた)へて居(を)るが初(はじ)め水野忠政(みづのたゞまさ)に嫁(か)して離縁(りえん)となりそれから清康(きよやす)の処(ところ)へ嫁(か)せられたのは事実(じじつ)で
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
あると信(しん)ずる而(しか)して彼(か)の伝通院(でんつうゐん)即(すなは)ち水野忠政(みづのたゞまさ)の女で初(はじ)め広忠(ひろたゞ)の夫人(ふじん)となつて家康(いへやす)を生(う)まれた方(かた)は
矢張(やはり)此(この)人(ひと)の所生(しよせい)であると云ふ説(せつ)が多(おほ)く記(しる)されてある且(か)つ此(この)人(ひと)は世(よ)に秀(ひい)でたる美人(びじん)であつたので清(きよ)
康(やす)は巳(おの)れより四歳も年長(ねんてう)であつたのに此(この)夫人(ふじん)を懇望(こんぼう)し尾張国宮(をはりのくにみや)の城主(じようしゆ)岡本善七郎秀成(をかもとぜんたらうひでなり)の計(はか)らひで
娶(めと)つたのであると云ふ説(せつ)も伝(つた)はつて居(を)るが三 河志(かはし)の中(なか)に将軍(せうぐん)外戚伝(ぐわいせきでん)を引用(ゐんよう)して頗(すこぶ)る此(この)人(ひと)の事に就(つい)
て要領(えうれう)を得(え)たる記事(きじ)があるそれに依(よ)ると此(この)人(ひと)は名(な)を於富(おとみ)の方(かた)と云つて清康(きよやす)に嫁(か)せられた後(のち)一女一
男を生(う)まれたと記(しる)してある併(しか)し此(この)人(ひと)の養父(やうふ)たる大河内元網(おほかうちもとつな)と云ふ人は桃井(もゝゐ)の大河内系(おほかうちけい)であるが大(おほ)
河内(かうち)子爵家(ししやくけ)に伝(つた)はつて居る系譜(けいふ)によると元網(もとつな)の養女(やうぢよ)を満姫(みつひめ)としてあつて其(その)経歴(けいれき)の中(なか)には往々(おう〳〵)将軍(せうぐん)
外戚伝(ぐわいせきでん)にある於富(おとみ)の方(かた)の記事(きじ)と齟齬(そご)する点(てん)がある此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)でドウモ未(いま)だ十 分(ぶん)なる事が申述(もうしのべ)ら
れぬのであるが兎(と)に角(かく)龍拈寺(りうねんじ)の画像(ぐわぞう)なるものは容貌(やうばう)其(その)他(た)種々(しゆ〳〵)の関係(くわんけい)から推(お)すも只今(たゞいま)申述(もうしの)べた如(ごと)く
元網(もとつな)の養女(やうぢよ)たりし人で清康(きよやす)最後(さいご)の夫人(ふじん)であるに相違(さうゐ)ないと思(おも)ふ殊(こと)に其(その)画像(ぐわぞう)と云ふものは大(おほい)に見(み)る
べきものであつて貴重品(きちようひん)たるを失(うしな)はぬ事と思(おも)ふが此頃(このごろ)私(わたくし)は岡崎町(をかざきてう)に催(もよほ)された教育品展覧会(けふいくひんてんらんくわい)に参(まゐ)
つて同町(どうてう)の隨念寺(ずいねんじ)から出品(しゆつひん)した清康(きよやす)の画像(ぐわぞう)を郷土史料(けうどしれう)の部(ぶ)に於(おい)て見(み)たが之(これ)は彼(か)の清康(きよやす)が是(ぜ)の字(じ)の
夢(ゆめ)を見(み)た時(とき)に画(ゑが)かしめたものであるとの事であるから恐(おそら)くは其(その)二十三歳頃の像(ぞう)であろうが其(その)時代(じだい)
は勿論(もちろん)画風(ぐわふう)が龍拈寺(りうねんじ)所蔵(しよざう)夫人(ふじん)の像(ぞう)と最(もつと)も相類(あひるい)して居(を)るので実(じつ)に云(い)ふべからざる感想(かんさう)に打(う)たれたの
であるモツトモ清康(きよやす)像(ぞう)の方(はう)が余程(よほど)古(ふる)いので無論(むろん)同時(どうじ)に出来(でき)たものでない事は明(あきらか)であるがサリト
テ又(ま)た其(その)間(あひだ)に大(たい)なる年代(ねんだい)の相違(さうゐ)がないものと思(おも)はるゝのみならず或(あるひ)は同(どう)一 画家(ぐわか)の筆(ひで)になつたもの
ではなかろうかと思(おも)はるゝ程(ほど)であつて此(この)両者(れうしや)を対照(たいせう)するのは無限(むげん)の趣味(しゆみ)があるものと思(おも)ふのであ
る
【欄外】
豊橋市史談 (徳川氏の関東移封) 百六十七
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百六十八
【本文】
⦿池田輝政と吉田
サテ前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如く徳川氏(とくがはし)は関東(くわんとう)に移封(いほう)せらるゝ事となつて東(ひがし)三 河(かは)に長(なが)く根拠(こんきよ)を搆(かま)へて居(を)つた処
《割書:池田輝政吉|田に封せら》 の其(その)諸将(しよせう)も悉(こと〳〵)く関東(くわんとう)に移転(いてん)したのであるが其(その)後(のち)此(この)吉田城(よしだじよう)には酒井氏(さかゐし)に代(かは)つて池田輝政(いけだてるまさ)が封(ほう)せられて
《割書:る | 》 美濃(みの)の岐阜(ぎふ)から移(うつ)り来(きた)つたのである其(その)時(とき)の禄高(ろくだか)は十五万二千石であつたが吉田城(よしだじよう)は云ふ迄(まで)もなく其(その)根(こん)
伊木清兵衛 拠(きよ)で田原(たはら)牛久保(うしくぼ)などの城(しろ)も亦(ま)た領内(れうない)であつたが田原城(たはらじよう)には家臣(かしん)伊木清兵衛(いきせいべゑ)と云ふ人を置(お)き牛久保城(うしくぼじよう)に
《割書:荒尾平左衛|門》 は又た同(おな)じ家臣(かしん)の荒尾平左衛門(あらをへいざゑもん)と云ふ人を置(お)いたのである而(しか)して此(この)時(とき)輝政(てるまさ)が荒尾平左衛門(あらをへいざゑもん)に与(あた)へた知(ちぎ)
行方目録(ようかたもくろく)の写(うつし)と云ふものが牛久保密談記(うしくぼみつだんき)の中(なか)に載(の)つて居(を)るが左(さ)の通(とほ)りである
知 行 方 目 録
一六百八十四石七斗五升 牛 久 保
一千百二石八斗四升 長 山
一六百三十六石七斗二升 多 米
一六十七石一斗九升 赤 岩
一四百三十七石一斗九升 大 草
一七十八石一斗三升 手 洗
都 合 三 千 石 余
天正十八年十月廿八日 照 政
荒 尾 平 左 衛 門 殿
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百二十八号附録 ( 明治四十四年十二月五日発行 )
【本文】
《割書:二連木廃城|となる》 之(これ)で見(み)ると以上(いぜう)の諸村(しよそん)を平左衛門(へいざゑもん)が知行(ちぎよう)として居(を)つたものと見(み)へるが兼(かね)て御承知(ごせうち)の二 連木城(れんぎじよう)には此(この)時(とき)
別(べつ)に人を置(お)いた様子(ようす)が見(み)へぬので其(その)廃城(はいじよう)となつたのは此(この)時(とき)からであると信(しん)ぜられるのであるソコで一
貫高と石高 寸 御話(おはなし)して置(お)きたいのは石高(こくだか)の事であるが前(まへ)の輝政(てるまさ)が荒尾平左衛門(あらをへいざゑもん)に与(あた)へた書付(かきつけ)には御覧(ごらん)の如(ごと)く石高(こくだか)
が記載(きさい)してあるのである然(しか)るに此(この)石高(こくだか)と云ふものは天正(てんせう)の中程(なかほど)以後(いご)から称(とな)ふる処で其(その)以前(いぜん)と云ふもの
は御承知(ごせうち)の通(とほり)何貫文(なんくわんもん)と云ふように貫高(くわんだか)を用(もち)ゐ来(きた)つたのであるが此(この)貫高(くわんだか)と石高(こくだか)とは如何(いか)なる処に相違(さうゐ)
があるかと云ふ事に就(つい)ては旧来(きうらい)頗(すこぶ)る疑問(ぎもん)となつて居(を)るのである此(この)事(こと)に関(くわん)しては之(これ)迄(まで)著(あらは)されて居(を)る書物(しよもつ)
の内(うち)にも区々(くゝ)の説(せつ)が記(しる)されてある次第(しだい)であるが此処(こゝ)に私(わたくし)の如(ごと)き浅学(せんがく)の者(もの)が之(これ)を詳論(せうろん)する必要(ひつえう)もないの
であるから後日(ごじつ)必要(ひつえう)となつた場合(ばあひ)は兎(と)に角(かく)今(いま)は只(たゞ)貫高(くわんだか)と石高(こくだか)の移(うつ)り替(かは)の時期(じき)に就(つい)て諸君(しよくん)の御注意(ごちうゐ)まで
に申述(もうしの)べた訳(わけ)である
輝政の事業 サテ輝政(てるまさ)は此(この)吉田(よしだ)に来(き)て爾来(じらい)市街(しがい)の改正(かいせい)を行(おこな)ひ大(おほい)に城廓(じようくわく)の拡張(くわくてう)を計(はか)つたのであるが先(ま)づ其(その)著(いちじる)しいも
豊河の橋梁 のを挙(あ)ぐれば第一に豊河橋梁(とよかはけうれう)の移転(いてん)である此(この)橋梁(けうれう)に就(つい)ては之(これ)迄(まで)度々(たび〳〵)申述(もうしの)べて置(お)いた如(ごと)く之(これ)迄(まで)は今(いま)の関(せき)
屋(や)の処から対岸(たいがん)に懸(か)けてあつたもので土橋(どばし)であつたが少(すこ)しく洪水(こうすゐ)があれば直(たゞ)ちに流失(りうしつ)した位(くらゐ)の一寸し
たものであつたように思(おも)はれる然(しか)るに輝政(てるまさ)は城地(じようち)の拡張(くわくてう)を計画(けいくわく)する上から此(この)橋梁(けうれう)を移(うつ)す必要(ひつえう)を認(みと)めた
ので初(はじ)めて之(これ)を船町(ふなまち)に移(うつ)して且(か)つ完全(くわんぜん)なる板橋(いたばし)となしたのである而(しか)して其(その)位置(ゐち)は現今(げんこん)の橋(はし)のある処よ
り大約(たいやく)四十間許り下流(かりう)で今(いま)も尚(な)ほ其(その)遺跡(ゐせき)が分(わか)るのであるが現今(げんこん)の橋(はし)は明治十二年三月に至(いた)つて初(はじ)めて
今(いま)の位置(ゐち)に架(か)せられたものでそれ迄(まで)はズツト引続(ひきつゞ)いて輝政(てるまさ)架設(かせつ)のまゝの位置(ゐち)に継続(けいぞく)し来(きた)つた次第(しだい)であ
《割書:悟眞寺の移|転を企つ》 る次(つぎ)に市区(しく)の改正(かいせい)の事であるが之(これ)も亦(ま)た余程(よほど)の大計画(だいけいくわく)を企(くわだ)てたものと見(み)ゆる即(すなは)ち今の処に悟眞寺(ごしんじ)があ
つては市区(しく)の整理上(せいりぜう)不便(ふべん)であると云ふので之(これ)を羽田(はだ)の地(ち)に移転(いてん)せしめむとして之(これ)に土地(とち)を与(あた)へたが未(いま)
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百六十九
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十
【本文】
だ其(その)移転(いてん)を実行(じつこう)せない前(まへ)に輝政(てるまさ)の方(ほう)が姫路(ひめぢ)に移封(いほう)となつたので悟眞寺(ごしんじ)は其(その)替(か)へ地(ち)の貰(もら)ひ徳(とく)となつたよ
うな訳(わけ)であるが其(その)後(ご)移転(いてん)は遂(つひ)に沙汰止(さたや)みとなつたが輝政(てるまさ)から貰(もら)つた敷地(しきち)は今(いま)も尚(なほ)大字(おゝあざ)花田(はなだ)字(あざ)築地(ちくじ)に九
千七百余圷の地を所有(しよいう)して居(を)ると云ふ結果(けつくわ)となつたのである其(その)外(ほか)にも市内(しない)の鍛冶職(かぢしよく)を今(いま)俗(ぞく)に元鍛冶町(もとかぢまち)
と称(せう)する処に移(うつ)し集(あつ)めたのも矢張(やはり)輝政(てるまさ)であると云ふ伝説(でんせつ)がある併(しか)し之(これ)も種々(しゆ〳〵)の事情(じぜう)から推及(すゐきふ)すると確(たしか)
城地の拡張 に信(しん)が措(お)けるように思(おも)はれるソコで城廓(じようくわく)であるが之(こ)れ亦(ま)た現今(げんこん)に残(のこ)つて居る状態(ぜうたい)は確(たしか)に輝政(てるまさ)の計画(けいくわく)
に成(な)るものが大部分(だいぶぶん)であると信(しん)ぜられるモツトモそれも「三河国二葉松(みかはのくにふたばまつ)」や「三河堤(みかはつゝみ)」などに伝説(でんせつ)が記(しる)し
てあるのと口碑(こうひ)に伝(つた)はつて居る位(くらゐ)に過(す)ぎぬのではあるが酒井氏(さかゐし)在城(ざいじよう)時代(じだい)の城地(じようち)は到底(とうてい)今日の如き大さ
のものではなかつたと云ふ事は当時(とうじ)の戦(たゝかひ)を記(しる)したものだの前(まへ)に申述(もうしの)べた橋梁(けうれう)の位置(ゐち)などでも分(わか)ると思(おも)
ふ而(しか)して輝政(てるまさ)後(のち)には余(あま)り大(たい)なる普請(ふしん)を此(この)城(しろ)に加(くは)へた事実(じゞつ)がないので又(ま)た徳川時代(とくがはじだい)となつては濫(みだ)りに城(じよ)
地(うち)の拡張(くわくてう)は許(ゆる)しもしなかつたのであるから矢張(やはり)前(まへ)に述(の)べた伝説(でんせつ)口碑(こうひ)は全(まつた)く事実(じゞつ)であるものと信(しん)ずるの
柳生門 であるが兎(と)に角(かく)当時(とうじ)十五万二千石の大名(だいみよう)としては比較的(ひかくてき)に大規模(だいきぼ)の計画(けいくわく)であつたものと云ふべきであ
る又(ま)た旧(きう)柳生門(やぎゆうもん)と云ふものは元(も)と長篠城(ながしのじよう)の大手門(おほてもん)であつたのを此(この)城(しろ)に移(うつ)したのであると云ふ伝説(でんせつ)口碑(こうひ)
があるが之(これ)は果(はた)して酒井忠次(さかゐたゞつぐ)の時であるか輝政(てるまさ)の時であるか移転(いてん)の時代(じだい)に就(つい)て少(すこ)しく明瞭(めいれう)を欠(か)く所(ところ)が
あると思(おも)ふ併(しか)し「三河国二葉松(みかはのくにふたばまつ)」には「或云往古大手門ト云飽海門也、次柳生門大手通ニ用、池田三左
衛門ノ時有城普請ト云」とあつて初(はじ)めは飽海門(あくみもん)が大手(おほて)であつたが後(のち)に柳生門(やぎゆうもん)を大手通(おほてとほり)となしたもので
あると云ふ説(せつ)であるが之(これ)は確(たしか)であるに相違(さうゐ)ない結局(けつきよく)輝政(てるまさ)が此(この)吉田城(よしだじよう)を初(はじ)め市街(しがい)に向(むか)つて比較的(ひかくてき)大規模(だいきぼ)
の拡張(くわくてう)を行(おこな)ひそれが今日に残(のこ)つて居る総(すべ)て基礎(きそ)となつて居る事は事実(じゞつ)と信(しん)ずべきであると思(おも)ふソコ
《割書:豊川の治水|事業》 で私(わたくし)が常(つね)に思(おも)ふのは此(この)豊河(とよかは)の治水事業(ちすいじぎよう)と云ふものは元来(がんらい)誰(たれ)が行(おこな)つたであろうかと云ふ事である即(すなは)ち此(この)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
河(かは)が古来(こらい)崖岸(がいがん)広遠(くわうゑん)で渡船(とせん)さへ困難(こうなん)であつた事からそれが次第(しだい)に土砂(どしや)の為(ため)に埋(うま)つて遂(つひ)には土橋(どばし)さへ架(か)せ
らるゝに至(いた)つた事は前(まへ)にも段々(だん〳〵)申述(もうしの)べた通(とほ)りであるが現(げん)に残(のこ)つて居る治水事業(ちすゐじぎよう)と云ふものは中々(なか〳〵)工風(くふう)
したもので今日の学術(がくじゆつ)から見(み)たらばドウデあるかそれは私(わたくし)共(ども)には分(わか)らぬ事であるが兎(と)に角(かく)到底(とうてい)大事業(だいじぎよう)
家(か)でなければ成(な)し能(あた)はざる事であると思(おも)ふ彼(か)の上流(ぜうりう)にある宮井戸(みやゐど)の乗(の)り越(こ)しから箕堤(みのつゝみ)の工事(こうじ)などと云
ふものは当時(とうじ)にありては余程(よほど)工風(くふう)したものと云はねばならぬ之(これ)等(ら)はドウモ歴代(れきだい)の城主中(じようしゆちう)で此(この)輝政(てるまさ)より
外(ほか)に之(これ)を成(な)すべき適当(てきとう)の人はなかつたであろうと思(おも)ふ特(とく)に此頃(このころ)私(わたくし)は播州(ばんしう)の姫路(ひめぢ)に立寄(たちよ)つて輝政(てるまさ)の事蹟(じせき)
を見(み)たのであるか輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)より姫路(ひめぢ)に移(うつ)つてからなした事業(じぎよう)の中(なか)で彼(か)の白鷺城(しらさぎじよう)の建築(けんちく)と云ひ三 左(ざ)
衛門堀(ゑもんほり)の計画(けいくわく)と云ひ又(ま)た市街(しがい)を米字形(べいじがた)に区画(くぐわく)したと云ふ事などは頗(すこぶ)る思(おも)ひ当(あた)る処(ところ)があるように感(かん)じた
のである併(しか)し之(これ)は只(たゞ)私(わたくし)の臆説(おくせつ)であるが兎(と)に角(かく)茲(こゝ)に意見(いけん)を申述(もうしの)べて諸君(しよくん)の高教(かうけう)を仰(あふが)むとする次第(しだい)である
以上(いぜう)の如く輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に施(ほどこ)した事業(じぎよう)と云ふものは遺憾(ゐかん)ながら細密(さいみつ)には分(わか)り兼(か)ぬるが兎(と)に角(かく)大体(だい〳〵)の上(うへ)
から見(み)ても此(この)土地(とち)に対(たい)しては空前(くうぜん)の計画(けいくわく)をなしたもので又(ま)た其(その)後(ご)今日までには到底(とうてい)之(これ)に及(およ)ぶべき企画(きくわく)
をなしたものはなかつた事と思ふ而(しか)も此(この)地(ち)に於(お)ける計画(けいくわく)と云ひ姫路(ひめぢ)に於ける遣(や)り口(ぐち)と云ひ孰(いづ)れも猷大(ゆうだい)
なる規模(きぼ)であるが例(たと)へば加藤清正(かとうきよまさ)が熊本(くまもと)の経営(けいえい)をなした様(よう)な工合(ぐあひ)で如何(いか)にも豊臣時代(とよとみじだい)於(お)ける勇将(ゆうせう)の
遣(や)り前(まへ)を現(あら)はして居るのは誠(まこと)に壮快(さうくわい)の感(かん)に堪(た)えぬのである而(しか)して輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に来(き)たのは其廿七歳の
時でまだ青年時代(せいねんじだい)と云つてもよいのであるが之(これ)より慶長(けいてう)五年まで殆(ほとん)ど十個年の間(あひだ)此(この)地(ち)に居つたのであ
輝政の略歴 る而(しか)して輝政(てるまさ)が之(これ)迄(まで)の経歴(けいれき)であるが之(これ)をザツト申述(もうしの)べて見(み)ると御承知(ごせうち)の通(とほり)池田信輝(いけだのぶてる)の次男で幼名(えうめい)を古(こ)
新(しん)と呼(よ)び初(はじ)めは照政(てるまさ)と書(か)いたが後(のち)には輝政(てるまさ)と書(かい)たのである兄(あに)を之助(ゆきすけ)と云つたが父(ちゝ)信輝(のぶてる)は織田信長(をたのぶなが)乳母(うば)
の子(こ)であるので信長(のぶなが)の父(ちゝ)信秀(のぶひで)の代(だい)から織田氏(をたし)に仕(つか)へ頗(すこぶ)る功名(こうみよう)を現(あら)はした人である然(しか)るに信長(のぶなが)薨去(こうきよ)の後(のち)
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十一
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十二
【本文】
薙髪(ちはつ)して勝入(しようにふ)と号(ごう)し後(のち)秀吉(ひでよし)に属(ぞく)して美濃国(みのゝくに)大垣城(おほがきじよう)に居り子(こ)の之助(ゆきすけ)は岐阜(ぎふ)の城(しろ)を領(れう)したのであるが前章(ぜんせう)
に詳(くは)しく申述(もうしの)べた如く小牧(こまき)の役(えき)に於て遂(つひ)に家康(いへやす)信雄(のぶを)の為(ため)に破(やぶ)られて信輝(のぶてる)は四十九歳 之助(ゆきすけ)は廿六歳で共(とも)
に打死(うちじに)したのである当時(とうじ)輝政(てるまさ)は年廿一歳であつたが亦(ま)た従軍(じうぐん)したのである然(しか)るに従士(じうし)等(ら)の諌(いさめ)によつて
独(ひと)り身(み)を免(のが)れて引退(ひきしりぞ)いたのであるが後(のち)父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を継(つ)ぎ(《割書:岡山池田家譜には天正十二年四|月廿八日父の遺領を継ぐとあり》)天正十三年 更(さら)に大垣(おゝがき)を
改(あらた)めて岐阜城(ぎふじよう)に移(うつ)つたのである(《割書:仝家譜には天正十二年の事となし|又た此時十二万石を領すとあり》)それよりは常(つね)に秀吉(ひでよし)に従(したがつ)て数々(しば〳〵)功名(こうみよう)を現(あら)
はし天正十五年 羽柴(はしば)の姓(せい)を与(あた)へられ其翌(そのよく)十六年四月 更(さら)に豊臣氏(とよとみし)を与(あた)へられたのであるが小田原征討(をだはらせいとう)の
際(さい)には早川口(はやかはぐち)を囲(かこ)み其(その)落城(らくじよう)後(ご)は陸羽(りくう)の征伐(せいばつ)に向(むか)ひ其(その)先鋒(せんぽう)となつたのであるソコデ其(その)年(とし)即(すなは)ち天正十八年
七月十三日に酒井家次(さかゐいへつぐ)に代(かは)つて岐阜(ぎふ)から此(この)地(ち)に移封(いほう)せられ更(さら)に在京(ざいけう)の料(れう)として伊勢国(いせのくに)小栗栖(をぐりす)の庄(せう)を与(あた)
へられたのが先づ其(その)経歴(けいれき)の大要(たいよう)であるが其(その)年(とし)又(ま)た陸奥(むつ)に一 揆(き)の起(おこ)つた事があつて輝政(てるまさ)は此(この)時(とき)蒲生氏郷(がまふうぢさと)
の加勢(かせい)の為(ため)に出陣(しゆつぢん)したのである程(ほど)なく此(この)乱(らん)も平(たひら)いだが其翌(そのよく)十九年には秀吉(ひでよし)は輝政(てるまさ)の邸(やしき)に臨(のぞ)むで数種(すうしゆ)の
引出物(ひきでもの)を与(あた)へ秀次(ひでつぐ)からも亦(ま)た茶入(ちやいれ)を贈(おく)つたと云ふ訳(わけ)で其(その)信任(しんにん)は頗(すこぶ)る厚(あつ)かつたものと思(おも)はれるかくて天
文禄の役 正廿年は文禄元年(ぶんろくがんねん)と改(あらた)まつたのであるが此(この)年(とし)例(れい)の朝鮮征伐(てうせんせいばつ)の軍(ぐん)は初(はじ)まつたのであるモツトモ此(この)時(とき)秀吉(ひでよし)
の意見(いけん)と云ふものは明国(みんこく)を打(う)ち従(したが)へるにあつたと云ふ事であるから後世(こうせい)の人が此(この)役(えき)を以(もつ)て朝鮮征伐(てうせんせいばつ)な
どと云つたらば秀吉(ひでよし)は地下(ちか)で苦笑(くせう)するであろうと思(おも)はるゝが一 般(ぱん)に朝鮮征伐(てうせんせいばつ)で通(とほ)つて居るから私(わたくし)も今(いま)
仮(か)りに左様(さよう)に申述(もうしの)ぶるのであるが此(この)役(えき)輝政(てるまさ)は命(めい)を受(う)けて吉田(よしだ)に皈(かへ)り関東(くわんとう)の守備(しゆび)に任(にん)じ又(ま)た糧食(れうしよく)を備前(びぜん)
の名護屋(なごや)に送(おく)つたのである之(これ)は寛政重修諸家譜(かんせいじゆうしうしよかふ)其(その)他(た)にも記(しる)されてある事である而(しか)して輝政(てるまさ)は又(ま)た文禄
三年の八月に家康(いへやす)の二 女(ぢよ)督姫(とくひめ)を迎(むか)へて妻(つま)としたのであるが前(まへ)にも申述(もうしの)べた如く此(この)督姫(とくひめ)と云ふのは初(はじ)め
《割書:督姫輝政に|嫁す》 北條氏直(ほうでううぢなほ)の処へ嫁(か)したのであるが小田原落城(をたはららくじよう)の時(とき)家康(いへやす)の陣(ぢん)に送(おく)り届(とゞ)けられたので自然(じぜん)氏直(うぢなを)とは離婚(りこん)の
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百三十四号附録 ( 明治四十四年十二月十二日発行 )
【本文】
訳(わけ)になつて居(を)つたのであるが今度(このたび)秀吉(ひでよし)の謀(なかだち)によつて之(これ)を輝政(てるまさ)のところへ嫁(か)したのであるモツトモ輝政(てるまさ)は
前(まへ)に中川清秀(なかがはきよひで)の女を娶(めと)つて子(こ)利隆(としたか)を生(う)むだのであるが之(これ)が病死(びようし)したので其(その)後(あと)へ此(こ)の督姫(とくひめ)を迎(むか)へた次第(しだい)
である然(しか)るに此(この)督姫(とくひめ)が吉田(よしだ)へ入輿(にふよ)の時の逸事(いつじ)とも云ふべきものが武将感状記(ぶせうかんぜうき)の中に載(の)つて居(を)つて頗(すこぶ)る
興味(きようみ)のある事と思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に抄出(しようしゆつ)することにする
池田(いけだ)三 左衛門尉輝政(ざゑもんしょうてるまさ)ノ家礼(かれい)伊庭総兵衛(いばそうべゑ)ハ手前(てまへ)中(あた)リ矢業(やわざ)モノニ勝(すぐ)レタル弓(ゆみ)ノ上手(ぜうづ)ナリ輝政(てるまさ)参州(さんしう)吉田(よしだ)ヲ居(きよ)
城(じよう)トス源君(げんくん)ノ婿(むこ)トナリテ御輿入時(おんこしいれどき)諸士(しよし)今切(いまきれ)に出迎(でむか)ヘ伊庭(いば)弓(ゆみ)ヲ持(もた)セタリ輿副(こしそへ)ノ人(ひと)使(つかひ)ヲ以(もつ)テ人多(ひとおほ)キ中(なか)ニ
独(ひとり)弓(ゆみ)ヲ持(もた)セラレタルハ承(うけたまはり)及(および)シ伊庭殿(いばどの)ニテヤ候(そうろ)ト問(と)フ御尋(おんたづね)ハ何故(なにゆへ)ゾ伊庭(いば)ニテ候ト答(こた)フ又(また)以使(つかひをもつて)サ
ラハ此(この)洲崎(すさき)ニ羽白(はしろ)一番(ひとつがひ)浮(うかん)テ候 願(ねがは)クハ一 矢(や)遊(あそ)ハサレ候ヘカシ見物(けんぶつ)仕(つかまつ)ラハヤト云(いふ)伊庭(いば)難議(なんぎ)ノ所望(しよもう)カ
ナ両家(れうけ)ノ諸士(しよし)ノ前(まへ)ニテ遠慮(ゑんりよ)アルヘキ事ナルヲト心中(しんちう)ニハ思(おも)ヒナカラ心得候(こゝろへそうら)ヌトテ矢(や)ヲツカヒテ前(すゝみ)ヨ
ル其(その)間(あひだ)三十 間(けん)ホトニテナレハ羽白(はしろ)漸(やうや)ク沖(おき)ニ出(い)テ遠(とほ)サカル伊庭(いば)満引(まんびき)シ余(あま)リ久(ひさし)クタモチケレハ是(これ)ハイカ
ニト見(み)ル所(ところ)ニ忘(わする)ルハカリアリテ放(はな)ツ矢(や)其(その)雄(おす)ノ胴中(どうなか)ヲ貫(つらぬ)キ其(その)雌(めす)ノ尻(しり)ヲ射切(ゐきり)タレハ両家(れうけ)一 同(どう)ニ誉(ほめ)ル声(こゑ)海(かい)
涛(どう)ニ響(ひゞき)所望(しよもう)シタル人(ひと)其(その)矢(や)トモニ羽白(はじろ)ヲ請(こひ)テ取(とつ)テ帰(かへ)レリ伊庭(いば)カ友(とも)何(なん)トシテシホヌケタルホトハ不放(はなたず)ヤト
問(とひ)ケレハ同(おなじく)ハ番(つがひ)ナカラ射(ゐ)ント思(おも)ヒ相並(あひならぶ)ヲ待(まち)タレトモ終(つひ)ニ不並(ならばず)少(すこ)シ並(なら)フヤウナルヲ幸(さいはひ)ニ放(はな)チ候故(そろゆへ)番(つがひ)ナ
カラ射(ゐ)トラデ残念(ざんねん)ナリトソ語(かた)リケル伊庭(いば)鉄砲(てつぽう)ト争(あらそ)ヒ矢(や)モ玉(たま)モ十ニテ小鳥(ことり)ヲ射(ゐ)ルニ負(まけ)タル事ナシ結立(むすびたて)
タル大巻藁(おほまきわら)ニ左(ひだり)ノ拳(こぶし)ヲサシツケ強(つよ)カラヌ弓(ゆみ)ニテ射之(これをゐ)厚(あつ)ミ一 寸(すん)ハカリノ裏板(うらいた)モ透(とほ)ルハカリナリ放(はな)レ殊(こと)
ニヨキ時(とき)ハモトユヒ其(その)勢(いきほひ)ニハラリトキルヽ事(こと)度々(たび〳〵)アリ灰(はい)ヲカキ挙(あげ)土器(かはらけ)ヲ立(たて)的(まと)トシテ射之(これをゐる)ニ貫之(これをつらぬき)テ
土器(かわらけ)ノワレサル事モ亦(また)度々(たび〳〵)ナリ鳥(とり)ヲ射(ゐ)ルニ弓(ゆみ)ヲ引設(ひきもうけ)スラスラト歩(あゆ)ミヨリ羽(は)ヲワランスル時(とき)歩(あゆむ)ナリニ
足(あし)ヲ不止(とゞめず)放(はな)ツニ外(そ)ル事ハ鮮(すくな)シ強力(きようりよく)壮碩(さうせき)時人(じゞん)ニ知(し)ラレタル男夫(をとこ)也
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政と吉田) 百七十三
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十四
【本文】
ソコで輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に残(のこ)した事柄(ことがら)で尚(な)ほ一つ諸君(しよくん)に御紹介(ごせうかい)せねばならぬのが妙円寺(みようゑんじ)建立(こんりう)の事である妙(みよう)
妙円寺 円寺(ゑんじ)は日蓮宗(にちれんしう)の寺(てら)で今(いま)も尚(な)ほ当市(とうし)大字(おほあざ)清水(しみづ)に現存(げんぞん)して居(を)る此(この)寺(てら)は初(はじ)め妙立寺(みようりうじ)と云つて文禄(ぶんろく)二年の建立(こんりう)
であるが元(も)と遠江国(とふとうみのくに)吉美(よしみ)の妙立寺(みようりうじ)から別(わか)れたもので当時(とうじ)其(その)妙立寺(みようりうじ)の僧(そう)に日円(にちゑん)と云ふ人があつて余程(よほど)の
輝政と日円 名僧(めいそう)であつたが輝政(てるまさ)は此(この)吉田(よしだ)にあるの時に深(ふか)く日円(にちゑん)を信(しん)じて数々(しば〳〵)招(せう)じて教(おしへ)を聴(き)いと云ふ事が妙円寺(みようゑんじ)
の記録(きろく)に残(のこ)つて居る即(すなは)ち此(この)人(ひと)の為(ため)に一 寺(じ)を現今(げんこん)の処に創立(そうりつ)して初めて矢張(やはり)妙立寺(みようりうじ)と称(せう)したのであるが
其後(こののち)輝政(てるまさ)は姫路(ひめぢ)に移封(いほう)になつて又(ま)た此(この)日円(にちゑん)を呼(よ)び寄(よ)せたので姫路(ひめぢ)にも妙立寺(みようりうじ)と云ふ寺(てら)を建立(こんりう)したので
あるソコで当市(とうし)の方(はう)は妙円寺(みようゑんじ)と改称(かいせう)し今(いま)に至(いた)つたものであるが私(わたくし)は此(この)頃(ころ)姫路(ひめぢ)に参(まゐ)つた時(とき)態々(わざ〳〵)其(その)妙立(みようりう)
寺(じ)を尋(たづ)ねて見(み)たが惜(おし)い事に僧侶(そうろ)が皆(みな)不在(ふざい)で何等(なんら)得(う)る処がなかつたのである併(しか)し規模(きぼ)は余(あま)り大(おほき)な寺(てら)では
なく締(しま)りのよい一寸(ちよつと)したものであるモツトモ輝政(てるまさ)は姫路(ひめぢ)に於(おい)て卒(そつ)したが其(その)地(ち)の龍峯寺(りうはうじ)と云ふ寺(てら)に葬(ほうむ)り
後(のち)に至(いた)つて儒礼(じゆれい)を以(もつ)て備前国(びぜんのくに)和気郡(わきこほり)敦土山(つるどやま)に改葬(かいそう)したのであるから此(この)妙立寺(みようりうじ)は元(もと)より池田家(いけだけ)の菩提寺(ぼだいじ)
などと云ふ訳(わけ)ではなく只(た)だ輝政(てるまさ)が日円(にちゑん)を信(しん)ずるの余(あま)り其(その)人(ひと)の為(ため)に特(とく)に建立(こんりう)したものであると云ふ事が
分(わか)るのである当市(とうし)の妙円寺(みようゑんじ)も亦(ま)た右(みぎ)と同様(どうよう)の次第(しだい)であるが只(た)だ当時(とうじ)の日円(にちゑん)と輝政(てるまさ)とに関係(くわんけい)せる文書(ぶんしよ)な
どが少(すこ)しも今日に残(のこ)つて居(を)らぬのは遺憾(ゐかん)とする処(ところ)である
⦿池田輝政の人物
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた外(ほか)に輝政(てるまさ)の人物(じんぶつ)に就(つい)ては大(おほい)に伝(つた)ゆべきものがあると思(おも)ふ名将言行録(めいせうげんこうろく)の中(なか)には其(その)人(ひと)とな
輝政の人物 りに就(つい)て「輝政(てるまさ)幼(よう)にして倜儻(てきたう)長(てう)ずるに及(およ)びて雄偉人(ゆうゐじん)となり剛直(がうちよく)にして下(した)に臨(のぞ)むに寛(かん)なり多(おほ)く名士(めいし)を招(せう)
致(ち)し孝悌(かうてい)を旌表(せいひよう)し上(かみ)に勤(つと)めて夙夜(しゆくや)懈(おこた)らず卒(そつ)するに及(およ)び上下駭惋(ぜげがんゑん)せざるものなし」としてあるが実(じつ)に其(その)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
輝政の幼時 通(とほ)りであつた事と思(おも)ふ元来(がんらい)輝政(てるまさ)と云ふ人は小供(こども)の時から剛気(がうき)であつたが之(これ)は其(その)十歳の時の話(はなし)である父(ちゝ)
勝入(しようにふ)が囲炉裏(ゐろり)に栗(くり)の実(み)を入(い)れて焼(や)いて居(を)つたが輝政(てるまさ)が其(その)側(かたはら)に居寄(ゐよ)つたので勝入(しようにふ)は此(この)栗(くり)が欲(ほ)しいかと
尋(たづ)ねたスルト輝政(てるまさ)は欲(ほ)しいと答(こた)へたので其(その)胆力(たんりよく)を試(こゝろ)みむと思(おも)ふたものかソレと云ふので勝入(しようにふ)は火(ひ)の中(なか)
にあつた栗(くり)を其(その)まゝ箸(はし)で挟(はさ)むで輝政(てるまさ)の手(て)の上(うへ)に与(あた)へたのである普通(ふつう)ならば小供(こども)でなくても之(これ)は熱(あつ)いと
云ふので驚(おどろ)くべき処であるが此(この)時(とき)輝政(てるまさ)は驚(おどろ)かない一 向(こう)平気(へいき)で押(お)し戴(いたゞ)いて之(これ)を食(た)べたと云ふ事が備前老(びぜんらう)
人物語(じんものがたり)と云ふものゝ中(なか)にあると云ふので色々(いろ〳〵)の書物(しよもつ)に引用(いんよう)せられて居(を)るモツトモ此(この)類(るい)の話(はなし)は如何(いか)にも
東西(とうざい)の英雄伝中(えいゆうでんちう)によくある事であるが兎(と)に角(かく)輝政(てるまさ)が幼少(ようせう)の頃(ころ)から非凡(ひぼん)の剛気(ごうき)であつた事が分(わか)ると思(おも)ふ
輝政の質素 然(しか)るに此(この)輝政(てるまさ)と云ふ人は勢力(せいりよく)を得(え)て後(のち)も実(じつ)に質素(しつそ)の人で思(おも)ひ出草(いでぐさ)と云ふものゝ中(なか)に輝政(てるまさ)の事を記(しる)して
姫路(ひめぢ)の城(しろ)に住給(すみたま)ひし時(とき)居間(ゐま)の竹水筒(たけすゐとう)しば〳〵損(そん)しけるゆへ有司(ゆうじ)とも今世上(いませぜう)にて水筒(すゐとう)を銅(あかがね)にて作(つく)る
事はやり申なり一 度(ど)拵(こしら)へ候へは何時(いつ)迄(まで)も損(そん)せぬゆへに倹約(けんやく)にもなるへしと乞(こ)ひければ其(その)方(はう)とも云ふ
如(ごと)く一 度(ど)に物(もの)を入(い)れて後(あと)の為(ため)にはなるへけれと今(いま)費(つひや)す所(ところ)竹(たけ)とは大(おほい)に相違(さうゐ)あるべし何事(なにごと)も世(よ)につれて
旧(きう)を改(あらた)むるよからぬ事なりと仰(あふ)せられて其(その)儀(ぎ)止(や)みぬ
と書(か)いてあるような次第(しだい)であるトコロが巳(おの)れの此(こ)の質素(しつそ)倹約(けんやく)なるに似(に)ず其(その)家直(いへなほ)に対(たい)しては頗(すこぶ)る厚遇(こうぐう)を
《割書:輝政士を愛|す》 与(あた)へたもので又(ま)た名士(めいし)とあれば勉(つと)めて之(これ)を召抱(めしかゝ)へたのである即(すなは)ち自(みづか)ら奉(ほう)ずるに薄(うす)く人を遇(ぐう)するに厚(あつ)し
と云ふ事を能(よ)く実行(じつこう)した人であるが或時(あるとき)老臣共(らうしんども)が輝政(てるまさ)の余(あま)りに倹素(けんそ)であるのを見兼(みか)ねて少(すこ)しは寛(かん)にせ
られたらば如何(いかゞ)であろうかと云ふ事を申上(もうしあげ)た処が輝政(てるまさ)が云ふには成程(なるほど)自分(じぶん)にも倹(けん)に過(す)ぐると云ふ事は
知(し)つて居(を)るが如何(いかん)せん斯(か)くあらでは家来(けらい)を多(おほ)く召抱(めしかゝ)ゆることは出来(でき)ぬ今(いま)は世(よ)が静(しづか)であつても何時(いつ)乱(みだ)るゝ
事があるかも分(わか)らぬ此(この)上(うへ)にも欲(ほ)しきものは武士(ぶし)であるから無益(むえき)の入費(にふひ)を省(はぶ)いて人を多(おほ)く抱(かゝ)ゆるのが予(よ)
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十五
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十六
【本文】
の楽(たのし)みであると答(こた)へたと云ふのであるが有斐録(ゆうひろく)の中(なか)にも輝政(てるまさ)が平素(へいそ)身分(じしん)には極(きは)めて質素(しつそ)な暮(くら)しをして
居(を)つた事を記(しる)した後(あと)に
是(こゝ)にて当時(とうじ)御質素(おんしつそ)なる事 思(おも)ひ知(し)るべし唯(たゞ)武備(ぶび)御人数(ごにんずう)にのみ御心(おこゝろ)を用(もち)ひ給(たま)ひ世(よ)に名(な)ある浪士(らうし)をは高知(かうち)
にて被召出(めしいだされ)御忠節(ごちうせつ)を被励(はげまされ)或時(あるとき)厠(かはや)に被為入(いらせられ)けしからぬ御声聞(おんこゑきこ)へける故(ゆゑ)御側(おそば)の人々 驚(おどろ)き走(はしつ)て奉伺(ほうし)御機(ごき)
嫌(げん)は郷御笑(けいおんわらひ)被遊候(あそばされそうろ)て我(われ)常(つね)に軍旅(ぐんりよ)の事のみ工夫(くふう)を凝(こら)す今(いま)も図(づ)にあたりたると思(おも)ふとあるに付(つき)我(われ)なら
ず斯(か)く之 有(あり)つらめあやしむことなかれ沙汰(さた)なし〳〵と御意被遊(ぎよいあそばされ)と老人(らうじん)の語(かた)り伝(つた)ふるあり
と云ふ事が載(の)せてあるソウ云ふ訳(わけ)であるから関(せき)ヶ原(はら)の役(えき)後(ご)などは特(とく)に浪人共(ろうにんども)が輝政(てるまさ)の処へ行(い)つて住(す)み
込(こ)むだもので前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べて置(お)いた牧野傳蔵成里(まきのでんざうなりさと)の如(ごと)きも矢張(やはり)此(この)人(ひと)に依(よ)つたのであるが輝政(てるまさ)は頗(すこぶ)る之(これ)
を優遇(ゆうぐう)し飽(あ)くまでも其(その)世話(せわ)をして遂(つひ)に家康(いへやす)に面会(めんくわい)せしめ旗本(はたもと)にまで引立(ひきたて)つるようにしたのであるそれ
等(ら)の親切(しんせつ)と云ふものは到底(とうてい)普通(ふつう)では出来(でき)ぬ事であると思(おも)ふがこう云ふ風(ふう)であるから輝政(てるまさ)は又(ま)た人に向(むか)
《割書:克く過を改|む》 つては頗(すこぶ)る寛大(かんだい)で自身(じしん)には克(よ)く過(あやまち)を改(あらた)めたと云ふ人であるソレにも種々(しゆ〳〵)なる資料(しれう)がある事であるが
《割書:租税を軽く|す》 先(ま)づ租税(そぜん)の幾分(いくぶん)を免除(めんぢよ)した事蹟(じせき)が諸処(しよ〳〵)に残(のこ)つて居(を)るのは其一である常山記談(じようざんきだん)にある左(さ)の記事(きじ)なども甚(はなは)
だ面白(おもしろ)い事であると思(おも)ふから抄録(しようろく)する
輝政(てるまさ)公(こう)武将(ぶせう)の重宝(じゆうほう)とすべきは領分(れうぶん)の百 姓(せう)と譜代(ふだい)の士(し)と鶏(にはとり)と三品なりそれを如何(いかん)と云ふに百 姓(せう)は田(た)
畑(はた)を作(つく)りて我上下(わがぜうげ)の諸卒(しよそつ)をやしなふ是(こ)れ一つの重宝(じようほう)なり譜代(ふだい)の士(し)たとへ気(き)に不応(おうぜず)して扶持(ふち)を放(はな)すと
いへども敵国(てきこく)にて彼者(かのもの)を実(じつ)に扶持(ふち)放(はなし)たると不思(おもはず)して間(ま)にも入(い)るゝかと思(おも)ふて疑(うたが)ふゆへに敵国(てきこく)に逗留(とうりう)
することあたはずして終(つひ)には我国(わがくに)へ帰(かへつ)て我兵(わがへい)となるゆへこれ二つの宝(たから)なり又(また)目(め)に見(み)ゆる相図(あひづ)耳(みゝ)に聞(きこ)ゆ
る相図(あひづ)は敵(てき)の耳目(じもく)にかゝることゆへにたやすく敵国(てきこく)にてなしがたし鶏鳴(けいめい)は唯(たれ)もその相図(あひづ)ぞと知(し)らざる
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百四十号附録 ( 明治四十四年十二月十九日発行 )
【本文】
ゆへに即(すなは)ち敵国(てきこく)の鶏鳴(けいめい)にて一 番鳥(ばんどり)にて人衆(じんしゆう)を起(おこ)し二 番鳥(ばんどり)にて食(しよく)し三 番鳥(ばんどり)にて打立(うちたつ)などゝ相図(あひづ)を究(きはめ)て
敵(てき)もその相図(あひづ)を知(し)らざるの徳(とく)ありこれ三つの重宝(じゆうほう)なり是(これ)を三の重宝(じゆうほう)と立(たて)しと宣(のたま)ふなり
輝政の寛大 又(ま)た大日本史料(だいにつぽんしれう)の内(うち)に池田家履歴略記(いけだけりれきりやくき)を引(ひ)いて左(さ)の記事(きじ)があるが其(その)内(うち)の一つは此(この)吉田(よしだ)に於(おい)てあつた事
らしいから尚更(なほさ)ら好資料(こうしれい)だと思(おも)ふのである
参河(みかは)にての事成(ことなり)しが或時(あるとき)御祝(おんいはひ)の申楽(さるがく)を設(もう)けられしにけふは何(なに)ほと大音(だいおん)にてもほめん事(こと)苦(くる)しからず若(もし)
諍論(そうろん)などする者(もの)あらば理非(りひ)の弁(わきまへ)なく罪(つみ)すべしと令(れい)ありみつからも其技(そのぎ)をし給(たま)ふ折(をり)ふし拝見(はいけん)の中(なか)に
口論(こうろん)起(おこ)りすでに掴合(つかみあひ)ける故(ゆへ)八田八蔵 梶浦太郎兵衛(かじうらたろべゑ)など走(はし)り行(ゆき)て取静(とりしづ)め双方(そうほう)をあづけ置(おい)て御前(ごぜん)に帰(かへ)り
しかば先(さき)にさわがしきは何事(なにごと)ぞと御尋有(おたづねあり)太郎兵衛(たろべゑ)あれは山椒(さんしよ)にむせ候を傍(かたはら)ゟ介抱(かいほう)いたし候也 遠(とほ)く
見候(みそうら)へは誠(まこと)に喧嘩(けんくわ)の様(やう)に見(み)え候と申(もう)す国清公(こくせいこう)聞(きこ)し召(めし)それははや快(よき)か汝(なんぢ)見(み)て帰(かへ)れと仰(あふせ)ければ太郎兵衛(たろべゑ)
参(まゐ)りはやよく候と申(もうす)晩(ばん)に件(くだん)の両人(れうにん)御前(ごぜん)に伺公(しこう)しければけふの山椒(さんしよ)は出来事(できごと)ぞやと仰(あふせ)あり同公(どうこう)常(つね)に芹(せり)
を嗜(たしな)み給(たま)ひ備前国(びぜんのくに)御野郡(みのごほり)に生(せう)ずるを上品(ぜうひん)とせられ此(この)芹(せり)をとる事を禁(きん)じ給(たま)ふ或士(あるし)是(これ)を盗(ぬす)む百 姓共(せうども)其(その)旨(むね)
を萩田庄助(はぎたせうすけ)に訴(うつた)ふ庄助(せうすけ)又(また)其(その)由(よし)を申(もうし)ければ扨々(さて〳〵)にくき事かな夫(それ)は只(たゞ)取(とり)たるか但(たゞ)しは盗(ぬす)みたるかと仰(あふせ)け
る庄助(せうすけ)盗候(ぬすみそうろ)と申(もう)す重(かさね)て仰(あふせ)に我等(われら)より留置(とめおき)たるをおして取(とり)たらば一入(ひとしほ)にくき事ぞ盗(ぬすみ)たるは必定(ひつでう)我等(われら)
にひとしき芹(せり)すきにてや有(あり)けん其(その)侭(まゝ)にして置(おく)へしとぞ仰(あふせ)ける
《割書:克く過を改|む》 此(かく)の如(ごと)く輝政(てるまさ)は民(たみ)を恤(めぐ)み士(し)を愛(あい)し最(もつと)も寛大(かんだい)の行(おこなひ)か多(おほ)かつたが又(ま)た克(よ)く過(あやまち)を改(あらた)めたと云ふ例(たとへ)としては
備陽武義雑談(びやうぶぎざつだん)の中(なか)に左(さ)の記事(きじ)がある
八田豊後郷(はつたぶんごごう)の刀(かたな)を所持(しよじ)す無銘(むめい)二尺三寸のよしなり播磨姫路(はりまひめぢ)にて国清公(こくせいこう)右(みぎ)の刀(かたな)を指上(さしあげ)よと度々(たび〳〵)仰(あふせ)らる
れども奉(たてまつ)らすある夜(よ)御酒(ごしゆ)の後(のち)豊後(ぶんご)をめし度々(たび〳〵)所望(しよもう)する刀(かたな)を出(いだ)せと仰(あふせ)らる豊後(ぶんご)云(いふ)度々(たび〳〵)御断(おんことはり)申上候(もうしあげそうろ)通(とほり)
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十七
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十八
【本文】
代々(だい〳〵)所持仕候(しよじつかまつりそうろ)刀(かたな)是(これ)を以(もつ)て御馬先(おんうまさき)を仕(つかまつ)るへしと心懸(こゝろがけ)居申(おりまうし)候へは指上(さしあげ)る事(こと)罷(まかり)ならすといふ其(その)時(とき)に国(こく)
清公(せいこう)怒(いか)りたまひてなげしにある薙刀(なぎなた)を取(とり)たまふ所(ところ)を豊後(ぶんご)扇(あふぎ)を以(もつ)て御顔(おんかお)をしたゝかに打奉(うちたてまつ)りて退出(たいしゆつ)
す元来(がんらい)御酒酔(おんさけよひ)の後(のち)の事(こと)なれは御側(おそば)の衆(しゆう)取鎮(とりしづ)め豊後(ぶんご)はわれ等(ら)に仰付(あふせつけ)られ候へと押留(おしとゞめ)奉(たてまつ)る其(その)後(のち)良(よく)あり
て御酔醒(おんよひざめ)の後(のち)深更(しんかう)に及(およ)ふといへとも豊後(ぶんご)を召(めさ)る豊後(ぶんご)御手討(おてうち)ならんと覚悟(かくご)して即(すなは)ち登城(とじよう)す直(たゞち)に御寝所(ごしんじよ)
へ召(めし)て仰(あふせ)には我(われ)酒(さけ)に酔(よひ)て其(その)方(ほう)を手討(てうち)にせんと仕(し)たりき我(われ)誤(あやま)れり其(その)方(ほう)少(すこし)も心(こゝろ)にかくるなと仰(あふせ)らる豊後(ぶんご)
不覚(おぼへず)落涙(らくるい)して退出(たいしゆつ)す国清公(こくせいこう)の御行跡(おんぎようせき)大(おほ)かた此(この)類(るい)多(おほ)しとかや
《割書:輝政士を愛|す》 モツトモ此(この)話(はなし)は八田豊後(はつたぶんご)と云ふ士(し)の剛直(がうちよく)な処も味(あぢは)ふべきであるが兎(と)に角(かく)輝政(てるまさ)が善(よ)い家臣(かしん)を多(おほ)く持(も)つて
居(を)つたと云ふ事は敬服(けいふく)すべき処で池田家履歴略記(いけだけりれきりやくき)にある左(さ)の話(はなし)などは誠(まこと)に其(その)由(よつ)て来(きた)る処が伺(うかゞ)ひ知(し)らる
ゝように思(おも)ふのである
山脇源太夫(やまわきげんだいう)《割書:はしめ荒木摂津守村重につかへ荒|木滅亡の後池田家に来りつかふ》播州姫路(ばんしうひめぢ)にて煩(わずら)ひ薬師(やくし)手(て)を尽(つく)しけれとも其(その)験(しるし)なしされは京師(けうし)
にのほりて保護(ほご)を加(くは)ふへしと国清公(こくせいこう)の仰(あふせ)にて都(みやこ)に上(のぼ)り僑居(きようきよ)にて医療(ゐれう)せり此(この)時(とき)御見舞(おんみまひ)として山脇市太(やまわきいちだ)
夫(いう)に御直筆(おんぢきしつ)の御書(おんしよ)を持(もた)せて病(やまひ)を問(とひ)給(たま)ふ御書(おんしよ)の詞(ことば)には彼(かれ)か病(やまひ)の躰(てい)委(くわし)く御尋(おんたづね)ありしうへに近々(きん〳〵)旅宿(りよしゆく)へ御(おん)
出有(いである)へきとの御事(おんこと)也(なり)やかて姫路(ひめぢ)を御発駕(ごはつが)ありはる〳〵と山脇源太夫(やまわきげんだいう)か都(みやこ)の宿(やど)に入(い)らせ容躰(ようたい)いとねん
ころに訪(とひ)給(たま)ひ申置(もうしおき)たき事(こと)あらば申(もうす)べしと再(さい)三 仰有(あふせあり)けれは山脇(やまわき)答申(こたへもうし)けるは何申置事(なにもうしおくこと)も候(そうら)はず只(たゞ)某(それがし)
手前(てまへ)に年頃罷在候者(としごろまかりありそうらうもの)六 人(にん)毎度(まいど)いくさに私(わたくし)為(ため)に働(はたらき)たる者共(ものども)に候(そうろ)彼(かれ)をめし出(だ)され候はばやと申(もうし)
けれはいとやすき望也(のぞみなり)とて御落涙(ごらくるい)ありし扨(さて)御手水(おてふづ)に立給(たちたま)ふ西村小兵衛(にしむらこへゑ)御手水(おてふづ)まいらすれは汝(なんぢ)も六人
の内(うち)かと仰(あふせ)けれは西村(にしむら)平伏(へいふく)して罷在(まかりあ)るかくて源太夫(げんだいう)は日(ひ)にましよはりゆき終(つひ)に八月十九日 京師(けうし)に死(し)
す五十四歳也 此(この)源太夫(げんだいう)は雄功(ゆうこう)の士(し)にて三十三の首供養(くびくやう)せし程(ほど)の者也(ものなり)《割書:中|略》国清公(こくせいこう)山脇(やまわき)か遺言(ゐげん)にまかせ西(にし)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
村小兵衛(むらこへゑ)、 岡島新兵衛(をかじましんべゑ)、 古澤源之丞(ふるさはげんのじよう)、 福島(ふくしま)四 郎左衛門(ろざゑもん)、○○○○○六人を召出(めしいだ)されしと云(いふ)
《割書:伊木清兵衛|の諫言》 トコロが輝政(てるまさ)も初(はじ)めは成(な)るべく少(すくな)い扶持(ふち)で割合(わりあひ)によい士(し)を召拘(めしかゝ)へたいと思(おも)つたがそれは大(だい)なる誤(あやまり)で
あると云ふ事を覚(さと)つたものと見(み)ゆるので其(その)動機(どうき)とも云ふべき左(さ)の話(はなし)は矢張(やはり)備前老人物語(びぜんらうじんものがたり)の内(うち)にある事
であるが之(これ)亦(ま)た甚(はなは)だ味(あぢは)ふべきものであると思(おも)ふ
池田(いけだ)三 左衛門殿(ざゑもんどの)の家老(からう)伊木清兵衛(いきせいべゑ)病(やまひ)にふしてすてに末期(まつご)に臨(のぞみ)しに我(われ)今生(こんぜう)の望(のぞみ)ある也 今(いま)一 度(ど)君(きみ)の御目(おめ)
にかゝりたき也とありけれは三 左衛門殿(ざゑもんどの)きこしめし驚(おどろき)給(たま)ひいそきその家(いへ)にいたり枕(まくら)にちかつき給(たま)
ひいかに清兵衛(せいべゑ)心(こゝろ)はなにとあるそかほとの事ともしらさりしこそ疎(うとく)なりけれおもふ事あらはいひを
くへしその望(のぞみ)にしたかふへし本(もと)より跡目(あとめ)相違(さうゐ)あるましきとはいふにおよはすといとねんころに仰(あふせ)ら
れけり其(その)時(とき)清兵衛(せいべゑ)頭(かしら)をあけ両手(れうて)を合(あはせ)これ迄(まで)の入御(にふぎよ)ありかたし〳〵冥加(めいが)至極(しごく)せり遺跡(ゐせき)のことは愚息(ぐそく)か
覚悟次第(かくごしだい)に仰付(あふせつけ)らるへしとにもかくにも御(おん)はからひによる事(こと)なれはいさゝかも心(こゝろ)にかゝる事候(ことそうら)はす
たゝ一つ申(もうし)たき事候(ことそうら)へはこれを申(もう)さすしてむなしくなりなん事(こと)忘執(ぼうしつ)なるべけれは乍恐申(おそれながらもう)す也 公(こう)常(つね)
に物(もの)ことにほり出(だ)しをこのませ給(たま)ふ御病(おんくせ)あり中(なか)にも士(し)のほり出(だ)しを専(もつぱら)とし給(たま)ふことよからぬ御病(おんくせ)也 士(し)
はその分限(ぶんげん)よりは一 際(きは)よろしくあてかはせ給(たま)ひてこそ長(なが)く御家(おいへ)を不去(さらず)忠節(ちうせつ)を存(ぞん)ずへけれと申(もう)しけれ
は三 左衛門殿(ざゑもんどの)つく〳〵と聞給(きゝたま)ひ只今(たゞいま)の諫言道理至極(かんげんどうりしごく)せり其(その)志(こゝろざし)山(やま)よりも高(たか)く海(うみ)よりも深(ふか)し生前(せいぜん)にお
ゐて忘却(ぼうきやく)すへからすこゝろやすくおもふへしとて清兵衛(せいべゑ)か手(て)をとりなみだを流(なが)しなごり惜(おし)けにわか
れ給(たま)ひたりけり君臣(くんしん)の情(じよう)あわれなりしありさま也そののち家風(かふう)ます〳〵よくなりしとそ
矮 舞 其(その)他(た)輝政(てるまさ)の逸話(いつわ)に関(くわん)してはまだ〳〵沢山(たくさん)に伝(つた)へられて居(を)るのであるが大日本史料(だいにつぽんしれう)第(だい)十二 編(へん)の十一 輝政(てるまさ)
卒去(そつきよ)の処(ところ)に参考(さんこう)として諸種(しよしゆ)の書物(しよもつ)からも抄出(しようしゆつ)せられてある特(とく)に岡山市(をかやまし)国清寺(こくせいじ)所蔵(しよざう)の肖像(せうぞう)並(ならび)に其(その)自筆(じしつ)の
【欄外】
豊橋市史談 (池田輝政の人物) 百七十九
【欄外】
豊橋市史談 (関ケ原役) 百八十
【本文】
文書(ぶんしよ)なども掲載(けいさい)になつてあるから詳(くは)しい事(こと)は先(ま)づ之(これ)等(ら)に就(つい)て見(み)られたいものであると思ふが尚(なほ)一つ御(お)
話(はなし)して置(お)きたいのは輝政(てるまさ)が頗(すこぶ)る矮小(わいせう)なる人であつたと云ふ事である或俗書(あるぞくしよ)には其丈(そのたけ)四尺に満(み)たずとし
てあるが之(これ)は余(あま)りに信(しん)ぜられぬように思(おも)ふモツトモ其頃(そのころ)の寸尺(すんしやく)と云ふものは今日(こんにち)のものとは違(ちが)つて居(を)
るであろうから何(なん)とも云へぬが思(おも)ひ出草(いでぐさ)の中(なか)にも
輝政卿同輩(てるまさきやうどうはい)の大名宴会(だいみようえんくわい)の座(ざ)にしてその矮人(わいじん)たるを笑(わら)ふものありけれはさらは予矮舞(よぜいびくまい)といふ新曲(しんきよく)をな
すへしとつと立(たち)あかりたまひ自(みづか)らせいひく舞(まひ)を見(み)さいなと打返(うちかへ)し囃(はや)したまひ播磨(はりま)、備前(びぜん)、淡路(あはぢ)と三
箇国(かこく)のぬしなれはせいほしとも思(おも)はすとうたひなから舞(まひ)たまひしかは座中興(ざちうけう)に入(いり)たりといひ伝(つたひ)たり
と云(い)ふ事(こと)があるから其(その)躯幹(くかん)は人並外(ひとなみはづ)れて低(ひく)かつたものであつた事は事実(じゞつ)であると信(しん)ずるのである之(これ)か
ら関(せき)ケ原(はら)役(えき)に関(くわん)して御話(おはなし)したいと思ふ
◎関ケ原役
之(これ)から関(せき)ケ原(はら)役(えき)に関(くわん)して少(すこ)しく申述(もうしの)べたいと思(おも)ふのであるがそれには先(ま)づ遡(さかのほつ)て秀吉(ひでよし)晩年(ばんねん)の事柄(ことがら)を概(がい)
説(せつ)する必要(ひつよう)があると思(おも)ふ
秀吉の晩年 前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もうしの)べた如(ごと)く秀吉(ひでよし)は天正(てんせう)十二年に大阪城(おほさかじよう)が出来上(できあが)つて之(これ)に住(す)むだのであるが此年(このとし)から又(ま)た京(けう)
都(と)聚楽(しうらく)の邸(てい)を造営(ぞうえい)し其(その)十五年に至(いた)つて落成(らくせい)したのである而(しか)も其(その)十八年には小田原(をだはら)の北条氏(ほうでうし)を亡(ほろ)ぼし続(つゞ)
いて東北(とうほく)を平定(へいてい)し全(まつた)く天下(てんか)を掌握(せうあく)したのであるが天正(てんせう)は十九年まで続(つゞ)いて其(その)廿年に至(いた)つて文禄(ぶんろく)と改元(かいげん)
されたのである即(すなは)ち朝鮮征伐(てうせんせいばつ)の軍(ぐん)は此年(このとし)に起(おこ)されたので小西(こにし)行長(ゆきなが)加藤清正(かとうきよまさ)等(ら)を初(はじ)め中国(ちうごく)四 国(こく)九 州(しう)の諸(しよ)
候(こう)は皆之(みなこれ)に従軍(じんぐん)し秀吉(ひでよし)は自(みづか)ら肥前(ひぜん)の名護屋(なごや)に出張(しゆつてう)して之(これ)を指揮(しき)したのである之(これ)より先(さ)き秀吉(ひでよし)は天正(てんせう)十
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百四十六号附録 (明治四十四年十二月二十六日発行)
【本文】
《割書:秀吉関白職|を秀次に譲》 九年に其異母妹(そのゐぼまい)の子(こ)秀次(ひでつぐ)を養(やしなつ)て子(こ)となし之(これ)に関白職(くわんぱくしよく)を譲(ゆづ)つて自(みづか)らは太閤(たいかう)と称(せう)したのであるが元来(がんらい)
《割書:る | 》
秀吉(ひでよし)には正妻(せいさい)に子(こ)がなかつたのである然(しか)るに織田信長(をたのぶなが)の妹(いもと)で浅井長政(あさゐながまさ)に嫁(か)した人(ひと)があつて之(これ)が三人の
女子(ぢよし)を生(うそ)むだが浅井氏(あさゐし)滅亡後(めつぼうご)柴田(しばた)勝家(かついへ)に再嫁(さいか)した時(とき)此(この)三人の女子(ぢよし)をも連(つ)れて行(い)つたのである其後(そののち)御承(ごせう)
知(ち)の通(とほ)り勝家(かついへ)も亦(ま)た滅亡(めつほう)したので織田氏(をたし)は自刃(じじん)したが三 女子(ぢよし)は秀吉(ひでよし)の養(やしな)ふ処となり後(のち)に秀吉(ひでよし)は其長女(そのてうぢよ)
淀君 を容(い)れて己(おの)れの妾(めかけ)となしたのである之(これ)が即(すなは)ち有名(ゆうめい)なる淀君(よどぎみ)であるが天正十七年五月 此(この)淀君(よどぎみ)の腹(はら)に初(はじ)め
て鶴松(つるまつ)と云ふ子(こ)が生(うま)れたのである然(しか)るに其翌年(そのよくねん)の八月に夭(よう)したので秀吉(ひでよし)は一 方(かた)ならず哀(かなし)むで前(まへ)に申述(もうしの)
べた如(ごと)く其年(そのとし)の十一月 秀次(ひでつぐ)を養子(やうし)とし十二月 直(たゞ)ちに内大臣(ないだいじん)に任(にん)じ関白(くわんぱく)となさるゝに至(いた)つたのであるト
コロで其翌文禄元年(そのよくぶんろくがんねん)外征(ぐわいせい)の師(し)が起(おこ)つて秀吉(ひでよし)は名護屋(なごや)へ出張(しゆつてう)することとなつたのであるが此時(このとき)亦(ま)た小田原(をだはら)
征伐(せいばつ)の吉例(きちれい)に倣(なら)ひ淀君(よどぎみ)を伴(ともな)つたのであるトコロが其内(そのうち)に妊娠(にんしん)したので大坂(おほさか)に還(かへ)し文禄(ぶろく)二年八月三日 男(だん)
秀頼生る 子(し)を出生(しゆつせい)したのが秀頼(ひでより)であるソコで秀吉(ひでよし)の愛(あい)は偏(ひとへ)に此(この)秀頼(ひでより)に集(あつ)まる事となつたので此児(このこ)を見(み)る為(ため)に態(わざ)
態(わざ)名護屋(なごや)から大坂(おほさか)に皈(かへ)つたと云ふ位(くらひ)であるモツトモ秀吉(ひでよし)は時(とき)に五十七歳で追々(おひ〳〵)老年(らうねん)に近(ちか)づく処から情(ぜう)
愛(あい)も濃厚(のうこう)となつた事であろうが兎(と)に角(かく)此児(このこ)の為(ため)にはあらゆる方法(はうほう)を以(もつ)て福利(ふくり)を増(ま)さむ事を計(はか)つた様子(やうす)
石田三成 が見(み)ゆるのであるソコで此(この)弱点(じやくてん)に付(つ)け入(い)つたのが石田三成(いしだみつなり)である三成(みつなり)と云ふ人は頗(すこぶ)る才気(さいき)に余(あまり)あつた
ので淀君(よどぎみ)の甘心(かんしん)を得従(えしたがつ)て秀吉(ひでよし)にも気(き)に入(い)られたのであるが世(よ)の伝(つた)ふる如(ごと)き小人(せうにん)でもなかつたであろう
と思(おも)ふ併(しか)し淀君(よどぎみ)の参謀(さんぼう)となつて秀頼(ひでより)を世(よ)に立(た)つる為(た)めに秀次(ひでつぐ)を除(のぞ)く事を計(はか)つたものであるのは事実(じじつ)の
上(うへ)から観測(くわんそく)し得(え)らるゝ事と思(おも)ふのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く此事(このこと)に就(つい)ては秀次(ひでつぐ)の方(ほう)にも大(たい)なる欠点(けつてん)がある
ので其後(そののち)と云ふものは一 層(そう)自暴自棄(じばうじき)の様子(やうす)があつて無辜(むこ)を殺(ころ)し残忍(ざんにん)の所為(しよゐ)が多(おほ)く世(よ)に殺生(せつせう)関白(くわんぱく)と噂(うはさ)せ
られた程(ほど)であるから何(なん)と云はれても致方(いたしかた)はないのであるが其処(そこ)には又(ま)た讒間(ざんかん)が巧(たく)みに入(い)つたので秀吉(ひでよし)
【欄外】
豊橋市史談 (関ケ原役) 百八十一
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百八十二
【本文】
秀次亡ぶ は全(まつた)く之(これ)が為(ため)に誤(あやま)られて直(たゞ)ちに秀次(ひでつぐ)を以(もつ)て己(おの)れに対(たい)する謀逆人(ぼうぎやくにん)となして実(じつ)に残酷(ざんこく)なる処置(しよち)をなしたの
である之(これ)も諸君(しよくん)の御承知(ごせうち)の通(とほ)りで秀次(ひでつぐ)は文禄(ぶんろく)四年七月 高野山(かうやさん)に於(おい)て自殺(じさつ)し其(その)妻妾(さいせう)等(ら)は残(のこ)らず京都(けうと)洛中(らくちう)
を引廻(ひきまは)されて三 条河原(でうがはら)で斬(き)られたのであるが夫(それ)のみならず近臣(きんしん)のものも彼所(かしこ)此所(こゝ)で段々(だん〳〵)と誅(ちう)せられ殊(こと)
に秀次(ひでつぐ)と親密(しんみつ)の交際(こうさい)があつたものは遠流(ゑんりう)に処(しよ)せられ又(また)は厳譴(げんせき)を蒙(かうむ)つたのである而(しか)して秀吉(ひでよし)の命(めい)を受(う)け
て此(この)事(こと)を決行(けつこう)したのは三成(みつなり)等(ら)で当時(とうじ)京都(けうと)の辻々(つじ〳〵)には誰(たれ)がなしたとなく左(さ)の如(ごと)き貼札(はりふだ)があつたと云(い)ふ事(こと)
である
天下(てんか)は天下(てんか)の天下(てんか)なり関白家(くわんぱくけ)の罪(つみ)は関白家(くわんぱくけ)之(の)例(れい)を引(ひき)可被行之事(これをおこなはれべきこと)
尤理之正当(もつともりのせいとう)なるべきに平人(へいじん)の妻子(さいし)などのやうに今日(こんにち)狼藉(らうぜき)甚(はなはだ)以(もつて)自由(じゆう)なり行末(ゆくすへ)めてたかるべき政道(せいどう)に
非(あら)ず吁(あゝ)因果(ゐんぐわ)のほど御用心(ごようじん)候(そうら)へ〳〵
世中(よのなか)は不昧(ふまい)因果(ゐんぐわ)の小車(こぐるま)やよしあしともにめぐりはてぬる
かくの如(ごと)き訳(わけ)でよく〳〵考(かんがへ)て見(み)ると天下(てんか)の英雄(えいゆう)秀吉(ひでよし)の晩年(ばんねん)も実(じつ)に寒心(かんしん)すべき運命(うんめい)であると思(おも)ふが此(この)時(とき)
に方(あた)つて外征(ぐわいせい)の情況(ぜうけう)は如何(いかゞ)であるかと云ふに之(これ)亦(ま)た御承知(ごせうち)の如(ごと)くで出征(しゆつせい)早々(さう〳〵)我(わが)陸軍(りくぐん)は連戦連勝(れんせんれんせう)の勢(いきほひ)
で平壌(へいぜう)まで進入(しんにふ)し清正(きよまさ)の如(ごと)きは咸鏡道(かんきようどう)にまでも攻(せ)め入(い)つたのであるが其(その)中(うち)に明国(みんこく)から和議(わぎ)の申込(もうしこみ)があ
戦勝と外交 つて戦(たゝかひ)には勝(か)つたが外交(ぐわいこう)には負(ま)けた形(かたち)があつて出征(しゆつせい)の将士(せうし)は遂(つひ)にべん〳〵と月日(つきひ)を送(おく)つた様(やう)な訳(わけ)とな
つたのである文禄(ぶんろく)五年は即(すなは)ち慶長(けいてう)元年(がんねん)と年号(ねんごう)が改(あらた)まつたのであるが此(この)年(とし)和議(わぎ)も漸(やうや)く成立(せいりつ)する事となつ
て諸将(しよせう)は一たび皈朝(きてう)したのであるが明国(みんこく)から贈(おく)つた封冊(ふうさつ)の事から秀吉(ひでよし)の怒(いかり)に触(ふ)れ其(その)年(とし)九月 再(ふたゝ)び外征(ぐわいせい)の
師(し)を起(おこ)す事となつたので之(これ)に関係(くわんけい)の人々も遂(つひ)には在陣(ざいぢん)の久(ひさ)しき戦(たゝかひ)に倦(う)むようなこと事にもなつたのであ
る此(かく)の如(ごと)き間(あひだ)に秀吉(ひでよし)自身(じしん)も亦(ま)た漸(やうや)く安慰(あんい)の念(ねん)が生(せう)して奮励(ふんれい)の勇気(ゆうき)が失(うしな)はれ段々(だん〳〵)と驕奢(きようしや)に流(なが)れて逸楽(いつらく)を
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
事とするに至(いた)つたのである先(ま)づ文禄(ぶんろく)三年二月から三月にかけての吉野観桜(よしのくわんわう)並(ならび)に高野詣(かうやまうで)の如(ごと)きは有名(ゆうめい)の
桃山城 ものであるが例(れい)の伏見桃山城(ふしみもゝやまのしろ)の造営(ざうえい)と云ふものも亦(ま)た此(この)頃(ころ)であつて之(これ)は文禄(ぶんろく)三年の正月から初(はじ)まつて
其四年三月に竣工(しゆんこう)したのであるが其(その)規模(きぼ)並(ならび)に結構(けつこう)と云ふものは実(じつ)に雄大(ゆうだい)のもので頗(すこぶ)る豪邁(ごうまい)の風(ふう)を帯(お)び
て居(を)つたが又(ま)た最(もつと)も数寄(すき)を凝(こ)らしたもので今日(こんにち)では詳(つまびらか)に其(その)位置(ゐち)なども分(わか)らぬようになつて居(を)
るが今(いま)の伏見町(ふしみまち)などは殆(ほとん)ど其(その)郭内(くわくない)に当(あた)るので京都(けうと)宇治(うぢ)の間(あひだ)にあつて淀川(よどがは)を扣(ひか)へ其(その)趣味(しゆみ)眺望(てうぼう)と云(い)ふもの
も思(おも)ひやらるゝのであるが今(いま)の西本願寺(にしほんぐわんじ)の唐門(からもん)、 飛雲閣(ひうんかく)、 浪(なみ)の間(ま)、 客殿(きやくでん)、 豊国神社(ほうこくじんしや)の唐門(からもん)、 其(その)他(た)江州(こうしう)
竹生島(ちくぶじま)の観音堂(くわんおんどう)、 都久夫須麻神社(つくふすまじんしや)の拝殿(はいでん)、 紫野(むらさきの)の大徳寺(たいとくじ)の唐門(からもん)などは其(その)一 部分(ぶぶん)を移転(いてん)したものである
と云ふ事であるから之(これ)でも当時(とうじ)の趣致(しゆち)が如何(いか)に一 種(しゆ)の特長(とくてう)を発揮(はつき)して居(を)るかゞ分(わか)ると思(おも)ふのである其(その)
醍醐の花見 後(のち)秀吉(ひでよし)は慶長(けいてう)三年三月 又(ま)た醍醐(だいご)の三 宝院(ほういん)に花見(はなみ)をやつたが之(これ)が中々(なか〳〵)盛(さかん)な事で云(い)はゞ最後(さいご)の催(もよほし)であつた
秀吉薨去 のである即(すなは)ち此(この)花見(はなみ)の後(のち)僅(わづか)に二ヶ月で端(はし)なく病気(びやうき)となつて其(その)年(とし)の八月十八日には遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つた
《割書:外征の師還|る》 のであるがソコで外征(ぐわいせい)の師(し)も遂(つひ)に召(め)し還(かへ)す事となつて順次(じゆんじ)撤兵(てつぺい)に取(とり)かゝり此(この)年内(ねんない)に孰(いづ)れも帰朝(きてう)して伏(ふし)
見(み)に至(いた)つたので此(この)問題(もんだい)丈(だけ)は先(ま)づ此処(こゝ)に其(その)局(きよく)を結(むす)ぶに至(いた)つたのである
然(しか)るに此(この)秀吉(ひでよし)の末期(まつご)と云ふものは実(じつ)に悲惨(ひさん)な訳(わけ)のもので前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り慶長(けいてう)三年の五月から病(やまひ)が起(おこ)
つて伏見(ふしみ)の桃山城(もゝやまのじよう)で療養(れうやう)して居(を)つたが其(その)世嗣(よつぎ)たる秀頼(ひでより)はまだ六歳で其(その)行末(ゆくすゑ)は頗(すこぶ)る案(あん)じられる事であつ
たのである其上(そのうへ)前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)き事情(じぜう)で石田三成(いしだみつなり)等(ら)の一 派(ぱ)は深(ふか)く淀君(よどぎみ)の勢力(せいりよく)に頼(よ)つたので文治派(ぶんぢは)とも
《割書:文治武断両|派の軌轢》 云ふべきものである而(しか)して加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)浅野長政(あさのながまさ)などと云ふような人々は所謂(いはゆる)武断派(ぶだんは)で之(これ)とは容(よう)
易(い)ならず相(あひ)反目(はんもく)する処があつたのである其(その)部下(ぶか)の事情(じぜう)が此(かく)の如(ごと)くであるのに又(ま)た秀吉(ひでよし)の最(もつと)も苦心(くしん)した
のは家康(いへやす)に対(たい)する関係(くわんけい)であつた事と思(おも)ふソコで病中(びようちう)六月十四日に当時(とうじ)の五 奉行(ぶぎよう)たる前田玄以(まへだげんい)浅野長政(あさのながまさ)
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百八十三
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百八十四
【本文】
増田長盛(ますだながもり)石田三成(いしだみつなり)長束正家(ながつかまさいへ)に命(めい)じ諸将(しよせう)をして同心協力(どうしんけうりよく)以(もつ)て秀頼(ひでより)に事(つか)ふることを誓(ちか)はしめたが之(これ)も誠(まこと)の表(ひよう)
面(めん)で諸将(しよせう)の内心(ないしん)に至(いた)つては到底(とうてい)相融和(あひゆうわ)するに至(いた)らなかつたのである従(したがつ)て其(その)間(あひだ)には色々(いろ〳〵)な事情(じぜう)も起(おこ)つた
が結局(けつきよく)秀吉(ひでよし)は家康(いへやす)をして天下(てんか)の政務(せいむ)を裁決(さいけつ)せしめ前田利家(まへだとしいへ)をして秀頼(ひでより)の傅(ぶ)とならしめ毛利輝元(もうりてるもと)上杉景(うへすぎかげ)
勝(かつ)宇喜多秀家(うきたひでいへ)等(ら)は其(その)間(あひだ)にあつて政治(せいぢ)を助(たす)くるようにと云ふので種々(しゆ〳〵)画策(くわくさく)命令(めいれい)する処があつたが秀吉(ひでよし)が
薨去(こうきよ)して外征(ぐわいせい)諸将(しよせう)が皈朝(きてう)した後(のち)は益々(ます〳〵)円滑(ゑんかつ)を保(たも)つ事が出来(でき)ない状態(ぜうたい)であつた慶長(けいてう)四年正月十日 秀頼(ひでより)は
大坂(おほさか)に移(うつ)る事になつて家康(いへやす)以下(いか)諸将(しよせう)は悉(こと〳〵)く之(これ)に従(したが)つたのであるが十一日の夜半(やはん)何者(なにもの)か家康(いへやす)の旅舘(りよくわん)を
窺(うかゞ)つたものがあつたと云ふので家康(いへやす)は翌日(よくじつ)早々(さう〳〵)伏見(ふしみ)に皈(かへ)つたのである爾来(じらい)伏見(ふしみ)にあつて政務(せいむ)を視(み)利家(としいへ)
は大坂(おほさか)にあつて秀頼(ひでより)の後見(こうけん)をして居(を)ると云ふ訳(わけ)になつたのであるが所謂(いはゆる)文治派(ぶんぢは)と武断派(ぶだんは)の軌轢(あつれき)は益々(ます〳〵)
止(や)まざるのみならず武断派(ぶだんは)のものは自然(しぜん)に家康(いへやす)に頼(よ)ることとなつて家康(いへやす)の勢威(せいゐ)が高(たか)まるに従(したが)ひ形勢(けいせい)は愈(いよ)
愈(〳〵)険悪(けんあく)と相成(あひな)つたのであるソコで三成(みつなり)等(ら)は家康(いへやす)を除(のぞ)かねば到底(とうてい)豊臣氏(とよとみし)の天下(てんか)は安穏(あんをん)でないと云ふので
《割書:家康私に婚|を約す》 毛利(もうり)宇喜多(うきた)上杉(うへすぎ)等(ら)と結(むす)むで之(これ)を計(はか)つたが其(その)頃(ころ)家康(いへやす)が公(おほやけ)の許(ゆるし)を得(え)ずに私(わたくし)に伊達(だて)、 福島(ふくしま)、 蜂須賀(はちすか)三 家(け)
へ婚約(こうやく)をしたと云ふので大坂(おほさか)から之(これ)を詰(なじ)つたので物情(ぶつぜう)は頗(すこぶ)る拘然(けうぜん)としたのである此(この)時(とき)池田輝政(いけだてるまさ)は矢張(やはり)
伏見(ふしみ)にあつて加藤清正(かとうきよまさ)、 浅野幸長(あさのゆきなが)、 福島正則(ふくしままさのり)、 黒田如水(くろだぢよすゐ)、 並(ならび)に其(その)子(こ)長政(ながまさ)、 蜂須賀家政(はちすかいへまさ)、 細川忠興(ほそかはたゞおき)(《割書:長|岡》)、
森忠政(もりたゞまさ)加藤嘉明(かとうよしあき)、 藤堂高虎(とうどうたかとら)、 京極高次(けうごくたかつぐ)、 金森長近(かねもりながちか)、 織田長益(をたながます)、 有馬則頼(ありまのりより)等(ら)の諸将(しよせう)と共(とも)に家康(いへやす)の邸(てい)を護(ご)
衛(ゑい)したのであるが遂(つひ)に大坂方(おほさかがた)と伏見方(ふしみがた)との対抗(たいこう)の如(ごと)き事情(じぜう)となつて一 方(ぽう)は利家(としいへ)を推(お)し一 方(ぽう)は家康(いへやす)を戴(いたゞ)
くと云ふような始末(しまつ)で遂(つひ)に細川忠興(ほそかはたゞおき)の如(ごと)き其(その)間(あひだ)に仲裁(ちうさい)を試(こゝろ)むるものあつて程(ほど)なく利家(としいへ)家康(いへやす)両人(れうにん)は和(わ)
前田利家 したが閏(うるふ)三月三日 利家(としいへ)は遂(つひ)に病(やまひ)の為(ため)に大坂(おほさか)に薨(こう)じたのであるソコで加藤(かとう)、 黒田(くろだ)、 細川(ほそかは)、 福島(ふくしま)、 浅野(あさの)等(ら)
三成屏居 の人々は三成(かづしげ)を除(のぞ)かむことを計(はか)つて之(これ)を家康(いへやす)に申出(もうしい)でたのであるが此(この)時(とき)家康(いへやす)は三成(みつなり)をして其(その)領地(れうち)佐和山(さわやま)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百五十一号附録 (明治四十五年一月三日発行)
【本文】
に蟄居(ちつきよ)せしめたので事は一 時(じ)落着(らくちやく)したのであるが此(この)六月 家康(いへやす)は大坂(おほさか)に至(いた)つて秀頼(ひでより)に謁(えつ)し諸将(しよせう)をして多(おほ)
く国(くに)に就(つ)くのを許(ゆる)したので秀家(ひでいへ)、輝元(てるもと)、 如水(によすゐ)、 清正(きよまさ)、 忠興(たゞおき)等(ら)は相前後(あひぜんご)して国(くに)に皈(かへ)り上杉景勝(うへすぎかげかつ)、 前田利(まへだとし)
《割書:家康大坂の|西城に入る》 長(なが)も亦(ま)た国(くに)に就(つ)いたのである而(しか)して其(その)九月 家康(いへやす)は又(ま)た大坂(おほさか)に至(いた)つたのであるがそれより遂(つひ)に其(その)西城(せいじよう)に
入(い)つて住(ぢう)する事となつたのである
爾来(じらい)家康(いへやす)の声望(せいぼう)が益々(ます〳〵)盛(さかん)になるに従(したがつ)て讒誣疑惑(ざんぶぎわく)と云(い)ふものは諸方面(しよはうめん)に起(おこ)つて来(き)たのであるが家康(いへやす)も
《割書:家康質を江|戸に収む》 亦(ま)た漸々(ぜん〳〵)と専断(せんだん)の処置(しよち)が多(おほ)く遂(つひ)に前田利長(まへだとしなが)の母(はゝ)を初(はじ)めとして独断(どくだん)で質(しち)を江戸(えど)に収(おさ)むるに至(いた)つたのであ
る而(しか)して前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く石田三成(いしだみつなり)は一 度(ど)其(その)胸算(きようさん)が齟齬(そご)して反(かへつ)て家康(いへやす)の為(ため)に佐和山(さわやま)へ屏居(へいきよ)せしめられ
たが決(けつ)して其(その)侭(まゝ)に小(ち)さくなつて居(を)るべきものではない又(ま)た家康(いへやす)に於(おい)ても初(はじ)めから其(その)事(こと)は予期(よき)して居(を)つ
たもので其(その)時(とき)三成(みつなり)を殺(ころ)さずして態(わざ)と佐和山(さわやま)に屏居(へいきよ)せしめて置(お)いたのは深謀(しんぼう)のある処で之(これ)は家康(いへやす)の謀臣(ぼうしん)
本多正信(ほんだまさのぶ)の叡策(えいさく)になつたものであると歴史家(れきしか)が評論(ひようろん)する所であるが果(はた)して三成(みつなり)は上杉景勝(うへすぎかげかつ)の老臣(らうしん)直江(なをえ)
《割書:上杉景勝城|塁を修す》 兼続(かねつく)と堅(かた)く約(やく)した処があつたので景勝(かげかつ)は其(その)国(くに)に就(つ)いた後(のち)着々(ちやく〳〵)城塁(じようるい)■修繕(しうぜん)をするやら浪士(らうし)を召抱(めしかゝ)ゆる
やら糧食(れうしよく)を集(あつ)むるやらで徳川氏(とくがはし)に対(たい)する敵意(てきい)は次第(しだい)に明(あきらか)になつて来(き)たのであるモツトモ景勝(かげかつ)の国(くに)と
云(い)ふのは御承知(ごせうち)の通(とほり)陸奥(むつ)の会津(あひづ)で今(いま)の岩代国(いはしろのくに)若松市(わかまつし)に城(しろ)を構(かま)へて居(を)つたのである此(この)会津(あひづ)と云ふ処は前(まへ)
にも申述(もうしの)べた如(ごと)く初(はじ)め蒲生氏郷(かばふうぢさと)が封(ほう)ぜられたのであるが慶長(けいてう)三年三月 氏郷(うぢさと)は宇都宮(うつのみや)に移(うつ)されて其(その)後(あと)へ
景勝(かげかつ)が其(その)故国(ここく)越後(ゑちご)から移封(いほう)になつたのであるトコロで景勝(かげかつ)の動静(どうせい)と云ふものは手(て)に取(と)るように江戸(えど)並(なら)
びに東北(とうほく)の将士(せうし)から家康(いへやす)の許(もと)へ報告(ほうこく)があるので慶長(けいてう)五年三月 家康(いへやす)は遂(つひ)に之(これ)を征(せい)せむとしたのであるが
宇喜多秀家(うきたひでいへ)毛利輝元(もうりてるもと)等(ら)の意見(いけん)もあつたので使者(ししや)を会津(あひづ)に遣(や)つて景勝(かげかつ)の入覲(にふきん)を促(うなが)し且(か)つ其(その)近状(きんぜう)に就(つい)て詰(なじ)
《割書:家康景勝の|入覲を促す》 る処があつたのみならず特(とく)に直江兼続(なをえかねつぐ)と別懇(べつこん)である僧(そう)承兌(しようだ)をも遣(や)つて速(すみやか)に景勝(かげかつ)の行為(こうゐ)に就(つ)き西上陳謝(せぜうちんしや)
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百八十五
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百八十六
【本文】
すべき事を勧(すゝ)めしめたのである然(しか)るに景勝(かげかつ)兼続(かねつぐ)の答(こたへ)は孰(いづ)れも恭順(きようじゆん)陳謝(ちんしや)ところか寧(むし)ろ故(ことさ)らに暴慢(ぼうまん)嘲侮(てうぶ)
の辞(じ)を以(もつ)てしたので益々(ます〳〵)家康(いへやす)を激怒(げきど)せしめた次第(しだい)であるモツトモ家康(いへやす)は最初(さいしよ)から此(この)事(こと)あるは能(よ)く知(し)つ
て居(を)つたもので使者(ししや)を会津(あひづ)に遣(つか)はして其(その)復命(ふくめい)がない内(うち)から既(すで)に出兵(しゆつぺい)の準備(じゆんび)をしつゝあつたのである即(すなは)
ち右(みぎ)の返事(へんじ)を得(う)るや直(たゞ)ちに会津(あひづ)出征(しゆつせい)の事を発表(はつぴよう)するに至(いた)つたのであるが之(これ)には諸奉行(しよぶぎよう)三 中老(ちうらう)等(ら)から諌(いさめ)
《割書:家康自ら会|津を征す》 もあつたが家康(いへやす)は遂(つひ)に之(これ)を容(い)れなかつたのである而(しか)して其(その)年(とし)六月十六日 麾下(きか)の士(し)佐野綱正(さのつなまさ)をして兵(へい)僅(わづか)
に五百 余人(よにん)を以(もつ)て西城(せいじよう)の留守(るす)をせしめて遂(つひ)にみず自(みづか)ら 麾下(きか)の将士(せうし)三千余人を率(ひき)ゐて大坂(おほさか)を発(はつ)し東下(とうか)の途(と)に
就(つ)いたのである此(この)時(とき)御承知(ごせうち)の酒井家次(さかゐいへつぐ)戸田一西(とだかづあき)並(ならび)に其(その)子(こ)氏鉄(うぢてつ)等(ら)も之(これ)に従(したが)つたのであるが此(この)日(ひ)薄暮(はくぼ)に伏(ふし)
《割書:鳥居元忠松|平家忠等伏》 見城(みじよう)に着(ちやく)して家康(いへやす)は其(その)留守居役(るすゐやく)を定(さだ)めたのであるが鳥居元忠(とりゐもとたゞ)を以(もつ)て之(こ)れが司令(しれい)となし内藤家長(ないとういへなが)其(その)子(こ)元(もと)
《割書:見城に留守|す》 長(なが)、 松平家忠(まつだひらいへたゞ)、 松平近正(まつだひらちかまさ)等(ら)を副(そ)へて其(その)任(にん)に当(あた)らしめたのである右(みぎ)の内(うち)で 松平家忠(まつだひらいへたゞ)と云(い)ふのは之(これ)迄(まで)屡々(しば〳〵)
話頭(わとう)に上(あが)つた彼(か)の家忠日記(いへたゞにつき)の記者(きしや)で例(れい)の深溝(ふかうず)の城主(じようしゆ)であつた人で当時(とうじ)は武蔵(むさし)忍(おし)の城主(じようしゆ)であつた事は之(これ)
亦(また)前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)くであるが此(この)鳥居元忠(とりゐもとたゞ)も矢張(やはり)諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の如(ごと)く家康(いへやす)幼少(ようせう)の時き(とき)から近仕(きんし)して居(を)つ
た人で家康(いへやす)が駿河(するが)に質(しち)となつて居(を)つた頃(ころ)から共(とも)に辛苦艱難(しんくかんなん)を甞(な)めたのである今年(こんねん)六十二 歳(さい)であるが此(この)
時(とき)は既(すで)に家康(いへやす)東上(とうぜう)の後(のち)必(かなら)ず上国(ぜうこく)に事変(じへん)が起(おこ)るべきを察(さつ)して居(を)つたのでイヨ〳〵其(その)場合(ばあひ)は只(たゞ)戦死(せんし)の外(ほか)は
ないのであるから寧(むし)ろ家忠(いへたゞ)家長(いへなが)等(ら)は東征(とうせい)に従(したが)へられるようにと云ふ事を勧(すゝ)めたのであつたが家康(いへやす)はそ
れでは余(あま)りに人少(ひとすこし)になるからと云ふので之(これ)を留(とゝ)めたのである且(か)つ万(まん)一 事変(じへん)があつて弾丸(だんぐわん)が欠乏(けつぼう)したら
ば天主閣(てんしゆかく)に金銀塊(きんぎんくわい)が蔵(ざう)してあるからそれを鋳(いつ)て補充(ほじう)せよと云ひ付(つ)けたとのことであるがソンナ弾丸(だんぐわん)なら
ば私(わたくし)はいくらでも打(う)つて貰(もら)ひたいように思(おも)ふのでありますソコで元忠(もとたゞ)と家康(いへやす)とは到底(とうてい)再会(さいくわい)は期(き)せられ
ぬと云ふので共(とも)に昔時(せきじ)を語(かた)りて涙(なみだ)を流(なが)したと云ふことであるが元忠(もとたゞ)は此(こゝ)に於(おい)て右(みぎ)の諸将(しよせう)と共(とも)に僅(わづか)に千八
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
百余人を以(もつ)て此(この)城(しろ)の留守(るす)をなすことになつたのである
京極高次 かくて家康(いへやす)は十八日 伏見(ふしみ)を発(はつ)し大津城(おほつじよう)に過(よぎ)つて城主(じようしゆ)京極高次(きようごくたかつぐ)に会(あ)ひこれより次第(しだい)に伊勢(いせ)に入(い)つて廿
《割書:輝政家康を|吉田に饗す》 日 四日市(よつかいち)に至(いた)り同夜(どうや)船(ふね)に乗(の)つて廿一日 佐久島(さくしま)に達(たつ)し廿二日 此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)したのである之(これ)より先(さ)き池田輝(いけだてる)
政(まさ)は既(すで)に国(くに)に帰(かへ)つて出師(しゆつし)準備(じゆんび)をして居(を)つたので此(この)時(とき)城中(じようちう)に於(おい)て家康(いへやす)等(ら)を饗(けう)したのであるが此(この)日(ひ)家康(いへやす)は
饗応(けうおう)終(をは)つて後(のち)白須賀(しらすが)まで出陣(しゆつぢん)し夫(それ)より漸々(ぜん〳〵)と東海道(とうかいどう)を進(すゝ)むで沿道(えんどう)の諸城主(しよじようしゆ)即(すなは)ち浜松(はまゝつ)の堀尾忠氏(ほりをたゞうぢ)、 掛(かけ)
川(がは)の山内一豊(やまうちかづとよ)、 府中(ふちう)の中村一氏(なかむらかづうぢ)、 沼津(ぬまづ)の中村一栄(なかむらかづひで)、 小田原(おだはら)の大久保忠隣(おほくぼたゞちか)などゝ連絡(れんらく)を取(と)つて藤沢(ふぢさは)から
輝政の従軍 鎌倉(かまくら)に過(よぎ)つて放鷹(はうよう)し七月二日に至(いた)つて江戸城(えどじよう)に着(ちやく)したのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く池田輝政(いけだてるまさ)は此(この)時(とき)其(その)弟(おとゝ)長(なが)
吉(よし)と共(とも)に之(これ)に従軍(じうぐん)したのである而(しか)して家康(いへやす)は其(その)廿一日を以(もつ)て更(さら)に江戸(えど)を発(はつ)して廿四日 下野(しもつけ)の小山(こやま)に至(いた)
つたのであるが前軍(ぜんぐん)は秀忠(ひでたゞ)が之(これ)を指揮(しき)して宇都宮(うつのみや)にあつたのである此(この)時(とき)伊達政宗(だてまさむね)は家康(いへやす)に応(おう)じて兵(へい)を
出(いだ)し廿四日 既(すで)に白石城(しらいしじよう)を攻陥(こうかん)したと云(い)ふような次第(しだい)であるが此(この)夜(よ)家康(いへやす)は小山(こやま)にあつて伏見城(ふしみじよう)が三成(みつなり)等(ら)
《割書:家康小山に|於て伏見の》 の為(ため)に攻撃(こうげき)を受(う)くる警報(けいほう)に接(せつ)したのであるモツトモ家康(いへやす)は江戸(えど)出発前(しゆつぱつぜん)既(すで)に上国(ぜうこく)に事(こと)の起(おこ)つたのは知(し)つ
《割書:警報に接す| 》 て居(を)つたのであるが時機(じき)がまだ至(いた)らなかつたので遂(つひ)に此処(こゝ)まで出陣(しゆつぢん)したのである然(しか)るに其(その)後(のち)続々(ぞく〳〵)上国(ぜうこく)
からの警報(けいほう)が到着(とうちやく)し廿四日には前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く小山(こやま)の陣(ぢん)へ右(みぎ)の報告(ほうこく)が来(き)たので遂(つひ)に意(い)を決(けつ)して秀忠(ひでたゞ)
並(ならび)に諸客将(しよきやくせう)を集(あつ)めて協議(けふぎ)をしたのであるが結局(けつきよく)福島正則(ふくしままさのり)等(ら)を初(はじ)め客将(きやくせう)等(ら)の意見(いけん)が家康(いへやす)にして秀頼(ひでより)に対(たい)
《割書:諸客将等西|上に決す》 すること秀吉(ひでよし)の遺命(ゐめい)の如(ごと)くであるならば三成(みつなり)には何処(どこ)までも反対(はんたい)して家康(いへやす)を助(たす)くべしと云(い)ふことになつて
茲(こゝ)に軍(ぐん)を西(にし)に班(かへ)すことを定(さだ)めたのである而(しか)して福島正則(ふくしままさのり)と池田輝政(いけだてるまさ)とは之(これ)が先鋒(せんぽう)となつて廿六日から更(さら)
に続々(ぞく〳〵)西上(せいぜう)することとなつたのである又(ま)た徳川(とくがは)の世臣(せしん)としては井伊直正(いゐなをまさ)が此(この)先鋒(せんぽう)に従(したが)ふ筈(はづ)であつたが急(きふ)
に病(やまひ)が起(おこ)つて差支(さしつかへ)たので本多忠勝(ほんだたゞかつ)が之(これ)に代(かは)つて八月八日 先(ま)づ尾州(びしう)の清洲(きよす)に向(むか)つて出発(しゆつぱつ)したのである其(その)
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百八十七
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百八十八
【本文】
松平家康 時(とき)山内一豊(やまうちかづとよ)の主唱(しゆせう)で沿道(えんどう)の各城(かくじよう)を家康(いへやす)に致(いた)し且(か)つ質(しち)を出(いだ)して二心(ふたごゝろ)なきを明(あきらか)にすることとなつたので此(この)吉(よし)
《割書:東軍質を吉|田に集む》 田城(たじよう)には松平家乗(まつだひらいへのり)が来(きたつ)て之(これ)を守(まも)り且(か)つ沿道(えんどう)諸将(しよせう)の質(しち)も亦(ま)た此(この)城(しろ)に集(あつ)め置(お)くここととなつたのである
《割書:三成兵を挙|ぐ》 サテ此(こ)の時(とき)に方(あた)つて上国方(ぜうこくがた)の形勢(けいせい)は如何(いかゞ)であるか之(これ)を申述(もうしの)べて見(み)ると初(はじ)め家康(いへやす)がイヨ〳〵会津(あひづ)征伐(せいばつ)の
為(ため)に出発(しゆつぱつ)することとなつた時(とき)三成(みつなり)は之(これ)を聞(き)いて我計(わがけい)成(な)れりとして喜(よろこ)むだのであるが早速(さつそく)之(これ)を会津(あひづ)の景勝(かげかつ)
に報知(ほうち)し又(ま)た頻(しき)りに同志(どうし)を糾合(きゆうごう)して事を挙(あ)げんと図(はか)つたのである然(しか)るに大谷吉継(おほたによしつぐ)の如(ごと)きは三成(みつなり)とは廿
大谷吉継 年来(ねんらい)の親友(しんゆう)であつたが切(せつ)に其(その)計(けい)を非(ひ)なりとした一人で家康(いへやす)に従(したがつ)て東征(とうせい)の軍(ぐん)に加(くが)はらむとしたのであ
る然(しか)るに三成(みつなり)の決心(けつしん)が堅(かた)いので遂(つひ)に之(これ)に党(とう)するに至(いた)つたのであるが此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で其(その)素志(そし)ではないけれ
ども拠(よんどころ)なく之(これ)に党(とう)せねばならぬことになつたものは西国(さいこく)の大名(だいみよう)中(ちう)には少(すくな)からざる事であつたが三成(みつなり)等は
《割書:三成関門を|愛知川に設》 更(さら)に近江(あふみ)の愛知川(ゑちがは)に関門(くわんもん)を設(もう)けて東征(とうせい)諸将(しよせう)を扼止(やくし)したので後(おく)れて出発(しゆつぱつ)したものは此処(こゝ)に嚙(く)ひ留(と)められ
《割書:く | 》 て余義(よぎ)なく大坂(おほさか)に皈(かへ)つたものも又(ま)た少(すくな)からなかつたのである而(しか)して三成(みつなり)等(ら)は一 方(ぱう)に広島(ひろしま)に皈(かへ)つて居(を)る
毛利輝元 毛利輝元(もうりてるもと)の処(ところ)へ使(し)をやつて遂(つひ)に此(この)人(ひと)を大坂(おほさか)に引(ひ)き出(だ)して盟主(めいしゆ)の位置(ゐち)に据(す)へ家康(いへやす)の罪条(ざいでう)を数(かぞ)へて檄(げき)を諸(しよ)
侯(こう)に伝(つた)ふるに至(いた)つたのであるが当時(とうじ)大坂(おほさか)に集(あつま)つた処(ところ)の兵数(へいすう)は実(じつ)に九万三千に上(あが)つたと云ふことである其(その)
勢(いきほひ)で先(ま)づ西城(せいじよう)の留守役(るすやく)佐野綱正(さのつなまさ)に逼(せま)つて之(これ)を開(あ)け渡(わた)さしめ又(ま)た諸侯(しよこう)の妻子(さいし)を城中(じようちう)に収(おさ)めて質(しち)とせむ
《割書:細川忠興の|妻自刃す》 としたので東征(とうせい)諸将(しよせう)の妻子(さいし)は勿論(もちろん)心(こゝろ)を家康(いへやす)方(がた)に属(ぞく)するものゝ家族(かぞく)には一 大騒擾(だいさうぜう)が起(おこ)つて彼(か)の細川忠興(ほそかはたゝおき)
《割書:田辺伏見両|城の攻撃》 の妻(つま)明智氏(あけちし)の如(ごと)きは自尽(じじん)するに至(いた)つたのであるが七月十八日イヨ〳〵兵(へい)を出(いだ)してた丹波(たんば)田辺城(たなべじよう)と並(ならび)に彼(か)
の伏見城(ふしみじよう)とを囲(かこ)むに至(いた)つたのである
此(この)田辺(たなべ)の城(しろ)と云ふのは当時(とうじ)細川忠興(ほそかはたゝおき)の父(ちゝ)幽斉(ゆうさい)か留守(るす)をして居(を)つたので忠興(たゞおき)は云(い)ふ迄(まで)もなく東征軍(とうせいぐん)に従(したが)
つて不在(ふざい)であつたが事(こと)急劇(ききふげき)に起(おこ)つたので其(その)部下(ぶか)を悉(こと〳〵)く城中(じようちう)に集(あつ)めて僅(わづか)に五百人 許(ばかり)の外(ほか)なかつたので
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百五十五号附録 (明治四十五年一月九日発行)
【本文】
ある然(しか)るに此(この)幽斉(ゆうさい)と云ふ人は歌道(かどう)の達人(たつじん)であるので遂(つひ)に勅命(ちよくれい)によつて此(この)城攻(しろぜめ)を解(と)くに至(いた)つたと云ふヤ
カマシイ話(はなし)があるのであるが此処(こゝ)には関係(くわんけい)が少(すくな)いから詳(くは)しくは申述(もうしの)べぬのであるサテ伏見(ふしみ)の城(しろ)も前(まへ)に
《割書:鳥居元忠等|の勇戦》 申述(もうしの)べた通(とほ)り兵数(へいすう)僅(わづか)に千八百余人で四万余の大軍(たいぐん)を引受(ひきう)けて戦(たゝか)つたのであるが此(この)時(とき)元忠(もとたゞ)初(はじ)め諸将士(しよせうし)の
《割書:島津惟新伏|見城を守ら》 勇壮(ゆうさう)にして義心(ぎしん)に満(み)ち〳〵て居(を)つた有様(ありさま)は実(じつ)に三河武士(みかはぶし)の善(よ)き標本(ひようほん)であると思(おも)ふのである初(はじ)め島津惟(しまづゐ)
《割書:むと請ふ | 》 新(しん)も家康(いへやす)からの依托(いだく)があつたので此(この)時(とき)伏見城(ふしみじよう)に入(い)つて共(とも)に守備(しゆび)に任(にん)ぜむとしたのであるが元忠(もとたゞ)は之(これ)を
詭計(きけい)なりと疑(うたが)つて聴(きか)なかつたので更(さら)に其(その)臣(しん)の新納旅庵(にひのりよあん)と云ふ人が元忠(もとたゞ)に懇意(こんい)なので之(これ)を遣(つか)はして其(その)事(こと)
を計(はか)らしめむとしたが元忠(もとたゞ)は又(ま)た之(これ)を間諜(かんちやう)なりとして銃撃(じうげき)したのであるソコで惟新(ゐしん)も止(やむ)を得(え)ず西軍に
《割書:小早川秀秋|亦た城守を》 属(ぞく)するに至(いた)つたと云ふ事であるが小早川秀秋(こはやかはひであき)も亦(ま)た心(こゝろ)を家康(いへやす)に属(ぞく)して居(を)つた一人で此(この)時(とき)矢張(やはり)使(し)を遣(や)つ
《割書:請ふ | 》 て共(とも)に城守(じようしゆ)したいと申述(もうしの)べたのみならず躬(みづか)らも城外(じょうぐわい)に至(いた)り元忠(もとたゞ)に面(めん)して旧誼(きうぎ)を縷述(るじゆつ)し其(その)事(こと)を請(こ)つた
のであるが元忠(もとたゞ)は中々(なか〳〵)承知(せうち)しない夫程(それほど)に思(おも)ふならば直接(ちよくせつ)に関東(くわんとう)の許可(きよか)を得(え)られたいものであると断(ことは)つ
たのであるまだ其(その)前(まへ)に増田長盛(ますだながもり)が使(し)を以(もつ)て穏(をだやか)に城(しろ)を明渡(あけわた)すように元忠(もとたゞ)を諭(さと)した事(こと)があるが元忠(もとたゞ)は怒(いか)
つて余(よ)は徳川氏(とくがはし)の為(ため)に此(この)城(しろ)を守(まも)るものである他人(たにん)の言(げん)を聴(き)いて去(さ)るべきでないから重(かさ)ねてソンナ事を
云つて来(き)たならば斬(き)つて仕舞(しま)うぞと云つたとの事であるが如何(いか)にも其(その)決死(けつし)の様(さま)と律義(りつぎ)な処(ところ)が現(あら)はれて
居(を)ると思(おも)ふのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で全(まつた)く外部(ぐわいぶ)の応援(おうゑん)を謝絶(しやぜつ)し克(よ)く少人数(せうにんず)を以(もつ)て大軍(たいぐん)に当(あた)つたが八月朔日
《割書:元忠家忠等|の戦死》 に至(いた)つて遂(つひ)に落城(らくじよう)し元忠(もとたゞ)家忠(いへたゞ)家長(いへなが)等(ら)諸将(しよせう)を初(はじ)め殆(ほとん)ど其(その)全部(ぜんぶ)が奮戦力闘(ふんせんりきとう)して悉(こと〳〵)く戦死(せんし)したのは誠(まこと)に勇(いさ)
ましき最後(さいご)であつたと思(おも)ふのである
《割書:東軍の先鋒|清洲に集合》 それより大坂(おほさか)方(ほう)即(すなは)ち西軍にありては兵(へい)を伊勢地方(いせちほう)に出(いだ)して諸城(しよじよう)を攻略(こうりやく)し又(ま)た美濃(みの)に出陣(しゆつぢん)して家康(いへやす)方(がた)即(すなは)
《割書:す | 》 ち東軍の動静(どうせい)を窺(うかゞ)つて居(を)つたのであるが東軍の先鋒(せんぽう)たる諸将(しよせう)は八月十四日に至(いた)つて尾張(をはり)の清洲(きよす)に集合(しうごう)
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百八十九
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百九十
【本文】
したのであるトコロが家康(いへやす)から何等(なんら)の命令(めいれい)がないので十九日まで此処(こゝ)に滞在(たいざい)して居(を)つたのであるが其(その)
日(ひ)家康(いへやす)の慰問使(ゐもんし)として村越直吉(むらこしなをよし)が来(きたつ)て家康(いへやす)の意(い)を伝(つた)ふる処があつたので廿日 諸将(しよせう)は相会(あひくわい)して進軍(しんぐん)を議(ぎ)
したのであるが当時(とうじ)岐阜城(ぎふじよう)は織田秀信(をたひでのぶ)が居(を)つたので其(その)家臣(かしん)の中(なか)には熱心(ねつしん)に家康(いへやす)を助(たす)けねばならぬと主(しゆ)
張(ちよう)したものがあつたにも拘(かゝは)らず三成(みつなり)の為(ため)に説(と)き付(つ)けられて遂(つひ)に西軍の為(ため)に此(この)城(しろ)を守(まも)ることに決(けつ)したので
《割書:岐阜城の攻|略》 あるから東軍にあつては先(ま)づ差当(さしあた)り此(この)岐阜城(ぎふじよう)を攻略(こうりやく)する必要(ひつよう)があるのである然(しか)るに岐阜城(ぎふじよう)の前衛(ぜんゑい)とも
云ふべき処に御承知(ごせうち)の如(ごと)く犬山(いぬやま)、 竹(たけ)ケ鼻(はな)等(とう)の城(しろ)があるので先(ま)づ犬山城(いぬやまじよう)を攻(せ)むるように見(み)せかけて置(お)い
て其(その)実(じつ)岐阜城(ぎふじよう)に突進(とつしん)するのが利益(りえき)であると云ふので其(その)事(こと)に決定(けつてん)したのであるトコロで岐阜(ぎふ)に行(ゆ)くには
木曽川(きそがは)を渡(わた)るので上流(ぜうりう)は河田(かわだ)下流(かりう)は尾越(をごし)を経(ふ)るのであるが上流(ぜうりう)の方(はう)は捷路(ちかみち)であつて両(れう)先鋒(せんぽう)の中(うち)正則(まさのり)が
之(これ)を進(すゝ)みたいと云つたのであつた然(しか)るに輝政(てるまさ)は中々(なか〳〵)承知(せうち)せぬ余(よ)も亦(ま)た先鋒(せんぽう)の任(にん)であるから迂路(うろ)に依(よ)る
事は出来(でき)ぬと云ふのであつたが其(その)頃(ころ)は井伊直正(ゐいなをまさ)も既(すで)に着(ちやく)して居(を)つたので直正(なをまさ)と忠勝(たゞかつ)とが其(その)間(あひだ)へ入(い)つて
調停(てうてい)し遂(つひ)に輝政(てるまさ)が捷路(ちかみち)を取(と)り正則(まさのり)が迂路(うろ)を取(と)ることになつたのである併(しか)し捷路(ちかみち)を取(と)るものは迂路(うろ)よりす
輝政の戦功 るものゝ合図(あひづ)があるまでは戦(たゝかひ)は交(まじ)へぬと云ふことを定(さだ)めたのであるソコで輝政(てるまさ)の方(はう)は浅野幸長(あさのゆきなが)、 山内(やまうち)
一豊(かづとよ)、 堀尾忠氏(ほりをたゞうぢ)、 有馬豊氏(ありまとようぢ)、 一柳直盛(いちやなぎなをもり)、 戸川達安(とがはさとやす)等(ら)兵(へい)凡(およ)そ一万八千人で廿二日の払暁(ふつけう)木曽川(きそがは)の上流(ぜうりう)河(かわ)
田(だ)附近(ふきん)に至(いた)つたのであるが此処(こゝ)で敵軍(てきぐん)と衝突(せうとつ)したのである此(この)時(とき)輝政(てるまさ)は令(れい)してまだ下流(かりう)の味方(みかた)から合図(あひづ)
はないが敵(てき)から戦端(せんたん)を開(ひら)く以上(いじよう)は躊躇(ちうちよ)すべきでないと云ふので遂(つひ)に応戦(おうせん)せしめたのであるソコで伊木(いき)
忠政(たゞまさ)は先(ま)づ河(かは)を渡(わた)つて戦(たゝか)つたが輝政(てるまさ)初(はじ)め諸将(しよせう)も之(これ)に次(つ)ぎ初(はじ)めは殺傷(さつせう)相当(あひあた)つたのであるが午前(ごぜん)六時から
八時 頃(ころ)迄(まで)約(やく)二時間の戦(たゝかひ)で東軍は遂(つひ)に西軍を破(やぶ)り其(その)岐阜城(ぎふじよう)に向(むか)つて退却(たいきやく)するのを追撃(つひげき)したが後(のち)兵(へい)を収(をさ)
めて新加納(しんかのう)、 芋島(いもじま)、 平島(ひらじま)附近(ふきん)に宿営(しゆくえい)し輝政(てるまさ)は其(その)夜(よ)捷報(せうほう)を江戸(えど)に発(はつ)したのである
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
然(しか)るに正則(まさのり)等(ら)下流(かりう)に向(むか)つた一 隊(たい)は竹(たけ)ケ鼻城(はなじょう)の兵(へい)に妨(さまた)げられたので之(これ)と戦(たゝかつ)て廿二日の午後(ごご)遂(つひ)に其(その)城(しろ)を
陥(おとしい)れたのであるが其夜(そのよ)輝政(てるまさ)から捷報(せうほう)があつて且(か)つ既(すで)に岐阜城(ぎふじよう)に迫(せま)れる旨(むね)を申送(もうしおく)つたのであるから正(まさ)
則(のり)は其(その)約(やく)に背(そむ)いたのを怒(いか)つたが細川忠興(ほそかはたゞおき)の説(せつ)で即夜(そくや)急行(きうこう)して岐阜(ぎふ)に向(むか)ふこととなつて直(たゝ)ちに出発(しゆつぱつ)したの
であるソコで其翌(そのよく)廿三日は早朝(さうてう)から岐阜城(ぎふじよう)を攻撃(こうげき)したのであるが正則(まさのり)は前日(ぜんじつ)の事があるから使(し)を輝政(てるまさ)
の処に寄越(よこ)して其(その)約(やく)に背(そむ)いた事を詰(なじ)つて決闘(けつとう)を申込(もうしこ)むだのである然(しか)るに輝政(てるまさ)は之(これ)に答(こた)へて余(よ)が敢(あへ)て約(やく)
に背(そむ)いたと云ふ訳(わけ)ではない敵兵(てきへい)が我(われ)より先(さ)きに右岸(うがん)にあつて銃(じう)を発(はつ)して戦(たゝかひ)を挑(いど)むだのであるから止(やむ)を
得(え)ず進(すゝ)むだまでであるそれ故(ゆゑ)今日(こんにち)は貴隊(きたい)に於(おい)て追手口(おゝてぐち)を攻(せ)められたい我隊(わがたい)は搦手(からめて)へ廻(まは)るであろうと云
つたので先(ま)づ事(こと)は無事(ぶじ)に落着(らくちやく)して其(その)事(こと)に定(さだ)まつたのであるがソコで輝政(てるまさ)は約(やく)の如(ごと)くに進(すゝ)むだ処が正則(まさのり)
の兵(へい)が市街(しがい)に放火(はうくわ)して通行(つうこう)することが出来(でき)ないヤツトの事で迂回(うくわい)して本丸(ほんまる)に逼(せま)つたのであるが前章(ぜんせう)にも
申述(もうしの)べた如(ごと)く輝政(てるまさ)は嘗(かつ)て此(この)城(しろ)に居(を)つた事があるので地理(ちり)に明(あきら)かな処から大(おゝい)なる便宜(べんぎ)を得(え)た事であつた
《割書:織田秀信の|請降》 のであるトコロで輝政(てるまさ)も亦(ま)た火(ひ)を本丸(ほんまる)に放(はな)ち門内(もんない)に投(とう)じて先登(せんとう)と称(せう)したのであるが秀信(ひでのぶ)は遂(つひ)に降(こう)
を請(こ)ふて上加納(かみかのう)の円徳寺(ゑんとくじ)に入(い)り薙髪(ちはつ)するに至(いた)つたのである其(その)落城後(らくじようご)又(ま)た輝政(てるまさ)と正則(まさのり)との間(あひだ)に先登(せんとう)の争(あらそ)
ひがあつた併(しか)し之(これ)も亦(ま)た直政(なをまさ)と忠勝(たゞかつ)とが其(その)間(あひだ)を調停(てうてい)して双方(そうほう)同時(どうじ)に城(しろ)の前後(ぜんご)から之(これ)を陥(おとしい)れた事に落(らく)
《割書:東軍の諸将|赤坂に集る》 着(ちやく)せしめたのであるかくて東軍は破竹(はちく)の勢(いきほひ)で合渡(あひわたり)に捷(か)ち呂久川(ろくがは)に逼(せま)り廿四日には諸将(しよせう)悉(こと〳〵)く赤坂(あかさか)に
集(あつま)つたのである此(この)時(とき)三成(みつなり)は大垣城(おほがきじよう)にあつて頻(しき)りに西軍(せいぐん)諸将(しよせう)を招致(せうち)して居(を)つたのであるが東軍(とうぐん)に於(おい)ても
亦(ま)た家康(いへやす)が到着(とうちやく)しないので双方(そうほう)先(ま)づ対峙(たいじ)の有様(ありさま)で日数(にちすう)を経過(けいくわ)したのである
《割書:家康自ら西|上す》 かくてイヨ〳〵九月朔日に至(いた)つて家康(いへやす)は江戸(えど)を出発(しゆつぱつ)することとなつて麾下(きか)の士(し)凡(およ)そ三万二千百余人を率(ひき)
ゐて東海道(とうかいどう)を西上(さいぜう)したのであるが之(これ)より先(さ)き結城秀康(ゆうきひでやす)を宇都宮城(うつのみやじよう)に留(とゞ)めて上杉氏(うへすぎし)に当(あた)らしめ別(べつ)に秀忠(ひでたゞ)
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百九十一
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百九十二
【本文】
をして譜代(ふだい)の将士(せうし)凡(およ)そ三万八千余人を率(ひき)ゐて東山道(とうさんどう)から西上(せいぜう)せしむる事としたので秀忠(ひでたゞ)は八月廿四日
《割書:秀忠東山道|を西上す》 既(すで)に宇都宮(うつのみや)から直(たゝ)ちに信濃(しなの)に向(むか)つたのである即(すなは)ち之(これ)には大久保忠隣(おほくぼたゞちか)、 本多正信(ほんだまさのぶ)、 酒井家次(さかゐいへつぐ)、 奥平家昌(おくだひらいへまさ)
菅沼忠政(すがぬまたゞまさ)、 牧野康成(まきのやすなり)(《割書:右馬|允》)戸田一西(とだかづあき)を初(はじ)め三河以来(みかはいらい)徳川氏(とくがはし)の為(ため)に忠勤(ちうきん)を擢(ぬきん)でた人々は多(おほ)く之(これ)にしたが従(したが)つた
のであるが之(これ)が先鋒(せんぽう)としては榊原康政(さかきばらやすまさ)が其(その)任(にん)に当(あた)つたのである然(しか)るに家康(いへやす)の方(はう)は前(まへ)に申述(もうしの)べた通(とほ)り九
《割書:家康の吉田|通過》 月朔日に江戸(えど)を発(はつ)して東海道(とうかいどう)を上(のぼ)り此(この)吉田(よしだ)をば八日に通過(つうくわ)して十一日 清洲(きよす)に入(い)り十四日 赤坂(あかさか)に到着(たうちやく)し
て初(はじ)めて金扇馬標(きんせんうまじるし)を岡山(おかやま)の営(えい)に立(たつ)たのであるが秀忠(ひでたゞ)は遂(つひ)に此(この)期(き)に後(おく)れてまだ到着(たうちやく)するに至(いた)らなかつた
上田城 のであるそれはドウ云ふ訳(わけ)であるかと云ふに御承知(ごせうち)の如(ごと)く信州(しんしう)上田(うへだ)の城主(じようしゆ)真田昌幸(さなだまさゆき)並(ならび)に其(その)二男(じなん)幸村(ゆきむら)は
西軍に応(おう)ずることとなつたので其(その)居城(きよじよう)上田(うへた)に拠(よつ)て此(この)秀忠(ひでたゞ)の一 行(こう)を拒(こば)むだのであるモツトモ秀忠(ひでたゞ)に於(おい)ても
家康(いへやす)の江戸(えど)出発(しゆつぱつ)を知(し)つたならばドウ都合(つごう)しても前進(ぜんしん)したのであつた事と思(おも)ふが此(この)家康(いへやす)の通報(つうほう)を齎(もた)らし
た使者(ししや)が秋瞭(しうれう)の為(ため)に遅延(ちえん)してヨウ〳〵九日に致(いた)つて秀忠(ひでたゞ)の許(もと)に達(たつ)した次第(しだい)であつたからそれまでは秀(ひで)
忠(たゞ)に於(おい)ても家康(いへやす)の方(はう)の消息(せうそく)が分(わか)らなかつた為(ため)にベンと〳〵上田(うへだ)の城攻(しろぜ)めに時日(じじつ)を遷(うつ)したような訳(わけ)であ
つたのである此処(こゝ)に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのは此(この)真田氏(さなだし)の事であるがそれがズツト以前(いぜん)に武田(たけだ)
真田信幸 氏(し)に属(ぞく)して居(を)つた時分(じぶん)の関係(くわんけい)などは既(すで)に屡々(しば〳〵)申述(もうしの)べた如(ごと)くで諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふから
此処(こゝ)には略(りやく)するが此(この)昌幸(まさゆき)には信幸(のぶゆき)、 幸村(ゆきむら)の二 子(し)があつて当時(とうじ)信幸(のぶゆき)は上州(ぜうしう)沼田(ぬまた)の城(しろ)に居(を)つたのであるト
コロが此(この)信幸(のぶゆき)は之(これ)迄(まで)に頗(すこぶ)る徳川氏(とくがはし)の世話(せわ)になつて居(を)るのみならず其(その)妻(つま)は本多忠勝(ほんだたゞかつ)の娘(むすめ)で家康(いへやす)の養女(やうぢよ)と
して嫁(か)したものであるそれ故(ゆゑ)に最初(さいしよ)三成(みつなり)から兵(へい)を挙(あ)ぐるの報知(ほうち)を得(え)た時(とき)に昌幸(まさゆき)は其(その)二 子(し)に向(むか)つて向背(こうはい)
を擇(えら)ばしめたのであるが信幸(のぶゆき)は東せむと請(こ)ひ幸村(ゆきむら)は西せむと願(ねが)つたので昌幸(まさゆき)は双方(さうはう)共(とも)に其(その)願意(ぐわんい)を容(ゆる)し
て己(おの)れは幸村(ゆきむら)を伴(ともな)つて西軍に属(ぞく)した次第(しだい)で云はゞ親子(おやこ)兄弟(けうだい)が敵(てき)と味方(みかた)とに別(わか)れた訳(わけ)であるが此(この)時(とき)信幸(のぶゆき)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百六十一号附録 (明治四十年一月十六日発行)
【本文】
は秀忠(ひでたゞ)に属(ぞく)して攻城軍(こうじようぐん)の中(なか)にあつたのであるソコで話(はなし)は前(まへ)に戻(もど)つて家康(いへやす)の方(はう)であるが前(まへ)にも申述(もうしの)べた
《割書:東軍諸将の|謀議》 如(ごと)く九月十四日に家康(いへやす)は赤坂(あかさか)に着(ちやく)して岡山(をかやま)の上(うへ)に陣(ぢん)を取(と)つたが更(さら)に諸将(しよせう)を会(くわい)して謀議(ぼうぎ)を凝(こ)らしたので
ある此(この)時(とき)池田輝政(いけだてるまさ)と井伊直正(ゐいなをまさ)とは急(きう)に大垣城(おほがきじよう)を攻取(こうしゆ)すべしと云ふ論者(ろんしや)であつたが福島正則(ふくしままさのり)と本多忠勝(ほんだたゞかつ)
とは先(ま)づ大坂(おほさか)に上(のぼ)つて毛利輝元(もうりてるもと)と決戦(けつせん)して諸将(しよせう)の質(しち)を復(ふく)すべしと云ふ論者(ろんしや)であつた然(しか)るに家康(いへやす)は一 隊(たい)
を以(もつ)て大垣(おほがき)に当(あた)らしめ其余(そのよ)の大部隊(だいぶたい)をして進(すゝ)むで佐和山(さわやま)を屠(ほうむ)り大坂(おほさか)に向(むか)ふべきことを命(めい)したので直(たゞ)ちに
株瀬川の戦 其(その)用意(ようい)に取(とり)かゝつたのであるが此(この)夕(ゆう)大垣(おほがき)と赤坂(あかさか)との間(あひだ)にある株瀬川(かぶせがは)と云ふ河(かは)の辺(ほとり)で両軍(れうぐん)の小衝突(せう〳〵とつ)があ
つたのである之(これ)には西軍(せいぐん)の方(はう)が何分(なにぶん)の勝利(せうり)とも云ふべき結果(けつくわ)を得(え)たのであつたが其(その)夜(よ)西軍(せいぐん)では東軍(とうぐん)の
謀(はかりごと)を偵知(ていち)したので之(これ)は打棄(うちすて)て置(お)けぬと云ふので遂(つひ)に之(これ)を関(せき)ケ原(はら)で扼(やく)することに決(けつ)したのである蓋(けだ)しそ
れは全(まつた)く家康(いへやす)の計略(けいりやく)の嵌(はま)つた訳(わけ)で東軍(とうぐん)に於(おい)ては元(もと)よりそれを望(のぞ)むで居(を)つたのであるから家康(いへやす)はワザワ
《割書:西軍諸将敵|を関ケ原に》 ザ其(その) 謀(はかりごと)を西軍(せいぐん)に知(し)れるように云ひ触(ふ)れしめたとの事であるかくて西軍は福原長堯(ふくはらながたか)以上七千五百 余人(よにん)
《割書:扼せむとす| 》 を大垣城(おほがきじよう)に留(とゞ)めて石田三成(いしだみつなり)、 島津惟新(しまづゐしん)、 小西行長(こにしゆきなが)、 宇喜多秀家(うきたひでいへ)と云ふような順序(じゆんじよ)で夜(よ)に乗(ぜう)じて敵(てき)の耳(じ)
目(もく)を避(さ)け関(せき)ヶ原(はら)に向(むか)つて行進(こうしん)したのであるが御承知(ごせうち)の通(とほ)り大垣(おほがき)と赤坂(あかさか)とは其(その)間(あひだ)僅(わづか)に五十 余町(よてう)を距(へだ)て
ゝ一は中山道(なかせんどう)に当(あた)り一は伊勢(いせ)に通(つう)ずる街道(かいどう)に当(あた)つて居(を)るのであるが此(この)両路(れうみち)は西方(せいはう)垂井(たるい)に至(いた)つて相合(あひがつ)し
て居(を)るのであるそれから又(ま)た僅(わづか)に西して関(せき)ヶ原(はら)に至(いた)ると路(みち)は北国街道(ほくこくかいどう)と中山道(なかせんどう)とに分(わか)るゝのであるか
ら此(この)間(あひだ)と云ふものは最(もつと)も要衝(ようせう)の地(ち)と相成(あひな)つて居(を)るのである且(か)つ垂井(たるい)の南方(なんぱう)にある南宮山(なんぐうさん)には既(すで)に毛利(もうり)
秀元(ひでもと)、 長宗我部盛親(ちようそがべもりちか)、 安国寺恵瓊(あんこくじゑけい)、 長束正家(ながつかまさいへ)、吉川広家(よしかはひろいへ)などが屯(たむろ)して居(を)り又(ま)た関(せき)ヶ原(はら)の西南(せいなん)に当(あた)る松(まつ)
尾山(をやま)には小早川秀秋(こはやかはひであき)が屯(たむろ)して居(を)るので三成(みつなり)等(ら)は十五日の午前一時から五時 頃(ごろ)迄(まで)の間(あひだ)に此(この)関(せき)ヶ原(はら)に到着(たうちやく)
して中山道(なかせんどう)と北国街道(ほくこくかいどう)との衝路(せうろ)に当(あた)つて陣(ぢん)したのであるが三成(みつなり)の隊(たい)と最左翼(さいさよく)に島津(しまづ)、 小西(こにし)、 宇喜多(うきた)と
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百九十三
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百九十四
【本文】
云ふように相並(あひなら)むだのである而(しか)して其(その)右(みぎ)には大谷吉継(おほたによしつぐ)等(ら)が来(きた)つて陣(ぢん)し又(また)其(その)右翼(うよく)に連(つらな)り斜(なゝめ)に松尾山(まつをやま)の麓(ふもと)
に方(あた)つて脇坂安治(わきさかやすはる)、 朽木元網(くちきもとつな)等(ら)が陣(ぢん)したのである然(しか)るに東軍の方(はう)でも逸早(いちはや)く此(この)模様(もよう)を偵知(ていち)したので家(いへ)
康(やす)は時機(じき)の到来(とうらい)を喜(よろこ)むで蹶起(けつき)して出発(しゆつぱつ)を命(めい)じたのであるが此(この)時(とき)福島正則(ふくしままさのり)と黒田長政(くろだながまさ)とは其(その)先鋒(せんぽう)となつ
東軍の進撃 たのである即(すなは)ち福島(ふくしま)の隊(たい)は真先(まつさき)に関(せき)ヶ原(はら)に進(すゝ)むでだのであるが此(この)朝(あさ)は細雨(さいう)尚(なほ)止(や)まず霧(きり)が深(ふか)かつたので黎(れい)
明駅中(めいえきちう)に於(おい)て敵(てき)の最後部隊(さいこうぶたい)と相遇(あひあ)つても咫尺(しせき)をも弁(べん)せぬと云ふような訳(わけ)であつたが両隊(れうたい)相(あひ)混乱(こんらん)して双(そう)
方(はう)共(とも)に驚(おどろ)いたといふことであるソコで東軍は黒田長政(くろだながまさ)を最右翼(さいうよく)として細川忠興(ほそかはたゞおき)、 加藤嘉明(かとうよしあき)、 田中吉政(たなかよしまさ)、
筒井定次(つゝゐさだつぐ)、 松平忠吉(まつだひらたゞよし)、 井伊直正(いゐなをまさ)と云ふような順序(じゆんじよ)で駅(えき)の北方(ほくはう)に陣(ぢん)して敵陣(てきぢん)と相対(あひたい)し金森長近(かねもりながちか)、 生駒一(いこまかづ)
正(まさ)等(ら)は其(その)後(あと)に陣(ぢん)したが藤堂高虎(とうどうたかとら)、 京極高知(きようごくたかとも)等(ら)は駅(えき)の南方(なんはう)にあつて松尾山(まつをやま)の敵(てき)と対(たい)し独(ひと)り福島正則(ふくしままさのり)は進(すゝ)
桃配山 むで松尾山麓(まつをさんろく)から宇喜多(うきた)の陣(ぢん)へ迫(せま)つて陣取(ぢんど)つたのである其(その)内(うち)に家康(いへやす)も麾下(きか)を率(ひき)ゐて関(せき)ヶ原(はら)の東方(とうはう)桃配(もゝくばり)
山(やま)に陣(ぢん)を取(と)つたと云ふ次第(しだい)であるが此(この)時(とき)池田輝政(いけだてるまさ)は浅野幸長(あさゆきなが)、 本多忠勝(ほんだたゞかつ)等(ら)と共(とも)に初(はじ)め大垣城(おほがきじよう)に当(あた)る筈(はづ)
《割書:輝政南宮山|の敵に備ふ》 であつたが転(てん)じて家康(いへやす)の後方(こうはう)に連絡(れんらく)して垂井駅(たるいえき)の西南(せいなん)に陣(ぢん)し専(もつぱ)ら南宮山(なんぐうさん)の敵(てき)に備(そな)へたのであるモツト
モ此(この)時(とき)も輝政(てるまさ)は切(しき)りに其(その)先鋒(せんぽう)たらむことを請(こ)つたのであるか家康(いへやす)は諭(さと)して此(この)衝(せう)に置(お)いたとの事であるサ
テ戦端(せんたん)ハイヨ〳〵午前七時 過(すぎ)に至(いた)つて先方(せんはう)に初(はじ)まつたのであるが最初(さいしよ)は井伊直政(ゐいなをまさ)が松平忠吉(まつだひらたゞよし)を輔(たす)けて
宇喜多(うきた)の陣(ぢん)に当(あた)り福島正則(ふくしままさのり)も亦(ま)た同様(どうよう)宇喜多(うきた)隊(たい)を攻撃(こうげき)したのであるが続(つゞ)いて藤堂(とうどう)、 京極(きようごく)の隊(たい)は大谷(おほたに)の
陣(ぢん)を攻(せ)め細川(ほそかは)、加藤(かとう)等(ら)の後方(こうはう)に陣(ぢん)して居(を)つた織田有楽(をたゆうらく)、 古田重勝(ふるたしげかつ)、 佐久間安政(さくまやすまさ)等(ら)の諸将(しよせう)は小西(こにし)の隊(たい)に
向(むか)ひ黒田(くろだ)は勿論(もちろん)田中(たなか)、 細川(ほそかは)、 加藤(かとう)、 金森(かねもり)、 生駒(いこま)等(ら)の諸隊(しよたい)は孰(いづ)れも石田隊(いしだたい)に向(むか)つたのであるかくて戦闘(せんたう)
両軍の決戦 は漸(やうや)く激烈(げきれつ)となつたが西軍(せいぐん)も中々(なか〳〵)能(よ)く戦(たゝか)つて容易(ようい)に勝敗(せうはい)は決(けつ)せられぬソコで家康(いへやす)は午前九時 過(すぎ)に至(いた)つ
て本隊(ほんたい)を進(すゝ)めて駅(えき)の東口(ひがしぐち)に至(いた)つたが其(その)時(とき)本多忠勝(ほんだたゞかつ)は後部(こうぶ)にあつたので自(みづか)ら請(こ)つて前進(ぜんしん)し遂(つひ)に小西(こにし)、宇(う)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
喜多(きた)両隊(れうたい)と戦(たゝか)つて之(これ)を挫(くじ)き更(さら)に島津(しまづ)の前隊(ぜんたい)に向(むか)つたのである然(しか)るに尚(な)ほ勝敗(せうはい)は容易(ようい)に決(けつ)せぬので西軍
の方(はう)でも烽火(ほうか)を挙(あ)げて松尾(まつを)、 南宮(なんぐう)両山(れうさん)の諸隊(しよたい)に下撃(かげき)を促(うなが)したが応(おう)じないトコロで早(は)や正午(せうご)にも近(ちか)づく
《割書:小早川秀秋|の応援》 ようになつたので東軍(とうぐん)の方(はう)からも切(しき)りに秀秋(ひであき)の応援(おうゑん)を促(うなが)したのである元来(がんらい)小早川秀秋(こはやかはひであき)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)
の如(ごと)く最初(さいしよ)から欵(かん)を家康(いへやす)に通(つう)じて居(を)つたのであるモツトモ伏見城(ふしみじよう)の攻撃(こうげき)には余義(よぎ)なく西軍に加(くは)はつた
が其(その)時(とき)とても種々(しゆ〳〵)に苦心(くしん)をした事実(じじつ)があるのである殊(こと)に今度(このたび)は屡々(しば〳〵)東軍と連絡(れんらく)を通(つう)じて東軍からは内(ない)
内(ない)奥平貞治(おくだひらさだはる)を松尾山(まつをやま)の陣(ぢん)へ遣(や)つてあつた位(くらゐ)であるから此(こゝ)に至(いた)つて遂(つひ)に西軍に対(たい)し公然(こうぜん)叛旗(はんき)を翻(ひるがへ)す事
となつて忽(たちま)ち山(やま)を馳(は)せ下(くだ)り直(たゞ)ちに大谷(おほたに)の陣(ぢん)に向(むか)つて突撃(とつげき)するに至(いた)つたのである結局(けつきよく)之(これ)が西軍 敗北(はいぼく)の
動機(どうき)となつたので家康(いへやす)は即(すなは)ち麾下(きか)を放(はな)つて総攻撃(そうこうげき)を命(めい)じたのであるが西軍は果(はた)して支離滅裂(しりめつれつ)となつて
其(その)諸将(しよせう)は或(あるひ)は死(し)に或(あるひ)は逃(にげ)るゝに至(いた)つたのである独(ひと)り島津惟新(しまづゐしん)は最後(さいご)まで踏(ふ)み止(とゞま)つたが遂(つひ)に支(さゝ)ふることが
出来(でき)ぬようになつたので東軍を突(つ)き切(き)つて牧田路(まきたぢ)から逃(のが)れたのであるが福島(ふくしま)、 小早川(こはやかは)、井伊(ゐい)、 本多(ほんだ)諸(しよ)
隊(たい)の追撃(つひげき)に遭(あ)つて其(その)子(こ)豊久(とよひさ)は戦死(せんし)したのであるソコで南宮山(なんぐうさん)の西軍も戦(たゝか)はずして退却(たいきやく)するに至(いた)つたの
であるが先(ま)づ関(せき)ヶ原(はら)戦争(せんそう)の大体(だいたい)は右(みぎ)申述(もうしの)べたような訳(わけ)で終(をは)つたのである而(しか)も此(この)時(とき)両軍(れうぐん)の兵力(へいりよく)から云へ
ば初(はじ)め西軍は総勢(そうぜい)七万九千余人 東軍(とうぐん)七万人 許(ばかり)であるから其(その)点(てん)は西軍が優勢(ゆうせい)な訳(わけ)であつたが如何(いかん)せむ
《割書:西軍の不統|一》 西軍には統(とう)一 者(しや)がない三成(みつなり)は云はゞ謀主(ぼうしゆ)ではあるが参謀(さんぼう)の位置(ゐち)で総指揮者(そうしきしや)としてはまだ貫目(くわんめ)が足(た)らむ
のであるトコロが東軍は之(これ)に反(はん)して家康(いへやす)がシツカリと之(これ)を統(とう)一して居(を)る其(その)本隊(ほんたい)を扣(ひか)へて敢(あへ)て動(うご)かず前(ぜん)
隊(たい)の戦期(せんき)が熟(じゆく)した処(ところ)で先(ま)づ秀秋(ひであき)の去就(きよじゆう)を試(こゝろ)みイヨ〳〵敵軍(てきぐん)にはモウ後続部隊(こうぞくぶたい)がないと云ふのを見(み)るや
否(いな)直(たゞ)ちに麾下(きか)の総攻撃(そうこうげき)を命(めい)じた処などは私(わたくし)共(ども)少(すこ)しも戦術(せんじゆつ)を知(し)らぬ者(もの)にも何(なん)となく其(その)整(とゝの)つて居(を)る様子(ようす)
が分(わか)るのである特(とく)に御承知(ごせうち)の如(ごと)く東軍には秀秋(ひであき)は勿論(もちろん)毛利秀元(もうりひでもと)の一 類(るい)たる吉川(よしかは)、 福原(ふくはら)の如(ごと)き内応者(ないおうしや)が
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百九十五
【欄外】
豊橋市史談 (関 ケ 原 役) 百九十附録
【本文】
あつたので之(これ)等(ら)から見(み)れば西軍の敗(やぶ)れたのは誠(まこと)に余義(よぎ)なき次第(しだい)であると思(おも)ふのであるサテ此(かく)の如(ごと)く西
《割書:佐和山城攻|略》 軍は遂(つひ)に大敗(たいはい)したが家康(いへやす)はスカサず小早川秀秋(こはやかはひであき)等(ら)をして佐和山(さわやま)の城(しろ)を攻取(せめとら)せしめ又(ま)た一 方(はう)には正則(まさのり)、
長政(ながまさ)等(ら)をして書(しよ)を大坂(おほさか)の毛利輝元(もうりてるもと)に贈(おく)らしめて其(その)意(い)を通(つう)せむとし自(みづか)らも廿日に大津(おほつ)まで進(すゝ)むで秀頼(ひでより)母(ぼ)
《割書:秀忠草津に|着す》 子(し)に申通(もうしつう)ずる処(ところ)があつたが此(この)時(とき)秀忠(ひでたゞ)は草津(くさつ)に到着(たうちやく)したので東軍の兵威(へいゐ)は益々(ます〳〵)強盛(きようせい)となつた訳(わけ)である而(しか)
《割書:家康秀忠大|坂に入る》 も朝廷(てうてい)からは勅使(ちよくし)が下(くだ)ると云ふ次第(しだい)で家康(いへやす)の声望(せいぼう)は愈々(いよ〳〵)揚(あが)るここととなつたのであるが幸(さいはひ)に輝元(てるもと)が大坂(おほさか)
の西城(せいじよう)を明渡(あけわた)すこととなつたので廿七日 家康(いへやす)は之(これ)に入(い)つて秀忠(ひでたゞ)を二の丸(まる)に置(お)くこととなつたのである結局(けつきよく)
之(これ)で東軍は戦(たゝか)はずして克(よ)く大坂(おほさか)を占領(せんれう)した訳(わけ)となつたのであるが此(この)落着(らくちやく)を見(み)るに就(つい)て池田輝政(いけだてるまさ)は正則(まさのり)
長政(ながまさ)、 幸長(ゆきなが)、 高虎(たかとら)等(ら)と共(とも)に種々(しゆ〳〵)斡旋(あつせん)の労(らう)を取(と)つたのである
以上(いじよう)述(の)べたような次第(しだい)で大坂(おほさか)は東軍の勢力範囲(せいりよくはんゐ)となつたが此(こゝ)に至(いた)つては自然(しぜん)の勢(いきほひ)として天下(てんか)の実権(じつけん)
《割書:家康自ら賞|罰を行ふ》 は全(まつた)く家康(いへやす)に帰(き)せざるを得(え)ざる訳(わけ)で云はゞ当然(たうぜん)の結果(けつくわ)であるソコで家康(いへやす)は大(おほい)に諸将士(しよせうし)に対(たい)して賞罰(せうばつ)を
行(おこな)ひ三成(みつなり)、 行長(ゆきなが)、 恵瓊(えけい)等(ら)主謀者(しゆばうしや)の縛(ばく)に就(つ)いたものは之(これ)を誅(ちう)し其他(そのた)流刑(りうけい)褫封(ちほう)等(とう)に処(しよ)せられたものも少(すくな)く
なかつたのであるが一 方(はう)には又(ま)た九月廿七日の日から既(すで)に論功行賞(ろんこうぎうせう)の調査(ちようさ)にかゝつて十月十五日 其(その)大(だい)
《割書:輝政姫路五|十二万石に》 部分(ぶゞん)を発表(はつぴよう)したのである一々 之(これ)を申述(もうしの)ぶるのは繁雑(はんざつ)に亘(わた)るから此処(こゝ)には略(りやく)するが其(その)結果(けつくわ)此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)
《割書:移封せらる| 》 たる池田輝政(いけだてるまさ)は一 躍(やく)して五十二万石に封(ほう)せられ播磨(はりま)の姫路(ひめぢ)に移(うつ)ることとなつたのである即(すなは)ち前章(ぜんせう)にも申(もうし)
述(の)べた如(ごと)く輝政(てるまさ)は之(これ)より姫路(ひめぢ)に移(うつ)つて姫路城(ひめぢじよう)の建築(けんちく)だの市街(しがい)の改正(かいせい)等(とう)を行(おこな)つたのであるか其(その)遺跡(ゐせき)は今(いま)
も尚(な)ほ其地(そのち)に見(み)るべきものがあるのである従(したがつ)て今(いま)数年間(すうねんかん)輝政(てるまさ)が此(この)吉田(よしだ)に居(を)つたならば前(まへ)に述(の)べた通(とほ)
り悟真寺(ごしんじ)の移転(いてん)を初(はじ)め市区(しく)の改正(かいせい)は余程(よほど)断行(だんこう)したものであつた事であると思(おも)ふが当市(たうし)の為(ため)には誠(まこと)に惜(おし)
い事をした次第(しだい)である尚(なほ)輝政(てるまさ)一 代(だい)の事に就而(ついて)は之(これ)から申述(もうしの)ぶべきことが多(おほ)いのであるが遺憾(ゐかん)ながら本市(ほんし)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百六十七号附録 (明治四十年一月廿三日発行)
【本文】
史(し)に関係(くわんけい)が少(すくな)いから之(これ)にて後(のち)の話(はなし)に移(うつ)りたいと思(おも)ふのである而(しか)して其(その)後(のち)輝政(てるまさ)は慶長(けいてう)十八年正月廿五日
《割書:輝政の卒年|並に墳墓》 姫路(ひめぢ)に於(おい)て病(やん)で卒(そつ)し行年(ぎようねん)は五十歳 国清院泰叟玄高(こくせいゐんたいさうげんこう)と諡(おくな)して龍峯寺(りうほうじ)と云ふ寺(てら)に葬(ほうむ)つたが後(のち)儒礼(じゆれい)を以(もつ)て備(び)
前国(ぜんのくに)和気郡(わきごほり)敦土山(あつちやま)に改葬(かいそう)した事は之(これ)亦(ま)た前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)くである今(いま)岡山(をかやま)にも鳥取(とつとり)にも国清寺(こくせいじ)と云ふ寺(てら)
国清寺 があるが之(これ)は後(のち)に至(いたつ)て輝政(てるまさ)菩提(ぼだい)の為(ため)に建立(こんりう)したものであるは云ふまでもないが鳥取(とつとり)のは此(この)龍峯寺(りうほうじ)を姫(ひめ)
路(ぢ)から移転(いてん)したものであると伝(つた)へられてある
⦿松平家清吉田に封せらる
前章(ぜんせう)に詳(くは)しく申述(もうしの)べた如(ごと)く家康(いへやす)は関(せき)ヶ原(はら)に勝(か)つてそれより事実上(じじつぜう)に於(おい)て天下(てんか)の政権(せいけん)を一 身(しん)に握(にぎ)るに至(いた)
つたのであるが之(これ)は自然(しぜん)の情勢(ぜうせい)として当(まさ)に然(しか)るべきの事であつたのであるソコで家康(いへやす)が先(ま)づ第一の急(きう)
《割書:家康の諸侯|配置法》 務(む)としたのは天下(てんか)諸侯(しよこう)の配置(はいち)であつたが慶長(けいちよう)五年の十一月と同六年の二月とに於(おい)て自(みづか)ら関(せき)ヶ原(はら)役(えき)に関(くわん)
する賞罰(せうばつ)を行(おこな)ひ其(その)後(のち)も其(その)世臣(よしん)に増侯(ぞうこう)し又(また)は其(その)治城(ぢじよう)を更迭(こうてつ)した事が殆(ほとん)ど虚月(きよげつ)なき有様(ありさま)で翌(よく)七年に及(およ)んだ
のである而(しか)して此(この)家康(いへやす)の諸侯(しよこう)配置法(はいちはう)と云ふものは秀吉(ひでよし)の時代(じだい)に比(ひ)して更(さら)に一 層(そう)進歩(しんぽ)したとも云つてよ
いので頗(すこぶ)る巧妙(こうみよう)なものであつたのであるが先(ま)づ此(この)東海道(とうかいどう)と云ふものは己(おの)れの根拠地(こんきよち)たる江戸(えど)と京都(きようと)及(およ)
び大坂(おほさか)間(かん)を通(つう)ずる大切(たいせつ)の道筋(みちすぢ)であると云ふ処から之(これ)には悉(こと〳〵)く譜代(ふだい)の大名(だいみよう)を配置(はいち)して双方(さうほう)間(かん)の連絡(れんらく)を
保(たも)たしめ特(とく)に此(この)三 河地方(かはちはう)は己(おの)れの故国(ここく)であると云ふ処から一 層(そう)注意(ちうい)して其(その)世臣(せしん)を封(ほう)じたものと思(おも)はれ
る而(しか)も豊臣秀頼(とよとみひでより)の為(ため)には只(た)だ摂津(せつゝ)、 河内(かはち)、 和泉(いづみ)の内(うち)で凡(およ)そ六十五万七千四百石 許(ばかり)の知行(ちぎよう)を充(あ)てゝ其他(そのた)
諸国(しよこく)に旧来(きうらい)あつた処の御蔵入(おくらいり)と称(せう)する収入(しうにふ)は悉(こと〳〵)く江戸(えど)又(また)は諸侯(しよこう)の収入(しうにふ)となして豊臣氏(とよとみし)からは取(と)り去(さ)
つた訳(わけ)になつたのであるかくて家康(いへやす)は慶長(けいちよう)六年の三月 大坂(おほさか)を去(さつ)て伏見(ふしみ)に居(を)つたがそれよりは江戸(えど)大坂(おほさか)
【欄外】
豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 百九十七
【欄外】
豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 百九十八
【本文】
の間(あひだ)を屡々(しば〳〵)往来(おうらい)して其(その)都度(つど)京都(きようと)にも立寄(たちよ)り頗(すこぶ)る朝廷(ちようてい)の優遇(ゆうぐん)を受(う)けたのである而(しか)して先(さ)きに申述(もうしの)べた如(ごと)
《割書:松平玄蕃頭|家清》 く池田輝政(いけだてるまさ)が此知(このち)から播州姫路(ばんしうひめぢ)へ栄転(えいてん)したのは慶長(けいてう)五年十一月の事であるが其跡(そのあと)へ封(ほう)ぜられて此(この)吉田(よしだ)
へ来(き)たのは即(すなは)ち松平玄蕃頭家清(まつだひらげんばのかみいへきよ)であつて之(これ)は慶長(けいてう)六年二月に発表(はつぴやう)されたのである此(この)家清(いへきよ)と云ふ人はズ
ツト先(さ)きに申述(もうしの)べて置(お)いた松平清善(まつだひらきよよし)の孫(まご)で父(ちゝ)は清宗(きよむね)と云ふ人であるが之(これ)も前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く天正十八
年 家康(いへやす)が関東(くわんとう)へ移封(いほう)せられた時に武蔵(むさし)の八 幡山(はたやま)一万石に封(ほう)せられたのであつたが今度(このたび)此(この)家清(いへきよ)は此地(このち)三
万石に封(ほう)せられたのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから此(この)松平氏(まつだひらし)の為(ため)には勿論(もちろん)家康(いへやす)の政策上(せいさくぜう)から云つても之(これ)
は誠(まこと)によい事であつたに相違(さうゐ)ないが実(じつ)は我(わが)豊橋(とよはし)の発展上(はつてんぜう)から云ふと頗(すこぶ)る不幸(ふこう)な事で之(これ)迄(まで)十五万二千石
《割書:土地の発展|と藩主》 の池田輝政(いけだてるまさ)が種々(しゆ〳〵)に計割(けいくわく)を仕掛(しか)けて置(お)いた事も急(きふ)に此(この)小禄(せうろく)なる譜代(ふだい)の大名(だいみよう)に代(かは)つた為(ため)に一 頓(とん)
挫(ざ)と相成(あひな)つた次第(しだい)であるそれのみならず此(この)後(のち)藩主(はんしゆ)に交迭(こうてつ)はあつても其(その)方針(はうしん)と云ふものは先(ま)づ徳川(とくがは)三百
年 間(かん)変(かは)る処はなかつたのであるから独(ひと)り我(わが)豊橋(とよはし)のみでなく東海道(とうかいどう)の各城下(かくじようか)と云ふものは名古屋(なごや)駿府(すんぷ)位(ぐらゐ)
を除(のぞ)くの外(ほか)は何(いづ)れも同様(どうやう)の訳(わけ)で誠(まこと)に土地(とち)の発展(はつてん)をする上(うへ)から云ふと遂(つひ)に宜(よ)き機会(きくわい)を得(え)なかつたのであ
る之(これ)は今日(こんにち)から見(み)ると甚(はなは)だ不仕合(ふしあは)せな事であつたと信(しん)ずるのである
竹谷の松平 サテ此(この)家清(いへきよ)の家(いへ)と云ふのは所謂(いはゆる)竹谷(たけのや)の松平氏(まつだひらし)で其(その)祖(そ)は兼(かね)て申述(もうしの)べてある和泉入道信光(いづみにふどうのぶみつ)であるから結局(けつきよく)
徳川氏(とくがはし)とは其(その)系統(けいとう)を一にして居(を)る訳(わけ)であるが信光(のぶみつ)の二 男(なん)守家(もりいへ)から清喜(きよよし)に至(いた)るまで凡(およ)そ四 代(だい)の間(あひだ)は岡崎(をかざき)
の城(しろ)に居(を)つたのである然(しか)るに清喜(きよよし)の代(だい)になつて竹谷(たけのや)に移(うつ)つたので竹谷與二郎(たけのやよじらう)と名乗(なの)つたが其(その)娘(むすめ)は嘗(かつ)て
此(この)吉田城(よしだじよう)に人質(ひとじち)となつて居(を)つて家康(いへやす)が今川氏真(いまがはうぢさね)と絶縁(ぜつゑん)の時 小原鎮実(をはらしげさね)の為(ため)に龍拈寺(りうねんじ)口(ぐち)で惨殺(ざんさつ)せられた事
は之(これ)亦(また)既(すで)に其(その)時代(じだい)に於(おい)て申述(もうしの)べた如(ごと)くであるそれより此(この)清喜(きよよし)は益々(ます〳〵)徳川氏(とくがはし)の為(ため)に忠勤(ちうきん)を尽(つく)したのであ
るが天正十五年に八十三歳で卒(そつ)し子(こ)の清宗(きよむね)が後(あと)を継(つ)ぎ之(これ)も戦功(せんこう)によつて遠江(とほとふみ)に所領(しよれう)を与(あた)へられたので
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
ある其(その)後(のち)家清(いへきよ)は又(ま)た其(その)後(あと)を襲(つ)ぎ父(ちゝ)清宗(きよむね)と共(とも)に駿河(するが)の興国寺城(こうこくじじよう)を守(まも)つて居(を)つたのであるが家康(いへやす)関東(くわんとう)移封(いほう)
に方(あた)つて前(まへ)にも申述(もうしの)べた通(とほ)り武蔵(むさし)の八幡山(やはたやま)一万石に封(ほう)せられたのである而(しか)して此(この)家清(いへきよ)も亦(ま)た初(はじめ)は與二(よじ)
《割書:家清武蔵八|幡山より吉》 郎(らう)と云つて屡々(しば〳〵)戦功(せんこう)があつたが関(せき)ヶ原(はら)役(えき)当時(とうじ)には尾張(をはり)の清洲城(きよすじよう)を守(まも)り今度(このたび)此(この)吉田(よしだ)に移封(いほう)せられて其(その)領(れう)
《割書:田に移封せ|らる》 地(ち)は従前(じうぜん)に三 倍(ばい)の三万石と相成(あひな)つた次第(しだい)である併(しか)し家清(いへきよ)も此(この)吉田(よしだ)に来(き)て見(み)れば兎(と)に角(かく)以前(いぜん)が十五万二
千石と云ふので池田輝政(いけだてるまさ)の城下(じようか)であつた事であるから直(たゞ)ちに新計画(しんけいくわく)をする必要(ひつよう)をも認(みと)めなかつた事で
あろうが又(ま)た余(あま)之(これ)をなしたと云ふ事績(じせき)も残(のこ)つて居(を)らぬように思(おも)ふのである従(したがつ)て遺憾(ゐかん)ながら此(こゝ)に申(もうし)
述(の)ぶる事も甚(はなは)だ少(すくな)き次第(しだい)である
《割書:家康征夷大|将軍に任せ》 サテ諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く家康(いへやす)は慶長(けいてう)八年二月十二日を以(もつ)てイヨ〳〵征夷大将軍(せいいたいせうぐん)に任(にん)せられ茲(こゝ)に名実共(めいじつとも)
《割書:らる | 》 に天下(てんか)の政権(せいけん)を握(にぎ)る事となつたのである此(この)時(とき)家康(いへやす)は六十二歳であつたが其(その)十年四月に至(いた)つて軍職(ぐんしよく)を秀(ひで)
《割書:家康軍職を|秀忠に譲る》 忠(たゞ)に譲(ゆづ)らむことを奏請(さうせい)し勅許(ちよくきよ)を得(え)たのであるソコで自分(じぶん)は駿府城(すんぷじよう)の修築(しうちく)をして十二年七月を以(もつ)て之(これ)に
移(うつ)り秀忠(ひでたゞ)は江戸(えど)に居(を)つたのであるが家康(いへやす)は常(つね)に其(その)間(あひだ)を往来(おうらい)して将軍(せうぐん)の後見(こうけん)をして居(を)つたのであるかゝ
家清卒す る有様(ありさま)で二三年を経過(けいくわ)したのであるが慶長(けいてう)十五年十二月廿一日に至(いた)つて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)たる家清(いへきよ)は行年(ぎようねん)
《割書:松平玄蕃頭|清忠》 四十五歳で急(きふ)に病(や)むで卒(そつ)したのである即(すなは)ち其子(そのこ)の忠清(たゞきよ)が相続(さうぞく)したのであるが家清(いへきよ)の夫人(ふじん)と云ふのは家(いへ)
忠清卒す 康(やす)の同母妹(どうぼまい)で忠清(たゞきよ)は其出(そのしゆつ)であつたが此人(このひと)も亦(ま)た慶長(けいてう)十七年四月廿日を以(もつ)て相続後(さうぞくご)間(ま)もないのに卒去(そつきよ)せ
られたのである行年(ぎようねん)は僅(わづか)に廿八歳で不幸(ふこう)な事には男子(だんし)がなかつたので其家(そのいへ)は遂(つひ)に断絶(だんぜつ)に及(およ)むだのであ
松平清昌 る併(しか)し徳川家(とくがはけ)から特(とく)に其弟(そのおとゝ)庄次郎清昌(せうじらうきよまさ)に西郡(にしのごほり)五千石の地(ち)を与(あた)へて其(その)後(あと)を継(つ)がしめたのであるが此(この)事(こと)
に就(つい)ては慶長見聞書(けいてうけんぶんしよ)の中(なか)に左(さ)の記事(きじ)がある
松平民部少輔(まつだひらみんぶのせうゆ)《割書:忠|清》子(こ)なし跡目(あとめ)無之候間(これなくそろあひだ)弟(おとゝ)内記(ないき)せかれも御座候(ござそろ)又(また)民部(みんぶ)弟(おとゝ)松平庄次郎(まつだひらせうじらう)と申(もうし)て御書院番(ごしよゐんばん)仕(つかまつり)
【欄外】
豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 百九十九
【欄外】
豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 二百
【本文】
候(そろ)て罷有(まかりあり)候 内記(ないき)せかれは松平紀伊守(まつだひらきいのかみ)女(ぢよ)の腹(はら)の外孫(ぐわいそん)に候へは紀伊守(きいのかみ)是非(ぜひ)是(これ)を名跡(なあと)にと申候(もうしそろ)然共(しかれども)庄次郎(せうじらう)
最早(もはや)御番(ごばん)をも仕(つかまつり)罷有(まかりあり)候間(そろあひだ)そしに候(そうら)へ共(ども)是(これ)にと有儀(ありぎ)にて今迄(いままで)主殿(とのも)知行(ちぎよう)仕候(つかまつりそろ)西郡(にしのこほり)にて五千石 庄(せう)
次郎(じらう)に被下(くだされ)松平玄蕃助(まつだひらげんばのすけ)と申候(もうしそろ)内記(ないき)子(こ)は玄蕃(げんば)扶助(ふじよ)仕置(つかまつりおく)のよし
《割書:家清忠清の|病因》 又(ま)た此(この)家清(いへきよ)、 忠清(たゞきよ)父子(ふし)は孰(いづ)れも卒去(そつきよ)の場合(ばあひ)俗(ぞく)に云ふ頓死(とんし)であつたものと見(み)へて駿府記(すんぷき)、 当代記(たうだいき)などに
も
[駿府記(すんぷき)]四月廿二日 今晩(こんばん)三 河国(かはのくに)吉田城主(よしだじようしゆ)松平玄蕃頭(まつだひらげんばのかみ)昨日(さくじつ)頓死(とんし)の由(よし)申来(もうしきたり)云 々(うんぬん)
[当代記(たうだいき)]卯月(うつき)廿日 亥刻(ゐのこく)三 河国(かはのくに)吉田(よしだ)玄蕃(げんば)気相(けそう)悪(あし)キ由(よし)ニテ則(すなはち)無言(むごん)子刻(ねのこく)俄(にはかに)死去(しきよ)去年(きよねん)父(ちゝ)玄蕃頭(げんばのかみ)《割書:家|清》如此(かくのごとく)頓死(とんし)
躰(てい)ナリ可謂奇特(きとくといふべし)
と記(しる)してある而(しか)して今(いま)当市(たうし)大字(おほあざ)中(なか)八の神明社(しんめいしや)と赤岩(あかいは)の法言寺(はうげんじ)とに家清(いへきよ)の名(な)の記(しる)されてある棟札(むなふだ)が保存(ほそん)
されて居(を)るが孰(いづ)れも之(これ)は慶長(けいてう)九年のもので中々(なか〳〵)趣味(しゆみ)のあるものである又(ま)た家清(いへきよ)が此(この)吉田(よしだ)在城(ざいじよう)当時(とうじ)のも
《割書:慶長九年の|路次賃銭定》 ので徳川氏(とくがはし)の奉行(ぶぎよう)が裏書(うらがき)をして居(を)る御油(ごゆ)赤坂(あかさか)並(ならび)に此(この)吉田(よしだ)間(かん)の路中駄賃(ろちうだちん)を定(さだ)めた書付(かきつけ)が今(いま)も尚(な)ほ宝飯郡(ほゐぐん)
《割書:状 | 》 御油町(ごゆまち)の林小次郎(はやしこじろう)氏(し)方(かた)に保存(ほぞん)されて居(を)るが之(これ)亦(ま)た頗(すこぶ)る面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふから参考(さんこう)の為(ため)に左(さ)に全(ぜん)
文(ぶん)を掲(かゝ)げて見(み)よう
(表)
定路次駄賃の覚
一こいより赤坂まて荷物壱駄四拾貫目ニ付びた銭十五文同吉田へも五拾文の事
一乗尻一人ハ拾八貫目ニ定候並少々のりが気荷成共はかりニかけ右の積を以無遅候様ニ早々付
送可被申事
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百七十三号附録 (明治四十年一月三十日発行)
【本文】
一 びた銭ハ永楽ニ六文立ニ取引可被成事
右の条々御奉行所ゟ被仰付候間如此書付置申者也如件
慶長七暦 奈 良 や
六月十日 市 右 衛 門 (花押)
樽 や
三 四 郎 (花押)
こ い 町 中
(裏)
大久保十兵衛(印)
板倉聞右衛門(印)
加藤喜左衛門(印)
伊奈備前守(印)
此(この)定状(さだめじよう)は当時(たうじ)に於(お)ける駅伝(えきでん)の模様(もやう)を知(し)る事の参考(さんこう)となるのみならず鐚銭(びたせん)と永楽銭(えいらくせん)との差額(さがく)も分(わか)るの
で甚(はなは)だ味(あじわ)ふべきものがあると思(おも)ふモツトモ奈良屋(ならや)某(なにがし)樽屋(たるや)某(なにがし)とあるのは江戸(えど)の問屋(とんや)で東海道(とうかいどう)の駅伝(えきでん)を
請負(うけお)つて居(を)るものであると思(おも)ふが定状(さだめじよう)の裏面(りめん)に伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみたゞつぐ)を初(はじ)め役人(やくにん)の証印(せういん)があるのは其(その)当時(たうじ)
の行政(ぎようせい)の様(さま)が伺(うかゞ)ひ知(し)れるように思(おも)はれるので私(わたくし)は特(とく)に趣味(しゆみ)を感(かん)じた次第(しだい)である尚(な)ほ家清(いへきよ)忠清(たゞきよ)父子(ふし)の系(けい)
《割書:寛政重修諸|家譜抄録 》 図(づ)並(ならび)に履歴(りれき)に就(つい)て寛政重修諸家譜(かんせいちやうしうしよかふ)の記事(きじ)は拠(よ)るべきものであると思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に抄録(しようろく)する
【欄外】
豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 二百一
【欄外】
豊橋市史談 (松平家清吉田に封せらる) 二百二
【本文】
清 宗 《割書:與二郎玄蕃允|備後守》
家 清 《割書:與二郎玄蕃頭|従五位下》
清 定 《割書:内記|松平石見守貴強か祖》
忠 清 《割書:萬之助 民部大輔|玄蕃頭 従五位下》
女 子 本多豊後守康紀か室
女 子 松平主殿頭忠利か室
女 子 成田左馬助泰高か室
女 子 浅野采女正長重か室
清 昌 《割書:初清成 庄次郎 玄蕃頭|従五位下》
家清(いへきよ) 母(はゝ)は松平大炊助好景(まつだひらおほゐのすけよしかげ)が女(ぢよ)永禄(えいろく)九年 竹谷(たけのや)に生(うま)る天正(てんせう)九年 東照宮(とうせうぐう)の御諱字(おんゐみな)を賜(たまは)り家清(いへきよ)とめさ
れ異父(ゐふ)の御妹(おんいもと)をめあはせたまふ《割書:時に十|六歳》十年 父(ちゝ)が譲(ゆづり)を受(うけ)て竹谷(たけのや)を領(れう)す十八年 小田原陣(をだはらぢん)に供奉(ぐぶ)し御凱(ごがい)
旋(せん)の後(のち)武蔵国(むさしのくに)児玉郡(こたまごほり)八幡山(やはたやま)に於(おい)て一万石の地(ち)を賜(たま)ふ此(この)時(とき)千貫文の地(ち)を弟(おとゝ)内記清定(ないききよさだ)に分(わか)ち与(あた)ふ十九
年九 戸(へ)一 揆(き)の時(とき)陸奥国(むつのくに)岩手沢(いわてざわ)まで従(したが)ひたてまつる慶長(けいちよう)五年 関(せき)ヶ原(はら)の役(えき)に石川長門守康通(いしかはながとのかみやすみつ)と共(とも)に尾(を)
張国(はりのくに)清洲(きよす)の城番(じようばん)をつとめ又(また)同国(どうこく)犬山(いぬやま)の城(しろ)を受取(うけと)る六年二月 八幡山(やはたやま)を転(てん)して三河国(みかはのくに)吉田城(よしだじよう)をたまひ
加恩(かおん)ありて三万石を領(れう)し其(その)収納(しうのう)のうち三千二百石を清定(きよさだ)に分(わか)ち与(あた)ふ此(この)年(とし)従(じゆ)五 位下(ゐかげ)玄蕃頭(げんばのかみ)に叙任(ぢよにん)す
八年二月 将軍(せうぐん)げはいが)の御参内(ごさんだい)に供奉(ぐぶ)す十年 清定(きよさだ)死(し)するの後(のち)其(その)采地(さいち)をかへしおさむ十五年十二月
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
二十一日 卒(そつ)す年(とし)四十五 葉雲全霜清宝院(よううんぜんさうせいほんゐん)と号(ごう)す吉田(よしだ)の全栄寺(ぜんえいじ)に葬(ほうむ)り男(だん)清昌(きよまさ)か時(とき)寺(てら)を西郡(にしのごほり)に移(うつ)して
改葬(かいそう)す室(しつ)は久松佐渡守俊勝(ひさまつさどのかみとしかつ)が女(ぢよ)東照宮(とうせうぐう)異父(ゐふ)同母(どうぼ)の御妹(おんいもと)なり天正(てんせう)十八年十月十七日 逝(せい)す年(とし)二十二 月(げつ)
窓貞心天桂院(そうていしんてんけいゐん)と号(ごう)す武蔵国(むさしのくに)八幡山(やはたやま)に葬(ほうむ)り一 宇(う)を建(た)て天桂院(てんけいゐん)と名(なづ)く後(のち)三河国(みかはのくに)吉田(よしだ)に移(うつ)して其(その)地(ち)に改(かい)
葬(そう)し慶安(けいあん)二年 清昌(きよまさ)が時(とき)に西郡(にしのこほり)の全栄寺(ぜんえいじ)を合(あは)せて龍台山(りううんざん)天桂院(てんけいゐん)と云(い)ふ即(すなはち)其(その)地(ち)に改葬(かいそう)す大猷院(だいゆうゐん)より
寺領(じれう)十石余を寄附(きふ)せらる
忠清(たゞきよ) 母(はゝ)は俊勝(としかつ)《割書:久松佐|後守》か女(ぢよ)天正(てんせう)十三年 竹谷(たけのや)に生(うま)る慶長(けいちよう)十五年 遺領(ゐれう)を継(つぐ)《割書:時に十|六歳》後(のち)台徳院殿(だいとくゐんでん)の御前(ごぜん)に
於(おい)て元服(げんぷく)し御諡字(おんゐみな)を賜(たま)ひ忠清(たゞきよ)と名(な)のり従(じゆ)五 位下(ゐか)民部大輔(みんぶたゆう)に叙任(ぢよにん)す此(この)時(とき)左文字(さもんじ)の御刀(おんかたな)を賜(たま)ふ後(のち)玄蕃(げんばの)
頭(かみ)にあらたむ十七年四月二十日 卒(そつ)す年(とし)二十八 機叟勝全忠功院(きさうせうぜんちうこうゐん)と号(ごう)す嗣(よつぎ)なきにより所領(しよれう)をおさめら
る室(しつ)は亀井武蔵守茲矩(かめいむさしのかみこれのり)か女(ぢよ)
⦿松平忠利の移封
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)であつた松平忠清(まつだひらたゞきよ)は慶長(けいちよう)十七年四月二十日 年(とし)僅(わづ)かに廿八歳で頓死(とんし)し子(こ)
がなかつたので其(その)家(いへ)は断絶(だんぜつ)に及(およ)むだのであるが仝年(どうねん)十一月十二日 其(その)弟(おとゝ)清昌(きよまさ)が更(さら)に西郡(にしのこほり)五千石を与(あた)へ
《割書:松平主殿助|忠利》 られて家名(かめい)を継(つ)ぐ事(こと)となつたのである而(しか)して此(この)吉田(よしだ)には之(これ)と同時(どうじ)に深溝(ふかうず)の城主(じようしゆ)松平主殿助忠利(まつだひらとのものすけたゞとし)が移(い)
封(ほう)せられて来(き)たので之(これ)も之迄(これまで)一万石であつたのを三万石に加増(かぞう)せられたのであつたが此(この)忠利(たゞとし)と云(い)ふ人(ひと)
深溝の松平 は之迄(これまで)数々(しば〳〵)申述(もうしの)べた彼(か)の家忠日記(いへたゞにつき)の記者(きしや)松平家忠(まつだひらいへたゞ)の子(こ)であつて即(すなは)ち世(よ)に深溝(ふかうず)松平氏(まつだひらし)と云ふ家(いへ)である此(この)
家(いへ)も矢張(やはり)前(まへ)に御話(おはなし)した如(ごと)く松平信光(まつだひらのぶみつ)の流(りう)で忠利(たゞとし)は其(その)五 世(せい)の孫(そん)に当(あた)るのであるが信光(のぶみつ)の孫(まご)大炊助忠定(おほゐのすけたゞさだ)
と云ふ人が初(はじ)めて宝飯郡(ほゐぐん)深溝(ふかうず)の城(しろ)を取(と)つて之(これ)に住(ぢう)したので深溝(ふかうず)松平(まつだひら)の名(な)が起(おこ)つたのであるが此(この)人(ひと)は享(けう)
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百三
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百四
【本文】
大炊助好景 禄(ろく)四年六月九日に卒(そつ)して其(その)嫡子(ちやくし)大炊助好景(おほゐのすけよしかげ)が其(その)後(あと)を継(つ)いだのである此(この)人(ひと)も前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もうしの)べてある如(ごと)く
徳川氏(とくがはし)の為(ため)には中々(なか〳〵)戦功(せんこう)のあつた人であるが永禄(えいろく)四年四月 年(とし)四十四歳で吉良義昭(よらよしあき)との戦(たゝかひ)に幡豆郡(はづぐん)善(ぜん)
主殿助伊忠 明寺(みようじ)の堤(つゝみ)に於(おい)て打死(うちじに)し其(その)子(こ)が即(すなは)ち主殿助伊忠(とのものすけこれたゞ)であるが此(この)人(ひと)も亦(ま)た中々(なか〳〵)の勇者(ゆうしや)で永禄(えいろく)七年 此(この)吉田(よしだ)の合戦(かつせん)
には鵜殿(うどの)八郎三郎 長照(ながてる)と共(とも)に喜見寺(きけんじ)の砦(とりで)を守(まも)つた事が記(しる)されてあるが之(これ)も長篠(ながしの)の合戦(かつせん)に酒井忠次(さかゐたゞつぐ)と共(とも)
に鳶巣(とびのす)の砦(とりで)を攻(せ)めに行(い)つて遂(つひ)に戦死(せんし)したのであつて孰(いづ)れも既(すで)に諸君(しよくん)の能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふ此(この)
主殿助家忠 時(とき)伊忠(これたゞ)は年(とし)三十九であつたが其(その)子(こ)が彼(か)の家忠(いへたゞ)で此(この)人(ひと)も徳川氏(とくがはし)の為(ため)には殆(ほとん)ど数(かぞ)えられぬ程(ほど)の功名(こうみよう)手柄(てがら)を
《割書:父祖三代相|続で主家の》 現(あら)はし慶長(けいちよう)五年八月朔日 伏見城(ふしみじよう)に於(おい)て鳥居元忠(とりゐもとたゞ)等(ら)と共(とも)に勇戦(ゆうせん)して打死(うちじに)した事は矢張(やはり)前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)
《割書:為に戦死す| 》 くである此(かく)の如(ごと)く父祖(ふそ)二代(だい) 揃(そろ)ひも揃(そろ)つて同(おな)じく主家(しゆか)の為(ため)に殉(じゆん)じたと云ふ事は仮令(たとへ)当時(たうじ)戦国(せんごく)の時代(じだい)であ
つたとしても随分(ずゐぶん)珍(めづ)らしい事であると思(おも)ふ而(しか)して忠利(たゞとし)は当時(たうじ)まだ又(また)八 郎(らう)と称(せう)して居(を)つたが父(ちゝ)家忠(いへたゞ)戦死(せんし)
の時(とき)は関東(くわんとう)に従(したがつ)て下総国(しもふさのくに)小美川城(おみがはじよう)を守(まも)つて居(を)つたのであるソコでイヨ〳〵関(せき)ケ原役(はらえき)が済(す)むで慶長(けいちよう)六
年の二月 再(ふたゝ)び父祖伝来(ふそでんらい)の旧領(きうれう)たる当国(たうごく)の深溝(ふかうず)を与(あた)へられ一万石を領(れう)したのであるが其(その)九年の夏(なつ)叙任(ぢよにん)し
て主殿助(とのものすけ)と称(せう)し今度(このたび)竹谷(たけのや)松平氏(まつだひらし)の後(あと)を享(う)けて終(つひ)に此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)と相成(あひな)つた次第(しだい)である
鐘銘事件 サテかくの如(ごと)き訳(わけ)であつたが其(その)十九年に至(いた)つて駿府(すんぷ)と大坂(おほさか)との間(あひだ)に彼(か)の鐘銘事件(せうめいじけん)が起(おこ)つたのである之(これ)
は御承知(ごせうち)の如(ごと)く慶長(けいちよう)元年七月の大地震(おほぢしん)に破摧(はさい)した京都(けうと)の大仏殿(だいぶつでん)に対(たい)し家康(いへやす)から秀頼(ひでより)母子(ぼし)に向(むか)つて其(その)再(さい)
建(こん)を勧(すゝ)め且(か)つそれは豊太閤(たいこうかく)の宿願(しゆくぐわん)であるから其(その)遺志(ゐし)を継(つ)いで冥福(めいふく)を資(たす)くるようにと申送(もうしおく)つたので秀(ひで)
頼(より)母子(ぼし)は大(おほい)に喜(よろこ)むで慶長(けいちよう)七年十一月に其(その)工(こう)を起(おこ)したが途中(とちう)に故障(こせう)があつて一 時(じ)中止(ちうし)したのである然(しか)る
に再(ふたゝ)び工(こう)を起(おこ)して十七年の春(はる)に至(いた)りヨウ〳〵落成(らくせい)したのであるが十九年三月 更(さら)に其(その)鐘(かね)を鋳(い)る事となつ
て程(ほど)なく之(これ)も出来上(できあが)つたのでイヨ〳〵其(その)落成式(らくせいしき)を挙(あ)げようと云ふ処で其(その)鐘銘(せうめい)の中(なか)に国家安康(こくかあんこう)と云ふ文(もん)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百七十九号附録 (明治四十五年二月六日発行)
【本文】
字(じ)があるのは之(これ)は家康(いへやす)と云ふ二 字(じ)を態々(わざ〳〵)中断(ちうだん)したものであるから不祥(ふせう)であるそれのみならず文章(ぶんせう)の中(なか)
にも呪詛(じゆそ)と見(み)るべき点(てん)があると云ふので突然(とつぜん)家康(いへやす)から異議(ゐぎ)の申立(もうしたて)が起(おこ)つたので之(これ)が中々(なか〳〵)の大事件(だいじけん)とな
つて其(その)極(きよく)は遂(つひ)に大坂(おほさか)冬(ふゆ)の役(えき)と云ふ大戦争(たいせんそう)を惹起(ひきおこ)すに至(いた)つたのである元来(がんらい)関(せき)ヶ原役(はらえき)以来(いらい)と云ふものは前(まへ)
にも申述(もうしの)べた如(ごと)く関東(くわんとう)と大坂(おほさか)とは特(とく)に其(その)間(あひだ)に隔壁(かくへき)がある様(やう)で表面(ひようめん)こそ互(たがひ)に姻戚(ゐんせき)となつて親密(しんみつ)のようで
はあるが決(けつ)して快(こゝろよ)い訳(わけ)のものではない又(ま)た関東(くわんとう)から云ふと豊臣氏(とよとみし)は誠(まこと)に目(め)の上(うへ)の瘤(こぶ)で之(これ)があつては
到底(たうてい)枕(まくら)を高(たか)ふする訳(わけ)に行(ゆ)かぬと云ふ処から何(なん)とか折(をり)があつたならば之(これ)を除(のぞ)きたいと云ふ考(かんがへ)は断(た)へな
かつたに相違(さうゐ)ない其(その)上(うへ)家康(いへやす)も其(その)齢(よはひ)が次第(しだい)に高(たか)まつて来(く)るに従(したがつ)て自然(しぜん)に事を急(いそ)いだ様子(やうす)が見(み)へるので
あるが其処(そこ)には又(ま)た本多正信(ほんだまさのぶ)などを初(はじ)め中々(なか〳〵)の策士(さくし)があつたので色々(いろ〳〵)と苦肉(くにく)の策(さく)を割(くわく)したのであるが
之(これ)に引(ひ)き替(か)へ大坂方(おほさかがた)にあつては其(その)大将(たいせう)とも云ふべき淀君(よどぎみ)は兎(と)に角(かく)婦人(ふじん)であるからドウモ思慮(しりよ)が浅(あさ)い処
大坂冬の役 があるのみならず其(その)臣下(しんか)のものにも調和(ちようわ)を欠(か)き遂(つひ)に片桐且元(かたぎりかつもと)などと云ふ主家(しゆか)思(おも)ひのものをも斥(しりぞ)けてか
ゝる些細(ささい)な事が端緒(たんちよ)となつて戦端(せんたん)を開(ひら)くに至(いた)つたのは誠(まこと)に豊臣氏(とよとみし)の為(ため)に気(き)の毒(どく)な至(いたり)であると思(おも)ふ而(しか)し
て此(この)大坂役(おほさかえき)の事に就(つい)ては詳(くは)しく御話(おはなし)すれば随分(ずいぶん)長時間(ちようじかん)を要(よう)する事であるから此処(こゝ)には其(その)必要(ひつよう)もなかろ
《割書:家康大阪出|征の途次吉》 うと思(おも)ふので出来(でき)る限(かぎ)り略(りやく)する考(かんがへ)であるが結局(けつきよく)家康(いへやす)が遂(つひ)に大阪(おほさか)に向(むか)ふ事となつて駿府(すんぷ)を発(はつ)したのは
《割書:田に次す | 》 其(その)年(とし)十月の十一日で其(その)十五日には此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)したのである此(この)時(とき)此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)忠利(たゞとし)は此(この)役(えき)に従軍(じうぐん)したの
であるが当時(たうじ)東海道(とうかいどう)の城々(しろ〳〵)には城兵(じようへい)の外(ほか)に守備(しゆび)として衛兵(えいへい)を添(そ)へられたものである然(しか)るに此(この)吉田城(よしだじよう)に
は其(その)必要(ひつよう)がないと認(みと)められて其(その)こ事(こと)がなかつた事と見(み)へる即(すなは)ち寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)の忠利譜(たゞとしふ)の中(なか)に
此(この)役(えき)に東海道(とうかいどう)所々(しよ〳〵)の城(しろ)に守衛(しゆゑい)を副(そ)へらる戸田土佐守尊次(とだとさのかみたかつぐ)に岡崎城(をかざきじよう)を守(まも)らしめ給(たま)ひ浜松(はままつ)吉田(よしだ)の両城(れうじよう)に
も加勢(かせい)を置(お)かれむとて家臣(かしん)松平勘解由左衛門康定(まつだひらかげゆうさへもんやすさだ)を岡崎(をかざき)に召(め)して忠利(たゞとし)誰(たれ)を留(とゞ)めて守(まも)らするぞと問(とは)せ
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百五
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百六
【本文】
給(たま)ひければ康定(やすさだ)及(およ)び松平与(まつだひらよ)五 右衛門(うえもん)某(それがし)、 大原修理久信(おほはらしゆりひさのぶ)、 酒井善(さかゐぜん)五 左衛門(ざゑもん)某(それがし)、 岡田孫左衛門(をかだまござゑもん)某(それがし)
板倉(いたくら)七 兵衛(ひようゑ)某(それがし)等(ら)なりと答(こた)へ奉(たてまつ)りしに彼等(かれら)は皆(みな)かねてしろしめされしもの共(ども)なりとて別(べつ)に兵士(へいし)を副(そ)
へ給(たま)はず
と云ふ事が書(か)いてあるのである又(ま)た此(この)日(ひ)堺(さかひ)の市人(しじん)柏尾宗具(かしをそうぐ)と云ふものが此(この)吉田(よしだ)に来(きたつ)て此処(こゝ)で家康(いへやす)に謁(えつ)
して大阪(おほさか)及(およ)び堺(さかひ)の情況(ぜうけう)を告(つ)げた事が駿府記(すんぷき)の中(なか)に記(しる)してあるが家忠日記(いへたゞにつき)増補(ぞうほ)などに依(よ)ると此(この)日(ひ)矢張(やはり)蜂(はち)
須賀家政(すかいへまさ)が阿波(あは)から海路(かいろ)を此地(このち)に着岸(ちやくがん)して家康(いへやす)に謁見(えつけん)を請(こ)つたが謁見(えつけん)には及(およ)ばぬから直(す)ぐ江戸(えど)に行(ゆ)け
との事で直(たゞ)ちに江戸(えど)に出立(しゆつたつ)したと云ふ事が記(しる)してあるのである
而(しか)して家康(いへやす)は其(その)翌(よく)十六日に岡崎(をかざき)に着(ちやく)し漸次(ぜんじ)西上(せいじよう)して廿三日には京都(けうと)の二 条城(じようじよう)に入(い)つたのであるが将軍(せうぐん)
《割書:軍隊供給に|関する制法》 秀忠(ひでたゞ)も亦(ま)たイヨ〳〵西上(せいじよう)することとなつて此(この)十月の十八日 幕府(ばくふ)から沿道(えんどう)諸駅(しよえき)に向(むか)つて軍隊供給(ぐんたいけうきう)に関(くわん)する
制法(せいはふ)を出(いだ)したのである其(その)中(なか)で御油町(ごゆまち)に向(むか)つて発(はつ)せられた当時(たうじ)の文書(ぶんしよ)が幸(さいはひ)に前(まへ)にも申述(もうしの)べた林小次郎(はやしこじらう)
氏(し)の処に遺(のこ)つて居(を)るのであるモツトモ之(これ)と略(ほ)ぼ同文(どうぶん)のものが杉浦文書(すぎうらぶんしよ)《割書:遠|江》として大日本史料(だいにつぽんしれう)の同日(どうじつ)の条(くだり)
に載(の)せられてあるのみならず此(この)御油町(ごゆまち)に当(あたつ)てたるものも御庫本古文書纂(みくりほんこぶんしよさん)の中(なか)に載(の)せられてあると記(しる)し
てあるが実(じつ)は其(その)原本(げんぽん)が前(まへ)に申述(もうしの)ぶる如(ごと)く林氏(はやしし)に現存(げんぞん)して居(を)ることであるから今(いま)其(その)全文(ぜんぶん)を左(さ)に掲(かゝ)ぐることと
する
林文書 今度(こんど)御陣(おんぢん)ニ付(つい)而 米大豆(こめだいづ)ぬかわら薪(たきゞ)雑事(ざつじ)以下(いか)在々(ざい〳〵)へ申触(もうしふれ)道通(みちとほり)へ持出(もちだし)売買(ばい〳〵)いたし諸人(しよじん)ことかけ候はぬ
やうに可申付事(もうしつけべくこと)
一 御陣衆(おんぢんしゆう)宿賃(やどちん)の儀(ぎ)壱人ニ付而(ついて)鐚(びた)二 文(もん)馬(うま)壱 疋(ぴき)ニ鐚(びた)六 文(もん)但(たゞし)陣衆(ぢんしゆう)自分(じぶん)の薪(たきゞ)を焼候(やきそろ)ハヽ宿賃(やどちん)者(は)有間(ありま)しく事(こと)
一 代物(だいもつ)よりひきの儀(ぎ)此(この)以前(いぜん)如法度(はふとのごとく)可申付候事(もうしつけべくそろこと)外(ほか)よりまし取沙汰(とりさた)〇 可有其心得事(そのこゝろえあるべきこと)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
一 在々(ざい〳〵)へ申触(もうしふれ)道通(みちとほ)りへ馬(うま)を出(いだ)し駄賃馬(だちんうま)御陣衆(おんぢんしゆう)事欠候(ことかきそうろ)はぬ様(やう)に可申付候(もうしつくべくそろ)陣衆(ぢんしゆう)馬無之候(うまこれなくそうろ)とて追返(おひかへ)し
候共(そろとも)前々(ぜん〳〵)ゟ御(おん)さための所(ところ)にて次其(つぎそれ)ゟとをし申(もうし)ましく候たとへ馬草臥候共(うまくたぶれそろとも)御定(おんさだめ)の所(ところ)迄(まで)は荷物(にもつ)つかへ
候はぬ様(やう)に駄賃付可申候(だちんつけもうすべくそろ)駄賃銭(だちんせん)前々(ぜん〳〵)御定(おんさだめ)のことくたるべく候(そろ)以上(いじよう)
十月十八日
土大炊(印)
安対馬(印)
酒備後守(印)
酒雅樂頭(印)
ご い
庄 屋 年 寄 中
右(みぎ)の内(うち)で土大炊(どおゝゐ)は土井大炊頭利勝(どゐおゝゐのかみとしかつ)、 安対馬(あんたじま)は安藤対馬守重信(あんどうたじまかみしげのぶ)、 酒備後守(さけびんごのかみ)は酒井忠利(さかゐたゞとし)、 酒雅樂頭(さかゐうたのかみ)は酒井(さかゐ)
忠世(たゞよ)で孰(いづ)れも当時(たうじ)幕政(ばくせい)を統括(とうかつ)して居(を)つた人々であるが此(この)外(ほか)にも尚(な)ほ軍令(ぐんれい)を頒(わか)ち制法(せいはふ)を榜示(はうじ)したのであ
秀忠の出発 る其(その)間(あひだ)に関東(くわんとう)の後事(こうじ)をも処分(しよぶん)し終(おは)つたので秀忠(ひでたゞ)は二十三日に兵(へい)五万余人を率(ひき)ゐて江戸(えど)を発(はつ)し此(この)吉田(よしだ)に
は廿九日に着(ちやく)したのであるが之(これ)も亦(ま)た行(こう)を急(いそ)いで十月の十日に伏見城(ふしみじよう)に入(い)つたのである当時(たうじ)大阪方(おほさかがた)に
あつては大野治長(おほのはるなが)などが先(ま)づ参謀(さんばう)の位置(ゐち)で頻(しき)りに檄(げき)を四 方(はう)に伝(つた)へて太閤恩顧(たいかうおんこ)の人々を招(まね)いたのである
が只(たゞ)真田幸村(さなだゆきむら)、 後藤基次(ごとうもとつぐ)位(ぐらゐ)の外(ほか)は孰(いづ)れも浪士(らうし)ばかりで之(これ)と云ふ大名(だいみよう)には応(おう)ずるものはなかつたのであ
る併(しか)し之(これ)等(ら)の人々が死(し)を期(き)して天下(てんか)の名城(めいじよう)に楯籠(たてこも)つた事であるから如何(いか)に家康(いへやす)、 秀忠(ひでたゞ)が百三十万の寄(よせ)
手(て)で攻(せ)めても容易(ようい)には抜(ぬ)く訳(わけ)にいかなかつた事と思(おも)はれる蓋(けだ)し家康(いへやす)は十一月の十五日に二 条城(じようじよう)を発(はつ)し
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百七
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百八
【本文】
て奈良(なら)に出(い)でそれより住吉(すみよし)に陣(ぢん)したのであるが秀忠(ひでたゞ)は枚方(ひらかた)枚岡(ひらをか)を経(へ)て平野(ひらの)に至(いた)り十八日に家康(いへやす)と天王(てんわう)
寺(じ)に於(おい)て相会(あひくわい)し軍議(ぐんぎ)をなしたのであるトコロがそこは家康(いへやす)の家康(いへやす)たる所以(ゆゑん)で却(かへつ)て此方(こちら)から大阪方(おほさかがた)に向(むか)
て和議(わぎ)を起(おこ)すに至(いた)つたのであるがそれが此(この)廿日であつたと云ふ事である然(しか)るに一 方(ぱう)には又(ま)た頻(しき)りに対(たい)
和議成る 城策(じようさく)を講(こう)じて守衛(しゆゑい)を厳(げん)にせしめたのであるがヨウ〳〵十二月廿ニ日に至(いた)つて媾和成立(こうわせいりつ)と相成(あひな)つたので
忠利の戦功 一先(ひとま)づ落着(らくちやく)を告(つ)げたのである之(これ)が即(すなは)ち世(よ)に称(せう)する大阪(おほさか)冬(ふゆ)の役(えき)の大体(だいたい)であるが此(この)役(えき)に吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)松平(まつだひら)
忠利(たゞとし)が従軍(じうぐん)した事は既(すで)に前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)くで十一月十一日に家康(いへやす)の命(めい)を受(う)けて伊奈忠政(いなたゞまさ)《割書:忠次|の子》と共(とも)に
鳥飼(とりがひ)附近(ふきん)対岸(たいがん)の堤(つゝみ)を決(けつ)して淀川(よどがは)の水(みづ)を削減(さくげん)することを計劃(けいくわく)し又(ま)た対城中(たいじようちう)は尼(あま)が崎城(さきじよう)を守(まも)つた事が種々(しゆ〳〵)の
記録(きろく)に記(しる)されて居(を)る兎(と)に角(かく)以上(いじよう)述(の)べたような訳(わけ)で大阪(おほさか)冬(ふゆ)の役(えき)は一 時(じ)落着(らくちやく)したが其(その)媾和条件(こうわじようけん)の中(なか)に城(じよう)
廓(くわく)の一 部(ぶ)を破却(はきやく)すると云ふ箇条(かじよう)があつて之(これ)は外堀(そとぼり)だけを埋(う)める協約(けうやく)であつたのを徳川方(とくがはがた)ではドシ〳〵
二の丸(まる)の堀(ほり)までも埋(う)めて行(ゆ)くので大阪方(おほさかがた)から其(その)違約(ゐやく)を責(せ)めたのであるトコロが之(これ)は本多正純(ほんだまさずみ)の専断(せんだん)で
あると云ふので不得要領(ふとくようれう)の間(あひだ)に矢張(やはり)工事(こうじ)はズン〳〵進行(しんこう)して遂(つひ)に之(これ)を埋(う)め終(おは)つたと云ふ次第(しだい)であるが
大阪の再挙 それのみならず矢張(やはり)媾和(こうわ)の一 条件(じようけん)として大阪城中(おほさかじようちう)の浪士(らうし)扶助(ふじよ)の事があつたが其後(そのご)此(この)事(こと)を大阪(おほさか)から関東(くわんとう)
へ交渉(こうせう)した処(ところ)家康(いへやす)は却(かへつ)て大立腹(おほりつぷく)で其(その)使者(ししや)を退(しりぞ)けたので之(これ)では詮方(せんかた)がないと云ふ処から大阪(おほさか)に於(おい)ては遂(つひ)
夏の役 に再挙(さいきよ)を図(はか)るに至(いた)つたのであるが之(これ)が即(すなは)ち大阪(おほさか)夏(なつ)の役(えき)で慶長(けいちよう)は十九年までゞ元和(げんわ)と年号(てんごう)が改(あらた)まつたの
であるから此(この)役(えき)は元和(げんわ)元年(がんねん)の事になるので初(はじ)め家康(いへやす)は其(その)四月四日 其(その)子(こ)義直(よしなを)の婚儀(こんぎ)をなす為(ため)と称(せう)して駿(すん)
府(ぷ)を発(はつ)し八日に此(この)吉田(よしだ)に泊(はく)して十日 名古屋(なごや)に着(ちやく)したのであるが十五日 更(さら)に名古屋(なごや)を発(はつ)し十八日に二 条(じよう)
城(じよう)に入(い)つたのである又(ま)た秀忠(ひでたゞ)は其(その)月(つき)の十日に江戸(えど)を発(はつ)して十八日に吉田(よしだ)を通過(つうくわ)し廿一日 伏見城(ふしみじよう)に入(い)り
それより家康(いへやす)と共(とも)に大阪(おほさか)に押(お)し寄(よ)せたが今度(このたび)は諸君(しよぐん)が既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)く頗(すこぶ)る激烈(げきれつ)なる戦闘(せんたう)もあつたの
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百八十四号附録 (明治四十五年二月十三日発行)
【本文】
豊臣氏亡ぶ であるが結局(けつきよく)大阪方(おほさかがた)の敗(はい)となつて此(この)年(とし)の五月八日 秀頼(ひでより)母子(ぼし)を初(はじ)め火(ひ)を大阪城(おほさかじよう)に放(はな)つて自殺(じさつ)し茲(こゝ)に全(まつた)く
庄九郎忠一 豊臣氏(とよとみし)も滅亡(めつぼう)するに至(いた)つたのである而(しか)して此(この)役(えき)にも矢張(やはり)松平忠利(まつだひらたゞとし)は従軍(じうぐん)し徳川頼宣(とくがはよりのぶ)の軍(ぐん)に属(ぞく)したので
あるが此(この)時(とき)忠利(たゞとし)の弟(おとゝ)に庄(せう)九 郎忠一(らうたゞかづ)と云ふのがあつて此(この)人(ひと)は遂(つひ)に戦死(せんし)を遂(と)げたのである其(その)状態(ぜうたい)が実(じつ)に勇(いさ)
ましく思(おも)はるゝのであるから藩翰譜(はんかんふ)の記事(きじ)の内(うち)から其(その)条(くだり)を左(さ)に抄出(しようしゆつ)することとする
忠利(たゞとし)が弟(おとゝ)を庄(せう)九 郎忠一(らうたゞかづ)と云ふ将軍家(せうぐんけ)に仕(つか)ふ大阪(おほさか)兵乱(へいらん)再(ふたゝ)び起(おこ)りし時(とき)同僚共(どうれうども)に申(もうし)けるは此度(このたび)の軍事(ぐんじ)終(おは)ら
ば天下(てんか)再(ふたゝ)び兵革(へいかく)の事(こと)あるべからず忠一(たゞかづ)将軍家(せうぐんけ)の先陣(せんぢん)に従(したが)ひまゐらせしこそ幸(さいはひ)なれ必(かなら)ず先懸(さきが)けして
父祖(ふそ)の忠死(ちうし)に次(つ)ぐものぞと云ひけるが五月七日の戦(たゝかひ)に申(もう)しゝに違(たが)はず最先(さいさき)かけ生年(せいねん)廿六歳にて討死(うちじに)
をぞ遂(と)げにける
此(この)父祖(ふそ)の忠死(ちうし)と云ふのは前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く好景(よしかげ)、 伊忠(これたゞ)、 家忠(いへたゞ)と此(この)家(いへ)が三 代(だい)打継(うちつ)いて此家(しゆか)の為(ため)に打死(うちじに)し
た事を云つたもので其(その)家忠(いへたゞ)の子(こ)である処の忠一(たゞかづ)は実(じつ)に其処(そこ)に感奮興起(かんふんこうき)したものと見(み)へる私(わたくし)は元(もと)より死(し)
を軽(かろ)むずると云ふ事をのみ奨励(せうれい)せむとするものではないが兎(と)に角(かく)此(この)家(いへ)の歴史(れきし)が能(よ)く此(この)子(こ)を生(う)み出(いだ)した
と云ふ事と此(この)忠一(たゞかづ)の意気(いき)とは誠(まこと)に教訓(けふくん)に資(し)すべきであるとして之(これ)を表彰(ひようせう)したく思(おも)ふのである
サテ右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で豊臣氏(とよとみし)は遂(つひ)に亡(ほろ)びて兵革(へいかく)は漸(やうや)く釐(おさ)まるに至(いた)つたのであるが其(その)翌(よく)二年三月廿七日 家(いへ)
家康薨去 康(やす)は太政大臣(だじようだいじん)に任(にん)じたのである然(しか)るに其(その)翌月(よくげつ)十七日 病(やまひ)を以(もつ)て駿府(すんぷ)に薨去(こうきよ)し年(とし)は七十五歳であつたが其(その)
秀忠辞職 九年七月廿七日に至(いた)つて秀忠(ひでたゞ)も亦(ま)た征夷大将軍(せいいたいせうぐん)の職(しよく)を辞(じ)して子(こ)家光(いへみつ)が其(その)後(あと)を襲(つ)ぎ将軍(せうぐん)に任(にん)ぜられたの
《割書:家光征夷大|将軍となる》 であるモツトモ此(この)時(とき)秀忠(ひでたゞ)は上京(ぜうけう)して参内(さんだい)したのであるが江戸(えど)を出発(しゆぱつ)したのは五月十二日で六月朔日に
秀忠の上洛 此(この)吉田(よしだ)に宿(しゆく)した此(この)時(とき)にも随行者(ずいこうしや)並(ならび)に在京(ざいけう)のものなどに向(むかつ)て幕府(ばくふ)から種々(しゆ〳〵)の令条(れいじよう)は発(はつ)したものであるが
林文書 矢張(やはり)前(まへ)に申述(もうしの)べた林氏(はやしし)の処に此(この)時(とき)御油(ごゆ)赤阪(あかさか)両町(れうてう)の庄屋(せうや)に宛(あ)てた文書(ぶんしよ)が今(いま)も保存(ほぞん)せられて居(を)る之(これ)亦(ま)た甚(はなは)
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百九
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十
【本文】
だ趣味(しゆみ)のあるものと思(おも)ふから左(さ)に其(その)全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)げることとする
御油(ごゆ)赤阪(あかさか)両町(れうてう)の駄賃馬(だちんうま)申合(もうしあはせ)一ツに被致(いたされ)御登(おんとほり)の時(とき)は赤阪(あかさか)の馬(うま)御油(ごゆ)まて参(まゐり)藤川(ふぢかは)迄(まで)付可申候(つけもうすべくそろ)御下向(ごけこう)の時(とき)
は御油(ごゆ)ノ馬(うま)赤阪(あかさか)まて参(まゐり)吉田(よしだ)迄(まで)付可申候(つけもうすべくそろ)往還(わうくわん)の衆(しう)駄賃馬(だちんうま)借候(かりそうら)ハぬ様(やう)ニと従御公儀(ごこうぎより)被仰付候間(あふせつけられそろあひだ)如此(かくのごとくに)
候(そろ)以上(いじよう)
元 和 九 亥
五月廿九日
御 油 町
赤 阪 町
庄 屋
右(みぎ)の内(うち)で庄屋(せうや)と云ふ事のあるのは頗(すこぶ)る注意(ちうい)すべきで庄屋(せうや)と云ふ事は此(この)時代(じだい)より余(あま)り古(ふる)くは見当(みあた)らぬ事
であると思(おも)ふ
寛永と改元 而(しか)して此(この)元和(げんな)と云ふ年号(ねんごう)は九年迄で寛永(かんえい)と改(あらた)まつたのであるが之(これ)からが即(すなは)ち三 代将軍(だいせうぐん)家光(いへみつ)の代(だい)と相成(あひな)
利忠卒す つた訳(わけ)で吉田城主(よしだじようしゆ)の忠利(たゞとし)は其(その)寛永(かんえい)九年の五月五日に至(いた)つて病(やまひ)を以(もつ)て卒(そつ)したのである其後(そののち)は仝年の八月
《割書:子忠房襲封|刈屋に移さ|る》 十一日に子(こ)の忠房(たゞふさ)が相続(さうぞく)したが同時(どうじ)に刈屋(かりや)へ移封(いほう)せらるゝ事となつて此(この)深溝(ふかうず)松平氏(まつだひらし)も亦(ま)た僅(わづか)に在城(ざいじよう)廿
一年 許(ばかり)で吉田(よしだ)を去(さ)るに至(いた)つたのであるソコで此(この)忠利(たゞとし)の略歴(りやくれき)は徳川実記(とくがはじつき)寛永(かんえい)九年八月十一日の条(くだり)に記(しる)し
てあるが之(これ)は甚(はなは)だ簡明(かんめい)であると思(おも)ふから亦(ま)た此処(こゝ)に抄出(しようしゆつ)する事とする
《割書:徳川実記の|記事》 十一日 三河国(みかはのくに)吉田城主(よしだじようしゆ)松平主殿頭忠利(まつだひらとのものかみたゞとし)卒(そつ)しけば其(その)子(こ)五郎八 忠房(たゞふさ)遺領(ゐれう)三万石をつぎて吉田(よしだ)を転(てん)じ
同州(どうしう)刈屋城主(かりやじようしゆ)とせらる此(この)忠利(たゞとし)は庚子(こうし)の乱(らん)に伏見城(ふしみじよう)にて討死(うちじに)せし主殿頭家忠(とのものかみいへたゞ)が子(こ)なり慶長(けいちよう)元年(がんねん)台徳院(たいとくゐん)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
殿(でん)御前(おんまへ)にて元服(げんぷく)し御(おん)一 字(じ)賜(たま)はり忠俊(たゞとし)と名乗(なの)り後(のち)に忠利(たゞとし)に改(あらた)む父(ちゝ)が討死(うちじに)せしときは未(いま)だ又(また)八 郎(らう)とて関(くわん)
東(とう)の御陣(ごぢん)に随(したが)ひて小美川(こみがは)の城(しろ)を守(まも)り明(あけ)る慶長(けいちよう)六年二月 深溝(ふかうず)を賜(たまは)りて再(ふたゝ)び累代相伝(るいだいさうでん)の地(ち)に移(うつ)り一万石
を領(れう)す九年六月廿二日 叙爵(ぢよしやく)し主殿頭(とのものかみ)と称(せう)し十七年十一月十二日 今(いま)の城(しろ)賜(たまは)り加恩(かおん)ありて三万石になさ
る十九年 大坂(おほさか)の戦(たゝかひ)に従(したが)ひ奉(たてまつ)り尼崎城(あまがさきじよう)を守(まも)り元和(げんな)元年(がんねん)大坂(おほさか)の役(えき)には頼宣卿(よりのぶきよう)に付(つき)そひまいらせ出陣(しゆつぢん)
し七年 女御入内(ぢよごにふない)の供奉(ぐぶ)を勤(つと)めその年(とし)御上洛(ごじようらく)に従(したが)ひ奉(たてまつ)り還御(くわんぎよ)の時(とき)閏(うるふ)八月十四日 居城(きよじよう)吉田(よしだ)に至(いた)らせ給(たま)
ひ忠利(たゞとし)国次(くにつぐ)の脇差(わきざし)を献(けん)じ此(この)年(とし)五十一歳にて卒(そつ)せしなり
右(みぎ)の内(うち)でその年(とし)御上洛(ごじようらく)に従(したが)ひ奉(たてまつ)りとあるが之(これ)はこの年(とし)即(すなは)ち元和(げんな)九年を指(さ)したものでなくてはならぬ
将軍(せうぐん)秀忠(ひでたゞ)の女(ぢよ)が女御(ぢよご)として入内(にふない)したのは元和(げんな)七年で当時(とうじ)忠利(たゞとし)は其(その)供奉(ぐぶ)として随行(ずゐこう)したものに相違(さうゐ)ない
《割書:秀忠東帰吉|田に過る》 のであるが秀忠(ひでたゞ)の上洛(じようらく)は前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く元和(げんな)九年の事で之(これ)にも矢張(やはり)忠利(たゞとし)は随行(ずゐこう)したのである而(しか)し
て秀忠(ひでたゞ)東帰(とうき)の時(とき)は閏(うるふ)八月十四日に此(この)吉田城(よしだじよう)に過(よぎ)つて其(その)節(せつ)忠利(たゞとし)からは国次(くにつぐ)の刀(かたな)を献(けん)じたものと見(み)へる元
和九年の八月には閏(うるふ)があつたが元和(げんな)七年の八月には閏(うるふ)はなかつたのであるからドウしても此(この)事(こと)は元和
九年の事で徳川実記(とくがはじつき)に「その年」としてあるのは何(なん)だか前文(ぜんぶん)の続(つゞ)きから見(み)て元和(げんな)七年の事(こと)のように見(み)へ
るがそれは事実(じゞつ)の上(うへ)からそうではない事が分(わか)ると信(しん)ずるのである
丙辰紀行 次(つぎ)に此(この)忠利(たゞとし)が吉田城主(よしだじようしゆ)たりし時代(じだい)に於(お)ける此(この)地(ち)の状況(ぜうけう)等(とう)に就(つい)て少(すこ)しく御話(おはなし)したく思(おも)ふのであるが先(ま)づ
元和(げんな)二年 林道春(はやしどうしゆん)の丙辰紀行(へいしんきこう)の中(なか)に
吉田(よしだ) 江戸(えど)より京(けう)までの間(あひだ)に大橋(おほはし)四あり武蔵(むさし)の六 郷(ごう)、 三河(みかは)の吉田(よしだ)、 矢矧(やはぎ)、 近江(あふみ)の勢多(せた)なり独(ひと)り矢矧(やはぎ)
のみ土橋(どばし)なれば洪水(こうすゐ)によりて絶(たへ)る事もあり此(この)比(ころ)新(あらた)に板橋(いたばし)となりけるにや
吉田の大橋 と云ふ事が書(か)いてあるモツトモ其(その)頃(ころ)東海道(とうかいどう)の大河(たいが)は孰(いづ)れも渡(わた)しで橋(はし)と云ふものはなかつたのであるが
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十一
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十二
【本文】
橋(はし)の有(あ)つたのは只(たゞ)武蔵(むさし)の六 郷(ごう)と三河(みかは)の吉田(よしだ)、 矢矧(やはぎ)と近江(あふみ)の勢多(せた)の橋(はし)との四つ丈(だけ)であつた而(しか)して此(この)四 大(だい)
橋(けう)は徳川時代(とくがはじだい)となつては孰(いづ)れも公儀(こうぎ)の普請(ふしん)で所在地(しよざいち)の領主(れうしゆ)丈(だけ)の負担(ふたん)ではなかつたのであるから中々(なか〳〵)「
ヤカマシイ」ものであつたのである即(すなは)ち此(この)吉田(よしだ)の大橋(おほはし)と云ふものは当時(とうじ)天下(てんか)に能(よ)く知(し)られたもので譬(たと)
へば名古屋(なごや)が城(しろ)で代表(だいひよう)して居(を)る如(ごと)く此(この)吉田(よしだ)は大橋(おほはし)で代表(だいひよう)したものである従(したがつ)て此(この)橋(はし)の歴史(れきし)に就(つい)ての研(けん)
究(きう)並(ならび)に将来(せうらい)に於(お)ける保存(ほぞん)等(とう)に関(くわん)しては頗(すこぶ)る考慮(こうりよ)を要(えう)すべき事で郷土史(けうどし)に取(と)つては中々(なか〳〵)関係(くわんけい)の深(ふか)いもの
であると思(おも)ふ併(しか)し此(この)橋(はし)に就(つい)ては之(これ)迄(まで)度々(たび〳〵)申述(もうしの)べてあるので之(こ)れまでの来歴(らいれき)は大概(たいがい)御承知(ごせうち)になつて居(を)る
事であると思(おも)ふが徳川時代(とくがはじだい)に入(い)つてから橋普請(はしふしん)のあつた其(その)都度(つど)々々の事は幸(さいはひ)に大字(おほあざ)船町(ふなまち)に其(その)記録(きろく)が残(のこ)
《割書:あつまの道|の記》 つて居(を)るから漸次(ぜんじ)其(その)時々(とき〳〵)に方(あた)つて詳(くは)しく申述(もうしの)ぶる事に致(いた)したい考(かんがへ)である又(ま)た元和(げんな)四年 烏丸光広卿(からすまるみつひろけう)が
記(しる)されたもので「あつまの道(みち)の記(き)」と云ふのがあるが其(その)中(なか)にも
大岩(おほいは)といふ所(ところ)を通(とほ)る山上(さんぜう)に大(たい)なるいはほありよりて名(な)つくも見(み)えたり海道(かんどう)の坤(ひつじさる)にあたりて吉田(よしだ)の
大橋(おほはし)といふ九十八 間(けん)あり城(しろ)は外(そと)へ見(み)えず大岩(おほいは)に行(ゆく)ほと山(やま)の頭(あたま)にえほうしを着(きせ)たるやうなるあり其(その)山(やま)
の東(ひがし)に比叡山(ひえいざん)に其(その)まゝ似(に)たる山(やま)あり南(みなみ)は志賀(しが)北(きた)は比良(ひら)のすこしたひなるものなり
城の建築 と云(い)ふ事(こと)が記(しる)してあるが之(これ)で見(み)ると此(この)当時(とうじ)は城中(じようちう)の建物(たてもの)は外(ほか)から見(み)へなかつたものと思(おも)はれるモツト
モ当時(とうじ)の橋(はし)の位置(ゐち)は兼(かね)て申述(もうしの)べて置(お)いた通(とほ)り今日(こんにち)の位置(ゐち)からは二三丁も下流(かりう)の処であつたのではある
が維新前(ゐしんぜん)などにハ橋(はし)の上(うへ)から吉田城(よしだじよう)の入道櫓(にふどうやぐら)が見(み)へた筈(はづ)である又(ま)た今日(こんにち)でも旧城(きうじよう)の本丸(ほんまる)に当(あた)る処の陸(りく)
軍倉庫(ぐんさうこ)ハ橋(はし)から明(あきらか)に望(のぞ)み得(う)るのであるから結局(けつきよく)此(この)当時(とうじ)と云ふものは此(この)あつまの道(みち)の記(き)によると後世(こうせ)
のものとは余程(よほど)城(しろ)の建築(けんちく)が違(ちが)つて居(を)つたものである事が分(わか)ると思(おも)ふ而(しか)して尚(なほ)一つ此処(こゝ)に御紹介(ごせうかい)申(もう)して
《割書:小堀遠州と|忠利の親交》 置(を)きたいのは彼(か)の小堀遠江守宗甫(こぼりとほとふみのかみそうほ)の紀行(きこう)で之(これ)は元和(げんな)七年九月の記(き)であるが其(その)中(なか)に左(さ)の如(ごと)き事(こと)がある
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百九十号附録 (明治四十五年二月二十日発行)
【本文】
風(かぜ)はけしければこしに乗(のつ)て一 睡眠(すゐみん)夢(ゆめ)さめて問(と)はばや吉田(よしだ)の里(さと)にも着(つき)ぬと云ふ夢中(むちう)にはる〳〵の道(みち)を
も来(き)ぬる事よと思(おも)ひて
夢(ゆめ)とてもよしや吉田(よしだ)の里(さと)ならん
さめてうつゝもうきたひの道(みち)
此(この)宿(しゆく)に知(し)る人ありてしは〳〵語(かた)る此(この)所(ところ)の城主(じようしゆ)ことに我親(われした)しき人なれば立寄(たちより)て対面(たいめん)せむ事をいひやる
城守(ぜうしゆ)例(れい)ならぬによりて京(けう)へといふそこを過(すぎ)て橋(はし)を渡(わた)りてこさかひと云(い)ふ所(ところ)に着(つき)ぬ
之(これ)で見(み)ると此(この)小堀遠州(こほりゑんしう)と忠利(たゞとし)とは余程(よほど)親交(しんかう)のあつたものと見(み)へる従(したがつ)て忠利(たゞとし)の平生(へいぜい)も何(なん)となく想像(さう〴〵)が出(で)
来(き)るように思(おも)はるゝのである
《割書:鍛 冶 町|の 移 転》 又(ま)た鍛冶町(かぢまち)の事であるが幸(さいはひ)に当市内(たうしない)の大字(おほあざ)鍛冶(かぢ)には色々(いろ〳〵)古(ふる)い書付(かきつけ)が残(のこ)つて居る其中(そのなか)に鍛冶町覚書(かぢまちおぼへがき)と云
ふものがあつて之(これ)は延享(えんけう)頃(ころ)の記録(きろく)であるが兎(と)に角(かく)其中(そのうち)に左(さ)の記事(きじ)があるのである
当町(たうてう)義(ぎ)は鍛冶(かぢ)二十 軒斗(けんばかり)元鍛冶町(もとかぢまち)に住居(ぢうきよ)仕候処也(つかまつりそろところなり)百弐拾 余年(よねん)戊午年(つちのえうまとし)の御城主(ごぜうしゆ)松平主殿守殿(まつだひらとのものかみどの)為御(ごぜう)
上意(いのため)通(とほ)り筋(すぢ)え罷出候様(まかりいでそろやう)にと被為仰付(おほせつけられ)依之(これによつて)御助米(おんたすけまい)頂戴仕候(てうだいつかまつりそろはゞ)又(また)為御褒美(ごほうびのため)当町(たうてう)へ月(つき)六 斉(さい)の市(いち)を被(おほ)
為仰付候(せつけられそろ)
元鍛冶町 之(これ)で見(み)ると今(いま)の鍛冶町(かぢまち)と云ふものは此(この)忠利(たゞとし)が経営(けいえい)せしめたものゝようであるが其内(そのうち)に元鍛冶町(もとかぢまち)とある
のは即(すなは)ち今(いま)の大字(おほあざ)吉屋(よしや)で初(はじ)め其処(そこ)に鍛冶職(かぢしよく)を多(おほ)く集(あつ)め住(じう)せしめたのは即(すなは)ち池田輝政(いけだてるまさ)であると云ふ事は
伝説口碑(でんせつこうひ)に伝(つた)へられて居(を)る事である成程(なるほど)之(これ)は如何(いか)にもと思(おも)はれるが輝政(てるまさ)は前(まへ)にも数々(しば〳〵)申述(もをしの)べた如(ごと)く今(いま)
の八 町通(てうとほり)を開鑿(かいさく)して士族町(しぞくまち)を拡張(くわくてう)し従(したがつ)て鍛冶職(かぢしよく)の如(ごと)きはズツト片隅(かたすみ)に寄(よ)せて集(あつ)めたものであつた事(こと)と
思(おも)はれる然(しか)るに其後(そのご)譜代(ふだい)の小(ちい)さい諸侯(しよこう)が此(この)地(ち)に来(き)た処(ところ)で輝政(てるまさ)の計劃(けいくわく)した如(ごと)き大規模(だいきぼ)の城廓(ぜうくわく)は不用(ふよう)と相(あひ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平忠利の移封) 二百十三
【欄外】
豊橋市史談 (水野隼人正) 二百十四
【本文】
成(な)つたのであるから延(し)いては市中(しちう)の計劃(けいくわく)にも多少(たせう)の変化(へんくわ)を認(みと)むるに至(いた)つたのである従(したがつ)て鍛冶職(かぢしよく)に対(たい)し
ても段々(だん〳〵)と大通(おほどほ)りへ出(で)る事を許(ゆる)したものと信(しん)せられるのであるモツトモ此(この)鍛冶職(かぢしよく)を今(いま)の大通(おほどほ)りへ出(だ)し
たのは水野監物(みづのけんぶつ)の時代(じだい)であると云(い)ふ説(せつ)が三 州吉田記(しうよしだき)に記(しる)してあるが之(これ)は果(はた)して何(なに)に拠(よ)つて記(しる)したもの
であるか分(わか)り兼(か)ぬるのである因(よつ)て私(わたくし)は更(さら)に此(この)鍛冶町(かぢまち)に伝(つたは)つて居る説(せつ)を申述(まをしの)べて諸君(しよくん)の御参考(ごさんかう)ニ供(けう)せむ
とした次第(しだい)である
サテ松平忠利(まつだひらたゞとし)は寛永(かんえい)九 年(ねん)五月五日に病(やまひ)を以(もつ)て卒(そつ)し其(その)八月十一日 子(こ)の忠房(たゞふさ)が遺領(ゐれう)二万 石(ごく)を続(つ)いだが仝時(どうじ)
に刈屋城(かりやぜう)に移封(いほう)された事は前(まへ)に申述(まをしのべ)た如(ごと)くであるが之と交代(かうたい)に此(この)吉田城(よしだぜう)に来(き)たのは矢張(やはり)之迄(これまで)刈屋(かりや)に居(を)
《割書:水野忠清刈|屋より此地》 つた水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)である即(すなは)ち忠房(たゞふさ)と忠清(たゞきよ)とは全(まつた)く其(その)領地(れうち)を交代(かうたい)した訳(わけ)であるが之(これ)から此(この)水野隼人正(みづのはやとのせう)
《割書:に移封せら|る》 と其(その)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)の状況(ぜうけう)に就(つい)て少(すこ)しく申述(まをしの)ぶる事に致(いた)したいと思(おも)ふ
⦿水野隼人正
《割書:水野隼人正|忠清松平主》 前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べました如(ごと)く寛永(かんえい)九年八月十一日 松平主殿守忠房(まつだひらとのものかみたゞふさ)は亡父(ぼうふ)松平忠利(まつだひらたゞとし)の後(あと)を継(つ)ぐと同時(どうじ)に同(おな)じ
《割書:殿頭忠房と|交代す》 三河国(みかはのくに)の刈屋(かりや)に移封(いほう)せられ之と交代(かうたい)に水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)は刈屋(かりや)より来(きた)つて此(この)吉田(よしだ)の城主(ぜうしゆ)に封(ほう)ぜられたの
水野忠政 であるが此(この)忠清(たゞきよ)と云ふ人は諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)である彼(か)の水野右衛門太夫忠政(みづのうゑもんたいふたゞまさ)の孫(そん)であつて和泉守忠重(いづみのかみたゞしげ)
《割書:家康の実母|伝通院》 の末子(ばつし)である即(すなは)ち此(この)忠政(たゞまさ)は徳川家康(とくがはいへやす)の実母(じつぼ)水野氏(みづのし)の父(ちゝ)であるが当時(たうじ)忠政(たゞまさ)は矢張(やはり)刈屋城(かりやぜう)に居(を)つたので天(てん)
文(ぶん)十二年七月 卒去(そつきよ)したのである然(しか)るに其(その)嫡子(ちやくし)の信元(のぶもと)が家(いへ)を継(つ)いで之(これ)が尾張(をはり)の織田信秀(をだのぶひで)の方(かた)へ欵(くわん)を通(つう)ず
ることとなつたので家康(いへやす)の父(ちゝ)広忠(ひろたゞ)は其(その)頃(ころ)今川氏(いまがはし)無(む)二の方人(かとうど)であつた処(ところ)から甚(はなは)だ安(やす)からざる振舞(ふるまひ)であると
なして遂(つひ)に其(その)妻(つま)たる水野氏(みづのし)を離別(りべつ)し之を刈屋(かりや)へ送(おく)り皈(かへ)したのである之が久松家(ひさまつけ)に再嫁(さいか)したが前(まへ)にも度(たび)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
水野忠重 度(〳〵)申述(まをしの)べた如(ごと)く後(のち)に伝通院(でんだうゐん)と云はれたのである而(しか)して此(この)隼人正忠清(はやとのせうたゞきよ)の父(ちゝ)忠重(たゞしげ)は云ふ迄(まで)もなく其(その)兄弟(けだうい)で
信元(のぶもと)には弟(おとゝ)になるのであるが余(あま)り兄弟(けうてい)中(なか)がよくなく自(みづか)らは鷲塚(わしづか)と云ふ処(ところ)に居(を)つたが常(つね)に徳川方(とくがはがた)に属(ぞく)し
て殊(こと)に家康(いへやす)には忠勤(ちうきん)を尽(つく)したのである其後(そのご)天正(てんせう)三年に至(いた)つて信元(のぶもと)が討(う)たれたので其(その)八 年(ねん)九月 父祖累代(ふそるゐだい)
の地(ち)刈屋城(かりやぜう)に居ることとなつたが晩年(ばんねん)に何故(なにゆゑ)か豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従(したが)ひ慶長(けいてう)五 年(ねん)石田三成(いしだみつなり)が兵(へい)を挙(あ)げた時(とき)池鯉鮒(ちりう)
の宿(しゆく)で加々井彌(かがゐや)八 郎秀盛(らうひでもり)の為(ため)に打(う)たれて年(とし)六■歳(さい)で死(し)むだのである忠清(たゞきよ)は其(その)四 男(なん)で末子(ばつし)であるが慶長(けいてう)
七年の春(はる)徳川秀忠(とくがはひでたゞ)に附(ふ)せられ御書院番頭(ごしよゐんばんがしら)となり叙爵(ぢよじやく)して奏者(そうしや)の事を兼(か)ね大坂(おほさか)の両役(れうえき)に従(したが)つたが元和(げんわ)二
年四月三日 家康(いへやす)が病(やまひ)愈々(いよ〳〵)急(きふ)であつた時(とき)忠清(たゞきよ)を召(め)して父祖累代(ふそるゐだい)の旧領(きうれう)であるからと云(い)ふので刈屋城(かりやぜう)二万
石(ごく)を与(あた)へたのである而(しか)して今度(こんど)イヨ〳〵此(この)吉田城(よしだぜう)四万 石(ごく)に移封(いほう)せられたと云ふ訳(わけ)であるのである
忠清加増 程(ほど)なく寛永(かんえい)十一年八月十一日に領地(れうち)五千 石(ごく)の加増(かぞう)があつたが之(これ)より先(さ)き此年(このとし)の六月廿日に将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は
《割書:将軍家光の|上洛》 江戸(えど)を発(はつ)して上洛(ぜうらく)したのであるが其時(そのとき)の供奉(ぐぶ)と云ふものは中々(なか〳〵)盛(さかん)なもので六月 朔日(つひたち)には既(すで)に伊達政宗(だてまさむね)
が先発(せんぱつ)として出発(しゆつぱつ)し大名(だいめい)小名(せうめう)前後(ぜんご)の士卒(しそつ)は凡(およ)そ卅 万(まん)七千 余人(よにん)と云ふのであつたが水戸(みと)の頼房卿(よりふさけう)が後陣(ごぢん)
で例(れい)の松平伊豆守信綱(まつだひらいづみのかみのぶつな)は此(この)時(とき)既(すで)に宿老(しゆくらう)の列(れつ)に入(い)つて居つたので道中(だうちう)に於(お)ける種々(しゆ〳〵)の事を指揮(しき)したので
《割書:吉田宿泊当|時の出来事》 ある此(この)時(とき)将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は七月 朔日(つひたち)に浜松(はままつ)に宿(しゆく)し二日には其(その)諏訪神社(すはうじんしや)を拝(はい)して新(あらた)に神領(しんれう)二百 石(こく)を寄附(きふ)し此夜(このよ)
吉田(よしだ)に宿泊(しゆく)したのである此(この)時(とき)の事に就(つい)て徳川実記(とくがはじつき)に左(さ)の記事(きじ)がある
申刻(さるのこく)吉田城(よしだぜう)に至(いた)らせられ城主(ぜうしゆ)水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)饗(けう)し奉り左文字(さもんじ)の御刀(おんかたな)を下(くだ)さる夜(よ)に入(いり)て尾張大納言義(をはりだいなごんよし)
直卿(なほけう)より家司(かし)竹越山城守正信(たけこしやましろのかみまさのぶ)をして御迎(おんむかひ)の為め奉(たてまつ)らる又(また)水戸中納言頼房卿(みとちうなごんよりふさけう)へは昨日(さくじつ)太田備中守資宗(おほたびつちうのかみすけむね)
もて御存問(ごぞんもん)ありしかば今日(こんにち)使(つかい)奉(たてまつ)り謝(しや)せらる又(また)大宮御使(おほみやおんつかい)とて参(まゐ)りし高橋九兵衛(たかはしきうべゑ)吉田(よしだ)にて発狂(はつけう)し行人(かうじん)
を刃傷(にんぜう)すること三人に及(およ)ぶと雖(いへど)も大宮(おほみや)の御消息(ごせうそく)を持(も)たるにより衆人(しうじん)敢(あゑ)て進(すすみ)よらず時(とき)に加賀瓜甲斐守直(かがうりかひのかみなほ)
【欄外】
豊橋市史談 (水野隼人正) 二百十五
【欄外】
豊橋市史談 (水野隼人正) 二百十六
【本文】
澄(すみ)御先(おんさき)に登(のぼ)るとて其所(そこ)行(ゆき)かゝりしかば土人(どじん)等(ら)直澄(なほすみ)が従者(じうしや)両(れう)三 人(にん)留(とゞめ)て久兵衛(きうべゑ)を守(まも)らせ給(たま)へと云ふ直(なほ)
澄(すみ)止(やむ)を得(え)ず歩行(ほかう)士人(しじん)三 人留(にんとゞ)めて守(まも)らせしに久兵衛(きうべゑ)又(また)三 人(にん)斬(きつ)てかゝりしかば次太夫(じだいふ)と云(い)ふもの久兵(きうべ)
衛(ゑ)を伐取(きりとり)たり依(よつ)つて直澄(なほすみ)御勘気(ごかんき)を蒙(かうむ)り永井監物(ながゐけんもつ)白元(はくげん)を京(けう)に馳(は)せて此(この)変(へん)を告(つ)げしめらる大内日記(おほうちにつき)による
に久兵衛(きうべゑ)御使(おつかひ)果(はて)て帰(かへ)るさ廿九日の夜(よ)吉田(よしだ)のあなたにて馬夫(ばふ)を切(き)りしにより土人(どじん)多勢(たせい)起(おこ)りて取囲(とりかこ)みし
処(ところ)へ加賀瓜(かがうり)行(ゆき)かゝりしが是(これ)を見(み)て加賀瓜(かがうり)が家士(かし)久兵衛(きうべゑ)を伐(き)りしとあり
家光の皈還 而(しか)して其(その)帰還(きくわん)の時(とき)は如何(いかゞ)であつたかと云ふに将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は其(その)年(とし)八月十日に岡崎(をかざき)在(ざい)の伊賀(いが)八 幡(まん)に百 石(こく)の加(か)
増地(ぞうち)を寄付(きふ)し十一日に此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)したのであるが此(この)日(ひ)に隼人正(はやとのせう)に五千 石(ごく)を加増(かぞう)したと云(い)ふことが紀年録(きねんろく)
並(ならび)に寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)を引(ひ)いて徳川実記(とくがはじつき)に記載(きさい)してある然(しか)るに藩翰譜(はんかんふ)には此(この)加増(かぞう)の事を此(この)年(とし)の十月十七
日であると記(しる)してある其(その)相違(さうゐ)は何(なに)によつて来(きた
)つたものか能(よ)く分(わか)らぬが私(わたくし)は今(いま)徳川実記(とくがはじつき)の記(き)する処(ところ)に従(したが)
はむと欲(ほつ)するものである
《割書:寛永新銭の|鋳造》 サテ其(その)翌年(よくねん)幕府(ばくふ)は江戸(えど)及(およ)び近江(あふみ)の坂本(さかもと)で新銭(しんせん)を鋳造(ちうざう)し十三年の七月から之(これ)を一 般(ぱん)の通用銭(つうようせん)として旧銭(きうせん)
と引替(ひきか)へしめたが之(これ)が即(すなは)ち寛永通宝(かんえいつうほう)である当時(たうじ)幕府(ばくふ)の執政(しつせい)は土井大炊頭利勝(どゐおほいのかみとしかつ)と酒井讃岐守忠勝(さかゐさぬきのかみたゞかつ)とで之(これ)
《割書:松平伊豆守|信綱》 に十年の五月から前(まへ)に述(の)べた松平伊豆守信綱(まつだひらいづのかみのぶつな)と阿部豊後守忠秋(あべぶんごのかみたゞあき)、 堀田加賀守正盛(ほつたかがのかみまさもり)の三 人(にん)が加(くは)はつて事
を総攬(そうらん)して居つたのであるが其(その)通用(つうよう)が未(いま)だに分(ぶん)に周(あまね)からぬ処(ところ)があると云ふので十四年八月 更(さら)に鋳銭所(ちうせんじよ)
を諸国(しよこく)に置(お)いて新銭(しんぜん)を鋳(い)せしめたのである其(その)時(とき)の公文(こうぶん)に
銭 鋳 所 水 戸 仙 台 吉 田 松 本 高 田
長 門 備 前 豊 後 中川内膳領内
一 只今迄(たゞいままで)仰付候分(おほせつけそろぶん)ニテハ諸方(しよはう)へ弘(ひろま)り兼候之間(かねそろのあひだ)代物(だいもの)沢山(たくさん)鋳(い)サセ其(その)国(くに)ハ勿論(もちろん)他国(たこく)ヘモ御定(おさだめ)ノ如(ごと)ク金(きん)壱 両(れう)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千九百九十六号附録 (明治四十五年二月二十七日発行)
【本文】
ニ四 貫文(くわんもん)壱 分(ぶ)ニ壱 貫文(くわんもん)宛(づゝ)払候様(はらひそろやう)ニ可申付候(もをしつくべくそろ)
一 寛永(かんえい)之(の)新銭(しんせん)本(もと)ヲ越候而(こへそろて)如此(かくのごとく)イタサセ可申事(もをすべくこと)
一 銭鋳申候者(ぜにいもをしそろもの)聞立(きゝたて)領内(れうない)勝手(かつて)ヨキ所々(ところ〴〵)ニ而 可被申付候事(もをしつけられべくそろこと)
寛永十四年丑八月
とあつて此(この)時(とき)此(この)吉田(よしだ)でも新銭(しんぜん)を鋳(い)たものであるが此処(こゝ)で鋳(い)た銭(ぜに)の何文(なんもん)かの数(かず)を取(と)る為(ため)に特(とく)に絵銭(ゑぜに)を鋳(い)
吉田の駒曳 たのが彼(か)の吉田(よしだ)の駒曳(こまひき)と云ふ有名(ゆうめい)なる銭(ぜに)であると云ふ事である而(しか)して其(その)鋳銭(ちうせん)の場所(ばしよ)は今(いま)の新銭町(しんせんまち)であ
新銭町 るが其(その)銭(ぜに)の鋳型(いがた)が先年(せんねん)まで鈴木延路氏方(すゞきのぶぢしかた)の蔵(くら)に残(のこ)つて居(を)つたと云ふ話(はなし)がある然(しか)るに今(いま)ドウしてもそれ
が見当(みあた)らぬのは誠(まこと)に遺憾至極(ゐかんしごく)であると思(おも)ふ而(しか)して其(その)年(とし)の十月には例(れい)の肥後(ひご)天草(あまくさ)の一 揆(き)が起(おこ)つたのであ
るが之(これ)が翌年(よくねん)の二月までかゝつてヨウ〳〵平定(へいてい)したのである此(この)時(とき)彼(か)の松平伊豆守信綱(まつだひらいづのかみのぶつな)が打手(うちて)の大将(たいせう)と
して向(むか)つた事は諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の通(とほ)りであるが此(この)事(こと)は何(いづ)れの後(のち)に大河内家(おほかうちけ)の事を申述(もうしの)ぶる時(とき)に尚(なほ)御話(おはなし)する
《割書:吉田大橋の|架替》 機会(きくわい)があることと思(おも)ふサテ又(ま)た其(その)十八年には此(この)豊川(とよかは)の大橋(おほはし)の架替(かけかへ)があつたのであるが宝暦中(ほうれきちう)船町(ふなまち)の記録(きろく)
には
寛永十八年丑年
一御掛直シ無仮橋古橋御用
御 城 主
水 野 隼 人 正 様 御 代
と書(か)いてあるのである然(しか)るに此(この)隼人正忠清(はやとのせうたゞきよ)の此地(このち)在城(ざいじよう)は僅(わづか)に十一年で寛永(かんえい)十九年九月六日(《割書:藩翰|譜》)更(さら)に
《割書:忠清松本に|移封せらる》 加増(かぞう)になつて同時(どうじ)に信濃国(しなのゝくに)松本城(まつもとじよう)七万石に移封(いほう)せられたのであるが其(その)後(のち)に移(うつ)り来(きた)つて此(この)城主(じようしゆ)となつた
【欄外】
豊橋市史談 (水野隼人正) 二百十七
【欄外】
豊橋市史談 (水 野 監 物) 二百十八
【本文】
のが水野監物忠善(みづのけんもつたゞよし)である此(この)人(ひと)の事に就(つい)ては次章(じせう)に申述(もをしのべ)ることに致(いた)したいと思(おも)ふ
⦿水野監物
《割書:水野忠善吉|田に封せら|る》 寛永(かんえい)十九年九月六日 之(これ)まで此地(このち)の城主(じようしゆ)であつた水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)は信州(しんしう)松本(まつもと)の城(しろ)に移転(いてん)になつて其後(そののち)に
此地(このち)の城主(じようしゆ)となつたのが水野監物忠善(みづのけんもつたゞよし)であることは前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)くであるが此(この)忠善(たゞよし)と云ふ人も亦(ま)た
《割書:水野忠政 |水野忠守 》 水野左衛門太夫忠政(みづのさゑもんたゆうたゞまさ)の後裔(こうえい)である即(すなは)ち忠政(たゞまさ)の四 男(なん)に織部正忠守(おりべのせうたゞもり)と云ふ人があつたが其(その)又(ま)た二 男(なん)に監物(けんもつ)
水野忠元 忠元(たゞもと)と云ふのがあつて其(その)忠元(たゞもと)の嫡子(ちやくし)が此(この)忠善(たゞよし)である忠元(たゞもと)は若(わか)き頃(ころ)より二 代将軍(だいせうぐん)秀忠(ひでたゞ)に仕(つか)へて大坂(おほさか)両度(れうど)
の役(えき)にも従(したが)つたが忠善(たゞよし)は父(ちゝ)に継(つ)いで寛永(かんえい)七年十二月二十六日に叙爵(ぢよしやく)したのである徳川実記(とくがはじつき)には其日(そのひ)の
条(くだり)に「水野監物忠善(みづのけんもつたゞよし)従(じゆ)五 位下(ゐか)に叙(ぢよ)せられ左近将監(さこんせうげん)に改(あらた)む」と記(しる)してある其後(そののち)同(どう)十二年十一月二十二日 駿(する)
河国(がのくに)田中城(たなかじよう)四万石に封(ほう)せられたが此(この)田中城(たなかじよう)と云ふのは御承知(ごせうち)の通(とほ)り今(いま)の藤枝(ふぢえだ)町の東(ひがし)に接(せつ)して居(を)る処で
尚(な)ほ城趾(じようし)が残(のこ)つて居(を)るのである其処(そこ)から忠善(たゞよし)は今度(このたび)此(この)吉田(よしだ)に移封(いほう)せられて四万五千石に加増(かぞう)になつた
《割書:忠善岡崎に|移さる》 次第(しだい)であるが此人(このひと)は此地(このち)に在城(ざいじよう)せること僅(わづ)かに五 箇年(かねん)で正保二年正月十一日 岡崎城(をかざきじよう)五万石に移封(いほう)せられた
のである其後(そののち)延宝(えんほう)四年八月二十九日 年(とし)六十四で卒去(そつきよ)されたのであるが右(みぎ)の次第(しだい)であるから此(この)忠善(たゞよし)の事
に就(つい)ては余(あま)り申述(もうしの)ふることもないが只(ただ)た此(この)人(ひと)の代(だい)に民屋(みんをく)を移転(いてん)して総門(そうもん)を取拡(とりひろ)げ番所(ばんしよ)を設(もを)けたと云ふ事
忠善の言行 が三 州吉田記(しうよしだき)に記載(きさい)されて居(を)る又(ま)た此(この)人(ひと)の言行(げんこう)に就(つい)ては彼(か)の幕臣(ばくしん)の真山増誉(まなやまぞうよ)が著(ちよ)の明良洪範(めいれうこうはん)と云ふ書(しよ)
物(もつ)の中(なか)に少(すこ)しく載(の)せられて居(を)るので甚(はなは)だ味(あぢは)ふべきものがあると思(おも)ふから其(その)二三を抄録(しやうろく)して見(み)ようと思(おも)
ふモツトモ之(これ)は岡崎(をかざき)に転(てん)じてから後(のち)の話(はなし)ではあるが其(その)続篇(ぞくへん)の巻(まきの)一に
《割書:明良洪範の|事記》 水野監物忠善(みづのけんもつたゝよし)兵学(へいがく)は小幡景憲(こはたかげのり)が軍法(ぐんはう)の書(しよ)に水野抄(みづのしやう)と号(ごう)せし一 巻(くわん)を家(いへ)の兵書(へいしよ)とし剣術(けんじゆつ)は一 刀流(たうりう)小野家(をのけ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
の至極(しごく)を伝(つた)へ弓馬(きうば)は元(もと)より達人也(たつじんなり)或時(あるとき)唯(たゞ)一 人(にん)尾州(びしう)名古屋(なごや)へ行(ゆ)き城中(じようちう)へ忍(しの)び入(い)りをちこち見(み)て歩(ある)きけ
るを尾州公(びしうこう)見付(みつ)けられ何者(なにもの)なるか召捕(めしと)るべしと下知(げち)し給(たま)ふ是(これ)は矢倉(やのくら)より見付(みつけ)られて下知(げち)し給(たま)ふ也(なり)水(みづ)
野監物(のけんもつ)其(その)様子(やうす)を早(はや)くも察知(さつち)して直(たゞち)に城中(じようちう)を出(い)で立置(たておき)し駿馬(しゆんば)に打乗(うちの)り一さんに馳出(はせいた)し終(つひ)に岡崎(をかざき)へ帰(かへ)ら
れける尾州公(びしうこう)大(おほ)ひに怒(いか)り残念(ざんねん)に思召(おぼしめ)され此(この)返報(へんほう)をいかにしてかせんと御工夫(ごくふ)有(あ)らせられて先(ま)づ忍(しの)ひ
に達(たつ)したる者(もの)を三 人撰(にんえら)み出(だ)され其(その)者共(ものども)に御内意(ごないゝ)を仰聞(あふせきけ)られて岡崎(をかざき)へ遣(つか)はされける三 人(にん)の者(もの)は岡崎(をかざき)へ
行(ゆ)きとくと城中(じようちう)の様子(やうす)をうかゞひ置(お)きて或夜(あるよ)風雨(ふうゝ)はげしき夜(よ)密(ひそ)かに城内(じようない)へ忍(しの)び入(い)り城内(じようない)に在(あ)る所(ところ)の
武器(ぶき)を密(ひそ)かに城外(じようぐわい)へ取出(とりいだ)し大手(おほて)の前(まへ)へ積置(つみお)きてやがて名古屋(なごや)へ帰(かへ)りけるさて岡崎(をかざき)にては夜中(やちう)とい
ひ殊(こと)に風雨(ふうゝ)烈(はげ)しき晩(ばん)の事故(ことゆゑ)誰一人(たれひとり)知(し)る者(もの)も無(な)ければ翌日(よくじつ)夜明(よあ)けてより衆人(しうじん)見付(みつ)け大(おほ)ひに驚(おどろ)きける中(なか)
に水野監物(みづのけんもつ)一 人(にん)は心附(こゝろづ)きたる事(こと)あれば一 言(げん)の詮議(せんぎ)もせず早々(さう〳〵)城内(じようない)へ取入(とりい)れさせ必(かなら)ず沙汰(さた)すべからず
と衆人(しうじん)を制(せい)しける此(この)岡崎(をかざき)は尾州(びしう)の押(おさ)へなれば種々(しゆ〳〵)の手当(てあて)ありけると也
と云(い)ふような事(こと)がある今日(こんにち)から見(み)ると随分(ずゐぶん)滑稽(こつけい)な話(はなし)であるが当時(たうじ)尾州公(びしうこう)は将軍(せうぐん)の叔父(おぢ)たるにも拘(かゝは)らず
江戸(えど)に於(おい)ては万(まん)一それが異心(ゐしん)でもあうた場合(ばあひ)にはと云ふので此(この)水野忠善(みづのたゞよし)を岡崎(をかざき)に封(ほう)じて所謂(いはゆる)尾張(をはり)の押(おさ)
へとしたものであると見(み)へる殊(こと)に其(その)後半(こうはん)の話(はなし)の如(ごと)きは如何(いか)にも当時(たうじ)に於(お)ける武家(ぶけ)の裏面(りめん)が分(わか)るようで
甚(はなは)だ面白(おもしろ)く覚(おぼ)ゆるのであるが尚(なほ)其(その)後(のち)に左(さ)の如(ごと)き記事(きじ)がある
又(また)水野監物(みづのけんもつ)同国(どうこく)西尾(にしを)の城主(じようしゆ)増山正利(ますやままさとし)に無礼過言(ぶれいくわげん)を申(もを)せし事あり其(その)時(とき)増山正利(ますやままさとし)さだめて憤発(ふんぱつ)するなら
んと人々(ひと〳〵)思(おも)ひ居(ゐ)たるに正利(まさとし)一 向取(かうと)り合(あ)はず莞爾(につこ)として監物殿(けんもつどの)の武辺話(ぶへんばな)しはいつも勇々(ゆう〳〵)しき事(こと)に候と
賞(せう)して居(を)られければ水野(みづの)あひ手(て)の無(な)き喧嘩(けんくわ)はできざれば自然(しぜん)と水野(みづの)謷(そし)り止(や)みぬ其(その)後(のち)正利(まさとし)云(いひ)けるは監(けん)
物(もつ)事(こと)もし尾州勢(びしうぜい)何万人なりとも岡崎(をかざき)より先(さき)へは一 寸(すん)も入(い)れずなとゞ平生大言(へいせいだいげん)をはけど近郡隣国(きんぐんりんこく)の者(もの)
【欄外】
豊橋市史談 (水 野 監 物) 二百十九
【欄外】
豊橋市史談 (水 野 監 物) 二百二十
【本文】
も不和成(ふわなり)水野(みづの)いかで大言(たいげん)の如(ごと)くなるべきや又(また)城内(じようない)に蓄(たく)はへ有(あ)る所(ところ)の武器(ぶき)他(た)の及(およ)ぶ所(ところ)に非(あら)ずと監物(けんもつ)常(つね)
に申(もを)せど是(これ)監物(けんもつ)心得違(こゝろえちが)ひ也(なり)何程(なにほど)武器(ぶき)が有(あ)るとも人和(じんわ)を得(え)ざれば役(やく)に立(たゝ)ず無(な)きも同然也(どうぜんなり)監物(けんもつ)は巳(おの)れが
武勇(ぶゆう)に誇(ほこ)り人(ひと)を侮(あなど)り失礼過言(しつれいくわげん)をかへりみず言(い)ひ度(たき)まゝの大言(だいげん)をはくゆへ近郡隣国(きんぐんりんこく)の将士(せうし)みな不和(ふわ)な
り其上(そのうへ)領地(れうち)の土民(どみん)まで信伏(しんふく)するもの一 人(にん)もなし監物(けんもつ)の大言(だいげん)は無益(むえき)のみならず却(かへつ)て害(がい)を求(もとむ)る所(ところ)也(なり)とい
はれたり
之(これ)に依(よ)ると忠善(たゞよし)と云ふ人(ひと)は余程(よほど)剛情不遜(ごうぜうふそん)で思(おも)ひ切(き)つた事を云ひ放(はな)つ性質(せいしつ)であつたと見(み)へる併(しか)し乍(なが)ら主(しゆ)
家(け)に対(たい)しては誠忠(せいちう)を尽(つく)したもので其(その)結果(けつくわ)尾張家(をはりけ)などに向(むか)ても前(まへ)に申述(もをしの)べた話(はなし)の如(ごと)く偵察(ていさつ)を怠(おこた)らなかつ
た事と思(おも)はるゝが一 方(はう)には又(ま)た頗(すこぶ)る快豁(かいかつ)の処(ところ)があるので何処迄(どこまで)も捨(す)てられぬ人物(じんぶつ)であつた事と思(おも)ふ矢(や)
張(はり)同書(どうしよ)の官巻(くわん)十三と巻(くわん)二十とに見(み)ゆる話(はなし)であるが左(さ)の記事(きじ)の如(ごと)きは其(その)真面目(しんめんもく)が躍如(やくぢよ)として見(み)られるよう
に思(おも)ふのである
水野監物(みづのけんもつ)は青山大膳(あおやまだいぜん)と至(いたつ)て懇意(こんい)にて平生(へいぜい)互(たがひ)に武道(ぶどう)の義(ぎ)を語(かた)り合(あ)ひけるが或時(あるとき)大膳(だいぜん)云(いひ)けるは拙者(せつしや)帰国(きこく)
の節(せつ)は貴殿(きでん)の御城下(ごじようか)を通行致候(つうこういたしそうろ)其節(そのせつ)何卒(なにとぞ)御城内(ごじようない)拝見申度候(はいけんもをしたくそろ)と云(いふ)監物(けんもつ)答(こたへ)て拙者(せつしや)より望(のぞ)む所也(ところなり)必(かならず)御(おん)
立寄有(たちよりある)べし麁茶(そちや)一 服進(ぷくしん)ずべしと云(いふ)其後(そののち)大膳(だいぜん)其(その)城下(じようか)を通行(つうこう)の時(とき)案内(あんない)申入(もをしいれ)けれ監物(けんもつ)在城(ざいじよう)にて悦(よろこ)び城内(じようない)
へ入(い)れ厚(あつ)くもてなして後(のち)二の丸(まる)の櫓(やぐら)へ同道(どう〴〵)し監物(けんもつ)やがて太鼓(たいこ)を三つ打(うち)ければ武者(ぶしや)百 騎(き)ばかり城内(じようない)よ
り大手前(おほてまへ)へ一 連(れん)に乗出(のりいだ)す其(その)時(とき)貝(かい)を吹(ふか)ければ其(その)武者(ぶしや)即時(そくじ)に搦手(からめて)の方(ほう)へ廻(まはつ)て陣取(ぢんど)る其(その)速(すみや)かなる事(こと)飛鳥(ひてう)
の如(ごと)し大膳(だいぜん)大(おはい)に感(かん)じける此(この)時(とき)監物(けんもつ)是(これ)が今日(こんにち)の馳走(ちさう)也(なり)と云(いひ)ければ貴殿(きでん)は拙者(せつしや)が城下(じようか)を通行(つうこう)する事なけ
れば何(なに)も見(み)せ申(もを)す事できず残念(ざんねん)の至(いた)り也(なり)と大膳(だいぜん)いはれける由(よし)米津(よねづ)十 太夫(だゆう)物語(ものがた)り也(なり)
水野監物(みづのけんもつ)下屋敷(しもやしき)へ行(いつ)て家中(かちう)の者(もの)の乗馬見物(ぜうばけんぶつ)すべしと馬場(ばゞ)に出(いで)られける時(とき)に中小姓(なかこせう)の挟箱持(はさみばこもち)一 人馬場(にんばゞ)
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二号附録 (明治四十五年三月五日発行)
【本文】
辺(へん)を徘徊(はいかい)しけるが監物(けんもつ)出(いで)られし音(おと)に驚(おどろ)き挟箱(はさみばこ)を馬場(ばゞ)に捨置(すておき)逃去(にげさり)けり監物(けんもつ)是(これ)を見(み)て此(この)挟箱(はさみばこ)は誰(たれ)のかは
知(し)らねどもかり申(もをす)とて手(て)にて戴(いただ)き会釈(ゑしやく)して腰(こし)を掛(かけ)られける時(とき)にふたを明け(あ)けさせて見(み)られしに焼飯(やきめし)三
つ反古(ほぐ)に包(つゝみ)草鞋(わらぢ)二 足(そく)あり監物(けんもつ)見(み)られて殊(こと)の外(ほか)機嫌(きげん)よく其(その)挟箱(はさみばこ)の主(ぬし)を呼出(よびいだ)し其(その)方事(はうこと)心掛(こゝろがけ)よき武士也(ぶしなり)侍(さむらひ)
は腹(はら)へりては武辺(ぶへん)もならず然(さ)れば食物(しよくもつ)草鞋(わらぢ)は武士第(ぶしだい)一のものなり其(その)方(はう)不勝手(ふかつて)と見(み)へて焼飯(やきめし)の色黒(いろくろ)し
精(しら)けにいたし候(そうら)やうに加増(かぞう)申付(もをしつく)べしとて其場(そのば)にて米(こめ)三石 加増(かぞう)致(いた)しけるとなり
⦿小笠原壱岐守
小笠原忠知 正保(せうほ)二年正月十一日 水野監物忠喜(みづのけんもつたゞよし)が岡崎城(をかざきじよう)に移封(いほう)になつた代(かは)りとしてこの此(この)吉田(よしだ)に封(ほう)せられて来(き)たのは小(をが)
笠原壱岐守忠知(さはらいきのかみたゞとも)で矢張(やはり)四万五千石を領(れう)したのである此(この)人(ひと)は彼(か)の信濃守長時(しなのゝかみながとき)の曾孫(そうそん)であるが其(その)家(いへ)は元来(がんらい)
小笠原長時 源氏(げんぢ)で源頼義(みなもとよりよし)の三 男(なん)新羅(しんら)二 郎義光(らうよしみつ)から出(い)でゝ居(を)ると云(い)ふことである世々(よゝ)信濃(しなの)の国(くに)に居(を)つたが長時(ながとき)は天(てん)
小笠原秀政 文中(ぶんちう)深志(ふかし)の城(しろ)(《割書:今の|松本》)にあつて武田信玄(たけだしんげん)の為(ため)に敗(やぶ)られ越後(ゑちご)に逃(のが)れたのである其(その)孫(まご)秀政(ひでまさ)は後(のち)に徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)
し慶長(けいてう)十八年 再(ふたゝ)び父祖累代(ふそるいだい)の所領(しよれう)である松本(まつもと)に封(ほう)ぜられたが元和(げんな)元年(がんねん)五月七日 年(とし)四十七で大坂役(おほさかえき)に於(おい)
て天王寺(てんわうじ)の戦(たゝかひ)で討死(うちじに)したのである其(その)三 男(なん)が即(すなは)ち此(この)忠知(たゞとも)で寛永(かんえい)三年十二月 大番頭(おほばんがしら)に任(にん)し同(どう)九年四月二十
四日 奏者(そうしや)の事(こと)を兼(か)ね仝年(どうねん)十月十一日 豊後国(ぶんごのくに)杵築(きづき)の城(しろ)を賜(たまは)つて譜代(ふだい)の列(れつ)に加(くは)はつたのであるが今度(このたび)杵築(きづき)
から此(この)吉田(よしだ)に移封(いほう)になつた次第(しだい)である
元来(がんらい)寛永(かんえい)と云(い)ふ年号(ねんごう)は二十年 迄(まで)続(つゞ)いて其(その) 二十一 年目(ねんめ)に正保(せうほ)と改(あらた)まつたのであるが正保(せうほ)は僅(わづか)に四年で其(その)
《割書:魚町権現社|の朱印請願》 五 年目(ねんめ)が慶安(けいあん)となつたのである其(その)慶安(けいあん)の二 年(ねん)四月に魚町権現社(うをまちごんげんしや)の為(ため)に祠官信徒(しくわんしんと)等(ら)から朱印(しゆいん)の下付(かふ)を寺(じ)
社奉行(しやぶぎよう)に請願(せいぐわん)した事(こと)があつたが其(その)扣書(ひかへしよ)は今(いま)も尚(なほ)鈴木延路氏(すずきのぶぢし)の倉車(そうこ)に遺(のこ)つて居(を)るが之(これ)は頗(すこぶ)る参考(さんこう)となる
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原壱岐守) 二百廿一
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原壱岐守) 二百廿二
【本文】
《割書:家光薨去家|綱継ぐ》 べき点(てん)があるものであると思(おも)ふ然(しか)して其(その)四年四月には将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は薨去(こうきよ)せられて家綱(いへつな)が其後(そのあと)を継(つ)ぎ四 代(だい)
目(め)の将軍(せうぐん)に任(にん)せられたのである例(れい)の由井正雪(ゆゐせうせつ)の変(へん)のあつたのは此(この)年(とし)で御承知(ごせうち)の松平伊豆守信綱(まつだひらいづのかみのぶつな)が漸(やうや)く
全盛(ぜんせい)の時代(じだい)とも云(い)ふべき時(とき)に相成(あひな)るのであるサテ慶安(けいあん)も四年 継(つゞ)いて承応(せうおう)と改(あらた)まり之(これ)も僅(わづか)二年で明暦(めいれき)と
なり明暦(めいれき)も三年で万治(まんぢ)、 万治(まんぢ)も同(おな)じく三年で寛文(かんぶん)となつたのであるが其(その)寛文(かんぶん)三年七月廿六日(《割書:藩翰譜二十|九日となす》)
忠知の卒去 に忠知(たゞとも)は六十五 歳(さい)で卒去(そつきよ)せられたのである今(いま)も其(その)墳墓(ふんぼ)は二 連木(れんぎ)の臨済寺(りんざいじ)に存在(そんざい)して居(を)ることであるが元(がん)
臨済寺 来(らい)此(この)臨済寺(りんざいじ)と云(い)ふ寺(てら)は忠知(たゞとも)がまだ杵築(きづき)に居(を)つた頃(ころ)に建立(こんりう)したもので吉田(よしだ)に移封(いほう)になつて間(ま)もなく此(この)寺(てら)
をも此処(こゝ)に移転(いてん)したのであるが三 河聞書(かはきゝがき)にはそれを承応(せうおう)二年の事(こと)であると書(か)いてある而(しか)して此(この)寺名(じめい)を
初(はじ)めは宗玄寺(そうげんじ)と云(い)つて飽海(あくみ)に置(お)いたものであるが忠知(たゞとも)卒去(そつきよ)の翌年(よくねん)即(すなは)ち寛文(かんぶん)四年に嫡子(ちやくし)長矩(ながのり)が父(ちゝ)菩提(ぼだい)の
《割書:日東玄陽禅|師》 為(ため)に今(いま)の位置(ゐち)に移転改築(いてんかいちく)したものであると伝(つた)へられて居(を)るトコロで又(ま)た此(この)臨済寺(りんざいじ)の開山(かいざん)と云(い)ふものが
日東玄陽禅師(につとうげんようぜんし)と云(い)ふ人(ひと)で頗(すこぶ)る有名(ゆうめい)なものである此(この)人(ひと)は肥前国(ひぜんのくに)白石(しらいし)の生(うまれ)で九 才(さい)の時(とき)其(その)郷(きょう)の福泉寺(ふくせんじ)と云(い)ふ
寺(てら)に入(い)つて僧(そう)となつたが後(のち)四 方(はう)を遊歴(ゆうれき)して伊勢国(いせのくに)龍光寺(りうくわうじ)に入(い)つて虎伯大宣(こはくだいせん)と云(い)ふ僧(そう)の教(おしへ)を受(う)くること七
年一日 円覚経(えんかくけふ)を読(よ)むで大悟(たいご)する処(ところ)があつて其(その)師(し)の虎伯(こはく)は遂(つひ)に之(これ)に印可(いんか)を授(さづ)けたと伝(つた)へられてある而(しか)し
て其(その)印可(いんか)は今(いま)も尚(な)ほ臨済寺(りんざいじ)に保存(ほそん)せられて居(を)るのであるが其後(そののち)禅師(ぜんし)は江戸(えど)に出(い)で駒込(こまごめ)の龍光寺(りうくわうじ)に住(ぢう)し
頗(すこぶ)る三 代将軍(だいせうぐん)家光(いへみつ)の帰依(きえ)を受(う)けたのであるソコで小笠原忠知(をがさはらたゞとも)が前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く初(はじめ)て宗玄寺(そうげんじ)を杵築(きづき)に
建立(こんりう)した時(とき)に此(この)人(ひと)を招(せう)じて其(その)始祖(しそ)としたのであるが寺(てら)が此(この)地(ち)に移転(いてん)せられた時(とき)禅師(ぜんし)も亦(ま)た来(きた)り住(ぢう)した
のである寺伝(じでん)によるを寛文(かんぶん)七年十月 年(とし)七十七で寂(じやく)されたと云(い)ふことである序(つひ)でだから此処(こゝ)に一寸(ちよつと)申述(もうしの)べ
《割書:神宮寺の寺|格》 て置(お)きたいと思(おも)ふが大字(おほあざ)紺屋(こんや)の神宮寺(じんぐうじ)と云(い)ふ寺(てら)は寺伝(じでん)によると慶長(けいてう)元年(がんねん)重信(ぢうしん)と云(い)ふ僧(そう)が古(ふる)くからあつ
た長禅寺(てうせんじ)と云(い)ふ寺(てら)を再興(さいこう)して改宗改名(かいしうかいめい)したものである而(しか)して重信(ぢうしん)と云(い)ふ僧(そう)は本姓(ほんせい)は小久保氏(こくぼし)尾張国(をはりのくに)知(ち)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
多郡(たぐん)の生(うまれ)で寛文(かんぶん)廿年二月 寂(ぢやく)した人(ひと)であるが承応(せうおう)二年六月二日 付(つけ)で毘沙門堂(びしやもんどう)門跡(もんぜき)公海大僧正(こうかいだいせうぜう)から此(この)寺(てら)の
寺格(じかく)を定(さだ)めた文書(ぶんしよ)が今(いま)も寺(てら)に遺(のこ)つて居(を)ることである即(すなは)ち此(この)事(こと)のあつたのは忠知(たゞとも)城主(じようしゆ)たるの当時(たうじ)になるの
であるが寺歴(じれき)の上(うへ)には大(おほい)に資料(しれう)となるべきものであるから此処(こゝ)に吹聴(ふいてう)して置(お)く次第(しだい)である
《割書:瓦町開発の|覚書》 又(ま)た大字(おほあざ)瓦町(かわらまち)に「瓦町開発覚(かわらまちかいはつおぼへ)」と云(い)ふ記録(きろく)が遺(のこ)つて居(を)るが之(これ)は延享(えんけう)以後(いご)に書(か)き留(と)めたものであると思(おも)は
るゝが其(その)中(なか)には頗(すこぶ)る参考(さんこう)になるべき記事(きじ)がある此(この)記事(きじ)はツマリ瓦町(かわらまち)の開(ひら)け初(はじ)めからの事(こと)を細(こま)かに書(か)い
たものであるが其(その)中(なか)に
一寛文弐年寅年小笠原先壱岐守様御代仁連木村親弥八郎新村御願仕候処新村御立候儀不相叶無是非
罷在候翌卯年壱岐守様御逝去被遊山城守様御家督相渡寛文四辰年仁連木村ニ御菩提所臨済寺御建
立被遊候ニ付其時之御代官合澤勘右エ門殿ゟ当村御菩提所御建被遊候ニ付何にても願之義有之候
ハヾ相叶可被下由に被仰出候故右奉願候新村御立被下候様にと奉願候得者難叶義に候得共此度々
願に候間勝手次第相立候様にと被仰付辰年切除いたし屋敷割仕十王坂上ゟ東坂口迄両側に百姓弐
拾人斗出し往還ゟ少引込居屋敷広囲申筈に仕候処町在方ゟ屋敷望申者多罷成御地頭様え御願申上
候故被仰出候者往還並に家を作り町に相建申様にと被仰付候而屋敷割三度迄割直町並に仕候
とある之(これ)によると初(はじ)めて瓦町(かわらまち)を起(こ)こした時(とき)の事情(じぜう)が明(あきらか)に分(わか)るのであるが同時(どうじ)に其(その)頃(ころ)は新(あらた)に村(むら)を起(おこ)すと
云(い)ふことは容易(ようい)に許(ゆる)さなかつたものであると云(い)ふ様子(やうす)も伺(うかゞ)ひ知(し)ることが出来(でき)るのみならず急(きふ)に新開地(しんかいち)が出(で)
来(き)て盛(さかん)に移住者(いぢうしや)のあつた有様(ありさま)などが知(し)られるのである其(その)他(た)此(この)記録(きろく)の中(なか)にはまだイロ〳〵参考(さんこう)となるべ
き事(こと)があるのであるが余(あま)り細密(さいみつ)に過(す)ぐるように思(おも)ふから話(はなし)は之(これ)に留(とゞ)めて之(これ)より彼(か)の茶道(ちやどう)に於(おい)て有名(ゆうめい)な
る山田宗徧(やまだそうへん)と云(い)ふ人(ひと)のことに就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)ぶることに致(いた)したいと思(おも)ふのである
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原壱岐守) 二百廿三
【欄外】
豊橋市史談 (山田宗偏と小笠原忠知) 二百廿四
【本文】
⦿山田宗徧と小笠原忠知
山田宗偏 山田宗偏(やまだそうへん)と云(い)ふ人(ひと)は前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く茶道(ちやどう)の達人(たつじん)で其(その)流(りう)は宗偏流(そうへんりう)として一つの流派(りうは)に一 般(ぱん)から認(みと)め
られて居(を)る位(くらゐ)有名(ゆうめい)なものであるが此(この)人(ひと)は元(もと)京都(けうと)二 本松(ほんまつ)長徳寺(てうとくじ)と云(い)ふ真宗大谷派(しんしうおほたには)の寺僧(じそう)道玄(どうげん)の子(こ)で名(な)は
周覚(しうかく)後(のち)に周学(しうがく)と称(せう)したが本姓(ほんせい)は仁科氏(にしなし)である其(その)山田(やまだ)と云(い)ふのは後(のち)に母方(はゝかた)の姓(せい)を冒(おか)して称(せう)したものであ
るが出生(しゆつせい)は寛永(かんえい)元年(がんねん)である其(その)後(のち)父(ちゝ)道玄(どうげん)は摂津(せつゝ)の茨木御坊(いばらきごぼう)に転住(てんぢう)したが老後(らうご)其(その)寺(てら)を養子(やうし)の周恵(しうけい)と云(い)ふ人(ひと)
に譲(ゆづ)つて自(みづか)らは如何(いか)なる縁故(ゑんこ)があつたものか今(いま)分(わか)り兼(か)ぬるが宗偏(そうへん)が廿六 歳(さい)の時(とき)に此(この)吉田(よしだ)へ隠居(いんきよ)したの
《割書:宗偏父と共|に吉田に住|す》 であるソコで宗偏(そうへん)も亦(ま)た父(ちゝ)に従(したがつ)て此(この)地(ち)に住(ぢう)した併(しか)し之(これ)より先(さき)宗偏(そうへん)は六 歳(さい)の時(とき)から茶道(ちゃどう)に入(い)つて小堀(こほり)
遠州(ゑんしう)の門人(もんじん)となり其(その)印可(いんか)を受(う)けたのは十六 歳(さい)の時(とき)であつたとも亦(ま)た廿二 歳(さい)であつたとも両様(れうやう)の記録(きろく)が
《割書:小堀遠州に|学ぶ》 あるが其(その)後(のち)遠則(ゑんしう)の師匠(しせう)たる古田織部(ふるたをりべ)にも就(つ)ひて学(まな)むだに拘(かゝは)らずドウモ意(い)に満(み)つる処(ところ)がなかつたので正(せう)
保(ほ)四年 即(すなは)ち此(この)吉田(よしだ)に転住(てんぢう)する二ケ年 程(ほど)以前(いぜん)から更(さら)に千宗旦(せんそうたん)の門(もん)に入(い)つたのである此(この)宗旦(そうたん)と云(い)ふ人(ひと)は諸(しよ)
《割書:千宗旦の門|に入る》 君(くん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の如(ごと)く彼(か)の千 利休(りきう)(宗易)の孫(まご)で利休(りきう)の長子(やうし)は道安(どうあん)次男(じなん)は宗淳(そうじゆん)之(これ)は少庵(せうあん)と云(い)つた人(ひと)であ
るが此(この)少庵(せうあん)の嫡子(ちやくし)が即(すなは)ち此(この)宗旦(そうたん)である之(これ)より宗偏(そうへん)は其(その)教(おしへ)を受(う)くる事(こと)九 年(ねん)であつたから其(その)間(あひだ)は此(この)吉田(よしだ)に
転住(てんぢう)はしたものゝ矢張(やはり)多(おほ)くは京都(けうと)に出(い)でゝ鳴瀧(なるたけ)及(およ)び衣棚(きぬだな)の辺(へん)に庵(いほり)を設(もを)けて居(を)つたと云(い)ふ事(こと)であるが遂(つひ)
に利休(りきう)茶道(ちやどう)の薀奥(うんおう)を究(きは)め皆伝(かいでん)となつたのである其(その)時(とき)利休(りきう)的伝(てきでん)の印証(いんせう)として伝来(でんらい)の四 方釜(ほうがま)を与(あた)へられた
力口斉の号 ので爾来(じらい)其(その)庵(いほり)を四 方庵(ほうあん)と号(ごう)した又(ま)た力口斉(りきゐさい)一に如竿子(じよかんし)とも号(ごう)したが其(その)力口斉(りきゐさい)と号(ごう)した訳(わけ)は咄々(とつ〳〵)力囲(りきゐ)希(き)
と云(い)ふ語(ご)から出(い)でたもので利休(りきう)辞世(じせい)の喝(かつ)の中(なか)にも力囲希咄(りきゐきとつ)の語(ご)があるのである即(すなは)ち師匠(しせう)の宗旦(そうたん)が咄々(とつ〳〵)
《割書:宗徧忠知に|仕ふ》 斉(さい)と号(ごう)した処(ところ)から宗徧(そうへん)は力口斉(りきゐさい)と号(ごう)することになつたのであるが口(ゐ)の字(じ)は即(すなは)ち囲(ゐ)の字(じ)の略(りやく)である
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千八号附録 (明治四十五年三月十二日発行)
【本文】
かくて明暦(めいれき)元年(がんねん)宗徧(そうへん)は其(その)三十二 歳(さい)の時(とき)に初(はじ)めて茶道(ちやどう)を以(もつ)て此(この)地(ち)の城主(じようしゆ)小笠原忠知(おがさはらたゞとも)に仕(つか)ゆることとなつた
のであるが其(その)紹介人(せうかいにん)は吉良上野介(きらかうづけのすけ)であつたと云(い)ふ事(こと)である此(この)時(とき)宗偏(そうへん)は三十 石(こく)五 人扶持(にんふち)であつたが其(その)二
男(なん)宗屋(そうをく)は後(のち)に百 石(こく)を与(あた)へられて江戸本所(えどほんじよ)三ツ目(め)に住(ぢう)したのである宗偏(そうへん)は当時(たうじ)此(この)地(ち)悟眞寺内(ごしんじない)の竹意軒(ちくゐけん)に
居(を)つたと伝(つた)へられてあるが勿論(もちろん)江戸(えど)にも多(おほ)く出(い)で遠江(とふとうみ)浜名郡(はまなぐん)の大福寺(たいふくじ)などにも久(ひさ)しく滞留(たいりう)して居(を)つた
《割書:不審庵の号|を継ぐ》 との事(こと)である而(しか)して宗偏(そうへん)は曩(さき)に其(その)師(し)宗旦(そうたん)から利休(りきう)以来(いらい)千家(せんけ)累代(るゐだい)の庵号(あんごう)たる不審庵(ふしんあん)並(ならび)に宗旦(そうたん)の用(もち)ゐたる
庵号(あんごう)今日庵(こんにちあん)とを共(とも)に譲(ゆづ)られたのであつて此(この)事(こと)は茶家(ちやけ)の間(あひだ)に宗旦(そうたん)没前(ぼつぜん)四 年(ねん)の事(こと)であると伝(つた)へられてある
果(はた)して然(しか)りとすれば明暦(めいれき)元年(がんねん)頃(ころ)の事(こと)で丁度(ちようど)宗偏(そうへん)が其(その)師(し)から皆伝(かいでん)を許(ゆる)された当時(たうじ)の頃(ころ)であるように推断(すゐだん)
せられるのである併(しか)し千家(せんけ)に其(その)子孫(しそん)があるにも係(かゝは)らず宗徧(そうへん)が特(とく)に此(この)利休(りきう)の正系(せうけい)を継(つ)いで不審庵(ふしんあん)を名乗(なの)
るに至(いた)つたに就(つい)ては後(のち)に彼之(かれこれ)と唱(とな)へたものもあつた様子(やうす)で今尚(いまなほ)当市(たうし)曲尺手(かねんて)の高須芳(たかすよし)三 郎氏方(らうしかた)に蔵(ざう)せら
《割書:利休茶道具|図絵》 れてある宗偏(そうへん)が当市(たうし)の浄円寺主(ぜうゑんじしゆ)に贈(おく)つた書状(しよぜう)に徴(ちよう)しても其(その)何分(なにぶん)を窺(うかゞ)ひ知(し)る事(こと)が出来(でき)るのであるモツト
モ宗徧著(そうへんちよ)の利休茶道具図絵(りきうちゃどうぐずゑ)と云(い)ふ書物(しよもつ)に元禄(げんろく)十五 年(ねん)素堂(そどう)と云(い)ふ人(ひと)が書(か)いた叙文(ぢよぶん)があるが其(その)中(なか)に
宗偏夫何人也、曰、千氏宗旦老人之高弟、而究宗易居士少庵翁所授受之道、以譲於不審庵之人也、
雖然、以旦老之子孫有数多、漫不新其号、因旧呼四方庵有年干茲矣、 去甲寅之冬(●●●●●)、応或人之需、而
昇四方庵之額、且依門人之勧、而茶亭挑不審庵之額、従是号宗易居士四世之不審庵者也
とあるので宗偏(そうへん)が公然(こうぜん)不審庵(ふしんあん)を称(せう)したのは延宝(えんほう)二 年(ねん)の冬(ふゆ)からであるのを知(し)ると同時(どうじ)に其(その)事情(じぜう)も大(おほい)に分(わか)
茶道便蒙抄 るように思(おも)はるゝのである又(ま)た同(おな)じ茶道便蒙抄(ちやどうべんもうしよう)と云(い)ふ書物(しよもつ)の叙(ぢよ)の中(なか)にも
中世有紹鷗、以点茶法鳴干世、紹鷗以是伝之利休、利休滋添潤色、其法隆盛、所重干列国諸侯、児
童踊利休、走卒知千氏、世以為点茶百世宗師也、利休伝之少庵、少庵伝之嗣子宗旦、宗旦性好隠逸
【欄外】
豊橋市史談 (山田宗偏と小笠原忠知) 二百廿五
【欄外】
豊橋市史談 (山田宗偏と小笠原忠知) 二百廿六
【本文】
不慕栄利、祇甘淡泊以点茶為楽矣、宗偏遊彼門有年干茲、直伝其衣鉢、而以得継利休家法之正脉也
《割書:宝永五年四|月二日歿》 とあるのである而(しか)して宗偏(そうへん)は宝永(ほうえい)五年四月二日八十五 歳(さい)を以(もつ)て江戸(えど)に於(おい)て歿(ぼつ)し浅草東本願寺(あさくさほんぐわんじ)中(ちう)の願龍(ぐわんりう)
寺(じ)に葬(ほうむ)つたが今(いま)も其(その)墓(はか)は現存(げんぞん)して居(を)るモツトモ名人忌辰録(めいじんきしんろく)には善龍寺(ぜんりうじ)に葬(ほうむ)るとしてあるから私(わたくし)も此(この)頃(ごろ)
上京(ぜうきよう)を幸(さいはひ)に浅草(あさくさ)の東本願寺(ひがしほんぐわんじ)に行(い)つて尋(たづ)ねて見(み)たが矢張(やはり)善龍寺(ぜんりうじ)ではなくて願龍寺(ぐわんりうじ)の方(はう)に墳墓(ふんぼ)があるの
である併(しか)し現在(げんざい)のものは明治(めいじ)廿九年七月 福島良(ふくしまれう)三 郎(らう)と云(い)ふ人(ひと)の建立(こんりう)したもので基石(きせき)丈(だけ)は古(ふる)くて当初(たうしよ)か
らのものと思(おも)はるゝが墓碑(ぼひ)は全部旧形(ぜんぶきうけい)を認(みと)むる事(こと)の出来(でき)ぬのは甚(はなはだ)以(もつ)て遺憾(ゐくわん)に思(おも)ふのである而(しか)して宗(そう)
茶道要録 偏(へん)の著書(ちよしよ)には前(まへ)にも申述(もうしの)べた茶道便蒙抄(ちやどうべんもうしよう)、 利休茶道具図絵(りきうちやどうぐづゑ)と並(ならび)に茶道要録(ちやどうえうろく)などがあるが孰(いづ)れも茶道(ちやどう)に
関(くわん)する事(こと)を詳録(せうろく)したもので従来(じうらい)極秘口伝(ごくひこうでん)であつたものゝ大部分(だいぶゞん)を此(この)人(ひと)が初(はじ)めて之等(これら)の書物(しよもつ)で開放(かいはう)した
もので其(その)道(みち)の人(ひと)には勿論(もちろん)普通人(ふつうじん)に対(たい)しても容易(ようい)ならざる便宜(べんぎ)を与(あた)ふる事(こと)であるが此処(こゝ)らは大(おほい)に宗偏(そうへん)の
主義(しゆぎ)を知(し)る事(こと)が出来(でき)るのである又(ま)た宗偏(そうへん)が此(この)地(ち)に遺(のこ)した事柄(ことがら)を調査(てうさ)して見(み)るのに遺憾(ゐくわん)な事(こと)には矢張(やはり)湮(ゑん)
《割書:湊町神明社|の庭園》 滅(めつ)に皈(き)したるものが多(おほ)いのであるが先(ま)づ本市(ほんし)大字(おほあざ)湊(みなと)の神明社(しんめいしや)境内(けいだい)大字(おほあざ)飯智光庵(ゐちくわうあん)の境内(けいだい)などは其(その)設計(せつけい)に
呉竹の清水 成(な)つたもので今(いま)でも多少(たせう)其(その)面影(おもかげ)が忍(しの)ばるゝのである又(また)大字(おほあざ)松山(まつやま)正林寺(せうりんじ)前(まへ)にある呉竹(くれたけ)の清水(しみづ)と云(い)ふのは
宗徧(そうへん)遺愛(ゐあい)の清水(しみづ)であるが今(いま)は其(その)痕跡(こんせき)があるかドウか殆(ほとん)ど分(わか)らぬ位(くらゐ)である併(しか)し宗偏(そうへん)遺愛(ゐあい)の器具(きぐ)では今尚(いまな)
《割書:宗偏自作の|木像》 ほ当市内(たうしない)の諸家(しよけ)に蔵(ざう)せられて居(を)るものが少(すくな)からぬ事(こと)であるが其(その)中(なか)でも大字(おほあざ)札木(ふだぎ)小原卯平氏(をはらうへいし)所蔵(しよざう)の宗偏(そうへん)
自作(じさく)弥陀(みだ)の木像(もくざう)は最(もつと)も見事(みごと)な物(もの)で其(その)背後(はいご)に「貞享(ていきよう)五年戊辰六月下旬六十二 歳(さい)作之(これをつくる)宗徧(そうへん)」と彫刻(てうこく)して
ある又(ま)た同人所用(どうにんしよよう)のもので伝来(でんらい)の正(たゞ)しきものが妙円寺(みよいゑんじ)にも保存(ほぞん)されて居(を)る尚(なほ)茲(こゝ)に一つ申述(もうしの)べたいと思(おも)
ふのは大日本人名辞書(だいにほんじんめいじしよ)宗偏伝(そうへんでん)の中(なか)に当時(たうじ)茶道(ちやどう)が流行(りうこう)して殊(こと)に遠州流(ゑんしうりう)の如(ごと)きは利休(りきう)の素志(そし)に反(はん)し茶道(ちやどう)を
以(もつ)て一 種驕奢(しゆきようしや)の媒介(ばいかい)となして珍器珍宝(ちんきちんほう)を弄(もてあそ)ばねば茶人(ちやじん)でないようにするので宗旦(そうたん)は深(ふか)く之(これ)を歎息(たんそく)し
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
て或時(あるとき)書面(しよめん)を以(もつ)て此(この)事(こと)を小堀遠州(こほりゑんしう)へ談(だん)じた処(ところ)が遠州(ゑんしう)の答(こたへ)にそれは尤(もつとも)ではあるが之(こ)れ決(けつ)して私意(しゐ)ではな
い内命(ないめい)の出(い)づる処(ところ)があつて治国平天下(ぢこくへいてんか)の基礎(きそ)を堅(かた)むる為(ため)であるとの事(こと)であつた然(しか)るに宗旦(そうたん)は飽(あ)くまで
も之(これ)では茶道(ちやどう)の本旨(ほんし)に反(はん)すると云(い)ふので真(しん)の茶道(ちやどう)を江戸(えど)に流布(るふ)せむことを欲(ほつ)したのであるが恰(あたか)も其(その)時(とき)小(を)
宗偏と忠知 笠原忠知(がさはらたゞとも)は大(おほい)に天下(てんか)の悪弊(あくへい)を矯正(きようせい)するのに志(こゝろざし)があつて宗旦(そうたん)を召(め)したのである然(しか)るに宗旦(そうたん)自(みづから)は老年(らうねん)で
あるからと云(い)ふので其(その)高弟(かうてい)たる宗偏(そうへん)を以(もつ)て小笠原家(をがさはらけ)に薦(すゝ)むるに至(いた)つたのであると云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある
のである其(その)説(せつ)の出所(でどころ)は何(いづ)れであるか今(いま)能(よ)く分(わか)らぬから直(たゞ)ちに之(これ)を信(しん)ずる事(こと)も出来(でき)ぬではあるが私(わたくし)は
頗(すこぶ)る趣味(しゆみ)を以(もつ)て此(この)説(せつ)を迎(むか)ふる者(もの)である如何(いか)にも当時(たうじ)に於(お)ける徳川幕府(とくがはばくふ)の政策(せいさく)としては小堀遠州(こほりゑんしう)の答(こた)へ
たような事(こと)もあつたであろうと思(おも)ふ又(ま)た之(これ)と同時(どうじ)に忠知(たゞとも)及(およ)び宗偏(そうへん)が当時(たうじ)茶道(ちやどう)の上(うへ)に取(と)つた処(ところ)の方針(はうしん)も
分(わか)るように思(おも)ふのである従(したがつ)て宗偏(そうへん)は今日(こんにち)尚(な)ほ茶道(ちやどう)に於(お)いては利休(りきう)正統(せいとう)の極秘(ごくひ)を伝承(でんしよう)せるものと称(せう)せら
れて居(を)る次第(しだい)である尚(なほ)宗偏(そうへん)の茶道(ちやどう)に於(お)ける系統(けいとう)を知(し)る上(うへ)には幸(さいはひ)に大日本人名辞書(だいにほんじんめいじしよ)の巻首(くわんしゆ)に其(その)系図(けいづ)が掲(かゝ)
げてあるから就(つい)て見(み)られたならば概要(がいえう)を会得(ゑとく)する上(うへ)には好都合(こうつごう)であろうと思(おも)ふ尚(なほ)序(ついで)だから一寸(ちよつと)申添(もうしそ)へ
て置(お)くが宗徧(そうへん)の「ヘン」の字(じ)は徧(へん)が正当(せいたう)であるようであるが自筆(じしつ)のものにも偏(へん)の字(じ)を書(か)いたのがあるか
ら双方(そうほう)孰(いづ)れをも用(もち)ゐた事(こと)と思(おも)ふ現(げん)に前(まへ)に申述(もうしの)べた浅草(あさくさ)の墓標(ぼひよう)には偏(へん)の字(じ)が刻(ほ)つてあるのである
⦿小笠原氏歴代と吉田の情勢
小笠原長矩 サテ忠知(たゞとも)は寛文(かんぶん)三 年(ねん)の七月に卒(そつ)して其(その)家督(かとく)を継(つ)いだのが嫡男(ちやくなん)の長矩(ながのり)であるが其(その)年(とし)十月九日 付(づけ)で父(ちゝ)の遺(ゐ)
小笠原長定 領(れう)の内(うち)四万石を領(れう)し残(のこり)五千石は其(その)内(うち)弟(おとゝ)の丹後守長定(たんごのかみながさだ)に三千石、 外記長秋(げきながあき)に二千石を分(わか)ち与(あた)へたのである
小笠原長秋 る此(この)事(こと)に就(つい)て三 河聞書(かはきゝがき)に
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百廿七
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百廿八
【本文】
今年吉田城主分知舎弟二人、小笠原丹後守長定領三千石、於長山村庁屋、家老吉田八兵衛住吉田
城内、代官後藤金太夫住長山、小笠原外記領二千石、於西川村定庁屋
とあるから此(この)時(とき)長定(ながさだ)の方(はう)は宝飯郡(ほゐぐん)の長山村(ながやまむら)外記(げき)の方(はう)は八 名郡(なぐん)の西川村(にしかはむら)に新(あらた)に分与(ぶんよ)された領地(れうち)の役所(やくしよ)を
設(もを)けたものと思(おも)はれる而(しか)して長矩(ながのり)と云(い)ふ人(ひと)は寛永(かんえい)元年(がんねん)の生(うまれ)で幼名(ようめい)千勝丸(せんかつまる)夫(それ)から名(な)を忠根(たゞもと)と云(い)ひ長頼(ながより)と
改(あらた)め更(さら)に長矩(ながのり)と変(へん)したのであるが最初(さいしよ)民部(みんぶ)と称(せう)し正保(せうほ)元年(がんねん)十二月廿九日 従(じゆ)五 位下(ゐか)に叙(ぢよ)せられ山城守(やましろのかみ)に
《割書:長矩自写の|経文》 任(にん)せられたのである此(この)人(ひと)がまだ廿七 歳(さい)の時(とき)に亡母(ぼうぼ)の十七 回忌(くわいき)に方(あた)つて其(その)功徳(くどく)の為(ため)に自写(じしや)して納(をさ)めた法(はふ)
華経(けきよう)が今(いま)も尚(なほ)臨済寺(りんざいじ)に遺(のこ)つて居(を)るが其(その)奥書(おくがき)に
慶安三年歳在庚寅十月初八日値予慈母法源院日心大師淑霊十七回諱之辰要酬乳恩之万一手自漸写法
華八軸金文了謹奉献真前伏冀頓証仏果及一切群生出離苦海直上覚場
小笠原山城守源忠根焼香謹書之
とある而(しか)も其(その)経文(きようもん)を見(み)るに毎巻(まいくわん)頗(すこぶ)る細密(さいみつ)で全(まつた)く謹書(きんしよ)してあるのみならず其(その)後(のち)寛文(かんぶん)三年七月に其(その)父(ちゝ)忠(たゞ)
知(とも)が卒(そつ)した時(とき)も長矩(ながのり)は亦(ま)た今(いま)の臨済寺(りんざいじ)を移転(いてん)改築(かいちく)して其(その)菩提(ぼだい)を吊(ともら)ひそれが為(ため)には村(むら)の百 姓(せう)にも特典(とくてん)を
与(あた)ふる事(こと)を触(ふ)れしめた事(こと)は前章(ぜんせう)既(すで)に瓦町開発(かわらまちかいはつ)の条(くだり)で申述(もうしの)べた如(ごと)くである之(これ)等(ら)から推(お)して考(かんが)へて見(み)ると
長矩(ながのり)と云(い)ふ人(ひと)は余程(よほど)心(こゝろ)の優(やさ)しい孝心(かうしん)の深(ふか)い人(ひと)であつたと推断(すゐだん)する事(こと)が出来(でき)ると思(おも)ふ其(その)他(た)此(この)人(ひと)は神仏(しんぶつ)に
対(たい)する崇敬(すうけい)も厚(あつ)かつた様子(やうす)で其(その)頃(ころ)今(いま)の大字(おほあざ)中(なか)八の神明社(しんめいしや)は勿論(もちろん)まだ城内(じようない)にあつたのであるが之(これ)に初(はじ)め
《割書:神明社の石|華表》 て石(いし)の鳥居(とりゐ)を寄進(きしん)したのも矢張(やはり)此(この)長矩(ながのり)であるそれは寛文(かんぶん)十三 年(ねん)九月廿八日の事(こと)であるが現今(げんこん)の鳥居(とりゐ)は
其(その)後(のち)地震(ぢしん)の為(ため)に仆(たほ)れて修理(しうり)したものであるモツトモ当時(たうじ)の寄進札(きしんふだ)は今(いま)も尚(なほ)同社(どうしや)に保存(ほぞん)されて居(を)るので
ある
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千十四号附録 (明治四十五年三月十九日発行)
【本文】
サテ長矩(ながのり)は相続後(さうぞくご)間(ま)もなく奏者番(そうしやばん)となり(《割書:寛文三年|十月廿六日》)寛文(くわんぶん)六 年(ねん)七月十九日から寺社奉行(じしやぶぎやう)を兼(か)ねたが寛文(くわんぶん)
長矩卒す は十三 年目(ねんめ)に延宝(えんほう)と改(あらた)まり其(その)六 年(ねん)二月八日 病(やまひ)を以(もつ)て卒(そつ)したのである年(とし)は五十五 歳(さい)で矢張(やはり)臨済寺(りんざいじ)に葬(ほうむ)ら
れたのであるが泰雲院宝峯正印居士(たいうんゐんほうほうしやうゐんこじ)と号(ごう)するのである而(しか)して其後(そのご)は嫡男(ちやくなん)の長祐(ながのり)が相続(さうぞく)したのである
元来(がんらい)此(この)小笠原氏(をがさはらし)は前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く忠知(たゞとも)が初(はじ)めて宗家(しうけ)から分(わか)れたような訳(わけ)であるから云(い)はば忠知(たゞとも)が
其(その)祖(そ)であるが其(その)人(ひと)以来(いらい)四 代(だい)の間(あひだ)相継(あひつ)いで此(この)地(ち)の城主(ぜうしゆ)であつたので前後(ぜんご)通(つう)じて凡(およ)そ五十三 年(ねん)になるので
ある即(すなは)ち其後(そのご)の大河内家(おほかうちけ)を除(のぞ)いては此(この)家(いへ)が最(もつと)も長(なが)く此(この)地(ち)を治(おさ)めて居(を)つた訳(わけ)である然(しか)るに当時(たうじ)は御承知(ごしやうち)
の如(ごと)く徳川(とくがは)の天下(てんか)も極(きは)めて太平無事(たいへいぶじ)の時(とき)であるから波瀾(はらん)と云(い)ふような事(こと)は全(まつた)くないので御話(おはなし)すべき事
も甚(はなは)だ少(すくな)いのであるが併(しか)し民政上(みんせいじやう)に関(くわん)しては稍々(やゝ)残(のこ)つて居(を)ることもあるので之(これ)から追々(おひ〳〵)に申述(まうしの)ぶる考(かんがへ)で
小笠原長祐 あるがサテ此(この)長祐(ながすけ)は正保(しやうほ)元年(ぐわんねん)の生(うまれ)で幼名(ようめい)は千 代松(よまつ)後(のち)長治(ながはる)長教(ながのり)などゝ名乗(なの)つた寛文(くわんぶん)三 年(ねん)十二月廿八日 従(じう)
五 位下(ゐげ)能登守(のとのかみ)に叙任(ぢよにん)し延宝(えんほう)六年三月 晦日(みそか)父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を襲(つ)いで七 年(ねん)九月 朔日(ついたち)に壱岐守(いきのかみ)と改(あらた)めたのである然(しか)
るに其(その)翌年(よくねん)将軍(せうぐん)家綱(いへつな)は薨(こう)じて御承知(ごせうち)の五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)が舘林(たてばやし)から入(はい)つて宗家(しうけ)を襲(つ)いだのであるが此(この)年(とし)か
ら年号(ねんがう)が天和(てんわ)と改(あらた)まり天和(てんわ)は四 年目(ねんめ)に貞享(ていけう)となり貞享(ていけう)は又(また)五 年目(ねんめ)に元禄(げんろく)となつたのである
元禄時代 蓋(けた)し先(ま)づ之(これ)が徳川時代(とくがはじだい)に於(お)ける天下太平(てんかたいへい)の極度(きよくど)で風俗(ふうぞく)は頗(すこぶ)る華美(くわび)に流(なが)れ元禄時代(げんろくじだい)と云(い)へば誰(たれ)も知(し)らぬ
吉田の花火 ものゝない江戸全盛(えどぜんせい)の時(とき)であるが其(その)驕奢(けうしや)の風(ふう)は地方(ちはう)までも流(なが)れ来(きた)つたもので御承知(ごせうち)の吉田(よしだ)の花火(はなび)な
ども全(まつた)く此(この)頃(ころ)から盛大(せいだい)になつたのである勿論(もちろん)此(この)花火(はなび)は吉田神社(よしだじんしや)の祭礼(さいれい)に於(おい)て行(おこな)はれたのであるが元(もと)同(どう)
社(しや)の神官(しんくわん)であつた石田家(いしだけ)に遺(のこ)つて居(を)る記録(きろく)に依(よ)つて見(み)ると初(はじ)めて建物(たてもの)(《割書:花火の|一 種》)の大(おほ)きなのが出来(でき)たのは
元禄(げんろく)十三 年(ねん)の事で長(ながさ)拾三 間(げん)幅(はゞ)三 間半(げんはん)で其(その)費用(ひよう)は廿四 両(れう)かゝつたとしてある又(また)同(どう)祭礼(さいれい)に要(えう)する大字(おほあざ)本町(ほんまち)
笹踊の装束 の山車(だし)に幕(まく)の出来(でき)たのも元禄(げんろく)十六年の事(こと)であるとしてあるが萱町(かやまち)から出(で)る笹踊(さゝをどり)の装束(せうぞく)も元(も)と木綿(もめん)の浴(ゆか)
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百廿九
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百三十
【本文】
衣(た)であつたのを元禄(げんろく)に入(はい)つて絹(きぬ)のサラサ染(そめ)に改(あらた)め其(その)十七年に至(いた)つて緞子(どんす)のものが出来(でき)た様子(やうす)であるそ
れのみならず右(みぎ)の記録(きろく)の中(なか)には其(その)頃(ころ)此(この)笹踊(さゝおどり)を噺(はや)す為(ため)に大太鼓(おほたいこ)や小太鼓(こだいこ)の打手(うつて)の中(なか)に頗(すこぶ)る名人(めいじん)が出来(でき)た
と云ふ事が詳(くわ)しく記(しる)してあるが今日(こんにち)それを読(よ)むで見(み)ると如何(いか)にも当時(たうじ)が太平無事(たいへいぶじ)であつて其(その)極(きよく)一 般(ぱん)の
風潮(ふうてう)が遊佚(ゆういつ)に傾(かたむ)いた様子(やうす)が伺(うかゞ)ひ知(し)られるように思(おも)ふのである然(しか)るに此(この)時代(じだい)と云ふものは之(これ)と同時(どうじ)に又(ま)
た一 方(ぱう)に於(おい)て文物(ぶんぶつ)の隆盛(りうせい)を極(きは)めたもので殊(こと)に将軍(せうぐん)綱吉(つなよし)と云(い)ふ人(ひと)は学問好(がくもんづき)であつた処(ところ)から種々(しゆ〴〵)の計画(けいぐわく)を
貞享書上 も試(こゝろ)みたが兼(かね)て申述(まうしの)べてある如(ごと)く各(かく)諸侯(しよこう)は勿論(もちろん)麾下(きか)の士(し)より郷士(がうし)などに至(いた)るまで其(その)家系(かけい)の調査(てうさ)をなさ
しめたのである其時(そのとき)諸侯(しよこう)旗本(はたもと)などから書(か)き上(あ)げたものが所謂(いはゆる)貞享書上(ていけうかきあげ)と称(せう)するので今日(こんにち)も尚(なほ)頗(すこぶ)る史料(しれう)
となるものとなつて居(を)るかゝる様(やう)であつたから此(この)風(ふう)も亦(ま)た当時(とうじ)各地方(かくちはう)に波及(はきう)したものであるが長祐(ながすけ)が
市勢調査 貞享(ていけう)五年 即(すなは)ち元禄(げんろく)元年(ぐわんねん)に町奉行(まちぶげふ)西脇清次郎(にしわきせいじらう)と云ふ者(もの)に命(めい)じて吉田市中(よしだしちう)の市勢調査(しせいてうさ)をなさしめたのも亦(また)
何分(なにぶん)は其(それ)が影響(えいけう)とも見(み)るべきもので其時(そのとき)の取調書(とりしらべしよ)の写(うつし)と云(い)ふものは今(いま)も幸(さいはひ)に残(のこ)つて居(を)るのであるが此(この)
時(とき)には吉田(よしだ)市街(しがい)各町(かくちやう)の地図(ちづ)をも調製(てうせい)せしめたのである其事(そのこと)は矢張(やはり)調書(てうしよ)の中(なか)に記録(きろく)してあるが之(これ)に就(つい)て
《割書:元禄元年吉|田の地図》 甚(はなは)だ愉快(ゆくわい)なる話(はなし)があるのは先年(せんねん)大字(おほあざ)曲尺手(かねのて)の大辻太平君(おほつぢたへいくん)が或(ある)古物商(ふるものしやう)で本具(ほんぐ)の中(なか)に吉田(よしだ)の古地図(ふるちづ)十 余枚(よまゐ)
があるのを見(み)て之(これ)を購(あがな)はれた併(しか)し当時(たうじ)はそれ程(ほど)古(ふる)い大切(たいせつ)のものと思(おも)はれなかつた様子(やうす)であつたが
其話(そのはなし)を私(わたし)は市会議員(しくわいぎゐん)の若杉房次郎君(わかすぎふさじらうくん)から伝聞(でんぶん)したから早速(さつそく)人(ひと)を大辻君(おほつぢくん)の処(ところ)へやつて其(その)地図(ちづ)を借覧(しやくらん)し段(だん)
段(〴〵)と取調(とりしら)べて見(み)ると之(これ)こそ全(まつた)く此(この)元禄(げんろく)元年(がんねん)のものであると云(い)ふことが分(わか)つたのであるかく断定(だんてい)するには
勿論(もちろん)色々(いろ〳〵)な拠(よりどころ)のある事であるが大字(おほあざ)船町(ふなまち)にも旧来(きうらい)其(その)町(まち)丈(だけ)の古地図(ふるちづ)の写(うつし)が保存(ほぞん)されて居(を)つて之(これ)には庄屋(せうや)
藤(とう)十 君(くん)の副書(そへがき)があるそれに拠(よ)ると其(その)原図(げんづ)は本町(ほんまち)問屋(とんや)七 郎右衛門(らうゑもん)の所有(しよゆう)で寛政(くわんせい)十二 年(ねん)八 月(ぐわつ)船町(ふなまち)に借受(かりう)け
て複写(ふくしや)したものであるが当時(とうじ)の鑑定(かんてい)では少(すくな)くも元禄(げんろく)以前(いぜん)のものであろうと記(しる)してあるのである而(しか)も此(この)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
図(づ)と大辻氏(おほつぢし)所有(しよゆう)の地図(ちづ)の中(うち)船町(ふなまち)の部(ぶ)と合(あは)せて見(み)ると一二の精粗(せいそ)はあるが全然(ぜん〴〵)一 致(ち)するものであるモツ
トモ庄屋(せうや) 藤(とう)十 氏(し)が之(これ)を複写(ふくしや)した当時(たうじ)は元禄(げんろく)元年(ぐわんねん)に市勢調査(しせいてうさ)のあつた事(こと)も分(わか)らず従(したがつ)て西脇清次郎(にしわきせいじらう)の調査(てうさ)
書(しよ)と云(い)ふものをも見(み)られなかつた事(こと)であろうから只(たゞ)漠然(ばくぜん)と少(すくな)くとも元禄(げんろく)以前(いぜん)のものであろうと鑑定(かんてい)さ
れたのである併(しか)し今日(こんにち)此(この)西脇(にしわき)の調査書(てうさしよ)と此(この)地図(ちづ)とを比較対照(ひくわくたいせう)して見(み)ると右(みぎ)私(わたくし)の申述(まうしの)べた事(こと)は動(うごか)すべか
らざるものがあることを信(しん)ずるのであるモツトモ右(みぎ)申述(まうしの)べた大辻氏(おほつぢし)の地図(ちづ)とても果(はた)して其(その)当時(たうじ)の原本(げんほん)な
るや又(また)は後(のち)の複写(ふくしや)になつたものなるやは少(すこ)しく明言(めいげん)に苦(くるし)む処(ところ)であるが兎(と)に角(かく)右(みぎ)の如(ごと)くとすれば此(この)地(ち)に
於(お)ける各町分図(かくちやうぶんづ)で今(いま)残(のこ)つて居(を)るものゝ内(うち)では最旧(さいきう)のものとなすべきであると思(おも)ふサテ此(この)話(はなし)は以上(いじやう)の如
くであるが右(みぎ)調書(てうしよ)と地図(ちづ)とに拠(よ)れば当時(たうじ)吉田(よしだ)の総町数(そうちやうすう)は廿四ケ町(ちやう)で戸数(こすう)は僅(わづか)に壱千しかなかつたもの
であるが各町(かくちやう)の延長幅員(えんちやうふくゐん)其他(そのた)総門(そうもん)大手門(おほてもん)などの位置(ゐち)並(ならび)に豊川橋梁(とよかはけうれう)の有様(ありさま)等(とう)も歴々(れき〳〵)分明(ぶんめい)である併(しか)し乍(なが)ら
一々(いち〳〵)之(これ)を茲(こゝ)に掲(かゝ)ぐることは到底(とうてい)困難(こんなん)であるから成(な)るべくは実物(じつぶつ)に就(つい)て御覧(ごらん)になれば誠(まこと)に好都合(こうつがふ)であると
思(おも)ふ
又(ま)た元禄(げんろく)二年には大橋(おほはし)の架替(かけかへ)もあつたのであるが矢張(やはり)此時(このとき)の工事(こうじ)は中々(なか〳〵)の大仕掛(おほじかけ)であつて幸(さひはひ)に大字(おほあざ)船(ふな)
橋梁の架替 町(まち)には当時(たうじ)の設計書(せつけいしよ)が保存(ほぞん)されて居(を)るが其(その)書類(しよるい)の表題(へうだい)は「元禄(げんろく)二年五月三 州(しう)吉田大橋(よしだおほはし)新規(しんき)御掛直(おんかけなほし)入札(にうさつ)
帳(ちやう)」としてあるのである之(これ)で見(み)ると其時(そのとき)の設計(せつけい)と云(いふ)ものは明(あきらか)に分(わか)るのであるが先(ま)づ予(あらかじ)め旧橋(きうけう)と相並(あひなら)む
で新橋(しんけう)を造営(ぞうえい)し其(その)成(な)るに及(およ)むで旧橋(きうけう)を取毀(とりこは)つたものである勿論(もちろん)其(その)構造(こうぞう)は高欄(かうらん)に「ギボシ」を付(つ)けたもの
《割書:井上通女の|帰家日記》 で今日(こんにち)に見(み)る瀬田(せた)の長橋(ながはし)と同(どう)一のものであつた事(こと)と思(おも)ふ茲(こゝ)に面白(おもしろ)いのは彼(か)の井上通女(いのうへつうぢよ)の皈家日記(きかにつき)であ
るが此人(このひと)は御承知(ごしやうち)の如(ごと)く有名(ゆうめい)なる賢女(けんぢよ)で京極家(けうごくけ)に仕(つか)へて居(を)つたのであるが此(この)帰家日記(きかにつき)と云(い)ふものは元(げん)
禄(ろく)二年の六月に江戸(えど)から其(その)本国(ほんごく)讃岐(さぬき)の丸亀(まるがめ)に皈(かへ)る道中記(どうちうき)で丁度(ちようど)其(その)日記(につき)の六月十七日の条(くだり)に
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百卅一
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百卅二
【本文】
吉田(よしだ)の市店(してん)を通(とほつ)て、いと長(なが)き橋(はし)に到(いた)る、 只今(たゞいま)渡(わた)る橋(はし)、 漸(やうや)く古(ふる)くなれりとて作(つく)りかへらるゝなり、 大(おほい)
なる木(き)とも引(ひき)かけ、けづりまろばして、 工匠(たくみ)ども初(はじ)め人多(ひとおほ)く集(つど)ひて、どよみあへり、 今(いま)渡(わた)る橋(はし)にも
人々(ひと〴〵)集(あつま)りて之(これ)を見(み)る
と云(い)ふことが書(か)いてあるのである成程(なるほど)此時(このとき)には慥(たしか)に此(この)橋(はし)が普請(ふしん)最中(さいちう)であつた事(こと)と思(おも)ふが文章(ぶんしやう)は簡短(かんたん)であ
つても実(じつ)に能(よ)く其(その)真相(しんそう)を言(い)ひ現(あら)はして居(を)る記事(きじ)であると云(い)ふべきであるモツトモ此(この)橋普請(はしぶしん)の事(こと)に就(つい)て
は前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く船町(ふなまち)に善(よ)き記録(きろく)が遺(のこ)つて居(を)るのみならず嘗(かつ)て渥美郡(あつみぐん)役所(やくしよ)に於(おい)ても其筋(そのすぢ)の照会(せうくわい)に
よつて調査(てうさ)したものがあるので御話(おはなし)すべき材料(ざいれう)も少(すくな)くないのであるが何(いづ)れ此(この)史談(しだん)の終(おはり)に特(とく)に纏(まと)めて
申述(まうしの)ぶる事(こと)にするか又(また)は年表(ねんへう)にして発表(はつぺう)する考(かんがへ)であるから今(いま)は其(その)節(ふし)〳〵を御話(おんはなし)するに止(とゞ)むる考(かんがへ)である
《割書:船町庄屋口|上の覚》 尚(なほ)一つ此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)き度(た)いと思(おも)ふのは大字(おほあざ)船町(ふなまち)が旧来(きうらい)渡船(とせん)の役(やく)を勤(つと)めた事(こと)で其代(そのかは)りには地子御免(ちごごめん)
と相成(あひな)つて居(を)つたものであるが丁度(てうど)此(この)長祐(ながすけ)の時代(じだい)に其(その)家臣(かしん)の笹野杢右衛門(さゝのもくゑもん)と云(い)ふ人(ひと)が之等(これら)の事(こと)を船町(ふなまち)
の庄屋(せうや)に就(つい)て取調(とりしら)べて藩(はん)の勘定所(かんぜうしよ)へ差出(さしだ)した書付(かきつけ)があつて今(いま)も残(のこ)つて居(を)ることである之(これ)は種々(しゆ〴〵)の点(てん)に於(おい)
て参考(さんこう)ともなるべきものであるから試(こゝろみ)に其(その)全文(ぜんぶん)を左(さ)に示(しめ)すことに致(いた)したいと思(おも)ふ
三州吉田宿船町庄屋口上之覚
一船町之儀右者河原同前ニ而家居まばらに御座候処池田三左衛門様当御城主ニ被為成堤等丈夫ニ被
仰付船町家居町並ニ罷成船之運送仕致渡世候処慶長庚子之年関ケ原御陣之節御城主三左衛門様ゟ
舟役被仰候其節舟役相勤候覚
一勢州津之御城主富田信濃守様江戸ゟ御城元エ御登被成候尅舟数弐拾三艘ニ而御渡海之御用相勤
候
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千七十九号附録 (明治四十五年六月四日発行)
【本文】
一同国松坂之御城主古田兵部様江戸ゟ御城元え御登被遊候節舟数拾六艘に而勢州大湊まで御渡海之
御用相勤候
一志州鳥羽之御城主九鬼大隅守様御逆心に而御息長門守様為御討手御登被遊候尅舟数三拾六艘に而
勢州あのが浦迄御渡海之御用相勤候
右之通騒敷時節船手之御用相勤候付御城主三左衛門様ゟ向後舟役相勤候様にと被仰付只今に至迄
地子御免に而当所湊舟に差引仕舟役相勤申候
先年者御証文も頂戴仕罷在候共申伝候へ共五拾五年以前寛永拾三子之年大洪水津浪に而家居打つ
ふれ死人数多有之候其節書物とも流失仕只今は御証文も無御座候
一御上洛之節は勢州桑名え舟拾八艘廻御用相勤申候当所ゟ壱里半河上当古村と申所に而船橋之御用
をも相勤申候
一弐拾六年以前寛文五乙巳年岡野孫九郎様為御上使紀州え御趣被成候節当所より勢州松崎浦迄御渡
海之御用相勤候
一前々ゟ只今に至洪水之節往還留候得ば当所御橋近所ゟ小坂井村と申所弐拾丁之内舟渡に而御上使
御継飛脚之御用無遅滞相勤申候延宝八庚申之年洪水津浪にて往還留候処為御上使藤堂主馬様御登
被遊候節小坂井村迄舟渡之御役相勤候御継飛脚運送仕候儀者度々御座候去巳之七月洪水に而当所
御橋破損仕往還留候節舟渡に而往還無滞日数九日之間舟越仕候前々ゟ洪水之節者御橋え竹木材木
等流掛候付洪水之度々御橋際え不限昼夜相詰取除申候
一御城主御代々御城廻石垣御普請之節者御用次第舟差出石積廻申候
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百卅三
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百卅四
【本文】
一当湊舟王吟味之儀御高札之通大切ニ奉存舟番所を相立無懈怠相勤申候弐拾四年以前酒井八郎兵衛
様伴作平様諸国浦々為御順見御越被遊候節当湊前々ゟ之わけ御尋被成右之段々申上候得者舟手之
吟味弥入念候様にと被仰御高札之御写被下置候以上
右船町地子御免之儀且又御役之品々吟味仕候処先年ゟ申伝候由に而今以勤来候趣右之通御座候以
上
元禄三午年正月十六日
小笠原壱岐守内
笹野杢左衛門 (印)
御 勘 定 所
長祐卒す サテ長祐(ながすけ)は其(その)翌(よく)元禄(げんろく)三 年(ねん)の六月十七日四十七 歳(さい)を以(もつ)て卒(そつ)し法号(はふごう)は弾指院別峯宗見居士(だんしゐんべつほうそうけんこじ)と号(ごう)したが之(こ)れ
小笠原長重 亦(ま)た墓(はか)は臨済寺(りんざいじ)にあるのである然(しか)るに長祐(ながすけ)の男子(だんし)は先(さ)きに早世(さうせい)したので貞享(ていけう)二年七月七日を以(もつ)て己(おの)れ
の舎弟(しやてい)長重(ながしげ)を養(やしな)つて子(こ)となしたのであつたが此人(このひと)が今度(このたび)相続(さうぞく)する事(こと)となつて元禄(げんろく)三年十月十日を以(もつ)て
養父(やうふ)の遺領(ゐれう)を賜(たま)はるに至(いた)つたのである而(しか)して此(この)長重(ながしげ)は慶安(けいあん)三年の生(うまれ)で寛文(かんぶん)十年七月十一日 中奥(なかおく)の御小(おこ)
姓(せう)となり十二月 八日 廩米(りんまい)五百 俵(ぴよう)を賜(たま)はり十二年四月廿五日 御側小姓(おそばこせう)に転(てん)じ十二月廿八日 従(じゆ)五 位下(ゐげ)佐(さ)
渡守(どのかみ)に叙任(ぢよにん)したが天和(てんわ)元年(がんねん)七月六日に至(いた)つて御書院番頭(ごしよゐんばんがしら)となり二年五月廿一日千五百 俵(ぴよう)を賜(たま)はる事(こと)に
なつたのである然(しか)るに前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く兄(あに)長祐(ながすけ)に実子(じつし)がなくなつたので其(その)養子(やうし)となり遂(つひ)に相続(さうぞく)をした
のであるが其後(そののち)元禄(げんろく)三年十二月三日を以(もつ)て奏者番(そうしやばん)となり寺社奉行(じしやぶげう)を兼(か)ね四年 閏(うるふ)八月廿六日に京都所司(けうとしよし)
代(だい)に進(すゝ)み従(じゆ)四 位下(ゐか)侍従(じじう)に昇(のぼ)つたのであるトコロで其(その)十年四月十九日 老中(らうちう)に任(にん)せられ壱万石の加増(かぞう)とな
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
《割書:長重武蔵岩|槻城に移封|せらる》 つたが之(これ)と同時(どうじ)に武蔵国(むさしのくに)岩槻城(いはつきじよう)に国替(くにがへ)を仰(あふ)せ付(つけ)らるゝ事(こと)に成(な)つて茲(こゝ)に比較的(ひかくてき)稍々(やゝ)久(ひさ)しく此地(このち)の城主(じようしゆ)と
補遺 して継続(けいぞく)した処(ところ)の小笠原氏(をがさはらし)も又々(また〳〵)他(た)に移転(いてん)することと相成(あひな)つたのであるソコで尚(な)ほ一寸(ちよつと)補遺(ほゐ)として申述(もうしの)
べて置(お)きたいことがあるがそれは外(ほか)でもない前章(ぜんせう)小笠原壱岐守(をがさはらいきのかみ)と云(い)ふ処(ところ)で其(その)系図(けいづ)を御話(おはなし)した中(なか)に忠知(たゞとも)の
曽祖父(そうそふ)長時(ながとき)が天文中(てんぶんちう)深志(ふかし)の城(しろ)にあつて武田信玄(たけだしんげん)の為(ため)に破(やぶ)られ越後(ゑちご)に逃(のが)れたと云ふことを申述(もうしの)べて置(お)いた
事(こと)であるモツトモ之(これ)は主(おも)に藩翰譜(はんかんふ)の記事(きじ)に拠(よ)つたのであつたが其後(そののち)段々(だん〳〵)調査(てうさ)して見(み)ると其(その)深志(ふかし)の城(しろ)と
云(い)ふのは誤(あやまり)で当時(たうじ)長時(ながとき)の居(を)つたのは中塔(ちうたう)と云(い)ふ処(ところ)であつたのが事実(じじつ)である即(すなは)ち小笠原氏(をがさはらし)が初(はじ)めて深志(ふかし)
の城(しろ)を得(え)たのは長時(ながとき)の子(こ)貞慶(さだよし)の時(とき)であつて天正(てんせう)十年の事である其時(そのとき)貞慶(さだよし)は深志(ふかし)の名(な)を改(あらた)めて松本(まつもと)と
なしたと云ふ事が伝(つた)へられてある元来(がんらい)此(この)貞慶(さだよし)と云ふ人(ひと)は長時(ながとき)の三 男(なん)であるが此人(このひと)が一 時(じ)父(ちゝ)の後(あと)を起(おこ)し
たのである然(しか)るに最後(さいご)には復(ふたゝ)び逆境(ぎやくけう)であつたが其子(そのこ)の秀政(ひでまさ)は後(のち)に徳川家康(とくがはいえやす)に従(したが)つて戦功(せんこう)が多(おほ)かつたの
で慶長(けいてう)十八年十月 旧領(きうれう)松本(まつもと)を得(う)るに至(いた)つたのであるが惜(おし)い事には元和(げんわ)元年(がんねん)五月七日 大坂(おほさか)の役(えき)天王寺(てんわうじ)に
於(おい)て遂(つひ)に戦死(せんし)を遂(と)げたのである而(しか)して此人(このひと)の妻(つま)は兼(かね)て御承知(ごせうち)の岡崎(をかざき)三 郎信康(らうのぶやす)の女(ぢよ)で家康(いへやす)から云ふと孫(まご)
であつたが秀政(ひでまさ)には男子(だんし)が何人(なんにん)もあつて嫡男(ちやくなん)の忠(たゞ)脩は矢張(やはり)大坂陣(おほさかぢん)に於(おい)て父(ちゝ)と共(とも)に打死(うちしに)した然(しか)るに二 男(なん)
の忠真(たゞさね)は其時(そのとき)重傷(ぢうせう)を蒙(かうむ)つたが幸(さいはひ)に命(めい)を全(まつた)ふしたので此人(このひと)が父(ちゝ)の後(あと)を相続(さうぞく)したのである併(しか)し忠(たゞ)脩の子(こ)長(なが)
次(つぐ)も亦(ま)た後(のち)に至(いた)つて諸侯(しよこう)の列(れつ)に加(くは)へられて一 家(か)をなしたのであるが此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)となつた忠知(たゞとも)は前(まへ)に
も申述(もうしの)べた如(ごと)く即(すなは)ち此(この)秀政(ひでまさ)の三 男(なん)であるから秀政(ひでまさ)の系統(けいとう)に於(おい)て小笠原家(をがさはらけ)には諸侯(しよこう)に列(れつ)したものが三 軒(げん)
出来(でき)た次第(しだい)である今日(こんにち)から云ふと忠真(たゞさね)の後(のち)は維新(ゐしん)当時(たうじ)の小倉侯(をぐらこう)で今(いま)の伯爵家(はくしやくけ)であるが其他(そのた)は共(とも)に子爵(ししやく)
家(け)である而(しか)して吉田侯(よしだこう)の後(あと)はと云へば維新当時(ゐしんたうじ)の唐津侯(からつこう)で今(いま)海軍大佐(かいぐんたいさ)であられる小笠原長生氏(をがさはらちようせいし)である
尚(な)ほ此(この)小笠原家(をがさはらけ)で出来(でき)たもので笠系大成(りうけいたいせい)と云ふ書物(しよもつ)があつて頗(すこぶ)る大部(たいぶ)であるが中々(なか〳〵)詳(くは)しく能(よ)く同家(どうけ)の
【欄外】
豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百卅五
【欄外】
豊橋市史談 (久世出雲守) 二百卅六
【本文】
事を調(しら)べたものである此事(このこと)は茲(こゝ)に付言(ふげん)して置(お)きたいと思(おも)ふ
⦿久世出雲守
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く小笠原家(をがさはらけ)は壱岐守忠知(いきのかみたゞとも)以来(いらい)長矩(ながのり)、 長祐(ながすけ)、 長重(ながしげ)と四 代(だい)相継(あひつ)いで此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)と成(な)つ
て居(を)つたが長重(ながしげ)の時(とき)に至(いた)り元禄(げんろく)十年四月十九日 京都所司代(けうとしよしだい)から老中(らうちう)に昇任(せうにん)せられ領地(れうち)壱万石を加増(かぞう)せ
られて同時(どうじ)に武蔵国(むさしのくに)岩槻城(いはつきじよう)に国替(くにがへ)を命(めい)ぜられたのである而(しか)して其後(そののち)に此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)として封(ほう)ぜられた
《割書:久世重之吉|田に封せら|る》 のが久世出雲守重之(くぜいづものかみしげゆき)であるが此(この)人(ひと)は元禄(げんろく)十年六月十日に丹波国(たんばのくに)亀山(かめやま)から此処(こゝ)に移(うつ)さるゝ事となつたの
久世広宣 で五万石を領(れう)したのである元来(がんらい)此(この)久世家(くぜけ)は太政大臣(だぜうだいじん)道博(みちひろ)の後裔(こうゑい)であると伝(つた)へられて居(を)るが重之(しげゆき)の祖父(そふ)
広宣(ひろのぶ)と云ふ人(ひと)は徳川氏(とくがはし)の家人(かじん)で初(はじ)め大須賀康高(おほすがやすたか)に属(ぞく)し後(のち)屡々(しば〴〵)戦功(せんこう)があつたので家康(いへやす)は之(これ)に上総国(かづさのくに)望陀(ぼうだご)
久世広之 郡(ほり)で三百石の采地(さいち)を与(あた)へたのである然(しか)るに其後(そののち)も度々(たび〳〵)加封(かほう)せられて七千石を領(れう)するに至(いた)つたが其(その)三 男(なん)
に広之(ひろゆき)と云ふ人(ひと)があつて此人(このひと)は累進(るいしん)して大和守(やまとのかみ)に叙任(ぢよにん)せられ遂(つひ)に老中(らうちう)にまで昇(のぼ)り下総国(しもふさのくに)関宿(せきじゆく)の城主(じようしゆ)
となつたが重之(しげゆき)は即(すなは)ち此(この)広之(ひろゆき)の三 男(なん)で延宝(えんほう)七年八月六日 父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を襲(つ)ぎ天和(てんわ)三年八月廿一日 備中国(びちうのくに)広(ひろ)
瀬(せ)に移(うつ)され貞享(ていけう)三年正月廿六日 更(さら)に丹波(たんば)の亀山(かめやま)に移封(いほう)せられたが今度(このたび)此(この)吉田(よしだ)に来(く)る事(こと)と相成(あひな)つた次第(しだい)
である然(しか)るに元禄(げんろく)と云ふ年号(ねんごう)は十六年 迄(まで)で其(その)十七年目には宝永(ほうえい)と改(あらた)まつたのであるが重之(しげゆき)は其年(そのとし)十月
《割書:重之復た関|宿に移封せ|らる》 九日 寺社奉行(じしやぶげう)を兼(か)ね其(その)二年九月廿一日 少老(せうらう)の職(しよく)に任(にん)ぜられ其(その)十月晦日 復(ふたゝ)び旧領(きうれう)関宿(せきじゆく)に移封(いほう)せられたの
で結局(けつきよく)此地(このち)在城(ざいじよう)は僅(わづか)に十年に過(す)ぎなかつたのである
サテ重之(しげゆき)は其後(そのご)正徳(せうとく)三年八月三日を以(もつ)て老中(らうちう)の職(しよく)に進(すゝ)み在職(ざいしよく)八年で享保(けうほ)五年六月廿七日 年(とし)六十一を以(もつ)
て卒(そつ)した人であるが此人(このひと)は実(じつ)に忠正(ちうせい)にして剛気(ごうき)のあつたので老中(らうちう)在職(ざいしよく)中(ちう)にも頗(すこぶ)る逸事(いつじ)があるのである
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千七十九号附録 (明治四十五年六月四日発行)
【本文】
モツトモ之(これ)は本市史(ほんしし)には直接(ちよくせつ)関係(かんけい)のない事(こと)であるが兎(と)に角(かく)其(その)老中(らうちう)となつたのは五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の没後(ぼつご)で
家宣(いへのぶ)が六 代将軍(だいせうぐん)となつて間(ま)もない事であるが所謂(いはゆる)正徳(せうとく)の政治(せいぢ)に参与(さんよ)して劃策(くわくさく)した事が少(すくな)くない而(しか)も晩(ばん)
年(ねん)は八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の享保(けうほ)の政事(せいじ)に与(あづか)つて頗(すこぶ)る幕府(ばくふ)に重(おも)きをなしたのである序(ついで)だから此処(こゝ)に一寸(ちよつと)付言(ふげん)し
て置(お)くが今(いま)の子爵(しゝやく)久世広業氏(くぜひろなりし)は即(すなは)ち其(その)後裔(こうゑい)に当(あた)るのである
又(また)此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたい一二の事(こと)があるそれは外(ほか)でもないが此(この)重之(しげゆき)が当地(たうち)在城(ざいじょう)時代(じだい)に前(まへ)にも申述(もうしの)べ
生類御憐み た如(ごと)く五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)治世(ぢせい)の当時(たうじ)で殊(こと)に元禄(げんろく)の頃(ころ)は諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の通(とほ)り例(れい)の生類御憐(せいるいおんあはれ)みで鳥類獣(てうるいじう)
類(るい)を傷害(せうがい)したものは厳刑(げんけい)に処(しよ)せられると云ふ過酷(くわこく)な処罰(しよばつ)の行(おこな)はれた時代(じだい)であつたが元禄(げんろく)十四年三月 足(あ)
助町(すけまち)の市兵衛(いちべゑ)と云ふものが如何(いか)なる原因(げんゐん)であつたか此(この)吉田(よしだ)の札木町(ふだぎまち)で馬(うま)を斬(き)つたと云ふので大騒(おほさわぎ)とな
孝子旌表 り遂(つひ)に此者(このもの)は捕(とら)へられて斬罪(ざんざい)に処(しよ)せられたのである之(これ)は三 州吉田記(しうよしだき)に記(き)する処(ところ)であるだ尚(なほ)一つ同書(どうしよ)に
記(き)する事で宝永(ほうえい)元年(がんねん)孝子旌表(かうしせいへう)の事(こと)がある即(すなは)ち
世古町平作者、家貧而有能孝養親、因賚之麦六俵
と書(か)いてあるが之(これ)が徳川時代(とくがはじだい)になつてから当(たう)吉田(よしだ)に於(おい)て孝子(かうし)の旌表(せいへう)せられたもので明(あきらか)に記録(きろく)に遺(のこ)つ
て居(を)るのでは先(ま)づ最(もつと)も古(ふる)いように思(おも)ふのである
⦿牧野備前守
前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く久世出雲守重之(くぜいづものかみしげゆき)は此地(このち)在城(ざいじよう)僅(わづか)に十ケ年(ねん)許(ばかり)で復(ま)た旧領(きうれう)の下総国(しもふさのくに)関宿(せきじゆく)へ移封(ゐほう)になつ
牧野成春 たのであるが其後(そのゝち)を継(つ)いで此地(このち)に封(ほう)ぜられたのが牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)である此人(このひと)の祖先(そせん)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く先(さ)
きに屡々(しば〳〵)申述(もうしの)べてある牧野新次郎成定(まきのしんじらうなりさだ)であつて即(すなは)ち牛久保(うしくぼ)出身(しゆつしん)であるが成定(なりさだ)の子(こ)は康成(やすなり)で此人(このひと)の事も
【欄外】
豊橋市史談 (牧野備前守) 二百卅七
【欄外】
豊橋市史談 (牧野備前守) 二百卅八
【本文】
矢張(やはり)ズツト前章(ぜんせう)で度々(たび〳〵)御話(おはなし)にしてある訳(わけ)であるから今(いま)再(ふたゝ)び詳(くは)しくは申述(もうしの)べぬのである併(しか)し此(この)康成(やすなり)と云
ふ人(ひと)は徳川氏(とくがはし)の為(ため)には容易(ようい)ならぬ戦功(せんこう)のあつた人で中々(なか〳〵)履歴(りれき)も多(おほ)いのであるが天正(てんせう)十八 年(ねん)家康(いへやす)関東(かんとう)移(ゐ)
封(ほう)の後(のち)は上野国(かうづけのくに)太胡(おほご)弐万石に封(ほう)せられたのである而(しか)して此人(このひと)の室(しつ)は彼(か)の酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)の女(ぢよ)で此(この)康(やす)
長岡牧野家 成(なり)には三 人(にん)の男子(だんし)があつたが長男(てうなん)は忠成(たゞなり)と云(い)つて之(こ)れが家督(かとく)を相続(さうぞく)したが其後(そののち)が即(すなは)ち所謂(いはゆる)長岡(ながをか)の牧野(まきの)
家(け)で維新(ゐしん)前(ぜん)越後(ゑちご)の長岡(ながをか)を領(れう)されたのであるが当主(たうしゆ)は今(いま)貴族院議員(きぞくゐんぎゐん)の子爵(しゝやく)牧野忠篤氏(まきのちうとくし)であるソコで忠成(たゞなり)
の弟(おとゝ)が秀成(ひでなり)其(その)又(また)弟(おとゝ)が儀成(のりなり)であるが此(この)儀成(のりなり)と云ふ人(ひと)は別(べつ)に一 家(か)をなしたので万治(まんぢ)三年三月五日五十五歳
で卒去(そつきよ)された方(かた)であるが美濃守(みののかみ)に任(にん)じ禄(ろく)五千石を食(は)むで居(を)つた然(しか)るに卒去(そつきよ)の後(のち)其(その)遺領(ゐれう)を二 子(し)に分与(ぶんよ)す
牧野成貞 ることになつて長子(てうし)成長(なりなが)に三千石 次子(じし)成貞(なりさだ)に二千と云ふ様(やう)に給(きう)せられたが此(この)成貞(なりさだ)と云ふ人は五 代将軍(だいせうぐん)綱(つな)
吉(よし)がまだ舘林(たてばやし)に居(を)つた頃(ころ)から之(これ)に仕(つか)へ綱吉(つなよし)がイヨ〳〵将軍(せうぐん)と相成(あひな)つてからは段々(だん〳〵)と其(その)引(ひ)き立(た)てを蒙(かうむ)つ
て遂(つひ)に諸侯(しよこう)の列(れつ)に入(い)り下総国(しもふさのくに)関宿城(せきじゆくじよう)七万三千石を領(れう)するに至(いた)つたのであるトコロで此人(このひと)は実子(じつし)がな
笠間牧野家 かつたので家人(かじん)大戸半弥(おほどはんや)の子(こ)式部(しきぶ)と云ふ人(ひと)を養(やしな)つて嗣(し)となしたが之(これ)が即(すなは)ち備前守成春(びぜんのかみなりはる)であつて其(その)子孫(しそん)
は維新当時(ゐしんたうじ)常陸(ひたち)笠間(かさま)の藩主(はんしゆ)で今(いま)の貴族院議員(きぞくゐんぎゐん)子爵(ししやく)牧野貞寧氏(まきのていねいし)である而(しか)して成春(なりはる)は元禄(げんろく)八年十一月 養父(やうふ)
成貞(なりさだ)隠居(ゐんきよ)の後(あと)を受(う)けて相続(さうぞく)し宝永(ほうえい)二年十月 晦日(みそか)久世重之(くぜしげゆき)に代(かは)つて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)となつたのである其時(そのとき)
領地(れうち)を加増(かぞう)せられて八万石を領(れう)したのであるが此人(このひと)は城主(じようしゆ)たること僅(わづか)に一ケ年半(ねんはん)許(ばかり)で同(おな)じ宝永(ほうえい)の四年三
月廿六日 年(とし)廿六で卒去(そつきよ)せられた併(しか)し此(この)僅(わづか)の間(あひだ)であるが我(わが)橋(とよはし)に取(と)つては中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いものを残(のこ)されたの
《割書:吉田の地藉|図》 であるそれは外(ほか)でもないが此人(このひと)が此(この)地(ち)の城主(じようしゆ)となられた翌年(よくねん)此(この)吉田(よしだ)の市中(しちう)を調査(てうさ)して精密(せいみつ)なる地藉図(ちせきづ)
を製(せい)せしめられた事(こと)である今(いま)も幸(さいはひ)に其中(そのなか)の船町(ふなまち)の分(ぶん)と鍛冶町(かぢまち)の分(ぶん)とは当時(たうじ)のものが各(かく)其(その)大字(おほあざ)に保存(ほぞん)
せられて居(を)る之(これ)は今日(こんにち)に於(おい)ても容易(ようい)ならぬ参考品(さんかうひん)であると思(おも)ふ其(その)実物(じつぶつ)は嘗(かつ)て本市(ほんし)の史料展覧会(しれうてんらんくわい)にも出(しゆつ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
品(ぴん)されたから諸君(しよくん)の中(なか)でも既(すで)に能(よ)く御承知(ごせうち)の方(かた)があることと信(しん)ずるのである
⦿牧野大学と其治績
牧野成春 牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)卒去(そつきよ)の後(のち)は其子(そのこ)七 之助成央(のすけなりひで)が相続(さうぞく)して名(な)を大学(だいがく)と改(あらた)め此地(このち)の城主(じようしゆ)となつたのである此(この)
《割書:宝永四年の|大震災》 人(ひと)も後(のち)に備前守(びぜんのかみ)に任(にん)ぜられたのであるが相続(さうぞく)の時(とき)はまだ幼少(ようせう)で僅(わづか)に九 歳(さい)であつた然(しか)るに其年(そのとし)即(すなは)ち宝永(ほうえい)
四年の十月四日に例(れい)の大震災(おほしんさい)が起(おこ)つたのであるが之(これ)が所謂(いはゆる)宝永(ほうえい)の大地震(おほぢしん)である其時(そのとき)諸国(しよこく)の災害(さいがい)は非常(ひぜう)
なもので其月(そのつき)の廿三日からは富士山(ふじさん)が焚(や)けて廿七日に至(いた)るも震動(しんどう)が止(や)まず山腹(さんぷく)新(あらた)に一 峯(ほう)を出(いだ)したので
あるが之(これ)が即(すなは)ち宝永山(ほうえいざん)である此(この)時(とき)の模様(もやう)が一寸(ちよつと)徳川実記(とくがはじつき)の中(なか)にも見(み)えて居(を)るが左(さ)の如(ごと)くである
豆川(づしう)【豆州の誤り】下田港(しもだこう)四日の地震(ぢしん)に高潮(たかしほ)押上(うちあ)げ各所(かくしよ)破損(はそん)の注進(ちうしん)あり甲州(かうしう)見延山(みのぶさん)富士川口(ふじかはこう)崩(くづ)れ遠州(ゑんしう)荒井(あらゐ)の海口(かいこう)も
損(そん)じ其他(そのほか)三 州(しう)城々(しろ〳〵)宿々(しゆく〳〵)此禍(このくわ)にかゝらざるはなし大阪(おほさか)は民屋(みんをく)一万六百 転覆(てんぷく)し生口(せいこう)三千廿人ほど死失(しにう)せ
土佐(とさ)は田圃(でんば)多(おほ)く海(うみ)に入(い)りしと聞(きこ)ゆ
而(しか)して当時(たうじ)に於(おけ)る此(この)吉田(よしだ)の実況(じつけふ)を記録(きろく)したもので宝永(ほうえい)七年四月十二日と日付(ひづけ)のあるのが今(いま)大字(おほあざ)船町(ふなまち)
の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)されて居(を)るが私(わたくし)も幸(さいはひ)に宝永(ほうえい)七年十月に記録(きろく)されたものを蔵(ざう)して居(を)る然(しか)るに此(この)二 者(しや)は孰(いづ)
《割書:吉田の被害|数》 れも大同小異(だいどうせうゐ)で文章(ぶんせう)も殆(ほとん)ど同(どう)一であるがそれに拠(よ)ると当時(たうじ)吉田(よしだ)の戸数(こすう)は一千十一 戸(こ)であつたが此(この)震災(しんさい)
に関(くわん)して全潰家屋(ぜんかいかをく)三百十 戸(こ)半潰(はんかい)二百六十六 戸(こ)で死者(ししや)十一 人(にん)としてある又(ま)た曩(さき)に小笠原長矩(をがさはらながのり)が寄進(きしん)した
城内(じようない)神明社(しんめいしや)の石(いし)の鳥居(とりゐ)も矢張(やはり)其(その)十月四日 未(ひつじ)の刻(こく)の大地震(おほぢしん)に倒潰(たうかい)したのであるが之(これ)は其(その)翌年(よくねん)の六月廿日
成央(なりひで)が家臣(かしん)の奥平(おくだひら)七 郎左衛門(らうざゑもん)に命(めい)じて再建(さいこん)せしめたので其時(そのとき)の棟札(むねふだ)は今(いま)も同社(どうしや)に保存(ほぞん)されて居(を)る兎(と)に
災害の救済 角(かく)此(この)時(とき)の災害(さいがい)は非常(ひぜう)なもので之(これ)が救済策(きうざいさく)として成央(なりひで)は金(かね)を城下(じようか)に貸(か)し下(さ)げ又(ま)た租税(そぜい)を省(はぶ)いたものであ
【欄外】
豊橋市史談 (牧野大学と其事蹟) 二百卅九
【欄外】
豊橋市史談 (牧野大学と其事蹟) 二百四十
【本文】
る私(わたくし)の蔵(ざう)して居(を)る記録(きろく)の中(なか)にも
右地震之節従御城主様惣町中え金千両本陣二軒並旅籠屋三十七軒へ金子千両合弐千両十年賦に拝借
被仰付候
とあるが此事(このこと)は市民(しみん)が深(ふか)く之(これ)を徳(とく)としたものと見(み)へて三 州吉田記(しうよしだき)の中(なか)に左(さ)の如(ごと)き事(こと)が書(か)いてある
宝永五年十二月廿一日為祈城主牧野氏之長久総町者於清州屋会合号大日待作謡音曲等遊舞也是依客
年地震諸民所及困窮趣領主以憐愍有租加賑恤是故有此等之事
之(これ)で見(み)ると市民(しみん)は牧野侯(まきのこう)賑恤(しんしゆつ)の恩沢(おんたく)を感謝(かんしや)する為(ため)に大日待(おゝひまち)をやつて其(その)武運長久(ぶうんてうきう)を祈(いの)つたものと見(み)える
造船の補助 地震(ぢしん)の話(はなし)は先(ま)づ之(これ)で止(と)めるが尚(な)ほ此処(こゝ)に申述(もうしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのは造船補助(ざうせんほじよ)の問題(もんだい)である御承知(ごせうち)の
如(ごと)く徳川幕府(とくがはばくふ)は島原(しまはら)の役(えき)あたりから余程(よほど)外国(ぐわいこく)との交渉(かうせう)は懲(こ)りたもので堅(かた)く鎖国(さこく)の方針(はうしん)を採(と)るに至(いた)つた
のであるから其(その)主義(しゆぎ)の上(うへ)より造船(ざうせん)に就(つい)ては厳(げん)に干渉(かんせう)を加(くは)へて五百石 以上(いぜう)の大船(たいせん)と云(い)ふものは之(これ)を製造(せいざう)
することを許(ゆる)さなかつたものである然(しか)るにダン〳〵と江戸(えど)も開(ひら)けて来(き)て諸国(しよこく)から物産(ぶつさん)の輸入(ゆにふ)を促(うなが)さねば
ならぬ事(こと)となつたのであるが交通(かうつう)の便(べん)が少(すくな)い当時(たうじ)の事であるから之(これ)には実際上(じつさいぜう)困(こま)つたので今度(このたび)綱吉(つなよし)の
時代(じだい)となつて遂(つひ)に造船(ざうせん)の制限(せいげん)を緩(ゆる)めて商船(せうせん)に限(かぎ)つては千 石(ごく)までは製造(せいざう)して差支(さしつかへ)ないことにしたのである
ソコで諸侯(しよこう)は往々(おう〳〵)名(な)を商船(せうせん)にかりて大船(たいせん)を製造(せいざう)せしめ各々(おの〳〵)封内(ほうない)の物産(ぶつさん)を江戸(えど)に輸出(ゆしゆつ)することを計(はか)つたの
であるが成央(なりひで)も亦(ま)た数々(しば〳〵)金(かね)を市民(しみん)の船(ふね)を造(つく)るものに借(か)して之(これ)を奨励(せうれい)したのである従(したがつ)て大字(おほあざ)船町(ふなまち)のもの
では此(この)恩沢(おんたく)に浴(よく)したのがイクラもある此事(このこと)は仝町(どうてう)の記録(きろく)にも明(あきらか)に残(のこ)つて居(を)る事であるが寛延(かんえん)三年に
船町(ふなまち)から時(とき)の城主(じようしゆ)に差出(さしいだ)した記録(きろく)の中(なか)に宝永(ほうえい)五年 即(すなは)ち此(この)成央(なりひで)の時代(じだい)の事(こと)として
江戸廻船作事仕候節ハ従御城主様為御救船壱艘に金百両宛御拝借被仰付一ケ年に弐拾両宛五年之内
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千十九号附録 (明治四十五年六月十八日発行)
【本文】
上納仕来り難有奉存候
と云(い)ふ事(こと)が載(の)つて居(を)る即(すなは)ち此(この)造船奨励(ざうせんせうれい)の方法(はう〳〵)は初(はじ)めて成央(なりひで)の時代(じだい)に起(おこ)つたものであるが爾来(じらい)歴代(れきだい)の藩(はん)
主(しゆ)は皆(みな)此(この)方法(はう〳〵)を襲踏(しうたう)したもので我豊橋市民(わがとよはししみん)は其(その)恵沢(けいたく)を蒙(かうむ)つた事(こと)が少(すくな)くない特(とく)に船町(ふなまち)は唯(ゆう)一の湊(みなと)と相成(あひな)
つて居(を)つたのであるから大小(だいせう)の船舶(せんぱく)は皆(みな)大橋(おほはし)の下(もと)に輻輳(ふくそう)して物貨集散(ぶつくわしうさん)の場所(ばしよ)となり次第(しだい)に賑盛(しんせい)を極(きは)む
るに至(いた)つた事(こと)は今(いま)も残(のこ)つて居(を)る諸種(しよしゆ)の記録類(きろくるい)によつて分明(ぶんめい)なる次第(しだい)である
此(かく)の如(ごと)く成央(なりひで)の時代(じだい)には民政上(みんせいぜう)に関(くわん)して中々(なか〳〵)称(せう)すべき事柄(ことがら)があるが現在(げんざい)我豊橋市内(わがとよはししない)に残(のこ)つて居(を)る下水(げすゐ)
《割書:用下水道の|改修》 道(どう)と云(い)ふものも矢張(やはり)宝永(ほうえい)五年 此(この)成央(なりひで)の時代(じだい)に改修(かいしう)を加(くは)へられたものである元来(がんらい)我豊橋市(わがとよはしし)現在(げんざい)の下水道(げすゐどう)
は頗(すこぶ)る古(ふる)くからあるものでイヅレ酒井忠次(さかゐたゞつぐ)なり池田輝政(いけだてるまさ)なりの各時代(かくじだい)に渉(わた)つて次第(しだい)に計劃(けいくわく)されたもの
であろうと信(しん)ずるが一 方(ぱう)には之(これ)に瓦町(かわらまち)大池(おほいけ)の水(みづ)を引(ひ)いて水田(すいでん)の灌漑(かんがい)に供(けう)する用水(ようすゐ)としたものであつて
ソレが市中(しちう)を幾筋(いくすぢ)も通過(つうくわ)して用水(ようすゐ)と下水(げすゐ)との兼用(けんよう)をなして居(を)ると云(い)ふ事(こと)は頗(すこぶ)る研究(けんきう)されたものと思(おも)ふ
のであるが而(しか)して元禄(げんろく)六年八月 小笠原佐渡守長重(をがさはらさどのかみながしげ)の時(とき)に一 度(たび)其(その)整理(せいり)をして規定(きてい)を設(もう)けたが今度(このたび)成央(なりひで)の
代(だい)に又(ま)た其(その)改修(かいしう)を試(こゝろ)みて一 層(そう)其(その)整頓(せいとん)を図(はか)つたのである幸(さいはひ)に当時(たうじ)の絵図面(ゑづめん)が今(いま)も大字(おほあざ)指笠町(いしかさまち)に保存(ほぞん)せら
れて居(を)るが之(これ)は最(もつと)も珍重(ちうじやう)すべきもので今日(こんにち)の行政上(ぎようせうぜう)にも頗(すこぶ)る参考(さんこう)となるべき地図(ちづ)である又(ま)た之(これ)に対(たい)す
る記録(きろく)も残(のこ)つて居(を)つて大字(おほあざ)鍛冶(かぢ)富田直平氏(とみたなほへいし)の所蔵(しよざう)であつたが当市役所(たうしやくしよ)にも一 部写(ぶうつ)し取(と)らして置(を)いたの
である余(あま)り冗長(ぜうてう)にはなるが目下(もつか)当市(たうし)の下水改良(げすゐかいれう)を急務(きうむ)とする場合(ばあひ)であつて最(もつと)も趣味(しゆみ)のある事(こと)であると
思(おも)ふから之(これ)に関(くわん)する全文(ぜんぶん)を左(さ)に掲(かゝ)ぐることとする
町々水道筋之事
一此町中水払水道之儀者従先規有来候得共猶以末々迄水道に付違論為無之今度改致絵図水道堀幅町
【欄外】
豊橋市史談 (牧野大学と其事蹟) 二百四十一
【欄外】
豊橋市史談 (牧野大学と其事蹟) 二百四十二
【本文】
裏境迄致吟味絵図之表ニ書付置候事
一町中水払之儀者東方者龍拈寺前へ落合末者田へ払申候事
一西之水道者大工町裏ニ而落合末者新銭町伝次郎田へ掃申候得共其田近年者畑にいたし候ニ付大雨
之節者往還筋迄水払かね町々難儀仕候ニ付御奉行様へ御断申上候得者御役人様御出被遊御見分之
上右之畑之内長四拾四間幅壱間通り合壱畝廿四歩内拾歩者羽田村仁兵衛分此御年貢元禄六年酉之
年ゟ永引ニ被遊水道水払之ために被成下事
一年々水道さらへし節者御奉行様へ御断申上候て御組下之衆中御出し被成見分被仰付候人足之儀者
水流に応じ絵図面之町々ゟ出候てさらへ申候事
元禄六年酉八月
町中水道水払之儀先年小笠原佐渡守様御代御願申上絵図之通水払御改被為遊羽田村地之内稗田
え水善落申候処其巳後稗田埋り畑ニ罷成申候付水先指支え町裏水支つかへ迷惑仕候間此度御願申
上牧野大学様御役人須藤文太夫様御見分之上宝永五子年九月羽田村仁兵衛所持之内稗田九拾弐間
同村善右衛門所持之畑之内拾七間両え合百九間巾六尺通り水道ニ被為仰付永々畝歩御引被為下水
道堀立為永々之堀端青木を植置候様被為仰付難有奉存候事依之今度水道絵図書加改置候
宝永五子年九月廿八日
堀 幅 之 覚
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
一西粗壱番町中程通榎ゟ南角迄堀巾三尺五寸
一萱町西裏羽田村地境堀三尺
一同西角ゟ石橋迄三尺五寸堀三尺
一同石橋ゟ御堂裏石橋迄堀巾壱間
一本町角ゟ石橋迄三尺境橋三尺南へ曲り両町境壱番町迄二尺
一同石橋ゟ東堀角迄堀巾三尺五寸
一四町落口ゟ御堂裏門石橋迄堀巾三尺五寸
一本橋両裏近江屋敷ゟ西萱町角迄堀巾三尺《割書:六寸|五寸》
一近江屋敷北神輿休町界堀二尺同町西境堀巾二尺
一近江屋敷裏西指笠町境三尺五寸堀
一指笠町下石橋ゟ御堂裏迄堀巾三尺五寸
一御堂裏通り堀巾四尺歟御堂裏門ゟ口口壱間堀
一指笠町裏出合より垉六町通り出口迄堀巾三尺
一魚町角ゟ垉六町下り町両側堀巾三尺 但喜美寺前迄
一喜美寺前土橋より西裏通畑境西水落石橋迄堀巾四尺
一本町御門口両側堀巾三尺
一魚町石橋ゟ札木町境迄堀巾三尺五寸
一札木町魚町北裏油屋世古迄堀巾二尺五寸
【欄外】
豊橋市史談 (牧野大学と其事蹟) 二百四十三
【欄外】
豊橋市史談 (牧野大学と其事蹟) 二百四十四
【本文】
一油屋世古東者利町界迄堀巾三尺五寸《割書:季少々曲り札木町|利町境堀巾四尺》
一利町西裏出口迄堀巾三尺
一利町両側紺屋町境迄堀巾二尺五寸
一魚町九郎左衛門前石橋ゟ呉服町裏角迄堀巾四尺
一呉服町裏元鍛冶町北裏堀巾西四尺五寸中四尺末三尺五寸
一龍拈寺森西堀巾四尺 但末田迄
一魚町九郎左衛門前石橋ゟ紺屋町境迄堀巾四尺
一元鍛冶町南裏手間町紺屋町裏西角に少し五尺堀巾有夫ゟ世古町迄堀巾三尺
一神宮寺北裏魚町南裏堀巾三尺五寸
一魚町半兵衛裏ゟ吉祥院前迄二尺末三尺五寸
一権現東ゟ天神北裏迄堀巾三尺五寸
一田町代南堀巾 但三尺
一魚町南裏妙立寺境堀巾二尺歟
一垉六町東裏妙立寺西境堀巾尺世古出合迄三尺
一天神北裏三尺五寸《割書:但両方共に下り町| 新銭町》堀出口迄
一油屋世古中程札木町境ゟ権現前之堀迄二尺五寸
一上伝馬町西裏光明寺地境同門前外ゟ西壱番町榎水落迄堀巾二尺五寸歟
一指笠町両裏立町地境観音寺裏魚町境見通し迄堀巾弐尺右之通り垉六町地境堀巾同断
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千九十六号附録 (明治四十五年六月廿五日発行)
【本文】
一垉六町世古口ゟ南屋敷西裏浄円寺境堀巾三尺
〆水道人足之帳《割書:宝永五年|子十月十三日》但拾弐町
一町裏水道年々十月中之内割付之通町々ゟ人足出し浚させ可申候当年御見分之上羽田村地内堀長サ
百九間二尺余堀巾壱間此畝歩三畝拾九歩畑成田此度御引被下候
堀惣間千弐百七拾九間但拾弐町之間裏人足百人つゝ年々差出し浚可申候
人足割付之覚
一上伝馬町《割書:家数四十二軒|堀間百十四間》 但し天王町ゟ南薬師世古迄半間に用る
庄屋屋敷除之 人足九人宰領組頭壱人
一本町《割書:屋敷二十六軒|堀間百弐間》 但し北側加兵衛ゟ但シ西七軒ハ半間用
庄屋屋敷除之 人足八人宰領組頭壱人
一札木町《割書:家数三十軒|堀間百三十八間》 但し南側斗也此内屋敷問屋会所
長十郎除之 人足拾壱人銭十九文取
一呉服町《割書:家数弐軒|堀間十四間》 〆人足拾壱人十文出
一萱 町《割書:家数四十六軒 但シ庄屋屋敷除之|堀間百八十一間》 人足十四人《割書:銭廿五文出|宰領壱人》
一指笠町《割書:家数廿八軒 但シ寺方庄屋屋敷除之|堀間百六間》 人足八人《割書:銭廿二文出|宰領壱人》
一神輿休町《割書:家数十二軒 但シ庄屋々敷除之|堀間三十間》 人足弐人銭卅三支出
一魚 町《割書:家数百六軒 但シ右ニ同断|堀間三百五十六間》 人足弐拾八人《割書:銭十七文取|宰領弐人》
一垉六町《割書:家数十四軒 但シ右ニ同断|堀間六十間》 人足五人銭卅壱文取
【欄外】
豊橋市史談 (牧野大学と其事蹟) 二百四十五
【欄外】
豊橋市史談 (牧野大学と其事蹟) 二百四十六
【本文】
一下り町《割書:家数十五軒 但シ右ニ同断|堀間十五間》 人足六人銭十五文
一紺屋町《割書:家数十五軒 但シ右ニ同断|堀間五十七間》 人足四人銭四十一文出
一利 町《割書:家数十八軒 但シ右ニ同断|堀間四十六間》 人足四人銭四十文出
〆人足百人但壱人ニ付百文宛之割
右之通此度相改申向後右之通人足出し浚可申候
水道堀筋破損人足余慶之節者此割合にて可申候
水道に付入用等有之候ハヾ此割合を以用可申候以上
宝永五年子十月十三日 組合町拾弐町庄屋改
此(かく)の如(ごと)く成央(なりひで)の時代(じだい)にはイロ〳〵と治績(ぢせき)の見(み)るべきものがあるが成央(なりひで)は前(まへ)にも御話(おはなし)した如(ごと)くまだ九
歳(さい)の少年(せうねん)で相続(さうぞく)した訳(わけ)であるから其(その)家老(からう)と云(い)ふものに余程(よほど)確(しつか)りした人(ひと)があつて政治(ぢせい)を切(き)り盛(も)りしたも
のと見(み)なければならぬ然(しか)るに当時(たうじ)其(その)衝(せう)に当(あた)つた人(ひと)は誰(たれ)であつたか今(いま)一寸(ちよつと)分(わか)り兼(か)ぬるのである併(しか)し種々(しゆ〳〵)
の資料(しれう)から考(かんが)へて見(み)ると其頃(そのころ)の家老(からう)には藤江竹右衛門(ふぢえたけうゑもん)、 樋口市左衛門(ひぐちいちざゑもん)、 牧野斉(まきのひとし)などゝ云(い)ふ人(ひと)があつた
ので之等(これら)の人(ひと)の中(なか)に然(しか)るべき人材(じんざい)があつて其(その)任(にん)に当(あた)つたものと思(おも)はれるかくて宝永(ほうえい)六年正月には将軍(せうぐん)
綱吉(つなよし)の薨去(こうきよ)があつて六 代目(だいめ)の家宣(いへのぶ)は之(これ)に襲(つい)で征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜられたのであるが宝永(ほうえい)は其(その)八 年目(ねんめ)に正(せう)
徳(とく)と改(あらた)まり其(その)二年の七月十二日を以(もつ)て成央(なりひで)は日向国(ひふがのくに)延岡城(のべをかじよう)に移封(いほう)になつたのである此(この)時(とき)成央(なりひで)は十四 歳(さい)
で父子(ふし)通(つう)じて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)たりし事は僅(わづか)に八年(ねん)に過(す)ぎなかつたのであるが此(この)牧野氏(まきのし)に代(かは)つて此(この)吉田城(よしだじよう)
松平信祝 に来(きた)つたのが即(すなは)ち松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)で今(いま)の大河内子爵家(おゝかうちしゝやくけ)の祖先(そせん)である従(したがつ)て之(これ)から此(この)大河内家(おゝかうちけ)の事に就(つい)
て段々(だん〳〵)と申述(もうしの)ぶる事に仕(し)たいと思(おも)ふのであるが尚(なほ)茲(こゝ)に一つ土肥二三(どひにざう)の事に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)きた
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
いと思(おも)ふ
⦿土肥ニ三
土肥二三 土肥二三(どひにざう)と云(い)ふ人(ひと)は茶道(ちやどう)の仲間(なかま)に於(おい)ては有名(いうめい)なものであるが其(その)伝記(でんき)の確実(かくじつ)で詳密(せうみつ)なものがドウも得(う)る
事の出来(でき)ぬのは誠(まこと)に遺憾(ゐかん)である併(しか)し此人(このひと)は前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた牧野氏(まきのし)家臣(かしん)で牧野氏(まきのし)が此(この)吉田在城中(よしだざいじようちう)は矢(や)
張(はり)従(したがつ)て此地(このち)に住(ぢう)したのであるが当時(たうじ)其(その)一 子(し)を失(うしな)ひて隠逃(ゐんとう)の志(こゝろざし)を生(せう)じ遂(つひ)に致仕(ちし)して薙髪(ちはつ)し京都(けうと)の岡(をか)
崎(ざき)に隠居(ゐんきよ)したのは事実(じゞつ)である而(しか)して其(その)大要(たいえう)は先(ま)づ伴嵩渓(ばんすうけい)の近世畸人伝(きんせいきじんでん)にあるのが最(もつと)も人(ひと)は知(し)られて居(を)
ることと思(おも)ふからこれを左(さ)に抄録(しようろく)する
(近世畸人伝) 二三は俗称(ぞくせう)土肥孫兵衛(どひまごべゑ)といふ《割書:茶人花押籔に土岐|といへるは誤也》三 州吉田府(しうよしだふ)牧野侯(まきのこう)に仕(つか)へ禄(ろく)二百石を食(は)
む一 子(し)を失(うしな)ひて忽(たちまち)隠心(ゐんしん)を生(せう)しつかへを辞して頭(つもり)おろしける時(とき)とく聞(きゝ)つけて文(ふみ)おこせたる人々(ひと〳〵)
あり其(その)かへりことを人よりおほせて出(いだ)するに今(いま)まての名(な)は似(に)つかはしからず法師(はふし)の名(な)は何(なん)とかい
ふにいなまだ名(な)はなし二とも三ともかけかしといふにやかて二三と書(かき)たればこれよき名(な)なりと
てそれにしたるなり後(のち)都(みやこ)の岡崎(をかざき)に住(すん)て自在軒(じざいけん)といふ纔(わづか)に膝(ひざ)を容(いる)る斗(ばかり)也(なり)
火宅(くわたく)ともしらで火宅(くわたく)にふらめくは
直に自在(じざい)の鑵子(かんし)也(なり)けり
是(これ)より軒(けん)の名(な)によひける茶(ちや)は織田(をだ)の風(ふう)を学(まな)ひまた香(かう)をこのむ平家(へいけ)をかたり琵琶(びは)はしかも上手(ぜうづ)な
りしとそ常(つね)におとろく斗(ばかり)の美服(びふく)を着(き)たりしがある時(とき)古下駄(ふるげた)を縄(なわ)につなきてもたるをいかにとと
へはかりし人(ひと)にかへすなりといひしこともあり物(もの)ことに心(こゝろ)をとゝめず往来(あうらい)する所(ところ)さだめなしふとこ
【欄外】
豊橋市史談 (土 肥 二 三) 二百四十七
【欄外】
豊橋市史談 (土 肥 二 三) 二百四十八
【本文】
ろに金弐ひらをたくはへて其(その)包紙(つゝみがみ)にいつこにてもたふれなん所(ところ)にて體(からだ)をかくし給(たま)はれ是(これ)は其(その)費(ひ)
に充(あて)るなりと書付(かきつけ)しは伯偏(はくへん)が鋤(すき)を荷(にな)はせたるよりもかやすきわさなりされどすくよかなる人(ひと)に
て齢(よはひ)九十に近(ちか)づきて足駄(あしだ)はきて黒谷(くろだに)の茶店(ちやみせ)へ物喰(ものくひ)にゆくこと日(ひ)に三たひ三十 文銭(もんせん)一 日(にち)を過(すご)すに
足(た)るといはれしとなん始(はじめ)に火(ひ)けし壺(つぼ)といふものに米(こめ)をたくはへぬるよしそれも物(もの)うく成(なり)けんか
し杜鵑(とけん)と銘(めい)ある琵琶(びは)一 面(めん)平家(へいけ)二 巻(かん)を三 河(かは)の士(し)山田氏(やまだし)にあたへて今(いま)なほ其家(そのいへ)に蔵(ざう)せりとなん
之(こ)れで大要(たいえう)其(その)人物(じんぶつ)は分(わか)ることと思(おも)ふか此人(このひと)が吉田(よしだ)に居(を)つた当時(たうじ)は牧野氏(まきのし)の頭役物(ものがしらやく)で今(いま)の西(にし)八 町(てう)で悟眞寺(ごしんじ)
の前(まへ)に当(あた)る南側(みなみがは)の角屋敷(かどやしき)が即(すなは)ち其(その)住居(ぢうきよ)であつたと云(い)ふ事(こと)である元来(がんらい)琵琶(びは)の名人(めいじん)であつたが其(その)邸内(ていない)に林(りん)
泉(せん)を構(かま)へ妙音(みようおん)天(てん)を勧請(かんせい)して一の塚(つか)を作(つく)り之(これ)を琵琶塚(びはづか)と名(な)づけたと云ふ事で先年(せんねん)まで其(その)遺跡(ゐせき)は存(ぞん)して居(を)
つたのである又(ま)た此(この)二三がイヨ〳〵吉田(よしだ)を去(さ)つて隠逃(ゐんとう)する時(とき)に其(その)愛器(あいき)にして吐鵑(とけん)と銘(めい)のある琵琶(びは)を此(この)
地(ち)の山田氏(やまだし)に贈(おく)つたと云ふことが畸人伝(きじんでん)にもあるが此(この)山田氏(やまだし)と云ふのは此地(このち)の本陣(ほんぢん)であつた江戸屋(えどや)と称(せう)
した家(いへ)であるが今(いま)其(その)琵琶(びは)はドウなつて居(を)るか家(いへ)も絶(た)えた様(やう)な形(かたち)になつて居(を)るから分(わか)らぬのである又(ま)た
今(いま)の小野道平君(おのどうへいくん)の家(いへ)は余程(よほど)の旧家(きうか)であるが既(すで)に此頃(このころ)は此地(このち)に於(おい)て盛(さかん)にやつて居(を)られたもので当時(たうじ)の主(しゆ)
人(じん)久兵衛(きうべゑ)と云(い)はれた人(ひと)は此(この)二三とは親友(しんいう)のあつたもので二三が京都(けうと)の岡崎(をかざき)に隠居(ゐんきよ)してから寄越(よこ)した書(しよ)
翰(かん)は今(いま)も同家(どうけ)に保存(ほぞん)されて居(を)る其他(そのた)此(この)二三の自画賛(じくわさん)の像(ぜう)と云ふのが畸人伝(きじんでん)にも載(の)つて居(を)るが其(その)実物(じつぶつ)が
大字(おほあざ)曲尺手(かねんて)の加藤彌太郎氏(かとうやたらうし)に蔵(ざう)せられて居(を)る併(しか)し此(この)両者(れうしや)に殆(ほとん)ど同(どう)一 筆法(ひつぱふ)ではあるが余程(よほど)相違(さうゐ)の点(てん)があ
る処(ところ)から見(み)ると此(この)自画賛(じくわさん)はイクラも書(か)いたものと見(み)える而(しか)して其(その)像(ぜう)と云ふものは誠(まこと)の一 筆書(ふでが)きで坊主(ぼうづ)
の後(うし)ろ向(む)きを簡略(かんりやく)に画(ゑが)いたものに過(す)ぎぬが其(その)筆力(ひつりよく)と云ひ画風(ぐわふう)と云ひ又又(ま)た賛(さん)と云ひ誠(まこと)に脱俗(だつぞく)の処(ところ)が見(み)え
て面白(おもしろ)く感(かん)せられるのである其(その)賛(さん)と云ふのは歌(うた)であつて左(さ)の如(ごと)くである
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百号附録 (明治四十五年七月二日発行)
【本文】
山風のたゝく夕部は聴すたゝ
おとなき月にあくる柴の戸
⦿大河内氏と其祖先
前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)く牧野氏(まきのし)に代(かは)りて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)に封(ほう)ぜられたのは松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)であるが此(この)松平伊(まつだひらい)
《割書:大河内氏と|吉田》 豆守(づのかみ)の家(いへ)は即(すなは)ち今(いま)の大河内子爵(おゝかうちしゝやく)の家(いへ)で此事(このこと)は諸君(しよくん)が既(すで)に御承知(ごせうち)であると思(おも)ふ而(しか)も此家(このいへ)は我(わが)豊橋(とよはし)に於(おい)て
最(もつと)も長(なが)き間(あひだ)城主(じようしゆ)であられたのであるから其(その)治世時代(ぢせいじだい)に於(お)ける事柄(ことがら)は随分(ずゐぶん)研究(けんきう)すべき資料(しれう)として今(いま)も
尚(な)ほ残(のこ)つて居(を)るのであるモツトモ此(この)信祝(のぶとき)と云(い)ふ人(ひと)は後(のち)に浜松(はままつ)へ移封(いほう)になつて其後(そのあと)へ暫(しばら)くの間(あひだ)松平(まつだひら)(本
庄)資訓と云ふ人が城主(じようしゆ)となつて来(き)たので此事(このこと)に就(つい)ては後章(こうせう)で詳(くは)しく申述(もうしの)ぶる考(かんがへ)であるが信祝(のぶとき)の子(し)信(のぶ)
復(なほ)と云ふ人が其後(そののち)復(ふたゝ)び本庄氏(もとぜうし)の後(あと)を受(う)けて浜松(はままつ)から此地(このち)に来(きた)りそれからと云ふものは子々孫々(しゝそん〳〵)維新(ゐしん)当(たう)
時迄(じまで)居座(ゐすは)りであつた即(すなは)ち我豊橋市(わがとよはしし)と云ふものは此(この)大河内氏(おゝかうちし)治世時代(ぢせいじだい)の後(あと)を承(う)けて之(これ)に維新後(ゐしんご)の変化(へんくわ)を
蒙(かうむ)つたと云ふのが今日(こんにち)の状態(ぜうたい)あるから今(いま)の豊橋市(とよはしし)を研究(けんきう)する為(ため)には特(とく)に此(この)大河内氏(おゝかうちし)治世時代(ぢせいじだい)の研究(けんきう)
が必要(ひつえう)であるソコで之(これ)から次第(しだい)を追(お)つて諸君(しよくん)と共(とも)に此(この)研究(けんきう)を進(すゝ)めて見(み)たいものであると思(おも)ふ
《割書:大河内氏の|祖先》 トコロで先(ま)づ申述(もをしの)べたいと思(おも)ふのは大河内家(おゝかうちけ)の系統(けいとう)であるが此(この)信祝(のぶとき)と云ふ人は彼(か)の有名(いうめい)なる松平伊豆(まつだひらいづの)
守信綱(かみのぶつな)の四 世(せい)の孫(そん)であつて信綱(のぶつな)の子(こ)は輝綱(てるつな)其子(そのこ)が信輝(のぶてる)而(しか)して其子(そのこ)が此(この)信祝(のぶとき)であるが元来(がんらい)其家(そのいへ)の伝(つた)ふる
処(ところ)に拠(よ)ると此家(このいへ)と云ふものは清和源氏(せいわげんし)であるから言(い)う迄(まで)もなく彼(か)の六 孫王(そんわう)経基(つねもと)の末裔(まつえい)で諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)
の源(げん)一 位(ゐ)頼政(よりまさ)から出(い)でゝ居(を)るのである即(すなは)ち頼政(よりまさ)の二 男(なん)兼綱(かねつな)と云ふ人は治承(ぢせう)四年五月 宇治川(うぢがは)の合戦(かつせん)で父(ちゝ)
大河内顕綱 頼政(よりまさ)と同(おな)じく平氏(へいし)の軍(ぐん)と戦(たゝか)つて遂(つひ)に戦死(せんし)したのであるが其子(そのこ)の顕綱(あきつな)と云ふ人は其時(そのとき)まだ二 歳(さい)の幼児(ようぢ)で
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百四十九
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十
【本文】
あつた然(しか)るに母親(はゝおや)が之(これ)を抱(いだ)いて尾州(びしう)の中島(なかじま)に遁(のが)れ後(のち)三 河(かは)額田郡(ぬかたぐん)の大河内郷(おゝかうちげう)に移(うつ)り匿(かく)れたソコで顕綱(あきつな)成(せい)
大河内郷 長(てう)の後(のち)初(はじ)めて自(みづか)ら大河内源太(おゝかうちげんた)と称(せう)したと云ふ事(こと)になつて居(を)る併(しか)し此(この)大河内郷(おゝかうちげう)と云ふのは旧来(きうらい)余程(よほど)の疑(ぎ)
問(もん)と相成(あひな)つて居(を)るので信祝(のぶとき)自撰(じせん)の大河内家譜(おゝかうちかふ)の中(なか)には三 河国(かはのくに)幡豆郡(はづぐん)西長縄村(にしながなはむら)に大河内(おゝかうち)の家舗跡(やしきあと)と云ふ
のがあるが反(かへ)つて額田郡(ぬかたぐん)に於(おい)ては大河内郷(おゝかうちげう)と云ふのが分明(ぶんめい)でない只(た)だ中根村(なかねむら)大橋村(おほはしむら)の隣郷(りんげう)だと伝(つた)へら
れて居(を)る許(ばかり)で何(な)にも拠(よ)るべきものがないと記(しる)してある而(しか)して顕綱(あきつな)の子(こ)が政顕(まさあき)其子(そのこ)が行重(ゆきしげ)夫(そ)れから宗綱(むねつな)
貞綱(さだつな)、 光将(みつまさ)、 国綱(くにつな)、 眞綱(さねつな)、 信政(のぶまさ)、 信貞(のぶさだ)、秀綱(ひでつな)、 久綱(ひさつな)と相続(さうぞく)して久綱(ひさつな)の子(こ)が即(すなは)ち前(まへ)に申述(もをしの)べた信綱(のぶつな)であ
る併(しか)し此(この)歴代(れきだい)に就(つい)ても種々(しゆ〳〵)な疑問(ぎもん)もあるが信祝(のぶとき)自撰(じせん)の家譜(かふ)には色々(いろ〳〵)と考証(かうせう)を重(かさ)ねた結果(けつくわ)右(みぎ)の如(ごと)くに断(だん)
定(てい)されてあるのである
大河内氏(おゝかうちし)の系統(けいとう)は先(ま)づザツト右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)であるが其(その)初(はじ)めて大河内姓(おゝかうちせい)を名乗(なの)つたと云ふ顕綱(あきつな)と云ふ人は
如何(いか)なる人であつたかと云ふに此人(このひと)は成長(せいてう)の後(のち)足利義氏(あしかゞよしうぢ)に属(ぞく)して其(その)被官(ひくわん)となつたのである最も此(この)足利(あしかゞ)
義氏(よしうじ)と云ふのは御承知(ごせうち)でもあろうが足利氏(あしかゞし)の祖(そ)義康(よしやす)の孫(そん)で父(ちゝ)は義兼(よしかね)であるが後(のち)に源頼朝(みなもとよりとも)の女婿(ぢよせい)とな
吉良荘 つたので名族(めいぞく)の上(うへ)に頗(すこぶ)る関東(くわんとう)に於(おい)ては勢威(せいゐ)のあつたものであるが之(これ)が三 河国(かはのくに)吉良荘(きらそう)の地頭職(ぢとうしよく)を領(れう)して
居(を)つたのである当時(たうじ)の吉良荘(きらそう)と云ふのは殆(ほとん)ど今日(こんにち)に於(お)ける幡豆郡(はづぐん)一 帯(たい)の地(ち)とも見(み)るべきものであるが
吉良長氏 此(この)義氏(よしうぢ)の長子(てうし)長氏(ながうぢ)と云ふ人は病身(びようしん)であつたので父(ちゝ)の家督(かとく)は其(その)弟(おとゝ)の泰氏(やすうぢ)に譲(ゆづ)つて自身(じしん)は遂(つひ)に此(この)吉良荘(きらそう)に
隠居(ゐんきよ)し西條(さいじよう)に住(ぢう)したのである西條(さいじよう)は即(すなは)ち今日(こんにち)の西尾町(にしをまち)附近(ふきん)であるが之(これ)が抑(そもそ)も吉良氏(きらし)の起(おこ)りである従て
此(この)大河内氏(おゝかうちし)は之(これ)より歴代(れきだい)吉良家(きらけ)の被官(ひくわん)として之(これ)に属(ぞく)したのであるが顕綱(あきつな)は寛喜(かんき)二年十月二十日 年(とし)五十
二で病没(びようぼつ)したのであるから丁度(ちようど)此年(このとし)は長氏(ながうぢ)十九 歳(さい)の時(とき)である併(しか)し之(これ)が既(すで)に長氏(ながうぢ)三 河(かは)居住(きよぢう)の後(のち)なるや否(いなや)
大河内政顕 は今(いま)少(すこ)しく分(かは)り兼(か)ぬるのであるが顕綱(あきつな)の子(こ)政顕(まさあき)は此(この)長氏(ながうぢ)に属(ぞく)して幡豆郡(はづぐん)の内(うち)、 寺津(てらつ)、 江原(えはら)両郷(れうげう)を領地(れうち)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
したのである此人(このひと)は木工之助(かくみのすけ)と称(せう)し弘安(こうあん)九年八十六 歳(さい)で卒去(そつきよ)して法名(はふめい)を円通(ゑんつう)と号(ごう)したが其(その)弟(おとゝ)に貞顕(さだあき)と
《割書:長縄の大河|内氏》 云ふのがあつて左衛門尉(さゑもんぜう)と称(せう)した之(これ)は所謂(いはゆる)長縄(ながなは)の大河内氏(おゝかうちし)の祖(そ)であるが此(この)大河内氏(おゝかうち)の一 族(ぞく)と云ふものは
《割書:秋池窪田杉|臥蝶の大河|内氏》 其後(そののち)段々(だん〴〵)と此(この)地方(ちはう)に繁延(はんえん)したもので其他(そのた)にも秋池(あきいけ)の大河内(おゝかうち)、 窪田(くぼた)の大河内(おゝかうち)、 杉(すぎ)の大河内(おゝかうち)、 臥蝶(ふせちよう)の大河(おゝかう)
《割書:桃井の大河|内氏》 内(ち)など種々(しゆ〳〵)に分岐(ぶんき)したものである又(ま)た右(みぎ)の外(ほか)にまだ桃井(もゝゐ)の大河内(おゝかうち)と云ふのがあるが此(この)系統(けいとう)は旧来(きうらい)少(すこ)し
く疑問(ぎもん)で其先(そのさき)は矢張(やはり)源氏(げんじ)には相違(さうゐ)ないが果(はた)して兼綱(かねつな)の血統(けつとう)なるや否(いなや)は明瞭(めいれう)せぬようである兎(と)に角(かく)此(この)桃(もゝ)
井系(ゐけい)は彼(か)の波合記(なみあいき)で能(よ)く人に知(し)られては居(を)るが其(その)波合記(なみあひき)と云ふ記録(きろく)が既(すで)に疑問(ぎもん)のものであるから到底(たうてい)
当(あ)てにはならぬのでる併(しか)し此(この)桃井系(もゝゐけい)には中々(なか〳〵)有名(いうめい)な人物(じんぶつ)を出(いだ)して居(を)る彼(か)の清康(きよやす)最後(さいご)の妻(つま)であつて家(いへ)
《割書:大河内元網|華陽院夫人》 康(やす)から言(い)ふと祖母(そぼ)に当(あた)る処(ところ)の華陽院(かようゐん)と云ふのは此(この)桃井(もゝゐ)大河内元網(おゝかうちもとつな)の養女(やうぢよ)であるが此人(このひと)は初(はじ)め水野忠政(みづのたゞまさ)
の妻(つま)となつて一 女(ぢよ)を生(う)み離別後(りべつご)清康(きよやす)に嫁(か)したのである而(しか)も其(その)一 女(ぢよ)と云ふのが後(のち)に清康(きよやす)の先妻(せんさい)青木氏(あおきし)の
出(しゆつ)である処(ところ)の広忠(ひろたゞ)の妻(つま)となつて其(その)間(あひだ)に家康(いへやす)を生(う)むだのであるが此(この)女(ぢよ)が之迄(これまで)も度々(たび〳〵)申述(もをしの)べてある彼(か)の伝(でん)
通院(つうゐん)である而(しか)して此(この)華陽院(かようゐん)は清康(きよやす)に再嫁(さいか)してからも又(ま)た一 女子(ぢよし)を挙(あ)げたが私(わたくし)は此(この)女子(ぢよし)が即(すなは)ち後(のち)に酒井(さかゐ)
忠次(たゞつぐ)に嫁(か)した光樹夫人(くわうじゆふじん)であると信(しん)ずるのである果(はた)して然(しか)りとすればズツト初(はじ)めに申述(もをしの)べてある当市(たうし)吉(よし)
屋(や)龍拈寺(りうねんじ)に蔵(ざう)せる忠次夫人(たゞつぐふじん)の寄付(きふ)にかゝる其(その)母堂(ぼどう)の肖像(せうざう)と云ふのは全(まつた)く此(この)華陽院(かようゐん)の画像(ぐわぜう)であると信(しん)じ
て疑(うたが)はぬのであるが其(その)容貌(ようばう)と云ひ又(ま)た岡崎(をかざき)隨念寺(ずゐねんじ)にある清康(きよやす)の像(ぜう)との対照(たいせう)から考(かんが)へても之(これ)は蓋(けだ)し誤(あやま)ら
大河内政局 ざる鑑定(かんてい)であると確信(かくしん)して居(を)るのである又(ま)た此(この)元網(もとつな)の孫(そん)に大河内源(おゝかうちげん)三 郎(らう)政局と云ふのがあつたが此人(このひと)
の伝記(でんき)に就(つい)ても亦(ま)た実(じつ)に伝(つた)ふべきものがあるのでソレは天正(てんせう)二年 武田勝頼(たけだかつより)が遠江(とほとふみ)の高天神城(たかてんじんじよう)を攻(せ)めた
時(とき)家康(いへやす)の守将(しゆせう)小笠原與(をがさはらよ)八 郎長忠(らうながたゞ)は遂(つひ)に力(ちから)及(およ)ばずして勝頼(かつより)に下(くだ)つたのであるが独(ひと)り其(その)軍監(ぐんかん)たりし此(こ)の大(おゝ)
河内(かうち)政局は降(こう)を肯(がえん)ぜなかつたソコで勝頼(かつより)は怒(いか)つて之(これ)を城後(じようご)の石牢中(いしろうちう)に幽閉(ゆうへい)したが政局は遂(つひ)に最後(さいご)まで
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十一
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十二
【本文】
節(せつ)を変(へん)ぜなかつた然(しか)るにヨウ〳〵八 年目(ねんめ)で再(ふたゝ)び高天神城(たかてんじんのしろ)が家康(いへやす)の手(て)に復(ふく)するに至(いた)つて初(はじ)めて牢(ろう)から出(で)
る事が出来(でき)たが長々(なが〳〵)の幽閉(ゆうへい)で腰(こし)が抜(ぬ)けて立(た)つ事が出来(でき)なかつたとの事(こと)である此(この)義心(ぎしん)に就(つい)ては家康(いへやす)は勿(もち)
論(ろん)敵(てき)も味方(みかた)も感(かん)ぜざるものはなかつたと云(い)ふ事(こと)であるサテ話(はなし)は大層(たいそう)横道(よこみち)に入(い)つたが復(ま)た初(はじ)めに戻(もど)ること
として此(この)大河内家(おゝかうちけ)の系統(けいとう)と云ふ者は政顕(まさあき)から行重(ゆきしげ)、 宗綱(むねつな)、 貞綱(さだつな)、 光将(みつまさ)、 光綱(みつゝな)と相継(あひつ)いだ事は前(まへ)に申(もをし)
大河内光綱 述(の)べた如(ごと)くであるが此(この)光綱(みつつな)の時代(じだい)に至(いた)つては室町幕府(むろまちばくふ)も既(すで)に衰運(すいうん)に皈(き)して天下(てんか)は殆(ほとん)ど乱(みだ)れむとしたが
大河内信政 此人(このひと)は文明(ぶんめい)元年(がんねん)七月十八日 幡豆郡(はづぐん)山王山(さんわうざん)の戦(たゝかひ)で戦死(せんし)したのである而(しか)して其子(そのこ)が眞綱(さねつな)又(また)其子(そのこ)が信政(のぶまさ)であ
るが此(この)信政(のぶまさ)と云ふ人(ひと)は初(はじ)め五郎三郎 後(のち)に大蔵少輔(おゝくらせうゆう)と称(せう)し一に信綱(のぶつな)とも名乗(なの)つたものと信(しん)ぜられる而(しか)し
て此人(このひと)の事(こと)からは稍々(やゝ)分(わか)るように思(おも)はれるのであるが其(その)遺蹟(ゐせき)も尚(な)ほ幡豆郡(はづぐん)の寺津(てらづ)に残(のこ)つて居(を)るのであ
義光院 る第(だい)一に同村(どうそん)の義光院(ぎくわうゐん)と云ふ寺(てら)は永正(えいせう)十年の草創(さう〳〵)で最初(さいしよ)信定(のぶさだ)の建立(こんりう)したものであるが同寺内(どうじない)に其(その)墓(はか)も
残(のこ)つて居(ゐ)て表面(ひようめん)に大河内大蔵少輔義光院殿正儀大禅門(おゝかうちおゝくらせうゆうぎくわうゐんでんせいぎだいぜんもん)と刻(こく)してあるモツトモ之(これ)は至(いた)つて小(ち)さなもので
何時頃(いつごろ)に建(た)てたものか余(あま)り古(ふる)いものとは思(おも)はれぬ又(ま)た同寺(どうじ)の鐘(かね)にも銘(めい)があつて其(その)草創(さう〳〵)の略歴(りやくれき)が記(しる)して
ある之(こ)れ亦(ま)た後世(こうせい)のもので文政(ぶんせい)二年 再鋳(さいちう)の節(せつ)に鋳込(いこ)むだものではあるが之等(これら)は孰(いづ)れも多大(ただい)の参考(さんこう)とな
るものである其他(そのた)同村(どうそん)の八 幡社(まんしや)にも同(おな)じ永正(えいせう)十年 卯月(うづき)十二日に信政(のぶまさ)が納(おさ)めた棟札(むねふだ)がある之(これ)にも矢張(やはり)名(な)
乗(のり)は信綱(のぶつな)と記(しる)してある而(しか)して義光院(ぎくわうゐん)の過去帳(くわこてう)によると此人は永正(えいせう)十七年八月二十二日 逝去(せいきよ)とあるので
ある
大河内貞綱 又(ま)た其頃(そのころ)大河内氏(おゝかうちし)の一 属(ぞく)に大河内備中守貞綱(おゝかうちびちうのかみさだつな)と云ふ人があつたが此人(このひと)の系統(けいとう)は甚(はなは)だ明(あきら)かでない併(しか)し臥(ふせ)
蝶(ちよう)の大河内氏(おゝかうちし)の流(りう)であると云ふのが確実(かくじつ)であると思(おも)ふ即(すなは)ち前(まへ)に申述(もをしの)べて置(お)いた長縄(ながなは)の大河内貞顕(おゝかうちさだあき)の二
男(なん)に三 郎左衛門尉貞康(らうさゑもんぜうさだやす)と云ふ人があつたが此(この)貞綱(さだつな)は実(じつ)に其(その)末裔(まつゑい)であつて大河内家譜(おゝかうちかふ)に欠綱(かけつな)とあるのは
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百八号附録 (明治四十五年七月二日発行)
【本文】
確(たしか)に此人(このひと)の事(こと)であると信(しん)ずる而(しか)して永正中(えいせうちう)尾張(をわり)の斯波義遠(しばよしとう)が丁度(てうど)遠江(とほとふみ)の守護(しゆご)であつたが吉良氏(きらし)は此(この)貞(さだ)
綱(つな)をして遠江(とほとふみ)浜名荘(はまなそう)に籠(こも)らしめて義遠(よしとう)と相応(あひおう)じ以(もつ)て当時(とうじ)漸(やうや)く爪芽(さうが)を西(にし)に伸(のば)さむとしつゝある今川氏親(いまがはうぢちか)
の兵(へい)と相戦(あひたゝか)つたのである其頃(そのころ)今川方(いまがはかた)では朝比奈備中守(あさひなびつちうのかみ)泰凞と云(い)ふ人(ひと)が駿河(するが)の宇津山(うつやま)の城(しろ)に居(を)つて永正(えいせう)
九 年(ねん)五月 貞綱(さだつな)等(ら)と相戦(あひたゝか)つたが貞綱(さだつな)は遂(つひ)に之(これ)が為(ため)に敗(やぶ)られたのである然(しか)るに其後(そのご)十 年(ねん)に至(いた)つて貞綱(さだつな)は
再(ふたゝ)び兵(へい)を集(あつ)めて天龍川(てんりうがは)近傍(きんばう)を攻略(こうりやく)し勢(いきほひ)頗(すこぶ)る猖獗(せうけつ)であつたので其頃(そのころ)泰凞は早(は)や病没(びやうぼつ)し其子(そのこ)泰能(やすよし)がまだ
幼少(ようせう)である処(ところ)から叔父(おぢ)の泰以が専(もつぱ)ら軍国(ぐんこく)の事(こと)を決(けつ)して居(を)つたが永正(えいせう)十二 年(ねん)今度(このたび)は氏親(うぢちか)自(みづか)ら兵(へい)を率(ひき)ゐて
攻(せ)め来(きた)つたので其(その)八月十九日 貞綱(さだつな)は復(ま)た又(ま)た敗(やぶ)られて其(その)弟(おとゝ)巨海新左衛門貞政(こみしんざゑもんさだまさ)と共(とも)に打死(うちじに)をして仕舞(しま)つ
たのである此(この)時(とき)独(ひと)り義遠(よしとう)は今川方(いまがはかた)に降参(こうさん)したが氏親(うぢちか)は之(これ)を剃髪(ていはつ)せしめて名(な)を安心(あんしん)と改(あらた)め尾張(をわり)に送還(そうかん)し
たのである此話(このはなし)は一寸(ちよつと)著(いちじる)しきものであるから茲(こゝ)に其(その)大要(たいえう)を申述(まうしの)べて置(お)く次第(しだい)であるが尚(なほ)其外(そのほか)に今(いま)一
《割書:大河内善兵|衛政綱》 つ御話(おはなし)して置(お)きたいのは其頃(そのころ)長縄(ながなは)の大河内(おほかうち)一 統(とう)にも大河内善兵衛政綱(おほかうちぜんべゑまさつな)と云(い)ふ勇士(ゆうし)があつた事(こと)である此(この)
人(ひと)は前(まへ)にも申述(まうしの)べた大河内左衛門尉貞顕(おほかうちさゑもんのぜうさだあき)十四 世(せい)の孫(そん)で父(ちゝ)を基孝(もとたか)(一に基高(もとたか))と云(い)つたが此(この)基孝(もとたか)と云(い)ふ人
大河内基孝 は永正(えいせう)十二年の生(うま)れで先(さき)に申述(まうしの)べた幡豆郡(はづぐん)の西長縄村(にしながなはむら)に住(ぢう)し慶長(けいちやう)十七 年(ねん)十二月五日 年(とし)九十八で卒(そつ)した
のである而(しか)して晩年(ばんねん)には剃髪(ていはつ)して出雲守入道古顕(いづものかみにうどうこげん)と号(ごう)したが初(はじ)めは矢張(やはり)吉良義昭(きらよしあき)に属(ぞく)し刈屋(かりや)、 上野(うへの)、
東條(とうぜう)などの戦(たゝかひ)に与(あづか)つて頗(すこぶ)る戦功(せんこう)があつたが最後(さいご)には家康(いへやす)に属(ぞく)するに至(いた)つたのであるソコで此(この)政綱(まさつな)も亦(ま)
た初(はじ)めは吉良義昭(きらよしあき)に属(ぞく)し永禄(えいろく)四年 並(ならび)に其(その)七年に家康(いへやす)が東條(とうぜう)を攻(せ)めた時(とき)には政綱(まさつな)は吉良勢(きらぜい)の中(なか)にあつて
力戦(りきせん)した事(こと)は頗(すこぶ)る有名(ゆうめい)な話(はなし)であるモツトモ永禄(えいろく)四年の時(とき)には政綱(まさつな)年(とし)僅(わづか)に十六 歳(さい)であつたと記(しる)してある
ものが多(おほ)いが政綱(まさつな)は寛永(かんえい)四 年(ねん)二月廿三日八十三 歳(さい)で卒去(そつきよ)した人(ひと)であるからそれから推(お)すと永禄(えいろく)四年に
は十七 歳(さい)であつた訳(わけ)である其後(そのご)義昭(よしあき)が遂(つひ)に降(こう)を請(こう)つて国(くに)を去(さ)るに及(およ)むで政綱(まさつな)は徳川家(とくがはけ)に質(しち)となつたの
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十三
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十四
【本文】
であるがそのまゝ遂(つひ)に徳川氏(とくがはし)に任(つか)へて家康(いへやす)の信任(しんにん)を得(う)るに至(いた)つたのである爾来(じらい)は各戦役毎(かくせんえきごと)に徳川氏(とくがはし)の
為(ため)に功労(こうろう)のあつた人(ひと)で其(その)伝記(でんき)を述(の)ぶれば長(なが)くもなるが直接(ちよくせつ)本史談(ほんしだん)に関係(かんけい)も少(すくな)いから今(いま)は大要(たいえう)のみを申(まうし)
述(の)ぶるに止(とゞ)むる事(こと)とする
大河内信貞 サテ話(はなし)は復(ふたゝ)び前(まへ)に戻(もど)つて大河内信政(おほかうちのぶまさ)の後(あと)を継(つ)いだのは其子(そのこ)の信貞(のぶさだ)であるが信政(のぶまさ)は初(はじ)め孫太郎(まごたろう)と称(せう)し寺(てら)
金剛院 津(つ)の金剛院(こんがうゐん)と云(い)ふ寺(てら)は即(すなは)ち天文(てんぶん)二年に此(この)信貞(のぶさだ)が大河内氏(おほかうちし)の菩提寺(ぼだいじ)として創立(そうりつ)したもので今(いま)も存在(ぞんざい)して
居(を)るが此(この)信貞(のぶさだ)の墓(はか)も其(その)境内(けいだい)にあるのである而(しか)して此人(このひと)逝去(せいきよ)の時(とき)は永禄(えいろく)元年(がんねん)九月八日であるが其子(そのこ)が即
ち彼(か)の大河内金兵衛秀綱(おほかうちきんべいひでつな)である
大河内秀綱 秀綱(ひでつな)も亦(ま)た幼名(ようめい)を孫太郎(まごたろう)と称(せう)し天文(てんぶん)十五 年(ねん)の生(うまれ)である之は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く頗(すこぶ)る有名(ゆうめい)なる人(ひと)で今(いま)の
臥 蝶 城 寺津城址(てらつじようし)は此(この)秀綱(ひでつな)が居(を)つた処(ところ)であると伝(つた)へられてあるが元来(がんらい)此寺津の城(しろ)は臥蝶城(ふせてふぜう)と呼(よ)ばれたので先(さき)に
申述(まうしの)べた貞綱(さだつな)の如きも諸記録(しよきろく)に臥蝶地頭(ふせてふぢとう)をして散見(さんけん)さるゝ処(ところ)である従(したがつ)て大河内氏(おほかうちし)の一 族(ぞく)と云(い)ふものは
旧来(きうらい)寺津附近(てらつふきん)を中心(ちうしん)として構(かま)へて居(を)つたものである事は確(たしか)であるが併(しか)し現存(げんぞん)して居る城址(じようし)が果(はた)して秀(ひで)
綱(つな)以前(いぜん)よりのものなるや否(いなや)はドウモ分(わか)り兼(か)ぬる処(ところ)である而(しか)して此秀綱は頗(すこぶ)る智勇(ちゆう)のあつた人(ひと)であるが
大河内家譜(おほかうちかふ)によると吉良(きら)の家士(かし)と争論(そうろん)の事があつて家士(かし)十三 人(にん)が相党(あひとう)して秀綱(ひでつな)を襲(う)つたが秀綱(ひでつな)は単騎(たんき)
薙刀(なぎなた)を揮(ふる)つて悉(こと〴〵)く此(この)十三 人(にん)を殪(たほ)し遂(つひ)に吉良家(きらけ)を脱(だつ)して伊奈備前守忠政(いなびぜんのかみたゞまさ)に寄(よ)つたのが因縁(ゐんねん)となつて家康(いへやす)
《割書:秀綱家康に|任へ遠江国》 の為(ため)に召(め)し抱(かゝ)へられ遠江国(とほとふみくに)稗原(ひえばら)に領地(れうち)を賜(たまは)つたと記(しる)してある然(しか)るに此事(このこと)に就(つい)て色々(いろ〳〵)な異説(いせつ)がある野(や)
《割書:稗原の地を|領す》 史(し)には稗原(ひえばら)の地(ち)を賜(たまは)つたのは父(ちゝ)の信貞(のぶさだ)で秀綱(ひでつな)は終始(しうし)吉良義昭(きらよしあき)に属(ぞく)して義昭(よしあき)の出奔(しゆつほん)に至(いた)るまで義節(ぎせつ)を守(まも)
り沈淪(ちんりん)四十四年 晩年(ばんねん)に及(およ)むで窮蹙(きうしゆく)して伊奈忠政(いなたゞまさ)に寄(よ)つたのであると記(しる)してあるが之はドウモ不条理(ふぜうり)な
説(せつ)であると思(おも)ふ家康(いへやす)が遠江(とほとふみ)を取(と)つたのは御承知(ごせうち)の如く永禄(えいろく)十二年の事で無論(むろん)信貞(のぶさだ)逝去(せいきよ)以後(いご)であるから
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
家康(いへやす)が遠江(とほとふみ)の稗原(ひえばら)を信貞(のぶさだ)に与(あた)へたと云(い)ふのは受取(うけと)れぬ説(せつ)である又た吉良義昭(きらよしあき)が一 向専修(かうせんしう)の乱(らん)に与(く)みし
て再(ふたゝ)び家康(いへやす)に反(そむ)き遂(つひ)に戦敗(いくさやぶ)れて近江国(あふみのくに)に出奔(しゆつぽん)したのは永禄(えいろく)七年の事であるから秀綱(ひでつな)は此時(このとき)年(とし)僅(わづか)に十九
歳(さい)である仮令(たとひ)其後(そのご)吉良(きら)の残党(ざんとう)が残(のこ)つて居(を)つて徳川氏(とくがはし)に服従(ふくぢう)しなかつたとしても沈淪(ちんりん)四十四年は少(すこ)しく
受取(うけと)れぬ処(ところ)である併(しか)し初(はじ)め一 向専修(かうせんしう)の乱(らん)が起(おこ)つて義昭(よしあき)が之に与(くみ)せんとした時には秀綱(ひでつな)は政綱(まさつな)と共に其
不可(ふか)を主張(しゆてう)して義昭(よしあき)を諌(いさ)めたのみならず永禄(えいろく)七年二月に家康(いへやす)が松井忠次(まつゐたゞつぐ)をして東條(とうぜう)を攻(せ)めしめた時(とき)に
は秀綱(ひでつな)、 政綱(まさつな)は共(とも)に吉良勢(きらぜい)にあつて奮戦(ふんせん)して居る処(ところ)から推(お)すと秀綱の忠政(たゞまさ)に寄(よ)つたのは無論(むろん)其後(そのご)の事
で種々(しゆ〴〵)なる材料(ざいれう)から推断(すゐだん)するとドウモ元亀(げんき)の末年(まつねん)か天正(てんせう)の初年(しよねん)の事と思(おも)はれる而(しか)して家康(いへやす)から稗原の
地を貰(むら)つたのは言(い)ふ迄(まで)もなく此(この)秀綱(ひでつな)であると信(しん)ずるのであるソコで此(この)稗原(ひえばら)と云(い)ふ処(ところ)であるが旧来(きうらい)ドウ
モ判然(はんぜん)たる記録(きろく)がないのである併(しか)し今(いま)遠江(とほとふみ)磐田郡(いはたぐん)の袖浦村(そでうらむら)の中(うち)に稗原(ひえばら)と云ふ大字(おほあざ)が残(のこ)つて居るが私は
此附近(このふきん)の地(ち)である事を信(しん)ずるものである
《割書:秀綱参遠両|国租税の事|を司る》 サテ此(この)秀綱(ひでつな)と云(い)ふ人は一 方(ぱう)に智勇(ちゆう)であつたのみならず頗(すこぶ)る吏才(りさい)にも長(てう)じて居(を)つたものと見(み)えて家康(いへやす)に
仕(つか)へてからは参遠両国(さんえんれうこく)租税(そぜい)の事を司(つかさど)つて居たが勿論(もちろん)之は専務(せんむ)ではなかつた晩年(ばんねん)には江戸神田(えどかんだ)の鷹(たか)
匠町(せうてう)(《割書:今の小川町|なりと伝ふ》)に邸宅(ていたく)を賜(たまは)つて之に居つたが隠居後(ゐんきよご)は剃髪(ていはつ)して休心(きうしん)と称(せう)した元和(げんわ)四 年(ねん)九月十三日 年(とし)七
平 林 寺 十三で卒去(そつきよ)し武蔵国岩槻(むさしのくにいはつき)の平林寺(へいりんじ)に葬(ほうむ)つたのであるモツトモ此(この)寺(てら)は其後(そのご)同国(どうこく)の野火留(のびどめ)に移(うつ)されたので
今(いま)も尚(な)ほ墓(はか)は其処(そこ)に残(のこ)つて居(を)るが寺津(てらつ)の金剛院(こんごうゐん)にも亦(ま)た信貞(のぶさだ)の墓(はか)と相並(あひなら)むで墓標(ぼへう)が立(た)てられてあるの
である
大河内久綱 秀綱(ひでつな)には男子(だんし)が四 人(にん)あつたが長男(てうなん)が久綱(ひさつな)で二 男(なん)が正綱である而(しか)して久綱(ひさつな)は父(ちゝ)秀綱(ひでつな)の後(あと)を襲(つ)いで矢張(やはり)大
大河内正綱 河内金兵衛と名乗(なの)つたが幼名(ようめい)も亦(ま)た父祖(ふそ)と同じく孫太郎(まごたろう)であつた元亀(げんき)元年(がんねん)十二月十五日三 河(かは)に於(おい)て生(うま)
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十五
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十六
【本文】
れ後(のち)に家康(いへやす)に仕(つか)へて租税(そぜい)の事を掌(つかさど)つたのである然(しか)るに正綱(まさつな)の方(はう)は天正(てんせう)四年六月十二日 遠江国(とほとふみのくに)長江村(ながえむら)に
《割書:正綱長沢松|平氏を継ぐ》 於(おい)て生(うま)れたのであるが十七 歳(さい)の時より家康(いへやす)の側近(そばちか)くに召仕(めしつかは)れたので其命(そのめい)によつて松平甚右衛門(まつだひらじんゑもんの)尉 正次(まさつぐ)
の後(あと)を継(つ)いだのである此(この)甚右衛門(じんえもん)尉と云(い)ふのは即(すなは)ち長沢(ながさは)の松平氏(まつだひらし)で其先(そのさき)は嘗(かつ)て申述(まうしの)べた如く松平和泉(まつだひらいづみの)
守信光(かみのぶみつ)から出(い)でて居(を)るのであるから所謂(いはゆる)徳川家の連枝(れんし)である従(したがつ)て当時は中々(なか〳〵)喧(かまひ)しい家筋(いへすぢ)であつた特(とく)に
《割書:正綱吏務に|長ず》 此正綱には頗(すこぶ)る伝(つた)ふべき事が多(おほ)いのであるが此人(このひと)は最(もつと)も吏務(りむ)に長(てう)じて居つた人で家康(いへやす)がまだ僅(わづか)に関東
八州を領(れう)して居(を)つた頃(ころ)から遂(つひ)に天下(てんか)を平定(へいてい)するに至つた後(のち)までも徳川氏(とくがはし)の財政(ざいせい)一 切(さい)と云ふものは其一
人(にん)の手(て)によつて処理(しより)せられたのである而(しか)も一時の淹滞(あんたい)することがなく常(つね)に軍国多端(ぐんこくたたん)の間(あひだ)にあつて能(よ)く経(けい)
済(ざい)を支(さゝ)え遂(と)げたのであるから其(その)功績(こうせき)と云ふものは実(じつ)に偉大(いだい)であつて徳川氏(とくがはし)に於ける蕭何(せうか)とは実(げ)に此人
の謂であろうと思(おも)ふ晩年(ばんねん)には伊丹播磨守康勝(いたみはりまのかみやすかつ)が之に加(くわ)はつたが其内(そのうち)に正綱(まさつな)も老(を)いて隠居(ゐんきよ)するに至(いた)つた
ので寛永(かんえい)十九年三月三日 初(はじ)めて勘定頭(かんぜうがしら)と云(い)ふ役(やく)を置(お)いて前(まへ)の播磨守(はりまのかみ)と酒井紀伊守忠吉(さかゐきいのかみただよし)、 杉浦内蔵允正綱(すぎうらくらのすけまさ)
友(とも)三 人(にん)をして其事に当(あた)らしむるに至(いた)つたが実(じつ)は之迄(これまで)長(なが)い間(あひだ)正綱(まさつな)一人で処理(しより)して居つた仕事(しごと)である右(みぎ)の
如き訳(わけ)であるから徳川氏(とくがはし)初期(しよき)の財政(ざいせい)と云ふものは先(ま)づ悉(こと〴〵)く此人の計画(けいくわく)せるものと見(み)てよいのであるが
《割書:正綱の日光|殖林》 其中にも特(とく)に伝(つた)へたいと思(おも)ふのは此人の殖林事業(しよくりんじげふ)である
此人の殖林事業(しよくりんじげふ)の中でも最(もつと)も有名(ゆうめい)なのは箱根山(はこねやま)と日光山(につこうざん)とに杉(すぎ)を植(う)へ付(つ)けた事であるが特(とく)に日光山(につこうざん)の
殖林(しよくりん)は大に研究(けんきう)するの価値(かち)あるものと思ふ御承知(ごせうち)の通(とお)り徳川家康(とくがはいへやす)が薨去(こうきよ)されたのは元和(げんな)二年の四月十
七日であるが幕府(ばくふ)ではイヨ〳〵其(その)廟所(びやうしよ)を下野国(しもつけのくに)日光山に建設(けんせつ)することとなつて早速(さつそく)工事(こうじ)に着手(ちやくしゆ)したが其
成つたのは翌(よく)二 年(ねん)の三月であるソコで諸侯(しよこう)からは金銭(きんせん)に厭(いと)はず競(きそ)つて種々(しゆ〴〵)の物(もの)を寄進(きしん)したが当時(たうじ)正綱(まさつな)
は未(いま)だ僅(わづか)に四千六百七十石 許(ばかり)の小禄(せうろく)であつたので到底(とうてい)諸大名(しよだいめう)と同(おな)じ様(よう)に物品(ぶつぴん)を寄進(きしん)した処(ところ)がタイシた
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百十四号附録 (明治四十五年七月十六日発行)
【本文】
事(こと)も出来(でき)ぬそれよりは日光山(につこうざん)及び其(その)沿道(ゑんどう)に杉苗(すぎなへ)を植(う)へ付(つ)けて之を寄進(きしん)した方(はう)が遥(はる)か後世(こうせい)の為に有益(ゆうえき)で
あると云ふので其(その)殖林(しよくりん)に取(とり)かゝつたのであるが之が実(じつ)に大事業(だいじげふ)であつた実(じつ)はそれを完成(くわんせい)する迄には約
廿余年の歳月(さいげつ)を費(つひや)したのである併(しか)し正綱(まさつな)は其後(そのご)寛永(くわんゑい)二年七月に至(いた)つて秀忠(ひでたゞ)から領地(れうち)の加増(かぞう)を仰付(おほせつけ)られ
て都合(つごう)二万二千百二十 石(こく)となり三 河(かは)、 相模(さがみ)、 武蔵(むさし)三国の内(うち)に領地(れうち)を得(う)るに至(いた)つたので此殖林の財源(ざいげん)に
取つても大(おほい)に便利(’べんり)を得た事であつたろうと思(おも)はれるが兎(と)に角(かく)一 小諸侯(せうしよこう)で此(この)大事業(だいじげふ)を仕遂(しと)げたと云ふ事
は今日(こんにち)から見(み)て何(なん)とも敬服(けいふく)の外(ほか)はないのである今日 其地(そのち)へ行(い)つて見(み)ると先(ま)づ宇都宮市(うつのみやし)から日光山(につこうざん)に到
る道路(どうろ)の両側(れうがは)は勿論(もちろん)日光(につこう)の山中(さんちう)にはイクラと云(い)ふ杉(すぎ)の老大木(ろうたいぼく)が森々(しん〳〵)として生茂(おいしげ)つて居(お)るが若(も)し之を価(か)
格(かく)に積(つも)つたならば幾何(いくばく)であろうか誠(まこと)に計(はか)り難(がた)い程(ほど)で当時(たうじ)金銀財宝(きんぎんざいはう)を寄進(きしん)したものよりも今日(こんにち)に於(おい)ては
ドレ位(ぐらゐ)勝(まさ)つたものであるか分(わか)らない事(こと)であるモツトモ此(この)森林(しんりん)が今日の如く繁殖(はんしよく)するまでには其後(そのご)歴代(れきだい)
の子孫(しそん)が常(つね)に手入(ていれ)や植継(うへつ)ぎを怠(おこた)らなかつた事も容易(ようい)ならぬ仕事(しごと)であつたが実(じつ)にあれ丈(たけ)の林相(りんそう)は容易(ようい)に
他(た)に見(み)られぬ事であると思(おも)ふ此(この)殖林(しよくりん)に関(かん)する碑石(ひせき)は幸(さいはひ)に今(いま)も尚(な)ほ日光山(につこうざん)山菅橋(やますがばし)の側(そば)に残(のこ)つて居るが其
碑(ひ)の全文(ぜんぶん)は左(さ)如(ごと)くである
自下野国日光山山菅橋至同国都賀郡小倉村同国河内郡大沢村同国同郡大桑村暦二十余年植杉於路辺
左右並山中十余里以奉寄進
東 照 宮
慶安元年戊子四月十七日 従五位下 松平右衛門太夫源正綱
又(ま)た右(みぎ)と同時(どうじ)に左(さ)の碑石(ひせき)が鹿沼(かぬま)、 宇都宮(うつのみや)、 奥州(おうしう)の三 街道(かいどう)にも立てられたがそれ等(ら)の碑石(ひせき)が今日も尚(な)ほ
存在(ぞんざい)せるや否(いなや)実見(じつけん)せぬから慥(たしか)には申上(まうしあげ)兼(か)ぬるのである但(たん)し其(その)全文(ぜんぶん)は左(さ)の通(とほり)である
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十七
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十八
【本文】
下野国都賀郡小倉村同国河内郡大沢村同国同郡大桑村自此三所至日光二十余年間植杉於路傍左右並
山中十余里以奉寄進
東 照 宮
慶安元年戊子四月十七日 従五位下 松平右衛門太夫源正綱
トコロで其(その)慶安元年(けいあんがんねん)と云ふ年(とし)は恰(あたか)も正綱(まさつな)が逝去(せいきよ)の年(とし)で正綱(まさつな)は其年(そのとし)の六月二十二日 年(とし)七十三で卒去(そつきよ)せら
れたのである即(すなは)ち此碑(このひ)の建設(けんせつ)は其(その)逝去(せいきよ)前(ぜん)僅(わづか)に二ヶ月 許(ばかり)に当(あた)るのであるが其(その)当時(たうじ)は丁度(てうど)正綱(まさつな)の養子(やうし)信綱(のぶつな)
が三 代将軍(だいせうぐん)家光(いへみつ)に従(したがつ)て日光山(につこうざん)にあつたのである蓋(けだ)し建碑(けんひ)の日付(ひづけ)四月十七日は前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く家康(いへやす)
薨去(こうきよ)の忌日(きにち)であるから三 代将軍(だいせうぐん)は此日 東照廟(とうせうびやう)に参詣(さんけい)の為(ため)信綱(のぶつな)等(ら)を従(したが)へて日光山(につこうざん)にあつたのであるが総(すべ)
て此(この)建碑(けんひ)の事は信綱(のぶつな)が養父(やうふ)正綱(まさつな)の為に斡旋(あつせん)したものであると信(しん)せられるのである又(ま)た植林(しよくりん)の事でもそ
うである正綱(まさつな)が段々(だん〳〵)老年(ろうねん)となつてから信綱(のぶつな)は次第(しだい)に全盛(ぜんせい)の地位(ちゐ)にあつたので信綱(のぶつな)は養父(やうふ)の意志(いし)を継(つ)い
で大(おほい)に其(その)計画(けいくわく)の実行(じつこう)を助(たす)けた事と思(おも)ふ併(しか)し今日(こんにち)世人(せじん)が此植林を以て全(まつた)く信綱(のぶつな)の事業(じげふ)のように伝(つた)へて居
るものがあるが之は却(かへつ)て其(その)真相(しんそう)を誤(あやま)つて居(を)るものと云(い)ふべきである尚(な)ほ正綱(まさつな)に就(つい)て伝(つた)ふべき事は中々(なか〳〵)
多(おほ)く大坂役(おほさかえき)に従軍(じうぐん)して功績(こうせき)のあつた事などは既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の事であると思ふ
松平信綱 サテ正綱(まさつな)には利綱(としつな)、 隆綱(たかつな)(《割書:後に|正信》)、 正光(まさみつ)、 秀綱(ひでつな)(《割書:後に|正朝》)の四 男(なん)があつたが夫等(それら)がまだ生(うまれ)なかつた頃(ころ)に前(まへ)にも
申述(まうしの)べた如(ごと)く兄(あに)久綱(ひさつな)の長子(てうし)信綱(のぶつな)を以(もつ)て養子(やうし)としたのであるモツトモ之には事情(じぜう)があつたので信綱(のぶつな)と云
ふ人は御承知(ごせうち)の如く後(のち)には智恵伊豆(ちゑいづ)とまで云(い)はれた小供(こども)の時分(じぶん)から容易(ようい)ならず怜悧(れいり)であつたが此人(このひと)は慶(けい)
長(てう)元年(がんねん)十月 晦日(みそか)の生(うま)れである大河内家譜(おほかうちかふ)によると其(その)六 歳(さい)の時(とき)正綱(まさつな)の養子(やうし)となり八 歳(さい)の九月 初(はじ)めて将軍(せうぐん)
秀忠(ひでたゞ)に謁(ゑつ)し其十一月 伏見(ふしみ)に於(おい)て家康(いへやす)に謁(ゑつ)したが九 歳(さい)の七月十七日 家光(いへみつ)が生(うま)れたので其(その)二十五日(《割書:或廿|三日》)そ
れに奉仕(ほうし)することになつたと記(しる)してある併(しか)し或説(あるせつ)によると信綱(のぶつな)は小供心(こどもごゝろ)ながら是非共(ぜひとも)将軍(せうぐん)の御側(おそば)に仕(つか)へ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
て出世(しゆつせ)をしたいと望(のぞ)むだが何分(なにぶん)にも大河内(おほかはち)の家(いへ)であつては急(きう)に其(その)望(のぞみ)が達(たつ)し難(がた)いので叔父(おぢ)の正綱(まさつな)は徳川(とくがは)
の連枝(れんし)たる松平(まつだいら)の家(いへ)を襲(つ)いで居(を)るので万事(ばんじ)に都合(つがう)がよい処(ところ)から具(つぶさ)に其(その)心情(しんぜう)を物語(ものがた)つたのであるソコで
正綱(まさつな)は遂(つひ)に其(その)志(こゝろざし)を憫(あはれ)むで巳(おの)れが養子(やうし)とし以(もつ)て将軍(せうぐん)並(ならび)に前将軍(ぜんせうぐん)に謁(えつ)せしめたのであると伝(つたへ)られて居る
信綱の伝記 而(しか)して此(この)信綱(のぶつな)の経歴(けいれき)に就(つい)ては諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如くで申述(まうしの)べ尽(つく)せぬ程(ほど)の材料(ざいれう)があるのであるが幸(さいはひ)近来(きんらい)
大河内子爵家(おほかはちしゝやくけ)に於(おい)て当主(たうしゆ)の正敏君(まさとしぎみ)が其伝記の編纂(へんさん)を企(くわだ)てられて昨年(さくねん)信綱(のぶつな)卒去(そつきよ)の二百五十年に相当(そうとう)する
を機(き)として専門家(せんもんか)を聘(へい)されて目下(もつか)其(その)編纂中(へんさんちう)である従(したがつ)て此人の伝記(でんき)に就(つい)ては遠(とほ)からず完全(かんぜん)なるものが出(で)
来上(きあが)る事と信(しん)じ私(わたし)は満腔(まんくう)の喜(よろこび)を以(もつ)て迎(むか)へて居る次第(しだい)であるから詳伝(せうでん)は夫(それ)に譲(ゆづ)り今(いま)は極(きは)めて其(その)大要(たいえう)を申(まうし)
述(の)ぶるに止(とゞ)めたいと思(おも)ふが先(ま)づ其(その)要点丈(ようてんだけ)をザツト申述(まうしの)ぶると九 歳(さい)の時(とき)初(はじ)めて家光(いへみつ)に仕(つか)へ元和(げんわ)九年 家光(いへみつ)
が将軍(せうぐん)に任(にん)ぜられるに及(およ)むで御小姓組番頭(おこせうくみがしら)に任(にん)じ叙爵(じよしやく)して伊豆守(いづのかみ)となり二千 石(ごく)を領(れう)したが寛永(かんえい)九年十
一月十八日 老中格(ろうちうかく)となり十年五月五日 老中(ろうちう)に任(にん)じ三 万石(まんごく)に加増(かぞう)せられて武州忍(ぶしうおし)の城主(ぜうしゆ)となつたのであ
島 原 役 る十四年 例(れい)の九 州(しう)島原(しまばら)の乱(らん)が起(おこ)るに方(あた)つて追討(ついとう)の目代(さかんだい)として之に向(むか)つたが此話(このはなし)は特(とく)に有名(ゆうめい)なるもので
ある此時(このとき)戸田左門氏鉄(とださもんうじてつ)(《割書:戸田一|正の子》)も共(とも)に追討(ついとう)に向(むか)つたのであるが信綱(のぶつな)の率(ひき)ゐた兵(へい)は約(やく)千三百 人(にん)与力(よりき)同心(どうしん)二
百 余人(よにん)で勘定組頭(かんぜうくみかしら)能勢(のせ)四 郎右衛門(ろえもん)、 勘定(かんぜう)山中喜兵衛(やまなかきへえ)の両人(れうにん)は粮米(ろうまい)の事を司(つかさど)り其(その)出発(しゆつぱつ)は十二月の三日で
あつたが現在(げんざい)残(のこ)つて居(を)る処(ところ)の豊橋藩士(とよはしはんし)の家(うち)に就(つい)て云ふても其(その)祖先(そせん)は概(おほむ)ね之に従軍(じうぐん)したもので其時の分(ぶん)
捕品(どりひん)で刀釼(とうけん)、 銃(ぢう)、並びに油画(あぶらえ)など実(げ)に珍重(ちんぢう)すべきものが今(いま)も各家(かくか)に保存(ほぞん)されて居(を)るのである其(その)中(なか)には歴(れき)
史上(しぜう)から見(み)ても中々(なか〳〵)大切(たいせつ)のものがあるので嘗(かつ)て史料展覧会(しれうてんらんかい)に出品(しゆつぴん)せられたのも少(すく)なくないのであるが
追(おつ)て之等(これら)は一々(いち〳〵)写真(しやしん)とし又は模写(もしや)して別(べつ)に一 冊子(さつし)を編纂(へんさん)する考(かんがへ)である
サテ島原役(しまばらゑき)は翌年(よくねん)の二月に終(をわ)つて信綱(のぶつな)は遂(つひ)に賊城(ぞくぜう)を陥(おとしい)れ賊(ぞく)三万七千人を斬(き)り平(たいら)げたのである其四月 皈(き)
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百五十九
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百六十
【本文】
府(ぷ)し十五年には老中(ろうちう)の上座(ぜうざ)となり十六年 正月(せうがつ)六 万石(まんごく)に加増(かぞう)になつて武州(ぶしう)河越城(かはごゑぜう)に移封(いほう)せられたのであ
る二十年九月 侍従(じじう)に進(すゝ)むだが正保(せうほ)四年 更(さら)に一 万石(まんごく)を加増(かぞう)せられたのである而(しか)して慶安(けいあん)四年 家光(いへみつ)薨去(こうきよ)の
後(のち)は更(さら)に其(その)遺托(ゐたく)によつて将軍(せうぐん)家綱(いへつな)を補佐(ほさ)し益々(ます〳〵)天下(てんか)の重(おも)きをなしたのであるが寛文(かんぶん)二年三月十七日年
六十七を以(もつ)て卒去(そつきよ)したのである而(しか)して信綱(のぶつな)が在職中(ざいしよくちう)には例(れい)の由井正雪(ゆゐせうせつ)の事件(じけん)もあり玉川上水(たばがはぜうすゐ)の新設(しんせつ)や
ら江戸大火(えどたいくわ)の後始末(あとしまつ)などがあり特(とく)に徳川氏(とくがはし)が天下(てんか)を取(と)つてから初(はじ)めて其(その)基礎(きそ)の定(さだ)まる大切(たいせつ)の時期(じき)であ
つたから種々(しゆ〳〵)の出来事(できごと)も多(おほ)かつたが三 代将軍(だいせうぐん)の初(はじ)めにはまだ土井利勝(どゐとしかつ)が老中(ろうちう)の中(なか)に居(を)つて重(おも)きをなし
家光(いへみつ)薨去(こうきよ)の後(のち)四 代(だい)の家綱(いへつな)となつては彼(か)の保科正之(ほしなまさゆき)が補佐(ほさ)の任(にん)に当(あた)つた併(しか)し当時(たうじ)は此(この)信綱(のぶつな)が酒井正勝(さかゐまさかつ)、
阿部忠秋(あべたゝあき)等(ら)と共(とも)に多(おほ)くは事の衝(しよう)に当(あた)つたので其(その)中(なか)でも信綱(のぶつな)の明敏(めいびん)にして果断(くわだん)であつた事は世(よ)既(すで)に定評(ていへう)
があるのである併(しか)し世(よ)に有名(ゆうめい)なる殉死(じゆんし)の禁(きん)並(ならび)に諸侯(しよこう)から幕府(ばくふ)に出(いだ)してあつた証人(せうにん)を還付(かんぷ)した事及び京(けう)
都(と)の大仏(だいぶつ)を鎔(よう)して銭(ぜに)を鋳(い)た事などは孰(いづ)れも信綱(のぶつな)卒去(そつきよ)後(ご)に実行(じつこう)せられた事であるがそれが果(はた)して信綱(のぶつな)の
生前(せいぜん)に計劃(けいくわく)して置(お)いたものであるや否(いなや)其実(そのじつ)は疑問(ぎもん)となつて居(を)るのであるが一 般(ぱん)には之れをも皆(みな)信綱(のぶつな)の
なせる処(ところ)と伝(つた)へて居(を)るのである
信綱の事歴(じれき)並に其(その)性行(せいこう)等(とう)を述(の)べ尽(つく)さむには別(べつ)に一 冊子(さつし)となすも尚(な)ほ余(あま)る位(くらゐ)である事は前(まへ)にも申述(まうしの)べた
如くであるが茲(こゝ)に今(いま)一つ参考の為に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)きたいのは大河内子爵家(おほかはちしゝやくけ)には信綱(のぶつな)が島原役(しまばらえき)へ着用(ちやくよう)
して出掛(でか)けた鎧(よろい)を初(はじ)め諸種(しよしゆ)の遺物(ゐぶつ)が沢山(たくさん)に保存(ほぞん)されてある事である又(ま)た同家(どうけ)の家扶(かふ)小畠延衛氏(こはたけのぶゑし)の祖先(そせん)
助右衛門(すけゑもん)と云(い)はれた人(ひと)は親(した)しく信綱に仕(つか)へたのであるが信綱が常(つね)に幕府(ばくふ)の殿中(でんちう)にあつて用事(ようじ)があると
其事を葉紙(はがみ)を記(しる)して渡(わた)したものが数(すう)十 葉(よう)之れ亦た同家(どうけ)に保存(ほぞん)されて居(を)る事である其中には実(じつ)に信綱の
性格(せいかく)を眼前(がんぜん)に見(み)るが如き心地(こゝち)のするものが少(すくな)くない一々 之(これ)を茲(こゝ)に御紹介(ごしようかい)する暇(いとま)もないから申上(まうしあげ)ぬが之(これ)
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百二十号附録 (明治四十五年七月廿三日発行)
【本文】
等(ら)のものは孰(いづ)れも大切(たいせつ)なる史料(しれう)であつて信綱(のぶつな)研究(けんきう)の為(ため)には諸君(しよくん)にも是非(ぜひ)御(ご)一 覧(らん)を願(ねが)ひたいものである
と思(おも)ふ
サテ信綱(のぶつな)が養子(やうし)となつた後(のち)元和(げんわ)六年十二月に至(いた)つて正綱(まさつな)には実子(じつし)利綱(としつな)が生(うま)れたのである元来(がんらい)信綱(のぶつな)は初(はじ)
《割書:信綱別に一|家を立つ》 め名(な)を正永(まさなが)と云(い)つたのであるが此(こゝ)に至(いた)つて名(な)を信綱(のぶつな)と改(あらた)め自立(じりつ)の志(こゝろざし)を明(あきらか)にしたのであるソコで愈(いよ)
愈(いよ)慶安(けいあん)元年(がんねん)七月 正綱(まさつな)卒去(そつきよ)に当(あた)つて信綱(のぶつな)は自(みづか)ら請(こ)ふて正綱(まさつな)の遺領(ゐれう)を受(う)けず之(これ)を正綱(まさつな)の二 男(なん)隆綱(たかつな)及(およ)び四 男(なん)
《割書:大多喜の大|河内氏》 の季綱(すゑつな)に分与(ぶんよ)したのであるが(《割書:正綱の長男利綱及び三男|正光は此時既に逝去せり》) 此(この)隆綱(たかつな)が即(すなは)ち正綱(まさつな)の後(あと)を襲(つ)いだので其(その)子孫(しそん)は維新前(ゐしんぜん)
常陸(ひたち)大多喜(おほたき)の城主(じようしゆ)で維新後(ゐしんご)之(これ)も亦(ま)た大河内姓(おほかうちせい)に復(ふく)し今現(いまげん)に子爵(ししやく)であられるが実(じつ)は之(これ)が正敏君(まさとしくん)の御実家(ごじつか)
で此家(このいへ)の今(いま)の御主人(ごしゆじん)正倫君(せいりんくん)は即(すなは)ち正敏君(まさとしくん)の御実弟(ごじつてい)であるのである而(しか)して話(はなし)は又(ま)た初(はじ)めに戻(もど)つて信綱(のぶつな)は此(この)
時(とき)松平(まつだひら)の姓(せい)は隆綱(たかつな)に継(つ)がしむるのであるから巳(おの)れは大河内姓(おほかうちせい)に復(ふく)したいと云(い)ふ事(こと)を申出(もうしい)でたが将軍(せうぐん)の
特旨(とくし)によつて矢張(やはり)引続(ひきつゞ)いで松平氏(まつだひらし)を称(せう)することになつたのである此(かく)の訳(わけ)であるから今(いま)の大河内氏(おほかうちし)では此(この)
信綱(のぶつな)を以(もつ)て第(だい)一 世(せい)の祖(そ)となして居(を)るのであるが信綱(のぶつな)には輝綱(てるつな)、 吉綱(よしつな)、 信定(のぶさだ)、 信興(のぶおき)、 堅綱(かたつな)の五 男(なん)があつ
たのである而(しか)して輝綱(てるつな)が其後(そのあと)を継(つ)いだのであるが信興(のぶおき)も亦(ま)た累進(るいしん)して三万二千石に至(いた)つてた人(ひと)であるが
《割書:高崎の大河|内氏》 其(その)子孫(しそん)も亦(ま)た段々(だん〴〵)と加増(かぞう)を蒙(かうむ)つたので其家(そのいへ)が即(すなは)ち維新前(ゐしんぜん)上州高崎(ぜいしうたかさき)の城主(じようしゆ)であつて矢張(やはり)今(いま)は大河内姓(おほかうちせい)を
名乗(なの)つて子爵(ししやく)であられるのである
大河内輝綱 サテ信綱(のぶつな)の跡(あと)相続(さうぞく)をした長子(てうし)の輝綱(てるつな)と云ふ人は又(ま)た中々(なか〳〵)の人物(じんぶつ)であつた此人(このひと)は元和(げんわ)六年八月五日の生(うまれ)
輝綱の人物 で寛永(かんえい)十二年十二月廿八日 年(とし)十六 歳(さい)で従(じゆ)五 位下(ゐげ)甲斐守(かいのかみ)に叙任(ぢよにん)せられたのであるが其(その)翌々年(よく〳〵ねん)即(すなは)ち寛永(かんえい)十
四年の十二月には彼(か)の島原追討(しまばらついとう)の役(えき)に父(ちゝ)信綱(のぶつな)に随行(ずいかう)したのである然(しか)るに此人(このひと)は其(その)性格(せいかく)に於て父(ちゝ)信綱(のぶつな)と
は頗(すこぶ)る異(ことな)る処(ところ)があつたので其後(そのご)父(ちゝ)の如く表立(おもてだ)つた役目(やくめ)に就(つ)いて天下(てんか)の政治(せいじ)に参与(さんよ)すると云ふが如(ごと)きこと
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百六十一
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百六十二
【本文】
はなさなかつた従(したがつ)て余(あま)り汎(ひろ)く世(よ)に知(し)らるゝには至(いた)らなかつたが能(よ)く〳〵其(その)事歴(じれき)を調査(てうさ)して見(み)ると頗(すこぶ)る
剛毅(ごうき)の性質(せいしつ)で最(もつと)も勤勉(きんべん)の人であつた事が分(わか)る而(しか)して其(その)一 生(せい)を全(まつた)く軍法(ぐんほう)と兵器(へいき)の研究(けんきう)とに捧(さゝ)げたのであ
る其(その)材料(ざいれう)は今(いま)も沢山(たくさん)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る事であるが之等(これら)の材料(ざいれう)は歴史上(れきしぜう)には勿論(もちろん)学術上(がくじゆつぜう)に取(と)つても
稗益(ひえき)する事が決(けつ)して少(すくな)くない特(とく)に輝綱(てるつな)は年少(ねんせう)の頃(ころ)前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く島原役(しまばらえき)に従(したがつ)て実戦(じつせん)を目撃(もくげき)して居(を)ら
るゝから其(その)研究(けんきう)が頗(すこぶ)る適切(てきせつ)である今(いま)一二の例(れい)を挙(あ)げて御話(おはなし)すれば大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るものゝ内(うち)に此(この)
輝綱(てるつな)が弾丸(だんがん)の力(ちから)を試(こゝろ)みた鎧(よろひ)がある即(すなは)ち鉄製(てつせい)の胴(どう)へ鉄砲(てつぽう)を打(う)つて其(その)丸(たま)がドレ位(くらゐ)鉄胴(てつどう)へコタへるものか実(じつ)
験(けん)をしたものである島原(しまばら)の役(えき)では無論(むろん)盛(さかん)に鉄砲(てつぽう)は行(おこな)はれたものであるが其内(そのうち)でも敵(てき)の方(はう)は外国(ぐわいこく)との交(かう)
通(つう)に就(つい)て便利(べんり)の位置(ゐち)にあつたものであるから却(かへつ)て味方(みかた)のよりは鋭利(えいり)のものがあつた事と思(おも)ふ輝綱(てるつな)は此(こ)
処(こ)らの経験(けいけん)から鉄砲(てつぽう)の事に就(つい)ては余程(よほど)の研究(けんきう)を重(かさ)ねたものであると思(おも)ふが大河内家(おほかうちけ)御当主(ごたうしゆ)の正敏君(まさとしくん)は
諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く東京帝国大学(とうけうていこくだいがく)出身(しゆつしん)の俊才(しゆんさい)で工学士(こうがくし)であられるが矢張(やはり)造兵専門(ざうへいせんもん)で目下(もくか)大学教授(だいがくけふじゆ)であ
られる此頃(このころ)も私(わたくし)は正敏君(まさとしくん)を大学(だいがく)の教室(けふしつ)に御訪問(ごほうもん)申上(もうしあ)げて色々(いろ〳〵)其(その)実験(じつけん)の様子(やうす)を拝見(はいけん)したのであるが矢張(やはり)
松(まつ)の木(き)の一 寸板(すんいた)で作(つく)つた箱(はこ)の中(なか)へ砂(すな)を一ぱいにツメて之(これ)へ鉄砲(てつぽう)を打込(うちこ)むでは試験(しけん)をして居(を)られる古今(ここん)
の時代(じだい)こそ異(こと)なれ如何(いか)にも御祖先(ごそせん)の英姿(えいし)を拝(はい)するようで偶然(ぐうぜん)とは云(い)ひながら私(わたくし)は一 種(しゆ)ナツカしき感(かん)じ
がしたのである之(これ)も何(な)にかの因縁(ゐんねん)とも言(い)ふべきであろうがサテ輝政(てるつな)は又(ま)た弾薬(だんやく)に就(つい)ても種々(しゆ〴〵)の研究(けんきう)を
せられたもので弾薬(だんやく)を計(はか)る竹筒(たけつゝ)なども手(て)づから作(つく)られたのが今(いま)も残(のこ)つて居(を)る又(ま)た軍法(ぐんぽう)を制定(せいてい)して之(これ)を
自書(じしよ)せられたものがあるが面白(おもしろ)いのは軍歌(ぐんか)の制定(せいてい)である之(これ)は軍法(ぐんぽう)を愉快(ゆくわい)に歌(うた)いながら人(ひと)の記臆(きをく)に留(とゞ)ま
るようにしたものであるまだ感心(かんしん)なのは此人(このひと)が陣中(じんちう)に用(もち)ゆべき薬法(やくはふ)の研究(けんきう)をした事で当時(たうじ)は今(いま)の様(やう)に
軍医(ぐんい)と云ふものはなくタマに医者(ゐしや)を召連(めしつ)れた処(ところ)が漢法(かんはふ)の藪先生(やぶせんせい)で到底(とうてい)軍隊(ぐんたい)の間(ま)には合(あ)はなかつたに相(さう)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
違(ゐ)ないソコで輝綱(てるつな)は深(ふか)く之(これ)は感(かん)じたものと見(み)へて陣中薬(ぢんちうくすり)の研究(けんきう)をしたが其中(そのなか)に「サフラン」を用(もち)ゆる処(しよ)
法(はふ)があるのみならず「サフラン」の実物(じつぶつ)を大切(たいせつ)に紙(かみ)に包(つゝ)むで保存(ほぞん)してあるが今(いま)も尚(な)ほ筺底(けうてい)に残(のこ)つて居(を)る
今日(こんにち)から考(かんが)へれば「サフラン」はそれ程(ほど)貴(たつと)いものでもなかろうがまだ三十年 位(ぐらゐ)以前(いぜん)ですら舶来品(はくらいひん)として
中々(なか〳〵)貴重(きちよう)されたものである然(しか)るに今(いま)を去(さ)ること二百七八十年 以前(いぜん)に此(この)舶来薬品(はくらいやくひん)に注目(ちうもく)したことは島原征伐(しまばらせいばつ)
の賜(たまもの)でもあつたであろうが最(もつと)も注意(ちうい)すべき事柄(ことがら)であると思(おも)ふ其他(そのた)輝綱(てるつな)自身(じしん)に劃(ゑが)かれた日本(にほん)の地図(ちづ)が
あるが其(その)角度(かくど)の取(と)り方(かた)は勿論(もちろん)製図法(せいづはふ)が全(まつた)く泰西(たいせい)の方法(はふ〳〵)であるのは深(ふか)く味(あじは)ふべき事で其外(そのほか)にも航海術(かうかいじゆつ)の
研究(けんきう)されたものがあるし騎馬(きば)の法(はふ)や水戦砲術(すいせんほうじゆつ)などの研究(けんきう)されたものがあるモツトモ之等(これら)は今日(こんにち)から見(み)
たならば幼稚(ようち)なる事も多(おほ)いであろうが兎(と)に角(かく)宛然(えんぜん)たる西洋学術(せいようがくじゆつ)の研究者(けんきうしや)で特(とく)に和蘭語(おらんだご)などを一つ二つ
書(か)き留(とゞ)めて注釈(ちうしやく)をした自筆(じしつ)の記録(きろく)も残(のこ)つて居(を)るまだ面白(おもしろ)いのは其(その)記録(きろく)の中(なか)に和蘭(おらんだ)で船(ふね)を東西(とうざい)に出(だ)した
処(ところ)が此(この)両船(れうせん)は三 年目(ねんめ)に途中(とちう)で行逢(ゆきあ)つた即(すなは)ち世界(せかい)を一 周(しう)するには六ヶ年を要(えう)するものであると云ふ事が
《割書:泰西学芸の|先覚者》 書(か)き付(つ)けてあることである二百七十 年前(ねんぜん)に於(おい)て既(すで)に此等(これら)に着眼(ちやくがん)して居(お)つた輝綱(てるつな)は実(じつ)に我国(わがくに)に於(お)ける泰西(たいせい)
学芸(がくげい)の先覚者(せんかくしや)として私(わたくし)は我国(わがくに)の文明史上(ぶんめいしぜう)に大書(たいしよ)するも憚(はゞか)る処(ところ)のない人(ひと)であると思(おも)ふ
サテ輝綱(てるつな)が父(ちゝ)信綱(のぶつな)の後(あと)を受(う)けて川越城主(かはごへじようしゆ)となつたのは寛文(かんぶん)二年四月十八日であるが家督後(かとくご)十 年(ねん)を経(へ)て
寛文(かんぶん)十一年十二月十二日 年(とし)五十二で卒去(そつきよ)されたのである智光院(ちくわうゐん)と謚(おくりな)し父祖(ふそ)と同(おな)じく平林寺(へいりんじ)に葬(ほうむ)つたの
である
大河内信輝 輝綱(てるつな)には多数(たすう)の子(こ)があつたが四 男(なん)の信輝(のぶてる)と六 男(なん)の輝貞(てるさだ)とを除(のぞ)くの外(ほか)は女子(ぢよし)又(また)は早世(さうせい)であつた即(すなは)ち信輝(のぶてる)
は寛文(かんぶん)十二年二月九日 父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を相続(さうぞく)し輝貞(てるさだ)は後(のち)に叔父(おぢ)信興(のぶおき)の養子(やうし)となつたのである而(しか)して信輝(のぶてる)の幼(よう)
大河内輝貞 名(めい)は亀千代(かめちよ)と云(い)つて後(のち)に晴綱(はれつな)と称(せう)し更(さら)に信輝(のぶてる)と改名(かいめい)したのであるが万治(まんぢ)三年四月八日の生(うまれ)である寛文(かんぶん)
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百六十三
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百六十四
【本文】
十二年十二月廿八日 従(じゆ)五 位下(ゐげ)伊豆守(いづのかみ)に叙任(ぢよにん)し元禄(げんろく)七年正月七日 川越(かはごへ)の城(しろ)から下総国(しもふさのくに)古河城(こがじよう)へ移封(ゐほう)にな
つたのであるが宝永(ほうえい)六年六月十八日 願(ねがひ)に依(よつ)て家督(かとく)を其子(そのこ)信祝(のぶとき)(《割書:当時|信高》)に譲(ゆづ)り自身(じしん)は隠居(ゐんきよ)して髪(かみ)を剃(そ)り名(な)
を宗見(そうけん)と称(せう)した享保(けうほ)十年六月十八日六十六で卒去(そつきよ)し矢張(やはり)平林寺(へいりんじ)へ葬(ほうむ)つたが神龍院(しんりうゐん)と謚(おくりな)したのである
信輝の書状 尚(な)ほ此(この)信輝(のぶてる)に就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)べて置(お)きたいが私(わたくし)は此人(このひと)が実(じつ)に情愛(ぜうあい)の深(ふか)い人(ひと)で特(とく)に下(しも)を憐(あわれ)むの情(ぜう)に富(と)む
於種夫人 で居(を)つたことを思(おも)ふのである今(いま)大河内家(おほかうちけ)に此人(このひと)の手紙(てがみ)が二 通(つう)残(のこ)つて居(を)るがそれは孰(いづ)れも其子(そのこ)信祝(のぶとき)の夫人(ふじん)
へ送(おく)つたもので実(じつ)に情愛(ぜうあい)の厚(あつ)き掬(きく)すべきものがあると思(おも)ふ其中(そのなか)の一 通(つう)を掲(かゝ)ぐると左(さ)の如(ごと)くである
廿三日の御文(おんふみ)ことに一 種(しゆ)給(たまはり)満足(まんぞく)申候(もをしそろ)まつ〳〵其元機嫌(そのもごきげん)よくゆる〳〵と入湯(にふたう)のよし悦(よろこび)申候(もをしそろ)被申越(もをしこされ)
候通(そろとほり)伊豆守(いづのかみ)も首尾能(しゆびよく)帰府(きふ)の
御目見(おんめみ)へも申上大悦申候(もをしあげたいえつもをしそろ)大塚(おほつか)今里(いまさと)其(その)兄弟衆(けうだいしう)も御息災候間(ごそくさいそろあひだ)気遣被申間敷(きづかひもをされまじく)此方(こちら)は此頃(このごろ)天気不同(てんきふどう)にて候(そろ)
か其元(そのもと)はいかゝ候哉(そろや)昨日(さくじつ)より晴(はれ)にて満足申候(まんぞくもをしそろ)ほう〳〵珍敷所(めづらしきところ)見物(けんぶつ)慰候(なぐさみそうろ)て一 段(だん)の事(こと)に候(そろ)殊(ことに)湯(ゆ)も相(さう)
応(おう)にて食(しよく)もこゝろ能(よく)すゝみ候(そろ)よし何(なに)より満足(まんぞく)申候(もをしそろ)爰元替事(こゝもとかわること)なく居申候(をりもをしそろ)まゝ気遣被申間敷候(きづかひもをされまじくそろ)被申越(もをしこされ)
候通(そろとほり)久々(ひさ〴〵)逢候(あひそうら)はて床敷存候(ゆかしくぞんじそろ)猶(なほ)めてかく かしく
卯月廿七日 松 平 宗 見
於 種 と の
御 返 事
此(この)手紙(てがみ)は其(その)長子(てうし)信祝(のぶとき)の夫人(ふじん)種(たね)と云(い)ふのが当時(たうじ)温泉(おんせん)に行(い)つて居(を)つて其処(そこ)から手紙(てがみ)を寄越(よこ)した其(その)返事(へんじ)であ
るが文中(ぶんちう)に伊豆守(いづのかみ)とあるのは即(すなは)ち信祝(のぶとき)の事で於種夫人(おたねふじん)から云(い)へば其夫(そのおつと)であるが其(その)文意(ぶんい)と云(い)ふものは実(じつ)
に平民(へいみん)も及(およ)ばぬ程(ほど)に情(なさけ)の厚(ふか)い処(ところ)があつて如何(いか)にも親切(しんせつ)であると思(おも)ふ又(ま)た一 通(つう)の方(はう)の手紙(てがみ)は信輝(のぶてる)が国(くに)に
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百二十六号附録 (明治四十五年七月三十日発行)
【本文】
あつた時(とき)で未(いま)だ隠居前(ゐんきよまへ)の事(こと)であるが当時(たうじ)江戸(えど)にあつた此(この)於種夫人(おたねふじん)に向(むかつ)て送(おく)つたものである其中(そのうち)に小供(こども)
の成長(せいちやう)の様子(やうす)を知(し)らせるとて
かんさいは中々(なか〳〵)いたつらいたし候(そうろう)て高(たか)き木(き)へあかり候(そろ)て遊申候(あそびまうしそろ)わらい申事(まうすこと)にて候(そろ)
と云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある此(この)かんさいと云(い)ふのは誰(たれ)の事(こと)かドウモ分(わか)り兼(か)ぬるので遺憾(いかん)であるが其(その)手紙(てがみ)の懇(こん)
切(せつ)なる書(か)き方(かた)が却(かへつ)て当時(たうじ)に於(お)ける大名(だいめう)の小供(こども)の生活状態(せいくわつぜうたい)を物語(ものがたる)ようで実(じつ)に愉快(ゆくわい)に堪(た)へられぬのである
《割書:龍泉院の書|翰》 まだ其外(そのほか)に一つ大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る手紙(てがみ)で輝綱(てるつな)の夫人(ふじん)即(すなは)ち此(この)信輝(のぶてる)の母(はゝ)龍泉院(りうせんゐん)から信輝(のぶてる)に送(おく)つたもの
があるが之(これ)は信輝(のぶてる)が丁度(てうど)国(くに)に就(つ)いて居(を)つた時(とき)で即(すなは)ち当時(たうじ)は古河城(こがぜう)に居(を)つたものと想像(そうざう)さるゝが江戸(えど)に
あつた龍泉院夫人(りうせんゐんふじん)から送(おく)つたもので其(その)母子(おやこ)の真情(しんぜう)と云(い)ふものは誠(まこと)に見(み)るが如(ごと)くである之(これ)も中々(なか〳〵)当時(たうじ)の
状態(ぜうたい)を知(し)る上(うへ)に於(おい)て参考(さんこう)となるものであると信(しん)ずるから左(さ)に掲載(けいさい)することとする
返(かへす)〳〵きげんよく候(そろ)よしまんそく申候(まうしそろ)やかて〳〵あいまいらせ候はんと御(お)うれ敷(しく)そん申候(まうしそろ)めてたく
かしく
御(おん)ふみ御(お)うれ敷(しく)そん申候(まうしそろ)仰(おほせ)のことくいまたことの外(ほか)あつさニ候(そうら)へともそこもとき嫌(げん)よく申候(まうしそろ)よし
まんそく申候(まうしそろ)こゝもとかはる事(こと)なく我身(わがみ)もたつしやに上屋敷(かみやしき)にも亀千代(かめちよ)そくさ井ニ候 右京方(うけうかた)ニも弐
所(しよ)そくさ井ニ御座候(ござそろ)浅草(あさくさ)にもそくさ井ニ候(そろ)さんきんもしたいニちかより御(お)うれ敷(しく)あいまいらせ候はんと
まち入申候(いりまうしそろ)此事(このこと)は我身(わがみ)も右京方(うけうかた)へまいり遊(ゆ)る〳〵ととうりうゐたしよろこひ申候(まうしそろ)あなたニい申候内(まうしそろうち)
亀千代(かめちよ)もよひおとなしく遊(ゆ)る〳〵とおりよろこひ申候(まうしそろ)出羽殿(でばどの)おく方(がた)き色(しよく)す幾(き)〳〵とよく候(そろ)よし我身(わがみ)
もあすは出羽殿(でばどの)おく方(がた)へよろこびニまいり候(そろ)はんとそんし申候(まうしそろ)此(この)くわしかすつけのうきき一をけ出(で)
羽殿(ばどの)ゟもらひ申候(まうしそろ)まゝまいらせ候めてたくかしく
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏と其祖先) 二百六十五
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百六十六
【本文】
十八日ノ夕方 龍 せ ん 院
松 平 伊 豆 守 殿
御 返 事
右(みぎ)の内(うち)亀千代(かめちよ)とあるは即(すなは)ち幼年時代(ようねんじだい)の信祝(のぶとき)が事(こと)右京(うけう)とあるのは右京太夫輝貞(うけうだいふてるさだ)(《割書:高時の大|河内氏》)を指(さ)したもので
あるのは勿論(もちろん)であるが出羽(でば)とあるのは柳澤出羽守保明(やなぎさはでばのかみやすあき)の事(こと)であると信(しん)ずる而(しか)も其家(そのいへ)から到来(とうらい)した菓子(くわし)
とうききの粕漬(かすづけ)とを「出羽(でば)よりもらひ申候(まうしそろ)まゝ参(まい)らせ候(そろ)」として江戸(えど)から古河(こが)まで送(おく)つたものと見(み)へ
る其(その)心情(しんぜう)は実(じつ)に掬(きく)すべきものがあつて母子(おやこ)の情愛(ぜうあい)何(なん)とも言(い)へぬ味(あぢ)があると思(おも)ふ
サテ信輝(のぶてる)の後(のち)は其子(そのこ)の信祝(のぶとき)が襲(つ)いだのであるが此(この)人(ひと)が即(すなは)ち初(はじ)めて此(この)吉田(よしだ)に移封(いふう)になつて来(き)た人(ひと)である
のでイヨ〳〵後章(ごせう)からは以前(いぜん)に継続(けいぞく)して此(この)信祝(のぶとき)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)に就(つい)て申述(まうしの)ぶる順序(じゆんぢよ)に致(いた)したいと思(おも)
ふのである
●松平信祝(まつだひらのぶとき)と其(その)時代(じだい)
松平信祝 前章(ぜんしよう)に申述(まうしの)べた如(ごと)く松平信祝(まつだひらのぶとき)は信輝(のぶてる)の長男(ちやうなん)で母(はゝ)は井上中務少輔正任(ゐのうへなかつかさせうゆうまさとう)の女(むすめ)である天和(てんわ)三 年(ねん)十一 月(ぐわつ)六日 武(ぶ)
州(しう)に生(うま)れたが初名(ようめい)は亀千代(かめちよ)で元禄(げんろく)六 年(ねん)八 月(ぐわつ)九日十一 歳(さい)の時(とき)初(はじ)めて名(な)を信高(のぶたか)と命(めい)じたのである其(その)時(とき)林大(はやしだい)
学頭(がくのかみ)が名(な)を選(えら)むだ勘書(かんしよ)が今(いま)も残(のこ)つて居(を)るが左(さ)の如(ごと)くである
御 名 乗
信 高 艘ノ字ニ反ル
元禄六年癸酉八月佳辰 大学頭林信篤勘
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
松 平 亀 千 代 殿
ソコで元禄(げんろく)十 年(ねん)十二 月(ぐわつ)十八日 従(じゆ)五 位下(ゐげ)甲斐守(かひのかみ)に叙任(じよにん)したが宝永(ほうえい)六 年(ねん)六 月(’ぐわつ)十八日 父(ちゝ)信輝(のぶてる)が隠居(ゐんきよ)聴許(てうきよ)と相(あい)
成(な)つたので信祝(のぶとき)は即(すなは)ち其後(そのあと)を襲(つ)いで古河城(こがぜう)七 万石(まんごく)を賜(たまは)つたのであるモツトモ父(ちゝ)信輝(のぶてる)といふ云(い)ふ人(ひと)は元来(がんらい)虚(きよ)
弱(じやく)な質(ひつ)であつたものと見(み)へて之迄(これまで)も信祝(のぶとき)は数々(しば〴〵)父(ちゝ)病気(びやうき)の故(ゆへ)を以(もつ)て其(その)代理(だいり)として公儀(こうぎ)の用向(ようむき)を勤(つと)めて居(を)
つたものであるが今度(このたび)イヨ〳〵家督相続(かとくそうぞく)の事(こと)と相成(あいな)つて信祝(のぶとき)は其(その)月(つき)の廿一日 更(さら)に伊豆守(いづのかみ)と改(あらた)めたので
元禄時代 あるサテ其頃(そのころ)に於(お)ける徳川(とくがは)の時勢(じせい)と云(い)ふものは如何(いかゞ)であつたであろうか此処(こゝ)には少(すこ)しく其事(そのこと)に就(つい)て
申述(まうしの)べなければならぬ順序(じゆんじよ)と相成(あひな)つたのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)と云(い)ふ人(ひと)は天性(てんせい)の
学問好(がくもんづき)でソコには勿論(もちろん)時代(じだい)の要求(えうきう)と云(い)ふものもあつたではあるが先(ま)づ入(い)つて将軍(せうぐん)と相成(あひな)つた初(はじ)めは着(ちやく)
着(〳〵)諸政(しよせい)を革新(かくしん)し大(おほい)に文学(ぶんがく)の隆盛(りうせい)を図(はか)つたものである之迄(これまで)数々(しば〳〵)申述(まうしの)べた如(ごと)く徳川時代(とくがはじだい)に於(お)ける歴史(れきし)の
編纂事業(へんさんじげふ)は勿論(もちろん)新暦(しんれき)の領布(れうふ)などを行(おこな)つたが彼(か)の林信篤(はやしのぶあつ)(鳳岡)の如(ごと)きは最(もつと)も其(その)信任(しんにん)を得(え)て今迄(いまゝで)儒服(じゆふく)て法
体てあつた此(この)儒官(じゆくわん)は遂(つひ)に蓄髪(ちくはつ)して従(じゆ)五 位下(ゐげ)大学頭(だいがくのかみ)となり三 河記(かはき)の校訂(かうてい)や武徳大成記(ぶとくたいせいき)の編纂(へんさん)なども皆(みな)此(この)
人(ひと)の手(て)になつたのである其他(そのた)綱吉(つなよし)は又(ま)た大成殿(だいせいでん)を建(た)てゝ儒学(じゆがく)を勃興(ぼつこう)せしめ更(さら)に国学(こくご)をも講(こう)ぜしめたの
で彼(か)の北村季明(きたむらすへあき)、契仲、 阿閣梨(あじゃり)などの出(で)たのも此時(このとき)であるが又(ま)た民間(みんかん)の文学者(ぶんがくしや)としては近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
井原西鶴(ゐばらせいかく)、 松尾芭蕉(まつをばせう)などの徒(やから)も輩出(はいしゆつ)したと云ふ訳(わけ)で文運(ぶんうん)の隆盛(りうせい)と相成(あひな)つた事(こと)は諸君(しよくん)も十 分(ぶん)御承知(ごせうち)の事(こと)
であると思(おも)ふそれのみならず綱吉(つなよし)が京都(けうと)に対(たい)する体度(たいど)は頗(すこぶ)る恭順(けうじゆん)なるものがあつて大嘗会(おほなめゑ)の再興(さいこう)やら
山陵(さんりよう)の修繕(しうぜん)など奉公(ほうこう)の至誠(しせい)を輸(いた)せる事(こと)も少(すくな)くない此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから公武(こうぶ)の親和(しんわ)は頗(すこぶ)る円満(えんまん)で天(てん)
下(か)は実(じつ)に太平(たいへい)であつたがサテ其(その)裏面(りめん)から観察(くわんさつ)すると中々(なか〳〵)表面(へうめん)で見(み)たようにソウうまくは参(まい)らぬので一
方(ぽう)には又(ま)た実(じつ)に弊政(へいせい)が多(おほ)かつたのである先(ま)づ風俗(ふうそく)は華(くわ)奢に流(なが)れ淫靡(ゐんぴ)に陥(おちい)り所謂(いはゆる)元禄時代(げんろくじだい)の本色(ほんしき)を発揮(はつき)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百六十七
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百六十八
【本文】
するに至(いた)つたのであるが今日(こんにち)でも彼(か)の菱川師宣(ひしかはもろのぶ)など一 派(ぱ)の浮世絵(うきよゑ)を見(み)ると実(じつ)に当時(たうじ)の有様(ありさま)が想像(さうざう)さる
ゝように思(おもふ)のである夫(それ)のみならず幕府(ばくふ)に於(おい)ては元来(がんらい)財政窮乏(ざいせいきうばう)の場合(ばあひ)に綱吉(つなよし)の母(はゝ)桂昌院(けいせうゐん)の願(ねがひ)によつて護(ご)
国寺(こくじ)、 護持院(ごじゐん)などの建立(こんりう)を初(はじ)め全国(ぜんこく)有名(ゆうめい)なる寺院(じゐん)の修築(しうちく)を行(おこな)ふ事(こと)となつたので今日(こんにち)美術保存(びじゆつほそん)の上(うへ)から
《割書:幕府財政の|紊乱》 見ると頗(すこぶ)る都合(つごふ)のよかつたと思(おも)ふことも多(おほ)いのであるが兎(と)に角(かく)国用(こくよう)は益々(ます〳〵)不足(ふそく)を感(かん)ずることとなつたので
ある茲(こゝ)に於(おい)て止(やむ)を得(え)ず遂(つひ)に家康(いへやす)以来(いらい)非常(ひぜう)の為(ため)に備(そな)へられてあつた大坂城(おほさかぜう)の金(きん)の分銅(ふんどう)をも鋳潰(いつぶ)して貨幣(くわへい)
となし尚(な)ほ不足(ふそく)なので次第(しだい)に金貨(きんくわ)には多(おほ)く銀(ぎん)を混(こん)し銀貨(ぎんくわ)には銅(どう)を混(こん)すると云(い)ふ様(やう)に性質(せいしつ)の悪(わる)い新貨幣(しんくわへい)
を鋳(い)るに至(いた)つたので益々(ます〳〵)財政(ざいせい)の紛乱(ふんらん)を来(きた)し
たのである殊(こと)に綱吉(つなよし)の晩年(ばんねん)と云(い)ふものは彼(か)の生類御憐(せいるいおんあはれ)みで
燕(つばめ)一 羽(は)を殺(ころ)したが為(ため)に斬罪(ざんざい)になつたものがあると云(い)ふ有様(ありさま)で弊政(へいせい)は実(じつ)に其(その)極(きよく)に達(たつ)したのであるが而(しか)も
其間(そのあひだ)にあつて独(ひと)り威権(ゐけん)を弄(ろう)し一 層(そう)其(その)弊政(へいせい)を助長(ぢよちやう)せしめたのが彼(か)の柳沢吉保(やなぎざわよしやす)であつた吉保(よしやす)は初(はじ)め名(な)を保(やす)
明(あき)と云(い)つて綱吉(つなよし)の小姓(こせう)であつたがそれが側用人(そばようにん)となり次第(しだい)に大老格(たいろうかく)となつたので遂(つひ)に其子(そのこ)吉里(よしさと)と共(とも)
の権(けん)を専(もつぱら)にするに至(いた)つたのであるが会々(たま〳〵)元禄(げんろく)十五 年(ねん)十二 月(ぐわつ)十四日には彼(か)の赤穂(あかう)の浪士(らうし)大石良雄(おほいしよしを)等(ら)四十
七 士(し)の復讐事件(ふくしうじけん)があつて此(この)事件(じけん)は稍々(やゝ)人心(じんしん)を刺激(しげき)したのである然(しか)るに元禄(げんろく)は十六 年迄(ねんまで)で宝永(ほうえい)と年号(ねんごふ)が
改(あらた)まり其(その)宝永(ほうえい)に入(はい)つてからは天災(てんさい)頻(しき)りに至(いた)つて国内(こくない)に災害(さいがい)の続(つゞ)いた事(こと)はズツト前章(ぜんしよう)にも申述(まうしのべ)た如(ごと)くで
ある従(したがつ)て幕政(ばくせい)と云(い)ふものは愈紊乱(いよ〳〵びんらん)を重(かさ)ねたのは云(い)ふ迄(まで)もないがかゝる間(あひだ)に宝永(ほうえい)六年(ねん)正月(せうぐわつ)綱吉(つなよし)は薨去(こうきよ)
《割書:六代将軍の|家宣》 と相成(あひな)つたのである然(しか)るに御承知(ごせうち)の如(ごと)く綱吉(つなよし)には子(こ)がなかつたので甲府(こふ)から入(はい)つて其後(そのご)を襲(つ)いだ六 代(だい)
将軍(せうぐん)の家宣(いへのぶ)で此人(このひと)は将軍(せうぐん)となるや否(いなや)先代(せんだい)の弊政(へいせい)を改革(かいかく)せむことを図(はか)つて先(ま)づその吉保(よしやす)父子(ふし)を斥(しりぞ)け甲府(こふ)
以来(いらい)師事(しじ)して居(を)つた新井白石(あらゐはくせき)を引張(ひつぱ)つて来(き)て幕政(ばくせい)の顧問(こもん)としたのであるが之(これ)が又(ま)た一 方(ぱう)には林家(はやしけ)に於(お)
ける不平(ふへい)とも相成(あひな)つた次第(しだい)である而(しか)して前(まへ)に申述(まうしの)べた如(ごと)く松平信輝(まつだひらのぶてる)か隠居(ゐんきよ)して信祝(のぶとき)が其(その)家督(かとく)を継(つ)いだ
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百三十一号附録 (大正元年八月六日発行)
【本文】
のは即(すなは)ち此(この)宝永(ほうえい)六年のことであるが宝永(ほうえい)と云(い)ふ年号(ねんごう)も七年で正徳(せうとく)と改(あらた)まり其(その)正徳(せうとく)二年十月には折角(せつかく)此(この)改(かい)
《割書:信祝古河よ|り吉田に移|封せらる》 革(かく)を企(くはだ)てた処の将軍(せうぐん)家宣(いへのぶ)も在職(ざいしよく)僅(わづか)に四年に過(す)ぎずして亦(ま)た遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたのであるトコロで此(この)
信祝(のぶとき)が下総(しもふさ)の古河城(こがじよう)から吉田(よしだ)に移封(いほう)になつたのは実(じつ)に此(この)年(とし)七月十二日の事(こと)で信祝(のぶとき)が前城主(ぜんじようしゆ)の牧野大学(まきのだいがく)
《割書:吉田城の授|受》 成央(なりひで)から此(この)吉田城(よしだじよう)を受取(うけと)つたのは実(じつ)に其(その)年(とし)の十一月二日である而(しか)して当時(たうじ)吉田城主(よしだじようしゆ)の所管(しよくわん)であつた遠(ゑん)
州(しう)新居(あらゐ)の関所(せきしよ)の引渡(ひきわたし)を請(う)けたのは其(その)前日(ぜんじつ)であつたが恰(あたか)も将軍(せうぐん)薨去(こうきよ)の時(とき)に際会(さいくわい)したので頗(すこぶ)る混雑(こんざつ)した事(こと)
であつたと思(おも)ふ今此(いまこの)所替(ところがへ)に関(くわん)しては大河内家(おほかうちけ)に其(その)時(とき)の記録(きろく)が五 冊(さつ)残(のこ)つて居(を)る之(これ)は頗(すこぶ)詳密(せうみつ)を極(きは)めたも
のであるが今(いま)から考(かんが)へて見(み)ると仮令(たとへ)特別(とくべつ)の場合(ばあひ)でなくとも概(がい)して大名(だいみよう)の国替(くにがへ)と云(い)ふものは混雑(こんざつ)を極(きは)め
遊佐平馬 たもので此(この)時(とき)大河内家(おほかうちけ)の城受取役(しろうけとりやく)は遊佐平馬(ゆさへいま)と云(い)ふ人(ひと)であつたが其(その)行列(ぎようれつ)などもタイシタものであつた
《割書:藩士並に寺|社町在への|触書》 事(こと)が分(わか)る而(しか)して城(しろ)の受渡(うけわたし)が済(す)むだ後(のち)に遊佐平馬(ゆさへいま)が江戸(えど)から齎(もた)らした藩(はん)の注意書(ちういしよ)並(ならび)に寺社(じしや)、 町在(まちざい)への触(ふれ)
書(がき)と云(い)ふものを発表(はつぴよう)したのであるがそれは当時(とうじ)に於(お)ける民政資料(みんせいしれう)として中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いものであるから先(ま)
づ其(その)全文(ぜんぶん)を左(さ)に抄録(しやうろく)したいと思(おも)ふ
御家中(おんいへちう)エ
一 法度(はふと)兼(かね)て相定候趣(あひさだめそろおもむき)弥(いよ〳〵)以堅(もつてかたく)相守(あひまもり)猥成儀(みだりなるぎ)致(いた)すましき事(こと)
一 諸役人(しよやくにん)公事訴訟之儀(くじそせうのぎ)正路(せいろ)に相計(あひはからふ)へし家中(かちう)並(ならびに)町在(まちざい)より賄賂(わいろ)の品々(ひな〴〵)受用(じゆよう)の儀(ぎ)弥(いよ〳〵)堅禁止(かたくきんし)すへき事(こと)
一 所替(ところがへ)何(いづれ)も物入等(ものいりとう)有之間(これあるあひだ)以後(いご)万端(ばんたん)つゝまやかにいたし少(すこし)の失墜(しつつひ)無之様(これなきやう)肝要(かんえう)に候(そろ)吉田(よしだ)は諸事(しよじ)御花麗(ごくわれい)
の様子(やうす)に相聞候間(あひきゝそろあひだ)其(その)風俗(ふうぞく)にうつるましき事
一 城下町(じようかまち)諸家(しよけ)通行(つうかう)の場所(ばしよ)に候間(そろあひだ)通(とほ)りの衆中見物(しうちうけんぶつ)として出(いで)ましき事
一 兼(かね)て定置候通(さだめおきそろとほり)領内(れうない)たりとも遠方(えんはう)へ相越事(あひこすこと)役人(やくにん)の外(ほか)無用(むよう)たるべし子細(しさい)あらは支配(しはい)々々へ相断可任(あひことはりさし)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百六十九
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百七十
【本文】
指図(づにまかせべく)寺社(じしや)並(ならびに)町在(まちざい)へ振廻等(ふれまはしとう)相越候儀(あひこしそろぎ)わけなくして無用(むよう)寺社(じしや)町在(まちざい)へも其(その)趣(おもむき)触置候事(ふれおきそろこと)
附(つけたり)町在之者(まちざいのもの)少(すこし)も慮外(りよぐわい)がましき事 有之(これあり)は 密(ひそか)に役人(やくにん)え達(たつ)すへし家中下々(かちうしも〳〵)かさつ成事(なること)あらは其所(そこ)よ
り訴出候様(うつたへいでそろやう)に町在(まちざい)へ触置候間(ふれおきそろあひだ)此段(このだん)下々(しも〳〵)へ可申含事(もうしふくむべきこと)
一 居宅住(ゐたくぢう)あらさゝるやうに心懸(こゝろがく)へし若先主居(もしせんしゆゐ)あらし候はゝ相応(さうおう)に速(すみやか)に修理(しうり)をくわふへき事
一 火(ひ)の本(もと)念入分限相応(ねんいりぶんげんそうおう)に為火消道具(ひけしのためどうぐ)を貯(たくは)へ屋敷(やしき)々々に水籠釣置(みづつるべおく)へき事
一 狩猟(しゆれう)の事(こと)構無之候(かまへこれなくそろ)しかれ共遠方(どもえんぽう)へ行其事(ゆきそのこと)に耽(ふけ)り家業忘失(かげふぼうしつ)すへからさる事
附(つけたり)猥成(みだりなる)遊興(ゆうけう)酒及沈酒(さけおよびちんすい)の儀(ぎ)勿論不可有之(もちろんこれあるべからず)殺生(せつせう)の鉄砲(てつぽう)公儀御法度(こうぎごはふと)の事候間(ことそろあひだ)かたく停止之(これをていし)此等(これら)の
儀(ぎ)下々迄(しも〳〵まで)急度申含(きつともをしふくめ)且又(かつまた)博奕禁止(ばくゑききんし)の段(だん)きひしく可申付置事(もをしつけおくべきこと)
一 勤番(きんばん)として交代(かうたい)の道中万般相慎(どうちうまんぱんあひつゝしみ)下々(しも〳〵)かさつに無之(これなく)馬銭旅籠銭等(ばせんはたごせんとう)廉直(れんちよく)に相済通行(あひすましつうかう)すへき事
右之通(みぎのとほり)堅可相守旨也(かたくあひまもるべきむねなり)
正徳二年十一月
寺社方(じしやかた)え
覚(おぼえ)
一 檀方(だんぽう)たりとも家中(かちう)の者訳(ものわけ)なくして招入振廻等無用(まねきいれふれまはりとうむよう)に候(そろ)此儀家中(このぎかちう)へも相達置候間(あひたつしおきそろあひだ)其旨(そのむね)可心得候(こゝろべくそろ)尤(もつとも)
他所(たしよ)より知人来候共(ちじんきたりそろとも)役人(やくにん)え訴(うつた)へすして宿(やど)をかし或(あるひ)は浪人等(らうにんとう)かくまひ置候儀無用(おきそろぎむよう)たるへし様子正(やうすたゞ)し
く指置候(さしおきそろ)ても不苦(くるしからず)趣有之(おもむきこれあり)は役人(やくにん)え可達之事(これをたつすべきこと)
附(つけたり)火(ひ)の本大切(もとたいせつ)にいたし下々(しも〳〵)博奕諸勝負(ばくゑきしよせうぶ)堅禁止可有之事(かたくきんしこれあるべきこと)
一 古来(こらい)の宝物(ほうぶつ)は各別(かくべつ)新規(しんき)に武具(ぶぐ)を貯(たくは)へへからす家中(かちう)又(また)は近郷(きんごう)より寄進(きしん)あらは役人(やくにん)え可申達事(あひたつすべきこと)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
一 公事訴訟等(くじそせうとう)の儀有之(ぎこれあり)江戸(えど)へ出候節(いでそろせつ)は一 応役人(おうやくにん)え可断之(これをことはるべく)此段品(このだんしな)により候(そろ)とも抑留(よくりう)すへき為(ため)にては
無之候(これなくそろ)一 且不聞置(たんきゝおかず)しては如何(いかゞ)に候間(そろあひだ)慥(たしか)に可相断事(あひことはりべきこと)
一 公事訴訟人(くじそせうにん)或(あるひ)は罪科有之(ざいかこれある)ものを加(か)くまひ又(また)は取持等無用(とりもちとうむよう)たるべし無拠儀(よんどころなきぎ)あらは品(ひな)によるへき事
一 勧進奉加正(かんじんほうがたゞ)しきいわれ有之(これあり)は各別(かくべつ)に候若猥(そろもしみだり)に出(いだ)し候共品(そろともひな)により町在共(まちざいとも)に勧進奉加(かんじんほうが)に付(つけ)さるやうに
可申付(もをしつくべき)の条無詮事(ぜうせんなきこと)に成(なる)へく候(そろ)其旨(そのむね)可心得事(こゝろえべきこと)
附(つけたり)神託夢想(しんたくむさう)と号(ごう)し雑説(ざつせつ)不申出様(もをしいでざるやう)に下々(しも〳〵)へ可申含事(もをしふくむべきこと)
右(みぎ)の趣(おもむき)可相心得者也(あひこゝろえらるべきものなり)
正徳二年十一月
町在(まちざい)え
定(さだめ)
一 公儀御法度(こうぎごはつと)堅相守(かたくあひまもり)親類縁者(しんるいゑんじや)むつましく召仕(めしつかへ)に至(いた)るまても愛憐(あいりん)を本(もと)とし借宅鉢(かりたくはつ)の者(もの)まても渡世相応(とせいさうおう)
に続(つゞ)くやうにすへし一 町(てう)一 村(そん)にをひておもさちたる者共(ものども)の心得(こゝろえ)にて非人宿(ひにんやど)なし等(とう)無之様(これなきやう)にすへき
事(こと)
一 徒党(ととう)むすひ万端争論功成儀(ばんたんさうろんたくみなるぎ)いたすましき事
一 扶持人(ふちにん)如何様(いかやう)の軽(かる)きものに対(たいし)ても慮外(りよぐわい)かましき儀(ぎ)なすへからさる事
一 用事有之(ようじこれあり)遠方(えんぱう)へ相越(あひこす)にをひては其所(そこ)のおもたちたる者(もの)へ相断(あひことはる)へし若他領(もしたれう)と出入有之(でいりこれあり)江戸(えど)へ相越(あひこす)
事(こと)あらは地方町方向々(ちはうまちかたむき〳〵)へ相達罷出(あひたつしまかりいづ)へき事
附(つけたり)さし紙(がみ)にて出(いづ)る時(とき)は勿論(もちろん)事
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百七十一
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百七十二
【本文】
一 通(とほ)り町(まち)公儀御定(こうぎおんさだめ)堅相守(かたくあひまもり)旅人(たびびと)に対(たい)し少(すこし)も猥成儀(みだりなるぎ)すへからす若左様(もしさやう)の者有之(ものこれある)は町内(てうない)より早速(さつそく)奉行(ぶぎよう)へ
可訴之(これをうつたへべく)かくし置後日(おきごにち)に顕(あら)はれは可為越度事(こさせたるべきこと)
一 旅人(たびびと)の外知人(ほかちじん)たりとも疑敷者(うたがはしきもの)宿(やど)すへからす親類(しんるい)又(また)は由緒正(ゆうしよたゞ)しき近付指置(ちかづきさしおき)は役人(やくにん)え相達(あひたつ)し指図(さしづ)を
得(う)へし常々(つね〳〵)旅宿(りよしゆく)をつとめさる所(ところ)にては子細(しさい)なくして旅人(たびびと)に宿借(やどかす)へからす他領(たれう)の者(もの)無拠儀(よんどころなきぎ)にて指(さし)
置(おく)は是又(これまた)役人(やくにん)え相達(あひたつし)可任指図事(さしづにまかせべくこと)
一 諸商売物(しよあきないうりもの)高直(たかね)にすへからす尤(もつとも)無詮売物無用(せんなくうりものむよう)たるへし質物(しちもの)にうたかわしき物(もの)不可取之(これをとるべからず)若盗物(もしぬすみもの)に
て後日(ごにち)に相知(あひし)るにおゐては本人同罪(ほんにんどうざい)たるへき事
附(つけたり)諸商売(しよあきなひ)道路往還(どうろわうくわん)の障(さけり)にならさるやうに心得(こゝろえ)へき事(こと)
一 博奕(ばくゑき)諸勝負(しよせうぶ)堅停止(かたくていし)の事(こと)
附(つけたり)人集(ひとあつめ)はなし猥(みだり)に近隣迄(きんりんまで)も騒敷体(さはがしきたい)無用(むよう)たるへき事(こと)
一 家中(かちう)の者(もの)を振廻事(ふれまはすこと)一 切(さい)すへからす家中(かちう)へも此段(このだん)触置(ふれおき)の間(あひだ)其旨(そのむね)を存(ぞんず)へし家中猥(かちうみだり)に徘徊(はいかい)下々(しも〴〵)等(とう)かさつ
の儀有之(ぎこれある)は奉行(ぶぎよう)へ可訴之(これをうつたへべく)後日(ごにち)に其者(そのもの)へあたなき様(やう)に相計(あひはから)ふへき事(こと)
一 町在共(まちざいとも)に猥(みだり)に武具(ぶぐ)をたくわへ浪人等(らうにんとう)かくまひ置(おく)へからさる事(こと)
附(つけたり)火(ひ)の本(もと)随分念入(ずいぶんねんいり)一 町(てう)一 村(そん)云合(いひあは)せ火(ひ)を消道具相応(けすどうぐさうおう)に用意(ようい)し一 軒(けん)々々 水籠釣置(みづつるべおく)へき事(こと)
一 嫁娶(よめとり)の義(ぎ)又(また)は寺社(じしや)の寄進(きしん)法事(はうじ)等(とう)分限相応(ぶんげんさうおう)に執行(しつかう)すへし
惣(そう)して衣服等(いふくとう)不依何事(なにごとによらず)驕奢(きよしや)花麗(くわれい)の体無用(ていむよう)たるへき事(こと)
附(つけたり)雑説風聞等(ざつせつふうぶんとう)堅停止(かたくていし)の事(こと)
右(みぎ)條々(でう〳〵)町在共(まちざいとも)堅可相守之(かたくこれをあひまもるべし)若違犯於有之者(もしいはんこれあるにおいては)急度(きつと)可所罪科者也(ざいくわにしよせらるべきものなり)
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百三十七号附録 (大正元年八月十三日発行)
【本文】
正徳二年十一月
《割書:信祝移封当|時の地図》 又(また)其当時(そのたうじ)のもので頗(すこぶ)る興味(けうみ)のある地図(ちづ)が今(いま)も幸(さいはひ)に大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るがそれは牧野氏時代(まきのしじだい)のものへ
朱書(しゆがき)を以(もつ)て新(あらた)に大河内家(おほかうちけ)即(すなは)ち松平氏(まつだひらし)の家来(けらい)の宿所(しゆくしよ)を割(わ)り付(つ)けたものである如何(いか)にも転封当時(ていほうたうじ)の状態(ぜうたい)と
云(い)ふものが目前(もくぜん)に見(み)る如(ごと)くで最(もつと)も史料(しれう)となるべきものと思(おも)ふが其中(そのなか)で一二の例(れい)を挙(あ)げて見(み)れば之迄(これまで)牧(まき)
野氏(のし)在城時代(ざいじようじだい)に其(その)家老(からう)の藤江竹右衛門(ふぢえたけうゑもん)が居(を)つた屋敷(やしき)へは朱書(しゆがき)で大河内家(おほかうちけ)の西村治右衛門(にしむらぢうゑもん)の名(な)が書(か)き込(こ)
むであり又(ま)た牧野家(まきのけ)の樋口市左衛門(ひぐちいちざゑもん)と云(い)ふ人(ひと)が居(を)つた屋敷(やしき)には同(おな)じく大河内家(おほかうちけ)の遊佐平馬(ゆさへいま)の名(な)が書(か)き
入(い)れてあると云(い)ふ訳(わけ)で其外(そのほか)実(じつ)に細(こまか)い処(ところ)まで一々 朱書(しゆがき)がしてあるのは甚(はなは)だ面白(おもしろ)く感(かん)ずるのである
サテ大体(だいたい)右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)で信祝(のぶとき)は初(はじ)めて此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)と相成(あひな)つたのであるが話(はなし)は再(ふたゝ)び前(まへ)に戻(もど)つて当時(たうじ)前将(ぜんせう)
《割書:七代将軍家|継》 軍(ぐん)家宣(いへのぶ)は薨(こう)じて其(その)嗣子(ちやくし)鍋松君(なべまつぎみ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)くまだ四 歳(さい)の幼童(ようどう)であつたが之(これ)が七 代将軍(だいせうぐん)家継(いへつぐ)となつたの
《割書:将軍家宣と|新井白石並|に間部詮勝》 である然(しか)るに此人(このひと)も亦(ま)た正徳(せうとく)六年 僅(わづか)に八 歳(さい)で薨去(こうきよ)されたので徳川家(とくがはけ)に取(と)つては不幸(ふかう)が相継(あひつ)いだのであ
つたが併(しか)し先(さき)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く前将軍(ぜんせうぐん)家宣(いへのぶ)と云(い)ふ人(ひと)は実(じつ)に人物(じんぶつ)であつて特(とく)に新井白石(あらゐはくせき)を用(もち)ゐ又(ま)た彼(か)の
間部詮勝(まなべのりかつ)に信頼(しんらい)したが其(その)在職(ざいしよく)は僅(わづか)に四年であつたにも拘(かゝは)らず成蹟(せいせき)は頗(すこぶ)る挙(あが)つて所謂(いはゆる)正徳(せうとく)の政(まつりごと)は行(おこな)は
れたのである従(したがつ)て其(その)薨去(こうきよ)後(ご)も此(この)両人(れうにん)は幼主(ようしゆ)家継(いへつぐ)を扶(たす)けて誠意熱心(せいいねつしん)に天下(てんか)の事(こと)を行(おこな)つた勿論(もちろん)此両人(このれうにん)に対(たい)
しては当時(たうじ)幼主(ようしゆ)を擁(えう)して大政(たいせい)を左右(さゆう)した事(こと)であるし殊(こと)に詮勝(のりかつ)は其(その)位置(ゐち)が側用人(そばようにん)と云(い)ふのであつたから
多少(たせう)の批難(ひなん)もないではなかつたが併(しか)し此(この)両人(れうにん)がいづれも私心(ししん)なく誠意(せいい)であつた事は後世(こうせい)の認(みと)むる処(ところ)で
かゝる訳(わけ)であつたから徳川(とくがは)の天下(てんか)も先(ま)づ乱(みだ)るゝ事(こと)なく都合(つごう)よく経過(けいくわ)したのである又(ま)た前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた
如(ごと)く嘗(かつ)此(この)吉田(よしだ)に城主(じようしゆ)たりし久世重之(くせしげゆき)が若年寄(わかとしより)から老中(らうちう)の列(れつ)に入(い)つたのも此(この)正徳(せうとく)三年の八月三日であ
《割書:八代将軍吉|宗》 るがサテ家継(いへつぐ)薨去(こうきよ)の後(あと)を受(う)けて八 代将軍(だいせうぐん)と相成(あひな)つたのは諸君(しよくん)も御存(ごぞんじ)の如(ごと)く徳川吉宗(とくがはよしむね)で此人(このひと)は紀州家(きしうけ)か
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百七十三
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百七十四
【本文】
ら入(い)つて宗家(しうけ)を襲(つ)いだのであるが中々(なか〳〵)の英主(えいしゆ)で殊(こと)に武家主義(ぶけしゆぎ)を鼓吹(こす)した人(ひと)であるから之迄(これまで)綱吉(つなよし)以来(いらい)の
公武親和主義(こうぶしんわしゆぎ)とは自(みづか)ら相反(あひはん)する方針(はうしん)であつたソコで前代(ぜんだい)に於(おい)て新井白石(あらゐはくせき)等(ら)の計画(けいくわく)した事(こと)は大概(たいがい)気(き)に入(い)
らなかつたのである従(したがつ)て就職(しゆしよく)早々(さう〳〵)白石(はくせき)をも詮勝(のりかつ)をも斥(しりぞ)けて仕舞(しま)ひ復(ふたゝ)び林信篤(はやしのぶあつ)が用(もち)いらるゝ様(やう)に至(いた)つた
のであるが前(まへ)に御話(おはなし)した久世重之(くせしげゆき)は此間(このかん)に立(た)つて享保(けうほ)五年六月廿七日 其(その)卒去(そつきよ)まで職(しよく)を継続(けいぞく)し頗(すこぶ)る此(この)享(けう)
保(ほ)の政治(せいぢ)には尽(つく)したものである尚(なほ)念(ねん)の為(ため)に申述(もをしの)ぶるが正徳(せうとく)と云(い)ふ年号(ねんごう)は六年目に享保(けうほ)と改(あらた)まつたので
ある而(しか)して此(この)享保(けうほ)年代(ねんだい)は即(すなは)ち吉宗(よしむね)が盛(さかん)に幕政(ばくせい)の改革(かいかく)を行(おこな)つた時(とき)で吉宗(よしむね)と云(い)ふ人(ひと)は徳川氏(とくがはし)に取(と)つては実(じつ)
に中興(ちうこう)の祖(そ)とも云(い)ふべきであろうと思(おも)ふ而(しか)して此(この)享保(けうほ)四年四月 信祝(のぶとき)は初(はじめ)の名(な)信高(のぶたか)を今(いま)の名(な)に改(あらた)めたの
《割書:信祝大阪城|代に任ぜら|る》 であるが此(この)時(とき)も亦(ま)た林信篤(はやしのぶあつ)が其(その)名(な)を勘定(かんてい)して居(を)るのである夫(それ)から十四年の二月二日に至(いた)つて信祝(のぶとき)は大(おほ)
《割書:信祝浜松に|移封せらる》 阪城代(さかじようだい)に任(にん)ぜられたのであるが之(これ)と同時(どうじ)に遠江(とほとふみ)の浜松(はままつ)に移封(いほう)せられ同城主(どうじようしゆ)松平豊後守(まつだひらぶんごのかみ)資訓が代(かは)つて
此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)と相成(あひな)つたのである
トコロで私(わたくし)は今少(いますこ)しく便宜上(べんぎぜう)から引続(ひきつゞ)いて信祝(のぶとき)の事(こと)に付(つい)て尚(なほ)此処(こゝ)に申述(もをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである
が先(ま)づ此(この)信祝(のぶとき)が大阪城代(おほさかじようだい)となつて赴任(ふにん)の時(とき)の事(こと)である之(これ)が矢張(やはり)大河内家(おほかうちけ)には詳(くは)しい日記(につき)として其(その)当時(たうじ)
のものが残(のこ)つて居(を)るのである江戸出発(えどしゆつぱつ)から此(この)吉田(よしだ)へ立寄(たちよ)つた事(こと)並(ならび)に大阪(おほさか)に着(ちやく)する迄(まで)の事柄(ことがら)は孰(いづ)れも大(だい)
《割書:信祝輝貞と|同時に老中|に擁用せら|る》 小(せう)となく記録(きろく)されて居(を)るので史料(しれう)となるべき点(てん)が少(すくな)くない然(しか)るに信祝(のぶとき)は其(その)翌年(よくねん)の七月十一日 分家(ぶんけ)の松(まつ)
平右京太夫輝貞(だひらうけふだいふてるさだ)と共(とも)に老中(らうちう)に擁用(てきよう)せられたのであるが之(これ)に就(つい)ては多少(たせう)の事情(じぜう)がなくてはならぬように
思(おも)はれる前(まへ)に申述(もをしの)べた如(ごと)く此(この)輝貞(てるさだ)と云(い)ふ人は輝綱(てるつな)の子(こ)で信輝(のぶてる)の弟(おとゝ)であるから信祝(のぶとき)から云(い)ふと叔父(おぢ)に
当(あた)る人であるが此(この)人(ひと)は彼(か)の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)とは至(いた)つて親密(しんみつ)の間柄(あひだがら)で五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の為(ため)には大(おほい)に信用(しんよう)を得(え)たも
ので三万二千石から七万二千石 迄(まで)に加増(かぞう)せられ上州高崎(ぜうしうたかさき)の城主(じようしゆ)であつたが吉保(よしやす)が斥(しりぞけ)られた時には輝貞(てるさだ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
も亦(ま)た幕府(ばくふ)に疎(うとん)せらるゝに至(いた)つて一たび越後(ゑちご)の村上(むらかみ)に転封(てんほう)せられたのである然(しか)るに此(この)本家(ほんけ)たる信祝(のぶとき)の
家(いへ)に於(おい)ても当時(たうじ)柳沢家(やなぎさはけ)とは親密(しんみつ)の間柄(あひだがら)であつた事は先(さ)きに輝綱夫人(てるつなふじん)の書翰(しよかん)を御紹介(ごせうかい)申上(もをしあげ)た時(とき)に於(おい)ても
略(ほ)ぼ御了解(ごれうかい)の事であつたと信(しん)ずるソコで私(わたくし)は信祝(のぶとき)の父(ちゝ)信輝(のぶてる)の隠居(ゐんきよ)に就(つい)ても常(つね)に何分(なにぶん)疑(うたがひ)を抱(いだ)いて居(を)る
ものであるが併(しか)し此(この)信輝(のぶてる)と云ふ人は病気勝(びようきがち)であつた様(やう)に推定(すいてい)さるゝから全(まつた)く其(その)為(ため)の隠居(ゐんきよ)かとも思(おも)はる
ゝが丁度(ちようど)其(その)隠居(ゐんきよ)が六 代将軍(だいせうぐん)家宣(いへのぶ)就職(しゆしよく)の時で恰(あたか)も吉保(よしやす)輝貞(てるさだ)等(ら)の斥(しりぞ)けられた当時(たうじ)であるから何(なん)だかソコに
意味(いみ)ありげなので疑(うたが)つて見(み)れば疑(うたが)はれもするのである然(しか)るにイヨ〳〵八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の就職(しゆしよく)となつて俄(にはか)
に模様(もやう)が変(かは)つて而(しか)も同日(どうじつ)に此(この)叔甥(おぢおい)か共(とも)に老中(らうちう)に擁用(てきよう)されたと云ふ事は当時(たうじ)頗(すこぶ)る人心(じん〳〵)を驚(おどろ)かした事であ
つたろうと思(おも)ふが輝貞(てるさだ)は吉宗(よしむね)がまだ紀州家(きしうけ)の庶子(しよし)として僅(わづか)に越前(ゑちぜん)丹生三万石の小禄(せうろく)であつた時(とき)其(その)地(ち)は
礎角(ぎようかく)であるから追(お)つては村替(むらがへ)の儀(ぎ)を取計(とりはから)ふべしと切(せつ)に懇志(こんし)を通(つう)じ又(ま)た己(おの)れが側用人(そばようにん)の位置(ゐち)にあつた処(ところ)
から時(とき)の将軍(せうぐん)綱吉(つなよし)に拝謁(はいえつ)の時(とき)などは勉(つと)めて吉宗(よしむね)に便宜(べんぎ)を与(あた)へ之(これ)を執成(とりな)したので吉宗(よしむね)は深(ふか)く之(これ)を喜(よろこ)むで
先(さ)きに此(この)輝貞(てるさだ)を高崎城(たかさきじよう)に復(ふく)し今(いま)亦(ま)た之(これ)を老中(らうちう)に擁用(てきよう)したのは酬(むく)ゆる処(ところ)があつたのであると云ふ説(せつ)があ
る兎(と)に角(かく)輝貞(てるさだ)の登用(とうよう)に至(いた)つては当時(たうじ)慥(たしか)に世人(せじん)をして一 驚(けう)を喫(きつ)せしめたと云ふ事(こと)である而(しか)して信祝(のぶとき)は
爾来(じらい)輝貞(てるさだ)と共(とも)に幕政(ばくせい)に参与(さんよ)して享保(けうほ)から元文(げんぶん)、 寛保(かんぽ)、 延享(えんけう)と吉宗(よしむね)在職中(ざいしよくちう)勤続(きんぞく)し延享(えんけう)元年(がんねん)四月十八日を
以(もつ)て卒去(そつきよ)した次第(しだい)であるが其(その)在職中(ざいしよくちう)の記録類(きろくるい)は今(いま)も多数(たすう)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るので所謂(いはゆる)享保(けうほ)の政治(せいぢ)を
講究(こうきう)する上(うへ)には大切(たいせつ)なるものが少(すくな)くないのである
⦿信祝の人物並に事蹟の一班
信祝の日記 信祝(のぶとき)と云ふ人は余程(よほど)緻密(ちみつ)な性質(せいしつ)で特(とく)に親切丁寧(しんせつていねい)な人であつたと信(しん)ずる現(げん)に大河内家(おほかうちけ)には信祝(のぶとき)の日誌(につし)が
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百七十五
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百七十六
【本文】
五十五 冊程(さつほど)保存(ほぞん)されてあるが之(これ)が毎日(まいにち)自筆(じしつ)で緻密(ちみつ)に其日(そのひ)々々の出来事(できごと)を記録(きろく)したものである而(しか)も之(これ)が
享保(けうほ)から初(はじ)まつて元文(げんぶん)、 寛保(かんぽ)と継続(けいぞく)して居(を)るが丁度(ちようど)信祝(のぶとき)が老中(らうちう)在職中(ざいしよくちう)のものであるから子細(しさい)に之(これ)を調(てう)
査(さ)したならば所謂(いはゆる)享保(けうほ)の政治(せいぢ)即(すなは)ち八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の政治(せいぢ)と云ふものに対(たい)して研究(けんきう)の材料(ざいれう)となるものが多(おほ)
大河内家譜 い事と思(おも)ふ又(ま)た此人(このひと)の撰(せん)で大河内家譜(おほかうちかふ)と云ふものがあるが之(これ)は伝来(でんらい)の家譜(かふ)を考証(かうせう)して大成(たいせい)したもので
家譜(かふ)、 支流譜(しりうふ)、 付録(ふろく)、 余裔譜(よえいふ)、 別録(べつろく)と分(わか)つてあるが今(いま)大河内家(おほかうちけ)に蔵(ざう)せられて居(を)るものゝ内(うち)家譜(かふ)五 巻(かん)、
支流譜(しりうふ)七 巻(かん)、 付録(ふろく)九 巻(かん)、 余裔譜(よえいふ)八 巻(かん)、 別録(べつろく)四 巻(かん)と云(い)ふものは孰(いづ)れも其(その)自筆(じしつ)であつて享保(けうほ)十九年の自序(じぢよ)
があるのである兎(と)に角(かく)之(これ)が老中職(らうちうしよく)にある間(あひだ)の余業(よげふ)であるとしては実(じつ)に其(その)勤勉(きんべん)であつた事(こと)が思(おも)ひやられ
るのである其(その)家譜(かふ)の自序(じぢよ)の内(うち)にも
吾嘗聞、諸先祖有善而弗知不明也、知而弗伝不仁也。吾難不敏也、盖恥焉。故毎退食須臾遑舎、黽
勉有所識、積成巻若干、所以従俗而不敢修之辞者、欲事蹟務実且人易膮也、尚子子孫孫、永纂輯、
以称揚美後世、是吾之所以恥君子之所恥也。
とある如(ごと)くで誠(まこと)に信祝(のぶとき)の人(ひと)となりが分(わか)ると思(おも)ふのである且(か)つ其(その)日記(につき)又(また)は家譜(かふ)などの装釘(そうてい)から見(み)ても実(じつ)
に簡短(かんたん)なもので殊(こと)に日記(につき)の如(ごと)きは竹紙(ちくし)を四ツ折(をり)にして之(これ)を紙縒(かうより)で綴(つゞ)つただけである処(ところ)などは如何(いか)に信(のぶ)
祝(とき)が質素倹約(しつそけんやく)を旨(むね)とした人(ひと)であつたかが窺(うかゞ)ひ知(し)らるゝ事(こと)と思(おも)ふ又(ま)た信祝(のぶとき)は歌(うた)を読(よ)み画(ぐわ)を画(ゑが)いたが之(これ)は
何方(どちら)も忌憚(きたん)なく言(い)へば余(あま)り名人(めいじん)と云ふ程(ほど)ではなかつた事(こと)と思(おも)はれる併(しか)し其(その)画(ぐわ)には密画(みつぐわ)が多(おほ)く緻密(ちみつ)にし
て親切(しんせつ)な人であつた事(こと)は画面(ぐわめん)の上(うへ)にも現(あら)はれて居(を)るのである今(いま)豊橋市(とよはしし)の神宮寺(じんぐうじ)に遺(のこ)つて居(を)る観音(くわんをん)の像(ぞう)
の如(ごと)きは出来(でき)も中々(なか〳〵)善(よ)く最(もつと)も其(その)真相(しんさう)を発揮(はつき)して居(を)るものと思(おも)ふが龍拈寺(りうねんじ)にも亦(ま)た信祝(のぶとき)が寄進(きしん)した紺紙(こんがみ)
金泥(きんでい)の仏像(ふつぞう)がある之(これ)も緻密(ちみつ)な事(こと)に至(いた)つては実(じつ)に他(た)に遜(くだ)らざる処(ところ)のものである和歌(わか)に於(おい)ても同様(どうよう)で古今(こきん)
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百四十四号附録 (大正元年八月二十日発行)
【本文】
集秘伝(しうひでん)と云ふ書物(しよもつ)の如(ごと)きは矢張(やはり)之(これ)を自写(じしや)したもので今(いま)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るのである右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で
三浦竹渓 あるから勿論(もちろん)学問(がくもん)に就(つい)ては特志(とくし)のものであつたが彼(か)の三浦竹渓(みうらちくけい)と云ふ学者(がくしや)を招聘(せうへい)したのは信祝(のぶとき)が浜松(はままつ)
城主(じようしゆ)となつてからの事(こと)でそれは丁度(ちようど)享保(けうほ)十八年の事(こと)である此(この)竹渓(ちくけい)と云ふ学者(がくしや)の伝記(でんき)は先哲叢談後編(せんてつさうだんこうへん)の
五にあるので此(この)事(こと)に就(つい)ては愛知県史編纂係(あいちけんしへんさんがゝり)の田部井鉚太郎君(ため いりうたらうくん)の注意(ちうい)を受(う)けたる事(こと)が少(すくな)くないから一 言(げん)
茲(こゝ)に御礼(おんれい)を申述(もをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふが此(この)竹渓(ちくけい)と云ふ人は名(な)を義質、 字(あざな)を子彬(しさし)、 幼名(しよめい)を良能、 通称(つうせう)を平(へい)
太夫(だいう)と云つて江戸(えど)の人であつたが父(ちゝ)を平右衛門(へいざゑもん)と云つて其(その)曾祖(そうそ)甚右衛門尉為重(じんうゑもんぜうためしげ)は嘗(かつ)て織田信雄(をたのぶを)に仕(つか)へ
た人である竹渓(ちくけい)は若冠(じやくかん)にして豪気撓(ごうきたわ)まず嬌俊(けうしゆん)にして節(せつ)ある処(ところ)から柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に仕(つか)へて恩寵(おんてう)特(とく)に厚(あつ)かつた
のであるが宝永(ほうえい)二年 時(とき)の将軍(せうぐん)綱吉(つなよし)が吉保(よしやす)の邸(てい)に臨(のぞ)むだ時(とき)竹渓(ちくけい)は年(とし)十七で其(その)前(まへ)に孟子(もうし)の道在邇(みちはちかきにあり)の章(せう)を
進講(しんかう)し大(おほい)に賞賛(せうさん)されたと云ふ事(こと)である中年(ちうねん)に至(いた)つて更(さら)に業(げう)を荻生徂徠(をぎうそらい)に受(う)けたが天資穎脱(てんしゑいだつ)で数歳(すうさい)なら
ずして群経(ぐんけう)を究(きは)め見解(けんかい)が奇抜(きばつ)で往々(わう〳〵)人(ひと)の意表(いへう)に出(い)でた又(ま)た楷書(かいしよ)を善(よ)くし頗(すこぶ)る徂徠(そらい)の為(ため)には親愛(しんあい)せられ
たものであるが儒者(じゆしや)を以(もつ)て世(よ)に立(た)つことは好(この)まなかつたので自(みづか)ら今日(こんにち)の所謂(いはゆる)政治家(せいぢか)を以(もつ)て任(にん)じて居(を)つ
たのである従(したがつ)てこ此(この)松平家(まつだひらけ)に聘(へい)せらるゝにも儒官(じゆくわん)としてではなく士分(しぶん)として招(せう)されたのであるが信祝(のぶとき)の
世子(せいし)信復(のぶなほ)の傅(ふ)をも兼(か)ねたのであつて後(のち)信復(のぶなほ)が復(ふたゝ)び此(この)吉田(よしだ)に移封(ゐほう)せらるゝに至(いた)つて竹渓(ちくけい)も亦(ま)た従(したが)つたの
である併(しか)し多(おほ)くは江戸(えど)に住居(ぢうきよ)したもので吉田(よしだ)には余(あま)り来(き)た事(こと)がなかつたように思(おも)はれる従(したがつ)て今(いま)も豊橋(とよばし)
の地(ち)には此(この)人(ひと)の遺墨(いぼく)など殆(ほとん)ど見(み)ざる処である又(ま)た此(この)人(ひと)は性頗(せうすこぶ)る執強(しつけう)で慷慨(かうがい)の意気(いき)に富(と)み談(だん)偶(たまた)ま節義(せつぎ)の
事に及(およ)べばた忽(たちま)ち潜然(せんぜん)とし涙下(るいか)したが其(その)代(かは)り一たび意見(いけん)の合(あ)はぬ人に向(むか)つては遠慮(ゑんりよ)なく之(これ)を罵倒(ばたう)した
ので反対者(はんたいしや)も少(すくな)くなかつたと云ふ事(こと)である宝暦(ほうれき)六年五月五日 享年(けうねん)六十八 歳(さい)で没(ぼつ)し江戸(えど)市(いち)ヶ谷(や)蓮秀寺(れんしうじ)に
葬(ほうむ)つたのであるが其(その)著書(ちよしよ)には射学正宗国字解、律学正宗国字解、明律訳義、竹渓文集等がある
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百七十七
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百七十八
【本文】
先(ま)づ信祝(のぶとき)の性行(せいこう)等(とう)に就(つい)ては大要(たいえう)右(みぎ)に申述(もをしの)べた如(ごと)くであるがサテ此(この)信祝(のぶとき)が吉田(よしだ)に城主(じようしゆ)たりし時代(じだい)の事蹟(じせき)
は如何(どう)かと云(い)ふに信祝(のぶとき)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く正徳(せうとく)二年七月十二日 此(この)吉田(よしだ)に封(ほう)せられてから享保(けうほ)十四年
二月二日 遠江国(とほとふみのくに)浜松(はままつ)へ転封(てんほ)になるまで十七年 余(あま)り此(この)地(ち)に城主(じようしゆ)たりし訳(わけ)であつたが当時(たうじ)は一ケ年 置(お)き
《割書:吉田刈谷交|代参觀の制》 に参觀(さんきん)する規定(きてい)で特(とく)に正徳(せうとく)四年四月十二日 付(づけ)を以(もつ)て此(この)参遠(さんえん)の地(ち)は最(もつと)も要害(ようがい)の処であるから吉田城主(よしだじようしゆ)と
刈谷城主(かりやじようしゆ)とは互(たがひ)に交代(かうたい)し浜松城主(はままつじようしゆ)と掛川城主(かけがはじようしゆ)とは之(これ)も互(たがひ)に交代(かうたい)して参觀(さんきん)する様(やう)にと命(めい)ぜられたのであ
る其後(そのご)将軍(せうぐん)吉宗(よしむね)の時代(じだい)となつて一 時(じ)半年(はんねん)毎(ごと)に参觀(さんきん)する制(せい)と改(あらた)められたが右(みぎ)の訳(わけ)であるから信祝(のぶとき)は城主(じようしゆ)
たるの当時(たうじ)刈谷城主(かりやじようしゆ)と交代(かうたい)に一ケ年又(また)は半ケ年づゝ在職(ざいしよく)又(また)は在府(ざいふ)したものである尚(な)ほ余談(よだん)のようでは
《割書:吉田藩主と|新居の関所》 あるが彼(か)の新居(あらゐ)の関所(せきしよ)と云ふものは代々(だい〳〵)此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)の担任(たんにん)で徳川氏(とくがはし)が京都(けうと)と江戸(えど)との交通上(かうつうぜう)最(もつと)も重(おも)き
を置(お)いた要害(えうがい)であつたが従(したがつ)て此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)が老中(らうちう)となれば勿論(もちろん)京都所司代(けうとしよしだい)とか大坂城代(おほさかじようだい)とかに就職(しゆしよく)して
も必(かなら)ず他(た)に移封(てんほう)されるのが之(これ)迄(まで)の例(れい)であつた即(すなは)ち信祝(のぶとき)が浜松(はままつ)に転封(てんほう)されたのも矢張(やはり)之(これ)と同(どう)一 理由(りゆう)であ
《割書:吉 田 藩|表 日 記》 つたがサテ信祝(のぶとき)が此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)たりし時代(じだい)の事柄(ことがら)に就(つい)ては幸(さいはひ)に今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に其(その)当時(たうじ)に於(お)ける藩(はん)の表日(おもてにつ)
記(き)が殆(ほとん)ど全部(ぜんぶ)保存(ほぞん)されて居(を)るから之(これ)で見(み)ると容易(ようい)ならぬ便宜(べんぎ)を得(う)る事(こと)である併(しか)し当時(たうじ)の出来事(できごと)に就(つい)て
は殆(ほとん)ど細大共(さいだいとも)に書(か)き付(つ)けてある訳(わけ)であるから実(じつ)は其(その)目録(もくろく)を一 覧(らん)するだけでも容易(ようい)の仕事(しごと)ではない私(わたくし)は
此頃(このごろ)其内(そのうち)の正徳(せうとく)三年の分(ぶん)だけを熟覧(じゆくらん)するのに全(まつた)く二日を要(えう)した次第(しだい)であるかゝる訳(わけ)であるから一々 当(たう)
時(じ)の出来事(できごと)を茲(こゝ)に御話(おはなし)して参(まい)る訳(わけ)には行(ゆ)かぬが其(その)中(なか)に就(つい)て一二 主(おも)なるものを申述(もをしの)べようトコロで先(ま)づ
此(この)吉田(よしだ)の大橋(おほはし)と云ふものは前章(ぜんせう)にも度々(たび〴〵)申述(もをしの)べた如(ごと)く東海道(とうかいどう)四 大橋(だいけう)の一で幕府直轄(ばくふちよくかつ)のものであつたか
ら頗(すこぶ)るヤカマシかつたもので此(この)表日記(おもてにつき)の中(なか)にも最(もつと)も多(おほ)く此(この)橋(はし)の事(こと)が散見(さんけん)されるのである殊(こと)に正徳(せうとく)三年
大橋の修繕 には此(この)橋(はし)の大修繕(だいしうぜん)があつたのであるが元来(がんらい)此(この)大橋(おほはし)を架替(かけかへ)又(また)は修繕(しうぜん)する時(とき)には前章(ぜんせう)にも御話(おはなし)して置(お)いた
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
如(ごと)く旧橋(きうけふ)と相並(あひなら)むで新橋(しんはし)又(また)は仮橋(かりはし)を作(つく)たもので通行(つうかう)には少(すこ)しも障碍(せうがひ)を与(あた)へなかつたのであるが此(この)事(こと)は
元禄(げんろく)十六年の修繕(しうぜん)迄(まで)で宝永(ほうえい)四年の修繕(しうぜん)の時(とき)は如何(どう)であつたか之(これ)は小破修繕(せうはしうぜん)であつたから少(すこ)しく不明(ふめい)で
仮橋の廃止 あるが其(その)次(つぎ)の宝永(ほうえい)六年の修繕(しうぜん)の時(とき)には初(はじ)めて仮橋(かりばし)を廃(はい)し普請中(ふしんちう)は渡船(とせん)によつて通行(つうかう)せしめたものであ
るソコで吉田宿中(よしだじゆくちう)のものは頗(すこぶ)る恐惶(けうこう)を来(きた)したのであるが其(その)頃(ころ)の橋普請(はしぶしん)などと云ふものは最(もつと)も緩慢(くわんまん)なも
ので江戸(えど)から大勢(おほぜい)役人(やくにん)が来(き)て掛(かゝ)りばかり大(おほ)きくて仕事(しごと)は中々(なか〳〵)埒(らち)の明(あ)かぬ事(こと)であつたから往来(わうらひ)のものゝ
難義(なんぎ)は実(じつ)に容易(やうい)ならざりし事(こと)と思(おも)ふ以前(いぜん)に遡(さかのぼ)る話(はなし)ではあるが誠(まこと)に当時(たうじ)の事情(じぜう)が能(よ)く分(わか)ると思(おも)ふから
其(その)当時(たうじ)宿中(じゆくちう)の庄屋(せうや)年寄(としより)等(ら)連署(れんしよ)で願出(ねがひい)でた書付(かきつけ)を左(さ)に抄録(しようろく)したいと思(おも)ふ
乍恐以書付奉願上候御事
訴詔人三州吉田宿中
一吉田宿大橋去夏ゟ舟渡ニ被為仰付往還上下之御衆中様末々之者共迄難儀仕別て吉田宿中ひしと困
窮迷惑仕候前々之通御橋ニ被為仰付被下候ハヾ往還之御衆中様無難儀宿中諸商売前々之通ニ仕
難有可奉存候御事
一吉田川満水之節又者風烈敷御座候時分宿継御飛脚御用物等舟渡故剋限相滞難儀仕候去年六月廿二
日洪水之節舟渡故京部江御登御状箱三時程遅滞同日岐阜ゟ御江戸江上り申候御鮨川向に一夜遅滞
被成候其外雨中之節吉田宿之人馬御油宿江御役に越帰候節川水増舟渡不罷成川向ニ逗留仕度々難
儀仕候御事
一前々満水之節川上之堤きれ水押入申候其畑者川向定助大助村之者共も橋を越吉田宿江退参候向後
満水ニて堤きれ候ハヾ舟渡も通路不罷成大勢之者共牛馬に至迄難儀可仕と奉存候御事
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百七十九
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百八十
【本文】
一去十二月五日之夜往来之旅人弐拾人余当所之者茂乗合舟渡仕候処風烈敷川上え十丁計吹上られ危
御座候付舟中ゟ声を上呼申候故聞付驚船町より助船二艘出し乗移らせ申候同廿日之夜より翌廿一
日九ツ時迄川水凍渡舟通路悪敷馬越無御座往来難儀仕候御事
一吉田宿中手作之田畑川向ニ多御座候作毛取納こやし等持運ひ候節難儀仕候御事
一吉田宿御伝馬百疋之役人甚外定助大助之在々馬士給金去年迄者壱ケ年給金壱両壱弐歩宛にて召抱
候所ニ舟渡シ罷成荷物付をろし寒中水ニ入難儀多御座候付当年給金弐両ゟ弐両壱弐分にて召抱申
候此給金ニテ茂不達者成ものは於舟場荷物付おろし成不申候間馬士奉公人不自由にて難儀仕候御
事
一宿中え川向之在々ゟ持来候質物等舟渡不由ニテ隙を障迷惑ニ存川向之所々え持参仕候間吉田宿え
川向ゟ之質物商売すきと止り難儀仕候御事
一宿中え買ニ参候田畑こやしの干鰯油粕等之物舟渡不自由故川向之所々ニテ相調宿中之商売すきと
止り迷惑仕候御事
一宿中え川向之在々ゟ参候雑穀類薪干葉飼葉其外之物舟賃掛り申候付前々ゟ高直ニ罷成別テ薪等ハ
前方百銭位仕候物品今ハ百四五拾銭罷成候尤当宿ニハ壱ケ月ニ十二斉之市御座候得共舟渡以後市
日潰れ売買薄く宿中難儀申上難尽候御事
一吉田宿出火之節川向之在々ゟ欠付申候得共舟渡ニ罷成通路悪敷欠付遅滞可仕旨難儀奉存候御事
一往還之御衆中武家様方之外舟賃銭荷物壱駄ニ付三拾銭乗下荷物拾九銭歩行人拾弐銭此外小揚賃取
申候付参宮人以下之者別テ難儀仕候故本坂通り多当宿弥衰微仕候御事
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百五十号附録 (大正元年八月二十七日発行)
【本文】
右以書付奉願上候通吉田宿之儀末々迄舟渡にて御座候得者ひしと潰れ申候以御慈悲前々之通御橋に
被為仰付被下候者難有可奉存候以上
宝永六寅年三月二日
三州吉田宿
問 屋 與右衛門(印)
年 寄 彌次右衛門(印)
庄 屋 與次右衛門(印)
御 奉 行 様
右(みぎ)の書付(かきつけ)で見(み)ると全然(ぜん〴〵)橋梁(けうれう)を廃(はい)したものゝようであるが其(その)実(じつ)宝永(ほうえい)六年には幕府(ばくふ)がら前澤藤兵衛(まへざはとうべゑ)と云ふ
役人(やくにん)が出張(しゆつてう)して橋普請(はしぶしん)をやつて居(を)るソコらから見(み)ると幕府(ばくふ)では最初(さいしよ)より全然(ぜん〴〵)橋梁(けうれう)を廃(はい)する所存(しよぞん)ではな
かつた事と思(おも)ふがそれであるのに前年(ぜんねん)の夏(なつ)から既(すで)に旧橋(きうけう)の通行(つうかう)を止(と)めて渡船(とせん)に改(あらた)めしめ其侭(そのまゝ)翌年(よくねん)の三
月まで普請(ふしん)にも取掛(とりかゝ)らず打捨(うちす)てゝ置(お)いたからかゝる歎願(たんぐわん)も出(で)た事(こと)と思(おも)ふ然(しか)るに今度(このたび)(正徳三年)又々(また〳〵)其(その)
修繕(しうぜん)をすることとなつた処(ところ)が矢張(やはり)其(その)時(とき)の如(ごと)く仮橋(かりばし)を廃(はい)して渡船(とせん)にすると云(い)ふので宿中(しゆくちう)のものは又々(また〳〵)恐惶(けうこう)
を来(きた)し早速(さつそく)船町(ふなまち)庄屋(せうや)浅井與次右衛門(あさゐよじうゑもん)を初(はじ)め年寄(としより)等(ら)連署(れんしよ)で仮橋設置(かりばしせつち)の事(こと)を願出(ねがひいだ)したが此(この)時(とき)吉田藩(よしだはん)に於(おい)て
は最至極(もつともしごく)の事(こと)として幕府(ばくふ)に向(むかつ)て種々(しゆ〳〵)懇願(こんぐわん)する処(ところ)があつたのである然(しか)るに又(また)も此(この)事(こと)は聞届(きゝとゞ)けられずに渡(と)
船(せん)と定(さだ)まつたがドウ布告(ふこく)しても此(この)渡船(とせん)の請負人(うけおひにん)がながつたので幕府(ばくふ)ではトウ〳〵船町(ふなまち)と下地(しもぢ)とへ賦役(ぶえき)
を課(くわ)して渡船(とせん)せしめたのであるがそれで渡船賃(とせんちん)は取(と)つたのであるから往来(わうらい)の人は頗(すこぶ)る困難(こんなん)した様子(やうす)で
ある之(これ)と云ふのも御承知(ごせうち)の如(ごと)く元禄(げんろく)以来(いらい)は次第(しだい)に幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)が窮乏(きうばう)に傾(かたむ)いて来(き)たので家宣(いへのぶ)の時代(じだい)に之(これ)
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百八十一番
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百八十二
【本文】
が救済策(きうざいさく)に力(ちから)を注(そゝ)いだが此(この)吉宗(よしむね)の時(とき)に方(あた)つても矢張(やはり)幕政(ばくせい)の主(おも)なるものは此(この)財政救済(ざいせいきうざい)の問題(もんだい)であつた従
て経費節減(けいひせつげん)が主要(しゆえう)と相成(あひな)つて居(を)る処(ところ)よりかゝる辺(へん)まで影響(えいけう)し来(きた)つた訳(わけ)で其(その)因(よつ)て来(きた)る所(ところ)と事実(じゞつ)に於(お)ける
結果(けつくわ)とを比較対照(ひかくたいせう)すると随分(ずゐぶん)趣味(しゆみ)のある事であると思(おも)ふ然(しか)るに此(この)橋普請(はしぶしん)の役人(やくにん)と云ふものは幕府(ばくふ)から
出張(しゆつてう)するのであるから其(その)待遇(たいぐう)に就(つい)ては吉田藩(よしだはん)に於(おい)ても最(もつと)も注意(ちうい)したのであるが之(これ)が亦(また)表日記(おもてにつき)正徳(せうとく)三年
二月廿三日の條(くだり)に左(さ)の如(ごと)く記(しる)してある
一吉田橋御普請御奉行近日当地御発足に付為御暇乞御両所様え昨日御使者被遣之於吉田御馳走之趣
先達而申遣之左之通
木原因幡守様
西山十右衛門様
一吉田御着之節町へ町奉行可罷出事
一御着之時分御料理之品見計ひ御旅館え可遣置事
一家老壱人宛御着之時と御逗留中二度ほと御帰府以前一度御見廻可申事
一御音物御着之節一度此外一ヶ月に一度つゝ其品見計ひ可指遣事
一安松金右衛門堀江儀右衛門折々御見廻可申勿論御用等有之節者可相達之事
一御両人様御家来へも金右衛門儀右衛門ゟ見計音信有之可然事
一御普請相済候節御両人様え御酒御肴可遣之事
御 徒 目 付
御 小 人 目 付
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
町 棟 梁
一旅宿へ遣し物並音物等御奉行方に準し似合敷可有之事
一安松金右衛門堀江儀右衛門見廻可申事
一家老共見廻之儀見はからひ様子次第の事
以 上
今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)ると誠(まこと)に可笑(おかし)い事(こと)のように思(おも)はるゝがサテ今日(こんにち)と雖(いへど)も尚(な)ほ往々(わう〳〵)片田舎(かたいなか)などに行(ゆ)くと
之(これ)に類似(るいじ)した事(こと)がないとも限(かぎ)らぬので政治(せいぢ)の衝(せう)に当(あた)る人は能(よ)く下情(かぜう)に通(つう)じ其(その)弊(へい)なからむことを勉(つと)めねば
ならぬ事(こと)と思(おも)ふ
《割書:河川取締の|制札》 サテ橋普請(はしぶしん)の話(はなし)が大層長(たいそうなが)くなつたが序(ついで)に今(いま)一つ申述(もをしの)べたいと思(おも)ふのは享保(けうほ)六年に此(この)河(かは)の取締(とりしまり)其他(そのた)橋梁(けうれう)
の事に就(つ)き吉田藩(よしだはん)に於(おい)て制札(せいさつ)を掲(かゝ)げた事であるが此(この)制札(せいさつ)は大橋(おほはし)の傍(かたはら)に立(た)てられたものである幸(さいはひ)に今(いま)其(その)
実物(じつぶつ)が船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)されて居(を)るので之(これ)も所謂(いはゆる)民政史料(みんせいしれう)ともなるべきであるから左(さ)に其(その)全文(ぜんぶん)を掲載(けいさい)
する
覚 桧板《割書:長五尺八寸厚正四分上り|巾尺五分》
一川筋満水之砌兼て申付置候通り船町庄屋並組頭舟合畑中人足共召連大橋に罷出尤橋杭へかゝり候
竹木取のけ候様可相心得候
一不意ニ川水まし川上より流来候竹木其外何ニても人足共出之早速取揚させ是又本主尋来候ハヾ庄
屋組頭立合古法之通ニて相対引渡可申候若其主相しれ不申候はば役所へ訴可受下知事
一大橋下より横須賀川上の内毎年六月中ニ至庄屋組頭立合見分之上通船留滞無之様ニ致させ可申事
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百八十三
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百八十四
【本文】
一惣て船荷物出入共ニ其品悉改船番所ニ於て帳面へ記置候様ニ舟役之者可相心得候若うろんらしき
荷物於有之は庄屋組頭立合可遂吟味事
一他所船はけなくして数日逗留仕帰帆及延引候はヽ庄屋組頭立合可遂吟味事
一船町ゟ舟乗候旅人日和待は各別左もなく一切宿かし申ましく候
一伊勢参宮其外他所え参候もの船ニ乗候はゞ其宿々より国所改員数書付船役之者付届可仕候惣て利
欲にかゝはり過分ニ賃銭取不申候様茶屋共又は船主共其旨可相心得事
一あやしきもの其所独り旅人船乗せ申間敷候然共国所慥成ものに候はゝ庄屋組頭立合遂吟味可加了
簡事
一川岸上又は船荷物等小揚人足廉未不在候様是又頭分の者紛失不仕様ニ可相心得事
一旅船逗留の内橋杭其外石垣なと片取船をつなき不申候様可相心得事
一川岸揚場へ竹木板薪等数日さし置川岸場妨ニならざる様ニ是又庄屋組頭心掛吟味可仕事
一船荷物私欲ニかゝはり多積過船足深く無之様ニ出船の度々心を附可申事
一旅船共風雨の節あやうく見へ候ニ於ては早速人足共出之助力をくはへ様子よき方へつつなき留可申
事
一近辺出火ニ及び候はゝ組頭共早速かけ付御高札はづし火の元遠き方へ形付慥成番人付置可申候
一大橋不掃除無之様ニ庄屋組頭共精々見廻り橋掃除之者ニ可申付事
一銭抔かくし当所之者船之下積ニ仕他所へ遣候由此段別て船役の者相改可申若見のかし聞のかしニ
仕候ニ於ては其改候もの詮議の上急度曲事可申付事
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百五十六号附録 (大正元年九月三日発行)
【本文】
右之外従公儀被仰出候川並之御作法急度相守可申候別て六月中伊勢参の者船方共かさつ我儘ヲ申船
中之者難儀仕候由粗相聞候此段船主共向後急度可相慎候惣て平生旅人船ニ乗せ候儀船頭と乗候もの
と相対ニて乗せ候事可為停止候右之通互ニ吟味仕船番所へ断帳面ニ記出船為致候様可相心得候如此
申付候品於相背者可為曲事者也
享保六辛巳年十月 町 役 所
尚(な)ほ此(この)信祝(のぶとき)の時代(じだい)に於(お)ける事(こと)に就(つい)ては申述(もをしの)ぶればイクラもあるがさりとて大事件(だいじけん)と云(い)ふ程(ほど)の事(こと)もなか
《割書:参觀前信祝|の発せし告|示》 つたのである併(しか)し幸(さいはひ)に正徳(せうとく)四年七月 信祝(のぶとき)が江戸(えど)へ参觀(さんきん)すると云(い)ふ時(とき)に留守中(るすちう)の心得(こゝろゑ)を藩中(はんちう)に申渡(もをしわた)した
ものが此(この)表日記(おもてにつき)の中(なか)に書(か)いてあるが実(じつ)に用意周到(よういしうとう)なもので之(これ)は是非(ぜひ)申述(もをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである
而(しか)して此(この)心得書(こゝろゑがき)には各(おの〳〵)城門(じようもん)の門番(もんばん)から奥向(をくむき)の者(もの)並(ならび)に出産(しゆつさん)の時(とき)の心得(こゝろゑ)迄(まで)をも示(しめ)して居(を)るので実(じつ)に信祝(のぶとき)
が平常(へいぜう)の方針(ほうしん)を見(み)るようであるそれ故(ゆへ)余(あま)り長文(てうぶん)のものではあるが今(いま)此処(こゝ)に其(その)全文(ぜんぶん)を記載(きさい)する之(これ)だけで
も信祝(のぶとき)が方針(はうしん)の一 班(ぱん)は了解(れうかい)することが出来(でき)ると思(おも)ふ
覚
一所々城領主留主之節を見聞するに毎事ニ付ておのつから怠懈する事多し当家中領中のもの心付留
守中之勤仕猶以可励事
一上たる職より奉行頭人下々之役者迄諸事念を入領中鰥寡孤独等迄それ〳〵に心を付飢寒之憂無之
様に取計公事訴詔之儀弥以廉直に沙汰すべし乍去卑賎のものは恩恵に誇り却て害をなす事有もの
也法を背かば速に可処厳科事
附諸役評議一決をば家老共江戸え諸事不及相達可申付事
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百八十五
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百八十六
【本文】
一不依何事諸役立合之遂吟味其上ニて家老共え達し可請差図役々不穿鑿にて上のさはきのみを待時
者下に役々無之に等し予役人内々之詮議不可怠事
附役人其身は勿論妻子等え其向々之支配組下より音信贈答有之といふとも訳正しからすは一切
為致受納へからす尤以支配組下よりもケ様之一切すへからす請候ものも遣候ものも同然に越度
たるへし後日に相知るといふとも急度可申付下役のものにも堅此旨申聞置諸事私なく致さすへ
し頭之役替以後下役組頭等先々私有之趣相聞之は年月を以詮議之上当時之頭と同然に先役のも
のも急度可申付事
一郭内守衛者勿論其外口々しまり〳〵の役所番所堅固にしうろんなるもの出入無之様ニ可致旨組々
支配〳〵え急度可申渡置事
一人々分限相応に家従を抱へ弓馬等之稽古無油断武具修補を加へ万端倹約にすへし若不守之ものあ
らは目付異見を加猶不用して財を費し勤難成に至らは急度可及沙汰事
附馬仕替候節無子細して替馬遅ク求候者可為越度且又家作相応に修理し家作無之屋敷は定のこ
とく急度造作すへき事
一家中を始町在火之元念を入下々博奕かましき儀無之様可申付若下々右之類有之は支配或は組附者
頭家従之主人町在は重立候もの越度に候条急度可申付候出火地震大風雨等之変或者騒動之節定之
場え相集それ〳〵の防油断有へからざる事
一元且者いふに及はす節句月次又は於江府吉凶之告有之時別に記之趣相心得二丸屋形え相集家老共
え謁すへし惣て上たる役人え各礼儀厚くすへく候且又領内といふとも其支配々々へ不相達猥に妻
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
子等遠方へ差趣義停止之或は漁猟に耽り無僕等にて所々徘徊し危キ場へ相越怪我あらは越度たる
べし万一死に至らは跡目立へからす尤□駅宿茶店の猥なるものに会し遊興かたくすへからす若於
其所事を仕出さは理共に非たるべき事
一宗門並に新地之寺社且又品々之鉄炮之儀従公儀御改之事候宗門之儀少も疑敷儀無之様ニ念を入べ
し古より有楽寺社之境内ならすしては軽キ堂社といふとも造立無之様に改め庵も古跡にまかはさ
るほとらいに穿鑿し町在鉄炮年々指出帳面相違無之様に相改猟師之外殺生の鉄炮一切不放様ニ急
度可申付事
一所々普請修覆之儀強に先規之軽重を可守儀にもあらす却て竹木瓦石之類に改修理するといふとも
依其場苦しからす吟味之上当時之宜しき随ひ不及相達失墜無之様ニ可申付乍去城普請は品により
公儀御制禁之事茂候之条其品に依て相達可得差図事
一常々町在駅宿市店騒しからさるやうに申渡猥なるもの不指置商売之品無用之物改之高直ニ無之様
ニ申付且又道路掃除念を入並木等枯倒者早速植替橋渡之所不賑様ニ心付公用者勿論通之衆中を始
如何様之軽きもの迄茂人馬無滞旅籠等御定を守り都て旅人の煩なく家中求之用物不自由に無之様
ニ其役々無油断可申付事
一永荒之地といへとも年をかさぬる時は其土地元にかへる事歴然也其場者勿論新開之田畠速ニ見立
之堤川澤溜等之普請農時に相障らす人夫猥に不懸様に丈夫に可申付事
附山方竹木得失を考或者植或は伐取候事油断有間敷事
一貢税之儀常に考之免之儀古田新田共に過不及を改糺し検見に到り中分に取計ふへし収納多からん
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百八十七
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百八十八
【本文】
事のみを思ひ百姓困窮に至らしむへからす乍去税うすきは百姓の好む所にて種々事を巧み役人を
惑はし或は賄賂をもつて下役へ有無を隠する類有事也能々可改之若ケ様之類有之者其役人下役且
又本人は不及申所々重立候百姓不残仕置ニ可申付之条役人百姓共に急度此旨相守事
附収納之儀極月中に限るべし俵入等下役私曲無之様可改旨急度可申含置候且又物成札家中より
其役人え申遣といふとも其者親疎に依て遅速有時は家中之害をなす事甚し其役人無滞様ニ可心
懸候申趣候ものも自分〳〵訳正しく遂吟味候上可申遣事
一入用之金銀米穀絹布器物魚鳥野菜及其外之雑用少茂費無之様ニ可相改乍去倹約を用候茂公用之為
に候条表立候用事手支不見苦様ニ念を入通之衆中えの音物等茂先々の人品を考相応にいたすへし
此等之詮議勝手向之役人油断有間敷事
右之条目者勿論先々出之制法無忘却堅可相守者也
正徳四甲午年七月 日
御目付以上之御役並吟味札元山方大書院へ集御用役並も出之各列座中老侍座縁頬ニ御小姓頭御用人
列座右御条目伊澤平蔵読之御役人以下之者共へは御目付共ゟ触之
覚
一留守中節句月次四時前二丸え罷出弓之間鑓之間玄間迄之内家中表向之もの不依高下打込ニ相集年
寄共罷出候を相待可申候近習は中小姓之席中小姓者供小姓之席へ相集右同然ニ相心得可申候事
一年寄共大書院滑敷居之内ニ列座同所ニ中老待座滑敷居外ニ用人列座縁頬に目付使番可相誥奏者番
不残旅奉行加り罷出礼可仕候退座之後鑓奉行者頭一同ニ罷出右之趣ニて退り次ニ馬廻一番切ニ罷
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百六十二号附録 (大正元年九月十日発行)
【本文】
出右之通ニテ退リ次ニ城番一同ニ罷出右之通ニテ退リ次ニ大納戸小納戸吟味打込ニ罷出退ク次ニ
書物方近習不残打込ニ罷出退ク次ニ中小性櫓方打込ニ罷出退ク次ニ医師罷出退ク次ニ札本山方打
込ニ罷出退ク畢而不残相済候段申達之壱方ニ目付使番一同ニ罷出退ク右済了之間ニ小役人並居年
寄共中老用人誘引候て通中央ニテ中座之節一同ニ礼可仕候但郡奉行町奉行用役用役並は用繁之事
候間用部屋へ年寄共罷出候節於用部屋礼可仕候
一文殊院並目見斗之子共不及出之勿論病気等之故障ニテ不罷出時者其向々え断書可差出候於用部屋
不落様ニ留付可申事
附元日ニ者目見之子共罷出勤之もの礼済候跡にて一同罷出謁可申候其跡ニテ文殊院罷出謁可申
候
一勿論退出之砌家老中老用人共迄相廻リ可申候事
一次月之間一度宛役人之外のもの兼テ日を不定前日目付共ニ申付為触之右之通ニ集置謁之時相応之
挨拶可申候其当日は月番之役人共可罷出候目付使番少々罷出諸事指引可仕候尤侍座之役人可罷出
候勿論病気障有之もの断入候事
附役人者於会所茂切ニ逢候間急度不及罷出勝手次第たるへき事
一従江戸吉凶之告有之節前日目付共ニ申付触させ月次之通集之謁可申候勿論病気等故障之義可及断
候
一右退出之節家老中老用人共迄相廻可申候
一月次其間之出仕之外ニ家老中老用ともへ繁々見廻可申候
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百八十九
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百九十
【本文】
一重キ儀者二丸え罷出軽キ儀者年寄共へ可相廻候其節年寄共差図可有之条守其旨可申候
一大番所当番のものは元日節句月次共ニ不及出仕人入込候節候間別て大切ニ番可仕候二丸番所のも
のは年寄共出入之節番所前へ罷出謁可申候尤夕飯の代りに罷出候ものは両所共ニ二丸屋形へ可罷
出候従江戸吉凶之事告来候付テ相廻候儀是又代り合之節相廻可申候
一右退出之跡二丸火之元念入目付徒目付下目付立合改させ可申候多葉粉湯茶之類一切無用之事礼未
相済内下々猥なる事無之様供 者集居候所へ徒目付下目付罷出制之可申事
一自江戸来居候用役次ニ楠本八十次長塩又市両人は奥向に付て用繁候事候間闕候ても不苦事
以 上
午 七 月
右之通書付御目付共へ相渡触之
諸口番所留守中勤方之覚
一本丸火番所 馬廻六人此内ニテ鍵番も可相勤候
中間壱人
一同出番所 足軽四人
一六人のもの三人宛昼夜不明様に食代等可仕候足軽四人之内弐人宛不明様に食代可仕候裏之窓より
塩焇蔵之方折々心付見可申候
一風雨其外心付候事有之節は馬廻壱人足軽壱人召連中間ニ提灯もたせ新口より二之丸屋形裏廻金閑
丸木戸際迄見廻り可申候
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
一冠木門昼夜共に錠おろし鍵は大番所ニ可指置候普請等付テ大勢人入込不明して不叶時者大番所之
もの壱人立合可明之無左して猥に明へからす潜茂昼之内斗明暮六時ゟ仕廻鍵は大番所に可指置候
本丸門之大門右同意に相心得可申候潜は昼夜ともに貫木不指して外より錠掛之鍵は大番所ニ指置
用事之節は可明之昼夜共ニ右之通可相心得候
定
一胡乱なるもの一切通すへからさる事
一当番之外一切人集すへからさる事
一高咄尤音曲碁将棊停止之事
附大酒すへからさる事
一寒気之節に候共障子たて暑気之節に候共下座薄縁之上なとへ罷出涼候義仕間敷候事
附家老中老通候節下座敷之上迄罷出逢可申候事
一若違変之事あらば早々月番之者頭目付え可相達候事
右之通堅可相守者也
午 七 月
一二丸侍番所
井口才兵衛 藤井弥太夫 岡田卯右衛門
本多仁左衛門 宇佐美兵蔵 村嶋案右衛門
福岡喜平次 大嶋杢右衛門 安松金太夫
三番添番
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百九十一
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百九十二
【本文】
一番添番 鋤柄與一右衛門 二番添番 寺尾理太夫 吉田藤蔵
田沼平吉 柏木徳兵衛 清水彌五太夫
平嶋七兵衛 庄司幾右衛門 若原九郎兵衛
山本半右衛門 今村十五郎
右一組之事内ニテ食代泊等仕三人程宛不明様相勤可申候尤右之内ニテ鍵番も不相勤候
一番所明置出入心付胡乱なるもの一切通すへからす上之間ニ罷有窓之簾より通之者見透し可申候見
へ候所へ出居候には不及候事
一同足軽番所足軽四人食代ともに可相勤候大門昼夜共に錠かけ鍵は大番所に可指置候昼之内は潜明
置夜は潜も仕廻鍵は大番所に可指置候尤本丸番所同前之法度書張置可申候事
一帯曲輪新番所足軽四人食代共に帯曲輪へ入候口常に錠おろし置可申候川筋帯曲輪も見へ候番所に
候間両様とも胡乱なる事も候哉常に心懸見可申候
一本丸両裏口冠木門帯曲輪入口同埋門同埋門金閑丸門同所木戸二丸西之門三丸埋門右之所々常に錠
おろし鍵は大番所に可指置候右所々之鍵月番之者頭封印ニテ指置之入用之節は封を切候テ仕廻候
節は又如元月番之者頭封印ニテ可指置候
一本丸新口昼夜共に錠懸置廻り之節は可明之外之錠は常ニおろさす鍵は月番之者頭封し置大番所に
可指置之金閑丸木戸潜外之錠もおろし置鍵は是又月番之者頭印封にて大番所に可指置所々犬走え
出候口之錠尤おろし急に明候用も無之候付テ鍵は増井岡右衛門宿ニ可指置候関谷口之鍵も同前ニ
可心得候
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百六十七号附録 (大正元年九月十七日発行)
【本文】
一二丸裏門番留守中番人不入門は潜共ニしめ置尤右之鍵月番之者頭印封にて二丸侍番所ニ可指置候
一城米蔵番置附番弐人
一三丸大手足軽番所足軽四人食代共ニ但門錠之事二丸表門同意に相心得鍵は二丸侍番所ニ可指置候
一三丸米蔵只今之通置附番人可指置候
一川毛門昼夜共ニしめ置鍵は二丸侍番所ニ指置月番之者頭封印可仕候番人は四人指置食代ともに仕
可申候
一門天王口しめ切大鼓之もの指置之足軽不及指置候鍵は二丸侍番所に指置月番之者頭印封可仕候
一大手外天王口本町口曲尺手口両町口神明口常々之通可相心得候
一柳生門足軽四人新規に指置之食代共に可為仕候
一新町口置附番人弐人
一外飽海口置附番人弐人
一内飽海口置附番人四人内弐人宛不明様可為仕候
一入道淵より関谷口曲輪之角迄用之外泊船一切懸置へからす只今迄泊り候船も相見へ候向後右之通
無之様に可仕候寄々役人共改可申候
定
此札場より下之札場迄之内夜中一切船懸へからさるもの也
午七月 日
右之通札ニ書上は入道淵川下は関谷口之角ニ建可申候尤下々方ニ建候札は此札場より上之札場迄と
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百九十三
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百九十四
【本文】
認可申候
一二丸え之用向を始三丸より内え之用入三丸大手一口にいたし火事等又は無拠事之外一切出入無用
ニ候収納之節蔵へ郷方のもの罷越候も三丸大手より出入可為致事
一広敷向用事付て楠本八十次長塩又市より申越次第二丸裏門川毛門両所共ニ明可申候鍵は二丸表門
之足軽ニもたせ遣し用事無滞様ニ可心得事
一二丸玄関者常に仕廻置可申候目付共勿論岡右衛門折々罷越破損等相改可申候事
一近習向之義小納戸之者折々罷越右同断ニ心得可申候勿論岡右衛門義同前ニ心得可申候事
一火之番定之通親規ニ中間小頭壱人中間相応に火消道具之手当いたし置可申候其外之勤之義先規之
通に可相心得事
一庭向樹木等之義只今迄之通儀左衛門金助世話可仕候事
右之通留守申堅可相守者也
午 七 月
定
用 人 以 上
安 松 金 右 衛 門
石 井 権 左 衛 門
安 松 金 助
用 之 節 斗
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
増 井 岡 右 衛 門
目 付
用 役 並
小 納 戸
吟 味 役
徒 目 付
小 林 彌 五 左 衛 門
普 請 方 之 者
火 之 廻 之 者
下 目 付
右之外一切広敷に出入停止之佐野恵左衛門海法小隼萩原小門次者可為制外者也
正徳四年七月 日
定
一惣女ともなに事もいちやさしつそむき申へからすかつまた家中より出候女ともおやこきやうたい
といふともしけ〳〵につかいつかはしふみのとりかはしいたすへからさる事
一火ところ並ニへや〳〵の火のもとすいふんねんを入すこしにてもした〳〵ばくゑさかましき儀こ
れなきやうに可申付候事
附何事によらすふれいふさほうなる義これなきやうにたしなみ可申事
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百九十五
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百九十六
【本文】
一次の女はかくへつそれより上の女一切すゑへまかり出へからす惣してさわかしからさるやうこゝ
ろへ可申事
附いちやけんはかくへつ次の女はもちろんはした下女等にいたるまてしめきりより外へ一切出
へからすもしようの事これあるともしめきりのしきゐをへたてようむきたし可申候事
一やとおりの事一しゆくにかきるへしもしよりところなきわけこれあるか又はわつらひニてかへり
かたき時は八十次又市両人のうちへやとよりことわり申こしそのものはいちやかたへとゝけさし
すしたいにいたすへく候事
一いちやはかくへつやとおりの外一切ほかへまかり出へからさる事
附けんはいちやさしすしたいいつかたへもまかり出へき事
右の通かたく相まもるへきもの也
正徳四年七月 日
條 々
一門々其外切手類且又広敷へ請取候品々楠本八十次長塩又市両判にて請取可申候臨時之事は用役共
へ相談可申事
附門或は役所等へ両人判鑑出し置可申候
一男女入交はらさる儀専一ニ候錠口朝六時明之暮六時急度仕廻私之用として一切明へからさる事
附下男下女博奕かましき儀一切無之様に相改可申候
一火之元別て念を入折々錠口之内え両人之もの罷越火之元相改風吹候節は両人立合にて所々相廻可
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百七十三号附録 (大正元年九月廿五日発行)
【本文】
改之且又折々屋作破損等も無之哉座敷向部屋方等迄相改破損有之候はゞ増井岡右衛門え可申達候
口々只今迄之通錠之印封両人にて可仕候座敷庭共ニ折々掃除為致へし座敷之内常ニ立込置不申風
入候様ニいたし尤晩々に仕廻可申事
一不依何事不及了簡儀者用役並用懸之ものへ可申請料理之義入候節は小林弥五左衛門呼候て可申付
候事
一奥之ものへ音信贈答有之者当番のもの相改之若疑敷音信等も候はゞ用懸のものへ早速相達得差図
可申候寺社郷方町々之音信一切不留置返し可申候札守は天王秋葉金閑丸之外差越候共返し可申事
一病人有之医者入候節は八十次又市より申越左近は物縫所其外者火燵之間にていちやと立合逢せ可
申候次之女老女下女等者けんと立合にて末ニて逢せ可申候尤両人のものも壱人立合可申候事
一若表向之者共猥に広敷へ相越候者蜜に用懸のものへ可申達候事
附商売人も定り候者之外一切広敷へ呼申間敷候事
右之條々堅可相守之者也
正徳四年七月 日
右三品御発足之翌日ゟ懸置可申候
用懸之者え申渡覚
一用懸之もの折々罷越いちや八十次又市ニ逢諸事念入候様可申渡候乍去いちや壱人ニて用繁候事候
間罷資候ても不出事も可有之候内々之義者諸事用役へ申含置候相談し可申候尤重キ儀は助左衛門
え達し差図次第ニ可仕事
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百九十七
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一般) 二百九十八
【本文】
一目付共折々広敷え罷越被火之元可申付候風吹候節は猶以火之元大切ニ可申付候事
一内田宇平次儀留主之内者広敷向之用事書物等佐野恵左衛門可申付候若故障之節はいつれニても勘
定人之内恵左衛門用向之書物為勤可申候尤書物之儀恵左衛門得指図不依何事違背不仕様可申付候
事
一広敷より出候切手事は楠本八十次長塩又市両人出し申候間其通ニ相心得可申候門或は役所へ両人
判鑑為出可置事
一出産之節之儀別紙之通ニ相心得可申候條目等之儀惣様相心得可罷有事
一料理等入候節は小林弥五左衛門ニいたさせ可申候事
一広敷へ出入之定寄々可申達候且又商売人も用懸之者立合致吟味広敷之用向相達候もの定置之外者
広敷へ一切不参候様相定置可申候出入之町人用向ニて罷越候儀者格別に候惣て雑用等不自由ニて
無之様ニ専一ニ可申付候事
一節分ニ者増井初左衛門例年之通祝儀之式初させ可申候其節いちや八十次又市両人之内壱人立合奥
座敷所々打せ可申候用懸之者不残広敷へ相詰可申候事
但煤竹入候事右同前ニ可相心得事
一万歳例年之場ニて祝儀之式可申付候此節権左衛門歟金助両人之内立可申候事
以 上
午 七 月
出産之節之覚
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
一出産候者二日半限之飛脚ニて年寄共より申越筈候其旨相心得可申事
一出産之節者用懸之もの早々相集可申事
一山中江庵小池一庵早速相詰させ可申候品により岡山一友呼ニ遣可申候平井作庵も小児の方心得候
用様ニ相聞候間此節相詰させ可申候事
一取揚のもの其月に至候はゞ広敷へ相詰さすへく候来月より一切他え不罷出様に可申付置事
一門々其節無滞何茂罷出候節明候様ニより〳〵可申達置事
一七夜之内は金右衛門権左衛門金助壱人つゝ代々昼夜不明様罷有諸事可申付事
一能程らい迄用懸のもの毎日罷越機嫌伺諸事可申付候相止候儀助左衛門へ相伺指図次第たるべき事
一出産之事ニ付人入候はゞ用懸のもの致相詰之助左衛門へ相達宜取斗可申候事
一出産の悦用人以上江戸え書状差越尤家老中老用人共迄相廻可申候用役用役並右同断用懸の者不及
書状家老中老用迄相廻可申候近習不残右同断候間寄々可申達置候事
一江戸え相聞候以後追て弘め可有之候間其節迄者役人たりといふとも表向之もの祝儀として相廻候
に不及候是又寄々可申達置事
一此外内々之儀恵左衛門ニ申含置候間所持諸事可申請候事
以 上
午七月 日
尚(な)ほ此処(こゝ)に付加(つけくは)へて置(お)くが此(この)信祝(のぶとき)が寄進(きしん)したものでは吉田神社(よしだじんしや)に自筆(じしつ)の絵馬(ゑま)並(ならび)に石(いし)の手水鉢(てうづばち)之(これ)は現今(げんこん)
使用(しよう)されて居(を)るのがそれであると記臆(きをく)する其他(そのた)社寺堂塔(しやじどうたう)を修繕(しうぜん)した棟札(むなふだ)などは甚(はなは)だ少(すくな)くないが一々は
【欄外】
豊橋市史談 (信祝の人物並に事蹟の一班) 二百九十九
【欄外】
豊橋市史談 (京極と永井局) 三百
【本文】
申上(まおしあげ)ぬのである又(ま)た之(これ)は信祝(のぶとき)に関係(くわんけい)のない事(こと)であるが享保(けうほ)二 年(ねん)に今(いま)の湊町(みなとまち)神明社(しんめいしや)境内(けいだい)にある弁天祠(べんてんし)の
建立(こんりう)があつて船町(ふなまち)のものが寄付金(きふきん)を集(あつ)めて之(これ)を建(た)てたのである無論(むろん)現今(げんこん)の堂(どう)ではない併(しか)し此(この)園池(えんち)と云(い)
ふものは先(さき)にも申上(まおしあ)げて置(を)いた如(ごと)く山田宗偏(やまだそうへん)の設計(せつけい)であるから既(すで)に其(その)時(とき)弁天(べんてん)の堂(どう)はあつたものに相違(さうゐ)
ないそれが今度(このたび)破損(はそん)でもした為(ため)に改築(かいちく)した事(こと)であると思(おも)ふが今(いま)から見(み)ると其(その)寄付帳(きふてう)と云(い)ふものが実(じつ)に
面白(おもしろ)く感(かん)ぜられるのである此(この)寄付帳(きふてう)は今(いま)も船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に残(のこ)つて居(を)る
《割書:信祝夫人京|極氏》 ⦿京極と永井局
茲(こゝ)に是非(ぜひ)御話(おはなし)して置(お)きたいのは信祝(のぶとき)の夫人(ふじん)京極氏(けうごくし)の事(こと)である此(この)京極氏(けうごくし)は前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(まをしの)べた如(ごと)く名(な)を
種(たね)と云(い)つて讃岐丸亀(さぬきまるがめ)の城主(じようしゆ)京極備中守高豊(けうごくびちうのかみたかとよ)の女(ぢよ)であるが祖父(そふ)に当(あた)る酒井雅樂守(さかゐうたのかみ)忠挙の養女(やうぢよ)となつて宝(ほう)
永(えい)元年(がんねん)四月十日 此(この)信祝(のぶとき)の処(ところ)へ嫁(か)したのである此(この)人(ひと)は七十三 歳(さい)まで存生(ぞんせい)で宝暦(ほうれき)十一年十二月十六日の卒(そつ)
去(きよ)であるが松泉院(せうせんゐん)と云(い)はれたのである此(この)人(ひと)の手蹟(しゆせき)は今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に多数(たすう)残(のこ)つて居(を)るが特(とく)に書簡(しよかん)が三十
余通(よつう)もある其(その)壮年時代(さうねんじだい)のものは如何(いか)にも名筆(めいひつ)で孰(いづ)れも其(その)夫(おつと)信祝(のぶとき)が国(くに)にあつた頃(ころ)に江戸(えど)から送(おく)り越(こ)した
ものである而(しか)も文中(ぶんちう)実(じつ)に情愛(ぜうあい)の籠(こも)つつて居(を)る間(あひだ)に凛(りん)とした処(ところ)があつて頗(すこぶ)る模範(もはん)とすべきものがある併(しか)し
其(その)晩年(ばんねん)のものは病気(べようき)ででもあられたものか孰(いづ)れも手蹟(しゆせき)が震(ふる)へて居(を)つて甚(はなは)だ読(よ)み難(にく)いが之(これ)は多(おほ)く其(その)子(こ)信(のぶ)
復(なほ)が既(すで)に城主(じようしゆ)となつてから其(その)国(くに)に就(つ)いて居(を)つた処(ところ)へ送(おく)られたもので之(これ)は又(ま)た其(その)子(こ)に対(たい)する情愛(ぜうあい)の掬(きく)す
《割書:永井局本名|尼崎里也》 べきものが少(すくな)くないのである兎(と)に角(かく)貞淑(ていしゆく)にして尋常(じんぜう)一 様(よう)の婦人(ふじん)でなかつた事(こと)が分(わか)るが京極家(けうごくけ)から此(この)夫(ふ)
人(じん)に付(つ)いて来(き)た女(おんな)に永井局(ながゐのつぼね)と云(い)ふのがあつて之(これ)が又(ま)た容易(ようい)ならぬ履歴(りれき)のある婦人(ふじん)である此(この)永井局(ながゐのつぼね)の伝(でん)
記(き)に就(つい)ては先年(せんねん)東京(とうけう)の時事新報(じゞしんぽう)にも小説体(せうせつてい)に綴(つゞ)つて記載(きさい)された事(こと)があるが讃岐丸亀(さぬきまるがめ)の津田壽盛君(つだじゆせいくん)が此(この)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百七十八号附録 (大正元年十月一日発行)
【本文】
頃(ごろ)著(あらは)された讃岐(さぬき)の佳人(かじん)と云(い)ふ書物(しよもつ)の中(なか)にも記(しる)されてあるのである今(いま)其(その)大要(たいえう)を茲(こゝ)に御話(おはなし)したいと思(おも)ふが
此(この)永井局(ながゐのつぼね)は本名(ほんめい)を尼崎里也(あまざきさとや)と云(い)つて丸亀(まるがめ)風袋町(かぜふくろまち)の生(うまれ)である父(ちゝ)は京極家(けうごくけ)弓組(ゆみぐみ)の足軽(あしがる)で尼崎幸右衛門(あまざきかううゑもん)と云(い)
ふ人(ひと)であつたが当時(たうじ)幸右衛門(かううゑもん)の同僚(どうれう)に岩淵伝内(いはぶちでんなん)と云ふ者(もの)があつて性質(せいしつ)甚(はなは)だ宜(よろし)からぬ無頼(ぶらい)の奴(やつ)であつた
が之(これ)が深(ふか)く里也(さとや)の母(はゝ)に懸想(けさう)して或時(あるとき)夫(おつと)幸右衛門(かううゑもん)の留守(るす)を窺(うかゞ)つて其(その)家(いへ)に来(きた)り初(はじ)めは甘言(かんげん)を以(もつ)て之(これ)を挑(いど)む
だが遂(つひ)には暴力(ばうりよく)に訴(うつた)へむとしたのである其(その)時(とき)恰(あたか)も夫(おつと)の幸右衛門(かううゑもん)が外(そと)から皈宅(きたく)したので里也(さとや)の母(はゝ)は早速(さつそく)
夫(おつと)を別室(べつしつ)へ呼(よ)むで其(その)暴状(ばうぜう)を告(つ)げたのであるソコで幸右衛門(かううゑもん)は非常(ひぜう)に立腹(りつぷく)して其(その)無礼(ぶれい)を伝内(でんない)に詰(なじ)つたが
伝内(でんない)は元来(がんらい)腹黒(はらくろ)い白奴(しれもの)であるから遂(つひ)に刃傷(じんせう)に及(およ)むで幸右衛門(かううゑもん)を其(その)場(ば)に殺害(さつがい)したのである里也(さとや)の母(はゝ)は之(これ)
を見(み)て大(おほい)に驚(おどろ)いたが其(その)時(とき)伝内(でんない)は既(すで)に屋外(をくがい)十 数歩(すうほ)の処(ところ)まで逃(に)げ行(ゆ)く処(ところ)であつたから止(やむ)を得(え)ず後(あと)から夫(をつと)の
刀(かたな)を取(と)つて之(これ)を伝内(でんない)に投(な)げ付(つ)けたのであるが之(これ)がウマく其(その)肩(かた)を傷(きつゝ)けた併(しか)し伝内(でんない)は其(その)侭(まゝ)遂(つひ)に逃(のが)れ去(さ)つて
踪跡(さうせき)を晦(くら)ましたのである藩(はん)に於(おい)ても此(この)訴(うつたへ)によつて伝内(でんない)の行衛(ゆくえ)を尋(たづ)ねたが遂(つひ)に見出(みいだ)す事(こと)が出来(でき)ず里也(さとや)
の母(はゝ)は当時(たうじ)二 歳(さい)になる此(この)里也(さとや)を連(つ)れて余儀(よぎ)なく夫(をつと)の妹婿(いもとむこ)関根元右衛門(せきねもとうゑもん)と云ふ人の家へ寄食(きしよく)するに至(いた)つ
た然(しか)るに日夜(にちや)の苦心(くしん)は遂(つひ)に身体(しんたい)をも痛(なや)めたものか之(これ)と云(い)ふ病源(びようげん)もなかつたのに之(こ)れ亦(ま)た半歳許(はんとしばかり)の後(のち)に
千万 無量(むれう)の怨(うらみ)を含(ふく)むで病死(びようし)するに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て此(この)里也(さとや)は不幸(ふかう)なる孤独(こどく)となつたが叔父(おぢ)元右(もとう)
衛門(ゑもん)は爾来(じらい)里也(さとや)を己(おの)れの子(こ)の如(ごと)くにして養育(やういく)したのである
かくて里也(さとや)が十三 歳(さい)となつた時(とき)元右衛門(もとうゑもん)は初(はじ)めて其(その)事情(じぜう)を里也(さとや)に明(あ)かしたのであるが里也(さとや)は之(こ)れ迄(まで)只(た)
だ己(おの)れは元右衛門(もとうゑもん)の実子(じつし)であるとのみ思(おも)つて居(を)つたのであるから殆(ほとん)ど悶絶(もんぜつ)せむ計(ばか)りに驚(おどろ)いた併(しか)し心(こゝろ)を
取(と)り直(なほ)して爾来(じらい)は一 層(そう)忠実(ちうじつ)に叔父(おぢ)に事(つか)ゆるに至(いた)つたが此(この)時(とき)里也(さとや)の心中(しんちう)には既(すで)に仇討(あだうち)の決心(けつしん)があつたの
であるかくて里也(さとや)は十八 歳(さい)と相成(あひな)つた時(とき)遂(つひ)に叔父(おぢ)に請(こ)つて江戸(えど)へ出(い)でたのであるが之(これ)が実(じつ)に仇討(あだうち)の門(かど)
【欄外】
豊橋市史談 (京極と永井局) 三百一
【欄外】
豊橋市史談 (京極と永井局) 三百二
【本文】
出(で)とも云(い)ふべきもので其(その)時(とき)里也(さとや)は叔父(おぢ)の尽力(じんりよく)で同藩(どうはん)の士(し)村瀬藤馬(むらせとうま)と云(い)ふ人(ひと)に伴(ともな)はれて江戸(えど)に下(くだ)つたの
であつたが藤馬(とうま)は更(さら)に里也(さとや)を麾下(きか)の士(し)永井源介(ながゐげんすけ)と云(い)ふ剣客(けんかく)の処(ところ)へ世話(せわ)をしたのであるソコで里也(さとや)は此(この)
家(いへ)の炊掃(すゐさう)の婢(ひ)として住(す)み込(こ)むだが元(も)と目的(もくてき)が目的(もくてき)であるから暇(ひま)さへあれば剣術(けんじゆつ)の道場(どうぜう)へ行(い)つては熱心(ねつしん)
に其(その)仕合(しあひ)を見(み)て居(を)つたのであるこれが遂(つひ)に主人(しゆじん)永井(ながゐ)の為(ため)に恠(あやし)まるゝに至(いた)つたので永井(ながゐ)は一 日(にち)里也(さとや)を己(おの)
れの膝下(ひざもと)に呼(よ)むで其(その)志(こゝろざし)を問(と)つたのであるが里也(さとや)は今(いま)は包(つゝ)むによしなく遂(つひ)に其(その)志(こゝろざし)を永井(ながゐ)に明(あ)かした
ソコで永井(ながゐ)は之(これ)を聞(き)いて深(ふか)く感激(かんげき)し遂(つひ)に誓(ちか)つて其(その)宿志(しゆくし)を遂(と)げしむる事(こと)を約(やく)したのである之(これ)より永井(ながゐ)は
竊(ひそ)かに里也(さとや)に教(おし)ゆるに武技(ぶぎ)を以(もつ)てし丹誠(たんせい)を凝(こ)らして其(その)研磨(けんま)を積(つ)ましめたが熱心(ねつしん)は恐(おそ)ろしいもので僅(わづ)か
二ケ 年(ねん)の間(あひだ)に里也(さとや)の技(ぎ)は大(おほい)に進(すゝ)むだのであるソコで永井(ながゐ)は或日(あるひ)里也(さとや)に諭(さと)して速(すみやか)に其(その)家(いへ)を去(さ)り此上(このうへ)は
仇(あだ)伝内(でんない)を尋(たづ)ね出(いだ)すべき方略(はうりやく)を講(こう)ぜよと勧告(くわんこく)したが之(これ)より里也(さとや)は各処(かくしよ)に流寓(るうぐう)し爾来(じらい)十二ケ 年(ねん)の間(あひだ)主人(しゆじん)を
易(か)ゆること七十四 具(つぶさ)に辛苦(しんく)を甞(な)めて只管(ひたすら)其(その)仇(あだ)を尋(たづ)ね出(いだ)す事(こと)を勉(つと)めたのである其(その)堅忍不抜(けんにんふばつ)の精神(せいしん)と云(い)ふも
のは実(じつ)に聞(き)くものをして感泣(かんきう)せしむるものがある
トコロで里也(さとや)が最終(さいしう)に住(す)み込(こ)むだのが坂根安兵衛(さかねやすべゑ)と云ふ旗本(はたもと)の邸(やしき)で本所(ほんじよ)に住(す)むで居(を)つたのであるが其(その)
家(いへ)に小泉文内(こいづみぶんない)と云ふ一人(ひとり)の若党(わかとう)があつた年(とし)は五十 余(あま)りで頗(すこぶ)る酒好(さけずき)であつたが一 夕(せき)酔余(すゐよ)の雑談(ざつだん)として物(もの)
語(がた)つた話(はなし)の内(うち)に里也(さとや)はドウも之(これ)が仇(あだ)の伝内(でんない)ではないか知(し)らぬと思(おも)はるゝ節(ふし)を発見(はつけん)したソコで里也(さとや)は轟(とゞろ)
く胸(むね)を押(お)し鎮(しづ)めて段々(だん〴〵)と話(はなし)を導(みちび)き出(だ)して見(み)た処(ところ)が文内(ぶんない)も遂(つひ)には調子(てうし)に乗(の)つてありし昔語(むかしがたり)を繰(く)り返(かへ)し
己(おの)れが其(その)岩淵伝内(いはぶちでんない)なる事(こと)をも告(つ)げて往年(おうねん)里也(さとや)の母(はゝ)が怨(うらみ)を籠(こ)めし刀(かたな)の痕(あと)までをも示(しめ)したのである里也(さとや)は
実(じつ)に優曇華(うどんげ)の花待(はなま)ち得(え)たる心地(こゝち)したが翌日(よくじつ)早速(さつそく)永井源介(ながゐげんすけ)の処(ところ)へ馳付(はせつ)けて事(こと)の顛末(てんまつ)を告(つ)げたのであるソ
コで永井(ながゐ)は丁度(ちようど)在勤中(ざいきんちう)の村瀬藤馬(むらせとうま)にも計(はか)つて之(これ)を公儀(こうぎ)に訴(うつた)へ出(い)で直様(すぐさま)伝内(でんない)を召取(めしと)つて丸亀藩(まるがめはん)に護送(ごそう)し
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
たが程(ほど)なく丸亀藩(まるがめはん)に於(おい)ては式(かた)の如(ごと)く仇討(あだうち)の場所(ばしよ)を設(まを)けて伝内(でんない)里也(さとや)両人(れうにん)をして雌雄(しゆう)を決(けつ)せしめたのであ
《割書:尼崎里也父|の仇を復す》 る此(この)時(とき)村瀬藤馬(むらせとうま)は里也(さとや)の差添(さしそへ)として出頭(しゆつとう)したが里也(さとや)の孝心(かうしん)は凝(こ)つて此(この)悪漢(あくかん)伝内(でんない)を切(き)り伏(ふ)せ他(た)の助太刀(すけだち)
をも要(えう)せず見事(みごと)に復仇(ふくきう)をなし遂(と)げたとの事(こと)である蓋(けだ)し里也(さとや)は二 歳(さい)の時(とき)に父(ちゝ)を喪(うしな)ひ三 歳(さい)で又(ま)た母(はゝ)に別(わか)れ
十八 歳(さい)にして初(はじ)めて仇討(あだうち)の門出(かどで)をなしたが爾来(じらい)苦辛惨憺(くしんさんたん)十七 年目(ねんめ)で初(はじ)めて其(その)目的(もくてき)を達(たつ)したのである之(これ)
が恰(あたか)も元禄(げんろく)十三 年頃(ねんごろ)の事(こと)であるが京極家(けうごくけ)に於(おい)ては此(この)里也(さとや)の孝烈苦節(かうれつくせつ)を感(かん)じて士分(しぶん)に取(と)り立(た)て其(その)愛女(あいぢよ)の
傅(ふ)たらしめたのであるが里也(さとや)は其(その)後(のち)恩人(おんじん)源介(げんすけ)の厚情(かうぜう)を忘(わす)れぬ為(ため)とあつて永井(ながゐ)を称(せう)したので遂(つひ)に永井(ながゐ)の
局(つぼね)と呼(よ)はるゝに至(いた)つたが此(この)京極家(けうごくけ)の愛女(あいぢよ)と云(い)ふのは即(すなは)ち信祝(のぶとき)夫人(ふじん)となられた於種殿(おたねどの)で此(この)人(ひと)が松平家(まつだひらけ)
に輿入(こしいれ)の時(とき)は矢張(やはり)永井局(ながゐのつぼね)も御付人(おつきひと)として随従(ずいじう)したのである其(その)後(のち)松平家(まつだひらけ)に於(おい)ては此(この)永井局(ながゐのつぼね)の為(ため)に一 家(か)を
起(おこ)さしめたと云(い)ふ事(こと)であるが無論(むろん)江戸(えど)住居(すまゐ)であつたから此(この)豊橋(とよはし)には何等(なんら)遺(のこ)つたものもないのみならず
其(その)跡(あと)と云(い)ふものが甚(はなは)だ不明(ふめい)であるのは遺憾(ゐかん)である私(わたくし)も平常(へいぜう)其(その)後(のち)の経歴(けいれき)に就(つい)ては心掛(こゝろが)けて研究(けんきう)して居(を)る
ものであるが「讃岐(さぬき)の佳人(かじん)」の著者(ちよしや)からも数々(しば〳〵)申越(まをしこ)された事(こと)もあるのである幸(さいはひ)に諸君(しよくん)の中(なか)に何分(なにぶん)にても
此(この)人(ひと)の事(こと)に関(くわん)して御承知(ごせうち)の方(かた)があつたならば平(ひら)に御教示(ごけふじ)を請(こ)ひたいものであると思(おも)ふ併(しか)し私(わたくし)は此(この)信祝(のぶとき)
夫人(ふじん)京極氏(けうごくし)が前(まへ)にも申述(まをしの)ふる如(ごと)く尋常(じんぜう)一 様(やう)の婦人(ふじん)でないと云(い)ふのを見(み)るに付(つ)けても其(その)半面(はんめん)には又(ま)た何(なん)
となく此(この)永井局(ながゐのつぼね)が面影(おもかげ)を見(み)らるゝように思(おも)つて居(を)るのである
⦿松平資訓と其事蹟
《割書:松平信祝と|松平資訓と|の交代》 前(まへ)に申述(まをしの)べた如(ごと)く松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)は享保(けうほ)十四年二月二日 大坂城代(おほさかじようだい)に任(にん)ぜられたが其(その)月(つき)の十五日 遠江(とほとふみの)
国(くに)浜松城(はままつじよう)に移封(いほう)と相成(あいな)つたのである而(しか)して之(これ)と相(あい)交代(かうたい)して浜松(はままつ)から此(この)吉田城(よしだじよう)に転封(てんほう)と成(な)つたのが松平(まつだひら)
【欄外】
豊橋市史談 (松平資訓と其事蹟) 三百三
【欄外】
豊橋市史談 (松平資訓と其事蹟) 三百四
【本文】
本庄宗資 豊後守(ぶんごのかみ)資訓であるが此(この)資訓の家(いへ)と云ふのは元(も)と二 條家(でうけ)の家人(けにん)で其(その)本姓(ほんせい)は本庄(ほんぜう)である而(しか)して其祖(そのそ)因幡守(いなばのかみ)
宗資(むねすけ)と云ふ人(ひと)は彼(か)の五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の母(はゝ)桂昌院(けいせうゐん)の弟(おとゝ)で綱吉(つなよし)がまだ舘林(たてばやし)に居(を)つた頃(ころ)から之(これ)に仕(つか)へて段々(だん〴〵)と
引立(ひきた)てられたものである初(はじ)めは廩米(りまい)僅(わづ)かに五百 俵(ぺう)であつたが遂(つひ)には五万 石(ごく)の大名(だいみよう)とまで相成(あひな)つたのであ
《割書:本庄宗俊浜|松に封せら》 る其(その)子(こ)の宗俊(むねとし)は又(ま)た早(はや)くから綱吉(つなよし)に仕(つか)へ元禄(げんろく)十五年九月七万石に加増(かぞう)せられて遠州(ゑんしう)浜松(はままつ)の城主(じようしゆ)に封(ほう)ぜ
《割書:れ姓松平を|賜ふ》 られ且(か)つ又(ま)た宝永(ほうえい)二年三月廿三日 初(はじ)めて松平(まつだひら)の姓(せい)を賜(たまは)つたのであるが其(その)子(こ)が即(すなは)ち此(この)資訓である資訓は
元来(がんらい)佐野信濃守勝由(さのしなのゝかみかつよし)の末子(まつし)で本庄家(ほんぜうけ)へは養子(やうし)したものであるが幼名(えうめい)は捨(すて)五 郎(らう)と云つて初(はじ)め宗惇(そうじゆん)、 資惇(しじゆん)
とも称(せう)した享保(けうほ)八年 家督(かとく)を相続(さうぞく)し其(その)十四年二月 前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く浜松城(はままつじよう)から此(この)吉田(よしだ)へ移封(いほう)になつた
《割書:松平資訓復|び大河内氏》 次第(しだい)である此(この)人(ひと)は寛保(かんぽ)元年(がんねん)四月十二日 奏者衆(そうしやしう)となり寛延(かんえん)元年(がんねん)十二月 従(じゆ)四 位下(ゐか)に叙(ぢよ)せられ其(その)二年十月十
《割書:と交代して|浜松に封せ》 五日 京都所司代(けうとしよしだい)に補(ほ)せられたが此(この)時(とき)再(ふたゝ)び大河内氏(おほかうちし)と交代(かうたい)して此(この)吉田(よしだ)から浜松城(はままつじよう)へ移(うつ)されたのである宝(ほう)
《割書:らる |》 暦(れき)二年三月廿六日五十三 歳(さい)で京都(けうと)に於(おい)て卒去(そつきよ)したが此(この)人(ひと)は中々(なか〳〵)和歌(わか)を能(よ)くし絵画(くわいが)も相当(さうたう)には出来(でき)たも
のである渥美郡(あつみぐん)牟呂吉田村(むろよしだむら)大字(おほあざ)西豊田(にしとよだ)の植田(うえだ)七三 郎君(らうくん)は其(その)祖先(そせん)が此(この)本庄家(ほんぜうけ)の御用達(ごようたつ)であつて資訓が浜(はま)
松(まつ)から吉田(よしだ)へ移封(いほう)になつた時(とき)付(つ)いて来(き)たものであるから今(いま)も多(おほ)く資訓の遺墨(ゐぼく)を蔵(ざう)して居(を)られるが之(これ)で
見(み)ると絵画(くわいが)は狩野家(かのけ)を学(まな)むだものでカナリには画(か)いたのである又(ま)た和歌(わか)は其(その)書風(しよふう)が中々(なか〳〵)見事(みごと)で推重(すいてう)す
《割書:松平資訓在|城中の事蹟》 るに足(た)ると思(おも)ふがサテ此(この)資訓が吉田在城(よしだざいじよう)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く享保(けうほ)十四年から寛延(かんえん)二年まで約(やく)廿一年
間であるが其(その)間(あひだ)に於(お)ける出来事(できごと)に就(つい)て申述(まをしの)ぶれば先(ま)づ享保(けうほ)は廿年で元文(げんぶん)となり元文(げんぶん)は五年で寛保(かんぽ)とな
り寛保(かんぽ)は三年で延享(えんけう)と成つたが其(その)二年九月朔日 徳川中興(とくがはちうこう)の祖(そ)と云(い)はれた八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)は自(みづか)ら隠居(ゐんきよ)して
其(その)子(こ)家重(いへしげ)が代(かは)つて征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜられたのである而(しか)して吉宗(よしむね)は西丸(にしまる)に居(を)つて大御所(おほごしよ)と称(せう)したがそれ
より七年目で宝暦(ほうれき)元年(がんねん)の六月廿日 年(とし)六十八を以(もつ)て薨去(こうきよ)されたのであるソコで此(この)家重(いへしげ)の治世(ぢせい)に就(つい)ても尚
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百八十四号附録 (大正元年十月八日発行)
【本文】
ほ少(すこ)しく申述(まをしの)ぶる必要(ひつえう)の事柄(ことがら)もあるが後章(こうせう)に於(おい)て追々(おい〳〵)に御話(おはなし)する考(かんがへ)であるから此処(こゝ)には之(これ)を略(りやく)する
出火頻々 事(こと)とするが此(この)資訓(すけのり)が吉田在城(よしだざいじよう)中(ちう)に於(おい)て吉田(よしだ)に起(おこ)つた事柄(ことがら)では最(もつと)も人(ひと)の注意(ちうい)を惹(ひ)くのが甚(はなは)だ出火(しゆつくわ)の多(おほ)か
つた事(こと)である旧記(きうき)に拠(よ)ると先(ま)づ享保(けうほ)十七年十二月晦日に中柴(なかしば)に出火(しゆつくわ)があつて三十六 戸(こ)焼失(せうしつ)したが其(その)頃(ころ)
の中柴(なかしば)はまだ誠(まこと)の村落(そんらく)で記録(きろく)にも中柴村(なかしばむら)と記(しる)してある位(くらゐ)であるからかゝる処(ところ)で卅六 戸(こ)の焼失(せうしつ)は中々(なか〳〵)大(たい)
火事(くわじ)と云(い)つてもよかつたであろう又(ま)た其(その)次(つぎ)が元文(げんぶん)元年(がんねん)十二月廿四日の火事(くわじ)で之(これ)は札木町(ふだぎまち)から初(はじ)まつて
五十九 戸(こ)焼失(せうしつ)したのであるそれからが新銭町(しんせんまち)の火事(くわじ)で之(これ)は元文(げんぶん)三年五月五日の事(こと)であるが焼失(せうしつ)戸数(こすう)は
十九 戸(こ)である其(その)次(つぎ)が寛保(かんぽ)二年十月廿七日 飽海(あくみ)の火事(くわじ)で其(その)焼失(せうしつ)戸数(こすう)は十四 戸(こ)であるが尚(な)ほ延享(えんけう)三年八月
九日には垉(はう)六 町(まち)、 下(くだ)り町(まち)に出火(しゆつくわ)があつたので之(これ)は今(いま)の花園町(はなぞのてう)であるが四十四 戸(こ)焼失(せうしつ)したのであるそれ
から寛延(かんえん)元年(がんねん)十二月六日には田町瀬古(たまちせこ)に七 戸(こ)の焼失(せうしつ)があり同(どう)二年正月朔日には又々(また〳〵)新銭町(しんせんまち)に廿四 戸(こ)の
焼失(せうしつ)があり而(しか)して同年(どうねん)同月(どうげつ)の十六日には田町(たまち)即(すなは)ち今(いま)の湊町(みなとまち)に廿四 戸(こ)の焼失(せうしつ)があつたのである随分(ずゐぶん)能(よ)く
出火(しゆつくわ)が続(つゞ)いた事(こと)であると思(おも)ふが藩主(はんしゆ)は其(その)都度(つど)罹災者(りさいしや)に対(たい)して米麦(こむむぎ)並(ならび)に松木(まつき)などを救恤(きうしゆつ)して居(を)るのである
が又(ま)た年賦(ねんぷ)を以(もつ)て金(かね)をも貸下(かしさ)げて居(を)るのである而(しか)も此(この)金(かね)は後(のち)に至(いた)り其(その)大部分(だいぶぶん)を棒引(ぼうびき)にして拝借者(はいしやくしや)へ下(か)
付(ふ)したのである此(かく)の如(ごと)く火事(くわじ)の続(つゞ)いた結果(けつくわ)として罹災者(りさいしや)に困難(こんなん)のものが出来(でき)たのは当然(たうぜん)であるが此(この)罹(り)
市民の困弊 災者(さいしや)以外(いぐわい)にも当時(たうじ)市中(しちう)には頗(すこぶ)る生計困難(せいけいこんなん)のものが多(おほ)かつたのである其(その)原因(げんゐん)は言(い)ふ迄(まで)もなく決(けつ)して出火(しゆつくわ)
の為(ため)のみではなかつたのであるが藩主(はんしゆ)は度々(たび〳〵)金穀(きんこく)を之(これ)等(ら)市内(しない)の住民(ぢうみん)に貸下(かしさ)げて助成(じよせい)した事実(じじつ)があるそ
れのみならず一度(いちど)徴収(てうしう)した炭(すみ)の運上(うんぜう)を免(めん)じ又(ま)た高足村(たかあしむら)から収納(しうのう)する処(ところ)の運上(うんぜう)を此(この)吉田(よしだ)の宿駅(しゆくえき)に下付(かふ)し
たなどの事実(じじつ)から推(お)しても当時(たうじ)宿駅(しゆくえき)の住民(ぢうみん)と云(い)ふものは一 方(ぽう)に商工業(せうこうげふ)の発展(はつてん)などは思(おも)ひも寄(よ)らざるの
みならず却(かへつ)て過重(くわぢう)の賦役(ふえき)に堪(た)へ兼(か)ねたものである事(こと)が歴々(れき〳〵)として見(み)へるのである此(この)救済(きうざい)に対(たい)しては前(まへ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平資訓と其事蹟) 三百五
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏復び吉田に転封せらる) 三百六
【本文】
《割書:都市と行政|との関係》 にも申述(もをしの)べた如(ごと)く資訓(すけのり)は頗(すこぶ)る力(ちから)を用(もち)ゐたものであるが到底(たうてい)政治(せいぢ)の根本(こんぽん)と云(い)ふものが今日(こんにち)とは違(ちが)ふので
あるから市街地(しがいち)の発展(はつてん)は決(けつ)して望(のぞ)むべからざる状況(ぜうけふ)であつたのである然(しか)るに之(これ)を今日(こんにち)農村(のうそん)が自然(しぜん)に衰(おとろ)
えて農民(のうみん)が都市(とし)にのみ集(あつま)る状況(ぜうけふ)があると云(い)ふので大(おほい)に研究(けんきう)を要(えう)してる居(を)る時代(じだい)と比較対照(ひかくたいせう)したならば諸(しよ)
君(くん)は如何(いかん)の感(かん)を起(おこ)さるゝか其(その)原因(げんゐん)に就(つい)て研究(けんきう)するのは特(とく)に都市(とし)行政(ぎようせい)に心(こゝろ)を寄(よ)する者(もの)に取(とつ)ては好題目(かうだいもく)で
はあるまいかと思(おも)ふのである
其他(そのた)此(この)資訓(すけのり)の時代(じだい)には享保(けうほ)十七年と元文(げんぶん)五年とに大橋(おほはし)の普請(ふしん)があり又(ま)た下地(しもぢ)の水神祠(すいじんし)と云(い)ふものは元(げん)
《割書:吉田神社の|石華表》 文(ぶん)三年十一月の建立(こんりう)であるが資訓(すけのり)も亦(ま)た赤岩寺(あかいわでら)を初(はじ)め領内(れうない)寺社(じしや)を造営(ざうえい)した事(こと)が少(すくな)くなく現(げん)に吉田神社(よしだじんしや)
の石(いし)の鳥居(とりゐ)は此(この)人(ひと)の建立(こんりう)である尚(な)ほ一つ御紹介(ごせうかい)して置(お)きたいのは此(この)時代(じだい)のもので享保(けうほ)十九年 榎川岸(えのきかはぎし)の
《割書:船町保存の|文書類》 絵図面(ゑづめん)、 並(ならび)に元文(げんぶん)五年三月 船町(ふなまち)各戸(かくこ)の絵図類(ゑづるい)、 同町(どうてう)庄屋(せうや)浅井與次右衛門(あさゐよじうゑもん)が記録(きろく)せる船倉(ふなくら)附近(ふきん)の図面(づめん)な
どが今(いま)尚(な)ほ船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)してある事(こと)である之(これ)は孰(いづ)れも市史(しし)の一 部分(ぶぶん)として大(おほい)に参考(さんかう)となるもので
孝子旌表 あると信(しん)ずる又(ま)た享保(けうほ)十五年 魚町(うをまち)に孫市(まごいち)と云(い)ふ親孝行(おやかう〳〵)の者(もの)があつて資訓(すけのり)は之(これ)に米(こめ)弐 俵(へう)を褒賞(ほうせう)して表奨(へうせう)
したが之(これ)も茲(こゝ)に伝(つた)ふべきものであると思(おも)ふ
⦿大河内氏復び吉田に転封せらる
右(みぎ)の如(ごと)く吉田城主(よしだじようしゆ)であつた松平資訓(まつだひらすけのり)は寛延(かんえん)二年十月十五日 京都所司代(けうとしよしだい)に補(ほ)せられ同時(どうじ)に遠江国(とふとほみのくに)浜松城(はまゝつぜう)
に転封(てんほう)せられたが之(これ)と交代(かうたい)に浜松城(はまゝつじよう)から此(この)吉田(よしだ)へ移封(いほう)せられて来(き)たのは松平伊豆守信復(まつだひらいづのかみのぶなほ)である此(この)信復(のぶなほ)
は前(まへ)にも申述(もをしの)べてある如(ごと)く資訓(すけのり)の前(まへ)に此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)であつた伊豆守信祝(いづのかみのぶとき)の長子(てうし)であるが信祝(のぶとき)は享保(けうほ)十四
年二月二日 大坂城代(おほさかじようだい)に任(にん)ぜらるゝと同時(どうじ)に資訓(すけのり)と交代(かうたい)して浜松城(はまゝつじよう)に移封(いほう)となり延享(えんけう)元年(がんねん)四月十九日 年(とし)
【欄外】
□豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
□此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
《割書:松平伊豆守|信復》 六十二で卒去(そつきよ)したが信復(のぶなほ)は其(その)時(とき)年(とし)廿六で家督(かとく)を相続(さうぞく)し同年(どうねん)六月四日を以(もつ)て父(ちゝ)の遺領(ゐれう)七万石を其侭(そのまゝ)に賜(たまは)
つて浜松城主(はまゝつじようしゆ)となつたのである而(しか)して今度(こんど)寛延(かんえん)二年十月に至(いた)つてそれが又々(また〳〵)資訓(すけのり)と交代(かうたい)して此(この)吉田城(よしだじよう)
主(しゆ)と相成(あひな)つた次第(しだい)であるが当時(たうじ)は前章(ぜんせう)に於(おい)ても略(りやく)御承知(ごせうち)の如(ごと)く徳川将軍(とくがはせうぐん)は九 代家重(だいいへしげ)の時代(じだい)で丁度(ちようど)老中(らうちう)
上座(ぜうざ)の酒井雅樂守忠恭(さかゐうたのかみたゞやす)が引退(ゐんたい)して堀田相模守正亮(ほつたさがみのかみまさすけ)が老中上座(らうちうぜうざ)となつた頃(ころ)であるモツトモ其(その)頃(ころ)はまだ八
天下の大勢 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)が西(にし)の丸(まる)に隠居(ゐんきよ)して大御所(おほごしよ)と称(せう)して居(を)つたが之(これ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く寛延(かんえん)四年 即(すなは)ち宝暦(ほうれき)元年(がんねん)の六
月廿日に薨去(こうきよ)となつたのである元来(がんらい)九 代将軍(だいせうぐん)の家重(いへしげ)と云(い)ふ人(ひと)は性質(せいしつ)惰弱(だじやく)で疳癖(かんぺき)が強(つよ)く且(か)つ極(きは)めて内行(ないかう)
が修(おさ)まらなかつたのみならず言語(げんご)が甚(はなは)だ不明瞭(ふめいれう)であつたので老中(らうちう)が其(その)意見(いけん)を承(うけたまは)るにも一々 側用人(そばようにん)の
大岡忠光(おほかたゞみつ)に通辞(つうじ)をして貰(もら)つたと云(い)ふ事(こと)であるが此(この)忠光(たゞみつ)は独(ひと)り能(よ)く家重(いへしげ)の言語(げんご)を解(かい)したので老中(らうちう)等(ら)も常(つね)
に忠光(たゞみつ)に対(たい)しては贈(おく)り物(もの)などをして只管(ひたすら)其(その)取(とり)なしを求(もと)めたとの事(こと)であるかゝる様(さま)であつたから政網(せいもう)は
次第(しだい)に乱(みだ)れ特(とく)に当時(たうじ)の人物(じんぶつ)であつた松平乗邑(まつだひらのりむら)を老中(らうちう)から斥(しりぞ)けて以来(いらい)は折角(せつかく)先代(せんだい)の吉宗(よしむね)が振興(しんこう)した幕政(ばくせい)
も益々(ます〳〵)紊乱(びんらん)するに至(いた)つたのである然(しか)るに之(これ)に反(はん)して其(その)当時(たうじ)又(ま)た一 方(ぱう)に於(おい)ては大(おほい)に学問(がくもん)の隆興(りうこう)を来(きた)した
ので之(これ)は誠(まこと)に不思議(ふしぎ)な事(こと)の様(やう)であるが其(その)学問(がくもん)と云(い)ふのが実(じつ)に勤王論(きんわうろん)の源泉(げんせん)を形造(かたづく)つたものである即(すなは)ち
御承知(ごせうち)の竹内式部(たけうちしきぶ)が京都(けうと)に於(おい)て堂々(どう〳〵)王政復古(わうせいふくこ)の説(せつ)を唱(とな)えたのも其(その)頃(ころ)であるが山縣大(やまがたたい)弐が柳子新論(りうししんろん)を
著(あら)はして大(おほい)に時弊(じへい)を論(ろん)じたのも其(その)当時(たうじ)である此(かく)の如(ごと)く東西(とうざい)に勤王論(きんわうろん)の鼓吹者(こすいしや)が現(あら)はれたが其(その)中(なか)でも特(とく)
に国学(こくがく)の勃興(ばつこう)を見(み)たのは大(おほい)に注意(ちうい)すべき事(こと)で彼(か)の荷田春満(かたはるみつ)の養子(やうし)在満(ありみつ)は江戸(えど)に出(い)でゝ将軍(せうぐん)の弟(おとゝ)田安宗(たやすむね)
武(たけ)に国学(こくがく)を講(かう)じ其(その)推薦(すゐせん)によつた加茂真淵(かもまぶち)の門人(もんじん)に村田春海(むらたはるうみ)、 加藤千蔭(かとうちかげ)の如(ごと)き秀才(しうさい)や本居宣長(もとをりのりなが)の如(ごと)き大(だい)
人物(じんぶつ)を出(いだ)したと云(い)ふのは或(あるひ)は時代(じだい)の反響(はんけう)とも見(み)るべきものではなかろうか兎(と)に角(かく)之(これ)等(ら)の事(こと)が結局(けつきよく)明治(めいぢ)
維新(いしん)の遠因(ゑんいん)となつて居(を)るとすれば実(じつ)に何(なん)とも云(い)へぬ味(あぢ)のある事(こと)ではあるまいかと信(しん)ずるのである先(ま)づ
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏復び吉田に転封せらる) 三百七
【欄外】
豊橋市史談 (大河内氏復び吉田に転封せらる) 三百八
【本文】
之(これ)が信復(のぶなほ)の吉田城主(よしだじようしゆ)たりし時代(じだい)に於(お)ける天下(てんか)の大勢(たいせい)でズツト後章(こうせう)に至(いた)つて必要(ひつえう)の事(こと)もあるから少(すこ)しく
此処(こゝ)に申述(もをしの)べて置(お)くのであるが之(これ)より信復(のぶなほ)の治世(ぢせい)当時(たうじ)に於(お)ける此(この)地方(ちはう)の事柄(ことがら)に就(つい)て大要(たいえう)申述(もをしの)べたいと
思(おも)ふのである
信復(のぶなほ)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く先代(せんだい)伊豆守信祝(いづのかみのぶとき)の長子(てうし)で幼名(ようめい)は泉(せん)四 郎(らう)と云(い)つたが享保(けうほ)四年四月四日 江戸(えど)谷(や)
中(なか)の下屋輔(しもやしき)で生(うま)れたのである十五 歳(さい)の時(とき)初(はじ)めて将軍(せうぐん)吉宗(よしむね)並(ならび)に世子(せいし)家重(いへしげ)に謁(えつ)したが延享(ゑんけう)元年(がんねん)四月十八日
夜(よ)父(ちゝ)信祝(のぶとき)が卒去(そつきよ)したので同年(どうねん)六月四日 其(その)遺領(ゐれう)を相続(さうぞく)したのであるモツトモ此(この)事(こと)だの又(ま)た寛延(かんゑん)二年十月
十五日 松平資訓(まつだひらすけのり)と交代(かうたい)して此(この)吉田城(よしだじよう)に移封(いほう)せられた事(こと)は既(すで)に只今(たゞいま)も申述(もをしの)べたのであるから御存(ごぞんじ)の事(こと)と
思(おも)ふ而(しか)して其(その)領地(れうち)の朱印(しゆいん)と云(い)ふものは寛延(かんゑん)四年三月十一日 付(づけ)で下(くだ)つたのであるが其(その)全文(ぜんぶん)は大(おほい)に参考(さんかう)と
なるから左(さ)に掲較(けいさい)することとする
三河国渥美郡之内弐拾八箇村八名郡之内参拾九箇村宝飯郡之内四拾五箇村額田郡之内五箇村加茂郡
之内四拾七箇村遠江国敷知郡之内拾七箇村城東郡之内加茂村近江国浅井郡之内弐拾箇村伊香郡之内
弐箇村高島郡之内下開田村高七萬石《割書:目録在|別 紙》事宛行之訖可領地之状如件
寛延四年三月十一日
松平伊豆守とのへ
《割書:信復時代の|吉田》 かくて信復(のぶなほ)が吉田(よしだ)に移封(いほう)されて後(のち)寛延(かんゑん)と云(い)ふ年号(ねんがう)は四年目に宝暦(ほうれき)と改(あらた)まり宝暦(ほうれき)は又(ま)た十三年で明和(めいわ)と
改(あらた)まつたが其(その)宝暦(ほうれき)の元年(がんねん)には前将軍(ぜんせうぐん)吉宗(よしむね)の薨去(こうきよ)があり六年と十年には江戸(えど)に大火(たいくわ)があつたが其(その)年(とし)将軍(せうぐん)
家重(いへしげ)は隠居(ゐんきよ)し子(こ)家治(いへはる)が襲(つ)いで征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜられたのである然(しか)るに家重(いへしげ)は其(その)翌(よく)十一年の六月に薨去(こうきよ)
し十四 年(ねん)には又(ま)た年号(ねんがう)が明和(めいわ)と改(あらた)まつたのであるが此(この)年(とし)の二月に朝鮮国(てうせんこく)の使節(しせつ)が来朝(らいてう)した御承知(ごせうち)の通(とほ)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百九十一号附録 (大正元年十月十五日発行)
【本文】
り徳川幕府(とくがはばくふ)に於(おい)ては初(はじめ)より朝鮮国(てうせんこく)に対(たい)しては実(じつ)に好意(かうい)を表(へう)したもので其(その)使節(しせつ)に対(たい)しても大切(たいせつ)なる賓客(ひんかく)
の取扱(とりあつかひ)をしたものである現(げん)に豊橋市(とよはしゝ)大字(おほあざ)鍛冶(かぢ)には朝鮮人御来朝(てうせんじんごらいてう)に付(つき)云々(うんぬん)と記(しる)して取調(とりしら)べた地図(ちづ)が残(のこ)
つて居(を)る位(くらゐ)である併(しか)し之(これ)は此(この)明和(めいわ)のではないまだ後(のち)のものではあるが兎(と)に角(かく)朝鮮人(てうせんじん)の来朝(らいてう)に就(つい)ては藩(はん)
主(しゆ)から各(かく)町々(まち〳〵)へ命(めい)じて此(その)地図(ちづ)を差出(さしだ)さしめ之(これ)を朝鮮人(てうせんじん)宿泊(しゆくはく)の時(とき)に見(み)せたものと思(おも)はれる此(この)明和(めいわ)の来朝(らいてう)
の時(とき)は二月の五日に関屋(せきや)の悟眞寺(ごしんじ)へ宿泊(しゆくはく)したが其(その)当日(たうじつ)は同寺(どうじ)に於(おい)て其(その)翌日(よくじつ)は新居(あらゐ)の休憩所(きうけいじよ)に於(おい)て大(おほい)に
饗応(けうおう)をしたもので其(その)皈路(きろ)にも同年(どうねん)の三月廿七日に矢張(やはり)此(この)悟眞寺(ごしんじ)に宿泊(しゆくはく)したが饗応(けうおう)は前(まへ)の如(ごと)くであつた
事(こと)が大河内家(おほかうちけ)の記録(きろく)の中(なか)に載(の)つて居(を)るのであるそれのみならず船町(ふなまち)の記録(きろく)によると既(すで)に宝暦(ほうれき)元年(がんねん)には
朝鮮人(てうせんじん)来朝(らいてう)の為(ため)に両度(れうど)も大橋(おほはし)の検分(けんぶん)として幕吏(ばくり)を此(この)吉田(よしだ)に差向(さしむ)けたもので両度(れうど)共(とも)作事奉行(さくじぶぎよう)を初(はじ)め其(その)役(やく)
人(にん)並(ならび)に下(し)タ方(がた)の者(もの)で総計(そうけい)廿四五 人宛(にんづゝ)も来(き)て居(を)るのである実(じつ)に之(これ)で見(み)ても徳川時代(とくがはじだい)の政治向(せいぢむき)と云(い)ふもの
は伺(うかゝ)ひ知(し)れるように思(おも)ふのである夫(それ)から宝暦(ほうれき)二年と同(どう)四年同十年同十三年と明和(めいわ)五年とに橋普請(はしふしん)のあ
つたものであるが其(その)中(なか)で宝暦(ほうれき)二年と明和(めいわ)五年とは架替(かけかへ)で其(その)他(た)のは修理(しうり)であるが其(その)都度(つど)検分役(けんぶんやく)を大勢(おほぜい)江(え)
戸(ど)から寄越(よこ)したのであるから随分(ずいぶん)大袈裟(おほげさ)な事(こと)であつたと思(おも)ふ
信復(のぶなほ)時代(じだい)の出来事(できごと)で御話(おはなし)すべき事(こと)は大略(たいりやく)之(こ)れ位(くらゐ)の事(こと)であるがサテ明和(めいわ)五年九月 信復(のぶなほ)は吉田(よしだ)在城中(ざいじようちう)に病(やまひ)
に罹(かゝ)り其(その)十九日 正午(せうご)遂(つひ)に年(とし)五十 歳(さい)で卒去(そつきよ)されたのである遺骸(ゐがい)は武州(ぶしう)に送(おく)つて野火止(のびとめ)の平林寺(へいりんじ)先塋(せんけい)の列(れつ)
謙光院 に葬(ほうむ)つたのであるが謚号(いつごう)が謙光院(けんくわうゐん)と号(ごう)するのである
⦿松平信復と其時代に於ける人物
信復の人格 ソコで此(この)信復(のぶなほ)の人物(じんぶつ)に就(つい)て尚(な)ほ少(すこ)しく御話(おはなし)したいのであるが先(さき)にも一寸(ちよつと)申述(もをしの)べた如(ごと)く信復(のぶなほ)が幼時(えうじ)から
【欄外】
豊橋市史談 (松平信復と其時代に於ける人物) 三百九
【欄外】
豊橋市史談 (松平信復と其時代に於ける人物) 三百十
【本文】
の漢学(かんがく)の師範(しはん)は彼(か)の三浦竹渓(みうらちくけい)であつて竹渓(ちくけい)の性格(せいかく)が前(まへ)に御話(おはなし)した如(ごと)くであるから信復(のぶなほ)は余程(よほど)刻苦(こつく)して
勉学(べんがく)したものと思(おも)はれる今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に其(その)自筆(じしつ)の漢籍(かんせき)を訓解(くんかい)したものが大部(だいぶ)残(のこ)つて居(お)るが一々 難解(なんかい)の
処(ところ)へ注釈(ちうしやく)を加(くは)へて厳正(けんせい)に筆記(しつき)したもので其(その)着実(ちやくじつ)に苦学(くがく)した有様(ありさま)が伺(うかゞ)へるのである又(ま)た其(その)当時(たうじ)の日課表(につかへう)
も残(のこ)つて居(お)るが之(こ)れ亦(ま)た信復(のぶなほ)自(みづか)ら毎日(まいにち)自身(じしん)の勉学(べんがく)する時間(じかん)と課目(かもく)とを定(さだ)めて自制(じせい)したものである此処(こゝ)
らは其(その)師(し)たる竹渓(ちくけい)の性格(せいかく)と比較対照(ひかくたいせう)して見(み)ると実(じつ)に趣味(しゆみ)のある問題(もんだい)だと思(おも)ふ又(また)信復(のぶなほ)は詩歌(しか)を善(よ)くし画(ぐわ)
をも書(か)いた其(その)遺墨(ゐぼく)は同家(どうけ)に数点(すうてん)保存(ほぞん)されてあるが決(けつ)して俗(ぞく)に云(い)ふ殿様(とのさま)の製作品(せいさくひん)ではない大河内家譜(おほかうちかふ)に
は信復(のぶなほ)に関(くわん)して左(さ)の如(ごと)く記(しる)してあるが以(もつ)て其(その)人物(じんぶつ)の大要(たいえう)が分(わか)ると思(おも)ふ
平日詩歌書画鼓琴以為娯、大好古楽、尤善横笛、弱冠師平義質《割書:物徂徠|門人》、研究六経、該覧古文辞十三家
博渉百家、精於歴史廿一史、以疾故止於宋史、雖疾篤、手不軽巻、所撰則有橋上集六巻、添削集二
巻、文集一巻、詩集五巻、和歌集廿巻、楽譜筌蹄二巻矣、為政清静、士民寧一、卒之日、関境如喪
考妣、願言擡昇霊柩護送東都者、都三百余人、有司節為六十人東道、以為美称矣
右(みぎ)の内(うち)で平義質(たひらよしかた)とあるのは即(すなは)ち三浦竹渓(みうらちくけい)の事(こと)であるが只(た)だ私(わたくし)はまだ右(みぎ)に書(か)いてある信復(のぶなほ)の著書(ちよしよ)の実見(じつけん)
する暇(いとま)のないのを遺憾(ゐかん)とすることである
又(ま)た此(この)時代(じだい)に於(おい)て現(あら)はれたる当地方(たうちはう)の人物(じんぶつ)に就(つい)て一二 御話(おはなし)したいと思(おも)ふのであるが三浦竹渓(みうらちくけい)の事(こと)は既(すで)
林正森 に先(さき)にも申述(もをしの)べた如(ごと)くであるから之(これ)は別(べつ)として此(この)吉田(よしだ)の一 市人(しじん)であつて稍伝(やゝつた)ふべきのは林弥次右衛門(はやしやじうゑもん)
と云(い)ふ人(ひと)の事(こと)である此(この)人(ひと)は吉田町(よしだまち)の年寄役(としよりやく)で利町(とぎまち)と中世古(なかせこ)の庄屋(せうや)を兼(か)ねて居(ゐ)たのであるが名乗(なのり)を正森(まさもり)
と云(い)ひ号(ごう)を自見(じけん)と称(せう)した其(その)祖先(そせん)に林(はやし)十 右衛門景政(うゑもんかげまさ)と云(い)ふのがあつて射(しや)を善(よ)くし元亀(げんき)三年 武田信玄(たけだしんげん)が此(この)
地(ち)に攻(せ)め寄(よ)せた時(とき)に之(これ)を飽海口(あくみぐち)に防(ふせ)いで功(こう)があつたので時(とき)の城将(じようせう)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)から賞(せう)せられたと伝(つた)へられ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
て居(お)ることは前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もをしの)べて置(お)いた如(ごと)くである而(しか)して其(その)弟(おとゝ)助兵衛正秀(すけへうゑまさひで)と云(い)ふ人(ひと)は池田輝政(いけだてるまさ)に仕(つか)へて長(なが)
久手(くて)の役(えき)で戦死(せんし)したが其(その)子孫(しそん)が遂(つひ)に此(この)吉田(よしだ)に在住(ざいぢう)するに至(いた)つたものであるとは其(その)家伝(かでん)であつて今(いま)御話(おはなし)
する正森(まさもり)は其(その)正秀(まさひで)の六 世(せい)の孫(そん)であると称(せう)されて居(お)る併(しか)し今(いま)は一 市人(しじん)たるに過(す)ぎぬのであつたが最(もつと)も篤(とく)
志(し)の人(ひと)で独力(どくりよく)以(もつ)て三州吉田記(さんしうよしだき)と云(い)ふものを著(あらは)して居(お)るのである其(その)序文(ぢよぶん)には寛延(かんえん)三年九月とあるが一 市(し)
人(じん)として其(その)当時(たうじ)之(こ)れ丈(だけ)の事(こと)を調(しら)べ上(あ)げるには頗(すこぶ)る年月(ねんげつ)を費(つひや)したものでなくてはなるまいモツトモ今日(こんにち)
から見(み)れば別(べつ)に貴重(きてう)とすべき程(ほど)の値(あたひ)はなかろうが又(また)其(その)内(うち)には参考(さんかう)となるべき節(ふし)も少(すく)なくないのである
而(しか)して此(この)人(ひと)は余程(よほど)熱心(ねつしん)に旧事古跡(きうじこせき)の討究(とうきう)をしたもので彼(か)の龍拈寺(りうねんじ)の開基塚(かいきつか)の処(ところ)に牧野古白(まきのこはく)の碑(ひ)を建立(こんりう)
したのも此(この)人(ひと)であるが其(その)碑文(ひぶん)の写(うつし)は今(いま)も同寺(どうじ)に伝(つた)はつて居(お)るのである然(しか)るに何故(なにゆゑ)か其(その)実物(じつぶつ)が存在(そんざい)して
居(お)らぬのは遺憾(ゐかん)とする処(ところ)である尚(な)ほ其(その)他(た)にも此(この)人(ひと)の著書(ちよしよ)で上梓(ぜうせう)したものが一二あるが之(これ)は孰(いづ)れも随筆(ずゐしつ)
であつて殆(ほとん)ど今日(こんにち)に伝(つたは)つて居(お)らぬのは惜(おし)い事(こと)であると思(おも)ふ
僧教春 尚(な)ほ之(これ)に関連(くわんれん)して一つ申述(もをしの)べたいのは此(この)正森(まさもり)の叔父(おぢ)に教春(けうしゆん)と云(い)ふ僧侶(そうりよ)があつた事(こと)である此(この)人(ひと)は正森(まさもり)の
祖父(そふ)弥次右衛門景品(やじうゑもんかげしな)の十三 男(なん)で珍(めつ)らしく男子(だんし)の兄弟(けうだい)が多(おほ)くあつたものであるが幼(えう)にして渥美郡(あつみぐん)雲(う)の谷(や)
の普門寺(ふもんじ)に入(い)つて僧(そう)となり一 時(じ)其(その)住職(ぢうしよく)となつたが後(のち)高野山(かうやさん)に登(とは)つて北宝院(ほくほうゐん)の門主(もんしゆ)となり大教正(たいけうせい)にまで
なつたのである宝暦(ほうれき)元年(がんねん)十二月十二日八十三 歳(さい)で寂(じやく)したが碩学(せきがく)の聞(きこゑ)が高(たか)かつた人(ひと)である其(その)筆蹟(しつせき)は今(いま)も
其(その)子孫(しそん)に当(あた)る当(たう)船町(ふなまち)の林佐平(はやしさへい)氏(し)方(かた)に蔵(ざう)されて居(お)るが最(もつと)も脱俗(だつらく)の風(ふう)が見(み)える
尚(な)ほ此(この)際(さい)序(ついで)に一つ補(おぎな)つて置(お)きたい話(はなし)があるが夫(それ)は例(れい)の三河国二葉松(みかはのくにふたはまつ)と云(い)ふ著書(ちよしよ)に関(くわん)してである此(この)書(しよ)が
《割書:三河国二葉|松の著者》 出来(でき)たのは元文(げんぶん)年中(ねんちう)の事(こと)で恰(あたか)も松平豊後守資訓(まつだひらぶんごのかみすけのり)在城(ざいじよう)当時(たうじ)であるが其(その)著者(ちよしや)は宝飯郡(ほゐぐん)長山村(ながやまむら)の人(ひと)佐野監物(さのけんもつ)
と云(い)ふ者(もの)で吉田城内(よしだじようない)の小笠原(をがさはら)大弐(だいに)仝田町(どうたまち)の渡邊体伯(わたなべたいはく)外(ほか)四 人(にん)が加筆(かしつ)したものである其(その)加筆者(かしつしや)の中(なか)に牛久(うしく)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信復と其時代に於ける人物) 三百十一
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信礼) 三百十二
【本文】
保(ぼ)の渡邊自休(わたなべじきう)と云(い)ふ人(ひと)もあるが之(これ)等(ら)の人々(ひと〴〵)は当時(たうじ)に於(お)ける此(この)地方(ちほう)の地理歴史研究家(ちりれきしけんきうか)であつたものと見(み)
へて本史談(ほんしだん)の最初(さいしよ)に申述(もをしの)べてある如(ごと)く彼(か)の牧野成行(まきのしげゆき)氏(し)の家(いへ)に伝(つた)はつて居(お)る牧野氏御由緒書(まきのしごゆうちよしよ)と題(だい)する記(き)
録(ろく)は享保(けうほ)十六 年(ねん)に佐野監物(さのけんもつ)と渡邊自休(わたなべじきう)との両人(れうにん)が同家(どうけ)からの依頼(いらい)を受(う)けて取調(とりしら)べたものである同書(どうしよ)は
主(おも)に牧野氏(まきのし)の祖先(そせん)の事(こと)特(とく)に古白築城(こはくちくじよう)の当時(たうじ)より其(その)子(こ)信成(のぶしげ)等(ら)の戦死(せんし)などに関(くわん)して取調(とりしら)べたものであるが
其(その)中(なか)には参考(さんかう)となるべきものが少(すくな)くないのである之(これ)等(ら)著者(ちよしや)の伝記(でんき)などが誠(まこと)に分(わか)り兼(か)ぬるのは遺憾(ゐかん)であ
るが責(せ)めては此(この)際(さい)其(その)名前(なまへ)丈(だけ)なりとも此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのである
⦿松平伊豆守信礼
松平信礼 前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)く吉田城主(よしだじようしゆ)松平伊豆信復(まつだひらいづのかみのぶなほ)は明和(めいわ)五 年(ねん)九月 吉田在城中(よしだざいじようちう)病(やまひ)で卒去(そつきよ)されたが仝年(どうねん)十一月
十六日を以(もつ)て其(その)長子(てうし)信礼(のぶいや)が家督(かとく)を相続(さうぞく)して父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を継(つ)いだのである
信礼(のぶいや)幼名(えうめい)は音之助(おとのすけ)初(はじ)め甲斐守(かひのかみ)に叙(ぢよ)せられたが家督(かとく)相続(さうぞく)と同時(どうじ)に伊豆守(いづのかみ)に改(あらた)まつたのである元文(げんぶん)二年八
月十一日の生(うまれ)であるから三十二 歳(さい)で家督(かとく)を相続(さうぞく)した訳(わけ)であるが此(この)人(ひと)は在職(ざいしよく)僅(わづか)に一ケ年有余(ねんいうよ)で明和(めいわ)七
年六月廿二日を以(もつ)て卒去(そつきよ)せられたのである従(したがつ)て此処(こゝ)に申述(もをしの)ぶべき事蹟(じせき)も誠(まこと)に少(すくな)いのであるが併(しか)し領(れう)
地(ち)の内(うち)遠江国(とふとほみのくに)城東郡(じようとうごほり)加茂村(かもむら)の地(ち)を返納(へんのう)して其(その)代(かは)りに三河国(みかはのくに)加茂郡(かもごほり)で五ケ村(そん)宝飯郡(ほゐごほり)で御馬村(おんまむら)外(ほか)一ケ
村(そん)を賜(たまは)つたのは明和(めいわ)七 年(ねん)五月の事(こと)で此(この)信礼(のぶいや)の時代(じだい)である而(しか)して信礼(のぶいや)は幼時(えうじ)より父(ちゝ)と同(おな)じく学(がく)を三浦竹(みうらちく)
渓(けい)に受(う)けたのであるが頗(すこぶ)る国史漢籍(こくしかんせき)に通(つう)じ特(とく)に武芸(ぶげい)には堪能(たんのう)であつたのである嘗(かつ)て鳥銃(てうじう)の試射(ししや)をやつ
て二十 発(ぱつ)二十 中(ちう)したと云(い)ふので其(その)的(まと)は大河内家(おほかうちけ)に保存(ほぞん)されてある筈(はづ)である又(ま)た詩歌(しか)並(ならび)に絵画(くわいが)を能(よ)くし
詩集漫筆(ししふまんひつ)なども遺(のこ)されて居(お)る其(その)仁慈(じんじ)の心(こゝろ)が深(ふか)かつた事(こと)は嘗(かつ)て其(その)侍臣(じしん)が誤(あやま)つて信礼(のぶいや)の居間(ゐま)にあつた新製(しんせい)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百九十六号附録 (大正元年十月廿二日発行)
【本文】
の大小(だいせう)を刀掛(かたなかけ)から落(おと)して瑕(きづ)を拵(こしら)へたが侍臣(じしん)は実(じつ)に恐入(おそれい)つて有体(ありてい)に自分(じぶん)の粗忽(そこつ)を謝(しや)し只管(ひたすら)罪(つみ)を待(ま)つたの
である然(しか)るに信礼(のぶいや)は甚(はなはだ)しく之(これ)を咎(とが)めむともせず此(この)事(こと)は決(けつ)して他人(たにん)に語(かた)るなと命(めい)じて自(みづか)ら其(その)刀(かたな)を其(その)筋(すぢ)
のものに渡(わた)して修理(しうり)せしめたので侍臣(じしん)は誠(まこと)に有難(ありがた)い事(こと)に思(おも)つて恐縮(けうしゆく)したと云(い)ふ事(こと)が藩主(はんしゆ)柴田善伸(しばたぜんしん)の聞(きゝ)
書(がき)にあるのである之(これ)等(ら)の話(はなし)は稍々(やゝ)信礼(のぶいや)の人格(じんかく)を窺(うかゞ)ふ上(うへ)に於(おい)て面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふ信礼(のぶいや)の遺骸(ゐがい)は矢(や)
張(はり)武州(ぶしう)野火留(のひどめ)の平林寺(へいりんじ)に葬(はうむ)つて慈雲院(じうんゐん)と諡(おくりな)したのである
⦿松平信明の幼時
《割書:松平信明の|幼時》 明和(めいわ)七 年(ねん)六月 松平伊豆守信礼(まつだひらいづのかみのぶいや)卒去(そつきよ)に付(つき)其(その)後(あと)を襲(つ)いで吉田城主(よしだじようしゆ)となつたのは其(その)長子(てうし)信明(のぶあき)であるが信明(のぶあき)は
宝暦(ほうれき)十三年二月十日の生(うまれ)であるから其(その)家督(かとく)を相続(さうぞく)したのは恰(あたか)も八 歳(さい)の時(とき)であつた然(しか)るに此(この)人(ひと)は実(じつ)に稟(りん)
性(せい)穎悟(えいご)で幼少(えうせう)の時(とき)から既(すで)に非凡(ひぼん)であつたが其(その)当時(たうじ)は名(な)を春(はる)之 丞(じよう)と云(い)つて書(しよ)を三井親和(みつゐしんな)に就(つい)て学(まな)むだ然(しか)
るに如何(いか)にも能書(のうしよ)で親和(しんな)も敬服(けいふく)の余(あま)り恐(おそ)れながら君(きみ)の筆道(ひつどう)を善(よ)くせらるゝ事(こと)到底(とうてい)愚老(ぐらう)の及(およ)ぶ処(ところ)でない
去(さ)れば愚老(ぐらう)の印(いん)を御貸(おか)し申上(もをしあ)ぐるから之(これ)を御押(おんお)しなされと云(い)ふので印(いん)を差出(さしだ)した信明(のぶあき)は之(これ)を興(けう)ある事(こと)
《割書:伊豆公の親|和》 に思(おも)つて自分(じぶん)の書(か)いた書(しよ)へベタ〳〵と親和(しんな)の印(いん)を押(お)したのである之(これ)が伊豆公(いづこう)の親和(しんな)と唱(とな)えて珍重(ちんぢゆう)さる
ゝ 処(ところ)となつて居(を)るが今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に其(その)六 歳(さい)頃(ころ)の書(しよ)が残(のこ)つて居(を)る又(ま)た豊橋市(とよはしゝ)本町(ほんまち)の兼子洋平(かねこようへい)氏(し)の家(いへ)にも
其(その)八 歳(さい)頃(ころ)に書(か)いたものと思(おも)はるゝ富士(ふじ)の画(ぐわ)が蔵(ざう)されて居(を)るが孰(いづ)れも上出来(ぜうでき)で到底(たうてい)小供(こども)の書(か)いたものと
は思(おも)はれぬ位(くらゐ)のものである其他(そのた)詩(し)をも能(よ)くし篆刻(れいこく)も上手(ぜうづ)であつたがサテ其(その)頃(ころ)は恰(あたか)も十 代将軍(だいせうぐん)家治(いへはる)の治(ぢ)
世(せい)であつて前章(ぜんせう)にも申述(もをしの)べて置(お)いた如(ごと)く九 代将軍(だいせうぐん)の家重(いへしげ)と云(い)ふ人(ひと)は頗(すこぶ)る惰弱(だじやく)の性(せい)であつたから風紀(ふうき)は
《割書:十代将軍家|治の治世》 紊(みだ)れる財政(ざいせい)は益(ます〳〵)窮乏(きうばう)すると云(い)ふ状勢(ぜうせい)であつたが宝暦(ほうれき)十年 隠居(ゐんきよ)して此(この)家治(いへはる)が代(かは)つて征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜ
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の幼時) 三百十三
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と白河楽翁公) 三百十四
【本文】
られる事(こと)と相成(あひな)つたのであるソコで此(この)家治(いへはる)も最初(さいしよ)は大(おほい)に治世(ぢせい)に志(こゝろざし)があつて頗(すこぶ)る勉強(べんけう)した様子(やうす)が認(みと)め
られるのであるが程(ほど)なく其(その)成績(せいせき)が挙(あが)らぬようになつたのみならず要職(えうしよく)に然(しか)るべき人物(じんぶつ)が居(ゐ)なかつたの
田沼意次 で次第(しだい)に例(れい)の側用人(そばようにん)政治(せいぢ)の弊(へい)に陥(おちゐ)つて遂(つひ)に御承知(ごせうち)の田沼主殿頭意次(たぬまとのものかみおきつぐ)が独(ひと)り威権(ゐけん)を弄(ろう)するに至(いた)つたの
である元来(がんらい)此(この)田沼意次(たぬまおきつぐ)と云(い)ふ人(ひと)は八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の小姓(こせう)で享保(けうほ)二十年に家督(かとく)を継(つ)ぎ其(その)際(さい)は知行(ちぎよう)僅(わづか)に六百
石(こく)の小身(せうしん)であつた然(しか)るに其(その)後(のち)家治(いへはる)の御側衆(おそばしう)に付(つ)けられ次第(しだい)々々(しだい)に親任(しんにん)せられて宝暦(ほうれき)八年には一万石に
取立(とりた)てられて諸侯(しよこう)の列(れつ)に加(くは)はり明和(めいわ)四年には更(さら)に二万石を加増(かぞう)せられて遠江国(とふとほみのくに)相良(さがら)の城主(じようしゆ)となり新城(しんじよう)
を築(きづ)いて之(これ)に根拠(こんきよ)を構(かま)え程(ほど)なく安永(あんえい)元年(がんねん)には遂(つひ)に老中(ろうちう)に任(にん)ぜられ五万七千石に迄(まで)至(いた)つたと云(い)ふ男(おとこ)であ
る此(かく)の如(ごと)きわ訳(わけ)であるから此(この)家治(いへはる)の時代(じだい)殊(こと)に明和(めいわ)安永(あんえい)の間(あひだ)にあつては意次(おきつぐ)の権勢(けんせい)と云(い)ふもの頗(すこぶ)る強大(けうだい)
なもので士気(しき)は堕落(だらく)し賄賂(わいろ)横行(おうかう)の事実(じじつ)なとも一 般(ぱん)に認(みと)めらるゝ処(ところ)である先(ま)づ之(こ)れが其(その)当時(たうじ)に於(お)ける事(じ)
情(ぜう)の大要(たいえう)であるが松平信明(まつだひらのぶあき)は実(じつ)に此(かく)の如(ごと)き時世(じせい)にあつて成長(せいてう)したもので之(これ)が後(のち)に松平定信(まつだひらさだのぶ)即(すなは)ち白河(しらかは)
楽翁公(らくおうこう)と云(い)はれた人(ひと)の推挙(すいきよ)を受(う)けて幕府(ばくふ)重要(ちようえう)の地位(ちゐ)に当(あた)り弊政改革(へいせいかいかく)の衝(せう)に当(あた)る事(こと)になつたのであるが之(これ)
より順(じゆん)を追(お)ふてそれ等(ら)の事柄(ことがら)を段々(だん〴〵)申述(もをしの)べたいと思(おも)ふのである
⦿松平信明と白河楽翁公
松平定信 世(よ)に白河楽翁公(しらかはらくおうこう)と云(い)つて尊敬(そんけい)せらるゝ人(ひと)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた通(とほ)り松平越中守定信(まつだひらゑつちうのかみさだのぶ)と云(い)つた人(ひと)の事であ
るが私(わたくし)がクダ〳〵しく申(もを)す迄(まで)もなく実(じつ)に非凡(ひぼん)の人物(じんぶつ)で後世(こうせ)迄(まで)も推重(すゐちよう)せられて居(お)る処(ところ)の名臣(めいしん)である之(これ)等(ら)
の事(こと)は諸君(しよくん)は既(すで)に能(よ)く御承知(ごせうち)の事(こと)であるとは思(おも)ふが此(この)人(ひと)は元(も)と田安中納言宗武(たやすちうなごんむねたけ)の第(だい)三 子(し)であるから八
代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)から云(い)ふと其(その)実孫(じつそん)である然(しか)るに色々(いろ〳〵)の事情(じぜう)から奥州白河(おうしうしらかは)の城主(じようしゆ)松平定邦(まつだひらさだくに)の養子(やうし)となつて
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
其(その)家(いへ)を襲(つ)いだのであるが元来(がんらい)此(この)十 代将軍(だいせうぐん)家治(いへはる)には家基(いへもと)と云(い)ふ実子(じつし)があつたが安永(あんえい)八年二月 急病(きうびやう)で逝去(せいきよ)
せられてより子(こ)がなかつたので遂(つひ)に一ツ橋家(はしけ)から養子(やうし)することとなつて入(い)つて継嗣(けいし)となつたのが後(のち)に十
《割書:十一代将軍|家斉》 一 代将軍(だいせうぐん)と云(い)はれた家斉(いへなり)であるトコロが此(この)家斉(いへなり)は吉宗(よしむね)から云ふと曽孫(そうそん)に当(あた)るのみならず其(その)祖父(そふ)一ツ橋(はし)
宗尹(むねたゞ)は定信(さだのぶ)の父(ちゝ)宗武(むねたけ)に対(たい)して弟(おとゝ)であるから全体(ぜんたい)徳川将軍家(とくがはせうぐんけ)に取(と)つては家斉(いへなり)よりは定信(さだのぶ)の方(はう)が余程(よほそ)重(おも)い
事(こと)になるのである其(その)上(うへ)定信(さだのぶ)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く幼少(えうせう)より聡明(そうめい)の人(ひと)であつたから当時(たうじ)権勢(けんせい)を専(もつぱら)にし
て居(お)つた意次(おきつぐ)は出来(でき)得(う)る限(かぎ)り定信(さだのぶ)を遠(とほ)ざくる事(こと)に焦慮(せうりよ)したものと信(しん)ぜられる今(いま)一々は申述(もをしの)べぬが之(これ)に
は随分(ずゐぶん)穿(うが)つた説(せつ)も伝(つた)はつて居(お)るのである而(しか)して此(この)定信(さだのぶ)は宝暦(ほうれき)八年十二月廿七日の生(うまれ)であるから信明(のぶあき)に
比(くら)ぶれば恰(あたか)も五 歳(さい)の年長者(ねんてうしや)であるが青年時代(せいねんじだい)から頻(しき)りに有為(いうゐ)の友人(いうじん)を集(あつ)めて精神(せいしん)の修養(しうやう)に勉(つと)め時世(じせい)を
定信と信明 慨嘆(がいたん)して世(よ)の為(た)め国(くに)の為(ため)には大(おほい)に貢献(こうけん)せむとしたものである信明(のぶあき)は蓋(けだ)し此(この)時分(じぶん)から既(すで)に定信(さだのぶ)に知(し)られ
て居(お)つたもので彼(か)の定信(さだのぶ)の自筆(じしつ)にかゝる「宇下(うか)の人言(じんごん)」と云(い)ふ書(しよ)の中(なか)には信明(のぶあき)を評(へう)して松平伊豆守(まつだひらいづのかみ)は
明敏(めいびん)で能(よ)く人(ひと)を遇(ぐう)す才(さい)は徳(とく)に勝(かつ)ると云ふべきである又(ま)た予(よ)には何事(なにごと)も包(つゝ)まず赤心(せきしん)を明(あ)かしてくれるが
屡々(しば〴〵)予(よ)の足(た)らざる処(ところ)をも補(おぎな)つてくれると云ふ意(い)が記(しる)してあるとのことであるモツトモ此(この)書(しよ)は他見(たけん)を許(ゆる)さ
ぬ秘書(ひしよ)であつたから私(わたくし)はまだ実見(じつけん)する機会(きくわい)を得(え)ぬのであるが右(みぎ)の話(はなし)は此(この)頃(ころ)某(ぼう)先輩(せんぱい)から聞(き)く事(こと)を得(え)た次(し)
《割書:定信より信|明に贈りし|書簡》 第(だい)であるそれのみならず今(いま)大河内家(おほかうちけ)には其(その)頃(ころ)定信(さだのぶ)から信明(のぶあき)に贈(おく)つた書簡(しよかん)が幸(さいはひ)五 通(つう)保存(ほぞん)されて居(お)る
のである之(これ)は維新後(ゐしんご)本具(ほんぐ)の中(なか)に入(い)れられて殆(ほとん)ど顧(かへり)みられずに埋没(まいぼつ)されて居(お)つたのであるが旧臣(きうしん)の長尾(ながを)
清江(きよえ)君(くん)が虫干(むしぼし)の際(さい)兎(と)に角(かく)格別(かくべつ)に保存(ほぞん)して置(お)かれたので今日(こんにち)容易(ようい)ならざる資料(しれう)として世(よ)に紹介(せうかい)することが
出来(でき)るのである長尾氏(ながをし)が逝去(せいきよ)せられた今日(こんにち)となつては私(わたくし)は一 言(げん)長尾氏(ながをし)の功績(こうせき)を此処(こゝ)に申述(もをしの)べて置(お)きた
いと思(おも)ふのである
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と白河楽翁公) 三百十五
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と白河楽翁公) 三百十六
【本文】
サテ右(みぎ)の五 通(つう)の書簡(しよかん)と云ふのは独(ひと)り定信(さだのぶ)信明(のぶあき)両人(れうにん)が青年時代(せいねんじだい)に於(お)ける親交(しんかう)を現(あら)はせるのみならず実(じつ)に
当時(たうじ)の情況(ぜうけふ)が分(わか)るので甚(はなは)だ貴重(きちよう)のものであると思(おも)ふが前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く独(ひと)り当世(たうせい)に権勢(けんせい)を専(ほしいまゝ)にし
て田沼意次(たぬまおきつぐ)も安永(あんえい)年間(ねんかん)を過(す)ぎて世(よ)は天明(てんめい)と相成(あひな)つた其(その)四年三月廿四日に子(こ)田沼山城守意知(たぬまやましろのかみおきとも)が営中(えうちう)に於
意次の解職 て佐野善左衛門(さのぜんさゑもん)政言の為(ため)に刃傷(にんぜう)せられてから甚(はなは)だ不首尾(ふしゆび)の端緒(たんちよ)を開(ひら)いたので其(その)六年八月廿七日 遂(つひ)に職(しよく)
を解(と)かるゝに至つたのであるモツトモ時(とき)の将軍(せうぐん)家治は当時(たうじ)重病(じゆうびよう)であつて其(その)年(とし)の九月八日を以(もつ)て薨去(こうきよ)
せられた事(こと)に相成(あひな)つては居(お)るが其(その)実(じつ)は其(その)年(とし)の八月廿日 既(すで)に薨去(こうきよ)せられたものであると云ふのが事実(じゞつ)と
信(しん)ぜられる然(しか)るに三 家(け)並(ならび)に諸閣老(しよかくらう)は堅(かた)く喪(も)を秘(ひ)して置(お)いて先(ま)づ台命(たいめい)と称(せう)して田沼(たぬま)を黜(しりぞ)け然(しか)る後(のち)漸(やうや)く喪(も)
を発(はつ)したものと思(おも)はれる蓋(けだ)し家治(いへはる)の病(やまひ)革(あらたま)るや近臣(きんしん)の者(もの)は堅(かた)く意次(おきつぐ)の疾(やまひ)に侍(じ)するのを拒(こば)むだもので若(も)
し意次(おきつぐ)が強(しゐ)て将軍(せうぐん)の病(やまひ)に侍(じ)せむと云(い)ふならば刺(さ)し殺(ころ)してもそうはさせまじと謀(はか)つたので意次(おきつぐ)も之(これ)には
恐(おそ)れをなして遂(つひ)に内(うち)に入(い)ることを敢(あへ)てせなかつたが其(その)内(うち)に台命(たいめい)であると云(い)ふので解職(かいしよく)を仰付(あふせつ)けられたと
云(い)ふ次第(しだい)である
かくて家治(いへはる)の喪(も)が発(はつ)せらるゝと共(とも)に即日(そくじつ)家斉(いへなり)は本城(ほんじよう)に移(うつ)りて其(その)後(あと)を襲(つ)いだのであるが十月四日には家(いへ)
《割書:意次封地を|減ぜらる》 治(はる)の葬式(そうしき)を上野東叡山(うへのとうえいざん)に於(おい)て営(いとな)まれ閏(うるふ)十月の五日には田沼意次(たぬまおきつぐ)の封地(ほうち)の内(うち)二万石を収(おさ)め大坂蔵屋敷(おほさかくらやしき)並(ならび)
天明の饑饉 に江戸神田橋(えどかんだばし)の上屋敷(かみやしき)を収(おさ)められたのである而(しか)も其頃(そのころ)は所謂(いはゆる)天明(てんめい)の饑饉(ききん)と云(い)はれた凶歳(けうさい)続(つゞ)きで特(とく)に其(その)
四年五年 即(すなは)ち辰年(たつとし)巳年(みのとし)の不作(ふさく)は甚(はなはだ)しきものであつたが其(その)最中(さいちう)へ此(この)騒(さわぎ)であつたから都下(とか)の人心(じんしん)は恟々(けう〳〵)
たる有様(ありさま)であつた即(すなは)ち前(まへ)に申述(もをしの)べた定信(さだのぶ)が信明(のぶあき)に寄越(よこ)した書簡(しよかん)と云(い)ふのは此(この)頃(ころ)の情況(ぜうけう)が分(わか)るので其(その)五
通(つう)は孰(いづ)れも天明(てんめい)六年の九月より閏(うるふ)十月に掛(か)けてのものであるが先(ま)づ最初(さいしよ)のは九月九日 付(づけ)で其(その)次(ころ)のは日(ひ)
付(づけ)がないが事実(じゞつ)から推(お)して之(これ)はドウしても其(その)月(つき)の中旬(ちうじゆん)のものに相違(さうゐ)ないのである夫(それ)から十月十八日 付(づけ)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百二号附録 (大正元年十月廿九日発行)
【本文】
閏(うるふ)十月十八日 付(づけ)同月(どうげつ)廿一日 付(づけ)のものである而(しか)して九月九日 付(づけ)のものには将軍(せうぐん)家治(いへはる)薨去(こうきよ)の事(こと)に就(つい)て「大(たい)
方(かた)の君(きみ)の恵(めぐみ)を思(おも)ふ身(み)は落涙(らくるゐ)も置所(おきところ)なき程(ほど)に日夜(にちや)恐入奉(おそれいりたてまつ)り候(そろ)今日(こんにち)節句(せつく)と申候(まをしそろ)ても扨々(さて〳〵)心痛(しんつ)恐入(おそれいり)候(そろ)義(ぎ)幾(いく)
千代(ちよ)と祈(いの)りし事(こと)もあやなくて涙(なみだ)くみそふ菊(きく)の盃(さかすき)にて御座候(ござそろ)」と書(か)いてある又(また)其(その)頃(ころ)定信(さだのぶ)は領地(れうち)白河(しらかは)を検(けん)
分(ぶん)する為(ため)に発向(はつこう)する筈(はづ)で幕府(ばくふ)の許可(きよか)をさえ得(え)たのであつたが自分(じぶん)の都合(つごう)で一二日 延引(えんゐん)して居(お)る処(ところ)へ将(せう)
軍(ぐん)の喪(も)を聞(き)いて遂(つひ)に発足(はつそく)を見合(みあは)せた事(こと)が書(か)いてある其(その)文意(ぶんい)から見(み)ると家治(いへはる)の薨去(こうきよ)は九月八日を以(もつ)て発(はつ)
表(ぺう)せらるゝ迄(まで)は定信(さだのぶ)と雖(いへど)も一 向(こう)に知(し)らなかつたものと信(しん)ぜられる果(はた)して将軍(せうぐん)の薨去(こうきよ)が事実(じじつ)に於(おい)て前(まへ)に
申述(もをしの)べた如(ごと)く八月の廿日 頃(ごろ)であつたとすれば余程(よほど)厳重(げんじう)に秘(ひ)せられたものであると思(おも)はれる又(また)此(この)書簡(しよかん)中(ちう)
には奥州地方(おうしうちはう)連年(れんねん)不作(ふさく)の情況(ぜうけう)も書(か)いてあるが特(とく)に田沼(たぬま)の退職(たいしよく)となつた結果(けつくわ)は賄賂横行(わいろわうかう)の事実(じじつ)が止(や)むに
至(いた)るであろうと云(い)ふのを喜(よろこ)むで特(とく)に諧謔(かいぎやく)の口調(くてう)を用(もち)ゐ
権門(けんもん)は止(や)みそうと人々(ひと〴〵)申候(もをしそろ)之(これ)はまづ結構(けつかう)至極(しごく)と難有奉存候(ありがたくぞんじたてまつりそろ)弥々(いよ〳〵)止(や)み候(そうろ)はゞ私儀(わたくしぎ)守銭(しゆせん)の奴(ど)は別(べつ)し
て大慶(たいけい)仕(つかまつり)○(コレ)をたくはへ可申(もをすべく)と存候(ぞんじそろ)諸大名(しよだいめう)の勝手(かつて)にとり候(そろ)ても大分(だいぶん)の事(こと)と被存候(ぞんじられそろ)
《割書:定信信明の|親交》 と書(か)いてあるが之(これ)に依(よ)れば当時(たうじ)の様子(やうす)は勿論(もちろん)如何(いか)にも定信(さだのぶ)信明(のぶあき)の両人(れうにん)が交情(かうぜう)極(きは)めて親密(しんみつ)であつて互(たがひ)に
相容(あひよう)して居(お)つた状態(ぜうたい)が躍如(やくぢよ)として見(み)ゆるように思(おも)はるゝのである
而(しか)して十月十八日 付(づけ)の書簡(しよかん)は定信(さだのぶ)が既(すで)に其(その)領地(れうち)奥州(おうしう)の白河(しらかは)へ到着(たうちやく)して其処(そこ)から送(おく)り越(こ)したものである
が其(その)中(なか)にも
都下(とか)先比(さきごろ)巷説如沸候(こうせつわくがごとくにそろ)よしけしからぬ事(こと)に御座候(ござそろ)嘸々(さぞ〳〵)御痛心(ごつうしん)の御事(おんこと)と奉存候(ぞんじたてまつりそろ)御(ご)三 家方(けがた)御居(おんゐ)
残(のこ)り等(とう)も度々(たび〴〵)になどゝ風説相聞(ふうせつあひきこ)へ申候(もをしそろ)あなた方(がた)の御寄合(おんよりあひ)などと申(もをす)は御大切(ごたいせつ)の義(ぎ)
云々(うんぬん)と云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある之(これ)は前(まへ)に申述(もをしの)べた田沼意次(たぬまおきつぐ)が其(その)封(ほう)二万石を収められ大坂蔵敷(おほさかくらしき)並(ならび)に神田橋(かんだばし)の
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と白河楽翁公) 三百十七
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と白河楽翁公) 三百十八
【本文】
上屋敷(かみやしき)を収(をさ)められた所謂(いはゆる)田沼処分(たぬましよぶん)当時(たうじ)の情況(ぜうけう)を窺(うかゞ)ふべきもので此(この)田沼(たぬま)が神田橋(かんだばし)上屋敷(かみやしき)引(ひ)き揚(あ)げの際(さい)は
中々(なか〳〵)喧(やかま)しかつたものであるが此(この)言渡(いひわたし)は閏(うるふ)十月五日の事(こと)で閏(うるふ)十月廿一日 付(づけ)の書簡(しよかん)の中(なか)にも
田沼(たぬま)御寛怒(ごかんぢよ)の義(ぎ)難有義(ありがたきぎ)いづれ無事(ぶじ)の方(はう)可然哉(しかるべきや)引越(ひきこし)の節(せつ)乱雑(らんざつ)の事(こと)承伝(うけたまはりつた)へ候(そろ)
と云(い)ふ事(こと)が見(み)える又(ま)た前記(ぜんき)十八日の書簡(しよかん)の中(なか)には信明(のぶあき)に対(たい)して左(さ)の如(ごと)き事(こと)も記(しる)してある
信明の性行 不絶御力行(たへすごりきかう)の義(ぎ)奉感候(かんじたてまつりそろ)随分(ずゐぶん)御出精(ごしゆつせい)可被成候(なされべくそろ)戸田(とだ)も貴君(きくん)の御才徳(ごさいとく)に感(かん)し候(そろ)と申越候(もをしこしそろ)御明敏(ごめいひん)は御油(ごゆ)
断(だん)被成(なされ)まじく候(そろ)御書物(おんしよもつ)御出精(ごしゆつせい)のよし何(なに)より〳〵珍慶(ちんけい)に奉存候(ぞんじたてまつりそろ)不学(ふがく)おもてに牆(かき)するが如(ごと)くとも申(もをし)
候(そろ)よし不学無術(ふがくぶじゆつ)にては難奏功(こうをそうしがたく)奉存候(ぞんじたてまつりそろ)
之(これ)で見(み)ると誠(まこと)に信明(のぶあき)が当時(たうじ)才気横溢(さいきおういつ)の青年(せいねん)であつた事(こと)が窺(うかゞ)はるゝのみならず同時(どうじ)に定信(さだのぶ)の人(ひと)となりも
分(わか)るが又(ま)た此(この)両人間(れうにんかん)の交情(かうぜう)が一 層(そう)明瞭(めいれう)になるように思(おも)はるゝのであるが尚(なほ)其(その)事(こと)に就(つい)ては閏(うるふ)十月廿一日
の書簡(しよかん)の中(なか)にも
しかしそれは大(おほい)に〳〵〳〵秘(ひ)し候事(そろこと)たとひ加納氏(かのうし)へも御内見(ごないけん)は大(おほい)に御無用(ごむよう)〳〵〳〵御他見(ごたけん)御他言(ごたごん)は
無用(むよう)〳〵〳〵に奉願候(ねがひたてまつりそろ)左様(さやう)無之(これなき)と私(わたくし)の寸志(すんし)水(みづ)に罷成申候(まかりなりもをしそろ)(中略(ちうりやく))御独覧(ごどくらん)のうへ直(たゞち)に御(おん)かへし可(くだ)
被下候(されべくそろ)御他言(ごたごん)は御無用也(ごむようなり)貴君(きくん)へ入貴覧申度(きらんにいれもをしたく)と奉存候(ぞんじたてまつりそろ)趣意(しゆい)は御要用(ごえうよう)の御役(おんやく)に御進(おんすゝ)み被成(なされ)て享保(けうほ)慶(けい)
長(てう)のむかしへ御返(おんか)へし被成候(なされそろ)やうにと心願(しんぐわん)いたし候書付(そろかきつけ)にて御座候(ござそろ)
と云(い)ふ事(こと)があるので之(これ)は何(な)にか極秘(ごくひ)の書付(かきつけ)を特(とく)に定信(さだのぶ)から信明(のぶあき)に送(おく)つた時(とき)の事(こと)で其(その)書付(かきつけ)は当時(たうじ)信任(しんにん)し
て居(お)つた加納遠江守(かのうとほとふみのかみ)にさえ見(み)せるなと云(い)ふのであるから其(その)信明(のぶあき)に対(たい)する親交(しんかう)と云(い)ふものは到底(たうてい)並(ならび)一
ト通(とほり)ではなかつたものと思(おも)はねばならぬのである殊(こと)に面白(おもしろ)く思(おも)はるゝのは其(その)九月 中旬頃(ちうじゆんころ)のものと思(おも)は
るゝ書簡(しよかん)の中(なか)に「只今(たゝいま)夜食(やしよく)たべかけ候間(そろあひだ)其(その)疎答恐入奉存候(そたうおそれいりぞんじたてまつりそろ)」と云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある事(こと)である之(これ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
定信の襟度 は云(い)ふ迄(まで)もなく両人(れうにん)が平常(へいぜう)の交情(かうぜう)も分(わか)るが又(ま)た定信(さだのぶ)の襟度快豁(きどかいかつ)なる処(ところ)も窺(うかゞ)はれると思(おも)ふのである
兎(と)に角(かく)定信(さだのぶ)信明(のぶあき)両人(れうにん)が青年時代(せいねんじだい)に於(お)ける親交(しんかう)並(ならび)に其(その)当時(たうじ)の事情(じぜう)と云(い)ふものは前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くであるがイヨ
〳〵田沼(たぬま)は黜(しりぞ)けられ家斉(いへなり)が十一 代将軍(だいせうぐん)の職(しよく)に就(つ)いたと云(い)ふ其(その)翌年(よくねん)即(すなは)ち天明(てんめい)七年の六月十九日に至(いた)つて
《割書:定信輔佐職|となる》 定信(さだのぶ)は遂(つひ)にる老中(らうちう)に任(にん)せらるゝ事(こと)となり其(その)上座(ぜうざ)に就(つ)いたが八年の三月四日には将軍(せうぐん)が尚(な)ほ少弱(せうじやく)なるの故(ゆゑ)
を以(もつ)て特(とく)に輔佐(ほさ)の職(しよく)にあつて大政(たいせい)を総攬(そうらん)すべき旨(むね)を仰付(あふせつ)けられたのである蓋(けだ)し之(これ)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)
《割書:信明老中に|推挙せらる》 く田沼(たぬま)弊政(へいせい)の後(のち)を受(う)けて大(おほい)に幕政(ばくせい)の革新(かくしん)を要(えう)する時(とき)であつたので三 家(け)初(はじ)め疑議(ぎぎ)する所(ところ)があつて其(その)結果(けつくわ)
ドウしても此(この)定信(さだのぶ)を起(おこ)すより外(ほか)にはないと云(い)ふ事(こと)になつたものと思(おも)はれるいづれソウ云(い)ふ趨勢(すうせい)の結果(けつくわ)
として来(きた)つたものであろうが右(みぎ)の如(ごと)く定信(さだのぶ)が要職(ようしよく)に就(つ)いて後程(のちほど)なく天明(てんめい)七年の十月二日を以(もつ)て田沼意(たぬまをき)
次(つぐ)は復(ふたゝ)び在職中(ざいしよくちう)不正(ふせい)の儀(ぎ)が多(おほ)かつたと云(い)ふ簾(かど)を以(もつ)て更(さら)に先代(せんだい)賜(たま)ふ処(ところ)の所領(しよれう)弐万七千石を召上(めしあ)げらるゝ
こととなつて遠江国(とほとふみのくに)相良(さがら)の城(しろ)を収(をさ)められたが之(これ)で田沼(たぬま)の事件(じけん)は略(ほ)ぼ一 段落(だんらく)となつたのであるソコで定信(さだのぶ)
は前(まへ)に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)いた加納遠江守久周(かのふとう〳〵みのかみひさのり)を挙(あ)げて側衆(そばしう)となし本多弾正少弼忠壽(ほんだだんじうせうせうしつたゞかず)を以(もつ)て若年寄(わかとしより)に任(にん)
じ更(さら)に八年の二月には信明(のぶあき)を引(ひ)き挙(あ)げて側用人(そばようにん)となし僅(わづか)二ヶ月 経(た)つか経(た)たぬに之(これ)を老中(らうちう)に推挙(すゐきよ)したの
寛政の政治 である信明(のぶあき)は此(この)時(とき)年(とし)僅(わづか)に廿六 歳(さい)であつたが之(これ)より定信(さだのぶ)を輔(たす)けて天下(てんか)の政事(せいじ)に参与(さんよ)する事(こと)と相成(あひな)つた次(し)
第(だい)で所謂(いはゆる)寛政(かんせい)の政治(せいじ)と云(い)ふものは之等(これら)の人(ひと)によつて振興(しんこう)せられたものである
⦿尊号事件と信明
サテ定信(さだのぶ)が要職(えうしよく)に任用(にんよう)せられて以来(いらい)前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)く段々(だん〴〵)と枢要(すうえう)の地位(ちゐ)へ然(しか)るべき人物(じんぶつ)を登用(とうよう)し政(せい)
治(ぢ)向(むき)も次第(しだい)に改革(かいかく)せられ田沼時代(たぬまじだい)の弊風(へいふう)も殆(ほとん)ど一 掃(さう)せらるゝに至(いた)つたのであるが天明(てんめい)と云(い)ふ年号(ねんごう)も其(その)
【欄外】
豊橋市史談 (尊号事件と信明) 三百十九
【欄外】
豊橋市史談 (尊号事件と信明) 三百二十
【本文】
九年に至(いた)つて寛政(かんせい)と改(あらた)まり程(ほど)なく起(おこ)つた一 問題(もんだい)が諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の彼(か)の有名(いうめい)なる尊号事件(そんごうじけん)と云(い)ふのであ
る
《割書:尊号事件の|端緒》 サテ此(この)尊号事件(そんごうじけん)と云(い)ふのは申(もをす)も畏(かしこ)きことであるが時(とき)の聖天子(せいてんし)光格天皇(くわうかくてんのう)は閑院宮(かんゐんのみや)典仁 親王(しんのう)の御子(おんこ)で入(い)つて
大統(たいとう)を継(つ)ぎ給(たまは)つたのであるから夙(つと)に御父君(おんちゝぎみ)を尊(たつと)むで太上天皇(だじやうてんのう)の号(ごう)を奉(たてまつ)らむとの叡慮(えいりよ)があらせられたの
であるソコで寛政(かんせい)元年(がんねん)の八月 先(ま)づ幕府(ばくふ)の意見(いけん)を御諮問(ごしもん)になろうと云(い)ふので伝奏(でんそう)万里小路政房(までのこうぢまさふさ)同(どう)久我信(くがのぶ)
通(みち)の二 卿(けう)を以(もつ)て時(とき)の京都所司代(けうとしよしだい)太田備中守(おほたびつちうのかみ)資愛に向(む)けて其(その)旨(むね)を伝(つた)へしめられたのが其(その)起(おこ)りである蓋(けだ)し
聖天子(せいてんし)に於(お)かせられては早(はや)くより此(この)思召(おぼしめし)があらせられたのであるから天明(てんめい)の末年(まつねん)既(すで)に中山愛親卿(なかやまあいしんけう)に命(めい)
ぜられて其(その)先例(せんれい)を考(かんが)へしめ給(たまは)つたのであるがイヨ〳〵今度(このたび)表向(おもてむ)きに所司代(しよしだい)まで右(みぎ)の趣(おもむき)を御申達(ごしんだつ)になつ
た次第(しだい)であるソコで太田備中守(おほたびつちうのかみ)は直(たゞ)ちに其(その)趣(おもむき)を幕府(ばくふ)へ申送(もをしおく)つたのであるが幕府(ばくふ)に於(おい)ては第(だい)一に定信(さだのぶ)が
定信の意見 固(かた)く執(こ)つて此(この)事(こと)を不可(ふか)としたのであるモツトモ其(その)原因(げんゐん)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の説(せつ)もあるので其(その)真相(しんさう)は今(いま)容易(ようい)に
断定(だんてい)すべきではあるまいが兎(と)に角(かく)定信(さだのぶ)が理由(りゆう)とする処(ところ)はコウであつたのである元来(がんらい)万乗(ばんぜう)の御位(みくらゐ)は絶対(ぜつたい)
に尊(たつと)いものであるから未(いま)だ其(その)位(くらゐ)を践(ふ)まずして其(その)名(な)をのみ奉(たてま)つると云(い)ふ事(こと)は誠(まこと)に理(り)のない事(こと)で仮令(たとへ)故事(こじ)
先例(せんれい)があるにしては之(これ)は必(かなら)ず倣(なら)はねばならぬと云(い)ふものではない時世(じせい)の如何(いかん)と道理(どうり)の善悪(ぜんあく)とを詮索(せんさく)し
て取捨(しゆしや)すべきである従(したがつ)て何卒(なにとぞ)其(その)思召(おぼしめし)丈(だけ)は御無用(ごむよう)になさるように願(ねが)ひたい若(も)し御孝心(ごかうしん)より御実父(ごじつふ)を御(おん)
敬(うやまひ)になりたい御思召(おぼしめし)であるならば相当(さうたう)に御領(ごれう)でも御増進(ごぞうしん)に相成(あひな)つたならば如何(いかゞ)であらうと云(い)ふにあ
つたのである全体(ぜんたい)定信(さだのぶ)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く実(じつ)に人格(じかく)の高(たか)い且(か)つ聡明(さうめい)で学問(がくもん)もあり其(その)上(うへ)皇室(くわうしつ)
に対(たい)しても屡々(しば〳〵)勤王(きんわう)の行(おこなひ)が現(あら)はれて居(お)つた位(くらゐ)の人(ひと)であるから今回(こんくわい)の事(こと)も決(けつ)して聖旨(せいし)に対(たい)し奉(たてま)つて之(これ)
を御抑(おんおさ)へ申(もを)さむとのみ思(おも)つた筈(はづ)はないのであるが前(まへ)にも申述(もをしの)ぶる如(ごと)く之(これ)には種々(しゆ〳〵)の関係(くわんけい)があつたので
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百八号附録 (大正元年十一月五日発行)
【本文】
止(やむ)を得(え)ず遂(つひ)に此(この)問題(もんだい)に対(たい)しては是非共(ぜひとも)御止(おとゞ)め申(もを)さねばならぬと云(い)ふ境遇(けうぐう)にあつたものと確信(かくしん)さるゝの
であるソコで定信(さだのぶ)は先(ま)づ私信(ししん)を以(もつ)て其(その)意見(いけん)を関白(くわんぱく)鷹司輔平公(たかつかさすけひらこう)に申送(もをしおく)つたのであるが兎(と)に角(かく)其(その)時(とき)は之(これ)等(ら)
《割書:尊号事件再|燃》 の関係(くわんけい)で一 時(じ)御中止(ごちうし)の模様(もやう)と相成(あひな)つたのである然(しか)るにソレが寛政(かんせい)三年の二月に至(いた)つて復(ふたゝ)び持(も)ち上(あが)つた
ので翌(よく)四年の正月(せうぐわつ)には朝廷(てうてい)よりは遂(つひ)に群議(ぐんぎ)の写(うつし)に御内諭(ごないゆ)を添(そ)へられて公然(こうぜん)幕府(ばくふ)へ諮問(しもん)になつたのであ
るが前(ぜん)申上(もをしあげ)た如(ごと)き事情(じぜう)であるから幕府(ばくふ)に於(おい)ては早速(さつそく)奉答(ほうたう)は仕兼(しか)ねたので段々(だん〴〵)と遷延(せんえん)したが遂(つひ)に止(やむ)を得(え)
ず当初(たうしよ)の方針(はうしん)に従(したが)つて其(その)儀(ぎ)は然(しか)るべからずとの旨(むね)を御答(おこたへ)申上(もをしあ)ぐるに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て事態(じたい)は頗(すこぶ)
事件の落着 る不穏(ふおん)なつたが朝廷(てうてい)の方(はう)に於(お)かせられて結局(けけつきよく)尊号(そんがう)の議(ぎ)は一 時(じ)御停止(ごていし)と云(い)ふ事(こと)に相成(あひな)つたので茲(こゝ)に幕(ばく)
府(ふ)の意見(いけん)が通(とほ)つた訳(わけ)になつて事(こと)は落着(らくちやく)したのである然(しか)るに此(この)事(こと)の未(いま)だ終局(しうきよく)を告(つ)げさる以前(いぜん)に幕府(ばくふ)の方(はう)
から京都(けうと)の方(はう)へ向(む)けて尋(たづ)ねたい事(こと)があるから伝奏(でんそう)議奏(ぎそう)の人々(ひと〴〵)に江戸(えど)に下(くだ)らるゝようにと云(い)ふ事(こと)を申送(もをしおく)
つたのである之(これ)に就(つい)ては少(すくな)からず宸襟(しんきん)をも脳(なや)まさせ給(たま)つたと伝(つた)へられて居(お)るが翌年(よくねん)の二月 遂(つひ)に京都(けうと)か
《割書:中山正親町|二卿の東下》 ら中山愛親(なかやまなるちか)正親町公明(おほぎまちきみあき)の両卿(れうけう)が東下(とうか)する事(こと)と成(な)つたのであるソコで此(この)両卿(れうけう)は江戸(えど)に着(ちやく)してから或(あるひ)は定(さだ)
信(のぶ)の役宅(やくたく)に於(おい)て又(また)は柳営(りうえい)に於(おい)て幕府(ばくふ)の要職(えうしよく)と数回(すうくわい)の対問(たいもん)かあつて互(たがひ)に此(この)尊号事件(そんがうじけん)に就(つい)て論難(ろんなん)したので
信明の弁論 あるが此(この)時(とき)信明(のぶあき)は恰(あたか)も三十一 歳(さい)で老中(らうちう)の末座(まつざ)に列(つらな)つたのであるトコロが此(この)対問中(たいもんちう)定信(さだのぶ)は中山愛親卿(なかやまなるちかけう)の
為(ため)に論詰(ろんきつ)せられ答弁(たふべん)に窮(きう)した場合(ばあひ)があつたので信明(のぶあき)は末座(まつせき)より進(すゝ)み出(い)でゝ之(これ)に応答(おうたう)する処(ところ)があつたが
理義明白(りぎめいはく)で聴(き)く者(もの)感服(かんぷく)せざるはなかつたとの事(こと)が嵩岳公言行録(すをかくこうげんこうろく)などの中(なか)に記(しる)されて居(お)るのである
トコロが此(この)尊号事件(そんがうじけん)の最中(さいちう)寛政(かんせい)四年に京都所司代(けうとしよしだい)に交迭(かうてつ)があつて太田備中守(おほたびつちうのかみ)の替(かは)りに堀田相模守(ほつたさがみのかみ)が大(おほ)
坂城代(さかじようだい)から転(てん)じて此(この)京都(けうと)の所司代(しよしだい)と成(な)つたのである然(しか)るに京都所司代(けうとしよしだい)に更迭(かうてつ)のあつた時(とき)は必(かなら)ず其(その)事務(じむ)
信明の上京 引継(ひきつぎ)には江戸(えど)から老中(らうちう)が出張(しゆつてう)したのであるが此(この)時(とき)は信明(のぶあき)が其(その)職務(しよくむ)を帯(お)びて上京(ぜうけう)する事(こと)になつたのであ
【欄外】
豊橋市史談 (尊号事件と信明) 三百廿一
【欄外】
豊橋市史談 (尊号事件と信明) 三百廿二
【本文】
る此(この)時(とき)の事(こと)が太平秘録(たいへいひろく)と云(い)ふ書物(しよもつ)の中(なか)に書(か)いてあるが果(はた)して其(その)記事(きじ)が確実(かくじつ)であるかドウかは他(た)は証(せう)す
べき事(こと)もないので何(なん)とも云(い)へぬが兎(と)に角(かく)全然(ぜん〴〵)虚構(きよかう)となすべきでないのみならず誠(まこと)に信明(のぶあき)の気性(きせう)を現(あら)は
して面白(おもしろ)いと思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に申述(もをしの)べようと思(おも)ふ
即(すなは)ち其(その)記事(きじ)の大要(たいえう)を申述(もをしの)ぶると今度(このたび)京都所司代(けうとしよしだい)交迭(かうてつ)に就(つい)て松平伊豆守信明(まつだひらいづのかみのぶあき)が上京(ぜうけう)せられる事(こと)と成(な)つた
のであるが之(これ)は其外(そのほか)にも参内(さんだい)して太上天皇(たいじようてんわう)の尊号(そんがう)延期(えんき)の事(こと)を御願(おんねがひ)する用事(ようじ)があるので夫(それ)に就(つい)ては聖天(せいてん)
子(し)並(ならび)に仙洞御所(せんどうごしよ)へ進献物(しんけんもつ)をするのであるが幕府(ばくふ)では其(その)品物(ぶつぴん)は猩々緋(せう〴〵ひ)がよかろうと云(い)ふ評定(へうぜう)になつて呉(ご)
服屋(ふくや)から大極上(だいごくぜう)の品(ひな)と上々(ぜう〳〵)の品(しな)と上(ぜう)の品(しな)との三 通(とほ)りを取寄(とりよ)せて評議(へうぎ)をされたが其時(そのとき)は最(もつと)も倹約(けんやく)を主(しゆ)と
した時代(じだい)であつたから其(その)三 通(とほ)りの中(なか)で中位(ちうぐらゐ)にある上々(ぜう〳〵)の品(しな)がよかろうと云(い)ふ事(こと)になつた然(しか)るに独(ひと)り信(のぶ)
明(あき)は不服(ふふく)で苟(いやしく)も将軍職(せうぐんしよく)から聖天子(せいてんし)へ献(けん)ずるものゝ外(ほか)天下(てんか)に重(おも)いものはある筈(はづ)がないソレに今度(このたび)中位(ちうぐらゐ)
の品(しな)を用(もち)ゆると云(い)ふ事(こと)になれば世(よ)の中(なか)に大極上(だいごくぜう)の品(しな)は全(まつた)く不用(ふよう)の訳(わけ)である慮外(りよぐわい)ならば此(この)儀(ぎ)に於(おい)ては倹(けん)
約(やく)は御無用(ごむよう)かと存(ぞん)ずると云(い)つたので遂(つひ)に其(その)事(こと)に決(けつ)して大極上(だいごくぜう)の品(しな)を上(あぐ)る事(こと)になつたと云(い)ふことであるまた又(また)
信明(のぶあき)が上京(ぜうけう)してからの事(こと)に関(くわん)してもイヨ〳〵所司代(しよしだい)の事務引継(じむひきつぎ)となつて信明(のぶあき)は将軍(せうぐん)の名代(みようだい)として上座(ぜうざ)
になほり声高(かうせい)にて番頭(ばんがしら)並(ならび)に番衆(ばんしう)当城堅固(たうじようけんこ)に相守候段大儀也(あひまもりそろだんたいぎなり)と述(の)べたとの事(こと)が記(しる)してあるが元来(がんらい)之(これ)は
前例(ぜんれい)によると当城堅固(たうじようけんこ)に相守(あひまも)られ御太鐵也(ごたいぎなり)と云(い)ふべきであつたが特更(ことさら)に叮嚀(ていねい)なる語(ご)を省(はぶ)いたのは如何(いか)
にも無礼傲慢(ぶれいがうまん)なようではあるが却(かへつ)て将軍(せうぐん)の名代(みようだい)としての事(こと)であるから威厳(ゐげん)があつて有(あ)り難(がた)く覚(おぼ)へたと
て聴(き)くものが歎賞(たんせう)したと云(い)ふことが記(しる)してあるのである元来(がんらい)信明(のぶあき)には他(た)にも之(これ)に似寄(にかよ)つた行(おこなひ)があつた
ので今(いま)の松浦伯爵(まつうらはくしやく)の四 世(せい)の祖(そ)肥前平戸(ひぜんひらど)の藩主(はんしゆ)であつた松浦静山公(まつうらせいざんこう)の書(か)き置(お)かれた甲子夜話(きのへねよばなし)と云(い)ふ随筆(ずいしつ)
の中(なか)にも左(さ)の如(ごと)き話(はなし)が載(の)つて居(お)るのである
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
嘗(かつ)て信明(のぶあき)が同(おな)じ老中職(らうちうしよく)の戸田采女正(とだうねめのしやう)と共(とも)に上野(うへの)の廟(べう)を拝(はい)して退(しりそ)く時(とき)二 天門(てんもん)の間(あひだ)にて雁間衆(かりのましう)の嫡子(ちやくし)某(ばう)に
行逢(ゆきあ)つたが其(その)人(ひと)は地(ち)に平伏(へいふく)して礼(れい)したのであるソコで采女正(うねめのしやう)は膝(ひざ)まで手(て)を下(お)ろして返礼(へんれい)したが信明(のぶあき)は
一 向(かう)に見向(みむき)もせずに行過(ゆきす)ぎた蓋(けだ)し此(この)身分(みぶん)の人(ひと)が老中(らうちう)に逢(あ)つた時(とき)には歩(ほ)を留(と)めて立(たち)ながら礼(れい)するのが通(つう)
《割書:信明非礼を|受けず》 例(れい)であるのに某(ばう)のやり方(かた)が分(ぶん)を過(あやま)つて既(すで)に礼(れい)に過(す)ぎたのであるから之(これ)を受(う)くるのは寧(むし)ろ非礼(ひれい)であると
した信明(のぶあき)の態度(たいど)は如何(いか)にも感心(かんしん)であると観者(くわんしや)が評(へう)したと云(い)ふ事(こと)であるが信明(のぶあき)が青年時代(せいねんじだい)の意気(いき)と云(い)ふ
ものは実(じつ)に彼様(かやう)であつたであろうと思(おも)はるゝのである私(わたくし)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く定信(さだのぶ)が其(その)書翰(しよかん)の中(なか)に御(ご)
明敏(めいびん)は御油断被成(ごゆだんなされ)まじくとして信明(のぶあき)を戒(いまし)めたのも此処(こゝ)にあるが又(ま)た若年(じやくねん)の信明(のぶあき)に対(たい)し異数(ゐすう)の抜擢推挙(ばつてうやすいきよ)
をなしたのも此処(こゝ)であると思(おも)ふのである
かくて尊号事件(そんがうじけん)は最後(さいご)に中山(なかやま)正親町(おほぎまち)二 卿(けう)の閉門(へいもん)となつて終局(しうきよく)を告(つ)げたのであるが程(ほど)なく其(その)年(とし)の七月廿
三日に至(いた)つて定信(さだのぶ)は遂(つひ)に重職(ぢゆうしよく)を辞(じ)するに至(いた)つたのである
⦿定信の退職
定信の退職 定信(さだのぶ)が此(この)将軍(せうぐん)補佐(ほさ)の重職(ぢゆうしよく)を退(しりぞ)くに至(いた)つたのは実(じつ)に急遽(きふきよ)の事(こと)であつたから其(その)原因(げんゐん)に対(たい)する疑説(ぎせつ)は百 出(しゆつ)
で三上博士(みかみはかせ)の白河楽翁公(しらかはらくおうこう)と徳川時代(とくがはじだい)と云(い)ふ書物(しよもつ)にも恐(おそら)くは千 古(こ)の一 疑団(よだん)ならむとしてある然(しか)れ共(とも)同書(どうしよ)
の中(なか)に定信(さだのぶ)が辞職(じしよく)に当(あた)つて其(その)内縁(ないゑん)ある関白(くわんぱく)鷹司輔平公(たかつかさすけひらこう)に贈(おく)つた手書(てがみ)の一 節(せつ)が載(の)つて居(お)るが之(これ)は最(もつと)も参(さん)
考(かう)になるものであると思(おも)ふ其(その)主意(しゆい)は「定信(さだのぶ)が此(この)度(たび)の事(こと)定(さだ)めて意外(いぐわい)に思(おも)はれ候(そうろ)はん去(さ)れども定信(さだのぶ)職(しよく)を奉(ほう)
ずること年(とし)既(すで)に久(ひさ)しく改革(かいかく)の事(こと)など又(また)少(すくな)からず候(そろ)天下(てんか)の耳目(じもく)今(いま)も既(すで)に定信(さだのぶ)が一 身(しん)に 集(あつ)するの勢(いきほひ)見(み)え候(そろ)然(しか)
るに尚(なほ)重(おも)き職(しよく)に居(お)りて威権(ゐけん)を貪(むさぼ)らむは畏(かしこ)し国家(こくか)の御為(おんため)にも亦(また)然(しか)るべからず候(そろ)且(か)つ将軍(せうぐん)も御年(おんとし)最早(もはや)壮(さかん)に
【欄外】
豊橋市史談 (定信の退職) 三百廿三
【欄外】
豊橋市史談 (信明老中を辞す) 三百廿四
【本文】
て坐(おは)せば政事万端(せじばんたん)の事(こと)を直裁(じきさい)ありて上皇室(かみくわうしつ)の藩屏(はんべう)となり給(たま)ふべし加之(しなのみならず)定信(さだのぶ)生来(せうらい)の病体(びやうたい)は此上(このうへ)劇務(げきむ)に
服(ふく)するを許(ゆる)し候(そうら)はず此(この)故(ゆゑ)に之迄(これまで)しば〳〵辞職(じしよく)を申請(もをしこ)ひ候(そうら)ひしが何時(いつ)も優渥(ゆうあく)なる台命(たいめい)ありて許(ゆる)されず内(ない)
願(ぐわん)四 度(たび)に及(およ)び今度(このたび)こそは遂(つひ)に職(しよく)を解(と)かれ候(そうら)ひしなれ」と云(い)ふのにあるが如何(いか)にも定信(さだのぶ)の心事(しんじ)は此処(こゝ)に
あつたものと思(おも)はれる特(とく)に定信(さだのぶ)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く勤王(きんわう)の志(こゝろざし)に厚(あつ)かつた人(ひと)で其(その)意中(いちう)は色(いろ)
色(いろ)の事柄(ことがら)の上(うへ)にもチラ〳〵と見(み)ゆるのであるが既(すで)に徳川氏(とくがはし)が天下(てんか)の大権(だんけん)を握(にぎ)つて居(お)る以上(いぜう)は恐(おそ)れ多(おほ)い
事(こと)ではあるが時(とき)と場合(ばあひ)とによつては朝庭(てうてい)【朝廷の誤り】をも抑(おさ)へ奉(たてまつ)らねばならぬ事(こと)があるそれでなくては徳川氏(とくがはし)の天(てん)
下(か)は持(も)てぬ場合(ばあひ)になるので此(この)事(こと)は深(ふか)く定信(さだのぶ)の心(こゝろ)を痛(いた)ましめた処(ところ)でなくてはならぬが特(とく)に今度(このたび)の尊号事(そんがうじ)
件(けん)に対(たい)しては其(その)感慨(かんがい)を深(ふか)からしめたのではなかろうかと信(しん)ずるのである嵩岳君言行録(すがくくんげんこうろく)の中(なか)に定信(さだのぶ)退職(たいしよく)
の前夜(ぜんや)太田備中守資愛(おほたびちうのかみすけなる)から信明(のぶあき)に宛(あ)て大封(たいほう)の密書(みつしよ)が来(き)た然(しか)るに此(この)書翰(しよかん)は備中守(びちうのかみ)が誤(あやま)つて水中(すゐちう)に落(おと)して
濡(ぬ)れて居(お)つたが何分(なにぶん)火急(くわきう)の用事(ようじ)であるから其(その)儘(まゝ)で届(とど)けるとの事(こと)であつたが此(この)書翰(しよかん)は何(な)にか京都表(けうとおもて)から
申来(もをしきた)つたに因(よ)つての事(こと)と思(おも)はれた然(しか)るに其(その)翌日(よくじつ)定信(さだのぶ)は退職(たいしよく)する事(こと)になつたとしてあるが此(この)太田備中守(おほたびちうのかみ)
と云(い)ふ人(ひと)は寛政(かんせい)四年八月まで京都所司代(けうとしよしだい)を勤(つと)め五年三月から老中(らうちう)の列(れつ)に加(くは)わつたのである
⦿信明老中を辞す
サテ定信(さだのぶ)退職(たいしよく)は信明(のぶあき)が同列(どうれつ)の戸田采女正氏教(とだうねめのしやううぢのり)、 太田備中守資愛(おほたびちうのかみすけなる)、安藤対馬守信成(あんどうたじまのかみのぶなり)、 本多弾正大弼忠(ほんだだんじやうおほすけたゞ)
信明の退職 数(かず)などと共(とも)に天下(てんか)の政治(せいじ)に任(にん)じたのであるが越(こ)えて十年 享和(けうわ)三年の十二月廿二日に至(いた)つて信明(のぶあき)も亦(ま)た
其(その)職(しよく)を辞退(じたい)するに至(いた)つたのであるモツトモ此(この)信明(のぶあき)の辞退(じたい)に就(つい)ても表面(へうめん)は病気(びやうき)の為(ため)であると云(い)ふ事(こと)にな
つては居(お)るが其(その)実(じつ)は矢張(やはり)甚(はなは)だ疑問(ぎもん)である嵩岳言行録(すがくげんこうろく)には此(この)時(とき)の事情(じぜう)を記(しる)して「十一月廿四日 大久保山(おほくぼやま)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百十四号附録 (大正元年十一月十二日発行)
【本文】
城守忠喜(しろのかみたゞよし)の養母(やうば)が卒(そつ)せられたが此(この)人(ひと)は信明(のぶあき)嫡母(ちやくば)の叔母(おば)であるから忌服(きふく)せられたトコロが其(その)廿八日に除(ぢよ)
服(ふく)の御沙汰(ごさた)があつたから翌日(よくじつ)からは登城(とじよう)さるゝ筈(はづ)であるのに病気(びやうき)と称(せう)して出仕(しゆつし)されないのみならず十
二月の初(はじめ)に至(いた)つて重臣(ぢうしん)を召(め)し我(われ)此頃(このごろ)登城(とじよう)致(いた)さぬは将軍(せうぐん)の旨(むね)に忤(さから)ひし事(こと)がある故(ゆゑ)である併(しか)し思(おも)ふ仔細(しさい)が
あるから決(けつ)して心配(しんぱい)するではないぞと云(い)はれたが其(その)廿二日になつて同列(どうれつ)の牧野備前守忠精(まきのびぜんのかみたゞきよ)から手翰(しゆかん)を
以(もつ)て辞表(じへう)を提出(ていしゆつ)すべき旨(むね)を申送(まをしおく)つたので其(その)十九日に信明(のぶあき)は月番(つきばん)戸田采女正氏教(とだうねめのしよううじのり)の許(もと)まで病気(びやうき)に付(つき)退職(たいしよく)
の願書(ぐわんしよ)を出(だ)したのである」と記(しる)してある蓋(けだ)し信明(のぶあき)と云(い)ふ人(ひと)前(まへ)に屡々(しば〴〵)申述(もをしの)べた如(ごと)く頗(すこぶ)る敏才(びんさい)でかつ且(か)つ直(ちよく)
言(げん)を憚(はばか)らぬ気性(きせう)であつたが何処(どこ)迄(まで)も寛政(かんせい)に於(お)ける弊政革新(へいせいかくしん)の実(じつ)を挙(あ)げたいと云(い)ふ意気込(いきごみ)が盛(さかん)であつた
信明の極諫 ので其(その)極(きよく)将軍(せうぐん)の旨(むね)にも忤(さから)つた事(こと)があつたであろうと思(おも)ふ之(これ)はまだ信明(のぶあき)が側用人(そばようにん)時代(じだい)で二十六 歳(さい)頃(ごろ)の話(はなし)
であるが嘗(かつ)て将軍(せうぐん)の家斉(いへなり)が近習(きんしふ)の者(もの)をして小座敷(こざしき)の庭(には)に仮山(かりやま)を築(きづ)かしめ盆池(ぼんち)などを設(もを)けて得意(とくい)に之(これ)を信(のぶ)
明(あき)に見(み)せしめた事(こと)があるスルト信明(のぶあき)は賞(ほ)めるかと思(おも)ひの外(ほか)忽(たちま)ち襟(えり)を正(たゞ)して凡(およ)そ天下国家(てんかこくか)を治(おさ)むる程(ほど)の
御身(おんみ)は海内(かいない)の山岳滄海(さんがくさうかい)皆(みな)御庭(おには)も同様(どうやう)である吉野龍田(よしのたつだ)の花紅葉(はなもみぢ)を御庭(おには)の花(はな)とも思召(おぼしめさ)るゝ御心持(おこゝろもち)がほしい
然(しか)るに此(かく)の如(ごと)き琑細(ささい)の事(こと)を以(もつ)て御楽(おたのしみ)になさるゝのは誠(まこと)に以(もつ)て狭(せま)き事(こと)である近習(きんしふ)の人々(ひと〳〵)もかゝるツマラ
ない事(こと)で貴重(きぢう)の暇(ひま)を費(ついや)すと云(い)ふ事(こと)は余(あま)り御為(おため)にもなるまいと申上(もをしあ)げた此(この)時(とき)近習(きんしふ)の人々(ひと〴〵)は手(て)に汗(あせ)を握(にぎ)つ
たが将軍(せうぐん)家斉(いへなり)も余(あま)り面白(おもしろ)くは感(かん)じなかつた様子(やうす)であつた併(しか)し遂(つひ)には之(これ)を嘉納(かのう)したと云(い)ふ事(こと)であるかゝ
る有様(ありさま)であつたから将軍(せうぐん)に於(おい)ても時々(とき〴〵)気(き)に入(い)らぬ事(こと)を云(い)はれて信明(のぶあき)の挙動(きうどう)には不満(ふまん)の点(てん)もあつたであ
ろうが此処(こゝ)には尚(なほ)別(べつ)に研究(けんきう)すべき大切(たいせつ)の事柄(ことがら)が一つあると思(おも)ふそれは外(ほか)でもないが此(この)将軍(せうぐん)家斉(いへなり)と云(い)ふ
大御所問題 人(ひと)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く元(も)と一橋治済(ひとばしはるなり)の子(こ)で入(いつ)て前将軍(せんせうぐん)家治(いへはる)の後(あと)を襲(つ)いだのであるから夙(つと)に其(その)生父(せいぼ)治(はる)
済(なり)を尊(たつと)むで大御所(おほごしよ)とし西丸(にしまる)に迎(むか)へたいと云(い)ふ志(こゝろざし)があつたのであるソコで定信(さだのぶ)在職(ざいしよく)の当時(たうじ)信明(のぶあき)と両人(れうにん)
【欄外】
豊橋市史談 (信明老中を辞す) 三百廿五
【欄外】
豊橋市史談 (信明老中を辞す) 三百廿六
【本文】
を召(め)して此(この)事(こと)を諮(はか)つたが両人(れうにん)は之(これ)を不可(ふか)としたのである其(その)翌日(よくじつ)将軍(せうぐん)は更(さら)に定信(さだのぶ)一 人(にん)を呼(よ)むで再度(さいど)此(この)事(こと)
を熟談(じゆくだん)したが定信(さだのぶ)は矢張(やはり)固(かた)く執(と)つて之(これ)を不可(ふか)とし語気(ごき)漸(やうや)く激烈(げきれつ)となつたので将軍(せうぐん)も遂(つひ)に色(いろ)を変(へん)じて側(そば)
にあつた刀(かたな)に手(て)を掛(か)けた此(この)時(とき)御側衆(おそばしう)の平岡頼長(ひらをかよりなが)と云(い)ふ人(ひと)が傍(かたはら)に居(ゐ)たが気転(きてん)のきいた人(ひと)であつたから
其(その)仔細(しさい)を知(し)らざる真似(まね)をして定信(さだのぶ)に向(むか)ひ越中守殿(えつちうのかみどの)御佩刀(ごはいとう)を賜(たま)はるから早(はや)く御受(おう)けし給(たま)へと云(い)つたので
将軍(せうぐん)も止(やむ)を得(え)ず執(と)つた刀(かたな)を投出(なげだ)して内(うち)に入(い)られたとの事(こと)であるが其(その)後(のち)年(とし)を経(へ)て将軍(せうぐん)は又(ま)た此(この)大御所(おほごしよ)問(もん)
題(だい)を青山下野守忠裕(あをやましもつけのかみたゞひろ)にも諮(はか)つた事(こと)があるが之(これ)も不可(ふか)を唱(とな)へた此(かく)の如(ごと)き事(こと)があつて此(この)件(けん)丈(だけ)はドウしても
実行(じつかう)されては種々(しゆ〴〵)の差障(さしさは)りを生(せう)ずる幕府(ばくふ)の重大事件(ぢうだいじけん)であると云(い)ふので定信(さだのぶ)は結局(けつきよく)此(この)問題(もんだい)との対照上(たいせうぜう)止(やむ)
を得(え)ず彼(か)の尊号事件(そんがうじけん)をも御拒(おこば)み申上(まをしあ)げねばならぬ事情(じぜう)になつたのであるとの説(せつ)がある兎(と)に角(かく)之(これ)は当時(たうじ)
に於(お)ける余程(よほど)の難問題(なんもんだい)で閣老(かくらう)の間(あひだ)には苦心(くしん)されたものである
久田縫殿頭 元来(がんらい)此(この)一橋治済(ひとつばしはるなり)には久田縫殿頭(ひさだぬひどののかみ)長考と云(い)ふ家老(かろう)があつて治済(はるなり)の寵(てう)を専(ほしいまゝ)にして居(を)つたが之(これ)が中々(なか〳〵)の野(や)
心家(しんか)で之(これ)には大分(だいぶん)其(その)徒党(ととう)もあるそソコで定信(さだのぶ)等(ら)の意見(いけん)では治済(はるなり)の大御所(おほごしよ)の号(がう)を上(あ)ぐれば随(したがつ)て此(この)久田(ひさだ)は
益々(ます〳〵)権威(けんゐ)を弄(ろう)する様(やう)になるかくては折角(せつかく)田沼(たぬま)を斥(しりぞ)けて多年(たねん)の積弊(せきへい)を改革(かいかく)しようと云(い)ふ事(こと)も茲(こゝ)に第(だい)二の
田沼(たぬま)が出来(でき)て其(その)仕事(しごと)は遂(つひ)に水泡(すゐはう)に皈(き)し再(ふたゝ)び弊害(へいがい)を助長(じよてう)するのは当然(たうぜん)であると云(い)ふのにあつた事(こと)と信(しん)ぜ
られる夫(それ)故(ゆゑ)にイヨ〳〵定信(さだのぶ)が退職(たいしよく)の後(のち)の事(こと)であるが信明(のぶあき)の謀議(ぼうぎ)で先(ま)づ此(この)久田(ひさだ)を治済(はるなり)の膝元(ひざもと)から離(はな)すの
が一 策(さく)であると云(い)ふ処(ところ)から之(これ)を大目付役(おほめつけやく)に転任(てんにん)せしめたのである特(とく)に信明(のぶあき)が辞職(じしよく)の前(まへ)であるが二の丸(まる)
が造営(ざうえい)せられて将軍(せうぐん)は治済(はるなり)を之(これ)に移(うつ)さむとする下心(したごゝろ)であつたが信明(のぶあき)はドウしても之(これ)を御受(おうけ)致(いた)さなかつ
たのである其(その)時(とき)の落首(らくしゆ)に
二の丸へ渡しかけたる一つ橋
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
踏みはづしたらなんと将軍
と云(い)ふのが出来(でき)たと云(い)ふ事(こと)であるが先(ま)づ大要(たいえう)は右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)から信明(のぶあき)は老職(らうしよく)を辞(じ)するに至(いた)つたものと
《割書:久田等の専|横》 信(しん)ぜられる果(はた)して信明(のぶあき)辞職(じしよく)後(ご)は久田(ひさだ)長考が若年寄(わかとしより)の立花出雲守種周(たちばないづものかみたねのり)と謀(はか)り合(あは)せて私望(しぼう)を遂(とげ)むとし信明(のぶあき)
辞職(じしよく)の享和(けうわ)三年を去(さ)る僅(わづか)に三年 遂(つひ)に其(その)不埒(ふらち)が露顕(ろけん)して遉(さすが)の将軍(せうぐん)も愛想(あひさう)をつかし文化(ぶんくわ)三年十二月十九日
を以(もつ)て孰(いづ)れも免官(めんくわん)となり蟄居(ちつきよ)を申付(まをしつ)けらるゝに至(いた)つたのであるが其(その)事(こと)のあつた翌(よく)四年の五月には信明(のぶあき)
は再(ふたゝ)び召(め)されて老中(らうちう)の職(しよく)に就(つ)き特(とく)に其(その)上座(ぜうざ)を命(めい)ぜられて幕政(ばくせい)を握(にぎ)るに至(いた)つた処(ところ)から見(み)ても益々(ます〳〵)其(その)間(あひだ)の
《割書:林述斉と信|明》 消息(せうそく)が判(わか)る事(こと)と思(おも)ふのであるモツトモ信明(のぶあき)辞職(じしよく)の当時(たうじ)は人(ひと)の意外(いぐわい)とした事(こと)で志(こゝろざし)あるものは最(もつと)も之(これ)を
惜(おし)むだのである彼(か)の林大学頭(はやしだいがくのかみ)述斉が其(その)当時(たうじ)信明(のぶあき)に贈(おく)つた書翰(しよかん)は今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るので甚(はなは)だ
価値(かち)のあるものであると思(おも)ふ
元来(がんらい)此(この)林述斉(はやしじつさい)と云(い)ふ人(ひと)は美濃国(みのゝくに)岩村(いはむら)の城主(じようしゆ)松平能登守(まつだひらのとのかみ)乗蘊(大給松平(だいきふまつだひら)の支族(しぞく))の次男(じなん)で名(な)を衡(こう)幼名(えうめい)を熊(くま)
蔵(ざう)と云(い)つたが寛政(かんせい)五年四月五日 林大学頭(はやしだいがくのかみ)信敬 病没(びやうぼつ)せるも嗣(よつぎ)なきの故(ゆゑ)を以(もつ)て将軍(せうぐん)の特旨(とくし)により其(その)後(あと)
を襲(つ)いたのである併(しか)し実(じつ)は定信(さだのぶ)等(ら)の推薦(すゐせん)によつたものであるとの事(こと)であるが此(この)人(ひと)は性質(せいしつ)快豁(くわいかつ)で胆気(たんき)あ
り能(よ)く人(ひと)の意表(いへう)に出(い)でゝ直言家(ちよくげんか)であつた且(か)つ実(じつ)に誠意(せいい)があつて学問(がくもん)に於(おい)ても頗(すこぶ)る勝(すぐ)れて居(を)つたのであ
る信明(のぶあき)とは恰(あたか)も四 歳(さい)違(ちが)ひで信明(のぶあき)の方(はう)が年長(ねんてう)であつたが信明(のぶあき)辞職(じしよく)の時(とき)に送(おく)つた書翰(しよかん)の大要(たいえう)と云(い)ふのは大(たい)
要(えう)左(さ)の如(ごと)くである
述斉の書翰 「今般(こんぱん)御病気(ごびやうき)に付(つき)御免職(ごめんしよく)なされ扨々(さて〳〵)不慮(ふりよ)の義(ぎ)である此(この)節(せつ)朝野(てうや)は賢愚(けんぐ)の別(べつ)なく嘆惜痛腕(たんせきつうゑん)のみであるが之(これ)
は畢竟(ひつけう)平日(へいじつ)正大明白(せいだいめいはく)の御心事(ごしんじ)を世上(せぜう)一 統(とう)が信(しん)じて居(を)るからである即(すなはち)御辞職(ごじしよく)の事(こと)は閣下(かくか)御(ご)一 人(にん)に取(と)りて
は御本望(ごほんもう)であろうが国家(こくか)の為(ため)には誠(まこと)に以(もつ)て然(しか)るべからざる義(ぎ)と概嘆(がいたん)する外(ほか)はない近来(きんらい)追々(おひ〳〵)世風(せふう)が陵遅(れうち)
【欄外】
豊橋市史談 (信明老中を辞す) 三百廿七
【欄外】
豊橋市史談 (信明老中を辞す) 三百廿八
【本文】
の姿(すがた)に傾(かたむ)いて来(き)たが国(くに)の柱石(ちうせき)とも仰(あふ)ぎ万人倚頼(ばんにんいらい)の望(のぞみ)あるを以(もつ)て一 日(にち)々々と持耐(もちこた)へて来(き)たので一 且(たん)意外(いぐわい)
の変事(へんじ)が出来(でき)た場合(ばあひ)には易(えき)に所謂(いはゆる)霜(しも)を踏(ふ)むで堅氷(けんぴよう)至(いた)るで何処(どこ)迄(まで)行(ゆ)くか分(わか)らぬ之(これ)よりは君子(くんし)道消(みちき)え小人(せうにん)
道(みち)長(ちよう)ずるの地(ち)へ進(すゝ)むのは是非(ぜひ)ない事(こと)である実(じつ)に天災地妖(てんさいちよう)よりは人事(じんじ)の変程(へんほど)恐(おそ)るべきものはない此(この)上(うへ)何(な)
にか大変事(たいへんじ)は出来(でき)は仕(し)まいかと志(こゝろざし)あるものは心中(しんちう)に覚悟(かくご)を極(きは)むるの外(ほか)はないのである扨(さて)又(また)閣下(かくか)は未(いま)
だ春秋(しゆんしう)に富(と)むで居(を)られるから御退職後(ごたいしよくご)も国家(こくか)の事(こと)は朝暮(てうぼ)に思(おも)ひ出(いだ)され御養生(ごやうぜう)を専(せん)一にせられたい大丈(だいじよ)
夫(うぶ)の進退出処(しんたいしゆつしよ)は元(も)と皆(みな)世(よ)の為(た)め国(くに)の為(ため)で我身(わがみ)を我物(わがもの)と思(おも)ふは狭小(けうせう)の見(けん)とも云(い)ふべきであるから古(いにしへ)よ
り自(みづか)ら任(にん)ずるの士(し)は其身(そのみ)を自愛(じあい)して待(ま)つ処(ところ)がある仮令(たとへ)太平(たいへい)の時節(じせつ)たり共(とも)国(くに)の為(た)め君(きみ)の為(た)め身(み)を棄(す)つべ
き時(とき)はあるべきかと思(おも)はれる返(かへ)す〴〵も自愛(じあい)を第(だい)一に致(いた)されたい心中黙止(しんちうもくし)し難(がた)いから申上(まをしあげ)るが此(この)書翰(しよかん)
は御自身(ごじしん)に火(ひ)に投(とう)じて貰(もら)いたい又(また)此(この)節(せつ)嫌疑(けんぎ)を避(さ)くる仔細(しさい)有(あ)つて拝候(はいこう)せなむだが春(はる)にもなつたなら御(お)
目(め)に掛(かゝ)りに参(まゐ)りたい」と先(ま)づ之(これ)が其(その)書翰(しよかん)の大要(たいえい)であるが勿論(もちろん)述斉(じつさい)として辞職後(じしよくご)の信明(のぶあき)に故(ことさ)ら阿諛(あゆ)する
必要(ひつえう)もなく特(とく)に其(その)文辞(ぶんじ)より見(み)るも実(じつ)に熱誠(ねつせい)を籠(こ)めたもので何処(どこ)迄(まで)も述斉(じつさい)の真意(しんい)たる事(こと)は疑(うたがひ)を容(い)れざる
処(ところ)であるが実(じつ)は之(これ)が当時(たうじ)に於(お)ける識者間(しきしやかん)の与論(よろん)とも云(い)ふべきものであつた事(こと)と信(しん)ずるが而(しか)して述斉(じつさい)は
又(ま)た其(その)後(のち)一ケ年(ねん)立(た)つた処(ところ)で再(ふたゝ)び信明(のぶあき)に書翰(しよかん)を送(おく)つた此(この)書翰(しよかん)も亦(ま)た幸(さいはひ)に大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るのである
ソコで其(その)要旨(えうし)を御話(おはなし)して見(み)るとコウである
「光陰(くわうゐん)は早(はや)いもので一 年(ねん)は瞬(またゝ)く間(ま)に過(すぎ)たが君(きみ)には未(いま)だ御出勤(ごしゆつきん)の運(はこ)びに至(いた)らぬドウか早(はや)く御出勤(ごしゆつきん)ある様(やう)
に致(いた)したい昔(むかし)から賢相良輔(けんさうれうほ)の苦心(くしん)して組立(くみた)てた善政(ぜんせい)も美事(びじ)も小人(せうにん)が代(かは)れば其(その)人(ひと)を憎(にく)むで其(その)事(こと)迄(まで)をも廃(はい)
する様(やう)になる歴代(れきだい)其(その)例(れい)は少(すくな)くないのであるから此(この)際(さい)閣下(かくか)一 身(しん)の進退(しんたい)は国家(こくか)に関(くわん)する処(ところ)が多(おほ)い折角(せつかく)御改(ごかい)
革(かく)の結果(けつくわ)今日(こんにち)の太平(たいへい)となつたるものを百 年(ねん)之(これ)をなして足(た)らず一 朝(てう)之(これ)を敗(やぶ)るに余(あまり)ありと云(い)ふ事(こと)もあるか
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百廿二号附録 (大正元年十一月廿一日発行)
【本文】
らムザ〳〵金甌(きんぺい)の天下(てんか)へ瑕(きづ)をつけるのは惜(おし)いものである早(はや)く再(ふたゝ)び職(しよく)につかれて此(この)天下(てんか)を維持(ゐぢ)して貰(もら)ひ
たい」とコウ云(い)ふ意味(いみ)で熱心(ねつしん)に信明(のぶあき)の再就職(さいしうしよく)を促(うなが)したものである
かくて此(この)書翰(しよかん)に対(たい)しては信明(のぶあき)からも返書(へんしよ)を送(おく)つたのであるがそれが如何(いか)なる意味(いみ)の事(こと)を答(こた)へたもので
あるか遺憾(ゐかん)ながら今(いま)分明(ぶんめい)せぬのである併(しか)し述斉(じつさい)からは更(さら)に又(ま)た重(かさ)ねて其(その)再就職(さいしうしよく)を熱望(ねつぼう)する所以(ゆゑん)を細(こま)
細(ごま)折回(おりかへ)して申送(まをしおく)つたのである此(この)書翰(しよかん)の方(はう)は今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る併(しか)し余(あま)りクダ〳〵しいから此処(こゝ)
には詳述(せうじゆつ)せぬが兎(と)に角(かく)信明(のぶあき)の辞職(じしよく)は当時(たうじ)甚(はなは)だしく識者間(しきしやかん)に惜(おし)まれたもので其(その)再就職(さいしうしよく)は又(ま)た実(じつ)に輿望(よぼう)で
あつた事(こと)が証拠立(せうこた)てられると思(おも)ふ然(しか)るに前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)の辞職(じしよく)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の事情(じぜう)が其(その)間(あひだ)に
介在(かいざい)して居(を)つた事(こと)であるから仮令(たとへ)信明(のぶあき)自身(じしん)も亦(ま)た己(おの)れが再(ふたゝ)び出(いづ)るでなくては天下(てんか)の事(こと)は治(おさ)まらぬと思(おも)
つたにしても到底(とうてい)其(その)意(い)の如(ごと)くにはならなかつたのである
⦿信明再び老職に任ず
信明と和歌 「位山(くらゐやま)ふもとの里(さと)にたち返(かへ)りこゝろのどけき春(はる)はきにけり」とは信明(のぶあき)が辞職(じしよく)の翌年(よくねん)即(すなは)ち文化(ぶんくわ)元年(がんねん)の正(せう)
月(ぐわつ)に読(よ)むだ歌(うた)であるが信明(のぶあき)も辞職後(じしよくご)は一 時(じ)閑散(かんさん)の身(み)となつたので頻(しき)りに和歌(わか)の稽古(けいこ)をしたものと見(み)え
る既(すで)に前(まへ)にも申上(まをしあげ)た如(ごと)く此(この)人(ひと)は幼少(やうせう)の時(とき)から能書(のうしよ)であつて詩(し)も上手(ぜうづ)であり又(ま)た篆刻(てんこく)などを能(よ)くした事(こと)
は有名(いうめい)なものであるが其(その)熱心(ねつしん)に和歌(わか)を学(まな)むだのは却(かへ)て此(この)頃(ごろ)の事(こと)であつたと信(しん)ぜられる即(すなは)ち芝山前中納(しばやまぜんちうな)
言持豊卿(ごんもちとよけう)に添削(てんさく)を請(こ)つたものであるが「谷(たに)の戸(と)はかさなる雲(くも)にあけやらでなつの夜(よ)長(なが)きさみだれの宿(やど)」
《割書:さみだれの|侍従》 と云(い)ふ歌(うた)は秀逸(しういつ)であると云(い)ふので公卿(くげ)の間(あひだ)には信明(のぶあき)を称(せう)してさみだれのう侍従(じぜう)と呼(よ)むだとの事(こと)であるサ
《割書:信明国に就|く》 テ文化(ぶんくわ)二 年(ねん)の四月には夫人(ふじん)井上氏(ゐのうへし)逝去(せいきよ)の事(こと)があり同年(どうねん)六月より帰国(きこく)を許(ゆる)されて廿一日 江戸(えど)を発(はつ)し廿七
【欄外】
豊橋市史談 (信明再び老職に任ず) 三百廿九
【欄外】
豊橋市史談 (信明再び老職に任ず) 三百三十
【本文】
日に此(この)吉田(よしだ)へ着(ちやく)せられたがそれよりは国(くに)に居(ゐ)て家臣(かしん)を集(あつ)め毎日(まいにち)馬術(ばじゆつ)などの稽古(けいこ)をさせたり又(また)は海上(かいぜう)に
釣(つり)を試(こゝろ)みたりなどして悠々自適(ゆう〳〵じてき)の有様(ありさま)であつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く其(その)年(とし)の十二月廿八日に至(いた)
《割書:久田立花の|蟄居》 つて例(れい)の大目付(おほめつけ)久田縫殿頭(ひさだぬひどののかみ)長考は立花出雲守種周(たちばないずものかみたねのり)と共(とも)に其(その)職(しよく)を奪(うば)はれ蟄居(ちつきよ)を命(めい)ぜらるゝ事(こと)になつたの
である其(その)時(とき)の事柄(ことがら)に就(つい)て文恭院殿御実記(ぶんきやうゐんでんごじつき)に
此日(このひ)立花出雲守種周(たちばないずものかみたねのり)致仕(ちし)し蟄居(ちつきよ)を命(めい)ぜらる之(これ)は重(おも)き御役(おやく)をも蒙(かうむ)り乍(なが)ら卑賎(ひせん)の者(もの)に度々(たび〴〵)面会(めんくわい)し其上(そのうへ)奥(おく)
向(むき)或(あるひ)は重(おも)き事柄(ことがら)を表方(おもてかた)の者(もの)に伝(つた)へ様々(さま〴〵)虚偽(きよぎ)を申(まを)すに至(いた)りしは勤柄(つとめがら)に不似合(ふにあひ)不埒(ふらち)を咎(とが)められてなり又(ま)
た目付(めつけ)久田縫殿頭(ひさだぬひどののかみ)長考 御役(おはやく)召放(めしはな)されて小普請(こぶしん)に入(い)れられ閉門(へいもん)せしめらる之(これ)は市人(しじん)を猥(みだ)りに出入(でいり)致(いた)さ
せ又(また)は重(おも)き事(こと)まで雑談(ざつだん)に及(およ)び立花出雲守種周(たちばないずものかみたねのり)と示談(じだん)の事(こと)を心付(こゝろつけ)もなく剰(あまつさ)へ市人(しじん)より取留(とりとめ)ざる義(ぎ)を
信用(しんよう)致(いた)し彼是僻事(かれこれひがごと)多(おほ)きにより封書(ふうしよ)を以(もつ)て尋問(じんもん)ありしに不束(ふつゝか)の答書(たうしよ)を捧(さゝ)げ旁々(かた〴〵)不埒(ふらち)の至(いたり)を咎(とが)められて
なり
と記(しる)してあるが之(これ)は真相(しんさう)であると思(おも)ふ従(したがつ)て信明(のぶあき)が先(さ)きに老中(らうちう)の職(しよく)を辞(じ)するに至(いた)つたのも其(その)原因(げんゐん)の一
としては慥(たしか)に此(この)両人(れうにん)の一 派(ぱ)に対(たい)する消息(せうそく)があつたものに相違(さうゐ)ないと信(しん)ぜらるゝのであるがサテ両人(れうにん)が
今(いま)コーなつて見(み)れば自然(しぜん)の勢(いきほひ)信明(のぶあき)が復(ふたゝ)び世(よ)に出(いづ)るようになるのは当然(たうぜん)の結果(けつくわ)ともなすべすべきもので嵩(す)
信明の復職 岳君言行録(がくくんげんかうろく)などに拠(よ)ると信明(のぶあき)自身(じしん)も亦(ま)た自(みづか)ら再勤(さいきん)の時機(じき)に接(せつ)すべきことを予期(よき)して居(を)つたものであるが
果(はた)して其(その)翌(よく)文化(ぶんくわ)三年の五月四日 付(づけ)を以(もつ)て幕府(ばくふ)から急(きふ)の召状(めしぜう)が吉田(よしだ)に到着(たうちやく)したのである其(その)時(とき)の奉書(ほうしよ)は矢(や)
張(はり)今日(こんにち)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る而(しか)して其(その)全文(ぜんぶん)は左(さ)の如(ごと)くである
其方御用義候間可致参府旨被仰出候可被存其趣候恐々謹言
五 月 四 日 青 山 下 野 守
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
土 井 大 炊 頭
牧 野 備 前 守
松 平 伊 豆 守 殿
猶以六七日の支度にて其元可有発足候道中被差急不及常体の日積にて可被相越候供廻
小勢可被召連候以上
かくて信明(のぶあき)は早速(さつそく)吉田(よしだ)を出立(しゆつたつ)して五月廿三日に着府(ちやくふ)したが其(その)廿五日には復職(ふくしよく)を命(めい)ぜられ且(か)つ上座(ぜざ)たる
ことを命(めい)ぜられたのである其(その)時(とき)の様(さま)も亦(ま)た文恭院殿御実記(ぶんきやうゐんでんおじつき)に左(さ)の如(ごと)く記(しる)してある
二十五日 今朝(こんてう)水戸宰相治紀卿(みとさいさうはるのりけう)のもとに青山下野守忠裕(あをやましもつけのかみたゞすけ)御使(おんつかひ)し松平伊豆守信明(まつだひらいづのかみのぶあき)加判(かはん)の上班(うへはん)を命(めい)ぜらる
ゝ旨(むね)を仰(あふ)せつかはさる因(よつ)て其(その)事(こと)布衣(ふい)以上(いぜう)の輩(はい)へ宿老(しゆくらう)列座(れつざ)して牧野備前守忠精(まきのびぜんのかみたゞきよ)をして伝(つた)ふ又(また)尾張中将(をはりちうぜう)
は御幼稚(ごえうち)を以(もつ)て家司(かし)めして備前守忠精(びぜんのかみたゞきよ)伝(つた)ふ
と云(い)ふので却々(なか〳〵)厳格(げんかく)なものであつた事と信(しん)ずる又(ま)た此(この)時(とき)信明(のぶあき)は将軍(せうぐん)家斉(いへなり)に面謁(めんえつ)して何事(なにごと)か懇篤(こんとく)なる旨(むね)
を受(う)けて落涙(らくるい)したと伝(つた)へられて居(を)るが併(しか)し一 般(ぱん)の批評(ひへう)では信明(のぶあき)再勤(さいきん)の後(のち)は将軍(せうぐん)の恩遇(おんぐう)何(なん)となく衰(おとろ)へ当(たう)
人(にん)も亦(ま)た万事(ばんじ)に扣(ひか)へ目(め)勝(がち)で只管(ひたすら)無事(ぶじ)を図(はか)つた形跡(けいせき)があるから天下(てんか)こそ太平(たいへい)に治(おさま)つたが却(かへつ)て其(その)技倆(ぎれう)は発(はつ)
揮(き)されて居(を)らぬ寧(むし)ろ其(その)人物(じんぶつ)は前任(ぜんにん)の時代(じだい)に於(おい)て見(み)らるゝのであると云(い)ふにあるようであるが私(わたくし)は強(あなが)ち
にさう評(へう)されぬのみならず却(かへつ)て再勤後(さいきんご)に於(おい)ては自然(しぜん)定信(さだのぶ)の助力(じよりよく)を俟(ま)事も少(すくな)く自己(じこ)の力量(りきれう)を発揚(はつよう)して
居(を)る処(ところ)が多(おほ)いと確信(かくしん)するのである之(これ)から追々(おい〳〵)其(その)事蹟(じせき)に就(つい)てはかい摘(つま)むで申述(まをしの)ぶる事に致(いた)したいと思(おも)ふ
⦿信明復職当時の形勢
【欄外】
豊橋市史談 (信明復職当時の形勢) 三百卅一
【欄外】
豊橋市史談 (信明復職当時の形勢) 三百卅二
【本文】
我儘隠居 元来(がんらい)将軍(せうぐん)の生父(せいふ)一橋治済(ひとつばしはるなり)と云(い)ふ人(ひと)は世(よ)に我儘隠居(わがまゝゐんきよ)と噂(うはさ)せられた位(くらゐ)の人(ひと)で随分(ずゐぶん)幕府(ばくふ)の重職(ぢうしよく)等(ら)も持(も)て余(あま)し
たのであるが之(これ)には又(ま)た奸臣(かんしん)等(ら)の阿附(あふ)するものが多(おほ)く孰(いづ)れも此(この)治済(はるなり)を利用(りよう)して何(な)にか一 仕事(しごと)をしよう
と云(い)ふ心根(こゝろね)のものばかりであるので流石(さすが)の定信(さだのぶ)でさへ之(これ)には苦心(くしん)したのであつたさればこそ定信(さだのぶ)が辞(じ)
水野忠友 職(しよく)して後(のち)僅(わづか)に三四年で寛政(かんせい)九年の二月には彼(か)の水野忠友(みづのたゝとも)が再勤(さいきん)の事となり其(その)十一月には遂(つひ)に此(この)人(ひと)が西(にし)
の丸(まる)の老中(らうちう)に復(ふく)することとなつたが之(これ)も治済(はるなり)の意(こゝろ)であつたと云(い)ふ事である蓋(けだ)し此(この)忠友(たゞとも)と云(い)ふ人(ひと)は田沼時(たぬまじ)
代(だい)に於(おい)て意次(おきつぐ)に媚付(びふ)して側用人(そばようにん)となり遂(つひ)に老中(らうちう)に准(じゆん)ぜられたのであるが其(その)養子(やうし)忠徳(たゞのり)と云(い)ふのは実(じつ)は意(おき)
次(つぐ)の次男(じなん)で此(この)両人(れうにん)は互(たがひ)に相結托(あひけつたく)して権勢(けんせい)を弄(もてあそ)むだのである然(しか)るに前(せん)に申述(まをしの)べた如(ごと)く天明(てんめい)六年に意次(おきつぐ)
が斥(しりぞ)けらるゝ事と相成(あひなつ)たらば忠友(たゞとも)は忽(たちま)ちに豹変(ひようへん)して其(その)養子(やうし)をも離別(りべつ)したので世人(せじん)は其(その)澆薄(げうはく)に驚(おどろ)いたと
の事(こと)であるがそれにも拘(かゝは)らず此(この)人(ひと)も程(ほど)なく職(しよく)を罷(や)められて仕舞(しま)つたのであるにそれが前(せん)申(まを)す如(ごと)く寛政(かんせい)
九年に又々(また〳〵)復職(ふくしよく)したのであるから老中(らうちう)本多忠籌(ほんだたゞかず)は到底(とうてい)居堪(ゐたま)らずして奥勤(おくつとめ)を罷(や)むるに至(いた)つたと云(い)ふ始末(しまつ)
で之(これ)では折角(せつかく)定信(さだのぶ)等(ら)の苦心(くしん)した事も水泡(すゐほう)に皈(き)しはしないかと気遣(きつか)はれた事(こと)であつたが忠友(たゞとも)は程(ほど)なく享(けう)
和(わ)二年九月廿日 年(とし)七十二で卒去(そつきよ)したがサテ治済(はるなり)に付(つ)き纏(まとま)つて居(を)る者共(ものども)の勢(いきほひ)は益々(ます〳〵)漫延(まんえん)する計(ばか)りで其(その)翌(よく)
三年には前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)も一たび其(その)職(しよく)を退(しりぞ)くの止(やむ)を得(え)ざる事情(じぜう)に立至(たちいた)り其(その)翌年(よくねん)に当(あた)る文化(ぶんくわ)元(がん)
水野忠成 年(ねん)にはイヨ〳〵治済(はるなり)の党(たう)が時(とき)を得(え)て忠友(たゞとも)の養子(やうし)水野出羽守忠成(みづのではのかみたゞしげ)は若年寄(わかどしより)となり奥掛(おくがゝり)に任(にん)ぜられ段々(だん〴〵)と
政局(せいきよく)に其(その)手(て)を伸(のば)さむとしたのである勿論(もちろん)之(これ)も治済(はるなり)の意(い)に出(い)でたと云ふ事であるが此(この)忠成(たゞしげ)と云(い)ふ人(ひと)は元(がん)
来(らい)岡野(をかの)備前守知隣の次男(じなん)で忠徳(たゞのり)離別(りべつ)の後(のち)に養子(やうし)となつて忠友(たゞとも)の後(あと)を襲(つ)いだのであるが中々(なか〳〵)父(ちゝ)に劣(おと)らぬ
策士(さくし)で後年(こうねん)に至(いた)つて大(おほい)に世(よ)を紊(みだ)したのは実(じつ)に此(この)人(ひと)であるので仮令(たとへ)前(ぜん)申述(まをしの)べたように久田(ひさだ)立花(たちばな)等(ら)一 味(み)の
ものは其(その)後(ご)斥(しりぞ)けられたにしてもマダ中々(なか〳〵)治済(はるなり)の一 派(ぱ)と云(い)ふものは一 方(ぱう)に割拠(かつきよ)して居(を)る次第(しだい)であるから
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百廿五号附録 (大正元年十一月廿六日発行)
【本文】
此(この)時(とき)に方(あた)つて信明(のぶあき)の復職(ふくしよく)は実(じつ)に容易(ようい)ならぬ苦労(くろう)であつた事と信(しん)ぜられるのであるそれのみならず当時(たうじ)
は既(すで)に盛(さかん)に外交(ぐわいかう)の問題(もんだい)が起(おこ)つて居(ゐ)たのである
《割書:露国の使節|レサノツト|の来航》 諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く彼(か)の露国(ろこく)の使節(しせつ)レサノツトが初(はじ)めて我(わ)が長崎(ながさき)へやつて来(き)て通商(つうせう)を求(もと)めたのは恰(あたか)も
文化(ぶんくわ)元年(がんねん)の事で即(すなは)ち信明(のぶあき)が辞職中(じしよくちう)の出来事(できごと)であるが其(その)以前(いぜん)既(すで)に寛政(かんせい)の二三 年頃(ねんごろ)から北海(ほくかい)には屡々(しば〳〵)露船(ろせん)が
《割書:英艦長崎へ|来る》 やつて来(き)て毎度(まいど)何(なん)とかの事(こと)があつたのである而(しか)して信明(のぶあき)が復職(ふくしよく)した翌々年(よく〳〵ねん)即(すなは)ち文化(ぶんくわ)五 年(ねん)には又(ま)た英艦(えいかん)
が長崎(ながさき)へやつて来(き)て抄掠(しようれう)を行(おこな)つたので時(とき)の長崎奉行(ながさきぶぎやう)松平図書頭康英(まつだひらずしよのかみやすひで)は深(ふか)く其(その)暴状(ぼうぜう)を憤(いきどほ)り故(ことさ)らに薪水(しんすゐ)
を供給(けふきう)して油断(ゆだん)をさせ其(その)隙(すき)を窺(うかゞ)つて之(これ)を夜打(ようち)にせむと謀(はか)つたのであるが徴募(てうぼ)の兵(へい)がまだ集(あつま)らざる中(うち)に
英船(えいかん)の方(はう)が早(はや)くも錨(いかり)を揚(あ)げて立(た)ち去(さ)つたので康英(やすひで)は其(その)機(き)を失(うしな)つたのを遺憾(ゐかん)とし且(かつ)は憤懣(ふんまん)に堪(た)へざる処
《割書:松平康英の|憤死》 から遂(つひ)に割腹(かつぷく)して死(し)むだと云(い)ふ珍事(ちんじ)があつたのである此(かく)の如(ごと)く我国(わがくに)の辺彊(へんきよう)は北(きた)も南(みなみ)も外国(ぐわいこく)の事(こと)がある
にも拘(かゝは)らず先(さ)きに信明(のぶあき)忠籌(たゞかず)等(ら)の如(ごと)き定信(さだのぶ)の意志(いし)を継続(けいぞく)せるものが引退(ひきしりぞ)きて而(しか)も前(まへ)に申述(まをしの)べた如(ごと)く治済(はるなり)
に属(ぞく)する一 派(ぱ)の人々(ひと〴〵)が次第(しだい)に勢力(せいりよく)を得(う)るに至(いた)つてからと云(い)ふものは都(みやこ)は益々(ます〳〵)奢侈(しやし)の風(ふう)が盛(さかん)になり政綱(せいかう)
は漸(やうや)く弛(ゆる)み出(だ)して人心(じん〳〵)の隋弱(だじやく)に流(なが)れむとした事は将(まさ)に田沼時代(たぬまじだい)を再現(さいげん)せむとする有様(ありさま)であつたのであ
《割書:深川八幡祭|礼の珍事》 る現(げん)に文化(ぶんくわ)四年八月十九日 江戸(えど)の深川(ふかがは)八 幡宮祭礼(まんぐうさいれい)の時(とき)の如(ごと)きは練物(ねりもの)作(つく)り物(もの)など実(じつ)に風流(ふうりう)華美(かび)を競(きそ)つた
もので見物(けんぶつ)の群集(ぐんしう)は近年(きんねん)に稀(まれ)なる事であつたが為(ため)に永代橋(えいたいばし)が中間(ちうかん)から断落(だんらく)して千五百 余(よ)の溺死人(できしにん)を出(いだ)
したと云(い)ふ有名(いうめい)なる話(はなし)がある程(ほど)である此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたから信明(のぶあき)は復職(ふくしよく)すると同時(どうじ)に此(この)難局(なんきよく)に方(あた)
つて偏(ひとへ)に英意(えいい)以(もつ)て治(ぢ)を求(もと)めたものである之(これ)も矢張(やはり)述斉(じつさい)が信明(のぶあき)に送(おく)つた書翰(しよかん)で大河内家(おほかうちけ)の所蔵(しよざう)であるが
文化(ぶんくわ)五年九月のもので誠(まこと)に当時(たうじ)を知(し)るべき究意(きうい)の史料(しれう)であると思(おも)ふのがあるから此処(こゝ)に先(ま)づ其(その)書翰(しよかん)に
就(つい)て申述(まをしの)べて見(み)たいと思(おも)ふ
【欄外】
豊橋市史談 (信明復職当時の形勢) 三百卅三
【欄外】
豊橋市史談 (信明復職当時の形勢) 三百卅四
【本文】
即(すなは)ち此(この)書翰(しよかん)は当時(たうじ)述斉(じつさい)が極密書(ごくみつしよ)として其(その)意見(いけん)を信明(のぶあき)に申送(まをしおく)つたものであるが随分(ずゐぶん)長文句(ながもんく)で先(ま)づ最初(さいしよ)に
は「熟(つらつ)ら世(よ)の中(なか)の有様(ありさま)を考候(かんがへそろ)に古(いにしへ)より二百年 引続(ひきつゞき)たる太平(たいへい)と申事(まをすこと)は書冊(しよさつ)にも見(み)へざる程(ほど)の事(こと)にて
目出度義(めでたきぎ)には候(そうら)へ共(ども)近来(きんらい)人心(じん〳〵)風俗(ふうぞく)の日(ひ)に随(したが)ひ成(な)り降(くだ)り候所(そろところ)歎(なげ)ケ敷事(しきこと)も少(すくな)からず候(そろ)遠(とほ)き事(こと)は暫(しばらく)さし措(お)
き近(ちか)くは私(わたくし)御奉公(ごほうこう)始(はじめ)より十ケ年 程(ほど)の間(あひだ)は誠(まこと)に難有(ありがたき)世風(せふう)に候(そうら)ひき其後(そののち)に至(いた)り候(そうろ)てはひた〳〵と陵遅(れうち)し
朝夕(てうせき)耳目(じもく)に觸(ふ)れ候事共(そろことども)痛脳(つうのう)の事多(ことおほ)く此上(このうへ)の移(うつ)りは甚(はなは)だ掛念仕候事(けねんつかまつりそろこと)に御座候(ござそろ)亥年(ゐのとし)御退職(ごたいしよく)の節(せつ)封書(ふうしよ)を以(もつ)て
人事(じんじ)の変(へん)茲(こゝ)に至候時(いたりそろとき)は此後(このご)如何(いか)なる事(こと)出来(しゆつたい)仕(つかまつ)るべくも計(はか)り難(がた)くと申上候(まをしあげそろ)」と云(い)ふような事(こと)が書(か)いて
ある元来(がんらい)述斉(じつさい)が初(はじ)めて仕官(しくわん)したのは寛政(かんせい)五年で恰(あたか)も定信(さだのぶ)辞職(じしよく)の当年(たうねん)であるが即(すなは)ち其(その)頃(ころ)より享和(けうわ)二年の
頃(ころ)まで前後(ぜんご)十ケ年 許(ばかり)の間(あひだ)は誠(まこと)に有難(ありがた)きよい時世(じせい)であつたがその後(のち)と云(い)ふものは段々(だん〳〵)と世風(せふう)が乱(みだ)れて朝(てう)
夕(せき)耳目(じもく)に觸(ふ)るゝ事柄(ことがら)が心痛(しんつう)の外(ほか)はない夫故(それゆゑ)に享和(けうわ)三年 閣下(かくか)御辞職(ごじしよく)の時(とき)に天災地妖(てんさいちよう)よりは寧(むし)ろ人事(じんじ)の変(へん)
が恐(おそ)るべきであるから速(すみやか)に国家(こくか)の為(ため)に御復職(ごふくしよく)ある様(やう)にと云(い)ふ事(こと)を申上(まをしあげ)て置(お)いたのであると云(い)ふ意(い)を此(こ)
処(こ)に書(か)いたものであるがそれから次(つぎ)に「子年(ねのとし)オロシヤ入船(にふせん)引続(ひきつゞ)き夷狄(いてき)の変(へん)毎年(まいねん)引(ひき)もきらず候様(そろやう)に相成(あひなり)
候(そろ)も又(また)不思儀(ふしぎ)の至(いたり)に御座候(ござそろ)」と云(い)ふ事が書(か)いてあつて又(ま)た其次(そのつぎ)に「其(その)果(はて)奉行(ぶぎやう)の変死(へんし)など申事(まをすこと)道理(どうり)は差(さし)
措(お)き申(まを)さば不吉(ふきち)とも可申事哉(まをすべきことや)に候(そろ)」とあるが子年(ねのとし)とあるのは勿論(もちろん)文化(ぶんくわ)元年(がんねん)でオロシヤの船(ふね)とはレサノ
ツトの長崎(ながさき)に来(き)た事を云(い)つたものであるが奉行(ぶぎやう)の変死(へんし)とは前(まへ)にも申上(まをしあげ)た如(ごと)く長崎奉行(ながさきぶぎやう)松平康英(まつだひらやすひで)が今度(このたび)
切腹(せつぷく)をした事変(じへん)を指(さ)したものであるそれから述斉(じつさい)は此(この)書翰(しよかん)に於(おい)て益々(ます〳〵)筆(ふで)を転(てん)じて漸(やうや)く世(よ)の様(さま)の陵遅(れうち)に
趣(おもむ)き人心(じん〳〵)の腐敗(ふはい)に傾(かたむ)ける事を慨嘆(がいたん)した後(のち)更(さら)に「御退職前(ごたいしよくぜん)より勤来(つとめきた)り候(そろ)御役人(おやくにん)も少(すくな)からず候(そうら)へ共(ども)時世(じせい)に
つれ皆流儀(みなりうぎ)を代(か)へ同(おな)じ人(ひと)にて事は大(おほい)に変(へん)じ申候(まをしそろ)何事(なにごと)も上(かみ)の事(こと)下(しも)へ通(つう)じ申(まを)さず下情(かぜう)は又(ま)た雍閉(えうへい)して上達(ぜうたつ)
仕(つかまつ)らず」云々(うんぬん)「それに付候(つきそうら)ては善(よ)き人(ひと)は善事(ぜんじ)の十 分出来(ぶんでき)申(まを)さざるを憤(いきどほ)り悪(あし)き輩(やから)は却(かへつ)て権威(けんゐ)を弄(ろう)し
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
苞苴を参(さん)じ候事(そろこと)出来(でき)不仕候(つかまつらずそろ)とて恨(うら)み一 世(せ)の君子(くんし)小人(せうにん)ともに一 人(にん)として得意(とくい)のものなく皆(みな)失意仕候(しついつかまつりそろ)に
付寄合候(つきよりあひそろ)へば時(とき)を誹(そし)り人(ひと)を評(へう)し正路(せいろ)の事は絶(たゑ)て之(こ)れなく邪路(じやろ)にばかり目(め)を付(つ)け居申候(をりまをしそろ)」と云(い)ふような
事が書(か)いてあつて最後(さいご)には又(ま)たコウ云(い)ふ事が書(か)いてあるのである「始終(しじう)小人(せうにん)の魁(さきがけ)として毒(どく)を天下(てんか)に
流(なが)すべきは水羽州(みづうしう)に相違(さうゐ)有之間敷(これありまじく)其人(そのひと)小材(せうさい)ありて小人(せうにん)の才(さい)あるものを愛(あい)し候(そろ)手術之有(しゆじつこれあり)前々(ぜん〴〵)よりの所業(しよげうと)
存居候所(ぞんじをりそろところ)も有之(これあり)松泉州(まつせんしう)と無(む)二の交(まじはり)を結(むす)び相互(あひたがひ)に援引(ゑんいん)して世(よ)を一 変(へん)するの含有之(ふくみこれあり)其手(そのて)に付(つ)き候(そろ)小身(せうしん)の
面々(めん〳〵)小才(こさい)あるもの少(すくな)からず(中略)羽州(うしゆう)泉州(せんしゆう)志(こゝろざし)を得候(えそうら)て内外(ないぐわい)釣合候(つりあひそうら)はんとの巧(たく)み其上(そのうへ)に蜷相州(になさうしゆう)へ
も陰(ゐん)に結(むす)び候次第有之(そろしだいこれあり)彼家(かれいへ)所々(しよ〳〵)へ手(て)を入(い)れ候(そろ)妙策(みようさく)おもしろきほどの事も有之(これあり)後年(こうねん)の殃(わざわひ)之(これ)より起(おこ)り候事(そろこと)
必然(ひつぜん)に御座候(ござそろ)」云々(うんぬん)、 即(すなは)ち文中(ぶんちう)水羽州(みづうしゆう)とあるは前(まへ)に申述(まをしの)べた水野出羽守忠成(みづのではのかみたゞしげ)の事で松泉州(まつせんしゆう)とあるのは
松平和泉守乗寛(まつだひらいづみのかみのりひろ)が事(こと)蜷相州(になさうしゆう)とあるのは蜷川相模守親文(にながはさがみのかみちかぶみ)が事(こと)である
右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)で当時(たうじ)述斉(じつさい)が心中(しんちう)に秘(ひ)せる処(ところ)は以上(いぜう)の如(ごと)きものであつたが遉(さす)がに信明(のぶあき)が復職後(ふくしよくご)と云(い)ふもの
は此(この)水野忠成(みづのたゞしげ)等(ら)も如何(いかん)ともする事が出来(でき)なかつたので一 時(じ)は全(まつた)く其(その)爪(つめ)を収(をさ)めて居(を)つたのであるが果(はた)せ
るかな文化(ぶんくわ)十四年八月 信明(のぶあき)の卒去後(そつきよご)は僅々(きん〳〵)数日(すうじつ)ならざるに忽(たちま)ち忠成(たゞしげ)が勝手掛(かつてがゝり)に任(にん)せられ其翌(そのよく)文政(ぶんせい)元年(がんねん)
八月には早(は)や老中(らうちう)の位置(ゐち)に上(あが)つたと云(い)ふ始末(しまつ)で従(したがつ)て松平和泉守(まつだひらいづみのかみ)等(ら)一 派(ぱ)の人々(ひと〳〵)も時(とき)を得(え)て文政(ぶんせい)年間(ねんかん)か
ら天保(てんぱう)の初年(しよねん)へかけては忠成(たゞしげ)の勢威(せいゐ)実(じつ)に盛大(せいだい)を極(きは)むるに至(いた)つたものであるが平常(へいぜう)の登城(とじよう)にも忠成(たゞしげ)は虎(とら)
の皮(かわ)の鞍置(くらおき)を許(ゆる)されたと云(い)ふ位(くらゐ)で世(よ)の中(なか)は再(ふたゝ)び奢侈(しやし)に陥(おちゐ)り賄賂(わいろ)は殆(ほとん)ど公然(こうぜん)に行(おこな)はるゝと云(い)ふ状態(ぜうだい)で天(てん)
下(か)は実(じつ)に危殆(きたい)の有様(ありさま)に瀕(ひん)したのである即(すなは)ち述斉(じつさい)は信明(のぶあき)に送(おく)つた右(みぎ)の書翰(しよかん)に於(おい)て明(あきらか)に十年 後(ご)の此(この)事態(じたい)
述斉の予言 を予言(よげん)し其(その)先見(せんけん)が少(すこ)しも誤(あやま)らなかつたのであるから炯眼(けいがん)誠(まこと)に驚(おどろ)くの外(ほか)ないと思(おも)ふのであるが之(これ)と同時(どうじ)
に信明(のぶあき)が復職(ふくしよく)以来(いらい)如何(いか)に群小(ぐんせう)を抑制(よくせい)し其(その)在職中(ざいしよくちう)は能(よ)く寛政(かんせい)当時(たうじ)の美風(びふう)を保持(ほぢ)し又(ま)た己(おの)れが主張(しゆてう)をも着(ちやく)
【欄外】
豊橋市史談 (信明復職当時の形勢) 三百卅五
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百卅六
【本文】
着(ちやく)実行(じつかう)したと云(い)ふ事(こと)に想到(さうたう)すれば其(その)苦心(くしん)の程(ほど)も思(おも)ひやらるゝが又(ま)た其(その)人物(じんぶつ)の非凡(ひぼん)であつた事も推測(すゐそく)さ
るゝと思(おも)ふのである先(ま)づ此(この)話(はなし)は此処(ここ)らに止(とゞ)めて尚(なほ)之(これ)から私(わたくし)は信明(のぶあき)と外交(ぐわいかう)に関(くわん)する事柄(ことがら)に就(つい)て少(すこ)しく申(まをし)
述(の)ぶる処(ところ)がありたいと思(おも)ふのである
⦿松平信明と外交関係
抑(そも〳〵)露国人(ろこくじん)が初(はじ)めて蝦夷地(えぞのち)に入込(いりこ)むに至(いた)つたのは余程(よほど)以前(いぜん)の事で明和(めいわ)二年にイバンレエンチゝと云(い)ふ露(ろ)
国人(こくじん)が蝦夷地(えぞのち)の内(うち)レシヤハ島(とう)に来(きた)り其(その)翌々年(よく〳〵ねん)迄(まで)択捉島(えとろふとう)やウルツプ島(とう)の間(あひだ)に越年(ゑつねん)して皈帆(きはん)するに方(あた)り土(ど)
人(じん)に対(たい)して乱暴(らんぼう)を働(はたら)いたのが最初(さいしよ)であると伝(つた)へられて居(を)る然(しか)るに安永(あんせい)【あんえいの誤り】七年には根室(ねむろ)に上陸(ぜうりく)して通商(つうせう)を
求(もと)め其(その)後(ご)屡(しば〳〵)来航(らいかう)して遂(つひ)には千島群島(ちしまぐんとう)の内(うち)に移住(いぢう)せるものすらありしも従来(じうらい)は之(これ)を松前侯(まつまへかう)に任(まか)せきりで
幕府(ばくふ)は余(あま)り干渉(かんせう)しなかつたのであるが天明(てんめい)五年に至(いた)り遂(つひ)に捨置(すてお)かれぬ事(こと)となつたので幕府(ばくふ)から勘定奉(かんでうぶ)
松本伊豆守 行(ぎやう)松本伊豆守(まつもといづのかみ)に命(めい)じて其(その)属吏(ぞくり)を蝦夷地(えぞのち)に派遣(はけん)せしめて巡視(じゆんし)せしめたがそれが其(その)翌年(よくねん)になつて復命(ふくめい)した
のである然(しか)るに其(その)時(とき)には丁度(ちようど)将軍(せうぐん)家治(いへはる)が薨去(こうきよ)に際(さい)したのであるが其(その)後(のち)定信(さだのぶ)が補佐職(ほさしよく)となつても例(れい)の田(た)
最上徳内 沼処分(ぬましよぶん)やら色々(いろ〳〵)で手(て)廻(まは)り兼(か)ねた有様(ありさま)であつたが寛政(かんせい)四年には蝦夷地(えぞのち)の経営(けいえい)は実(じつ)に急務(きふむ)であると云(い)ふの
で最上徳内常矩(もがみとくないつねのり)と云(い)ふ人(ひと)を派遣(はけん)したのである此(この)人(ひと)は其(その)以前(いぜん)天明(てんめい)六年に既(すで)に一度(ひとたび)単身(たんしん)で北地(ほくち)の探検(たんけん)をな
し具(つぶさ)に辛苦(しんく)を甞(な)めて彼(か)の地(ち)にて露人(ろじん)にも会(あ)つて来(き)たので曩(さき)に其(その)意見書(いけんしよ)を採用(さいよう)して定信(さだのぶ)が之(これ)を普請役(ふしんやく)に
《割書:露国我が漂|流民を送り|来る》 登用(とうよう)したのであるが今度(こんど)復(ま)た此(この)人(ひと)を派遣(はけん)することになつたのである然(しか)るに其(その)年(とし)の十月 露国(ろこく)の大船(たいせん)が根室(ねむろ)
に来(き)て我国(わがくに)の漂流人(へうりうにん)幸太夫(かうたいう)、 小市(こいち)、 磯吉(いそきち)と云(い)ふ三 人(にん)を護送(ごそう)して通商(つうせう)を求(もと)め国書(こくしよ)並(ならび)に方物(ほうもつ)【宝物か】を江戸(えど)へ致(いた)さ
むことを請(こ)つたのである其(その)使節(しせつ)はアダム、ラツクスマンと云(い)ふ人(ひと)で一 行(かう)は四十一 人(にん)であつたがソコで松(まつ)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百三十一号附録 (大正元年十二月三日発行)
【本文】
前家(まへけ)に於ては其(その)事(こと)を幕府(ばくふ)に急報(きふほう)して指揮(しき)を請(こ)つたのであるから幕府(ばくふ)に於ては即(すなは)ち目付(めつけ)石川将監忠房(いしかはせうげんたゞふさ)、
村上大学義礼(むらかみだいがくぎれい)、 御徒目付(おんかちめつけ)後藤(ごとう)十 次郎(じらう)を松前(まつまへ)に派遣(はけん)し之(これ)等(ら)の人々は其(その)翌年(よくねん)松前(まつまへ)に於て露国(ろこく)の使節(しせつ)等(ら)と会(くわい)
見(けん)して我国(わがくに)では長崎(ながさき)以外(いぐわい)の地(ち)では外国(ぐわいこく)との通商(つうせう)は相(あひ)ならぬ定(さだめ)であるから兎(と)に角(かく)速(すみやか)に此処(こゝ)をば立去(たちさ)る
《割書:露国使節に|信牌を与ふ》 がよいと云ふ事を告(つ)げて米(こめ)其他(そのた)薪水(しんすゐ)を供給(けふきう)し且(か)つ左(さ)の信牌(しんはい)を与(あた)へて去(さ)らしめたのである
オロシヤの船(ふね)一 艘(そう)長崎(ながさき)に至(いた)るため験(しらべ)の事(こと)
爾(なんぢ)等(ら)諭(さと)す旨(むね)を承諾(せうだく)して長崎(ながさき)に至(いた)らむとす抑(そも〳〵)切支丹(きりしたん)の教(おしへ)は我国(わがくに)の大禁也(たいきんなり)其(その)像(ぜう)及(およ)び器物(きぶつ)書物(しよもつ)等(とう)を持来(もちきた)る
事なかれ必(かならず)害(がい)せらるゝことならむ此(この)旨(むね)能(よく)格遵(かくじゆん)して彼地(かのち)に至らば猶(なほ)研究(けんきう)して上陸(ぜうりく)をゆるすべき也
石 川 将 監 判
村 上 大 学 判
寛政五年六月廿七日
時(とき)宛(あたか)も江戸(えど)に於ては彼(か)の尊号事件(せうごうじけん)で中山(なかやま)正親町(おほぎまち)の二 卿(けう)が東下(とうか)されて喧(やか)ましかつたのであるがそれも此(この)
年(とし)の三月 僅(わづか)に其(その)局(きよく)を結(むす)むだのである併(しか)し松前(まつまへ)に於て此(この)信牌(しんはい)を与(あた)へた翌月 即(すなは)ち七月の廿三日には前(まへ)にも
申述(まをしの)べた如く定信(さだのぶ)は急(きふ)に補佐(ほさ)の職(しよく)を退(しりぞ)いたと云ふ始末(しまつ)で中々(なか〳〵)騒(さは)がしかつた其(その)中(なか)へ石川将監(いしかはせうげん)等(ら)は前(まへ)にも
申述(まをしの)ぶる如く兎(と)に角(かく)一時を彌縫(ひほう)して十二月に皈着(きちやく)し露国人(ろこくじん)との会見(くわいけん)の顛末(てんまつ)を幕府(ばくふ)に報告(ほうこく)したのである
かくて蝦夷(えぞ)の経営(けいえい)も又々二三年間 等閑(とうかん)に付(ふ)せられて居(を)つたが彼(か)の漂流民(ひようりうみん)が江戸(えど)に到着(とうちやく)した時 将軍(せうぐん)家斉(いへなり)
は親(みづか)ら吹上馬見所(ふきあげうまみしよ)に召(め)して之(これ)を見(み)たのみならず有司(いうじ)をして漂流(ひようりう)の顛末(てんまつ)をも尋問(じんもん)せしめたのでそれ等(ら)が
《割書:寛政九年の|発令》 動機(どうき)となつて余程(よほど)彼国(かのくに)の事情(じぜう)を詳(つまびらか)にする事が出来(でき)たものと見(み)え即(すなは)ち寛政(かんせい)九年十二月 幕府(ばくふ)は左(さ)の命(めい)を
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百卅七
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百卅八
【本文】
発(はつ)したのである
一異国船漂着之節取計寛政三亥年委細相達置候趣勿論に候得共若心得違候て此方より事を好み手荒
成働仕出し候ては不宜候先方より重々不法之次第相決不得止事節は格別之儀先は可成丈け計策を以
て成とも繋留注進可有之候総て異国船は漂着候ても海上へ向け候て石火矢打候習は の趣に聞得候
へば無事故右に乗じ卒爾成取計従此方仕出候義無之様可被入念候(下略)
私(わたくし)は実(じつ)に此(この)発令(はつれい)に対(たい)しては深(ふか)き興味(けうみ)を以て見(み)るものであるが其(その)訳(わけ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如く当時(たうじ)既(すで)に定(さだ)
信(のぶ)は要職(えうしよく)を去(さ)りて直接(ちよくせつ)には幕政(ばくせい)に関係(くわんけい)なく而(しか)して信明(のぶあき)は年(とし)既(すで)に三十五歳で老職(らうしよく)の中(なか)でも最(もつと)も意見(いけん)の行
はれた時代(じだい)である勿論(もちろん)松前(まつまへ)に於て前(まへ)に信牌(しんはい)を露国人(ろこくじん)に与(あた)へた時(とき)は未(いま)だ定信(さだのぶ)が職(しよく)にある時代(じだい)で信明(のぶあき)はそ
れ程(ほど)に勢力(せいりよく)もなかつたのであるが此(この)発令(はつれい)に方(あた)つては前(まへ)に申述(まをしの)ぶる如き次第(しだい)で之(これ)は大部分(だいぶぶん)信明(のぶあき)の意見(いけん)で
あるとしても強(あなが)ち誣妄(ふもう)の説(せつ)とは思(おも)はれぬからである殊(こと)に信明(のぶあき)が外交上(ぐわいかうぜう)の遣(や)り口(くち)と云ふものは後(のち)に又た
御紹介(ごせうかい)せむとする林述斉(はやしじつさい)の書翰(しよかん)でも窺(うかゞ)ひ知(し)る事(こと)が出来(でき)ると思(おも)ふが決(けつ)して暴虎馮河(ばうこへうが)的(てき)の攘夷論者(ぜういろんしや)ではな
かつたのである
然(しか)るに其(その)後(のち)と云ふものは北海(ほくかい)に於ける露船(ろせん)の出没(しつぼつ)が益々(ます〳〵)多(おほ)く松前(まつまへ)からは其(その)都度(つど)幕府(ばくふ)へ注進(ちうしん)に及(およ)むだの
《割書:渡邊糺等を|蝦夷に派遣|す》 で幕府(ばくふ)に於ては右(みぎ)の翌年(よくねん)即(すなは)ち寛政(かんせい)十年の四月 更(さら)に目付(めつけ)渡邊久蔵糺(わたなべきうざうたゞし)、 御使番(おつかひばん)大河内善兵衛政壽(おほかうちぜんべゑまさかず)、 勘定吟(かんぜうぎん)
味役(みやく)三橋藤右衛門成方(みつはしとううゑもんなりかた)を蝦夷(えぞ)に派遣(はけん)して其(その)探検(たんけん)を命(めい)じ石川左近将監忠房(いしかはさこんのせうげんたゞふさ)は江戸(えど)にあつて此(この)事(こと)に与(あづか)つた
近藤重蔵 のである彼(か)の近藤重蔵守重(こんどうじうざうもりしげ)が蝦夷地(えぞち)に出張(しゆつてう)したのも矢張(やはり)此(この)時(とき)であるが守重(もりしげ)は当時(たうじ)松前蝦夷御用取扱(まつまへえぞごようとりあつかひ)
と云ふ役名(やくめい)で此(この)年(とし)から文化(ぶんくわ)五年まで約(やく)八年 許(ばかり)の間(あひだ)は殆(ほとん)ど全力(ぜんりよう)を此(この)北海開拓(ほくかいかいたく)の事に尽(つく)したのであるかく
て渡邊糺(わたなべたゞし)、 大河内政壽(おほかうちまさかず)、 三橋成方(みつはしなりかた)の三人は其(その)年(とし)の十一月に皈府(きふ)し詳細(せうさい)に取調(とりしらべ)の結果(けつくわ)を復命(ふくめい)したのであ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
《割書:箱松蝦深秘|考》 るが当時(たうじ)の調査(てうさ)と云ふものは総(すべ)て極秘(ごくひ)にしたものである今(いま)大河内家(おほかうちけ)に当時(たうじ)の書(か)き物(もの)で「箱松蝦深秘考(はこまつかしんひかう)」
長島忠親 と云ふのが残(のこ)つて居るが之(これ)は幕府(ばくふ)の普請役(ふしんやく)で其(その)頃(ころ)蝦夷地(えぞち)の警衛(けいえい)に従(したが)つて居つた長島新左衛門忠親(ながしましんざゑもんたゞちか)と云
ふ人が書(か)いたものである然(しか)るに其(その)要所(えうしよ)々々は厚紙(あつかみ)を以(もつ)て文字(もんじ)が覆(おほ)つてあるので其(その)厚紙(あつかみ)を一々 剥(は)がすで
なければ到底(たうてい)読(よ)み下(くだ)す事が出来(でき)ぬようになつて居(を)るのである之(これ)で見(み)ても如何(いか)に当時(たうじ)之(これ)等(ら)の事に就(つい)て秘(ひ)
蜜(みつ)を要(えう)したかが分(わか)ると思(おも)ふのであるが其(その)代(かは)り此(この)書(しよ)には頗(すこぶ)る当時(たうじ)の内情(ないぜう)が詳(くは)しく書(か)いてあるので普通(ふつう)史(し)
上(ぜう)に伝(つた)はつて居(を)らぬこと事がイクラモ見(み)へるのであるが特(とく)に近藤重蔵(こんどうじうざう)、 最上徳内(もがみとくない)などの処為(しよゐ)に就(つい)て間々(ま々ゝ)攻(こう)
撃的(げきてき)の口調(くてう)が用(もち)ゐてあるなどは甚(はなは)だ味(あぢは)ふべき処があると思(おも)はるゝのみならず多(おほ)くは事実(じじつ)であつて其(その)記(き)
録者(ろくしや)は全(まつた)く眞面目(しんめんもく)に己(おの)れが見(み)る処を書(か)いたものと思(おも)はるゝのである今(いま)一々 是(こ)れ等(ら)に就(つい)て申述(まをしの)べて居る
暇(ひま)もないのであるから此処(こゝ)に略(りやく)する考(かんがへ)であるが兎(と)に角(かく)幕府(ばくふ)に於いては此(この)秘密(ひみつ)の調査(てうさ)を進行(しんかう)する間(あひだ)に結(けつ)
《割書:幕府自ら蝦|夷開拓の事|を決す》 局(きよく)幕府(ばくふ)自(みづか)ら直接(ちよくせつ)に蝦夷(えぞ)を経営(けいえい)する議(ぎ)を決(けつ)したもので其(その)翌(よく)寛政(かんせい)十一年二月 遂(つひ)に松前家(まつまへけ)から向(むか)ふ七ケ年 東(ひがし)
蝦夷地(えぞち)の内(うち)浦河(うらかは)からシレトコまで其(その)余(よ)島々(しま〴〵)を御用地(ごようち)として幕府(ばくふ)へ差出(さしいだ)さしめ其(その)代(かは)りとして松前家(まつまへけ)に対(たい)
しては何分(なにぶん)の下(さ)げ金(きん)をしたのであるソコで愈々(いよ〳〵)幕府(ばくふ)に於て直轄(ちよくかつ)で蝦夷開拓(えぞかいたく)に着手(ちやくしゆ)する事となつたのであ
《割書:本多忠籌の|辞職事情》 るが池田晃淵氏(いけだこうはんし)の「徳川幕府時代史(とくがはばくふじだいし)」には此(この)時(とき)の事を記(しる)して右(みぎ)の渡邊(わわたなべ)大河内(おほかうち)三橋(みはし)等(ら)三人が蝦夷(えぞ)から皈(き)
府(ふ)して其(その)地(ち)の山海(さんかい)が孰(いづ)れも物産(ぶつさん)に富(と)み利益(りえき)が饒多(けうた)であると云ふ事を上言(ぜうごん)したので当時(たうじ)財政困難(ざいせいこんなん)なる幕(ばく)
府(ふ)は直接(ちよくせつ)経営(けいえい)を思(おも)ひ立(た)ち松平信明(まつだひらのぶあき)は最(もつと)も之(これ)に賛同(さんどう)したが独(ひと)り本多忠籌(ほんだたゞかず)が反対(はんたい)して其(その)説(せつ)が合(あ)はぬ処から
遂(つひ)に老中(らうちう)の職(しよく)を辞(じ)したのであると書(か)いてある併(しか)し私(わたくし)は其(その)説(せつ)は大(おほい)に疑問(ぎもん)とすべきであると思(おも)ふがナゼな
れば右(みぎ)の渡邊(わたなべ)等(ら)三人が蝦夷(えぞ)から皈(かへ)つて将軍(せうぐん)に謁見(えつけん)したのは其(その)年(とし)の十一月十五日であるのに忠籌(たゞかず)が老中(らうちう)
職(しよく)の辞職聞届(じしよくきゝとゞけ)は其十月廿六日であるから右(みぎ)の三人が復命(ふくめい)してから議論(ぎろん)が沸騰(ふつとう)したが為(ため)の辞職(じしよく)としては
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百卅九
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百四十
【本文】
理屈(りくつ)に合(あ)はぬ事と信(しん)ぜられるからである蓋(けだ)し信明(のぶあき)が蝦夷開拓(えぞかいたく)直営説(ちよくえいせつ)の主唱者(しゆせうしや)であつた事は又た事実(じじつ)と
信(しん)ぜられるのであるが其(その)熱心(ねつしん)に蝦夷(えぞ)の研究(けんきう)を重(かさ)ねた証拠物(せうこぶつ)は今(いま)も段々(だん〴〵)発見(はつけん)さるゝ次第(しだい)である兎(と)に角(かく)時(とき)
松平信濃守 の幕議(ばくぎ)は前(ぜん)申述(まをしの)ぶる如く直営(ちよくえい)を以て蝦夷(えぞ)を開拓(かいたく)することに一 決(けつ)し松平信濃守忠明(まつだひらしなのゝかみたゞあき)を以て蝦夷地(えぞち)の警衛(けいゑい)に
任(にん)じ石川忠房(いしかはたゞふさ)並(ならび)に羽太庄左衛門正養(はぶとせうさゑもんせうやう)及(およ)び大河内正壽(おほかうちまさかず)、 三橋成方(みつはしなりかた)をも同(おな)じく其(その)役(やく)に任(にん)じたのであるが此(この)
《割書:羽太正養の|休明光記》 羽太正養(はぶとせうやう)と云ふは後(のち)に安芸守(あきのかみ)となつた人で此(この)人(ひと)の著書(ちよしよ)にも「休明光記(きうめいくわうき)」と云ふものがあるが之(これ)亦(ま)た蝦夷(えぞ)
の事を書(か)いた書物(しよもつ)で己(おの)れが関係(くわんけい)した最初(さいしよ)から文化(ぶんか)四年まで自身(じしん)在職中(ざいしよくちう)の事柄(ことがら)を残(のこ)りなく記録(きろく)したもの
である誠(まこと)に此(この)当時(たうじ)に於ける蝦夷経営(えぞけいえい)に関(くわん)する事情(じぜう)を知(し)るには究竟(きうけう)の記録(きろく)であるがサテ幕府(ばくふ)は此(かく)の如き
間宮林蔵 次第(しだい)で一方に開拓(かいたく)の事を進(すゝ)むると同時(どうじ)に一方には北海(ほくかい)の探検(たんけん)をも勉(つと)めしめたので彼(か)の間宮林蔵(まみやりんざう)などゝ
云ふ人は此(この)探検(たんけん)の為には頗(すこぶ)る困苦(こんく)を甞(な)めたものである即(すなは)ち樺太(かばふと)から進(すゝ)むで大陸(たいりく)に入(い)り黒龍江(こくりうこう)を渡(わた)り山(さん)
海関(かいくわん)までも入(い)り込(こ)むだのであるが幕府(ばくふ)は又た寛政(かんせい)十二年に伊能忠敬(いのうたゞよし)をして蝦夷地(えぞち)の測量(そくれう)をもなさしめ
《割書:伊能忠敬の|地図》 たのである此(この)時(とき)忠敬(たゞよし)自身(じしん)に製作(せいさく)した蝦夷(えぞ)の図面(づめん)が今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に保存(ほそん)してあるが此(この)図面(づめん)は実(じつ)に天下(てんか)の
逸品(いつぴん)であると思(おも)ふ之(これ)も信明(のぶあき)が当時(たうじ)主(しゆ)として此(この)事(こと)を実行(じつかう)せしめた結果(けつくわ)であると信(しん)じて疑(うたが)はざる次第(しだい)であ
《割書:伊能忠敬と|松平信明》 るが元来(がんらい)此(この)伊能忠敬(いのうたゞよし)と云ふひと人は松平信定信(まつだひらさだのぶ)がまだ補佐(ほさ)の職(しよく)にあつた頃(ころ)から幕命(ばくめい)を受(う)けて全国(ぜんこく)の海岸(かいがん)を測(そく)
量(れう)したものであることは諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の如(ごと)くである然(しか)るに定信(さだのぶ)退職後(たいしよくご)は矢張(やはり)信明(のぶあき)が最(もつと)も之(これ)等(ら)の事に鞅掌(おうせう)
したもので忠敬(たゞよし)の製作(せいさく)にかゝる日本全国(にほんぜんこく)の地図(ちづ)は右(みぎ)の蝦夷図(えぞづ)以外(いぐわい)に今(いま)悉(こと〴〵)く揃(そろ)つて大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて
居るのである又(また)東京(とうけう)の帝国大学(ていこくだいがく)にも殆(ほとん)ど之(これ)と同様(どうやう)なる地図(ちづ)が保存(ほぞん)されて居るが之(これ)は或(あるひ)は幕府(ばくふ)に伝(つた)はつ
たものであろうかと思(おも)はれる先年(せんねん)遠州(ゑんしう)の浜松辺(はままつへん)でも忠敬(たゞよし)に地図(ちづ)が壱 枚(まい)発見(はつけん)せられたと云ふので頗(すこぶ)る喧(やかま)
しい問題(もんだい)であつたがそれ等(ら)に比(ひ)すれば実(じつ)に大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るものは絶品(ぜつぴん)とも称(せう)すべきで学術上(がくじつぜう)に
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百三十七号附録 (大正元年十二月十日発行)
【本文】
取(と)りても容易(ようい)ならざる参考(さんかう)となるべきものであると考(かんが)へる
サテ話(はなし)は少(すこ)し横道(よこみち)に入(い)つたが初(はじ)めに戻(もど)る事として寛政(かんせい)と云ふ年号(ねんがう)は御承知(ごせうち)の如く其十三年目と於(おい)て享(けう)
蝦夷奉行 和(わ)と改(あらた)まつたのであるが其(その)享和(けうわ)の二年に至(いた)つて幕府(ばくふ)は初めて蝦夷奉行(えぞぶぎよう)と云ふものを置(お)き羽太正養(はぶとせいやう)、 戸(と)
川筑前守安倫(がはちくぜんのかみやすとも)を以(もつ)て之(これ)に命(めい)じたが之(これ)等(ら)は皆(みな)申(まを)す迄(まで)もなく信明(のぶあき)が幕政(ばくせい)の衝(せう)に当(あた)れる時代(じだい)である然(しか)るに前
にも申述(まをしの)べたる通(とほ)り信明(のぶあき)は其(その)翌年(よくねん)即(すなは)ち享和(けうわ)三年を以(もつ)て老中(らうちう)の職(しよく)を辞(じ)し一 時(じ)幕政(ばくせい)と関係(くわんけい)を絶(た)つに至(いた)つた
《割書:露国使節レ|サノツト長|崎に来る》 のであるが其(その)辞職中(じしよくちう)享和(けうわ)は文化(ぶんくわ)と改(あらた)まつた其(その)元年(がんねん)に彼(か)の露国(ろこく)の使節(しせつ)レサノツトは長崎(ながさき)へヤツテ来(き)て曩(さき)
に松前(まつまへ)に於て渡(わた)した彼(か)の信牌(しんはい)を持参(ぢさん)し切(せつ)に通商(つうせう)を求(もと)めたのである其(その)時(とき)幕府(ばくふ)の当局者(たうきよくしや)が之(これ)に対(たい)してなし
た処置(しよち)は頗(すこぶ)る其(その)当(たう)を得(え)なかつたのでレサノツトも大(おほい)に憤怨(ふんえん)して皈(かへ)つた様子(やうす)であるが其(その)後(のち)文化(ぶんくわ)三年 即(すなは)ち
《割書:露船北海に|寇す》 信明(のぶあき)復職(ふくしよく)の年(とし)に露船(ろせん)は又た樺太(かばふと)に来(きた)りて今度(このたび)は中々(なか〳〵)乱暴(らんぼう)を働(はたら)いた上(うへ)戌卒(じうそつ)四人を捕(とら)へて去(さ)つたと云ふ始(し)
末(まつ)であつたが其(その)四年四月には再(ふたゝ)び択捉(えとろふとう)ウルツプ諸島(しよとう)に寇(こう)し且(か)つ理井尻(りゐじり)に来(きた)つて前(まへ)に捕(とら)へし戌卒(じうそつ)をし
て書翰(しよかん)を齎(もた)らさしめ若(も)し通商(つうせう)を許(ゆる)さぬに於(おい)ては明年(みようねん)大挙(たいきよ)して攻(せ)め来(きた)るからソウ思(おも)へと云はしめたので
あるソコで此(この)事(こと)が幕府(ばくふ)の評議(へうぎ)となつたのであるが此(この)時(とき)林述斉(はやしじつさい)が満腔(まんくう)の意見(いけん)を認(したゝ)めて信明(のぶあき)に差出(さしだ)した書(しよ)
翰(かん)が今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るのであるコレは中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いものであるから少(すこ)し長(なが)くはなるが段々(だん〴〵)と左(さ)
に申述(まをしの)べようと思(おも)ふのである
《割書:述斉の信明|に上りし意|見》 先(ま)づ述斉(じつさい)の此(この)書翰(しよかん)には溯(さかのぼつ)てレサノツトが長崎(ながさき)に来(きた)つた時(とき)の事(こと)から批評(ひへう)してある
此度(このたび)の大議(たいぎ)深々(ふか〴〵)相考候得(あひかんがへそうらへ)ば始終(しじう)へ懸(か)けいづれの方(はう)御決着有之候(ごけつちやくこれありそうろ)ても十 全(ぜん)の事には相成申間敷(あひなりまをしまじく)実(じつ)
以(もつて)心痛(しんつう)不過之事哉(これにすぎざることや)と奉存候(ぞんじたてまつりそろ)其(その)病源(べうげん)を窺候(うかがひそうら)へば長崎(ながさき)へ使節(しせつ)差越候節(さしこしそうろせつ)大機会(だいきくわい)をはづし事々失着(じゞしつちやく)
に相成(あひな)り此(この)末(すゑ)いかように仕(つかまつり)候ても取直(とりなほ)しは出来申間敷たとへば大病人(だいびようにん)を一 度(ど)誤治仕(ごぢつかまつり)病症(びようせう)一 変(ぺん)の後(のち)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百四十一
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百四十二
【本文】
良方(れうはう)を求(もと)め候やうなるものにて難治至極(なんぢしごく)に相成申候 返(かへ)す〳〵も残念(ざんねん)不尽(ふじん)の事と奉存候
其(その)節(せつ)彼方(かなた)より江戸拝礼(えどはいれい)一、 書簡(しよかん)進物(しんもつ)一、 交易通商(かうゑきつうせう)三、の願(ねがひ)に付 此(この)三 願(がん)とも一つも御取上(おんとりあ)げ無之と申
候はあまりしき事にて殊(こと)に信牌(しんはい)を被下(くだされ)御下知(ごげち)の通り参り候ものを此方(このはう)より信義(しんぎ)を失(しつ)し候事 何(なん)とも不(あひ)
相済訳(すまざるわけ)遮て申上 併(しか)しながら江戸(えど)拝礼(はいれい)と後年(こうねん)迄(まで)永々(なが〳〵)交易(かうゑき)とは容易(ようい)ならざる事に付不被差許候はば書簡(しよかん)
は請取(うけとり)御返簡(ごへんかん)可被下歟(くだされべくか)(国初は何れの国へも御書被下候例多し)左もなく候はば寺社奉行(じしやぶぎよう)よりかの役
人あてにして明細(めいさい)に利害申達候(りがいまをしたつしそろ)書面可遣歟 且(かつ)接壌(せつぜう)の国故いつ〳〵迄も不和(ふわ)に不相成様(あひならざるやう)旅館(りよくわん)を始(はじめ)御馳
走向被下物等 御叮嚀(ごていねい)を被尽(つくされ)かの歓心(かんしん)を得候而 不得止事次第(やむをえざることしだい)を打明(うちあか)し交易(かうゑき)御断(おんことは)り有之度旨 詳細(せうさい)に申上
候事に御座候
然(しか)る所(ところ)御部屋(おへや)へ御呼出(およびだ)しにて御評議(ごへうぎ)有之 其(その)時(とき)御取扱(おんとりあつかひ)大炊頭殿(おほすいのかみどの)にて大に御見込違(おんみこみちが)ひ叮嚀(ていねい)に取扱候ほ
ど夫へ取付可申候間 立腹(りつふく)いたさせ候 方(ほう)可然哉(しかるべきや)腹立(はらたち)候はばもはや参(まゐ)る間敷旨(まじくむね)被仰聞(あふせきかれ)候に付 大(おほい)に申争(まをしあらそ)
ひ候事御座候ひき尤(もつと)も其(その)節(せつ)は至ての御急(おいそ)ぎの申事に付 御儒者(ごじゆしや)共(とも)私宅(したく)へ打集(うちあつ)め一夕か二夕の内(うち)に口
々の事とも仕分(しわ)け差上候間(さしあげそろあひだ)弥々(いよ〳〵)の所は尚(なほ)又(また)細(こまか)に御尋の上 巨細(こさい)に可申上旨も申上候処 其(その)後(のち)一 向(かう)に音沙(おとさ)
汰(た)も無之相考候処 私(わたくし)過般(くわはん)の論をも申 大炊頭殿(おほすいのかみどの)逆耳とも相承(あひうけたまは)り候哉と存居候儀に御座候 其(その)後(のち)三月
許も何(なん)の御沙汰(ごさた)も無之依之いかが相成候や一 向(かう)難計(はかりがたく)采女正殿(うねめのせうどの)へ別段故(べつだゆゑ)申出候所(まをしいでそろところ)大炊頭殿(おほいのかみどの)御取扱ゆゑ
直に申候ように抔(など)と申許(まをすばかり)の事にて貧苦無之趣に有之 迚(とて)も黒白(こくびやく)の別見に相成候に付 何度申候(いくたびまをしそろ)ても詮(せん)
無之(これなき)事と見切(みき)り私も不申上云々
之(これ)で見(み)るとレサノツト来航当時(らいかうたうじ)に於ける幕議(ばくぎ)の模様(もやう)と云ふものは誠(まこと)に能(よ)く分(わか)る事と思(おも)ふが書中(しよちう)大炊頭(おほいのかみ)
とあるのは土井利厚(どゐとしあつ)が事で又(また)采女正(うねめのせう)とあるのは戸田氏教(とだうじのり)が事である孰(いづ)れも時の老中(らうちう)である其(その)述斉(じつさい)の
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
進言(しんげん)に対(たい)して大炊頭(おほいのかみ)の言(い)つた事などは実(じつ)に今日(こんにち)から見(み)れば抱腹絶仆(ほうふくぜつとう)の至(いたり)である併(しか)し此(この)時分(じぶん)に於ける当(たう)
局者(きょくしや)多数(たすう)の意見(いけん)は或はいづれもコンナものであつたのであろうそれにつけても述斉(じつさい)の意見(いけん)と云ふもの
は益々(ます〳〵)時(とき)に取(と)つての卓見(たくけん)となすべきもので誠(まこと)に感服(かんぷく)の外(ほか)はないのである然(しか)るに其(その)書中(しよちう)にある通(とほ)り到底(たうてい)
当局者(たうきよくしや)等(ら)の容(い)るゝ処とならなかつたので述斉(じつさい)は心痛(しんつう)の余(あま)り更(さら)に奥御祐筆組頭(おくごゆうひつくみがしら)の近藤吉左衛門(こんどうきちざゑもん)と云ふ人
に逢(あ)つて此(この)事(こと)を極論(きよくろん)し能(よ)く〳〵申含(まをしふく)めて置(お)いたのである之(これ)亦(ま)た右(みぎ)の書翰(しよかん)の中(なか)に認(したゝ)めてあるのであるが
それにも抅(かゝは)らず述斉(じつさい)の意見(いけん)と云ふものは遂(つひ)に少(すこ)しも用(もち)ゐられなかつたのである而(しか)も長崎(ながさき)に於ける露使(ろし)
に対(たい)する幕府(ばくふ)の取扱振(とりあつかひぶり)と云ふものは頗(すこぶ)る不当(ふたう)を極(きは)めたので之(これ)は独(ひと)り露使(ろし)が憤怨(ふんえん)した計(ばか)りでなく世上(せぜう)
に於ても中々(なか〳〵)駁議(ばくぎ)が多(おほ)かつたのである述斉(じつさい)は之(これ)も此(この)書翰(しよかん)の中に書(か)き現(あら)はして居(を)るが尚(なほ)其(その)後(のち)に持(も)つて
いつて左(さ)の如(ごと)く云つて居(を)る
其(その)節(せつ)手切(てきれ)の御挨拶(ごあひさつ)にて殊(こと)に奉行(ぶぎよう)の口達(こうだつ)と申もの再度(さいど)参帰(まゐりかへ)る間敷(まじく)との別紙(べつし)等(とう)は抱腹(ほうふく)に不堪事(たへざること)に御座候
海路(かいろ)は諸万国(しよばんこく)の通路(つうろ)に御座候(ござそろ)其(その)通路(つうろ)を此方(このはう)許(ばかり)にて留(とゝ)め候事 出来候事(できそろこと)が出来不申事(できまをさざること)か加様(かやう)に申かけ
候ては尚更(なほさら)意地(いぢ)わるく参り候様に成り候 人情(にんぜう)に御座候(ござそろ)
実(じつ)に痛快(つうかい)に堪(た)へざる議論(ぎろん)であるがソレから述斉(じつさい)は更(さら)にイヨ〳〵論鋒(ろんぽう)を進(すゝ)めて今回(こんかい)の事件(じけん)に及(およ)ぼし先(ま)づ
最初(さいしよ)に
只今(たゝいま)申候(まをしそろ)てもかへり不申事(まをさざること)に御座候(ござそろ)へ共(とも)此(この)事情(じぜう)をとくと御存(ごぞん)じ被在(あらせられ)候て今般(こんぱん)の御処置(ごしよち)御勘弁(ごかんべん)無之て
は大(おほい)に間違(まちがひ)を又々(また〳〵)生(せう)じ可申哉と掛念仕候(けねんつかまつりそろ)
と論(ろん)じ其(その)終(をは)りに
今日(こんにち)の事(こと)実以(じつもつて)無此上御大切(このうへなきごたいせつ)の機会(きくわい)にして国祚(こくそ)の長短(てうたん)之(これ)により可申事 臣子(しんし)膽(たん)を甞(な)め塊(くわい)を枕(まくら)とすべき時
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百四十三
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百四十四
【本文】
と奉存候 不残心底(のこらずしんでい)一 杯(ぱい)に申上置申候(まをしあげおきまをしそろ)能(よ)く〳〵御探謀被為立(ごたんばうたてなされ)候 様(やう)奉存候(ぞんじたてまつりそろ)残念(ざんねん)なる事は先年(せんねん)長崎(ながさき)の
時(とき)閣下(かくか)御在職(ございしよく)にも候はばかく迄は相成(あひな)り申間敷哉(まをすまじくや)今更(いまさら)申候(まをしそろ)てもかへり申(まを)さぬ事に御座候ただ〳〵此
上の失策(しつさく)を甚(はなは)だ恐(おそ)れ云々(うん〳〵)
と結(むす)むである尚(なほ)此(こ)の他(た)にも一 通(つう)の書翰(しよかん)があるが矢張(やはり)其(その)中(なか)にも今度(このたび)の事件(じけん)を論(ろん)じた処があるので左(さ)に御
紹介(せうかい)したいと思(おも)ふ
此度(このたび)の事たとへ此末(このすへ)平和(へいわ)に相成候迚(あひなりそろとて)カラフトの蕃人(ばんじん)を生擒(いけどり)丸小屋(まるこや)焼払(やきはらひ)雑物(ざつぶつ)奪取(だつしゆ)今般(こんぱん)又(また)同断(どうだん)の取計(とりはからひ)
有之候上(これありそろうへ)は最早(もはや)敵国(てきこく)のあしらひに相成(あひなり)中々(なか〳〵)隣誼(りんぎ)を結(むす)び候 主意(しゆい)は立不申候(たちまをさずそろ)夫(それ)を柔(やわ)らかに取扱候(とりあつかひそろ)ては
此方(このはう)の弱(よわき)を示(しめ)し候に相成候間(あひなりそろあひだ)此上(このうへ)ます〳〵跋扈(ばつこ)の志(こゝろざし)を生(せう)じ可申(まをすべく)も難計(はかりがたく)云々(うん〳〵)
と論(ろん)じた後(のち)更(さら)に北海(ほくかい)に於ける我国鎮戌(わがくにちんじう)の不利(ふり)なる点(てん)を挙(あ)げて之(これ)に対(たい)する方法(はう〳〵)として
兵機(へいき)は迅速(じんそく)を貴(たつと)び候事 勿論(もちろん)の事にて今日(こんにち)の事にても一と廉立候儀(かどたちそろぎ)機会(きくわい)を失(うしな)ひ候ては勝算(せうさん)は得(え)がたき
儀(ぎ)に御座候(ござそろ)先(さき)んずる時(とき)は人を制(せい)し後(おく)るゝ時は人に制(せい)せらるゝの場合(ばあひ)緊要(きんえう)に御座候(ござそろ)
と云(い)ふように云(い)つて居(を)るが之(これ)等(ら)の意見(いけん)は悉(こと〴〵)く信明(のぶあき)の意(い)に叶(かな)つた事で信明(のぶあき)が毎(つね)に此(この)方針(はうしん)によつた事は段(だん)
段(だん)事実(じじつ)の上(うへ)に於ても現(あら)はれて居(を)るのである
サテ今度(このたび)の事件(じけん)に就(つい)て露国船(ろこくせん)が最初(さいしよ)択捉(えとろふ)ウルツプあたりに寇(こう)した当時(たうじ)南部(なんぶ)、 津軽(つがる)、 松前(まつまへ)などの諸侯(しよかう)か
らは孰(いづ)れも急使(きうし)を以て之(これ)を幕府(ばくふ)に注進(ちうしん)したのであるが幕府(ばくふ)に於ては将軍(せうぐん)家斉(いへなり)を初(はじ)め之(これ)は容易(ようい)ならぬ事
であると心痛(しんつう)し早速(さつそく)中奥(なかおく)に於て評議(へうぎ)があつたのである其(その)時(とき)信明(のぶあき)が意見(いけん)の一 部分(ぶぶん)として伝(つた)はつて居(を)るの
は「露船(ろせん)が我(わが)北辺(ほくへん)を窺(うかゞ)ふ事は到底(たうてい)一 朝(てう)一 夕(せき)の事ではない万一にも彼(かれ)をして蝦夷(えぞ)又(また)は佐渡(さど)に拠(よ)らしむる
《割書:松前若狭守|の転封》 が如(ごと)き事があつたならばソレこそ実(じつ)に国家(こくか)の一 大事(だいじ)であるソコで先(ま)づ松前若狭守(まつまへわかさのかみ)に関(くわん)する一 件(けん)を落着(らくちやく)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百四十四号附録 (大正元年十二月十七日発行)
【本文】
せしめて更(さら)に奥羽両国(おうれうこく)の大名(だいみよう)に命(めい)じ津軽(つがる)外(そと)ケ浜(はま)から蝦夷(えぞ)松前(まつまへ)に至(いた)るまでの固(かた)めを厳重(げんぢう)にするのが急務(きうむ)
である殊(こと)に一人 幕府(ばくふ)から然(しか)るべき人物(じんぶつ)を蝦夷地(えぞち)に派遣(はけん)して其(その)巡視(じゆんし)に任(にん)じたい」と云ふにあつたが之(これ)は
嵩岳君言行録(すうがくくんげんかうろく)などにも記(しる)してある処であるモツトモ右(みぎ)の内(うち)で松前若狭守(まつまへわかさのかみ)に関(くわん)する一 件(けん)と云ふ事に付(つい)て
は少(すこ)しく説明(せつめい)を要(えう)するのであるが之(これ)は例(れい)の松前侯(まつまへこう)転封問題(てんほうもんだい)である元来(がんらい)此(この)松前若狭守(まつまへわかさのかみ)の先代(せんだい)章広(あきひろ)と云ふ
人は一橋治済(ひとつばしはるなり)の御気(おき)に入(い)りで定信(さだのぶ)補佐(ほさ)時代(じだい)から注目(ちうもく)されて居(を)つた人であつたが身持(みもち)放蕩(はうたう)の故(ゆゑ)を以(もつ)て此(この)
年(とし)の三月 永蟄居(ながのちつきよ)を命(めい)ぜられたのであるソコで幕府(ばくふ)では之(これ)を機(き)として当主(たうしゆ)若狭守(わかさのかみ)から此(この)蝦夷地(えぞち)の全部(ぜんぶ)を
上地(ぜうち)せしめて直接(ちよくせつ)経営(けいえい)をしたいと云ふのが此(この)問題(もんだい)の主(おも)なるものであつたが此際(このさい)幕府(ばくふ)は先(ま)づ之(これ)を実行(じつかう)し
たので其(その)時(とき)幕府(ばくふ)から若狭守(わかさのかみ)への申達書(しんたつしよ)に
蝦夷地(えぞち)の儀(ぎ)は古来(こらい)より其方(そのはう)家(いへ)にて進退致来候得共(しんたいいたしきたりそうらへども)異国(ゐこく)へ接(せつ)し候島々(そろしま〴〵)万端(ばんたん)の手当(てあて)難整様子(とゝのへがたきやうす)に付(つき)先達(せんだつて)
東蝦夷(ひがしえぞ)上(あ)げ地(ち)被仰出(あふせいでられ)従公儀(こうぎより)御処置(ごしよち)被仰付候(あふせつけられそろ)西蝦夷之儀(にしえぞのぎ)も非常之備等(ひぜうのそなへとう)其方(そのはう)手限(てかぎり)難行届段申立(ゆきとゞきがたきだんまをしたて)外国(がいこく)
之境(のさかひ)不容易事に被思召(おぼしめされ)候間 此度(このたび)松前(まつまへ)西蝦夷(にしえぞ)一円 被召上候(めしあげられそろ)云々(うん〳〵)
とあるので其(その)主旨(しゆし)は明瞭(めいれう)であると思(おも)ふが当時(たうじ)松前家(まつまへけ)に対(たい)する代償(だいせう)としては陸奥(むつ)、 上野(かうづけ)両国(れうごく)の内(うち)で表面(へうめん)
は九千石 事実(じつ)は一万二千石許もある土地(とち)を与(あた)へて之(これ)で打切(うちき)つたのであるソレからはイヨ〳〵幕府(ばくふ)に於(おい)
松前奉行 て蝦夷(えぞ)全島(ぜんとう)を直営(ちよくえい)することとなつたのであるが前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く最初(さいしよ)は蝦夷奉行(えぞぶぎよう)と云ふのが置(お)かれて
あつたのを其後(そののち)函館奉行(はこだてぶぎよう)と改(あらた)められたが今度(このたび)は又(また)更(さら)に之(これ)を松前奉行(まつまへぶぎよう)と改(あらた)めて蝦夷全島(えぞぜんとう)の事を支配(しはい)せし
むる様になしたのであるモツトモ此(この)信明(のぶあき)の意見(いけん)には老中(らうちう)の一人 牧野忠精(まきのたゞきよ)も大(おほい)に賛成(さんせい)したのであるが蝦(え)
夷派遣(ぞはけん)としては若年寄(わかどしより)の堀田正敦(ほつたまさあつ)が幸に仙台藩主(せんだいはんしゆ)伊達政千代(だてまさちよ)の叔父(おぢ)であると云ふ処もあるからと云ふ
《割書:将軍の女浅|姫を伊達政|千代に嫁す》 ので此(この)人(ひと)に任(にん)ずる事となり政千代(まさちよ)には又た将軍(せうぐん)の姫君(ひめぎみ)浅姫(あさひめ)を嫁(か)せしむる事となつたのである之(これ)も実(じつ)は
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百四十五
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百四十六
【本文】
信明(のぶあき)の発議(はつぎ)であつたが伊達家(だてけ)に於ても大(おほい)に悦(よろこ)で挙(あげて)藩命(はんめい)に応(おう)じたと云ふ事である
トコロで今度(このたび)の露船(ろせん)の処為(しよゐ)と云ふものは前(まへ)にも申述(まをしの)べた如く実(じつ)に無法(むはう)極(きは)まるのみならず昨年(さくねん)は我戌卒(わがじうそつ)
を四人までも擒(とりこ)にして去(さ)つたと云ふ次第(しだい)であるから事 茲(こゝ)に至(いた)つては幕府(ばくふ)もヨモヤ善隣(ぜんりん)に対(たい)する体度(たいど)で
は居られぬ訳(わけ)であるソコで文化(ぶんくわ)四年既に海岸(かいがん)の各藩(かくはん)に命(めい)じて守備(しゆび)を厳重(げんぢう)にせしめ且(か)つ
《割書:文化四年六|月廿八日の|対外命》 万(まん)一 怪敷船(あやしきふね)相見(あひみ)え候(そうら)はば諸事(しよじ)寛政(かんせい)三年 相達候趣相心得(あひたつしそろおもむきあひこゝろえ)取計可申候(とりはからひまをしべくそろ)
と命(めい)じたのであるモツトモ此(この)寛政(かんせい)三年の達(たつし)と云ふのは極端(きよくたん)なる攘夷令(ぜうゐれい)ではないので異国船(ゐこくせん)を見付(みつ)けた
ならば先(ま)づ見分役(けんぶやく)を以(もつ)て十分なる取調(しらべ)をなし若(も)し之(これ)を拒(こば)むだ場合(ばあひ)には船(ふね)も人も打払(うちはら)つて差支(さしつかい)ないが併(しか)
し之(これ)を拒(こば)まぬものに対(たい)しては然(しか)るべき計策(けいさく)を以て船(ふね)を繋(つな)ぎ留(と)め乗組員(のりくみゐん)をば上陸(ぜうりく)せしめて厳重(げんぢう)に取締(とりしま)り
万一にも之(これ)を承知(せうち)しなかつたなら止(やむ)を得(え)ず召捕(めしと)つてもよいから其上(そのうへ)で早速(さつそく)幕府(ばくふ)に伺(うかゞ)ひ出(い)づるやうに致
せと云ふ意味(いみ)であつたのであるそれを又々(また〳〵)今度(このたび)適用(てきよう)した次第(しだい)であつたが何故(なにゆゑ)か其後(そのご)と云ふものは絶(たへ)て
露国船(ろこくせん)の来航(らいかう)を見(み)なかつたのである然(しか)るに文化(ぶんくわ)八年に至(いた)つて其(その)五月 又々(また〳〵)蝦夷(えぞ)の国後(くにじり)にやつて来(き)たので
《割書:幕吏露船の|乗組員を檎|にす》 あるが今度(このたび)は警備(けいび)の幕吏(ばくり)が前年(ぜんねん)の暴挙(ばうきよ)に報(むく)ゆる為(ため)にうまく欺(あざむい)て船員(せんゐん)を上陸(ぜうりく)せしめ其(その)八人を捕虜(ほりよ)にし
たのである而(しか)して其(その)八人の内(うち)には例(れい)の船長(せんてう)ゴ、ローインと云ふ人も居(を)つたのであるが当時(たうじ)の顛末(てんまつ)は有名(ゆうめい)
なる彼(か)れが自記(じき)の日本遭難記事(にほんそうなんきじ)に詳(くわし)いとの事であるトコロで其(その)露船(ろせん)の乗組員(のりくみゐん)は同行(どうかう)の内(うち)八人を捕虜(ほりよ)に
せられて大(おほい)に驚(おどろ)いたが到底(たうてい)力(ちから)の及(およ)ばないものと見(み)たのであろう遂(つひ)に之(これ)を見捨(みす)てゝ急(きふ)に帆(ほ)を揚(あ)げて去(さ)つ
《割書:高田屋嘉兵|衛》 て仕舞(しま)つたのである然(しか)るに其(その)翌々年(よく〳〵ねん)に至(いた)つて彼(か)の有名(ゆうめい)なる高田屋嘉兵衛(たかだやかへゑ)の船(ふね)が蝦夷(えぞ)の近海(きんかい)で露船(ろせん)に襲(おそ)
はれた事件(じけん)があつて其五月に露船(ろせん)は此(この)嘉兵衛(かへゑ)を伴(ともな)つて国後(くにじり)に来(きた)り前年(ぜんねん)の入寇(にふかう)は暴民(ばうみん)の処為(しよゐ)であつて決(けつ)
して露国政府(ろこくせいふ)の知(し)る処ではない今(いま)政府(せいふ)は其(その)暴民(ばうみん)を罰(ばつ)したから宥(ゆる)して貰(もら)ひたいと云ふ意味(いみ)で書(しよ)を送(おく)り捕(ほ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
虜(りよ)交替(かうたい)の事を申込(まをしこ)むだのであるソコで松前奉行(まつまへぶぎよう)は急使(きふし)を幕府(ばくふ)に送(おく)つて指揮(しき)を待(ま)つたが幕府(ばくふ)に於ては松(まつ)
前奉行(まへぶぎよう)をして捕虜(ほりよ)の交替(かうたい)を許(ゆる)さしめ且(か)つ叮嚀(ていねい)に我国(わがくに)が之(これ)迄(まで)鎖国(さこく)であると云ふ其(その)訳(わけ)を詳(くは)しく説(と)かしめた
《割書:信明の対外|政策》 上(うへ)米塩酒食(へいゑんしゆしよく)などをも手厚(てあつ)く供給(けうきふ)して去(さ)らしむることとしたのである勿論(もちろん)此(この)当時(たうじ)は信明(のぶあき)が幕府(ばくふ)に於(お)ける主(おも)
なる責任者(せきにんしや)であつたのであるから此(この)処置(しよち)こそ実(じつ)に信明(のぶあき)の意見(いけん)から出(い)でたものであると見(み)るのが当然(たうぜん)で
あるが本章(ほんせう)に於て段々(だん〳〵)と申述(まをしの)べて来(き)た処の述斉(じつさい)の意見(いけん)などゝ比較対照(ひかくたいせう)して見(み)ると明(あきらか)に信明(のぶあき)が此(この)外交方(ぐわいかうはう)
針(しん)と云ふものは分(わか)るように信(しん)ずるのである
即(すなは)ち当時(たうじ)に於ける右(みぎ)の処置(しよち)は最(もつと)も其(その)当(たう)を得(え)たので露船(ろせん)に於ても能(よ)く〳〵我意(わがい)を了解(れうかい)したものと見(み)へる
が其(その)後(ご)と云ふものは絶(た)へて我国(わがくに)に来航(らいかう)しなかつたのである従(したがつ)て多年(たねん)纏綿(てんめん)として連続(れんぞく)し来(きた)つた此(この)露国(ろこく)と
の外交関係(ぐわいかうぐわんけい)と云ふものは兎(と)に角(かく)茲(こゝ)に一 段落(だんらく)を告(つ)げた次第(しだい)であつたが此(この)事実(じじつ)は誠(まこと)に歴史上(れきしぜう)に於ける大(たい)
切(せつ)の事柄(ことがら)として特筆大書(とくしつたいしよ)するに価(あたひ)あるものと確信(かくしん)して疑(うたが)はぬのである
北海の警備 トコロで一 方(ぱう)に於ては前(まへ)に申述(まをしの)べた如くで蝦夷経営(えぞけいえい)の事は着々(ちやく〳〵)最初(さいしよ)の方針(はうしん)通(とほ)りに実行(じつかう)せられたのであ
るが之(これ)には意外(いぐわい)に費用(ひよう)を要(えう)し其(その)割合(わりあひ)には収入(しうにふ)の少(すくな)かつた処から非難(ひなん)も段々(だん〳〵)あつた様子(やうす)である従(したがつ)て此(この)点(てん)
は幕府(ばくふ)に於ても頗(すこぶ)る苦心(くしん)した処であつたが併(しか)し此(この)経営中(けいえいちう)は遂(つひ)に外人(ぐわいじん)の窺窬(きゆ)を我(わ)が北海(ほくかい)に容(ゆる)さなかつた
のである即(すなは)ち千島列島(ちじまれつとう)は勿論(もちろん)我(わ)が威力(ゐりよく)と云ふものは遠(とほ)く樺太(かばふと)に迄(まで)も及(およ)むで居(ゐ)たのであるが之(これ)は実(じつ)に信(のぶ)
明(あき)が畢生(ひつせい)の大事業中(だいじげふちう)の一ともなすべものでかゝる有様(ありさま)であつたればこそ我国(わがくに)の版図(はんと)と云ふものも幸
に全(まつた)きを得(え)た次第(しだい)であるが其(その)余勢(よせい)は又た実(じつ)に維新(ゐしん)の当時(たうじ)にまでも及(およ)むで居たものと信(しん)ずべきである
《割書:信明の卒去|と共に政局|一変す》 然(しか)るに信明(のぶあき)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如く文化(ぶんくわ)十四年の八月十六日 年(とし)五十八で病(やまひ)を以(もつ)て卒去(そつきよ)と相成(あひな)つたのであ
るが其(その)卒去(そつきよ)後(ご)と云ふものは前(まへ)に屡々(しば〴〵)御話(おはなし)した通(とほ)り幕府(ばくふ)の政局(せいきよく)は全(まつた)く一 変(ぺん)し例(れい)の水野忠成(みづのたゞなり)は忽(たちま)ち老中格(らうちうかく)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と外交関係) 三百四十七
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百四十八
【本文】
となり続(つゞい)て老中(らうちう)に任(にん)じ威権(ゐけん)並(なら)ぶものもないようになつたので茲(こゝ)に定信(さだのぶ)以来(いらい)信明(のぶあき)等(ら)が苦心経営(くしんけいえい)し来(きた)つた
善政美事(ぜんせいびじ)と云ふものは一 朝(てう)にして破壊(はくわい)さるゝに至(いた)つたのであるが此(この)蝦夷経営(えぞけいえい)の事も亦(ま)た信明(のぶあき)が卒去(そつきよ)後(ご)
《割書:蝦夷経営の|廃止》 僅(わづか)に五年目の文政(ぶんせい)四年には全(まつた)く廃止(はいし)せられて松前奉行(まつまへぶぎよう)は廃(はい)せられて復(ふたゝ)び彼(か)の松前章広(まつまへあきひろ)を封(ほう)じて蝦夷地(えぞち)
を与(あた)へたのである此(こゝ)に於て之迄(これまで)折角(せつかく)信明(のぶあき)が苦心(くしん)して経営(けいえい)した処の我(わが)北辺(ほくへん)の関門(くわんもん)と云ふものは又(ま)た元(もと)の
不締(ふしまり)に立戻(たちもど)つたので其後(そののち)露人(ろじん)は続々(ぞく〳〵)樺太(かばふと)に移住(いぢう)するようになつたのであるが遂(つひ)には千島諸島(ちじましよとう)に迄(まで)も及(およ)
むだのである然(しか)るに残念(ざんねん)な事には松前氏(まつまへし)の力(ちから)は到底(たうてい)之(これ)を如何(いかん)ともすることが出来(でき)なかつたのみならず擅(おしいまゝ)
に其(その)蠺食(さんしよく)に一 任(にん)するに至(いた)つたと云ふのは誠(まこと)に遺憾(ゐかん)千万の事であると思(おも)ふのである之(これ)に付(つ)けても私(わたくし)は
返(かへ)す〳〵信明(のぶあき)の功績(こうせき)の多大(ただい)なりしを思(おも)ふて止(や)まざるものである
⦿松平信明の逸事
信明(のぶあき)の事蹟(じせき)に就(つい)てはまだ〳〵御話(おはなし)すれば実(じつ)に数多(かずおほ)いことであるが私(わたくし)はいづれ之(これ)に就(つい)ては別(べつ)に一 冊子(さつし)とし
て記述(きじつ)して見(み)たいと思(おも)つて居(を)る次第(しだい)であるから此処(ここ)には先(ま)づ其(その)大要(たいえう)を申述(まをしの)ぶることとする考(かんがへ)であるソ
コで以上(いぜう)述(の)べ来(きた)つた事の外(ほか)は便宜上(べんぎぜう)此(この)逸事(いつじ)の中(なか)に於てボツ〳〵と御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのである
元来(がんらい)信明(のぶあき)と云ふ人は余程(よほど)厳格(げんかく)な性質(せいしつ)で苟(いやしく)も理屈(りくつ)に合(あ)はぬ事は聴容(きゝい)れなかつた実(じつ)に私(わたくし)のない正(たゞ)しい行(おこなひ)
《割書:信明の性行|に関する甲|子夜話の記|事》 ばかりであつたが例(れい)の甲子夜話(かしやわよばなし)の中(なか)にもコウ云ふ話(はなし)が記(しる)されてある
越後国(えちごのくに)新発田藩主(しばたはんしゆ)の溝口氏(みぞぐちし)は信明(のぶあき)とは近縁(きんゑん)の間柄(あひだがら)であつたが信明(のぶあき)が老中(らうちう)であつた時代(じだい)幼穉家督(ようちかとく)の事
があつて其(その)近臣(きんしん)の考(かんがへ)では主人(しゆじん)が余(あま)り幼年(ようねん)で表向(おもてむ)き都合(つごふ)が悪(わる)いからドウか二三 歳(さい)年齢(ねんれい)を増(ま)して官辺(くわんへん)へ
届出(とゞけい)でゝ置(お)きたいものであると云ふので内々(ない〳〵)之(これ)を信明(のぶあき)に相談(さうだん)したのであるトコロが信明(のぶあき)が言(い)ふにはそ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百四十九号附録 (大正元年十二月廿四日発行)
【本文】
れは以(もつ)ての外(ほか)の事で姑息(こそく)と云ふものである断然(だんぜん)相成(あひな)り難(がた)き儀(ぎ)であると一 言(げん)の下(もと)に刎(は)ね付(つ)けたので之(これ)を
聞(き)いた溝口氏(みぞぐちし)の近臣(きんしん)は心(こゝろ)蜜(ひそ)かに後悔(こうかい)したとの事である又(ま)た同書(どうしよ)に或時(あるとき)能楽(のうがく)の催(もよほし)があつて賜餐(しさん)の時(とき)老(らう)
臣(しん)等(ら)が御用部屋(ごようべや)に来(き)て休息(きうそく)して居(を)つたが或(ある)老臣(らうしん)が御同朋頭(ごどうほうかしら)の荻原林阿弥(をぎはらりんあみ)と云ふ人に此(こ)の次(つぎ)の能(のう)は何(なん)で
あるかと云つて番組(ばんぐみ)を問(と)ふたスルト此(この)林阿弥(りんあみ)と云ふ人は軽率(けいそつ)の性(せう)であつたから問(とひ)に応(おう)じて此(この)次(つぎ)は執着(しゆうちやく)
と云ふ能(のう)でありますと答(こた)へた然(しか)るに此(この)執着(しゆうちやく)と云ふ名(な)は坊間歌舞伎(ぼうかんかぶき)などで付(つ)けた俗(ぞく)の名(な)で能楽(のうがく)の石橋(しやくきよう)
から作(つく)り替(か)へたものであるから元(もと)より能(のう)にはソンな名(な)はない即(すなは)ち石橋(しやくきよう)と答(こた)ふべき処を突然(とつぜん)の答(こたへ)に執(しゆう)
着(ちやく)と云つたので人々(ひと〴〵)ドツト笑(わら)ひ出(だ)したが此(この)時(とき)はサスがに平常(へいぜう)厳然持重(げんぜんぢちよう)の信明(のぶあき)でも耐(た)へ兼(か)ねたと見(み)へて
遂(つひ)に噴(ふ)き出(だ)したと記(しる)してあるのである之(これ)に依(よ)つて見(み)ても此(この)書(しよ)の著者(ちよしや)たる松浦静山侯(まつうらせいざんかう)の如(ごと)きですら信明(のぶあき)
を以(もつ)て厳然持重(げんぜんぢちよう)の人と評(へう)して居(を)る位(くらゐ)で此(この)話(はなし)などは実(じつ)によく其(その)平常(へいぜう)が推(お)し測(はか)られるように思(おも)わるゝので
ある
信明の仁慈 此(かく)の如(ごと)く信明(のぶあき)は誠(まこと)に鹿爪(しかつめ)らしい人であつたが又(ま)た一 方(ぱう)には実(じつ)に慈悲深(じひふか)い処のあつた人で殊(こと)に下々(しも〳〵)の者(もの)
に向(むか)つては仁心(じんしん)の厚(あつ)かつたものである矢張(やはり)甲子夜話(かしやは)の中(なか)にある話(はなし)であるが信明(のぶあき)が老中(らうちう)たりし時(とき)両番衆(れうばんしう)
に弓削田新右衛門(ゆげだしんうゑもん)と云ふ人があつて夫(それ)が或(あ)る事件(じけん)に座(ざ)して遂(つひ)に切腹(せつぷく)を仰付(あふせつ)かつたのである其(その)時(とき)検使(けんし)に
行(い)つた目付(めつけ)の某(それがし)と云ふものがヤツト役目(やくめ)を済(す)まし夜陰(やゐん)に及(およ)むだが規定(きてい)であるから直様(すぐさま)復命(ふくめい)の為(ため)に先(ま)づ
若年寄(わかとしより)某(それがし)の邸(やしき)に行(い)つたのであるトコロが既(すで)に門(もん)が鎖(とざ)されて居(ゐ)て入(い)る事がで出来(でき)なかつたがヨウ〳〵開(かい)
門(もん)してからも急(きふ)に燭台(しよくだい)を玄関(げんかん)に持出(もちだ)すやら狼狽(らうばい)の体(てい)が見(み)へたのであるソコで検使(けんし)の思(おも)ふには此(この)様子(やうす)で
は今(いま)から老中(らうちう)の邸(やしき)に行(い)つた処で余程(よほど)門前(もんぜん)で待(ま)たされる事であろうから其(その)覚悟(かくご)で行(ゆ)かねばなるまいと考(かんが)
へたのであつたが信明(のぶあき)の邸(やしき)へ行(い)つて見(み)ると案(あん)に相違(さうゐ)してチヤント開門(かいもん)してあつたのみならず主人(しゆじん)の信(のぶ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百四十九
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百五十
【本文】
明(あき)も最前(さいぜん)から此(この)復命(ふくめい)を待受(まちう)けて居(を)られた様子(やうす)で直様(すぐさま)対面(たいめん)せられたが検使(けんし)の報告(ほうこく)を篤(とく)と聞(き)き終(おは)られて扨(さて)
も〳〵是非(ぜひ)なき事であつたと深(ふか)く愁傷(しうせう)の体(てい)であつたので其(その)目付役(めつけやく)は実(じつ)に信明(のぶあき)の士(し)を愛(あい)することに感激(かんげき)し
たと云ふ事が書(かい)いてあるのである又或時(またあるとき)信明(のぶあき)が浅草見付(あさくさみつけ)を通行(つうかう)せられた時 如何(いか)なる間違(まちがひ)であつたか門(もん)
番(ばん)の者(もの)が下座(げざ)をしなかつたので番頭(ばんがしら)の者(もの)は非常(ひぜう)に恐縮(けうしゆく)して行列(ぎようれつ)の後(あと)を遂(お)つて供頭(ともがしら)に歎願(たんぐわん)し「ワビ」を請(こ)
つたのである然(しか)るに信明(のぶあき)は之(これ)を聞(き)いてイヤ心配(しんぱい)には及(およ)ばぬそれは何(な)にか間違(まちがひ)であろう我等(われら)通行(つうかう)の際(さい)浅(あさ)
草見付(くさみつけ)に於(おい)ては皆々(みな〳〵)下座(げざ)を致(いた)したぞと云つて其(その)罪(つみ)を問(と)はなかつたのであるソコで此(この)番頭(ばんがしら)は深(ふか)く信明(のぶあき)の
仁徳(じんとく)に服(ふく)して爾来(じらい)邸前(ていぜん)を過(す)ぐる毎(ごと)に必(かなら)ず下座(げざ)をして其(その)恩(おん)を拝謝(はいしや)したとの事である又(ま)た文化(ぶんくわ)年中(ねんちう)の話(はなし)で
あるが如何(いか)なる訳(わけ)であつたか或時(あるとき)一人の比丘尼(びくに)が城(しろ)の本丸(ほんまる)に紛(まぎ)れ入(い)つた事があつて之(これ)が一 問題(もんだい)となつ
たのである然(しか)るに此(この)処置(しよち)を時(とき)の老中(らうちう)信明(のぶあき)に伺(うかゞ)ひ出(い)でた処が信明(のぶあき)が云(い)ふにはそれは恐(おそら)くは真正(まこと)の比丘尼(びくに)
ではなかろう必(かなら)ず狐狸(こり)のなせる業(わざ)に相違(さうゐ)あるまい如何(いか)なる訳(わけ)にせよ御本丸(ごほんまる)へ比丘尼(びくに)などの入(い)るべき筈(はづ)
がないではないかとコウ断案(だんあん)を下(くだ)したので門番(もんばん)は勿論(もちろん)責任者(せきにんしや)一 同(どう)は孰(いづ)れも其(その)咎(とがめ)を免(まぬが)れて喜(よろこ)むだと云ふ
事であるが之(こ)れは例(れい)の嵩岳君言行録(すがくゝんげんかうろく)にある話(はなし)である
《割書:信明権威に|屈せず》 信明(のぶあき)の気性(きせう)はザツト右(みぎ)の如(ごと)くであるから其(その)替(かは)り一 且(たん)之(これ)はドウも筋道(すぢみち)の立(た)たぬ事であるなと思(おも)ひ込(こ)む
だならば其(その)時(とき)こそ何処迄(どこまで)も聞(き)き入(い)れぬと云(い)ふ風(ふう)であつたが其(その)場合(ばあひ)になると権威(けんゐ)などは到底(たうてい)恐(おそ)れなかつ
たのである之(これ)も信明(のぶあき)が老中(らうちう)時代(じだい)の話(はなし)であるが或日(あるひ)其(その)登城(とじやう)先(さき)へ水戸(みと)の家来(けらい)が走(はし)り来(きた)つて水戸殿(みとどの)御箱(おはこ)にて
候(そろ)控(ひか)へられよと云つて信明(のぶあき)の先供(さきども)を突(つ)き寄(よ)せたのであるソコで供頭(ともがしら)の松尾(まつを)五 郎(らう)と云(い)ふものが信明(のぶあき)の駕(か)
籠側(ごそば)へ走(はし)り寄(よ)つて其(その)事(こと)を告(つ)げた処が信明(のぶあき)は泰然(たいぜん)として動(うご)かない忽(たちま)ち大音声(だいおんぜい)で急(きふ)の御用(ごよう)により登城(とじやう)する
ものであるまだ水戸殿(みとどの)御箱(おはこ)は参(まゐ)らぬから苦(くるし)くないドン〳〵先(さき)へやれと言(い)ひ付(つ)けて遂(つひ)に登城(とじやう)して仕舞(しま)つ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
たが夫(それ)から同僚(どうれう)の人々とも協議(けふぎ)して大切(たいせう)なる御用先(ごようさき)の差支(さしつかへ)と相成(あひな)るから爾来(じらい)水戸殿(みとどの)御登城(おとじやう)は老中(らうちう)の登(と)
城(じやう)時刻(じこく)御見合(おんみあ)はせ之(こ)れあるべくと水戸家(みとけ)の家老(からう)へ相達(あひたつ)したとの事である又(ま)た或時(あるとき)何(いづ)れからか菓子(くわし)の到(とう)
来(らい)があつたが信明(のぶあき)は之(これ)を床(とこ)の間(ま)に置(お)かしめて登城(とじやう)したのである軈(やが)て帰邸(きてい)の後(のち)其(その)菓子(くわし)を見(み)ると配置(はいち)が乱(みだ)
れて居(ゐ)て何(なん)たか人が手(て)を付(つ)けた様子(やうす)であるので信明(のぶあき)は色々(いろ〳〵)と之(これ)を取扱(とりあつか)つたものに就(つ)いて調(しら)べさせたが
誰(たれ)も存(ぞん)ぜぬ知(し)らぬで一 向(かう)に埒(らち)が明(あ)かぬソコで信明(のぶあき)は何時(いつ)になく気色(きしよく)を荒(あら)らげ近習(きんしふ)の者(もの)をして最初(さいしよ)到来(たうらい)
の時(とき)之(これ)を取扱(とりあつ)かつた聞番(きゝばん)某(それがし)なるものを糺問(きつもん)せしめた処が実(じつ)は余(あま)り綺麗(きれい)な菓子(くわし)であつたから内々(ない〳〵)手(て)に
取(と)つて居(を)る処へ殿様(とのさま)御帰邸(ごきてい)の觸(ふれ)があつたので驚(おどろ)いて元(もと)の位置(ゐち)へ納(をさ)めようとしたが其(その)暇(ひま)がなかつたので
拠(よんどころ)なくそれを一 個(こ)袂(たもと)の中(なか)へ隠(かく)して持下(もちさが)つたでのあると白状(はくぜう)に及(およ)むで「ワビ」入(い)つた之(これ)を聞(き)いた信明(のぶあき)は
其(その)時(とき)初(はじ)めて顔色(がんしよく)を和(やわ)らげ能(よ)くこそ正直(せうじき)に申立(まをした)てた若(も)しも何処迄(どこまで)も偽(いつは)つて隠(かく)し立(た)てをするならば彼者(かのもの)を
手打(てうち)にせむと思(おも)つたが之(これ)にて満足(まんぞく)したと云(い)つて遂(つひ)に其上(そのうへ)を咎(とが)めようとしなかつたと云(い)ふ事(こと)であるが之(これ)
等(ら)の話(はなし)は実(じつ)に信明(のぶあき)の気質(きしつ)を有(あり)のまゝに曝露(ばくろ)したとも云(い)ふべきもので信明(のぶあき)の人物(じんぶつ)を見(み)る上(うへ)には誠(まこと)に面白(おもしろ)
い話(はなし)であると思(おも)ふ
《割書:信明諌を容|る》 又(また)信明(のぶあき)は壮年(さうねん)の頃(ころ)に兎角(とかく)酒(さけ)を過(すご)す癖(くせ)があつて追々(おい〳〵)気分(きぶん)も荒々(あら〳〵)しく近習(きんしふ)のものも頻(しき)りに心痛(しんつう)する様(やう)にな
つたのであるソコで奥年寄(おくとしより)の佐藤久右衛門(さとうきううゑもん)と云(い)ふ人(ひと)が打捨(うちす)て置(お)かれぬ大事(だいじ)であると思(おも)つて自(みづか)らは決(けつ)す
る処(ところ)があつたものと見(み)へて或夕(あるゆう)信明(のぶあき)が酒宴(しゆゑん)半(なか)ばの席(せき)へ出(いで)て爾来(じらい)酒(さけ)に対(たい)して謹慎(きんしん)せらるゝようにと云(い)ふ
事を極諫(ごくかん)したスルト信明(のぶあき)は以(もつ)ての外(ほか)機嫌(きげん)で無礼(ぶれい)な事を云ふな下(さが)れと云ふ勢(いきほひ)で大不興(だいふけう)であつたから佐藤(さとう)
も此(この)上(うへ)は強(しゐ)て諫言(かんげん)を重(かさ)ぬるも益(えき)ない事であると思(おも)つて一 時(じ)其場(そのば)を引下(ひきさが)つたがサテ我家(わがや)に帰(かへ)つてからも
心配(しんぱい)に堪(た)へられぬので行末(ゆくすへ)の事(こと)などツク〳〵と考(かんが)へて一 室(しつ)に黙座(もくざ)して居(を)つたが其夜(そのよ)の深更(しんかう)に及(およ)むで急(きふ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百五十一
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百五十二
【本文】
の御召(おめし)であると云(い)ふので使(つかひ)が来(き)たのである佐藤(さとう)はイヨ〳〵事(こと)面倒(めんだう)になつたと信(しん)じて恐(おそ)る〳〵決心(けつしん)して
罷出(まかりいで)た処(ところ)が信明(のぶあき)は最前(さいぜん)に似(に)も付(つ)かず打(う)つて変(かは)つた機嫌(きげん)で佐藤(さとう)を側近(そばちか)く招(まね)き先刻(せんこく)の諫言(かんげん)は身(み)にしみて有(あり)
難(がた)く思(おも)ふから向後(かうご)は汝(なんぢ)の言(い)ふ如(ごと)く必(かなら)ず禁酒(きんしゆ)する就(つい)ては其印(そのしるし)として之(これ)迄(まで)自分(じぶん)が用(もち)ゐ来(きた)つた盃(さかづき)は残(のこ)らず
纏(まと)めて其方(そのはう)に遣(つか)はすと云(い)ふので悉(こと〴〵)く之(これ)を佐藤(さとう)に下(くだ)し賜(たまは)つたのである之(これ)を聞(き)いた佐藤(さとう)は実(じつ)に嬉(うれ)しさ堪(た)へ
かねて深(ふか)く感涙(かんるい)にむせむだと云(い)ふ事(こと)であるが其(その)時(とき)下賜(かし)の盃(さかづき)は今(いま)も尚(なほ)佐藤(さとう)の家(いへ)に伝(つた)はつて居(を)ると云ふ
ので其(その)佐藤(さとう)の直話(ぢきわ)が矢張(やはり)嵩岳君言行録(すがくくんげんかうろく)の中(なか)に載(の)せられてあるのである古来(こらい)名君(めいくん)と云(い)はれた人(ひと)には必(かなら)ず
人(ひと)の諌(いさめ)を容(い)れた話(はなし)があるが信明(のぶあき)の此(この)話(はなし)も又(ま)た実(じつ)に一 美談(びだん)として伝(つた)ふべきであると思(おも)ふ
信明の精力 又(ま)た信明(のぶあき)と云(い)ふ人(ひと)は実(じつ)に偉大(ゐだい)なる精力家(せいりよくか)であつたと云(い)ふ事(こと)を此処(こゝ)に御話(おはなし)したいと思(おも)ふのである先(さき)にも
一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)は幼少(えうせう)の頃(ころ)から既(すで)に能書(のうしよ)であつたが廿 歳(さい)の時(とき)自(みづか)ら公沢(かうたく)の千 文字(もんじ)を模写(もしや)したもの
が今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に遺(のこ)つて居(を)るのである而(しか)して其(その)奥書(おくがき)を見(み)ると
(前略)欲模写以為範、奈何晝日公私鞅掌、以是燈下模写、二夜卒業、謂之書癖亦所不辞也
コウ書(か)いてある実(じつ)に之(こ)れ丈(だけ)のものを二夜(ふたよ)で書(か)き上(あ)げて仕舞(しま)ふと云ふ精力(せいりよく)は驚(おどろ)くべきであると思(おも)ふ又(ま)た
篆刻(てんこく)にも巧(たくみ)であつた人で自刻(じこく)の石印(せきいん)木印(もくいん)扁額(へんがく)などは矢張(やはり)大河内家(おほかうちけ)に何(なん)十 個(こ)となく今(いま)遺(のこ)つて居(を)るが孰(いづ)れ
も見事(みごと)な出来(でき)で到底(たうてい)専門家(せんもんか)も及(およ)ばぬ程(ほど)のものが多(おほ)いのである其他(そのた)詩(し)を賦(ぶ)し歌(うた)を読(よ)み詩集(ししう)なども残(のこ)つて
居(を)るのである何(なに)をしても相当(さうとう)には成績(せいせき)が上(あが)つて居(を)るので何事(なにごと)につけても終始(しうし)絶倫(ぜつりん)の精力(せいりよく)を傾注(けいちう)したも
のであることは伺(うかゞ)ひ知(し)る事が出来(でき)るのであるが殊(こと)に日夜(にちや)政務(せいむ)多端(たたん)で天下(てんか)の事に鞅掌(わうせう)し而(しか)も其(その)職務(しよくむ)に対(たい)し
ては前(ぜん)より段々(だん〳〵)申述(まをしの)べ来(きた)つた如(ごと)く実(じつ)に其(その)天才(てんさい)を発揮(はつき)して居(を)るのであるから其(その)精力(せいりよく)は誠(まこと)に驚(おどろ)くべきであ
ると思(おも)ふ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百五十八号附録 (大正二年一月七日発行)
【本文】
信明の質素 又(また)信明(のぶあき)が常(つね)に質素倹約(しつそけんやく)を旨(むね)とした人であることは言(い)ふまでもないのであるが常(つね)に袴(はかま)などはワザ〳〵作(つく)る
には及(およ)ばぬ上下(かみしも)の下(しも)を用(もち)ゐて置(お)けばよいと云(い)はれた程(ほど)で従(したがつ)て其(その)遺物(ゐぶつ)の如(ごと)きはドレを見(み)ても全(まつた)く飾(かざ)り気(け)
のないもの計(ばか)りである終生(しうせい)大好物(たいかうぶつ)であつた篆刻(てんこく)の如(ごと)きでも只(たゞ)の蠟石(ろうせき)へ彫(ほ)り付(つ)けたもの計(ばか)りで一つも修(しう)
飾(しよく)などを加(くは)へたものはない併(しか)しながら又(ま)た決(けつ)して吝嗇(りんしよく)などの行(おこな)はれなかつたものである必用(ひつよう)の費用(ひよう)と
あれば少(すこ)しも惜(おし)まず支出(ししゆつ)したのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く信明(のぶあき)が世(よ)に立(た)つた頃(ころ)は所謂(いはゆる)田沼時代(たぬまじだい)の後(あと)であつ
たから只管(ひたすら)其(その)弊風(へいふう)を打破(だは)して士気(しき)を奮起(ふんき)せしめようと勉(つと)めたもので或(あるひ)は馬術(ばじつ)を奨励(せうれい)し或(あるひ)は鷹野(たかの)を催(もよほ)し
などして惰弱(だじやく)に流(なが)れたる人気(にんき)を振興(しんこう)せしめむとしたのであるソコで僅(わづ)か七万石の家(いへ)でありながら自(みづか)ら
馬(うま)三四十 頭(とう)に鷹(たか)の二三十 羽(ぱ)は養(やしな)つて置(お)いたものである此(かく)の如(ごと)き性行(せいかう)の人(ひと)であつたから一 方(ぱう)に於(おい)ては
又(ま)た極(きは)めて清廉(せいれん)の質(しつ)であつた事は言(い)ふ迄(まで)もないが之(これ)にも伝(つた)ふべき一 美談(びだん)があるのである
信明の廉潔 ソレは信明(のぶあき)が老中(らうちう)上座(ぜうざ)であつた頃(ころ)の話(はなし)であるが米津小太夫(よねづこたいう)と云ふ旗本(はたもと)があつて宝飯郡(ほゐぐん)の牛久保(うしくぼ)を領(れう)し
て居(を)つたのであるが其(その)領地(れうち)は恰(あたか)も信明(のぶあき)の領地(れうち)即(すなは)ち吉田領(よしだれう)の間(あひだ)に狭(はさ)まつて居(を)つたのみならず至極(しごく)肥沃(ひよく)で
あつたから吉田領(よしだれう)の方(はう)では万事(ばんじ)に不便(ふべん)極(きは)まる上(うへ)にそれが肥沃(ひよく)であつて見(み)れば何(なん)とか換地(かへち)の法(ほう)を立(た)てゝ
米津(よねづ)を外(ほか)へ廻(まは)し牛久保(うしくぼ)をば吉田領(よしだれう)へ入(い)れる事に致(いた)したいものであると云(い)ふので国家老(くにからう)から其(その)事(こと)を信明(のぶあき)
に申出(まをしい)でたのである然(しか)るに信明(のぶあき)は之(これ)を聴(き)き入(い)れずして云(い)ふにはソレは我儘(わがまゝ)と云(い)ふものである元来(がんらい)小禄(せうろく)
の給所(きうしよ)は縄(なは)の延(の)びて居(を)るもので事実(じじつ)は表面(へうめん)よりも余計(よけい)に上(あが)り高(だか)のあるようになつて居(を)るのであるそれ
を比較的(ひかくてき)切詰(きりつ)めて自分(じぶん)の領地(れうち)と引替(ひきかへ)にせむと云ふのは誠(まこと)に心(こゝろ)のない仕業(しわざ)であるソンナ事(こと)はいらざ
る義(ぎ)であるから捨(す)てゝ置(お)けと斥(しりぞ)けたのでサスガの国家老(くにからう)も其(その)仁慈(じんじ)あると廉潔(れんけつ)なるとに服(ふく)したと云ふ事
であるが之(これ)亦(ま)た信明(のぶあき)の人格(じんかく)を伺(うかゞ)ふ上(うへ)に於(おい)て面白(おもしろ)き話(はなし)であると思(おも)ふ
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百五十三
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百五十四
【本文】
文学の奨励 又(ま)た信明(のぶあき)が其(その)在職中(ざいしよくちう)頻(しき)りに武道(ぶどう)を激励(げきれい)して一たび堕(お)ちたる士気(しき)を興奮(こうふん)せしめた事は前(まへ)にも屡々(しば〴〵)申述(まをしの)べ
た如(ごと)くであるがそれのみならず信明(のぶあき)は一 方(ぱう)に文学(ぶんがく)の奨励者(せうれいしや)で之(これ)を以(もつ)て世道人心(せどうじんしん)に益(えき)した事も少(すくな)からざ
るのである勿論(もちろん)之(これ)に関(かん)しては定信(さだのぶ)の発意(はつい)になつたものもあるのではあるが定信(さだのぶ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く
要職(えうしよく)にある事(こと)僅(わづか)に七年に過(す)ぎなかつたのであるから其(その)後(のち)は全(まつた)く信明(のぶあき)が之(これ)を受継(うけつ)いで総(すべ)ての経営(けいえい)に任(にん)じ
たのである先(ま)づ彼(か)の聖堂(せいどう)の振興(しんこう)であるがそれも大成(たいせい)したのは信明(のぶあき)が主(しゆ)として責任者(せきにんしや)たるの時代(じだい)である
《割書:信明と古賀|精里》 モツトモ彼(か)の有名(いうめい)なる尾藤(びとう)二 州(しゆう)、柴野栗山(しばのりつざん)両人(れうにん)の召(め)されたのは定信(さだのぶ)がまだ在職(ざいしよく)の当時(たうじ)であつたが古賀(こが)
《割書:寛政重修諸|家譜の編纂》 精里(せいり)の召出(めいだ)されたのは信明(のぶあき)が老中(らうちう)主席(しゆせき)たるの時代(じだい)である又(ま)たズツト前(まへ)に詳(くは)しく申述(まをしの)べてある寛政重修(かんせいぢうしう)
諸家譜(しよかふ)の編纂(へんさん)と云(い)ふものは実(じつ)に信明(のぶあき)の事業(じげふ)と云つてもよいので此(この)書物(しよもつ)は寛永系図(かんえいけいづ)、貞享書上(ぢようけうかきあげ)に継(つい)で其(その)
誤謬脱漏(ごびやうだつろう)を補正(ほせい)したものであるが武家(ぶけ)の歴史(れきし)に取(と)つては唯(ゆ)一つ資料(しれう)で最(もつと)も大切(たいせつ)のものと相成(あひな)つて居(を)る
次第(しだい)である之(これ)は実(じつ)に一千五百二十五 巻(くわん)と云ふ大部(だいぶ)のもので前(まへ)にも御話(おはなし)した事のある堀田正敦(ほつたまさあつ)と云ふ人
が其(その)編纂(へんさん)に関(かん)する総裁(そうさい)を命(めい)ぜられたのであるが林述斉(はやしじつさい)は監修(かんしう)の役(やく)に当(あた)り成島司直(なるしましちよく)、屋代弘賢(おくしろこうけん)などの学(がく)
者(しや)が之(これ)に関与(かんよ)したものである其(その)事業(じげふ)は最初(さいしよ)寛政(かんせい)十一年から始(はじ)まつて文化(ぶんくわ)九年に至(いた)りヨウ〳〵巧(こう)を竣(かわ)つ
たのであるから其(その)間(あひだ)十四ケ年を費(つひや)した次第(しだい)であるが此(この)十四ケ年の中(うち)僅(わづか)に享和(けうわ)三年十二月から文化(ぶんくわ)三年
五月まで二ケ年半(ねんはん)許(ばかり)の外(ほか)は悉(こと〴〵)く信明(のぶあき)が老中(らうちう)の上座(ぜうざ)たるの時代(じだい)であるから此(この)事業(じげふ)に対(たい)する信明(のぶあき)が統括(とうかつ)
《割書:徳川実記並|に朝野旧聞|裒稿の編纂》 誘掖(ゆうえき)の功(こう)と云ふものは容易(ようゐ)ならざるものがあつた事と確信(かくしん)するのであるそれのみならず御承知(ごせうち)の徳川(とくがは)
実記(じつき)並(ならび)に朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうかう)の編纂(へんさん)と云ふものも矢張(やはり)述斉(じつさい)だの司直(しちよく)だのゝ関係(かんけい)したのであるが之(これ)は文化(ぶんくわ)六年
即(すなは)ち信明(のぶあき)が老中(らうちう)上座(ぜうざ)として最(もつと)も勢力(せいりよく)のあつた時代(じだい)に起(おこ)つた事業(じげふ)で嘉永(かえい)二年に至(いた)つて出来上(できあが)つたのであ
る之(これ)亦(ま)た孰(いづ)れも大部(だいぶ)の書物(しよもつ)で今日(こんにち)に於(おい)ても徳川時代(とくがはじだい)に関(かん)する歴史上(れきしぜう)の一 大宝典(だいほうてん)となつて居(を)るものであ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
る蓋(けだ)し其(その)時代(じだい)を通(つう)じて文学上(ぶんがくぜう)の大事業(だいじげふ)として之程(これほど)のものは他(た)になかつた事と信(しん)ずる
《割書:信明と伊能|忠敬》 又(ま)た伊能忠敬(いのうたゞよし)が海岸(かいがん)を測量(そくれう)して我国(わがくに)の地図(ちづ)を製作(せいさく)したのも多(おほ)くは信明(のぶあき)が権勢(けんせい)を握(にぎ)れる当時(たうじ)の事である
が其(その)製図(せいづ)の見事(みごと)なものが今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る事などは既(すで)に前章(ぜんせう)に於て申述(まをしの)べた如(ごと)くであるが勿(もち)
論(ろん)之(これ)にも信明(のぶあき)が多大(ただい)の関係(かんけい)を有(ゆう)して居(を)つた事は明(あきらか)なる事実(じじつ)である其他(そのた)太田錦城(おほたきんじやう)を初(はじ)めて自藩(じはん)の儒者(じゆしや)
として採用(さいよう)したのも信明(のぶあき)であるが此(この)錦城(きんじやう)のことに就(つい)ては後章(こうせう)に於て詳(くは)しく申述(まをしの)ぶる考(かんが)へである又(ま)た前(まへ)
日光山殖林 にも段々(だん〳〵)申述(まをしの)べた如(ごと)く彼(か)のに日光山(につかうざん)並(ならび)に其(その)街道(かいどう)多数(たすう)の杉樹(さんじゆ)を殖(う)へ付(つ)けたのは信綱(のぶつな)の叔父(おぢ)で正綱(まさつな)と云ふ人
であるが此(この)杉苗(すぎなへ)は毎年(まいねん)其(その)中(なか)に何分(なにぶん)づゝ枯(か)れるものなどが出来(でき)たので正綱(まさつな)の子孫(しそん)たる大多喜(おたき)の大河内家(おほかうちけ)
に於(おい)ては代々(だい〳〵)之(こ)れが植継(うゑつぎ)の為(ため)には苦心(くしん)もし又(ま)た費用(ひよう)をも投(とう)じたものであるが信明(のぶあき)も又(ま)た此(この)祖先(そせん)の遺業(ゐげふ)
に倣(なら)つて享和(けうわ)元年(がんねん)矢張(やはり)此(この)日光山(につかうざん)に殖林(しよくりん)の事業(じげふ)を計画(けいくわく)したのである其(その)当時(たうじ)信明(のぶあき)が殖林地(しよくりんち)へ建設(けんせつ)した碑(ひ)が
あるが此(この)刻文(こくぶん)は左(さ)の如(ごと)くである
下野国河内郡針谷村之東大谷川之南塩野室村之西矢野口村之北有地曰萱野今界弐拾五町捌反歩植松
桧等壱拾五万株又鑿渠環之以備野焼庶幾待以歳月修茂一拱抱以充日光山 両廟修繕之材云
私(わたくし)はまだ遺憾(ゐかん)な事には此(この)碑(ひ)を実見(じつけん)する機会(きくわい)を得(え)ないから今日(こんにち)も尚(な)ほ之(これ)が現存(げんぞん)して居(を)るや否(いな)やは明言(めいげん)が
出来(でき)兼(か)ぬるのである併(しか)し或人(あるひと)の話(はなし)によると此(この)森林(しんりん)は今(いま)実(じつ)に繁殖(はんしよく)して莫大(ばくだい)の価値(かち)あるものとなつて居(を)る
と云ふ事である其外(そのほか)信明(のぶあき)が事に就(つい)てはまだ御話(おはなし)すれば中々(なか〳〵)尽(つ)きぬのであるが尚(な)ほ一二 大切(たいせつ)の事を申述(まをしの)
べて一 先(ま)づ此(この)章(せう)を終(をは)りたいと思(おも)ふのである之(これ)は信明(のぶあき)がズツト若(わか)い時(とき)の事で寛政(かんせい)七年に行(おこな)はれたものであ
るが前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く当時(たうじ)田沼(たぬま)弊政(へいせい)の後(あと)を受(う)けて世(よ)の中(なか)が実(じつ)に遊惰(ゆうだ)に流(なが)れつゝあるので大(おほひ)に士気(しき)を
《割書:小金原の狩|猟》 鼓舞(こぶ)する必要(ひつえう)があると云ふ処から其(その)三月五日 将軍(せうぐん)家斉(いへなり)が自(みづか)ら出馬(しゆつば)して小金原(こがねがはら)で大(おほひ)に狩(かり)をした事がある
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百五十五
【欄外】
豊橋市史談 (太田錦城と信明) 三百五十六
【本文】
此(この)時(とき)の陣立(ぢんだて)と云ふものは頗(すこぶ)る大規模(だいきぼ)のものであつたが其(その)総指揮官(そうしきくわん)とも云ふべき役(やく)は信明(のぶあき)が之(これ)を勤(つと)めた
のである当時(たうじ)の模様(もやう)は委(くは)しく書(か)いたものも今(いま)残(のこ)つて居(を)るが信明(のぶあき)は此(この)時(とき)将軍(せうぐん)から恩賞(おんせう)として陣羽織(ぢんはをり)を賜(たまは)
つたので人々(ひと〳〵)之(これ)を光栄(くわうえい)なりとしたのであるから之(これ)も此処(こゝ)に概要(がいえう)申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである而(しか)し
て尚(なほ)一つ最後(さいご)に申述(まをしの)べたいのは信明(のぶあき)が勤王心(きんわうしん)の深(ふか)かつた事実(じじつ)である
《割書:信明の勤王|心》 元来(がんらい)我国民(わがこくみん)の勤王心(きんわうしん)に厚(あつ)きことは当然(たうぜん)であつて言(い)ふ迄(まで)もない事であるが併(しか)し徳川時代(とくがはじだい)にあつては其(その)徳川(とくがは)
氏(し)が武運(ぶうん)の長久(てうきう)ならむ事を思(おも)ふの余(あま)り間々(まゝ)其(その)人(ひと)の勤王心(きんわうしん)を疑(うたが)はるゝ場合(ばあひ)がないとも云へぬのである例(たと)
へば定信(さだのぶ)が尊号事件(そんがうじけん)に於けるが如き如何(いか)にも時(とき)の朝庭(てうてい)の思召(おぼしめし)に逆(さから)つた形(かたち)がある然(しか)るに此(この)定信(さだのぶ)と云ふ人
が又(ま)た実(じつ)に勤王心(きんわうしん)に富(と)むで居(を)つたので其(その)志(こゝろざし)が行(おこなひ)の上(うへ)に現(あら)はれて居(を)つたことは数々(しば〴〵)証拠立(せうこだ)てられるの
であるが信明(のぶあき)も亦(ま)た実(じつ)に勤王(きんわう)の志(こゝろざし)が深(ふか)かつた人で勿論(もちろん)当時(たうじ)の事でもあり身(み)は徳川氏(とくがはし)の執政(しゆつせい)であつた
処から天下太平(てんかたいへい)を祈(いの)ると同時(どうじ)に徳川氏(とくがはし)の武運長久(ぶうんてうきう)をも希(こひねが)つた事であると信(しん)ずるが一 方(ぱう)に於ては又(ま)た
実(じつ)に朝庭(てうてい)を尊(たつと)ぶの志(こゝろざし)が厚(あつ)かつた事を証明(せうめい)さるゝ事実(じじつ)があるのであるそれに対(たい)する二三は既(すで)に前(まへ)にも
申述(まをしの)べて置(お)いた考(かんがへ)であるが此頃(このころ)信明(のぶあき)の詠詩(えいし)の中(なか)にも間々(まゝ)其(その)志想(しさう)を見(み)るに足(た)るべきものを発見(はつけん)するので
ある之(これ)に就(つい)ては一々 引例(ゐんれい)して申述(まをしの)べたいのであるが今日(こんにち)は少(すこ)しく時間(じかん)が容(ゆる)さぬ事情(じぜう)があるから今(いま)は其(その)
概要(がいえう)に留(とゞ)むるが兎(と)に角(かく)此(この)前提(ぜんてい)丈(だけ)は此処(こゝ)に申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである
⦿太田錦城と信明
信明(のぶあき)の性行(せいかう)並(ならび)に事蹟(じせき)に関(かん)しては申述(まをしの)べたい事(こと)もマダ数多(かずおほ)いことであるが先(ま)づザツト右(みぎ)の通(とほり)として此処(こゝ)に
は少(すこ)しく太田錦城(おほたきんじやう)の事に就(つい)て御話(おはなし)したいと思(おも)ふ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百六十三号附録 (大正二年一月十四日発行)
【本文】
彼(か)の有名(ゆうめい)なる儒者(じゆしや)太田錦城(おほたきんじやう)と云(い)ふ人(ひと)は之(これ)亦(ま)た最初(さいしよ)信明(のぶあき)が草莽(そうもう)の中(なか)より抜擢(ばつてき)した人(ひと)であるが信明(のぶあき)は此(この)
太田錦城 人(ひと)を採用(さいよう)して吉田藩(よしだはん)の儒員(じゆゐん)となしたのである元来(ぐわんらい)錦城(きんぜう)は加賀国(かゞのくに)大聖寺(だいせうじ)の生(うまれ)で父(ちゝ)を玄寛(げんかん)と云(い)つたが博覧(はくらん)
強気(けうき)の人(ひと)で陰陽本草(ゐんようほんそう)の学(がく)に精(くは)しく世々(よゝ)大聖寺藩主(だいせいじはんしゆ)前田侯(まへだこう)に事(つか)へたのである此(この)人(ひと)は樫田氏(かしだし)を娶(めと)つて八 人(にん)
の子(こ)を生(う)むだが錦城(きんぜう)は即(すなは)ち其(その)季子(きし)であつたのである而(しか)して錦城(きんぜう)も亦(ま)た幼(よう)にして頴悟(えいご)で五 歳(さい)の時(とき)既(すで)に士(し)
の字(じ)を土(つち)の字(じ)との区別(くべつ)を明(あきらか)にし十一 歳(さい)にして詩(し)を作(つく)り十三 歳(さい)にして経史(けいし)を講説(こうせつ)し郷里(けうり)で神童(しんどう)と呼(よ)び囃(はや)
されたのである御承知(ごせうち)の如(ごと)く神童(しんどう)などと云(い)はるゝものに最後(さいご)の大成功者(だいせいこうしや)はないとせられて居(を)るのであ
るが此(こ)の錦城(きんぜう)に限(かぎ)つては大(おゝい)に世(よ)の諺(ことわざ)に反(はん)して居(を)つたので長(ちやう)ずるに及(およ)むで所謂(いはゆる)四方(しはう)の志(こゝろざし)があり遂(つひ)に父(ちゝ)の
許(ゆるし)を得(え)て京都(けうと)に上(のぼ)り後(のち)江戸(えど)にも出(い)てゞ当時(たうじ)の名儒(めいじゆ)たる皆川淇園(みなかはきえん)、山本北山(やまもとほくざん)などに就(つい)て学(まな)むだのである
がドウモ己(おの)れの意(い)に満(み)たないので慨然(がいぜん)として学(がく)を古人(こじん)に求(もとめ)むとするの志(こゝろざし)を起(おこ)し爾来(じらい)万巻(ばんかん)の書(しよ)を読破(どくは)
しに大(おゝい)に暁(さと)る処(ところ)があつたのである然(しか)るにかゝる性質(せいしつ)の人(ひと)であつたから気(き)を負(お)ひ奇(き)を懐(いだ)くと云(い)ふ傾(かたむき)があ
つて妾(みだ)りに人(ひと)に下(くだ)るなどゝ云(い)ふ事(こと)はせぬ無論(むろん)聞達(ぶんたつ)を諸侯(しよこう)の間(あひだ)に求(もと)むるなどは思(おも)ひもよらぬ事(こと)であるか
ら頗(すこぶ)る逆境(ぎやくけう)に立(た)つて最(もつと)も貧苦(ひんく)と戦(たゝか)つたものである一 時(じ)は按摩(あんま)をして其日(そのひ)の糊口(ここう)を凌(しの)いだと云(い)ふ話(はなし)もあ
るのである然(しか)るに当時(たうじ)幕府(ばくふ)の医官(いくわん)に多紀桂山(たきけいざん)と云(い)ふ人(ひと)があつて博学洽聞(はくがくこうぶん)であつたが深(ふか)く士(し)を愛(あい)した人(ひと)
で殊(こと)に錦城(きんぜう)の才学(さいがく)に服(ふく)して之(これ)を其(その)子弟(してい)を教授(けうじゆ)せしめたのである蓋(けだ)し当時(たうじ)は朱子学(しゆしがく)を以(もつ)て正学(せいがく)とな
した時代(じだい)で其他(そのた)の学派(がくは)は如何(いか)にも異端(いたん)ででもある様(よう)に見(み)られたのであるが学者間(がくしやかん)に議論(ぎろん)が喧(やかま)しかつた
にも拘(かゝは)らず錦城(きんぜう)は飽迄(あくまで)自己(じこ)の信(しん)ずる処(ところ)を主張(しゆてう)して所謂(いはゆる)折衷的(せつちうてき)一 家(か)の識見(しきけん)をなしたのであるかゝる間(あひだ)に
信明(のぶあき)の知(し)る処(ところ)となつたのであるが之(これ)は一 説(せつ)には桂山(けいざん)が信明(のぶあき)に薦(すゝ)めたのだと云(い)ふ事(こと)であるソコで信明(のぶあき)は
錦城と信明 特(とく)に賓客(ひんかく)の礼(れい)を以(もつ)て錦城(きんぜう)を吉田藩(よしだはん)に聘(へい)し世子(せし)信順(のぶなり)に経書(けいしよ)を講説(こうせつ)せしむる事(こと)となつたのであるモツトモ
【欄外】
豊橋市史談 (太田錦城と信明) 三百五十七
【欄外】
豊橋市史談 (太田錦城と信明) 三百五十八
【本文】
此(この)錦城(きんぜう)任用(にんよう)の年月(ねんげつ)に就(つい)ては今(いま)判然(はんぜん)し兼(か)ぬるのであるが事実(じじつ)から推定(すいてい)すると之(これ)は文化(ぶんくわ)三四 年(ねん)の頃(ころ)で世子(せし)
は十五六 歳(さい)錦城(きんぜう)は四十二三 歳(さい)の頃(ころ)であつたものと信(しん)ぜられるのである之(これ)より錦城(きんぜう)が吉田(よしだ)藩学(はんがく)振興(しんこう)の為(ため)
時 習 館 に尽(つく)した事(こと)は少(すくな)くないが其(その)頃(ころ)我(わが)吉田(よしだ)には時習館(じしうくわん)と云(い)ふ藩校(はんかう)があつたのである之(これ)は信明(しんめい)の祖父(そふ)信復(のぶなほ)が吉(よし)
田(だ)に移封(いほう)になつた頃(ころ)起(おこ)したもので創立(そうりつ)当時(たうじ)は恐(おそ)らく三 浦竹渓(うらちくけい)が大(おほい)に関係(かんけい)した事(こと)であつたろうと思(おも)ふの
であるが信明(のぶあき)の時(とき)に至(いた)つては益々(ます〳〵)其(その)規模(きぼ)を拡張(くわくてう)し規律(きりつ)を改(あらた)めたのである而(しか)して西岡善助(にしをかぜんすけ)と云(い)ふ儒者(じゆしや)が
専(もつぱ)ら其(その)監督(かんとく)をして居(を)つたのであるが錦城(きんぜう)も亦(ま)た之(これ)が為(ため)には少(すくな)からず尽(つく)す処(ところ)があつたのである丁度(てうど)文政(ぶんせい)
二 年(ねん)信明(のぶあき)卒去(そつきよ)の年(とし)であるが世子(せし)信順(のぶより)は家督相続(かとくそうぞく)早々(そう〳〵)就国(じゆこく)の事(こと)があつて錦城(きんぜう)は之(これ)に随行(づいこう)して此(この)吉田(よしだ)に来(きた)
つた而(しか)して其(その)翌年(よくねん)迄(まで)此(この)地(ち)に留(とゞま)つたのであるが其(その)間(あひだ)は時習館(じじしうくわん)教授(けうじゆ)の任(にん)に当(あた)つたのである即(すなは)ち今日(こんにち)豊橋(とよはし)地(ち)
方(はう)に錦城(きんぜう)の書(か)いたものが残(のこ)つて居(を)るのも多(おゝ)くは此(この)時(とき)のものである
其後(そのご)錦城(きんぜう)は暇(いとま)を請(こ)ふて京都(けうと)に遊(あそ)むだが其(その)頃(ころ)加賀(かが)の金龍公(きんりうこう)から頻(しき)りに錦城(きんぜう)を聘(へい)したいと云(い)ふので度々(たび〳〵)の
交渉(こうせう)であつた初(はじ)めは信順(のぶより)も容易(ようい)に承知(せうち)しなかつたのであるが加賀公(かがこう)の切(せつ)なる請(こい)に遂(つひ)に固拒(こきよ)し難(がた)くなつ
て之(これ)を錦城(きんぜう)に諮(はか)つた処(ところ)己(おの)れの生国(せいこく)の事(こと)でもあるからと云(い)ふので之(これ)に応(おう)ずる事(こと)となつて禄(ろく)三百 石(こく)で加(か)
賀(が)に移(う)つたのである而(しか)して文政(ぶんせい)八 年(ねん)四月廿二日 病(やまひ)を以(もつ)て江戸(えど)に没(ぼつ)したのであるが享年(けうねん)六十一 墓(はか)は谷中(やなか)
の一 乗院(ぜうゐん)にある生前(せいぜん)に水戸(みと)の藤田幽谷(ふぢたゆうこく)と最(もつと)も親善(しんぜん)であつたと云(い)ふので幽谷(ゆうこく)が其(その)墓表(ぼへう)を書(か)いて居(を)るが此(この)
幽谷(ゆうこく)と云(い)ふ人(ひと)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く東湖(とうこ)の父(ちゝ)である
サテ錦城(きんぜう)は通称(つうせう)を才佐(さいさ)と云(い)つたが容貌(ようばう)清癯(せいく)で弁説(べんぜつ)は流(なが)るゝが如(ごと)く議論爽快(ぎろんそうくわい)で聴(き)く者(もの)をして倦(あ)くことを知(し)
らざらしめたとの事(こと)である而(しか)も洒々(しや〳〵)落々(らく〳〵)たるもので少(すこ)しも末節(まつせつ)に頓着(とんちやく)しなかつたから人(ひと)の非難(ひなん)を免(まぬ)が
れなかつたとの事(こと)である併(しか)し学問(がくもん)の該博(がいはく)なりしことは一 世(せ)を驚動(けうどう)せしめたもので著書(ちよしよ)も彼(か)の梧窓漫筆(ごそうまんひつ)を
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
初(はじ)め多数(たすう)に遺(のこ)つて居(を)ることは私(わたし)は今(いま)茲(こゝ)に詳(くわ)しく申上(まうしあげ)ずとも諸君(しよくん)が能(よ)く御承知(ごせうち)の如(ごと)くである
太田晴軒 サテ錦城(きんぜう)が此(この)吉田藩(よしだはん)を去(さ)るの時(とき)特(とく)に其(その)三 子(し)魯(ろ)三 郎(らう)と云(い)ふのを残(のこ)して吉田侯(よしだこう)へ仕(つか)へしめたが之(これ)が即(すなは)ち晴(せい)
軒(けん)と号(ごう)した人(ひと)で名(な)を敦(あつ)と云(い)つて父(ちゝ)に次(つい)での学者(がくしや)であつた其(その)十九 歳(さい)の時(とき)或夜(あるよ)亀田鵬齋(かめだほうさい)の宴(えん)に与(あづか)つたが偶(たま)
偶(〳〵)黒雲(こくうん)天(てん)を蔽(おゝ)つて明月(めいげつ)未(いま)だ出(い)でずと云(い)ふ光景(こうけい)であつたから鵬齋(ほうさい)は此(この)有様(ありさま)を題(だい)として各(おの〳〵)に詩(し)を賦せしめ
たが晴軒(せいけん)は立(たちどこ)ろに十二 首(しゆ)を賦(ぶ)して同席(どうせき)の諸名士(しよめいし)を驚(おどろ)かしめたと云(い)ふ事(こと)である此(この)人(ひと)は明治(めいぢ)六 年(ねん)まで存命(ぞんめい)
で其(その)十 月(ぐわつ)七十九 歳(さい)で病没(びやうぼつ)したのであるが今(いま)の愛知県(あいちけん)第(だい)二 中学校(ちうがくかう)教諭(けうゆ)太田才次郎(おゝたさいじらう)氏(し)は其(その)嫡孫(ちやくそん)で錦城(きんぜう)から
云(い)ふと曾孫(そうそん)に当(あた)る人(ひと)である尚(なほ)参考(さんこう)になる事(こと)が多(おゝ)いと思(おも)ふから重複(ちようふく)を厭(いと)はず藤田幽谷(ふぢたゆうこく)の書(か)いた錦城(きんぜう)の
墓表(ぼへう)全文(ぜんぶん)を御紹介(ごせうかい)したいと思(おも)ふ
錦城先生太田才佐墓表
文政八年、歳在乙酉、四月二十三日、錦城先生以疾終于江戸、享年六十有一、葬北郊谷中一乗院
城内、送葬者千余人、其友藤田一正在水戸、聞而哭之、謂人曰、斯人也、天下奇材、一代名儒、天
下之宝、固富為天下惜之、斯人而亡、其亦可悲也夫、先生太田氏、諱元貞、字公幹、錦城其別号、
而才佐其平時所自称也、七世祖柴山監物事豊太閤、食禄万石、監物之孫曰宥菴、隠於医、居京師、
有二子、皆以降仕加賀、加賀北藩大国、菅公之胤世為之君、宗国治金沢、而支封邑于大聖寺、宥菴
二子各自別族、長為能勢氏、事金沢、次為太田氏、事大聖寺城主、子孫因家焉、父曰玄覚、読書強
記、精於陰陽本草之説、好施与、行隠徳、娶樫田氏女、生八子、先生其季也、生於大聖寺之福田
里、生而頴異、五歳始識字、暁士土二義、十一作詩、十三講説経史、郷里号為神童、先生蚤従其兄
伯恒、□□家学、頗有所成立、然不耳為方枝之士、以匏緊北土、遂有四方之志、西詣京都、東遊江
【欄外】
豊橋市史談 (太田錦城と信明) 三百五十九
【欄外】
豊橋市史談 (太田錦城と信明) 三百六十
【本文】
都、覔当世宿学老儒、以厳事之、所謂淇園先生、北山先生者、其以文名、称雄東西、而請益質疑、
皆不満其竟、於是、慨然欲求之古人、□精刻苦、学大進、先生索懐奇負気、不妄届於人、大医桂山
多記氏博学洽聞、名震関東、而愛容下士、一時知名之士多従之遊、而特服先生才学、俾其子弟受業、
毎語人曰、才佐眞才子、今世縫掖第一、由是知名、我水戸文公亦聞其奇才、将欲辟之、適有沮之者
而不果、先生下帳教授、不求聞達於諸侯、窮居陋巷、若将終身焉、故閣老吉田源公重幣招之、為其
家嗣今吉田侯、講説経書、優待甚厚、巳卯、吉田侯就封、先生従焉、庚辰乞暇、再遊京師、搢紳学
士聴其論説、莫不驚服、是時、加賀金龍公惜先生北藩之産而為意外賓師、屡遣使于吉田邸、請先生、
吉田侯不可、迺悟其食俸、礼遇愈渥、然加賀侯之請益切、不能固拒、以命先生、先生亦以其父母之
邦、起而応其聘、加賀侯授禄二百石、班上士、不煩以職事、居無幾、金龍公即世、先生亦尋歿、人
皆曰、擇水之智、首丘之仁、先生兼之矣、配武田氏、生六男一女、曰穂厚、曰雄飛、曰敦、曰如晦、
曰玄齢、曰天瑞、徳厚称英太郎、嗣仕加賀食禄二百石、以善撃劔称、其余皆攻文学、雄飛先歿、敦
食粟於吉田、女嫁于古筆氏、初先生来江都、年甫弱冠、落魄無資、爨桂炊玉、且遭歉歳、拮据太窘、
漂游於二毛之野、険阻艱難莫不備甞、而其執志愈堅、不隕穫於貧賤、再至江都、竟成大儒、先生博
学、百氏之書無所不読、而尤長於経術、詩書易春秋、沈潜反覆、参互錯綜、攷證之妙、多発先賢所
未発、而於四子之書所以相終始者、最致思焉、上自先秦古文、下至後世雑書、苟有□経、莫不旁引
曲暢、審其同異、弁其是非、其漢唐宋明、及近時清人與我国朝諸価之説、会萃演繹、必帰諸至当而
止、至如老釈之書、占相之説、亦粗究其帰趣、凡宇宙三千治乱成敗、歴歴如指諸掌、而其於本朝、特
熟於応仁天正以来伝記英雄割拠之迹、其土彊広狭大小、兵賦多少強弱、及将士姓名譜牒、皆能娓々
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百七十号附録 (大正二年一月二十一日発行)
【本文】
言之、其於当世郡国利病、亦藕究其故、而独好談邊塞事、然時政得失、不敢妄議、独曰、其治乱之
原、在人主奢與倹而巳、其論議武練兵、則曰、威敵利器、固在口鋭、而養士卒之勇、莫如刀槍、城
府之間、或専恃長兵、而不知用短者、其俗必弱矣、識者以為知言、若其詩文才多之余、初務舖叙、
喜彫琢、晩更簡易平淡、而其奇気可愛者、始終如一、要不踏襲前人、卓然自成一家伝、先生既歿、
其門人謀所以表其墓者、僉謂、当世無能文之士、而其與先生相識最旧者莫如余、嗚呼先生、余不相
見久矣、其容貌清爟、胸襟潚洒者、猶能髣髴其一子、生而雄弁懸河、飛談捲霧者、今不復得聴矣、
経伝之理、其誰與釋其疑難也、古今之事、其誰與上下其議論也、嗚呼、先生之為人、疎暢洞達、不
事矯飾、名之所在、謗亦随焉、古人不云乎、能言而不能行者、国之宝也、能行而不能言者、国之用
也、世之君子、汲々富貴之徒、才身家之諛、而不知其能言之為宝者、独何哉、余今表其口以告天下
後世之人、常陸藤田一正述、
⦿信明と其城主時代に於ける吉田の情況
前章(ぜんしよう)に段々(だん〳〵)と申述(まうしの)べた如(ごと)くで信明(のぶあき)に関(かん)する事蹟(じせき)に就(つい)ては約(ほ)ぼ御承知(ごせうち)に相成(あひな)つた事と思(おも)ふのであるが余(あま)
り話(はなし)の区域(くいき)が広(ひろ)くなつた結果(けつくわ)更(さら)に前数章(ぜんすうしやう)を繰(く)り返(かへ)して茲(こゝ)に其(その)一 生(せう)を約言(やくげん)して置(お)かぬと後(のち)に申述(まうしの)ぶる事(こと)
柄(がら)との関係上(かんけいぜう)不便(ふべん)であると考(かんが)へるのみならず多少(たせう)補正(ほせい)もしたい処(ところ)があるので先(ま)づ本章(ほんせう)の初(はじめ)に当(あた)つて尚(なほ)
少(すこ)しく信明(のぶあき)に就(つい)て諸君(しよくん)の御清聴(ごせいてう)を煩(わづら)はしたいと思(おも)ふのである
前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まうしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)と云(い)ふ人(ひと)は宝暦(ほうれき)十三年二月十日 江戸(えど)谷中(やなか)の邸(やしき)で生(うま)れ明和(めいわ)七年六月廿二日
父(ちゝ)信礼(のぶゐや)の卒去(そつきよ)により年(とし)僅(わづか)に八 歳(さい)で其(その)年(とし)の七月十二日 家督(かとく)を継(つ)ぎ父(ちゝ)の遺領(いれう)を賜(たまは)つたのであるが天明(てんめい)八年
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百六十一
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百六十二
【本文】
二月二日 年(とし)二十六で初(はじ)めて側用人(そばようにん)に任(にん)ぜられ其年(そのとし)の四月四日一 躍(やく)して老中(ろうちう)の列(れつ)に加(くわ)はつたのである元(がん)
来(らい)此(この)抜擢(ばつてき)は実(じつ)に異例(いれい)で到底(たうてい)他(た)に比類(ひるい)のない事であるが之(これ)は全(まつた)く彼(か)の定信(さだのぶ)の推挙(すいきよ)に依(よ)つた事で定信(さだのぶ)は其(その)
後(ご)嘗(かつ)て人(ひと)に向(むかつ)て我(われ)重任(ぢうにん)に居(を)るも一 事(じ)の誇(ほこ)るべきものなし只(たゞ)一 賢(けん)を得(え)て之(これ)を進(すゝ)めたり庶(こいねがは)くは罪戻(ざいれい)を免(まぬが)る
べしと云(い)つたとの事(こと)であるが此(この)一 賢(けん)を得(え)たと云(い)つたのは実(じつ)に信明(のぶあき)を指(さ)したものである爾来(じらい)信明(のぶあき)は全力(ぜんりよく)
を挙(あ)げて定信(さだのぶ)の政治(せいぢ)を輔(たす)けたものであるがそれから享和(けうわ)三 年(ねん)十二月廿二日までは大約(たいやく)十六 年間(ねんかん)であつ
て茲(こゝ)に至(いた)つて一たび其(その)職(しよく)を退(しりぞ)いたがそれより文化(ぶんくわ)三 年(ねん)五月まで約(やく)二ケ年半(ねんはん)許(ばかり)の間(あひ)は閑散(かんさん)の位置(いち)にあつ
たのであるトコロが其(その)月(つき)の廿五日 再(ふたゝ)び老中(らうちう)に任(にん)ぜられて其(その)上座(ぜうざ)に列(れつ)し更(さら)に天下(てんか)に重(おも)きをなした事(こと)が十
一 年余(ねんよ)で文化(ぶんくわ)十四 年(ねん)の八月十六日 在職(ざいしよく)のまゝ病(やまい)で卒去(そつきよ)せられたのである享年(けうねん)は五十五 歳(さい)であるが前章(ぜんせう)
にドウ云(い)ふ間違(まちがひ)か活字(くわつじ)が五十八 歳(さい)となつて居(を)るから幸(さいはひ)に此処(こゝ)で之(これ)を訂正(ていせい)して置(お)きたいと思(おも)ふのである
此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で信明(のぶあき)が此(この)吉田(よしだ)の城主(ぜうしゆ)たりし事(こと)は大約(たいやく)四十七 年許(ねんばかり)又(ま)た其(その)間(あひだ)に於(おい)て天下(てんか)の執政(しつせい)たりし事(こと)も前(ぜん)
信明の体質 後(ご)通(つう)じて二十八 年(ねん)に近(ちか)い次第(しだい)であるから其(その)事蹟(じせき)の多(おほ)いのも当然(たうぜん)であるが元来(がんらい)信明(のぶあき)は其(その)幼児(ようじ)甚(はなは)だ虚弱(きよじやく)な
質(たち)で十三 歳(さい)と相成(あひな)つた時(とき)例(れい)によつて時(とき)の将軍(せうぐん)に拝謁(はいえつ)すべきものを幼少(ようせう)より積気(しやくき)があつて且(か)つ便旋頻数(べんせんひんすう)到(たう)
底(てい)長座(てうざ)に堪(た)へ難(がた)いと云(い)ふ事情(じぜう)で之(これ)を延期(えんき)しヨウ〳〵十五 歳(さい)の三月 初拝謁(しよはいえつ)を行(おこな)つたと云(い)ふ訳(わけ)であつたの
で終生(しうせい)余(あま)り健康(けんこう)の質(たち)ではなかつたように信(しん)ぜられる併(しか)し前(まへ)にも屡々(しば〳〵)申述(まうしの)べた如(ごと)く極(きわ)めて精力絶倫(せいりよくぜつりん)の人(ひと)
で此(この)長(なが)い間(あひだ)には屡々(しば〳〵)暇(ひま)を得(え)て国(くに)に就(つ)いたのであるが在国中(ざいこくちう)は特(とく)に地方(ちはう)の政治向(せいぢむき)に留意(りうい)し一たび老中(らうちう)辞(じ)
職(しよく)の後(のち)文化(ぶんくわ)二 年(ねん)六月から翌(よく)三 年(ねん)の五月まで殆(ほとん)ど満(まん)一ケ年間(ねんかん)在城(ざいぜう)した時(とき)の如(ごと)きは大(おほい)に藩中(はんちう)の文武(ぶんぶ)を振興(しんこう)
したものであるが其(その)逸話(いつわ)は今(いま)も老人(らうじん)間(かん)に伝(つた)へられて居(を)るのである
信明の葬儀 又(ま)た信明(のぶあき)卒去(そつきよ)の時(とき)は病気中(びやうきちう)数々(しば〳〵)将軍(せうぐん)から見舞(みまい)があつたが其(その)喪(も)は八月廿八日に至(いた)つて発(はつ)せられ翌日(よくじつ)より
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
九月一日まで鳴物(なりもの)の停止(ていし)を命(めい)ぜられたのである葬儀(そうぎ)は九月二日で翌日(よくじつ)野火留(のびどめ)の平林寺(へいりんじ)先塋(せんえい)の次(つぎ)に葬(ほうむ)ら
れたが諡号(いつがふ)は瑞龍院殿乾翁元徳大居士(ずいりうゐんかんおうげんとくたいこじ)と云(い)ふのである尚(な)ほ此処(こゝ)に一寸(ちよつと)付(つ)け加(くわ)へて置(お)くが信明(のぶあき)は生前(せいぜん)其(その)
別号(べつがう)を嵩岳(すがく)と云(い)つたが青年時代(せいねんじだい)には犀峯(さいほう)と称(せう)したのである
以上(いぜう)の如(ごと)き次第(しだい)であるから信明(のぶあき)が城主(ぜうしゆ)たりし長(なが)き間(あひだ)には此(この)吉田(よしだ)にも色々(いろ〳〵)な事柄(ことがら)があつたであろうと思(おも)
ふシカシ信明(のぶあき)自身(じしん)の事蹟(じせき)に関(かん)する資料(しれう)が実(じつ)に豊富(ほうふ)なる割合(わりあひ)には其他(そのた)の材料(ざいれう)として残(のこ)つて居(を)るものゝ甚(はなは)
だ少(すくな)いのは遺憾(いかん)とする処(ところ)である其(その)中(うち)大要(たいえう)分(わか)つて居(を)るものに就(つい)ては之(これ)から段々(だん〳〵)と申述(まうしの)ぶる考(かんがへ)である
《割書:時習館の創|立》 先(ま)づ此処(こゝ)に御話(おはな)したいと思(おも)ふのは時習館(じしうくわん)の事(こと)であるが此(この)時習館(じしうくわん)と云(い)ふのは諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く吉田藩(よしだはん)
の藩校(はんかう)であつて維新(いしん)当時(たうじ)迄(まで)継続(けいぞく)して此(この)豊橋(とよはし)に存立(ぞんりつ)して居(を)つたものであるが此(この)藩校(はんかう)を創立(そうりつ)したのは前(まへ)に
も一寸(ちよつと)申述(まうしの)べて置(お)いた如(ごと)く信明(のぶあき)の祖父(そふ)の信復(のぶなほ)である此信復(このゝぶなほ)と云(い)ふ人(ひと)は既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く三浦竹渓(みうらちくけい)
を師(し)としたので学(がく)は古今(こゝん)に通(つう)じ最(もつと)も賢(けん)を愛(あい)し才(さい)を挙(あ)ぐる事(こと)に勉強(つと)めたのであるが此(この)人(ひと)の文集(ぶんしう)詩集(ししう)は今(いま)も
大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るので此頃(このごろ)も拝見(はいけん)したが其(その)文集中(ぶんしうちう)には頗(すこぶ)る伝(つた)ふべきものがあると思(おも)ふのである之(これ)
は又(ま)た折(をり)を以(もつ)て申述(まうしの)ぶるであろうが兎(と)に角(かく)かゝる賢明(けんめい)な人(ひと)であつたから夙(つと)に興学(こうがく)の志(こゝろざし)があつたので浜(はま)
松(まつ)から此(この)吉田(よし)に移封(いほう)せらるゝや程(ほど)なく藩校(はんかう)を起(おこ)して之(これ)に時習館(じしうくわん)と命名(めい〳〵)したのである即(すなは)ちそれは宝暦(ほうれき)二
年(ねん)の事(こと)であるが此(この)時(とき)信復(のぶなほ)は老臣(らうしん)の北原忠兵衛(きたはらちうべえ)に命(めい)じて館名(かんめい)を扁額(へんがく)に書(しよ)せしめたのである忠兵衛(ちうべえ)は名(な)を
忠光(たゞみつ)と云(い)つて当時(たうじ)藩中(はんちう)の能書家(のうしよか)であつたのである而(しか)も其(その)額(がく)は維新後(いしんご)まで存在(ぞんざい)して後(の)ち豊橋町(とよはしてう)が中学校(ちうがくかう)
を設立(せつりつ)し之(これ)に時習館(じしうくわん)の名(な)を冠(かん)せしめた時(とき)矢張(やはり)それを持(も)つて行(い)つて玄関(げんくわん)に掲(かゝ)げてあつたように記憶(きおく)する
のであるが今(いま)果(はた)して県立(けんりつ)の第(だい)四 中学(ちうがく)に引継(ひきつ)がれてあるかドウか幸(さいはひ)にありとすれば私(わたくし)は記念(きねん)として之(これ)を
豊橋(とよはし)の新設(しんせつ)図書館(としよくわん)にでも保存(ほぞん)したいものであると思(おも)ふ尚(なほ)其(その)当時(たうじ)に於(お)ける館(くわん)の規定(きてい)と云(い)ふものが残(のこ)つて
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百六十三
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百六十四
【本文】
居(を)るから今(いま)試(こゝろみ)に左(さ)に掲(かゝ)げて御参考(ごさんかう)に資(し)せたいと思(おも)ふ
定
一先年被仰出候通文武之芸術弥無懈怠可致修行事
一今度諸稽古道場被仰付候間朝六ツ時ヨリ暮六ツ時迄面々相集望次第稽古可仕事
一文武ノ稽古ノ外一切寄合申間敷事
一火元入念仕廻候節面々火元心附可申事
一喧嘩口論相慎ミ相互批判等並ニ礼儀正敷聊モ無礼無之様相慎事
一諸稽古打込無隔意師匠々々罷出可致指南事
一世上雑談無用ノ事
一酒可為無用事附詩会有之時用候共不可過三爵事
一師匠共依估贔負芸ノ善悪沙汰不可有事
一相集不宜遊堅仕間敷事
一建具等並ニ竹木等ニ至ル迄紛失無様可心付事
右條々堅可相守者也
宝暦二年申七月
《割書:信明時習館|を拡張す》 かくの如(ごと)き訳(わけ)で時習館(じしうくわん)は創立(そうりつ)されたのであるが併(しか)しまだ不完全(ふくわんぜん)の点(てん)も甚(はなは)だ少(すくな)からざりし事(こと)であつた事(こと)
と思(おも)ふ然(しか)るに信明(のぶあき)の時代(じだい)となつて前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く一たび老中(らうちう)の職(しよく)を退(しりぞ)き文化(ぶんくわ)二 年(ねん)から国(くに)に就(つ)いて
吉田(よしだ)に来(き)て居(を)られる間(あひだ)に此(この)藩校(はんかう)を興隆(こうりう)することを勉(つと)められたので規模(きぼ)も余程(よほど)拡張(かくてう)された様子(やうす)であるが此(この)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百七十七号附録 (大正二年一月二十九日発行)
【本文】
西岡善助 時(とき)彼(か)の西岡善助(にしをかぜんすけ)は擢(ぬきん)でられて藩(はん)の儒官(じゆくわん)となり其(その)教授職(けうじゆしよく)に任(にん)ぜられたのである善助(ぜんすけ)は名(な)を淵(えん)号(ごう)を天津(てんしん)と
称(せう)した人(ひと)で論語徴訓約覧(ろんごてうくんやくらん)と云(い)ふ著書(ちよしよ)がある而(しか)して其(その)時(とき)新(あらた)に定(さだ)められたる時習館(じしふくわん)の規條(きてう)と云(い)ふものがあ
るから之(これ)も左(さ)に御紹介(ごせうかい)することとする
時 習 館 規 條
時習館之儀今度猶又厚思召ヲ以テ追々結構被為仰出候依之館中へ出席之面々少長トナク何レモ一同
出精可致候抑聖賢之学校被興候事治国之基人才ヲ育フ地ニテ文武ノ道皆是ヨリ出候事ニテ士太夫タ
ル者ノ子ハ別シテ末々御政事ニ与リ申事ニ候得ハ猶更幼年ヨリ館中ヘ罷出学問ノ儀ハ別テ専出精可
致事ハ其道忠孝ヲ本トシ君臣父子兄弟長幼等ノ儀ヲ明ラカニシ国民ヲ集メ命令ヲ施シ入ルヲ計リ出
スヲ為シ国ノ水乾ノ手当人ヲ愛シ民ヲ恵ムノ法悉ク此館ニテ講習致iシ其外燕享養老郷射等都テ礼法
ニ拘リ申候儀相学申候内ヨリ自然ニ発明致シ悪ヲ去リ善ニ相染父母モ安堵シ君ニモ御成不浅儀ニテ
忠孝ノ二ツ声ノ響キニ応シ水ノ形ヲ鑑ミル如ク其微明白ニ候当時幼輩ノ者ハ先館中ニテ素読専ラニ
致シ意味ハ成長ニ随ヒ講釈追々聞染候得ハ自然ニ相分リ申物ニ候其余ハ面々志次第博学ニ可至候諸
事追々被為改候思召ニテ今般掛リ之者被仰付素読世話人早朝ヨリ相詰候相互ニ自分修行ハ不及申館
中ヘ出候テ行儀正敷致シ教候者依怙贔屓ナク精々世話可致候講釈出席名前日々書留是又毎月朔日可
差出候格別出精ニテ昇達之者是迄之通毎暮ニ出シ可申候出席ノ者ヘ左ノ箇條之趣掛リノ者月並一同
為読聞幼年ノ者ヘハ末ニ出候趣是亦月並為読聞可申候
一素読致候者毎期六ツ半時ヨリ罷出到着順ヲ以テ名札掛ケ混雑不致教候者ヘ一礼致シ静ニ読ミ可
申候読畢リ又一礼シテ退クヘシ且着座致候節無貴賤ト出候順ニ教ヘ可申候惣テ進退静ニ致シ所
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百六十五
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百六十六
【本文】
習ノ書ヲ暗踊シ忘却セサル事専用ニ候
一素読本成タケ無点宜敷候自分ニテ仮名等附申間敷候
一素読篇数ノ儀ハ教候者許シ無之内ハ幾篇モ読ムヘシ多ク習フ事ヲ求メス只々所習ヲ不忘様可心
掛候
一素読ノ書ハ孝経、論語、詩経、書経、礼記、易経、春秋ニ限リ孟子学庸ノ類モ読候テモ宜敷候
大概右書数相読ミ候得ハ其余ハ自分ニテ読申候間常ニ復読無懈怠可致候
但十五六歳以上ニテ素読相初候者ハ右ノ内何ニテモ二三部モ暗踊致程心掛候得ハ右力ニテ外ノ
書読メ申候年齢ヲ不耻相初可申候且年重サノ者共一同罷出講釈可承候其益多カルヘク候
一講釈ノ者孝経、論語、詩経、書経、礼記、易経、右六部ニ相限リ可申候其余ハ時ノ差略可有之
候
一会読ノ書周礼、儀礼、左伝、国語其外史記、漢書等追々昇達之者ヘ会読可為致候
一講釈、会読、素読ノ節ハ勿論惣テ館中ニ於テ無益ノ雑談無用之事
一志厚面々定日ノ外モ会読、論講、詩文会等申合セ教授エ相談可致候
一館中ニ於テ若シ失礼ノ節有之節ハヾ早速掛リノ者申ナタメ口論大声等為致間敷事
一幼年ノ輩素読退屈出追々懈怠致シ却テ教方等悪様ニ云ヒナシ或ハ己精学ニ随ヒ自己ノ見ヲ立師
ノ恩ヲ忘レ被是批判致間敷事
一御役人以上ノ内若キ者ハ猶更無懈怠出席仕諸事心付可申候左候得ハ館中弥厳重ニ相成以下ノ者
励ミニモ相成候事ニ候幼年ノ輩ヘ被仰出
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
一幼年ノ者館中ヘ罷出第一行儀正敷仕リ師ノ教ヲ相守リ毎朝罷出素読出精仕所習ノ書不忘様復読
専ラニ可致候館中ノ義ハ文武講習仕候重キ御場所之義ニ候得ハ聊心得違等不仕幼年ヨリ悪キ友
ニ交ラス善事ニ進ミ稽古事等出精可仕候左候得ハ親共安心致シ何寄ノ孝心ニ相成且ハ学問出精
致シ候得ハ成長ニ従ヒ義理ニ明ラカニ相成何様ノ勤モ相成取計向自然ニ宜敷君ニモ御安堵被為
遊候間猶又前文ケ條之趣追々相弁ヘ呉々心得違致ス間敷候
右之趣可相守候
文化三丙寅年五月
右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)で信明(のぶあき)は此(この)在城中(ざいじやうちう)には特(とく)に大(おほい)に文武(ぶんぶ)を奨励(せうれい)し藩学(はんがく)の振興(しんこう)を計(はか)つたものであるが其後(そののち)太田錦(おほたきん)
城(じやう)が聘(へい)せられて後(のち)亦(ま)た此(この)時習館(じしふくわん)に教授(けうじゆ)たりし時代(じだい)があるのである此(この)事(こと)は前章(ぜんせう)にも申述(まをしの)べて置(お)いたが又(ま)
た後章(こうせう)に於(おい)ても御話(おはなし)する場合(ばあひ)があることと信(しん)ずるサテ士族(しぞく)の子弟(してい)に対(たい)する教育方針(けういくはうしん)がかゝる有様(ありさま)であつ
《割書:平民子弟の|教育》 たから延(ひ)いては平民(へいみん)子弟(してい)の教育(けういく)にも影響(えいけう)した様子(やうす)であるが其頃(そのころ)此(この)時習館(じしふくわん)には平民(へいみん)の子弟(してい)が通学(つうがく)しても
敢(あへ)て差支(さしつかへは)ないようになつて居(を)つた事(こと)と信(しん)ずるモツトモ或(ある)記録(きろく)によると平民子弟(へいみんしてい)の入学(にふがく)は許可(きよか)されなか
つたとしてあるがそれはそうではなくて敢(あへ)て入学(にふがく)は拒(こば)まずとも平民(へいみん)の子弟中(していちう)には殆(ほとん)ど之(これ)に来(きた)るものが
なかつたと云(い)ふのが事実(じじつ)であると思(おも)ふ而(しか)して平民子弟(へいみんしてい)の教育(けういく)は多(おほ)く寺子屋式(てらこやしき)の処(ところ)で行(おこな)はれたものであ
つたが当時(たうじ)行(おこな)はれた処(ところ)の習字(しふじ)の手本(てほん)が私(わたくし)の友人(ゆうじん)の処(ところ)に残(のこ)つて居(を)るので之(これ)を借覧(しやくらん)するのに中々(なか〳〵)興味(けうみ)のあ
るものである寛政(かんせい)十二 年(ねん)と云(い)ふ年号(ねんごう)が書(か)いてあるが多(おほ)くは書翰文(しよかんぶん)で実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける町人(てうにん)の通用文(つうようぶん)の
有様(ありさま)が伺(うかゞ)ひ知(し)れるのである而(しか)もそれが一々 実用向(じつようむき)で其日(そのひ)から直(たゞ)ちに家庭(かてい)に間(ま)に合(あ)ふようなもの計(ばか)りで
あるのは大(おほい)に参考(さんかう)とすべき事(こと)と思(おも)ふ殊(こと)に其次(そのつぎ)には吉田市中(よしだしちう)の各町名(かくてうめい)が列記(れつき)してあるが之等(これら)は最(もつと)も実用(じつよう)
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百六十七
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百六十八
【本文】
的(てき)であるのみならず今日(こんにち)から見(み)ると其(その)沿革(えんかく)を知(し)る上(うへ)にも面白(おもしろ)いと思(おも)ふから左(さ)に掲(かゝ)げて置(お)きたいと思(おも)ふ
(吉田の町名) 榎川岸 船 町 田 町 坂下町
上伝馬町 天王小路 本 町 札木町 呉服町
曲尺手町 鍛冶町 下モ町 新 町 瓦 町
萱 町 指笠町 魚 町 御輿休町 垉六町
下 リ 町 新銭町 中 柴 天白前 神明前
清 水 紺屋町 手間町 元鍛冶町 利 町
龍拈寺世古 猿 屋 中世古 談合宮 御堂世古
悟眞寺世古 薬師世古 西 町 西 宿 牟呂街道
組 屋 舗
モツトモ此(この)町名(てうめい)の沿革(えんかく)に就(つい)てはズツト古(ふる)い処(ところ)から色々(いろ〳〵)御話(おはなし)すべき事(こと)があるので段々(だん〴〵)取調(とりしらべ)も出来(でき)資料(しれう)も
多少(たせう)集(あつま)つて居(を)る事(こと)でもあるが之(これ)はいづれ詳細(せうさい)に申述(まをしの)ぶる時期(じき)があると信(しん)ずるから此処(こゝ)には序(つひで)を以(もつ)て一(ちよつ)
寸(と)御参考(ごさんかう)迄(まで)に申述(まをしの)べて置(お)く次第(しだい)である
次(つぎ)に信明(のぶあき)が常(つね)に質素倹約(しつそけんやく)を旨(むね)として臣下(しんか)一 般(ぱん)に対(たい)した事は既(すで)に御承知(ごせうち)の事(こと)で信明(のぶあき)は全(まつた)く松平定信(まつだひらさだのぶ)の筆(しつ)
《割書:文化十四年|の解書》 法(はふ)を守(まも)つた人(ひと)であるが幸(さいはひ)文化(ぶんくわ)十四年二月十一日 信明(のぶあき)が晩年(ばんねん)に家老(からう)として家中(かちう)一 統(とう)へ觸(ふ)れ出(だ)さしめた
ものがあるから之(これ)は大(おほい)に当時(たうじ)の政治向(せいぢむき)を伺(うかゞ)ふ上(うへ)の参考(さんかう)となることと信(しん)ずるので左(さ)に抄出(しようしゆつ)したいと思(おも)ふめ
のである
先達てゟ質素倹約之義度々被仰出人々承知之事には候得共去暮猶又被仰出茂有之御上御上惣容様御分米
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百八十二号附録 (大正二年二月三日発行)
【本文】
迄茂御減少之上厳敷御倹約被仰出候程之事ニ候所御家中勝手向取続之義被為思召候而難有義ニ候依
之一統勝手向取続之ため致質素倹約乍恐被為遊御安堵候様致度候ニ付而は人々御為筋之義は勿論自
分々々ニ倹約之筋存付候義茂有之候ハヽ申出候様致度事ニ候間則左之ケ條之趣及相談候
一御家中統一吉凶ニ限らす膳部之義一汁三菜ニ可限事
但小略之義は勝手次第可為事
一転役其外祝事之節酒宴之肴手軽ニ吸物之外何ニ而茂手軽之肴二種ニ可限事
但硯蓋類無用可為事
一御門外勤出府立番手始五節句恐悦御祝事等は衣服是迄之通可為事
但年始五節句袖木綿等勝手ニ宜候ハヽ着用可致候
一御家中一統御城内勤向之節は急度綿服着用可致候
但糸入片つむきの類は勝手ニ宜候ハヽ相用候而茂宜候
一ふんごみは持合候品是迄之通可為事
一御家中一統夏羽織ろちりめん無用ニ可致事
一御家中一統家内之者袖類之外着用為致間敷事
一御門外え置出候節茂可為同様事
但下着茂右ニ准可申事
一婦人帯織物類其外都而高キ価之品相用申間敷事
一独礼以下家内之者急度めんふく着用可為致候門外に置出候節は片袖類之外着用為致間敷事
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百六十九
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十
【本文】
一独礼以上以下夏服右ニ准し心得可有事
一婦人年始之祝儀相廻候ニ不及候立宅之節かいどり無用可為事
但婚姻祝儀之節は是迄之通可為事
一髪さし壱本かうがい壱本ニ可限事並切類髪え掛候事急度無用可為事
一親子兄弟之外為近親共熨斗包ニ而祝儀取かはし可申事
一音信贈答之義は兼而被仰出茂有之不相成事候間人々質素倹約相心掛堅無用之贈答無之様可有事
ニ候
一御足軽共めんふく着用勿論ニ候一切けんふく類無用可為事
一御足軽共ぶつさき羽織中ぬき草履紺もゝ引蛇の目笠無用可為事
一御足軽共妻子茂ははんゑり袖口たり共きぬ類無用可為事
一上下茂下には持合候小袖着候而茂宜候事
一御用召之節茂綿服之侭可罷出事
但拝領之品ハ御用召之節着用候而茂宜候拝領羽織下た自分小袖着用は不相成事
一社参仏参之節拝領之服着用候而茂宜候尤人々心得可有事
一御家中一統外出たり共片袖青梅島類之外不相成候尤ふとりたりとも無用事
一婚姻当夜縁女勿論家内並居合候近親かいどり不苦候事
一三ツ目五ツ目縁女斗かいどり不苦候家内並親類不相成候事
一初て親類廻り縁女斗かいどり不苦候差添候親抔ハ不相成候事
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
一御近習御中小性式日並御吉凶之節羽織着用ニ不及尤御用召之節は羽織着用可致候親子之義ニ付
御席御礼ニ罷出候節は羽織着用ニ不及候事
一他所之者に致応対服改候ハヽ御目付え相届可申事
一田町神明神事等ニ罷出服改候ハヽ御目付ニ相届可申事
一御家中一統男女共夏服すきや縮ニ熨斗縮み絹縮不相成候事
一夏袴川越平類以上は不相成候事
一七歳未満独礼以上忰服是迄之通
但新規拵候ハヽ面々可有心得事
一婦人帯有来候黒縮子縮緬紗綾ごろう厚いた不苦候事
一婦人長襦ばんの類益有之候共目立候所無用ニ可致候事
一御目見に子供式日其外羽織勝手次第たるへく事
一御払米入札之節致出役候者服是迄之通勝手次第可為事
一御医師服役方聞置候事
一葬式之節服是迄之通尤綿服着用之義は勝手次第可為事
一組小頭御用筋ニより絹布着致候事
一又者之義は其主人々々可有心得事
一独礼以下絹夏羽織持合候ハヽ相用候而茂宜候
尚(なほ)其他(そのた)当時(たうじ)に於(お)ける民政上(みんせいじやう)の事(こと)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)材料(ざいれう)となるべきものが大河内家(おほかうちけ)の倉庫(そうこ)に残(のこ)つて居(を)るが大(おほ)
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十一
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十二
【本文】
字(あざ)船町(ふなまち)の倉庫(そうこ)にも多少(たせう)其(その)資料(しれう)たるべきものが保存(ほぞん)されて居(を)るのである一々(いち〳〵)之(これ)を掲(かゝ)ぐることは到底(とうてい)複雑(ふくざつ)で
《割書:渡船に関す|る記録》 あつて出来(でき)難(がた)い事(こと)であるが其(その)中(なか)で一寸(ちよつと)面白(おもしろ)く思(おも)ふのは船町(ふなまち)にある古帳簿(こちやうぼ)で豊川通(とよかはとほり)渡船(とせん)に関(くわん)するもので
ある其(その)頃(ころ)は前(まへ)にも申述(まうしの)べて置(お)いた通(とほ)り大橋(おほはし)の掛替(かけかへ)又(また)は普請(ふしん)に方(あた)り元禄時代(げんろくじだい)まで行(おこな)はれたように旧橋(きうけう)と
並(なら)むで新橋(しんけう)を架(か)するとか或(あるひ)は仮橋(かりばし)を架(か)けるとか云(い)ふ事(こと)は行(おこな)はれぬようになつたので其(その)普請中(ふしんちう)は渡船(とせん)を
以(もつ)て往来(わうらい)をなさしめたものである勿論(もちろん)洪水(こうすゐ)などで橋(はし)の破損(はそん)した時(とき)なども同様(どうやう)であるが其(その)渡船(とせん)に用(もち)ゐた
場所(ばしよ)は今日(こんにち)も尚(な)ほ渡船場(とせんば)と云(い)ふ名前(なまへ)が残(のこ)つて居(お)る次第(しだい)である而(しか)して其(その)渡船(とせん)の事(こと)は一 切(さい)大字(おほあざ)船町(ふなまち)の者(もの)に
申付(まうしつけ)られたのであるが其(その)入用(にうよう)として金(きん)廿五 両(れう)又(また)は卅 両(れう)と其(その)都度(つど)藩(はん)から貸下(かしさ)げて貰(もら)つたもので之(これ)を年賦(ねんぷ)
で返済(へんさい)した事実(じじつ)なども其(その)帳簿(ちやうぼ)の上(うへ)で見(み)られるのである又(ま)た大名(だいめう)などの通行(つうかう)があつた時(とき)に船(ふね)の不足(ふそく)を告(つ)
げた場合(ばあひ)には大河内家(おほかうちけ)の領内(れうない)は勿論(もちろん)領外(れうぐわい)と雖(いへど)も豊川沿岸(とよかはえんがん)の村々(むら〳〵)から何処(どこ)には何艘(なんそう)と云(い)ふ様(やう)に割(わ)り当(あて)て
ゝ徴発(てうはつ)したものである茲(こゝ)に寛政(かんせい)四 年(ねん)の四 月(ぐわつ)に橋普請(はしぶしん)があつて其(その)為(ため)に此(この)渡船(とせん)を開始(かいし)した事(こと)があるが其(その)時(とき)
に掲示(けいじ)した高札(かうさつ)の写(うつし)が残(のこ)つて居(を)るので之(これ)を掲載(けいさい)するのは又(ま)た以(もつ)て当時(たうじ)の状態(ぜうたい)を知(し)るの資料(しれう)ともなる事(こと)
と思(おも)ふから左(さ)に其(その)全文(ぜんぶん)を示(しめ)して見(み)よう
定
一役船定のことく懈怠なく出し昼夜相勤べき事
附 往来之旅人に対しかさつ成事すへからす無礼悪口等之事有へからす緞軽き旅人たりといふと
もあやまちなきやうに念入へき事
一往還人之儀もかさつ成事無之不法之儀仕間敷渡場込合候節は段々に渡可申事
一往還之人多き時はよせ船を出し人馬荷物滞なく渡すへし奉公人之外船賃出す輩より
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百八十八号附録 (大正二年二月十一日発行)
【本文】
壱人ニ付 拾 六 文
乗下壱駄ニ付 弐 拾 五 文
荷物壱駄ニ付 参 拾 九 文
此定之外賃銭多く取るべからざる事
附 奉公人之外定之通賃銭出すべし古来より定置之間職人町どもの荷物はいふに及ばず武士荷
物たりといふとも商人請負にて相通候分は定のことく賃銭出すべき事
一荷物附ながら馬を船にのせ候儀相対次第たるべき事
右之條々可相守之若違犯之輩於有之者可為曲事者也
寛政五年己四月 奉 行
領地の異動 又(また)此処(こゝ)に一つ御話(おはなし)して置(お)きたいのは信明(のぶあき)が藩主(はんしゆ)たりし間(あひだ)に其(その)領地(れうち)の内(うち)で多少(たせう)異動(ゐどう)のあつた事(こと)であるソ
レは先(ま)づ明和(めいわ)九年六月廿九日 付(づけ)で宝飯郡(ほゐぐん)の内(うち)、下五井(しもごゐ)、下佐脇(しもさわき)、御馬(おんま)、為当(ためたう)を差出(さしいだ)して其(その)代地(だいち)として
同年(どうねん)十月五日 付(づけ)で遠江国(とほとふみのくに)榛原郡(はいばらごほり)の内(うち)朝生村(あさふむら)、城東郡(きとうごほり)の内(うち)加茂村(かもむら)、本所村(ほんじよむら)、和田村(わだむら)、上平川村(かみひらかはむら)の内(うち)合(がう)
計(けい)弐千九百十八 石余(こくよ)を賜(たまは)つた事(こと)で其(その)次(つぎ)が安永(あんえい)三年八月廿七日 付(づけ)宝飯郡(ほゐごほり)の内(うち)、日色野(ひしきの)、前芝(まへしば)、梅薮(うめやぶ)、大(おほ)
塚(つか)、伊奈(いな)の内(うち)並(ならび)に同所(どうしよ)新田(しんでん)の内(うち)を差出(さしいだ)して其(その)代地(だいち)を渥美郡(あつみごほり)の内(うち)、宝飯郡(ほゐごほり)の内(うち)、額田郡(ぬかたごほり)の内(うち)で下賜(かし)され
た事(こと)であるが尚(なほ)安永(あんえい)六年十一月六日 付(づけ)で右(みぎ)の榛原郡(はいばらごほり)朝生村(あさふむら)の地(ち)を返上(へんぜう)して其(その)代(かは)りを城東郡(きとうごほり)の内(うち)で賜(たまは)つ
た事実(じじつ)がある而(しか)して天明(てんめい)八年三月五日 付(づけ)で吉田領(よしだれう)に対(たい)し改(あらた)めて下賜(かし)になつた朱印(しゆいん)の写(うつし)があるから之(これ)を
も左(さ)に掲載(けいさい)して参考(さんかう)に供(きよう)したいと思(おも)ふ
三河国渥美郡之内三拾壱箇村八名郡之内三拾九箇村宝飯郡之内四拾箇村額田郡之内七箇村加茂郡之
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十三
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十四
【本文】
内五拾二箇村遠江国敷知郡之内拾七箇村城東郡之内五箇村近江国浅井郡之内二拾箇村伊香郡之内二
箇村高島郡之内下開田村高七万石《割書:目録在|別 紙》事宛行之訖依代々之例領知之状如件
天明八年三月五日
松平伊豆守とのへ
《割書:安永八年の|大火》 ソレから話(はなし)は又(ま)た変(かは)るがソレは安永(あんえい)八年十一月四日に此(この)吉田(よしだ)に大火(たいくわ)のあつた事(こと)である其(その)時(とき)は本町(ほんまち)から
失火(しつくわ)して町家(てうか)が三百八十四 戸(こ)侍家舗(さむらいやしき)が一 区(く)焼失(せうしつ)したのであるが此(この)時(とき)は丁度(ちようど)信明(のぶあき)が初(はじ)めて入国(にふこく)して在城(ざいじやう)
火消組 されて居(を)つたのである尚(なほ)ソレに就(つい)て御話(おはなし)したいのは此(この)吉田町(よしだまち)の火消組(ひけしぐみ)の事(こと)であるが天明(てんめい)七年に其(その)四 組(くみ)
を市中(しちう)に設(まを)けて一 組(くみ)は拾壱人 宛(づゝ)であつたが総(すべ)ての道具類(どうぐるゐ)は藩(はん)から下(さ)げたものと見(み)へる幸(さいはひ)船町(ふなまち)に当時(たうじ)
組員(くみゐん)から差出(さしだ)した書付(かきつけ)が残(のこ)つて居(を)るが実(じつ)に趣味(しゆみ)あるものと思(おも)ふから之(こ)れも全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)ぐることとする
差上申一札之事
此度町火消四組一組拾壱人宛被仰付一組畑ケ中源助組頭ニ被仰付組合連判名前之通町火消相勤申候
一出火有之候節者早速欠附出精取鎮メ可申候若々難取鎮メ出火ニ相成候節者御城内
御役人中様御下知並町御役人中御差図ヲ以消口相働可申候組々散乱不仕様ニ申合相働可申候火消看
板諸道具左之通御渡被成組頭方ニ預リ置私用ニ決而相用申間敷候
一 半 臂 拾 壱
一 股 引 拾 壱
一 纏 挑 燈 壱 張
一 手 丸 挑 燈 壱 張
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
一 斧 参 挺
一 鳶 口 五 挺
右之通慥ニ請取申候出火之節蝋燭其外入用御座候ハヽ其後書付ヲ以御月番御役人中ゟ受取可申候
於出火場万一諸道具之内紛失仕候ハヽ其節御断可申候私ニ失候義御座候ハヽ火消組合ゟ急度拵置可
申候
一組合拾壱之内病気故障遠方行等御座候共出火有之節差支無御座候様ニ常々無油断外人心当テ仕置
可申候
一火消道具臨時御改可被成旨承知奉畏候
一右為御給米自
御上様一組え御米弐俵宛毎年被下置組頭え御米壱斗弐升相残米拾人え割賦頂戴可仕旨被仰付難有
奉存候出火之節消口働之義者御見届之上御褒美可被下旨承知仕候依之組合連判差上申処如件
天明七丁未年十二月
畑 中 紋 平 印
同 平 三 郎 印
同 又 次 郎 印
同 吉 六 郎 印
同 半 十 印
同 與 三 郎 印
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十五
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十六
【本文】
同 三 之 助 印
同 彌 四 郎 印
同 松 六 印
同 助 三 郎 印
同 組 頭 源 助 印
ソレから此(この)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)の人物(じんぶつ)に就(つい)てであるが学者(がくしや)としては太田錦城(おほたきんじやう)及(およ)び西岡善助(にしおかぜんすけ)などで之(これ)は前(まへ)
にも申述(まをしの)べた如(ごと)くである其他(そのた)藩士(はんし)の内(うち)には相当(さうたう)の人物(じんぶつ)もあつた事(こと)と思(おも)ふが今(いま)此処(こゝ)に取立(とりた)てゝ御話(おはなし)する
程(ほど)の事(こと)もないのである勿論(もちろん)大河内家(おほかうちけ)の家臣(かしん)の事(こと)に就(つい)ては実(じつ)に詳(くは)しい記録(きろく)が大河内家(おほかうちけ)の蔵(くら)にあるから之(これ)
に拠(よつ)て色々(いろ〳〵)申述(まをしの)べたい事があるのみならず此(この)領地(れうち)には国家老(くにからう)を始(はじ)めドウ云(い)ふ役向(やくむき)があつてドンナ工合(ぐあひ)
に国政(こくせい)を取(と)つて居(を)つたものであるか又(ま)た其(その)役々(やく〳〵)には如何(いか)なる人々(ひと〳〵)が当(あた)つて居(を)つたものであるかなども
段々(だん〴〵)御話(おはなし)したいと思(おも)ふのである併(しか)し私(わたくし)は兎(と)に角(かく)大筋(おほすぢ)丈(だけ)を先(ま)づ申述(まをしの)ぶる考(かんがへ)であるので右(みぎ)の如(ごと)き細密(さいみつ)に渉(わた)
る事(こと)は大河内家(おほかうちけ)の話(はなし)の最後(さいご)に参(まゐ)つた時(とき)纏(まと)めて申述(まをしの)ぶる事に致(いた)したいと思(おも)つて居(を)るのであるから此際(このさい)一(ちよつ)
寸(と)此(この)事(こと)を御断(おことはり)して置(お)きたいと思(おも)ふのである
サテ此(この)時代(じだい)吉田(よしだ)の町人(てうにん)の内(うち)で生花(いけばな)を能(よ)くするものがあつたが一 人(にん)は四 時庵北萊(じあんほくらい)と云(い)ふ人(ひと)で之(これ)は当時(たうじ)指(さし)
四時庵北萊 笠町(かさまち)にあつた観音寺(くわんをんじ)の住職(ぢうしよく)であつたが松月堂(せうげつどう)古流(こりう)の始祖(しそ)是心軒(ぜしんけん)一 露(ろ)翁(をう)の直門(ぢきもん)で安永(あんえい)八年九月 其(その)可印(かいん)を
受(う)けたが四時庵(しじあん)と云(い)ふ号(がう)は其(その)後(のち)段々(だん〳〵)跡(あと)を継(つ)ぐ者(もの)があつて今日(こんにち)も其(その)道(みち)にかけては喧(やかま)しい号(がう)である又(ま)た一
恩田三省 人(にん)は曲尺手町(かねんててう)の人(ひと)で恩田三省(おんださんせう)と云(い)ふのであるが之(これ)も是心軒(ぜしんけん)の門人(もんじん)で天明(てんめい)二年 諸国会頭(しよこくくわいとう)の可印(かいん)を受(う)けた
が此(この)人(ひと)は通称(つうせう)を太惣太(たさうた)と云(い)つて名(な)は満辰(まんしん)字(あざな)は子信(ししん)号(がう)を心応軒(しんおうけん)と称(せう)したのである生花(いけばな)に就(つい)ては色々(いろ〳〵)の著(ちよ)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百九十三号附録 (大正二年二月十八日発行)
【本文】
書(しよ)があるが三遠瓶花之図(さんゑんへいくわのづ)、生花口伝集(せいくわくでんしふ)などは就中(なかんづく)有名(いうめい)のものである門人(もんじん)も壱千人 以上(いぜう)あつたと云(い)ふ事
であるが文化(ぶんくわ)七年九月 年(とし)六十七で病歿(びやうぼつ)したのである
佐藤南澗 次(つぎ)に御話(おはなし)したいのは佐藤南澗(さとうなんかん)と云(い)ふ人(ひと)の話(はなし)であるが之(これ)は船町(ふなまち)の住人(ぢうにん)で運漕店(うんそうてん)を業(ぎよう)として居(を)つたが通称(つうせう)
を新兵衛(しんべゑ)と云(い)つたのである今(いま)も其(その)家(いへ)は存在(ぞんざい)して当主(たうしゆ)も亦(ま)た佐藤新平(さとうしんぺい)と称(せう)して居(を)られるのである而(しか)して
南澗(なんかん)は名(な)を幾道(きどう)字(あざな)を若水(じやくすい)号(ごう)を曲肱齋(きよくこうさい)又(また)は文会堂主人(ぶんくわいどうしゆじん)などと称(せう)した勿論(もちろん)南澗(なんかん)も其(その)号(がう)であつたが其(その)家(いへ)が吉(よし)
田大橋(だおほはし)に近(ちか)い処(ところ)から戯(たわむれ)に欄干(らんかん)とも号(がう)したのである此(この)人(ひと)は円山応挙(まるやまおうきよ)の門人(もんじん)で絵画(くわいぐわ)を能(よ)くし兼(かね)て文学(ぶんがく)に
も通(つう)じて彼(か)の曲亭馬琴(きよくていばきん)とも交遊(かうゆう)したのである今(いま)も同家(どうけ)に南澗(なんかん)が画(ぐわ)を描(ゑが)いてそれに馬琴(ばきん)が賛(さん)をしたもの
が残(のこ)つて居(を)る天明(てんめい)七年四月 年(とし)四十二で病歿(びやうぼつ)したが人(ひと)の惜(おし)む処(ところ)となつたのである
服部彌助 又(ま)た其(その)頃(ころ)同(おな)じ船町(ふなまち)で今(いま)の服部彌(はつとりや)八 氏(し)の祖先(そせん)に服部彌助(はつとりやすけ)と云(い)ふ人(ひと)があつたが此(この)人(ひと)は又(ま)た実(じつ)に武道(ぶどう)の達人(たつじん)
で且(か)つ任侠(にんけう)に富(と)むだ人(ひと)であつた柔術(じうじゆつ)は浅川(あさかは)一 伝流(でんりう)で其(その)他(た)釼術(けんじゆつ)でも棒(ぼう)の手(て)でも一として奥義(おくぎ)を極(きは)めぬも
のはなかつたので実(じつ)に評判(ひようばん)の人(ひと)であつた其(その)屋号(やがう)が伊賀屋(いがや)と云(い)ふ処(ところ)から世人(せじん)は此(この)人(ひと)の事(こと)を呼(よ)むで伊賀助(いがすけ)
と云(い)つたそうであるが武道(ぶどう)の弟子(でし)も数多(あまた)あつたが常(つね)に自(みづか)らは此(この)武道(ぶどう)を以(もつ)て諸国(しよこく)を遊歴(ゆうれき)し其(その)逸話(いつわ)は極(きは)め
て多(おほ)いので恰(あたか)も元和(げんな)三 勇士(ゆうし)などの昔話(むかしばなし)を聞(き)くようである今(いま)此(この)人(ひと)の自記(じき)した道中記(どうちうき)が服部氏(はつとりし)の家(いへ)に残(のこ)
つて居(を)るが見取図(みとりづ)なども処々(しよ〳〵)に書(か)き入(い)れられて甚(はなは)だ面白(おもしろ)く思(おも)はれる文化(ぶんくわ)十四年九月十六日八十二 歳(さい)で
病歿(びやうぼつ)せられたのである
刀工重喜 尚(なほ)其他(そのた)に重喜(しげよし)と云(い)ふ刀鍛冶(かたなかぢ)が此(この)吉田(よしだ)にあつて相当(さうたう)の名工(めいこう)であつた其(その)鍛(きた)へた刀(かたな)は今(いま)一 振(ふり)大河内家(おほかうちけ)に蔵(ざう)せ
られて居(を)るソレは文化(ぶんくわ)十年八月と銘(めい)してあるが惜(おし)い事(こと)には其(その)人(ひと)の伝記(でんき)などが一寸(ちよつと)分(わか)り兼(か)ねて居(を)る他日(たじつ)
私(わたくし)も材料(ざいれう)を捜索(さうさく)して見(み)たいと思(おも)つて居(を)るが其(その)存知(ぞんぢ)の方(かた)があつたならば御指教(ごしけう)願(ねが)いたいのである
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十七
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百七十八
【本文】
⦿松平信順の襲職
前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く松平信明(まつだひらのぶあき)は文化(ぶんくわ)十四年八月十六日 年(とし)五十五 歳(さい)で老中(らうちう)上座(ぜうざ)在職(ざいしよく)のまゝ病(やまひ)で江戸(えど)の
松平信順 邸(やしき)で卒去(そつきよ)せられたのであるが其(その)家督(かとく)を継(つ)いで此(この)吉田(よしだ)の城主(じやうしゆ)となつたのは即(すなは)ち信順(のぶより)である信順(のぶより)は信明(のぶあき)の
二 男(なん)で母(はゝ)は家女(かじよ)久須美氏(くすみし)であるが嫡出(ちやくしゆつ)の長子(てうし)は早世(さうせい)した為(ため)に此(この)信順(のぶより)が世子(せいし)となつて家督(かとく)を相続(さうぞく)した次(し)
第(だい)である寛政(かんせい)五年六月七日の生(うまれ)で家督(かとく)を相続(さうぞく)した時(とき)は恰(あたか)も其(その)廿五 歳(さい)の時(とき)であつた幼名(えうめい)は長治郎(てうぢらう)で初(はじ)め
駿河守(するがのかみ)に叙(ぢよ)し後(のち)伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せられたが此(この)人(ひと)も亦(ま)た父(ちゝ)信明(のぶあき)に似(に)て勤勉(きんべん)の質(しつ)であつたが寛仁(かんにん)で而(しか)も緻密(ちみつ)な
る性(せい)を持(も)つて居(ゐ)たように察(さつ)せられる而(しか)して文化(ぶんくわ)と云(い)ふ年号(ねんがう)は信順(のぶより)の家督相続(かとくさうぞく)をした十四 年(ねん)迄(まで)で文政(ぶんせい)と
改(あらた)まつたが其(その)八年の五月六日 信順(のぶより)は寺社奉行(じしやぶぎよう)に任(にん)ぜられたのである其(その)後(のち)文政(ぶんせい)は又(ま)た十二年 迄(まで)で天保(てんぽう)と
改(あらた)まつたのであるが其(その)天保(てんぽう)の二年五月廿五日を以(もつ)て信順(のぶより)は大阪城代(おほさかじやうだい)に任(にん)ぜられて任地(にんち)に赴(おもむ)く事(こと)となつ
た当時(たうじ)徳川将軍(とくがはせうぐん)はまだ家斉(いへなり)であつが前章(ぜんせう)にも段々(だん〳〵)と申述(まをしの)べたる如(ごと)く此(この)家斉(いへなり)の治世(ぢせい)に方(あた)つては最初(さいしよ)彼(か)
の松平定信(まつだひらさだのぶ)が出(い)でゝ幕政(ばくせい)の大改革(だいかいかく)を行(おこな)ひ彼(か)の田沼(たぬま)一 派(ぱ)のものを斥(しりぞ)けて大(おほひ)に官紀(くわんき)を振粛(しんしゆく)したのである然(しか)
るに其(その)頃(ころ)から例(れい)の一橋治済(ひとつばしはるなり)即(すなは)ち将軍(せうぐん)家斉(いへなり)の実父(じつぷ)が色々(いろ〳〵)と政務(せいむ)に干渉(かんせう)を試(こゝろ)みむとするので屡々(しば〳〵)困難(こんなん)な
る事情(じぜう)を惹起(ひきおこ)しそれには又(ま)た佞臣(ねいしん)の阿付(あふ)するものもあり田沼(たぬま)の残党(ざんたう)とも目(もく)すべきものも之(これ)と欵(くわん)を通(つう)ず
ると云ふ訳(わけ)で益々(ます〳〵)事情(じぜう)は複雑(ふくざつ)したのであつたが定信(さだのぶ)退職(たいしよく)の後(のち)は信明(のぶあき)が其(その)志(こゝろざし)を継(つ)いで何処(どこ)迄(まで)も定信(さだのぶ)の
遺業(ゐぎよう)を損(そん)しないように勗(つと)めたのみならず之(これ)には加納遠江守久周(かのうとうとほみのかみひさかね)などは勿論(もちろん)青山忠裕(あをやまたゞひろ)、堀田正敦(ほつたまさあつ)などの
《割書:水野忠成の|弊政》 名臣(めいしん)も補翼(ほよく)したのであつたが信明(のぶあき)の晩年(ばんねん)に方(あた)つては次第(しだい)々々に治済(はるなり)の勢(いきほひ)が長(てう)じ来(きた)つて其(その)側用人(そばようにん)たる水(みづ)
野忠成(のたゞなり)は老中格(らうちうかく)となりそれには又(ま)た土方縫殿介(ひぢかたぬひどのすけ)などゝ云ふ権臣(けんしん)が付(つ)いて居(ゐ)たので漸(やうや)く悪弊(あくへい)を増長(ぞうてう)せし
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
むるに至(いた)つたがイヨ〳〵信明(のぶあき)卒去(そつきよ)後(ご)は此(この)忠成(たゞなり)が急(きふ)に勢(いきほひ)を得(え)て老中(らうちう)となり定信(さだのぶ)信明(のぶあき)以来(いらい)の名臣(めいしん)は次第(しだい)に
其(その)職(しよく)を引退(ひきしりぞ)くと云ふ訳(わけ)で世風(せふう)は忽(たちま)ち浮華虚栄(ふくわきよえい)に陥(おちい)り賄賂(わいろ)は横行(わうかう)を極(きは)め再(ふたゝ)び田沼時代(たぬまじだい)の弊風(へいふう)を来(きた)したの
である初(はじ)め定信(さだのぶ)信明(のぶあき)等(ら)が相続(あひつ)いで幕政(ばくせい)を取(と)つて居(ゐ)た頃(ころ)はドウしても此(この)病源(びやうげん)が治済(はるなり)にあるべきを察(さつ)した
のであつたから常(つね)にそれを抑制(よくせい)することに苦心(くしん)したもので将軍(せうぐん)は之(これ)が自分(じぶん)の生父(せいふ)である所(ところ)から夙(つと)に尊(たつとん)で
大御所(おほごしよ)と呼(よ)ばしめむとしたのであつたが定信(さだのぶ)等(ら)は之(これ)に反対(はんたい)し其(その)後(のち)之(これ)を二の丸(まる)に迎(むか)へ入(い)れむとした時(とき)に
も信明(のぶあき)が反対(はんたい)したのであるトコロが今度(このたび)忠成(たゞなり)が老中(らうちう)と相成(あひな)つたので彼(か)の尊号事件(そんがうじけん)の行掛(ゆきがゝ)りなどを知(し)つ
て居(を)る処(ところ)から段々(だん〳〵)と京都(けうと)の方(はう)へ取(と)り入(い)る事(こと)を初(はじ)めて朝廷(てうてい)に対(たい)して色々(いろ〳〵)と奉(ほう)ずる処(ところ)があつた処(ところ)は誠(まこと)に大(おほ)
手柄(てがら)とも云ふべきであつたが結局(けつきよく)それによりて治済(はるなり)に准大臣(じゆんだいじん)の宣下(せんげ)を請(こ)ふに至(いた)つたのであるかゝる訳(わけ)
で忠成(たゞなり)の勢力(せいりよく)は忽(たちま)ち幕府(ばくふ)を敞(お)ふに至(いた)つたのであるが彼(か)の貨幣(くわへい)の改鋳(かいちう)なども長(なが)い間(あひだ)信明(のぶあき)の取(と)つた方針(はうしん)を
一 変(ぺん)して此(この)人(ひと)が屡々(しば〳〵)実行(じつかう)したので悪貨幣(あくくわへい)の濫造(らんざう)は実(じつ)に此(この)時(とき)に行(おこな)はれたのであるモツトモ当時(たうじ)に於(お)ける
幕府財政(ばくふざいせい)の窮乏(きうぼう)と云ふものは甚(はなはだ)しかつたもので中(なか)には其(その)原因(げんゐん)を以(もつ)て蝦夷経営(えぞけいゑい)の失敗(しつぱい)に皈(き)する論者(ろんしや)があ
るが之(これ)は誠(まこと)に皮相(ひさう)の観察(くわんさつ)であると信(しん)ずる蝦夷経営(えぞけいゑい)の事に就(つい)ては既(すで)に前章(ぜんせう)にも詳述(せうじゆつ)して置(お)いたが成程(なるほど)幕(ばく)
府(ふ)の財政上(ざいせいぜう)に取(と)つては之(これ)が一の大(たい)なる困難(こんなん)となつたのではあろうが当時(たうじ)露国(ろこく)が我(わが)北辺(ほくへん)を窺(うかゞ)ひたる事に対(たい)
してはドウしても幕府(ばくふ)は蝦夷(えぞ)を直轄(とよくかつ)として松前氏(まつまへし)が多年(たねん)の積弊(せきへい)を除(のぞ)き所謂(いはゆる)対外的(たいぐわいてき)に其(その)経営(けいえい)をしなけれ
ばならぬのは当然(たうぜん)の事柄(ことがら)である之(これ)をなしたればこそ我(わが)北辺(ほくへん)を以(もつ)て当時(たうじ)露国(ろこく)の侵略(しんりやく)に任(にん)せなかつたので
ある然(しか)るに信明(のぶあき)卒去(そつきよ)の後(のち)僅(わづか)に四年で此(この)蝦夷(えぞ)の地(ち)は復(ふたゝ)び旧主(きうしゆ)松前氏(まつまへし)に返与(へんよ)して仕舞(しま)つたのであるが之(これ)も
松前氏(まつまへし)が忠成(たゞなり)に取入(とりい)つた結果(けつくわ)であるとも云(い)ひ又(ま)た治済(はるなり)に泣(な)き付(つ)いた処(ところ)から其(その)意(い)に出(い)でたとも伝(つた)へられ
て居(を)るかゝる訳(わけ)であつたから蝦夷(えぞ)の警備(けいび)と云(い)ふものは忽(たちま)ち全(まつた)く弛(ゆる)み折角(せつかく)開拓(かいたく)しかけた土地(とち)も亦(ま)た荒蕪(かうぶ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百七十九
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百八十
【本文】
に皈(き)せしむるに至(いた)つたので有識者(いうしきしや)は切(せつ)に惜(おし)むだ次第(しだい)である信明(のぶあき)死去(しきよ)後(ご)の大勢(たいせい)は先(ま)づ大要(たいえう)此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で
《割書:大阪城代と|しての信順》 あつたがサテ天保(てんぽう)の初年(しよねん)からは国内(こくない)が不作(ふさく)で米価(べいか)は次第(しだい)に騰貴(とうき)し四年に至(いた)つては諸処(しよ〳〵)に窮民(きうみん)の蜂起(ほうき)を
見(み)たのである従(したがつ)て大阪市中(おほさかしちう)の形勢(けいせい)も実(じつ)に不穏(ふおん)と成(な)つたのであるが勿論(もちろん)当時(たうじ)は信順(のぶより)が城代(じやうだい)として其(その)地(ち)に
あつたのである而(しか)して其(その)年(とし)の七月 彼(か)の矢部駿河守(やべするがのかみ)は堺奉行(さかいぶぎよう)から転(てん)じて大阪(おほさか)の町奉行(まちぶぎよう)と相成(あひな)つたのであ
るが信順(のぶより)は日々(にち〳〵)駿州(すんしう)と蜜議(みつぎ)を凝(こ)らし厳(げん)に不正(ふせい)の利(り)を貪(むさぼ)る米商(こめせう)の取締(とりしまり)を行(おこな)つたのである大河内家(おほかうちけ)にある
十 世遺事抄(せいゐじしよう)と云ふ記録(きろく)にると其(その)頃(ころ)駿州(すんしう)には毎日(まいにち)深(ふか)き笠(かさ)にて顔(かほ)を隠(かく)し忍(しの)び〳〵て市中(しちう)を巡行(じゆんかう)し米(こめ)の差札(さしふだ)
に着眼(ちやくがん)して少(すこ)しにても高価(かうか)に商(あきな)はんとする米商(こめせう)は一々 之(これ)を記録(きろく)して其(その)都度(つど)信順(のぶより)に報告(ほうこく)し以(もつ)て其(その)取締方(とりしまりかた)
を励行(れいかう)したので後世(こうせい)迄(まで)も其(その)仁徳(にんとく)を称(せう)したのである其(その)翌(よく)五年四月十一日 付(づけ)を以(もつ)て信順(のぶより)は京都所司代(けうとしよしだい)に栄(えい)
転(てん)し其(その)翌(よく)六年 駿州(すんしう)も亦(ま)た他(た)に転任(てんにん)することとなつたのであるが八 年(ねん)の二月には例(れい)の大塩平(おほしほへい)八 郎(らう)の乱(らん)が起(おこ)
《割書:京都所司代|としての信|順》 つたので大阪(おほさか)の市人(しじん)は益々(ます〳〵)信順(のぶより)の徳(とく)を慕(した)つたと云ふ事が載(の)せてあるのであるかくて信順(のぶより)は天保(てんぽう)五年四
月(がつ)大阪城代(おほさかじやうだい)から京都所司代(けうとしよしだい)に転任(てんにん)したのであるが信順(のぶより)が初(はじ)めて禁裏(きんり)へ上(あが)つた時(とき)の歌(うた)に
遥にもおもひし雲のうへに今日
のほりて高き日影をそあふく
と云(い)ふのがあるが恐(おそら)くは此(この)時(とき)のものであろうと信(しん)ずるのであるサテ信順(のぶより)が京都所司代(けうとしよしだい)たりしは同(おな)じ八
年の五月迄で仝月十六日 所司代(しよしだい)から老中(らうちう)に栄転(えいてん)したのであるが京都(けうと)在職中(ざいしよくちう)も前(まへ)に申述(まをしの)べた如(ごと)く米価(べいか)は
イヨ〳〵騰貴(とうき)し大阪(おほさか)には大塩(おほしほ)の乱(らん)が起(おこ)つたと云ふ訳(わけ)で京都(けうと)も中々(なか〳〵)の騒(さわ)ぎであつたが信順(のぶより)は幕府(ばくふ)の許可(きよか)
を受(う)けたる上町奉行(うへまちぶぎよう)をして救小屋(すくひこや)を設(まを)けしめ以(もつ)て窮民(きうみん)に粥(かゆ)を施(ほどこ)し病者(びやうしや)には施療(せれう)をもなさしめたのであ
る勿論(もちろん)奸商(かんせう)の米価(べいか)を騰貴(とうき)せしめて利(り)を得(え)むとするが如(ごと)きものは勉(つと)めて之(これ)を匡正(きようせい)せしめたのであるが茲(こゝ)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百九十九号附録 (大正二年二月二十五日発行)
【本文】
に一つ面白(おもしろ)い逸話(いつわ)があるから御話(おはなし)したいと思(おも)ふ
当時(たうじ)京都(けうと)の千本通(せんぼんどほり)に一 軒(けん)の穀屋(こくや)があつたが此(この)穀屋(こくや)は時節柄(じせつがら)にも似(に)ず殊(こと)に升目(ますめ)をよく量(はか)つて売(う)ると云(い)ふ
ので大評判(おほひようばん)となつたのである信明(のぶあき)は此(この)事(こと)を聞(き)いてそれは誠(まこと)に奇特(きとく)なる事柄(ことがら)のようではあるが此(この)米価(べいか)暴(ばう)
騰(とう)の時(とき)に於(おい)ては甚(はなは)だ以(もつ)て不審(ふしん)であるそれとも其者(そのもの)の心掛(こゝろが)けが之(これ)迄(まで)とても常(つね)に宜敷(よろし)き者(もの)であるか取調(とりしら)べ
て見(み)よと云(い)ふので其者(そのもの)の素行(そこう)を調査(てうさ)せしめた処(ところ)がドウモ一 向(かう)ソウ云(い)ふ善(よ)き心懸(こゝろがけ)ありし様子(やうす)は見(み)へぬソ
コで信順(のぶより)は益々(ます〳〵)不審(ふしん)の事となして其者(そのもの)の用(もち)ゐ居(を)る升(ます)を取寄(とりよ)せて調(しら)べて見(み)ると古(ふる)き升(ます)の底(そこ)へ糠(ぬか)を煉(ね)り付(づ)
けて浅(あさ)くしてあるのである従(したがつ)て量(はか)りを宜(よ)くしても矢張(やはり)一 升(せう)は一 升(せう)となる仕掛(しか)けに出来(でき)て居(を)るのである
から役人(やくにん)も驚(おどろ)いたのであるが九 合(ごう)のものを一 升(せう)と云(い)つて売(う)つたと云(い)ふ訳(わけ)でもなかつたので商売差止(せうばいさしとめ)の
上(うへ)押込(おしこめ)を命(めい)じたと云(い)ふ事(こと)である
彼様(かやう)な訳(わけ)で信順(のぶより)は転任(てんにん)早々(さう〳〵)容易(ようい)ならず窮民(きうみん)に対(たい)する保護(ほご)を劃策(くわくさく)したのであつたが為(ため)に人心(じん〳〵)は次第(しだい)に平(へい)
穏(おん)に皈(き)し市人(しじん)は皆(みな)其(その)仁徳(にんとく)を欽仰(きんげい)したと云(い)ふ事(こと)である又(ま)た信順(のぶより)が京都(けうと)在任中(ざいにんちう)禁裏(きんり)に罷出(まかりいで)たる事があるが
其(その)節(せつ)築地内(つきぢない)の掃除(さうぢ)が不行届(ふゆきとゞき)で雑草(ざつそう)が生(お)ひ茂(しげ)つて居(を)つたので皈館後(きくわんご)役人(やくにん)を召寄(めしよ)せて御築地内(おんつきぢない)不掃除(ふさうぢ)にて
草(くさ)の生立(おひた)つをも不構差置(かまはづさしお)くは何(なん)と心得居(こゝろえを)るにや恭(うや〳〵)しくも一 天(てん)の君(きみ)の御座所(ござしよ)たり甚(はなはだ)以(もつ)て不敬(ふけい)の事共(ことども)
也(なり)とて厳敷(きびしく)将来(せうらい)を戒(いまし)めたと云ふ話(はなし)がある又(ま)た公用人(こうようじん)岡本(をかもと)と云ふ者(もの)の話(はなし)だとして十 世遺事鈔(せいゐじしよう)の中(なか)に記(しる)し
てある処(ところ)を見(み)ると信順(のぶより)が京都(けうと)着任(ちやくにん)以来(いらい)常(つね)に役人(やくにん)等(ら)に向(むか)つて種々(しゆ〴〵)の質問(しつもん)を発(はつ)した様子(やうす)であるが之(こ)れが何(い)
時(つ)も意外(いぐわい)な事で誰(だれ)も其(その)答弁(たうべん)に苦(くるし)むだとの事である余(あま)り長(なが)くなるから一々 此処(こゝ)に其(その)逸話(いつわ)は申述(まをしの)べぬ考(かんがへ)で
あるが併(しか)し此(かく)の如(ごと)くして信順(のぶより)は鋭意(えいゝ)治(ぢ)を求(もと)めたものであるから世人(せじん)は実(じつ)に其(その)徳望(とくぼう)に皈服(きふく)したのである
序(ついで)だから一寸(ちよつと)此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたいと思(も)ふが信順(のぶより)が大阪城代(おほさかじやうだい)に任(にん)ぜられて赴任(ふにん)せる時(とき)の道中記(どうちうき)並(ならび)に
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百八十一
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百八十二
【本文】
《割書:大阪入城の|絵巻》 其(その)行列(ぎようれつ)の実況(じつけう)を絵巻物(ゑまきもの)にしたのが今(いま)旧藩中(きうはんちう)に伝(つた)はつて居(を)るのであるタシカ長尾清江(ながをせいかう)氏(し)の家(いへ)にも所蔵(しよざう)さ
れて居(を)る事(こと)と思(おも)ふが之(これ)は中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いもので此(この)時(とき)信順(のぶより)は九月朔日(天保二年)江戸(えど)を発(はつ)し八日 此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)
九日は滞在(たいざい)にて十日 出発(しゆつぱつ)其(その)十六日 大阪(おほさか)に着(ちやく)し十八日に入城(にふじやう)したものである之(これ)は頗(すこぶ)る厳(いか)めしかつたもの
で老人中(らうじんちう)にはまだ之(これ)を目撃(もくげき)した人(ひと)も生存(せうぞん)して居(を)る次第(しだい)である
サテ一 時(じ)天下(てんか)の勢力(せいりよく)を掌握(せうあく)した水野忠成(みづのたゞなり)も年(とし)七十一で天保(てんぱう)五年二月二十八日 病(やまひ)で卒去(そつきよ)したのであるが
程(ほど)なく彼(か)の水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)が入(い)つて本丸(ほんまる)老中(らうちう)の列(れつ)に加(くは)はつたのであるソコで多年(たねん)忠成(たゞなり)の為(ため)に圧(あつ)せられ
大久保忠眞 て居(ゐ)た大久保忠眞(おほくぼたゞさね)は次第(しだい)に勢力(せいりよく)を得(え)て意見(いけん)を実行(じつかう)する事が出来(でき)るようになつたので少(すこ)しくは忠成時代(たゞなりじだい)
の弊風(へいふう)も矯(た)めらるゝに至(いた)つたのであるが此(この)忠眞(たゞさね)も亦(ま)た天保(てんぱう)八年三月十九日 病(やまひ)で卒(そつ)せられたのである而(しか)
《割書:将軍家斉隠|居》 して其(その)年(とし)の四月二日 将軍(せうぐん)家斉(いへなり)は自(みづか)ら西丸(にしまる)に隠居(ゐんきよ)し世子(せいし)家慶(いへよし)が相続(さうぞく)して征夷大将軍(せいいたいせうぐん)に任(にん)ぜられたが隠居(ゐんきよ)
家慶襲職 後(ご)と雖(いへど)も家斉(いへなり)は大御所(おほごしよ)と称(せう)してまだ政務(せいむ)を聴(き)いたのである而(しか)も其(その)九年三月十日に西丸(にしまる)から失火(しつくわ)して全(ぜん)
部(ぶ)烏有(うゆう)に皈(き)したので其(その)再建築(さいけんちく)に就(つい)ては容易(ようい)ならず幕府(ばくふ)も財政(ざいせい)に困難(こんなん)したものもであるが家斉(いへなり)は老後(らうご)次(し)
《割書:水野忠邦の|改革》 第(だい)に我儘(わがまゝ)が募(つの)つたのみならず二三の権臣(けんしん)が其(その)意(い)を迎(むか)へ実(じつ)に賄賂横行(わいろわうかう)の有様(ありさま)でサスがの水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)
も之(これ)には閉口(へいこう)したのであつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く信順(のぶより)が京都所司代(けうとしよしだい)から老中(らうちう)に栄転(えいてん)したのは恰(あたか)も家(いへ)
慶(よし)が相続(さうぞく)した月(つき)の十六日で其(その)年(とし)の七月九日には又(ま)た脇坂安董(わきさかやすたゞ)と堀田正篤(ほつたまさあつ)とが老中(らうちう)の列(れつ)に加(くは)はつたので
ある尚(なほ)其(その)翌(よく)九年の三月には土井利位(どゐとしつら)も老中(らうちう)と相成(あひな)つたのであるが水野忠邦(みづのたゞくに)は即(すなは)ち其(その)上座(ぜうざ)として大(おほい)に幕(ばく)
政(せい)の改革(かいかく)をなさんと企(くはだ)てたのである元来(がんらい)此(この)忠邦(たゞくに)と云ふ人は中々(なか〳〵)の敏腕家(びんわんか)で幼少(ようせう)から文武(ぶんぶ)に志(こゝろざし)厚(あつ)く当(たう)
時(じ)大名(だいみよう)の若殿(わかとの)は遊宴(ゆうゑん)に耽(ふけ)るものが多(おほ)かつた風潮(ふうてう)であつたにも拘(かゝは)らず頗(すこぶ)る豪気(ごうき)で勉強家(べんけうか)であつた処(ところ)から
一 般(ぱん)からは変(かわ)り物(もの)として冷笑(れいせう)されて居(を)つたと云(い)ふ事(こと)である然(しか)るに此人(このひと)の多(おほ)く交際(かうさい)したのは成島司直(なるしましちよく)だ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
の筒井政憲(つゝゐまさのり)だのと云(い)ふような人(ひと)で林述斉(はやしじつさい)は段々(だん〴〵)老年(らうねん)に向(むか)つては居(を)つたが其(その)門(もん)にも亦(ま)た常(つね)に往来(わうらい)したの
である而(しか)して彼(か)の塩谷宕陰(しほのやとうゐん)をば賓師(ひんし)として顧問(こもん)に備(そな)へたと云(い)ふ事である此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから其(その)
老中(らうちう)の上座(ぜうざ)となるや大(おほい)に弊政(へいせい)を改革(かいかく)するの志(こゝろざし)があつて当時(たうじ)水戸(みと)の藩主(はんしゆ)であつた彼(か)の斉昭(なりあきら)の処(ところ)にも出(で)
入(いり)したのであるが初(はじ)めは中々(なか〳〵)意気投合(いきたうがう)したものである其(その)頃(ころ)斉昭(なりあきら)は彼(か)の藤田東湖(ふぢたとうこ)、会沢安(あひざはやすし)、青山延于(あをやまえんう)な
どゝ云(い)ふ人材(じんざい)を其(その)藩(はん)に登用(とうよう)して大(おほい)に衰世(すいせ)を挽回(ばんくわい)するに勉(つと)めたものであるが忠邦(たゞくに)が其(その)後(のち)天保(てんぱう)十二年六月
十三日を以(もつ)て真田信濃守幸貫(さなだしなのゝかみゆきつら)を老中(らうちう)に推挙(すいきよ)したのも実(じつ)は斉昭(なりあきら)の助言(じよごん)によつたものと伝(つた)へられて居(を)る幸(ゆき)
貫(つら)は前(まへ)に屡々(しば〳〵)申述(まをしの)べた松平定信(まつだひらさだのぶ)の次男(じなん)であるが定信(さだのぶ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く退隠(たいゐん)後(ご)は楽翁(らくをう)と号(がう)して風月(ふうげつ)を友(とも)と
して居(を)つたが憂国(いうこく)の念(ねん)は去(さ)らなかつたもので其(その)著(ちよ)「閑(ひま)なるあまり」などの中(なか)には種々(しゆ〴〵)概世(がいせ)の字句(じく)も見(み)
ゆるのである然(しか)るに此(この)人(ひと)は文政(ぶんせい)十一年六月 年(とし)七十一で卒去(そつきよ)せられたので信明(のぶあき)の卒去(そつきよ)よりも後(おく)るゝこと丁度(ちようど)
十二 年目(ねんめ)であつた此(かく)の如(ごと)く忠邦(たゞくに)は切(しき)りに幕府(ばくふ)の弊政(へいせい)を改革(かいかく)せむとするに意(い)があつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べた
如(ごと)く当時(たうじ)はまだ家斉(いへなり)が大御所(おほごしよ)と称(せう)して西(にし)ノ丸(まる)に控(ひか)へて居(を)り幕政(ばくせい)に与(あづか)ると云(い)ふ次第(しだい)でドウモ思(おも)ふように
行(おこな)ふ事が出来(でき)なかつたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)から又(ま)た外国船(ぐわいこくせん)が我(わが)沿岸(えんがん)に来航(らいかう)すると云(い)ふので外交上(ぐわいかうせう)の問(もん)
題(だい)が起(おこ)つたのであるが既(すで)に前章(ぜんせう)で御承知(ごせうち)の如(ごと)く信明(のぶあき)が老中(らうちう)たるの時代(じだい)林述斉(はやしじつさい)の意見(いけん)もあつた如(ごと)く極(きよく)
端(たん)なる攘夷論(ぜうゐろん)を排(はい)して適宜(てきぎ)の処置(しよち)を取(と)る事となしたので一 時(じ)円満(ゑんまん)なる解決(かいけつ)を告(つ)げた事であつたが其(その)後(のち)
文政(ぶんせい)八年に至(いた)つて外国船(ぐわいこくせん)とあれば二 念(ねん)なく打払(うちはら)へと云(い)ふ命(めい)を下(くだ)したのであるソコで今度(こんど)外交(ぐわいかう)の事(こと)起(おこ)る
《割書:渡辺崋山等|の疑獄》 に及(およ)び心(こゝろ)あるものは大(おほい)に之(これ)を憂(うれ)ひ種々(しゆ〴〵)計画(けいくわく)する処(ところ)があつたが御承知(ごせうち)の渡辺崋山(わたなべくわざん)、高野長英(たかのてうえい)などが慎機(しんき)
論(ろん)や夢物語(ゆめものがたり)などを著(あらは)し世(よ)を警(いまし)めむとしたのも即(すなは)ち此(この)時(とき)である之(これ)等(ら)の事に就(つい)ては既(すで)に種々(しゆ〴〵)の著書(ちよしよ)も世(よ)
《割書:蟄居中の崋|山》 に公(おほやけ)にされてある事であるから私(わたくし)は今(いま)茲(こゝ)に詳(くは)しくは申述(まをしの)べぬ考(かんがへ)であるが渡辺崋山(わたなべくわざん)がイヨ〳〵田原(たはら)へ蟄(ちつ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百八十三
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百八十四
【本文】
居(きよ)を仰付(あふせつけ)られたのは天保(てんぱう)十年十二月十八日でそれより崋山(くわざん)は江戸(えど)から国(くの)に来(き)て田原(たはら)に蟄居(ちつきよ)したのであ
るが崋山(くわざん)蟄居中(ちつきよちう)は屡々(しば〳〵)此(この)吉田(よしだ)へは来(き)たもので種々(しゆ〴〵)なる逸話(いつわ)も多(おほ)く残(のこ)つて居(を)る事である私(わたくし)が或(ある)老人(らうじん)から
聞(き)いて居(を)る話(はなし)に左(さ)の如(ごと)き事がある
此(この)吉田(よしだ)の某町(ぼうてう)(魚町(うをまち)か或(あるひ)は油屋世古(あぶらやせこ)辺(へん)であると記憶(きおく)する)に或(あ)る鰻屋(うなぎや)があつて其(その)亭主(ていしゆ)の名(な)を勝(かつ)と云(い)つ
たが崋山(くわざん)は吉田(よしだ)へ来(く)る毎(たび)に大概(たいがい)は此(この)家(いへ)に立寄(たちよ)つた然(しか)るに此(この)勝(かつ)と云(い)ふ者(もの)は至(いた)つて夫婦仲(ふうふなか)が悪(わる)くて何時(いつ)来(き)
ても夫婦喧嘩(ふうふげんくわ)をしない時(とき)はないソコで崋山(くわざん)は或(ある)時(とき)其(その)勝(かつ)に向(むか)つて自分(じぶん)が一つマジナヒに額面(がくめん)を書(か)いてや
ろうと云(い)つて「不争而克勝」と云(い)ふ文字(もんじ)を書(か)いて与(あた)へた而(しか)して其(その)意味(いみ)のある処(ところ)を能(よ)く〳〵説(と)き聞(き)かせた
が勝(かつ)も之(これ)に感(かん)じたか爾来(じらい)夫婦喧嘩(ふうふげんくわ)をしないようになつたと云(い)ふ事である其(その)額(がく)は其後(そののち)勝(かつ)が質入(しちいれ)して流(なが)し
て仕舞(しま)つたが今(いま)魚町(うをまち)の瀧崎安之助(たきざきやすのすけ)氏(し)方(かた)に蔵(ざう)せられて居(を)るより承知(せうち)して居(を)る
《割書:崋山の格天|井》 又(また)新銭町(しんせんまち)の天神社(てんじんしや)にも崋山(くわざん)筆(ふで)の格天井(かくてんぜう)が残(のこ)つて居(を)る之(これ)は月(つき)に雁(かり)を書(か)いたものであるが非凡出来(ひぼんでき)である
之(これ)には書翰(しよかん)が添(そへ)つて居(を)るが実(じつ)に面白(おもしろ)いものである此(この)書翰(しよかん)は一 時(じ)私(わたくし)の親属(しんぞく)に当(あた)る佐藤市(さとういち)十 郎(らう)方(かた)に蔵(ざう)さ
れて居(ゐ)たから度々(たび〴〵)拝見(はいけん)したが今(いま)は幸(さいはひ)に天神社(てんじんしや)に蔵(ざう)さるゝ事となつた相(さう)である勿論(もちろん)之(これ)も田原蟄居中(たはらちつきよちう)のも
ので実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける崋山(くわざん)の境遇(けうぐう)と此(この)吉田(よしだ)屡々(しば〳〵)往来(わうらい)された有様(ありさま)が分(わか)るので最(つと)も趣味(しゆみ)あるものであるか
崋山の日記 ら後世(こうせ)迄(まで)大切(たいせつ)に伝(つた)へたいと思(おも)ふ又(ま)た花園町(はなぞのまち)の浅井常(あさゐじよう)三 氏(し)方(かた)には崋山(くわざん)自筆(じしつ)の毛武遊記(もうぶゆうき)が蔵(ざう)されてあるが
之は天保(てんぱう)三年十月 崋山(くわざん)が武州(ぶしう)から野州(やしう)の方(はう)へ遊歴(ゆうれき)した時(とき)の道中記(どうちうき)で実(じつ)に面白(おもしろ)いものである殊(こと)に其(その)中(なか)に
生田萬(いくたまん)と図(はか)らず板橋(いたばし)の町端(まちはづ)れから道伴(みちづれ)になつて桶川(おけがは)の宿(しゆく)で同宿(どうしゆく)した時(とき)の事が詳(くは)しく記(しる)してある且(か)つ萬(まん)
の肖像(せうざう)までも書(か)いてある之(これ)は先年(せんねん)三上文学博士(みかみぶんがくはくし)が豊橋(とよはし)へ来(こ)られた時(とき)見(み)られて実(じつ)に珍(めづ)らしいものである
と云(い)ふので其(その)訳(わけ)を話(はな)し聴(き)かされたから私(わたくし)も大(おほい)に知識(ちしき)を得(え)た次第(しだい)であつたが此(この)生田萬(いくたまん)と云(い)ふ人(ひと)は御承知(ごせうち)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百五号附録 (大正二年三月四日発行)
【本文】
の如(ごと)く平田篤胤(ひらたあつたね)の門人(もんじん)で名(な)を道満(どうまん)と云(い)ひ秋田(あきた)の産(うまれ)であつたが天保(てんぱう)八年の飢饉(ききん)に大塩平(おほしほへい)八 郎(らう)が大阪(おほさか)で起(おこ)
せる変(へん)は其(その)意(こゝろ)救民(きうみん)にあると云(い)ふのを聞(き)いて自分(じぶん)も亦(ま)た越後(ゑちご)の柏崎(かしはざき)にあつて門人(もんじん)を集(あつ)め六月十日「奉天
命誅国賊」と書(しよ)せる旗(はた)を立(た)てゝ陣屋(ぢんや)だの富豪(ふごう)だのを襲(おそ)つたので妻子(さいし)諸共(もろとも)自殺(じさつ)した人(ひと)である此(この)人(ひと)が越後(ゑちご)
行(ゆき)の途中(とちう)図(はか)らず崋山(くわざん)と道伴(みちづれ)になつて初(はじ)めて話(はなし)を交(か)はした其(その)実際(じつさい)の記事(きじ)で而(しか)も崋山(くわざん)自筆(じしつ)であるから成程(なるほど)
得難(えがた)いものであると思(おも)ふのであるまだ崋山(くわざん)が蟄居中(ちつきよちう)此(この)吉田(よしだ)へ往来(わうらい)された事に就(つい)ては長尾華陽(ながをくわやう)、鈴木梅(すゞきばい)
厳(がん)の如(ごと)き諸先生(しよせんせい)に就(つい)て聞(き)いたならば面白(おもしろ)い事もあろうと思(おも)ふが遺憾(ゐかん)ながらまだ其(その)暇(ひま)を得(え)ない次第(しだい)であ
るイヅレ後(あと)から又(ま)た補遺(ほゐ)として申述(まをしの)ぶる事もあろうと考(かんが)へる
サテ此(この)時分(じぶん)の事を申述(まをしの)ぶれば中々(なか〳〵)複雑(ふくざつ)でもある今(いま)は成(な)るべく本市史(ほんしし)に関係(くわんけい)あるものに止(とゞ)めて進行(しんかう)し
家斉の薨去 たいのであるから略(りやく)するの外(ほか)はないが大御所(おほごしよ)の家斉(いへなり)は天保(てんぱう)十二年 閏(うるふ)正月 遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたので
あるトコロで水野忠邦(みづのたゞくに)はイヨ〳〵兼(かね)ての意見(いけん)を実行(じつかう)することと成(な)つて其(その)年(とし)の三月十五日 先(ま)づ西丸(にしまる)付(つき)の権(けん)
臣(しん)とも云(い)ふべき林肥後守忠英(はやしひごのかみたゞひで)、水野美濃守忠篤(みずのみのゝかみたゞあつ)、美濃部筑前守(みのべちくぜんのかみ)などを初(はじ)め西丸大奥(にしまるおほおく)に出入(でいり)して居(を)つた
日蓮宗(にちれんしう)の僧侶(そうりよ)に至(いた)る迄(まで)凡(およ)そ一千人に近(ちか)き人々(ひと〴〵)を斥(しりぞ)け夫(そ)れ〴〵軽重(けいぢう)の処罰(しよばつ)をしたがそれより引続(ひきつゞ)いて大(だい)
改革(かいかく)を行(おこな)ひ倹約(けんやく)の命(めい)を布(し)いたのである然(しか)るに此(この)事(こと)が実(じつ)に極端(きよくたん)であつたので非常(ひぜう)に怨嗟(えんさ)の声(こゑ)多(おほ)く忠邦(たゞくに)の
《割書:矢部駿州の|憤死》 政策(せいさく)は遂(つひ)に全(まつた)く失敗(しつぱい)に終(おは)るに至(いた)つたのである其(その)頃(ころ)彼(か)の矢部駿河守定謙(やべするがのかみさだかた)は大阪(おほさか)から転(てん)じて江戸(えど)の町奉行(まちぶぎよう)
であつたが先(さき)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べたる如(ごと)く実(じつ)に寛厳(かんげん)宜(よろ)しきを得(え)て評判(へうばん)の善(よ)かつた人(ひと)である然(しか)るに此度(このたび)此(この)改(かい)
革(かく)を以(もつ)て余(あま)りに極端(きよくたん)に過(す)ぐるとなしたが為(ため)に忠邦(たゞくに)の意(い)に忤(たか)ひ其(その)年(とし)の十二月廿一日 遂(つひ)に免職(めんしよく)となつて後(のち)
に伊勢(いせ)の桑名(くはな)に預(あづ)けられたが食(しよく)を絶(ぜつ)して憤死(ふんし)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)代(かは)りとして江戸(えど)の町奉行(まちぶぎよう)
鳥居忠耀 となつたのは彼(か)の鳥居耀蔵忠耀(とりゐえうざうたゞてる)であるが此(この)人(ひと)は崋山(くわざん)、長英(てうえい)等(ら)疑獄(ぎごく)の当時(たうじ)は目付役(めつけやく)で随分(ずゐぶん)世(よ)の中(なか)からは
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百八十五
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百八十六
【本文】
悪(あし)く言(い)はるゝ人(ひと)である而(しか)も此(この)矢部駿河守(やべするがのかみ)の憤死(ふんし)も其(その)原因(げんゐん)は耀蔵(えうざう)等(ら)の讒言(ざんげん)からであると伝(つた)へられて居(を)る
が併(しか)し此(この)耀蔵(えうざう)は後(のち)に甲斐守(かひのかみ)となつた人(ひと)で彼(か)の林述斉(はやしじゆさい)の次男(じなん)である従(したがつ)て相当(さうたう)に学問(がくもん)もあつたものである
が後世(こうせい)に譏(そし)らるゝ如(ごと)き悪者(わるもの)ではなかつたように思(おも)はるゝ然(しか)るに品性(ひんせい)が極(きは)めて小規模(せうきぼ)で余(あま)りに厳格(げんかく)に過(す)
ぐるの結果(けつくわ)到底(たうてい)人(ひと)を容(い)るゝ事の出来(でき)ざるのみではなく何事(なにごと)にも峻酷(しゆんこく)であつたが為(ため)に実(じつ)に世(よ)の中(なか)で怨(うら)ま
れたものである而(しか)してそれに命令(めいれい)したのが矢張(やはり)極端(きよくたん)なる水野忠邦(みづのたゞくに)ときて居(を)るので江戸中(えどちう)の怨(うら)みを集(あつ)め
た事は著(いちゞる)しきものであつたのである而(しか)して彼(か)の述斉(じゆさい)は丁度(ちようど)此(この)大改革(だいかいかく)の行(おこな)はれた天保(てんぱう)十二年に年(とし)七十四
で歿(ぼつ)したのであるが其(その)以前(いぜん)に於(おい)ても既(すで)に老病(らうびやう)の故(ゆゑ)を以(もつ)て引退(いんたい)して居(を)つたのであるから前(まへ)に申述(まをしの)べた渡(わた)
忠邦の失敗 辺崋山(なべくわざん)一 件(けん)の時(とき)などは恐(おそら)くは無関係(むくわんけい)であつたものと信(しん)ぜられるのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから此(この)忠(たゞ)
邦(くに)の大改革(だいかいかく)も遂(つひ)に種々(しゆ〴〵)なる障害(しようがい)を生(せう)じ忠邦(たゞくに)は天保(てんぱう)十四年閏九月十三日 其(その)職(しよく)を免(めん)ぜらるゝに至(いた)り改革(かいかく)の
事業(じげう)も結局(けつきよく)失敗(しつぱい)に帰(き)したのであるが忠邦(たゞくに)の後(のち)は土井利位(どゐとしつら)が受(う)けて老中上座(らうちうぜうざ)と相成(あひな)つたのであるトコロ
が此(この)人(ひと)は又(ま)た極(きは)めて保守主義(ほしゆしゆぎ)であつたから大概(たいがい)は忠邦(たゞくに)の方針(はうしん)を打破(うちやぶ)つたのである而(しか)して其(その)翌年(よくねん)は年号(ねんごう)
《割書:水戸斉昭の|謹慎》 が改(あらた)まつて弘化(こうくわ)となつたが其(その)元年(がんねん)の五月五日 水戸(みと)の斉昭(なりあきら)は遂(つひ)に謹慎(きんしん)を命(めい)ぜらるゝに至(いた)つたのであるモ
ツトモ忠邦(たゞくに)も最後(さいご)には外交(ぐわいかう)に関(くわん)して斉昭(なりあきら)と意見(いけん)を異(こと)にするに至(いた)つたのであつたが併(しか)し其(その)在職中(ざいしよくちう)は政略(せいりやく)
上(ぜう)陽(よう)に斉昭(なりあきら)を尊(たつと)むで居(を)つたのである然(しか)るに今度(このたび)此処(こゝ)に至(いた)つたのは全(まつた)く幕府(ばくふ)の方針(はうしん)が一 変(ぺん)せる結果(けつくわ)に外(ほか)
信順の隠居 ならぬので幕府(ばくふ)と水戸(みと)との関係(くわんけい)は愈(いよ〳〵)険悪(けんあく)と相成(あひな)つた次第(しだい)である之(これ)より先(さ)き天保(てんぱう)十三年の十二月十三
日に信順(のぶより)は隠居(ゐんきよ)して刑部大輔(けうぶたいいう)となり子(こ)信賓(のぶたか)が家督(かとく)を相続(さうぞく)して伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せられたが信順(のぶより)は程(ほど)なく天保(てんぱう)
信順の卒去 十五年(弘化元年)の三月二日(三月十日発表)年(とし)五十二 歳(さい)を以(もつ)て病(やまひ)で卒去(そつきよ)せられ矢張(やはり)野火留(のびどめ)先塋(せんけい)の次(つぎ)に
葬(ほうむ)り承天院(せうてんゐん)と諡(おくりな)されたのである
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
ソコで一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)きたいのは信順(のぶより)が老中在職中(らうちうざいしよくちう)に於(お)ける事蹟(じせき)であるが遺憾(ゐかん)な事には之(これ)がドウモ分(わか)
り兼(か)ぬるのであるモツトモ信順(のぶより)が老中(らうちう)に就職(しうしよく)したのは前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く天保(てんぱう)八年の五月十六日で
恰(あたか)も将軍(せうぐん)家慶(いへよし)が相続(さうぞく)の年(とし)であるが其(その)退職(たいしよく)の時日(じじつ)に就(つい)ては少(すこ)しく不明(ふめい)である併(しか)しドウ研究(けんきう)して見(み)ても私
は其(その)隠居(ゐんきよ)まで即(すなは)ち天保(てんぱう)十三年の十二月十三日までは勤続(きんぞく)して居(を)つたものと信(しん)ずるのである従(したがつ)て前述(ぜんじゆつ)
の如(ごと)く水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)が上座(ぜうざ)として幕政(ばくせい)に大改革(だいかいかく)を行(おこな)はむとした当時(たうじ)は之(これ)に参与(さんよ)して居(を)つたものとなさね
《割書:信順隠居の|事情》 ばならぬ此(こゝ)に於(おい)て私(わたくし)の疑問(ぎもん)とするのは其(その)隠居(ゐんきよ)の事情(じぜう)であるが信順(のぶより)の隠居(ゐんきよ)は恰(あたか)も其(その)五十 歳(さい)の時(とき)であるか
ら普通(ふつう)としてはまだ少(すこ)しく早過(はやす)ぎはしまいかと思(おも)ふ併(しか)し当時(たうじ)信順(のぶより)が病気(びやうき)であつたことは事実(じじつ)である之(これ)は
慎徳院記(しんとくゐんき)の中(なか)にも病気引退(びやうきいんたい)の事が書(か)いてあるが又(ま)た御承知(ごせうち)の中山美石(なかやまびせき)(此(この)人(ひと)の事は後(のち)に詳述(せうじゆつ)する筈(はづ)な
り)の公事記(くじき)にも其(その)事(こと)が載(の)つて居(を)るのである従(したがつ)て其(その)引退(いんたい)の原因(げんゐん)が病気(びやうき)の故(ゆゑ)であつた事は事実(じじつ)である
に相違(さうゐ)なかろうが蓋(けだ)し其(その)内(うち)に又(ま)た別(べつ)に事情(じぜう)の存(ぞん)するものがあつたではなかろうかと思(おも)はるゝのであ
る前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く信順(のぶより)と云(い)ふ人(ひと)は勤倹主義(きんけんしゆぎ)の人(ひと)で父(ちゝ)信明(のぶあき)の遺志(ゐし)を継(つ)いで居(を)つた事は勿論(もちろん)である
が併(しか)し又(ま)た寛量(かんれう)の性(せい)であつた事も敞(お)ふべからざる処(ところ)である従(したがつ)て大阪城代時代(おほさかじやうだいじだい)などは極(きは)めて矢部駿州(やべすんしう)を
信用(しんよう)したもので老中在職(らうちうざいしよく)の当時(たうじ)はまだ末座(まつざ)であつたから十 分(ぶん)に意見(いけん)の行(おこな)はれなかつた処(ところ)もあつたであ
ろうが前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く彼(か)の矢野駿州(やのすんしう)【矢部駿州(やべすんしう)の誤り】を江戸町奉行(えどまちぶぎよう)から貶した如(ごと)きは或(あるひ)は心中不服(しんちうふふく)の点(てん)もあつた
ではなかろうかと推測(すゐそく)せらるゝのである従(したがつ)て水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)の大改革(だいかいかく)の如(ごと)きは其(その)主旨(しゆし)に於(おい)ては勿論(もちろん)賛成(さんせい)で
あつたに相違(さうゐ)ないが之(これ)が実行(じつかう)に関(くわん)して余(あま)りに峻酷(しゆんこく)なりし点(てん)は或(あるひ)は其(その)意(い)に合(がつ)せざりしものがあつたでは
なかろうかと信(しん)ぜられるのである従(したがつ)て病身(びやうしん)なるを幸(さいはひ)に隠居(ゐんきよ)を願(ねが)ひ出(い)で角立(かどた)たぬように老中(らうちう)の職(しよく)をも
退(しりぞ)いたのではあるまいか之(これ)は誠(まこと)に私見(しけん)であつて公表(こうへう)するのは実(じつ)に如何(いかゞ)であるとは思(おも)ふが聊(いさゝか)信(しん)ずる点(てん)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百八十七
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の人物並に其藩主時代に於ける吉田の状況) 三百八十八
【本文】
もあるから茲(こゝ)に諸君(しよくん)の教(おしへ)を待(ま)たむとする処(ところ)である
⦿松平信順の人物並に其藩主時代に
於ける吉田の状況
信順の性行 サテ信順(のぶより)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く実(じつ)に勤倹主義(きんけんしゆぎ)の人(ひと)で数々(しば〳〵)倹約(けんやく)の命(めい)を藩内(はんない)に布(し)いたのである
が其(その)大主旨(だいしゆし)は常(つね)に父(ちゝ)信明(のぶあき)の方針(はうしん)を継承(けいせう)したものと思(おも)はれる従(したがつ)て寛厳(かんげん)常(つね)に宜(よろ)しきを得(え)たのであるが殊(こと)に
其(その)人(ひと)となりに於(おい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く屡々(しば〳〵)寛量(かんれう)の処(ところ)が見(み)へるのである而(しか)して其(その)内(うち)には又(ま)た誠(まこと)に緻(ち)
山田洞雪 密(みつ)の処(ところ)があつたのであるが此(この)人(ひと)が大阪城代(おほさかじやうだい)から京都所司代(けうとしよしだい)を勤(つと)めて居(を)つた頃(ころ)に画師(えし)の山田洞雪(やまだどうせつ)と云(い)ふ
人(ひと)も随行(ずいかう)して居(を)つたのである此(この)人(ひと)は谷文晁(たにぶんてふ)の門人(もんじん)で中々(なか〳〵)の上手(ぜうづ)であつたが信順(のぶより)は常(つね)に此(この)画師(えし)をして色(いろ)
色(いろ)と有(あ)り觸(ふ)れたものを臨写(りんしや)せしめ之(これ)を集(あつ)めて綴(つゞ)り込(こ)むで置(お)いたものがあるソレは今日(こんにち)も尚(な)ほ大河内家(おほかうちけ)
に残(のこ)つて居(を)るのであるが之(これ)を見(み)ると其(その)内(うち)には又(ま)た時(とき)の摺物(すりもの)で歌舞伎(かぶき)などの広告(かうこく)のようなもの迄(まで)も貼(は)り
込(こ)むである殊(こと)に面白(おもしろ)く思(おも)ふのは或夜(あるよ)大阪(おほさか)の城中(じやうちう)へ大(おほ)きな蜘蛛(くも)が出(で)て之(これ)を打(う)ち殺(ころ)したが普通(ふつう)にない大(おほい)さ
であるからと云(い)ふので例(れい)の洞雪(どうせつ)に写生(しやせい)せしめ之(これ)に其(その)蜘蛛(くも)の寸法(すんぱう)だの現(あら)はれた年月日(ねんがつひ)だのを書(か)き添(そ)へて
保存(ほぞん)してある事であるソンナ訳(わけ)で微細(びさい)な処(ところ)までも能(よ)く〳〵注意(ちうい)し之(これ)を纏(まと)めて丁寧(ていねい)に保存(ほぞん)して置(お)かれた
処(ところ)は信順(のぶより)が一 種(しゆ)の好(す)きからも成(な)した事であろうが一つには又(ま)た其(その)微蜜(びさい)な性質(せいしつ)をも現(あら)はして居(を)る事と思(おも)
ふのである而(しか)して信順(のぶより)は前章(ぜんせう)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く其(その)十五六 歳(さい)の頃(ころ)から彼(か)の太田錦城(おほたきんじやう)を師傅(しふ)として経書(けふしよ)
を学(まな)むだもので詩作(しさく)もカナリにはやつたものであるが文政(ぶんせい)二年 父(ちゝ)信明(のぶあき)卒去(そつきよ)となつて家督(かとく)を相続(さうぞく)すると
程(ほど)なく一たび国(くに)に就(つ)いたのである其(その)時(とき)は錦城(きんじやう)も随(したが)つて此 吉田(よしだ)に来(き)たのであるが凡(およ)そ一 年間(ねんかん)は此(この)地(ち)にあ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百十一号附録 (大正二年三月十一日発行)
【本文】
つたのである即(すなは)ち信順(のぶより)の吉田(よしだ)到着(たうちやく)は七月廿五日であつたが錦城(きんじやう)も翌年(よくねん)まで此(この)地(ち)にあつて時習館(じしうくわん)で経書(けふしよ)
中山美石 の講義(かうぎ)をなしたものである当時(たうじ)信順(のぶより)は必(かなら)ず自(みづか)らも出(い)でゝ其(その)講義(かうぎ)を聴聞(てうぶん)したとの事であるが又(また)其(その)頃(ころ)彼(か)の
中山美石(なかやまびせき)をも召(め)して和漢書(わかんしよ)の講義(かうぎ)を命(めい)じたのである此(この)人(ひと)は其(その)中(なか)でも多(おほ)く国學(こくがく)の講義(かうぎ)の方(はう)を引受(ひきう)けたの
であるが元来(がんらい)美石(びせき)と云(い)ふ人(ひと)は小禄(せうろく)の家(いへ)で通称(つうせう)を爲蔵(ためざう)後(のち)に彌助(やすけ)と云(い)ひ父(ちゝ)の名(な)を清勝(きよかつ)と云(い)つたが初(はじ)め遠州(ゑんしう)
新居(あらゐ)の関吏(せきり)に任(にん)ぜられて居(を)つたのである然(しか)るに実(じつ)に篤学(とくがく)の人(ひと)で国学(こくがく)は彼(か)の本居大平(もとおりおほひら)に就(つ)いて学(まば)むだの
であるが信明(のぶあき)の晩年(ばんねん)文化(ぶんくわ)十四年の五月に吉田(よしだ)に召寄(めしよ)せられて時習館(じしうくわん)の助教(じよけう)を拝命(はいめい)するに至(いた)つたのであ
る此(この)人(ひと)は其(その)後(のち)信順(のぶより)が大坂(おほさか)並(ならび)に京都(けうと)に在勤(ざいきん)の時(とき)も常(つね)に随行(ずゐかう)して怠(おこた)らず和漢書(わかんしよ)の講義(かうぎ)及(およ)び和歌(わか)の講釈(かうしやく)など
をなしたものであるが遂(つひ)には政治上(せいじぜう)の顧問(こもん)にも当(あた)つた様子(やうす)である信順(のぶより)はそれ故(ゆゑ)和歌(わか)にも中々(なか〳〵)堪能(たんのう)であ
公 事 記 つたのであるが前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた如(ごと)く此(この)美石(びせき)が書(か)き置(お)いたもので前章(ぜんせう)既(すで)に御話(おはなし)した彼(か)の公事記(くじき)並(ならび)
《割書:大坂日記 |京都日記 》 に大坂日記(おほさかにつき)、京都日記(けうとにつき)などと云(い)ふのがあるが之(これ)はいづれも日記体(につきたい)のもので信順(のぶより)に仕(つか)へた当時(たうじ)の事共(ことども)己(おの)
れに関係(くわんけい)せるものは細大漏(さいだいもら)さずに記載(きさい)した記録(きろく)であるが実(じつ)に其(その)当時(たうじ)を知(し)るには大切(たいせつ)のものであると思(おも)
ふ而(しか)も其(その)中(なか)には又(ま)た屡々(しば〳〵)信順(のぶより)が勉強家(べんけうか)であつた様子(やうす)が書(か)き現(あら)はしてあるのであるが今(いま)此(この)書(しよ)は其(その)子孫(しそん)の
家(いへ)に保存(ほぞん)されて居(を)るので此(この)頃(ころ)当市(たうし)の市史編纂係(しゝへんさんかゝり)に於(おい)てもソレを謄写(とうしや)して置(お)いたから結局(けつきよく)は市(し)の図書館(としよくわん)
に之(これ)を留(とゞ)める事(こと)になると思(おも)ふ
又(ま)た信順(のぶより)の手帳(ててう)が二 冊(さつ)幸(さいはひ)に大河内家(おほかうちけ)の蔵(くら)に残(のこ)つて居(を)るが之(これ)は簡単(かんたん)な手帳(ててう)で真中(まんなか)に煉筆(れんぴつ)が挟(はさ)まるよう
になつて居(を)る恐(おそら)くは旅行中(りよかうちう)にチヨイ〳〵必要(ひつよう)の事(こと)を書(か)き留(とゞ)めたものであろうと考(かんが)へるが其(その)中(なか)には間々(まゝ)
和歌(わか)なども記(しる)してある政事上(せいぢぜう)などに取(と)つて大(だい)なる材料(ざいれう)となる事(こと)はないようであるが信順(のぶより)の平常(へいぜう)を知(し)る
上(うへ)には随分(ずゐぶん)面白(おもしろ)いものである要(よう)するに信順(のぶより)と云(い)ふ人(ひと)は極(きは)めて質素(しつそ)であつて緻密(ちみつ)な性質(せいしつ)を持(も)ち且(か)つ相当(さうたう)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百八十九
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百九十
【本文】
に学問(がくもん)のあつたものと思(おも)はるゝ特(とく)に書(しよ)は頗(すこぶ)る能書(のうしよ)と云(い)ふべきであつて多数(たすう)我(わが)豊橋(とよはし)地方(ちはう)には遺(のこ)つて居(を)る
次第(しだい)である
サテ前(まへ)に一寸(ちよつと)中山美石(なかやまびせき)のことを申述(まをしの)べたが此(この)人(ひと)は元来(がんらい)安永(あんせい)四年十月十日 吉田(よしだ)に於(おい)て生(うま)れ天保(てんぱう)十四年八月
《割書:後撰集新抄|の出版》 年(とし)五十九で歿(ぼつ)した人(ひと)である本居大平(もとおりおほひら)の門人(もんじん)であつたことも前(まへ)に御話(おはなし)して置(お)いた如(ごと)くであるが後撰集新抄(ごせんしうしんしよう)
などの著書(ちよしよ)がある而(しか)も此(この)後撰集新抄(ごせんしうしんしよう)の出版(しゆつぱん)に就(つい)ては実(じつ)に容易(ようい)ならぬ苦心(くしん)をしたものと見(み)へるが殊(こと)に其(その)
費用(ひよう)に就(つい)ては余程(よほど)困難(こんなん)した様子(やうす)である初(はじ)め其(その)何分(なにぶん)を藩主(はんしゆ)より拝借(はいしやく)したが容易(ようい)に其(その)返済(へんさい)が出来(でき)ぬので苦(くるし)
むだ有様(ありさま)が矢張(やはり)公事記(くじき)の中(なか)に見(み)へて居(を)るので今日(こんにち)からも尚(な)ほ同情(どうぜう)に堪(た)へぬ思(おも)ひがするのである又(ま)た本(もと)
居大平翁(おりおほひらおう)の年譜(ねんぷ)を見(み)ると此(この)美石(びせき)が序文(ぢよぶん)を書(か)いて居(を)るのであるが其(その)門人(もんじん)名簿(めいぼ)に於(おい)ても吉田人(よしだじん)の中(なか)の筆頭(しつとう)
に記(しる)されて居(を)るのである而(しか)して此(この)門人(もんじん)名簿(めいぼ)にある連名(れんめい)は当時(たうじ)如何(いか)なる人(ひと)か此(この)大平(おほひら)に就(つい)て国学(こくがく)を学(まな)むだ
かが分(わか)るので大(おほい)に面白(おもしろ)いものであるから左(さ)に吉田(よしだ)住人(ぢうにん)の分(ぶん)だけを抜萃(ばつすゐ)したいと思(おも)ふ
参 河 国 吉 田
《割書:本居大平門|人々名》 中山彌助美石 実相院古道 橋本周作庸成
西岡銀助匡之 中山小右衛門眞道 小池一庵恭
久野逸蔵爲國 富田富次足穂 小川周蔵千文
西村孫次右衛門妻多米 西村多米妹八重 松平八右衛門忠直
岩上伝兵衛母登波 内藤熊吉正能 成就院養善
寶形院彰僊 松平殿 中山彌藤次豊村
横山五左衛門直礒 小川又助清風 金井氏女満知子
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
羽田野常陸敬雄 中川氏女玉江
右(みぎ)の人名(じんめい)の中(なか)で今日(こんにち)其(その)履歴(りれき)の分(わか)つて居(を)る人(ひと)もあれば分(わか)り兼(か)ぬる人(ひと)もあるが其(その)中(なか)で松平殿(まつだひらどの)とあるのは疑(うたがひ)
もなく信順(のぶより)の事(こと)であると思(おも)ふ其(その)訳(わけ)は大平(おほひら)の内遠(うちとほ)の門人録(もんじんろく)の終(をは)りに亡父(ぼうふ)門人(もんじん)文通(ぶんつう)不絶分(たへざるぶん)として其(その)中(なか)に松(まつ)
平伊豆守殿信順(だひらいづのかみどののぶより)、同妾町子(どうせうまちこ)、同老女玉江(どうらうぢえたまえ)と記載(きさい)してある事(こと)である之(これ)に依(よ)ると信順(のぶより)も亦(ま)た美石(びせき)の紹介(せうかい)で
大平(おほひら)の門人(もんじん)となつたのみならず本居家(もとおりけ)に対(たい)して絶(た)えず文通(ぶんつう)したものと信(しん)ぜられるのである尚(なほ)茲(こゝ)に御話(おはなし)
して置(お)きたいのは此(この)本居大平(もとおりおほひら)の祖父(そふ)に当(あた)る彼(か)の本居宣長(もとおりのりなが)の門人(もんじん)となつた人(ひと)で其(その)門人名簿(もんじんめいぼ)に載(の)つて居(を)る
のが此(この)吉田(よしだ)の人(ひと)で五 人(にん)あるのであるそれは天明(てんめい)四年の入門(にふもん)で鈴木土佐(すゞきとさ)寛政(かんせい)元年(がんねん)の入門(にふもん)で鈴木陸奥(すゞきむつ)寛政(かんせい)
鈴木土佐 五 年(ねん)入門(にふもん)で鈴木若狭(すゞきわかさ)と大山治左衛門(おほやまぢざゑもん)母(はゝ)縫(ぬい)寛政(かんせい)十二 年(ねん)入門(にふもん)で寶形院観蓮(ほうげうゐんくわんれん)とであるが其(その)中(なか)で鈴木土佐(すゞきとさ)と鈴(すゞ)
木陸奥(きむつ)とは親子(おやこ)である之(これ)は今(いま)の鈴木延路君(すゞきのぶぢくん)の祖先(そせん)であらるゝが土佐(とさ)と云(い)ふ人(ひと)は梁満呂(やなまろ)と云(い)つたので其(その)
鈴木陸奥 子(こ)の陸奥(むつ)と云(い)ふ人(ひと)は重野(しげの)と云(い)つたのである二 人(にん)共(とも)中々(なか〳〵)の人物(じんぶつ)であつたが土佐(とさ)の方(はう)は実(じつ)に信明(のぶあき)時代(じだい)の人(ひと)
であるから其(その)当時(たうじ)に於(おい)て御話(おはなし)すべき筈(はづ)であつたのであるが今(いま)茲(こゝ)に申述(まをしの)ぶる次第(しだい)であるトコロで此(この)土佐(とさ)
と云(い)ふ人(ひと)は実(じつ)に節倹家(せつけんか)であつたが又(ま)た善行(ぜんかう)の多(おほ)かつた人(ひと)である宣長(のりなが)と数々(しば〳〵)往復(わうふく)した書翰(しよかん)は今(いま)も延路君(のぶぢくん)
の家(いへ)に遺(のこ)つて居(を)るが自分(じぶん)に書(か)き残(のこ)して置(お)いたものも少(すこ)しくあるのである私(わたくし)は此(この)頃(ごろ)其(その)手記(しゆき)の中(なか)から安永(あんえい)
八 年(ねん)の十一月 此(この)吉田本町(よしだほんまち)に大火(たいくわ)のあつた時(とき)の事(こと)を記(しる)したものを発見(はつけん)したので甚(はなは)だ面白(おもしろ)いものであると
思(おも)ふのであるモツトモ此(この)火事(くわじ)の事(こと)は信明(のぶあき)の時代(じだい)を御話(おはなし)した内(うち)に既(すで)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べては置(お)いたが尚(なほ)補遺(ほゐ)と
して茲(こゝ)にそれを掲載(けいさい)したいと思(おも)ふのである
《割書:安永八年吉|田大火に関》 十一月三日夜暁七ツ時(十一月四日)本町藤井宗淳宅より火出本町不残焼御輿休町天王社中不残焼失
《割書:する鈴木土|佐の手記》 祢宜田中近江宅焼失夫ゟ魚町へ焼ぬけ魚町西方より焼乾風強く吹き権現の西隣善九郎といふ者の家
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百九十一
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の襲職) 三百九十二
【本文】
焼神楽殿に火かゝり神楽殿焼る此神楽殿は善九郎家に軒ならび候故焼候然処神楽殿へ火付候へば乾
風即に神山風に吹なほし拝殿本社の方へ火烟を寄付ず依て本社拝殿鳥居大門並応屋無難ニ相遁候乾
風忽神山風に吹なほせしハ偏に神力なりと人々云ふ也魚町の北側は権現の向長吉と云ふ人の家にて
火留る長吉が家は半焼也権現の御神躰は十一月四日の暁方出火有といふより白山の社中へ遷し奉る
十一月四日の夜は白山の拝殿に安置して十一月五日夜魚町熊野社に遷奉るもとの如し(中略)扨本町
より出火札木町呉服町曲尺手町鍛冶町は談合宮入口まで焼る希代の大火なり
ソコで此(この)土佐(とさ)の子(こ)の陸奥(むつ)と云(い)ふ人(ひと)も中々(なか〳〵)の人物(じんぶつ)であつて平田篤胤(ひらたあつたね)などゝも常(つね)に文通(ぶんつう)したことであつたが
太田錦城(おほたきんじやう)が信順(のぶより)に従(したがつ)て此(この)吉田(よしだ)に居(を)つた間(あひだ)も数々(しば〳〵)之(これ)と交遊(かうゆう)したものである錦城(きんじやう)が陸奥(むつ)に贈(おく)つた詩(し)は今(いま)も
延路君(のぶぢくん)の家(いへ)に存(そん)して居(を)るが其(その)最後(さいご)に吉田(よしだ)に於(おい)て交遊(かうゆう)した人(ひと)も数多(あまた)あるが其(その)中(なか)で陸奥(むつ)程(ほど)の人物(じんぶつ)は他(た)には
ないと思(おも)ふと云(い)ふ意味(いみ)が書(か)き添(そ)へられてあるのである錦城(きんじやう)も余程(よほど)陸奥(むつ)の人物(じんぶつ)たる事(こと)を信(しん)じたものと見(み)
へるのでめ【めはあの誤り】る
《割書:山田洞雪は|横山文堂の|誤》 ⦿正誤(せいご)本章(ほんせう)の初(はじめ)に画師山田洞雪(●●●●●●)と申述(まをしの)べて置(お)いたがあれは全(まつた)く横山文堂(●●●●)と云(い)ふ画師(えし)の誤(あやまり)で私(わたくし)が其(その)
名前(なまへ)を間違(まちが)へた次第(しだい)である併(しか)し事柄(ことがら)に就(つい)ては違(ちが)いはないので只(たゞ)其(その)名前(なまへ)丈(だけ)を此処(こゝ)に訂正(ていせい)したいと思(おも)
ふのである
僧了願 尚(なほ)之(これ)に続(つゞい)で此処(こゝ)に御話(おはなし)したいのは了願(れうぐわん)と云(い)ふ僧侶(そうりよ)のことである此(この)人(ひと)は今(いま)の花園町(はなぞのてう)浄円寺(ぜうゑんじ)の住職(ぢうしよく)で法雲庵(はううんあん)
と号(がう)した人(ひと)であるが明和(めいわ)三年の生(うまれ)で幼少(えうせう)から学(がく)を好(この)み詩文(しぶん)に長(てう)じ和歌(わか)をも善(よ)くした初(はじめ)め最親院義陶(さいしんゐんぎとう)(
此(この)人(ひと)のことは少(すこ)しく不明(ふめい)なり)と云(い)ふ人(ひと)に就(つい)て学(まな)むだが後(のち)京都(けうと)に出(い)でゝ高倉大学(たかくらだいがく)に入(い)り知山(ちざん)、泉山(せんざん)など
の諸大家(しよたいけ)に従(したがつ)て華天蜜禅倶舎法相(くわせんみつせんぐしやはふさう)の蘊奥(うんのふ)を究(きは)め後(のち)に同大学(どうだいがく)の寮司(れうじ)に任(にん)ぜられたが程(ほど)なく国(くに)に帰(かへ)つて熟(じゆく)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百十六号附録 (大正二年三月十八日発行)
【本文】
舎(しや)を浄円寺(ぜうゑんじ)内(ない)に設(まを)け子弟(してい)の教育(けういく)に全力(ぜんりよく)を傾注(けいちう)したのである其後(そののち)数々(しば〳〵)京都(けうと)から招(まね)かれた事(こと)があつたが遂(つひ)
に之(これ)に応(おう)せず文化(ぶんくわ)元年(がんねん)に至(いた)つて経蔵(けうぐら)を境内(けうたい)に起(おこ)し一 切経(さいけう)を蔵(ざう)したのであるが之(これ)には了願(れうぐわん)も余程(よほど)苦心(くしん)を
重(かさ)ねた事(こと)であつた今日(こんにち)も尚(なほ)其(その)蔵(くら)だけは残(のこ)つて居(を)る次第(しだい)であるが其(その)他(た)大無量寿経(だいむれうじゆけう)を和哥(わか)に訳(やく)して之(これ)を判(はん)
行(かう)したり中々(なか〳〵)事業(じげふ)の見(み)るべきものがある著者(ちよしよ)にも大無量寿経(だいむれうじゆけう)略述(りやくじゆつ)十二 巻(くわん)あるが其(その)筆蹟(ひつせき)も一 種(しゆ)の気骨(きこつ)
と風韻(ふうゐん)があつて頗(すこぶ)る見(み)るべきものである文政(ぶんせい)五年十二月 年(とし)五十七で寂(じやく)した而(しか)も終身(しうしん)娶(めと)らなかつたととの
事(こと)である
大珍彭仙 又(また)其頃(そのころ)龍拈寺(りうねんじ)の住職(ぢうしよく)にも大珍彭仙(たいちんほうせん)と云(い)ふ僧侶(そうりよ)があつたが之(これ)も中々(なか〳〵)の名僧(めいそう)で僧俗(そうぞく)の帰依(きえ)する処(ところ)となつた
が其人(そのひと)の寂後(じやくご)弟子(してい)の如山(によざん)と云(い)ふ僧(そう)が彭仙(ほうせん)の存生中(ぞんせいちう)に説(と)いた処(ところ)の教理(けうり)を集(あつ)めて一 書(しよ)となして或問止啼飾(わくもんしてんしよく)と
云(い)つたのである之(これ)は今(いま)も残(のこ)つて居(を)つて禅学者間(ぜんがくしやかん)に行(おこな)はるゝものである此(この)人(ひと)は文政(ぶんせい)三年十月 年(とし)七十三で
寂(じやく)したのであるから其(その)壮(さかん)なる時代(じだい)は矢張(やはり)信明(のぶあき)執政(しつせい)の頃(ころ)であつたのである
大口三緘 次(つぎ)に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)きたいのは大口三緘(おほぐちさんかん)の事(こと)であるが之(これ)は私(わたくし)の祖先(そせん)に当(あた)るのであるから此処(こゝ)に申述(まをしの)ぶ
るも如何(いかゞ)であるとは思(おも)ふが実(じつ)は珍(めづ)らしい能書家(のうしよか)であつて屡々(しば〳〵)信明(のぶあき)時代(じだい)に藩(はん)から褒賞(ほうせう)されたものである
幼名(えうめい)を周作(しうさく)又(ま)た肥富(ひとみ)と云(い)つて元来(がんらい)は同町内(どうてうない)の佐藤市(さとういち)十 郎(らう)の子(こ)であつたが幼少(えうせう)から私(わたくし)の家(いへ)に養(やしな)はれたも
のである此(この)人(ひと)が十五 歳(さい)の時(とき)に書(か)いた六 枚折(まいをり)の屏風(べうぶ)は今(いま)も私(わたくし)の家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るのであるが全(まつた)く米芾(べいふつ)の書(しよ)
風(ふう)である其頃(そのころ)楽庵(らくあん)と云(い)ふ書家(しよか)が田町(たまち)(今(いま)の湊町(みなとまち))に住(す)むで居(ゐ)たが此(この)人(ひと)も中々(なか〳〵)の能書(のうしよ)であつた然(しか)るに此(この)三(さん)
緘(かん)の筆蹟(ひつせき)には感服(かんぷく)して歴代名書要論(れきだいめいしよえうろん)と云(い)ふ書物(しよもつ)に其訳(そのわけ)を自書(じしよ)して之(これ)を贈(おく)つたのであるが幸(さいはひ)に之(これ)も私(わたくし)
の家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るのである然(しか)るに三緘(さんかん)は僅(わづか)に十七 歳(さい)で文政(ぶんせい)三年八月 病歿(びようぼつ)したが此(この)人(ひと)の遺物(ゐぶん)は尚(なほ)多数(たすう)に
私(わたくし)方(かた)に蔵(ざう)して居(お)るのである
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の人物並に其藩主時代に於ける吉田の状況) 三百九十三
【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の人物並に其藩主時代に於ける吉田の状況) 三百九十四
【本文】
四時庵北溟 ソレから前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べた生花(せいくわ)の名人(めいじん)北萊(ほくらい)の弟子(でし)に北溟(ほくめい)と云ふ人(ひと)があつた事は其(その)道(みち)の方(かた)には能(よ)く御承知(ごせうち)
に成(な)つて居(お)る事(こと)であるが此(この)人(ひと)は矢張(やはり)観音寺(くわんおんじ)の住職(ぢうしよく)で北萊(ほくらい)に対(たい)しては法孫(はふそん)に当(あた)るのであるが後(のち)に四時庵(しじあん)
の名(な)を襲(つ)ぎ文政(ぶんせい)五年十二月 会頭(くわいとう)の可印(かいん)を受(う)けたのである併(しか)し此(この)人(ひと)の事蹟(じせき)に付(つい)ては其(その)他(た)に能(よ)く知(し)る事の
出来(でき)ぬのは遺憾(ゐかん)であると思(おも)ふ
孝子初蔵 尚(なほ)此処(こゝ)に一つ御話(おはなし)したいと思(おも)ふのは其(その)頃(ころ)魚町(うをまち)の初蔵(はつざう)と云(い)ふ孝子(かうし)のあつた事である之(これ)は今(いま)も尚(な)ほ魚町(うをまち)に
住(す)むで居(お)らるゝ早川彦(はやかはひこ)七と云ふ方(かた)の祖先(そせん)であるが父(ちゝ)を彦助(ひこすけ)と云つたのである性温厚(せいおんこう)であつて至(いた)つて孝(かう)
心(しん)が深(ふか)かつたが家(いへ)は元(もと)より貧乏(びんぼう)であつたから此(この)初蔵(はつざう)は昼夜(ちうや)稼業(かげふ)を励(はげ)むで父母(ふぼ)に奉(ほう)じたのであるが特(とく)に
読書(どくしよ)を好(この)むで深更(しんかう)に至(いた)るまで常(つね)に倦(う)む事がなかつたのである勿論(もちろん)倹約(けんやく)に倹約(けんやく)を重(かさ)ねて零砕(れいさい)の資(し)と雖(いへど)も
余裕(よゆう)があれば必(かなら)ず之(これ)を貯蓄(ちよちく)して居(お)つたが或時(あるとき)書物(しよもつ)が購(あがな)ひたいと思(おも)つた併(しか)し其(その)資(し)を得(う)るに困難(こんなん)した為(ため)に
名古屋(なごや)まで行(ゆ)く〳〵他人(たにん)の貨物(くわもつ)を担(にな)つて僅(わづか)の賃銭(ちんせん)を得(え)其(その)銭(ぜに)を以(もつ)て目的(もくてき)の書物(しよもつ)を購(あがな)ひ之(これ)を携(たづさ)へて帰(かへ)つた
と云ふ話(はなし)がある其(その)孝道(かうどう)並(ならび)に平素(へいそ)の行為(かうゐ)が段々(だん〴〵)人(ひと)に知(し)れ遂(つひ)には藩主(はんしゆ)信順(のぶより)の耳(みゝ)に入(い)つて文政(ぶんせい)二年 米(こめ)七 俵(へう)を
賜(たまは)つて之(これ)を賞(せう)されたのである今(いま)も此(この)初蔵(はつざう)が自写(じしや)した王蓮集(わうれんしう)と云ふものが其(その)子孫(しそん)の家(いへ)に残(のこ)つて居(お)る尚(なほ)其(その)
履歴(りれき)の詳細(せうさい)は本藩孝子伝(ほんはんかうしでん)と云ふ書物(しよもつ)の中(なか)にも載(の)つて居(お)るから就(つい)て見(み)られむことを望(のぞ)むのである
其他(そのた)此(この)信順(のぶより)時代(じだい)の記録(きろく)としては色々(いろ〳〵)なものが大河内家(おほかうちけ)の蔵(くら)にもあり又(ま)た船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)などにもあるまだ
一々 私(わたくし)も之(これ)を調査(てうさ)し兼(か)ねて居(お)るのであるが段々(だん〴〵)と之(これ)を取調(とりしら)べて市史編纂(ししへんさん)までには必要(ひつえう)なる事は尚(なほ)之(これ)を
発表(はつぺう)したいと考(かんが)へて居(お)るのである従(したがつ)つて御心付(おこゝろづき)の方(かた)がありますれば何事(なにごと)によらず教(おしへ)を垂(た)れらるゝ事
を惜(おし)まれないように願(ねが)ひたいと思(おも)ふ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
⦿松平伊豆守信寶
松平信寶 前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く松平信順(まつだひらのぶより)は天保(てんぱう)十三年十二月十三日を以(もつ)て隠居(ゐんきよ)したのであるが其(その)子(こ)信寶(のぶたか)は仝日(どうじつ)
家督相続(かとくさうぞく)を命(めい)ぜられ続(つゞい)て伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せられて父(ちゝ)の封(ほう)を襲(つ)いだのである母(はゝ)は前章(ぜんせう)にも申述(まをしの)べた金子氏(かねこし)町(まち)
子(こ)であるが後(のち)に冷松院(れいせうゐん)と云はれた人(ひと)である而(しか)して信寶(のぶたか)は文政(ぶんせい)九年九月十日の生(うまれ)で初(はじ)め長之助(てうのすけ)と云つた
が伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せらるゝ以前(いぜん)には隼人正(はやとのせう)と称(せう)したのであるトコロで此(この)信寶(のぶたか)襲封(しうほう)の当時(たうじ)は外交(ぐわいかう)の問題(もんだい)が中(なか)
中(なか)盛(さかん)になり其(その)翌(よく)天保(てんぱう)十四年の閏(うるふ)九月には水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)も其(その)大改革(だいかいかく)が失敗(しつぱい)に終(をは)つて老中(らうちう)を辞職(じしよく)すると
云ふ始末(しまつ)で其(その)後(のち)は土井利位(どゐとしつら)が老中(らうちう)上座(ぜうざ)となつて之(これ)を承(う)けたが忽(たちま)ち水戸斉昭(みとなりあきら)との間(あひだ)に衝突(せうとつ)を来(きた)すに至(いた)つ
たのである之(これ)等(ら)の事は既(すで)に其(その)大要(たいえう)を前章(ぜんせう)にも申述(もをしの)べて置(お)いたのであるが天保(てんぱう)は其(その)十五年 目(め)に弘化(こうくわ)と改(かい)
信寶卒去 元(げん)されたが其(その)天保(てんぱう)十五年の三月二日 隠居(ゐんきよ)の信順(のぶより)は卒去(そつきよ)となり続(つゞ)いで其(その)年(とし)の十月十七日(十一月廿日 発(はつ)
表(ぺう))信寶(のぶたか)も亦(また)病(やまひ)で卒去(そつきよ)と相成(あひな)つたのである卒年(そつねん)僅(わづ)かに廿一 歳(さい)で寛量院(かんれうゐん)と諡(おくりな)されたのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)
で信寶(のぶたか)は其(その)在世(ざいせ)甚(はなは)だ長(なが)からず従(したがつ)て茲(こゝ)に御話(おはなし)する事項(じこう)も右(みぎ)申述(まをしの)べた位(くらゐ)で他(た)に之(これ)と云ふのもない様(やう)であ
る併(しか)し信寶(のぶたか)が相続(さうぞく)の翌年(よくねん)天保(てんぱう)十四年六月十二日 此(この)吉田(よしだ)に入城(にふぜう)した時(とき)自書(じしよ)を以(もつ)て老衆(らうしう)に言(い)ひ渡(わた)した事は
当時(たうじ)に於(お)ける諸侯(しよこう)の内情(ないぜう)を知(し)る上(うへ)には誠(まこと)に面白(おもしろ)い資料(しれう)である而(しか)して其(その)翌(よく)十五年六月 目付(めつけ)より觸(ふ)れ出(だ)し
た時習館(じしふくわん)に関(くわん)する件(けん)並(ならび)に同年(どうねん)九月 同(おな)じく目付(めつけ)よりの觸書(ふれがき)は藩(はん)の学事(がくじ)に関(くわん)し及(およ)び時(とき)の風習(ふうしう)を知(し)る上(うへ)に於(おい)
て甚(はなは)だ面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に掲載(けいさい)して参考(さんかう)に供(けう)したいと思(おも)ふのである
天保十四年癸卯六月十二日吉田表にて信寶君御自書於大書院老衆被仰渡
《割書:信寶自書の|仰渡》 家中の者共年成引米多難義可有之の処いつれも取続相勤候段畢竟常々心懸奇特の事に候此度家督に
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信寶) 三百九十五
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信寶) 三百九十六
【本文】
付ては少々たり共引米弛め遣度候処連年莫大の物入打続勝手向必至と差支此上暮し方趣立兼候事に
付乍残念不能其義候乍併右存し立候趣意せめて相顕候様にも致度兼々分米之内にて為除置候金子乍
少々一同へ為取候事に候猶勝手向之義此侭にて打過候はゝ終には家中扶助も出来兼候様にも可相成
と深致心痛候依之猶又諸向厳敷省略申付候間万事失墜無之様厚心を用ひ今一際省略之廉相立候様致
度事に候尤為筋之儀二年存付候はゝ聊無遠慮可申出候尚委細は家老共へ申含候
卯五年廿六日
《割書:諸侯財政の|窮状》 之(これ)で見(み)ると実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける諸侯(しよこう)の財政(ざいせい)と云ふものゝ情態(ぜうたい)が分(わか)るようであるが之(これ)は結局(けつきよく)幕府(ばくふ)其(その)ものゝ
財政(ざいせい)窮乏(きうばう)の余波(よは)が及(およ)むで居(お)るものであると信(しん)ずるのである兎(と)に角(かく)此(この)仰渡(あふせわたし)は誠(まこと)に露骨(ろこつ)であつて当時(たうじ)の内(ない)
情(ぜう)を知(し)る上(うへ)に於(おい)ては善(よき)材料(ざいれう)であるように思(おも)ふ次(つぎ)に時習館(じしふくわん)に関(くわん)する事であるが其(その)触書(ふれがき)は左(さ)の如(ごと)くであ
る
《割書:時習館に関|する触書》 文武御取立之義従御先代様度々被仰出時習館之儀も去ル宝暦度文化度厳重に被仰出銘々心掛出精
致候事に志候得共猶又此度文武之義厚被仰出芸達之者出来候様被遊度被思召候ニ付時習館之義弥厳
重ニ被仰出夫々掛り之者被仰付諸芸時習館に於て無絶間出来候様被仰付候間銘々心掛候芸術望次第
稽古可致候就ては道場新建等被仰付候得共一同厚相心掛出精昇達致候様銘々真実之修行可致候尤御
役人以上年若之者は別而自己之執行は勿論年輩之者も折々罷出心付可申候
付手習算術之儀銘々無油断心掛申可候
一若年之者も素読之儀は勿論諸芸共入門為致出精可為致候是迄年若者一向に稽古不致者も有之候
得共以来ハ右様之者は其親々え急度御沙汰可有之候間其趣兼て御心得可申候
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百二十二号附録(大正二年三月二十五日発行)
【本文】
一書物伝授之節は懸り御役人其芸見分可致候事
一他流稽古批判は勿論透見等一切致間敷事
一稽古道場不足にて差支之儀は可有之候得共御時節柄之義にて思召通にも難被遊師匠之申合差支無
之様稽古可為致候事
右之通被仰出候間御家中へ可相觸旨孫次右衛門殿被仰渡候間可被得其意候以上
六月朔日(天保十五年甲辰) 御 目 付
諸稽古時習館定日之外日々師匠宅ニ而有之候所諸芸心掛ル者所々通ヒ致稽古候而者心掛通執行致候
義難茂出来候ニ付此度釼術道場壱ケ所御新建ニ相成候間左之通稽古繰合不限晴雨日々代ル〳〵稽古
可致候事
一弓稽古両流壱ケ月置九ツ時限朝夕代リ合半日ツヽ於時習館稽古可致事
但一日之内一時鉄炮空矯稽古可致事
一鎗術稽古終日持切
但一日之内一時無念流釼術三ツ道具稽古可致候事
新建道場
一釼術稽古両流一ケ月置半日代リ弓稽古之通
道場御修復
一杢馬居合両流申合前同断
一柔術稽古両流申合前同断
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信寶) 三百九十七
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信寶) 三百九十八
【本文】
一軍学躾方朝四ツ時ゟ九ツ時迄夕七ツ時ゟ暮迄之内申合差支無之様稽古可致事
一終日稽古致候節ハ名前懸り之者え書出シ師匠之宅ニテ可致候事
一右芸術師匠之無懈怠罷出精々取立可申事尤御役人以下御広間勤之者御番御免被成候事
但日勤又者御用多之御役向ハ御用透ニ罷出其余ハ高弟之者罷出世話可致事
一一流ニ付高弟之者ニテ世話行届候者見立師匠ニゟ書出可申事右之者え世話被仰付候間是又御広間
勤之者ハ御番御免被成候事
但半年代リニテ休月之節ハ御番相勤候事
一講釈輪講会読之儀ハ八ツ時ゟ七ツ時迄尤宅講釈之分も時習館え罷出可致候事
右太田魯三郎、西岡介蔵、山本勘三郎罷出講釈致且門弟之者致世話取立可申事
右一時之内諸稽古古相休一同聴聞可致事
一会読輪講詩文会等之儀昇立之者え繁々可為致事
但国学並都而文事ニ携候義勝手次第之事
一素読之義ハ是迄之通無油断取立可申事
一鉄炮稽古之義ハ御帳前掛リ被仰付候者天王矢場並師匠者勿論高弟之者師ニ差添稽古世話致可為致
出精事
一稽古出席之儀ハ月々師匠ニ記置毎月朔日目付え差出可申事
但名前上星附ニ可致事
一書物伝授相済候者え其度々御褒美被下置候事
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
一於時習館掛リ御役人ハ勿論師匠並世話役被仰付候者申付違背致不行跡之もの於有之ハ自分弁当ニテ
時習館十日詰被仰付候事
但日之出ゟ出之入迄
一書物伝授之儀流儀々々仕来ニテ遅速之儀あながち一様ニも相成間敷又流ニテ茂其者之性質且修行
之次第ニテ年限之極メ茂難出来事ニ可有之候得共其芸未熟之者ニテ書物等相望亦者師匠ゟも進ミ
之為抔迚手数早く差免シ候向茂有之義ニ相聞え候書物伝授之儀者其流儀之先師ゟ之定茂可有之候
間師範之面々其訳巨細ニ相認御目付其差出可申候
辰六月朔日
当時(たうじ)に於(お)ける文武修行(ぶんぶしうぎよう)の状態(ぜうたい)並(ならび)に時習館(じしふくわん)の有様(ありさま)は之(これ)にて大要(たいえう)分(わか)る事(こと)であると思(おも)ふ左(さ)の触書(ふれがき)は実(じつ)に其頃(そのころ)
に於(お)ける風俗(ふうぞく)を窺(うかゞ)ひ知(し)らしむる上(うへ)に於(おい)て至極(しごく)面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふから之(これ)も全文(ぜんぶん)を茲(こゝ)に掲(かゝ)げて見(み)よ
うと思(おも)ふ
《割書:倹約に関す|る席觸》 天保十五年九月十八日席觸之写
先達テモ度々被仰出候処御家中之者並組支配之内町方え罷出饂飩屋並酒屋等え立寄其外猥りニ所
々致徘徊候義不相成趣兼々御沙汰茂有之候処中ニ者心得違之者有之哉ニ相聞へ不埒之事ニ候向後
右様心得違之者於有之者御吟味之急度可被及御沙汰候
一風巾之儀是迄四月朔日ゟ五月六日限リ揚来候処以来正月壱ケ月限リ揚可申候尤紙数之義ハ端不切
紙拾枚ニ限リ尾巾義ハ是迄之通可為之事
但彩色絵一切不相成候事
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信寶) 三百九十九
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信寶) 四百
【本文】
一仏事之節中酒又は茶と名付酒出候族茂有之趣ニ相聞ヘ候以来右体之義無之様可被相心得候
右之通御家中え可相觸旨肇殿被仰渡候可被得其意候尤組支配有之面々此旨精々御申付可有之候万一
右ケ條ニ相背候者於有之者見聞次第御徒目付並下目付共早々申出候様兼而申付置候間其段御心得有
之候
御 目 付
右(みぎ)の触書(ふれがき)で見(み)ると当時(たうじ)紙鳶(たこ)を揚(あげ)るのを正月(せうぐわつ)一ケ月に限(かぎ)るように制限(せいげん)した事があつたものと見(み)える御承(ごせう)
知(ち)の通(とほ)り関東地方(くわんとうちはう)では必(かなら)ず紙鳶(たこ)は正月(せうがつ)に揚(あ)げるものゝ様(やう)になつて居(を)るのであるが我(わが)豊橋地方(とよはしちはう)では旧来(きうらい)
五月の節句(せつく)に揚(あ)ぐるものとなつて居(を)る然(しか)るに此(この)時(とき)之(これ)を関東(くわんとう)同様(どうやう)に正月(せうがつ)に限(かぎ)ると云(い)ふ觸(ふれ)を出(だ)したのは風(ふう)
俗(ぞく)研究(けんきう)の上(うへ)からは至極(しごく)趣味(しゆみ)のある事(こと)であると思(おも)ふ併(しか)し之(これ)も矢張(やはり)遂(つひ)に実行(じつかう)は出来(でき)なかつたものと見(み)へて
今日(こんにち)でも尚(な)ほ我(わが)地方(ちはう)では陰暦(いんれき)の五月に揚(あ)げて居(お)るのを見(み)るは一 層(そう)面白(おもしろ)い感(かん)じがするのである風俗習慣(ふうぞくしふくわん)
と云(い)ふものゝ容易(ようい)に改(あらた)むる事の出来(でき)ぬのは実(じつ)に意想外(いさうぐわい)とも言(い)ふべきものがあると思(おも)ふ
信寶の逸事 尚(な)ほ此(この)信寶(のぶたか)の性行(せいかう)に就(つい)ては彼(か)の十 世遺事抄(せいゐじしよう)の中(なか)にも記載(きさい)してあるものがあるが余程(よほど)祖父(そふ)信明(のぶあき)に似(に)た処(ところ)
があつたように思(おも)はれる此(この)人(ひと)が幸(さいはひ)に天寿(てんじゆ)を得(え)て蚤世(そうせい)しなかつた事であつたならば或(あるひ)は信明(のぶあき)に続(つゞ)いで相(さう)
当(たう)に
名(な)を挙(あ)げたであろうと思(おも)はるゝ次第(しだい)であるが其(その)逸話(いつわ)の二三を申述(まをしの)ぶれば左(さ)の如(ごと)き事(こと)があるのであ
る
信寶(のぶたか)がまだ家督相続(かとくさうぞく)をしない前(まへ)隼人正(はいとのせう)と称(せう)して居(を)つた時(とき)の事であるが或時(あるとき)登城(とじよう)して詰席(つめせき)に在(あ)つたので
あるソコへ丁度(ちようど)老中(らうちう)水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)が登城(とじよう)とあつて其(その)詰席(つめせき)の前(まへ)を通行(つうかう)したのである其時(そのとき)詰席(つめせき)にあつた
ものは一 同(どう)頓首(とんしゆ)して礼(れい)に及(およ)むだのであるが独(ひと)り信寶(のぶたか)のみは只(た)だ注意(ちうい)して謹慎(きんしん)の体度(たいど)を現(あら)はした計(ばか)りで
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百二十九号附録 (大正二年四月一日発行)
【本文】
頓首(とんしゆ)には及(およ)ばなかつたそれを見(み)た越前守(ゑちぜんのかみ)は巳(おの)れの扣席(ひかへせき)に入(い)つた後(のち)茶坊主(ちやばうづ)の何乗(かじよう)と云(い)ふものをして何故(なにゆゑ)
に他(た)の者(もの)は一 同(どう)頓首(とんしゆ)の礼(れい)をなすのに其元(そのもと)独(ひと)り之(これ)に及(およ)ばぬのであるかと前(まへ)の一 件(けん)に対(たい)し信寶(のぶたか)に尋問(じんもん)せし
めたのであるソコで茶坊主(ちやばうづ)も実(じつ)に汗(あせ)を握(にぎ)つてドウなる事かと心配(しんぱい)したのであつたが信寶(のぶたか)は驚(おどろ)く気色(けしき)も
なく之(これ)に答(こた)へて成程(なるほど)御不審(ごふしん)は御尤(ごもつとも)であるが拙者(せつしや)常々(つね〳〵)父(ちゝ)より承(うけたまは)る処(ところ)によれば拙者(せつしや)の祖父(そふ)信明(のぶあき)が老中(らうちう)上(ぜう)
座(ざ)たりし時代(じだい)に於(おい)てもかゝる場合(ばあひ)には詰衆(つめしう)は只(たゞ)謹慎(きんしん)の体度(たいど)を以(もつ)て敬意(けいい)を表(へう)するに止(とゞ)まり頓首(とんしゆ)黙礼(もくれい)する
には及(およ)ばなかつたとの事であるがそれとも此頃(このごろ)にかゝる事の御制定(ごせいてい)でもあつたものであるか又(ま)た別(べつ)に
古例(これい)でもある事であるか謹(つゝしん)で御教示(ごけうじ)を仰(あふ)ぎたいと云(い)つたのであるソコで越前守(ゑちぜんのかみ)も何(なん)とも小言(こごと)を云(い)ふ
べき道(みち)もなく其(その)侭(まゝ)で相済(あひす)むだが其後(そののち)も屡々(しば〳〵)之(これ)に似寄(によ)つた事があつたので越前守(ゑちぜんのかみ)はいつも隼人正(はいとのしやう)の理屈(りくつ)
詰(づめ)には恐(おそ)れ入(い)るが山椒(さんしよう)は小粒(こつぶ)でも辛(から)いものだと笑(わら)はれたとの事である此(かく)の如(ごと)く剛直(がうちよく)な中(なか)にも又(た)た頗(すこぶ)る
怜悧(れいり)な処(ところ)もあつた人(ひと)であるが又(ま)た極(きは)めて孝心(かうしん)の深(ふか)かつた人(ひと)で父(ちゝ)信順(のぶより)が病気(びようき)と相成(あひな)つてからは深(ふか)く之(これ)を
憂(うれ)ひて菩提寺(ぼだいじ)の平林寺(へいりんじ)と計(はか)り其(その)室(しつ)桂叢院(けいさうゐん)(阿部正弘養女(あべまさひろやうぢよ))と共(とも)に金剛寿命多羅尼経(こんごうじゆめいたらにけふ)を自写(じしや)し之(これ)を彫刻(てうこく)
して家中(かちう)一 同(どう)に頒布(はんぷ)し其(その)平癒(へいゆ)を祈(いの)つたとの事である要(えう)するに此(この)人(ひと)の蚤世(そうせい)は誠(まこと)に惜(おし)むべき事で実子(じつし)もま
だなかつた次第(しだい)であるから其(その)後(のち)は一 門(もん)の松平(まつだひら)兵頭の子(こ)を以(もつ)て家(いへ)を継(つ)がしむる事と相成(あひな)つたのである
⦿松平伊豆守信璋と其時代
松平信璋 前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く吉田城主(よしだじやうしゆ)松平伊豆守信寶(まつだひらいづのかみのぶたか)は天保(てんほう)十五年(弘化元年)十月十七日 僅(わづか)に廿一 歳(さい)で病(やまひ)の
為(ため)に卒去(そつきよ)せられたが不幸(ふかう)にして未(いま)だ子(こ)がなかつたので同族(どうぞく)の中(なか)で松平(まつだひら)(大河内)兵頭 正敏(まさとし)の子(こ)信璋(のぶあき)を迎(むか)
へて嗣子(しじ)となし同年(どうねん)十二月廿九日を以(もつ)て襲封(しうほう)を命(めい)ぜらるゝ事と相成(あひな)つたのであるが此(この)信璋(のぶあき)は幼名(えうめい)を健(けん)
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百一
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百二
【本文】
之丞(のぜう)と云ひ文政(ぶんせい)十年八月九日の生(うまれ)である而(しか)して其(その)実家(じつか)は前(まへ)にも申述(まをしの)ぶる如(ごと)く大河内(おほかうち)の一 族(ぞく)ではあるが
千石 許(ばかり)を知行(ちぎよう)する旗本(はたもと)であつたので襲封(しうほう)に際(さい)しては頗(すこぶ)る苦心(くしん)したるものと思(おも)はるゝ今(いま)弘化(こうくわ)二年七月七
《割書:信璋襲職当|時の仰渡書》 日 信璋(のぶあき)が襲職(しうしよく)後(ご)初(はじ)めて国(くに)に就(つ)き大書院(おゝしよゐん)に於(おい)て藩士(はんし)一 同(どう)に自書(じしよ)を以(もつ)て申渡(まをしわた)したものを左(さ)に掲(かゝ)げようと思(おも)
ふ
今般不存寄当家致相続難有事に候いまだ万事様子も不相弁候得共御代々御家政之儀は格別之御事兼
而承及候不肖之我等不及事には候得共何分にも志を相励まし代々之家声不墜候様第一ニ心懸候間一
統にも其心得ニ而精力を尽し相助可申候我等身之程を遺失し政事致怠慢或ハ驕かましき事有之候ハ
ヾ無遠慮諫可申候其外為不為何事によらず存寄有之候ハヾ書付封印致し目付共迄差出候可否ニよ
り取用可申候奥向より差出候事ハ慎而致間敷候総て御代々之旧制相守候間面々にも心得違無之様相
勤可申候
己 六 月
此(この)仰渡(あふせわたし)によるも自(みづか)ら深(ふか)く其(その)地位(ちゐ)の低(ひく)き処(ところ)より出(い)でゝ此(この)大河内家(おほかうちけ)を襲(つ)いだのに付(つい)て謙遜(けんそん)し英意治(えいいぢ)を求(もと)
めむとした事が分(わか)るのである而(しか)して此(この)際(さい)少(すこ)しく当時(たうじ)に於(お)ける天下(てんか)の大勢(たいせい)を御話(おはなし)して置(お)く必要(ひつえう)があると
思(おも)ふが御承知(ごせうち)の如(ごと)く当時(たうじ)は漸(やうや)く外交(ぐわいこう)の問題(もんだい)が紛糾(ふんきう)し世(よ)の中(なか)は次第(しだい)に騒(さわ)がしくなりて尊王攘夷(そんおうぜうゐ)の声(こゑ)は四
《割書:外交問題の|紛糾》 方(はう)を風靡(ふうび)せむとするの勢(いきほひ)を示(しめ)したのである元来(がんらい)此(この)尊王攘夷(そんおうぜうゐ)説(せつ)の盛(さかん)になつたと云(い)ふに就(つい)ては水戸藩(みとはん)と云
《割書:尊王攘夷論|の勃興》 ふものが実(じつ)に其(その)主唱者(しゆせうしや)とも云ふべきものであるが前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べた如(ごと)く水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)失敗(しつぱい)以来(いらい)は土井利位(どゐとしつら)
が老中(らうちう)上座(ぜうざ)となり幕政(ばくせい)の衝(せう)に当(あた)つたのであるが此(この)利位(としつら)は水戸(みと)の挙動(きよどう)甚(はなは)だ面白(おもしろ)からざる次第(しだい)であるとな
して忽(たちま)ち水戸家(みとけ)疎斥(そせき)の方針(はうしん)を取(と)り諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く天保(てんほう)十五年五月 其(その)計(はから)ひを以(もつ)て斉昭(なりあきら)に隠居(ゐんきよ)を命(めい)じ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
其(その)臣(しん)戸田銀次郎(とだぎんじらう)藤田虎之助(ふぢたとらのすけ)(東湖)などに蟄居(ちつきよ)を命(めい)じたのであるトコロが到底(たうてい)かゝる手段(しゆだん)を以(もつ)て天下(てんか)の
大勢(たいせい)に抗(こう)する事は出来(でき)ざるのみならず反(かへ)つて人心(じんしん)を激発(げきはつ)せしめた結果(けつくわ)と成(な)つて天下(てんか)の志士(しゝ)は益々(ます〳〵)水戸(みと)
との交誼(かうぎ)を厚(あつ)くするの傾(かたむき)を生(せう)じ漸(やうや)く国論(こくろん)の沸騰(ふつとう)を大(だい)ならしめたのである勿論(もちろん)此(この)時(とき)水戸藩中(みとはんちう)にも二 派(は)
に分(わか)れて此(この)両派(れうは)は互(たがひ)に相反目(あひはんもく)し終(つひ)に争闘(そうたう)に終(をは)るに至(いた)つたのであるが幕政(ばくせい)も亦(ま)た実(じつ)に之(これ)より乱(みだ)れて復(ふたゝ)び
収攬(しうらん)し能(あた)はざるに至(いた)つたのであるトコロで又(ま)た茲(こゝ)に一つの災難(さいなん)の起(おこ)つたのは矢張(やはり)天保(てんぱう)十五年五月に江(え)
戸本丸(どほんまる)の炎上(ゑんぜう)した事である当時(たうじ)幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)は益々(ます〳〵)窮乏(きうばう)の極(きよく)に達(たつ)し其(その)再建(さいこん)に就(つい)ては利位(としつら)も頗(すこぶ)る苦心(くしん)して
諸侯(しよこう)に寄附金(きふきん)を勧誘(くわんゆう)したが之(これ)が失敗(しつぱい)に終(をは)つたのである其(その)後(のち)八月に至(いた)つて利位(としつら)は遂(つひ)に其(その)職(しよく)を辞(じ)するに至(いた)
つたのであるが此(この)本丸(ほんまる)の工事(こうじ)は後(のち)に彼(か)の阿部伊勢守正弘(あべいせのかみまさひろ)が老中上座(らうちうぜうざ)となり本丸普請(ほんまるふしん)の総奉行(そうぶぎよう)となるに
及(およ)むで知行高(ちぎようだか)壱万石に付(つき)金五百両の割(わり)により加賀侯(かゞこう)初(はじ)め廿六 諸侯(しよこう)に高割手伝(たかわりてつだひ)を命(めい)じて工(こう)を起(おこ)すに至(いた)つ
たが如何(いかん)せむ到底(たうてい)尚(な)ほ莫大(ばくだい)の不足(ふそく)を免(まぬが)れぬ処(ところ)から又々(また〳〵)金銀(きん〴〵)吹替(ふきかへ)を行(おこな)ひ悪貨(あくくわ)の濫造(らんざう)をなして一 時(じ)を糊塗(こと)
するに至(いた)つたので之(これ)より幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)は窮乏(きうばう)の上(うへ)にも窮乏(きうばう)を重(かさ)ぬるの止(やむ)を得(え)ざるに立至(たちいた)つたのであるサ
テ此(この)混雑中(こんざつちう)天保(てんぱう)十五年四月 和蘭(おらんだ)より書(しよ)を呈(てい)して今度(こんど)英仏(えいふつ)二 国(こく)が使節(しせつ)を我国(わがくに)に派(は)して通商(つうせう)を求(もと)めむとす
るに付(つき)それに対(たい)して注意(ちうゐ)をなすのであるが今度(こんど)の使節(しせつ)は国王(こくおう)より特派(とくは)するものであるから相当(さうたう)に警備(けいび)
の兵士(へいし)をも引卒(いんそつ)することである従(したがつ)て然(しか)るべき待遇(たいぐう)をして貰(もら)ひたいとの意(い)を齎(もた)らしたのであるソコで幕(ばく)
《割書:水野忠邦の|復職と罷免》 府(ふ)の驚駭(けうがい)は一 方(かた)ではなかつたが遂(つひ)に彼(か)の水野越前守忠邦(みずのゑちぜんのかみたゞくに)を起(おこ)して天保(てんぱう)十五年(弘化元年)六月再(ふたゝ)び老中上(らうちうぜう)
座(ざ)となし此(この)外交(ぐわいかう)の衝(せう)に当(あた)らしむる事と相成(あひな)つたのであるトコロが此(この)忠邦(たゞくに)は在職(ざいしよく)僅(わづか)に九ケ月で弘化(こうくわ)二
年二月 再(ふたゝ)び御承知(ごせうち)の鳥居甲斐守耀蔵(とりゐかひのかみえうざう)の事に座(ざ)して罷免(ひめん)せられ遂(つひ)に削禄(さくろく)の上(うへ)出羽(では)の山形(やまがた)へ転封(てんほう)蟄居(ちつきよ)を命(めい)
ぜられたのであるソコで其(その)後(のち)は阿部伊勢守正弘(あべいせのかみまさひろ)が老中上座(らうちうぜうざ)となり幕政(ばくせい)を握(にぎ)つたのであるが爾来(じらい)外交(ぐわいこう)の
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百三
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百四
【本文】
問題(もんだい)は益々(ます〳〵)頻繁(ひんはん)となり英仏(えいふつ)二 国船(こくせん)は勿論(もちろん)亜米利加(あめりか)船(せん)の来航(らいかう)をも見(み)たのであるが弘化(こうくわ)三年二月六日(実(じつ)
は正月廿六日と伝(つた)ふ)には仁孝天皇(にんかうてんのう)の御崩御(ごほうぎよ)があり同月十三日 御年(おんとし)十六 歳(さい)を以(もつ)て孝明天皇(かうみうてんのう)践祚(せんそ)ましま
したがかくて外交問題(ぐわいこうもんだい)紛糾(ふんきう)の間(あひだ)に弘化(こうくわ)四年も過(す)ぎ其(その)五年には年号(ねんごう)が嘉永(かえい)と改(あらた)まつたのである而(しか)して其(その)
信璋卒去 二年七月廿七日を以(もつ)て信璋(のぶあき)は病(やまひ)で卒去(そつきよ)せられたのであるが享年(けうねん)は廿一歳(さい)之(こ)れ亦(ま)た野火留(のびどめ)の平林寺(へいりんじ)に葬(ほうむ)
り万機院(ばんきゐん)と諡(おくりな)されたのである
かくの如(ごと)く信璋(のぶあき)の藩主(はんしゆ)たりしは弘化(こうくわ)元年(がんねん)から嘉永(かえい)二年まで僅(わづか)に五ヶ年余(ねんよ)の事で余(あま)り長(なが)くないのである
が外交上(ぐわいこうぜう)の問題(もんだい)を中心(ちうしん)としたる国政(こくせい)の変動(へんどう)と云(い)ふものは此(この)間(あひだ)に於(おい)て実(じつ)に少(すくな)からなかつたものである当(たう)
《割書:藩の財政内|情》 時(じ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)財政(ざいせい)の窮乏(きうぼう)と云(い)ふものは其(その)極(きよく)に達(たつ)して居(を)つたのであるが吉田藩(よしだはん)の如(ごと)き
も大(おほい)に其(その)余波(よは)を蒙(かうむ)つて居(お)つたもので嘉永(かえい)元年(がんねん)七月廿八日 藩士(はんし)へ達(たつ)した左(さ)の申渡(まをしわたし)の如(ごと)きは実(じつ)に其(その)内情(ないぜう)
を穿(うが)つて居(を)るものと思(おも)ふのである
御勝手向之儀近年打続無御拠莫大之臨時御入用夥敷右ニ付御借財追々相増大造成御借財高ニ相成候
ニ付年々多分之御借入無之候而は御利足御勘定も出来不致当年ニ至り候ては誠ニ必至と御差支此末
御取続も出来兼候場合ニ至り何共奉恐入候事ニ相成候斯迄に不相成内御趣法も可有之候所何分にも
連年大造成臨時御物入実に無御拠事而巳打続候故御趣法立候御時節無之斯大造成御借財高ニ相成此
未御取続之程深ク御心配被遊候誠ニ不容易事ニ付何レも此末御取続之御趣法立不申候而は不相成事
ニ付諸席共御入用向是迄三分減之取斗には候へとも尚又此上厳敷御省略格外ニ御入用筋減少取斗候
様致度候間面々厚相心得右御省略之廉存付候義も有之候ハヽ取調可被申出候諸席御入用向ヲ初格外
ニ省略取斗此上御借財少々ツヽ成共減候方へ趣無御滞御取続御出来候様不致候ては不相成候ニ付右
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百三十四号附録 (大正二年四月八日発行)
【本文】
取計方は如何致候て可然哉存付候儀も有之候ハヽたとひ御取用ニ不相成儀ニても不苦候間聊無遠慮
書付致封印来ル十日迄ニ御目付共迄可被差出候尤寄心付候義ハ無之面々ハ其口上ニて御目付迄可
被申出候
其(その)後(のち)も此(この)借財(しやくざい)整理(せいり)の事(こと)に付(つい)ては屡々(しば〳〵)申渡(まをしわたし)があつたのであるが仝年(どうねん)九月四日の申渡(まをしわたし)は実(じつ)に其(その)極(きよく)に達(たつ)
して居(を)るものと思(おも)ふから尚(なほ)左(さ)に之(これ)を掲(かゝ)げて当時(たうじ)諸侯(しよこう)の財政(ざいせい)が如何(いか)なる程度(ていど)に達(たつ)せしかを参考(さんこう)に供(けう)した
いと思(おも)ふ
御勝手向従来ゟ不如意の上 承天院様遠国御勤被遊其後西御丸御炎上ニ付多分の御上金被遊且又御
上屋敷御類焼右御普請御入用不少其外無御拠御吉凶御入用折重リ御趣法替御取直し度も無之其時の
御勝手御役人共夫々御借入金を以其年切御融通いたし来り候処右ニ而は年々御借財相嵩候而巳御減
少之期無之当時ニ而は莫大の御借財高ニ相成其上最早御才覚の手当無之実に必至の御差支ニ付其段
達御聴候処深御心配被為遊御常椀も御一菜平日御召物も御綿服被為成此度御趣法立之儀被仰出候右
ニ付当申暮ゟ来ル丑年迄五ヶ年之間格別御省略被仰出候御借財向利下ケ年賦等夫々御趣法付候而も
何分御趣法立兼候ニ付御家中之者難渋の程は深く御憐察被遊候へとも誠ニ無御拠御時節ニ付右年限
中割合を御扶持方ニ可被仰付候間一同無御拠訳柄等被相心得万端厳敷致省略如何様ニも取続候而相
勤候様可被致候尤困究ゟ不計心得違も起り候もの故其段も銘々厚相弁へ可被申候此度御趣法立之儀
は上下一和いたし御取締相貫候而御勝手向ハ取直し追々御家中へも御免米等被遊度思召候間右之趣
一同厚相心得呉々も難渋相凌家内取締御奉公無滞相勤候様可被致候
モツトモ当時(たうじ)各藩(かくはん)共(とも)悉(こと〴〵)く其(その)財政(ざいせい)が此(かく)の如(ごと)くであつたと云(い)ふ訳(わけ)でもなかつたであろうと思(おも)ふが兎(と)に角(かく)
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百五
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百六
【本文】
幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)が窮乏(きうばう)し其(その)上(うへ)に西丸(にしまる)、本丸(ほんまる)の造営(ぞうえい)が続(つゝ)いたと云ふ訳(わけ)で数々(しば〳〵)上納金(ぜうのうきん)を譜代(ふだい)の諸侯(しよこう)に申付(まをしつ)けら
れたので之(これ)には余程(よほど)閉口(へいこう)したものであるが又(ま)た一 方(ぱう)には譜代(ふだい)の大名(だいめう)で老中(らうちう)を勤(つと)むると云ふ事は実(じつ)に財(ざい)
政上(せいぜう)に取(と)つては苦痛(くつう)であつたので大河内家(おほかうちけ)では信祝(のぶとき)が老中(らうちう)たりし時代(じだい)に於(おい)て余程(よほど)財政上(ざいせいぜう)には打撃(だげき)を受(う)
けたが其(その)後(のち)信明(のぶあき)が長(なが)い間(あひだ)其(その)職(しよく)の上座(ぜうざ)にあつたと云ふことは容易(ようい)ならず財政上(ざいせいぜう)には苦痛(くつう)を受(う)けたもので
ある之(これ)に関(くわん)する其(その)当時(たうじ)の資料(しれう)は相当(さうたう)に大河内(おほかうち)の倉庫(さうこ)にも残(のこ)つて居(を)る事であるがそれ等(ら)が綜合(そうがふ)し
て次第(しだい)に此(この)窮状(きうぜう)を訴(うつた)ふるに至(いた)つたものと信(しん)ぜられるのである尚(なほ)藩(はん)の財政(ざいせい)に付(つい)ては後(のち)に或(あ)る場合(ばあひ)を以(もつ)て
今(いま)少(すこ)しく申述(まをしの)ぶる考(かんがへ)であるから此処(こゝ)には此(この)位(くらゐ)で御話(おはなし)を止(や)める事に致(いた)したいと思(おも)ふ
尚(な)ほ前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたから其(その)頃(ころ)頻(しき)りに藩士(はんし)の意見(いけん)をも徴(てう)したもので嘉永(かえい)元年(がんねん)八月廿八日には重(かさ)
ねて左(さ)の如(ごと)き事を觸(ふ)れて居(を)るのである
御上御行状初御為に不相成義は不寄何事心付候儀有之面々は書付封印致し箱相廻候間来月三日四日
頃迄に右箱え入可被申候(下略)
封事を徴す 此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから藩士(はんし)からは種々(しゆ〴〵)異見(いけん)を封事(ふうじ)として提出(ていしゆつ)したものであるが併(しか)し此(この)封事(ふうじ)を徴(てう)すると
云ふ事は初(はじ)めて此(この)信璋(のぶあき)の時代(じだい)から起(おこ)つたものではなくて既(すで)に信明(のぶあき)の時代(じだい)に於(おい)ても藩士(はんし)から異見(いけん)を封事(ふうじ)
として差出(さしだ)したものが沢山(たくさん)今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に遺(のこ)つて居(を)るのである又(ま)た信明(のぶあき)が卒(そつ)して信順(のぶより)が相続(さうぞく)した時(とき)に
於(おい)ては矢張(やはり)財政(ざいせい)に関(くわん)して藩士(はんし)の意見(いけん)を徴(てう)したものであるが此(この)時(とき)藩士(はんし)から差出(さしだ)した封事(ふうじ)も既(すで)に十 余通(よつう)保(ほ)
存(ぞん)されて居(を)るのである之(これ)等(ら)の中(なか)には藩政上(はんせいぜう)実(じつ)に大切(たいせつ)のものもあるから追々(おひ〳〵)調査(てうさ)して必要(ひつえう)のものは之(これ)を
発表(はつぴよう)したいと思(おも)ふのである
次(つぎ)に当時(たうじ)に於(お)ける人物談(じんぶつだん)に移(うつ)りたいと思(おも)ふのであるが主(おも)に其(その)頃(ころ)の藩政(はんせい)を支配(しはい)して居(を)つたのは家老(からう)の和(わ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
田理兵衛(だりへゑ)、西村治右衛門(にしむらぢうゑもん)などであつて此(この)二人は共(とも)に伝(つた)ふべき事が多(おほ)いのみならず其他(そのた)の藩士(はんし)にも頗(すこぶ)る
伝(つた)ふべき人物(じんぶつ)もあつたのであるが併(しか)し前(まへ)にも既(すで)に申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く此(この)吉田藩政(よしだはんせい)の機関(きくわん)に就(つ)き後(のち)に至(いた)
つて別(べつ)に申述(まをしの)ぶる処(ところ)がある考(かんがへ)であるから其(その)折(をり)を以(もつ)て此(この)機関(きくわん)に参与(さんよ)して居(を)つた藩士(はんし)の事に関(くわん)しては詳(くは)し
く御話(おはなし)する筈(はづ)である従(したがつ)て今(いま)此処(こゝ)にはそれに及(およ)ばぬ考(かんがへ)で只(たゞ)左(さ)の一二に就(つい)てのみ申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふ
太田晴軒 即(すなは)ち先(ま)づ申述(まをしの)べたいのは三 人(にん)の漢学者(かんがくしや)の事であるがそれは太田晴軒(おほたせいけん)、金子荊山(かねこけいざん)、村井楽所(むらゐらくしよ)である太田(おほた)
金子荊山 晴軒(せいけん)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く彼(か)の太田錦城(おほたきんじよう)の三 男(なん)で名(な)は敦(あつし)字(あざな)は叔復 通称(つうせう)を魯(ろ)三 郎(らう)と云つたが之(これ)は錦(きん)
村井楽所 城(じよう)が其(その)故国(ここく)加賀(かが)に皈(かへ)る時(とき)に藩主(はんしゆ)信順(のぶより)の命(めい)によつて当藩(たうはん)に留(とゝま)る事となつたのでるが最(もつと)も強記(きようき)な人(ひと)で十
七八歳の頃(ころ)既(すで)に名(な)を学林(がくりん)に知(し)られたのであるそれのみならず彼(か)の多紀氏(たきし)に就(つ)いて医学(ゐがく)をも修(をさ)めて奇術(きじゆつ)
人(しと)を救(すく)つた事も少(すくな)くなかつたとの事である余(あま)り名筆(めいひつ)ではなかつたが父(ちゝ)に次(つい)での学者(がくしや)として世(よ)の尊敬(そんけい)す
る処(ところ)となつた事は前(まへ)にて申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)くで此(この)人(ひと)は明治六年 迄(まで)存命(ぞんめい)で其(その)十月十五日七十九 歳(さい)で歿(ぼつ)し
たが多(おほ)くは江戸(えど)の方(はう)に居(を)つて信寶(のぶたか)信璋(のぶあき)と歴代(れきだい)に侍講(じかう)したのである又(ま)た金子荊山(かねこけいざん)は今(いま)の豊橋市(とよはしし)書記(しよき)金子(かねこ)
鼎君(かなへくん)の厳父君(げんぷくん)であるが名(な)は鼎(かなへ)字(あざな)は玉鉉(ぎよくげん)通称(つうせう)を熊藏(くまざう)と称(せう)し後(のち)に多助(たすけ)と改(あらた)めたが市川米庵(いちかはべいあん)、太田錦城(おほたきんじよう)、
荻野緑野(をぎのりよくの)などに就(つ)いて学(まな)むだ人(ひと)で一 方(ぱう)には書家(しよか)であつたのである初(はじ)め信順(のぶより)に仕(つか)へて用人(ようにん)となつたが其(その)
子(こ)信寶(のぶたか)がまだ世子(せいし)たりし頃(ころ)から其(その)傅(ふ)となつて侍講(じかう)を勉(つと)めたのである安政(あんせい)二年十一月十一日 年(とし)四十九で
歿(ぼつ)した人(ひと)であるが其(その)著(ちよ)に従革堂雑抄(じうくわどうざつしやう)などがあるソレカラ村井楽所(むらゐらくしよ)であるが之(これ)は既(すで)に文士(ぶんし)として有名(ゆうめい)
なる村井弦斉君(むらゐげんさいくん)の厳父(げんぷ)で名(な)は惟凞(いき)通称(つうせう)を有右衛門(ありうゑもん)と云つたのである此(この)人(ひと)は寛政(かんせい)八年の生(うまれ)で之(これ)も亦(ま)た荻(をぎ)
野大麓(のだいろく)並(ならび)に其子(そのこ)の緑野(りよくの)に就(つい)て学(まな)むだのであるが天保(てんぱう)の初(はじ)めに信順(のぶより)に仕(つか)へて吟味役(ぎんみやく)となり八年 世子(せいし)信寶(のぶたか)
の傅(ふ)となり藩学(はんがく)時習館(じしふくわん)の学問係(がくもんがゝり)となり信璋(のぶあき)に歴仕(れきし)したが明治三年 迄(まで)存命(ぞんめい)であつたのである楽所(らくしよ)雑抄(ざつしよう)廿
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百七
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百八
【本文】
巻(かん)其他(そのた)にも三四の著書(ちよしよ)がある
川西士龍 ソコデ尚(なほ)一つ御話(おはなし)したいのは彼(か)の川西士龍(かはにししりう)の事である士龍(しりう)名(な)は潜(せん)字(あざな)は確輔(かくすけ)後(のち)三 助(すけ)と改(あらた)む士龍(しりう)は其(その)号(がう)で
あるが後(のち)又(ま)た函洲(かんしう)とも号(がう)したのである吉田藩士(よしだはんし)中井行右衛門(なかゐぎよううゑもん)封豊と云ふ人の次男(じなん)であつたが十二 歳(さい)の
時(とき)出(い)でゝ拳母藩士(ころもはんし)川西氏(かはにしし)に養(やしな)はれたのである然(しか)るに天性(てんせい)卓異(たくゐ)で逸気(いつき)あり初(はじ)め学(がく)を竹村悔斉(たけむらかいさい)と云ふ人に
受(う)けたが年(とし)二十 余(よ)昌平校(せうへいかう)に入(い)つて経術(けうじゆつ)文章(ぶんせう)を学(まな)び終(つひ)に同藩(どうはん)に重用(ぢうよう)せられたるのみならず頗(すこぶ)る天下(てんか)の知(し)
る処(ところ)となつたのである天保(てんぱう)十三年二月 年(とし)四十二で歿(ばつ)したのは誠(まこと)に惜(おし)むべき事であつたが此(この)人(ひと)の著(ちよ)を集(あつ)
めて函洲遺稿(かんしうゐかふ)と云ふ本(ほん)が出来(でき)て居(を)るのであるモツトモ此(この)人(ひと)の事については右(みぎ)の如(ごと)くであるから信順(のぶより)時代(じだい)
に於(おい)て申述(まをしの)ぶるのを仕当(したう)としたのであるが其(その)節(せつ)申(まを)し残(のこ)したから幸(さいはひ)今(いま)此処(こゝ)で御話(おはなし)して置(お)きたいと考(かんが)へ
たのである而(しか)して此(この)有名(ゆうめい)なる人(ひと)が我(わが)吉田藩(よしだはん)の出(で)であると云(い)ふに就(つい)ては曩(さき)に愛知県史編纂(あいちけんしへんさん)の田部井鉚太(ためがゐりうた)
郎君(らうくん)から注意(ちうゐ)を受(う)けて段々(だん〳〵)分(わか)つた次第(しだい)であるから此(この)際(さい)深(ふか)く同君(どうくん)に対(たい)して感謝(かんしや)の意(い)を表(へう)したいと思(おも)ふの
である
山田洞雪 其(その)次(つぎ)には絵師(ゑし)の山田洞雪(やまだどうせつ)の話(はなし)であるが先(さき)に私(わたくし)は横山文堂(よこやまぶんどう)と間違(まちが)へて此(この)人(ひと)の名前(なまへ)を挙(あ)げたのであつたが
ソレは全(まつた)く誤(あやまり)であつたのである併(しか)し此(この)山田洞雪(やまだどうせつ)も亦(ま)た矢張(やはり)文堂(ぶんどう)と相前後(あひぜんご)して信順(のぶより)に仕(つか)へたのである
が洞雪(どうせつ)は狩野洞淋(かのどうりん)の門人(もんじん)で頗(すこぶ)る名筆(めいひつ)であつた今(いま)も其(その)筆蹟(ひつせき)は残(のこ)つて居(を)るが実(じつ)に善(よ)いものがあるのである
モツトモ此(この)人(ひと)は天保(てんぱう)十三年六月 年(とし)六十一 歳(さい)で歿(ばつ)したのであるが其(その)子(こ)の眞静(しんせい)名(な)は意誠(おきさね)と云ふ人も亦(ま)た狩(か)
山田香雪 野眞笑(のしんせう)の門人(もんじん)であつて相当(さうたう)の画家(ぐわか)であつたが一に香雪(かせつ)とも号(がう)し嘗(かつ)て日光廟修覆(につくわうべうしうふく)に際(さい)し師匠(しせう)と共(とも)に絵画(くわいぐわ)
に従事(じうじ)した事がある安政(あんせい)四年七月 年(とし)四十一で歿(ばつ)したが之(これ)が御承知(ごせうち)の明治十七年十一月 年(とし)三十六で豊橋(とよはし)
に歿(ぼつ)した永豊(ながとよ)と云ふ画家(ぐわか)の父(ちゝ)であるのである
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百四十号附録 (大正二年四月十五日発行)
【本文】
恩田石峯 サテ其(その)頃(ころ)町人(てうにん)の内(うち)にも三四の画家(ぐわか)があつて相当(さうたう)に名筆(めうひつ)のものもあつたが彼(か)の恩田石峯(おんだせきばう)は前(まへ)に申述(まをしの)べて
置(お)いた恩田(おんだ)三 省(せう)の子(こ)で名(な)は方(はう)字(あざな)は大矩(たいく)通称(つうせう)を吉作(きちさく)と呼(よ)むだが画(ぐわ)を京都(けうと)の渡邊南岳(わたなべなんがく)に就(つ)いて学(まな)び頗(すこぶ)る妙(めう)
に入(い)つたのである彼(か)の渡邊崋山(わたなべくわざん)が丁度(ちようど)田原(たはら)に蟄居中(ちつきよちう)田原(たはら)の素封家(そほうか)某氏(ばうし)が金屏風(きんべうぶ)を新調(しんてう)して之(これ)に石峯(せきばう)の
揮毫(きごう)を請(こ)はむとしたが崋山(くわざん)は之(これ)を聞(き)いて是非(ぜひ)自分(じぶん)に画(えが)かせてくれよと申込(まをしこ)むだので某氏(ばうし)は其(その)応接(おうせつ)に困(こん)
し内々(ない〳〵)屏風(べうぶ)を船(ふね)に積(つ)むで吉田(よしだ)に送(おく)り崋山(くわざん)には程(ほど)よく断(ことは)つて此(この)石峯(せきばう)に揮毫(きごう)せしめたと云(い)ふ話(はなし)が残(のこ)つて居(を)
る之(これ)は作(つく)り話(ばなし)ではない全(まつた)く事実(じじつ)であると信(しん)ずるが当時(たうじ)崋山(くわざん)の画(ぐわ)が人(ひと)に知(し)られなかつたと云(い)ふ一つの珍(ちん)
談(たん)にもなるが亦(ま)た一 方(ぱう)には石峯(せきばう)の名声(めいせい)が当時(たうじ)頗(すこぶ)る盛(さかん)であつた事(こと)をも意味(いみ)するのである又(ま)た其(その)頃(ころ)宝飯郡(ほゐぐん)
《割書:吉田名蹤踪|録の著》 の下地(しもぢ)に山本貞晨(やまもとていしん)と云(い)ふ人(ひと)があつたが此(この)人(ひと)は深(ふか)く地方(ちはう)の旧事古蹟(きうじこせき)を調査(てうさ)した人(ひと)で吉田名蹤踪録(よしだめいしようそうろく)の著(ちよ)が
ある同時(どうじ)に三 河名蹤踪録(かはめいしょうそうろく)と云(い)ふものをも著(あら)はす考(かんがへ)であつたようであるが之(これ)は脱稿(だつかう)に至(いた)らなかつたもの
と思(おも)はるゝが此(この)吉田名蹤踪録(よしだめいしようそうろく)の挿図(さうづ)は多(おほ)く石峯(せきばう)の画(ゑが)いたもので当時(たうじ)の風俗(ふうぞく)から神社(じんしや)、仏閣(ふつかく)、風景(ふうけい)など
孰(いづ)れも写生(しやせい)であるから今日(こんにち)から見(み)て甚(はなは)だ参考(さうかう)になるものであると思(おも)ふのである石峯(せきばう)は又(ま)た父(ちゝ)三 省(せう)に就(つ)
いて生花(せいくわ)をも学(まな)むだのであるが後(のち)に父(ちゝ)の名(な)を相続(さうぞく)して心応軒(しんおうけん)と称(せう)したのである而(しか)して其(その)逝去(せいきよ)は弘化(こうくわ)四
年五月である
佐藤大寛 又(ま)た其頃(そのころ)前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた佐藤南澗(さとうなんかん)の子(こ)に梅塢(ばいう)と云ふ画家(ぐわか)があつたが之(これ)は淑慎斉(しゆくしんさい)の門人(もんじん)で名(な)を
大寛(たいかん)と称(せう)した嘉永(かえい)元年(がんねん)五月十四日 年(とし)七十五で歿(ぼつ)した
福谷水竹 ソレカラ福谷水竹(ふくたにすゐちく)、此(この)人(ひと)は通称(つうせう)を藤左衛門(とうざゑもん)と云つて相当(さうたう)の資産家(しさんか)であつたが俳諧(はいかい)を青々(せう〳〵)処卓地(しよたくち)に学(まな)び
茶道(ちやどう)をも岡崎(をかざき)の人(ひと)不蔵庵(ふざうあん)に学(まな)むで共(とも)に妙(めう)を得(え)たが絵画(くわいぐわ)に就(つい)ても中々(なか〳〵)妙抜(めうぎ)と云ふべきものがあつたので
ある呉服町(ごふくまち)の佐藤弥吉氏(さとうやきちし)の処(ところ)に蔵(ざう)して居(を)られた釈迦(しやか)の涅槃像(ねはんぞう)の如(ごと)きは最(もつと)も面白(おもしろ)きものである此(この)人(ひと)は嘉(か)
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百九
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百十
【本文】
永(えい)三年正月 年(とし)六十四で歿(ばつ)したのである
鈴木三岳 ソレから鈴木(すゞき)三 岳(がく)の話(はなし)であるが三 岳(がく)は吉田(よしだ)新銭町(しんせんまち)の人(ひと)で通称(つうせう)を与平(よへい)と云ひ推迺舎(しゐのや)又(ま)た再少年(さいせうねん)等(ら)の号(がう)が
あつたが彼(か)の士朗(しらう)の門人(もんじん)で俳諧(はいかい)を能(よ)くした且(か)つ渡辺崋山(わたなべくわざん)と深交(しんかう)があつて其(その)門(もん)に画(ぐわ)を学(まな)むだが崋山(くわざん)が田(た)
原(はら)へ蟄居中(ちつきよちう)は専(もつぱ)ら其(その)家計(かけい)を補助(ほじよ)したものである当時(たうじ)崋山(くわざん)は謹慎中(きんしんちう)であるから表向(おもてむ)き絵画(くわいぐわ)を他人(たにん)に画(えが)い
てやると云ふような事(こと)は憚(はゞか)つたものであるが多(おほ)くは此(この)三 岳(がく)の手(て)を経(へ)てワザと蟄居(ちつきよ)以前(いぜん)の年号(ねんがう)なとを用(もち)
ゐ他人(たにん)の依頼(いらい)に応(おう)じたものであるそれ故(ゆへ)に三 岳(がく)の家(いへ)には崋山(くわざん)の画幅屏風(ぐわふくべうぶ)など大小(だいせう)の傑作(けつさく)五十 余点(よてん)を所(しよ)
蔵(ざう)して居(を)つたもので彼(か)の有名(ゆうめい)なる千山万水(せんざんばんすゐ)の図(づ)なども其(その)一であるが三 岳(がく)の歿後(ばつご)追々(おい〳〵)四 方(はう)へ散乱(さんらん)して目(もく)
今(こん)では其(その)画幅(ぐわふく)の中(なか)で我(わが)豊橋市(とよはしし)に残(のこ)つて居(を)るものは甚(はなは)だ僅(わづか)である三 岳(がく)は嘉永(かえい)七年九月四日 年(とし)六十 歳(さい)で病(びやう)
鈴木吉兵衛 歿(ばつ)したが其頃(そのころ)又(ま)た此(この)三 岳(がく)の本家(ほんけ)に当(あた)る家(いへ)で今(いま)の花園町(はなぞのてう)に鈴木吉兵衛(すゞききちべゑ)と云ふ人(ひと)があつた此(この)人(ひと)は明治四年
十月十二日 年(とし)六十四 歳(さい)で歿(ぼつ)したが現今(げんこん)の鈴木吉兵衛(すゞききちべゑ)君(くん)即(すなは)ち梅厳(ばいがん)と号(がう)さるゝ方(かた)の先代(せんだい)である此(この)人(ひと)も亦(ま)た
壮年(さうねん)の頃(ころ)に崋山(くわざん)と交(まじはり)のあつたものであるが其(その)祖父(そふ)に法林(はふりん)と云ふ人(ひと)があつて此(この)人(ひと)は一 種(しゆ)の面白(おもしろ)い識見(しきけん)を
有(ゆう)して居(を)つたものである其(その)自筆(じひつ)の家憲(かけん)が今(いま)も其(その)家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るが之(これ)へ崋山(くわざん)が書(か)き添(そ)へをしたものが中(なか)
中(なか)面白(おもしろ)いモツトモ其(その)筆者(ひつしや)は吉兵衛(きちべゑ)の事(こと)になつて居(を)るが其(その)実(じつ)は崋山(くわざん)が代作(だいさく)代書(だいしよ)をしたものである即(すなは)ち之(これ)
には其(その)家憲(かけん)の来歴(らいれき)から祖父(そふ)の法林(はふりん)及(およ)び父(ちゝ)の慈全(じぜん)が事蹟(じせき)などをも明記(めいき)したものであつて其(その)人々(ひと〴〵)の履歴(りれき)は
勿論(もちろん)蟄居中(ちつきよちう)の崋山(くわざん)が消息(せうそく)も分(わか)る訳(わけ)で甚(はなは)だ趣味(しゆみ)あるものと信(しん)ぜらるゝのである
《割書:柴田猪助の|米価記》 次(つぎ)に尚(なほ)一つ御話(おはなし)したいのは柴田猪助(しばたゐすけ)と云ふ人(ひと)の事(こと)であるが此(この)人(ひと)は吉田藩士(よしだはんし)で今(いま)の柴田豊水(しばたほうすゐ)君(くん)の先代(せんだい)で
ある嘉永(かえい)二年四月六十六 歳(さい)を以(もつ)て病没(びやうばつ)したのであるが此(この)人(ひと)の著書(ちよしよ)に米価記(べいかき)と云ふものがあつて遠(とほ)くは
元亀(げんき)三年の昔(むかし)から近(ちか)くは病没(びやうばつ)の前年(ぜんねん)即(すなは)ち嘉永(かえい)元年(がんねん)迄(まで)長(なが)い間(あひだ)ズツト引(ひ)き続(つゞ)いて米価(べいか)の統計(とうけい)を集(あつ)めたもの
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
である其(その)根気(こんき)のよい事(こと)と緻密(ちみつ)なる事には誠(まこと)に驚(おどろ)くの外(ほか)ないのであるが又(ま)た実(じつ)に今日(こんにち)の経済上(けいざいぜう)からも容(よう)
易(ゐ)ならざる参考(さんかう)になるものであると思(おも)ふ此(この)書(しよ)は明治維新後(めいぢゐしんご)大蔵省(おほくらせう)に借上(かりあ)げられた事(こと)があつたが同省(どうせう)か
らは鄭重(ていちよう)なる謝状(しやぜう)を添(そ)へて返附(へんふ)して来(き)たので其(その)原本(げんぽん)は今(いま)も柴田家(しばたけ)に蔵(ざう)せられて居(を)るのである
《割書:弘化嘉永間|の吉田の人|口》 ソコで此(この)信璋(のぶあき)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)の人口(じんこう)であるが当時(たうじ)の宗旨改人別帳(しうしあらためじんべつてう)で見(み)ると弘化(こうくわ)二年に総人口(そうじんこう)男女(たんぢよ)合(がう)
計(けい)五千五百三十五 人(にん)とあつて且(か)つ前年(ぜんねん)に比(ひ)し十人 減(げん)であると記(しる)してある又(ま)た嘉永(かえい)元年(がんねん)のものに依(よ)ると
総人口(そうじんこう)五千五百十九 人(にん)とあつて前年(ぜんねん)に比(ひ)し十 人(にん)増加(ぞうか)であると記(しる)してあるモツトモ之(こ)れは藩士(はんし)までが加(くは)
はつて居(を)るものかどうか未(いま)だ能(よ)く取調(とりしら)べては見(み)ぬが兎(と)に角(かく)連年(れんねん)人口(じんこう)に大差(たいさ)なく寧(むし)ろ何分(なにぶん)減(げん)じ行(ゆ)く状態(せうたい)
であつたのである之(これ)には種々(しゆ〴〵)の原因(げんゐん)があつた事(こと)であろうがズツト以前(いぜん)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く町(てう)
家(か)には彼(か)の伝馬役(てんまやく)などの掛(かゝ)りのものが多(おほ)かつた為(ため)に市民(しみん)は頗(すこぶ)る苦痛(くつう)を感(かん)じたもので今日(こんにち)の如(ごと)く百 姓(せう)が農(のう)
家(か)を捨(す)てゝ都会(とくわい)に集中(しふちう)すると云ふが如(ごと)き事(こと)は全(まつた)くなかつた事(こと)が分(わか)るのである又(ま)た弘化(こうくわ)二年には吉田(よしだ)大(おほ)
橋(はし)の修繕(しうぜん)が行(おこな)はれたが其事(そのこと)に関(くわん)し船町(ふなまち)の人(ひと)大村久米蔵(おほむらくめざう)と云ふ者(もの)の記録(きろく)が今(いま)船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)されて居(お)
る事(こと)を序(ついで)ながら此処(こゝ)に御紹介(ごせうかい)して置(お)きたいと思(おも)ふ
◉正誤 本章(ほんせう)中村井楽所(なかむらゐらくしよ)に関(くわん)し井村弦斉君(●●●●●)の(●)厳父(●●)で(●)とあるは村井弦斉君(●●●●●)の(●)祖父(●●)で(●)の誤(あやまり)に付(つき)訂正(ていせい)す
◉松平信古の襲職
前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く松平伊豆守信璋(まつだひらいづのかみのぶあき)は嘉永(かえい)二年七月廿七日を以(もつ)て病卒(びやうそつ)せられたのであるが享年(けうねん)は廿
三 歳(さい)で(前章(ぜんせう)に廿一 歳(さい)としたるは誤(あやまり)なり)未(いま)だ嗣子(しし)がなかつたのであるソコで彼(か)の間部詮勝(まなべのりかつ)の二 男(なん)信古(のぶひさ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十一
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十二
【本文】
が入(い)つて大河内氏(おほかうちし)を襲(つ)ぎ其(その)封(ほう)を受(う)けたのであるが信古(のぶひさ)は幼名(えうめい)を理(り)三 郎(らう)と云つて文政(ぶんせい)十二年四月廿三日
の生(うま)れである嘉永(かえい)三年十一月十五日 年(とし)廿二 歳(さい)で襲封(しうほう)したのであるが此(この)人(ひと)はズツト引続(ひきつゞ)いてそれから明(めい)
治維新(ぢゐしん)にまで及(およ)むだのであるから実(じつ)に外交問題(ぐわいかうもんだい)の紛糾(ふんきう)から安政(あんせい)の大獄(だいごく)而(しか)して明治(めいぢ)の維新(ゐしん)と云(い)ふように
幕末(ばくまつ)に於(お)ける総(すべ)ての変革(へんかく)に遭遇(さうぐう)して居(を)らるゝのである従(したがつ)て今(いま)其(その)一 代(だい)の歴史(れきし)を申述(まをしの)べむとするに就(つい)て
も頗(すこぶ)る複雑(ふくざつ)であるが為(ため)に私(わたくし)は時代(じだい)に応(おう)じて便宜(べんぎ)章(せう)を改(あらた)め以(もつ)て説明(せつめい)を致(いた)して行(ゆ)きたいと思(おも)ふのであるソ
コで先(ま)づ信古(のぶひさ)襲職(しうしよく)当時(たうじ)の仰渡(あふせわたし)を左(さ)に掲(かゝ)げようと思(おも)ふ
嘉永三庚戌年二月十五日吉田表ニ而
信古君御自書於大書院老衆被仰渡今般不存寄当家致相続候ニ付政事向等之儀一同へ可申聞候へと
も御代々御家政之儀は格別之御事ニ而不肖之我等不及事ニ候へハ一巳之新意を加へす慎而諸事旧
制ニ随ひ家風不墜様相守可申候間一統ニも精力を尽し相助可申候
一御先代様御勝手向必至と御差支斯くてハ往々御家中御扶助も無御心之思召格別之御省略被仰出御
自身ニも御綿服をさへ被為召御定椀も御一菜に被仰付深く御心痛思召候処御間となく御遠行被成
御寿数とは乍申御痛ましき御事ニ存上候此上は我等御志を継き愈質素倹朴相用ひ速ニ勝手向取直
し一同之艱苦をも休め申度所願ニ候へとも容易ニ難行事ニ候実に上下は合持ニ候ヘハ上たるもの
ハ下を愛憐し下たるものハ上を補助し孰れも一和して誠意を尽し勤可申候
一文武之嗜為士者専務ニ候間常ニ心懸可申候壮年のものは別而志を励し怠慢無之可致出精候学問ハ
今日の行ひニ懸候而学ひ申へし何事ニよらす仁義の二ツ不可欠もの也
正 月
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百五十六号附録 (大正二年四月二十二日発行)
【本文】
《割書:信古襲職後|に於ける天|下の形勢》 ソコで此(この)信古(のぶひさ)襲職(しうしよく)の当時(たうじ)即(すなは)ち嘉永(かえい)二三年と云ふ頃(ころ)の天下(てんか)の形勢(けいせい)は如何(いかん)であつたかと云ふに前(まへ)にも申述(まをしの)
べたる如(ごと)く外国船(ぐわいこくせん)が頻(しき)りに我(わが)沿岸(えんがん)に渡来(とらい)し物論(ぶつろん)漸(やうや)く沸騰(ふつとう)せむとするの場合(ばあひ)であつたが時(とき)の老中上座(らうちうぜうざ)阿(あ)
部伊勢守正弘(べいせのかみたゞひろ)は特(とく)に水戸(みと)の斉昭卿(なりあきらけう)を起(おこ)して其(その)意見(いけん)を諮(と)ひ沿海(えんかい)の守備(しゆび)を厳(げん)にするの策(さく)を講(かう)じたのである
が何分(なにぶん)にも当時(たうじ)に於(お)ける幕府(ばくふ)は勿論(もちろん)諸侯(しよこう)の財政(ざいせい)と云ふものが実(じつ)に窮乏(きうぼう)を来(きた)して居(を)つたので之(これ)には孰(いづ)れ
も苦心(くしん)した情況(ぜうけう)が見(み)ゆるのである吉田藩(よしだはん)に於(おい)ても嘉永(かえい)三年の二月廿五日 付(づけ)を以(もつ)て信古(のぶひさ)から直々(じき〴〵)に家中(かちう)
へ仰渡(あふせわた)したものに左(さ)の如(ごと)き事がある
異国船渡来之節海岸防禦之義此度不容易被仰出有之候ニ付てハもし渡来之節ハ注進次第早速人数差
出し不申候てハ不相成事ニ付兼て用意いたし置出張候様致し度候就ては年来引米等も有之支度等不
調之者も可有之候へハ手厚に手当も遣し度候へ共存しの通之時節に付不任心底乍去少しの事ハいた
し遣し可申候間難義にハ可有之候へ共可成丈勘弁いたし如何様にも支度相調へ注進次第早々罷出一
和いたし尽精力防禦之手段可致候
《割書:米国使節ペ|リーの来航》 之(これ)に拠(よ)るも其(その)当時(たうじ)に於(お)ける事情(じぜう)の一 端(たん)は分(わか)る事と思(おも)ふが其後(そののち)は益々(ます〳〵)外船(ぐわいせん)の渡来(ちらい)は頻繁(ひんはん)になつて嘉永(かえい)六
年の六月三日には御承知(ごせうち)の如(ごと)くイヨ〳〵彼(か)の米国(べいこく)の使節(しせつ)ペリーが浦賀(うらが)に来(きた)つて遂(つひ)に徳川幕府(とくがはばくふ)鎖国(さこく)の政(せい)
策(さく)は茲(こゝ)に破綻(はたん)の端緒(たんちよ)を開(ひら)くに至(いた)つたのである
《割書:ペリー来航|以前に於け》 サテ此(この)外交問題(ぐわいかうもんだい)に就(つい)て之(これ)迄(まで)も段々(だん〴〵)申述(まをしの)べては来(きた)つたのであるが中々(なか〳〵)複雑(ふくざつ)なる事柄(ことがら)で特(とく)に研究(けんきう)すれば
《割書:る外交問題|の概要》 研究(けんきう)する程(ほど)益々(ます〳〵)新事実(しんじじつ)をも発見(はつけん)すると云ふ有様(ありさま)であるから到底(たうてい)私(わたくし)が今日(こんにち)豊橋市史(とよはしゝ)の範囲(はんゐ)に於(おい)て十 分(ぶん)
に其(その)関係(くわんけい)を御話(おはなし)し尽(つく)すことは及(およ)ばないのであるが併(しか)し大体(だいたい)の筋道(すぢみち)丈(だけ)はザツトでも此処(こゝ)に申述(まをしの)べて置(お)かな
いと此(この)信古(のぶひさ)の一 代(だい)を説明(せつめい)する上(うへ)に於(おい)て差支(さしつか)ふる事情(じぜう)があるから少(すこ)しく初(はじ)めに遡(さかのぼ)つて其(その)由来(ゆらい)を取纏(とりまと)め
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十三
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十四
【本文】
て申述(まをしの)ぶるのも無用(むよう)ではなかろうと思(おも)ふのみならず然(しか)る後(のち)追々(おい〳〵)に前(まへ)に向(むか)つて話(はなし)を進(すゝ)めるのが順序(じゆんぢよ)であ
ると考(かんがへ)ふるから或(あるひ)は重複(ちようふく)の事もあるであろうが成(な)るべくそれを避(さ)けて大要(たいえう)を左(さ)に御話(おはなし)する事にする
諸君(しよくん)も既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)く徳川氏(とくがはし)の最初(さいしよ)と云ふものは我国(わがくに)も極端(きよくたん)なる鎖国主義(さこくしゆぎ)ではなかつたのであるが
彼(か)の三代将軍(さんだいぜうぐん)家光(いへみつ)の時代(じだい)に方(あた)つて九 州(しう)に島原(しまばら)の乱(らん)があつて以来(いらい)は一 方(ぱう)に外教(ぐわいけふ)の禁(きん)を厳重(げんぢう)にすると同時(どうじ)
に愈々(いよ〳〵)鎖国(さこく)の方針(はうしん)に傾(かたむ)いたのであるが独(ひと)り和蘭国(おらんだこく)のみは引続(ひきつゞ)いて我国(わがくに)と交通(かうつう)をなして居(を)つたのである
然(しか)るに我国(わがくに)が長(なが)く太平(たいへい)の夢(ゆめ)を貪(むさば)つて居(を)る間(あひだ)に世界(せかい)の大勢(たいせい)と云ふものは漸(やうや)く一 変(ぺん)して英(えい)、仏(ふつ)、露(ろ)、米(べい)等(とう)
の新興国(しんこうこく)は益々(ます〳〵)西班牙(すぺいいん)、葡萄牙(ぽるとがる)、和蘭(おらんだ)などゝ云ふ国(くに)を凌駕(れうが)して其(その)勢力(せいりよく)を次第(しだい)に東方(とうはう)に伸(の)ばし露国(ろこく)が彼(か)
の西伯利亜(しべりや)の荒原(くわうげん)を過(す)ぎて終(つひ)に黒龍江(こくりうこう)辺(へん)の侵略(しんりやく)を初(はじ)めたのは既(すで)に慶安(けいあん)二年の昔(むかし)にあると云ふ事である
其(その)後(のち)其(その)東侵(とうしん)南下(なんか)の勢(いきほひ)は止(や)まずして漸(やうや)く千島(ちじま)並(ならび)に樺太(かばふと)の方面(はうめん)に進入(しんにふ)し元禄時代(げんろくじだい)に於(おい)ても既(すで)に屡々(しば〴〵)其(その)進(しん)
入(にふ)を見(み)たと云ふ事であるが明和(めいわ)の初(はじめ)に当(あた)つては其(その)著(いちじる)しきものがあつたのである此(この)事(こと)はズツト前章(せんせう)に
於(おい)ても既(すで)に申述(まをしの)べて置(お)いたのであるが寛政(かんせい)五年 露将(ろせう)ラツクスマンが蝦夷地(えぞち)に来(きた)りし時(とき)は初(はじ)めて徳川幕(とくがはゞく)
府(ふ)をして一 問題(もんだい)たらしめたのである此(この)時(とき)は更(さら)に長崎(ながさき)に来(きた)るべき旨(むね)を記(しる)せる信牌(しんはい)を与(あた)へて兎(と)に角(かく)一 時(じ)を
瀰縫(ひほう)したが当時(たうじ)は屡々(しば〴〵)露船(ろせん)の我(わが)北辺(ほくへん)を窺(うかゞ)ふものがあつたのであるモツトモ露国(ろこく)に於(おい)ても其(その)頃(ころ)欧州(おうしう)に仏(ふつ)
国革命(こくかくめい)の騒動(さうどう)がありそれのみならず波蘭分割(はうらんぶんかつ)の問題(もんだい)などが起(おこ)つて居(を)つたので其(その)後(のち)暫(しばら)く東方経略(とうはうけいりやく)の手(て)を
弛(ゆる)めたがアレキサンダー帝(てい)が即位(そくゐ)して後(のち)四年 我(わ)が享和(けうわ)三年に至(いた)つて又(ま)た使節(しせつ)レサノフを我国(わがくに)に派遣(はけん)し
それが翌年(よくねん)の九月 長崎(ながさき)へやつて来(き)たのであるモツトモ其(その)当時(たうじ)の事は先(さ)きに信明(のぶあき)時代(じだい)に於(おい)て種々(しゆ〴〵)申述(まをしの)べ
て置(お)いた如(ごと)くであるが其(その)時(とき)レサノフの一 行(かう)は皈途(きと)我(わが)北辺(ほくへん)を調査(てうさ)して警備(けいび)の少(すくな)いことを看破(かんぱ)したるものゝ
如(ごと)く其(その)一 行(かう)の紀行文中(きかうぶんちう)に於(おい)て樺太(かばふと)奪取(だつしゆ)の意見(いけん)を漏(もら)したのであるが之(これ)が八九年の後(のち)我国人(わがこくじん)の手(て)によりて
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
邦文(ほうぶん)に訳(やく)されたのである即(すなは)ち所謂(いはゆる)奉使日本紀行(ほうしにほんきかう)なるものであるが之(これ)は余程(よほど)我国(わがくに)が露国(ろこく)に対(たい)する外交(ぐわいかう)方(はう)
針(しん)に悪影響(あくえいけう)を与(あた)へたるものであると思(おも)ふ其(その)後(のち)露国船(ろこくせん)の侵掠(しんれう)は我(わが)北辺(ほくへん)に絶(た)ゆることなく一 時(じ)は世論(せろん)も沸騰(ふつとう)
したのであつたが其(その)内(うち)幸(さいはひ)に又(ま)た中絶(ちうぜつ)するに至(いた)つた事情(じぜう)は矢張(やはり)前章(ぜんせう)信明(のぶあき)時代(じだい)に申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)くで
あるトコロが露国(ろこく)に次(つい)で我国(わがくに)にやつて来(き)たのは英国(えいこく)である元来(がんらい)英国(えいこく)は諸君(しよくん)も知(し)らるゝ如(ごと)く既(すで)に元和(げんわ)の
昔(むかし)に於(おい)て肥前(ひぜん)の平戸(ひらど)に商館(せうくわん)を設置(せつし)して居(を)つたのであるが当時(たうじ)余(あま)り利益(りえき)がないと云ふので其(その)七年 遂(つひ)に自(みづか)
ら退去(たいきよ)したのである然(しか)るに其(その)後(のち)五十年を経(へ)て我(わが)延宝(えんほう)元年(がんねん)五月 英(えい)の東印度会社(ひがしいんどくわいしや)は再(ふたゝ)び我国(わがくに)との通商(つうせう)を開(ひら)
きたいと云ふので一 船(せん)を長崎(ながさき)に送(おく)つたのである蓋(けだ)し英国(えいこく)も此(この)数(すう)十 年(ねん)と云ふものは内乱(ないらん)が打続(うちつゞ)いて其(その)手(しゆ)
足(そく)を海外(かいぐわい)に伸(のば)す程(ほど)の余裕(よゆう)もなかつたものと思(おも)はるゝが此(この)頃(ころ)に至(いた)つて御承知(ごせうち)の東印度会社(ひがしいんどくわいしや)と云ふものは
次第(しだい)に印度(いんど)に於(おい)て成功(せいこう)し其(その)勢力(せいりよく)は著(いちじる)しく増大(ぞうだい)したので遂(つひ)に和蘭(おらんだ)の商勢(せうせい)に拮抗(きつこう)し東洋貿易(とうようぼうえき)の覇者(はしや)たら
むとするの希望(きぼう)を抱(いだ)いたものであるから茲(こゝ)に復(ふたゝ)び我国(わがくに)とも通商(つうせう)をしたいと云ふのでレターンと称(せう)する
一 船(せん)を我国(わがくに)に送(おく)つたのであるトコロが申(まを)す迄(まで)もなく我国(わがくに)に於(おい)ては当時(たうじ)一 層(そう)外交(ぐわいかう)に制限(せいげん)を加(くは)へて従来(じうらい)通(つう)
商(せう)せる処の清国(しんこく)並(ならび)に和蘭(おらんだ)の二 国(こく)にさへも貿易上(ぼうえきぜう)の制限(せいげん)を厳(げん)にしたる時(とき)であつたのみならず我国(わがくに)が外国(ぐわいこく)
の事情(じぜう)を知(し)るには当時(たうじ)独(ひと)り和蘭(おらんだ)の通信(つうしん)にのみ待(ま)つた時代(じだい)であるのに和蘭(おらんだ)と英国(えいこく)とは前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)
き事情(じぜう)で通商上(つうせうぜう)講和(かうわ)し難(がた)き敵(てき)であるから和蘭人(おらんだじん)は勉(つと)めて英人(えいじん)と我国(わがくに)との通商(つうせう)を阻隔(そかく)せむとした様子(やうす)が
あつて英国王(えいこくわう)と葡萄牙王家(ほろとがるわうか)とは姻戚(いんせき)の間柄(あひだがら)である事などを申述(まをしの)べたので我国(わがくに)に於(おい)ては外教騒動(ぐわいけふさうどう)の一 件(けん)
から葡萄牙人(ほるとがるじん)は特(とく)に嫌(きら)つて居(を)る場合(ばあひ)であるから遂(つひ)に此(この)英国(えいこく)をも一も二もなく拒絶(きよぜつ)すると云ふ方針(はうしん)を取(と)
つたのである其(その)後(のち)英船(えいせん)は屡々(しば〴〵)我(わが)海岸(かいがん)に出没(しゆつぼつ)したが茲(こゝ)に是非(ぜひ)諸君(しよくん)に申述(まをしの)べたいと思(おも)ふのは其(その)頃(ころ)彼(か)のナポ
レオンが飛躍(ひやく)の為(ため)に欧州(おうしう)の天地(てんち)が攪乱(かくらん)されたる事である其(その)結果(けつくわ)我(わ)が文化(ぶんくわ)三年に和蘭(おらんだ)の本国(ほんこく)は遂(つひ)に仏国(ふつこく)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十五
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十六
【本文】
の属領(ぞくれう)となつたので御承知(ごせうち)の通(とほ)り当時(たうじ)仏国(ふつこく)と英国(えいこく)とは敵対(てきた)つて居(を)る場合(ばあひ)であるから英船(えいせん)は此(この)東洋(とうよう)に於(おい)
て和蘭(おらんだ)の貿易船(ばうえきせん)を捕獲(ほくわく)したいものであると云ふので和蘭(おらんだ)の東洋(とうよう)に於(お)ける根拠地(こんきよち)バタビアから此(この)長崎(ながさき)に
渡航(とかう)せる処の定期船(ていきせん)を差押(さしおさ)ふる目的(もくてき)を以(もつ)て文化(ぶんくわ)五年八月十五日 遂(つひ)に我(わが)長崎港(ながさきこう)に侵入(しんにふ)して来(き)たのである
此(この)時(とき)が即(すなは)ち彼(か)の長崎奉行(ながさきぶぎよう)松平図書頭康英(まつだひらづしよのかみやすひで)が自殺(じさつ)して以(もつ)て責任(せきにん)を明(あきらか)にしたと云ふ話(はなし)のあつた時(とき)である
之等(これら)の事情(じぜう)が能(よ)く通(つう)じない処から英船(えいせん)が我国(わがくに)に与(あた)へた悪影響(あくえいけう)は少(すくな)からざるもので当時(たうじ)我国(わがくに)に於(おい)ては露(ろ)
船(せん)と同(おな)じく英人(えいじん)を以(もつ)て国(くに)に寇(かう)するものであるとの印象(いんせう)をのみ与(あた)へたる次第(しだい)である其(その)後(のち)英国(えいこく)は遂(つひ)に先(さき)に
和蘭領(おらんだれう)であつた処のジャバを占領(せんれう)しバタビアに自己(じこ)の総督府(そうとくふ)を置(お)いたので和蘭(おらんだ)から我国(わがくに)の長崎(ながさき)に出張(しゆつてう)
して居(を)る出島(でじま)の商館(せうくわん)と云ふものをも己(おの)れの手(て)に収(おさ)めむと云ふ目的(もくてき)から文化(ぶんくわ)十年に又々(また〳〵)我(わが)長崎(ながさき)へ其(その)船(ふね)を
送(おく)つたのであるが此(この)時(とき)なども右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)は少(すこ)しも我国(わがくに)には通(つう)じなかつたのであるが今日(こんにち)から考(かんが)へて
見(み)ると実(じつ)に不可思儀(ふかしぎ)とも言(い)ふべきは和蘭国(おらんだこく)と云ふものは前(まへ)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く当時(たうじ)仏国(ふつこく)の属邦(ぞくはう)と相成(あほな)つ
て居(を)るのであるから世界中(せかいちう)に和蘭(おらんだ)の国旗(こくき)の立(た)てられてある場所(ばしよ)はない訳(わけ)であるのに独(ひと)り我国(わがくに)の長崎港(ながさきこう)
出島(でじま)にある蘭館(らんくわん)許(ばか)りは我国(わがくに)が鎖国主義(さこくしゆぎ)であつた御蔭(おかげ)を蒙(かうむ)つて独(ひと)り相変(あひかは)らずに和蘭(おらんだ)の国旗(こくき)を建(た)て通(とほ)した
のは頭(すこぶ)る面白(おもしろ)い現象(げんせう)と云ふべきであつたのである即(すなは)ち此(この)和蘭(おらんだ)の商館(せうくわん)が其後(そののち)初(はじ)めて本国(ほんごく)に消息(せうそく)を通(つう)じ得(え)
たのは後年(こうねん)オレンヂ王家(わうか)が和蘭(おらんだ)を復(ふく)せられた後(のち)であつたとは随分(ずゐぶん)奇態(きたい)なる事柄(ことがら)であつたのであるがソ
ンナ事情(じぜう)は其(その)当時(たうじ)我国(わがくに)では誰(たれ)も知(し)るものはなかつたのであるから話(はなし)は実(じつ)に面白(おもしろ)いのであると思(おも)ふ其後(そののち)
とても英船(えいせん)は屡々(しば〴〵)我(わが)海岸(かいがん)に来往(らいおう)したが之(これ)は多(おほ)く捕鯨船(ほげいせん)位(くらゐ)で格別(かくべつ)の事はなかつたのである併(しか)し之(これ)等(ら)のも
のゝ中(なか)には度々(たび〴〵)陸地(りくち)に上(あが)つて暴行(ばうかう)をなした事があるので寛政(かんせい)九年一たび弛(ゆる)められた夷船打払(えびすせんうちはらひ)の事は
文政(ぶんせい)八年二月に至(いた)つて再(ふたゝ)び二 念(ねん)よく打払(うちはら)ふべしと云ふ発令(はつれい)の一 動機(どうき)ともなつたのである
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百五十八号附録 (大正二年五月六日発行)
【本文】
かくて其(その)後(のち)十 余年(よねん)を経過(けいくわ)し天保(てんほう)十 年(ねん)に至(いた)つては前(まへ)に申述(まをしの)べたる欧州(おうしう)の内乱(ないらん)も稍(やゝ)平定(へいてい)に近(ちか)づいたのであ
るが当時(たうじ)英国(えいこく)は勿論(もちろん)仏国(ふつこく)の如(ごと)き欧州(おうしう)に於(お)ける新興(しんこう)の国(くに)と云ふものは漸(やうや)く其(その)力(ちから)を此(この)東洋(とうやう)に傾注(けいちう)するに至(いた)
つたが其(その)影響(えいけふ)として先(ま)づ支那(しな)に御承知(ごせうち)の阿片戦争(あへんせんそう)が起(おこ)つたのである而(しか)も戦争(せんそう)の結果(けつくわ)は我(わが)天保(てんはう)十三年に
至(いた)つて之(これ)等(ら)の欧州(おうしう)諸国(しよこく)に向(むか)ひ広東(かんとん)以下(いか)の五 港(こう)を開(ひら)き且(か)つ支那(しな)は香港(ほんこん)の一 島(とう)を英国(えいこく)に割譲(かつぜう)して我(わが)東洋(とうやう)史(し)
に一 新紀元(しんきげん)を劃(くわく)するに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て英国(えいこく)が東洋(とうやう)に対(たい)する計画(けいくわく)は益々(ます〳〵)進捗(しんせん)せむとするのみな
らず其(その)他(た)の新興国(しんこうこく)をして新天地(しんてんち)を求(もと)め利源(りげん)を開発(かいはつ)せむとするの希望(きばう)を強大(けうだい)ならしめた事は一 層(そう)で我国(わがくに)
に対(たい)する開国(かいこく)の圧迫(あつぱく)も亦(ま)た之(これ)より漸(やうや)く盛(さかん)なるの形勢(けいせい)を作成(さくせい)したのである
当時(たうじ)幕府(ばくふ)に於(おい)ても此(こ)の世界(せかい)の大勢(たいせい)に余儀(よぎ)なくせられ天保(てんはう)十三年 復(ふたゝ)び外船打払(ぐわいせんうちはらひ)の禁(きん)を弛(ゆる)めたが弘化(こうくわ)二
年 英(えい)の軍艦(ぐんかん)サラマングは長崎(ながさき)に来(きた)り嘉永(かえい)二年 其(その)測量船(そくれうせん)マリナーは又(ま)た浦賀(うらが)並(ならび)に下田(しもだ)に至(いた)り幕吏(ばくり)の頗(すこぶ)る
苦慮(くりよ)した事は之(こ)れ亦(ま)た諸君(しよくん)の既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)くである
それから米国(べいこく)の我国(わがくに)に対(たい)する挙動(きよどう)であるが元来(がんらい)米国(べいこく)と我国(わがくに)とは余(あま)り古(ふる)くからの関係(くわんけい)ではなく寛政(かんせい)十年
蘭領(らんれう)バタビアに住(す)む米人(べいじん)が蘭人(らんじん)と称(せう)して長崎(ながさき)に来(き)て貨物(くわもつ)の売買(ばい〴〵)をしたのが先(ま)づ最初(さいしよ)であると云ふことで
ある其(その)後(のち)もチヨイ〳〵来航(らいかう)したものがあつたが彼(か)の天保(てんぱう)八年六月モリソン船(せん)の浦賀(うらが)に来(きた)つたのは頗(すこぶ)る
注意(ちうゐ)すべきことである此(この)事(こと)は前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べたと考(かんが)へるが実(じつ)に我国(わがくに)に重大(ぢうだい)なる影響(えいけふ)を及(およ)ぼしたもので
ある初(はじ)め米国(べいこく)の一 商館(せうくわん)に於(おい)ては我国(わがくに)の漂流民(へうりうみん)を得(え)て之(これ)を送還(そうくわん)し之(これ)に依(よ)つて通商(つうせう)の機会(きくわい)を得(え)むとしたの
であるソコでモリソンと云ふ名前(なまへ)の船(ふね)を艤(ぎ)して我国(わがくに)へ向(むか)はしめソレが天保(てんぱう)八年の六月に浦賀(うらが)に到着(たうちやく)し
たのであるトコロで其(その)渡来(とらい)の目的(もくてき)が元(も)と通商(つうせう)にあるのであるから勉(つと)めて平和(へいわ)を示(しめ)したいと云ふ処から
凡(すべ)ての武装(ぶさう)を解除(かいぢよ)してやつて来(き)たのである当時(たうじ)我国(わがくに)に於(おい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く異船打払(ゐせんうちはらひ)の令(れい)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十七
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十八
【本文】
が布(し)かれてあつたのであるから之(これ)に向(むかつ)て直(たゞ)ちに発砲(はつほう)したのみならず其(その)武装(ぶさう)のないのを見(み)て余程(よほど)軽蔑(けいべつ)の
様子(やうす)を現(あら)はしたのである此(この)時(とき)米船(べいせん)は種々(しゆ〴〵)の方法(はう〳〵)を以(もつ)て其(その)他意(たい)なきことを示(しめ)さむとしたが我国(わがくに)の幕吏(ばくり)の為(ため)
に峻拒(しゆんきよ)せられて遂(つひ)に浦賀(うらが)を去(さ)るに至(いた)つたのである後(のち)此(この)米船(べいせん)は八月廿日を以(もつ)て鹿児島(かごしま)に寄港(きかう)したが之(こ)れ
亦(ま)た拒絶(きよぜつ)されたので匇惶(そうくわう)として澳門(まかを)に向(むか)つて去(さ)つたと云ふのが事実(じゞつ)である然(しか)るに翌年(よくねん)即(すなは)ち天保(てんぱう)九年に
至(いた)つて和蘭(おらんだ)の甲比丹(かぴたん)からモリソンが我国(わがくに)に来航(らいかう)すると云ふ風説書(ふうせつがき)を幕府(ばくふ)に差出(さしいだ)したので之(これ)が忽(たちま)ち一 問(もん)
題(だい)と相成(あひな)つたのである其(その)実(じつ)モリソンと云ふのは米国(べいこく)の船名(せんめい)で前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)く既(すで)に昨年(さくねん)我国(わがくに)に来(きた)り目的(もくてき)を達(たつ)
せずしてミス〳〵皈(かへ)り去(さ)つたのであるが我国(わがくに)に於(おい)ては昨年(さくねん)浦賀(うらが)に来(きた)つた処の船(ふね)が其(その)モリソンであつた
と云ふことは知(し)るに由(よし)なく殊(こと)に和蘭(おらんだ)の風説書(ふうせつがき)に此(この)モリソンを以(もつ)て英国船(えいこくせん)と記(しる)してあつたので其(その)頃(ころ)の蘭学(らんがく)
者(しや)等(ら)は之(これ)は彼(か)の東洋学者(とうやうがくしや)で支那(しな)に在留中(ざいりうちう)たるロバート、モリソンが英国(えいこく)から派遣(はけん)せられて我国(わがくに)に使(し)す
るものであると信(しん)じて大(おほい)に其(その)打払(うちはらひ)の非(ひ)なる事を憂慮(いうりよ)するに至(いた)つたのである渡辺崋山(わたなべくわざん)、高野長英(たかのてうえい)等(ら)の疑(ぎ)
獄(ごく)も実(じつ)は之(これ)が原因(げんゐん)となつて起(おこ)つたものであるが今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)るとかゝる事実(じじつ)の間違(まちがひ)から多(おほ)くの人(じん)
物(ぶつ)を困死(こんし)せしむるに至(いた)つたのは返(かへ)す〳〵も遺憾(ゐかん)なることであつたと思(おも)ふ其(その)後(のち)弘化(こうくわ)二年に至(いた)つて米国(べいこく)の捕(ほ)
鯨船(けいせん)が浦賀(うらが)に来(きた)つた事があるが其(その)携(もた)らし来(きた)つた我(わが)漂流民(へうりうみん)丈(だけ)は特別(とくべつ)の詮議(せんぎ)と云ふので受取(うけと)られたが総(すで)て
の武器(ぶき)などは取上(とりあ)げられてホウ〳〵の体(てい)で皈(かへ)り去(さ)つたのである其(その)頃(ころ)米国政府(べいこくせいふ)は東亜(とうあ)に来住(らいぢう)せる其(その)国民(こくみん)
の利益(りえき)を擁護(えうご)する為(ため)に有力(いうりよく)なる一 艦隊(かんたい)を支那近海(しなきんかい)に出航(しゆかう)せしむることとなつたが同時(どうじ)に我国(わがくに)に於(おい)て外国(ぐわいこく)
の為(ため)に港湾(かうわん)の開放(かいはう)をなさしむる見込(みこみ)があるかどうかと云ふことに就(つい)て確(たしか)むる為(ため)に提督(ていとく)ビツトルと云ふ人
に命(めい)じて之(これ)を試(こゝろ)みしめたのであるソコでビツトルは嘉永(かえい)元年(がんねん)六月廿日 米艦(べいかん)二 雙(そう)を率(ひき)ゐて浦賀(うらが)に来(きた)り通(つう)
商条約(せうでうやく)を締結(ていけつ)せむことを申込(まをしこ)むだのであるが此(この)時(とき)も矢張(やはり)幕吏(ばくり)の拒(こば)む処(ところ)と相成(あひな)つたのであるモツトモ此(この)時(とき)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
に於(おい)ても米船(べいせん)は極(きは)めて穏和(おんわ)なる態度(たいど)を示(しめ)して邦人(ほうじん)に対(たい)し自由(じゆう)に船内(せんない)の観覧(くわんらん)を許(ゆる)すなど頗(すこぶ)る交意(かうい)を表(へう)し
たのであるが帰(き)する処は彼(か)れの失敗(しつぱい)に終(をは)つて之(こ)れ亦(ま)た遂(つひ)に空(むな)しく皈(かへ)り去(さ)らざるを得(え)なかつたのである
ソコで其(その)翌(よく)二年の三月廿五日 米国(べいこく)の提督(ていとく)グリンが其(その)国(くに)の漂流民(へうりうみん)受取(うけとり)の為(ため)に長崎(ながさき)に来(きた)つた時(とき)は中々(なか〳〵)強硬(けうこう)
の態度(たいど)で之(これ)迄(まで)の穏和主義(おんわしゆぎ)一 点張(てんば)りではなかつたのであるがイヨ〳〵嘉永(かえい)六年に乗(の)り込(こ)むで来(き)たペリー
に至(いた)つては最(‘もつと)も強硬(けうこう)なる態度(たいど)を示(しめ)したのである
時(とき)の米国大統領(べいこくだいとうれう)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)くミラルド、フヒルモーアであつたが我国(わがくに)に対(たい)して開国(かいこく)を促(うなが)すべ
しと云ふ議論(ぎろん)が漸(やうや)く其(その)国(くに)に盛(さかん)となつて千八百五十年に至(いた)り遂(つひ)にそれが議会(ぎくわい)に現(あら)はれて決議(けつぎ)となり其(その)東(とう)
洋(やう)印度(いんど)支那(しな)海(かい)にある艦隊(かんたい)の勢力(せいりよく)を増加(ぞうか)して我国(わがくに)に対(たい)する開国(かいこく)を試(こゝろ)みむとしたのである而(しか)してマシウー
ペリーは新(あらた)に其(その)提督(ていとく)に任命(にんめい)せられたのであつたが大統領(だいとうれう)は我(わが)将軍(せうぐん)に致(いた)すの書(しよ)並(ならび)にペリーの信任状(しんにんぜう)を彼(かれ)
に授(さづ)け以(もつ)て其(その)使命(しめい)を達(たつ)せしめむとしたのであるソコで米国(べいこく)は先(ま)づ此(この)事(こと)を和蘭(おらんだ)に告(つ)げて適当(てきたう)なる助力(じよりよく)を
求(もと)め和蘭(おらんだ)に於(おい)ても之(これ)を承諾(せうだく)したのであるが英国(えいこく)海軍省(かいぐんせう)も亦(ま)た此(この)挙(きよ)に対(たい)し好意(かうい)を表(へう)し最新(さいしん)の海図(かいづ)を供給(けうきふ)
して東洋(とうよう)への航路(かうろ)に付(つき)指示(しじ)する処があつたのであるソコで和蘭(おらんだ)に於(おい)ては長崎(ながさき)にある処の甲比丹(かぴたん)をして
右(みぎ)の事情(じぜう)を我国(わがくに)に報知(ほうち)せしめ且(か)つ忠告(ちうこく)する処あらしめたが其(その)頃(ころ)我国(わがくに)に於(おい)ては未(いま)だ米国(べいこく)を以(もつ)て英領(えいれう)であ
る如(ごと)く思惟(しい)するもの多(おほ)く従(したがつ)て米国(べいこく)が世界(せかい)に於(お)ける独立(どくりつ)の強国(けうこく)だなどとは考(かんが)へなかつたのが一 般(ぱん)であつ
たそれのみならず和蘭(おらんだ)に対(たい)しても近来(きんらい)は頻(しき)りに疑惑(ぎわく)の眼(まなこ)を以(もつ)て見(み)るような場合(ばあひ)であつたから今度(このたび)の忠(ちう)
告(こく)に対(たい)してもそれ程(ほど)に留意(りうい)もしなかつたのであるがイヨ〳〵ペリーの来航(らいかう)に方(あた)つては我(わが)幕府(ばくふ)の狼狽(らうばい)は
実(じつ)に甚(はなはだ)しきものがあつたのである
サテ米国(べいこく)に於(おい)ては其(その)議会(ぎくわい)がペリー遠征(ゑんせい)の事を決(けつ)して後(のち)其(その)軍艦(ぐんかん)蒸滊船(ぜうきせん)などの選定(せんてい)に時日(じじつ)を費(つひや)したのであ
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十九
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百二十
【本文】
《割書:ペリーの出|発》 るがイヨ〳〵我(わが)嘉永(かえい)五年十月十三日を以(もつ)て其(その)準備(じゆんび)全(まつた)く整(とゝの)ひペリーは本国(ほんごく)ノルフオークを出発(しゆつぱつ)したので
ある而(しか)して喜望峯(きばうほう)を廻(めぐ)り漸(やうや)く東亜(とうあ)の海面(かいめん)に浮(うか)びて澳門(まかを)に到着(たうちやく)したのは翌年(よくねん)の四月六日であつたが五月
四日には上海(しやんはい)に到達(たうたつ)し此処(こゝ)にてペリー自身(じしん)はシユスクエハンナに坐乗(ざぜう)し外(ほか)にミスシツピー及(およ)びサツブ
《割書:ペリー琉球|に至る》 ライの二 艦(かん)を率(ひき)ひて五月廿六日 先(ま)づ琉球(りうきう)を見舞(みま)つたのである此(この)琉球(りうきう)に於(お)けるペリーの挙動(きよどう)等(とう)に就(つい)ては
実(じつ)に注目(ちうもく)すべき事が多(おほ)いのであるが今(いま)はそれ等(ら)迄(まで)をも詳説(せうせつ)すべき余裕(よゆう)がないから略(りやく)することとしたいが
それからペリーは一たび小笠原島(をがさはらじま)の探検(たんけん)に赴(おもむ)き更(さら)に琉球(りうきう)に引(ひ)き返(かへ)し遂(つひ)に七月二日を以(もつ)て我国(わがくに)への航路(かうろ)
に向(むか)つたのである此(この)時(とき)ペリーの率(ひき)ゐたる船(ふね)は先(ま)づ旗艦(きかん)シユスクエハンナ(蒸滊軍艦(ぜうきぐんかん))を初(はじめ)としミスシツ
ピー(仝上(どうぜう))並(ならび)にサラトガ(帆船(はんせん))ブライマウス(仝上(どうぜう))の四 艘(そう)であつたが右(みぎ)の内(うち)帆船(はんせん)二 艘(そう)は後(あと)から来(きた)り会(くわい)
したもので先(さき)に率(ひき)ゐて来(き)たサツブライ丈(だけ)は之(これ)を琉球(りうきう)那覇港(なはかう)に残(のこ)し置(お)いた次第(しだい)である
《割書:ペリー浦賀|湾に投錨す》 かくてペリーは我(わが)嘉永(かえい)六年六月三日(千八百五十三年七月八日)未刻(ひつじのこく)を以(もつ)て相模国(さがみのくに)城(しろ)ケ島(しま)沖(おき)に現(あら)はれ
直(たゞ)ちに其(その)率(ひき)ゆる処の四 艦(かん)に対(たい)し戦闘準備(せんたうじゆんび)を命(めい)じたのであるソコで浦賀奉行(うらがぶぎやう)配下(はいか)の小吏(せうり)は之(これ)を抑止(よくし)する
為(ため)に数艘(すうそう)の小舟(こぶね)に乗(ぜう)じて之(これ)に近(ちか)づかむとしたが彼等(かれら)は泰然自若(たいぜんじじやく)として一 向(かう)之(これ)等(ら)の小舟(こぶね)を寄(よ)せ付(つ)けざる
のみか帆(ほ)もなく櫓(ろ)もなきに逆風(ぎやくふう)に快走(かいさう)して益々(ます〳〵)湾内(わんない)に進入(しんにふ)せる光景(くわうけい)に対(たい)しては当時(たうじ)我(わが)幕吏(ばくり)の呆然(ばうぜん)なり
しも無理(むり)ならぬ次第(しだい)であつたと思(おも)ふソコで此(この)艦隊(かんたい)の浦賀(うらが)湾内(わんない)に投錨(とうべう)するを見(み)るや浦賀奉行(うらがぶぎやう)戸田伊豆守(とだいづのかみ)
氏栄(うぢひで)は部下(ぶか)をして早速(さつそく)米艦(べいかん)に赴(おもむ)かしめたが米艦(べいかん)は矢張(やはり)之(これ)を受付(うけつ)けない此(この)時(とき)我(わが)陸上(りくぜう)に於(おい)ては号砲(がうほう)を放(はな)つ
やら海岸守備(かいがんしゆび)の任(にん)にあるものが各(おの〳〵)其(その)担当区域(たんたうくゐき)の守衛(しゆえい)に就(つ)くやらで其(その)混雑(こんざつ)と云ふものは実(じつ)に名状(めいぜう)すべ
からざるものがあつたのである此(この)時(とき)与力(よりき)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)と云ふ人は蘭語(らんご)の出来(でき)る人であつたが自(みづか)ら次官(しくわん)だ
と称(せう)して上船(ぜうせん)を許(ゆる)され暫(しばら)くペリーの旗手(きしゆ)と談話(だんわ)を交換(かうくわん)したのであるソコでイヨ〳〵此(この)船(ふね)が予想(よさう)の如(ごと)く
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百六十四号附録(大正二年五月十三日発行)
【本文】
米国(べいこく)の艦隊(かんたい)であることが確(たしか)まつたのみならず其(その)大統領(だいとうれう)より我(わが)将軍(せうぐん)に送(おく)るべき書翰(しよかん)を所持(しよぢ)して居(を)る事を知(し)
つたのである併(しか)し此方(こちら)から出(だ)した禁令(きんれい)だの用事(ようじ)があるならば長崎(ながさき)へ来(こ)いだのと云ふ注文(ちうもん)は一も二もな
く先方(せんぱう)の峻拒(しゆんきよ)する処となつたのであるそれのみならず我(わが)警備船(けいびせん)に対(たい)しても其(その)立退(たちのき)を要求(えうきう)し若(も)し肯(がゑん)ぜざ
《割書:与力中島三|郎助》 れば打(う)ち払(はら)ひもしまじき態度(たいど)を示(しめ)したのであるが只今(たゞいま)一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた与力(よりき)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)と云ふ人は私(わたくし)が後(のち)
に段々(だん〴〵)御話(おはなし)致(いた)したいと思(おも)ふ吉田藩士(よしだはんし)穂積清軒(ほづみせいけん)と云ふ人の叔父(おぢ)で実(じつ)は我(わが)吉田藩(よしだはん)に於(お)ける蘭学者(らんがくしや)とは最(もつと)も
関係(くわんけい)の深(ふか)い人である此(この)人(ひと)は後(のち)に榎本釜次郎(ゑのもとかまじらう)に従(したがつ)て函館(はこだて)に脱走(だつそう)したのであるが之(これ)等(ら)開国論者(くわいこくろんしや)の議論(ぎろん)が
我(わが)吉田藩士(よしだはんし)の間(あひだ)に影響(えいけう)した事の少(すくな)からざりしことは頗(すこぶ)る注意(ちうゐ)すべき事柄(ことがら)であると信(しん)ずるのである
《割書:浦賀湾頭の|光景》 トコロで此(この)夜(よ)に於(お)ける浦賀湾頭(うらがわんとう)の光景(くわうけい)と云ふものは実(じつ)に物凄(ものすご)い訳(わけ)であつたので陸上(りくぜう)には到(いた)る処(ところ)に烽火(ほうくわ)
を飛(と)ばして遠近(ゑんきん)に警報(けいほう)を伝(つた)えあらゆる警鐘(けいせう)を夜(よ)を徹(てつ)して打(う)ち鳴(な)らされると云ふ有様(ありさま)であつたが米国(べいこく)の
旗艦(きかん)からは又(ま)た午後(ごご)九時の号砲(がうほう)を放(はな)つたので邦人(ほうじん)を驚(おどろ)かした事が少(すくな)くなかつたと云ふ話(はなし)であるかゝる
有様(ありさま)で当時(たうじ)に於(お)ける混雑(こんざつ)と云ふものは今日(こんにち)より想像(さうぞう)する以上(いぜう)の事であつたと思(おも)ふのであるが其(その)明日(あくるひ)も
空(むな)しく此(かく)の如(ごと)き事を繰(く)り返(かへ)しつゝ浦賀奉行(うらがぶぎよう)は一 方(ぱう)に之(これ)に対(たい)する幕府(ばくふ)の指揮(しき)を仰(あふ)いだのであるがサテ幕(ばく)
府(ふ)に於(おい)ても此(この)処置(しよち)には実(じつ)に当惑(たうわく)したのであつて到底(たうてい)従来(じうらい)の如(ごと)き筆法(ひつぱう)では此(この)米艦(べいかん)を逐(お)ひ去(さ)らしむることは
不可能(ふかのう)であることが明(あきら)かであると云ふ処から最(もつと)も苦心(くしん)したのであつたが何(なに)を言(い)ふても万(まん)一 米艦(べいかん)と戦端(せんたん)で
も開(ひら)くようになつて其(その)艦隊(かんたい)が次第(しだい)に江戸(えど)の近海(きんかい)に進入(しんにふ)して来(き)た場合(ばあひ)には江戸市民(えどしみん)に必須(ひつす)なる物質(ぶつし)の輸(ゆ)
入(にふ)と云ふものは全(まつた)く杜絶(とぜつ)さるゝ事になると云ふのが先(ま)づ第一の苦痛(くつう)であつた様(やう)に察(さつ)せらるゝのである
ソコで成(な)るべき丈(だけ)は無事(ぶじ)に米艦(べいかん)をして去(さ)らしむる方法(はう〳〵)が必要(ひつえう)であると云ふ処から兎(と)に角(かく)彼(か)れの要求(えうきう)に
応(おう)じて特使(とくし)を派(は)し其(その)齎(もた)らせる処の書翰(しよかん)を受取(うけと)るより外(ほか)致方(いたしかた)がなかろうと云ふのに帰着(きちやく)したのであるモ
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百二十一
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百二十二
【本文】
ツトモ之(これ)迄(まで)に立至(たちいた)るに就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の混雑(こんざつ)があつた事であるがそれ等(ら)は今(いま)細(こま)かに申述(まをしの)ぶる必要(ひつえう)もないと
考(かんが)へるのであるが結局(けつきよく)かゝる次第(しだい)で在京(ざいけう)の浦賀奉行(うらがぶぎよう)井戸石見守弘道(ゐどいわみのかみひろみち)が幕命(ばくめい)を受(う)けて戸田伊豆守(とだいづのかみ)と共(とも)に
イヨ〳〵米使(べいし)に接見(せつけん)することと相成(あひな)つたのであるサテ此(この)米使(べいし)接見(せつけん)の模様(もやう)は既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)くであ
《割書:久里浜の会|見》 るが久里浜(くりはま)に会見所(くわいけんじよ)を設置(せつち)し中々(なか〳〵)威儀堂々(いぎどう〴〵)たるものであつたのであるモツトモ此(この)時(とき)の事(こと)に関(くわん)しては御(お)
話(はなし)すべき事(こと)が沢山(たくさん)にあるのであるが之(これ)は大概(たいがい)世(よ)に知(し)られて居(を)る事柄(ことがら)が多(おほ)いのであるから諸君(しよくん)も略(ほゞ)御存(ごぞん)
知(ぢ)の事(こと)であると思(おも)ふソコで大統領(だいとうれう)よりの書翰(しよかん)授受(じゆ〴〵)の事を終(をは)り我(わが)幕府(ばくふ)からも諭書(ゆしよ)を渡(わた)したのであるがペ
リーは更(さら)に来春(らいしゆん)四五月を以(もつ)て再(ふたゝ)び来航(らいかう)すべき旨(むね)を言(い)ひ残(のこ)して相別(あひわか)れたのであるそれよりペリーは船(ふね)を
神奈川沖(かながはおき)まで進(すゝ)め水深(すゐしん)を測量(そくれう)するなど悠然(ゆうぜん)として動作(どうさ)し漸(やうや)く十二日に到(いた)つて琉球(りうきう)に向(むか)ひ浦賀(うらが)を去(さ)つた
のであるが此(この)時(とき)我(わが)邦人(ほうじん)の驚愕(けうがく)せる事は一方(ひとかた)でなく老中(らうちう)初(はじ)め幕府(ばくふ)の枢要(すうえう)なる人々(ひと〴〵)は火事装束(くわじせうぞく)で武器(ぶき)を携(たづさ)
へて登城(とうじやう)し徹宵謀議(てつせうばうぎ)に及(およ)むだと云ふ程(ほど)である此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)で此(この)米艦(べいかん)来航(らいかう)の問題(もんだい)は之(こ)れ迄(まで)の外船渡来(ぐわいせんとらい)と
は頗(すこぶ)る趣(おもむき)を異(こと)にし実(じつ)に我(わが)邦(くに)の外交(ぐわいかう)に関(くわん)して一 大覚醒(だいかくせい)を促(うなが)さしめたもので実(じつ)に我(わが)邦(くに)開国(かいこく)の起源(きげん)とも云
ふべきであるから一 般(ぱん)邦人(ほうじん)に対(たい)する刺激(しげき)も実(じつ)に容易(ようい)ならざりし訳(わけ)であつたのである
《割書:幕府当局者|と水戸斉昭》 尚(な)ほ此処(こゝ)に一 言(げん)して置(お)きたいと思(おも)ふのは当時(たうじ)に於(お)ける幕府(ばくふ)当局者(たうきよくしや)の意見(いけん)である勿論(もちろん)当時(たうじ)の老中(ろうちう)上座(ぜうざ)は
阿部伊勢守正弘(あべいせのかみまさひろ)であつたが正弘(まさひろ)は米艦(べいかん)の浦賀(うらが)に入(い)れる報知(ほうち)に接(せつ)するや先(ま)づ同(おな)じ閣老(かくらう)の牧野備前守(まきのびぜんのかみ)に謀(はか)
り諸有司(しよいうし)の意見(いけん)を徴(てう)したる後(のち)私(ひそ)かに一 書(しよ)を水戸(みと)の斉昭(なりあきら)に致(いた)して其(その)策(さく)を問(と)つたのである蓋(けだ)し斉昭(なりあきら)は前(まへ)に
も申述(まをしの)べたる如(ごと)く現代(げんだい)の政界(せいかい)に多大(ただい)の勢力(せいりよく)を有(いう)し特(とく)に其(その)外交(ぐわいかう)意見(いけん)は極(きは)めて強硬(けうかう)なるもので頗(すこぶ)る天下(てんか)に
傾聴(けいてう)せられて居(を)つた次第(しだい)であるから其(その)意見(いけん)を聴(き)いて之(これ)を纏(まと)めて置(お)くのは当時(たうじ)最(もつと)も得策(とくさく)となしたのであ
ると思(おも)はれる然(しか)るに斉昭(なりあきら)とても別(べつ)に妙案(めうあん)のある筈(はづ)もなく最初(さいしよ)の答(こたへ)は先年来(せんねんらい)自分(じぶん)の海防建議(かいぼうけんぎ)が容(い)れられ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
なかつたのであるから今更(いまさら)何(なん)とも致方(いたしかた)はないが併(しか)し彼(か)れの要求(えうきう)は容(い)れないようにしたいと云ふような
意味(いみ)で頗(すこぶ)る不得要領(ふとくえうれう)なものであつたが余程(よほど)之(これ)には斉昭(なりあきら)も苦心(くしん)したものと見(み)えて更(さら)に将軍(せうぐん)の命(めい)とあらば
登城(とじやう)の上(うへ)衆議(しゆうぎ)をも聴(き)き又(ま)た自分(じぶん)の意見(いけん)をも開陳(かいちん)すべしと申出(まをしい)でたのであるソコで伊勢守(いせのかみ)は渡(わた)りに船(ふね)と
でも言(い)ふべきか早速(さつそく)将軍(せうぐん)の旨(むね)を請(こ)ふて自(みづか)ら斉昭(なりあきら)の邸(やしき)を訪(と)ひ諸有司(しよいうし)の意見書(いけんしよ)をも示(しめ)して所見(しよけん)を問(と)つたの
であるが其(その)結果(けつくわ)幕議(ばくぎ)は遂(つひ)に米使(べいし)の齎(もた)らせる書翰(しよかん)を受取(うけと)る事(こと)に決定(けつてい)したのであるから斉昭(なりあきら)も別(べつ)の策(さく)の施(ほどこ)
すべきものなしとして矢張(やはり)之(これ)に同意(どうい)したものか少(すくな)くとも之(これ)を黙認(もくにん)したものと思(おも)はるゝのであるソコ
で先(ま)づ米国(べいこく)の書翰(しよかん)受取(うけと)りの事丈(ことだけ)は無事(ぶじ)に相済(あひす)むでペリーは兎(と)に角(かく)一 度(ど)退(しりぞ)き去(さ)つたのであるがいづれペ
リーは再(ふたゝ)び渡来(とらい)して今度(こんど)は一 層(そう)強(つよ)き意味(いみ)に於(おい)て開国(かいこく)の催促(さいそく)をするに相違(さうゐ)ないサテ此(この)点(てん)に対(たい)する我(わが)邦(くに)の
覚悟(かくご)如何(いかん)は其(その)後(のち)に残(のこ)る大問題(だいもんだい)で幕府(ばくふ)に於(おい)ては其(その)後(のち)開鎖(かいさ)の疑議(ぎゞ)に日(ひ)も亦(ま)た足(た)らざるの有様(ありさま)であつたが当(たう)
時(じ)我国(わがくに)の弱点(じやくてん)は第一 武備(ぶび)の不足(ふそく)である之(これ)は既(すで)に年来(ねんらい)の宿題(しゆくだい)で有識者間(いうしきしやかん)には数々(しば〴〵)唱導(せうどう)されたる処(ところ)であつ
たが天下(てんか)一 般(ぱん)の人に至(いた)つては中々(なか〳〵)右(みぎ)様(やう)な事は分(わか)らぬ言(い)はば元寇殲滅(げんかうせんめつ)など我国(わがくに)が歴史上(れきしぜう)未(いま)だ嘗(かつ)て外国(ぐわいこく)に
敗(やぶ)れた事のないと云ふ例(れい)を深(ふか)く印象(いんせう)して只(た)だ〳〵鎖国(さこく)すべし攘夷(ぜうゐ)何(なに)かあらむと威張(ゐば)り手(て)が多(おほ)いと云ふ
のが普通(ふつう)の状態(ぜうたい)であつたのであるトコロが幕府(ばくふ)の枢機(すうき)にあるものから云ふとまだ武備(ぶび)の不足(ふそく)よりも一
層(そう)痛切(つうせつ)に困難(こんなん)を感(かん)じたのが実(じつ)に財政(ざいせい)の窮乏(きうぼう)で之(これ)は下手(へた)に打明(うちあ)くる訳(わけ)にも行(ゆ)かず只だ〳〵苦慮(くりよ)の外(ほか)はな
かつたのであるかゝる内情(ないぜう)であつたから幕府(ばくふ)に開国主義(かいこくしゆぎ)と云ふ迄(まで)の見地(けんち)は之(こ)れなくとも対外上(たいぐわいぜう)の政策(せいさく)
としては自然(しぜん)退嬰軟弱(たいえいなんじやく)の方針(はうしん)に傾(かたむ)くのは致方(いたしかた)がなかつたのである然(しか)るに一つ困(こま)つた事は矢張(やはり)水戸(みと)の斉(なり)
昭(あきら)である前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く最初(さいしよ)ペリーの持参(ぢさん)せる書翰(しよかん)を受取(うけと)るべきや又(また)は之(これ)を拒絶(きよぜつ)すべきやと云
ふ時(とき)に方(あた)つては幸(さいはひ)に止(やむ)を得(え)ぬから之(これ)を受取(うけと)るも仕方(しかた)がないであろうと云ふような不得要領(ふとくえうれう)の意見(いけん)で
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百二十三
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百二十四
【本文】
あつたものらしく誠(まこと)に致(いた)しよかつたのであるがサテ今度(こんど)イヨ〳〵開国(かいこく)か鎖国(さこく)かと云ふ段(だん)になつては中(なか)
中(なか)強硬(けうかう)な鎖国説(さこくせつ)を取(と)つて承知(せうち)しないモツトモ幕府(ばくふ)枢要(すうやう)の地位(ちゐ)にある人々とても必(かなら)ずしも開国(かいこく)を欲(ほつ)した
訳(わけ)ではない出来(でき)る事なれば攘夷(ぜうゐ)も致(いた)したいのであるが今(いま)は到底(たうてい)武備(ぶび)足(た)らず財政(ざいせい)も亦(ま)た窮乏(きうぼう)の極(きよく)である
から暫(しばら)く権宜(けんぎ)を以(もつ)て外交(ぐわいかう)を塗抹(とまつ)し幸(さいはひ)に機(き)を得(え)たならば再(ふたゝ)び攘夷(ぜうゐ)を決行(けつかう)しては遅(おそ)からずと云ふような考(かんが)
であつたものと察(さつ)せられる然(しか)るに斉昭(なりあきら)の意見(いけん)は前(まへ)に申述(まをしの)ぶる如(ごと)く最(もつと)も強硬(けうかう)なる鎖国(さこく)にあるのでドウモ
幕議(ばくぎ)と意見(いけん)が一 致(ち)せなかつたのが少(すくな)くとも政局紛乱(せいきょくふんらん)の一 因(ゐん)をなしたものと信(しん)ぜられるのであるトコロ
へ此(この)場合(ばあひ)又(ま)た一 大不幸(だいふかう)が起(おこ)つたと云ふことは将軍(せうぐん)家慶(いへよし)の薨去(こうきよ)である家慶(いへよし)は此(この)国家無前(こくかむぜん)の大事件(だいじけん)の起(おこ)れる
《割書:将軍家慶の|薨去》 に方(あた)つて恰(あたか)も病(やまひ)革(あらた)まり此(この)年(とし)六月廿ニ日を以(もつ)て遂(つひ)に薨去(こうきよ)せられたのであるが世子(せいし)の家定(いへさだ)は元来(がんらい)病身(びやうしん)の
《割書:世子家定の|襲職》 人で到底(たうてい)此(この)大事(だいじ)を裁決(さいけつ)せらるべき人ではないソコで家慶(いへよし)は病(やまひ)大漸(たいぜん)に至(いた)つた時(とき)伊勢守(いせのかみ)を病床(びやうせう)に召(め)して後(こう)
事(じ)を托(たく)し後々(のち〳〵)の事(こと)は幸(さいはひ)に水戸斉昭(みとなりあきら)を起(おこ)して登城(とじやう)せしめ之(これ)に外事(ぐわいじ)を謀(はか)るの外(ほか)はなかろうと云つたとの事
である勿論(もちろん)伊勢守(いせのかみ)も此際(このさい)はドウあつても斉昭(なりあきら)と協和(けふわ)するの必要(ひつえう)を感(かん)じて居(を)つたのみならず松永慶永(まつながよしなが)【松平慶永(まつだひらよしなが)ヵ】、
島津斉彬(しまづせいひん)の如(ごと)きも亦(ま)た偏(ひとへ)に之(これ)に依(よ)るの外(ほか)なき事を唱(とな)えたのである以(もつ)て当時(たうじ)斉昭(なりあきら)の心(こゝろ)を収(おさ)むるは則(すなは)ち天(てん)
下(か)の人心(じんしん)を収攬(しうらん)する所以(ゆゑん)であると云ふ意味(いみ)を現(あら)はして居(を)つたものと見(み)るべきであると思(おも)ふ
ソコで伊勢守(いせのかみ)は七月三日 遂(つひ)に斉昭(なりあきら)を起(おこ)して幕議(ばくぎ)に参加(さんか)せしむるに至(いた)つたのみならず其(その)臣(しん)藤田東湖(ふぢたとうこ)等(ら)に
も書(しよ)を送(おく)らしめて説(と)く所(ところ)あらしめたのであるが幕議(ばくぎ)は終(つひ)に開鎖(かいさ)に関(くわん)し広(ひろ)く諸侯(しよこう)並(ならび)に諸士(しよし)の与論(よろん)を徴(てう)す
ることとなつたのである御承知(ごせうち)の通(とほ)り此(この)諸侯(しよこう)諸士(しよし)の与論(よろん)を聴(き)くと云ふ事に就(つい)ては後世(こうせい)の史家中(しかちう)に頗(すこぶ)る議(ぎ)
論(ろん)のある事で之(こ)れありしが為(ため)に却(かへ)つて議論(ぎろん)の沸騰(ふつとう)を来(き)たし幕府(ばくふ)の威権(ゐけん)は地(ち)に落(お)ちて処士横議(しよしわうぎ)の弊(へい)を生(せう)じ
結局(けつきよく)其(その)衰亡(すゐぼう)を招(まね)いたものであると論(ろん)ずるものもあるようであるが当時(たうじ)幕府(ばくふ)の声望(せいぼう)が漸(やうや)く軽(かる)きに傾(かたむ)き其(その)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百七十一号附録 (大正二年五月二十日発行)
【本文】
衰態(すゐたい)は諸侯(しよこう)の眼(まなこ)にも映(えい)じて居(を)つた事(こと)は勿論(もちろん)であつたであろうと思(おも)ふが併(しか)し事(こと)の外国(ぐわいこく)に関係(くわんけい)なき限(かぎ)りは
断(だん)じて未(いま)だ諸侯(しよこう)の拮抗(きつこう)を蒙(こうむ)るが如(ごと)き事は之(こ)れなかつた筈(はづ)である然(しか)るに今(いま)や事(こと)外国(ぐわいこく)との交渉(かうせう)であつて如(い)
何(か)なる場合(ばあひ)も挙国(きよこく)一 致(ち)でなくては事(こと)の致(いた)し様(やう)がないと云ふ大切(たいせつ)の時(とき)に方(あた)つて多年(たねん)幕府(ばくふ)の取(と)り来(きた)つた極(きよく)
端(たん)なる鎖国(さこく)の方針(はうしん)は到底(たうてい)急(きふ)に之(これ)を開国(かいこく)に導(みちび)くの方法(はう〳〵)なくさりとて従来(じうらい)の如(ごと)き鎖国主義(さこくしゆぎ)を取(と)れば此(この)際(さい)国(こく)
家(か)を危殆(きたい)の地位(ちゐ)に陥(おとしい)るゝも分(わか)らぬと云ふ現状(げんぜう)に際(さい)しては幕府(ばくふ)たるものは茲(こゝ)に初(はじ)めて衆議(しうぎ)の赴(おもむ)く処に決(けつ)
し与論(よろん)を尊重(そんちよう)すると云ふ態度(たいど)を取(と)つて如何様(いかやう)にも天下(てんか)の人心(じんしん)を纏(まと)めたいと云ふ事になつたので之(これ)は実(じつ)
に自然(しぜん)の勢(いきほひ)止(やむ)を得(え)ざるの運命(うんめい)であつたと解(かい)せねばならぬと信(しん)ずるのである
⦿外国問題と吉田藩
ソコで当時(たうじ)に於(お)ける我(わが)吉田藩(よしだはん)の傾向(けいかう)は如何(いかん)であつたか之(これ)は此処(こゝ)に少(すこ)しく申述(まをしの)べねばならぬ事であると
和田肇 思(おも)ふが当時(たうじ)此(この)吉田藩(よしだはん)に於(おい)て国老(こくろう)として最(もつと)も重(おも)きをなして居(を)つたのは和田肇(わだはじめ)である此(この)人(ひと)は寛政(かんせい)十二年九
月の生(うま)れで既(すで)に大河内家(おほかうちけ)の累代(るいだい)に歴仕(れきし)し頗(すこぶ)る勢力(せいりよく)のあつたものであるが名(な)は元長(もとなが)と云ひ後(のち)に信古(のぶひさ)の偏(へん)
諱(ゐ)を賜(たまは)つて古元(ひさもと)と改(あらた)めたが号(がう)を挑川(ちようせん)と云つたのである歌(うた)を善(よ)くし書(しよ)にも妙(みよう)を得(え)て居(を)つたが又(ま)た極(きは)めて
《割書:西村治右衛|門》 書画(しよぐわ)の鑑識(かんしき)に巧(たくみ)であつたのである其(その)頃(ころ)同(おな)じ国老(こくろう)で西村治右衛門(にしむらぢうゑもん)と云ふ人があつたが之(これ)も亦(ま)た藩中(はんちう)で重(おも)
きをなしたもので此(この)人(ひと)は名(な)を為周(ためかね)号(がう)を峯庵(ほうあん)と云つて頗(すこぶ)る古今(ここん)の学(がく)に通(つう)じ武芸(ぶげい)にも長(てう)じて居(を)つたのであ
西岡翠園 る当時(たうじ)藩校(はんかう)時習館(じしうくわん)の教授(けふじゆ)には西岡翠園(にしをかすゐゑん)があり又(ま)は監理(かんり)としては山本謙斉(やまもとけんさい)などと云ふ人があつたが此(この)西(にし)
岡翠園(をかすゐゑん)と云ふ人は前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた西岡天津(にしをかてんしん)と云つた人の次子(じし)で名(な)を宣(せん)字(あざな)を季廸(すへみち)通称(つうせう)を介蔵(すけざう)と云つ
たが初(はじ)め教(おしへ)を父(ちゝ)に受(う)け後(のち)太田錦城(おほたきんじやう)に就(つい)て学(まな)むだのである最(もつと)も毛詩(もうし)に通(つう)じて居(を)つたが人(ひと)となり澹泊寡言(たんぱくかごん)
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百二十五
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩職) 四百二十六
【本文】
で全(まつた)くの儒者(じゆしや)と云ふ風(ふう)であつたから政治向(せいぢむき)などには殆(ほとん)ど関係(くわんけい)がなかつたように思(おも)ふ又(また)其頃(そのころ)前(まへ)に申述(まをしの)べ
て置(お)いた彼(か)の太田錦城(おほたきんじやう)の子(こ)晴軒(せいけん)も矢張(やはり)藩(はん)の儒者(じゆしや)ではあつたが此(この)人(ひと)も矢張(やはり)学問(がくもん)一 徹(てつ)で藩政(はんせい)の顧問(こもん)と云ふ
ような訳(わけ)ではなかつたものと信(しん)ぜられるモツトモ此(この)人(ひと)は当時(たうじ)江戸(えど)の方(はう)に居(を)つたのであるがトコロで御(お)
児島閑牕 話(はなし)して置(お)きたいのは諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)である彼(か)の児島閑牕(こじまかんさう)である此(この)人(ひと)は名(な)を義和(よしかづ)通称(つうせう)を七五郎と云つ
たが矢張(やはり)此(この)吉田藩士(よしだはんし)で児島(こじま)六 助忠恕(すけたゞひろ)と云ふ人の長男(てうなん)であつた文政(ぶんせい)十一年八月の生(うまれ)で初(はじ)めは江戸(えど)にあつ
て荻野緑野(おぎのりよくや)の門(もん)に入(い)り其(その)塾長(じゆくてう)に推(お)されたが頗(すこぶ)る英邁(えいまい)強記(けうき)で出藍(しゆつらん)の誉(ほまれ)が高(たか)かつたのである後(のち)藩主(はんしゆ)の許可(きよか)
を得(え)て昌平黌(せうへいこう)に遊(あそ)び居(を)ること数年(すうねん)薩藩(さつはん)の重野安繹(しげのあんやく)、会津藩(あひづはん)の南摩綱紀(なんまこうき)、西條藩(せいでうはん)の三浦安 等(ら)と同窓(どうさう)で古賀(こが)
茶渓(さけい)、佐藤(さとう)一 斉(さい)などの鴻儒(こうじゆ)に就(つい)て学(まな)むだのである当時(たうじ)重野(しげの)は同窓(どうさう)の塾長(じゆくてう)であつたが閉窓(かんさう)【閑牕ヵ】とは最(もつと)も親密(しんみつ)
であつた様子(やうす)である後(のち)嘉永(かえい)六年の正月に至(いた)つて閑窓(かんさう)【閑牕ヵ】は更(さら)に藩主(はんしゆ)の許可(きよか)を得(え)て水戸(みと)、会津(あひづ)、米沢(よねざは)等(とう)の各(かく)
藩(はん)を遊歴(ゆうれき)したが其中(そのなか)でも水戸(みと)の藤田東湖(ふぢたとうこ)、会沢安(あひざはやすし)、内藤恥叟(ないとうちそう)などと交(まぢは)つて内藤(ないとう)とは晩年(ばんねん)までも友誼(いうぎ)を
続(つゞ)けて居(を)つたのであるかゝる訳(わけ)であつたから嘉永(かえい)六年の十一月 藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)は閑窓(かんさう)【閑牕ヵ】を召(め)し寄(よ)せて扈従役(こじうやく)と
し程(ほど)なく近習(きんじふ)に転(てん)じたが実(じつ)に君側(くんそく)にあつて顧問(こもん)に備(そな)はり藩政(はんせい)を輔翼(ほよく)したのである併(しか)し閑牕(かんさう)は其(その)当時(たうじ)は
まだ廿六 歳(さい)の青年(せいねん)で最初(さいしよ)から十 分(ぶん)に其(その)意見(いけん)が行(おこな)はれたかドウかは疑問(ぎもん)であるが要(えう)するに吉田藩(よしだはん)は御承(ごせう)
知(ち)の如(ごと)く徳川氏(とくがはし)譜代(ふだい)の家筋(いへすぢ)で殊(こと)に小藩(せうはん)でもあり只々(たゞ〴〵)公儀(こうぎ)に対(たい)する忠義(ちうぎ)一 徹(てつ)と云ふ志操(しさう)が充満(じうまん)して居(を)つ
たのであるから其頃(そのころ)は兎(と)に角(かく)幕府(ばくふ)の方針(はうしん)には逆(さから)はず只(た)だ〳〵それに対(たい)して忠誠(ちうせい)を励(はげ)むと云ふ志(こゝろざし)が盛(さかん)で
あつたものと考(かんが)へられる之(これ)は老人(らうじん)の実話(じつわ)又(また)は之(これ)から段々(だん〴〵)御紹介(ごせうかい)しようと思(おも)ふ記録(きろく)などでも推測(すゐそく)すること
が出来(でき)ると思ふのである
サテ前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)に於(おい)てはイヨ〳〵米艦(べいかん)の渡来(とらい)に付(つき)此後(このご)の処置(しよち)に関(くわん)して諸侯(しよこう)の意見(いけん)を諮(と)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
《割書:諸侯諸士等|の建議》 ふことと成(な)つたのであるが諸侯(しよこう)に於(おい)てはソコで所謂(いはゆる)藩論(はんろん)を定(さだ)めて漸次(ぜんじ)建議(けんぎ)する処があつたのである然(しか)る
に其(その)多(おほ)くと云ふものはまだ〳〵容易(ようい)に旧套(きうたう)を脱(だつ)することが出来(でき)ぬのは当然(たうぜん)の事で祖法(そはふ)は容易(ようい)に変改(へんかい)すべ
からずと云ふ意味(いみ)で鎖国的意見(さこくてきいけん)を具申(ぐしん)したのであるが独(ひと)り彦根侯(ひこねこう)井伊掃部守直弼(ゐいかもんのかみなほすけ)のみは結局(けつきよく)開国(かいこく)の止(やむ)
を得(え)ざる所以(ゆゑん)を陳述(ちんじゆつ)したのである而(しか)して浦賀奉行(うらがぶぎよう)戸田伊豆守(とだいづのかみ)の建議(けんぎ)も亦(ま)た殆(ほとん)ど直弼(なほすけ)と同論(どうろん)であつたが
殊(こと)に当時(たうじ)の小普請役(こふしんやく)勝麟太郎(かつりんたらう)(安房)、長崎(ながさき)の砲術家(はうじゆつか)高嶋喜平(たかしまきへい)(初(はじめ)四 郎太夫(らうたいう)、秋帆(しうほ))、並(ならび)に韮山(にらやま)の代官(だいくわん)江(え)
川太郎左衛門(がはたらうさゑもん)、仙台(せんだい)の藩士(はんし)大槻磐渓(おほつきばんけい)の如(ごと)きは蘭書(らんしよ)の講究(かうきう)によりて最(もつと)も外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)に通(つう)じて居(を)つた人々(ひと〴〵)
であるから孰(いづ)れも上書(ぜうしよ)して開国論(かいこくろん)を主張(しゆてう)したのである特(とく)に其(その)中(なか)でも高島秋帆(たかしましうほ)の建白(けんぱく)の如(ごと)きは当世(たうせ)第一
の卓見(たくけん)であるとして今日(こんにち)に於(おい)ても称賛(せうさん)せらるゝ処であるかゝる有様(ありさま)で一二の大名(だいみよう)又(また)は五六の学者(がくしや)志士(しゝ)
等(ら)は熱心(ねつしん)に開国論(かいこくろん)を主張(しゆてう)したのであるが大勢(たいせい)と云ふものはまだ〳〵旧習(きふしう)に固着(こちやく)し到底(たうてい)鎖国(さこく)の思想(しさう)は免(まぬが)
れざるのみならず一 方(ぱう)には熱心(ねつしん)なる攘夷論者(ぜうゐろんしや)もあつたのである吉田藩(よしだはん)に於(おい)ては此(この)時(とき)如何(いか)なる事を建議(けんぎ)
したるかそれは遺憾(ゐかん)ながら今(いま)分(わか)り兼(か)ぬるのであるが私(わたくし)は前(ぜん)申述(まをしの)べたる如(ごと)き志操(しさう)から勿論(もちろん)幕府(ばくふ)の処置(しよち)に
は逆(さから)はざる範囲内(はんゐない)に於(おい)て矢張(やはり)多分(たぶん)に漏(も)れぬ鎖国説(さこくせつ)であつた事と想像(さうぞう)するのである
《割書:露国使節の|来航》 然(しか)るに米艦(べいかん)の浦賀(うらが)を去(さ)れる後(のち)僅(わづか)に一月余に露国(ろこく)の使節(しせつ)プーチヤチンは亦(ま)た長崎(ながさき)へやつて来(き)たのである
当時(たうじ)和蘭(おらんだ)の通報(つうほう)によると露国(ろこく)の使節(しせつ)は米国使節(べいこくしせつ)の行動監視(かうどうかんし)の為(ため)であると伝(つた)えられたのであるが露国(ろこく)が
其(その)指(ゆび)を我(わが)北辺(ほくへん)に染(そ)めつゝあることは既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)くであるから機会(きくわい)だにあらば何等(なんら)かの利益(りえき)を我国(わがくに)に
求(もと)めむと欲(ほつ)して居(を)つた事は疑(うたが)ふべからざる事である従(したがつ)て今度(こんど)の来航(らいかう)とても亦(ま)た其(その)意味(いみ)に漏(も)れざる事
は明(あきらか)であると信(しん)ぜられるのであるが露艦(ろかん)は長崎(ながさき)に入港(にふかう)しても至極(しごく)穏和(おんわ)なる態度(たいど)を取(と)つたので其(その)点(てん)は米(べい)
艦(かん)と大(だい)なる差違(さゐ)があつたのであるから幕府(ばくふ)に於(おい)ては余程(よほど)之(これ)に満足(まんぞく)したものと見(み)え稍々(やゝ)寛大(かんだい)の処置(しよち)を取(と)
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百二十七
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百二十八
【本文】
つたのであるが結局(けつきよく)長崎奉行(ながさきぶぎよう)からの伺(うかゞひ)によつて幕府(ばくふ)は一 応(おう)諭告(ゆこく)して尚(なほ)強(しゐ)て請(こ)ふ処があるならば国書(こくしよ)
を受取(うけと)るべしと命(めい)じたのであるソコで長崎奉行(ながさきぶぎよう)は八月十九日を以(もつ)て遂(つひ)に露国(ろこく)使節(しせつ)の上陸(ぜうりく)を許(ゆる)し書翰(しよかん)授(じゆ)
受(じゆ)の儀(ぎ)を挙(あ)ぐるに至(いた)つたのであるが其(その)書翰(しよかん)の要旨(えうし)とする処は一に両国(れうこく)の国境(こくけう)を定(さだ)むる事二に露国(ろこく)の為(ため)
に我国(わがくに)の一二 港(かう)を開(ひら)きて交易(かうえき)を許(ゆる)し又(ま)た露船(ろせん)に食料(しよくれう)並(ならび)に其他(そのた)の必要品(ひつえうひん)を供給(けふきう)する事と云ふのであつ
たが幕府(ばくふ)では十月八日を以(もつ)て留守居(るすゐ)筒井肥前守(つゝゐひぜんのかみ)、勘定奉行(かんでうぶぎよう)川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)二 人(にん)を任命(にんめい)し之(これ)に荒尾土佐守(あらをとさのかみ)
並(ならび)に古賀謹(こがきん)一 郎(らう)の二 人(にん)を付(つ)き添(そ)はしめて長崎(ながさき)に派遣(はけん)し返書(へんしよ)を与(あた)へしめむとしたのである而(しか)して其(その)要旨(えうし)
とする処は国境(こくけう)に関(くわん)しては余程(よほど)の調査(てうさ)を要(えう)する事項(じこう)であることは言(い)ふ迄(まで)もないから到底(たうてい)一 朝(てう)一 夕(せき)に取(と)り
定(さだ)むることは出来(でき)ない又(ま)た開港(かいかう)交易(かうえき)の事は祖法(そはふ)として厳禁(げんきん)せられて居(を)る事ではあるが此(この)頃(ごろ)米国(べいこく)からも請(こ)
ふ処があつたし宇内(うだい)の形勢(けいせい)に鑑(かんが)みて古例(これい)をのみ守(まも)る訳(わけ)にも行(ゆ)くまいが之(これ)を決行(けつかう)するには十 分(ぶん)に利害(りがい)得(とく)
失(しつ)を調査(てうさ)する必要(ひつえう)があるは勿論(もちろん)の事であるのみならず事 重大(ぢうだい)であるから天朝(てんてう)にも奏(そう)し又(ま)た列侯(れつこう)の意見(いけん)
を緩和(くわんわ)する必要(ひつえう)もあるから此処(こゝ)四五年も立(た)つて国論(こくろん)の一 定(てい)するのを待(ま)たれたいものであると云ふので
あつた之(これ)で見(み)ると米艦(べいかん)の渡来(とらい)後(ご)まだ数(すう)ヶ月(げつ)であるが幕府(ばくふ)は既(すで)に開港(かいかう)の止(やむ)を得(え)ざるのを認(みと)めて居(を)つた様(やう)
子(す)で只(た)だ国論(こくろん)の趨向(すうかう)に顧慮(こりよ)する処があつて急(きふ)には之(これ)を断行(だんかう)し兼(か)ねたものと見(み)えるモツトモ此(この)肥前守(ひぜんのかみ)は
頗(すこぶ)る外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)に通(つう)じて開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざることを認(みと)めて居(を)つた人(ひと)であるが左衛門尉(さゑもんぜう)とても矢張(やはり)無謀(むばう)の戦(せん)
争(さう)をなすが如(ごと)きは決(けつ)して国家(こくか)に利益(りえき)でないと云ふ事を承知(せうち)して居(を)つたのである殊(こと)に古賀謹(こがきん)一 郎(らう)の如(ごと)き
は其(その)父(ちゝ)洞庵(どうあん)以来(いらい)の開国論者(かいこくろんしよ)であるから此(この)時(とき)の長崎(ながさき)下向(げかう)は幕議(ばくぎ)も頗(すこぶ)る開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざる事を認(みと)めたる結(けつ)
果(くわ)であることと思(おも)はるゝのである然(しか)るに彼(か)の露使(ろし)プーチヤチンは屡々(しば〳〵)長崎奉行(ながさきぶぎよう)に促(うなが)す処があつたが意(い)の
如(ごと)くならないので段々(だん〳〵)前(まへ)の態度(たいど)を一 変(へん)して頗(すこぶ)る強硬(けうこう)と成(な)つたのであるが十月廿二日に至(いた)り長崎奉行(ながさきぶぎよう)が
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百七十七号附録 (大正二年五月二十七日発行)
【本文】
種々(しゆ〴〵)に慰諭(ゐゆ)せるにも拘(かゝは)らず遂(つひ)に老中(らうちう)に宛(あて)たる書翰(しよかん)の写(うつし)を托(たく)して其(その)率(ひき)ゆる処(ところ)の四 艦(かん)を携(たづさ)へて卒然(そつぜん)長崎(ながさき)を
立(た)ち去(さ)つたのである此(この)退去(たいきよ)に就(つい)て当時(たうじ)プーチヤチンは種々(しゆ〴〵)なる口実(こうじつ)を設(まを)けて長崎奉行(ながさきぶぎやう)に告(つ)げたのであ
るが今日(こんにち)から観察(くわんさつ)すれば其(その)時(とき)恰(あたか)も露国(ろこく)と英仏(えいふつ)両国(れうこく)との間(あひだ)に国交(こくかう)が断絶(だんぜつ)せむとする場合(ばあひ)で其(その)報知(ほうち)を得(え)た
るプーチヤチンは終(つひ)に我国(わがくに)に居堪(ゐたま)らずして一たび上海(しやんはい)に立退(たちの)いたのであると信(しん)ぜられるのである然(しか)れ
共(ども)長崎奉行(ながさきぶぎやう)に於(おい)ては元(もと)よりそれ等(ら)の事を知(し)るよしもなく直(たゞ)ちに其(その)一 伍(ぶ)一 什(じう)を幕府(ばくふ)に通知(つうち)したのである
其(その)時(とき)恰(あたか)も筒井肥前守(つゝゐひぜんのかみ)等(ら)の一 行(かう)は既(すで)に西下(さいか)の途上(とぜう)にあつたのであるが幕府(ばくふ)は露使(ろし)の再来(さいらい)を予期(よき)したもの
であるから其(その)侭(まゝ)一 行(かう)をして西下(さいか)を継続(けいぞく)せしめたが一 行(かう)は十二月 初旬(しょじゅん)を以(もつ)て佐賀(さが)に達(たつ)したのである然(しか)る
に同月五日 露艦(ろかん)は果(はた)して再(ふたゝ)び長崎(ながさき)に入港(にふかう)したので左衛門尉(さゑもんぜう)等(ら)は至急(しきう)佐賀(さが)から長崎(ながさき)に到着(たうちやく)してイヨ〳〵
十二月十四日を以(もつ)てプーチヤチンと初度(しよど)の会見(くわいけん)をなし引続(ひきつゞ)いて数度(すうど)の談判(だんぱん)は開始(かいし)せられたが容易(ようい)に決(けつ)
することのなかつたのは当然(たうぜん)の事で殊(こと)に露国(ろこく)に於(おい)ては国境問題(こくけうもんだい)に就(つい)て択捉島(えとろふとう)を以(もつ)て全(まつた)く其(その)所領(しよれう)なりと抗(かう)
弁(べん)し唐太(からふと)も亦(ま)た其(その)大部分(だいぶゞん)を自己(じこ)の所領(しよれう)なりと主張(しゆてう)したのであつたが肥前守(ひぜんのかみ)、左衛門尉(さゑもんぜう)の両人(れうにん)は勿論(もちろん)勘(かん)
定組頭(でうくみがしら)中村為彌(なかむらためや)(出羽守(ではのかみ)時萬)等(ら)は熱心(ねつしん)に抗議(かうぎ)を申込(まをしこ)むで択捉島(えとろふとう)は無論(むろん)全部(ぜんぶ)我国(わがくに)の所領(しよれう)であることは明瞭(めいれう)
なるのみならず唐太(からふと)も亦(ま)た少(すくな)くとも天度(てんど)五十 度(ど)以南(いなん)は我(わ)が有(いう)でなければならぬと論争(ろんさう)したがいづれ実(じつ)
地調査(ちてうさ)の上(うへ)で更(さら)に談判(だんぱん)をなすべきこととなり又(ま)た開港(かいこう)の事に対(たい)しても結局(けつきよく)日本(にほん)は最(もつと)も露国(ろこく)に親近(しんきん)すること
を欲(ほつ)するが故(ゆゑ)に若(も)し他(た)の国(くに)に通商(つうせう)を許(ゆる)す場合(ばあひ)には必(かなら)ず先(ま)づ露国(ろこく)に許(ゆる)し且(か)つ隣国(りんこく)の交誼(かうぎ)を以(もつ)て特(とく)に露国(ろこく)
を厚遇(かうぐう)すべしと云ふ意味(いみ)の約束(やくそく)をなしたまでゞ此(この)事(こと)も一 時落着(じらくちやく)を告(つ)ぐるに至(いた)つたのであるが此(この)談判(だんぱん)中(ちう)
に嘉永(かえい)六年も過(す)ぎて翌年(よくねん)の春(はる)を迎(むか)へプーチヤチンの長崎(ながさき)を辞(じ)し去(さ)つたのは嘉永(かえい)七年の正月八日であつ
たと云ふ訳(わけ)である
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百二十九
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十
【本文】
此(この)嘉永(かえい)七年と云ふ年(とし)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く安政(あんせい)と改元(かいげん)せられた年(とし)であるが我国(わがくに)の外交史(ぐわいかうし)に対(たい)しては頗(すこぶ)
《割書:ペリーの再|航》 る記憶(きおく)すべき年(とし)である即(すなは)ち露国船(ろこくせん)の長崎(ながさき)を去(さ)つた後(のち)僅(わづか)に七日 米使(べいし)ペリーは復(ふたゝ)び数艘(すうさう)の艦隊(かんたい)を率(ひき)ゐて江(え)
戸湾(どわん)に入(い)り来(きた)つたのである之(これ)より先(さ)きペリーは一 時(じ)我国(わがくに)を去(さ)つて香港(ほんこん)にあつたが絶(た)えず我国(わがくに)に関(かん)する
近状(きんぜう)を偵察(ていさつ)し露船(ろせん)の入港(にふかう)をも承知(せうち)したのであるから結局(けつきよく)之(これ)は打捨(うちす)て置(お)かれずと思考(しかう)したものと見(み)へて
去年(さるとし)の十二月 既(すで)に琉球(りうきう)に向(むか)つて出航(しゆつかう)し琉球(りうきう)には若干(じやくかん)の士卒(しそつ)をさへ止(とゞ)めて用意周到(よういしうたう)を極(きは)め遂(つひ)に江戸湾(えどわん)に
至(いた)つたのであるトコロが今度(こんど)は浦賀(うらが)などに止(とゞむ)るのを肯(がえん)ぜず直(たゞ)ちに内湾(うちわん)に進入(しんにふ)し総艦(そうかん)九 隻(せき)堂々(どう〴〵)として神(か)
奈川沖(ながはおき)に碇泊(ていはく)したのであるから之(これ)には少(すくな)からず我国人(わがこくじん)も驚(おどろ)いた事であるかゝる有様(ありさま)で当時(たうじ)に於(お)ける我(わが)
国情(こくぜう)と云ふものは実(じつ)に沸騰(ふつたう)した事であつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く其(その)頃(ころ)はまだ極(きは)めて少数(せうすう)の人士(じんし)
の外(ほか)は外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)などに通暁(つうげふ)して居(ゐ)なかつたので勿論(もちろん)祖法(そはふ)固守(こしゆ)で鎖国(さこく)攘夷(ぜうゐ)の説(せつ)が大多数(だいたすう)であつたので
あるから幕府(ばくふ)に於(おい)ても既(すで)に昨(さく)嘉永(かえい)六年の十一月朔日 伊勢守(いせのかみ)から台旨(たいし)を奉(ほう)して登営(とゑい)の諸侯(しよこう)に向(むか)ひ対米(たいべい)問(もん)
題(だい)に付(つい)て左(さ)の如(ごと)き諭告(ゆこく)をなしたのである即(すなは)ち其(その)大要(たいえう)を申述(まをしの)ぶれば仮令(たとへ)米使(べいし)が再(ふたゝ)び来航(らいかう)して通商(つうせう)を促(うなが)す
処ありとも何(なん)とか事に托(たく)して其(その)決答(けつたう)を遷延(せんえん)し和親通商(わしんつうせう)の願意聴許(ぐわんいてうきよ)の有無(うむ)を告(つ)げずして退去(たいきよ)せしめ且(か)つ
能(あた)ふ限(かぎ)り穏和(おんわ)の処置(しよち)を施(ほどこ)すべきも万(まん)一 彼(か)れより乱暴(らんぼう)を仕掛(しか)けまいとも限(かぎ)らないから諸大名(しよだいめよう)は防備(ぼうび)を厳(げん)
重(じう)にし忠憤(ちうふん)を忍(しの)び義勇(ぎゆう)を蓄(たくは)へ彼(かれ)の動静(どうせい)を熟察(じゆくさつ)して若(も)し兵端(へいたん)の開(ひら)かれた場合(ばあひ)には一 同奮発(どうふんぱつ)して毫髪(もうはつ)も国(くに)
體(たい)を汚(けが)さざる様(やう)上下(ぜうげ)挙(こぞ)つて力(ちから)を尽(つく)すべしと云ふのにあつたのである而(しか)して尚(なほ)此(この)外(ほか)にも色々(いろ〳〵)其(その)準備(じゆんび)に就(つい)
て計劃(けいくわく)された処があつたが一 方(ぽう)には彼(か)の水戸斉昭(みとなりあきら)も頗(すこぶ)る之(これ)に干与(かんよ)したのであるかゝる事情(じぜう)であつたか
ら内(うち)にありては盲進的(もうしんてき)の与論(よろん)を節制(せつせい)しつゝ外(そと)に対(たい)しては外人(ぐわいじん)の強求(きようきう)を抑(おさ)へねばならぬと云ふのが伊勢(いせの)
守(かみ)初(はじ)め幕府(ばくふ)当局者(たうきよくしや)の立場(たちば)で実(じつ)に其(その)苦心(くしん)の程(ほど)は今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)ても一 面(めん)に於(おい)て同情(どうぜう)に堪(た)へぬ次第(しだい)であ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
ると思(おも)ふ
ソコで今度(こんど)イヨ〳〵ペリー再渡航(さいとかう)となつて幕府(ばくふ)の応接係(おうせつかゝり)は林大学頭煒、町奉行(まちぶぎやう)井戸対馬守(ゐどたじまのかみ)学弘、目付(めつけ)
鵜殿民部少輔(うどのみんぶのせうゆう)長鋭、儒者(じゆしや)松崎満太郎(まつざきまんたらう)並(ならび)に浦賀奉行(うらがぶぎやう)伊沢美作守政義(いざはみまさかのかみまさよし)であつたが会見(くわいけん)の場所(ばしよ)はペリーの意(い)
《割書:神奈川条約|の締結》 見(けん)で神奈川(かながは)と定(さだ)まり矢張(やはり)前年(ぜんねん)の様(やう)な仮会見所(かりくわいけんしよ)が建設(けんせつ)せられて此処(こゝ)で此(この)年(とし)の二月十日から談判(だんぱん)が初(はじ)まつ
たのである然(しか)るにペリーは此(この)時(とき)通商(つうせう)の開始(かいし)に就(つい)ては深(ふか)く求(もと)むる処なく只(た)だ和親条約(わしんでうやく)の締結(ていけつ)をのみ望(のぞ)む
だので其(その)主張(しゆてう)する処が比較的(ひかくてき)急劇(きふげき)でなかつたのみならず一 方(ぱう)にはペリーの威圧(ゐあつ)と云ふものが甚(はなはだ)しか
つたので幕府(ばくふ)も全(まつた)く初(はじ)めの予想(よさう)に反(はん)し遂(つひ)に之(これ)を拒(こば)むに由(よし)なく既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)時(とき)大要(たいえう)左(さ)の如(ごと)
き条約(でうやく)を締結(ていけつ)するに至(いた)つたのである即(すなは)ち此(この)神奈川条約(かながわでうやく)の大要(たいえう)と云ふのは第(だい)一、漂民(へうみん)の取扱方(とりあつかひかた)に就(つい)て
は従来(じうらい)仇敵(きうてき)を以(もつ)て遇(ぐう)し禁獄幽囚(きんごくゆうしう)等(とう)をなした事があつたがそれは今後(こんご)一 親同仁寛大(しんどうにんかんだい)なる取扱(とりあつかひ)をなすべ
き事(こと)第(だい)二、食糧(しよくれう)薪炭(しんたん)等(とう)船中(せんちう)に於(おい)て欠乏(けつばう)したる時(とき)は何時(いつ)にても求(もとめ)に応(おう)じて供給(けうきふ)し且(か)つ必(かなら)ず代金(だいきん)を支払(しはら)ふ
べき事(こと)第(だい)三、米艦(べいかん)の立寄(たちよ)る事を許(ゆる)すべき港(みなと)は長崎(ながさき)の外(ほか)に明年(みようねん)三月から函館(はこだて)と伊豆(いづ)の下田(しもだ)を許(ゆる)す事(こと)第四
下田(しもだ)函館(はこだて)両湊(れうみなと)には米国人(べいこくじん)の上陸(ぜうりく)遊歩(ゆうほ)を許(ゆる)し其(その)里程(りてい)下田(しもだ)は七 里(り)函館(はこだて)は追(おつ)て調査(てうさ)の上(うへ)定(さだ)むる事 第(だい)五、下田(しもだ)
には両国民(れうこくみん)の紛争(ふんさう)を解(と)き相互(あひたがひ)の利益(りえき)を進(すゝ)むる為(た)め米国官吏(べいこくくわんり)の駐在(ちうざい)を許(ゆる)されたしとのペリーの要求(えうきう)に対(たい)
し尚(なほ)今後(こんご)十八ケ月に至(いた)り双方(さうはう)更(さら)に協議(けふぎ)の上(うへ)若(も)しイヨ〳〵止(やむ)を得(え)ざる場合(ばあひ)があつたならば之(これ)を許(ゆる)す事と
云ふに決定(けつてい)したのであるモツトモペリーからは尚(なほ)二三の要求(えうきう)があつたがそれは段々(だん〴〵)に撤回(てつくわい)することにな
つて以上(いぜう)申述(まをしの)べた如(ごと)きことが条約(でうやく)として締結(ていけつ)さるゝことになつたのであるが其(その)後(ご)右(みぎ)の文案(ぶんあん)に就(つい)て討議(たうぎ)を重(かさ)
ねたる結果(けつくわ)三月三日を以(もつ)て遂(つひ)に十二ケ条(でう)の和親条約(わしんでうやく)となつて之(これ)に調印(てういん)せらるゝに至(いた)つたのである
然(しか)るに此(この)条約(でうやく)と云ふものは当時(たうじ)に取(と)りては実(じつ)に破天荒(はてんくわう)の事とも云ふべきであるから水戸斉昭(みとなりあきら)の如(ごと)きは
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十一
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十二
【本文】
勿論(もちろん)輿論(よろん)の沸騰(ふつたう)と云ふものは甚(はなはだ)しかつたのである彼(か)の筒井(つゝゐ)、川路(かはぢ)の如(ごと)き開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざるを認(みと)めて
居(お)る人(ひと)までも自身(じしん)等(ら)が長崎(ながさき)に於(おい)て露使(ろし)プーチヤチンと応接(おうせつ)した結果(けつくわ)に比較(ひかく)対照(たいせう)して此(この)神奈川条約(かながはでうやく)の意(い)
気地(きぢ)のない事を非難(ひなん)した位(くらゐ)であるが今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)ると実(じつ)は之(これ)も止(やむ)を得(え)ざるの勢(いきほひ)で当時(たうじ)の情勢(ぜうせう)と
云ふものは到底(たうてい)之(これ)を拒絶(きよぜつ)することが出来(でき)なかつたのである
当時(たうじ)米艦(べいかん)の挙動(きよどう)と云ふものは実(じつ)に堂々(どう〴〵)たるもので嘗(かつ)て我国人(わがこくじん)の多(おほ)くが夢想(むさう)だにもしなかつた処(ところ)の山(やま)の
如(ごと)き軍艦(ぐんかん)の多数(たすう)を眼前(がんぜん)に控(ひか)へ而(しか)もその士官(しくわん)水兵(すゐへい)の挙止動作(きよしどうさ)と云ふものは実(じつ)に勇壮厳粛(ゆうさうげんしゆく)で其(その)武器(ぶき)の精鋭(せいえい)な
ることは到底(たうてい)我国人(わがこくじん)をして及(およ)ばざることを思(おも)はしめたるのみならず或(あるひ)は祝砲(しゆくほう)を連発(れんぱつ)し或(あるひ)は軍楽隊(ぐんがくたい)の吹奏(すゐそう)を
なし或(あるひ)は兵士(へいし)の操練(さうれん)を行(おこな)ひ或(あるひ)は艦隊(かんたい)の操縦(さうじう)を試(こゝろ)むるなど視(み)るとして我国人(わがこくじん)が吃驚(きつけう)せざるはなく尚(なほ)其(その)外(ほか)
にも汽車(きしや)電信機(でんしんき)などの模型(もけい)を使用(しよう)して其(その)奇智(きち)を示(しめ)し又(また)はメキシコ戦争(せんさう)の絵画(くわいぐわ)を贈(おく)りて其(その)惨憺(さんたん)たる光景(くわうけい)
に戦慄(せんりつ)せしむるなど殆(ほとん)ど我国人(わがこくじん)の意想(いさう)の外(ほか)に出(い)でたのであるから幕府(ばくふ)当局者(たうきよくしや)と雖(いへど)も最初(さいしよ)は前(まへ)に申述(まをしの)べ
たる如(ごと)き方針(はうしん)を以(もつ)て之(これ)に応接(おうせつ)し如何様(いかやう)にも一 時(じ)を切(き)り抜(ぬ)く事の考(かんがへ)であつた事は勿論(もちろん)であると信(しん)ずる
が事(こと)此(かく)の如(ごと)きに至(いた)つては殆(ほとん)ど之(これ)に対(たい)して何等(なんら)恃(たの)むに足(た)るべき武力(ぶりよく)のなき我(わが)幕府(ばくふ)に於(おい)ては或(あるひ)は国家(こくか)を焦(せう)
土(ど)となす迄(まで)の覚悟(かくご)があるでなければ先方(せんぱう)の要求(えうきう)を拒絶(きよぜつ)することなどは出来(でき)なかつたので結局(けつきよく)以上(いぜう)申述(まをしの)べ
た位(くらゐ)の条約(でうやく)を締結(ていけつ)するのは権宜上(けんぎぜう)誠(まこと)に止(やむ)を得(え)ざるの情勢(ぜうせい)に陥(おちゐ)つたるものであつた事を思(おも)ふのである之(これ)
と云ふも実(じつ)は世界(せかい)の進運(しんうん)が遂(つひ)に我国(わがくに)をして茲(こゝ)に至(いた)らしめたもので如何(いか)に強硬(けうかう)なる我(わが)日本武士(にほんぶし)と雖(いへど)も帰(き)
する処は此(この)世界(せかい)の大勢(たいせい)には打勝(うちか)つ事が出来(でき)なかつたものと思(おも)はねばならぬのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で日米(にちべい)
間(かん)の和親条約(わしんでうやく)は成立(せいりつ)したのであるがそれよりペリーは三月廿一日を以(もつ)て一たび神奈川(かながは)を去(さ)り函館(はこだて)に向(むか)
つたが更(さら)に五月十二日を以(もつ)て下田(しもだ)に渡来(とらい)し此処(こゝ)で又々(また〳〵)林大学頭(はやしだいがくのかみ)、井戸対馬守(ゐどたじまのかみ)の応接係(おうせつかゝり)と会見(くわいけん)し条約(でうやく)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百八十二号附録 (大正二年六月三日発行)
【本文】
付則(ふそく)に調印(てういん)したのである而(しか)して此(この)条約(でうやく)並(ならび)に付則(ふそく)は翌年(よくねん)即(すなは)ち安政(あんせい)二年の正月(せうがつ)五日を以(もつ)て矢張(やはり)此(この)下田(しもだ)に於(おい)
て米使(べいし)アダムスと云ふ人と我国(わがくに)の応接係(おうせつかゝり)との間(あひだ)に批准(ひじゆん)交換(かうくわん)を了(れう)したのであつた
英艦の来航 然(しか)るにペリーが我国(わがくに)を退去(たいきよ)して後(のち)程(ほど)なく其(その)年(とし)の閏(うるふ)七月十五日に至(いた)つて今度(こんど)は又(また)英国(えいこく)の艦隊(かんたい)が長崎(ながさき)にや
つて来(き)たのである其(その)水師(すゐし)提督(ていとく)はゼームス、スターリングと云ふ人であつたが書(しよ)を奉行(ぶぎやう)に送(おく)つて当時(たうじ)英(えい)
国(こく)は仏国(ふつこく)と同盟(どうめい)して露国(ろこく)に対(たい)し戦争中(せんさうちう)であるが之(これ)は露国(ろこく)が欧羅巴(よろつぱ)を併呑(へいどん)せむとするのを制(せい)する為(ため)であ
るトコロが露国(ろこく)は此(この)東方(とうはう)に向(むかつ)ても手(て)を延(の)ばして既(すで)にサガレン、千島(ちじま)などには侵掠(しんれう)を加(くは)へて居(を)るから日(に)
本(ほん)の本土(ほんど)にも其(その)手(て)が及(およ)ばないものではないソコで今度(こんど)英艦(えいかん)は自国(じこく)の船舶保護(せんぱくほご)の為(た)め東洋(とうよう)に於(お)ける露艦(ろかん)
を撃退(げきたい)する目的(もくてき)を以(もつ)て来(きた)れるものであるから今後(こんご)とても自国(じこく)は勿論(もちろん)同盟国(どうめいこく)たる仏国(ふつこく)の船(ふね)も屡(しば〴〵)此(この)東洋(とうよう)
へは来航(らいかう)する事と思(おも)ふから艦隊(かんたい)の立寄(たちよ)るべき為(た)め然(しか)るべき港(みなと)を開(ひら)いて貰(もら)ひたいと云ふことを申出(まをしい)でたの
である因(よつ)て幕府(ばくふ)に於(おい)ても種々(しゆ〴〵)に議(ぎ)を凝(こ)らしたのであるが結局(けつきよく)薪水食糧(しんすゐしよくれう)の要求(えうきう)又(また)は船舶修理(せんぱくしうり)の為(ため)となら
ば其(その)求(もとめ)にも応(おう)じようが仮令(たとへ)何国(なにくに)にせよ戦争(せんさう)の為(ため)に便(べん)を我国(わがくに)に得(え)ようと云ふならば此(この)義(ぎ)には一 切(さい)応(おう)じ難(がた)
いと云ふ旨(むね)を答(こた)ふる事となつたのであるトコロでスターリングも之(これ)には承服(せうふく)して然(しか)らば戦争(せんさう)の事には
《割書:英国と協約|成る》 全(まつた)く無関係(むかんけい)として単(たん)に長崎(ながさき)函館(はこだて)二 港(かう)に入港(にふかう)を差許(さしゆる)されたいと云ふ事になつて結局(けつきよく)七ケ条(でう)より成(な)る協約(けふやく)
書(しよ)が出来(でき)て之(これ)に調印(てういん)するに至(いた)つたのである而(しか)して此(この)本条約(ほんでうやく)は矢張(やはり)翌(よく)安政(あんせい)二年の八月廿九日を以(もつ)て長崎(ながさき)
に於(おい)てスターリングと時(とき)の長崎奉行(ながさきぶぎやう)荒尾石見守(あらをいわみのかみ)、川村対馬守(かはむらつしまのかみ)との間(あひだ)に交換(かうくわん)さるゝに至(いた)つたのである
露使の再航 米英(べいえい)二 国(こく)が我国(わがくに)と協約(けふやく)をなせること前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くであるに就(つい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)き行掛(ゆきがゝ)りのある露国(ろこく)
に於(おい)ては勿論(もちろん)黙止(もくし)すべきものではないので彼(か)のプーチヤチンは先(さ)きに長崎奉行(ながさき)を去(さ)りしより上海(しやんはい)を根拠(こんきよ)と
せしものゝ如(ごと)く数々(しば〴〵)我(わが)近海(きんかい)を窺(うかゞ)つて居(を)つたのであるが当時(たうじ)其(その)本国(ほんごく)は英仏(えいふつ)二 国(こく)と交戦中(かうせんちう)であつたにも拘(かゝは)
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十三
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十四
【本文】
らず巧(たくみ)に両国船(れうこくせん)の捜索(さうさく)を避(さ)け安政(あんせい)元年(がんねん)の九月十八日を以(もつ)て又々(また〳〵)我(わ)が大阪(おほさか)の安治川沖(あじがはおき)に到着(たうちやく)したのであ
るソコで大阪城代(おほさかじやうだい)を初(はじ)め頗(すこぶ)る苦心(くしん)する処があつたが遂(つひ)に其(その)外人(ぐわいじん)応接(おうせつ)の地(ち)にあらざる由(よし)を諭(さと)して下田(しもだ)に
赴(おもむ)かしめむとしたのであるプーチヤチンも亦(ま)た何(なん)と考(かんが)へたか十月三日を以(もつ)て俄(にはか)に大阪(おほさか)を出発(しゆつぱつ)し此方(このはう)の
諭告(ゆこく)の如(ごと)く下田(しもだ)に向(むか)つたのであるが露船(ろせん)に取(と)つては此処(こゝ)に気(き)の毒(どく)なる一 事件(じけん)が起(おこ)つたのである既(すで)に露(ろ)
船(せん)再来(さいらい)に就(つい)ては幕府(ばくふ)に於(おい)ても之(これ)に対(たい)する応接係(おうせつかゝり)も定(さだ)まつて談判(だんぱん)も開始(かいし)に至(いた)つたのであるが其(その)十一月四
日に至(いた)つて東海沿岸(とうかいえんがん)に大津嘯(おほつなみ)が起(おこ)つてプーチヤチンの乗(の)つて居(を)つた船艦(せんかん)ヂアナは遂(つひ)に顚覆(てんぷく)の運命(うんめい)に逢(あ)
ひ下田(しもだ)全町(ぜんてう)は流失(りうしつ)したと云ふ不慮(ふりよ)の災変(さいへん)が生(せう)じたのであるソコでプーチヤチンは全(まつた)くの漂民(へうみん)同様(どうよう)の境(けう)
遇(ぐう)に陥(おちゐ)つたが終(つひ)に幕府(ばくふ)の許可(きよか)を得(え)て伊豆(いづ)の戸田(へだ)に根拠(こんきよ)を構(かま)へて其(その)船(ふね)を修理(しうり)することとなつたのである然(しか)
るに不運(ふうん)な時(とき)には何処迄(どこまで)も不運(ふうん)なもので其(その)船(ふね)は将(まさ)に戸田港(へだかう)に引(ひ)き入(い)れらむとした時(とき)又々(また〳〵)暴風(ばうふう)に遭(あ)つ
て結局(けつきよく)沈没(ちんぼつ)の運命(うんめい)に終(をは)つたのであるトコロでプーチヤチンは之(これ)に屈(くつ)せず戸田(へだ)にあつて新船(しんせん)建造(けんざう)の事を
企(くはだ)て苦心(くしん)惨憺(さんたん)ではあつたが数月(すうげつ)の内(うち)に其(その)帰国(きこく)に用(もち)ゐ得(う)べき大船(たいせん)を造(つく)り出(いだ)すに至(いた)つたのである
而(しか)して幕府(ばくふ)の露使応接係(ろしおうせつかゝり)は矢張(やはり)筒井肥前守(つゝゐひぜんのかみ)、川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)等(ら)五 人(にん)であつたが応接(おうせつ)の結果(けつくわ)先(さき)に長崎(ながさき)に於(おい)
てなしたる協約(けふやく)もあることであるから少(すくな)くも米国(べいこく)と同等(どうとう)の条約(でうやく)は結(むす)ばねばならぬ訳(わけ)であると云ふ道理(どうり)で
《割書:日露条約成|る》 大体(たいだい)に於(おい)て先(ま)づそれと同(どう)一のものが成立(せいりつ)したのであるが併(しか)し只(た)だ其(その)国(くに)の官吏(くわんり)を開港場(かいかうぜう)に駐在(ちうざい)せしむる
と云ふことに就(つい)ては米国(べいこく)に対(たい)せるものと少(すこ)しく違(ちが)ひがあつたのである即(すなは)ち米国(べいこく)との条約(でうやく)によれば尚(なほ)協議(けふぎ)
の余地(よち)が残(のこ)してあつたのであるが今度(こんど)露国(ろこく)との条約(でうやく)によれば殆(ほとん)ど其(その)余地(よち)がないので帰(き)する処は安政(あんせい)三
年(ねん)以後(いご)に於(おい)ては其(その)駐在(ちうざい)は遂(つひ)に拒(こば)み難(がた)いように見(み)ゆるのである従(したがつ)て此(この)一 事(じ)は後日(ごじつ)物議(ぶつぎ)を惹起(ひきおこ)すの種(たね)と
相成(あひな)つた次第(しだい)であるが其他(そのた)国境問題(こくけうもんだい)は暫(しばら)く中止(ちうし)の姿(すがた)となり又(ま)た水戸斉昭(みとなりあきら)の意見(いけん)もありて切支丹宗門(きりしたんしうもん)等(ら)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
の談判(だんぱん)もあつたのである併(しか)し之(これ)も遂(つひ)に要領(えうれう)を得(え)ずに終(をは)つたのであるが恰(あたか)も其(その)年(とし)の十二月 彼(か)の米使(べいし)アダ
ムスが批准(ひじゆん)交換(かうくわん)の為(た)め下田(しもだ)に来(きた)つて露国水兵(ろこくすゐへい)等(ら)の窮迫(きうはく)の状(ぜう)を目撃(もくげき)して帰(かへ)つたのでそれかあらぬか程(ほど)な
く米国(べいこく)のスクーナーが一 艘(さう)下田(しもだ)に来(き)て露兵(ろへい)百五十人 許(ばかり)を乗(の)せて之(これ)をカムサツカに送(おく)り其(その)内(うち)又(ま)た新造(しんざう)の
船(ふね)も出来上(できあが)つたのでプーチヤチンは終(つひ)に翌(よく)安政(あんせい)二年三月廿二日を以(もつ)て下田(しもだ)を去(さ)るに至(いた)つたのである
《割書:外船渡来が|及ぼせる影|響》 嘉永(かえい)六年から安政(あんせい)二年へかけて僅(わづか)三 年間(ねんかん)であるが我国(わがくに)が外交方針(ぐわいかうはうしん)に関(くわん)し著(いちじ)しき変化(へんくわ)を来(きた)せる事は実(じつ)に
前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くである而(しか)も此(かく)の如(ごと)き変化(へんくわ)と云ふものは殆(ほとん)ど前代未聞(ぜんだいみぶん)とも云ふべきであるから此(この)外交(ぐわうかう)の問題(もんだい)
が当時(たうじ)に於(お)ける総(すべ)ての風潮(ふうてう)を激変(げきへん)せしめた事は容易(ようい)でない先(ま)づ之(これ)迄(まで)は長(なが)い間(あひだ)鎖国(さこく)一 点張(てんばり)でやり通(とほ)して
来(き)たのであるから我国(わがくに)に大船(たいせん)などを作(つく)る必要(ひつえう)はない寧(むし)ろ千 石(ごく)以上(いぜう)の大船(たいせん)を作(つく)る事は御承知(ごせうち)の如(ごと)く厳禁(げんきん)
してあつたのである又(また)砲術(はうじゆつ)の如(ごと)きも幕府(ばくふ)に世襲(せいしう)せる鉄砲方(てつぽうかた)と云ふものはあつても之(これ)は徒(いたづ)らに形式的(けいしきてき)で
あつて到底(たうてい)時世(じせい)の進歩(しんぽ)に適応(てきおう)せるものではない特(とく)に海防(かいばう)の如(ごと)きは嘗(かつ)て松平定信(まつだひらさだのぶ)等(ら)の注意(ちうい)する処もあり
其(その)後(のち)渡辺崋山(わたなべくわざん)等(ら)を初(はじ)め痛切(つうせつ)に之(これ)を論(ろん)じたものがなかつたではないが一 般(ぱん)に鎖国(さこく)の夢(ゆめ)が醒(さ)めぬのと幕府(ばくふ)
を初(はじ)め諸侯(しよこう)が財政(ざいせい)に窮乏(きうばう)せる結果(けつくわ)殆(ほとん)ど何等(なんら)の備(そなへ)をもなし能(あた)はなかつたと云ふ訳(わけ)であつたがイヨ〳〵今(こん)
度(ど)と云ふ今度(こんど)こそは頗(すこぶ)る覚醒(かくせい)せざるを得(え)なかつた次第(しだい)であるソコで幕府(ばくふ)に於(おい)ては嘉永(かえい)六年九月十五日
を以(もつ)て大船製造(たいせんせいざう)の禁(きん)を解(と)き又(ま)た同年(どうねん)六月廿三日には若年寄(わかとしより)本多越中守(ほんだゑつちうのかみ)、勘定奉行(かんでうぶぎやう)川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)等(ら)に命(めい)
じて江戸近海(えどきんかい)の見分(けんぶん)をなさしめ其(その)結果(けつくわ)として同年(どうねん)八月廿三日を以(もつ)て勘定奉行(かんでうぶぎやう)松平河内守(まつだひらかはちのかみ)、同(どう)川路左衛(かはぢさゑ)
門尉(もんぜう)等(ら)五 人(にん)に命(めい)じて例(れい)の品川沖(しながはおき)の台場(だいば)を建築(けんちく)することになつたのであるがそれに備(そな)へ付(つ)ける大砲(たいほう)の鋳造(ちうざう)
《割書:江川太郎左|衛門》 を彼(か)の伊豆(いづ)の代官(だいくわん)江川太郎左衛門(えがはたらうざゑもん)に命(めい)ぜられたのである諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)江川太郎左衛門(えがはたらうざゑもん)と云ふ
人は前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた高嶋喜平(たかしまきへい)(秋帆)の門人(もんじん)で夙(つと)に最新洋式(さいしんようしき)の砲術(ほうじゆつ)を学(まな)むだのであるが其(その)管内(くわんない)に反射(はんしや)
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十五
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十六
【本文】
高嶋秋帆 炉(ろ)を建設(けんせつ)して銃砲(じうほう)の製造(せいざう)に尽瘁(じんすゐ)したものである元来(がんらい)此(この)高嶋秋帆(たかしましはん)と云ふ人は元(もと)長崎(ながさき)の町奉行(まちぶぎやう)で早(はや)くから
蘭人(らんじん)に就(つい)て近年(きんねん)最(もつと)も発達(はつたつ)せる洋式(ようしき)の砲術(ほうじゆつ)を学(まな)び遂(つひ)に高島流(たかしまりう)と云ふ一 派(ぱ)を成(な)したのであるが天保(てんぱう)の末年(まつねん)
に一 度(ど)其(その)技(ぎ)は幕府(ばくふ)の採用(さいよう)する所(ところ)とならむとしたのである然(しか)るに当時(たうじ)は尚(な)ほ守旧派(しゆきうは)の勢力(せいりよく)が旺盛(わうせい)であつ
た為(た)めに例(れい)の鳥居甲斐守(とりゐかひのかみ)一 派(ぱ)の陥(おとしめ)る処となつて弘化(こうくわ)三年七月 中(ちう)追放(つゐほう)と云ふ処置(しよち)に遭(あ)つて安部虎之助(あべとらのすけ)に
永預(ながあづけ)と相成(あひな)つて居(を)つたのであるソレを今度(こんど)門人(もんじん)たる江川(えがは)の尽力(じんりよく)で(嘉永(かえい)六年八月)赦免(しやめん)となり砲術(ほうじゆつ)の師(し)
範(はん)たるに至(いた)つたのであるが其(その)翌(よく)安政(あんせい)元年(がんねん)七月には又(ま)た和蘭(おらんだ)から我(わが)海軍建設(かいぐんけんせつ)に就(つい)ても種々(しゆ〴〵)忠告(ちうこく)する処が
観 光 丸 あつたのである而(しか)して越(こ)へて一 年(ねん)同国(どうこく)より一艘(さう)の蒸気船(ぜうきせん)を我国(わがくに)に贈(おく)るに至(いた)つたのであるが之(これ)が即(すなは)ち有(いう)
名(めい)なる観光丸(くわんくわうまる)で幕府(ばくふ)は早速(さつそく)勝麟太郎(かつりんたらう)初(はじ)め俊秀(しゆんしう)の子弟(してい)を長崎(ながさき)に送(おく)つて蘭人(らんじん)の教授(けうじゆ)を受(う)けしめ造船(ざうせん)、運(うん)
《割書:海軍創設の|端緒》 転(てん)、砲術(ほうじゆつ)等(とう)の稽古(けいこ)をなさしめたが之(これ)が我国(わがくに)海軍創設(かいぐんさうせつ)の端緒(たんちよ)ともなすべきである之(これ)と同時(どうじ)に幕府(ばくふ)は又(ま)た
講 武 所 大(おほい)に武術(ぶじゆつ)の奨励(せうれい)をなし士気(しき)を鼓舞(こぶ)すべしと云ふので安政(あんせい)二年二月 江戸(えど)の築地(つきぢ)、筋違外(すじちがひそと)、四谷(よつや)の三ヶ所(しよ)
へ講武所(かうぶしよ)を設(まを)くる事に決(けつ)し三年の四月から実施(じつし)したが幕府(ばくふ)は更(さら)に軍制改正(ぐんせいかいせい)の必要(ひつえう)をも認(みと)めて曩(さき)に此(この)件(けん)
を水戸斉昭(みとなりあきら)に委任(ゐにん)したのである然(しか)るに其(その)事(こと)がまだ十 分(ぶん)進行(しんかう)しなかつたので今度(こんど)此(この)講武所(かうぶしよ)創設(さうせつ)に方(あた)つて
斉昭(なりあきら)の発意(はつい)で其(その)事業(じげふ)を講武所(かうぶしよ)に移(うつ)す事となり総裁(そうさい)久貝因幡守(くがいゐなばのかみ)、池田甲斐守(いけだかひのかみ)両人(れうにん)に其(その)調査(てうさ)を命(めい)ずる事と
相成(あひな)つたのである
右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)で米英露(べいえいろ)三 国(こく)の使節(しせつ)は続々(ぞく〴〵)相接(あひせつ)して来航(らいかう)し其(その)反響(はんけふ)とも云ふべき結果(けつくわ)として以上(いぜう)の如(ごと)く一
部(ぶ)に於(おい)ては海防(かいばう)を初(はじ)め造船(ざうせん)、砲術(ほうじゆつ)など洋式(ようしき)の学芸(がくげい)が盛(さかん)に採用(さいよう)せらるゝに至(いた)つたがまだ中々(なか〳〵)一 般(ぱん)にはソ
ウは行(ゆ)き渡(わた)らなかつたので実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける我国人(わがこくじん)の意想(いさう)と云ふものは互(たがひ)に其(その)懸隔(けんかく)に著(いちじるし)いものがあ
つたのであるソコで我(わが)吉田藩(よしだはん)の状況(ぜうけふ)は当時(たうじ)如何(いか)なものであつたか之(これ)に対(たい)して今(いま)少(すこ)しく申述(まをしの)べて置(お)きた
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百八十八号附録 (大正二年六月十日発行)
【本文】
いと思(おも)ふのである
彦坂菊作 ソコで此(この)吉田(よしだ)に於(お)ける洋学者(やうがくしや)の事に就(つい)て少(すこ)しく御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのであるが当時(たうじ)此(この)吉田(よしだ)の新銭(しんせん)
町(まち)に彦坂菊作(ひこさかきくさく)と云(い)ふ数学(すうがく)の大家(たいか)があつたのである此(この)人(ひと)は父(ちゝ)を彦坂喜平(ひこさかきへい)と云(い)つたが町人(てうにん)には珍(めづ)らしく和(わ)
歌(か)を能(よ)くした人(ひと)で名(な)を千善(ちよし)号(がう)を杉園(すぎその)と云(い)つたのである菊作(きくさく)は享和(けうわ)三年の生(うまれ)で名(な)を範善(のりよし)字(あざな)を徳元(とくもと)号(がう)を成(なり)
通(みつ)と云(い)つたが幼少(ようせう)の時(とき)から窮理的(きうりてき)の思想(しさう)に富(と)むで居(を)つて数学(すうがく)を牟呂村(むろむら)の人(ひと)牧野傳蔵(まきのでんざう)に就(つい)て学(まな)むだが其(その)
後(のち)江戸(えど)に出(い)でゝ内田観斉(うちだくわんさい)(彌太郎)の門(もん)に入(い)り天象(てんせう)、地理(ちり)、経緯(けいゐ)、暦歩(れきほ)は勿論(もちろん)窮理(きうり)の学(がく)を修(をさ)め其(その)蘊奥(うんおう)を
究(きは)めたが一 方(ぱう)には蘭書(らんしよ)をも読(よ)むだものである此(この)内田観斉(うちだくわんさい)と云(い)ふ人(ひと)は其(その)頃(ころ)芝(しば)の新銭座(しんせんざ)に住む例(れい)の江川太(えがはた)
郎左衛門(らうざゑもん)の屋敷内(やしきない)に居(を)つたのであるが此(この)人(ひと)から菊作(きくさく)に寄越(よこ)した書翰(しよかん)には実(じつ)に当時(たうじ)の状況(ぜうけふ)を知(し)るべき面(おも)
白(しろ)いものがあるのである之(これ)は幸(さいはひ)其(その)子孫(しそん)の家(いへ)に存在(ぞんざい)して居(を)るから市史(しゝ)資料(しれう)の中(なか)へ蒐集(しう〳〵)することになつて
居(を)るのであるトコロで安政(あんせい)四年に至(いた)つて菊作(きくさく)は初(はじ)めて吉田藩(よしだはん)に召(め)し出(だ)されて士分(しぶん)に列(れつ)し藩校(はんかう)の数理教(すうりけふ)
授(じゆ)を命(めい)ぜられたのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)人(ひと)が工夫(くふう)した吉田方村(よしだがたむら)の灌漑法(くわんがいはふ)と云(い)ふものは頗(すこぶ)る進歩(しんぽ)した
もので其(その)頃(ころ)藩(はん)からの命(めい)を受(う)けて師匠(しせう)の内田観斉(うちだくわんさい)とも協議(けふぎ)したる上(うへ)泰西(たいせい)の理学(りがく)を応用(おうよう)して折衷的(せつちうてき)揚水器(ようすゐき)
を作(つく)り以(もつ)て灌漑(くわんがい)に便(べん)ならしめむとしたのである其(その)一 件書類(けんしよるい)は之(これ)も矢張(やはり)其(その)家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るのであるから
今日(こんにち)から見(み)ることも出来(でき)るので頗(すこぶ)る面白(おもしろ)いものである而(しか)して此(この)人(ひと)は七十七 歳(さい)まで寿(じゆ)があつて明治十二年
一月廿八日を以(もつ)て此(この)地(ち)で病歿(びやうぼつ)したが其(その)門(もん)に入(い)つて教(おしへ)を受(う)けたものは実(じつ)に数(すう)百 人(にん)の多(おほ)さに上(のぼ)つたので従(したがつ)
て泰西(たいせい)究理(きうり)の学(がく)を夙(つと)に我(わが)地方(ちはう)へ輸入(ゆにふ)した事に就(つい)ては此(この)人(ひと)の力(ちから)は実(じつ)に少(すくな)からざりしものであると思(おも)ふの
である此(この)人(ひと)の碑(ひ)は龍拈寺(りうねんじ)構内(こうない)にあつて撰文(せんぶん)は石川鴻斉(いしかはこうさい)氏(し)である又(ま)た此(この)人(ひと)の研究(けんきう)した数理(すうり)の書中(しよちう)には実(じつ)
に参考(さんかう)になるものが沢山(たくさん)にあつたので先日(せんじつ)も御承知(ごせうち)の遠藤利貞(えんどうとしさだ)氏(し)が和算学史取調(わさんがくしとりしらべ)の為(た)め学士会院(がくしくわいゐん)から
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十七
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十八
【本文】
派出(はしゆつ)になつた時(とき)にも私(わたくし)から段々(だん〴〵)御話(おはなし)した処(ところ)がそれは誠(まこと)に有難(ありがた)い事であると云(い)ふので残(その)らず其(その)遺書(ゐしよ)を閲(えつ)
覧(らん)せられ其(その)結果(けつくわ)多数(たすう)のものを孫(まご)の春次(はるじ)氏(し)から学士会院(がくしくわいゐん)へ寄贈(きぞう)すっることになつた次第(しだい)であるソレから御話(おはなし)
福谷啓吉 したいのは福谷啓吉(ふくたにけいきち)と云(い)ふ人(ひと)の事であるが之(これ)は恐(おそら)くは諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふ此(この)人(ひと)は吉田(よしだ)
萱町(かやまち)の人(ひと)で父(ちゝ)を喜久蔵(きくざう)と云(い)ひ文政(ぶんせい)二年七月の生(うまれ)であるが其(その)子息(しそく)は今(いま)も豊橋(とよはし)に住(す)むで居(を)られるのみなら
ず御承知(ごせうち)の福谷藤(ふくたにとう)七 氏(し)の如(ごと)きも其(その)親族(しんぞく)であられるのであるサテ前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)はイヨ〳〵
安政(あんせい)二年に至(いた)つて初(はじ)めて海軍(かいぐん)の伝習生(でんしふせい)を長崎(ながさき)に派遣(はけん)することとなつたのであるが此(この)時(とき)幕府(ばくふ)からは彼(か)の勝(かつ)
麟太郎(りんたらう)(安房、海舟)を初(はじ)め三十 余名(よめい)の選抜生(せんばつせい)を差送(さしおく)られたのである之(これ)が我国(わがくに)に於(お)ける海軍(かいぐん)の嚆矢(かうし)とも
《割書:初期の海軍|伝習生》 なすべきものであるが当時(たうじ)各藩(かくはん)からも亦(ま)た幕府(ばくふ)の許可(きよか)を得(え)てソレ〴〵伝習生(でんしふせい)を之(これ)に差出(さしだ)す事となつた
のである而(しか)して鹿児島(かごしま)、熊本(くまもと)、福岡(ふくおか)、萩(はぎ)、佐賀(さが)、津(つ)、福山(ふくやま)、掛川(かけがは)の諸藩(しよはん)は孰(いづ)れも多少(たせう)の学生(がくせい)を之(これ)に送(おく)
つたのであるが其中(そのなか)でも佐賀藩(さがはん)即(すなは)ち鍋島侯(なべしまこう)が一 番(ばん)多数(たすう)の学生(がくせい)を出(いだ)したのである即(すなは)ち啓吉(けいきち)は此(この)時(とき)其(その)鍋島(なべしま)
侯(こう)に採用(さいよう)せられ佐賀藩士(さがはんし)として右(みぎ)の海軍(かいぐん)伝習生(でんしふせい)に加(くは)はつたのであるが其(その)時(とき)の学生名簿(がくせいめいぼ)を見(み)ると佐賀藩(さがはん)
から出(で)た人(ひと)の中(なか)には右(みぎ)の啓吉(けいきち)を初(はじ)め佐野栄壽左衛門(さのえいじゆさゑもん)(常民)だの中牟田倉之助(なかむたくらのすけ)だのと云(い)ふ連名(れんめい)も見(み)ゆる
のである然(しか)るに此(この)学生(がくせい)が伝習(でんしふ)を受(う)くるに就(つい)ては実(じつ)に容易(ようい)ならざる困苦(こんく)をなしたもので少(すくな)きも二三 年(ねん)多(おほ)
きは四五 年(ねん)留学(りうがく)したことであつたが今(いま)其(その)苦学(くがく)の状況(ぜうけふ)を一々 申述(まをしの)べて居(を)る暇(いとま)はないと思(おも)ふから之等(これら)は略(りやく)す
ることとするがイヨ〳〵安政(あんせい)六年となつて学生(がくせい)の技倆(ぎれう)も略(ほ)ぼ熟達(じゆくたつ)したと云(い)ふ処から幕府(ばくふ)は遠洋航海(えんようかうかい)を試(こゝろ)
《割書:咸臨丸の遠|洋航海》 みしめたいと云(い)ふので安政(あんせい)四年九月 和蘭(おらんだ)から出来(でき)て来(き)た処の軍艦(ぐんかん)咸臨丸(かんりんまる)を米国(べいこく)桑港(さんふらんしすこ)に発(はつ)せしむる
こととなつたのである之(これ)には軍艦奉行(ぐんかんぶぎやう)木村摂津守(きむらせつゝのかみ)(芥舟)が乗(の)り込(こ)み選抜(せんばつ)せる学生(がくせい)を乗(の)せて同年(どうねん)の十二月
横浜(よこはま)から我国(わがくに)を出発(しゆつぱつ)して首尾能(しゆびよ)く彼国(かのくに)に達(たつ)し翌年(よくねん)即(すなは)ち万延(まんえん)元年(がんねん)の五月を以(もつ)て無事(ぶじ)帰朝(きてう)したのである之(これ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
が我国人(わがこくじん)の手(て)を以(もつ)て我国(わがくに)の軍艦(ぐんかん)を運転(うんてん)し遠(とほ)く外国(ぐわいこく)に渡航(とかう)した嚆矢(かうし)で福沢諭吉(ふくざはゆうきち)が木村摂津守(きむらせつゝのかみ)の従僕(じうぼく)と云
ふ名前(なまへ)を以(もつ)て渡航(とかう)せられたのも即(すなは)ち此(この)時(とき)であつたのであるかゝる有様(ありさま)であつたから佐賀藩(さがはん)に於(おい)ても外(ぐわい)
《割書:福谷啓吉の|渡米》 国視察(こくしさつ)の為(ため)に其(その)学生(がくせい)の中(なか)から二 人(にん)を選抜(せんばつ)して米国(べいこく)に渡航(とかう)せしむることになつたのであるが啓吉(けいきち)は実(じつ)に其(その)
一 人(にん)に当(あた)つたので万延(まんえん)元年(がんねん)横浜(よこはま)から外国船(ぐわいこくせん)に乗(の)り込(こ)むで米国(べいこく)に渡航(とかう)したのである当時(たうじ)啓吉(けいきち)の父(ちゝ)喜久蔵(きくざう)
は病気(びやうき)で此(この)吉田(よしだ)萱町(かやまち)の宅(たく)に療養(れうやう)して居(を)つたのであるが啓吉(けいきち)は出発(しゆつぱつ)の途次(とじ)佐賀(さが)から横浜(よこはま)まで陸路(りくろ)を急行(きふかう)
し途中(とちう)僅(わづか)に数時間(すうじかん)父(ちゝ)の病床(びやうせう)を訪(と)つて訣別(けつべつ)したと云(い)ふことである而(しか)して其(その)父(ちゝ)は其(その)年(とし)の五月十六日を以(もつ)て遂(つひ)
に病死(びやうし)したのであるが其(その)時(とき)は既(すで)に啓吉(けいきち)が米国(べいこく)に着(ちやく)して居(を)つた後(あと)である蓋(けだ)し啓吉(けいきち)は米国(べいこく)に着(ちやく)してワシン
トン府(ふ)で彼(か)の井伊大老(ゐいたいらう)の遭難(そうなん)を聞(き)いたと云(い)ふ事であるが大老(たいらう)の遭難(そうなん)は其(その)年(とし)の三月三日であるから勿論(もちろん)
啓吉(けいきち)はそれより以前(いぜん)に我国(わがくに)を出発(しゆつぱつ)して居(を)つたことが分(わか)るのである而(しか)して啓吉(けいきち)が無事(ぶじ)帰朝(きてう)したのは其(その)年(とし)の
九月廿八日であるが其(その)帰航(きかう)に関(くわん)する日記(につき)が今(いま)福谷藤(ふくたにとう)七 氏(し)の家(いへ)に蔵(ざう)せられてあるが之(これ)は中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いもので
あるが只(た)だ其(そ)の前(まへ)の方(はう)が欠(か)けて居(を)るのは実(じつ)に惜(おし)いものであると思(おも)ふ此(この)後(のち)此(この)人(ひと)は矢張(やはり)鍋島侯(なべしまこう)の命(めい)を受(う)け
て数々(しば〴〵)支那(しな)に航(かう)し其(その)内地(ないち)に入(い)つて支那貿易(しなぼうえき)の事に研究(けんきう)を重(かさ)ねたのであるが維新後(ゐしんご)は工部省(こうぶせう)に出仕(しゆつし)し一
等属(とうぞく)まで進(すゝ)むだのである然(しか)るに明治十六年 頃(ころ)退隠(たいゐん)して多(おほ)く此(この)豊橋(とよはし)に居(を)つたが仝(どう)廿二年七十一 歳(さい)で病歿(びやうぼつ)
したのである墓(はか)は豊橋市(とよはしゝ)花園町(はなそのてう)正琳寺(せうりんじ)にあるが此(この)人(ひと)が万延(まんえん)元年(がんねん)帰朝(きてう)の時(とき)に米国(べいこく)から齎(もた)らした印刷物(いんさつぶつ)其(その)
他(た)器具(きぐ)などは勿論(もちろん)其(その)後(のち)支那(しな)から持(も)ち帰(かへ)つた織物(おりもの)の見本(みほん)なども今(いま)福谷藤(ふくたにとう)七 君(くん)の処に蔵(ざう)せられて居(を)るので
ある
右(みぎ)の如(ごと)く福谷啓吉(ふくたにけいきち)は佐賀藩士(さがはんし)として我国(わがくに)最初(さいしよ)の海軍(かいぐん)伝習生(でんしふせい)となり万延(まんえん)元年(がんねん)既(すで)に米国(べいこく)に渡航(とかう)したのであ
穂積晴軒 つたが其(その)実(じつ)は元(も)と我(わが)吉田(よしだ)の市人(しじん)であつたのである而(しか)し之(これ)とは少(すこ)しく後(おく)れて生(うま)れた人(ひと)であるが此(この)吉田(よしだ)
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百三十九
【欄外】
豊橋市史談 (外国問題と吉田藩) 四百四十
【本文】
藩士(はんし)に穂積清(ほづみせい)七 郎(らう)と云(い)ふ人(ひと)があつて之(これ)は実(じつ)に我(わが)吉田藩(よしだはん)に於(お)ける洋学(ようがく)の鼓吹者(こすゐしや)として大(おほい)に伝(つた)ふべき人物(じんぶつ)
であるから此処(こゝ)に其(その)人(ひと)に関(くわん)して話(はなし)の端緒(たんちよ)を開(ひら)いて置(お)きたいと思(おも)ふのである
清(せい)七 郎(らう)の父(ちゝ)は矢張(やはり)吉田藩士(よしだはんし)で穂積喜左衛門(ほづみきざゑもん)と云(い)つたのであるが清(せい)七 郎(らう)は其(その)長男(てうなん)である天保(てんぱう)七年正月 江(え)
戸(ど)の藩邸(はんてい)に生(うま)れ後(のち)号(がう)を清軒(せいけん)と云(い)つたのであるが父(ちゝ)喜左衛門(きざゑもん)は御用人筆頭(ごようにんひつとう)と云(い)ふので藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)の近臣(きんしん)と
なり専(もつぱ)ら弓(ゆみ)、馬(うま)、槍(やり)、劔道(けんどう)などの武技(ぶぎ)を主(しゆ)とする役目(やくめ)であつたが禄高(ろくだか)は百七十 石(こく)であつたのである而(しか)
して前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた彼(か)の浦賀奉行(うらがぶぎやう)の与力(よりき)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)と云(い)ふ人(ひと)は喜左衛門(きざゑもん)の弟(おとゝ)であつたのであ
るから清(せい)七 郎(らう)から云(い)ふと叔父(おぢ)であるトコロで此(この)三 郎助(らうすけ)は嘉永(かえい)六年ペリーが初(はじ)めて浦賀(うらが)に来航(らいかう)した時(とき)其(その)
船(ふね)に訪問(はうもん)して米国人(べいこくじん)と最初(さいしよ)の問答(もんどう)を試(こゝろ)みたので有名(ゆうめい)な人(ひと)であるが安政(あんせい)二年 幕府(ばくふ)が選抜生(せんばつせい)を長崎(ながさき)の海軍(かいぐん)
伝習生(でんしふせい)として差送(さしおく)つた時(とき)には此(この)三 郎助(らうすけ)は勝麟太郎(かつりんたらう)等(ら)と共(とも)に其(その)選(せん)に当(あた)つて長崎(ながさき)へ赴(おもむ)いたのである即(すなは)ち海(かい)
軍(ぐん)修行中(しうげふちう)は前(まへ)に申述(まをしの)べた福谷啓吉(ふくたにけいきち)とも同学(どうがく)であつたが此(この)人(ひと)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く幕末(ばくまつ)に至(いた)つて彼(か)の榎本釜次(ゑのもとかまじ)
郎(らう)が函館(はこだて)に脱走(だつそう)五 稜郭(れうくわく)に籠(こも)つた時(とき)其(その)同志(どうし)に加(くは)はり遂(つひ)に榎本(ゑのもと)等(ら)は降服(こうふく)したが三 郎助(らうすけ)は独(ひと)り踏(ふ)み止(とゞま)つて
千代(ちよ)が岡(をか)の砲塁(ほうるい)を固守(こしゆ)し其(その)二 子(し)と共(とも)に打死(うちじに)をして仕舞(しま)つたのである清(せい)七 郎(らう)はかゝる人(ひと)を叔父(おぢ)に持(も)つて
居(を)つたのであるから夙(つと)に洋学(ようがく)講究(こうきう)の必要(ひつえう)なる事を聞(き)かされて居(を)つたもので其(その)二十 歳(さい)の時(とき)即(すなは)ち安政(あんせい)二年
丁度(ちようど)幕府(ばくふ)でも蕃書調所(ばんしよしらべしよ)を創設(さうせつ)した年(とし)であるが清(せい)七 郎(らう)は三 郎助(らうすけ)の勧誘(くわんゆう)によつて遂(つひ)に蘭学(らんがく)の研究(けんきう)を思(おも)ひ立(た)
つたのである然(しか)るに当時(たうじ)はまだ武技(ぶぎ)の研究(けんきう)をも怠(おこた)つてはならぬのであるから都合(つがふ)のよい処に蘭学(らんがく)の師(し)
《割書:蘭医坪井信|道》 匠(せう)を求(もと)めたいものであると思(おも)つて居(を)つたのであるが会々(たま〳〵)蘭医(らんゐ)の坪井信道(つぼゐのぶみち)と云(い)ふ人(ひと)が呉服橋外(ごふくばしそと)に門戸(もんこ)を
開(ひら)いて医業(ゐげふ)の傍(かたは)ら洋学(ようがく)の教授(けふじう)をもすると云(い)ふので清(せい)七 郎(らう)は初(はじ)め之(これ)に通学(つうがく)することとなつたのである其頃(そのころ)
清(せい)七 郎(らう)の家(いへ)は北新堀(きたしんぼり)にある藩(はん)の中屋敷内(なかやしきない)にあつたのであるからそれから毎日(まいにち)武技(ぶぎ)を修(をさ)むる傍(かたは)ら此(この)坪井(つぼゐ)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百九十四号附録 (大正二年六月十七日発行)
【本文】
の処(ところ)へ行(い)つて殆(ほとん)ど二 年間(ねんかん)の苦学(くがく)をしたのであるがそれでヨウ〳〵蘭語(らんご)文典(ぶんてん)一 部(ぶ)を習得(しふとく)するに過(す)ぎなか
つたのである然(しか)るに其頃(そのころ)は申(まを)す迄(まで)もなく攘夷論(ぜうゐろん)の盛(さかん)な時(とき)であるから蘭学(らんがく)などと云(い)ふ事は実(じつ)に同僚間(どうれうかん)
は排斥(はいせき)を受(う)けたもので或時(あるとき)己(おの)れの隠(かく)し置(お)いた其(その)蘭語文典(らんごぶんてん)の表紙(へうし)へ藩中(はんちう)の同輩(どうはい)に落書(らくがき)をされた事がある
がその落書(らくがき)が今日(こんにち)から見(み)ると中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いのであるソレは「団子(だんご)は喰(く)へるが蘭語(らんご)は喰(く)へぬ」と云ふので
あつた以(もつ)て当時(たうじ)に於(お)ける青年(せいねん)の志想(しさう)の一 部(ぶ)を見(み)るべしとも云(い)ふべきであると思(おも)ふ此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつた
から清(せい)七 郎(らう)は到底(たうてい)蘭学(らんがく)の研究(けんきう)をなすには一 意専心(いせんしん)でなくてはいかぬ武技(ぶぎ)修行(しゆげふ)の傍(かたは)ら公務(こうむ)の余暇(よか)を以(もつ)て
東参名勝案内
藤波一哉編
【白紙】
○東参名所案内目次
一地図 ○東参五郡名勝略図大判
一写真版 ○豊川閣、初八十五個卅五頁
一緒言(《割書:自一頁|至二頁》)
一渥美郡(《割書:自三頁|至二一頁》) ○起原、○豊川(歌(●)、
衣笠内大臣、贈大納言雅世卿。詩(●)、山崎暗
齋、林道春、柏如亭、関根痴堂) ○豊
橋(歌(●)、贈大納言雅世卿、尭孝法師、小野
通女、高原院大婦人、芝山宰相持豊卿、俳(●)
句(●)、芭蕉、越人、巴静、詩(●)、林道春、関根
痴堂、森春濤、)○歩兵第十八聯隊本部○第
十七旅団司令部○官衙と学校○新聞○料理
店○旅舘○病院○遊興所○関小万の墓○
悟眞寺(詩(●)、関根痴堂)○龍拈寺(詩(●)仝上)○
別院○観世左近太夫(暗殺)○吉田神社(詩(●)
関根痴堂)○神明社(詩(●)仝上)○弁天の蓮○
第十八聯隊紀念碑(御銅像)○関屋、新銭、
魚市、(詩(●)仝上)○狐塚、首斬地蔵、入道ヶ
淵○鹿子の振袖○豊橋産物
○羽田文庫○牟呂渡場(歌(●)、正三位知家
卿、従二位行能卿)○岩屋観音(詩(●)、関根
痴堂)○二川駅(歌(●)、小堀宗甫、西行上人、俳(●)
句(●)、正貞、芭蕉、○二子塚(歌(●)、足利義教
公、尭孝法師)○未之復野(歌(●)、万葉集、前
中納言定家卿、光時峯寺入道、禅性法師○
峯野の原(歌(●)、源朝臣光行、鴨長明、○高
師村(歌(●)、前中納言雅孝卿、西行法師、正
二位為家卿、中納言雅康卿)○東観音寺(
歌(●)、清輔朝臣)○老津島(歌(●)、紫式部、俳(●)
甲
乙
句(●)、はせを)○田原町(華山翁碑)○蘆
ヶ池○鸚鵡石○杜国の墓(俳句(●●)、杜国、其
角、はせを、越人、春湖、蓬宇)○和地大
山(歌(●)、榊原民部少輔、酒井姫路城主)○常
光寺○中山試砲所○日出石門○伊良湖崎○
往昔の伊良虞(歌(●)、万葉集、前中納言匡房
卿、為忠朝臣、西行上人、鴨長明、俳句(●●)、
はせを、蓬宇)○伊良湖神社、
一八名郡(《割書:自二一頁|至二五頁》)○起原○皇居旧跡○
藤野村古歌、藤原朝臣家国、仝道経)○赤
岩山○多米瀧○蒜生神社(歌(●)、和泉式部、小
侍清、読人不知、契冲)○正宗寺○鳶巣山
○阿寺七瀑○其他の瀑布○蜂の巣岩○名号
池と琵琶淵
一南設楽郡(《割書:自二五頁|至三三頁》)○起原○新城町○
○富永神社○白雪旧居(俳句(●●)、轍士、白雪、
探水、芭蕉、)○桜淵○野田城趾(信玄狙撃
の記)○長篠古戦場(歌(●)、信長公、詩(●)、蘭
泉、俳句(●●)、蝶夢、乞喰、)○雁峯山(俳(●)句、
はせを)○鳥井勝商碑○甲州方の墓○鳥居
勝商烽火を揚ぐる記○牛瀧○鮎瀧○其他の
瀑○鳳来寺○東照宮○仏法僧鳥(歌(●)、
草鹿砥公宣卿、弁内侍、慈鎮和尚、俳句(●●)、
宗砥、芭蕉、其角、凉台、路通、嵐雪、乙
由、轍士、舎罷、只丸、蝶夢、
一北設楽郡(《割書:自三三頁|至三七頁》)○起原○川合石橋
(詩(●)、荘田元宣)○別所城趾○福田寺(信玄
墓)○御所貝津と御所平(歌(●)、尹良親王、
内親王女房紀伊○御殿村と園村○津具の里
(歌(●)、陽成天皇御製)○白鳥神社○十二景○
古橋翁の碑○段戸山○サンシヨウ魚其他○
瀑布と鉱泉
一宝飯郡(《割書:自三七頁|至五三頁》)○起原○御油(歌(●)
沢庵和尚、従二位泰邦卿)○三ツ河(歌(●)、
万葉集、民部卿為家)○御油停車場附近○
御津神社(御神詠)○新宮山紀念碑○海水浴
○国府と赤坂○大江定基朝臣略伝(力寿姫)
(歌(●)、辞世、読人不知、寂照法師、前大言
公任卿○宮路山(歌(●)、読人不知、河内
朝臣躬恒、増基法師、中山美石、為家卿、
詩(●)、林道春、)○長福寺と正法寺○国分寺と
西明寺○財賀寺○財賀寺の田祭○本野原(
歌(●)、右大弁光俊卿、後京極良陸公、俳句(●●)、
宗長○豊川町(歌(●)、鴨長明、源朝臣光
行、仝親行○豊川閣○三明寺(俳句(●●)、宗長、
詩(●)、釈道岡)○本宮山○山本勘助晴幸略伝
(詩(●)、太田錦城)○葵御紋(花ヶ池)○万歳の
記○大神楽の記○和泉式部石塔○聖眼寺○
本郡内の芭蕉塚○前芝港(詩(●)、関根痴堂、大
田錦城、俳句(●●)、士朗)○御馬湊(歌(●)、万葉集、
俳句(●●)、宗長、白雪、轍士)○蒲郡町○
恋の松原(歌(●)、駿河、中納言雅康卿)○俊成
卿屋敷跡(歌(●)、藤原朝臣道経、俳句(●●)、士朗)
○島嶼と海水浴○大島(歌(●)、俊成卿、清原
朝臣元輔、○竹島弁天社○楠公の猿楽○小
粟【栗?】判官潜居
一附録(《割書:自一頁|至九頁》) ○詩、歌、俳句、挿絵、
汽車時間表
一営業広告 ○文海堂初廿四頁
(目次終)
丙
【右頁】
【四隅丸囲み文字】山 田 旅 舘
【屋号:マルに浜】運輸 取扱
東海道豊橋船町
山七運輸店
仝線豊橋停車場前
山七運輸支店
豊川線舟町駅前
山七運輸出張店
左ノ山田旅舘ハ旧伊藤旅舘ト称シタレ𪜈弊運輸支店ノ隣家ナルヲ幸昨年十二月始テ其家
ヲ譲リ受ケ大ニ修繕ヲ加ヘ第一空気ノ流通ヲ能クシ剰サエ当駅真向ニシテ吉田駅ヘノ乗
替最近ノ場所ナレバ御乗降御休泊ニ付テハ極メテ御便利ナル而巳ナラズ諸般ノ事万事叮
嚀懇篤ニ御取扱可申上候得バ何卒御出豊ノ折又ハ豊川山御参詣ノ砌リニハ倍旧ノ御愛顧
ヲ以テ陸続御投宿アラン事ヲ希フ 謹白
東海道豊橋停車場前
【屋号:山形に七】山田旅舘
【左頁】
内外書籍雑誌
学校用文房具《割書:販|売》
洋服トンビ帽子
附属品調進処
兵書専売
陸軍御用書肆
豊橋呉服町北側
豊川堂本店
豊橋呉服町南側
豊川堂洋物店
豊橋中八町営門前
豊川堂竹内商店
【右頁】
森河商店
洋服調進。附属品。西洋小間物
弊店は世の流行に先ちて右の品々貴需に供し特
に洋服に至つては多年欧米にて丹精を凝し
たる職工をして裁縫に従事せしむれば其確実な
ることは一度弊店に注文せられたる方々の
熟知する所なり
豊橋町大字西八町
店主 森河孝一
【左頁】
豊川閣総門
豊川閣本堂
赤岩山法言寺
豊川三明寺
豊橋別院
下地聖眼寺
豊橋悟眞寺
豊橋停車場
豊橋停車場通
神武天皇御銅像
鳳來寺
東上牛瀧
本宮山砥鹿神社
辨天の蓮
豐橋神明社
吉田神社
第十七旅團本部
第十八聯隊
渥美郡役所
羽田文庫
愛知縣第四中學校
神野新田碑
田原華山翁碑
渥美郡伊良湖崎
蒲郡辨天島
日出石門
日出石門(其二)
多米の瀧
中山試砲所
石卷山
豊橋病院
豊橋西八町山田眼科院
豊橋中八町岡田眼療院
豊橋札木町鍵屋小原藥店
外科内科婦人科小兒科
隨時入院治療之需メニ應ス
貧困者ハ當地之新聞捺印券持參者ハ施療
辻村醫院
豊橋町字呉服
呉服太物
洋反物小袖類
幷ニ各國漆器(唐木細工)
三州豊橋曲尺手町
八文字屋
高須■商店【■は八に●】
(電信畧號タカス)
豊橋港町原田萬久烟草製造塲
豐橋坂新道粟屋醫院病室
院長菅沼忠人
豊橋町大字中八町
菅沼眼科院
西尾銀行豊橋支店
A restauraut anb A hotel 【restaurant and の誤植】
Toyohashi. Senzairo.
料理店兼旅舘豊橋千歳樓
豊橋札木町錦光堂陶磁器店
豊橋停車塲通岡田屋旅舘
調劑藥舖
豊橋呉服町
大丈本店
藥劑師中村丈三
豊橋停車塲前大丈支店
豊橋花園町大丈支店
北設楽郡田口町大丈支店
呉服太物
豊橋町大字呉服
佐藤■呉服店【■は一+九】
料理店豊橋百花園更科
豊橋呉服町劇場東雲座
豊橋呉服町大谷屋
大谷屋呉服店は最も厚き
信用あり猶益々出精仕候
大谷屋呉服店の織物は御
為め向一方にして且つ其正札値
段は誠に安く候
大谷屋呉服店の織物は総
て其原産地より直取引也
大谷屋呉服店は御婚礼其
外晴れの御儀式服は別段に入念
調進致候
「営業案内書有之御望次第進上」
愛知銀行豐橋支店
三河セメント會社
豐川鐡道株式會社
二川岩屋觀音
鮎瀧
阿寺七瀧
新城桜ケ淵
豊川駅停車場
琵琶ヶ淵
豊川閣(其三)
名号地岩石
仝上伝馬町通
長篠城跡
豊橋札木町通
吉田橋
豊橋悟眞寺
前ノ悟眞寺ハ龍拈寺ノ誤植
牟呂渡船場
小松原観音
和地大山
新宮山紀念碑
鸚鵡石
八幡国分寺
豊橋町旧大手織田写真舘撮影
東京京橋区卅間堀報文社製版
名古屋通信社印刷部長谷川活版所印刷
宮路山紅葉看覧
【上段】
豊橋旧大手
織田写真舘
【下段】
聞紙なり
●参陽新報は三遠地方唯一の新
○参陽新報発行所
参陽印刷合資会社
○諸種活版印刷所
●参陽印刷合資会社は豊橋西八
町にあり
芸妓美人鏡
(元山水)小八重
(福菱)お花
(浜松明石屋)小浜
(元山水)兼子
名古屋納屋橋東南詰 名古屋通信社印刷部 長谷川活版所印刷
【上段】
(新玉家)小半
(元山水)豆子
(新玉屋)小雪
【下段】
(浜松蔦屋)雪子
(福菱)のぶ
(金花楼)〆子
(新玉屋)小園
(福菱)いろ
豐橋
旅館 小嶋屋
附 名産納豆製造販賣
【右頁】
改良農具
稲扱いろ〳〵并に保険附なをし
麦扱、麦打、麦摺
穀扱用除芥器、
千石通、籾摺、真棒
田の草取、ニカリ撰手
改良蚕具
養蚕室消毒兼用暖炉
よりまふし即製器
桑扱、桑摘、桑切鎌庖刀
寒暖計
大徳用炭焚富貴竈
大徳用石油瓦斯竈
大徳用軽便風呂釜
何レモ西洋竈ヨリ五割以上徳用
めがね、洋傘、足袋
ネル切、屑糸るい
大勉強卸小売
豊橋横町突当西詰
岩田屋 石田民作
【左頁】
【上図】
登録商標
TOYOKAWA MIKAWA JAPAN
御菓子
豊川名産
福寿石
三州豊川
岡田屋謹製
【下】
豊川山参詣者ヘ注意
豊川名産福寿石ハ豊川閣奥ノ院中門ノ内ニ敷キ詰メアル
小石ヲ摸造シマシタ菓子デ御座イマシテ豊川ヘ行キテ岡
田屋製福寿石ヲ求メザレバ参詣シタル印ナシ■【ト】迄空前ノ
大好評ヲ博シマシタノハ風味ガ高尚デ体裁ガ優美ナノハ
勿論登録商標ガ御宝珠ノ両側ヘ白キ狐ガ手ヲ掛ケ居ル所
デ真ニ土産物トシテハ唯一ノ品デアル夫レノミナラズ五
二会ヤ品評会デ賞状ヲ受ケタ様ナ訳デアルカラ実ニ弊店
ハ無上ノ光栄デアリマス故益々原料ヲ精撰シ職工ニ注意
ヲ与ヘ御厚意ニ反カザランヿヲ勉メマスカラ御愛評ヲ願
ヒマス
●近来粗製ノ類似品アリ御求メノ際ハ登録
商標ニ御注意目ヲ乞フ
豊川在麻生田
福寿石製造元祖御菓子司 岡田屋
豊川停車場通リ
御土産菓子大販売所 岡田屋支店
●販売所ハ御門前豊川停車場豊橋停車場等各所ニアリ
【右頁】
牛久保支店
国府出張店
三谷出張店
老津出張店
富岡出張店
株式
三遠銀行
会■【社】
【左頁】
和洋菓子調進
御注文ハ御好ニ応ズ
特製品受賞御披露
一鉢の木 香川県内国国益品博覧会
有功賞銀牌受領
一袖摸様 愛知県第五回五二会品評会
一柚香糖 二等賞銀牌受領
豊橋町
和洋菓子舗 【松葉菱に「若」】 若松園
【右頁】
東京王子製紙株式会社製紙
遠州気田製紙分社製洋紙
遠州中部製紙分社製洋紙
大阪阿部製紙所製紙
千寿製紙株式会社製紙
{其他
英米
独墺
各国
舶来
洋紙}
右特約格別廉価に販売可仕候別て新聞紙の如きは内外製共平判
並に臨転器械巻取紙其他印刷用紙煙草包紙等各位の御望に応じ
紙巾厚薄等別段抄造可致に付陸続御注文被下度奉希望候敬白
豊橋湊町
和洋紙卸問屋 【○に小】 小柳津伊三郎
【左頁】
三河豊橋
無限責任
合名会社
山乃内銀行《割書:豊|橋》支店
関屋町通
【右頁上】
株式会社
大野銀行豊橋支店
営業所
豊橋町大字船町
【右頁下】
御料理
豊川の水は清く楼下を流れ石巻の
山は近く目前に逼ひ堤防の楼【?】弁
天の蓮本宮の雪など四季の眺望佳
絶にして特に料理の義は新鮮美
味のものを調進致すべければ幾重
にも御愛顧あらんことを希ふ
豊橋町大字船町
酔翁亭
豊川岸
仝支店
【左頁】
東参五郡略図
【下・凡例】
・鉄道
・国境
・郡界
・町村
・名勝
・河川
【図中地名は次頁を参照】
【表題】
東参五郡略図
【左下・凡例】
北
西 東
南
・鉄道
・国境
・郡界
・町村
・名勝
・河川
【図中地名】
美濃国
信濃国
遠江国 天竜川 ハマナ湖
東加茂郡 足助川
額田郡 岡崎 矢作川
幡豆郡
北設楽郡 ●津具 ●稲橋 ●田口 ●本郷
▲段戸産馬場 ▲川合石橋
南設楽郡 ●海老 ●大海 ●新城
▲鳳来寺 ▲長篠
宝飯郡 ●蒲郡 ●御油 ●豊川 ●牛久保 ●前芝
▲弁天島 ▲宮路山 ▲本宮山 ▲三明寺
トヨ川
八名郡 ●大野 ●富岡
▲阿寺七滝 ▲石巻山
渥美郡 豊橋 ●二川 ●牟呂 ●田原 ●伊良湖崎
▲高師原 ▲岩屋観音 ▲鸚鵡岩 ▲中山試砲所 ▲日出石門
遠州灘 太平洋 衣ヶ浦
東参名勝案内
編者 参洋子
緒言
参河国は上古穂の国、御川の国と唱へ後三河と改め又何時の頃よりか東三河西三河の区別を
なすに至れり、蓋東参は豊橋を中心として南北設楽、八名、宝飯、渥美の五郡相接続し、西
参は岡崎を軌軸として東西加茂、額田、碧海、幡豆の五郡相連結するが故なり、而して参河
の地たる所謂名所旧蹟の伝ふべきものなしとせず、去れど未だ之れが案内記あるを聞かず、
思ふに名勝の地を弘く社会に紹介するは啻に歴史地理の参考となり探凉避寒の栞たるのみ
ならず、交通の材料となり旅客の案内となりて、土地の繁栄を稗補すること尠少にあらざる
べしと信ず、是に於て其第一着手として本編を発行するに至れり、然れども急速の編纂に係
り詳略其当を得ざるは編者が江湖に向つて予め謝する所なり、
本書を東参名勝案内と謂ふ、所謂名所旧蹟のみを蒐集せるものにあらずして、現時に於て有
名なる官衙、商店等をも弘く採録せり、是れ即ち名勝(●●)なる文字を選みたる所以なり、
一
二
東参五郡、曰く渥美郡、曰く宝飯郡、曰く、八名郡、曰く南設楽郡、曰く北設楽郡、此五郡
の内渥美、宝飯の二郡は海岸の地にして八名及び南北設楽の三郡は山間の地たり、去れど豊
川の流と鉄車の便とによりて海陸の交通は益発達し、山間の木材其他の貨物は直ちに豊橋市
場に集りて各地に輸送せられ、海岸の魚類は即時に運搬せられて南北設楽の山間に於ても其
日の膳部に上すを得、殆んと五郡は隣保の如し、
東参に於ける市街地は豊橋町(●●●)を首とす、蓋豊橋町の繁華は岡崎町及び遠州浜松町にも過ぎて
実に三遠両国中第一位に在り、而して東参に於て豊橋町に亜くの地は南設楽郡/新城町(●●●)にして
次は八名郡/大野町(●●●)、南設楽郡/海老町(●●●)、宝飯郡/豊川町(●●●)、渥美郡/田原町(●●●)等にて、宝飯郡の御油赤
坂町等は旧時の観だになし、次に所謂名所旧蹟にあらずして輓近の創設に係る北設楽郡段戸
山/産馬種蓄場(●●●●●)、渥美郡中山村/中山試砲所(●●●●●)は、何れも官設にして東参の地に幾多の光彩を添へ
つゝあり。
《割書:東|参》名勝案内
○渥美郡
●起原 上古は豊川の水流今日の如くなら
ず豊川町辺りが河口にて東は牛川村西は小坂
井、牛久保町北は一宮辺まて湾入し南は吉田
方、牟呂村より豊橋町大字飽海辺まて入海な
りしなり万葉集に大舟乎(オホフネヲ)荒海爾(アラウミニ)䅭(コギ)【榜?】出(ダシ)云々又/白(シラ)
浪乃(ナミノ)高荒海乎(タカアラウミヲ)云々とあるは現今の豊橋町大字
飽海辺(アクミ)の波濤荒れたるより出たる名称にて荒
海の語転化して飽海と謂ふに至りたるものな
らん而して和名抄に「阿豆美」と云ひ又は渥美
に「安久美」郷ありと云へるより考ふれば渥美
郡の起原は飽海の言葉の転化して自然と命名
せられたるものと云ふべし
●豊川 吉田川、又姉川とも謂ひしと水源
を北設楽に発して南設楽を貫流し八名、渥美、
宝飯三郡の界を流れて衣ヶ浦に注ぐ故に豊橋
の繁華否東参五郡の利便発達は此豊川の水流
に資する所多しと云ふべし、而して沿岸各地
の絶景は以下夫れ〳〵記する所の如くにて東
参の名勝は此水流に依りて名を著はす者多し
衣笠内大臣の詠
かり人のやはきにこよひやとりなば
あすや渡らんとよ川の波
贈大納言雅世卿の詠
かり枕いまいく夜へて十よ川や
あさたつ浪の末をいそがむ
吉田川旧謂之豊河今此川以北可二里有豊
三
四
川地名而非河矣蓋風土記所謂豊河長者住
処也 山崎暗齋
東西釣命置郵伝 表道青松成列連
風色正豊風水靖 吉田城下吉田川
癸已紀行 林道春
吉田昔日戦攻場 一旦功成洪祚長
行客憑誰誇子産 勝於港洧不橋梁
東遊紀行 山崎暗齋
扁舟一葉逐流謡 馬上暫看快短撓
漠帒薛張有遺諫 為君題去吉田橋
豊水観月(二首) 柏如亭
豊水橋西薄暮天 間登三五月明船
秋風不作思郷夢 且為鱸魚拚半年
~~~~~~~~~~~
詩酒何妨為久留 又追佳興在軽舟
全虀玉鱠玻瓈月 併作中秋一夜遊
豊川竹枝(二首) 関根痴堂
髩雲梳月両嬋妍 花外楼台柳外船
不算維揚春廿四 一橋占此好風烟
~~~~~~~~~~~
千戸繁華水一川 帆檣林立海門天
黄金撑斗如有術 鉄鋳長橋繋火船
●豊橋 渥美郡の北端にて豊川の南岸
に臨む、往昔今橋と唱へ維新前までは吉田と
称せり、吉田城は後柏原天皇永正二年即ち四
百年前今川氏親の臣牧野成時の築きたるもの
にて、其後松平信綱(智恵伊豆)の子孫大河内
氏藩封七万石にて明治の始めまで支配せし城
下なり、明治十八年旧城廓に歩兵第十八聯隊
を置き続いて第十七旅団司令部を設けらる、
目下市制を施行せんと之れが調査中なり
いまはしと云ふ所にて
贈大納言雅世卿
君がためわたす今橋いまよりは
いく万代をかけてみゆらん
いまはしの御泊りにて
尭孝法師
夜とともに月すみ渡る今橋や
明過るまで立そやすらふ
東海日記 小野通女
古郷の里の名なればなつかしや
よしや都のよしだならねど
廿九日ごゆといふ所にとまりぬ吉田と
いふ所を行にふるさとにてはきかざり
しほとゝぎすのおほくなきければ
高原院大婦人
はつ音だにまたよそなりし時鳥
しばなくこゑをきゝくらすかな
天明六年丙午閏十月三日女伕院芝山宰
相持豊卿関東より御上り大木十右衛門
宅に御とまりにて
たち出む名残ぞあかぬ旅のやど
あるじもふけのふかきなさけに
三河鳥巣にあふて
かくさぬぞ宿は菜汁に唐辛 はせを
越人と吉田の駅にて
寒けれど二人旅寐ぞ楽しき 仝人
旅寐して見しや浮世の煤払 越人
吉田酒屋巴牛に宿りて
酒蔵の窓の小春を見に起ん 巴静
丙辰紀行 林道春
五
六
行々何日窮 相送数州風 馬過暁霜上
龍横道路中 川流無昼夜 人物有西東
一枕還郷夢 家書久不通
豊橋四時雑詞(録三首) 関根痴堂
細腰低髩学江城 児女風姿艶更清
別有可隣山水在 媚煙明翠似西京
~~~~~~~~~~~
花不招人人自来 今時春色勝当時
彩毫誰為翻旧曲 唱出豊橋新竹枝
~~~~~~~~~~~
郎住源頭儂港頭 望郎日々使儂愁
相思欲寄双行涙 無奈豊川不倒流
豊橋竹枝(二首) 森春濤
招客古謡称吉田 楼佳妓妙久喧伝
倚欄長袖麑斑纈 露指掺々最可憐
~~~~~~~~~~~
欲為情郎賽百面 攀縁有路苦無媒
霊源一帯豊川水 直自白狐廟下来
○歩兵第十八聯隊営所(●●●●●●●●●) 西八町と中八町との
境界道路より本門に入る、東は練兵場に出で
西は関屋町に通する両門を控へ、北は豊川の
清流に沿ふ、
○第十七旅団司令部(●●●●●●●●) 東八町の尽る所より北
に折れて約二町にして本門に入る、歩兵第十
八聯隊と静岡第三十四聯隊とを監す、
○【傍点ここから】官衙と学校【傍点ここまで】 軍隊の外官衙は、渥美郡役所
と豊橋憲兵屯所は西八町に、豊橋区裁判所と
豊橋税務署は中八町に、豊橋郵便電信局は札
木町に在り、学校は愛知県第四中学校、高等
小学校、尋常小学校三個所、私立盲唖学校、
東海育児院、素修学校等あり、高等女学校商
業学校設立の計画中なれば遠からずして開校
せらるべし
○新聞(●●) 参陽新報、東海日報、社交新報の外
商況を報ずる二新聞あり
○料理店(●●●) 札木町千歳楼は高尚を以て船町酔
翁亭は廉直を以て百花園更科は風景を以て相
対峙せり
○旅舘(●●) 札木町桝屋最も古く仝町小島屋弘く
世間に聞へ停車場前にて岡田屋、壺屋、山田
館等最も著れ何れも兄たり難く弟たり難し
○病院(●●) 豊橋病院最も盛にして医学士二名外
医員数名ありて内科、外科、眼科等に分てり
河合病院、粟屋医院、辻村医院、は外科治療
に其名高く菅沼、岡田、山田、の各医院は眼
科専門にて治療を乞ふもの常に門に充ち其他
内科治療にては新藤、鈴木、久野、等評判宜
し
○遊興所(●●●) 吉田通れば二階から招くの俗謡に
よりて吉田の遊里は古来名高きものなり現今
の遊廓(●●)は札木町と上伝馬町にて札木は上品に
て上伝馬は軽便にて相譲らず又/劇場(●●)は三箇所
あり呉服町東雲座は株式会社組織にて新規宏
壮其第一位を占む上伝馬の弥生座庚申塚の豊
橋座之れに次ぐ其他遊興所と謂ふべきは上伝
馬に寄亭朝日座あるのみ
○関小万の墓 (附略歴)
俗謡に「関の小万は亀山通ひ月に雪駄が廿五
足」又「馬が戻たに与作さんはまだか関の小
万が鳥渡とめるシヨンガイナ」と唱へられし
関小万の墓は豊橋町上伝馬賢養院境内墓所北
の隅なる五輪の石塔なりと云ひ伝ふされど夫
より南の方に山田平八代々の石碑あり其が中
七
八
に小万夫婦の石碑あり小万が夫は平八方の本
家なれど其家断絶せしかば別家の山田平八方
にて石碑を立て祭れるなるべしと而して前記
俗謡の来歴を案ずるに小万は勢州関の駅の妓
女なりしが丹波亀山の家臣に与作なるものあ
り故ありて浪士となり零落して勢州亀山に住
せしが如何なる縁にや妓女小万と深く契を結
び小万毎夜忍びて亀山なる与作の許まで通ひ
しとかや斯くて与作は主家へ帰参かなひける
折抦其頃三州吉田駅坂下町に山田市郎右衛門
と云ふ小間物商人仕入の為め京都へ往復する
都度彼の小万の艶麗なるを見染めて通ひ詰め
たれば与作が迎へて妻女となさんとせしを断
りて遂に市郎右衛門の為に身受けせられ吉田
に連れ来られ家内睦まじく家業を励み享年六
十余才にて天和四年甲子六月三日死去せりと
ぞ
○悟真寺(●●●) 豊橋関屋町に在り孤峰山浄業院と
号し浄土宗に属す、人皇五十九代後光厳 帝
御子、貞治五年善忠上生上人寂翁和尚将軍足
利義詮に乞ふて創建せし所なりと云ふ、明治
十一年十月 今上陛下御巡幸の砌当寺を以て
行在所と定めさらせれたり
御忌寒《割書:自正月十九日|至仝 廿五日》 関根痴堂
料峭寒威暁更濃 憐他群【草革ヵ】屐■【闌ヵ】春容
江雲黯澹天将雪 枕上風伝御忌鐘
○龍拈寺(●●●) 豊橋吉屋町にあり曹洞宗にて郡中
屈指の巨刹なり旧吉田藩主の崇仰篤かりしと
又手間町西光寺にありし観世左近太夫の墓を
何時の頃か此境内に移せり
五百羅漢 関根痴堂
松寺無塵昼自間 納涼人去縁陰間
清風五百阿羅漢 不用尋仙向雪山
○別院(●●) 豊橋花園町にあり西竺山誓念寺と称
し真宗大谷派の別院なり当山は往昔真言宗に
て西竺寺と号せしが天文甲午歳本願寺十世前
大僧正証如上人懸所となす
○観世左近太夫の墓 (暗殺)
豊橋吉屋町龍拈寺境内に在り案ずるに観世左
日太夫は元祖伊賀国服部氏の別れにて南部春
大明神の神楽役者衆となりいつの比よりか近
京都に移り住みて和楽謡曲の師となり門弟多
くありける中に妓女の容姿婀娜たるに馴染て
妻となせしが此女至つて嫉妬の念深かりけれ
ば左近太夫も持てあまし妓女を振り捨て都の
住居を夜逃して吉田(豊橋)に来り猿屋小路
(中瀬古)に仮住居せり去る程に謡曲の門人も
数多出来て何不足なく暮せしが一朝日闌なる
まで其門も蔀も開かざれば近隣の人々怪みて
誰彼立会戸を推明けて見るに左近太夫面部よ
り手足に至るまで甚だしく疵つきて死し居た
りければ人々其不思議なるを怪み門弟共は涙
と共に埋葬しけるとなん思ふに此頃は大阪と
関東との不和合中にて謡曲師殿中に往来して
内通をなせりと謂へば観世太夫の横死も亦之
れが為めならん然るに巷説に曰く左近太夫死
去数日を経たる後図らずも妻たりし妓女尋ね
来りて謂ふよう一夜嫉妬の余り太夫を惨酷な
る目にあはし非命の最後を遂げしめたると夢
み都に留まり兼て遥る〳〵尋ね来りたりと告
九
十
げ惜げなくも緑髪を絶ちて太夫の後世を弔ひ
たりと云ふ左近太夫の死去は天正五丁丑正月
廿九日法名浄光院殿玉庵宗金居士
○吉田神社(●●●●)(烟火) 天王社と云ふ豊橋関屋町
百花園裏にあり素盞烏尊を祀る、創建の時代
は桓武天皇の御世ならんと云ふ、いつの比に
や天より降たりとて影降石(●●●)と名づくる奇石鳥
居を入りたる十歩許りの所にあり、当社の例
祭は毎年六月十三、十四、十五、の三日にて
十三日十四日は烟火(●●)を打揚ぐ大梨(オホナシ)と称する神
前の烟火百雷の一時に鳴り渡るが如く又豊川
岸の打揚げ烟火は其千態万状見るものをして
快哉を叫ばしむ、彼の東京両国川開きの烟火
などの遠く及ぶ所にあらず、十五日は神輿(●●)の
渡御あり儀仗中/笹踊(●●)ありて異様の服装を為し
編笠をかぶりて大勢同音に唱歌をなす頗る奇
観なり
祇園神会烟火 関根痴堂
楼々煙戯闘豪奢 璧月珠星各自誇
小女十三多意気 柔荑能放大梨花
~~~~~~~~~~~
水村烟戯是開頭 妝出豊川第一遊
橋上笑歌橋下舞 燈光酒影満中流
○神明社(●●●)(鬼祭) 豊橋中八町に在り天照皇大
神を祭る例祭正月十四日社前に於て白帳烏帽
子着の神人立並び的を射る勝負を論ずるにあ
らず神事なり而して鬼祭(●●)と称して市中は大賑
ひなり即ち神前に於て赤鬼は撞木を持ち猿田
彦は長刀にて闘をなし終れば産土子の大勢裃
をつけて赤鬼を追社【?】て地を出で市中を駆け廻
る道路飴を投げ大声を揚げて呼ばり又稚児と
称する者ありて異風の踊あり後又赤鬼黒鬼榎
玉を争ふ
神明社鬼祭 関根痴堂
金輿照路彩幡新 赤鬼跳梁黒鬼瞋
不似送窮寒気象 満城笑語競迎春
○弁天(●●)の(●)蓮(●) 豊橋港町神明社境内にあり池中
蓮華を植ゑ東京の上野弁財天の小なるもの夏
時遊客群をなす案するに正徳年中池中に島を
築きて蓬莱を形作り山田宗編が風流をすさび
たるものなり
○第十八聯隊紀念碑(●●●●●●●●)(御銅像) 東八町北端練
兵場東南隅にあり神武天皇御銅像を安置す高
数丈弓箭を持して直立せり威儀厳然人自ら礼
拝す
毎年三月九日招魂祭を執行豊橋町挙て余興内
を催す烟火あり、山車あり、競馬あり、撃剣
あり、柔術あり、角力あり、弓術あり、手踊
あり、近在より老弱男女群集して流石に広き
練兵場も人の山を築く
○関屋(●●)、新銭(●●)、魚市(●●) 三河古老伝に曰く吉田川
に関ありしに永禄合戦の後廃して其所を旧城
内関屋門といふ蓋し関屋町(●●●)は之より起りしな
らん、又/新銭町(●●●)の起原を索ぬるに往昔水野隼
人正忠清朝臣吉田在城の節寛永十三、十四二
ヶ年の内台命に依つて新銭を鋳る是に依て新
銭町の名あり(因に諸国に吉田駒位官駒の二
品あり是は新銭を鋳たる数を知らん為に十文
に一文づゝ駒引銭を鋳て通用したり其名残に
て今も百文を十疋といふ是れ百文に駒引銭十
十一
十二
文ある故なり)魚町(●●)元魚屋町といふ同町の魚
市は古来諸国に稀なる繁昌にて片浜十三里は
夏にも謂はず衣ヶ浦及び遠州駿州の海浜より
送り来つて市をなす昼夜間断あることなし魚
町の称空しからず而して消防に於ては豊橋町
中に冠たり
防火夫之盛以魚街為最 関根痴堂
防火隊中年少郎 好身健手冠魚坊
生来不帯屠沽習 占断春風侠骨香
○狐塚(●●)、首斬地蔵(●●●●)、入道(●●)が(●)淵(●) 狐塚は豊橋魚町
に首斬地蔵は仝中柴に入道が淵は豊川関屋河
岸上流にありて何れも奇談怪説を伝ふ
○鹿子(●●)の(●)振袖(●●) 「吉田通れば二階から招く加
かも鹿子の振袖で」と唄ひ初しは何れの頃に
や判然せざれど鬼之の句などにあるを以て見
れば元禄以前なりしことは明なり而して其由
縁を尋ぬるに吉田駅呉服町に林某なるものあ
り同家に艶姿婀娜たる娘ありけるが如何なる
事にや心そゞろになりて常に鹿子絞りの振袖
を着通行人を見れば一向二階より招きしより
此歌を作りたるなりと云ふ去れど吉田駅遊女
が二階から客人を招きしより起りたりとも又
は京の吉田御殿に令嬢ありて此状態をなした
るより起りたりとも謂ふ何れが信か考証に苦
しむ
○豊橋産物(●●●●) 吉田芋、納豆、豆霰、竹輪、吉
田鎌、等は古来よりの産物なるが昨今国産と
して益発達しつゝあるは原田工場製造烟草と
生糸産出は近国に誇るに足るべく次に醤油醸
造、蜜柑産出もまた産物として数ふべきもの
なり
●羽田文庫(紅葉) 花田村字羽田八幡
宮境内に在りて神官羽田野氏之を管すこは吉
田駅福谷水竹外五六氏嘉永二年に造立したる
ものにて三条実方公、水府源烈公の奉納書を
初め蔵書一万三千巻の多きに及び額幡太文庫
の四字和田氏の書、積中外諸典五大字三保右
大臣実万公の筆なり蔵書は弘く公衆の閲覧に
供す又境内に楓樹あり紅葉の名所を以て其名
著る豊橋停車場を距る僅かに五町、
●牟呂渡船場(釣魚) 豊橋町を西に去
る約一里有名なる神野新田のある所なり田原
町へ海上四里毎日数回汽船の往復ありて旅客
の便をなす此海岸波穏かにして秋日釣魚の人
士群をなす
牟呂を称する所いづれにも海辺にありムロは
群の転語にて人民群居する意なり同所西南海
中に龍江と云ふ所あり往昔雨乞をなせし所な
りと夫木集にある龍の細江と読める左の歌は
茲処を指したるものにはあらずや
正三位知家卿詠歌
沖つなみ龍のほそへの浦がくれ
風もふくやととまるふな人
従二位行能卿詠歌
興津風たつの細江のしきなみに
かさなるものは恨なりけり
●岩屋観音(つゝじ、茸狩) 大川町大字
大岩に属す大厳石高八丈幅十余丈岩上に正観
世音の銅立像鎮座す長一丈三尺銘に云明和二
乙酉年八月大吉日江戸下谷講中と同所は豊橋
十三
十四
町を趾る里余二川停車場より僅かに五町東海
道汽車の窓より眺むべし風景四時とも絶佳に
して特に岩上に登れば遠く衣ヶ浦及遠州灘を
望み又桜躑躅茸■等の名所なれば春暖秋涼の
候遊覧の人士遠近より集る
窟観音 関根痴堂
石鏡峰前百尺梯 花晨月夕好攀躋
金仙【?】立在危巌上 導得遊人路不迷
●二川駅 今は大川町の内に属す往昔二
川駅は其名最も著れ近来は生糸製造を以て其
名高し
後撰夷典集 小堀宗甫
国は三河里は二川あはすれば
いつかはかへりみやこなるらん
夫木集 西行上人
なかれてはいづれの世にかとまるべき
なみだをわくるふた川の関
明歴道中記 正貞
満月もはるゝ二川のなみ間かな
句集 はせを
紫陽花や藪を小庭の別座敷
○二子塚(●●●) 二川駅の東並木左の方に富士の見
所ありそこを謂ひしなるべし
覧富士記 足利義教公
今日なむ遠江国塩見坂に至りおはします
云々二子塚と申侍りし所にて富士を御覧
じそめられたるよし仰せられて
たぐひなきふじをみそむる道の名を
ふたごづかとはいかでいはまし
これについて申侍し 尭孝法師
契なれやけふのゆくての二子づか
こゝより富士を相みそめぬる
○末之腹野(●●●●) 二川駅東南に在る下細谷の原野
を謂ふ
万葉集
梓弓末之腹野爾鷹田為(アヅサユミスヱノハラノニトガリスル)
君之弓食将絶念甕屋(キミノユヅルノタエントオモヘヤ)
続後撰集 前中納言定家卿
契りなきし末の原野のもとかしは
それともしらじよその霜がれ
続古今集 光時峯寺入道
ぬれつゝぞしひてとがりのあづさ弓
末のはらのにあられふるらし
夫木集 禅性法師
うづらなく末のはら野のはぎがへに
秋の色ある夕つくひかな
○峯野(●●)の(●)原(●) 二川駅近傍ならん未だ詳にせず
貞応海道記 源朝臣光行
十日豊川を立て野くれ里くれはる〳〵と
通れば峯野の原といふ所あり云々雲は峯
の松風にはれて山の色天とひとつに染た
り遠望の感心情つきがたし
山のはは露よりそとにうづもれて
野末の草にあくるしのゝめ
名寄 鴨長明
うづらふす峯野の原を朝行ば
いらこが崎にたづ鳴わたる
●高師村(原と山) 郡内最も古き村落に
て和名抄に高蘆とあり又往古は皇太神宮の御
神領なりしと見へて神風抄に高足御厨とあり
十五
十六
而して古来高師山、高足原など唱へられて和
歌に詠せられたるが今は高師原は歩兵第十八
聯隊の演習地となりて日本全国中屈指の箇所
となり居れり
新続古今集 前中納言雅孝卿
くれやらでかげは猶もたかし山
思ふとまりやすぎてゆかまし
夫木集 西行法師
朝風にみなとをいづるともふねは
たかしの山のもみじなりけり
仝 正二位為家卿
たかし山夕立はてゝやすらへば
ふもとのはまにもしほやく見ゆ
富士歴覧記 入道中納言雅康卿
昔よりその名ばかりやたかし山
いづくを麓みねとしもなし
●東観音寺(●●●●) 小沢村大字小松原に在り豊橋を
距る二里余小松原観音と称し其名遠近に聞ゆ
臨済宗にして人皇四十五代聖武天皇御代天平
聖暦五年行基法師の建立に係る同帝勅願所の
綸旨并に宸筆の勅額二枚を下し玉ひ山門及本
門に掲ぐ古書画古器物等稀代のもの数多あり
土地高峻にして堂宇又観つべし
夫木集 清輔朝臣
行すへのはるかにみゆる小松はち
君がちとせのためしなりけり
●老津島(●●●) (海水浴) 老津村にある洲崎を云ふ
近年海水浴場を開く豊橋町より牟呂渡船場を
経て嘱目の内にあり風浪静にして網を投ずべ
く魚を釣るべく好箇の避暑地なり往昔既に紫
式部の歌あり
家集 紫式部
三河海に老津島といふ洲にむかひて童部
の浦といふ入海のおかしきを口すさみに
おいつ島しまもる神やいさむらん
波もさわがぬわらはべの浦
天津縄手にて はせを
すくみゆくや馬上にこほるかげ法師
●田原町(華山翁碑) 郡の中央にありて
田原湾を抱き豊橋に次ての市街なり往古は皇
太神宮の御神領なりしと見へて神鳳抄に田原
御厨とあり其後年歴を経て明応年中戸田弾正
左右衛門宗光当所に築城して居住し後三宅氏
一万二千石の封地にて城主となり子孫相次ぎ
明治の初めに至る城趾は市街の北隅にありて
巴江神社及幕末の名士渡辺華山翁の碑あり風
光頗る佳なり
●蘆(●)ヶ(●)池(●)(阿志神社) 野田村大字芦に在り周
廻凡一里灌漑に便ずる為めに開鑿したるもの
にて田園の景色又賞するに足る特に秋冬の候
鴨雁の群集するありて遊猟の好場所なり池の
近傍に阿志神社と称する古き郷社あり其名又
著る
●鸚鵡石(●●●) 泉村大字馬伏にあり田原町を去る
約三里の山中幽邃なる地にして三間に四間位
の岩石なり之に対し唱歌弾弦すれば反響して
恰も石中人ありて同様の弦歌をなすが如し依
て鸚鵡石の名あり春夏の候杖を曳くもの多し
●杜国(●●)の(●)墓(●)(俳人) 福江町大字畠にあり杜国
は元尾州の人罪ありて死刑に処せらるべきを
十七
十八
蓬莱や御国のかざり檜山
の句を国主聞かせられて御感のあまり罪一等
を減じて伊良湖崎にながされ程もなく茲に終
りたるなり
伊良虞の杜国例ならず失けるよし越人よ
り申こしけるに翁もむつまじくて「鷹ひ
とつ見附てうれしと尋ね逢れけるむかし
を思ひて
羽ぬけとり啼音ばかりぞいらこ崎
其角
杜国の菴を尋て
さればこそあれたるまゝの霜の庵
はせを
杜国の畠村の隠居にて
麦のびてよき隠家や畑村 芭蕉
冬をさかりに椿さく也 越人
昼の空蚤かむ犬の寐ころびて 杜国
いそがすばぬれまじものを旅人の
馬はぬれ牛は夕日の北時雨 杜国
窓にうごかぬ十月の蠅 越人
~~~~~~~~~~~~~~
万菊の香もかれず畠村 春湖
新麦の入津盛りや畠村 蓬宇
●和地大山(●●●●) 和地村に属す本郡第一の高山な
るが中古起戸村と訴訟せしより俗に起戸大山
とも称す航海者の目標となり居れり此山を中
心として郡内の山脈東西に分る古来其名最も
著る
三日市城主榊原民部少輔歌
詠むればさるが岩谷に猪が城
和地大山の樫の木の峰
酒井姫路城主歌
すさまじや南長磯音高根
わじ大山の峰の高たう
●常光寺(●●●) 堀切村大字堀切にあり曹洞宗にし
て応仁二年烏丸弐代准大臣資任卿の建立にか
かる堂宇宏壮にして郡内有数の寺院なり蔵す
る所の晁殿司筆竪八尺横五尺五寸涅槃大画像
弘法太師の観音立像其他什物数多あり
●中山試砲所(●●●●●) 中山村字小中山より伊良湖村
に亘りたる海岸に設置せる大砲試験場にして
昨今大砲二門あり屋舎の新築中にて未だ全く
竣功せず此沿海は衣ヶ浦にして直ちに伊勢の
海に連り伊良湖崎を志摩国との関門を過ぎて
太平洋に通す
●日出石門(●●●●) 伊良湖村大字日出にあり一は陸
に一は海にありて虎嘯龍蟠の巌石洞門をなす
歩して通ずべく棹して渡るを得其奇景絶勝容
易に需むべからず又夏時海水を浴するに足る
然れども土地辺陬にして豊橋を距る拾壱里此
絶景の世に知られざるは遺憾と云ふべし
●伊良湖崎 渥美郡の尽くる所遥かに尾
州知多郡の羽豆崎と相対して衣ヶ浦を抱擁す
岬頭小山の端より北に廻れば内海衣ヶ浦にし
て海浅く白砂清く夏時遊泳に最も適当し僅弐
十余町にして中山試砲所に至るべく又南岸を
歩すれば奇巌怪石海中に蟠まり一里足らずし
て日出石門に達するを得べし而して海岸釣を
垂るべく海馬島に遊猟すべく実に斯の如き風
光佳絶の地は東海道中見るべからざる所なり
十九
二十
○往昔(●●)の(●)伊良虞(●●●) 昔は此地孤島にして伊勢国
に属したるが如し万葉集に曰く
麻続王(ヲシノオホキミ)(天武天皇々子)流於伊勢国伊良虞
島之時人哀傷作歌
打麻乎麻続王泉郎有哉(ウチソヲヲミノオホキミアマナレヤ)
射等籠荷四間乃珠藻苅麻須(イラゴガシマノタマモカリマス)
空蝉之命乎惜美浪爾所湿(ウツセミノイノチヲヲシミナミニヌレ)
伊良虞能島之玉藻苅食(イラコガシマノタマモカリヲス)
続後拾遺 前中納言匡房卿
海士のかるいらこの崎のなのりその
名のりもはてぬほとゝぎす哉
夫木集 為忠朝臣
なぐさめにひろへば袖ぞぬれまさる
いらこが崎の恋わすれ貝
仝 西行上人
沖のかたより風のあしきとてかつをと
申いをつりける舟どものかへりけるを
見て
いらこ崎にかつをつる舟ならびうきて
はかちの波にうかびてぞよる
名寄 鴨朝臣長明
雲の浪いらこが嶋に分すてゝ
のどかにわたる秋の夜の月
伊良古崎は南の海の果にて鷹のはじめ
て渡る所といへりいらこ鷹など歌にも
よめりけると思へば猶あはれなる折ふ
し
鷹ひとつ見つけてうれし伊良古崎
はせを
ふたゝび同所にまかりて
いらこ崎ふるものはなし鷹の声
仝人
大沖の冬にさしでゝ伊良湖崎
蓬宇
○伊良湖神社(●●●●●) 明神山の中腹に在り伊勢湾衣
ヶ浦を望みて風景殊に佳なり祭神は天照皇太
神にて毎年例祭(陰暦)四月十三日、十四日、
十五日埶行遠近より老弱男女群集す案するに
神名帳考に正三位伊良久大明神座渥美郡又東
鑑伊良湖御厨又神鳳抄外宮神領目録にも伊良
湖の御厨を載て御神領とす伊勢に属したる神
社なるべし
○八名郡
●起原(形勢) 此郡西豊川の流を帯び川上
より川下に至るまで川の流れをうけたる形ち
川魚を捕る梁(ヤナ)に似たり故に郡名を八名と云ふ
か
郡役所は富岡村にあり町を称するは大野町あ
るのみ元来本郡は三河の最東端にして東は遠
州敷知、引佐二郡北は北設楽、西は南設楽、
宝飯、南は渥美の各郡に接して繁盛の市街な
きは地勢の然らしむる所なり
●皇居旧跡 下條村東下條字中屋敷に正
楽院あり境内に丸形五輪石塔(高八尺五寸)あ
り文武天皇皇子竹内の陵なりと云ひ伝ふ旧記
に曰く文武天皇東夷を攻させ玉はんとて三州
二十一
二十二
星野郷に皇居を定め玉ふこと三年竹内皇子御
降誕程なく御不予にわたらせられ三明寺へ御
祈願あり又鳳来寺へも草鹿砥公宣卿を勅使と
して遣はされ御祈祷の為め利修仙人へ護摩を
修せしめたりと皇子御陵の傍に十二后妃の石
塔あり又御所が池とて十二后妃が皇子の別れ
を悲め身を投げたりと伝ふる池あれども真偽
判ずべからず文武天皇当国へ行幸の事史書に
見へず
○藤野村(●●●)の(●)古歌(●●) 何れを謂ふか判然せず下條
村に藤が池と謂ふあり茲を云ひしにや
夫木集(三河名所藤野村)
藤原朝臣宗国
むらさきのいとくりかくと見えつるは
ふぢのゝむらの花ざかりかも
仝上 藤原朝臣道経
きしなくてふぢのゝむらの藤浪は
松の木ずへにかゝるなりけり
●赤岩山(寺と桜) 多米村に在り法言寺
と称し真言宗にして蒲冠者範頼三河守たる時
藤九郎盛長をして造営せしめたる当国七堂の
一なり山上眺望幽邃にして門前の桜樹は東三
第一の美観なり尚渓流の瀧をなすありて春夏
の候騒人墨客の杖を曳くもの多く其名最も著
る豊橋を距る約一里半
○多米瀧(●●●) 多米村にあり一に不動の瀧と云ふ
直下一丈二尺余幅三尺斗り此末流は朝倉川と
なり豊橋に至りて豊川に入る夏時避暑の遊客
群集す
●石巻山(神社) 豊橋を東北に去る約一
里三輪村に属す頂上岩石を以て組織せられ山
容実に奇異なり四望濶達にして東南遠州灘浜
名湖を瞰下し東北は富嶽と相対し西方は又衣
ヶ浦より尾勢の山岳を全眸に収む其景色甚だ
雄大なり山腹に神社あり大巳貴命を祀る
●蒜生神社(緑野) 三上村字下屋敷に在り
大国主命を祀る宝物に印形石九顆を蔵し其一
個には
春ふかくなりゆくまゝに緑野の
池の玉藻もいろごとに見ゆ
と和泉式部の詠を刻す夫木集に此歌を載す往
昔は三河守茲に出張して稲作の豊凶を撿分し
以て年貢を定めたり故に見取野と称せり中世
緑野と書し今三渡野と謂ふは此処なり又緑野
池みどり塚など謂ふ所あり
夫木集 小侍清
春雨のふりそめしよりみどりのゝ
池の汀もふかくなりゆく
仝 よみ人不知
みどりぬにうきたるはちす紅に
みづにごるなり波たつるゆめ
紅にはちすうきたるみどりぬに
しらなみ立てはこきまぜの花
漫吟集 契冲
みどり野の池への柳いざこゝに
春のものとて誰かうゑけん
●正宗寺(名画) 嵩山村に在り臨済宗妙
心寺派に属し土地高燥にして老杉古檜甚だ幽
趣なり往時応挙芦雪等の諸大家寄寓せしこと
ありて染筆甚だ多く其他元信探幽兆殿司等の
二十三
二十四
名画を多く所蔵せり豊橋より殆んと二里半の
道程なり
●鳶巣山(●●●)(城趾) 乗本村にあり西方豊川を距
てゝ南設楽郡長篠の城趾と相対す此地は彼の
天正三年武田勝頼が一万五千の大兵を率ゐて
長篠城を襲ふに当り叔父武田信実をして此山
塁を守らしめたれども酒井忠次の襲撃する所
となりて敗北したる古城趾なり
●阿寺七瀑 山吉田村大字下吉田字阿寺
に在り絶崖の上より岩角に激し飛泉七折とな
りて白布を垂るゝの状形容すべからず実に稀
有の絶景なり然れども道路険悪にして人の之
を賞するもの少なく弘く世間に知られざるは
遺憾と云ふべし昨今里人相謀りて保存会を起
し道路を開修し遊客の便を企てつゝあり又此
附近に子抱石(●●●)と称する奇石あり子なきもの之
を所持するときは其効ありとて遠方より来り
て求むるもの多し今七瀑の直下を筭するに第
一瀑の高さ三間三尺、幅二間、第二瀑の高さ
七間、幅一間、第三瀑の高さ五間、幅三尺、
第四瀑の高さ十六間、幅一間、第五瀑の高さ
一間三尺、幅五尺、第六瀑の高さ三尺、幅三
尺、第七瀑の高さ一間、幅一間、総高三十四
間三尺なり豊橋より観瀑の順路は豊川鉄道に
より新城駅に下車し大野町に出で高岡村巣山
に至り案内者を求めて山中に入る里程は新城
町より三里にして少しく遠し
●其他(●●)の(●)瀑布(●●) 大野町に不動瀧あり高岡村に
百間瀧、藤ヶ瀧、大久保瀧、等数多あり一々
記するに暇あらず
●蜂(●)の(●)巣岩(●●) 長部村大字庭野にあり豊川の沿
岸にして南設楽郡新城町桜ヶ淵と相対したる
石灰質の大巌なり岩面無数の小穴ありて恰も
蜂の巣に似たり故に其名あり風景頗る佳、観
花、納涼、垂釣、観月等に宜しく四時の遊客
新城町桜ヶ淵より船を出す
●名号池(●●●)と(●)琵琶淵(●●●) 大野町より阿寺の七瀧に
至る附近風光明媚にして賞すべきの地数ふべ
からず特に名号村にある名号池(●●●)の内に直立す
る長方形の巌石は奇形にして地質学者の好資
料に供せらる池底幾百尺なるを知らず而して
田園の水と共に清濁すと云ふ又/琵琶淵(●●●)は大野
町より北設楽郡川合村に通ずる途中久呂勢村
にあり土地僻遠なるを以て人の知るもの少な
しと雖とも其碧渾幽邃の景山紫水明の文字も
形容し得ざるの地たり
○南設楽郡
●起原 当郡は元宝飯郡に属したるを分離
したるものなれば其吉祥をとり宝は即ち稲の
穂、穂のシタヽル(●●●●)郡と云ふ意にてシタヽル(●●●●)を
略転すればシタラ(●●●)となる故に設楽郡と呼びな
すに至れりと而して維新前までは単に設楽郡
と云ひしを南北に分つに至れり
●新城町 往昔大野田と謂ひしを天文年
中当郡田峰の城主菅沼大膳亮定広郷ヶ原に一
城を築き即ち新城と名附けしとぞ其子小大膳
定則の代に至りて当城を掃地となして杉山村
に二ヶ城を築きたり其後天正三年長篠の勲功
によりて奥平信昌に当所を賜はり再びこゝに
二十五
二十六
新城を築きて新城の号古に復したる名邑にて
今は東参に於て豊橋に次ぐの市街たり郡役
所、区裁判所、警察署、税務署、郵便電信局
等あり、豊川にて漁する鮎は此地の名物なり
○富永神社(●●●●)(能楽) 須佐之男命を祀り八月十
五日例祭を行ひ能楽、烟火、山車等ありて前
後合せて三日間市中大に賑ふ又当所の能楽堂(●●●)
は名高きものにて東海道中に幾個所もなしと
云ふ往昔鎌屋喜左衛門と云ふ皷打の名人あり
三都にも名を知られ京都に遊び天保中旅に死
せり
○白雪旧居(●●●●) 田町坂上り口に在り芭蕉翁の
門人にて俳諧の薀奥を極めたり
四月朔日鳳来寺に心ざす大木の原に足より
地するばかりのわたけなる馬にうちのりひ
とつ脱て鞍つほにうち敷此ねぶたさこらへ
がたく道も道わかで誰が家にか入らん寝ん
白雪が門にのりこむ
から尻のしりに敷なり衣がへ 轍士
今朝を莟めと分る蔦若葉 白雪
日われ戸に幾つも月の影落て 探水
太田白雪方にて はせを
そのにほひ桃より白し水仙花
○翁塚(●●) 同町庚申堂にあり左の句を刻す
菅沼耕月舘にて
京に飽て此木枯や冬住居 芭蕉
○桜淵(●●)(桜花) 新城町南部豊川の沿岸なり対
岸蜂巣岩(八名郡参照)にて桜樹を以て著は
る近時保存会を設けて更らに桜樹を植ゑ込み
公園となせり豊川の水清く両岸の絶景名状す
べからず
●野田城趾(●●●●)(信玄狙撃の記)
新城町の西南約三十町を去る千秋村大字野田
に在り、案するに野田城又は根古屋城と云ひ
其権輿詳ならずと雖ども往昔正平六年(北朝
観応二年)頃富永氏城主たりしこと明なり其
後百五十余年を経て永正年中菅織部定則入道
不春当城を築て居住す二世を経て彼の有名な
る新八郎定盈の代となり信玄の攻撃を受く頃
は天正元年正月十一日武田信玄三万五千の大
兵を率ひて奥郡に赴く途中野田を攻む城主菅
沼新八郎定盈并に援将、桜井の松井与一郎忠
正、川路の設楽甚三郎貞通、四百余人の寡兵
を以て死守す信玄之を攻むること急なり城中
糧つき水渇して漸く急を浜松に告ぐ家康敵の
猛勢なるを以て敢て進まず小栗大六重通を以
て援兵を信長に請ふと雖とも遂に果さず是に
於て籠城かなひ難く二月十一日敵陣へ申送り
ける様城将定盈援将忠正切腹して士卒の命に
代らんと信玄其義勇に感じ其望にまかす時に
城内に村松芳林と云ふ者ありて毎夜笛を吹く
其曲精妙なるを以て敵も味方も感聴す一夜信
玄其音曲を聞くに黄鐘の調にして明日落城す
べきの笛音にあらず不審の余まり城下近く床
机を移して更に之を聴くに平調にして盤渉調
を交へ間々神仙調あり信玄益心魂を苦しめつ
つ城内の容子を窺ひける折抦定盈時こそよけ
れと鳥井三右衛門をして月影より信玄を砲射
せしむ、誤たずして左頬より後首骨を打ぬき
たり敵兵之れが為めに大に周章し医療を加ふ
二十七
二十八
る為め城攻を中止し甲府へ引帰すことになり
たるが疵傷益重く遂に同月十六日北設楽郡田
口村福田寺に於て逝去したり菅沼新八郎の名
是れより著はる
●長篠古戦場 史上に於て有名なる場所
なれば詳説するを要せざるべし城趾は豊川の
上流寒狭川と大野川と相合する所に沿ひて城
廓今尚歴然たり此古戦場は長篠村、信楽村、
平井村に跨りて新城町を距る東北約二里豊川
鉄道終点大海駅より拾余町にして達するを得
べし則此戦争は天正三年五月武田勝頼数万の
精兵を尽して奥平信昌を攻撃し信昌、孤城援
なく殆んど陥落せんとする際豪胆無双の鳥井
強右衛門ありて援を織田信長、徳川家康に乞
ひ同月十八日交戦数刻武田勢大敗北して宿将
多く斃れ頼勝纔かに身を以て免れたる大修羅
場なり
後撰夷曲集 信長公
勝頼と名乗る武田のかひやなき
軍にまけてしなのなければ
三河吟稿 蘭泉
古戦場頭翠篠長 三千銕騎一時込
嘯虫如怨孤墳廃 飛鳥無巣高塁荒
逐北奪来銀釘甲 争先揮得緑沈鎗
慢営勇士今何在 河水空流浪渺茫
~~~~~~~~~~~~
麦菜種春をあらそふ色もなし 蝶夢
麦秋や笠をはゆるせ追手先き 乞喰
●雁峰山(●●●) 新城より東北に見ゆる高山にて寒
防峠とも云ふ憶ふに衆山に抜き出たる高山な
れば寒さ峠と云ふ意ならん此山は鳥井強右衛
門勝商が長篠城を脱れ出で水底の網をきりぬ
け無事援を求め相図の烟を上げたる山なりと
云ふ併し又一説には鳥井が相図の火烟を上げ
たるは舟着山なりとも鳥巣山なりとも云ふ
ひとゝせ芭蕉此山に登りて日も暮れ麓の門
谷にとまる白雪心して山に云やり臥具かり
もとめて夜寒をいたはるあした
夜着ひとついのり出して旅寐哉 はせを
○鳥井勝商碑(●●●●●) 信楽村大字有海にあり碑面智
海常通居士又裏に天正三年乙亥五月十六日俗
名鳥井強右衛門勝商行年三十六才五月十四日
の夜城をいづるとて
我君の命に代る玉の緒を
なにいとひけん武士の道
横に宝暦三癸未暮秋十六日建立とあり
○甲州方(●●●)の(●)墓(●) 長篠村(新城より長篠道を西
に岐る約一町)に馬場信房の墓、平井村大字
竹広に内藤昌豊及山県昌景の墓、又同村に高
阪昌宣の墓あり、長篠古戦場を吊ふものは此
等墳塋の地を訪ひて往事を追想するもの多し
其他尚大通寺杯井等遺蹟種々あり
○鳥井勝商烽火(●●●●●●)を(●)揚(●)ぐる(●●)記(●)
鳥井強右衛門勝商は宝飯郡市田村の生れにし
て奥平家に仕ふ天正三年武田勝頼長篠城を囲
む城中能く防戦すれども糧食乏しく纔かに四
五日分を残すのみ城主奥平信昌大に愁ひて善
後策を講ずれども衆議決せず時に勝商三十六
才進み出て云ふ某今霄城を忍び出で急を浜松
に告げん無事志を達せば雁峰峠に登りて烽火
二十九
三十
を揚げんと信昌大に喜び直ちに用意をなさし
む勝高雀躍一夜大水に乗し水底を潜り嗚子網
を切断して囲を脱し急を徳川家康、織田信長
に告げ無事使命を全うしたるを以て約の如く
烽火を上げたり是に於て城兵勇気益加りて孤
城を死守す勝商再び城内に帰らんとして敵兵
の為めに捕へられたり、勝頼勝商を見て曰く
一命を助くるを以て我れに属すべしと勝高忠
誠金鉄の如し如何で之れを肯はん佯はりて諾
す、勝頼更に曰く「援兵来らず早く降るべし」
と城兵に告げなば汝に重賞を与ふべしと勝商
機失ふべからずとなし其言葉に従ひ城下近く
打ち寄りて城兵を呼び大声を発して曰く「徳
川織田の援兵三日を出でずして来るべし諸氏
安堵せよ」と勝頼之を聞て大に憤り直ちに有
海原にて磔刑に処したりと云ふ勝商の豪胆忠
誠実に臣士の亀鑑と云ふべし
●牛瀧(藤) 千秋村大字川田と宝飯郡本茂
村大字東上との界にあり且豊川鉄道東上駅よ
り下車し僅か五六町にて同所に至るを以て東
上牛瀧と云ふ直下五丈幅三間あり藤の名所な
るのみならず数年来浴客の便を計りて茶亭を
設け又特に春夏の候豊川鉄道は臨時汽車を出
し割引等をなすにより笻を曳く者頗る多く東
参の一名勝たり
●鮎瀧(猴橋) 長篠村大字横川と信楽村大
字大海との間にあり豊川鉄道大海駅より五町
の所にあり、一の瀧、二の滝、鮎瀧の三つあ
り鮎瀧を第一とす高さは三丈計りなるも其近
辺は奇岩怪石を以てなり殊に急流にて此瀧の
下人の容易に達すべからざる巌石に数多の文
字の書せるを見る此附近に猴橋あり昔し勅使
茲に来り渡らんとせしも橋なく時に群猿現は
れ手足を繋ぎて橋となし渡したるが故此称あ
りといふ今は二本の丸木橋にして一丈余もあ
らんか、此瀑より上には鮎居らず蓋し遡ぼる
こと能はざる也、茲にて鮎の瀧上りをなすを
「サデ」にてすくひとるの興味は遊泳温浴の
比にあらす好個の避暑地なり
●其他(●●)の(●)瀑(●) 鳴沢瀧は段戸山の南麓菅沼村大
字守義字小瀧にあり新城町を距る八里の僻地
なるを以て人の之を賞するものなしと雖とも
直下六丈松杉鬱蒼として真に別天地なり其他
石田瀧は千秋村大字石田にあり妙法瀧は鳳来
寺山中にありて何れも壮観なり
●鳳来寺(煙巌山) 同寺は古来遠く世間
に聞へたる寺院にて人皇卅四代推古天皇御宇
当国の国司奏し奉りて曰く参河国桐生に桐樹
あり鳳凰茲に来る祥瑞なりと依つて勅許を被
り寺を鳳来寺と称す其後文武天皇御悩あらせ
給ひ(八名郡皇居跡参照)草鹿砥公宣卿を勅使
として利修仙人を召給ひ加持を奉りたるより
仙人の意願御勅許ありて大宝三年伽藍を造営
し其後鳳来寺の額を賜ふ光明皇后の御筆なり
と承る煙巌山と号し天台真言の二宗を兼修し
三河第一の霊場なりしが今は大に荒廃せり、
山中名蹟多し、奥の院、白山権現、不動尊、
六本杉、隠し水、高座石、巫女石、尼の行道、
行者帰、猿橋、篠谷、馬背、牛鼻、等数へ来
れば枚挙に遑あらず
三十一
三十二
○東照宮(●●●) 寺院諸堂の上方に在り殿宇壮麗に
して今尚旧形を変ぜず県社に列す案するに東
照公御慈父贈大納言広忠卿若君のなきを歎き
給ひ北の方と共に当山の薬師へ参詣ありて御
継嗣誕生の祈願あらせられければ不思議にも
霊験ありて天文十一壬寅年十一月廿六日御継
嗣家康公誕生あらせらる依て其後慶安元戍【戊の誤り】子
年将軍家光公阿部豊後守をして鳳来寺に東照
宮建立を仰せ出されたる也
○仏法僧鳥(●●●●) 三宝鳥と云ふ鳳来寺山中にて三
月より九月の間に啼く奇鳥にして其形を見る
べからず其声仏法僧と云ふが如し甚だ閑静な
れば遠近より来りて其声を聞くもの多し此鳥
紀州高野山、山州醍醐山、松尾、和州室生山、
野州日光山等にも棲居せりと云ふ
勅使として登山為し玉ひし時
草鹿砥公宣卿
霧や海山のすかたは島に似て
浪かと聞けば松風の音
仏法僧となく鳥太政大臣殿よりまゐりた
るを常の御所のえむにおかれたりしが雨
などの降日はことに鳴くげにぞ名もさや
かにきこゆすがたはひめ鳥のやうにてい
ますこし大なり 弁内侍
とにかくにかしこき君が御代なれは
三のたからの鳥もなくなり
拾玉集 慈鎮和尚
後の世もたのしかるべき鳥なれや
みつの宝をこゑにまかせて
三河国鳳来寺にてある衆徒の所望し侍し
時
鳥のねの雲にしくるゝ深山哉 宗祇
鳳来寺坂中の吟
木殺風(こからし)に岩ふきとかる杉間哉 芭蕉
鳳来寺の山の辺を通る時
冷泉の珠数につなける茸かな 其角
名所小鏡
仙人の出そうな雲や秋のかせ 涼台
あれこへも吹雪岩根や夕薬師 路通
一もとのあふひを上る山路哉 嵐雪
茂りあふ木のま〳〵や坊の軒 乙由
竹の葉に落こむ音やあきの水 轍士
鐘こほる峰の薬師や薄くもり 舎罷
霧はれて六本杉のあさひかな 乙由
うくひすのつほ口見せよ鏡堂 只丸
かけろふや誰面影のかゝみ堂 蝶夢
○北設楽郡
●起原 南設楽郡の部に詳し本郡は三河国
東北端にして北は信濃国下伊那郡、美濃国恵
那郡、東は遠江国豊田、周智二郡に接して国
境をなせり地勢山岳連綿して耕地少し従つて
山水明媚の処多しと雖とも土地辺陬なるを以
て訪ふものなく世間に知られたる名勝の記す
べきもの少なし
郡役所、警察署、税務署、郵便電信局等田口
町にあり
●川合石橋(八勝) 三輪村大字川合にあ
り乳房山の中腹両崖に懸れる大岩石にして人
工を以て架設したるものゝ如し俗に之を川合
三十三
三十四
の石橋と云ふ此辺の風光最も絶勝にして遠く
雅客の笻を曳くものあり、乳岩、胎内竇、鬼
石、穴瀧、蝉ヶ瀧、百間瀧、妙見山、を合せ
て川合の八勝と云ふ何れも川合の村落より一
里内外の距離にして奇巌絶壁名状すべから
ず、八名郡大野町より馬車腕車の往来するが
故に近来遊覧の客跡を接すと云ふ
石橋 荘田元宣
石乳之山攀更難 青嵐翠霧旧中寒
到来人衆幽深処 但礼観音跌坐安
●別所城趾(●●●●) 三輪村大字川合より別所街道を
北東に進むこと約三里にして本郷村夫れより
振草川を隔てゝ別所城の遺趾あり伝へ云ふ甲
州の武田信玄飯田方面より三河地方侵略防禦
の為め築きたるものなりと
●福田寺(信玄の墓) 田口村大字田口に
あり臨済宗応永九年の創建にして本尊地蔵菩
薩は行基の作なり、前記南設楽郡野田城趾の
条に載せたる如く境内に武田信玄の墓あり又
長篠合戦に討死したる美濃守馬場信房を祭れ
る墳あり五輪塔の蒼然たる古色掬すべし
●御所貝津(●●●●)と(●)御所平(●●●)(真弓山) 南朝一品征夷
大将軍兵部卿尹良親王兵を率ひて三河に赴か
んと応永卅一年八月十五日飯田を経て駒場大
野を過ぎ給ふに野伏等所々より襲ひ来り士卒
大方討れしかば終に信州伊那郡浪合の民家に
入りて御自害ありしと旧記に見へたり親王は
宗良親王の御子にして御廟武節村字御所貝津
にあり又豊根村大字坂宇場に御所平と云ふあ
り此所にも尹良親王を祀れる小祠あり花蘇枋
を以て其名顕る
尹良親王足利家に世をせばめられさせ給
ひ上野新田に赴せ給ふ時三河国武節郷に
入らせ給ひ真弓山の月を見たまひて
ほの〳〵と明ゆく空をなかむれは
月ひとりすむ西の山かけ
御辞世
おもひきや幾瀬の淵をのかれきて
この浪合に沈むへしとは
堀河百首 内親王女房紀伊
ひきつれてまとひせんとや思ふとち
秋は真弓の山に入らなん
○御殿村(●●●)と(●)園村(●●)(御遺跡) 村名のみにても何
か由緒あるが如し伝へ云ふ御殿村の西北に御
殿山あり文武天皇未た御位に就かせ給はざり
し前此地に居給ひしにより此名起ると真偽寺
ずべからず又園村字東薗目に大入と称する地
あり往昔花山天皇藤原道兼に誘はれて元慶判
に入り落飾し給ひし後内々諸国に御行脚あり
し時此地に暫く御足を止めさせ給ひしより王
入と書きしを憚りて大入と改め読様を花山(ハナヤマ)と
呼ぶなど口碑今に存せり此二村とも由緒ある
が如くにして確証を得ず
●津具の里 今の上津具、下津具両村を
云ふ昔はビンカヾ原千具の里と称へしが何時
の頃よりかツグと呼び今は千の字を津の字に
改めぬと三代実録に見へたり、而して口碑の
伝ふる所によれば陽成天皇信濃国園原山に御
幸し給ふとき此三河路より御通輦ありて一夜
千具の里に御駐蹕あらせられしが恰も卯月の
三十五
三十六
ことゝて中空に時鳥の鳴つるを聞せ給ひて
御製
里の名にあてゝや鳴んほとゝきす
たゝ一声にかきるべきやは
と御詠あり斯て天皇は信濃路より木曽の御坂
へ出でさせ給ひ都へ還御あらせられたりと
○白鳥神社(●●●●) 下津具村にあり明徳年間より創
設せられある最も古き神社にて特に明徳三年
の古鰐口を蔵するを以て其名頗る顕る
○十二景(●●●) 津貝【具の誤り】の里辺の十二景を見立てたる
ものあり左の如し
金龍寺老桜 天神山鶯 高山早蕨
阿弥陀川蛍 鞍橋山時鳥 不動瀧納涼
愛宕山名月 前田稲刈 李嶽山麋鹿
萩垂山時雨 天狗岩深雪 木地山榾火
●古橋翁(●●●)の(●)碑(●) 稲橋村にあり同村故古橋原六
郎(暉児)翁は夙に殖産興業の為めに尽砕し里
人を啓発誘導し国家の利を計りたる事尠少に
あらずとして群民翁の為めに一大碑石を立て
たり翁は明治二十五年十二月廿四日享年八十
にして逝けり碑は明治三十年十二月の建立に
かゝる
●段戸山(産馬) 段嶺村にあり三河第一
の御料林にして樹木森々夏尚寒を覚ゆ彼の段
戸種畜場は此御料地内の一部を拝借して経営
しつゝあるなり現今同所の種牡馬は百数十頭
にして愛知県庁より毎年一千円の補助を受け
つゝありて県下否我国に於て有数の事業たり
○サンショウ(●●●●●)魚其他(●●●) 段戸山の谷々には俗に
サンシヨウ魚又アンコウと称する奇魚あり地
方の者之を捕獲して腹薬となす夏日此山に遊
べば興味頗る多く亦学術上の裨益を得ること
も少からざるべし
○瀑布(●●)と(●)鉱泉(●●) 本郡は山嶽の地なるを以て至
る所瀑布のあらざるなく高きは五六十丈より
底きも一丈以上を直下するもの数十を以て筭
ふるに至る今一々之を記載せず又鉱泉は皆無
にして僅かに田口村大字清崎の清崎鉱泉と稲
橋村大字夏焼の夏焼鉱泉はあれども浴客を招
くに足らず
○宝飯郡
●起原 本郡は三河国に於て最も古く草創
せられたる所にして国府を置かれたる如き国
分寺の建立せられたる如き、砥鹿神社の一宮
の称ある如きは以て証とするに足る、又三河
を上古穂の国と謂ひ本郡をも上古穂の国と謂
ひしなぞ旧記に見へたるは、蓋し本郡が三河
国の基源なりしを知るに足る、而して宝飯郡
は穂の国より出でたる名称なるべし、延喜三
年本郡を割て設楽郡を置きしことは設楽郡の
条にも陳べたる所の如し
●御油 郡役所、税務署、警察署、郵便電
信局等あり、去れども東海道鉄道線路市街の
近傍を通過せず、御油停車場の名称はあるも
のゝ壱里余を距つるを以て不便少なからず、
故に現今の形勢旧時に及ばず、当所は往昔中
五井と呼び同名の村三箇所あり曰く上五井、
中五井、下五井是なり、然るに乱雑なるを以
て上五井の上を除きて五井と称し中五井を改
三十七
三十八
名して御油と謂ひ、下五井は今に其儘なり、
而して世諺弁略に往昔当所より草壁親王行坊
所へ油を献ず(統叢考には持統天皇行在所と
あり)故に後代駅号とすと見へたりいかゞの
ものにや
東関記 沢庵和尚
あふごいつと定めなけれど定めあり
命の露の風のまなしさ
東行話説 従二位泰邦卿
遊女とは赤さかさまな偽りに
今の体とは御油るされませ
●三(●)ッ(●)河(●) 御津川、音羽川、是れなり此末流
を御所川と云ひ其界隈に御所宮など云ふ所あ
り凡て此辺は名称の上に於て貴顕の古績なり
しこと明なり
万葉集 春日
三河之淵瀬物不落左提刺爾(ミツカワノフチセモオチズサテサスニ)
衣手湖干児波無爾(コロモテヌレヌヲストハナシニ)
家集 民部卿為家
落たきついはせをこゆる三河の
枕をあらふあかつきの夢
●御油停車場附近(●●●●●●●) 御油停車場の名称はあれ
ども所在は御津村大字西方にして此附近には
遊覧の名勝少しとせず、御津神社、大恩寺山、
新宮山紀念碑、漣海水浴場笻を曳くべし案す
るに往昔此御油停車場辺は入海にて所謂蒼海
変じて田圃となりしなり御津の庄又は御津
七郷、御津海、御津港など旧記に散見するは
以て之を証するに足る、景行天皇五十有五年
八月乗輿伊勢に幸し転して東海道に入ると史
書に記するは蓋此港に入りたるなり
○御津神社(●●●●) 御油停車場より三町斗りにして
達するを得べし当社は甚だ古き創建に係る神
詠なりと伝ふる和歌あり
大島や千代のまつはら石だゝみ
くづれ行くともわれは守らん
又大恩寺山は神社と数十歩を距つるのみ汽車
窓中より北方眼前に鬱蒼たる山を見る即ち是
れなり風景賞するに足る
○新宮山紀念碑(●●●●●●) 御津神社を去る一町斗りに
して達すべし明治二十七八年日清戦争軍人招
魂紀念碑を建つ山高からず樹木繁くして眺望
甚だ佳なり
○海水浴(●●●) 停車場を去る南方約五町海岸潮浅
くして沙魚を釣り貝を拾ふべし、此頃海岸御
料林を拝借して豊橋千歳楼主人「さゞなみ」海
水浴場を新設せり夏時浴客群集す
●国府(●●)と(●)赤坂(●●) 往昔の国府と赤坂は吾々が今
想象する能はざる所にして随分繁昌したる者
なり去れど今は殆んと名のみにして僅かに町
名を附するのみ、時世の変遷も亦甚だしと云
ふべし
●大江定基朝臣略伝(●●●●●●●●)(力寿姫)
前参河守大江定基入道寂照は平城天皇の後胤
諫議太夫大江齋光朝臣第三子なり早く祖業を
嗣て栄爵を受け三河守となる文章に長し書を
能くす去れど性狩猟を好み優遊自適しければ
人皆其器をあやふむ而して一条天皇の御宇当
国の刺吏として赴任せり当時赤坂の長者宮路
弥太郎長富方に一人の娘あり力寿姫といふ深
三十九
四十
窓に養はれて嬋娟たる粧ひは大液の芙蓉未央
の柳に比したる貴妃の容貌にも劣らず定基朝
臣何時の隙にか垣間見けん終に船山の舘に迎
へて偕老の契り深かりける、会者定離は人世
の免れざる所力寿姫不■病にかゝり打臥しけ
れば定基初め侍女奴婢に至る迄いたく歎き薬
餌介抱限りなく尽したれど其功なく終に黄泉
の客となりけり、定基朝臣是に於て浮世の味
気なきを悟り一向仏道に志を進む、かくて一
七日の後文珠菩薩の夢中の告を蒙り即ち力寿
姫の舌根を抜て当郡陀羅尼山の境内に埋め、
其上に姫が在世中信仰深かりし文珠菩薩を安
置す、亦其傍に一宇の道場を創建して力寿山
舌根寺と号し財賀寺の南にありしが今を去る
八百有余年なり其後彼寺院は頽廃して今は唯
山上に文珠堂のみを存す堵定基朝臣任満て京
師に帰り永延元年三月の頃上状して入道を請
ふ同二年望の如く冠纓を脱して寂照と改め源
信僧都の室に投して早く講学に名あり長保四
年再び上状して宋国に向ふ時に長保五年秋八
月廿五日にて宋暦景徳三年なり宋帝寂照を召
見て装衣束帛を賜ひ上寺に舘せしむ次て錫を
呉門寺に止む姑蘇人丁謂寂照の為めに甚だ勤
む景祐元年抗州清涼山の麓に於て正念端座し
て遷化す
茅屋無人扶病起 香炉有火向西眠
笙歌遥聴孤雲上 聖衆来通落日前
雲のうへはるかに楽の音すなり
人やこくらんひか耳そも
と末期の詩歌を詠せられぬ追号して円通大師
といふ
新古今集 読人不知
寂照上人入唐し侍けるに装束おくりける
にたちけるをしらでおひてつかはしける
きならせと思ひし物を旅衣
たつ日を知らず成にけるかな
返し 寂照法師
これやさは雲のはたてにおるときく
たつことしらぬ天のは衣
詞花 仝人
とゞまらん止まらじとも思ほえず
いつくもおなじ住かならねば
後拾遺 前大納公任卿
寂照法師入唐せんとてつくしへまかりく
だるとて七月七日船にのり侍けるにつか
はしける
天河の天の宮だにはるけきを
いつくもしらぬ舟出かなしな
仝 寂照法師
そのほとゝちぎれるたびの別だに
あふ事まれにありとこそきけ
●宮路山(皇居趾紅葉) 御油停車場より
約三里赤坂、御油、長沢、御津の四村に跨る
高山にして大宝二年十月持統天皇当国御巡幸
の際此山に行宮を定め玉ひしを以て其名高し
頓宮旧跡は山嶽の西嶺に在り土人二の丸の趾
なりといふ去れど狭隘にして二の丸と云ふ備
にあらず山上より別に高き事六尺余新に土を
設て図形に築きし一堆の岳あり是れぞ頓宮の
跡ならん南海を直下に臨み尾濃の山岳を西北
四十一
四十二
に控へ其眺望謂はん方なし特に一体の山脊に
霜葉花よりも紅なれば晩秋の候遠近賞覧の人
士踵を接す実に東参の名勝地なり又妙音院太
政大臣師長公尾張国井戸田へ配流の節配所の
徒然を慰まんとて此山に分け入り木々の紅葉
を遊覧せられたりとぞ往昔は藤と紅葉の名所
なりしが如し
後撰集 読人不知
君があたり雲井にみつゝ宮路山
うちこへゆかん道もしらなく
家集 河内朝臣躬恒
左馬のかみの家にて三河のかみのむまの
はなふけせしによめる
なにしおへばとほからぬとも宮路山
越へん手向のぬさにせよきみ
夫木集 増基法師
紫の雲と見つるはみやち山
名高き藤のさけるなりけり
鰒玉集 中山美石
あたひなきみやち山のにしきかな
矢矧の市の何にかふへき
家集 為家卿
うちひさすみやちの野辺の朝霞
つかへし道をなとへたつらん
丙辰紀行 林道春
先王若要慰民生 定有壺醤箪食迎
遺恨翠華巡狩跡 未聞行在頓宮名
●長福寺(●●●)と(●)正法寺(●●●) 赤坂町大字西裏にあり一
条院の御宇当国の長者宮路長富其女力寿の死
を哀み一宇を創建せしものにて長富寺と号す
其後火災に罹り廃寺となりしを大永二年善誉
印上人宮路氏の宅趾に堂宇を建立し長福寺と
改称す浄土宗京都知恩院末なり正法寺(●●●)も亦同
所にあり真宗大谷派にして太子山と号す推古
天皇御宇聖徳太子諸国を遊化し給ひし時此地
に来り自ら木像を刻して草堂に安置し給ひし
が開基となり其後幾多の変遷あり源範頼の長
子範円了信坊と称し中興の祖となす
●国分寺(●●●)と(●)西明寺(●●●) 国府町の東北十余町平幡
村大字八幡にあり古へ国分寺の一なり今は頽
廃して西明寺の末寺に属せり近傍四五町の間
古瓦の砕片を出す西明寺(●●●)も同村にあり長徳年
中三河太守大江定基の開基にして六光寺と号
し其後北条時頼来りて此寺に寓し最明寺と改
む延徳年中大素和尚開山となりて曹洞宗に改
む家康公亦当寺を巡視して西明寺と改めしめ
たりと
●財賀寺(●●●) 平幡村大字財賀にあり行基の草創
に係り空海を中興の開基とす源範頼三河守た
りし時帰依せし三河七御堂の一なり古義真言
宗なり
○財賀寺の田祭
昔時は盛に行はれしを維新後暫らく中絶せし
が近年又之を行ふ毎歳正月五日財賀寺村中の
者観音堂に於て之を行ふ拾数人種々の形容を
なす其歌に曰く
ヨウシンヤ(善哉) タヲツクル(作田) カ
ドタンヲツクル(作前田) ヨウシンヤ(善哉
) カドタンヨリ(自前田) イリマンスルト
ホモニ(入遠田) ヨウシンヤ ユクトコロ
四十三
四十四
(所徂) ヨウシンヤ タハサウノコダン(桑
麻実種) ネヲヒロメ(滋) ヨウシンヤ
マイモマイ(繭与麻) マイモキヌウンナ(
麻繭可織) ヨウシンヤ タゴロモニキス(
田衣繭) ウンナ(可織) ヨウシンヤ シ
ロカネノツボヲナラベ(陳銀壺) ヨウシン
ヤ ミズクウメバ(水酙) ミズモツトウモ
ニ(水倶) ヨウシンヤ トミゾアルンヤ(
富有)「色々所作ありて又) ハルタニヲ
リルナラ(下于春田) トウミヤウサノハヲ
(稲苗其葉) ミヤウテニツミレテノ(摘入
于両手) ミヤヘマヰルヨノ(詣社) ルス
モトヨリモ(自壟上) ウラヲミヤレバノ(
看裏田) トウミヤウカツラノナ(稲苗彼
面) ネサストコヲノ(所滋蔓)
猶祝言所作種々あり又此祭は砥鹿神社(
正月三日)兎足神社(正月七日)にても行
ふとなり
●本野原(●●●) 豊橋より西北へ二里半御油町より
東の方白鳥村の東より豊川町附近は往昔原野
にて本野原と云ひ鎌倉街道にて引馬野へ続き
たるならん今は民家相接して原野の面影更に
なし
新撰六帖 右大弁光俊卿
住なれしもとのゝ原や忍ぶらん
うつすむしやにむしのわぶるは
月清集 後京極良陸公
うつしかゝる庭の小萩のつゆしづく
もと野の原の秋や恋しき
八幡ちかき所牧野四郎左衛門野宿本所原
といふ野をり分作たてりい一日連歌の【?】
ゆく袖を草葉のたけの夏野哉 宗長
●豊川町 東鑑嘉禎四年正月将軍頼経卿
上洛の条に「七日着御豊河宿」又同書同十月同
卿皈路の条に「十八日入御矢宿十九日着御
豊河駅二十日出御本野原」云々又貞応海道記
に「豊川の宿にとまりぬ深夜立出で見れば此
川は流ひろく水深くして云々」又仁治紀行に
豊川といふ宿の前を打過るにぞ」など見へた
り憶ふに豊川は往昔宿駅にて今の古宿より東
の方同村坂口まで北は今の豊川町辺かけて駅
中なりけん且前文にある深夜に立出でなどの
記事を思へば当時豊川の流れは牛久保篠束豊
川辺の岸通りを流れし事明なり斯れば豊川の
流をかゝへし所なるゆゑ豊川駅と呼びしなり
現時は豊川鉄道の豊川停車場を設置す
名寄 鴨長明
風わたる夢のうきはしつたへして
袖さへふかき豊川の里
貞応海道記 源朝臣光行
しる人もなきさに浪のよるのみそ
なれにし月のかけはさしくる
仁治紀行 源朝臣光行
おほつかないさとよ川のかわる瀬を
いかなる人の渡り初めけん
●豊川閣(吒枳尼天) 豊川町大字豊川に
在り寺院にして神社を擬す円福山妙厳寺は嘉
吉元年の創建にて僧義易の開基曹洞宗に属す
堂宇広大壮厳にして境内に安置せる豊川吒枳
尼天は其名遠近に聞へ参拝の客常に絶ゆるこ
四十五
四十六
となく実に日本全国に於て屈指の寺院なり世
俗豊川稲荷と称す
○三明寺(●●●)(弁天) 龍雲山三明寺は豊川閣を距
る僅か数町の所にあり開基は大江定基にて境
内に安置せる弁財天女は由緒あるものにて賽
客に絶へず案するに此弁財天女の持ち玉ふ琵
琶は大江定基朝臣所持の名弦なりしと云へば
当時開基の時定基朝臣愛妾力寿姫の像を彫刻
して納め置かれしならん殊に和装を着し面姿
仏像にあらざるなど思ひ合すべし正月と七月
の十六日は例大祭に賑ふ
三明寺の弁財天に詣でゝ 宗長
しるしある池のこゝろや秋の月
石梁随筆 釈道岡
高聳三明古梵宮 華鯨声動晩風中
雖非悟道発明客 不免一時証性空
●本宮山(砥鹿神社) 桑富村大字一宮に
あり豊川鉄道長山駅より登るを最近とす此山
は海面を抽くこと二千五百十二尺山頂の風景
は東参第一の眺望なるのみならず全国無比の
絶景なり連山は波濤の如く遠洋内海は足下に
迫まり豊川の水は田園を縫ふて繞るなど名状
すべからず又た山中老樹鬱蒼として天を覆ひ
其新城に下るの岨道は奇石怪岩ありて学術の
資に供するもの多しと云ふ山上に鎮座する砥
鹿神社は古来当国の一の宮と称し古書に正一
位砥鹿大明神とあるは此社なり文武天皇勅使
公宣をして建立せしめたるものにて公宣卿に
草鹿砥氏を賜ひ神職とし其子孫相続せり祭神
大已【己】貴命にして今国幣小社に列す
●山本勘助晴幸略伝(●●●●●●●●)(故居)
外史云晴信挙山本勘介三河人眇目痿躄甞学兵
於尾形某云々案するに山本勘助晴幸は明応九
年八月十五日八名郡加茂郷に生れ幼名源助と
称す十五歳の春牧野家士大林勘左衛門真【貞?】次養
子として牛久保に来り大林勘助貞幸に改む廿
六歳武者修行に出三十五歳冬養家の縁を断つ
て山本勘助となり母方の従第庵原安房守方に
行き駿府に在ること九年四十五歳にて甲州武
田大膳太夫晴信(信玄)に召さる天文地理に精
はしく軍学に長じ晴信の為めに用ゐられしこ
とは人の知る所なり五十歳入道して道鬼と号
し五十七歳にして初めて男子を挙ぐ勘助の故
居は牛久保に在りて第跡今田圃となれるを此
頃有志茲に石碑を立てたり豊川鉄道牛久保駅
を下り僅かに三町又同地長谷寺に勘助の守仏
摩利支天の小像を安置す
白湯集 太田錦城
過牛窪山本道鬼旧居
英雄潜匿野村傍 一出能教甲府強
今日経過旧居地 寒煙涼草帯秋陽
●葵御紋(花ヶ池) 牛久保停車場を去る
二十町計り伊奈村に花ヶ池と云ふ小池あり往
昔本多伊奈城主徳川家康公に此池の葵の葉を
取り肴を盛りて献じたるを吉例とし徳川家代
々葵の御紋を使用するに至れるなり、世人之
を知るもの少なく此名勝の地の埋没せんとす
るは惜みても余りあることなり外史云亨【享】禄二
年吉田城主牧野伝蔵(中略)岡崎公将兵撃之出
伊奈城主本多正忠迎降正忠之先曰助秀居後豊
四十七
四十八
本多卿子孫邑于尾張尋従参河挙族仕徳河氏而
正忠尤大(中略)平東三河而還会飲于伊奈正忠
献盤殽籍用葵岡崎公視而悦曰吾凱旋得此自今
当以此為徽号初徳川氏因宗族以中黒為号於是
兼用三葉云々
●万歳(●●)の(●)記(●)
世に三河万歳と云ふ蓋し其権輿は六十六代一
条天皇の御宇長徳年中大江定基三河守に任じ
て当国に来りけるが定基朝臣は心を仏乗に寄
せて横川の源信僧都に法を受られ釈氏の学び
深かりける程に仏教伝来の因縁を述べて苅谷
の庄司吉良太夫といふものに千歳楽万歳楽な
どの舞を授けて歳の首の祝ひに舞せけり是三
河万歳の初にて現今の如き卑きものにはあら
ず宝飯郡伊奈村より舞子出づ而して万歳の濫
触は京中より起りたるものにて昔正月十四日
十五日京中の遊士等月に乗じて彼方此方歌ひ
舞ひ歩きし遺風ならん即ち十四日殿上地下四
位以下の輩しかるべき所を繞りて催馬楽を唱
ひ舞ひかなでたり此頃は千秋万歳と云ひける
を後世略して万歳とは謂ふなり
●大神楽(●●●)の(●)記(●)
小坂井、伊奈村の大神楽と称して当今遠近に
聞ゆ昔は毎歳正月より二月に係りて市中に出
て歌舞せしなり其舞ひ様歌ひ様笛の吹き様昔
も今も変りたることなきが如し憶ふに是は天
照皇太神天の石窟に幽居ましませし時八十万
神達石窟戸の前に立て巧に俳優すなど神代巻
に見ゆるより取たる舞踏なるべし又太平記に
桂明院殿吉野へ遷幸獅子田楽を召れ日夜に舞
歌せしめ給ひしなどあり大神楽は此等の変化
せしものなるべし
●和泉式部石塔(●●●●●●) 伊奈村大同山報恩寺境内に
あり小野小町の墓といふ伝へて曰く小野小町
伊勢国土田の浦より舟にのりて小坂井口に渡
りたりと考証詳ならず
●聖眼寺(●●●) 下地町にあり浄土真宗高田派にし
て開山は行円上人なり本尊阿弥陀如来は聖徳
太子の御作なりと云ふ本堂より申酉の方に聖
徳太子堂あり立像は太子自作の霊像なりと又
本堂の後竹藪の中に家康公御陣所の時の風呂
屋の跡あり
●本郡内(●●●)の(●)芭蕉塚(●●●)
宝飯郡内に数個の芭蕉塚あり其一(●●)は下地町聖
眼寺境内太子堂の南側に在り芭蕉翁貞享四丁
卯歳東行の際此郷茶店にて吟ぜし句を刻せり
世人松葉塚と号す明和六年吉田俳友の輩蕉門
風雅の跡を慕ふて碑石を建つ裏面に也有の記
文あり
ごを焼て手拭あふる寒さ哉 はせを
往昔芭蕉翁斯地に杖を停て遺せる一句あり
爰に住けれたれかれ深く蕉門の風雅を貴ぶ
余りはるけき近江の義仲寺に詣て古翁の墳
の土を取来り此所に塚を築き此石を建て白
隠老師に三大字を請得て石面に写し猶いろ
迄も旧蹤の紛なからむ事を思へり此事成て
其趣を石脊に記さむ事を予に求む吁夫遠き
世にかく慕はるゝは翁の徳にしてかく慕ふ
は其人々の誠なるをや辞し得すして拙き筆
を採も不𣏓の盛事に感あればなり
四十九
五十
明和六歳次己丑夏四月 尾陽隠士也有誌
其二(●●)は八幡村西明寺門前本坂街道の側にあり
かげろふの我肩にたつ紙子哉 はせを
其三(●●)国府町観音堂境内にあり平松喜春之を建
つ
紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ はせを
三河藻塩草に云ふ往昔芭蕉翁我国府の邑白井
梅可の許に暫し客たりし時此里の何某が井の
中へ鳴神落下りしを人々集りてあやしき麫板
ようの物にて葢して置ぬ此事近きあたりに隠
なく雷を生捕にせしと聞ければ翁が梅可の案
内にて此に来り井の下に立寄り葢を除き見る
に一物もなし主と共に三人手を打ちて笑ひ俳
諧一首をつくられて帰りける
あかるべき便りなけれは鳴神の
井戸のそこにて相はてにけり
●前芝港(●●●) 豊川の河口前芝村大字前芝にあり
豊橋を距る一里強船舶の出入頻繁にして港に
燈台あり又た白魚は当地の名産にして其の名
著はる
前芝白魚 関根痴堂
玲瓏白小落■初 一撮論銭珠不如
卓氏壚頭春可画 玉繊筭売水晶魚
白湯集 太田錦城
危檣掛繊月 帰艇帯微風 漁火在何処
明滅荻花中
枇杷園句集 士朗
浮出てうきともかかぬなまこ哉
●御馬湊(●●●) 前芝に続きたる海岸にして往昔は
崎にて万葉集の安礼乃崎は此御馬湊のことな
らん
大宝二年壬寅太上天皇幸于参河国時歌
何所再可船泊為良武安礼乃崎(イヅクニカフナハタスラムアレノサキ)
榜多味行之棚無小舟(コギタミユカンタナナシヲブネ)
口碑の伝ふる所に曰く人皇四十二代文武天皇
大宝二年太上皇持統帝此邑に行幸ありて暫時
行在所を設けらる其比は引馬野と号し小民此
処彼処に茅舎を結びて住居せり太上皇還幸の
後四百余年を経て八十二代後鳥羽天皇文治年
中源二位頼朝卿幕下の士比企藤九郎盛長禄を
宝飯郡にはむ頼朝卿伊豆国に配流せらるゝ時
当郡丹野村保国山全福寺大然大士に源家再興
の祈誓をかけ玉ふ頼朝再挙の後盛長をして鞍
馬を粧ひ御堂に奉る彼馬騰々として村里に出
で当村に止りて引馬の嫩草を喰ふ事数月なり
村人此馬をさして御馬と称せしより御馬の名
称起れりと云ふ
名所小鏡
若草のいまや御馬のいはふ声 宗長
霜雪や御馬の里に飼馬なき 白雪
白眼集
浦冷し御坊も塩を手伝ふか 轍士
●蒲郡町 東海道鉄道停車場のある所に
して近年海岸に海水浴場を設け豪家別邸など
ありて夏時甚だ雑踏す此地方を昔は蒲形と称
せり此名称は源範頼が三河守となり茲に居城
せしに起りしにあらずや範頼は遠江国蒲に生
れて蒲冠者と称せしなり
○恋(●)の(●)松原(●●) 蒲郡より形原に至る海浜の松原
を云ふ南に渥美郡の山々を見渡し末は伊良湖
五十一
五十二
崎より勢州朝熊嶽など見へ甚だ絶景なり
夫木集 駿河
ほのかにもなほ会ふことを頼みてや
こひの松原しげりそめけん
富士歴覧記 中納言雅康卿
むかしたれ恋の松原まつ人の
つれなきいろに名つけそめけん
○俊成卿屋敷跡(●●●●●●) 小江村シヤグジの森か其処
也と元暦以前皇大后宮太夫俊成卿当所に住し
玉ひて竹屋、浦形、両庄を開発せしとぞ
夫木集 藤原朝臣道経
みどりなる色もかはらでよのつねに
幾代かへぬる竹の屋の里
三河にて 士朗
生海鼠ほす袖の寒さよ鳴千鳥
○島嶼(●●)と(●)海水浴(●●●) 三谷町の沖に大島小島仏島
あり竹島は蒲郡に属して弁天あり又形原村海
上に亀岩ありて何れも風景佳良舟に棹し魚を
釣るなど遠近より来りて舟楫の遊びをなす者
甚だ多し特に海岸各地は蒲郡を初め三谷、御
馬、前芝等海水を浴するに適すれが夏期盛暑
の候避暑の遊客群をなす
○大島(●●)(天日製塩) 三谷に属す昔時より村内
の困窮に迫りし者村中に頼みて此島へ移り渡
世す薪炭、田圃、魚貝の利ありて必ず其家貧
を免る今尚之を行ふ此辺にて俊成郷【卿】の歌なり
とて専ら左の歌を伝ふ
大島や小島が先の仏島
雀のもりに恋の松原
夫木集 清原朝臣元輔
みやはまのいさごのこずな我君の
宝のくらゐかぞへ見むかし
近年此島に於て農商務省特許に係る日乾式製
塩場(長さ九十間幅二十四間)を開く頗る好成
績を奏しつゝあり
○竹島弁天社(●●●●●) 当国三弁天の一なり又相州江
の島、芸州安嶋、紀州天の川、江州竹生島、
常州布施、野州野尻、三州竹島之を日本七天
女と云ふ、往古俊成卿江州竹生島の竹を此島
に移したる故に竹島と云ふよしに伝ふ
●楠公(●●)の(●)猿楽(●●) 元享元年楠正成赤坂城没落後
恩地左近太郎と共に広石と国府との境にある
猿楽山に来りて猿楽をなし往来の人に見せし
め関東の武威を窺ひたりと伝ふ
●小栗判官潜(●●●●●)居 小栗判官照姫と唄はれたる
小栗小次郎助重は鎌倉より遁れ来り縁者なる
赤根村の郷士惣兵衛の許に寓居せりと云ふ
(完)
五十三
五十四
豊橋停車場前
岡田屋旅舘
五十四
豊橋停車場前
岡田屋旅舘
豊橋停車場前
旅舘 つぼや庄六
【右頁上段】
絵具染料
染工用品
工業薬品
薬種売薬
寒暖計類
豊橋魚町
守田屋
藤田保吉
清水種兎販売並ニ兎毛買受
清水兎毛紡績会社代理店
藤田保吉
【右頁下段】
勉強旅舘
○豊川閣南側
伊勢屋
豊次郎
○仝停車場前
伊勢屋
支店
【左頁】
豊橋停車場前
河合病院
○診察時間 《割書:午前八時ヨリ|正午十二時マデ》
但シ往診午後日曜大祭日ハ医員診察
○入院治療
従来病室狭隘ニ付入院往々謝絶致居候場合有之候処今回一
大病室新築落成候間以来入院治療御随意ノ事
《割書:院 長|医学士》 河合 清
【右頁】
東海道中最もふるく
最も篤実なる
ますや旅舘
豊橋札木町
【左頁】
芳川銀行浜松支店
遠江国浜名郡芳川村
《割書:株式|会社》 芳川銀行
芳川銀行豊橋支店
【右頁】
資本金八拾万円
《割書:株式|会社》亀崎銀行
積立金拾四万円余
常滑出張店
大野出張店
小鈴谷出張店
半田出張店
岡碕出張店
豊橋出張店
西尾出張店
新川出張店
知立出張店
足助出張店
挙母出張店
【左頁上段】
旅舘
豊川門前
若葉屋初蔵
仝ステーション前
若葉屋支店
避暑地
東上牛瀧
若葉屋支店
【左頁下段】
《割書:和洋|菓子》製造販売
祝言儀式其他如何程
の御注文にも応じ大
勉強調進可致候
豊橋呉服町
菓子舗 風月堂与平
【右頁上】
ぼたん
ふぢ
もみぢ
景色うるわし
鳥料理 豊橋停車場通 旭庵
尚御料理御好次第
調進可仕候
【右頁下】
和洋 各銘酒
大販売所
豊橋船町
紙市事
佐藤市十郎
東三名勝案内附録
〇東三名勝雑詩 竹本 穂山
宮路山
登臨萬樹染来新。 四面猩紅媚小春。 不識
天公是何宴。 能教青女酔山神。
千古金鑾跡己徴。 蹰躇回首対斜暉。 風流
不惜採紅葉。 看做人々賜錦歸。
赤阪
壽姫遺跡淡烟遮。 孤驛春風感旧多。 千古
香魂不飛散。 猶留長福寺邊花。
新春登本宮山
回頭灜海現芙蓉。 眺望無疆是此峰。 細水
清泉流脉々。 老杉長檜影重々。 春風深感
神明徳。 残雪猶留鬼女蹤。 百穀并烹投管
竅。 々【?】中多少卜豊凶。
国分寺
夕陽敲報老華鯨。 一吼猶存千古声。 可憫
金仙金剥落。 不如施主有光明。
御津山
名山亭在翠層々。 風入松篁涼景興。 咫尺
煙波衣浦舫。 西東鉄路御油燈。 閑雲来伴
題詩客。 幽鳥馴親煎茗僧。 七八州皆帰一
望。 心神快極欲飛昇。
豊川山
金猊不断篆煙斜。 春暖来参人益加。 鶯囀
狐王祠畔樹。 万燈光映紺園花。
訝聴奔雷出梵城。 丈余太皷報時声。 林泉
如錦花開処。 啼鳥游魚慣不驚。
阪本瀑布
一
二
観音山上発泉源。 水落観音山下村。 高樹
千章緑陰合。 飛流百尺雪花翻。 欣求霊境
清涼酔。 解脱人間炎熱煩。 一浴三杯再三
浴。 快遊又是大悲恩。
蒲郡雑詩
吟遊意不在温潮。 楼上吾嫌浴客囂。 好買
扁舟維竹島。 龍燈松下欲開瓢。
午天風穏欲無波。 游泳相呼浴客多。 独棹
軽舟遊仏島。 拾来奇介似蓮花。
前芝白小魚
都人争賞水晶鱗。 声価如珠色似銀。 今夜
芝川波上躍。 明朝京国膳頭珍。
春日財賀寺
静坐看花世慮空。 残瓢相酌酔春風。 上方
欲謁観音去。 寺在香雲暖雪中。
独趁春晴試一遊。 桜花爛熳圧枝稠。 千年
古仏開龕処。 簇々香雲護寺楼。
砥鹿神社
霊境無炎暑。 森々百尺杉。 一塵曽不到。
涼気滴吟衫。
東上妙劉寺
松間浄刹去求茶。 一杵鐘声出晩霞。 水碓
涓々舂不息。 泉流亦自助香華。
白鳥村総社
国司班幣祭神祇。 総社名存伝口碑。 秋老
霜林彩如錦。 想看千古整威儀。
豊川三明寺弁財天
世伝云力寿姫之遺像也葢又可真乎
浮屠崇做弁財天。 又是此心非偶然。 玉貌
端正兼福徳。 花顔愛敬見嬋姸。 何思雲雨
為哀別。 遂使縉紳結道縁。 国司舘邸人去
尽。 名姫遺像独千年。
下地烟花
霹靂声々西又東。 錦雲玉雨蓋青空。 夜来
更有呈奇技。 幾隊金魚躍水中。
遊竹島
点塵此際不来妨。 緑樹清陰天女堂。 亀嶼
烟波連鹿島。 聖山嵐翠接神郷。 人皆閑雅
舟猶穏。 魚是新鮮酒亦香。 尋得詩為他日
料。 絶佳一々歛奚嚢。
長山松源院
偶因官事到祇園。 多謝山僧礼遇敦。 利爪
千年天狗恠。 妙容一寸地蔵尊。 閑雲曳々
過牀上。 清水涓々洗石根。 晋代桃源虚誕
耳。 不如今日入松源。
三
四
阿寺子抱石
七層瀑畔石形奇。 石々皆抱一石児。 救幼
主趙将軍貌。 奉胎皇武大臣姿。 可憐到底
雖頑性。 堪愛従来似善慈。 妙用此留人父
道。 磊然砂礫却人師。
大野硯川
川形似硯碧泓中。 恰好雲烟淡又濃。 香墨
研磨花樹影。 翠毫揮掃柳条風。 文房知是
神仙物。 雅致尤成造化工。 借問当年何所
画。 鳳来山上利修翁。
鳳来寺
覇業終時金碧荒。 禅宮亦自見滄桑。 不知
何処仙翁去。 欲問当年鳳鳥翔。 十二支神
空黙々。 一千石禄遂茫々。 攀登行者嶺頭
路。 依旧山亭納豆香。
長篠拝鳥井勝商之墓
一心不可奪。 磔上殺其身。 義烈如金鉄。
千秋泣鬼神。
桜淵
水暖垂揚睡。 風軽小舫通。 桜花影沉処。
魚躍錦雲中。
蜂窠巌
蜂窠巌下水。 可汲此清流。 借問新城酒。
醸来似蜜不。
○東参八景 作者不明
何時の頃の作なるやも知れず熊野大権現
八景詩歌として長山久保西郷神社に納す
るものゝ内より和歌一首宛抜粋したり蓋
し徳川前慶長年間の作ならんか
豊川帰帆
さそいては思ふかた帆に豊川の
波のまに〳〵にかへる船人
星野落鴈
天津空是もほしのに影さへて
池の水かくれ雁落るなり
石巻秋月
動きなき山のいわかね明かに
月に見へける秋の夜すがら
本宮暮雪
嶋に似し山の姿は埋れて
峯おもしろき雪の夕栄
本野晴嵐
ふかみどり嵐も色になびくなり
五
六
本野の原の青柳の糸
宮路夕照
えならずも千枝の栬の紅は
宮路の山の夕日さす比
渡津夜雨
終夜心もはれず降る雨に
世をしかすかの渡りいふせき
三明晩鐘
妙なれやみつのさかひもたとゝまし
世に古寺の入相のかね
~~~~~~~~~~~~~
○桜淵 織田清
咲つゞく桜が淵に来て見れば
花見の舟も盛なりけり
○牛瀧 仝人
涼さの風さへ落て牛の瀑
夏をうしとも思はざりけり
○東参四季(六首) 福井義真
衣浦の新年
肌寒き衣が浦のけさははや
千代の年浪立初めにけり
飛馬島の霞
ひめしまの霞かくれになりにけり
汐干にあさる賤が小舟は
伊良湖崎時鳥
いらこ崎松に一声鳴きすてゝ
伊勢海遠く行く郭公
宮路山紅葉
みやち山麓は霧に暮そめて
峯の紅葉に夕日てるなり
長篠嵐
矢さけひの声【?】かあらぬかとはかりに
吹く風すこき長篠のはち
鳳来寺雪
登りゆく御坂も雪に埋もれて
仰げとわかぬ峰の御薬師
~~~~~~~~~~~~
○東三名勝雑詩 角煙巌
豊川閣
紅裙賽罷白狐祠。 林外春風■酒■。 箇々
玉繊恣酔劇。 争抽緑麦做笳吹。
煙巌山
夕陽嘯破古煙巌。 敢使巨霊恣■■。 斜抱
青琴攀石桟。 忽麾白鹿叱瑤銜。 諸天日月
環金粟。 極浦雲霞現錦帆。 手折蟠桃花一
七
八
朶。 天風吹海濺春衫。
宮路山
瑤姫廟古夢依稀。 翠羽明璫薄暮輝。 繊月
忽飛楓樹外。 寒山一路伴猿帰。
牛瀧
誰劈銀河■【穴+桂?】九青。 渓山此処走神霊。 懸崖
松籟半天浪。 飛沫藤蘿満袖星。 万丈蛟龍
闘不歇。 百年肝胆忽然醒。 月明洗髪空潭
曲。 欲伴羽人敲石扃。
七瀧
潭雲弄影為誰容。 落葉空山看欲冬。 莫是
蒼猿断腸涙。 飛流乱灑夕陽松。
桜淵
豊川一瀉一百里。 拖眉側髩両岸山。 山碧
花白人如玉。 玉山倒偎香雲間。 半生錦嚢
貯金石。 驚天裂石抂自惜。 乾坤如此吾如
此。 醒眼読騒亦何益。 摘青人帰摘星家。
仙凡隔断片夢遐。 回首万嵐斜陽紫。 金
雞啼度満潭花。
長篠城跡
寒雲何処古城台。 燕麦萋々連碧崔。 蛮触
夢醒春幾度。 梅花又照髑髏苔。
雁峰山
雁峰之山自西来。 劈吾馬頭秋翠堆。 不妨
終日相趁笑。 我有瑤琴有雲罍。
蒲郡竹枝
窓外潮生開碧奩。 金梭札々髩鬖々。 児郎
奪去機中錦。 直作長風破浪帆
竹島
潮煙巌雨碧淋冷。 竹気颯々灑廟扃。 忽地
魚龍歇噴躍。 夕陽浦上数峰青。
日出石門
臣霊劈後幾千年。 潮窟汐厓蟠九淵。 半夜
老龍已擎日。 金鱗砕作海天煙。
鸚鵡石
沈香亭北牡丹前。 色即是空春似煙。 緑羽
孤飛化成石。 啼雲語雨二千年。
九
【右頁上】
明治三十四年十二月二十五日印刷
仝 年十二月二十八日発行
不許
複版
(定価金拾五銭)
豊橋町大字呉服町
大売捌所 豊川堂
豊橋町大字札木町
大売捌所 文海堂
【右頁下】
愛知県渥美郡豊橋町大字西八町六十二番戸
編纂兼
発行人 藤波一哉
愛知県渥美郡豊橋町大字西八町六十二番戸
発行所 参陽新報編輯局
愛知県名古屋市内屋敷町甲三十二番戸
印刷人 東崎作蔵
愛知県名古屋市天王崎町番外三十六
印刷所 長谷川活版所
【左頁】
東京(新橋)神戸間汽車時刻表
下り列車
駅名 横須賀行 神戸行急行 大垣行 国府津行 浜松行 神戸行 浜松行 神戸行急行 神戸行
後 前 前 前 前 後 後 後 後
新橋発 二、二五 … … … 六、二〇 … 七、二〇 八、四五 一〇、一〇 一二、二〇 一、四〇 六、〇五 一〇、〇〇
前 神戸行 大垣行 … 後
静岡発 ▲弁当 … 六、四〇 八、三五 一一、五二 名古屋行 二、一二 ◎三、二三 五、一三 六、五六 九、四〇 二、四〇【一一、四〇の誤りか】 四、四〇
浜松発 ▲弁当 五、一〇 九、二〇 一一、二六 一、四六 ◎二、二五 四、四八 六、五〇 … 九、二四 … 一、四三 七、一二
舞阪発 … 五、二六 九、三六 一一、四二 … 二、五〇 五、〇四 七、〇九 … 九、四一 … … 七、二八
鷲津発 … 五、四二 九、五二 一一、五八 … 三、〇六 五、二〇 七、二九 … 九、五六 … … 七、四四
二川発 … 五、五九 一〇、〇九 一二、一五 二、二六 三、二三 五、三七 七、四八 … 一〇、一三 … … 八、〇一
豊橋着 ▲弁当 六、一二 一〇、二二 一二、二八 二、三六 三、三六 五、五〇 八、〇三 … 一〇、二五 … 二、二九 八、一四
前 前 後 後 後 後 後 後 前
豊橋発 … 六、一七 一〇、二七 一二、三二 二、三八 三、四三 五、五二 八、〇八 … 一〇、二八 … 二、三三 八、一六
御油発 … 六、三二 一〇、四二 一二、四七 … 三、五九 六、〇八 八、二九 … 一〇、四二 … … 八、三一
蒲郡発 … 六、四九 一〇、五九 一、〇四 三、〇三 四、一九 六、二四 八、五三 … 一〇、五八 … … 八、四七
岡崎発 ▲弁当 七、一七 一一、二八 一、三一 三、二五 四、五〇 六、五一 九、二九 … 一一、二三 … 三、一八 九、一三
前
名古屋発 六、二〇 八、五〇 一、〇五 三、〇五 四、三五 六、三〇 八、二五 … … 一二、三五 … 四、二六 一〇、三七
神戸着 二、五九 四、五四 九、二一 一〇、二七 一〇、四七 … … … … 七、五〇 … 一一、一九 六、三六
上り列車
駅名 新橋行急行 浜松行 静岡行 姫路ヨリ直通 新橋行 新橋行急行 新橋行
前 前 前 前 後 後 後
神戸発 … … … … 六、〇〇 … 六、二五 八、四〇 九、五〇 一二、〇五 六、〇〇 一〇、〇〇
新橋行 前静岡行 後沼津行 後
名古屋発 ▲弁当 … 七、五四 ◎一〇、〇八 一二、二六 ○一、〇八 二、三二 四、三八 ◎五、五五 八、一〇 一二、四六 五、四八
岡崎発 ▲弁当 … 九、一八 一一、三一 一、二八 二、三五 三、五二 六、〇〇 七、三〇 九、三二 一、四八 七、一三
蒲郡発 ▲弁当 … 九、四三 一一、五六 … 三、〇二 四、一八 六、二五 七、五九 九、五七 二、〇九 七、三八
御油発 … … 九、五九 一二、一三 … 三、一八 四、三四 六、四一 八、二五 一〇、一三 … 七、五四
豊橋着 ▲弁当 … 一〇、一三 一二、二七 二、一三 三、三二 四、四八 六、五五 八、四二 一〇、二七 二、三三 八、〇八
前沼津行 前 後 後 後 後 後 後 後 前 前
豊橋発 国府津 ○五、四〇 一〇、二二 一二、三三 二、一六 三、三七 四、五〇 六、五八 九、〇七 一〇、二九 二、三五 八、一五
二川発 迄一等 五、五八 一〇、三六 一二、四七 二、二七 三、五一 五、〇四 七、一三 九、二三 一〇、四三 … 八、三〇
鷲津発 客車ナ 六、二七 一〇、五四 一、〇四 … 四、〇八 五、二一 七、三〇 九、五五 一一、〇〇 二、五九 八、四七
舞阪発 シ ◎六、四六 一一、一〇 一、二〇 … 四、二四 五、三七 七、四七 一〇、一六 一一、一六 … 九、〇三
前
浜松発 六、〇〇 七、二〇 一一、五四 一、四五 三、〇八 四、四五 … 八、一一 … 一一、四〇 三、三〇 九、二三
静岡発 八、三五 一〇、四〇 二、二五 … 五、一二 七、五〇 … … … 二、〇五 五、二九 一二、〇五
新橋着 三、三〇 六、二八 九、二三 一〇、〇八 一〇、三一 一二、二〇 … … … 八、五〇 一〇、四八 六、五三
十一
【右頁】
十二
◎豊川鉄道(吉田「豊橋」、大海間)発着時刻表
【右上段】
下り
午前 午後
吉田発 五、四〇 七、〇□ 八、四□ 一一、〇〇 一、〇〇 二、五□ 五、〇五 《割書:自吉田|賃 金》
小坂井発 五、五一 七、一□ 八、五□ 一一、一一 一、一一 二、五□ 五、一五 六
牛久保発 五、五七 七、一□ 八、五七 一一、一七 一、一七 三、〇五 五、二一 八
豊川発 六、〇五 七、二□ 九、〇六 一一、二六 一、二六 三、一四 五、三〇 一一
一宮発 六、一二 七、三□ 九、一三 一一、三三 一、三三 三、二一 五、三七 一四
長山発 … 七、三□ 九、一九 一一、三九 … 三、二七 五、四五 一七
東上発 六、二五 七、四□ 九、二七 一一、四七 一、四五 三、三五 五、五一 二〇
新城発 六、三五 七、五□ 九、四□ 一二、〇一 一、五五 三、四九 六、〇四 二六
川路発 … 八、〇□ 九、五□ 一二、一〇 … 三、五□ 六、一三 三〇
大海着 … 八、一□ 九、五□ 一二、一七 … 四、〇五 六、二〇 三三
【右下段】
下り【「上り」の誤りか】
午後
大海発 … 八、二〇 一〇、四〇 一二、四〇 … 四、三三 六、四〇 《割書:自大海|賃 金》
川路発 … 八、二七 一〇、四七 一二、四七 … 四、四〇 六、四七 三
午前
新城発 六、四五 八、三六 一〇、五六 一二、五六 二、三五 四、五〇 六、五六 七
東上発 六、五六 八、四七 一一、〇七 一、〇七 二、四六 五、〇一 七、〇七 一三
長山発 七、〇五 八、五四 一一、一四 一、一四 … 五、〇八 七、一四 一六
一宮発 七、〇九 九、〇〇 一一、二〇 一、二〇 二、五八 五、一四 七、二〇 一九
午後
豊川発 七、二〇 九、一〇 一一、三一 一、三一 三、〇九 五、二五 七、三〇 二二
牛久保発 七、二七 九、一五 一一、三七 一、三七 三、一四 五、三〇 七、三五 二五
小坂井発 七、三一 九、二一 一一、四四 一、四四 三、二〇 五、三六 七、四一 二七
吉田着 七、四〇 九、三〇 一一、五二 一、五二 三、二八 五、四四 七、五〇 三三
【左段】
◎汽車賃金表
自豊橋至新橋及神戸
□ □【銭?】
二川 七 御油 八
鷲津 一七 蒲郡 一六
舞阪 二四 岡崎 三〇
浜松 三四 安城 三七
中泉 四四 苅谷 四五
袋井 五二 大府 四□
掛川 六〇 大高 五六
島田 七九 熱田 六三
藤枝 八五 名古屋 六七
静岡 一、〇一 一ノ宮 八二
興津 一、一四 木曽川 八七
蒲原 一、二二 岐阜 九三
沼津 一、四四 大垣 一、〇四
三島 一、四八 関ヶ原 一、一五
御殿場 一、六一 米原 一、三二
国府津 一、八六 彦根 一、三七
大磯 一、九二 八幡 一、五三
藤沢 二、〇四 草津 一、六四
大船 二、〇七 馬場 一、七二【馬場=現在の膳所駅】
戸塚 二、一一 京都 一、八三
横浜 二、二一 高槻 一、九八
神奈川 二、一九 大坂 二、一二
品川 二、三四 住吉 二、二八
新橋 二、三七 神戸 二、三五
【左頁】
蜂印香竄葡萄酒
蜂印香竄葡萄酒の品質純
良にして滋養分に富み春
夏秋冬の差別なく日需の
好飲料たることわ世人の
既に了知せらるる処なり
売捌元 東京 近藤利兵衛
本店 浜松町連尺 堺屋 木村庫太郎
分店 静岡市札辻 堺屋 木村陸平
支店 豊橋呉服町 堺屋 木村連作
【82 393】
【裏表紙】
新釈輿地図説 全楽堂校本
【付箋】
渡辺華山自筆
新釈輿地図説
第一篇総説
地志に三等あり其一を(ウィス・キユンヂヘ)《割書:星土学|家》地志と云
其二を(ナチュール・キユンヂヘ)《割書:元理|学家》地志と云其三を(スタ
ート・キユンヂヘ)《割書:風土|学家》地志と云 ウィス・キユンヂヘ)地
志は渾球上に於て南北極赤道規を点画して度
分道里を分界し是を恒星に配合する也(ナチュールキュンヂヘ)
地志は坤身に係る所の気質の自然に就て其元理を説也
(スタート・キュンヂヘ)志地は国界広狭州郡教政
【上・朱書】
登按「ウイス」
ノ義「キユンチヘ」
学者学家ノ
謂也即分地配
天ノ学也唐山
ノ天宮災祥
一隅管見ノ
学ト異也「ナチュ
ール」ハ天理自
然ノ義其自
然ト名ルノ意ハ
理気教中ノ元理
ニシテ万物皆
此渾化ヨリ出ル
モノヲ指ス也天
地皆コレ有リ此
学ハ唯其地ニ
与フルモノヲ云唐
山未曽有ノ学
【下・朱書】
赤道
子午
ヲ規
ト名ケ
線ト名
ケ一定
ナラス
線ト云
規ト云
皆人
為ノ
球儀
ニ出
風土産物等ヲ詳ニするなり
第二(ウィス・キュンチヘ)地志
地球の形大約球円なれ共所に随て高低同からす其
周面皆人物居ル所トなす其吾と足底相対するの国人
是を(アンチポテン)《割書:羅甸|語》(テーゲンフーテル)《割書:和蘭|語》と名く
【朱書にて「〇此一〇不詳」】
地球の運転に道あり其第一道ハ一日二十四時《割書:本邦の|十二時》の間
自己の軸に従ひて旋転をなす是即昼夜なり第二道は
三百六十五日五時《割書:本邦の|二時半》四十八分《割書:一分は本邦の|百二十分時》四十五秒
《割書:一秒は一分時を|十ニするの一也》の間に大陽の周囲を運行す是一年なり
蓋其年圏【?】運行は大陰を誘ひて共に運行す第
一運動と第二運動と相協和する事(ターツトル
《割書:独楽|の類》其軸と其に旋りつゝ亦自己の運動あり軸の
周りを転回するに譬ふへし
地球大陽を去る事凡二億(ユーレン)《割書:「ユーレン」は里数ノ名|六天間にて一里十四分》
余
地球の日転をなす所【右横に朱書にて「纒ヲ受る所」】の軸は即中線なり是をなさしむとの地
軸と名く第二円PPの如し此軸の両端を南北
二極《割書:「アスヒユント」又|「ポーレン」》と次PerPのことし
地軸の長独逸国道法【独逸国道法に傍線を引き「誤」と朱書き】千七百十六里地厚独逸
国道法凡千七百二十二里是は地の中真を串き
【上・朱書】
也「スタード」ハ欧
法ノ義唐山
ニ所謂外記ノ学
也然レトモ其外ト
云モノハ我ヲ以テ
中トシテ彼ヲ以
外トスルヨリ起リ
井蛙ヲ見ニ出テ
通論ニアラス故
コノ名ヲ以テ釈シ
カタシ然トモ其
実ハ風土欧教
ヲ然ルノ学所謂
地志ニ同シト
領地志ハ惣名
ニシテ唐山ノ教義
ト異ル所アリ
故ニコレヲ風土ノ
学ト釈ス古三
学ヲ次第スル
故ハ「ウイス」ハ天ニ
就テ配地スルノ
学「ナチュール」ハ
地ヲ主トシテ云ノ学
スタートハ人道
ヲ主トシテ云ノ学
ニシテ三才ヲ分
モノニ似此志
ハ即「スタート」ノ
学故ニ其惣
説ハ略ニシテ外
ニ学ノ如ク詳
説セサル也
【下・朱書】
中西
皆論
同ス
□□□□
□□□
迷シム
ル似タ
リ故
球儀ニ
就テ
赤道
子午
ヲ親
トシテ経
緯ヲ
線トナ
ス其
実ハ
皆赤
道子
午ノ
仮設
スルモノ
也
横引スル所の一線すなはちabに図するものこれ也
地軸の両端北にあるを(ノールデル・アスピュント)又ノール
ド・ポール)《割書:即北極直|下也》と名く地球の全面方積独逸
国道法九百二十九万二千百八十三里但独逸道法
方一里は六千四百四十八半「モルケン」《割書:「モルゲン」ハ六尺五寸|間にて千百三十坪也》
に当る
地球の全面を分つに規《割書:「シル|ケル」》を以てす其規の正中地
球の中央に亘るものは其長サ最大なり而
して地球の中央線を距るの遠きに随て其長
漸く減す諸規其長短に論なく総テ是を
三百六十に分つ是を「カラード」度と名く又「ガラード」
を分て六十となす是を「ミニュート」分と名く又
「ミニュート」を分て六十となす是を「セコンド」秒と名
く凡「ガラード」「ミニュート」「セゴン」其規の大小に随て
同しからす大規にあり一を「エーヘナール」《割書:赤道|規》と云
一を「ミッタフ・シルケルス」《割書:子午|規》と云是は州土の方位を
弁するに最要のものなり小規を「エヘンウェイデン」と
云
第一の大規「エーヘナール」又「エーヘンナクト・レイン」《割書:昼夜|平分》
《割書:の義|》は両極の中間東西に亘る線なり両極を
【下・朱書】
我□
□以
下□
□
距る事各九十度AAのことし是地球を平分して
南北二部となす故に平分線《割書:「エーヘ|ナール」》の名あり平分
線を又三百六十度に分ち毎度各独逸道法
十五里即二十「ユール」なり独逸国一里は「レインランド」
の千九百六十七ルーデにあたる《割書:六尺間にて一里|三十一丁一間八分》
第二の大規は子午規也《割書:「ミッタフ|キルケルス」》BBBの如し中に
就くCCを以て第一子午規とす此諸規は
南北に亘る線にして其両端皆北極南極に
輻輳す此は大陽日/中(〇)に中る所を以て定む故
に所在に従て異なり又其数限るへからす
何れの地方にても太陽此線に到る時を午
時とす故に午規と名く
各地午規竭る所地平線を以て正南に定む
第一午規は各地の立る所一ならす或ハ「ヘルロ」《割書:地|名》
上に当るものを以天第一午規とす或ハ「テリツヘ」
《割書:福島》「ゲレーンウイク」「パレイス」「ウェーネン」「ペーテルスビュルグ」
「ウプサル」《割書:以上地名》上に当る者を用ふ
第一午規地球を東西に平分する事猶赤
道の南北に平分するがことし此他午規は其
【上】
レイ一間□
ノ法国□
□
午カ
間相距る事各十度を以て是を定む是は
地図を閲するに臨て東西の度を弁し易
からしめんがために設るものなり
「エーヘ・ウェイデン」は赤道と列を同くす東西に亘
るの小規にして其間亦各十度なり是は赤
道より南北極に至る度を弁せんかために設
るものなり
以上諸規に依て諸地の方位を弁すへし
是緯度《割書:「ブレー|デ」》経度《割書:「レング|デ」》の別なり
緯度は赤道より北方と南方に距るの度
なり北緯南緯の別あり経度は第一午
規より東方に距るの度なり英吉利亜人著
す所の一地志に東経西経を分つあり
第三篇《割書:黄道回帰線《割書:即二|至規》「ポイルキルケルス」|「リユクトゲステルドヘーデン」》
年運に従て地球大陽と正対する点を集めて
線を引て一大規となる是を黄道《割書:「ブンスウエ|フ」》
と名く此線地球の中真を串きて赤道と叉
行して是と二十三度半の差をなす
第二図のeie第一図のEEEは地球黄道に正対する
点なり
黄道を十二部に分ち各記号を附す毎部三
十度に分つ
白羊宮 《割書:羅甸 アリース |和蘭 ラム》 【上欄外】ラムハ羊の胎子
金牛宮 《割書:羅甸 タウリュス |和蘭 スチール》
双女宮 《割書:羅甸 ゲミニー |和蘭 テウェーリング》 【上欄外】連胎子ヲ云
巨蠏宮 《割書:羅甸 カンケル |和蘭 ケレーフト》 【上欄外】ケレフトハサミノ【?】海老ヲ云
獅子宮 《割書:羅甸 レーヲ |和蘭 レーウ》
室女宮 《割書:羅甸 ヒルコ |和蘭 マーグト》 ■女
天秤宮 《割書:羅甸 リブラ |和蘭 ウェーグシカール》 ハカリ
天蝎宮 《割書:羅甸 スコルヒウス |和蘭 スコルヒウーン》 ■虫
人馬宮 《割書:羅甸 サギタリウス |和蘭 シキュツテル》 弓射ル人
磨羯宮 《割書:羅甸 カプリコリュス|和蘭 ステーンボック》 獣名
宝瓶宮 《割書:羅甸 アクヮリウス |和蘭 ワーテルマン》 水■
双魚宮 《割書:羅甸 ピツセス |和蘭 ヒッセル》 漁■
黄道赤道を離るゝ事最遠き所の両点より各一
線を引く赤道を去る事二十三度なり此二規を
回帰線《割書:ケールキリンゲン即|二至規》と名く大陽此二規に躔る【(めぐる)】
時は赤道を離るゝの至極にして是より再ひ赤
道に向ひて回帰するなり第二図のef,ef第一
図のFEFEのことし其赤道以北に在るを(ノールテル
キリング)又(ケレーフツ・ケールキリング)《割書:夏至|規》と名け赤
道以南に在る者を(ソイデル・ケールキリング)《割書:南回帰線|ノ義》
又(ステーンボックス ケールキリング)《割書:冬至|規》と名く
赤道の両極PP赤道を去る事各九十度黄道
の両極PP亦黄道を離るゝ事各九十度なり
黄道の両極赤道の両極と相離るゝ事二十三度
半なり是即黄道と赤道と互斜の度と相
若(シ)く赤道の極と黄道の極と相距るの間に一
規を画す是を極規《割書:ポールエルケルス|と云》と名く地球
の両極の所を繞る【(めぐる)】を以て斯名あり第二図
のpCCr及ひ第一図のGGGGのことし其北にあるを
北規とし南にあるを南規とす
地球を分て五部となし以て寒温を定む
熱帯一正帯二冷帯二なり熱帯の地は二
至規の間なり方積凡四百八十二万千百五十
九里の地是に属す正帯の地は至規と極
規との間にあり南北二帯あり各方積百
八十四百【(万の誤りか)】九千四百七里 冷帯は極規内に在て南北
二帯あり各方積三十八万六千七百零五里
熱帯の地に住む人は一年二度大陽を頂上に
見るに至規下の人は大陽を頂上に見る事
年に一度正帯及冷帯の地に住む人は常
に大陽を斜に見て頂上に見る事曽て之
なし両極下の人は半年の間大陽を
不断地平線に見て半年は全く見る事なし
各五帯の寒温を天の気候《割書:「リュクトスト|レーケン」》と日
地之気候《割書:「ランド・ス|トレーケン」》と異なり地之気候は今
暫く論せす
経度表
黄道と両極の間に各九個の経度規あり
両極に近くに随て其長漸次に減す然レトモ
皆三百六十度に分つか故に毎度の長亦必不
同なり今緯度に随て経度の長を知るへ
き小表を作て左に示す
(黄道) 経度一度独逸国道法十五里
(緯度第十度) 経度一度 十四里七分七厘
令八
(緯度第二十度) 経度一度 十三里一分令一
(緯度第三十度) 経度一度 十二里九分八厘三二
(緯度第四十度) 経度一度 十一里九分六厘一四
(緯度第五十度) 経度一度 九里七分八厘令一
(緯度第六十度) 経度一度 七里半
(緯度第七十度) 経度一度 五里二分三厘令七
(緯度第八十度) 経度一度 四里八分八厘一二
第四篇(ナチュール)学家地志
地球の全面は多分水にして陸地は至て少し
精巧地理学家の説に世界を三分すれは水
二分にして陸地一分なりと云此水を(ウェーレルド・ゼー)
《割書:世界海|の義》と云陸地を(ランド)と云夫海の有用大なり
其水蒸昇して雲となり風に従て普く地上に
被らしめて是を濡し新水を輸し気中を清
浄清涼にし江河川流を生す又人海に泛【うかび】て
絶域の国土を訪ひ互に有無を通し学芸
を相伝ふ
(ランド)《割書:国土|》は其大小位置と其形に随て諸般
の名を得即(ハストラント)(《割書:地続き|の国也》)(ラントエンクテ)《割書:繊|地》
エイラント)《割書:島|》(シキールエーランド)《割書:半島|》(フラッカラント)《割書:平地|》
ベルグ)《割書:山|》(ベルグ・エングテ)《割書:峡|》(ベルグケーテン)《割書:山鎖|》(ヘウ【ウに半濁点】ヘル)【Hügel】
《割書:丘|》(ドイン)《割書:土堤|》(ハレイ)又(ダル)《割書:谷|》(カープ)《割書:崎|》(キュスト)
《割書:岸|》(ストラント)《割書:汀|》等なり
西方半規に在る陸地と東方半規に在る陸
地と壌を接せす所謂(ハステラント)は一小洲と
二大洲とを以て或る即大州一は西方半規
内に在り一は小洲と共に東方半規内に在る
なり此三部自余の小洲を合して五世界
に分る五世界は則所謂欧邏巴。亜細亜。
亜弗利加。亜墨利加。亜烏斯答剌礼。是な
り
欧邏巴と亜細亜とは其実は区別あるに
非亜細亜と亜弗利加とはたゝに一条の繊
地を以て壌を接す南亜墨利加と北亜
墨利加も亦一繊地を以て壌を接す此繊
地を(ランド・エングテ)と名く而て亜細亜と亜弗
利加と接する所の繊地を(シュエス)の(ランドエン
グテ)と名け南亜墨利加と北亜墨利加と
接する所のものを(パナマ)又(タリエン)の(ランドヱン
エングデ)と名く
島(エンランド)は四方海に沿へるの地なり其最大なるは
ゴロートフリッタンニヤ)(イヽルランド)(エイスランド)(スピッツ
ベルゲン)(イーハセンプラ)なり又(ヘルロ)(ヲルカジ)(アツリ)
(カナリ)(カープヘルジ)以上諸国の属島又(サルジ
ニー)(コルシカ)(シヽリヤ)(カンヂヤ)(セイプリュス)(シント
ヘレナ)(マダカスカル)(ソコトラ)(セイロン)又(マルヂヒ
国の諸島(シュンダ)国(モリュツク)国(ヒリプペイン
国(ペレウ国(新ヒリプペイン国等の属島又
盌【?】島又(ホルモーサ)又(リユエイウヲ諸島日
本諸島蝦夷(サカリー)等なり又(新グイ
ネヤ)(新ブレタグネ)(新ゲヲルキヤ)(ジーメンスラント)
又(ミュルガラーフ)(サンドウィック)(アレウチ)(ホッセン)
等の属島又(新カレドニヤ)又(ベブリデス)の新
島(新セーランド)(フリンデ)の諸島(ソイテイト)の
諸島(カルラパゴス)の諸島(レホリチー)の諸島(マ
ルクイ)の諸島(ヘルゲスト)の諸島(メンドサ)の諸
島(ヒュールランド)(フラッカランド)(テルネウフ)又(ベルミュ
ジ)(リュカイ)(アンチルリ)等の属島なり
(シキール・エイラント)《割書:半島|》は三方海を環し一方
(ハストランド)に接する地を云其最較著なる
は(ユットランド)(波尓都瓦爾)【ポルトガル】と以斯把尼亜の
一国(意太里亜)(モレヤ)(キリム)(マラッカ)(朝鮮)
(加謨斯加多加)【カムチャツカ】(亜棘比亜)(カリホルニヤ)(アラス
カ)(クルーンランド)是なり
其凸起するもの是を山□名く山の最高
きものは雲中に接す□□山相連て絶へ
す鎖の如きあり是を(ベルグケーテン)《割書:山鎖の|義》又
(ベルグ・シカーケル)《割書:山鏈の|義》又(ゲベルグテ) 《割書:山簇の|義》と云
中ン就く最高き処を山原《割書:アーンハング・テル|ベルゲン》と
名く欧邏巴の山原は(スゥツシヤ)(魯西亜)(翁
加里亜)に在り亜細亜の山原は(チベット)に
在り亜弗利加は其中地悉く山原なり南
亜墨利加の山原は(ペーリュ)に在り北亜墨
利加の山原は(カナーダ)に在り即其湖の西
にあり山間の陥地を谷《割書:ターレン|》と云其最夾き
を(ベルグ・エングテ)と名ツく(ゲベルグテ)の最大なる
は欧邏巴に在ては(アルペン)(ユラー)スワルト・ズワ
ルド)(レウ【ウに半濁点】センゲベルグテ)(ペイレネエン)(アーペネイン)
の(ゲベルグテ)(カルパチ)の(ゲベルクデ)なり亜細
亜に在ては(ウラリ)の(ゲベルクテ)是は欧
邏巴と亜細亜の界な□(□ウカシ)の(ゲベル
グテ)(ミュスターグ)のゲベル□□)なり亜弗利加
に在ては(マーンケベルグテ)レウ【ウに半濁点】エン・ゲベルグテ(アトラス)
アベイシニセアルペン)なり亜墨利加に在ては
コルジル・レラ・ロス・アンデス)通して(アンデス)又
(コルジル・シラス)と称す(アパラージ)の(ゲベルグテ)
なり
其凸起甚大ならさるものを(ヘウ【ウに半濁点】ヘルス)《割書:丘|》と云
其砂堆にして海に縁【左に「ノソム」とフリガナ?】するものを(トイネン)
と名く
崎《割書:カープ|》は海中に挺出する地を云其山を
兼るを(ホール・ケベルグテ)と云
(キュスト)《割書:海浜|》は海に沿へる長夾の地を云
其較著なるは(キュイネヤ)の(キュスト)(マラバル)
の(キュスト)(コロマンデル)の(キュスト)なり
(ストランド)《割書:渚|》は(キュスト)と海と相接して時に
潮に湛る地なり
(ワーテル)《割書:水|》は大小所在に随て名を異にす
海。湖。川(ベーキ)(ストラート)(ゴロフ)(バーイ)
アルシペル)(プール)(レーラス)なり
総(ハステランド)を環る所の海を分て数部
とす第一を(アトラント海)と云欧邏巴と亜
弗利加の浜より両亜墨利加の東浜に
至る其北に在るものを(ノールテル・ヲセアン)《割書:北浜|》
と云又其相接する所の地名により或は其
曲湾の形に佑て種々の名あり第二は氷
海なり是は北極直下及ひ南極直下の海
を云第三は印度海なり亜細亜の南
浜及亜弗利加の東浜より新和蘭に
至る第四を南洋《割書:ソイドヲ|セアン》又寧海《割書:スチルレ|ゼー》と
云亜墨利加の西浜より亜細亜の東浜印
度諸島新和蘭に至り又(ベーリング・スト
ラート)より南氷海に至る地中海(バルチ
海)一名東海白海黒海紅海黄海(カス
ピ海)等其実は(ゴルフ)(ゼーブーセム)《割書:以上|湾類》
(メール)《割書:湖|》なれとも其水大なるが為に海の名を
得るなり
(メール)《割書:湖|》は国内に在て海と潮を通せさる
一大水なり即(ラドガ湖)(ヲネガ湖)(アサフ湖)
(マルモラ湖)(アラル湖)(バイカル湖)(キュラン湖)(マラヒ
湖)(ギュラダ湖)(ボルノ湖)(カナーダ)の五湖是
其最較著なるものなり
凡水源皆山より出つ山は平地よりは引力強
き故に雨雪雲霧聚り易し是に由て水
を生す又泉ありて水直ちに是より湧出す
夫山水潴積して先(ベイキ)《割書:谿間の|池水》となり夫より
下りて川となり川合して(ストローム)《割書:川の海に入ん|とする所》
となり海に入る(ベイキ)は夾くして浅し
川は稍濶し然共猶地高き所に在て跋
渉すへし平地に至れは航し渡るへし
川或は峻高の処より直に下る是を瀑布
《割書:ハーラルハル|》と云
川は右汀左汀の別あり川の口に向ふて
右を右汀と左を左汀とす川の最大なるも
のは欧邏巴の(カロンネ)(ロイレ)(レイン)(エルベ)(ウェ
イキレル)(ドン)(ウヲルカ)(デニーベル)(トナウ)(ポ)(ローネ)
(エブロー)(ターガ)なり亜細亜の(ヲベイ)(レーナー)
(アミュル)(ホアノ)(ガンヂス)(インデス)(チゲル)(エウフラー
ト)なり亜弗利加の(ネイル)(セネガル)(サイレ)なり
亜墨利加の(シントロ・ウエンス)ミツシツヘ)(アマソーネ
ン)(リヲ)(ラー・プラータ)なり
(ストラート)は夾隈の海門にして両地に狭
まるゝ所を云其最較著なるは(カライス)の
夾口《割書:ナーウ|》(シュンド)キブラルタル)の(ストラート)
(メッシナ)の(ストラート)(カッハ)の(ストラート)(コン
スタンチノッポレン)の(ストラート)(ヘルスポント)(マ
ラッカ)の(ストラート)(シュンダ)の(ストラート)(マーゲ
ルラート)の(ストラート)(ストラートダビヅ)なり
(ゴルフ)《割書:湾|》は海水地方に入込テ曲弯をな
す所を云但其門口狭くして内濶きを
(ハーイ)と名く其最較著なるは(ヘネチヤ)
の(ゴルフ)(ターレンテ)の(ゴルフ)(ゲニュア)の(ゴ
ルフ)(リヲン)の(ゴルフ)(ハレンセ)の(ゴルフ)(シント
ウベス)の(バーイ)(払郎察)【フランス】の(ポクト)(ブリス
トル)の(カナール)百爾西亜【ペルシア】の(ゴルフ)(ベンガレン)
の(ゴルフ)(シアム)の(ゴルフ)(トンキン)の(ゴルフ)(カル
ペンタリヤ)の(ゴルフ)(グイネヤ)の(ゴルフ)(ターフ
ル・バーイ)(バーイ・ハルス)(メキシコ)の(ゴルフ)(ホン
ヂラス)の(ゴルフ)(エスクイマウキス)の(バーイ)(ヒュ
ツドソレス・バーイ)(ヤーメス・バーイ)(バッシンス・バー
イ)なり
(アルシペル)は島海の義にして許多の島
錯置する間の海を云
(プーレン)《割書:沼|》は国内の溜水にして川流と
波を不通静止不用の水なり其浅くして
泥土と混するものを(ムーラッセン)と名く
第五篇濛気輪 風
(ナチュール)家の地理に依て地球に属する
物を区別すれは三あり曰濛気輪曰土
曰水是なり爰に先濛気輪を説く
地球の全面一種の流動物有て是を
囲繞す其質微細にして弾力多し
活動及ひ植物に生気を給す是を気
《割書:「リュクト」|》と云気中常に濛気《割書:ダムベン|》蒸升
し雲霧浮游す総て是を濛気輪と
名く
気の力は弾力と重墜となり弾力は是
を圧せは則縮み是を放せは則却張
する勢を云重墜は気の積堆に依
て常に属する諸物に圧迫する勢を云
(テ・ラ・ヒレ)《割書:人名|》曽て之を験するに気の重
墜は地を距る事三万五千三百六十三(ト
イセン)或ハ(九メーレン)半の高より起る何と
なれす気の物を圧す力元より弱したとへ
は気四十三升にして水は十万升なり故
に右の如き高所【?】より力を積て圧するあら
されは物墜下して地に親む事なしと云
気は常に地球を纏ひて自ら動かす地球
の日転及ひ年運に連れて其に運行す然
共少く動事なきにあらす時有て彼是
に流移するなり是を名て風と云其吹来
る所の角に随て各種方風の名あり又其
勢の緩急に随て微風《割書:サクニ・ウィンド|》烈風《割書:ステルキ・|》
《割書:ウインド|》暴風《割書:ストルム・ウィンド|》大風《割書:ヲルカーン|》等の
別あり
一秒時の間に走る事十尺より十五尺までを
微風とす二十五尺より三十五尺に至るを烈風
とす四十尺より六十尺に至るを暴風とす走
る事猶甚きを大風とす日本并に亜細
亜西海浜の諸国は大風多し
凡風は平直に地上に随ひ吹くを常とす然
とも天上【?】より吹下るあり又捲螺するあり是を
(ウヱルヘル・ウィンド)と名く甚き時は(ワーテル・ボーセ
ン)《割書:俗に所謂龍捲|の類也》を致す正帯の地は風定らす
或は東風或は西風日々転し換るなり熱
帯の地は風多くは定期ありて日々転換
するなしすなり一方の風終歳吹き続
くを(バッサート)風と名く一歳の間時を定
て変するを(ペリヲヂクェ)風と名く
回帰線を距る事一二度の間の大洋は東
方の定風吹く而して大陽の位に随て差
違をなす即赤道より北の回帰線に在
ては稍北西に向ひ赤道より南の回帰
線に在ては稍南西に向ふ
赤道より北十度と南十度に於て一方の
風数月の間留連し暴風或ハ雷雨の
為に忽歇再ひ其と相反する一方の風に
変し数月の間留連す是を(モウ【ウに半濁点】ソン
ス)と名く即(ペリヲヂクェ)風の類なり
熱帯地方の海浜に於て一種の(ペリヲヂ
クェ)風吹く即毎日海風吹き毎夜陸風に
変す是を大陽の熱気海中に侵入する
事陸地に比すれは遅くして其消するも
亦おそし故に日中海上熱度未甚し
からさるに陸地はすてに熱極に到るを以
て陸上の気海に向ひて傾き散するなり
又海上昼間漸く熱し夜に至て速に
消せす此時陸地熱気すてに消す是を
以て陸上の気海に向ひて傾き散する
也
風の質の其吹き来る所の地に随て各異
なり即北風は北極直下四時沍寒の地
より起り雪山及氷山を越来るが故に寒
烈なり東風は広莫の地を通り来るが故
に乾燥なり西風は大洋を渡て来るが
故に湿潤なり
同方の風地に随て其性大に異なる事
あり東南風の如き和蘭地方に於ては
人身に利益をなす事少からす而るに
(ナーペルス)に在て人身を弛弱せしむる害
あり又意太里亜国に在て此風吹き続く
時は人自ら其精神沈衰するを覚ふ
蓋此風此等の地方に在ては耳目の触知
しすへからさる所の一種の弛弱にする性能
ありと□【覚?】ゆ
(ヘーテ・フルスクルーイエンデ《割書:熱焦の|義》風は大漠広
地より来るなり阨入多【エジプト】国に於ては此風南
方又南西方より吹来る是を(カミシン)と名
く(メッカ)に於ては東方より吹来る(シュラッテ)
に於ては北方より吹来る(パスラ)に於ては北
西方より吹来る(バグダツト)に於ては西方より
吹来る(セイリヤ)に於ては南東より吹来
る中に就く亜棘比亜に於て(サミュム)と
称し都児格に於て(サムゲル)と称するもの
最恐るへし又(クイネヤ)の(ハルマタン)は【or「も」?】
此風の類なり
第六篇 陸地并山
凡陸地の面は極て不平なり其凸起する
ものは山となり丘となり陥汙するものは谷と
なり平延【?】するものは平地となる(ハステ・ランド)の
中最卑【?】き処を海浜とし最高き
処を内地とす陸地の凸起の所山となり
山相連りて山鎖《割書:ベルクケーテン|》をなし山鎖
相続て四方遠邇に広蔓す其海裡
に入て突起するものを碓島とす是則
山頂の所なり
(ナチュール)家地理学専ら山脈を知るに在
今其略を左に挙く
欧邏巴中最高処は(スウィッシヤ)の(ア
ルピセ山なり就中其西南最高し其
峰を(モントブランカ)と名く其高凡一万四
千尺あり此山南の方意太里亜の境に在
るものを(アルペン)と名け西の方払郎察
に境するものを(スクワルト・スワルド)と名け東
端に在るものを(アールベルグ)と名く以私把泥
亜【イスパニア】と払郎察とを界するものを(ペイレンネエン)
と名く是は即(イユナ)の属山なり此山尚
尚以私把泥亜国に亘り(キブラルテル)の(ス
トラート)《割書:海門|》を越て亜弗利加洲の山に連
り都尓格国中を亘り亜細亜の(タウリユ
ス)及(カウカシュス)と合す
欧邏巴洲中第二の高所の魯西亜の
中央緯度五十三四度経度の五十二
度の間にあり此山東は亜細亜の山に接
し北は雪際亜【スウェーデン】国を環らして此国を(ヒ
ンランド)及(ノールウェゲン)に界す
欧邏巴第三高山は(ボヘーメン)に在り即
緯度四十八度三十分 ― より五十一度に
至り経度二十五度三十分 ― より三十四
度三十分に至る
各三大山鎖は欧邏巴洲中の山幹なり
小山簇是より枝別旁出して全洲に邇
蔓す
亜細亜洲の最高所(チベット)に在り長
三百メーレンにして濶百五十メーレンなり亜細
亜全洲の山鎖是より枝別して南は東
印度の半島の端に至り西は百尓西亜及
都児格を経て欧邏巴の山に接し小亜
細亜及亜刺比亜を過(スキ)て(スウェス)の(ランド・
エングテ)に至り亜弗利加の山に接す
亜細亜の北方并に東北亦一大山脈《割書:ベルグ|》
《割書:シカーケルス|》有て(ストラートベーリグ)に至り亜墨
利加洲の山に接す
【右頁上欄外】
邇ハ濔カ
又滋カ
亜弗利加洲の内地は委く山にして許多
の山鎖《割書:ベルグケーテン|》相接す山鎖相接する間に
谷《割書:ハルレエイン|》ありと雖【?】大低不毛の砂地なり北
内地未た人跡通せす故に其詳なる事
得て記すへからす其大略を左に挙く
(シュエス)の(ランドエングテ)より山鎖起り阨入
多(ニュビー)(アビシニー)を過き東方諸山に
接す又高山陸続して西方(タグレイン)
崎に至る爰【?】に於て亜墨利加洲の山鎖
海中を伝りて此と相接す又北方の
山鎖は(バルバリ)を経て(カナリ)又(アソリ)
諸島に由て(テルレ・ネ・ウフ)の(バンカ)に接す
南方は(リュバタ)と名くる山鎖連綿して
喜望峰に至る
亜墨利加洲中最高は南極緯度二
度経度二百六十六度にあり此に世界并
第一の高山(シムブラソ)と云高さ海水を距
る事凡二万一千尺なり此高山と他の山と
の間谷《割書:ハレイエン|》あり其高さ猶海水を去る事
八千尺なり(コルヂルレラ・デ・ロス・アンデス)と名る所
山鎖(シンブラソ)より起り南は(ホトルン)崎北は
パナマ)の(ランドエングテ)に至る是より山脈《割書:ベルグシ|》
《割書:カーケル|》相連りて(メキシコ)の高山に接す
又(コルヂルレラ・デ・ロス・アンデス)の山鎖枝別東
方に連綿す而て南極緯度第十度より
二十度迠の間高山なり又此枝別南は(ペ
ーリュ)及(ブラシリ)より(タグレイン)崎に至
る
又(カナーダ)の山鎖あり其枝別(フルエーニフ
デ・スターテン)を経南方(フロリタ)を過き
リユカイ)及(アンチルリ)の諸島を越(テルラヘル
ラ)の(コルヂルレラ)《割書:山名|》の枝山に接す北は(ラ
ブラドル)を経(エスクイマウ)海の諸島に由
て北極下の国に至る又其西海浜より氷
海に至るまて大なる山鎖あり
山の種を分て三となす曰ヲールスプロングレイ
ケ・ベルグ)《割書:原山の|義》曰(ニーウエレ・ベルク)《割書:新山の|義》曰コルカー
ニセ・ベルグ)《割書:火山|》是なりフールスプロングレイケ・ベルグ)
は(カラニート)と云一質にして開闢と斉しく
生す故是を掘ると雖曽化石及動活
体の遺跡を見る事なし(ニーウェル・ヘルグ)
は其土中灰炭石灰砂(マルメル)及諸種
の化石を見る是已【?】後世に至て新に生する
正徴なり(ヒュカーネン・ヘルグ)は即火山《割書:ヒュールスポ|》
《割書:エンデベルク|》なり是は時々焼石灰化石焼鎔せ
る礦類火炎を其坑より咄出するなり火山
古は今より多しと見ゆ諸地焼山の跡を見
る事少からす是其徴なり火山欧邏
巴に七所あり亜細亜に二十三所あり亜弗
利加に八所亜墨利加に三十七所ある
なり
凡高地は気稀薄にして冷なり雲多に
秀る山は熱帯の地に在と雖其嶺常に
雪氷を頂く此雪の度に随て雪線《割書:スネー|》
《割書:ウレイン|》を立り此線は熱帯の地に在ては甚
高く正帯の地に在ては漸く低く冷帯の地
に在ては益低く南北両極下に在ては其線
地平に均し曽て之を測るに熱帯の正中
に於て雪線海水を事一万五千尺其両
界に在ては一万二千尺正帯の正中に於ては
八九千尺なり
第七篇 海
夫水の世界に於る三の二を領す而して其大なる
者を海とす海は別に一世界とす故に爰に■
する所の動植并に鉱類総て地上に生する者
と異なり
海水は塩気有て苦し是其混淆する所の
物質によるなり蓋此塩気は大に功用を致す
第一是より製する所の食塩は口味を催起
し腐敗を防き消食の様を助る功あり又
塩水は凍る事速ならす故に海上の氷を防く
なり又死壊汚物を速に疎解消散す又海水
は塩気を含むかために重し故に重荷ヲ載する所
の船を負ふ事淡水に勝る
海の運動は其功用少からす其運動時有て甚く
時有て微なり但其最甚き時と雖海底十五
尺より深きに及ふ事なし
海の運動を起すものは風(ストローメン)《割書:海流なり|》月
なり(ストローメン)は二至規の間は東より西に赴く二
至規以外は南北極より赤道に赴く潮汐は大
陰の運動位置に従ふなり大陰其所に対
する事其極に至るとき潮其極に至る事
一時半の間なり其後一二(ミニュート)《割書:「ミニュート」は一時|百二十分の一なり》
にして西に退く三時にして汐の極に至り一二(ミニュ
ート)にして再ひ潮東より来る事も亦三時
を以てするなり但毎日潮の時刻は四十九ミニュー
ート)ツヽ後る是大陰子午規に中する事(四
十九ミニュート)つゝ後るゝか故なり又州土【?】の位
置海底の浅深海岸の形勢に随て潮
汐の常度を失する事あり(ヲースト・ゼー)
《割書:東洋|》地中海(カスピセ海)に於て潮汐の進
退分明ならす
海の色(サクト・グルーン)《割書:微緑色|》なるは人の眼に宜
しきなり最深き海は(ドンケル・ブラーウ)《割書:暗黒色|》
なり(ホルステル)《割書:人名|》曰海の緑色は天の青色
反映するなり水深き度に随て反映は【?】益甚
しくして■【暗+灬】青色をなす故に海の色に
因て其浅深と(パンケン)《割書:海中の浅き所|》と雖弁【辨】
すへし
海水夜光を発する事あり是三種あり一は
海波静ナル時数千の星のことき光を見いす一は
波浪の間激浪物に触るゝ時光を発す一は
急走の船に傍て光を発するなり世人の考
に舟に傍ふて発する光は(エレキテリーキ)なり
と云星のことく現るゝは(ホスホル)様の腐敗より発
すと云波浪の起る間に現るゝは無数ノ虫魚
なりと云
第八篇
此編是略書なれはナチュール)家地理説も唯
只十中の一を挙るのみ今又爰に海の事に
就て一二較著なるものを挙て左に
示す
氷海中に生する物数多あり中就く大なる
(ワルヒス)《割書:鯨の惣名|》尤奇とす是氷野の下に
生住し又氷野時として甚広大なるあ
り
(ホルステル)《割書:人名|》長四千尺濶さ四百尺高
二百尺の氷を見たりと云又形恰も寺
塔のこときあれ或ハ(ヒラミーデ)(ヲベリスケン)
(リユイネン)破巌のこときありと云蓋し(ホ
ルステル)船中に坐して見る所の氷塊を
計へしに百五十個あり然るに檣上より
見たる人は百六十八を得たり且其中
長(半メール)《割書:半里|》のものありと云
南極下の氷海は北極下に比すれは殊に
広大にして南極を離るゝ事頗る遠
きに及ふ氷海の底間温泉あり(エイス
ランド)《割書:氷国|》西浜のことき是なり
アトランド)海に於て其浅深に随て温
度の差等を測る質験あり左の如し
深五百尺の処にて験温管を留る事
五ミユーテン)《割書:「ミニュート」|》なり
深千二百尺の処にては七度五(ミニユーテン)を
得但し海上にては(二十四度三ミニユーテン
なり
深千百四十四尺の処にて験温管を留る
事一時十五(ミニユーテン)にして五度を得
但海上にては二十四度八ミニユーテン)なり
アトラント海は其色他の海と異なるものあ
り喜峰望近所の(バンカ)は深緑色なり
亜弗利加の西浜北極出地第二十度
より第三十四度に至り并ニ(フロリタ)の
近所ハ其色草野の如し(フルアクリュクサ)
の辺々海色すへて白し(リヲ・デ・ラープ
ラタ)《割書:河名|》の口ハ海色紅なり
他の大洋并ニ(アトラント)海北極出地第六十
三度の所ハ絶て潮の進退なし
地中海は水四方より注聚すれとも曽
て海面高を加る事なし(キブラルテル)
の(ストラート)に於て是を測るに爰ニ
注き来る水一年の間積む時全地
中海の高さ二十二尺を増すへしと云
蓋此海ハ(ゼーエングテ)の底に別に水
を瀉除する道あり一二尺の深さ迄は
水注入すれともそれより底ハ水常々注
出するなり 地中海水の味は淡水
百六銭食塩二銭石炭四十八ゲレイン)を
調和せるものに全く同し其海底ハ瀝
青(ヨーデンレイム)塩等の盤あり(マリセイル)
の海底ハ美好の(マルメル石)の盤なり(ヘネチ
ヤ)の湾底は(マルメル石)砂泥土なり地
中海又許多の水獣并ニ介鱗ノ虫類
あり地中水地下より注瀉する事甚しくて
猶河水の海に注くがことき処あり(ミヲ・
ウ)の(ゼーハーヘン)のことき是なり
(ヲーストゼー)《割書:東洋|》三(ストラーテン)有て北
海《割書:ノールドゼー|》と相通す此(ストラーテン)より巨大
の水注入すれ共亦其高を増さゝる事地中
海に同し深五(ハーデメン)《割書:尋の名|》の所に於て是
を徴するに果して瀉出の道あり深き所に
在ては水瀉出の勢最大なり
印度海は其色一ならす(マルヂヒ)諸島の辺
は海色黒し(コリーンテ崎)の辺に在ては紅
色なり猶紅海のことし(バンダ)の海ハ色白曜
す(ペルシヤ)海中(バララ)の辺に淡水の湧泉
ある所の如し又此海常々激浪起る事喜
望峰及ひ日本海のことし(カスピスゼー)は地
中に夾れて水を受る事最多しと雖亦
其高を増さゝるものは海底に瀉出の道
ある事黒海に同し緯度第六十三度より
冬至規に至るまては州土の東岸皆巌
石崩るゝ跡を残す是上代大洪水東
より来るとき国土大半を呑滅し其後
残る所の圻崖度々の海哨に遇て噛悉
され最堅固の部今に存在するのみ
第九篇(スタートキュンヂヘ地理家
地球の全面を分て五部となす即欧邏波
亜細亜亜弗利加亜墨利加亜烏斯答
刺利なり右五世界又各数国に分ち毎国
其人民あり各自の政令を建てゝ是を治む是
を(スタート)《割書:国政|》と云(スタート)を裁判指揮
する是を(レーゲリング)《割書:治|》と云(レーゲリング)を
施すの法是を(レーゲリングス・ホルム)《割書:治体|》と云))
(レーゲリンクスホルム)《割書:治体|》三種あり(ヲンベパールデ・
モナルカール)《割書:他国の命を受けす独立して|国民を治るをいふ》
(ベパールテ・モナルカール)《割書:他国の命を|承るを云》(レピュブリケインス)又
(ケメーネベストゲシンド)《割書:国の豪傑相議し|て治るを云》是なり
(ヲンベパールデ・モナルキーン)の最大なるものは其主を
(ケイズル)《割書:帝|》(コーニング)《割書:王|》(シュルタン)《割書:太上帝|》等と称
す小なるものは(ケウル・ステン)《割書:按に|》 (アー
ルツヘルトーゲン)《割書:上公の義|》(ゴロート・ヘルトーゲン)《割書:大公|》(ゴ
ロートホルステン)《割書:大君|》(ヘルトーケン)《割書:公|》(マルクカラーヘン)《割書:按|》
《割書:に|》 (ランドカラーヘン)《割書:国侯》(ビュルグ・ガラ
ーヘン《割書:按スルニ|》 (ガラーヘン)《割書:侯》(パットシカー)(エ
ミル)等の号あり
(ベパールデ・モナルキーン)は其主の号前に同し但
其政令ハ承る所有て自ら制する事を得す))
(レピュブリーキ)又ゲメーネ・ベスト)は二種あり其
一ハ国中年長の人を建て会主となし以て命
を受る所とす是を(アリスト・カラチス)と名く其
一は材智兼徳の人を撰て会主とす是を
(テモクラチス)と名く
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
地球の転運に道あり一は一日二十四時《割書:本邦の|十二時》の間に
自己の軸に従ひ転旋して昼夜をなす是を第
一道とす一は三百六十五日五時《割書:本邦の|二時半》四十八分《割書:一分ハ本|邦の百》
《割書:二十分|時》四十五秒《割書:一秒は一分時を|六十にするの一なり》の間に大陽の周囲を
運行して一年をなす是を第二道とす蓋第二道ハ
大陰を負て運行しつゝ其第一道の転旋と協
和する事譬ハ「タートル」《割書:独楽の類》の其軸を共に旋転し
て亦自己の運行あるか如し
【白紙】
【裏表紙】
【表紙】
【白紙】
豊橋市都市計畫第一期事業報告書
牟呂通工事中
八町通地下道工事中
牟呂道舗装前
八町通地下道工事中
←【上向矢印】《割書:牟呂通|八町通》小鋪石張石工
↓【左向矢印】八町通り小鋪石基礎混凝土施工
牟呂通跨線橋主桁架設工事
牟呂通跨線橋橋渡橋式
完成後ノ牟呂跨線橋
完成後ノ八町通地下道
諸 言
豊橋都市計画ハ大正十二年五月二十九日付勅令第二七六号ヲ以テ札幌外2二十三
市ト共ニ都市計画法適用ノ発布ヲ見ルニ至リ爾来市街地建築物法ノ適用都市計画
区域ノ決定街路網計画ノ認可地域制ノ指定ヲ経昭和八年三月三十日付内閣ノ認可
ニ係ル第一期事業ハ昭和十一年二月ヲ以テ工事ノ完成ヲ告ケ既ニ第二期事業ノ認
可ヲ得タリ。茲ニ前期の経過ヲ叙述スルト共ニ豊橋都市計画資料第一輯ニ蒐録シタ
ルモノヲ除キ隣接町村合併前後最近五ヶ年間ニ於ケル都市計画ノ動静並ニ第一期
事業ノ大要ヲ記シテ以テ工事報告トナス
豊橋都市計画第一期事業工事総括表
事 業 長 金八拾八万五千四百貮拾八円六拾五銭
内 訳
八 町 通 幅 員 十三間半及十五間
延 長 四百拾壹間六分九厘(地下鉄ヲ含ム)
工事費及買収費合計参拾六万五千六百拾円四拾銭
牟 呂 通 幅 員 十五間
延 長 二百十二間八分六厘(跨線橋ヲ含ム)
工事費及買収費合計三十七万五百八十四円○三銭
花 田 線 幅 員 八間
延 長 七十九間八分五厘
工事費及買収費合計二万三千五百四十七円○四銭
難工事並測量費 金七千九百二十三円七十六銭
事 務 費 金三万八千七百四十九円十九銭
器具 機械 費 金八千百五十六円五十銭
公 債 費 金七万八百五十七円七十三銭
《題:豊橋都市計画第一期事業報告書》
目 次
一、豊橋市ノ沿革
市勢人口増加・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二
二、都市計画ノ準備
一、計画準備規程設定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三
二、都市計画法適用ノ請願・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五
三、都市計画法施行ノ指定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 六
四、市街地建築物法適用請願・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 六
五、都市計画法ノ宣伝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 七
三、区 域
一、都市計画区域ノ決定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 七
二、都市計画速成ニ関スル建議・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一三
三、土地区画整理事業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一四
二
四、都市計画街路補助道路の執行・・・・・・・・・・・・・・・・ 一四
五、市街地建築物法ノ施工・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一五
四、街 路
街路網計画決定\u001f・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一六
五、地 域
一、地域制計画並指定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二七
二、豊橋都市計画地域面積・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三三
六、隣接町村併合及分離
一、町村併合・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三五
二、市域境界ノ変更・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四二
七、街路網ノ事業化
一、事業ノ予算・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四六
二、事業ノ認可・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五七
三、受益者負担規定ニ関スル件・・・・・・・・・・・・・・・・・ 六二
四、土地細目公告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 六九
五、起 債・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 七六
六、事業ノ着手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八〇
八、継続年期及支出方法変更
一、継続費更正予算・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 九二
二、年度割変更認可・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 九八
三、実施予算編成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一〇一
四、昭和八年度並昭和九年度決算・・・・・・・・・・・・・・・・一〇六
九、用 地 買 収
一、街路用地買収・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一〇
二、附帯事業動物園敷地買収・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一二
十、地上物件移転補償
一、牟呂通外二路線移転物件補償・・・・・・・・・・・・・・・・・一一三
二、附帯事業動物園敷地内移転物件補償・・・・・・・・・・・・・・一一六
十一、受益者負担金徴収
三
四
一、負担額ノ基本・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一八 二、測量算定ノ方法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一九
三、負担率並徴収成績・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二〇
十二、工 事 設 計
一、事業路線ノ説明・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二三
二、施 工・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二五
用地買収遅延ノ為メ両路線ノ築造工事進歩ヲ妨ケラレ年度内着工ニ至ラズ加フ
ルニ八町通ニ於テハ鉄道委託工事意ノ如ク進行セズ漸ク昭和十年十一月三十日
ヲ以テ舗装路面ノ築造ヲ了シタルニ依リ着手命令ヲ発シ爾来孜々トシテ工事督
励ニ努メ工事中一部変更ノ必要ヲ認メ請負額ヲ金五万二千四百六十七円○三銭
ト更正シ昭和十一年二月十六日ヲ以テ竣功シタリ
一、花田線街路築造工事
都市計画事業執行ニ基気キ昭和九年十月十八日指名競争入札ニ付シタルモ当初予
算超過ニ付更ニ指名者其儘即時再入札執行ノ結果三千百四十四円以テ坂田真
吉ニ落札決定シ仝年十月二十八日付ヲ以テ請負契約ヲ締結シタレドモ当時物件
移転進行中ニシテ着工スル能ハサルヲ以テ下命ノ日ヨリ九十日間ニ竣工セシム
ルコトヽシ昭和二年二月八日着手命令ヲ発シ爾来予定ノ如ク工事進歩ニ努メタ
レドモ意外ニ障害物撤去ニ遅延ヲ来シ工事延期並ニ中止ヲ命シ仝年九月十四日
竣功ヲ告ゲ其間下水道工事ニ連絡スル箇所実施ニ当リ変更ノ必要ヲ認メ契約値
格ヲ金三千五十四円九十九銭ト更正シ工事ヲ完了セリ
昭和十一年十二月十日印刷
【発行日変更後】昭和十一年十二月二十八日 非売品
昭和十一年十二月十五日発行【取消線あり】
《割書:編集兼|発行者》 豊 橋 市 役 所
愛知県豊橋市西八町八六
《割書:印刷所|及印刷人》 《割書:合名|会社》藤 田 印 刷 所
代表社員 藤田庄太郎
【白紙
】
八町通拾参間半街路一般構造図
八町通五間街路一般構造図
牟呂通拾五間街路一般構造図
花田線八間街路一般構造図
街渠標準図
街渠標準図
乙型街渠
丙型街渠
街路構造詳細図(舗装道)
八町通拾参間半街路一般構造図
八町通五間街路一般構造図
牟呂通拾五間街路一般構造図
花田線八間街路一般構造図
街渠標準図
街渠標準図
乙型街渠
丙型街渠
街路構造詳細図(舗装道)
【白紙】
牟呂通跨線橋配置平面図
牟呂通跨線橋橋台並橋脚配置図
牟呂通跨線橋橋台並橋脚配置図
牟呂通跨線橋横断図
牟呂通跨線橋配置平面図
牟呂通跨線橋橋台並橋脚配置図
牟呂通跨線橋橋台並橋脚配置図
牟呂通跨線橋横断図
【白紙】
花田線平面図
花田線縦断面図
花田線縦断面図
花田線平面図
花田線縦断面図
花田線縦断面図
【白紙】
八町通自働排水唧筒場配置図
【八町通自働排水唧筒場配置図】
【八町通自働排水唧筒場配置図】
八町通自働排水唧筒場配置図
【八町通自働排水唧筒場配置図】
【八町通自働排水唧筒場配置図】
【白紙】
牟呂通縦断面図
牟呂通平面図
牟呂通平面図
凡例
東海道線
施工境界
《割書:車道|歩道》砂利道
側道
車道舗装
歩道舗装
牟呂通縦断面図
牟呂通平面図
【白紙】
八町通平面図
八町通縦断面図
八町通縦断面図
八町通平面図
八町通縦断面図
八町通縦断面図
【白紙】
【豊橋都市計画街路網図】
豊橋都市計画街路網図
凡例
【黒色】広場
【橙色線】一等大路第三類《割書:幅員|十二間|以上》
【赤色線】二等大路第一類《割書:同|十一間》
【黄色線】同 第二類《割書:同|八間》
【紫色線】第一期新設拡築路線
【青色線】第二期新設拡築路線
【灰色】都市計画区域界
【豊橋都市計画街路網図】
【豊橋都市計画街路網図】
凡例
【上段】
市街
部落
県国界
群市界
町村界
河川
市役所
町村役場
土木工区事務所
職業紹介所
図書館
連隊区司令部
憲兵隊
警察署
消防署
裁判所
税務署
専売局出張所
《割書:帝室林野|管理局出張所》
刑務所
商工会議所
米穀取引所
蚕業取締所
蚕業試験場
郵便局
学校
繭検定場
【下段】
鉄道
電気鉄道
池沼
渡船場
堤防
山岳
神社
寺院
教会
墓地
病院
公設市場
青果市場
魚市場
公会堂
動物園
公園
火葬場
屠場
銀行
《割書:演劇場|活動写真館》
武徳殿
銅像
城跡
送水管
陸軍三角点
主ナル工場
土地ノ高低ハ中等潮位ヨリ起算シ「メートル」ヲ
以テ示ス
囲廊縦線ノ方向ハ真子午線ト一致ス
縮尺二万五千分之一
【豊橋都市計画街路網図】
【豊橋都市計画街路網図】
【豊橋都市計画街路網図】
【豊橋都市計画街路網図】
【豊橋都市計画街路網図】
【豊橋都市計画街路網図】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【裏表紙】
《題:豐橋の年中行事》
豐橋市敎育會
昭和十年十二月
《題:豐橋の年中行事》
豐橋市敎育會編
【右頁 白紙】
【左頁】
目次
【上段】
一月
一 四方拜………………………… 一
二 世の中を見る………………… 二
三 年禮…………………………… 二
四 元日詣………………………… 二
五 門松…………………………… 三
六 惠方詣………………………… 三
七 若水…………………………… 四
八 雜煮…………………………… 四
九 屠蘇…………………………… 五
一〇 年玉…………………………… 五
一一 初夢…………………………… 五
一二 発荷…………………………… 六
一三 仕事始………………………… 六
一四 書初…………………………… 六
一五 元始祭………………………… 六
一六 政治始………………………… 七
【下段】
一七 山の神祭……………………… 七
一八 新年宴會……………………… 八
一九 消防出初式…………………… 八
二〇 七種………………………………八
二一 御田植祭……………………… 九
二二 大般若………………………… 九
二三 陸軍始め觀兵式……………… 九
二四 鏡開…………………………… 九
二五 破魔弓…………………………一〇
二六 モチヒ粥小豆粥………………一〇
二七 オメイギ………………………一一
二八 左義長又ドンド………………一二
二九 御湯立…………………………一三
三〇 年越祭…………………………一三
三一 藪入……………………………一三
三二 念佛百萬遍……………………一四
三三 お一七夜………………………一四
一
【右頁】
二
【上段】
三四 二十日正月……………………一四
三五 初惠比須………………………一五
三六 愛宕詣…………………………一五
三七 初天神…………………………一五
三八 海神祭…………………………一六
三九 日待……………………………一六
四〇 萬歲……………………………一六
四一 惡魔拂…………………………一六
四二 寒詣……………………………一六
二月
四三 津島祭…………………………一七
四四 二日灸…………………………一七
四五 節分……………………………一七
四六 厄落……………………………一九
四七 厄拂……………………………二〇
四八 事始と事納……………………二〇
四九 針供養…………………………二〇
五〇 送神……………………………二一
【下段】
五一 八日餅…………………………二一
五二 初午……………………………二二
五三 紀元節…………………………二二
五四 鬼祭……………………………二三
五五 涅槃會…………………………二三
五六 祈念祭…………………………二四
五七 太子講…………………………二四
五八 初天神…………………………二四
三月
五九 雛祭……………………………二五
六〇 地久節…………………………二五
六一 陸軍記念日……………………二六
六二 金比羅詣………………………二六
六三 彼岸……………………………二六
六四 春季皇靈祭……………………二六
六五 社日詣…………………………二七
六六 御影供…………………………二七
【右頁】
【上段】
六七 學校卒業式……………………二七
六八 水口祭…………………………二七
六九 道燒……………………………二八
四月
七〇 始業式…………………………二九
七一 神武天皇祭……………………二九
七二 灌佛會…………………………二九
七三 卯月八日………………………三〇
七四 小坂井祭(風祭)………………三〇
七五 神御衣祭………………………三一
七六 天長節…………………………三一
七七 疱瘡祭…………………………三二
七八 道役……………………………三二
五月
七九 八十八夜………………………三四
八〇 端午……………………………三四
八一 六日香煎………………………三五
【下段】
八二 海軍記念日……………………三五
八三 お寅御前(虎が雨)……………三五
八四 田打餅…………………………三六
六月
八五 衣更……………………………三七
八六 惡病除…………………………三七
八七 山開……………………………三七
八八 時の記念日……………………三七
八九 祇園……………………………三八
九〇 輪くぐり(夏越祭)……………三八
九一 大祓……………………………三八
九二 さびらき………………………三九
九三 ゴンゲラボー…………………三九
九四 農休……………………………四〇
九五 萬燈おこし……………………四〇
七月
九六 專願寺詣………………………四二
三
【右頁】
四
【上段】
九七 淺間詣…………………………四二
九八 ハゲン…………………………四二
九九 七夕祭…………………………四二
一〇〇 額祭……………………………四三
一〇一 能祭……………………………四三
一〇二 四萬六千日……………………四三
一〇三 祇園祭…………………………四四
一〇四 盆(盂蘭盆會)…………………四四
一〇五 夜念佛…………………………四六
一〇六 中元……………………………四六
一〇七 十王詣…………………………四六
一〇八 藪入……………………………四七
一〇九 花祭……………………………四七
一一〇 ウラ盆…………………………四七
一一一 土用餅…………………………四八
一一二 土用鰻…………………………四八
一一三 蟲干……………………………四八
一一四 疫病除…………………………四八
八月
一一五 八朔……………………………四九
【下段】
一一六 月見……………………………四九
一一七 うんか送(蟲送)………………四九
九月
一一八 二百十日………………………五一
一一九 オカヅラ節句(菊節句)………五一
一二〇 月見……………………………五一
一二一 お十七夜………………………五二
一二二 彼岸……………………………五二
一二三 秋季皇靈祭……………………五二
一二四 羽田祭…………………………五二
十月
一二五 神送り…………………………五三
一二六 お十夜…………………………五三
一二七 金比羅詣………………………五三
一二八 御命講(御會式)………………五四
一二九 神嘗祭…………………………五四
【左頁】
【上段】
一三〇 惠比須講………………………五四
一三一 お取越…………………………五五
一三二 招魂祭…………………………五五
一三三 亥の子…………………………五五
一三四 蒔上……………………………五六
一三五 ばい祝…………………………五六
一三六 掛穗……………………………五六
一三七 道役……………………………五六
十一月
一三八 神迎……………………………五七
一三九 明治節…………………………五七
一四〇 荒神祭…………………………五七
一四一 七五三の祝……………………五八
一四二 秋葉祭…………………………五八
一四三 御親閲記念日…………………五九
一四四 新嘗祭…………………………五九
一四五 大師講…………………………五九
一四六 酉の市…………………………五九
【下段】
一四七 報恩講…………………………六〇
一四八 つぼか…………………………六〇
一四九 刈あげ…………………………六一
一五〇 秋しまひ………………………六一
一五一 お犬様のお迎…………………六一
十二月
一五二 事始と事納……………………六二
一五三 冬至……………………………六二
一五四 大正天皇祭……………………六二
一五五 クリスマス……………………六二
一五六 御用納…………………………六三
一五七 煤拂……………………………六三
一五八 年の市…………………………六三
一五九 餅搗……………………………六三
一六〇 大祓……………………………六四
一六一 晦日蕎麦………………………六四
一六二 除夜の鐘………………………六四
附錄
豐橋市内神社一覧表………………六五
五
【右頁】
凡 例
一、年中行事の由來を說いて、その古の姿を知らしめんとし現在豐橋市を中心として行はれてゐる年中
行事の集成を試みんとした。
一、各小學校を單位として各校一名づつの調査員に地方的なる行事の調査を依頼した。從つて報告の精
粗により、調査が一方に偏した如き嫌ひはあるが仕方がなかつた。故に具体的例に(植田)(野依)
等とあるはその校區よりの報告によつたもので、他校區にも必ず同様の行事があるに違ひない。
一、記述は主として現行の年中行事に重を置き、始めに由來と一般的に行はれてゐる様式を述べ、次に
各小学校校區の報告を記した。
一、日の下に舊とあるは、舊曆にのみ行ふか又は舊曆に主として行ふ行事である。
一、日の不定なるものは大体その月の終に記した。
一、載せるべきを逸したるもの、記載を誤りしもの多からん。識者の補正を俟つ。 (編者)
【左頁】
豐橋の年中行事
豐橋市敎育會編
一月
一 四方拜 (一日)
この起原は、崇神天皇の御宇からとも、或は垂仁天皇の御宇からとも、又は孝謙天皇の御宇からともい
はれてゐるが、宇多天皇の寛平元年元日に行はせられたのが一番確かであるらしく、醍醐天皇の御宇には
旣に決定的御儀となつたのであるが、足利時代になつて一度中絕し、後土御門天皇の文明七年に再興され
た。
これは宮中で行はせられる御儀式で、前夜から御潔齋遊ばされた陛下には、寅の刻(午前四時)神嘉殿
南庭の式場に設けられた御屏風の中の玉座につかせられ、御親ら玉串を奉り、先づ内宮外宮を御遙拜、次
に天神地祇、熱田神宮氷川神社以下の神社、神武天皇と先帝の山陵とを拜して、國家の爲に年災を穰ひ、
寶祚の長久と民草の幸福を祈り給ひ、次いで皇后陛下と御同列で賢所、皇靈殿、神殿を御拜遊ばされるの
である
この日官衙公署學校では拜賀式が擧行される。
一
【右頁】
二
二 世の中を見る (一日) 舊
「世の中を見る」といふて早朝戸外に出て四方の雲どりを見てその年の作柄を判斷する、一年を方角
に配して子(北)を一月丑を二月としてその方角に立雲が帯(横雲)をひいてゐると風、雨雲があると
雨がその月に多いといふ。(牟呂)
三 年禮 (一日-三日乃至十五日)
日本紀によるとこの年始を祝ふ行事は、古く孝德天皇の大化年中に、それも宮中の賀正の禮に始まつて
居り、これが大切な行事となつたのは徳川時代で、親戚友人知己の間を訪問する回禮はこの時代の遺風で
あるといはれるが、それも今では賀狀を出したり、年賀會へ出るだけで、この回禮を省くものが多くなつ
てゆくやうである。
イ、分家の家長が揃つて本家に年禮に行く。(大崎)
ロ、明治維新前後までは村の若い者は羽織着用で小字仲間にて他の小字各戸を「祝儀」と唱へて廻禮し
たといふ。尚明治の中頃までは(家長又は代理人が)禮服で親戚五人組或は寺へ必ず廻禮した。特
に親戚又は嫁の里へ行つた場合は先づ佛様に詣り後挨拶した。(野依)
四 元旦詣 (一日)
元日に氏神や各自が崇めてゐる神社に參拜するのであるが、この地方では豐川稲荷、砥鹿神社、石卷神
【左頁】
社等に參拜する者が多い。
イ、氏神と寺に詣る。(植田)
五 門松 (一日-三日乃至七日)
門松の起原は餘程古いらしく文献によると堀河天皇の御代には、もう民間一般に行はれてゐたやうであ
る。又竹を添へて立てるやうになつたのは應永の頃からだといはれてゐる。この門松も今では松の内七日
たゝないうち四日の朝に殆ど取去られるが、以前は十五日頃までも立てゝあつたやうである。なほ門松を
取去つた跡へは、どこの家でもその秀枝を折つて挿しておく風習がある。眞宗の寺院ではもとから門松を
建てない。なほこの門松に藁盒子とて正月藁にて盒子の如く編んだものを門松に結びつけ、日々供物を入
れて供へた。これをツボキともいふ。
イ、昔門松から火が出て大火事になつて以來門松を建てることを廢したが明治三十九年から再び建てる
やうになつた。(下地)
ロ、昔はツボキといふ藁で造つたものを門口の兩方に松と共に立てた。(福岡)
ハ、門松を立てない所もある。(磯邊)
六 惠方詣 (一日)
元旦、その年の明きの方の方位にある神社や寺院に詣ると萬事吉であるといはれ、信心家にはこれがか
三
【右頁】
四
なり行はれてゐるやうである。その起原は詳かでないがこれは陰陽家のいふ歲德神から來たものである。
七 若水 (一日)
元旦に始めて汲む水、これを飮めば其年の邪氣を除くといふ。
イ、元日家長が早朝に起き井戸水を釣瓶に三杯くみ之を神に捧げ御洗米をあげて拜んだ。(福岡・大崎)
ロ、明き方に向ひ元日早朝家長若水を汲む。(磯邊)
ハ、元日早朝家長は米と𪉩を十二つかみ桝に入れ、井戸の周圍にまき井戸を淨め、後茶碗に水を汲みオ
デー表座敷より各室每に笹の葉にて水を撒いたものだが今は水を撒くことをしない家が多い。又家
によつては若水を茶碗にとり「日輪様へあげる」と稱し外へ供へる家もあつた。尚法華宗の信者は
水は女が一年中使用するとの意味で女が最初に汲んだ。(野依)
ニ、早朝家長若水を汲み家内一同揃つて日の出を拜す。(植田)
八 雜煮 (一日-三日)
雜煮を祝ふといふことは、何時頃から初まつたものか明確でないが、門松と同じく上古以來のものであ
らうといはれてゐる。これは家族だけで祝ふものではなく、年賀の客には何時でも饗すべきでこれを雜煮
祝ふといふ。其仕立方は地方に依つて差異あり、東京風では淸汁仕方が多く、關東風では白味噌仕立が多
いが、この地方では切餅と一緒に菜、里芋、油揚其他種々なものを入れて煑込みにして花鰹をかけ喰べる。
【左頁】
九 屠蘇 (一日)
この祝事は支那から渡來したもので、我國では嵯峨天皇の弘仁年中から用ひ始められたやうである。屠
蘇を藥種屋で求め、紅絽の鱗形の袋に入れ、一夜味淋に浸し(今は瓶詰にした屠蘇酒が賣出されて居る)
正月之を飮めば、一年の邪氣を祓ふといはれ、家族又は年賀の客に出す。屠蘇の盃は先づ幼者から始めて
順次年長者に及ぶ例となつて居る。之に重詰を添へ、屠蘇の肴とする。
一〇 年玉
年玉は新年の賀として親戚友人知己の間に贈答する物品をいふ。古く農村部では、廻禮の際二、三錢乃
至十錢位を紙に包み、持參したもので、今でも寺方では「オタル」「年玉」と稱して納豆、半紙など檀家
に持つてゆく。
一一 初夢 (二日)
正月二日の夜、吉夢を見んが爲に寶船を枕の下に敷いて寐るといふ風習は、もう足利時代から行はれて
ゐたとのことである。これも當初は節分の夜に用ひられたものらしい。
その寶船に「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」の廻文の歌を書添
へる。近頃飽海の靑龍寺から版摺の寶船を頒つてゐる。
イ、寶船の繪をかいて枕の下に入れる。(牟呂)
五
【右頁】
六
一二 初荷 (二日)
大正年間頃までは、商家では賑やかに商品の送出しをしたものであるが、今はそれほど盛ではないやう
になつた。
一三 仕事始 (二日)
一般農家ではこの日仕事始といつて晝前位仕事をする。町屋では賣出しをするし、他の職業でも仕事始
とて一寸仕事をする。
一四 書初 (二日)
書初は試筆とも言ひ、筆硯墨紙を改め、汲立ての水を用ひて書初を行ひ、壁間に揭げる。
イ、大晦日に書き壁間などに貼り供餅をして七日まで揭げた。(大崎)
ロ、元日寺子屋へ通ふ子供のある家では筆硯を洗ひ四枚繼の紙へ適宜の文字を書き一枚は寺の欄間に飾
り一枚は自家の床の間に飾り三日まで鏡餅を供へた。(野依)
一五 元始祭
これは明治大帝の始めて御制定遊ばされたもので、明治三年から行はれてゐる。この日宮中に於かせら
れては賢所、皇靈殿、神殿の三前で、逐次御親祭を行はせられ、皇位の元始を祝ひまつるのである。
【左頁】
一六 政治(まつりごと)始 (四日)
これは、明治二年一月四日始めて行はせられたもので、陛下が年の始にあたつて萬機の政治を聞し召さ
れ、御親裁あらせられる御儀式である。この御儀式は、宮内大臣より、伊勢大神宮の御祭典其他の諸御儀
が滯りなく濟みまつる事を奏上し、後政務に關して總理大臣以下各大臣より奏上する。この日一般の官公
署では御用始めが行はれる。
一七 山の神祭 (四日)
イ、農家では女竹に御幣をつけ明きの方に立て一升桝に盛つた御饌米を供へて祭る。木挽など木材を扱
ふ家ではナマスをうち、里芋昆布等を煑て金山様に供へる。(津田)
ロ、屋敷内の一部に御幣を靑竹につけ饌米と御酒を供へてまつる。今は少い。(吉田方)
ハ、七日又は八日に屋敷の近所の山の木に白紙を長く切つてつるし饌米と餅をそなへる。その供物をい
ただくと山ではその年中傷をしないといふ。又この祭をしない中は山の薪は採らなかつた、(福岡)
ニ、山林中へ靑竹に御幣をつけ餅と饌米を供へてまつる。(磯邊)
ホ、山林を有つ家ではこの日山林中央の松の枝に注連を輪にして飾り饌米御酒を供へまつる。(高師)
ヘ、この日、日待をなし子供に菓子をくれる。(大崎)
ト、男竹に注連をさげ、庚申様のある所にまつる。(牟呂)
チ、村内各最寄の個所に葉竹に白紙をつけ餅を切つたアラレと稱するものを供へて山の神を祠る。祠る
場所は神戸坂、鷺田、諏訪、神明山、牛の山、栗虫、等にて現今は多く八幡社境内にまつる。(野依)
七
【右頁】
八
り、四日以後随意に山に行く時、山の入口に神を祭る。(植田)【前頁からの繋がり無し】
一八 新年宴會 (五日)
この日天皇陛下は皇后陛下と御同列で豐明殿に出御遊ばされて皇族を始め、群臣百官並に外國の使臣
に酺宴を賜はる。昔は元日の節會といつて元日に擧げられたが、明治天皇の御宇となつてこの日に定めら
れたのである。
一九 消防出初式 (六日)
これは所によつて日がちがふが、市街地では古くからこの日に行はれた。早朝一齊に警鐘が鳴らされる
と各町の消防組は勢揃ひして、歩兵第十八聯隊練兵場へ繰込み、こゝで式が擧げられる。先づ警察署長の
巡視檢閱があり、各種操法、分列が濟むと、放水試驗の提灯落しや摸擬火災などが行はれる。今では少年
消防隊も之に參加してゐる。
二〇 七種 (七日)
七種粥は又若菜の粥ともいつてこの起原は、公事根源によると宇多天皇の寛平年中て、徳川時代に最も
盛になつたが、明治維新後五節供の制が廢せられてからは、世上一般には餘り行はれないやうになつた。
この七種を祝ふとよく年中の邪氣を除くと傳へられてゐる。七種とは、芹、薺、御行、蘩蔞、佛の座、すず
な、すずしろで、前夜これらの若菜を俎の上に載せ、「七種なづな唐土の鳥が日本のはしを渡らぬ先にホ
【左頁】
ートホトホト」などと唄ひながら七種の勝手道具で叩き刻んでおき、それを七日の朝白粥に入れて食べた
ものであるが、今では薺など一種二種を入れた粥だけで濟してゐる。
イ、七日の朝七種を入れ餅粥をつくる。(植田)
ト、今では粥の中に餅を入れて食べる。(磯邊)
二一 御田植祭 (七日) 舊
小坂井町𫟏足神社にてこの日田植の様を摸した御田植祭が行はれる。順序は田打、籾まき、苗代の鳥追、
苗代の草取、馬の代かき、代ならし、苗をうつ、晝食持、田草取、稻の鳥追、取入、稻村で、祭後神前に
飾られた「牛の舌」と稱する小判型の餅を拜殿にてちぎつて投る。參集の人々夏病をしないと爭つて拾
ふ。(下地)
二二 大般若 (七日) 舊
高師の圓通寺にて臨濟宗の僧侶集り般若經六百卷の讀經がある。後聖壽萬歲を祈り、村民の無事幸福を
祈る。この日各字の惣代が出る。(高師)
二三 陸軍始め觀兵式 (八日)
當地在住部隊によつて、歩兵第十八聯隊練兵場で行はれる。
二四 鏡開 (十一日)
九
【右頁】
一〇
この行事は、ずつと以前は二十日になされたものであつたが、承應三年正月二十日に徳川四代將軍家綱
が薨じたので、その年以後この忌日を避けて十一日にくり上げられて今日に至つたものである。この鏡餅
は神前だけでなく、武家では具足に、婦人は鏡臺に、供へ置かれたもので、この日になるとそれをおろし
切ることを忌んで手で缺き破り食べるのであるが、この地方では主に汁粉にして食べる。商家では藏に供
へるので藏開きといふ。
イ、供割(おそなへわり)とて正月に子を祝ふため親戚知己より矢台祝餅を贈られ、その返禮として汁粉をつくり親戚
知己を招き祝ふ、(植田)
ロ、この日をお汁粉といふ。(津田)
ハ、この日をお供割といふ。(下條・牛川)
ニ、親族を集め家内の者と揃つて汁粉を喰べる。(高師)
二五 破魔弓(矢台)
破魔弓は、裝飾せる玩具の弓二張に、矢を添えたる者で、當地方にては「矢臺」と云ふ。初めて正月を
迎へる男兒ある家に親類緣者より贈り、正月室内に飾つて男兒の武運長久を祈る。此地方では女兒には羽
子板(胡鬼板)羽根(胡鬼子)鞠を添へて贈る。
イ、十一日、矢台を祝つてくれた人を招いて汁粉の饗應をする。(高師)
二六 モチヒ餅粥又小豆粥 (十五日) 附、粥の木(粥杖)
【左頁】
これは支那から來たもので、我が國での濫觴は七種粥と同じく、宇多天皇の寛平年中であらうといはれ
てゐる。これは十五日に祝ふ粥なので望粥ともいはれ、この日をモチヒ即望の日といふ。餅を入れて喰べ
るので餅粥と信ぜられるやうになつた。又小豆を入れるので小豆粥ともいふ。この小豆粥を喰べると年中
の邪氣を攘ふといふ。この粥を炊きたる木を削り杖としたるものにて、子無き妻の尻を打てば男子を設く
ると云ひ傅へ、古は宮中の女房達も之を行つたこと古い物語に見える。この木を「粥の木」又「粥杖」と
いふ。
イ、十六日朝小豆粥を神佛に供ふ。(吉田方)
ロ、小豆と餅を入れた粥をつくる。(大崎)
ハ、昔は稗粥をつくつたが今は米粥に餅を入れる。これは五月の田植時田圃が軟かくあるやうに粥も軟
かくしたものといふ。(野依)
ニ、十六日稗粥をつくり(今は小豆粥多し)餅と共に神佛に供へ、十四日立てたオメイドを集め粥を供
へ今年の豊年をいのる。建てたるオメイギ自然に倒れると五月の田植時に病人生ずといふ。(植田)
二七 オメイギ
イ、オメイギとて門松を割木にして消炭にて月の數を書き門松の跡へ立てる。(下地)
ロ、十五日の夕方十二本(閏年は十三本)の竹を二分し人形を二本作り俵バシ(棧俵)を被せ粥を供へた。
(津田)
ハ、オニンギとて木を一年の月の數だけ組みその上に笠をかぶせておまつりをした。(吉田方)
一一
【右頁】
一二
ニ、一本の薪を二つに割りその面に墨で十二本(閏年は十三本)の線を引きこれを門に立てる。又
きれ草履(又は草履)を門につるす。(高師)
ホ、割木へ月數を線にて書き門口神前に立て、集めて二束とし一方には菅笠一方には棧俵をかぶせる。
(大崎)
ヘ、ニン木といひ割木にその年の數の筋を墨で引き門口に二本宛たて又かのし(------)とて割木を一束にし之に
笠を被せた。これは五月の田植が無事にすむやうにとて田植の姿に擬したものといふ。十八日の朝
之に粥をかけて納め五月の田植時の薪とした。(野依)
ト、二三尺の棒を一束として屋敷の一隅や門口に立てそれに笠をかぶせ小豆粥をあげる。なほ一本を二
つ割にし平年なら十二月閏年なら十三月と書き添へて祀る。(多米)
チ、十四日夜より割木に其年の月數を記し、井戸、かまど等に立て、別に割木を束となし、一束には俵
バシをかぶせ、他の一束には笠をかぶせ男女にかたどり表に立てる。(植田)
二八 左義長又ドンド
この起原は詳かでないが、徒然草に「うちたるきちやうを眞言院より神泉苑へ出して燒くなり。」と、又
辨内侍日記に、建長三年正月十六日に「さぎちやうやかれしにたれもまゐりしかども云々」とあるから、
もう鎌倉時代には行はれてゐたのである。この地方では、昔は中八町と湊町の神明社で行はれたが、今も
湊町の神明社には形ばかりの行事が存してゐる。この日社前の鳥居先に大きな左義長を立て、各戸から正
月の注連飾りや舊年の古いお札、吉書揚とて緣起のよい字句を書いたものなどを持ちよつて燒いて了ふ。
【左頁】
この火で体を溫めると一年中風邪を引かぬとか、又この火で燒いた餅を食べると惡病にかゝらぬとかいつ
て、今でもこの火を分けて來て餅を燒き汁粉にしてたべるのである。子供たちはこの火を取卷いてトンド
ヤホホ トンドヤホホと囃したものださうである。
火災の心配のない場所で注連飾や御札を燒く。百姓惣代(字惣代)の家にて餅をつき各戸より燒きに
きたものに少しづつ與へるとこの餅に注連飾や御札を燒いた灰をつけて喰べる。(高師)
二九 御湯立 (十五日) 舊
イ、ミコサ(巫女)が來て氏神にて湯を沸かし笹葉にてこれを撒き厄拂を祈り、又其年の吉凶も占つ
た。(福岡)
ロ、みこだちとて巫女が來て御湯立を行ふ。氏神で湯をわかし笹で參拜者にかける。惡魔除といふ。
(植田)
三〇 年越祭 (十五日) 舊
イ、馳走をして神前、佛前、地の神様に供へる。(大崎)
ロ、神様にナマスを打つて供へる。正月六日にも行ふ。(福岡)
三一 藪入 (十六日)
盆の十六日と合せて、奉公人には年に二度しかない安息日である。
一三
【右頁】
一四
イ、仕事をやめて休む。(津田)
ロ、妻は里へ其他は親戚へ行き行く處のないものは藪へ入れなどと云ふ程よく遊ぶ日であつた。(野依)
三二 念佛百萬遍 (十六日) 舊
嵩山寺にてこの日と盆の十六日に念佛百萬遍を執行する。新佛のある家では必ず參詣し、又この日は遊
び日故老若の參詣が多かつた。(野依)
三三 お十七夜 (十七日)
イ、餅を搗いて五膳を一枚の神の敷の上にならべ御神酒燈明又は線香を献じ十七日夜は月を拜み、十八
日朝は日を拜む。これは五穀豊熟を祈るもので同様に五月九日に行ふ。(津田)
ロ、其年の月の數だけお供餅を神前に供へ又庭に供へて月をまつる。(吉田方)
ハ、供餅を供へて月を拜むが月の見えぬ時は二十三日か二十六日に拜む。五月九日にも行ふ。(福岡)
ニ、餅搗。(大崎)
ホ、御神酒を月にあげる。(牟呂)
三四 二十日正月 (二十日)
この日は正月のお終ひであるとして、終りの雜煮を祝ひ、又二十日團子といつて小豆團子を食べたもの
である。この行事は骨正月ともいつて關西方面ではまだ盛であるやうである。
婦女子がこの日に鏡台の鏡餅を開いて祝ふのは、廿日と初顏とが訓が近いことから、かうしたことも行
【左頁】
はれるのであらう。
イ、庄屋が惣代を集めて其年の行政について話した。(高師)【項目符号が不順】
三五 初惠比須 (二十日)
(十月惠比須講參照)
イ、二十日惠比須といひ寺子など遊んだ。(津田)
ロ、豐年と家内の繁榮を祈るため神酒すあへ物を供へ夷子神を祀る。(磯邊)
ハ、夷子神に膳二つをつくり蜜柑をそへて供へる。(大崎)
ニ、朝農家では夷子様に神酒なます五目飯などを献じ家中にて祝ふ。(野依)
三六 愛宕詣 (二十四日) 舊
赤岩山赤岩寺の山腹にある愛宕大權現の祭禮で近年まで福引が行はれてゐた。福引の中の「火伏(ひぶせ)」のお
札が當ると、其人は生涯火災をまぬがれると近親をよんで祝つた。
三七 初天神 (二十五日)
寺子屋時代には随分盛だつたもので、新錢町にある天神社へ書初めを供へたりして參拜するものも多か
つたやうであるが、明治十年頃から衰へ出して今日に及んでゐる。
イ、天神様といふ。(津田)
ロ、二十五日より三月三日まで妻の里より天神をおくり子の幸を祈る。(磯邊)
一五
【右頁】
一六
三八 海神祭 (二十五日) 舊
海神を祠るため日待を行ひ子供には饅頭を頒ける。(大崎)
三九 日待
「一五九」とて正月五月九月の二の日に米をもちより、日待をする
四〇 萬歲
この萬歲はこの地方が發祥地だといはれてゐるだけに、東都方面でも三河萬歲として定評がある。この
起原は所說區々であるが、初めは禁裡や幕府で行はれ、それが後に民間でも行はれるやうになつたもので
ある。初めて幕府に出たのが小坂井の者であるといはれてゐるから、この者がこの地方での濫觴であらう。
現に小坂井町の院内に少數の萬歲師が殘つてゐる。
四一 惡魔拂
獅子舞の門付が春の來るのを知らせに來る。この附近では寶飯郡小坂井と渥美郡雲谷等から來る。
四_二 寒詣 (寒の入りより寒の明けまで)
寒に入ると、其の晩から寒詣が始まる。白衣一枚白鉢卷で腰につけた鈴を鳴らしながら神社佛閣を巡拜
する者もあれば、日蓮宗の者はお題目を唱へ、大師講の者は御詠歌をあげて町々を寒行に歩く老若男女の
群もある。又一夜もかゝさず和讃など唱して信者の家を巡行する僧侶も、以前は相當あつた。
【左頁】
二月
四三 津島祭 (二日) 舊
イ、代參の者は正月晦日に津島神社のオミトウに會ひ御札を受けてかへる。杉葉にて屋根を葺き太き竹
四本にて祠をつくり、御札と三合程のアダカ(アカダ)といふ津島名產の菓子を供へ神官の祈禱あり、祈
禱後參拜者にアダカを投げ與へる。(津田)
ロ、一月十六日(舊)津島神社へ字で代參二人をたてる。代參者は日待の夜までにかへる。(高師)
ハ、代參をたて津島様をまつり日待をする。(吉田方)
ニ、字の代參と稱し二人島津神社に代參をたてる。神酒をさゝげて家内安全を祈る。(磯邊)
ホ、代參を立てる。(植田)
四四 二日灸 (二日)
この日は灸が生れた日といはれ灸を据ゑると百倍の効力があるといはれてゐる。八月二日に行ふを後の
二日灸といふ。
四五 節分 (三日ヵ四日)
文献に現はれた最初は貫之の「土佐日記」であるといはれてゐるから、この豆撒きの行事は約一千年も
一七
【右頁】
一八
前から行はれてゐたものである。大晦日の晩禁裏で行はれた追儺の御儺が、何時か民間のものとなりて節
分の夜に熬つた大豆を撒くやうになつた。この日は家の表口裏口といはず出入口のある所には惡魔除とし
て鰯の頭、柊、とつぺらを挿す。晩には豆撒が行はれる。熬つた大豆を桝に入れ先づ神棚佛檀に供へてか
ら年男となつた者は「福は内鬼は外」と呼ばりながら先づ門口へ次で各間每に撒いてゆく。家族の者はそ
の豆を自分の齢の數だけ拾つて喰べる。子供たちは袋をもち「鬼の豆をおまきんかん、いんにやまんだ撒
かんぞ」などと誦ひながら打つれて夜の町をゆく。かうした子供たちには大豆の外に蜜柑、源氏豆、金平
糖などが撒れる。この豆撒は瓦町の不動院、花田町の英靈殿、中世古町の淸寶院などでも行はれる。
イ、豆の木に煑干の頭を挿し髪の毛を卷付け鼻汁をかけ鬼の豆の炒れる間に家の所々に挿し、籠に古草
履と柊を入れて門先につり下げ豆を撒く。(津田)
ロ、鬼が來ぬやうにとてめかごを木(又竹)の先につけて立てる。豆を炒る時にはゆづり葉を一二枚く
べる。門口に柊などを挿す時「やあかがしや、そーろつたかや、いんやまんだそーろはぬ、となり
のばあさんしやあらくさい、かーぷといつて唾をかける。(高師)
ハ、目を多くし鬼を見はるため家の外へは籠をつるし、旅人が多く立止つて福が來るやうにと門先へは
古い草履や草鞋を吊し、鬼の齒がたたぬやうにと豆を出來るだけ黑焦にする。(野依)
ニ、夕方ぐみ柊ゆづり葉とつぺら椎大豆殼等七種の枝と煑干の頭をさしたものを門先につるし、魔除と
て「エーカガシヨ、ソーダーガ、インニヤマンダソーコンヨ、オテラノババサコオウンダガ、シヤ
ラクサイ、フーン」といふ。他に竹の先に籠と草履切草鞋を多く吊す。籠は目多く、草履草鞋は人
多きを示して鬼を恐れしめんとす。大豆を煎る時も七種の枝木となるべく音のする焚物を用ひ鬼を
【左頁】
恐れさせ、二度ホイロを煎つて一つ眞黑に煎り鬼の豆として戸主明の方に向ひて「鬼は外」と三聲
呼び「福は内」とて上に向つて三聲呼びながら豆を撒く。一ホイロは上手に煎り神に供へ家内揃つ
て喰べ、殘りは初雷の時喰べれば惡病に罹らないとしまつておく。豆を煎つた後の火で其年の月數
だけ豆を燒いて一月二月と呼びながら火中より取り出しその燒方にて其年の晴雨を占ふ。(植田)
ホ、豆を煎り乍ら兩手で掻き廻し「サヽクレデキンナ」と唱へればサヽクレが出來ぬと云ふ。竿の先に
目籠を逆に冠せ庭に立て、門先に古草鞋を吊す。(牟呂)
四六 厄落 (三日ヵ四日)
節分の夜に厄鬼を拂ふによせて自分の厄落をする。古式によると、鬼の豆を自分の年の數に一を加へた
だけ紙につつみ、その包で頭から足の先まで叩き、それを古い火吹竹と一緒に持出して道の四つ辻に落し
後を振返らぬやうに戻つてくる。この地方でも明治二十年頃までは/なた(●●)餅といつて、厄年の者が箕の中へ
年の數だけ餅をとつて入れ黄粉をつけて子供にやつたり近所の者に喰べてもらつたりする。これをなた餅
を貸せる、借りるといふ。
イ、厄年の者は自分の年の数だけ錢を紙に包み村の辻に捨てて來ると厄をのがれるといはれた。(福岡)
ロ、各小字每に寄つて各戸にて百萬遍の珠數を繰つた。尚女の十九、三十三、男の二十五、四十二の厄
年には豆と文久錢を持つて辻に至り「今年は××才」とて一つ加へた僞りの年を稱へ豆と文久錢を
投げて後を向かず家にかへつた。(野依)
一九
【右頁】
二〇
四七 厄拂
大晦日と節分の夜「厄拂ひましよ厄落し」と呼んで歩く厄拂は今では殆どみられなくかつたが、以前は
盛であつて、京阪では節分の夜、江戸では文化元年以來大晦日と正月六日十四日の年越の夜廻つて來た。
この地方では大晦日と年越の夜と節分の夜に來る。
四八 事始と事納
二月八日を事始、十二月八日を事納ともいひ、逆に二月八日を事納、十二月八日を事始ともいふ。十二
月八日は正月の事をこの日から始むるとも正月の事をこの日に納めるとも、又農事の始終を現はすともい
ひ、古より諸説あり、歲時記によれば竹竿の先に目笊をつけて、家々の軒に出し、又牛蒡、芋、大根、赤
小豆等の六種を烹て汁とし、これを六質汁(むしつじる)と名づけるといふ。
四九 針供養 (八日)
婦人針の折れたるを集めて、淡島の社へ納め、一日糸針の業を停む。之を針供養と云ふとあり。近年女
學校にて行ふ針供養は種々の新趣向をなせるものあり、此地方のお針屋にては皆業を休み、裁縫具の手入
をなし、のつぺい汁を作り膳部を裁縫具に供へ、針子を饗應す。
イ、生豆腐を膳か三寶にのせ折れた針や針孔(みぞ)のかけた針を挿して芋小豆菎蒻などを煑ておつぼに入れて
供へ祠る。後針は蘇鐵などにおさめる。(大村)
【左頁】
ロ、お針子をおく家ではあやまちのないやうお針子と共に佛様にまゐつた。(吉田方)
五〇 送神 (八日) 舊
送神は疫病神を拂ふので、疫病がはやれば夏臨時に行つた。
イ、杉の葉で舟を造り二人でかつぎ鉦太鼓をうちながら歩いた。(大崎)
ロ、檜葉で舟形の御神輿の如きものを造りその中へ藁で作つた人形を載せ二人してかつぎ僧の讀經後鉦
や笛で村境まで送り賽の神へ納めた。囃子はチヤンチヤンチヤコチヤンヒーヤラヒーヤラヒーヤラ
フーとて賑やかだつたさうだ。明治十二三年まで行はれた。(野依)
ハ、オカタナガシとてひるま村の子供が村中廻つて紙一枚、藁筋(一二本)錢を集め、晩村人は春日神
社前に集り、紙藁を資として非常に大きいリンガとヨーニを造り小舟にのせて僧侶の讀經後、鉦を
たたきながら神社を左まはりに一廻りしてオカタ場へ持つて行つて流した。これは厄拂として今か
ら三十五六年前まで行はれた。(多米)
ニ、杉檜などの葉で三角の舟をつくり其隅へ人形をつけ笹にしで(幣)をつけ各家の軒を拂ふ。終つて
河か池に流した。(植田)
五一 八日餅 (八日) 舊
イ、餅をつき一枚の神の敷(折敷)に十二(閏年は十三)餅を供へ燈明線香を上げてお祓いをする。(津田)
ロ、餅をついて神に供へる。(福岡・植田)
二一
【右頁】
二二
ハ、餅をつき神佛に供へる。(磯邊)
ニ、餅を搗き其年の月數だけ神佛に供る。事始とてこの日村の總集會を開いて役割などを定めた。(野依)
五二 初午 (初の午の日) 舊
二月初の午の日に稻荷神に祀るのは、京都伏見の官幣大社稻荷神社がその地に鎭座せられたのが、女帝
元明天皇の和銅四年の二月九日で、その日が恰も二月最初の午の日であつたからだといはれてゐる。
この日稻荷社のあるところでは、お祭が行はれるが、昔は中々盛であつた、當日は赤飯を蒸してつも形
(紡錘(つむ)形)に握り、子供に與へたり稻荷様に供へたりした。子供たちは字が上手になるやうに五色の紙又
赤い木綿へ「正一位稻荷大明神」と書いて供へる。
この日旭町の櫻下稻荷では沿道の地に行燈をかけ神樂や人形芝居などがあつて賑やかだつたといふ。牛
馬を飼つてある家ではこの月の午の日小松原觀音寺へ參詣して繪馬と笹を求め、馬屋の入口にかけ、魔除
とする。もとは二の午のみだつた。又この日豐川稻荷へ參詣する人も多い。
イ、白强飯を供へて以前は盛だつたといふ稻荷社の祭典も今は行事年番が形式的に行ふだけになつた。
(野依)
ロ、城趾の幸稻荷では餘興に芝居がある。(大崎)
ハ、五色の旗をたててお祭をする(吉田方)
ニ、稻荷社にて餅投を行ふ。(植田)
五三 紀元節 (十一日) 附、建國祭
【左頁】
神武天皇が大和國橿原宮で御即位の式を擧げさせ給うた日を紀念する爲の節日で、この始は明治五年一
月二十九日であるが、同七年太陽曆に換算して今日のやうに決定された。この日宮中では御親祭があり、
内外の使臣を召されて■【「酺」の偏と旁が交換】宴を賜はるとのことである。
尚近年「建國祭」といつて、この日を祝ふことが盛になりつゝあり、現に當地でも拜賀式後市主催の下
に歩兵第十八聯隊練兵場にある神武天皇御銅像の前に於いて擧式、終つて種々の催しものが行はる。
五四 鬼祭 (十四、十五)
もとは正月十三日十四日に行はれた中八町縣社神明社の神事で、天狗の面をつけ侍烏帽子を被り具足に
身をかためた鼻高が薙刀をふるつて、鬼面を被り橦木をもつた赤鬼とたたかふ。赤鬼は負けて社地より逃
げ出し氏子全町を驅けめぐりながら、鬼面の紋のついた裃をつけ赤足袋をはいた若者等が「アーカーイ、ア
ーカーイ」と從ひ、途中タンキリ飴を撒く。夏病をしないと人々爭つて拾ふ。この外日の出神樂、射的、
鼻高の薙刀舞、ポンテンザラ、チンバ踊、鼻高四天師、神樂兒、笹良兒の神樂、榎王爭、御/主様(かしらさま)の渡御な
ど古雅な行事が行はれる。尚當日沿道の露店でこの神事にちなんで、天狗面、鬼面、薙刀、橦木等を鬻い
でゐる。
五五 涅槃會 (十五日) 舊
我が國では平安朝時代の初め、京都の山階寺で初めて行はれ、永く仝寺の恒例となつてゐたが、後宮中
で行はれるやうになり、諸國の寺院がこれに傚つて涅槃會を營むやうになつたものである。この日各寺々
では涅槃像をかけ、參詣に來た子供たちにお鼻糞を吳れる。
二三
【右頁】
二四
イ、この日を御釋迦様といつて團子とオテカケをつくり祭る。(津田)
ロ、米の粉でオテカケおハナクソと稱する團子をつくつて色をつけ供へる。(大崎)
ハ、寺でオテカケとて團子をつくり參詣人に與へる。(植田)
ニ、寺でオテカケをつくり子供に與へる。(野依・牛川)
五六 祈年祭
これはとしごひの祭ともいはれ、年穀の豐穰を祈禱する大切な祭儀で、宮中におかせられては二月四日
天皇御親祭遊ばされるが、各神社では吉日を撰んで幣帛神饌の料が供進される。この御儀は天武天皇の御
宇四年二月に始まつたと傳へられ、次いで文武天皇の大寶令で略々定まり、醍醐天皇の延喜式で完備され
たが、應仁の亂後全く廢絕に皈し、それが明治二年になつて漸く再興されたものである。
イ、横須賀ではこの日厄年の男女が集つて芝居等をやり厄落をする。(津川)
五七 太子講 (二十二日) 舊
この日聖德太子の御忌日である。
イ、大工左官など太子様を祭つて日待をする。(福岡)
ロ、大工左官など聖德太子の像をかゝげて祭る。(高師・大崎)
五八 初天神 (二十五日) 舊
この日は菅原道眞公の正忌日なので男子のある家では天神様の畵像を出して祭つた。今年初めての會だ
ので初天神といふ。
【左頁】
三月
五九 雛祭 (三日) 舊
古くから行はれてゐた雛遊びが、三月三日の雛祭となつたのは後土御門天皇の頃からだといはれてゐ
る。それが最も盛となつたのは德川時代で、五節句の一として重要な祝日とまでなつた。
この節句は元々女兒のものであるが、この地方では男兒のためにもその誕生を祝つて雛壇に天神を飾
る。その飾り方は先づ雛壇を作り上に親王、妃一對の雛をおき、其下の段に隨身、官女、五人囃子、仕丁
の人形を並べ、其前に雛に附屬してる調度を並べる。之を内裏雛といひ、器具一切は内裏のに似せて小さ
く作つたもので、膳部一式、簞笥、屛風、樂器、茶道具、貝桶、唐櫃、文庫、乘物其他の食器類など、生
活に必要なものを一式並べるのである。之に供へる食物は凡て小さく作り。客を招き其小さき道具で御馳
走をして遊ぶのである。
此時是非供へるものは蓬餅と桃の酒で親族や知己に贈るのが古例であるが、此地方では女兒の初命日に
は初雛とて親戚知己より雛人形を贈り、其返しとして紅白靑の色餅を配り、男兒にも天神の像を飾る。尚
以前は雛壇の上に江戸繪(錦繪)を美しく張廻した。
六〇 地久節 (六日)
皇后陛下の御誕生日である。公式の祝日ではないが、女樂校では休業になる。
二五
【右頁】
二六
六一 陸軍紀念日 (十日)
明治三十七八年戰役に際し、同三十八年三月十日、我が日本軍が奉天の大會戰に於いて露軍をして再び
起つ能はざらしむるまでに粉碎して大勝利を博し、講和を早めた國民の等しく忘却できぬ國家的紀念日で
ある。
六二 金刀比羅詣 (十日) 舊
この日は岩田町田尻の琴平神社の祭禮で近鄕よりの賽客多く、植木市が立つ。
六三 彼岸 (春分前後七日)
春分の日を中日と云ひ前三日に入り、後三日で明ける。この一週間を彼岸といふ。一般に墓參をし、彼
岸團子を拵へて親戚緣者に配る。
六四 春季皇靈祭 (二十一日ヵ二十二日)
春分と秋分の日には、宮中に於かせられては、皇靈殿で曆代の天皇、皇后、皇妃、皇親の神靈をお祭り
する御親祭が行はせられる。尚この日宮中の神殿では、八神並に天神地祇を御親祭遊ばされる神殿祭があ
る。
この皇靈祭の始原は、明治四年の春で、それが春秋二季になつたのは明治十一年からである。
【左頁】
六五 社日詣 (社日の日)
社日とは春分、または秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日のことで、この日石の鳥居のある神社を七ヶ所巡拜す
ると長病しないといふので、今も尚行はれてゐる。この日はいろ〳〵の種を蒔いて、田の神と土の神を祭
るべき日だといふ。燕はこの春の社日に來るといふ。
イ、參詣者にはツマメ(つまんでつくる)といふ菓子を頒つ。(牛川)
ロ、有志の人石の鳥居のあるお宮を十社詣る。(植田)
六六 御影供 (二十一日) 舊
弘法大師入定の正忌日で、眞言宗の寺では大師の御影を安置して供養する。近頃他宗の寺でも行ふ。參
詣人夥しく、殊に八十八ヶ所のある所では、これを巡つて歩く善男善女でひきもきらず、雜沓を來す。こ
の日信心家で餅、菓子、甘酒、旗等を接待する九月二十一日も同様に賑ふ。
六七 學校卒業式 (二十四日前後)
六八 水口祭 (下旬)
水口は苗代へ水を引き入れる口で、ここから水が入らないと稻苗が枯死するので、籾を蒔上げた時之を
祭る。
二七
【右頁】
二八
イ、種籾を燒米としこれを田の水口へ播いて水ききのいい様におがむ。(高師)
ロ、燒米を米がよくとれるやう、田のこはれぬ様とおがみながら水口へ播く。(大村)
ハ、燒米を田の水口に播き豐作と、水口のこはれぬやうに祀る。(下地)
ニ、籾種を蒔いて苗が靑々するやうに菜飯を焚き、燒米と共に水口へ供へる。(牟呂)
六九 道燒 (中旬-下旬)
この頃の農家では春芽の出ない前枯草を燒いて害蟲の卵を殺す。
【左頁】
四月
七〇 始業式 (一日)
學校入學式と始業式が行はれる。
七一 神武天皇祭 (三日)
この日は神武天皇崩御の日で、宮中では皇靈殿に於いて御親祭遊ばされ、又大和國畝傍山/東北(うしとら)陵に勅使
を派遣して御陵祭を行はしめ給ふ。この祭事は孝明天皇の萬延年中に始めて行はせられ、爾來恒例となつ
たが、明治六年新曆採用後は、舊曆による崩御の日である三月十一日が四月三日に換算されて今日の如く
なつた。
尚當日は歩兵第十八聯隊練兵場の北隅にある神武天皇御銅像に參拜する者が多い。この御銅像は元東八
町に征淸記念として奉祀されたもので、岡崎雪聲翁の鑄造になり、明治三十二年三月九日除幕式を行ひ、
全國的に著名のものである。
七二 灌佛會 (八日)
我が國では、推古天皇の十四年四月、奈良の元興寺で行つたのが、この起原であるといはれてゐる。以
前は舊四月八日に行はれたものであるが、今では殆ど新曆で行はれるやうになつた。この日各寺院では、
二九
【右頁】
三〇
花御堂といつて色々な花で屋根を葺いた小さい御堂の中央に、小さいお釋迦様の像を安置して灌佛會を行
ひ、參詣人は甘茶を汲んで像の頭から灌ぎかける。當日子供たちはてんでに壺や瓶などの入れものを持つ
てその甘茶を貰ひに行つた。最近この日には、佛敎會によつて賑やかに花祭が催される。
イ、紫雲英にて御堂をつくり灌佛甘茶の接待がある。(津田)
ロ、寺で小御堂をつくり雜草の花にてかざり灌佛と甘茶の接待がある。(植田)
ハ、家每に卯の花を飾り糠を家の周圍に三度撒く。(大崎)
ニ、門口に卯の花を挿す。(野依)
七三 卯月八日 (八日) 舊
「千早振る卯月八日は吉日よ神さげ蟲をせいばいぞする」と書いて家の入口の柱の下部に倒にはる。蛇
の入らないまじなひである。此日節分の柊やトツペラを卯の花に挿しかへる。
七四 小坂井祭(風祭) (十月十一日)
この日は小坂井町𫟏足神社の例祭で、下地町、下五井町、瓜鄕町が氏子に入つてゐる。笹踊のあの山車
も出るし、煙火も放揚され、とりわけ建物(煙火)は雄大なものである。
境内の露店で鍾馗の面と風車がひさがれてゐるが、鍾馗の面を家の中に吊しておくと災厄を除かれ、風
車を愛玩すると夏惡疫に罹らぬといふ。
【左頁】
七五 神御衣祭 (十四日) 舊
これは神のお召物を大神宮へ供進する神事で、この祭は太古天上で起つたといはれてゐる。垂仁天皇の
御代、奉献の御衣を織らしめられてから續いて行はれたが、應仁の亂後久しく廢絕してゐたのを元祿十二
年再興されたものである。
湊町の神明社では明治七八年頃まで行はれ、當時は吉田全市の祭としてなか〳〵盛なものであつたらし
く、もう十一日頃から一般に機織や裁縫を休み、各町から選ばれた女兒は思ひ〳〵に着飾り互に手に手を
連ね、
〽御衣ヨイナアヨイヨイ ふれふれ六尺袖をナア袖を振らねば踊られぬ。
〽御衣ヨイナアヨイヨイ 御衣踊子が橋から落ちてナア橋の下では踊られぬ。
などゝ唄ひながら袖をふり〳〵ねり歩いたものであるといふ。
七六 天長節 (二十九日)
畏くも今上天皇の御降誕日である。この日陛下には賢所、皇靈殿、神殿の御祭典後觀兵式に臨御、御皈
還後拜賀を受けさせられ、豐明殿に於いて内外使臣に酺宴を賜はるのである。
この天長節は光仁天皇の寶龜六年から行はせられ、その後久しく中絕してゐたのを明治元年御再興にな
り、爾後恒例となつて御代々行はせられてゐる。
當地では、この日陸軍在住部隊によつて歩兵第十八聯隊練兵場で觀兵式が擧行される。
三一
【右頁】
三二
七七 疱瘡祭
疱瘡祭は疱瘡を免れんために疱瘡神を祠る。
イ、種痘検査を受けた日から一週間女竹にて小さい棚を造り赤い御幣にささげ赤紙を敷き每日竹壺へ御
神酒を入れ赤飯と共に献じ祠り、後門先へ納める。(牟呂)
ロ、種痘後竹にて棚を造り赤飯をあげ赤紙にてしめをはり祀る。(吉田方)
ハ、もとは疱瘡を病んだ時行つたものだが今は最初の種痘を終へた時行ふ。先づ竹で一尺五寸四方位の
簀をあみ四方に赤紙をつるし中央に赤飯と神酒を供へ氏神か家の門口につるす。(福岡)
ニ、もとは疱瘡にかからぬやうに祭つたものだが、今は輕くすむやうに祭る。竹で一尺に六寸位の棚を
あみ四隅は二本の注連繩にて結び棚の一邊に赤紙をはる。棚には神酒を供へ門先に祭る。(高師)
ホ、御棚を造り神酒赤飯を供へる。(大崎)
ヘ、もとは疱瘡を病んだものが全快後顏の醜くならぬやうに祭つたもので、先づ女竹を二つに割つたも
の五本で棚を作り四隅に繩紐をつけ吊し赤紙で飾り赤飯を供へて數日祭り後氏神の境内へ納めた。
棚の竹は粗き程いいと言ふ。尚赤飯は之を近所へ贈つた。今でも子供の始の種痘後この行事を行ふ
ものが多い。尚昔は疱瘡を病むことが輕く濟むやうにと棚を納める時棧俵を尻に一つ敷き頭に一つ
載せて顏に酒粕を塗つたさうで、今でも納める時に棚の上と底に棧俵を吊したものがある。(野依)
ト、俵バシ(棧俵)をつけ竹にくくりつけ神社の木へ納める。(植田)
七八 道役(春季)
【左頁】
この頃から農家がせわしくなるので、田の道、村の道の修理をする。
イ、この頃字で部分けして道普請をする。靑年團員が行ふ字もあり、仕事後日待をなす字もある。
(津田)
ロ、字總出で字内の道の修理をし役日待を行ふ。(福岡)
ハ、各戸一人づつ出て村道作道の普請をし終つて日待をする。(野依)
ニ、各戸一人出て道普請をし晩は白米三合づつ集めて日待をする。(牛川)
三三
【右頁】
三四
五月
七九 (八十八夜) (二日ヵ三日)
籾おろしの標準になる日で立春より八十八日目で、春霜の置くのは此の夜を限としてゐるといふ。
毒を持つ鶴が井戸へ舞ひ降るというて昔は井戸へ蓋をした。又今日は籾を苗代に播種する日と定めて播
種を終ると餘つた籾を炒て燒米をつくり之を神佛に供へ、苗代の溝口へ蒔いて苗の生長を祈る。(野依・
牟呂)
八〇 端午 (五日)
支那に始まつたこの行事が、いつか我が國へ傳つて、天平時代の聖武天皇の御代には旣に行はれて居
り、平安朝時代、德川時代には、極めて重要な式日とまでなつてゐたやうである。明治となつて五節句の
制は廢されたが、民間では三月三日の雛祭と共に未だ盛に行はれてゐる。
この節句が近づくと、男兒のある家では屋外に武者繪の幟や鯉の吹流しを立てゝ屋敷には座敷幟、五月
人形などを出して飾る。この日には、どの家でも軒端に菖蒲と蓬を挿し、柏餅を拵へたり、菖蒲湯を沸し
たりする。復頭痛が癒るなどといつて菖蒲で鉢卷をする者がある。神社では、今でもお參りに來たものに
粽(ちまき)を吳れる所もある。
尚この節句に、けろり(●●●)、やつはな(●●●●)、からませ(●●●●)などの凧を揚げて樂しむのはこの地方特有である。又男兒
【左頁】
の初節句には、親類知己に大きな柏餅を配り、大凧、幟、鯉の吹流し、武者人形などを贈られる。その正
しき儀式は先づ家族一同衣服を正して着座し、祝の親(上輩の人を賴みてする)と、初節句の小兒を上座
にすゑ(常の節句には親等順)一同祝の挨拶をなし、兒の武運を祈り、菖蒲酒を出す。この菖蒲酒は酒に
菖蒲の根の赤い所を刻んで入れたものだ。一同すむと粽の膳を出す。之が今は柏餅となつたのだ。之が濟
んで二汁五菜の本膳を出して祝ひ、式は終る。
八一 六日香煎 (六日)
イ、香煎と切つたト草(トト草)を家の周圍に撒く。(大崎)
ロ、香煎のサナゴ(皮の粉)とトト草をきりまぜ家の周圍にこれを撒きながら「蛇もまむしも出んなよ」
と呼ばる。(福岡)
ハ、新麥にて香煎をつくりトト草の實とまぜ桝に入れ「長虫はいんな」と稱へながら屋敷の周圍に撒
く。(牟呂)
八二 海軍記念日 (二十七日)
この日は、明治三十七八年戰役の際、同三十八年五月二十七日日本海々戰に於いて我が聯合艦隊が、露
國のバルチツク艦隊を邀撃、一擧にして潰滅せしめ空前の大勝利を獲得した國家的記念日である。
八三 お寅御前(虎が雨) (二十八日)
三五
【右頁】
三六
この日降る雨をお寅御前の涙雨といふ。古、此日大磯の虎御前曾我祐成に別る。其涙雨となると、由に
曾我の雨ともいふ。
八四 田打餅 (下旬-六月上旬)
一般に農家では田打の終つた時餅をついて祝ふ。
【左頁】
六月
八五 衣更 (一日)
昔は五月一日から節句までに冬物から袷になつたのだが、新曆を用うるので今この日は袷から單衣にな
る。
八六 惡病除 (一日)
この日紫陽花を軒につるして惡病除とする。
八七 山開 (六日)
この日大峯山をまつる。法印(眞言宗の僧)が御幣をつくり護摩をたき、日待をする。(津田)
八八 時の記念日 (十日)
天智天皇が皇太子で在らせられた時、始めて漏刻(水時計)といふものを御造りになつて新天文台に置
き、鼓や鐘を打つて時を國民に御知らせになつたのが我が國に於ける濫觴で、それが六月十日に當るの
で、この日を「時の記念日」として、時間觀念の普及に力を注いでゐる。
三七
【右頁】
三八
八九 祇園 (十五日) 舊
この日一般に祇園鮫が出るといふ。
イ、燒餅を神に供へる。(福岡)
ロ、うどん燒餅をつくる。(大崎)
ハ、津島天王社へ各小字の津島講より代參をする。祇園へ供へんがため燒餅をつくる。尚この日に菜種
等の種子を取つた不用のものを川へもつて行つて納める。(野依)
ニ、この日祇園鮫が居ると田廻りを禁じ、盥の水の中にも祇園鮫が居ると洗濯をしなかつた。この日より
前の水死人は祇園鮫に取られたといふ。當日はうどん粉で燒餅をつくり、又うどんを食べる。(牟呂)
ホ、燒餅をつくる。この日川、池に行けば川小憎が出て來ると、子供らの水あそびをとめる。(植田)
九〇 輪くぐり様(夏越祭) (三十日)
夏越祭ともいひ、本町の素盞嗚社で行はれ、拜殿前の「ちの輪」ちがやでつくつた輪をくぐると夏病を
しないといふ。「おみよし様のお立ちやれ出ておがめ」と誦はれるおみよし天王は夜の十二時に當社を立
ち、大橋の上から豐川へ投げられる。このお札を川下の吉田方では拾つておみよし様を祭つた。今はただ
お祭をするのみである。
九一 大祓 (三十日)
大祓は全國民の罪と穢とを祓ひ除かんために執行される極めて大切な神事で、每年六月と十二月の晦日
【左頁】
に行はれるが、國家的災變や疫病流行の時などには、臨時に行はれることもある。
起原は遠く神代に伊弉諾命が服を脫して黄泉の穢れを水で洗はれ給ふたことに始まり、これが六月と十
二月に行ふやう定められたのは文武天皇の大寶令以後であると云ふ。これも應仁の亂によつて一時廢絕
し、元祿四年六月再興せられたが盛大とならず、明治四年六月この舊儀を御復興、天下一般にも修行させ
るやう布告せられて現今に至つたものである。
九二 さびらき (梅雨頃)
イ、田植の前夜御馳走をつくる。(大崎)
ロ、夏至より七日間を七日/下(さかり)、八日目を八日下と稱し田植を初め數日間に終へたものだが、この頃は約
十日前後おくれる。(野依)
ハ、初めて田植を行ふ日神前に神酒を供へる。(磯邊)
ニ、よき日を選んで苗の植初をなし御馳走する。(福岡)
ホ、七月一日頃から七日頃までに植る。樂校では田植休を行ふ。(牛川)
ヘ、サビラキといひ、よい日を選んで植初む。(植田)
九三 ゴンゲラボー
イ、田植がすむとゴンゲラボーといつて鋤を新筵の上にならべ御膳を上げる。同事に惠比壽様や荒神様
に早苗の小束と御膳を供へ豐作を祈る。(牛川・下條)
三九
【右頁】
四〇
ロ、田植がすむと苗二把と神酒を惠比須様へ供へる。(下地)
ハ、ハゲンを中にして田植を行ひ植終ると後花穗(ゴンゲノボウ)とて御馳走する。(植田)
九四 農休
一般に田植がすむと農休とてうどんを喰べて遊ぶ。
イ、田植の終つた時農休とてもとはどこでもうどんを打つて馳走したが今はきまつては居ない。(福岡)
ロ、樂校で母姉會を開く。(磯邊)
ハ、この日仕事をやめて終日遊ぶ。又小字にて日待をし、各伊勢講より伊勢神宮へ代參をたてる。
(野依・大崎・磯邊)
ニ、麥刈と田植が終り入梅が明けた時農休を二日行ふ。この日うどんを喰べる。七月十日頃になる。
(牛川・下條)
九五 萬燈おこし (三十日) 舊
單に「燈籠」又は「盆燈籠」ともいひ、七月朔日より晦日まで新佛供養のため、家々にて燈籠をかゝぐ
る。
イ、初盆の家では盆月燈す萬燈を近所の人々の手によつて建てる。(福岡・磯邊)
ロ、新佛のある家では親類、組中の人集り高萬燈を建てる。(野依)
ハ、葬組(とむらひぐみ)の者初盆の家に集り高萬燈をつくる。燈籠は板作で每晩燈明をつけ高く竿に釣り上げる。下
【左頁】
のお棚には戒名へ水や線香が上げられるやうにする。施主は赤飯を出して勞を慰ふ。(牛川)
ニ、七月一日に新佛のある家で靑竹で位牌をすゑる台を作り燈火をつり供養して月の終に流す。
(吉田方)
ホ、新佛の家のみ七月一日より一ケ月間表へ台をつくり萬燈をつり御燈明をあげる。(植田)
ヘ、新佛の家へ親類隣人集つて朝建る。七月中夜每灯を献ず。(牟呂)
四一
【右頁】
四二
七月
九六 專願寺詣 (一日) 舊
馬見塚の專願寺へ行くと新佛に會はれるといふので、初盆の家では親類緣者までが夜から朝へかけて詣
りに出かける。
九七 淺間詣 (一日) 舊
嵩山の淺間神社へやはり夜から朝へかけて出かける。專願寺詣をかねて行く者も多い。足淺間、腹淺
間、頭淺間と詣る。
九八 ハゲン (半夏正) (二日ヵ三日)
農家はこの日までに植付を終る。夏至より十一日目。
九九 七夕祭 (七日) 舊
支那から古く輸入された行事で、我が國では公事根源などによると、天平勝寶七年から始まつたやうに
見えてゐる。この祭式は、時代によつて異動はあつたが、幾變遷の後德川時代になると、五節句の一と定
められて、上下一般に祝ふやうになり、殊に元祿前後が最も盛に行はれたといはれてゐる。それも明治に
【左頁】
なつて五節句が廢せられてからは、次第に衰へて今日に至つたが、まだ相當に名殘をとゞめてゐるやうで
ある。この地方でも寺子屋時代にかなり盛だつたらしく、夜になると軒に額を揚げて灯を入れる家が多か
つたが、これは今では殆ど見られない。まだ笹に七夕の歌を書いて短冊を結び初物の農作物を供へて祭
る。以前は芋の葉の露をとつて來て、それで短冊に歌を書いた。七夕竹は市街部では主に夜に入つてから
橋上から豐川へ流す。
イ。昔は寺子屋や御師匠様の家に集つてお祝をした。(福岡)
ロ、八日朝川へ流す、(植田)
一〇〇 額祭 (八日) 舊
下地町の藥師様のお祭の日藥師瀬古に切繪押繪の額をかかげる。昔は七夕に飾つた額を翌日藥師堂にお
さめて祭つた、(下地)
一〇一 能祭 (七日八日)
魚町の權現様安海熊野神社の祭禮で、この日境内の能樂殿にて氏子の能樂及狂言が奉納される。それに
用ひる裝束は舊藩主の舊藏にかゝり、能面中には室町中期の秀作があるといふ。
一〇二 四萬六千日 (十日) 舊
觀音の功德日にあたり、此日早朝參詣すれば百餘年の參詣にあたる功德があるといふ。
四三
【右頁】
四四
一〇三 祇園祭 (十三日十四日十五日)
關屋町に鎭座する縣社吉田神社の例祭で、もとは六月に行はれた。この煙火祭は全國的に著名で舊幕時
代には祭禮中本町の通行止をして、藩主御覧のうちに道で煙火をあげたといふ。今では十三日は神社境内
で大筒手筒亂玉等が、十四日には豐川の船の上で打揚、仕掛煙火、金魚等の煙火が出される。十五日は神
輿の渡御で笹踊、十騎、賴朝と乳母、饅頭喰ひ等、古雅な行列があるく、饅頭喰が携へてゐる袋から投る
小饅頭を拾つて喰べると夏病をしないといはれる。この祇園祭には氏子にかぎらず一般的にうどん、金つ
ば等小麥のものを喰はねばならぬとされてゐた。
一〇四 盆 (盂蘭盆會) (十三-十六日)
これが印度から支那に傳り、支那から我が國に齎されたのは、齋明天皇の三年であるといはれ、爾來禁
中恒例の佛事となり、每年七月十四日に行はれたが、民間にも傳はつて正月と年内を兩分する程の大きな
行事となつたものである。
先づ精靈棚を佛間の一隅にしつらへ、その上へ眞菰の蓙を敷き、先祖代々の位牌を正面に並べる。前に
笹竹を立て施餓鬼旗を吊し、櫁とみそはぎの花をあげる。尚茄子でつくつた牛を飾り、十三日の夕方迎へ
火を門口に焚きお精靈様を招く。十四十五の兩日はこのお精靈様を饗應し、十六日には送り火を焚いて送
る。淨土宗による献立は
十三日夜 おつきというて團子を供へる。
十四日朝 御飯といとこ煑(豆汁)
【左頁】
晝 牡丹餅と茄子の山椒あへ
夜 御飯と南瓜里芋牛蒡の煑もの
十五日朝 御飯とおがしあへ(里芋のずゐきと茄子のあへもの)
晝 麵類(うどん、索麵など)
夜 御飯と南瓜里芋などの煑もの
十六日朝 お立(たち)といつて御飯ともみ菜の味噌汁
お精靈送は今では多く十五日の夜中に行ふ。お立の御飯を夜中にすまし、蓮の葉、土器など供へものは
一切蓙に入れて近くの川へ流しに行く。この時送團子といつて團子を六つ添へる。新佛のある家では夜に
なると親類緣者から贈られた提灯や燈籠に打を入れる。十五日には親類緣者を招いて百人体の松焚をす
る。この四日間僧侶は檀家を棚經に廻り寺では施餓鬼が營まれる。この間墓參に行き、墓を美しくした
り、花立をかへ櫁みそはぎを立て、盆中每夜家人が松焚に行く。
イ、十二日晩藥師堂の施餓鬼會があり、露店商人多し。十四日東雲院施餓鬼會あり、新佛のある家では
白布にて三角の袋を作り之に米を入れ扇子と草履をつけ寺へ供へる。十五日には嵩山寺施餓鬼會が
あり十六日には嵩山寺境内の十王堂の施餓鬼があり、新佛のある家では隣村植田よりも參詣人が來
る。(野依)
ロ、梅田川堤に施餓鬼場を設け附近の寺の住寺にて供養する。(高師)
ハ、二十四日海岸へ棚を作り、燈籠を吊し讀經あり、後燒く。(大崎)
ニ、二十四日豐川岸でも川施餓鬼が行はれる。(下地)
四五
【右頁】
四六
一〇五 夜念佛(四遍) (十三日) 舊
盆の新佛の供養に村の若者等が鉦太鼓で念佛を唱へながら廻るのを夜念佛といふ
イ、夜念佛といひ、村の若者が鉦や太鼓で村中を五色の紙で張りつめた切子燈籠をもつてねり歩き、新
佛の家に來ると佛が子なれば子和讃、親なら親和讃をとなへた。(福岡)
ロ、夜念佛といひ「タームレ〳〵シヅメテタームレ」と誦しつつ村中を廻つた。(大崎)
ハ、十三日より十五日まで夜念佛をとなへながら三人大きな鐘をたたき、二人鉦をたたき、新佛のある
家へ行つてまるく廻り乍ら念佛を唱へた。これを四遍踊といふた。(野依)
ニ、明治中頃までは村の若者が念佛を唱へながら新佛の家を廻つて歩いた。(多米)
ホ、念佛とてもとは新佛の家へは靑年等で鉦太鼓にて念佛をとなへ見舞に行き杓子にて各家の稗をもら
ひあるいたといふ。(植田)
一〇六 中元 (十五日) 舊
三元とて、上元は一月十五日、中元は七月十五日、下元は十月十五日と三つの節日がある。古來支那で
はその夜は徹夜で歡を盡した。我國に入つては盆と同日になり蓮の飯を炊いて客をもてなした。現在七月
に入り十五日までに親類緣者と贈答して歡を交ふ。今は新、舊、月送り三通り行はる。
一〇七 十王詣 (十六日) 舊
【左頁】
東田町太蓮寺にある十王堂はもと東新町から瓦町へのぼる十王坂にあつたもので、盆の十六日には閻魔
様に詣るもので賑つた。今でも大蓮寺で行はれる。この日閻魔様を始、冥土の十王に對して施餓鬼の說敎
が行はれる。
一〇八 藪入 (十六日)
もとは一月十六日の藪入だけだつたが、七月にも行はれるやうになつた。この日出稼人や奉公人が家へ
歸つて休む。
イ、早朝に精靈様を送り出した日だので女や年寄まで手足を伸して休養する。俗に「餓鬼の首もゆるむ
日」といふ。(牛川・下條)
一〇九 花祭 (十七日十八日)
新錢町の白山比咩神社の例祭を花祭といふ。昔から鬼祭祇園祭と共に吉田の三大祭として名高く花祭と
てにぎやかな祭禮で神樂と渡御行列がある。
一一〇 ウラ盆 (二十三日二十四日)
この地方では後まつりをウラ盆といふ。盂蘭盆を裏盆と誤つたのだらう。
イ、二十三日精靈のまつりもするが遊日とする。(野依)
ロ、墓地で三昧施餓鬼を讀んで無緣仏の供養をする。施餓鬼の前に供へた飯をいただくと夏病をしない
四七
【右頁】
四八
といつていただく人もある。(牛川・下條)
ハ、寺參を行ふ。(植田)
一一一 土用餅 (土用の入)
夏の土用の入の日に餅を搗いて喰べると暑氣中りをしないといふて古來小豆餅を食ふ。これを土用餅と
いふ。
一一二 土用鰻 (土用の丑の日)
夏の土用の丑の日に鰻を喰べると夏病をしないといふ。
一一三 蟲干 (土用干)
蟲干は土用干とも云はれ、土用に入つてから家中の着物や家寶、書籍などを日に干し、風を通したもの
である。神社や佛寺ではこの蟲干の時に寶物を拜觀させてゐる。
一一四 疫病除
夏期など惡疫が流行した時は津島の御札を受けて村境の道路の兩側に竹を立て注連を張り其の御札を
祀り防いだ。(野依)
【左頁】
八月
一一五 八朔 (一日) 舊
この一日は、昔たのむの祝といつて鎌倉時代以後恒例の武家年中行事となつたが、それが田の實の祝に
轉じて、農村に於ける重要な行事となつたものである。德川時代になつては、家康江戸入城がこの日に當
つたので、正月元旦についで嚴かな式日と定められてゐたやうである。
イ、粟餅を搗き小豆飯をたき仕事を休む。(津田・磯邊)
ロ、粟のこは飯をつくる。(高師・野依)
ハ、たのもの朔日といひ、粟のこは飯をつくる。(牟呂)
これ等の風漸く行はれず。
ニ、粟のこは飯をたき神に供ふ。(植田)
一一六 月見 (十五日) 舊
これが中秋の名月で、本式の月見はこの夜であるとされてゐるが、舊藩時代は城中でこの夜お月見が催
された爲に、民間では後の九月十三夜に行ふやうになつた。
一一七 うんか送 (蟲途)
四九
【右頁】
五〇
日は定めないが八月に入り若い穗の育ち盛りに農家では蟲おくりをする。これは害蟲を田から他へ送り
出すのである。
イ、麥藁で先づ人形をつくり板にのせこれを二人してかつぎ僧侶の讀經をすまし他の村人たちと手に手
にたい松を持ち鉦をたたきながら畦を「送り神を送れやい」と唱へてゆく。(高師)
ロ、秋葉様よりたい松の火をうけ村人畦に列をつくつてうんかを送り村はづれに到つて之を燒き殺す。
(福岡)
ハ、うんかの發生した時に行ふので明治二十三四年まで行はれてゐた。先づ古竹を集め束とし其先に松
火をくくり火をつけ行列を作つて笛太鼓鉦で囃子を入れ畦をねり歩いた。竹の竿の長い程自慢して
ゐた。(野依)
【左頁】
九月
一一八 二百十日 (一日ヵ二日)
立春から二百十日目、この日前後には暴風雨がよくくるので、農家は丁度稻の一穗走りといつて、穗の
出初だので、早朝宮詣をし厄害を除く様祈願する。又二百二十日も同様の厄日とされてゐる。
一一九 オカヅラ節句(菊節句) (九日) 舊
これも支那で始まつたもので、我が國にはいつ渡來したか明らかでないが、日本紀に、淳和天皇天長元
年九月九日に行はれたとあるのが、文献に現はれた最初のものであらう。この行事も時代によつて一盛一
衰はあつたが、最も重要な行事とされたのは江戸時代であつた。この地方では、おかづら(●●●●)節句とも、後の
雛ともいひ、おかづらといふ小草で雛人形を拵て桝の内に飾り、これにお膳を供へたが、現在では殆ど行
はれてゐない。
一二〇 月見 (十三日) 舊
これは後の月見である。八月十五夜の芋名月に對しこの夜を栗名月ともいふ。十五夜の月見をしたら、
必ずこの後の月見をせねばならず、これをしないと片月見とて忌まれた。現在民間一般に行はれてゐるお
月見はこの夜の月見で、どこの家でも里芋衣被栗、枝豆等をゆで、穗芒と共に供へて月を祭る。
五一
【右頁】
五二
イ、月に大豆の莢豆と里芋の煑つけを供ふ。(植田)
一二一 お十七夜 (十七日) 舊
十七日の月をお十七夜様とて餅を供へてお月見をする。歲德大明神を祭り家内安全五穀豐穰を祈つ
た。この夜お月見の出來ない時は二十三日様とてその日行ふ。(野依)
一二二 彼岸 (秋分前後七日)
春の彼岸と同じ。
一二三 秋季皇靈祭 (二十三日ヵ二十四日)
秋の彼岸の中日にあたる。(春季皇靈祭の項參照)
一二四 羽田祭 (二十四日二十五日)
花田町鄕社八幡社の例祭で現在では鬼祭、祇園祭と共に豐橋の大祭の一つで、以前は額祭とて軒に額を
飾つたものだが、今は煙火祭になつてしまつた。
【左頁】
十月
一二五 神送り (一日) 舊
この月は神々が皆出雲の大社へお出かけになるので、この日民家では赤飯を蒸し、これを月の數だけ十
二握り、新藁の/つと(●●)に包んで神棚にあげる。これを御包(土產)餅と云ふ。
イ、赤飯の代りに餅をあげる家もある。(福岡)
ロ、神の土產に餅と御(●)つと(●●)餅(●)(つと入の餅)を供へる。(磯邊)
ハ、餅を其年の數だけわらづとに包んで神に供へる。又强飯又はサハタキを藁づとに入れ神に供へ宮參
を行ふ。此夜一家一人づつ宮籠を行ふ。(植田)
一二六 お十夜 (五日ヨリ十日間) 舊
十夜とは十夜念佛法會のことで、後花園天皇の御宇に始まつたものであるといふ。これは淨土宗の寺で
行はれるので、この地方では悟眞寺で、この月の五日から向ふ十日間、別念佛を唱へる法會が修行され、
この間宗徒の參詣で賑ふ。
一二七 金刀比羅詣 (十日) 舊
三月の金刀比羅詣と同じく賑ふ。
五三
【右頁】
五四
一二八 御命講(御會式) (十三日)
お祖師様日蓮上人が池上で入寂されたのが、弘安五年の十月十三日。この日がその正忌日に當るので、
淸水町の妙圓時を始め、法華宗の寺では御會式が營まれる。
一二九 神嘗祭 (十七日)
この年の御初穗を陛下が伊勢大廟に奉らせられる御儀で、宮中と神宮とで行はせられる。
この祭は文武天皇の御宇、大寶令の制定と同時になされた秋季の神嘗祭に始り、由來伊勢例祭と稱して
每年九月十七日に行はせられたが、明治以後現今のやうに定められた。又神宮に勅使を御差遣遊ばされる
が、これは元正天皇の養老五年九月十一日使を遣して幣帛をたてまつらしめ給ふたことから恒例となつた
ものである。
一三〇 惠比須講 (二十日) 舊
これは夷子神を祭る祭事で、往時は正月十日(江戸では二十日)と十月二十日に行つた。一月は年中の
商賣繁昌を祝ひ、十月はこの報賽として行ふといふ。
この夜商家では福神の惠比須様の像に神僎神酒の外に必ず鯛を供へ得意客や緣者を招き酒宴を張る。子
供たちは商家へ蜜柑や菓子を貰ひに歩いた。商家にかぎらず膾をうち神棚へ神酒や鯛を供へて祝ふ。
この地方では惠比須様に供へた膳部は未婚のものが喰べると婚期がおくれるとて喰べない。
【左頁】
一三一 お取越 (二十二日)
眞宗の開祖親鸞上人の忌日は十一月であるが、その月に入ると門徒の人々がさし合ふので一ヶ月繰上げ
法會を營む。
一三二 招魂祭 (二十三日二十四日)
この地方の招魂祭は、靖國神社秋季大祭の日を以て歩兵第十八聯隊練兵場に設けられた祭場で盛大に擧
行される。これは第三師團と愛知懸表忠會との聯合主催にかゝり、數次の戰役に於いて君國の爲に捧げら
れたこの地方戰病死者の忠魂を祭祀弔慰する。この日それらの遺族は悉く招待せられ、軍隊側の參拜が終
ると一般の自由參拜が許され、競馬、自轉車競爭其他いろ〳〵な餘興があるので、市中は勿論、近在から
の人出も多く全市的の賑やかな祭りである。この祭典は大正十四年の第十五師團廢止と共に一日だけにな
つたが、昭和六年からは再び二日間に亘つて行はれるやうになつた。
一三三 亥の子 (二の亥の日) 舊
この行事は、宇多天皇の寛平年中に始まつたものだといはれてゐる。十月は亥の月であるから、この月
の亥の日、亥の刻に餅を喰べると萬病にかゝらぬといはれる。この月の最初の亥の日を一番亥の子、次ぎ
を二番亥の子、三つあれば三番亥の子といひ、民家では二番亥の子の日に、牡丹餅を拵へて食べる。民間
では二番亥の子にするのは、城主が一番亥の子に祝つたから、次のに遠慮したものだといはれる。
五五
【右頁】
五六
イ、亥の日二回ある時は前の亥の日、三回ある時は中の亥の日に虫けらの供養のため牡丹餅をつくり神
に供ふ。(植田)
ロ、亥、子、丑、三日にかけて牡丹餅を食す。(牟呂)
一三四 蒔上 (中旬)
冬至より十日間前、麥の蒔上をした時を祝ふ。
イ、牡丹餅をつくる。(津田)
ロ、農具に牡丹餅を供へる。(牟呂)
一三五 ばい祝
豆をたたき終つた時、たたいたばいに豆を炒つてあげ御馳走して祝ふ。(福岡・牟呂)
一三六 掛穗
イ、稻刈の最初に刈つた穗を月の數だけ竹に結へ之を大神宮にそなへる意味で田にさしておく(吉田方)
ロ、一番刈の時大神宮へ初穗を献上する意味で田圃の畦などへ芒等の莖を二本立て其先をつなぎ月の形
とし、これに稻穗を其年の月數だけ掛け豐熟を祝つた。(野依)
一三七 道役(秋季)
春季に同じ。
【左頁】
十一月
一三八 神迎 (一日) 舊
出雲からかへられる神を迎へる日で、餅など供へて祭る。
イ、其年の月數だけイナ餅を作り神棚に供へ神様をお迎へ申し又燒餅を供へる。(福岡)
ロ、神棚に神酒饌米を供へ迎へる。(磯邊)
ハ、圓い燒餅を月數だけ作り神棚に供へお迎へする。(高師)
ニ、燒餅をつくり祝ふ。(大崎)
ホ、小麥粉で燒餅をつくり供へて神様を御迎へする。(牛川・下條)
へ、燒餅を神に供ふ。(植田・牟呂)
一三九 明治節 (三日)
明治大帝の御偉德を永遠に敬慕するために、御在世の折天長節であつた十一月三日を明治節とすべく、
第五十二議會に於ける貴衆兩院一致の請願を容れさせられ、昭和二年三月三日詔書を以て公布せられた佳
日である。
この日東京代々木の明治神宮では大祭が執行される。
一四〇 荒神祭 (十五日) 舊
五七
【右頁】
五八
竈の神三寶荒神を祭る。
イ、かまどの煤を取り桝に入れ米と共に地の神に納める。(大崎)
ロ、小豆飯を炊き麻の苧を添て地の神に供へる。(野依)
ハ、藁と靑竹で一尺四方位の祠をつくり、新しい海砂を敷き、藁の器物にて赤飯を供へる。(牟呂)
ニ、屋敷の乾の方に祀る。(植田)
一四一 七五三の祝 (十五日)
最初貴族の間に始まつたこの祝が、民間廣く行はれるやうになつたのは、恐らく江戸時代以後であらう
といはれてゐる。これは袴着、髪置、帶解きなどゝいひ、三才、五才、七才の子供に祝ひの晴着をきせて
氏神様に參らせた。昔町屋では宮詣りがすむとその儘連れて親戚や知己の家を廻つた。
イ、この月の吉日を選み親類緣者を招き祝宴をはる。招かれたものは祝儀をもつて招きに應ず。(福岡)
一四二 秋葉祭 (十六日) 舊
遠江秋葉山、秋葉神社を祭る。
イ、日待がある。(磯邊・大崎)
ロ、字で二人秋葉山へ代參あり、日待をして投餅がある。(高師)
ハ、各組より秋葉山へ代參あり。(植田)
【左頁】
一四三 御親閱記念日 (二十一日)
昭和二年尾三の野で陸軍大演習の行はれし際
聖上陛下歩兵第十八聯隊練兵場で東三河地方民に親閱を賜つた日で、その日を記念するため、每年同場所
にて記念式が行はれる。
一四四 新嘗祭 (二十三日)
この祭は、宮中の神嘉殿に於いてその年の新穀の御初穗を天神地祇に供し奉り、又御親らも聞召し給
ひ、群臣にも賜はる御儀である。この起原は古く神代に發し、大寶令によつて制定されたが、應仁の亂後
久しく中絕してゐたのを明治元年十一月十五日御再興の布告を發せられ、明治六年の改曆後は十一月二十
三日と定められた。
尚天皇御即位後最初の新嘗祭を大嘗會といつて、即位の體と共に京都で行はせられるやう、明治二十二
年御發布の皇室典範で定められた。
一四五 大師講 (二十四日) 舊
この日は天台智者大師の正忌日なので、紺屋町の神宮寺を始め天台宗の寺院ではその法會が勤仕され
る。民家ではお大師粥といつてこの朝小豆粥を喰べる。
一四六 酉の市 (酉の日) 舊
五九
【右頁】
六〇
この月初めの酉の日を一の酉、次ぎを二の酉、三つあれば三の酉といつて、この地方では手間町の西光
寺で明治の末頃からこの市が立つ。所謂「おとりさま」である。これは東京の鷲(おほとり)神社で行はれるものが、
本格であるといはれてゐる。この日參詣人は熊手や惠比須大黑の像を買つて來るのが緣起とされ、緣起を
祝ひ、外見を飾り商人たちは、殊更大きなものを買ふやうである。これは酉と取との國音が相通じるの
で、商人等のかうした信仰を得たのだらう。
一四七 報恩講 (二十二日-二十八日)
お講ともいひ、本願寺別院を始め眞宗の寺々では、宗祖親鸞への報恩謝德のため、二十二日から上人の
正忌日である二十八日まで盛大に法會が營まれ、參詣人が多い。
一四八 つぼか (三十日) 舊
イ、鍬鎌等農具に牡丹餅を供へる。(津田)
ロ、牡丹餅をつくり神に供へる。(福岡)
ハ、くず米を集めこれを粉にして餅をこしらへて食べる。つぼかがすむと「シリガカタツイタ」とい
ふ。(高師)
ニ、月末に行ふ。牡丹餅をつくる。(大崎)
ホ、新米のくずで牡丹餅を作り神に供へる。もとはその牡丹餅の中へ籾穀を入れて神に供へたといふ。
今は新米のよいのを用ふ。(野依)
【左頁】
ヘ、こぼれ米を拾ひ集め、粉にして餅をつくる。(植田)
一四九 刈あげ
稻を刈り上げると其晩鎌を箕の中に並べてお膳を供へる。(牛川・下條)
一五〇 秋しまひ (舊)
イ、牡丹餅を作り神佛農具に供へる。(吉田方)
ロ、秋の収穫の終つた時牡丹餅をつくり神佛に供へる。(福岡)
ハ、秋の取入が終つた時勞をねぎらうため新嫁を實家へ客にやる。(高師)
ニ、取入がすむと筵をたたいて秋終になる。この日牡丹餅をつくり桝に入れて稻扱唐臼唐箕筵などに供
へ、又神佛にも供へる。近隣親戚にも牡丹餅を配つて秋終を知らせる。(牛川・下條)
ホ、牡丹餅をつくつて食べる。(植田)
一五一 お犬様のお迎
野荒や窃盜等の多い年には遠江春野山へ代參をたてお犬様を迎へ檜の葉で一尺立法位の小祠をつくり氏
神の境内に祀つた。これを不景氣退治の守、惡病除の守ともした。(野依)
六一
【右頁】
六二
十二月
一五二 事始と事納
二月に準ず。
イ、八日餅にはお萩をつくり、この日人形をつくり鉦太鼓で「送り神オクリヨー」と唱ひあるいて後海
に流した。(大崎)
ロ、餅を搗き神佛に供ふ。(野依)
ハ、餅をつき食べる。この日より正月の近きことを念頭において心構をする。(植田)
一五三 冬至 (二十二日ヵ二十三日)
この日太陽が冬至點に達する時にて、古來この日より春氣にかへるとて、一陽來福と稱し節日として祝
ふ。南瓜を食べる。
一五四 大正天皇祭 (二十五日)
先帝崩御の日、宮中では皇靈殿に於いて御親祭を行はせられ、勅使を多摩の山陵に派遣して幣帛を奉ら
しめ給ふ。
一五五 クリスマス (二十五日)
【左頁】
耶蘇基督の降誕日である。この日が近づくと商店やカツフエバアなどでは美しく店飾りしたり、賑かに
新聞廣告をだしたりして盛に宣傳するので、今では基督敎信者たちのお祝ひだけでなく、一般の人々の樂
しい行事とまでならうとしてゐる。
一五六 御用納 (二十八日)
官廳ではこの日から松の内三日まで休業となる。
一五七 煤拂
この行事は後土御門天皇の文明年中頃から禁中でも恒例となり、德川時代では、初め十二月二十日に行
つたが、家綱の時この日が前將軍家光の忌日にあたるので、この日を避けてこの月の十三日に改め、爾來
民間でもこの日となつたが今では一般に行はれず晦日の晩に一年中の煤を拂ふとて掃除をする。
一五八 年の市
この月の中旬から月末にかけて商家で行ふ歲暮大賣出がこれである。門松、注連その他正月の飾物など
が鬻がれる。
一五九 餅搗
昔は二十八日に行はれたが今は決つてゐない。市街地では餅屋に搗かせる家が逐年多くなつてゆく。
六三
【右頁】
六四
イ、二十五日より始まる。(大崎)
一六〇 大祓 (三十一日)
六月三十日大祓參照
一六一 晦日蕎麥 (三十一日)
「運蕎麥」というて晦日の夜に蕎麥を食べる。由來は明かでないが、これを食べるにはかき込むやうに
するので、運をかきこむやうにとてその名があるともいふ。
イ、年のつなぎとてうどんそば等を食べる。(植田)
一六二 除夜の鐘 (三十一日)
夜中の十二時がくると各寺院では百八つの鐘を撞く。
イ、初盆だつた家では夜を徹して寺の鐘をつく。親の死に對しては子が之をつく。(牛川・下條)
【左頁】
附録
豐橋市内神社一覽表
┏━━━━━┳━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃例祭日 ┃社格 ┃神社名 ┃祭神 ┃所在地 ┃神事と宮飾 ┃餘興と接待物 ┃由緒 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 二、一五┃縣社 ┃神明社 ┃天照皇大神 ┃中八町 ┃神樂、田樂、騎┃兒鬼ノ跳梁、各┃鎭座年曆不詳、飽海新神 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃射、神幸 ┃町ノ催物 ┃戸ニ祀ラレシ社トイフ。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃明應六年ノ棟札アリ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 二、一五┃村社 ┃談合神社 ┃天照皇大神 ┃談合町 ┃ ┃ ┃享保十八年九月二十三日 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外四神┃ ┃ ┃ ┃創立。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 二、一七┃仝 ┃神明社 ┃天照皇大神 ┃牛川町 ┃ ┃ ┃創立不詳。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(田中) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 二、二五┃無格社┃天神社 ┃菅原道眞公 ┃新錢町 ┃ ┃投餅 ┃寛永八年三月創立。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 ┃村社 ┃八所神社 ┃田心姫命 ┃大村町 ┃神樂、掛行燈、┃芝居、浪花節、┃天文二十年辛亥卯月十二 ┃
┃ 二、 四┃ ┃ ┃ 外七神 ┃(横走) ┃屋臺額 ┃競馬 ┃日創立。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 ┃無格社┃稻荷神社 ┃豐受姫命 ┃東田町 ┃ ┃ ┃創立不詳、二連木城創築 ┃
┃ 二、初午┃ ┃ ┃ ┃(鄕浦) ┃ ┃ ┃ニ際シ創立トモ稱ス。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 ┃仝 ┃道知邊稻荷神社┃倉稻魂神 ┃東田町 ┃ ┃福引 ┃明應元年創立ト稱ス。 ┃
┃二、二ノ午┃ ┃ ┃ 外五神 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 ┃仝 ┃櫻下稻荷神社 ┃宇迦之魂命 ┃旭町 ┃掛行燈 ┃福引 ┃明治三年六月勸請、永正二年牧野┃
┃二、二ノ午┃ ┃ ┃ 外一神┃ ┃ ┃ ┃古白築城ニ當リ此處ニ移座 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃セシモノヲ合祀スト傳フ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 ┃仝 ┃光道神社 ┃來名戸之塞神┃大村町 ┃ ┃浪花節、萬歲 ┃慶安五年三月創立。 ┃
┃ 二、一八┃ ┃ ┃ ┃(松浦) ┃ ┃萬歲芝居 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 三、一一┃仝 ┃日吉神社 ┃大山咋命 ┃下五井町┃神樂(昔) ┃芝居、浪花節、┃創立不詳、江州日吉神社 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ (宮後)┃ ┃煙火 ┃ノ御分神ヲ奏祀ス。 ┃
┗━━━━━┻━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━┛
六五
【右頁】
六六
┏━━━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 三、一三┃村社 ┃春日神社 ┃天兒屋根命 ┃多米町 ┃掛行燈、額臺 ┃芝居、萬歲 ┃崇峻天皇ノ御宇創立シ後春 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外七神┃ ┃ ┃投餅、甘酒 ┃日以外ノ七社ヲ合祀ス。 ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 三、一三┃無格社┃若宮八幡宮 ┃大鷦鷯尊 ┃瓜鄕町 ┃神樂、掛行燈 ┃芝居、浪花節、 ┃天文年間牧野玄蕃ノ勸 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(一新替) ┃ ┃投餅、甘酒 ┃請。 ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 三、一六┃仝 ┃豐城神社 ┃源三位頼政 ┃東田町 ┃ ┃大弓 ┃創立不詳、元吉田城二ノ丸 ┃
┃ 五、二六┃ ┃ ┃源信綱卿 ┃(北蓮田) ┃ ┃ ┃ニ建設サレ後現在地ニ移轉ス┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 三、一七┃仝 ┃白山神社 ┃白山姫命 ┃高船町 ┃掛行燈 ┃浪花節 甘酒、菓子┃明德三年六月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃投餅、淸酒、膳部 ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 三、一七┃仝 ┃進雄神社 ┃新雄命 ┃二本松町 ┃仝 ┃浪花節、甘酒、菓子┃享保七年六月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃投餅、淸酒、膳部 ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 三、二一┃村社 ┃神野神社 ┃神野命 ┃藤並町 ┃仝 ┃浪花節、甘酒、菓子┃寛文九年六月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃投餅、淸酒、膳部 ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 三、二六┃仝 ┃鞍掛神社 ┃宇迦御魂神 ┃岩崎町 ┃神樂 ┃芝居、浪花節、 ┃創立不詳、元鞍馬大明神ト ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外四神┃ ┃ ┃甘酒、投餅 ┃呼ビ建久元年社號ヲ改ム。 ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 三、一〇┃無格社┃琴平神社 ┃大物主命 ┃岩田町 ┃掛行燈 ┃芝居、投餅。甘酒 ┃創立不詳。 ┃
┃舊一〇、一〇┃ ┃ ┃ ┃(田尻) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 三、一〇┃仝 ┃金刀比羅神社┃大物主命 ┃吉屋町 ┃ ┃ ┃文政元戊寅年三月創立 ┃
┃舊一〇、一〇┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 ┃仝 ┃幸稻荷社 ┃大名牟遅命 ┃船渡町 ┃ ┃芝居 ┃創立不詳 ┃
┃ 三、一一┃ ┃ ┃ 外二神 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 一┃村社 ┃本宮神社 ┃伊佐那美命 ┃駒形町 ┃掛行燈 ┃芝居、浪花節、 ┃創立不詳、寛永十三年四 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外二神┃ ┃ ┃甘酒、淸酒、餅 ┃月十八日ノ棟札アリ。 ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 一┃仝 ┃日吉神社 ┃大山咋命 ┃岩崎町 ┃仝 ┃芝居、甘酒、投餅 ┃神龜四年二月創立ト傳フ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(手洗) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 一┃仝 ┃八幡社 ┃應神天皇 ┃下條東町 ┃ ┃芝居、甘酒、餅 ┃創立不詳。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(竹ノ内) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 一┃仝 ┃素盞嗚神社 ┃素盞嗚尊 ┃牛川町 ┃ ┃甘酒、餅 ┃創立不詳。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(暮川) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 一┃仝 ┃八幡社 ┃應神天皇 ┃下條東町 ┃ ┃仝 ┃寛文五已己年九月吉日創立 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ (白石) ┃ ┃ ┃ ┃
┗━━━━━━┻━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 四、 一┃仝 ┃素盞嗚神社 ┃素盞嗚尊 ┃下條東町 ┃神樂 ┃甘酒、投餅 ┃創立不詳 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(藤ヶ池) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 一┃仝 ┃素盞嗚神社 ┃伊謝波富命 ┃下條西町 ┃ ┃浪花節、甘酒、餅 ┃仝 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外一神┃天■■■ヶ谷┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 一┃仝 ┃比賣天神社 ┃鈿女命 ┃下條東町 ┃ ┃芝居、浪花節、 ┃仝 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(堀ノ内) ┃ ┃甘酒、餅 ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 一┃仝 ┃素盞嗚神社 ┃素盞嗚尊 ┃下條西町 ┃ ┃仝 ┃仝 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ (五井) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 一┃無格社┃市杵島姫社 ┃市杵島姫命 ┃下條西町 ┃ ┃甘酒、餅 ┃仝 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ (池端) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 三┃村社 ┃水神社 ┃水波能賣命 ┃三ツ相町 ┃掛行燈 ┃芝居 ┃寶永七年庚寅二月勸請。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 四┃無格社┃作神社 ┃宇賀御魂命 ┃牟呂町 ┃ ┃浪花節、投餅 ┃創立不詳、寛文十年十二 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(中村) ┃ ┃ ┃月ノ棟札アリ。 ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、 七┃村社 ┃素盞神社 ┃素盞嗚尊 ┃野田町 ┃神樂、掛行燈 ┃芝居 ┃天正七年勸請。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(野田) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、一〇┃仝 ┃八劍神社 ┃日本武尊 ┃花田町 ┃御車、神樂(昔) ┃芝居、活動寫眞 ┃永祿元年丁卯六月遷座。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(西鄕) ┃飾行燈 ┃煙火、投餅 菓子 ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、一〇┃無格社┃羽田上神社 ┃素盞嗚命 ┃花田町 ┃ ┃芝居、銃劍道、 ┃寛政十年正月三十日燒亡 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(稻葉) ┃ ┃煙火、相撲)投餅 ┃再建。 ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、一一┃縣社 ┃菟足神社 ┃菟上足尼命 ┃寶飯郡 ┃濱下神事、雀射始式┃煙火 ┃白鳳十五年創立ト傳フ。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃小坂井町 ┃射収式、試樂、御田┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃植祭、雀十二羽奉齋┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃式、山車 神輿渡御┃ ┃ ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、一四┃村社 ┃神明社 ┃天照大神 ┃松井町 ┃掛行燈 ┃ ┃創立不詳、永祿三年庚午九 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃月吉日再營ノ棟札アリ。 ┃
┣━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 四、一四┃無格社┃日吉神社 ┃大己貴命 ┃上野町 ┃仝 ┃萬歲芝居、甘酒、投┃正安三年三月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃餅、菓子、酒、膳部┃ ┃
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┃ 四、一五┃鄕社 ┃牟呂八幡社 ┃應神天皇 ┃牟呂町 ┃御輿渡御 ┃芝居、弓術、劍術 ┃創立不詳、天文十一年三 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外一神 ┃(東脇) ┃ ┃ ┃月十日ノ棟札アリ。 ┃
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六七
【右頁】
六八
┏━━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 四、一五┃村社 ┃松山神社 ┃素盞嗚命 ┃花田町 ┃屋臺額 ┃芝居、投餅 ┃仝 明曆三年六月再建。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(松山) ┃ ┃ ┃ ┃
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┃ 四、一六┃仝 ┃素盞嗚神社 ┃素盞嗚命 ┃花田町 ┃御車 ┃芝居、活動寫眞、 ┃仝 寛文三年正月ノ棟札 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(中鄕) ┃ ┃萬歲芝居、煙火、 ┃アリ。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃投餅、パン ┃ ┃
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┃舊 ┃仝 ┃素盞嗚神社 ┃素盞嗚命 ┃大村町 ┃掛行燈」、屋臺額┃芝居、浪花節 ┃寛文二年壬寅三月二十三日 ┃
┃ 四、一五┃ ┃ ┃ ┃(高之城)┃ ┃ ┃創立。明治五年牛頭天王ト ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃稱セシガ素盞嗚神社ト改稱 ┃
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┃ 五、一五┃無格社┃大己貴神社 ┃大己貴命 ┃新川町 ┃ ┃芝居 ┃創立不詳、永正年中土手 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ (市南)┃ ┃ ┃町へ遷座。 ┃
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┃ 六、三〇┃仝 ┃素盞嗚神社 ┃素盞嗚命 ┃本町 ┃輪くぐり ┃ ┃創立不詳。 ┃
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┃舊 ┃仝 ┃素盞嗚神社 ┃素素盞嗚命 ┃大村町 ┃ ┃浪花節、萬歲 ┃慶安三年四月二十一日創立 ┃
┃ 六、一五┃ ┃ ┃ ┃(地之神)┃ ┃ ┃、明治五年牛頭天王ト稱セ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃シヲ素盞嗚神社ト改稱ス。 ┃
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┃ 七、 八┃仝 ┃安海熊野神社┃伊弉諾命 ┃魚町 ┃能樂、狂言 ┃ ┃保延丙辰二年三月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外八神 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 七、一五┃縣社 ┃吉田神社 ┃素盞嗚命 ┃關屋町 ┃神幸 ┃煙火 ┃天治元年創立ト傳フ、永 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃正二年牧野古白今橋城築 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃造ノ際城ノ鎮守トセリ。 ┃
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┃ 七、一五┃無格社┃素盞嗚神社 ┃素盞嗚命 ┃飽海町 ┃掛行燈 ┃芝居 ┃元祿二己己年正月吉日創 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃立ト傳フ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 七、一八┃村社 ┃白山比咩神社┃伊弉冉尊 ┃新錢町 ┃御輿渡御、神樂 ┃ ┃保延二年六月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外一神 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
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┃舊 ┃無格社┃素盞嗚社 ┃素盞嗚命 ┃大山町 ┃ ┃酒 ┃創立不詳。 ┃
┃ 八、 九┃ ┃ ┃ ┃(松荒) ┃ ┃ ┃ ┃
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┃舊 ┃村社 ┃素盞嗚神社 ┃素盞嗚命 ┃長瀬町 ┃御輿渡御 ┃ ┃慶長十四年己酉九月創立、尾┃
┃ 八、一五┃ ┃ ┃ ┃(東浦) ┃ ┃ ┃張國津島村牛頭天王ト稱ス ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃明治六年素盞嗚神社ト改稱ス┃
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【右頁】
┏━━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓
┃舊 ┃無格社┃高良社 ┃稻倉魂命 ┃牟呂町 ┃ ┃投餅 ┃創立不詳 國内神名帳ノ從 ┃
┃ 八、一五┃ ┃ ┃ 外一神 ┃(東脇) ┃ ┃ ┃五位上楠本天神ガ本社ト稱 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ス、慶長六年ノ棟札アリ。 ┃
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┃ 九、 八┃仝 ┃秋葉神社 ┃軻具槌命 ┃船町 ┃ ┃ ┃安永二癸巳年七月八日創立 ┃
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┃ 九、一六┃村社 ┃神明社 ┃天照皇大神 ┃神名町 ┃山車 ┃芝居 ┃天正十一年九月創立 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 九、一六┃無格社┃豐麻神社 ┃火產靈神 ┃下地町 ┃掛行燈、屋臺額 ┃芝居、投餅 ┃創立不詳。 ┃
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┃ 九、一六┃仝 ┃天白社 ┃宇迦之御魂命┃神名町 ┃ ┃ ┃創立不詳、天文中現地ヘ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃遷座。 ┃
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┃ 九、二五┃鄕社 ┃八幡社 ┃譽田天皇 ┃花田町 ┃山車、掛行燈 ┃煙火、手踊、投餅 ┃白鳳元年鎭座ト傳フ。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(齋藤) ┃ ┃ ┃ ┃
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┃ 九、二七┃村社 ┃諏訪神社 ┃建御名方命 ┃山田町 ┃掛行燈 ┃芝居、投餅 ┃創立不詳、正應二年ノ棟札 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃アリ。 ┃
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┃ 九、二七┃仝 ┃諏訪神社 ┃建御名方命 ┃中柴町 ┃屋臺額 ┃芝居 ┃永仁癸巳年創立。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 九、二八┃仝 ┃大山津美神社┃大山津美命 ┃岩屋町 ┃掛行燈 ┃投餅 ┃創立不詳。 ┃
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┃舊 ┃仝 ┃八幡神社 ┃應神天皇 ┃岩田町 ┃掛行燈、額臺 ┃芝居、浪花節、 ┃正保四年八月創立ト傳フ ┃
┃ 九、一五┃ ┃ ┃ ┃(西鄕中)┃ ┃甘酒、投餅 ┃ ┃
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┃舊 ┃仝 ┃神明社 ┃天照大神 ┃吉川町 ┃掛行燈 ┃芝居 ┃寛永六年ノ勸請。 ┃
┃ 九、一六┃ ┃ ┃ ┃(吉川) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 ┃仝 ┃神明社 ┃豐受比賣命 ┃新榮町 ┃仝 ┃仝 ┃應仁元年丁亥九月勸請 ┃
┃ 九、一六┃ ┃ ┃ ┃(大溝) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一〇┃仝 ┃進雄神社 ┃進雄命 ┃南榮町 ┃ ┃芝居、甘酒、投餅、┃元祿十一年六月創立 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃淸酒、菓子、膳部 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一〇┃仝 ┃八幡神社 ┃仲哀天皇 ┃東八町 ┃山車 ┃芝居、大弓 ┃天智天皇十年八月勸請ト ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外八神 ┃ ┃ ┃ ┃傳フ。 ┃
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六九
【右頁】
七〇
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┃一〇、一一┃仝 ┃進雄神社 ┃素盞鳴命 ┃横須賀町┃神樂、掛行燈 ┃芝居、大弓、 ┃創立不詳、天文九年大潮ニ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ (宮元)┃ ┃投餅 ┃テ流失シ天文十三年再建。┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一二┃仝 ┃小池神社 ┃須佐之男命 ┃小池町 ┃神樂、山車 ┃芝居、活動寫眞、 ┃創立不詳、元和九年ノ棟 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外三神┃ ┃ ┃大弓、投餅 ┃札アリ。 ┃
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┃一〇、一五┃仝 ┃神明社 ┃大日靈命 ┃高師本 ┃掛行燈 ┃競馬、大弓昔、浪 ┃白鳳元年創立ト傳フ。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 鄕町 ┃ ┃花節甘酒、投餅、 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃淸酒、菓子、膳部 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一五┃仝 ┃神明社 ┃天照皇大神 ┃瓦町 ┃ ┃芝居、大弓、 ┃創立不詳 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(通) ┃ ┃投餅、甘酒 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一五┃仝 ┃八幡社 ┃伊雜皇大神 ┃牛川町 ┃ ┃甘酒、餅 ┃仝 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(忠興) ┃ ┃ ┃ ┃
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┃一〇、一五┃仝 ┃八幡社 ┃八幡大神 ┃大崎町 ┃掛行燈 ┃芝居、投餅、酒 ┃天文十年辛丑年十一月十 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外二神 ┃ ┃ ┃ ┃五日戸田三郎兵尉宣成建 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃立ト傳フ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一五┃仝 ┃素盞鳴神社┃素盞鳴尊 ┃野依町 ┃ ┃投餅 ┃創立不詳 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(西屋敷)┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一五┃仝 ┃神富神明社┃天照大神 ┃神野 ┃掛行燈 ┃相撲、籤引、投 ┃明治二十八年創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃新田町 ┃ ┃餅 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一五┃無格社┃白山神社 ┃戒成親王 ┃三ノ輪町┃ ┃芝居、投餅 ┃弘仁八年創立ト傳フ。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外四神 ┃ (白山)┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一五┃仝 ┃天伯神社 ┃宇賀魂神 ┃畑ヶ田町┃掛行燈 ┃投餅、甘酒、菓 ┃正和元年九月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃子、淸酒、膳部 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一五┃仝 ┃若宮社 ┃仁德天皇 ┃牟呂町 ┃ ┃投餅 ┃創立不詳、元祿十四年ノ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(坂津) ┃ ┃ ┃棟札アリ。 ┃
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┃一〇、一五┃仝 ┃八所社 ┃天忍穗耳命 ┃牟呂町 ┃ ┃芝居、浪花節 ┃仝 寛文十年ノ棟札ア ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外七神┃(外神) ┃ ┃ ┃リ。 ┃
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┃一〇、一六┃鄕社 ┃神明社 ┃天照皇大神 ┃東田町 ┃神樂、額臺 ┃芝居、煙火、 ┃薑御園ノ地ニ因ミテ創立 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(姜鄕) ┃ ┃投餅 ┃ト傳フ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一六┃村社 ┃神明社 ┃天照大神 ┃岩田町 ┃掛行燈、額臺 ┃投餅、甘酒 ┃創立不詳。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(平川) ┃ ┃ ┃ ┃
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【左頁】
┏━━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━━━━┳━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━┓
┃一〇、一六┃仝 ┃神明社 ┃天照大神 ┃川崎町 ┃掛行燈、屋臺額 ┃浪花節 ┃應仁元年九月十六日創 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(札之辻)┃ ┃ ┃立。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一六┃仝 ┃神明社 ┃豐受比賣命 ┃川崎町 ┃仝 ┃浪花節、甘酒 ┃創立不詳。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外二神┃(中ノ森)┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一六┃仝 ┃神明社 ┃天照大神 ┃淸須町 ┃御湯立昔、掛行 ┃芝居、浪花節、 ┃境内中ノ一社ハ寛文年間 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 宮坪) ┃燈、屋臺額 ┃大弓、投餅 ┃勸請ト傳フ、其他不明。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一六┃仝 ┃神明社 ┃天照大神 ┃馬見塚町┃掛行燈 ┃芝居 ┃神龜三年丙寅二月勸請ト ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外二神 ┃(藪新切)┃ ┃ ┃傳フ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一六┃仝 ┃神明社 ┃天照皇大神 ┃牛川町 ┃ ┃甘酒、餅 ┃元祿三午年創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(小鷹野)┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一六┃仝 ┃神明社 ┃天照皇大神 ┃牛川町 ┃ ┃ ┃元祿十六年未二月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(野川) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一六┃仝 ┃逆戈神社 ┃國常立尊 ┃濱道町 ┃競馬(昔)掛行燈 ┃芝居、甘酒、投餅、┃文治四年九月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃菓子、酒、膳部 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一六┃仝 ┃逆鉾神社 ┃國常立尊 ┃芦原町 ┃掛行燈 ┃甘酒、投餅、菓 ┃明曆三年九月創立。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃子、酒、膳部 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一七┃鄕社 ┃神明社 ┃天照皇大神 ┃湊町 ┃神樂、山車 ┃大弓 ┃白鳳元年鎭座ト傳フ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一七┃村社 ┃神明社 ┃天照大神 ┃小松町 ┃掛行燈 ┃浪花節、投餅、 ┃創立不詳。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃甘酒、淸酒 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一七┃仝 ┃神明社 ┃天照大神 ┃小濱町 ┃仝 ┃浪花節、投餅、 ┃仝 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外三神 ┃ ┃ ┃神酒 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一七┃仝 ┃神明社 ┃天照大神 ┃菰口町 ┃仝 ┃芝居 ┃天文元年壬辰四月勸請。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(菰口) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一七┃仝 ┃熊野社 ┃事解男神 ┃牛川町 ┃神樂、掛行燈 ┃浪花節、萬歲芝 ┃創立不詳。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外二神 ┃(浪ノ上)┃ ┃居、甘酒、餅 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一七┃仝 ┃熊野社 ┃事解男神 ┃牛川町 ┃仝 ┃芝居、餅 ┃仝 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外四神 ┃(中鄕) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一八┃仝 ┃八幡社 ┃譽田別尊 ┃野依町 ┃的射、競馬、獅子舞┃芝居、投餅、 ┃慶雲甲辰元年正月宇佐八 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外十一神 ┃(八幡) ┃大般若讀經、掛行燈┃濁酒 ┃幡宮ヨリ勸請。 ┃
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七一
【右頁】
七二
┏━━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓
┃一〇、一八┃仝 ┃神明社 ┃天照皇大神 ┃花田町 ┃掛行燈 ┃芝居 ┃至德二年甲子三月十六日 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(石田) ┃ ┃ ┃創立。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、一九┃仝 ┃熊野神社 ┃伊邪那美神 ┃飯村町 ┃掛行燈、額臺 ┃芝居、浪花節、 ┃創立不詳。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外二神┃(本鄕) ┃ ┃甘酒、投餅 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二〇┃仝 ┃橋良神社 ┃須佐之男命 ┃橋良町 ┃掛行燈、 ┃芝居、投餅 ┃創立不詳、貞治三年ノ棟 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外七神┃ ┃ ┃ ┃札ノ寫アリ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二一┃無格社┃市杵島神社 ┃市杵島命 ┃牟呂町 ┃ ┃活動寫眞、投餅 ┃仝 亭保七年六月ノ棟札 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(市場) ┃ ┃ ┃アリ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二二┃村社 ┃𪉩釜神社 ┃國常立命 ┃大山町 ┃掛行燈 ┃芝居、浪花節、 ┃仝 寛文七丁未正月吉日 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外五神 ┃(東入山) ┃ ┃甘酒、餅、淸酒 ┃ノ棟札アリ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二三┃仝 ┃烏塚神社 ┃天照大神 ┃高洲町 ┃仝 ┃芝居 ┃寛文五年乙巳年七月勸 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外九神 ┃(烏塚) ┃ ┃ ┃請。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二四┃仝 ┃八幡社 ┃大鷦鷯命 ┃一色町 ┃仝 ┃芝居、浪花節、 ┃創立不詳、正寶三乙卯霜 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃甘酒、餅、酒 ┃月吉祥日ノ棟札アリ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二四┃仝 ┃若宮八幡社 ┃仁德天皇 ┃船渡町 ┃仝 ┃芝居、煙火、投 ┃寛永七年船渡鄕ノ開拓成 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外二神 ┃ ┃ ┃餅、酒 ┃リ、仝八年三月產土若宮 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃八幡宮ヲ勸請ス。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二五┃仝 ┃八幡社 ┃應神天皇 ┃佐藤町 ┃仝 ┃浪花節、甘酒、 ┃創立不詳 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃投節、神酒 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二五┃仝 ┃春日神社 ┃天兒屋根命 ┃草間町 ┃仝 ┃芝居、浪花節、 ┃創立不詳。元祿七年戊午 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(寺東) ┃ ┃甘酒、投餅、酒 ┃六月吉日ノ棟札アリ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二五┃仝 ┃靑木神社 ┃天照大御神 ┃北島町 ┃ ┃芝居 ┃天文十九年勸請。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(高田) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二五┃無格社┃素盞鳴社 ┃素盞鳴尊 ┃牟呂町 ┃ ┃芝居、劍道、大弓 ┃創立不詳、慶長九年ノ棟 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(大西) ┃ ┃ ┃札アリ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二六┃村社 ┃素盞鳴社 ┃素盞鳴命 ┃王ヶ崎町 ┃掛行燈 ┃芝居、浪花節、 ┃仝 寛永子年十二月十一 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃甘酒、酒、餅 ┃日ノ棟札アリ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二六┃仝 ┃素盞鳴神社 ┃素盞鳴命 ┃植田町 ┃獅子神樂 ┃芝居、活動寫眞、 ┃寶龜元年創立ト傳フ。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(西ノ山) ┃ ┃浪花節、甘酒、 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃投餅、淸酒 ┃ ┃
┗━━━━━┻━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓
┃一〇、二八┃仝 ┃素盞鳴社 ┃素盞鳴社 ┃向草間町 ┃掛行燈 ┃芝居、浪花節、 ┃仝 寛文二年九月吉日ノ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外一神 ┃ (向西) ┃ ┃甘酒、投餅、淸酒 ┃棟札アリ。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二八┃無格社┃松島社 ┃罔象女神 ┃牟呂町 ┃ ┃投餅 ┃寛文二年勸請 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外一神 ┃(松島) ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一〇、二九┃村社 ┃車神社 ┃武甕槌命 ┃植田町 ┃掛行燈 ┃芝居、浪花節、 ┃神龜二年創立ト傳フ。 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ 外五神 ┃(八尻) ┃ ┃活動寫眞 甘酒、 ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃投餅、淸酒 ┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃舊 ┃無格社┃金山社 ┃金山彦命 ┃大村町 ┃ ┃浪花節、萬歲 ┃貞享二年十二月十六日舊 ┃
┃一一、一八┃ ┃ ┃ ┃(金山) ┃ ┃ ┃大磯村民創立。 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━┫
┃一二、一六┃仝 ┃秋葉神社 ┃火產靈神 ┃東田町 ┃ ┃ ┃創立不詳 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃(西脇) ┃ ┃ ┃ ┃
┗━━━━━┻━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━┛
七三
【右頁】
七四
豐橋の年中行事調査關係人名 (順不同)
(史友會)
伊藤卯一 伊藤要藏 丸地幸之助 舟橋水哉 高橋高馬
藤村一舟 白井梅里 豐田珍彦
(學校關係者)
伊藤力平 高橋正次郎 川合一郎 早川茂次 白井一二
中神準一 宮道壽雄 林一雄 佐藤憲一 鳥居鶴夫
鈴木利雄 横山忠義 小澤正一 大橋正雄 横田狷介
加藤藤次 稻垣留吉 高藤信夫 芳賀麗雄 植田重右衞門
廣中孫三 村田末吉 星野彌助 後藤忠男
(編輯)
佐藤憲一 伊藤力平 白井一二
【左頁】
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃昭和十年十一月三十日印刷納本 ┃
┃昭和十年十二月三日發行 ┃
┃ 著作兼發行 豐橋市敎育會 ┃
┃ 右代表者 會長 福谷元次 ┃
┃ 豐橋市西八町九十二番地┃
┃ 印刷人 田中周平 ┃
┃ 豐橋市西八町九十二番地┃
┃ 印刷所 三陽堂印刷所 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
【裏表紙】
《題:産業の豊橋《割書:豊橋市役所編》》
昭和十年十月
《題:産業の豊橋》
豊橋市役所
【白紙】
【地図】
豊橋市全図
【地図】
【右下】
凡例
商業施設
工業地域
住居地域
未指定ノ部分
《割書:地域面積計算ヨリ|除外セル部分》
市郡界
土地計画街路
【地図】
豊橋市全図
【地図】
【右頁 白紙】
【左頁】
産業の豊橋 目次
一 総説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一
一 沿革・・・・・・・・・・・・・・・・・・一
二 気候・・・・・・・・・・・・・・・・・・二
三 位置と地勢・・・・・・・・・・・・・・・二
四 広袤と面積・・・・・・・・・・・・・・・二
五 人口と戸数・・・・・・・・・・・・・・・三
二 農業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三
一 耕地と戸数・・・・・・・・・・・・・・・三
二 農産物・・・・・・・・・・・・・・・・・四
三 養蚕・・・・・・・・・・・・・・・・・・五
四 畜産・・・・・・・・・・・・・・・・・・五
五 水産・・・・・・・・・・・・・・・・・・六
六 林産・・・・・・・・・・・・・・・・・・七
七 鉱産・・・・・・・・・・・・・・・・・・七
三 工業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八
一 工産品と其額・・・・・・・・・・・・・・八
二 工場と従業者・・・・・・・・・・・・・一〇
四 商業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一
一 概説・・・・・・・・・・・・・・・・・一一
二 市場・・・・・・・・・・・・・・・・・一二
三 米穀取引所・・・・・・・・・・・・・・一二
五 会社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二
六 金融と倉庫・・・・・・・・・・・・・・・・一三
七 産業団体・・・・・・・・・・・・・・・・・一五
八 交通と運輸・・・・・・・・・・・・・・・・一七
九 結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一八
附録
市内及近郊の名勝旧蹟・・・・・・・・・・・一九
一 総説
一 沿革
豊橋市は古くから史籍に表はれ、和名抄に載せられた三河国渥美郡幡多郷及八名郡多米郷は今の市内
花田町及多米町である、又天慶三年平将門の乱平定の報賽として朝廷より皇太神宮へ奉献せられた飽海
新神戸も今の豊橋である、鎌倉時代に至り東国と京地との交通の要路となり、永正二年牧野古白が今橋
城即ち吉田城を築いてから俄に軍事上枢要の地となり、其後池田輝政の城地拡張によりて更に一段の進
歩を見、江戸時代には東海道五十三次の一である吉田の宿として著はれ、文政の初名優市川團十郎が演
じた三升猿の曲舞に歌はれた「吉田通れば二階から招く、シカモ鹿の子の振袖で」の俗謡と、浄瑠璃伊
賀越道中双六の中にある「又五郎が落付く先は九州相良、道中筋は参州吉田で逢うたと人の噂」等は人
口に膾炙せられて居る、又伊勢地方へ海運の便が開かれて東三河に於ける文化の中心地となつた。
地名も初は今橋と称せられ後に吉田と呼ばれ明治二年豊橋と改められた、明治四年三河県に属して居た
が後伊奈県額田県と変遷して遂に愛知県となり大区会所が設けられた、明治三十九年八月に市制を布き
昭和七年隣接町村を併合して茲に愈々大豊橋市の建設を見るに至つたのである。
一
二
二 気候
気候は概ね温和であつて暑気もサシテ烈しからず、冬季厳寒の候でも雪や霜を見ることが稀であつて
寒暑中和といふ状態である、殊に天災地変の害殆んどなく従て近年本市に来住する者頗る多く、商工業
の繁栄を見るに至つたのは全く此が為である。
三 位置と地勢
本市は東経百三十七度二十三分、北緯三十四度四十五分の所にあり、愛知県の東部に位し東京と神戸
との殆んど中央である。
東は赤石山脈が連り南部に天伯原一帯の高地を控へ地勢概ね平坦である、豊川、梅田川及柳生川が市
内を貫流し渥美湾に注いで居る、地質は低部は沖積層であるが高地は洪積層より出来て居る。
四 広袤と面積
東西十四粁五一、南北十四粁二五、面積は百四粁五一即ち四方粁五一であつて、広さに於ては本邦都
市中東京、京都、大阪、名古屋、横浜及静岡に次ぐ大都市である。
五 人口と戸数
明治三十九年市制を施行した当時は僅かに人口三万七千六百三十五人、戸数九千九百戸に過ぎなかつ
たが、其後漸次増加し、殊に昭和七年町村併合の結果急に膨脹して、昭和九年末では人口十四万七千七
百三十五人、戸数二万七千二百七十四戸を算するに至り、尚逐年増加しつゝあることは誠に喜ばしい現
象であると云はねばならぬ。
二 農業
一 耕地と戸数
昭和七年の町村併合によりて農家も耕地も共に急激なる増加を見たのである、現在では其戸数四千八
百九十一であり其面積は五十五万三千七百十七アール、内田三十万三千三百七十六アール、畑二十五万
三百四十一アールであるが、都市の発達するに伴うて農家及耕地も次第に減少することは免れ難い事実
であると思ふ、農業経営としても従来の如く米麦作を骨子として之に甘藷作を加味して居るのである、
又近年温室園芸が漸次発達し花卉蔬菜類の栽培も都市向農業として奨励せられて居るのである。
三
四
二 農産物
昭和九年中に於ける農産品は三百四十二万八千七百六十六円であつて、其中重なるものはヤハリ米麦
であり甘藷等之に亜ぐ、今最近一ヶ年の生産額の主なるものを挙ぐれば左の通である。
米 八、六四六、六〇〇瓩 一、五六九、五八一円
麦 三、三八四、〇八七 二八七、七六七
甘藷 七、一七八、四〇〇 一三三、九九七
生大根 四、〇一二、四七八 五五、四五〇
胡瓜 四三〇、四〇三 五二、八五四
蕃茄 三二八、九五〇 四〇、〇〇九
西瓜 一、二四五、四一六 三九、九五三
甘藍 七二〇、二八五 一九、二〇八
馬鈴薯 六九〇、八二五 一八、四二二
南瓜 七三三、〇五〇 一七、五九三
蔬菜類は漸次品質の優良なるものが生産せらるゝに至り、温室利用促成栽培はマスクメロン、トマ
ト、胡瓜等であつて、明治四十年頃中島駒次氏が八坪の温室を経営したのに初まり、爾来長大足の進歩
をなし現に九千百四十三坪に達して居る、而して生産物は重に東京大阪等の中央卸売市場に出荷せられ
盛に北海道方面へも輸送せられる、殊に本市は甘藷の産地として有名であつて、風土と栽培法の宜しき
為め多額の生産をなし、京阪神は勿論遠く山陰地方へも廻送せられて居る。
三 養蚕
本市は一名「蚕都」と称せらるゝ位であつて養蚕に於ては全国第一と云はれて居る。蚕種製造家は九
戸あつて原蚕種及普通蚕種とも価格十四万四千九百四十二円に上つて居る。
養蚕家は現在二千三百九十八戸あり、蚕種掃立は四十五万四百四十一瓦である、其結果年産額は
上繭 七五七、四八九瓩 四九三、三八一円
玉繭 五〇、二一三 二三、二五八
屑繭 四九、九四七 一四、七一五
計 八五七、六四九 五三一、三五四
の多額を示して居る。
四 畜産
畜産年額は百六十九万五千十一円であつて家畜家禽の飼養は農業経営上決して忽諸に付すべからざる
五
六
ものである、本市としても此等奨励の結果近頃漸次其数を増加し、牛の飼養者千四百四十六戸であつて
千五百七十八頭あり、豚は飼養者五百八十一戸であつて其数千百九十一頭である。
養鶏は都市の膨脹に伴ひ益々其需用を増加し来たものであつて主として専業家の手によりて成つて居
る、飼養者三千四百四十五戸、五十万四千三百四十七羽、此価格五十万二千九百七十七円であつて、鶏
種の改良飼育の技術の進歩によつて今後益々発展せんとするの趨勢である、又鶏卵の年産額は五千二百
十四万三千四百五十五個であつて此価格百四万二千八百六十九円に達して居る、本市は三河鶏卵の集散
地で東京北海道方面へ輸送する数量は毎日平均二十八瓲を下らず、今や南洋フヰリツピンへも輸出する
やうになつて居る。
五 水産
本市西部は渥美湾に臨んで居る関係上漁業は即ち浅海漁業である、水産業者は千百五十八人であつて
沿岸漁獲物としてはエビ一万二千七百二十円、ボラ九千八百五十五円、ウナギ六千三百五十八円等が其
重なるものである、製造品としては蒲鉾、竹輪類四十六万九千三百九十九円、乾海苔二十八万三千六百
四十六円其他である、焼竹輪は其味の美なる点に於て全国に卓越し本市の名物として有名である、蒲鉾
も其質に於て其量に於て先進各地を凌駕して居る、又海苔は浅草海苔の原料として東京方面に移出せら
れたが、数年前より三河海苔として市場に売出され又加工して味附焼海苔として全国各地へ販売せらる
ゝやうになり風味甚よく何人にも歓迎せられて居る。
池水を利用する淡水魚類の養殖にあつては鰻を第一として年額二十七万八千三百十円、鯉九万五千八
百六十円、アマノリ八万七千三百二十四円、アサリ五万六百七十六円等が主なるものである。
尚養殖場に於ける海苔の種篊、アサリの種苗は県下は勿論遠く三重県静岡県地方へも搬出せられて居
る、而して水産の年額は百三十六万千三百円に上つて居る。
六 林産
本市の林産は東部地方より産出する用材、竹材、薪炭材其他林野産物であつて其価格一万三千六百六
十五円である。
七 鉱産
此は主に石灰岩、砂利及瓦用原料の粘土等であつて、一ヶ年十三万六千六百八円の産額を有し、年々
増加するの傾向がある。
七
八
三 工業
一 工産品と其額
本市の工産額は一ヶ年二千六百十一万五千七百四十八円、其重なるものは生糸、玉糸、麻真田、毛筆、
衛生陶器、漁網、醤油及溜、木製品、清涼飲料水、菓子、飴、清酒、氷糖、皮革製品等であつて近来絹
織物及再製絹糸并に之が加工品著しく勃興しつゝある。
就中蚕糸業は其首位を占め、製糸場は九百十六、釜数一万五千六百五十一、職工数一万五千九百十一
であつて年産額は
生糸 一〇、九二八、四七八円
玉糸 四、七六五、三一七
座繰糸 六五一、九一八
屑物 九二〇、九一七
計 一七、二六六、六三〇
に上り、此原料として本邦各産地より市内に搬入せらるゝ繭は七千二百九十五瓲の多きに達して居る、
殊に玉糸は本場の上州を凌駕し所謂豊橋玉糸の特産地である、本市は長野県諏訪地方と共に我国製糸界
の二大中心地として内外に知悉せられて居る、市内花田町一帯の工場地域の如きは煙突林立黒烟常に天
に沖するを見るのである。
次に主なる工産品を列挙すれば即ち左の通である
麻真田 一、八三四、五〇四円
菓子類 一、四九七、三七〇
砂糖 七〇九、六六八
文房具 四一八、六二〇
木製品 四一三、八九四
機械器具 三九二、九〇六
味噌 三九二、〇三三
織物 三六三、六一五
醤油、溜 三五二、九二九
酒 三〇九、〇六七
右の内特色あるものに付て説明すれば
麻真田は本市に於ける重要物産の一である、南洋より輸入するマニラ麻を原料とし絹糸にて之を連接
して編製したるものであつて、製帽用として盛に欧米各国に輸出するのである、此は近年発達したもの
九
一〇
であるが、長足の進歩を遂げ全国的に有名になつて居る。
文房具中に包含せらるゝ毛筆は此又本市の特産品であつて最古き歴史を有し、已に文化文政の頃吉田
藩足軽の内職として行はれ、爾来順調に発達して其名声漸く高まり、日清戦役後急激に進歩し、従て時
代の趨勢に順応し厳正なる製品検査を行ひ、優良品のみを市場に販売する目的を以て同業組合を組織す
ることゝなり、昭和三年其設立を見るに至つたのである、今では全国第一の名声を博し、品質の優良と
価格の低廉とを以て断然頭角を表はすに至つたもので、其産額は四十万三千四百二十円を算する程であ
る。
二 工場と従業者
本市の工業は製糸が第一位を占むる関係上、工場数も従業者も年々増加の傾向を有し、現今では五百
二十三工場があつて職工数一万五千二百四十二人である、其内男二千七百一人に対し女一万二千五百四
十一人であるのは製糸工場の多い結果である。
職工五人以上を使用する工場百八十、十人以上を有するもの二百十二、三十人以上のもの六十三、五
十人以上及百人以上のもの各三十四工場を算して居る。
今之を種類別にすれば、紡績工業は三百八十三工場であつて職工一万三千七百五十七人、食料品工業
は四十五工場であつて四百二十七人、製材及木製品等之に亜いで居る。
工場数五百二十三中原動力を使用するものは四百九十三であつて否ざるものは三十である、之により
て近代工業の趨勢を略知することが出来ると思ふ。
本市の労働賃金は他都市に比すれば概して低廉である、今最多数を占むる製糸工場に付て見れば工賃
は日給最高一円五銭、最低二十五銭、普通六十銭位である。
四 商業
一 概説
市内に於ける商店の数は五千百十三戸であつて米穀、蔬菜、果実、魚類、肉類、調味料等の食料品を
初め、布帛等の生活必需品、繭、生糸、玉糸、木材、石炭、石油、セメント、銅鉄等の工業用品、肥料、
飼料等の生産用品の集散益々盛である。
本市の商取引は単に国内のみに止まらず、生糸、玉糸、麻真田、漁網、鶏卵、衛生陶器等は何れも海
外に輸出せられて其名声を博して居る。
一一
一二
二 市場
鮮魚介類其他の水産物を取扱ふ株式会社魚市場は其取引高一ヶ年七十一万五千四百二十円に上り、塩
干魚の丸一豊橋水産市場は六万九千五百八十一円に達し、豊橋委託運輸株式会社の青果市場は年額四十
万千円、東三青果市場は九万九千円の取引高を有して居る。
日用品小売市場としては新川及松葉の二公設市場があつて三十九万四千十八円の売上高あり、外に第
一豊橋、八町、高師、花田、東田の私設市場があつて一ヶ年に三十六万千四百五十四円の売上を有し直
接市民の需用に応じて居るが未だ十分なりと称し得ない程度である。
三 米穀取引所
其淵源最古く明和の頃の相場会所に其端を発し、爾来幾多の曲折を経て明治二十七年政府の免許を
得、株式会社として設立せられ、精算市場と倉庫業を併せ行ふやうになつたのである、最近一ヶ年の売
買高は実物取引三十九万九千五百二十六円に達し、市内は勿論東三地方の経済機関として重要視せられ
て居る。
五 会社
産業の発達に伴ひ経営組織も個人経営より漸次会社組織に推移することは当然であるが、最近急激な
る進展を示し、昭和九年末には合名会社四十四、合資会社百九十、株式会社七十九、合計三百十二にな
つた、而して其資本額は三千五万八百五十円に達して居る、此等の会社を業態別にすれば
商業 一六八 資本金 一〇、〇四四、四五〇円
工業 一一七 五、一七七、五〇〇
運輸 二〇 一四、一六三、〇〇〇
農業 三 一〇、九〇〇
水産 二 一〇五、〇〇〇
鉱業 二 五五〇、〇〇〇
而して昭和九年中に新設せられた会社は六十五、此資本金三百三十三万六千三百円であつて、解散し
たもの十七、此資本金五十三万四千四百円である、此によりても本市の産業が最堅実なる発達を為しつ
つあることを知るに十分である。
六 金融と倉庫
本市の産業が日進月歩の勢を以て隆盛に赴くと共に金融機関の利用も著しく増加して居る、其重なる
一三
一四
ものは、特殊銀行支店一、普通銀行支店五、貯蓄銀行本店一、支店二、合計九である、唯普通銀行の本
店一ヶ所をも有せざる豊橋市として誠に遺憾千万と云はねばならぬ、今此等銀行の預金高を見るに年内
に取扱ひたる預金は二億五百六十九万七千六十四円、払戻は二億七十八万四千百三十五円であつて、昨
年末現在高は三千百四十六万五千五百四十四円である、又貸付高は年末現在では千二百六十万九千百七
十二円になつて居る、昨年中の手形交換所の交換高は十万六百一枚、三千四百七十七万二千五百九十九
円であるが、不渡手形は六十三枚、一万七千三百八十三円である。
外に無尽会社の本店一、出張所一あつて其口数七千四百八十九である、又信用事業を行ふ産業組合は
十六であり組合員数六千三百一人、公益質屋一、私設質屋二十八戸等である。
尚本市に於ける郵便貯金は昨年中の預入口数二十九万四千七百八、此金額三百六十八万二千八十一円
であつて新規預入人員は一万二千四百六十五人である、而して年内払戻口数は十一万六千二百三十、金
額四百十四万三千五百四十一円である。
次に本市内に於ける倉庫業者は東陽倉庫株式会社支店、マルケイ東海倉庫株式会社、相信倉庫合資会
社及共益運輸倉庫株式会社の四会社であつて倉庫の棟数四十七、戸前数七十一、建坪一万三千六百八十
七平方米である、昭和九年中に於ける入庫高は五十七万四千五百五十五個、千八百三十一万千六百五十
円であり、出庫高は五十二万九千百二十一個、千八百九万千三百五十五円であつて、年末現在では十二
万八千五百五十二個、三百二十五万五千六百八十九円である、今之を種類別にすれば、年末現在高の重
なるものは繭二百三十五万三千八百四十六円、内地米五十六万七千三百十五円、絹糸十八万八千二百七
円其他である。
七 産業団体
市内には豊橋商工会議所、市農会、商工協会を初め各種の団体組合等があつて農工商の指導奨励に努
め、産業施設の発達、生産品の販路拡張斡旋、博覧会共進会見本市等の出品勧誘、調査研究、質疑応答、
講習講話会の開催、其他産業の振興に関する各種の施設経営に不断の努力を払うて居るのである、而し
て市内に於ける組合を類別すれば左の通である
産業組合 二〇
同業組合 九
漁業組合 五
準則組合 四
蚕糸業組合 三
組合聯合会 一
工業組合 一
一五
一六
畜産組合 一
商業組合 一
其他 二
計 四七
産業団体にして市役所内に事務所を置くものは
豊橋市農会
豊橋市養蚕業組合
豊橋市茶業組合
豊橋市商工協会
商工会議所内に事務所を置くものは
豊橋市広告協会
豊橋市商店聯盟会
豊橋経済座談会
東三醤油同業組合
豊橋市観光協会
等である。
八 交通と運輸
交通運輸が都市の発展に多大の関係を有することは今更贅言するの必要はない。
豊橋市は東海道の要衝に当り東三河に於ける文化と経済の中心点である、即ち東海道本線は市の南西
部を貫通し豊橋駅には一日百二十二回の発着列車がある。
岡崎市を通じて本市と名古屋市とを連絡する名古屋鉄道があり、東三河北部を結付くる豊川鉄道、田
口鉄道、鳳来寺鉄道等があつて三信鉄道と握手せんとし、中部日本に於ける連絡機関として重大なる任
務を持つて居るのである、別に渥美半島を縦貫する渥美電鉄があり、市内を疾走する豊橋電軌鉄道があ
る。
豊橋駅に於ける発着貨物は昭和九年中には発送八万九千十一瓲、到着十万五千九百四十八瓲であつて、
一日平均前者は二百四十四円、後者は二百九十円の割合である、乗降客の数は乗客七十九万六千三百四
十七人、降客七十九万八千七百十一人であり一日平均各二千百八十人である、尚郊外電車によるものは
乗客二百七万三千八百五十三人、降客二百八万二千四百五十七人であり、貨物は発送十九万千二百三十
八瓲、到着二十四万六千九百六十三瓲である、其他自働車による貨客の出入は挙げて数ふべからざるも
のがある。
次に水運に付て述ぶれば市の北部を流るる豊川は延長六十六粁に亘りて渥美湾に注いで居る、河口に
一七
一八
豊橋港を控え船舶常に輻輳して居る、水概して深からず満潮時僅かに丈余に達するばかりである、従て
船舶交通上不便尠なからざるに鑑み今や豊川改修工事を実施するの議が進んで居る、遠からずして之が
実現を見るに至るであらふ、臨海都市として且近く三信鉄道によりて表日本と裏日本とを連絡する豊橋
市として完全なる一大港湾をも有せざるは寧ろ不可思議の事実であると云はねばならぬ、従て近来新に
適当なる個所を選定して築港を設くるの計画があるが、之が完成の暁は海陸交通の便最も開け本市の面
目更に一新するものあるは疑を容れない所である。
水運としては別に柳生川運河があり河口に牟呂港があつて専ら渥美半島方面の物資を取扱ひつつあ
る。
本市貨物集散の状況は昭和九年中に於て鉄道による輸移入は千八百四十一万三千百二十二円、輸移出
は二千七百七十九万七千六百十七円、船舶による輸移入は千十五万七千六百九十五円、輸移出は二百二
十四万六千五百三十九円、又自働車による移入千四百一万五千五百十六円、移出七百二万二百十三円で
あつて総計輸移入は四千二百五十八万六千二百八十六円であり、輸移出は三千七百三十八万二千四百四
十九円である。
九 結論
前述の如く我豊橋市は中部日本に於ける枢要の地位を占め、人口は日を逐うて益々増加し、産業は年
と共に隆盛に赴き、殊に文化的機関は愈々整備し、交通は四通八達し、海陸施設の完成と相俟つて将に
一大飛躍を試みんとし、市勢の進展刮目して観るべきものありと信ずるのである、殊に本市は気候温和
なること、生活が簡易質素なること、市民は勤勉着実なること、克く時勢の進運に順応して進取の気象
に富めること等の条件を具備するを以て、将来は各種の産業勃興し名実相共に大豊橋市の実現を見るに
至るの日は決して遠からざるものありと固く信ずるのである。
附録
市内及近郊の名勝旧蹟
(市内)
吉田城址 今歩兵第十八聯隊の営所となる。
県社吉田神社 七月に行はれる花火祭、笹踊で有名である。
今上陛下
御野立の聖蹟 向山にありて今公園となる。
正林寺 市内に於ける最古の寺院であつて鎌倉初期の創建であるといふ。
龍拈寺 曹洞宗の巨刹である。
一九
二〇
東本願寺別院 吉田御坊又豊橋別院ともいふ。
悟真寺 明治大帝御巡幸の際の行在所である。
県社神明社 天慶の乱後其報賽として創建せられたるもの。
八町練兵場 神武天皇御銅像を奉安せる勝地である、又 今上陛下特別大演習御統監の際御親閲の聖
蹟である。
仁連木城址 明応中戸田宗光の築く所で、城外は古の薑原にして徳川武田両氏交戦の地である。
鞍掛神社 鎌倉街道に当る、源頼朝上洛の際通過して其鞍を奉納したる所で、東一町許に駒止桜が
ある。
赤岩山法言寺 初夏の新緑、晩秋の紅葉、都人の杖を曳くべき勝地である。
(近郊)
弁天島 白砂青松の海水浴場であつて浜名湖に臨み形勝の地である。
岩屋観音 岩上に聖観音の銅像を安置し風光絶佳 今上天皇御登臨の聖蹟である。
蒲郡 有名な海水浴場であつて前面に大小幾多の島影を望み天然の勝景である、鳥羽二見への
連絡汽船がある。
田原町 田原城址、巴江神社、偉人渡邊崋山玉砕の址、墳墓其他の遺蹟がある、又附近に貝塚が
散在する。
伊良湖岬 太平洋と伊勢内海との関門、風光雄大にして壮麗、俳人杜国、歌人磯丸の遺蹟がある、
日出の石門又有名である。
豊川稲荷 参詣する者日夜に絶えず、其名天下に著はれて居る。
長篠城址 天正三年武田織田徳川三氏の古戦場である、当時の砦址、鳥居強右衛門墓、甲将の墳墓
等弔古の士の袖を霑ほすものがある。
鳳来寺 古来有名なる巨刹であつて夏季霊鳥仏法僧啼く、山下に鳳来峡の勝景がある。
二一
【奥付】
昭和十年九月三十日印刷
昭和十年十月五日 発行
豊 橋 市 役 所
豊橋市西八町八十六番地
印刷者 藤 田 庄 太 郎
豊橋市西八町八十六番地
印刷所 《割書:合 名|会 社》 藤 田 印 刷 所
【白紙】
【白紙】
歴史民俗資料調査カード(歴史)
《割書:都道府|県 名》愛知 番号49 23
名称・員数 浪図 12幅のうち7
所有者 【以下黒塗り】
(住所) 【以下黒塗り】
保管者 【以下黒塗り】
(住所) 【以下黒塗り】
発掘地
時代 江戸時代 作者 長澤蘆雪
法量 総縦212cm 総横92cm
縦 185cm 横 89.2cm
品質 紙本淡彩
形状 掛幅装
この幅のみ左右を継ぐ空白で元来筆致は見られないよう
である。
(讃
奥書
銘文)
伝来
写真拓本等 豊橋市教育委員会社会教育課
備考 右より7(小)
指定の有無 愛知県指定文化財
49
愛知 23 浪図 正宗寺
調査年月日 昭和49年12月11日 調査者指名 水野柳太郎
歴史民俗資料調査カード(歴史)
《割書:都道府|県 名》愛知 番号49 40
名称・員数 群雀図 8幅のうち4
所有者 【以下黒塗り】
(住所) 【以下黒塗り】
保管者 【以下黒塗り】
(住所) 【以下黒塗り】
発掘地
時代 江戸時代 作者 長澤蘆雪
法量 総縦194cm 総横106.5cm
縦 169cm 横 103cm
品質 紙本淡彩
形状 掛幅装
(讃
奥書
銘文)
伝来
写真拓本等 豊橋市教育委員会社会教育課
備考 右より4(大)
指定の有無 愛知県指定文化財
49
愛知 40 群雀図 正宗寺
調査年月日 昭和49年12月10日 調査者指名 水野柳太郎
【表紙】
三河国【國】古蹟考 中
【両頁文字無し】
倭名類聚鈔所載参河國郡郷考 三井家
大旨
/掛巻(カケマク)も/恐(カシコ)き /皇産霊(ミムスヒノ)大神 等(タチ)の。天上(アメ)より/照覧(ミソナハ)し/坐(マシ)て。
此 ̄ノ/浮漂(タダヨ)へる国を/修固(ツクリカタ)めなせと/詔(ノリ)給へる。/詔命(オホミコト)のまに〳〵。
/伊邪那岐(イサナギ)/伊邪那美(イサナミ)二柱 ̄ノ大神/乃(ノ)/生成(ウミナ)し給ひ。/大名持少彦(オオナモチスクナヒコ)/名(コナ)
の二大神の。/葦(アシ)/菅(スゲ)を/殖生(ウエオフ)して/造固(ツクリカタメ)/竟(ヲヘ)給ひしは。大八島国と称(タヽヘ)
来(キ)つれど。後には数々に割(ワカ)れたるなり。そはまづ日本紀《割書:七之巻|廿六ノヒラ》成務
天皇 ̄ノ五年秋九月云々。則 隔(カギリテ)_二山河 ̄ヲ_一而 分(ワケ)_二国県(クニアガタ) ̄ヲ_一。随(マニ〳〵)_二阡(タヽサノミチ) 陌(ヨコサノミチ) ̄ノ_一以定 ̄ム_二
邑里(ムラ) ̄ヲ_一。因(カレ) ̄ヲ以_二東西(ヒカシニシ) ̄ヲ_一為_二日縦(ヒタヽシ) ̄ト_一。南北 ̄ヲ為_二【訓点の脱落】日横(ヒノヨコシ) ̄ト_一。山陽(ヤマノミナミ) ̄ヲ曰(イヒ)_二影面(カゲトモ) ̄ト_一。山陰(ヤマキタ)曰_二背(ソト)
郡郷考 一
【右丁】
面(モ) ̄ト_一云々。《割書:古事記《割書:中ノ|五十九丁》同天皇 ̄ノ条(クダリ)に故(カレ)建内(タケウチ) ̄ノ宿祢 ̄ヲ為(シ玉ヒ)_二 大臣(オホオミ) ̄ト_一【訓点の脱落】定(サダメ)-_二賜(玉ヒ)大国小国(オホクニヲクニ) ̄ノ|之 国造(クニノミヤツコ) ̄ヲ_一亦定-_二賜 ̄ヒキ国々之 堺(サカヒ)及(マタ)大県小県之(オホアガタヲアガタノ)県主(アガタヌシ) ̄ヲ_一也。とあり。》とある
ぞ。人の世となりて国所の境を定め給ふ事の見えたる始 ̄メ なる。
其 ̄ノ のち於(ニ)_二諸国(クニ〴〵)_一置(オキ) ̄テ_二国史(フビト) ̄ヲ_一記(シルシ) ̄テ_二言事(コトバトコト) ̄ヲ_一達(イタセ) ̄リ_二 四方志(ヨモノフミ) ̄ヲ_一と。日本紀《割書:十二ノ|六丁》履中
天皇 ̄ノ四年秋八月の条(クダリ)に見え。允恭天皇 ̄ノ御世 ̄ニ造 ̄リ_二立 ̄ツ国 ̄ノ境 ̄ノ之 標(シルシ) ̄ヲ_一
と新撰姓氏録《割書:上ノ|卅八丁》坂合部(サカヒヘ) ̄ノ連(ムラシ)の条(クダリ)に見え。孝徳天皇 ̄ノ大化二年 ̄ニ詔 ̄スラク
宜 ̄ベシ_下観(ミ) ̄テ_二国々 ̄ノ「土偏+畺」堺(サカヒ) ̄ヲ_一。或 ̄ハ書(フミニシ)し或 ̄ハ【書からここまで朱書きで挿入】図(カタヲカキ)持 ̄チ来 ̄テ奉 ̄ル_上_レ示(ミセ)。国県 ̄ノ之名 ̄ハ来 ̄ラム時 ̄ニ將(ス)_レ定 ̄メント云々。
また天武天皇 ̄ノ十二年。遣 ̄ハシテ_二伊勢 ̄ノ王云々等 ̄ヲ_一。巡(メグリ)-_二行 ̄テ天 ̄ノ下 ̄ヲ_一。限(サダメ)-_二分(シム)諸国 ̄ノ之
境界(サカヒ) ̄ヲ_一然 ̄レトモ是 ̄ノ年不_レ堪(アヘ)_二限分(エサタメ)_一。十三年遣 ̄シテ_二伊勢 ̄ノ王等 ̄ヲ_一定 ̄メシム_二諸国 ̄ノ境 ̄ヲ_一と。日
本紀《割書:廿五ノ廿ニ丁|廿九ノ卅五丁》等に見え。また聖武天皇 ̄ノ天平十年。令 ̄シテ【「令」の左横に「下」と訓点】_二 天 ̄ノ下 ̄ノ諸国 ̄ヲ_一
【左丁】
造 ̄テ_二国郡 ̄ノ図 ̄ヲ_一進 ̄ラシム_上と。続日本紀《割書:十三ノ|六丁》に見えたり。
〇【朱書き】さて国々の分属(キザミ)の古く見えたるは。古事記《割書:中ツ巻ノ廿八ノヒラ|崇神天皇ノ条》に。高志(コシ) ̄ノ道。
《割書:後の北陸|道の事也。》同《割書:中ノ廿八丁|同天皇 ̄ノ条》東(ヒムカシ) ̄ノ方 ̄ノ十二(トヲマリフタ)道(ミチ)《割書:東海道なり。|十二 ̄ハ国 ̄ノ数也。》日本紀《割書:五ノ六丁|同天皇条》北陸(クヌガノミチ)
東海(ウミツミチ)西 ̄ノ道《割書:山陽|道也。》また四(ヨツ) ̄ノ道《割書:北陸東海西 ̄ノ道|と丹波となり。》また《割書:七ノ二十三丁|景行天皇 ̄ノ条》東山(ヒムカシノヤマ) ̄ノ道十五
国なと見え。孝徳天皇の御巻《割書:廿五ノ|九丁》に畿内(ウチツクニ)の定 ̄メ見えて。持統天皇の
御巻《割書:三十ノ|廿二丁》に四畿内《割書:此 ̄ノ時はいまだ河内|和泉は一国なり。》天武天皇 ̄ノ御紀《割書:廿九ノ|四十二丁》に。山陽(カゲトモ) ̄ノ道 山陰(ソトモ) ̄ノ
道また東海(ウミツミチ)東 ̄ノ山(ヤマノミチ)山陽(カケトモノミチ)山陰(ソトモノミチ)南 ̄ノ海(ミチ)築紫(ツクシ)と。六道 並(ナラビ)て見え。七道の名
は。続日本紀《割書:二ノ五丁|文武天皇 ̄ノ条》に始て見えたり。さて諸国(クニ〴〵)の総(スベ)ての員数(カズ)は。古へに
幾許ともいへる事物に見えす。旧事記《割書:十之|巻》の国造本記には。百四十四
和考 二
【右丁】
国の国造(クニノミヤツコ)を挙(アゲ)たれど。古 ̄ヘ は今いふ郡里などをも。国 ̄と云ひしかば。
猶もれ洩たるも多かるべし。然れと孝徳天皇の御世には。慥(タシカ)に定まりつらむ。
さて其 ̄ノ後にも一国を二 ̄ツに分 ̄チ。また二国を一 ̄ツに合せなど。御々世々に彼此(カレコレ)
変(カハ)りしも有つること。嵯峨 ̄ノ天皇の御世。弘仁十四年三月に。越前 ̄ノ国を割(ワカチ)【原文の振り仮名は「カチ」】
て加賀 ̄ノ国を建(タテ)られて。《割書:此事日本後紀拾芥抄|当抄等に見えたり》六十六国二島と定まりたる也。
如此(カク)定りしは。既に続紀に国 ̄ノ守(カミ)に任(マケ)らるゝ事 数多(アマタ)見え。官位令に
大上中下の国の分(ワカチ)。其 ̄ノ国々の守介(カミスケ)掾目などの位階を分(ワカチ)記された
れば。早くより定まりしならむを。全く備りて物に見えたるは。延喜
民部式《割書:廿二|の巻》と当抄となり。《割書:上件の事どもは鈴 ̄ノ屋 ̄ノ大人の古事記伝の説によりて|いへり》
【左丁 行頭の〇は朱書き】
〇かくて此 ̄ノ参川 ̄ノ国の事の古く物に見えたるは。古事記《割書:中巻廿四丁|開化天皇条》に。
朝廷別王(ミカトワケノミコハ)三川 ̄ノ之 穂別之祖(ホノワケノオヤ也)。《割書:開化天皇の|玄孫なり。》また《割書:中ツ巻丗四丁|景行天皇条》落別王者(オチワケノミコハ)。
三川 ̄ノ之 衣君之祖也(コロモキミノオヤナリ)《割書:垂仁天皇 ̄ノ第|十二の皇子也》と見え。旧事記《割書:五ノ十六丁|天孫本紀》。宇麻志麻
治 ̄ノ命 ̄ノ四世孫。大水【「水」を朱で見せ消ちにして右横に「木」と朱書き】食 ̄ノ命 ̄ハ三河 ̄ノ国造祖(クニノミヤツコノオヤ)。出雲醜大臣(イヅモシコオミ) ̄ノ之子《割書:也》《割書:孝安天皇の|御世の人也。》
とあり。是等や古 ̄ル からむ。さて同書《割書:十ノ|四丁》国造本紀五。参河 ̄ノ国 ̄ノ造 ̄ハ志
賀 ̄ノ高穴穂 朝(ミカトニ)云々定 ̄メ_二-賜 ̄フ国 ̄ノ造 ̄ニ_一。また穂(ホノ)国 ̄ノ造 ̄ハ泊瀬(ハツセノ)朝倉 朝(ミカトニ)云々定 ̄メ賜 ̄フ
国造 ̄ノと見えたり。其 ̄ノ比は此 ̄ノ国内(クヌチ)の限 ̄リ も。参河 ̄ノ国とのみは云はす。今いふ
郡ほどの地(トコロ)をは。穂(ホノ)国と号(イヘ)る如く。何の国某の国と。いくつにも分(ワカ)れ
たりけむかし。
【右丁 行頭の〇は朱書き】
〇さて一国八郡の分(ワカチ)の。物に見えたるは。上にも云る如く。民部式と当抄
となり。
〇参河といへる名の由来(ユエヨシ)は。古風土記 絶(タエ)て物に見えざれど。
〇国名風土記《割書:上ノ|十二丁》 に。《割書:此 ̄ノ書宝永ノ刊本ニ此已有て。題号ニ日本風土記。巻ノ首に|日本記【ママ】之内国名と有て。国々の名の故(ユヘ)由をあら〳〵と記せり。》
〇【〇を見せ消ち】三河トハ。此 ̄ノ国 ̄ニ三ッノ河アリ。一《割書:ツ》ニハ男河(ヲトコカハ)。二《割書:ツ》ニハ豊(トヨ)河。三《割書:ツ》ニハ矢作(ヤハギ)河是也。
コノ三ツノ河ニ依テ。名(ナツケ)テ三河ト云。又 男(ヲツト)【左横に「男川イ本」と傍記】神トハ。河上 ̄ニ山神アリテ女神男神
一所(トコロ)ニハ栖(スミ)玉ハズ。立ヘダヽリテスミ玉フイ本。其名【「名」の左横に「処イ本」と傍記】ヨリ出ルヲ男神河ト云此 ̄ノ神世俗ニハ。
白鬚(シラヒゲノ)明神ト申ストカヤ。次ニ豊河トハ。市盛(イチモリ)【「市盛」の左横に「一リノ盛ナルイ本」と傍記】 ̄ノ長者アリケル。彼(カレ)ヲ
見レバ。此 ̄ノ河上ニスミ居玉フナリ。【「スミ居玉フナリ」の右横に「イ本ナシ」と記し線で見せ消ち】人屋サカンナル事廿里ナリ。彼 ̄ノ民家 豊(トヨ)
【左丁】
ニサカンナル故ニ。其 ̄ノ流を豊河ト号ス。又 矢作(ヤハギ)河ハ。日本尊【「尊」の右肩に挿入記号を付け、左肩に「武イ本」と傍記】。東〇【〇の左横に「征イ」と傍記】 ̄ニ下向シ
玉ヒシ時。夷(エビス)ノ兵ド【「ノ兵ド」を半丸かっこで括り「賊イ本」と傍記】モ。高石山(カウセキサン)ニテ《割書:按フニ傍(カタヘ)訓(カナ)のカウセキサンは誤にて。タカシ山と訓 ̄ム べし。|此事ハ古哥名積【注】考五いふべし。》
【注 「古哥名積」を朱で四角く囲んでいる。古哥名「蹟」とあるところか】
待カケ奉リシ由ニ聞召シ。彼 ̄ノ所ニテ多ク矢ヲ作リ【「リ」の右横に「ラセイ本」と傍記】玉ヒシ故ニ。其 ̄ノ所〇ヲ【左横に「名イ」と傍記】
矢作(ヤハギ)トモ。〇河【左肩に「メ或はヌ、イ」と傍記】 ̄ノ名ニモツケ玉フナリ。
〇また一本には。参河 ̄ノ国 ̄ニ有 ̄リ_二 三 ̄ツノ川_一。曰 ̄フ_二男川(ヲトコガハト)_一。二 ̄ノ曰 ̄フ_二豊(トヨ)川 ̄ト_一 三 ̄ヲ曰 ̄フ_二矢作川(ヤハキカハ) ̄ト_一。男川 ̄ハ者。
河 ̄ノ上 ̄ニ有 ̄リ_二山神_一。白髪明神 ̄ナリ也。豊川 ̄ハ者。北【「北」を見せ消ちにして右横に「此」と朱書き】河上。有 ̄リ_二長者_一。民屋豊饒 ̄ナリ。故(カレ)
曰 ̄フ_二 豊川 ̄ト_一。矢作川 ̄ハ者。日本武尊(ヤマトダケノミコト)【ママ】東征 ̄ノ時 ̄ニ。於 ̄テ_二【返り点「二」が脱落】河辺 ̄ニ_一。多(サハニ) 作(ハキ玉フ)_レ矢 ̄ヲ故(カレ)曰_二矢作
川 ̄ト_一【返り点「二」とあるは誤記】とあり。《割書:此一本ノ文。藤原惺窩主職原抄首書《割書:寛文|刊本》同参考《割書:宝永|刊本》等 ̄ニ。風土|記抄ニ云トテ引リ。伴信友主云。此本カナ書ノ方本ツ書ト見え【ママ】タリ。》
サテ此 ̄ノ書ムゲニ近 ̄キ世 ̄ノ物 ̄ニ ハアラズ。卜部家ヨリ出タル物ト見ユルコトアリ。中 ̄ニ ハ現(ウツヽ) ̄ノ古書 ̄ニ
記セル古伝【傳】ヲトリテ書キタルモ有レド。凡 ̄テ ハ国名 ̄ノ由緒ヲ。作者 ̄ノ私 ̄ノ押当 ̄ニ考タル
和考 四
【右丁 頭部】
〇按白鬚明神ノ社ノ設
楽郡長者 平(ヒラ)村ノ
隣村手【「手」の右横に「チ」と朱書き】洗所【「洗所」の左横に「ヤレイ」と朱書き】村ニアリテ
俗 ̄ニ本地(ホンヂ) ̄ノ宮 ̄ト称 ̄ス作手
郷三十六村 ̄ノ総社也
【右丁 文頭の〇は朱書き】
《割書:物ニテ。古ヘニ叶ハヌ|モノ也トイハレタリ。》〇二葉松等の書にも。此説に拠(ヨリ)て。矢矧川は。今も矢
矧川と称(トナ)ヘ。豊川は《割書:又姉(アネ)川|ともいふ》今の吉田川をいひ。男川は《割書:一名 扶止(ヲト)川。|又音川ともいへり》今の
大平(オホヒラ)川をいふとも。又は尾張との境なる川をいふとも云り。《割書:古事記伝【傳】にも。此の|説を挙られたり。》
また二葉松に。或説を載て。とゝ川は元来あと川也。大己貴 ̄ノ命諸国を巡り
給ふ時の。御足跡。今に諸国に在り。御足跡。池鯉鮒の野に在といふ。
菅清公 ̄ノ記に。足迹をトヽと訓にて。彼是引考るに。池鯉鮒宿の
《割書:ツネナリ云|三ツノ河ニヨリタル名ニハアラシ》いふなるべし。《割書:彼川の西。今岡村の西に又一流あり。これ境|川にて。彼 ̄ノ チリフ【知立】の西の流と共に海に入る。此》
《割書:等ノ口|三河 ̄ノ国》《割書:東二ケ口也サレハ豊川ハ田也今今岡村の続(ツヽキ)にイモ川の地名あり。今は芋川と訛り|西三河国ニアラズ。妹は女の通称にて。右の二流。女川男川なるべし。かゝれば》
《割書:チリフの西の流とつなく|男川なる事分明なるべし》といへり。
【左丁】
〇内山真竜の国号考《割書:予未 ̄タ その全|書を見ず》の説には。参河美濃尾張と共に一
国の地形なれど。別置く事物に見え【「人或はヘを見せ消ちにして右横に「え」と傍記】ず。上 ̄ツ代には参川 ̄ノ国とは云ずして。
許呂母高巣庶鹿穂飫(コロモタカスモロカホオ)。小月(ヲツキ)等いへり。古事記に三川之衣 ̄ノ君と
あるは。後を廻(メグ)らして記 ̄ル せし也。後 ̄ノ世に男川豊川矢作川。此以_レ称国号
といふは甚俗説なり。三川と書ても。加茂の御(ミ)川の意也。垂仁紀に大
中津日子 ̄ノ命 ̄ハ者許呂母 ̄ノ之 別(ワケ)。高巣庶鹿之別。落別王者(オチワケノミコハ)小月(ヲツキ)
之山之 祖也(オヤナリ)。これを始とす。小月は今賀茂郡に月原(クワチハラ)山の下に築山(ツキヤマ) ̄ノ
郷あり氏とす。姓氏録に小槻山 ̄ノ君 ̄ハ落別 ̄ノ命之後也とあり。凡
矢作川に属(ツキ)たる地。加茂郡衣 ̄ノ郷築山 ̄ノ郷。額田 ̄ノ郡山綱以北。古時
和考 五
【右丁 頭部の朱書き】
〇烏丸光広【廣】卿元和
四年東路記 ̄ニ を
と川ノ在処今ノ大平川
ノ如シ
〇山崎闇斎 ̄ノ画遊
記行 ̄ニ モ大平川
旧謂之男川
今俗亦曰_二夫川_一
【前のコマ(コマ7)と重複】
【右丁】
【行頭の〇は朱書き】
官道なり。加茂国号あるべきを。加茂郡を流るゝ河に基(モトヅキ)て。御川(ミカハ) ̄ノ国
といふ事になりけむと云り。《割書:中には信(ウケ)がたき事も多かり。こゝには|其の要(ムネ)とある事をつみ出て引り。》
〇斎藤彦丸の。諸国名義考にも。上に挙(アゲ)たる風土記の文を引て。信友
云。今遠江に《割書:タクヲ云フと|江ニハナラズ》二川といふ郷在てよ【「は」を見せ消ちにして右横に「よ」と朱書き】く似通ひて聞ゆ。彦丸思ふに
三大川に依て国 ̄ノ号としつるはかづなき物から。又思へば救をいはず。
たゞ大河を称(タヽ)へて。御(ミ)川と号(ナヅケ)け【「け」が重複】しにもあらむかといへり。
〇/因(チナミ)にいふ。二葉松 ̄ニ引る。菅 ̄ノ清 ̄ノ公 ̄ノ記とは。塵添壒嚢抄《割書:二ノ|七丁》云。尾張 ̄ノ国ニ
登々(トヽ)川 ̄ト云河アリ。菅清公記 ̄ニ云。大已貴少彦命ト巡国之時。往還足 ̄ノ
跡(アトナル)故 ̄ニ曰_二跡々 ̄ト_一。注 ̄ニ云俗 ̄ニ跡(アト)謂 ̄フ_二之■【文字を特定し難し】々(トヽ) ̄ト_一云へり。サレバトヽ ̄ト云フハ。足アトノ名 ̄ニ テアル
【左丁】
ヘキニヤとあり。此 ̄ノ書より取れるなるべし。
〇こは古事記《割書:上ノ|四丁五丁》に。大穴牟遅 与(ト)_二【「レ」点に見えるが「二」と有るところ】少名毘古那_一 二柱 ̄ノ神相 ̄ヒ並 ̄ヒテ作 ̄リ_二堅 ̄メ《割書:玉フ》此 ̄ノ国 ̄ヲ_一。【訓点脱落】
また大三輪鎮座次第記に。初 ̄ノ伊弉諾伊弉冉 ̄ノ二神(フタハシラノカミ)共 ̄ニ生_二 ̄ミ《割書:玉ヒキ》大八洲国
及(マタ)処々 ̄ノ小島 ̄ヲ_一而 ̄シテ地(クニ)稚(ウヒシク)如(ナス)_二水母(クラゲ)_一浮(ウキ)漂(タユタフ)之時 ̄ニ。大已貴 ̄ノ命与(ト)_二。少彦名 ̄ノ命_一【訓点脱落】
戮(アハセ)_レ力 ̄ヲ一(ムツビ)_レ心 ̄ヲ殖生(ウエオフ) ̄シ_二【訓点の脱落】薦葦菅(コモアシスゲ) ̄ヲ_一固 ̄メ_二造 ̄リ《割書:玉ヒキ》国地 ̄ヲ_一。【訓点の脱落】故(カレ)号(ミナヲ)曰 ̄ス_二国造 ̄リ大已貴 ̄ノ命 ̄ト_一。因以(コレニヨリ) ̄テ
称曰(イフ)_二【訓点脱落】葦原 ̄ノ国 ̄ト_一と見えたる時の事にして。伊予 ̄ノ国 ̄ノ風土記に。湯 ̄ノ郡 ̄ハ大(オホ)
穴持(ナモチ) ̄ノ命 見悔耻而(〇〇〇〇)。宿奈毘古那(スクナビコナ) ̄ノ命而 ̄メ 漬浴者(ソヽギシカバ)。蹔間(シマシホト) 有(アリ) ̄テ活起居然(サメマシテ)。
詠(ウタヒ) ̄テ_二曰 真蹔寝哉(マシバシネツルカモ) ̄ト_一。践健(フミタケビ) ̄シ跡処(アト)。今 ̄モ在 ̄リ_二湯 ̄ノ中 ̄ノ石 ̄ノ上 ̄ニ_一とあるも。其 ̄ノ跡所(アト)
の残れるなり。
和考 六
【右丁】
【行頭の〇は朱書き】
当(コノ)【當】国の古老(オイビト)の口碑(クチヅタヘ)に。大古(オホムカシ)ダイダラボツチといふ神在りて。本宮山石巻山
等(ナド)を海原(ウナバラ)より荷(ニナ)ひ上 ̄ゲて作れり。また其神本宮山に尻掛 ̄ケ居て。海にて
其 ̄ノ足を洗ひしなどいう云 ̄ヒ伝【傳】へたり。今其 ̄ノ足跡といひ伝【傳】ふる地。所々に在(ア)り。
近くは予(オフ?)か此 ̄ノ羽田村の地内。字 ̄ノ西羽田といふ所より西南の畑 ̄ノ中 ̄ニ在 ̄リ て足の
形の如き窪(クボ)みたる空地(アキチ)ありて。草生てありしを。近 ̄キ年次々に埋(ウヅミ)て畑となし。
今は其形さへ残らずなれり。《割書:近き頃まで。其 ̄ノ跡ありし|と村老ともいへり。》また同郡高足村に右 ̄リ の
足跡。同郡小嶋村《割書:アタゴ山といふ地に在也。又|同村カホウヤト云処ニモアリト云リ》に左の足跡と云 ̄ヒ伝【傳】ふる所あり。
《割書:本宮山にも姥(ウバ)か足跡といひ|伝【傳】ふる跡岩の上にあり。》其 余(ホカ)【餘】にも処々にあるべし。
〇常陸国風土記に那賀郡平津駅【驛】家 ̄ノ西一二里 ̄ニ有 ̄リ_レ岡名(ナ) ̄ヲ曰 ̄フ_二大櫛 ̄ト_一 上古有 ̄リ_レ 人
【左丁】
躰(ムクロ) 極長大(キハメテオホキ)《割書:也》。身居(ミハヰテ)_二【訓点の脱落】丘壟(オカ)之上(ノウへ) ̄ニ_一手蜃【この二字の左に〇を付記】《割書:伸(ノベテ)_レ手 ̄ソ 捕(トレリ)_レ蜃 ̄ヲ ナトアリケンヲ。|伸捕字ノ脱タルヘシ。》其所食(ソノクラヒシ)貝(カヒ)積聚(ツモリテ)
成(ナレリ)_レ岡(ヲカト)。時人(ヨソヒト)不朽之義【この四字の左に〇を付記】《割書:由大朽之義謂大朽|ナド云文ノ脱タルナルベシ》今謂(イマイフ)_二大櫛之岡 ̄ト_一。其践 ̄シ跡長 ̄サ四十【表記は横一に縦線四本】余【餘】歩。
広【廣】 ̄サ廿余【餘】歩。尿穴住(イバリアナノアト)《割書:跡ノ|誤カ》可廿余歩許。
〇また榊原玄輔が。榊原談苑といふ書に。から国に巨人跡といふは。北方の俗 ̄ニ
大多法師の足跡といふもの也といへり。按(オモフ) ̄ニ此大多法師。ダイダラポッチなどいふは。
大已貴 ̄ノ命の御名を訛(ヨコナマリ)伝【傳】へたるにて。神代の古伝【傳】の遺(ノコ)れるなるへし。《割書:実にも|この》
《割書:大神。少彦名命ともろともに。からのえみしの八十国迄も造り堅め|たまひしなれば。かの国にも其跡所の遺り仕むかし。》
和考 七
【右丁】
【行頭の〇は朱書き】
〇此書は醍醐天皇 ̄ノ第四 ̄ノ 皇女(ヒメミコ)勤子 ̄ノ内親王の命(オフセ)を承て。従五位上能登
守源 ̄ノ順(シタカフ)主の撰録されたるもの也。順主は。永観元年七十二歳にて卒(マガ)
られたる由。大日本史《割書:二百十八|文学 ̄ノ五》に。歌仙伝【傳】系図等を引て云はれたり。永観
元年より。今年天保十年まで。八百五十六年になれり。
〇此書の郡名を。延喜式《割書:廿二之巻|民部式》と比挍(クラブ)るに大かた合(ア)へり。
〇伴信友主の説に。和名鈔に収(イレ)たる郷名は。古への風土記などの如く。諸
国に課(オフセ)て。公(オホヤケ)に注進(タテマツ)らせ給へるものにて。其 ̄ノ国人の唱(トナヘ)伝【傳】へたるまゝを注(シル)
せるものと見えたり。故(カレ)唱注の仮【假】字の用ひさまもとり〳〵にて。大概等(オホクノヒト)
しからず。或は仮字(カナ)にて書る地 ̄ノ名に唱注を施(ツ)け。又 読(ヨメ)【讀】がたき地 ̄ノ名に。唱注の
【左丁】
なきもありて。さま〴〵なり。故 ̄レ古 ̄ヘの唱(トナへ)のまゝなるあり。古くより言(コト)の通へるあ
り。後に言の転(ウツ)【轉】り通へるあり。音便にて訛(アヤマ)れるあり。言を省(ハブ)けるあり。
名を換(カヘ)たるあり。訓 ̄ミ誤れるあり。字(モジ)音(コヱ)て唱(トナ)ふるあり。旧(モト)より字音に唱(トナ)
ふへきあり。韓(カラ)語なるあり。古へと仮字の違へるなど有て。とり〳〵なるは。
其国にて唱ふるまゝを録(シル)されたる也といへり。
〇さて出雲風土記《割書:上ノ|二丁》に。郷 ̄ノ字 ̄ノ者依 ̄リテ_二霊亀元年 ̄ノ式 ̄ニ_一改 ̄ニ_レ里為_レ郷 ̄ト と有て。
記 ̄ノ中所 ̄ノ名を悉(ミナ)郷としるせしを始 ̄メ。肥前豊後の古風土記はいふも
さらなり。後の総国風土記にも。悉く郷と記(シル)せれば。今はそれに。
拠(ヨリ)て。郡郷考とは号(ナヅ)けつ。
和考 八
【右丁】
天保十年五月 賢木園主人羽田埜敬雄【花押】
【左丁】
【第一行目朱書き】
三川国古蹟考三之巻上之草稿
倭名荘鈔参河国【國】郡郷考
羽田埜敬雄 輯考
和名鈔五之巻国【國】郡部
参河《割書:三加|波》 《割書:〇日本紀《割書:廿五ノ|九丁》同《割書:三十ノ|廿一丁》続日本紀《割書:二ノ|十五丁》旧事記《割書:十ノ|四丁》|〇令義解《割書:一ノ|初丁》姓氏録《割書:上ノ|十一丁》万葉集《割書:一ノ》等ニ参河ト作(カケ)リ。》
〇古事記《割書:中ノ|廿四丁》同《割書:中ノ|卅四丁》旧事記《割書:五ノ|廿三丁》等三川ニ作(カケ)リ。旧事記《割書:五ノ|十六丁》日本紀《割書:廿五ノ|十六丁》続【續】紀
《割書:二ノ|十五丁》令義解《割書:二ノ|一丁》等 ̄ニ三河ト作リ。旧事記《割書:七ノ|卅四丁》続紀《割書:廿八ノ|十八丁》参川 ̄ニ作(ツク)レリ。
其 ̄ノ余(ホカ)余【餘】多アリ今略_レ之。
参河(ミカハ) ̄ノ国【國】《割書:国府在 ̄リ_二宝(ホ)【寶】飯 ̄ノ郡 ̄ニ_一【訓点脱落】|行程上十一日下六日。》
和考 九
【右丁】
【行頭の〇は朱書き】
〇 皇孫(アマツカミノミコ)迩々芸(ニヽギ)【藝】 ̄ノ命の天降(アモリ)ました時。皇産霊(ミムスビ) ̄ノ大神。天照大御神の詔命(オホミコト)
もちて。諸部(モロトモ)の神 等(タチ)を副(ソヘ)たまひて。其 ̄ノ職(ツカサ)【左に「ワサ」と振り仮名】に傔(ツカヘ)奉(マツレ)ること。天上(アメ)の儀(ミワザ)の如く
せよと。御依(ミヨサ)し【おまかせに】坐(マセ)る詔命(ミコト)のまに〳〵【~に従って】。上つ御代には其 ̄ノ神裔(ミスヱ)の氏人たち。臣連(オミムラジ)
伴造(トモノミヤツコ) 首(オビト)を始 ̄メ。八十伴男(ヤソトモノヲ)の臣等(オミタチ)。歴世(ヨノツギ〳〵)に其家々の職掌(ナリハヒ)を守りて。神世人 ̄ノ世
の隔なく。神事公事(カムワザオホヤケゴト)の分別(ケヂメ)もなく。帷神(カムナガラ)に嗣(ツ)ぎ仕 ̄ヘ奉て。いはゆる世-官【せいかん=代々同じ官職をつぐこと】の
さまに。万 ̄ツ の御政事(ミヲサメゴト)仕 ̄ヘ奉り。また各国(クニ〳〵)県里(サト〳〵)に住(スメ)る国造(クニノミヤツコ)には。国 ̄ノー造。
君。別。県(アガタ)【縣】主(ヌシ)。村主(スクリ)。稲置(イナキ)。直(アタヘ)などの差別(ケヂメ)ありて。等(ミナ)正く其 ̄ノ所々
を領治(アツカリヲサ)め。神事をも兼て。皇祖神(スメミオヤカミ)等の神勅(オホミコト)のまに〳〵。これもいは
ゆる封建のさまに仕 ̄ヘ奉 ̄リ 来て。余(ホカ) 【餘】に吾(ワ) ̄ガ業(ナリ)に勝(マサ)りて利(クボサ)ある職(ワザ)あれとも。
其(ソ)を望み欲(ホリ)する事なく。掌(ミル)る事なかりし故に。各々其 ̄ノ職業(ナリワザ)に精(クハシ)く。
人々其 ̄ノ分々(ホド〳〵)に安居(ヤスヰ)して。紛(マキ)るゝ事なく。上を闚闞(ウカヾ)ひ他(ホカ)を冀望(コヒノソ)む事
などはかつてもあらずて。若干(コヽバク)の御々代々(ミヨ〳〵)を経(ヘ)て。御世は美(メデタ)く治まり
【左丁】
来(コ)しを。かの聖徳太子。ふかく儒仏の道を好(コノ)み給ひて。万 ̄ツ それに
倣(ナラ)【振り仮名は朱書き】はまほしく【朱で「ホシク」と注記しているが、原文が仮名なので仮名書きとした。】思召(オホシメ)し位 ̄ノ階(シナ)を定め。儀制(シワザ)を飾(カサ)りなど。強て戎風(カラブリ)に威(イキ)
儀(ホイ)【朱で注記】をもてつけ給む。また仏道の女々しき説(コト)をも畏(カシコ)み給ひて取 ̄リ用ひ
給へるより。世の人意 ̄カ それに移 ̄リ行て。うはべは雄々(をヽ)しく。裏(シタ)は女々(メヽ)しく
成ゆくまに〳〵。次々に上(ウハ)べを取 繕(ツクロ)へる彼 ̄ノ たちたき制(サダメ)をうつし給ひ。
且 御政事(ミマツリコト)を蘇我(ソガ)氏の己(オノ)が随(マニ〳〵)に為(シ)つるより。それ例(タメシ)となりて。後には
臣等(ヲミタチ)の権威(イキホヒ)のみ。大きく強(ツヨ)く成ぬべき有状(アリサマ)にて。世の人意わかつ賢(サカシ)く
変(ナ)【朱で注記】れる故に。孝徳天皇の御世。中大兄皇子(ナカノオホエノミコ)と中臣鎌子連(ナカトミノカマコノムラシ)と御心
を合せ給ひて。彼蘇我氏を滅(ホロホ)し給む。さて其 弊(ツヒエ)を直し臣(オミ)等の勢ひ
を強からしめじと【「シメジト」と朱で注記】。殊更に厳(キビシ)き制度(ミオキテ)を設(マケ)給ひて。かの世官なる諸
部の職(ツカサ)を廃止(ヤ)めて。百【「而」とある右横に朱で「百」と注記】 ̄ノ官(ツカサ)を立 ̄テ給ひ。其 部(ムレ)ならぬ人にても才(カド)あるをば
挙用ひて。其 ̄ノ職(ツカサ)を掌(シ)らしめ給ひ。また封建のさまなる。国々の国造等【「事」とある右横に「等」と朱書き】
和考 十
【右丁】
【行頭の〇は朱書き】
をも停廃(ヤメ)て。郷県【縣】の制(サダメ)を用ひて。各国(クニ〳〵)に府を定て。国司(クニノミコトモチ)郡司等を
置て治めしめ給ふつとゝはなり給い。こは平田大人の古史徴開題記の意をうけていへり
〇此時までは。上つ御代より在来(アリコ)しまゝに。神事(カムワザ)国政(マツロヘコト)一つなりしかば。朝廷(ミカド)に
ては大臣大連(ヲホオミヲホムラシ)等を始。其 ̄ノ
神事を兼(カネ)掌(シ)り給ひ。各国(クニ〳〵)にては国 ̄ノ造その
上(カミ)として。神事を掌(シリ)しを。此 ̄ノ御制(ミサタメ)の時より。朝廷には。別(コト)に神祇官(カムツカサ)【振り仮名、「カ」の脱落】を
置て。其 ̄ノ官(ツカサ)の官人(ツカサビト)に神事を掌(シ)らしめ給ひ。各国(クニ〳〵)にては国 ̄ノ司 京(ミヤコ)より
下りては。国 ̄ノ改は国 ̄ノ司の知る事となりしかば。国の神事は旧(モト)のまゝ国 ̄ノ造
の知り行ふ御制(ミノリ)となれりし也。此 ̄ノ事諸書に見えて。官社私考【この四字を朱で四角く囲んでいる。】の
上ツ巻の大旨(オホムネ)にいへるが如し。
〇然して。国には守介掾目(カミスケマツリゴト人サクワン)の四等(ヨシナ)。郡には大領(コホリノミヤツコ)少領(スケノミヤツコ)主改(マツリゴト人)主帳(フミヒト)の
四等(ヨシナ)を定め給ひし也。《割書:郡司とは則此 ̄ノ四等|の郡領の総名(オナ)なり。》
〇孝徳天皇紀《割書:廿五ノ|廿七丁》大化二年八月 詔(ミコトノリ)に。郷大夫(マヘツギミタチ)。臣連(オミムラシ)伴造(トモノミヤツコ)氏々 ̄ノ人 等(トモ)。咸(ミナ)
【左丁】
可(ベシ)_二聴聞(ウケタマハル)_一【訓点の脱落】今 以(ヲ)_二汝等(イマシラ)_一使仕状者(ツカヘマツラシムサマハ)。改(メ)_二去(ステヽ)旧職(モトヨリノツカサ) ̄ヲ_一【訓点の脱落】新 ̄タニ設 ̄ケ_二【訓点の脱落】百官 ̄ヲ_一。及(マタ)著(ツケ)_二【訓点の脱落】位階(タノシナ) ̄ヲ。以 ̄テ_二官(ツカサ) ̄ノ
位_一【訓点の脱落】叙(ツイツ)云々。また罷(ヤメテ)_二昔(ムカシ) ̄ノ在 天皇等所立子代之(スメラミコトタチノタテタマヘルミコシロノ)民。処々 ̄ノ屯倉(ミヤケ)及(マタ)臣連伴造(オミムラシトモノミヤツコ)国(クニ) ̄ノ
造(ミヤツコ)村首(ムラオビト) ̄ノ所有(タテル)部曲(カキベ) ̄ノ之民。処々 ̄ノ田荘(タドコロ) ̄ヲ_一仍賜 ̄フ_二食封(ヘヒト)【「ヘビト」は正しくは「ヘヒト」】 ̄ヲ_一とあり。
〇職員令《割書:一ノ|八十丁》。守(カミ)一人。掌 ̄ル_下祠社戸-口簿帳字-_二養 ̄シ百-姓 ̄ヲ_一勧-_二課 ̄シテ農桑 ̄ヲ_一糺-_二察 ̄シ
所部 ̄ヲ貢 ̄ノ挙孝-義田-宅良-賤 ̄ノ訴-訟租調倉廩徭役兵 ̄ノ士器-杖鼓吹郵-
駅【驛】伝-【傳】馬烽-候城-牧過所公-私 ̄ノ馬-牛闌-遺 ̄ノ雑-物及 ̄ヒ寺 ̄ノ僧-尼 ̄ノ名籍 ̄ノ事 ̄ヲ_上。
祠社義解 ̄ニ。謂 ̄ル祠 ̄トハ者祭 ̄ル_二百神 ̄ヲ_一也(ナリ。)社 ̄トハ者検-_二校 ̄スルヲ《割書:云》諸社 ̄ヲ_一【訓点脱落】也(ナリ)。凡称 ̄スル_二祠社 ̄ト皆准 ̄ヒ_二此(ヨ) ̄ノ例 ̄ニ_一と
あり。
介(スケ)一人。掌 ̄ルコト同 ̄シ_レ守 ̄ニ。大掾(オホヒマツリコト)《割書:人》一人。掌 ̄ル_下糺判 ̄シ国内 ̄ヲ_一審-_二署 ̄シ文案 ̄ヲ_一句(カムカヘ)_二稽失 ̄ヲ_一察 ̄スルコトヲ_中非
違 ̄ヲ_上。少掾(スナイマツリコト)《割書:人》一人。掌 ̄ルコト同大掾 ̄ニ_一。大目(オホイサウクワン)一人。掌 ̄ル_下受 ̄ケテ_レ事 ̄ヲ上(ノセ)抄(シルシ)勘 ̄ヘ署 ̄シ_二【訓点脱落】文案 ̄ヲ_一検_二
出稽失 ̄ヲ_一【訓点脱落】読 ̄ミ-申 ̄スコト公(ク)文 ̄ヲ_上。少目一人。掌 ̄ルコト同大目 ̄ミ_一。史生(フムビト)三人。
〇光仁紀《割書:三十三ノ|十七丁》宝亀六年三月始 ̄ニ置 ̄ク_二参河 ̄ニ大少目員 ̄ヲ_一【訓点脱落】。
和考 十一
【右丁】
【行頭の〇は朱書き】
〇式部式《割書:十八ノ|十六丁》諸国史生は者云々。上国 ̄ニ四人云々。並 ̄ニ不_レ得_レ任 ̄スルコトヲ_二【訓点脱落】当【當】国 ̄ノ人 ̄ヲ_一
〇職員令《割書:一ノ|八十一丁》上国 ̄ノ守《割書:従五|位下。》介一人《割書:従六|位上。》掾一人《割書:従七|位上。》目一人《割書:従八|位下。》史生三人とあり。
当【當】国はいはゆる。上国なれは。上国の例(タメシ)のみ引い。其 ̄ノ意して見るべし。さて
後 ̄ノ世には。上国にも守介掾ともに。権官ある事。職原抄《割書:下ノ|廿三丁》に見ゆ。
〇さて守(カミ)は。一官の座上に在 ̄リ て惣裁たり。大政官の大臣の如く。今の老中の如し。
介(スケ)は。次官にて。守を介(タス)けて。手代(テガハリ)となる役なり。大政官の納言の如く。今の若年
寄の如し。掾は其 ̄ノ一官の事を執(トリ)て。其 ̄ノ務多く。下(シモ)の事を上(カミ)へ告(マヲ)し。上の事を下に
宣(ノリ)て。大政官の少納言。弁【辨】官等の如く。俗にいふ役所の世話やき也。目は一官中の
執筆(フテトリ)にて。大政官の史(フビト)の如く。今の祐筆の如しとぞ。
〇国 ̄ノ司は四年の任限にて交替する事なり。
〇続紀《割書:廿一ノ|十七丁》天平宝字二年九月 ̄ノ勅 ̄ニ。頃年【近年】国司 ̄ノ交替。皆以_二 四年 ̄ヲ_一為_レ限 ̄ト云々。
〇日本紀略 弘仁六年七月云々。諸 ̄ノ国 ̄ノ司 ̄ノ遷替 ̄ハ次_二 四年 ̄リ【この送り仮名「リ」は次の字「為」につけるのが妥当】_一為_レ限 ̄ト云々。《割書:日本後紀十二|逸史廿三 ̄ノ九丁》
【左丁】
〇類聚三代格 承和二年七月云々。諸国 ̄ノ守介 ̄ハ四年 ̄ヲ【「ヲ」は朱書き】為_レ歴 ̄ト云々《割書:此コト続後紀ニハ|見エズ》
〇官職難義 ̄ニ云。一任とは四ヶ年を申 ̄ス也。但 ̄シ陸奥出羽西海道は遠路たる間。
往還不便の故。一年延て一任五年なり。
〇さて戸令《割書:二ノ|廿丁》。凡国守毎年一 ̄タヒ巡-_二行 ̄シテ属郡 ̄ヲ_一観 ̄ル_二風俗 ̄ヲ_一云々。
職員令《割書:一ノ|八十三丁》国 ̄ノ博士(ハカセ)医師(クスシ) ̄ハ国 別(コト) ̄ニ一人。其 ̄ノ学生 ̄ハ云々。上国四十【横一に縦棒四本】人。医生減 ̄シテ_二 五分 ̄ノ
之一 ̄ヲ_一と見え。また国々に軍団といふ分ありて。兵士を数多置れし事也。
〇職員令《割書:一ノ|八十二丁》大郡。大領一人。掌 ̄ル_下撫-_二養 ̄シ所部 ̄ヲ_一検-_二察部領 ̄ヲ_一事 ̄ヲ_上△主政三人掌 ̄ル_下糺
判 ̄シ_二【訓点の脱落】郡内 ̄ヲ_一審-_二署 ̄シ文案 ̄ヲ_一句 ̄ヘ_二稽失 ̄ヲ_一【訓点の脱落】察 ̄スルコトヲ_中非違 ̄ヲ_上。主帳三人。掌_下受 ̄テ_レ事 ̄ヲ上 ̄セ抄 ̄シ勘-_二署 ̄シ文
案 ̄ヲ_一検-_二出 ̄シ稽失 ̄ヲ_一読- ̄シテ_中申 ̄スコトヲ公文 ̄ヲ_上△少領一人。掌 ̄ルコト同 ̄シ_二大領 ̄ニ_一。
〇当【當】抄《割書:五ノ|二丁》長官 ̄ヲ曰_二大領(カミ) ̄ト_一次官 ̄ヲ曰_二少領(スケ) ̄ト_一。判官 ̄ヲ曰_二【注】主政(マツリコトス) ̄ト_一。【注】佐官 ̄ヲ曰_二主帳(サクワン) ̄ト_一。
〇孝徳天皇紀《割書:廿五ノ|十丁》凡郡以_二 四十里 ̄ヲ_一為_二大郡 ̄ト_一。三十里以下四里以上 ̄ヲ為_二 中郡 ̄ト_一。 三里 ̄ヲ
為_二小郡 ̄ト_一。其 ̄ノ郡 ̄ノ司 ̄ハ並取 ̄テ_下国 ̄ノ造 ̄ノ性識清廉堪 ̄フト_二【訓点「一」は誤記】時務 ̄ニ_一者 ̄ヲ_上為_二 【訓点の脱落】大領(コホリノミヤツコ)少(スケ) ̄ノ領 ̄ト_一強_レ幹聰
【注 ここの訓点は朱書き】
和考 十二
【右丁】
【〇△は朱書き】
敏工 ̄ミサル_二書算 ̄ニ_一者 ̄ヲ為 ̄セヨ_二主政(マツリコト)《割書:人》主帳(フミビト) ̄ト_一。
〇元明天皇紀《割書:六ノ|四丁》和銅六年五月。制 ̄スラク夫郡司 ̄ノ大少領 ̄ハ以_レ【訓点の脱落】終 ̄ルヲ_レ身 ̄ノ為_レ【訓点の脱落】限 ̄ト。非 ̄ス_二遷代 ̄ル之
任 ̄ニ_一。云々〇類聚国史《割書:廿九|神祇十九》延暦十七年三月 ̄ノ詔 ̄ニ曰。昔 ̄ノ難波 ̄ノ朝廷始 ̄テ置 ̄ク_二諸郡_一。仍
択【擇】 ̄テ_二有労 ̄ヲ_一補 ̄ス_二於郡領 ̄ニ_一。子孫相襲 ̄テ永 ̄ク任_二其 ̄ノ官 ̄ニ_一なとあり。逸史七ノ四丁 ̄ニモ
〇かゝれは京より任に下れる。国 ̄ノ司等の官人は四ヶ年限に遷代(カハ)れど。郡 ̄ノ司等は。
其 ̄ノ国の住人を任(マケ)らるれは。身を終(オフ)ること替(カハ)らざる也。
〇国に大上中下の差別(ケヂメ)ある事。職員令を始 ̄メ。続紀《割書:十六ノ|十丁》に。大中上下の事
見えるれど。六十八ケ国国 毎(ゴト)に載(シル)したるは。民部式其 ̄ノ始也。後 ̄ノ世には
拾芥抄《割書:四》職原抄《割書:四》などに見ゆ。
〇桑家漢語抄 ̄ニ。領律 ̄ニ云。行程百五十里四囲【圍】 ̄ヲ為_二【訓点の脱落】大国 ̄ト_一【訓点の脱落】。百里四囲【圍】 ̄ヲ為_二【訓点の脱落】 上国 ̄ト_一。
八十里四圍 ̄ヲ為_二 中国 ̄ト_一。五十里四圍 ̄ヲ為_二 下国 ̄ト とあり。
〇民部式《割書:廿二ノ|二丁》参河 ̄ノ国上とあるは。上に挙(アゲ)たる如く。上国といふ事也。〇鴨 ̄ノ祐之郷 ̄ノ
【左丁】
△ 大八州記《割書:六ノ|十九丁》当【當】国 ̄ノ条に。一 ̄ニ云山河多 ̄ク【「ノ」に見えるが誤記と思われる。】而【右下に〇 さらに注記あり[注]】浅 ̄キコト一尺。故 ̄ニ五穀不_レ熟 ̄ラ。国乏 ̄シ。下々 ̄ノ小
国也。とあるは。何等の書に出たるにや。
〇さて上つ御代は如(カヽル)御制(ミサタメ)にてありしを。鎌倉 ̄ノ二位頼朝 ̄ノ卿。平家を討(ウチ)たまひし
功(イサヲ)に依て。惣追捕使といふ職(ツカサ)に任(メサ)【左横に「ヨサヽ」と傍記】れ給ひてより。毎国(クニゴト)に守護をおき。郡 毎(ゴト)
に地頭を置て政事を執 ̄リ行はせけれは。いつとなく国司領家の威勢(イキホ)
うすらひゆき。其 ̄ノ上乱世打続きて。武家(モノヽフドモ) 威(イキホヒ)を檀(ホシキマヽ)にせしかば。後(ノチ)には国 ̄ノ司の
下り給ふ事等も絶て。遂には其 ̄ノ制(ミノリ)も立ずて。今 ̄ノ【「ヲ」の送り仮名を朱で消し「ノ」と朱書き】世の如くにはなりつる也。
されど自然(オノヅカラ)に封建の制(ミサダメ)なる古 ̄ヘ に復(カ)へるも。やがて神の御意にもあらむかし。
さて国府は。国 ̄ノ司の下りて舘せる処をいへり。いづれの国なにも。其 ̄ノ国の真中(モナカ)
に在て。府また府 ̄ノ中ともいへり。
〇戎籍韻会【會】に。唐 ̄ノ制 ̄ニ大州 ̄ヲ曰_レ府 ̄ト。兵衛 ̄ヲ曰_レ府 ̄ト とありとそ。
和考 十三
【注】土蔵宗歟【「土■宗」を見せ消ち】
【右頁上部欄外】
日本鹿子《割書:六ノ|六丁》
下々国四方一
日半
【左丁頭部欄外 朱書き】
塩尻云国府又
国衙ト称ス世説云
近代通謂府ノ述給
公衙即古之公朝也
ト然ルトキノ同事 ̄ニ シテ
異議ナシ
【行頭の○は朱書き】
指掌図云。古昔国司 ̄ノ居処 ̄ヲ謂 ̄府 ̄フ_二之官府 ̄ト_一《割書:今存府|中遺_レ名》後世戦国 ̄ニ有押領司。と
いへり。此説いはく国府
古の府の地。今の八幡白鳥久保 ̄ノ辺(アタリ)より。今の国府の辺まで係(カケ)て悉(ミナ)其 ̄ノ所な
るべし。古老の説云。古の街道は。今の赤坂の北を通りて。鷺坂に切たり。《割書:今も|八幡》
《割書:□□□□□□□□□【張り紙があり、その上の文字に隠れ、判読できず】小坂を。鷺坂といへり。太平記|□□□□【張り紙があり、その上の文字に隠れ、判読できず】。建武ニ年十月鷺坂合戦の事あり》上宿《割書:八幡ノ地内也。古ノ|御■宿也といへり。》八幡に係(カヽ)
りて。豊川宿へ出。《割書:今ノ古宿村ヨリ豊川村カケテ|古ヘノ豊川宿ナルベシ。》今の三明寺の辺より。当古和田
《割書:建久年中。頼朝公上|洛ノ■ノ古跡アリ。》/橋下(ハシモト)にいたる。これ古への本街道なりといへり。
○伊豆日記の。永暦元年二月。源 ̄ノ頼朝主。伊豆の配所に趣きゐぬ/条(クダリ)に廿五
日/矢作(ヤハギ) ̄ニ宿 ̄ス。廿六日大江 ̄ノ入道定厳 ̄ガ豊川 ̄ノ之舘 ̄ニ休息 ̄ス云う。同日浜名 ̄ニ宿 ̄ス
【右丁】
【行頭の〇は朱書き】
指掌図 ̄ニ云。古昔国司 ̄ノ居処 ̄ヲ謂 ̄フ_二之官府 ̄ト_一《割書:今存府|中遺_レ名》後世戦国 ̄ニ有_二押領司_一【訓点の脱落】。と
いへり。《割書:此説いろ〳〵》
〇古の府の地は。今の八幡白鳥久保 ̄ノ辺(アタリ)より。今の国府の辺まで係(カケ)て悉(ミナ)其 ̄ノ所な
るべし。古老の説に。古 ̄ヘ の街道は。今の赤坂の北を通りて。鷺坂にかゝり。《割書:今も|八幡》
《割書:村西明寺の門前なる小坂を。鷺坂といへり。太平記|十四ノ十二丁。建武二年十月鷺坂合戦の事あり》上宿(ウハジユク)《割書:八幡 ̄ノ地内也。古 ̄ノ|御油宿也といへり。》八幡に係(カヽ)
りて。豊川宿へ出。《割書:今ノ古宿村ヨリ豊川村カケテ|古ヘノ豊川宿ナルベシ。》今の三明寺の辺より。当-古 和-田
金-田 岩崎《割書:産土神クラカケノ社アリ。建久中|頼朝卿。鞍 ̄ヲ奉納ニフレタリ。》等を経(ヘ)て。山坂をこえて。雲谷(ウノヘ)【「ウノヤ」とあるところ】へ出て。《割書:普門|寺 ̄ニ》
《割書:建久年中。頼朝 ̄ノ卿上|洛ノトキノ古跡アリ。》橋下(ハシモト)にいたる。これ古 ̄ヘ の本街道なりといへり。
〇伊豆日記の。永暦元年三月。源 ̄ノ頼朝主。伊豆の配所に趣き給ふ条(クダリ)に。廿五
日 矢作(ヤハギ) ̄ニ宿 ̄ス。廿六日大江 ̄ノ入道定厳 ̄ガ豊川 ̄ノ之舘 ̄ニ休息 ̄フ云々。同日浜名 ̄ニ宿 ̄ス。
〇源平盛衰記《割書:廿三ノ|九丁》治承四年平家東征 ̄ノ条に。十月四日三川 ̄ノ国矢矧
ニ ツク。五日同豊川 ̄ニ ツク。六日遠江 ̄ノ国 橋下(ハシモト) ̄ニ ツク云々。
【左丁】
〇東鑑《割書:卅二ノ|五丁》嘉禎四年二月。将軍頼経 ̄ノ卿上洛 ̄ノ条 ̄ニ。七日癸未著_二【訓点脱落】御橋-本 ̄ノ
駅 ̄ニ_一云々。八日甲申云々著_二御豊河 ̄ノ宿 ̄ニ_一云々。九日乙酉矢作 ̄ノ宿 ̄ニ入御云々。
〇同書《割書:卅二ノ。|卅一丁》同十日御帰路 ̄ノ条に。十八日己未云々。入_二御矢作 ̄ノ宿云々。十九日庚
申云々。戌 ̄ノ一尅著 ̄ト_二御豊河 ̄ノ駅 ̄ニ_一。廿日辛酉云々。辰 ̄ノ尅出-_二【訓点「一」は誤記】御於 本野原(モトノハラ) ̄ニ_一。云々
酉 ̄ノ尅 橋下(ハシモト) ̄ニ御 宿(トマリ)云々。
〇同書《割書:十ノ|六十四丁》建久三年十二月。頼朝 ̄ノ郷関東下向 ̄ノ条に。十八日小熊十九日
宮路山中 ̄ニ宿《割書:シ玉フ》。廿日橋本云々。
〇貞応海道記 ̄ニハ稚鯉鮒(チリフ)か馬場(ウマバ)。八橋矢矯 ̄ノ宿泊。赤坂本野が原
豊川宿 ̄ニ泊。峯野原 高志(タカシ)山 等(ナド)を経て。橋本に泊りし趣(サマ)なり。
〇仁治道之記にも。二村山 八幡 矢はぎ泊。宮路山 赤坂 ほむのがはら
豊川 たかし山をへて橋本に泊(トマ)りしと見えたり。
〇これら皆今の鷺坂 ̄ノ辺より八幡(ヤハタ)へかゝり。豊川 ̄ノ宿を経(ヘ)て橋本へ出ける趣(サマ)也。
和考 十四
【右丁】
【行頭と一部文中の〇は朱書き】
されど仁治道之記の。豊川宿の条(クダリ)に。此道は昔よりよくる方なかりしかば。
近き頃俄にわたふづ《割書:渡津ノ|コトナルべシ》の今道といふかたに。旅人多くかゝるあひだ。
今は其 ̄ノ宿の人の家居をさへ。外にうつすなどぞいふなる云々。とあるは。其 ̄ノ
比より今の街道の方を。往かふ人多くなりて。つひに豊川は古宿(フルジユク)の名のみ
残れるなるへし。《割書:〇統叢考ニハ豊川ニカヽルヲ【「リ」は誤記と思われる】上ノ道トイヒ志賀須香ノ渡ニカヽルヲ下ノ道トイフ|其二道ニ分ルヽ処ヲ二見 ̄ノ道トイフト云リ》
〇されど。今の街道の道も。いと古くより有し事にて。まづ
〇延喜 ̄ノ兵部式《割書:廿八ノ|廿一丁》諸国駅馬 ̄ノ条に。渡津(ワタムツ)十疋とあり。
〇東鑑《割書:四十二ノ|五丁》建長四年三月。宗尊親王関東御下向 ̄ノ条に。廿三日丁未
昼 ̄ノ鳴海。夜 ̄ハ矢作。廿四日戊申昼 ̄ハ渡津《割書:渡草書ヨリ誤リ|ニテ渡津ナルベシ》夜 ̄ハ橋本とあり。
当抄宝飫郡条に。度津《割書:ワタ|ムツ》郷あり。扶桑略記《割書:二十九ノ|二十四丁》渡津郷と見え。
兵部式に駅馬をのせ。将軍宗尊親王昼 休(ヤスミ)し玉ひし地なれは。駅な
る事しるし。按 ̄フ に今の宿(シユク)村すなはち古 ̄ヘ の度津 ̄ノ駅にて。今の小坂井 ̄ノ辺か
【左丁】
けて其 ̄ノ地なるべし。さるは小坂井に坐(マ)す兎足(ウタリ) ̄ノ神社の。応安三年の古鐘 ̄ノ
銘に。宝飫郡渡津郷とあればなり。
〇増基法師ら遠江 ̄ノ道 ̄ノ記の趣(サマ)も。こふに泊り。しかすか【「ら」に見えるが「か」とあるところ】の渡をわたして。たか
し山をこえて。浜名の橋にいたるとあり。
阿仏尼の。いさよひの日記にも。二むら山をこえて八橋に泊り。宮ぢ山を
へて。わたら津に泊り。たかし山浜名の橋を経て。ひくまの宿に泊りし趣(サマ)也。
〇尭孝法師が。永享【「享」の右横に「亨」と傍記】四年冨士紀行の趣も。やはぎ宿泊《割書:おり【或は「か」?】より|十二里》う治川
の里《割書:藤川ナ|ルヘシ》山中の宿昼休。関口 今八幡を経て。今ばしに泊《割書:やはきより|八里》大いは
山をへて橋本《割書:今橋より|五里》とあり。〇《割書:此比 ̄ハ シカスカノ渡モ次々新田トナリテ今イフ吉田川|ヲ舟渡セシノミナルベシサレド吉田川ニ始テ土橋ヲカ》
《割書:ケシト云元亀元年ヨリハ百三十余年ノ昔ナレバ|川ハヾモ今ヨリイト〳〵弘カリケンコト思ヒヤルベシ。》
〇同時藤原雅世卿紀行。帰路の条にも。橋下に泊り。いま橋を経て。矢
はぎに泊りし趣なり。
【左丁 頭注】
〇山本氏綜録 ̄ニ ハ古 ̄ノ日下
部ヨリ又一流 ̄ノ大川有テ
豊川里 ̄ノ岸 ̄ヲ流シ故ニ
豊川 ̄ノ名アリ明応六 年(ネン)
八月十日 ̄ノ洪水 ̄ニ渕瀬カ
ハリテ此川筋絶タリ
今モ其川筋ハ深田 ̄ニ テ
耕業 ̄ニ苦ムト云リ
【ここより朱書き】
佐野氏 ̄ノ三川国聞書云明応
七戊午年六月十一日天下同時
地震廿五日辰刻大地震
豊川之《割書:吉田|川》瀬替《割書:今之古|川ヲ》
同八己未年六月十日大地震
大山崩而成_レ湖在_二遠州_一名_二新居_一
穂国 東三河四郡ヲ云
三河国 西三河四郡ヲ云
庸業云
【右丁】
【行頭の〇は朱書き】
〇これら皆。今の街道の道を往(ユキ)かひせし趣(サマ)也。されど古 ̄ヘ は小坂井より吉田迄の
間は。一つらの入海にて。しかすかの渡といへる舟渡のさまなれば。
〇小坂井より吉田の関屋といふ処へわたせし共。また牟呂村なる坂津といふ
処まて渡せしともいひ伝【傳】へたり。此事は古哥名蹟考【「古哥名蹟考」を朱で四角く囲んでいる】志加須賀 ̄ノ条にいヘリ。
〇今も今切桑名の渡などは。貴人(ウマビト)たちはよけ給ふ如く。そを除(ヨキ)て。北の方に
廻(マハ)りて。豊川 ̄ノ宿へかゝりて。往かひせりしを。其後入海もつぎ〳〵新(ニヒ)はりの田と
なりて。渡りもせばく。かれこれ便宜(タヅキ)よければ。仁治道の記にいへる如く。
彼方(カナタ)は往(ユキ)がふ人少(スク)なく。此方(コナタ)を通ふ人は。つぎ〳〵多くなれるを。まして
元亀元年の頃。かの関屋の舟渡を廃(ヤメ)て。始て吉田川に土橋を架(カケ)てより。
猶たづきよければ。つひに東(アヅマ)路の本街道とはなれるなるへし。すべて
駅(ウマヤ)の事は古蹟雑考【「古蹟雑考」を朱で四角く囲んでいる】の宿駅の条にいへれど。こゝには。其大 旨(ムネ)をいふのみ也。
〇さて国司の住(スミ)たまひし舘(ミタチ)は何処(イツコ)に在りしにや。詳(サダカ)ならず。今の国-府には其 ̄ノ旧(ア)
【左丁】
跡(ト)と思ふ処なしといへり。故(カレ)按ふるに今 八幡(ヤハタ)村の内字は上宿といふ処に《割書:西明寺の|門前より。》
《割書:少し北の方■【修ヵ】験何がし|の北の方にあり。》舟山(フナヤマ)といふがあり。舟 ̄ノ形に築(ツキ)なしたる如き小山なり。これ
三河 ̄ノ守大江 ̄ノ定基の造られし築(ツキ)山也といひ伝【傳】へたれは。《割書:又久保村ノ庄号ヲ|大江庄トイヘリトゾ。》いかさまにも
其 ̄ノ辺に在りしなるべし。《割書:刪補松には。往古大江 ̄ノ定基。三州 ̄ノ刺史タルトキ。|愛妾カ哥ガ■ヲ以テ造レリトイヘリ。》平尾 ̄ニ住ス。財賀 ̄ノ文殊■
〇類聚三代格《割書:七ノ》弘仁五年【右横に一千十九年と朱書き】六月戊戌。大政官 ̄ノ府【符】。禁-_二制 ̄スル国-司任 ̄テ_レ意 ̄ニ造 ̄ルコトヲ_一_レ館 ̄ヲ
事。右大政官 去 ̄ヌル四月廿六日。下 ̄ス_二 五畿内 ̄ノ諸国 ̄ニ_一府【符】 ̄ニ你 ̄ク。【意味不明】検 ̄ルニ_二 天平十年五月廿八日 ̄ノ
格 ̄ク_一伱 ̄ノ。国司任 ̄テ_レ意 ̄ニ改 ̄メ_二造 ̄リ館舎 ̄ヲ_一。儻(モシ)有 ̄レハ_二 一人病死 ̄スルコト_一諱 ̄ミ悪 ̄シテ不_二肯 ̄テ居住 ̄セ_一。自_レ今以後
不_レ得_レ除 ̄ク_下載_二国 ̄ノ図進上_上之外 ̄ハ輒 ̄チ擅 ̄マヽニ移 ̄シ造《割書:ルナリ|甲》。但随 ̄テ_レ壊 ̄ニ修理 ̄セシ耳者 ̄ト云リ。而 ̄ニ諸国之吏未_レ有_二
循 ̄ヤ行 ̄フコト_一。妄 ̄ニ称 ̄シ_二祟咎 ̄ト_一避 ̄ケ遷 ̄シテ無 ̄ク_レ定 ̄ルコト。或輒随_二情願_一改 ̄メ造 ̄ルコト弥々繁 ̄シ。百姓 ̄ノ労櫌莫_レ不 ̄ルコト_レ由_レ此 ̄ニ。今被 ̄ルニ_二右大臣 ̄ノ宣 ̄ヲ_一你 ̄リ。奉 ̄ル_レ勅 ̄ヲ宣 ̄ク_二更 ̄ニ下知 ̄シテ令 ̄ム_一_レ慎 ̄マ将来 ̄ヲ_一。自_レ今以後国-司
之館 ̄ハ附 ̄ケテ_二官舎帳。_一毎年令 ̄メテ_レ進 ̄セ。随 ̄テ_レ破 ̄ニ修理 ̄スルコト一 ̄ヲ依 ̄ル_二先格 ̄ニ_一若 ̄シ有 ̄テ_レ廃 ̄ルコト_二其本-館 ̄ヲ_一
更営 ̄シテ_二他処 ̄ニ_一乃増- ̄シ_二構 ̄ヘ屋宇 ̄ヲ_一令 ̄ル_レ致 ̄サ_二民 ̄ノ患 ̄ヲ_一者 ̄ハ科 ̄セン_二違勅罪 ̄ヲ_一。官僚而 ̄テ不_レ糾 ̄サ並 ̄ニ
和考 十六
【左丁 頭注 朱書き】
佐埜知尭三川国聞
書■【「伝」?】モノニ寛知【和カ】二年
国司大江定基云々
定基 ̄ノ館舎 ̄ハ住国府 ̄ノ
辺《割書:今八幡村ノ古|城旧跡也》トアリ
宣隆云此一張ノ御説 上ノ九張 ̄ノ程ヨリ十一丁ノ表マテノ内ヘ入レ玉ヒテハイカヽ
与 ̄ニ同_レ ̄クセシ 罪 ̄ヲ《割書:此コト【合字】日本後紀|十一ニモノセタリ》とあり。僅(ワヅカ)四年の年限(カギリ)なるに。死穢(シニケガレ)と忌避(イミサケ)て館(タチ)を造 ̄リ
替らるヽを見れハいとなりそめなる(又逸史サンノ十四丁ニモノセタリ)作 ̄リさまなるべし。当時(ソノカミ)の質素(サマ)。今に
比(クラ)べて思ひゆるべし。
◯延喜雑式《割書:五十ノ|七丁》に。凡国司 ̄ノ遷代者(ハ)皆 ̄ナ給_二 ̄フ夫馬_一 ̄ヲ。長官 ̄ニ夫三十人馬二十疋。
六位以下 ̄ノ【ヲを訂正】長官并 ̄ニ次官 ̄ニ夫。人馬十二疋。判官 ̄ニ夫十五人馬九疋。主典 ̄ニ夫
十二人馬七疋。史生以下 ̄ニ夫六人馬四疋。其 ̄ノ取_二 ̄ル海路_一 ̄ヲ者 ̄ハ水手 ̄ノ之数准_二 ̄ス陸道 ̄ノ■夫_一 ̄ニ。
云〃但 ̄シ依_レ ̄テ犯 ̄ニ解任之輩ハ不_レ在_二給 ̄フ限_一とあり。 長官 ̄ハ守次官 ̄ハ介。判官 ̄ハ掾。主典ハ
目の事也。これを今の大名たちの往(エキ)■ひ■ゐ【かひし玉ヵ】ふに。比(クラ)ぶれハ。いと人少の事
なり■【かヵ】し。
真竜の説五。国府ハ今の八幡 ̄ノ社地也。此 ̄ノ廃府 ̄ハ遠江国府の例にて。天
文十一年の頃也。諸国 ̄ノ廃府准_レ之とあり。
◯此 ̄ノ国の国造(クニノミヤツコ)ハ国造本紀《割書:十ノ|四丁》二参河 ̄ノ国造(クニノミヤツコ)。志賀高穴徳朝(シカノタカアナトノミカド)。以_二 ̄テ物部連(モノベノムラジノ)
祖出雲(オヤイヅモ)色(シキ)大臣命(オホミノミコト)五世孫(イツツギノヒゴ)。知波夜命(チハヤノミコト)_一定_二 ̄ノ【メの間違いか】賜 ̄フ国 ̄ノ造_一トアリ。
◯旧事記《割書:五ノ十六丁|天孫本紀》ニ宇麻志麻治 ̄ノ命 ̄ノ四世 ̄ノ孫大木食(オホキクヒ) ̄ノ命 ̄ハ《割書:孝安天皇ノ|御代ノ人ナリ》三河 ̄ノ国 ̄ノ
造 ̄ノ祖出雲(オヤイヅモ)醜大臣(シコオホキミ)子也◯姓氏録《割書:中ノ|八十一丁》長谷部(ハヤベノ)造 ̄ノ神饒速日(カムハヤビノ)命 ̄ノ
十二世 ̄ノ孫千速見(チハヤミノ)命 ̄ノ之後巴舎アリ
◯コハ古事記《割書:中ノ|五十九丁》故(カレ)建内(タケウチ)宿袮 ̄ヲ為_二 ̄テ大臣(オホオミ)_一 ̄ト。定_二 ̄メ賜 ̄フ大国(オホクニ)小国之(ヲクニノ)国 ̄ノ造_一 ̄ヲ云々トアル
時 ̄ノコト【合字】ナルベシ。サテ鈴 ̄ノ屋 ̄ノ大人 ̄ノ云シ名如ク。此 ̄ノ時初めメテ定メ玉フニハアラズ。是ヨリ
前(サキ)ニモ有レド。此 ̄ノ時サラニ広ク多ク。定メ玉ヘリシナルベシ。ソハ其 ̄ノ国造本紀 ̄ノ
首(ハジメ)ニ神武天皇御時。大倭 葛城 凡河内 山代 伊勢 紀伊等 ̄ノ国 ̄ノ造私
ヲ定メ玉ヒテ。又有_レ ̄ハ功(イサヲ)者(モノ)ヲト■【随ヵ】_二其 ̄ノ勇(イサ)能(ヲシニ) _一定 _一 ̄ノ【メの間違いか】賜 ̄フ国 ̄ノ造_一。誅(ツミ)_二 ̄ナヒ戮逆者(サカフモノ) ̄ヲ。量(ハカリ)_二 其ノ功(イサヲ)
能 _一 ̄シヲ定_二 ̄メ賜 ̄フ県主者総(スベテ)仔(マケ)【任ヵ】 ̄タル国 ̄ノ造百四十四国 ̄トイヒテ。大倭 ̄ノ国 ̄ノ造ヲ始メテ。
百三十五国 ̄ノ国 ̄ノ造ヲ戴(ノセ)タレバナリ。 ◯サテ当(コノ)国 国 ̄ノ造。大木食 ̄ノ命
和考 十七
知波夜 ̄ノ命ナドハ。宝飯郡大木村 ̄ノ辺(ホトリ)ニ住居(スマヤ)玉ヒケムト按(オモ) ̄フハ。既官社
私考【以上四字朱筆で囲み】下 ̄ツ巻 ̄ノ出雲天神 ̄ノ条(クダリ)。又附録総社 ̄ノ条 ̄ニイヘリ。 ◯カクテ
国司(クニノミコトミチ)【クニノミコトモチのことか】ノ事ハ孝徳天皇 ̄ノ御代。始リテ任(■■)【自信はありませんが素直に読むと「ヨシ」か】シ玉ヒシハ。何人ナリケム。詳(サダカ)ナラネド。
◯続日本紀《割書:三ノ|廾三丁》慶雲三年九月申辰。以従五位 ̄ノ下坂合部 ̄ノ宿袮三田麻呂 ̄ヲ為_二 三河 ̄ノ守_一 ̄ト。◯同《割書:六ノ|四丁》和銅六年八月丁巳。従五位下榎井 ̄ノ朝臣
廣国 ̄ヲ為_二参河守_一 ̄ト トアルナド。正史(ミフミ)ニ見エタル始 ̄ノ ニテ。次〻ノ御世〻(ミヨ〻)数多見エ
タリ。コハ歴代事蹟考【以上五字朱筆で囲み】 ̄ノ其 ̄ノ御代ゝノ条ニイフへシ。
国造ハ国御臣(クニノミヤツコ)ノ意 ̄ニ テ。天皇 ̄ノ御臣トシテ。其 ̄ノ国 ̄ノ上(カミ)トシテ其 ̄ノ国 ̄ヲ治ムル人ヲ云ナリ。
◯国司(クニノミコトモチ)ハ。守介掾目ナドヲ総(スベ)イフ也。コレヲミコトモチ【以上五字に傍線】云フハ。命持(ミコトモチ)ニテ。天皇 ̄ノ大命(オホミコト)ヲ
受賜(ウケタマハ)リ貧持(ナヒモチ)テ。其 ̄ノ国ノ政 ̄ヲ申ス由 ̄ノ名也。ト鈴 ̄ノ屋 ̄ノ大人云ハレタリ◯ 又目ノ官府 ̄ニ
ツキテ云ヒ。守ハ其 ̄ノ人ニツキテノイフ也。霊異記 ̄ニ国上(クニノカミ)ト云リト。谷川士清イヘリ。
◯仙覚万葉抄《割書:十八ノ|八丁》云。みこともちとハ国司也。国の守ハ宣旨をもちて。任国 ̄ヲ下りて。
其宣旨を。国の庁の常の上にかけて。其 ̄ノ まへにして。政事をなす故也と云り。
◯行程の事◯雑令《割書:十ノ|廿七丁》五。凡度 ̄ハ十分 ̄ヲ為_レ寸 ̄ト。十寸 ̄ヲ為_レ尺 ̄ト。《割書:一尺二寸 ̄ヲ為_二 ̄ス|大尺一尺_一 ̄ト。》十尺 ̄ヲ為
《割書: |レ》丈 ̄ト。 又云。凡/度(ハカ)_レ ̄リ地 ̄ヲ量_二 ̄ル銀銅穀_一 ̄ヲ者皆用_レ ̄フ大 ̄ヲ。此 ̄ノ外 ̄ハ官私悉 ̄ク用_レ ̄フ小 ̄ヲ。 又
凡度_レ ̄ル地 ̄ヲ五尺。為_レ歩 ̄ト。三百歩 ̄ヲ為_レ里 ̄トとあり。
◯延喜雑式《割書:五十ノ|二丁》■【意味からすると「に」か】。凡度量権衡 ̄ノ者官私悉 ̄ク用_レ ̄フ大 ̄ヲ。但 ̄シ測_二 ̄リ晷景_一 ̄ヲ合_二 ̄スルト湯茶_一 ̄ヲ
則用_レ ̄フ小 ̄ヲ者。其 ̄ノ度 ̄ハ以六尺 ̄ヲ為_レ ̄ス歩 ̄ト。以外 ̄ハ如_レとあり。
◯かゝれハ。地を度(ハカ)るハ。則 ̄チ大尺にして。小尺の一尺二寸にあたれり。小さ尺 ̄ハ今の曲尺の寸に
同じ。故に名 ̄ハ五尺六尺の違日あれ共。地に廣狭の異(カハリ)ハなしと。成形図説にいへり。
はれ皇朝古 ̄ヘ の一里ハ。今の五町程にあたる也。
◯主計式《割書:廾四ノ|十四丁》参河 ̄ノ国行程。上十一日。下六日とあり。当抄ハ彼 ̄ノ書に拠(ヨリ)て記せる
なるべし。
◯行程(ミチノリ)ハ京都より国府までといふ。今の三十六丁 ̄ノ一里にて積(ツモ)れハ四十六里半也。
和者 十八
◯公式令《割書:七ノ|卅九丁》凡 ̄ヲ行程 ̄ハ。馬 ̄ハ日 ̄ニ七十里。歩 ̄ハ五十里。車 ̄ハ三十里とあり。
◯大塚氏の説あり【かヵ】。上 ̄ツ世 ̄ハ貴人と賤庶とにて。旅行の日数過半参差ありと
見えたり。貴人 ̄ハ輿馬五【にヵ】駕して行く故。其輿五【にヵ】役せらるゝ人夫の労煩【か】
を(ヲ)いとひ。其供奉 ̄ノ人多けれバ。休息旅粮等の義も区〻にて。はかどり
■【かヵ】ぬるもの也。依て貴人の行程の日数多き定 ̄メと■■【見ゆヵ】といへり。
◯此 ̄ノ説によれバ。上ハ一日に四里半程を行 ̄キ。下 ̄ハ八里程をゆく■【定メヵ】也。尚考
べし。
管八 田六千八百二十町七段三百十歩
◯ 管八とハ。八郡を管流【るヵ】といふ事といふ事也。
◯拾芥抄 ̄ニ 田数七千五十四町
運歩色葉集 田数 七千五十五丁 《割書:天文十六七年ニ|エラヒタル書也》
◯以呂波字類抄 本田 七千五十四丁
◯海東諸国記 三河洲。郡八。水田八千八百二十丁《割書:朝鮮 ̄ノ著書也|》
◯江源武鑑《割書:天文廿二年日本国中ノ|知行ノ高寄ナリ》三河国総高二十九万七百十五町【斛ヵ】
◯ 日本城主記 高三十三万六千石。田七千五十四町
◯和漢三才図会 高三十五万八百八十五石餘
◯三川雀 高三十五万八百八十五石九年【斗ヵ】二升
◯二葉松 高三十五万八百八十石五升八合
◯刪補松 古【「右」に見せ消ち】高三十五万石余。田数七千五十四丁。当代高
三十五万八百八十石余
◯日本鹿子 知行高三十三万六千石
和考 十九
【左ページ朱筆部分】
◯栗原信充ガ応仁武鑑《割書:一ノ|九丁》云。吉良左兵衛佐義真。居城吉良西条。三河八郡田七千五十四町。《割書:内一色保。千百七十|町一色家領之》ノ穫【獲ヵ】稲三百
五十二万七千束此 ̄ノ直
《割書:銭廿一万千六百|貫文ナリ》《割書:此呆量|十七万八》
《割書:百八十三石一斗|五升 ̄ ニアタル。》 米六万
七千七百六石 四斗五
升余《割書:四斗入十六万九千|二百六十六俵余》
吉良家領
米八千五百四十四石一
斗五升余《割書:四斗入二万千|三百六十俵余》
三河守護職料【䉼は料の異体字】 《割書:内千四|百十七》
石一斗六升二合五勺ハ
一色家ヨリ収ム
◯ 此氏【トキヵ】吉良左京大夫義膳
同国東条 ̄ニ居城三方【シテヵ】幡
豆郡千三百町 ̄ヲ領ス
◯一色左京大夫義真
丹後宮津 ̄ニ居城シテ
当国設東【楽ヵ】郡一色保
千百七十町ヲ領。
伊勢貞丈云
江源武鑑ト云書板行ニアリ京極家ノ古記録ヤウニ似セテ作リタル偽作物也用ユヘカラス
公各二十萬束
本稲四十七萬七千束
雑稲七萬二千束
◯正とハ正税(オホチカラ)のこと【合字】也。正税ハ公田の祖。地子雑稲奉_二 ̄ル天子_一 ̄ニ者都 ̄テ曰_二正税 ̄ト【返り点「一」書き忘れか】とも。
また正税 ̄ハ田年貢也。少しも不足なく御倉へ納むる也といへり。
上つ代ハ。祖税(タノチカラ)みな刈穂のまヽにて上納(ヲサメ)し【「も」に見せ消ち】故。みな何束といへり。
◯ 公とハ公廨のこと【合字】也。或設に公廨ハ畠年貢也。国司并諸役人の役科ハ。此
内にて賜ふなりといへり。◯制度通九云。公廨田ト云ハ。廨ハ官舎ノヿニテ役
屋鋪ナリ。其 ̄ノ所務ヲ所ノ公用ニ給スル也。続日本紀ヲ考フレバ。未進ヲ少ク
ナス【か】為ニ設ケラルヽト見エタリ ̄ト云リ。
◯職員令義解《割書:一ノ|六十一丁》公廨云〻 考云国 ̄ノ守以下 ̄ノ役料ヲツクル田地ヲ支配スル役屋鋪也。
◯主税式《割書:廿六ノ|二丁》諸国 ̄ノ出挙正税公廨雑稲 ̄ノ条たり【か】
◯参河 ̄ノ国正税。公廨各二十万束。国分寺料二万束。修_二理 ̄スル志
摩 ̄ノ国分寺_一 ̄ヲ料三千束。文殊会 ̄ノ料二千束。修_二理 ̄スル池溝_一 ̄ヲ料三
万束。 救急料二万二千束とあり。
◯按 ̄フに其 ̄ノ束数を数ふれバ。合て四十七万七千束ありて。当抄の本稲の員(カ)
数(ズ)等合(ア)へり。また当抄等雑稲七万二千束とある数。国分寺料 池溝料
救急料の三ツを合せら■【たヵ】る数を【にヵ】合へり。
◯同式《割書:廾六ノ|廾二丁》凡公田 ̄ノ穫(ウル)稲 ̄ハ。上田 ̄ハ五百束。中田 ̄ハ四百束。下田 ̄ハ三百束。
下〻田 ̄ハ一百五十束。地子 ̄ハ各依_二 ̄テ田 ̄ノ品_一 ̄ニ令_レ輸_二五分 ̄ノ■【之ヵ】一_一 ̄ヲ《割書:中|略》其 ̄ノ祖 ̄ハ一段ニ
穀(モミ)一斗五升。まち別(コト) ̄ニ一石五年。皆令_三営(ツクリ)人_二 ̄ヲ輸_一レ ̄リ之 ̄ヲとあり。
◯田令 ̄ノ義解《割書:三ノ|初丁》段 ̄ノ地穫_レ ̄ルヿ稲 ̄ヲ五十束。束 ̄ノ稲舂 ̄テ得(ウ)_二米五升_一 ̄ヲとあれば。
上田一段にて五十束とれるを。未に搗(ツキ)て二石五斗あり。此 ̄ノ内を一斗五
和考 二十
升。祖に奉りて。残米二石三斗五升/作人(ツクリテ)の物になる也五分一を輸た【さヵ】 し
■【むヵ】とあれど。《割書:五分一ハ一斗二升|五合 ̄ニ ナル也。》五分一よりハ。少し重き祖【租ヵ】也。
◯因(チナミ)云。租税(タチカラ)の事の始 ̄メ ハ須佐之男(スサノヲノ)命の御びによりて。宇気母智命乃
御体(ミミ)より生(ナリ)出つる五 ̄ノ穀(タナツモノ)を。天熊(アマクマ) ̄ノ大人(ウシ)悉(ミナ)取 ̄リ持 ̄チ て。天照大御神に奉りし
時に。此 ̄ノ物どもハうつしき青人葦の食(クヒ)て活(イク)べき物ぞと詔(ノリ)のひて。天邑君(アメノムラキミ)【朱筆で傍線】
を定めて。其 ̄ノ御田本【ヵ】殖(ウエ)始しめのひ。皇孫邇々芸(アマツカミノミコニ〻ギノ)命の天(アモ)降 ̄リ りし候【ヵ】時
天照大御神の詔命(オホミコト)に以_二 ̄ヲ吾高天原(アガタカマガハラ) ̄ニ所
御(キコシメ) ̄ス。斎庭(ニハ)之(ノ)穂(イナホ)_一亦 ̄モ当_二御(キコサシメウルベシ)於吾児(アガミコ)_一 ̄ニと
詔(ノリ)ゐひて。其 ̄ノ瑞穂(ミヅホ)をゐへり。故(カレ)そを持 ̄チたらして。天 ̄ノ下の万民(オホミタカラ)に 殖(ウエ)しめかへる
ぞ。租税(タノチカラ)また御調物(ミツキモノ)を貢(タテマツ)る其 ̄ノ根元(モト)なる。故御〻代〻の天皇尊(スメラミコト)。其 ̄ノ
大業(ミワザ)を継〻に聞食(キコシメシ)給ふに依て。先 ̄ツ御即位(アマツヒツキシロシメス)の始に。大嘗会(オオニヘマツリ)を。行ハせ給ひ 。
先 ̄ツ其 ̄ノ初穂(ハツホ)を天照大御神を始 ̄メ奉リ。天神(アマツカミ)地祇(クニツカミ)に奉り給ひて。残 ̄リ をバ
天皇尊の聞食し。并(マタ)百官(モヽノツカサ)等にも賜ひ。天 ̄ノ下の青人草に八十(ヤソ)の【「◯」に見せ消ち】禍事(マガゴト)
あら【ヵ】しめず。其 ̄ノ作 ̄リ とつくる百穀物(モヽノタナツモノ)を雨風の災(サハリ)あらしめず。豊登(ニタカニミソラ)【読みわからず】しめ給へ
と乞祈(コヒノミ)給ふ御事なり。また毎年(トシゴト)に行ハせ給ふ新嘗祭(ニヒナヘマツリ)といふも。此いハれ
にて。其 ̄ノ年の初穂を奉り給ひて。上 ̄ノ件の如く祈り給ふ御祭祀(ミマツリ)なり。
◯かくて人の世となりてハ。崇神天皇紀《割書:五ノ|九丁》に其 ̄ノ十二年秋九月 始校(ニヽカムアヘテ)_二【読みわからず】人民 ̄ヲ更(サラ)_一 ̄ニ
科(オホ)_二 ̄ス調役(ミツギエタチ)_一 ̄ヲ此(コレ)謂(イ)_二 ̄フ男之弭(ヲトコノユハズ)調(ミツギ)。女之手末之調(ヲミナノタナスエノミツギ)_一 ̄ト と見え。神功皇后紀《割書:九ノ|七丁》新(シラ)
羅(キ) ̄ノ国の八十(ヤソ)船の調(ミヅキ)【「ミツギ」の間違いか】を貢(タテマツ)るる見え。異国(アハメシクニ)ともより朝(ミツギ)貢(マツ)るる。仁徳天皇
紀《割書:十一ノ|十一丁》雄略天皇紀《割書:十四ノ|廿四丁》等に見え。海表諸審(ワタノホカエミシドモ)遣_レ ̄テ使 ̄ヲ進_レ ̄ル調(ミツギワ)と清寧天
皇紀《割書:十五ノ|四丁》に見え。万民(オホミタカラ)に三載(ミトセ)の間悉 (コト〳〵ク)除(ユルシ)_二 ̄テ課役(エダチ)_一 ̄ヲ息(ヤス)_二 ̄メ百姓之(ノ)苦(クルシミ)_一 ̄ヲ給へるる
仁徳天皇紀《割書:十一ノ|七丁》に見えたり。
◯さて郡県の制となりて後ハ。孝徳天皇紀《割書:廾五ノ|卅四丁》白雉三年正月。班田(アカチダ)既 ̄ニ
和考 廿一
三河国古蹟考 上
【文字無し】
【右丁 文字無し】
【左丁】
【この一行朱書き】三川国古蹟考三之下巻草稿
参河国総国風土記考 三井家【朱印】
大旨
大皇国(オホミクニ)は。何事(ナニワザ)にも狡意(サカシラ)なく強言(シヒゴト)なく。上つ御世より在来(アリコ)
し古事(フルコト)を。繕(ツクロ)はず飾(カザ)らず。在(アリ)の侭(マヽ)に語継(カタリツ)ぎ書伝(カキツタ)【傳】ふる。大御手
ぶりにし有ければ。各国(クニ〳〵)に詔(ミコトノラ)して。其 ̄ノ国々に伝 ̄ヘ【傳】来(コ)し。古老(フルビト)
の諸(カタリ)つぎかき伝【傳】へたる古伝(フルコト)【傳】等を書記(カキシル)して。奉らしめ給へるなん。
風土記の書(フミ)なる。そは我 ̄カ気【氣】吹舎【いぶきのや】翁の。古史徴開題記に云く。
諸国(クニ〳〵)この事を記せる事の見えたる始は。履中天皇 ̄ノ紀に四年 ̄ノ
秋八月 ̄ニ。始 ̄テ之於(ニ)_二諸国(クニ〳〵)_一置 ̄キテ_二国史(フビト) ̄ヲ_一記(シルシ) ̄テ_二言事(コトバトコト) ̄ヲ_一達(イタ) ̄セリ_二 四方志(ヨモノフミ) ̄ヲ_一とあり。此(コ)風
土記と言(イハ)されとも。諸国(クニ〳〵)の言(コトバ)と事(コト)とを記(シル)すと有 ̄ル もて其 ̄ノ記せる誌(フミ)
風土記考
【右丁】
の風土記の躰(サマ)なり けむこと知るべし。
また推古天皇 ̄ノ紀二十八年の下(トコロ)に。録(シル) ̄ス_二【「シ」を朱で見せ消ちにして「ス」と記載】天皇記及国記 ̄ヲ_一とある国
記も。決(ウヅナ)く風土記の類なるべく所思(ヲボエ)たり。
其 ̄ノ後。元明天皇紀に。和銅六年五月甲子。制 ̄ス。畿-内七-道諸-国 ̄ノ郡
郷 ̄ノ名 ̄ニ著 ̄ケヨ_二好字 ̄ヲ_一。【訓点の一、二点の誤記】其 ̄ノ郡-内 ̄ニ所 ̄ノ_レ生。銀銅彩-色草-木禽-獣魚-虫等 ̄ノ物 ̄ハ
具 ̄ニ録 ̄シ_二色目 ̄ヲ_一。及 ̄ヒ土-地 ̄ノ沃﨏。山川原-野 ̄ノ名号 ̄ノ所由。又古-老 ̄ノ相- ̄ヒ伝 ̄ル旧-聞異-
事。載 ̄テ_二于史-籍 ̄ニ_一言-上 ̄セヨ とあるを奉(ウケタマハ)りて進(タテマツ)れる史籍(フミ)。即 ̄チ風土記なるべく
所思(オボエ)たり。
〇【朱書き】敬雄云。扶桑略記《割書:官板本|六ノ三丁》には。著好字 ̄ノ下(シモ)其 ̄ノ郡内云々の上(カミ)に。又令_レ作_二
風土記 ̄ヲ_一といふ六字あり。是にて風土記なる事いよゝ疑(ウヅ)なし。
【左丁】
〇【朱書き】後按 ̄ルニ【朱書き】大日本史十四元明天皇本紀 ̄ノ小注云 ̄ク要記皇記 並(ミナ)【「ミナ」は朱書き】曰五月
作風土記トアリ水鏡 ̄ニ 其国この郡の名をしるし。出くる物【「西」を見せ消ちにして右に「物」と朱書き】ともの数を目
録をさせしめ給ひき。云々トアリ
そは仙覚が【「ガ」と朱書き。ここでは平仮名が妥当】万葉集抄に。大和国宇智 ̄ノ郡の事を説て和銅六年令 ̄ムル_レ
註進風土記之時。任大政官下之旨定二字用好字 ̄ヲ_二也と云るを思ひ
合せて弁ふべし。さてそれより後。醍醐天皇の延長三年に風土記を
召(メ)されし事は。朝野群代に載(シル)【振り仮名は朱書き】せる。延長三年十二月十四日の大政
官府に五畿七道 ̄ノ諸国司応【應】_二早速勘進風土記事。右如_レ聞諸国 ̄ニ
可_レ有風土記 ̄ノ文_一。今被 ̄テ左大臣 ̄ノ宣伱 ̄ク宣_レ仰_二国宰令勘進之若 ̄シ无-底 ̄ナラバ
探求郡内尋問右【「古」の誤記か】老早速言上者。諸国承【「求」を見せ消ちにして左に朱で「承」と傍記】知依宣不得遅迴符
【右丁 朱書きの頭注】
日本後期《割書:巻五|四丁才》
桓武天皇延暦十五年
是日勅諸国地鄙
事跡疎略加以年
序已久国字闕
逸宜更令_レ作_レ之
夫郡国郷邑騎
道遠近名山大川
形体【體】広【廣】狭貝【「目」か】録
無_レ漏焉
【右丁】
到 ̄テハ奉行 ̄セヨ とあり。此 ̄ノ府の旨(ムネ)は。諸国(クニ〳〵)に前(サキ)に進(タテマツ)れりし風土記の案有(ヒカヘアル)
べきを。今度(コタビ)そを覆勘(カムカヘ)て進(タテマツ)るべし若(モシ)それ無底(ナク)ば郡内(クヌチ)を探(タヅネ)求め。
古老(オイビト) ̄ヲ尋問(タツネ)て更に撰 ̄ビ記 ̄ル して上(タテマツ)るへしとなり。此 ̄ノ官府に応(ヨリ)【應】て前(サキ)に
進(タテマツ)れりし風土記の案(シタガキ)を。更に勘 ̄ヘ進れる国々の多かるべく。また新(アタラ)に
古老の旧聞【「間」とあるは誤記と思われる】を探求めて上れるも有るべし。本朝書籍目録に。風
土記 ̄ハ々 ̄ス_二諸〳〵土地本縁と載たり故(カレ)古き風土記の趣を取総(トリスベ)て考 ̄フ るに
各国(クニ〳〵)にして。旧(ハヤク)より聞(キヽ)伝 ̄ヘ【傳】たる古老の説を専(ムネ)と記さしめ給へる物に
て古事(フルコト)を証(アカ)す便(タヨリ)となる事多く。いとも珍重(メテ)たく貴(タフト)き籍(フミ)なるが。
古 ̄ヘ の真(マコト)のは多く失せて出-雲常-陸肥-
前豊-後の四国の風土記
のみ残れり。其中和銅の度(トキ)に注進(タテマツ)れる風土記の今 ̄ノ世に逸(ノコ)れるは。
【左丁】
常陸なるぞ其 ̄ガ中の一篇(ヒトツ)なるべき。そは其 ̄ノ発端(ハジメ)に常陸 ̄ノ国-司解- ̄シ
申 ̄ス古老相- ̄ヒ伝 ̄ル【傳】旧聞 ̄ノ事。問 ̄フニ_二国-郡 ̄ノ旧事 ̄ヲ_一古老合 ̄ヘテ曰 ̄ク云々と書 ̄キ出たるは。全(マタ)く
和銅の詔命の文を奉(ウケ)たる文なる事著く。また郡に隷て里と書 ̄キ たる
も慥(マサシ)き証(アカシ)とぞ思はるゝ。また出雲のは。天平五年二月卅日勘- ̄ヘ慥 ̄ル とあ
れば。かの和銅六年より廿年ばかり後に進(タテマツ)れる物なり此(コ)は和銅の詔(オホ)
命に依て進れりし後。故ありて再勘(マタカムカ)へて進(タテマツ)れる記(モノ)なるべし。また肥
前豊後のは大旨(オホムネ)出雲のと同じ体裁(サマ)なれば。同じ此に進れる物なるべし。
文のさま出雲のよりも後(オク)れて見ゆれど。延長のあなたより在 ̄リ来(コ)し記(モノ)な
る由 證(ヨリトコロ)あり。其 ̄ノ余(ホカ)【餘】は悉(ミナ)夫たるにや。いまだ世に顕はれず。仙覚が万葉抄と。
釈日本紀とに引 ̄キ用 ̄ヒ たるを始め。其 ̄ノ余【餘】の古 ̄キ書等にも彼此 ̄レに引たるを
風土記 三
【右丁】
摭聚(ヒロヒアツ)めて見るより外なし云々 偖(サテ)又惣国風土記といふが有り。悉く欠(カケ)
残りたる篇(フミ)なるが。中にたゞ駿河 ̄ノ国ののみ大かた全(ソロヒ)たれど【「は」を見せ消ちにして「ど」を傍記】。其 ̄レ も虫くひ
なとして欠(カケ)たる処あり。さて此 ̄ノ記ども既(ハヤ)【振り仮名は朱書き】くよ世に廃々(タエ〴〵)になり【「し」を見せ消ちにして「り」と朱書き】て少(イサヽカ)づゝ遺(ノコリ)
たるも。虫喰などに【「も」を見せ消ちにして「に」と朱書き】損はれて全からぬよし。古くは文和の年間(コロ)に。中原 ̄ノ師行の奥(ホク)
書(カキ)せられたる本を始め其後嘉-慶文-亀弘-治天-正などの年間(コロ)。別人(ヒトヒト)の
奥書 ̄キ したるも。昔の奥書はなく【「ら」を見せ消ちにして「く」と朱書き】て寛文万治の比(コロ)に写たる本もあり。
さて其 ̄ノ本ども誤字脱字などの多有(ヲホカル)とは云も一史なり。甚く丈の錯乱(ミダレ)
たる処もあるは。後に写 ̄シ誤れるなるべしさて其総国風土記はいつの比出
来たるにか知(シル)へからず上に論(アゲツラ)へる古風土記とは。遥(ハルカ)に後(ヲク)れて見ゆ。強(シヒ)て
考 ̄フ るに。後三条院 ̄ノ天皇の御代(ミヨ)に召(メサ)れたる物ならむと思はるゝ事
【左丁】
あり。さるは百練抄。愚管抄。続古事談などに天皇諸国 ̄ノ新奇庄園
を停止(トヽメ)て始て記録所。庄園券契所を置 ̄キ給ひて。国々の衰 ̄ヘ を直し
給へるなと見えたるを。考 ̄ヘ合せて察(オモヒ)上(タテマツル)事に。深き大御心 在(マシマ)して早速(ニハカ)
に諸国に詔(ミコトノリ)ありて風土記を召(メサ)れたりけむがいまだ作例も整(トトノ)はず。
草案の如くなるを彼是より記録所へ上(タテマツリ)り【送り仮名「り」が重複】いまだ各国悉くは上り
終(ハテ)ぬほどに。崩(カムアガ)り給ひて。御政のさまも。万変りたりけれは彼記の
挙(コト)も廃(スタ)れたるまゝにて。官庫に埋れたるが残れるなるべし。さて此風
土記は今井似閑が万葉緯に。十四帖。取集めて収たりき。それと共に
今己が彼 ̄ノ国此 ̄ノ郡と取 ̄リ集 ̄メ たる。廿七国ばかりの記ぞある然はいへ此風土記の
体裁(サマ)。古 ̄ヘ のとは甚(イタ)く別(コト)にして文も拙(ツタナ)く劣(オト)りて後なるが上(ウヘ)に。いかにぞや思はるゝ
風土記考 四
【右丁】
事も見ゆれば。偽書(イツハリブミ)ならむと云ふ人もあれど。然(シカ)すがに。昔の物なれば。
よく採(トリ)り【送り仮名が重複】撰(エラバ)むには珍重(メデ)たき籍(フミ)なりかし。といはれたり。
こは伴信友主の説をも採(トリ)て。いと長き考説なるを此には要(ムネ)
とある事を摘出て記せり委くは本書に就きて見るべし
さて此三川なるも八名宝飫両郡のみ在れとこれも残欠(カケノコリ)【缼】て二 ̄タ郡
ともに全き物には非ず異本三四部を得て此校せつれと。いたく
異(コト)なるはなしされと挙母記といふ書に。《割書:此書挙母 ̄ノ杉本 ̄ノ福敬と|いふ人の所蔵なり。》往古
挙母 ̄ト云 ̄ル文字始は風土記 ̄ニ云昔年三河 ̄ノ国衣川 ̄ノ水上ヨリ。美(ウツ)シキ【「本のマヽ」と挿入文有り】鴨(カモノ)
子一羽 游(オヨギ)【「淤」は誤記】下ル又水下ヨリ母鳥一羽游【「淤」は誤記】行テ近ヅクト見エシ程ニ子鴨 ̄ノ愛シ
頓テ翅(ツバサ)【「趐」は誤記】ノ内ニ抱キテ。汀 ̄ノ森 ̄ニ入ルト見エシガ。忽然トシテ神ト顕ハレ有カタキ託宣
【左丁】
有テ。後ニ母鳥遥 ̄ニ天ヘ上ルト見エシ。此 ̄ノ故 ̄ニ挙母ト云。其 ̄ノ後此処 ̄ニ社ヲ造営シ
鳥居ヲ建テ。児守明神ト崇奉ル。祭礼九月十九日也是ハ鴨ハ九月
十九日始テ豊年 ̄ノ方ヘワタル物ナレバ也。此 ̄ノ辺ヲ加茂郡ト名(ナヅ)クル初トカヤ。
《割書:按 ̄ニ是迄風土記 ̄ノ文なるべし。されと挙母の字義を解る。|後世の俗意(サトビ)なれば。決(ウツナ)く総国風土記の文なるべし。》川下 ̄ニ鴛鴨(ヲシカモ)村川上 ̄ニ鴛
沢村アレモ此イハレナラムカとあり。また元禄の年間(コロ)。度会【會】 ̄ノ直方の。大木大
明神の事を考 ̄ヘ記せる文書(モノ)に《割書:大木村 ̄ノ冨田 ̄ノ|■信 所蔵(モテリ)。》大木食 ̄ノ命。御母ハ出雲色
多利姫。三河風土記 ̄ニ アリ。など見えたりかゝれば其頃はかゝる異(コト)
本も有しにこそ。いかで〳〵得まほしと其 ̄ノ本 ̄ツ書ありやとかの両(フタ)氏から
たづねつれど。ふつう知れされば今は其 ̄ノ本ともの出なむをも待あへ
ずて。かく愚(オロカ)なる考 ̄ヘ をものしつるになも【「れ」の右横に「も」と朱で傍記】そは其 ̄ノ本とも得たらむ時つ
風土記考 五
【右丁】
き〳〵に書改むべければ見む人其こゝろしてよむべし。さて
国名風土記といへる物のと。またそを真字(マナ)【「チ」を見せ消ちにして「ナ」と朱書き】にて書るものなど
の事は既に和名鈔三河郡郷考【和名鈔・・・郷考」までを四角く囲んでいる】の巻首(ハジメ)にいへれば今また
さう【「ら」とあるところか】にはものせずなれ。
天保十年三月月立之日 羽田埜敬雄
【左丁】
日本総国【總國】風土記第四十
三河国【國】八名郡
海浦《割書:六箇所》 湊 《割書:三箇所》
泉《割書:二礒》 寺院《割書:六宇》
墳墓《割書:三基》 岡 《割書:五箇所》
名山《割書:七箇所》 淵 《割書:三箇所》
宮祠《割書:八前》 〇【朱書き】《割書:按 ̄ニ当【當】郡式内社一座神明名帳 ̄ノ社|廿六座アリ》
風土記考 六
参河国古歌名蹟考
下巻目録
、豊川(トヨカハ)《割書:一ノ|ヒラ》 、本野原(モトノヽハラ) 《割書:五ノ|ヒラ》 、末野原(スヱノヽハラ) 《割書:六ノ|ヒラ》
、緑埜池(ミドリノヽイケ)《割書:十ノ|ヒラ》 、藤野村(フヂノヽムラ) 《割書:十一ノ|ヒラ》 、嶺野原(ミネノヽハラ) 《割書:十二ノ|ヒラ》
、老津島 《割書:十三ノ|ヒラ》 童部浦(ワラハヘノウラ) 《割書:十三ノ|ヒラ》 、伊良虞(イラゴ) 《割書:十四ノ|ヒラ》
、高師山(タカシヤマ) 《割書:廿三ノ|ヒラ》 小松原(コマツバラ) 《割書:卅三ノ|ヒラ》
、智(チ) 立(リフ) 《割書:卅四ノ|ヒラ》 、岡(ヲカ) 崎(ザキ) 《割書:卅五ノ|ヒラ》 、藤(フヂ)川(カハ) 《割書:卅五ノ|ヒラ》
古歌考下目録一
、山(ヤマ) 中(ナカ)《割書:三十六|ノヒラ》 、出生寺(イデヽウマルヽテラ)《割書:三十六|ノヒラ》 、関(セキ) 口(グチ)《割書:三十七|ノヒラ》
、長(ナカ) 澤(サハ)《割書:三十八|ノヒラ》 、赤(アカ) 坂(サカ)《割書:三十八|ノヒラ》 御(ゴ) 油(ユ)《割書:四十二|ノヒラ》
今八幡(イマヤハタ)《割書:四十三|ノヒラ》 、今(イマ) 橋(バシ)《割書:吉田|四十二ノヒラ》 、大(オホ) 岩(イハ)《割書:四十五|ノヒラ》
、二(フタ) 川(ガハ)《割書:四十六|ノヒラ》 、大(オホ) 濱(ハマ)《割書:四十六|ノヒラ》 佐久嶋(サクノシマ)《割書:四十七|ノヒラ》
鷲(ワシ) 塚(ヅカ)《割書:四十七|ノヒラ》 、星(ホシ) 越(ゴエ)《割書:四十八|ノヒラ》 御(オム) 馬(マ)《割書:四十八|ノヒラ》
御(ミ) 津(ツ)《割書:四十九|ノヒラ》 本宮山《割書:四十九|ノヒラ》 、煙巌山《割書:五十|ノヒラ》
櫻井寺(サクラヰノテラ)《割書:五十一|ノヒラ》 、星野池(ホシノヽイケ)《割書:五十一|ノヒラ》 、真弓山(マユミヤマ)《割書:五十三|ノヒラ》
生駒山(イコマヤマ)《割書:五十三|ノヒラ》 篠(シノ) 束(ツカ)《割書:五十四|ノヒラ》
八名瀬川(ヤナセガハ)《割書:五十五|ノヒラ》 、依網原(ヨサミノハラ)《割書:五十五|ノヒラ》 、志波都山(シハツヤマ)《割書:五十七|ノヒラ》
子持山(コモチヤマ)《割書:五十八|ノヒラ》 星(ホシ) 河(カハ)《割書:五十九|ノヒラ》
古歌考下目録二
参河国古歌名蹟考 下之巻
羽田埜敬雄 輯考
○豐川 ●和名抄宝飯 ̄ノ郡 ̄ノ条、豊川《割書:止與|加波》
●国名風土記《割書:上ノ|十二丁》云、豊川トハ市盛(一リノイ)ノ長者アリケル、カレヲ見レバ
是河上ニ栖居玉フナリ、人屋サカンナルコト廿里ナリ、彼 ̄ノ民 ̄ノ家豊ニサカンナル故ニ
其流レヲ豊河ト号ス、
●名所方角抄《割書:五十|九丁》云、豊河世俗の今橋といふ宿よりも北也、星野などゝ云所
に近し、三河の北は山つゞき也、今橋の宿より高師原へゆく也、北に大山あり、
其梺に豊川あり、 ●藻塩草《割書:五ノ|七丁》三河同《割書:六ノ|廿丁》豊川郷《割書:三河|》
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 一
●三川藻塩草云、豊川ノ里の旧跡、中古田地になり、字御世板といふ也、むかし
しかすかの渡場の岸今に存(ノコ)れり、此所より渡舟にのり今橋の里へ
わたりたる也、豊川の地縁【脈?】にて三明寺の西南のあたれり、
●綜録云、水源は段戸(タンド)山及ひ名倉津具等の水、黒瀬川作手川と合し、
滝川となる又/川合(カハヒ)山より出る水は、八名と設楽の二郡を分ち、大野の西を
ながれ、長篠にて会するものを美和川といふ、宝飫八名の二郡を隔流て、
末は宝飯郡前芝にて海に、入、これ今の吉田川にて今これを豊川また、
姉川ともいふ、古へは日下部(クサカベ)より、又一流の大川ありて豊川の里の岸を流れし故、
又豊川といふ然るを明応六年八月十日の洪水に、渕瀬かはりて、此 ̄ノ川絶たり
今も其川筋のあとは深田也といふ、
●夫木《割書:廿四|雑六》 六帖題とよ川 《割書:三川|》 衣笠内大臣
かり人のやはぎにこよひやどりなば【「ぶ」を見せ消ち、右に朱字「バ」に】あす/や(ハ松)わたらむ豊川の浪《割書:名松外|秋モ》【「名松外秋モ」は朱字】
《割書:たび新六帖|》 水《割書:松秋|名》
●かくて本野か原を過れば懶(モノウ)かり【「う?」を見せ消ち、朱字「り」に】し、蕨は春の心を生かはりて、秋の色うとけ
れども、分ゆく駒は鹿の毛に見ゆ、時に日重山にかくれて月星/躔(コマヤカ)に
あらはれ、時【明?】暁をはやめて豊川の宿にとまりぬ、深夜に立出て見れば、
此河は流広く水ふかくして、まことにゆたかなる【「る」を見せ消ち、朱字「か?」に】わたり也、川の石瀬
に落る【「に」見せ消ち、朱字「る」に】浪の音は、月の光りにこえたり、川辺に過る風の響(ヒヾキ)は夜の
色【「辺」を見せ消ち、朱字「色」に】白しまたみきはひなの栖には、月より外に詠(ナガメ)なれたるものなし、
●貞応海道記
しる人もなぎさに波のよるのみぞなれにし月のかげはさしくる《割書:白|モ》【「白モ」は朱字】
豊河《割書:扶桑拾葉本|》
●よかはといふ宿の前を打過るに、あるものゝいふをきけば、此道はむ
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 二
かしよりよくるかたなかりし程に、近き頃俄にわたふづの今道
といふ方に、旅人多くかゝるあいだ、今は其宿は人の家居をさへ外(ホカ)に
のみうつすなどぞいふなる、ふるきを捨てあたらしきにつく
ならひ、定まれる事と云ながら、いかなる故【「故」見せ消ち、朱字「故」に】ならんと覚束
なし、昔よりすみつきたる里人の、今さらゐうかれんこそ、
かの伏見の里ならねとあれまくをしくおぼゆれ、
●仁治道之記
おぼつかなよかはの【「よかはの」の右に「いさ豊 扶桑拾葉本」】川のかはる瀬をいかなる人のわたりそめけむ《割書:モ|》【「モ」朱字】
廿ニ日のあかつき夜ぶかきあり明の
かげに出て行いつよりも物かなし 阿仏尼
●十六夜日記
すみわびて月の都を出しかどうき身はなれぬ有明の影《割書:モ|》【「モ」朱字】
十四日こゝの御とまり《割書:矢バキ|ナリ》【「バ」の濁点「〟」は朱字】を立侍りしに河あり
●富士紀行 これや豊【「尽?」を見せ消ち朱字「豊」に】川と申わたりならんとおぼえて 藤原雅世卿
かりまくら今いく夜ありて十よ川やあ【「の」を見せ消ち、朱字「あ」に】さたつ浪のすゑをいそがむ《割書:モ|》【「モ」朱字】
○名寄
○夫木廿四外【「○夫木廿四外」朱字】 鴨長明
里《割書:松|秋》
風わたる夢のうきはしとだえして袖さへふかき豊川の 水《割書:白松外|モ秋》【「白松外モ秋」朱字】
波《割書:夫|》【「波夫」朱字】
●按ニ此歌印本長明歌集には見えず、
●白云豊川寺とは三明寺の事也、夢のう【「夢のう」の右横に朱の二重線あり】き橋とは、弁天の前の端をいふ、
宗牧紀行にさま〳〵の事あれど略之、
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 三
○伊豆日記云、永暦元年三月二十日云々、出_レ ̄テ都趣_二 ̄ク伊豆 ̄ノ配所_一 ̄ニ云々、三月廿五日
矢作(ヤハギニ)宿 ̄ス、二十六日大江 ̄ノ入道定厳 ̄カ豊河 ̄ノ館 ̄ニ休息 ̄ス云々、同日浜名 ̄ニ宿 ̄スとあり、
これ源頼朝 ̄ノ卿、伊豆に流され給へりし時の記にて其時御供にさむらひ
ける伏見 ̄ノ廣有が記せるもの也、
●源平盛衰記《割書:廿三ノ九丁平|家東征ノ条》云、治承四年十月四日、三川 ̄ノ国矢矧ニツク、五日 同
豊川ニツク、六日遠江 ̄ノ国橋本ニツク、
●吾妻鏡《割書:卅二ノ五丁将軍|頼経卿上洛ノ条》云、癸未著⁻御橋本 ̄ノ駅_一 ̄ニ云々、八日甲申云々、著_二-御《割書:シ玉フ》
豊河 ̄ノ宿_一 ̄ニ云々、九日乙酉/矢作(ヤハギノ)宿入御云々、
●同書《割書:卅二ノ卅一丁|御帰路ノ条》云、十月十八日己未云々、入_二-御矢作 ̄ノ宿_一 ̄ニ云々、十九日庚申云々、戌 ̄ノ一
尅著_二‾御 ̄ス豊河 ̄ノ駅_一 ̄ニ、廿日辛酉風雨辰 ̄ノ尅出_二‾御《割書:シ玉フ|》於/本野原(モトノハラニ)_一甚雨【「両?」を見せ消ち、右に朱字「雨」】暴風、然 ̄シトモ【レトモ?】而御輿 ̄ノ
前後 ̄ノ人々 ̄ハ者不_レ及_レ擁_レ ̄スルニ笠 ̄ヲ、皆以/舐(スヽル)_レ鼻(ハナヲ)、午 ̄ノ尅 ̄ヨリ以後属_レ ̄ス晴 ̄ニ、酉 ̄ノ尅 ̄ニ橋本 ̄ニ御/宿(トマリ)云々、
●これらの事跡によりて考ふるに、往古(イニシヘ)の道は、矢矧《割書:此間に宮|路山アリ》、豊川《割書:前後ニ本|野原アリ、》橋本と
つゞきたりそは古老の説に、古へは今の赤坂 ̄ノ宿の北を廻りて、鷺坂へ出、上宿(ウハジユク)《割書:古への御油ノ|宿也トイヘリ》
八幡(ヤハタ)《割書:此辺【■を見せ消ち、朱字「辺」に】すべて|古ノ府ノ地也》にかゝりて豊川へ出、今の三明寺の辺より、当古和田神田岩崎等を
経て山坂をこえて雲谷(ウノヤ)へ出て、橋本にいたる、これ古の海道也といへり、これに
つきて按ふに、貞応海道記、仁治道之記などには、京より東に下る道程に、
本野原は豊川の西にある由【「田」を朱で「由」に】なれど吾妻鏡には、東にあれば、古への野はいと〳〵
広くて、今の野口といふ辺西より入る野の口にて、今いふ諏方(スハ)ぶろ蔵子(ゾウシ)山/佐脇(サワキ)
原(バラ)《割書:こは末のはら野か|ひくま野なるか》又かけて南にいたり、北もいと〳〵広く今いふ本野原の辺より、
豊川 ̄ノ宿の東までかゝりたる野とおぼし、そは今本野原近辺の村名に、長艸
西原/篠(シノ)田松原牧野などいへる、野によしある村号(ムラノナ)あまた【「ふ」を見せ消ち、朱字で「た」に】あれば也、
さて、豊川 ̄ノ宿といふは、今の古宿村其 ̄ノ本土(モト)にて今の豊川村 ̄ノ辺かけて、いと広く賑し
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 四
き宿とおぼしきを、仁治之道之記に、近き頃【「ひ」を見せ消ち、右に朱字「頃」】俄にわたふづ《割書:渡津ノ|コト也》の今道といふ
方に旅人多くかゝるあひだ、今は其宿の人の家居をさへ外にのみうつすな
とそいふなる云々、とある如く其頃より往来(ユキヽ)の人少くして、つき〳〵に今のさ
まとなりて、つひに古宿の名のみ残れるなるべし、此 ̄ノ事は古蹟雑考【「古蹟雑考」を朱の四角枠で囲】宿駅 ̄ノ
条/及(マタ)和名抄郡郷考【「和名抄郡郷考」を朱の四角枠で囲】府 ̄ノ下にいへればこゝには、其/大旨(オホムネ)をいふのみ也、
○本野原(モトノノハラ)【左ルビ「ホンノガハラ」】 ●三川モシホ草云、宝飯郡ニあり、此野に属する村里多し、
●和訓栞 云、本野原は宝飯郡より転(ウツリ)し名にて今も本野 村本
坂の名あり、砥鹿明神の本宮山も同事なるべし、といへり、
●按ニ宝飫郡はもと穂(ホノ)郡なれば、吾妻鏡《割書:卅二ノ|卅一丁》に本野原をモトノハラト訓み、月清【「旦清」を見せ消ち、右に朱字「月清」】
集にもとのゝ原とよめるは非(ヒガコト)にて、旧く。ホノハラと唱へて、穂之原(ホノハラ)の意なるべしかゝれば
本野村ば、此 ̄ノ郡の本土(モト)なるべきカ此事は、和名抄郡郷考【「和名抄郡郷考」を朱の四角枠で囲】宝飫 ̄ノ郡 ̄ノ条に委くいへり、
○承久記《割書:上|廿三丁》之海道先陣相模守遠江 ̄ノ橋本ニ著キケルニ十九騎つれたる勢、高師山
に入ヌト申ケレバ相模守(北条時房也)如何ナルモノナレバ、先陣ヲ越テ先様ニ通ルヤラン《割書:中|略》トゾ仰ケル内田四郎同
六郎新野右馬允、是レヲ始メトシテ六十余騎追カケタリ、十九騎続イタル勢、高師山ヲモ馳
通(、)テ宮路山ヘ打カヽリ、音羽川《割書:白雲云御油|川ナルベシ》ノ端(ハタ)に下リタチテ、今ハサリトモ続(ツヾ)く敵
ヨモアラジトテ、馬ノ足冷サ【「サ」朱字】セテ片ナル岳ニ扇ツカフテ、休ミケル処ニ内田 ̄ノ モノ馳来リテ、谷ヲ【「ニ」を見せ消ち、右に朱字「ヲ」】隔
テ扣(ヒカヘ)ツヽ、使者ヲ以テイハセケルハ如何ナル人ナレハ、先陣ヲ越テ通リ給フゾ、敵カ御方
カ承レトテ、相模守
殿ノ御使、遠江国ノ住人内田ノ者共ガ参テ候也【■を見せ消ち、右に朱字「也」】、トイハスレハ、マコト候下総守ノヤカラニ三浦筑井
四郎太郎ト申スモノニテ候、《割書:中略|》内田ノ者共、六十余騎ニテ押寄セタリ、筑井トアル小家ニ走入テ、四
方ノ垣切ツテ、押立六人楯籠リテ、矢タバネトイテ推シクツロゲ指攻(サシツメ)々々、是ヲ射ル内田ノ者共、谷
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 五
ヲヘダテヽ扣ヘタルガ、被射落_一モノモアリ、目ノ前ニ疵ヲ蒙リ、失_レ命【𫝇】者数多アリ、筑井
矢種スクナク、射成シテ、今ハ如何ニカスベキ可_二打勝_一、軍サニモ非スサノミ罪ツクリテモ、センナシ、
イサヤ、思ヒ切ントテ、後見安房郡司ト差シ違テゾ臥ニケル、残リ【「ヲ」を見せ消ち、朱字「リ」に】四人モ親タシウサシ■(、)テケリ、十三騎
ノ郎等共《割書:中略|》大勢ノ中へ噢テカケ入、一騎ニ四五騎推 ̄シ双へ々々、クミケレバ无勢多勢ニ可_レ ̄キ勝ヤウ
ナクシテ、皆々被打取_一ヌ、十九騎ガ首、本野ガ原ニゾ、懸ケタリケル《割書:云| 云》、
【貼紙あり 朱字】
●ほむの川原《割書:按ニ川原ト書ルハ筆者ノ|誤ニテ が原 ナルベシ、》にうち出たれば、四方のうみかすかにして
山なく岡なし、秦甸の一千余里を見わたしたらん心ちして草土
ともに、蒼茫たり、月の夜ののぞみいかならんとゆかしく覚ゆ、
筿(サヽ)原の中にあまた踏分たる道ありて、ゆく末もまよひぬべき
に、故武蔵のつかさ《割書:平泰時|ノコト也》道のたよりの輩におほせて、植おかれたる
柳もいまだ蔭と賴むまではなけれども、かつ〴〵まづ道のしるべ
となれるもあはれなり、云々
●仁治道之記
うゑおきし主なきあとの柳ばらなをその蔭を人やたのまん《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
よかはといふ宿の前をうち過るに云々
●按ニ豊川村に千本(チモトノ)社といふ有て、柳の古木一株あり、これ其 ̄ノ旧跡也と
或人いへり、 ●白云東三川 ̄ノ千本ノ柳トハ、本野が原 ̄ノ柳 ̄ノ コト也、文台ニ用 ̄ノ? ル由《割書:ニ|》【「ニ」朱字】テ、
或 ̄ル大名衆御アツラヘ有テ調進シヽコトアリ、此 ̄ノ柳は武蔵 ̄ノ守 ̄ノ植ラレシ柳ナリ、于_レ今ト
ヨ川林ニ柳アリト云リ、
【貼紙あり】
●月清集上 後京極良経公
うつしうゝる庭の小萩の露しづくもとのゝ原の秋やこひしき《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
○ 光俊卿
住なれしもとのゝ原やしのぶらんうづむ虫にやむしのわぶるは《割書:モ|》【「モ」朱字】
【右頁貼紙 朱字】
○宣光按ニ音羽川ハ今長沢村関屋ノ少シ
東ニ川アリコレヲ音羽川トイヒテ其川上ニ音羽
塚トイフモアリ《割書:此川ノ末流ハ|御油ヘ出ル》コレナルベシサラバ
承久記ナル宮路山ヘ打カヽリ音羽川ノ
端ニ下リタチテトアルニモアヘルヤウナリ此
辺スベテ昔ハ音羽郷トイヘリトオボシタテ
同村《割書:中ノ|田?丁》産神嶽大明神ノ古キ棟札
《割書:足利家中ツ代ノ年|ナリキ今ワスレタリ》ニ音羽ノ郷トアリシヤ
ウニ覚エタリ
【左頁貼紙】
《割書: |長■【貴・央】云》
此二首の歌もとのゝ原トよまれしは本野原の
ことにはあらじ歌の趣意を考れば
すみなれしもとの原の恋しきやトいふ
意とおもはる出所はたしかに覚へねと
雑木抄ニう/つ(ツ)【「徒」の右に朱字「ツ」】す虫屋にむしのわふるはと
あり尚よくかんがへたまふべし
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 六
【144コマと同じ】
○末腹野(スヱノハラノ) ●三川モシホ草云、設楽郡市場村の地中にあり、俗呼て
はらふ野といふ、藻塩艸には末原野と書り、
●白云、一説、碧海郡の野原といふ不審也、本野が原に対し末の原野は海
際をいふにはあらぬにや考べし、
●刪補松云、本野が原に対し海手の方を末野といふ、昔の街道也、
●按ニこれらの説ニよれば、今の佐脇原(サワキバラ)なるべし、又按に渥美 ̄ノ郡二川の北に、
原また中原といふ村あり、本中末と対するならば、かの中原より東南なる
小松原辺の野にはあらざるが、そは末(マツ)原/松(マツ)原字音通へり、こは試みにいふのみ
也、尚よく考べし、
●松葉集《割書:十五|》末 ̄ノ腹野、三河、八雲御抄并藻塩当国とあり、
●按ニ八雲御抄《割書:五ノ|十七丁》に、すゑのはらの《割書:万あつさゆみ|とかりする》とのみありて、国をば記し給はず
●類字名所補翼抄《割書:七|》未勘トアリ、●藻塩草《割書:三ノ二|九丁》国名なし
●本居翁の古事記伝《割書:七ノ|四十丁》云、振山を未通女子之袖振山、奈良 ̄ノ里を旧(フル)
衣着(コロモキ)楢(ナラノ)里とよめる例にて、末之といふ迄は序にて腹野ぞ地名にはあ
るべき、末のはら野と云る名所いかに【「わ」見せ消ち、右に朱字「に」】ぞやと云れたり、
●万葉《割書:十一|》
梓弓(アヅサユミ)、末之腹野尓(スヱノハラヌニ)、鷹田為(トカリスル)、君之弓食(キミガユツル)【「ル」の右に書入れ「テ」】之(ノ)、将絶跡念甕屋(タエムトオモヘヤ)《割書:白モ|松秋》【「白モ松秋」は朱字】
●此歌新勅撰十四恋四には、二 ̄ノ句すゑ野の原とありて、題不知よみ人不知とあり、
●万葉略解《割書:十一ノ|》云、大和国添 ̄ノ上 ̄ノ郡/陶(スヱ)の原野なるべし といへり●万葉見安《割書:二 ̄ノ|五十二丁》
又は上総の周/准(稚歟)【「稚歟」朱字】郡の原野かといへり、
●続後撰《割書:七|秋下》 題しらず
なが月のすゑのはら野【「はら野」の左に書入れ「のはらイ」】のはじ紅葉しくれもあへず色づきにけり《割書:松|モ》【「松モ」朱字】
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 七
●続古今 《割書:六|冬》 建保内裏歌合に冬野霰を 光明峰寺前摂政左大臣
ぬれつゝぞ【「ぞ」の左に「も松」】しひてとかりの梓弓すゑの原野にあられふるらし【「らし」の左に「らん松」】《割書:白モ|松》【「白モ松」は朱字】
●新後撰 《割書:五|秋下》 建保四年百首歌めしけるついでに 後鳥羽院御製
をしめども秋は末野の霜のしたにうらみかねたるきり〳〵すかな
●同 《割書:同|同 》 暮秋のこゝろを 院御製
長月のすゑ野のま葛霜がれてかへらぬ秋を猶うらみつゝ
●新拾遺 《割書:五|秋下》 《割書:いまだこのみこの宮と申ける時十首歌めし|けるついでに暮秋霜といふ事をよませ給ける》 後醍醐院御製
ゆく秋の末野のくさ【「くさ」の左に「はらイ」】はう【「か?」見せ消ち、右に朱字「う」に】らがれて霜に残れる有明のつき《割書:モ|》【「モ」は朱字】
●新後拾遺《割書:一|春上》 弘長元年百首歌奉りける時春雪 衣笠前内大臣
さらにまたむすぼゝれたる若草の末野のはらに雪【「雪」の右に朱字「雪」】はふりつゝ
●同 《割書:十五|恋五》 題しらず 参議経宣
身を秋の末のゝ 原の霜がれに猶吹きやまぬ葛のうら風
●続後拾遺《割書:五|秋》 秋霜をよませ給ふける 御製
今よりの秋の色こそさびしけれ末野の尾花霜むすぶなり
●新続古今《割書:一|春上》 承久元年内裏十首歌合に野経霞【野径霞?】 従三位範宗
宿からむ末野の里のしるべだに霞(カスミ)【「カスミ」朱字】にまがふ夕けぶりかな
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 八
●同 《割書:十二|恋二》 貞和百首歌に 前大納言実教
契おくすゑの原のゝあづさ弓引わたるともたえむなり【「か」見せ消ち、右に「か」】かは
●同 《割書:十七|雑上》 冬の御歌の中に 後鳥羽院御製
ひと年もいまは末野のむらすゝき霜ふく夜半の風の寒けき
●夫木 《割書:十一|秋二》 寛喜元年五十首恋歌 衣笠内大臣
ちぎりおきし末のはら野の萩の露うつろふ色【「色」の右に、朱字「色」】に消かへりつゝ《割書:松|白》【「松白」朱字】
●同 《割書:同|同》 喜多院入道二品親王家五十首 禅性法師
うづらなく末のはら野の萩がえに秋の色ある夕つくひかな《割書:松|白》【「松白」朱字】
●同 《割書:十二|秋三》 御集羇中鹿 鎌倉右大臣
秋もはやすゑのはら野になく鹿の声きく時ぞ旅はかなしき《割書:白|》【「白」朱字】
●同 《割書:十四|秋五》 千首歌 民部卿為家
ゆく秋の末野のはらのさゝのやに夜を寒からしころもうつなり《割書:白|》【「白」朱字】
●同 《割書:十五|秋六》 家集秋歌 同
こがらしの末の原野の櫨(ハジ)【「ハジ」朱字】紅葉かつさそはれて暮る秋かな《割書:松|白》【「松白」朱字】
●壬二集 藤原家隆卿
神なづきすゑ野の草葉かれはてゝしくれにまじる霰ふる也《割書:白|》【「白」朱字】
【「●」は朱】
古歌考 下 九
○同 同
しくれゆく末野の山の木の葉までを遠こち人の袖やぬるらむ《割書:白|》【「白」朱字】
○拾遺愚草 藤原定家卿
秋来ぬと手【「手」の右に朱字「手」】ならしそめしはし鷹もすゑ野の鈴の声ならす也《割書:白|》【「白」朱字】
○同 同
あづさ【「さ」の右に「さ」】弓すゑのはら野に引すゑてとかへる鷹をけふぞあはする《割書:白|》【「白」朱字】
○同 同
契りおきしすゑの原野の もと(玉イ)かしはそれともしらじよその霜がれ《割書:白|》【「白」朱字】
○新六帖
あつさ弓すゑのゝ草のいやおひに春さへふかくなりそしにける《割書:白|》【「白」朱字】
○類題 範宗
なか月や末の原野の風よりも猶かれまさるむしの声々《割書:松|》【「松」朱字】
○七帖抄 ●藻塩草《割書:一ノ|九丁》日てり雨ノ条ニ出所をしるさず此歌をのす《割書:○夫木十九| 光俊イ》【「○夫木~光俊イ」迄は朱字】
とにかくに御笠とまをせ夏ふかき末の原野に【「末の原野に」の右に「末野の原の モシホ」】日てり雨 降【「降」の右に「ふる モシホ」】《割書:白|》【「白」朱字】
《割書: |享保十四年酉三月十九日》
○南殿御当座 閑宮院直仁親王
くるゝとも行てや見まし霞たつ末野の原のはるの木のもと《割書:白|》【「白」朱字】
【「○」「●」は朱】
古歌考 下 十
○緑野池(ミドリノノイケ) ●松葉集《割書:云三河夫木ニ当国トアリ|》 ●秋の寝覚 ●類聚名所外集 等当国とせり
●三川モシホ草云、碧海郡 粟寺(アハデラ)村ノ地中にあり、俗呼て
鷺草ノ池といふ、東海道/宇頭(ウトウ)村より西北也、此池に鷺草おふる故に異名とす、
●二葉松云、或岩堀池也といふ未詳、●刪補松云、菱池也とも、粟(アハ)寺村の
池也ともいふ、白云もし小坂井の辺にてはなき歟といへり、
●按ニ八名郡三渡野村の川東ニ、権現山といふあり、其北の方に小き野
原有て、其辺の田の中に字(アザナ)はミドリ塚といふ小き塚有て、榎(エノキ)一本/立(タテ)り
村人の説に、むかし公家(ヲホヤケ)より田地(タトコロ)改むる司人/此(コヽ)所ニ来ましけるをこゝより
向ひは深田にて畔(ア)なれば、畝歩改むる事なりがたし、見取(ミドリ)にせよといへりし
より、しか号(ナヅケ)けたる也といへり、されどこは後ノ人の訛説にて、ミドリ塚はみどり野
の古名の残れるにて、ミドノはミドリノの略語なる事しるし、そは倭名抄ニ
上野ノ国の郡ノ名、緑野を美止乃と訓(ヨメ)り、民部式《割書:廿二ノ|二丁》拾芥抄《割書:四ノ|六十二丁》なる
傍訓(カタヘガナ)もミドノとあれば、三度野はミドリノなる事うづなし、
●夫木《割書:廿三|雑五》 明玉 御(、)御厳子女王
ことしおひのみかはの池のあやめぐさ長きためしに人はひかなむ《割書:松イセ|》【「松イセ」朱字】
●同 《割書:同|》 康平四年三月祐子内親王家名所歌合《割書:伊勢又|山城》和泉式部
春ふかくなりゆくまゝにみどり野の池の玉藻も色ことに見ゆ《割書:白松外|秋モ》【「白松外秋モ」朱字】
●同 《割書:同|》
はる雨のふりそめしよりみどりのゝ池の汀もふかくなりゆく《割書:松|外》【「松外」朱字】
【「●夫木」の上辺に書入れ】
《割書:●此歌ノコト里野池ノ|下ニイヘリ》
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 十一
○藤野村(フヂノノムラ) ●三川モシホ草云、八名 ̄ノ郡下条郷藤ケ池むらをいふ、村
老の口碑に、古へ帝へ藤の花を奉りけると、今も色こ
となる藤多し、●白云もし八幡村の事にてはなきか、
●刪補松云八幡のしもといふ、又藤ケ池ともいふ、●藻塩草《割書:六ノ|廿四丁》藤のゝ里《割書:三河|》
●夫木 《割書:三十一|雑十三》 為忠朝臣三河国名所歌、藤野村《割書:三河|》 藤原宗国
むらさきのいとくりかくと【「かくと」の左に「かくてイ」、「を」見せ消ち、右に朱字「と」】見えつるは藤野のむらの花さかりかも《割書:白松|秋モ》【「白松秋モ」朱字】
●同 《割書:同|同》 藤原道経
きしなくて藤野のむらの藤なみは松のこすゑにかゝるなりけり《割書:白外|松》【「白外末」朱字】
○嶺野原(ミネノノハラ) ●松葉集《割書:十三|》三河●類字名所外集《割書:同【「内」を見せ消ち、右に朱字「同」】|》●藻塩草【「草」の右に書入れ「また六ノ廿三丁峯野里 三河トアリ」】《割書:三ノ|十三丁》同
●三川モシホ草云、八名郡石巻山 ̄ノ麓、嵩(スセ)山村 ̄ノ地中、爰(コヽ)に竹
箆山普門寺といふ古寺、観音を安置す、古への嶺野寺也といへり、《割書:刪補松|同之、》
上に所謂、嶺野【■を見せ消ち、右に「野」】は豊川の渡をこえて川東也、これは志賀須賀の渡頭を、
今【■を見せ消ち、右に「今」】橋、望ます【■を見せ消ち、左に「ます」】して豊川の向の岸へ直にわたして、今の本坂越の道也、関東へ
通行に嵩山村を出て、三川と遠江の堺本坂をこえ、三ケ日の駅にして出合、
また【「〻」を見せ消ち、右に朱字「た」】しかすかの渡を今橋里につきて、高師山の麓にかゝり、遠江国三ケ日
宿へゆく也、今の東海道二川白須賀よりは、左の山手に鎌倉道とて古への
道條あり、三ケ日宿の南に、浜名橋の旧跡あり今の東海道白すが新居の間
にいへるは、昔の旧跡にあらず鴨長明山の端の歌は、本坂越の時よみしと見えたり、
●白云二川の北東にあたりて【「一」見せ消ち、右に朱字「て」】、一里半はかり行て、神座(カンザ)村の内俗ニ素山(スヤマ)といふ大山の半
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 十二
腹を峰の野原といふ《割書:刪補松|同之》いらごもよ【「子」を見せ消ち、右に朱字「よ」】く見ゆる処也、され共遠江の内なり
これなるべし、
豊川を立て野くれ里くれはる〴〵と過れば、峰野の原といふ所
あり、日野の草の露より出て、若木の枝にのほらず、雲は峰の松風にはれ
て山の色天とひとつに染たり、遠江の感心情尽【「春」を見せ消ち、右に朱字「尽」】しかたし、【『参河国古歌名蹟考再稿』では「遠江」は「遠望」に】
●貞応海道記
山のはは露よりそこにうづもれて野末の草にあくるしのゝめ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
やがて高志(タカシ)山にかゝりぬ云々
●夫木《割書:卅一|雑十三》《割書:万代|》 みねのゝ里 祝部成茂
たれかいま思ひおこさむあづまぢやみねのゝ里の夕暮れの空《割書:外|》【「外」朱字】
○名寄 鴨 長明
鶉/ふす(なく 外)【「なく外」朱字】嶺野の原を朝(けさイ)ゆけはいらごが崎にたづなきわたる《割書:白松外|秋モ》【「白松外秋モ」朱字】
●此歌松葉集《割書:十三|》に越【載カ】て、三川 ̄ノ国みね【見年】野といふ所をうち過侍りけるに、
いらごの方に靏の鳴をよめるとなんとあり、
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 十三
○老津島(オイツシマ) 童部浦(ワラハヘノウラ)●吾妻鏡《割書:十六ノ|四丁》大神宮御神領参河国
・大津(オホツ)神戸 ●神鳳抄 同、
●名所方角抄《割書:印本|六十丁》云、わらはへの浦 在所不分明、老津島のあたりと云、是も
在所不知也、 ●三川モシホ草云、渥美郡大津村大崎村の海辺にむら
むらと生茂れる小松原の島也、按に今地境を争ひ、大崎村に向ふ所を
大崎島といひ、大津村に向ふ処を大津島といへと、みな古への老津島
なり、わらはへの浦は、たつ江口に入て老津島に近しといふ、
●二葉松云、渥美郡笠島の梺、今は浦村といふ、老津島は浦村よりつゞ
きたる洲崎をいふ、 ●藻塩草《割書:五ノ|卅八丁》三河
三川海(三河 名)に老津島といふ洲さきにむかひて童部の浦と
いふ入海のをかしきを口すさ/みに(ひて松)
●紫式部家集 紫式部
おい津島しまもる神やいさむ【「いさむ」の左に「います 松」】らむ波/も(はイ)さわか【「さわかぬ」の左に「さはらぬ 松」】ぬ(すイ)【「すイ」の右に書入れ「モシホ草五ノ卅八丁」】わらはへの浦(さき イ名)《割書:白名|秋モ|松》【「白名秋モ松」朱字】
●按ニ歌枕名寄《割書:十九|》三河 ̄ノ部に老津島并童部浦《割書:江州|》奥津島 同之、と有て此
歌を載て、右三河においつ島といふ洲崎にわらはへの浦といふ入海のをかしき
を口すさひにと家集にいへり」とあり、●松葉集《割書:三|》には、童部浦近江名寄
にあり、といひて詞書、みつ海に云々とあり、《割書:ホヨク外集三|同之、》●又家集のイ本に
湖にとあり、みつを三川に誤れるか、三川を三つと誤れるかよく可考、
【「○」「●」「、」「」」は朱】
古歌考 下 十四
○伊良虞崎(イラゴサキ) ●渥美郡伊良胡村は当国西南方のはて也、
●吾妻鏡《割書:十六ノ|四丁》大神宮御神領、参河 ̄ノ国伊良胡 ̄ノ
御厨、●神鳳抄《割書:又|》外宮神領目録ニ伊良胡御厨、●国内神名帳云
正三位伊良久 ̄ノ大明神 ̄ハ坐(マス)_二渥美郡_一、
●此所万葉《割書:一|》【「一」朱字】の詞書に、伊勢国とあるに依て、伊勢国と誤リ記せるものあり、
●そは八雲御抄《割書:五ノ卅四丁|同卅六丁》いらこが島《割書:伊勢万|》清輔抄三河か云り《割書:松|》と見え
また●古今著聞集《割書:十二ノ|十七丁》に、正上座といふ弓の上手、若かりける時、参河
の国より熊野へ【「人」でなく「へ」、古今著聞集確認】わたりけるに、伊勢 ̄ノ国いらこのわたりにて海賊にあひ
けり、云々とある類也、
●また松葉集には、伊良虞島志摩と記せり、●藻塩草《割書:五ノ|卅三丁》にも志摩国志摩郡トセリ、
●日本紀通証《割書:三十五|十七丁》云、関氏分域指掌図 ̄ニ曰、按ニ続日本紀 ̄ニ分_二 ̄テ志摩 ̄ノ国答志 ̄ノ
郡_一 ̄ヲ始 ̄テ置_二 ̄クト佐藝 ̄ノ郡_一 ̄ヲ、此 ̄ノ郡今 ̄ハ則亡 ̄シ、伊良胡 ̄カ崎存_二 ̄ス名 ̄ヲ于参河_一 ̄ニ錦島 ̄ハ接_二属
于伊勢_一 ̄ニ、其 ̄ノ余 ̄ノ名勝混_二 ‾入 ̄スル勢紀_一 ̄ニ者亦多 ̄シ矣、或 ̄ハ曰志摩 ̄ハ本 ̄ト在_二伊勢 ̄ト三河 ̄ト
之間_一 ̄ニ、歴世既久而為_二海水_一 ̄ノ所_二淪没_一、後来割_二【「二」朱字】伊勢 ̄ノ東偏_一 ̄ヲ為_二 一国_一 ̄ト也、
○志陽志略に、伊良湖崎 ̄ハ在_二 ̄リ伊良湖村_一 ̄ニ、此 ̄ノ地 ̄ハ者三河 ̄ノ国渥美 ̄ノ郡也、此 ̄ノ
地去_二 ̄ルコト神島_一 ̄ヲ一里、以_レ ̄テ近 ̄ヲ混_二 ̄ス志摩 ̄ノ国_一 ̄ニ云々とあり、
●万葉《割書:一|》 幸(イデマシヽ)于【「幸」の左下に「于」、「幸」の下へ導く線あり】伊勢国_一 ̄ニ時/留(アリテ)_レ京(ミヤコニ)柿 ̄ノ本 ̄ノ朝臣(アソミ)人麻呂/作(ガヨメル)歌
潮左為二(シホサヰニ)、五十良児乃島辺(イラゴノシマベ)、榜舩荷(コグフネニ)、妹乗良六鹿(イモノルラムカ)、荒嶋(アラキシマ)廻(ワ)乎(ヲ)、《割書:白ホ|モ|松》【「白ホモ松」朱字】
●此歌人丸集には〽しほさひにい つし(とこイ)の浦にこぐ舟にいものるらんかあらき浜べに
●夫木廿三雑五には〽しほさゐにいらこの島へこく舟のいものるらんかあらき島間をとあり
【「○」「●」「、」「〽」は朱】
古歌考 下 十五
●按ニ日本紀《割書:三十ノ|廿一丁》持統天皇六年三月に、伊勢に行幸(ミユキ)ありて同五月志摩の
阿胡(アゴノ)行宮(カリミヤ)におはせしと見えたり此時の事也
●加茂翁の万葉考《割書:一ノ|十九丁》云、いらごは三川 ̄ノ国の崎也、其崎いと長くさし出て、
志摩のたぶしの崎と遥に向へり、其間の海門(ウナト)に神(カミ)島大つゞみ小つゝみなど
いふ島どもあり、それらかけて古はいらごの嶋といひし、か、されど此/島門(シマド)あたりは、
世に畏(カシコ)き波の立まゝに、常の船人すら漸に渡る所なれば、官女などの船遊
びする所にあらず、こは京にて大よそを聞ておしはかりによみしのみ也、●《割書:万葉|略解》
《割書:一ノ卅六|丁同之、》●久老神主の万葉考、《割書:三ノ別記|廿一ノヒラ》にも此行幸の事をくさ〴〵いひて伊勢国河口 ̄ノ
行宮より、大淀のかたにいでまし、二見がうらを御船にめして、いらご崎を背向(ソガヒ)に見給ひ
て、答志(タブシノ)崎を、南にをれて、阿胡(アゴノ)行宮には至りましゝなるへしといへり、
●万葉《割書:一|》 麻續王(ヲミノオホキミ)流(ナガサレシ)_二於伊勢 ̄ノ国伊良虞 ̄ノ島_一 ̄ニ之時人(トキトキノヒト)哀傷作歌(カナシミテヨメルウタ)
打麻乎(ウチソヲ)、麻讀王(ヲミノオホキミ)、白水郎有哉(アマナレヤ)、射等籠荷四間乃(イラコガシマノ)、玉藻苅麻須(タマモカリマス)、《割書:白松ホ|秋モ》【「白松ホ秋モ」朱字】
●同 麻讀王(ヲミノオホキミ)聞(コレヲ)_レ之(キヽテ)感傷(カナシミテ)和歌(コタヘタマフウミ)【「ミ」の右に朱字で「タ」と、左に「〇」】
空蝉之(ウツセミノ)、命乎惜美(イノチヲヲシミ)浪尓所湿(ナミニヌレ)、伊良虞能島乃(イラゴノシマノ)玉藻刈食(タマモカリヲス)【「久」を見せ消ち、右に朱字「ス」】、《割書:ホ|》【「ホ」朱字】
●左注ニ云右案_二 ̄スルニ日本紀_一 ̄ヲ曰、天皇《割書:天武天|皇ナリ》四年乙亥四月戊戌朔乙卯、三品
麻讀 ̄ノ王有_レ罪流_二于因幡_一 ̄ニ、一 ̄ノ子 ̄ヲ流_二伊豆島_一 ̄ニ、一 ̄ノ子 ̄ヲ流_二血鹿(チカノ)島_一 ̄ニ也、《割書:チカノシマハ|肥前ナリ、》
是 ̄ニ云_レ ̄フハ配_二 ̄ト于伊勢 ̄ノ国伊良虞 ̄ノ島_一 ̄ニ者、若 ̄シ疑 ̄クハ後人/縁(ヨリテ)_二歌辞_一 ̄ニ而誤 ̄リ記 ̄ス乎(カ)、とあり、
●按 ̄ニ日本紀《割書:廿九ノ|七丁》天武天皇四年四月甲戌朔辛卯 ̄ノ条 ̄ニ載 ̄テ三位麻讀王云
云とあり此 ̄ノ王ハコヽニ見エタルノミニテ、皇統紹運録及帝皇系図又大日本史等
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 十六
ニも載ざれは、何なる人にや考る所なし、
●賀茂翁の万葉考《割書:一ノ|十二丁》にも、左注の説をよしといひて、さていらごの崎を、
伊勢 ̄ノ国また志摩 ̄ノ国と思へるも誤也、後の物ながら古今著聞集に、伊与国
にもいらごてふ地有といへり、因幡にも同名あるべしと云れたり●《割書:万葉略解《割書:一ノ|廿三丁》ニモ【「ニモ」朱字】|此説によれり、》
●契冲の万葉代匠記《割書:一ノ下|》には、此注不審残れり、実に日本紀はこゝに引る如くなれ
共、玉もかりますとも故なくしてはよむべからず、若始 ̄メ は伊勢 ̄ノ国へ流し遣はされ
けるを、後に改て因幡へ移されけるを、日本紀には後をとりて記し給へるか、
大神宮の神衣奉るにつきて麻讀(ヲミ)氏/服部(ハトリ)氏 ̄ノ者、彼 ̄ノ国ニあり、麻讀 ̄ノ王といふ
名につきて因幡なれ共、いらご嶋といへるか、とあり、
●三川藻塩草にも、いらご嶋に配せらるといふは、歌辞によりて後人誤記すか、
又因幡に配せられて後、いらこの嶋に移さるゝか云々といへり、
●さて此歌、夫木廿三雑五ニも載て題不知、なみわ【「に」見せ消ち、右に朱字「わ」。夫木集は「に」】ひぢいらこか嶋のたまもかり
しくとあり、
●白云、此歌今世いらごにては、〽あさをうつ臣の大君あまなれや、いらこの
濱の玉もかりしく、と唱へて、烏丸殿の御詠といひ【「ふ」見せ消ち、右に朱字「ひ」】伝ふといへり、
●按ニ烏丸殿といふは、麻讀王を誤伝へたるなるべし、委くは官社私考【「官社私考」を朱の四角枠で囲】
下つ巻伊良久 ̄ノ社の下にいへり、
【「○」「●」「、」は朱
古歌考 下 十七
●千載 《割書:十六|雑上》 百首の歌の中に松をよめる 修理大夫顕季
玉藻かるいらごが崎の岩根松いくよまでにか年 の(をイ)へるらむ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
●此歌堀川百首下にも載て題松とあり、
●続後撰 《割書:十二|恋二》 題しらず 藤原道経
たまもかるいらごの海士も我ごとやかわく間な【「お」見せ消ち、右に朱字「な」】くて袖はぬるらむ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
●続後拾遺《割書:三|夏》 郭公早過といへることを 前中納言匡房
海士のかるいらこが崎のなのりそのなのりもはてぬほとゝぎすかな《割書:白松|モ》【「白松モ」朱字】
●此歌夫木廿六雑八ニも載て郭公 ̄ノ歌 ̄ノ中とあり、
●同 《割書:十五|雑上》 海辺松といふことを 入道二品親王覚性
風わたるいらごが崎のそなれ松しつえは波の花さきにけり《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
●此歌夫木廿六雑八ニも載て、三百六十番歌合、㐂多院入道二品のみことあり、
●堀川百首《割書:下|》 海路 中納言国信
浪のを【「を」の左に朱字「よホ」】るいらごが崎を いづる船(いるふねは)はや漕わた せ(れ)しまき/り(も 夫)ぞする《割書:白モ|松ホ》【「白モ松ホ」朱字】
●此歌夫木廿六雑八ニ載て、堀川 ̄ノ院 ̄ノ御時百首、〽波のをるいらごが崎を
いる船ははやこぎわたれしまきもぞする、とあり、
いらごへわたりけるに、井かひと申はまぐりにあこやの
むねと侍るなり、それをとりたるからをたかくつみ
おきたりけるを見て
●山家集 西行法師
あこやとる井かひのからをつみおきてたからの跡を見する也けり
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 十八
沖のかたより風のあしきとてかつをとまうす
魚つりける舟どものかへりけるを見て 同
●同
いらご崎にかつをつ り(る夫)船ならびうきてはか ち(け夫)の浪にうかびてぞよる《割書:白松|モ》【「白松モ」朱字】
●此歌夫木廿六雑八ニも載て、家集西行上人、二 ̄ノ句かつをつる舟四 ̄ノ句はかげの波にとあり、
ふたつありける鷹のいらご渡りすると申けるがひとつの
たかはとゞまりて木のすゑにかゝりて侍と申けるを聞て、
●同 同
巣鷹わたるいらごが崎をうたがひてなほ木にかへる山 かへり(からす夫)かな《割書:白松|モ》【「白松モ」朱字】
●此歌夫木廿七雑九ニも載て家集五 ̄ノ句山からすかなとあり、
●同 同
はし鷹のすゝろかさでもふるさせてすゑたる人のありがたのよや
●壬生集 《割書:上|》
しまひゞくいらごか/さき(しま 夫)のしほさゐにわたる千鳥 は(の)こゑ のほる(かすか 夫)【「のほる」の左に「ほのか松」】なり《割書:白|松》【「白松」朱字】
●此歌夫木廿三雑五には為忠卿の百首とありて二 ̄ノ句いらごかしま四五 ̄ノ句千鳥
のこゑかすかなりとあり ●松葉集には声ほのかなりとありて玉吟とあり
●同 《割書:イ呉竹集|》 同
ひきすえよ【「に」見せ消ち、右に朱字「よ」】いらこの鷹の山がへりまだ日はたかしこゝろそらなり《割書:白|モ》【「白モ」は朱字】
●夫木 《割書:八|夏二【■の上に朱で重ね書き「夏」に】》 後九条内大臣家百首 蛍 隆祐朝臣
島ひゞくいらごが崎の波間にもこたえぬ玉はほたるなりけり《割書:白|》【「白」は朱字】
●同《割書:廿三|雑五》 家集 《割書:伊勢|》 基俊
【右頁最初の行の上に書入れ】
《割書:類字名所外集ニ|波加知濱 志摩トシ|テ此歌ヲノセタリ》
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 十九
白なみのいらごか嶋(崎 松)のわすれ貝人わするとも我わすれめや《割書:白|松ホ》【「白松ホ」朱字】
●同 《割書:廿六|雑八》 家集 西行法師
浪もなしいらごが崎にこぎ出てわれからつげるわかめかれ海士《割書:白|松》【「白松」朱字】
●同 《割書:廿六|雑八》 雑歌中 よみ人不知
みさごゐるいらごが崎のはなれ松幾世の波のしほれきぬらむ《割書:白|松》【「白松」朱字】
●同 《割書:廿六|雑八》 参河国名所歌合、伊良古賀崎 為忠朝臣
なぐさめにひろへば袖ぞぬれまさるいらごが崎の恋わすれがひ《割書:松|外》【「松外」朱字】
●同 《割書:同|》 清輔朝臣
岩におふるいらごかさきの松よりもつれなき人はねがたがりけり《割書:松|外》【「松外」朱字】
●同 《割書:同|》 参西法師
我こひはいらごがさきの海人なれややく塩がまのけふりたえねは《割書:松|外》【「松外」朱字】
●同 《割書:廿七|雑九》 正治二年百首 正三位季経卿
あさりするいらごが崎のあまの子はうか【「け」見せ消ち、右に朱字「か」】ぶかもめを友と見るらむ《割書:白|松》【「白松」朱字】
●名寄 鴨長明
雲の波いらごか崎に分捨て長閑にわたる秋の夜の月《割書:松|》【「松」朱字】
●同 同
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 二十
鶉ふす嶺のゝ原を朝(けさイ)ゆけばいらこが嶋【「崎」見せ消ち、右に朱字「島」】にたづなきわたる《割書:松|》【「松」朱字】
●此二首歌枕名寄を校【挍?】るに見えず、●鶉ふすの歌は松葉集十三に載たり、
よみ人不知
○風さむみいらごが嶋【「崎」見せ消ち、右に朱字「嶋」】になく千鳥波のたちゐにこゑさわぐなり《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
●此歌白雪本に風雅集とあれど、今其集を校【挍?】るに見えず、
藤原家経
○玉藻かるいらごが嶋【「崎」見せ消ち、右に朱字「嶋」】の秋のつきなれぬる海士も袖はほさじを《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
○信太社
玉藻かるいらごが崎のなのりその名さへかひなし浪の下くさ《割書:白|》【「白」朱字】
《割書: |正徳五年八月廿一日》
○大神宮千首 恋 寄崎恋 後水尾院天皇御製
なびくやと人のなのり そ(・)かりて見むいらごが崎の海士ならぬ身も《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
○万代集 六条入道
朝ほらけ霧たちわたるしほさゐのいらごの嶋【「崎」見せ消ち、右に朱字「嶋」】に船よばふなり
【「○」「●」「・」は朱】
○高師山(タカシヤマ) ●松葉集《割書:五|》●類子【字】名所集《割書:二|》●歌枕秋の(・)寝覚●藻塩草《割書:四ノ|廿三丁》
●歌枕名寄《割書:十九|》●類字名所補翼抄《割書:三|》等遠江とせり
●三川藻塩草云、八名 ̄ノ郡 嵩(スセ)山村 ̄ノ地脉也、一説ニ立岩 ̄ノ東 ̄ノ山をいふ、
古記によりて考ふるに、八名郡嵩山村の地にありて、遠江三川の境山なり、
西表を三川国の名所とし、本表を遠江国の名所とす、両国ともに名所
の歌あり、口伝、国名風土記三川の部には作_二 ̄ル高石山_一 ̄ニ、他の国にも同名
所あり、或人云高師山は遠江の名所也、同名所国々【「と」見せ消ち、右に朱字「々」】に多き事をしらず、
国異にして名所同じきあり、此類いと多し先いはゆる高師山、同名所
四ケ国にあり、三川遠江摂津和泉也、いづれも名所和歌有て、和歌浦友
千鳥集に出、●刪補松の説同之 ●二葉松には高師山をのせず、
●日本鹿子《割書:六|》云高師山、二川 ̄ノ宿と白すか ̄ノ宿との間也、北は山南は海也、
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 廿三
●名所図会云白菅より続きて北山《割書:地|名》までの間をいふ、又或云高師山は今
天神祠より白須賀迄つゞきし山をいふ、海中の眺望旅中の奇観也
●按ニ高師山は、其もと当(コノ)国の山より出たる称(ナ)にて、今の渥美郡 高足(タカシ)
村の辺(ホトリ)の山より、火打坂、松明峠(タイマツタフゲ)、潮見坂(シホミザカ)、それより東北に続きたる、
遠江の山かけて総いへる大号(オホナ)なるべし、そはまづ当(コノ)国なる証(アカシ)【「証」の左に朱字「証」】は、源 ̄ノ順 ̄ノ朝臣の、
●倭名抄 当国渥美 ̄ノ郡の条(クダリ)も、高蘆《割書:多加|之》郷あり、また
●大神宮神鳳抄に、参河 ̄ノ国高足 ̄ノ御厨、また
●同宮建久年中行事《割書:二ノ|七十丁》に、三河 ̄ノ国高師 ̄ノ御厨とあり、《割書:此全文神戸考【「神戸考」を朱の四角枠で囲む】ニ引テ|委クイヘリ、》
今も高足(タカシ)といふ村ありて、其 ̄ノ辺(ホトリ)二三里にわたれる、平(ヒラ)山の大号(オホナ)を、すべて
高足山といひ、其 ̄ノ辺(アタリ)の村々、赤_沢伊‾古‾部 高_塚 七_根 寺_沢 小_島 細(ホソ)_谷(ヤ)
大_岩 二_川、それより遠江 ̄ノ国なる白_須賀 長(ナガ)_谷(ヤ)辺(アタリ)までを悉(ミナ)高足 ̄ノ庄と称(イ)ひ、
●菅原 ̄ノ孝標 ̄ノ朝臣 ̄ノ女の、更級 ̄ノ日記に、それよりかみは、ゐのはなといふ坂のえも
いはずわびしきをのぼりぬれば、三河の国高しの濱といふ、と見え、
●増基法師が、遠江 ̄ノ道 ̄ノ記に、たかし山にて、すゑつきつくるときゝて、
〽たゞ【『増基法師集』では「たつ」】ならぬたかしの山のすゑつくり物思ひをぞやくとすときく
とよめるは、今もたかし山の内、大津村と植田(ウヱタ)村との間(アヒ)に、字(アザナハ)ダイゼンと
いへる所、また大崎村の山なる、字はひろ嶋といふ所などより、素焼(スヤキ)の陶器
の破れたるを数多ほり出すを見れば、こゝにて造れるなるべし、
○藤原 ̄ノ雅経 ̄ノ卿 ̄ノ家集に、火うち坂といふ所にて、沓かくるとて、雑人の中に
かくいふものゝありしを、歌の末にきゝなして、もとをつく、
〽石のかど高師の山のこれならむ火【「大」見せ消ち、右に朱字「火」】うち坂にはくつをかくるぞ
【「○」「●」「、」「〽」は朱】
古歌考 下 廿三
とあり、これ火打坂の辺をもいへりし明証(アカシ)なり、
●源平盛衰記《割書:四十五|二十》、平 ̄ノ宗盛 ̄ノ大臣関東下向の条(クダリ)に、高師山ヲモ過ヌレバ
遠江 橋本(ハシモトノ)宿ニツキタマフ、とあり、こは其前(ソノサキノ)文に、二村山ヲモ過ヌレバ、三川国
八橋ヲワタリタマフとあるにて、三河 ̄ノ国内(クヌチ)をいへるなることをしるべし、
●また同書《割書:廿七ノ|四丁》矢橋川軍 ̄ノ条に、後陣は橋本 ̄ノ宿見附国府ニツク、程チカ
キ高志二村(タカシフタムラ)は軍兵野ニモ山ニモヒマアリトモ見エズ、とあり、こも橋本 ̄ノ宿云々
といひて、程近きとあれば、橋本のつゞきならぬ証(アカシ)なり、
●藤原 ̄ノ雅世 ̄ノ卿の永享四年 ̄ノ富士紀行に、高師山と申すもこの辺にてや
と見えて、
〽富士の根におよばぬ名のみたかし山高しと見るもふもとなるらし
十五日遠江 ̄ノ国塩見坂にて云々、とあり、こも此 ̄ノ前文に、参河 ̄ノ国八橋にて云々、
十四日こゝの御とまり《割書:矢矧ヲ|イフ》【「ツ」を朱で「フ」に】を立侍りしに云々、と有て、遠江国塩見坂云々と
いへるにて、当国内(コノクヌチ)なることしるし、
●藤原 ̄ノ雅康卿の、明応八年 ̄ノ関東海道記に、廿五日 佐久(サクノ)嶋といふ所に船
よせて云々、廿八日船を出し侍るに、右の方にあたりて、高師(タカシ)山なりといふを
見れば、山としもなき岡のはるかに見わたされて、
〽むかしよりその名ばかりや高し山いつくをふもと峰としもなし、
とあり、これまさしく今の高芦(タカシ)村の辺(アタリ)のひら山のことゝきこえたり、
こも此 ̄ノ次(ツキ)の詞に、六月一日今橋《割書:今イフ吉田|宿ノコトナリ》のさとを立侍るに云々と、ある
にて、いよ〳〵しるし、
これらみな三河 ̄ノ国内なるたしかなる証拠(ヨリドコロ)なり、
●また貞応二年の海道記、《割書:コハ俗ニ鴨 ̄ノ長明海道|記トイヘルモノナリ》に豊(トヨ)川を立て、野くれ里くれ
【「●」「、」「〽」は朱】
古歌考 下 廿四
はる〳〵と過れば、峰野の原といふ所あり、云々やがて高志(タカシ)山にかゝに【「り」カ】ぬ
石利を踏(フム)て大敵(タイテキ)山をうち過れば、焼野が原に草葉もえ出て梢の
色煙をあぐ、此 ̄ノ林地をはるかに行ば、山中に堺(サカヒ)川あり、こゝより遠江 ̄ノ国
にうつりぬ
〽くだるさへ高しといはゞいかゞせむのぼらぬ旅の東路の関
此 ̄ノ山のこしを南にくだりて、はるかに見おろせば青海浪々として
白雲沈々たり、といひ、
●源 ̄ノ光行の仁治三年の道之記に《割書:コハ俗(ヨ)ニイフ長明|道之記ナリ、》参河遠江のさかひに
たかしの山と聞ゆるあり、山中に越かゝるほどニ【「ニ」の右に書入れ「に フサウ拾葉本」】、谷川のながれ落て岩瀬
の波こと〳〵しく聞ゆ、堺川とぞいふ、
〽岩づたひ駒うちわたす谷川のおとも高しの山二来にけり、
《割書:●按ニ此歌夫木廿 ̄ノ【「ノ」朱字】雑 ̄ノ二ニモ|ノセテ源光行トアリ、》とあるは、両国(フタグニ)の堺にかゝれる山ときこえ、
●宗祇法師が名所方角抄に高師(タカシ)山北は山、南は海也、中間原也、過れば
しほみ坂也、富士見ゆる也、此坂下の渚(ナギサ)に世俗にしらすかとて宿あり、
白菅のみなとなり、 とあるは、塩見坂のこなたの山をいへる証(アカシ)也、
また今の汐見坂の辺をもいへりしと思ふよしは、
○雅経 ̄ノ卿 ̄ノ家集《割書:下|》に高師山をうちおりて白すか濱にて
〽おきつ風おとも高しの山こえて打よする波のしらすかの濱、
といひ不二 ̄ノ山の見ゆるよしは、《割書:コハ汐見塚【「塚」の右に朱字「板歟」】ノコナタニテ今モヨク|彼山ノ見ワタサルヽユヱニイフ、》
●夫木集《割書:廿ノ|雑二》 《割書:みやこにかへりのぼらせ給うけるに【「の」見せ消ち、右に「に」】|たかし山にて》 中務卿宗尊親王
〽ふじの根はこゝをかぎりの名ごりとて、たかしの山にかへり見る哉、《割書:ホ|》【「ホ」朱字】
【「○」「●」「、」「〽」は朱】
古歌考 下 廿五
●同集 《割書:同|》 建長五年毎日一首中
あづまへくだりける道にて 民部卿為家
〽たかし山はるかに見ゆるふじの根を行なるヽ人に尋ねてぞしる、
とある歌どもにてしるし、
海辺(ウミベ)にちかきよしは、
●続古今 《割書:十|》 覊旅百首 ̄ノ歌 ̄ノ中に 中納言為氏
〽猶しばし見てこそゆかめ高師山ふもとにめくる浦の松ばら
●新後拾遺《割書:十六|》 雑 ̄ノ上 津守国冬
〽浦路よりうちこえくれば高師山みねまでおなじ松風ぞふく
●風雅 《割書:十六|》 雑 ̄ノ中 祝部成茂
〽しら波の高師の山のふもとより真砂ぞ吹まき浦風ぞふく
●新拾遺 《割書:十八|雑中》 題をさくりて名所の歌よみ侍りけるに高師山
寂恵法師
〽秋風によわたる月の高師山ふもとの波の音ぞふけぬる
●夫木 《割書:十二|秋ノ三》 為相卿
〽たかし山夕なみむかふ/しほ(松ホ)【「松ホ」朱字】風にかはりてくだるさを鹿のこゑ《割書:小》【「ホ」ヵ。「小」朱字】
●此歌藤谷殿集には、高瀬山と誤れる由
今案名積考 にいへり、
●同 《割書:二十|雑二》 百首歌 西行法師
〽朝風にみなとを出る友船はたかしの山のもみちなりけり
【「●」「、」「〽」は朱】
古歌考 下 廿六
●同 《割書:同巻|同部》 慈鎮和尚
風ふけばたかしの山にしら波のひとあたりしてたれかこゆらむ
●同 《割書:同巻|同部》 雅有卿
高師山松なきかたのまつ風やふもとの里の磯なみの声《割書:ホ|》【「ホ」朱字】
●同 《割書:同巻|》 貞応三年 百首 為家卿
たかし山夕こえはてゝやすらへばふもとの浜にもしほ焼見ゆ
●同 《割書:廿三|雑ノ五》 家集永仁六年覊中眺望 法眼慶融
たかし山こえ来て見ればはま松のひとすぢ遠きうらの入海《割書:ホ|》【「ホ」朱字】
《割書:●同集此歌のならびに〽たかせ山朝こえくれば浜松の入海かけて波ぞいさよふ、| 前中納言為兼とある、たかせ山はたかし山の誤なるべしと、今案名蹟考| にいへり、●契冲ノ補翼抄ニは高瀬山高師山同とあり【「●契冲ノ~同とあり」朱字】》
とある歌ども、みな海辺なる証(アカシ)なり、《割書:此ノ海は今の元白菅(モトシラスカ)などの海辺(ウミベ)をいへ|るなるべし、また昔は高足村と植田村》
《割書:との間(アヒ)は、東へ入る事凡一里あまりの入海にて、もしほなども|焼しと云伝ふれば、其ノ辺をいへるにもあるべし、尚よく考て定むべし、》
また湖(ミヅウミ)にもほど近きよしは、
●阿仏尼の十六夜 ̄ノ日記に、たかし山をこえ、水うみ見やるほどいとお
もしろし、浦風あれて松のひゞきすごく、波いとたかし、
わがためや波も高しの浜ならむ袖の湊の風はやすまて
●続古今 《割書:十|旅》 《割書:あづまにまかりける時はまなの橋の|やどりにて月くまなかりけるを見て、》平政村朝臣
たかし山夕こえ暮てふもとなるはまなの橋を月に見る哉
【「●」「、」「〽」は朱】
古歌考 下 廿八
●夫木 《割書:廿一|雑ノ三》 家集 権中納言長方
沖つ風高師の浦の夕がすみいづら浜名のはしも見ゆらむ
●同 《割書:廿三|雑ノ五》 冬 ̄ノ歌 ̄ノ中 土御門院小宰相
浜名川入しほ寒き山おろしにたかしの奥もあれまさる也《割書:ホ|》【「ホ」朱字】
○名寄 五条内府
たかし山松に夕ゐるかさゝぎの橋もとかけて月わたる見ゆ《割書:ホ|》【「ホ」朱字】
●此歌松葉集 に名寄、後九条内大臣、類聚に基家【「類聚に基家」の右に朱字「ホ同」】とあり、
といへりされど歌枕名寄には見えず考べし、
とあるにてしられたり、
たしかに遠江 ̄ノ国とよめるは、
●夫木 《割書:二十|雑ノ二》 たかし山 《割書:高士|遠江》 よみ人しらず
●六帖 《割書:二|》
逢ふことはとほた海【「はとほおた海」の左に「を遠江●六帖二」】なるたかし山高しやむねにもゆるおもひは《割書:ホ|》【「ホ」朱字】
とあるのみ也、かゝれは上 ̄ノ件に引出たる、古へ書古歌どもを考へわたして、
其もとは当(コノ)国の山より出たる号(ナ)にて、後には遠江の山迄をもかけて、
しかいへるにて、両(フタ)国の山にわたりたる大称(オホナ)なることをしるべくなむ、
そは岐蘇(キソ)山は今はもはら信濃なる山をしかいへれど続日本紀二の巻大宝二
年十二月の条に、始 ̄テ開_二 ̄ク美濃 ̄ノ国 ̄ノ岐蘇道_一 ̄ヲとあるがもとにて両(フタ)国の山にわ
たれる大号(オホナ)なる事をも按(オモ)ふべし、はた旧(モト)は三河 ̄ノ国より出たる号(ナ)な
りといへるは、和名抄をはじめ古へ書どもに三河にいへる例(タメシ)はあまた
なるを、遠江にいへるは、いと〳〵まれなるをもてわきまふべし、
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 廿九
●此高師山考の一条は、いにし天保の四とせといふ霜月のころ、おのが考の
したかまへの事、人づてにきゝたる由にて、ある遠江人のもとよりかの、山は遠津
淡海の国内なる事はいとしるきを、その国内なりとのたまふは、いと〳〵
いぶかしいかでその御考ぶみ見まほしといひおこせければ、いまだ片なりの
愚考にはあれど、其/草稿(シタガキ)を取出て再考をものして、彼方(カナタ)へおくれる也、かれ余(ホカ)の
条々(クダリ〳〵)と体裁(サマ)ことにていかゞなれど、書改めんもいとまいるわさなれば、其まゝ
こゝには挙(アゲ)つるになん、
なほたかし山をよめる古歌どもは
●新勅撰 《割書:五|秋ノ下》 鎌倉右大臣
雲のゐる梢はるかに霧こめて高師の山に鹿ぞなくなる《割書:名|》【「名」朱字】
●新千載 《割書:八|旅》 東へまかりける時高師山にてよめる 法眼行濟
越かぬる高師の山は明やらで霧のうへなる峰のよこ雲
●新続古今《割書:十|旅》 貞和二年百首歌奉りけるに 前中納言雅孝
暮やらで日影は猶も高師山思ふとまりや過てゆかまし
●夫木 《割書:四|春四》 家集泊舟尋花 西行上人
こき出てたかしのおきに見わたせばまた一むらもさかぬ白くも
【「●」「、」は朱】
古歌考 下 三十
●同 《割書:同|同》 藤原為実朝臣
うつりゆく桜にそらはあひそめて花もたかしの嶺のしら雲
●同 《割書:同|同》 建長八年百首歌合 後九条内大臣
岩づたふ花のあだ波いくかえりこえてたかしのはるの山かぜ
●同 《割書:同|同》 名所歌中 参議為相卿
高師山花だにやどををしまずはただ越のこせけふのゆくすゑ
●同 《割書:九|夏三》 永久四年百首蝉 仲実朝臣
東路を今朝立くれば蝉の声たかしの山に今ぞなくなる《割書:名|ホ》【「名ホ」朱字】
●ホ 堀後百首トアリ【この一行朱字】
●同 《割書:同|同》 久安百首 左京大夫顕輔卿
はる〴〵とたかしの山になく蝉の声は雲井のものにぞ有ける《割書:松|ホ》【「松ホ」朱字】
●同 《割書:十二|秋三》 家集鹿歌中 増基法師
たかし山松のこずゑにふく風の身にしむ時ぞ鹿も鳴なる《割書:ホ|》【「ホ」朱字】
●此歌遠江道記に載たり、又新拾遺秋下にも載て、
上ノ句高砂やとあり、
●同 《割書:同|同》 名所歌 高瀬山秋 為相卿
たかし山ゆふなみむかふしほ風にかはりてくだるさを鹿の声
●同 《割書:同|同》 藤原為顕
【「●」「、」は朱】
古歌考 下 三十一
さと遠みきく人なしにさを鹿のこゑはたかしの山の秋風
●此両首藤谷殿集にはたかし山をたかせ山とせれど誤なるよし、
今案名蹟考《割書:二ノ|十一丁》に委くいへり また
●玉葉 旅 大江頼重
わけゆけどまだ峯遠し高瀬山くもはふもとの跡にのこりて
●風雅 旅 前大納言為兼
たかせ山松の下みちわけゆけは夕風ふきてあふ人もなし
此/両首(フタウタ)も、たかし山の誤なるべしと同考にいへり、
●同 《割書:十五|秋六》 前大納言為氏卿
たかし山もみち【ちに半濁点】をうらに吹風はいまひとしほの色そめよとや《割書:松|》【「松」朱字】
●同 《割書:廿三|雑五》 高瀬山歌 藤原為守
吹おろすふもとの草に露おちてこゑもたかしの峰のまつ風《割書:ホ|》【「ホ」朱字】
○拾玉集 《割書:五|》
はるの月をおなし空にやながむらむ高しの山の雲井はるかに《割書:松|》【「松」朱字】
○名寄
分のぼる行手の峯の高師山手をらで見つる岩つゝじかな
○同 寂阿
みかは船いつかよひける宿なれや高師の浦につゞく白波《割書:松|秋》【「松秋」朱字】
【右頁貼紙】
《割書:●夫木 為相| よそに見てやすく【「う」見せ消ち、右に朱字「く」】は過じ高瀬山紅葉のかたの道はなくとも|●同十二 為実| たかせ山すそ【「ミ」見せ消ち、右に朱字「そ」】のゝましばかたよりに鹿の音こゆる峯の秋風《割書:ホ|》【「ホ」朱字】|●同十二 仲正| 雲かゝる高師の山の明くれにつままとはせるをしかなく也《割書:ホ|》【「ホ」朱字】|●同廿一 関霧 知家【「知家」朱字】| 関といふ名こそ高しの浦人の霧を分てもゆきかよひつゝ《割書:ホ|》【「ホ」朱字】|●夫木《割書:六|春六》 名所歌中 参議為相卿| 分のほる行てのきしの高せ山たをらで見つる岩つゝじかな|●同 同 為実| たかせ山道の行ての花つゝじおりゐてこふる古郷の春》
【「●」「○」は朱】
古歌考 下 三十二
【170コマと同じ】
●国名風土記《割書:上ノ|十二丁》三河 ̄ノ条云/矢作(ヤハギ)河ハ日本武 ̄ノ尊東ニ下向シ給ヒシ時
夷(エビスノ)兵ドモ高石(タカシ)山ニテ待カケ奉リシ由ヲ聞(キコシ)召シ、彼所ニテ多ク矢ヲ
作り玉ヒシ云々、
●平家物語《割書:十二ノ廿一丁|六代 条、》文覚上人が語ニ聖(ヒジリ)鎌倉殿ヲ世ニアラセ奉ントテ、
院宣伺ヒニ京ニ上ルガ云々、高市(タカシ)山ニテ引剥(ヒキハキ)ニ逢ヒ、辛(カラ)キ命計リ生ツヽ、福
原ノ篭ノ御所ニ参テ、院宣申出テ奉ツレ云々、
●源平盛衰記《割書:四十七ノ廿三ノヒラ|文覚関東下向ノ条》云、富士川大井河ニテ水ニ溺レ、宇津 ̄ノ山高
師山ニテ疲ヲノゾミ侍リシコト、一度ニアラズ云々、
●太平記《割書:三ノ|十一丁》云、前陣已ニ美濃尾張両国ニツケバ、後陣ハナホイ
マダ高志二村ノ峠ニサヽヘタリ云々、
○続草庵集《割書:雑|》 雲中旅 頓阿法師
末になをこゆへ【倍】き嶺のたかし山わけつる雲もふもとなりけり
【「●」「○」「、」は朱】
古歌考 下 三十三
○小松原(コマツハラ) ●渥美 ̄ノ郡にあり
●秋の寝覚云、小松が原夫木ニ歌あり、近江ニあり●按ニ契冲の
補翼抄ニモ 正安 〽緑なる同しふた葉を引そへ【「つ」見せ消ち、右に「へ」】て小松か原に若葉をそつむ、
近江、と、挙たれど、こゝにのせたる二首は、三河国名所歌合とあれは、慥に当国
のをよめるなり、敬雄按にみとりなるの歌は夫木廿二に此二首の次【■を見せ消ち、右に「次」】にのせたり 詞書ニ
正安大嘗所々名を大蔵卿隆教とあれば近江のをよめるなるべし
●夫木 《割書:廿二|雑四》 為忠朝臣参河国名所歌合、小松原《割書:近江又|備中》 清輔朝臣
行末のはるかに見ゆる小松原君が千とせのためしなりけり《割書:外》【「外」朱字】
●同 《割書:同》 藤原道経
神代より生ひやそめけん小まつ原いく千世経ぬとしる人ぞなき《割書:外》【「外」朱字】
○池鯉鮒(チリフ) ●三川モシホ草云、碧海郡なり、和名抄には知立とあり、
●世諺弁略《割書:二ノ|廿三丁》云、知立社の御手洗に、鯉鮒多く有ゆゑ、中
古池鯉鮒と書改む
●黄葉集 《割書:五》 ちり/ふ(う)といふ所にとまりて 烏丸光廣卿
ことの葉のかけ/て(と 名所ツエ)たのまむ/ちりう(。。。)せぬ松がねまくらひと夜なれども《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
按ちりうのうはふ也かな違へり
●春曙 池鯉鮒にてみさかなに鯉の見えければ
同
この里の名におひたりとみさかなに料理をしたる池の鯉鮒
○紀行 同 《割書:よみ人しらす イ》【「よみ人しらすイ」朱字】
此/里(池イ)の鯉さへ鮒さへすめる世にあふやうれしき水のこゝろに《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
【右頁上の貼紙】
《割書:安全云| 補翼抄ニ》
小松原 近江
《割書:正安|緑なる同しふた葉を引そへて小松カ原に若菜をそつむ|トアリサレド小松原トアル下近江トアリ又因ニ云|名所外集ニ| 長等岡 未勘| 承徳二年正月庚申ノ夜当座探題名所歌合》
《割書:夫木廿一 藤原実樹| 子日する長等の国の小松原きみ万代は引とつきせし| トアリ按ニ此承徳二年云云トアルハ為忠朝臣家参河ノ国| 名所歌合トアルト同シ時ノコトニテハアラザルカソハ為忠朝| 臣ノ卒セラレシ保延二年ト此承徳二年トサルコト三十| 九年バカリニシテサノミ遠カラザレバナリ サレドコハタヾコヽロミ| ニイフノミナリ尚ヨク考ヘタマヘ》
【「●」「○」「、」「〽」は朱】
古歌考 下 三十四
【173コマと同じ】
●同 池鯉鮒のさとにて 同
秋過て春にはなれとこの里に米/いち(一)里ふ(粒)ももたぬ民かな
○岡崎(ヲカザキ) 額田郡にあり ●世諺弁略《割書:二ノ|廿三丁》云、当宿北東の方は山也、
南西ニ矢作菅生の両川あり、此宿岡の出崎故に、之と号す、
○紀行 城主よりいとねむごろに聞えければ文の返事に 小堀宗甫
けさはなほ【「なほ」の左に「まづイ」】いそぎ出ぬる【「ぬる」の左に「けりイ」】草まくら我をかざきに人のまつとよ【「とよ」の左に「やとイ」】《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
○紀行 沢庵
鉢ぶくろ手をさしいれてさがせども何をかさきの茶の銭もなし《割書:モ》【「モ」朱字】
【「○」「●」は朱】
古歌考 下 三十五
○藤川(フヂカハ) ●三川モシホ草云、額田郡なり、昔はうち川ともいひしとなん、
●世諺弁略《割書:二ノ|廿三丁》云、もと宇治川といふ、駅の北うらに川あり、又南 ̄ノ
方ニ大平川の流(ナガレ)等ニ、藤の花多く有て、旅人の壮観とす故ニ【「、」を朱で加筆し「ニ」に】之と改む今は
藤絶たり、
●富士紀行 うち河【「うち河」の右に「宇治八十八本」】のさとゝ申所にて 尭孝法師
誰かすむみやこのたつみしかはあらでこや東路のうち川のさと《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
此歌名所図会ニ古詠ありよみ人不知として出せるはいかゞ
●方与 好忠
ふち河のふち瀬もしらずさでさして衣の袖をぬらしつるかな
●紀行 浄友【「浄」の右上に朱字「山形」】
かはれどもむかしの宿のゆかりぞとむらさきにほふ花の藤川
○山中(ヤマナカ) ●三川モシホ草云、額田郡也、藤川宿と赤坂宿との間なり、
●吾妻鏡《割書:十ノ|六十四丁》建久元年源頼朝 ̄ノ卿上洛 ̄ノ条ニ、十二月十九日入_レ ̄テ
《割書: |レ》夜ニ令_レ《割書:シメ玉フ》宿_二 ̄サ宮路山中(ミヤヂヤマナカ)_一 ̄ニ とあるは、今の山中の元宿(モトジユク)也といへり、
●富士紀行 山中の宿にて御ひるまの程にぎはゝしきも限りなし尭孝法師
旅ごろもたづきなしともおも/ほえ(はれ八十八本)ず民もにぎはふ山中のき【「さ」ヵ】と《割書:モ》【「モ」朱字】
●富士紀行 山中と申所あり折ふし鹿の声ほのかに聞えければ藤原雅世卿
おぼつかなこの山中になく鹿のたづきもしらぬこゑの聞ゆる《割書:モ》【「モ」朱字】
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 三十六
○出生寺(イデヽウマルテラ) ●名所方角抄《割書:印本|五十九丁》云、然菅渡《割書:付》あれの崎出生寺細
■【■の右に「此字キエテ不分」】不用之 ●藻塩草《割書:六ノ|十八丁》三河
●松葉集《割書:参河|藻塩》歌枕名寄《割書:十九》●秋の寝覚 等当国とせり
●三川モシホ草云、方角抄の説を考るに、宝飯郡海辺近き処と見えたり
一説ニ御津郷と云り、然るに近年山中法蔵寺境内に、《割書:享保|年中》六角堂を
建て其旧跡也といふ不審
●白云山中法蔵寺也、出生寺は旧(モト)法相宗也、後小松院/至(明イ)徳二年京円福
寺龍藝上人より、浄土宗となり法蔵寺と改む、と寺記ニ見エタリ、
●名寄《割書:出書ナシ》 ●藻塩草《割書:六ノ|十八丁》出所ナシ
たのむぞよ我【「ぞよ我」の右に「かけなほ モシホクサ名」。「ぞよ」の左に「かな 秋松」】まよはず/ば(な 松モシホ名)有為の世/を(にモシホ)出て生る寺とこそきけ《割書:白秋外|松|名モ》【「白秋外松名モ」朱字】
●此歌名所図会ニハ紀行宗尊親王、とありてたゞ頼めなほまよはんはとあり、
○紀行 小堀宗甫
三河なる二むら山をはこにして中へいれたる法蔵寺かな《割書:モ|白》【「モ白」朱字】
●刪補松云此狂歌より誤て法蔵寺を二村山といふ
●あづまの道記 烏丸光廣卿
貧僧の住よき寺かほふざうしはつちの里をたよりにはして
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 三十七
○關口(セキクチ) ●三川モシホ草云宝飯郡長沢村関屋といふ所也、
●富士紀行 山中の宿にて御ひるまの程にぎはゝしきも
かぎりなし云々、此つゞきに関口と申所あり、 尭孝法師
道びろくをさまれる世の関口はさすとしもな/く(し水戸本)もるとしもな/く(し水戸本)《割書:モ》【「モ」朱字】
○長澤(ナガサハ) ●宝飫郡赤坂宿の西なり
○紀行 小堀宗甫
雲はれて日はあかさかの里とへば旅のゆくへの道の長さは
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 三十八
○赤坂(アカサカ) ●三川モシホ草云、宝飫郡なり、上古赤坂といふ旧跡、宮 ̄ノ路 ̄ノ山 ̄ノ
中にあり、東鑑《割書:十ノ|六十四丁》に見えたり、●世諺弁略《割書:二ノ|廿三丁》云、天武天皇、
の皇子、草壁親王、行在所、宮路山といふ其山坂によつて明坂と
号す元ト藤川の東ニ在、故所を今、本宿といふ云々、
●夫木 《割書:廿一|雑三》 《割書:みかはにくだりける時おなじ国の|名所歌合にあかさか》為忠朝臣
赤坂をすみのぼる夜の月かげに光りをそふる玉ざゝのつゆ《割書:松|白》【「松白」朱字】
●同 《割書:同|同》 盛忠
秋来てぞ見るべかりけるあか坂の紅葉の色も月のひかりも《割書:松|白》【「松白」朱字】
●夫木《割書:六|春ノ六》 海道宿次百首あかさか 参議為相卿
外山【「外山」の左に「にほふ イ 夫木ナシ」】なる花はさながらあか坂の名をあらはして咲つゝじかな《割書:松|白|モ》【「松白モ」朱字】
○家集 俊賴
古もなみだとともにちらしてきあか坂にしも名をながしけむ《割書:松》【「松」朱字】
●松葉集十一ニ赤坂美濃と標て、右の歌四首を載たり、されど赤坂をすみ
のぼる云々の歌の詞書に、みかはに下りける時云々とあれば、当国なる事しるし、
●秋の寝覚にも、古も泪とともにの歌を出して、美濃とあり、
○紀行 平斉時
ひと夜逢ふゆきゝのひとのうかれつまいくたびかはる契りなるらむ
○紀行 小堀宗甫
雲はれて日はあか坂の里といへば旅のゆくへの道の長さは《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
○ よみ人不知《割書:二葉松ニ沢菴トアリ》【上記割書は朱字】
白妙の雪も埋【「埋」と「ぬ」の間の右に書入れ「まイ」】ぬ赤さかや名にさく花のつゝじならまし《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 三十九
○ 沢庵
ことの葉にむかしおぼえてをりにあふ名もあか坂につゝじさく頃《割書:モ》【「モ」朱字】
○御道中記 寛永年中上洛之時 源家光公
草まくら露けき宿をたち出て夜はほの〴〵とあか坂のそら《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
○紀行 赤坂のうまやにて 近衛関白基凞公
赤坂ときゝつるさとは紅葉して夕日かゞやく名にや有けむ《割書:モ》【「モ」朱字】
●貞應海道記
九日矢/橋(矯カ)を立て、赤坂の宿を過ぐ、昔此宿の遊君、花の顔ばせ
春こまやかにして、蘭質秋かうばしき女ありけり、㒵を潘安仁
が弟妹にかりて、契りを三州吏の妻妾にむすべり、妾は良人に
先て世を早うし、良人は妾におくれて家を出、しらず利生のぼさつの
化現して、夫を導 ̄ビけるか、又しらす円通大師の発心して妾を救へ
るか、互の善知識大なる因縁なり、彼 ̄ノ旧室妬が呪詛に■【扞?】舞悪
怨かへりて善教の礼をなし、異域朝嘲の軽仙に、鼻酸持鉢忽に
智行の徳に巨唐に名をあげて、本朝に誉 ̄レを留る、上人誠に
貴し、誰かいはむ初発心の道に入 ̄ル聖(ヒジリ)なりとは、是則本来仏の
世に出て人を化するにあらずや行〳〵昔を談してなほ〳〵
今にあはれむ、
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 四十
いかにしてうつゝが道をちぎらまし夢おどろかす君なかりせば《割書:モ|白》【「モ白」朱字】
●仁治道之記
矢はぎといふ所を立て、みやぢ山を越過る程に、赤坂といふ宿
あり、ここに有ける女ゆゑに、大江の定元が家を出けるもあはれ
なり、人の発心する道、其縁一【「へ」を見せ消ち、右に朱字「一」】にあらねども、あかぬわかれををし
みし、まよひの心をしもかへし、実の道におもむきけむもありかたくおぼゆ、
わかれ/じ(ち 扶桑拾葉本)にしげりもはてゝくずの葉のいかでかあらぬかたにかへりし《割書:モ|白》【「モ白」朱字】
●源平盛衰記《割書:四十五ノ|二ノヒラ》、宗盛 ̄ノ大臣関東下向 ̄ノ条ニ云、宮路山ヲモ越ヌレバ赤坂ノ
宿ト聞エタリ、三_川入道、大江定基ガ、コノ宿ノ遊君力壽トイフニオクレテ、真 ̄ノ
道ニ入ルコトモアラマホシクヤ思召ケン云々、同書《割書:七ノ|廿三丁》ニモ大江 ̄ノ定基三河 ̄ノ守ニ
任シテ赤坂ノ遊君力壽ニ別レテ道心出家シテ云々ト見エタリ、
●宇治拾遺物語《割書:四ノ|十一丁》、三河入道遁世々ニ聞ル事、といふ条に云、参河入道い
まだ、俗にてありけるをり、もとのつまをば、さりつゝわかくかたちよき女に
思つきて、それを妻にて三河へゐてくだりけるほどに、その女久しくわづ
らひてよかりけるかたちもおとろへてうせにけるを、かなしさのあまりに
とかくもせで、よるもひるもかたらひ、くちをすひたりけるに、あさまし
き香の口より出来りけるにぞ、うとむ心いできて、なく〳〵はふり
てける、それより世うき物にこそありけれと思ひなりけるに《割書:中|略》やがて
その日国府をいでゝ京にのほりて、法師になりにけり、《割書:下略》
此事旧本今昔物語第十九ニ載テ、今昔円融院天皇 ̄ノ御代ニ、参河守
大江定基ト云人アリレ【「ケ」ヵ】リ、云々トノセタリ、文ハ異シテ、事実ハ同シ可考合、
【「●」「、」は朱】
古歌考 下 四十一
○続世 ̄ノ継物語《割書:九ノ| 丁》【「五」見せ消ち、右に朱字「九」】、まことの道の段ニ云、其三河の/ひしり(定基)も、はかせにおはして、
大江のうちかんだちめの子におはしけるが、三河のかみになりて、国へ下りたまひけるに、た
ぐひなくおほえける女をぐしておはしけるほどに、女身まかりければ
かなしびのあまり、取すつることもせ、で、なりさがるさまを見て、心をおこし
て、やかて頭おろして都にのぼり、物などこひあるきけるに、もとの女
にて有ける女、われを捨たるむくひにてかゝれとこそ思ひしに、かくみなし
たる事など申ければ、さとくぞ仏になりなんとて、手をすりて悦び
けるとつたへかたりつる
●扶桑略記《割書:廿七ノ|廿七丁》云、一條 ̄ノ天皇長保五年秋 ̄ノ時参河 ̄ノ守大江 ̄ノ貞基、出家
●入道法号寂照云々、
●元亨釈書《割書:十六ノ|十三丁》云、釈寂昭ハ諫議大夫江斉光 ̄ノ之子也 ̄リ、俗名定基仕_レ ̄テ官 ̄ニ至_二
至参州 ̄ノ剌吏_一 ̄ニ会_レ ̄ヒテ失 ̄フニ配 ̄ヲ以_二愛厚_一 ̄ヲ緩_レ喪(ソ)、因観_二 九相_一、深生_二厭離_一、乃割_二冠
纓_一投_二睿【𥈠】山 ̄ノ源信之室_一云々、
●豊川三明寺縁起ニ大江定基 ̄ノ愛妾力壽ハ二村郷赤坂長弥太次良ガ
子也ト云リ、《割書:三河名所|記ニ引リ、》又彼弁天ハ力壽ガ像トモイヘリ、
●又財賀村、力壽山舌根寺 ̄ノ文殊ハ力壽 ̄ノ骨ニテ作レリト云リ
●又赤坂駅、三頭山長福寺《割書:又妙壽|院トモ云》ニ、力壽 ̄ノ化石墓アリ、俗ニ女良石トイヘリ、
女良石ノコト斎諧俗談《割書:四ノ|十三丁》ニモ挙タリ、委クハ旧寺旧墓考【「旧寺旧墓考」を朱の四角枠で囲】ニ云ベシ、
●按ニ力壽ハ、貞應海道記、源平盛衰記等ニヨレバ、赤坂ノ人ト見エタリサレド、
宇治拾遺、続世継ニヨレバ、京ヨリ具シテ下レル女也可考、
【右頁朱字貼紙】
《割書: 宣光按|○大日本史《割書:二百十七|文学ノ部》定基ノ伝曰定基斉光子也夙ニ継_二家業_一 ̄ヲ善_二 ̄ス詩文_一《割書:続往|生伝》天元中以_二 ̄テ父祖功労_一 ̄ヲ| 擢 ̄テ、補_二 ̄セ蔵人_一 ̄ニ《割書:小右|記》尋任_二 ̄ス参河守_一 ̄ニ《割書:小右記 続往|生伝 系図》初得赤坂倡力壽寵_レ ̄ス之遂為妻而遂_二其婦_一 ̄ヲ| 力壽病死ス《割書:力壽ハ拠|盛衰記》 定基抱屍号哭不歛葬者数日既而稍厭_二 ̄ヒ悪之_一乃座焉因テ悟トシ人間之無| 足為会有女子売鏡定基匣開見之有和歌曰/計布麻氐登美留珥奈美駄能(ケフマテトミルニナミタノ)| 麻須加我美奈礼珥志加計乎比登珥加太留奈(マスカヽミナレニシカケヲヒトニカタルナ)定基心深愍之給物振其| 窮益有遁世之志《割書:十訓抄箸【著ヵ】聞集今昔|物語抄【新ヵ】一代要記》 永/延(エン)二年遂ニ下髪為僧《割書:百練抄一代|要記》 投如意| 輪寺_一 ̄ニ師_二 ̄トシ事僧寂心_一 ̄ニ改_二 ̄ム名寂昭_一 ̄ト《割書:中略》長保四年遂如_レ ̄ク宋 ̄ニ《割書:中略》長元七年ニ卒_二 ̄ス| 于宋_一 ̄ニ《割書:帝王編年記為_二八年ニ卒ス|年七十七_一 ̄ニ今従_二続往生伝_一》云々下略》
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 四十二
【182コマと同じ】
○御油 ●宝飯郡ニあり、今八幡村ノ内、字ハ上宿といへる所古の宿也といへり、
●三川雀云、三河ニ上中下三ケ所の五井あり、中の五井より禁中
へ御調(ミツギ)の油を献るなり、二百五十年已前御油と改め星野 ̄ノ池の水
禁中御鬢水ニ、御油の油と一所ニ献りたりと申し伝ふ、●世諺弁略《割書:二ノ|廿四丁》云、
もと五井と書、同名の村三ケ所あり、此所中五井なり、草壁親王の行坊所へ、当
所の油屋、灯明の油を御用立し故、後代駅号とす、
○紀行 沢庵
ことの葉にむかしおぼえてをりに/お(あ歟)ふ名もあか坂のつゞしさくころ《割書:モ》【「モ」朱字】
●按ニ此歌御油には縁(ヨシ)なけれど、先達の挙たるまゝこゝに記しつ、
○今八幡(イマヤハタ)
●富士紀行 今八幡と申鳥居の/ほとり(程 八十八本)にて 尭孝法師
君まもるちぎりしあれば今やはたいま迄こゝにあとやたれけむ
いづくのほどにて侍しやらん社壇あり人に問侍れば八幡宮と
申鳥井の前にて今度の御旅のめでた/き(さ 八十八本)御神慮も殊に
●富士紀行 掲焉【けちえん】におぼえ侍て 藤原雅世卿
いはし水君が旅行すゑもなほまもらんとてや跡をたれけん
【「○」「●」「、」は朱】
古歌考 下 四十三
○今橋(イマバシ) ●渥美郡吉田駅の旧名なり、天文の頃今川義元、今橋の
名/忌(イマ)はしと相通ふをいみて、吉田と改めしといへり、
●牛久保密談記には、吉田と号(ナヅケ)らるゝいはれは、此城築始し時、吉祥山
の奇瑞あればとて、吉字と牧野は本名田内なれば、其田字と合てかく
名づけし也といへり、
●宮島伝記には、永正年中牧野三成、天文儒者布施兵庫太夫泰
長といふものに、吉凶を考しむるに、易 ̄ノ爻辞に田(カリニ)穫_二 ̄タリ三狐_一得_二 ̄タリ黄矢_一 ̄ヲ貞 ̄シテ
吉 ̄ナリといへる上下の字を用て改むといへり、●世諺弁略《割書:二ノ|廿四丁》云、元 ̄ト豊川の流、
関屋口ニ始て土橋を架したる故、今橋と号す、其後街道かはり、今の所ニ板
橋を架す是より 佳名をとりて――と号す、
●富士紀行 今橋の御とまりにてあかず明ゆく月を見て尭孝法師
夜とともに月すみわたる今ばしや明すぐるまで立ぞやすらふ《割書:モ》【「モ」朱字】
●富士紀行 今橋と申所にて 藤原雅世卿
君がためわたすいま橋いまよりはいく万代をかけて見ゆらむ
○東之道記 今橋といへる所にとまりてうき世の
ことゞもおもひつらねて 仁和寺尊海僧正
人なみにたゆたふことはいにしへもうき世わたりのかくる今ばし
○紀行 慶長十年のはる吉田のわたりにて
ひるまのやどりせし時 近衛信尹《割書:三藐院》
水かひて(駒かへてイ)またまくさかふたよりよし田のもに近き宿のわたりは《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
白云此御自筆吉田札木町鍋屋ニ持伝ヘタリ
○紀行 小野於通女
我【「我」の左に「ふるイ」】里のさとの名なればなつかしやよしや都のよしだならねど《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
【右頁頭註朱字】
《割書:佐埜知尭ガ三川国聞書云|大永二壬午年牧野傳蔵|信成改_二今橋_一 ̄ヲ号吉田_一傳蔵|文字又改_二田三_一 ̄ト。牧野民部|亟成勝改_二 ̄テ一色ノ城 ̄ヲ号_二 ̄ス牛窪|城_一 ̄ト》
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 四十四
○紀行 小堀宗甫
夢とてもよしや吉田の里ならむさめてうつゝもうき旅の道《割書:白》【「白」朱字】
●黄葉集《割書:五》 吉田といふところにて 烏丸光廣卿
おもひやるけふは都の神まつりこゝを吉田のさとゝきくにも《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
○武蔵野艸
みやこをは思へば遠しおなし名のよし田につきしつゑもたゞれて
●按ニ拾遺集、神楽歌、〽名にたてる吉田の里の杖なればつくとも
つきじ君が万代とあり、●勝地吐懐篇云、此歌は天禄元年大嘗會
風俗 ̄ノ歌にて、近江 ̄ノ国吉田也、●同首書云、此外吉田 ̄ノ里とも村ともいへる歌、
皆近江なり、山城の吉田に村里をよめるはいまだ見ず、森とも野とも
すべて神社のことをよめるは、山城也、
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 四十五
○大岩(オホイハ) ●三川雀云昔は■(カラ)【木偏に覀、柄?】沢(サハ)トテ二村ナリシヲ中古大岩
一村トナレリ渥美郡ニあり
十五日大いは山とかやのふもとを過侍るにふりたる
寺見え侍り、本尊は普門示【「尓」見せ消ち、右に「示歟」】現の大士にておはし
ますよし申侍りしかは、しばし法施など奉りし次
●富士紀行 尭孝法師
君が代は数もしられぬさゞれ石。(の八十八本)み/な(る同本)大いはの山となるまで《割書:モ》【「モ」朱字】
○二川(フタカハ) ●渥美郡なる駅なり●世諺弁略《割書:二ノ|廿四丁》云、三川の端にて、大
岩と両所并ある故、二川といふ
○紀行 小堀宗甫
国は三河さとは二川あはすればいつかは、かへりつかむふるさと《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
○ 烏丸光廣卿
玉くしげけふふた川のあけゆけばこれもみかはの内とこそきけ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
●夫木 《割書:廿四【「廿四」朱字】》〽ながれてはいづれの瀬にかとまるべき涙をわたる二川の関、西行、とあり
●秋の寝覚ニ未勘とあり可考、《割書:●外ニモ未勘トアリ》【「●外ニモ未勘トアリ」朱字】
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 四十六
○佐久島(サクノシマ) ●三川モシホ草云幡豆 ̄ノ郡に属す勢尾三の海島三国
三島の其ひとつ也、●按ニ同郡宮崎村より、南 ̄ノ方■【海ヵ】
上一里程に在、島大サ縦廿一丁横三丁二村アリ、
●三国三島とは、日間賀(ヒマカ)島は尾張に属、篠(シノ)島は伊勢に属り
佐久嶋といふ所/に(へ 八十八本)舟よよせて【「よよせて」は『参河国古歌名蹟考再稿下』では「よせて」】、以(八 八十八本)徳庵といふ小庵にやどりて見るに
山水のたえ〴〵なるをうけて、まことに山/居(の井 八十八本)の体にさびしく/て(見え侍れば 八十八本)、
●関東海道記 藤原雅世卿
かくしても世はすまれけり山/水(住 八十八本)のしづくをさへにまたでやはくむ
●按ニ今作嶋にかゝる名の寺なし、志(シ)【「志(シ)」朱字】の嶋に《割書:イトク》寺といふがありといへり、
かゝればしの嶋を、さくの嶋と思ひ誤り給へるなるか可考、
○大濱(オホハマ) ●碧海郡にあり
●三川モシホ草ニ云、此 ̄ノ村ニ称名寺といふ時宗の古寺あり、是を
さすならん、
大濱といふ所へ舟よせて、道場(ある堂舎 八十八本)にしばらく
やすみて本尊の御前にて。(よめし 八十八本)
●関東海道記 藤原雅世卿
大はまのなみ路わけぬと思ひしにはやかのきしに舟よせにけり《割書:モ》【「モ」朱字】
こよひは船中に。(て 八十八本)あかし侍りて。(夜)【「。夜」朱字】ひと夜船子ともの
枕のうへを往還し侍れば思ひつゞけ侍る
●同
難波江にあらぬ船ちもあま人のあしのしたにぞ一夜あかせる
【「○」「●」「、」「。」は朱字】
古歌考 下 四十七
○鷲塚(ワシヅカ) ●碧海郡にあり
この里まで大濱称名寺住持某【「甚?」見せ消ち、朱字「某」】
見【「王」見せ消ち、右に朱字「見」】おくりければよめる
○紀行 宗牧
君をおくるけふのわかれは駒とめしうち出の浜のこゝち【「ろ」見せ消ち、朱字「ち」】こそすれ《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
称名寺かへし
○同
君にけふあふ坂山は遠ければこのわかれ路に関守もがな《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
○星越(ホシゴエ) ●宝飫郡にあり、
●三川モシホ草云、美/養(容 イ)郷三谷村と、大塚村との堺なる少
き山坂なり、
○紀行 西郡藤助旅宿を出て 宗牧
次か【「次か」の右に書入れ「さまが イ」】人のなくてわかれし旅寝にもなごりはさぞな老のほしこえ《割書:モ|白》【「モ白」朱字】
○同 また 同
立かへりまたもあはまくほしこえやかず〳〵あかぬ老の坂かな《割書:モ|白》【「モ白」朱字】
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 四十八
○御馬(オムマ) ●宝飫郡にあり
○東国紀行 宗牧
野がひする時し待えて名にしあふ御馬の里にいさみやすらむ《割書:モ》【「モ」朱字】
おなじ里の浜辺にてよめる題しらず
○ 同
わたつみのかざしにさせる白たへの波もておくれおきつしま山【「おくれおきつしま山」の左に「ゆへる淡路しま見む 六帖三」】《割書:モ》【「モ」朱字】
●三川モシホ草云、此歌古今十七雑部ニ入、歌のさまさも似たり、書違へたるにや、然共
多年此通りにて書伝へたれは其まゝしるす、
●牛【「井」見せ消ち、右に朱字「牛」】久保密談記云、柴屋紀行ニ、西 ̄ノ郡 ̄リ鵜殿三郎宿所昼通り、湯漬あり、伊奈と
いふ所牧野平三郎家城一日逗留、又興行〽卯の花や波もておくれ沖津嶋、
宗長、此城上嶋といふ名をよそへて、後、〽わたつみのかさしにさせる白妙の波もて
ゆする淡路しま山、宗長、とあり、
○御津(ミツ) ●倭名鈔云宝飯 ̄ノ郡御津《割書:美|都》今御津 ̄ノ庄/廣石(ヒロイシ)村をいふ、
官社御津 ̄ノ神社も此 ̄ノ所に坐(マ)せり、
●三川モシホ草云、御津山 ̄ノ西南の麓に、岩ほの石畳あり、昔此所に別
宮あり、今大恩寺のうら山也、●按ニ御津山の西南 ̄ノ方に在て、泙野(ナギノ)村
の地内にて、自然(オノヅカラ)の石窟の如き石がまへありて、小社あり、石(イシ)たゝみの荒神
と称す、海を眼下(マシタ)に見はらして景色いとよき処也、
○
大嶋や千世の松ばら石だゝみくづれゆくとも我は守らむ《割書:モ》【「モ」朱字】
●三川モシホ草に此歌大明神の御神詠といひ伝ふといへり、
●東海道名所図会にもしかいへり、
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 四十九
○本宮山 ●三川モシホ草云宝飯郡長山村地中、山上ニ社あり、砥鹿神
社といふ、●按に当国第一の高山にて、高サ五十町あり、
社説には本茂山(モトシゲヤマ)と称すといへり、●類聚国史《割書:九十二|漁猟部|漁》に、砥鹿山とあり、
《割書:全文官社私考|上巻ニヒケリ可見、》【「官社私考」を朱の四角枠で囲】
●社記
しるやいかに我名をとはゞちはやぶる神の始の神とこそいはめ
●草鹿砥公宣卿、勅使として鳳来寺へまゐり給ひ当山にて道に迷ひ給ひし時、老翁の神
詠也と社説にいへり、
○紀行 菅沼織部入道にあふて挨拶して別れ本宮嵩の雪を見て詠る 宗牧
ながめつゝわかれんかたもなかりけむ汀の氷みねのしらゆき《割書:モ|白》【「モ白」朱字】
《割書:イ 冨長の城を出とて本宮山の雪によすトアリ》
○ かへし 楠千/世(代 イ)
立わかれゆくらんかたの峰の雪みぎはの氷おもひこそやれ《割書:モ|白》【「モ白」朱字】
○煙巌山 ●三川モシホ草云、設楽郡鳳来寺山の総名則彼寺の山
号とす、●按ニ緑【縁ヵ】起ニ先代旧事本紀を引テ、桐生山
といへり《割書:偽書先代旧事|大成径文ナリ、》委くは旧寺考【「旧寺考」を朱の四角枠で囲】にいふべし、
●鳳来寺縁起
霧や海やまのすがたは嶋に似て浪かとこさ【「こさ」は『参河国古歌名蹟考再稿下』では「き」】けば松風のおと《割書:モ》【「モ」朱字】
●按ニこの歌、文武天皇御脳あらせ給ふにより、大宝二年に、草鹿砥公宣(クサカドキンノブ)
卿を勅使として、利修仙人を召給へる時当山の風景を詠る彼 ̄ノ卿の
歌也と縁起にいへり、
●藩幹譜《割書:七ノ下|二丁》云、中納言政宗、八代の祖をも、伊達大膳大夫政宗
とぞ申た【「た」は『参河国古歌名蹟考再稿下』では「け」】る云々、敷島の道に心をよせ、詠る歌秀逸多し、云々、
系譜いはく、新続古今集撰せられし時、二首の歌を奉る、その
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 五十
山家霧、〽山あひの霧はさながら嶋(海)【「海」朱字】に似て波かときけは松風の音、
其後応永二年/九(四イ)月十 /八(四イ)日ニ卒とあり、よく似たる歌也けり、《割書:松田秀任が|武者物語》
《割書:にも、此政宗の|歌をのせたり、》
○櫻井(サクラヰ)寺 ●三川モシホ草云、額田 ̄ノ郡なる真言宗の古梵刹なり、
寺号ヲ村の名とせり、此寺に名井あり、
●刪補松云碧海 ̄ノ郡にも同名の寺あり、額田 ̄ノ郡を正しとす、《割書:白同、》
●三川雀ニ云、弘法大師桜 ̄ノ枝をたづさへ、東嶺地をつき給へば、霊【㚑】泉涌出す、桜
枝をば井の辺に立給へば、生付て年々花咲出と云り●三才図会ニもしかいへり、
●和名抄碧海郡櫻井 ̄ノ郷あり、●藻塩草《割書:六ノ|廿三丁》桜井里《割書:山城或云三河》
○ 弘法大師
ちれはうかひちらねば花の影さしていつもたえせぬ桜井の水【「水」の左に「寺イ」】《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
●白云、桜井寺といふ処二処あり、いづれにやしらず、東の桜井寺に残る歌也、
●三川雀云、大和国桜井にも此歌石に彫てあり、
●按ニ夫木丗一雑 ̄ノ十三に、さくら井【「井」朱字】の里の歌四首ありて、山城また摂津とあり
●《割書:秋の寝覚にも|山城とあり》、また山家集こぜりつむ沢の氷のひま見えて春めきそむる桜井のさと
古歌考 下 五十一
○星野池(ホシノノイケ) ●三川モシホ草云星野 ̄ノ池は、八名 ̄ノ郡下条の地脈【脉】也、星野と
いふ時は宝飯 ̄ノ郡行明村也、星野某居舘の地と見えたり、
●二葉松云、行明村ニ星野の旧跡あり本歌不見、●刪補松云下条村ニあり、
星野とばかりは行明也、●今行明村に星野大明神の社あり、星野行明
の墳に垂(サガリ)松といふ験(シルシ)松ありしが、此木をれて後社を建つといへり、●日本鹿子《割書:六|卅丁》
にも、星野は豊川より東方にある名所也といへり、
●和漢三才図会《割書:六十九》にも、星野 ̄ハ在_二 ̄リ豊川 ̄ノ之東_一 ̄ニ昔自 ̄リ此献_二 三河水_一 ̄ヲ也とあり、
●白云或書ニ帝王の御鬢水に三河 ̄ノ国星野の池の水を朝ごとに汲て宮古に
登すといへり、此事ふるくより、いひ伝へし説とおぼしくて、
●名所方角抄《割書:六十ノ|ヒラ》豊川 ̄ノ条に、星野などゝいふ所に近し、星野とは名所也、
昔みかは水を奉るといふ説有之、帝の御びん水といふ説いかゞと見えたり、
●星野といふも古き地と見えて、太平記《割書:卅五ノ|卅一丁》に【「に」朱字】大島左エ門 ̄ノ佐義高、当国 ̄ノ守
護ヲ給テ、星野行明等ト引合セテ、国ヘ入ケル云々《割書:●続太平記《割書:十六ノ|四丁》相模国早川|尻戦ノ条にコヽニ三川 ̄ノ国足》
《割書:助西条 ̄ノ星野 ̄ノ者共、コレヲ|小㔟ト見ナシテ云々、》とあり、今も行‐明 柑‐子 正_岡辺を、星野 ̄ノ庄と
いへり、
○三河双紙
世にてらす星野の池の三河水君がくらゐの御調(ミツキ)とぞなる
●御帝御元服の時、御鬢水に、参河国よりまゐらする水をいふ、と
三河双紙ニいへり、又みかは水といふ事大内にもありとなん、と三川モシホ草にいへり
●されど
斎宮家集に、ためちゝがはらから為国さい宮のかみ也、五月五日まゐ
りて宮の御まへのやり水を、みかはの池となんいふなる、だいばん所に、
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 五十二
〽ことしおひのみかはの池のあやめ艸長きためしに人もひかなむ と【「と」朱字】
あり、《割書:●此歌松葉集十三に載て|参河池伊㔟藻塩とあり》●また続千載集《割書:賀ノ|部、》禁中のこゝろをよみ給へる、
後京極大臣の御歌に、〽萩の戸の花の下なるみかは水ちとせ
の秋の影ぞうつれる、《割書:藻塩艸云、三河の名所には|あらず、禁中の歌なるへし、》また古今集《割書:二|春下》の詞書に【「右に」を見せ消ち、右に朱字「書に」】、
東宮の雅【「稚」を見せ消ち、右に朱字「雅」】院にて桜の花の/みかは(御溝)水にちりて流れくるを見てよめる、と
あると●八雲御抄《割書:五ノ|廿六丁》に、みかは水《割書:多くはだいりの|御溝をいふ》中殿前也、などあるにて
三河にはあらず、禁中の御溝(ミカハ)の意なる事をさとるべし、
●藻塩草《割書:五ノ|四丁》にみかは水、いく秋も君そうつしてみかは水雲ゐにたへぬ
星合の影、多くは内裏の溝を云也、中殿の前也、《割書:中|略》又八雲御説に禁中
ニ不可限云々、●同書《割書:五ノ|五十三丁》三河池伊㔟、とあり、
○真弓山(マユミヤマ) ●三川モシホ草云、設楽郡/武節(ブセツ) ̄ノ郷ニあり、
●二葉松云、武節郷/生駒(イコマ)山ニ並びたる山とぞ、
○ 之(ユキ)【「ユキ」の右に朱字「コレ」。「之」の左に「尹イ」】義(ヨシ)親王
ほの〴〵とあけゆくそらをながむれば月ひとりすむ西の山か/げ(なイ)《割書:白|モ》【「白モ」朱字】
●三川モシホ草云、吉野 ̄ノ宮、尹義親王、足利家に世をせばめられさせ給ひ、
上野 ̄ノ国新田ニおもむかせ給ふ時、三河 ̄ノ国武節の郷に入せ給ひて、真弓山
の月を見給ひてよめる、といへり、
●按ニ尹良親王は、後醍醐天皇 ̄ノ皇子宗良親王の御子也、応永/四(卅一)年八月
十五日信濃 ̄ノ国大川原にて自殺し給ふと、浪合 ̄ノ記また藤嶋私記に見えたり、
●堀川百首《割書:下》 山 祐子内親王女房紀伊 〽ひき入て【「入て」の左に「つれて 秋」】まとゐせむとや思ふどち秋は
まゆみの山に入るらむ、 此歌秋の寝覚等ニは下野国とせり、
【右頁頭註朱字】
《割書:統叢考ニ云星野の池水|帝の御髪水の朝な〳〵献|せし事諸記所見中何れ|の帝といふ事を不記不審|按るに持統帝宮路山引馬|野幸の時名水なれは其?行|在所へ朝な〳〵献せしを|いふならん彼【傳ヵ】行在所へはほど|ちかけれはさも有へし》
《割書:可【一ツヵ】待【彼ヵ】三河歌集の|飫【「飫」の左に「下」】宝【「宝」の左に「上」、「宝飫」】郡の条合見るへし》
【左頁朱字貼紙】
《割書:●将軍御外戚伝一云宗良親王 ̄ノ御子尹良親王御母ハ| 遠州井谷城主井谷遠江守道政女也元中三年| 八月八日平姓ヲ玉フ正三位権中納言右近衛大将征夷| 大将軍応永二十一年八月十五日信州波合戦ニ| 討死シ玉フ号大竜寺殿永享八年六月十四日| 祠堂ヲ建立大橋大明神ト祭リテ尾州津島 ̄ノ| 牛頭天王 ̄ノ若宮ト称スルハコレナリ》
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 五十三
【194コマと同じ】
○伊駒山(イコマヤマ) ●三川モシホ草云、賀茂郡/足助(アスケ)より六里程北東牛【「午」見せ消ち、右に朱字「牛」】地村の地
脈【脉】高山なり、俗称て駒山といふ、
●三川雀云、牛地村円通山生馬寺、猿曳の生馬山の札これ也、名所の生
駒山はこれをいふにや、●刪補松云、足助の北東又設楽郡ともいふ、
○ よみ人不知
しばしとてとゞまるみかはいこま山こえもやゆかむ遠きあづまぢ《割書:モ》【「モ」朱字】
●新勅撰《割書:十九|雑四》 百首歌よみ侍ける 後京極摂政前太政大臣
久【「久」朱字】かたの雲井に見えしいこま山はるはかすみの【「ゐ」見せ消ち、右に朱字「の」】ふもとなりけり《割書:モ》【「モ」朱字】
●按に古歌に詠る、伊駒山は八雲御抄《割書:五ノ|三丁》に、いこま山《割書:大和 河内国近歟|両国名所歟》とある
如ク大和また、河内にて、すべて三川のにはあらじ、そは
万葉《割書:廿》 〽難波つをこぎ出て見れば神さぶるいこまの山をこえてぞ我か来る
夫木 〽高安にうつりにけりな時鳥いこまの山をこえてかたらふ
名寄 〽なには人ふりさけ見らんふる里のいこま高根のはつ桜花
これらは河内国也猶万葉十同十五同廿等に歌あり
新古今 〽秋しのや外山の【「の」朱字】里やしぐるらん生駒のたけに雲のかゝれる
玉葉 〽朝日さすいこまのたけはあらはれて霧たちのぼる秋しのゝ里
これらは大和なるべし、
【「○」「●」「、」「〽」は朱字】
古歌考 下 五十四
○篠束(シノヅカ) 宝飫郡にあり ●契沖の類字名所外集二に当国の名
所とせり ●秋の寝覚は陸奥とせり
●和名抄 寶飫郡篠束郷 ●総国風土記ニ篠塚郷アリ
●大和物語《割書:上ノ|廿丁》云、忠文が陸奥の将軍になりて下りける時、それがむすこなり
ける人を、監の命婦しのびてあひかたらひける、《割書:中|略》かくて此男、みちのくにへ
くたりけるたよりにつけて、あはれなる文どもおこせけるを、道にて病して
なん死けるときゝて、女いとあはれとなん思ひける、かくて後しのづかのう
まやといふ所より、便につけてあはれなる事どもを書たる文を【「を」衍字ヵ】をなん
もて来たりける、いとかなしくて、これをいつのぞと問ければ、使のいとひさ
しくなりもて来たるとなん有ける、女
しのつかのうまや〳〵と待わびし君はむなしくなりぞしにける《割書:外》【「外」朱字】
とあるをなんよみてなきける、わらはにて殿上して大七といひける【「と」の上に「る」導く線あり「る」は朱字】と、冠り
して蔵人所に居(ヲ?)りて、金の使かけて親の供にいくになん有ける、
○八名瀬川(ヤナセガハ) ●三河総国風土記、八名 ̄ノ郡八名 ̄ノ庄 ̄ノ ツヾキ、《割書:ニ》八名瀬川
産_二 ̄ス鮮魚桑柳_一 ̄ヲとあり、其所未詳可考、
●類字名所外集《割書:五ニハ》魚梁瀬川未勘《割書:トアリ》
●古今六帖《割書:三》
やな瀬川ふむ【「む」の左に「ちイ」】瀬さだめぬ世ときけば我【「な」見せ消ち、右に朱字「我」】身もふかく頼まれぞする
●按此歌秋の寝覚等ニ未勘とあり、
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 五十五
○依網原(ヨサミノハラ) ●契冲の類字名所外集ニ云、八雲美濃、和名三河云々、淡海縣をあふみのかたと
点したるは誤歟、縣はあかたは常の事にて、日本記にはコホリと点せり、碧海は阿
乎美淡海は阿不三、仮名たかひたれど、ものくるはしを物くるをしといふ
類になずらへは、三河なるべし、淡海によさみ聞えず、又近江ならば近江 ̄ノ国のと
よむべしあふみあがたといふべからすや」
●万葉《割書:七》 柿本朝臣人麻呂
青角髪(アヲミヅラ)、依網原(ヨサミノハラニ)、人相鴨(ヒトニアハスカモ)、石走(イハヾシ ノ)【イハヾシル?】、淡海縣(アフミアガタノ)、物語為(モノカタリセム)、《割書:外》【「外」朱字】
●本居大人云、和名鈔三河国碧海郡依網《割書:与佐|美》郷あり、此歌は遠江国司
の下る道、三河のよさみの郷にてよめる也、淡海縣とは、任国の遠江をさして
いへりと云れたり、●万葉略解《割書:七ノ|四十七丁》には、近江国 ̄ノ司の下る道、三川の
よさみの郷にてよめる也といへり
●按ニ淡海縣とは、碧海郡をさしていへるにはあらざるか、仮名は違へ
れどよしありげ也、可考、
●夫木《割書:廿二|雑四》 建保三年内大臣家百首寄名所恋《割書:依網近江(よさみのはら)》 従二位家隆卿
行くらすよさみの原のよそにしてたれかあふみに人をちぎらむ《割書:松》【「松」朱字】
●同 《割書:同|同》 宝治二年百首歌寄原恋 信実朝臣
あふみてふよさみのはらにゆく人は妹があたりのことかたらむ《割書:松》【「松」朱字】
●松葉集《割書:五》には近江として右の三首を載たり
●岩瀬尚則云、万葉なる、青角髪を、冠辞考に天 ̄ノ吉葛(ヨサヅラ)の意に冠
らせたりと云はれたれど、こは青海面(アヲミツラ)の意にて当国碧海郡の海辺/面(ツラ)【「ツラ」朱字】を
いへるなるべし、是は古へは今の矢矧川の上長瀬辺迄入海にて、西も尾張
川入海にて、青海 ̄ノ郡は海へさし出たる郡にて、何処も海づらなれば也殊ニ
古の海(街)道は、額田 ̄ノ郡生田より小豆坂ニかゝり明‾大‾寺《割書:古ノ矢|矧ノ庄也》六名(ムツナ)辺を
【「○」「●」「、」「」」は朱字】
古歌考 下 五十六
通りて、渡(ワタリ)村にて矢はぎ川をこし、桑子(クハコ)《割書:一向宗ノ柳堂トイヘルハ|桑子ノ明眼寺ノコト也》より安祥の北
上‾条を過て、安‾祥_原へ出、それより笹目重原(サヽメシゲハラ)を経て、知立へ出し也、かゝ
ればよさみの原は今の安‾城_原にて、サヽメはヨサミを訛(ヨコナマ)れるなるべし、
また桑_子より上‾条へゆく田の中の道いと広き道にて、今/呼(ヨビ)て大(オホ)
道(ミチ)といふ、これ往古の街道なるべし、其近村新堀に古き地蔵有りて、
地蔵祭といへる祭あり、これ古の官道の道祖神《割書:タムケ|ノ神》なるを、後に地
蔵となしたるなるべしといへり
○志波都山(シハツヤマ) 笠縫島(カサヌヒノシマ)
●万葉《割書:三》 高市 ̄ノ連黒人羇旅 ̄ノ歌八首 ̄ノ中
四極山(シハツヤマ)、打越見者(ウチコエミレバ)、笠縫之(カサヌヒノ)、島榜隠(シマコギカクル)、棚無小船(タナナシヲブネ)、
●此歌古今集には、大歌所御歌 〽しはつ山打出て見れば笠ゆひの
しまこぎかくるたなゝし小船とあり、
●契冲の古今集餘材抄云、万葉の此歌の前に年魚(アユチ)市がたをよめり
尾張也、此歌の次に枚(ヒラ)の湖、高島の勝野が原をよめり、共に近江也、終に山(ヤマ)
背(シロ)の高槻 ̄ノ村とよめり、然ればあづまより都へ帰り上り来る道にてよめる
次第也、和名鈔を考見るに、参河 ̄ノ国幡豆 ̄ノ郡/磯泊(シハト)《割書:之波|止》あり、此磯泊 ̄ノ郷に
【「○」「●」「、」は朱字】
古歌考 下 五十七
四極(シハツ)山あるべし、注に之波止とあれど、トとツとは五音通【「通」朱字】て同じこ【「こ」朱字】と也、
《割書:葛野ヲ日本記ニ加豆怒、万葉ニ|高円ヲ高松ト書ル類也、》孝徳紀に河辺 ̄ノ臣/磯泊(シハツ)といふ人名あり、笠ゆひ
も三河なり云々といへり、《割書:●勝地吐懐篇《割書:上ノ|廿六丁》|もはら同し、》笠縫島 ̄ノ条
●荒木田久老神主の万葉考《割書:三ノ上|十八丁》云、四極(シハツ)山参河 ̄ノ国也、和名抄に云々ト見
えたり、是なるべし、笠縫は、ある人美濃国なる由いへり、さも有べしと云り
●渡辺政杳【『参河国古歌名蹟考再稿下』では「香」】神主/消息(セウソコ)して云おこせけらく、おのれ若き頃幡豆 ̄ノ郡しはつ
山に登り、海を見るに、笠の形したる島あり、渥美 ̄ノ郡に属せり、此/傍(カタハラ)を老
津嶋童部の浦といふ、薪こる翁に、彼 ̄ノ島と此山の名は、いかにと問へば、島は
笠嶋、山は歯津(ハツ)山と答へり、はつといふによし有りやと打かへして問へば、古へはしはつ山
といひしを、上を省(ハブキ)てはつ山と呼ふよし答ヘたり、彼 ̄ノ島をめぐる小ふねは、
万葉の歌によめる景色目 ̄ノ前にあれば、ふと契冲法師の説磯泊山は
三河也と有しを思ひ出して此 ̄ノ辺なる角平(ツノヒラノ)里《割書:津ノ平|とも書》志波都(シハツ) ̄ノ社にまゐるに、
山の木立神さびて、いと古き土地なれば、和名称に磯泊 ̄ノ郷といへるは、なべて此
辺をいひけむ、しはつの郷にある山なればしはつ山といふはむべ也、笠嶋も古は
笠縫 ̄ノ嶋といひしを、後世に略して二字に約て呼ぶ例外にもあれば、一字中
略せるか」といへり、
●されど●八雲御抄《割書:五ノ|七丁》しはつ山《割書:豊前》同《割書:五ノ|卅四丁》く(か)【「か」朱字】さゆひ《割書:豊前》かさぬひ《割書:豊後》
《割書:ゆひと同所歟|但入別也》と見え●名所方角抄《割書:百四十|ノヒラ》豊前国の分に、柴津(シバツ)山笠結島を
《割書:●藻塩草《割書:四ノ|四丁》四極山豊前》
出せり、又●類字名所集●松葉集《割書:四|大分郡》●秋の寝覚等豊後国とせり、
●また本居大人の玉勝間《割書:六》●勝地吐懐篇 ̄ノ伴蒿蹊が首書●橘千蔭の万葉
略解《割書:三ノ上|十六丁》等ニは、しはつ山笠縫嶋ともに、摂津国なる由にいはれたり、猶よく
考て定むべし
【「●」「、」「」」は朱字】
古歌考 下 五十八
○子持山(コモチヤマ) ●契冲の類字名所外集ニ参河《割書:但東国トアリサレド》●万葉略解《割書:ニ地名也|ト見エ》
●同見安ニ国郡不知の部ニ入とありまた●秋寝覚ニハ未勘とあり尚よく考べし
●万葉《割書:十四》
児毛知夜麻(コモチヤマ)、和可加敝流氐能(ワカカヘルデノ)、毛美都麻氐(モミヅマデ)、宿毛等和波毛布(ネモトワハモフ)、汝波安杼可毛布(ナハアトカモフ)、《割書:外》【「外」朱字】
○散木
●夫木《割書:四春ノ四》 俊頼朝臣
こもち山谷ふところにおひた/ち(て夫木)て木々のは/ご(く夫木)くむ花をこそ見れ《割書:外》【「外」朱字】
●六帖《割書:六》 かへて 忠房
こもち山わかかへるでのもみづまでねんと思ふを妹はいかにぞ《割書:外》【「外」朱字】
○星河(ホシカワ) ●類字名所外集《割書:二》に三河《割書:夫木廿四》とあり
●夫木《割書:廿四雑ノ六》 ほしかは 未国 光俊朝臣
明ぬとて空さかりゆくほし川に我さへ影や見えすなるらむ《割書:外》【「外」朱字】
左注云此歌鹿嶋社にまうでゝかへりけるに星川といふところに
とまりてあかつきたつとてよめるとあり
●和田安全云外集の星川は細川の誤かと思へどそはまた別に載て
〽細川の《割書:中略》峰のかすめるの歌を記せりまた秋の寝覚には星川伊勢
と有て 名寄〽かきりあれは橋とぞならぬかさゝぎの立るしるしに星川
の水 長明とありこれも外集にのせて夫木廿四とありて二 ̄ノ句橋とは
ならぬ又四ノ句たてるしるしとあり されば伊勢を誤りしにもあらじ考べしと
【「○」「●」「、」「〽」は朱字】
古歌考 下 五十九
いへり、
●敬雄按に、宗祇の方角抄《割書:四十|七丁、》伊勢国分に、星河山は【「ハ」朱字】、遠し、朝気の里、
海辺の宿也、日永川は南へ流れたり、浦遠し〽桑名よりくはへて来れば
星川の朝気は過ぬ日永なりけり、云々とあれば、星川は伊勢なる事
しるし、契冲は何の拠ありて、当国とせられたるや後人猶よく考ふべし、
●安全云、名所外集に、催馬楽の、ぬき川のやはらたまくら、といふ歌を
挙て、貫川を当国とせり、されど梁塵愚按抄に、貫川は美濃国に
伊豆貫川といふ所あり、伊豆を略していへり、とあれば、此国にはあらじ、
按ニやはぎの市にくつかひにかん、またうはもとり着てみやぢかよはん、
なとある故に、当国とは思ひ誤りしならん、考べしといへり、
●上に挙たる、八名瀬川、依網原、志波都山、伊駒山、篠束、
子持山、星河などは、後 ̄ノ人なほよく考へて、正しき拠を得て定むべし、
●また藻塩草《割書:三ノ|十二丁》に、いはしの原、同《割書:五ノ|丗二丁》に はゝこ崎を、当国と
せり、されど証歌及在所詳ならず、
●また三河刪補松には、はゝこ崎《割書:二葉松に或云いらこの事|にや、母子(イロコ)崎なるべし、》いはしの原、
《割書:二葉松云、此所未詳、按に|額田郡上地ノ原アリ、》かつまた(勝俣)の池、野嶋か崎、此ら【分ヵ】名所たりといへ共、
一向在所知れず、太田白雪、佐野監物等、種々尋索せしかども、在所
不知なりといへり、
●按に勝間田池は、万葉十六に歌あり、秋の寝覚、類字名所集等には、
下総とし、名所詠格には、清輔説には美作国といへり、顕仲の良玉集には、
大和国と見えたり、諸説ありといへり、契冲の吐懐篇《割書:上ノ廿|四丁》には、万葉 ̄ノ左注に、
【「●」「、」「〽」は朱字】
古歌考 下 六十
新田部 ̄ノ親王出_二遊于/堵裡(ミヤコノウチヲ)_一御(ミ)_二_見(タマフ)勝間田之池_一とあるを引て、大和 ̄ノ国
にて添上(ソフノカミノ)郡《割書:薬師|寺ノ辺》なりといへり、また野嶋が崎は、同篇に類字集に安房
《割書:近江淡路|有_二同名_一》とあれど、万葉三、人丸 ̄ノ歌に、粟路之野島之前、同六ノ赤人の
歌に淡路の野島之海子の、など有て淡路也、さるを千載にあづま路とかへ
られたるより、粟路(アハヂ)は安房道(アハミチ)といふ義と思ひて安房とし、また粟路(アハミチ)を淡(アフ)
海路(ミヂ)と意得損して、風雅集には近江ともよまれたるなり、と猶委く
いへり、本篇を見るべくなん、
●また藤原 ̄ノ雅康 ̄ノ卿、明応八年 ̄ノ関東海道記、しほ見坂の歌の
つゞきに、 恋の松原といふ所の松かげにしばし休みて、
むかしたれ恋のまつばらまつ人のつれなき色に名づけそめけん
といふ歌ありて、其次に矢はぎの里の歌をのせたり、其所詳ならず、
刪補松に、 大嶋や小嶋がさきの仏じま/すゝめ(あはずイ)の森に恋の
松原といふ歌を出して、俊成卿 詠ナリトテ民人伝 ̄フ、とあり、按に
今/不相(フサウ)の西の海辺に恋の松原といふ処ありて、かの大嶋小嶋仏嶋
なども眼(マ)の前に見わたされたり、此所ならんかとも思へど、其辺その
かみの官道ならねばいかゞあらんよく考て定むへし、
●また藤原雅世卿、并堯行法師の富士紀行に、二子つかといふを
よめる歌三首あり、これも塩見坂のつゞきにありて、此国内ならん
【「●」「、」は朱字】
古歌考 下 六十一
とも思へど、いづれも富士を見そめたるよしをよまれたれば、遠
江の国内にてもあるべし、こもよく考索ふべし、
三栗のなかいまの世にわか 三河国の
名所の歌ともあつめしるしゝ ふみは
あまたあれともむらさき生るむさし野の
広くゆきいたらす青柳のいとみたり
にしてもれたるも誤れるもあるを
あかぬ事におもへりしにあら玉のとし
ころわかむつましきかたらひ人いれ
ひものおなしまなひのはらから羽田野敬雄
かそをかたはらいたく思ひてあけくれ
【「、」は朱字】
古歌考 下 六十二
皇神のみ【「く」見せ消ち、右に朱字「ミ」】ちにこゝろさしこゝら【「ろ」見せ消ち、右に朱字「ら」】のいにし
へ書ともよみわたすちなみに歌ふみ道の
記なとより四百余首の歌をぬき出して
玉さゝ【「〳〵」見せ消ち、右に朱字「、」】の露のはえあるめつらしき考説を
さへかたはらにかきしるし 古歌名跡考
と名つけうたよむ人の手つきとしも
なしたるは山田のくろにはふまめの
まめやかなるわさになん有けるそも〳〵
松かねの遠きむかしに名所といひ
たるもしらま弓 いまの 世には 雲にほふ
暁のさたかならすしてうませこしに
むきはむ うまの うまくしられかたく
たれも〳〵くらふの山ち やみにこゆらむ
やう におもひたとる めるをわたつみの
うみゆく舟の 追風のたより よきこの
書のかく なり いて たる 事のうれし
きか あまり さし出の 磯の さし 出て
たみたること葉をかきしるすになむ
古歌考 下 六十三了
天保十五年八月
阿波守従五位下大伴宿禰宣光
《題:豊橋商工案内》
昭和十五年度
豊橋商工會議所
【右頁】
【社章】
東邦電力《割書:株式|會社》豐橋支店
豐橋市松葉町
電話(代表)三一一五番
【左頁】
山安海苔株式會社
東京店 東京市日本橋區室町一丁目一四ノ四
電話(日本橋)六五三番
大阪店 大阪市北區今井町四〇番地
電話(堀川)二五二二番
名古屋店 名古屋市西區小鳥町一
電話(西)四九六五番
豐橋店 豐橋市魚町五十八番地
電話二一五三番
四一五三番
《割書:合資|會社》山安食料品店
本店 豐橋市魚町五十八番地
電話二一五三番
四一五三番
豐川支店 愛知懸寶飯郡豐川町
電話二六〇番
山安マート 豐橋市神明町交叉点【「山安」は商標】
【右頁】
營業種目
淸酒・ビール・燒酎・味淋
雜酒・醬油・淸凉飮料水
其ノ他一般種類
酒類問屋 株式會社川淸商店
豐橋市驛前
電話二〇五三
二〇六一
【左頁】
一、本會議所は商工會議所事務權限に準據して經營するものであるから、商工業に關する各種
の御意見等は何事に依らず申出でられたい。
一、商品の產額・集散額・運輸交通及び金融狀態等時々御報道を煩したい。
一、商工業の狀況・調査材料蒐集等の爲め、本所員訪問の際又は書面で照會した節は特に御便
宜を與へられたい。
一、諸會社・組合等で業務報告書御作製の節は其の都度御寄贈ありたい。
一、商工業家各位で本會議所の照會・紹介又は證明書を要せらるゝ場合は御遠慮なく御申出で
られたい。
一、商工業に關して紛議を生じた場合は御申出でにより仲裁判斷或は調停和解の勞を採ります
一、本會議所には各方面から寄贈に係る商工業に關する有益なる圖書の備付があるから、執務
時間中は何時でも閲覧に供します。
豐橋商工會議所
【右頁】
商工會議所の機能
一、商工業に關する通報をする事
二、商工業に關する仲介又は斡旋をする事
三、商工業に關する調停又は仲裁をする事
四、商工業に關する證明又は鑑定をする事
五、商工業に關する統計の調査及び編纂をする事
六、商工業に關する營造物の設置及び管理をする事
七、其の他商工業の改善を圖るに必要なる施設をする事
八、商工會議所は商工業に關する事項に付行政廳に建議する事
九、商工會議所は行政廳の諮問に對し答申する事
十、行政廳は商工會議所に對し商工業に關する事項の調査を命ずる事を得
十一、商工會議所は商工業者に關する統計其の他の調査を爲すため必要なる資料の
提出を求むる事を得
【左頁】
豐橋商工案内目次
總說…………………………………………………………………………………………………… 一
沿革・地勢・富力・隣接町村
財政…………………………………………………………………………………………………… 四
商工業………………………………………………………………………………………………… 六
豐橋商工會議所沿革………………………………………………………………………………… 九
調査統計………………………………………………………………………………………………一三
主要物產(一三)・玉絲產額(一三)・生絲產額(一四)・麻眞田產額(一四)・豐橋生繭取
引市場取引高(一四)・豐橋倉庫出入貨物(一五)・物價と勞銀(一六)・豐橋市内組合
銀行營業槪況(二六)・瓦斯(二八)・豐橋乾繭取引所銘柄別淸算取引賣買數量(二八)
市内投宿人員(二八)
交通と通信……………………………………………………………………………………………二九
交通施設・市民經濟・都市の膨脹・通信狀況。產業生活の充實・其の他統計
宗敎敎育………………………………………………………………………………………………三三
【右頁】
社會事業………………………………………………………………………………………………三五
土木衞生………………………………………………………………………………………………三六
名所舊蹟………………………………………………………………………………………………三八
今橋城・戸田今川の爭鬪・家康と織田氏・城主の交代・最後の藩主・吉田城
趾・仁連木城・其の來歷と宗光・重貞の戰死・天正の戰・康長の戰功・豐川
の淸流・古名の色々・橋梁移轉・地子御免・貨物の運上・舊幕時代の湊
豐橋名代行事…………………………………………………………………………………………四二
笹踊・煙火・鬼祭
附近町村を探ねて……………………………………………………………………………四四
豐川・鳳來寺・田口鐵道沿線・豐橋以西・豐橋以東・名鐵渥美線沿線・八名
方面・ハイキングコース
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
商工業者人名
附錄
【左頁】
豐橋商工案内
總說
沿革-地勢-富力-隣接町村-其の他統計
豐橋市はもと吉田の宿と呼ばれ、東海道五十三次の一として名高かつた。種々異說はあるが、「吉田通
れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が」といふ俗謡は此の地から發生したものと言はれてゐる。明治
二年六月豐橋と改稱、明治二十二年初めて自治制を實施され、明治三十九年八月市制施行地となつた。
思ふに、吉田と呼んだ頃の戸口は一體どの位有つたであらうかと言ふに、昔から吉田の二十四ヶ町と言
つて德川三百年の間に變りの無かつた如く、戸數にも左程の增減を見なかつた。貞享五年に一千戸のもの
が、寛永七年に一千十一戸、寶政十年に一千二戸と言ふ狀況である。尤も此の以前卽ち寛永四年に大地震
があつて、總戸數一千十一戸の内、全潰戸數二百十戸、半潰戸數二百六十六戸で、外に死者十一人も出し
た事であるからだとしても、極めて其の增加率の少なかつたのは事實である。隨つて人口も亦弘化元年に
男女合せて五千五百四十五人、其の翌年には十人を減じ、嘉永元年に至つて五千五百十九人と言ふ數字を
示して居る。然るに明治二十二年初めて自治制を實施された當時には、今の豐橋の區域は豐橋町・豐橋村
一
【右頁】
二
・花田村・豐岡村の一町三ヶ村であつた。其の内豐橋町に屬する戸數は三千五百九十七戸、人口一萬二千
三百三十九人を算し、次いで明治二十八年一月に豐橋町と豐橋村の合併が行はれ、明治三十九年七月更に
花田・豐岡の二村も之れに合併し、續いて同年八月市制施行地となつたのであるが、當時の戸數は九千九
百戸、人口三萬七千六百三十五人であつたが、明治四十一年十一月第十五師團の設置により著しく膨脹し
翌四十二年には戸數一萬一千七百五十九戸、人口四萬四千六百八十七人となり、大正九年の國勢調査では
人口六萬五千百六十三人であつたのが、五年後の大正十四年に於ける中間國勢調査では八萬二千三百七十
一人、昭和五年十月の第二回國勢調査には九萬八千五百五十五人を數ふるの狀態に至つた。其の後師團廢
止も大なる影響なく、蠶絲業の著しい發達に依り益々發展の趨勢を示した。
更に昭和七年九月一日より、隣接町村寶飯郡下地町・渥美郡高師村・牟呂吉田村・八名郡下川村・石卷
村大字多米を合併し、玆に人口十四萬を擁する大豐橋市が實現するに至つた。
斯くて我が豐橋市は三河の東南に位し、今や北は寶飯郡豐川町・牛久保町・小坂井町、東は八名郡石卷
村・靜岡懸知波多村・渥美郡二川町、南は渥美郡高豐村・老津村に境を接し、西は渥美灣に面してゐる。
位置は東徑百三十七度二十三分三十秒、北緯三十四度四十五分四十秒である。地勢は槪ね平坦であるが、
一般的に言へば、東部より西部へ傾斜し、東西及び南北の距離は共に夫々三里二十餘町、總面積六・八一
一方里を有し、東三平野樞要の地點を占めてゐる。地質は豐川に沿ふた市の低地は槪して沖積層であるが
市街の大部分は高地で多くは古生層である。氣象は其の年によつて多少の差はあるが、夏は大して暑くな
【左頁】
く、又冬も降雪・結氷を見るは極めて稀であつて、年内を通ずると天氣晴朗・寒暑中和の天惠に富み、全
國有數の健康地である。
而して本年三月末現在總戸數は二萬七千五百二十九戸、人口十四萬八千七百五人に達してゐるが、戸口
とも益々增加せんとする趨勢を示してゐる。
由來東三河と稱するのは、豐橋市を中心として渥美・八名・寶飯・南設樂・北設樂の一市語郡を言ふの
で、豐橋の接續町村は渥美郡二川町・高豐町・老津町・寶飯郡豐川町・牛久保町・小坂井町・前芝村・八
名郡石卷村である。
三
【右頁】
四
財政
豐橋市の市有財產は土地・建物・渡船・有價證券及び現金に分類せられてゐるが、現金有價證券及び渡
船の額は極めて少い。
當市に於ける昭和十四年度歲入出豫算は金百七十七萬八千三百十八圓で、之れを前年度に比較すると總
豫算高に於て同十四萬四千四百七十七圓の減少である。歲入の主なるものは言ふまでもなく、四割餘を占
むる市稅である。試みに最近の市稅を調べて見ると、昭和十一年度金八十四萬四千五百八十七圓、同十二
年度金八十四萬二千九百六十六圓、同十三年度金八十二萬三千三百五十四圓、同十四年度金八十三萬三千
十三圓、而して十五年度豫算高は金七十九萬二千三百七十九圓であるが、之れを細別すると
地租附加稅 金七萬一千四百三十八圓
特別地稅附加稅 金六千九百八十一圓
營業収益稅附加稅 金十二萬百五十二圓
所得稅附加稅 金三万九百二十八圓
家屋稅附加稅 金三十九萬八千七百九十圓
營業稅附加稅 金一萬六千五百圓
雜種稅附加稅 金十四萬七千五百九十圓
【左頁】
の割合になつて居る。而して昭和十四年末に調査した豐橋市の戸數は二萬七千四百九十九戸、人口十四萬
七千八百三十一人であるから十四年度の負擔額は一戸二十八圓八十一錢、一人平均五圓三十六錢に當る。
次に歲出方面で主なるものは、經常部の小學校費金四十一萬四千三百三十圓、役所費金十七萬三千三百
四十九圓が多く、臨時部では公債費金四十四萬九千三百八圓、小學校營繕費金八萬三百七十三圓、事變關
係諸費金三萬三百六十三圓等である。
五
【右頁】
六
商工業
我が豐橋市内に於ける各種の營業は、生產者・問屋・小賣業を通じて大體百數十種に區別するを得べく
其の内最も主たるものを擧ぐれば
玉絲製造業、生絲製造業、麻眞田製造業、繭絲問屋業、繭絲屑物問屋業、再製絹絲業、罐詰製造業、材木商
米穀商、肥料商、呉服商、酒類商、味噌醬油商、履物商、菓子商、洋物雜貨商、足袋商、荒物雜貨商、乾物
商、薪炭商、運送業、家具商、魚類商、海產物商、鶏卵商、文房具商、糸類商、漁網商、靑乾物商
等である。
豐橋市を中心とする附近農村の繭の生產高は素晴しく、昨年十四年の生繭の市場出廻高は二十一萬四千
五百貫餘、價格金二百十六萬二千七百餘圓、東三乾繭組合への寄託分は七十八萬九千八百貫餘である。製
絲業の發展は實に驚くべきもので、就中、玉絲に至つては彼の本場の上州を凌駕し、所謂三州玉絲の特產
地として生產高は我が國玉絲總產額の約五割を占め、恰も長野懸諏訪湖畔に於ける生絲業と相並び本邦製
絲工業会の二大中心地として内外に知悉せらるゝ處である。東海道豐橋驛の西南に林立せる煙筒は何れも
其の工場であつて、地方の俗謠に『吉田鹿の子と昔は言へど今は玉絲日本一』とさへ謠はるゝのである。
然し乍ら當市が蠶絲業に於てかゝる發展を見た反面、他の工業にこれと並ぶものがないのは當市の最大缺
陷であるが、近時郊外南北兩重要施設と相待つて軍需工業も躍進途上にあり、更に他の大工業を移植して
多角工業都市を打ち立てることは誠に緊要事である。
【左頁】
豐橋市に於ける最も重要な工業物產としては第一に玉絲・生絲及繭絲屑物を擧げなければならぬが、之
れに次ぐは味噌・醬油・麻眞田・漁網・毛筆・再製絹絲等であつて、其の内麻眞田は我が國產中でも特殊
の地位を占め重要輸出品の一つであつて、外國婦人の夏帽専用の材料で製品の優良なるは本邦八個の組合
中群を抜いてゐる。亦毛筆の製造も遠く吉田時代より始まつたもので日露戰役後急激に發展し、其の產額
も今や廣島を凌駕せんとする勢ひを示し、製品の多くは東京方面へ賣捌かれてゐる。
次いで時局により相當影響を受けてゐるものもあるが、
菓子、酒類、蒲鉾、竹輪、海苔製品、木竹製品、履物、綿布製品、製綿、眞綿、吉田紬、淸凉飲料、乾物
甘藷、野菜
等も決して見遁すことの出來ない物產である。尚右各種の營業に就き工業方面から見れば、繊維工業・機
械器具工業・化學工業・飲食品工業・特殊工業・製作工業・土木建築工業其の他工業數及び職工數も却々
多數に上つてゐる。更に近來當市に於ても國策代用品の製造行はれ、其の主なるものを擧げて見ると
再製ゴム履物裏、皮革代用絹革、ブリキ罐代用利久凾、蓄音器針代用硝子針、綿紐代用ダイヤテープ、綿
代用羊毛「羽毛」、松脂油、パルプ綿代用皮革建築資材、合成樹脂製品、鐵筋コンクリート代用竹繊維等
昭和七年の隣接町村合併のために當市の主要物產の數量は何れも激增したが、就中、農業方面に顯著で
ある。合併前の農家數は八百三十九戸に過ぎなかつたが、最近の調査によると四千八百三十七戸、米の生
產高の如きは昭和十四年六萬七千六百十一石、金額二百八十九萬圓餘であつた。更に農產の主なるものと
しては米・繭・大麥・小麥・甘藷・大根・瓜類など數へなければなるまい。耕地も激增して、合併前には
七
【右頁】
八
田-四百三十二町歩、畑-四百十一町歩なりしものが、合併直後は田-三千八十三町歩、畑-二千六百九
十互町歩となつてゐる。之れが機關としては市農會を最高なるものとして、養蠶組合・家禽購買販賣組合
農業に關する產業組合がある。
然らば現今商工業方面に於ける機關はどうであるかと言ふと、商工會議所・魚市場・靑物市場・繭市場
乾繭取引所・全國乾繭倉庫聯合會豐橋出張所・日本米穀株式會社豐橋米穀市場・小賣市場・公設市場が設
立され、何れも目覺しい活動を續けてゐる。
市内に本店を有する諸會社の數は、本年六月末の調査によると、株式會社-百二十六、有限會社-一、
合名會社-五十三、合資會社-二百四十四、合計四百二十四であつて、市内に本店を有する會社の活動を
事業別にすると、鑛業三-資本金三百六萬圓、工業百二十六-資本金八百五十三萬八千七百七十圓、商業
二百六十-資本金九百六十五萬四百五十圓、運輸及倉庫業二十七-資本金一千五百十八萬六千五百圓、其
の他七-資本金六十二萬二千五百五十圓、總資本金額三千八百九十一萬四千七百五十圓(拂込二千七百七
十六萬八千五百七十圓)である。是れ等の會社は我が豐橋の產業界のために直接間接多大の利益を齎らし
てゐることは言ふ迄もないけれど、前述の狀況から觀察するときは、未だ豐橋に於ける資本の活動は甚だ
微弱なるを感ずると共に、吾人は將來我が事業界・產業界のために研究を費さなければなるまいと思ふ。
尚之れに直接重要な關係を有する金融界の狀況は大野銀行・愛知銀行・名古屋銀行・第一銀行・日本貯蓄
銀行・不動貯金銀行・岡崎貯蓄銀行・愛知懸農工銀行の各支店銀行により支配されてゐる。此の外信用組
合・金錢貸付業・質屋業・無盡業等數種の機關があつて商工業者及び勞働者のために便益を與へてゐる。
【左頁】
當會議所沿革
當會議所は明治二十六年三月二十五日の創立で、其の區域は當時の渥美郡豐橋町を主心に同郡田原町・
同郡豐橋村・寶飯郡下地町・同郡豐秋村・同郡牛久保町・同郡豐川村・同郡前芝村の八ヶ町村で、創立當
時は同町大字札木六十三番戸に事務所を置き、次いで大字關屋百五十番戸に移り、其の後明治三十五年五
月に同町大字上傳馬丙百十九番戸に移り、從來の區域を變更して更に花田村をも編入したのである。更に
明治四十一年十月一日の豐橋市大字西八町百三十七番戸に、大正四年二月十五日同市大字中柴乙百二十番
戸、同十年五月六日に同市大字本町二十九番地に、同十五年十月二日花田町石塚四十五番地の五に移轉し
たのであるが、市の發展に伴つて事務は益々繁劇を加ふると共に、多年の懸案であつた新築の機運熟し、
昭和三年一月二十八日の總會に於て同字四十二番地の一に、二ヶ年度に渉る繼續事業として工費六萬圓を
以て新築するに決し、四月六日地鎮祭を行ひ、同三十日起工、十月九日落成を告げ、同十六日移轉した。
此の間數次の變遷を重ね、隨つて役員の更迭も屡々行はれて居る。
而して最近五ヶ年間の經費豫算は、昭和十一年度金一萬六千三百圓、同十二年度金一萬六千五百圓、同
十三年度金一萬七千三百圓、同十四年度金一萬九千二百圓、同十五年度金二萬七千八百圓である。
尚、會頭・副會頭の異動は左の如くである。
九
【右頁】
一〇
就職年月日 會頭 福會頭
明治二十六年 加藤六藏 三浦碧水
同 二八年四月 三浦碧水
同 三十年九月 加藤六藏
同 三十三年七月 三浦碧水
同 三十三年九月 瀧崎安之助
同 三十四年六月 中尾十郎
同 三十四年九月 原田万九
同 三十四年九月 佐藤市十郎 遠藤安太郎
同 三十五年三月 遠藤安太郎 杉田久吉
同 三十八年五月十九日 遠藤安太郎 中西廣三郎
同 三十八年五月十九日 鈴木淸十
同 三十九年六月廿五日 大山復次郎
同 四十年十月一日 高橋小十郎 遠藤安太郎
原田万九
同 四十一年八月三十日 服部彌八
【左頁】
明治四十二年五月三日 服部彌八 原田万九
中西廣三郎
同 四十四年五月五日 田中田新 中西廣三郎
服部平之助
大正二年五月一日 田中田新 神戸小三郎
中西廣三郎
同 六年五月一日 白井直次 中西廣三郎
高橋小三郎
同 七年十月七日 高橋小十郎 服部彌八
中西廣三郎
同 十年四月十六日 高橋小十郎 服部彌八
山本安太郎
同 十二年九月廿八日 山本安太郎 服部彌八
河合岩次郎
同 十四年四月十六日 福谷元次 山本安太郎
神野三郎
一一
【右頁】
一二
昭和四年四月十五日 福谷元次 神野三郎
山本安太郎
同 五年三月七日 神野三郎 山本安太郎
同 五年三月十八日 河合孜郎
同 八年四月十日 神野三郎 河合孜郎
福谷藤七
同 十年四月二十日 山田芳藏
同 十一年九月四日 河合孜郎 内藤齋平
同 十二年四月八日 河合孜郎 山田芳藏
内藤齋平
同 十三年七月廿七日 加藤發太郎
同 十五年二月廿五日 河合藤四郎 白井淺治郎
【左頁】
主要産物 (昭和十四年市產業課調査)
生産總額
種別 昭和十四年度 昭和十三年度 昭和十二年度
工產物 -円 四九、六二六、三六六円 五一、六一一、五六二円
農產物 七、八二二、四五〇 五、四〇三、七五六 五、〇七四、九九二
畜產物 二、七九四、七一五 二、三一二、六〇一 一、五二七、九三六
水產物 二、五四三、七九五 二、二三一、五九七 一、九二七、六二二
鑛產物 一一三、三〇九 九五、七五九 九七、三八六
林產物 二八、〇〇〇 二七、〇一七 二四、〇五〇
計 - 五九、六九七、〇九六 六〇、二六三、五四八
玉絲産額 (三遠玉絲製造同業組合) 四月一日-三月三十一日
種目 昭和十四年度 昭和十三年度 昭和十二年度
組合員數 四〇人 四〇 四二
釜數 三、五七〇釜 六、五五七 六、八三五
生產數量 二九、六二七梱 二五、四八三 二九、四八一
生產價格 一九、一六九、〇〇〇円 九、四四〇、九七三 七、一六〇、二一四
一三
【右頁】
一四
海外輸出數 -梱 六三〇 四、七二四
内地販賣數 二九、六二七梱 二四、八五三 二四、七五七
生絲産額 (愛知懸製絲業組合東三支部)
種目 昭和十四年度 昭和十三年度 昭和十二年度
組合員數 一六七人 一六〇 一六〇
釜數 八、三二一釜 八、三〇四 八、四〇六
生產數量 五五一、六六七貫 五五、四二〇梱 五四、七〇一
生產價格 四七、一四〇、八二四円 二一、九七二、六五九 二〇、四〇七、八三三
海外輸出數 一五四、四六七貫 一六、六二六梱 一八、一二四
内地販賣數 四九七、二〇〇貫 三八、七九四梱 三六、五七七
麻眞田産額 (豐橋輸出麻眞田工業組合)
種目 昭和十四年度 昭和十三年度 昭和十二年度
組合員數 四六人 四六 四六
生產高 二、三三六、五二六反 四、一六一、五〇〇 五、六四一、三七三
生產價格 一、一〇八、三六九円 一、一五二、四三九 一、六六二、一五七
豐橋生繭取引市場取引高
【左頁】
春 繭 夏秋繭 合 計
年次 ┏━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━┻━━━━━━━┓
最高 最低 買馴 數量 金額 最高 最低 買馴 數量 金額 數量 金額
円 円 円 貫 円 円 円 円 貫 円 貫 円
昭和十四年 白 一二・〇〇 六・二〇 九・七一四 六七、五一一 六七四、九六九 一六・二〇 五・〇〇 九・七七七 一四七・〇三二 一、四八七、七五五 二一四、五四三 二、一六二、七二四
昭和十三年 白 五・四三 二・二〇 四・一〇四 六九、六二一 二九八、五一一 六・六五 二・三一 四・〇五一 一一四、一三六 五〇八、一八六 一八八、五三一 八二六、二二一
黄 五・〇〇 二・六〇 三・九四二 四、七七四 一九、五二四
昭和十二年 白 六・七三 四・〇〇 五・八八〇 九五、五九五 五六二、二六五 五・二九 一・五六 三・九七〇 一六八、一四一 六六八、〇一五 二八二、五九八 一、三三六、七四八
黄 六・三〇 二・八二 五・六五〇 一八、八五三 一〇六、四六八
豐橋倉庫出入貨物
入庫高 出庫高 殘 高
年次 ┏━━━━━━━━┻━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━┻━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━┻━━━━━━━━┓
數量 評價格 數量 評價格 數量 評價格
個 円 個 円 個 円
昭和十四年 八三九、一七六 五四、三三四、六一六 七六七、二八四 四五、三四四、七〇四 二一七、八一七 一二、六一九、五七五
昭和十三年 五九三、六七二 二二、二九四、四三九 五四九、五二一 二一、九三二、七三七 一四五、九二五 三、七二九、六六四
昭和十二年 五六一、六〇八 二二、二八七、八九七 五四七、二九四 二二、三一九、一二七 一〇一、七七四 三、三六七、九六二
一五
【右頁】
一六
物價と勞銀
一、豐橋市内諸物價卸値段
昭和十四年 昭和十三年
銘柄 單位 ┏━━━━┻━━━━┓ ┏━━━━┻━━━━┓
上半年平均 下半年平均 上半年平均 下半年平均
円 円 円 円
玄米 三河米 二等品 一石 三五・四二 四一・五四 三三・九八 三五・〇五
同 同 三等品 同 三五・〇二 三九・四一 三三・五二 三四・六〇
同 臺灣米 同 三一・六四 三七・二五 二七・〇六 二九・二三
同 朝鮮米 同 三六・二七 三八・四八 三四・〇二 三五・三〇
白米 三河米 二等品 同 三六・〇二 四〇・六二 三四・八八 三五・六六
同 同 三等品 同 三五・五二 四〇・四七 三四・三七 三五・一六
同 田糯三河產中等品 同 四二・七六 五〇・〇三 三七・八二 四〇・〇四
大麥 三河產 同 正味十二貫 七・〇五 七・一九 六・二六 六・二九
小麦 同 同 同 十六貫 一二・三七 一二・八三 九・七七 一〇・六三
裸麥 讃岐產 同 一石 二九・七〇 二八・一〇 二一・五三 二三・九七
搗麥 同 同 同 二七・四九 二八・七三 二四・四五 二五・一六
壓搾麥同 同 同 二五・一三 二五・八〇 二二・〇三 二二・三八
小豆 北海道 三等品 百斤入一俵 一四・九三 一九・七一 九・七八 一一・七四
大豆 大連 同 九・八四 一三・三三 八・一一 八・五九
【左頁】
食鹽 三等鹽 百瓩 五・七〇 五・七六 五・七〇 五・七〇
味噌 豐橋產 中 百貫匁 二六・三〇 三三・一五 二六・三〇 二六・三〇
溜 同 中引 一石 三七・〇〇 三七・〇〇 三七・〇〇 三七・〇〇
澤庵 同 中 一樽約十五貫 四・七八 六・七五 六・五五 六・八二
牛肉罐詰 上 四打入一箱 - - 二七・一七 二七・五〇
椎茸 一升(百匁) 一・六九 二・一二 一・四六 一・四八
高野豆腐 上 百個 一・四七 一・九一 一・五三 一・五七
海苔 中 百枚 二・一七 二・四三 一・七〇 一・九三
糸干瓢 十貫匁 七三・五六 五八・八三 二二・七二 五四・三三
靑板昆布 同 一二・五〇 二一・二五 九・五〇 一一・二二
寒天 信州 中 千本 三八・〇〇 六六・四〇 三〇・七八 三二・五〇
砂糖 上白糖 NO.2 百斤 二四・五九 二五・〇二 二三・三四 二四・三〇
同 分蜜 六マーク 同 二一・二四 二一・四二 二〇・〇二 二〇・八六
同 一等 琉球 同 一四・四一 一五・六三 一四・五五 一五・三五
氷砂糖上一等 旭印 同 三三・八〇 三三・八六 三一・二二 三三・〇二
鰹節 靜岡產 本節中 一貫匁 八・九六 一一・九二 六・九五 八・五四
中才煮干 十貫匁 一五・〇〇 二七・八三 一四・五八 一五・三三
鹽鮭 十貫匁一箱 一五・二八 二三・九五 一二・七一 一三・七五
鹽鱒 同 一二・五六 一八・七二 八・九五 一〇・五〇
竹輪 上 百本 五・三二 五・五八 四・七九 四・七九
一七
【右頁】
一八
蒲鉾 百個 二一・〇〇 二一・七五 一九・五〇 二〇・三三
鰻 大 十貫匁 五八・一七 五五・〇八 三一・六七 四一・〇〇
牛肉 牝 同 六四・〇三 六八・六一 四七・三〇 五六・八三
豚肉 骨付 同 三三・〇七 三二・八二 二六・三二 三〇・六六
鷄肉 中 同 四〇・五〇 四〇・三三 三一・四二 三五・三三
鷄卵 地廻リ 同 二七・四七 三一・七五 二二・三二 三〇・〇三
牛乳 同 一石 三五・〇〇 三五・〇〇 三〇・〇〇 三五・〇〇
サツポロビール 四打入一箱 一七・二一 一七・五七 一六・一八 一六・八二
月姫サイダー 同 九・〇四 八・三一 八・八〇 八・八〇
淸酒 白鶴 一駄 一五三・〇〇 一五五・〇〇 一四九・〇〇 一五一・〇〇
同 地廻リ 一石 九三・八三 一一五・〇〇 八五・〇〇 八七・〇〇
酢 名古屋產 丸勘印 同 二二・〇〇 二二・〇〇 二一・五八 二二・〇〇
茶 川柳 百斤 四五・〇〇 五五・〇〇 四五・〇〇 四五・〇〇
同 喜撰 同 六五・〇〇 七五・〇〇 六五・〇〇 六五・〇〇
小麥粉日本製粉 日ノ出印 二十二瓩一袋 五・四四 五・六八 四・七八 四・九四
同 日淸製粉 フラワー印 同 五・六七 六・一二 五・一八 五・四三
寒生麩 一貫匁 三・五〇 三・七四 三・四〇 三・四〇
食パン 百個 六・三七 六・三〇 六・四五 六・三八
晒飴 十貫匁 一二・六六 一七・一五 八・六六 九・二七
澱粉 北海道 一等品 十二貫匁 一一・三六 一四・六六 六・七三 八・二五
【左頁】
素麺 手延 十一瓩一箱 三・六五 四・二四 三・一一 三・四〇
綿 寧波 百斤 - - 七九・八〇 六〇・〇〇
眞綿 並爐角 十貫匁 四七八・三二 五四六・七二 三三八・八三 三九七・三三
綿糸 鐘紡 十六手 四十丸 一九九・七一 二〇四・三三 二一六・〇八 二〇二・〇二
同 赤三 二十手 同 二〇九・八八 二一四・三三 二二八・八二 二二九・六八
同 東洋紡 十六手 同 一九九・七一 二〇四・三三 二一六・〇八 二〇二・〇二
生木綿 三河產 百七十匁付 一反 二・〇四 二・〇四 一・三四 一・五五
晒木綿 中等品 同 ・九二 ・九二 ・七七 ・八三
モスリン生地 一號 上等 一碼 - - ・七九 ・九六
タオル 並 縞 一打 一・五〇 一・五〇 一・三〇 一・五〇
同 尺 一 同 一・六三 一・六五 一・三九 一・六〇
同 尺 二 同 一・七〇 一・七〇 一・四五 一・六八
同 尺 三 同 一・八五 一・八五 一・六五 一・八五
同 二尺 中上 同 四・九〇 四・九〇 四・四九 四・九三
メリヤス上下 中等 同 一四・七一 一六・七五 一一・三三 一六・三二
足袋 木綿 紺並 十足 - - 三・〇四 三・三七
同 同 白上 同 - - 三・〇〇 三・五七
同 キヤラコ白並 同 - - 二・七四 三・二五
同 朱子 黑並 同 - - 三・八三 四・八二
同 別珍 色物 同 - - 三・一七 三・九五
一九
【右頁】
二〇
足袋 地下足袋 十足 一一・二〇 一一・二〇 一〇・一八 一一・三〇
木炭 白 雜込 十五瓩 一・七五 一・九一 一・五八 一・七四
同 黑樫 丸割 同 一・八〇 一・九二 一・七一 一・七五
薪 樫類 上木 十貫匁 ・六七 ・八〇 ・六六 ・六七
石炭 二等 塊炭 一萬斤 一七〇・六六 一七〇・〇〇 二〇二・五〇 一九八・三三
同 同 粉炭 同 一四八・〇〇 一四八・〇〇 一五九・〇〇 一六一・一七
石油 錨印 裸二罐 七・三三 六・八〇 六・五〇 六・六三
鑛油 マシン油 同 六・八四 六・六〇 六・〇八 六・二二
胡麻油 古罐入一個 一七・八五 一八・六五 一四・二七 一六・二二
鰊粕 中 十貫匁 八・八二 九・八一 八・一四 八・一四
大豆粕 一枚 二・九八 三・七四 二・四四 二・五五
硫酸安母尼亞 十貫匁 三・九一 三・九三 三・八九 三・八四
過燐酸石灰 同 二・三八 二・一九 二・二六 二・二六
麬 五十斤一袋 三・三五 三・四三 二・五三 二・五四
藁 並 百貫匁 七・四〇 九・八六 八・七五 八・一七
干草 同 同 一五・〇〇 一四・九七 一五・八〇 一五・〇五
コールタール 四十磅 一・六四 二・一八 一・三一 一・四三
苛性曹達 百磅 一三・一六 一三・五〇 一五・三三 一三・〇八
洗曹達 八十磅 二・七〇 二・九八 二・三八 二・六〇
半紙 大付 石州 二千枚 九・六二 一〇・三〇 八・〇二 九・三〇
【左頁】
美濃紙 中 四百八十枚 四・九八 五・二〇 四・五二 四・八〇
印刷紙 上 一磅 ・二四 ・二五 ・二一 ・二一
大屑紙 中 百二十帖 六・四八 六・五三 六・六二 六・七三
毛筆 小書 百對 六・〇〇 六・三三 五・八七 六・〇〇
同 太書 同 九・〇八 一〇・三三 七・六三 八・五七
匁 匁 匁 匁
和蠟燭 一圓ニ付 一五二 一四四 一七〇 一八三
洋蠟燭 錨印 百斤 四九・〇五 五一・五五 四四・〇四 四八・〇〇
燐寸 細軸 二百四十個 二五・二〇 二五・二五 二二・〇八 二八・二二
石鹼 花王 一打 一・〇二 一・〇五 一・〇三 一・〇〇
香油 九重香油 一升入 三・六五 三・八〇 三・五五 三・五〇
蛇ノ目傘 三寸 上物 十本 八・七〇 八・八〇 七・五〇 八・一三
同 新上番傘 百本 五四・八二 七三・〇〇 四四・〇〇 四八・五〇
疊表 内山 十枚 一一・五八 一四・八三 八・三八 九・五〇
本同判 四寸皿 百個 二・八六 三・〇〇 二・六〇 二・六〇
摺鉢 瀬戸燒 中 十個 三・二三 三・六六 三・〇八 三・〇八
茶碗 同 百個 三・九六 四・五〇 三・三九 三・三九
和鐵釜 百枚 九一・六六 一一〇・〇〇 七〇・〇〇 八六・六七
和鐵鍋 同 九一・六六 一一〇・〇〇 七〇・〇〇 八六・六七
石材 幡豆石 乙號 百石 三四・六七 三九・一七 二八・〇〇 二八・〇〇
同 紀州延石 一才 一・二九 一・三七 一・一八 一・二一
セメント 小野田 百七十瓩一樽 四・一五 四・七六 三・八〇 三・九一
二一
【右頁】
二二
セメント 三河 百七十瓩一樽 四・一五 四・七六 三・八〇 三・九一
煉瓦 大形 一二等品 千本 二六・〇〇 二九・三三 一八・六七 二一・三三
同 小形 同 二四・〇〇 二七・三三 一六・六七 一九・三三
瓦 六四判 上目板並 百枚 七・〇〇 七・五〇 五・二五 五・〇〇
叩石灰 並 一叺 ・三八 ・四八 ・三〇 ・三二
角又糊 上 十貫匁 二六・五〇 二九・三三 二三・〇〇 二三・〇〇
苆 本晒 南京 同 一二・八三 一七・〇〇 七・五〇 八・五八
竹 四寸廻り 十本 ・六五 ・九二 ・五六 ・六五
檜丸太 三河產 二間尺〆 一本末口六寸以下 一二・五〇 一三・六六 九・〇八 一〇・〇八
松丸太 同 同 同 七・〇〇 七・三三 五・二五 五・五八
杉丸太 同 同 同 一一・五〇 一三・〇八 九・〇〇 九・五八
杉板 同 四分尺巾 一坪 一・五七 一・六三 一・二五 一・二九
檜柱 四寸角 二間中 百才 一二・五〇 一四・五〇 一〇・〇〇 一一・〇八
杉柱 同 同 同 一二・〇〇 一三・五八 九・〇八 九・七五
杉皮 並物 十束 三・二〇 三・一三 二・〇〇 二・五五
亞鉛引平板月星印 三十一番 十枚 一五・二一 一五・九五 一二・四九 一四・九八
同 浪板 同 一二・六八 一三・二六 一〇・五五 一二・四一
同 ブリキ板 一箱 三九・二七 三九・〇七 四〇・二二 三九・四三
丸釘 安田製 二寸 百斤一樽 一九・二一 一九・一三 一六・四三 一九・四一
亞鉛引針金 八番 八十四斤 一五・五〇 一五・五〇 一三・二三 一五・七九
硝子板 内地製 百平方尺 八・七六 九・四五 八・六五 八・七〇
【左頁】
二、豐橋市内日用品小價値段
昭和十四年 昭和十三年
品名 銘柄 單位 ┏━━━━┻━━━━┓ ┏━━━━┻━━━━┓
上半年 下半年 上半年 下半年
円 円 円 円
白米 一等米 十四瓩 三・七五五 四・二三二 三・八二〇 三・七二九
大麥 丸麥 一等品 一瓩 ・二五八 ・三〇一 ・二二八 ・二三二
改良麥 平麥 同 同 ・二五八 ・二七三 ・二二七 ・二三二
大豆 朝鮮 一升 ・三六五 - ・二九三 ・三〇七
味噌 別上 一貫匁 ・七一〇 ・七八〇 ・六五〇 ・六六〇
同 赤中 同 ・四一三 ・四七三 ・三一〇 ・三五五
醬油 ┳龜甲萬 二立 ・七五〇 ・七五〇 ・七四五 ・七五〇
┗地產(溜)八分引 一升 ・七五〇 ・七五〇 ・六五〇 ・七〇〇
茶 川柳 百六十匁一斤 ・六〇〇 ・六六七 ・六〇〇 ・六〇〇
酒 ┳白鶴 一升 二・三二一 二・三五〇 二・二六七 二・三〇〇
┗鶴正宗 同 二・一七二 二・二〇〇 二・〇八一 二・一五〇
麥酒 カブトビール 一本 ・三九六 ・四〇〇 ・三七三 ・三九〇
砂糖 特製 三盆白 百六十匁一斤 ・二七〇 ・二七〇 ・二五五 ・二六七
鰹節 本節 中等品 百匁 一・〇五〇 一・二七五 ・八七八 ・九六七
鷄卵 地玉 同 ・二九八 ・三四五 ・二六六 ・三三六
鷄肉 若雄 同 ・九七五 ・九三八 ・六九七 ・七六一
牛肉 内ロース 同 一・一〇〇 一・三四五 一・二〇〇 一・二五六
豚肉 ロース 同 ・七五〇 ・七五〇 ・七五〇 ・七五〇
牛乳 一合 ・〇七〇 ・〇七〇 ・〇六〇 ・〇七〇
二三
【右頁】
二四
澤庵 地產 百匁 ・〇三七 ・〇四三 ・〇四一 ・〇五〇
玉葱 同 ・〇四六 ・〇五六 ・〇五九 ・〇二九
甘藷 一貫匁 ・一七〇 ・三五八 ・一四五 ・一五六
馬鈴薯 百匁 ・〇四四 ・〇三三 ・〇二五 ・〇三一
鹽鮭 同 ・二七七 ・三一一 ・二一〇 ・一八六
鹽 三等鹽 一瓩 ・〇七五 ・〇七五 ・〇七五 ・〇七五
豆腐 一丁 ・〇四三 ・〇四五 ・〇四〇 ・〇四〇
高野豆腐 上物 十個 ・一六五 - ・一四〇 ・一四〇
椎茸 東海 上物 百匁 一・九〇〇 二・三三三 一・八四五 一・八四五
晒木綿 百五匁付 一反 - - 一・二〇八 一・三五八
綿縫糸 白四合 百匁 ・六〇〇 ・六二八 ・五九三 ・六〇〇
白モスリン 三千番 大巾一尺 - - ・四二七 ・四二〇
白縮緬 小巾一尺 ・四八八 ・四九〇 ・三五〇 ・三五〇
綿 打綿 上等 一貫匁 七・五〇〇 七・五〇〇 六・六一七 七・四八九
木炭 ┳白炭 十五瓩 二・〇〇〇 二・〇三二 一・六九七 一・八七五
┗黑炭 同 一・九四〇 一・九五七 一・八三一 一・九七四
薪 上木 同 ・八二〇 ・八五〇 ・八一一 ・八二〇
コークス 八貫匁一叺 一・八二一 一・九〇〇 一・八二二 二・〇五〇
中央半紙 四十枚一帖 ・〇五〇 - ・〇五〇 ・〇五〇
石鹼 花王 一個 ・〇九九 ・一〇〇 ・一〇〇 ・一〇〇
饂飩 白玉 同 ・〇四〇 ・〇四〇 ・〇四〇 ・〇四〇
足袋 キヤラコ丸文 一足 ・三八〇 ・四六二 ・二〇一 ・三五六
燐寸 細軸 十個入 一包 ・一二〇 ・一二〇 ・一〇六 ・一二〇
【左頁】
三、豐橋市内勞働賃金表
昭和十四年 昭和十三年 │ 昭和十四年 昭和十三年
業名 別収 ┏━━━┻━━━┓ ┏━━━┻━━━┓ │ 業名 別収 ┏━━━┻━━━┓ ┏━━━┻━━━┓
最高 最低 最高 最低 │ 最高 最低 最高 最低
円 円 円 円 │ 円 円 円 円
製絲工女 賄付 一・五〇 ・三〇 一・〇五 ・三〇 │ 活版┳植字 二・〇〇 一・二〇 一・八〇 一・二〇
製綿┳男工 二・五〇 ・七〇 一・〇〇 ・七〇 │ ┗文選 一・八〇 ・七〇 一・四〇 ・七〇
┗女工 ・九五 ・五〇 ・八五 ・五〇 │ 石版┳製板 二・三〇 一・三〇 二・三〇 一・三〇
旋盤工 七・〇〇 一・二〇 三・五〇 一・二〇 │ ┗機械方 二・二〇 一・二〇 二・〇〇 一・二〇
仕上工 七・〇〇 一・二〇 五・〇〇 一・二〇 │ 製本 二・五〇 ・五〇 一・一〇 ・五〇
鑄造工 五・〇〇 一・二〇 五・〇〇 一・二〇 │ 洋服仕立 二・六〇 ・八〇 一・七〇 ・八〇
鍛冶工 三・〇〇 一・二〇 五・〇〇 一・二〇 │ 製靴 二・〇〇 一・〇〇 一・五〇 一・〇〇
陶器┳男工 四・四一 ・六〇 二・五〇 ・六〇 │ 下駄 二・五〇 一・一〇 一・六五 三・一〇
┗女工 二・六三 ・四〇 一・一五 ・四〇 │ 製材 二・七〇 ・六〇 一・三〇 ・六〇
醸造┳淸酒 賄付 - - 一・二四 ・七六 │ 製凾 二・三〇 ・三〇 一・二〇 ・三〇
┗醬油 同 - - 一・四四 ・五〇 │ 指物 三・〇〇 一・五〇 - -
氷砂糖┳男 二・五〇 ・四五 二・一二 ・四五 │ 疊刺 二・二〇 一・八〇 - -
┗女 ・九五 - - - │ 製網女工 一・一〇 ・三八 ・八八 ・三八
製粉小麥 二・〇〇 一・〇〇 - - │ 毛筆製造 三・〇〇 一・五〇 二・八〇 一・五〇
和菓子製造 賄付 三五・〇〇(月) 一・九五 ・五〇 │ 大工 二・八〇 - 二・三〇 二・〇〇
雜菓子製造 同 二五・〇〇(月) ・七〇 ・五〇 │ 左官 三・〇〇 - 三・二〇 二・〇〇
二五
【右頁】
二六
石工 三・五〇 - 二・〇〇 二・五〇 │ 庭師 三・五〇 - 二・〇〇 -
ペンキ塗 三・五〇 - 二・〇〇 - │ 中仕(陸) 四・〇〇 - 三・五〇 -
瓦葺 三・七〇 - 二・〇〇 - │ 日雇┳男 二・二〇 - 一・〇〇 -
煉瓦積 三・〇〇 - 二・〇〇 - │ ┗女 一・五〇 - ・八〇 -
鳶人夫 二・七〇 - 二・二〇 一・九〇 │ 土工 二・二〇 - 一・五〇 -
豐橋市内組合銀行營業槪況
1、諸預金
年次 定期 當座 特別當座 各種預金 合計
円 円 円 円 円
昭和十四年末 二五、七八七、七六五 九、六六七、一五五 一〇、九一七、四六九 一六、一三八、〇一〇 六二、五一〇、三九九
昭和十三年末 二〇、四二三、一四三 五、四八三、六一〇 七、一〇九、三四八 九、六九九、五一五 四二、七一五、六一六
昭和十二年末 一七、二六二、一九一 四、四一二、五九六 六、三九二、九〇〇 八、二五一、一三六 三六、三一八、七九六
2、諸貸出及金銀在高
貸出金
年次 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 金銀在高
貸付金 割引手形 當座預金貸越 合計
円 円 円 円 円
昭和十四年末 十九、二三四、〇〇七 四、五一一、二三一 二、二五〇、二〇〇 二五、九九五、四三八 二、九五三、五〇六
昭和十三年末 一二、六三〇、九三六 一、八八四、四三六 一、九八五、八一六 一六、五〇一、一八八 一、〇七七、四二八
昭和十二年末 一一、八七八、三一九 一、五二三、五五七 一、五〇五、五〇三 一四、九〇六、九〇八 一、〇六四、九〇四
【左頁】
3、爲替手形
年次 送金取組高 送金支拂高 荷爲替取組高 荷爲替取立高 他所代金取立手形 當所代金取立手形
円 円 円 円 円 円
昭和十四年 一一三、六七〇、五七一 八六、一〇一、六二八 六四、四六五、一八〇 三六、二六六、三七三 五一、八八〇、五一二 五二、二三四、七六一
昭和十三年 六四、三一六、八一七 五三、六七七、〇一五 三二、三〇二、九一九 一八、七〇四、九五三 三四、八〇四、六一二 三八、七八九、〇一八
昭和十二年 五四、四四三、四一六 四七、三三四、一八三 三二、四三二、三六三 二〇、三六八、二四四 三三、四二二、八九八 三五、五九五、二六九
4、利子
定期預金(年利) 當座預金(日歩) 特別當座預金(日歩)
年次 ┏━━━━━┻━━━━━┓ ┏━━━━━┻━━━━━┓ ┏━━━━━┻━━━━━┓
最高 最低 普通 最高 最低 普通 最高 最低 普通
厘 厘 厘 厘 厘 厘 厘 厘 厘
昭和十四年 - - 三三・〇 - - 二・〇 - - 五・〇
昭和十三年 - - 三三・〇 - - 二・〇 - - 五・〇
昭和十二年 - - 三三・〇 - - 二・〇 - - 五・〇
5、手形交換高及不渡手形
手形交換高 不渡手形
┏━━━━━━━━━┻━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
年次 爲替手形 約束手形 小切手 合計
枚數 金額 ┏━━━┻━━━┓ ┏━━━━┻━━━┓ ┏━━┻━━┓ ┏━━━━┻━━━┓
枚數 金額 枚數 金額 枚數 金額 枚數 金額
枚 円 枚 円 枚 円 枚 円 枚 円
昭和十四年 一四一、〇二四 一三六、八二八、〇〇七 九 一、五〇八 三五 三〇、二〇一 - - 四四 三一、七〇九
昭和十三年 一二九、七六五 七四、九六四、三一三 一一 二、一六五 四四 七、三五五 一 三〇〇 五六 九、八二〇
昭和十二年 一二二、五一〇 五九、七九〇、三〇七 一〇 二、六六七 四五 一五、八五二 二 一五八 五七 一八、六七七
二七
【右頁】
二八
瓦斯(豐橋瓦斯株式會社)
延呎數 孔口數
┏━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┓ 引用戸數 ┏━━━━━┻━━━━━┓ 賣上瓦斯量
本支管 供給管 屋内 燈火用 熱用
米 米 米 戸 立方米
昭和十四年 四一、五三六 五二、二九五 八六、八六六 三、四八五 一、七三六 一〇、一三四 -
昭和十三年 四一、一九一 五一、七八八 八六、二一四 三、三五一 四、〇九九 九、八四九 -
昭和十二年 三九、三〇九 五〇、四六六 八五、六七一 三、二六四 四、一九一 九、三四九 -
豐橋乾繭取引所銘柄別淸算取引賣買數量
當限 先限
年度 ┏━━━━━┻━━━━┓ ┏━━━━━┻━━━━┓ 売買高 売渡高
最高 最低 最高 最低
円 円 円 円 貫 貫
昭和十五年 上半期 四二一・〇 三〇一・五 四〇八・五 二八八・九 一一、二二三、二〇〇 六九、六〇〇
昭和十七年┳上半期 二四五・〇 一四九・三 二五四・〇 一五三・七 一三、九七〇、六〇〇 六二、四〇〇
┗下半期 三五四・九 二一八・〇 三七五・〇 二一六・七 九、〇〇四、四〇〇 四一、七〇〇
昭和十三年┳上半期 一三四・七 一一二・二 一三三・八 一一七・〇 三、五二七、〇〇〇 一八、六〇〇
┗下半期 一五四・九 一一七・〇 一六四・六 一二一・一 六、〇二七、六〇〇 四五、七〇〇
昭和十二年 下半期 一六〇・五 一〇五・九 一六〇・四 一一六・二 三、五八三、六〇〇 一四、九〇〇
豐橋市内投宿人員
普通 木賃
年次 ┏━━━━┻━━━━┓ ┏━━━━┻━━━━┓
一ヶ年合計 一日平均 一ヶ年合計 一日平均
人 人 人 人
昭和十四年 七七、七九五 二一三 四、九一〇 一四
昭和十三年 六四、〇九六 一七六 五、三一二 一五
昭和十二年 六五、〇四七 一七八 五、六三九 一五
【左頁】
交通と通信
產業界現下の狀勢は大體以上の如くで、之れを大局から觀察すれば未だ幼稚であるが、我が豐橋の歷史
よりすれば實に此の二十數年間に於て驚くべき長足の進歩發達を遂げ、今や全く隔世の感を催すのである
之れは要するに、主として交通施設の影響に依るもので、事實上豐橋は東三河に於ける經濟及び文化の中
樞となつた。
表玄關たる豐橋驛を初め其の他各驛最近の發着貨物及び乘客の狀況は、大體逐年增加の趨勢を示し、市
内に於ける自動車の發達著しく、バスは當市を中心とし縱横に疾驅して居る。我が產業界は益々發展し、
市民經濟の向上亦顯著である。豐川鐵道の姉妹線とも言ふべき鳳來寺鐵道は、豐川線の終點長篠驛から北
設樂郡三輪村・川合間を運轉し、同鐵道鳳來寺口驛より鳳來寺村・海老町を經て北設樂郡田口町へ至る田
口鐵道、渥美半島を縱貫する渥美電鐵は、豐橋驛前から田原町を經て黑河原まで運轉してゐる。名古屋を
起點とする名古屋鐵道の市内乘入線は全通し、市内電車は豐橋驛から南は柳生橋、東は東田まで運轉し、
大いに便宜を與へてゐる。三十有餘年來の懸案であつた三信鐵道は昭和十二年八月全線の開通を見、海の
日本と山の日本とを横斷し、信州飯田市へは僅か三時間餘を以て達し、伊那電氣鐵道に依り中央線辰野驛
に連絡、裏日本と表日本とを結び付ける幹線で、豐川稻荷・鳳來寺・善光寺等を參拜する善男善女は勿論
一般旅客の往來は頻繁となり、更に豐橋と濱名湖北を結ぶ國鐵二俣線は、昭和十五年六月一日豐橋・二俣
二九
【右頁】
三〇
間の全通式を擧行し、東海道本線の一翼として時局下軍事產業運輸の重大使命の下に東海道線掛川驛との
連結完成し、豐橋驛は貨客の輸送に狭隘を告ぐるに至り、今や驛舍並に構内の擴張工事中である。
斯くて豐橋は忽ち四通八達の要地として急激なる都市的膨脹を來し、市民の產業生活・文化生活の發展
充實に相應じて通信の繁激を加ふると共に、又其の機關の整備と之れが利用及び取扱ひの敏速を要するは
當然のことである。
尚、水運方面に於ては柳生川運河の完成に引續き、豐川改修並に豐橋港修築は愈々其の緒に就き、完成
の曉に於ける當市の發展誠に多幸なるものがある。
豐橋市内各郵便局郵便物
┏━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃年次 ┃書留 ┃小包 ┃價格表記 ┃
┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━━━━━┫
┃ ┃引受數 ┃配達數 ┃引受數 ┃配達數 ┃引受數 ┃配達數 ┃
┣━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━┫
┃昭和一四年┃一七四、二六〇┃二〇〇、七八〇┃一九八、二四五┃一七七、〇〇三┃ 六、六二三┃ -┃
┃昭和一三年┃一六二、二〇八┃一八一、一三八┃一八二、〇三一┃一六五、五六四┃ 六、五〇五┃ -┃
┃昭和一二年┃一五〇、九五四┃一六〇、三一〇┃一四六、七〇一┃一三四、四八七┃ 六、〇七四┃ -┃
┗━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┛
豐橋市内各郵便局郵便爲替
【左頁】
┏━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃年次 ┃内國爲替 ┃外國爲替 ┃計 ┃
┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃ ┃振出高 ┃拂渡高 ┃振出高 ┃拂渡高 ┃振出高 ┃拂渡高 ┃
┃ ┣━━━━━━┳━━━━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━━━━━━━╋━━━┳━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━┳━━━━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━━━━━━━┫
┃ ┃口數 ┃金額 ┃口數 ┃金額 ┃口數 ┃金額 ┃口數 ┃金額 ┃口數 ┃金額 ┃口數 ┃金額 ┃
┣━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃ ┃ 口┃ 円┃ 口┃ 円┃ 口┃ 円┃ 口┃ 円┃ 口┃ 円┃ 口┃ 円┃
┃昭和一四年┃七七、二八四┃二、二六〇、八一一┃一〇〇、九〇〇┃二、八八三、〇〇三┃ 六七┃ 六、〇六二┃二、二一三┃一〇六、九三九┃七七、三五一┃二、二六六、九七三┃一〇三、一一三┃二、九八九、九四二┃
┃昭和一三年┃七二、〇三九┃一、七三二、五八九┃ 九三、三八五┃二、三一一、四九九┃一〇三┃一〇、〇九五┃一、五四二┃ 五六、九五四┃七二、一四一┃一、七四二、六八四┃ 九四、九二七┃二、三六八、四五三┃
┃昭和一二年┃六八、七九二┃一、七〇三、二六七┃ 七九、七九八┃一、七七〇、〇五二┃ 一六┃ 五一〇┃ 六四五┃ 二一、六八七┃六八、八〇八┃一、七〇三、七七七┃ 八〇、四四三┃一、七九一、七三九┃
┗━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━┻━━━━━━┻━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━┛
豐橋市内各郵便局郵便貯金及振替貯金
┏━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃年次 ┃郵便貯金 ┃振替貯金 ┃
┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃ ┃預入高 ┃拂戻高 ┃振出高 ┃拂渡高 ┃
┃ ┣━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━━━━━━━╋━━━━━━┳━━━━━━━━━╋━━━━━━┳━━━━━━━━━┫
┃ ┃口數 ┃金額 ┃口數 ┃金額 ┃口數 ┃金額 ┃口數 ┃金額 ┃
┣━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃ ┃ 口┃ 円┃ 口┃ 円┃ 口┃ 円┃ 口┃ 円┃
┃昭和一四年┃一、二九三、七四一┃一一、三〇七、三七四┃一五七、一二七┃八、六四一、三一七┃五九、五四〇┃四、一〇二、三一三┃一九、五一二┃二、二三四、九一六┃
┃昭和一三年┃ 七七八、二三四┃ 八、〇八二、二八九┃一四二、八七〇┃六、七三九、八四四┃五一、二二七┃三、七一九、六一三┃一六、五六六┃一、六九四、八六八┃
┃昭和一二年┃ 四三七、二七三┃ 六、五七五、四六四┃一三六、六六〇┃六、三九二、六〇三┃四七、〇九一┃二、〇七〇、九二八┃一三、七〇四┃一、一五七、〇一七┃
┗━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━┛
豐橋郵便局郵便切手・葉書・収入印紙賣捌高
┏━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃年次 ┃郵便切手 ┃郵便葉書 ┃収入印紙 ┃
┃ ┣━━━━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━┫
┃ ┃枚數 ┃金額 ┃枚數 ┃金額 ┃枚數 ┃金額 ┃
┗━━━━━┻━━━━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━┛
三一
【右頁】
三二
┏━━━━━┳━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓
┃ ┃ 枚┃ 円┃ 枚┃ 円┃ 枚┃ 円┃
┃昭和一四年┃一〇、六八八、六四一┃五七七、三七一┃八、五五〇、三九七┃一九八、三四三┃一、二〇一、五七九┃三五七、三八八┃
┃昭和一三年┃一〇、三二六、四〇二┃五一二、六四三┃六、八五三、〇七九┃一三四、二三二┃一、〇四六、四六二┃二七一、一三二┃
┃昭和一二年┃一一、二六四、一四五┃五〇二、六八〇┃七、四八一、二一三┃一七三、二一五┃一、〇五八、八六三┃二五三、五五九┃
┗━━━━━┻━━━━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━┛
豐橋郵便局電話通話數
┏━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━┓
┃年次 ┃單獨加入者數┃市内通話數 ┃市外へ通話數 ┃市外より通話數┃
┣━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━┫
┃昭和十四年┃ 三、一五七┃二二、五八八、八六八┃七三一、〇四七┃七六八、九四五┃
┃昭和十三年┃ 三、一四二┃二一、七七九、九九五┃六三七、七二一┃六七三、二五六┃
┃昭和十二年┃ 三、〇四六┃二一、〇九四、一八三┃五八三、二六五┃六〇五、八九〇┃
┗━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┛
豐橋郵便局電報發着數
┏━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃年次 ┃内國電報 ┃外国電報 ┃
┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━╋━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━┫
┃ ┃發信 ┃着信 ┃中繼信 ┃料金 ┃發信 ┃着信 ┃中繼信┃料金 ┃
┣━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 円┃ ┃ ┃ ┃ 円┃
┃昭和一四年┃一一四、五二〇┃一九二、八一六┃一六七、六七〇┃四三、三五三┃二六六┃二二三┃ -┃二、六四〇┃
┃昭和一三年┃一〇四、七四一┃一七二、一五〇┃一五四、四一二┃三八、九九九┃二二二┃二八三┃一〇五┃一、三八五┃
┃昭和一二年┃一六五、四五二┃一九三、七六三┃一三四、三八一┃六〇、五〇六┃四四七┃四〇八┃ 一五┃三、二一三┃
┗━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━━━━┛
【左頁】
宗敎敎育
我が豐橋市の敎育は輓近著しく進歩發展の域に達したけれども、一般の狀況に就き、殊に施設上のこと
に關しては未だ到底滿足することが出來ないのである。本年四月末現在によれば、市内には縣立豐橋中學
校・縣立豐橋第二中學校・市立商業學校・市立高等女學校・市立女子商業學校を始め、二十四の小學校と
補習教育のため設けられた商業専修學校と靑年學校がある。此の外豐橋高等家政女學校・豐橋松操女學校
・豐橋高等實踐女學校・愛知高等和洋女學校・豐橋盲啞學校・豐橋速算學校・看護婦產婆學校等の私立學
校、豐橋幼稚園・花園幼稚園・小百合幼稚園等があり、此の外に市立圖書舘・動物園、更に敎育關係の事
業を企畫實行し、又は直接敎育の研究を目的とする市敎育會並に敎育協會がある。
次に財團法人豐橋育英會は昭和二年十月設立せられ、將來有爲の人材を養成する爲め廣く育英資金を募
り、學資の關係上廢學にならんとする者に貸費補給を爲し、更に進んで右補給生及び豐橋出身の學生の爲
めに全國六大都市に寄宿舍を設立し、各自の負擔を減じ向學の便を圖つて居る。其の他生活の改善を高唱
し、社會に貢獻する所極めて大なるものがある。其の外幾多の敎育及び學術研究が行はれ、何れも相當効
果を収めてゐる。
次には宗敎方面であるが、豐橋市民の宗敎心は果して如何に陶冶されてゐるであらうか、玆に之れを具
體的に述ぶることは劫々困難であるけれども、比較的正しい批判力の下に、自由信仰の態度を取つてゐる
三三
【右頁】
三四
様に見受けられるのは、何んとなく嬉しい感じを起させる。而して本年四月現在市内に於ける神社の數は
百十七社で、其の内縣社が二社、鄕社が四社、村社が七十一社、無格社が四十社。尚寺院は總て百二十六
ヶ寺、之れを宗派別にすると、曹洞宗-五十一ヶ寺、淨土宗-二十九ヶ寺、法華宗-三ヵ寺、眞言宗-六
ヶ寺、天臺宗-一ヶ寺、臨濟宗-二十一ヶ寺と、外に眞宗大谷派本願寺別院の一ヶ寺で、其の他神道敎會
-四十三ヶ所、佛道敎會・同說敎所-九ヶ所、基督敎會-六ヶ所と言ふ狀態である。然し飽海時代卽ち鎌
倉期以前に於ける神戸(今の豐橋地方を言ふ)のものとしては、中八町縣社神明社、羽田御厨のものとし
ては湊町の鄕社神明社並に薑御園のものとしては、東田町の鄕社神明社などが顯著なもので、尚飽海時代
に創立された神社には關屋町縣社吉田神社・東八町八幡神社・花田町鄕社八幡社・岩崎町村社神明社、次
いで岩田町村社神明社・魚町安海熊野神社・新錢町村社白山比咩神社・岩崎町村社鞍掛神社の八社あり。
寺院には西竺寺・妙德寺・正琳寺等があつたけれども多くは旣に廢滅に歸し、今日遺跡の殘つてゐるもの
は獨り正琳寺のみである。又建築の最も古いものを謂へば、寛文二年の建設に係る龍拈寺の鐘樓、次に延
寶二年の建築で新錢町天神社の拜殿、それから貞亨二年で神宮寺の本堂、元祿二年で龍拈寺の觀音堂、同
六年で龍拈寺の樓門、同七年悟眞寺の本堂、同十年神宮寺の樓門、同年末淨圓寺の庫裡などである。淨圓
寺の本堂も元祿以前の様に傳へらるゝが如何せん明確でない。外に神宮寺の護摩堂は寛永二十年、別院の
鐘樓は同二十一年の建築であるが、何れも後世の修善が著しく、原形を殘してゐる部分は少ない様に考へ
られると同時に、之れを純の藝術として誇るに足るものは殆んどない。
【左頁】
社會事業
歐州戰亂以來世界思潮は急激なる變化を來し、社會政策の氣運頓に勃興し、諸般の行政一つとして此の
問題を度外に置くことが出來なくなり、社會事業調査員會も組織され、各種の社會施設に關し其の研究實
行に着手したのである。されど所謂其の社會事業なるものゝ範圍は實に廣範多岐であつて、今俄かに凡ゆ
る方面に亘り之れが研究施設を爲すを得ないから、逐次其の充實を期せんとする模様である。市は行路病
者・窮民及び軍事の救護や罹災救助は之れ迄よりも一層完全にすると共に、人事相談・失業者の救濟及び
細民調査の隣保同化事業、尚進んでは無料診療所なども實施しつゝ、更に此れ等關係方面の研究の歩を進
めてゐる。社會事業は總て事實に立脚しなければならない。現狀を曝露して識者の考慮を促すのは今日の
最も急務とする處である。社會狀態の調査研究は從來餘り重きを置かなかったのであるから、將來大いに
此の方面に努力を拂つて貰はなければならない。社會組織の缺陷から來る落伍者の數が、物質文明の進歩
に伴ひ、年と共に激增の勢ひを示し且つ其の多くは集團を成して、所謂細民地區なるものさへ形成するに
至るのである。社會的疾患は之れから生ずるので、之れを治療することは一面には各個人生存權の人道上
の要求に合致し、他面には社會自衞又は社會向上に缺くべからざる處で、又都市改良の根本義であらねば
ならぬ。此の意味からして各種事業の施設計畫中、豐橋市役所内に設けられた方面委員事務所は其の成績
大いに見るべきものがある。豐橋市新川公設市場・松葉公設市場及び公益質屋は旣に開設せられ、めざま
しき活躍を爲してゐる。尚、小住宅の建設・簡易食堂の社會的施設に着手せられんことは望ましく思ふ。
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殊に最も注意すべきは市内に於ける救濟施設の助成監督であつて、今其の旣設事業を分類すれば、育兒感
化及び託兒人事相談等を兼ねて居る東田の有隣財團と、豐橋盲啞學挍等其の主なるものであるが、尚本市
施設の無料宿泊所も好成績を擧げて居る。之れ等は周到なる社會現象並に其の原因の調査に基き、統制的
有機組織に依つて一齊に其の歩を進め、共同責任の觀念に依つて根本的に之れが改善向上を企圖しなけれ
ばならぬと思ふ。此の外豐橋方面事業助成會の經營する保育園三ヶ所、其の他の經營する保育園も數ヶ所
設立されてゐる。
次に、社會事業の範圍に入らないかも知れないが、愛知國防義會豐橋支部・帝國軍人後援會豐橋支部・
海軍協會豐橋市分會・豐橋市銃後奉公會・大日本國防婦人會豐橋市支部・愛知懸商工團體銃後後援聯盟豐
橋支部等によつて、我が國家の爲めに生命を賭して働く將士並に家族の慰問・後援を行つてゐる。
土木衞生
輓近豐橋市及び接續町村の急激なる人口增加の趨勢並に商業の殷賑・工業の隆昌、其の市及び町村部落
を通じ、蔚然勃興の氣運を釀成せる產業の發展に伴ひ、人車の交通・貨物の集散愈々繁劇の度を加へ、隨
つて交通機關の整備改善は蓋し急務中の急務に屬するので、市當局は之れ等交通の狀態に鑑み、豐橋市を
中心として各道路の改善、其の幹線の連絡並に主要鐵道停車場を連絡する主要道路の改善に關しては銳意
之れを企圖すると共に、地方開發に必要なる道路の改修を計畫し、時運に伴ふ施設を完ふせんことを頻り
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に研究調査を重ね、極力目的達成に努力した結果、昭和七年度より三ヶ年繼續第一期事業として、東部商
業地帶と西部工業地帶とを聯絡する跨線道路橋並に地下道の施設は完成し、更に第二期事業として前記連
絡道を基本として築港地帶と聯絡し、以て郊外重工業地帶と市の外廓重要路線を聯絡して物資の集散に便
ずるもの等の數線を選定し、之れを都心地帶より放射すると共に、一面本市の玄關たる驛前廣場の擴築を
行ひ、其の他須要路線の新設或は改築を行ひ以て市區の改正をなし、同時に交通系統の圓滑なる運用を期
し、更に市を中心とする南北郊外に於ける重要施設は着々進捗しつゝあるが、之れに伴つて將來この方面
が商工業地帶として飛躍的發展をなすであらうことを豫想され、且つ國防的見地からも一大都市計畫の實
施を見んとしてゐる。
上水道は大正十五年六月三十日市會を經て諸般の準備を整ひ、昭和二年七月十八日起工式擧行以來月を
閱する三十三にして、工費二百六十有餘萬圓を以て完成を告げ、同五年三月二十九日通水式を行つたが、
工事の槪要は本市を環流する豐川の伏流水を水源とするものであつて、市内下條字西町三ノ下地先、同川
本流の河底に集水埋渠を構築し、同河畔の送水場喞筒井に導流し、同所より新設送水管路及び縣・市道を
經て東南三十三町を距る多米町字小鷹野の瀘過池に送り淨水となし、同所内の高揚喞筒で淨水場を距る東
八十間の高地給水場内配水池に送り、是れより計量室を經て自然下法により市街地の給水區域に送り、將
來人口增殖十六萬に達するも、送水及び配水管の增設並に相當附加工事を施すに於ては、給水に應ずべき
設備である。
本市の地勢は東方より西方に向つて傾斜するも、市街地は槪ね低地部に屬すると、市内街地では河川・
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溝渠の配置が尠いので排水不便であつて衞生上極めて不良で、傳染病患者數等も亦相當多いので、本市衞
生改善の見地より下水道の計畫は焦眉の急を感ずる所となつてゐたが、昭和七年一月より着手せられ昭和
十一年三月竣工した。總經費三百七十四萬四千八百八十九圓といふ、當市にとつては未曾有の尨大な土木
事業で、彼の上水道よりも五十數萬圓多い。下水の排水は牟呂用水路を境として一は柳生川へ、他は豐川
へ放流せられる。其の中、豐川に入る汚水は一旦處分場に於て淨化を行ふことになつてゐる。此の事業は
本市衞生の改善の見地より喜ぶべきことであることは言ふ迄もないが、又失業救濟の効果も極めて顯著で
ある。
尚、總費十七萬圓を要した市公會堂は、昭和六年八月其の竣工を見た。總建坪三百五十餘坪、其の近世
式文化的設備と、其の壯麗なる様式とは永く豐橋市の誇りである。
名所舊蹟
今橋城-戸田・今川の爭鬪-家康と織田氏-
城主の交代-最後の藩主-吉田城趾
今の豐橋を吉田と稱へたのは天文年間から明治二年迄で、其の以前は今橋と謂つた。當時三河の國の守
護は吉良氏であつたが、文明の頃に至つて牧野古白が此の今橋に築城したのである。然るに永正三年八月
駿河の今川氏自ら軍を率ひて今橋城を攻めた。古白は城に據つて死守すること六十餘日、惡戰苦鬪を續け
たけれど力遂に及ばずして自殺するに至つた。是に於て城は一時田原城主戸田彈正憲光の一族、戸田金七
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郞の有となり、其の後大永の始め頃に至つて、古白の遺兒傳左衞門成之と傳藏信成の爲めに再び取り返さ
れた。程なく成之は隱居して信成其の後を襲つたが、亨保二年岡崎の松平淸康大擧して此の城に襲來し、
信成は一族郞黨と共に下地に於て戰つたが武運拙くして遂に戰死し、城は一時松平氏の有に歸した。然る
に天文四年吉田時代に至り、淸康の守山崩れ以後は復び戸田金七郞の有となり、爾來十有餘年間舟形山一
帶の山脈を境界として、戸田・今川兩氏の爭鬪が絕へなかつたが、天文十五年遂に今川義元の範圍に入つ
たのである。處が永祿三年五月桶狹間の戰に於て義元戰死した。其の時德川家康はまだ松平元康と言つて
今川方の味方であつたが、其の翌四年に至つて義元の故氏眞との間に不和を生じ隣交は斷絕となつた。其
の頃吉田城には今川氏の將小原肥前守鎭實が居つて、東三河に於ける諸將の人質を此の城に預つて居たが
家康に屬したものは悉く龍拈寺口と言ふ處で殺して仕舞つた。家康が岡崎から大擧して此の城を攻めたの
は永祿七年の初めであるが、其の頃今の豐橋市の東部に當る仁連木にも城があつて戸田主殿介重貞が居つ
た。此の重里も早くから家康に心を寄せて居たが、何分にも其の母が人質として此の城に容れてあつた爲
め反旗を飜す前に先づ母を奪ひ戻さなければならないと考へ、種々工夫をした末に首尾よく目的を達した。
家康は翌八年鎭實を亡ぼし、此の城を酒井左衞門尉忠次に與へた。斯くて程なく今川氏は衰へ三河は勿論
遠江全國までも德川氏の有に歸するに至つたが、其の代り今度は追々甲州から武田氏の侵入が始まつた。
卽元龜三年十二月信玄軍を率ひて遠江の三方ヶ原に於て戰つたが、此の合戰は德川氏の大敗となつた。
信玄は勢ひに乘じ更に三河に進入し、天正元年正月南設樂郡の野田城を陷れたけれど、此の戰の爲めに逝
去するに至つたのである。然るに天正三年四月其の子勝賴大兵を擧げて仁連木城を襲ひ、續いて吉田城に
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迫つた。夫れから長篠の合戰となつたが、今度は武田方の大敗となり、之れが原因で天正十年三月織田信
長と家康との爲めに根據を侵略されて、武田氏全く滅亡するに至つたのである。其の年六月織田信長は本
能寺に於て明智光秀に殺され、之れより秀吉の舞臺となつた。秀吉と家康は小牧山で一度戰ひを交へたけ
れど程なく相和し、天正十八年秀吉が小田原に北條氏を征伐したときにも、家康も國を明けて秀吉に捧げ
自分も之れに從軍した。其の役の終つた處で家康は秀吉の爲めに關東へ移封せられたのである。此のとき
に忠次は旣に隱居し其の子家次が相續して居たが、之れも家康に從つて上州碓井の城へ移つた。家次の後
へ來たのは池田三左衞門輝政で、牛久保・新城・田原の三城も其の配下に屬し、知行十五萬二千石を領す
ることゝなつた。仁連木城は此のとき廢止されたのである。然るに慶長五年關ヶ原の合戰後、輝政は功を
以て播州姫路五十二萬石に封ぜられ吉田城を去り、其の後を繼いだのが松平玄蕃頭家淸であつた。封祿三
萬石。其の後慶長十七年に松平主殿介利忠、寛永九年に水野隼人正忠淸、同十九年に水野監物忠善と屢々
城主の更迭があつたが、祿高は矢張り多い處で四萬五千石位のものであつた。正保二年小笠原壹岐守忠知
城主となつたが、夫れより長矩・長祐・長重と四代の間繼續した。小笠原氏に次いで元祿十年久世出雲守
重之が來たが、之れも在城十年にして寛永二年牧野備前守成春と交代した。成春の次は其の子大學成英で
牧野氏に代つて此の地の城主になつたのは大河内氏である。大河内氏は正德二年信親の時代に初めて古川
から移封されて來たのであるが、享保十四年一度濱松へ轉封になり、之れに代つたのが松平豐後守資訓で
之れも寛永二年になつて再び大河内氏と交代になつた。封祿七萬石。當時大河内氏は信親の代であつたが
夫れから信禮・信明・信順・信寶・信璋を經て信古に至つた。之れが最後の城主で、吉田城趾は今の中部
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第六十二部隊の營舍のある處である。
仁連木城-其の來歷と宗光-重貞の戰死-
天正の戰-康長の戰功
東田の北に朝倉川と言ふ小川が流れて居る。之れは蟬川の下流であるが、此の川に臨める高地に仁連木
城の舊址がある。此の城の來歷に就いて種々な說があるけれども、明慶年中戸田彈正左衞門尉宗光の築い
たものであると言ふのが事實らしい。宗光が初め碧海郡上野の城に居たが、寛正六年五月德川家康から七
代目の祖に當る松平和泉守信光と共に室町幕府の命を受けて、三河國内の一揆を平定したことは蜷川親元
の日記などにもあつて有名な話である。宗光は其の後居を渥美郡の老津に移し、更に一色氏の後を襲いで
永正十三年の頃田原に根據を構へたが、其の後更に時を得て此の仁連木にも城を築き、田原をば其の子憲
光に委ねて自分は此處へ移つた。それは多分明慶初年の頃であると思ふ。宗光卒去の後は憲光及び其の次
男吉光も此處に居城した事實がある。其の後は此の城も暫らく放棄されてあつた様に考へられるが、天文
十年に至つて憲光の曾孫に當る丹波守宜光が牛窪の加治村から之れを再興したのである。永祿七年吉田城
から其の母を奪ひ返した主殿介重貞は卽ち其の子であつた。重貞は其の年の十一月吉田城攻めに於て戰死
したので其の後を弟の甚平忠重が襲いだ。然るに之れも又永祿十年五月病歿した。當時其の子の康長はま
だ六歲の子供であつたから、一族の戸田傳十郞吉國と言ふ人が之れを扶けて陣代となつた。卽ち元龜三年
武田信玄の襲來に方つても天正三年五月武田勝賴の來攻に際しても共に吉國後見の時代であつたが、其の
家臣等の奮鬪によつて天正の戰ひには敵首十八級を得、以て家康の臺覽に供したと傳へられて居る。之れ
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より先康長は松平の姓を賜はり、家康の同母妹久松氏に配したのであるが、後屢々德川氏の爲めに戰功を
立て、天正十八年家康の關東移封と同時に武藏國東方一萬石に封ぜられたのである。爾來仁連木城は遂に
廢城となつて今日に至つたのであるが、今は大口喜六氏の所有地であつて一部農園となつてゐる。
豐川の淸流-古名の色々-橋梁移轉-地子御免
-貨物の運上-舊幕時代の湊
豐橋の架つて居る川が卽ち豐川である。其の源は北設樂郡段戸山に發し、南流して段嶺村を過ぎ作手川
を容れて寒狹川となり、南設樂郡長篠村に至りて三輪川を合し、更に西南に流れて寶飯・八名・豐橋二郡
一市の界を爲し、前芝村に至つて渥美灣に入るのであるが、延長凡そ十七里である。この河の古名を飽海
河と謂ひ、後吉田川とも言つたが、近世一名姉川の稱があつたが併し此の名は餘り世に知られて居らぬ。
昔、飽海鄕と渡會鄕との間に志香須賀と言ふ豐川の渡しがあつたが、地形の變遷が甚しいので今其の位置
が明かでない。元は此の名を然菅と書いたが、中世から白菅の字を訛用したるものと思はれるが、其の後
又更に鹿菅などとも書かれて居る。豐橋を渡れば市内下地町である。橋の此方が船町で、この町は池田輝
政の橋梁移轉に依つて漸次發展を來したものであるが、船乘又は運送渡世の者が多かつたので、慶長五年
關ヶ原の役には城主輝政の命を受けて伊勢の津又は松坂等へ往來したのである。夫れが緣故となつて爾來
引續き藩主から船役を命ぜられ、地子御免の上此の河に輸入する貨物の運上を取ることをも認められて居
たのである。而も舊幕時代には此處以外豐川沿岸の地に湊を許されなかつたから、伊勢又は尾張地方に交
通する船舶は常に川下に輻輳して、船町の繁昌は著しかつたものであつた。
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豐橋名代行事
笹踊-煙火-鬼祭
元祿時代と言へば誰も知らぬものはない江戸全盛の時であるが、其の驕奢な風は地方にまでも流れて來
たので、彼の吉田の煙火なども此の頃から盛大になつた。勿論此の煙火は關屋町縣社吉田神社の祭禮に於
て行はれたのであるが、元同社の神官であつた石田家の記錄に依つて見ると、初めて建物(花火の一種)
の大きなものが出來たのは元祿十三年のことで、長さ十三間、幅三間半で其の費用は二十四兩かゝつたと
してある。舊幕時代には祭禮中本町の通行を禁じ市街に於て打揚げたものであるが、今は社前と豐川の水
上に於て行つて居る。又同祭禮に要する本町の山車に幕の出來たのも元祿十六年のことであるとしてある
が、萱町から出る笹踊の裝束も元は木綿の浴衣であつたのを元祿に入つて絹更紗染に改め、其の十七年に
至つて緞子のものが出來た様子である。それのみならず、右の記錄の中には其の笹踊を囃す爲めに大太鼓
や小太鼓の打手の中に頗る名人が出來たと言ふことが詳しく記してある。吉田神社の祭禮は每年七月十三
日より三日間であつて吉田神社の風流を偲ぶ。十三日神前で行はれる大筒・手筒、十四日豐川の淸流で打
揚する打揚花火、十五日の笹踊は古への田樂の遺風で、十騎の武者行列・賴朝の姥・饅頭喰ひ等は今なほ
此の祭に行はれる天下名代のものとなつてゐる。此の外豐橋市に於ける年中行事として主なるものは中八
町縣社神明社の鬼祭である。此の社の例祭は每年二月十四日・十五日兩日を以て行はれ、俗に之れを鬼祭
と稱へて居るが、其の式は天狗の面をつけ烏帽子小具足を着けた武者が赤鬼を追ひ拂ふのである。此の外
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田樂の遺風である四天師のチンバ踊・笹良子のポンテンザラの神事を始め、黑鬼や榎玉爭ひの神事、お頭
様の渡御になる順序で、此の神事は極めて奇なる祭で全國に其の例を見ること稀である。
附近町村を探ねて
豐川・鳳來寺鐵道沿線-豐橋以西-豐橋以東-
渥美電鐵沿線-八名方面-ハイキングコース
我が東三河は古い歷史を有つて居るだけに、今尚王朝以來の遺跡を始め室町期卽ち群雄割據時代の城壘
並に古戰城其の他武將の墳墓が到る處に見受けられる。先づ豐川鐵道の沿線では、小坂井町の東端に在る
風祭で名高い𫟏足神社、次には德川氏の葵の紋所が起つたと言ふ由緒ある伊奈城址、牛久保では今川義元
並に舊一色城主一色刑部少輔の墓がある大聖寺、山本勘助の墓所で知られて居る長谷寺等あり、尚それか
ら程遠からぬ處に牧野民部丞成定のために建立した光輝庵がある。牛久保驛より僅かに進むと豐川に達す
るのである。此處には吒枳尼眞天によつて天下に有名な妙嚴寺も稻荷と、外に三明寺の名蹟、縣立蠶業試
驗場豐川支場及び全陸上競技聯盟公認の大グランドがある。豐川稻荷の新本殿は三十有餘年前より計畫せ
られ、昭和五年四月漸く竣工したといふ甚だ豪壯なものである。國幣小社砥鹿神社は三河一宮驛を去る三
丁ばかり東方で祭神は大己貴命である。次は長山驛で、砥鹿神社奥宮に鎭座する三河第一の高山本宮山は
此處から頂上まで五十餘町である。尚この驛には會社直營の遊園地があつて四季遊客を喜ばしてゐる。東
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上驛附近に牛の瀧あり、直下六十尺、行路極めて平坦で驛から八丁、夏季は避暑客が多い。次は野田城驛
で笛の名人村松芳休の嚠喨たる妙音に誘はれて武田信玄が狙擊せられた野田城址へは僅かに五丁。更に新
城驛に入ると菅沼定盈の墓がある。此の地は豐橋以北の小都會で、新城區裁判所・帝室林野局名古屋支局
新城出張所・縣立農蠶學校を始め高等女學校等があつて商工業亦盛んである。此の驛より約十丁、東新町
より五丁で櫻の名所櫻淵に至ることが出來る。豐川鐵道の終點は長篠驛で豐川・鳳來寺兩線の接續する所
である。此の驛を距る十四町餘寒狹川・三輪川二流交叉の處に長篠古戰場址があつて、附近一帶は武田・
德川・織田三氏の古戰場である。長篠役は天正三年五月甲斐の武田勝賴が、家康の臣奥平信昌を此の地に
圍みたるに起因す。此の時鳥居强右衞門の最後は人口に膾炙せる處であつて、その墳墓は今も鳥居驛より
一町餘の寒狹川畔に存在してゐる。其の他この合戰に戰死せる甲將馬場美濃守信房・内藤修理亮昌豔・山
縣三郞兵衞昌景・其の他の墳墓は今尚この地を中心として附近に散在し、行人をして低徊顧眄の情に堪え
ざらしむるものがある。
鳳來寺の舊時を偲ばむとするものは、鳳來寺口で田口鐵道に乘り換へれば僅かに三哩で鳳來寺驛に至る
山麓から本堂藥師如來迄は九町を登る。同寺は推古天皇の勅願により僧利修の開創せる處。天臺・眞言の
二宗を兼ねて居たが、今は合して眞言一宗となり、極めて古い由緒を有つて居る。全山の風物總て壯觀を
極めたものであつたが、數度の火災に逢つて今日舊態を存せず、僅かに樓門並に東照宮祠などが尚昔時の
面影を留めてゐる。東照宮は慶安四年の創立で、後度々修繕を加へられてゐるが、尚明かに德川初期の様
式を見るべきものがある。殊に此の山は阿蘇火山脈の終點に位し悉く火山岩で構成され、極めて斷壁千仭
の奇勝に富み、夏季は夕方から曉へかけて靈鳥佛法僧鳴き、遠方の地から杖を引くものが多い、尚この田
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口鐵道沿線は山寺の瀧・田峰の溪谷・東海一の長隧道・田峰の觀音・鹽津溫泉・添澤溫泉等勝景の地、遊
覽の地に富んでゐる。
三河大野驛から行者越えに道を取れば鳳來寺へ最も近徑で、大野橋を渡ると八名郡大野町である。町は
づれの天神山公園に不動瀧がある。此處から山吉田村阿寺迄は二里餘りで自動車の便がある。飛泉豐かな
七折の瀧あり、高さ百二十五尺、阿寺の七瀧と稱し夏猶寒きを覺ゆる避暑地である。湯谷驛は所謂鳳來峡
の中間で三輪川(板敷川)を隔てた對岸は縣道別所街道が坦々として北へのび、恰かも耶馬溪を見るが如
き風趣をたゝへて居る。この流れに沿ひ小盆地から湧出づる溫泉がある。これを鳳來泉と謂ひ萬病に效驗
ありとて、驛は此處にホテルを經營し旅客をして心行くまで享樂せしむる。三河槇原驛は佳景に富み幾多
の鳳來峡名所がある。この地山深きに平地多ければ都人の別莊地として有望である。三河川合驛は本鄕・
御殿・振草を經て信州新野及び飯田に至ると、浦川中部を過ぎ久根銅山水窪に至る分岐樞要地點である。
この驛から凡そ三十丁餘りで有名なる乳岩の巖洞我を吞むが如く眼前に迫る。更に登れば天空に聳ゆる雄
大奇蹟たる天然石門に達す。其の美に打たれ茫然たらざる者はない。幾多巖層よりなる連峯の雅趣を一眸
に収め、川合の村落は浮繪の如く眼界に入る。春の山を飾る石楠花・深山躑躅の咲き亂るゝ麗はしさ、夏
の納凉・秋の紅葉に衣を染むべき地。この附近は多くの詩人墨客の杖を引くべき所である。更に開通を見
たる三信鐵道を鳳來寺鐵道三河川合驛より接續して中部天龍を經て天下の絕勝天龍峽に沿ひて北伸し、天
龍峽驛に於て伊那電鐵に連絡してゐる。されば豐川・鳳來寺・三信・伊那電の四社一體となつて中部日本
を縱斷して飯田市を經て中央線辰野驛に達するに至つた。
尚、東海道鐵道沿線豐川鐵橋の以西では、御油驛の縣社御津神社・大恩寺・御油海岸等で、蒲郡は元西
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郡と蒲形とを合せたもので、今は海水浴場の設けがあり、ホテル・料理店等完備し、風光頗る明媚にして
夏季に各地から避暑に遊ぶ者が却々多い。名電で豐川を越え伊奈驛へ入る。この附近は伊奈城のあつた處
で其の名を知られ、名電豐川線の分岐點であつて將來を囑目されて居る。國府は舊東海道で往時三河の國
府があつた處で、同町の白鳥に總社があり、八幡村に國分寺と八幡社があつて、國府に關係淺からざるも
のである。西明寺入口の鷺坂等もよく知られて居る。八幡社の社殿は特別保護建造物で有名なものである
八幡村より東北二里餘りの山中にある財賀寺は、聖武天皇の勅願により行基の開創した名刹である。赤坂
驛は古來から紅葉の名所で知られてゐる宮路山に近い。宮路山は持統天皇の舊蹟であつて山頂の遠望天下
に絕し、春の蕨狩・秋の茸狩に佳く・長澤・山中・本宿は東海道古驛路で古くから知れてゐる。
次に東海道鐵道沿線を豐橋から東へ向へば、二川町の岩屋觀音・高師山・雲谷の普門寺・小松原の東觀
音寺・鷲津の本興寺が歷史的に世上著聞の場所であるが、殊に岩屋觀音が其の最なるものであらう。それ
から八名郡方面では石卷山・石卷神社・本坂峠・嵩山正宗寺・月谷大洞窟等最も名ある處となつて居る。
更に渥美半島方面に於ては、渥美電鐵の沿線小池町には潮音寺がある。曹洞宗に屬し行基の開創せるも
のと傳へられて居る。この寺の觀音は潮道の觀音と稱し舊來有名なものである。師團口驛は、陸軍敎導學
校その他軍衙の所在地であつて、明治四十一年十一月第十五師團司令部が今の地に置かれて以來著しく發
展したものであるが、大正十三年五月軍備縮少により第十五師團司令部を廢止せられ、今は第三師團の管
下となつてゐる。串淺蜊の製造に於て有名なる大崎へは師團口より約一里である。芦原驛より十丁程で野
依毘沙門天へ行くことが出來る。大淸水驛附近には富士瓦斯紡績豐橋工場があり、老津谷熊・豐島の各驛
より多賀壽命殿長仙寺の名刹へ何れも十三丁である。この寺は天平十七年行基の開創で現在の本堂は延寶
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九年頃の建築である。天白・神戸の各驛を經て田原に入ると、此處は明應年間戸田宗光の築いた田原城址
がある。田原藩の老臣にして書畫を能くし詩文に長じ、更に海外の事情に通じたる渡邊華山の墓は同町城
寶寺境内にあつて、三宅氏の祖兒島高德を祀る縣社巴神社は舊城址の一隅に鎭座するのである。又田原藩
の執政で火技を研究し造船の法に長じ、後擧げられて藩政を掌つた村上藩政の墓も同町にあつて、片濱海
水浴場へは同町より十八丁である。その他神明社・阿志神社・長興寺・泉村鸚鵡石・福江泉福寺・伊良湖
岬石門・村松、豐川河口では神野新田・前芝など何れも三河の名所舊蹟として廣く紹介する價値がある。
🔳觀光地とハイキングコース
[鳳來寺と鳳來峽]
豐橋《割書:電車1時間10分| 72錢》鳳來寺驛《割書:2K|40分》鳳來寺《割書:3K|1時間》湯谷温泉《割書:2K|40分》三河槇原《割書:電車1時間15分| 81錢》豐橋
▲沿線附近名勝……豐川稻荷・長山遊園地・野田城址・長篠城址
[渥美半島・伊良湖岬]
豐橋《割書:電車40分| 46錢》三河田原《割書:バス45分| 70錢》堀切《割書: 5K|1時間半》伊良湖岬《割書: 10K|2時間半》福江《割書:バス1時間| 100錢》豐橋
▲沿線附近名勝……渡邊華山の墓・田原城址・歌人磯丸ノ遺跡・日出石門・陸軍試砲場
[新箱根・蒲郡]
豐橋《割書:電車20分| 45錢》本宿《割書:バス(35分)30錢| 12K 3時間》蒲郡《割書:汽車20分| 30錢》豐橋
▲沿線附近名勝……宮路山・法藏寺・蒲郡海岸・竹島・大島・觀光ホテル
【左頁】
《題:商工業者人名》
【右頁】
豊橋商工会議所内
商工業の御相談ナラ 《割書:商工業経営・店舗設計・ウイン|ド陳列装飾・広告図案・文案・|商取引斡旋・金融一般》
商工相談所ヘ!《割書:相談日 毎月八日・十八日|午前九時ヨリ午後四時マデ》
転業ト金融ノ御相談ナラ《割書:軍需品・輸出品・代用品|金融一般》斡旋
転業相談所ヘ!《割書:相談日 毎週火曜日|午後一時ヨリ午後五時マデ》
秘密ヲ守リ無料ニテ御相談ニ応ジマス 精々御利用下サイ
【左頁】
商工業者人名目次
【上段】
第一類 穀類・飼料・肥料・飲食料品・料理
1 米・雑穀 一
2 飼料 八
3 肥料 一〇
4 糀 一一
5 粉類・製粉 一二
6 砂糖・米砂糖 一二
7 菓子・煎粉・餅・餡・飴 一四
8 塩 一九
9 清冷飲料水 一九
10 氷 一九
11 酒・味噌・溜・醤油 二〇
12 酒・味噌・溜・醤油・酢醸造業 二六
13 茶・茶道具 二八
14 牛豚肉・鶏肉・生鳥・鶏卵 二八
【中段】
15 鮮魚・川魚 三〇
16 海産物製造 三三
17 漬物・佃煮・缶詰・青物・果物・乾物 三五
18 豆腐・油揚・蒟蒻・麸 四〇
19 料理・席貸 四一
20 飲食・仕出し 四八
21 鰻料理 五〇
22 西洋料理 五一
23 洋食料品・洋食器 五二
24 饂飩・蕎麦 五三
25 酒場・喫茶 五四
26 牛乳・同搾取 五六
第二類 繊維商工業・被服・同材料及付属品・装身具・染色
1 繭問屋 五九
【下段】
2 生糸・玉糸問屋 六二
3 乾繭取引員 六四
4 製糸業 六五
5 屑繭・生皮苧 七四
6 再整絹糸製造 七五
7 麻真田製造・麻糸連続 七七
8 糸類・撚糸 八〇
9 紡績業 八二
10 綿・蒲団・蚊帳・真綿 八二
11 絹 綿 八四
12 呉服・太物・モスリン 八四
13 織物・漁網・セロファン加工・紐 八八
14 和服・ミシン裁縫 八九
15 洋服・洋裁生地 九〇
16 防水マント・日覆 九二
17 洋物・洋品・雑貨類 九二
【裏表紙】
【本文】
天文
十一年八月十日
三 洲(しう) 小豆坂(あずきざか)にて織田(をた) 信(のぶ)
秀(ひで) 今川義元(いまがはよしもと)と合戦(かつせん)す 今川(いまがは) 方(がた)より
朝比奈泰秀(あさひなやすひで)と名乗(なのり) 一番鎗(いちばんやり)を
入(い)れ 双方(さうほう) 未(いまだ) 勝負(せうはい)を別(わか)たず 于時(ときに) 織田(をた) 方(がた)より
七 勇士(ゆうし) 突出(とつしゆつ)して 功名(こうめう)を顕(あら)わす
是(これ)を小豆坂(あづきざか) 七 本鎗(ほんやり)といふ
一笑庵
座興誌
豊橋市街圖 完
私立豊橋市教育會編
豊橋市街圖 完
私立豊橋市教育會編
豊橋市街圖
縮尺一萬二千分一
八名
下川村
朝倉川
宝飯
下【下地町】
豊川
歩兵第十八聯隊
練兵場
射撃場
旅団司令部
聯隊区司令部
裏門
営門
東八町
東八尋常小学校
税務署
銅像
裁縫女学校
中八町
区裁判所
警察署
西八町
高等小学校
渥美郡役所
市役所
憲兵分隊
関屋町
幼稚園
下町
鍛冶町
中世古
曲尺手町
呉服町
大手
札木町
吉屋町
魚町
手間町
紺屋町
清水町
花園町
神明町
新銭町
新■町
新川
新川尋常小学校
竜拈寺
商業学校
大手橋
県立第四中学校
狭間尋常小学校
中柴
松山尋常【小学校】
東田
育児院
東田尋常小学校
高等女学校
陸軍墓地
出雲大社分院
飽海
餌指町
旭町
一番町
二番町
三番町
四番町
五番町
西新町
東新町
牟呂用水
瓦町
向山
大池
■病院
工兵第十五聯隊
豊橋市全圖
縮尺三萬分一
【右下】
凡例 道路 池沼 寺院
水路 桑畑 学校
人家 神社 松林
水田 山岳 郡市界
【地名】
【豊橋市外・南東から南西】
渥美郡
二川町
高師村
牟呂吉田村
【豊橋市外・北東から北西】
八名郡
石巻村
下川村
宝飯郡
下地町
【豊橋市内・東部から時計回り】
岩崎
利兵池
影岩池
上庄池
■■池
高山射撃場
岩田
平川池【?】
三輪
大池
向山
工兵第十五■■
工兵作業所
福岡
柳生川
花田
東田
牛川射撃場
朝倉川
第十八聯隊練兵場
旅団司令部
聯隊区司令部
歩兵第十八聯隊
豊川
豊橋
【東海道線】
至東京
停車場【?】
至神戸
豊橋市街圖
縮尺一萬二千分一
【欄外左下】
大正五年三月十三日印刷
同 年三月十六日発行
編輯者 愛知県豊橋市 私立豊橋市教育会
発行兼印刷者 豊橋市大字西八五十■番戸 田中周平
印刷所 豊橋市大字西八五十■番戸 三陽堂
【右下】
凡例 郡市界 堤■ 田 学校
鉄道 橋梁 畑 郵便局
道路 松林 家屋 神社
■川■ ■林 官公署 寺院■■
【地名】
【市中心部はコマ3と重複】
【周辺部・東から南へ】
東田■【遊郭】
工兵作業所
前田【?】
■■■■女学校
柳生川
柳生橋
花中町
渥美
高師村
【中心部・東部・南部はコマ3・5と重複】
【西部・北から南へ】
下地町
豊橋
船町
湊町
■■工業
上伝馬町
松葉
松葉尋常小学校
図書館【?】
石塚
豊橋駅
羽田本町【?】
【右頁:コマ5と重複】
【左頁:裏表紙裏】
【裏表紙】
同院編
\t豊橋市立高山病院年報
昭和十二年度
昭和十二年度
豊橋市立高山病院年報
目次
一、沿革…………………………………………………………………………………………一
二、規程…………………………………………………………………………………………二
(一) 豊橋市立高山病院使用料條例 (二) 市立高山病院使用料條例施行細則
(三) 市立高山病院規程 (四) 入院患者心得
三、患者取扱状況……………………………………………………………………………一二
(一) 治療 (二) 給餉 (三) 慰安及娯樂
四、經費………………………………………………………………………………………一三
(一) 豫算 (二) 決算 (三) 患者一人一日當經費
五、諸表………………………………………………………………………………………一五
(一) 患者入退異動表 (二) 収容患者延人員 (三) 患者退院事由別
(四) 退院患者退院時状態及在院期間 (五) 患者年齢別表 (六) 入院患者職業別
(七) 職員
【上段】市立高山病院全景
【下段】病舎ノ一部
一.沿革
本豊橋市ハ結核患者逐年増加ノ趨勢ニ鑑ミ療養所設置ノ實ニ緊要ナルヲ認メ昭和九年二月八萬四千圓ヲ以テ建設スヘク市會ノ
協賛ヲ經ルニ至レリ之レカ資源トシテ國庫補助金四萬弐千圓市債参萬参千圓其他一般歳入ヲ以テ充當シ其外委託患者収容ノ故
ヲ以テ愛知縣ヨリ助成金壹萬七千圓ノ交付ヲ受ク
昭和九年七月十三日内務大臣ヨリ設置命令アリ續テ仝年九月二十六日内務大臣ノ建設認可ヲ得ルニ至レリ而シテ其位置撰定ニ
當リテハ慎重實地ヲ考覈シ好適地タル現在ノ位置ヲ決定セリ昭和十年一月着工仝年十月竣工ス則チ仝年十二月一日開院ノ運ヒ
ニ至ル
抑モ本療養所ノ位置ハ本市ノ東方郊外ノ丘陵ニ當リ元来高山御料地ト稱スル地帯ナリ翠巒相連リ四季頗ル自然ノ景観ニ富ミ空
氣清澄加ルニ山麓ノ南面ニ建設シ以テ風速極メテ緩ナルノミナラス陽光ヲ浴スルニ最モ利便而モ工場汚沼等ノ不淨更ニ無ク部
落モ亦遠ク距離ス之レ蓋シ醫學上眞ニ理想的條件ヲ具備スル絶好ノ位置ヲ占ムル結核療養所ナリト信ス
茲ニ開院以来三星霜ヲ閲スルニ逐年入院患者志望ノ數増加シ六拾名ノ定員ヲ超過スルコト屡々アリ此ノ秋ニ當リ愈々施設ノ改
善ニ努メ以テ本院設立ノ趣旨貫徹ニ邁進センコトヲ期ス
公立結核療養所
一、位置 愛知縣豊橋市飯村町字高山十一番地
一、名稱 豊橋市立高山病院
一、敷地 三、五八八坪
一、建物總坪數 六〇一坪一合
内譯
二
本館 一〇一坪
病室 二七八坪
食堂娯楽室及賄室 一〇五坪
看護婦寄宿舎 二五坪
職員住宅 四〇坪(二戸)
其他 五二坪一合
一、収容患者定数 六〇人
二、規程
(一)豊橋市立高山病院使用料条例 (昭和十年十月二十六日条例第五号)
第一条 市立高山病院ニ入院スル患者ニシテ本人若ハ其ノ扶養義務者カ相当資力ヲ有スル者ハ左ノ入院料ヲ徴収ス 但シ市
長ニ於テ特別ノ事由アリト認ムル者ニ限リ之ヲ減免スルコトヲ得
一、市住民 一人一日 金壱円五拾銭 (薬価及食費ヲ含ム)
二、市住民ニ非ル者 一人一日 金弐円五拾銭 (薬価及食費ヲ含ム)
特種ノ治療ヲ要スル者ニ就テハ前項ノ外ニ其ノ料金ヲ徴収スルコトアルヘシ
第二条 前条ノ入院料ハ之ヲ前納セシム 但シ市長ニ於テ特別ノ事情アリト認ムルトキハ此限ニ在ラス
第三条 本条例施行ニ関シ必要ナル事項ハ市長之ヲ定ム
附則
本条例ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
(二)豊橋市立高山病院使用料条例施行細則
(昭和十年十一月二日告示第百四号)
第一条 入院料ノ納付期日ハ毎月十五日末日トシ次ノ納付期日迄ヲ分チ前納セシム
但シ納入ノ希望ニ依リ其ノ月分ヲ一時ニ納入スルコトヲ得
特種ノ治療料金ハ院長之ヲ定メ前項納付期日前日迄ノ分ヲ入院料ト共ニ納付セシム
第二条 入院料納付後患者死亡又ハ退院シタルトキハ其翌日分以後ノ既納料金ハ之ヲ還付ス
第三条 委託患者ニ対スル収容料ハ毎月五日迄ニ其前月分ヲ委託シタル公共団体ニ請求ス
第四条 入院料及特種治療料金ノ納付又ハ既納料金ノ還付手続ハ一般歳入ノ例ニ依ル
附則
本細則ハ市立高山病院使用料条例施行ノ日ヨリ之ヲ施行ス
一号様式
入院願
本籍
現住所
(族籍職業戸主トノ続柄)
患者 職業 氏名
年 月 日生
一、病名
右市立高山病院ニ入院治療相受度候間御許可被成下度別紙病状書相添此段奉願候也
昭和 年 月 日
三
四
右出願者
(本人氏名印)
(扶養義務者ヨリ出願スル場合ハ左ノ通記載スルコト)
本籍
現住所
(患者トノ続柄、職業)
出願人氏名
豊橋市長 殿
二号様式
誓約書
(患者名)
右者今般入院御許可相成候ニ就テハ諸規定並職員ノ御指示等誠実ニ遵守可致万一違背致
候場合ハ何時退院ヲ命セラルヽモ決シテ異議申間敷此段誓約候也
昭和 年 月 日
右
身元引受人
市立高山病院長 殿
三号様式
身元引受証
(患者名)
右者今般入院御許可相成候ニ就テハ本人身上ニ係ル件ハ一切自分ニ於テ引受ケ毫モ御迷
惑相懸間敷候也
昭和 年 月 日
(住所)
(患者トノ続柄、職業)
(氏名印)
市立高山病院長 殿
(三)豊橋市立高山病院規程 (昭和十年十一月二日告示第百五号)
第一章 総則
第一条 本院ハ結核予防法第一条ニ該当シ療養ノ途ナキ患者ヲ収容治療ス 但シ場合ニ依リテハ右ニ該当セサルモノト雖モ
別ニ定ムル規定ニ依リ収容スルコトアルヘシ
第二条 本院ニ収容スル患者ノ定員ハ六十人トス
第三条 本院ニ入院治療ヲ受ケントスル患者ハ本人又ハ扶養義務者ヨリ病状書ヲ添ヘ市長ニ願出許可ヲ受クヘシ 但シ特別
ノ事由アル場合ハ親族又ハ其他ノ縁故者ヨリ出願スルコトヲ得
第四条 入院ノ許可ヲ受ケタル者ハ直ニ別紙様式ノ誓約書及身元引受証ヲ提出シ入院日時ノ指示ヲ受クヘシ 指示セラレタ
ル日時ニ入院セサル時ハ其許可ヲ取消スコトアルヘシ
五
六
第五条 前条身元引受人ハ本市住民ニシテ独立ノ生計ヲ営ミ信用確実ナル成年者タルコトヲ要ス
第六条 入院患者ノ療養期間ハ三ヶ月ヲ以テ一期トス 但シ病状其他ノ事由ニ依リ伸縮スルコトアルヘシ
第七条 入院患者ハ院長ノ承認ヲ受ケ自己ノ費用ヲ以テ特ニ院外医師ノ来診ヲ求ムルコトヲ得
第八条 入院患者本院ニ関スル諸規程ヲ遵守セサルトキハ随時退院ヲ命スルコトアルヘシ
第二章 職制
第九条 本院ニ左ノ職員ヲ置ク
院長 一名
医員 若干名
調剤員 若干名
書記 若干名
看護婦 若干名
第十条 院長ハ市長ノ命ヲ受ケ院務ヲ掌理シ職員ヲ指揮監督ス
院長事故アルトキハ上席医員其職務ヲ代理ス
医員ハ上司ノ命ヲ受ケ患者ノ診察病毒伝播ノ予防消毒事務ヲ掌ル
調剤員ハ上司ノ指揮ヲ受ケ調剤及薬品ノ鑑定ニ従事ス
書記ハ上司ノ命ヲ受ケ庶務会計ニ関スル事務及取締二従事ス
前各項ニ定ムルモノヽ外院長ハ必要ニ応ジ各員ヲシテ他ノ任務ニ従事セシムルコトヲ得
第十一条 院長ハ左ノ事項ヲ専行スルコトヲ得
但シ特ニ重要ナルモノ又ハ異例ニ属スルモノハ此限リニアラス
一、裁判鑑定警察事件ニ付職員ヲ出張セシムルコト
二、職員ノ父母ノ祭日忌引休暇病気欠勤壮丁検査、陸、海軍点呼召集等ニ関スル届ヲ受理スルコト
三、職員ニ除服出仕ヲ命スルコト
四、職員二日以内ノ欠勤受理ニ関スル事項
五、一廉参拾円未満ノ物品ノ購入及修理ニ関スル事項
六、予算定額内ニ於テ人夫使役ニ関スル事項
七、屍体ノ引渡又ハ成規ノ手続ヲ経テ屍体剖検ヲ為スノ件
第三章 分科
第十二条 本院ニ左ノ三局ヲ置ク
医局
薬局
事務局
第十三条 各局分掌事項左ノ如シ
医局
一、診察治療ニ関スル事項
二、医務ノ統計及報告材料ニ関スル事項
三、病室ノ整理患者ノ配置ニ関スル事項
四、消毒ニ関スル事項
五、医局ニ属スル物品受払及保管ニ関スル事項
六、其他医務ニ関スル事項
薬局
一、調剤ニ関スル事項
二、処方録及処方箋ノ保管二関スル事項
三、薬局ノ整理及取締ニ関スル事項
四、薬品其他薬局ニ属スル物品ノ受払及保管ニ関スル事項
七
八
五、薬物ノ統計及報告材料ニ関スル事項
六、其他薬局ニ関スル事項
事務局
一、職員傭員ノ身分進退ニ関スル事項
二、公印ノ管守ニ関スル事項
三、機密ニ関スル事項
四、病院経理ニ関スル事項
五、建物ノ管守構内取締ニ関スル事項
六、患者名簿附添人及面会人ニ関スル事項
七、文書ノ収受発送編纂並ニ保存ニ関スル事項
八、賄及小使其他傭人ノ監督ニ関スル事項
九、物品出納並ニ保管ニ関スル事項
十、院務ノ統計並ニ報告ニ関スル事項
十一、他局ノ主管ニ属セサル事項
第四章 処務及服務
第十四条 入院患者ノ回診度数ハ院長之ヲ定メ適宜之ヲ行フモノトス
第十五条 市長ヨリ入院許可ノ通知ヲ受ケタルトキハ院長ハ該患者ニ対シ其収容スヘキ日時ヲ通知シ指定ノ病室ニ入院セシム
ヘシ
第十六条 院長ハ入院患者ノ病勢増進危篤死亡ノ場合ハ直ニ其ノ氏名ヲ適宜ノ方法ニ依リ其ノ家族若クハ関係者ニ通報スヘシ
第十七条 院長ハ毎月五日迄ニ前月中ニ於ケル収容患者ノ入院並ニ転帰其他必要ナル事項ヲ市長ニ報告スヘシ
第十八条 院長ハ毎年一月十日迄ニ前一ヶ年ノ事務成積ヲ市長ニ報告スヘシ
第十九条 本章ニ定ムルノ外庶務及服務ニ関シテハ豊橋市庶務規程並ニ庁規ヲ準用ス
第五章 宿直
第二十条 宿直ハ医員調剤員事務員各一名輪番勤務スヘシ
看護婦小使ノ宿直ニ関シテハ院長之ヲ命ス
第二十一条 宿直医員患者ニ変状アルカ若ハ病症危篤ト認ムルトキハ応急処置ヲナシ速カニ院長ニ通報スヘシ
第二十二条 本章ニ定ムルノ外宿直勤務時間ハ豊橋市当直規程ヲ準用ス
第六章 諸給与
第二十三条 宿直賄費及看護婦小使ノ被服ノ給与方法ニ関シテハ市立豊橋病院支給ノ例ニ依ル
(四)入院患者心得
一、結核ハ決シテ不治症ニアラスト雖モ日常ノ摂生ニ意ヲ用ヰサレハ治癒ノ時期ヲ失フコトアルヘシ
二、摂生トハ単ニ起居飲食ノミノ事ニアラス治病ニハ精神的影響頗ル大ナルヲ以テ徒ラニ不安不平ヲ起ス事ナク堅忍自重病ニ
克ツノ心気ヲ養ヒ且ツ日常万般ニ亘リテ衛生ニ悖ラサル様注意スルニアリ
三、療養中病勢ノ小波瀾ハ免レサル所ナリ故ニ些タル憎悪ニ失望セス軽快ニ油断セス医員ノ診療ニ信頼シ堅実ニ根治ヲ期セラ
ルヘシ
四、本院ハ多数患者ノ利用サルヘキ所ナレハ利己心ニ駆ラレ他人ニ迷惑ヲ及ホスカ如キ行為ヲ慎ミ相互礼譲ヲ守リ和気靉々相
慰メ相扶ケ共ニ楽シミ療養ノ楽園タラシメン事ヲ心掛ケラルヘシ
五、療養及本院生活ノ心得一二ニシテ足ラスト雖モ其ノ大要ヲ列挙シ日常ノ軌範タラシメントス、各位幸ニ能ク之レヲ理解シ
院務遂行ノ円満ヲ期セラレンコトヲ望ム
一、療養上ニ就テハ医員事務員及看護婦ノ指示ニ従フ事
二、日常ノ起居及食事ハ当所所定ノ時刻ニ於テスルコト
三、薬剤其ノ他飲食物ハ総テ本院ニテ給与スルモノノ外医員ノ許可ヲ受ケスシテ濫リニ食料品ヲ購買又ハ保管シ自炊スル
九
一〇
コトヲ得サルモノトス
四、病室ノ硝子戸ハ医員ノ指示シタル場合ノ外全部閉鎖セサルコト
五、理髪、入浴、冷水浴、冷水摩擦、日光浴、深呼吸、散水、運動等ハ医員ノ許可ナク行ハサルコト
六、高声其他喧噪ニ亘ルコトハ他人ノ安静ヲ妨ケ且ツ自己ノ治療上ニモ不利ナレハ慎シムヘキコト
七、病症ノ程度ニ応シ適度ノ読書ハ差支ナキモ余り熱中シ又ハ音読スルハ宜シカラス必ス担当医員の許可ヲ受クヘシ
八、酒類、喫烟ハ有害無益ナルカ故ニ断然廃止スルコト
九、衣服殊ニ肌着ハ常ニ清潔ニ心懸クルコト
十、自己ノ身辺ハ常ニ清潔ニ整頓シ室内外ヲ汚サス殊ニ糊ヲ以テ壁ニ絵画ヲ貼付スルコトハ建物ヲ汚損スルヲ以テ固ク之
ヲ禁ス又上履ト下履ヲ混同シ紙屑果物ノ皮等ヲ所定ノ容器外ニ放棄セサルコト
十一、建築物及備品ハ叮嚀ニ取扱フハ勿論庭園ノ樹木花卉及動物ヲ愛護スルコト
十二、喀痰ハ所定ノ痰壺ニ吐キ決シテ他所ニ吐散ラサス外出時等ニハ紙ニ採リ帰院後所定ノ容器ニ投入スルコト
十三、看護婦詰所其ノ他所定以外ノ場所ニ立入リ又ハ猥リニ他病室ニ往来セサルコト
又病院構内に於テモ散歩区域外ニハ立入ラサルコト
十四、診察、検温、服薬等定メラレタル時刻ニハ必ス病室ニ居リ殊ニ検温前十分間ハ安静ヲ保ツコト
十五、同室患者ノ容態ニ異状アルトキハ直チニ看護婦ニ知セルコト
十六、面会又ハ外出ハ療養上不利ノ点多ケレハ可及的避ケラレタシ
十七、止ムヲ得ス外出セントスルトキハ看護婦ヲ通シ医員ノ外出許可書ヲ受ケ帰院後直チニ返附スルコト
十八、娯楽室備付ノ娯楽器具、図書等ハ使用随意ナルモ永ク独占シ又ハ院外ニ持出スコトヲ得ス尚用済后ハ正シク整頓シ置
クコト
十九、不穏或ハ風儀ヲ害スルカ如キ図書ヲ所持シ又ハ鄙猥ノ言行ナキコト
二十、不穏ノ言行ヲナシ又ハ文書ヲ配附シ他人ヲ煽動シ或ハ党ヲ組ミテ行動スルカ如キ行為ナキコト
廿一、賭事、金銭ノ貸借、飲食品ノ贈答ヲ為ササルコト
廿二、大切ノ物品ハ成可ク携帯セサルコト万一紛失スル事アルモ本院ハ其ノ責ニ任セサルヘシ
廿三、食事ノ前后ニハ必ス手ヲ洗フコト
廿四、食事ハ医員ノ許可アル者ノ外所定ノ食堂ニ於テシ勝手ニ自室ニ持帰ル等ノコトナキコト
廿五、食器及牛乳壜等ヲ直接火ニ掛ケサルコト
(食器ヲ火ニ掛ケ焦付キタルモノハ洗浄容易ナラズ食器ノ不潔トナル最大原因ナリ又牛乳瓶ハ火ニ掛クレバ破損シ易ク随テ牛乳ノ単価
ヲ昇騰セシムル原因トナリ結局患者各位ノ不利トナルモノナリ故ニ公徳心ヲ重ンジ互ニ注意セラレタシ)
廿六、食後ノ食器ハ乱雑ナラサル様適度ニ整頓シ置クヘキ事
廿七、本院ニ関係アル職員又ハ参観者慰問者等ニ対シテハ相当ノ礼儀ヲ守ルヘキコト
廿八、看護婦等ニ対シ(心付ケ)等一切セラレサルコト
廿九、療養所ニ対シ希望セラルヽ事項アレハ遠慮ナク申出テラルヘシ
火災予防及天災時の心得
火気ハ最大ノ注意ヲ払ヒ失火ノ絶無ヲ期セサルヘカラス故ニ日常心得へキ要件ヲ定ムルコト左ノ如シ
一、裸火ノ使用ハ最モ危険ナルヲ以テ之レヲ厳禁ス
二、提灯ハ危険多キヲ以テ人ナキ室ニ放置スルカ如キハ厳ニ戒ムヘシ
三、火鉢ハ本院備付ノ物以外ヲ使用セサルコト
四、火鉢ニ過大ノ火ヲ盛ラサルコト
五、火鉢ヲ壁ニ接近セシメ又ハ火鉢ノ近辺ニ燃ヘ易キモノ例之紙屑籠雑布等ヲ置カサルコト
六、火鉢ハ午後八時迄ニ火ノ気ヲ去り蓋ヲ覆フコト
七、病症ノ都合ニヨリ徹夜火鉢ヲ使用セントスルトキハ当直看護婦ニ申出テ置キ一層火気ニ注意スルコト
八、火鉢ニ火ヲ置キ一時立去ル時ハ必ス蓋ヲ覆ヒ置クコト
九、焜炉等ハ所定ノ場所以外ニ於テ使用セサルコト
一一
一二
十、天災地変ノ場合ハ狼狽セス所員ヲ指示ヲ待タルヽコト其ノ暇ナキトキハ沈着ニ判断シ善処セラルヘキコト
◎注意
本心得ニ悖リ到底療養ノ目的ヲ達セスト認ルモノハ退院セシムルコトアルヘシ
三、患者取扱状況
一、治療
入院患者ハ其症状ノ軽重及男女別ニ依リテ各其病室ヲ区別シ重症患者ニシテ附添ヲ要スルト認ムルモノニアリテハ附添人ヲ置
キ営養大気安静療法ヲ以テ主眼トスル然モ細密保全ノ指導治療方法ニヨル且ツ常ニ不撓ノ忍堪ヲ以テ長期間ノ療養ニ堪へ得ル
様精神的訓練ニ努ムル所アリ
二、給餉
営養価ニ最モ基礎ヲ置キ新鮮ナル調理ニ留意シ予メ料理セントスル献立ハ毎週前献立表ニヨリテ充分査定ノ上賄ハシムルモノ
ニシテ特ニ不消化物等ノ嫌アルモノハ之ヲ避ケ可成患者ノ需ニ応スル様努メ。常食ノ外毎週隔日ニ各鶏卵ヲ毎週水曜日ニ牛乳
壱合宛ヲ配給ス
三、慰安及娯楽
精神指導トシテ院内ニ雑誌「高山」ヲ発行スルコトトセリ投稿批判ハ自由ノ立場ニ論セシムルコトニシ娯楽ノ一助トス尚ラヂ
オ、蓄音機、図書、囲碁等ニ依ル外軽症者ニシテ適宜ノ運動ヲ必要トスル向ハ附近ノ池即チ本病院附属トシテ公許アルモノノ
魚釣、或ハ庭園ニ花壇ヲ設ケ四季ノ花卉ニ心ヲ慰メ時ニハ牧師其ノ他ノ精神修養ニヨル講話ヲモナス祭日紀念日等ニ当リテハ
滋養パンヲ支給シテ慰安ヲ兼修養ニ資スル所アリ。
四、経費
一、予算
歳入之部
年度別 経常部 臨時部 歳入合計
入院料 経営主体ヨリ受入金 合計 (国庫補助金)
円 円 円 円 円
昭和十年度 四、五〇〇・〇〇 一四、五二七・〇〇 一九、〇二七・〇〇 五、七四二・〇〇 二四、七六九・〇〇
昭和十一年度 七、六六五・〇〇 一一、三八七・〇〇 一九、〇五二・〇〇 五、六二一・〇〇 二四、六七三・〇〇
昭和十二年度 八、六三二・〇〇 一一、三四〇・〇〇 一九、九七二・〇〇 四、〇八三・〇〇 二四、〇五五・〇〇
昭和十三年度 九、一八〇・〇〇 一四、六六四・〇〇 二三、八四四・〇〇 五、一九二・〇〇 二九、〇三六・〇〇
歳出之部
年度別 経常部 臨時部 歳出合計
俸給 雑給 需用費 患者費 修繕費 合計 (《割書:建設費初度調|弁費ヲ含ム》)
円 円 円 円 円 円 円 円
昭和十年度 六、八二七・〇〇 四、四五四・〇〇 四、〇八八・〇〇 九、三〇〇・〇〇 一〇〇・〇〇 二四、七六九・〇〇 七〇、二九五・〇〇 九五、〇六四・〇〇
昭和十一年度 七、四三二・〇〇 四、六八六・〇〇 四、四八五・〇〇 七、九七〇・〇〇 一〇〇・〇〇 二四、六七三・〇〇 ― 二四、六七三・〇〇
昭和十二年度 七、三八四・〇〇 二、八八二・〇〇 三、二四六・〇〇 一〇、四四三・〇〇 一〇〇・〇〇 二四、〇五五・〇〇 ― 二四、〇五五・〇〇
昭和十三年度 五、八〇〇・〇〇 五、五〇一・〇〇 三、一九〇・〇〇 一四、四四五・〇〇 一〇〇・〇〇 二九、〇三六・〇〇 ― 二九、〇三六・〇〇
一三
一四
二、決算
歳入之部
年度別 経常部 臨時部 歳入合計
入院料 経営主体ヨリ受入金 合計 (国庫補助金)
円 円 円 臨一五、五六八円七六 円
昭和十年度 一、〇七一・八〇 三、一〇四・九六 四、一七六・七六 経 一、〇二二・八一 二〇、七六八・三三
昭和十一年度 一一、三六五・二五 四、三一三・〇八 一五、六七八・三三 一、四三七・二六 一七、一一五・五九
昭和十二年度 一〇、二一八・二七 八、七八二・八六 一九、〇〇一・一三 二、九二七・六一 二一、九二八・七四
歳出之部
年度別 経常部 臨時部 歳出合計
俸給 雑給 需用費 患者費 修繕費 合計 (《割書:建設費初度調|弁費ヲ含ム》)
円 円 円 円 円 円 円 円
昭和十年度 二、五九四・五四 三六一・五〇 六二三・一〇 一、五九二・六三 二七・八〇 五、一九九・五七 六六、四三五・五五 七一、六三五・一二
昭和十一年度 四、八七二・五三 一、五四九・九八 二、九九三・九一 七、六〇二・七七 九六・四〇 一七、一一五・五九 ― 一七、一一五・五九
昭和十二年度 六、五三七・五三 二、一四四・三五 二、九七五・八四 一〇、一八三・四〇 八七・六二 二一、九二八・七四 ― 二一、九二八・七四
三、患者一人一日当経費
年度別 経常費 患者費
食費 医療費 被服及寝具費 其ノ他 計
総額 一人一日当 総額 一人一日当 総額 一人一日当 総額 一人一日当 総額 一人一日当 総額 一人一日当
円 円 円 円 円 円 円 円
昭和十年度 五、一六三・〇七 三、五九九 四三〇・五〇 ・三〇〇 二五五・二三 ・〇八〇 円 ― 円 ― ― ― 六八五・七三 ・四七八
昭和十一年度 一七、一一五・〇〇 一、一九二 四、二九七・〇〇 ・三〇〇 三、二二九・〇〇 ・二二五 四八・〇〇 ・〇〇三 ― ― 七、五七四・〇〇 ・五二八
昭和十二年度 二一、九二八・七四 一、二三六 六、一九八・六六 ・三五〇 四、〇三九・一四 ・二二七 三四四・七〇 ・〇二〇 ― ― 一〇、五八二・五〇 ・五九七
備考 昭和十年度被服費及寝具費ハ臨時営繕費ニテ支弁シタルニ付経常部ニナシ
五、諸表
一、患者入退異動表
区分 地方長官ノ入院ヲ命ジ 希望ニ依リ入院シタル 他ノ公共団体ヨリ委託 合計
タルモノ モノ シタルモノ
無料 有料 無料 有料 無料 有料 無料 有料
収容患者数 前年度ヨリノ越人員 男 ― ― 一八 一一 ― ― 一八 一一
女 ― ― 二 七 ― ― 二 七
計 ― ― 二〇 一八 ― ― 二〇 一八
本年度中収容人員 男 ― ― 二二 三七 ― ― 二二 三七
女 ― ― 一五 一八 ― ― 一五 一八
計 ― ― 三七 五五 ― ― 三七 五五
計 男 ― ― 四〇 四八 ― ― 四〇 四八
女 ― ― 一七 二五 ― ― 一七 二五
計 ― ― 五七 七三 ― ― 五七 七三
退院患者数 男 ― ― 一九 三一 ― ― 一九 三一
女 ― ― 一一 一五 ― ― 一一 一五
計 ― ― 三〇 四六 ― ― 三〇 四六
年度末現在患者数 男 ― ― 二〇 一八 ― ― 二〇 一八
女 ― ― 六 一〇 ― ― 六 一〇
計 ― ― 二六 二八 ― ― 二六 二八
年度末現在収容定員 男
女
計 四〇 四〇
一五
一六
二、収容患者延人員
区分 地方長官ノ入院ヲ命ジ 希望ニ依リ入院シタル 他ノ公共団体ヨリ委託 合計
タルモノ モノ シタルモノ
男 女 計 男 女 計 男 女 計 男 女 計
入院料ヲ徴セザルモノ ― ― ― 七、二〇六 一、四一八 八、六二四 ― ― ― 七、二〇六 一、四一八 八、六二四
入院料ヲ徴スルモノ ― ― ― 五、六三七 三、四七七 九、一一四 ― ― ― 五、六三七 三、四七七 九、一一四
計 ― ― ― 一二、八四三 四、八九五 一七、七三八 ― ― ― 一二、八四三 四、八九五 一七、七三八
三、患者退院事由別
患者数 本年度退院患者数 仝上百分比 開院以来退院患者数 仝上百分比
男 女 計 男 女 計 男 女 計 男 女 計
事由別
全治 一 一 二 二 四 三 一 一 二 一 二 一
略治 一二 三 一五 二四 一二 二〇 二七 九 三六 二七 一四 二二
軽快 七 三 一〇 一四 一二 一三 九 五 一四 九 八 八
事故 一三 三 一六 二六 一二 二一 二三 一五 三八 二三 二三 二三
死亡 一七 一六 三三 三四 六二 四二 四〇 三六 七六 四〇 五五 四六
合計 五〇 二六 七六 一〇〇 一〇〇 一〇〇 一〇〇 六六 一六六 一〇〇 一〇〇 一〇〇
四、退院患者退院時状態及在院期間
全治 略治 軽快 不変 増悪 死亡 計
一月未満 男 一 三 一 五
女 一 ― 三 四
計 二 三 四 九
一月以上 男 二 二 四 五 一三
女 ― 一 一 三 五
計 二 三 五 八 一八
二月以上 男 一 一 二 一 五
女 ― ― 一 二 三
計 一 一 三 三 八
三月以上 男 一 一 二
女 一 ― 一
計 二 一 三
四月以上 男 三 三 三 九
女 一 ― 二 三
計 四 三 五 一二
五月以上 男 一 ― 一
女 ― 一 一
計 一 一 二
六月以上 男 一 一 二
女 一 二 三
計 二 三 五
七月以上 男 一 一
女 二 二
計 三 三
八月以上 男 一 一
女 一 一
計 二 二
九月以上 男 ― ―
女 一 一
計 一 一
一七
一八
十月以上 男 一 一
女 ― ―
計 一 一
十一月以上 男 二 二 一 五
女 一 一 ― 二
計 三 三 一 七
一年以上 男 一 二 一 四
女 ― ― ― ―
計 一 二 一 四
二年以上 男 一 一
女 ― ―
計 一 一
合計 男 一 一二 七 一三 一七 五〇
女 一 三 三 三 一六 二六
計 二 一五 一〇 一六 三三 七六
五、患者年齢別表
一―五 六―一〇 一一―一五 一六―二〇 二一―二五 二六―三〇 三一―三五 三六―四〇 四一―五〇 五一―六〇 六一以上 計
昭和十二年度 入院 男 一 一二 二一 一二 七 四 一 一 ― 五九
患者 女 二 四 一〇 八 五 二 一 ― 一 三三
計 三 一六 三一 二〇 一二 六 二 一 一 九二
死亡 男 ― 三 四 四 二 二 二 ― ― 一七
患者 女 二 四 三 一 三 一 一 ― 一 一六
計 二 七 七 五 五 三 三 ― 一 三三
開院以来合計 入院 男 三 三〇 五二 二七 一三 八 七 二 二 一四四
患者 女 八 一五 二〇 一九 七 二 六 一 一 七九
計 一一 四五 七二 四六 二〇 一〇 一三 三 三 二二三
死亡 男 ― 六 八 九 六 五 四 ― 二 四〇
患者 女 五 七 八 八 四 二 二 ― 一 三七
計 五 一三 一六 一七 一〇 七 六 ― 三 七七
六、入院患者職業別
【上段】
昭和十二年度 開院以来
男 女 計 男 女 計
農業 五 五 一〇 一〇 八 一八
養蚕業 ― ― ― ― 三 三
養鶏業 一 一 二 一 一 二
繭糸業 ― ― ― 二 ― 二
再製糸業 ― ― ― 一 一 二
印刷業 一 ― 一 一 ― 一
古物商 一 ― 一 一 ― 一
呉服商 ― 一 一 ― 一 一
履物洋品
雑貨販売 三 一 四 三 二 五
文房具
紙類販売 ― ― ― 二 ― 二
陶磁器硝
子類販売 二 ― 二 二 ― 二
煙草日用
雑貨販売 一 ― 一 一 ― 一
菓子類販売 一 ― 一 一 一 二
酒醤油販売 ― ― ― ― 一 一
蔬菜果物販売 ― ― ― 一 ― 一
菓子製造 ― ― ― 一 ― 一
豆腐製造販売 ― ― ― 一 ― 一
【下段】
昭和十二年度 開院以来
男 女 計 男 女 計
時計修理
金属販売 一 ― 一 一 ― 一
自転車販
売修理業 ― ― ― 一 ― 一
洗濯業 ― ― ― 一 ― 一
日傭業 ― ― ― ― 一 一
土工 ― ― ― 一 ― 一
鍍缶職工 ― ― ― 一 ― 一
機械職工 一 ― 一 一 ― 一
所属不明
ノ職工 一 ― 一 七 ― 七
自動車運転手 三 ― 三 七 ― 七
畳職 ― ― ― 一 ― 一
庭師 ― ― ― 一 ― 一
足袋職 ― ― ― 一 ― 一
製菓職 二 ― 二 二 ― 二
製籠職 一 ― 一 一 ― 一
洋服裁縫工 一 ― 一 三 ― 三
塗物師 一 ― 一 一 ― 一
理髪師 ― ― ― 二 ― 二
一九
二〇
【上段】
写真師 ― ― ― 一 ― 一
図案家 ― ― ― 一 ― 一
飲食店 ― ― ― ― 一 一
貸席業 ― ― ― ― 一 一
娼妓 ― ― ― ― 一 一
料理人 一 ― 一 二 ― 二
行商 ― ― ― 一 ― 一
内職 ― ― ― ― 二 二
看護婦 ― 一 一 ― 三 三
製糸女工 ― 五 五 ― 六 六
女中 ― 二 二 ― 三 三
仲仕 ― ― ― 一 ― 一
荷車運搬人 ― ― ― 一 ― 一
店員 五 ― 五 九 一 一〇
【下段】
所属不明
ノ外交員 ― ― ― 一 ― 一
給仕 ― ― ― ― 一 一
官吏 三 ― 三 六 ― 六
公吏 二 ― 二 二 ― 二
小学校教員 二 ― 二 四 ― 四
新聞記者 一 ― 一 一 ― 一
会社員 三 ― 三 八 ― 八
学生 三 ― 三 一二 四 一六
軍人 ― ― ― 一 ― 一
不詳 五 三 八 一〇 七 一七
無職 八 一四 二二 二三 二九 五二
計 五九 三三 九二 一四四 七九 二二三
七、職員 (昭和拾参年参月末日現在)
区別 医員 調剤員 事務員 技術員 雇員 看護婦 傭人
所長 医員 免状ヲ有スルモノ 免状ヲ有セサルモノ 炊事人又ハ賄人 其ノ他
専務 ― 二 一 二 ― ― 五 ― 四 四
兼務 一
現在職員 (昭和十三年三月末日現在)
院長 医学博士 鈴木市郎
医員 医学博士 福谷 温
医員 渡 卓
書記 矢野宗治
調剤員 松井庸徳
書記補(レントゲン兼務) 松井武司
看護婦 五名 其ノ他 六名
使丁 二名
二一
昭和十三年十一月五日印刷
昭和十三年十一月十日発行
豊橋市飯村町字高山拾壱番地
発行者 豊橋市立高山病院
電話五三六〇番
豊橋市大手通リ西八町九二ノ二
印刷者 田中周平
豊橋市大手通リ西八町九二ノ二
印刷所 三陽堂
電話二二四三番
【裏表紙裏】
【裏表紙】
豊橋市教育會編
《題:小野湖山翁小傳》
小野湖山翁小傳
昭和六年十一月二十五日
小野湖山翁小傳
豊橋市教育会
【上段】
表題に就て
(前略)嘗て豊橋市教育会報
発刊の時表題を小子に書け
との事なりしが小子は湖山
翁に願ふが宜敷と存じ同翁
に懇願せしに喜で引受られ【上の行の右側に傍線あり】
それが今以て用ゐ居る表紙
に候然るに今度同翁の小伝
成るに方り小子が其表紙を【上の行の右側に傍線あり】
書くに至れるは不思議の因
縁と存候云々
(大口氏来書の一節)
【中段】
目 次
巻頭 教育勅語(湖山翁書)
序文 (正五位勲三等大口喜六氏)
同 (豊橋市教育会長福谷元次氏)
一 生 立 及 家 系・・・・・・・・・・一頁
二 立 志 苦 学・・・・・・・・・・五頁
三 勤 王 愛 国・・・・・・・・・一〇頁
四 戊 午 大 獄・・・・・・・・・一八頁
五 吉 田 城 幽 閉・・・・・・・・・二五頁
六 任 官 致 仕・・・・・・・・・二八頁
七 孝 養 隠 退・・・・・・・・・四〇頁
八 恩 賜 叙 位・・・・・・・・・四八頁
九 風 流 交 際・・・・・・・・・五二頁
十 作 詩 本 領・・・・・・・・・六一頁
十一 気 骨 徳 性・・・・・・・・・七八頁
十二 長 寿 上 仙・・・・・・・・・八四頁
【下段】
【四角の枠の中に「余談」】」
余 談 (一)楠公を祀る (二)翁の
改名 (三)尹良親王の事
(四)講書接客 (五)軍人を犒ふ (六)老後健
筆 (七)在豊中の詩 (八)翁と生地 頌詩及
歌句。
【四角の枠の中に「写真」】」
写 真 翁書教育勅語、翁九十六歳
真影、絶筆元旦詩、宇佐奉
幣図、拝維新詔勅、読楠公伝、加藤肥州、日
光山、謁水戸光圀墓、遊石巻山、源三位頼政
(以上詩幅)翁生家、翁及夫人墓、君ケ代国
歌、豊川閣起工式書、大河内信古像及筆蹟、
夫人元子、息正弘、孫竹三眞影、小華筆翁六
十六像、五歳の書、誦習学舎額、天地正気額、
福の字額、翁賛小華筆牡丹幅、扇面二、木戸
孝允書、豊橋孝子筆、百花園詩額、息正弘撰
楠公祠碑文、千歳樓額。
【左頁】
勅 語【「教育勅語」の文章の上部の横書き】
朕惟ふに我か皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり我か臣
民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を済せるは此我国体の精華
にして敎育の淵源亦実に此に存す爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し
朋友相信し恭倹己れを持し博愛衆に及ほし学を修め業を習ひ以持て智能を啓
発し德器を成就し進みて公益を広め世務を開き常に国憲を重し国法に遵ひ
一旦緩急あれは義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すへし是の如きは
独り朕か忠良の臣民たるのみならす又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん
斯の道は実に我か皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すへき所之を古今に通して
謬らす之を中外に施して悖らす朕爾臣民と倶に拳々服膺して皆其徳を一にせんことを
庶幾ふ 明治二十三年十月三十日 同三十四年三月初吉 従五位小野長愿謹書時年八十八
―――――――――――――――――――――――――――――
(本書は往年翁が其督学たりし藩黌時習館趾に設られたる豊橋高等小学校の改築を喜ばれ特に揮毫して時の町長福谷元次氏を
介し寄贈せられたるものにて今も同校に珍蔵す豊橋高等小学校は其前豊橋学校と称した)
【写真の下に横書き】(小野湖山翁九十六歳真影)
【上段-湖翁生家の写真】
(湖山翁の生家)【写真右側】
(琵琶湖北田根村高畑) 【横書き-写真下側】
湖山酔民墓(翁自書) 【写真左側、「翁自書」は横書き】
【下段-翁及夫人墓の写真】
湖山酔民墓(生壙) 【写真右側】
(京都妙心寺内翁及夫人墓) 【写真下側-横書き】
湖山配元子墓【写真左側】
翁の絶筆(逝去前二十三日)詩は元旦の作
【詩幅】
――――――――――――――――――――――――――――――
避寒東海値春陽轉覚乾坤帯瑞光
萬里水天金一色㬢輪徐/■(輾)【「車偏に辰」の右横に「輾」】太平洋
《割書:庚戌新正之一時在南総太東岬小庵 九十七叟湖山愿|
■明治四十三年三月廿■日■■■■■■■》
――――――――――――――――――――――――――――――
(東京 小野竹三氏所蔵)【横書き-詩幅の下】
【詩幅の左】
寒を東海に避て春陽にあふ。うたゝ乾坤の瑞光を帯ぶを覚ゆ。万里水天金一色。㬢輪徐に輾す太平洋」庚
戌新正の一時南総大東岬の小庵にあり、九十七叟 湖山愿
【詩幅】
――――――――――――――――――――――――――――――
神勅堂々傳者誰一言能定萬年基
可憐吉備老名士靦在同朝稱帝師
《割書:題宇佐奉幣図舊作為|福谷君之嘱 九十六耄叟湖山愿》
――――――――――――――――――――――――――――――
(豊橋 福谷元次氏所蔵) 【横書き-詩幅の下】
【詩幅の左】
神勅堂々伝ふる者は誰ぞ。一言能く万年の基を定む。憐むべし吉備の老名士。てんとして同朝にありて帝
師と称す」宇佐奉幣の図に題す旧作、福谷君の嘱の為めに、九十六耄叟 湖山愿
【詩幅】
――――――――――――――――――――――――――――――
唐室中興韓子筆淮西勲業號無雙
聖皇 宸斷真神武剿賊功成不殺降
《割書:戊辰十二月記事十首之一 湖山酔民愿|》
――――――――――――――――――――――――――――――
(豊橋 五味為吉氏所蔵) 【横書き-詩幅の下】
唐室中興韓子の筆。わい西の勲業無双と号す。聖皇宸断真に神武。剿賊功成て降るを殺さず。」戊辰十二
月記事十首之一、湖山酔民愿
【詩幅】
――――――――――――――――――――――――――――――
有臣猶不死請莫悩 宸裏当時公亦匹夫耳能
出此言志何雄果然妙略奏奇捷手挽天日定
大業功臣賞薄姦臣尊再敗三敗嗟何及
唯公終始報國心長建萬世人臣法
讀楠公傳 湖山迂人愿
――――――――――――――――――――――――――――――
(豊橋 山田芳蔵氏所蔵)【横書き-詩幅の下】
楠公伝を読む、湖山迂人愿(訳文は本編末章の楠公を祀る項中に載せあり。)
【詩幅】
――――――――――――――――――――――――――――――
孤軍決死據孤城俯瞰西明百萬兵應
援不通糧道絶毅然上下一忠誠
藤肥州 九十七叟湖山愿
――――――――――――――――――――――――――――――
(豊橋 福谷藤太郎氏所蔵) 【横書き-詩幅の下】
【詩幅の左】
孤軍死を決して孤城に拠り。俯瞰す西明百万の兵。応援通せず糧道絶え。毅然たり上下の一忠誠」藤肥州
九十七叟 湖山愿(藤肥州は加藤清正詩は朝鮮籠城)
【詩幅】
――――――――――――――――――――――――――――――
三峯對峙勢嵯峨載筆日光山下過天地英
霊秘巌壑金銀楼閣照烟蘿頌言敢擬生
民什閑句聊賡撃壌歌霞宿雲遊是誰賜
千秋回首感恩波
《割書:晃山舊作 湖山愿時年九十有四|》
――――――――――――――――――――――――――――――
(豊橋 大山銀蔵氏所蔵) 【横書き-詩幅の下】
【詩幅の左】
三峰対峙して勢ひ嵯峨たり。筆を載て日光山下に過ぐ。天地の英霊巌壑に秘し。金銀の楼閣煙蘿を照す。
頌言敢てならはんや生民の什。閑句聊かつぐ撃壌の歌。霞宿雲遊これ誰が賜ぞ。千秋かうべをめぐらして
恩波に感ず。晃山旧作湖山愿時年九十有四(此作は翁江戸追放の時である。)
【上段写真】
豊橋旧藩主 大 河 内 信 古 子【写真右側】
(東京 大河内家所蔵) 【写真下に側横書き】
(明治二十年撮影) 【写真左側】
風波不動影沈
々。樹色全凝
水色深。応是
天仙梳洗処。
一螺青黛鏡中
心。
湖上所見
松 峯
《割書:信古子は詩画も能くした|》
【上段色紙】
雄飛
松峯
(信古子書) 【色紙下側に横書き】
【中段】
――――――――――――――――――――――――――――――
天地正氣【横書き】
八十八翁湖山愿
――――――――――――――――――――――――――――――
《割書:八十八翁 湖山愿》
(豊橋 伊藤卯一氏所蔵)【下側に横書き】
【下段】
――――――――――――――――――――――――――――――
福
因勤倹得
之
因怠倣失
之
今泉君清嘱
湖山愿時年九十有五
――――――――――――――――――――――――――――――
《割書:勤倹に因て之を得、怠倣に因て之を|失ふ」今泉君清嘱| 湖山愿 時年九十有五》
(豊橋 今泉福太郎氏所蔵)【下側に横書き】
【上段の色紙】
――――――――――――――――――――――――――――――
君か代は
千代に八千代に
さゝれいしの
巌となりて
苔のむすまて
九十二翁湖山
――――――――――――――――――――――――――――――
【色紙の下に横書き】(牛川 大河戸龍秀師所蔵)
《割書:国歌、九十二翁湖山》
【下段の色紙】
《割書:逝去前一月の揮毫》
――――――――――――――――――――――――――――――
荘厳殿堂
信之結晶
《割書:賀本殿改築起工式|》
《割書:庚戌三月| 九十七叟湖山愿》
――――――――――――――――――――――――――――――
【色紙の下に横書き】(豊川閣 福山界珠師所蔵)
《割書:荘厳殿堂、信之結晶、本殿改築起工式を賀す。| 庚戌年三月 九十七叟 湖 山 愿》
――――――――――――――――――――――――――――――
名賢遺跡在巌阿村逕迂餘入翁蘿茅舎
三間猶故搆庭池一断自清波道於稷契
迹非遠史継春秋功頗多誰念堂々宗
國主西山亦唱釆薇歌
西山二律之一 湖山僲史巻
――――――――――――――――――――――――――――――
(豊橋 大岩一郎氏所蔵)
《割書: 名賢の遺跡巌阿にあり。村けい迂余としてへき蘿に入る。茅舎三間猶故搆。庭池一断おのづから清波。道| しよく契に於てあと遠きに非ず。史春秋をつぎて功頗る多し。誰かおもはん堂々宗国の主。西山亦唱ふ采| びの歌。」西山二律之一湖山仙史巻(此作始て水戸光圀の墓を拝した時である。)》
――――――――――――――――――――――――――――――
未見西師奏凱旋市街米價斗千銭
琴尊又趁遊山約可㐂吾曹厚得天
《割書:丙寅秋日同榮樹老人華陽畫史蓬宇詞宗秋夢雅友遊石巻山途中|口占 湖山楼主人》
――――――――――――――――――――――――――――――
(豊橋 長坂理一郎氏所蔵)
《割書: 未だ西師の凱旋を奏するを見ず。市街の米価斗千銭。琴樽又遊山の約をおひ。喜ぶべし吾曹の厚く天に得| るを」丙寅秋日栄樹老人華陽画史蓬宇詞宗秋夢雅友と同く石巻山に遊ぶ途中口占 湖山楼主人(西師は長| 州征伐のこと)》
小 野 湖 山 先 生 の
伝 記 に 序 す
小野湖山先生は、独り我国に於ける一詩聖たるのみならず、実に我郷の有せる
一偉人にして、幕末に於ける憂国勤王の志士なり、而も其伝記にして、極めて世に
知られたるものゝ稀なるは、深く遺憾とするところとす。蓋し先生、居常自己の閲
歴を以て、人に語るを欲せず、たゞ幾多の詩集、能く時にそれが一斑を窺ひ得るに
足るのみ。たま〳〵蒲生重章氏の偉人伝中、狂々先生伝あり、先生の少壮時代を語
ること稍詳なるも、未だ以て尽せりと謂ふべからず。予も亦先年豊橋市史談の著
に方り、聊先生に遺関する資料の蒐集に勉めしも、事多くは志と違ひ、遂に所期の半
をも達成せずして止む。
曩に 芳水小野兄、先生の遺草につき深く討究する処あり、更に遺族に就きて世
間未知の秘稿を繙き、今茲先生の伝記を脱稿せらるゝに至る。思ふに、予先年故松
井讓翁を介し、其閲歴を語られむことを先生に請ひ、幸に略ぼ然諾を得たるも、幾
一
二
もなく先生は寒を房州に避け、次で病を獲て逝去せらる。当時讓翁の語るところ
によれば、先生が壮時往復せる文書は、多く之を火中に投じ、蕩然一掃、今殆ど拠
るべきなし、而も居常手記せるところ、決して伝ふべきものなきにあらずと。其家
に伝ふる秘稿なるものゝ貴重なる、以て想到するに難からず。我が豊橋教育会
見るところあり、自らそれが発行の任に当り。予に需むるに序文を以てす。乃ち欣
然処感を記し以て応ふ。
昭和辛未秋日
大 口 喜 六 識
由来三河は東海の中心に位し、幾多の史実に富み。就中明治維新
に際しては、能く勤王の大義を唱へ、方向を謬らざりし人才多し。
其最も著名の士に小野湖山翁あり。翁は実に年少身を素族より起
して、一代の大儒と成り。広く天下の志士に伍し。
皇権の恢復に尽瘁し、地方の文教に貢献し。且つ尾三各藩の大義
一致を全うせしめたる殊功者なり。
是に於てか今や我豊橋市教育会が新に翁の伝記を刊行し。未だ聞
えざりし、其光輝ある閲歴を世に紹介するは、只に一地方のみな
らず、国家風教上に益する所、決して尠からざるべし。
予乏を豊橋市長の職に承く、偶々此挙に会し、寔に欣喜の念に耐
へず。尚希くは将来此地方より幾多の湖山翁を出し。以て君国の
為めに忠愛ならん事を。一言以て序すと云爾。
昭和六年季秋
豊橋市長 丸 茂 藤 平
我邦ありての鴻業たる、明治維新に際しては、其登場の人材、固よ
り各地に尠からず。而して其一人者に我吉田藩士小野湖山翁ある
ことを逸し難し。翁は実に勤王憂国の一偉人たりしと共に、我地
方教育のために功労ある一恩人なり。
罪を幕譴に獲て、我地に幽閉せらるゝや。藩黌時習館及宝飯郡国
府町に設られし、三河県修道館等の督学として数年に亘り。又常
に文武両道の為めに貢献し、上下の信望厚く。品性高厲。克く人の
儀表たり。宜なり明治元年始て 車駕の東幸に当たり、抽でられて
徴士となり、尋で権弁事に任せらる。乃ち一躍朝班に列したるが
如きは、単り藩地の誇なるのみならず。且つ天下の異数とす。
既にして隠退しては、詩壇の耆宿として其名内外に鳴り。文教風
化を益する吟詠甚だ多く。毎に尊貴の間に殊遇を享け。高齢九十
三
四
七を以て逝かる。真に明治聖代の一人瑞とも云ふべし。
これ我豊橋市教育会が、茲に翁の小伝を刊行し。曩に刊行せる翁
の親友、勤王家羽田野佐可喜翁小伝と共に世に伝ふるは、郷土
的に将た時代的に、最も有意義なる事と信ずる所以なり。
昭和六年十一月
豊橋市教育会長 福 谷 元 次
小 野 湖 山 翁 小 伝
豊 橋 市 教 育 会 編
一 生 立 及 家 系
小野長愿、名は巻、字は懐之、又士達、一字舒公、湖山と号し。旧名横山仙助。光格天皇の御代、徳
川第十一代将軍/家齊(イヘナリ)執政の時。文化十一年甲戌正月十二日を以て、今の滋賀県近江国東浅井郡田根村大
字高畑なる、横山玄篤(東湖と号す)の長子として生る。三姉二弟一妹あり。父玄篤は医を業とし農を
兼ね、妣を磯氏といつた。高畑近傍六ケ村壱万石程の地は、今の我愛知県三河国豊橋(旧称吉田)藩主
第十六代松平伊豆守/信復(ノブナホ)が、寛政二年十月松平/資訓(スケクニ)と入れ更り。遠江国浜松町より吉田へ転封せられし時
よりの、吉田領として伝へられ。翁出生の当時(今より百十二年前)吉田第十八代の藩主松平伊豆守/信(ノブ)
明(アキラ)之れを領し。郡代宮脇忠左衛門が督してゐた。廃藩置県の令出で、豊橋が額田県(岡崎市所在)に属
し、更に愛知県へ合併せられたる明治五年に至り、滋賀県へ移された。浅井郡は面積三十一方里、之れ
を東西に分ち、東は美濃、西は琵琶湖、北は越前及若狭に接し。田根村は田根郷と呼び、中世種川と謂
ひ、大寄山と小谷山との渓間で、田川あり、東より南流して姉川に入る。東鑑に「建久元年近江国田根
一
二
庄は、按察使大納言朝房の領する所なり。地頭は佐々木左衛門定綱なり」と見ゆ。翁の生地高畑に近き
小谷山は、永正中浅井亮正が築城し。久正を経て長政に至り、元亀年間織田信長のために亡ぼされた古
城趾がある。
翁の家系は参議小野篁より出で、石川県金沢の藩老横山家(一万石)と同族である。故に翁は元横山姓
を称し、名を仙助と云た。第十二世の祖横山/掃部頭(カモンノカミ)家盛が、京極高次に仕へ戦功あり。感状が家に伝へ
られてゐる。高次は近江の人、織田 豊臣 徳川の三氏に仕へ、大津城主と成た。其妻は淀君の妹なるを
以て、慶長の役に石田三成及び淀君より西軍に味方せんことを勧誘せられたが応ぜず。家康の東征中に
西軍に苦しめられ、一時高野山に遁避した事あり。横山家盛は高次臣下の驍将で高畑に館し、城州に戦
死し。一弟が帰農して世々館趾の家をまもり。今も二百余年を経た建物が存し、曩年翁の息正弘之を改修
した。(写真参照)其祖小野篁の古墳は京都紫野にあり。翁後年金沢の同族横山多門政和(蘭洲と号し
詩文を能くす)と謀り墓碑を修め、碑面の五大字を書し、息正弘の撰文なる「古墳之記」を石に刻して
建た。翁其時蘭洲の詩に和して三首あり。
頃者与加賀蘭洲謀、修参議小野公墓、
蘭洲有詩、余亦同作
半托村民半僧寺。擬防荊棘漫侵尋。敢揮凡筆題碑面。亦是区々念祖心。」
《割書: 半は村民に托し半は僧寺。荊棘の漫に侵尋するを防がんとはかる。敢て凡筆を揮て碑面に題す。亦是区々祖をおもふ心。|》
翁学成るにと及び、生地の関係より、江戸に於て吉田藩主松平伊豆守/信古(ノブヒサ)(後大河内刑部大輔)の聘に応
じ儒臣と成り。更に藩士(六十石)と成つた。安政五年戊午の大獄起るや、藩命に依り江戸より追放せ
られ、更に幕命で吉田に幽閉(国元永押込)せられ、小野侗之助と改め、晏齋とも号し、湖山の号は始
終用ゐた。生地高畑は琵琶湖の北、小谷山の麓に位し、四面山を負ひ、湖山の号はそれより取つたので
ある。江戸に出でゝ始て居住したるは神田お玉ケ池(神田川の南今の元岩井町)で、玉池仙史と称し、
後ち狂々生、侗翁等の別号あり。豊橋藩の儒臣より士族、更に東京府士族に改め、明治四十三年庚戌四
月十九日高齢九十七歳を以て病歿した。翁八十七歳の時大患に罹り、一時危篤の趣 宸聴に達するや。
特旨を以て従五位に叙せられ復た癒て、十年の寿を保つた。(恩賜叙位参照)
配元子は文政五年壬午七月三日を以て、長野県信濃国下伊那郡飯田藩(堀兵庫守一万七千石、後松本県)
士族加藤固右衛門の三女として生れ。翁三十六(元子二十八)の頃、翁の畏友安井息軒の媒する所にか
ゝり。元子は翁に先立つ七年、明治三十七年甲辰一月二日八十三歳で歿した。元子の兄を加藤一介と称
し(名は信敏、三樵と号す)。業を古賀侗庵の門に受け、齋藤拙堂、安井息軒、昌谷精渓等と交はり。
謙遜朴実最も旧交に厚かつた。翁に四子あり、長正弘(初名亥之助、(双松と号す)嘉永四年辛亥十月十二
日を以て江戸に生る(翁三十八、元子三十)家督を嗣ぎ。明治五年仕官して左院掌記より正院に転じ、
内閣書記官、記録局次長に歴任し、致仕して一時啇社に携はつたが間もなく退き。昭和三年三月二十九
日七十八歳で病歿した。翁の二三子共に夭逝し、末子源太郎横山姓を冒【冐】し、東京に現住す。正弘子なく
三
四
同藩士關根錄三郎の二男竹三を養ひ嗣とす。竹三は明治十一年戊寅三月東京に生れ、三十六年東京帝国
大学文学部(英文科)を卒へ、長崎高等商業学校教授、学習院教授を経て、現に武蔵野女学院学監である。
【写真の下に横書き】 【写真の下に横書き】
(翁夫人 元 子) (家 嗣 竹 三)
【上段】
同学院は都下に於ても頗 【写真の下に横書き】
る好評あり。高畑の横山 (息 正弘 号 双 松)
家は其後翁の末妹/梢(コスヱ)が守
り、七十六歳で歿したが
相続者なく一時親戚速水
宗太郎が管理し。後ち翁
の息正弘が、小野分家と
【下段】
して宗太郎の女静江を養女と
し、同郡虎姫村農国友太兵衛
の二男寅三を養子として継承
せしめた。
翁の父玄篤は翁が十五歳の時
五十六歳で逝たが、母は八十
五歳で亡なり。翁の長姉波満
【左頁】
子は独身生活九十一歳の寿を保ち、第二の姉岸子も独身で九十歳に及んだ。両女は俗に云ふ負け嫌ひの
性質で、波満子は最も剛気であつた。岸子又何等特殊の事情とては無きも姉と共に独身で過たのであ
る。第一の弟は傳兵衛と称し一旦速水家を継いだが再び実家に帰り又出でず。此人一見温和であつた
が、苟くも道理と信じては枉げず、一時村庄屋を勤めた事あり。第二の弟は京都妙心寺内大龍院住職釋
東胤で、道心堅固の名僧と仰がれ、是又独身七十四歳で逝た(長寿上仙参照)。同胞七人中斯く四人の
独身者を出したのは一奇で。夫れが皆 長寿であつた事も亦奇である。翁の配 元子は婚嫁当時は体質弱
く、同胞も大抵早世し、兄一介も五十余歳で逝き、元子四十歳に達する迄は、長寿の望みなしとせられ
たが漸次健康となり、八十三歳に達したのである。
二 立 志 苦 学
翁少年の頃家にありて、水戸中納言徳川光國の事蹟を編成したる「西山遺事」等の書を読み、又高山彦
九郎、蒲生君平等の事蹟を聞き、又本居宣長の著書に触れ、京都に起りたる王室家と称する一派の風を
慕ひ。頓に王朝の衰を嘆ずるの心を深めた。「西山遺事」は一に「桃源遺聞」とも云ひ、元禄三年光國
薨じて翌年継嗣綱條が、光國の近侍たりし三木之幹、宮田清貞、牧野和高其他より材料を得て、藩校彰
考館総裁安積覺(通称覺兵衛、澹泊と号す義公の大日本史編纂に与り元文二年八十二で歿す)が監修の
下に、中村顧言、粟山成信、酒泉弘等と共に「義公行實」を撰述したが。漢文にして読易からざるを遺
五
六
憾とし。牧野和高が三木宮田二人と謀り、仮名混り文に改めて五巻とし、更に光國の嘉言善行を補足し
たものである。其後天明六年に同藩儒五原翠軒が前書に漏れた所の材料を集め三巻を作り、一々出典を
附してある。(市立豊橋図書館歴史部「偉人言行録」の一部にあり)。翠軒(名は萬、通称甚五郎)彰考
館一時の名総裁として頗る経世の卓見を備へ。寛政の初め其藩主治紀が松平定信を将軍家齊の補佐とし
て推薦し、木村謙次を蝦夷地(北海道)に派して、露人の侵入状態を探らしめたるが如きは、皆翠軒の
献策に依ると云ふ。
翁父玄篤の命で彦根藩医某の許に寄宿し。医学に従つたが、其れは好む所でなく、去て隣村曽根村の儒
者大岡右仲(名は恭、字は士禮、松堂と号す)に就き経史を学んだ。右仲は龜井昭陽の門人で篤学の士
である。其弟寛(字は士栗、笙州と号す)性豪邁で足跡海内に遍く、遂に北海に客死したが、翁は笙州
と共に右仲の許に在て研学し、其業大に進んだ。後年翁の記したものゝ中に「余の笙州に於る、義は師
友を兼ぬ」とあるに依ても、其親愛の情や推知すべし。文政九年翁十三歳の時父に伴はれ京都に出で、
頼山陽に謁し再遊して業を其門に受んことを誓つたが果さず。(山陽此時四十七、翁十五)越て文政十一
年四月十九日父玄篤逝き、母屢々病み、長姉波満子専ら家事を督し、翁は同胞と共に其庇頼を受けた。
天保元年当世の大詩人梁川星巌が其妻紅蘭と共に九州漫遊を了へ、彦根の小野田簡齋の家に寓するに会
し其門に入た、時に翁十七歳、星巌は四十四歳である。星巌は妻を携へて各地に漫遊すること殆んど十
八年余其年また彦根を去つて江戸に入たので、翁は翌年十八歳の頃母と弟妹とを長姉波満子に託して、
単身決然江戸に入り諸家に就き学んだ。(山陽は其年歿す)其間最も眷顧を得たるは尾藤水竹に過たる
はなく、梁川星巌、藤森弘庵之れに次ぎ、又林大学頭に就て得る所も多かつた。水竹(名は積高、字は
希大、別号絃庵、江戸人)星巌(名は孟緯、字は公圖、一字無象、新十郎と称す天谷、百峯、老龍庵と
もいつた、美濃国安八郡曽根村の人)藤森弘庵(名は大雅、字は淳風、通称恭助、別号天山、江戸人、
土浦藩儒)林大学頭(名は煒、幕府の儒臣)。
翁都下にあり甚だ学資に乏しく、或は学僕と成り、或は筆耕を為し。東西寄寓具さに艱苦を嘗めた。星
巌は神田お玉ケ池に玉池吟社を起し、名声天下に昂り。当時文は山陽、詩は星巌とせられ、一面勤王の
志士と交わり、翁之れに参加して嶄然頭角を顕はした。旁ら旗本(ハタモト)松平丹後守白須甲斐守其他の聘に応
じ経史の講義を為し、生計の資を得た。之れ実に翁が二十五六の交で文字通りの俊才である。星巌は最
も望を翁に属し、奨励鼓舞した。詩あり
文運与時倶転回。英髦森起接踵来。尖新巧麗豈終乏。無此不覊豪宕才。」
《割書: 文運時と倶に転回し。英髦森起踵を接して来る。尖新巧麗は豈終に乏しからんや。此の不覊豪たうの才無し。》
慵求虚飾況求工。一気凛然金石融。九万鵬程吾望汝。不応窓下老彫虫。」
《割書: 虚飾を求むるにものうし況んや工を求むるをや。一気凛然として金石融る。九万鵬程吾れ汝に望む。窓下彫虫に老ゆべからず。》
木穌岐山が翁の「北遊剰稿」に跋を書した一節に。
「湖山寒門素族、其書生たりし時途中日暮る。逆旅に投ぜんとするも資斧無し。路傍の地蔵堂に入て
七
八
横卧す、夜寒耐ふべからず、戸扉を外して被に代ふと、湖山親しく余に語る所なり。」
と云ひ、大沼枕山が翁の下毛に遊ぶを送る詩に「酔て歓を為さず情惨憺。貧にして別を成し難く涙潺湲
たり」の句あり。翁之れを評して「余と枕老と青年の時貧困相似たり。故に其交情も亦相親し」といつ
て居る。
枕山(名は厚、字は子壽、一字昌卿、別号煕堂仙史)文化十四年尾張の儒臣大沼竹溪の子として生れ、
翁と同じく星巌門下で翁より三歳若し、少時よ赤貧洗ふが如く粗服垢面更に介意せず、苦学のため江
戸に出で。或時有名の儒者菊池五山の門を叩き入学せんことを乞ふた。五山見て乞食児かと疑ふ。枕山
憤然色を正し、身に粗服を纏ふも心に錦を蔵すれば足ると、懐中より一詩稿を出し示す。五山見て其巧
妙に驚きしも、猶席間の瓶花を指し賦詩を命ず、枕山即座に七律一首を吟ず。五山大に感服し、直に入
れて其塾長とした。後ち翁と共に星巌に就き学び、都下に於る詩壇の両大関と称さるゝに至り、明治二
十四年十月七十四歳で歿した。翁は一時枕山と貧苦を共にし同胞の如くした。
翁が貧境に処した詩は可なりあるが今左に数首を摘載する。
玉 池 寓 居
地蔵橋畔玉池西。小小門牌姓名題。有客経過豈難認。比隣第一我檐低」。
《割書: 地蔵橋畔玉池の西。小小たる門牌姓名を題す。客あり経過して豈認め難からんや。比隣第一我檐低し。》
佳譃も亦佳詩である。
俎 橋 僑 居
歳晩帰家笑口開。些々肴蔌洗塵杯。先生膽大守究苦。不築尋常逃債臺」。
《割書: 歳晩家に帰りて笑口開き。些々たる肴そう塵杯を洗ふ。先生胆大究苦を守り。築かず尋常逃債台。》
嗟 我 貧 無 書
嗟我貧無書。零砕二三冊。売余鉄厓詩。蠹残東坡策。誦之排憂悶。対之送朝夕。地下若有知。豈謂
非莫逆。昨日借一書。鴻文誠意伯。信哉古人言。奇書等趙壁」。
《割書: あゝ我れ貧にして書無く。零砕二三冊のみ。売余す鉄がいの詩。蠹残す東坡の策。之を誦して憂悶を排し。之に対して朝夕を送| る。地下若し知るあらば。豈莫逆に非ずと謂はんや。昨日一書を借る。鴻文誠意伯。信なる哉古人の言。奇書は趙壁にひとしと。》
名教中楽地あり。
麹 渓 寓 居 《割書:(折一)》
子瞻嘲子由。官舎小如舟。吾舎小殊甚。欠伸動打頭」。
《割書: 子瞻、子由を嘲る。官舎小なること舟の如しと。吾舎小殊に甚し。欠伸やゝもすれば頭を打つ。》
客 中 雑 感 八 首 《割書:(折二)》
不堪飄泊客天涯。暑往寒来似擲梭。敝帽経年貧太甚。濁醪三斗興如何。一時名姓真才少。
千古文章空論多。咄々厭聞浮世事。帰来擬着旧青蓑」。
《割書: 飄泊天涯に客たるに堪えず。暑往寒来擲さに似たり。敝帽経年貧甚しく。濁醪三斗興如何。一時の名姓真才少なく。千古の| 文章空論多し。咄々浮世の事を聞くを厭い。帰来旧青蓑を着んと擬る。》
満城歌笑漫紛然。酒幔高楼闘管絃。警戒漸亡無事日。飢荒多在太平年。強呑弱吐三千歳。
世態人情三百篇。自笑書生甚多口。要将鼇【鰲】足補天穿」。
《割書: 満城の歌笑漫に紛然。酒幔高楼管絃を闘はす。警戒漸く無事の日にうしなはれ。飢荒多くは太平の年にあり。強呑弱吐三千》
九
十
《割書: 歳。世態人情三百篇。自ら笑ふ書生甚だ多口。鼇【鰲】足をとつて天穿を補はんことを要す。》
安政五年戊午冬翁その四十五歳の時、東都に大火災あり類焼にあひ。多年心血を注ぎたる詩稿一千余首
を烏有に帰し。流石の翁も懊悩数日に及んだが。其後漸次旧作を追憶して一百三十余首を纏め「火後憶
得詩」として刊行した。翁自ら之れに序し
「吁古人一たび目を経れば、終身之を忘れざるものあり。(唐の学者王安石か?)今余自ら作る所のも
の猶ほ其十の二三だも記憶する能はず。衰病に因ると雖も亦賦性の然る所是れ嗟すべきのみ(中略)時
に新居経営未だ成らずして、箱崎邸の寓楼にあり。時恰も臘月二十八日、風雨寒甚しく、乳児は乳に
乏しく、夜間屢々泣く。頗る苦境なるも、亦詩人の常なるか。」
其困苦想ふべし。而も其詩や首々連城の珠玉たると、記憶力の偉大さとには只だ驚くの外もなし(作詩
の本領参照)
三 勤 王 愛 国
翁が熱烈なる勤王心を培つたのは、既に年少時代にあること、前章に述たる如し。長じて梁河星巌の衣
鉢を受るに至り、其の動かざる根柢は深きを致し。漸く生計の途の立てらるゝに及んで、始めて筆を載
せて漫遊の旅に就たのは天保九年二十五歳の時である、先づ筑波山に登り、水戸に出で同藩の志士會澤
正志と天下の事を論じ、太田に至り徳川光國及朱舜水の墓に謁した。水戸藩老會澤正志(名は安、字は
伯民、通称恒蔵、正志齋と号し、藩主徳川齊昭の殊遇を受け、藩校彰考舘総裁、郡奉行等を勤め、勤王
主義による新論及孝經考其他の著書あり)翁は其後屢々水戸に行遊し、藤田東湖、武田耕雲斎其他と親
交を厚ふし、藩主徳川齊昭の知遇を受るに至つた。
會澤先生席上同諸先輩賦
不知諸老是何人。酒落胸襟迥出塵。美酒千鍾能酔客。高談一坐欲回春。松標冒雪青々秀。
梅格吹香点々新。奇骨耐寒吾亦敢。歓談相見転相親。」
《割書: 知らず諸老は是何人ぞ。洒落胸襟はるかに塵を出づ。美酒千しよう能く酔はしめ。高談一座春を回さんと欲す。松標雪| を冒して青々として秀で。梅格香を吹て点々として新なり。奇骨寒に耐るは吾も亦敢てす。歓談相見て転た相し。》
水戸齊昭(字は子信、初名敬三郎、景山と号し、烈公と諡す)水戸七代の藩主治紀(武公)の第三子、
寛政十二年庚申三月江戸小石川邸に生れ、幼にして頴敏、文政年中兄齊脩の後を襲ぎ、英明果断、最も
勤王心の深きこと、遠祖光國の風あり。天保十一年上皇の薨するや、山陵を修め資を献じ、幕府を敬す
ると共に天朝に仕ふるは、之れ人臣たる者の最善の道なりと云ひ、上書して諡法を復し、光格天皇と称
するに至つた。また学校を起し大に皇漢学及武道の振興に努め、其治績少なからず。翁の齊昭に知られ
たるは実に、二十七歳の頃で齊昭は四十二歳である。齊昭は嘉永元年に我が羽田文庫へ「破邪集」八巻
を寄附したが。是れ翁の斡旋に依り、羽田敬雄の文庫設立に賛してのためであつた。
凡そ明治の維新回天史を説くに水戸と薩長とを閑却し難いことは何人も之を知る。水戸の如きは幕府側
よりは獅子身中の虫として睨まれ、薩長諸藩よりは水戸は学問と言論とに長じて、実行に拙なりと見縊
られ。愈よ維新の大舞台が開かれた時。水戸は国内の党争に忙しくして、殆ど一人の元勲も中央政府へ
一一
一二
送らず、惨めな状態に陥つたが、苟も史眼ある者は先づ第一指を水戸に折るを躊躇せぬであらう。九
州地方諸有志の如きも、概して水戸諸先達の風を聴て興りたるものと云ふも過言ではあるまい。之を極
めて大つかみに評すれば、水戸人が供給した理想が薩長二藩の物質的勢力と抱合して維新の大業は進行
したのであつた。(徳富蘇峯氏明治維新史の一齣)
翁三十九歳の嘉永五年、対岸の北米合衆国は我国をして開港せしめんことを決議し。水師提督ペリーに
国書を齎らし、軍艦四隻を率て翌年癸丑六月浦賀に着し、通商を乞はしめた。幕府止むなくペリーを久
里濱に於て引見し、諸藩に警報して沿岸の防備を考へしめた。就中水戸齊昭は幕府の命に依り深く海防
の急を考慮し、已に天保三年に於ても寺院の梵鐘を鋳潰し大砲を造らしむ等の論を以て、海防策を考へ
たのは有名な談である。ペリーは上陸して国書を幕府に呈し、一と先づ長崎へ去たけれども我国長夜の
鎖国の夢は爰に忽然として一朝に破られ、物情騒然、幕府は事状を朝廷に上奏し 孝明天皇いたく宸襟
を悩ましたまひ。従来幕府の専断にのみ出たる外交内治は、是より以後朝廷の議を経る事と成つた。同
時に攘夷論と開国論とは幕府を中心に交々論議せられ、夫れには幕府外交の軟弱を責る者続出して世論
は錯綜し。水戸齊昭は最も熱烈なる尊皇攘夷論の急先鋒である。其意見によれば
太平打続き候えば、当世の態にては戦ふは難く和は易く候え共。天下一統戦を覚悟致し候上にて和に
相成候はゞ夫程の事は無く、和を主に遊ばして万々一戦に相成候節は、当時の有様にては如何とも被
遊候様無之候。去八日(嘉永六年七月)御話致し候事は海防掛ばかりへ極密になされ、公辺に於ては
此度は実に御打払の御思召にて号令致されたく云々(下略、海防愚存より)
と云ふに在り、然るに一方幕府は到底我国の武備を以てしては外国に当り難しと為し、就中老中井伊掃
部守直弼(小字鐵三郎、近江国彦根藩主第十七代直中の十四男)を筆頭として、開国論者の人々は攘夷党
に反対抗争した。一方ペリーの浦賀を去て間もなく。露国使節プーチアーチン軍艦を率て長崎に来り隣
交を乞ひ、樺太千島問題を提出し。安政元年にはペリー再び浦賀に来り上陸し、翌年二月まで幕府との
間を往来した結果、幕府の外交方針は軟化し、和親条約を結び。ペリーは又其五月下田に至り、附録条
約を締結して帰国したが、露使更に大阪湾に来た。其後幕府は相尋で和蘭、露西亜、英吉利、仏蘭西の
各国とも夫々の条約を多きは二十ケ条少きも十数ケ条に亘りて締結し。米国は安政三年更に総領事ハリ
スを送り、将軍家定に謁せんことを乞ひ、水戸齊昭之を沮止せんため幕府に上書したが用ゐられず。齊
昭は逆に排斥せられ、ハリスは遂に将軍に謁し国書を呈し厚遇を受けた。是より先き幕府は米国の要求
に依る新通商条約を議定し、之れを実践せんとしたが、世の物議を怖れ調印せず、上奏して勅許を乞ふ
ため、林大学頭及津田正路(名は半三郎)を京都に派し調印の勅許を乞はしめた。翁は林大学頭に学び
たる事ある縁故で、長詩を賦し発途を送つた。其大意を記せば左の如し
《割書: 林君幕命を奉じ、条約調印の勅許を以て対外策を決せんとすと聞くも、夷虜(外人)は狡猾であるに幕政は振はず。漫に粉々たるの| みである。宸衷を仰ぎ皇威の発揚を期せんとならば、宜しく真に忠義のこころを振ひ、英断以て攘夷の方針を立て、国防の完成を期すべ| きである。》
林大学頭左右と共に之れを読み憮然たりしと云ふ。次で老中堀田正睦も亦上洛策動したが、朝議は遂に
一三
一四
幕府の乞ひを斥ぞけ、大学頭等は空しく帰東した。此時已に京都では尊皇攘夷党が漸次勢力を伸べ、幕
府倒すべしの声が高まつてゐたから、朝議は更に条約の事たる宜しく諸藩の公論に依り決すべしとの旨
を仰せ出され、調印の勅許は望み薄と成つた。併し幕府に於ても、当初ペリー来航し、其他諸外国艦船
の来た時には勿論一戦をも辞せぬ気分ではあつた事は、井伊直弼が、其臣宇津木大炊(五清と号す)をして
浦賀の防備を視察せしめたりやなどした事でも判るが。漸次外人の言を聞き外国の事情を知るに及んで
軟化の止むなきを知つたのである。翁亦大炊とは詩作の上で能く相知る間柄なるゆゑ、詩十二首を賦し
之れに寄せた。
有感寄宇津木大夫《割書:(折四)|》
策士紛々空守株。鎮邊指画等嬉娯。礮臺銃架供観美。不省縦横適用無」。
《割書: 策士紛々空しく株を守り。鎮辺の指画は嬉娯に等し。ほう台銃架は観美に供し。縦横適用の無きを省みず。| 》
人言大艦用之難。我言大艦是其要。記得周家学水軍。纔経数月已精妙」。
《割書: 人は大艦之を用ゆること難しと言ふ。我れは大艦是れ其要ありと言ふ。記し得たり周家水軍を学び。纔に数月を経て已に精|妙なりしを。| 》
後詩の後半は三国誌にある呉の周瑜が少数の海軍で赤壁の海戦に、魏の大軍を破つたことを吟じ、幕府
海防の軟弱を諷した。
夷舶蛮船来去頻。眼看瀛海結氛塵。戌楼近接鎌倉地。為弔弘安英断人」。
《割書: 夷舶蛮船来去頻りなり。眼にみるゑい海氛塵を結ぶを。戌楼近く鎌倉の地に接し。為めに弔す弘安英断の人。| 》
今昭和の六年は正に元寇役の六百五十年である。翁の此詩を服膺すべきもの有り。
不恃無来要有待。待之之策在平生。造為巨艦立軍號。教習海濱屯戌兵。
《割書: 来るなきをたのまず待つあるを要す。之をまつの策は平生にあり。巨艦を造為し軍号を立て。教習せよ海浜の屯戌兵。| 》
二十八字堂々たる海防論である。
是より先き翁の師星巌は俄に江戸を去り京都鴨川畔に移居し「鴨泝小隠」と称し、詩酒の間に逍遥し、
吟哦に耽つてゐた。而も裏面には幾多尊王攘夷党の志士と交はり、維新の気分養成に努めた。此時代又
我政局には一の複雑なる問題が考へさせられてゐた。それは将軍家定が病弱で子なく、継嗣を定むるの
急に迫られた一事である。尾張越前薩摩等を中心とする数藩は水戸齋昭の第八子一つ橋徳川慶喜を擁立
せんとし、幕府の中心人物井伊直弼以下の一派は紀州の幼主徳川慶福を挙んとして互に鏑を削り、彼是
の事情が外交問題と相錯綜した結果。幕府は遂に人才の聞え高かつた井伊直弼を、安政五年に老中の上
位たる大老職に就かしめ、直弼は先づ問題の対米条約につき、勅許を待たず断然調印して了つたので、
天下の志士猛然として違勅の罪を鳴らして起ち、事態は益々粉糾した。直弼は調印の止むなき次第を上
奏する一方、将軍の継嗣は徳川慶福を立てるに決心したゝめ、尊王攘夷論と倒幕攘夷論とが又錯綜し。
朝議は爰に公武合体して国事に当らんことを考へ、大老及三親藩中の上洛を促した。偶々将軍家定が薨
去し幕府は多事であつた為め、大老は上洛せず、老中間部下総守詮勝を上洛せしむるよし答奏し、サテ
大いに決する所あり。倒幕党乃ち水戸系を主とする志士に、一大弾圧を加ふる方針を立て之れを決行し
一五
一六
た。尾張越前両藩主は隠退、水戸父子は謹慎、一橋慶喜は登城を禁じ、六月二十五日紀伊宰相慶福(時
に十三歳)を将軍に立てゝ了つた。是れ第十四代徳川家茂である。爰に於てか幕府排撃の声は反動的に
益々熾んと成り。志士の策謀東西織るが如く、翁又身を忘れ、奔走日も亦足らず。或は同志と会合し或
は書を要路に呈し、或は藩主松平伊豆守信古に尊攘の議に賛加せられんことを勤め。摂政二条齊敬及び
阿部侍従(備後福山城主十一万石、従四位阿部伊勢守正弘)等に拠りて朝廷に建議する等大に努力した。
偶々一友人が私かに翁の危険を慮りて忠告し、其人を択ばずして妄りに発する勿れと咎めたるに対し、
翁答て「今や内外の事情切迫して、人心恟々国家の安危に繋るや大なり。何ぞ之れを択ぶの遑あらんや。
国家の外寇ある猶ほ父母の激疾あるがごとし、苟くも之れを救ふの途を求めんとせば、区々たる罪譴の
如きは顧みるにたらず」と更に屈するの色がなかつた。偶々幕府より列藩へ諭すの令を見て翁慨然たる
こと数日に及び。二本松の同志中島長蔵(黄山と号す)浦賀より江戸に帰り翁と酒を汲み時局を談じ、
相共に悲歌激語し、遂に号泣するに至つた。
水戸の鵜飼吉左衛門父子、薩摩の日下部伊三次等の志士は京都に入りて梁川星巌、梅田雲濱其他と謀議
し、尊攘の目的を達せんために、井伊大老を斥け密勅を水戸に下されんことの運動を進め、鵜飼幸吉は
それを携て江戸に下り。水戸其他十三藩と幕府との双方へ勅諚は下されたが、水戸藩等への賜勅は公武
合体の趣旨の如くして実は幕府排斥のものであつたので、莫部は大に狼狽し。愈々倒幕党検挙の臍を
固めて、老中間部詮勝を九月三日上洛せしめた。詮勝が上洛に際し、井伊大老へ送つた書面によると。
(前略)此度の事天下分け目の御奉公と存じ一命に掛け働く心得に候。水老(齊昭)慎みを免され登
城あらば、殿中にて召捕るか、又は殺すの外無之と迄思ひ詰め候も。是れは宜しからざるやも知れず
候云々(下略)
以て如何に幕府が大決心を以て水戸党に当つたかは推するに難からず。間部下総守詮勝(初名詮良、龯
之進と称し、松堂と号す、越前国鯖江城主五万石、実は一族詮凞の三男、藩主詮允の封を襲ぐ)此の大
使命を帯び入洛したのは、実に五十六歳の男盛りである。詮勝の東海道を通過したるに当りて。我吉田
(豊橋)藩主松平伊豆守信古は其二男なるを以て、或は城下の光景を一見せんとでも思つたものか。世
は勤王佐幕の両党紛争して囂々たる時代なるにも拘はらず、乗輿を駅の東端瓦町で下り、徒歩して西端
船町に至り、再び悠然と乗輿したるは、如何に其の胆気に富んでゐたかゞ窺はれる。詮勝は安政六年十
月辞職し、文久二年幕府は朝命で其封二万石を削り、明治十七年十一月二十八日歳八十三で逝た。松平
信古は(初名理三郎、文政十二年己丑四月廿三日詮勝の二男として鯖江城に生れ吉田藩に入り、嘉永
三年庚戌十一月十五日廿二歳で襲封。文久二年六月晦日大坂城代に任ぜられ、元治元年刑部大輔と改め
同二年二月溜間詰に転じ幕政に参与し、明治二年六月版籍奉還、太政官達に依り旧姓大河内に返り豊橋
潘知事と成り、維新の功績により朝廷より賞詞を賜はり、四年十一月廃藩と共に華族に列せられ、東京
下谷清水町の自邸に移住し、明治二十一年十一月廿五日六十歳で逝た。
一七
一八
四 戊 午 の 大 嶽
尊王倒幕、志士密謀の本拠は京都に在りと為し。その撲滅を期すべく、幕府が決心した夫れに際して、
幕府にも間部老中にも縁故の深い、吉田藩主松平伊豆守信古は、豫め慮る所あり翁を突如として江戸よ
り追放するの命を下した。是れ実に安政六年己未五月二十一日の事で翁四十六歳の時である。此の前
已に翁の慷慨悲憤は熾烈を極め、左の如き作詩あり。
放 歌 行
殷憂過痛哭。作歌不成章。看花對月潜涕涙。何問佯狂將真狂。痛極如無痛。詩成轉豪縦。大酔放歌朝
又朝。是真被夢々非夢。鳴呼百歳空懐千歳憂。詩巻天地定長留。自吟自笑又自哭。如待知音休々々。」
《割書: 殷憂痛哭を過ぎ。歌を作れども章を成さず。花を看、月に対して涕涙をそゝぐ。何ぞ佯狂と真狂とを問はんや。痛極まつて| 無痛の如く。詩成て転だ豪縦。大酔放歌朝又朝。是れ真、夢に非ず、夢ゆめに非ず。アヽ百歳空しく千歳の憂をいだき。詩| 巻天地に定めて長く留めん。自吟自笑又自哭。知音を待が如きは休む〳〵〳〵。| 》
翁追放の命伝へらるゝも、平生交遊する所の者来り訪ふは稀である。偶々土佐の士松岡時敏(字は欲訥
毅軒又用拙と号す、翁と同年で、藩主山内豊信(容堂)の篤信を受け、随行して江戸に出れば、必ず先づ
翁を訪た、維新後土佐より徴士に任ぜらる)訪ひ来り「今日君の為めに謀る者それ只安井息軒先生か」
と息軒に事情を告ぐ、息軒(名は衡、字は仲平、日向国清武郷中野里の人、始め飫肥藩学の助教授後幕
府儒臣となる翁夫人の媒者)先づ翁の妻子を按排し、次で翁の北遊の地を考慮した。翁江戸を去つて両
毛信越の各地を漫遊し、後年「北遊剰稿」の著あり、小序に曰く。
「己未安政六年の北遊、実に已むを得ざるに出づ、盃酒を借りて憂悶を排し、詩も亦排遣の余に成る
故に作る所少からずと雖も、また稿を留めす、其偶々存するもの僅に三十首のみ」と
將北遊書示送行小山松渓加藤有功
送行有客酒盈樽。禍福人生不用論。自償平生水志。那知小謫是深恩。
《割書: 行を送る客あり酒樽にみつ。禍福人生論するを用ゐず。自ら平生山水の志を償ふ。那ぞ知らんや小謫は是れ深恩。| 》
孩嬰無智喩来難。問我遊山幾宿還。災後新居黔突未。又將行李試閑關。
《割書: 孩嬰は智なく喩し来ること難し。問ふ我れ遊山幾宿にして還るかと。災後の新居黔突未だし。また行李を将て閑関を試る。| 》
有功は義兄一介の義子である。翁放謫の人と成り前途の難関を試練せんとす、感慨は詩中にあふれ、人
の心肝を動かすものあり。東都を離れて先づ下毛足利に至り、其祖小野篁の遺像を由緒ある足利学校に
拝して
千古興衰不用論。猶欣小校故基存。飄零何面拝遺像。我是相公幾葉孫。
《割書: 千古の興衰論ずるを用ゐず。猶小校故基の存ずるを欣ぶ。飄零何の面か遺像を拝せん。我は是れ相公幾葉の孫。| 》
此地有志の大歓迎を受け、連日詩書の需に応じた。別宴に列する者五十四人、同地文墨の会として未曾
有とせらる。更に上毛の桐生、澁川を経て草津温泉に浴し、六月澁谷嶺を越て詩あり。
回首頽雲倚險巇。一枝健竹力相支。窮途豪語人應笑。獨立乾坤亦一奇。
《割書: 首を頽雲に回して険巇に倚り。一枝の健竹、力相支ふ。窮途の豪語人まさに笑ふべし。乾坤に独立するも亦一奇。
一九
二〇
信州に入越後小千谷、新潟に留泊した。
散歩海浜慨然成詠
漫遊擬忘人間事。未免仰天時慨然。目斷佐州青一点。鄂羅靺鞨阿那邊。
《割書: 漫遊人間の事を忘れんと擬る。未だ免れず天を仰いで時に慨然たるを。目は絶つ佐州青一点。鄂羅まつかついづれの辺ぞ。| 》
翁一刻の散歩にだも、対外の感を忘れず。
酔 中
酔中随處送居諸。自是昌朝放棄餘。狂放不成憔悴色。恐他漁父識三閭。
《割書: 酔中随処居諸を送る。おのづから是れ昌朝放棄の余。狂放憔悴の色を成さず。恐る他の漁父の三閭を識るを。》
《割書:右詩の後半ば周の屈平の事を云つたのである。屈平字は原、博学純真の人で懐王に仕へ三閭太夫と為り一時王の信用厚かつたが、同僚に|讒せられ、王死して其子襄王の為め放たれて山野に在り、文を作り弁疏したが容れられず。其時自ら「漁父の辞」といふを作り、一漁夫|(仮設)が見て三閭太夫にも成つた身が何故に放たれ顔色憔悴、形容枯稿しゐるかと問ふたに対し、世皆濁り我れ独り清み、人みな酔ひ|我れ独り醒めたる故に放たれたりと答へ。漁父笑つて滄浪の水清まば我が纓を洗ひ、濁らば我が足を洗ふべきでないかといつたが屈原は|終に汨羅の淵に投じて死した。| 》
翁も亦放たれて逆旅にあるが憔悴の色は見せないと云ひ。故事新用の妙と豪気の状想ふべきである。翁
又若松城下に蒲生氏郷の墓に展し、東奥より再び下毛に入り、後年武田耕雲齋の拠つた大平(オホヒラ)山を踏み杤
木町に滞留すること月余に及んだ。
杤 木 寓 舎 雑 題 (折一)
平生愛山水。况爲浪遊身。未得探一勝。壹欝過三旬。事閑体易嬾。興漫句難新。明日城中去。
何以誇故人。
《割書: 平生山水を愛す。况や浪遊の身たるをや。未だ一勝を探るを得う。壹欝として三旬を過ぐ。事閑にして体は嬾り易く。興漫| にして句は新なり難し。明日城中に去り。何を以てか故人に誇らん。| 》
此時翁は俄に江戸藩邸へ招致せられ、江戸に帰れば藩主より、「容易ならざる風聞あるを以て国元へ送
る旨」を達せられ、其侭藩邸に拘置せられ、妻子も同様拘せられた。
放棄今纔数月間。水雲自喜了清閑。夜来急召關何事。藩吏抅吾不許還。
《割書: 放棄今わづかに数月の間。水雲おのづから清閑を了するを喜ぶ。夜来の急召何事にか関す。藩吏吾を拘して還るを許さず。| 》
薄衾互覆五更寒。不似炉頭對臥安。最是人間可憐事。妻兒亦解耐艱難。
《割書: 薄衾互に覆て五更寒し。爐頭対臥の安きに似ず。最も是れ人間可憐の事。妻兒も亦艱難に耐ゆることを解す。| 》
急召如有意。嚴譴殊堪驚。丘壑豈不戀。勞々歎吾生。早衰双鬢白。朴學一身輕。報國無寸効。捧日
抱微誠。得非萋斐錦。羅織何縦横。風聞不容易。五字確罪名。
《割書: 急召意あるが如し。厳譴殊に驚くに堪たり。丘壑豈恋せざらんや。労々吾生を歎ず。早衰双鬢白く。朴学一身軽し。報国寸| 効無く。捧日微誠を抱く。萋斐の錦に非ざるを得るも。羅織何ぞ縦横。風聞容易ならず。五字罪名確し。| 》
往事百可悔。雖悔復如何。天氣無定凖。人海足風波。吏卒交護我。不容別人過。黨禍同宋代。囚係
懐東坡。反省無所作。何須激悲歌。虚名招實禍。名言不可磨。
《割書: 往時すべて悔べし。悔ゆと雖復如何せん。天気定準なく。人海風波足る。吏卒交々我を護り。別人の過るを容さず。党禍宋代| に同じく。囚係東坡を懐はしむ。反省はづる所なく。何ぞ悲歌に激するを須ひんや。虚名は実禍を招くと。名言磨すべからず。| 》
言々句々肺腑より流露す。古人の所謂「容れられずして後君子を見る」とは夫れ当時の翁を言ふか。越
二一
二二
えて二十二日江戸よりいはゆる軍鶏駕籠(トウマルカゴ)(一に網乗物(あみのりもの)ともいひ恰も軍鶏(シャモ)の如く其顔のみを出す駕籠)を
以て護吏を附し、吉田に送られた。吁忽にして追放、忽にして拘禁、更に遠く藩地へ幽閉せたれたるも
翁一笑に附して問はず。只此時郷里の母堂已に七十歳を過ぎ、旧居に在りて翁を憶ふこと切なるの一事
は翁たる者豈愴然たらざるを得んや。
輿 中 口 占 (折二)
帖然拜命發都城。護送猶何比遂臣。不似從前遠遊日。旗亭例會舊交人。
《割書: 帖然命を拝して都城を発す。護送猶何ぞ遂臣に比す。似ず従前遠遊の日。旗亭旧交の人を例会するに。| 》
吾意雖勞吾脚閑。睡過鈴語馬聲間。何思湖海豪遊士。隔着發興看遠山。
《割書: 吾意労すと雖も吾脚閑なり。睡過す鈴語馬声の間。何ぞ思はん湖海豪遊の士。発興を隔着して遠山を見んとは。| 》
翁の護送に関して一挿話あり。翁は吉田幽閉の稍緩めるに際し、人生五十の一劃期に達したるを以て、
横山仙助を自ら小野侗之助に改むと云ふも。実は江戸より護送の乗輿に当時の慣例として木札を附し
「松平伊豆守預り罪人小野侗之助」と記したるが故に、皆その如何なる人なりやを解せず。勤王党も佐
幕派も軽々に看過した。其裏面には、藩主信古及藩の心ある有志が翁の無事に吉田に達せんことを考へ
態と変名せしめた周到の用意であつて、翁在世中此事は少しも語られなかつた。又一説によれば翁は吉
田へ送られたる後、幕命で「国元永押込」と云ふ処分を受たが、已に江戸では斬首せらるべき一人に数
へられてゐたを、藩主信古そこに機宜の方策を講じ、一は自藩より重罪人を出さゞる希望より、又一は、
師弟であり、藩儒として惜むべき士たる等事情を綜合し、乞ふて藩地に送つた事は、一に幽閉乃ち保護
を加へたのである。其一証は、後章(気骨徳性の項)に述るが如く、翁が息正弘に向ひ寿莚開く可らず
と云ふ意志を述た中に「余は已に梟斬の刑にも処せらるゝ筈であるを僥倖にして然らざることを得たと
は、藩主親しく余に語る所である」の一言がある。(翁の改名参照)
偖翻つて当時大検挙の模様を見るに、此事は多くの維新史其他に掲げられて已に周知の事実ゆゑ、詳記
する要もあるまじきが。幕府の決意を齎らして入洛した間部詮勝は、先づ妙満寺に館し、病気と称して
出でず。関白九條尚忠を介して是より先き徳川慶福を家茂将軍として立てた勅許を乞ひ。且つ水戸へ攘
夷の密勅を下された事に就ての抗議を提出したる後。疾風迅雷的に大検挙にとは着手した。苟くも幕政
を非議し、皇権の回復を謀り、水戸に党するの徒は容赦なく捉へて其多くを江戸に拉致し、惨刑極罰殆
と到らざるなく、総計実に一百数十名に及んでゐる、実に安政五年九月より起つた出来事で、乃ち之を
戊午の大獄と云ふ。今其重立た部分を記せば粟田口青蓮院宮は慎み永蟄居、鷹司右大臣父子、近衛忠凞
三條實萬は辞官、落飾、慎み、一條忠香、二條齊敬、近衛忠房、廣橋光成は各遠慮引籠、徳川齊昭は永
蟄居、一橋慶喜、尾張義恕は隠居慎み、水戸慶篤は差控へ、越前松平慶永、土佐山内豐信、宇和島伊達
宗城、老中堀田正睦、元老中太田資始は隠居慎み、を始とし水戸藩では家老安島帯刀は切腹、茅根伊豫
之助、鵜飼吉左衛門の死罪、同幸吉の獄門、鮎澤伊太夫の遠島、其他各宮家及諸藩に亘りては橋本左内
、賴三樹三郎、飯泉喜内、吉田松陰の各死罪より、遠島、重追放、中追放、所払、御役御免、永押込押
二三
二四
込、慎み、減禄、差控、手錠、江戸払、お搆、などの罪名下に夫々刑せられたが。史上に記されない程
の者で、江戸に於て斬られたは頗る多数であつた。
是より先翁の親友勝野友【「友」を見せ消ち、右に「豊」】作(名は正道、字は仁卿、臺山と号し変名して仁科泰【「泰」を見せ消ち、右に「多」】一郎といひ、旗本阿部四
郎五郎家来、江戸人)一日翁を訪ひて謀る所あり、次で水戸の鵜飼幸吉来り密談屡々為し、友【「友」を見せ消ち、右に「豊」】作は翁の
添書を得て京都へ走り、幸吉も亦入洛した。間もなく密勅の水戸藩主へ下つた事は、勿論裏面に相当有
力なる援助者があつたであらうが。友【「友」を見せ消ち、右に「豊」】作が携へ入洛した翁の添書なるもの、亦一方の功力があつたこと
は、当時私に同志者間に認められて居たとの事である。翁は壮時より前章にも記す如く水戸とは離れ
難い関係を有し、若し今日の言葉でいへば水戸藩は多大なる翁の勤王運動の背景であつた点が多い。友【「友」を見せ消ち、右に「豊」】
作は大獄の起ると共に行衛を晦して捕へられず。長男森之介は遠島、二男保三郎は押込と成つた。翁の
師星巖は検挙三日前暴疾にかゝり病むこと二日七十歳で逝き。妻紅蘭は一旦拉致せられたが、機智に富
み、弁疏して釈放せられた。翁の親善なる幾多の志士学者名流は此厄にあひ、翁の能く惨刑酷禍を免れ
たるは、前章の如く藩主信古其他の庇護のあつたのも去る事ながら、翁は常に皇権恢復を唯一目的とし
敢て過激手段を取らず、浅慮は却つて自らを禍し国家を益せずと称し。仮令ば外人を斬るべしだの、義
兵を挙るだの、暗殺毒害を謀る等々は之れを避け。徒らに幕吏の憎悪を深からしめぬやうに洒然として
詩酒風流の交際をつゞけ、何人たるを辞せず。幕吏にも開国論者にも相当知己を有してゐたことは、最
も身の僥倖に与かつて功があつたとせられた。
五 吉 田 城 幽 閉
翁が幽閉せられた吉田城中とは、旧名/川毛(カハゲ)と呼び今の東八町北へ入る歩兵第十八聯隊射的場のある、元
柳生(ヤギフ)門趾ある処である。僅に三室の陋屋を所謂座敷牢として丸太の木柵をめぐらし。徒士目附(カチメツケ)及護卒の
人々数名更代で監守し、少数の藩士及び上司の許可を得た者に非ざれば面会を許さず。普通獄舎と何の
異る所がなかつた。
堂 々
堂々辜負丈夫身。一室幽囚已幾旬。忍使妻兒勞遠夢。空慚弟妹養慈親。世無智己作詩悔。心抱殷憂
思酒頻。却自苦中求樂地。東坡太白彼何人。
《割書: 堂々こ負す丈夫の身。一室幽囚已に幾旬。妻兒をして遠夢を労せしむるに忍びんや。空しく弟妹の慈親を養ふを慚づ。世に| 知己なく詩を作つて悔ゐ。心殷憂を抱きて酒を思ふこと頻なり。却て苦中より楽地を求め。東坡太白何人ぞ。》
庚 申 元 旦
欣々相賀太平春。想見都門風物新。吾子吾妻眞薄命。不知何狀過今辰。
《割書: 欣々相賀す太平の春。想ひ見る都門風物の新。吾子吾妻真に薄命。知らず何の状か今辰を過ぐ。| 》
翁泰然として獄中に坐し、絶て怨嗟の色なく、読書詩作に耽り。監守の人々語るに東西の変故を以てす
れば黙して答へず、其態度の如何にも冷静なるには皆殆んど感服して了つた。日を経て愈々他志なきを
認められ。或は密かに詩書を乞ひ、詩文を学び、酒肴を贈りて慰さむる者あり。上司の人々も亦夫れに
二五
二六
動かされて遂に旅行の自由を許し、藩主は翁を召して講書せしむるに至つた。当時藩老 西村治右衛門
(峯庵と号す)和田肇(挑川)等の人々文武の志に厚く、以下の人々も俊才が乏しくなかつた、従つて
翁を見るの明あり。併し翁の幽閉の名は安政六年己未より慶応二年丙寅に亘る八年の長きに達し翁とし
ては甚だ不幸であり、藩地としては学田の収穫が多かつた訳である。其三年目の文久元年辛酉春始めて
江戸より妻子を迎ふることを許され、吉田城中大手長屋の一家屋に住はせられた。
三月六日妻兒自江戸至
廿歳吟壇頗得名。花前豪侠動驚人。誰思斗室幽囚裏。迎得妻兒醉作春。
《割書: 廿歳吟壇頗る名を得。花前の豪侠やゝもすれば人を驚かす。誰か思はん斗室幽囚の裏。妻兒を迎へ得て春をなす。| 》
息正弘、後年その拘禁より幽閉迄の状況を敍して曰く。
「戊午の大獄起るや、共に謀る者相継で獄に下る。一夕藩吏突如として至り、家君を拉し去り、吉田
城に押送し、妻兒を谷中藩邸に幽し、両地の音耗【音信】全く絶ゆ。時に弘猶幼なり出でゝ群兒と戯る、輙ち
皆罵つて曰く汝の父は賊なりと、弘独り走り帰り泣いて母に訴ふ、母嗚咽対へず。年甫て十歳母に従
つて吉田に至らんとして偕に函嶺を踰ゆ。方に春寒、山雨衣袂に滴り、躓き且仆れんとするもの屡々
なりき、母輿中より之を覗ひ歔欷す。小弟は母の懐に在り、呱々として乳を索む、余亦母に向ひ頻に
阿爺を見る何れの日にあるかを問ふ、而も其幽囚にあるを知らざるなり。吉田に至れば則ち老屋一宇
監守する者六七人、儼として檻舎の如し、家君其中央に坐し、書巻数冊を左右にして、夷然として詩
を賦すること前日に異ならず。(下略) (原漢文)
一誦して惨然たるの状目に在り。翁漸く幽閉の緩むと共に藩校時習館の学事を督せしめらる。時習館は
遠州濱松より転封せられた松平伊豆守/信復(ノブナホ)に依つて、宝暦二年に起されたる古き歴史を有し、世間稀数
の藩校として幾多の人才を出し、学事は常に振つてゐた。其附近の大手長屋に翁を住しめた藩主の意向
も蓋し推し難からず、大手長屋は今の西八町市公会堂前「時習館趾」の南側で偶々關根痴堂が謫せら
れて江戸より帰り、共に「菁々吟社」を起し我地方の文雅は大に振ひ、藩老西村、和田、松井等諸士の
如きも一時皆吟誦を事とするに至つた。
吉田城陰幽居雜吟 (折二)
風撼寒條日影沈。古松老柏碧蕭森。一窓亢座消朝暮。多汝小禽傳好音。
《割書: 風寒條を撼して日影沈み。古松老柏碧蕭森たり。一窓かう座朝暮を消し。汝小禽の好音を伝ふるを多とす。| 》
陶杜詩篇韓李筆。各家箋釋亦何心。眼前不見滄桑事。爭解前賢用意深。
《割書: 陶杜の詩篇韓李の筆。各家の箋釋亦何の心ぞ。眼前滄桑の事を見ずんば。いかでか前賢用意の深きを解せん。| 》
翁追放せられて北遊の途に上るや、予め心に警戒する所あり、努めて他人と政論を上下せず。偶々栃木
の客舎に於て、三河刈谷藩の志士松本奎堂(謙三郎)に邂逅す、奎堂は翁が一に盃酒の間に放浪し詩書
にのみ遊ぶの態度を見て、憤然として席を蹴つて去つた。而も其栃木より翁は間もなく容疑者の一人と
して江戸藩邸に拘され、吉田に送られたるも一奇である。奎堂は後に中山父子を擁して和州天の川に事
二七
二八
を挙げ之れに死し。遺稿は曩年刈谷町有志者の手に於て刊行せられたが、翁その校閲を託されて為した
も一寄縁である。
六 任 官 及 致 仕
其後幕政は日に不振に陥り、井伊大老は水戸烈士のために萬延元年三月三日といふに、四十六歳を一期
に桜田門外の雪と散りたること、余りにも有名な史実である。依て幕政は老中安藤對馬守信正(奥州磐
城平城主)久世大和守廣周(下総国関宿城主)等代つて之れに当つた。信正(字は君脩、幼名鐵之進、
欽齊及蟠翠と号す、信由を父とし才気頴敏、武芸和歌絵画等に長じ、其母は吉田藩主松平伊豆守信明の
女である)幕議先づ桜田事変に考へ、喧嘩両成敗の故智に因り。水戸藩主徳川慶篤の登城を沮止すると
共に井伊直憲(直弼の子)を譴責し、それに従つて処置されたる藩主及其他の者二十余名に及んだ。
更に尾張越前土佐三藩主の謹慎(戊午大獄参照)を解き、倒幕党の気勢を緩和せんとし公武合体を高唱
した結果は、皇妹和の宮の降嫁と成つたが、時局は予期に反し、益々紛糾を加へ。安藤老中の要撃事件
を生み、島津久光の上奏と成り、次では大原勅使の東下、将軍家茂の上洛、生麦の英人殺傷、攘夷論の
熾烈、薩海の英艦砲撃、蛤門の変、長州藩の内訌より征長役、水戸齊昭の薨去、長州の仏国船砲撃、聯
合外国艦隊の下関砲撃、等々々々、前後幾多の問題、重畳たる波瀾は渤然としれ湧出したのである。斯
くて慶応二年冬徳川慶喜が将軍職を襲だが、天下の大勢は益々幕府のために不利と成り、倒瀾を回すの
術なく、翌三年十月十三日サシモ七百余年を経過した武臣の政権は、乃ち第十五代将軍慶喜に依り奉還
せられ、王政復古の大号令は四海に轟き渡つたのである。誠に幕府衰亡の跡を考ふれば、其内政の紊乱
より延ては士民遊惰に流れ、奢侈に耽り虚偽を重んじ、実力の減退、それに加ふる外国の刺撃、又其反
動としての皇漢学の復起と勤王主義の勃興とは蓋し、見逃すべからざるものあり。経世家の正に考ふべ
き所である。
翁五十四歳に達し友人等の劃策其宜しきを得て、朝廷より特に摂政二條齊敬の名を以て命を藩主信古に
伝へ「古書取調」の一員としてその上洛を促し来つた。爰に於てか始めて全く幕府の覊軛を脱し、先づ
母を湖北高畑村の旧居に省し次で入洛した。二條家では其別邸をその仮寓に充て款【欵】待すること十ヶ月。
同志の山中法橋(名は獻、字は子文、靜逸又は信天翁と号す、三河碧海郡の人、齊藤拙堂門下で始め本
願寺に仕へ、維新の際徴されて辨事と成り、石巻県知事に任じた。辞官後京都嵐山天龍寺村に住し明治
十八年五月年六十三で逝いた)膳所藩の岩谷修(一六居士と号す)等と共に「救荒時宜」の取調を命ぜ
られ、(実は他の機密にも参与したといふ説あり)精励能くその使命を果して帰藩した。藩主信古は直
に邸宅数百坪を与へ(今西八町南側七十九、八十番地の大松ある処)翁之れを「松聲幽居」と称し、一
時晏齊の号を用ゐた。(息正弘が双松の号を用ゐたも、此巨松と時習館趾(公会堂前)にある巨松とより
取つたと聞く)。此時尚ほ各藩は勤王佐幕の両党、その帰趨に惑ひ鏑を削ること一通りならず。顧みて
我吉田地方の状勢如何と見るに、要するに勤王主義を取つて動かざる人々多数を占めて居たが、尾三両
二九
三十
州を通じては相当紛糾が多かつた。殊に、尾張の如きは其大藩であり人才も少なからぬため従つて紛糾
したので、京都に在つた翁は「国事掛」の一員として先づ尾張藩に出張し。同藩の人心を帰一せしむる
と共に、三河各藩の重臣に参集を求め。大義名分のある所を力説して、能く動揺なからしめたのであつ
た。当時朝廷には国事掛の外に御用掛を設けられ、二つの掛の人々は毎日今の御前十一時より午後三時
まで御所に出仕し、互に隔意なき意見を書面にしたゝめて提出し(今いへば原案)協議を為し。若し意
見の纏らざる場合は、陛下親しく小御所へ出御あり、摂政より事の次第を聞し召して御親裁を賜ふた
とは、畏れ多き極みであつた。
尾張藩は幸ひにして藩主徳川慶勝穎敏にして、重臣に人才乏しからず。能く時勢の趣向を解したゝめ其
名を全うし、三河各藩も、之れと略ぼ歩調を同くして王政の化に翼賛し、翁の使命はすべて達成した。
此年九月八日慶應は明治と改元し間もなく 天皇の江戸行幸は仰せ出され、二十日車駕京都を発し、其
二十九日駕を我吉田に駐めさせたまひた(十月三日江戸御着、十七日江戸を東京と改めらる)吉田行在
所は札木町中央北側(今の新道の処)の本陣中西與右衛門(清洲屋)方で。(二回目行幸の時は關尾町
悟眞寺)供奉頭は参与木戸孝允、其外土佐少将、加藤遠江守、因幡中将、池田丹後守、加藤出雲守、平
野内藏頭、薩摩少将、長門宰相、肥前少将、彦根中将、犬山成瀬隼人正等が供奉した。孝允は札木町菊
岡を旅館に充て、其夜直ちに使を翁の邸に派して招致し、宴を張り。先づ以て王政復古の目的の成就し
たるを互に喜祝して盃を挙げ、孝允は主人の請に任せ筆を揮つて「天地如一家」といふ五字の額面を書
【左頁下段】
した。翁乃ち翌日孝允の推挙に依り行在
所に候し 陛下に拝謁し徴士を拝命した。
陛下此時御歳十七であらせられた。
徴士とは此年より明治二年六月迄の間、
諸藩及都鄙の別なく有為の才を朝廷に抜
擢し、参与若くは各局の判事辨事に任じ、
在職四ヶ年で其退職せしめがたき事情ある
者は、更に四ヶ年を延期した。徴士の下
に貢士あり、是れは大藩(四十万石以上)
より三名、中藩(十万石以上三十九万石
以下)よりは二名、小藩(一万石以上九
万石)より各一名を採用し、人選と期間
は藩の意向に一任し、貢士中の人才は徴
士に進むることを得たが。翁が徴士の拝
命を行在所に於て為されたは蓋し異数と
せられた所である。
【左頁上段の額の横書き部分】
天地如一家
【額の下に横書き】
木戸孝允書
【中段】
此匾五大字故内閣顧問木戸君
眞跡也戊辰歳翠華東幸君扈従
驛次舘于豐橋菊岡樓々主請君
書酒間連數紙欣然揮毫此五字
不適其意故欠欵印然其揮毫之
際余亦在座親視之固不容疑者
主人珍藏十九年于茲請余一言
因題 明治丙戌清和莭 湖山
小野愿時年七十有三。印【正方形枠に中に「印」】
《割書: 此扁の五大字は故内閣顧問木戸君| の真跡なり。戊辰の歳翠華の東幸| 君扈従し、駅次豊橋菊岡楼に館す| 楼主君の書を請ひ、酒間数紙を連| ねて欣然揮毫し。此五字は其意に| 適せず、故に款印を欠けり。然れ| ども其揮毫の際は余も亦座にあり| 親しく之れを観、固より疑ふをゆ| るさゞるもの、主人珍蔵すること| 茲に十九年余の一言を請ふ。因つ| て題す。》
《割書: (翁は七十三は明治十九年である、| 豊橋市福谷藤太郎氏所蔵)》
三一
三二
維新の際我が吉田藩から徴士と成つたは翁の外に中村庄助(後に清行と改む)がある。翁とは深交が有
つたが其事情を異にするので一筆する、清行の家は今の東八町練兵場入口(小遊園南)の東側にあり。
禄五十石の藩士で征東総督有栖川宮熾仁親王殿下が吉田へ二三日御駐泊あり、彼の錦の御旗が始めて東
海道に光つた時。藩から一隊が出され庄助がその主役で殿下に拝謁したが、其後江戸に至り殿下に仕へ
徴士として会計局(後の大蔵省)統計頭と成り、銀行の勃興するや当時主として華族の出資である第十
五国立銀行支配人と成り。後宮内省御用掛とも成り都下で逝た。殿下が我地に御駐泊に成た事情は、京
都より我地迄は無事であるが、今の静岡県下には相当佐幕党があり。且つ山岡鐵太郎が折衝のため静岡
に来て官軍の先鋒西郷隆盛を待つて居た、ソレコレの事情で御駐泊に成つたのであつた。
孝允が菊岡で揮毫した扁額は二枚で、其一は今猶同家に所蔵し、他は落款(松菊生)が入れてなく、夫
れには翁が確実なる由の小書をして今はしない萱町福谷藤太郎氏の有に帰してゐる。
翁が深く孝允の知遇を得た事につき少しく記さんに。維新の元勲三傑として木戸 西郷 大久保と歌はれ
た孝允は長州藩に生れ、本姓和田小五郎、幼にして同藩桂家に養はれ、青年不覊であつたが敢然として
悔ひ改め、江戸に出でゝ苦学し。且つ一代の剣豪齋藤彌九郎の門に入り剣を学んだ。当時齋藤が開いて
ゐた神田の錬武館の道場には吉田(豊橋)魚町出身で都下での五指に屈せられるゝ金子健四郎が塾長で
あつた。健四郎は彌九郎と同じく杉山東七郎の門弟で、一時彌九郎の道場を受持つて居たのである、杉
山は神道無念流の達人で、健四郎はそれに就て学び、後又同流岡田十松にも学んだ。桂小五郎の孝允も
同じ彌九郎の道場に在つて、多数の修業生の中で十指の中に居た。翁は健四郎と同じ吉田で関係深い所
より、時々彌九郎の門を叩き、三人鼎座或は時に酒家の本色も発揮したであらう。俊才青年小五郎も亦
必ずや其席に陪し、三先輩から将来を嘱望せられてゐたことも想像に難くない。翁は文化十一年甲戌生
れ健四郎が十年癸酉で一才長じ、小五郎は天保五年甲午なるを以て翁よりも二十、健四郎よりは二十一
才若年である。其後水戸藩では小石川舟河原橋の所属道場百錬館に一名の師範を聘する必要を生じ。藤
田東湖と武田耕雲齋とが相謀つて、都下を物色した末。神道無念流の金子健四郎か北辰一刀流の千葉周
作かの内をと云ふ事に成り、健四郎の手腕実見の上で、百石扶持で水戸へ抱へたは二十六歳の時である。
是より先き翁は筆を載せて屡々水戸へ遊んだのみならず、藩主齊昭との間に密接な関係も有たらしい。
故に同じ吉田出身の志友健四郎の水戸採用に就いては、華【蕐】山も喜んで配慮したが、翁との間にも何らかの
相通ずるものがあつたといふ事である。健四郎と孝允、水戸と長州、翁と水戸及び孝允と云つた連環的
の因縁も亦興味が多いではないか。孝允は参与を止め始めての内閣顧問といふ役割に廻つたが、明治十
年四十四歳で惜くも病没したのであつた。爰に又一挿話は翁と孝允との似通つた点である。
《割書:(一)孝允が多く水戸藩氏に知己を有し長州は水戸と提携し、長の伊藤俊助(後の博文)等数名の有望青年を水戸に派して交誼を結んだ事|(二)孝允は少時父母を失ひ、而も亡親に至孝で朝夕其霊を拝すること十年一日の如かりし事。|(三)孝允は広く賢才を愛し人を容れ交際に恬淡で、人の刺を通ずるあれば自ら迎送などし又朋友に誼が厚かつたこと。|(四)風流韻事に親しみ松菊と号し詩書を能くした事等である。》
已に維新大業の成るや、一意皇権の安泰をのみ思ひ。薩州の大久保利通と謀り、一時不和であつた二藩
の提携を為し。又「幕府を倒した雄藩が、敢て我意を恣にせば、是れ暴を以て暴に代ゆるの誹を免れず。
国民をして寧ろ封建の旧時に如かずとの念を抱かしめんか。一に天皇の御徳に因り成し遂げたる新政の
大本は覆へされ、慨嘆に耐ゆべからず」と説き。又一面には当時公卿中には、天子が諸侯と会盟するが
如きは国体の許さゞる所なりと云ひ。此説も仲々有力であつたので、之を憂ひて公卿の間に遊説し広く
諸侯を加へ、国是方針を一定すべしとの事に奔走した急先鋒であり。遂に其議が採用せられたるは、是
三三
三四
れ五ヶ条御誓文の出た素因で。又我国立憲政体の基礎であつた。孝允は又早きに藩籍奉還の事を断行し
て蝸牛角上の小紛を絶つべく期し。洋行より帰りて後は更に一層挙国一致の発達を望み。征台役の尚早
を唱えて職を去つた其心理は、所謂藩閥専政を主張し、一意徳川系統を斥けて有頂天なる輩とは、自ら
異つた頭脳の持主であり。翁の如き亦その親み深かつた一人であらう。又翁が二條家にありて国事掛を
命ぜられた際、同じ国事掛には長州系の人多く、従つて翁は孝允と一再ならず接近したと思はるゝ点あ
り。翁官を辞し母を省し、直に京都に在つた孝允を訪ふたが郷里に去つて会はず。後年翁の刊行した
「詩屏風」に左の一詩が載せられてゐる、此詩の如きも亦孝允の心理の一端が窺はれる。
大政一新之歳有感 松 菊
變遷恰似黄梅莭。半日晴陰不可知。七百年来時稍到。危疑又恐誤機宜。
《割書: 変遷は恰も黄梅の節に似たり。半日晴陰知る可らず。七百年来時やゝ到り。危疑又機宜を誤るを恐る。》
翁車駕に遅るゝこと三日、江戸城に至り、更に総裁局権辨事に任ぜられた、時に五十五歳である。此時
明治新政の中央政府は、始め太政官に七科を定め、各科に総督を置き庶政を分掌せしめたが。間もなく
七科を改めて八局とし(総裁、神祇、内国、外国、軍防、会計、刑法、制度)が設けられ。辨事は皆総
裁局に属し、参与の公卿及徴士中より任じ、宮中及内外の庶事を処理し。正は勅任、権は奏任で、翁は
今の奏任一等で、記録局主任と成つた。
偖又た事の序を以て剣豪健四郎の事を少し書かんに、金子健四郎/徳褒(ノリアツ)(豐水と号す)初名武四郎で吉田
魚町の魚商金子平五郎の二男に生れ、渡邊蕐山門人として画を学び、最も竹を描くに巧であつた。兼て
武芸を好み、蕐山は田原藩の剣術が従来直心流といふ型剣術で、一朝有事の暁に当り実用に適せずとの
見地から、藩士の柔弱に傾かんことを憂ひ。江戸の剣豪杉山東七郎、齋藤彌九郎等と相謀り、神道無念
流を自藩に入れんため健四郎を江戸に送り、一意剣を学ばしめた。其後健四郎が水戸へ抱へられた時の
藤田東湖の身元調査書を見るに
《割書: 金子武四郎廿六歳、右先祖は武家より医師に相成、其後三州吉田魚町に住居致居候。父は平五郎高| 政と申者にて、当六ヶ年以前相果、当時兄徳三郎と申者世話致候。武四郎幼少より武芸を好み、杉| 山東七郎へ随身諸国流浪、武を以て身を立る存念、吉田表人別相除候云々》
とあり、兄徳三郎は魚屋であるが、健四郎は変り者であつた。身の丈け五尺七寸、体重二十三四貫もあ
りといつた偉丈夫で、田原にゐた頃これも長身の蕐山と共に豊橋に来れば、何れも人目を惹た、其妻幸
は水戸藩士安藤酒造之輔信明の子(彦之進信順の妹)で、藩主齊昭の殿中に仕へてゐた。彦之進は弘道
館武場掛であるが、武田耕雲齋の挙に与して脱藩の一人と成り。事敗れて敦賀で斬られ、安藤家は健四
郎の末子五郎三郎徳明が継で長州(周防)の人と成り。五郎三郎の長子は現に大阪に住し、其子徳噐は
広島陸軍幼年学校を出て一時軍人と成たが、志を転じて京都帝大文学部史学科に入り、現に国史の研究
中である。豊橋魚町の金子家は其後も久しく魚商であつたが、今は綿蒲団類を営業し、現代米三郎は養
嗣子で先代迄矢張り平五郎といひ、妻女は若干健四郎の廻縁者で、同家には健四郎の揮毫や門人名記や
其他数点の遺物が蔵されてある。
三五
三六
《割書:渡邊蕐山が慎機論を書て江戸で入牢し。其家宅捜索の際に幸ひ牢頭中島嘉右衛門は蕐山の画友高久靄涯の門人であつたので。私かに人を|以て予報した。依て書生の健四郎と山本琴谷が書類の始末最中へ嘉右衛門が乗込み、余り室内が混乱してゐるので、何か隠匿せざるかと|詰つた。健四郎答て自分は画を習ふ外何事も存ぜぬ、幸ひ揮毫を御覧に入れようと、全紙に竹を見事に描て見せ其場で嘉右衛門に贈り、|嘉右衛門は感心して持帰つた。後年健四郎が水戸藩剣道師範と成り、靄涯同伴で嘉右衛門を訪ひ、懐旧談に花を咲せたと云ふ。水戸では|耕雲齋が弘道館を監督し、藤田東湖、會澤正志諸藩老と共に、彌九郎の道場へも常に出入し、後年同藩の内訌に当り、齊昭擁護、慶喜擁立|などに彌九郎が健四郎と共に陰然尽した事も尠くなかつた。》
健四郎は水戸藩の道場である小石川舟河原橋 百錬館(後年砲兵工廠所在地)で教授し。耕雲齋の世話
に成た為め、武田を憚りて武四郎の武の字を健と改めた。道場の壁書(規則)七ヶ条は東湖の筆で、堂
々たるものであつた。当時都下では鏡心流の桃井春蔵、北辰一刀流の千葉周作、神道無念流の斎藤彌九
郎が鼎足の門戸を張り。彌九郎の次子勤之助は鬼勤と呼ばれたが、夫れを健四郎が小五郎(孝允)と謀
つて長州藩の明倫館へ師範にやり。小五郎は勤之助と五分々々に使つた腕で有た。
蕐山が幽居中より田原の江戸詰用人眞木定前へ送た書状中に「金子此機に乗じ、水
藩へ御世話被下候へば何とも申分無之、後来稽古のため御差留被成候事は、御手ご
ゝろ次第に可有之候」とあり、健四郎が愈よ水戸に抱られたを聞き喜んで「金子武
四郎水戸御抱に相成候者、伝より申来、依之吉田(豊橋)與兵衛、平五郎へも案内申
遣候」と書てゐる、去れば蕐山の一身幕府の疑惑愈々繁く成るや、健四郎は椿山、
半香等と共に、百方赦免の嘆願に尽し、蕐山も私かに感泣したと云ふ。或日蕐山は
健四郎と小酌した時、筆を走せて扁額を書し贈つたが、夫れは上記の如く「人に勝つ者は先づ己れに克
て――丁酉春日金子氏と小酌の余、之れを書す、登」で、丁酉は天保九年で蕐山四十五歳、健四郎が二
十六歳の時である。此額は現今豊橋市魚町佐藤善六氏所蔵に帰してゐる。
江戸町奉行池田播磨守の配下与力として働く、伊庭軍兵衛及び水戸藩士生方虎之助は、共に能く北辰一
刀流を使つたが、健四郎が水戸へ抱へられた際。藩主の前で晴の立合に惨敗したる上。健四郎は勤王、
二人は佐幕党といつた意見を異にし。殊更遺恨を含み。安政二年元旦健四郎が忠僕覺次郎を伴ひ、蕐山
の門人福田半香の許へ年賀に赴き、年酒の席で虎之助の父である幕府の祐筆生方貞齋と碁を囲み、健四
郎が勝つたのが因で、貞齋に散々侮辱せられ。能く忍耐し一笑に附して立去たが、忠僕覺次郎が義憤
の余り、道に擁して貞齋を斬たがため、健四郎も半香も召捕られた。かくて覺次郎は東海道藤沢の足袋
商三州屋といふ知るべに身を寄せて居たを、健四郎の門下で後ち桜田事件の烈士である關鐵之助、蓮田
市五郎、佐野竹之助らが捜し出し。自首せしめたので、奉行所では直に健四郎も半香も放免すべき筈だ
のに然らずして、三日目に覚次郎が急死したのは、正に健四郎を罪に陥いれんず奸徒の策で、毒殺した
らしくあつた。爰に於て耕雲齋、橋本左内、等は健四郎を救はんために動き。藩主齊昭も書を幕府に送
り藤田東湖は阿部老中(伊勢守)を訪て赦免を乞ふなどの事があつた。偶々安政の大地震で江戸の町が
大混乱に陥入つた機に乗じ。健四郎は姿を晦まして了つて、表面は水戸を永のお暇に成り。侠客新門辰
五郎なぞの庇護を得て、東海中山両道の間に暫らく隠顕して居たが。京都にいたり一時阿部侍従(伊勢
守)に庇護された事がある。水戸烈士として井伊大老を桜田門外に要撃した者は、大抵健四郎の門人で
あつたから、其事件にも健四郎は黒幕と成り、何かと応援したと云ふ説がある。烈士の一人蓮田市五郎
【右頁扁額】
勝人者
先克己
《割書:丁酉春日與|金子氏小酌|之餘書之| 登 印【正方形枠の中に「印」の文字】》
三七
三八
の如きは十七歳で初段の腕があつたが、貧乏で道場へも通へなかつたを、健四郎が義侠心で無月謝で教
授し名人に仕立た。
《割書:井伊大老殺され、次に来たのが、安藤閣老の坂下門外要撃で、此挙には下野の河野顯三、越後の川本杜太郎が主だけれども、水戸浪士と|して平山平介以下五名あり。悉く是亦健四郎の門人である。其一人の内田萬之介が時間に遅れた為め、桂小五郎(木戸)を桜田の長州藩|邸に訪ひ、自刃して果てたといふ挿話なぞも、伊藤博文の懐旧談の一節にあり。其後健四郎は有賀平彌、岡見次郎等と共に高輪東禅寺の|英国公使アルコツクの帰途を襲つた事もある。勤王の志士続々京都に集まるに及んで、健四郎は薩州邸に入り、西郷吉之助(隆盛)のた|めにも援助せられたとの事である。又長州の世■をして水戸藩主に代り、攘夷党の牛耳を取らしめんとした一派の運動にも参加したと伝|へらるゝが。惜い哉元治元年四月、年五十で京都に客死した。》
若し彼をして尚ほ十余年の寿を保たしめたならば。亦是れ我が東三に、痛快なる一士人の噂を留めたで
あらう。話は大へん岐路に亘つたが翁の健四郎と意気投じ、親しかつたことは、文武両道の差こそあれ
決して偶然に非ず。されば翁が福山侍従を経て朝廷に書を奉つたといふ事にも、其間に健四郎の介在し
た様子がある。
翁徴士として江戸に召さるゝや、其前後の詩作は少くないが、今その数首を左に録す。
恭讀十二月七日詔
唐室中興韓子筆。淮西勲業號無雙。聖皇宸斷眞神武。剿賊功成不殺降。」
《割書: (訳文は巻頭写真に添へあり)| 》
戊辰十月朔恭拝東幸儀仗
鸞輿遠度幾山川。文武衣冠儀燦然。北狩南巡徴古史。未聞盛典似今年。」
《割書: 鸞輿遠く幾山川をわたり。文武の衣冠儀燦然。北狩南巡古史を徴し。未だ盛典の今年に似たるを聞かず。| 》
二十八字能く前人の詩史に愧ぢず。
蒙 徴將赴東京有作
幾歳棲遲臥敝盧。忽驚檐際鶴銜書。稍聞寰海妖氛滅。便覺寒林和氣舒。節後菊猶凝色處。
至前梅已放香初。出門一笑別兒輩。敢借恩輝誇里閭。」
《割書: 幾歳か棲遅敝盧に臥す。忽ち驚く檐際に鶴の書をふくむを。稍寰海妖氛の滅するを聞き。便ち寒林和気の舒るを覚ゆ。節後| 菊猶ほ色を凝らす処。至前梅已に香放つ初め。門を出でゝ一笑兒輩に別れ。敢て恩輝を借て里閭に誇る。》
翁時に五十五歳、半生の事跡了りて新生面を開かんとす。後聯の妙、等閑に読み難し。
凾 嶺
錦斾揚々照薜蘿。群靈掃路百神呵。翠華不用六龍駕。如此關山容易過。」
《割書: 錦はい揚々へき蘿を照し。群霊路を掃ふて百神呵す。翠華六龍の駕を用ゐず。此の如き関山容易にすぐ。| 》
明治二年元旦朝東京城 (折一?)
眼看祥光耀大瀛。嵩呼華祝頌昇平。政權復古三千載。征討宣威十萬兵。恩賜盃深増喜色。
陽和氣暢足歡聲。迎鸞有日知非遠。到底新京勝旧京。」
《割書: 眼に祥光の大瀛に輝くを看。嵩呼華祝昇平を頌す。政権古に復す三千載。征討威を宣ぶ十万兵。恩賜盃深くして喜色を増し。| 陽和気暢て歓声足る。迎鸞日あり遠きに非ざるを知り。到底新京は旧京にまさる。》
此詩七八の二句は、鳳輦再び東京に幸し、遂に千秋の台を奠め給ひしを指たのである。
当詩都下に集まつた上下の有志は、創始の事業に鋭意なるを以て。翁は記録局主任たる外、要路に対し
三九
四十
種々の意見を述た。又廟堂の諸高官が、多く西国出身で関東の事情に通せず。依てそれに精通した翁に
就き、諮詢すること最も繁く、斯くと知りて翁に拠り、推挙せられた人物少なくなかつたが。翁は又意
外なる、反抗にも遭遇した事が多かつた。翁の要路に向つて述た意見中には、徳川氏の政治と雖も、取
るべきものは須らく取り用ゆべし。必ずしも一概に排すべからずと云ひ。又国家学事の一日も忽諸に附
すべからざるを思ひ、上野東台へ速かに、大学校を起すべしとの建議、其他幾多の意見を開陳したが。
用ゐられなかつた。
七 孝 養 隠 退
此時湖北にある母堂、已に八旬の老齢に達し。翁の立身出世を喜ぶこと深からざるに非ざるも、実は既
往の遭厄に懲り。私かに憂慮を増すこと一通りならず。頻に病を称し、翁の帰去来を促して止まず。翁
止むを得ず帰郷の意を決し、骸骨を乞ひ。二年二月遂に允許を得たので、即日帰郷の途に上つた。吁在
官僅かに三ヶ月余。時に翁五十六歳である。
二 月 十 二 日 紀 恩
幾回回首出城門。不覺衣襟點涙痕。歸去只期圖報効。賜還恩勝特徴恩。」
《割書: 幾回か首を回して城門を出で。衣襟の涙痕を点ずるを覚ず。帰去只だ報効を図らんことを期し。還るを賜ふ恩は特徴の恩|にまさる。》
大沼枕山は送別の詩に
見機為隠是常事。得意辭榮獨此翁。
《割書: 機を見て隠を為すは是れ常時。得意栄を辞するは獨り此翁》
と云つた一句あり。翁又帰省して
帰 家 (折一)
名在朝班僅十旬。鶯花風暖故鄕春。老親喜我歸來早。談笑如忘病在身。」
《割書: 名朝班にあること僅に十旬。鶯花風暖なり故鄕の春。老親我が帰来の早さを喜び。談笑病の身にあるを忘るゝが如し。》
忠臣は必ず孝。孝子は必ず忠なりの慨あり。翁の友人碩学中村敬宇(正直)は後年「湖山近稿」の序
に於て翁の談片を引き「世遂に詩人を以て我を目す、我豈巳を得んや、先生の言此の如し。余を以て之
を観れば、先生は学に根柢あり、師友に乏しからず、志し経済に存し、多く実効を見たり。獨り其大用
を得ざるを憾むなり」と云ひ。大口蓊山氏著豊橋市史談の一節には此文を引用し。翁辞官の事に及び
「翁が敬宇の序文を自ら其詩集に載せたるは、翁乃ち其意を首肯したるものと見るを得んや、」といつた意
味の一言あるは、筆者亦その着眼に同感を禁じ得ないものがある。是より先き大沼枕山が翁の任官を賀
した詩の句中に
文章於道寧無補。經濟逢時乃有成。退伏幾年甘驥櫪。飛騰今日就鵬程。」
《割書: 文章道に於て寧ぞ補ひ無らんや。経済時に逢て乃ち成すあり。退伏幾年驥れきに甘んじ。。飛騰今日鵬程に就く。》
四一
四二
があり。翁が前章の如く徴士と成り、権辨事と成た時。我が東海地方で参与に抜擢せられたは、尾張
藩に田中國三(後の不二麿)田宮如雲、大垣藩老小原仁兵衛(鐵心)等あり。其他奏任官としての若干
は有たが、ヨリ上位の多数は九州四国で占め、僅かに中国地方人あるのみ、薩の西郷(隆盛)大久保(利
通)岩下(方平)長の木戸(孝允)廣澤(兵助)井上(馨)揖取(素彦)土の 後藤(象二郎)福岡(孝悌)板
垣(退助)を筆頭に、大藩に多く、小藩に少なかつたのみならず、徳川に因縁深く、徳川系地方より出
た者は、(関ヶ原以来のイキサツもあるか?)西国系より大に睨まれ、自然平らかならぬ気分の有た事
は否めず。夫に対して翁の大志あり、抱負の尋常で無かつた事も、一の対照として見るべきであらう。
併し一面翁が孝心の非凡に厚く、母堂を懐ふ念の尋常でなかつたことは所在に現はれ、年少故郷を去り
中興国事に携はりつゝも、其忙しき日月を割き、屡々母姉を郷里に省し。母亡き後も七十歳位迄は殆ん
ど年々展墓の礼を欠かず。六十七歳の時の帰展日記によれば「帰路三島にて竹輿を買はんとして得ず、
草鞋を着け嶮路(函嶺)を攀ぢ老脚を試み未だ甚だ遅々たらず、兒源(二男横山源太郎)大に喜ぶ」な
どの一節あり。以て如何に翁が親に仕ふる念の深かつたかゞ窺はれる。壮年の詩に
丙 午 元 旦
柳金梅玉又新春。寧説覊栖單且貧。手把屠蘇林下立。一杯遥獻北堂親。」
《割書: 柳金梅玉又新春。なんぞ覊栖の単且つ貧なるを説かんや。手に屠蘇を把て林下に立ち。一杯遥に北堂の親に献ず。》
翁獨り母堂のみならず、長姉波満子を懐ふ心も亦一通りでなかつた。
吾親雖歿有吾姉。吾姉恩同吾母恩。」
《割書: 吾親なしと雖も吾姉あり。吾姉の恩は吾母の恩に同じ。》
翁八十三歳(明治二十九年三月)姉波満子八十八歳に達し。翁自らは其高寿を賀しての祝筵を一回も開
かしめ無かつたが。姉のためには米寿杯(木製朱ぬり直径二寸余)を製し、自ら金泥で米壽の二字及び
号を書し、親戚友人知己等へ贈り家姉を喜ばせた。
藤森弘庵は早きに翁の詩集に序して「其得る所を以て後進に授け、以て衣食に貧し、苟くも余裕あれば
則ち必ず千里齎らし帰りて北堂の献と為す、此の若きもの数々なり。余恒に其為す所を以て、人の子の
情に厚き者と為すなり」と云ひ。又翁の辞官に関して三島中洲は「予僻陬に在り、翁が皇政一新に際し
位を得て志を行ふべきに、何の不平ありてか、早きに辨官せしやを疑ひ。既にして上京し屡々翁と往来
し、翁の詩稿を読み、上は皇猷の休美を賛頌し、下は風俗の開明を記述し。皥々凞々太平の気象を表章
【左頁中央の詩幅】
狂■【髠?】恣威福幽君古殿
中 我愛源三位勤王首
唱功《割書:源三位》 八十六齢湖山叟 【角印 角印】
【詩幅の下】
《割書:狂こん威福を恣にし。君を幽す古殿の中。我|は愛す源三位。勤王首唱の功。」源三位。八|十六齢湖山叟………源三位頼政は豊橋藩祖で|城東の豊城神社は夫れを祀り。松平伊豆守信|綱が合祀せられてゐる。(豊川閣所蔵)》
四三
四四
せざるはなく、之れ一部中興の頌と謂ふも可なるを知り。翁の辞官の意は、中興の業既に成り、儕々た
【右頁上段】
る多士其守成の才に乏から
ざるを以て。超然退隠する
の勝れるに如かずとせしも
のならん」と云た。
一旦帰郷孝養の心を表した
翁も、母堂の病気漸次快復
に向ひ、翁の永く山陬閑村
に在るを許さず。藩籍奉還
の制布かれて明治二年各藩
主を改め潘知事に任ずる
や、藩士中より大少権の三
参事を任用し、地方政務に
当らしむる事と成り、翁亦
藩主信古の召に依り吉田藩
【右頁下段】
権少参事に任ぜられた。何がさて明治新政府の権辨事
に任ぜられながら惜気なく其地位を去り。更に再び一
藩の権少参事に就職した事の如き。尋常一様の思想な
らば、兎角の体面論なぞもせらるべきであるが。予て
より藩地の教育に深く留意し。藩主の知遇に感じつゝ
あつた翁は、快然一諾信認に応ふべく、急遽藩地へ帰
り。更に藩校時習館の学事を督し。鋭意学制を改め、
文武の道を激励し、新たに寄宿舎の制を設け、教育の
面目を一新せんと期した。惜むべし事業未だ其緒に就
かざるに四年廃藩置県の発令と成り。従つて時習館も
其業を休止するに至つた。此時吉田悟眞寺内に設けて
あつた三河裁判所が三河県と改称せられ。其監督下に
寶飯郡国府町へ修道館なる皇漢学校が開かれ、翁其の
学頭に任ぜられ。自らは漢学部を擔任し、友人羽田村
【右頁下段の続き】
(今花田)神職羽田野敬雄(後佐可喜)を起して皇学部を擔任せしめ、相携へて地方教育のため尽瘁し
たが。是亦僅かの時日で廃止せられた。翁が前後を通じ我が時習館の学事に携はつた当時、俊才は可な
り多く、我藩の学事は振つた。敬雄も当時自邸に「誦習学舎」といふを建て、翁之を応援して教育のた
めに尽さんとしたが、一般の学制が変つたので、挙て幡太学校へ譲つた。誦習学舎の木額は翁の揮毫で
今も花田尋常小学校に保存せられ、掲げられあるのが思出深し。当時我が地方は東西来往の学者志士等
の翁を訪ふ者多かつたが、敬雄の邸をも矢張り訪ふ者多く。共に其名を知られ共に欵待した。
【左頁下段】
明治元年車駕の東幸に当り朝廷よ
り沿道各藩主へ命あり。高齢者、
孝子、節婦、義僕等を表彰せられ
吉田領内で合計三十六人夫れに与
かつたが。それに先立ち翁は敬雄
及び佐野蓬宇等と謀り、吉田附近
の孝子六人を敬雄の邸に招じ、藩
主信古が臨席饗応し褒美をあたへ
【左頁下段の続き】
た。其一人の今新町(今の西新町)牧野與之助(六十四)は、老母たつ(八十七)に孝養厚く。藩主よ
り褒美に米五俵及び一代一人扶持を賜はり面目を施した。同人は素人画を能くし、藩主の面前で喜びの
余り、半截紙に鯛と笹葉の画を揮毫し。翁その上に左の一詩を賛した。
【右頁中段の横書きの木額】
誦習学舎
【額の外、左側】
明治五年五月
湖山学人
【額の外、下側。横書き】
豊橋市花田尋常小学校所蔵 (木 額)
【左頁中央上部、笹に鯛の画と賛。翻刻は次頁に有り】
翁賛孝子與之助筆
【画の外、下側。横書き】(豊橋 佐藤前六氏所蔵)
四五
四六
巧拙不須論。珍重孝子筆。古人作人帖。其意今可述。」
《割書: 巧拙は論ずるをもちゐず。珍重す孝子の筆。古人人帖を作る。其意今したがふべし。》
與之助は性温順で、人を敬ひ物を愛し、其言語動作は有道の士人と雖も及ばざるものあり。自身は襤褸
を纒ふも、父母の衣食に不足を感ぜしめず。和気常に家に満ち、見る者感心せぬは無かつた。同人の孫
を重作といひ、現に渥美郡二川町の岩屋山下に商ひをしてゐる。同時に賞せられたるは瓦町現市会議員
丸地清次氏の祖父丸地紋次郎及妻ちゑ長男勇作三人が、和合一致して母りのに能く仕へ米三俵を。船町
中村しきは六歳で母を喪ひ継母に育てられ、父も尋で死し、妙齢で聟を迎へたが、夫れでは十分に孝行
が出来ぬと云て聟と別れて、継母を大切にした廉で金二千疋(五両)を。呉服町の提灯屋安藤吉太郎は
同胞の二女しう、三男利兵衛、四女けい、五男太兵、六男治吉、七男末吉の七人極めて和合して父母に
孝養した廉で、是亦二千疋を賜はつた。吉太郎は長貴と号し蓬宇門下で俳句を嗜み、三男利兵衛も樗心
と号し同様嗜んだ、渥美郡二連木(今市内)農五郎七の娘ませは年少で父を喪ひ、附近某家に奉公し盲
目の母を能く孝養し極貧の状を母に知らせず、日夜慰め満足せしめた廉で是も二千疋を。又渥美郡小池
村(今市外)勘左衛門の妻みきは、其夫夙く死し三人の子と病中の姑とをかゝへ、姑が短気で困りたる
も能く孝養し、郷人を感動せしめた廉で米二俵を賜はつた。
敬雄(佐可喜)の伝は豊橋市教育会より大正十四年十月刊行せられ、遺墨展覧会を高等小学校に開いた。
既にして藩主信古は廃藩置県と共に華族に列せられ、東京谷中清水町の藩邸に移住し。翁それを送り共
に東上し邸内に寄寓した。
遠携兒輩入京華。寓舎迎春笑語譁。憶得蒼山詩句好。不成孤客不成家。」
《割書: 遠く兒輩を携て京華に入り。寓舎春を迎て笑話かまびすし。蒼山詩句の好きを憶ひ得たり。孤客と成らず家を成さず。》
不須江上着漁簑。不用山中鎖薜蘿。老卜閑居何處好。東京城裏故人多。」
《割書: 江上漁簑をつくるをもちゐず。山中へき蘿に鎖すを用ゐず。老て閑居を卜する何れの処か好き。東京城裏故人多し。》
爾後截然として復再び出仕せず。詩酒風流の間に逍遥し。旧藩主信古は、翁を其賓師として欵待した。
四年八月十七日湖北の母堂八十五歳を以て歿し、(当時翁五十八歳)、越て五年壬申二月に豊橋の邸を息
正弘に伝へ、翁本籍を東京に移した。あゝ大隠は市に隠るとは夫れ翁の謂か。此年正弘(二十二歳)仕
官して左印掌記と成り、翁詩あり。
誌 喜
兒年纔過冠。名籍列朝官。天恩如許大。莫忘報酬難。」
《割書: 兒年わづかに冠を過ぎ。名籍朝官に列す。天恩許の如く大なり。報酬の難きを忘るなかれ。》
斯くて全家は豊橋より東京に移り。翁翌六年上野山下不忍池畔に一邸を搆へ。「湖山小隠」と称し、日
夕吟哦に懐を遣り、詩名益々内外に高まつた。
不忍池畔新居十二首 (折二)
起臥煙光水色間。小樓恰好匾湖山。蓮塘欲繼梁翁集。也是吾家消暑灣。」
《割書: 起臥す煙光水色の間。小楼恰も好し湖山とへんするに。蓮塘梁翁の集を継んと欲す。また是れ吾家の消暑湾。》
梁翁は師梁川星巖である、星巖嘗て此処に寓して詩社を結び、翁それを継いだのである。
殊色高情自有眞。偶然相見便相親。幽篁翠柏非其匹。到底荷花是可人。」
《割書: 殊色高情おのづから真あり。偶然相見て便はち相親む。幽篁翠柏は其匹に非ず。到底荷花は是れ可人。》
四七
四八
山谷の詩に「軟鷗白鷺皆吾友。幽篁翠柏是可人」がある。宋の周茂叔は蓮を花の君子といつたが。翁は
之を可人とやつてのけた。荷の字の冠を省けば可人と成る。文字と句搆と共に巧妙と云ふべし。此詩十
二首満都の詩家和韻多く。後「蓮塘唱和集」が刊行せられた。翁六十一歳の還暦に達して。
吾生之歳在甲戌。今歳重逢甲戌春。雖然老矣不須嘆。百歳壽猶餘四句。」
《割書: 吾生の歳甲戌にあり。今歳重て甲戌の春にあふ。然く老ゆと雖も嘆ずるをもちゐず。百歳の寿は猶ほ四旬を余す。》
百歳の寿猶四旬を余すと倣語した翁は、正に九十七齢に及んだので倣語でも無し。
池塘栽花四首 (折一)
酒旆招々夕照斜。此
生随處弄春華。種花
只種路傍地。不要風
光屬一家。」
《割書: 酒はい招々夕照斜な| り。此生随処春華を弄| す。花を種ゆ只路傍の| 地に種え。風光の一家| に属するを要せず。》
花を種ゆる只だ路傍に
うゑ。風光の一家に属
するを要せず。娯楽を衆と共にせんとする博愛心の閃きが見ゆる。
【右頁、小華筆翁六十六歳肖像画】
小華 諧 【丸印】
【横書き】
湖山先生六十六歳肖像
【画の外、右側下】
(渡邊小華筆)
【画の下】
己夘新年六首 (折一)
六十又添六。今吾非故吾。
吟情歸冷淡。春夢入虚無。
挂壁祖先筆。附兒朝賀圖。
梅花眞我友。風骨自清癯。」
《割書: 六十又六をそへ。今吾は故吾に| 非ず。吟情冷淡に帰し。春夢虚| 無に入る壁ないかく祖先の筆。| 兒に附す朝賀の図。梅花は真に| 我友。風骨おのづからせいく。》
八 恩 賜 叙 位
翁曽て山中弘庸(香村と号す)の嘱に応じ、山本琴谷が描く所の「窮民図鑑」なるものを見て、深く感
ずる所あり。其図は十二枚で飢荒窮民の悲惨極まる状態を、巧みに写し出したるものである。乃ち其
項目を記せば
《割書: (一)霖雨田疇渺として大湖の如し (二)麦実化して蝶と成る (三)旱魃に苦しみ雨を祈る (四)大風禾稼を傷す (五)蝗を駆る| (六)洪水の暴漲 (七)流民食を乞ふ (八)草根を堀り樹皮を剥ぐ(九)盗賊群を為す (十)餓者相尋ぎ食と為す (十一)病苦凍餒其惨| を極む (十二)穀粟を施し究困を賑はす」》
之に対して翁則ち毎図に一長詩を賦し、題して「鄭絵余意」と云ひ、一巻として刊行した。其三首を掲
げんに。
第九図 盗 賊 成 群
小盗事穿窬。大盜事強奪。暴横欺孤寡。抄掠恣桀黠。汝輩亦人耳。稟性何險猾。纍々就拘囚。後先
係刑辟。我思罔民語。緣由殆難説。盜祿私妻子。恣權禍家國。滔々天下是。誰能行其罰。」
《割書: 小盗は穿ゆ事とし。大盜は強奪を事とす。暴横孤寡を欺き。抄掠桀黠を恣にす。彼輩も亦人のみ。稟性何ぞ険猾なる。る| い〳〵として拘囚に就き。後先して刑辟に係る。我れ罔民の語を思ひ。縁由殆ど説き難し。禄を盗んで妻子を私し。権を恣| にして家国に禍す。滔々天下是れなり。誰か能く其罰を行わんや。》
末句の数字何等の痛快ぞや、時人三誦を要す。
第十図 餓 者 相 奪 為 食
人生食爲命。無食斯無人。宜哉先王政。食在喪祭先。後世重貨財。視食如輕然。不重奪農時。不難
廢民田。一旦逢凶荒。餓者紛成群。攘臂相奪食。聲厲色怒瞋。已無隣里好。豈知弟兄親。痛哉萬物
四九
五十
靈。不及鳥與鷺。」
《割書: 人生は食を命と為す。食無ればこゝに人なし。宜なる哉先王の政。食は喪祭の先に在り。後世貨財を重んじ。食を視ること| 軽き如く然り。農時を奪ふことを重しとせず。民田を廃することを難しとせず。一旦凶荒に逢ば。餓者粉として群を成す。臂| をはらひて相奪食し。声厲み色怒しんす。已隣里の好無し。豈弟兄の親みを知らんや。痛ましい哉万物の霊。烏と鷺とに| 及ばず。》
第十一図 病 苦 凍 餒 極 其 惨
手脚瘦如柴。顔面垢如土。有病不得藥。無家何處歸。叩門索餕餘。挽袂訴困苦。唇焦而口燥。所得
果幾許。安知惰農徒。化爲飢寒旅。或恐脧削餘。子父失其所。一飽終無期。在世亦何補。似聞鬼啾
喞。自覺神凄楚。不見互市場。酒肉飽黠賈。」
《割書: 手脚痩て柴の如く。顔血あかつきて土の如し。病ありて薬を得ず。家なく何の処にか帰らん。門を叩てしゅん余をもとめ。| 袂をひきて困苦を訴ふ。唇うるほひ尽て口かわき。得る所果していくばくぞ。いづくんぞ知らんだ農の徒。化して飢寒の旅| と為る。或は恐るしゆん削の余。子父その所を失はんを。一飽ついに期なく。世に在るも亦何の補ぞ。鬼のしゆう喞するを| 聞くに似て。おのづから神の凄楚たるを覚ゆ。見ずや互市場。酒肉黠賈を飽かすを。》
一結妙にして諷意多し。其他毎首能く下民の難苦を写し。真に有韻の一大政策である「政の本は民を養
ふに在り」の本領を叙し、昭和の今日と雖も宜しく箴銘とする価値あり。此書刊行に当り、三條實美宰
相は題字に「視民如傷(民を視ること傷の如し)」と書した。明治八年、翁之を 明治天皇陛下に献じた
るに。其十六年七月九日、時の内閣書記官たる息正弘を宮中に召され、御硯一面及京絹一疋を賜ふた。
御硯は長さ一尺余、濶【闊】さ七寸、厚さ之に合ひ。清人鄧石如の銘ある見事なる端渓石である。翁感泣の余
詩を賦し特恩を謝した。
紫石瑛々異彩浮。餘輝照映古牀頭。只言林下世榮薄。豈料天邊恩露優。靜壽之稱非一日。貞堅其質
自千秋。從今藝苑添佳話。野老新營賜研樓。」
《割書: 紫石瑛々異彩浮び。余輝照り映ず古床のうへ。只林下世栄薄しと言ふ。豈料らんや天辺恩露優る。静寿の称一日に非ず。貞| 堅その質おのづから千秋。今より芸苑佳話を添え。野老新に営む賜研楼。》
翁乃ち一屋を設け「賜研楼」と称し、又「御賜端研」と彫刻した一印を作らしめて用ゐた。此盛事四方
に喧伝せられ和韻の賀詩を寄せ来る者多数に及び「賜研楼詩集」が刊行せられた。翁の親友元老院議官
福羽美靜は和歌をよせた。
君よ君ふかき誠もあらはれて
すゝりの海のけふのたまもの
明治大帝より端研を賜はつた者は、翁の外に伊豫宇和島の旧藩主伊達宗城が一人ある。宗城も亦有名な
勤王家で博学長寿にして、詩を能くし、翁と深交があつた。
翁は斯の如き特恩に与かつたのみならず。東都より一旦京洛に移り、三度京都に帰りて巣鴨妙義坂に居
を搆へたる後、明治三十三年二月その八十七歳の時、感冒より肺尖を起し、大患にかゝり。医学博士佐
藤進の治療を受け、十余日にして又癒たが。一時危篤の趣 宸聴に達するや、同月二十五日特旨を以て
従五位に叙せられた。古来我国詩人にして生前叙位の恩命に接した者は稀である。時々刊行せる翁の詩
集は 明治大帝天覧の栄に浴し。長寿の故を以て銀盃を賜はり。濱離宮に於て始て天覧相撲のあつた際
は特に陪覧を許されて詩を賦し。其他の盛事にも屡々陪観を許された。高官上位の人々にして翁の吟社
に加はり。詩作の刪評を乞ひたるは頗る多く。有栖川熾仁親王殿下(霞堂)三條實美宰相(梨堂)は共
五一
に時々其邸に招聘せられ且つ詩集の題字を揮毫せられ、岩倉(右大臣)土方(区内大臣)山田顕義(司法大臣)田中不二麿(文部大臣)杉孫七郎(宮内大輔)伊藤博文(後の首相)邸などへは、屡々招宴に列して詩作があり。当時世は維新聖明の天下泰平を謡ひ。東都は一入繁盛で、詩歌風流の宴至る処に開かれ。苟くも地位名誉ある人士として、詩歌を作らねば巾の利かざる状況であつた為め。翁の如きは実に詩壇の大耆宿として、交際に多忙を極めたのである。
九 風流交際
翁常に朋友に誼厚く侠骨あり能く他人の世話を為し、時としては痛快な意気を示した事もあるが。流石に一代の名流名士に伍し。その交際は頗るひろかつた。青年時代より国事を語るは、先づ水戸藩老藤田東湖あいざわせ相沢正志、安島帯刀等を算へ。(勤王愛国参照)大垣老として有名の小原寛(字は栗卿、仁兵衛と称し、鉄心と号す斎藤拙堂門下)の如きも親しかった。維新に際し大垣藩の如きも相当波瀾が有たが、賢才小原鉄心ありて能く帰趨を誤らなかつたのである。梁川星巌には師事し、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉田松陰、橋本佐内、武富圯南、藤森弘庵、勝野台山、安井息軒、塩谷宕陰、安積懇艮齋、芳野金陵、大槻磐渓、齋藤竹堂と云ふ一代の鴻儒碩学は、先輩若くは親友として交はり。詩友には菊地五山、大沼枕山、岡本黄石、大橋訥庵、同陶庵、佐久間象山、藤本鉄石、松本奎堂、後藤松陰、森春濤、遠山雲如、鱸松塘といつた諸大家あり。方外には梅痴上人、松靄道人最も親善とせられ。中興前後を通じては鷲津毅堂、松岡毅軒、中村敬宇、川田甕江、向山黄村、股野藍田、木村芥舟、南摩羽峯、重野成齋、岡鹿門阪谷朗盧、三島中洲、依田百川、信夫恕軒、長松宜軒、関根痴堂、永阪石埭、成島柳北、末広鉄腸、神波即山、杉山三郊、野口寧齋、山田新川等の如きに上り。上位高官に有栖川宮熾仁殿下、三条、岩倉、二条、木戸、土方、伊藤、山田(顕義)、田中(不二麿)、細川(潤三郎)、杉(孫七郎)、秋月種樹、三浦梧楼、中島錫胤其他あり。緇流には増上寺行誡、知恩院徹定、輪王寺湛厚、永平寺黙堂より各宗に及び。詩書家としては秋巌、正齋、雪城、半仙、半嶺、潭香、雪江あり。長三洲父子、岩谷一六、信仰を日下部鳴鶴、金井金洞等は親交を結び、或は詩の評を為し。書家には椿山、隆古、草雲、柳圃、小華、少蘋をかぞへ。刀圭界では箕作浣圃、赤松元松、浅田宗伯。実業家方面にては、岩崎弥太郎、渋沢栄一同喜作、広瀬宰平、田島弥平等と深く相知り。渋沢栄一同喜作の両名は翁が吉田幽閉中に打伴れて慰問のため来た事がある。翁京都に在るの日、二条摂政の知遇を蒙り、後其薨去当り詩を賦して哭した。
忽地朝来訃音。哀々鳴く雁感人深。懐恩有涙禁難得。落日西山一片心。」
忽ち朝来訃音を聞き。哀々鳴雁人を感ずること深し。恩を懐ふて涙あり禁じ得難し。落日西山一片の心。
又木戸孝允の逝去を悼て詩あり。
曾把安危繫一身。維新功績古無倫。至尊肝食今猶昨。誰與夫君為替人。」
曾て安危を把て一身に繫ぐ。維新の功績古ち倫なし。至尊肝食なほ昨のごとし。誰か夫君と替人たらんや。
翁の親友で夫人の媒者たる安井息軒は、天資剛介で軽々しく人に容さ無かったが、翁は其知遇を得。吉
東海道
五拾三次
の内
吉田
豊川橋【印の文字】
廣重画【印の文字「保永堂」】
《題:《割書:繪|本》駿 河 舞 全 》
駿河舞合本【赤字】
駿河舞
《題:繪本武将一覧 ■【五?】》
駿河舞
耕書堂に奇石あり其かたち鷄に似たり
とて金鶏石となつくやつかれ過し頃より
深く此石にこゝろありしかとあるしの
寵すくなからねはこふへくもあらすいとむなし
く過にきことしすかの根のなかき春の日
やほやちまたの名所をさくりたはれたる歌
百首を撰て己か書斎の一物となしむさと
人にはみせさりしにいかゝしてやこの事
耕書堂にきこへ侍りけれは主のとく来て
いへる此集いたつらに紙虎の居膳となさん
よりもとみに梓にのほせて四方にはしら
しめんよ君かつ我に得させよ是に報?に
品ありとてひとつの璦函を出してうや〳〵
しくもひらきたるはなんそかの金鶏てふ
奇石なりそもこの石や予にありてはさらに
葛山人の烏石にもおなしかるへしあまり
にもふしきにもかゆき所に手のとゝくこゝち
せらるそのうれしさいふへくもあら
ねはかの乙女の天の羽衣を得しこゝちして
駿河舞とはかいつけ【搔い付け】侍る
奇々羅
金鶏
寛政二戌とし しるす
初春
芝居
二丁
まち
見渡
せは
茶
や
の
軒
はの
花
紅
葉
けふ
顔
みせ
の
錦
とそ
見る
酒楽斎
瀧麿
湯嶌
世中の
人を
むなしく
なさし
とや
天か
下谷を
見
はら
し
給ふ
南阿散人
□【巾偏+尉】翁
佃嶌
すみ
よしの
松に
かつらの
かゝり
船
帆
こしに
見ゆる
岸に
藤波
小判長丸
駒込
冨士
詣
駒込の
不二は
駿
河
の
継【鑓?】
穂
にて
花の
お江戸
に
花
咲や
姫
駅路
元道
王子村
美隣
午の日
を
かけて
のり
出す
膝
栗毛
飛鳥
の
花
に
ひ
かれ
てそ
ゆ
く
亀戸村
藍植雄
万代の
亀の
ゐところ
住所
水も
天満
大
自在
なり 【亀戸天神社 天満大自在天神】
駿河町
するか
丁
つむや
小判の
ふし
の山
また
南鐐【二朱銀】
の
しら
雪も
あり
寝語軒
美隣
茅場丁
植木やの
みせも
るり
かう【薬師堂の本尊薬師瑠璃光如来】
薬師前
ならん
て
ひら
く
花 美隣
と
から
かさ
神田
明
神
将門
の
酒の
かん
田
と
なりに
けり
樽に
七ツの
かげを
のこ 寝語軒
して 美隣
氷
川
明
神
祭
礼
は
いつ
も
六
月
十
五日
あつ
さに
の
ども
氷
川
明
神
桐
君
山人
三圍
稲荷
みめ
くりの
いく
みめ
くりか
歩行
ても
あも【き?】
はの
更に
あかぬ
もの
から
奇羅窟
金十
両国
両
国の
いくよ
もち【幾代餅】
月
詠れ
は
岸
には
波の
あは雪も
あり
雪
見
斎
白樹
高田
馬場
遠
的
の
ねら
ひ
たが
はず
あたり
ては
はなに
高田の
馬場も
みゆら
し
寝語軒
美隣
日本橋
双六
の
箱
根
の
手形
わすれ
なは
こゝ
まて
こされ
花の
御江
戸
路
美隣
冨岡
神垣も
春は
霞の
まくの
うち
冨か
岡
とは
関
とり
の
名か
美隣
笠
森
稲荷
諺に
掛て
とつた
やう
な
とは
この
かさ
もり
の
神の
きどく 木枯
か 森近
品川
傾城
の
懐へ
手を
入海は
一夜
とまり
の
かゝり
船かも
安茂仲和呂
羅漢寺
美隣
施餓鬼
する
地獄
の
さた
も
銭
次第
旦家
の
つゝむ
五百
らかん
寺
妙見
の
松
霜も
ふり
星も
ふるらん
妙見
の
松は
元
より
千代の
名に
おふ
美隣
鮫頭
海
晏寺
つか
の
まに
凌し
さめつ
の
紅葉ゝ
は
名に
ふる
寺の
目貫
とや
見ん
奇々羅
金鷄
驪不動【目黒不動。古事類苑では妻驪不動。】
有渡大凢工
雨風
の
きづ
かひ
は
な
し
目
黒
尊
木にも
竹
にも
もち
こたへ
つゝ
中洲
臘扇亭
夏炉
両
国
と
ならふ
中洲
の
はれ
角力
はやくも
沖へ
つき
出し
の
茶や
浅草寺
月漣舎
巴明
目貫師
の
たかね
も
これ
に
およふ
まじ
金
龍
山の
堂
の
勢ひ
御殿山
参理
朝居
きのふ
とは
うつて
かはり
し
ごてん山
けふは
桜の
しろ地
かちなる
霞か関
布留道具有
名にし
おふ
霞か
関の
春は
なを
花の
お江戸
の
不断
さくら
田?
画工 喜多川歌麿\t
剞劂\t小泉新八
年々歳々桜木の花あまたなれと
歳々年々新板のたねおなしからす
猶 画図(ぐわと)の手をつくし彫刻(てうこく)の功をはげみ
めづらしき品おもしろき草子追々出来仕候間
幾千代かけて不相替御求御覧可被下候
已上
\t
永壽堂蔵板繪本目録
繪本武将一覧(ゑほんぶしやういちらん) 全三冊 仝 吾妻袂(あづまからげ) 全三冊
仝 武将記録(ぶしやうきろく) 全三冊 仝 江戸爵(えどすゞめ) 全三冊
仝 八十宇治川(やそうぢがわ) 全三冊 仝 駿河舞(するがまい) 全三冊
仝 譬喩節(たとへのふし) 全三冊 仝 詞(ことば)の花(はな) 全三冊
仝 吾妻遊(あづまあそび) 全三冊 仝 天能川(あまのかは) 全三冊
寛政九<割書:巳|>正月 平野町御霊筋
浪華書林 明石屋伊八 板
三河之物語
【『三河之物語』の原典(Aとする)は、寛永末年(1645)頃に「大久保氏の人」が著したもの(現存か不明)】
【Aを(=推定)、朝倉景衡(1716~1735)が書写(Bとする)し、諸書集成『遺老物語』(1733、現存)に含めた】
【さらにBを1803年、土井利往(1754~?)が書写した結果が本書。朱書きは本書元所有者によるものと考えられる(コマ3参照での土井利往への言及を見るに、直接本人を知っていた人物かもしれないが不詳)】
三河之物語
三河之物語 《割書:利往云世ニ大久保彦左衛門カ記スト云三河物語ト云フ物三巻アリ|其書ハ 神祖三州ニ御座ノ時ヨリ元和迄ノ事迹ヲ色々集メ|書タル書ナリ此書トハ別ナリ読昆雑スヘカラズ【朱書】》
《割書: |物前ノ馬》【上段に朱書】
一 大久保治右衛門物語ニ物前にて乗へき馬ハ古来ゟ四寸三寸に
むちかゝりと云第一大なる馬ハ武具して乗り下り不自由也
鞭かゝりハけたてあふりたて尻をもみて先へ行たかるハ見事也
かんよき馬ひかへ〳〵乗レハ一段と見苦しく見ゆる也と語り候き
一 同人物語ニ大高の兵粮入の時ニ山々添て備へなるを見て内藤
甚五左四郎左其外皆々定て軍有んと云時杉浦八郎五軍持ぬ
敵也心安く通り候へと被申候へと被申候何とて軍持ぬ敵也と見
たると後ニ各尋ね候へハ軍せんと思ハ丶旗の際ニ物し下立て居
へし山の敵も下へおり候ハぬニ結句人数そろ〳〵山へ上ル程に軍
持ぬ敵也と申されき案のことく軍無りき
一 同人物語に石川新九数度の手柄刀尋常也平生ハ一段と
ほれもの也矢矧の退口の時鵜殿十郎三郎新九と一度ニのき候
敵つよく追懸候時十郎三郎是又かくれなき功者なれハ新九
がんしやうにて先立ニのき候時言葉をかけハかへすへし新九せり
合打るゝ間ににげのびんと思ひてことはをかけかへせと被申
ける時新九立帰り持たる鑓を横たへてたれもかへす我も
かへせといはれけれハやれたわけにけよとて二人なから又に
け候平生の利根と違候とて誉被申候由
一 いらふのき口の時敵強く追かけ候を次右衛門さい〳〵かへし合せ
〳〵ふせきてのき候其時はそりかさとて編笠のはのそり
たるをきて退けり敵よばハりかけてはそりかささりとてハ
見事也名乗候へ〳〵と言かけけるを名ハ無そとて名のらず
大井川を渡り向ひにて持たる鉄炮を黒野五郎大夫ニこれうて
我より上手也必打あてよとて渡し我を台ニして打てと
て川端にうつふしにねてうたせ候敵川半分へ五騎のり込一の
先の敵を川中へ打倒す夫ゟ敵つかすして敵はなれして内藤
四郎左筧助太なと次右先ハ何とて名のらせぬそ名乗たらハ
敵まての手柄にて有へきと被申候時ケ様の時ハ名のらぬも
の也敵名聞てよバりかけてさりとてハ見事也さ候へよと云
れたる時味方つゞかすしんがりの者一人うたれハ惣負
になるもの也と各同年年兄の衆に被申候を各聞て
尤と被申候由其時家康様ゟ黒野五郎大夫ニ御鉄炮御
持被成候を被下候後迄持申候つる
《割書: |鉄炮打息合》【上段に朱書】
一 見付のき口の時大久保勘七坂の上石にけあがり先へ来ル
敵を三間計にて鉄炮にて打ハづし候を家康様御覧候
て勘七郎か逃て息もおさまらぬに常のことくにためて
打たる程にはづれ候息のおさまらぬ時ハ台尻を両手
一束に取て放つもの也と御おしへ被成候よし
一 味方原負軍の夜此侭置ならハ敵夜打又ハ明日も勝に
乗んとて大久保七郎右衛門思案して惣御家中の鉄炮を集
め候へハ負軍のあけ〳〵漸鉄炮廿四丁ありつるをめしつれ庠
か崖へ廻り信玄の本陣の方へ三ツツ丶打せ候敵ことの外騒き
明日早天ニ味方原を引取て家康の家中能者多しと
見へ候聊尓ニハしほされましきと信玄被仰候と此事三河
へ聞へて一類中七郎右衛門手柄なる才覚と申候へハ則常源
七郎右衛門出来したり一類中のうちニ火ハかけぬか風上ニ火を
かけて被申候を各聞て尤功者即座の分別と誉候由
《割書:手負ヲ |弓ヤウ》【上段に朱書】
一 同時退口ニ渡辺半助といふもの打死したり小阪新助引すりのく
とて手を取てひけは首さがりて引かねけるを七郎右衛門馬上ニ
て是を見て手を取て引けは引かれぬものぞ足を取て引けと
申され候間足を取て早く引のけて敵に首を取られず
と新助語り被申候
一 同時相模馬ニテ退き候を名は忘れ候誰やらん新十郎殿草
臥討死仕候/後(シリ)馬にのせて給はれといふ程にのせ候ひつれはむず
としがみ付二人馬にて退候事外馬草臥候つるあふなき事
に逢候を古き衆是を見てか様の時は何と申す共必二人馬
にのせぬ也と次右衛門をしへ候由
《割書:前立物大 |ナルハ悪シ》【上段に朱書】
一 前立物大きなるは悪く候堀川ニて馬上ニて相模のりつけ歩者
うち候とて振上候刀前立物につかへてそのものにげ過てうちはづ
す由同し時語被申候
《割書: |升形》【上段に朱書】
一門のわき升形といふ事は人数をはかり出す故也去程に何間何程
人数居候といふ事を覚て升形はするもの也と同時に語り
被申候
一城には虎口の多きかよきと山本勘助語候由同時に相模被申候
虎口多けれは寄手城中より切て出んとの為を思て虎口には人をかさ
みて置也まゝ時も猶同前敵の人数つからかすため也
一同人申候て語り被申候虎口并町口なとは直なれは押込て敵奥迄
見込む故に人数の方便もりかへす事成かたし曲れは押込敵もま
かりめ心えなく思ひ又は横矢こはく思ひて左程押込ぬもの也
何時もまかりめにてもりかへす又まかりめ餘り多けれはかへ
す時味方に鑓をふみおとさるゝもの也
《割書:高名ノ|心カケ》【上段に朱書】
一猪の越中物語にまつ何者にてもあたり次第早く高名し
たるかよく候又よきもの打候時取替候もやすく候よきもの
初から討候と思ひ候へは自然討はづるゝ事ある由語被申候
一同人語申候人並にかゝると思へは事外跡になるものに候人に勝れ
たると思へは漸々人並になるものにて候まゝ陣屋出るからぬけつ
くけつ先へ人を越候先にて物前にて先へ行んと思へは中々能
成らず候由物語申候
《割書:鰹フシヲ|モツコト》【上段に朱書】
一鰹節を上皮けつり捨中を帯にはさみは物前にても又ひたる
き時もかみ候へは事外力になる由水飲は竹にて腰にもつへし
《割書:隻飯ヲ|ツヽム物》【上段に朱書】
一握美源五物語に隻飯を包て持には薄(スヽキ)の葉よしめしすへず
してよしつとにすへし
《割書:鑓持テ|馬ニノル|故実》【上段に朱書】
一鎧候て馬にて鑓持のる時はまつ鑓をつき立て馬に乗後に鑓を
取る也鑓なから乗んとすれは馬つけ廻りてのれぬものの由中山
勘ケ由物語也
一備つくり物前にてはもう〳〵【惘惘ヵ】として何のわけも無きもの也そこにて
油断をすれは悪しくなる也其時思出し魂を入る様に心をおもへと米
津藤蔵物語の由次右衛門語被申候其時何にても喰候もよく候常の
心懸を思ひ出せは夜の明たるやうになるもの也
《割書:陣取テ|場ヲ見》【上段に朱書】
一陣取てはあたりを見先の馬の足場なとを油断無く見るも
のゝ由同人かたり被申候
一所々の案内者を求め引つけたるは第一也
《割書:中リ|拳ノ|伝》【上段に朱書】
一阿部四郎兵衛各あたりこぶし教え玉へと申候へは何のわけは無
きそ一はい引ふくらめ/ゆひ(結)わら(藁)射ると常の心のやうに思ひ
て三間斗へ引付て射れははつれぬもの也とおしへ申候
一真田にて両方足軽出打合候に度々味方押立られ候権右被
参うたせ候時しはしもりかへし又おし立られ候其時七郎右衛門
四郎兵衛に下知して打せ玉へと申候四郎兵衛被参指物をぬき
田の畦につき立てどうと跪き居候へは味方各そのことく致ル
るを敵見付て其後はよらず候由物語被申候
《割書:覚ノ者|ノコト》【上段に朱書】
一五郎右衛門殿次右衛門四郎兵足立右馬など小田原にて寄合咄【雑談】被
申候時米津真《割書:藤蔵|事》は矢田作十郎波切主税大原左近右衛門八右
衛門なとにまつとおとらぬ度数にて有へしとて右の衆語被申候
若き者は心懸の通尋候へは惣別覚は跡を手柄と思えは早よき比也
死たるよりはいきたるか増しと思ひ身構をして見合分別出来るも
の也幼き子と立並候とも幾度も先かけして人に見せんと常に
思ふとかたり被申候由
一 浄真三郎様の御前にて色ゝ武者物語致され候時名は忘れ候
浄真手柄なる場は何程か有つると御尋之時別に覚は無御座候
鑓と存候場は十二度御座候其内八度はぬし壱人の鑓又はさし
引にて大勢の人たすけ候由とこ〳〵にてと場を引き語り被申
候時杉浦八郎五其座にて高橋縄手ニて馬上ニ而敵三騎合つ
きをとし玉ふは今の物語ニ是無く夫も十二度の内かと尋候へは
いや〳〵左様の少の事は幾度も有へし程に申上候はぬと被申候由
一 城際の軍はせぬもの也と昔から云伝へたる誠にて候安城にて
城際の軍してつけ入にとりぬと語り被申候也
《割書:カリ|キヽカマリ 》【上段に朱書】
一 陣を取候ては其家中のよき功者なるもの三人も所ニより五人は
かりきゝかまり【忍び】ニ出し候也
《割書:キヽカマリ|ノ時枕 》【上段に朱書】
一 きゝかまりニ出候ては名にても何にても枕をしていねて候へは一町計
遠く寄来る敵枕ニ響き足音必響候由源五被申候也
《割書:シノビノ時|サシ物色》【上段に朱書】
一 忍びの時は具足にても差物にても白と黒き夜も遠くより見へ候也
空色とて朝(アサギ)が見へず候
一 姉川の時左衛門尉一番榊原式部二番備也しか姉川の向のきし高く馬
の乗上場悪しく候故左衛門尉殿少廻りてかヽり候時二番手の式部殿
道をかへす置ニかヽり先手二の手両手よりかヽり候故朝倉勢早
く崩候由各物語也
一 同時信長ゟ御使ニ福富平左衛門福島平八衛門被参家康はいづくニと尋玉へは
鳥居四郎左出向ひ何の御用に候と被申候は軍仕様御諚之通り可申
渡候由被申候時四郎左先手仕候家康勢御旗本ゟ下知を受て
は不能成候仕そこなひ候とても一身の負惣負ニは到ましく候
被仰候ニ及はず候とあら〳〵といはれ候へは平左其方名は何と
いふと尋被申候時鳥居四郎左衛門と申候家康内にて八人の数
にも入候はぬ小身者に候由被申候其侭平左帰候て信長ニ右
之通被申上候へは事外御感し候て聞及しより家康は人持ニ
て候と被仰候由
一 佐久間右衛門尉三州へ加勢被参候時味方原の前の時軍の様
各相談の時鳥居四郎被申候は城下間近く通る敵を其侭
通し候事有ましく候たとひ負に究る共能者と討死して後
迄名を残し候へは能候城際の軍はつけ入を大事とする事覚
悟の前也其用心さへ候はゝ一合戦と被申候を右衛門尉聞て家康
の鳥居は見事の武士大口者と被申由案の如く味方ケ原ニ而
も先手一手にて勝て候其後鳥居四郎左討死候て大崩の
よし
《割書: |陣拂煙》【上段に朱書】
一 戦陣の時陣拂の烟を敵あけ候を各見て扨は敵のき候つき候はん
かなと各申候へは杉浦八郎五郎身候て陣屋烟にあらす其まね
をしておびき出すと存候其故は敵も五六十日余居候小屋にて
ある程に陣拂の烟ならは黒く烟の立みゆへきに烟白き程に刈
置たる木草に火を懸たると存候由被申候間即物見を出し
候へは案の如く陣拂にては無く候由語り被申候也
《割書:大将ノ|心得 》【上段に朱書】
一 成瀬吉右日下部兵右物語ニ籠城候時大将の心持肝要也何方
も見へ候高き所に常ニ居て武者の動きを後ゟ見ると諸人ニ思
はせたるかよき也高き所なくは家の上になり共居るへし大将見
へねは諸人無心評思ふ也古き衆被申候由語り被申候
一 同訴ニ大将も又は物頭なとも耳談合さゝやき事せぬもの也諸
軍衆弱み付くもの也と昔人被申候由
《割書: |多門作り》【上段に朱書】
一 城に多門作り散々あしく候籠城の時は甲のまひさしあるもうち
おほひてうつとうしきもの由本多中書物語ニ候
志賀の城の時多門作の内にて鉄炮三ツ四ツ打つれは烟にて暗くなり
なにとも居られ候はぬ由小堀新助物かたり候
《割書: |腰兵糧》【上段に朱書】
一 うちかひには干飯よく候木綿うちかいの中に口あるをこしらへ置候て
用候時干飯入腰に付候へはさい〳〵かみ候によく候又はうちかひなから水ニ
入て少おけはほとひて飯のやうニなるもの也と吉右かたり被申候
一 梅干の肉をすりて絹ニ包て糸を付て持へし砂糖もよく候よし
同人かたり候
一 いらう退口の時おし前の時は大次右衛門御旗本行内藤四郎左御鑓
奉行にて候つる敵つよくつき候て三通に御退候時左衛門尉人数連一
筋七郎右衛門御旗に付て人数連て一筋殿様一筋御退候時旗本取
を内藤四郎左ニ御申付御鑓奉行を大次衛門ニ御申付定て御心持
候つるやとおの〳〵とり〳〵被申候也
一 小田原の城御縄強の時唯城は逃入やすき様に付入ならぬやうに城は
臆病に取るものかよし
一 横矢を専ニまかりをあらせて御縄張被成候
《割書:城際ノ |備》【上段に朱書】
一 小田原陣の時さ川【酒匂】の方井伊兵部殿【直政】人数被遣候森を後にあてて
人数立よと被仰候兵部殿河原ニ備被申候へは事外御腹立候て
惣別城際にて備候ニは森かしけりを後にして備へ敵ニ人数の
程らひ見せぬやうにこそするものなれ敵森ゟ備の内人の足
数迄見すかす処ニ備へ候事合点不参候由御腹立候へは兵部殿
御諚にて候間右の所ニ備へ候由被申候時御馬の上ニて御小刀を御抜
き御腰物ニてかねを御打此かねの罰を蒙り候法も候へあそことは
不被仰候由御意ニて候ふ小刀を押折御すて候其御小刀の柄をふかう
清十郎拾ひ候とて悪しく申候
一 其時惣別城際の備は森かしけりを後ニ当てか山か高き所ニ取る
ものゝ由被仰候由
一 其時物見ニ御座候てさ川の川に付て御下り海はた波打際にて腰ゟ
城の内を御さげすみ御帰り候跡ゟ被参候御供の衆城際を乗通り
候を御しかり被成候惣別城際を通るもの程若城ゟつきて出候はゝ
一 其侭討死致へし逃たる見苦しく有へく候討取らるれは城の競【きほい=勢い】
になるを知り候はてほれもの共にて候と御しかり候城を見る
には際ゟ乗廻して横ゟこそ見る作法なれと御意被成候つる
よし
《割書:城中ヨリ|夜討ノ仕カタ》【上段に朱書】
一 其時諏訪の原御本陣也物見に御出候間各は是ニ居て陣取可
仕とて内藤四郎左馬主水渡忠右筧助太服部半蔵おの〳〵
御残し五六騎若き衆被召連候御帰候て御陣屋を御覧被成候
各御呼数々御しかり候て不勘者なる陣の取様かな皆々は
合点可参と思召候つるに初心にて候とて御叱り各陣取り
直し始とうらおもてニなり始は城の方へ向ひ陣取候御意ニは
か様ニはやまかれ候城中々切て出ぬもの也其心あらは山ゟ何
方へ寄る時いたすへしはやか様ニ取まかれて城中の方便は夜討
計り也陣取定らぬ内ニ夜討うつもの也城ゟ出候ては討ず候
何方は案内者なれは何方ニなり共隠れ居て陣の後ゟ懸破り
て城へは入様ニ夜討うつものにてはまゝ其心得をしてうらを
本に城際の陣はからるもの也と御意にて御しかり候由
一 城中ゟ橋を焼候事あらは焼せたるか能候と被仰候由是も夜討
の為也城へ乗る時は橋も堀も同し事也
一 城取巻候時巻の前に橋あらは心を付へしと各物語候由若夜討
城ゟうつ事有るへし
一 権現様城御せめ被成候ニハ何方にても一方は御明け候て御取巻候せ
め被成候なり
一 関原御合戦の時三州藤川ゟ村越茂助御使に上方衆へ御遣候
上方大名細川越中加藤肥後山内対馬田中兵部浅野紀伊
守堀尾信濃黒田筑前加藤左馬其他大勢清冽迄被参御
馬遅しとて毎日待かね被罷在候其時大形福嶋太夫殿羽
柴三左衛門殿両人は上方衆の二頭にて居被申候本多中書井伊
兵部両人是又一日代ニ先をして被登候折節各清冽の城に
て堀廻りの処へ村茂助被参中出兵部被申候は何とて被参候由
申候へは茂助被申候は上方大名衆藤川迄御座候先の様子知れ候
はず候間是ニ御逗留被成候由御使ニ参り候と被申候へは右両人まつ
相待候へ上方大名衆御馬何とて遅きと無心計被存あやぶみ被
申候処へ左様の御使被申候はゝ猶以各不審ニ可被存候まつ飯を給
られよとて台所にて飯を御振舞候茂助飯を喰上ふと心に出
申候分別に御使に参よかれあかれ御意の通り不申候へはあやま
りに成候と存中出兵部殿座敷へ出酒のあいさつめされ候内に
ふと座敷へ茂助出被申候へは各大名衆茂助殿何とて御越御由尋
被申候中出も兵部殿も卒忽ニ出被申候とあきれて御入候茂助は
かまい無く各へ御使ニ参候とて右の通り有様ニ被申候へは諸大名
衆尤に候先手御馬を相待取かけ候はぬ故に敵味方定めか
たきと思召候はんさらは早々先へ働き候はんとて其座にて
手分して川越の合戦候茂助罷帰り右の通り被申上候へは左
様ニ遠慮なく申さん為に汝を遣したりはや敵味方定り
たり合戦は被成よきと御意候つる由語り被申候中書も兵部
も茂助卒忽にして致しあてけると後に被申候由
一 其時かち山へ御取よせ候時駿河衆一合戦し御目にかけんとて
軍始数々打れ候大阪の城ゟ出候て喰付引兼候時権現様御
覧被成中出兵部あれあけ候へと御意候と両人其侭馬ニ乗り
かけ出し足軽かけ打立させ其侭引上ケ被申候由
一 大坂御陣の時二条にて藤堂和泉守被参候へは権現様和泉先手
を被仰付候か心得は何と存候と御意被成候藤堂其侭御返事に
別の心得も無御座候何卒して敵をおひき出し引せぬ様ニあひし
らひ付入に仕候ゟ別の方便無御座候由被申候へは一段御意ニ入候て
夫よく〳〵其合点にてこそ先はしたきものよと上位候てご機嫌に候
つる由泉州物語ニ候
《割書:退口ノ|コト》【上段に朱書】
一 信府のき口【退き口】の時敵つき候て合戦あるへきかなんど被申候時敵飯けふり
を小屋々々に上候時其侭引き払退申候故敵遅くつき候也其時巧者
衆めしたく烟を見て飯を喰あけてならてはつくましきと思ひて
引のき候へは如案ニ候つる由
《割書: |大将ノ礼》【上段に朱書】
一 大坂御陣の時城焼立前ニ御合戦過井伊掃部殿権現様の御前へ
被参候へは甲を脱き服に置て御前へ被参候へは御床几ゟ御立候て
御手を出され大将礼に御あひしらい卿は骨折の由被仰其
後御床几ニ御腰懸られこれへ寄候へと御意にて近々と召今
夜の陣は何と御意候時掃部はや城焼立申候うへ何事も
御座有ましく候と被申候へは御手招き被成いや夫がわるき
ぞ勝軍の時は今日はあると思へと御意被成候案の如く常
曲輪に秀頼居被申候よし明日しれ候よし
《割書:物具軽|キ好》【上段に朱書】
一 諸事物具に軽きを本とせよと次右衛門語り候
一 おしつめて備候時は少も高き処能きもの也と被申候
一 千の人数ならは二手ニも三手にも作りたるか能もの也其間
場により二町三町大人数ならは五丁も六丁も間を置て備た
るかよき由也先の手合戦の間二の目働かてまもり居たる也
朝倉能登守被申候由
《割書:景勝ノ|備ノコト》【上段に朱書】
一 藤田弥七語被申候景勝の常ニ定め置れ候一番杉原常陸ニの
目直江山城三ノ手旗本又一手跡備以上四手又は五手ニ作り其
場により五丁七丁物し馬ゟ下り馬は皆々備の後脇による皆々
下り立て跪く大将と軍奉行斗馬に乗廻る先の合戦始る時ニの
目立合先負て味方ニの備へ逃かゝらは誰にても切へし兼て定置候
上は味方打にあらす候先負候者脇より跡へ逃備作り候はゝ本の
にげに非すと定おかれ候由物語被申候也
《割書:足軽|スハダ》【上段に朱書】
一 川こし又は敵をおひき出し候はんと思ふ時の足軽は大方かろ〳〵と
すはだニ出立せるかよきと被申候也
一 敵の備しどろニ成時かゝらん為なる程に何とそおひき出す
様に足軽かけよと謙信ゟの定め也と語り被申候也
一 御用心の時権現様山中なと御通候時御乗物の肩をかへ候時
御供の歩行衆つくはい候へは御しかり被成立て居よと御意被成候
《割書:ツルベノ|縄》【上段に朱書】
一 籠城の時前かたにつるへ縄又はわらふぢなどつくりおかせよと
吉右物かたり被申候也
一 敵陣へ入屋陣取たらは屋敷中を棒にてつき廻れは必埋めたる
ものあるへしと成瀬吉右物かたり也
一 味方原御退口の時誰彼御馬の側に付たると争ひ申候字権現様
其者共の刀を取寄御覧候て誰は右ニ付誰は左につくと其
証拠には刀にしるしありか様に争有へしと思召道々ひたも
の【ひたすら】御つばきばき被成候其如く刀に御つばの跡ありとて御見
せ被成候由丸山ものかたり被申候也
《割書:鍋ナクテ|飯ヲタク》【上段に朱書】
一 鍋無く食する様米を手拭に包み水にて能々ぬらしてほり埋み
其上ニ火をたけは飯になる也
一 城中へ乗廻時先へ入たる証拠に火をかけたるかよく候先町にても焼
は高名になる也
一 服部半蔵に打物両人を被仰付候時可討人を跡先ニあゆませ中
に立て跡なから振かへり跡のものを先打ち其後先のものを
切たる由語り被申候也
一 見付にて俄ニ敵出きつくつき候時大沢右衛門都木藤市一度ニ
馬ゟ下り次右衛門は弓懸を取て鑓を取り藤市は弓のす引
を駿〳〵として矢を(本ノマヽ)後に両人互ニ感候由
《割書:馬上刀ノ|抜ヤウ》【上段に朱書】
一 馬上にて俄ニ刀をぬけは手縄を切るもの也心得あるへし
《割書:馬手ノ|物ノコト》【上段に朱書】
一 めての物切ず突す弓手になる様に乗廻すへし
一 或人羽折の紋ニ御陣(本ノマヽ)のうしろニ白鴎を繍にし頭を馬手の方ニ
縫候を権現様御覧候て逃鴎也武具は弓手かゝりに万の紋
は付るもの也
《割書:馬太刀|持ヤウ》【上段に朱書】
一 馬上にて刀を抜持てかくをはすれは馬けしとぶ時必馬の
首をきるもの也心すへし
《割書: |切火縄》【上段に朱書】
一 夜山にかゝり退時敵つかは切火縄とて一寸計ニ火縄切て火を付て
まかりめ又は小高き処の木の枝か何ぞニ挟み置けは敵こたへたる
と見て必近付兼るもの也先々心安くのく也
一 敵地へ打入候て陣取候時は大道筋又は爰かしこぬけ道を能見て
柵なと付け又は堀切るもの也夜討の用心也
一 馬上武者と勝負する時は馬を切るか射る也馬はね落馬する
時を打へしと語り被申候也
一 味方崩れの時は道筋におらぬもの也際へ引上げ高き処ニお
れは人見るもの也
一 大豆を干飯の様ニして打かひへ入て持へし人も馬にも喰せて
能候由吉右被申候也
《割書:陣前|灸治》【上段に朱書】
一 御陣触有る時前かどに【前もって】肩ニ灸したるか能く長際ニも肩ひ
けずして能候由次右衛門被申候也
一 城中ニ指物又は人の多く集る処は必城の弱口と知るへし鴟烏
なと居る所は人無きと知るへしと也
一 大将の用心する所は居城ゟ出て一日一夜又三よめ也敵地へ入ても
前かた敵地さり行也ねらふもの人数出しよき故也惣別城廻り
又はくけ道【抜け道】多所用人場也
一 軍持たる敵は旗をたて足軽を出し物し下り立て旗の際ニ居馬
をは脇ニ一所ニ置也厚く備へ静りかへりて居るは大事と心得へし備
なり旗の手動人数むら〳〵ニそゝろ騒しきはやすきと心得へし
一 藤田助兵衛物語ニ杉原常と申候足軽遣様【やりよう】ニよりて五十か百ニ向
ひ候たとへは足軽五十あらは廿五ツヽニツニ分けて廿五人打上ケ候時
夫を能見て引付てあだ矢無き様ニ下知して打せ又始打候
もの念を入れ静ニ能薬込して打すれは大略敵崩候也常ニ足
軽共に打習はせ候よし
一 服部半蔵は常ニ用心いたし候いつもねるとては寝御座をしきそ
こには寝候はて隅々余の処へ立いねけり
一 座敷へはいり候に左の広き処をはきると心得右の広き入口にて
つくと心得候由かたりき切れは刀の柄にてうけん用心つかば取ら
むと思ふと物語被申候
一 常ニ羽折を着て紐むすばす是又用心抱かれ候時のはつれニなる
と語りき
一 人を打にも打るゝにも足にて蹴候か一能と被申候也
一 権現様二条の御城御取立候時加藤肥後浅野紀伊守なと被
申上候は余り堀浅く狭く候て物あさニ候我々共ニ被仰付御普
請可仕候由被申上候へは御帰足ニ思召候何れか被仰付候由上意にて
其後肥後守なとは太閤の取立其道の合点も可参候者にて候か心へ
不切ニ候ケ様の処はわざと浅く取立て置候へはたとひ敵ニ取れて
も亦のりかへし能き様ニわざと被成候由御意候よし
一 同所御座候間城内ニて相撲謡鼓なと各長屋にて仕候か結句御
機嫌能候故ニ常ニ集り申候是も人を多く御置候はん御工夫にて
可有是候よし
一 御番の時其身差合煩なとにて用の事候へは従父兄弟迄は苦しから
す代ニ御当致候への由御定め少々は他人も罷在候御番頭衆代番多
く候由被申上候へは其代りニ出候ものも御内の者也何れも御用ニ立
候事は同じ事にて候間人数のつばめを本にして代りにかま
ふなと被仰候由
一 同時権現様御意ニは法度は火の様に立たるか能きもの也水の
様にたて候故人を傷る也火はきつくあらけなく燃たつ故ニ
人兼て用心して焼死なす水は上静ニ底深き故ニかねて人油
断して到る当座ニ死ぬその如く始きつくつまく云付て後を
柔ニすれは惜きものを損せす始ぬるく底ねばりなれはし出
し候へは惜きものもかばはれと御意候由
一 御先手へ御使ニ参候てうかと致し候へは先手家中者なふりたかり
御鉄炮なとしよりきつと旗本に知らせんとてこなたゟ打か
け候故又城中ゟ打也竹たばの脇なとへ同道したりなどする由
に候其時は案内者をつれて行たるかよしと申候申候如く鉄炮打
せ候へはあなたゟも打きひしく候其時爰はきひしくいつれもケ様
に候御指物は御とり御はい候への由教へ候へは其人さ候と心得て指物
かくしはひ候故後迄笑申候安藤次右其処へ其後参候へはいつもの如く
申候て御はひ候へと申候を次右あらけ無く【荒々しく】叱りはいていつもお身たち
はかゝむかさきへはへ見んと被申候へは結句なぶりだて候て笑われ候由
一 物見ニ御使ニ参候時道筋又脇へ廻りていかにも懇ニ見又は堀馬の足
よせも見るへき由かたり被申候由也
一 関ヶ原にて米津清右小栗又市両人御使ニ被遣候時かへりさまに
清右高名被致候又市見て御身は高名したるか両人御使ニ来て
一人高名して一人せぬはあしき也少々待給へ我も高名せんと
て乗かへし被申仕合よく頓【やが】て人を打首持て一度に帰り御
前にさし上候由
一 米津清右堺の政所の時被仰付清右処にてとりもの御座候
権現様はや取たるか見て参り候へと落合小平太御使に被
遣候いまた取候はぬ程に帰り候て其段可申上と存し帰る時御
城の道にて親左平次ニ逢候左平次何方へ参候由尋申候へは小平
太右の通り申候左平次おしくて其身せかれニ而候共左様の御使
に参りたらはとり仕廻迄居て手伝して取て返事を申上候もの
也と申候へは尤と思ひ則かへり清右所ニて右のものとり候時助とり
して其後帰り御返事申上候へは権現様親の子にて候と御笑言被成候
《割書:物前ノ|言》【上段に朱書】
一 物前にては如何様のものにも言義に合せたるかよきもの也常ニおかし
きあちやらなる事と思ふ事も後々覚ニなる第一口をきけはふりよき
とて誉候由也
《割書:刀ノ腰|当ノコト》【上段に朱書】
一 物具して腰当にて刀さしたらば必〳〵陣屋に抜て試て出へき
也とかたり被申候
一 七郎右衛門稲垣平右へんを越し御出候へと申遣候夜の事にて候平右
御越候へは物も云ずに涙を流し何事にてかあると無心件候
つれは後新十郎高名いたし手柄いたし候由各ゟ申来候ニ
付候ては参候宮地源蔵呼出し其段かたらせなどして七郎
右衛門申様ニ新十郎は大形能生れ付たり形気も分別も我等
に増たり去程にもし此心いかゝ候はんと夜昼無心計候ひつる
に最早家をつゝけ候とて悦ひ語り被申候由平右衛門殿後ニ
物語被申候堀川にて十六の年の高名也と語り被申候
一 山本道斗物語ニすわの原にて城へおし込て候時門をたて申候
まゝ馬上ニて下知ニ門の扉にあて腰ためにして扉うてと
申候へは各鉄炮にて扉を打候へは押へ候もの共のきて心安く門へ
はいり候由語被申候也
一 権現様被仰候とて阿【「部」脱】備中殿物語ニ候人ことに譜代たのみして
奉公はせて居る也外ゟ来るものは能々奉公して用をたす殿に
つかひ候へは弥【いよ】譜代今〳〵のものにまけ候とて不足して不奉公し
てあけくにはしる也其後余処へ行て我家にてあまへ候様ニなら
ぬ故又立かへりて其時奉公すれ共はや遅くて君臣和合せぬ
もの也譜代のものは心安くくり入奉公せは何とて外ゟ来るものニ
かへんや能々心得て奉公せよと各へ被仰候由
一 御主人の奉公も一むすひと思へと被申候祖父は祖父殿様へ其時の身の
為に御奉公親は親殿様へ子は子殿様へ一むすひ〳〵也親祖父の
御奉公を鼻にかけ我代にせぬ御奉公又は我せぬ武篇につが
んと思ふ心持つなとおしへ被申候
《割書: |士ノ三戒》【上段に朱書】
一 御奉公人は三の戒あり御主の仰られ候事他へ洩シ候事たとへば
親を御成敗可被成と被仰候事を聞たり共我に告候はゝ草の
影迄恨む也又一ツは侍輩のかけこと中かく事侍の心中に
ては無きぞ又一ツは何様ニ召仕さる共身の果報無きと思て
御恨に存候なと教被申候
一 或時駿河へ御供ニ参候時江戸を出候から宿ニいね候はゝ御用ニ
は立ましきぞ御殿ニ居ても紙障子ひとへにて御用ニ立ぬ事
古へより有之程に御側はなれぬやうに一入旅ニては思へと被申候き
一 謙信常ニ被申候我は義経ニ武辺を習ふ也人ことに舞平家を昔
物語と聞候故身の用に立す候吾は義経の武へん候処を身ニ
あてゝ聞候身にくらふる也と御申候由或人語候へは其座にて誠に
我道ゑもの〳〵ニ引かけて万つ聞候もの也分別にすくものは其
所を聞て歌にすくものは詞つゝきをきくか様のものも後の
異見誡に作り置くを人ことにうかときくとかたりき
《割書:盗人ヲ|御助ケ》【上段に朱書】
一 台徳院様【秀忠】の御代の時高坂甚内とて盗人の張本有し勝れたる故
にたすけ御置き世上の盗人を御改めさせ候ひつる甚内語り
申候忍の時竹やぶなとへは入らぬもの也寝鳥さわけは亭主用心
するもの也
《割書:盗人ヲ|追心得》【上段に朱書】
一 盗人を追て行ニ跡に立て追へは先のもの立かへり刀にて払へは必首
に当る也逃るものゝ左の方ニ添ふて追ふものとかたりき
一 ある所に盗人つきて候を甚内に見せ候へは折節雪ふり候つる足
跡をみて是は物を取たる盗人ニて候由申候を何とて左様に
申そと尋候へは足跡深き浅き跡雪の上ニ見へ候へは土蔵の上を
切りはいり候それを見て又とかく引入て御入候由申候土蔵は上ゟ
切り候習なれ共ケ様ニ其外の物を取るやうには知られてはなら
ぬ事也と申候き
《割書:盗人ノ|用心》【上段に朱書】
一 同人申候盗人用心は薬師の前地蔵の後と申候薬師は八日地蔵講は
廿四日也廿五日ゟ七日迄は月も暗く闇に候故也惣別夜詰久しき
四ツ過迄居る処は取にくゝ宵ゟ忍ひ鳥前ニ仕廻候はねは先々にて
顕るゝもの也と語りき
一 鈴縄とて鷹の鈴を十斗【ばかり】細き縄に付て旅なとにてははいり口
に引はり候へは入にくき由申候
一 盗人を人ことにこはきものと思ふ臆病者のしはさにて候女に
追れ候ても逃んと斗【ばかり】思ふものにて候あやかしも二度三度迄こはく
あふなく思ひ候忍ひつけ候へは取んと思ふはかりにて候おそろし
き事忘れ申候其証拠ニハ盗人ニ追れて立かへり勝負仕候
志あるましき由かたり申候
一 刀脇指寝所に置様柄を跡へして側ニ置也起上り其まゝ抜よし
もし人鞘をおさへ候共柄跡に有故ぬき易き由申候き
一 将軍様御目付衆へ御教候惣して物いひ事は早く異見すれは
無きもの也異見するもの敵になりて見て両方くらへてよき
かんに異見すれはすむかたおちて異見する故に相手きゝ
かぬるもの也と御おしへ候由
一 人の善恵を見るに我か身の好方へよきものをよきと見るも
の也人は得みちあるものなれは夫々のよき処を見立よと御お
しへ候也
一 人ことに主は知恵あり十人つかへは十人の知恵百人つかへは百人
の知恵ありと云わき目也人にさせてあらき所をいふ故によ
き也碁将棋我ゟ上手なれ共脇目にて見れは悪き処見出
す何事も人にさせて見て直すはやすく知恵ある様也と語申候
一 池田内左衛門甲州へとらはれて縄をかけ各番致し候みな若きものニ
てある侭宵の間色々の事をかたり各わめかせ夜中過まて高声
にてかたり候うちに御ふく御物をきせ玉はれとて上はをりしてかた
り候内そろ〳〵縄をくつろて【緩めて】置き暁皆〳〵宵の長物語にて
寝入たる時其侭縄をとき逃申候年寄候人居らはかたら
れましきニ若きうちにも功者あらは用心せんほとになる
まじきとかたり申候
一 四郎兵次右衛門語被申候ある人廿斗【ばかり】迄よき事もあしき事も
無く候時各物語にあの人は臆病そうには無れともはやしどき
過たり㝡早【最早】手柄はなるましきと被申候つる案の如く一代見
合せて過たりとかく十五六にて致し候はねは名は取れぬもの
なり唯今なとはいかに思ふても浮世静ならはならす候年いく
つなり共十五六の時分と心得て無理なる事をせよと被申候時
若き衆十五六と心得可申事いかゝ心持候はんと申候へは別の事
なし何時にても【※】見合なしに人のならぬ事ならはせんと思ひ
人のいかぬ処ならはいかむと思ひ只一筋に見合なしにあふなく
おもはてかゝりていきたらは手柄死ざらはしそこなひても手
柄になる我いきてしそこなひを人そしるをきかず名を残
すとおもへは心安くしよき也惣大将にあらすして味方
の負をおもふは皆見合から出来る分別也しすませはよし仕そ
こなへは其分とおもふ心にて只一筋にせよしそこなひて死ぬ
事人かまねならぬゆへそしる人は無物也とおしへ候き
《割書: |刀ノトギ》【上段に朱書】
一 刀は中と(砥)にしたるかよきと権現様被仰候由也まつよくきるゝも
の也又夜などひからてよき由各被申候
《割書:シノビノ|コト》【上段に朱書】
一 しのひの時は高き処へよらぬもの也夜も黒く能々見ゆる也
窪処よく候由
一 かまりきゝかまり【忍び(参考:コマ8)】の時猶以高所あしく候道か窪き【「窪し」連体形】所に居候へ
はよく聞ゆるもの也窪処を物なれぬものはいやかりて高き処
へ上りたかるもの也
一 信長城助【信長・信忠】殿父子一所ニ御座候故一度ニ御滅候惣別城と
程近く一所には取らぬもの也親子城とて嫌ふよし山本
勘助申候由
一 江戸にて西丸ニ権現様御座候処台徳院様【秀忠】御見廻ニ御座被
成候折節地震いたし候佐渡守相模守御前ニて御父子か様
の時一所ニ無御座候ものゝ由頻りニ申候台徳院様還御な
【※原本確認済(コマ37参考)】
し申候
一 権現様御代之御合戦之覚【※最終行】
大高兵糧入 御年十七【1上】
石瀬 御先酒井将監【1下】
かりや十八丁縄手【2上】
梅か壺 将監【2下】
うきかい 酒井将監【3上】
ころもの広瀬 《割書:三度|将監》【3下】
一ノ宮後詰 御先石川伯耆【4上】
一揆 御年二十【4下】
吉良 両度御先石川日向【5上】
吉田 《割書:伯耆|二度》 下地御油【5下】
たかの城攻【6上】
かけ川 日向【6下】
下地の御油【7上】
姉川 《割書:酒井左衛門尉|御旗筧勘右衛門》【7下】
ほり川【8上】
味方ヶ原 御先御旗勘右衛門【8下】
野田福嶋 《割書:并有岡|并志賀》【9上】
森【木+成】山なし合戦【9下】
かねか崎【10上】
いぬい 七郎右衛門【10下】
【左頁】
長しの城攻 御年廿四【1上】
かくみやう 御先大須賀五郎左衛門【1下】
すわの原【2上】
小山のき口 《割書:御旗大久保次右衛門|御甲門藤田郎左衛門》【2下】
いぬい奥山 七郎右衛門【3上】
とうめ退口【3下】
新府 《割書:左衛門尉|七郎右衛門》【4上】
高天神 《割書:御先大須賀五郎左衛門|二度》【4下】
長久手 《割書:御先榊原式部|御旗筧勘右衛門渡辺半蔵》【5上】
かにゑ【5下】
関ヶ原 《割書:本多中書|井伊兵部》 御旗 《割書:酒井佑右|村越与惣左》【6上】
大阪 《割書:井伊兵部|藤堂和泉》 御旗 《割書:保坂金右|庄田三太》【6下】
右三十二度御年十七ゟ七十四迄の内也
此外小田原 御先榊原式部 《割書:村越与惣左|渡辺半十》 御鑓 《割書:長嶋新助|永井善左衛門》
奥州九戸
小山まきほくして御のき候時敵に向ひいらゝへかゝり候のき被成候夫
迄は三郎様御先へ御のき候田中ゟ敵を跡にして御のき候時三郎様御馬
をひかへ権現様御先へ御のき候へと御父子良久御辞退候て御のき不被
【※下段だけ別途まとめると、時系列が損なわれるので、上段に組み入れました (なお、見た目通り二段にすると段が整わずとても見にくくなるので、これも避けました)】
成候各は敵は間近く早く退たく思へ共御退不被成候終に親殿様御
先へ御のき被成候しつはらひを三郎様被成候御年御十七の御とし也
各感し申候
一台徳院様嶋田弾正町奉行の時御をしへ被成候公事【裁き】に負極りて
きり候はて不叶ものも暫く待て助けてよき理を分別してき
れと被仰候由
一中村式部少輔居申候後駿河の御城に堀向に桜の並木候つるを
権現様御覧候て式部少輔物馴候はす候堀向駒寄にてもあれは
敵仕よりの便になるもの也竹たばなと付よきもの也まして並
木は敵のみかくし竹たばの便になるよし被仰候つる也
一大坂の御定番阿部備中高木主水稲垣摂津守被仰付候時
台徳院様御意に大手御門は阿部備中京橋口は主水玉造口は摂津
守可相守候惣して権現様被仰置候城代なとは心得可有し事也
古今城は乗取に少の城も力責無理には取らぬもの也殊に大坂なと
は丈夫に御普請被仰付候右の三口さへよく堅め候て大橋の御門に鉄
炮百二百置候はゝ中々攻取事有ましく候御本丸は面裏二口なれは
両番頭御番衆五十人つゝ其外内の者共可有之候へはたとひ外曲輪破れ
候ても御本丸はかりにても百日も二百日も防くへし惣別初心なるもの
とも矢狹間を一人あて二人あてと人賦不足なるなと申候詰句【「結句」の誤写ヵ】城に
は大勢籠候へは誰人疑出来あしきもの也御門さへ能堅め候はゝ乗取
事ならぬ也一大事は籠城に三つ【※】ありちやうりやくと尤(な歟)いかんと付入
也まつちやうりやくは城中のものに縁者親類又は近付に付て金
銀をつかい褒美を何程遣はし候はん手引せよなと云て引入候事
又ないかんと云は城中の者共誰彼は中よく中あしきなと云て
【原典ではこの三者を、調略・内肝・付入と記載】
うちわるて云始御互に心置して万々気遣して破るゝ事あり
又付入は敵なにかたはかり城中を引出したかりてよは〳〵とあいしらひ
計略をなすを打取候はんとて一人出候へは我おとらしと出候処
はや其人数引とりかね付入に城へ入るもの也此三つを能々可心得候
よし常に権現様御意にて候まゝ各能々心得候へ城主は城を取
られぬやう大手柄出ての働は一向誉ぬ事也と被仰候此上は各覚
悟次第能々可相守の由上意也と物語也
一其序に物語に信玄駿河蒲原城の前浜手を甲州衆の小荷
駄通候を蒲原城より出追落し取候を信玄重て土俵又は
草なとを荷物のやうに拵へ右の浜はたを通し城の前又は後
の山にかくし勢を置て右の荷物通り候時城中より各出追
落し取んとせしを小荷駄に付候者共少々防き候に付て猶城
をあけ皆々出候時前後より時の戸(声歟)をあけ攻入候故即時に城を取候
よし米倉丹後物かたり也
一権現様駿河もち舟の城【持船城】御取被成候時先手松平周防守也城主
各せり合候をわざとよわ〳〵と引寄人数一人もかゝり候事無用
と御下知候てそら負してある程に城衆出る時御かへし即付
入御取被成候由新見彦右衛門物かたり也
《割書: |矢文ミ》【上段に朱書】
一籠城の時矢文入候へは城中家人疑ひ申誰か持口へ矢集候
なと云て城内心許無ものに候間計略にせめてより矢文な
と射入候由物かたり也
《割書:セツインノ|作ヤウ》【上段に朱書】
一城中雪隠作り様の事うつほ【靫】付ても刀さしても其儘居候
やうにひろく五尺斗つゝに作り候由也
一同不浄流しの事捨曲輪に堀ほり候又は川なと丸の内へ取こみ
候て度々雪隠を捨候はねは後は何共捨所無く迷惑候よし被
申候
《割書:剣術|者》【上段に朱書】
一 小太刀半七とて兵法修行のもの候つる鉄の扇をさし夫にて仕
合論兵法数度手柄顕候其弟子ニ台徳院様御尋被成候
何の別なる義なく面白なくとしと存かゝり候てしあい仕候極意
也と申上候へは事外御感被成候仕相も又物前にてもおもしろ
なと心を取むけ候へは恐しき事なく謀も出来動転無しと古
人申也同意也と御意被成喧嘩【𠵅】少の俄事ニも動転する故に
手廻おそく手前ぬるきもの也と各被申候也
《割書:平常|心カケ》【上段に朱書】
一 惣別心かけは何方にても所を見合尤座敷にても何事あらは
としてかくしてと不断心懸候へは物早き由古き衆物語候
《割書:生地|死地》【上段に朱書】
一 人間は死地に入る事第一也惣別生地死地とて二ツあり生地はいきん
とおもふ死地は死にきる事也腹なときるもの又は大形のもの
最【㝡】後ニなれはあしき事無く是死地に入る故也思切る故也昔より
十死一生の合戦は仕よく必勝もの也十死一生の合戦は人数立武略
無れは必負る由也窮鼠却て猫をかむといふに同し名大将は
我身斗りニあらす軍兵をすゝめいましめて死地に引入ル故
に最【㝡】期の働き手柄を顕はす常にもある事なりならぬ
奉公をすゝめ見届さするも同意也
《割書:不意ヲ|討ノじ死地》【上段に朱書】
一 はからさるニ城なと乗んと思ひ又は俄ニ合戦を致さんと思はゝ敵
の食する時分を考えへ朝かけ夕かけ也此方は能々したゝめし
て敵食せさる以前に懸るへし卯の上刻申の上刻夜は子ト丑の
時分也
《割書:物前|ヤリ|持ヤウ》【上段に朱書】
一 物前にて鑓の持様竪にかつきて其侭打入よきやうに持へきなり
横たへて持候へは第一下知するもの馬にて乗込れぬ也又敵ニ逢て
其侭打かけ候へは先うわやりになる惣して鑓はたゝきあふ由被申
候なり
一 味方原にて後負被成浜松の御城へ御入候時佐久間右衛門尉申候はか様
の時は御持の城々へ早々御自筆にて何事なく御城へ御入候由被仰
遣可然の由達て申候則遠州三州の城々へ御状被遣候へは城持衆
心安存近辺心かわりの衆無之由各物かたり也
用心ノコト【上段に朱書】
一 用心は外へ顕るゝ様に致したるか能きもの也用心すると沙汰あれは
忍の者卒爾ニ入ぬもの也用心は外の聞へを本とすといふ也
一 古人の用心は人の心を知るを以て本とす又は人数の集るへきを知るへし
何たるものも身を捨命を捨せぬもの也うつてのくへき位なけれは
古今せぬもの也
一 伏見にて誰やらんはりふみ致申候を或人見出し年寄衆へ申候
則被申上急度御穿鑿金可申付由被申上候へは権現様御意には
か様のはりふみなと御改被成候程結句致すもの也侍の心ある者はか様
の事はせぬもの也直ニにはたす事ならすして女なとのやうに
影事又ははりふみいたすもの也左様の事いたし候へは侍にては無之候
夫を見出し候て誰彼と申候物又同意也其侭さき捨候はて
それを見聞候て申候ものゝ結句しわさにて可有之由御意成
候てゟ其後無之候由
城塀【上段に朱書】
一 籠城の拵へ二重堀ニ中こみに石ましりの土塀土台の下ニ穴を
堀り石の一人持程なるを身かくしとすもし用の時は此石を打
候はんため也穴の中にて走り廻るへし塀ゟ少のけて竹束を横
に厚く置て上を武者走にしてせめ候時それへよりて石にて
もすな灰にてまくへし表塀破候ても内の竹束塀にてかゝゆるや
うにすへし
一 塀の上に幕を張矢切とするもあり此時は塀ニ床をかき其上を武
者走とする也
サルマツ【上段に朱書】
一 去松明の事兼て堀底へ塀ゟ縄を張て置へし其縄ニ又別の縄に
車もよく唯松明を結付てあけおろしをして夜の内ニさい〳〵堀
底を見る也
一 夜廻り聞かまりと同前の事
一 城攻候には夜々仕寄竹束を付寄る也仕寄穴を堀ても行所に
寄へし穴堀様横矢無き様ニ有るへし
《割書:竹束付|ヤウ》【上段に朱書】
一 竹束付候事杭をふりそれにもたせかけ入違をして人数出
入する様ニ口をする也竹束如鳥羽ニ二重程立かけて矢挟
間切るへし
一 竹束初と又後仕出し竹束の間人数の多少によりて五間も
十間ニもする也
《割書:竹束ノ|拵ヤウ》【上段に朱書】
一 竹束のたばねかる〳〵と持候様ニ七所結申候又五所能候常の
たば程にして軽々と持ち又伐木にても仕寄候也
一 うは鉄炮をかけ挟間一ツニ何丁と鉄炮の多少に依るへし堀の
上同前上へ人あがる所うつため也
《割書:堀ノホリ|ヤウ》【上段に朱書】
一 堀のほり様横矢を本とする見込なき様ニ虎口取かくし曲り多
きを本とする但し左勝手は敵を後にする故城中の射手後
を無覚束おもひて存分にならぬもの也右勝手の虎口なれ
は敵を前々見て打つ射つする故ニ心安く働くものなり
一 くゞりの事敵とたゝき合取込時後広けれは城ゟ出たる人後
に土居あてゝ取込様ニ取るへし
《割書:石弓ノ|コト》【上段に朱書】
一 石弓の事山城に用る也土居の腹に大木を横たへてつり縄木の
大小によりて三所も五所も塀の下へ釣て右の木の上によきころ
の石を多くのせ置て敵堀へ付て乗んとする時つり縄を
一度に切落す木と石と一度に落す故に人多く死る也
焼殺【上段に朱書】
一 人多く焼殺す事城攻て人数つかへ定らんと思ふ所にする事也城中
より程遠くすへし三十間或廿間計ニ拵へしまつ多く集て先つかへ
乗かねんと思ふ所ニ二所ニも三所にも一二間深サ四尺計小穴をほり鉄
炮の薬多く入れ散して上ニ小材木竹なとにて簀の様にして其上
を小石を置て土をかけて落し穴の様ニ拵へ其穴へ城中ゟ竹を節を
抜て土の下一二尺にふせて火縄に鉄炮の薬を塗て右の穴へ通し候様ニ
拵て城より火を付候へは其火右の穴の薬にもへ付て焼上ケ土石飛ふ
なり人多くたまりたる足の下ゟ焼あくる故ニ多く死する也
一 城中の小屋薬屋とて塗屋ニするもの也
一 塀の際竹束つけ塀と竹束の間腰たけに堀をほり其中ニ居て塀の
土台の下をほりて夫ゟ鉄炮打つもの也わざと狭間ふたを開き外ゟ
狭間を閉てむた鉄炮打候様ニ致し候もの也竹束の後に土俵をつき上ケ
て武者走とする塀を乗て息きれたる所を土俵の武者走へ上り打ん
為也此時石つぶてよき也
塀ノ幕【上段に朱書】
一 塀の上に幕を張り候幕は矢鉄炮通り不申候其時は塀の内ニ土居
又は土俵又は塀のひかへニ床をかき武者走として防く也夜々忍
ひの為ニさる続松【ついまつ】又は投松明肝要也塀は一丈塀よき也覆は
巻おほひにする也
一 城攻時も又軍かけ合の時も是程の事は誰もする事也と思ひて
万事強過て名をとらぬ事多き也けいはく也と思ふ事後に高名
になる也何時も内の者ニも首数取らせ少の事も後ニに高名に
なるもの也城攻の時も昼夜心かけ一番に乗へしと思ふへし何様
なる首も取れ候程とれは帳面もよし子孫の代ニいんけんになる
もの也と語被申候
一 侍は常の心懸肝要ニ候用心すれは物に動転せすうかとすれは地
震雷ニも動転するもの也是を以て知れ常に心かけ候へは必出逢ふ
事多き也
早著【上段に朱書】
一 具足早く着る様小手をは着候様に筒のこはせにかけて其侭具足
着て小手さして片手ニてさしかた〳〵の小手頭の上へあけて手を
さし入候也上帯して刀さし其後小手はめたるもよき也
《割書:合印ノ|コト》【上段に朱書】
一 味方打無き様の事刀の鞘に帋を広サ二寸か三寸に切て二ツ巻にな
り共三ツ巻になり共巻くへし又してを両方の肩わだかみに付る
もよき也一あひことば一鑓しるし何にても目立候様ニ一差物一
甲前立物一鉄炮弓も二ツ巻か三ツ巻鑓同前第一跡ゟ鉄炮打
事禁制すへし味方打はおくれはせのものゝするわさ也
《割書:備ヲ|カタムル》【上段に朱書】
一 備を堅むると云ふ事は一手〳〵丸くも備へまはらになきやうニ夫々
の道具〳〵一所に居て物し馬より下りてのぼりの際に居て
馬をは遥わきへ且又一所に置てまばらかけの無様を能き備
といふと被申候也
一 太閤の奉行衆と権現様と伏見に於て色々出入の時奉行方
大勢故各権現様御屋敷へ群集して此御屋敷所も悪しく殊
ニ無勢也とかく六条の一向門跡御頼ミ六条へ御ひらき候歟左無く
は大津の宰相殿御味方也大津の城へ被成御座可然之由被申候へは
先一向門跡は長袖也夫を頼み勝て嬉しくは無之負て末代の
弓矢の名折也覚悟ニ及ず又大津の城へ入候てか様の時其所
を去り退き候へははや落人となるもの也両様に御合点かやうの
事は各は知るましきとて御動転無く御座候へは奉行方も御威勢
を見て手出し致さす候と被申候也
兵法者【上段に朱書】
一 或時権現様疋田豊後と申候天下一の兵法人を召て兵法御尋被成
候豊後随分御指南申上候へは名人にては候へ共兵法の人々によりて
入る所と入らぬ所とを知らぬと御諚被成候其謂は我程のものは人
きる様を色々申上候天下持又は大名なとは相手かけて人切る
事はなき/め(も)【左に「ヒ」】の也人ニねらはれ又は切らるゝ時其場をはすせは
供の大勢寄合其者を切る故に大人の兵法は相手かけの事ハ
入らす候と大つもりを以て兵法とすると御意候由被申候也
一 台徳院様常の御形儀結構に天性倹約を守と御意被成候
御若年ゟ少も無作法不形儀なる事を御嫌御行跡下々迄恥
申候或時御煩の内も御行儀如常御坐候故家老衆医師衆御
咄の衆何とぞ少し御気色をくつろけ御養生の為と各さゝ
やき候へ共申上る人無之候御煩大事ニ被為成候時御咄之衆何
となく申上候へのよし各相談して山口修理安栖其外誰彼
ついてよき御物語に被申候様ハ古名将賢主も内外あり殊に
御煩の時は万事の御政をやめられ奥にて御心安く御養生も
被成候様にと各存候段申上候へは少も人数持候者は其仕置を
つかへさせ人の煩悲を知らすして遊興にかゝりて忘れ候事
さへ無勿体候まして一国共始【「治」誤写】め候者身を楽み候ては何として
人間たるへきやまして天下を知るもの長生を好めはとて下々
を苦しめ其役をかきて身を楽にせん大名は犬畜生に劣りた
りと御意なされ候故後各感涙を流し申候つると語り被申候
一 或時御用人共御撰候時台徳院様御意ニは御目近き者共御役被
仰付候ニ其者あしきは御目の遠也遠くニ御奉公の外様の者御
役被仰付候ニは其身のあしきは其頭年寄共の越度也是も
当代は其旨人存すれ末代には御身の御難になり候間専に
人を見知るへき由常々上意也乍去跡にあしきとて其
者捨へからす去年悪事候て当年能事候は跡の悪事を
すて能者の方へ入へし人間の分別は能になり悪くなる内
に先非を改むへからす候尚是を専にせよと被仰候て昨日迄
あしき事思ひ立候者も今日善を行へは御褒美の御言葉
被成候つる也と語被申候也
一 面目の衆御前相済被召出候て其蓄御切米にても可被下候哉と
被申上候へは切米に不及知行前々の如く取せ候へ召籠被られ候に而
科之分は消候由召上候上何とて前の知行おさへ候はんやと上意
にて何も拝領仕候由被語候き
《割書:嶋原|陣》【上段に朱書】
一 嶋原一揆蜂起して色々取沙汰候砌彦左衛門被申は兼て申候如く
三千の敵はたとひ何者にても卒爾ニは打果しかたきもの也かけ
合の合戦にさへかくの如くまして籠城の大勢たやすく打果し
候事大事也功者のものゝ城の様体巡見して攻易きをは攻め刀攻
になりかたきをは付城又は柵をふり取出をして又夫に構へ還候
へは城中よはり果手間取ずに攻入数損し候はて落城する也
大将御急キ候て段々に軍使を被遣候へは必先のものは打死仕候はて
不叶候由被申つる果して/板(イタ)倉内膳打死致され候き
一 其砌同人物かたりのついてに或人今度島原にて寄衆油断故
城中より認【「忍」誤写】出て竹束柵の木など取られ候よし被申候へは昔僉議
には寄衆竹束柵の木なと取れ候へは一段手柄の様に申候つる其
謂は城中ゟ出候ニ城際近き所の竹束ならでは取らぬもの也近キを
のり越して跡なるは取らぬもの也仕寄の近き処にとられ候とて
一段誉候由申候へは満座【「尤」落】の由申候とつる也
一 同時城中ゟ夜打出て黒田右衛門佐先手の者多く打れ其上柵の
木二重迄破り強く働き候右衛門佐先手のもの共取合働き敵多ク
打候由或人語り候へは又或人被申候は城攻仕寄の衆城中より夜打
に出候へとねかふは少此道心得たるものは誰も知る事也それは先
手のもの共油断して味方大勢打せ柵二重破られ先勢敗軍
して一手二手破られて其後敵を打取たり共何の手柄かあら
んと被申候へ掃部殿夫ゟも不審は夜打の人数時刻あしく寅の
刻ニ夜打に出て夜明方に城中へ引取候ニ付入ニせぬ事はよきもの無キ
と思ふと宣ふ各尤と被申つる也
《割書:夜討ノ|コト》【上段に朱書】
一 同時に夜打の者共引取際に鍋嶋手へかゝり夜打帰りさまに働き仕
寄の井楼矢倉ニ火を懸て城中へ引取候と申候へは功者敵も事
外不鍛錬也味方も同事也まつ夜打は暗きを本とする事
敵ニ多少を見せぬやうニ大勢の様ニはからん為也又付入に城
をのられぬ為なり【る」誤写】に読ず書ずの寄合也味方も敵に井
楼焼れ油断のみならずあかりを力に付入にせぬ事武辺知
ぬ故と各笑き
一 同時夜打の者共の語候とて立花細川手寄へ夜打討候はん
か相手かましきとて石打とかたりき其時右両人のみ贔屓と
見へて或人立花細川殿ゟ被申越候夜打出 鉄炮をかけ
毎夜用心致し候故ニ夜打出候はぬと物かたり候へは井伊掃部殿
それは武道の心懸違ふ様に覚へ候古今城攻致すもの何とそ
して城中のものをおひき出す様ニ内用心を致し静りかへり
て夜打出ては好む処と付入に致さん為に心懸何卒夜打にも
昼打にも出候様致すこそ本意なるに夜打うたれぬやうに
するは手前計の用心かと被申候へは各尤と被申つる
一 同時夜打死人共腹をわけて食事を致候哉と穿鑿候へは胡麻
大角豆なと食ひ候と見へて飯は喰候体無之候定て城中兵糧つ
まり候はんと各被申越候へは武道不僉儀用かましきとて各笑也
一 上使衆大多有程一所ニ集り先を見つくろい候はて跡ニ而下知致され
候事天下の取沙汰也上意御諚はたとひ打死と思ひ候ても必々聊爾【いい加減なこと】
無用と先懸無用と御押へ有る事也此道は君命をうけす父子の
礼を忘れ親しきをだしぬきたる道なるに常の上意と心得ら
れ候哉と人々取沙汰申候諸侍日頃律儀ニ首尾相応言葉の末
も偽無きやうニ嗜み候へは此武道の時抜懸せん為也武略と言
は是也謀計共云也君命を受けすと云は聊爾のならぬ大事の
道なれは必君命をうけたかり控【扣】へたかるによりて古今戒めを
く也卒忽聊爾にしてしすませは手柄しそこなへは死候故ニ
謗を聞ず候也宣命を給はる日三ツの心得大将にあると云
は宣命を給はる日身を忘れ家を出る妻子を忘れ戦に向て
命を忘るといふ事定りたる法也今度の大将衆出来大名故
其道知らさる由批判事外也
一 嶋田弾正町奉行の時公事さばきの為に公事の品々の趣【裁判の様々な事情】を集
め書置きさはきの通り書付候各末代迄調室ニ候是にてさはき候はゝ
参べく候と申候台徳院様へ御咄ニ被申上候へは則御意ニ其書物を以テ
公事御ばき候はゝ書物に合せたがり候て聞候処の公事脇へなりて肝要
の聞落し有へく候公事のさばきは兼て思案に及はす理非は自
然に公事に顕るゝもの也と上意也各心得に及也
《割書:使番|物見ノ仕ヤウ》【上段に朱書】
一 大阪御陣の時先手へ御使番衆被遣候時権現様被仰付候様ニは
先手へ参して三ツの見様候間能々心付候て見可申候一ツ先手
いさみ申候歟二ツ扶持方尽申候歟三ツ城中と心合せ申もの有
歟此三ツ能心得候て可申上候由
御先祖様御三代目信光様【松平信光】の御代ニ御奉公当御代
家光様迄九代
●八郎右衛門【※1】――次郎右衛門【※2】――七郎右衛門【宇津忠茂(子より比定)】――【A】
【Aから分岐1】
五郎右衛門(若名新八)【※3】【大久保忠俊】――
五郎右衛門【忠勝】――五郎右衛門――《割書:新八郎|新八郎》
五郎兵衛
甚三郎
【Aから分岐2】
平右衛門(若名甚四郎)【大久保忠員】――
七郎右衛門【忠世】――《割書:相模守【※4】【B】|玄蕃|半右衛門》
次右衛門【忠佐】
権右衛門
甚右衛門
彦左衛門―――《割書:新蔵|大八郎【※5】》【次頁分】
平助【※6】【忠教=『三河物語』(本書とは別)の著者】
勘七
【Aから分岐3】
安部四郎五相流(左衛門四郎)
【Bから分岐】
加賀守【忠常】――加賀守【忠職】
【空】
石川主殿【忠総】―――同弾正【廉勝】
大久保右京【教隆】――同宗三郎
大久保主膳――同宗四郎
大久保主計
大久保清左衛門 早世
【※1の後に】信光様江御奉公
【※2の後に】《割書:此時長親様の御代紀伊国ゟ武者修行ニ甲大久保と申者
|罷下候長親様名字御所望ニテ七郎右衛門ニ名乗可申由
|御意にて為大久保也》
【※3の後に】法名浄源
【※4の後に】昌隣【忠隣(比定)】
【※5の後に】《割書:大河内の家ヲ継|善兵衛ニナル》
【※6の後に】彦左衛門トナル比定
【右頁】【右二行は前頁に繰入れました】
堀尾帯刀吉日【晴】立身次第【時系列に一列に並べました】
一 近江国長浜ニ而 三百石【1上】
一 播磨姫路(天正五年) 千五百石(秀吉播磨国御拝領霜月廿八日御入国)【1下】
一 丹波黒江 三千五百石【2上】
一 若狭高浜 一万七千石【2下】
一 若州坂本 二万石【3上】
一 近江佐和山(天正十三年打入) 四万石 入出六年【3下】
一 遠江浜松(天正十九年打入) 十二万石 入十二年【4上】
一 越前府中(慶長四年打入) 五万石《割書:家康公ゟ|被下》【4下】
一 出雲国隠岐国(慶長五年打入) 《割書:忠氏へ渡ル子息出雲守殿也| 家康公ゟ拜領す》【5上】
【左頁】
右一帖は日下部景衡の随筆いろう【遺老】物語の内を
抄出【※】せし由也或人の蔵本を請て写畢此書は
天正より慶長元和におよふ迄百戦の中に人となりし
人々の世にいふ物師共といふ武士場数功者の人々の物
語又は父祖古老の口つから語りし事共を其子孫の
覚へ語りしを寛永末年の頃に大久保氏の人記せし
書なり実に武篇の好書珍【珎】重すへきの重宝なり
後代今世に行はるゝ軍学者流に用る処の浮説妄
作の武篇の書とは同日の談にあらず其ゆへいかんと
いふに此書の中に在る処の武事戦場の事又武士平
日の心懸等に到るまて治世の侍の夢にも知らぬ事
多し是身みつから百戦の功を経し者にあらされは
【※ここでいう抄出とは、『遺老物語』から「三河之物語」の部分を写したという意味です。】
【https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/190.html】
【以下で『遺老物語』内の「三河之物語」が閲覧できます。判別困難な字がある場合、参考になりそうです】
【https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103267027-01.pdf】
心得かたき事のみ多し此書并ニ甲州の士の記せし
武具要説【高坂昌信著】此二書を合せ能々熟見せは古代戦場の有
様も略察し得る事あるへきなり我子孫よく〳〵
心してみるへきのみ
享和三年【1803年】癸亥十一月十七日写畢
西城書院軍騎土井主税源利往【=徃】
【本書写筆者の土井利往は幕臣・武家故実家。通称定次郎・主税】
【父は幕臣の土井利意(西尾藩主とは同名別人)】
【宝暦4年(1754)生。安永7年(1778)西城御書院番士(将軍直属の親衛隊の一員)】
【寛政2年(1790)本城仕。同年家督を相続。知行200石廩米200俵】
【伊勢貞丈門の武家故実家で日置流の弓術を能くした。没年未詳】】
【土井利往が関わった書物の例】
【「矢之図」(著)】
【「矢拵図書」(著)】
【「麻々伎考」(著)】
【「古實名義」(著)】
【「弓制書弓袋之式」(編)】
【「鎧威毛袖形」(編)】
【「諸州採薬記」(写)】
【「故実秘抄」(写)】
【「伊勢系図略」(写)】
【「検見故実」(写)】
【「弓術或問」(写)】
【「三河之物語」(写)】
【※ 著か編か写か充分チェックできていません】
【参考・引用】
【国会図書館サーチ】
【西尾市岩瀬文庫DB https://bit.ly/3krsEro】
【新日本古典籍DB https://bit.ly/32IpGJ8】
【ケンブリッジ大学の資料 https://bit.ly/33IrlOa】
三河吉田藩動員史料
三河吉田藩動員史料
編者云本史料ハ我家ニ蔵スル所ナルモ元来動員ハ軍制ヲ知ラサレハ
読【讀】 ミテモ了解【觧】シ難シ当【當】時ノ軍制ヲ調査スルノ閑ナキヲ以テ茲
ニ羅列スルニ過キス
豊橋市東八町
昭和十六年十二月 柴田伸吉
目次
年寄共へ預置軍役大概 一枚
《割書:出陣|旅行》道具大概 二十四
三州遠州御領分海辺異国【國】渡来之節御手当【當】名前 二十七
慶応【應】二年十二月の御軍制御改正 三十八
年寄共え預置軍役大概
編者云
本書ハ末尾ニ記シアル如ク享保十二年藩主ヨリ家老ヘ渡サレタ
ル物也享保十二年ヨリ明治維新迄約百四十年也此間ニ於テ同様
ノモノガ尚規定せラレタリト思ハル
一
備頭 壱人
組頭 壱人
鉄砲【炮】 者頭 壱人
同組足軽
小頭
鉄砲【炮】 者頭 壱人
同組足軽
小頭
鉄炮【炮】 目付 壱人
同支配足軽
長柄鑓 長柄支配一人
同支配長柄者
小頭
歩行にて籏に付 騎馬数不定
此備の諸用務 平士 壱人
籏とら勢置籏共 籏者
二
備頭 壱人
組頭 壱人
鉄砲 者頭 壱人
同組足軽
小頭
鉄砲 者頭 壱人
同組足軽
小頭
鉄炮 目付 壱人
同支配足軽
長柄鑓 長柄支配一人
同支配長柄者
小頭
歩行にて籏に付 騎馬数不定
此備の諸用務 平士 壱人
籏《割書:どら勢置|籏共》 籏者
三
備頭 壱人
組頭 壱人
鉄砲 者頭 壱人
同組足軽
小頭
鉄砲 者頭 壱人
同組足軽
小頭
鉄炮 目付 壱人
同支配足軽
長柄鑓 長柄支配一人
同支配長柄者
歩行にて籏に付 騎馬数不定
此備の諸用務 平士 壱人
籏 《割書:とら|籏共》勢置 籏者
左備
備頭 壱人
組頭 壱人
鉄砲 者頭 壱人
同組足軽
小頭
長柄鑓 長柄支配一人
同支配長柄者
小頭
歩行にて籏に付 騎馬数不定
此備の諸用務 平士 壱人
籏 籏者
右備
備頭 壱人
組頭 壱人
鉄砲 者頭 壱人
同組足軽
小頭
長柄鑓 長柄支配一人
同支配長柄者
小頭
歩行にて籏に付 騎馬数不定
此備の諸用務 平士 壱人
籏 籏者
旗本
惣奉行 壱人
籏奉行壱人
旗添奉行壱人
旗
大馬印 同組旗者
小馬印 小頭
此小馬印にハ徒目付之内かわる〳〵附未に記置
長柄槍 槍奉行壱人
《割書:同支配長柄者|小頭》
長槍柄
槍添奉行壱人
《割書:同支配長柄者|小頭》
一番 者頭 壱人
鉄炮 《割書:同組足軽|小頭》
二番 者頭 壱人
鉄炮 《割書:同組足軽|小頭》
三番 者頭 壱人
弓 《割書:同組足軽|小頭》
四番 者頭 壱人
鉄炮 《割書:同組足軽|小頭》
五番 小組之頭 壱人
鉄炮 《割書:同組足軽|小頭》
五番 小組之頭 壱人
弓 《割書:同組足軽|小頭》
張紙二
出番共の内一両人目付をかぬる
使番 壱人
鉄炮 同支配足軽
使番 壱人
鉄炮 同支配足軽
使番 壱人
鉄炮 同支配足軽
使番 壱人
鉄炮 同支配足軽
使番 壱人
鉄炮 同支配足軽
使番 壱人
同支配足軽
一番 小姓頭 壱人
小姓騎馬数不定
二番 小姓頭 壱人
小姓騎馬数不定
近習供小姓 近習組頭壱人
寄合手廻世話 近習騎馬数不定
一番 《割書:浮人世話|浮人数不定》
二番 《割書:浮人世話|浮人数不定
右筆之内
寄合平士数不定
供小姓不残
手廻不残
貝太鞁二付替武具
其外道具二附べし 武具方之内
貝太鞁
此足軽貝を持吹之太鞁之 武具方足軽
替武具貝等附へし
一番 徒 頭壱人
同組徒士
二番 徒 頭壱人
同組徒士
三番 徒 頭壱人
同組足軽
四番 徒 頭壱人
同組足軽
馬乗之内
馬医
厩小頭
押足軽供廻世話
此内壱人かわる〳〵小馬印附べし
其外旗本に不限諸手の用向
指図次第務へし 徒目付之内
手弓
此内にて可持 押足軽
手弓
対鎗
持鎗 供廻者数不定
長刀 小頭
床机 長柄小頭
右持人手代之分惣供廻の内にて九尺柄鎗十本為持之此鎗之世話長柄小頭
可務供廻之世話をも可兼
陣馬方并小荷駄附
小荷駄をも世話すべし 陣馬奉行壱人
同組足軽
鉄炮 支配新組
大工等
陣馬奉行と可申談 目付 壱人
鉄炮 同支配足軽
新組
普請方二人
中間大頭兼
陣馬奉行目付両人之世話
此夫普請之儀勿論其外 中間小頭
一切諸用につかふ
路次に夫持之荷あらバ持せ行へし
陣屋にてハ普請方二人へも十人 中間数不足
餘るツゝ預ヶ火の番させへし
旗本四手之賄方へも口口口口小頭
も勿論火之番を務諸手の笧世話 庄屋
させへし 組頭 数不足
庄屋組頭も此心得也
中間小頭の用向勤へし尤鋤鍬
の類普請道具も此夫持参 夫数不定
火之役壱人
火之役支配
中間小頭
庄屋
組頭 之内
夫
大部屋金方二人
吟味賄米方二人
台所目付壱人
台所方小頭足軽
同 中間
料理人之内
坊主頭
《割書:近習坊主ハ相応に茶弁当|等為遣》 坊主相応
本道
医師之内 外科
針
家中之子供十七才以上之嫡子目見の有無二不限
出陣之供あるへし二男ゟ以下ハ人別二有之計供
一中老迄之嫡子ハ本騎馬之格
一次男ハ小姓騎馬之格
一本騎馬之者共嫡子ハ小姓騎馬の格
右小姓騎馬格之分ハ事二よつて格ハ此通りにて歩行併の事も可有
一中老迄之三男ゟして寄合平士
一本騎馬以上之二男ハ寄合平士三男以下ハ併小姓手廻
一小姓騎馬之ty嫡子ハ寄合平士二男以下ハ供子性手廻
一弓之間之格〃者の子供ハ徒
吉田留守
城代 壱人
惣組頭 二人
者頭 壱人
鉄炮 同組足軽
小頭
者頭 壱人
鉄炮 同組足軽
小頭
者頭 壱人
弓 同組足軽
小頭
新組地廻此数之外にも抱候義
見計可有
者頭三人割合組に加へ
何にもつかふへし
鉄炮 目付壱人
同支配足軽
鉄炮 目付壱人
同支配足軽
城番数不足
右之外役人小役人医師等
鉄炮 町奉行二人
弓 同組町同心
小頭
郡奉行二人
同支配郷同心
諸事可務中間小頭 庄屋
二もつかふへし 組頭
右之外札元山方代官等
二丸
組頭 壱人
兼組頭並者頭 壱人
同組足軽
小頭
祝之凾用達 壱人
広敷目付壱人
右之外祝之函附広敷添番号
江州
郡代壱人
此外代官郡代支配之者ら
今切関所守衛
者頭壱人
弓 同組足軽
小頭
者頭壱人
鉄炮 同組足軽
小頭
者頭両人支配
支配足軽
町奉行壱人
鉄炮 同組町同心
小頭
町奉行支配
水主頭
目付壱人
鉄炮 同支配足軽
右之外関所番下改小役人医師代官等
江戸留守
家老 壱人
中老 一人持副
組頭 壱人
上屋鋪
留守者頭 壱人
鉄炮 同支配足軽鉄
小頭
弓 小組頭壱人
同支配足軽
小頭
鉄炮 目 付壱人
同支配足軽
鉄炮 目 付壱人
同支配足軽
右之外役人医師小役人料理人等
奥付
奥年寄二人
此外奥目付番士等
泉四郎付
此外壱人
此外小納戸近習中小姓等
此内一人目付兼
表召使之女付
泉番二人
此外添番
谷中
屋敷預壱人
兼目付
弓 同支配足軽
新堀
屋敷守等
門番等留守居者頭支配小組ら等之類ゟ遣置
深川
屋敷守
足軽ゟかろきもの 門番人
見斗務させへし
野火止
野火止役
定役足軽
人数附借人借具足渡金小荷駄小屋割定
渡金者此定より増を渡事あらず古来の定ハ如斯なれ共
増ハ余分として何ほど渡と申渡て増をわたすへし
十人扶持 上下四人内二人ツゝ
四拾俵 借具足
五拾俵 渡金四両二分ツゝ
六両三人扶持 小荷駄半疋のつもり
十両二人扶持 小屋四坪のつもり
十両二人扶持六両二三人扶持の高内外にても切米とふちと合て
此高二可成ハ此高二合て人めしつれへし此高よりのぼらで又夫
に応して人可召連但時の相場によつて違有十両二三十俵を定法
とす
一六両三人ふちの外騎馬役を務るものハ百石の割二借人渡金
等借馬皆具共二借之
但騎役といふハ大納戸小姓迄也
五十石 上下六人内三人借
廿人扶持 渡金八両
六十俵 小荷駄一疋
九十俵 小屋六坪半積
右騎馬役を務る者は右同断但此高ゟ借具足無之
上下六人内二人借
百石 渡金拾両
三十人扶持 小荷駄一疋
百俵 小屋六坪半積
右騎馬役を務るものは借馬渡也皆具ハ手前たるへし
一目付役若此高ゟすくなきハ此高二渡之
百五十石 上下七人内二人借
四十人扶持 渡金十四両
百五十俵 小屋七坪
一使番若此高ゟすくなきハ此高の通りに 渡之
上下九人内一人借
二百石 乗馬 但江戸詰の者ハ借
五十人扶持 渡金十六両
二百俵 小荷駄一疋半積
小屋九坪
一物奉行者頭此の高ゟすくなきハ此高之通り渡之
上下十人
二百五十石 乗馬一疋
七十人扶持 渡金弐十両
二百五十俵 小荷駄二疋
小屋九坪
上下十三人
三百石 乗馬一疋
八十人扶持 渡金弐十三両
三百俵 小荷駄二疋
小屋十一坪
一組頭若此高ゟすくなきハ此高の通り渡之
上下十四人
三百五十石 乗馬一疋
九十人扶持 渡金弐十五両
三百五十俵 小荷駄二疋
小屋十二坪
一大奉行小姓頭用人此高ゟすくなきハ此高の通り渡之
上下十五人
四百石 乗馬一疋
百人扶持 渡金二十八両
四百俵 小荷駄二疋
小屋十弐坪
一中老若此高ゟすくなきハ此高の通り渡之
上下十八人
乗馬一疋
五百石 渡金三十五両
小荷駄三疋
小屋十五坪
上下十九人
六百石 乗馬二疋
渡金四十両 小屋十七坪
上下二十二人
乗馬二疋
七百石 渡金四十五両
小荷駄四疋
小屋二十坪
上下二十五人
乗馬二疋
八百石 渡金四十七両
小荷駄四疋
小屋二十一坪
上下三十一人
九百石 乗馬二疋
千石 渡金四十九両
小荷駄五疋
小屋二十五坪
一備頭此高ゟすくなきハ此高の通り渡之
上下四十六人
乗馬三疋
千五百石 渡金七十五両
小荷駄五疋
小屋四十坪
上下六十一人
乗馬五疋
二千石 渡金百両
小荷駄十疋
小屋五十坪
惣して役料有之者ハ其高に合て人を増可連之夫二応して右之事
共増渡すへし
徒士 《割書:渡金壱両|小屋一坪二二人ツゝ》
借人五人ほとに壱人ツゝ
足軽小頭 《割書:渡金三文|小屋一坪二三人》
旗并新組ハ頭共二
足軽 《割書:渡金弐分|小屋同断》
旗并新組共
坊主 《割書:渡金同断|小屋同断》
借人ハ其時の様子次第渡之
《割書:長柄小頭|中間小頭》 右同断
高此類準之
中間 壱分二朱
一小荷駄ハ上下二よらす預り道具の小荷駄ハ右割合の外也
一定之人数より人多くつれ候ものにハ小荷駄小屋共二夫二応シ
渡之
一小屋割ハ馬屋を入ての割也平駄馬厩を不割入レ一所からつ
てする時ハ馬屋ほとの坪数減也
一家中の子供未勤宛行なきもの共出陣之供につるゝ時には
騎馬にてつるゝものハ渡勤百石の高に渡之
騎馬にて無之つるゝものハ其格に応じあるいハ小役人寄合
平士供小姓等の高に準し其半金増に渡之
一弓ノ間格のものゝ嫡子以下未勤宛行なきもの共出陣の供につ
るゝ時ハ
徒組に入てつるゝ徒士の渡勤に一倍増渡之
食事定
一朝弐合 昼二合 夕二合
但働有時ハ壱食半増
一味噌五十人壱升 但朝夕斗
一飼料大豆 馬草間二少宛飼宛程馬役可申談
右之通り上下役人下々迄一同たるへき也吉田急事も右之
通り也
但人質女ハ一合也
武具之定
旗一本ツゝ持人共《割書:是ハとらせ|置旗也》
長柄五本ツゝ持人ハ不出
備頭 馬印二本ツゝ
対鑓持鑓合三本ツゝ
此外弓鉄炮勝手次第
中徒
大奉行 馬印二本ツゝ
組頭 鑓二本ツゝ
小姓頭 此外弓鉄炮勝手次第
浮人世話
物頭 《割書:馬印一本ツゝ|触皷》
者頭 《割書:鑓一本ツゝ|此外弓鉄炮勝手次第》
近習組頭 鑓壱本
此外弓鉄炮勝手次第
触皷
小組之頭 鑓一本ツゝ
此外弓鉄炮勝手次第
使番 鑓壱本ツゝ
目付 此外弓鉄炮勝手次第
平騎馬 鑓一本ツゝ
此外弓鉄炮勝手次第
但一手毎の長柄支配のものも同断馬印無之
大納戸
小姓騎馬
浮人騎馬
吟味役 鑓壱本ツゝ
右筆
武具役
徒頭
相験
旗 三色 特旗也 夜ハ挑灯附
白地紋浮緑綾黒
同断紋朱
薄柿織色無地《割書:是ハ無紋入用|の時の為也》用
飾旗 二色
乳附 白地紋浮緑綾黒
同断 紋朱
影ヶ旗 夜ハ挑灯附
白地紋浮緑綾 朱
備頭二とらせ置旗 夜はハ挑灯附
白地紋浮緑 朱下二備頭之紋
小馬印 二色
白 ちきり
金唐人かた
此内にて様子次第
大馬印 二色《割書:是ハ嶋原御陣|の吉例也》
乳付旗二幅梯子を黒く附同大赤地紋浮緑綾白く附
此内にて様子次第
持鎗
対鑓唐頭太刀打黒十文字画波《割書:是ハ嶋原御陣の|吉例也》
鍵鑓太刀打黒
座船験
四方のまねきあか緑紋 ふせんりやう朱
夜ハ三ッ挑灯
惣船験
四方まねき白地にちきり 柿色
船場 乳附にて右同断
直高挑灯
紋ふせんりやう黒
馬の廻りハ朱の筋算木を下二付
惣高挑灯
紋ふせんりやう朱下二自分の紋を付
但役人斗
惣手挑灯
自分紋の上二黒ちきり附
長柄
黒塗うち柄太刀打朱長サ四尺五寸鞘己身形袋せうぶ皮
備頭より出次長柄
おもい〳〵太刀打ハ朱
惣鑓陰 太刀打朱
惣家中之印
甲の錣に白木錦引廻を附
但陣笠にハ白木綿半幅の引廻しを笠のふちに付
三尺手拭二寸五分白緋の横筋股引侍ハ浅黄足軽中間
ハ鼠色
惣荷印
白木綿幅たけにて横四寸程ちさい黒附直のちきり
斗付
家中のハ附合にてなけれハ下におもい〳〵の印附
附合なれハ下二二寸五分黒筋つく
惣乗掛の印
上敷黒茶色木綿袋かくるふとんはり浅黄
小組之頭 母衣
《割書:使番|目付》 吹貫色おもい〳〵
惣騎馬
印おもい〳〵番指物二する時ハ白地四半黒餅
寄合平士小役人
白地木綿袖なし羽織後に紋ちきりあかく附印ハおもい〳〵
手廻之供
具足朱羽織平士の通印おもい〳〵
徒
具足縅紺白の木綿糸多くほく甲頭形金の輪貫付袖印有
長七寸五分 但違有り左之通
一番 白中黒 二番《割書:角ゟ角へ|半分朱》
三番 黒餅 四番 浅黄無地
惣足軽小頭
具足縅紺木綿糸惣金紋扇丸黒ク前後二附陣笠惣金紋
同断
指物二本こないねり白地長四尺一寸程幅一尺八分程
紋ふせんりやう黒ク上の方に付
惣足軽
具足縅糸右二同黒塗紋扇丸金前後二附陣笠黒塗無地
指物右同断
但使番支配ハ袖印有柿色六寸四分四方
目付支配ハ同白地
押ハ赤白二紋付
旗本の足軽ハ頭共二白木綿ゑり巻
坊主
具足足軽之通り腰さし白木綿半幅二長サ一尺五寸赤
くまねき白木綿ゑり巻
惣旗之者小頭
具足惣足軽小頭之通陣笠黒塗扇紋金ハ旗本之分白木綿
ゑり巻
惣旗之者
具足惣足軽之通紋前に斗附陣笠右同断旗本之分白木
綿ゑり巻
惣長柄之者小頭
具足縅紺木綿糸黒塗紋扇丸朱前後二付陣笠同断
旗本之分白木綿ゑり巻
惣長柄之者
畳具足黒塗無地陣笠黒塗金輪貫附
旗本之分白木綿ゑり巻
惣中間小頭
具足惣足軽之通腰さし白木綿まねき在中庄屋組頭同断
3
箪笥之者
具足白種無地陣笠同断 旗本之分白木綿ゑり巻
供廻小頭
具足長柄頭之通
相圖
一 壱番貝 陣馬之食
一 二番貝 具足着
一 三番貝 小屋前へ出ㇽ
一 太鞁静二二ッ 《割書:野二押出す夫より遅速ハ太鞁の|遅速に合ておす》
一 貝 をり敷
一 太鞁一ッ 立ッ又一行を二行二するも一ッ打
一 太鞁三ッ○ 〇〇足をとむる又競り合の時弓鉄炮止るも此通り也
一 太鞁数なし 懸る遅速ハ太鞁の遅きはやき二応へし
一 同断 陣屋へ夜うちの入時
一 太鞁静二三ッ 引
一 夕方之鐘 灯をともに篝をたく
一 朝之鐘 灯をけし篝をけす
一 折木三ッ宛 食事の分聞之賄所へ
一 折木数なし 馬取放時打
一 折木早数なし 火事
右人数足武具定合圖之書付は出陣又は急事有之時書付之通急度為申家
中一同に心得候様に可致事
一名さしの人別手分ヶ下知条目等委細軍役備箱之内有之候間家老中老大奉
行餘其時立合封切一覧すへき者也
享保十二丁未
十二月
家老ともへ
宝暦十辰正月日写之
此御帳享保十二年丁未十二月朔日西村次右エ門事 御居間へ被為召
御直二被成御渡 仰之趣ハ
知光院様御代其方父孫次右エ門御手伝も仕候事候当時ハ訳も違有之
候得共其格を以御仕立被成候間れ烈并中老共迄折々見置候様二被 仰
候
此御書付ハ別二如此認候帳ノ上二ハさけ有之
編者云
已上に掾り吉田藩七万国の装備幾許と云ふに本帳末尾に左の如く記し
あり此数ハ寛永十四年二月十七日同十九年七月十四日幕府制定の「御軍役
御扶持方附」と云書と同数の書物也而して此「御軍役御扶持方附」の未に天
保十一年十月廿二日善伸為収次写と記しあり当時善伸ノ子収次ハ荐り
二軍学を考究しありし也掾是観是此「御軍役御扶持方附」ハ天保の時代迄
も効力ありしかとも思ハる何ハともあれ左記数字は規定にして実際ハ
時代により増減ありたるへし
騎馬 百拾騎
鉄砲 二百挺
弓 五十張
槍 百本 対持槍共
扶持方壱千五十人扶持也
右者御上洛日光御成之節ハ御扶持方此一倍也
右ハ御用所之御書付也
嘉永六癸丑年十月写
《割書:出陣|旅行》道具大概
柴田
《割書: 編者云
嘉永六年と|二行目》云へハ米艦来港シテ国内ノ物情騒然タリシ時也
此時二本書ハ写サレタルモノナルヲ以テ何時頃定メラレタ
ル物ナルヤハ不明也
而シテ此内容ハ格式二ヨリテ選ルベキガ当時柴田収次ハ六
十石大納戸タリシ也子の此故二本書ハ是二相応スル物ヲ写シタル
ナルベシ
懐中可持品々
一燧道具 火口 付口 火打鎌 一石筆并矢立
一金子并銭 一磁石
一日時計 一糸針
一薬 虫薬 気付 血留 和中飲 一糒
一糊 一紙
一手拭 一櫛并鏡
一熊谷
旅道具之覚
一葛篭 一渋紙
一細引并 コ口かゞり糸 一荷筵《割書:当時ハ明荷ノ方|可宣候》
一蒲団并同張 一笠并合羽
財方
一挑灯并蝋燭筒 一財布并貫指 早道
但《割書:高張|腰着》《割書:手丸|小田原》袋口伝
一皴革 柄袋 股引踏込二寸筋 一草鞋《割書:わらぢかけ|足袋》
一草履 一鼻捻 一印篭巾着
此内一モグサ
一和中飲
一正気散
一馬ノ息合
柳竹 一浴衣并手拭 一櫛道具剃刀
一篭利 一錐并早竿 一衣類 著替
一紙
一弓 一矢籠 一矢鼠皮
一弦巻 但し関弦
一玉薬
一鉄炮 一大小口薬入 一筒乱并早合
一火縄 受筒并負緒之類
玉箪笥
一鑓 但印懐中之事
一具足櫃并《割書:ゆたん|桐油》棒
一同持夫《割書:大小口伝|ハツヒ》 一法被
一幕但袋入串口付 一皴革
具足櫃江可入品并外道具
一具足道具 一通
一下著 一踏込 一足袋
一キヤハン 一鉢巻麻ニテ宣 一飯粧帯
一用帯 一下帯 一太刀《割書:コシアテ|ニテ宣》
一陣羽織 一指物衣《割書:并竿|小緒》 一笠印但分家来之分
一手拭《割書:紅染|紺染》 一袖印 一忍緒替
一面/陰(チリ)除 一股引 一馬手柄
一合͡コヨリ 一布類色々 一□口伝
一水筒但袋ノ事 一扇子 紙 一竹 管ノ事
一【左革右弁】 一火桶 一糒
一薬奸鑵 一梅干并氷砂糖 一鍋
一味噌并煮物ノ伝 一飯籠利《割書:メンツウ|米袋》 鰹節
一打違袋腰二付ㇽ 一雨具《割書:ミノ自分|桐油下供》但御家十里之ノ口伝
一早縄 一薫陸入タル香合 本書香合ト有
一薫陸蓬草 一粒コシヨウ
三州遠州御領分海辺異国渡来之節御手当名前
文久二年戌六月
柴田
編者云
前掲ノ動員計画(其後補修訂正セラレタㇽベキカ)ハ曾く外国ノ軍船我
国辺海へ出没スルニ至り本書ノ通り動員ヲ実施シタㇽモノナラン
遠州御領分海辺異国船渡来之節御手当被 仰付之
騎馬 御者圖兼大炮奉行 原田喜太夫
御足軽小頭一人
御足軽二十人
騎馬 組頭兼大炮奉行 安松金右エ門
騎馬 御目付 松本勝兵衛
下目付一人
騎馬 郡奉行 安田三太夫
御同心三人
給人 主立
大炮方心得 西村孫次郎
同西村勝之進
関口周吉
芥川真三郎
給人
主立
大炮方心得 柴田文治
乗掛 同
鈴木次郎右エ門
中山勘太夫
吉野辨之助
寄合組
大炮心得 神田弥市
川村音次郎
黄木村鉄之助
長坂両作
中炮
大炮心得 石川作之丞
大久保倉之進
木皮平十郎
北原栄吉
大炮打方
宇佐美栄治
奥村幸之進
乗掛 小畠蔦蔵
倉垣源之進
佐藤才次
大日山
一新壱貫目玉 壱挺
外二持出シ
西洋砲
ホーウイスル 壱挺
ハントモルチ―ㇽ壱挺
野戦炮 壱挺
高師山
一六百目玉 壱挺
一四百目玉 壱挺
色見山
一新一貫目玉 壱挺
一弐百五拾目玉 壱挺
稲荷山
一江城 壱挺
外二持出シ
唐獅子
三百目玉 壱挺
〆
《割書:中川流|萩野流》持出シ
鉄張 百目玉 壱挺
同 自分炮 壱挺
木筒 壱挺
乗掛 御武具役 榎笠久内
支配御足軽二人
乗掛 大納戸吟味元〆兼 若原源之助
支配御足軽ニ人
《割書:賄方|中間大頭》兼 青山兵右エ門
中間小頭一人
御普請方 中根幸右エ門
御普請組御足軽五人
車力 六人
大工 一人
御代官 川村柳助
乗掛 御徒目付 神田栄次郎
乗掛 医師 高須玄秀
夫中間小頭其外諸用可相勤 庄屋
組頭
士分
〆三拾弐人
三洲遠州御領分海辺異国船渡来之節最寄次第御手当被 仰付之
騎馬 御者頭兼大炮奉行 小畠助左エ門
御足軽小頭一人
御足軽二十人
騎馬 組頭兼大炮奉行 大久保昇
騎馬 御目付 倉垣恒之進
下目付 二人
騎馬 郡奉行 柴田収次
給人 御同心三人
主立
大炮方心得 神保八郎左エ門
乗掛 同
天野共助
加藤為次
中村清太郎
給人 主立
大炮方心得 松井俊之進
同
小田清之丞
遊佐昌之助
竹村崎右エ門
寄合組
大炮方心得 羽山幸七
安間辰三郎
鈴木綱右エ門
近藤駒蔵
中炮
大炮心得 庄司幾右エ門
富沢幸之助
乗掛 小田鉄之進
松田駒之進
一三百目玉 壱挺
外二
御流儀持出シ
小一壱貫目玉 壱挺
乱火筒 壱挺
御紋付百目玉 壱挺
三島流持出シ
九百目玉 壱挺
御紋付百三拾目玉 壱挺
五百目玉 壱挺
乗掛 御武具役 松平定太郎
支配御足軽二人
乗掛 《割書:大納戸|吟味》元締兼 杉山程次
支配御足軽一人
《割書:賄い方|中間大頭》兼 中村道太郎
中間小頭一人
乗掛 御普請方 杉山陽助
御普請組御足軽五人
車力六人
大工一人
乗掛 御代官 中村哲兵衛
御後目付 市川方作
乗掛 御医師 阿部三圭
夫中間小頭其外諸用可相勤 庄屋
組頭
士分
〆弐拾七人
遠州
弐番手
騎馬 御者頭兼大炮奉行 岩上角右エ門
御足軽小頭一人
御足軽二十人
騎馬 組頭兼大炮奉行 石川作右エ門
騎馬 御奉行
御旗弐流
自分旗壱流
御長柄拾五筋
貝
太鞁
騎馬 御目付 室賀五左エ門
給人 下目付一人
主立
大炮方心得 草野伴右エ門
同
関口参蔵
乗掛 斎藤金吾
川村堅蔵
給人 主立
大炮方心得 松田金左エ門
乗掛 長谷川藤兵衛
飯野平七郎
春田孫兵衛
寄合
大炮方心得 神田初右エ門
羽山安治
鈴木友七
池田平三郎
中炮
大炮方心得 鈴木源内
鈴木吉之助
川田千万多
杉本嘉次郎
御武具役 内山小三治
支配御足軽二人
《割書:大納戸|吟味》元〆兼 天野忠右エ門
支配御足軽一人
《割書:賄方|中間大頭》兼 中村近蔵
中間小頭一人
御普請方 久野幸八
御普請組
御足軽四人
車力六人
大工一人
御代官 松本嘉助
御徒目付 古村織治
御勘定人 塚本増右エ門
乗掛 御医師 浅井辨安
夫中間小頭共其外諸用可相勤 庄屋
組頭
士分
〆弐拾八人
最寄
弐番手
騎馬 御者頭兼大炮奉行 関屋弥一右エ門
御足軽小頭一人
御足軽二十人
騎馬 組頭兼大炮奉行 加治保之進
騎馬 御家老
御旗二流
自分旗壱流
御長柄十五筋
貝
大鞁
御目付 沢田伝十郎
給人 下目付一人
大炮方心得 主立
神山伝右エ門
遊佐喜右エ門
本多七六郎
中沢籐五郎
給人
大炮方心得 松尾市郎右エ門
西岡習助
北村市次郎
金崎小二
寄合組
大炮方心得 渡部龍蔵
大津鉄次郎
岩井謹一郎
白井孫兵衛
中炮
大炮方心得 川田林右エ門
乗掛 新井新次
五味源兵衛
増井精一
乗掛 御武具役 榎並仙之助
支配御足軽二人
乗掛 《割書:大納戸|吟味》元締兼 福岡喜平次
支配御足軽一人
乗掛 《割書:賄方|中間大頭》兼 冨田小藤次
御普請方 森川左門次
御普請組
御足軽二人
車力五人
大工一人
御代官 佐藤庫蔵
御同心一人
御徒目付 大沢喜和蔵
御医師 大沢玄龍
御勘定人 長尾夏兵衛
夫中間小頭其外諸用可相務 庄屋
組頭
士分
〆弐拾八人
百々村
騎馬 郡奉行 宇佐美兵蔵
御足軽二十人
郷同心二人
乗掛 御代官 橋本俊蔵
川村周右エ門
士分
〆三人
惣〆百五十四人 編者云総計ハ百十八人也其差卅六人也何
レ二あやま誤アルヤ
狼煙方 倉垣
左エ門
松田金左エ門
右之通異国近海渡来之節先ッ御手当被 仰付候間指図次第早々致出張尤頭
立之小者之下知不可違背者也
戌六月
編者云已上ノ如ク書上ラレタルモ其内容ハ左記ノ如ク「最寄次第御手当被
仰付」タル一部隊ノ行列及員数が載セラレアリ他部隊モ是ニテ類推スヘキ
也而シテ前記五部隊が吉田藩全部ノ動員二ハアラザㇽベシ尚以上ノ編成
中銃隊ノ無キハ不思議ト云フベシ
最寄行列
【一通り目】
〆十七人
士分二人 乗馬一疋
下目付 両人 御目付 徒目付 下目付二人 小荷駄一疋
内組一人 馬士 一人
厩中間一人 中丸一張
御中間十一人
小頭一人 足軽五人 同五人 同五人
【二通り目】
〆五十人
士分 一人 乗馬一疋
小頭 一人 小荷駄五疋
同五人 者頭 足軽十四人 馬士 五人
内一人若党 中丸六張
御足軽七人
手人二人
御中間廿四人
厩中間 一人
〆七人
士分一人
手人二人
組頭 御中間三人 給人四人 給人四人
厩仲間一人
乗馬一疋
小荷駄一疋
馬士 一人
【一通り目】
〆四十人
士 分十六人
御中間廿四人
寄合四人 中炮四人 小荷駄八疋
馬士 八人
中丸 四張
〆六人
士分一人
武具役 同足軽二人 足軽二人 《割書:大納戸|吟味》一人
御中間三人
中丸一張
【二通り目】
〆七人
士分二人
足軽二人
賄方一人 中間小頭 御中元一人
大部屋中間二人
小荷駄一疋
馬士 一人
中丸 一張
〆十五人
士分一人
足軽五人
普請方 車力六人
大工一人
御中間二人
中丸一張
〆十四人
士分二人
御同心四人
郡奉行 御代官 内若党一人
厩中間一人
御中間四人
手人三人
乗馬一疋
小荷駄
馬士一人
中丸一張
此内訳ハ下括弧内ノ如シ
【三通り目】
御門付 手丸 自分
中丸挑灯 御同心三人 高張
御中間 御中間
具足櫃 御中間 小馬印 手人
【四通り目】
口附 自分手丸
厩中間 騎馬 若党同心
郡奉行 柴田収次
鎗持手人
荷駄一人 代官 中村哲兵衛 鎗手人
手明壱人
御中間
【五通り目】
〆三人 惣〆百五十九人
士分一人 士分 廿七人 乗馬 四疋
医師 御中間二人 足軽 卅一人 小荷駄十八疋
荷馬一疋 厩中間 四人 馬士 十八人
馬士一人 手人 七人 中丸挑灯十五張
車力 六人
大工 一人
御足軽 七人
御中間 七十四人
大部屋中間二人
此時二於る大炮方心得柴田文治ハ次ノ如キ携行品目ヲ準備セリ
打割羽織 立付 足袋 二寸筋 上〆 大小
扇 草鞋 引ハダ 鍔袋 柄袋 矢立
紙
手丸挑灯 小田原挑灯 蝋燭 陣笠 飯コリ 蓑
引廻 鉢巻 上帯 指物目サヲ 玉薬 口薬臺
火縄 胴乱 早合 負緒
干飯 梅干 鰹節 赤味噌 胡椒
夜具類
鎗 鎗持法被 陣笠 二寸筋 笠院 飯コリ
慶応二年十二月の御軍制御改正
御軍制御改正二付被仰出書
礟隊之儀者於
公儀外国之利器よう要術材
御採用被遊び候に付
御家にても御軍制御改正被仰出一際御武備御厳整被遊
度
思召二付銘々厚相心得銃隊操練之儀勉励可被致候依之改て左之通被
仰出候
一大小礟隊共西洋炮稽古可致成事
附 以来一同角前稽古も可致修行候事
一隊吾連合之儀者高下之分を不可論芸之甲乙可為候事
一方今之戦争ハ炮火盛に候得は甲冑相省キ軽便之陣服着用可致候事
但 前胴并篭手半首鎖鉢巻着込之類相用候義不苦候事
一陣服之儀異服之仕立并花美々類は可為無用候事
一士分着服之儀ハ具足下臺袖相用可申事
但色紺黒之内牡丹掛ヶ壱ッは不苦候事
一裂羽織相用候者ハ
御家法合羽之形にならい壼袖仕立相用候義不苦候尤色合前同断之事
御家法合羽之制に習ひ割羽織寸法
【割羽織の絵に夫々但し書きあり】
ユキ手首丈ヶ
袖下キルモノヨリ三寸長ク
襟は咽キハクツロクカヨシ
長サ其人ノヒザ丈ヶ
袖口広ク
但五寸ゟ五寸五分位
【以上但し書き】
一陣羽織は是迄之通相用可申事
一士分踏込小袴立附之内相用可申事
一陣笠奥長形相用可申事
但 引廻附ヶ可申事
御足軽分は是迄之通御武器附陣笠相用可申事
但右同断之事
一御足軽分ハ股引立付の内相用可申事
一小馬印見合の事
一陣場方小荷駄方御右筆夫々其職業無油断心掛兵糧陣小屋書記等之儀取
調置可申事
一五十石以上自分筒用意可致候事
一惣て高取の者は高相応の手認可相成丈銃手二仕立召連可申事
一指物用意二不及先達て被仰出候袖印相用可申事
但其役に寄腰差相用候事
一二寸筋引肌相用可申事
一/粮嚢(ラントセル)ゲレーイトサツク」フランケットの類用意可致候事
一御家中の者以来/溝路銃(ミニへーㇽ)等用意可致候相求候ハゝ其段御目付へ相届可申
事
但届出候ハゝ其段御中老へ可申出候事
一右筒相求候節願出候へハ弐百石取ゟ以下へハ内借被仰付百石以下ヘハ
拝借被仰付候事
御軍制御改正二付諸心得并供割
一士分踏込小袴立附之内相用可申旨被仰出候へ共段袋着用致候者へハ脚
半相用小袴と相唱候事
一甲冑相省キ軽便の陣服着用尤前胴等相用候義不苦候旨被仰出候へ共時
宣寄甲冑持参致度者も可有之其節右持夫
御上ゟ不被下自分にて為持可申尤持参可致品ハ御武具方或ハ小荷駄方
ゟ相廻候間目方書付致し兼て御目付へ差出置可申事
一御足軽分股引立附之内相用可申旨被仰出候へ共段袋に似寄候立附ハ不
苦候事
一鎗隊并大炮隊の面々/騎銃(カラベイン)之類持参可致候事
但時に寄鎗隊の面々一同銃隊へ組込候義も有之候間平日銃隊稽古
致候儀可為勿論事
一御役人以下銘々鎗持不被下一束ねに致し相廻候事
但鎗持ハ身分にても芸の甲乙に寄持参に不及候事
一鼓手之面々て鉄炮用意可致事
但/騎銃(カラベイン)馬銃之類持参可致候事
一独礼以上粮嚢并ゲレーイトサック供に為持候事
一独礼以下ハ右の内自分持参の
一御役人以下にても銃隊に組候節は供人は輜重へ下ヶ候事
但銃隊相心得隊伍の障りに不相成者は召連候て不苦候事
一兵粮方陣場方何れも銃隊相学隊伍組立兵粮陣具警衛可致事
一兵粮方ハ御火家法通り壱人二何程と積り置可申事
一鎗印用意可致事
一粮嚢ゲレートイサツク」フランケット五十石以上自分五十俵ゟ以下并小役
人格以上之者も糧嚢ゲレートイサツク相求候節願出候へば内借被仰付候
尤フランケットは自分にて用意可致事
但御徒格以下ハ右の品共御貸被成候事
一大炮ハ何レも鵞管相用外二摩擦管用意可致候事
一指袋并鵞管聘/盒(メス)大炮一挺二二ッ用意可致事
一陣笠二引廻附の奸環五本或ハ七本打可被申事
但革組にても不苦候事
一以来引廻一幅二可致事
一銃隊之者た太刀佩相用候儀勝手次第可致事
一沓相用候義勝手次第の事
一挑灯ハ竹長持二入持参可致事
一高張挑灯御役人以上ハ供人持之其以下ハ手明キノ者申合之
御上分ハ御供廻の内にtて可持事
一三十俵取七人扶持以上は奥長陣笠自分にて用意可致候金給の者へハ御
貸被成候事
一上帯ハ白地にて黒く後に自分紋附一同相揃可申事
一粮嚢にハ陣具並兵粮入れゲレーイトサツクにハ衣類入候事
一/溝路銃(ミニへーㇽ)等相求候節二百石ゟ以下ハ願出候ハゞ金六両二分内借被仰付候
一百石以下ハ願出候ハゞ金十三両拝借被仰付上納の義無利足十ヶ年賦の事
一三十目炮は長持に入持参致候事
供割
一御備頭 御旗壱流 持人二人
口付 一人
若党 二人
鎗持 一人
雑具持 二人
一惣奉行 口附 一人
若党 二人
槍持 一人
雑具持 一人
一人
一御小姓頭 若党 一人
御用人 槍持 一人
雑具持 一人
一御奏者ゟ 若党 一人
御目付迄 槍持 一人
一独礼以上 主人二人二供人一人ツゝ
一独礼以下 供人無之
一手明之者 廿人
右之外手人召連候儀勝手次第の事
馬割
一御召 壱疋
一御備頭 壱疋
一惣奉行 同
一大炮司令官 同
一御使番 同
一御目付 同
【付箋部を翻刻 本紙の翻刻は2頁に譲る】
四万五千石 小笠原山城守【吉田に付箋】
壱万貳千石 三宅能登守【田原に付箋】
五万五千石 水野監物【岡崎に付箋】
貳万三千石 土井兵庫【西尾に付箋】
貳万石 稲垣信濃守【苅屋に付箋】
【地名】【付箋に隠れた箇所を※で示す】
【渥美半島 東から西へ】
石まき山
遠州白須賀ヘ出ル ○ふた川 ○大いわ ○にれ木 ◎吉田 ○大もつ
○たかし【※】 ○大崎 ○■は■【※】 ○大津 ○杉山 ○あまつ
○谷くま ○神戸 ◎田原 ○よしこ ○浦村 ○はせ ○片浜
竹島 大島 ひめ島
○志だ【※】 ○かじ【※】 ○にいのみ ○白屋 ○ふた崎 ○うつゑ
○いかつ ○いしかみ ○高木 ○中山 ○小中山
○大くほ ○野田 ○ひいま
○芦村 池 ○八王寺 ○村松 ○山田村 ○畑村 ○ほみ ○亀山
同所ヘ出ル ○ほそや ○高塚【※】 ○城下 ○くみ原 ○浜田
○もゝ ○谷ノ口【※】 ○水川【※】 ○高松 ○赤はね ○いかみ
○こしと ○わち ○こしなる ○かりま ○ひい ○いらご
三河国篠島 尾張ひまか 伊勢ノ篠島【?】 伊勢ノ亀島
【吉田から北へ】
○すへ■■ ○こさかい ○下ち
○とうこ ○なから ○すせ 本坂峠 同本坂ヘ出ル
○かも ○高■ ○ふり 峠国境 遠州三日越え出ル
○一ノ宮 ○東条 ○野田 ○新城 ◎古城
○あるみ【?】 ○清いた ○あふみ ○川瀧
◎長篠古城 ○岡 ○大草 ○田代 ○ほや町 ○清来寺【鳳来寺】
○黒瀬 ○ゑひ ○たない ○田口
○つぐ ○なくら 峠国境 信州祢羽ヘ出ル
○浦川 ○坂ば 信州にきのへ出ル
【吉田から西方 西尾へ】
○大つか ○宮 ○ごいの松原 ○竹山 ○ふかうす ○むろ■■
○かまかた【?】 ○竹の原【※】
池【※】 ○浦辺【※】 ○中島 ○堀川 ○和田 ○浅井 ◎西尾
【吉田から西方 岡崎・苅屋へ】
○御油 ○赤坂 ◎御殿 ○長沢 ○法蔵寺 ○藤川 ○■田 ○五つ【?】
○大手 ◎岡崎 ○岡崎町 ○矢はき ○針■ ○宇頭
○上野 ○御ミ【?】 ○ちりう ◎御茶屋 ◎苅屋
【苅屋以南 付箋に隠れた地名】
○下かりや ○よし浜 ○高浜 ○かど ○大浜
舟渡り越川半分ハ尾張内入海
【岡崎から北方 ゑひへ】
○ほら ○かし山 ○宮崎
参河国
○つくて ○こいた ○しほせ ○ふり
【苅屋から北方 つぐへ】
尾張あのへ出ル
○いも川 ○東さかい ○西さかい ○いかや
尾張ひらはりへ出ル
○みよし ○あさふ ○うきや ○宮口 ○ころも
○寺部 ○ふつけ【?】 ○野口 ○足助 ○あす川 ○ふせつ
【ころもより北方 矢作川沿い】
○いほ さなき山 ○白川 ○すもく ○日をも
【方角】
東
北 南
西
小豆■西尾ゟ一里程西
安祥吉田ゟ三里北
針■矢ハキゟ拾町程南佐■針■へ三丁
参河国八郡
碧海(アヲミ) 賀茂 額田(ヌカタ) 幡豆(ハツ)
宝飯(ホイ) 設楽(シタラ) 八名(ヤナ) 渥美(アツミ)
高三十五万石余
参河國五
東海道《割書:之|内》二川
一鶯国周画
道芝や
菫
いとへば
はか
とらす
了古賛
《割書:名|物》かしは餅
【浮世絵の画面外側 右と下部】
東海道名所風景 1帖 寄別8-3-1-4 00-076 裏
国立国会図書館
三河■図
【設楽郡】
【新城周辺】
新城 古城 古城
○野田町 ○田中 ○中村 ○川田 ○大野 ○スリ ○ネコキ ○イナキ ○ウスラ
○平井 ○甘久目 ○松山
○草旅 ○竹音 ○柿田 ○宮ワキ
○シンラ ○門前 ○大ツホ ○万々 ○清坂
○井消 ○岩音 ○川路 ○有見
【本宮山周辺以北】
本宮山 ○大和田 ○片山 ○往山
○矢部 ○川上 ○大宮 ○茂井 ○深沢 ○近江
○塩世 ○常貞 ○フチ長 ○ヤケ ○滝川
○岩内 ○フリ ○小松
○大和田 ○岩田
○菅坂 ○谷米 ○五領 ○道塩内 ○栗シマ
○小山田 ○白井シマ
【長篠周辺以北】
長篠 古城 ○杉山 ○嶺 ○星ヤ
○田代 ○門ヤ ○岡 ○大草 ○下草
○吉村 ○浅クマ
鳳来寺 ○寺林 ○大崎 ○引地
○塩野 ○桂 ○出村 ○杤下 ○大吉 ○羽セ
○中海老 ○西海老 ○高■ ○小野
○岩山 ○大輪 ○山中 ○万セ ○湯シマ ○ヨハ■
延喜式曰参河国上管八郡曰碧海曰賀茂
曰額田曰旙頭《割書:頭一|作豆》曰/宝飯(ホヒ)曰/八名(ヤケ)曰/設楽(シタラ)曰(ア)
渥(アツ)■【僉+見】《割書:美一|作美》是也○和名類聚鈔曰田七千五十四所
○見稲簿曰米三十五万石余云々具碧海郡七万
八千七十石三斗二升八合。賀茂郡五万一千
五百九十三石三斗八合。額田郡四万三千六百四
石九斗六升三合旙豆郡四万六千六百十八石
二升七合
宝飯郡五万一千五百九十三石三斗八合
八名郡一万九千三百六十五石七斗四升二合
設楽郡二万五百十四石六斗五升六合
渥美郡此米高未考
凡八郡米高合三十五万八百八十石五升
八合公田衛君【?】衛士寺社領倶也
○疆或東至遠州界西至海浜及尾州
界南至海浜北至濃信二州界東西十三
里《割書:南方|東方》或二十一里《割書:北方ノ|東西也》南北二十二里或二十八
里余《割書:南自五十湖崎|北至信州界》
【地名】
渥美郡
【吉田~田原~渥美半島北岸】
城 吉田町 ○大ムロ ○島カイツカ ○桂 ○小屯【?】 ○方足
○ムチシ ○天津 ○キツタカ ○仏生
○野依 ○大リキ ○東ノ窪田 ○クキタ 長山寺
○杦山 ○片神戸 ○今村 ○谷(ヤ)熊 ○張内 ○神戸
田原城 ○吉明 ○浦村 ○ハゼ ○片ハマ【?】
大津シマ 王白木 ラタ宮 ヒメシマ
○白ヤ ○カヂ ○シタ ○ニイノミヤ
○ニサキ 梶嶋 ○ウワヘ ○アリマ ○イカ津
○大窪 ○野田 ○芦村 池 ○八王寺 ○アタ ○村松 ○馬伏 ○山田
○石カシ ○小田 ○高木 ○亀【?】 ○中山 ○小中山
○ヲヒ 亀山 池
【遠江国界~渥美半島南岸~伊良湖】
海
○下加ヤ ○ヒトキ ○細/谷(ヤ) ○小シマ 観音
小松 ○寺沢 ○七根 ○家ノ内 ○高ツカ ○イワイヘ ○赤沢 ○城下
○クミ原 ○浜田 ○百々 ○谷ノ田 ○水引 ○高松 ○赤ハネ
○ワカシ ○アツヒ ○コシモ ○ワチ
○小塩市 ○掘切 ○同村 ○ヒリ ○五十子 伊良湖(イラゴ)崎
【吉田から東へ遠江国界に至る】
○吉田原 ○イムシ ○大岩 二川
大宮界海道
遠州白須賀ニ出ル
【吉田から北へ八名郡に至る】
○仁連木 ○下岩崎 ○上岩崎 ○ヒキ
○原 ○中原 ○中ノ屋
〇正治元年十月
〇廿四日癸未参河国内御寄附太神宮之庄園
有六ケ所而守護人藤九郎入道蓮西代官善耀
被押妨之由自神宮依訴申之為廣元朝旨奉
行被尋間蓮西之処於六ケ所者御奉免之後更
以不交其沙汰之由善耀内々申立旨昨日進請
文之間割其状於御教昼被遣本宮奉免之後
者可成其妨哉之由被裁之《割書:云東鑑参|云之十六》
神戸御厨御薗考 初稿
羽田埜敬雄謹輯考
伊勢ノ両大御神宮(フタヲホミカミノミヤ)ノ御神領(ミトシロ)ノコトヿハ。 天照坐ス皇【「星」を見せ消ち】大御神
伊勢国/度會(ワタラヘ)郡ニ御鎮坐(シズマリマ)シヽ時。度會(ワタラヘ)多気(タケ)飯野(イヒヌ)ノ三郡ヲ
神三郡ト定メマシテ御領田トナシ玉ヒ。 又同シ国ノ六處ノ神戸(カムベ)ヲ
始メ。大和伊賀志摩尾張三河遠江ノ封戸(フゴ)【ルビ「ナ」を見せ消ち】。合テ三百五十三戸ハ。
倭姫命(ヤマトヒメノミコト)其ノ杖代(ミツエシロ)トシテ。大御神ノ大御意ニカナハセ玉ヘル所ヲ。求(マギ)
玉フトシテ。国々ニ行幸(イデマ)シ玉ヘル時。其国々ノ国造等(クニノミヤツコタチ)ノ奉(タテマツ)リシ神御(カムミ)
田(タ)ナリ。
【欄外】神戸考
此国々 ̄ノ国造 ̄ノ神御田奉リシコトハ大神宮儀式帳。倭姫命世紀。
神宮雑事記等 ̄ニ委 ̄ク見エタリ。
延喜大神宮式《割書:四ノ|廿一丁》云。封戸当国《割書:イセノ|国也》【「西」を見せ消ち、朱で「国」に】度会 ̄ノ郡 多気郡 飯野 ̄ノ郡。
飯高 ̄ノ郡丗六戸 壱志郡廿八戸 安濃 ̄ノ郡丗五戸 鈴鹿郡十戸
河曲 ̄ノ郡丗八戸 桑名 ̄ノ郡五戸。
諸国 大和 ̄ノ国十五戸 伊賀国二十戸 志摩国六十六戸 尾張 ̄ノ国
四十戸 参河国二十戸 遠江 ̄ノ国四十戸 右諸国 ̄ノ調庸雑物。皆神
宮 ̄ノ司検領 ̄ス。依_レ例供_用ヲ。其当国 ̄ノ地租 ̄ハ收【「収」を見せ消ち。返り点「二」の抜け?】納 ̄テ所在 ̄ノ官舎_一 ̄ニ随_レ ̄テ事 ̄ニ支料 ̄セヨ。若 ̄シ遭_二 ̄テ
年不登損田七分已上【「土」を見せ消ち】 ̄ナラハ免_レ ̄ルセ徴_二 ̄スコトヲ租稲_一 ̄ヲ。並 ̄ニ注_レ ̄テ帳 ̄ニ申_二- ̄シ送 ̄レ所司_一 ̄ニ。
又云 神田四十六町一段 大和 ̄ノ国宇陀 ̄ノ郡二町伊賀 ̄ノ国伊賀 ̄ノ郡二町
伊勢国四十二町一段 右神田如_レ件。割_二 ̄テ度会 ̄ノ郡五町四段_一 ̄ヲ。令_二 ̄メ当郡
司 ̄ヲ営【「営」?を見せ消ちして左に「営」】種_一 ̄ヒ収_二穫 ̄テ苗子 ̄ヲ供_二用 ̄ス大神官 ̄シテ三時并 ̄ニ度会 ̄ノ宮 ̄ノ朝夕 ̄ノ之/饌(ミケニ)_一自
余 ̄ハ依【返り点「二」の抜け?】 ̄テ当土 ̄ノ佑_一 ̄ニ賃祖充【返り点「二」の抜け?】供祭料_一 ̄ニ。
トアリ。右神三郡/及(マタ)神田外ナル。七ケ国 ̄ノ封戸ヲ数(カ ゾ)フレバ。合テ三百五十三戸
アリ。コレ
○雑例集《割書:上ノ|十二丁》ニ。神戸三百五十三戸【「石」見せ消ち】《割書:本神|戸》御鎮座 ̄ノ之昔国 ̄ノ造/貢進(タテマツル) ̄ト アルコレ也。
○マタ 朱雀天皇 ̄ノ天慶二年 ̄ニ員弁(ヰナベ) ̄ノ郡一郡ト。封三十戸トヲ加(ソ)ヘ
進(タテマツ)リ玉ヘリ。
【○は朱色】
神戸考 二
コレ平 ̄ノ将門追討 ̄ノ御祈 ̄リ ノ報賽(カヘリマヲシ)トシテ奉リ玉ヘル也。サルハ
○扶桑略記《割書:廿五ノ|廿四丁》云。天慶三年八月廿七日尾張参河遠江三ケ国
封戸各十烟【𤇆】。有 ̄テ勅奉_レ ̄ル寄_二 ̄セ伊勢大神宮_一 ̄ニ。又被_レ寄_二 ̄セ員弁(ヰナベ) ̄ノ郡_一 ̄ヲ。是乱
逆 ̄ノ間為遂_レ賽(カヘリマヲシラ)也。【「遂」の返り点と「賽」の送り仮名は朱字】
○雑事記《割書:上ノ|丗六丁》云。天慶四年三月廿八日。以 ̄テ員弁 ̄ノ郡_一 ̄ヲ被_レ奉_レ寄_二 ̄セ大神
宮_一 ̄ニ。已了。又依_二 ̄テ官省 ̄ノ符_一 ̄ニ尾張参河遠江等 ̄ノ郡 ̄ノ神封戸各拾烟【𤇆】。
被_レ奉_レ寄於大神宮_一 ̄ニ已了《割書:今号_二 ̄ス新神|戸_一 ̄ト是也。》二所【「一所」見せ消ち】大神宮 ̄ノ祢宜 ̄ニ各賜_二 一階_一 ̄ヲ乃。
是則依_二将門 ̄ノ追討 ̄ノ之御祈祷_一 ̄ニ也。又七道諸国 ̄ノ神社 ̄ニ被_レ奉_レ増_二 ̄シ位
階_一 ̄ヲ了。
○雑例集《割書:上ノ|十六丁》云。員弁郡天慶三年八月廿七日 ̄ノ符二百烟【𤇆】。
太政官符_二 ̄ノ民部省_一。応_レ奉_二【返り点「三」?】加_二寄伊勢大神宮_一 ̄ニ一郡并 ̄ニ封戸 ̄ノ事。
同国員弁郡。封戸丗戸尾張 ̄ノ国十戸参河 ̄ノ国十戸遠江 ̄ノ
国【「同」を朱で加筆訂正】十戸。 右従三位守大納言。兼右近衛大将。 行陸奥出羽 ̄ノ
按察使。藤原 ̄ノ朝臣実頼宣 ̄ス。奉_レ勅 ̄ヲ件 ̄ノ一郡并 ̄ニ封戸宜_レ奉_三加_二寄
彼大神宮_一 ̄ヲ者省宜_二承知依_レ ̄ヲ【ラ?】宣 ̄ニ行 ̄フ之 ̄ヲ【フ?】。仍須【返り点「下」の抜け?】件 ̄ノ員弁 ̄ノ郡官物官‾舎
之類。准_二 ̄シテ弘仁八年十二月廿五日格【返り点「一」の抜け?】行_上レ ̄フ之 ̄ヲ符到 ̄ラハ奉行 ̄セヨ。
右少弁正五位下兼業内蔵頭源【「原」に氵を朱で加筆訂正】朝臣。右大史正五位上大窪 ̄ノ
宿祢。天慶三年八月廿七日ト。見エタリ。《割書:此三川 尾張 遠江三ケ国 ̄ノ封戸 ̄ヲ|新神戸ト号コト也。》
神戸考 三
○村上天皇 ̄ノ応和二年二月廿三日 ̄ニ三重 ̄ノ郡ヲ奉加リ玉ヒ。
○円融院天皇 ̄ノ天禄四年九月十一日 ̄ニ安濃郡ヲ加奉リ玉ヒ。
○後一【「一」朱筆】条院天皇 ̄ノ寛仁三年九月十一日 ̄ニ朝明郡ヲ加奉リ玉ヒ。
○後鳥羽院天皇 ̄ノ文治元年九月九日 ̄ニ。飯高 ̄ノ郡ト。封戸三千戸トヲ
加奉リ玉ヒス。
○以上三度 ̄ノコト。雑例集 ̄ニ委 ̄ク見エタリ。サテ此文治度ノコト。
○雑例集 ̄ニ ハ飯高郡文治元年九月九日 ̄ノ符トノミアリテ。別(コト)ニ封戸三
十戸ヲ奉ラレシコトハ見エ不ト。
○同《割書:上ノ|十一丁》神封 ̄ノ事《割書:付御領|》ト云フ条ニ。
神戸四百十三戸《割書:七ケ国在_二 ̄リ|廿一ケ所_一 ̄ニ》
三百五十三戸《割書:本神|戸》御鎮坐 ̄ノ昔国造貢進ル
三十戸新神戸 天慶三年八月廿七日 ̄ノ符
三十戸新神戸 文治元年九月九日 ̄ノ符《割書:按ニ下文ノ例ニヨルニ新ノ下加ノ字ヲ|脱セルニテ新加神戸ナルベシ》
伊勢 ̄ノ国一百五十二戸《割書:六|所》大和 ̄ノ国宇陀 ̄ノ神戸《割書:十五|戸》伊賀 ̄ノ国伊賀 ̄ノ神戸《割書:十五|戸》
志摩 ̄ノ国六十六戸 云々
尾張国《割書:六十|戸》 本神戸四十戸《割書:号_二 ̄ス中島 ̄ノ|神戸》新神戸十口。 新加神戸十戸。
参河 ̄ノ国《割書:四十|戸》本神戸二十戸《割書:号_二 渥美 ̄ノ|神戸_一》 新神戸十戸《割書:号_二飽海|神戸_一》新加神戸十戸。
遠江 ̄ノ国《割書:六十|戸》本神戸四十戸《割書:号濱名|神_一-戸》 新神戸十戸《割書:号_二 中田|神戸_一》新加神戸十戸。
神戸考 四
【○は朱色】
トアリ此 ̄ノ三ケ国 ̄ノ神戸 ̄ノ内。本神戸トアルハ。御鎮坐之昔云々《割書:ト|》アルニテ。
新神戸トアルモ。天慶三年云々《割書:ト|》アルナルコトハ前文《割書:ニ|》テシルシ。カヽレハ新加 ̄ノ神
戸トアルハ。文治元年九月九日 ̄ノ符《割書:神鳳抄ニ新封|戸トアルモ同》トアルナルベシ。コハ平氏追討
ノ賽トシテ進ラ【「ヲ」の右横に「ラ」】レシモノトハ見(キコ)ユレド。何故ニ進ラレシト云コト。未タ見当ラズヨク可考。
○上 ̄ノ件 ̄ニ挙タル神三郡ニ。五郡ヲ合セテ。此ヲ神八郡ト称(イ)ヘリ。此外御世々ニテ進(タテマツ)
ラレタル。神戸(カムベ)御薗/御厨(ミクリ)神田(ミトシロ)等。伊勢 ̄ノ国一志桑名鈴鹿 河曲
菴藝等 ̄ノ五郡ヲ始。諸国ニ数多アリシ事。雑例集 神鳳抄外宮
神領目録等ニ見エタリ
○サテ当国(コノクニノ) ̄ノ神戸(カンへ)御薗(ミソノ)御厨(ミクリ)等ノコト。神鳳抄ヲ本文トシテ。条々(ヲヂ〳〵)ニ小(シ)
注スコト下ノ如シ。
神鳳鈔《割書:○此書【「出」見せ消ち、右に「書」】ノ奥書云。本ニ云延文五年三月日。本宮注進ノ本。并ニ|外宮一ノ祢宜清宗神主之等。勘_レ之書写之。注文之内朱点》
《割書:者建久四年二宮進官ノ注文。自_二本所_一令_二合点_一。黒点ハ者自具 ̄ノ以来 ̄ノ|書入云々【「ラレ」見せ消ち】。以泰昌神主本書_二写之_一。但シ今度皆以黒 ̄ヲ書 ̄ス氏経ト有 ̄ヲ其 ̄ノ巻 ̄ノ首 ̄ニ》
二所大神宮御領。諸国 ̄ノ神戸(カムベ)。御厨。御薗
神田。名田等。《割書:ト有テ。伊勢 志摩 近江 美濃 尾張ト記シテ。|其。次ニ当国(コノクニ)ノヲ挙(アケ)タリ。》
神戸考 五
【○は朱色】
○サテ上 ̄ニ挙ベキコトヲ忘レタル故。コヽニ挙ツ。
○ソハ彼 ̄ノ雑例集ニ。マタ丗戸《割書:参河国|本封》寛弘二年以前符。百戸《割書:参河 近|江 美濃》
《割書:上野各|廿五戸》長暦二年七月 ̄ノ符トアリ。此寛弘二年云々トアル。丗戸ハ。本神戸
新神戸トアルナルベク。長暦二年云々トアルハ。
○雑事記《割書:二ノ|初丁》長暦二年七月日勅使参宮宣命 ̄ノ状 ̄ニ云。公家可有御慎 ̄ミ
之由頻 ̄ニト申仍御封百戸所_レ奉_レ寄也。又二宮 ̄ノ祢宜等賜一階了。
御封近江廿五戸。美濃 ̄ノ国参河国上野等国各廿五戸。官省
符到来了。トアルコレ也
参河国
本神戸内
御神酒三缶【𦈢】 用紙三百帖
瓶子十二口 祭料造酒米二石
懸力稲(カケチカラノイネ)四十【𠦌】束 荷前(ノサキ)御/調(ツキノ)絹四疋
畳(タヽミ)廿牧【枚?】
神戸考 六
【○は朱色】
○内宮儀式帳《割書:六十ノ|弌丁》【六十弐丁?】年中行事九月 ̄ノ条 ̄ニ。供_二奉 ̄ル大神宮_一 ̄ニ処々 ̄ノ神戸 ̄ノ荷前(ノサキノ)
物。絹二疋《割書:白一|赤一》【「一」は朱字。「一」の下「○」朱字を見せ消ち?】 糸三絇 綿五十三屯 神衣 ̄ノ料 白布一端 麻(アサ)
六斤 木綿(ユフ)【「ユフ」朱字】二斤 已上伊賀尾張三河遠江四ケ国 ̄ノ神戸 ̄ノ供進。
神酒二十三缶《割書:云々尾張三河遠江|三国ノ神戸各一缶。》懸税稲云々。尾張 ̄ノ神戸廿束。三河 ̄ノ
神戸十束 遠江 ̄ノ神戸廿束
○外宮儀式帳《割書:三十|八丁》年中行事 ̄ノ九月条ニ。懸税稲六百七十束《割書:伊勢国ノ神|戸六百十束。》
《割書:伊賀尾張三河遠江ノ|四国ノ神戸六十束。》
大神宮司 ̄ノ奉進 ̄ル伊賀尾張参河遠江志摩 ̄ノ国等 ̄ノ神戸 ̄ノ人夫 ̄ノ所_レ進 ̄ル
御調荷前(ミツキノノサキ)【「ヲ」のうえに朱で重ね書き「ツ」に】 絹二疋 糸二絇
綿五十二 屯(モチ) 荒太倍(アラタヘ)一端
本綿(ユフ)二斤 麻(アサ)五斤 雑 ̄ノ腊(キタヒ)廿斤 塩四斛 熬海鼡(イリコ)十斤
耽羅鮑廿斤 堅魚(カツヲ)【カツヲは朱字】」十五斤 海藻根(カジメ)丗五斤
○延喜大神宮式《割書:四ノ|七丁》云。六月 ̄ノ月次(ツキツキノ)祭《割書:十二月|准_二之》神酒(ミワ)廿缶《割書:缶別 ̄ニ 三斗。伊賀国三缶。|尾張参河遠江等 ̄ノ各》【「缶別ニ三■」の「■」の右横に「斗」】
《割書:一缶。並以神|税醸造ル》雑贄(クサ〳〵ノニヱ)廿荷《割書:副酒|所供》
度会(ワタラヘノ)宮 神酒ハ缶《割書:当国ニ三缶|四国如_レ上》雑 ̄ノ贄ハ荷
○同式《割書:四ノ|廿丁》九月/神嘗(カムナメ)祭 神酒廿三缶《割書:尾張参河遠江等 ̄ノ国各|一缶。並以神税醸造ル》
度会 ̄ノ宮 神酒廿缶《割書:当国十二缶。余 ̄ノ|国ハ同大神宮》
○同齋宮寮式《割書:五ノ|五十四丁》調庸ノ雑物 凡諸国送納 ̄ノ調傭。并請受京庫ノ
雑物積貯寮庫_一 ̄ニ支_二【「二」朱字】配 ̄ス雑用_一 ̄ニ。絹絶七百疋。《割書:尾張長絹二十疋。参河白絹二|十疋。遠江絹一百五十疋。》
舂米(ツキヨネ)一千三百三十四石八斗《割書:黒米二百九十一石。尾張二百石。|参河二百石 下略》黍子一石参河。
塩八十石《割書:志摩十五石|尾張六十五石》胡麻 ̄ノ油三石《割書:遠|江》下略
又云 鯛楚割九十斤。貽貝鮨(イカイノスシ)一石八斗。鯛 ̄ノ枚乾(ヒラボシ)【訓点朱字】一百斤《割書:以上|参河。》
○雑例集《割書:上ノ|十七丁》云。三河 ̄ノ国 ̄ノ本封。調(ツキノ)絹十九疋三丈七尺五寸。庸米二十三
石一斗。傜【「倭」を見せ消ち、左横に「傜」】功米七十五石。中男 ̄ノ作物胡麻 ̄ノ油七升封丁一人。
○同書《割書:下ノ|九十丁》年中行事六月条 ̄ニ。今月庁宣 ̄テ成 ̄ス事。《割書:参河遠江ノ神戸所当 ̄ノ麦(ムキ)作_レ度 ̄ヲ|進_レ宮。彼濱名ノ神戸図田所当》
【○は朱】
神戸考 七
《割書:麦|事。》
○大神宮建久年中行事《割書:四ノ|初丁》。十月一日。御綿奉納 ̄ノ神事 ̄ノ条 ̄ニ云。進_二納荷前 ̄ノ
御綿等_一 ̄ヲ事。絹三疋之中一疋当国。上一疋三河神戸。一疋遠江神戸。
新神戸内
御神酒三缶 用紙九十帖
《割書: |一イ》
瓶子二十口 祭料造酒米二石
《割書: |二勺》
懸力 ̄ノ稲三十束 荷前御調絲四斤
《割書: |四丈イ》 《割書: |茵イ》《割書:二イ|廿イ》
絹一疋 短簀 七枚
新加内《割書:イ本此一条ヲ脱セリ|》
御酒一缶 用紙三十帖
瓶子四口 造酒米一石
【○は朱】
神戸考 八
懸稲十三束 荷前御調糸二斤
絹四丈 短茵七枚
○雑例集《割書:上ノ|十七丁》云。新封 調(ツキノ)絹参拾漆【七】疋【「定」を見せ消ち】壱丈壱尺弐寸伍分。
庸米(チカラシロノヨネ)四十二石八斗七升五合。租穀百石。中男 ̄ノ作物胡麻 ̄ノ油一
斗七升五合。傜功米六十二石五斗。封丁一人。
又云准米三百十二石五斗九升九合。庸米六十五石九斗七升五合。
雑用二百四十六石六斗二升四合使供給雑事。
○内宮儀式帳《割書:十|丁》新宮造リ奉時 ̄ノ行事 ̄ノ条【「祭」を見せ消ち】 ̄ニ云常限_二。廿ケ年一度新宮 ̄ニ遷シ
奉ル《割書:中略|》即発_二 ̄ス役夫 ̄ヲ伊勢美濃尾張参河遠江等 ̄ノ五国々_一。別(コト) ̄ニ
国 ̄ノ司一人郡司一人。率_二 ̄テ役【「彼」を見せ消ち】夫_一 ̄ヲ参向 ̄テ造 ̄リ奉 ̄ル。
○雑事記《割書:一ノ|十五丁》云。宝亀十年八月五日 ̄ノ夜丑 ̄ノ時。太神宮 ̄ノ正殿。東西 ̄ノ宝
殿。及外院殿舎等皆悉 ̄ク焼亡 ̄シ畢 ̄ス。《割書:中|男【略?】》被_レ 下 ̄サ官符 ̄ヲ於伊賀伊勢美濃
尾張三河 ̄ノ五ケ国 ̄ニ天。件 ̄ノ正殿。東西 ̄ノ宝殿。及重【「重?」見せ消ち、右に「重」】々ノ御垣門。外院殿
舎 等(トヲ)早速可_レ奉_レ ̄ル造リ之由也。其 ̄ノ官符 ̄ノ状 ̄ニ伱 ̄ク。以_二当年 ̄ノ正税官ノ物 ̄ノ
応(ベシ)造進_一 ̄ル也。仍件 ̄ノ五ケ国 ̄ノ司等。各進参神宮_一。励_二 ̄シ不日之功 ̄ヲ奉造。
即修理職 ̄ノ大工物部 ̄ノ建麻呂小工長上《割書:并|》五百余人各々急速 ̄ニ奉_レ ̄リ
_レ【返り点「レ」は直前にもあり。誤記か】造 ̄リ既 ̄ニ了云々
カヽレバ昔時(ソノカミ)大宮造 ̄リ ノ御時ハ。五ケ国 ̄ノ国司郡司等/役夫(エダケ)【「エダケ」朱字。「エダチ」か】ヲ率 ̄ヰ来テ【「■」見せ消ち、左に「テ」】。大
宮造 ̄リ【「ク?」見せ消ち】仕奉リシ也。
【○は朱】
神戸考 九
二宮 見作廿八町十【「十」の右に朱で書入れ「(イナシ)」】二反
本神戸
○延喜式《割書:四ノ|一丁》封戸(フゴ)参河 ̄ノ国二十戸。
○雑例集《割書:上ノ|十二丁》参河 ̄ノ国本神戸廿戸《割書:号_二 ̄ス渥美(アツミ)|神戸_一 ̄ト》トアリテ。御鎮坐 ̄ノ之苔【「昔?」見せ消ち】。国造
貢進ルトアリ。
○吾妻鏡《割書:十六ノ|四丁》御神領。参河 ̄ノ国/飽海(アクミ)本神戸(モトカンベ)新神戸(シンカンベ)トアル本神戸コレ也。
サテ此本神戸ハ。垂仁天皇廿五年 ̄ト イヘル年 ̄ニ。皇女(ヒメミコ)倭姫命(ヤマトヒメノミコト)其 ̄ノ御杖代(ミツエシロ)ト
シテ。大御神 ̄ノ神慮カナハセ玉フ処ヲ不見玉フトシテ。大和国/笠縫邑(カサヌヒノムラ)ヨリ出(イテ)
坐(マサ)シメテ伊賀/淡海(アヲミ)美濃ヲ経(ヘ)テ。伊勢 ̄ノ国ニ到(イタ) ̄リマス道ノ程。其 ̄ノ処々 ̄ノ
国(クニノ)造(ミヤツコ)【「ツクリ」を見せ消ち、右に「ミヤツコ」】等 ̄ノ奉リシ神御/田(タ)ナルコト。内宮儀式帳 ̄ニ委ク見ユ。
○倭姫 ̄ノ命世記 ̄ニ ハ倭笠縫 ̄ノ邑ヨリ但波(タニハ)倭(ヤマト)木 ̄ノ国吉備 ̄ノ国ヲ経(ヘ)テ。又
倭(ヤマト) ̄ニ到 ̄リ。伊賀ヲ経テ。垂仁天皇 ̄ノ御代ニ到リテ伊賀ヨリ淡海美濃尾張
ヲ経テ。伊勢ニ到リマシ ̄ノ其 ̄ノ処々ノ国 ̄ノ造神御田ヲ奉ルコト見エタリ。
○マタ雑事記 ̄ニ ハ。伊賀伊勢ヲ経(ヘ)テ。次ニ尾張国中島 ̄ノ郡 ̄ニ一宿/御坐(ヲハシマス)【振り仮名朱字】。国 ̄ノ
造進 ̄ル中島 ̄ノ神戸 ̄ヲ。次 ̄ニ三河 ̄ノ国渥美郡 ̄ニ一宿/御坐(オハシマス)。国 ̄ノ造進_二 ̄ル渥美 ̄ノ神戸_一 ̄ヲ。
次 ̄ニ遠江国濱名 ̄ノ郡 ̄ニ一宿御坐国 ̄ノ造進ル濱名 ̄ノ神戸_一 ̄ヲ トアリテ。マタ伊勢
ニ帰【皈】リマシテ飯高(イヒタカノ)宮 ̄ニ坐ス云々ト見エタリ。カヽレバ此本神戸ハ其 ̄ノ時進リシ
成ヘシ。サレド其 ̄ノ事日本記 儀式帳世記ヲ始メ。イハユル五部 ̄ノ書等/等(ドモ) ̄ニ モ載(ノセ)
サレバ。慥(タシカ)ナラザル事 ̄ニ ハアレド。延喜 ̄ニ式 ̄ニ モ其 ̄ノ神戸ニ十戸ヲ挙(アゲ)ラレ。雑例
集ニモ。御鎮坐之昔。国造貢進ルトアレバ。ムゲニ僻伝(ヒガツタヘ)ノミトモ定ムベカラス。ヨク考
ベキコト也。サテ其 ̄ノ本神戸ハ渥美 ̄ノ郡渥美 ̄ノ郷ハ。其 ̄ノ郡 ̄ノ本土(モト)ナルベク。其 ̄ノ一宿御(ヒトヨオハシ)
坐シ趾所ハ。其 ̄ノ郷(サト)ニ鎮坐ス《割書:今吉田城|内ナリ。》神明 ̄ノ社。【「社ノ」の「ノ」見せ消ち、右に「。」】レナルベク【ソレナルベク?】思ヒヲ【「ソ」見せ消ち、右に「ヲ」】リシガ。ソノ社ナル
永正六年。天文十九年等ノ棟札ニ。渥美 ̄ノ郡新神戸 ̄ノ郷トアル由ナレバ此(コノ)処ハ
新神戸郷ニテ同郡/奥(オク)郡ナル神戸七郷《割書:青津/漆田(ウルシタ)市場 新見 志田/谷(ヤ)口|赤松コレヲ神戸七郷トイヘリ。》
【右頁「○延喜式」の上辺りに朱で書入れ】
「田原近江聞書
神庫記
本神戸御厨
【○は朱】
神戸考 十
ノ内ナル。青津邑 ̄ニ マス。神明 ̄ノ社ナルベキ歟。尚ヨク考ヘテ定ムベシ。
因ニ云。此青津 ̄ノ神明末社ニ久丸大明神ト云《割書:フ|》アリ。社地ハ漆田(ウルシタ)《割書:ニ|》アリテ。
祭礼ハ正月初甲酉両日也。コレヲ俗に神戸《割書:ノ|》寝(ネ)【寐】祭ト称(イ)ヘリ。此祭《割書:ノ|》コト和
漢三才図会《割書:六十九ノ|二丁》齋諧俗談《割書:一ノ|十丁》等ニモ載タリ。
《割書: |同イ》【「見作十七丁八反」の「見」から「反」まで結ぶ線あり】
二宮 見作十七丁八反
新神戸
○雑例集ニ。新神戸十戸《割書:号_二 ̄ス飽海(アクミ)|神戸_一 ̄ト。》天慶二年八月廿七日符。
○扶桑略記。雑事記等ニ。封戸十烟【𤇆】。吾妻鏡《割書:十六ニ|》飽海新神戸
トアルコレ也。
《割書: |同イ》【「見作十七丁七反」の「見」から「反」まで結ぶ線あり】
二宮 見作十七丁七反
新封戸
○雑例集ニ 新加 ̄ノ神戸。文治元年九月九日符。トアルコレナルベシ。
二宮
大津【左側に「オホツ」】神戸 《割書:前祭主/卿(イナシ)知行|七條院御祈祷所》
○今渥美 ̄ノ郡大津村アリ。 七條 ̄ノ院トハ。後鳥羽院 ̄ノ天皇 ̄ノ御母藤原
殖(ナリ)子ヲ七条院と号(コヲシ)奉ルコレ歟。
○大津古クハ老津ト云リト云リ古哥名蹟考【「古歌名蹟考」を朱の四角枠で囲む】老津 ̄ノ島 ̄ノ条 ̄ニ イフベシ国内神名帳大津天神アリ。
○吾妻鏡《割書:十六ノ|四丁》建久十年三月廿三日中将家依_レ ̄テ有 ̄ルニ殊《割書:ナル|》御宿願。大神宮 ̄ノ御領
六ケ所。被_レ止 ̄ノ地頭職其 ̄ノ所々 ̄ノ内謀叛狼藉 ̄ノ之輩出来者自_二 ̄リ神宮_一
可被搦出《割書:中|略》之旨。被仰 ̄セ遣 ̄ハ祭主《割書:中|略》御奉免状書 ̄キ様。
【右頁「○雑例集ニ」の上辺りに朱で書込み】
「田原近江聞書
神庫記ノ新
神戸御厨
【左頁「○今渥美 ̄ノ郡」の上辺りに朱で書入れ】
「田原近江聞書
神庫記大津神戸
御厨
【○は朱】
神戸考 十一
(イナシ)
御神領
遠江 ̄ノ国/蒲御厨(カマノミクリ) 尾張国一楊御厨 参河 ̄ノ国飽海本神戸
新神戸 大津神戸 伊良胡御厨。惣追補使
右 ̄ノ件 ̄ノ所々地頭等。依別御祈願所被停/止(マ)彼職也鎌倉 ̄ノ中将
殿御消息如此。仍 ̄テ執達如件。
建久十年三月廿三日 兵庫 ̄ノ頭《割書:按ニ大江廣元ナリ|》
祭主殿
○同《割書:十六ノ|十一丁》同十月廿四日。参河国内 ̄ニ御寄附 ̄ノ大神宮 ̄ニ之庄園有_二六ケ所_一。
而守護人藤九郎入道蓮西代官善耀。被押妨之由。自神宮_二【「宮_一」?】依_二 ̄テ訴
申_一 ̄ニ之云ニ。奉免之後ハ者。争可_レ成其 ̄ノ妨之由被載_レ之云々。●按ニ六処トハ本神戸
新神戸大津伊良胡薑橋良歟。此六処吾妻鏡ニノセタリ
○又同《割書:二ノ|二丁》平相国禅門《割書:清|盛》驕奢 ̄ノ之余《割書:リ|》。蔑如 ̄シ朝政_一 ̄ヲ忽_二‾諸 ̄シ神威 ̄ヲ破_二滅仏法_一 ̄ヲ
悩乱 ̄ス人庶_一 ̄ヲ。近 ̄クハ則放_二入【「人」を見せ消ち、右に朱字「入」】使者於神三郡_一 ̄ニ《割書:大神宮|御鎮坐》充課兵糧米_一 ̄ヲ追_二‾捕 ̄ス民
烟【𤇆】 ̄ヲ天照大神鎮坐以降千百余歳未_レ ̄タ有_二 ̄ラ如_レ ̄キ此例_一。
○同《割書:七ノ|十六丁》下_二 ̄ス伊勢 ̄ノ国御領内地頭等_一。早 ̄ク可【_下】停_二止 ̄シ既【旡?】道狼藉 ̄ヲ。従_二 ̄ヒ内外宮 ̄ノ
神主等下【「不」見せ消ち、右に朱字「下」】知_一 ̄ニ。致_中 ̄ス沙汰【_上】事《割書:ト|》アル中ニ自今以後従_二 ̄ヒ神官之下知_一 ̄ニ。可令_レ致_二 ̄サ神
忠_一 ̄ヲ。縦(タトヒ)雖地頭何 ̄ソ煩_二神人_一 ̄ヲ怠_二 ̄ラン神役_一 ̄ニ乎(ヤ)。宜 ̄ク停‾止 ̄セ件 ̄ノ狼藉 ̄ヲ。トモ見エタリ。
内宮
橋良(ハシラ)御厨《割書:六石|》
○今渥美 ̄ノ郡橋良村アリ
○吾妻鏡《割書:十六ノ|六丁》建久十年五月十六日丁未。今日以 ̄テ参河 ̄ノ国/薑(ハジカミノ)御(ミ)
厨(クリ)并/橋良(ハシラノ)御厨 ̄ノ地頭職_一 ̄ヲ。令_下 ̄ム去(サケ)進大神宮_一給_上 ̄ハ。兵庫 ̄ノ頭廣元奉_二‾
行 ̄ス之_一 ̄ヲ云々。
【左頁「橋良御厨」の上辺りに朱で書込み】
「田原近江聞書
橋良神戸御厨
《割書:神庫|記ニ有》
【○●は朱】
神戸考 十二
《割書: |二宮》 各(名イ)【■を見せ消ち、朱字「名イ」】栗二石 油二斗
生栗御薗
○今【■を見せ消ち、右に「今」】額田 ̄ノ郡ニ羽栗(ハクリ)村。幡豆 ̄ノ郡ニ六栗(ムツクリ)村。又額田郡 ̄ニ投栗(ナグリ)村アリ可考。
○外宮神領目録。参河 ̄ノ国生栗御薗。油一斗。栗二石。
神谷(カミガヤ)御厨 《割書:内宮十石。別(副イ)進十石。|外宮十石。菓子雑用廿石。》【「外宮十石」の左に「イ四字ナシ」の書入れ】
◐今八名郡 神(カミ)ケ(ガ)谷(ヤ)村アリ。
○外宮神領目録。参河 ̄ノ国神谷御厨菓子《割書:按ニ引付帳ニ。菓子ノ下ニ等ノ【「ノ」朱字】字アリ|》
《割書: |内宮》
高足(タカシ)御厨 十石《割書:イナシ|》
○今渥美 ̄ノ郡/高足(タカシ)村アリ。○和名鈔。同郡/高蘆(タカシノ)郷アリ。
○大神宮建久年中行事《割書:二ノ|七十丁》六月廿一日。滝原 ̄ノ宮 ̄ノ祭礼条 ̄ニ。進発出立ハ
自 ̄リ幣使給_レ ̄フ之 ̄ヲ幣使米同郷役米三斗運送 ̄ス《割書:以代三|百文_一。》彼 ̄ノ沙汰不足 ̄ノ
之間去ル文安元年 ̄ニ三河 ̄ノ国高/師(シノ)御厨 ̄ノ神税 ̄ノ之内。五十足被相副_一 ̄ヘ。
彼 ̄ノ口入処ヨリ沙_二汰之_一 ̄ヲ○此村 ̄ノコト尚古哥名蹟考高師山 ̄ノ条 ̄ニ委 ̄ク イフベシ【「古歌名蹟考」を朱字の四角枠で囲む】
《割書: |外宮》
饗(アイ)庭ノ御厨 《割書:見作三分一所 当(畒イ)内(イナシ)七石五斗|上分残 口(石イ)入》
○今幡豆 ̄ノ郡/饗庭(アイバ)村【「村」朱字】アリ。
○外宮神領目録 ̄ニ。参河 ̄ノ国饗庭 ̄ノ御厨九石《割書:加後進祈祷一石五斗|内於上分一石五斗者》【割書右列の「十」を「斗」に朱で重ね書き】
【右頁「栗御薗」の上に朱字の貼紙】
《割書:安余【全?】|按ニ額田郡ナル投栗村|ナルベクオボユソハ生栗ハ|ナリグリナルヲナクリト|ツヽメタルナラントオボ|ユレハ也》
【右頁「外宮」の上辺に朱字で書入れ】
田原聞書《割書:以下近江|ノ二字ヲ略ス》
神庫記 生栗御厨
【右頁「神谷御厨」の上に朱字の書入れ】
「田原聞書申?
神庫記●神谷御厨
【左頁「高足御厨」の上に朱字の書入れ】
「田原聞書
神庫記高足御厨
【左頁「饗庭ノ御厨」の上に朱字の書入れ】
「田原聞書
神庫記饗庭御厨
【○●◐は朱】
神戸考 十三
【13コマと同じ】
六月二石五斗九月二石五斗(別付帳ナシ)【「六月から五斗。」まで線で括り、右に「別付帳ナシ」】。十二月二石五斗。
○中右記ニ云長承元年十一月四日梅宮祭云々。今朝彼御御厨事。
申_二子細_一了。参河 ̄ノ国饗庭 ̄ノ御厨 ̄ノ内。字 角平(ツノヒラ)寺島【「島」の右側に「鳥イ」】郷 ̄ノ事。
件所代々国司奉免。永久三年被奉 ̄ノ免宣旨_一了。於_レ ̄テ今 ̄ニ者(ハ)可_レ為_二 ̄ル御
厨人歟。後日宣勺【句?】〇国司。 信濃 ̄ノ国《割書:中略|》同国《割書:中略|》右三ケ所
大略所見注進如_レ件。
外宮
薑(シカミ)【ハジカミ】御薗 六石
○今渥美 ̄ノ郡/仁連木(ニレンギ)村 ̄ニ ハジカミト云字 ̄ノ処アリ。伊勢ヘ奉ル薑/収(イレ)タル蔵(クラ)
ノ趾(アト)トテ生姜蔵ト云ヒ伝フ処アリ。
○外宮神領目録ニ三河 ̄ノ国薑 ̄ノ御園。六石六斗《割書:料田六十六丁。段別 ̄ニ一升充。|但同本斗定大器也。》
○吾妻鏡《割書:十六ノ|六丁》参河 ̄ノ国/薑(ハジカミノ)御厨(ミクリ)《割書:全文橋良ノ|下ニ引リ。》
○按ニ建久年中行事《割書:二ノ|四丁》四月十四日 ̄ノ条ニ。遠江 ̄ノ神戸ヨリ種薑ヲ奉ルコト見エ。
○雑例集《割書:下ノ|四十五丁》三月 ̄ノ条ニ種薑 ̄ノ御贅之事。遠江 ̄ノ国濱名 ̄ノ神戸 ̄ノ可_レ課也。
マタ当抄。遠江 ̄ノ下ニ種姜二斗八升トアリ。カク遠江ヨリ奉ルコトハ見エタレド。
当国ヨリ奉リシコトハ見/当(アタ)ラズ可考。
外宮
伊良胡(イラゴ)御厨 上分三石 雑用 丗(二十イ)石
○今渥美郡伊良胡村アリ。
○外宮神領目録ニ。三河国伊良胡御厨。三石。干鯛三十 候(隻引付帳)【「候」の右に「隻引付帳」】
○吾妻鏡《割書:十六ノ|四丁》伊良胡(イラゴ)ノ御厨。全文大津神戸ノ下ニ引リ
○尚此処ノ 官社私考【「官社私考」を朱の四角枠で囲】下巻《割書:伊良久大|明神ノ条》古歌名蹟考【「古歌名蹟考」を朱の四角枠で囲】《割書:伊良虞|崎ノ条》云リ
【「薑御薗六石」の下に貼り紙、朱字】
《割書:正ヒロ云|二葉松イ本渥美郡|郷名仁連木トアル下ニ|古作薑アリ》
【「薑御薗六石」の上に朱字】
《割書:「田原聞書|神庫記薑|御厨》
【「伊良胡御厨 上分」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記 伊羅|胡御厨》
【○は朱】
神戸考 十四
【15コマと同じ】
外宮
蘓【「蘓」の右側に朱字「蘇也」】美御厨 《割書:上分六石 雑用丗石|》
○今幡豆 ̄ノ郡/嵩美(スミ)村アリ。津 ̄ノ平村 ̄ノ北隣也。ストソト通ヘハコレナルベシ。
○外宮神領目録。三河 ̄ノ国蘓美 ̄ノ御厨六石。国内神名帳【「国内神名帳」を朱の四角枠で囲】蘓美天神アリ
外宮
吉田(ヨシダ)御薗《割書:上分三石菓子雑用十一【「十一」の右側に書入れ「三十イ」】石|》
○今吉田ト称(イヘ)ル処渥美八名幡豆 ̄ノ三郡 ̄ニ三所アリ。サレト幡豆 ̄ノ郡ナルハ饗場(アイバ)
ト並ビテ。俗(ヨ)ニ饗場吉田ト称(トナ)フレバコレ歟又菓子トアレバ八名郡ノ俗(ヨ)ニ山ノ吉田ト
云ル【「充」?を見せ消ち、右に「云ル」】村ナル歟可_レ考渥美郡ナル。此吉田駅ハ。旧(モ)ト今橋ト称(イ)ヒケルヲ。天文ノ比【「此」を見せ消ち、右に「比」】
吉田ト改メタリト云レバ此所ニハ非シ。
○外宮神領目録 ̄ニ 三河 ̄ノ国吉田 ̄ノ御園三石。菓子栗六籠。
外宮
角平(ツノヒラ)御厨 《割書:五十二町五反蘓美同所|》
○今幡豆 ̄ノ郡/津平(ツノヒラ)村アリ嵩美(スミ)村ト隣(トナ)レリ。又寺島トモ並ベリ。
○中右記。参河国饗庭 ̄ノ御厨 ̄ノ内。字ハ角平寺嶋 ̄ノ郷事。《割書:全文饗庭ノ下ニ|引リ。》
○国内新名帳 津枚明神アリ官私社考【「官私社考」を朱の四角枠で囲み、左に書入れ「下上」】下巻可考合
吉胡(ヨシゴ)御厨
○今渥美 ̄ノ郡/吉胡(ヨシゴ)村アリ。
冨津御薗
【「蘓美御厨上分」の上に朱字書入れあり】
《割書: 田原聞書|神庫記蘇美|御厨》
【「吉田御薗上分」の上に朱字書入れあり】
《割書: 田原聞書|神庫記吉田|御厨》
【「角平御厨五十」の上に朱字書入れあり】
《割書: 田原聞書|神庫記角平御厨》
【「吉胡御厨」の上に朱字書入れあり】
《割書: 田原聞書|神庫記吉胡|御厨》
【「冨津御薗」の上に朱字書入れあり】
《割書: 田原聞書|神庫冨津御厨》
【○は朱】
神戸考 十五
秦(ハダ)【「秦」の左に「美イ」の書入れ】御薗
○今渥美 ̄ノ郡ナル。予(オノ)ガ住ム邑(ムラ)ヲ羽田(ハダ)ト云。和名鈔 ̄ニ同郡/幡(ハダノ)太郷アリコレナルベシ。
○又奥郡ニ畠(ハタケノ)村アレド残風土記ニ南ハ限ル波多湊 ̄ヲ トアルニ【「ヒ」を見せ消ち「ニ」に】合ハザルコト。既ニ総
国風土記考【「総国風土記考」を朱の四角枠で囲】ニ云ルガ如シ○或説ニ保美亀山伊良胡堀切小塩津中山畠
村ヲ御厨七郷ト唱フト云リ此 ̄ノ説ニ拠レバ畠村ニ由【「田」を朱で加筆「由」に】アルカ可考。
河内(カフチ)御薗
○今幡豆 ̄ノ郡 ̄ニ河 ̄ノ内村。設楽 ̄ノ郡 ̄ニ川内村。加茂 ̄ノ郡 ̄ニ下河内村。宝飫 ̄ノ郡 ̄ニ
柑子(コウシ)村アリ。○建久年中行事《割書:四ノ|初丁》十月一日更衣 ̄ノ神事饗膳 ̄ノ条ニ。件 ̄ノ所ハ
三河国所在河内 ̄ノ御薗也。○和名抄碧海郡/河内(カフチノ)郷アリ。
大墓(オホツカ)御薗
○今宝飯 ̄ノ郡ニモ幡豆 ̄ノ郡ニモ大塚(オホツカ)村アリ。墓ヲツカト訓ル例(タメシ)ハ。雑例集ニ
有尓鳥墓(ウニトツカノ)村。尾張国内神明帳。従三位津賀田天神《割書:一作|墓田_一 ̄ニ》
院内御薗
○今渥美郡ニ印内(インナイ)村アリ。
根田
○今渥美 ̄ノ郡ニ今田(コンダ)村アリ。
【「秦御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記秦御|薗》
【「河内御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記河内|御厨》
【「大墓御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記大墓|御厨》
【「院内御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記院内|御厨》
【「根田」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記根田御厨》
【○は朱】
神戸考 十六
田原(タハラ)【「田原」の右に「原田イ」】
○今渥美 ̄ノ郡/田原(タハラ)。 和名鈔ニ。多原トアルハ。設楽郡ノナルベシ。
新家(ニヒノミ)
○今渥美 ̄ノ郡/新見(ニヒノミ)村アリ。
野依(ノヨリ)御厨
○今渥美 ̄ノ郡野依村アリ。
○外宮神領目録 ̄ニ。三河 ̄ノ国/野依(ノヨリ)御厨三石。《割書:引付帳ニ。兼春被_二仰付_一トアリ。|》
岩前(イハサキノ)【「前」の右に「崎イ」】御薗
○今渥美 ̄ノ郡ニ岩崎(イハザキ)村アリ。○国内神名帳ナル石前天神モ当村ニ坐セリ。
官社私考【「官社私考」を朱の四角枠で囲】下巻可_二考合。
土【「土」の右に「上イ」】谷御厨
○今渥美郡/植田(ウエダ)村アリ。ウヱタ【「ウヱタ」の右に棒線あり】ウヘタ【「ウヘタ」の右に棒線あり】ニ訓似タリ。此 ̄ノ辺神領多レ【「シ」を朱で「レ」に書換】バ可考。
○又 八名 ̄ノ郡神ケ谷村アリ既ニ神ケ谷ノ条 ̄ニ云リ。
【「田原」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記田原|御厨》
【「新家」の上に朱字】
《割書: 田原|神庫記新|家御厨》
【「野依御厨」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記野|依御厨》
【「岩前御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記岩|前御厨》
【「土谷御厨」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記上谷御厨》
【○は朱】
神戸考 十七
内宮
加治(カヂ)御薗
○今渥美郡加治村アリ。○大場信茂云加治村ニ大見堂ト云社アリコレ麻(ヲ)
績(ウミ)ノ意ナルベシト云リ○国内神名帳ニ加治天神アリコハ八宝飫郡ニ坐(マシ)テコヽトハ別(コト)ナリ
二宮
濱田(ハマダ)御薗
○今渥美 ̄ノ郡濱田村アリ。
○外宮神領目録 ̄ニ。保柚【「柚」の右に「抽引付」】濱田両御園。一石五斗。又同濱田御園勤月
次御幣紙十二帖。○引付帳十二帖 ̄ノ下。勤也ノ二字ナリ。
泉(イヅミ)御薗
○今碧海郡/泉(イヅミ)村アリ○八名 ̄ノ郡/御薗(ミソノ)村ヲ泉御園ト云リ
○建久年中行事《割書:二ノ|四丁》四月十四日風日祈 ̄ノ宮 ̄ノ祭礼 ̄ノ条。其 ̄ノ後風日祈/直(ナホ)
会(ラヒ)【「ラヒ」朱字】饗膳 ̄ニ預ル。饗料所ハ三河国泉 ̄ノ御薗也。
保田御薗
○今渥美郡/漆田志田(ウルシタシダ)等 ̄ノ村。並(ミナ)神戸七郷 ̄ノ内也可考。
○外宮神領目録。保柚濱田両御園。一石五斗トアリ。引付帳ニ。柚ヲ抽
ト書リ可考。
【「加治御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記加治|御厨》
【「濱田御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記濱田|御厨》
【「泉御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記泉|御厨》
【「保田御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記保田|御厨》
【○は朱】
神戸考 十八
内宮
香渕御薗 十一【「十一」の右に「十イ」】月一日饗料所
○今宝飫 ̄ノ郡/柚子(カウシ)村アリ可考。
大草(オホクサ)御薗
○今渥美宝飫額田 ̄ノ三郡共ニ大/草(クサ)村アリ。サレド所謂(イハユル)神戸七郷ト
云ル続(ツヾキ)ナレバ渥美郡 ̄ノ ナルベシ。
勢屋【「屋」の左に「谷イ」】御薗
内宮
杉山(スギヤマ)御薗 四月七月【「月」の右に「日イ」】両【「両」の右に「イナシ」】度饗料所【「所」の右に「イナシ」】
○今渥美郡杉山村ナリ。
○建久年中行事《割書:三ノ|二丁》七月四日風日祈 ̄ノ宮 ̄ノ柏流(カシハナガレ) ̄ノ神事 ̄ノ条ニ。神事
畢 ̄テ後。於一殿_一在_二 ̄リ直会饗滕【膳?】。其 ̄ノ座并勧盃配膳如_レ件饗膳ハ三河 ̄ノ
国杉山 ̄ノ御厨乃勤 ̄メ也。号 ̄ス苽饗 ̄ト以苽饗以苽饗以苽饗【「以苽饗以苽饗」の各文字の左に圏点「º」あり】ヲ作
也。凡其沙汰構【「■」を見せ消ち、左に朱字「𣕛」】也。
【「香渕御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記|香渕御厨》
【「大草御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記大草|御厨》
【「勢屋御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記|勢谷御厨》
【「杉山御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記杉山|御厨》
【○は朱】
神戸考 十九
弥熊御薗
○今渥美郡/谷熊(ヤクマ)村アリ
赤坂(アカサカ)御厨
○今宝飫郡赤坂駅アリ。
外宮
蘓【「蘓」の左に朱字「蘇ニ重復ナラン」】美御薗○此条。イ本ナシ。重復ナル歟。
冨長(トミナガ)【「長」の左に「永イ」】御薗
○今碧海 ̄ノ郡冨永村アリ。又設楽郡新城辺ヲスベテ冨永庄ト云ヘリ【「ノ」を見せ消ち、右に朱字「リ」】考ベシ [157]
○按 ̄ニ此三河 ̄ノ国/次(ツキ)ニ。遠江 ̄ノ国ノヲ載(ノセ)次ニ諸国ノ御厨御薗等ヲ
載テ。其 ̄ノ巻末ニ
諸神田注進文。建久四年四月在京同トアリ。
【「弥熊御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記弥熊|御厨》
【「赤坂御厨」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記|赤坂御厨》
【「冨永御薗」の上に朱字】
《割書: 田原聞書|神庫記冨永|御厨》
【○は朱】
神戸考 廿
○一戸 続日本紀《割書:十七ノ|四丁》天平十九年五月 ̄ノ太政官奏。毎一戸以正丁六人中男
一人_一 ̄ヲ為率 ̄ト云々。其 ̄ノ田租者毎_二 ̄ニ一戸_一以_二 ̄テ四十束ヲ為限 ̄ト云々。トア
リ民部式《割書:廿二ノ|十五丁》ナルモ此御制ト同シ
○御厨 御薗伴主【圭?】云。公(ナホヤケ)【オホヤケ?】ニテ其 ̄ノ御厨ト云フハ定リテ魚鳥等ヲ進(タテマツル)ル
所也御園ハ雑菜ヲ進ル所ト聞エタリ。内膳式ナドヨリテ見ルベシ。
神領ナルモ然ゾ有ケムヲ。神鳳抄ナイニ。御厨御園共ニ田ノ町反租ノ
石数ナド記セルハ。今 ̄ノ世 ̄ニ イハユル。米上納。代上納類ニテ。貢物ニ換(カへ)タルウヘ
ヲ記セルモノナルベシ。又吾妻鏡神鳳抄年中行事ナド。御厨御
薗。互ニ泯(マギ)ラシ記セルハ御厨ヨリモ。御園ヨリモ貢物ヲハ共ニ公ノ御厨ニ
進ル故ニ。私ニハ通ハシ云ルカラ混(マギレ)【「レ」は朱字】タル後ノ/唱(トナヘ)ナルベシト云リ。
○神戸神田ノコトノ古ク物ニ見エタルハ
○日本紀《割書:五ノ|四丁》崇神天皇七年冬十一月。便 ̄チ別(コト) ̄ニ祭 ̄リ八十一万群神(ヤソヨロヅノカミタチ)ヲ。仍定_二《割書:玉ヒキ|》
天(アマツ)社国 ̄ツ社/及(マタソノ)神地神戸(カムドコロカムベヲ)。於是(コヽニ)疫病(カミノケ)始息(ヤミ)【「疫病」の左に朱字「エヤミ」】。国内(クヌチ)漸謐(シヅマリ)。五穀(タナツモノ)既成(ナリテ)。
百姓(オホミタカラ)饒之(ニキワイキ)。
○同書《割書:六ノ|十丁》垂仁天皇廿七年秋八月云ニ。弓矢(ユミヤ)及(マタ)横刀(タチヲ)納(タテマツリ)_二諸神之(カミタチノ)社(ヤシロニ)_一。仍(サラ)
更(ニ)定_二 ̄メ神地神戸_一 ̄ヲ以_レ時/祠之(マツリ玉ヒキ)【■の左に書入れ「祠」】。
○同書《割書:九ノ|三丁》神功皇后元年夏四月云ニ皇后(オホキサキ)識神(シロシメシテ)教 ̄ノ有_一 ̄ルコトヲ_レ験(シルシ)更(サラニ)祭(イハヒ)_二祀(マツリテ)【「祭_二祠」のルビは続けて「イハヒマツリテ」】
神祇(カミタチヲ)_一躬(ミツカラ)欲(オホス)_二西征(ニシノクニヲウタマク)_一。爰定_二 ̄メテ神田(ミトシロヲ)_一佃之(タツクラセ玉フ)【「ヒ」を朱で「フ」に訂正】云々
○同書《割書:十五ノ|十五丁》顕宗天皇三年春三月云ニ便奏(カクトマヲシカハ)依_二神 ̄ノ乞(コハシノ)_一献(タテマツル)_二田(ミタ)十四町(トヲマリ?ヨマチヲ)_一云々。
【「○御厨御薗」の上辺に書入れあり】
○内膳式《割書:三十九|廿七丁》凡諸国【「諸」の下に朱字「国」を書入れ】貢_二進(スル)
御厨 ̄ノ御贄_一 ̄ヲ給番ハ云々
又云云【「々」を見せ消ち、右に朱字「云」を書入れ】々等園ヨリ供御雑
菜云々
【○は朱】
神戸考 廿一
○同書《割書:二十九ノ|十二丁》天武天皇六年夏五月/勅(ミコトノリスラク)天社地 ̄ツ社 ̄ノ神税者(カミノタチカラヲハ)【「神税者」の左に「オホチカラ」】三分之(ミツニワケテ)。一為擬(ヒトツヲハタメニシツカヱ)【「一為擬」の左に「ヲハカミニ」】
供神(マツリノ)【「供神」の左に「ツカヘマツリ」】【「ヒトツヲハツカヱマツリノ神ノタメニシ」?】二分(フタツヲバワケテ)給(タマフ)神主(カムヌシニ)【「「フタツヲバワケタマフカムヌシニ」は朱字】_一。
○同書《割書:三十ノ|十二丁》持統天皇五年春正月/班(ワカチ)【「カ」を朱字「ワ」に】幣/於畿内(ウチツクニノ)天 ̄ツ神地 ̄ツ祇_一 ̄ニ。及(マタ)増(マシ玉フ)_二神戸(ミト) ̄ト
田地(シロヲ)_一。
○神祇令《割書:二ノ|五丁》凡神戸 ̄ノ調庸及【「及」の下の「。」を見せ消ち】田租 ̄ハ。並充_二 ̄テヨ造 ̄リ神 ̄ノ宮【「宮」の下の「ツ」を見せ消ち】及 ̄ヒ供神 ̄ノ調度_一 ̄ニ。其 ̄ノ税 ̄ハ者
一准(モハラセヨ)_二義倉_一 ̄ニ。《割書:一准義倉_一 ̄トハ者|不出挙_一 ̄セ也》皆 ̄ナ国司検校 ̄シテ申_二送 ̄ル所司_一 ̄ニ
○職員令《割書:一ノ|四十一丁》神祇官伯一人。掌 ̄ル神祇 ̄ノ祭祀。祝部神戸 ̄ノ名籍《割書:謂祝部 ̄ノ|名帳。神》
《割書:戸 ̄ノ戸|籍也。》云々惣_中判 ̄スルコトヲ官事_上 ̄ヲ。
○臨時祭式《割書:三ノ|十三丁》凡諸国神税調庸 ̄ノ帳。及神戸 ̄ノ計帳。祝部等 ̄ノ名帳 ̄ハ毎年
勧造 ̄テ送 ̄ラハ此 ̄ノ官_一 ̄ニ。計会 ̄ノ知 ̄テ実 ̄ヲ即付_二 ̄ケヨ返抄_一 ̄ヲ。
○主税式《割書:廿七ノ|三丁》某 ̄ノ国司解申 ̄ス。収納 ̄セル某年 ̄ノ正税帳 ̄ノ事云々。当年 ̄ノ田租穀
穎若干束。雑散若干【「千」見せ消ち、右に「干」】束新封戸若干【「千」見せ消ち、右に「干」】束。某 ̄ノ神封戸若干束云々。以
前某 ̄ノ租帳依_レ ̄ノ例勘造如_レ件仍附貢調使 ̄ニ官位姓名_一 ̄ニ申上謹 ̄テ解 ̄ス。
○民部式《割書:廿三ノ|五丁》神税帳 ̄ハ造 ̄リ二通一通 ̄ハ送 ̄リ神祇官 ̄ニ。一通 ̄ハ送_レ ̄レ省。
○同式《割書:二十一ノ|十三丁》【「五」を見せ消ち、右に朱字「二十一」、「三」か】凡神戸 ̄ノ調庸 ̄ハ充祭料并造 ̄リ神社 ̄ヲ及供_レ ̄スル神 ̄ニ調度_上 ̄ニ。但 ̄シ田租貯 ̄テ為 ̄ヨ神税
○同式《割書:三ノ|十三丁》凡諸国 ̄ノ神社 ̄ハ随 ̄テ被修理 ̄セヨ云々。其料 ̄ハ便用_二 ̄ヒヨ神税_一。如无神税_一則充_二 ̄ヨ
正税_一 ̄ヲ。
○同式《割書:三ノ|十二丁》凡神戸 ̄ノ百姓不_レ得輙令 ̄ルコトヲ得度。
【○は朱】
神戸考 廿二
○田令《割書:三ノ|五丁》凡田 ̄ハ六年 ̄モ一班神田寺田 ̄ハ不_レ在此限_一 ̄ニ《割書:謂此レ即|不税田也》
○民部式《割書:廿二ノ|廿二丁》凡位田功田賜田及 ̄ヒ神寺等田 ̄ハ各拠 ̄ノ本地_一 ̄ニ不_レ須輙 ̄ク改 ̄ム
○続日本記《割書:二ノ|十四丁》文武天皇大宝二年七月詔伊勢大神宮封物 ̄ハ者是 ̄レ
神御 ̄ノ之物也。宜准_二 ̄シテ供神 ̄ノ事_一 ̄ニ勿_レ令濫穢_一。○雑例集《割書:上ノ|十一丁》同之
○雑例集《割書:上ノ|十三丁》延暦廿年四月十四日 ̄ノ格 ̄ニ云。大神宮 ̄ノ封戸非_二改減之限_一 ̄ニ。
○此事日本後記ニハ見エズ
○雑事記《割書:上ノ|十八丁》ハ挙タリ
○類聚三代格《割書:一ノ| 丁》弘仁十二年秋八月。太政官 ̄ノ符。応_レ ̄ヒ【ニ?】令伊勢大神宮司検
納 ̄セ神郡田租_一 ̄ヲ事。右得_二 ̄ルニ神祇官 ̄ノ解_一 ̄ヲ伱【偁】 ̄ク。承前之例。大神 ̄ノ宮司検納伊勢 ̄ノ
国多気度会 ̄ノ両郡 ̄ノ神田租及 ̄ヒ七処神_戸_田等祖 ̄ノ租 ̄ヲ。支_二用 ̄スルコト祭祀_一 ̄ニ従来尚 ̄シ
矣。中間国司預以検納 ̄ス。《割書:中|略》而年中 ̄ノ祭用 ̄ノ稲合 ̄テ四万一千一百九十束一杷。今
【○は朱】
神戸考 廿三
在_二 ̄ル他国_一神戸合百三十一烟【𤇆】所輸租五千二百五十束【■を見せ消ち、右に「束」】。除_二 ̄ク例用外所_レ遺
亦一千五百八十五束。亦当国 ̄ニ所_レ ̄ノ出 ̄ス租三万五千束。爰当国他国 ̄ノ神
税合 ̄テ三万六千五百八十五束。即共 ̄ニ充用 ̄ス。猶所_レ ̄ノ欠 ̄ル稲四千六百五十
束。其代借用 ̄ヲ正税_一。雖割_一 ̄テ所輸租即便填進_一 ̄スト。而 ̄トモ毎_レ ̄ニ年有 ̄テ残封納
為 ̄ス煩。望請停煩預国司令 ̄メ神宮司 ̄ヲシテ【「ツ」を見せ消ち、右に朱字「ヲ」】依_レ ̄テ旧 ̄ニ検納 ̄セ。預以支用済_二 ̄シ其祭事_一 ̄ヲ。
但シ借_二請 ̄テ正税_一 ̄ヲ充_二 ̄ル欠料_一 ̄ニ者永従 ̄テ停止 ̄カン【セン?】。謹 ̄テ請_二 ̄フ官裁_一者 ̄レハ右大臣 ̄ノ宣奉_レ ̄ル敕 ̄ヲ依_レ ̄ル
請 ̄ニ《割書:○日本後記十五ニ【「ニ」朱字】モ載タリ。コヽニハ要トアルコトヲツミテ記セリ。委クハ本書ヲ見ルベシ。|○雑例集《割書:上ノ|十三丁》ニモアラ〳〵載タリ》
○続日本記《割書:卅六ノ|十四丁》宝亀十一年五月伊勢大神宮 ̄ノ封。一千廿三戸随_レ ̄テ旧 ̄ニ復_レ ̄ス之 ̄ヲ。
○大神宮式《割書:四 ̄ノ|十八丁》凡三箇 ̄ノ神戸。并六処 ̄ノ神戸及 ̄ヒ諸国 ̄ノ神戸 ̄ノ調庸田租ハ者依_一
国司 ̄ノ所_レ移之調 ̄ノ文租帳等_一 ̄ニ。宮司勘納 ̄テ其 ̄ノ勘納 ̄ノ之状 ̄ヲ附_二 ̄テ国司_一 ̄ニ。移_二送 ̄レ主
計主税二寮 ̄ニ。
○又曰凡三神郡并 ̄ニ六処及 ̄ヒ諸国 ̄ノ神戸 ̄ニハ者不_レ出_二挙正税_一 ̄ヲ。
【○は朱】
神戸考 廿四
東三河之古城
東三河之古城
鹿城 那賀山 坦編
東三河之古城 全
松久書店刊
【右側白紙】
【左側】
渥美郡之部
仁 連 木 城
所在地 豊橋市東田町
明応年間戸田氏の祖戸田弾正左衛門宗光の築くところにして、永禄七年戸田丹波守重貞今川氏
に叛して徳川氏に通ず。仝年五月今川氏眞、小原肥前守に命じ、当城を攻め囲みしかば、重貞
防戦努めしも、衆寡敵せず討死す。家康、痛惜措かず、弟忠重をして所領を継がしむ。後八代
康長に至り、天正十八年家康に従ひ関東に移り、爾後廃城となる。
吉 田 城 (旧今橋城)
所在地 豊橋市中八町
牧野古白明応中当地方を得、永正二年当城を築き、翌三年十一月田原城主戸田弾正憲光、今川
氏親の援けを借りて古白を攻めしかば、古白敗戦して討死す。これより憲光二男金七郎宣成を
して当城を守らしむ。越えて大永二年古白の子、伝蔵(成三)、信成兄弟再び当城を復せしも、
天文元年五月松平清康のために攻められ信成、成高等兄弟討死す。以後松平氏、牧野伝兵衛を
以て城代と為すも、天文六年、さきに敗戦して大崎に退きし戸田金七郎、伝兵衛を追うて再び
当城を奪ふ。やがて今川氏の擡頭となり天文十五年十月義元、天野安芸守をして当城を攻撃せ
しため、金七郎敗北、十一月二十四日今川氏のものとなれり。これより吉田城と呼ばれ、天野
安芸守、朝比奈筑前守輝勝、伊東左近将監、小原肥前守鎮実等相次いで城代たり。永禄七年徳
川家康当城を攻めて、六月小原氏を敗走さす。よりて家康、酒井忠次を城主となす。天正十八
年池田輝政、豊臣秀吉に従つて北條征伐を為し、戦功ありしかば、秀吉当城を輝政に賜ふ。慶
長五年十月池田氏姫路に移りし後は、徳川氏その譜代を当城に拠らしむ。
喜 見 寺 砦
所在地 豊橋市新銭町
永禄七年五月十三日徳川家康吉田城攻撃の際、築くところにして、鵜殿八郎三郎長凞をして、
これを守らしむ。
雉 子 山 城
所在地 豊橋市高師町
寛正年間此地の地頭富田弾正の居城にして、後黒田右門の居城たり。
草 間 城
所在地 豊橋市向草間町
芳賀入道禅可が末孫芳賀七郎の居城にして今川氏に属せり。後畔田監物の居城となれり。
大 津 城
所在地 渥美郡老津村城山
文明七年七月戸田左衛門尉宗光当城に拠り、又彦坂小刑部の居城ともなれり。後永禄七年八月
戸田三郎右衛門忠次徳川徳川氏に属して此に居住す。
波 瀬 城
所在地 渥美郡波瀬村
渡部弥市郎の居城にして、後同彦太夫紀州家に仕へ高千石を領す。
杉 山 城
所在地 渥美郡杉山村
杉浦右衛門太夫、杉山久助俊輝の居城なり。
小 塩 津 城
所在地 渥美郡伊良湖岬村大字小塩津
烏丸家の代官たりし馬塲右近進の居城なりしが、延徳年間戸田宗光に討たれ、後大永三年四月
戸田政光に亡さる。
日 留 輪 城
所在地 渥美郡赤羽根村
幡豆郡小笠原摂津守の子新九郎安元、徳川家康より赤羽根、芦、赤澤の三邑を賜ひ、当城を築く。
大 崎 城
所在地 豊橋市大崎町
大永二年戸田金七郎宣成、牧野傳蔵、信成等に攻められて吉田城を逃れ、退きて当城を築き、
これに拠れり。
伊 川 津 城
所在地 渥美郡伊川津村
伊川津七党大谷、青木、赤松、戸田、渡邊、中村、河合の拠るところなり。
田 原 城
所在地 渥美郡田原町
明応年間、戸田弾正左衛門宗光の築くところにして、その子弾正忠憲光、次に左近尉政光(仁
連木城主)、次に弾正少弼宗光これを嗣ぎ、天文元年(享禄二年とも云ふ)五月、松平清康に攻
められ、これに降る。後天文十六年九月今川勢大挙して攻撃し、戸田家遂に没落す。これより
今川家の臣朝比奈肥後守元智これを守るも、永禄七年徳川家康本多豊後守広孝をして攻撃せし
め、これを陥る。以後徳川領となりて、広孝城主となり、次に同康重之を嗣ぐも、天正十八年
より池田輝政吉田城主となるに及んで、東三地方の大部分、池田の領地となり、当城も輝政の
臣伊木清兵衛忠次これが城代となれり。つゞいて徳川時代となるに及んで三宅氏代々こゝに居
城せり。
加 地 城
所在地 渥美郡田原町大字加治(取手山)
城主不明。
宝 飯 郡 之 部
一 色 城
所在地 宝飯郡牛久保町岸組
永享十一年一色刑部少輔時家(又時氏)鎌倉に破れて当国に来り、吉良俊氏の許に潜みしが、後
宮島長山村に来り当城に拠れり。その裔刑部少輔文明九年家臣波多野全慶に殺され、以後十数
年波多野氏当城主たり。明応二年十二月に至り牧野左衛門成時(古白)灰塚野に戦つて全慶を誅
し当城を奪ひ、これより代々牧野氏の居城となれり。
牛 窪 城
所在地 宝飯郡牛久保町
享禄二年牧野出羽守保成長山の岸に当城を築き、息伝三郎成元、同右馬允成守居住す。後右馬
允成定、今川氏に属し永禄四年吉良義昭の命にて西尾城を守りしが敗れて当城にかへり、同七
年徳川氏に降り、同九年卒す。其子新次郎康成これを嗣ぐも、一族出羽守清成所領を押領せん
とす。康成これを徳川氏に訴へ、裁断を乞ふ。即ち家康、成定の遺領悉く康成に賜ひ、又水野
下野守信元に命じて、出羽守を国外に追ひ払はしむ。後天正三年長篠の役に織田信長当城に入
りて武田勢と対陣す。越えて天正十八年八月家康江戸に移るに際し康成上州大湖に移さる。
行 明 城
所在地 宝飯郡牛久保町大字行明字末広
星野日向守先祖代々の居城なりといふ。
瀬 木 城
所在地 宝飯郡牛久保町瀬木
明応二年牧野成時(古白)これを築き、次いで二男新次郎此に居住す。
伊 奈 城 (上島城)
所在地 宝飯郡小坂井町伊奈
室町の中期より天正十八年に至る間、本多縫殿助歴代の居城なり。大永四年徳川清康、山中、
岡崎の両城を攻略せし際、城主本多正助徳川に属し大功あり、その子正忠城主となりて八郎と
称し、後縫殿助と云へり。享禄二年徳川清康、吉田城を攻めし際、正忠清康に従ひ城の東門を
破つて先登し、吉田城を陥す。清康進んで田原城を攻撃せんとせしも、城主戸田氏戦はずして
降りたれば、直ちに凱旋して伊奈城に入れり。正忠、酒殽を用意し、その武運を祝す。この時
城池に生へし、水葵を籍きて殽を盛れり。清康これを見て吉瑞なりとて大に喜び、以後これを
以て微号と為す。即ち徳川氏の家紋三葵発生の所以なり。
糟 塚 砦 (小坂井砦)
所在地 宝飯郡小坂井町字樫王
小笠原三九郎の守城にして、永禄四年五月、本多彦三郎広孝、酒井雅樂助正親を援けて吉良の
剛将冨永伴五郎忠元と戦ふ。翌永禄五年徳川家康吉田城攻撃の際、本拠を一時此に置けり。
篠 束 城
所在地 宝飯郡小坂井町字篠束
西郷内蔵之助俊雄同彦三の居城なり。
一 宮 砦
所在地 宝飯郡一宮村字宮前
永禄七年徳川家康の築くところにして、本多百助信俊、同弟隼人佐の居城なり。家康、信俊に
兵五百を添へてこれを守らせしも、今川氏眞五千余騎を以て攻め囲む。家康これを聞き、自ら
兵を率ひて、今川氏の大兵を打ち破りて、道を開き、一宮に達す。後元亀二年五月、武田信玄
来り攻む。
牧 野 城
所在地 宝飯郡豊川町市場字横町
応永四年桜間助成遠讃岐国より牟呂港に着船、当城を築き牧野と称すといふ。今川氏に属し、
東三河四郡を領す。
市 田 城
所在地 宝飯郡八幡村市田
牧野四郎左衛門尉の拠城なりといふ。
八 幡 砦
所在地 宝飯郡八幡村八幡
往古大江定基住居すと伝ふ。永禄五年、板倉弾正、同主水守の拠城たり。同年の春、仁連木の
戸田、牛窪の牧野と共に、兵を小坂井の東岡に出し、松平氏の将酒井左衛門尉忠次の兵と戦ひ、
大に之を破る。然るに松平氏三千余騎を率ひて来り攻めければ、敗北してかへりけり。同年九
月再び松平勢と赤坂に戦ひ破れて、遂に松平氏の有に帰す。同七年五月吉田城主小原肥前守来
り攻めて、これを陥れ、三浦左馬助をしてこれを守らしむ。
野 口 城
所在地 宝飯郡八幡村野口字割池
文明中細川民部大輔教春居すと云ふ。後 印貝(おんずみ)甚蔵、板倉主水居城す。
御 津 新 宮 城
所在地 宝飯郡御津町廣石
細川兵部少輔助久の居城なりしも、文明、長享の頃今川義忠に攻められて落城す。後天文中牧
野に属し、天正中長沢松平広忠の領地となりて、組衆山田長門守晴政こゝに居城す。
竹 本 城
所在地 宝飯郡御津町大字廣石字竹本
建武年間新田義貞の十六騎が党の一人高田薩摩守義遠の二男又次郎政季これを築き竹本と称せ
しが、後八世四郎左衛門成久に至り、牧野氏と共に今川家に属せしも、永禄三年今川家の敗戦
と共に居城を捨て、隣村為当村に帰農す。
茂松城高坂城
所在地 宝飯郡御津町豊沢
往昔蒲冠者三河守となりて在城すと伝ふ。後足利義満の頃、細川頼有当城を築く、永和、明徳
の比は同舎弟頼顕、頼長、次に兵部大夫時氏等あり、又永享、享徳の比は、細川讃岐守成之入
道道空幕下の士細川治部大夫に命じて在城せしむ。応仁中外戚酒辺時重当城を守りしも、文明
擾乱の際、今川治部大輔義忠に攻められ時重出奔して落城し、後牧主計在城す。
御 馬 城
所在地 宝飯郡御津町御馬
往昔高師直当所を領す。応安年中に至り、細川右馬頭頼有築城すと云ふ。その後兵部少輔頼顕
刑部大輔頼長、兵部太夫時氏、治部大輔政信まで数代居城、次いで外戚酒辺河内守時重これを
守るも、文明中擾乱の時、今川義忠のために落城し、これより今川領となる。天文の初牧野右
馬允成守及出羽守保成等今川氏よりこれを預るも、永禄三年今川敗戦後徳川氏の領となり、つ
ゞいて天正十八年に至り池田輝政の領となりて、その臣山田藤左衛門当城を預る。
佐 脇 城
所在地 宝飯郡御津町下佐脇
佐脇氏代々の居城なり。享禄天文の頃奥平兵庫助信近居住す。後今川氏の持城となり、その主
将板倉弾正重定、同主水当城にあり、同六年佐脇次郎右衛門安信当城を復せしも、翌年再び今
川氏の臣三浦左馬助のために奪はる。
五 井 城
所在地 宝飯郡蒲郡町五井中郷
文治年中新宮蔵人行家居城す、子孫藤重郎行光に至り、永正二年二月松平信光七男松平弥三郎
外記元芳のために奪はる、その子外記則忠始めて五井松平と称せり。
長 沢 古 城
所在地 宝飯郡長沢村大字長沢字古城
もと富田左近が子長沢四郎在城せしも、松平信光これを攻めて陥る。その子源七郎親則こゝに
居城す。其後七代世々こゝに居住し、天正十八年武州深谷に移る。
大 瀧 城
所在地 宝飯郡長沢村御城山
戸田弾正政光の居城にして、後鈴木日向守居城す。
鳥(と) 屋(や) 根(がね) 城
所在地 宝飯郡長沢村字番場
今川氏の持城にして、糟谷善兵衛宗益、小原藤五郎鎮宗之を守る。永禄七年四月松平元康に攻
められて落城す。
鱣 塚 城
所在地 宝飯郡長沢字鱣塚
関口刑部の居城なり。
御 油 城
所在地 宝飯郡御油町
山下源助、林孫八郎居城す。永禄六年松平弥九郎影忠これを守りし時、松平家康来り攻め落城
す。
竹 谷 城
所在地 宝飯郡塩津村竹谷
竹谷孫七郎守家の孫松平玄蕃允清善、息備後守の居城にして、永正三年八月、今川氏の三河を
征するや、兵を出して岩津に戦ふ。永禄六年九月上郷の城主鵜殿藤太郎兄弟の岡崎を襲はんと
するを知り、兵を率ひてこれを攻むるも、鵜殿兄弟能く防ぎ、味方散々に打ち負けて敗走す。
時に松平家康の軍来り、清善を助けて戦ひければ、藤太郎兄弟初め一族郎党討死し、城は家康
の有に帰せり。
形 原 城
所在地 宝飯郡形原町字東古城
鎌倉時代の初、方原下司次郎師光居住す。その後裔なる松平佐渡守與副文明年中此に居城し、
永正三年八月、今川氏の三河を征するや、松平長親に随ひて兵を出し岩津に戦ふ。永禄六年九
月松平又七郎家忠これを守る。
上 郷 城 (宇土城)
所在地 宝飯郡蒲郡町神之郷字城山
紀伊國熊野新宮別当行範の五男十郎蔵人行家当城を築くと云ふ。子孫相続し、長門守長持の代
に至り、永禄六年松平清康と戦ひ落城す。又鵜殿藤太郎長凞在城し、後久松佐渡守定俊居住す。
大 塚 城 (中島城)
所在地 宝飯郡大塚村字上仲島
天文年中岩瀬式部少輔氏成居住し、弘治二年落城すと云ふ。永禄年中奥平美作守領す。
萩 城
所在地 宝飯郡萩村
熱田大宮司季兼八代萩左京亮忠広の後裔、当地にありしといふ。後三淵氏一族、内藤十郎市次、
奥平周防守貞光居城す。貞光一時加茂郡大林にありて大林氏を称す。其子大林兵衛三郎秀光弟
大林勘左衛門貞次なり。
茂 里 城 (森城)
所在地 宝飯郡国府町森字竹下
佐竹刑部太夫の居城なり。
三 橋 城
所在地 宝飯郡豊川町三谷原字郷中
鎌倉、北條時代飯尾因幡入道居住し、後牧野助五郎の居城なり。
西 郡 蒲 形 城
所在地 宝飯郡蒲郡町字旧廓
蒲形の名称は蒲冠者範頼居城せしに拠るといふ。後正平の頃和田虎人兼清居城し、次いで西郡
十良国演、岩堀修理亮在城せしといふ。後鵜殿長門守長持の居城となり、永禄六年松平家康、
平松佐渡守俊勝、松井左近忠次をしてこれを攻めしめ陥る。次いで久松佐渡守俊勝当城主とな
る。
丹 野 山 城
所在地 宝飯郡大塚村相楽字荒井
萩原備後守芳信同左衛門佐等居城す。文明二年落城すといふ。
足 山 田 城
所在地宝飯郡一宮村足山田字東城下
武田の臣秋山新九郎の拠りしところといふ。
勝 川 城
所在地 宝飯郡一宮村東上字勝川
城主不明。
松 原 城
所在地 宝飯郡一宮村字松原
城主不明。
ヤ リ デ 山 城
所在地 宝飯郡一宮村字東上白楽
城主不明。
本 宮 山 城
所在地 宝飯郡一宮村上長山字東水神平
城主不明。
嶽 ケ 城
所在地 宝飯郡赤坂町
草鹿砥三河守公宣郷居住の地と伝ふ。
不 相 城
所在地 宝飯郡蒲郡町府相
城主不明。天正年間家康築きたりといふ。
八 名 郡 之 部
嵩(す) 山(せ) 城
所在地 八名郡石巻村嵩山
永禄五年、今川氏の被官奥山修理亮貞範の居城たり。今川氏眞、三浦右衛門佐の讒言を信じ、
同年七月、庵原安房守忠胤、小原藤五郎鎮宗等を将とし、三千余騎を添へ、貞範を攻めしむ。
貞範此事あるを知り、城兵を木戸口に備へ、矢砲を放ち打つて出で、寄手を追ひ立て防戦し、
敵の死傷三百名に及べり。然れ共俄の籠城なれば、糧食乏しく、後詰の頼もなければ、城の保
ち難きを思ひ、城兵七十四人を従へ夜、中山を越え、間道より落ち去りければ、翌日今川勢人
なき城を乗取りたり。
宇 利 城
所在地 八名郡八名村字利
熊谷備中守直盛の居城たりしが、享禄二年、松平清康、右京亮親盛、其弟内膳正信定に三千余
人の兵を添へて大手の大将とし、自らも三千余人を率ひて、搦手の山上に登り、大挙して攻め
寄せたり。備中守能く防ぎ、一時寄手を敗りたるも、城門を押破られ、防戦の術なく、遂に城
を捨てゝ遁れ落ちたり。
和 田 城
所在地 八名郡和田村
古代和田民部居住す。後永禄年中渡部久左衛門其子図書之助浄、孫山城守茂こゝに居城す。
照 山 城
所在地 八名郡賀茂村
城主不明。二葉松に山本勘介此所に出生、天正十八年より池田家臣戸倉四郎左衛門住すとあり。
石 巻 城
所在地 八名郡神郷村(石巻山半腹)
石巻源太其子隼人北條氏綱に仕へてこゝに居住すといふ。
高 井 城
所在地 八名郡高井村
高井主膳の居城の跡なりといふ。
馬 越 城
所在地 八名郡馬越村
永享、寛正の頃為守右馬允同藤馬允の居城なり。
多 米 城
所在地 豊橋市多米町
城主不明。
西郷城又五本松城
所在地 八名郡石巻村西郷
明応の頃、西郷新太郎信貞の居城にして、永正三年八月、今川氏の三河を征するや、北條早雲
のために兵を出して岩津に戦ふ。享禄二年六月、松平清康に降りたるため、同五年九月今川氏
真、朝比奈備中守に命じて来り攻めしむ。城主西郷弾正左衛門正勝防戦努めしも、不意の事と
て力つきて敗死せり。此時正勝の嫡子孫六郎元正月谷の城に在りてこのことを聞き、直に馳せ
来りたれど、従者僅に十四人にして、群る敵に斬り入りたれば、皆討死したり。次男孫九郎清
員はすでに今川勢のために生捕となりたるも、其の縛縄を振り切つて深き谷間に転び落ち、死
を免れ、野田に行きて菅沼新八郎に頼みて父兄の敗死を告げゝれば、家康、大須賀、本多、植
村、渡邊、高井等を加勢として、清員と共に朝比奈を討たしめ、大に敵を敗り大勝を得たり。
依つて家康其功を賞し、父の遺領を継がしめたり。
西 川 城
所在地 八名郡石巻村西川
西郷一族の居城たり。
日 下 部 城
所在地 八名郡大和村豊津
城主不明。
柿 本 城
所在地 八名郡山吉田村大字下吉田字柿本 (小路山)
元亀二年徳川武田両家の和約破れ信玄兵を率ゐて信州路より遠州に入る、此時甲軍の将山縣三
郎兵衛昌景設楽郡より八名郡山吉田をへ経て遠州井伊谷に入らんと欲す。
沿道の士豪皆迎へ降る三州作 平(手)の奥平美作守長篠の菅沼新九郎田峯の菅沼大膳之介等亦家康を
退き信玄に属し遠州乾の城主天野氏又家康を離れて甲州勢を引入れ大挙して鈴木三郎大夫が在
城せる山吉田の柿本城に殺到す。
眇たる孤城四面皆敵僅に数百の手兵を以て幾万の強敵に対す殊に三郎大夫重時は堀江城攻めに
戦死の後なり、嗣子重好は当時猶十四歳の少年祖父長門守は七十余歳の老武者なり勝敗の数知
るべきのみ、将卒共に全滅を期して防戦数日の後甲軍井代の城主菅沼常陸守を以て和議を提唱
す、軍使の往復九回に及び終に開城し遠州伊平小屋なる鈴木出雲守の砦に引退く。此役に井伊
飛騨守及鈴木権蔵重俊戦死す。于時元亀二年十月二十二日なり。
上 吉 田 城
所在地 八名郡上吉田村字白倉
鈴木三郎太夫の父長門守重勝の居たるところといふ。
大永四年鈴木長門守重勝(二十一歳)築くところなり。
南設楽郡之部
長 篠 城
所在地 南設楽郡長篠村大字長篠字市場
永正五年五月今川氏親の将菅沼元成の築くところにして、其子孫俊則、元直、貞景、正貞代々
の居城たり。元亀二年三月武田氏の将天野宮内左衛門景貫其子小四郎景広来り攻むれば、新九
郎正貞迎へ戦ふて激戦あり菅沼道滴始め互に死傷す。城兵城に入りし時、武田の将秋山伯耆守
晴近来りて城を囲みしが、田峯の臣城所道寿、正貞の一族城将伊豆守満直を謀つて遂にこれを
下したり。依つて正貞満直の子、八左衛門を質子として武田に送れり。こゝにおいて武田氏、
室賀一葉軒、小泉源次郎、吉田左馬助等を加番としておく。後天正元年七月、徳川元康兵三千
を率ひて来り攻む。城兵これを知り、謀を廻らし、特更に旌籏を倒し、又鐘鼓を鳴らさず、恰
も人なきが如く装ふ。元康試に火箭を放てば、此日偶々南風烈しく火移りて忽ち二の丸其他外
廓を灰燼とす。城兵為に進退を誤り、漸くにして本丸に引き退きて防禦せるも、これがため軍器
兵糧多く焼失して戦闘力を失ひければ、出でゝ戦ふことをなさず。元康これを見て敢て一挙に
陥擠することをなさず、三輪川の東岸、久間山、中山の二砦に酒井忠次、菅沼定盈を止めて守ら
せ、寒狭川の前岸有海原古呂水阪篠原岩代の要処に配備して浜松にかへりけり。此報甲州に伝
はるや、武田勝頼、武田典厩信豊を将とし、兵八千を以て正貞を救援せり。馬場信房、小山田
信茂、土屋直村、穴山梅雪等、其旌下にありし諸将、長篠城外に至るや、信豊、信茂、直村、
梅雪等は医王寺山、大通寺山、君ケ伏床、姥ケ懐、岩代川の辺に、信房は内金二ツ山に陣して
徳川勢と数度の交戦をなせば、元康これを聞き再び兵を率いて、来りて之を激へ討つ。一日武
田の将、天野宮内左衛門景貫父子、背後より久間の砦に徳川勢を襲ひければ、八月八日元康状
兵を設け、松葉を焚き、退陣を装ひて敵を誘ふ。馬場信房其煙色を見て謀計なるを悟り、兵を
動かすことなく、為に伏兵起るの機なかりき。後八月二十日城主正貞到底城の維持すべからざ
るを思ひ、搦手より吉村を経て鳳来寺に退きければ、援兵も亦黒瀬にと退きけり。こゝに於て
元康も亦浜松へとかへりたり。元康浜松にかへりて、城開城となるに及び、正貞再び之を築城
して之に移れり。元康窃かに牧野康成、戸田志次を以て、正貞に復属を誘ひければ、正貞一族
評議の上満直の異議を退けて再び元康に帰し、元康自筆の誓詞を享く。田峯菅沼氏これを知り
勝頼に告げければ、勝頼其真偽を訊さん為に正貞を召して、これを信濃国小諸に監し、兵を遣
し、城内を捜索す。正貞の士浅井半兵之を正貞の室(令閨)に通しければ、正貞の室誓詞を火燵
に投じ、幼児を擁して城を去りたり。こゝに於て元康奥平弥九郎影忠を城番に仕じ、次いで松
平又七郎家忠をこれに加へ、越えて天正三年二月奥平貞昌を城主となせり。此年五月武田勝頼、
甲斐、信濃、上野の兵一万五千を率ひて包囲す。これ世に名高き長篠合戦なり。この時城兵僅
に五百余人なれど、貞昌よく防ぎて下らず、十四日に至り、尽忠鳥居勝商、死を以て岡崎に援
を乞ひければ、松平元康、信長と共に進軍し来り、連合軍を以て、武田勢を打ち破り、奥平九
八郎一族を救援せり。
鳶 巣 山 砦
所在地 南設楽郡鳶巣山々中
天正三年五月、長篠包囲の時、武田勝頼の築きたる附城にして、武田兵庫助信実を守将とし二
百五十人にてこれを守らしむ、此時織田信長長篠表に着し、極楽寺山に本陣を据え、軍議を為
す。徳川家康の重臣酒井忠次、進み出でゝ献策をなせしが、信長努つてこれを聞かず、夜に入
り窃に使を家康に遣し忠次を召しければ、家康直に忠次を同道して信長に謁す。信長、忠次に
云つて曰く、今日の汝の進言至極道理なるも、満座の諸士中、敵に内通するものあるを恐れ、
詐り叱し汝を退けたり。今夜急ぎ先陣して鳶巣を襲ひ、敵を討ち尽さば、明朝の勝利疑なしと
云ひ、御感の余り、予て秘蔵の忍轡をば賜りたり。忠次面目を施して退出し、直に鳶巣に向ふ。
信長目代に金森五郎八、人数四千人、鉄砲五百挺、横目として青山新七郎、佐藤六左衛門、加
藤市左衛門を差へければ、徳川勢、松平上野介、牧野右馬允、戸田丹波守、菅沼新八郎、西
江弾正、本多豊後守、奥平美作守等七頭を以て進みたり。このとき路次の案内には近藤平右衛
門、豊田藤助之にあたり、菅沼新八郎は当所の地形に詳しければ自身先に進みて、常には人も
通はざる、松山越を攀じ登り、菅沼山へと押し進みしが、暗夜のことなれば、足元も見えぬ荊
棘に隔てられて行き悩みとなりければ、忠次智謀を廻らし、木の根に縄を結び付け、案内人の
先に立ち、これにつゞきて一人宛、縄に縋りて進み行き、やがて、未明となりて敵の陣屋に近
づき火を放ち、鬨を作りて攻め上りけり。これがため瀧田勢狼狽して大将信実初め勇将多く討
死しけり。
久 間 山 砦
所在地 南設楽郡」久間山
天正元年七月、徳川家康長篠防戦の時、長篠の向城として築きしところにして、酒井忠次を主
将とし、菅沼新八郎定盈を加勢としてこれを守らしめたり。同三年五月長篠包囲、武田勝頼、
和気、大戸、倉賀野、波合等二百余人をこれに拠らしむ。
山 中 山 砦
所在地 南設楽郡山中山
天正元年七月、徳川家康長篠防戦の時、長篠の向城として築きたるものにして、酒井忠次を主
将とし、菅沼新八郎定盈を加勢としてこれを守しめたり。同三年五月長篠包囲の際、武田勝頼、
縄無理之助、井伊弥四右衛、五味與三郎等と浪人組七十余人をしてこれに拠らしむ。
野 田 城 (根古屋城)
所在地 南設楽郡千郷村大字豊島字本城
永正十三年菅沼定則の築くところにして、同定村同定盈の三代こゝに居城す。定盈の時大に修
復を加へ、本郡屈指の城塁となれり。永禄三年今川義元桶狭間に戦死し、嗣子氏実暗愚なれば
東三の士多く氏真に叛く。定盈又永禄四年春氏真を離れて、松平元康に属したり。氏真これを
知り大に怒り、同年四月遠州に於ける定盈の知行所を缺所し、飯尾豊前守、小笠原肥前守等を
先手となして、来り攻めければ、衆寡敵せず八名郡西郷村に引き退きたり。翌年六月定盈兵を
擁して不意に野田城を襲ひ之を奪ふ。元亀二年春二月武田信玄の一族秋山伯耆守晴近竹広表に
来襲し来り、定盈設楽守定通及西郷弾正左衛門正楽寺と共にこれを激へ討ちければ、晴近勢の
不利なるを見、兵を引いて退きける。この時武田晴信、晴近に旨を伝へ、山家三方及野田の帰
服を計らしむ。晴近命に従ひ、田峯菅沼の老臣城所道寿及作手奥平の臣山崎善九郎を使嗾して
その目的を達せんとす。定盈独り節を変ぜず頑としてこれを郤きければ、其年信玄山家三方衆
(作手奥平、長篠菅沼、田峯菅沼)を先方となして来襲したり。定盈一時西郷に退き、後再び築
城してこゝに居住す。天正元年正月信玄再び大兵を擁して来り攻む。守将菅沼定盈、加勢松平
與一郎忠正、設楽甚三郎貞道等、都合四百人にて籠城よく防戦す。信玄大兵を以て攻め囲みし
も少しも屈せず、矢砲を放ち、大石大木を投下し、粉骨砕身して防戦すれば、信玄攻め厭みて
引き退き、翌朝より又取巻きて新手を入れ替え〳〵、昼夜を別たず攻めしが、城中少しも弱ら
ねば、信玄謀を廻し、城端より地道を堀入れければ、城内の井水悉く洩れ抜けて、城中は水尽
き、搗て糧米も漸く乏しく成りければ、定盈、その由浜松の家康に注進したり。報を得し、家
康は直に三千余騎を引率して、笠比山迄出馬有りけるが、老功の信玄は段々に備を立てゝ後詰
の用意を為し、且遊軍をも備へ置きければ、寡兵を以て大兵に当り難く、小栗大六を織田氏に
遣し援兵を乞ひけるも、信長も信玄の猛威恐れしか、承諾は有りながら、兎角出勢を延引しけ
れば、其間城内水尽き果てゝ城兵の士気沮喪し、加ふるに新八郎の甥弾正左衛門貞俊が信玄に
内通するの聞えもあり、新八郎は城の守り難きを見て、與一郎と相談し、信玄の陣へ使者を送
り、城中既に水尽きて防戦する事を得ず、我々両人身を殺して衆に代らんと欲す、願はくは許
容あれと申し遣しければ、信玄尤もなりとてこれを許し、両人を山縣三郎兵衛の陣中に招き、
途中伏を設けて両人を生捕りとなし、しかして城中の男女は、悉く放ち去らしむ。信玄近臣をし
て新八郎、與一郎に云はせけるは、両将此度の籠城の武勇義気頼母しく、信玄感ずが故に、徒
に切腹せられんことを惜みて斯くは計らひたりと。徳川氏への義気は是迄の武勇にてすでに顕
れたり、今後天命に応じ、信玄に身を寄せ給へば、三千貫の知行を進上せんと詞巧に説き諭し
たり。両将は鉄肝石胆の輩なれば、是を聞きて、信玄の恩命真に忝なし、然れ共徳川重恩の者
共なれば、今更これを変じ難し、速に首を刎ねらるべしと答へければ、信玄益々その義気に感
じ、暫く山縣三郎兵衛に預け置きて、城を請取りたり。然るに当時信玄へ降りたる、奥平道文、
菅沼刑部、菅沼新九郎等の徳川氏へ入れおきたる人質と、新八郎、與一郎両人と交換の事を願
出でければ、信玄尤もなりとて、浜松の家康に申し遣しければ、家康も早速の同意にて、交換
のことを果しけり。こゝに於て両将は命永らへて本国にかへり来りければ、家康大に悦び、新
八郎の忠烈を感賞して加恩の地を与へけり。このことありてより信玄俄に重病に罹り、長篠城
に入り、山縣三郎兵衛をして城を守らしむ。其後信玄死しければ甲州勢も城を捨てゝ立ち去り、
廃城となれり。
川 尻 城
所在地 南設楽郡作手村大字高里城山
応永三十一年奥平八郎左衛門貞俊上野国奥平村より来て築城したるものなり。
菅 沼 城
所在地 南設楽郡作手村大字菅沼城山
生長年中木和田三郎右衛門(菅沼氏と改め、新三郎と号し後信濃守と云ふ。)の築きしものなり。
亀 山 城
所在地 南設楽郡作手村大字清岳字市場
奥平貞俊、川尻城より移りて築きしところにして、貞久、貞昌、貞勝、貞能、信昌等代々の居
城なり。天正元年貞能、信昌父子此城を棄つるに及び一時廃墟となるも、後慶長七年信昌の第
四子松平忠明修築して在城す。
和 田 城
所在地 南設楽郡作手村大字保永字中島
奥平出雲守勝次の居城にして、勝次名字を和田と改む。
浅 間 山 城
所在地 南設楽郡作手村大字岩波字茶屋
奥平出雲守勝次及貞寄居住すと云ふ。
大 和 田 城 (段戸城とも云ふ)
所在地 南設楽郡作手村大字大和田字城山
初め菅沼源助居住し、後天正年中奥平六兵衛居城す。
木 和 田 城
所在地 南設楽郡作手村大字木和田字前山城ケ峯
涯田左郎左衛門の居城にして、次に桜井与右衛門居城す。
小 田 城
所在地 南設楽郡作手村大字守義字平澤連
奥平氏の一族奥平源五右衛門貞春の居城なり。
鴨 ケ 谷 城
所在地 南設楽郡作手村大字鴨ケ谷
奥平伯耆守水心の居城なり。
石 橋 城
所在地 南設楽郡作手村大字清岳字寺屋敷
石橋弾正久勝本名奥平の居城なり。
古 宮 城
所在地 南設楽郡作手村大字清岳字宮山
武田の老臣馬場信房の築城せるものなりと云ふ。
中 市 場 城 (大野田城)
所在地 南設楽郡千郷村大字野田字幹徳
城所浄古斉の居城にして、城所氏は富永氏に仕へ、富永氏菅沼竹千代をして遺蹟相続をなさし
むるに及び、田峯に至り一時廃墟となれるも、後永禄年中菅沼新八郎定盈、徳川家康の許を得
てこれを修営してこゝに居城せり。元亀二年四月信玄大兵を率ひ、西三河の北部に侵入し、足
助地方を略し、武田典厩信豊、馬場信房、保科弾正昌清、松田清左衛門等をしてこれが壓へた
らしめ、自ら山縣昌景、小笠原掃部、根木市兵衛等の諸将を率ひ、田峯城主菅沼刑部定吉、長
篠城主菅沼伊豆守正定等を先陣として作手郷より夜を徹して不意に当城を襲はんとせり。菅沼
刑部伊豆守正定共に野田菅沼の一族なるを以て、新八郎を攻める意なければ、窃に新八郎にそ
の意を告げ、且つ諌めて曰く、城壁完からず、少数の城兵を以て大軍を防がん事、策の得たる
所にあらざれば、早々退却あるべしと。新八郎これを聞きて心ならずも、引き退くべきに決せ
り。此のときすでに敵の大兵攻め寄せたれど、定盈自若として諸事を弁じ、馬に打乗りて南曲
輪より出でけるも、左右を顧み小姓中山与六をして城に火を放たしめ且つ、愛鷹を携へ来るべ
きことを命じければ、与六意を奉じ城にかへり火を放ち、秘蔵の鷹は阿坂九右衛門の臂に据え、
定盈の後を追ふも、やがて海倉の淵に至るや、菅沼刑部の一隊と交戦し享年十八歳にて討死し
けり。
新(しん) 城(じやう) 城
所在地 南設楽郡千郷村大字石田字万福
天文元年菅沼大膳亮定継の築くところにして、其弟十郎定氏城将たる時、永禄五年今川氏親の
将稲垣十郎左衛門等野田在番中、旧野田城主菅沼定盈に来襲せられ、防ぐこと能はず退城せる
も、本国遠州にかへるを恥じ、転じて、当城を攻撃せんとせしに定氏よくその機先を制し今川
勢を敗走さす。後天正二年五月甲州勢のために陥られ、落城せしが、天正四年奥平信昌再び之
を築きて居城せり。次に水野弾正忠城主たり。
石 田 城
所在地 南設楽郡千郷村大字石田字西金国
天正十八年池田輝政の臣。片桐半右衛門、新城に来りてこの城を築きしが、後慶長五年池田氏、
播州姫路に移ると共に廃城となれり。
市 々 浪 城
所在地 南設楽郡千郷村大字杉山字道日記岳
永禄三年菅沼定氏これを築き、息藤十郎と共に端城よりこれに移るも、後信濃国に赴くに及び、
廃城となれり。
舘 垣 内 城
所在地 南設楽郡千郷村大字千歳野
千秋清秀舘を設けてこゝに来たり、同朝氏、同清民、同雪氏、同範重、富永直郷、同信実、同
久兼、千若丸及菅沼定則之に居り、永正十三年定則野田城に移るに及んで廃城となれり。
臼 子 城
所在地 南設楽郡大字豊栄字城山
佐宗大膳重之の居城なり。
端 城
所在地 南設楽郡大字杉山字端城
菅沼定氏、永禄年間息藤十郎定吉と共に此処に移り、後道目記成に転城、廃城となれり。
塩 瀬 城
所在地 南設楽郡鳳来寺村大字塩瀬
塩瀬宮内左衛門資時始めて此地に来り左馬助直資、同直家、甚兵衛、久次等代々此に居りしと
いふ。
大 谷 城
所在地 南設楽郡東郷村大字平井字大谷
田峯城主菅沼新三郎定広の築城せしものなり。
国 広 城
所在地 南設楽郡東郷村大字上平井字国広
中古富永氏野田城に在るの日、野口秀宗居住すといふ。其後林雅楽助及代官彦坂九兵衛等居住
すと云ふ。
岩 広 城
所在地 南設楽郡東郷村大字富沢字端城
正和元年設楽左馬頭重清こゝに住す。
川 路 城 (大坪城とも云ふ)
所在地 南設楽郡東郷村大字川路字小川路
初め小川路右衛門之を築き、後設楽氏の臣となり、設楽兵庫頭、同甚之助こゝに居住す。
来 迎 松 城
所在地 南設楽郡東郷村大字富沢字鎌屋敷
設楽越中守貞通の属城にて通根城と云ひ、家臣夏目宮内少輔信久、同宮内四郎入道清宗之を守
る。
夷 ケ 谷 城
所在地 南設楽郡東郷村大字上平井字円の平
奥平土佐守定雄居住す。
布 里 城
所在地 南設楽郡鳳来寺村大字布里
菅沼新助こゝに居住す。
恩 原 城 (雨堤城と云ふ)
所在地 南設楽郡鳳来寺村大字愛郷
塩 平 城
所在地 南設楽郡鳳来寺村大字玖老勢字塩平
松平宮内左衛門の居城なり。
出 沢 砦
所在地 南設楽郡東郷村大字出沢
設楽越中守貞通の臣瀧川源左衛門助義之を守り居りしが、元亀三年長篠城主菅沼新九郎正貞来
り攻む。
北設楽郡之部
武節菅沼城
所在地 北設楽郡武節村
菅沼藤十郎(後越後守定顕)居城す。
武 節 城
所在地 北設楽郡武節村
川手主水法安入道の居城なり。子孫井伊掃部頭に仕ふ。
八 幡 砦
所在地 北設楽郡田口町八幡
城主不明。
川 手 城
所在地 北設楽郡武節村大字川手
川手大蔵亮居城す。
黒 河 城
所在地 北設楽郡園村
熊谷玄蕃天正十一年信州平谷より此に蟄居す。
白 鳥 山 城
所在地 北設楽郡津具村
後藤善心の居城にして、外に屋敷跡二ケ所あり、武田家の臣中村泰庵、長谷川勘左衛門なる者
にて金堀の奉行なりといふ。
浜 の 城
所在地 北設楽郡名倉村
戸田加賀守の拠城なり。
清 水 城
所在地 北設楽郡名倉村
新田孫六或右衛佐居城す。
鍬 塚 城
所在地 北設楽郡名倉村
奥平喜八郎、次に戸田加賀守、戸田兵右衛門、松島兵次郎等居城す。
小 鷹 城
所在地 北設楽郡名倉村大平
戸田加賀守鍬塚城より当城に移る。
岩 古 屋 城
所在地 北設楽郡振草村大字神田字田代
菅沼恵次居城す。
荒 屋 城
所在地 北設楽郡荒尾村
菅沼伊豆守居城す。
定 地 城
所在地 北設楽郡定地村
屋形ケ谷と号す。千秋常陸介範勝尾州熱田より来り大伴氏と改む。次富永隠岐守直郷、同兵庫
頭信資、同兵庫頭久兼、同千若丸等居城す。
附録古屋敷
渥美郡之部
畔 田 屋 敷 渥美郡高豊村大字豊南
畔田遠江守居住す。
中瀬古屋敷 豊橋市野依町
天文弘治の頃、今川氏の幕下畔田三郎兵衛居住す。
牟呂村古屋敷 豊橋市牟呂町
鵜殿兵庫頭、牟呂兵庫頭正茂居住す。
中山村古屋敷 渥美郡福江町大字中山
間宮造酒允居住す。
伊良古古屋敷 渥美郡伊良湖岬村
糟谷六郎左衛門居住す。この末裔神主となれり。
畠村古屋敷 渥美郡福江町大字畠
間宮権太夫直綱永禄六年今川氏を去り家康に仕へ、此に居住す。
羽田村古屋敷 豊橋市花田町
酒井左衛門尉家人石原百度兵衛居住す。
宝飯郡之部
麻生田村古屋敷 宝飯郡豊川町麻生田
贄掃部居住す。
鍛冶村古屋敷 宝飯郡鍛冶村
真木越中守定善、同善兵衛居住す。
柑子村古屋敷 宝飯郡柑子村五反田、妙厳寺領畑地
松平玄蕃家臣鍬柄百度右衛門息樫右衛、権田織部等居住す。
東上村古屋敷 宝飯郡一宮村大字東上
彦坂九兵衛定次居住す。
平尾村屋敷 宝飯郡八幡村大字平尾
平野氏、片桐氏居住す。
千両村古屋敷 宝飯郡八幡村千両
岩瀬忠家居住す。
長沢村御茶屋々敷 宝飯郡長沢村
松平上野介一族矢部織部天正の頃まで居住す。
柏原古屋敷 宝飯郡塩津村柏原
建久年中鵜殿十郎蔵人行定当地に一庵を建つも、永禄三年上之郷城落城と共に廃絶すといふ。
後松平勘八居住す。
西方村古屋敷 宝飯郡御津町大字西方
牧野村古屋敷 宝飯郡豊川町大字豊川
牧野古白居住す。
豊川村古屋敷 宝飯郡豊川町大字豊川
源頼朝幼年時代大江入道定厳此に居住すと伝ふ。後小笠原 少目(さくわん)居住し、後水野佐渡守(吉田城
主水野隼人正弟)同八十郎居住す。
牛久保屋敷 宝飯郡牛久保町
稲垣平右衛門重宗居住す。
正岡村古屋敷 宝飯郡牛久保町大字正岡字南田
牧野伝兵衛成敏居住す。
長山村古屋敷 宝飯郡牛久保町下長山
三ヶ所あり、岩瀬掃部、同名嘉竹、山本市左衛門居住す。
下地村古屋敷 豊橋市下地町城貝津
石田浄玄居住す。
小坂井村古屋敷 宝飯郡小坂井町大字小坂井字倉屋敷
伊奈能蔵忠次居住し、後中川勘助、安藤弥兵衛居住す。
平井村古屋敷 宝飯郡小坂井町平井
中野五郎太夫清忠居住す。
篠田村古屋敷 宝飯郡豊川町大字篠田
長澤上野介舎弟松平兵庫助居住す。
久保村古屋敷 宝飯郡牛久保町
牧野平次郎居住す。
赤坂古屋敷 宝飯郡赤坂町成正法寺境内
松平備中守久親居住す。
御馬村古屋敷 宝飯郡御津町大字御馬字浜田
文明、長享中酒辺河内守あり、後永禄五年八月に至り松平上野介康忠此地を賜ふ、二男松平市
右衛門相続し、その男又此地にありて天正十七年に至れり。天正年中池田輝政の臣森寺清右衛
門忠勝居住し、後松平長三郎居住せり。
芝屋村古屋敷 豊橋市下地町字地之神
山縣三郎兵衛昌景暫く居住すと云ふ。
八名郡之部
下條五井村古屋敷 豊橋市下條西町
白井麦右衛門居住す。
下條堀内村古屋敷 豊橋市下條西町
天正元年より仝二年迄菅沼新八郎定盈居住す。
吉川村古屋敷 八名郡吉川村
豊田藤助秀吉居住す。
南設楽郡之部
井道村古屋敷 南設楽郡新城町字井道
菅沼伊賀守三照居住す。
杉山屋敷 南設楽郡千郷村大字杉山字大東
杉山弾正左衛門居住す。
奥平屋敷 南設楽郡千郷村大字豊栄字東平
奥平休嘉居住す。
城所屋敷 南設楽郡千郷村大字豊栄字山下
城所助之丞正緑居住す。
兵藤古屋敷 南設楽郡千郷村大字杉山字野口
永禄年中菅沼信濃守定氏の臣、兵藤蓬生之助居住す。
城所浄古斉屋敷 南設楽郡千郷村大字野田
城所浄古斉居住す。
塩瀬古屋敷 南設楽郡千郷村大字徳定字西久保
菅沼定盈の臣塩瀬甚兵衛久次、其子久俊此に居住す。
豊 田 屋 敷 南設楽郡千郷村大字片山字宮の後
富永氏の臣豊田右京之進居住せしが、永正年中八名郡吉川村に移るに及び廃墟となれり。
菅沼竹千代屋敷 南設楽郡千郷村大字豊栄字中田
菅沼竹千代(定則の幼名)田峯より来り、居住す。
下々村屋敷 南設楽郡東郷村大字八束穂字長筋
塩瀬甚兵衛鳳来寺村より之に移り居住し、後天正十八年、池田輝政の臣井邊平右衛門居住す。
柳田村古屋敷 南設楽郡東郷村大字八束穂字柳田
池田輝政の臣瀧川惣八(一つに小川惣八)居住す。
森長村古屋敷 南設楽郡東郷村大字須長
奥平貞能の臣夏目五郎左衛門治員居住す。
須長村古屋敷 南設楽郡東郷村大字須長
池田輝政の臣萩田庄助居住す。
夏目村古屋敷 南設楽郡東郷村大字富永 旧夏目村
夏目清宗惣兵衛居住す。
吉村弾正屋敷 南設楽郡長篠村大字富保 旧吉村字廣畑
長篠菅沼氏の一族菅沼弾正左衛門定俊貞俊居住す。
大峠村古屋敷 南設楽郡長篠村大字富栄 旧大峠村
植村摂津守泰忠居住す。
海老村古屋敷 南設楽郡海老町字正法寺
天文年中佐野正法寺入道居住し、後文政四年より文久元年まで菅沼氏の陣屋ありたり。
双瀬村古屋敷 南設楽郡海老町 旧双瀬村
弘治年中林左京長政居住す。
道具津古屋敷 南設楽郡作手村大字守義
平野藤兵衛居住す。
川合村古屋敷 南設楽郡作手村大字白鳥 旧川合村
奥平伝九郎居住す。
木和田村屋敷 南設楽郡作手村大字木和田字光林寺前
始め菅沼氏の祖木和田三郎左衛門居住し、後元亀天正年中奥平貞能の家老桜井右衛門居住せり。
北畑村屋敷 南設楽郡作手村大字清岳字北畑
奥平貞能の臣兵藤新左衛門居住す。
野郷村古屋敷 南設楽郡作手村字白鳥 旧野郷村
始め野郷兵蔵居住し、後美藤(尾藤)萬五郎居住す。
鴨ケ谷古屋敷 南設楽郡作手村大字鴨ケ谷に二ケ所あり
一つは加藤源右衛門(甘泉寺の地といふ)一つは山田十郎左衛門居住したり。皆奥平貞能の臣
なりき。
赤根村古屋敷 南設楽郡作手村大字高松 旧赤根村
奥平甚右衛門、黒谷久助、同甚兵右衛門及奥平貞能の臣尾藤源内居住す。
戸津呂村古屋敷 南設楽郡作手村大字保永字戸津呂
俗に刑部屋と称すも、居住者不明なり。
見代村古屋敷 南設楽郡作手村大字保永字見代
筒井善右衛門、原田喜右衛門居住す。
米福長者古屋敷 南設楽郡作手村 旧長者平字木戸口
三河三長者の一なりし米福長者の屋敷跡なり。
北設楽郡之部
奈根村古屋敷 北設楽郡奈根村
伊藤丹波居住す。
別所村古屋敷 北設楽郡振草村
伊藤市之亟居住す。
足込村古屋敷 北設楽郡振草村
川合源三郎居住す。
田口村古屋敷 北設楽郡田口町
菅沼半兵衛居住す。
寺脇村古屋敷 北設楽郡名倉村
後藤弾正居住す。
宇連村古屋敷 北設楽郡名倉村
戸田加賀守家人後藤高春居住す。
田峯村屋敷 北設楽郡段嶺村田峯
城所通壽節、城所清蔵居住す。
小代村古屋敷 北設楽郡田内八ケ村ノ内
御殿山の麓に松平宮内左衛門屋敷あり、後世当所の代官松平九郎左衛門の先祖なり。
川路村古屋敷 北設楽郡川路村
居住者不明。
昭和九年九月廿日印刷 限定出版
昭和九年十月一日発行 定価八十銭
編輯者 故那賀山 坦
校訂者 那賀山乙巳文
出版者 久保田秀夫
豊橋市西八町一〇四番地
発行所 松久書店
電話四九二五番
振替名古屋壱〇四三番
三河刪補伀 林 自見正森著
和 装 全壱冊
定価一円五十銭
本書は元文六年長山村の佐野監物等に依つて編纂されし地誌三河二葉松に就き吉田の人林自見正森
が補正したもの。植田義方の考訂、更に長篠村医師阿部去喜の加訂を経て安永四年に成る。本書は
刊本なく写本でのみ行はれて居たのを今回初めて出版されたのであります。ひとり三河とのみ言は
ず広く郷土研究に関心を有せらるゝ士の御静鑿を冀望致します。
豊橋市西八町一〇四番地
発行所 松久書店
電話四九二五番
振替名古屋壱〇四三番
《題:郷土誌 全》
郷土誌
地理ノ始メ
位置 上 下 左 右 前 後
方位 東、西、南、北、東南、東北、西南、西北、
地圖ノ 地圖ノ上ニテハ上ヲ北下ヲ南右ヲ東左ヲ西トス
見方
距離 寸 尺 丈 間 里 哩 浬
廣袤 方寸 方尺 坪(歩) 方里
教室
位置
境界
廣袤
物品
人數
豐橋高等小學校誌
位置
境界
地勢
廣袤
建物
生徒數
沿革 此處ハ舊時習館ノアリシ所ニシテ明治十四年上等小學校ヲ
タテ同二十年渥美郡高等小學校ヲ設ケ同二十一年渥美郡第
一高等小學校トナリ同二十二年豊橋高等小學校トナリ同二
十三年豊橋町立高等小學校トナル
豐橋町誌
位置 豐橋町ハ渥美郡ノ東北ノハシニアリ
境界 東ハ豐岡村南ヨリ西ハ花田村吉田方村北ハ豐川ヲヘダテヽ
寶飯郡下地町朝倉川ヲ共狹ミテ八名郡牛川村ニ界ス
廣袤 東西二十二町位南北八町位ニシテ面積八十二万七百餘坪
地勢地味 地勢平ニシテ西北ノ一トスミ低ク土地肥エタリ
人口戸數 人口一万八千餘 戸數四千五百餘
西八丁 西八丁ニ高等小學校アリ
高等小學校 高等小學校ノ西ニ渥美郡役所豐橋町役場東ニ第一尋常小學
郡役所 校アリ
町役場
第一尋常
小學校
第十八聯隊 第十八聯隊ノ衛戌ハ西八町ノ北舊吉田城趾ニアリ
舊吉田城 舊吉田城ハ凡ソ四百年前牧野成時ノ築キタルモノニシテ其
後松平信綱ノ子孫大河内氏明治ノ始メマデ世々之ニ居リ同
十八年今ノ衛戌トナレリ
松平信綱 信綱ハ徳川家光ニ仕ヘ島原ノ乱ヲ平ゲ後老中トナル世ニ智
惠伊豆ト稱ス
關屋 關屋ニ悟眞寺トテ淨土宗ノ大寺アリ
悟眞寺 悟眞寺ノ傍ニ電信局アリ
電信局
吉田神社 吉田神社ハ鄕社ニシテ素盞男尊ヲ祀レリ
船町 船町下地ノ間豊川ニカケタル橋アリ豐橋ト云フ長サ百二十
豐橋 間アリ
豊川 豊川ハ三河三大河ノ一ニシテ源ヲ北設樂郡ヨリ發シ寶飯郡
前芝ニテ海ニ入ル
神明社 船町ノ東端ニ神明社アリ境内ノ蓮ハ見事ナリ
湊町 湊町ヲ通リテ上傳馬ニ至ル
上傳馬 上傳馬ニ郵便局アリ
松葉 松葉ヲ通リテ花田村ニ至レバ豐橋停車場アリ
豐橋停車場
第三尋常 松葉ニ第三尋常小學校豊橋病院アリ
小學校
豐橋病院
萱町 上傳馬ノ南ハ萱町ナリ
本町 本町ニ憲兵屯署アリ
憲兵屯所
指笠 本町ノ南ノ町ハ指笠三浦ナリ
三浦
花園 田原 花園新錢新川中柴ヨリ田原ニ通スル路ヲ田原街道ト云フ
街道
新錢
新川 誓念寺 誓念寺ハ眞宗大谷派ノ別院ナリ
中柴
尋常中學 新川ニ豐橋尋常中學時習舘アリ
時習舘
札木 札木ニ警察署アリ
警察署
魚町 魚町ニ魚市場アリ
魚市場
紺屋 紺屋淸水神明ハ魚町ノ南ニアル町ナリ
淸水神明
呉服 呉服曲尺手ヲ通リテ鍛冶ニ至ル
吉屋 呉服ノ南ニ吉屋手間アリ
手間 龍拈寺ハ曹洞宗ノ大寺ナリ
龍拈寺
曲尺手 曲尺手ノ南ニ中世古アリ
談合
中世古
鍛冶 鍛冶ノ南ニ談合アリ
下町 下町ヲ通リテ西新町ニ至ル
神野新田 神野新田用水ハ西新町ヲヨコギリテ流ル
用水 東新町ノ東ニ豐岡村字瓦町アリ
東西新町 東海道ハ東西新町下町鍛冶曲尺手呉服札木本町上傳馬湊町
東海道 船町ノ通リナリ
向山 新町ノ東南ニ向山アリ北ニ旭町飽海アリ
旭町
飽海
避病院 向山ニ避病院アリ
朝倉川 朝倉川ハ八名郡ヨリ來リ飽海ノ北ニ沿ヒ豊川ニ入ル
別所街道 飽海ヨリ朝倉川ヲ渡リ八名郡牛河村ヲ通ル道アリ別所街道
東八町 ト云フ
第二尋常 東八町ニ第二尋常小學校及ヒ招魂紀念碑アリ
小學校
招魂紀
念碑 太田錦城ハ加賀ノ人ニシテ幼ヨリ學問ヲ好ミ吉田矦ニ仕ヘ
太田錦城 後加賀矦ニ招カレタリ
中八町 中八町ニ豐橋聯隊區司令部豐橋區裁判所アリ
聯隊區司
令部
區裁判所
練兵場 練兵場衛戌ノ東ニアリ
神明社 神明社ハ村社ニシテ其鬼祭ハニギヤカナリ
氣候 豐橋町ハ氣候温和ナリ
生業 生業ハ大抵商業ナレトモ近來煙草製造製糸ノ興業大ニ開ケタ
リ
物產 物產ハ刻煙草生糸魚類ナリ
風俗 風俗ハ正直ニシテ質素ノ風ナリシガ近頃繁華トナルニツレ
派手ノ習ハシヲナスニ至レリ
沿革 古ハ飽海ノ庄今橋ト稱ヘ小サキ村ナリシガ城ヲ築キテヨリ
市街トナリ吉田ト稱ヘ明年ニ豐橋ト改稱セリ
渥美郡誌
位置 渥美郡ハ三河國ノ東南ヨリ海ニシキ出デタツ地ナリ
境界 西南ハ太洋ニノゾミ北ハ内海及ビ寶飯八名ノ二郡ニ東ハ遠
江國ニ界ス
地勢 地勢細長クシテ中央ニ山脈アリ
地味 地味ハ槪ヤセタリ
廣袤 廣袤二十一方里戸數一万八千余人口九万八千餘アリ
戸口
氣候 氣候温和ナリ
風俗 風俗ハ槪質素ナリ
生業 郡民多ク農ヲツトメ沿海ノモノハ漁業ヲナス
沿革 昔ハ二三ノ大名ニテ治メシガ今ハ渥美郡役所ノ支配トナレ
リ
花田村 豊橋町ノ西南ハ花田村ニシテ多ク密柑ヲ產ス
物產
羽田文庫 此村ニ羽田文庫アリ羽田野榮木ノ建タルモノニシテ書物一
万二千卷アリ
羽田野 榮木ハ羽田村八幡宮ノ禰宜ニシテ學ヲ好ミ平田篤胤ノ門人
榮木 トナリ遂ニ博學ノ人トナレリ
牟呂村 花田村ヨリ里道ヲ過ギ牟呂村ニ至ル此里程凡一里
神野新田 牟呂村ハ内海ニノゾミ近年一大新田ヲ築キ神野新田ト云フ
其廣サ凡一千餘町歩アリ豐川ノ上流ヨリ水ヲ引キテ此新田
ニ注ク用水アリ
牟呂ノ海岸ヨリ日々田原福江及ヒ伊勢地方ニ航スル船アリ
牟呂八 牟呂八幡宮ハ古キ鄕社ナリ
幡宮
吉田方村 花田村及ヒ牟呂村ノ北ニ吉田方村アリ
福岡村 豐橋ヨリ縣道ヲ通リテ田原町ニ至ル此里程凡五里此間ニ福
磯邊村 岡磯邊高師植田野依大崎老津杉山相川ノ八村アリ
高師村
植田村
野依村
地勢地味 此邊地勢平ニシテ耕地多ク地味肥エタリ
大崎村
產物 沿岸ノ地ハ魚類ヲ產シ殊ニ老津大崎ノ海ヨリ多ク蜊ヲ產ス
老津村
杉山村 梅田川ハ源ヲ遠江ニ發シ大崎ニ至リテ海ニ入ル
梅田川
太平寺 太平寺ハ老津村ニアリテ古キ寺ナリ
相川村 相川村ニ船倉川アリ其河口ニセメント製スル所アリ
船倉川
セメント
田原町 船倉川ヲ渡レハ田原町ナリ西北ニ田原山ヲ帶ヒ豊橋ニツギ
テニギヤカナル地ニシテ戸數七百餘戸人口三千八百餘人ア
リ
田原城趾 田原町ノ市街ヨリ北ニ舊城趾アリ明應年中戸田宗光ノ築キ
タルモノニシテ後三宅氏城主トナリ子孫相ツギテ明治ノ初
メニ至ル舊城趾ニ巴江神社及ヒ渡邊華山モ紀念碑アリ
巴江神社 巴江神社ハ縣社ニシテ兒嶋高德ト三宅氏中興ノ祖康貞トヲ
合セ祀レリ
渡邊華山 渡邊華山名ハ登トイヒ代々田原矦ニ仕フ幼ヨリ學ヲ好ミ畵
ニ巧ニシテ忠孝ノ心最モ深シ書ヲ著ハシテ幕府ノトガメヲ
受ケ禍ノ藩主ニ及バンコトヲ恐レテ自殺セリ後明治廿四年
從四位ヲ贈ラレタリ
童浦村 童浦村ハ田原山脈ノ北ニツヽキ海ニツキ出デタル地ニシテ
童ノ浦 其端ヲ大州崎ト云ヒ小サキ入江ヲナス之ヲ童浦ト云フ中ニ
大州崎 五ツノ洲アリ
產物 大字白谷ヨリハ石灰ヲ產スルコト夥シ
姫島 童浦村ノ海上一里許ニ姫嶋アリ
大久保村 田原町ヨリ大久保村ヲ經テ野田村ニ至ル
野田村 野田村ハ地味肥エ多ク穀物ヲ產ス
物產
芦ヶ池 縣道ヨリ南ニ入レバ芦ヶ池アリ周リ一里餘
阿志神社 芦池ノ近傍ニ阿志神社アリ古キ鄕社ナリ
泉村 宇津江坂ヲ越ユレバ泉村ニシテ仝村馬伏ノ山中ニ鸚鵡石ア
鸚鵡石 リ
淸田村 淸田村ヲ經テ福江町ニ至ル
福江町 福江町ハ田原ニツギテ賑ナル地ニシテ魚類ヲ產スルコト夥
物產
シ
中山村 中山村ヲ伊良湖村ニ至ル此間多ク砂地ナリ田原ヨリ
行程八里トス
伊良湖村
伊良湖崎 伊良湖崎ハ郡ノ盡クル所ナリ
伊良湖 伊良湖神社ハ伊良湖村ニアリ
神社
糟谷磯丸 粕谷磯丸ハ半之烝ト云ヒテ伊良湖ノ漁夫ナリ家貧シク早ク
父ヲ失ヒ母ニ孝ヲ盡セリ或時感スル事アリテ歌ニ志シ遂ニ
名人トナレリ
表濱 伊良湖崎ヲ皆ハレハ表濱ニシテ遠江ノ界ニ至ルマテ十三里
アリ人民漁業ヲ營ムモノ多シ
石門 日出ノ海岸ニ二ツノ石門アリ
海驢島 海驢嶋ハ日出ノ近海ニアリテ多クノ海驢群リ居レリ
堀切村 堀切村ヲ過ギ和地村ヲ越エ若戸村ニ至ル
和地村
大山 大山ハ和地村ノ北ニアリテ郡中最高キ山ナリ
若戸村
燈臺 大山ノ麓ニ燈臺アリ光力八浬ニ達ス此邊ヨリ魚貝及ヒ胡粉
物產 ヲ產ス
赤羽根村 池尻川ヲ渡リ赤羽根高松神戸六連豐南高根ノ六村ヲ過キ小
池尻川 澤村ニ至ル
高松村
神戸村
六連村
東觀音寺 東觀音寺ハ小澤寺大字小松原ニアリテ馬頭觀音ヲ祀レリ
豐南村
高根村
小澤村 小澤村ノ東ハ細谷村ナリ製糸場アリ盛ニ蚕絲ヲ製ス
製糸場
細谷村 細谷村ノ北一里ニシテ東海道ニ出ツ此所ハ舊二川驛ナリ今
東海道 大川町ト稱ス
大川町 東海道鐵道ハ遠江ヨリ來リ大川町ニ停車場アリ進ミテ豊橋
東海道 ニ通ズ
鐵道
二川山 二川山ノ南ニ岩屋山アリ山上ニ觀音ヲ祀レリ
岩屋山 岩屋山ノ西ハ高師原ニシテ陸軍ノ練兵場ナリ
高師原
豐岡村 豐岡村ヲ經テ再ヒ豊橋ニ至ル二川ヨリ二里アリ
愛知懸誌
位置、境界 愛知懸ハ東海道ノ中央ヨリ稍〻西ニアリテ東ハ靜岡懸西ハ
三重懸西北ハ岐阜懸東北ハ長野懸ニ接シ南ハ海ニ面セリ
區劃 本懸ヲ分チテ三河尾張ノ二國トシ三河國ヲ分チテ碧海、幡豆
額田、東加茂、西加茂。北設樂、南設樂、寶飯、渥美、八名、ノ十郡トシ
尾張國ヲ分チテ名古屋、愛知、東春日井、西春日井、丹羽、葉栗、中
嶋、海東、海西。知多ノ一市九郡トス
廣袤 東西二十七里南北狭キハ七里廣キハ二十里ニ至ル面積ハ凡
三百二十方里ナリ
地勢地味 三河ハ山多ク尾張ハ平地多シ而シテ二國共ニ東北ハ高ク地
味瘠セ西南ニ至ルニ從ヒ低クシテ肥エタリ
山岳 山ノ高キハ三河ニ段戸、神田、本宮、猿投、煙巖、石卷、尾張ニ繼鹿
尾、小富士。二ノ宮山等ナリ
河流 河流ノ大ナルハ尾張ニ木曾、庄内、三河ニ矢作、豊川、大平川アリ
氣候 寒暑共ニ甚シカラズ極暑攝氏三十一度極寒三四度ナリ
生業 懸民多クハ農ヲ以テ形トナシ傍ラ養蠶機織ノワザヲツトメ
又沿海ノ地ハ漁業舟乘ヲナスモノ多シ
風俗 三河ハ質扑ナレドモ尾張ハ一般華美ヲ好ムノ風アリ然レト
モ各其業ヲ勵ムニ至リテハ相似タリ
物產 米穀、蔬菜、陶磁器、織物、酒、酢、生糸等ヲ產ス
東海道 東海道ハ遠江ノ白須賀ヨリ入リ二川、豊橋、御油、赤坂、藤川、岡
崎、知立、鳴海、熱田、福田、前賀須ヲ經テ伊勢ノ桑名ニ至ル
別所街道 豐橋ヨリ別所街道ヲ通リ八名郡ニ入ル
八名郡 八名郡ハ山脈連リテ土地痩セタリ
石卷山 石卷山ハ岩石ノ奇山ニシテ山腹ニ石卷神社アリ
物產 石卷山ノ北ニ嵩山村アリ石灰ヲ產ス
富岡村 富岡村ハ郡役所ノアル處ナリ
鳶巢山 鳶巢山ハ長篠ノ役酒井忠次ノ武田氏ヲ破リシ所ナリ
阿寺七瀧 阿寺七瀧ハ山吉田村ニアリ景色ヨロシ
寶飯郡 豐橋ヨリ豐川ヲ渡レバ寶飯郡ナリ北ニ山ヲ帯ビ南ハ海ニ面
物產 シ平地ハ肥エタリ甘薯海苔等ヲ產ス
本宮山 本宮山ハ東北ニアル高山ナリ
砥鹿神社 砥鹿神社ハ三河ノ一ノ宮ト稱シ大巳貴命ヲ祀ル
御油町 御油町ハ郡役所ノアル所ニシテ豐川町、牛久保町、蒲郡町ハ本
豊川町 郡中ノ賑ヤカナル地ナリ
牛久保町
蒲郡町
妙巖寺 妙巖寺ハ豊川町ニアリ叱枳尼天ヲ祀ル
山本勘助 山本勘助ハ牛久保ノ人ニシテ兵法ニ達シ武田信玄ニ仕ヘ後
川中島ノ戰ニ討死セリ
宮路山 宮路山ハ赤坂ノ南ニアリ持統天皇行幸ノ古趾ニシテ紅葉ヲ
以テ名高シ
伊奈街道 寶飯郡小坂井ヨリ南設樂郡ニ入ルヲ伊奈街道ト云フ
南設樂郡
新城町 新城町ハ繁華ノ地ニシテ郡役所アリ
長篠村 長篠村ハ徳川家康ノ臣奥平信昌ノ城趾ナリ
長篠ノ戰 武田勝賴大兵ヲ率ヒ來リ長篠ヲ攻メシトキ城中兵粮ニ乏シク
ナリ鳥居强右工門夜城ヲ出テ急ヲ家康ニ告ケ救ヲ乞ヒ急ギ
歸リテ城中ニ入ラントシ敵兵ノタメニ捕ヘラレ遂ニ殺サル
翌日家康信長ト共ニ來リタスケ勝賴大ニ敗レタリ
煙巖山 煙巖山ハ考杉生ヒ茂リ山中ニ鳳來寺アリ
物產 物產ハ椎茸、材木等ナリ
北設樂郡 伊奈街道ヲ北ニ赴ケハ北設樂郡ニシテ田口、津具ヲ經テ信濃
ニ入ル
地勢 北設樂郡ハ山多クシテ土地瘠セタリ
神田山 神田山、乳房山ハ郡ノ東南ニアル山ニシテ乳房山ヨリ鍾乳石
乳房山 ヲ產ス
段戸山 段戸山ハ懸下第一ノ高山ニシテ山中ニ牧場アリ馬ヲ產ス
物產 名倉砥ハ河合村ヨリ產ス
田口村 田口村ハ郡役所ノアル所ニシテ山間ノ名邑ナリ
額田郡 御油町ヨリ東海道ヲ西ニ進メハ額田郡ニ入リ藤川ヲ經テ岡
崎ニ達ス
岡崎 岡崎町ハ繁華ノ都會ニシテ人口一万六千餘郡役所其他諸官
衙アリ
岡崎城 岡崎町ハ徳川家康出生ノ所ニシテ近世マデ本多氏之レニ居
レリ今ハ公園トナル
徳川家康 徳川家康ハ廣忠ノ子ニシテ初メ今川義元ニ屬シ織田信長ノ
死セシ後豐臣秀吉ト戰ヒテ之レヲ破リ秀吉ノ薨セシ後天下
ヲ平ゲ府ヲ江戸城ニ開キ子孫十五代二百餘年間相ツヾケ
リ
徳川氏ノ 徳川氏ノ將ニシテ三河ヨリ出デシ人ニ本多忠勝、酒井忠次、榊
諸將 原康政等アリ
大平川 大平川ハ郡ノ東北ヨリ發シ西流シテ矢作川ニ會ス
物產 物產ハ御影石、八帖味噌等ナリ
足助街道 岡崎ヨリ東北ニ向ヒ東加茂郡ノ足助ニ至ル懸道アリ足助街
道ト稱ス
東加茂郡 東加茂郡ハ山岳起伏シ田畑少シ
足助町 足助町ハ郡役所ノアル所ナリ
足助重範 足助重範ハ後醍醐天皇ノ北條高時ヲ討チ玉フニ當リ行宮ニ
至リ賊軍ヲ防ギシガ遂ニ戰死セリ後朝廷ヨリ特ニ正四位ヲ
贈ラレタリ
足助川 足助川ハ郡ノ東南隅ヨリ發シ矢作川ニ會ス
松平村 松平川ハ徳川氏祖先ノ興リシ所ナリ
岡崎往還 岡崎往還ハ岡崎ヨリ西加茂郡擧母ニ至ル道ナリ
西加茂郡 擧母町ハ郡役所ノアル所ニシテ内藤氏ノ舊城下ナリ
擧母町
猿投山 猿投山ハ尾張ノ界ニアル高山ニシテ大確尊ノ山陵アリ其麓
ニ猿投神社アリ
廣澤ノ瀧 廣澤瀧ハ猿投山ノ麓ニアリテ直下九丈ナリ
物產 石粉ハ本郡ノ主ナル物產ナリ
岡崎町ヨリ東海道ヲ西ニ進ミ矢作橋ヲ渡リ矢作町ヲ過ギテ
碧海郡ノ知立町ニ達ス
碧海郡 碧海郡ハ土地平ニシテ肥ヱタリ
矢作川 矢作川ハ源ヲ信濃ニ發シ足助大平ノ二川ヲ合シ海ニ入ル
矢作川 足利尊氏反キシ時後醍醐天皇新田義貞ニ詔シテ之レヲ討タシ
ノ戰 メ給フ義貞尊氏ノ兵ト大ニ矢作川ニ戰ヒ之レヲ敗レリ
明治用水 矢作川ノ水ヲ引キ田畑ニ注グヲ明治用水ト云フ
知立町 知立町ハ郡役所ノアル所ニシテ知立神社アリ
八ッ橋 八ッ橋ハ燕子花ノ名所ニシテ在原業平ノ歌世ニ名高シ
刈谷町 刈谷町ハ土井氏ノ舊城下ナリ
土井利勝 土井利勝ハ將軍徳川秀忠ノ傳トナリ遂ニ大老ニ上リシ人ナ
リ
松本奎堂 松本奎堂ハ刈谷ノ藩士ニシテ尊王攘夷ヲ唱ヘ義兵ヲ擧ゲシ
ガ戰ヒ敗レテ討死セリ後勤王ノ志ヲ賞セラレ從四位ヲ贈ラ
レタリ
東海道 東海道鐵道ハ遠江ヨリ來リ二川、豐橋、御油、蒲郡、岡崎、安城、刈谷、
鐵道 ノ七停車場ヲ經テ尾張ニ入ル
境川 境川ハ尾張三河ノ界ヲナシ衣浦ニ注グ
大濱町 大濱町ハ衣浦ニアル良港ナリ
石川丈山 石川丈山ハ泉村ノ人ニシテ初メ家康ニ仕ヘシガ後仕ヲ辞シ
文學ヲ以テ自ヲ樂ミトシ世ヲ終レリ
西尾界道 知立ヨリ西尾界道ヲ經テ幡豆郡西尾ニ至ル
幡豆郡 幡豆郡ハ東部ニ小山アレドモ西南ハ平ニシテ土地肥エタリ
物產 物產ハ海鼠腸、雲母、木綿等ナリ
西尾町 西尾町ハ松平氏ノ舊城下ニシ郡役所アリ繁華ノ地ナリ
平坂港 平坂港ハ郡ノ西南ニアル良キ港ナリ
佐久島 佐久島ハ郡ノ南海上一里ニアリ周リ凡ソ三里島民漁業ヲツ
トム
師崎街道 知立ヨリ師崎街道ヲ經テ尾張國知多郡ニ入リ師崎ニ至ル
知多郡 知多郡ハ衣ヶ浦ト伊勢ノ海ノ間ニツキ出デタル地ナリ
武豊支線 大府ヨリ龜崎半田ヲ經テ武豐ニ至ル東海道鐵道ノ支線アリ
龜崎町 龜崎半田ノ二町ハ盛ニ酒酢ヲ製シ共ニ良港ニシテ半田ヨリ
半田町 横濱ヘ定期航路ノ汽船アリ
物產 郡役所ハ半田町ニアリ
武港 武豐港ハ港内水深クシテ軍艦巨船ヲツナグニヨロシ
幡豆崎 幡豆崎ハ郡ノ盡クル所ナリ三河ノ伊良湖崎ト相向ヒテ内海
衣ヶ浦 ヲナス之ヲ衣ヶ浦ト云フ
篠島 幡豆崎ノ東南ニ多クノ島アリ其中篠島日間賀島大ナリ
日間賀島
篠島ノ 篠島ニハ義良親王ノ颶風ニ遇ヒテツキ玉ヒシ遺蹟アリ
遺跡
西浦 幡豆崎ヨリ西浦ヲ廻リテ大野町ニ至ル
大御堂寺 野間村ノ大御堂寺ハ源賴朝ノ墓ノアル所ナリ
源賴朝 源賴朝ハ平治ノ乱ニ軍破レ野間ニ至リ永田忠致ニ殺サレタ
リ
常滑町 常滑町ハ陶器ヲ製スルヲ以テ名高シ
大野町 大野町ハ夏日海水浴ニ來ルモノ多シ
知立町ヨリ東海道ヲ有松ニ至ル
桶狭間 桶狭間ハ今川義元ノ墓アリ
桶狭間 永錄三年今川義元大兵ヲヒキイ尾張ヲ攻メントテ桶狭間ニ
ノ戰 陣セシガ織田信長ノ爲メニ襲ハレテ戰死セリ
有松町 有松町ハ絞リヲ產ス
物產
細井平洲 細井平洲ハ荒尾村ノ人ニシテ學問深ク德行アリ尾張藩明倫
堂ノ督學トナリ後米澤侯ノ國政ヲタスケタリ
愛知郡 有松町ヨリ愛知郡鳴海ヲ經テ熱田ニ達ス
鳴海町 鳴海町ハ有松ト仝シク木綿絞ヲ以テ名高シ
熱田町 熱田町ハ一ニ宮ト稱ス伊勢ニ渡ル要津ニシテ郡役所アリ
熱田神宮 熱田神宮ハ草薙ノ劔ヲ祀ル官弊大社ナリ
草薙劍 草薙劔ハ日本武尊東夷御征伐ノ時伊勢ノ内宮ニテ之ヲ受ケ
由來 歸途此ニ遺シ玉ヒシナリ
源賴朝 源賴朝ハ熱田幡屋ノ里ニ生レ後平氏ヲ亡ボシ征夷大將軍ト
ナレリ
豐臣秀吉 豊臣秀吉ハ中村ノ人ニシテ織田信長ニ仕ヘテ其將トナリ信
長ノ弑セラルヽニ及ヒ天下ヲ平ゲ關白ニ上リ後朝鮮ヲ討チ
武名ヲ海外ニトヽロカセリ
豊臣氏ノ 豊臣氏ノ將ニシテ尾張國ヨリ出デシ人ハ加藤淸正淺野長政
諸將 福島正則等ナリ
加藤淸正 加藤淸政ハ秀吉ト同村ノ人ナリ秀吉ニ從ヒ屢〻功ヲ立テタ
リ
長久手 徳川家康織田信長ヲ援ケ豐臣氏ノ軍ト大ニ長久手ノ戰ヒ其
ノ戰
將池田信輝森長可等ヲ殺セリ
物產 長久手村ノ邊ニテ岩木ヲ產ス
熱田ヨリ市街ヲ北ニ向ヒテ進ミ名古屋ニ至ル
名古屋市 名古屋市ハ三府ニツゲル大都會ニシテ人口二十三万餘第三
第三師團 師團及愛知縣廳其他ノ諸官衙學校ノアル所ナリ
愛知縣廳
名古屋城 名古屋城ハ徳川家康ノ諸侯ニ命シテ築カシメタルモノニシ
テ其金ノ鯱ハ世ニ著ハル今ハ離宮トナレリ
徳川義直 徳川義直ハ家康ノ子ニシテ尾張藩主ノ始祖ナリ
田宮如雲 田宮如雲ハ維新ノ際勤王ヲ稱ヘタル人ナリ
物產 物產ハ七寶燒扇等ナリ
下タ街道 名古屋ヨリ下タ街道ヲ東春日井勝川内津ニ至ル
東春日井郡
勝川町 勝川町ハ郡役所ノアル所ナリ
小野道風 小野道風ハ小野村ニ生レ書ヲ能クセシ人ナリ
内津村 内津村ニ内津神社アリ
内津神社
瀬戸町 瀬戸町及赤津村ハ陶器ヲ製ス
赤津村
物產
加藤春慶 加藤春慶ハ支那ニ赴キ陶器ヲ製ススル法ヲ學ビ歸リテ業ヲ
此地ニ開ケリ
小枚山 小牧山ハ平野ノ間ニアリ長久手ノ役徳川家康ノ陣セシ所ナ
リ
犬山街道 小牧ヨリ犬山街道ヲ丹羽郡犬山ニ至ル
丹羽郡
本宮山 本宮山ハ一ニ二ノ宮山ト稱シ山麓ニ大縣神社アリ
小富士山 小富士山ハ其形富士山ニ似タルヲ以テ尾張富士ト稱ス
入鹿池 入鹿池ハ周回三里其水ヲ引キテ田畑ニ注グ
犬山町 犬山町ハ成瀬氏ノ舊城下ニシテ犬山燒ヲ出ス
物產
犬山城 犬山城ハ今猶天守閣ヲ存シ公園トナリ風景ヨロシ
木津用水 木曾川ノ水ヲ引キテ田畑ニ注グ水アリ之ヲ木津用水ト云フ
繼鹿尾山 繼鹿尾山ハ郡ノ東北隅ニアリ
布袋町 布袋町ハ郡役所ノアル所ナリ
西春日井郡 名古屋ヨリ岐阜街道ヲ通リテ西春日井郡枇杷島ニ出テ淸洲
岐阜街道 ニ至ル
枇杷島町 枇杷島町ハ庄内川ノ岸ニアリ每朝蔬菜ノ市ヲ開ク郡役所ノ
アル所ナリ
庄内川 庄内川ハ源ヲ美濃ニ發シ矢田川ヲ合セ又分レテ海ニ入ル
淸洲町 淸洲町ハ昔織田信長ノ居城アリシ所ニシテ今猶其趾ヲ存ス
織田信長 織田信長ハ尾張美濃近江ノ諸國ヲ平ゲ足利義昭ニ代リテ天
下ヲ治メ皇室ヲ助ケ奉リ忠義ヲ盡セシガ遂ニ其臣明智光秀
ニ弑セラレタリ
織田氏ノ 織田氏ノ諸將ニシテ尾張ヨリ出デタル人ハ前田利家柴田勝
諸將 家丹羽長秀等ナリ
物產 物產ハ宮重大根小田井表等ナリ
淸洲ヨリ中島郡ニ入レハ道ハ二ツニ分ル右ハ岐阜街道ニシ
美濃街道 テ一宮エ至ル左ハ美濃街道ニシテ稻澤起ニ至ル
中島郡
稻澤町 稻澤町ハ郡役所ノアル所ナリ
一宮町 一宮町ハ繁華ノ地ニシテ毎月六次ノ市アリ
眞淸田 眞清神社ハ國幣小社ニシテ尾張一宮ト稱ス
神社
國府宮村 國府宮村ハ古ヘ國府ノアリシ所ニシテ大國靈神社アリ
物產 此邊結城機留等ノ織物ヲ產ス
一宮ヨリ岐阜街道ヲ葉栗郡黑田ニ至ル
葉栗郡
太田嶋村 郡役所ハ太田島村ニアリ
宮田用水 宮田用水ハ木曾川ノ水ヲ引キテ灌漑に供ス
東海道 東海道鐵道ハ三河ヨリ來リ大府大高熱田名古屋淸洲一宮木
鐵道 曾川ノ七停車場ヲ經テ美濃ニ入ル
津島街道 名古屋ヨリ津嶋街道ヲ通リテ海東郡津嶋ニ至ル
海東郡
遠嶋 遠嶋ニ七寶燒ノ工場アリ
梶常吉 梶常吉ハ服部村ノ人ニシテ七寶燒ヲ發明セリ
甚目寺 甚目寺ハ推古天皇ノ建テ給ヒシ古キ寺ナリ
山田長政 山田長政ハ諸桑村ノ人ナリ暹羅ニ渡リ其王ヲ助ケ六昆ヲ平
ゲ威名ヲ著ハシタリ
津嶋町 津嶋町ハ郡役所ノアル所ニシテ繁華ナリ
津島神社 津島神社ハ素戔男尊ヲ祀レル社ナリ
物產 此邊多ク蓮根ヲ產ス
海西郡 熱田ヨリ東海道ヲ進ミ海東郡福田ヲ過ギ海西郡彌富ニ至ル
彌富村 彌富村ハ舊前ヶ須ト稱シ郡役所ノアル所ナリ
木曾川 木曾川ハ信濃ノ木曾山中ニ發シ尾張ト美濃及ヒ伊勢ノ界ニ
沿ヒ流レテ伊勢ノ海ニ入ル
關西鐵道 名古屋ヨリ愛知福田彌富ノ三停車場ヲ經テ伊勢ニ入ル關西
鐵道アリ
明治三十年六月七日印刷
仝 年仝月十三日發行
定價金八錢【矩形で囲み】
編纂者 愛知懸渥美郡豐橋町立高等小學校
愛知懸豐橋町大字呉服廿二番戸
發行者 高須廣治
仝縣仝町大字札木九拾九番戸
印刷者 山本嘉平
【白紙】
【白紙】
【中心から外へ・時計回り】
本丸
御玄関
御殿
櫓門【裏御門】
三重ヤクラ【辰巳櫓】
タモン【南御多門】
■■■ヤクモン【本丸口ヤク(ラ)モン?】
三重ヤクラ【千貫櫓】
三重櫓【鉄櫓】
タモン【北御多門】
二重ヤクラ【入道櫓】
二之丸屋敷
三重ヤクラ
三丸口ヤクラ門
二重ヤクラ
王菜蔵
門
二重ヤクラ
玉菜蔵
三重ヤクラ
タモン
埋門
門
門
三之丸
三丸口ヤクラ門
土蔵
土蔵
土蔵
長屋
米クラ
御シロコメクラ
内天玉ヤクラ
コノモン潰
馬屋
馬屋
水門
コメクラ
コメクラ
コメクラ
コメクラ
コメクラ
下タイ所
門
川毛口櫓門
クラ
長屋
東
内飽海口
外飽海口
新町口
柳生門
曲尺手口
南
追手口櫓門
本町口
外天王口
西
北
【表紙】
【白紙】
豊橋市水道誌
【役職と氏名】
市会議長 藤田力作
前市会議長 神戸小三郎
部長 横田忍
市長 田部井勝蔵
技師長 長崎敏音
主事 竹村吉之助
顧問 西大條 覚
技師 志谷百中
【白紙】
前水道委員及幹部
【上列目】
三浦源六
鈴木五六
浅井順次
【二列目】
石田又市
志谷技師
横田水道部長
田部井市長
長崎技師長
小川鹿三
奈良技師
【三列目】
牧 寿一
青山嘉一
大森俊治
安藤角次郎
村上芳次郎
金子本市郎
【四列目】
加藤勘吉
松尾幸次郎
榊原瀬一
野澤藤五郎
野口泰一
向坂助吉
砂糖弥平
【写真説明文】
前水道委員及幹部
【白紙】
水道委員及幹部
【最前列】
柴田新八
白井福太郎
小笠原博通
横田水道部長
田部井市長
長崎技師長
丸地幸之助
熊田嘉平
原田仙二郎
【二列目】
月岡新治
仲田允治
丸地清次
山本満平
長尾 俊
青島忠助
石田又市
遠藤猶次郎
【三列目】
宮崎経理係長
奈良技師
山本一二
竹村主事
【四列目】
大塲恒治郎
宮津隆二
榎山信次郎
【役職と氏名、右上から横に】
前市会議員 原田万九
前市会議員 加藤發太郎
前市会議員 片山常太郎
前市会議員 中谷 精
前市会議員 村上芳次郎
前市会議員 野口泰一
前市会議員 小川鹿三
前市会議員 小木曾丈三郎
前市会議員 黒柳清二
前市会議員 牧 壽一
前市会議員 向坂助吉
前市会議員 浅井順次
【役職と氏名、右上から横に】
前市会議員 安藤角次郎
前市会議員 青山嘉一
前市会議員 彦坂庄五郎
前市会議員 住野樂三郎
前市会議員 鈴木五六
前市会議員 近藤市郎
前市会議員 光島次郎
【役職と氏名、右上から横に】
市会議員 石田又市
市会議員 原田仙二郎
市会議員 大場恒治郎
市会議員 大森俊治
市会議員 大林 勇
市会議員 小笠原博通
市会議員 加藤勘吉
市会議員 金子本市郎
市会議員 月岡新治
市会議員 内藤太郎吉
市会議員 長畑善蔵
市会議員 長尾 俊
【役職と氏名、右上から横に】
市会議員 仲田充治
市会議員 中村為太
市会議員 村田義直
市会議員 野澤藤五郎
市会議員 熊田嘉平
市会議員 山本一二
市会議員 山本滿平
市会議員 松尾幸次郎
市会議員 丸地幸之助
市会議員 丸地清二
市会議員 近藤竹次郎
市会議員 遠藤猶次郎
【役職と氏名、右上から横に】
市会議員 榎山信次郎
市会議員 青島忠助
市会議員 佐藤彌平
市会議員 榊原瀬一
市会議員 三浦源六
市会議員 柴田新八
市会議員 白井福太郎
市会議員 彦坂只一
市会議員 内山繁次郎
水道部事務所
水道起工式に於る齋主祝詞奏上
水道起工式に於る鋤鍬の行事
水道起工式に於る市長式辞
水道起工式に於る来賓祝辞
【画像入力すると反応が遅くなるので以後は文字のみ翻刻】
工事着手前の水源地
工事着手前の送水場
水源地集水埋管布設作業
送水喞筒場堀鑿工事
【上の写真】
工事中の送水場喞筒室
【下の写真】
完成せし送水場喞筒室
完成せし送水場喞筒室内部(其一)
完成せし送水場喞筒室内部(其二)
送水場全景
工事着手前の浄水場全景
【上の写真】
工事中の濾過池(其一)
【下の写真】
工事中の濾過池(其二)
工事中の濾過池(其三)
工事中の濾過池(其四)
完成せし濾過池
上水浄水場全景
浄水場喞筒室
浄水場喞筒室内部
工事着手前の給水場
【上の写真】
工事中の給水場(其一)
【下の写真】
工事中の給水場(其二)
工事中の給水場(其四)
工事中の給水場(其四)
給水場全景
量水器室
【上の写真】
鉄管試験場(其一)
【下の写真】
鉄管試験場(其二)
鉄管試験場水壓試験
鉄管試験場全景
第三工事区事務所
札木通り鉄管埋設
鉄管布設後道路復舊顚壓工事中のロードローラー
放水試験
序
本市水道布設の沿革を繹ぬるに、大正九年使節私設水道の出願以来
今日に至る迄前後通じて十有一年、而してそ其準備調査に着手し
たるは実に吉川市長時代にあり。斯くて大正十四年不肖市長代
理助役就職のと当初、多年の懸案を解決すべき重任を負ひ、鋭意専
心調査促進に努めたるが、幸に各方面の協力一致と同情援助に
より、都市経営の重要施設たる給水設備を敢行し得たるは、市民
一般と共に同慶措く能はざる所なり。
空前の大工事たる本市水道は時運の然らしむる所に因り、特に
最新式の長所を有し、更に費用の節減と工期の短縮を見たるの
みならず、通水後の成績また亦良好なるは、偏に監督官庁並に議政機
関の懇篤なる指導援護と、市民の理解ある同情に依るは勿論、職
【右ページ】
員及び従業員の快哉従事したる結果にして、洵に感激に堪へざる
なり。顧みれば本職の子の此の大任に膺るや、幾多の難局を通過して
幸に任務を果し得たるはま正に天祐の賜に外ならざるなり。
本誌は水道通水式記念としてかんこうしたるが刊行したるがゆ故に、未だ完結せざ
る點あり、殊に其編纂は豫て高城書記の手にて蒐集保存せられ
たる資料を本とし、客年十二月更に青山新次郎氏に嘱託して、促
進せしめたるを以て、他日の改訂に俟つべきものに非らず
読者之れを諒せよ。
昭和五年三月二十九日
豊橋市長 田部井勝蔵
【左ページ】
凡例
一、本誌資料は昭和四年十二月末迄に整理されたる書類なれば
水道誌として未だ完結せざるものあるや論無し。
一、編纂丈上各章各節に就き、重複遺漏等に注意したるも、資料の饒
否如何に因り叙述に精粗あるを免れず。
一、本誌は極めて急速に刊行したるを以て、編輯・印刷共に粗雑の
誹あるべく。他日特に改訂を要すべきものあるを遺憾とす。
一、精密なる工作図を挿入すべき必要を認めたるも、止むを得ず
省略したるもの多し。
豊橋市水道誌目次
第一章 市勢並沿革
第一節 地誌概要・・・・・・・・・・・・・・・・一
一、 位置 地勢 交通 産業 戸口・・・・・・一
二、 沿革 町村合併一覧 俊都市計画区域・・・五
第二節 市政機関・・・・・・・・・・・・・・・・九
一、 市役所 歴代市長・助役・収入役・・・・・九
二、 市会 市会議長・復副議長・市会議員・・十一
第二章 水道概説
第一節 水道事業沿革・・・・・・・・・・・・・一五
一、 起因 風土 用水・・・・・・・・・・・一五
二、 私設水道 地下水・地質調査・・・・・・一七
第二節 水道施設・・・・・・・・・・・・・・・二七
一、 市営水道 計画報告書・・・・・・・・・二七
一
二
二、 設備大要・・・・・・・・・・・・・・・・二八
第三章 工事計画及準備
第一節 実施設計・・・・・・・・・・・・・・・・三九
一、 稟請及認可・・・・・・・・・・・・・・・三九
二、 水道目論見書設計説明書・・・・・・・・・四二
三、 設計計算・・・・・・・・・・・・・・・・六四
第二節 用地買収・・・・・・・・・・・・・・・一二七
一、 起工準備 買収 補償 借地・・・・・・一二七
二、 水源保護 寄付 買収・・・・・・・・・一三四
第三節 試験調査・・・・・・・・・・・・・・・一四〇
一、 材料試験 鉄管 セメント・・・・・・・一四〇
二、 湧水調査・・・・・・・・・・・・・・・二二七
第四節 工事費う参考書・・・・・・・・・・・・二三〇
第四章 財政計画及経理
第一節 計画予算・・・・・・・・・・・・・・・二五九
一、 総予算 継続誹・・・・・・・・・・・・二六三
二、 借入金償還・・・・・・・・・・・・・・二八三
三、 算出標準 給水料 経常費・・・・・・・二八六
第二節 債務・・・・・・・・・・・・・・・・・三〇一
一、 起債・・・・・・・・・・・・・・・・・三〇一
二、 国庫・県費補助・・・・・・・・・・・・三〇八
第三節 資金調達・・・・・・・・・・・・・・・三三五
一、 保険積立金借入・・・・・・・・・・・・三四五
二、 地方貸付資金借入・・・・・・・・・・・三五五
三、 同愛記念病院基金借入・・・・・・・・・三七九
第四節 実施経済・・・・・・・・・・・・・・・三八五
一、 歳入出予算・・・・・・・・・・・・・・三八五
二、 歳入出決算・・・・・・・・・・・・・・三九一
第五章 工事実施経過
三
四
第一節 起工及稟請・・・・・・・・・ ・・・・三九九
一、 起工式・・・・・・・・・・・・・・・・・三九九
二、 稟請及認可・・・・・・・・・・・・・・・四〇八
第二節 工事請負並物件供・・・・・・・・・・・・四三〇
一、 請負並購買一覧・・・・・・・・・・・・・四三〇
二、 契約書・・・・・・・・・・・・・・・・・四四七
三、 仕様書・・・・・・・・・・・・・・・・・四六一
第三節 工事変更・・・・・・・・・・・・・・・・五七五
一、 設計変更・・・・・・・・・・・・・・・・五七五
二、 変更理由・・・・・・・・・・・・・・・・五七五
第四節 雑工事・・・・・・・・・・・・・・・・・五八〇
一、 電力工事・・・・・・・・・・・・・・・・五八〇
二、 道路 築造・修繕・・・・・・・・・・・・五八二
三、 橋梁其他・・・・・・・・・・・・・・・・五八四
第五節 建築・・・・・・・・・・・・・・・・・・五九七
一、 事務所・・・・・・・・・・・・・・・・・五九七
二、 試験場・・・・・・・・・・・・・・・・・五九七
三、 雑件・・・・・・・・・・・・・・・・・・五九七
第六章 工事施工機関
第一節 臨時水道部・・・・・・・・・・・・・・・六〇三
一、 組織及規定六・・・・・・・・・・・・・・六〇三
二、 職員・・・・・・・・・・・・・・・・・・六五五
第二節 水道委員会・・・・・・・・・・・・・・・六五八
一、 水道委員・・・・・・・・・・・・・・・・六五八
二、 審査成績・・・・・・・・・・・・・・・・六五八
第三節 工事施工・・・・・・・・・・・・・・・・六六三
一、 材料取扱・・・・・・・・・・・・・・・・六六三
二、 施工手続・・・・・・・・・・・・・・・・六八八
第七章 水道経営
第一節 豊橋市水道部・・・・・・・・・・・・・・七〇七
一、 組織及規定 職員・・・・・・・・・・・・七〇七
五
【右ページ】
六
二、 経費予算・・・・・・・・・・・・・・七四七
第二節 給水概要・・・・・・・・・・・・・・七五三
一、 給水条例・・・・・・・・・・・・・・七五三
二、 給水状況 水質試験・・・・・・・・・七九一
【左ページ】
豊橋市水道誌
第一章 市勢並沿革
第一節 地誌概要
位 置 豊橋市は愛知県管内三河国の東南隅に在り、豊川の下流に沿える東海
道の要衝にして、東経百三十七度二十三分三十秒、北緯三十四度し四十五分四十秒に当
れり。
地 勢 北は豊川、朝倉川をへだてて隔てて、寶飯郡下地町及八名郡下川村に接し、広く豊
川流域の沃野をひかえ控へ、南は柳生川を境に高師平原遠く連る、東方渥美郡二川町との界
には一帯の山脈横はり、西方は同牟呂吉田村を介して渥美湾に臨む。即ち地勢東部
より西部に傾斜し、多少の起伏あるも概ね平坦にして、海抜三十三尺に位す。地形東西
に延びて二里十八町廿間に及び、南北は狭くして最長距離廿h八町三十間、面積一方里
一
第一章 第一節 地誌概要 二
三九三を有す。地質は豊川沿岸の低地にありては沖積層なるも、市街の大部分は洪積
層なり。
交 通 鉄路東海道線の開通以来、中間都市の機能漸く発達し、豊川鉄道の電化よ
り、鳳来寺鉄道、渥美電気鉄道、愛知電気鉄道及び市内電車の運転と、外に水運の利によ由
る交通の便は愈愈自在なるに至れり。更に市街道路の開鑿改修は比年着々竣工し、自
動車の往復頻繁となり、市区のめんもく面目を一新したるは、市勢発展の象徴として見る
べきものあり。
産 業 由来東三文化の中心たる本市は、交通機関の整備に伴ひ、益々産業経済
の中心となり、物資の集散頓に増加し商業取引も次第に繁栄に赴き、進んで全国的産
業地たる地歩を固むるに至れり。
蠶絲業は、本市重要産業の首位をし占め、産額二千万円以上に達す、特に玉絲の産額
は本邦第一にして、全国産額の約六割に相当せり。輓近東三玉絲製造同業組合並に
東三生絲製造同業組合の事業著しくしんぽ進歩し、加ふるに愛知県蠶業試験場豊橋詩支場設
置せられ、倍々斯業の改善を圖り製品の聲價を発揚せんとす。
麻真田業の年産額も全国第一にして本市の特産たり。豊橋毛筆は夙に其名四方に
知られ、清涼飲料水も亦販路を廣む。其他醸造業、水産加工業の発達、養鶏業の急速な
る進展等前途頗る多望んりと謂ふべし
戸 口 明治二十二年十月一日町制実施当時に於ける豊橋町は、戸数三千五百
九十七、人口一萬二千三百三十九人なりしが、明治三十九年八月一日市制施行せられ
てより戸数九千九百、人口三萬七千六百三十五人に激増し、今や戸数は一萬八千を超
え、人口は将に十萬に達せんとす。而して特に女子の数男子よりも非常に多きは、繊維
工業発達の結果一萬有余の女工を包含するに由る。試に掲ぐる累年の戸口調査
表を一覧せば、市勢膨張の如何に高速度なるかを知るに足らん。
豊橋市戸口調査表
年 次 本 籍 人 現 住 人 《割書:内 訳|男 女》 現 住 戸 数
明治三十九年 二三、二三五 三七、六三五 一八、三二五 一九、三一〇 九、九〇〇
同 四十年 二三、八四九 四〇、〇五五 一九、五一一 二〇、五四四 一〇四二三
同 四十一年 二四、四七四 四一、六四二 二〇、四六六 二一、一七六 一一、〇七三
同 四十二年 二五、六四三 四四、六八七 二一、九五三 二二、七三四 一一、七五九
同 四十三年 二六、六六四 四七、三四四 二三、二五六 二四、〇八八 一二、三七二
同 四十四年 二七、八六五 五〇、二二七 二四、六四七 二五、五八〇 一三、二三四
大正 元年 二八、九五七 五一、七一〇 二五、二〇二 二六、五〇八 一三、九二〇
第一章 第一節 地誌概要 三
第一章 第一節 地誌概要 四
同 二年 二九、九六〇 五二、三六五 二五、六四七 二六、七一八 一三、九一〇
同 三年 三〇、九四八 五三、八四五 二六、三九三 二七、四五二 一四、一五〇
同 四年 三一、七六四 五七、五六〇 二七、一六五 三〇、三九五 一四、八八〇
同 五年 三二、四九〇 五八、九五〇 二八、四二二 三〇、五二八 一四、九五〇
同 六年 三三、二六一 六二、〇二〇 二九、五二五 三二、四九五 一四、八五〇
同 七年 三四、二四六 六四、五〇〇 三〇、八八五 三三、六一五 一三、一〇〇
同 八年 三五、〇一四 六六、八四四 三一、七二四 三五、一二〇 一三、五九二
同 九年 三四、九七六 六四、二一八 三〇、〇九八 三四、一二〇 一三、二五〇
同 十年 三五、九六九 六五、〇三三 三〇、九三〇 三四、一〇三 一三、四一三
同 十一年 三七、四三六 六七、〇六〇 三一、五一五 三五、五四五 一三、九四七
同 十二年 三八、一三五 六八、〇九九 三一、六七九 三六、四二〇 一四、〇七八
同 十三年 三九、六五二 六九、八三二 三二、八三五 三六、九九七 一四、四五五
同 十四年 四〇、八九八 七四、六五〇 三四、九五三 三九、六九七 一四、九三〇
昭和 元年 四一、七八七 七七、一三二 三四、三五二 四二、七八〇 一五、四四二
昭和 二年 四三、二一〇 八九、二〇〇 三八、二〇九 五〇、九九一 一六、四三二
昭和 三年 四四、五四六 九三、一八八 三九、九一四 五三、二七四 一七、二二七
昭和 四年 四六、一一八 九七、四六六 四二、〇六四 五五、四〇二 一八、一九六
尚参考として国勢調査を掲載す。
国勢調査による人口及世帯数
種 別 大正九年十月一日現在 大正十四年十月一日現在
増 △減
男 二八、三一三 三五、四〇二 七、〇八九
人口 女 三四、七八三 四五、三〇〇 一〇、五一七
計 六三、〇九六 八〇、七〇二 一七、六〇六
世帯数 一二、九〇八 一五、五四三 二、六三五
市区沿革 千有余年前に於ける当地方の地理を按ずるに
和名抄等の記録に残る
飽海、幡太の二郷は、即ち市の中部並に西端花田町に当たり、
東端岩崎町の地は多米郷に
屬せり。また神鳳抄に秦御厨薑御薗とあるも、花田町に羽田の地名存し、東田町に薑の
字名あるを以て知らる。然るに当時飽海より志香須賀の渡を越えて、渡津郷に着きけ
る紀行を想へば滄桑の變著しきものあり。
降って鎌倉期に至り次第に東西交通の衝に当りしが、室町期の末に及び、永正二年
今を距る四百二十余年前、牧野古白此地今橋に築城以来、軍事上交通上の要地な
り。此城は後に吉田城と改稱せられしも、諸将の間に争奪戦の絶ゆる時なく、未だ此地
の繁栄を見るに至らざりしが、今川氏の勢力範囲となりて施設よく商工業の発達を
促せせり。永禄八年徳川家康の手に帰するや、酒井忠次城主となりし市区の整理をなした
ること少なからず。文禄年中池田輝政更に拡張を計画し市区改正を実施せり。現
第一章 第一節 地誌概要 五
【右ページ】
第一章 第一節 地誌概要 六
今の用下水は小笠原氏によりて、勝央承応三年に計画せられ元禄六年に整理を終へたる
ものなり、。斯くして江戸幕府時代にhは城郭として其體を整へ、海道五十三次の宿駅と
して繁盛し、有名なる吉田大橋の如きは公儀の直営となれり。寛永四年大地震ありし
時の「吉田城下故事」によれば、吉田の総戸数一千十一戸の内、全潰戸数三百十戸、半潰戸
数二百六十六戸、死者十一人云々とあり。
要するに、封建時代のれ歴史に支配せられて発達したる都市の常として、城を中心に
士族屋敷あり、外に商業地域ありたるが、明治二年六月二十三日吉田を改めて豊橋と
稱し、同四年七年十四日豊橋藩を廃して縣を置き、更に同年十一月十五日三河各県を
併合して額田県を置かれ、翌五年十一月二十七日終に愛知県に合併され同管内に屬せり。
左に明治年間に於けるちょう町村合併一覧表を掲げて回顧の資とす。
【左ページ】
明治九年 同二十二年 同二十八年 同三十九年
船 町、湊 町、上 伝馬町
八 町、宮下町 八 西八町
川毛町、袋 町 中八町
八幡町、土手町 町 東八町
東 町
関谷町、呉服町、 本 町
豊橋駅 札木町、曲尺手町、 鍛冶町 豊橋町
下 町、指笠町、 松葉町
萱 町、三浦町、 花園町
新銭町、紺屋町、 魚 町
清水町、神明町、 手間町 豊橋町
吉屋町、
中 柴、新銭町、 東新町
西新町、中世古、 談合 豊橋村 豊橋町 七月十六日合併
舊豊橋藩 旭 町、飽 海
羽田村 花田村 花田村 花田村 豊橋市 八月一日市制施行
花崎村
仁連木村 東田村 東田
瓦町 瓦町
田尻村 岩田村
下岩崎村
上岩崎村 岩崎村 豊岡村 豊岡村
手洗村
飯村
三ノ輪村
第一章 第一節 地誌概要 七
【右ページ】
第一章 第一節 地誌概要 八
都市計画区域 市勢の発展に伴ひ、商工業を中心とする現代の都市経営は須らく
組織的にち秩序あらしめざる可らず、茲に於てか所謂都市計画の実施を要望するは、即
ち市民の生活上大に福利を増進する所以なるが故に、本市にありては大正十年七月
臨時都市計画準備委員会を設置し、同十二年三月五日初めて都市計画法適用の請願
書を内務大臣に提出せり。斯くして同年五月二十九日、勅令第二百七十六号を以て、本
市に同法を適用する旨公布せられ、七月一日より実施せらるるに至れり。其後愛知地
方委員会より、区域案を定めて内務省に具申し、次で同委員会は内務大臣の区域設定
に関する諮問に対し本市の意見を徴したる結果、大岩、二川の一部を加へて答申した
るに、終に左の通り決定せらる。
一、豊橋市
一、寶飯郡 下地町
一、八名郡 下川村大字牛川
一、渥美郡 牟呂吉田村高師村大字福岡、字磯部、大字高師の一部(梅田川以北)、大字大崎の一部(梅田川
以北)、二川町大字大岩の一部(梅田川以北)、大字二川の一部(梅田川以北)
右公告す
大正十四年一月八日 内閣総理大臣 加藤隆明高明
第二節 市政機関
市役所 明治三十九年七月三十一日、県告示を以て市役所位置を、豊橋市大字中八
百四十五番地に指定せられ、舊町役場の建物を其儘直に市庁舎に襲用す。之れ現今愛
知県農工銀行豊橋支店の在る地域なるが、其後明治四十五年七月に至り、新築落成し
たる市庁舎に移転せり。即ち西八町三十五の四、三十五番、三十六番合筆地の現位置こ
れなり。
歴代市長
就任年月日 退任年月日 在任年月 氏名
明治四十年一月七日 明治四十五年一月十日 五年一ケ月 大口喜六
明治四十五年二月十二日 大正二年三月八日 一年二ケ月 高橋小十郎
大正二年八月二十九日 大正三年三月二十八日 八ケ月 榊原辨吾
大正三年四月二十七日 大正五年二月二十日 一年十一ケ月 大口喜六
大正六年一月十八日 大正十年一月十七日 満四ケ年 細谷忠男
大正十年二月二十六日 大正十二年八月二十日 二年七ケ月 細谷忠男
大正十三年六月十日 大正十四年十一月八日 一年六ケ月 吉川一太郎
大正十五年八月五日 現任 田部井勝蔵
第一章 第二節 市政機関 九
第一章 第二節 市政機関 一〇
歴代助役
就任年月日 退任年月日 在任期間 氏名
明治四十年一月 十九日 大正二年一月十八日 満六ケ年 永野武三
大正 二年二月 四日 大正二年 十月十日 九ケ月 永野武三
大正 三年五月二十二日 大正七年五月十五日 四ケ年 山本松二
大正 八年十月二十二日 大正十年十日(死亡) 三ケ年 石田甲太郎
大正十四年十月二十九日 大正十五年八月四日 十一ケ月 田部井勝蔵
大正十五年八月二十四日 現任 横田忍
歴代収入役
就任年月日 退任年月日 在任期間 氏名
明治四十年二月六日 大正 二年二月五日 満六ケ年 冨田良穂
大正 二年二月五日 大正 六年二月三日 満ケ四年 冨田良穂
大正 六年二月三日 大正 十年二月二日 満ケ四年 冨田良穂
大正 十年二月二日 大正十四年二月二日 満ケ四年 徳島忠次郎
大正十四年二月二日 昭和 四年二月三日 満満一年四年 徳島忠次郎
昭和 四年二月三日 現任 長岡賢之助
市会議長
当選年月日 退任年月日 在任期間 氏名
明治三十九年十月廿九日 明治四十年一 月十一日 四ケ月 福谷元次
明治四十年一 月十二日 明治四十一年一月十一日 満一ケ年 福谷元次
明治四十一年一月十二日 明治四十二年一月十一日 満一ケ年 福谷元次
明治四十二年一月十二日 明治四十三年一月十六日 一ケ年 福谷元次
明治四十三年一月十七日 明治四十四年一月十二日 一ケ年 福谷元次
明治四十四年一月十三日 明治四十五年一月十二日 満一ケ年 福谷元次
明治四十五年一月十三日 大正 元年 十月十日 十ケ月 福谷元次
大正 元年十月二十四日 大正二年 四月二十九日 七ケ月 小木会吉三郎
大正二年 十一月六日 大正五年 十月二十一日 三ケ年 福谷元次
大正五年 十月二十二日 正大七年 十一月三日 二年二ケ月 福谷元次
大正七年 十一月六日 大正九年 十月二十三日 二ケ年 福谷元次
大正九年 十月二十四日 大正十年 八月二十六日 十一ケ月 大口喜六
大正十年 九月二十日 大正十三年 十月十日 三年二ケ月 金子丈作
大正十三年十月二十五日 昭和三年 十月十日 四ケ年 神戸小三郎
昭和三年 十月二十二日 現任 藤田力作
市会副議長
第一章 第二節 市政機関 一一
第一章 第二節 市政機関 一二
当選年月日 退任年月日 在任年月 氏名
明治三十九年十月廿九日 明治四十年 一月十一日 四ケ月 長坂浅次郎
明治四十年 一月十二日 明治四十一年 一月十一日 満一ケ年 長坂浅次郎
明治四十一年一月十二日 明治四十二年 一月十一日 満一ケ年 長坂浅次郎
明治四十二年一月十二日 明治四十二年十二月丗日(死亡) 一ケ年 長坂浅次郎
明治四十三年一月十七日 明治四十四年 一月十二日 一ケ年 神戸小三郎
明治四十四年一月十三日 明治四十五年 一月十二日 満一ケ年 神戸小三郎
明治四十五年一月十三日 大正元年 十月十日 十ケ月 神戸小三郎
大正元年 十月二十四日 大正五年 十月二十一日 四ケ年 田中田新
大正五年 十月二十二日 大正九年 十月二十三日 四ケ年 大林宇吉
大正九年 十月二十四日 大正十三年 十月十日 四ケ年 鈴木五六
大正十三年十月二十五日 昭和三年 十月十日 四ケ年 藤田力作
昭和三年 十月二十二日 現任 一 金子本市郎
市会議員
水道布設に就ては、議員の任期左の如く三期に分る。
一、準備調査開始当時の議員。 (大正十三年十月満期)
二、計画実施当時の議員。 (昭和三年十月満期)
三、竣工当時、即ち現議員。
◇大正九年十月総選挙にて当選 (三級十日、二級十一日、一級十二日)
三級
久野 茂 堀端房一 佐藤彌平 三浦源六 白井貞次郎
藤田力作 長坂浅太郎 榊原瀨一 安藤角次郎 黒川壮次郎
黒柳清次 鳥居為三郎
二級
片山常太郎 野澤藤五郎 本田卯三郎 岡田實 杉浦福太郎
加藤發太郎 辻村喜代作 長岡賢之介 羽田野仙吉 鈴木松太
村上芳次郎 金子本市郎
一級
斎藤彌八 山本平八 大口喜六 金子丈作 河合兵十
鈴木伊右衛門 服部彌八 伊東治郎 大場恒治郎 小山信
中村寅吉 鈴木五六
◇大正十三年十月総選挙にて当選 (二級十一日、一級十二日)
二級
大口喜六 加藤勘吉 丸地幸之助 鈴木五六 金子本市郎
黒柳清次 村田義直 榊原瀨一 松尾幸次郎 彦坂庄五郎
住野楽三郎 近藤市郎 大場恒治郎 藤田力作 佐藤彌平
第一章 第二節 市政機関 一三
第一章 第二節 市政機関 一四
安藤角次郎 青山嘉市 近藤竹次郎
一級
野口泰一 三浦源六 中谷精 原田万九 神戸小三郎
大森俊洽 小木曾丈三郎 光島政次郎 野澤藤五郎 牧寿一
加藤發太郎 片山常太郎 浅井順次 内山栄次郎 向坂助吉
小川鹿三 石田又市 村上芳次郎
◇昭和三年十月十日総選挙にて当選
熊田嘉平 原田仙二郎 村田義直 大場恒治郎
大林勇 野澤藤五郎 金子本市郎 遠藤猶次郎
中村為太 長尾俊 丸地幸之助 長畑善藏
内藤太郎吉 藤田力作 白井福太郎 柴田新八
石田又市 三浦源六 仲田充治 山本一二
近藤竹次郎 榊原瀨一 宮津隆二 松尾幸次郎
小笠原博通 加藤勘吉 彦坂只一 神戸小三郎
山本満平
備考 宮津隆二辞職 小山信補欠当選次で死亡
第二章 水道概説
第一節 水道事業沿革
起 因 水草を築逐へる原始時代より文化生活の現代に至るまで、人工給水の方
法は先づ井を掘りたる外に、西紀前三一二年ローマ市に於て既に導水橋を築ける事
あり、其後十九世紀の中葉に至り、科学の進歩機械の発達加ふるに社会の衛生思想の
鼓吹せらるゝにありて、水道事業は完成の域には発達せり。我国に於ては江戸の玉川上
水、神田上水の功労者に、玉川の姓を賜ひ主水の名に改めしめたるは周知の事なるが
所謂完全なる水道は、明治二十年横浜水道の竣工を以て嚆矢とす。爾来四十年明治、大
正の間に全国七十有余の市邑に於て起工せられ、本市民の苟安を許す能はざるに至
りしは、天時の推移して、人和を促す機運の熟したるに因る。遠因は即ち此に存す。
風 土 東海道地方は、北に山を負ひ南は海に面するが故に、海洋の影響頗る多
大にして、島嶼性気候の優良なる関係明に現はる。実に自然地理の上より、陽光と温熱
に恵まれ加ふるに暖流の齎す濕気のために、動植物の生育に適したる地方として、天
第二章 第一節 水道事業沿革 一五」
第二章 第一節 水道事業沿革 一六
與の幸福を享くこと尠からず。本市の如きは渥美湾の沿岸に在りて豊川の清流に臨
み、古来天変ちい地異極めて少なく、有数なる健康適地として全国に知られ他より来りて
永住するものあり。夙に交通の要衝に当れる当市として聚落ちの発達著しく、更に産業
の振興によりて人口の密度高まれる今日まで、保険衛生の重要施設に対し聊か閑却
せし嫌あるは蓋し風土の関係無きに非ざるべしべし。
用 水 飲用の水の良否は直接指市民のほ保健衛生に重大なる関係を有するが故に、
井水の水質試験成績に就いてはとく特に留意せざる可らず。然るに最近のちょうさとう調査統計を缺け
るを以て、左に大正三年の検査成績を示さん。
検査のかい開始は大正三年七月十一日にして、毎日凡そ五百個の予定により同年八月
一日に終れり。
検査総井数 適 不適 煮沸スベキモノ 濾過スベキモノ
五、一一五 九七九 一、〇五一 三、〇六四 二一
欺かる成績を得たるは、地質のか関係する所多大なれば別項に記せる農商務技師大
井上義近調査の本市地下水地質の条を参照せられたし。
本市の井水は水質は既に良好ならず、加之毎年三四月の頃には井水涸渇して用水の
缺乏に苦しむものあり、特に近時人口の増殖に伴ひ、使用水量倍加するも、下水道の設
備日完全なると、汚物屎尿の取扱また舊習の儘なるとに依りて、井水の水質良好なるも
のも次第に不良化し、今や消化器伝染病は慢性的に増加し、腸チブス、赤痢の発生等所
謂都市の通弊を見るは最も遺憾とする所なり。
茲に一言付記すべきことは、特に衛生を重ずる軍隊にありて、陸軍用水道を施設し
たること之なり。即ち第十五師団の明治四十一年十一月に設置されるゝや、特に陸軍用
の水道計画を立てられ、市内飯村町の字高山の山腹一萬二千五十三坪の山林に據り
堰堤を築き、原水貯水池の設けられしは明治四十五年三月のとこなり。
私設水道 東三地方に於ける水道の濫觴は、前記陸軍用のものなるが、愛知県とし
ては既に明治四十二年に起工したる名古屋市水道のあるあり。此水道は大正三年三
月竣工せしが本市に於ける井水検査は、恰も此年に行へるなり。斯くて欧州戦乱中は
水道問題を顧るの遑だに無かりしも、大正九年に至り、福澤桃介外拾壱名より私設水
道布設の出願ありしを機とし、茲に調査研究の歩みを進むるに至れり。今其の経過の大
要を左に示さん。
第二章 第一節 水道事業沿革 一七
第二章 第一節 水道事業沿革 一八
〇大正九年五月十七日 豊橋水道株式会社を組織し、水道条例第二条例第二条但かき書及等三条に依りて、私設
水道布設許可申請をないむ内務大臣床次竹次郎宛提出す。
〇同年六月二十九日 本県内務部長より前記す水道布設に対し、市会並に市長の意見を徴せらる。
〇九年八月二十日 し市長は右水道布設の本市に於ける支障有無を諮問し、市会は調査委員付託
とす。
〇大正十一年二月二十六日 細谷市長は右水道布設に関して市会の意見を諮ふ。
〇同年三月十六日 市会議長金子丈作より水道布設支障無き旨答申あり。
〇同十一年四月十八日 内務部長より、当該会社の資力が水道布設に堪ふるや否やを知悉し得べ
い、現在及将来の各般事業計画を案したる財政状態の具體的調書其他将来の見込書提出の照会に
接す。
〇大正十二年五月七日 内務部長より前記の照会に対して督促あり。
斯くて右の水道布設の件は、申請の日より満三年を経るも未だ予定の進捗を見る
能はず、茲に一轉して市は都市計画の見地より市直営の得策なるを認むるに至り、遂
に大正十二年七月十九日、内務部長に対して本市水道は市営とするこに意見の決
したる旨回答し、新局面に向つて直進することなれり。
地下水・地質調査 本市上水道水源として地下水利用に関する地質調査を為す。
大正十三年八月二十日、前記地質調査の為め、農商務省地質調査所長井上禧之助
宛技術者派遣方を申請す
同年八月三十日、農商務省鑛山局長宮内国太郎より農商務技師大井上義近を派遣
する旨通知あり。
同年十月三日付宮内鑛山局長より右調査復命書を移送し来る。左に其抜粋を掲ぐ
豊橋市地下水地質調査報文(抜粋)
三、地 質
甲、洪積層 ハ豊橋市及其東南部の丘陵地ニ発達し膠結不十分なる礫及砂の互
層より也り水平に成層す屢褐鐵鑛の小塊若くは薄層を介在す礫は硅岩粘板岩砂岩
頁岩辺麻岩花崗岩等を主とし胡桃大より拳大まてのものを普通とし稀に頭大のも
のあり概して扁平にして水平に配列す砂は上記諸岩の細片にして灰色乃至褐色を
呈す
工兵第十五大隊西側及豊川の断崖に露出する地層は左の如し
第二章 第一節 水道事業沿革 一九
第二章 第一節 水道事業沿革 二〇
工兵第十五大隊
【地層詳細名】
尺
褐色砂質瀘拇 3.0
褐色細井砂 2.0
礫及砂nの互屑(偽層を呈す) 15.0
褐色粗砂 5.0
礫の層(薄き砂層を含む) 10.0
豊川
【地層詳細名】
尺
礫及砂 15.0
市内牟呂用水路を距て談合町の東方低地に新築中なる小学校及び市の西端大字花
田清水製絲会社工場の試錐標本は左の地質をs示せり。
小学校
【地層詳細名】
尺
褐色瀘拇 3.0
灰色細砂 4.0
礫及砂 2.0
緑灰色細砂 3.5
礫及砂 1.0
褐色含雲母細砂 13.5
硅岩礫 1.0
灰色含雲母細砂 29.0
黝色細砂 12.0
灰色硅岩礫 1.0
黝色細砂 8.5
黄色含雲母砂 2.5
灰色粗砂 3.0
黄色粗砂 3.5
藍色細礫 7.5
黝色細砂 12.0
黝色粗砂 12.0
清水製絲会社工場
【地層詳細名】
尺 厚さ不詳 174.0
黝色腐植土
灰色細礫
黄色細砂
礫及砂
黄色粘土
黄褐粗砂
石英砂
黄色粗砂
灰色礫
洪積層は略水平に成層せるを以て地形上高所に位する工兵第十五大隊のもの最
上部にして豊川、小学校、清水製絲会社工場等の順序に其下層を示すものなり後二者と前
二者との関係明ならされとも前二者は洪積層の上部にして小学校の上部洪積層の
下部に屬し其下部及清水製絲会社工場柱状図の下部は第三期層に屬するものに非
るか後日の研究を俟たん
乙、沖積層 は豊川の沿岸及柳生川上流低地及豊橋市西端部に発達し礫、砂、粘土
等おり成る礫は硅岩、片麻岩、片岩、花崗岩及玢岩を主とし頭大以下なり砂は上記岩石
第二章 第一節 水道事業沿革 二一
第二章 第一節 水道事業沿革 二二
のさいへんな細片なり粘土は砂質にして黄褐色なるを常とすれとも市の西部低地には有機物
を含有し褐黒色なるものあり礫及砂は相混してk川床を成し豊川橋下にては橋脚深
さ四十九尺(川床より深く)まては此等砂礫なりと云ふ猶すな砂は海岸に堆積し厚さ数尺に
達す豊橋市西端大字花田に於ては厚さ数十尺の腐植質粘土地表に堆積す
四、地 下 水
洪積層砂礫層中には褐鐵鑛の小塊若くは薄層を含有し寠砂およ及褐色に染む故
に該当層中aに鑿井せるものは概して井水赤褐色を呈するを常とす即ち不良水の大部
分は此種のものゝ若くは低地の腐植土中のものに属し煮沸するか或は濾過を要する
ものなり加ふるに排水設備不完全なるを以て浅井々水は多く飲用に適切せす
市内の地質は上述せる如く膠結不十分なる砂若くは礫なるを以て地上水或は川
水は容易に地中に浸透し得へし故に河水の容易に参入し得へき川岸若くは低地に
或る沖積土の浅井々水は一般に不良と稱すへし
市内の水位は(中央部海抜二十三尺乃至二十七尺)には二十尺乃至二十四尺東部なる旭町
瓦町及東田の丘陵地(海抜六十尺乃至六十八尺)には三十一尺乃至四十二尺五寸豊橋停車
場以西の大字花田(海抜二十五尺)には九尺乃至十三尺市の北西部に位する松葉小学校
付近(海抜十尺)の低地には二尺乃至四尺なりとす
由是観之水位は平地に最も低く丘陵地に高し而して市内中央部の水位は略河水
面に等しく市の東部及停車場付近は河水面上十二尺乃至三十尺上位に存すること
を知るへし而して井水の性質は概して深井のものを良好とす
豊橋市には深さ二百尺以上の水井三個あり其下底地質は標本無く又柱状地質断
面図保存せられさるを以て明かならさるも一井は市の東方向山に在る石川組製絲
場高距六十四尺の工場内にありて深さ三百六十尺(海面以下二百九十六尺)あり今回其湧
出量を検せしに毎分三・一立方尺(一日六百七十石)湧出し水質良好なり他に二井は市の
西端大字花田日東製氷会社高距十尺の工場内にありて約五間を距て深さ各二百七
十尺(海面以下二百六十尺)あり一日各井より五百石を揚水して涸渇せしことなしと云
ふ又之に隣接せる清水製絲会社にては深さ百四十四尺の水井より毎日約千石の良
水を汲み取り使用すと云ふ其他百尺以上の水井数多ありと稱するも小官の臨検せし
ものにして稍量の良水の湧出するものは左の如し
所 在 地 深さ 一日使用料
山本為三郎(製絲場) 東田舟原四十八 一五〇尺 二四〇石
第二章 第一節 水道事業沿革 二十三
第二章 第一節 水道事業沿革 二四
山本辰蔵(湯屋) 旭町大字旭三百二十五 一〇八尺 二五〇石
向坂富作(湯屋) 吉屋町三十四 一四四尺 四〇〇石
白井繭周旋所 新停車場通 一三二尺 二一六石
小松製絲場 大字花田手棒三十五 一五〇尺 六〇〇石
服部彌八(醤油製造所) 船町百二十 一〇八尺 二〇〇石
要之帯水層は海面下七十五尺乃至百四十尺及二百五十しゃ尺乃至三百尺間に存在す
るもの、如し而して水質は豊橋市豊橋衛戌病院の分析によれは何れも良好なり
水種╲水質 清濁 色 臭 味 浮遊物 反応 アムモニア 亜硝酸 硝酸 クロール 《割書:カメレオ|ン消費量》 硬度《割書:獨|乙》 判定
石川製絲水 清澄 無 異臭不認 異味不認 痕跡 微酸性 不認 不認 不認 一八、四三九 二、五二八 一、一五〇 良水
山本せ製絲水 〃 〃 〃 〃 〃 中性 不認 不認 不認 一二、七六五 一、二一三 一、〇五〇 〃
小松製糸水 〃 〃 〃 〃 〃 〃 不認 不認 不認 一八、〇八四 一、六四三 一、五五〇 〃
清水製糸水 〃 〃 〃 〃 〃 〃 不認 不認 不認 一三、一〇〇 一、二〇〇 〇、九四〇 〃
日東製氷原水 〃 〃 〃 〃 〃 〃 不認 不認 不認 一四、八九三 一、二六四 一、四五〇 〃
日東製氷井水 〃 〃 〃 〃 〃 〃 不認 不認 不認 一二、四一二 〇、七八〇 一、四○○ 〃
上記水井の外豊川川岸に於て歩兵第十八連隊の水井は川水面より約十二尺深し
是川水の伏流を収集するものにして同連隊にては之を濾過して簡易水道を設け飲
用に供せり衛戌病院検査表左の如し
清澄 無色 無臭 無味 中性 浮遊物-極微 硝酸ー痕跡 「クロール」一五、〇
硬度ー二一 「カメレオン」消費量ー一、二六四
港町附近及歩兵第十八連隊井水は夏季多少の鹹味ありと云ふ恐らく満潮時に豊川
に沿ひ逆流せる海水か川岸の砂礫層中に滲入し鹽分を沈殿せしめたる結果なるへし
五、結 論
豊橋市は愛知県の一大工業地にして現今人口約七萬あり大正二年以来の調査に
よれは人口の増加率一カ年平均二分七厘なるを以て都市計画に従ひ附近の五ケ町
村を合併せは三十年後には恐らく二十萬に達すへし
豊川の東部及南部に蜿蜒連亘せる丘陵地は高師ケ原にして高距六米乃至四十米
を有し西方に低くして漸次東方に高し豊橋市は該丘陵地の一端豊川の南岸に位し
高距三米乃至八米あり地質は礫及砂の互層より成る洪積層及礫砂及粘土より成る
沖積層にして洪積層は丘陵地に沖積層は川床及川岸に発達す洪積層中には往々褐
鐵鑛存在し砂及礫を染色し褐色ならしむ
豊橋市井水は多く此褐鐵鑛を含有する砂礫層中より得らる、もの多きを以て従
つて井水の褐色を呈せるは免れ能はさるところなり単に鐵分を含有するのみなら
第二章 第一節 水道事業沿革 二五
第二章 第一節 水道事業沿革
す低地の井水は多量の有機物を含有しすい水質甚た不良なりとす大正三年のちょうさ調査に
れは良水井は市内総井数僅かに十九「パーセント」にすぎ過ぎすと云ふ検するに深井々水は
概して良質にして湧水量も亦多きもの、如し即ち大字向山石川製絲場の如きは
深さ三百六十尺の水井より毎分三、一立方尺(一日二十四時間六百七十石)湧出し大字花
田日東製氷会社にては深さ二百七十尺の水井より一日(十時間)五百石の良水を又隣
接せる清水製絲会社工場にてはふ深さ百四十四尺の水井より知日(十時間)約千石の良
水を汲上け之を使用せりと云ふ其他一日十時間に二百石以上使用せる井数少から
す本調査地の如きは地層水平にして平地に於ける下底地質を窺ふ能はさるも良水
井の深さより考察するに地下七十五尺乃至百五十尺乃至三百尺間に
良好なる帯水層の存在を想像するを得へし
多数の市民に良飲用水を供給せんか為め地下水を利用して水道を設けんと欲せ
は地形上水源地を市の西方低地に求むるよりは寧ろ東方高地を選定するを便とす
而して地下地質及既堀水井は湧水量より推測するに市の西部低地に発達する礫及
砂の互層は市の東方にも広く布衍するものゝ如し浜松市の地質は概ね砂及礫の互
層にして深井より湧出する井水は良質にして其量の豊富なるか如く本市附近に於
ても恐らく地下に相当の良水ありと信す故に当市豊川南岸に於て牛川渡船場以西
の水田地及牛川部落の南部の二箇所に試錐して地質を調査すると共に水質及水量
を検し其結果を埃ち水源位置を決定せんことを希望す
第二節 水道施設
市営水道 大正九年以来講究せられたる本市水道問題が、漸く常道に轉回し茲に
明治二十三年法律第九号公布の水道条例の原則に基き、断然市の公共事業となし公
費を以て水道布設決行の合理なる所以を明かにせしより、吉川市長は大正十三年七
月二十一日、水道費金壹千圓の追加予算を市会に提案し、先ず水源調査を始むべき旨
を説明せしに、幸に市会は之を可決せり、依りて農商務技師の派遣を請ひ、水源として
地下水利用に関する地質調査を行へり。其報告は別項記載の如し。超えて大正十四年
四月十四日、更に上水道調査費金五千五百三十五圓の予算は、要求通り市会の可決す
る所となり直に西大條覺を顧問に依嘱し、関係義技術員を招聘す。同年五月二十二日、土
地立入測量の件許可せられ、爾来立入測量及び採水検査・流量観測・実施計画等に従事
第二章 第二節 水道施設
第二章 第二節 水道施設 二十八
せしが、同十四年十一月八日吉川市長の退任に由り、新任市長代理田部井助役は当面
の一大要務として鋭意位専心調査を促進したる結果、翌大正十五年に亘りて調査完了
を告げ、別項所載の計画報告書の提出を見るに至れり。
計画報告書 計画設計に関する実務に従事せし志谷百中、中瀬萬次郎の二氏及び
援助として後藤半次、岩田廣三郎、石黒常次の諸氏が、こも顧問西大條覺の指示と技師長崎
敏音の督励により、比較的短期間に設計全部を完成したるを以て、之に関する計画説
明書其他関係書類・図面を一括し、大正十五年五月二十五日、長崎土木課長より市長代
理に宛て報告書として提出せり。これやがて市会に提案さるべき基本なるが、今その
報告中の水道計画説明書に就き緊要なる諸點を轉載すれば左の如し。
豊川市上水道計画説明書
(端言十二頁省略)
一、水源の選定
上水道計画の良否を論ずるには其の水源選定の可否を研究するのが最捷徑であ
りますが、本市上水道の選定に於きましても近世何れの上水道計画にも先づ研究さ
るゝ地下水に依るの可否と其の経済上の得失との調査研究を施行しました。蓋し若
し一水源を地下水に依るを得るとせば工費に於て贏得する所が僅少でないが為め
であります。
然るに本市及び本市於かれては之が調査研究の資料たるべき一般地質
の調査資料が未だ農商務省に於ても一回も決行されて居ない関係上其の詳細を知
悉しえなかたつたものですから、止むなく其の調査を同省鉱山局地地質調査所に委託し
ました結果同所の勅任技師大井上義近氏の出張調査がありまして大體の指示があ
りましたけれども新に鑚孔調査の必要を従って相当の経費を要するの関係上更に
研究の結果は、豊川内に於ける伏流水の僅少ならざるものあるを観取しましたから
叙上の地下水に水源を需むることは全く断念することに致しまして八名郡下川村
大字西下條字三の下地先に於ける豊川筋の河底地下へ埋設する集水埋渠管に依つ
集て水する伏流水を以て水源とすることに決定したのであります。蓋し豊川の流水
が清く且つ豊富に四時涸渇するなく流下しつゝある現状より見ましても本市上水道
の水源として誠に当を得たる選定方法と信じて毫も疑はざるものであります。況ん
や其の水質が別表に示されてある試験表の如き結果でありまして上水道水源とし
て完全の成績を呈しておりますに於てをやと思ひます。
第二章 第二節 水道施設 二九
第二章 第二節 水道施設 三十
上水道水源として伏流水の採用はさい最近の水道計画には漸く研究せらるゝもの多
きを加へ來つたものでありますが之が利益として挙ぐべき特徴が二つあると思
ひます。即ち其の一つは水量が比較的地表水に比べて均一を保つことであります。又
一つは地表水の如く表面流水でありませんから塵埃等の浮流物の混流がありませ
んが故に地表水によ依る上水道水源の如く一且沈澄毛を通過せしむるの煩が省略で
きることであります。つまりこと言葉を換えますれば伏流水は不完全ではありますが、集
水井に入るまでに一且地下を濾過して来ますから更に之を地表水水道の如く沈
澄池に導き荒濾するの必要がありませんのと、猶又濾過速力を比較的速めることが
出来ますが故に隨つて是等に要する大きな設備が永久に省略されることでありま
す。
二、浄 水 場
以上の如く幸に伏流水に依る水源地を選定し得ました関係上之を原水を濾過
し所謂浄水を給水場へ導水しまする送水管の延長を比較的短略することが出
来ました。即ち送水管の延長は僅かに三十三町で済みました。之れ蓋し本上水道布設
工費の低廉なる一の理由であります。
三、給 水 場
給水場の選定も亦上水道の計画の可否を左右するは勿論で之れが選定宜しきを
得ねば永久に於いて不利益を蒙るのであります。幸に同郡石巻村大字多米地内に於け
る高地を以て之に充つるの計画を樹てえましたから同所より全給水区域へ自然
配水が容易に行はれて亦水厭も相当に贏ち得られるのであります。
四、給 水 区 域
給水区域は市内は岩田町の一部岩崎町飯村町の一部は何れも近き将来に於ては人口稠密を期待し得られざるものと認めましたから、此の部分を除きました外の全
市及び下地町大字下地の市街地を以て之が区域と定めました。蓋し下地町は豊川
を隔てると雖も本市とは密接の商取引も多い関係もありますし又交通往来共何等
市と異なるものがないのでありますから同町の希望を容れて給水区域に編入しま
した。
五、設計基本の人工等
豊橋市及下地町に於ける上水道の全給水区域の人口は大正十四年末現在約八萬
第二章 第二節 水道施設
第二章 第二節 水道施設 三十二
でありますが此の毎年の増加率と軍隊並に接続町村の給水希望をも考慮しま
sして給水基本人口を拾六萬に増加給水すべき第二期拡張工事の実行あることの考慮を設計計
画中に入れました。
六、工期及給水開始期
工期は主として財政の按配を考慮しまして四か年の継続事業と致しましたが之
れが給水開始期は其の一部は工事中たる第四年目より開始の込であります。
七、財政計画
本市上水道施工の経費は水源の選定宜敷を得ましたが故に極めて低廉に見積る
ことを得たるは特に記述すべきことゝ信じますが其のそ総額は金参百八萬八千百五
十五圓であります。今之が内譯を示しますれば左の如くであります。
一金参百八萬八千百五十五圓
内
金弐百六拾九萬圓
金参拾九萬八千百五拾五圓
工事費内譯
金五萬九千師四百八拾圓
金拾壱萬四千五百さ参拾く九圓
金弐拾九萬六千六百七拾圓
金拾五萬八千八百七拾五圓
金拾八萬七千六百八拾圓
金百弐拾萬九千百九拾五圓
金五萬四千参百五拾壱圓
金六萬壱千五百圓
金弐萬四千壱百圓
金参萬弐千五百圓
金壱千百六拾参圓
金拾萬四千四百九拾圓
金弐拾六まん萬四百八拾六圓
金拾弐萬四千九百七拾壱圓
之れが事業年期中の財源には国庫補助により金六萬圓を県補助により金六萬圓
一般市費の繰入より金拾五萬八千弐百拾九圓を雑収入金九萬壱千百六圓を給水料
金弐萬八千八百参拾圓により之れに充当し残額弐百六拾九萬圓は之れを市債に需
第二章 第二節 水道施設
第二章 第二節 水道施設
むる計算であります。但し市債償還期限内に受くる予定の国庫補助の総額は金六拾
s七萬弐千圓で同県費の補助金見込額は金五拾参萬八千圓のつもりに計算してあり
ます。
継続年期の毎年支出額は左の予定であります。
金参拾四萬八千百弐拾参圓 大正十五年度支出
金百拾八萬壱千百七拾圓 大正十六年度支出
金九拾六萬六千四百八拾七圓 大正十七年度支出
金五拾九萬弐千参百七拾五圓 大正十八年度支出
水道布設案可決の市会
設計全部の完成により大正十五年五月廿五日、水道計画報告を受けたる市当局の
態度は一層緊張し、翌六月三十日、水道関係の幾多重要議案を市会に提出するに方り
市長代理は深く決意する所ありて、此機を逸せず一気に可決通過せしむべく努力し
たるに、快く市会の協賛を得多年の懸案首尾よく解決したるは、真に市会の歴史を飾
るに足らん。当日の議決事項左の如し。
一、水道布設認可申請の件
一、水道事業経済を特別会計となす件
一、水道費総額参百五萬八千七百五拾弐圓
一、布設資金弐百六拾九萬圓起債及償還方法の件
一、水道費歳入歳出予算の件
一、水道給水規制設定の件
大正十五年七月十二日、此日左記の通り書類を進達す。
一、内務大臣宛 水道布設認可申請・水道給水条例許可稟請
一、内務・大蔵両大臣宛 水道布設起債稟請・水道布設国庫補助稟請
一知事宛 水道布設費四か年継続費申請・水道布設工事県費補助申請
次で同年八月四日、水道布設費継続費を定むる件許可せられ、同年十二月十日、内務大
臣より愈々水道布設の件許可せらる。翌昭和二年二月十六日、起債の件更生して許可
世らるゝに及び、水道事務を開始すべく
〇同二年二月廿六日 豊橋市臨時水道委員設置規定の議決と共に、臨時水道委員十八名を
選任す。
〇同年三月十八日 臨時水道部庶務規定を発布し、市役所内に、臨時水道部を設置せり。
第二章 第二節 水道施設
第二章 第二節 水道施設 三六
設備大要 左に簡明なる統計表を示す。
第一 工事、工費竝規模
創設 起工年月 昭和二年八月
竣工年月 昭和五年三月
工費 二、六九〇、〇〇〇
計 画
予定給水人口 一二〇、〇〇〇
予定一人一日平均給水量 一一二リツトル
極度一日総給水量 一三、四四〇立方米
備考
第二 水源、水路
其二 水 源
河又は湖沼等の名称 豊川
表面水、伏流水地下水等の区別 伏流水
最大渇水時季水量 三〇〇毎秒リツトル
取入方法 喞筒揚水
備考
其二 鑿 井
個数 三
口径 七寸
六尺
二尺五寸
井の深
六、四米
七、三
一二、五
一晝夜最大水量
立方米
一晝夜最少水量 備考
立方米
備考
其三 導水路
取 入 並 導 水 路
隧道、暗渠、開渠、鉄管、鉄筋コンクリート管等の区別
鉄管
総延長
三、六一六米
上幅
下幅
水深
水管延長内訳
五百耗以上
三、六一六米
四百耗以上五百耗未満
四百耗未満
備考
第三浄水場
其一
池数
四
総面積
四、〇三〇平方米
一池の大さ
長
上部 三九、三九米
下部 三九、二一米
幅
上部 二五、七六米
下部 二五、五八米
総深 二、八八米
濾床厚 一、五二米
一晝夜濾過速度 四、五五米
備考
其二 浄水池
池数 二
総容積 四、四五三立方米
一池の大さ
長
上部 二三、九四
下部 ー
幅
上部 二三、八八
下部 ー
有効水深 四、〇九
備考
第二章 第二節 水道施設
第二章 第二節 水道施設
第四 喞筒
其一 取水喞筒
臺数 四
名称 渦巻喞筒
型式 竪型
原動力 電気
製造所名 荏原製作所
一臺の効率 三八キロワット
最大揚水落差 二九米
一臺一晝夜の最大揚水量 六、六六二立方米
備考
其二 送水喞筒
臺数 四
名称 タービン喞筒
型式 横置型二段片吸込式
原動力 電気
製造所名 西島製作所
一臺の効率 三〇キロワット
最大揚水落差 三二米
一臺一晝夜の最大揚水量 四四八〇立方米
備考 浄水を配水池に揚水用
第五 水管竝壓
鉄管木管鉄筋コンクリート管等の区別
配給水管延長
千二百耗以上 - 鉄管 三百耗以下 五四六米
千百耗以下 - 鉄管 二百五十耗以下 一、三六五米
九百耗以下 - 鉄管 二百耗以下 六二三米
八百耗以下 - 鉄管 百五十耗以下 二、五四四米
七百耗以下 - 鉄管 百耗 九、五八〇米
六百耗以下 - 鉄管 百耗以下 三、六七八米
五百耗以下 二、四七九米
四百耗以下 一、一〇七米 鉄管 計 二一、九二一米
一平方糎水壓
設計 二、六〇瓩
実際最低 二、五〇瓩
実際最高 五、五〇瓩
備考
第三章 工事計画及準備
第一節 実施設計
稟請及認可 上水道布設問題は大正九年以来、企画調査せられしも、愈々布設認可
に至る経過を示せば
〇大正十五年六月三十日、本市会の議決に「本市に水道を布設するものとす」とあり。
〇同年七月十二日 水道布設工事認可を稟請す。
〇同年十一月二日 水道布設認可稟請追申を提出す。
〇同年十二月十日 内務大臣より水道布設の件認可せらる。
豊橋市水道布設工事認可稟請
本市現在の飲料水に埃つもなるも其の大部分の水質は善良ならず、
其の原因は、本市の地質の大部は洪積層砂礫層にして其の層中には褐鐵鑛の小塊若
くは薄層を含有する結果、砂及ひ礫は寠々褐色に染む、従って井水は赤又は褐色を呈
するもの多きに依り飲料水としては煮沸又は濾過を要するもの多きを算するのみ
第三章 第一節 実施設計
第三章 第一節 実施設計
ならず、毎年三、四月の時期に於ては井水全く涸渇するもの多く、多数市民は之れがた
めに非常なる困難を感ずるの状態に有之候、殊に近時人口の増殖に伴ひ、使用水量の
増加とと共に排泄下水量のぞ増加せるも、未だ完全なる下水道の設備なきに依り、自然排
泄不完全なるの結果、汚水は地下に浸透し、為め従前隅佳良なりし井水も、漸次変
化して不良に陥る傾向有之、衛生上頗る憂ふべき状態を呈し居候、尚又本市は水利の
便に乏しきに依り、一朝火災の場合に於ては消防用としても井水を利用するのほか外な
きも、井水の分量充分ならざるため、之が使用に堪ふるもの極めて少k少きの有様なるを
以て、其の都度災禍を大ならしむる憾みも有之候、茲に於て本市の水道布設は一日も
忽諸に附す能はざるものあるを以て、今回水道布設施工方本市会の議決を經候に付、
水道布設並に工事実施の儀至急御認可相成度関係書類並に図面相添へ此段稟請候
也
大正十五年七月十二日
豊橋市長代理助役 田部井勝蔵
内務大臣 濱口雄幸殿
右稟請は、水道条例第三条により地方長官を経て進達せられたるが、五か月の後に至
りて認可せらる。
内務省愛衛 第五二号
愛知県豊橋市
大正十五年七月十二日附豊水第一号申請水道布設の件認可す
大正十五年十二月十日
内務大臣濱口雄幸
此認可指令と同時に、愛知県内務部長より左記の依命通牒に接す。
土第五〇三七号
大正十五年十二月十五日 愛知県内務部長
水道布設の件依命通牒
本年七月十六日附豊水第一号を以て標記の件申請の處左記の通措置するものとし
て別紙の通指令相成たる趣其の筋より来示の次第も有之候条御了知相成度候
追て本件工事施工の為町村道、水路等の附替変更を要する箇所及河川法準用河川
豊川国道府県道にかんけ関係する箇所に関しては具体的設計を定め夫々実施前相当手
第三章 第一節 実施設計 四一
第三章 第一節 実施設計
續を被經度為念申添候
一 左の事項取調改めて全般に亘る実施設計を樹て工事着手前予め内務大臣の認
可を受くりこと
イ 濾過池及其の附属こ構造物を豊川に氾濫区域外に設置する様考慮すること
ロ 勢力及材料の単価中高価に過くるものあるに付再調おこと
二 工事は起債許可後着手のこと
豊橋市水道目論見書
第一 水道事務所の所在地
豊橋市西八町三十五の市四《割書:三十五番|三十六番》合筆地
第二 水源の位置は八名郡下川村大字西下條字三の下豊川本流伏流水を導水引用
す
水量及水質、別紙説明書の通とす
第三 水道線路は、前記下川村大字西下條を起点とし石巻村大字多を経て豊橋市
に達す
線路に沿ひたる地名は八名郡下川村大字西下條大字牛川、石巻村大字多米、豊橋
市とす
第四 給水区域は、豊橋市全部(岩崎町及岩田町飯村町の各一部を除く)及ひ飯寶郡下
地町大字下地全部とす
給水人口は、七萬九千四十人(大正十四年現在)にして、第三師団市内駐屯部隊約一
千四百八十名を合算す
給水水量は、一人一日の最大量を四立方尺と為す
第五 人口増殖及多量の水を用ふる製造場に対する給水増加の見込
人口増殖の割合は、別表の通にして尚水道完成後益々増殖率多きを予想し第一
期給水事項を拾弐萬人とし、第二期給水予定人口を拾六萬人と定め後日拡張を
為すに不便なる工事は最初より凡て第二期人口に依り設計す
第六 水壓の概算は、有効水壓七十尺乃至百一尺とす
第七 工事方法は別冊設計説明書の通とす
第八 大正十五年九月起工準備に着手し、竣工は昭和五年三月の見込とす
第九 工費総額金弐百六拾九萬なり
第三章 第一節 実施設計
第三章 第一節 実施せ設計 四四
第十 給水料徴収の方法並に経常収支概算は別表の通りとす
豊橋市水道設計説明書
第一 一般計画
豊橋市水道は右岸愛知県寶飯郡、左岸八名郡及豊橋市の境界を貫流する豊川の
伏流水を水源として、豊橋市を距る約一里余の八名郡下川村大字西下條三の下地先、
同川本流の河底に集水埋渠を構築し、同河畔の送水場送水喞筒井に導流し、同所より
新設送水管路県道村道を経て、東南三十三町を距る八名郡石巻村大字多米に設置
する濾過池に揚水して浄水となし、同所内の高揚喞筒を以て浄水場の東八拾間を距
るため多米の高地に設置する給水場内配水池に送り、此れより軽量室を経由して自然流
下法に依り豊橋市内及び隣接地に配水す。
一水源に於ける水量
豊川取入口付近に於ける伏流水量は、到底精確なる調査を遂くる能はずと雖も、同
川流域の廣袤及び河床地質並に地表河水の流量、上流に於ける表面流量の比較等よ
り本川伏流水のすくなからざるを認知するに難からず。而して本水道用水量は、人口
拾六萬内外に達する時期に於ても、砂洗用其他の消耗水量を含み、毎秒九立方尺以内
なるを以て、前記伏流水の一部を引用して充分なりと信ず。且つ下流に灌漑用水無き
為め、是等に支障を興へざる而己ならず其他の飲用水にも何等の影響無きものとす。
二、水源に於ける水質
本市水道の水源たる豊川は、其源を愛知県北設樂郡段戸山に発し、其の上流々域
内には田口、海老、大野、長篠、新城等の小市街地あるを以て、多少の汚水を流入すべしと
雖も、本市水道は豊川本流の礫、砂利、砂屑を通過して成る簡単の濾過作用を経たる伏
流水なるが故に、漑して清浄なる見込みなり。尚水源地に於いて採取せつ本川表流水の
水質試験は、本市伝染病院並に陸軍衛戊病院に依嘱し、分析並に検鏡を為せる結果は
左表の如き良好の成績を得たり。
水質試験成績表
豊川筋牛川地先
H.H.ハ満潮時の上部 L.H.ハ干潮時の上部
H.C.ハ 〃 中央部 L.C.ハ 〃 中央部
H.L.ハ 〃 底部 H.L.ハ 〃 底部
第三章 第一節 実施設計 四五
第三章 第一節 実施設計 四六
満潮
水種╲水質 色 清濁 臭 味 浮遊物 反応 アンモニア 亜硝酸 硝酸 クロール カメレオン消費量 硬度獨乙 判定
H H 無 清澄 異臭不認 異味不認 少量 殆中性 不認 不認 不認 七、一〇〇 二、二一二 〇、八二五 良水
H C 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 七、一〇〇 二、」〇五四 〇、八三七 〃
H L 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 七、二七七 二、二一二 〇、八三七 〃
干潮
水種╲水質 色 清濁 臭 味 浮遊物 反応 アンモニア 亜硝酸 硝酸 クロール カメレオン消費量 硬度獨乙 判定
L H 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 五、三二五 二、二一二 〇、八五〇 〃
L C 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 五、三二五 二、三七〇 〇、八六二 〃
L L 〃 〃 殆異臭不認 殆異臭不認 〃 〃 〃 〃 〃 五、五〇二 三、〇〇二 〇、八六二 梢不良水
豊川筋暮川地先
満潮
水質╲水種 色 清濁 臭 味 浮遊物 反応 アンモニア 亜硝酸 硝酸 クロール カメレオン消費量 硬度獨乙 判定
H H 無 清澄 異臭不認 異味不認 少量 殆中性 不認 不認 痕 跡 五、三二五 二、六八六 〇、八三七 良水
H C 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 五、六八〇 三、一六〇 〇、八三七 〃
H L 極微褐色 〃 殆異臭不認 殆異味不認 〃 〃 〃 〃 〃 五、八五七 三、四七六 〇、八六二 稍不良
干潮
水質╲水種 色 清濁 臭 味 浮遊物 反応 アンモニア 亜硝酸 硝酸 クロール カメレオン消費量 硬度獨乙 判定
L H 無 〃 異臭不認 異味不認 少量 殆中性 不認 不認 痕跡 五、一四七 二、五二八 〇、八二五 良水
L C 極微褐色 〃 殆異臭不認 殆異味不認 〃 〃 〃 〃 〃 五、三二五 三、三一八 〇、八六二 稍不良水
L L 無 〃 異臭不認 異味不認 〃 〃 〃 〃 〃 五、三二五 二、六八六 〇、八五〇 良水
備考 一、クロール及カメレオン消費量は「リートル」中瓩を表す
二、牛川地先LL水は硝酸々性にするときは微々赤色を呈す
三、稍不良水の判定は他のものに比し幾分不良なる意を示す
四、一般に稍大なる浮遊物も認むるを以て濾過するを可とす
大正十三年十一月二十七日
豊橋衛生戊病院
陸軍三等薬剤官 青木茂
河水細菌検査報告
一、大正十四年八月十三日、天候晴、微風、温度摂氏二十八度
一、採水の場所 八名郡下川村渡船場約一丁程上流の中流
一、河水表面 一立方センチメートル中の細菌数百六十個
一、河水深部 約二尺一立方センチメートル中の細菌数百個以内
一、採水の時間 ハ午前十一時二十分気温高きに依り寒天培養基を用ふ
一、河水の温度 約摂氏二十三度
右報告候也
大正十四年八月二十四日
第三章 第一節 実施設計 四七
第三章 第一節 実施設計
三、旧給区域及び人口密度
給水区域は本市行政区域内に於ては船町、上伝馬丁、松葉町、萱町、指笠町、三浦町、
花園町、新錢町、魚町、清水町、手間町、紺屋町、吉屋町、東八町、中八町、西八町、關谷町、札木
町、呉服町、曲尺手町、鍛冶町、下町、花田町、瓦町、東田町、旭町、海町、東新町、西新町、談合町、中
世古町、新川町、中柴町、向山町、岩田町の一部、飯村町の一部、三の輪町とす。但し岩崎町其
他の区域は田、畑、山林、原野が大部分を占め従て人口甚だ希薄なるを以て除外す。隣接
町村下地町に於いて現に市街地を形成せる大字下地の一部を給水区域に編入せり、
将来新たに形成すべき市街地の給水は拡張計画に待つここととせり。
本市水道給水区域内全人口は、大正じゅ十四年末現在別表の如く、人口七萬九千四拾人
内市内軍隊人員千四百八拾人を含む)なるも、水道完成後は急激の発達を来たす見込
あるを以て現けいか計画を拾弐萬人に対する施設と為し、尚濾過池、喞筒等は相当増設の餘
地を存し、将来人口増殖し拾六萬人に達するも、送水及配水管の字増設並に相当附加工
事を施すに於ては、給水に応ずることを得べき設備と為せり。毎日の消費量は期せつ節に
依り異なるは勿論、天候及温度に依り増減あるべしと雖も概して夏季に多く冬季に
尠なきを常とするに依り、一年中最多水量を使用する夏季に於ける水量を考察して
平均一人壱日の給水量を防火用工場用水等をも含み四立方尺と定めたり。
豊橋市戸口調査表
逐 年 増 加
年次 戸数 人口 戸数増 人口増
明治四十三年 一二、三七二 四七、三四四 ー ー
同 四十四年 一三、二三四 五〇、二二七 八六二 二、八八三
大正 元年 一三、九二〇 五一、七一〇 六八六 一、四八三
同 二年 一三、九一〇 五二、三六五 △ 一〇 六五五
同 三年 一四、一五〇 五三、八四五 二四〇 一、四八〇
同 四年 一四、八八〇 五七、五六〇 七三〇 三、七一五
同 五年 一四、九五〇 五八、九五〇 七〇 一、三九〇
同 六年 一四、八五〇 六二、〇二〇 △ 一〇〇 二、〇七〇
同 七年 一三、一〇〇 六四、五〇〇 △一、七五〇 二、四八〇
同 八年 一三、五九二 六六、八四四 四九二 二、三四四
同 九年 一三、二五〇 六四、二一八 △ 三四二 △二、六二六
同 十年 一三、四一三 六五、〇三三 一六三 八一五
同 十一年 一三、九四七 六七、〇六〇 五三四 二、〇二七
同 十二年 一四、〇七八 六八、〇九九 一三一 一、〇三九
同 十三年 一四、四五五 六九、八三二 三七七
一、七三三
第三章 第一節 実施設計 四九
第三章 第一節 実施設計 五〇
同 十四年 一四、九三〇 七四、六五〇 四七五 四、八一八
平均増加率 〇一四 〇三一
寳飯郡下地町大字下地戸口調査表 △印は減を示す
逐 年 増 加
年次 戸数 人口 戸数増 人口増
大正元年 五二五 二、六五一 ー ー
同 二年 五二二 二、六五三 △ 三 二
同 三年 五二七 二、六七五 五 一二
同 四年 五二四 二、六七七 △ 三 二
同 五年 五二九 二、六八一 五 四
同 六年 五二九 二、七四二 〇 六一
同 七年 五二二 二、七六七 △ 七 二五
同 八年 五二三 二、八〇七 一 四〇
同 九年 五三五 二、九一一 一二 一〇四
同 十年 五三三 二、八三八 △ ニ △ 七三
同十一年 五三六 二、九〇八 三 七〇
同十二年 五三九 二、八六三 三 △ 四五
同十三年 五四〇 二、八六八 一 五
同十四年 五六四 二、九一三 二四 四五
平均増加率 〇、〇〇六 〇、〇〇八
四、一日中の最大給水量
一人一日の給水量は之を平均四立方尺と定めたるも、配水管は此の給水量に依り起
る時々刻々の変化に応し以て一時間の最大給水量と防火用水とを運ばざるべから
ず、故に一時間の最大給水量と防火水量とを合せて平均一時間所用水量の一倍半と
して毎秒水量は八三三三立方尺となるなり。
防火水量は一分時間六〇立方尺とせり、是れ一個消火栓の放出量を毎分二十立方
尺とし、三個の消火栓を同時に開放せる時の水量に当る、即ち一秒間の水量一立方尺
を以て防火用と定めたり、但し火災は通常冬季に多く殊に夜間使用水量の尠き時に
起るを常とするを以て、実際に於ては前記以上の水量を防火用に充つるを得べく、又
阻水弇の開閉により他区域の給水を制限して火災地に多量の給水を集注せしめ得
るに依り、防火用水量は前叙の通り之を定むるも計算には特に之を算入せず。
仍て以上の基礎に基き一日中の最大給水量を決定し以て配水管の口径算定せり。
五、水壓
配水池建設地の施工地盤面の高さは、基點上百七十五尺四寸に在り。又配水池満水面
第三章 第一節 実施設計
第三章 第一節 実施設計 五二
の高さは同百七十五尺なるに依り、之れより豊橋市東田字齋兵の十字路南部幹線
分岐點に達する鉄管内の最大損失水頭二十一尺を減ずれば有効水頭は九十尺とな
るべし。更に北部配水本管の損失水頭は、送水量の西大時に於いて平均千尺に付約三
尺、南部幹線は平均千尺に付約弐尺を要すべく、而して給水区域内の高部は東田・向山
ふきん附近にして海抜七十尺乃至五十五尺の地點なり。又最も遠隔なる花田方面にあり在ては
一体に低地に屬し海抜二十三尺内外を有するに過ぎず、仍て摩擦其他最大損失水頭
を扣除するも尚有効水頭は八十五尺を有すべし。
次に市内しゅような主要なるち地點の動水壓を見るに、給水量最大なる時に於て東田町字齋兵みな南
部分岐點附近の九十尺、向山工兵隊裏南中畑の八十八尺、呉服町国道十字路の百四尺
豊橋驛付近の九十五尺、花田町字稲葉の八十五尺なり。
六、消火栓
消火栓は概ね街路の交差點其他必要なる地點に設置し、其間隔を約四十間乃至八十
間に設置するものとす。
第二 工事方法
一、水源及び集水埋渠
水源は豊川本流の伏流水に採り、八名郡下川村大字西下條地先に於て、河底約八尺の
位置に集水渠を埋設す。而して其の構造は多数の小孔を有する鉄筋混凝土管を、空継
手に依り木框中に横置し、其の周圍は砂利及砂を以て包圍す、斯くて内径二尺五寸の
もの二條を延長四十五間、又内径三尺のもの一條を延長五十五間九分に亘り埋設し
而して之を浸透する河水及び伏流水を集め、川岸に設けたる接合井に導水する
なり。
二、接合井及び制水門扉
接合井は内径五尺深三十五尺を有す、集水埋渠より流入したる源水を受け、制水門扉
に依り流量を調節し、内径三尺延長七間五分の鉄筋混凝土管を経て送水卿筒井に導
水す、而して接合井は必要の場合砂溜をも兼用せしむるの装置とす。
第三章 第一節 実施設計 五三
第三章 第一節 実施設計
三、送水場
(イ) 喞筒場 本喞筒場は接合より聯絡する鉄筋混凝土管の末端に接続して堤内
送水場内に設け。間口拾間半奥行五間の鉄筋混凝土造とし、之を喞筒室及び配電室に
区分す。又室内地下には喞筒井を設け、接合井より流入する源水を受け。喞筒井巾六
尺長四十九尺とし、水深は豊川本流の変化に依て変化するも、普通最低四尺五寸を保
つべし、各喞筒「サクション」井は全部拱を以て覆ひ、側壁と相俟つて喞筒及電動機の基
礎を為さしむ。又周圍の壁は混凝土を以て擁壁を築造し洪水に際しても逆水せざる
装置と為し以て之を上部建物の基礎に兼用す。
(ロ) 喞筒の口径及臺数 本喞筒の口径其の臺数は予定人口拾弐萬人に供給する
に足るべき水量を標準に採り、尚第二期拡張に際しては人口拾六萬人に供給すべき
増設工事をも容易に為し得る樣豫め計畫せり即。ち人口拾弐萬人に給水する為に必
要なる源水は、砂洗用其他の為め必要なる水量二割を加算するも毎秒六、六六立方尺
を揚水せば十分なるに依り、之れが送水用として八吋「タービン」喞筒四臺を設備す。次
に喞筒臺bき計画揚水量は毎秒二、二二立方尺なるを以て、活用喞筒は昭和五年度以後
昭和十二年度に至る間は、二臺の運転を為し他は予備とすべく、又昭和十三年度以降
は常に三臺を運転し、一臺を予備とすべき計算なれども、当初給水量の少量なる期間
は晝間の一定時間を限り、三臺を運転し一臺を予備と為すことを得るものとす。但し
第二期拡張に於て人口拾六萬人に供給する場合に於ては、別に八吋(タービン)喞筒一
臺を増設する見込なるが元来人口拾六萬人に対する所要給水量は七、四一立方尺に
して、之れに浄水場内に於ける消費水量一、四七立方尺を合算して八、八八立方尺とな
るべきも、尚八吋喞筒一臺の予備を有するを以て充分なりとす。
(ハ) 水嵩 前項喞筒の最低吸込位は零以下一尺なるも送水場内に在る分水井の吐
出口水位は八十六尺三寸となるを以て、実揚水嵩は八十七尺三寸となるべし。仍て管
内摩擦・底辨・逆止辨・曲管に於ける水嵩の損失を合算して計画総水嵩を百十尺と為す
(ニ) 馬力 馬力の計算は前叙したる水量及び水嵩の項に於いて決定したる水量及び水
嵩に依り計算せり。即ち送水場喞筒に対しては喞筒の効率を七十(パーセント)と推定
する時は、之に要する軸馬力は百二十馬力となるを以て之れに一割内外の余裕ある
動力を具備する方安全なるが故に、百三十五馬力と定め、以て之を三臺に分ち一臺を
四十五馬力と定、仍て予備喞筒とも合せ之れを四十五馬力のもの四臺と為す。
第三章 第一節 実施設計
第三章 第一節 実施設計
(ホ) 原動機 動力には電気を使用し普通高壓三相三線二回線を以て導き、受電壓を
三千(ボルト)とし、発電所其他の故障に依り送電を休止したるときは、他の発電所線に
切換へ送電し得る設備と為せり。
でんど電動機は其の電壓を降下せず其の儘にて三相誘導電動機四臺を使用し、各か[カップリ
ング]に依り喞筒に直給す。
四、浄水場
(イ)分水井 源水は送水場卿筒に依り揚水せられ、内径二十吋鉄管に依り浄水地内
の分水井に導入す。而して分水井は内径九尺にして、其構造を基礎厚一尺は混凝土を
用ひ、あ厚八寸の鉄筋混凝土を以て圍み、表面は厚五分の防水「モルタル」を塗抹し、外側に
「アスファルト、フエルト」を張り、其上に抑へとして更に厚三寸五分の混凝土を施し、漏
水を防止す、底部には内径十二いn吋の排水管及溢水管を布設し、満水面は八十六尺三寸に
達すれば、事前溢流せしむべく、之れより内径二十吋及十八吋鉄管を取付け以てかく濾
過池に送水するなするなり。
(ロ)濾過地 濾過地は長方形にして其数四個を築造し、内三個を常用とし、一個を掃
除其他の為予備に充つ。但し将来一池を増設するの余地を存せしむ。各池の大さは
長百三十尺、巾八十五尺、深十尺いして、水面は基點上八十四尺七寸に在らしむ。濾過層
は厚さ五尺とし其砂面上の水深を三尺と定め、有効面積を一萬一千五十平方尺とす
へし。濾過速度は一晝夜最大十五尺にして、一池十六萬立方尺を濾し三池に依り十二
萬の所要水量を濾過す。濾過池の側壁隔壁は壁脚と共に一、二、四比の肘木式鉄筋混凝
土を以て築き、側壁隔壁の厚は上部に於て一尺下部に於て一尺二寸及一尺五寸と定
む。「アスファルト、フエルト」は池の内側壁内部に沿ふて包み更に其上に抑へとして厚
三寸五分の混凝土を施し、各壁には伸縮接合を施し表面に防水「モルタル」を塗布し漏
水を防止す。池底中央に幅二尺の溝を設け、溝底は調整井に向つて二百分の一の勾
配を附し、底面は中央溝に向つて二百分の一の勾配を附し、煉瓦を以て導水溝を造り
中央導水溝は鉄筋混凝土「ブロック」の蓋を以て之を覆ふ。引入口には鉄管を取付け制
水弇を設くるものとす。底の構造は厚七寸の一三、六配合の混凝土を施し其上に厚五
分の「アスファルト」を伸縮接合所と共に塗抹し、其上部に更に厚三寸の混凝土を施し
表面は厚五分の防水「モルタル」の上塗工を施し漏水を防ぐものとす。調整井は各濾過
池の東側中央に之れを設け鉄筋混凝土とし、其中央に隔壁を設け之れを二室に区
第三章 第一節 実施設計
第三章 第一節 実施設計
分し、一室には水嵩、標嵩、標示器及直立砲金製引出管を取付け其上下に依りて流量を加
減測定すへし。又一室は弇室とし引出及排水のせつびを設備を為す。
(ハ) 喞筒井及び喞筒場 濾過水は覺各調整井よより十二吋管に出て、集合して十八吋乃
至二十吋管とななり喞筒井に入る。喞筒場は間口、九間八分奥行四間半の鉄筋混凝土造
を採用す。而して室内は喞筒室及び配電室並に事務室の三に区分す。喞筒井は室内地
下に取設け其の大さは巾五尺長四十三尺五寸水深四尺を保たしめ、各喞筒「サクショ
ン」井の上部は全部拱を以て之を覆ひ側壁と相俟つて喞筒及電動機の基礎を為す。
(ニ) 喞筒の径及台数 本喞筒即ち濾過池を経たる水を配水池に送水する喞筒は
送水場喞筒と同様の計畫に依り前者喞筒八吋「タービン」四臺に対し、本喞筒は七吋「タ
ービン」四臺を以てし、尚第二期拡張の際は七吋「タービン」喞筒一臺を増設する見込な
り。而して人口十二まん萬人に対する所要給水量は毎秒五、五五立方尺なるを以て、七吋「タ
ービン」喞筒一臺の計画揚水量水量は毎秒一、八五立方尺となる。依て昭和五年度以降十二
年度迄は七吋喞筒二臺を運転し他の二臺は之れを予備と為す。又昭和十三年度以降
同二十三年度迄は七吋「タービン」喞筒三臺を運転し他の一臺は予備とすべし。斯くて
第二期拡張に於ては七吋「タービン」喞筒一臺を増設し他の一臺は予備と為す勘定な
るも、当初給水量の少量なる期間は晝間一定時間を限り三臺を運転し他の一臺は予
備と為すことを得るなり。
以上の如き運転方法を以てするときは何れの喞筒に於て一臺の破損をみること
あるも計画水量は容易に揚水することを得べきなり。
(ホ) 水嵩 浄水場内喞筒の吸い込水位は基点八十尺二寸にして、吐出口即ち給水場
内配水池の水位は百七十五尺なるが故に、実際の水嵩は九十四尺八寸なり。仍て喞筒
吸込管の口より配水池に至る送水主管の終点迄の管内摩擦損失底辨、逆止辨、曲管に
於ける損失水頭等を加算して最大九十六尺となる。
(へ) 馬力 (ハ)項喞筒に対する馬力は前記水量及前項水嵩に依り計算せば総馬力六
十馬力を要すへし。而して喞筒の効率を七十「パーセント」と推定するときは、之れに要
する軸馬力は八十五馬力となるを以て、之れに一割内外の余裕を見込み九十五馬力
と定む。仍て之を三臺に分つとき一臺は三十三馬力となる故に安全を見込み予備喞
筒とも各三十五馬力四臺と決定す。
五、送水管
第三章 第一節 実施訥計
第三章 第一節 実施設計
送水場喞筒の壓送に依り送水本管に流入する水量は、給水人口十二萬人に対し砂
洗用其他の為に二割を加算したるものにして即ち毎秒六、六六立方尺となるが故に
送水本管に内径は之れを二十吋と定め以て延長二千間を布設し浄水場内の分水井
に達すへし。浄水場内の濾過池を経たる水量は毎秒五、五五立方尺なるを以て之れを
更に浄水場内喞筒に依り壓送し、内径二十吋の送水管に入れ延長九十八間を経て、給
水場内の配水池に達す。而して途中必要なる箇所には排気辨、排水辨及安全弇、逆止辨
を附設するものとす。
六、給水場
(イ) 配水池 給水場は八名郡石巻村大字多米の高地に取り設け場内にには二個の配
水池を築造す。
配水池nの容量は約十六萬立方尺にして、将来の拡張人口たる十六萬人に対しては
最大給水量の六時間分を貯へ中央に隔壁を設け之れを二個に分つ。各池の大さは長
七十九尺幅七十八尺八寸有効水深十三尺五寸なりとす。而して池中には六列の導流
壁を築き浄水を迂回流動せしめ以て其腐敗を防止す。
配水池の満水面は基點上百七十五尺に在り。其の構造は池底に厚一尺の混凝土工
を施し其上に「アスファルト」を塗沫し、更に「モルタル」工を布施し漏水に備ふ、側壁及び
隔壁は扶壁式一ニ、四比の鉄筋混凝土工を採用し、其の主壁の厚は上幅八寸下幅一尺
とし、十一尺五寸毎に扶壁を取設け、其の扶壁の厚は一尺二寸にして底幅は十尺とす。
池の壁面には「アスファルト、フエルト」を張り、其上に抑へとして厚五寸の一、二、四比の
混凝土工を施し更に表面に厚五分の防水「モルタル」を塗布し漏水を防ぐものとす、
隔壁の構造は二個の壁より成り各壁共厚さ八寸にして、両壁間は五尺七寸五分毎
に厚一尺の支柱を以て連絡し、隔壁の脚部は厚一尺五寸幅十三尺とし、各支柱間の空
隙には眞土を填充し、其上部に厚五寸の混凝土を施し通路面とす覆蓋は十一尺五寸
毎に設置せる支柱並に側壁隔壁上に幅一尺一寸の桁を架設し、又厚六寸の床版を作
り其上面には「アスファルト」工を施し、以て雨水の侵入を防ぐ。覆蓋は外部の侵入を防
ぎ日光を遮り植物の発生を防止すると共に、其上部に厚二尺の新土を盛り夏季池水
を冷却し、且つ通風管を取設けて換気法を行ひ、池水の酸化を増進せしむ。尚覆蓋上に
各一個宛の水面標示器を備へ、之れをに依り池内水位の昇降を知るに便す。
(ロ) 引入及び引出管等 引入及び引出の鉄管は各内径二十吋とし各阻水弇一個を
第三章 第一節 実施設計 六一
第三章 第一節 実施設計 六二
附す。又溢水お及び排水管は各内径十二吋を採用すべし、
(ハ) 配水量の測定 配水量の測定は排水池の附近に於て、配水本管に二十吋「ベンチ
リーメーター」を附設し、以て排水量のそ測定をなすべし為すべし。
七、排水管及び経路
配水本管は内径にじゅう二十吋の鉄管一條にして、配水池を出て計量器を経由し。郡市境界
を貫流せる蝉川を横断して、市内に入り東田田圃を経て多米街道に出て、東田町字道
合に於て南に六吋管を、字齋兵に於て南に十二吋、北に六吋管を分派したる後、幹線は
更に十八吋管となり西進して旭橋に至り、南に八吋北に六吋支管を分派したる後、更
に十六吋管となり練兵場入口を左折して、曲尺手国道を西に向ひ大手町電車線路に
於て、南に十吋北に六吋管を分岐して、幹線は更に十二吋管となり本町十字路に於て
八吋管二條に分れ一は国道に沿つて豊川橋方面及下地町大字下地に至り、一は縣道
に沿ひ吉田駅前に至り右折して東海道鉄道線路を横断して花田方面に至る、之れを
北部幹線と稱し、沿道お及び市の北部並に中央部一帯に給水す。
前記東田町字齋兵に於て、北部幹線二十吋管より分岐したる十二吋管は、南走し
て瓦町に於て国道に出て、左右に六吋管を分派したる後向山工兵隊裏を西進して
花田町字寺東の国道に於て、中部連絡管たる十吋管に接続するもの、之れを南部幹線
と稱し、沿道線及び東部一帯に給水す。
大手町に於て南に分岐せる十吋管は、中部連絡管にして柳生橋に至る電車線路に
沿ふて之れを布設し、前記南北二幹線を連絡し以て沿道一体に給水す。
各幹線の末端は六吋管を以て連絡し、以て其の沿道に配水すると同時に鉄管は破裂
其他幹線一部の故障に際して、断水区域を大なる部分に及ぼすを避けしむ。又防火等
の為め必要上送水を一局部に集注せしむる場合の補給に便せしむ。而して各給水区
域により適当の場所に消火栓二個宛を並置し、其の中間に区画量水器を取付得る
装置となり、必要に応し各区画内の漏水其他を測定し平素消火栓の用に供す。
配水支管は最小内径三吋とし、各幹線より漸次分派し各方面に配水し、同時に各幹
線を連絡し防火又は給水に支障なからしむ。
市内鉄管は二十吋、十八吋、十六吋、十吋、八吋、六吋、四吋、三吋の九種とし、十六吋以上の
配水管に対しては給水副管四吋を布設し、給水鉛管の配水本管より直接分岐するを
避くるものとす。 配水管の延長内譯左の如し
第三章 第一節 実施設計 六三
第三章 第一節 実施設計 六四
二十吋管 千百五十間
十八吋管 五百四十間
十六吋管 六百二十間
十二吋管 千九百四十五間
十吋管 七百八十二間
八吋管 三千六百八十六間五分
八吋鋼管 七十八間六分
六吋管 九千九百四十九間一分
四吋管 三萬七千七百三十九間四分
三吋管 一萬四千九百三十六間三分
単口消火栓 六百八十三個
公設共用栓 二百二十個
設計計算 前記設計説明書中、第二の工事方法にある計算を示したるもの、
及び用
地買収始八項目の計算を表せるもの即ち次の工事費打ち分け内譯書なり。
豊橋市水道工事費内譯書
一金弐百六拾九萬円 工事費
内
金七萬四千六百六十五円 水源費
金十一萬一千二百八円 送水場費
金二十八萬七千百四十七円 浄水場費
金十四萬七千六百九十八円 送水本管及弇同布設費
金十六萬五千六百二十九円 給水場費
金百十五萬四千二百二十九円 配水管弇同布設費
金七萬五千四十七円 用地買収費
金六萬二千二百十円 機械器具費
金五萬七千八百円 測量試験費
金三萬六千円 雑工事費
金一千四百六十八円 残土整理費
金九萬九千七百四十二円 建築費
金二十九萬二千百八十六円 事務費
金十二萬四千九百七十一円 予備費
水源費
第三章 第一節 実施設計 六五
第三章 第一節 実施設計 六六
一金七萬四千六百六拾五円
内
金五萬三千五百三十九円 (一)集水渠築造費
金四千円 (ニ)接合築造費
金二千六百円 (三)水源取入口寄洲保護工費
金一萬四千五百二十六円 (四)水源取入口対岸保護工費
(一)集水埋渠築造費
金五萬参千五百参拾九円也
水源集水埋渠(管供)延長百六十間四分
埋渠巾五尺五寸高五尺五寸(内径二尺五寸鉄筋混凝土管抱入)
沈枠沈下延長九十七間
埋管巾六尺高六尺(内径三尺鉄筋混凝土管抱入)
沈枠沈下延長三十五間
埋管内径三尺鉄筋混凝土管敷設延長二十八間四分
内譯
名称 種目寸法 単位稱呼 数量 単価 金額 適用
掘鑿 立秤 五九〇、五四 二〇、〇〇〇 一一、八〇〇、〇〇〇
同 〃 八三一、二〇 八、〇〇〇 六、六四九、六〇〇
埋戻 〃 二七七、五二 三、四〇〇 九四三、五六八
埋渠 《割書:巾五尺五寸高五|尺五寸長さ十二尺》 組 四八、五〇 二二〇、二三〇 一〇、六八一、一五五 《割書:二尺五寸鉄筋コンク|リート管抱入》
同 《割書:巾六尺高六尺長|十二尺》 〃 一七、五〇 二五〇、四三〇 四、三八二、五二五 《割書:三尺鉄筋コンクリー|ト管抱入》
埋管 間 二四、九〇 四六、〇〇〇 一、一四五、四〇〇
假締切 《割書:内径三尺鉄筋コ|ンクリート管》 〃 一六〇、〇〇 一九、四八〇 三、一一六、八〇〇
假菱枠 組 四〇、〇〇 五九、五〇〇 二、三八〇、〇〇〇 工事場締切用
排水掘割 間 三二〇、〇〇 二四、〇〇〇 七、六八〇、〇〇〇
雑工 四、七五九、九五二
計 五三、五三九、〇〇〇
(ニ)接合井築造費
一金四千円也
内譯
名称 種目寸法 単位稱呼 数量 単価 金額 摘要
混凝土(丙) 一、三、六 立坪 一一、九三 一一一、一〇〇 一三二五、四二三
切石工 切 五二三〇 四、八九〇 二五五、七四七
丁形鋼鉄 四吋〆三吋長五尺 本 二、〇〇 六、七〇〇 一三、四〇〇 毎尺に付九三封度
工形鋼鉄 八吋〆四吋長七尺 〃 二、〇〇 一八、〇〇〇 三六、〇〇〇 毎尺に付一八封度
第三章 第一節 実施設計 六七
第三章 第一節 実施設計 六八
鑄鐵葢 組 一、〇〇 二五〇、〇〇〇 二五〇、〇〇〇
足掛金物 本 三四、〇〇 一、〇〇〇 三四、〇〇〇
《割書:内径三十六吋|門扉》 組 一、〇〇 一、三〇〇、〇〇〇 一、三〇〇、〇〇〇
モルタル上塗工 一、 三 面坪 一九、九〇 一、五三〇 三〇、四四七 厚三分
木型 四〇〇、〇〇〇
水替費 二〇〇、〇〇〇
雑工 一五四、九八三
計 四、〇〇〇、〇〇〇
(三)水源取入口寄洲保護工費
一金弐千六百圓 延長百間
内譯
名称 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
拾番線蛇籠 長九尺 径三尺 二〇〇、〇〇 四、〇〇〇 八〇〇、〇〇〇
詰石 五〇、〇〇 二四、〇〇〇 一、二〇〇、〇〇〇
人夫 三〇〇、〇〇 二、〇〇〇 六〇〇、〇〇〇
計 二、六〇〇、〇〇〇
(四)水源取入口対岸等保護工費
一金壱萬四千五百弐拾六円
《割書:対岸延長二百二十間 法り一割|左岸延長五十間 法り一割》外根堅工共
内譯
名称 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
杭打片枠 長十二尺枠 組 一一〇、〇〇 三五、六五〇 三、九二一、五〇〇 《割書:対岸根堅用延長二百|二十間分》
同 同 〃 二五、〇〇 二七、〇〇〇 六七五、〇〇〇 《割書:左岸根堅用延長五十|間分》
木工沈床 長十二尺高六尺 〃 三五、〇〇 四六、〇〇五〇 一、六一一、七五〇 対岸七十間分
同 長十二尺高三尺 〃 五、〇〇 四五、七〇〇 二二八、五〇〇 左岸十間分
石張工 面坪 八五二、〇〇 八、〇〇〇 六、八一六、〇〇〇 《割書:対岸張石用延長二百|二十間分》
捨玉石 立坪 三五、〇〇 六、九〇〇 二四一、五〇〇 《割書:対岸木工沈床前捨石|用》
玉石張工 径七寸以上 面坪 五九、〇〇 七、〇〇〇 四一三、〇〇〇 《割書:左岸法長十二尺七寸|の處在来張石》
雑工 六一八、七五〇 《割書:法長五尺六寸を除く|七尺一寸長五十間分》
計 一四、五二六、〇〇〇
送水場費
一金拾壱萬壱千弐百八円也
内
金四萬弐千九百九拾七円
第三章 第一節 実施設計 六九
第三章 第一節 実施設計 七〇
金壱萬九千参拾五圓 (ニ)送電路建設費
金貳萬七千貳百四拾四圓 (三)送水場喞筒場費
金貳萬千九百参拾貳圓 (四)送水場土墻築造費
(一)土工費(送水場)
一金四萬貳千九百九拾七圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿 水中 立坪 五五、七九 二〇、〇〇〇 一、一一五、八〇〇 《割書:接合井一二坪三九喞筒|場四二坪四土坪表一六》
同(甲) 〃 ニ六五、四〇 八、〇〇〇 二、一二三、二〇〇 《割書:喞筒場一九七坪六七坪 土坪表|三七、一五 接合井六七坪七ニ》
埋戻 〃 一七二、四〇 三、四、〇〇 五八六、一六〇 《割書:喞筒場一〇七坪七合土|坪表一八接合井六四坪七合》
盛土(甲) 〃 一、二三八、〇〇 一二、〇〇〇 一四、八五六、〇〇〇 喞筒場土坪表一四
同(丙) 〃 四一二、〇〇 六、、〇〇〇 二、四七二、〇〇〇 〃土坪表一四
《割書:鉄筋|コンクリート管》 計二尺五寸 間 五〇、〇〇 三八、一四〇 一、九〇七、〇〇〇 排水用
混凝土 一、三、五 立坪 二五、〇〇 一二三、九四〇 三、〇七三、五〇〇 喞筒井用一、二、五、五
同(丙) 一、三、六 〃 七五、九三 一一一、一〇〇 八、四三五、八二三
煉瓦工 立坪 一、六〇 二九五、五〇〇 四七二、八〇〇
切石工 切 六八、五〇 四、八九〇 三三四、九六五
《割書:アスファルト|フエルト》 厚三分 面坪 九二、五〇 七、九〇〇 七三〇、七五〇 堅壁用
アスファルト 厚五分 〃 六四、一〇 八、五〇〇 五四四、八五〇 底部用
一、三モルタル塗工 厚三分 〃 五八、三〇 一、五三〇 八九、一九九
水替費 八〇〇、〇〇〇
木型費 七〇〇、〇〇〇
鉄板 厚ニ分 平方尺 三〇八、〇〇 一、五〇〇 四六二、〇〇〇 縞鋼板
入孔用鋳鉄来器 径三尺 枚 二、〇〇 五〇、〇〇〇 一〇〇、〇〇〇
雑工 四、一九二、九五三
計 四二、九九七、〇〇〇
(二)送電線路建設費
一金壱萬九千参拾五圓 延長五哩五分二回線
其他自働運転一回線共
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 金額 摘要
電柱 杉末口六寸五分 本 二四七、〇〇 六、一七五、〇〇〇
電線費 哩 五、五〇 六、六〇〇、〇〇〇
腕木 本 二八〇、〇〇 四二〇、〇〇〇
碍子 哩 五、五〇 四四〇、〇〇〇
建設費 一、五〇〇、〇〇〇
損害補償費 八〇〇、〇〇〇
自働運転装置 一、七〇〇、〇〇〇
第三章 第一節 実施設計
第三章 第一節 実施設計 七ニ
【前ページの立て項目一覧】
名稱 種目寸法 単位稱呼 数量 単価 金額 摘要
雑工 一、四〇〇、〇〇〇
計 一九、〇三五、〇〇〇
(三)送水場喞筒場費
一金貳萬七千貳百四拾四圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
八吋渦巻喞筒 附属一式 臺 四、〇〇 二、五〇〇、〇〇〇 一〇、〇〇〇、〇〇〇
四五馬力電働機 〃 四、〇〇 二、〇〇〇、〇〇〇 八、〇〇〇、〇〇〇
同上用配電盤 一式 二、〇〇〇、〇〇〇
変壓機 六〇〇、〇〇〇
鉄管費 一、三四五、〇〇〇 喞筒室内鉄管一式
室内費配電工事 二、一〇〇、〇〇〇
据付工事費 一、〇〇〇、〇〇〇
荷造及運搬費 八〇〇、〇〇〇
場内排水設備費 五〇〇、〇〇〇
試験費 三〇〇、〇〇〇
雑工 五九九、〇〇〇
計 二七、二四四、〇〇〇
(四)送水場土墻築造費
一金貳萬千九百参拾貳圓 周圍道路及側溝を含む
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
盛土(甲) 立坪 一、一四四、〇八 一二、〇〇〇 一三、七二八、九六〇
コンクリート工 一、三、六、 〃 二五、五〇 一一一、一〇〇 二、八三三、〇五〇
栗石工 〃 八、〇〇 四二、一〇〇 三三六八〇〇
一、三モルタル 厚三分 面坪 一五八、〇〇 一、五三〇 二四一、七四〇
張芝 〃 五八、〇〇 一、六〇〇 九ニ、八〇〇
筋芝 〃 二二一、七〇 一、六〇〇 三五四、七二〇
敷砂利(丙) 立坪 一七、二〇 二六、〇〇〇 四四七、二〇〇
門 個所 二、〇〇 一、三〇〇、〇〇〇 二、六〇〇、〇〇〇
雑工 一二九六、九三〇
計 二一、九三二、〇〇〇
浄水場費
一金貳拾八萬七千百四拾七圓
内譯
金壱萬貳千八拾四圓 (一)喞筒土工費
金壱貳千六百九拾四圓 (二)浄水場喞筒場費
第三章 第一節 実施設計 七三
第三章 第一節 実施設計 七四
金参萬四千四百六拾貳圓 (三)浄水場土工費
金壹萬九千六百參拾七圓 (四)浄水場土墻築造費
金壹萬四千九百九拾四圓 (五)場内排水設備費
金貳千五百九拾八圓 (六)分水井築造費
金拾四萬貳千五百貳拾五圓 (七)濾過池築造費
金壹萬四百拾九圓 (八)引入鉄管及引入口設備費
金壹萬參千參百參拾七圓 (九)調整井築造費
金六千參百九拾七圓 (十)濾過池より喞筒室に至る送水鉄管費
金八千圓 (十一)砂桝及砂洗場築造費
(一)喞筒場土工費
一金壹萬貳千八拾四圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿(甲) 立坪 九一、〇四 八、〇〇〇 七二八、三二〇 土坪表通り(九)
埋戻(甲) 〃 二四、三七 三、四〇〇 八ニ、八五八 〃
盛土(丙) 〃 九、九六 六、〇〇〇 五九、七六〇 〃
混凝土(丙) 一、三、六 〃 五一、六二 一一九、〇〇〇 六、一四二、七八〇
煉瓦工 〃 二、五〇 二九五、五〇〇 七三八、七五〇
切石工 切 六五、五〇 四、八九〇 三二〇、二九五
《割書:アスファルト|フエルト》 厚三分 面坪 四五、〇〇 七、九〇〇 三五五、五〇〇 堅壁用
アスファルト 厚五分 〃 七一、〇〇 八、五〇〇 六〇三、五〇〇 底部用
《割書:一、三モルタル|塗工》 厚三分 〃 三三、五〇 一五三〇 五一、二五五
木型費 四〇〇、〇〇〇
鉄板 厚ニ分 平方尺 二六五、〇〇 一、五〇〇 三九七、五〇〇 溝渠蓋縞鋼板
量水装置 個所 一、〇〇 四〇〇、〇〇〇
雑工 一、八〇三、四八二
計 一二、〇八四、〇〇〇
(二)浄水場喞筒場費
一金貳萬千六百九拾四圓
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 《割書:単価|稱呼》 金額 摘要
七吋タービン喞筒 附属一式 臺 四、〇〇 二、一〇〇、〇〇〇 八、四〇〇、〇〇〇
三五馬力電動機 〃 四、〇〇 一、五〇〇、〇〇〇 六、〇〇〇、〇〇〇
同上用配電盤 一式 一、八〇〇、〇〇〇
變壓機 八〇〇、〇〇〇
鐵管費 一、三〇〇、〇〇〇
室内電線工事費 二、一〇〇、〇〇〇
据付工事費 七、〇〇〇〇〇
第三章 第一節 実施設計 七五
第三章 第一節 実施設計 七六
【前ページの項目追記】
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
荷造及運搬費 七〇〇、〇〇〇
試験費 三、〇〇〇〇〇
雑工 五九四、〇〇〇
計 二二、六九四、〇〇〇
(三)浄水場土工費
一金參萬四千四百六拾貳圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿(甲) 立坪 二、三■九、二〇 八、〇〇〇 一八、四七三、六〇〇 土坪表(一)
埋戻(甲) 〃 二二六、九四 三、四〇〇 七七一、五九六 (二)
盛土(丙) 〃 一、八三六、四〇 六、〇〇〇 一一、〇八、四〇〇 一、八三六四土坪表(三)
張芝工 面坪 三二、三〇 一、六〇〇 五一六八〇
《割書:構内|敷砂利工(乙)》 立坪 一〇〇、〇〇 三三、〇〇〇 三、三、〇〇、〇〇〇
雑費 八四六、七二四
計 三四、四六二、〇〇〇
(四)浄水場土墻築造費
一金壱萬九千六百參拾七圓 周圍道路及側溝を含む
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿(甲) 立坪 九七、八一 八、〇〇〇 七八二、四八〇 土坪表(七)
埋戻 〃 四〇、五一 三、四〇〇 一三七、七三四 〃 (六)
盛土(丙) 〃 四一七、一四〇 四、〇〇〇 二、五〇二、八四〇 〃 (八)
コンクリート(乙) 一、四、八、 立坪 九五、〇一 一〇六、〇〇〇 一〇、七一、〇六〇 溝渠用
一、三、モルタル 壓機 面坪 五四二、五二三 一、五三〇 八三〇、〇六〇 〃
張芝 〃 七九八、〇〇〇 一、六〇〇 一、二七六、八〇〇 土墻馬踏用
敷砂利(乙) 立坪 九、九五 三三、〇〇〇 三二八、三五〇 構内及周圍道路用
門 個所 一、〇〇 一、三〇〇、〇〇〇 一、三〇〇、〇〇〇
裏門 〃 二、〇〇 五、〇〇、〇〇〇 一、〇〇〇、〇〇〇
雑工 一、四〇七、六七六
計 一九、六三七、〇〇〇
(五)場内排水設備費
一金壹萬四千九百九拾四圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿(甲) 立坪 四〇、五六 八、〇〇〇 三二四、四八〇 人孔掘鑿
埋戻 〃 三〇、九九 三、四〇〇 一〇五、三六六 〃
内径二尺鉄筋混 間 一五三、〇〇 三二、三六〇 四、九五一、〇八〇 〃
第三章 第一節 実施設計
第三章 第一節 実施設計 七八
《割書:内径二尺九寸|同上》 〃 八八、〇〇 三八、一四〇 三、三五六、三二〇 〃
《割書:六寸半|土管布設工》 〃 三二八、〇〇 五、三〇〇 一、七三八、四〇〇 構内雨水溝用
《割書:コンクリート|(丙)》 一、四、八、 立坪 二、三〇 九八、一〇〇 二二五、六三〇 人孔基礎及排水桝用
煉瓦工径 〃 九、二〇 二九五、五〇〇 二、七一八、六〇〇 人孔用
切石工 切 五二、〇〇 四、八九〇 二五四、二八〇 人孔縁石用
足掛金物 本 一二六、〇〇 一、〇〇〇 一二六、〇〇〇 人孔昇降用
鋳鉄蓋 径三尺 枚 三、〇〇 七三、〇〇〇 二一九、〇〇〇 人孔蓋用
同 径二尺 〃 八、〇〇 三三、〇〇〇 二六四、〇〇〇
雑工 七一〇、八四四
計 一四、九九四、〇〇〇
(六)分水井築造費
一金貳千五百九拾八圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
切石工 切 二七、〇〇 四、八九〇 一三二、〇三〇 笠石及階段縁用
鋳鉄蓋 組 一 、〇〇 六五〇、〇〇〇 六五〇、〇〇〇 立枚合せ
鉄筋工 噸 一、〇〇 一八八、六〇〇 一八八、六〇〇
混凝土(乙) 一、二、四、 立坪 五、一〇 一四五、〇〇〇 七三九、五〇〇 《割書:側壁同基礎及外壁及|アスファルト、フェルト抑へ》
《割書:一、三防水|モルタル工》 厚五分 面坪 一〇、〇〇 二、四二〇 二、四二〇
十二吋阻水弇 個 一、〇〇 一四〇、〇〇〇 一四〇、〇〇〇
十二吋異形管 噸 二一 二五〇、〇〇〇 五二、五〇〇
十二吋管布設費 間 三、二〇 八、九八〇 二八、七三六
アスファルト工 厚五分 面坪 二、〇〇 八、五〇〇 一七、〇〇〇
《割書:アスファルト|フェルト工》 厚三分 〃 九、六〇 七、九〇〇 七五、八四〇
工形鋼 四吋×八吋長十尺 本 一、〇〇 二〇、〇〇〇 二〇、〇〇〇
丁形鋼 〃 一、〇〇 一三、〇〇〇 一三、〇〇〇
掘鑿(乙) 立坪 九、九六 六、〇〇〇 五九、七六〇
埋戻 〃 六、一五 三、四〇〇 二〇、九一〇
《割書:内径一尺土管|布設工》 間 二、〇〇 一、九六〇 二一、九二〇
張芝工 面坪 一、六六 一、六〇〇 二、六五六
足掛金物 個 九、〇〇 一、〇〇〇 九、〇〇〇
各種金物取付費 一〇〇、〇〇〇
雑工 二九七、三五六
計 二、五九八、〇〇〇
(七)濾過池築造費
一金拾四萬貳千五百貳拾五圓
内譯
第三章 第一節 実施設計 七く
九
第三章 第一節 実施設計 八〇
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
混凝土(乙) 一、二、四、 立坪 一〇七、〇〇 一四五、〇〇〇 一五、五一五、〇〇〇 側壁隔壁及
同底部用 一、三、六、 〃 二一五、〇〇 一一九〇〇〇 二五、五八五、〇〇〇 底部等無筋用
切石工 切 一六九〇、〇〇 四、八九〇 八、二六四、一〇〇 縁石用
導水暗渠蓋 間 七八、〇〇 九、三四〇 七ニ八、五二〇
鉄筋工 噸 六四、〇〇 一八八、六〇〇 一二、〇七〇、四〇〇
メタルラス 《割書:川崎式コンクリ|ート鐵鑛》 面坪 二二七、〇〇 三、二〇〇 七ニ六、四〇〇 《割書:アスファルト、フェ|ルト抑へコンクリート工用》
基礎混凝土工 厚三寸一、四、八 立坪 一二、〇〇 一〇六、〇〇〇 一、二七二、〇〇〇 《割書:側壁巾仕切の基礎鉄|筋下》
煉瓦工 〃 一、七〇 二九五、五〇〇 五〇二、三五〇 入水源用
《割書:防水モルタル|塗工》 厚五分 面坪 一六九三、〇〇 二、四二〇 四、〇九七、〇六〇 防水用
煉瓦 枚 二五〇、八〇四、〇〇 、〇三五 八、七七八、一四〇 池底配列用
人夫 人 五〇一、〇〇 二、〇〇〇 一、〇〇二、〇〇〇 一人い付五百本配列
洗砂(乙) 立坪 六一四、〇〇 三二、〇〇〇 一九、六四八、〇〇〇 濾過用
洗砂利(乙) 〃 三四三、〇〇 四八、〇〇〇 一六、四六四、〇〇〇 〃
木型費 七、一四八、〇〇〇
アスファルト工 厚五分 面坪 一、三〇〇、〇〇 八、五〇〇 一 一、〇五〇、〇〇〇 側壁防水用
《割書:アスファルト|フェルト工》 厚三分 〃 二五〇、〇〇 七、九〇〇 一、九七五、〇〇〇
雑工 七、六九九、〇三〇
計 一四二、五二五、〇〇〇
(八)引入鐵管及引入口設備費
一金壹萬四百拾九圓 除水管を含む
内譯
引入鐵管 総噸数貳拾九噸四九八
鐵管内径 延間 《割書:一本の|長さ》 一間当り噸数 合計噸数 本数 摘要
二十吋直管 二八、〇〇 十三尺二寸 、三八三四 一〇、七三五 一二、七三 低壓
同異形管 一、七〇〇
十八吋直管 二八、〇〇 十三尺二寸 、三二八四 九、一九五 一二、七三 低壓
同異形管 一、七一〇
十四吋直管 二五、〇〇 十三尺二寸 、二二九一 五、七二八 一一、三六 低壓
同異形管 、四三〇
計 二九、四九八
名稱 種目寸法 単位 単価《割書:単価|稱呼》 金額 摘要
二十吋直管 間 四二、一八 一、一八一、〇四〇 低壓
同異形管 噸 二五〇、〇〇〇 四二五、〇〇〇
二十吋布設工 間 一八、〇〇〇 五〇四、〇〇〇
十八吋直管 〃 三六、一二〇 九〇三、〇〇〇 低壓
同異形管 噸 二五〇、〇〇〇 四二七、五〇〇
十八吋布設工 間 一五、三五〇 四二九、八〇〇
十四吋直管 〃 二五、二〇〇 六三〇、〇〇〇 低壓
同阻水弇 〃 二一、〇〇〇〇 二一〇、〇〇〇
第三章 第一節 実施設計 八一
第三章 第一節 実施設計 八三
同異形管 噸 〇、四三 二五〇、〇〇〇 一〇七、五〇〇
十四吋布設工 間 二五、〇〇 一一、四〇〇 二八五、〇〇〇
十二吋異形管 噸 五、〇二 二五〇、〇〇〇 一、二五五、〇〇〇 《割書:引入三段ベルモース|付を含む》
十二吋布設工 間 二〇、〇〇 九、七八〇 一九五、六〇〇
十二吋阻水弇 個 八、〇〇 一四、〇〇〇〇 一、一二〇、〇〇〇
《割書:内径一尺土管|布設工》 間 一二、〇〇 一〇、九六〇 一三一、五二〇
鋳鉄蓋 枚 八、〇〇 九五、〇〇〇 七六〇、〇〇〇
切石工 切 三七、二〇 四、八九〇 一八一、九〇八 阻水弇室縁石用
混凝土管(丙) 一、四、八、 立坪 一、四八 九八、一〇〇 一四五、一八八 同上基礎用
煉瓦工 〃 二、二七 二九五、五〇〇 六七〇、七八五 同上壁用
足掛金物 個 二八、〇〇 一、〇〇〇 二八、〇〇〇 同上内昇降用
雑工 八二八、一五九
計 一〇、四一九、〇〇〇
(九)調整井築造費
一金壹萬參千參百參拾七圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
混凝土工(乙) 一、二、四、 立坪 一二、五〇 一四五、〇〇〇 一、八一二、五〇〇 側壁及底部用
鉄筋工 噸 二、九〇 一八八、六〇〇 五四六、九四〇 同上
アスファルト工 厚五分 面坪 六、五〇 八、五〇〇 五五、二五〇 底部塗用
《割書:アスファルト|フェルト工》 厚三分 〃 五、〇〇 七、九〇〇 三九、五〇〇 竪部張用
切石工 切 一六〇、〇〇 四、八九〇 七八二、四〇〇 《割書:縁石及集水渠入口|二蓋石用》
メタルラス 面坪 一〇、〇〇 三、二〇〇 三二、〇〇〇 《割書:川崎式コンクリート|鉄鋼》
《割書:基礎コンクリー|ト厚三寸》 一、二、八、 立坪 〇、二〇 一〇六、〇〇〇 二一、二〇〇 底部鉄筋下用
《割書:防水モルタル|塗工》 厚五分 面坪 五四、〇〇 二、四二〇 一三〇、六八〇
工形鋼鐵 四吋×三吋長六尺 本 八、〇〇 一五、六〇〇 一二四、ハ〇〇 《割書:鉄蓋受桁用|毎一尺十八封度》
丁形鋼鐵 四吋×三吋長六尺 〃 四、〇〇 八、〇〇〇 三二、〇〇〇 同毎尺九封度
鋳鉄蓋 二尺七寸二尺五寸 枚 一六、〇〇 七一、〇〇〇 一、一三六、〇〇〇
同 二尺七寸二尺 〃 一六、〇〇 五七、〇〇〇 九一二、〇〇〇
足掛金物 本 八、〇〇 一、〇〇〇 八〇、〇〇〇 昇降用
六吋直管 個 六、五〇 一四、七三〇 九五、七四五 《割書:低壓水位標|示器鉄管用》
同上異形管 噸 、一〇 二五〇、〇〇〇 二五、〇〇〇
水位標示器 組 八、〇〇 一〇〇、〇〇〇 ハ〇〇、〇〇〇 臺付
引出立管 〃 四、〇〇 八〇〇、〇〇〇 三、二〇〇、〇〇〇 《割書:ベルモース砲金|取付附属一式》
十二吋異形管 噸 三、一〇 二五〇、〇〇〇 七七五、〇〇〇
十二吋管布設工 間 一二、〇〇 八、九八〇 一〇七、七六〇
四吋直管 本 四、〇〇 九、三九〇 三七、七六〇 排気管用低壓
十二吋阻水弇 個 八、〇〇 一四〇、〇〇〇 一、一二〇、〇〇〇
各種金物取付費 五〇〇、〇〇〇
第三章 第一節 実施設計 八三
第三章 第一節 実施設計 八四
一尺土管布設費 間 五、〇〇 一〇、九六〇 五四、八〇〇
雑工 九一五、八六五
計 一三、三三七、〇〇〇
(十)濾過池より喞筒室に至る送水鉄管費
一金六千參百九拾七圓 (溢流管を含む)
内譯
濾過池より喞筒井に至る送水管 総噸数三十噸一四八
鉄管内径 延間 一本の 一間当り噸数 合計噸数 本数 摘要
二十吋直管 三五、〇〇 十三尺二寸 、三八三四 一三、四一九 一五、九一〇 底壓
同異形管 二、二四
十八吋直管 三二、〇〇 十三尺二寸 、三二八四 一〇、五〇九 一四、五〇〇
同異形管 、七八〇
十二吋異形管 三、二〇〇
計 三〇、一四八
名稱 種目寸法 単位 数量 金額 摘要
二十吋直管 間 三五、〇〇 一、四七六、三〇〇 底壓
同異形管 噸 二、二四 五六〇、〇〇〇
二十吋管布設工 間 三五、〇〇 五七二、八一〇
十八吋直管 〃 三二、〇〇 一、一五五、八四〇 底壓
同異形管 噸 〇、七八 一九五、〇〇〇
十八吋管布設工 間 三二、〇〇 四四六、四六四
十二吋異形管 噸 三、二〇 八〇〇、〇〇〇
同阻水弇 個 四、〇〇 五六〇、〇〇〇
十二吋管布設費 間 四、〇〇 三五、九二〇
四吋阻水弇 個 一、〇〇 三五、〇〇〇 筐共
雑工 五五九、六六六
計 六、三九七、〇〇〇
(十一)砂桝及砂洗場築造費
一金八千圓
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
砂桝 十二面坪高六尺 個 二、〇〇 一、〇〇〇、〇〇〇 二、〇〇〇、〇〇〇
砂洗場 四、〇〇〇、〇〇〇
砂洗器 二、〇〇〇、〇〇〇
計 八、〇〇〇、〇〇〇
第三章 第一節 実施設計 八五
第三章 第一節 実施設計 八六
送水本管及弇並布設費
一金拾四萬七千六百九拾八圓
内
金四千百參拾圓 (一)土工費
金拾參萬六千參百貳圓 (二)鐵管弇布設費
金參千參百六拾貳圓 (三)水路底横断工築造費
金參千九百四圓 (四)橋梁費二橋分
(一)土工費
一 四千百參拾圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿(乙) 立坪 一三三、六三 六、〇〇〇 八〇一、七八〇 《割書:土坪表鐵管専|用道路掘鑿用》
盛土(乙) 〃 一八九、七七 八、〇〇〇 一、五一八、一六〇 土坪表同上盛土用
張芝 面坪 三三二、〇〇 二、〇〇〇 五三一、二〇〇 同上張芝用
敷砂利(丙) 立坪 三二、九三 二六、〇〇〇 八五六、一八〇
雑工 四二二、六八〇 山回並雑役一式
計 四、一三、〇〇〇〇
(二)鐵管弇布設費
一金拾參萬六千參百二圓 総噸数八百二十九噸六一八
内譯
鐵管内径 延間 《割書:一本の|長さ》 一間当り噸数 合計噸数 本数 摘要
二十吋直管 二、〇九六、一〇 十三尺二寸 、三八三四 八〇三、六四五 九五二、七七 低壓
同異形管 二五、〇〇〇
六吋直管 一二、〇〇 九尺九寸 、〇八一一 、九七三 七、二七 同上
計 八二九、六一八
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
内径二十吋直管 間 二、〇九六、一〇 四二、一八〇 八八、四一三、四九八 低壓
同異形管 噸 二五、〇〇 二五〇、〇〇〇 六、二五〇、〇〇〇
内径二〇吋阻水弇 個 一、〇〇 六、〇〇、〇〇〇 六〇〇、〇〇〇 弇筐共
復帰弇 〃 八、〇〇 一五〇、〇〇〇 一、二〇〇、〇〇〇 同
六吋阻水弇 〃 四、〇〇 五六、〇〇〇 二二四、〇〇〇 同
六吋直管 間 一二、〇〇 八、九三〇 一〇七、一六〇 低壓
六吋異形管 噸 五一 二五〇、〇〇〇 一二七、五〇〇
安全弇 個 一、〇〇 九五、〇〇〇 九五、〇〇〇 弇筐共
一八吋管用送止辨 〃 一、〇〇 一五〇、〇〇〇 一五〇、〇〇〇 〃
二十吋管布設費 間 二、〇九六、一〇 一六、三六六 三四、三〇四、七七三
六吋管布設費 〃 一 二、〇〇 六、〇四二 七ニ、五〇四
第三章 第一節 実施設計 八七
第三章 第一節 実施設計 八八
雑工 四、七五七、五六五 《割書:曲管保護コンク|リート工其他》
計 一三六、三〇二、〇〇〇
(三)水路底横断工築造費
一金參千參百六拾貳圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿(甲) 水中 立坪 四三、一七 二〇、〇〇〇 八六三、四〇〇 《割書:測点一一、二二、五〇|六二四ヵ所 横断掘鑿工》
同(甲) 〃 七ニ、三三 八、〇〇〇 五七八、六四〇 〃
埋戻(甲) 〃 九七、八二 三、四〇〇 三三二、五八八 〃
混凝土工 一、三、六、 〃 五、六一 一一一、一〇〇 六二三、二七一 同上鐵管用
《割書:内径八寸土管|布設工》 間 三〇、〇〇 八、八六〇 二六五、八〇〇 泥吐用
雑工 六九八、三〇一 締切工其他
計 三、三六二、〇〇〇
(四)橋梁費
一金參千九百四圓
(イ)宮下橋架設費
一金壹千四百五拾九圓
但し在来橋臺下流に橋臺を増築し工形桁二本を架渡し其の上部に二十吋管一條を架渡するものとす
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿(甲) 立坪 五、四四 八、〇〇〇 四三、五二〇 《割書:巾二間長二間|深一間三六》
栗石工(乙) 〃 〇、二二 四二、一〇〇 九、二六二
混凝土工(丙) 一、三、六、 〃 二、九九 一一一、一〇〇 三三二、一八九 橋臺及鐵管保護用
モルタル塗工 一、二厚三分 面坪 一、四〇 一、七四〇 二、四三六 同上
切石工 切 四、〇〇 四、八九〇 一九、五六〇 床石用
檜挽材 尺〆 三、三〇 四〇、〇〇〇 一三二、〇〇〇
防護材 切 四九、八七 二、〇〇〇 九九、七四〇
鬼ボールト 径六分長一尺 本 八、〇〇 、三五〇 二、八〇〇
工形鋼桁 《割書:十二吋×六吋|長 九尺五寸》 〃 二、〇〇 二〇、〇〇〇 四〇、〇〇〇
床板 《割書:十吋×十吋|厚二分の一吋》 板 四、〇〇 、三〇〇 一、二〇〇
鉛板 《割書:十吋×十吋|厚四分の一吋》 〃 四、〇〇 、二五〇 一、〇〇〇
平鐵 《割書:巾二寸厚一分|長八尺二寸》 本 一四、〇〇 二、一〇〇 二九、四〇〇
同 《割書:巾三寸厚二分|長二尺九寸》 〃 九、〇〇 一、〇〇〇 九、〇〇〇
ボールト 径五分長一尺 〃 三六、〇〇 、〇八〇 二、八八〇
同 《割書:径六分|長一尺二寸》 〃 一二、〇〇 、三八〇 四、五六〇
大工 人 一二、〇〇 二、八〇〇 三三、六〇〇
鐵工 〃 一〇、〇〇 三、〇〇〇 三〇、〇〇〇
章三章 第一節 実施設計 八九
第三章 第一節 実施設計
假締切 間 六、〇 一九、四八〇 一一六、八八〇
人夫 人 二〇、〇 二、〇〇〇 四〇、〇〇〇
雑費損料 五〇八、九七三
計 一、四五九、〇〇〇
(ロ)橋梁架設費 測点第十一号送水管専用道路橋
一金貳千四百四拾五圓 径間三十尺
但手鐵管は河底横断
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿 水中 立坪 三、二〇 二〇、〇〇〇 六四、〇〇〇 《割書:巾二間長二間|深一、四二》
同(甲) 〃 二、五〇 八、〇〇〇 二、〇〇〇〇
埋戻 立坪 一、三〇 三、四〇〇 四、四二〇
盛土 〃 二、一〇 一〇、〇〇〇 二一、〇〇〇
混凝土工(乙) 一、三、六、 〃 七、〇〇 一三九、五〇〇 九七六、五〇〇 橋臺及袖用
同(乙) 一、二、四、 〃 三、六〇 一四五、〇〇〇 五二二、〇〇〇 鐵筋用
栗石(乙) 〃 、九〇 四二、一〇〇 三七、八九〇
上置土 〃 一、二五 一〇、〇〇〇 一二、五〇〇
砂利(乙) 〃 、五二 三三、〇〇〇 一七、一六〇 (乙)敷砂利
モルタル塗工 一、三、厚三分 面坪 一一、七〇 一、五三〇 一七、九〇一
鐵筋 噸 一、八一 一八八、六〇〇 三四一、三六六 加工費共
鍛冶工 人 一〇、〇〇 三、〇〇〇 三、〇〇〇〇
人夫 〃 二〇、〇〇 二、〇〇〇 四〇、〇〇〇
型枠 一四五、九八〇
假締切 間 一〇、〇〇 一九四、二八三
計 二、四四五、〇〇〇
二橋合計 三、九〇四、〇〇〇
給水場費
一金六萬五千六百貳拾九圓
内譯
金四萬參千八百八拾五圓 (一)土工費
金九萬四千六百參拾圓 (二)配水池築造費
金參千六百六拾參圓 (三)配水池引入鐵管及弇同布設費
金七千八百八拾圓 (四)配水池引出鐵管及弇同布設費
金六千百貳拾壹圓 (五)排水設備費
金九千五百圓 (六)量水器設備費
(一)土工費
一金四萬參千八百八拾五圓
第三章 第一節 実施設計 九一
第三章 第一節 実施設計 九二
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 金額 摘要
軟岩盤掘削 立坪 一、二〇九、九三 一八、一四八、九五〇
掘鑿(甲) 〃 三四〇、〇〇 二、七二〇、〇〇〇
盛土(乙) 〃 九八八、六二 七、九〇八、九六〇
同(丁) 〃 三四〇、〇〇 一、五三〇、〇〇〇
埋戻 〃 三〇六、七一 一、〇四二、八一四
張芝工 面坪 六三八、七二 一、〇二一、九五二
金筋芝工 〃 五二四、二三 ハ三八、七六八
石階段 《割書:直高十九尺五寸|巾九尺》 個所 一、〇〇 一、一〇〇、〇〇〇
同 《割書:直高六尺|巾四尺》 〃 四、〇〇 六二四、〇〇〇
鐵柵工 尺 七八六、〇〇 二、二九八、二六四
敷砂利(甲) 立坪 二三、六〇 一、〇九九、七六〇
甲雨水溝 間 九二、〇〇 八三七、二〇〇
《割書:六寸半土管|布設工》 〃 一九五、〇〇 一、〇三三、五〇〇
表門 個 一、〇〇 一、八〇〇、〇〇〇
裏門 〃 二、〇〇 一、二〇〇、〇〇〇
雑工 六八〇、八三二
計 四三、八八五、〇〇〇
(二)配水池築造費
一金九萬四千六百參拾圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
混凝土工(甲) 一、二、四、 立坪 二〇五、〇〇 一六五、五〇〇 三三、九二七、五〇〇 《割書:側壁、扶壁、支柱障|壁、覆蓋等鐵筋所ヶ用》
同上(甲) 一、三、六、 〃 五七、〇〇 一三九、五〇〇 七、九五一、五〇〇 池底等無筋ヶ所用
同上(甲) 一、四、八、 〃 二、六〇 一二六、〇〇〇 三二七、六〇〇 基礎鐵筋下用
《割書:アスファルト|フエルト》 厚三分 面坪 一九九、〇〇 七、九〇〇 一、五七二、一〇〇 堅壁塗用
鐵筋工 噸 一二一、〇〇 一八八、六〇〇 二二、八二〇、六〇〇
《割書:アスファルト|塗工》 厚五分 面坪 三八八、〇〇 八、五〇〇 三、二九八、〇〇〇 底部塗用
《割書:アスファルト|塗工》 厚三分 〃 三九〇、〇〇 七、九〇〇 三、〇八一、〇〇〇 覆蓋塗用
煉瓦工 立坪 二、六〇 二九五、六〇〇 七六八、三〇〇 通路入口用
《割書:一、三防水|モルタル塗工》 厚三分 面坪 五三七、八〇 一、五九〇 八五五、一〇二 《割書:支柱覆蓋下部及通路|専用》
《割書:一、三防水|モルタル塗工》 厚五分 面坪 六一一、九〇 二、四一〇 一、四七四、六七九 側壁及底部隔壁用
切石工 切 三七六、〇〇 四、八九〇 一、八三八、六四〇 通路入口及人孔用
特製土管 内径八寸 本 五〇、〇〇 一、八〇〇 九〇、〇〇〇 空気抜用
空気抜金物 個 五〇、〇〇 三〇、〇〇〇 一、五〇〇、〇〇〇 〃
足掛金物 〃 二八、〇〇 一、〇〇〇 二八、〇〇〇 昇降用
鐵扉 〃 二、〇〇 二〇〇、〇〇〇 四〇〇、〇〇〇 通路入口用
土管工 間 一三〇、〇〇 三、七四〇 四八六、二〇〇 覆及蓋上部排水用
第三章 第一節 実施設計 九三
第三章 第一節 実施設計 九四
水嵩標示器 組 二、〇〇 二、〇〇〇、〇〇〇
型枠及拱架甲工 八、〇〇〇、〇〇〇
雑工 四、二〇、七七九
計 九四、六三〇、〇〇〇
(三)配水池引入鐵管及弇同布設費
一金三參千六百拾參圓
内譯
鐵管内径 延間 一本の長さ 一間当り噸数 合計噸数 本数 摘要
二十吋直管 三、五〇 十三尺二寸 〇、三八三四 一、三四二 一、五九 低壓
同異形管 、三二八三 一、〇〇〇
十八吋直管 八、〇〇 十三尺二寸 二、六二六 三、六四
同異形管 二、〇〇〇
計 六、九六八
名稱 種目寸法 単位 単価《割書:単価|稱呼》 金額 摘要
直管 噸 一一〇、〇〇〇 四三六、四八〇
異形管 〃 二五〇、〇〇〇 七五〇、〇〇〇
二十吋阻水弇 個 六〇〇、〇〇〇 一二〇〇、〇〇〇
十八吋同上 〃 三四〇、〇〇〇 六八〇、〇〇〇
十八吋管布設費 間 一三、九五二 四八、八三二
十六吋管同上 〃 一二、〇二八 一六九、五九四
雑工 三二八、〇九四
計 三、六一三、〇〇〇
(四)配水池引出鐵管及弇同布設費
一金七千八百八拾圓
内譯 十四吋分岐点迄排水鐵管を含む
鐵管内径 延間 一本の長さ 一間当り噸数 合計噸数 本数 摘要
二十吋直管 三〇、〇〇 十三尺二寸 、三八三四 一一、五〇二 一三、六四〇 低壓
同異形管 一、九三〇
十八吋直管 三〇、〇〇 十三尺二寸 、三二八四 九、八五二 一三、六四〇 〃
同異形管 三、〇五〇
十六吋直管 一五、〇〇 十三尺二寸 、二七七四 四、一六一 六、八三〇 〃
同異形管 〇、四六〇
十二吋直管 一〇、〇〇 十三尺二寸 、一八六一 一、八六一 四、五五〇 〃
同異形管 一、四一〇
計 三四、二二〇
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
直管 噸 二七、三七六 一一〇、〇〇〇 三、〇一一、三六〇
異形管 〃 六、八四〇 二五〇、〇〇〇 一、七一二、五〇〇
第三章 第一節 実施設計 九五
第三章 第一節 実施設計 九六
阻水弇 十八吋 個 二、〇〇 三四〇、〇〇〇 六八〇、〇〇〇
同 十六吋 〃 一、〇〇 二六〇、〇〇〇 二六〇、〇〇〇
同 十二吋 〃 二、〇〇 一四〇、〇〇〇 二八〇、〇〇〇
複気弇 〃 一、〇〇 一五〇、〇〇〇 一五〇、〇〇〇
二十吋管布設費 間 三〇、〇〇 一六、三六六 四九〇、九八〇
十八吋管同上 〃 三〇、〇〇 一三、九五二 四一八、五六〇
十六吋管同上 〃 一五、〇〇 一二、〇二八 一八〇、四二〇
十二吋管同上 〃 一〇、〇〇 八、九八〇 八九、八〇〇
雑工 六〇六、三八〇
計 七、八八〇、〇〇〇
(五)排水設備費
一金六千壹百貳拾壹圓
内径 一尺五寸
排水管 同 一尺二寸
同 一尺
人孔五個所
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿(甲) 立坪 三二、七五 八、〇〇〇 二六二、〇〇〇 人孔掘鑿
埋戻(甲) 〃 二八、八九 三、四〇〇 九八、二二六 同
混凝土工(甲) 一、四、八、 〃 、七三 一二六、〇〇〇 九一、九八〇 人孔基礎用
切石工 切 二一、一〇 四、八九〇 一〇三、一七九 人孔縁石用
煉瓦工 立坪 四、二二 二六〇、五〇〇 一、〇九九、三一〇 同側壁用
《割書:内径一尺五寸鐵筋|混凝土管布設工》 間 一八七、六六 二一、〇五〇 三、九五〇、二四三
《割書:内径一尺二寸|同上布設工》 〃 二七、八三 一六、七九〇 四六七、二六五
《割書:内径一尺土管|同上布設工》 〃 一一、六〇 一〇、九六〇 一二七、一三六
足掛金物 個 七〇、〇〇 一、〇〇〇 七〇、〇〇〇 人孔昇降用
運搬費 三〇〇、〇〇〇
鋳鉄蓋 個 五、〇〇 三二、〇〇〇 一六〇、〇〇〇
雑工 三九一、五六一
計 六、一二一、〇〇〇
(六)量水器設備費
一金九千五百圓
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
二十吋ベンチ 組 一、〇〇 八、〇〇〇、〇〇〇 八、〇〇〇、〇〇〇
同上据付費 一、五〇〇、〇〇〇
計 九、五〇〇、〇〇〇
第三章 第一節 実施設計 九七
第三章 第一節 実施設計
配水鐵管及弇並布設費
一金百十五萬四千貳百拾九圓
内
金八千五拾七圓 (一)専用道路費(給水場市道間)
金貳萬五千六百九拾貳圓 (二)橋梁費(二ヵ所)
金百拾九貳萬四百八拾圓 (三)配水管及弇並布設費
(一)専用道路費(給水場市道間)
一金八千五拾七圓 延長三百間
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|呼稱》 数量 単価 金額 摘要
盛土 立坪 二七二、六七〇 八、〇〇〇 二、一八一、三六〇
掘鑿(甲) 一、三、六、 〃 三一、三一〇 八、〇〇〇 二五〇、四八〇
《割書:土留コンクリ|ート(乙)》 〃 六、八九〇 一一九、〇〇〇 八一九、九一〇
敷砂利(乙) 〃 二三、四〇〇 三三、〇〇〇 七七二、二〇〇
《割書:内径一尺土管|敷設工》 間 三〇〇、〇〇〇 一〇、九六〇 三、二八八、〇〇〇
雑工 七四五、〇五〇
計 八、〇五七、〇〇〇
(二)橋梁費
(イ)測点第八号配水本管専用道路橋
径間三十尺 有効巾負十二尺
一金貳千四百六圓 但鐵管は河底横断
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿 水中 立坪 二、三〇 二〇、〇〇〇 四六、〇〇〇
同(甲) 〃 三、五〇 八、〇〇〇 二八、〇〇〇
埋戻 〃 二、九〇 三、四〇〇 九、八六〇
盛土 〃 三、六〇 八、〇〇〇 二八、八〇〇
混凝土工(乙) 一、三、六、 〃 七、〇〇 一一九、〇〇〇 八三三、〇〇〇
同(乙) 一、二、四、 〃 三、六〇 一四五、〇〇〇 五二二、〇〇〇
栗石 〃 、九〇 五六、一八〇 五〇、五六二
上置土 〃 一、二五 一〇、〇〇〇 一二、五〇〇
敷砂利(乙) 〃 、五二 三三、〇〇〇 一七、一六〇 (乙)敷砂利
モルタル塗工 一、三厚三分 面坪 一一、七〇 一、五三〇 一七、九〇〇
鐵筋 噸 一、八一 一八八、六〇〇 三四一、三六六
鍛冶工 人 一〇、〇〇 三、〇〇〇 三〇、〇〇〇
人夫 〃 二〇、〇〇 二、〇〇〇 四〇、〇〇〇
型枠 一五〇、〇〇〇
第三章 第一節 実施設計
第三章 第一節 実施設計 一〇〇
假締切 間 一〇、〇〇 一九四、八〇〇
雑工 八六、五五一
計 二、四〇六、〇〇〇
(ロ)豊川鐵管橋費
一金貳萬參千貳百八拾六圓 ワーレン式横桁場
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
掘鑿 立坪 八、五〇 二〇、〇〇〇 一七〇、〇〇〇 水中
同(甲) 〃 一 〇、五〇 八、〇〇〇 八四、〇〇〇
埋戻 〃 四、五〇 三、四〇〇 一五、三〇〇
橋脚基礎枠下工 尺 四〇、〇〇 三〇、〇〇〇 一、二〇〇、〇〇〇
橋梁鐵材軟鋼 噸 六三、〇〇 二五〇、〇〇〇 一五、七五〇、〇〇〇
鉛板 《割書:二十吋十六吋|四分一吋》 枚 一二、〇〇 七、〇〇〇 八四、〇〇〇
鬼ボールト 《割書:径一吋|長一呎六吋》 個 一二、〇〇 、五〇〇 六、〇〇〇
混凝土(丙) 一、三、六、 立坪 九、五〇 一一一、一〇〇 一、〇五五、四五〇 橋臺二ヵ所分
同上(丙) 一、三、六、 立坪 六、二〇 一一一、一〇〇 六八八、八二〇 《割書:橋脚二ヵ所分|地盤以下》
同上(丙) 一、二、四、 〃 二、〇四 一三七、一〇〇 二七九、六八四 《割書:同上|地盤以下用》
鐵筋工 噸 二、〇〇 一八八、六〇〇 三七七、二〇〇 橋脚基礎露出部用
粗角石 切 四〇一、〇〇 三、八九〇 一、五五九、八九〇 《割書:橋臺橋脚用|加工据付一式》
膠眤 面坪 一一、〇〇 一、五三〇 一六、八三〇
橋脚基礎枠 組 一、〇〇 五〇〇、〇〇〇 五〇〇、〇〇〇
足場 一式 五〇〇、〇〇〇
雑工 九九八、八二六
計 二三、二八六、〇〇〇 二橋
(二)配水管及弇並布設費
一金壹百拾貳萬四百八拾圓
鐵管噸数五千五百八十七噸八八七
内譯 《割書:直管 一噸百拾圓|異形管 一噸貳百五拾圓》
鐵管内径 延長 一本の長さ 一間当り噸数 合計噸数 本数 摘要
二十吋管 一、一五〇、〇〇 十三尺 、三八三四 四四〇、九一〇 五二二、七〇 低壓
十八吋管 五四〇、〇〇 〃 、三七七六 二〇三、九〇四 二四五、五〇 普通壓
十六吋管 六二〇、〇〇 〃 、三一六三 一九六、一〇六 二八一、八〇 〃
十二吋管 一、九四五、〇〇 〃 、二〇八〇 四〇四、五六〇 八八四、〇〇 〃
十吋管 七八二、〇〇 〃 、一六二四 一二六、九九七 三五五、五〇 〃
八吋管 三、六八六、五〇 〃 、一二〇三 四四三、四八六 一、六七五、七〇 〃
八吋鋼管 七八、六〇 十五尺 、〇五三六 四、二一三 三一、四〇 〃
第三章 第一節 実施設計 一〇一
第三章 第一節 実施設計 一〇二
六吋管 九、九四九、一〇 九尺九寸 、〇八六五 八六〇、五九七 六、一〇三、七〇 〃
四吋管 三七、七三九、四〇 〃 、〇五四二 二、〇四五、四七五 二二、八七二、三〇
三吋管 一四、九二六、三〇 〃 、〇四〇〇 五九七、四五二 六、〇二九、八〇〇
各種異形管 二六四、一八七
計 五九五八七、八八七
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
二十吋管 間 一、一五〇、〇〇 五八、五四六 六七、三二七、九〇〇 低壓布設工共
十八吋管 〃 五四〇、〇〇 五五、四九二 二九、九六五、六八〇 普通壓〃
十六吋管 〃 六二〇、〇〇 四六、八二八 二九、〇三三、三六〇 〃 〃
十二吋管 〃 一、九二五、〇〇 三一、八七〇 六一、三四九、七五〇 〃 〃
十吋管 〃 七八二、〇〇 二五、四一五 一九、八七四、五三〇 〃 〃
八吋管 〃 三、六八六、五〇 一九、一三八 七〇、五五二、二三七 〃 〃
八吋鋼管 間 七八、六〇 二三、〇〇〇 一、八〇七、八〇〇 普通壓布設費を除く
六吋管 〃 九、九四九、一〇 一五、五六二 一五四、八二七、八九四 同布設工共
四吋管 〃 三七、七三九、四〇 一〇、二八二 三八八、〇三六、五一〇 〃 〃
三吋管 〃 一四、九三六、三〇 七、三三六 一〇九、五七二、六九六 〃 〃
各種異形管 噸 二六四、一八七 二五〇、〇〇〇 六六、〇四六、七五〇
二十吋阻水弇 個 一、〇〇 六〇〇、〇〇〇 六〇〇、〇〇〇
十八吋同 〃 一、〇〇 三四〇、〇〇〇
十六吋同 〃 一、〇〇 二六〇、〇〇〇 二六〇、〇〇〇
十二吋同 〃 七、〇〇 一四〇、〇〇〇 九八〇、〇〇〇
十吋同 〃 三、〇〇 一一〇、〇〇〇 三三〇、〇〇〇
八吋同 〃 一二、〇〇 七五、〇〇〇 九〇〇、〇〇〇
六吋同 〃 四九、〇〇 五六、〇〇〇 二、七四四、〇〇〇
四吋同 〃 二八四、〇〇 三五、〇〇〇 九、九四〇、〇〇〇
三吋同 〃 一〇九、〇〇 三一、〇〇〇 三、三七九、〇〇〇
複気弇 〃 二、〇〇 一五〇、〇〇〇 三〇〇、〇〇〇
単気弇 〃 五、〇〇 五〇、〇〇〇 二五〇、〇〇〇
八吋伸縮管 〃 二、〇〇 一〇〇、〇〇〇 二〇〇、〇〇〇
単口消火栓 〃 六八三、〇〇 八八、〇〇〇 六〇、 一〇四、〇〇〇
公設共用栓 〃 二二〇、〇〇 六九、〇〇〇 一五、一八〇、〇〇〇
水路横断工 三吋 間 二〇、〇〇 一八、二二〇 三六四、四〇〇
〃 四吋 〃 三五、〇〇 一九、四六〇 六八一、一〇〇
〃 六吋 〃 二五、〇〇 二一、〇七〇 五二六、七五〇
〃 十吋 〃 五、〇〇 二七、九〇〇 一三九、五〇〇
〃 十八吋 〃 五、〇〇 三四、五一二 一七一、五六〇
鉄道横断工 〃 五二、〇〇 六八、五〇〇 三、五六二、〇〇〇
鐵管基礎工 二十吋配水管 〃 九九、〇〇 四、三九〇 四三四、六〇〇
雑工 二〇、六九六、九八三
合計 一一二〇、四八〇、〇〇〇
用地買収費
一金七萬五千四拾七圓
第三章 第一節 実施設計 一〇三
第三章 第一節 実施設計 一〇四
内
金六萬八百四拾七圓 (一)土地買収物件移轉並補償費
内譯
金六千四百九拾七圓 イ 送水場敷地地上物件移轉並補償費
金貳萬六千七百參拾五圓 ロ 浄水場敷地地上物件移轉並補償費
金五千四拾參圓 ハ 送水鐵管線路敷地同上
金壹萬七千七百五う拾圓 二給水場敷地同上
金四千八百貳拾貳圓 ホ 配水本管敷地同上
金壹萬四千貳百圓 (二)借地料
(一)敷地買収費 補償費件
イ 送水場敷地地上物件移轉並補償費
一金六千四百九拾七圓
金四千九百五拾七圓貳拾銭 土地買収費
金五百參拾九圓八拾銭 物件移轉並補償費
金壹千圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|呼稱》 数量 単価 金額 摘要
畑 坪 一、八〇〇、〇〇 二、六〇〇 四、六八〇、〇〇〇
田 〃 九、〇〇 二、八〇〇 二七七、二〇〇
《割書:地上物件移轉並|補償費》 五三九、八〇〇
水源土地補償費 一、〇〇〇、〇〇〇
計 六、四九七、〇〇〇
(ロ) 浄水場敷地地上物件移轉並補償費
一金貳萬六千七百參拾五圓
内
金貳萬參千貳百參拾五圓 土地買収費
金參千五百圓 物件移轉並補償費
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 金額 摘要
畑 面坪 七、五三五、〇〇 二二、六〇五、〇〇〇
畑 面坪 二一〇、〇〇 六三〇、〇〇〇
《割書:地上物件移轉並|補償費》 三、五〇〇、〇〇〇
計 二、六七三、五〇〇〇
第三章 第一節 実施設計 一〇五
第三章 第一節 実施設計 一〇六
(ハ) 送水管線路敷地地上物件移轉並補償費
一金五千四拾參圓
内
金四千百四拾參圓 土地買収費
金九百圓 地上物件移轉並補償費
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
畑 坪 一、三二六、〇〇 三、〇〇〇 三九七八、〇〇〇
山林 〃 六六、〇〇 二、五〇〇 一六五、〇〇〇
地上物件補償費 〃 九〇〇、〇〇〇
計 五、〇四三、〇〇〇
(ニ)給水場敷地地上物件移轉並補償費
一金壹萬七千七百五拾圓
内
金壹萬五千七百五拾圓 土地買収費
金貳千圓 地上物件移轉並補償費
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|呼稱》 数量 単価 金額 摘要
山林 坪 七、八七五、〇〇 二、〇〇 一五、七五〇、〇〇〇
地上物件補償費 〃 二、〇〇〇、〇〇〇
計 一七、七五〇、〇〇〇
(ホ)配水本管敷地地上物件移轉並補償費
一金四千八百貳拾貳圓
内
金參千八百貳拾貳圓 土地買収費
金壹千圓 地上物件移轉並補償費
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
畑 坪 三八八、〇〇 四、〇〇〇 一、五五ニ、〇〇〇
山林 〃 二五〇、〇〇 三、〇〇〇 七五〇、〇〇〇
水田 〃 三八〇、〇〇 四、〇〇〇 一、五二〇、〇〇〇
地上物件並補償 一、〇〇〇、〇〇〇
計 四、八二二、〇〇〇
(ニ)借地料
第三章 第一節 実施設計 一〇七
第三章 第一節 実施設計 一〇八
一金壹萬四千貳百圓
内
金四千貳百貳 鐵管置場其他
金壹萬圓 鐵管試験場並置場借地料
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
《割書:鐵管置場其他|借地料》 六、〇〇〇、〇〇〇 、七〇〇 四、二〇〇、〇〇〇 《割書:敷地一千五百坪|四ケ年分》
《割書:鐵管試験場|借地料》 一〇、〇〇〇、〇〇〇 一、〇〇〇 一、〇〇〇、〇〇〇 《割書:〃二千五百坪|四ケ年分》
計 一四、〇〇〇、〇〇〇
機械器具費
一金六萬貳千貳百拾圓
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
《割書:鐵管試験用機|機器具費》 六、〇〇〇、〇〇〇 付属品一式
鐵管布設用同 四、〇〇〇、〇〇〇
工事用同 三三、〇一〇、〇〇〇 《割書:巻揚機械コンクリー|ト混合喞筒等一式》
《割書:自動車|自転車購入費》 一三、五〇〇、〇〇〇 《割書:自動車二臺一二、〇〇〇圓|自転車十臺一、五〇〇圓》
《割書:セメント|試験器具費》 七〇〇、〇〇〇
機械器具修繕費 五、〇〇〇、〇〇〇
計 六二、二一〇、〇〇〇
測量試験費
一金五萬七千八百圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
測量用具 五、〇〇〇、〇〇〇
製圖用具 一、二〇〇、〇〇〇
測量用品 八〇〇、〇〇〇
製圖用品 一、五〇〇、〇〇〇
測量人夫 人 二、〇〇〇 二、〇〇〇 四、〇〇〇、〇〇〇
鐵管試験費 四、二三〇、〇〇〇
セメント試験費 二、〇〇〇、〇〇〇
諸材料試験費 五〇〇、〇〇〇
第三章 第一節 実施設計 一〇九
第三章 第一節 実施設計 一一〇
雑費 五〇〇、〇〇〇
計 五七、八〇〇、〇〇〇
雑工事費
一金參萬六千圓
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 《割書:単価|稱呼》 金額 摘要
電話架設費 一二、五〇〇、〇〇〇 《割書:事務用電話専|用電話架設費》
《割書:軽便軌道及布設|工事費》 一〇、五〇〇、〇〇〇 附属品一式
道路溝渠開鑿費 二、〇〇〇、〇〇〇
《割書:水位標示電導設|備費》 二、〇〇〇、〇〇〇 給水場浄水場
雑工事費 八、〇〇〇、〇〇〇
電燈設備費 一、〇〇〇、〇〇〇
計 三六、〇〇〇、〇〇〇
残土整理費
一金壹千四百六拾八圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
残土処分 一二四、〇〇〇 二、〇〇〇 二四八、〇〇〇 送水本管線路
同 六一〇、〇〇〇 二、〇〇〇 一、二二〇、〇〇〇 配水管線路
計 一、四六八、〇〇〇
建築費
一金九萬九千七百四拾貳圓
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 金額 摘要
水道事務所 坪 五〇、〇〇 一四、五〇〇、〇〇〇
送水場喞筒室 〃 五三、〇〇 一八、五五〇、〇〇〇
浄水場喞筒室 〃 四七、〇〇 一六、四五〇、〇〇〇
浄水場事務室 〃 一五、〇〇 二、二五〇、〇〇〇
水源地事務室 〃 五、〇〇 七五〇、〇〇〇 喞筒室所属
合宿所 〃 一四二、〇〇 一一、三六〇、〇〇〇
材料倉庫 〃 二〇〇、〇〇 一五、〇〇〇、〇〇〇
給水場事務所 〃 六、〇〇 九〇〇、〇〇〇
第三章 第一節 実施設計 一一一
第三章 第一節 実施設計 一一二
鐵管試験場上家 坪 五〇、〇〇 三、七五〇、〇〇〇
同事務所 〃 三〇、〇〇 二、五五〇、〇〇〇
同倉庫 〃 三〇、〇〇 二、二五〇、〇〇〇
鐵管布設員詰所 三十坪一棟 〃 三〇、〇〇 二、四〇〇、〇〇〇
工事見張所 〃 九、〇〇 九〇〇、〇〇〇
量水器上家 〃 七、五〇 二、六二五、〇〇〇
附属建物 五、〇〇七、〇〇〇
雑工 五〇〇、〇〇〇
計 九九、七四二、〇〇〇
事務費
一金貳拾九萬貳千百八拾六圓
内譯
金拾貳萬參百五拾闖【圓】 俸給
金拾參萬九千參百九拾六圓 雑給
金貳萬七千六百四拾圓 需用費
金四千八百圓 雑費
(一)俸給
一金十二萬貳百五十圓
内譯
名稱 種目 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
技師給 二人四十三ヶ月 延月 八六、〇〇 二七九、〇〇〇 二三、九九四、〇〇〇
主事給 一人三十六ヶ月 〃 三六、〇〇 一七三、〇〇〇 六、二二八、〇〇〇
技手給 二人四十三ヶ月 〃 四七三、〇〇 一〇五、〇〇〇 四九、六六五、〇〇〇
書記給 七人四十三ヶ月 〃 三〇一、〇〇 七五、〇〇〇 二二、五七五、〇〇〇
雇員給 八人四十三ヶ月 〃 三四四、〇〇 五二、〇〇〇 一七、八八八、〇〇〇
計 一二〇、三五〇、〇〇〇
(二)雑給
一金拾參萬九千參百九拾六圓
内譯
名稱 種目 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
吏員雇員現場手 一五、二〇〇、〇〇〇 《割書:技師月手当三十圓技|手月二十圓雇十五圓》右四十ヶ月分
給仕使丁 六人千三百十日 延H数 八、六四六、〇〇〇
工手、工夫、職工 十人千三百十日 〃 二九、三四四、〇〇〇
退職給与 三一、七〇〇、〇〇〇
同賞与 二六、四〇六、〇〇〇
旅費 九、一、〇〇〇〇〇 《割書:設計及庶務に関する|出張旅費》
第三章 第一節 実施設計 一一三
第三章 第一節 実施設計
報酬 一六、〇〇〇、〇〇〇
委員実施費 三、〇〇〇、〇〇〇
計 一三九、三九六、〇〇〇
(三)需用費
一金貳萬七千六百四拾圓
内譯
名稱 種目 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
備品 延月 四三、〇〇 七、〇〇〇、〇〇〇
消耗品 〃 四三、〇〇 九、五八九、〇〇〇
賄費 〃 四三、〇〇 四、八一六、〇〇〇
通信運搬費 〃 四三、〇〇 一、四〇八、〇〇〇
印刷費 〃 四三、〇〇 一、四一九、〇〇〇
被服費 三、四〇八、〇〇〇
計 二七、六四〇、〇〇〇
(四)雑費
一金四千八百圓
内譯
名稱 種目 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
雑費 四、八〇〇、〇〇〇 新聞広告其他雑費
計 四、八〇〇、〇〇〇
予備費
一金拾貳萬四千九百七拾壹圓
内譯
名稱 種目 単位 数量 単価 金額 摘要
予備費 一二四、九七一、〇〇〇
計 一二四、九七一、〇〇〇
豊橋市水道水源取水口対岸護岸工事設計書
一金壹萬五千五百貳拾六圓
内譯
金壹萬參千百七拾四圓拾銭 取入口対岸(右岸)護岸工事費
第三章 第一節 実施設計 一一五
第三章 第一節 実施設計 一一六
金壹千參百五拾壹圓九拾銭 同上(左岸)護岸工事費
金壹千圓 土地補償費
(一)取入口対岸(右岸)工事費
一金壹萬參千百七拾四圓拾銭
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
杭打片枠 長十二尺枠 組 一一〇、〇〇〇 三五、六五〇 三、九二一、五〇〇 二百二十間分
木工沈床 長十二尺高四尺 〃 三五、〇〇〇 四六、〇五〇 一、六一一、七五〇
石張工 扣一尺二寸 面坪 八五二、〇〇〇 八、〇〇〇 六、八一六、〇〇〇 《割書:長二、二〇間平均法|長二十三尺二寸強》
捨玉石 立坪 三五、〇〇〇 六、九〇〇 二四一、五〇〇 《割書:木工沈床前捨石用七|十間分間〇〇、五立坪》
雑工 五八三、三五〇
計 一三、一七四、一〇〇
杭打片枠工壹組当り単価表(取入口対岸)
一金參拾五圓六拾五銭 長二尺 高六尺
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 単価 金額 摘要
親杭 松丸太 本 、七〇〇 一、四〇〇 末口五寸長十二尺
控杭 〃 〃 、三五〇 一、四〇〇 同長八尺
小目杭 〃 〃 、二〇〇 三、二〇〇 末口三寸長八尺
控木 〃 〃 、三五〇 一、四〇〇 末口五寸長九尺
貫木 〃 〃 、七五〇 一、五〇〇 同長十三尺
張石土臺木 〃 〃 、七五〇 、七五〇 同長十三尺
親杭締付 ボールト 〃 、一〇〇 、四〇〇 働き長一尺末口は5╲8
貫木締付 ボールト 本 、一〇〇 、四〇〇 働き長一尺末口は5╲8
控木控杭締付 〃 〃 、一〇〇 、八〇〇 同尺末口は5╲8
玉石 径四寸以上 立坪 六、〇〇〇 七、二〇〇 枠内詰込用
小計 一八、四五〇
仕拵 大工 人 二、八〇〇 一、四〇〇
同 人夫 〃 二、〇〇〇 一五、四〇〇《割書:十二尺杭打込一本|に付〇、五人掛二》《割書:本分一人八尺杭打|込一本に付〇、三》《割書:人掛り二十本分六|人大工手傳仕上一》 式〇、七人
雑費 、四〇〇
小計 一七、二〇〇
計 三五、六五〇
木工洗床壹組当り単価表
一金四拾六圓五銭 長拾二尺 高四尺
内譯
第三章 第一節 実施設計 一一七
第三章 第一節 実施設計 一一八
名稱 種目寸法 単位 数量 金額 摘要
六格材 松丸太 本 五〇、六〇 一五、一八〇 《割書:縦三〇本横二〇本止り十本|二ヵ所分を三五組に割》
敷成木 〃 四八、〇〇 七、二〇〇 《割書:当長七尺五寸末口四寸|長七尺五五寸末口二寸五分》
鐵線 十二番 〆 一、〇〇 、四〇〇 敷成木締付用
長ボールト 本 六、一七 二、一五九 《割書:六格材通貫用長五尺|径7╲8止り二ヵ所分六》本を三五組に割当り
短ボールト 〃 五、七〇 一、九〇七 《割書:同上長四尺五寸径5╲3一|組六本両端三本宛四カ》所八本を三十五組に割当り
玉石 立坪 二、〇〇 六、〇〇〇 《割書:枠内詰込用径四寸以|上》
小計 三二、八四六
大工 人 一、五〇 四、二〇〇 仕拵用玉石詰込一式
人夫 〃 四、五〇 九、〇〇〇 大工手伝枠組立
小計 一三、二〇〇
計 四六、〇五〇
石張工一面坪当り単価表
一金八圓
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
雑割堅石 面一尺扣一尺二寸 面坪 一、〇〇 五、五〇〇 五、五〇〇
裏込 立坪 〇、二〇 二、〇〇 〇 、四〇〇
小計 五、九〇〇
石工 人 、四〇 三、〇〇〇 一、二〇〇
人夫 〃 、四〇 二、〇〇 〇 、八〇〇《割書: 石工手伝材料|小運搬一式》
雑費 、一〇〇
小計 二、一〇〇
計 八、〇〇〇
(ニ)取入口(右岸)護岸工事費
一金壹千參百五拾壹圓九拾銭
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
杭打片枠 長十二尺高三尺 組 二五、〇〇 二七、〇〇〇 六七五、〇〇〇 長五十間分
木工沈床 長十二尺高三尺 〃 五、〇〇 四五、七〇〇 二二八、五〇 長十間分
玉石張工 径七寸以上 面坪 五九、〇〇 七、〇〇〇 四一三、〇〇〇 《割書:法長十二尺七寸の處在|来張石法長五尺六寸を》除く七尺一寸長五十間分
雑工 三五、四〇〇
計 一、三五一、九〇〇
第三章 第一節 実施設計 一一九
第一章 第三節 実施設計 一二〇
(一)杭打片枠壹組当り単価表
一金貳拾七圓 長拾貳尺 高參尺六寸
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
親柱 松丸太 本 二、〇〇 、七〇〇 一、四〇〇 長十尺末口五寸
控杭 〃 〃 二、〇〇 、三〇 〇 、六〇〇 長六尺末口五寸
小目杭 〃 〃 一六、〇〇 、一八〇 二、八八〇 長七尺末口三寸
控木 〃 〃 二、〇〇 、二五 〇 、五〇〇 長五尺末口四寸
貫木 〃 〃 一、〇〇 、七五 〇 、七五〇 長十三尺末口五寸
親杭締付 ボールト 〃 二、〇〇 、一〇 〇 、二〇〇 働き長一尺径5╲8
貫木締付 ボールト 〃 二、〇〇 、一〇 〇 、二〇〇 働き一尺径5╲8
控木控杭締付 〃 〃 二、〇〇 、一〇 〇 、二〇〇 同上
玉石 径四寸以上 立坪 〇、五〇 六、〇〇〇 三、〇〇〇
小計 九、七三〇
大工 人 〇、五〇 二、八〇〇 一、四〇〇
人夫 〃 七、七〇 二、〇〇〇 一五、四〇〇 《割書:大工手伝杭打|玉石詰込一式》
雑費 、四七〇
小計 一七、二七〇
計 二七、〇〇〇
(ニ)木工沈床壹組当り単価表
一金四拾五圓七拾銭 長拾貳尺 高參尺
内譯
名稱 種目寸法 《割書:単位|稱呼》 数量 単価 金額 摘要
方格材 松丸太 本 四一、六〇 、三〇〇 一二、四八〇 《割書:縦二四本横一六本止り八|本を長七尺五寸末口四》寸五組に割当つ
敷成木 〃 四八、〇〇 、一五〇 七、二〇〇 《割書:長七尺五寸末口二寸五分|六格材通貫用止り三》《割書:本を長四尺五寸径7╲8|五組に割当つ》
長ボールト 〃 六、六〇 、三三〇 二、一八〇
短ボールト 〃 五、二〇 、三一〇 一、六一〇 《割書:六格材締付用一組六本|長四尺径7╲8両端二本宛》四本を五組に割当減す
鐵線 十二番 〃 一、〇〇 、四〇〇 、四〇〇 敷成木締付用
玉石 径四寸以上 立坪 一、六〇 六、〇〇〇 九、六〇〇 枠内詰込用
小計 三三、四七〇
大工 人 一、三〇 二、八〇〇 三、六四〇
人夫 〃 四、〇〇 二、〇〇〇 八、〇〇〇
雑費 、五九〇
小計 一二、二三〇
計 四五、七〇〇
(ニ)玉石張工面壹坪当り単価表
一金七圓
第三章 第一節 実施設計 一二一
第三章 第一節 実施設計
内譯
名稱 種目寸法 単位 数量 単価 金額 摘要
玉石 径七寸以上 面坪 一、〇〇 三、〇〇〇 三、〇〇〇 一個の重量五 六貫
裏込 立坪 、三三 二、〇〇〇 、六六〇 平均二尺
小計 三、六六〇
石工 人 、四〇 三、〇〇〇 一、二〇〇
人夫 〃 、九〇 二、〇〇〇 一、八〇〇
《割書:石工手伝及材|料運搬一式》
雑費 、三四〇
小計 三、三四〇
計 七、〇〇〇
水源土地補償費
一金壹千圓 水源土地補償費
護岸面坪計算表(対岸)
追加距離(k) 距離(k) 護岸垂直高(尺) 法面長(尺) 同上平均長(k) 護岸面坪(面坪) 摘要
〇 一一、〇〇 一七、一八
一〇 一〇 一一、一一 一一七、三五 二、八九八 二八、九八
二〇 一〇 一一、二二 一七、五二 二、九〇六 二九、〇六
三〇 一〇 一一、三三 一七、七〇 二、九三五 二九、三五
四〇 一〇 一一、四四 一七、八七 二、九六四 二九、六四
五〇 一〇 一一、五五 一八、四〇 二、九九三 二 九、九三
六〇 一〇 一一、四六 一七、九〇 二、九九五 二九、九五
七〇 一〇 一一、三七 一七、七六 二、九七二 二九、七二
八〇 一〇 一一、二八 一一、六二 二、九四八 二九、四八
九〇 一〇 一一、一九 一七、四八 二、九二五 二九、二五
一〇〇 一〇 一一、六〇 一七、一八 二、八八八 二八、八八
一一〇 一〇 一〇、四四 一一、二六 二、七八七 二七、八七
一二〇 一〇 一〇、〇二 一五、六二 二、六五七 二六、五七
一三〇 一〇 九、六三 一五、〇四 二、五五五 二五、五五
一四〇 一〇 九、二四 一四、四三 二、四五六 二四、五六
一五〇 一〇 八、一五 一二、七三 一、二六三 一二、六三
一六〇 一〇 七、〇六 一一、〇三 一、九八〇 一九、八〇
一七〇 一〇 五、九七 九、三三 一、六九七 一六、九七
一八〇 一〇 四、八八 七、六二 一、四一三 一四、一三
一九〇 一〇 二、七九 四、三六 、九九八 九、九八
二〇〇 一〇 四、九〇 七、六五 一、〇〇一 一〇、〇一
二一〇 一〇 五、一一 七、九八 一、三〇三 一三、〇三
二二〇 一〇 五、三二 七、三一 一、三五八 一三、五八
計 一〇 五一八、七ニ
馬踏及裏積 (10尺×20K)╲6=《割書:33333|517.72》(+852.52)
第三章 第一節 実施設計 一二三
第三章 第一節 実施設計 一二四
豊橋市水道布設工事費支出年度割表
種目 説明
欵 項 《割書:大正|十五年度》 円 《割書:昭和|二年度》 円 《割書:昭和|三年度》 円 《割書:昭和|四年度》 円 計 円 種目 金額 円
一工事費 三二九、四七〇 一、一二一、九七二 、八二六、八四〇 四一一、七一八 二、六九〇、〇〇〇
(一)水源費 二五、〇〇〇 一八、五〇一 一二、〇〇〇 一九、一六四 七四、六六五
二五、〇〇〇 一六、五〇一 一〇、〇〇〇 二、〇三八 五三、五三九 (一)集水埋渠築造費 五三、五三九
ー 二、〇〇〇 二、〇〇〇 ー 四、〇〇〇 (二)接合井築造費 四、〇〇〇
ー ー ー 二、六〇〇 二、六〇〇 (三)《割書:水源取入口寄州|保護工費》 二、六〇〇
ー ー | 一四、五二六 一四、五二六 (四)《割書:水源取入口対岸|保護工費》 一四、五二六
(二)送水場費 一〇、一五〇 四六、一二九 四八、五八六 六、三四三 一一一、二〇八
ー 一〇、〇〇〇 三一、〇〇〇 一、九九七 四二、九九七 (一)土工費 四二、九九七
一〇、一五〇 八、八八五 ー | 一九、〇三五 (二)送電線路建築費 一九、〇三五
ー 二七、二四四 ー ー 二七、二四四 (三)送水場喞筒場費 二七、二四四
ー ー 一七、五八六 四、三四六 二一、九三二 (四)《割書:送水場土墻築造|費》 二一、九三二
(三)浄水場費 三〇、〇〇〇 一八一、五三八 四三、一六九 三二、四四〇 二八七、一四七
ー 一一、三八四 七〇〇 ー 一二、〇八四 (一)喞筒場土工費 一二、〇八四
ー 二二、六九四 ー ー 二二、六九四 (二)浄水場喞筒場費 二二、六九四
七、五〇〇 一七、六二〇 五、八四二 三、五〇〇 三四、四六二 (三)浄水場土工費 三四、四六二
ー 八、五〇〇 七、ニ三三 三、九〇四 一九、六三七 (四)《割書:浄水場土墻築造|費》 一九、六三七
一〇、〇〇〇 四、九九四 ー ー 一四、九九四 (五)場内排水設備費 一四、九九四
ー 二、五九八 ー ー 二、五九八 (六)分水井築造費 二、五九八
一二、五〇〇 九三、一三〇 二一、二六三 一五、六三二 一四二、五二五 (七)濾過池築造費 一四二、五二五
ー 八、〇〇〇 二、四一九 ー 一〇、四一九 (八)《割書:引出鐵管及|引入口設備費》 一〇、四一九
ー 九、六一八 二、三一五 一、四〇四 一三、三三七 (九)調整井築造費 一三、三三七
ー 三、〇〇〇 三、三九七 ー 六、三九七 (十)《割書:濾過池より喞筒室に至|る送水鐵管費》 六、三九七
ー ー | 八、〇〇〇 八、〇〇〇 (十一)《割書:砂桝及砂洗場築|造費》 八、〇〇〇
(四)《割書:送水本管及|弇並布設費》 一五、〇〇〇 一〇六、四〇四 二六、二九四 ー 一四七、六九八
ー 二、〇〇〇 二、一三〇 ー 四、一三〇 (一)土工費 四、一三〇
一五、〇〇〇 九九、〇〇〇 二二、三〇二 ー 一三六、三〇二 (二)鐵管弇同布設費 一三六、三〇二
ー 一、五〇〇 一、八六二 ー 三、三六ニ (三)《割書:水路底横断工築|造費》 三、三六二
ー 三、九〇四 ー ー 三、九〇四 (四)橋梁費二橋分 三、九〇四
(五)給水場費 一七、三七五 七〇、〇九〇 五五、三一四 二二、八五〇 一六五、六二九
一七、三七五 一三、四三〇 四、七三〇 八、三五〇 四三、八八五 (一)土工費 四三、八八五
ー 五六、六六〇 三二、九七〇 五、〇〇〇 九四、六三〇 (二)配水池築造費 九四、六三〇
ー ー 三、六一三 ー 三、六一三 (三)《割書:配水池引入鐵管|及弇布設費》 三、六一三
ー ー 七、八八〇 ー 七、八八〇 (四)《割書:配水池引出鐵管|及弇布設費》 七、八八〇
第三章 第一節 実施設計 一二五
第三章 第一節 実施設計 一二六
ー ー 六、一二一 ー 六、一二一 (五)排水設備費 六、一二一
ー ー ー 九、五〇〇 九、五〇 (六)量水器設備費 九、五〇〇
(六)《割書:配水鐵管及|弇並布設費》 八〇、〇〇〇 四四六、九六二 四五二、七二一 一七四、五四六 一、一五四、二二九
ー 八、〇五七 ー ー 八、〇五七 (一)《割書:専用道路費|(給水場市道間)》 八、〇五七
ー ー 二、四〇六 二三、二八六 二五、六九二 (二)橋梁費(二ヵ所) 二五、六九二
八〇、〇〇〇 四三八、九〇五 四五〇、三一五 一五一、二六〇 一、一二〇、四八〇 (三)《割書:配水管及弇並布|設費》 一、一二〇、四八〇
(七)用地買収費 三八、一七五 二二、六七二 七、一〇〇 七、一〇〇 七五、〇四七
三八、一七五 二二、六七二 ー ー 六〇、八四七 (一)《割書:土地買収物件移|轉並補償費》 六〇、八四七
ー ー 七、一〇〇 七、一〇〇 一四、二〇〇 (二)借地料 一四、二〇〇
(八)機械器具費 三〇、〇〇〇 二五、〇〇〇 五、〇〇〇 二、二一〇 六二、二一〇
三〇、〇〇〇 二五、〇〇〇 五、〇〇〇 二、二一〇 六二、二一〇 (一)機械器具費 六二、二一〇
(九)測量試験費 八、〇〇〇 三二、〇〇〇 一〇、〇〇〇 七、八〇〇 五七、八〇〇
八、〇〇〇 三二、〇〇〇 一〇、〇〇〇 七、八〇〇 五七、八〇〇 (一)測量試験費 五七、八〇〇
(十)雑工事費 五、〇〇〇 二六、〇〇〇 四、〇〇〇 一、〇〇〇 三六、〇〇〇
五、〇〇〇 二六、〇〇〇 四、〇〇〇 一、〇〇〇 三六、〇〇〇 (一)雑工事費 三六、〇〇〇
(十一)残土整理費 三〇〇 四〇〇 四六八 三〇〇 一、四六八
三〇〇 四〇〇 四六八 三〇〇 一、四六八 (一)残土整理費 一、四六八
(十二)建築費 四〇、〇〇〇 四一、三五〇 一〇、八九二 七、五〇〇 九九、七四二
四〇、〇〇〇 四一、三五〇 一〇、八九二 七、五〇〇 九九、七四二 (一)建築費 九九、七四二
(十三)事務費 二八、四七〇 七九、九二六 八六、二九六 九七、四九四 二九二、一八六
一三、四四〇 三四、五二〇 三六、一〇八 三六、二八二 一二〇、三五〇 (一)俸給 一二〇、三五〇
一〇、〇一五 三五、五八三 四〇、六五三 五三、一四五 一三九、三九六 (二)雑給 一三九、三九六
四、五一五 八、四二〇 七、八六〇 六、八四五 二七、六四〇 (三)需用費 二七、六四〇
五〇〇 一、四〇三 一、六七五 一、二二二 四、八〇〇 (四)雑費 四、八〇〇
(十四)予備費 二、〇〇〇 二五、〇〇〇 六五、〇〇〇 三二、九七一 一二四、九七一
二、〇〇〇 二五、〇〇〇 六五、〇〇〇 三二、九七一 一二四、九七一 (一)予備費 一二四、九七一
総計 三二九、四七二〇 一、一二一、九七二 八ニ六、八四〇 四一一、七一八 二、六九〇、〇〇〇
第二節 用地買収
起工準備 用地買収費の予定は計金七萬五千〇四拾七圓にして、敷地の買収、地上
物件移轉料並に補償費、及び借地料の支辨に充つることゝなれり。
抑用地買収は起工準備として意義深く、即ち工事の前途を卜するに足るべきもの
なれば、要は迅速に且円満に解決せんことを望む。されど萬一の場合を慮り各地の実
例に鑑みて、工事施工認可の以前に土地収用法により水道布設事業認定の件を内務
大臣に申請せしも、一旦交渉を開始するや、斯かる強制手続の必要なしと認め、遂に前
第三章 第二節 用地買収 一二七
第三章 第二節 用地買収 一二八
記申請書の却下を請ふにいた至れり。併しながら事実買収上多大の困難を醸すべく錯雑
せる事情ありて、買収係員が臨機適切なる指揮を受け鋭意努力せしは勿論なるが、一
時交渉難に陥れる場合に関係町村長の解決そ促進に斡旋せられたるは感謝に堪へざ
る所なり。猶一面承諾者数の増加に伴ひ暫漸次諒解の度を早め交渉は漸次順調に進み
たるが故に結局
一、昭和二年三月より僅に四か月の火日子を以て、全部地主の承諾調印済となり用
地買収完了せしこと
二、右買収に際し土地収用法を適用すべき必要絶な無なりしこと。
以上二點を特筆し得るは本市水道事業の為め、最も欣幸とする所なり。左に買収予
定並に成績を表示す。
用地買収予定表
内譯
種別 金額 円 土地買収費 円 物件移轉並補償費 円 摘要
送水場 六、四九七、〇〇 四、九五七、二〇 一、五三九、八〇 《割書:水源土地補償費|一、〇〇〇圓計上》
送水線路 五、〇四三、〇〇 四、一四三、〇〇 九〇〇、〇〇
浄水場 二六、七三五、〇〇 二三、二三五、〇〇 三、五〇〇、〇〇
給水場 一七、七五〇、〇〇 一五、七五〇、〇〇 二、〇〇〇、〇〇
配水線路 四、八二二、〇〇 三、八二二、〇〇 一、〇〇〇、〇〇
小計 六〇、八四七、〇〇 五一、九〇七、二〇 八、九三九、八〇
借地料 一四、二〇〇、〇〇
合計 七五、〇四七、〇〇
土地買収成績
種別 地目 面積 坪 金額 円 面積 坪 金額 円
送水場 畑 一、三六、〇〇 三、七ニ九、五七 一、八〇〇、〇〇 四、六八〇、〇〇
原野 七一、〇〇 一一八、三三 九九、〇〇 二七七、二〇
計 一、四三二、〇〇 三、八四七、八九 一、八九九、〇〇 四、九五七、二〇
送水線路 田 二、〇〇 五、三三
畑 一、四八二、〇〇 五、二八六、九三 一、三二六、〇〇 三、九七八、〇〇
山林 八八、〇〇 三〇八、〇〇 六六、〇〇 一六五、〇〇
計 一、五七二、〇〇 五、六〇〇、二六 一、三九二、〇〇 四、一四三、〇〇
《割書:自浄水場至給水場|送水線路》 畑 八八、〇〇 二九三、三一
山林 一六三、〇〇 四八三、八一
計 二五一、〇〇 七七七、一二
浄水場 畑 七、二九六、〇〇 一九、三五五、五一 七、五三五、〇〇 二二、六〇五、〇〇
第三章 第二節 用地買収 一二九
第三章 第二節 用地買収 一三〇
宅地 二五一、一五 九八八、六〇 二一〇、〇〇 六 三〇、〇〇
計 七、五四七、一五 二〇、三四四一一 七、七四五、〇〇 二三、二三五、〇〇
給水場 畑 八ニ、〇〇 二〇六、六四
山林 七、八一二、〇〇 二〇、八四三、二二 七、八七五、〇〇 一五、七五〇、〇〇
計 七、八九四、〇〇 二一、〇四九、八六 七、八七五、〇〇 一、五七五〇、〇〇
自給水場至井原市道 田 三一〇、〇〇 八ニ六、六二 三八〇、〇〇 一、五二〇、〇〇
畑 二八六、〇〇 九〇一、五四 三八八、〇〇 一、五五二、〇〇
山林 二四三、〇〇 六八二、〇九 二三〇、〇〇 七五〇、〇〇
油 一二、〇〇 三一、九九
計 八五一、〇〇 二、四四二、二四 九九八、〇〇 三、八二二、〇〇
総計 一九、五四六、一五 五四、〇六一、四八 一九、九〇九、〇〇 五一、九〇七、二〇
用地買収事務は、昭和二年三月初旬浄水場用予定地に介在せる二軒の家屋に対し転
住方を交渉したるを端緒とし、爾来極力その進捗に努めしも、容易に承諾せざる物あ
りて往復交渉を重ねしが、比較的短時日の間に克く円満解決を告げたること既述せ
し所なり。左に各種別に就て買収て顛末のがい概要を述べnべん。
送水場地 (八名郡下川村大字西下條三ノ下)は買収に際し、単に関係地主を下川
村役場に招致して懇談を遂げたるのもなるが、即時全員のしょうd承諾を得直に調印を了へ
たり。公益上真に欣快とする所なりき。 買収坪数 壹千四百參拾壹坪
送水管線路 は広汎にして地主も多数なるが故に、各字毎に役場に会合すること
ゝなし、先ず送水場に近き字水神堀切の地主を招致したるに、価格の協定困難なるの
みならず線路買収に因る不整形の残地に対して補償費を要求したるを以て一旦交
渉中止となりたるが、其後関係地主三十六名一致の行動を取るべき情報に接し、遂に
同村長村会議員と会同熟議の結果、補償費も支辨する条件を附して地主に対するちょ調
停片を依頼せり。然るに猶彼此価格に著しき径庭あり、更に会商を重ぬること数次譲
歩妥協して漸く調印を畢ふ。 買収つ坪数 壹千五百七拾二坪
次に浄水場より給水場に至る送水路用地及び余水排水路に関しては、石巻村の学
校に地主の会合を求むること二回、会談数刻折衝を重ねて漸く承諾を得たり。
買収坪数 貳百五十壹坪
浄水場(下川村大字牛川字小鷹野)用地買収の第一着手は此の地内にある家屋
二軒の転住交渉なりしが、現住者は三十年前遠く北陸より移住せし者にて今や一家
存亡に苦境に陥れるが故に、市の要求に対し切に訴ふると所ありたるが、半か月の後に
至り遂に承諾せり。引続き浄水場全用地所有者に対して交渉を始むるに当り、慎重に
注意して屢次せs折衝を重ねたるも、価格に著しき距離ありて容易に妥協し難く止むな
第三章 第二節 用地買収 一三一
第三章 第二節 用地買収 一三二
く一時交渉を中止したるが、送水路用地の買収後再交渉に移り市役所内に於て工務
課長自ら地主に会見して最後の協調を試みたるも機未だ熟せず。然るに他の買収成
積z漸次良好なるに意を強うし更に市役所工務課長室に於てっ懇談数刻nの結果、交渉遂
に解決し、面積の大なる敷地としては幸に予算範囲内の価格にて買収するを得た
り。
買収坪数 七千五百四拾七坪壹合五勺
給水場 (石巻村大字多米字蝉川)此付近は既に別荘地を以て目され居る故、投機
者流の売買によりて買収上多大の困難あるべきを予想し、先ず実情を調査して比較
的容易に買収せらるべき二三者の承諾を求め然る後石巻村役場にかんけ関係地主を招致
し村長立合の下に交渉を始めたるが、容易に応諾する者なく纔に前記の外一二の調
印を見たるのみにて他は再考を約して退散す。後旬日を経て地主の附近なる石巻村
の学校に於て再会し更に数次の会見の結果、種々の辞柄を構へたる者も漸く承諾し
て調印するに至りたり。
配水線路用地 概ね本市東田町地内にして地主亦市内の者多き関係上、市公益事
業の性質を十分に理解し従来の市当局の苦衷を諒とし且つ事業進捗の大局より推
して圓満裡に全員の承諾を得たり。
買収坪数 八百五拾壹坪
斯くて送水路地内中、大字牛川字西側の分は村長の申出により切離して交渉した
ると、外に給水場用地中に一名の未承諾者ありしも七月中旬起工式挙行迄には用地
全部の調印を了り、茲に水道工事の先駆たる用地買収の難関を無事通貨することを
得たり。是れ洵に好個の第一印象として永久に記念せらるべし。
物件移轉並補償費
補償費支出額 同上予定
種別 金額 円 種別 金額 円
送水場 二〇、〇〇 送水場 一、五三九、八〇
《割書:自浄水場|至給水場》 送水路 五、〇〇 送水線路 九〇〇、〇〇
浄水場 三、〇一二、五五 浄水場 三、五〇〇、〇〇
電柱移轉 一九六、五五 給水場 二、〇〇〇、〇〇
《割書:小作人の障害に関する|一切の補償費》 二、六七四、〇七 配水場 一、〇〇〇、〇〇
《割書:配水池溝築用材料置場|借地内地上物件撤去補償費》 九 六、六二
合計 六、〇〇四、七九 合計 八、九三九、八〇
第三章 第二節 用地買収 一三三
第三章 第二節 用地買収 一三四
各工事区借地料
種別 所在地 面積 期間 《割書:単価|坪当》 円 借地料 地主名
鐵管試験場 市内花田町 《割書:坪|二、〇三三、三九》 〇、八二 一、六六七、三八 《割書:金子丈作|外二名》
三一、〇四二 《割書:自昭和二、五、一|至同五、一〇。三一》 〇、六九 二一四、一九 《割書:中村辰蔵目|外一名》
三四二、〇七 〇、三五 一、一九七、二五 《割書:本多兵三郎|外三名》
《割書:第三工事区|事務所及倉庫》 同 三五一、〇〇 同 一、〇〇 三五一、〇〇 森象三
配水池溝築用材料置場 《割書:下川村牛川|石巻村多米》 《割書:反|一、八、〇八》 《割書:自昭和二、八、一|至同五、三、三一》 〇、一〇 五四、二五 《割書:平尾家一郎|外一名》
石巻村多米 二、五、二四 〇、〇九 六八、一五 高澤彦七
給水場材料置場 石巻村多米 六、一七 《割書:自昭和二、六、二〇|至同四、三、三一》 〇、一〇 六一、二〇 高澤彦七
《割書:排水管布設用|堀開鑿土置場》 《割書:石巻村多米|下川村牛川》 六、一七 《割書:自昭和三、二、一|至同三、九、三〇》 〇、一五 九、二六 《割書:高澤彦七|外四名》
《割書:浄水場給水場|工事用給水喞筒場》 石巻村多米 〇、〇五 《割書:自昭和二、一〇、一|至同五、三、三一》 〇、一〇 五〇 中神忠太郎
合計 五、七〇六、六八 三、六二三、一八
水源保護 用地買収の第一は起工準備に屬し水道工事の前提要件なるが、既に水
道を布設したる以上、水源保護の対策を講じ之に要する土地の買収を行ふは、水道の
将来に安全を補證する所以なり。本市水道は、豊川本流の河底に集水埋渠を構築して
その伏流水を水源となすが故に、
一、水源対岸豊川護岸工事用地買収
二、水源集水埋渠防護用地買収
の二者は共に緊要なる処置なりとす。左に該用地買収の経過を示さん。
水源対岸豊川護岸工事用地買収
水源地対岸にして若し現状の儘に放任されんか、将来河身に不測の変動無きを保
し難きが故に、集水上重大なる関係を有する河身移動の防備を厳にせんが為め延長
二百二十間に亘り金貳萬四千八百圓を以て護岸工事を施すに決し、先ず河川水量の
乏しき十二月に着工して翌年三月竣の予定を立て、用地買収は其以前に於て完了
せんことを期せり。買収方針としては、
一、缺壊せる耕地にして此工事竣工後復活すべき見込みある部分は之を寄付せしむ。
二、耕地、山林として現存せるも放置すれば缺壊の虞あるが故に価格を低廉にす。
以上二項を定めたるが、耕地としては缺壊したる儘現存するもの少く、且個人並に
各町村の利害関係異るを以て、買収上の困難は少からざりき。
第三章 第二節 用地買収 一三五
第三章 第二節 用地買収 一三六
昭和四年五月初旬、寶飯郡牛久保町関係地主諸氏を歴訪して交渉の第一歩を進め、
後日更に現地に就き懇談せんことを約す。然れども現地に於ける交渉も未だ局を結
ぶ能はずして其儘延期さる。転じて下地町関係地主会を下地町役場に開催したるに、
其の内一名を除き皆今後の耕地保障上の利を慮りて交渉は極めて順調に進めり。仍
て買収係員は各地主宅を歴訪し市の坪価一反歩三百円を以て承諾を求め、不承諾者
は一人のみとなるに至れり。
次で更に下川村方面の交渉に移り、主なる地主を訪問し大に力説交渉したるが市
の坪価一反歩三百円とは頗る距離あり。其の後現地実情視察の際五井区長の斡旋に
より区内の協議決定を希望し置きたるが、此間牛久保町地主との交渉は開始以来二
ヶ月を経過して猶著しき進捗を見ず。
茲に於て牛久保ちょう町長に依頼して、その応援を得たると、買収係員亦折からの炎暑を
冒して東奔西走したる結果、遂に遠隔の地に住める一人の外は悉く調印せり。但し此
一人も其後市書記出張の際、埼玉県浦和町の住宅を訪ね多少の条件を附して承諾せ
しむ。次いで未承諾者も亦調印し、更に五井区長の盡力効を奏して管理者下川村長そ
の承諾書を納むるに至れり。交渉開始より約半歳に亘る成績左の如し。
寄付坪数 貳百六拾九坪
寄付者氏名 平尾家一 平尾鹿之助 淺岡光郎 内藤隆治
買収坪数 壹千百貳拾七坪 金額壹千百貳拾七圓
水源集水埋渠防護用地買収
水源の生命に密接なる関係を有する此用地買収は、昭和四年八月下旬に着手せし
が、下地町、牛久保町の主なる地主の要求一反歩百円に対して、市は五拾圓を唱へ、若し
全員承諾せば或は六拾圓に譲歩せんとす。時に下川村長の斡旋により、五井区長暮川
区長と会見し、今後市は一反歩六拾圓とすべきを以て他の地主説得方を希望せり。越
えて九月中間、助役に会見し地主の意向を徴せしに、十名の地主中三名は支障なかり
しも、曩に買収せし十坪以内の三角地を草生の儘に放置せず拂下か整地かの要求あ
りしかば、夫々処置の上更に此際歩当り貳拾銭乃至貳拾五銭の譲歩により調印纏め
方を村長に依頼せり。然るに本用地は、結局十一月迄豊川砂利採取株式会社と砂利採
取の契約あれば、会社に於て転売差支なき旨を明にせば調印すべしとのことなりし
を以て、直に手続きを履行したるに、更に送水管路構築の際に於ける耕地の損害補償を
第三章 第二節 用地買収 一三七
第三章 第二節 用地買収 一三八
要求せしかば、いぎな異議なく該補償費五圓を支拂ひ、遂には八名までの調印を得たり
次に下地町長瀬の地主との交渉は、容易に譲歩の色なきを以て、是亦砂利会社の承
書を携へ、漸くにして同地主並に行く明の地主お及び下川村区長の調印を得たり。内諾濱
松市在住者の調印は九月下旬同人宅を訪問して之を得。
十月上旬、未調印者に対してはyやむを得ず牛久保町役場と連絡し、若し応諾せざれ
ば法規により県に申請して直に河敷に耳目変換方を申達せんとし対座懇談の後遂
に承諾を得たり。 買収坪数 參千七百八拾七坪
【一三九ページ 地図と地名】
一三九
第三章 第三節 試験調査 一四〇
第三節 試験調査
材料試験 鐵管及びセメントの二種。
第一に鐵管試験に関して略述すれば、最初請負人より鐵管試験場に納入せしめ、一
定の試験を経て検査に合格したるものを収用することゝせり。
本市水道部鐵管試験場は、と豊橋市花田町字絹田七九ノ三に在り。敷地として貳千六
百八拾五坪八八を借用し、事務所、試験場、付属倉庫を建て、主任技手を置き専ら検査の
重任に当らしむ。
凡そ各種材料の試験及検収は、最も精密厳正なるを要す。就中鐵管試験は極めて重
大なるものあり、乃ち本市水道にありては、仕様書、契約書に基き、鋭敏なる観察と周到
なる注意により、重量、寸法、鋳質、水壓等に就き充分慎重なる態度を以て事に当れり。
一、鐵管類試験成績一覧表
二、契約別鐵管試験成績表
三、セメント試験成績表
を左に列挙すべし。
一、鐵管類試験成績一覧表 《割書:自昭和二年九月一日|至〃四年八月三十一日》
合格 百分率
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 擯却率 摘要
直管 《割書:本|四三、一七八》 《割書:本|四七、一五五》 《割書:本|四三、一七八》 《割書:噸|六、三四一、一五四》 《割書:本|三、九七七》 《割書:噸|三八ニ、四八八》 九一、五 八、五 鋳質不良 五、九五 水壓不良 〇、八五 二重番号 一、七〇
異形管 《割書:個|四、二二〇》 《割書:個|四、五〇二》 《割書:個|四、二二〇》 二四二、六一五 《割書:個|二八二》 一九、五五一 九三、七 六、三 鋳質不良 三、五 水壓不良 一、八九 二重番号 〇、六三 寸法不良 〇、六三
阻水弇 五八六 六四六 五八六 六〇 九〇、七 九、三 鋳質不良 三、七ニ 水壓不良 三、七ニ 寸法不良 一、八六
排気弇 一四 一七 一四 三 八ニ、三 一七、七 鋳質不良 一五、三一 浮力不良 一二、三九
鐵葢類 三三二 三四五 三三二 一三 九六、二 三、八 鋳質不良 一、五二 寸法不良 二、二五
阻水弇筐 三三二 三四〇 三三二 八 九七、六 二、四 鋳質不良 二、四
消火栓 六九〇 七四七 六九〇 五七 九ニ、三 七、七 鋳質不良 二、三一 水壓不良 三、八五 寸法不良 一、五四
計 四九、三五二 五三、七五二 四九、三五二 六、五八三、七六九 四、四〇〇 四〇二、一三九
第三章 第三節 試験調査 一四一
第三章 第三節 試験調査 一四二
配水鐵管及弇試験成績表
合格 返却 百分率
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率 摘要
直管 《割書:本|四三、〇五三》 《割書:本|四七、〇二七》 《割書:本|四三、〇五三》 《割書:噸|六、二四八、五五二》 《割書:本|三、九七四》 《割書:噸|三七九、九五六 九一、五》 八、五 鋳質不良 五、九五 水壓不良 〇、八五 二重番号 一、七〇
異形管 三、九四三 四、二〇五 三、九四三 一七ニ、九〇七 二六二 一四、三二八 九三、七 六、三 鋳質不良 三、一五 水壓不良 一、八九 二重番号 〇、六三 寸法不良 〇、六三
阻水弇 五七〇 六二九 五七〇 五九 九〇、六 九、四 鋳質不良 三、七ニ 水壓不良 三、七ニ 寸法不良 一、九六
排気弇 八 一一 八 三 六六、六 三三、六 鋳質不良 一〇、〇ニ 浮力不良 二三、三八
鐵蓋類 三二三 三三六 三二三 一三 九六、一 三、九 鋳質不良 一、五二 寸法不良 二、三八
阻水弇筐 三二一 三三九 三二一 八 九七、六 二、四 鋳質不良 二、四〇
消火栓 六九〇 七四七 六九〇 五七 九ニ、三 七、七 鋳質不良 二、三一 水壓不良 三、八五 寸法不良 一、五四
計 四八、九一八 五三、二九四 四八、九一八 六、四ニ〇、一四五九 四、三七六 三九三、一二八四
送水本管及弇試験成績表
合格 返却
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率 摘要
直管
異形管 九三 九五 九三 二六、一七五 二 、六二八 九八、九 一、一 鋳質不調 一、一
阻水弇 一〇 一〇 一〇 一〇〇 〇
排気弇 六 六 六 一〇〇 〇
鐵葢類 九 九 九 一〇〇 〇
阻水弇筐 一 一 一 一〇〇 〇
消火栓
計 一一九 一ニ一 一一九 二六、一七五 二 、六二八 一〇〇
集水埋渠築造鐵管試験成績表
合格 返却 百分率
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率 摘要
異形管 二 二 一 三、二四〇 一〇〇 〇
阻水弇
排気弇
鐵葢類
阻水弇筐
計 二 二 二 三、二四〇 〇
第三章 第三節 試験調査 一四三
第三章 第三節 試験調査 一四四
浄水場喞筒場土工鐵管試験成績表
合格 返却 百分率 摘要
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率
直管 《割書:個|三》 《割書:個|三》 《割書:個|三》 《割書:噸|、一四一》 一〇〇
計 三 三 三 、一四一
浄水場引出鐵管及引入口設備試験成績表
合格 返却 百分率
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率 摘要
直管 《割書:本|四四》 《割書:本|四五》 《割書:本|四四》 《割書:噸|三一、四ニ六》 《割書:本|一》 《割書:噸|〇、八四四》 九七、七 二、三 鋳質不良 二、三
異形管 七〇 七六 七〇 一四、六二九 六 一、四三〇 九ニ、一 七、九 鋳質不良 七、九
阻水弇 一 一 一二 一〇〇 〇
計 一一五 一二ニ 一一五 四五、一〇五 七 二、二七四
浄水場分水井築造鐵管試験成績表
合格 返却 百分率
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率 摘要
異形管 /一(個) /一(個) /一(個) 、四五五 一〇〇
計 一 一 一 、四五五
浄水場調整井築造鐵管試験成績表
合格 返却 百分率
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率 摘要
直管 《割書:本|三》 《割書:本|三》 《割書:本|三》 《割書:噸|〇、二七二》 《割書:本|〇》 一〇〇
異形管 二五 二五 二五 二、六六一 六 〇、六六六 八〇、六 一九、四 鋳質不良 一九、四
阻水弇
排気弇
鐵葢類
阻水弇筐
消火栓
計 二八 二八 二八 二、九三三 六 〇、六六六
濾過池より喞筒質に至る送水管試験成績表
合格 返却 百分率
種目 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率 摘要
直管 《割書:本|三六》 《割書:本|三七》 《割書:本|三六》 二八、三八九《割書:噸|二八、三八九》 《割書:本|一》 《割書:噸|〇、八四四》 九七、二 二、八 鋳質不良 二、五
異形管 三二 三五 三二 八、七ニ五 三 一、六四七 九一、四 八、六 鋳質不良 八、六
阻水弇 五 六 五 一
排気弇 八三、三 一六、七 水壓不良 一六、七
鐵葢類
阻水弇筐
第三章 第三節 試験調査 一四五
第三章 第三節 試験調査 一四六
消火栓
計 七三 七八 七三 三七、一一四 二、四九一
配水池引入鐵管及弇試験成績表
合格 返却 百分率
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率 摘要
直管
異形管 《割書:個|二四》 《割書:個|二五》 《割書:個|二四》 《割書:噸|六、〇八七》 《割書:個|一》 《割書:噸|〇、一五二》 九六 四 鋳質不良 四、z
阻水弇
排気弇
鐵葢類
阻水弇筐
消火栓
計 二四 二五 二四 六、〇八七 一 〇、一五二 〇
配水池引出鐵管及弇試験成績表
合格 返却 百分率
種別 契約員数 検査員数 員数 噸数 員数 噸数 合格率 返却率 摘要
直管 《割書:本|四二》 《割書:本|四三》 《割書:本|四二》 《割書:噸|三三、五一五》 《割書:本|一》 《割書:噸|〇、ハ四四》 九七、六 二、四 水壓不良 二、四
異形管 《割書:個|二七》 《割書:個|二九》 《割書:個|二七》 《割書:噸|七、五九五》 《割書:個|二》 《割書:噸|〇、七〇〇》 九三、一 六、九 鋳質不良 六、九
阻水弇
排気弇
鐵葢類
阻水弇筐
消火栓
計 六九 七ニ 六九 四一、一一〇 三 一、五四四
二、契約別鐵管試験成績
契第二号 契約月日 昭和二年六月一日 納期 昭和三年九月三十日
供給者 株式会社 隅田川製鉄所 常務取締役 小田原大造 代人 桑原卯左エ門
配水鐵管及弇試験成績表 直管
合格 成績百分率
種別 契約員数 検査員数 正当合格 減価採用 返却 正当合格率 減価率 摘要
低壓直管 500粍 《割書:本|一、四六〇》 《割書:本|一、四九四》 《割書:本|一、四一八》 《割書:本|四二》 《割書:本|三四》 九四、九 二、三 鋳質不良 二、〇 水壓不良 〇、三
同 350〃 一二 一二 一一 一 〇 九一、六 〇
普通壓直管 450〃 二五三 二五六 二五二 一 三 九八、四 一、三 鋳質不良 一、〇 水壓不良 〇、三
同 400〃 二九〇 三〇八 二八一 九 一八 九三、一 四、〇 鋳質不良 二、八 水壓不良 一、二
第三章 第三節 試験調査 一四
第三章 第三節 検査 一四八
同 300〃 九三 九四九 九〇六 二八 一五 九五、四 二、九 一、七 鋳質不良 一、五 水壓不良 〇、二
同 250〃 三六一 三六九 三四八 一三 八 九四、三 三、五 二、二 鋳質不良 一、九 水壓不良 〇、三
同 200〃 一、六七五 一、七一五 一、六四六 二九 四〇 九五、九 一、六 二、五 鋳質不良 二、〇 水壓不良 〇、五
同 150〃 五、七八〇 五、八三〇 五、六七二 一〇八 五〇 九七、二 一、八 一、〇 鋳質不良一、〇
同 100〃 二三、三九〇 二五、五四五 二二、九四〇 三五〇 二、二五五 八九、八 一、三 八、九 鋳質不良 五、二〇 水壓不良 二〇五 二重番号 一、七五
同 75〃 八、九九八 一〇、五四九 八、九五九 三九 一、五五一 八五、一 三、六 一一、三 鋳質不良 七、九一 水壓不良 二、三〇 二重番号 一、〇九
合計 四三、〇五三 四七、〇二七 四二、四三三 六二〇 三、九七四
契約第二号 契約月日 昭和二年六月一日 納期 昭和二年十月三十一日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大造 代人 桑原卯左エ門
濾過池より喞筒室に至る送水鐵管 直管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合案》 《割書:減価|採用》 償却 《割書:正当|合格率》 減価率 償却率 摘要
低壓直管 500粍 《割書:本|一六》 《割書:本|一六》 《割書:本|一四》 《割書:本|二》 《割書:本|〇》 八七、五 一ニ、五 〇 鋳質不良 六、二
普通壓〃 450〃 一五 一六 一五 〇 一 九三、八 〇 六、二
同 100〃 二 二 二 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 75〃 三 三 三 〇 〇 一〇〇 〇 〇
合計 三六 三七 三四 二 一
契第二号 契約月日 昭和二年六月一日 納期 昭和二年十月三十一日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大造 代人 桑原卯左エ門
配水池引出鐵管及弇試験成績表 直管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 償却 《割書:正当|合格率》 減価率 償却率 摘要
低壓直管 500粍 《割書:本|一五》 《割書:本|一五》 《割書:本|一五》 《割書:本|〇》 《割書:本|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
普通壓〃 450〃 一五 一六 一五 〇 一 九八、七 〇 六、三
同 400〃 一〇 一〇 一〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
第三章 第三節 検査 一四九
第三章 第三節 試験調査 一五〇
同 300〃 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 四二 四三 四二 〇 一
契第五五号 契約月日 昭和二年九月十五日 納期 昭和二年十月三十日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
浄水場引出鐵管及引入口設備 異形管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 償却 《割書:正当|合格率》 原価率 返却率 摘要
片突縁管 500粍×4米突 《割書:個|二》 《割書:個|二》 《割書:個|二》 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 350粍×3米突 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300粍×2.1米突 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300粍×1.8米突 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300粍×1.06米突 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300粍×0.9米突 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300粍×0.8米突 四 七 四 〇 三 五七、一 〇 四二、九 寸法不良 四二、九
合計 二四 二七 四 〇 三
契第五五号 契約月日 昭和二年九月十五日 納期 昭和二年十月三十日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
濾過池より喞筒室に至る送水鐵管 異形管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価 返却率率摘要
片突縁管 500粍×4米突 《割書:個|一》 《割書:個|二》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 《割書:個|一》 五〇 〇 五〇 寸法不良 五〇
同 300粍×3.5米突 四 四 四 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 300粍×1.2米突 四 四 四 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 100粍×1.2米突 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 75粍×1.8米突 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 300粍×1米突 二 二 二 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 300粍×0.98米突 二 二 二 〇 〇 一〇〇 〇 〇
合計 一五 一六 一五 〇 一
契第五五号 契約月日 昭和二年九月十五日 納期 昭和二年十月三十日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
調整井築造鐵管 異形管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
両突縁管300粍×1.1米突 《割書:個|四》 《割書:個|八》 《割書:個|四》 《割書:個|〇》 《割書:個|四》 五〇 〇 五〇 寸法不良 五〇
同 100粍×1.5米突 四 四 四 〇 〇 一〇〇 〇 〇
合計 八 一二 八 〇 四
契第五五号 契約月日 昭和二年九月十五日 納期 昭和二年十月三十日
第三章 第三節 試験調査 一五一
第三章 第三節 試験調査 一五二
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
配水池引出鐵管及弇試験成績表 異形管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格率》 減価 返却 正当 減価率 返却率 摘要
片突縁管 450粍×4米突 《割書:個|二》 《割書:個|二》 《割書:個|二》 《割書:個|〇》 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300粍×4米突 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両突縁管 300粍×3.8米突 二 三 二 〇 一 六六、六 〇 三四、〇 寸法不良 三四
同 300粍×2.5米突 一 二 一 〇 一 五〇、〇 〇 〇 寸法不良 五〇
合計 七 九 七 〇 二
契第五五号 契約月日 昭和二年九月十五日 納期 昭和二年十月三十日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
配水池引入鐵管及弇試験成績表 異形管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
片突縁管450粍×4米突 《割書:個|二》 《割書:個|二》 《割書:個|二》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇 〇 〇
合計 二 二 二 〇 〇
契第七三号 契約月日 昭和二年十一月十五日 納期 昭和二年十二月二十日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
浄水場引出鐵管及引入口設備鐵管 異形管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
三承丁字管300粍×300粍 《割書:個|四》 《割書:個|六》 《割書:個|四》 《割書:個|〇》 《割書:個|二》 六六、六 〇 三三、四 鋳質不良 三三、四
曲管 100粍×90粍 四 四 四 〇 〇 一〇 〇 〇
合計 八 一〇 八 〇 二
契第七三号 契約月日 昭和二年十一月十五日 納期 昭和二年十二月二十日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
浄水場調整井築造鐵管 直管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
普通壓直管 100粍 《割書:個|三》 《割書:個|三》 《割書:個|三》 《割書:個|〇》 〇 一〇〇 〇 〇
合計 三 三 三 〇 〇
契第三五号 契約月日 昭和二年八月六日 納期 昭和二年八月三十日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
水源集水埋渠築造鐵管
第三章 第三節 試験調査 一五三
第三章 第三節 試験調査 一五四
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価 返却率 摘要
両突縁管30吋×12呎 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇 〇 〇
片突縁管30吋×10呎 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
合計 二 二 二 〇
契第五七号 契約月日 昭和三年七月二十五日 納期 昭和三年九月二十五日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
濾過池より喞筒室に至る送水鐵管 異形管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 正当 減価率 返却率 摘要
片突縁管 500粍×2.51米突 《割書:個|二》 《割書:個|二》 《割書:個|二》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇 〇 〇
両突縁管500粍×1.575米突 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 320粍×2.394米突 一 二 一 〇 一 五〇 〇 五〇 寸法不良 五〇
片突縁管 300粍×3米突 二 二 二 〇 〇 一〇〇 〇 〇
合計 六 七 六 〇 一
契第五七号 契約月日 昭和三年七月二十五日 納期 昭和三年九月二十五日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
浄水場引出鐵管及引入口設備鐵管 異形管
合格 成績百分率
種別 契約 検査 正当 減価 返却 正当 減価率 返却率 摘要
両突縁管100粍×0.6米突 二 三 二 〇 〇 六六、六 〇 三三、四 鋳質不良 三三、四
合計 二 三 二 〇 一
契第五七号 契約月日 昭和三年七月二十五日 納期 昭和三年九月二十五日
供給者 株式会社 隅田川製鐵所 常務取締役 小田原大三 代人 桑原卯左エ門
送水本管及弇試験成績表 異形管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
片突縁管500粍×2.5米突 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 〇 一〇〇 〇 〇
合計 一 一 一 〇 〇
契第四三号 契約月日 昭和二年九月二日 納期 昭和二年九月三十日
供給者 千葉寅吉
送水本管及弇試験成績表 弇類
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
承口付阻水弇 150粍 《割書:個|四》 《割書:個|五》 《割書:個|四》 《割書:個|〇》 一 八〇 〇 二一 水壓不良 二〇
第三章 第三節 試験調査 一五五
第三章 第三節 試験調査 一五六
複式排気弇75粍 六 六 六 〇 〇 一〇〇 〇 〇
排気弇室鐵葢 五 五 五 〇 〇 一〇〇 〇 〇
泥吐入孔鐵葢 四 四 四 〇 〇 一〇〇 〇 〇
合計 一九 二十 一九 〇 〇
契第七ニ号 契約月日 昭和二年十一月十五日 納期 昭和二年十二月二十日
供給者 久保田權四郎
送水本管及弇試験成績表
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
突縁付阻水弇500粍 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇 〇 〇
承口付阻水弇100粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 350粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
合計 三 三 三 〇 〇
契第八号 契約月日 昭和二年六月二十七日 納期 昭和二年十一月三十日
供給者 槌田徳太郎 代人 小松一良
配水鐵管及弇試験成績表 弇及消火栓
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
単口消火栓 100粍 《割書:個|一四〇》 《割書:個|一四五》 《割書:個|一四〇》 《割書:個|〇》 《割書:個|五》 九六五、 〇 三、五 鋳質不良 二、五 水壓不良 一、〇
承口阻水弇 725粍 三五 三八 三五 〇 三 九ニ、一 〇 七、九 鋳質不良 二、一 水壓不良 五、八
同 100粍 八八 九ニ 八八 〇 四 九五、六 〇 四、四 鋳質不良 二、〇 水壓不良 二、四
同 150粍 二八 二九 二八 〇 一 九六、五 〇 三、五 水壓不良 三、五
同 200粍 六 八 六 〇 二 八五、六 〇 一四、四 鋳質不良 四、一 水壓不良 一〇、三
同 250粍 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300粍 三 五 三 〇 二 六〇、〇 〇 四〇、〇 鋳質不良 一〇、七 水壓不良 二九、三
同 400粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
突縁付阻水弇455粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 三ニ 三ニ一 三〇四 〇 一七
契第五九号 契約月日 昭和二年十一月十七日 納期 昭和三年二月二十八日
供給者 合資会社 栗本鐵工所 代人 加納川俊一
送水本管及弇試験成績表 異形管
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
二承丁字管500×100 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
単管 甲 500 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
又管 100×100 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
第三章 第三節 試験調査 一五七
第三章 第三節 試験調査 一五八
曲管 500×45° 一 一 〇 〇 一〇〇 〇
同 500×22 1∖2 一 一 〇 〇 一〇〇 〇
短管 500 一 一 〇 〇 一〇〇 〇
乙字管 350 一 一 〇 〇 一〇〇 〇
合計 七 七 〇 〇 一〇〇 〇
契第六九号 契約月日 昭和二年十一月十四日 納期 昭和二年十二月二十八日
供給者 槌田徳太郎
配水鐵管及弇試験成績表 弇及消火栓
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
区画量水器用鐵葢 《割書:個|三四》 《割書:個|三五》 《割書:個|三四》 《割書:個|〇》 《割書:個|一》 九七、一 〇 二、九 鋳質不良 二、九
同消火栓 100粍 六八 七〇 六八 〇 二 九七、一 〇 二、九 鋳質不良 二、九
同突縁付阻水弇100粍 三四 三四 〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
《割書:同一承ニ突丁子管|100×10粍》 六八 六八 六八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 二〇四 二〇七 二〇四 〇 三
契第五号 契約月日 昭和二年八月三十日 納期 昭和二年十二月十日
供給者 槌田徳太郎
配水鉛管及弇試験成績表 弇類
合格 成績百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
複式排気弇 75粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
突縁阻水弇 500粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 400粍 四 四 四 〇 〇 一〇〇 〇 〇
承口付阻水弇400粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
笑縁阻水弇 350粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 300粍 二四 三一 二四 〇 七 七七、七 〇 二二、六 鋳質不良 〇、八 水壓不良 一〇、五
承口阻水弇 100粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
同 75粍 一 一 一 〇 〇 一〇〇 〇 〇
合計 三四 四一 三四 〇 七
契第四四号 契約月日 昭和二年六月二十七日 納期 昭和二年十一月三十日
供給者 川口機械製作所 增田啓次郎
配水鐵管及弇試験成績表
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
曲管 75×90° 《割書:個|一九》 《割書:個|二〇》 《割書:個|一九》 《割書:個|〇》 《割書:個|一》 九五、〇 〇 五、〇 鋳質不良 五、〇
同 75×45° 二二 二三 二二 〇 一 九五、六 〇 四、四 鋳質不良 四、四
同75×22 1∖2° 一八 二一 一八 〇 三 八五、五 〇 一四、五 鋳質不良 一二、四 水壓不良 二、一
同75×22 1∖4° 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
第三章 第三節 試験調査 一五九
第三章 第三節 試験調査 一六〇
同 100×90° 四五 四六 四五 〇 一 九七、八 〇 二、二 鋳質不良 二、二
同 100×45° 五三 六三 五三 〇 一〇 八四、一 〇 一五、九 鋳質不良 一一、六 水壓不良 四、三
曲管 100×22 1∖2° 一九 一九 一九 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100×11 1∖4° 三〇 三五 三〇 〇 五 八五、七 〇 一四、三 鋳質不良 一四、〇 寸法不良 〇、三
同 150×90° 五 五 五 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×450° 一八 二〇 一八 〇 二 九〇、〇 〇 一〇、〇 鋳質不良 八、六 水壓不良 一、四
同 150×22 1∖2° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×11 1∖4° 四 五 四 〇 六 八〇、〇 〇 二〇、〇
同 200×90° 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 鋳質不良 一六、三 水壓不良 三、七
同 200×45° 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×22 1∖2° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×11 1∖4° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 250×90° 六 七 六 〇 一 八五、七 〇 〇
同 300×22 1∖2° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 一四、三 鋳質不良 一四、三
同 300×11 1∖4° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 400×90° 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 400×45° 一二 一二 一二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 400×11 1∖4° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×22 1∖2° 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×45° 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×22 1∖2° 六 六 六 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×11 1∖4° 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×45° 二 一四 一二 〇 二 八五、七 〇 〇
二承丁字管 75×75 五 一〇 五 〇 五 五〇、〇 〇 一四、三 鋳質不良 一二、一 水壓不良 二、二
同 100×75 三六 三九 三六 〇 三 九ニ、三 〇 五〇、〇 鋳質不良 五〇、〇
二承丁字管100×100 四一 四五 四一 〇 四 九一、一 〇 七、七 鋳質不良 七、六 水壓不良 〇、一
同 150×75 五 五 五 〇 〇 一〇〇、〇 〇 八、九 鋳質不良 六、八 水壓不良 二、一
同 150×100 一八 一九 一八 〇 一 九四、七 〇 〇
同 150×150 五 六 五 〇 一 八三、三 〇 五、三 鋳質不良 五、三
同 200×100 一一 一一 一一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 一六、七 鋳質不良 一六、七
同 200×150 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 250×100 一九 二三 一九 〇 四 八ニ、六 〇 一七、四 鋳質不良 一六、一 二重番号 一、三
同 250×150 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 250×200 一 二 一 〇 一 五〇、〇 〇 五〇、〇 鋳質不良 五〇、〇
同 250×250 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×100 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×300 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 400×100 一一 一三 一一 〇 二 八四、五 〇 一五、五
同 450×100 八 八 八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×100 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
三承十字管 100×75 四 五 四 〇 一 ハ〇、〇 〇 二〇、〇 鋳質不良 二〇、〇
同 100×100 一四 一五 一四 〇 一 八三、三 〇 一六、七 鋳質不良 一六、七
第三章 第三節 試験調査 一六一
第三章 第三節 試験調査 一六二
試験調査 一六二
同 150×75 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×100 六 八 六 〇 二 八二、八 〇 一七、二 鋳質不良 一一、九 水壓不良 五、三
三承十字管 150×150 一 二 一 〇 一 五〇、〇 〇 〇鋳質不良 五〇、〇
同 250×100 二 三 二 〇 一 六六、六 〇 三三、四 鋳質不良 三三、四
同 300×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×200 一 二 一 〇 一 五〇、〇 〇 五〇、〇 鋳質不良 五〇、〇
同 400×100 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 400×250 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 400×400 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×100 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×200 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×100 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承片落管 100×75 四二 四四 四二 〇 二 九五、四 〇 四、六 鋳質不良 三,一 水壓不良 一、五
同 150×100 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×100 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×150 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 250×100 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 250×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 250×200 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×200 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×250 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 400×150 三 四 三 〇 一 七五、〇 〇 二五、〇 鋳質不良 二五、〇
同 400×300 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×400 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承片落管 500×450 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
接ぎ輪 75 二二 二三 二二 〇 一 九五、六 〇 四、四 鋳質不良 四、四
同 100 一一〇 一一五 一一〇 〇 五 五、六 〇 四、四 鋳質不良 四、一 水壓不良 〇、三
同 150 三二 三七 三二 〇 五 八六、四 〇 一三、六 鋳質不良 一一、〇 水壓不良 二、六
同 200 一〇 一一 一〇 〇 一 九〇、九 〇 九、一 鋳質不良 九、一
同 250 一六 一九 一六 〇 三 八四、二 〇 一五、八 鋳質不良 一四、六 水壓不良 一、二
同 300 六 六 六 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 400 一一 一一 一一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450 七 七 七 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500 一〇 一〇 一〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
消火栓用丁字管100×100 八六 九九 八六 〇 一三 八六、八 〇 一三、二 鋳質不良 一二、〇 水壓不良 一、二
同 150×100 二七 二八 二七 〇 一 一〇〇、〇 〇
200×100 六 六 六 〇 〇 九二、八 〇 七、二 鋳質不良 七、二
同 250×100 一三 一四 一三 〇 一 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×100 八 八 八 〇 〇 九五、四 〇 四、六 鋳質不良 一、九 水壓不良 二、七
消火栓短管 100×300 四二 四四 四二 〇 二 一〇〇、〇 〇 〇
泥吐管 500×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
排気弇用丁字管 500×75 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
制水弇用短管 甲 450 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
第三章 第三節 試験調査 一六三
第三章 第三節 試験調査 一六四
同 乙 450 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 九九五 一〇八五 九九五 〇 九〇
契第四四号追加 契約月日 昭和二年六月ニ十七日 納期 昭和二年十二月二十日
供給者 川口機械製作所 増田啓次郎
配水鐵管及弇試験成績表 異形管
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
二承丁字管 500×300 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
排気弇丁字管 450×75 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
二承丁字管 200×200 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
排気弇短管 75×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 75×22 1∖ 2° 七 七 七 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100×22 1∖2° 一三 一三 一三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 一四、三 鋳質不良 一四、三
同 150×45° 六 七 六 〇 一 八五、七 〇 〇
同 15×11 1∖4° 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×90° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×45° 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×45° 九 九 九 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
二承丁字管 75×75° 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×75° 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×100 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
三承十字管 150×100 一 一 一 〇 一 五〇、〇 〇 五〇 鋳質不良 五〇
同 150×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承片落管 150×100 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承片落管 400×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
阻水弇短管甲 400 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 乙 400 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
栓 300 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 250 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150 五 五 五 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100 五 五 五 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 75 五 五 五 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇 〇
合計 七五 八一 七九 〇 二
契第四四号追加 契約月日 昭和二年六月ニ十七日 納期 昭和二年九月三十日
供給者 川口機械製作所 増田啓次郎
浄水場引出鐵管及 引入れ口設備 異形管
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
二承丁字管500×300 《割書:個|ニ》 《割書:個|ニ》 《割書:個|ニ》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
第三章 第三節 試験調査 一六五
第三章 第三節 試験調査 一六六
同 450×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
三承丁字管3 50×300 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
挿承片落管 500×450 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 350×90° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×300° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 300×22 1∖2° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
接輪 500 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
短管甲 350 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同乙 350 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
栓 450 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
鐘口彎管 300 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
鐘口管 500 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 350 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 二九 二九 二九 〇 〇
契第四四号追加 契約月日 昭和二年六月ニ十七日 納期 昭和二年九月三十日
供給者 川口機械製作所 増田啓次郎
浄水場引出鐵管及引入口設備 異形管
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 正当率 減価率 返却率 摘要
二承丁度管 500×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
三承丁字管 350×300 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
挿承片落管 500×450 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 350×90° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×90° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×22 1∖2° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
接輪 500 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
短管甲 350 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同乙 350 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
栓 450 二 二 二 〇 〇 一〇〇第三節 試験調査 一六六
同 450×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
三承丁字管3 50×300 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
挿承片落管 500×450 一 一 一 〇 〇 一〇〇、、〇 〇 〇
鐘口彎管 300 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
鐘口管 500 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 350 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 二九 二九 二九
契第四四号追加 契約月日 昭和二年九月ニ十七日 納期 昭和二年九月三十日
供給者 川口機械製作所 増田啓次郎
浄水場濾過池喞筒に至る送水鐵管 異形管
第三章 第三節 試験調査 一六七
第三章 第三節 試験調査 一六八
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 正当率 減価率 返却率 摘要
二承丁度管 500×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100×75∖2° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×11 1∖4° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
接ぎ輪 3 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承曲管 500×90° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 75×90° 一 一 一 〇 一 五〇、〇 〇 五〇、〇 鋳質不良 五〇、〇
同 300×22 100 一 二 一 〇 一 五〇、〇 〇 五〇、〇 鋳質不良 五〇、〇
同 100 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
鐘口彎管 300 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
鐘口管 500 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 75 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
挿承片落管500×450 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
栓 450 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 二六 二七 二六 〇 一
契第四四号追加 契約月日 昭和二年六月ニ十七日 納期 昭和二年九月三十日
供給者 川口機械製作所 増田啓次郎
配水池引入鐵管及弇試験成績表 異形管
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 正当率 減価率 返却率 摘要
二承丁度管 500×400 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
二承一突丁度管500×500 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
排気弇丁字管 400×75 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承片落短管 500×450 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 450×90° 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
接ぎ輪 500 一 二 一 〇 一 五〇、〇 〇 五〇、〇 鋳質不良 五〇、〇
同 400 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
短管 乙 500 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 400 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
鐘口彎管 450 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
鐘口管 300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
パツトルカラー 450 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 二〇 二一 二〇 〇 一
契第四四号追加 契約月日 昭和二年六月ニ十七日 納期 昭和二年九月三十日
供給者 川口機械製作所 増田啓次郎
第三章 第三節 試験調査 一六九
第三章 第三節 試験調査 一七〇
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 正当率 減価率 返却率 摘要
二承丁度管500×400 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×400 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
三突丁字管300×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
挿承片落管500×450 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 500×90° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 450×90° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×45° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×11 1∖4° 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
帽 500 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
鐘口管 450 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
パツロルカラー 450 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 二〇 二〇 二〇 〇 〇
契第七六号 契約月日 昭和二年十一月十五日 納期 昭和三年二月二十八日
供給者 川口機械製作所 増田啓次郎
送水本管及弇試験成績表 異形管
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 正当率 減価率 返却率 摘要
排気弇丁度管500×75 《割書:個|七》 《割書:個|八》 《割書:個|七》 《割書:個|〇》 《割書:個|一》 八八、五 〇 一一、五 鋳質不良 一一、五
泥吐管 500×150 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 500×45° 二〇 二〇 二〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×22 1∖2° 七 七 七 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500×11 1∖4° 一八 一八 一八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×90° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
接ぎ輪 150 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 500 一二 一二 一二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 七四 七五 七四 〇
契第二五号追加 契約月日 昭和三年五月七日 納期 昭和三年五月三十日
供給者 久保田権四郎
送水本管及弇試験成績表 異形管
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 正当率 減価率 返却率 摘要
片突縁管500×2,100 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 500×6,030 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
泥吐管 500×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承阻水弇 150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇
第三章 第三節 試験調査 一七一
第三章 第三節 試験調査 一七二
阻水弇筐 300 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 五 五 五 〇 〇
契第一〇七号 契約月日 昭和三年二月五日 納期 昭和三年七月三十一日
供給者 槌田徳太郎
配水鐵管及弇試験成績表 消火栓
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
単口消火栓 《割書:個|四八二》 《割書:個|三二》 《割書:個|四八二》 《割書:個|〇》 《割書:個|五〇》 九〇、六 〇 九、四 鋳質不良 六、七 水壓不良 二、七
合計 四八二 五三二 四八二 〇 五〇
契第四五号 契約月日 昭和三年六月十四日 納期 昭和三年七月二十日
供給者 槌田徳太郎
送水本管及弇試験成績表 弇類
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
バイパス付阻水弇500 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
合計 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
契第五八号 契約月日 昭和三年七月二十五日 納期 昭和三年九月十五日
供給者 槌田徳太郎
浄水場濾過より喞筒室に至る送水鐵管 弇類
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
突縁付阻水弇300 《割書:個|二》 《割書:個|二》 《割書:個|二》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
同 500 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同筐付 500 《割書:組|一》 《割書:組|二》 《割書:組|一》 《割書:組|〇》 《割書:組|一》 五〇、〇 〇 五〇、〇 鋳質不良 五〇、〇
合計 五 六 五 〇 〇
契第五八号 契約月日 昭和三年七月二十五日 納期 昭和三年九月十五日
供給者 槌田徳太郎
浄水場引出鐵管及引入口設備
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
突縁付阻水弇100 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇 〇 〇
合計 一 一 一 〇 〇
契第五八号 契約月日 昭和三年七月二十五日 納期 昭和三年九月十五日
供給者 槌田徳太郎
送水本管及弇試験成績表 弇類
第三章 第三節 試験調査 一七二
第三章 第三節 試験調査 一七四
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
承口付阻水弇100 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 一 一 一 〇 〇
契第五八号 契約月日 昭和三年七月二十五日 納期 昭和三年九月十五日
供給者 槌田徳太郎
配水鐵管及弇試験成績表 弇類
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
三吋副管付阻水弇500 《割書:組|三》 《割書:組|三》 《割書:組|三》 《割書:組|〇》 《割書:組|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
合計 三 三 三 〇 〇
契第一〇二号 契約月日 昭和一三年月二十一日 納期 昭和三年六月三十日
供給者 池川末吉
配水鐵管及弇試験成績表 鐵葢及弇筐類
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
消火栓室用鐵葢 《割書:個|二六六》 《割書:個|二七九》 《割書:個|二六六》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 《割書:個|一三》 九五、三 〇 四、七 鋳質不良 四、七
阻水弇筐 7,5 五四 五五 五四 〇 一 九八、一 〇 一、九 鋳質不良 一、九
同 100 九四 一〇〇 九四 〇 六 九四、〇 〇 六、〇 鋳質不良 六、〇
同 150 一四 一五 一四 〇 一 九三、三 〇 六、七 鋳質不良 六、七
同 200 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 四三五 四五六 四三五 〇 二一
契第一〇二号 契約月日 昭和三年一月二十一日 納期 昭和三年六月三十日
供給者 池川末吉
配水鐵管及弇試験成績表 弇筐
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
阻水弇筐75 《割書:個|六》 《割書:個|六》 《割書:個|六》 〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100 二三 二三 二三 〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150 四 四 四 〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200 三 三 三 〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 三六 三六 三六 〇 〇 〇
契第二四号 契約月日 昭和三年五月五日 納期 昭和三年六月二十日
供給者 池川末吉
第三章 第三節 試験調査 一七五
第三章 第三節 試験調査 一七六
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
承口付阻水弇75 《割書:個|六》 《割書:個|八》 《割書:個|六》 《割書:個|〇》 《割書:個|二》 八五、六 〇 一四、四 鋳質不良 一一、三 水壓不良 三、一
同 100 二三 二六 二三 〇 三 八八、四 〇 一一、六 鋳質不良 二、二 水壓不良 九、四
同 150 四 六 四 〇 二 六六、六 〇 三三、四 鋳質不良 四、八 水壓不良 二八、六
同 200 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
鐵蓋 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 三七 三七 三七
契第七九号 契約月日 昭和三年十月二十五日 納期 昭和三年十二月二十五日
供給者 池川末吉
配水鐵管及弇試験成績表 弇及弇類
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
承口付阻水弇75 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|一》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
同 100 一九 二三 二九 〇 〇 八二、六 〇 〇
同 150 八 八 八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
阻水弇筐 75 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100 一九 一九 一九 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150 八 八 八 〇 〇 〇 〇 〇
合計 五六 六〇 五六 〇 四
契第八〇号 契約月日 昭和三年十月二十五日 納期 昭和三年十二月二十五日
供給者 池川末吉
配水鐵管及弇試験成績表 蓋及弇類
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
量水器用鐵蓋 《割書:個|二二》 《割書:個|二三》 《割書:個|二二》 《割書:個|〇》 《割書:個|一》 九五、六 〇 四、四 鋳質不良 四、四
突縁阻水弇100 二〇 二〇 二〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 四四 四四 四四 〇 一
契第一三一号 契約月日 昭和四年三月四日 納期 昭和四年三月二十日
供給者 池川末吉
配水鐵管及弇試験成績表 弇筐類
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正当|合格》 《割書:減価|採用》 返却 《割書:正当|合格率》 減価率 返却率 摘要
阻水弇筐75 《割書:個|九》 《割書:個|九》 《割書:個|九》 《割書:個|〇》 《割書:個|〇》 一〇〇、〇 〇 〇
第三章 第三節 試験調査 一七七
第三章 第三節 試験調査 一七八
同 100 八 八 八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 一七 一七 一七 〇 〇
契第一〇六号 契約月日 昭和三年一月二十三日 納期 昭和三年六月三十一日
供給者 槌田商店 槌田德太郎
配水鐵管及弇試験成績表 弇類
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正當|合格》 《割書:減價|採用》 擯却 正当率 減価率 擯却率 摘要
承口付阻水弇 75 五四 五六 五四 〇 二 九六、四 〇 三、六 鋳質不良 〇、五 水壓不良 三、一
同 100 九四 九七 九四 〇 三 九六、九 〇 三、一 鋳質不良 〇、三 水壓不良 二、八
同 150 一四 一五 一四 〇 一 九三、三 〇 六、七 鋳質不良 六、七
同 200 四 五 四 〇 一 八〇、〇 〇 二〇、〇 鋳質不良 二、〇
同 300 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
複式排気弇 75 二 四 二 〇 二 五〇、〇 〇 五〇、〇 浮力不良 五〇、〇
七五単式排気号 1/2〃 五 六 五 〇 一 八三、三 〇 一六、七 浮力不良 一六、七
合計 一七六 一八六 一七六 〇 一〇
契第一一四号 契約月日 昭和三年一月二十一日 納期 昭和三年五月三十一日
供給者 川口機械製作所 増田啓次郎
配水鐵管及弇試験成績表 異形管
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正當|合格》 《割書:減價|採用》 擯却 正當率 減價率 擯却率 摘要
曲管 75×90° 三一 三五 三一 〇 四 八ニ、八 〇 一七、ニ 鋳質不良 一二、三 水壓不良 四、九
同 75×45° 一一二 一ニ一 一一ニ 〇 九 九 、五 〇 七、五 鋳質不良 六、一 水壓不良 一、四
同 75×2 1/2° 六〇 六三 六〇 〇 三 九五、二 〇 四、八 鋳質不良 六、一 水壓不良
同 100×90° 四〇 四〇 四〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100×45° 一四一 一四七 一四一 〇 六 九五、九 〇 四、一 鋳質不良 三、〇 水壓不良 一、一
同 100×22 1/2° 一〇六 一〇九 一〇六 〇 三 九七、二 〇 二、八 鋳質不良 二、八
同 150×90° 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇 鋳質不良 二、六
同 150×45° 七六 七八 七六 〇 二 九七、四 〇 二、六 鋳質不良 二、六
同 150×22 1/2° 一三 一三 一三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×90° 五 六 五 〇 一 八三、三 〇 一六、七 鋳質不良 一六、七
同 200×45° 二二 二三 二二 〇 一 九五、六 〇 四、四 鋳質不良 四、四
同 200×22 1/2° 八 八 八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×11 1/4° 二七 二九 二七 〇 二 九三、一 〇 六、、九 鋳質不良 三、六 水壓不良 三、三
同 300×90° 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×45° 六 七 六 〇 一 八五、七 〇 一四、三 鋳質不良 一四、三
同 300×22 1/2° 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×11 1/4° 一一 一一 一一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
二承丁字管 75×75 一四 一九 一四 〇 五 七三、六 〇 二六、四 鋳質不良 二〇、三 水壓不良 六、一
第三章 第三節 試験調査 一七九
第三章 第三節 試験調査 一八〇
同 100×75 七九 八六 七九 〇 七 九一、八 〇 八、二 鋳質不良 八、〇 水壓不良 〇、二
同 100×100 一一三 一一九 一一三 〇 六 九四、九 〇 五、一 鋳質不良 五、一
同 150×75 二九 三七 二九 〇 八 七八、三 〇 二一、七 鋳質不良 二〇、六 水壓不良 一、一
同 150×100 三六 三六 三六 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×150 一五 二一 一五 〇 六 七一、四 〇 二八、六 鋳質不良 二八、六
同 200×100 三三 三九 三三 〇 六 八四、六 〇 一五、四 鋳質不良 一五、四
同 200×150 三 四 三 〇 一 七五、〇 〇 二五、〇 鋳質不良 二五、〇
同 200×200 九 一一 九 〇 二 八一、八 〇 一八、二 鋳質不良 一八、二
同 300×100 一ニ 一三 一ニ 〇 一 九二、三 〇 七、七 鋳質不良 七、七
同 300×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
三承十字管 75×75 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100×75 一三 一四 一三 〇 一 九ニ、八 〇 七、二 鋳質不良 七、二
同 100×100 二五 三〇 二五 〇 五 八三、三 〇 一六、七 鋳質不良 五、六 水壓不良 一一、一
同 150×75 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×100 一一 一一 一一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×150 四 六 四 〇 二 六六、六 〇 三三、四 鋳質不良 三三、四
同 200×200 五 五 五 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×100 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×150 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承片落管 100×75 七五 七五 七五 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×100 一〇 一一 一〇 〇 一 九〇、九 〇 九、一 鋳質不良 九、一
同 200×100 一二 一三 一二 〇 一 九二、三
〇 七、七 鋳質不良 七、七 水壓不良 四、九
同 200×150 七 八 七 〇 一 八八、五 〇 一一、五 鋳質不良 一一、五 水壓不良 一、四
同 300×100 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇
同 300×150 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇
接ぎ輪 75 二六 二六 二六 〇 〇 一〇〇、〇 〇
同 100 三五 三七 三五 〇 二 九四、五 〇 五、五 鋳質不良 五、五
同 1、0 一一 二二 二一 〇 一 九五、四 〇 四、六 鋳質不良 四、六
同 200 一三 一三 一三 〇 〇 一〇〇、〇 〇
同 300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇
消火栓丁字管100×100 一七〇 一九四 一七〇 〇 二四 八七、六 〇 一二、、四 鋳質不良 一〇、一 水壓不良 二、三
同 150×100 四九 五二 四九 〇 三 九四、二 〇 五、八 鋳質不良 五、八
同 200×100 二六 二六 二六 〇 〇 一〇〇、〇 〇
同 300×100 二一 二三 二一 〇 二 九一、三 〇 八、七 鋳質不良 八、七
消火栓用短管100×300 二五 二六 二五 〇 一 九六、一 〇 三、九 鋳質不良 三、九
栓 100 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇
合計 一五七九 一六九七 一五七九 〇 一一八
契第三五号 契約月日 昭和三年五月二十日 納期 昭和三年六月十五日
供給者 川口機械製作所 増田啓次郎
配水鐵管及弇試験成績表 異形管 異形管
第三章 第三節 試験調査
第三章 第三節 試験調査 一八二
合格 合格百分率
種別 《割書:契約|員数》 《割書:検査|員数》 《割書:正當|合格》 《割書:減價|採用》 擯却 正當率 減價率 擯却率 摘要
〇 〇 〇 〇
三承十字管 300×300 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×150 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承片落管 300×200 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
三承十字管 300×100 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×200 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×100 六 六 六 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 七 七 七 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 九 九 九 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
二承丁字管 300×300 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 300×100 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×100 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×150 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×100 四 四 四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100×100 七 七 七 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100×75 五 七 五 〇 二 七一、四 〇 二九 鋳質不良 二八、六
同 75×75 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 75×32 1/2° 八 八 八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 100×22 1/2° 八 一一 八 〇 三 七二、七 〇 二七 鋳質不良 二七、三
同 75×45° 一八 一八 一八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100×45° 三七 三九 三七 〇 二 九四、八 〇 五 、二 鋳質不良 五、二
同 150×45° 六 六 六 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×45° 八 八 八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×45° 八 八 八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 75×90° 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
両承型落管 100×75 一四 一四 一四 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×100 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×100 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200×150 一 一 一 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
消火栓丁字管200×100 八 八 八 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150×100 六 六 六 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 150×22 1/2 二 二 二 〇 一 六六、六 〇 三三、四 鋳質不良
曲管 200×22 1/2 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
消火栓丁字管100×100 一七 二〇 一七 〇 三 八五、〇 鋳質不良 一〇、〇 水壓不良 五、〇
栓 75 一〇 一〇 一〇 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 100 二五 二五 二五 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 150 三 三 三 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
同 200 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
曲管 150×90° 二 二 二 〇 〇 一〇〇、〇 〇 〇
合計 二四二 二五三 二四二 〇 一一
契第五六號 契約月日 昭和三年七月二十五日
供給者 川口機械製作所 增田啓次郎
浄水場調製井築造 異形管
第三章 第三節 試験調査 一八三
本城
【南】東西卅八間
【西】南北四拾七間半
【北】東西四十三間
【東】南北五十間
【二の丸・南から時計回り】
二ノ丸
是ヲ土橋ニ
四十六ツカ【ツカ=束】
三十七ツカ半
廿ツカ
廿五ツカ
十五ツカ五尺
卅塀六十ツカ余
西ノ丸
四十三間半
喜恙帯曲怜【輪?】【腰帯曲輪ヵ】
十ツカ
東の丸四十五ツカ
【三の丸・東から時計回り】
三十間
五十間
卅口ヲフサキ
是ニ口ヲ明
士屋鋪
卅塀百ツカ
卅塀七十七間
塀卅八ツカ半
卅間廿間
多門
【城外第一層・東から時計回り】
宮 宮 同 士屋鋪
士屋鋪
侍屋鋪
士屋鋪
士屋鋪 士屋鋪 士屋鋪
士屋鋪 士屋鋪
士屋鋪
侍屋鋪 侍屋鋪
侍屋鋪 士屋鋪 是ヲ矢倉
悟真寺
士屋鋪 士屋鋪
士屋鋪 天王
【城外第二層・東から時計回り】
東
通町
今度出来仕足軽町 同
同 同
同 同
同 同
同 同
同 同
同 同
同 同
元足軽町 今度士屋鋪ニ仕 同
同 同
南
通町
龍拈寺
町
神宮寺 通町
妙龍寺 権現 町
一向寺 仏堂
町 町 通町
中間屋鋪
中間屋鋪 同
西
今度出来仕候足軽町 同
同 同
同 同
同 同
同 同
同
同
同
同
同
通町
興徳寺
通町
北
《題:豐槗志要》
【白紙】
【写真】
神武天皇御銅像
【白紙】
テスト
【写真】
■■【「豐橋」ヵ】
【左頁】
緖言
頃日横濱市の有志諸氏我市を視察せらるゝの
ことあり仝市々會議員菅沼君先づ來りて我市史
及諸統計等の事を問はる然るに我市曩に町村
を合併し市制を施行せられて以來日尚淺く未
だ之等の以て人に示すに足るものなし赧顏何
ぞ堪へん乃ち嘗て自ら蒐集せる處の史料及各
課より提出せる處の材料とに依り急に筆を呵
して此稿をなし以て對ふ然れども事匇卒に起
り爲めに費す處僅に拾數時間のみ殆ど徹夜以
【4行目の「こと」は合字】
【右頁】
て之を了る到底杜撰の責を免れざるべし只之
を以て本市々勢の一班を推察せらるゝことを
得ば幸なり今や我市々史資料蒐集の擧あり他
日其欠を補ふを得て其責を全ふせんことを期
するのみ
明治四十二年十二月
於豊橋市役所
大口喜六
【左頁】
豐橋志要目次
緖言
槪說…………………………………………一 頁
豐橋市沿革槪要……………………………一 頁
現在ノ豐橋市………………………………十一頁
面積………………………………………十一頁
地價額……………………………………十一頁
人口………………………………………十二頁
戸數………………………………………十三頁
大字………………………………………十四頁
四十二年度市豫算………………………十八頁
一
【右頁】
二
四十二年度歲入…………………………十八 頁
四十二年度歲出經常費…………………二十 頁
四十二年度歲出臨時費…………………二十一頁
市吏員々數及給料…………………………二十二頁
市の主なる新事業…………………………二十三頁
諸稅負擔表…………………………………二十六頁
議員數及選擧權者數………………………二十六頁
出生…………………………………………二十七頁
死亡…………………………………………二十八頁
婚姻、離婚、廢嫡…………………………二十八頁
陸軍々人統計表……………………………二十九頁
海軍々人統計表……………………………三十 頁
徴兵檢査成績表……………………………三十 頁
【左頁】
徴兵徴集兵種別人員表……………………三十一頁
徴兵身体檢査成績別人員表………………三十二頁
丁種兵役免除者病類別表…………………三十二頁
學校…………………………………………三十三頁
市立學校敎室生徒數………………………三十四頁
市立學校職員數及俸給……………………三十五頁
高等女學校………………………………三十五頁
高等小學校………………………………三十六頁
尋常小學校………………………………三十七頁
學齡兒童數…………………………………三十八頁
就學不就學兒童數…………………………三十八頁
職業別………………………………………三十九頁
新聞社………………………………………四十一頁
三
【右頁】
四
劇場…………………………………………四十二頁
特產物輸出入高……………………………四十三頁
郵便電信數…………………………………四十四頁
旅客…………………………………………四十四頁
鐵道貨物……………………………………四十四頁
郵便貯金……………………………………四十五頁
銀行預金及貯金……………………………四十五頁
銀行諸會社及工場…………………………四十六頁
死亡者病類…………………………………五十一頁
傳染病患者數………………………………五十二頁
神社…………………………………………五十二頁
寺院…………………………………………五十三頁
敎會…………………………………………五十三頁
【左頁】
消防…………………………………………五十四頁
諸官衙公署及事務所………………………五十七頁
豐橋市附近諸官衙公署名…………………五十九頁
市職員人名…………………………………六十一頁
豐橋市商業會議所議員人名………………六十四頁
豐橋市案内…………………………………六十六頁
吉田神社…………………………………六十六頁
神明社……………………………………六十七頁
神明社……………………………………六十七頁
八幡社……………………………………六十七頁
神明社……………………………………六十八頁
神明社……………………………………六十八頁
白山社……………………………………六十八頁
五
【右頁】
六
八幡社……………………………………六十八頁
安海熊野社………………………………六十九頁
豐城神社…………………………………六十九頁
秋葉神社…………………………………六十九頁
天神社……………………………………六十九頁
鞍掛神社…………………………………六十九頁
悟愼寺……………………………………七十 頁
龍拈寺……………………………………七十 頁
豐橋別院…………………………………七十一頁
全久院……………………………………七十一頁
臨濟寺……………………………………七十一頁
神宮寺……………………………………七十二頁
妙圓寺……………………………………七十二頁
【左頁】
龍運寺……………………………………七十二頁
興德寺……………………………………七十二頁
吉田城趾…………………………………七十二頁
仁連木の城趾……………………………七十三頁
豐橋………………………………………七十三頁
新錢座の跡………………………………七十四頁
時習舘舊跡………………………………七十四頁
歩兵第十七旅團司令部…………………七十四頁
歩兵第十八聯隊練兵場…………………七十四頁
工兵第十五大隊兵營……………………七十四頁
軍人紀念碑………………………………七十五頁
繭糸市場…………………………………七十五頁
魚市場……………………………………七十五頁
七
【右頁】
八
豐橋育兒院………………………………七十六頁
安藤動物園………………………………七十六頁
遊廓移轉地………………………………七十六頁
穴居の跡…………………………………七十六頁
軍人保護院………………………………七十六頁
附錄
市外附近案内…………………………………………
石卷山……………………………………△一 頁
砥鹿神社…………………………………△一 頁
嵩山正宗寺………………………………△一 頁
東觀音寺…………………………………△一 頁
普門院……………………………………△一 頁
【左頁】
妙嚴寺……………………………………△二 頁
三明寺……………………………………△二 頁
國府の跡…………………………………△二 頁
長篠古戰場………………………………△二 頁
第十五師團司令部………………………△二 頁
牟呂新田…………………………………△三 頁
岩屋山……………………………………△三 頁
九
【右頁 白紙】
【左頁】
一槪說
豐橋市は愛知懸の管内に屬し三河國の東南隅に位す東は本坂峠一帶
の山脈を以て渥美郡二川町と界し南は一面高師原の廣野を扣へ一面
柳生川を隔てゝ高師村大字福岡に接し西は直ちに牟呂吉田村に連り
北は豐川及朝倉川を隔てゝ寶飯郡下地町及八名郡下川村と相對す地
形東西に長く南北に短し此地古來東海道の驛路に沿ひ甞て今橋と稱
せしが後之を吉田と改め明治二年初めて之を豐橋と稱せり氣候溫暖
にして天災地變極めて少きも冬は槪して風多く夏は反て少し地質は
一部河岸に沿ひて沖積層あり頗る膏膄なるも其他の部分は多く古層
にして礫土多く高師原に接するの地は極めて磽瘠なり
二豊橋市沿革槪要
一
【右頁】
二
今を距る一千餘年前今の豐橋の地には既に飽海幡太の二鄕あり何れ
も太神宮の神領地に屬せり豐川の名も亦舊記に見ゆる處なるが當時
内海は深く侵入して此地より直ちに對岸の寶飯郡渡津《割書:和多|無都》(今の宿村
より小坂井村附近の大稱なり)に渡舩したるものなり往昔志香須賀
の渡と稱せしは即ち之なり
源順の和名抄渥美郡の條に幡太和太(《割書:和地な|らんか》)渥美《割書:阿久|美》高芦《割書:多加|之》磯部《割書:以曾|倍》大
壁《割書:於保|加倍》と記載せり今の豐橋市大字飽海の名は渥美と相通ずるもの
にして大字花田の内羽田と稱するの地は又た幡太の遺跡なるべし
類聚三代格承和二年六月廿九日の太政官符渡舩の條に三河國飽海
矢作の両河各四艘とあるも此渡なり又神鳳抄に秦御厨神宮雜例集
に飽海神戸とあるは何れも此二鄕にして其往昔より神宮封邑たり
【左頁】
しを証するに足る源順の和名抄は延長年中の著なりと傳ふ延長元
年は明治四十二年を去る約九百八十七年の昔にして承和二年は仝
壹千〇七十五年の昔にあり又志香須賀の渡の名が往々古き撰集記
行等に散見せるは多く人の知る處とす
其の後幾多の年月を經て此の二鄕の間に今橋と稱する地あるに至り
しが後漸く發展の機運に遇ひ遂に今の豐橋市の基礎をなすに至りし
ものなり
今橋の名は其起因詳ならずと雖も其名の文書に殘れるは應永十六
年のものを最古しとなす又悟眞寺舊記に貞治五年其開祖善忠初め
て今橋に來る當時此地草野にして只五六の農家を見るのみと記せ
り貞治五年は明治四十二年を去ること凡五百四十二年にして應永
三
【右頁】
四
十六年は明治四十二年を去ること五百〇一年なり
永正二年今川氏の將牧野左衛門(《割書:一に傳内又は田内或は|田三に作る名は成時》)初めて氏親の命に依
り其子(一に甥に作る)傳藏(《割書:一に田三に作|る名は成方》)を輔けて城を此地に築き牛久保
より移りて之に居りしが享祿二年德川淸康の攻むる所となり傳藏其
弟傳次(《割書:名は|成高》)と共に戰死し城遂に陷る後淸康死するに及び復た今川氏
の有に歸せり
牧野左衛門が初めて築きし城は其後幾多の變遷を經たるも今は歩
兵十八聯隊のある所にして永正二年は明治四十二年を去ること
四百〇五年なり
天文中今川義元命じて此地名を吉田と改稱せり
今橋の地名を吉田と改稱したるに就ては數說あり然れども大永二
【左頁】
年の宗長手記及天文二年の尊海僧正道之記等には尚ほ今橋の名を
記し又た天文中今川義元の羽田淸源寺寄附狀には既に吉田鄕と記
せるより推せば其皆名を以て天文の初期なりとなすの說正當なる
べく從て義元が命じたるものとの說亦事實となすべし天文元平は
明治四十二年を去ること三百七十八年なり
其後義元死し氏眞之を襲き其將小原鎭實此城を守りしが永祿七年德
川家康の大擧して之を圍むや城兵支へず鎭實遂に城を致して去れり
家康依て之を其臣酒井忠次に賜ふ
此に於て忠次先づ城地を修し又た大に市衢を定め元亀三年(或は元
年に作る)初めて豐川に架橋せり
酒井忠次が初めて豐川に架したるは土橋にして今の大字關屋の地
五
【右頁】
六
点なり
子家次襲きしか天正十八年德川家康の關東八州の地に移るや從て上
州碓井に移封せられ池田輝政代て此地に封ぜられ更に大に城地を修
し豐川の架橋を移轉して木造となしたるが慶長五年十月播州姫路に
移封せらる
池田輝政が豐川の架橋を移轉したる地点は大字船町にして現在の
位置より西方約貳丁の所にあり現在の位置及橋梁は明治十二年の
改設に係る
爾來連續して明治維新に至る吉田城主の畧年表を揭ぐれば乃ち左の
如し
慶長六年二月池田輝政に次ぎ封ぜらる 松平家淸
【左頁】
男 松平忠淸
慶長十七年四月卒し其家絕ゆ
慶長十七年十一月封ぜらる 松平忠利
男 松平忠房
寛永九年七月刈谷に移さる
寛永九年七月松平忠房と交代 水野忠淸
仝十九年九月信州松本に移さる
寛永十九年九月封ぜらる 水野忠善
正保二年正月岡崎に移さる
正保二年正月封ぜらる 小笠原忠知
小笠原長矩《割書:初長賴》
七
【右頁】
八
小笠原長祐《割書:初長治》
小笠原長重《割書:初長好》
元祿十年四月武州岩槻に移さる
元祿十年八月封ぜらる 久世重之
寶永二年十月下總關に移さる
寶永二年十月封ぜらる 牧野成春
牧野成央
正德二年七月日向延岡に移さる
正德二年七月封ぜらる 松平信祝《割書:(大河内)|初信高》
享保十四年遠江濱松に移さる
享保十四年六月松平信祝と交代 松平資訓
【左頁】
寛延三年三月再び遠州濱松に移さる
《割書: |(大河内)》
寛延三年三月松平資訓と交代 松平信復
松平信禮
松平信明
松平信順
松平信寶
松平信璋
松平信古
明治二年八月吉田を改めて豐橋と稱し仝廿二年町村制の實施せられ
たるに方り豐橋町、豐橋村、花田村、豐岡村と稱せし地は漸次合併
せられて明治卅九年七月初めて今の豐橋市の區域をなし其八月之に
九
【右頁】
十
市制を施行せられ以て今日に至る
又今の豐橋市内に往昔薑と稱せる地あり神鳳抄に薑御厨六石六斗と
記せるもの即ち之れなり薑の後に橋上に作る後世(元和の頃と傳ふ)
之れを仁連木と改め一に楡木又は二禮木に作る現今豐橋市大字東田
の地即ち之れなり天文十年戸田康光(田原城主)の子宣光牛窪より來
り初めて仁連木に城き之れに居る永祿七年宣光の子重貞欵を德川家
康に通じ今川氏の守將小原鎭實を吉田城に攻む後ち戰死し弟忠重繼
ぎ子康長之れに代りしが天正十八年家康の關東八州に移るや亦た從
て武藏深谷に移封せられ城は漸く荒廢に皈せり今尚豐橋市大字東田
に其殘壘を存す
豐橋市區沿革槪要左の如し
【左頁】
明治九年 明治卄二年 明治卄八年 明治卅九年
┏船町 ┓
┃湊町 ┃
┃上傳馬町 ┃
┃八町 ┓ ┃
┃宮下町┃ ┃
┃川毛町┃ ┏東八町┃
┃袋町 ┣八町┫中八町┃
┃八幡町┃ ┗西八町┃
┃土手町┃ ┃
┃東町 ┛ ┃
┃關屋町 ┃
┃呉服町 ┃
┃本町 ┃
┃札木町 ┃
┃曲尺手町 ┣豐橋町 ┓
┃鍛冶町 ┃ ┃
┏豐橋驛┫下町 ┃ ┃
┃ ┃指笠町 ┃ ┃
┃ ┃松葉町 ┃ ┃
┃ ┃萱町 ┃ ┃
┃ ┃三浦町 ┃ ┃
┃ ┃花園町 ┃ ┃
┃ ┃新錢町 ┃ ┣豐橋町 ┓
┃ ┃紺屋町 ┃ ┃ ┃
┃ ┃魚町 ┃ ┃ ┃
┃ ┃淸水町 ┃ ┃ ┃
┃ ┃神明町 ┃ ┃ ┃
┃ ┃手間町 ┃ ┃ ┃
┃ ┃吉屋町 ┛ ┃ ┃
┃ ┃新錢町中芝、東新町、┓ ┃ ┃ ┌三十九年七月十
┃ ┃西新町 ┣豐橋村 ┛ ┃ │六日町村を合併
舊豐橋藩┫ ┃中世古、談合、旭町、┃ ┣豐橋町┤し更に仝年八月
┃ ┗飽海 ┛ ┃ │一日之に市制を
┃羽田村 ┳花田村…………………花田村……………………┃ └施行せらる
┃花崎村 ┛ ┃
┃仁連木村┳東田村┳東田 ┓ ┃
┃瓦町 ┛ ┗瓦町 ┃ ┃
┃田尻町 ┳岩田村 ┃ ┃
┃下岩崎村┛ ┃ ┃
┃上岩崎村┳岩崎村 ┣豐岡村……………………┛
┃手洗村 ┛ ┃
┃ 飯村 ┃
┗ 三ノ輪村 ┛
【右頁 白紙】
【左頁】
三現在ノ豊橋市
豐橋市は市制施行後未だ僅かに三年に滿ちたるに過ぎず從て總ての
機關備はらざるもの多く目今之れが計畵中に屬せるもの亦た少しと
せず然れども近來第十五師團及騎兵第四旅團の新設せられたるあり
物產としては生糸、玉糸、醬油、溜、等の產額漸く多きを加へ戸口の增
殖亦た頗る著しく市勢益々發展の機運に向ひつゝあり
イ 面積
┏━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
┃面積總計┃ 五、一〇八、六〇八坪┃
┗━━━━┻━━━━━━━━━━━┛
ロ 地價額
┏━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
┃地種 ┃地價 ┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃市外宅地┃一二八、三八九円九三〇┃
┗━━━━┻━━━━━━━━━━━┛
十一
【右頁】
十二
┏━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
┃郡村宅地┃ 二四、八〇一円二九〇┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃田 ┃一七四、一三六、三四〇┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃畑 ┃ 五一、〇九八、七六〇┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃池沼 ┃ 一、二〇〇┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃山林 ┃ 二、八〇四、二九九┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃原野 ┃ 五一、〇七四┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃雜種地 ┃ 八、三六九┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃合計 ┃三八一、二九一、二六二┃
┗━━━━┻━━━━━━━━━━━┛
ハ 人口
┏━━━━┳━━━━━━┳━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━┳━┓
┃年別 ┃人口總數 ┃種別 ┃男 ┃女 ┃計 ┃增 ┃減┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃三十七年┃三五、五〇九┃本籍人 ┃ 八、五九一┃ 九、七四三┃一八、三三四┃ 〇┃〇┃
┃ ┃ ┃入寄留人┃ 八、五二四┃ 八、六五一┃一七、一七五┃ ┃ ┃
┗━━━━┻━━━━━━┻━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━┻━┛
【左頁】
┏━━━━┳━━━━━━┳━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━┳━┓
┃三十八年┃三六、三三四┃本籍人 ┃ 八、八二八┃ 九、九八〇┃一八、八〇八┃ 四七四┃〇┃
┃ ┃ ┃入寄留人┃ 八、六三三┃ 八、八九三┃一七、五二六┃ 三五一┃ ┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃三十九年┃三七、六三五┃本籍人 ┃ 九、五二五┃一〇、三二四┃一九、八四九┃一、〇四一┃〇┃
┃ ┃ ┃入寄留人┃ 八、八〇〇┃ 八、九八六┃一七、七八六┃ 二六〇〇┃ ┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃四十 年┃四〇、〇五五┃本籍人 ┃ 九、七九〇┃一〇、五九二┃二〇、三八二┃ 五三三┃〇┃
┃ ┃ ┃入寄留人┃ 九、七二一┃ 九、九五二┃一九、六七三┃一、八八七┃ ┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃四十一年┃四一、六四二┃本籍人 ┃一〇、〇四八┃一〇、八〇〇┃二〇、八四八┃ 四六六┃〇┃
┃ ┃ ┃入寄留人┃一〇、四一八┃一〇、三七六┃二〇、七九四┃一、一二一┃ ┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃合計 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃六、一三三┃〇┃
┗━━━━┻━━━━━━┻━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━┻━┛
ニ 戸數
┏━━━━┳━━━━━━┳━━━━━┳━┓
┃年別 ┃戸數 ┃增 ┃減┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃三十七年┃ 八、五六六┃ ┃〇┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃三十八年┃ 九、一五四┃ 五八八┃〇┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃三十九年┃ 九、九〇〇┃ 七四六┃〇┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃四十 年┃一〇、四二三┃ 五二三┃〇┃
┗━━━━┻━━━━━━┻━━━━━┻━┛
十三
【右頁】
十四
┏━━━━┳━━━━━━┳━━━━━┳━┓
┃四十一年┃一一、〇七三┃ 六五〇┃〇┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━━╋━┫
┃合計 ┃ ┃二、五〇七┃〇┃
┗━━━━┻━━━━━━┻━━━━━┻━┛
ホ 大字 (明治四十一年十二月末日現在)
┏━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┓
┃大字名┃戸數 ┃人口 ┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃船 ┃ 四八六┃ 一、八八八┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃湊 ┃ 三三八┃ 一、三八一┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃上傳馬┃ 三七六┃ 一、六九八┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃松葉 ┃ 一、〇九八┃ 三、五〇九┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃萱 ┃ 一七一┃ 五八六┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃指笠 ┃ 八三┃ 三〇四┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃三浦 ┃ 八二┃ 二八一┃
┗━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┓
┃花園 ┃ 九八┃ 三五六┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃新錢 ┃ 二一一┃ 七六六┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃本 ┃ 一一三┃ 五二三┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃札木 ┃ 三一一┃ 一、四七三┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃呉服 ┃ 一二七┃ 五四二┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃曲尺手┃ 一九五┃ 七三一┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃鍛冶 ┃ 一三一┃ 五八五┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃下 ┃ 七七┃ 三一七┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃魚 ┃ 二二四┃ 九五五┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃淸水 ┃ 二一〇┃ 八一四┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃神明 ┃ 二九五┃ 九三三┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃紺屋 ┃ 一一〇┃ 三三六┃
┗━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┛
十五
【右頁】
十六
┏━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┓
┃手間 ┃ 二二五┃ 七九五┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃吉屋 ┃ 一〇二┃ 三六七┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃關屋 ┃ 三四四┃ 一、〇八六┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃西八 ┃ 三一五┃ 一、〇八三┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃中八 ┃ 三五五┃ 一、一八二┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃東八 ┃ 四五七┃ 一、六一八┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃談合 ┃ 一一四┃ 四三二┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃中世古┃ 二三七┃ 九八七┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃向山 ┃ 三一┃ 一二一┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃新川 ┃ 四一一┃ 一、四六四┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃中柴 ┃ 二五一┃ 九三九┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃飽海 ┃ 一二五┃ 五六九┃
┗━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┓
┃旭 ┃ 五四五┃ 一、八三九┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃東新 ┃ 一八四┃ 七〇六┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃西新 ┃ 一七三┃ 六七四┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃岩田 ┃ 一三九┃ 七七〇┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃岩崎 ┃ 六五┃ 三六一┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃飯 ┃ 一二八┃ 六四二┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃三ノ輪┃ 四二┃ 一九七┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃瓦町 ┃ 一五〇┃ 七二一┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃東田 ┃ 二四四┃ 一、二五八┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃花田 ┃ 一、七〇〇┃ 五、八五三┃
┣━━━╋━━━━━━╋━━━━━━┫
┃計 ┃一一、〇七三┃四一、六四二┃
┗━━━┻━━━━━━┻━━━━━━┛
十七
【右頁】
本表ハ四十二年度豫算ヲ編入スベキ処
誤テ四十一年度豫算ヲ記載シタリ
【以上、手書き】
【左頁】
┏━━━━━━━━━┳━━━━━━━┯━━━┓
┃ 一地價割 ┃ 三、八六八│一六〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 二國稅營業割 ┃ 七、七五五│九六〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 三所得稅割 ┃ 六、四一二│一七〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 四縣稅營業割 ┃ 二、三八六│一三〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 五縣稅雜種稅割 ┃ 一五、〇一八│八五〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 六仝家屋稅割 ┃ 三一、二九七│七八〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃特別市稅 ┃ 七、一三四│二〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃報償金 ┃ 三五〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃寄附金 ┃ 八二、六七三│二三五┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃借入金 ┃一三四、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃基本財產金支出 ┃ 四〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃合計 ┃三六三、四三七│五五九┃
┗━━━━━━━━━┻━━━━━━━┷━━━┛
十九
【右頁】
本表ハ四十二年度豫算ヲ編入スベキ処
誤テ四十一年度豫算ヲ記載シタリ
【以上、手書き】
【左頁 白紙】
【左頁】
十八
ヘ 四十一年度市豫算
歲入
┏━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
┃科目 ┃豫算高 ┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┯━━━┫
┃財產より生する収入┃ 二九一│九〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃手數料 ┃ 五三一│四〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃雑収入 ┃ 一一、五六四│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃繰越金 ┃ 一二、三九一│七五四┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃縣稅補助金 ┃ 二、一六六│五〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃國庫交付金 ┃ 三、六六二│五一〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃縣稅交付金 ┃ 一、六八〇│〇九〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃賦金交付金 ┃ 二五二│九二〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃市税 ┃ 六六、七三九│〇五〇┃
┗━━━━━━━━━┻━━━━━━━┷━━━┛
【左頁】
┏━━━━━━━━━┳━━━━━━━┯━━━┓
┃ 一地價割 ┃ 三、八六八│一六〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 二國稅營業割 ┃ 七、七五五│九六〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 三所得稅割 ┃ 六、四一二│一七〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 四縣稅營業割 ┃ 二、三八六│一三〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 五縣稅雜種稅割 ┃ 一五、〇一八│八五〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 六仝家屋稅割 ┃ 三一、二九七│七八〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃特別市稅 ┃ 七、一三四│二〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃報償金 ┃ 三五〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃寄附金 ┃ 八二、六七三│二三五┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃借入金 ┃一三四、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃基本財產金支出 ┃ 四〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃合計 ┃三六三、四三七│五五九┃
┗━━━━━━━━━┻━━━━━━━┷━━━┛
十九
【右頁】
二十
歲出経常費
┏━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
┃科目 ┃豫算高 ┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┯━━━┫
┃ ┃ 円│ ┃
┃神社費 ┃ 五四│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃役所費 ┃ 二五、一一六│〇九〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃會議費 ┃ 七〇八│四〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃土木費 ┃ 六、八一八│一六五┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃教育費 ┃ 四二、八〇〇│七七九┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 一高等女學校費 ┃ 八、九七四│九九〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 二高等小學校費 ┃ 六、五八五│八一〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ 三尋常小學校費 ┃ 二七、二三九│九七九┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃衛生費 ┃ 五、二〇三│六八〇┃
┗━━━━━━━━━┻━━━━━━━┷━━━┛
【左頁】
┏━━━━━━━━━┳━━━━━━━┯━━━┓
┃救助費 ┃ 一〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃警備費 ┃ 三二九│八七〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃號砲費 ┃ 二七九│九〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃勸業費 ┃ 一〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃諸稅及負擔 ┃ 六九│五七五┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃市債費 ┃ 九八、一二一│二三〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃雜支出 ┃ 一│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃豫備費 ┃ 九九四│九〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃計 ┃一八〇、五一七│五八九┃
┗━━━━━━━━━┻━━━━━━━┷━━━┛
歲出臨時費
┏━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
┃科目 ┃豫算高 ┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┯━━━┫
┃ ┃ 円│ ┃
┃衛生費 ┃ 四九一│〇〇〇┃
┗━━━━━━━━━┻━━━━━━━┷━━━┛
二十一
【右頁】
二十二
┏━━━━━━━━━┳━━━━━━━┯━━━┓
┃敎育補助費 ┃ 四一〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃勸業補助費 ┃ 四五〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃救育補助費 ┃ 一〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃財產費 ┃ 六〇、二六一│七三五┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃土木費 ┃ 八二、四七七│二三五┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃敎育費 ┃ 三八、七三〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃計 ┃一八二、九一九│九七〇┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃合計 ┃三六三、四三七│五五九┃
┗━━━━━━━━━┻━━━━━━━┷━━━┛
ト 市吏員々數及給料
┏━━━━━━━┳━━┳━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓
┃名稱 ┃員数┃實費辨償 ┃給料一人月額平均 ┃最高一人額 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃最低一人額 ┃
┣━━━━━━━╋━━╋━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━━┫
┃市長 ┃ 一┃ 〇│ ┃年 一、〇〇〇│〇〇〇┃ ┃
┗━━━━━━━┻━━┻━━━━┷━━━┻━━━━━━━┷━━━┻━━━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━━━━━┳━━┳━━━━┯━━━┳━━━━━━━┯━━━┳━━━━━━━━┓
┃助役 ┃ 一┃ 〇│ ┃年 六〇〇│〇〇〇┃ ┃
┣━━━━━━━╋━━╋━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━━┫
┃名譽職參事會員┃ 六┃一人 一│〇〇〇┃ 〇│ ┃ ┃
┃ ┃ ┃一日 │ ┃ │ ┃ ┃
┣━━━━━━━╋━━╋━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━━┫
┃収入役 ┃ 一┃ 〇│ ┃年 四五〇│〇〇〇┃ ┃
┣━━━━━━━╋━━╋━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━━┫
┃書記 ┃二五┃ 〇│ ┃ 一九│六八〇┃最高一人四拾圓 ┃
┃ ┃ ┃ │ ┃ │ ┃最低一人拾四圓 ┃
┣━━━━━━━╋━━╋━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━━┫
┃書記補 ┃二四┃ 〇│ ┃ 一二│三三三┃最高一人拾四圓 ┃
┃ ┃ ┃ │ ┃ │ 強┃最低一人拾圓 ┃
┣━━━━━━━╋━━╋━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━━┫
┃傭員 ┃一〇┃ 〇│ ┃ 一〇│五〇〇┃最高一人拾貳圓 ┃
┃ ┃ ┃ │ ┃ │ ┃最低一人九圓 ┃
┣━━━━━━━╋━━╋━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━━┫
┃技師 ┃ 一┃ 〇│ ┃年 九〇〇│〇〇〇┃ ┃
┣━━━━━━━╋━━╋━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━━┫
┃技手 ┃ 六┃ 〇│ ┃ 三九│一六六┃最高一人五拾五圓┃
┃ ┃ ┃ │ ┃ │ 強┃最低一人廿貳圓 ┃
┣━━━━━━━╋━━╋━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━━┫
┃合計 ┃七五┃ │ ┃ 三、〇三一│六七九┃ ┃
┗━━━━━━━┻━━┻━━━━┷━━━┻━━━━━━━┷━━━┻━━━━━━━━┛
チ 市の主なる新事業
一、道路開鑿及改修 目下實行中のものは全計畵中の一部にして停車場線、大手線、八
二十三
【右頁】
二十四
町線の三線なり何れも其一部分は市區の改正に屬するものにりして此計畵は明治四
十年に始まり市公債を募集して其經費に充て内金貳拾萬圓は旣に全額募集濟にして
十五ヶ年償還利子は年六朱と六朱八厘となり工事は二ヶ年の繼續にして其工費の豫
算左の如し
┏━━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃開鑿路 ┃延長(間) ┃幅(間)┃工費 ┃
┃線名 ┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┫
┃ ┃ ┃ ┃土工費 ┃移轉補償費 ┃數地買収地 ┃計 ┃
┣━━━━╋━━━━━━━╋━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃大手線 ┃ 七九六、〇┃六、五┃三四、五〇〇、〇〇〇┃二一、二〇〇、〇〇〇┃ 六〇、八〇〇、〇〇〇┃一一六、五〇〇、〇〇〇┃
┣━━━━╋━━━━━━━╋━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃停車場線┃ 三七八、三┃六、五┃一四、九〇〇、〇〇〇┃一九、九〇〇、〇〇〇┃ 四八、七〇〇、〇〇〇┃ 八三、五〇〇、〇〇〇┃
┣━━━━╋━━━━━━━╋━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃八町線 ┃ 七七八、〇┃四、〇┃一七、六五一、〇〇〇┃ 五、九五二、〇〇〇┃ 二〇、九三三、〇〇〇┃ 四四、五三六、〇〇〇┃
┣━━━━╋━━━━━━━╋━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃計 ┃一、九五二、三┃ ┃六七、〇五一、〇〇〇┃四七、〇五二、〇〇〇┃一三〇、四三三、〇〇〇┃二四四、五三六、〇〇〇┃
┗━━━━┻━━━━━━━┻━━━┻━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━┛
右の内大手線の家屋取拂期限は明治四十三年二月にして八町線中最東の一部は旣に
目下開鑿工事中なり
二、遊廓地移轉 本市遊廓は目下市の中央にあるも明治四十三年九月を以て本市内大
【左頁】
字東田に移轉するものにして其新敷地中貳万五百參拾五坪參合九勺は本市の所有た
り而して其地地均工事は目下施工中にして本市は其敷地を貳百九區に分ち更に之を
四等に區別し個人に貸付をなしつゝあり槪略左に如し
一貸付總坪數 壹万四千六百坪五合九勺
内
一等地 參千貳百九拾四坪七合五勺
二等地 貳千七拾六坪參合
三等地 五千百拾九坪壹合六勺
四等地 四千百拾坪參合八勺
一貸付未濟地 六百参拾貳坪八合六勺
一道路總坪數 四千七百拾坪九合四勺
一周圍溝渠坪數 五百九拾壹坪
合計 貳万五百參拾五坪參合九勺
二十五
【右頁】
二十六
リ 諸稅負擔表
┏━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━┓
┃科目 ┃稅額 ┃納稅人員 ┃納稅者 ┃人口 ┃戸數 ┃
┃ ┃ ┃ ┃一人平均 ┃一人平均 ┃一戸平均 ┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃直接國稅┃一四〇、二七〇、九二〇┃ 四、九九四┃ 二八、〇八七┃三、三六八┃一二、六六七┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃間接國稅┃ 六八、一一三、五〇〇┃ 、二一二┃三二一、二九〇┃一、六三五┃ 六、一五一┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃縣稅 ┃ 四八、〇八八、四二〇┃ 八、一二四┃ 五、九一九┃一、一五四┃ 四、三四二┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃市稅 ┃ 七七、三九七、一六五┃ 八、四〇〇┃ 九、二一三┃一、八五七┃ 六、九八九┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃合計 ┃三三三、八七〇、〇〇五┃二一、七三〇┃ 一五、三六四┃八、〇一七┃三〇、一五五┃
┗━━━━┻━━━━━━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━┻━━━━━━┛
備考 本表の稅額は何れも實収入を以て記載す且つ市稅中には特別市稅をも加算せり
ヌ 議員數及選擧權者數
┏━━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
┃種別 ┃議員數┃選擧有權者数┃備考 ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━━┫
┃衆議院議員┃ 〇┃ 一、三六八┃ ┃
┗━━━━━┻━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
┃縣會議員 ┃ 一┃ 二、〇二八┃ ┃
┣━━━━━╋━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━━┫
┃市會議員 ┃ 三〇┃ 二、五六四┃一級九二 二級三六七┃
┃ ┃ ┃ ┃三級二、一四三 ┃
┗━━━━━┻━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━━┛
ル 出生
┏━━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━━━┓
┃年別 ┃種別 ┃出生 ┃計 ┃
┃ ┃ ┣━━━━━┳━━━━━┫ ┃
┃ ┃ ┃男 ┃女 ┃ ┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃四十年 ┃嫡出 ┃ 五六七┃ 五一七┃一、〇八四┃
┃ ┣━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃庶子 ┃ 九┃ 一四┃ 二三┃
┃ ┣━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃私生子┃ 四五┃ 四七┃ 九二┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃四十一年┃嫡出 ┃ 六三五┃ 五五四┃一、一八九┃
┃ ┣━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃庶子 ┃ 一六┃ 九┃ 二五┃
┃ ┣━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃私生子┃ 四七┃ 三九┃ 八六┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃嫡出 ┃一、二〇二┃一、〇七二┃二、二七三┃
┃ ┗━━━┻━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┛
二十七
【右頁】
二十八
┃ ┏━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
┃合計 ┃庶子 ┃ 二五┃ 二三┃ 四八┃
┃ ┣━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃私生子┃ 九二┃ 八六┃ 一七八┃
┗━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┛
オ 死亡
┏━━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━━┓
┃年別 ┃男 ┃女 ┃計 ┃平均年齢┃
┣━━━━╋━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━┫
┃四十年 ┃四一四┃四四六┃ 八六〇┃ 三〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━┫
┃四十一年┃四五一┃四六五┃ 九一六┃ 三〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━┫
┃合計 ┃八六五┃九一一┃一、七七六┃ 三〇┃
┗━━━━┻━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━━┛
ワ 婚姻、離婚、廢嫡
┏━━━━┳━━━┳━━━┳━━┳━━━┓
┃年別 ┃婚姻 ┃離婚 ┃廢嫡┃計 ┃
┣━━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━━┫
┃四十年 ┃三七七┃ 七九┃ 〇┃四五六┃
┗━━━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━━┛
【左頁】
┏━━━━┳━━━┳━━━┳━━┳━━━┓
┃四十一年┃三九六┃ 六三┃ 二┃四六一┃
┣━━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━━┫
┃合計 ┃七七三┃一四二┃ 二┃九一七┃
┗━━━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━━┛
カ 陸軍々人統計表
┏━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓
┃\ 區分┃現役 ┃豫備役 ┃後備役 ┃補充 ┃計 ┃合計 ┃
┃ \ ┣━━┳━━┳━━━┳━━━╋━━┳━━┳━━┳━━╋━━┳━━┳━━━┳━━━┫兵役 ┣━━┳━━┳━━━┳━━━┫ ┃
┃年別 \┃將校┃下士┃兵卒 ┃計 ┃將校┃下士┃兵卒┃計 ┃將校┃下士┃兵卒 ┃計 ┃ ┃將校┃下士┃兵卒 ┃補充兵┃ ┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃卅八年 ┃二一┃ 七┃ 三九┃ 六七┃ 七┃一七┃七一┃九五┃一二┃一六┃ 三九┃ 六七┃一九八┃四〇┃四〇┃一四九┃一九八┃三二九┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃卅九年 ┃二〇┃ 四┃ 四九┃ 七三┃ 九┃一六┃六八┃九三┃一二┃一六┃ 五四┃ 八二┃二五四┃四一┃三六┃一七一┃二五四┃五〇二┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃四十年 ┃二三┃ 五┃ 四四┃ 七二┃ 六┃一三┃四二┃六一┃一二┃二八┃ 八一┃一二一┃三一〇┃四一┃四六┃一六七┃三一〇┃五六四┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃四十一年┃二〇┃ 七┃ 七二┃ 九九┃ 八┃一三┃四三┃六四┃ 九┃三一┃ 九五┃一三五┃三八五┃三七┃五一┃二一〇┃三八五┃六八四┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃四十二年┃二一┃ 六┃一〇三┃一三〇┃ 八┃ 七┃五四┃六九┃一〇┃四四┃一〇三┃一五七┃四四〇┃三九┃五七┃二六〇┃四四〇┃七九六┃
┗━━━━┻━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━━┛
備考 本表ハ本籍人ニ就キテ調査シタルモノナリ
二十九
【右頁】
三十
ヨ 海軍々人統計表
┏━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓
┃\ 區分┃現役 ┃豫備役 ┃後備役 ┃補充 ┃計 ┃合計 ┃
┃ \ ┣━━┳━━┳━━━┳━━━╋━━┳━━┳━━┳━━╋━━┳━━┳━━━┳━━━┫兵役 ┣━━┳━━┳━━━┳━━━┫ ┃
┃年別 \┃將校┃下士┃兵卒 ┃計 ┃將校┃下士┃兵卒┃計 ┃將校┃下士┃兵卒 ┃計 ┃ ┃將校┃下士┃兵卒 ┃補充兵┃ ┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃卅八年 ┃ 四┃ 五┃ 七┃ 一六┃ ┃ ┃ 一┃ 一┃ ┃ 一┃ 一┃ 二┃ ┃ 四┃ 六┃ 九┃ ┃ 一九┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃卅九年 ┃ 四┃ 六┃ 九┃ 一九┃ ┃ ┃ 一┃ 一┃ ┃ 一┃ 一┃ 二┃ ┃ 四┃ 七┃ 一一┃ ┃ 二二┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃四十年 ┃ 四┃ 七┃ 一一┃ 二二┃ ┃ ┃ 二┃ 二┃ ┃ 一┃ 二┃ 三┃ ┃ 四┃ 八┃ 一五┃ ┃ 二七┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃四十一年┃ 二┃ 七┃ 一〇┃ 一九┃ 二┃ ┃ 三┃ 五┃ ┃ 一┃ 二┃ 三┃ ┃ 四┃ 八┃ 一五┃ ┃ 二七┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━┫
┃四十二年┃ 二┃ 七┃ 一一┃ 二〇┃ 三┃ 一┃ 二┃ 六┃ ┃ 一┃ 二┃ 三┃ ┃ 五┃ 九┃ 一五┃ ┃ 二九┃
┗━━━━┻━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━━┛
備考 本表ハ本籍人ニ就キテ調査シタルモノナリ
タ 徴兵檢査成績表
┏━━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┳━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓
┃\ 區分┃壯丁 ┃徴集人員 ┃要員┃徴集 ┃兵役┃徴集┃徴集┃現役┃現役┃失踪┃重罪┃
┃ \ ┃人員 ┣━━━━━━┳━━━━━━┳━━━┫超過┃免除 ┃免除┃猶豫┃延期┃中の┃を終┃迯亡┃處刑┃
┃ ┃ ┃陸軍 ┃海軍 ┃計 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃者 ┃りた┃ ┃ ┃
┃ \ ┃ ┣━━┳━━━╋━━┳━━━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃る者┃ ┃ ┃
┃年別 \┃ ┃現役┃補充兵┃現役┃補充兵┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┗━━━━┻━━━┻━━┻━━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┛
【左頁】
┏━━━━┳━━━┳━━┳━━━┳━━┳━━━┳━━━┳━━┳━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓
┃三十八年┃二二七┃一五┃ 一五┃ 一┃ ┃ 九七┃ ┃ 五九┃二三┃三二┃ 五┃ 一┃ ┃一〇┃ ┃
┣━━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━┫
┃三十九年┃二二六┃一三┃ 一三┃ 二┃ ┃ 四三┃ 四┃一〇一┃二二┃三三┃ 四┃ 五┃ ┃一四┃ ┃
┣━━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━┫
┃四十年 ┃二六四┃四六┃ 四六┃ ┃ ┃一二〇┃ 五┃ 六六┃二四┃二九┃ 三┃ 三┃ ┃一四┃ ┃
┣━━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━┫
┃四十一年┃二四五┃五一┃ 五一┃ ┃ ┃一〇二┃ 二┃ 七〇┃一三┃三四┃ 九┃ 一┃ ┃一四┃ ┃
┣━━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━┫
┃四十二年┃二六九┃五三┃ 六九┃ ┃ ┃一二二┃ 二┃ 四五┃二一┃三六┃二六┃ 三┃ ┃一四┃ ┃
┗━━━━┻━━━┻━━┻━━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┛
レ 徴兵徴集兵種別人員表
┏━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓
┃區分┃陸軍 ┃海軍 ┃合計 ┃
┃\ ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━━╋━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┫ ┃
┃ \┃歩兵┃騎兵┃砲兵┃工兵┃輜重┃仝 ┃臺灣┃近衛┃近衛┃鐵道┃電信┃看護┃縫工┃計 ┃水兵┃機關┃木工┃主厨┃看護┃計 ┃ ┃
┃年別┃ ┃ ┃ ┃ ┃兵 ┃輸卒┃歩兵┃歩兵┃騎兵┃隊兵┃隊兵┃卒 ┃卒 ┃ ┃ ┃兵 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━┫
┃三十┃六九┃ 四┃ 三┃ 一┃ 一┃一三┃ ┃ 二┃ ┃ 一┃ ┃ 二┃ ┃ 九六┃ ┃ 一┃ ┃ ┃ ┃ 一┃ 九七┃
┃八年┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━┫
┃三十┃二〇┃ 一┃ 三┃ 一┃ ┃一六┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 四一┃ 一┃ 一┃ ┃ ┃ ┃ 二┃ 四三┃
┃九年┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━┫
┃四十┃六七┃ 二┃ 四┃ 六┃ 二┃三六┃ 二┃ ┃ ┃ ┃ 一┃ ┃ ┃一二〇┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃一二〇┃
┃年 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┗━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━━┛
三十一
【右頁】
三十二
┏━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━━┓
┃四十┃七三┃ ┃ ┃ ┃ ┃二八┃ ┃ 一┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃一〇二┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃一〇二┃
┃一年┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━┫
┃四十┃七四┃ ┃ ┃ ┃ ┃三八┃ 一┃ 一┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 三┃一二二┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃一二二┃
┃二年┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┗━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━━┛
ソ 徴兵身体檢査成績別人員表
┏━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━━┓
┃\ 區分┃甲種┃乙種┃丙種┃丁種┃戌種┃合計 ┃
┃年別 \┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━┫
┃三十八年┃四九┃六五┃四二┃二三┃ ┃一七九┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━┫
┃三十九年┃二四┃三五┃八九┃二二┃ ┃一七〇┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━┫
┃四十年 ┃六五┃六二┃四四┃二四┃ ┃一九五┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━┫
┃四十一年┃七三┃五五┃四六┃一三┃ 四┃一九一┃
┣━━━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━╋━━━┫
┃四十二年┃六四┃六五┃四〇┃二一┃二一┃二一一┃
┗━━━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━┻━━━┛
ツ 丁種兵役免除者病類別表
【左頁】
┏━━━━┳━━━┳━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┓
┃\ 區分┃壯丁受┃短尺 ┃疾病 ┃合計┃
┃ \ ┃檢人員┣━━━━╋━━┳━━━┳━━┳━━┳━━┫ ┃
┃ \ ┃ ┃四尺八寸┃近視┃肺結核┃白痴┃不具┃其他┃ ┃
┃年別 \┃ ┃未滿 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━┫
┃三十八年┃一七九┃ 八┃ 一┃ 一┃ ┃ 三┃一〇┃二三┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━┫
┃三十九年┃一七〇┃ 八┃ 五┃ 二┃ ┃ 二┃ 五┃二二┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━┫
┃四十年 ┃一九五┃ 五┃ 七┃ 一┃ 三┃ 一┃ 七┃二四┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━┫
┃四十一年┃一九一┃ 四┃ 二┃ 一┃ ┃ 三┃ 三┃一三┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━╋━━╋━━━╋━━╋━━╋━━╋━━┫
┃四十二年┃二一一┃ 七┃ 五┃ 二┃ 二┃ 三┃ 二┃二一┃
┗━━━━┻━━━┻━━━━┻━━┻━━━┻━━┻━━┻━━┻━━┛
ネ 學校
┏━━━━━┳━━┳━━┳━━━━━━━━━━━━┓
┃校名 ┃種類┃員数┃備考 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━╋━━╋━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃中學校 ┃縣立┃ 一┃ ┃
┃ ┃私立┃ 二┃ ┃
┣━━━━━╋━━╋━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃高等女學校┃市立┃ 一┃ ┃
┗━━━━━┻━━┻━━┻━━━━━━━━━━━━┛
三十三
【右頁】
三十四
┏━━━━━┳━━┳━━┳━━━━━━━━━━━━┓
┃高等小學校┃市立┃ 二┃内一校は尋常小學校と併置┃
┃ ┃ ┃ ┃なり ┃
┣━━━━━╋━━╋━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃尋常小學校┃市立┃ 七┃内一校は高等小學校と併置┃
┃ ┃ ┃ ┃なり外に分敎場一を有す ┃
┣━━━━━╋━━╋━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃商業學校 ┃私立┃ 一┃ ┃
┣━━━━━╋━━╋━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃幼稚園 ┃私立┃ 一┃ ┃
┣━━━━━╋━━╋━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃盲啞學校 ┃私立┃ 一┃ ┃
┣━━━━━╋━━╋━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃裁縫女學校┃私立┃ 三┃ ┃
┣━━━━━╋━━╋━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃其他 ┃私立┃ 二┃ ┃
┣━━━━━╋━━╋━━╋━━━━━━━━━━━━┫
┃合計 ┃ ┃二〇┃ ┃
┗━━━━━┻━━┻━━┻━━━━━━━━━━━━┛
ナ 市立學校敎室生徒數
┏━━━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━━━━┓
┃校名 ┃所在地 ┃學級数┃生徒數 ┃校長 ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃市立高等女學校┃大字西八┃ 五┃ 五┃本間小左衛門┃
┗━━━━━━━┻━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━━━━┓
┃八町高等小學校┃大字西八┃ 一二┃ 四五二┃田部井勝藏 ┃
┃ ┃ 中八┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃岩田尋常小學校┃大字岩田┃ 八┃ 二九三┃河合末治郎 ┃
┃ 高等 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃同分敎場 ┃大字岩崎┃ 二┃ 二六┃仝 ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃八町尋常小學校┃大字東八┃ 一六┃ 九八二┃多代寅三郎 ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃松葉尋常小學校┃大字松葉┃ 一五┃ 九一八┃靑山新次郎 ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃花田尋常小學校┃大字花田┃ 六┃ 二七七┃平井四男太 ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃狭間尋常小學校┃大字花田┃ 一六┃一、〇一四┃杉浦鎭次郎 ┃
┃ ┃字狭間 ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃新川尋常小學校┃大字新川┃ 一七┃ 九一二┃藤井治郎作 ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃東田尋常小學校┃大字東田┃ 六┃ 二〇八┃鈴木要吉 ┃
┣━━━━━━━╋━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━━━┫
┃計 ┃ ┃ ┃五、三二五┃ ┃
┗━━━━━━━┻━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━━━━┛
ラ 市立學校職員數及俸給
高等女學校
三十五
【右頁】
三十六
┏━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━━━┓
┃種別 ┃男員數┃給料月額 ┃女員数┃給料月額 ┃員数合計┃給料月額惣┃
┃ ┃ ┃一人平均 ┃ ┃一人平均 ┃ ┃一人平均 ┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃校長 ┃ 一┃七五、〇〇┃ 〇┃ 〇┃ 一┃七五、〇〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃敎諭 ┃ 二┃四五、〇〇┃ 七┃三一、一四┃ 九┃三四、二二┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃敎諭心得┃ 一┃四五、〇〇┃ 〇┃ 〇┃ 一┃四五、〇〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃舍監心得┃ 〇┃ 〇┃ 一┃一一、〇〇┃ 一┃一一、〇〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃書記 ┃ 一┃一七、〇〇┃ 〇┃ 〇┃ 一┃一七、〇〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃囑托 ┃ 一┃ 五、〇〇┃ 〇┃ 〇┃ 一┃ 五、〇〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃合計 ┃ 六┃ 〇┃ 八┃ 〇┃ 一四┃ 〇┃
┗━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━━┻━━━━━┛
高等小學校
(併置のものは尋常小學校の部に算入す)
┏━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━━━┓
┃種別 ┃男員數┃給料月額 ┃女員数┃給料月額 ┃員数合計┃給料月額惣┃
┃ ┃ ┃一人平均 ┃ ┃一人平均 ┃ ┃一人平均 ┃
┗━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━━┻━━━━━┛
【左頁】
┏━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━━━┓
┃種別 ┃男員數┃給料月額 ┃女員数┃給料月額 ┃員数合計┃給料月額惣┃
┃ ┃ ┃一人平均 ┃ ┃一人平均 ┃ ┃一人平均 ┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃本正敎員┃ 一一┃二九、〇九┃ 四┃一五、五〇┃ 一五┃二五、四七┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃准敎員 ┃ 〇┃ 〇┃ 〇┃ 〇┃ 〇┃ 〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃專正敎員┃ 一┃ 三、〇〇┃ 一┃一六、〇〇┃ 二┃ 九、五〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃代用敎員┃ 一┃一一、〇〇┃ 〇┃ 〇┃ 一┃一一、〇〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃合計 ┃ 一三┃ ┃ 五┃ ┃ 一八┃ ┃
┗━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━━┻━━━━━┛
尋常小學校
┏━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━━━┓
┃種別 ┃男員數┃給料月額 ┃女員数┃給料月額 ┃員数合計┃給料月額惣┃
┃ ┃ ┃一人平均 ┃ ┃一人平均 ┃ ┃一人平均 ┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃本正敎員┃ 四三┃二三、三八┃ 一五┃一三、四六┃ 五八┃二〇、〇八┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃准敎員 ┃ 九┃一二、一一┃ 二┃一〇、〇〇┃ 一一┃一一、七三┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃專正敎員┃ 〇┃ 〇┃ 二┃一一、五〇┃ 二┃一一、五〇┃
┣━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━━━━┫
┃代用敎員┃ 九┃一〇、四四┃ 一七┃ 九、〇六┃ 二六┃ 九、五四┃
┗━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━━┻━━━━━┛
三十七
【右頁】
三十八
┏━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━━━┓
┃合計 ┃ 六一┃ ┃ 三六┃ ┃ 九七┃ ┃
┗━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━┻━━━━━┻━━━━┻━━━━━┛
ム 學齡兒童數
┏━━━━━┳━━━━━┳━━━┳━┓
┃年度 ┃人員 ┃增 ┃減┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━╋━┫
┃卅六年度 ┃五、三三五┃ 〇┃〇┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━╋━┫
┃卅七年度 ┃五、六五三┃三一八┃〇┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━╋━┫
┃卅八年度 ┃五、七三九┃ 八六┃〇┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━╋━┫
┃卅九年度 ┃五、九三一┃一九二┃〇┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━╋━┫
┃四十年度 ┃六、一〇三┃一七二┃〇┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━╋━┫
┃四十一年度┃六、一六三┃ 六〇┃〇┃
┗━━━━━┻━━━━━┻━━━┻━┛
ウ 就學不就學兒童數
(明治四十一年度調)
【左頁】
┏━━┳━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━┓
┃種別┃就學兒童數┃不就學兒童數┃就學歩合 ┃
┣━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━┫
┃男 ┃三、〇〇八┃ 六二┃九七、九九┃
┣━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━┫
┃女 ┃三、〇〇九┃ 八四┃九七、三二┃
┣━━╋━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━┫
┃合計┃六、〇一七┃ 一四六┃九七、六三┃
┗━━┻━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━┛
井 職業別 (明治四十二年十月一日現在)
┏━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
┃科目 ┃人員 ┃科目 ┃人員 ┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃卸賣 ┃ 九┃両換 ┃ 一┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃買出 ┃ 八二┃牛馬賣買 ┃ 七┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃小賣 ┃ 一二〇六┃繭買出 ┃ 四四┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃行商 ┃ 二一一┃公なる周旋┃ 一六┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃質屋 ┃ 二┃代辨 ┃ 一〇┃
┗━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┛
三十九
【右頁】
四十
┏━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
┃宿屋 ┃ 六五┃中立 ┃ 七┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃運送 ┃ 九┃仲買 ┃ 六┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃貸付 ┃ 一四┃代書 ┃ 一五┃
┣━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┫
┃計 一、七〇四 ┃
┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┫
┃製造 ┃ 五八三┃請負 ┃ 二三┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃印刷 ┃ 九┃職工 ┃ 四九二┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┻━━━━━┫
┃寫眞 ┃ 四┃ ┃
┣━━━━━┻━━━━━┻━━━━━━━━━━━┫
┃計 一、一一一 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃合計 二、八一五 ┃
┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┫
┃料理 ┃ 七三┃飲食 ┃ 一九三┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃紹介業 ┃ 二〇┃芝居茶屋 ┃ 一┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃湯屋 ┃ 四〇┃理髪人 ┃ 一九六┃
┗━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┛
【左頁】
┏━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
┃遊藝師匠 ┃ 四┃貸座敷 ┃ 五五┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃俳優 ┃ 四┃遊藝稼人 ┃ 一三┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃劇場 ┃ 四┃藝妓 ┃ 三六六┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃寄席 ┃ 一┃船 ┃ 八〇┃
┣━┳━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃大車 ┃ 七四六┃人力車 ┃ 一八八┃
┃車┣━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃ ┃小車 ┃二、二四二┃荷積牛馬車┃ 七六┃
┣━┻━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃水車 ┃ 六┃漁業人 ┃ 二九┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━━╋━━━━━┫
┃自轉車 ┃ 六九三┃娼妓 ┃ 二二三┃
┗━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┻━━━━━┛
ノ 新聞社
┏━━━━━━━━━┳━━━━┓
┃社名 ┃所在地 ┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━┫
┃參陽新報 ┃大字西八┃
┗━━━━━━━━━┻━━━━┛
四十一
【右頁】
四十二
┏━━━━━━━━━┳━━━━┓
┃新朝報 ┃大字本 ┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━┫
┃名古屋新聞豐橋支局┃大字松葉┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━┫
┃參遠新報 ┃大字西八┃
┣━━━━━━━━━╋━━━━┫
┃三遠日報 ┃大字松葉┃
┗━━━━━━━━━┻━━━━┛
ヲ 劇場
┏━━━┳━━━━━━━┓
┃座名 ┃所在地 ┃
┣━━━╋━━━━━━━┫
┃東雲座┃大字呉服 ┃
┣━━━╋━━━━━━━┫
┃豐橋座┃大字花田字石塚┃
┣━━━╋━━━━━━━┫
┃彌生座┃大字上傳馬 ┃
┣━━━╋━━━━━━━┫
┃常盤座┃大字花田字松山┃
┣━━━┻━━━━━━━┫
┃寄席 ┃
┗━━━━━━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━┳━━━━━━━┓
┃座名 ┃所在地 ┃
┣━━━╋━━━━━━━┫
┃河原座┃大字萱 ┃
┗━━━┻━━━━━━━┛
ク 特產物輸出入高
┏━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃種目┃輸入 ┃輸出 ┃
┃ ┣━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━━━━━━━┫
┃ ┃數量 ┃價格 ┃數量 ┃價格 ┃
┣━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃ ┃ 石┃ 円┃ 石┃ 円┃
┃米 ┃ 一〇〇、五〇〇┃二、三五六、七五〇┃ 一五、〇二〇┃ 二〇二、七七〇┃
┣━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃麥 ┃ 九〇、二〇〇┃ 五四五、七一〇┃ 八〇、〇五〇┃ 四八四、三〇〇┃
┣━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃ ┃ 貫┃ ┃ 貫┃ ┃
┃生糸┃ 二六、〇〇〇┃一、三五七、二〇〇┃ 三六、〇〇〇┃一、八八〇、〇〇〇┃
┣━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃玉糸┃ 七九、〇〇〇┃二、一九四、四〇〇┃ 九〇、〇〇〇┃二、五〇〇、〇〇〇┃
┣━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃繭 ┃玉 三〇〇、〇〇〇┃一、九二〇、〇〇〇┃二〇〇、〇〇〇┃一、二八〇、〇〇〇┃
┃ ┃精 一二〇、〇〇〇┃一、五〇〇、〇〇〇┃ 二〇、〇〇〇┃ 二五、〇〇〇┃
┣━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃ ┃ 石┃ ┃ ┃ ┃
┃醬油┃ 二、〇一〇┃ 四〇、二〇〇┃ 五、二五〇┃ 九四、五〇〇┃
┣━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃ ┃ 貫┃ ┃ ┃ ┃
┃味噌┃ 五一、〇〇〇┃ 一二、七五〇┃三五〇、八〇〇┃ 七七、九五五┃
┗━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━┛
四十三
【右頁】
四十四
ヤ 郵便電信數 (四十二年中取扱件數)
┏━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓
┃種別┃發 ┃着 ┃
┣━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃男 ┃五、五八二、九四一┃五、二八一、五五八┃
┣━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃女 ┃ 七九、六七三┃ 八四┃
┗━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┛
マ 旅客 (最近一ヶ年間)
┏━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓
┃種別 ┃乘客員數 ┃降客員數 ┃合計 ┃
┣━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃ ┃ 人┃ ┃ ┃
┃鐵道乘降客┃五八七、〇二八┃六四七、六五三┃一、二三四、六八一┃
┣━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃市内宿泊客┃三四八、一四一┃ ┃ 三四八、一四一┃
┣━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃合計 ┃九三五、一六九┃六四七、六五三┃一、五八二、八二二┃
┗━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━━━┛
ケ 鐵道貨物 (最近一ヶ月間)
【左頁】
┏━━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
┃種別 ┃個數 ┃斤數 ┃
┣━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┫
┃ ┃ 個┃ 斤┃
┃輸出 ┃ 六一三、八七七┃四六、二六七、一三六┃
┣━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┫
┃輸入 ┃ 八二三、六二五┃三六、九六三、〇八九┃
┣━━━━━╋━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┫
┃合計 ┃一、四三七、五〇二┃八三、二三〇、二二五┃
┗━━━━━┻━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━┛
フ 郵便貯金
┏━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
┃年度 ┃預金額 ┃拂出額 ┃
┣━━━━╋━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━┫
┃ ┃ 円 ┃ 円 ┃
┃四十二年┃一四二、四一一、〇三六┃一四四、九〇三、三八三┃
┗━━━━┻━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━┛
コ 銀行預金及貯金
┏━━━━━━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
┃銀行名 ┃人員 ┃預金總額 ┃貯金總高 ┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┯━━━╋━━━━━━━┯━━━┫
┃ ┃ 人┃ │ ┃ │ ┃
┃株式會社三遠銀行 ┃ 一四四┃ 四四、八八六│八一〇┃ │ ┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃仝西尾銀行豐橋支店 ┃ 三、七九二┃ 二八七、八八八│〇〇〇┃ │ ┃
┗━━━━━━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━┷━━━┻━━━━━━━┷━━━┛
四十五
【右頁】
四十六
┏━━━━━━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━┯━━━┳━━━━━━━┯━━━┓
┃仝福江銀行豐橋支店 ┃ 一、三八〇┃ 七二、六五〇│〇〇〇┃ │ ┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃仝山乃内銀行豐橋支店 ┃ 二、七八〇┃ 一四八、六三〇│七六一┃ │ ┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃仝愛知銀行豐橋支店 ┃三六、五八三┃一、五三一、八〇一│〇〇〇┃ │ ┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃仝明治銀行豐橋支店 ┃ 五、五三〇┃ 七三七、八二〇│三〇三┃ │ ┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃仝田原商工銀行豐橋支店┃ 一、二六七┃ 八九、七四一│〇三〇┃ │ ┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃仝大野銀行豐橋支店 ┃ 一、七九六┃ 二一六、四六〇│一四〇┃ │ ┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃仝丸八貯蓄銀行豐橋支店┃一五、四三〇┃ │ ┃二五〇、六四五│八〇一┃
┣━━━━━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━━━┿━━━╋━━━━━━━┿━━━┫
┃ ┃ 人┃ │ ┃ │ ┃
┃合計 ┃六八、七〇二┃三、一二九、八七八│〇四四┃二五〇、六四五│八〇一┃
┗━━━━━━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━━━┷━━━┻━━━━━━━┷━━━┛
エ 銀行、諸會社及工場
┏━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓
┃種目 ┃資本金 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┯━━━┫
┃株式會社三遠銀行 ┃ 一六〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━┷━━━┛
【左頁】
┏━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┯━━━┓
┃株式會社大野銀行豐橋支店 ┃ 二〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社愛知銀行豐橋支店 ┃ 二、〇〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社明治銀行豐橋支店 ┃ 三、〇〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社西尾銀行豐橋支店 ┃ 三〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社丸八貯蓄銀行豐橋支店┃ 一〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃合名會社山乃内銀行豐橋支店 ┃ 一〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社福江銀行豐橋支店 ┃ 三〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社田原商工銀行豐橋支店┃ 五〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃三河製絲株式會社 ┃ 一五〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋電氣株式會社 ┃ 五〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋雜貨株式會社 ┃ 一〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋運送株式會社 ┃ 二、〇〇〇│〇〇〇┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━┷━━━┛
四十七
【右頁】
四十八
┏━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┯━━━┓
┃豐橋魚鳥株式會社 ┃ 二五、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋競賣株式會社 ┃ 一〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋蠶絲周旋株式會社 ┃ 三〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋衛生淸潔合資會社 ┃ 一、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋倉庫株式會社 ┃ 一〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃參陽印刷合資會社 ┃ 六、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋繭絲合資會社 ┃ 八、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋新聞合資會社 ┃ 二、五〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋製氷株式會社 ┃ 一〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋ラムネ製造合資會社 ┃ 一、八五〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋鐵道株式會社 ┃ 一、五〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社米穀取引所 ┃ 一〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━┷━━━┛
【左頁】
┏━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┯━━━┓
┃丸五運送合資會社 ┃ 三、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃角星運輸合資會社 ┃ 五、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社豐橋商工陳列館 ┃ 二〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃丸万運送合資會社 ┃ 一、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋海產株式會社 ┃ 一三、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社豐橋魚問屋 ┃ 五〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃合名會社内藤商會 ┃ 二、四〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃合名會社二明商會 ┃ 六、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋點燈合資會社 ┃ 五〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃合名會社小山商店 ┃ 二、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃瀧崎機業合資會社 ┃ 五、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃株式會社靑物乾物問屋 ┃ 二〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━┷━━━┛
四十九
【右頁】
五十
┏━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┯━━━┓
┃合資會社小柳津商店 ┃ 三〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋瓦斯株式會社 ┃ 五〇〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃合名會社津田商店 ┃ 一〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃豐橋驛遞合資會社 ┃ 一〇、〇〇〇│〇〇〇┃
┣━┳━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃ ┃株式會社 二四┃ 九、八六八、〇〇〇│〇〇〇┃
┃ ┣━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃計┃合資會社 一二┃ 六六、八五〇│〇〇〇┃
┃ ┣━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃ ┃合名會社 五┃ 一一一、四〇〇│〇〇〇┃
┣━┻━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┿━━━┫
┃合計 四一┃一〇、〇四六、二五〇│〇〇〇┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┷━━━┫
┃工場名 ┃員數 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┫
┃生絲製糸工場 ┃ 二一┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┫
┃玉糸製糸工場 ┃ 二三┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┫
┃織物工場 ┃ 三┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓
┃製粉工場 ┃ 二┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┫
┃製綿工場 ┃ 一┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┫
┃味噌醬油醸造工場 ┃ 三┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┫
┃酒味淋醸造工場 ┃ 一┃
┣━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┫
┃合計 ┃ 五四┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━┛
テ 死亡者病類
┏━━━━┳━┳━━━┳━━━┳━━┳━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━┳━━┳━┳━━┳━━━━━┓
┃年別 ┃男┃傳 ┃營養 ┃皮膚┃骨關┃血 ┃神経 ┃呼吸 ┃消化 ┃泌尿┃變 ┃中┃不 ┃計 ┃
┃ ┃女┃染 ┃不良 ┃及筋┃節病┃行 ┃五管 ┃機病 ┃器病 ┃生殖┃死 ┃毒┃詳 ┃ ┃
┃ ┃別┃病 ┃等 ┃病 ┃ ┃病 ┃病 ┃ ┃ ┃器病┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┣━━━━╋━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━╋━━╋━━━━━┫
┃四十年 ┃男┃ 六二┃ 五八┃ 三┃ 一┃ 二五┃ 七八┃一一一┃ 四五┃ 六┃ 七┃〇┃一二┃ 四〇八┃
┃ ┣━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃女┃ 五三┃ 六五┃ 一┃ 〇┃ 三一┃ 六三┃一三五┃ 五八┃一六┃ 五┃〇┃一五┃ 四四二┃
┣━━━━╋━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━╋━━╋━━━━━┫
┃合計 ┃ ┃一一五┃一二三┃ 四┃ 一┃ 五六┃一四一┃二四六┃一〇三┃二二┃一二┃〇┃二七┃ 八五〇┃
┗━━━━┻━┻━━━┻━━━┻━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━┻━┻━━┻━━━━━┛
五十一
【左頁】
五十二
┏━━━━┳━┳━━━┳━━━┳━━┳━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━┳━━┳━┳━━┳━━━━━┓
┃ ┃男┃ 四二┃ 五四┃ 三┃ 三┃ 二五┃ 七〇┃一三五┃ 五三┃一四┃一二┃〇┃ 七┃ 四一八┃
┃四十一年┣━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃男┃ 三七┃ 五七┃ 四┃ 〇┃ 二〇┃ 八三┃一三二┃ 七七┃二〇┃ 四┃〇┃ 六┃ 四四一┃
┣━━━━╋━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━╋━━╋━━━━━┫
┃合計 ┃女┃ 七九┃一一二┃ 七┃ 三┃ 四五┃一五三┃二六七┃一三〇┃三四┃一六┃〇┃一三┃ 八五九┃
┣━━━━╋━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━╋━╋━━╋━━━━━┫
┃總計 ┃ ┃一九四┃二三五┃一一┃ 四┃一〇一┃二九四┃五一三┃一三三┃五六┃二八┃〇┃四〇┃一、七〇九┃
┗━━━━┻━┻━━━┻━━━┻━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━┻━┻━━┻━━━━━┛
ア 傳染病患者數
┏━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━┳━━━┳━━━┳━━━━━┓
┃年別 ┃赤痢 ┃腸窒扶┃實布 ┃痘瘡┃猩紅熱┃合計 ┃死亡者 ┃
┃ ┃ ┃斯 ┃垤利亞┃ ┃ ┃ ┃百分比例 ┃
┣━━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━━━┫
┃四十年 ┃二〇四┃ 七二┃ 四二┃ 〇┃ 一┃三一九┃一九、一二┃
┣━━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━━━┫
┃四十一年┃一一四┃ 四一┃ 三〇┃二〇┃ 〇┃二〇五┃一七、五六┃
┣━━━━╋━━━╋━━━╋━━━╋━━╋━━━╋━━━╋━━━━━┫
┃合計 ┃三一八┃一一三┃ 七二┃二〇┃ 一┃五二四┃一八、五一┃
┗━━━━┻━━━┻━━━┻━━━┻━━┻━━━┻━━━┻━━━━━┛
サ 神社
【左頁】
┏━━━┳━━┳━━━┳━━┓
┃種別 ┃數 ┃種別 ┃數 ┃
┣━━━╋━━╋━━━╋━━┫
┃鄕社 ┃ 二┃無格社┃二七┃
┣━━━╋━━╋━━━╋━━┫
┃村社 ┃一八┃合計 ┃四七┃
┗━━━┻━━┻━━━┻━━┛
キ 寺院
┏━━━┳━━┳━━━┳━━┓
┃種別 ┃數 ┃種別 ┃數 ┃
┣━━━╋━━╋━━━╋━━┫
┃天臺宗┃ 一┃曹洞宗┃一九┃
┣━━━╋━━╋━━━╋━━┫
┃眞言宗┃ 五┃眞宗 ┃ 七┃
┣━━━╋━━╋━━━╋━━┫
┃淨土宗┃二一┃法華宗┃ 一┃
┣━━━╋━━╋━━━╋━━┫
┃臨濟宗┃ 三┃合計 ┃五七┃
┗━━━┻━━┻━━━┻━━┛
ユ 敎會
┏━━━┳━━┳━━━┳━━┓
┃種別 ┃數 ┃種別 ┃數 ┃
┣━━━╋━━╋━━━╋━━┫
┃神道 ┃一〇┃耶蘇敎┃ 四┃
┗━━━┻━━┻━━━┻━━┛
五十三
【右頁】
五十四
┏━━━┳━━┳━━━┳━━┓
┃佛道 ┃ 八┃合計 ┃二二┃
┗━━━┻━━┻━━━┻━━┛
メ 消防
本市消防組は舊來其組織なきにあらざりしが明治十一二年の頃大字魚町の市民魚組を組
織し次で大字船湊の市民も亦た波組を起してより私立消防組の組織益々發展し全市民中
丁年以上の男子にして少くとも一戸一人之に關せざるはなかりしが明治廿七年勅令の發
布と共に公立消防組の組織を見二部を設置したるも本年遂に之を擴張して廿八部千四百
五十二人の定員となし舊來私立の組織たりしものゝ全部を之に包合する事となれり
┏━━━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━━━━━━━━━┓
┃消防組名 ┃設置區域 ┃部名 ┃定員 ┃
┃ ┃ ┃ ┣━━┳━━┳━━━━━┫
┃ ┃ ┃ ┃組頭┃小頭┃消防手 ┃
┣━━━━━╋━━━━━╋━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第一部 ┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第二部 ┃ ┃ 一┃ 七九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第三部 ┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┗━━━━┻━━┻━━┻━━━━━┛
【左頁】
┃ ┃ ┏━━━━┳━━┳━━┳━━━━━┓
┃ ┃ ┃第四部 ┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第五部 ┃ ┃ 一┃ 七九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第六部 ┃ ┃ 一┃ 七九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第七部 ┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第八部 ┃ ┃ 一┃ 七九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第九部 ┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第十部 ┃ ┃ 一┃ 七九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第十一部┃ ┃ 一┃ 七九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第十二部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第十三部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃豐橋消防組┃豐橋市壹圓┃第十四部┃ ┃ 一┃ 七九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第十五部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┗━━━━┻━━┻━━┻━━━━━┛
五十五
【右頁】
五十六
┃ ┃ ┏━━━━┳━━┳━━┳━━━━━┓
┃ ┃ ┃第十六部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第十七部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第十八部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第十九部┃ ┃ 一┃ 七九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第二十部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第廿一部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第廿二部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第廿三部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第廿四部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第廿五部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第廿六部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃第廿七部┃ ┃ 一┃ 三九┃
┃ ┃ ┗━━━━┻━━┻━━┻━━━━━┛
【左頁】
┃ ┃ ┏━━━━┳━━┳━━┳━━━━━┓
┃ ┃ ┃第廿八部┃ ┃ 一┃ 七九┃
┃ ┃ ┣━━━━╋━━╋━━╋━━━━━┫
┃ ┃ ┃計 ┃ 一┃二八┃一、四五二┃
┗━━━━━┻━━━━━┻━━━━┻━━┻━━┻━━━━━┛
ミ 諸官衙公署及事務所
┏━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓
┃種別 ┃所在地 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃歩兵第十七旅團司令部 ┃東八 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃歩兵第十八聯隊 ┃中八、西八、關屋、┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃工兵第十五大隊 ┃向山 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋聯隊區司令部 ┃東八 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋憲兵分隊 ┃西八 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋衛戍病院八町分院 ┃歩兵第十八聯隊内 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋區裁判所 ┃中八 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋警察署 ┃中八 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┛
五十七
【右頁】
五十八
┏━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓
┃豐橋稅務署 ┃中八 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋郵便局 ┃札木 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃萱町郵便局 ┃萱 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃下町郵便局 ┃下 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃渥美郡役所 ┃西八 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋市役所 ┃中八 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃執達吏岡本逸 役場 ┃中八 ┃
┃ 片岡銀次郎 ┃ ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃公証人山田正勝役場 ┃中八 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋停車場 ┃花田 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃吉田驛停車場 ┃花田 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃臨時陸軍建築名古屋支部 ┃歩兵第十八聯隊内 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃愛知懸第二蠶病豫防事務所 ┃花田 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┛
【左頁】
┏━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓
┃見付專賣支局豐橋支所 ┃花田 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋商業會議所 ┃西八 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃縣立豐橋驅楳院 ┃松葉 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃市立傳染病院 ┃花田 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃豐橋市農會農事試作場 ┃向山 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃三遠玉糸製造同業組合事務所┃指笠 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┫
┃東三生糸製造同業組合事務所┃松葉 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┛
シ 豐橋市附近諸官衙公署名
┏━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━┓
┃種別 ┃所在地 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃第十五師團司令部 ┃渥美郡高師村┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃歩兵第六十聯隊 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃騎兵第四旅團司令部 ┃仝 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━┛
五十九
【左頁】
六十
┏━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━┓
┃仝第十九聯隊 ┃渥美郡高師村┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃仝第廿五聯隊 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃仝第廿六聯隊 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃野砲兵第二十一聯隊 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃輜重兵第十五大隊 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃豊橋衛戍病院 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃豊橋衛戍監獄 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃豊橋憲兵隊本部 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃豊橋陸軍兵器支廠 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃高師村郵便局 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃高師村役場 ┃仝 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━┫
┃豊橋區裁判所高師出張所 ┃仝 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┻━━━━━━┛
【左頁】
ヱ 市職員人名
市長 大口喜六 助役兼掃除 永野武三
監督長
収入役 富田良穗 參事會員 外山芳太郞
參事会員 原田万久 仝 織田淸
仝 富田安市 仝 大野九郞八
仝 小野田米松 第二課長書記 齋藤榮山
兼第一課長
第三課長書記 金子鼎 第四課長仝 佐藤彌平
第五課長仝 兒島温 第六課長掃除監督 新納具壽
兼書記
第七課長 矢野彌次兵衛 第八課長仝 高城與之治
第九課長仝 境田代吉 第十一課長技師 上田拾吉
兼十課長
書記 林麻太郞 書記 林兼吉
仝 中村右喜人 仝 大林豊
仝 森六藏 仝 竹内壽三郞
六十一
【右頁】
六十二
書記 北村信三郞 書記 市川仙太郞
仝 西尾靜吉 仝 佐原代作
掃除巡視兼書記 山内安太郞 書記 佐藤京藏
書記 榎島藤平 仝 加藤榮作
仝 加藤兼三郞 仝 丸地登美治
仝 橋爪敏太郞 技手 影山英二
技手 井上市太郞 仝 豊田末吉
仝 米谷信義 仝 西岡廣
仝 白井橘次 書記補 齋藤勇哉
書記補 松下貢 仝 後藤和吉
仝 山田虎藏 仝 川村梅吉
仝 高橋光太朗 仝 平松彌一郞
掃除書記補 佐口寅三郞 掃除書記補 鈴木壽三郞
巡視兼 巡視兼
【左頁】
書記補 喜代崎市三郞 書記補 猪股充
仝 高橋千人 仝 牛田多喜次郞
仝 富安隆輔 仝 榎嶋惣五郞
仝 加藤田市郞 仝 山根範務
仝 遊佐猶三 仝 後藤宗十郞
仝 小楠儀助 仝 大澤八十吉
仝 丸地愛次郞 仝 細田豹八
仝 竹下金一
市會議長 福谷元次 市會副議長 長坂淺治郞
仝議員 三浦多吉 仝議員 小木曾吉三郞
仝 田中田新 仝 大橋淸一
仝 横田善十郞 仝 平山季人
仝 深井正憲 仝 富田安市
六十三
【右頁】
六十四
市會議員 宮川算造 市會議員 山田七平
仝 岩瀬駒次郞 仝 山本淸三郞
仝 住野三代藏 仝 加藤庄六
仝 榊原辨吉 仝 佐藤善六
仝 花井彦次 仝 伊東米作
仝 中村彌十郞 仝 中村東十
仝 兒島德 仝 加藤常吉
仝 若杉房次郞 仝 鈴木要助
仝 神戸小三郞 仝 白井貞次郞
仝 丸池榮次郞 仝 藤田力作
ヒ 豐橋商業會議所議員人名
會頭 服部彌八 副會頭 原田万久
副會頭 中西廣三郞 議員 高橋小十郞
【左頁】
議員 田中田新 仝 平石丈三郞
仝 黑川莊次郞 仝 杉田八五郞
仝 村田吉藏 仝 中村彌十郞
仝 高須芳三郞 仝 山本平八
仝 白井勝治 仝 森田榮三郞
仝 夏目駒藏 仝 遠藤安太郞
仝 田中平六 仝 石田坦次
仝 小室德次 仝 佐藤善六
仝 酒井乙七 仝 中野彦助
仝 倉橋源平 仝 加藤常吉
仝 中島多米作 仝 山田七平
仝 白井音次郞 仝 齋藤彌八
仝 神藤虎吉 仝 河合虎三郞
六十五
【右頁】
六十六
特別議員 大口喜六 仝 福谷元次
仝 伊東米作 仝 永井仙十
仝 白井直次
-~~~~~~~~~~-
モ 市内案内(○○○○)
吉田神社 吉田神社は大字關屋にありて歩兵第十八聯隊兵營と相隣り素盞嗚尊を祭
る往時吉田の午頭天王と稱せしは即ち之なり此社創建の月日詳ならずと雖も鎌倉覇府
の初石田次郞爲久と云ふ者來りて鎌倉の相馬天王を勸請したるに初まれりと傳へ又賴
朝の臣安達盛長の三河を守護するや社殿を造營し社領を寄附せりと云ふ後今川氏親の
臣牧野古白今橋城を築くに方り此社を崇敬して鎭守とし今川義元亦た神輿を奉納し社
殿の棟札には大擅那今川義元と記せるものあり今の社頭は松平信祝之を造營し石華表
は松平資訓の建設せしものにして天保六年十月廿四日正一位の宣下あり此社天文十六
年祭式の再興ありてより例年六月十三、四、五、を以て祭儀を行ひ十三、四日は煙火あ
【左頁】
り昔時は藩主より令して東海道の往來を止め市中に於て盛に煙火を催せしものにして
所謂吉田の花火之なり今尚其餘風を存す又十五日は神輿の渡御あり賴朝及其傳母と稱
するもの二騎外に從者十二騎出でゝ之に從ひ又た饅頭食ひと稱する武者一騎あり笹踊
と稱するは錦繡を纒ひ三人相角逐して踊る其風鎌倉時代の田樂に由來せるものと覺ゆ
明治四十一年以來祭日を陽歷七月十五日に改む鄕社に屬す
神明社 大字東田にあり此邊の地は古來薑の鄕と稱し太神宮の神領地に屬せり鄕
社にして社域千百八十餘坪あり森林蓊鬱として頗る森嚴なり鄕社に列す
神明社 大字中八にあり元城内に鎭座せしが歩兵第十八聯隊の此地に置かるゝに
方り其練兵場敷地に相當し今の處に遷座せり天照太神を祭り社域六百九十餘坪を有す
明應六年の棟札に飽海新神戸とあり又慶長八年德川幕府より社領三十石を寄附せらる
每年二月十四、五日を以て例祭を行ひ神輿の渡御に天狗の面を被れる武者赤鬼を追ふ
の事あり鬼祭と稱するは即ち之なり
八幡社 は大字中八にあり神明社と相接す社域三百餘坪あり舊來城内にありて其
六十七
【右頁】
六十八
附近を八幡町又た八幡小路等と稱せしが十八聯隊練兵場の設定に方り神明社と共に今
の處に遷座す祭神は仲哀應神二帝及神功皇后なり每年九月十日を以て例祭を行ふ
神明社 大字湊にあり創立頗る古く永祿四年今川氏眞社領を寄附し慶安二年八月
朱印十石を寄附せらる境域千百四十餘坪あり市杵島姫社初め末社十五座あり境内の園
池は寛文の頃茶道宗偏流の祖山田宗偏が設計せし處にして雅趣に富み蓮花の候は笻を
曳くもの極めて多し
神明社 大字紺屋にあり俗に之を野口の神明社と稱す天正年中の創建なり社域三
百餘坪
白山社 大字新錢にあり近來社殿を改造して壯觀を盡せり社域三百四十餘坪伊弉
冊尊を祭る每年七月十八日を以て例祭とし其花祭と稱するものは舊來頗る著名なり
八幡社 大字花田字羽田にあり創立極めて古く今川義元以來武將の寄附狀あり社
域八百九十餘坪其傍に祠官羽田野氏の宅にあり先代敬雄翁は榮樹と稱し平田篤胤の門
人にして篤學の聞高く庭内に文庫を起し名けて羽田文庫と云ひ圖書一万三百餘卷を藏
【左頁】
せしが近來保存の道を失ひ其散逸を見るに至れるは誠に惜むべきなり
安海熊野社 大字魚にあり伊弉諾尊外八神を合祀す天文廿二年今川義元本社を造營
し社領を寄附す每年七月八日を以て祭式を行ひ社側の舞臺に於て能樂を催す末社五座
あり
豊城神社 大字東八にあり源賴政を祭る正德二年松平伊豆守信祝古河より之を移し
て城内二の丸の地に祀りしが廢藩後舊藩士等藩主に請ひて終に今の處に遷座し每年五
月廿六日を以て例祭を執行す社域貳百餘坪域内に演武場あり
秋葉神社 豊城神社の東に隣りて火產靈神を祭る豊城神社と同じく正德二年を以て
古河より遷座す舊來は城内にありしが明治十八年今の處に遷座す
天神社 大字新錢にあり菅公を祭る社殿の天井に渡邊華山作月中の雁あり今は取
外して重寶とす之に添へたる書狀も亦た共に秘藏せり
鞍掛神社 は大字岩崎にあり森林蓊鬱として年を經ること久し建久元年源賴朝上洛
の途次雲の谷普門寺(今二川町の域内に屬し此處より山脈を超へ程里僅に十餘町の處
六十九
【右頁】
七十
にあり)に詣し此社を拜し鞍を奉納せし處なりと云ふ口碑あり多く傳ふ
悟眞寺 は大字關屋にあり淨土宗に屬し弧峯山と號す其祖善忠上人は嘗て鎌倉光
明寺にあり貞治五年此地に來り地を豊川の沿岸の處に相し一寺を創し名けて淨業院と
云ひ後之を悟眞寺と改む當時此地は今橋と稱し草野の間僅に數戸の農家を見しのみな
りしが永正二年今川氏親の臣牧野古白此地に城くに方り今の處に移轉せしめたり天正
十八年池田輝政此地に來り大に城池を擴むるに方り之を羽田の地に移さんとして敷地
を給せしが其移封に遇ひて之を果さゞりし本堂書院庫裡鐘樓總門中門等輪奐頗る全く
境域千三百四十餘坪ありて西禪院、三昧院、樹松院、龍興院、專稱軒、勢至軒、竹意
軒、法藏院、東高院、善忠院、全宗軒等塔頭甚だ多し此寺は永祿七年以來數々德川家
康の淹留せし處にして明治十一年 聖上東海道御巡行の途行在所となし給へり本堂の
正面に揭ぐる南無阿彌陀佛の扁額は後陽成帝の宸翰にかゝる
龍拈寺 は大字吉屋にあり曹洞宗に屬し吉田山と號す永正中休屋宗官和尚の時今
川氏親の臣牧野古白の寄進により建立したるものなりと云ふ寺域二千六百五十餘坪本
【左頁】
尊は十一面觀世音にして維新前朱印廿五石あり本堂庫裏書院衆寮鐘樓開山堂羅漢堂惣
門及塔司五ヶ寺等あり頗る壯嚴を極む牧野氏に關する古文書等藏する所のもの亦た少
からず其地當地方諸名士等の墓碑にして存するもの頗る多し
豐橋別院 大字花園にあり眞宗大谷派に屬し寛永廿一年本廟第十三世宣如上人の創
建する所にして吉田御坊と稱し西竺山誓念寺と號せしが明治十二年之を豐橋別院と改
む舊來の堂宇は明治四年十月火災を罹り今のものは仝十四年四月の新築なりとす本堂
庫裏鐘樓山門惣門座敷等規摸宏壯なり外に末寺正琳仁長應通淨圓蓮泉の五寺あり何れ
も本堂樓門庫裏經藏等を備へ惣境域千七百餘坪あり
全久院 大字東田字二連木にあり仙壽山と稱し曹洞宗に屬す弘治二年(一に大永
三年に作る)二連木城主戸田宣光(全香と號す)光國禪師を聘して此寺を創立す境内
に戸田氏の碑あり
臨濟寺 は大字東田にあり萬年山と號し臨濟宗東福寺派に屬す正保二年小笠原忠
知の吉田城主となるや其四年舊領豊後杵築より日東玄暘禪師を聘し此寺を飽海に創立
七十一
【右頁】
七十二
せり後其子長矩之を今の處に移す小笠原氏累世の墳墓あり寺域千八百餘坪なるも今は
烏有に歸し僅に中門等を殘せるのみ
神宮寺
大字紺屋にあり天臺宗に屬し白雲山と號し寺域九百三十餘坪本尊は大日
如來にして本堂座敷庫裏鐘樓護摩堂等を存す又境内に舊吉田城主松平資訓の弟捨五郞
の墓あり没年を元文五年八月九日と記す
妙圓寺
は大字淸水にあり日蓮宗に屬す池田輝政の崇敬厚かりし寺にして寺域七
百三十餘坪境内に鬼子母神の堂あり
龍運寺 大字船町にあり淨土宗に屬し慶長六年の創建なるも其後水害又は火災に
遇ひ今の本堂は明治四十一年の再建なり域内に地藏堂觀音堂等あり地藏堂は元祿時代
のものにかゝる
興德寺 は大字上傳馬にあり今橋山と稱し其創立頗る古く舊朱印貳拾石を有せし
が今は殆ど荒廢に皈せり龍拈寺の末寺に屬す
吉田城趾 は今歩兵第十八聯隊兵營のある處なり此城は永正二年今川氏親の臣牧野
【左頁】
古白其子(一に甥に作る)傳藏を輔けて初めて築きし處にして享祿二年德川淸康の爲に
奪はれ後再び今川氏の有に皈し小原鎭實之に居りしが永祿七年再び家康の有する處と
なり之を酒井忠次に賜ふ爾來明治維新に至る迄世々の藩主之に據り明治十七年六月初
めて兵營を設けらる城内の面積凡そ三万七千七百坪を有す
仁連木の城趾 大字東田にあり東西五町餘南北六町餘にして今は大半陸田と水田
とに變ず天文十年戸田宣光の城ける處にして爾來天正十八年戸田氏が德川家康に從ひ
て關東に移封せらるゝ迄根據とせし處なり其間宣光の子重貞欵を家康に通じて吉田城
の主將小原鎭實を攻め後元龜二年武田信玄の圍む處となり又天正三年武田勝賴の侵す
處となる等事歷頗る多し戸田氏移封の後遂に之を荒廢に委せり
豐橋 は豊川に架せる橋梁にして元龜元年(一に三年に作る)酒井忠次が吉田城
主たりし時初めて關屋の地点に土橋を架せしが天正十八年池田輝政の吉田城主となる
に及び城地を擴張し其翌十九年之を大字船町の地に移し板橋となせり今の橋梁は明治
十二年三月の改造にして舊來の地点とは約二町の上流にあり長さ九十七間幅四間にし
七十三
【右頁】
七十四
て橋柱の文字は時の縣令國貞廉平の筆なり
新錢座の跡 寛永十四年八月幕府寛永通寶の鑄造所を水戸、仙臺、吉田、松本、高
田、長門、備前、豊後、中川内膳正領の九ヶ所に設く今其跡を詳にせざるも獨り新錢
町の名は尚其附近に殘れり
時習舘舊跡 は大字西八町にあり舊大手の衝に當り今八町高等小學校のある處なり
同校は目下敎室十八外に雨中躰操室職員室等を有し現在生徒四百五十二名あり時習舘
は舊吉田藩校にして同舘の圖書は其一部今尚ほ同校に存す
歩兵第十七旅團司令部 は歩兵第十八聯隊練兵場の東にあり明治三十年十月初め
て之を設置せらる
歩兵第十八聯隊練兵場 は兵營の東にあり面積凡そ六万三千坪舊來士族屋敷のあ
りたる處にして宮下町、袋町、八幡町、東町、川毛町、土手町と稱せし地を廢して之
を設けり豐川の水流を縦に扣へて眺望絕佳なり
工兵第十五大隊兵營 は大字向山にあり明治四十一年第十五師團設置と共に此地
【左頁】
に置かる
軍人紀念碑 は大字東八歩兵第十八聯隊練兵場の南側にあり神武天皇の御銅像を安
置す高八尺五寸東京の鑄金家岡崎雪聲の鑄る處にして元豐橋町の有志者ら發起となり
豐橋町を初め駿遠三豆其他の醵金により之を建設す側に戰病死者の碑二基あり紀念碑
の篆額は彰仁親王の御筆にして撰文は桂陸軍大將なり明治三十一年五月十日宮内省よ
り特に御銅像建設を許可せられ明治三十五年十月廿七日金百圓を下賜せらる
繭糸市場 は大字札木、本、關屋等にあり近來此地方に於ける養蠶製糸の業は多大の
發展をなし殊に玉糸業者の如きは夙に組合を組織して共同試驗所を設け大に其改良を
圖りつゝあり春夏繭產出時の如きは市場の殷盛なる驚くべきものあり其組合事務所及
繭糸周旋會社幷に工場數の如き旣に記載せるが如し
魚市場 は大字魚にあり此地は古來魚鳥の賣買を以て殷盛を極め明治十二年初め
て株式により魚鳥會社を組織せしが益隆盛の機運に向ひ今は又斯に一會社を增すに至
れり此邊は魚鳥商極めて多し
七十五
【右頁】
豊橋育兒院 は大字松葉にあり稱名院と稱する寺院を以て之に充て目下弧兒四十六
名を収容す本市は之に補助をなしつゝあり
安藤動物園 は豊橋停車場通にあり圓主安藤政次郞自ら之を經營して衆庶の觀覧に
供す虎、熊、鰐魚、大蛇、黑豹等珍種數十を飼養す
遊廓移轉地 は大字東山にあり目下地均し工事中なり新計畵の道路八町線は延長し
て此處に至る
穴居の跡 大字岩崎の山麓には間々穴居の遺跡と稱する處あり其附近には亦石器時
代の遺物を掘出す
軍人保護院 は大字花田字狭間にあり明治三十七年の創立にして寶飯郡下地町聖眼
寺住職今橋尊勝の計營に係り軍人の廢疾不具に陷り自營の途なき者及其家族を救護す
るを以て目的とす、創立日淺く基礎未だ鞏固ならざるも旣に十三家族五十餘人を救護
し益々院務の擴張を圖りつゝあり
【左頁(露光不足) 次コマに翻刻】
【右頁】
豊橋育兒院 は大字松葉にあり稱名院と稱する寺院を以て之に充て目下弧兒四十六
名を収容す本市は之に補助をなしつゝあり
安藤動物園 は豊橋停車場通にあり圓主安藤政次郞自ら之を經營して衆庶の觀覧に
供す虎、熊、鰐魚、大蛇、黑豹等珍種數十を飼養す
遊廓移轉地 は大字東山にあり目下地均し工事中なり新計畵の道路八町線は延長し
て此處に至る
穴居の跡 大字岩崎の山麓には間々穴居の遺跡と稱する處あり其附近には亦石器時
代の遺物を掘出す
軍人保護院 は大字花田字狭間にあり明治三十七年の創立にして寶飯郡下地町聖眼
寺住職今橋尊勝の計營に係り軍人の廢疾不具に陷り自營の途なき者及其家族を救護す
るを以て目的とす、創立日淺く基礎未だ鞏固ならざるも旣に十三家族五十餘人を救護
し益々院務の擴張を圖りつゝあり
【左頁】
《題:市外附近案内》
【左頁】
《題:附錄(○○)》
市外附近案内(○○○○○○)
石卷山 は八名郡石卷村にあり中腹に美和神社を祀る奇岩突兀として勝地たるを
失はず豊橋市を去る一里半
砥鹿神社 は寶飯郡一宮村にあり國幣小社に属す豊川鐵道一宮驛を去る二町許
嵩山正宗寺 は八名郡石卷村嵩山にあり臨濟宗に屬し畵家芦雪の大作を藏す世に有名
なり豐橋市を去る凡そ三里
東觀音寺 は渥美郡二川町大字小松原にあり創立甚だ古く天平時代の佛像を安置す
寶物等見るべきもの多し豊橋を去る凡そ三里
普門寺 は渥美郡二川町字雲の谷にあり僧行基の創立と稱し天平式の佛像及源賴
朝等身の不動尊を安置す建久元年賴朝上洛の途次此寺に詣し淹留せし舊蹟あり二川停
△一
【右頁】
△二
車場より一里餘
妙嚴寺 は寶飯郡豐川町にあり曹洞宗に屬す寺内に陀枳尼尊天を祀る世に豐川稻
荷と稱するは即ち之なり豐橋市吉田驛より豐川鐵道によりて此處に至る豐橋を去る凡
そ二里
三明寺 は寶飯郡豊川町にあり豊川鐵道豐川驛を去る僅に五六町にして境域極め
て幽邃なり辨天の像を祀る三河國主大江定基の崇敬せし處にして寺内の三重塔は特別
保護建築物たり
國府の跡 は寶飯郡國府町の地なりと傳ふ北一里許の處八幡村に惣社及八幡社あり
又國分寺の遺跡を存す御油停車場を去る里許
長篠古戰場 は南設樂郡長篠村にあり天正三年武田勝賴德川家康の將奥平信昌を此城
に圍みしが家康織田信長と來り之を援くるに及び勝賴の敗走せし處なり今尚城址を存
す豊川鐵道大海驛を去る八町許
第十五師團司令部 は渥美郡高師村にあり豐橋市街を去る七町許通稱十三本塚と
【左頁】
稱する高地にあり市街より新道を通じ之に接して歩兵第六十聯隊砲兵第廿一聯隊輜重
兵第十五大隊騎兵第十九聯隊陸軍病院兵器支廠監獄等各種の建築物あり又騎兵第四旅
團も之に隣りて頗る壯觀を極む明治四十一年の新設なり
牟呂新田 は渥美郡牟呂吉田村海岸にあり毛利祥久氏の創築にして今は神野金之助
氏の所有なり總反別壹千九拾六町八反歩にして明治二十六年四月十五日を以て起工し
同三十年四月十五日を以て竣る周圍の築堤は多く人造石を以て之を固む
岩屋山 は渥美郡二川町に屬せる小山にして高師原の一角にあり山上觀音の銅像
を安置す明和二年江戸谷中より寄進せる處なりと云ふ山腹に觀音堂あり二川驛を去る
六七町にして東海道鐵道の北側にあり
△三
【右頁 白紙】
【左頁】
明治四十二年十二月廿七日印刷
明治四十二年十二月卅一日發行
愛知懸豐橋市參事會
名古屋市中區中ノ町三丁目三十二番地
印刷者 東崎作藏
名古屋市中區天王崎町番外三十六
印刷所 《割書:合資|會社》長谷川活版所
【文字なし】
【文字なし】
【文字なし】
【文字なし】
【書誌情報】
【文字なし】
古義真言宗本末帳 第三
【右上に「811 22 41」(上段から)のシールあり。中段の「22」は手書き。】
【左頁右下に紫で、「32 9 13」とあり】
《割書:三・|五 》百二
古義真言宗本末帳 第三
【白紙】
三ノ百二第五棚
伊賀国 伊勢国 志摩国
尾張国 三河国 遠江国
駿河国 伊豆国 甲斐国
古義真言宗本末牒第三
伊賀国古義真言宗本末帳
阿拝郡城下上野山上生院
一仁和寺末 薬師寺《割書:末寺|四宇》
山田郡上友生村信田山金剛寺
薬師寺末大瀧寺《割書:末寺|二宇》
同ぐ郡友生界外村金輪山
大滝寺末 西光寺《割書:末寺|二宇》
山田郡友生界外村
西光寺末 阿弥陀寺
同所
同 東光寺
同郡上友生村
大滝寺末 寶仙寺
同郡愛田村法性山
薬師寺末蓮性寺《割書:末寺|二宇》
阿拝郡小杉村神宮山
蓮性院松 成就院
山田文愛田村
同 遊仙寺
阿拝郡内保村鷲尾山
薬師寺末 安楽寺
同郡東湯舟村梅香山城南院
同 安羪寺
一仁和寺末 阿拝郡城下法爾山戒光寺
安楽院
一同 同郡城下遍遍光山
愛染院《割書:末寺|六宇》
同郡荒木村
寶性院《割書:末寺|一宇》
同郡寺田町
毘沙門寺
同所
大光寺
同郡荒木村
地福寺
同郡千戸村
仏光寺
同郡川東村
春日寺
阿拝郡松植村
神王寺
一大覚寺村末 山田郡平田村
文殊院《割書:末寺|一宇》
同郡鳳凰時寺村
薬師寺
一《割書:高野山|丹生院末》 名張郡大屋戸村
蓮華寺 末寺三宇
内一宇在
大和国
同所
文殊院
同所
大福寺
一同 同郡長瀬村
不動寺《割書:末寺|一宇》
同所
宮坊
一《割書:高野山|安楽院》 伊賀郡北山村
宝珠院《割書:未寺|二宇》
同
喜福寺
伊勢地町
善福寺
同郡滝村
一同 瀧仙寺《割書:末寺|四宇》
上手村
浄瑠璃寺
勝地村
勝福寺
岡波村
光福寺
同郡妙楽寺村
阿弥陀寺
伊賀郡古部村江寄山
一《割書:高野山|普賢寺》 常福寺
同郡羽根村龍地山
安楽寺《割書:末寺|三宇》
名張郡上林村金谷山
持仏寺
伊賀郡川上村岩谷山
大円寺
名張郡八幡村月照山
善福寺
伊賀郡東田原村琳泉山
長楽寺 《割書:末寺|一宇》
名張郡上林村神宮山
医王寺
伊賀郡上村宝珠山
蓮勝寺
伊賀郡上神戸村宝照山
観勝寺
同所
蓮明寺
同郡坒村大寺山
報恩寺
同所高寛山
蓮華寺
同郡上小波田村関伽井山
貴福寺
同郡下小波田村中尾山
宗福寺
伊勢国古義真言宗本末帳
安濃郡津下部田
一仁和寺未 蓮光院
一同 同所
密蔵院《割書:末寺|一宇》
津分部町
不動院
一仁和寺未 庵芸郡大部田村
一乗寺
一同 津入町
明周院
一同 安濃郡納所村
神宮寺
一同 一志郡川口村
真言院
一同 安濃郡津古川村
観音寺
一同 津古川村関町
地蔵院
一同 鈴鹿郡亀山領鶏足山
野登寺《割書:末寺|六宇》
同郡同領坂本村
明願寺
鈴鹿郡原尾村
千蔵寺
同郡上野町
西福寺
同郡川崎村
長善寺
同郡大岡寺村
四王院
同郡平尾村
了雲寺 廃絶
久居八幡別当
一《割書:醍醐|三寶院未》 福寿院
一同 一志郡飯福田村
飯福田寺
同郡小原村
湖草寺
一志郡小原村
薬王寺
同所
長楽寺
松坂百足町
毘沙門寺
飯福田村
宝蔵寺
一志郡後山村
王蔵寺
同所
薬王寺
御朱印百石 安濃郡津蓬萊山
一《割書:醍醐|報恩院未》 大寶院《割書:末寺|十四宇》
同所
不動院《割書:末寺|二宇》
一志郡埀水村
成就時
安濃郡中河原村
地蔵院
同郡津
大願寺《割書:末寺|二宇》
一志郡南家城村
西光寺
同郡城立村
薬師寺
安濃郡津
慧音院《割書:末寺|一宇》
同郡南河路村
大円寺
同郡津
本願院《割書:末寺|六宇》
一志郡藤方村
萬福寺
同郡田野田村
承応寺
同郡佐田村
蓮台寺
安濃郡栗原村
護願寺
同郡片田村
寿正院
同郡観音寺村
観音寺
同郡津
仙王院
同所
知恩院
津伊豫町
圓明寺
津萬町
福満寺
庵芸郡坂部村
仲福寺
同郡久保田村
安羪寺
同郡山田村
千福寺《割書:末寺|二宇》
同郡野崎村
光明寺
同郡黒田村
淨見寺
一志郡一色村
泉福寺《割書:末寺|一宇》
一志郡一色村
真蔵庵
同郡密嶽村
真福院《割書:末寺|二宇》
同郡太郎生村
不動院
同所
常庵寺
川曲郡玉垣村
東安寺
飯高郡松坂金生山弥勒院
一 《割書:醍醐|報恩院未》 善福寺 《割書:末寺|一宇》
同郡高田村
高田寺
同郡松坂愛宕山上福院
一大覚寺末 龍泉寺《割書:末寺|八宇》
飯高郡西岸江村
観音寺
一志郡中道村
養命寺
同郡上野村
圓光寺
同郡算所村
成道寺
同郡島田村
菊水寺
同郡薬王寺村
薬王寺
同所
善福寺
同所
青蓮寺
飯高郡松坂岡寺山如意輪院
一《割書:高野山|蓮華三昧昧院未》 継松寺《割書:末寺|四宇》
同所
寶光院
同郡粥見村
観音寺
一志郡下庄村
長昌寺
同郡小阿坂村
西蔵寺《割書:末寺|一宇》
同所
広徳寺
飯野郡豊原村
一同 五智院
御朱印三十石 河曲郡白子山
一《割書:高野山|遍光院未》 観音寺《割書:末寺|二宇》
庵芸郡塩屋村
福楽寺
鈴鹿郡岩森村
阿弥陀寺
一《割書:高野山行人方|乗智院由緒》《割書:庵芸郡椋本村| 東日寺《割書:末寺|宇》》
同所
千数寺
御朱印六拾石 度会郡田宮寺村
一無本寺 田宮寺《割書:寺中四宇|末寺四宇》
寺中 同 同
東之坊 成願寺 大聖坊
同
中之坊
同郡切原村
田宮寺未 飯盛寺
同郡三橋村
同 龍雲寺
多気郡算所村
正法寺
飯高郡松坂
密蔵院
志摩国古義真言宗本未帳
一《割書:醍醐|三寶院未》 《割書:鳥羽堀上町| 観音院》
尾張国古義真言宗本未帳
愛知郡押切村白山権現別当榑本山
一《割書:高野山|金剛三昧院未》 福満寺
同郡高田村龍王山
一《割書:高野山|弥勒院由緒》 海上寺
同郡大喜村増益山
一同 大喜寺
一《割書:高野山|誓願院由緒》 《割書:愛知郡御器所村医王山| 神宮寺》
一《割書:高野山|西方院由緒》 《割書:葉栗郡嶋村| 遍照院》
一《割書:高野山萱堂|善福院由緒》《割書: 海東郡今村海王山| 観音寺》
一《割書:濃州|清瀧寺未》 《割書:丹波郡二之宮村| 真長寺》
参河国古義真言宗本未帳
御朱印千三百五拾石内百石配当 鳳来寺真言学頭
一高野山未 医王院《割書:寺中|六宇》
御朱印三拾石宛配分
藤本院 月蔵院 日輪院
一乗院 圓琳院 法華院
御朱印七百七十六石
二百九十四俵余餘寺領 加茂郡猿投山白鳳寺寺中十宇
一高野山未 寺中 大智院
一同 同 光明院
一同 同 多聞院
一同 同 覚性院
一同 同 蓮蔵院
一同 同 龍性院《割書:本寺二宇内|一宇在濃州》
加茂郡小原
観音寺
一同 同 普賢院《割書:末寺一宇|在濃州》
一高野山未 白鳳寺之中 王林院
一同 同 龍華院
一同 同 寶樹院
御朱印二十七石餘 額田郡桜井寺村
一同 桜井寺《割書:寺中|五宇》
上之坊 西之坊 中之坊
東泉坊 安楽坊
御朱印百六十一石六斗 寶飯郡財賀村
一《割書:高野山|平等院未》 財賀寺《割書:塔司一宇|未寺一宇》
《割書:同所|塔司》 福泉坊
御朱印百石 渥美郡雲谷村
一《割書:高野山|平等院未》 普門寺《割書:塔司一宇|未寺一宇》
《割書:同所|塔司》 蓮蔵坊
《割書:同所|未寺》 松林寺
御朱印 八名郡多米村
一同 赤岩寺
塔頭下之坊同岸本坊
渥美郡牟呂村
未寺 坂津寺
御朱印二十石 八名郡中宇利村
一《割書:高野山|平等院未》 冨賀寺《割書:塔司|一宇》
中谷坊
御朱印七石 渥美郡田原神戸村
《割書:遠州|摩訶那寺未》 松本寺
遠江国古義真言宗本未帳
御朱印二百十五石寺中配分
浜松鴨江寺寺中十五宇未寺二宇
一《割書:高野山|寶性院未》鴨江寺々中 真言院《割書:未寺|一宇》
御朱印五石 同岡部村
長福寺
一同 同 光明院
一《割書:高野山|寶性院未》鴨江寺々中 西寶院
一同 同 蓮養院
一同 同 妙音院
一同 同 藤木院
一同 同 円満院
一同 同 實蓮院
一同 同 吉祥院
鴨江寺寺中 同 同
實相印 寂養坊 大明坊
鴨江寺々中 同 同
覚悟坊 仁王坊 本密坊《割書:已上六宇|廃絶》
鴨江寺未 愛宕寺
同 快真寺
御朱印弐百石寺中配分
浜松青林山頭陀寺寺中十一宇未寺一宇支配一宇
一《割書:高野山|寶性院未》頭陀寺々中 千午院《割書:末寺一宇|支配一宇》
長上郡本郷村
支配 桜本坊
浜松新町
未寺 庚申堂
一同 同 實相印
一同 同 安羪院
頭陀寺々中
一《割書:高野山|實性院》 円成院
一同 同 蓮光院
一同 同 東光院
一同 ど同 成就院
頭陀寺々中 同 同
寶生院 宝蔵院 永東寺
同
中之院《割書:已上宇|廃絶》
長上郡北嶋村
頭陀寺未 神宮寺
敷智郡入野村
同支配 不動堂
御朱印百石寺中配分
浜松行合龍山龍禅寺寺中十宇《割書:塔頭一宇|支配一宇》
一《割書:高野山|寶性院未》 龍禅寺々中 金光院
一同 同 密蔵院
一同 同 地蔵院
一同 同 理性院
龍禅寺寺中 同 同
圓覚坊 定光坊 一乗坊
同 同
行泉坊 寶聚坊《割書:已上五宇|廃絶》
龍禅寺塔頭 真如庵
浜松荘寺嶋村
龍禅寺支配地蔵堂
御朱印四十五石 浜松中沢
一《割書:高野山|寶性院未》 常楽寺
御朱印拾五石 引佐郡伊谷神宮寺村
一同 正楽寺
御朱印五石 長上郡市野別所村
一同 正福寺
御朱印百五石寺中配分
山名郡法多山尊永寺寺中十二宇《割書:未寺|一宇》
一《割書:高野山|釈迦文殊未》 寺中 正法院《割書:未寺|一宇》
同郡久津部村
光明院
一同 同 一乗院《割書:未寺|一宇》
佐野郡本郷村
西養坊
一《割書:高野山|釈迦文殊未》 法多山寺中 宝蔵院
一同 同 魚動院
一同 同 法幢幢坊
一同 同 圓蔵坊
一同 同 自性院
一同 同 大正院
一同 同 密蔵院
一同 同 法性坊
一《割書:高野山|釈迦文殊未》 法多山寺中 西前院
一同 同 悉地院
法多山未 僧庵
御朱印拾石 城被東郡河村
一同 潮海寺
御朱印弐拾石 榛原郡相良莊西山寺村
一同 西山寺《割書:未寺|四宇》
同郡白羽村
神宮寺
城東郡川上村
谷田寺
榛原郡東萩間村
大日寺
榛原郡白羽村
西山寺未 智積院 廃絶
御朱印五石 同郡横地村
慈現寺
御朱印七石 城東郡佐東谷岩井寺村
一同 岩井寺
同郡高瀬村
常慶寺
同郡高橋村坊ケ谷
長福寺
同郡朝比奈村
大日寺
山名郡方丈村
一同 菅原寺
一《割書:高野山|釈迦文殊未》 《割書:山名郡川井村| 光徳寺》
御朱印七拾石 敷智郡摩訶耶村 塔司四宇内
一《割書:高野山|平等院未》 摩訶耶寺三宇廃絶
未寺一宇
在三河
已下三宇廃絶
東前坊 正覚坊 瀧本坊
泉蔵坊
御朱印七拾石 浜名 塔頭五宇内
一同 大福寺四宇廃絶
未寺二宇
已下四宇廃絶
円融坊 東光坊 瑠璃坊
真羪坊 西明坊
浜名
大福寺未 丸山寺
智郡北原村
大福寺未 福林寺
同郡堀江村
一《割書:高野山|平等院未》 館山寺
同郡平松村
一同 平末寺
御朱印四石五斗 引佐郡気賀村
一同 長楽寺
御朱印八石七斗 豊田郡羽鳥村
一同 大清寺
御朱印六石 引佐郡掾窪村
一同 岩間寺
御朱印四刻八斗 敷智郡大山村王
一同 大山寺
豊田郡中泉村
一同 神宮寺
《割書:高野山|平等院未》 《割書:豊田郡池田善地村| 東昌院》
同郡宮ノ一色村
一同 地蔵寺
一同 同郡大明神村
松光寺
一同 同郡白羽村
夭真寺
御朱印弐拾四石 山名郡篠谷村
一《割書:高野山|理性院未》 岩松寺
御朱印拾三石四斗 佐野郡小夜之中山御殿所
一《割書:高野山|普門院未》 久遠寺
大松坊 大岩坊 南 石院
御朱印四拾弐石 敷智郡浜松大窪村
一同四石八斗山王社領 妙香城寺《割書:寺中|五宇》
玉蔵坊 中道坊 坂本坊
円満坊 杉本坊
御朱印拾三石壱斗 榛原郡下江留村
一《割書:高野山|普門院未》 大満寺
御朱印五石 同郡吉永村
一同 圓永坊《割書:寺中|二宇》
阿弥陀寺 密蔵寺
御朱印十二石五斗 同郡上泉村
一同 観音寺《割書:末寺|一宇》
同所
梅盛庵
豊田郡池田村
一同 西法寺
御朱印拾五石寺中配分 山名郡赤尾山長楽寺寺中二宇
一《割書:高野山|普門院未》寺中 大乗院
一同 同 善養院
榛原郡前玉村
一同 弘誓寺
御朱印三十八石 敷智郡中之郷村鏡光山
一《割書:高野山|無量寿院未》 応賀寺《割書:塔司|一宇》
杉本坊
御朱印四十三石 豊田郡岩水村
一《割書:高野山|遍照光院未》 岩水寺《割書:塔頭|一宇》
安羪坊
駿河国古義しん真言宗本未帳
御朱印百九十石 ふじぐん富士郡六所浅間別当
一《割書:醍醐|報恩院未》 東泉院《割書:供僧三宇|未寺一宇》
供僧 同 同
仙用寺 泉光院 快玄坊
同郡青嶋m
未寺 林祭寺
御朱印百三十六石二斗餘 富士本宮浅間別当
一《割書:高野山|実性院未》 寶幢院《割書:供僧7宇|未寺2宇》
供僧 同 同
清泰院 閼ヶ香伽井坊 乗蓮坊
同 同 同
蓮蔵坊 法泉坊 大圓坊
同
金蔵坊
富士郡本市場村
未寺 薬米寺
同郡大宮
同 大蓮寺
同町
一《割書:高野山|實性院未》 寶積寺
御朱印三石社領配分 益頭郡焼津入江明神別当
一《割書:高野山|無量寿院未》 長福寺
御朱印二十石 志田郡清水村
一《割書:高野山|無量寿院未》 清水寺《割書:寺中|二宇》
地蔵院 龍泉寺
御朱印十一石八斗餘 志田郡田尻村
一《割書:高野山|普門院未》 法楽寺
御朱印九石三斗 同郡土追村
一同 神宮寺
同郡中根村
一同 法源寺
御朱印八石社領配分 同郡八幡村
一《割書:高野山|高室院未》 青山寺
御朱印一石五斗社領配分 同所
一同 大泉坊
御朱印竹木諸役御免 志田郡藤枝木町
一《割書:高野山|高室院未》 鬼岩寺《割書:寺中十二宇|未寺二宇》
寺中
大聖院 福寿院 如意院
地蔵院 梅奥印 宝生院
成就院 観音院 西玉院
蓮池院 祥善院 正蔵院
益頭郡三箇名村
未寺 不動院
志田郡藤枝木町
同 大長院
阿部郡宮中
一《割書:高野山|無量光院未》 定光院
御朱印八石 安部郡北安東村
一《割書:高野山|無量光院未》 泉動院《割書:未寺|一宇》
同郡宮中村
庚申寺
御朱印屋鋪内御免同郡府内
一同 長国寺
同郡宮中
一同 密蔵院
御朱印八石 有渡郡丸子郷
一同 小野寺
御朱印十石 同郡南安東郡
一同 清水寺
同郡水日谷村
一同 福寿院
同郡八幡村
一同 西光寺
御朱印十二石五斗□原郡大内村
一《割書:高野山|無量光院未》 霊山寺《割書:未寺|一宇》
同所
浄土寺
同郡堂庭村
一 《割書:豆州|愛染院未》 蓮華寺《割書:未寺|一宇》
駿東郡石川村
福生寺
同郡一色村
一同 懐善寺
同郡徳倉村
一同 峯苙舊寺
同郡上石田村
一同 寶蔵寺
同郡上日吉村
一同 圓淨寺
駿東郡原村
一《割書:豆州|愛染院未》 大儀寺
同郡柳沢村
一同 広大寺《割書:未寺|一宇》
同郡石川村
長福寺
御朱印二十五石二斗餘同郡鳥谷村
一同 光厳寺《割書:未寺|三宇》
同所
医王寺
同郡大諏訪村
羪善寺
同郡石川村
潮音寺
一《割書:相州金子最明寺未河村岸菅沼村|般若院未》大脇寺
伊豆国古義真言宗本未帳
御朱印三百石 賀茂郡足湯山伊豆権現別当
一《割書:事相本寺醍醐三寶院|教相寺本寺高野山》 般若院 坊中十二宇
見寺八宇内
一宇在相州
坊中 同 同
真乗坊 泉蔵坊 本地坊
同 同 同
福寿坊 圓蔵坊 定蔵坊
坊中 同 同
善満坊 日下坊 岸之坊
同 同 同
行学坊 常心坊 寶蔵坊
賀茂郡伊豆山
未寺 成就坊
同郡川津田中村
未寺 地蔵院《割書:未寺|一宇》
同郡小鍋村
神宮寺
同郡一之瀬村
同 安羪寺
同郡岩殿村
同 岩殿寺
同郡妻良村
同 善福寺
般若院未 同
東福坊 正覚院《割書:已上二宇|廃絶》
御朱印三十石餘 賀茂郡三嶋宮別当
一高野山未
愛染院 脇坊三宇 未寺十七宇
内八宇在駿州
光明坊 金蔵坊 林泉坊
君沢郡三嶋長谷町揚林山竹林寺
未寺 薬師院
同所伝 馬町虎狂山鎭寿院
同 観法寺
同郡川原ケ谷村愛宕山十輪院
同 寶林寺
田方郡長伏村明王山不動院
同 泉福寺
同所那智山清瀧院
同 法覚寺
田方郡三福村引摂山無量院
未寺 長楽寺
同郡大沢村大沢山蓮池院
同 金剛院
賀茂郡下田町大浦山観音院
同 長楽寺
同所乳峯山延命寺
同 寶光院
田方郡北條寺村天守君山金鶴林寺
一《割書:高野山|高室院未》 願成就院《割書:寺中|二宇》
仙量坊 護命坊
君沢郡小坂村東光山
一同 常楽寺
田方郡間宮村音羽山
一同 清水寺
田方郡韮山真如村
一《割書:高野山|高室院未》 華光院《割書:未寺|四宇》
同所
真如院
同所
智光坊
宗光寺村
清正寺
益山
益山寺
賀茂郡伊浜村
一《割書:高野山|高室院未》 普照寺
同郡北湯箇野村
一《割書:高野山|丹生院未》 成就院
甲斐国古義真言宗本未帳
御朱印五石 巨摩郡八日市場m
一《割書:醍醐|報恩院未》 大聖寺
同郡黒桂村清河山
一同 烽寶龍寺
御朱印《割書:九十九石六斗餘寺領|二十七石二斗餘社領》同郡加賀美山
一《割書:高野山|如意寺未》 法善寺 未寺五宇
寺中二十宇内
十二宇廃絶
福寿院 宝蔵院 報恩院
寂如院 浄心坊 実蓮坊
已下廃絶
常寂坊 善光院 普門院
長寿院 福昌院 寶寿院
実光院 正覚坊 覚明坊
能観坊 実相院 常蓮院
善正坊 巨摩郡最勝寺村
御朱印二十六石七斗餘 法善寺未 最勝寺
巨摩郡清水村
御朱印七石二斗餘 法善寺未 八幡寺《割書:脇坊|一宇》
吉祥坊
同郡古市場村
御朱印三石五斗餘 同 不動寺
同鮎沢村
御朱印四石三斗餘 同 西光寺
同郡十日市場村
御朱印二石三斗餘 同 安養寺
同郡北宮地村
同 神宮寺
同郡古市場村
御朱印三貫文 同 真豊院
同郡江原村
同 金剛寺
巨摩軍甘利上条南割村
御朱印七石七斗餘 法善寺未 寶生寺《割書:未寺|三宇》
同所
西法院
同所
海蔵寺
同郡甘利上条中割村
真光寺
同郡中条村
一《割書:高野山|大乗院未》 光臺寺
郡内秋山寺下村
一《割書:高野山|持明院未》 吉祥寺
御朱印二十八石八斗 八代郡市川
一《割書:高野山|金剛頂院未》 薬王寺 未寺二宇
門中六宇内
四宇廃絶
未寺 大真寺
未寺 寶珠院
已下廃絶
西光院 地蔵院 長徳院
吉祥院 文殊院 東善院《割書:已上|門中》
御朱印七石二斗 八代郡市川上野村
一《割書:高野山|金剛頂院未》 光勝寺《割書:未寺三宇|廃絶》
大正院 龍華院 寶積院
八代郡市川大門村
一《割書:高野山|金剛頂院未》 寶寿院
同
一同 寶聚院
同
一 福寿院
八代郡市川大門村
一《割書:高野山|金剛頂未》 華菌院
同所
一同 成蔵院
同所
一同 延寿院
同所
一同 金剛院
同所
一同 蓮光院
同所
一同 薬師院
同所
一同 善福寺
同所
一同 積善院
八代郡市川大門村
一《割書:高野山|金剛頂院未》 金光寺
同郡市川上野村
一同 不動院
同郡高田村
一同 寶幢寺
御朱印九石八斗餘 山梨郡府中愛宕町
一《割書:高野山|金剛三昧院未》 宝蔵院《割書:寺中一宇|未寺二宇》
同所
寺中 法寿院
同郡国玉村
未寺 城福寺
同郡愛宕町
慈心院
巨摩郡古府中大工町
一同 満蔵院
御朱印二石八斗餘 山梨郡山宮村
一《割書:高野山|金剛昧院未》 明王院《割書:末寺三宇|門徒一宇》
巨摩郡榎木原村
未寺 長谷寺
山梨郡温泉村
御朱印四石五斗餘 同 塩沢寺
同郡山宮村
同 神宮寺
門徒 医泉寺
巨摩郡牛句村医王山
一同 正覚院
郡内領秋山村
一《割書:相模国牧野村|蓮乗院未》 寶生寺
同所
真蔵院
郡内領秋山村
一《割書:相模国牧野村|蓮乗院未》 東福寺
同領大捫捫村
一同 不動院
同領八沢村
一同 燈明寺
同領荒倉村
一同 福泉寺
同領鶴嶋村
一《割書:相模国日連村|青蓮寺未》 禅定院
右以天明年間 御改之本令書写之訖
古義真言宗触頭高野山学芦侶
慶応元年乙丑五月 集議中
在番
西室院㊞
同
如意輪寺㊞
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙。左頁左上に「811 41](上段から)のシールあり。】
【篆書で「帝国図書館蔵」とある。書かれているのではなく、凹ませて描かれている】。
【表紙】
【右上】
ホ百六十七
【右上、整理用ラベル】
【ラベル枠内左横書き三段】
X三五五【算用数字】
六【算用数字】
一【算用数字】
【ラベル枠外】
史料館
【表紙外中央下部】
ホ印
百六十七
二册
【左端】
三河国二葉□
【右頁白紙】
【左頁】
【右上角、四角朱印】
□□
□□
【右下角、長方形朱印】
三井家
【本文】
三河國二葉松序
参河国之大體西首東尾南海北嶺中貫三
川西極尾州東抵遠州南限滄海之津湊
北境信州之山岳郡縣邑里無不豊饒疆理
之制則以五城直類州府國中分為八郡曰碧
海曰旙【旙:現行は幡】豆曰額田曰加茂曰設樂曰寳飫【飫:現行は飯】曰八名
曰渥美總之為村千二百七十四箇邑為地髙三十五萬八百八十石餘 賜分諸候【候:侯】大夫旗下之臣数十人誠
神祖龍飛之地如周之岐幽漢之豊沛矣真■【足ヵ】以
【右頁】
當形勢之勝而為萬世不抜之鴻基國家根
本之會成未有過之者也間嘗佐野知堯作三
河國二葉松兩巻具考國中之舊記又便【便:朱記】俗
解而以委於一州之地理矣【矣:朱記】披之則怡然在眼
而如指其掌有垂之後世徴乎一日携来属
余請叙引端乃述鄙言以書于巻端
松泓 小笠原基長叙
【左頁】
二葉松序
項佐野氏知堯作三河國二葉松其
簡帙為兩巻自神社佛寺以至郷
村古城等分其門類略出典故焉精
矣【矣:朱記】眀矣【矣:朱記】是先松泓白雪之両夫子有遺
稿使之敝於敗篋之中以至冺滅者
實可惜之甚也矣故掇取其遺篇之
言繕寫【寫:朱記】乃成編一日携来請序於吾
吾豈加無用之贅言於巻首乎嘉
【右頁】
其用心之勤不獲固辭粗述志之所
之書以塞其責云
元文六年正月十六日渡部竪執
毫於近思齋
【左頁】
参河
松泓子曰男川一名ハ扶土(フト)川《割書:今大平|川ト云》矢矧川《割書:矢作|矢矯》豊川
右ノ川三ツ有ヲ以テ参河ト云トナリ又男川トハ河上ニ山神アリテ
女神男神一所ニハ栖玉ハスタチヘタヽリ住其所ヨリ出ルヲ男神(ヲトコ)
川ト云此神世俗ニハ白鬚明神ト唱ヘ奉ル次ニ豊川トハ一人ノ
盛ナル長者アリ見レハ此河上ニ拪【拪:栖?】人屋サカンナル事廿里也此民
皆富榮ナル故ニ其流ヲ豊河ト云也次ニ矢矯川ハ日本武尊
東征ニ下向シ給シ時夷賊髙石山ニ待奉ル尊聞シ召シ
彼所ニテ矢ヲ多ク作ラセ玉ヒシ故ニ其処ヲ矢作ト云ナリ以上三ツ
巴ノコトシ傳ヘ云巴山ノ三流ヲ■【備ヵ】フト也巴山ハ設楽郡須山ト
加茂郡黒坂トノ間ナリ水別レトモ云又/巴(トモヘ)河トモ云豊川矢作川
【右頁】
細川トモ云又豊川ヲ姉川トモ云大平川ヲ乙河トモ云又大平川ハ
岩石多クシテ河音高シ故ニ音河トモ云トナリ
白雪曰豊川矢作川ハ流レ大ニシテ其所タシカ也男神川ト
ハ今ノ大平川ヲ云ナルヘシ其三ツノ水上ハ国ノ艮ノ方ニ當リ作手保
長者平村の清水ヨリ巴ニ巡リテ流レ出ルトナン往古此邑ニ長
者アリ其名ヲ米福トソ云ケラシ其ヲ長者ガ城トハ云侍ヘル
此処ニ白鳥明神ノ社マシマス又/手洗所(チヤライトコロ)村ト云処ソノカミノ御手(ミタ)
洗(ラシ)ナリシ作手三十六邑ノ産社ノ神ナリ今ハ此社モ寺林村
ト云邑ヘ遷坐セリ考見ルニ矢矯川ノ水上ナレハ日本武尊ヲ
白鳥明神ニ祭レルニヤ又白鬚ヲ白鳥ト訛リ呼シニヤ知ス豊
川ノ水上ハ河合村マテ至リケレト夫ヨリ先ヲ見ス矢作川ノ濫觴ハ
【左頁】
此清水ヨリ東北ヘ流レ菅沼村ヨリ曲(クシ)ケテ西ヘ流レ渡合村ヨリ
南ヘ川筋アリテ矢作ヘ出ル也男神川ハ宮崎ヨリ川上ヲ搜リ
得□【□:サ?】レハヲロ〳〵ニテ覚ヘカタシ又羅山子道春ノ書ル物ニ三河ヲ
周ト云モ彼異國ノ巴川ヲ移ヌ又三河ノ國ハ越ノ南ニ當リタル
國ナリ殊ニ三川在レハ支那ノ周ノ都ニ似タルカ故ニ夕顔庵ノ自作
ニヤ 東照神君ヲ武王ニ准ラヘ書リシト云リ
右兩説按巴ハ正字通曰ク秦ノ郡名即周ノ巴ハ子(シ)國秦 滅(ホロヒテ)蜀置_二
巴郡_一漢因_レ之治_二江州縣_一漢末劉璋改_二泳寧郡_一梁改為_二楚
州_一西魏改テ為_二巴州_一隋ノ初メ改テ為_二渝州_一後復為_二巴郡_一唐ノ初復
為_二渝州_一後改_二南平郡_一宋ノ初メ為_二秦州_一明(ミン)ニ改_二重慶府_一属ス_二 四川道_一又渝州記ニ閬(ラウ)白水【白水:見せ消し】泉【泉:追記】東南ニ流レ三曲如_レ巴字當州モ往(ソ)
【右頁】
昔擬之名_二参河國_一伝云
或老翁曰三河ノ水源ヲ考ニ豊川ハ設楽郡ノ神田山ノ梺ニ
出テ八名郡ノ長篠村ニ合宝飫郡ノ前芝ニテ海ニ入矢作川
ハ其源南ハ保殿ニ出テ北ノ源ハ大多賀ノ山下ニ巡テ黒岩ニ
テ合額田郡ノ西ニ出テ幡豆郡ニテ海ニ入落也男川ヲ扶土(フト)
河トシ大平川トスル説ヲ取ルニ大平川ノ源ハ額田郡北ノ上毛呂ニ
出テ南ハ宮崎ニ出て保母尾井平ニテ合大平橋ヲ流れ上六名(カミムツナ)
ニ合矢作河ニ合流シ海ニ落也或人云大平河ヲ三河ノ中ニ入
ル事信用シカタシ夫水ハ髙源ニ出テ北ヨリ西ヘ流是逆流ト云
ツヘシ我壯歳ヨリ是ヲ疑リ諸人ニ尋問シニ不決之然ニ或修行僧ノ曰ケルハ三ツノ河ノ中ニ男(ヲト)川トハ男(トハ)川ノ事ニテ其源加茂
【左頁】
郡ノ挙母梅ヶ坪ノ上 四郷(シゴ)花ノ木ノ邉ヨリ出テ一流ハ花園ノ
上竹村ノ邉ヨリ流レ出テ二流池鯉鮒ノ上駒場辺ニテ合
池鯉鮒ト今岡ノ間ニテ東海路【路:見せ消し】道【道:追記】ヲ横ニ南ヘ流レ小山、髙津波、川、【川、:見せ消し】熊村、苅谷ノ西ヲ流レ碧海ノ海ニ入ル【ル:追記】考ニ豊川ト矢矧ハ順
流ナルニ大平河ノ横ニ逆流ヲ並ヘカソヘテ三河トハ云難シ後考
ヲ待ト云再ヒ按スルニ国名、風土記ニ三ツノ河アルニ因テ國ノ名トス
ルト云ヘハ下流短キ逆流ニテハ一國ニ並ヘカタカルヘシ當國ノ形容
東ノ端ニ豊川アリ中ニ矢矯川アリ西ニ男(トヽ)川アリテ三流ヲ衽トシ
經(タテ)トスヘシ矢作第一ノ長流豊川次_レ之男(トヽ)川次之河流ノ
左右神社多ク照臨アリテ諸民永久ニ神恩ヲ蒙リテ安
泰也川ノ字 人(ケン)从(カハイ)衆流長脉ノ狀也異國ニテ伊、河、洛、ヲ
【右頁】
三川ト云フ【フ:追記】サレトモ他國ノ川ヲ合テ三河トス而ルニ我三河ノ國ノ名東
西中ニ一川ツヽ國ヲ貫キ流レテ草木五穀ヲ湿ス凡ソ豊川ト号
ル上ニ演ル如ク古ヘ河上ニ富貴ノ長者アリテ子孫營昌因
_レ茲豊川ト名クト也矢作川ハ日本武尊東征ヨリ事起レリ
或説ニトヽ川元来アト川也大己貴命諸国ヲ巡リ賜フ時
御足ノ迹于今諸州ニアリ御足ノアト池鯉鮒ノ野ニ在ト云菅
ノ清公ノ記ニ足跡ヲトヽト訓ス彼是引考ルニ池鯉鮒ノ
宿ノ西ニ流ル川ヲ男川ト云ナルヘシ
按東限_二東海路髙師山_一西限_二今岡邑堺川_一 十四里半
而為_二西東_一焉積_二 六町一里_一則八十七里
南限_二海邉伊良湖崎_一北限_二山中津具邑堺_一 三十一里而
【左頁】
為南北焉積_二 六町一里_一則百八十六里
風土記曰名海三箇所浦八箇所湊六箇所泉
五箇所岡九箇所名山十四箇所墳墓十六箇
所淵八箇所宮祠二十六座寺院四十八箇所
貢物風土記曰柏樟杉櫻橘橙葡萄檜柳松竹
梅楊-梅桑麻絹栗柿香柚茗茸奴-名-菜【菜:葉カと追記】綿(メン)
漓(リ)海-鹽砥-石鉄-砂硯-石印-石水-晶粒-貝怪-石數
品兒-海-藻鹿狐狼猪革膽鶴鴎鷺雉/鳰(ニホ)狐-革
海河鮮魚鯉鮒鮎/鮠(ハヱ)
延喜式貢薬二十一種甘-遂獨-活薺苨桔-梗白-木
五-加厚-朴木-解松-脂地-楡黄-蓍茯-苓薯-蕷桃-仁
【右頁】
蜀―椒支―子麥―門―冬升―麻―子柏―子―仁桑―螵―蛸白―彊―蠶
源順倭名鈔曰
参河國 国府在寳飫郡 行程上十一日下六日
管八 《割書:田六千八百廿町七反三百十七【七:見せ消し】歩|正公為【為:見せ消し】各【各:追記】二十万束》
本稲四十七万七千束
雜稲七万七千束
【本文上部に追記】
正公ト云ハ
正税 公廨(クカイ)也
【本文下部に追記】
令義解云段地獲稲五
十束
束稲舂得米五升
以三百六十歩為一段
碧海郡 阿乎美
智立【池鯉鮒今:追記】 菜女 刑部 依網 与佐美
鷲取 《割書:和之|止利》 谷部 大市 《割書:於保|以知》 碧海 阿乎美
【左頁】
樻禮 呰見 河内 櫻井
小川 大岡 薢野 驛家
【本文上部に追記】
小川流布本ニナシ
活字本ニアリ
小河トアリ
額田郡 奴加太
新城【仁木今:追記】 鴨田【今モアリ:追記】 位【伊今:追記】賀 額田
麻津 六石【石:見せ消し】各【各:追記】【今モアリ:追記】 大野 驛家
【本文上部に追記】
石字決而誤也
加茂郡
賀茂 仙陁【千田(センタ)今:追記】 伊保【射穂神社アリ:追記】【今モアリ:追記】 挙母 《割書:古呂|毛》【今モアリ或用衣字:追記】
髙橋 《割書:多加|波之》 山田 賀祢【祢:見せ消し】弥【弥:追記】 信茂(シモ)
幡豆郡
【右頁】
能束【能束:見せ消し】【熊来ノ誤字也:追記】 八田 也多 意太 礒伯【伯:見せ消し】泊【泊:追記】 《割書:之波|止》
大川 《割書:於保|加八》 大殯【殯:見せ消し】濱【濱:追記】【今モアリ:追記】 新嶋 修家
【本文上部に追記】
今有熊子村久麻久神社
又能登国ニ熊来アリ
寳飯【飯:見せ消し】【今如■:追記】郡 《割書:穂|府》
形原 《割書:加多乃|波良》【今アリ:追記】 赤孫 《割書:安加|比古》【赤日子神社:追記】 美羪 《割書:美|也》
御津【津:追記】 《割書:美|都》【御津神社アリ:追記】 宮道 《割書:美也|知》 望理 賀茂
度津 《割書:和多【多:追記】|無都》 篠束 《割書:之乃|都加》 宮島 《割書:美也|之末》
雀部 《割書:散々|倍》 驛家
【本文上部に追記】
飯宜作飫
飫【飫:見せ消し】与於【於:見せ消し】同韻
度津見ユ文■【徳ヵ】実録
八名郡 也奈
多木【タ 米(メ):追記】【今アリ:追記】 美和 八名《割書:也|奈》 養父 也布
【左頁】
和太 服部《割書:波止|利》 美夫
渥美郡 阿豆美
幡太 和太【太:見せ消し】【知欤:追記】 渥美《割書:安久|美》 髙芦《割書:多加|之》【阿志神社:追記】 礒部《割書:以曽|倍》 大壁《割書:於保|加倍》
宝
設楽郡 志太良
賀茂 設樂《割書:之多|良》 黒瀬 多原
【本文上部に追記】
延喜三年八月
十三日宝飫郡
ヲ割テ設楽
郡ヲ置レリ
【右頁】
参河國八郡當代髙三十五万八百八十石五升八合
碧海郡髙七万八千七十石三斗三升八合
播豆郡髙四万八千六十八石二升七合
加茂郡髙五万九百八石九斗三升七合
額田郡髙四万三千九十四石九斗六升三合
寳飫郡髙五万二千二百六十石六斗六升七合
八名郡髙壹万八千六百九十石三斗八升三合
渥美郡髙四万六百七十四石八升七合
【頁末に付箋を貼り付け】
【付箋中の文】
此八郡高集則三拾五万二千【以下見えず。全文は次のコマに掲載】
【左頁】
碧海郡郷村
大濱《割書:志貴莊|湊》 棚尾 礒【圖ニ△《割書:平七新□|伏見屋は》:追記】 鷲塚 湊 米津(ヨネキヅ)
藤井 三木(ミツキ) 或三次 木戸 【下ノ:追記】中嶋
髙畑 中島郷 小薗 上同 在家 和田 下上
野畑 井内 宮地 法性寺【○ニ各圖入額田郡:追記】
牧御堂 土井 福桶 青野 上下
赤澁 中ノ郷 合観木 或械木 髙落【《割書:圖ニハ入幡豆郡|川上川□》:追記】
【川西:追記】河島【《割書:圖|△大丁アリ》:追記】 小川 寺領 野寺
中根 城ヶ入 東端 西端
【本文上部に追記】
西南限ヨリ始ル
【以下九十度転倒】
中島北辺
先國ー正名―中村ー國正 以上四名見圖
是浦辺郷ノ内也
【付箋中の文全文が掲載されている以外、内容はコマ十に同じ】
【付箋中の文】
此八郡高集則三拾五万二千八百三十二石五升八合
トナル各郡誤有欤
【付箋以外の部分を掲載、内容はコマ十に同じ】
【右頁】
髙鳥 髙濱 礒 吉濱 小垣江(オカキヱ) 礒
本苅谷 礒 熊村 同 髙津河【河:見せ消し】波【波:追記】 同 小山 同【是より又川西へ:追記】
泉田 今岡 道中 駒場 西境 東境
井ゲ谷【終西北:追記】 ○【○:追記】一色 ○【○:追記】莇生(アザブ) 南北 ○【○:追記】黒篠
○【○:追記】浮谷(ウキガヒ) 【東北ノ方ヨリ始:追記】大林 渡苅(トカリ) 【上ノ:追記】中島
中切 川端 宗定 北野
森越【越の右脇に腰■と追記】 橋目 小針 柿崎
宇頭(ウトウ) 道中 別所 東西 別郷 立出(タテダシ)
新堀(ニイホリ) 尾島【島:見せ消し】崎【崎:追記】 道中 上條 遍【遍:見せ消し】舳越【舳越:追記】越(ヘコシ) 或舳越
【本文上部に追記】
○四 圖ニハ
入加茂郡
非也
【左頁】
中薗 矢作 道中 渡村 上下 牧内 東西
佐崎 或佐々木 小川【小川:見せ消し】【《割書:前ニ有リ|重出ナリ》:追記】 村髙 島村
河野 櫻井 坂戸 古井
堀ノ内【ヨリ西へ■■■:追記】 泉村 榎前 髙棚【福釜(フカマ)下ニ■ハ非也:追記】
野田 重原(シギハラ) 或鴫原 築地 一ツ木
八橋 池鯉𩸅【鮒】《割書:或知立|道中》 東堺【東堺:見せ消し】【《割書:前ニ有リ|重出》:追記】
○【○:追記】明知(ミヤウチ) ○【○:追記】三吉 ○【○:追記】打越 ○【○:追記】本地
○【○:追記】宮口 ○【○:追記】土橋 【東北ヨリ始:追記】鴛鴨 或押鴨 灰
津 又配津
阿弥陀堂 國江 上野 上下 馬場
【本文上部に追記】
○六 圖ニハ
入加茂郡
【右頁】
粟(アハ)寺 大友 東西 本郷 東西 富永
筒針 桒子 平田庄 為【為:見せ消し】薦【薦:追記】生(コモフ) 池ノ端
安城《割書:或安條又|安祥》 大岡 髙木 ○【○:追記】中塚
林松寺 或隣松 ○【○:追記】中村 ○【○:追記】小牧 赤松
福釜【福釜:見せ消し】 半城土(ハジヤウド)【《割書:圖ニ|△長崎アリ》:追記】 三ノ輪 蓑輪 篠【右脇に笹の追記】目
山崎 矢【矢:見せ消し】八(ヤツ)□ニ也【八(ヤツ)□ニ也:追記】田 苅谷 湊 牛田 道中
来迎寺【《割書:圖|△八橋アリ》:追記】 今村 道中 里村 花薗
若林【《割書:圖|△乙尾アリ》:追記】 竹村 【□北方:追記】 家原 大福寺
【左頁】
播豆郡郷村
須【右脇に洲の追記】﨑 礒 小見行【行:見せ消し】新【新:追記】 上同 寺部 上同 掛【右脇に欠の追記】村【念石原此辺欤:追記】
門【門:見せ消し】門【門:追記】内 西戸【戸の右脇に東の追記】城 羽角(ハスミ)【羽角(ハスミ):見せ消し】 中川
中村 八幡 小野谷(ヲイカヒ) ○貝津
桒畑 上畑 森村 礒 彦田
谷(ヤ)村 山口 西東 鹿(□□)川 逆(サカサ)川
桐【右脇に切の追記】山 六栗 野場 野崎
南永【永の右脇に長の追記】【西北川□:追記】 ○【朱丸】淺井 小島 髙河原【髙河原:見せ消し】一【一:追記】
江原 脇村 大和田 貝吹(カイフク)【或貝福:追記】
【羽角(ハスミ)《割書:四|五》:追記】
【本文上部に追記】
東南限ヨリ始
北長井ハ
額田郡也
【右頁】
永良《割書:上下|》《割書:尾花|米野》 駒場《割書:六|》 室村《割書:上中下|》 家(ヱ)武(竹)《割書:七|》
平原《割書:八|》 米野 岡島《割書:二|》 須(嵩)美(ミ)《割書:九|》
宮迫(ミヤバサマ)《割書:十|》 戸羽《割書:い|》 宮﨑《割書:ろ 礒》 作ノ島《割書:海島也》
乙川《割書:は 礒|》 饗庭(アイバ)《割書:に 上同》 小山田《割書:ほ|》 酒井《割書:へ|》
中野《割書:と|》 小薄(コスキ)《割書:友国|ノ内》【■ニナシ:左脇に追記】 友國《割書:ち|》 角平(ツノヒラ)《割書:或 津(ツ)ノ枚(ヒラ)|》
駮馬(マタラメ)《割書:十一|》 東城(條)《割書:十二|》 瀬戸《割書:十二|》 善明(ゼンメフ)《割書:十四|》
寺島《割書:十五|》 小牧《割書:十六|》 木田《割書:十七|》 岡山《割書:十八|》
花藏寺《割書:十九|》《割書:上中下|室村》横須加 富田 荻(ヲキ)原
吉田 △ 大束(塚) 野田 對籠(ツイ米)《割書:又對込|》
【本文上部に追記】
圖ニ△松木島アリ
【左頁】
中田 篠(笹)曽根 善(前後)湖《割書:圖|△熊野新子》 横根(ヨコテ)《割書:手|》
天竹 鎌(釜)谷(ヤ) 小燒野 細池
鵜ケ池 十郎島 平口 須(洲)脇
齋藤 野ノ宮 市子 鉢(八)ケ尻《割書:圖|△心齋新子》
赤羽(曽)根《割書:礒|》 池 頭(カシラ) 一色《割書:礒|》 味濱《割書:上同|》
平島《割書:上同|》△ 下新井《割書:上同|》 道目記(ダ?メキ) 贄池(ニエイケ)
川口 今川《割書:下上|》 矢田《割書:古八田|下上》 寄近(ヨリチカ)
丁田(テウダ) 徳 次(ツキ) 深池 矢曽根
長(永)縄 菱池 行用(キヤウヤウ) 針曽根
【本文上部に追記】
■ニモ赤羽根ト
アレトモ
古城古塚ノ部赤ソネトアリ
圖ニ
△大土アリ
【右頁】
新在家 住崎 國森 羽塚
徳永 苅宿《割書:礒》 巨海(コミ)《割書:上同》 寺津《割書:上同》
楠(クス) 《割書:礒》 平坂(ヘイサカ)《割書:湊》 田ノ貫《割書:礒》 中 畑(ハタ)《割書:上同》
法(ホウ)光寺 小間(ヲマ)《割書:礒》 下町(シモマチ) 上町
道 興(光)寺 戸ヶ崎 中野 志 古(子)屋
八面(ヤツオモテ)《割書:谷表》 熊子 寄住 味﨑
西尾《割書:或西條》
加茂郡郷村
【左頁】
挙母《割書:髙橋荘|或衣》 今村 山室《割書:東西アリ|東村ハ川東ニアリ》下市塲
兼(金)谷 下(シモ)林 長興寺 梅ヶ坪
新(荒)井 花本 越戸 御舩
枝下(シタリ) 四郷 亀頸(カメクビ首) 伊保《割書:上下》《割書:又|伊保堂村アリ》
○中條《割書:上下|》 殿貝津 田 茂見(籾) 笹原
大畑 矢(八)草 廣見 落(乙)部
本住《割書:圖作本德|可考》 舞木 賀(加)納 猿投(サナゲ)《割書:古狹投|》
中山 田茂平 廣瀬《割書:東西|》 富田
押澤 深見 迥(ハサマ)村 一色
迫
【右頁】
折平 北曽根【根の右脇に圖木の追記】 石飛 飯野
松(マツガ)嶺【嶺の右脇に峯(ネ)の追記】 藤澤 川口 下上 五箇【五箇:見せ消し】【《割書:川西ニテ北東ノ方|川端也》:追記】
乙ケ(ヲツガ)林 御【右脇に箕の追記】 作(ツクリ) 木瀬 ○平畑
○平岩 市野【野:見せ消し】場【場:追記】 ○築平 渡合
○石平【平:見せ消し】【《割書:圖北曽木ノ北ニ|石疊村是カ》:追記】 三ケ村 白川 大岩
大平 寺平 喜作【作:見せ消し】佐【佐:追記】(キサ)平 篠(サヽ)平
手洗 荷掛(ニカケ) 大洞 三ツ久保
大草 ○小原 萩平 大坂
鍛冶屋敷 杏【左脇に李の追記】(スモヽ)村 道【左脇に百の追記】月(ドウツキ) 市場
【本文上部に追記】
古城部ニ
古墳部ニ
小原に市場村トアリ
小原に大草村
【左頁】
澤田 田代 北村 遊屋
河【右脇に川の追記】下【《割書:□平|□俣》:追記】 永太郎 前洞 大小沢連(ヲホ《割書:ガ|ケ》ゾウレ)
雜色【色の右脇に布の追記】 仁木 柏ケ洞 川見(カハミ)
林見【林見:見せ消し】 宮代 松下【下:見せ消し】【下の右脇に名圖の追記】 大蔵
日面 丹波 細田 大野
露雨(ツイザメ) 小村(コムレ) 市場【場:見せ消し】【場の右脇に野の追記】 赤羽(アカハネ) 根
苅萱【萱:見せ消し】【萱の右脇に第圖の追記】【岩下:追記】 篠戸 安間 市平
池島 ○辻平 明賀 ○和地平
【本文上部に追記】
圖
川見アリテ
林見ハ誤入
ナルヘシ
岩下村以上
大河ノ西也
【右頁】
大河原 國付 力石 平井
寺部 澁川 森(モリ)村 御舘(ミタチ)
牛野(ゴノ) 山室【《割書:東西アリ|西村ハ川西ニアリ》《割書:上ニ栽|》:追記】 大見 渡合(ドアヒ)
岩倉 中垣内 中村 宮石
川向 南北 瀧脇 小沼【大沼ハ下ニ出:追記】 遊平
切二木(キフタギ) 長嶺 田代 上下 花薗
折地 蘭(アラヽキ)村 東西 黒坂 小松野 作手保
和合(ワカウ) 上同 大 桒(クハ) 上同 神【左脇に上□の追記】殿(カントノ) 上同 羽布 上同
吉平 上同 宇連野 上同 保殿 上同 阿藏上同
【左頁】
梨野 上同 箕打【箕打の右脇に三内□の追記】沢連(ミウチゾーレ) 上同 ○蕨島 上同 ○金(コン)沢連 上同
努【右脇に奴の追記】田沢 上同 川面 上同 上八木(ウバヤギ) 上同 大多賀 上同
五反田 ○足利 蓮【右脇に連の追記】ケ谷 富永
田津沢【沢:見せ消し】原【原:追記】 見喜谷【見喜谷:見せ消し】【綿名:追記】 小瀧野【野:見せ消し】 上同 小田木
万町 明川 深重【深重:見せ消し】【源十:追記】 九 澤(ザウ)
白石 澤尻 菊田 髙能
萩平 小嶺 椿村 中金
野口【野口:見せ消し】【下ニ□:追記】 成合(ナライ) 寺屋氣(ジヤゲ)【左脇に寺谷下の追記】 □【□:見せ消し】手【手:追記】呂(テロ)
市木 上野【野:見せ消し】之【之:追記】山 飛泉 前【前:見せ消し】赤【赤:追記】原
【右頁】
小瀬間 南北 六木 西野 九久平
圎河《割書:中垣内村【上ニ出:追記】|ノ内》 桂野 下河内 林𣷹
大給(オホギウ) 松平 七賣 羽明(ハアス)
○長坂 日明(ヒアカリ) 満瀬【満瀬の左脇に柵の追記】沢(マセノサハ) 大沼
梶村 作手保 芦子 上同 荻島 上同 大林 上同
髙野 上同 野原 上同 大見 上同 綾渡 上同
大藏連 上同 □【□:見せ消し】椿【椿:追記】立 上同 足【足:見せ消し】芦【芦:追記】原 上同 平沢 上同【上同:見せ消し】
早田 小畑 草下部【草下部:見せ消し】日下【日下:追記】《割書:見喜|谷》 坪崎
槙木 髙藏 岡村 奈平
【左頁】
○□田沢 伯母(ヲハ)沢 太田 大垣外【外:見せ消し】内【内:追記】
月畑 能見 万根 大坪
御藏(ヲソウ) 則定 小町 ○猿平
實栗 摺村 九折(ツヽラヲリ【ヲリ:見せ消し】)【左脇に葛村の追記】 室林
小向見(コムカミ) 千鳥 小呂 ○下田□【□:切?】
池田 岩瀧 酒呑(シヤチノミ) 重田和(シケタハ)
林【林:見せ消し】曲【曲:追記】村 月原(グハチハラ) 苗【苗:見せ消し】鍋□【鍋□:追記】田 寄【寄:見せ消し】歌【歌:追記】石
大田 ○大原 宮口 正作
笹平 眞垣内(マナカイト) 廣利【廣利:見せ消し】平折【平折:追記】 小田
【右頁】
四松 戸【右脇に土の追記】中 川田【田:見せ消し】端【端:追記】 □【□:見せ消し】橡(トチ)【橡(トチ):追記】立【(タチ):追記】 作手
立岩 作手 平瀬 作手 黒岩 作手 平澤(ヒラサハ) 作手
九折【九折:見せ
消し】葛(ツヽラ)【葛(ツヽラ):追記】澤 作手 山中立 山蕨 淺谷(アサガヒ)
室平 牛野【牛野:見せ消し】【下ニ出:追記】 一ケ瀬 上垣内
千田 古仙陀 細田 内母【内母:見せ消し】 伊能《割書:下上|見喜谷》
押手 見喜谷 仁井寺 上同 小沢 上同 小田 上同
鳥巣 上同 菅曲【曲:見せ消し】田【田:追記】輪 上同 □【□:切?】山 上同 内鹽《割書:西東|上同》
中立山【山:見せ消し】 山路 野口 山中
上瀧【瀧:見せ消し】鷹【鷹:追記】見【左脇に下鷹見の追記】 矢並 霧(キリ)山【左脇に□【□:切?】□の追記】 白瀬
【左頁】
大楠 ○梁山 曽谷立【右脇に提立(ソダチ)の追記】 椿立【立:見せ消し】木【木:追記】
大津 二口 二【二:見せ消し】仁【仁:追記】王 具【具:見せ消し】貝(カイ)【貝(カイ):追記】子【(ゴ):追記】【□ニハ國閑(カイゴ)トアリ:追記】
桒平【平:見せ消し】原【原:追記】 板【板:見せ消し】橡【橡:追記】【左脇に(トチ)の追記】本 山中 國谷【(クニヤ):追記】 上中下
岩神【神:見せ消し】上【上:追記】 平瀬【平瀬:見せ消し】【上ニ出:追記】 宇殿【右脇に有銅村是□の追記】 足口
陳畠【陳畠:見せ消し】漆畑【漆畑:追記】 澤【澤:見せ消し】巢【巢:追記】田 □桒田輪 大井
玉ケ瀬 長【長:見せ消し】永【永:追記】野 八桒 久 木(コ)
小手沢 中山 大藏 □【□:見せ消し】橡【橡:追記】沢
中畠【畠:見せ消し】□【□:切?】【 □【□:切?】:追記】 手【手:見せ消し】田【田:追記】振 大島 上左□【□:切?】
下左□【□:切?】 所 石【(イシ):追記】 下屋敷 杉木
【右頁】
上脇 大野 澤堂 籠林
安實郷【郷:見せ消し】京【京:追記】 今朝平 牛【牛:見せ消し】千【千:追記】野 須郷【須郷:見せ消し】菅合【菅合:追記】
安代【(アシロ):追記】 大池沢 深田 廣見
井ノ上【上:見せ消し】口【口:追記】 田代【田代:見せ消し】 近岡 寺澤
鹽【鹽:見せ消し】垣ノ【垣ノ:追記】沢 大塚 越田輪 林間
婦香利【婦香利:見せ消し】深折【深折:追記】 中ノ【ノ:追記】御所 足助【(アスケ):追記】
【追記】
《割書:岩谷|下平》両村四松村ノ南也中村大鈴村ノ西也、白倉村正作村ノ北也茅原村松平村ノ北也
二本木村六木村ノ南也
額田郡郷村
岡崎 八町 日名 大門 上下
【左頁】
上之里 岩津 仁木 古新城 細川
桒原 奥殿 丹坂 惠【右脇に江の追記】田
□山田 八木 礒部 藏前 東西
藪田 大樹寺 鴨田 井ノ口
百々(ドウ〳゛〵) 阿知和 東西 眞福寺 駒立
大加屋【加屋の右脇に谷の追記】 日影 渡津《割書:□ニ|渡通津下》 柳村
須山 西南 蕪木(カブラキ) 外山 保久(ホツキウ)
一色 新井【井の右脇に居の追記】 中 法久(ホウキウ) 小丸
安戸 米(ヨナ)河内 瀧村 能見(ノミ)
【右頁】
伊賀 古位賀 伊【右脇に井の追記】田 稲熊 大井野
藏並【並の右脇に次トモの追記】 箱柳《割書:圖ニ|白楊トアリ》 小宮 田口
坂口【口の右脇に田の追記】【上に圖ニハ板田トモの追記】 中畠 岩屋 井ヶ谷 伊賀谷
大林 毛呂《割書:上下|日近郷》 富尾 上同 桃ヶ久保 上同
小楠 上同 麻生 上同 赤田輪 上同 □【□:切?】山 上同
田堀《割書:上下|上同》 名ノ内 上同 柳田 上同 竹ノ 沢連(サワレ)
□【□:笠?】井 木下(キクタシ) 平針 夏山郷 寺 平(タヒラ) 上同
柿 平(タヒラ) 上同 鬼沢 上同 寺野 上同 □【□:切?】越
大河 法見 保見 大山 土村
【左頁】
梶谷 或鍛冶谷 髙薄 須淵 岩戸
西畑 栗木 友久(トモキウ) □梨子(ハダナシ)
保母(ホ□【□:モに濁点、ボ?】 生平(ヲヒダヒラ) 蓬生 櫻井寺
古部(コブ) 樫ノ山 片寄セ 宮崎
淡淵 鳥川(トリカハ) 滝尻 加【右脇に鹿の追記】勝川
鵇巣(トウノス) 牧 平(ヒラ) 衣文(ソブミ) 上下 大【右脇に衣文ノ内の追記】幡
本宿(モトジク) 道中 鉢地【地の右脇に知の追記】(ハツチ) 山綱 羽栗
桑ヶ谷 萩(ヲギ)村 深溝 芦野谷
横落 岩堀 鷲田 南北 髙力(カウリキ)
【右頁】
坂崎 大草 久保田 窪田 長嶺
大 谷(ヤ) 馬頭 蓑川 尾尻
龍泉寺 舞木 市場 道中 池金
藤川 道中 岡(ヲカ)村 平地(ヒラチ) 生田(シヤウダ) 道中
小美(ヲイ) 丸山 髙隆寺 洞村
欠(カケ)村 大平(オホヒラ) 道中 奈栗(ナクリ)《割書:今ノ岡崎ノ町内|投町アリ》 明大寺《割書:古髙宮|邑》
供御(クゴ)《割書:又具子|或久後》 六ツ名 戸崎(トサキ) 又 盜木(トサキ) 羽根
橋楽(ハシラ) 柱 春﨑(ハリサキ) 針﨑 若松 山畑
上地(ウエヂ) 土呂(トロ) 北永【永の右脇に長の追記】井 髙洲 又髙須
【本文上に追記】
圖丸山ト大平
間ニ丸平トアリ
可考
【左頁】
浦邊(ウラベ)【浦邊(ウラベ):見せ消し】【右脇に村名ナシの追記】 坂左右(サカサウ)【圖ニハ碧海郡ニ入:追記】
寶飫郡郷村
戸金 一色 栢【栢:見せ消し】柏【柏:追記】原 平地
西浦 礒 形原 上同 鹿島 拾石(ヒロイシ)
竹ノ谷 上ノ郷 新井 方 西迥
不相 礒 小江 蒲形 坂本
清田(セイダ) 水竹 五井 平田
牧田【田:見せ消し】山【山:追記】 三谷(ミヤ:追記)《割書:湊|古美也》 大塚《割書:礒|御津郷》 山神《割書:御津|郷》
【右頁】
丹野 御津郷 灰野 上同 金割 上同 森下 上同
茂松 上同 廣石 上同 西方 上同 赤根 上同
大草 上同 泙野 上同 御馬 湊 為當
森村 故望理 小田淵 佐脇 上下 伊奈
梅藪 礒 前芝 湊 日色野(ヒシキノ) 平井
下五井 道中 下地 上同 横須加 大□里
芝屋 大村郷 住吉 上同 沖木 上同 大礒 上同
長瀬 行明(ギヤウメウ) 正岡 □子
西島 瀬木 三橋 當古
【左頁】
楽筒 楠木 向河原 宇谷
牧野 馬場 谷河 麻生田(アサウダ)
石原 中島 日下部(クサカベ:追記) 今草部 松原
一ノ宮 豊川 古宿 金屋 南北
鍛冶 牛久保 長山 篠束
小坂井 道中 宿村 上同 白鳥 國府 道中
久保 八幡 御油 道中 赤坂 道中
長澤 道中 萩村 大代 雨山
杤原 川邊 千両(ちきり) 上下 平尾
【右頁】
財賀 市田 野口 本野(ホンノ) 古穂野原
三尊古(サンゾゴ) 樽井 篠田 大木
長草 六角 大崎 西原
足山田 長山 鵜飼島 江村
東(トウ)上
設楽郡郷村 《割書:延喜三年八月宝飫郡ヲ割テ設樂郡ヲ置|然ルニ延長五年奏上ノ延喜式民部上ニ見》
和田 作手 小林 上同 野郷 上同 見代(ケンダイ) 上同
戸津呂 上同 田代 上同 弓木 上同 杉平 上同
【左頁】
赤羽 上同 河平 上同 手洗所(チヤライド) 上同 岩浪 上同
川尻 上同 荒平 上同 月谷 上同 黒瀬 上同
豊原《割書:上同|東西》 長者平 上同 草屋 上同 鴨ヶ谷 上同
寺林 上同 相月 上同 川井 上同 北畑 上同
市場 上同 須山 上同 千万町(ゼマンヂヨウ) 上同 横山
吉村 大草 黒谷 嶺村
田代 門谷(カドヤ) 長篠 淺畑
下平 寺林 大峠 引地
橋平 湯屋 岡村 柿平
【右頁】
河合 河瀧郷 池場 上同 畑村 上同 奈根
□瀬 川角 下田 上同 頼近 上同
中設楽 薗目 別所《割書:布理草|郷》 月村 上同
粟代 神田 平山 小林 上同
足込 上同 御薗 上同 古戸(コツト) 上同 亀島《割書:奥村|郷》
大澤 上同 宮平 上同 間袋 上同 小谷下 上同
川内 上同 大立 上同 板場 上同 浮川 上同
粟世 上同 黒河 上同 津具 下上 小田木
黒田 御所貝津 武莭町 桒原
【左頁】
河平 揖(サホ)山 大野瀬 野入
夏焼 稲橋 中園 清水
河口 貝津田 湯屋 社脇
神子上 一ノ瀬 寺脇 松本
大平 万場 井ノ澤 久原
宇連 大久保 大名倉 大桑
河田 田枯 向林 長江沢
田口 怒田輪 柿平 小松野
長江 荒尾 東地 西地
中島 松戸 萩平 和市
塩【鹽】津 田内《割書:東西南|在三村》 田峯《割書:作手|》 筒井《割書:作手|》
大輪《割書:上同|》 恩原《割書:上同|》 折立《割書:上同|》 栗島《割書:上同|》
桑平《割書:上同|》 笠井島《割書:上同|》 小田《割書:上同|》 善夫(センブ)《割書:上同》
菅沼《割書:上同》 御領《割書:上同》 道具津《割書:上同》 木和田《割書:上同》
塩【鹽】瀬《割書:上同》 島田《割書:上同》 大(ヲ)和田《割書:上同》 布里
只持 荒原《割書:新田》 源氏 湯島
山中 嵩山 方瀬 間蒔
小野 小代 大代 大林
【左丁】
身平橋(ミタレハシ) 海老《割書:東西》 双瀬(ナラセ) 大石
栃下《割書:黒瀬郷》 桂村《割書:上同》 塩【鹽】平《割書:上同》 塩【鹽】谷《割書:上同》
荒広(アロウ)【廣】 中山 倉島 節寸(セツス)
滝川 出沢(スサハ)【澤】 大海 有海
清井田 下下(シモソ) 宮脇 浅木
谷下 須長 常延 森長
大宮 柳田 竹広【廣】 大坪
河路 岩広【廣】 井道 設楽
門前 実国【實國】 黒田 河上
【右頁】
草部 夏目 矢部 東西 平井
重廣 片山 徳定 杉山
山村 臼子 作手 今出平 上同 諏訪
河田 稲木 根古尾【尾:見せ消し】屋【屋:追記】 中村
定池 大野田 中市場 石田
野田 新城(シンシロ) 新町
八名郡郷村
多米 手洗 赤岩 金田
【左頁】
神郷 神ヶ谷 長彦 牛川
浪上 暮川 下條 五井 上同 八反谷 上同
天王 上同 藤ヶ池 上同 堀内 上同 竹内 上同
犬子 上同 土筒 堹上 三渡野
橋尾 髙井 和田 長樂(ナガラ:追記)
嵩山(スヤマ:追記) 月谷 平野 西郷 萩平 上同
入文 上同 中山 上同 馬越 上同 成澤 上同
西川 上同 加茂 井島 養父(ヤブ:追記)
御薗 八名井 一鍬田 庭野
【右頁】
吉川 鳥原 鹽澤 黒田
宇利 庵原(ハンバラ) 下宇利 小畑 黄柳(ツゲ:追記)
多利野 竹輪 𠮷【右脇に山ノの追記】田 上下 大澤 吉田郷
大村 吉田郷 宮平 上同 髙野 上同 紺屋 上同
五反田 上同 阿寺 上同 大田輪 上同 新戸(アラト:追記)《割書:上下|上同》
田中 上同 乘本 上同 大野《割書:号六名|在九村》 能登□《割書:大野|郷》
巣山 上同 名越(ナコエ) 上同 井代 上同 六即貝津 上同
細川 上同 一色 上同 名号 上同
【左頁】
渥美郡郷村《割書:○此丸アル村ハ古昔ハ|伊勢御厨ナリ:追記》
○吉田 今橋荘 ○羽田《割書:古幡田|吉田方》 野田 吉田方 三ッ合 上同
馬見塚 上同 吉川 上同 飽海 ○仁連木 古作薑
田尻 ○岩崎 上下 雲谷 中原
原村 二川 大岩 上同 飯村 道中
小池 花ヶ﨑 □宮 礒 ○橋良
小濱 礒 草間 上同 ○髙足《割書:或|高芦》 ○佛餉《割書:野依|内》
□反谷《割書:野依|内》 野依 植田 東西 大崎 礒
○大津 礒 ○長仙寺《割書:大津|内:追記》 ○杉山 ○片神部
【右頁】
○谷熊《割書:古|弥熊》 ○院内 古印内 ○根田 或今田 ○神部
○□田《割書:神戸|郷》 ○赤松 上同 ○青津 上同 水河《割書:上同|濱》
○志田 上同 ○新美【右脇に仁井ノミの追記】《割書:上同|古新家【家の右脇に実也の追記】》 田原 和地荘 ○加冶
○𠮷湖 浦 浦村 上同 波瀬 上同 片濱 上同
白谷 上同 仁﨑 上同 大久保 野田
宇津江 上同 阿志 八王子 江比間 浦
伊川津 上同 馬伏 村松 石神
髙木 浦 古田 上同 畠村 上同 山田
保美 中山 浦 亀山 上同 ○伊良湖《割書:今作五十子|上同》
【左頁】
日出 濱 堀□【□:切?】 上同 小鹽津 上同 和地《割書:古和知|上同》
越戸 上同 若見 上同 赤羽根 上同 髙松 上同
○大草 上同 谷ノ口 上同 百々 上同 ○濱田 上同
久美原 上同 城下 上同 赤澤 上同 伊古部 上同
髙塚 上同 七根《割書:東西|上同》 寺澤 上同 小松原 上同
細谷《割書:上下|上同》
渥美郡新田
數原 中原 大脇 藤並
【右丁】
佐藤 山田 小松 森田
芦原 松井 神吉 天津
森崎 彦坂 富田 松島
津田 小向 高須 土倉
下野 牧 加藤 田中
平川 川崎
八名郡新田
中沢【澤】 忠興 森岡 白石
【左丁】
野川 小鷹野 中野田
宝【寶】飫郡新田
清須 薮【藪】下 藏子 桜【櫻】町
藤井 古川
神社部
参河国廿六座所載延喜式神名帳也
加茂郡七座《割書:並小》
一/野見(ノミ)神社《割書:在能見村今号|能見山天王》 神主
一野 神社
一兵主神社
一/射穂(イボ)神社《割書:在伊保村今号|蔵王神社》 神主
一/猿投(サナゲ)神社《割書:在猿投村|社領七百七十六石》神主中条宮内少輔
《割書: 社家三宅税主同伊織竹田采女》
一広沢神社《割書:有【「在」を○で見せ消ち】広沢村而無神社|退転乎》
一灰宝神社
額田郡二座《割書:並小》
一稲前神社
一/謁播(アチハ)神社《割書:在阿知和村今号 |春日神社》別当正蓮寺
碧海郡六座《割書:並小》
一和志取神社
一酒人神社《割書:在坂戸村》
一日長神社
一知立神社《割書:在池鯉鮒》 神主永見志摩
一比蘇神社
一糟目神社
播【幡】豆郡三座《割書:並小》
一久麻久神社《割書:在熊子村今号|稲荷 社領二十石》神主牧善太夫
一羽豆神社《割書:在宮崎村》 神主
宝飫郡六座《割書:並小》
一形原神社《割書:在形原村》 神主
一御津神社《割書:在御津郷|広石村》 神主神藤五左衛門
一/兎足(ウタリ)神社《割書:在度津郷小坂井村|今号兎足八幡|社領九十五石》 神主川出宮内少輔
一砥鹿神社《割書:在一宮村本宮領在|長山村|社領百二十石》 神主草鹿砥民部少輔
一赤日子神社《割書:在上郷村》 神主
一石座神社《割書:宝飫郡無神疑|設楽郡於大宮村 |在石座神社是|乎》 神主
《割書:延喜三年八月十三日官符有テ|宝飫郡ヲ割テ設楽郡ヲ置|然ルニ延長五年延喜式撰上|ノトキ古帳ノマヽ宝飫郡ノ所に入ナラ□【ンヵ】》
八名郡一座《割書:小》
一石巻神社《割書:在神郷村|社領五石》 神主大木出雲
渥美郡一座《割書:小》
一阿志神社《割書:在阿志村|従田原御城主寄付田 》 神主大場弥三郎
御朱印黒印除地社領之分
碧海郡
一大浜村両熊野神社《割書:社領六十石 》 神主【「永」を朱○を見せ消ち】長(ヲサ)田兵部
一中島村内宮神明 《割書:社領十石》 神主牧徳之進
一小園村外宮神明 《割書:社領十石》 神主牧弥右衛門
一同村住吉大明神 《割書:社領三石》 神主牧甚右衛門
一渡刈村鹿島大明神《割書:社領三石》 神主神谷権兵衛
一下青野村椿大明神《割書:並》天神《割書:社領|六石》 神主浅井甚之丞
一同村薬師領《割書:一石五斗》在家地蔵領《割書:二石》 同人
一上青野村天王社《割書:並》神明《割書:社領十四石 |三斗五升》神主赤堀甚左衛門
《割書:長瀬郷七ヶ村|生土神也【左行上に朱記】》
一森越村八幡社 《割書:社領六十石 》 神主板倉備後
一橋目村白山社 《割書:社領三石三斗|二升五合》 神主
一桜井村白山社《割書:社領五十石 》 神主野田河内
一高棚村神明《割書:社領二石外二石 |五斗馬場屋敷》 神主
一鴛鴨村五社《割書:社領五石天神三鳥【島ヵ】|神明八幡若宮》 神主
一山崎村白山社《割書:社領百三十八石 》 神主長坂勘解由
一上条村白山社《割書:社領五十石 天台宗》別当神光寺
播【幡】豆郡
一小島村八幡《割書:並》荒神社《割書:社領三十|四石五斗》 神主石原半左衛門
一江原村神明《割書:社領三石》 神主長坂加兵衛
一長良村神明《割書:社領三石》 神主加藤主馬
一室村神明《割書:社領三石》 神主岡田権之助
一須美村天王社《割書:社領三石》 神主浅井弥次左衛門
一徳長村大明神《割書:社領十七石 |八斗》 神主筒井佐左衛門
一巨海村八剱大明神《割書:社領十七石 》 神主
一萩原村天王社《割書:社領五石五斗》 神主黒野九兵衛
一寺【「澤」を朱○で見せ消ち】津【行上に朱記】村八幡《割書:社領三十五石|七斗》 神主渡部助太夫
一八面村荒川屋形天王《割書:社領二十九石》神主石河杢太夫
一西尾町居森天王《割書:社領十八石 |五斗》 神主新家源太夫
加茂郡
一松平村神明《割書:社領三石外|屋敷付二十石》 神主
額田郡
一伊賀村八幡《割書:社領五百四十石 》 神主柴田形【刑】部少輔
一明大寺村潮釜六所大明神《割書:社領百六十|二石七斗六升》神主大竹将監
一舞木村八幡《割書:社領百五十石》 神主竹尾大和
一上大門村八幡《割書:社領七十石 》 神主藤江藤太夫
一岡崎八幡《割書:社領二石五斗》 神主柴田弾正
一同所天王社《割書:社領二石六斗六升》 神主松平内蔵
一大樹寺村天神《割書:社領三石》 神主酒部勘之丞
一六名村八幡《割書:社領十三石 》 神主
一栗木村八幡《割書:社領十一石 》 神主
宝飫郡
一八幡村八幡《割書:社領百五十石》 神主寺部宋【采】女
一篠束村天王社《割書:社領十石》 神主本多善太夫
一雨谷村天王社《割書:除地三石》 神主松野宗兵衛
一当古村天王社 《割書:社領五石》 神主大林三郎左衛門
一横須加村天王社《割書:社領六石》 神主田中主膳
一三谷村八剱大明神《割書:社領六石六斗|四升六合》神主竹内左衛門五郎
一不相村八百富神《割書:社領四石八升》 神主酒井大膳
八名郡
一加茂村加茂大明神《割書:社領百石》 神主竹尾玄蕃頭
一同所《割書:大伴大明神|貴船大明神 》 社家《割書:加藤若狭|中野岩見》
一多米村春日大明神《割書:社領三石》 神主尾崎六郎左衛門
一牛川村偏戸大明神《割書:除地二石》 神主 三右衛門
一橋尾村天王社 《割書:除地一石八升》 神主竹生九郎左衛門
一長彦村栄宮大明神《割書:黒印三石》 神主野尻長吉
一和田村八幡 《割書:社領三石》 神主久米彦左衛門
一高井村八幡 《割書:黒印三石》 神主加藤太夫
一/長楽(ナガラ)村八幡 《割書:黒印三石》 神主佐藤長太夫
一/嵩(ス)山村皇大明神《割書:黒印三石》 神主中山藤太夫
一月谷村若一王子《割書:黒印二石》 神主古川九之助
一中山村山王社 《割書:黒印三石》 神主中西五郎太夫
一馬越村天王社 《割書:黒印二石》 神主森九郎兵衛
一西川村天王社 《割書:除地新畑一反|四畝四歩》 神主西川伝九郎
一入文村天王社 《割書:除地二石》 神主 作之右衛門
一吉川村山王/走湯(イヅ)両社《割書:黒印五石》 神主坂上大和
一下吉田村八幡 《割書:社領二石》 神主重広孫右衛門
渥美郡
一(城内)吉田天王社 《割書:社領三石》 神主石田式部
祢宜《割書:田中近江|鈴木日向》
一同所神明 《割書:社領三十石 |》 神主司甲斐
一同所若宮八幡 《割書:黒印三石》 神主《割書:磯辺伝左衛門|河野長兵衛》
一同所魚町熊野社 《割書:社領五石》 神主鈴木土佐
一羽田村神明八幡両社《割書:社領十石》 神主羽田周防
一仁連木村神明 《割書:黒印三石》 神主及部五太夫
一上岩崎村鞍懸大明神《割書:除地三石》 神主鈴木藤太夫
一雲谷村神明 《割書:黒印三石|六升》 神主
一中原村神明八幡天王《割書:除地五石六斗|二升五合》無祢宜
一二川八幡社 《割書:黒印二石》 神主後藤勘解由
一大岩村神明 《割書:黒印二石》 神主同次郎兵衛
一高足村神明 《割書:社領三石》 神主芳賀六郎兵衛
一同所《割書:逆矛大明神|白山社》 《割書:社領三石|同 二石》 神主《割書:岩瀬喜平太|山本権三郞》
一牟呂村八幡 《割書:社領四石五斗》 神主森田伊勢
一大崎村八幡 《割書:社領七石》 神主辻村宮内
一野依村八幡 《割書:黒印三石》 神主彦坂筑後
一大津村神明三島八王子《割書:社領|九石》神主中村重左衛門
一杉山村八幡 《割書:社領三石》 神主中神市太夫
一同村 《割書:除地五石》 山守 徳兵衛
一神部村久丸大明神《割書:社領三十|五石》 神主大羽治兵衛
一(城内)田原神明 《割書:社領五石》 神主金田文太夫
一同所薬師十二神《割書:田原御城主ヨリ |寄付田》別当山本大炊
一同所稲荷大明神《割書:除地二石|右同断》 別当大行院
一野田村八幡 《割書:社領五石》 神主渡部主膳
一伊良湖村大明神《割書:除地二十五石|二斗五升》 神主粕谷助之進
設楽郡
一名倉村白鳥大明神 社領五石 神主
一津具村八幡 社領二石 神主
御朱印黒印除地寺領付《割書:並|》諸士方御菩提所付
碧海郡
一大浜村《割書:寺領二十三石一斗|禅宗曹洞派|》 林泉寺
一同村《割書:寺領十一石三斗八升右同宗永井|党菩提所本寺額田郡大沢龍渓院》 金龍山宝珠寺
一同村《割書:寺領四石六斗九升|石同宗》 宗中軒
一同村《割書:寺領十四石二斗五升三合浄土宗鎮西派 |本寺額田郡鴨田大樹寺》 常行院
一同村《割書:寺領二十石 |本寺右同》 清浄院
一同村《割書:寺領十七石五斗三升五合浄土宗西山派 |本寺幡豆郡下矢田養寿寺》 海徳寺
一同村《割書:寺領十五石三斗五升右同宗|本寺同村海徳寺》 妙福寺
一同村《割書:寺領三十石時宗親氏父有親号 |長阿弥寂当寺|本寺相州藤沢寺》 称名寺
一同村《割書:寺領一石三斗》 龍雲寺
一同村《割書:寺領四斗四升》 善龍庵
一米津村《割書:寺領五石》 光照院
《割書: |吉良庄【朱字】》
一中島村《割書:寺領三十石浄土宗西山派三役寺|本寺京都四条円福寺》 蘆安山【「宗」を朱で見せ消ち】崇福寺 檀林【朱字】
一同村《割書:寺領十三石禅宗曹洞派板倉党菩|提所本寺肥州島原本光寺》 万燈山長円寺
一同村《割書:寺領三石一斗一向宗 |本寺野寺本証寺》 浄光寺
一上和田村《割書:寺領廿石浄土宗西山派開山教顕|了念上人本寺京都円福寺》 清光山浄珠院 八寺【朱字】
一宮地村《割書:寺領十五石六升日蓮宗久世党 |菩提所》 妙国寺
一青野村《割書:寺領五石浄土宗鎮西派|本寺鴨田大樹寺》 来迎院
一下青野村《割書:寺領五石一向宗|本寺京都東本願寺》 撫松山慈光寺
一上青野村《割書:寺領三石右同宗|本寺野寺村本証寺》 本光寺
一同村寺領《割書:寺領一石五斗》 安養院
一赤渋村《割書:寺領五石浄土宗鎮西派|本寺額田郡鴨田大樹寺》 松林寺
一中ノ郷村《割書:寺領廿三石二斗右同宗土井党菩提所|本寺京都東山知恩院》 大聖寺
一同村《割書:寺領十七石五斗一向宗|本寺京都東本願寺》 浄妙寺
一野寺村《割書:寺領六十九石五斗七升一向宗三箇寺ノ一|本寺同断開山教円房俗名新祐小山判官弟》雲龍山本証寺
一高鳥村《割書:寺領五石右同宗 |本寺右同断》 専修坊
一渡刈村《割書:寺領四石四斗浄土宗鎮西派|本寺額田郡鴨田大樹寺》 大通院
一同村《割書:寺領二石六斗右同宗|本寺同郡上野上村隣松寺 》 祐蔵寺
《割書: |矢作庄【朱字】》
一中島村《割書:寺領四石八斗黄壁【檗】宗|本寺山州宇治万福寺 》 東禅寺
一森越村《割書:寺領三石三斗二升五合浄土宗鎮西派|本寺鴨田大樹寺》 長寿寺
一矢作村《割書:寺領八石右同宗 》 光明寺
一渡村《割書:寺領二十四石浄土宗西山派》 善国寺
一佐崎村《割書:除地無高一向宗三箇寺ノ一|本寺京都東本願寺》 太子山上宮寺
一桜井村《割書:松平遠江守寄附田十石浄土宗|鎮西派本寺額田郡鴨田大樹寺 》 菩提寺
一上野上村《割書:寺領三十石右同宗|本寺京都百万遍新智恩寺 》 稲荷山隣松寺
一同村《割書:寺領十六石右同宗|本寺右同》 行福寺
一桑子村《割書:寺領三十石一向宗開山念清房俗名|安藤薩摩守本寺勢州二一身田専修寺》平田山妙眼寺
《割書: |今在額田郡鴨田村》
一同村《割書:寺領三石浄土宗鎮西派|本寺額田郡鴨田大樹寺》 真如寺
一福釜村《割書:寺領七石右同宗松平筑後守菩提所 |本寺右同》 宝泉寺
一山崎村《割書:寺領四石八斗禅宗曹洞派 》 正法寺
一鴛鴨村《割書:寺領三石浄土宗鎮西派|本寺同郡上野上村隣松寺 》 遍照寺
一横須加村《割書:寺領二石浄土宗西山派|本寺中島村宗福寺》 称名院
播豆郡【後に幡豆郡】
一浅井村《割書:寺領十石日蓮宗 》 了性寺
一/小(ヲ)島村《割書:寺領四石九斗浄土宗鎮西派|本寺鴨田大樹寺》 西方寺【「ヲ」朱記】
一同村 《割書:寺領四斗八石》 源西坊
一同村 《割書:寺領四石五斗》 法蔵坊
一同村 《割書:寺領三石一向宗 》 安楽寺
一江原村《割書:寺領十六石二斗禅宗曹洞派|本寺宝飫郡伊奈村東漸寺》 願王山妙喜寺
一貝福村《割書:寺領三石五斗浄土宗西山派|本寺中島宗福寺寺家分》 正見寺
一永良村《割書:寺領一石五斗同宗|本寺右同 寺家分》 妙安寺
一駒場村《割書:寺領一石一斗同宗|本寺右同 寺家分》 東【「靣」を朱で見せ消ち】向【朱記】寺
一室村《割書:寺領二石二斗三升同宗|本寺右同 寺家分》 林松寺
一須美村《割書:寺領五斗右同宗|本寺右同 寺家分 》 如意寺
一家武村《割書:寺領六石三斗余一向宗|》 浄顕寺
一善明村《割書:寺領二石二斗》 西福寺
一同村 《割書:寺領一石七斗一升》 随雲庵
一岡山村《割書:寺領三十六石禅宗開山派霊源寺|広円寺領入本寺京都妙心寺》商雲山花岳寺
一花蔵寺村《割書:寺領四十八石右同宗 |本寺同右》 片岡山花蔵寺
一吉田村《割書:寺領三十石浄土宗西山派 |本寺中島村宗福寺》 如意山宝珠【「寺」を朱で見せ消ち】院【朱字】
一対込村《割書:寺領八石九斗二升右同宗 |本寺下矢田村養寿寺》 光粒庵【対米村ヵ】
一同村《割書:寺領四石五斗》 光生坊
一中田村《割書:寺領十六石一升一斗九升禅宗開山派》 長久院
一同村《割書:寺領一石浄土宗西山派》 地蔵院
一鵜ケ池村《割書:寺領一石一斗日蓮宗 》 妙満寺
一平口村《割書:寺領一石三斗一升浄土宗西山派|本寺下矢田村養寿寺》 修法庵
一赤【「曽」を朱で見せ消ち】羽【朱字】根村《割書:寺領一石》 松光院【赤羽村ヵ】
一同村《割書:寺領七斗八升》 清秀庵
一篠曽袮村《割書:寺領一石二斗五升》 善行坊【笹曾根村ヵ】
一池頭村《割書:寺領一石》 西光庵
一一色村《割書:寺領四石一斗》 今斉寺
一同村《割書:寺領一石五斗》 善信寺
一同村《割書:寺領七石八斗》 七ケ寺領
一道目記村《割書:寺領十三石五斗浄土宗西山派 |本寺京都円福寺元号浄円寺》挍法山不退院【授法山ヵ】
一同村《割書:寺領七石五升右同宗 |本寺右同》 昌光山恵眼寺 八寺【朱字】
一同村《割書:寺領一石四斗二升》 福徳寺
一下矢田村《割書:寺領三十六石浄土宗西山派|本寺京都円福寺》 亀休山養寿寺 八寺【朱字】
一同村《割書:寺領三十五石九斗右同宗 |本寺右同》 虎洞山桂岸寺 八寺【朱字】
一同村《割書:寺領一石八斗右同宗|本寺同村養寿寺 寺家》 恵海庵
一同村《割書:寺領二石五斗右同宗 》 東光寺
一木田村《割書:寺領四石九斗一向宗開山後醍醐院|王子稲良親王《割書:ノ|》臣中納言顕広卿為祖》 正向寺
一/徳次(トクツギ)村《割書:寺領五石禅宗曹洞 》 瑞雲山真龍寺【トクツギ朱字】
一同村《割書:寺領三石七斗二升》 信蔵寺
一矢曽袮村《割書:寺領四石七斗禅宗曹洞派 》 龍泉寺【矢曽根村ヵ】
一行用村《割書:寺領七石一斗浄土宗西山派》 福泉庵
一同村《割書:寺領二石七斗》 行【「泉寺」を朱で見せ消ち】善庵【朱字】
一針曽袮村《割書:寺領一石八斗五升浄土宗 |西山派》 修福寺【針曽根村ヵ】
一徳永村《割書:寺領二石六斗》 安養寺
《割書: |味浜村ニアリ【朱字】》
一苅宿村《割書:寺領二十石浄土宗西山派 |本寺中島村宗福寺》 満国寺
一同村《割書:寺領七石右同宗 |本寺右同》 常福寺
一楠木村《割書:寺領四石三斗七升浄土宗 |西山派》 阿弥陀院【「木」○を見せ消ち】
一/巨海(コミ)村《割書:寺領六石右同宗 》 瑞養寺【「コミ」朱字】
一同村《割書:寺領九石八斗四升禅宗開山派 |古代為尼寺》 願成寺
一同村《割書:寺領六石承久年中吉良義氏建立|尼寺今代退転乎右同宗》 長寿寺
一寺津村《割書:寺領二十一石浄土宗西山派|本寺京都円福寺》十蔵山養国寺
一同村《割書:寺領五石同宗》 儀光院
一同村《割書:寺領七石禅宗開山派 |本寺西町実相寺》 臨済山金剛院
一同村《割書:寺領二石余 》 妙光院
一角平村《割書:寺領十石禅宗開山派 |本寺上町村実相寺》 仙徳寺
一長縄村《割書:寺領十五石浄土宗鎮西派 》 妙福寺
一荻原村《割書:寺領十四石右同宗西山派|本寺碧海郡和田村浄珠院 》 荻原山海蔵寺
一同村《割書:寺領十二石右同宗|本寺同郡中島村宗福寺》 西福寺
一同戸村《割書:寺領七石禅宗曹洞派|本寺渥美郡大久保村長興寺》吉谷山安泰寺【門内(かいと)村ヵ】
一寺島村《割書:寺領一石余浄土宗西山派 |本寺中島村宗福寺》 大通院
《割書:八■【尻ヵ】■| 光秀寺》【左行上部に付箋朱字】
一鉢尻村《割書:寺領三石八斗》 光祐寺【八ヶ尻村ヵ】
一八面村《割書:寺領五石七斗七升五合禅宗|曹洞派荒川氏廟所》 真成寺
一同村《割書:寺領一石八斗》 善性寺
一下町村《割書:寺領十一石五斗 》 龍門寺
一上町村《割書:寺領五十七石八斗七升禅宗開山派 |本寺京都妙心寺吉良氏廟所|文永八年未吉良上総介満氏造立》瑞境山実相寺
一同村《割書:寺領十四石四斗四升右同宗》 道興寺
一西尾《割書:寺領十三石三升 》 康全寺
一同所《割書:寺領二石一斗禅宗曹洞派 》 向春軒
加茂郡
一松平村《割書:寺領百石浄土宗鎮西派賜紫衣寺|本寺京都知恩院 松平親氏公御廟所》本松山高月院 紫衣【朱字】
一同村《割書:寺領五石真言宗 》 明照寺
一長興寺村《割書:寺領二十四石一斗禅宗臨済派|本寺京都東福寺|建武二乙亥中條備前守秀長造立》集雲山長興寺
一北小瀬間村《割書:寺領七石五斗禅宗曹洞派 |本寺設楽郡大洞泉龍院》 龍田寺
■ニナシ【左行上部余白に朱字】【「梁」の右肩に朱点】
一梁山村《割書:寺領二十石右同宗|本寺渥美郡青津村伝法寺 》 大龍山妙照寺【簗山村ヵ】
一伊保村《割書:城主本多氏寄付田黄壁【檗】宗 |本寺宇治万福寺》大好山永福寺
《割書: | 身喜谷》
一二井寺村《割書:松平隼人正寄付田天台宗 |本寺東叡山》 二井寺
■ニモ名■【「寄」カ】ニモナシ【左行上部余白に朱字】【「尾」の右肩に朱点】
一尾古曽村《割書:寺領七石浄土宗鎮西派|本寺額田郡鴨田大樹寺》 西林寺
【右肩につけられた朱点は、■や他の名簿に不記載であることを示す?】
【天、右余白に朱字】
図ニハ
国閑ト書テ
カヒコト仮名付セリ
一【「具」を朱で見せ消ち】貝【朱字】子村《割書:寺領七石同宗|本寺右同》 林松寺
額田郡
一鴨田村《割書:寺領七百石浄土宗鎮西派三役寺|山号勅書賜紫衣寺本寺京都|知恩院親忠公御建立院号松安院》 成道山大樹寺 紫衣【朱字】
一岩津村《割書:寺領百二十石同宗三役寺賜紫衣寺 |本寺右同》弥勒山信光明寺 右同【朱字】
一同村《割書:寺領百一石一斗同宗西山三役寺賜紫|衣寺本寺京都円福寺》 法性山妙心寺 《割書:紫衣|檀林》【朱字】
一能見村《割書:寺領百石同宗鎮西三役寺賜紫|衣寺本寺京知恩院也広忠公ノ 》 能見山松応寺 紫衣【朱字】
《割書: 廟所|大林寺境内ニ在》
一岡崎《割書:寺領十石同宗西山派 |本寺同所大林寺》 安養院
一能見村《割書:寺領五石禅宗曹洞派 |本寺同郡滝村万松寺》 永泉寺
一同村《割書:寺領五石同宗|本寺明大寺村龍海院 》 観音寺
一岡崎《割書:寺領五十石浄土宗鎮西派 |本寺鴨田大樹寺近代為大樹寺隠居所》 仏現山随念寺
一同所《割書:寺領十石浄土宗西山派|本寺京都円福寺》 諏訪山誓願寺 八寺【朱字】
一同所《割書:寺領五石禅宗曹洞派本寺龍海院|弘治二年元信公御母公證文有之》 大泉寺
一同所《割書:寺領二石右同宗 |本寺右同》 宝福寺
一同所《割書:寺領三十三石五斗六升二合外五石白山領|支配右同宗本寺明大寺村龍海院》福応山極楽寺
一同所《割書:寺領十石在六名村日蓮宗 》 善龍寺
一同所《割書:寺領百石禅宗曹洞派尼寺 |号築山殿従尊氏将軍先判》 瑞生山惣持寺
一同所《割書:寺領十三石一向宗|本寺京都東本願寺》 専福寺
《割書: |在尾尻村》
一同所《割書:寺領二石三斗四升五合日蓮宗 》 遊泉寺
一同所《割書:寺領五十石高田宗開山了専上人|河内国荒木万福寺源海上人之第【弟の誤記カ】子 |本寺一身田専修寺》 田生山満性寺
《割書: |岡崎ニ在リ》
一八町村《割書:寺領百石浄土宗西山派賜紫衣寺|本寺京都円福寺》 拾玉山大林寺 紫衣【朱字】
一同村《割書:寺領五石一向宗 》 光園寺
一上大門村《割書:寺領八石浄土宗鎮西派|本寺同郡岩津信光明寺》 大円寺
《割書: |岡崎ニ在リ》
一六名村《割書:寺領二百五十石天台宗号六供六坊 |東円院極楽院多宝院萃蔵院密|浄院本寺東叡山》 長耀山甲山寺
一明大寺村《割書:寺領三十五石禅宗曹洞派開山摸外 |和尚本寺渥美郡大久保村長興寺|酒井党菩提》満珠山龍海院
一同村《割書:寺領五石二斗三升右同宗 |本寺滝村万松寺》 成就院
一同村《割書:黒印五石右同宗|本寺能見村永泉寺》 安心院
一桑原村《割書:寺領二十石曹洞輪番所開山茂林上人|本寺遠州橘村大洞院》 大沢山龍渓院
一真福寺村《割書:寺領三百五十四石七升天台宗在六坊|本寺比叡山海隣院常行院随|専院浄泉院龍池院大善院》霊鷲山真福寺
一滝村《割書:寺領四百十二石天台宗有六坊本寺右|同学頭青龍院》 吉祥山滝山寺
一同村《割書:寺領二十石禅宗曹洞派開山龍沢和尚|本寺遠州浜松普済寺》 慈応山万松寺
一桜井寺村《割書:寺領 井(廿)八石真言宗古義|本寺紀州高野山平等院》 花園山桜井寺
一片寄村《割書:寺領七十九石五斗八升禅宗開山派 |本寺京都妙心寺》 広沢山天恩寺
一平地村《割書:寺領十三石一向宗有阿仏女寄進鐘 |西本願寺兼帯所故無山号》 光顔寺
一春崎村《割書:寺領五石六斗五升五合右同宗三ケ寺ノ内|本寺京東本願寺開山願清房俗名和田氏 》和田山勝鬘寺
一尾尻村《割書:寺領十五石六斗日蓮宗大久保党廟 》 海雲山長福寺
一細川村《割書:松平和泉守寄付田菩提所浄土宗|鎮西派本鴨田村大樹寺》 称名院
一久保田村《割書:寺領廿六石右同宗西山派開山良顕|上人本寺岩津村妙心寺在信忠公朱印》紫雲山西方寺
一大草村《割書:寺領七石俗呼号山寺 》 南城坊
一高隆寺村《割書:寺領三十五石天台宗 》 多宝山高隆寺
一龍泉寺村《割書:寺領三石五斗日蓮宗|本寺遠州鷲津村本光寺》 龍泉寺
一深溝村《割書:寺領三十五石禅宗曹洞派松平主|殿頭寄付八十俵本寺肥州島原|本光寺》 瑞雲山本光寺
一同村《割書:寺領二石浄土宗鎮西派|本寺鴨田村大樹寺》 三光院
一同村《割書:寺領五石日蓮宗 》 養師山長満寺
一山中村《割書:寺領八十三石浄土宗西山三役寺開山|龍芸上人本寺京円福寺院号国豊院》 二村山法蔵寺 檀林【朱字】
一同塔頭《割書:寺領十二石同宗 》 嘉勝軒
宝飫【飯】郡
一蒲形村《割書:寺領七石禅宗曹洞派松平帯刀廟|本寺渥美郡大久保村長興寺》 龍台山天桂院
一同村《割書:寺領三石日蓮宗 |本寺京都本国字》 正祷山長存寺
一清田村《割書:寺領五石浄土宗西山派|本寺京円福寺院号和合院 》 楠林山安楽寺 八寺【朱字】
一水竹村《割書:寺領三石右同宗|本寺清田村安楽寺》 崇心寺
一形原村《割書:除地十二石右同宗|本寺碧海郡中島村宗福寺 》 真如寺
一五井村《割書:寺領三石禅宗曹洞派|本寺渥美郡大久保村長興寺》 龍田山長泉寺
一三谷村《割書:寺領五石九斗右同宗 |本寺五井村長泉寺》 光昌寺
一牧山村《割書:寺領三石右同宗 |本寺右同》 光林寺
一大塚村《割書:寺領五石禅宗曹洞派本寺尾州知多 |郡小見村龍雲院能州惣持寺孫末》宝樹山長興寺
一広石村《割書:寺領百石浄土宗鎮西派牧野党菩提所|本寺京知恩院院号浄土院》御津山大恩寺
一赤坂《割書:寺領三石五斗右同宗 |本寺広石村大恩寺》 三頭山長福寺
一御油《割書:黒印五石右同宗西山派|本寺山中村法蔵寺》 招賢山東林寺
一八幡村《割書:寺領廿石禅宗曹洞派開基大【太カ】素|和尚本寺尾州緒川乾坤院》大宝山西明寺
一同村《割書:寺領五石七斗右同宗 |本寺同州西明寺》 国府荘山国分寺
《割書:峯在|霊光山|極楽寺|旧趾》【左行上部余白】
一財賀村《割書:寺領百六十二石真言宗古義院号|観音院本寺紀州伊都郡高野山|平等院》陀羅尼山財賀寺
一萩村《割書:寺領十石禅宗曹洞派開基周鼎 |和尚本寺尾州緒川乾坤院》 虎岳山龍源寺
一伊奈村《割書:寺領廿石右同宗開基亭隠和尚 |本寺同右本多隠岐守先祖廟》 万年山東■【漸カ】寺
一平井村《割書:黒印四石五斗浄土宗鎮西派|本寺吉田悟心寺》 悪止山延命寺
一下五井村《割書:寺領三石禅宗曹洞派開基明全 |和尚本寺額田郡深溝村本光寺》通月山満光寺
一横須加村《割書:寺領二石天王社領内右同宗|本寺下五井村満光寺》 大慈山観喜寺
一下地村《割書:寺領十五石高田宗|本寺一身田専修寺》 聖霊山聖眼寺
一篠束村《割書:寺領二石禅宗曹洞派 |本寺古宿村花井寺》 天久山医王寺
一牛久保村《割書:寺領二十石浄土宗鎮西派 |本寺広石村大恩寺》 法幢山上善寺
一同村《割書:寺領八石八斗右同宗牧野右馬允廟 |本寺右同》 法月山光輝庵
一古宿村《割書:寺領十五石禅宗曹洞派開基東巌|文兼本寺豊川妙厳寺》 松鷲山花井寺
一豊川村《割書:寺領四十五石右同宗開基東海和尚 |本寺遠州浜松普済寺》円福山妙厳寺
一豊川村《割書:寺領二十石禅宗曹洞派|本寺遠州浜松普済寺》 龍雲山三明寺
一長山村《割書:寺領十二石右同宗|本寺伊奈村東■【漸カ】寺》 本宮山松源院
一東上村《割書:黒印三石右同宗従彦坂九兵衛定次 |寄付本寺長山村松源院》迦葉山妙劉寺
《割書: |作手》
一鴨《割書:ケ|》谷村《割書:黒印四十八石禅宗寂室派 |本寺近州高野村水源寺》 翔龍山甘泉寺
《割書: |同》
一長者平村《割書:黒印三十五石右同宗 |本寺鴨谷村甘泉寺》 正眼寺
《割書: |作手》
一田原村《割書:黒印二石|本寺右同》 東光寺
《割書: |同》
一和田村《割書:黒印十五石禅宗開山派|本寺京都妙心寺》 正伝院
八名郡
一赤岩村《割書:寺領五十石真言宗古義開基中|興果隣上人本寺紀州高野山平等|院院号正法院》赤岩山法言寺
一神郷村《割書:寺領二石禅宗開山派開基繁室 |和尚本寺嵩山村正宗字》湯王山東光寺
一長彦村《割書:黒印三石右同宗 |本寺右同》 長彦山拾輪寺
一牛川村《割書:黒印二石高田宗|本寺下地村聖眼寺》 正大寺
一同村《割書:黒印三石禅宗開山派 |本寺嵩山村正宗寺》 東林寺
一高井村《割書:黒印二石右同宗 |本寺右同》 万龍山慈雲庵
一同村《割書:黒印三石右同宗 |本寺右同》 長谷寺
一和田村《割書:寺領五石禅宗曹洞派渡辺山城守|先祖廟本寺豊川村妙厳寺》石津山春興院
一長楽村《割書:黒印三石《割書:内一石五斗|宗栄寺分》禅宗開山派|本寺嵩山村正宗寺 》 龍尾山長楽寺
一同村《割書:黒印一石五斗右 ̄ニ記 ̄ス|本寺右同 》 宗栄寺
一金田村《割書:寺領一石石巻領内|本寺右同》 正明寺
一波上村《割書:黒印八石右同宗|本寺京都妙心寺西郷氏建立》 瑠璃山正円寺
一嵩山村《割書:寺領三十六石右同宗|本寺右同 西郷孫三朗建立》 嵩山 正宗寺
一月谷村《割書:黒印二石右同宗 |本寺嵩山正宗寺》 月谷山万福寺
一馬越村《割書:黒印二石|本寺右同》 明光山法蓮寺
一中宇利村《割書:寺領十五石禅宗曹洞派開基字 |崗和尚本寺大洞村泉龍院》 乳峯山慈広寺
一同村《割書:寺領二十石真言宗|本寺高野山平等院》 奥貴山富賀寺
一庵原村《割書:寄付田廿石安倍丹波守 ̄ヨリ真言宗|本寺京都仁和寺》 松陽山洞雲寺
一下吉田村《割書:寺領三石禅宗曹洞派|本寺遠州久野村可睡斎》 青龍山満光寺
渥美郡
《割書: |城内》
一吉田《割書:寺領八十石浄土宗鎮西派開山善忠 |上人本寺京都知恩院院号浄葉院》 孤峯山悟心寺
一同所《割書:寺領二十五石禅宗曹派開山洞奭和尚|本寺尾州春日井郡大草村福厳寺》 吉田山龍拈寺
一同所《割書:寺領二十石同宗|右龍拈寺兼帯故無住 》 今橋山興徳寺
《割書: |紺屋町》
一同所《割書:除地三十一石六斗八升四合天台宗開山重信 |法印本寺東叡山院号寿命院》白雲山神宮寺
一同所《割書:無印地一向宗東本願寺挂所故無住塔|頭五个寺応通寺蓮泉寺仁長寺正琳寺》 西笁山誓念寺
《割書: |茉師之小路》
一同所《割書:黒印三石浄土宗鎮西派|本寺同所悟心寺》 無量山光明寺
《割書: |手間町馬見塚地》
一同所《割書:黒印三石禅宗曹洞派 |本寺同所龍拈寺》 日東山西光寺
《割書: |新銭町同地》
一同所《割書:黒印四石五斗右同宗 |本寺右同》 呉服山喜見寺
《割書: |曲尺手町裏羽田地》
一同所《割書:黒印一石五斗|本寺右同》 栄川山花谷院
《割書: |野田村》
一同所《割書:黒印二石浄土宗鎮西派|本寺右同》 明照山東光寺
一羽田村《割書:黒印二石|本寺右同》 石塚山清源寺
一花ケ崎村《割書:黒印三石禅宗曹洞派 |本寺吉田龍拈寺》 橋北山正林寺
一小池村《割書:寄付田六石三斗七合小笠原山州 ̄ヨリ |本寺右同》 塩満山潮音寺
一橋良村《割書:黒印二石禅宗開山派 |本寺嵩山村正宗寺》 龍洞山正光寺
一小浜村《割書:黒印三石右同宗|本寺小松原村東観音寺》 宝樹山万福寺
一牟呂村《割書:黒印五石|本寺右同》 瑞雲山真福寺
一同村《割書:寺領三石真言宗古義 |本寺赤岩村法言寺》 西福山坂津寺
一同村《割書:黒印二石禅宗曹洞派 |本寺吉田龍拈寺》 玉龍山楽法寺
一草間村《割書:黒印二石|本寺右同》 松嶽山大応院
一二連木村《割書:寺領三十六石七斗七升右同宗開基克|甫和尚本寺信州松本全久院松平丹波|守廟》仙寿山全久院
一同村《割書:小笠原山州寄付田正保四丁亥建立禅宗|臨済派本寺京東福寺山城守以来代二廟 》 万年山臨済寺
一二川《割書:黒印二石禅宗曹洞派|本寺遠州白須賀増法寺》 二川山松音寺
一雲谷村《割書:寺領百石真言宗古義文治年間中|興化積和尚本寺紀州伊都郡高|野平等院》 船形山普門寺
一中原村《割書:除地六石四斗三升五合禅宗曹洞派 |本寺吉田龍拈寺》 立岩山原中寺
一高足村《割書:寺領八石禅宗開山派 |本寺小松原村東観音寺》 清源山円通寺
一同村《割書:寺領三石六斗内《割書:二石ハ円通寺十石内|一石六斗氏神八石内》|本寺右同》高足山紫雲庵
一野依村《割書:黒印三石|本寺右同》 少林山嵩山寺
一同村《割書:黒印二石|本寺右同》 陽光山東雲院
一大崎村《割書:黒印三石禅宗曹洞派 |本寺伊奈村東漸寺》 大崎山江福院
一同村《割書:領主中島氏寄附田右同宗 |本寺中島村長円寺》 海雲山龍源院
一大津村《割書:寺領三十五石禅宗開山派開基 |大暁禅師本寺京都妙心寺》 長松山大平寺
一同村《割書:御朱印廿二石余内十七石寺領右|同宗本寺同村大平寺》 天香山桂昌寺
一同村五石訣《割書:呑江山祥雲庵《割書:一石|》金福山大雲庵《割書:一石|》熊野山安養寺《割書:二石|》|薬王山多門院《割書:六斗|》聖谷山慈洞庵《割書:四斗|》右大平 ̄ノ末寺》
一杉山村《割書:黒印二石禅宗曹洞派開基州船和尚 |本寺吉田龍拈寺》和泉山長慶寺
一同村《割書:黒印三石右同宗開山横外惟俊和尚 |本寺岡崎龍海院》 龍香山全福寺
一長仙寺村《割書:除地二十六石真言宗古義 |本寺京都仁和寺》 東高山長仙寺
一根田村《割書:寺領五石禅宗曹洞寺 |本寺青津村伝法寺》 龍昌山光福寺
一(神戸郷)松本村《割書:寺領七石真言宗古義 |本寺遠州摩訶耶寺》 久宝山松本寺
一(同)青津村《割書:寺領五石禅宗曹洞派 |本寺大久保村長興寺》 舜田山伝法寺
一/新美村(ニヰノミ[朱字])《割書:寺領三石高田宗|本寺勢州一身田専修寺》 三霊山西光寺
《割書: |同》
一添田村《割書:寺領三石禅宗曹洞派 |本寺青津村伝法寺》 正楽寺
一同村《割書:寺領五石禅宗曹洞派 |本寺青津村伝法寺》 大乗院
一田原《割書:寺領五石右同宗開基天庵和尚 |本寺大久保村長興寺》 蔵王山龍門寺
一同所《割書:寺領五石浄土宗鎮西派|本寺江戸増上寺》 弁天山城宝寺
一同所《割書:城主三宅備前守菩提所寄付田 |禅宗曹洞派本寺大沢龍渓院》 梅坪山霊岩寺
一同所《割書:寺領五石右同宗|本寺大久保村長興寺 》 田原山慶雲寺
一同所《割書:寺領三石日蓮宗|本寺遠州吉美村妙立寺》 真浄山当行寺
一加治村《割書:寺領三石高田宗|本寺新美村西光寺》 黒川山浄光寺
一大久保村《割書:寺領百石禅宗曹洞輪番所開山春崗 |和尚本寺大沢龍渓院三南祥山大通|三派》龍雲山長興寺
一野田村《割書:寺領十石右同宗|本寺音津村伝法寺》 竜谷山運昌寺
一同村《割書:寺領三石右同宗 |本寺右同》 橋田山宝雲寺
一同村《割書:寺領二石|本寺右同》 陽田山法光寺
一同村《割書:寺領十五石日蓮宗|本寺遠州吉美村妙立寺》 柳橋山法花寺
一同村《割書:寺領五石一向宗|本寺春崎村勝鬘寺》 白雲山西円寺
一同村《割書:寺領三石右同宗|本寺吉田誓念寺 》 野林山安楽寺
一芦村《割書:寺領三石禅宗曹洞派 》 正覚山長楽寺
一畠村《割書:寺領三石浄土宗鎮西派》 清凉院
一山田村《割書:寺領百十七石四斗天台宗 |本寺比叡山》 吉祥山泉福寺
一五十子村《割書:除地五石禅宗曹洞派 |本寺堀切村常光寺》 瑠璃山円通院
一同村《割書:除地五石禅宗曹洞派 |本寺右同》 白龍山渓泉庵
一堀切村《割書:寺領二十六石七斗右同宗 |本寺遠州浜松普済寺》 松霊山常光寺
一和地村《割書:寺領三石右同宗|本寺堀切村常光寺》 金剛山法釈寺
一赤羽根《割書:寺領五石右同宗 |本寺右同》 金能寺
一高松村《割書:寺領五石右同宗 |本寺浜松普済寺》 瀧涌山法蔵院
一赤沢村《割書:寺領三石右同宗 |本寺田原龍門寺》 大円寺
一小松原村《割書:寺領百二石禅宗開山派|本寺京都妙心寺》小松原山東観音寺
設楽郡【朱字】《割書:此郡ハ延喜三年八月十三日|宝飫郡ヲ割テ定タル也》
一門谷村《割書:寺領千三百五十石顕密両宗院 |号勝岳院無本寺両学頭二院》煙厳山鳳来寺
《割書:衆徒十二坊医王院《割書:真言|学頭》松高院《割書:天台|学頭》等覚院《割書:天》円琳院《割書:真》日輪院《割書:真》藤本|院《割書:真》岩本院《割書:天》一乗院《割書:真》法花院《割書:真》月蔵院《割書:真》不動院《割書:天》増道院《割書:天》|実泉院《割書:天》般若院《割書:天》》
一長篠村《割書:除地水田一町禅宗曹洞派 |本寺大洞村泉龍院》 長篠山医王寺
一下田村《割書:寺領五石右同宗|本寺仁連木村全久院》 喜運山長養院
一津具村《割書:寺領十五石右同宗|本寺志摩国鳥羽城安寺》 白鳥山金龍寺
一名倉村《割書:寺領十八石禅宗開山派|本寺旙豆郡吉良花蔵寺》 大蔵寺
一大和田村《割書:菅沼氏寄附田九石右同宗|本寺京都妙心寺》 慶雲寺
一門前村《割書:寺領七石右同宗|本寺吉良庄花蔵寺》 龍安山増瑞寺
一大洞村《割書:寺領廿石禅宗曹洞輪番所開山|門庵和尚本寺大沢龍渓院希
|声琴室光国三派》 大洞山泉龍院
三州島名
一竹島 一祠在之不相村ノ氏神也三弁天ノ一 ̄ニ而風景佳也
一大島 小島 ̄ニ対而 ̄ノ名也又小島ハ大島 ̄ニ対シテノ名也
一仏島 巌立並 ̄シ而千体仏ノ如 ̄シ隠顕ハ潮汐 ̄ノ満干 ̄ニ随也
一小島 右ニ記ス以上ノ三島ハ三谷村属スル也
一蝿田島 西浦村 ̄ニ属ス松樹木鬱々トシタルヲ御前ト云フ雪中
ニモ蝿有リ
一弁才天島 旙豆郡旙豆村ニ属ス雑樹茂リタル中ニ弁天
ノ祠在之三弁天ノ一也
一梶島 宮崎村ノ沖ニ有異云 貝(カイ)島
一作久島 三国三島ノ一也三州ニ属東南ニ小島アリ竹木
繁茂シタル中ニ弁天ノ祠有リ三州三弁天ト云
弘法大師彫刻ノ霊像三弁天ノ第一也雌島
雄島其外寺院多シ
日間賀島ハ尾州ニ属ス三国三島ノ一也
篠島ハ勢州ニ属ス三国三島ノ一也今代為知行
属【ママ】州ニ属ス
一竜宮島 窟屋穴蔵渥美郡日出村ニ在
一飛馬島 渥美郡片浜波瀬ノ沖ニ在
一亀島 宝飫郡拾石村ニ属《割書:俗ニ志州神島ヲ云_二亀島_一 ̄ハ非也|【見消ち・非也】》
一西浜田坪 渥美郡中山村ニ属ス
一 具佐(カサ)島 非_レ島在渥美郡浦村山也
一老津島 出名所記渥美郡大津大崎云洲崎
一青木島 同断
一座敷島 同断
景物
一四郡漁舟 《割書:碧海旙豆宝飫|渥美四郡外無海》 一牟呂漁火 浦流(ウラツタヒノ)塩屋
一坪野洲怪火《割書:御津川之下也|》 一六条瀉海人《割書:渥美郡海|》
三州五箇湊
御津湊《割書:始孝元帝行-_二幸于当国_一之日奉|レ寄_二鷁首於此津_一因_レ茲号_二御津湊_一》後埋_二其湊_一無_二
潮汐期_一絶_二廻船回船出入之便_一寛永十二年御代官鳥山鈴木
氏定_二 五箇所湊_一曰大浜曰鷲塚曰平坂曰犬飼曰御馬是
三河国土産名物器財部
一碧海郡 大浜 ̄ノ鱒刈谷 ̄ノ魚同酒重原土器
一播豆郡 佐久島 ̄ノ海鼠腸同 小海蘿(コブノリ)高爪(タカノツメ)鹿尾藻(ヒジキ)
錆(サビ)石小島 ̄ノ竜宮鯉
一加茂郡 松平 ̄ノ漬松茸同漬蕨 挙母 ̄ノ綿 足助 ̄ノ紙漉
一額田郡 岩堀菱【?】《割書:有角|二ツ》同鮒平口 ̄ノ魚浦辺 ̄ノ糄(□キ) 米(コメ) 大平 ̄ノ
鮎宮崎 ̄ノ鮎羽栗山 ̄ノ雲母山綱山 ̄ノ雲母岡崎 ̄ノ
弦(ツル)差(サシ)菅生 ̄ノ冶工
一宝飫郡 穂蓼《割書:被穂生至|芒種盛也》前芝 ̄ノ白魚御馬 ̄ノ蛎(カキ)高磯
苔同柴胡犬飼 ̄ノ蟶(マテ)松菜大島 ̄ノ小海蘿竹
島 ̄ノ具(貝)蜊同 海松(ミル)御津 ̄ノ蒪菜(シユンサイ)《割書:一名奴|名【見消ち・菜】葉》金谷 ̄ノ
【又十八】
冶工篠田 ̄ノ土器造
一八名郡 大野 ̄ノ硯石 足代紙《割書:作吉田|》温泉《割書:能止瀬|今代》石灰《割書:嵩山|》
一渥美郡 和地 雅海藻(チカイサウ) 五拾子 ̄ノ碁石同石貝《割書:世云|忘貝》同防風
【ワカメ】
亀山 ̄ノ蓮根大崎串蜊飛馬島駒同蜊貝同
藻江沢(モツク)小海蘿田原 ̄ノ刀鍛冶《割書:田原文珠|今世断絶》同 鐔(ツハ)鍛冶
《割書:名赤松|同上》燧石《割書:火打坂二|有リ》
一設楽郡 河合 ̄ノ砥石《割書:世云|三百白》鉄砂《割書:俗名キリコ|古戸山ヨリ出》木葉石(コノハイシ)《割書:長江村黒|瀬山ヨリ出》
作手 ̄ノ蕨水晶石《割書:下津具山武莭山|段戸山ヨリ出》鏃(ヤシリ)鍛冶《割書:□曰竹下五郎|郎今断絶》
皺(モロ)文(ヲロシ)《割書:以牛草造ヒキハダ也|今断絶》カリヤス《割書:津具|ヨリ出》石具《割書:方瀬山|ヨリ出》
辛灰《割書:ケヤキノ葉|カタギノ類ヲ|以ヤキ用》蕨粉《割書:羽布村|ヨリ出》
諸木部
一段戸山《割書:設楽郡 |》松槻桧出之
一神田山《割書:同郡 |》松桧出之
一川合山《割書:同郡 |》松桧槻雑木出之
一大谷山《割書:同郡 |》松桧槻雑木出之
一 双瀬(ナラセ)山《割書:同郡 |》松桧雑木出之
一大高山《割書:賀茂郡 |》松桧雑木出之
一大野山《割書:八名郡 |》槻雑木出之
【右丁】
三河二葉松《割書:上巻終》
全二
ハウシ
申二八九
ミしユメ
御ムし【??】
【表紙】
【右上に整理用三段ラベル】
X355|6|2 止【ラベル枠外】史料館
【左上に題箋】
三河国二葉松
【右頁白紙】
三河国二葉松下巻
三州古城紀 《割書:△東泉坊手帳印|○白/雪(セツ)翁手帳印》
碧海郡
一刈谷城 《割書:△水野右衛門大夫忠政従尾州諸川移_二当城_一嫡男下野守| 信元為_二信長_一生害二男藤九郎信近三州一揆之節守_二猿獄》
《割書: 砦_一 三男和泉守忠重始名藤十郎為_二加賀井弥八_一切害| 忠重嫡男六左衛門勝成家督任美作守替_二福山_一》
一大浜村古城 《割書:△稲熊氏住後天野孫三郎天文年中五十貫領次永| 井伝八郎直勝或伝十郎始当村名主永【朱書「長カ」】田平右衛門| 子也信康君 ̄ヘ始仕官》
一棚尾村古屋敷《割書:△熊谷若狭守|》
一/米津(ヨネキツ)村古城 《割書:○米津藤大夫道壽△同藤蔵勝政法名浄心| 嫡男小大夫政信号_二弁_一於味方原討死異》
《割書:藤大夫弟トモ有|》
一藤井村古城 《割書:長親公四男△松平彦四郎利長天文九年六月六日|於安祥討死△嫡男勘四郎信一後改伊豆守》
一三木村古城 《割書:清康御弟松平十郎三郎康孝/早世(可換)同蔵人信孝天文十|二年六月落城走尾州又△村越茂介此処住》
一木戸村古城 《割書:二箇所之内一箇所社地ト成△石川式部成瀬/藏藤(藤蔵)【「藏藤」見せ消ち】|正義於味方原討死△同藤九郎》
一中島村古城 《割書:二箇所在之△由良平八郎△同與大郎△板倉禅正重定|永禄四年落城△松平大炊助好景於/長良(善明提武)縄手討死|中島與五郎二代住本名河部氏四條トモ云》
一在家村古屋敷《割書:△石川大隅守|》
一上和田村古屋敷《割書:△大久保五郎左衛門忠勝法名浄玄大久保党代々| 住之》
一同村古屋敷 《割書: 親忠君之五男刑部丞親光子息△兵庫親| 生松平氏》
一下和田村古城《割書:△佐野右馬助天文年中清康公エ仕官加藤帯刀| 又住之》
一土井村古屋敷《割書:△本多彦次郎信重△嫡男豊後守広孝神君ヨリ| 貝福駒場永良ヲ賜フ》
一中郷村古屋敷《割書: 本多刑部左衛門出生近藤場左衛門|》
一青野村古城 《割書:長親公六男△松平甚太郎義春於日近村討死息|右京亮義忠》
一/合歓(ネブノキ)木村古屋敷《割書:松平蔵人信孝△同金助△犬塚太田等出生|》
一河島村古城 《割書:△太田主計△同左馬助子孫今水戸家ニ仕官|》
一小川七村古城《割書:△石川左近将監正安△同與八郎△同備前△同修理|△同右近△同安芸守清兼父左近太夫忠輔ト云|△加藤播磨守清久》
一同村古城 《割書:△本多宗左衛門明應年間親忠公成_二聟養子_一子孫佐| 渡守正信始名弥八郎△同三孫出生》
一東端村古城 《割書:在二箇所内一箇所ハ屋敷也△永井右近直勝 神谷|與七郎》
一小垣江村古屋敷《割書:△神谷與次郎|》
一浮谷村古城 《割書:△原右エ門△酒井左エ門此所昔在合戦|》
一渡苅村古城 《割書:△深/溝(津)藤太夫|》
一定宗村古城 《割書:△阿部四郎五郎忠政|》
一橋目村古城 《割書:△山内源内|》
一小針村古城 《割書:△阿部孫四郎後任摂津守従_二此処_一移_二 六名_一|△同蔵人》
一同村古屋敷 《割書:△上田七郎兵衛|》
一柿崎村古屋鋪《割書:△山田八蔵世云訴人八蔵【朱書】事見テ岡崎記|》
一宇頭村古城 《割書:在二箇所内一箇処ハ屋敷也今伝云/芳(宝)阿(下出)弥屋|鋪△渥美弥三郎》
一新堀村古屋鋪 《割書:△長坂血鎗九郎信次任丹波守|》
一矢作村古城 《割書:在二箇所内一箇処屋敷△島田禅正△同出雲守|又ハ平蔵トモ世ニ号両島田》
一渡村古城 《割書:鳥居中務△同伊賀守忠吉代々住|今村彦兵衛山田清七等出生》
一牧内村古城 《割書:△一色左京《割書:△|○》牧内左京進忠高異云松平|》
一佐崎村古城 《割書:在三屋鋪△松平三左エ門親久《割書:父三蔵|直勝》同三蔵信次永|禄六年落城△太田党代々右同心也安藤藤治右エ門|出生》
一桜井村古城 《割書:小浦喜平次△松平玄蕃助親房法名随身斎信定叔父|也△松平内膳正信定家重家次忠正忠吉家広マテ|六代在城》
一同村姫 ̄ノ城 《割書:△内藤弥次右エ門家長嫡男喜一郎信成|》
一同村堀内城 《割書:△堀小三郎|》
一同村古屋敷 《割書: 浅井六之助|》
一坂戸村古城 《割書:△長坂大炊入道△平岩七之助出生|》
一古井村古屋敷《割書:△石原惣左エ門○或惣兵衛トモ細井左馬助守世| 従播豆郡細池村移此所△同彦左エ門永禄年| 間移六名村》
一泉村古屋鋪 《割書: 鳥居霍【鶴】之助田中五左衛門又石川常山出生也|》
一重原村古城 《割書:△山岡伝五郎或河内守天文廿三年正月今川| 勢攻落》
一池鯉鮒堀構 《割書: 西之町端ニ在△御茶屋跡也云云|》
一境村古城 《割書:△酒井與右エ門昔此屋鋪ニ有井水甘美ニシテ酒ノ| 如シ世挙テ酒井ト云境酒井ニ書替名字ト成ト云云》
一明知村古城 《割書:△原田勘兵衛|》
一宮口村古城 《割書:△加納孫五郎|》
一押鴨村古城 《割書:△松平中務同宮内少輔|》
一上野上村古城《割書: 八町程隔而又有古城跡砦手△戸田小法師戸| 田ハ三條家庶流尾州戸田道エ配流其後三州上野| 村エ移ル△同孫四郎家光時代移同国田原其| 後△酒井将監忠尚住左衛門尉忠次カ兄也永| 禄六年落城》
一同下村古城 《割書: 内藤弥次右衛門清長同四郎左エ門正成|》
一大友村古城 《割書:△石川三蔵△同右衛門八|》
一本郷村古城 《割書: 植村新六栄康後任出羽守本名土岐氏源三| 郎持益濃州ヨリ遠州植村ニ住明應年中号| 植村氏三州来而長親公ニ仕官其子新六氏| 義其息新六栄康ハ清康公ニ仕官》
一富永村古屋敷 《割書: 山田彦八|》
一筒張村古城 《割書:△小栗仁右衛門吉忠其外小栗党又山田曽| 右エ門》
一桑子村古城 《割書: 阿部囚獄《割書:古代|城主》△安藤薩摩守念清房| 今高田宗妙眼寺ハ此子孫ト云△同帯刀| 代々在城》
一池端村古城 《割書:△平岩左京進△丹羽勘介氏定出生|》
一安條古城 《割書: 云城森△松平右京亮親忠公△嫡出雲守長親| 公△同蔵人信忠公△同次郎三郎清康公四代御在》
《割書:城天正十八年 神君関東御入国迄ノ分ヲ号安祥御譜代|衆△安祥左馬助長家ハ親忠六男也天文年中織田合戦ノ節討死也》
一同村古城 《割書:△多門縫殿助重則△酒井左衛門|》
一高木村古城 《割書: 細井左馬助守世吉良家高木善四郎清秀|》
一福釜村古城 《割書:△松平右京進親盛△同息右京進親次於宇利| 討死弘治二年塞築是所△置酒井忠次給》
一山崎村塞 《割書: 在二箇所松平蔵人信孝築之|》
一牛田村古城 《割書:○牛田玄蕃水野右エ門大夫家臣今有子孫| 又中古頼朝卿時代ニモ在城》
一今村古城 《割書:△松原吉之丞後名一学息男下総守|》
一若林村古城 《割書:△本田四郎左エ門是ハ書_二本田_一ヨシ|》
一竹村古屋敷 《割書:△鈴木七郎三州鈴木氏元祖|》
一家原村古屋敷《割書: 家(江)原【朱書:下出可考】丹波守於桶狭間討死|》
一大福寺古屋敷《割書:△天野六蔵|》
一三輪村古城 《割書:○浅井次兵衛道介|》
一岩根村古城 《割書:所不詳△加藤掃部助正成明應年間始謁長親|而有君臣約》
一野幡村古城 《割書: 佐野右馬助天文年中清康君エ仕官|》
一赤渋村古城 《割書:△熊沢一学|》
一半城土村古城《割書: 稲垣雅楽助一|》
一篠目村古城 《割書: 城主不知|》
播豆郡
一寺部掛村古城《割書:△小笠原新九郎康元同摂津守信重|》
一同所古城 《割書: 小笠原左衛門西城共 神君御出陣| 白銀八郎治出生》
一六栗村古城 《割書:△夏目次郎右エ門吉信永禄六年一揆ノ節大津土左| 衛門乙部八兵衛ト共ニ籠松平主殿助攻落之》
一野場村古城 《割書:△夏目次郎右エ門屋鋪也△山本法心息新八息弥左| 衛門》
一浅井村古城 《割書: 在二箇所清康御弟△松平十郎三郎康孝ハ西ノ| 古城△大津土左エ門ハ東古城也》
一小島村古城 《割書: 鷹部屋鉾之助伊奈市左エ門忠次|》
一永良村古屋敷 《割書:加藤三之丞△息左馬助喜明出生加藤ハ|主殿カ同心也》
一須美村古城《割書: 鵜殿十郎三郎清忠後改康孝清康公舎弟|》
一江原村古城《割書:△江(家)原【朱書:出上可考】丹波守於桶狭間討死息孫三郎|》
一室村古城 《割書:△富永半五郎永禄五年九月十三日討死|》
一鳥羽村古城《割書: 在二箇所△大山蔵主△岡田十内|》
一中野村古城《割書:△斉藤宮内吉良家臣|》
一播豆村古城《割書:△小笠原安芸守長浮△同新九郎長晟後改摂津| 守同息権之丞領五千石同息安芸守永禄四年ヨリ賜| 羽豆形原》
一東城駮目村古城《割書:△吉良義氏ヨリ十五代在城永禄六年至吉良| 義諦滅亡 神君ヨリ島居伊賀守松平勘助被| 入置》
一同所茶磨山古城《割書: 対城城主不知△大高禅正|》
一鵜 ̄ケ池村古城《割書:△富永右京|》
一鉢/尾(尻)村古城《割書:△高須某|》
一岡山村古城《割書:△富永半五郎勝光|》
一対籠村古城《割書: 不知城主|》
一津平村古城《割書: 松井左近忠次元ハ東條甚太郎康忠之老臣也| 神君ヨリ賜此地後改松平周防守》
一小牧砦 《割書:△本多豊後守広/高(孝)|》
一糟塚砦 《割書:△小笠原三九郎長茲安芸守弟也家武村ノ内ニアリ|》
一朝国砦 《割書:△松井左近松平摂津守|》
一羽角村古屋敷《割書:内藤四郎左エ門正成|》
一赤曽根村 《割書:△高橋與助|》
一今川村古城 《割書:古代△今川氏今ニ在墓松|》
一長縄村古城 《割書:△大河内小見子孫今紀州家仕官|》
一矢田村三箇所古城《割書:△高木矢田次郎△竹田勘八郎△太田庄左エ門己上三将| 吉良ノ幕下也鍋田助左エ門モ此処也》
一徳永村古屋敷 《割書:△徳永法印△同治左エ門異ニ左馬助壽昌|》
一巨海村古城 《割書:△巨海新左エ門大河内備中守弟也永正十一年八月| 於遠州引馬城討死或高橋氏弟トモ云》
一寺津村古城 《割書:△大河内金兵衛息男右エ門太夫正綱出生後長沢| 住人松平甚三郎正次養子ト成》
一戸ヶ崎村古城《割書:△戸ヶ崎某天文年中断絶|》
一八面村古城《割書:△荒川甲斐守頼持始 神君御妹聟也御敵ト成永| 禄七年落城以後佐々木羕禎ヲ頼美濃近江境ニ| テ討死》
一西町古城《割書:△氏家内膳正或云慶長五年去桒名城而後仕| 大坂而号荻道喜元和元年於大坂自害或云内| 膳正行広濃州氏家常陸介孫也不審》
一西尾城《割書: 号西條城△吉良義虎マテ代々居住次牧野右馬允居| 之後 神君ヨリ酒井雅楽助賜中島永良西郷湊》
賀茂郡
一挙母城 《割書:△中條出羽判官秀長有棟札△阿部某|》
一梅坪古城《割書:△三宅右近正貞息男惣右エ門康貞|》
一伊保村古城 《割書:△三宅禅正或加賀守丹羽勘介氏信| 慶長年中領一万石》
一矢草村古城 《割書:△那須惣左エ門△中條弥七郎△阿部孫四郎中條将| 監又○小栗左京モ住》
一広見村古城 《割書:△中條将監季長後尾州織田信長ニ属|》
一猿投村古城 《割書: 城主不知|》
一東広瀬村古城《割書:○三宅右衛門太夫息摂津守《割書:実父朝|倉義景》天正年| 中討死》
一西広瀬村古城《割書: 佐久間左京亮信直《割書:信盛|兄》猿投棟札ニ有三| 国志ニ佐久間左エ門尉広瀬領主ト有次ニ△| 三宅三太夫正光後因幡守》
一同村岩城主膳《割書: 三宅右エ門太夫家人|》
一同村岩松右衛門尉直成《割書: 佃次郎兵衛十成父也此所ニ卒|》
一富田村古城 《割書: 城主不知|》
一藤澤村古屋敷《割書:△三宅下総守|》
一河口村古屋敷《割書:△川口源左エ門|》 一乙ヶ原村古城《割書:△岡山平蔵|》
一渡合村古屋敷《割書:△原牛之助|》
小原郷
一大草村古城 《割書: 大草村住鈴木嘉心同名吉弥是ハ名主也|△鈴木越中守重実是ハ足助城主鈴木越後守》
《割書: 弟也広忠公御養娘市場殿之実父也| 鈴木修理出生》
同
一市場村古城 《割書:△鈴木越中守重実支配|》
一田代村古城 《割書:△森外記○松平主税或甚五左エ門天正二年勝|頼被攻落城》
一永太郎村古城《割書:△長田中将二村久兵衛尹重是ハ鈴木越中守| 家人二村太郎左エ門善在カ弟也》
一仁木村篠平砦《割書:○城主不知|》
一大蔵村古屋敷《割書:○原田四郎左エ門|》
一寺部村古城 《割書:△鈴木日向守重則代々住之永禄八年落城走| 駿州高橋七十騎ト云組有》
一岩倉村古屋敷《割書: 天野変右エ門○岩倉隼人助| ○戸田又久》
一中垣内村古屋敷《割書:△宇野安左エ門|》
一宮石村古城 《割書: 松平加賀右エ門岡崎松平大膳亮庶子也|》
一龍脇村古城 《割書:△松平三郎太夫乗清《割書:親忠男乗|元二男也》同出雲守| 乗高乗清五代孫助十郎正勝於大坂討死》
一羽布村古城 《割書: 城主不知|》
一大桑村古屋鋪《割書:△河合弥十郎|》
一足利村古屋鋪《割書:○鈴木忠兵衛○原田矢弥五平天正二年為武| 田落城》【行頭に朱で書入:図ニナシ】
一野口村喜志古城《割書:○奥平庄左エ門兼明戸田又久|》
一/前(赤カ)原村古屋敷《割書:△松澤兵庫|》
一九久平村古城《割書:△鈴木市兵衛《割書:子孫当代|領五百石》本多中務|》
一林添村古屋鋪《割書: 薮田源五忠元|》
一大給村古城 《割書: 長坂新左エ門次△松平源次郎乗元是ハ親忠公| 二男天文年間住之後和泉守トモ左近トモ目トモ云》
一松平村古城 《割書: 本丸二ノ丸ノ跡今ニ存当時太郎左エ門屋敷ハ別ニ有| 之由△松平太郎左エ門親氏公》
一大沼村古城 《割書:○木村東見入道俗名安信息新九郎或半七郎天正| 二年勝頼攻落之落城》
一大林村古屋敷《割書:△河合/谷斗(ヤツト)兵衛子孫松平越中守仕官| 奥平家臣云云》
一/酒(シヤチ)呑(ノミ)村古城《割書: 古代△鈴木善阿弥後△鈴木下野守△息男日向| 守△息男監物代々寺部領主ヨリ支配》
一/則定(酒呑小名トモ云)村古城 《割書:△鈴木三郎九郎当代領千石同友之助|》
一同村古屋敷 《割書:椎ノ木|ト云処》《割書:鈴木十内|》 一酒呑村古屋鋪《割書:○松平縫殿助|》
一小田村古屋敷《割書:○梶次郎兵衛|》 一四松村古屋鋪《割書:○鈴木九左エ門| 当代領二百石》
一浅/谷(ガイ)村古城《割書:△簗瀬九郎左エ門或太郎法名道悦天正二年為| 武田落城》
一牛地村古屋敷《割書:△安藤宇右エ門守春駒寺観音堂建立年号久| 者也》
一牛野村古屋鋪《割書:△高橋蔵人或曰中| 根美作守在城云云》 一/滝(鷹カ)見村古屋鋪《割書:○鈴木権之助|》
一矢並村古城 《割書: 鈴木七郎従紀州始而来従此所移竹村云云△鈴木下| 野守住居同所大平寺代々菩提所也次外山庄九郎永禄| 元年得替次○水野作右エ門全長》
一/国(クニ)谷(ヤ)村古屋鋪《割書:○梶光之助|》 一八桑村古屋敷《割書: 鈴木甚五左エ門| 天正二年落城》
一久木村古屋鋪《割書:○原田藤左エ門|》 一大/島(シマ)村古屋敷《割書: 鈴木久右エ門|》
一/手(タ)振(ブリ)村古城 《割書:○林五郎左エ門義豊 九生六郎氏光|》
一/今朝(ケサ)平(タヒラ)村古屋敷《割書:○原田権左衛門|》
一井ノ口村古城 《割書: 戸田右エ門尉忠勝|》
一足助村豊楽古城《割書:○中條左エ門金満|》
一同所飯森山古城《割書: 足助次郎左エ門尉重高先祖重秀鎮西八郎為| 朝ノ聟》
一同所高村山古城《割書: 星野刑部左エ門尉正頼亍今屋敷形アリ|》
一同所古城 《割書: 在二箇処△深見中将後△鈴木越後守△息伊賀守|△息男喜三郎天正二年勝頼攻落城或云元亀二申年》
《割書:武田 ̄エ攻落下條伊豆守芦田下野以下四頭籠置天正元酉年|濃州岩村城 ̄エ移其跡 ̄エ小幡又兵衛七十六騎籠居天正四年|御味方 ̄エ攻落トモ》
一近岡村古屋鋪 《割書:○鈴木三郎九郎父忠兵衛○同名九太夫正三|》
一【朱で書入:、】櫛原村古城 《割書:○遠山與五郎元亀二申年合戦秋山攻落之|》
一【朱で書入:、】矢城村古城 《割書:○原田源左エ門天正二年勝頼攻落之|》
【朱で書入:、点ノ五村図ニナシ 又村名寄ニモナシ】
一【朱で書入:、】佐々薗村古屋敷《割書:△成瀬小義右エ門△同団名右エ門|》
一【朱で書入:、】二重栗村古屋敷《割書: 親氏公時代○二重栗内記住居後攻松平和泉守| 嫡男右近ト云子孫松平半兵衛於味方原討死子孫絶》
一【朱で書入:、】長坂村古城 《割書: 在松平村近所△松平源次郎|》【行頭に朱で書入:長坂ハ村名寄ニハ見エ■】
額田郡
一岡崎城《割書: 往古号菅生村地△大草青海入道築之龍ノ蟠リタル| 形/尾(ヲ)カ/頭(サキ)カ知スト云和訓ニテ岡崎ト号今以本丸ノ内青》
《割書: 海堀ト云所有子孫△西郷禅正左エ門無嗣安條ヨリ養子是ヲ△| 松平禅正左エ門信貞ト云後又無嗣△清康公為聟養子△清康| 公△広忠公△家康公三代御在城云云》
一同所菅生村古屋敷《割書: 万性寺領之内也 倉橋惣左エ門或○宗三郎トモ|△宗兵衛トモ今田畑小藪ノ中ニ墓松有》
一同所古屋鋪 《割書: 万性寺領内|○安藤孫四郎》 一同断屋敷 《割書:○田中五郎右エ門於味方| 原討死》
一能見村古城 《割書: 松平次郎右エ門重吉△息大隅守重勝息男宮内少| 輔康治重吉ハ神君御幼年ノ比岡崎ノ惣奉行ヲ勤ル》
一岩津村古城 《割書: 岩戸七城之内ト云在今信光明寺山林| 松平和泉守信光公親氏男也》
一同村古城 《割書: 在岩津村西北今妙信寺裏也|△松平源七郎親則或○弥次郎移長沢△同大膳》
一仁木村古城 《割書: 仁木越後守義長|》
一細川村古城 《割書: 在御前田云処△細川讃岐守△同武蔵守○松平少目| 和泉守乗元コト》
一同所古城 《割書: 根古屋云所也△松平久助《割書:和泉守親|乗家臣》△同源五郎|△上平三左エ門城旧跡不分明》
一西蔵前村古城《割書: 松平右エ門《割書:次郎右エ門|弟也》二代在城|》
一東蔵前村古城《割書: 内藤弥次右エ門家長桜井姫城藤/川(井)城当城| 三ヶ所持分》
一百々村古城 《割書: 青山喜太夫同大膳先祖ヨリ在城|》
一阿知和村古城《割書: 松平右近|》
一保久村古城 《割書:○山下庄左エ門△早(日下)部一徳斎|》
一米河内村古城《割書: 倉地平左エ門|》
一伊賀村古城 《割書:△松平志摩守康安 禅正左衛門五代|》
一伊田村古城 《割書:△酒井左エ門尉康忠文亀二壬戌正月十六日卒△息左| 衛門忠治△同下総守慎城》
岡崎之内
一川崎村古屋敷《割書: 大原左近右エ門息源左エ門|》
一大井野村古城《割書:○柴田左京|》
一箱柳村古城 《割書: 中根肥後守忠良同助市|》
一古呂村古屋敷《割書: 中根新左エ門|》
一瀧村古屋敷 《割書: 松平出雲大給之庶子亀井坊ノ子也|》
一田口村古屋敷《割書: 中根七九郎並中根党|》
一井ヶ谷村古屋敷《割書:柴田七九郎重政|》
日近郷
一毛呂村古城 《割書:△大山市蔵茂呂兵庫頭政茂大永六年四月十八日| 為清康公落城》
同
一富尾村古城 《割書:△荻野勘兵衛|》
同
一麻生村古屋鋪《割書: 親氏公時代麻生内蔵助○天野弥九郎《割書:中山七名|領主》| 倉橋太郎左エ門モ住》
同
一名内村古城 《割書:中古△高播磨守日近郷十二箇村ニ領次三州惣|持寺領ト成次奥平監物同久兵衛負友弘治二年|元康公初陣》
一同所古城 《割書:竹内彦太夫△山内角平|》
同
一柳田村古城 《割書: 親氏公時代山内氏任△鈴木氏○横山右エ門或| 五郎兵衛トモ|》
一大河村古城 《割書: 熊谷武蔵守家臣ニ竹内九藤平ト云士有|》
一梶谷村古屋鋪《割書:△天野源太郎|》
一岩戸村古城 《割書: 号奥岩戸岩戸大膳恭親公討之後天野麦右エ門| 子息小麦右エ門亍今尾州家ニ仕官》
一秦梨子村古城《割書: 在二箇所栗生将監永信息長蔵弘治二年| 合戦後酒井図書》
一保母村古城《割書: 松平大炊助好景△同喜蔵|》
一樫木村古屋敷 《割書:○城主不知|》
一宮崎村稲荷屋敷《割書:△奥平道閑俗名監物貞昌道文父也天正| 四年卒》
一同所亀穴古城《割書:△奥平道文俗名美作守貞勝貞能父也文禄四未| 十月九日卒天正元年為武田押山家三方集番替号滝》
《割書: 山城天正二年八月廿一日田原ヨリ此城ニ来島田村ヲ放| 火シテ貞能父子甲州勢ト戦》
一同所夏山村古城《割書:△奥平但馬△同浄音貞久之二男|》
一同所明見屋敷 《割書:△奥平十郎左エ門|》
一同所中金屋敷 《割書:△奥平與兵衛 修理亮定良三男也|》
一同所田代村古城《割書:△奥平治左エ門 貞久四男|》
一同所黒谷村古城《割書:△黒谷半九郎 後号数馬|》
一同所小代村古城《割書:○奥平甚三郎後天正元年武田ヨリ○浦野源| 之丞置》
一加勝川村古城 《割書:○菅沼正庵《割書:或助十郎|助兵衛》|》 一牧平村古城《割書: 上○同人|》
一大幡村鴻巣古城《割書: 和田兵エ大夫天正二年甲州ヨリ入置之| イニ城伊織トモ》
一羽栗村古屋敷《割書: 筧平三郎後号図書榊原隼之助|》
一桑谷村古城 《割書:△山田藤七郎△松山城守|》
一深溝村古城 《割書: 在二箇所△大場次郎左エ門次△松平又八郎忠/定(景)後| 政大炊助討テ大場従小美村移テ当城大》
《割書: 炊助好景息主殿助伊忠|》
一岩堀村古城《割書:△酒井左エ門|》 一同村古屋敷《割書: 岩堀横應次|》
一鷲田村古城《割書:○筒井将監文禄年中築之△酒井與四郎| 三河記筒井甚蔵貞俊》
一高力村古城《割書:△高力與左エ門貞高岡崎三奉行ヲ勤宇理熊谷| ノ子孫ト云》
一板崎村古城《割書: 天野三郎兵衛康景父ハ三平神主也岡崎三奉行ヲ勤| 加藤佑之丞モ此処出生今代社地ト成》
一大草村古城《割書: 大草青海入道本名西郷氏住後松平七郎或左馬| 允永禄六年岡崎ヨリ被攻落没落或乙部カ同心ト成》
《割書: 云云三浦禅正保房モ住松平七郎没落而後陰謀ノ| 事聞アリ終ニ掠捕ラレ刎首》
一/無(舞)木村古城《割書:△竹尾氏△太田氏△松平氏三家築之ト云|》
一藤川村古城《割書: 内藤弥次右エ門家長|》
一山中村古城《割書: 《割書:松平権兵衛重弘|四郎》天文十六年攻之没落○酒井興| 四郎》
一同所古城 《割書:○福島左馬助晴興|》
一岡村古城 《割書:△池野大学松平蔵人信孝△板倉禅正永禄四年| 神君御出陣○河合勘ヶ由左エ門》
一生田村古城《割書:○酒井彦次郎|》
一小美村古城《割書: 米津氏住松平大炊助忠定攻之落城後△板倉伊| 賀守》
一丸山村古城《割書: 在三箇所一箇所ハ不知△成瀬伊賀守△丸山中務| 外ニ川澄分助川上左エ門久米新四郎此所住》
一欠村古城 《割書: 本多肥後守忠具於味方原討死|》
一大平村古城《割書: 在三箇所△多門越中《割書:本多忠勝臣|味方原討死》△同伝十郎《割書:本多氏|同家人》| 《割書:長篠岩布陣ニテ|武功二之沢ト処ニ城有》△柴田左京同藤三郎後発地藤三郎ト云》
《割書:△本多作左エ門重次岡崎三奉行ヲ勤子孫越前家本多孫太郎此節也|》
一明大寺村古城《割書: 在二箇所一ハ△足利尊氏御殿ト云一ハ平岩ト云一所也|△西郷禅正左エ門築之永享年中西郷禅正左エ門明大》
《割書: 寺村ニ新城ヲ築移ル其後菅生村岡崎ノ城ヲ築ト云|》
一六名村古城 《割書: 在二箇所一ハ不知△鳥居四郎左エ門忠広於味方| 原討死蜂谷半之丞出生》
一戸崎村古屋敷《割書: 榊原武兵衛|》
一羽根村古城 《割書: 在二箇所○大久保七郎右エ門○同甚四郎|》
一春崎村古城 《割書: 在二ヶ所一ハ屋敷○酒井尉殿後○成瀬浄勇| 前》
一明大寺村古屋敷《割書: 兼高長者カ跡也|》
一土呂村古城 《割書: 石川伯耆守数正|》
一坂左右村古城《割書: 都築惣左エ門|》
一浦邉村《割書:棟札|》《割書: 渡部源次兼綱浦辺七郷領主ト有渡部党| 此所ニ多出生》
宝飯郡
一形原村古城 《割書:頼朝卿時代ニモ在城方原下司次郎師光住之|其後松平又七郎家忠息紀伊守家信》
一竹谷村古城 《割書:△松平玄蕃允清善息備後守清宗|》
一西郡蒲村形城《割書:△松平主殿頭忠利松平帯刀清昌|》
一上郷村古城 《割書:△鵜殿長門守長持永禄六年落城以後久松| 佐渡守定俊》
【83コマ目に同じ】
【左丁左肩に付箋】
案【ママ】後風土記永禄五年今川ノ一族鵜殿長照ガ
籠ル所ノ西郡ノ城ヲ松井左近忠次大将トシテ攻落トアリ
然ハ此鵜殿ハ御一族ノ鵜殿家トハ別種ナラムカ
一柏原古屋敷《割書: 鵜殿一庵松平勘八|》
一不相村古城《割書: 城主不知天正年中家康公築之|》
一五井村古城《割書: 松平弥九郎景忠息外記伊昌|》
一大塚村古城《割書: 天文年中岩瀬式部氏成永禄年中|△奥平美作守領》
一丹野村山城《割書: 萩原左エ門佐|》
一西方村古屋敷《割書:△森寺清右エ門忠勝池田家臣|○松平長三郎》
一茂村村古城《割書:△牧主計|》
一新宮山古城《割書: 山田長門守晴政長澤家組衆也忠輝朝臣長| 沢家相続依テ越後趣/糸(イト)魚(イ)川城主領二万石》
《割書: 有故息因幡守父子共自殺|》
一御馬村古城《割書: 細河治部大輔政信酒部河内守時重| 山田藤左エ門池田家臣》
一同村古屋敷《割書: 松平浄感嫡孫彦右エ門|》
一佐脇村古城《割書: 佐脇右京亮明秀カ末孫佐脇刀称太夫後ニ△奥| 平兵庫三浦左馬助義就》
一森村古屋敷《割書:○佐竹刑部太夫寛正元年棟札|》
一久保村古屋敷《割書: 牧野平次永正年中棟札|》
一八幡村古屋敷《割書: 一町田ト云一所ニ在△山本帯刀住異云稲垣帯| 刀△板倉禅正重定此一所砦ヲ守》
一御油古城 《割書:△山下源助始長沢組衆後神君ニ仕官|△林孫八》
一赤坂古屋敷《割書: 今正法寺境内△松平備中守久親住長沢組衆| 松平左京介同市蔵正長住居》
一同所嶽ヶ城《割書: 或云古代草壁王子皇居地也云天武天皇ノ王子也| 大友ノ乱ニ遠州鹿沼ニ趣信州エ移又三州宮地山ニ被移》
《割書: 御座催軍勢ト云|》
一長沢村古城《割書: 南方山城在御殿之北方根元長沢四郎在城四郎ハ富| 田左近カ子也信光公被攻落云云△松平上野介康》
《割書: 忠先祖代々住居|》
一同所/鳥居根(トヤガネ)城《割書: 西ノ端関屋ト云所又関屋ヨリ宮道ニモ古屋敷| 有 ̄リ是南城カ又岩略寺ノ城駿河方七頭篭》
《割書: ○小原藤五郎鎮宗糟谷善兵衛|》
一同所䱇塚古城《割書: 関口刑部/宝(○)徳三年棟札有 信康公外祖父| 関口刑部少輔親永ノ先祖乎》
一萩村古城 《割書: 清家右馬允/嘉(○)吉二年棟札次○内藤十郎市| 次△奥平周防守是奥平ハ七族七人内》
一平/屋(尾カ|○)村古屋敷《割書:△平野氏△片桐氏|》
一野口村古屋敷《割書:△印具甚蔵△板倉主水重茲|》
一市田村古城《割書: 牧野四郎左エ門|》
一豊川村古屋鋪《割書: 頼朝卿幼年時代大江入道定厳住居後| 小笠原少目△水野佐渡守△同八十郎領三千石》
一古宿村古屋鋪《割書: 田辺隼人古代同名民部大夫|》
一鍛冶村古屋鋪《割書: 真木越中守定善同善兵衛|》
一牛久保村古城《割書: 牧野出羽守保成息田三郎成元△右右馬允| 成守》
一同所一色城 《割書:△一色警部少輔秦野全慶牧野古白|》
一同所岸屋鋪 《割書: 稲垣平右エ門重宗法名道善居士|》
一長山村古屋鋪《割書: 在三箇所△岩瀬掃部同名嘉竹| 山本市左エ門》
一篠束村古城 《割書: 今在宿村地境旧趾△西郷内蔵助俊雄同| 彦三》
一小坂井村砦《割書: 号糟塚塞今龍徳院境内也小笠原新九| 郎長晟守之》
一同村古屋敷《割書: 伊奈熊蔵忠次後号五兵衛又改備前守次| 中川勘助安藤弥兵衛》
一伊奈村上島古城《割書: 本多助太夫忠俊△子息隼人正忠次|》
一平井村古屋敷 《割書:△中野五郎太夫○小坂井棟札ニハ中野弥三郎正| 宗此子孫当時井伊掃部頭ニ仕三千石》
一下地村城古屋敷《割書: 石田浄玄|》
一芝屋村古屋敷《割書: 山県三郎兵衛暫忍居ト云|》
一正岡村古屋敷《割書:○牧野伝兵衛成敏|》
一行明村古城 《割書: 星野日向守先祖代々|》
一柑子村古屋敷《割書: 当代妙厳寺領ト成鋤柄百度右エ門松平玄| 蕃家臣トモ息樫右エ門△権田織部後移遠州》
一瀬木村古城《割書: 牧野古曰|》
一三橋村古城《割書: 鎌倉北条時代△飯尾因幡入道住證文有後|△牧野助五郎住之領知一鍬田村ニ助五郎制札存今》
一牧野村古屋敷《割書:△牧野左エ門成時号曰|》
一麻生田村古屋敷《割書: 贄掃部|》
一一宮村砦《割書: 本多百助信俊同名隼人佐弟也|》
一/日下部(クサカベ)村古城《割書: 城主不知|》
ヤリ手山ト云所
一東上村勝川古城《割書: 城主不知|》 一同村古屋鋪《割書: 彦坂九兵衛定次| 異ニ正勝》
一松原村古城 《割書: 城主不知|》
一篠田村古屋敷《割書: 松平兵庫助是ハ長沢上野介舎弟也新城家| 中今泉四郎兵エカ母方祖五代也天正十五丁亥年十》
《割書: 一月大木村天王社棟札有之|》
一足山田村古城《割書:△秋山新九郎|》
一長山村本宮山麓古城《割書: 城主不知|》
一千(チ)両(キリ)村古敷《割書: 岩瀬治部左エ門忠家| 台山ヨリ続キ殿カ谷ト云処古城有之下千両ノ内》
一雨山村古城 《割書:△菅沼新九郎△奥平修理亮弘治二年合戦八月| 四日也七族七人之内》
八名郡
一下條五井村古屋敷《割書: 白井麦右エ門|》
一同所堀内村古屋敷《割書: 天正元年ヨリ同二年マテ両年間菅沼| 新八定盈住居》
一和田村古城《割書: 古代和田民部住後渡部久左エ門永禄年中同息図| 書助浄元亀元卒同息山城守茂》
一高井村古城《割書: 高井主膳|》
一神郷村石巻山半腹古城《割書: 城主不知|》
一西郷西川村古城《割書: 天文年中西郷孫三郎種員永禄年中間左衛| 門佐吉員或云禅正天正年中同禅正忠家員》
《割書: 始名孫九郎同久大夫政員同新太郎某天正十| 八年得替》
一牛川村古城《割書: 城主豊田左仲今西ニ六左エ門在仲末孫也|》
一西郷西川村古城《割書: 天文年中西郷孫三郎種員永禄年中間左| 吉員 是再出誤也》【この行打ち消し線】
一嵩山村古城《割書: 西郷孫四郎奥山修理進中山是非之助西郷家| ノ別也》
一三渡野村勝山古城《割書:○熊谷越後守|》
一馬越村古城《割書: 永亨寛正ノ比為守右馬允同藤馬允|》
一賀茂村照山古城《割書: 地城主不知山本勘助此所ニ出生戸倉四郎兵衛| 臣池田家三河古城記ニ竹尾隼人稲垣平右》
《割書: 衛門百姓トナル》
一宇利村古城《割書: 熊谷備中守息兵庫享禄二年落城或云熊| 谷元来畠山遠江守義綱家臣也以後額田》
《割書: 郡高力村落行高力氏ニ改ト云後近藤| 石見守康角始名勘助天正十六年三月十二日卒》
一古川村古屋敷《割書: 豊田藤助秀/吉(好)号一当斎|》
渥美郡
一吉田城《割書: 始号今橋城永正二年駿州今川氏親依命而築之| 牧野古曰住之或云往古大手門ト云ハ飽海門也柳生門大手》
《割書: 通ニ用池田三左エ門ノ時有城普請云|》
一羽田古屋敷《割書: 石原百度兵衛酒井左エ門尉家人|》
一喜見寺砦 《割書: 鵜殿八郎三郎長煕守之|》
一仁連木村古城《割書: 天文十年戸田丹波入道宣光法名全香新築之| 同主殿助尚舎息丹波守重貞賜松平称号》
一牟呂村古屋敷《割書: 鵜殿兵庫或茂呂兵庫頭政茂|》
法名全久
一草間村古城《割書: 芳賀入道禅可カ末孫芳賀七郎任之後畔田| 監物住》
一大崎村古城《割書: 伊庭藤太後ニ戸田三郎左エ門仁連木戸田別|》
一大津村古城《割書: 号城山彦坂小刑部戸田金左エ門同三郎左エ門|》
一杉山村古城《割書: 杉浦右エ門太夫杉山久助俊輝|》
一田原城《割書: 明應年中戸田禅正左エ門宗光築之後今川家朝| 比奈肥後守守之永禄七年本多豊後守天正十八ヨリ》
《割書: 池田輝政家臣伊木清兵衛|》
一加地村古城《割書: 取手山ト云所也城主不知|》
一波瀬村古城《割書: 渡部弥市郎今紀州家領千石同彦太夫ト云|》
一中山村古屋敷《割書: 間宮造酒允|》
設楽郡
一根古屋古城《割書: 永正年中築菅沼織部定則入道不春息新| 八郎定村同息新八郎定盈為武田信玄落城記》
《割書: 録ニ出野田城是也|》
一新城今城《割書: 元曰大野田村天文年中菅沼大勝亮定継築之其| 後奥平美作守信昌天正四年再築之次水野》
《割書: 禅正忠|》
一石田村古城《割書: 天正十八寅年池田輝政家臣片桐半右エ門居之|》
一中市場村古城《割書: 二箇所アリ一ハ不知城一所浄右斎俗名六左衛| 門ト号ス次菅沼新八郎定盈為武田落城》
一定池村古城《割書: 号屋形ヶ谷千秋常陸介範勝尾州熱田ヨリ来而| 攻大友氏次冨永隠岐守直卿同兵庫頭信資同兵》
《割書: 庫助久兼同千若丸|》
一新町八幡砦
一杉山村古城《割書: ドヽメキノ城ト云菅沼十郎兵衛信濃花房某|》
一同村端城 《割書: 城主信濃守伝曰信濃定利ト云者新城ヲ此| 端城ニ移夫ヨリドヽメキニ移シ夫ヨリ信州飯田ニ退行》
一同所古屋敷《割書: 端城ノ前ノ畑ニ兵頭蓬生助屋鋪有リ菅沼| 藤十郎家老ノ由申伝》
一平井村大谷城《割書: 菅沼大膳亮定継|》
一同村夷ヶ谷城《割書: 奥平土佐守 天正十一未年奥平信昌嫡| 男松平下総守忠明此所ニ誕生有之》
一同村屋敷城《割書: 林雅楽 次彦坂九兵衛|》
一夏目村古屋敷《割書: 宗清惣兵衛|》
一柳田村古屋敷《割書: 滝川惣八 池田輝政臣|》
一井道村古城《割書: 城口ト云 菅沼伊賀守|》
一門前村来迎松城《割書: 設楽越中守守通根城|》
一岩広村広瀬城《割書: 同人別城|》
一大坪村古城《割書: 設楽甚三郎同兵庫|》
一下下村古城《割書: 塩瀬宮内左エ門資時同左馬助直資同甚| 兵衛菅沼家先手也野田合戦討死天正十八ヨリ》
《割書: 池田家臣井辺平右エ門|》
一川路村古屋敷《割書: 城主不知|》
一森長村古屋敷《割書: 夏目杢左エ門|》
一出沢村砦 《割書: 菅沼新九郎與設楽兵庫戦場処也|》
一須長村古屋敷《割書: 萩田庄助池田家臣天正十八ヨリ|》
一吉村古屋鋪《割書: 禅正|》
一長篠村古城《割書: 菅沼新九郎代々居城子孫今紀州家ニ菅沼| 半兵衛ト云仕官次甲州諸賀一葉斬小泉源次郎》
《割書:吉田左馬助番手次奥平信昌甲陽軍鑑菅沼伊豆守満|直息新九郎ト有》
一同村砦 《割書: 城主不知|》
一大峠村古屋鋪《割書: 植村摂津守住居是ハ鳳来寺安養坊還俗ノ| 後此処ニ住此寺今ハ岩本院ト号菅沼新左エ門男也》
黒瀬之内
一塩平村古城《割書: 松平宮内左エ門|》
一設楽村古屋敷《割書: 山上城 伊藤左京 隠居ノ地也ト云|》
川滝之内
一奈根村古屋敷《割書: 山上城 伊藤丹波|》
布里草ノ内
一別所村古屋鋪《割書: 伊藤市之丞父左京|》
一足込村古屋鋪《割書: 川合源三郎|》
神田村ノ内
一田代村古城《割書: 号岩古屋山城 菅沼恵次|》
一荒尾村古城《割書: 菅沼伊豆守|》
一双瀬村古屋鋪《割書: 林左京 弘治年中|》
一海老村古屋鋪《割書: 佐野入道|》
一西田内村古屋鋪《割書: 菅沼道満入道此所ニテハ菅沼大膳同伊| 豆守父ト云》
田内八ヶ村之内
一小代村古屋鋪《割書: 御殿山之麓ニ松平宮内左エ門屋敷有当代| 御代官松平九郎左エ門先祖也》
一田口村古屋鋪《割書: 菅沼半兵衛|》
奥村之内
一黒河村古城 《割書: 熊谷玄蕃天正十年信州平谷ヨリ此処ニ蟄居|》
一津具村古城 《割書: 白鳥山城ト号後藤善心外ニ屋鋪跡二ヶ所有| 是武田家人中村泰庵長谷川勘左エ門トテ金堀奉行ノ由》
一名倉村清水城《割書: 新田孫六或右エ門佐末葉遠州堀江ノ城主カ| 根元菜倉左近蔵人名倉喜八郎天正十年七日》
《割書: 本多百助ヲ伴ヒ信州ニテ討死|》
【左丁上余白】
大平村
小鷹
明神社
アリ鉄ノ
弓奉
納ニ在
之
一同所鍬塚城《割書: 田枯村ノ上大久保村東也奥平喜八郎異ニ堀田氏| 次戸田加賀守戸田兵右エ門松平兵次郎等一処ニ居城》
一同所大/平(タイラ)村小鷹城《割書: 戸田加賀守従鍬塚城当城ニ移|》
一同所宇連村古屋鋪《割書: トチ田ト云所也戸田加賀守家人後藤高| 春ト云者住ス子孫今ニ有》
名倉内
一寺脇村城屋鋪《割書: 後藤禅正|》
一同所浜ノ城《割書: 戸田加賀守|》
一川手村古城《割書: 川手大蔵亮子孫井伊掃部頭ニ仕領三千石| 主水息主税助於大坂高名討死》
一武節村古城《割書: 川手主水 法安入道|》
一同所古城 《割書: 菅沼藤十郎 後改越後守定顕|》
作手内
一田峯村龍ノ城《割書: 菅沼大膳亮定忠同大膳定広同小大膳定利| 後賜松平任摂津守 於濃州加納領十万石甲陽》
《割書: 軍鑑菅沼新三郎或刑部少輔|》
一(同)同所屋鋪四ヶ所《割書: 城所道壽節木久内今泉孫右エ門城所清蔵|》
一(同)道具津村古屋鋪《割書: 平野孫兵衛|》
一(同)菅沼村古城《割書: 在二箇所一ハ不知一ハ菅沼信濃|》
一(同)小田村古屋鋪《割書: 奥平源五左エ門奥平美作守家人有故兵| 藤新左エ門依命殺之》
一(同)木和田村古城《割書: 渥田三郎左エ門次桜井與右エ門|》
一同所城ヶ根城《割書: 河合八度兵衛|》
一(同)島田村古城《割書: 菅沼伊賀守定盛同孫太夫同七郎右エ門|》
一(同)恩原村古城《割書: 山河清兵衛|》
一(同)布里村古城《割書: 菅沼新助|》
一(同)塩瀬村古城《割書: 塩瀬元秋同甚之丞|》
一(同)大和田村古城《割書: 菅沼源助次奥平六兵衛|》
一(同)大沼村古屋鋪《割書: 奥平久太郎|》
作手郷
一市場村亀山城《割書: 奥平八郎左エ門築之同六郎左エ門同出羽守同| 監物今ハ林ト成》
《割書:世治リテ奥平氏上州小幡ヨリ旧地トテ昔ニ返又々此城拝領|則城ヲ取立住居松平下総守旧地トハイヘトモ悪シキ所故ニ》
《割書:御願申上大和国郡山エ国替城ハ夫ヨリ掃捨ラル|》
一(同)同所古宮城《割書: 甲州馬場氏縄張ニテ築之小幡又兵衛甘利左エ門| 大熊備前守等住今成林》
一(同)同所川尻村城《割書: 奥平八郎左エ門上野国奥平村ヨリ爰ニ来ル此所ヨリ| 亀山城エ移次奥平但馬守住今為畑》
一(同)同所石橋村城《割書: 石橋禅正本名奥平也|》
一(同)同所砦二箇所《割書: 堀土手共ニ今ニ在|》
一(同)北畑村古屋鋪《割書: 兵藤新左エ門|》
一(同)川井村古屋鋪《割書: 二箇所在之奥平伝九郎或時奥平美作守美藤| 万五郎ト云者ヲ以テ本宮山猿ヶ馬場ト云所ニテ鉄》
《割書: 炮ニテ殺ス次河知和七兵衛住|》
一(同)野郷村古屋鋪《割書: 野郷兵蔵 美藤万五郎|》
一(同)見代村古屋鋪《割書: 宇津本ト云所筒井善右エ門原田喜右エ門|》
一(同)相月村古屋敷《割書: 主不知|》
一(同)赤羽根村古屋鋪《割書: 奥平仁右エ門黒谷久助同甚右エ門|》
一(同)和田村古城《割書: 奥平出雲守 名改和田|》
一(同)岩滑村浅間山城《割書: 奥平出雲守二代目|》
一(同)鴨ヶ谷村古城 《割書: 奥平伯耆守|》
一(同)同所古屋鋪《割書: 加藤源左エ門|》
一(同)同所古屋鋪《割書: 山田十郎左エ門|》
一(同)戸津呂古城《割書: 二箇所アリ城主不知|》
一(同)同所古屋敷 《割書:刑部|》
一(同)千万町古屋敷 《割書:奥平弥六郎 和田出雲守二男|》
一(同)金出平村古城 《割書:城所助之丞|》
一(同)臼子村古城 《割書:佐惣大膳或ハ佐伯大膳ト書シ物モ有白雪云|此城ヲ見ニ大手ヲ杵坂ト云其旁ニ蓑石ト云モ有リ|後ニ大手ノ所ニ奥平休可ト云兵法ノ師住此休可|ト戦シ石地蔵杉山ニ在奇特アリトテ今モ信仰ス|白雪モ臼子カラ杉山ノ石地蔵エハ度々行》
参州古墳寄
碧海郡
一大浜村称名寺長阿弥塚《割書:記曰親氏公御父有親公ヲ号長阿弥|時宗僧諸国遊行之後此ニ遷化ト云》
一同村宝珠寺 《割書:永井右近太夫代々古墳|》
一中島村長円寺 《割書:在板倉党古墳|》
一同村宗福寺 《割書:在由良孫八墓|》
一上和田村妙国寺 《割書:在久世党位牌|》
一中郷村大聖寺 《割書:在土井小左エ門利昌以来位牌|》
一同村浄妙寺 《割書:在本多刑部左エ門墓|》
一野寺村本証寺 《割書:在本多豊後守同佐渡守位牌|》
一渡苅村大通院 《割書:在深溝三郎九正次墓|》
一北野村柳塚 《割書:永禄元年寺部御合戦時奉敵追掛自北野|越矢作川上被為入大樹寺此時被清水召上由是柳|塚トモ云又御所清水トモ云》
一柿崎村山田八蔵塚 《割書:今ハ亡而有其跡天正年中マテ此所城主マテ|謂訴人八蔵也【朱書】「事見于岡崎記」》
一同村西山千人塚 《割書:古戦場也|》
一矢作村箸塚 《割書:何時合戦隔川戦軍勢ノ箸埋此箸田ト|云所モ有之古蹟多シ》
一宇頭村宝阿弥塚 《割書:在宝【朱書】「芳上書」阿弥長者屋鋪|》
一佐崎村上宮寺前三蔵塚 《割書:松平三蔵信次一揆ノ時討死 太田善|太夫代々墓》
高木殿馬塚 《割書:小牧合戦之時武者奉行高木主水清秀賜黒|御馬拝領馬死後埋之》
一桜井村菩提寺 《割書:在松平監物家次墓永禄六年亥七月廿九|日卒》
一同村市場百姓屋鋪 《割書:在松平内膳信定墓天文八年亥十一月|廿七日卒》
一同村五郎片股塚 《割書:今ハ建祠謂五郎ノ宮|》
一古井村金蔵塚 《割書:不分明不思議折々有之ト云|》
一八橋村業平塚 《割書:不分明沢ノ上ノ岡ニ有五輪|》
一境村児塚 《割書:小塚也云 別(わかれ)塚親氏公居于境村則出生酒井|徳太郎移松平村母儀慕【墓ヵ】御跡来此所惜離別|故残塚呼焉云》
一上野村隣松寺 《割書:在松平中務墓鴛鴨村之領主也|》
一同村洞樹院 《割書:在松平飛騨守墓天正十一年九月也|》
一同村燈寺新田 《割書:在古城升塚戸田小法師同孫四郎日待塚|モ有之》
一同村首塚 《割書:油梨子ト云所ニ有天文十五年広忠公松平監|物ヲ攻玉フ時ノ首塚也》
一桑子村妙眼寺境内《割書:平岩主計頭親吉及天野金太夫都|筑小三郎加藤喜左エ門荒川藤左エ門服》
《割書:部権太夫山内三左エ門中神藤左エ門塚安藤太郎左エ門天文九年|六月於安祥討死安藤杢ノ助元亀元年於遠州味方原討死塚ヲ築|此名乗基能ト云息対馬守重信右京進父也同名帯刀古墳アリ又|於此寺中長親公宗長ト有連歌会其時ノ松モ有》
一安祥村千人塚 《割書:天文九年六月六日同十二年同十八年合戦之時|討死之人埋焉》
一同村善恵房塚 《割書:天文十四年討死|》
一福釜村宝泉寺境内 《割書:松平右京進親次ノ孫筑後守代々墳|》
一岩根村石塚 《割書:聖徳太子御墓ト伝之不分明|聖徳太子ノ時経文ヲ納シ墓ト云不分明》
播豆郡
一淺井村源空院 《割書:在松平十郎三郎康孝墳法名宝琳院|【朱書】「可考」天正十一年三月十八日卒【朱書】「永禄中討死也」》
一同村了性寺 《割書:在大津土左エ門牌|》
一永良村 《割書:在松平大炊助好景墳【朱消「弘治二年二月」朱書「凡永禄四年四月用考」】十五日於中島合|戦討死》
一東城村宝応寺 《割書:在松平甚太郎義春墳弘治二年辰二月|廿日於築手日近村討死埋此》
一同村兵道塚 《割書:大河内小見討死墓也別名兵道ト云之永禄四|年合戦》
一同所徳玄塚 《割書:富永半五郎弟坊主討死埋之|》
一在于東城與岡山間藤浪畷《割書:富永半五郎勝光塚同下人喜三郎|塚永禄四年酉九月十三日討死本多豊|後守家臣本多平左エ門忠邦討捕之》
一萩原村小野万五郎塚 《割書:東条與西条取合ノ時万五郎被討植村三平|埋此》
一一色村常円寺 《割書:一式刑部塚|有験石一》 一今川殿墓 《割書:在今川村|有験松》
一道目記村 《割書:在荒川殿墓|》 一寄近村 《割書:荒川殿墓|有験松》
一八面村真成寺 《割書:在荒川甲斐守義等墳名乗三義広頼|持義等仙琳院前甲州大守花山洞栄大禅定|門永禄九寅五月廿二日卒》
一岡山村行雲院 《割書:在吉良持広内室墳清康公御妹也|》
一巨海村願成寺 《割書:在吉良長氏母公墓法名本乗大姉記云|北条氏女嫁吉良左馬頭義氏承久年中|封義氏於三州此時建立長寿尼寺今退|転残棟札》
一上町村実相寺境内 《割書:在吉良氏代々墳|》
賀茂郡
一松平村高月院境内 《割書:松平太郎左エ門親氏公同泰親公|御廟有》
一挙母村長興寺 《割書:在中条判官秀長塚挙母城主也備前守|又兵庫頭トモ云父ハ中条出羽守景長ト云》
一同所平林寺旧跡在陽谷墓 《割書:在畑中験松陽谷尼成来三州ニ住|集ニ見タリ》
一在于挙母與伊保境道満塚 《割書:道満ハ設楽郡田内城主也広瀬城主|三宅三太夫正光之家士也悪人ニテ焼》
《割書:田内六所大明神祠諸人悪之三宅六郎兵衛鈴木氏菅沼氏同|心長篠於瓜畠討■【殺ヵ】埋此道満菅沼氏也其後三人共得_二其 ̄ノ祟_一云也》
一梅ヶ坪村霊巌寺境内 《割書:三宅氏代々古墳|》
一広瀬村 《割書:岩待右エ門尉真成墓|》
一伊保村十三塚 《割書:云_二家墓_一或説城主丹羽勘介於大坂戦死タル|家人ヲ葬ル共云》
一小原郷市場村 《割書:在鈴木対馬守同息越中守墳|》
一赤羽根村 《割書:美藤源内在源内屋敷墓奥平美作守家士也|與武田信玄軍兵合戦討死埋是》
一寺部村 《割書:柵木塚柵木氏祖也|》
一大沼村東樹院境内 《割書:在木村新九郎墓|》
【左行上に朱書】《割書:「作手ノ内ト云トモ| ■ニハナシ」》
一金沢連村山中 《割書:在長田兄弟墓五 其訣【=訳】不分明|》
一千鳥村石平寺 《割書:在鈴木九太夫正三牌|》
一 酒吞(シヤチノミ)村 《割書:在氏江墓 不分明也|》
一見喜谷二井寺 《割書:在松平隼人正牌|》
一矢並村大平寺 《割書:在鈴木下野守牌 寺部城主日向守父也|》
一梁山村妙照寺 《割書:在鈴木三郎九郎代々墓|》
一足助村普光院境内 《割書:在鈴木越中守重実墓|》
額田郡
一鴨田村大樹寺 御先祖御廟《割書:親忠公及広忠公迄五世之御墳凡八|代之御石塔当寺ハ文明七年二月|廿三日親忠公之御建立也御廟ハ|在同所ノ野ニ墳験有榎》
一能見村松応寺広忠公御廟
一岩津村信光明寺信光公並母公御廟
一大樹寺塔頭竹用院《割書:堀平十郎|宗正墓》 一同善(寺領十八石 )楊院《割書:石川日向守家成石塔法|名梅巌慶長十四年十月九日》
一同(寺領十石)開花院《割書:松平源五光則墓 |号岩津殿》 一同(同五石 )信行院《割書:吉良左京太夫墳|》
【左行第四字、朱見消ち「井」、朱書「舟」】
一同(同十二石)棹井院《割書:松平出雲守菩提所|滝脇城主》 一同(同十四石)常在院《割書:清康公御娘|》
一同(同十四石)芳樹院《割書:六郎母墓|》 一同(同五石 )愚耕院《割書:広忠公御建立|》
一同(同五石 )慈光院《割書:鎮如上人閑居地 |》 一同要連院《割書:暹誉上人閑居地|》
一同易性院《割書:足立右馬助遠定塚|酒井監将カ組也上野住》 一同国洞院《割書:酒井十平康忠塚|今寺跡耳》
【左行以下の字は朱書「次・子・可考」】
一同回向院 《割書:酒井小五郎忠 勝(次)墓伊田城主康忠 父(子)也法名 賢(可考)勝居士|文明二年十月十一日卒【朱書「可考」】》
一同寺中在浄海塚 《割書:平宗盛此所建立地蔵退転而安置開花院|御朱印地也号其跡云浄海塚》
一同寺領中在千人塚 《割書:明応二年戦死天文四年戦死合而|葬之云》
一岡崎町随念寺泰栄大姉御墓《割書:清康公御娘号常在院桂室|泰栄大姉酒井左エ門尉忠次室》
一同城内浄瑠璃曲輪 《割書:在浄瑠璃姫塚或云火葬之跡今ハ池也父|兼高建立一宇安置本尊薬師有義経|三十六歳画像石塔在藪之中》
一在同所近薬師堂大塚 《割書:慶長五年関ヵ原御陳之時従岡崎城|主見立籏十本此山上伝之》
一在同所築 山所( ト云 )稲荷塚在祠《割書:或云順徳院姫宮御不予陰陽|博士奏三河国菅生野狐妖也》
《割書:在京武士 勅佐渡州本間氏鳴弦御快然由是本間氏|賜菅生地八百貫終集六十余州土築之勧請稲荷神|以建保二年号瑞生山惣持尼寺領百石アリ》
一在于同所遊泉寺操塚 《割書:小豆坂合戦之時討死人所葬也|》
【左行、朱見消ち「近」、朱書「匠」】
一在于同所満性寺倉橋塚 《割書:倉橋内 近(匠)親宗左エ門墓屋敷|蹟有験松》
一同所在安藤十左エ門墓及近藤左近右エ門石塔 《割書:菅生村|》
一同所専福寺 《割書:在石河日向守母公廟|》
一八町村大林寺 《割書:在西郷弾正左エ門尉信貞墓「大永四年七月|廿三日卒昌安居士墓験松在于今》
一在于岩津與鴨田堺弾正塚 《割書:岡崎城主西郷弾正左エ門岩津取|合之刻戦死之塚伝之》
一能見村観音寺境内 《割書:在松平石見守墓|》
一同所安養院 《割書:在金田宗八郎牌安養院殿碧鳳昭観居士|天文十五丙午九月六日卒》
一同所愛岩山 《割書:在亀蔵福二人塚|》
一欠村浄泉寺 《割書:在柴田一党塚|》
一明大寺村千人塚 《割書:永正三年北条早雲為大将戦時死人埋之|于今七月十三日燃燈而祭之往古ハ云此明|大寺村ヲ矢矯ノ宿トモ又高宮トモ》
一同所成就院寺内 《割書:浄瑠璃姫五輪ノ石塔アリ|》
一同所麝香塚 《割書:浄瑠璃姫投川身時■【局ヵ】麗正渡_二麝香_一経義(下上)|ニ届ヨト書_レ之死後義経建卒都婆祭焉【見消ち・之】》
一同所絵女房塚 《割書:往昔以絵形尋女在于当邑而入宮中死後|葬於此所ト云【朱書・一説■融房】》
一同所三五彦次郎墓 《割書:明応二年伊田合戦討死有験松種々 ̄ノ有 ̄リ|不思議》
一同所二瀬首塚 《割書:永禄年中一揆時首実検百三十級埋之|慶安年中間塚ノ辺ヨリ髑髏多出ト云》
一同所龍海院 《割書:在酒井雅楽助正親墳天正四丙子六月六日卒|号双松院酒井党代々菩提所》
一伊田村獅子舞塚《割書:天子御悩之時御願|六十六ヶ国納獅子頭也》一七ツ塚 《割書:在同村|》
一同所首実検塚 《割書:明応二年之合戦首実検之所也在験之|松》
一同所 《割書:酒井左エ門塚法名浄賢天文五年申五【朱書・四】八日卒【朱消・息】|【朱書・父】十平康忠墓二人共ニ伊田城主也有験松》
一大門村尊氏卿古墳 《割書:在八剣大明神森 ̄ノ中|》
一岩津村妙心寺 《割書:松平上野介親則号妙心院老中祥公当寺ノ開|基也子息上野介親益墓岩津城主也》
一同所信光御内室墓 《割書:万福長者石塔中根塚車塚在同村》
一真福寺 《割書:鎌田右エ衛正清父子墓及連歌師之塚有リ或云正|清兄僧真福寺寺中大善坊ニ住》
一同所青山塚 《割書:青山善大夫墓在_二左_一 ̄リ石ト云処_一有験松元亀三年|秋山伯耆守発_二-向当州_一攻岩津刻討死》
一滝山寺中 《割書:飛騨内■【匠ヵ】塚|》
一羽根村小豆坂足軽塚 《割書:天文十七小豆坂合戦討死人埋之甲谷|鎗先ト云処モ有リ》
一六名村甲塚 《割書:今云甲山一説曰八幡太郎義家所埋甲冑又日本|武ノ尊東征ノ時得甲三化成石在于今清康公》
《割書:遷安祥八幡宮長保三年建護摩堂一宇長耀山甲山|寺天文十三年広忠公御造営慶長八年有御修覆寺領二百五十石》
一細川村称名院境内 《割書:在松平左官代々墓和泉守乗元也|【朱書】「今按目歟三河目有大給目ノ称アリ」》
一尾尻村長福寺境内 《割書:在大久保新八忠俊【左に朱書挿入】「○或忠勝上書」代々墓或五郎|右エ門法名浄玄》
一名之内村(俗呼テヲツワヅカト云)広祥院《割書:在奥平久兵衛貞友妹墓号半古秀栄大姉俗名|久為人質趣甲州背誓約於鳳来寺金剛堂■【殺ヵ】》
一麻生村阿弥陀寺 《割書:在松平助十郎墓天正十二年尾州蟹|江合戦討死》
一箱柳村山中 《割書:在中根肥後守忠良墓有験松|》
一(夏山)柿平村遊泉寺境 《割書:在仙千代墳奥平九八郎信昌舎弟為人|質趣甲州信昌背約由是於鳳来寺生害|菊隠宗仙居士》
一岩戸村正蔵寺山 《割書:在天野孫左エ門正家墓弘治二年十月|廿九日同名孫九郎墓》
一宮崎村瑞雲寺境内在奥平道文墓《割書:此墓元在槇久兵衛カ|屋敷或頃築替墓於》
《割書:此所請僧供養帯甲冑人見于夢無言語歌云 加須嘉奈(カスカナ)|留木乃間(ルコノマ)乃月毛 安幾羅可尓(アキラカニ)昔 遠(ヲ)仰(アヲ)久(ク)心 古曽須礼(コソスレ)》
一山中村青木塚 《割書:不分明|》
一同所法蔵寺 《割書:在柴田左京墓|》
一深溝村本光寺 《割書:在松平大炊助代々古墳|》
一同所長満寺 《割書:在大場次郎左エ門墓|》
一上地(禅宗妙心寺末)村三善寺 《割書:在松平弾正忠代々牌|》
一桑谷村光中寺 《割書:在 神君御継母廟法名光中妙琳大姉《割書:戸田|氏》|松平右京亮忠政墓幼名勘六元ハ書広忠寺》
宝飫【ママ】郡
一形原村光忠寺境内松平紀伊守代々墳《割書:元祖松平彦太郎興嗣|法名信誉光忠》
一蒲形村天桂院境内天桂院大婦人石塔《割書:神君御妹松平玄蕃家清|室実父久松佐渡守》
一同所 在松平玄蕃允代々墳
一同所長存寺境内 《割書:在鵜殿長門守墓》
一清田村安楽寺 《割書:在久松佐渡守定俊墳法名華【朱見消ち】「山宗」【朱書】「林祟」心天|正十五年三月十三日卒有験松》
一五井村長泉寺 《割書:在松平外記伊昌石塔|》
一大塚村長興寺 《割書:在萩原左エ門佐牌|》
一西方村忠勝寺 《割書:在盛寺清右エ門墓池田輝政士也|盛寺氏今代改_二池田_一云》
一広石村大恩寺 《割書:牧野党代々菩提所|》
一赤坂長福寺境内 《割書:在力主姫石塔昔云_二大江定基妾_一|世号_二女郎石_一》
一御油 《割書:遠夫塚其故不分明 主計殿墓|》
一同所 《割書:在木 楰木(モチノキ)ト云所林孫八郎塚永禄七年板倉弾正ト戦而討|死法名永寿或無鉄寿永居士ト云》
一八幡村西明寺境内 《割書:在大江定基古墳為当寺開基並在最|明寺殿時頼入道古墳》
一久保村在供女塚 《割書:云大江定基召仕女墓|》
一佐脇村在佐脇 刀称(トネ)太夫塚《割書:後号_二藤八兵衛_一討死於長篠奥平九八郎|与力也当代大番組佐脇四郎左エ門カ祖也》
一伊奈村東漸寺《割書:在本多助太夫忠俊墳永禄七寅三月四日卒号龍|瑞院同妻墓天文九子三月八日号清徳院同二男修|理亮光忠墳天正八年辰正月五日号恵光院同|妻天正十四年戌四月廿六日卒号曜蓮院》
一小坂井村報恩寺 《割書:在和泉式部石塔不詳|》
一同村善住寺 《割書:在赤松塚五輪二|》
一宿村 《割書:在中川勘助墓|》
一篠束村 《割書:在宿村地境西郷氏墓二云篠束城主|氏神棟札曰西郷久太夫政員》
一同村 《割書:在于小坂井與篠束之地堺大塚二在小坂井地云稲荷塚在|篠束地云糟塚従往古五月五日有_二印地之礫_一》
一長山村在春光塚 《割書:岩瀬嘉竹墓法名春光嘉竹岩瀬屋敷之|裏畑中ニ有》
一同村 《割書:在于田岸並大塚二云鰹塚|往古海辺ノ時釣鰹魚云》一今日坊塚 《割書:在同村西野|云山伏塚》
一牛久保村光輝庵境内 《割書:在牧野右馬允成定古墳|》
一同村大聖寺 《割書:在一色刑部少輔五輪|》
一同村波多野全慶墓《割書:在一色城跡 |本丸ト思所》一同村二女塚
一同所産女塚《割書:云稲垣平右エ門家人|十六人葬塚》一同経塚《割書:云六十塚トモ大乗妙典奉|納墓トモ忍華藻心カ墓トモ》
一鍛冶村 《割書:在真木越中守及同又次郎墓有験松世云一本松|》
一古宿村船井塚《割書:大江定基召仕女花井岩井船井ト云三女尼ト成ル此|所ニ死而後地蔵ヲ建ルト云》
一正岡村 《割書:在和泉塚|》
一芝屋村 《割書:在定方塚五輪塔アリ又在定方天王祠|》
一行明村星野行明墳 《割書:在験松乗松ト云柴折損而後|建祠号星野明神》
一同村星野氏内室墳 《割書:在畑中験ニ茶木一株世ニ云片葉茶園|今ハ亡》
一牧野村冠塚 《割書:云中条殿墓今建祠号中条明神|》
一同村 《割書:在伝内左エ門頼成墓法名清誉浄永出大恩寺過去帳|讃岐谷ト云所在之今云伝内塚》
一豊川村 《割書:在水野八十朗墓悪人ニテ下人ニ被殺|》
一麻生田村 《割書:在鍛冶井上内裏三郎塚上野的場ト云処 ̄ニ有此塚有_レ燃云|鈴木昌三因果物語ニ出》
一在于木野原六十塚 《割書:僧永文者納六十六部法華経供養塚也|ト云墓跡在豊川》
一松原村 《割書:在山伏塚時代不知有験榎一本|》
一江村 《割書:在馬左エ門塚|》
一本宮長山村 《割書:在秋山六郎墳 秋山九郎カ家人也|》
一雨山村 《割書:在菅沼新左エ門及同半五郎塚弘治二年八月四日奥平修理|ト戦而討死新三左エ門息於鳳来寺岩本院住職》
一(作手)鴨ヶ谷村甘泉寺 《割書:奥平美作守代々菩提所|》
一同所 《割書:在鳥居強右エ門墓天正三年亥五月十六日法名智海常通禅定|門於有海原篠葉野成虜死行年三十六葬之名乗勝高| 》
一(作手)川井村 《割書:在長者塚|》 一(作手)岩波村 《割書:在奥平出雲守塚和田岩|浪之城主》
一(同 )在于須山與千万町村山境石ヶ根五輪《割書:奥平貞能父子與武田勢戦而|双方戦死人埋此》
一(同 )赤羽根村美藤源内塚 《割書:源内屋敷ニ有奥平美作守家人也甲州|兵與戦而討死》
八名郡
一石巻山在半腹 《割書:高井主膳墓 高井村城主也|》
一中山村西郷弾正墓 《割書:百姓白井作太夫前ニ有|》
一馬越村 《割書:在火穴塚数多|》
一和田村春興院《割書:号和田入道渡部久左エ門墓永禄九寅十一月十八日|卒法名梢月常林庵主内室久屋栄長禅尼月日|》
《割書:不知渡部図書助元亀元年八月廿六日石津宗虎禅門内室天正|七卯五月廿八日悠室春興禅尼同息山城守茂見性寺殿前山州大|守真翁玄心居士寛永十五寅正月四日》
一(下条)竹内村正楽院境内 《割書:在文武天皇王子陵 近辺御殿村ニ旧跡|有リ》
《割書:文武天皇為東征行幸于参河国三箇年皇居星野邑ニ|此時皇子御誕生謂_二竹内王子_一無_レ程薨逝矣奉葬于此地|御墓及五輪石塔在于今焉王子御病 ̄ノ節鳳来寺 ̄エ為御》
《割書:祈勅使藤原公宣卿被遣之鳳来寺ノ旧記ニ委ク有之|故略之公宣卿之咏歌曰霧也海山乃姿者島仁似天波|加止思恵者松風乃音此歌本宮山之詠歌トモ云一宮旧記|大概同焉》
一加茂村 《割書:無人塚 藤王カ塚|》
一八名井村吉祥山 《割書:在山口五郎作塚菅沼定盈家人也野田合戦|之時菅沼刑部被討天正二年四月廿九日》
一中宇利村 《割書:在松平右京進親次墳清康公熊谷攻之刻討死|城山ト云処ニ在墓有験松》
一同村 《割書:在畠山遠江守|義統並母儀墳》 一同村貞閑塚《割書:在貞閑屋敷|》
一同村児五輪二 《割書:在富賀寺門前往昔猿楽ヲ勤ル時二人|ノ児天狗ニ抓ルト云》
一吉川村在豊田一当齋塚 《割書:俗名藤助秀好|》
一同村 《割書:五郎カ墓盗人ト云伝|》
一上吉田村満光寺 《割書:在鈴木長門守重勝及同名石見守|同道見菅沼次郎右エ門古墳》
一大野村 《割書:在鈴木喜三郎墓足助城主伊賀守息|》
渥美郡
一吉田龍拈寺前 《割書:在牧野田三信成及田次成高小田次成|国三墳》
一馬見塚村 《割書:在経塚渡部長兵衛正行墓也其子|平内次築之》
一中野新田十三本塚 《割書:東三河諸士妻子為人質入置吉田城各|背約■【殺ヵ】ト云松平玄蕃清善妻松平又七》
《割書:家広妻菅沼新八定盈妻同左エ門真景妻西郷弾正正膳妻|水野藤兵衛妻大竹兵右衛妻淺羽三太夫子共奥山修理|妻梁田氏妻白井氏妻》
一二連木村全久院 《割書:在松平丹波守代々古墳|》
一同村臨濟寺 《割書:在小笠原壱岐守忠知以来墳|》
一牟呂村 《割書:在惣八塚助右エ門塚小笠原壱岐守時代|》
一天津新田 《割書:在傾城塚|》
一浦村老津島 《割書:鬼塚有リ大松一本有リ又仏島有リ|》
一新美村 《割書:在長海塚 往昔ヨリ此所毎夜有竜燈|》
一田原在文珠正真塚 《割書:カ鍛冶也二ツ坂ト云所ニ松二本為夫|婦之墓験》
一同所霊岩寺 《割書:三宅備前守康雄以来墳アリ|》
一同所 《割書:在長谷川塚永禄七甲年田原城兵朝比奈肥後守家士|長谷川十郎三郎與寄手本多広孝家士本多甚十郎相戦而|死其塚也ト云》
一同所 《割書:在本役墓元ハ有取手山|今代引社地而号本役明神》 一同所 《割書:在御犬塚何時代御狩之節|鷹犬死而埋有二所》
一大久保村長興寺境内 《割書:在戸田弾正少弼憲光以来古墳|》
一伊河津村般若寺 《割書:在文徳天皇陵不分明|》
一亀山村霊仙寺 《割書:在烏丸大納言光広卿廟|》
一伊良湖村 《割書:持統天皇陵奉祭大明神ト云説有リ伊良湖ハ|伊勢之末社粟皇子神也又持統ハ天智ノ女天武ノ后也|文武大宝二年十二月十日》
設楽郡
一中村 《割書:在道側彦坂九兵衛夫婦墓名乗定次或正勝法名怡山|宗悦庵主内室鉄心妙劉大姉九兵衛ハ平井村出生》
一根古屋村法性寺 《割書:在島田自数代々墓|法性寺ハ江戸下谷泰増寺末寺也》
一同村 《割書:在菅沼新八郎定村古墳|》
一諏訪村泉龍院 《割書:在菅沼織部入道不春俗名定則及嫡孫新|八定盈同息織部正定房三墳領主菅沼氏築之》
一川田村惣次郎屋敷 《割書:在佐々内蔵助墓 或記曰天正十六年|子五月四日於尼崎切腹不審》
一新城永住寺 《割書:在水野弾正墓号学光院元和九年亥|三月朔日卒》
一同所宗賢寺 《割書:在菅沼織部代々墳|》
一上平井村 《割書:在夷谷云所奥平土佐守墓七族七人之内也|元禄年中建祠号八幡》
一矢部村 《割書:在川合筑後塚菅沼新九郎カ一族長篠ニ籠|城》
一片山村 《割書:在菅沼大膳塚名乗定忠験ニ有樟木田嶺城主也|在今穢多屋敷》
一岩広村 《割書:在奥平出雲守塚 作手和田城主也|》
一川路村 《割書:在武田ノ臣高坂源五郎正豊墓長篠ノ押ニ在焉|討死其後高坂家人白井某石塔建立之》
一竹広村 《割書:在武田ノ臣山縣三郎兵衛昌景墓在今百姓|千右エ門居屋敷之上》
一同村 《割書:在武田臣原隼人胤長墓有験松桜|》
一同所糟塚 《割書:在于四ヶ所竹広村朝日長者作手長者平村|米福長者豊川村河上長者片山村長者屋敷ニ|有糟塚》
一柳田村信玄塚 《割書:在于下柳田村津見村平谷村伊奈道中四|箇所武田勝頼長篠合戦ニ討死人埋タル塚也》
一同所 《割書:在武田臣五味與三兵衛貞氏墓於鳶巣山討死|埋首于此処》
一有海原 《割書:在武田臣横田甚右エ門墓又在篠葉野ニ鳥|井強右エ門塚》
一長篠村 《割書:在武田臣馬場美濃守信房墓於出沢之沢尻|討死頸埋長篠場近所元禄年中成畑石塔有于今》
一出沢村 《割書:在仙人塚|》
一河(川滝郷 )合村 《割書:在川合甚左エ門塚於遠州化坂山縣三郎兵衛合戦|討死此子孫川合久作仕菅沼民部》
一御(布里草郷)薗村 《割書:在武田臣望月右近太夫義勝墓望月氏太刀ハ|御薗村神主清水氏某預之氏神奉納存于今》
一門谷村 《割書:在菅沼新三右エ門塚有鳳来寺椿地蔵云処菅沼織|部定則三男也長篠籠城而此所エ来討死子孫属備|前伊木勘ケ由今菅沼三右エ門ト云》
一同所 《割書:五郎ヵ塚 児塚 小笠原角児殿墓東門谷ノ百姓|此子孫ト云名不分明》
一(作手)市場村 《割書:在奥平貞久塚|》
一(作手)臼子村 《割書:在松塚自古到于今毎夜焼火有之|》
一(作手)嶋田村 《割書:在佐野入道墓|海左村領主ナリ》 一同村 《割書:在菅沼伊賀守定盛墓|験ノ松有川端同伊賀守|定久墓験ノ桜アリ》
【右丁】
《割書: |作手》
一 大和田村慶雲寺 在菅沼主税墓
一 田口村 在菅沼半兵衛母塚
一 同村 在千本塚
一 津具村 在経塚
一 武節村 《割書:在後醍醐天皇王子之親義親王之廟真|弓山之麓今在于親王祠》
【左丁】
八橋《割書:当【當】国名所碧海郡八橋□【村カ】に旧蹟有|原野沢【澤】よみあは【「ひ」と書いた上から「は」と記載】せ》
あつまのかたへ友とする人ひとりふたりいさなひていきけり
三河国八はしといふ所にいたれりけるにその川のほとりに
杜若いとおもしろくさけりけるを見て木の陰におり
ゐてかきつはたといふ五もしを句のかしらにすへて旅の
心をよまんとてよめる 在原業平朝臣
《割書:古今》から衣きつゝなれにしつましあれははる〳〵きぬる旅お【ママ】しそ思ふ
《割書:後撰》打わたしなかき心は八橋の蜘手におもふことはたえせし よみ人不知
源のよしたねか三川の介にて侍りけるむすめのもとに母の
よみてつかはしける 源義雅母
《割書:拾遺》もろともにゆかぬ三河の八はしはわすれしとのみや思ひわたらん
【右丁】
あつまのかたにまかりけるに八はしにてよめる
《割書:千載》八はしのわたりにけふもとまる哉こゝにすむへきみかわと思へと 道因法師
《割書:続古今》恋せんとなれる三河の八はしのくもてにものをおもふころかな よみ人不知
《割書:玉葉》さゝかにのくもてあやうき八はしをゆうくれかけて渡りかねぬる 安嘉門院四条 法名阿仏
《割書:新続|古今》八橋を行人ことにとひ見はやくもてにたれをこひわたるそと 堀川院中宮上総
《割書:同》たひ衣はる〳〵きぬる八はしのむかしのあとに袖もぬれつゝ 為家
《割書:千五百|歌合》五月雨にかけのみ残る心地してそこにみゆるや沼のやつはし 越前
《割書:堀川|百首》さゝかにの蜘手にみゆる八はしをいかなる人かわたしそめけん 肥後
《割書:藤川|百首》年月もうつりにけりな柳かけ水ひし河のすえのよのまつ 定家
《割書:夫木》八はしのみとりの草をくりかけてくもてにわたる玉柳かな 俊成
《割書:同》 ほとゝきす待しわたらは八橋のくもての数に声をきかはや 俊頼
《割書:同》 駒とめてしはしはゆかし八橋のくもてに白きけさの淡雪 順徳院御製
【左丁】
《割書:同》 八橋のあたりの里の秋風にきつゝ馴にし衣うつなり 中務
かきつはたすれる衣の露かけて遥々きぬる松の八はし
みな人は夢の世わたる八はしのくもてに何をとひ侘らん
八はしにいつか来にけん行水のくもてに咲るかきつはたかな
《割書:海道記》すみわひて過る三河のやつはしを心ゆきてもたちかへらはや 鴨長明
《割書:平家|物語》夢にたにかくて三河のやつはしをわたるへしとは思わさりしを 源中納言師仲
いにしへをしのふあわれやたひころも袖もしほれて渡る八はし 遊行上人一法
《割書:三河|八代記》思ひきや名のみくちせぬやつはしの海沢三川に袖ぬれんとは 親氏御内室
かの草と思ひしきものはなくて稲のみみゆる
《割書:海道記》花ゆへに落しなみたの形見とや稲葉の露をのこしおくらん藤原光行
春のころ八橋見んといひけれとさはる事有てまからて
《割書:紀行》よそなからくものはたてにかけて思ふその八橋の春の夕暮 烏丸光広【廣】
【右丁】
《割書:紀行》 八橋や思ひわたりしふしの根を雲の わ(は)つかにけふ見つる哉 谷宗牧
《割書:同》 八橋にはる〳〵とまて三河なる花にはことをかきつはた哉 小堀宗甫
思ひ見てもあはれ跡なき八はしにかけてそしのふ遠きむかしを 清水谷実【實】成
八はしの春をやのこす杜若世をへたてゝも恋わたるかな 中院通茂
六々歌中第【見消ち「幾」】貳仙 風流千歳慕_レ幽-玄
世間一瞬皆陳迹 杜若 ̄ハ為_レ薪 澤 ̄ハ作_レ田 林道春
在五中将元薄情 当【當】時艶麗以_レ歌鳴
今尋_二遺蹟_一鉄炉【爐】歩 只有_二 三河杜若名_一 同作
三河国にて
杜若花に水ゆく川辺【邊】かな 宗祇法師
【左丁】
宮橋
此はしのうへにおもふことをちかひてうち渡らは何となく山も
ゆく様におほへて遙に過れは宮橋といふ所あり数双
のわたし板は朽て跡なし八本の柱は残て溝にあり
心のうちにむかしをたつねて言のはしに今をしるす
《割書:海道記》宮橋の残るはしらにことゝわん朽ていく世かたへわたりぬる 鴨長朝
花の瀧《割書:或八橋の花の滝也やつはしにいひかけたる詞也|名所方角抄八橋より三町ほと東に有》
《割書:夫木》 風わたる花を三河の八橋のくもてにかゝる滝のしら糸 慈鎮
【右丁】
原野沢【澤】《割書:按るに八橋より三四町こなたに野□【「沢」カ】の地有|八橋よみ合》
《割書:家集》霜かれのはらのゝ沢の浅緑 ̄り駒もこゝろははるにそめけり 後京極
五月雨は原野ゝ沢に水越ていつれ三河の沼のやつはし 西行法師 【注】
【注 知立市の知立文化広場に西行の歌碑があり、それには「五月雨は原野の沢に水みちていづく三河のぬまの八橋」とある。】
二村山《割書:或書に尾張としるす三河は誤りなりと云尤三河と|尾張との堺の山なれはさも有へし考るにさなき山》
《割書:の後にあたりたる山也 衣の里よみ合》
くれはとりといふあやをふたむらつゝみてつかはすとてよめる
《割書:後撰》くれはとりあやにこひしうありしかはふたむら山もこへすなりにき 清原諸実
返しのうた
《割書:同》 からころもたつをおしみし心こそふたむら山の関となりけめ よみ人不知
むさしの国よりのほり侍りけるに三河の国ふたむら山の
【左丁】
もみちを見て読【讀】る
《割書:詞花》いくえとも見へぬもみちの錦かなたれふた村の山といひけむ 橘能元
堀川院の御時きさいの宮にて壬五月ほとゝきすと
いへるこゝろをよみ侍る
《割書:千載》さつきやみふた村山のほとゝきすみねつゝきなくこゑを聞かな 權中納言俊忠
《割書:続古今》よそに見しおさゝか上の白露をたもとにかくるふたむらの山 前右大將頼朝
《割書:同》 ともしして今宵も明ぬ玉くしけふたむら山のみねのよこくも 順徳院御製
《割書:同》ちかつけは野路のさゝ原あらはれてまたすゑかすむふたむらの山 平泰時
《割書:続後|拾遺》ほとゝきす二村山へこへいらん明はてゝのみこゑのきこゆる 堀川院中宮上総
《割書:新千|載》越行はひとかたならすかすむなりふたむらやまの春のあけほの 藤原行朝
《割書:夫木》霞たつ二村山の岩つゝしたれ折そめしから錦かも 曽根俊忠
《割書:同》 二村の山の麓【梺】の秋はきは錦をしける野へとこそ見る 大江匡房
【右丁】
《割書:夫木》しつかなる二村山の麓にそ千年の松の花そさきけ□【「る」カ】 正家
《割書:同》 秋風にはたおるむしのこゑ聞て尋ねそ越る二村の山 重之
《割書:同》 誰世よりうへて此名を留めけん園生の竹のふた村の里 冷泉大納言
《割書:万代|集》分ゆけは二村山のこくれよりはゝそましりのあられちるなり 為忠
ほとゝきす二村山をたつね見ん入あやのこゑやけふはまさると 俊頼
《割書:東関|紀行》玉くしけ二村山のほの〳〵とあけ行すゑはなみち也けり 光行
あつまちの山にや春の残るらん二村みゆるをそ桜かな 衣笠内大臣
くれはとり二村山にきて見れはめもあやにこそ月はすみけれ 俊恵【惠】法師
雪となり雨となりてや峯わけにかゝれる雲の二村の山 前内大臣基
明くれていくかなるらん玉くしけみやこに遠き二村の山 為氏
ほとゝきす二村山をたつぬれは峯をへたてゝなきかはすなり 俊成
《割書:藻塩|草》二村の山の端しらむしのゝめにあけぬとつくるはこ鳥の声 小侍従
【左丁】
《割書:十六夜|日記》はる〳〵と二村山を行すきて猶すへたとる野辺【邊】のゆふやみ 阿仏【佛】
《割書:山家|集》出なから雲にかくるゝ月影をかさねて待やふたむらの山 西行
三河なる二村山をわかれてはこの世を我もあらしとそ思ふ 同人
《割書:海道|記》けふ過ぬかへらは又よ二村のやまぬなこりのまつの下道 鴨長明
露時雨二村山の紅葉かな 宗祇
声いつれ二村山のほとゝきす 昌録
衣の里《割書:賀茂郡 ̄ニ有倭名鈔挙母と云|二村山よみ合》
《割書:千載》ほとちかく衣の里も成にけり二村山を越て来つれは 経衡
《割書:夫木》白妙に咲きなれる卯の花は衣の里のつまにそ有ける 忠隆
《割書:同》夜をかさねみやま立出て郭公ころもの里にきつゝ鳴けり 為盛
名歌 今よりは霞もさこそ立ぬらめ衣の里に春のきぬれば
同 立かへり猶見てゆかん桜はな衣の里ににほふさかりは 具氏
衣手の山 名所集に出たり 衣袖山共書
夫木 衣手の山の梺にたつ鹿のうらさひしきに暁の声 顕仲
懐中 きて見へんことを頼まんみにしあれは立そひぬへき衣手の山 《割書:よみ人|しらす》
宮路山《割書:宝飯郡赤坂郷に有|しかすかの渡よみ合》
【上欄】《割書:「此三首| 三揃ニ非ス」| 》
万葉 撃(ウチ)日(ヒ)刺(サス)宮(ミヤ)路(チヲ)行(ユク)丹(ニ)吾(アカ)裳(モ)破(ヤレス)玉( タマノ)緒(ヲノ)念(ヲモヒ)委(ステヽ)家(イヘニ)在(アラ)矣(マシヲ)
同十一 打(ウチ)日(ヒ)刺(サス)宮(ミヤ)道(チヲ)人(ヒトハ)雖(ミチ)満(ユ)行(ケト)吾( アカ)念(オモフ)公( キミハ)正(タヽ)一(ヒトリ)人(ノミ)
《割書:同上|旋頭| 》 内(ウチ)日(ヒ)左(サ)須(ス)宮(ミヤ)路(チ)尓(ニ)相(アヒ)之(シ)人(ヒト)妻(ツマ)姤( ユヘニ)玉(タマノ)緒(ヲ)之(ノ)念(ヲモヒ)乱(ミタレ)而(テ)宿(ヌル)四(ヨ)曽(ゾ)多(オホ)寸(キ)
後撰 君かあたり雲井に見つゝ宮路山打越ゆかん道もしらなしらなくに《割書:よみ人|しらす》
東よりのほりけるとて三河国宮路の山を十月(カンナツキ)
つこもりにすくるに紅葉また盛に見へけれは
玉葉 嵐こそ吹こまりけれ宮ち山また紅葉はのちらて残れる 藤原高標女
遠江守にて下り給ふとて宮路のやまたの
藤の花の盛なるを見てよめり
盧主 むらさきの雲と見するは宮路山なたかき藤の咲る也けり 為家
家集 名にしおはゝ遠からすしも宮路山こへん手向のぬさせよ君 《割書:よみ人|しらす》
六帖 水鳥の浮て心のまとふ哉みやちの池に年はへぬれと 同
《割書:十六夜 |日記》 待けりなむかしも恋し宮路山おなししくれのめくりあふ世を 阿仏女
同 しくれふり染るちしほのはてにまたもみちの錦いろかわるまて 同
然菅の渡《割書:建保名所百首に志香須賀と書|宮路山よみ合》
此処さたかならす或は矢佐川の河上といふ人もあれ共考
見るに宮路山よみあひとなれは宮路ちかき豊河の
流れのすゑなるへし或人評云今小坂井の辺を度津(ワタシヅ)
の郷といへり遠江浜名の橋の有ゆへに橋本と云三河
しかすかのわたり有ゆへに渡津といひしにやといへり
【上欄】「此歌非也」
万葉 あら磯こす浪はさはかししかすかに海の玉もはにくゝはあらすて
大江為基あつまへまかりくたりけるにあふきをつかはすとて
拾遺 おしむ共なき物ゆへにしかすかのわたりと聞はたゝならぬ哉 赤染右衛門
屏風の陰にしかすかのわたり行人立わつらふかたかける
所をよめる
金葉 行人も立をわつらふしかすかのわたりや旅の泊りなるらん 藤原家隆朝臣
《割書:続後|拾遺》 おふせこそ間遠なり共しかすかの渡りなれにし中なにすれそ 二品法親王慈道
しかすかのわたりにてよみ侍りける
《割書:後捨|遺》 おもふ人有となけれと古里はしかすかにこそ恋しかりけれ 能因法師
《割書:新勅|撰》 行は有行ねはくるししかすかの渡りにきてそ思ひたゆたふ 中務
《割書:建保|古》 あひ見てもあはてもなるゝしかすかの渡り物うきゆめのうきはし 知家
秋風にならねにたてししかすかのわたりし波にをとる袖かは 定家
うしとてに猶しかすかのわたしもりしる人なみのゆくゑをしへよ 行長【?】
いへはありいはねはくるし我心こやしかすかのわたりなるらんよみ人しらす
《割書:太神宮 |千首》 都出ていく日か旅をしかすかの遠き渡りに今そ成ける 花園三位公晴
以上八橋二村宮路しかすかを三河の四名所と云
引馬野 《割書:此所さたかならす或ちりふの野と云或は|御馬野と云又遠江国に引間宿あり》
《割書:万葉|一》 引(ヒク)馬(マ)野(ノ)仁(ニ)爾(ニ)保(ホ)布(フ)榛(ハギ)原(ハラ)入(イリ)乱(ミダレ)衣(コロモ)尓(ニ)保(ホ)波(ハ)勢(セ)多(タ)鼻(ビ)能(ノ)知(シル)師(シ)爾(ニ) 長忌奥麻呂 寸
右大宝二年大上天皇幸参河国時歌
《割書:金葉|》 春霞立かくせとも姫小松ひくまの野へにわれはきにけり 匡房
《割書:続古|今》 かり衣乱れにけりな梓弓ひくまのゝへの萩のあさつゆ 式子内親王
《割書:千五|百》 姫小松引馬の野へに子日【「ねのひ」】して手ことにちよをかさしつる哉 顕能 昭
《割書:堀川|百》 引馬野ゝかやか下なる思草またふた心なしとしらすや 俊頼
花園山 《割書:賀茂郡細川村より巽方峯也今は|村積山と云花染山共》
《割書:夫木|》 浅みとりかすめる空の絶間より梢そしろき花園の里 為相
《割書:家集|》 しくれ染る花その山に秋暮て錦のいろもあらたむる哉
細川 《割書:額田郡細川里有|花その山よみ合》
《割書:堀川|百》 細川の岩間のつらゝとけなから花その山のみねの霞める 仲実
細川の岩間のこけも青みとり花その山の夏風そ松 和泉守信光
三河にわたりてほそかわの流と聞て
《割書:家集|》 ほそ川のなかれの末をくみ見れはまたいにしへにかへる波哉 幽斎
桜井寺 《割書:額田郡桜井寺村に有|》
ちれはうかひちらねは花のかけさしていつもたえせぬ桜井の水 弘法大師
矢作里 《割書:碧海郡矢矧里有|まのゝ林の竹景物に出》
《割書:名寄|》 思はすや矢矧の里のうかれ妻せなにもおわぬ人なとゝめそ 鴨長明
《割書:夫木|》 軍見て矢橋の浦のあれはこそ宿をたてつゝ人はいるらめ 同
《割書:新六|帖》 梓弓やはきの里のかは桜はなにのみ居る我こゝろかな 為家
《割書:同|》 狩人のやはきに今夜やとりなは明る日やわたらん豊河のなみ 衣笠内大臣
《割書:名前|方角》 長居せす心していよ梓弓やはきのか/わ(は)の鷺の一村 よみ人しらす
《割書:名寄|》 やはき川上野にたてるかは桜いつかもきはにならんとすらん 親隆
《割書:身延|紀行》 浮世には又ひかれしと梓弓やはきの橋にかき付て見む 深/草(くさ)元政
岡崎の城主やはきの宿まて送り出ぬ
《割書:紀行|》 ものゝふのやはきか宿にいるよりも猶たのみある人こゝろ哉 小堀宗甫
城主返し
ものゝふのやはきか宿にいるゆみもおしてかへれはかひやなからん 田中吉政
矢作の里にて桜をよめる
しるけしな霞へたてぬ桜花矢作の里ににほふ春風 遊行聖人
やはき河を渡るとてよめる
ときてをけにかわの国のやはき川まていとみつをつくるはかりに 細川幽斎
森々白刃是昆吾 波 ̄ハ激 ̄ス河辺千万夫
恩賜旌旗如_二日色_一 東隅雖_レ得失_二桑榆_一 林道春
真野ゝ林 《割書:近江の真野也|》
《割書:夫木|》 夕されは真野ゝ林に風吹てやは/き(せ)のさと/に(そ)夏は涼しき 仲正
大谷川 額田郡大谷里有
《割書:夫木|》 瀬をはやみ渡るゝ水は大谷川あやうき橋をわたる歩行人 為相
我恋は大谷川原の岩かつら手にはとれ共ぬるよしもなし
いはしの原 《割書:此所不詳按に額田郡上地の原有|藻塩草に出る》
本歌不見 景物 《割書:玉柳 すこき郭公 鳥|鹿乃 伏鹿》
緑野ゝ池 《割書:或岩堀池と云不詳|》
《割書:夫木|》 春ふかく成行まゝにみとりのゝ池のたまもゝいろことにみゆ 和泉式部
藤野ゝ村
《割書:夫木|》 むらさきの糸くりかくと見へつるは藤野ゝ村の花さかりかも 宗国
二見道
《割書:万葉|》 妹も我もひとつなるかも三河なる二見の道に(ゆ)わかれかね/ぬる(つる) 高市連
竹谷里 《割書:宝飯郡竹谷里有|》
《割書:詠藻|》 みとりなる色もかわらてよのつねにいくよかへぬる竹の屋の里 道経
萩原里
風吹ぬうらみやすらんうしろめた長閑に思へ萩原の里 実方
萩山 《割書:宝飯郡萩村有|龍源寺のうらによきとうげとて冨士に似たる山有と云》
《割書:夫木|》 いろ〳〵の錦とそ見る萩山のしからむ鹿や秋はたつらん 藤原道経
出生寺 《割書:額田郡山中村法蔵寺を云|》
《割書:名寄|》 頼むかけ猶まよはすはういの世を出てむまるゝ寺とこそきけ 鎌倉宗高親王
《割書:紀行|》 三河なる二村山を箱にして中へいれたる法蔵寺かな 小堀宗甫
雨山 《割書:宝飯郡雨山里有|》
《割書:夫木|》 あめやまに来つゝなけはや子規【ほととぎす】こゑのいろさへぬれわたるらん 為忠
《割書:同|》 五月やみはるゝともなき雨山にいかに蛍の消せさるらん 盛忠
末野腹野 《割書:藻塩草に末の原野と書り|》
《割書:万葉|》 梓弓すゑのはら野に鳥狩する君か弓弦のたゆむとおもへは 光明峯寺入道前摂政大政大臣
《割書:続古|今》 ぬれつゝもし/る(ら)でとかりの梓弓末のはら野にあられふるなり
《割書:新拾|》 行秋のすゑのゝ原はうたれて霜にのこれる有明の月 後醍醐院
《割書:続後|拾》 なか月のすへのゝ原のはし紅葉時雨もあへす色つきにけり 法印良算
本野ゝ原 《割書:宝飯郡に有|昔は穂の原と云し》
《割書:月清(詣)【丸囲み】|》 うつしうふる庭の小萩の露雫もとのゝ原の秋や恋しき 後京極良経卿
本野か原は篠原の中に数多ふみ分たる道有て行来もまよひぬ
へきに故武蔵の司道のたよりのともからに仰て植置れたる
柳もいまた陰とたのむまてはなけれ共かつ〳〵道の知るへとなれ
るも哀なり
《割書:海道|記》 栽(ウエ)をきしぬしなき跡の柳原なをそのかけを人やたのまん 藤原光行
豊河 《割書:宝飯郡豊川里有|》
《割書:名寄|》 風わたる夢のうきはしとたへして袖さへふかき豊川の里
《割書:同|》 狩人のやはきに今宵やどりなは明日やわたらん豊川のなみ 衣笠内大臣【この歌コマ122に既出】
《割書:海道|記》 おほつかなよかわの川のけ【替カ】る瀬をいかなる人のわたりそめけん 藤原光行
かくて本野か原を過れは懶(ものう)かりし蕨は春の心を生(ハエ)た【替カ】りて秋の色
うとけれ共分行駒は鹿の毛にみゆ時に日重山(ヒテウザン)にかくれて月星
□【躔ヵ】に顕れ明暁をはやめて豊河の宿にとまりぬ深夜に立
出てみれは此川は流広く水ふかくして寔に遊た/る(か)なる渡也
河の石瀬に落る浪の音は月の光にこへたるも川辺に過る
風の闇は夜の色白し又みきはひなのすみかには月より
外になかめなれたるものなし
《割書:海道|記》 しる人もなきさに浪のよるのみそなれにし月の影はさしくる 鴨長明
星野ゝ池 《割書:宝飯郡行明村に星野ゝ旧跡有|》
本歌不見
荒野崎
《割書:万葉|》 いつこにも舩ともすらんあれの崎こき出て行たなゝし小舟 高市連黒人
右大宝二年太上天皇幸三河国時作歌
峯野ゝ原 ■
豊河を立て野くれ里くれはる〳〵と過れは峯野々原
と云所あり日野ゝ草の露より出て若木の枝にのほら
す雲は峯の松風にはれて山のいろ天とひとつに
染たり遠望の感心情つきかたし
《割書:海道|記》 山のはは露より底にうつもれて野すゑの草にあくるしのゝめ 鴨長明
《割書:名寄|》 鶉ふすみねのゝ原を朝行はいらこか崎わ【「は」とあるところ】たつ鳴わたる 同
みね野ゝ寺
本歌不見
老津島 《割書:渥美郡浦村より続きたる|州崎を云》
三河におひつ島といふ州崎にむかひてわらはへの
浦といふ入海のおかしきを口すさひによめり
《割書:名寄|》 老津島しまもる神やいさむらん波もさわがすわら■(は)べの浦 紫式部
童郡の浦 《割書:渥美郡笠島の麓【「梺」は「麓」の意の国字】今浦村と云|》
伊良虞 渥美郡五拾子村に有
《割書:万葉|》 うつ(うち)麻(そ)ををみの大君は(あ)まなれやいらこか崎(嶋)に(の)玉藻け(か)ります
《割書:同一|》 潮さ/き(ゐ)のいらこの島に漕ふねのいもゝ乗らんあらき島ま(み)を 人麻呂
《割書:千載|》 玉藻苅いらこか崎の岩ねまついく代まて(゛)にか年のへぬらん 修理大夫顕季
《割書:続後|撰》 玉藻苅いらこの蛋も我ことやかはくまなくて袖はぬるらん 藤原道経
《割書:続後|拾》 蛋のかるいらこか崎のなのりその名のりも果ぬ子規哉 大江匡房
《割書:風雅|》 風渡るいらこか崎のそなれまつ/下枝(しつえ)は浪の花咲にけり 入道二品親王覚助
《割書:堀川|百》 玉藻かるいらこか崎の海士小舟はや漕わたせしまきもそする
いらこ島にかつを釣舟ならひうき葉影の波にうかれてそよる
《割書:呉竹|》 ひき捨よいらこの鷹の山かへりまた日は高し心そらなり 家隆
《割書:信太|社》 玉藻苅いらこか崎のなのりその名さへかひなく波の下くさ
弐つありけるたかのいらこわたるすると申ける一つたかは
とゝまりてこすへにかゝりてまつと申けるを聞て
《割書:山家|》 すだかわたりいらこか崎をうたかひてなほ木にかえ【「へ」とあるところ】る山かへりかな 西行
《割書:太神宮|千首》 なひくやと人のなのりてかりてみんいらこか崎のあまならぬ身に 院御製
いら湖にて
鷹一つ見付て嬉しいらこ崎 芭蕉庵桃青
はゝこ崎 《割書:或云此はゝこ崎はいらこの事にや|母子崎(いらこさき)なるへし》
本歌不見
是より名所には非といへとも往来の賓客
歌の情を寄られし所也仍而集焉
真弓山 《割書:設楽郡武節郷生駒山に並ひ|たる山とそ》
吉のゝ之義親王上野国新田へ趣きたまふとて
三河国武節の郷真弓やまにてよめる
ほの〳〵と明行くを詠むれは月ひとり住にしのやまかな
池鯉鮒
ちりふといふ処に泊りて
ことのはのかけてたのまんちりうせぬ松かね枕一夜なれとも 光廣卿
岡崎
紀行 今朝は猶いそき出ぬる草まくら我岡崎に人の待やと 小堀宗甫
累世先君多戦功 岡崎城郭聳蒼穹
国家根本従茲始 欲唄幽風歌大風 林春斎
長沢
紀行 雲晴て日は赤坂の里とへは旅の行ゑの道の長沢 小堀宗甫
昔在轅門見玉鞍 豈図今日涙闌干
林間應是甘棠意 遺愛歳寒千百竿 林道春
赤坂
家光公御上洛吉田御泊り赤坂御通の時御道記に
草枕露けき宿を立出て夜はほの〳〵と赤坂の空
近衛太閤基熙公赤坂御止宿にて
赤坂と聞つる里はもみちして夕日かゝやく名にや有けん
夫木 秋来てぞ見るへかりける赤坂の紅葉の色も月の光も 盛忠
同 外山なる花はさなから赤坂の名をあらはして咲つゝし哉 藤原為相
同 赤坂をすみのほる夜の月かけに光りをそふる玉笹の露 為忠朝臣
白妙の雪も埋ぬ赤坂や名に咲花のつゝしならまし 澤庵和尚
言の葉にむかし覚へて折に逢ふ名も赤坂につゝし咲ころ 同
吉田
馬かえて又まくさかふたよりよしたのもゝちかしやどのわたりに 近衛殿三木
我里のさとの名にしてなつかしく/き(よ)しやみやこの吉田ならねと 小野通女
おもひやるけふは都の神まつりこゝを吉田の里と聞にも 烏丸光広
夢とてもよしや吉田の里ならんさめてうつゝもうき旅の道 小堀宗甫
題吉田
行々何日窮 相送数州風 馬過暁霜上
竜横道路中 川流無画夜 人物有西東 羅字道春
一枕還郷夢 家書久不通
吉田昔日戦攻場 一旦功成洪祚長
行客憑誰誇子産 勝於溱洧不橋梁 林春斎
今橋牧野田三宿処にて
今日さらに五月まつひのやとり哉 柴屋宗長
吉田の内下地にて
松葉を焼て手拭あふる寒さかな 芭蕉庵桃青
二河
玉くしけけふ二河の明行はこれもみかはの内とこそ見れ 光廣卿
紀行 くには三河里は二川合すれはいつか/わ(は)かへりつかん古里 小堀宗甫
三渡野勝山城主熊谷越後守館
あふち咲雲井をちりの麓【「梺」は「麓」の国字】哉 柴屋宗長
市田 牧野四郎左衛門館
行袖を草葉のたけの夏野哉 同
伊奈 牧野平三郎宿所
沢の上の山たちめぐる春田かな 松平大炊忠定
卯の花や浪もてゆつる沖つしま 宗長
吉良東條の城
藤なみやさかりかえらぬ春も哉 忠定
波や行春のかさしのわたつ海 宗長
刈屋水野和泉守宿所
風や春磯の花咲沖つ浪 同
刈屋水野藤九郎宿所
朝霧は浪もてゆつる籬かな 宗長
同 和泉守に逗留
春はくれぬ時鳥はた初音哉 同
桑子村明眼寺にて永正十五年卯月廿三日此柴屋宗長
松平出雲寺長親公と住持秀連三吟
賦山河
常夏に庭の塵なき心かな 宗長
松にこたかき風の凉しさ 秀連
時鳥有明の月に声はして 長親公道閲
深溝松平大炊助忠定宿所
茂りあふ木すゑの夏の外山哉 宗長
深溝大炊助好景にあふて
花かともいふまて雪のまかき哉 谷宗牧
大浜称名寺の住持にあふて
かきくつし埋火つくす昔かな 同
彼僧鷲塚まてわたりはべれは
君おくるけふのわかれは駒とめてうち出の浜の心地こそすれ
と申《割書:か》け《割書:た》れは 称名寺住持【四角囲み】
君にけふ逢坂山は遠けれと此わかれ路に関守もかな
西都先應寺興行
鐘の音も最中(半イ)は雪のみやま哉 同
雲水も雪にはれたる朝哉 同
同藤助旅宿にて
【左頁上部余白の書入】
宗牧東国紀行天文十三年
後十一月十二日
暮はてゝ三河大浜まて
押付たり称名寺の住持
浜まてわたらせ給ひをり
侍る云々【ヵ】畳さへなき不弁
さなり一会の事餘り聊爾
にやなとあれと志のほとも
見へけれは○…………
十三日岡崎まてと急き
侍れは住持と馬にて鷲塚
まて渡給へ■○…………○
大津の荘厳寺に住給ひしを
■□【藤沢ヵ】よりの仰にて去年
此道場に入院ありけん
其身花山院殿の御息
嶋の公方様の御猶子として
花頭殿にならせ給ふへき
人にて有しをおもはさる
乱世成に時衆に成給へり
哀なる世なり
春風とさかひを雪の柳かな 宗牧
ふりもつめ雪こそ□【磯ヵ】の草葉哉 同
宗長忌日
冬は梅心はとむるにほひかな 同
立跡を鴛鳴雪の友寝かな 同
さすか人のなくてわかれし旅寝にもなこりはさ/そな(星越にて)老のほ(こ)しこゑ
立かへり又もあはましほしこゑやかす〳〵あかぬ老の坂かな 同
富長菅沼織部入道にあふて
あはてたにかえるさいかに雪の友 同
わかれ 本宮の雪を見て
詠【ながめ】つゝわかれんかたもなかりけり汀の氷みねのしら雪 同
返し
立わかれゆくらんかたの峯の雪汀の氷思ひこそやれ 楠千代
鳳来寺坂中の吟
凩に岩吹とかる杉間かな 芭蕉庵桃青
麓【「梺」は「麓」の国字】の門谷に一宿
夜着一ついのり出して旅寝哉 同
夏の月御油より出て赤坂や 同
麦はえて能かくれ家や畠村 同
耕月館にて
京(京)にあきて此凩や冬住居 同
白雪処にて
其【「是」に見えるが、「其」とあるところ】匂ひ桃より白し水仙花 同
熊野大権現八景詩歌 《割書:長山牛久保両郷神社|》
豊川帰帆 《割書:今号吉田川三河一也|》
漸々天涯去不窮 浮雲流水蹴波紅
松青鳳舞幼【初ヵ】桂月 帆遠龍盤自在風
重畳楼台皆蜃気 依稀煙火是漁翁
空山漠々彩霞徹 髣髴【彷彿ヵ】瀟湘勝画工
釣舟の往来の業を【もヵ】世を渡る真帆の影みつ豊川の浪
さそひてはおもふかた帆に豊川の波の間に〳〵かへる舟人
星野落雁 《割書:今在行明村旧蹟|》
叫落瑶池星野鴻 水紋如穀護生風
梅漂余片浮香気 日堕晩光入葦中
小沼破氷開素滉 陰林披霧美成功
悠々眼界珠明潔 賓主不知望遠空
雲移す玉もの床も羽かはし星野の池に落る雁金
天津雲【空ヵ】是もほしのに影冴ていけの水かくれかり落る也
石巻秋月 《割書:在八名郡名山也|式内石巻神社座ス》
月満巻山寥廓開 一輪抱鏡見天杯
波清藻井迎金埒 水麗彫盈入玉胎
拂竹鸞驚雲外在 経松鶴舞望中来
除暉可記佳人興 堪慕丹𫕟瑞景催
動きなき山の岩かね明らかに月にみかける秋の夜すから
此山の岩根隈なく澄月にそらの限りは秋にさやけき
本宮暮雪 《割書:号一宮本宮山|昔ハ穂ノ宮ト云シ》
霧霽本宮藤六親 巌虚玉彩浄如銀
映松夕雪霜毛潔 度嶺朝雲藻質新
清唳咽風寒己散 高姿対影暖偏匂
遥看空水能皎白 逸翻無塵天外賓
嶋に似し山の姿は埋れて峯おもしろき雪の夕栄
此高ねつゝく山〳〵色暮てひとり隈なき峯の白雪
本野晴嵐 《割書:号本野原出名所|古昔穂野原ト云是也》
杳靄祥雲陰嶺秀 晴嵐翠岫四方空
星馳白草西東在 風動青霞上下通
乱■【彩ヵ】布幽斜日麗 余光徹野落陽紅
行人多少晩煙景 應座澄明図画中
吹やふけ本野の原の玉柳嵐にみたるいともかしこし
ふか緑嵐も色になひく也本野のはらの青柳の原
宮路夕照 《割書:云赤坂駅後山|》
瓊楼射日黄金彩 却望平原宮地邉
露洒旌旗雲外出 風廻巌岫雨中伝
光霞半落天河水 瞑色全低月樹前
駅路西連東海景 夕陽開処有紅塵
えならすよ千枝の栬の紅は宮路の山の夕日さす頃
咲藤のしなへをなかみ夕附日さすや宮路の山は色そふ
渡津夜雨 《割書:云小坂井前芝邉|》
万項畳晴東海隈 凝萃秋気入楼台
江間波浪兼天湧 塞上風雲接地開
白馬津邉今夜雨 黄河曲裏日光催
遥臨淑景移小坂 屢対潚湘酌賞杯
終夜心もはれす降雨に世をしかすかの渡りいふせき
更ぬるか身はしかすかの夜の雨にいとかゝ【かくヵ】袖はぬれ渡る也
三明晩鐘 《割書:云今之三明寺|》
漢苑鐘声暮色分 凌霜万戸一城開
虚心應物蓬莱殿 大扣徹風鴛鷺群
近雑雞人銀白露 新伝■【亮ヵ】氏玉黄雲
豊河名跡誰能識 流聴抱明拂曙気
妙なれやみつのさかひもたとらまし世に古寺の入相の鐘
池水にひらきすむなり此寺のいりあひのこゑも与所にかはりて
参河国二葉松終
跋
億夫在国而不弁国事物其蔽也愚
矣乎蓋参河国不聞国号何代創矣
国造始于人皇第六
考安朝後日本武尊有功之地也雖
載国【丸囲み】/吏(史)風土記等書名区勝蹟頗多
端焉物換星移而至于今世者識之
希也余患其陵庚之志頻而遣日有
年雖然不敏而未果近日覧其長並
紀隆長孝等遺書乃本乃厥芟繁補
闕纂輯之而題号参河国二葉松庶
乎欲使高明之士糺其謬誤伝以千
載財也其所記録曰郷村曰神社曰
寺院曰海島曰財産曰古城曰古墳
曰名所唯以及耳目載之敢以非探
厥頥矣而應縁問而答廼一階梯矣
於茲懼負委命忘陋言集僣跋焉云
爾
旹
元文庚申龍次仲穐日
佐野監物知尭誌
二葉松加毫之連名
吉田城内 小笠原大貮基長
岡崎満性寺 東泉坊 教山
西郡 三好三助 紀隆
新城 太田白雪 長孝
牛久保 渡邉自休 豊綱
吉田 渡邉休白 竪
参州寶飫郡宮島郷長山村
佐野監物 知尭
皇都祇園祭礼四條河原之涼
稲荷山
伏見カイトウ
高セ川
カモ川
の間に
つゝみ有
ハシノ下
ヲクヽル
阿弥陀ヶ峰
五条大橋
目かねハシ【?】
西大谷
名物ものさし
念仏坂
シル谷越
大つへ出る
三条の小鍛冶作長刀
音羽の滝
景清塔
五条坂
音羽山
地主権現
此橋松原通
四天門
庚申堂
トウ
三ねん坂
八坂
アメカシ
本セン寺
本住寺
安井
霊山
高台寺
三躰の神輿ハ
四条橋を越て
旅所にわたす
彫兼
五雲亭
貞秀画
祇園御旅所
四条ヨリ
此方六月六日
七日祇園祭
なり
壱番
長刀鉾
弐番
月鉾
■藤慶【■は∧+●+や】
【表紙】
三河鉄道
営業案内
三河鉄道営業案内
凡例
一本案内は開業匆々諸般設備未た完成せす調査の資料亦た十分なら
す唯た日常来往花客の諮問に答ふるに代ゑ応急之を編す粗漏の譏
りは固より甘受する所なり
一北部線の竣成も最早遠きに非ざるべし此全部開通の上は更に本編
の改訂を期せんとす諒焉
大正三年五月 編者識
目次
一緒言…………………………………………………………………………………一
一刈谷新駅……………………………………………………………………………四
知立町、知立神社、三弘法、八橋無量寿寺、引馬野、先帝行幸趾、
一刈谷町駅……………………………………………………………………………九
刈谷町、亀城趾、松本奎堂碑、宍戸弥四郎碑、
一小垣江駅…………………………………………………………………………十四
一吉浜駅……………………………………………………………………………十五
一高浜港駅…………………………………………………………………………十七
高浜町、専修坊、
一北新川停留場……………………………………………………………………十九
西端応仁寺、桃林、
(1)
(2)
一新川町駅…………………………………………………………………………二十
新川町、油ヶ淵、天王森、(一名新須磨)
一大浜港駅………………………………………………………………………二十四
大浜町、称名寺、傘松、棚尾村、平坂港、島巡リ、伊勢参宮、
一哩程 及 賃金の概要………………………………………………………三十三
営業哩程表、旅客賃金表、院社線連絡駅、特別駅割引、団体割引賃金、
回数乗車券、定期乗車券、手小荷物、
一院線四駅特別連絡回数乗車券賃金表(裏表紙)
一広告(抽籤順)…………………………………………………………………《割書:自 一|至三十八》
以上
附言 本編は去四月中の稿案に係り印刷已に成るの後事実の変化せる所なきに非す
然れども今一々之を訂すの暇なし、諒之
三河鉄道営業案内
緒言
【傍点ここから】三河鉄道は東海道線刈谷駅に於て院線と連絡し【傍点ここまで】、分岐して南は小垣江
吉浜、高浜、新川を経て大浜に達するもの延長/九哩半(○○○)、北は知立、八
橋、若林、土橋を経て挙母に達するもの延長/拾壱哩半(○○○○)、合計/弐拾壱哩(○○○○)
之を第一期線とし、其南部線は昨年一月工を起し、【傍点ここから】本年二月五日を以
て営業を開始す【傍点ここまで】、北部線は今方さに起工の準備中にして遅くも本年内
には成工の予定なり、而して更に大浜より南に伸ひ平坂、一色、吉田
幡豆、形原を経て蒲郡に到り東海道線に接続すべき延長拾九哩余の線
路は第二期線として計画中に属し、巳【已?】に其筯【筋?】の認可を得、将さに実測
(1)
(2)
を開始せんとするの状況に在り、以上全線貫通するに至らば【傍点ここから】北は挙母
より南は蒲郡に達する総延長四拾哩に上り【傍点ここまで】、全く西参の主脳部を連絡
する有力なる交通機関として重要の地位を占むるに至るべく、鉄道の
面目亦自ら一新するを得ん。
此地方一帯固と不毛の原野多かりしが、維新後矢矧川の水を引きて我
国用水中の巨擘と称せらるゝ明治用水の開鑿せらるゝあり、近年又同
川上流に於て枝垂用水の通するに至れるあり、為めに附近の林野尽く
拓かれ、今や穣々たる稲田万頃に連なり、米穀の産出年額数拾万石に
上り、貧弱の郷土忽ち化して富裕の楽境たるに至れり。
然れども一得あれば一失あり、矢矧川は東海道中有数の大河にして其
源を濃信の境峰巒重畳の間に起し蛇蜒数十里流れて衣ヶ浦に入る、水
豊に波緩に万帆の来往織るか如く、【傍点ここから】古来山地海浜の交通貨送は一に此
舟揖の便に待つの状況なりしに【傍点ここまで】、【傍点ここから】上記二大用水の開通と共に年内の過
半は全く水運を杜絶するの己【已】むを得さるに至り【傍点ここまで】、随て水源地方無尽蔵
の宝庫は再ひ封鎖の運命に陥り、更に何等か新らしき鍵鑰を附与せら
るゝの機会を待ちつゝあり、【傍点ここから】三河鉄道は乃ち此鍵鑰に任せんとする天
職を帯びて生れたるなり【傍点ここまで】
北端の挙母地方は濃信の山岳に連り最/林産及礦産(○○○○○)に富む、木材、薪炭
石材、磨砂、陶土等の天産物は真に無尽蔵の観あり、中間知立大浜の
方面は人文夙に開け産業殷盛を極む、就中、瓦、土管、焜炉、煉瓦、
味醂、木綿等の/工産品(○○○)は何れも三州の名を冠して全国に称せられ、米
穀、蚕糸、落花生、甘藷、菜根等の/農産物(○○○)又遠く阪神の市場に搬出せ
らる、大浜以南幡豆線の沿岸に至つては/海産物(○○○)の豊富なる鮮魚の東京
人士に賞賛せらるゝもの其種類尠からす、加ふるに/石材(○○)の産出亦頗多
(3)
(4)
量に上るあり、之を要するに本鉄道は
其哩程の比較的短距離なるに拘はらす
山嶽地方より海浜に及ひて逼満に産業
の開発を助長すべき特色を有するもの
とす。
沿線一帯亦名勝旧蹟に富む今先開業せ
る線路附近に就き其概略を紹介せん。
刈谷新駅
東海道線刈谷駅に隣接し貨客共に院線
と連絡す、是より東京へ二百十八哩、
横浜へ二百〇二哩、名古屋へ十五哩、
京都へ百〇九哩、大阪へ百三十六哩、神
戸へ百五十六哩なり。
本社所在地にして機関庫、車庫等一切
の設備茲にあり。
(知立市) 刈谷新駅より東北二哩余、
戸数千六百、人口約九千、郡内屈指の
名邑たり、旧時は東海道五十三駅の一
にして旅客の往来殷盛を極めたりしが
今は亦昔日の観なし、然れども碧海郡
衙、税務署、登記所、工芸学校等の公
設物あり、製糸工場、華蓆工場、製粉
所、家畜市場等生産に関するもの亦尠
【右上写真】本社
【左下写真】知立神社
(5)
(6)
らす、最近郡衙の他に移転せらるゝ議
あり却て町民の覚醒を促かすの機運を
来せるものゝ如し。
知立神社 又池鯉鮒神社と称す、仲哀天
皇元年の創立に係り鸕鷀草葺不合尊、
彦火火出見尊、王依比売命、神倭磐余
彦尊の四神を祭る、延喜式内三河国二
十六座の一にして歴朝の崇敬浅からず
古来【傍点ここから】蝮鼹鼠除の守札【傍点ここまで】を出し霊験殊に著
し、境内老樹多く鬱蒼として幽致あり
【傍点ここから】就中多宝塔は明治四十年特別保護建造
物に編入【傍点ここまで】せらる、毎年四月大祭日は近
郷より参詣する者数万に上ると云ふ。
三弘法 知立町字上重原遍照院は弘仁
年間僧空海此地に錫を駐め説法するこ
と数年別れに莅み自ら像を刻んて遺せ
る所なり、後之を一里山及一ツ木に分
置し俗に三弘法と称し賽人常に絶へす
殊に陰暦二十一日は遠近の老若群集し
て雑沓を極む
八橋無量寿寺 知立本町より東北三十町
に在り、古来【傍点ここから】在原業平朝臣の旧蹟【傍点ここまで】を以
て著はる、朝臣東下の途次此地を過き
りて杜若の咲けるを見「から衣着つゝ
【右上写真】重原弘法
【左下写真】八橋無量寿寺
(7)
(8)
馴れにしつましあればはる〴〵来ぬる
旅をしそおもふ」と詠したりしは夙に
人口に膾炙する所、【傍点ここから】寺内尚ほ杜若を栽
ゑ花時杖を曳く者頗多し【傍点ここまで】、朝臣の遺物
亦尠からす蔵せらる、蓋し三河第一の
勝蹟なり、茲より西方数丁、朝臣の杜
若姫に邂逅せりと称せらるゝ逢妻川あ
り白魚を以て名産とす。
引馬野 知立町の東端に在り、馬市の
起原詳ならすと雖其由来頗古く三才図
会に記さる、毎年六月三日遠近より馬
を牽き来り商売、顧客群集して市を成す
明治大帝駐駅趾 八ッ橋の附近来迎寺に
在り、明治二十三年海陸聯合大演習を
挙行せらるゝや明治天皇親しく之を統
監し給ひ、駅を来迎寺学校に駐めて三
軍を閲し給へり、村民此無上の光栄に
感激し碑を建て以て遺烈を千載に伝ふ
碑面に刻する「錦旗千載駐余光」の七大
文字は則ち故有栖川熾仁親王の染筆に
係れり
刈谷町駅
【右上写真】引馬野
【左下写真】先帝行幸趾
(9)
(10)
刈谷新駅より西南一哩弱に位す、刈谷
町の在る所にあり。
(刈谷町) 天文二年徳川家康の外祖水
野忠政此地に城を築きしより稲垣、阿
部、本多、三浦、土井の諸氏相次て之
に居す、現今戸数一千五百、人口約八
千五百に過ぎずと雖、近郷附近の雑貨
供給地として豪商棟を列ね郡内屈指の
小都会たり、殊に太田氏の経営に属す
る製袋工場は其組織頗大にして一ヶ年の
紙袋産額二億枚、其価格拾五
万円に上り販路海内に普及せ
り、又大野氏主宰に係る煉瓦工
場は旧藩士就産の目的に成り
明治十五
年の創立
にして実
に愛知県
に於ける
斯業の嚆
矢なり
現今一ヶ
年の産額
五百万個
に達す。
【右上写真】刈谷町駅
【左上写真】松本奎堂碑
【左下写真】亀城趾
(11)
(12)
此地の旅館及料理店の主なるものは米清、大喜舘、勝友舘、玉川屋、
新花岡屋等にして就中大喜舘の庭園は幽邃にして雅致あり、勝友舘は
快濶にして眺望に富む。
亀城趾 土井氏居城の遺趾、
今や荒廃して雑草離々たり、
【傍点ここから】此地一幹の老松存す、亭々と
して雲を凌き秋風低迷する時
松籟弾琴の響あり、称して琴
弾松と名つく、若夫れ月明の
夜樹下に徘徊せば恐らくは千秋万古の恨を語らん。【傍点ここまで】
松本奎堂碑
宍戸弥四郎碑 幕府の末造海内尊攘の議漸く盛ならんとするに当り、中山
侍従等と共に卒先して兵を大
和十津川に挙げたりしも時未
だ至らず、事志と違ひ遂に義
に斃れたる勤王の志士松本奎
堂宍戸弥四郎の二人は実に此
地の産なり、後人其の遺蹟を
不𣏓【朽】に伝へんか為め各其邸趾
に碑を建て以て英霊を慰む。
【右下写真】琴弾松
【左上写真】宍戸弥四郎碑
(13)
(14)
小垣江駅
刈谷町駅よ
り南方一哩
半に在り、
小垣江は依
佐美村の一
部落にして
彼の友綱卿
が「君か代
はよさみの
杜のとこしゑに松と杉とや千とせさか
ゑん」と詠じたるは此地なり、戸数千
六百、人口約九千、【傍点ここから】瓦の産出を以て名
あり【傍点ここまで】、茶園を経営する者亦多く其産額
逐年増加しつゝあり。
吉浜駅
小垣江より南方一哩強に在り、吉浜は
高浜町の一部落にして農家多しと雖、
近年瓦及土管の産出亦た漸く盛んなり
停車場に隣接して徳倉前代議士の経営
に係る/養魚池(○○○)あり、周囲一里余、其規
【右上写真】猿渡築堤
【右下写真】小垣江河口
【左下写真】吉浜養魚池
(15)
(16)
模壮大にして鰻鯉鰡等を産し日々名古
屋及京阪地方に輸出す、附近一帯風光
快濶にして池辺に釣鑰を垂るれば以て
一日の清遊に適すべし。
素朴なる村民の余技として紹介の価値
あるものは/造物細工(○○○○)に関し特殊の技倆
を有すること之なり、本村民の菊細工
造人形等の手工に巧みなるは殆んど天
稟と云ふべく毎年名古屋及東京に迄出
張して都人士を驚歎せしめ陰かに以て
誇りと為せり。
高浜港駅
吉浜駅の南方二哩に在り。
(高浜町) 愛知県内屈指の工業地にし
て戸数千八百、人口壱万余、尚年々著し
く増加しつゝあり、此地元と常滑職工
の移転し来りし者に依りて開かる、陶
器は土管、煉瓦、焜炉、瓦等の粗製品
なれども其産額の大なるは驚くべし、
就中土管は明治十八年神谷伊藤の二氏
斯業を開始して以来、逐年盛大に赴き
其販路国内は勿論遠く清韓地方に及び
【右上写真】吉浜神社附近
【左下写真】高浜全景
(17)
(18)
【傍点ここから】今や三河土管の称呼は殆んど本家常滑
を凌駕せんとするの勢あり【傍点ここまで】、港内水深
く波穏にして船舶の来往梭を行るが如
く、埠頭常に製品堆積して山を為す、
工場の烟筒林立して煤烟濛々白日尚ほ
暗し、以て其盛観を知るべし。
専修坊 停車場より東方十町高取に在
り、蓮如上人留錫巡化の蹟なり、多く
遺物を蔵す、毎年四月蓮如忌には附近
の参詣者夥し。
北新川停留場
高浜港駅の南一哩に在り、新川町の北
端に位す、此附近南瓜及大根を産す、
栽培反別百町歩に上り其販路阪神は勿
論遠く北海道及満州に及ぶ、【傍点ここから】松江南瓜、
三河大根の名嘖々たり【傍点ここまで】。
西端応仁寺 本停留場より東方二十町に
在り、応仁年間の建立にして蓮如上人
隠栖の地なり、宝庫には上人の遺物多
し、毎年陰暦三月六月の二期には一般
衆庶の観覧を許す遠近の参詣者頗多し。
【右上写真】高浜築港
【左下写真】専修坊
(19)
(20)
桃林 西端及東端の附近は古来桃樹の
栽培多く盛時数百町歩に達せしが、明
治用水開通後漸く減少し近来亦た柑橘
に代ゆるものある為め稍旧時の観を失
ひしと雖、多くは老樹にして春陽三月
開花の季に際せば靉靆たる紅雲裡笻を
曳て来り賞する雅客尠からず。
新川町駅
北新川停留場より南一哩弱に在り、【傍点ここから】爰
より海陸連絡の為め海岸に到る支線を
敷設中なり【傍点ここまで】、成工の上は本鉄道貨物の
輸送上新面目を開くに至らん。
(新川町) 本町は衣ヶ浦の水漸く濶く
油ヶ淵の放流海に注ぐ処に位する天然
の一良港なり、年内船舶の来往織るが
如く帆檣林立百貨輻湊して街衢殷賑を
極む、戸数千五百、人口八千、【傍点ここから】此地三
河陶器の産地としては其起原最も古く
享保時代己【已】に萌芽を示せり【傍点ここまで】、今や煉瓦
土管、瓦、焜炉等の工場は新川上流の
両岸に櫛比し煤烟高く天に漲り頗壮観
を呈す、而して其製品は直ちに海に出
でゝ遠く東西の市場に舶送せられ、従
【右上写真】桃林
【左下写真】新川港口
(21)
(22)
来対岸の武豊線に依り鉄道輸送の便を
籍りしものは僅に其五分の一に過ぎず
と云ふ、此地海岸の旗亭鶴洲楼には夏
時海水浴の設けあり。
油ヶ淵 新川町の東北端に位する三椏
形の一大湖水にして周囲三里余、昔時
は海に通ぜしが漸く変じて池沼と為る
元禄年間潴水を衣ヶ浦に放流する為め
水路を開鑿し樋門を設けたり、新川の
名蓋し之より起る、【傍点ここから】若夫れ軽舟を僦ふ
て湖心に出づれば瀲灔徐ろに動き碧鏡
雲を浸し四顧の風物宛として一幅の画
図に似たり【傍点ここまで】、地稍僻在すと雖、銷夏の
夜泊、秋光の釣舟共に旅情を慰するに
足らん乎。
天王之森 新川大浜両町に介在す、新
川町停車場より約四町、衣ヶ浦の海浜
にし【傍点ここから】て一帯の松林翠緑滴らんとし、白
砂の長汀遠く銀線を曳くが如し、前に
は知多半島彩画の如く展開して呼べば
応へんとし、更に遥に朝熊【傍点ここまで】(伊勢)【傍点ここから】の連
峰を雲烟摸糊の間に望む、砂清く波静
かにして夏季海水浴の好適地たり【傍点ここまで】
【右上写真】油ヶ淵
【左下写真】新川河口汐干狩
(23)
(24)
大浜港駅
新川町駅の南二哩余、本鉄道現在営業
線路の終点なり、是より平坂西尾の方
面には連絡馬車の運行するあり、海岸
よりは連絡汽船ありて知多半島及伊勢
地方との交通至便なり。
(大浜町) 衣ヶ浦の南端に位し地形新
川と酷似する良港なり、往昔は浜奉行
の設けありて幕府の代官来り住む、当
時船舶の往来此附近の第一位を占めた
りと云ふ、戸数千弐百、人口六千五百
此地工業の最盛んなるものを木綿及味
醂の二者なりとす、/木綿(○○)は巨大なる工
場十を以て数ふべく、動力機械を使用
し年々産出する処二百万反を下らず、
価格数拾万円に上れり、/味醂(○○)は関東の
流山と並称せらるゝ県下有名の特産に
して一ヶ年の産額五千石に達し、其販
路は啻に内地に止らず遠く清韓、布哇【ハワイ】
及米国加奈陀に至る、就中石川氏の醸
造する九重桜は起原最古く安永年間の
創立にして産額亦最多しと云ふ、其他
角谷氏の/辛子漬(○○○)の如き其風味の佳良な
【右上写真】(一名新須磨)
天王森(海水浴場)
【左下写真】大浜港駅(終点)
(25)
(26)
る是亦本町の特産として誇るに足るべ
し、農産物としては/甘藷及落花生(○○○○○○)の栽
培頗多く産額拾数万円に達す、水産物
には【傍点ここから】蟹𩹨白魚【傍点ここまで】等あり是亦年産数万円日
夕速達便に由り東京市場に上る。
此地旅舘及料理店の主なるものは浜田
屋及海月等にして浜田屋は調味の美な
るを以て名あり、海月は海浜に面して
風光宜しく海水浴の設備あり。
称名寺 声阿上人の開基にして嘉吉元
年徳川家康の祖、有親及長男親氏来つ
て之に住す、後親氏は松平村に移り、
有親は享徳元年本寺に寂す、家康の遺
品其他什宝多く、境内幽静にして俗塵
を絶つ。
傘松 停車場より南二十余丁田圃の間
を進み蜆川の海に注ぐ処自ら洲崎を成
す、之を権現崎と云ふ、【傍点ここから】爰に一老松あ
り幹の高さ三丈六尺巨枝四方に展開し
直径六丈四尺に及ぶ【傍点ここまで】、古来入港の舟人
以て目標と為す海上より之を望めば恰
も雨傘を浮ふるが如し、因て此名あり
と、亦名勝の一たるを失はず。
【右上写真】大浜海水浴場
【左下写真】称名寺(徳川氏旧蹟)
(27)
(28)
古人句あり、曰く
◎ 鳩嶺
春雨になに大はまやいとふまし
からかさ松のもとに来ぬれは
此附近浅渚遠く海に入り、貝類の発生
頗多きを以て、春秋の好晴に乗じ/汐干(○○)
狩を試むるも妙なるべく、夏季は亦/海(○)
/水浴(○○)に適し、且/釣魚(○○)に宜し、殊に/鰒突(○○)
きと称して晩春の暮夜渚辺に松火して
鰒を漁するあり、都人士の多く聞知せ
さる珍希の漁法なり。
(棚尾村) 大浜港停車場の東部に位す
る繁華の小部落にして戸数九百余、人
口約五千、平岩鉄工場、長崎醤油醸造
場等数個の大工場あり、商業亦盛んな
り、此地妙福寺に祀れる/毘沙門天(○○○○)は仁
寿元年志貴左衛門尉此地方の庄司と為
りて赴任の際奉じ来りしもの、後一寺
を創して之を安置す、大和志貴山の分
体にして聖徳太子の作に係り霊験殊に
顕著なり、【傍点ここから】吉凶の神籤百中【傍点ここまで】すと称して
四方より賽者常に絶へず、
【右上写真】傘松
【左下写真】棚尾(毘沙門天)
(29)
(30)
(平坂港) 大浜港駅より棚尾を経て矢矧川を渡り行くこと十余町にし
て一小市街あり、平坂港と云ふ、幡豆郡の咽喉にして東は西尾、南は
一色に通す、【傍点ここから】三河鉄道の第二期線たる蒲郡線は実に此地を基程として
海岸を走るものとす【傍点ここまで】、戸口大浜町より稍少なきも煉瓦、土管、豆粕等
工業の規摸は頗る見るに足るものあり、近時西尾鉄道線亦此地に来り
海陸連絡の設備を為す、斯くて縦横交通機関の完成と共に該町将来の
発達亦大なるものあらん。
(島巡り) 大浜町より汽船に搭して南下衣ヶ浦を出づれば湾頭に師崎
港あり、昔時東航の船舶風波を避けて爰に仮泊する者多く浜奉行の駐
在せし所と云ふ、現今海水浴場あり夏季来り遊ぶ者尠からず。
更に港頭に立て望めば佐久島、篠島、日間賀島の諸島嶼星羅碁布して
宛然小松島の風光あり、其【傍点ここから】佐久島の弁財天【傍点ここまで】は由緒頗古く、【傍点ここから】篠島には後
村上天皇東征の遺蹟あり【傍点ここまで】、遠来の佳客
島巡りと称して此等の名勝旧蹟を探く
る者夏時殊に多し。
(伊勢参宮) 大浜港より師崎を経て伊勢
湾を横ぎり一路直ちに二見港に向ふ【傍点ここから】海
上廿八浬、汽船僅に四時間にして達す【傍点ここまで】
二見より電車にて内外両宮の参拝を終
り帰途更に鳥羽の形勝を賞するも旅程
二日にして足る、【傍点ここから】其費用の低廉にして
時間の経済的なる三河方面より参宮に
志すものゝ最捷経路なりとす【傍点ここまで】
【左上図】伊勢参宮近道
【図中の文字】
刈谷 東海道線 蒲郡
衣ヶ浦 大浜 矢作川
師崎 サクシマ シノジマ
伊勢湾 二十八浬 約四時間
山田 二見 鳥羽
参宮線 外宮 内宮
(31)
(32)
以上列挙する所は僅に九手の一毛たるに過きず尚ほ仔細に実状を精査
し他日機を得て更に之が玉成を計るべし
【左頁写真】汽働車
(33)
◎営業哩程表
駅名 大浜港 新川町 北新川 高浜港 吉浜 小垣江 刈谷町
哩 哩 哩 哩 哩 哩 哩
刈谷新 九、〇 七、四 六、七 五、六 三、八 二、五 一、〇
刈谷町 八、〇 六、四 五、七 四、六 二、八 一、五
小垣江 六、五 四、九 四、二 三、一 一、三
吉浜 五、二 三、六 二、九 一、八
高浜港 三、四 一、八 一、一
北新川 二、三 、七
新川町 一、六
◎旅客賃金表(通行税共)
駅名 大浜港 新川町 北新川 高浜港 吉浜 小垣江 刈谷町
刈谷新 二五銭 二〇銭 一九銭 一六銭 一一銭 八銭 四銭
刈谷町 二二 一八 一六 一三 九 五
小垣江 一八 一四 一二 九 五
吉浜 一五 一〇 九 六
高浜港 一〇 六 四
北新川 七 三
新川町 六
(34)
(35)
◎院社線連絡駅
一、旅客及手荷物
東海道線 浜松 大垣間各駅
新橋 品川 平沼 横浜 国府津 沼津 静岡 京都 大坂 神戸
関西線 弥富 桑名 四日市 奈良 津 松阪 山田 鳥羽
中央線 木曽福島 名古屋間各駅
信越線 長野 新潟
北陸線 敦賀 福井 金沢 富山
一、一般大貨物及小荷物
院線各駅(北海道 九州 総武 讃岐 徳島線ヲ除ク)
一、豊川鉄道各駅(院線豊橋刈谷を経由し旅客手小荷物及大貨物)
◎特別駅割引
一、院線名古屋熱田安城岡崎と社線各駅間に院線内普通賃金社線内一割引通用期間三日間の
乗車券を発売す今往復賃金を挙ぐれば左表の如し
至 自 刈谷町 小垣江 吉浜 高浜港 北新川 新川町 大浜港
岡崎 四〇銭 四七銭 五三銭 六二銭 六七銭 六九銭 七八銭
安城 二四 三一 三七 四六 五一 五三 六二
熱田 四六 五三 五九 六八 七三 七五 八四
名古屋 五六 六三 六九 七八 八三 八五 九四
(36)
(37)
◎団体割引賃金
普通団体
哩程 人員 二十五人以上 五十人以上 百人以上 二百人以上 三百人以上
五哩迄 五分 一割 一割五分 二割 二割五分
十哩迄 一割 一割五分 二割 二割五分 三割
十五哩迄 一割五分 二割 二割五分 三割 三割五分
二十哩迄 二割 二割五分 三割 三割五分 四割
学生団体
五哩迄 一割五分 一割七分五厘 二割 二割二分五厘 二割五分 三割
十哩迄 二割 二割二分五厘 二割五分 二割七分五厘 三割 三割五分
二十哩迄 三割 三割二分五厘 三割五分 三割七分五厘 四割 四割五分
哩程 人員 二十五人以上 五十人以上 百人以上 百五十人以上 二百人以上 三百人以上
◎回数乗車券
回数乗車券は社線内各駅間御乗車用として至極御便利且徳用向に有之通普賃金の二割強の
割引に相当致し通用期限無期限に候
五十区分 一冊 金壱円
百五区分 一冊 金弐円
今区間表を挙ぐれば左の如くに有之候例へば高浜港より刈谷町までは高浜港吉浜間二区吉
浜小垣江間一区小垣江刈谷町間二区の五区即五枚にて御乗車相出来申し候
一区 二区 一区 二区 一区 一区 二区
刈谷新 刈谷町 小垣江 吉浜 高浜港 北新川 新川 大浜港
(38)
(39)
◎定期乗車券
普通及学生定期乗車券は一ヶ月三ヶ月六ヶ月十二ヶ月に分ち前者にありては四割乃至六割
を低減し後者にありては五割乃至七割五分を低減して発売致候
◎手小荷物
一、旅客其旅行に必要なる物品を託送せらる時は手荷物として三十斤迄は無賃を以て
取扱致候無賃制限外の手荷物は左表に拠り御取扱致候手小荷物一ヶに付金五銭を
以て停車場より一里半以内に限り配達可致候
全線各駅間
一斤 七銭
二斤 七銭
三斤 七銭
四斤 七銭
五斤 八銭
六斤 九銭
七斤 十銭
八斤 十一銭
九斤 十二銭
十斤 十三銭
十二斤迄 十五銭
十四斤迄 十七銭
十六斤迄 十九銭
十八斤迄 廿一銭
二十斤迄 廿三銭
以上五斤若クハソノ
未満ヲ坋【?】ス毎ニ本欄
金額ヲ加フ
四銭
本表の運賃は一個毎に之を計算するものとす
【左上】
取締役社長 渡辺治右衛門 取締役 吉田丹次郎
専務取締役 渡辺勝三郎 取締役 久米良作
専務取締役 福沢平太郎 取締役 渡辺六蔵
東京市日本橋区本材木町一丁目八番地
旭日生命保険株式会社
名古屋市中区矢場町五ノ切五十五番地
同 名古屋支部
刈谷町
同 刈谷代理店
神谷周助
【左下】
呉服太物
祝儀小袖
蚊帳布団
確実
大勉強
刈谷町
【屋号:カク𠮷】吉本屋呉服店
電話二三番
電略カミヤ
(1)
(2)
【右】
歯科専門治療
歯科医 加藤正孝
電話三四番
三河国刈谷町
【左】
世界的味淋界ノ泰斗
■■登録済
登録商標
精醸 味淋
九重
事業畏クモ
天聴ニ達シ光栄、名誉枚挙ニ遑ア
ラズ販路海外ニ及ビ名声世界ニ
高シ
大浜町(大浜港駅ヨリ西三丁)
醸造元 石川八郎治
電信略号(イシ八)又ハ(イ)
電話大浜八番
振替口座東京四三二九番
大浜港駅港内ニテ壜詰ヲ販売ス
(3)
(4)
【右】
確実
取扱
《割書:株式|会社》愛知農商銀行刈谷支店
電話(長)六番
知多郡東浦村
大字緒川 緒川出張店
碧海郡高浜町
大字高浜 高浜出張店
電話高浜(長)二〇番
【左上】
登録商標【屋号:マル美】
味噌
醤油
醸造元
三河大浜港
角谷兵右衛門
電話大浜二四番
【左下】
米穀肥料
青乾物
鉄道荷物取扱
刈谷駅前
【屋号:山形にヱ】天野運送店
店主 江坂常吉
((長)電話二四番)
(5)
(6)
【右】
最上味淋粕【?】
商■ 初霞
直し
純良
商標 白梅
焼酎
三河■■■■大浜町【三河国碧海郡大浜町】
角谷文治郎
清醸【?】味淋
商標 吉野
三河国碧海郡大浜町
角谷文治郎
三河国碧海郡大浜町
醸造元 角谷文治郎
【左】
オノヤ小町化粧品発売本舗
《割書:陸軍|軍用油》御用《割書:内外油|綿糸類》卸商 小野治三品商店
三州刈谷正木町 電略オノジ又ハ(オ)
豊橋支店 (大手通リ長門病院隣)
大日本横浜市元町百〇七番
小野治横浜化粧品発売所
(7)
(8)
【右】
三河鉄道指定貨物取扱人
【社章:「新」+円形の「川」】新川運輸株式会社
新川町(長)電話三八番
【左】
御手軽
御料理
勝友舘
電話二〇番
刈谷町元中根
(9)
(10)
【右】
三井物産株式会社石炭特約販売
東京瓦斯コークス株式会社特約店
各種石炭
瓦斯コークス
販売
【屋号:井桁に王】《割書:合資|会社》尾参石炭商会
(長)電話三番
三河鉄道指定貨物取扱人
【E マル通 E】 内国通運株式会社取引店
《割書:運送|倉庫》業 【屋号:山形にサ】刈谷運送店
電話一七番
店主 加藤悌一
刈谷駅前
【左】
登録商標
精■味淋
八重
三河国碧海郡旭村平七
平岩七之助醸造
登録商標
精■味淋
寒梅
三河国碧海郡旭村平七
平岩七之助醸造
醸造元
三河国碧海郡旭村
平岩七之助
大浜電話一七番
(11)
(12)
【右】
三河鉄道指定旅館
刈谷本町 米清
電話一六番
支店刈谷町駅前 寸楽
【左】
割烹兼旅舎
浜田屋
三河大浜
電話
大浜九番
大浜港駅より三丁余
(13)
(14)
【右】
愛知県碧海郡旭村大字平七
山中従天医舘
電話大浜七番
振替東京第九弐弐弐番
院長 山中律
副院長 山中泰造
東京遊学中副院長 山中貞三
医員 土肥林二
医員 中野義一
【左】
貨物
取扱
三河鉄道株式会社指定貨物取扱人
【屋号:マル五】大浜運送店
本店 大浜町入舟通
支店 大浜港駅前
電話三二番
(15)
(16)
【右頁右】
鉄道用
上下水道用
耕地整理用 土管
土管製造販売業
【屋号:山形にサ】太田支店
太田札右衛門
三州新川町
電話(長)三〇番
【右頁左上】
新川町
【屋号:山形に新】白醤油製造元
鳥居新六
電話三一番
【右頁左下】
三河国大浜港
【屋号:山形に忠】
漁網製造
内外麻苧
船貝類 商 山下忠平商店
電略(チユ)又ハ(チ)
振替口座東京二七七六二番
【左頁上】
御旅館
御料理
三州刈谷末町
玉川屋
電話二六番
【左頁下】
肥料
米穀
外雑品
並ニ運送業
【マル通】取引店
吉浜
万屋賢造
電略(ヨゲ)又ハ(ヨ)
(長)電話高浜弐五番
(17)
(18)
【右上】
営業科目
土管 鉄道用 電力用
上水用 耕地整理用
下水用
三州焼 焜炉類 土竈類
赤釜類 赤瓶類
愛知県碧海郡高浜町
【屋号:山形にモ】森吉商店
電話(長)六番
振替口座東京弐壱七四〇番
工場【屋号:山形に森】土管製造所
電話架設中
【右下】
青物市場
特産物
甘藷 鶏卵 胡瓜 茄子 西瓜
漬瓜 蜜柑 桃 切干 大根
縄
愛知県碧海郡高浜町大字吉浜
青物
果実
乾物
問屋【屋号:マル小】《割書:青物|市場》主 内藤小市郎
(長)電話二五番
電略(○コ)又ハ(コ)
【左】
弊楼ハ衣ケ浦湾ニ
望ミ空気清潔頗ル
眺望ニ富ミ御来遊
ノ各位ニ対シテハ
衛生ヲ重ンジ親切
ヲ旨トシ避暑及ビ
海水御入浴ニ適シ
候間
御愛
顧御
光来
ノ程
奉待
入候
旅館
割烹
海水浴 鶴洲楼
長電話一二番
三河鉄道線新川町停車場ヨリ西三丁
(19)
(20)
【右頁】
呉服太物
祝儀小袖
確実勉強
刈谷肴町角
【屋号:山形に正】三河屋台七
(電話四八番)
仏事婚礼引菓子御好ミニ応ジ調進 季節向新菓取揃
最薄利ヲ以テ御用命ニ従ヒ可申候間多少ニ抅ラズ精々御下命ノ程奉懇願候
殊ニ御進物用―鑵詰並ニ箱詰物―
―ハ一層注意仕精製致候ニ付御安心ノ上御注文願上候
刈谷名産《割書:亀城煎餅|刈谷饅頭》発売本舗
《割書:各博覧会|金銀賞牌》受領 三徳屋菓子舗
刈谷肴町
【左頁上】
最上味淋
登録商標 曙
三河大浜町
榊原清吉
【左頁下】
高■味淋
■■醸造
登録商標 錦
精■味淋
登録商標 白菊
参州大浜町
■■啓治郎
参州大浜町
醸造元 磯貝啓治郎
(21)
(22)
【右頁左上】
【屋号:山形に五】
漁網
麻苧
船具 商
石浜商店
愛知県碧海郡大浜町
振替口座大阪七七二四番
電略(ヤマ五)又ハ(五)
【右頁右下】
諸官衛御用達
宇治
【屋号:山形にT?】太子堂
銘茶
三河鉄道高浜港駅
駅前 神谷時太郎
【右頁左下】
高浜港駅前
三河鉄道指定貨物取扱人
内国通運株式会社取引店
【屋号:山形に本】神谷儀八運送部
電話五二番
主任 神谷勉三
【左頁】
鰻御料理
東栄
店主鈴木栄八
碧海郡旭村
旧東浦
電話
大浜三四番
大浜淃【港の誤り】駅ヨリ五六丁余
新川町駅ヨリ七八丁余
(23)
(24)
【右上】
御休泊処
御料理
刈谷駅前
新花岡屋
電話三五番
【右下】
最新流行呉服太物類
洋服調進並ニ附属品
新川町
小倉屋呉服店
(長)電話五番
【左】
東洋漬物界之泰斗
販路ハ海外ニ及ビ名声世界ニ高シ
皇国一品
名産【屋号:○に大十】からしづけ
■本愛知県大浜町
本家 ■谷大十製
大浜港駅ヨリ西五丁
電略スミヤ又ハ(ス)
振替口座東京一二六〇三番
大浜港駅港内ニテ瓶詰ヲ販売ス
(25)
(26)
【右上】
【社章:Eマル通E】
内国通運株式会社取引店
三河鉄道株式会社指定荷扱人
明治生命保険株式会社代理店
明治火災保険株式会社代理店
東京海上保険株式会社代理店
新川町駅前
浅井倉庫運送店
店主 浅井孝平
【右下】
能登輪島
国産各種 美術漆器
御紀念用品
賞杯類好廛 調製
其他膳椀各種
愛知県碧海郡刈谷緒川町
漆器商【屋号:マル吉】武村金三郎
振替口座大阪九一六二番
【左】
《割書:株式|会社》碧海銀行刈谷支店
(長)電話八番
《割書:株式|会社》碧海銀行新川支店
(長)電話一四番
《割書:株式|会社》碧海銀行高浜出張店
(長)電話五番
《割書:株式|会社》碧海銀行大浜出張店
(長)電話二番
(27)
(28)
【右上】
三河名産
福寿味噌
薬種売薬
三州刈谷肴町
醸造本舗【屋号:山形にコ】鬼頭幸七
電略(ヤマコ)又ハ(コ)
【右下】
芋おこし原料
製造元
三河大浜【屋号:○セ】高松清八
精撰 味噌醤油
商標【屋号:○セ】
三河国大浜港
高松商店
【左上】
材木卸小売
製材、製函
新川町
白竹商店
(長)電話一三番
【左下】
御仕出し
鮮魚
鰻 商
刈谷本町
魚安
電略(マルヤス)
(29)
(30)
【右上】
土管
元祖
営業
種目
煉化石屋根瓦土管製造竈元
其他諸材料販売
確実
勉強
土木建築請負業
合資会社
神谷商店
電話三四番
愛知県碧海郡高浜町二十一番地
代理店
豊橋市小池
電話四二〇番
業務執行社員
神谷徹
出帳店【出張店】
朝鮮群山港
本町電話
二〇番
【右下】
各種
自転車及ビ附属品
碧海郡刈谷本町
鈴木自転車店
◎迅速ニ完全ナル修繕ヲ望ム
諸彦ハ来レ
【左】
庭園は幽遽にして
四季の御ながめ宜しく
調味は清鮮を旨とし
御懇切専一に仕るべく候
三河国刈谷町
大喜舘
電話一二番
(31)
(32)
【右上】
登録商標
純良味淋
誉桜
三州大浜町
醸造元 磯貝襄雄
【右下】
煉瓦、瓦、土管、種土、
製造業
【屋号:カネ文】奥谷多策
碧海郡新川町
電話一六番
【左上】
商標
【屋号:○にイ】
肥料糠
各種
豊作は
肥料と
天候の賜なり
米雑穀肥料糠商
愛知県碧海郡大浜町
磯貝梅蔵商店
東京振替口座一九六一二番
発電略号(ウメ)又ハ(ウ)
【左下】
刈谷駅前
飲食店
煙草 大勉強
花元屋
伊藤金太郎
(33)
(34)
【右上】
写真
と
活版
新川町
板倉写真舘
仝印刷部
【右下右】
海陸運漕業
問善合資会社
三河国新川町
電話甲二六番
【右下左】
別府
豊後国速見郡別府町
温泉刈谷分浴場
午前十時より
午後十時まで
温泉は天与
の医薬なり
刈谷町駅ヨリ北へ二丁
【左上】
運輸百【○に便】般取扱
大浜港駅前
便利運送店
主任 神谷房一
電話大浜 電略○ヘン
【左下右】
愛知県碧海郡新川町
《割書:青物果物|海産物》八百勝市場
伊藤勝太郎
(電略カツ)
【左下左】
大根粕漬
三河国大浜町
製造元 角谷嘉市
(35)
(36)
【右上】
三河鉄道納品
指定店
万国各種懐中時計
各種和洋掛置時計
並附属品類一式
刈谷中町北側中程
深井時計店
【右下】
商標
優等清酒
菊の香
勝菊乃香を
海の■■も
岩田醸造場
碧海郡大浜町
醸造元 岩田佐太郎
【左】
大浜海水浴
海月倶楽部
電話十八番
御手軽特別料理調進仕候
(37)
(38)
【右上】
三河国碧海郡大浜町
醸造元 杉本八太郎
【右下】
大正三年七月十五日印刷
大正三年七月十八日発行
愛知県刈谷町
三河鉄道株式会社
愛知県刈谷町字下町三十三番地
印刷者 田中啓三郎
仝県仝町仝番地
印刷所 【屋号:山形に太】活版印刷所
【右・表題】
三河鉄道沿線全図 縮尺十五万分之一
【下・凡例】
記号
・三河鉄道線
及停車場
・仝工事認可線
・仝免許線
・院線停車場
・郡界
・道路
・河川池沼
・市街
・村落
・製塩地
・鉱物 イ 石材
シ 白土
み 磨砂
ト 陶土
・古城趾
・神社
・仏閣
・名所旧蹟
・海水浴場
【右上・概略地図】
中央線
至神戸 名古屋 瀬戸
関西線
刈谷 挙母
武豊 岡崎
大浜
西尾
海岸 蒲郡
至新橋
【詳細地図】
【挙母~知立 認可線沿線】
【採鉱地】イシ
【採鉱地】イ
勘八山
越戸
【採鉱地】シみ
西加茂郡
挙母
【採鉱地】イ
土橋
大林 矢矧川
竹
若林
北中根
花園
八橋
知立 国道 岡崎
【次頁へ続く】
【詳細地図・前頁からの続き】
【刈谷~蒲郡 東海道線沿線】
至名古屋
【城趾】刈谷
刈谷
重原
安城 東海道線
岡崎
幸田
蒲郡
至新橋
【刈谷~蒲郡 三河鉄道線沿線】
小垣江 碧海郡
【採鉱地】ト
吉浜
【採鉱地】ト
衣ヶ浦 高浜
新川 油ヶ淵
天王
大浜 棚尾
傘松
矢作川
平坂
【採鉱地】ト 西尾 西尾軽便
平坂港 寺津
一色
松木島
矢作古川
渥美湾 吉田 幡豆郡
宮崎
西幡豆
【採鉱地】イ
【採鉱地】イ
東幡豆
洲崎
形原
【以上】
◎院線四駅特別連絡回数乗車券
当社線各駅ト岡崎、安城、熱田、及名古屋ノ四駅間賃金ハ別項記載ノ如ク往復ニ限リ社線内二
割引ニ候処尚別ニ左表ノ如キ特別割引ノ連絡回数乗車券発売仕候ニ付詳細ハ最寄駅長ニ
就キ御照合被下度候
◎四駅連絡乗車券賃金表(二十五回分)但通行税ヲ含マス
岡崎 安城 熱田 名古屋
刈谷町 三円六五 二円一〇 四円三五 五円二五
小垣江 四、二五 二、七〇 四、九五 五、八五
吉浜 四、七〇 三、一五 五、四〇 六、三〇
高浜港 五、四五 三、九〇 六、一五 七、〇五
北新川 五、九〇 四、三五 六、六〇 七、五〇
新川町 六、〇五 四、五〇 六、七五 七、六五
大浜港 六、八〇 五、二五 七、五〇 八、三〇
【右頁】
名古屋市中区
栄町五丁
目
東海に於ける唯一の
「デパートメント、ストアー」にして
華客本位の精撰せる商品と諸般の
設備とは相俟つて来店各位の常
に賞讃を博しつゝあり金鯱の名城
と共に名古屋市所在の名勝たるを
確信す賁臨の栄を垂れ其の誇
称にあらざるを試みられん
ことを希ふ
地方の
諸産品
書面、電信、電
話にて御註文を乞ふ
いとう【屋号:○に井桁に藤】呉服店
【白紙】
【裏表紙】
《題:三州吉田記 全》
三州吉田記 全
林自見正森著 東参河資料叢書第壱編
《割書:校|訂》 三 州 吉 田 記 全
豊橋汲古會発行
三州吉田記目次
解説
序
総説之部・・・・・・・・・・・・一
吉田城主記・・・・・・・・・・十三
寺院之部・・・・・・・・・・・二七
社頭之部・・・・・・・・・・・三六
吉田町之部・・・・・・・・・・四二
追考・・・・・・・・・・・・・五〇
林家系譜・・・・・・・・・・・五二
解 説 近 藤 恒 次
(一)
□【三】州吉田記は寛延三年九月、吉田の一市人林自見正森の著したものである。本書を著すに至つた動機
は、その自序に示すが如く、当時世に流布して居たものに吉田城主記なる書があつた。併し此書には
□【少?】なからぬ誤があつたのでその誤を正すべく独力研究の結果、こゝに三州吉田記を編むに至つたもの
□云ふ。
本書には刊本はない。元来写本で流布し、その今に伝はるものも多くは転写を重ねたもので、従つて
其間の誤写脱字は免れ得ない。故に此度校者の知れる諸氏の蔵本を借集め、彼此参照校訂して出来得
る限りの正確を期し、少部数を世に送る事としたのである。左に諸本の伝来に就いて述べる。
○ 鈴木偉重氏蔵本。
書写系統は全く不明であるが、本文中の書入は宝暦迄で原本の成つた寛延三年と程遠からぬ
頃の写本と思はれる。行文正確な点でも他書に勝れてゐる。校訂に際しては本書を底本とした。
○ 舟橋水哉氏蔵本。
本書は吉田記とのみ題してゐる。瓦町の庄屋仁吉蔵写本を吉田藩士で且米価記の著者柴田猪
助氏が筆写し、更に之を弘化四年四月山本直清氏が転写し多少行文に変更を加へたものであ
る。
二
○ 会員豊田珍彦蔵本。
吉田藩士尾崎氏が天保十五年冬に写したものを明治三十三年六月・日吉田藩士染矢清忠氏
六十二歳の時転写したものである。
○ 会員白井一二蔵本。
本書の書写は最も新らしく明治四十年頃らしい。その系統は不明で文中脱落が多いが書入は
明治末に迄及んでゐる。画家長尾精江氏の蔵印あり。
(二)
著者林正森は元禄九丙子年五月廿一日、吉田呉服町に生れた。幼名を亀之丞と云ひ、後弥次右衛門と更
め号を自見と称した。
祖先は林雅楽と云つて所謂東三河十七人郷士の一人であり(一一頁参照)、その男林十右衛門景政は射術を善
くし、元亀三年春吉田に攻め寄せた武田信玄の兵を飽海口に防いで功があつたので時の城将酒井忠次か
ら賞せられ、景政の兄林助兵衛正秀は池田輝政に仕へ、長久手で戦死したが、その子孫が吉田に永住す
るに至つたもので、正森は正秀六世の孫である。
三州吉田記巻末の林家系譜に依れば、景政を兄(五二頁五行目)とし、又正秀を兄(五二頁十四行目)とするの両様あり、
正秀、景政何れが兄か明確でないが、没年を正秀、天正十二年行年四十二歳、景政、天正十四年行年四十一歳と記して居り、且
「正秀男景重幼稚也故景政為_二後見_一承_二継家督_一レ(五三頁一行目)の一節あれば正秀が兄と推される。尚菩提寺の龍拈寺に
ある位牌には玉叟洞珠信士(林正美)からでそれ以前は刻されてない。
正森は幼少より杉江常翁なる人に就いて学問した。
杉江常翁とは如何なる人か審でない。自見の著、世諺辨略、九文字屋、木村坥【坦?】之の序文に「翁少而従杉江翁者学道」、三州吉田記(本書七
頁)に「儒士杉江常翁云々」及び雑説嚢話巻下・隕石の話中に「予か師杉江常翁云々」と二三その名を見得るのみである。
廿五歳にして吉田町年寄役並びに利町世古町の庄屋を兼ね、元文二年八月、四十二歳の時には吉田町問屋
役となつた。兎に角非常な手腕家であつた事が推察される。
此処に自見の年齢を元文二年に四十二歳とするは、その生年が元禄九年とあるに依つての計算である(五十三頁参照)。然るに校
訂に用ひた四本共「元文二巳年八月、四十一歳、問屋役」と記す。何れが是か明らかでないが、しばらく前者に従ふ。
寛延三年五十五歳の時、彼は三州吉田記を著して吉田に於ける郷土研究の先駆をなした。続いて宝暦
十四年六十九歳の時には市井雑談集、同年(明和と改元)雑説嚢話を著した。
又この年の冬、彼は渥美郡雲谷普門寺観音堂の前に「とことはに照す光は幾世ともかぎらしものを法のと
もしひ」との歌を刻した石燈籠一基を奉献した。之は、自見の祖父弥次右衛門景品、この人は廿一人の子
福者であつたがその十三男に教春と云ふ人があつて、遂には高野山北宝院の門主に迄なり、宝暦元年十二月
八十三歳で寂した。この人が初め僧になつて入つたのが普門寺であり、且一時は住職になつて居たその関
係から奉納したものと思はれる。又豊橋市史談に依れば、今は存在せぬが何時の頃か龍拈寺の開基塚の
処に牧野古白の碑を建立したとも云ふ。
三
四
自見は更に安永四年夏「三河刪補松」、同八年に「世諺辨畧」を著したが、彼の晩年は優游自適の生活で
あつた。「一室を後園に設けて書を読み古を楽しみ、時至れば郊外に杖を曳きて月に■【口に甬。誦?】し花に吟じ逍遥
間【閑?】歩心の適く所に従ふ。」とは知友烟霞楼木村坥【坦?】之が、世諺辨畧の序に云つてゐる言である。
かくの如くにして自見は老を楽しんで居たが、天明七年四月廿五日、遂に九十二歳の高寿を以て歿し
たのであつた。
(三)
次に三州吉田記を除く他の自見の著書の簡単なる解題を試みる。
○ 市井雑談集。
半紙本上中下三冊。宝暦十四申孟春、京洛書肆寺町通二条下ル町野田弥兵衛、二条通冨小路
西へ入町野田藤八梓。
「茲歳癸未、自分は既に耄齢に近く日々門戸を閉して一室に呆坐し、二三の小兒を相手に
市井の雑事、天地の奇異、其他何くれとなく談じてゐた所、一兒之を録して一冊子とな
した。依つてその重復を刪し、魯魚を正し、之を市井雑談集と題して上梓する。」
の意を序して(原漢文)、本書の由来を説明してゐる。
○ 雑説嚢話。
半紙本上下二巻の内、上巻を一冊、下巻を本末二冊に分冊す。明和元年 申季秋日の自序□
り。同年十二月浪華書肆高麗橋一丁目星文堂浅野弥兵衛出板。我国の事蹟、又は諸書に記
しもれた名所物産靈異等を和漢の諸史雑記より摘録して自己の考按を附記したるものであ
る。日本随筆大成第二期第四巻に収載す。
○ 三河刪補松。
写本天地二巻。
本書は元文六年、長山村の佐野監物外数氏に依つて編纂された三河二葉松に就き自見が補
正したもので純然たる著書ではない。植田義方の考訂、更に長篠村の医師阿部玄喜の加訂
を経て安永四年孟夏に成り、義方の跋文をも載せてゐる。
本書には板本なく、三州吉田記同様写本でのみ行はれたものであるが、近時之が刊行の企あ
りと聞く。
○ 世諺辨略。
半紙本四冊。安永八年十一月吉日、平安書林寺町通二條下ル町野田弥兵衛、二條通冨小路西へ入
町野田藤八及び東武書林江戸日本橋南二丁目野田七兵衛刊。
内容に就いてはその自序に、
「今茲に家童等の請ひによつて庸常茶話に係る所の文莫鄙訶の世諺を捃摭し其需に応ず。
時に剞劂氏乞ひて鏤梓せんと云ふ云々。」
と云つてゐる。
五
六
自見の著書は以上であるが、此処に煙霞綺談なる書がある。豊橋市教育会の教士教育資料展覧会出
品目録には之を自見の著としてあるけれどさうではない。併し関係がないわけでもない。
宝暦十四年に出板された市井雑談集の巻尾に「雑談集後篇近日出来」とある。がこの予告された後
篇はすぐには出なかつた。明和元年に上梓された雑説嚢話は如何なるわけか雑談集後篇となつてゐ
ない。が翁の後輩に西村白鳥なる人があつた。遠州の出身で若年諸国を周遊し、後新井白蛾の門に
遊んだ人であるが、明和七年春の一日、吉田なる翁の家を訪ねて来た。
「時に鳥子懐中より一帙を出し見せしむ。其書や嚮に語りたることゞもを交へ其余珍説奇談を記。
愛すべきものなりけり。予前きに市井雑談集を篇次す。其後編の志あれど未だ不果。庶幾は此書
を以て彼の書に続かば前篇も亦光価を増さんものか云々。」(煙霞綺談、自見の序文)
かくして翁としては後篇を著さず、西村の煙霞綺談の校合のみをなし、安永二年晩秋梓に上して以
て雑談集の後篇に代へたのであつた。煙霞綺談は日本随筆大成第一期第二巻に収載されてゐる。
(解説終)
序
世有_下号_二吉田城主記_一者_上。然閲_レ之其所_レ載攻戦年月城主得替之序次繽紛而謬訛不_レ少也。予嘗雖_レ有_下欲_レ識_二往事_一
之志_上、正史湮滅而不_レ伝。則何以為_レ徴乎。於_レ是諸家所_二騰【謄?】蔵_一之記録抽_二繹之_一或所_レ行_二於世_一之軍書等攟_二摭之_一、
且自_二往昔_一至_下伝為_二口碑_一之事蹟_上、不_レ観_二自譾陋_一捜_二索夫本源_一妄参較而寖駮_二載其挭概_一以為_二篇次_一焉。間亦疑不_レ審
者附_二記側_一贅_二巻尾_一聊備_二後考_一矣。儻若有_二同志者_一削_レ錯補_レ缼完_二全之_一則幸甚也。
旹寛延三庚午年九月
三陽吉田 林氏正森
法名性岳自見記
三州吉田記
林 正森著
一、三河八郡
碧海 加茂 額田 旙頭 宝飯 八名 設楽 渥美
邑数 千二百七十四ケ村
高 三十五万八百八十五石九斗二升 外中古新田三万石余
御朱印高一万千三百九十五石五斗七升二合
此訳 高 七千七百十六石五斗六升七合 寺院
高 三千二百八十一石六斗五合 社家
高 三百九十七石四斗 是者御黒印并除地寺社之分也
三河風土記曰
浦八ケ所 名海三ケ所 湊六ケ所 泉五 岡九 名山十四 淵八 社二十六座 寺院
四十八ケ所 墳墓十六
又曰
男川、豊川、矢作川、有_二 三川_一。故号_二 三河_一焉。豊川廼吉田川是也。
三河吉田記
一
二
吉田者往昔号_二今橋_一。後改_二吉田_一也。
今橋之歌
夜とゝもに月すみわたる今橋や明けすくるまて立そやすらふ 常光院
此外数多略_レ之。其後改_二吉田_一。
古里のさとの名なれはなつかしやよしや都の吉田ならねと 小野通女
しる人もなきさに浪のよるのみそなれにし月の影はさしくる 鴨 長明
夢とてもよしや吉田の里ならんさめてうつゝもうき旅の道 小堀宗甫
おもひやるけふは都の神まつりこゝをよしたの里と聞くにも 烏丸光廣
此余古歌載_二于三河名寄等_一。故略_レ之。
題 吉田 林 道春
行々何日窮 相送数州風 馬過暁霜上 龍横道路中
川流無昼夜 人物有西東 一枕還郷夢 家書久不通
同 林 春斉
吉田昔日戦攻場 一旦攻成供祈長 行客憑誰誇子産
勝於湊洧不橋梁
一、人皇一百五代後柏原院馭寓、源姓尊氏公九代之孫苗足利義植公《割書:恵林院殿|》為_二武将_一。此時也諸州分裂擾
乱、各押_二領国々_一、攻戦至_レ無_二暇日_一矣。于_レ斯有_二今川上総介氏親者_一、領_二駿遠三_一。築_二城 ̄ヲ於三州今橋仁連木牛
窪八幡等_一、使_三軍士/以(ヲシテ)守_二禦之_一。就中今橋以_三東三河為_二要枢【樞】之地_一也、即令_二牧野左衛門成時《割書:法名古白|》居_一レ ̄ヲ之 ̄ニ。
牧野者元来紀氏而与_二田口氏_一同武内大臣之後裔也。田口某者居_二大和国高市郡田口村_一。因以_二田口_一為_レ
氏也。牧野者讃州阿波民部大夫重能《割書:一 ̄ニ作_二成能_一|》之後也。重能嫡男曰_二田内左衛門教能_一《割書:又範能或作_二成直_一|》。
平家没落後其子孫漂_二流于諸州_一。
伝曰、因_下牧野氏与_二田口氏_一為_中同性_上、則取_二氏之一字_一号_二田内左衛門_一。此説非也。
教能之後胤有_二田内左衛門成清者_一。有_レ故而来_二于三州_一居_二同国宝飯郡牧野村_一。爾来以_二牧野_一為_レ氏也。
牧野村称_二呼讃岐/宅地(ヤシキ)_一者今猶存焉。
此時成清領_二宝飯郡中條五ケ村_一。牧野、馬場、三橋、雨谷、石原。
嘗今川伊豫守貞世入道了俊為_二鎮西探題_一之時《割書:義満将軍治世|》成清与_二了俊_一有_二親族之好_一。故従_二-属今川_一也。于_レ時
今川泰範知_レ有_二成清之武器_一寵_二遇之_一甚渥。乃於_二 三州_一加_二-授采邑_一。粤(コヽニオイテ)成清遷_二-居同国今橋_一。既而成清卒。成
清生_二頼成_一《割書:号_二田内左エ門_一。》頼成生_二成時_一《割書:左エ門尉、法名古白|》
成時之為_レ 人也武毅傑出独_二歩于父祖_一、且達_二歌学_一好_二連歌_一、芳名震_二朝野_一。氏親《割書:居_二駿州_一。今川義元之|父是也。法名称_二増善寺_一》深器_二重之_一。
遂登庸為_二 三州麾下之隊長_一也。成時浴_二資蔭_一異_レ他。故戦野攻城顕_二軍忠_一数回焉。此時万邦四分八裂鼎如_レ沸
人僉有_二自立志_一。甲州武田三州徳川尾州織田列侯各事_二于合従連衡。其余樹_レ党蓄_レ兵争_二奪邑里_一者猶多。氏
三
四
親/摂(ハサマリテ)_二歒之中間_一無_レ暇_二軍事_一、一戦一和運_二籌策_一年_二 ̄アリ于此_一 ̄ニ。或時氏親謂_二成時_一曰、於_二東三河_一要害堅固 ̄ナル所 ̄ニ宜_レ ̄シク築_レ城云
々。因_レ茲成時監_二-検其勝地_一。今橋入道/囦(フチ)【淵】者此 ̄レ夫 ̄ノ地也。故不_レ移_二時日_一召_二集人夫_一使_二巧匠 ̄ヲシテ運_一レ斧則不_レ歴_二年序_一功大
成焉。維時永正二乙丑年也。成時在_二-城于斯_一遂_レ日弥_レ月国中稍慕_二其武名服事者居多矣。成時毎_レ有_二軍事之
暇_一翫_二愛和歌及連歌_一。然後齢逮_二 ̄ブ耳順_一頃薙髪 ̄シテ号_二古白_一。一日連歌師宗長芳_二-問 ̄シ古白_一 ̄ヲ来 ̄ツテ催_二連歌興_一。
発句 花盛り心もちらぬ一木哉 古白
脇 朧けなから有明の山 宗長
此余有_二連歌帙若干巻_一。牛窪邑中神善九郎 ̄トイフ者伝来 ̄シ謂_三 蔵在_二其家_一、近年牧野氏買_二求 ̄ムト之_一。
又柴屋宗長紀行略_二-記之_一。
大永六年ノ記
ひくまの野辺こゝをたちて浜の橋一とせの高潮よりあら海となりおそろしきわたりすとて此
たひの旅行まてと何となく心細くものかなしくて
たひ〳〵の浜名の橋も哀れなりけふこそわたりはてと思へは
此わたりまて飯尾善六郎打をくり帰路の袖をひかへての事なるへし三河国今橋牧野田三彼父お
ほちより知人にて国のさかひわつらはしきに人多く物の具なとしてむかひにとてこと〳〵しく
そおほえし此所一日熊谷越後守来り物かたりし夜更侍りし田三同名平三郎猪名といふ所に一宿
下略
今橋牧野田三宿所にて
今日さらに五月まつ花のやとりかな 宗長
同越後守館にて
あふち咲雲井をちりの梺かな 同
市田村牧野四郎左衛門方にて
ゆく袖も草葉のたけの夏野かな 同
吉良東條城
波やゆく春のかさしのわたつ海 同
苅谷水野和泉守館
風や春磯の花咲沖津なみ 同
春はくれぬ郭公はた初音かな 同
同所水野藤九郎宿所
朝霧は浪もてゆつる籬かな 同
深溝松平大炊頭忠定館
茂りあふ木すえの夏の外山かな 同
大浜称名寺の住持にあふて
五
六
かきくつし埋火つくすむかしかな 宗牧
彼僧鷲塚まて渡り侍れは
君送るけふのわかれは駒とめて打出の浜の心地こそすれ 同
称名寺住持
君にけふ逢坂山は遠けれと此わかれ路に関守もかな
西郡先応寺興行
鐘の音もなかはは雪のみやまかな 同
紀行 ̄ニ有_レ之引間 ̄ヲ織田信長公改_二浜松_一。
猪名今改_二伊那_一。
熊谷越後守居_二 三州三渡野村勝山/者(トイフトコロ)_一。
宗長者駿州島田刀工義助 ̄ノ子也。為_二宗祇門弟_一也。有_二諸国行脚 ̄ノ記_一。号_二 九々記_一。永正十五年四月廿
三日於_二 三州桑子村明眼寺_一松平出雲守長親公并住持秀連柴屋宗長有_二連歌百韵巻_一。
常夏に庭のちりなきこゝろかな 宗長
松にこたかき風のすゝしき 秀連
時鳥有明月に声はして 長親
抑古白所_卒之地及終焉年月、因_下無_中載_二於方冊_一者_上有_二区説_一乎。然葬_二其骨於興徳寺_一也、事蹟綿々所_レ伝_二口碑_一掲
焉。/肆(カヽルカユヘニ)息伝蔵請_二義元_一寄_二附采地 ̄ヲ於興徳寺_一 ̄ニ者偏為_二古白追福_一、且祖考之祭奠永慮_レ令_レ無_二怠慢_一也。
古白嫡伝蔵成方至_二後年_一創_二建吉田山龍拈寺_一。自_レ爾以_二今橋山興徳寺_一為_二龍拈寺 ̄ノ隠居寺_一云
又吉田山寺前有_二古松_一号古_二【号_二古?】白墓_一。
按 ̄ニ所_レ葬_二古白_一興徳寺也。後移_二于斯_一者乎。或後来葬_二成方_一歟。
一 ̄ト年儒士杉江常翁詣_二龍拈寺_一、覧_二古白之墳墓_一賦_二 一律_一。
序文略_二-記之_一。
享禄交牧野氏属_二駿 ̄ノ今川_一主_二 ̄タリ参 ̄ノ吉田_一《割書:下略|》。
仄聞龍拈精舎 ̄ハ牧野氏所_レ営。故其/■(カウベ)【元?】葬_二寺前【歬】_一。封土号_二古白墓_一。今留_二古松一株_一《割書:下略|》。
嗟牧氏者今川 ̄ノ巨魁、終無_二阿従反覆 ̄ノ心_一。可_レ謂_二金石忠膽_一矣。適嘯_二暮天_一感_二往事_一漫 ̄ニ成_二拙律_一。恭悼_二壘封_一
焉。
紺園入_二深省_一 松樹激_二清音_一 艸翠薫川澗 月昭烽燧岑
余_レ鋤存_二馬鬣_一 揮_レ杖示_二佛心_一 委_レ命吹毛剣 誰吟_二梁父吟_一
賞龍拈寺化会
吉田法窟龍吟/辰(トキ) 八十熟麻醐味新 佛日為_レ誰昭_二宇宙_一
祖風無_二處 ̄トシテ不_レ吹_レ 人
一、三州御津村大恩寺有_二靈牌_一。
七
八
月誉古白大禅定門
記_二丑十一月三日_一 ̄ト。無_二年号_一。疑 ̄クハ慕_二其顕名之誉_一後来建_レ之乎。
一、古白所_二 ̄ノ営建_一 ̄スル社頭棟札今存者記_二 一二_一 ̄ヲ。
三河国渥美郡吉田城内神明宮
御朱印 三十石
右社頭棟札
奉造立三河国渥美郡新神戸郷社頭一宇
于時永正六年十一月十七日 平朝臣古白馬一匹
同国陀羅尼山財賀寺鎮守棟札
奉造立社頭一宇 大檀那 牧野古白敬白
明応四乙卯年七月十日 本願 舜成阿闍梨
鍛冶 太郎左衛門則正
大工 左衛門七郎助光
然古白卒。嫡曰_二傳蔵成方_一、次男曰_二傳次成高_一。傳蔵成方生_二成国_一《割書:号_二傳左エ門_一。|》然傳蔵成方継_二父祖 ̄ノ箕裘_一与_二
縁族_一《割書:牧野新次郎|同 新蔵》偕 ̄ニ在_二-城於今橋_一。薄_二税㰸_一撫_二育百姓_一慰_二労軍士_一。故勢威曰 ̄ニ【々?】熾 ̄ニ月 ̄ニ【々?】盛而近辺悉恐_二服其威
信_一也。
伝曰、傳蔵之傳 ̄ノ字宜_レ ̄ク作_レ田也 ̄ト云。宗長紀行作_二田三【返り点「一」の抜け?】則為_二田字_一乎。
于_レ時享禄二《割書:己| 丑》年五月廿八日、源清康公《割書:広忠公御尊父|大神君御祖父》欲_レ攻_二今橋城_一、発_二岡崎_一屯_二赤坂_一。其明日樹_二旗 ̄ヲ於小坂
井、且放_二火于下地御油辺_一。牧野聞_レ之則渡_二豊川_一。清君進_レ軍渡_二 下地 ̄ノ堤水_一撃_二敗 ̄ル牧野之先鋒_一。牧野兄弟入_二清
君之麾下隊_一奮戦。清君 ̄ノ二隊横進相戦。於_レ是牧野軍奇正沸乱狼狽 ̄シテ金鼓失_レ節旗旌大乱。始_二牧野父子昆
弟_一其余抜萃之勇士七拾余人/殆(ヲトシ)_二命於同所_一、曝_二 ̄ス骸 ̄ヲ於矌原_一。残卒走_二 四方_一今橋城忽抜潰。清君乗_二此勢_一進_二軍于
田原_一。戸田氏遂迎降《割書:戸田吉兵エ氏光|後改弾正光長》。
戸田氏前 ̄ニ属_二長親_一、中 ̄コロ相反 ̄シ、今亦降_二清君_一。戸田弾正左衛門宗光、応永年中築_二城于田原郷居_レ之。戸田左
門氏鉄 ̄ノ祖也。
或書是攻戦為_二 ̄ス天文元辰年四月之事_一 ̄ト。未_レ ̄ダ詳。
牧野傳蔵成方《割書:或作_二田三_一》 法名 以天清公
《割書:弟|》同傳次成高《割書:亦作_二田次_一|》 法名 声外音公
《割書:息|》同傳左衛門成国《割書:又小田次或田左衛門|》 法名 三休位公
右三人葬_二龍拈寺_一。因_レ茲彼寺建_レ牌回_二-向 ̄スルコト尊霊_一于_レ今不_レ廃焉。古人所_レ ̄ノ謂 ̄フ形者百年之旅舘、名者万代之嘉賓也 ̄ト。
誠哉。然成国有_レ子曰_二成里_一《割書:一 ̄ニ作_二成重|号_二傳蔵_一》。成国戦死之時依_二成里幼稚_一 ̄タルニ也、成国之室潜 ̄ニ携_レ之往居_二尾州知多郡_一。成
里及_二成長_一而奉_二事織田信長公_一、従_二瀧川一益_一居_二 上州厩橋_一。信長横死後、一益与_二北條氏政_一於_二武蔵野_一接戦 ̄ノ時、
九
一〇
従_二彼指揮_一有_二軍労_一。天正十二年信雄与_二秀吉_一戦_二尾州長久手_一時、仕_二信雄_一有_二軍績_一。文禄年中秀吉遣_二軍 ̄ヲ於
朝鮮_一之時、因_二縁族_一乃従_二-属長谷川藤五郎_一赴_二彼地_一数々?顕_二勇攻_一焉。成里卒。其子曰_二傳蔵_一。慶長五年 ̄ノ役従_二池田
輝政_一於_二濃州_一軍功莫大也。慶長八年拝_二-謁 ̄シ大神君_一恩_二-賜三千石、采地_一 ̄ヲ、且被_レ任_二伊豫守_一。同十一年為_二鳥銃(テツポウ)同心
五十人之隊長_一˝同十九年夏卒_二于東武_一《割書:行年五十九才|》。子孫承_二-嗣家禄_一永相続矣。有_二弟二人_一。牧野将監成信、
同宇右衛門成教。両人共為_二池田輝政 ̄ノ家臣_一。子孫在_二于彼家_一、其余族栄蔓難_レ尽_レ識也。
又牧野右馬允成定
初名新次郎、永禄九年十月廿三日卒。法名養修院殿前典厩教誉皎月光輝大居士。
阿波民部大夫重能《割書:又成能|》嫡男曰_二田内左衛門範能_一《割書:或教能|》、次男曰_二和田野民部大夫重成_一。重成之嫡
男曰_二和田野左衛門則成_一。則成与_レ父偕到_二 三州牧野村_一。則成 ̄ノ男牧野伝兵衛成敏、成敏男牧野民部丞
氏勝、氏勝男牧野新三郎貞成《割書:後改_二右馬允_一|》為_二牛窪城主_一。貞成男牧野右馬丞成定。
是者自_二古白_一分出。世々?居_二 三州牛窪_一属_二駿州今川_一。永禄年中拠_二同国西尾城_一。酒井雅楽介囲_二-攻西尾城_一。雖_三成
定守_二拒 ̄スト之_一衆寡不_二相敵_一軍遂_レ日無_レ/聊(タノモシゲ)。遂開_レ城帰入_二牛窪城_一。雅楽介正親移居_二西尾城_一。大神君出_二岡崎_一至_二牛窪_一
囲攻_レ之。成定同族出羽守保成 ̄ヲシテ経_二営 ̄セシメ砦於佐脇八幡_一 ̄ニ、以_二吉田牛窪両城_一為_二 ̄シ本塁_一 ̄ト、自_二今川_一入_二 ̄レ板倉弾正、同主水
正、三浦左馬介等_一、氏真為_二援兵_一卒_二 ̄ヒ一万余騎_一進_二軍于牛窪_一。時 ̄ニ甲陽 ̄ノ信玄乗_二此虚_一有_下入_二駿州_一之告_上。駿兵周章不_レ
少。遂班_レ軍。岡崎軍進撃得_二 ̄ルコト首級_一不_レ可_二挍量_一。此時佐脇八幡牛窪等諸城因_レ無_二加援_一太困労頓敗潰。永禄五
年四月也。新次郎/■(ハジメテ)【堊の中に賏】降伏。依_二厳命_一以_二酒井左衛門尉 ̄ノ女_一妻_二 ̄ハ、牧野新次郎_一。爾来奉_二仕大神君_一。囲邑攻城有_二功
績【「績」に返り点「一」の脱字】不_レ可_二勝計_一也。永禄九年十月廿三日卒。有_レ子曰_二讃岐守康成_一《割書:賜_二諱之一字_一|》。慶長十四年十二月卒。有_レ子
曰_二大和守光成_一。慶長元和両年役軍功絶倫也。四海清治之後《割書:元和四年|》於_二越後国長岡_一賜_二 七万石_一。
又牧野民部允成継
初名新次郎。是 ̄ノ士者成定 ̄ノ兄弟乎。
享禄年中其族与_二出羽守保成_一相共築_二城於牛窪之/常寒(トコサブ)者_一云。
又成定縁族有_二牧野四郎左衛門 ̄トイフ者_一。居_二 三州宝飯郡市田村_一。
久保村社頭棟札
奉造立若一王子 《割書:地頭|》牧野平次願主
此余縁族若干也。牛窪村光輝庵因_レ為_二牧野氏菩提寺_一、彼 ̄ノ寺/鬼簿(クワコチヤウ)悉 ̄ク記_二-在之_一云。
一、牧野氏戦死後、今橋城、岡崎廣正忠公持領。其後今川再取_レ之。
伊藤左衛門 柴田市兵衛 吉田武蔵《割書:作_二亀井_一者非也|》 野瀬丹波
此四士交代拠_二今橋城_一。是時東三河有_二 十七人郷士_一。従_二 四将之指揮_一而守_二衛城_一。所謂十七人者。
戸田惣兵衛 石田式部 渡部平内次 朝倉七右衛門 岩瀬可竺
舞車小平次 室 金平 渥美順慶 白井麥右衛門 本多如電
塩瀬勝西 星野一閑 川合實戸平 石原次郎兵衛 森 刑部
後藤喜四郎 林 雅楽
一一
一二
右四将並十七人 ̄ノ名、因_二家々伝説_一有_二区説_一。或 ̄ハ四人之外 ̄ニ加_二 ̄ヘテ才江彦蔵、石田式部、戸田孫右衛門_一以為_二 七
将_一焉。或 ̄ハ三合孫平、今塚惣左衛門者有_レ ̄リ加_二 ̄フルモノ於郷士十七人之中_一 ̄ニ。不_レ知_二本拠_一。猶待_二後考_一也。
一、小原肥前守鎮實
今川氏真之寵臣三浦右衛門佐父也。
永禄年中拠_二今橋城_一。剽_二掠其近辺城邑_一、将_三 ̄ニ取_レ質以入_二于今橋城_一。其勢力以_レ不_二相遇_一諸士出_レ質降_二今川_一。然
皆潜通_二志於大神君_一。就_レ 中仁連木領主戸田主殿介 ̄ガ老母為_レ質在_二今橋城_一。一日小原囲_二双六_一。戸田 ̄ノ臣野々
山某狙_二其虚浮_一、奪_レ母入_二長櫃_一潜 ̄ニ出_二城門_一帰_二仁連木_一。戸田直往_二岡崎_一謁神君_一。公大喜賜_二松平氏_一。以_二主殿
介_一為_二嚮導_一、自 ̄ラ将_レ ̄ヒ軍 ̄ヲ往攻_二今橋城_一。酒井左金吾進_二先登_一武勇傑_二出于余将_一。鵜殿十郎三郎、小笠原新九
郎、蜂屋半之亟麾_レ軍先_レ衆進。積弩乱発、火炮頻飛。時 ̄ニ今川之梟兵川合正徳所_レ ̄ノ放炮中_二蜂屋_一即死。公甚
歎_二惜 ̄シムヤフ之_一。本多平八郎忠勝《割書:十八才|》接_二牧野惣次郎_一得_二其首_一也。小原励_レ衆雖_二能守_レ ̄リ之拒_一無_二援救之助力_一。術計尽
遂乞_レ降出_レ城。于_レ時永禄七《割書:甲| 子》年六月廿二日。賜_二今橋城於酒井忠次_一。自_二享禄二《割書:己| 丑》年_一至_二永禄七《割書:甲| 子》年_一
年歴_二凡三十六年_一乎。
伝曰、此時改_二今橋 ̄ノ号_一、呼_二吉田_一。或 ̄ハ廣忠公時既改_二-号 ̄スト吉田_一。未_レ詳。
因_二吉田開城_一源君又出_二軍於田原_一。今川氏真使_三朝比奈肥後守 ̄ヲシテ守_二田原城_一。本多豊後守廣高励_二戦功_一敗_二城外
廓_一。歒終請_レ和開_レ城退去。為_二其軍忠_一拝_二-賜梶、白屋、浦、敷地、新美_一、且賜_二田原城_一。廣高在_二城田原_一以
鎮_二-治 ̄スト所々之地_一云々。
曰、若_レ爾三州諸城雖_レ及_二敗潰_一、氏真昼夜耽_二宴楽_一、無_二撫民省察之心_一。故三州永成_二神君之有_一。非_下惟 ̄リ棄_二 ̄ル
三州_一耳_上、其躬竟 ̄ニ去_二旧国_一失_二社稷_一。惜哉。今川国範従_三 ̄リ宿昔受_二 ̄ケテ封 ̄ヲ於駿州_一 ̄ニ到_二氏真_一 十二世二百三十有余年而
為_二烏有_一焉。
伝曰、先_レ是 ̄ヨリ三州 ̄ノ士悉反_二今川_一従_二大神君_一。故自_二 三州 ̄ノ諸士_一為_レ質入_二-置吉田城_一妻子十三人今川斬_レ之。諸士
悲歎埋_二其骨 ̄ヲ於吉田近郷中野新田_一 ̄ニ作_二墳墓_一焉。後呼_二此所_一号_二 十三本塚_一也。
松平玄蕃清善妻 菅沼新八郎定盈妻 西郷弾正正勝妻 梁田某妻
水野藤兵衛妻 松平又七郎家廣妻 大竹兵右衛門妻 奥山修理妻
菅沼左衛門真景妻 浅羽三太夫子供二人 白井某妻并嬰兒
家忠日記、永禄五《割書:壬| 戌》年三月於_二龍念寺前_一誅_レ ̄スト之記 ̄ス。
渥美郡
吉田城主記 自_二江戸_一 七十二里余
酒井左衛門尉忠次 一万五千石
永禄七《割書:甲| 子》六月為_二城主_一。酒井姓源氏、初坂井後改_二酒井_一。徳川家 ̄ノ元臣也。毎_レ有_二攻戦_一無_二処 ̄トシテ不_一レ従。
故先登後殿武功無_レ限矣。父 ̄ヲ曰_二 ̄フ左衛門尉勝次_一。法名淨賢道号愚玉。
三州額田郡伊田領主也。天文五年五月八日卒。一 ̄ニハ四月八日卒。
一三
一四
忠次致仕後薙髪称_二 一智_一。元亀元年関屋之渡江始架_二土橋_一。
元亀三《割書:壬| 申》年春、甲陽 ̄ノ信玄欲_レ攻_二吉田城_一自遠州乱_二-入 ̄ス於/悪海(アクミ)口_一 ̄ニ。城主忠次師_レ軍出屯_二悪海口_一。信玄之先
登馬場山縣等進来。時 ̄ニ従_二忠次陣_一林十右衛門者《割書:為_二地士_一居_二吉田町_一|》引_二卒屈強射手数十人_一、放_レ矢如_二雨
脚_一。馬場 ̄ガ先駆 ̄ノ梟兵中_二于矢_一隕_レ ̄ス命 ̄ヲ者居多焉。繇_レ ̄テ是甲軍辟易乱_二伍法_一。故残党不_レ全 ̄カラ。信玄終振旅帰_二 甲州_一。
天正三《割書:乙| 亥》年武田勝頼師_二 一万三千余騎_一襲_二吉田_一。神君並信康君督_二 五千 ̄ノ逞兵_一、発_二岡崎_一於_二吉田_一与_二 甲軍_一
挑戦。勝敗不_レ決。勝頼班_レ軍。
同年五月武田勝頼囲_二 三州長篠城_一。神君卒_二信長之援勢_一而与_二勝頼_一会戦也。酒井忠次攻_二撃縄、三枝
等 ̄ガ所_レ籠 ̄ル之鳶巣_一 ̄ヲ而大得_二勝利_一。
天正九《割書:辛| 巳》年攻_二遠州高天神城_一時忠次有_二軍績_一。
天正十《割書:壬| 午》年四月織田信長自_二 甲州_一帰路之時於_二遠州浜松_一以_三黄金弐百両 ̄ト与_二 ̄ヲ真光之太刀_一賜_二于忠次_一。
同年甲信之軍 ̄ニ忠次顕_二勇威_一。
同年与_二北條氏政_一以_二 ̄テスル人質替_一之時、自_二小田原_一齎_二 ̄リ大道寺直政_一 ̄ヲ、神君使_二忠次之男小五郎家次 ̄ヲシテ為_一レ ̄ヲ質。
天正十二《割書:甲| 申》年信雄与_二秀吉_一於_二尾州長久手_一連戦之時、同六月忠次守_二禦于同州小牧塁_一。同九月入_二
于清須城_一監焉。
同十三《割書:乙| 酉》年十一月十五日神君渡_二-御于忠次之居城吉田_一因饗応尽_レ美有_二猿楽_一。
忠次嫡
酒井宮内太輔家次
初名小五郎。天正十七《割書:己| 丑》年任_二宮内太輔_一後改_二左衛門尉_一。
天正十八《割書:庚| 寅》年秀吉公北條征伐之時、家次為_二神君之供奉_一赴_二彼地_一。故毛利輝元 ̄ノ臣吉川蔵人廣家入_二
当城_一、家次在陣之間勤_二番于斯_一。
同三月十日秀吉公着_二-御于吉田_一。依_二霖雨洪水_一 三日逗留焉。
同七月転_二吉田_一成_二 ̄ツテ三万石_一 ̄ト替_二総州臼井_一。父子在城二十七年也。
臼井者北條之幕下原式部大夫 ̄ノ居城也。
家次慶長九《割書:甲| 辰》年居_二 上州高崎_一賜_二 五万石_一。天下混一之後元和二《割書:丙| 辰》年於_二越後高田_一賜_二 十万石_一。元和五
《割書:己| 未》年嫡子宮内大夫忠勝移_二信州松代_一。 元和八《割書:壬| 戌》年忠勝於_二羽州庄内_一賜_二 十四万七千石余_一。
今按左衛門尉忠次、慶長元《割書:丙| 申》年十月廿八日卒。寿七十七歳。法名先求院殿高月縁心一知大居
士。家次元和四《割書:戊| 午》年三月十五日卒。寿五十五歳。法名梅林院殿圓誉宗慶大居士。忠次家次
之墓標在_二江戸深川靈岸寺_一焉。
池田三左衛門輝政 《割書:濃州大垣城主|》 十五万石
天正十八《割書:庚| 寅》年七月、小田原落城後自_二秀吉公_一成_二 十五万石_一被_レ移_二于吉田_一。此時猶以_二飽海口_一為_二追手_一。故
城内狭隘也。因遷_二 ̄シテ還之街道 ̄ヲ於外_一 ̄ニ成_二 ̄ス其蹟 ̄ヲ於武士町_一 ̄ト。今 ̄ノ八丁小路則是_一也。
一五
一六
天正十九《割書:辛| 卯》年転_二関屋之土橋於船町_一。[此時自_レ遷_二于船町_一以来、至_二宝暦四《割書:甲| 戌》年_一懸替八度修覆八度]。元禄
二《割書:己| 巳》年自_二懸替之時_一止_二/葱臺(ギボウシ)_一作_二平高欄_一。
輝政者信輝入道《割書:法名勝入|》之次男也。兄紀伊守之助 ̄ハ与_二父勝入_一於_二尾州長久手_一戦死。輝政嘗娶_二 ̄ル公 ̄ノ女君_一 ̄ヲ。
慶長五年 ̄ノ役属_二神君_一供_二-奉于會津_一、請_二於上方発向 ̄ノ先陣_一而降_二岐阜城_一破_二青野 ̄ガ原 ̄ノ賊軍_一。由_二其軍功抜群_一 ̄ナルニ転_二吉
田_一、賞_二賜播磨淡路五十二万石余_一。
慶長五《割書:庚| 子》年十月替_二播州姫路_一。在_二-城於吉田_一 十一年也。但慶長八《割書:癸| 卯》年加_二-賜備前_一 ̄ヲ為_二 三箇国之大守_一 ̄ト
松平玄蕃頭家清 三万石
初名與次郎。慶長六《割書:辛| 丑》年二月転_二武州八幡山一万石_一而加_二-賜二万石_一都合成_二 三万石_一移_二于吉田_一
家清姓者源氏、竹谷備後守清善之養子也。家清室者久松佐渡守 ̄ノ女、而大神君 ̄ノ御妹也。三州西部
蒲形村天桂院有_二廟墓_一。
家清慶長十五《割書:庚| 戌》年十二月廿一日卒。法名清宝院殿葉雲全霜大居士。
家清男
松平式部大輔忠清
慶長十七《割書:壬| 子》年四月廿日卒。法名忠功院殿機叟勝全大居士。
無_二令嗣_一其家断絶矣。然 ̄レドモ以_二名家_一也主殿頭旧領西郡之内領_二 ̄テ五千石_一 ̄ヲ賜_二 ̄フ忠清 ̄ノ弟玄蕃頭清昌_一 ̄ニ。父子在
城十二年也。
松平主殿頭忠利 《割書:三州深溝領主|》 三万石
慶長十七年加_二-賜二万石_一都 ̄テ成_二 三万石_一移_二于吉田_一。此時領内至_下 ̄ルマデ自_二 ̄リ先規_一之除地及御朱印地_上 ̄ニ廣狭検_二-校 ̄シテ
之_一 ̄ヲ有_二余地_一/者(トコロハ)因_二-乗(カケテ)【因乗(カケテ)】之 ̄ニ租税_一 ̄ヲ為_二 ̄ス地頭之所得_一。至_二後代_一不_レ改。
忠利父曰_二主殿頭家忠_一。慶長五年景勝征伐之時、神君使_三家忠、鳥居元忠 ̄ヲシテ守_二伏見城_一 ̄ヲ。故於_二彼地_一戦死。
忠利寛永九《割書:壬| 酉》年六月五日卒。法名壽松院超山源越大居士。《割書:葬_二 三州深溝村本光寺_一|》。
息又八郎忠房替_二同国苅谷_一。在_二-城 ̄スルコト吉田_一廿一年也。
水野隼人正忠清 《割書:三州苅谷城主|》 四万五千石
寛永九《割書:壬| 酉》年移_二于吉田_一。
水野和泉守忠重之男也。慶長元和両役忠清因_二 ̄ツテ書院番第一之隊_一 ̄タルニ也、指_二揮隊下_一顕_二軍功_一。故 ̄ニ元和二年
於_二 三州苅谷_一賜_二 二万石 ̄ノ采邑_一。寛永九年転_二苅谷_一於_二同国吉田_一賜_二都合四万五千石_一。
寛永十八《割書:辛| 巳》年大橋御懸替。
寛永十九《割書:壬| 午》年加_二-賜二万五千石_一都合成_二 七万石_一替_二信州松本_一。在城十一年也。
一七
一八
水野監物忠善 《割書:駿州田中城主|》 四万五千石
寛永十九《割書:壬| 午》年九月移_二于吉田_一。
水野下野守信元《割書:神君 ̄ノ御叔父|》之孫也。信元 ̄ノ子監物忠元、忠元 ̄ノ子忠善也。水野一家 ̄ハ神君御母堂之余裔
而不_三他家 ̄ノ所_二 ̄ニ能 ̄ク及_一 ̄ブ。故其枝葉栄茂矣。
寛永廿《割書:癸| 未》年自_二公儀_一毎_二駅宿_一賜_二金五百両_一。至_二于私料_一各三百両也。如_二吉田_一者城主贍_二-足 ̄シテ之_一如_二-同 ̄ス御領_一 ̄ニ
此時往還 ̄ノ総門場所太 ̄ダ隘 ̄シ。故使_下町家 ̄ヲ移_レ ̄サシメ外 ̄ニ以_二 ̄テ其蹟_一 ̄ヲ作_中 ̄サ番所_上 ̄ト。其代地者今尚存焉。
正保二《割書:乙| 酉》年八月替_二同国岡崎_一。在城四年也。
小笠原壹岐守忠知 《割書:豊後杵築城主|》 四万五千石
正保二《割書:乙| 酉》年八月加_二-賜五千石_一移_二于吉田_一。
明暦元《割書:乙| 未》年大橋修造。
寛文元《割書:辛| 丑》年於_二伝馬役一疋_一 ̄ニ各賜_一畑一畈_一。《割書:七丁三反花ケ崎村、二丁七反仁連木村|》。
寛文三《割書:癸| 卯》年七月廿九日卒。法名天眞院殿一峯定水大居士《割書:葬仁連木村臨済寺|》。
忠知男
同 山城守長矩
初長頼後改_二長矩_一。
食禄之内割_二 ̄キテ三千石_一 ̄ヲ授_二舎弟丹後守長定_一、割_二 二千石_一授_二次男外記長英_一、残 ̄リ四万石領_レ之。
寛文六《割書:丙| 午》年任_二寺社職_一 ̄ニ。
寛文八《割書:戊| 申》年、去 ̄ル丑年所_レ賜_二于伝馬役_一之畑、以_三租税有_二免許_一為_下宿駅 ̄ノ勤_二公役_一者之永 ̄ク扶助_上 ̄ト也。
寛文八年吉田橋懸替。
寛文十一《割書:辛| 亥》年金百両賜_二 ̄フ船役之者_一 ̄ニ。
延宝元《割書:癸| 丑》年追手門新 ̄ニ造_二-替 ̄ス之_一。
寛文十一年自_二 ̄リ釿始_一 ̄シテ経_二 ̄テ三年_一 ̄ヲ修造成焉。
延宝六《割書:戊| 午》年悟眞寺方丈与_二檀家_一有_二諍論事_一。
同年橋良村地内/陸田(ハタ)二丁歩為_二免除之地_一賜_二問屋両人_一 ̄ニ。
同年一月八日卒。法名泰雲院殿宝峯正印大居士。《割書:葬_二仁連木村臨済寺_一|》。
長矩男
同 壹岐守長教
初号_二能登守長祐_一 ̄ト。後改_二壹岐守長教_一 ̄ト。
天和元《割書:辛| 酉》年大橋御修造。
貞享二《割書:乙| 丑》年先年所_レ賜_二于伝馬役_一之畑、一疋一畈宛之外有_二 ̄トキ贏余之地_一則課_二 ̄シテ之 ̄ニ租_一 ̄ヲ以 ̄テ為_二 ̄シ得分_一 ̄ト名_二 ̄ツク之 ̄ヲ打出畑_一。
郡代草間次郎右衛門。
一九
二〇
但長教多病而不_レ/綺(イロハ)_二於政事_一 ̄ヲ、因_二佐渡守長重之計_一 ̄ヒニ。後代為_二 ̄ルハ長重之時_一 ̄ト者是故也。
貞享二《割書:乙| 丑》年五月号_二 ̄シ遠州秋葉之神輿_一 ̄ト自_二東駅_一、送 ̄リ来 ̄ル。此時也如_二 ̄キハ不敬之者_一、歘(タチマチ)得_レ ̄ル崇 ̄リヲ之由謳歌 ̄ス。故駅
々領主任官之士及宿役人等無_レ貴無_レ賎迎送焉。事々太 ̄ダ叫聒(ヤカマシ)也。然 ̄ルニ至_二勢州関 ̄ノ宿_一 ̄ニ止_レ之、同六月送帰。
貞享四《割書:丁| 卯》年十一月松平藝州君之臣酒井九郎太郎従者加右衛門、御油 ̄ト与_二 ̄ノ吉田_一之間於_二宿村_一頓病死。
因_レ之問屋九兵衛出府 ̄シテ訴_二此事_一 ̄ヲ。然宿駅/坐(ツミセラレ)_下有_レ忒(タガフコト)_二定法_一之旨_上 ̄ニ、帰国後九兵衛於_二吉田_一 ̄ニ牢舎 ̄ス也。翌年二月
被_二赦免_一。為_二其礼謝_一年寄市右衛門行_二江府_一、高木勢州有_二謁見_一而後其節之一件尋問 ̄セラル焉。于_レ時市右
衛門有_レ故而其/応(コタヘ)転々渋滞 ̄シ言多_二参差_一。仍勢州/泰(ハナハダ)怒使_下市右衛門 ̄ヲシテ入_二牢獄_一 ̄ニ帰_中 ̄ラ吉田_上 ̄ニ。出牢後竟 ̄ニ年寄
役被_二召放_一。
元禄二《割書:己| 巳》年七月六日依_二洪水_一大橋 ̄ノ杭流 ̄レテ及_二破損_一。
同年有_二御掛替_一。
元禄三《割書:庚| 午》年六月十七日卒。法名弾指院殿別峯宗見大居士。《割書:葬_二仁連木村臨済寺_一|》。
長教弟
同 佐渡守長重
初兵助、中 ̄コロ改_二采女_一、又改称_二佐渡守長好_一、後年改_二長重_一。壹岐守長教因_レ無_二嗣子_一、養_二舎弟長重【返り点「一」脱字?】譲_二家禄_一。
元禄三《割書:庚| 午》年十一月承_二-継 ̄ス家督_一。
同年自_二公儀_一駄賃御定 《割書:御油エ本馬八十八文|二川エ同 五十六文》。
同年十二月司_二寺社之事_一。
元禄四《割書:辛| 未》年任_二京都所司代職_一。
元禄八《割書:己| 亥》年吉田町年寄賜_二畑三畈宛_一。庄屋各二畈宛也。永為_二免除 ̄ノ地_一。《割書:四丁三反高足村、一丁九反佐藤村|》。
此余宿駅拝_二-借於米銭等_一 ̄ヲ数回。
元禄十《割書:丁| 丑》年四月任_二執事職_一以_二御役料米一万俵結_レ ̄ビ高 ̄ニ加_二-禄 ̄シ五万石_一、転_二吉田_一 ̄ヲ替_二武州岩付_一 ̄ニ。自_二忠知_一至_二長
重_一 四代、在_二-城於吉田_一年歴五十三年也。
大和守広之男 丹波亀山城主
久世出雲守重之 五万石
元禄十《割書:丁| 丑》年八月廿七日移_二当城_一。
元禄十四《割書:辛| 巳》年三月、同国足助村市兵衛者乱心 ̄シ於_二札木町_一截_レ ̄ル馬 ̄ヲ。駅中総動而捕_レ之訴_二江戸_一 ̄ニ。生類被_二憐
愍_一之時也。因テ斬罪 ̄セラル焉。
元禄十五《割書:壬| 午》年遠州今切御関所使_三之為_二吉田 ̄ノ預_一。
元禄十六《割書:癸| 未》年大橋御懸替。
宝永元《割書:甲| 申》年任_二寺社職_一、改_二-称讃岐守_一。
同年御庫銭六百貫文拝_二-借于宿駅_一以_二 十箇年賦_一 ̄ヲ返_二納之_一。
同年世古町平作者家貧而有_下能 ̄ク供_二-養 ̄スル親_一 ̄ヲ之聞_上。因/賚(タマフ)_二之 ̄ニ麦六俵_一 ̄ヲ。
二一
二二
宝永二《割書:乙| 酉》年九月入_二若老中 ̄ノ列_一 ̄ニ改_二 ̄ム大和守_一 ̄ト。
同年十一月蒙_二台命_一同三《割書:丙| 戌》年三月替_二 ̄ル総州関宿_一 ̄ニ。在城十年也。
備後守成貞入道大夢男 総州関宿城主
牧野備前守成春 四品 八万石
宝永二《割書:乙| 酉》年九月蒙_二台命_一、同三《割書:丙| 戌》年三月四日移_二当城_一。
宝永四《割書:丁| 亥》年三月廿六日卒。法名心了院殿本源惠覚大居士。
同年道中駄賃銭有_二御定_一《割書:自_二吉田_一 二川エ 本馬七十三文|自_二吉田_一御油エ 同 百十八文》。
同年十月四日大地震。
櫓五 櫓門三 多門三 社頭六箇所 寺院廿三箇所 町家千十一軒
土蔵倉二百四十九
此外或潰或逮_二 ̄ブ傾覆破壊_一 ̄ニ所不_レ可_二枚挙_一。町中圧死者十一人。
前代未聞也。是時自_二領主以_二 ̄テ金二千両_一 ̄ヲ拝_二借 ̄ス于町中_一 ̄ニ。
金三百両清洲屋 金二百両江戸屋 金五百両/邸家(ハタゴヤ)分 金千両総町中
宝永五《割書:戊| 子》年大橋修造。
同年五月以_二吉田河_一為_二船歩(フナワタシ)_一。《割書:旅客一人十二銭、駄荷三十銭、半荷十九銭|》。
同年十二月廿一日為_レ祈_二城主牧野氏之長久_一、総町 ̄ノ者於_二清洲屋_一会合。名_二之 ̄ヲ大/日待(ヒマチ)_一、興_二-行謡曲等之遊
舞_一。是依_二客年之地震_一諸民及_二 ̄ブ困窮_一 ̄ニ、越(コヽニオイテ)領主以_二憐愍_一省_レ ̄キテ租 ̄ヲ加_二 ̄フ賑恤_一 ̄ヲ。因有_二此等 ̄ノ事_一。
宝永六《割書:己| 丑》年年八月大橋船歩止。
正徳元《割書:辛| 卯》年大橋御掛替。
成春男
同 大学頭成央
正徳二《割書:壬| 辰》年六月五日祖父大夢入道卒。法名東光院殿長威虎雪大居士。
同年十一月二日替_二日向延岡_一。父子在城八年。
信輝入道宗見嫡子 総州古河城主
松平伊豆守信祝 七万石
初信高後改_二-称信祝_一。
正徳二《割書:壬| 辰》年十一月二日移_二当城_一。
正徳三《割書:癸| 巳》年大橋御掛替。
正徳五《割書:乙| 未》年遠州宇布見、山崎、両村与_二浜松駅_一就_二塩売買之事_一及_二争論_一。依_二此事_一同六《割書:丙| 申》年七月吉田町年
寄彌次右衛門、其 ̄ノ余塩商売之者有_レ召往_二江府_一。爾来出_レ府及_二両回_一也。
享保二《割書:丁| 酉》年以_二兇年_一也町々飢人賜_二稗一斗宛_一。同年以_二金二百両_一賚_二 人馬役之者_一 ̄ニ。
享保三《割書:戊| 戌》年七月廿六日依_二 地震_一也所々及_二破損_一。
二三
二四
享保九《割書:甲| 辰》年四月/軽卒(アシガル)鈴木九郎右衛門由_二 ̄リ米贋札之事_一 ̄ニ於_二仁連木_一梟首 ̄セラル焉。
享保十《割書:乙| 巳》年自_二公儀_一以_二金百八十両_一恩_二-賜于当駅_一、使_三伝馬役 ̄ノ為_二 ̄サ扶助_一 ̄ト。
同年諸色運上新取_レ之。至_二後代_一不_レ改。奉行船津傳兵衛。
同年六月父信輝入道宗見卒。法名神龍院殿天遊宗見大居士。
享保十一《割書:丙| 午》年城内新道成焉。名_二 ̄ツク之 ̄ヲ裏八丁_一 ̄ト。在_二 ̄ル于萱町/西頬(ニシカハ)裏_一 ̄ニ移_二 ̄シ軽足之居宅 ̄ヲ於別所_一 ̄ニ、附_二-与于夫 ̄ノ家々、
後_一 ̄ニ、之 ̄ヲ結_二 ̄ブ羽田村免地 ̄ノ高_一 ̄ニ。
享保十三《割書:戊| 申》年九月西三河五兵衛者於_二当所魚町_一刃_二-傷元太夫_一。因_レ茲宿役人出府。然 ̄ルニ元太夫生縁勢州
富田之者也。為_二 ̄ル不行跡_一故 ̄ニ以_レ ̄テ令_二 ̄メタルヲ諸族離縁_一 ̄セ五兵衛不_レ遭_レ害 ̄ニ。
享保十四《割書:己| 酉》年任_二大阪城代職_一。
同年六月十九日替_二遠州浜松_一。在_二-城吉田_一 十八年也。
伯耆守資俊養子 遠州浜松城主
松平豊後守資訓 七万石
享保十四《割書:己| 酉》年六月十九日移_二于当城_一。
本庄因幡守宗資始 ̄メテ領_二常州笠間_一。宗資男本庄安藝守《割書:後改_二伯耆守_一|》資俊《割書:一作_二宗俊_一|》元禄十五《割書:壬| 午》年転_二笠
間_一 ̄ヲ替_二遠州浜松_一。宝永二《割書:乙| 酉》年賜_二松平 ̄ノ称号_一。資訓実 ̄ハ佐野信濃守之次男也。于_レ時資俊嗣子以_二幼稚
也養_二資訓_一令家禄承_二継之_一。
享保十五《割書:庚| 戌》年魚町孫市孝_レ親。故賜_二米二俵_一。
享保十七《割書:壬| 子》年十二月廿五日大橋修造成而渡初。
同年十二月晦日中柴村出火、竃数三十六焼亡。自_二城主_一賜_三 ̄フ麦七十二俵 ̄ト与_二 ̄ヲ松木_一。
享保十八《割書:癸| 丑》年七月京都帯屋総助、同小兵衛両人発_二吉田_一赴_二田原_一。然総助知_三小兵衛之有_二金銀_一、於_二
天津堤_一殺_二害小兵衛_一奪_二取金銀_一奔_二田原_一。夫史【吏カ】令捕_二 ̄ヘ総助_一 ̄ヲ引_二渡 ̄ス吉田_一 ̄ニ。事遂_二糺明_一総助 ̄ノ所為依_レ無_レ疑領主之吏
并宿役人相曳而適_二江戸_一。入_レ府之後総助終/辠(ツミセタル)焉。
元文元《割書:丙| 辰》年十二月廿四日夜自_二札木町邸家_一出火、係_二類煙_一家数五十九軒焼亡。自_二城主_一為_二当時飯料_一
禀(タマフ)_二米四十九俵_一。尋(ツイデ)被_レ恵_二於類焼者_一。其/賚(タマヒモノ)如_レ左。
金百両松木五十本 《割書:本陣|》清洲屋 米百俵松木五十本 江戸屋
米廿五俵松木廿本 《割書:年寄|》長大夫 金三両宛並松木十五本宛 馬役
金二両宛与_二松木十本_一 人足役
夫類焼後貧窮者依_レ難_レ成_二家居修造_一、別 ̄ニ金百両拝_二-借之_一。内金四十三両二分年々返_二-納之_一、残金五十六
両二分所_レ恵焉。右之外両本陣拝_二-借 ̄スルコト於米金_一 ̄ヲ有_レ差及_二両回_一。
元文三《割書:戊| 午》年五月五日新銭町出火、家数十九軒焼亡。賜_二 一軒麦四俵宛_一。
同年十一月於_二 下地村沖野_一水神祠御建立。
元文四《割書:己| 未》年八月炭運上始、至_二寛永三《割書:庚| 午》年_一免 ̄ゼラル焉。
二五
二六
元文五《割書:庚| 申》年於_二高足村_一所_二 ̄ラルヽ収納_一運上銭賜_二 ̄フ之 ̄ヲ宿駅_一 ̄ニ。同年大橋修造。
寛保二《割書:壬| 戌》年十月廿七日夜飽海町出火、類煙十四軒。
寛保三《割書:癸| 亥》年田町坂下町貧窮者居宅及_二大破_一。故為_二修補料_一金五十両 ̄ト与_二 ̄ヲ米百俵_一年々拝_二-借之_一。至_二後年_一
返納。残金十九両者全為_二両町 ̄ノ助成_一也。
延享二《割書:乙| 丑》年宿駅人馬役之者及_二困窮_一。故賜_二米二百五十俵_一。
延享三《割書:丙| 寅》年八月九日垉六町下 ̄リ町両町出火、家数四十四軒焼亡。賜_三麦八十俵 ̄ト与_二 ̄ヲ松木五百四十本_一。
延享四《割書:丁| 卯》年三月自_二公儀_一正徳年中之御條目并新御條目二通渡_二 ̄ル于宿駅_一 ̄ニ。是依_二宿々一統之願_一也。
寛延元《割書:戊| 辰》年十二月六日田町世古出火、七軒焼失。賜_二之麦二俵宛 ̄ト松小木十二本宛_一 ̄ヲ。
同年十二月廿四日依_二鈞命_一補_二-任四品_一。
寛延二《割書:己| 巳》年正月朔日新銭町世古出火、家廿八軒焼亡。賜_二 一軒 ̄ニ麦二俵 ̄ト松十二本宛_一 ̄ヲ。
同年正月十六日田町出火、家廿四軒焼亡。賜_二之 ̄ニ米六十八俵余 ̄ト松木二百四十本_一 ̄ヲ。
同年十月十五日任_二京都所司代職_一。
寛延三《割書:庚| 午》年正月五日発_二当城_一赴_二于洛_一。
同年三月十九日替_二遠州浜松_一。在_二-城吉田_一廿二年也。
伊豆守信祝男
松平伊豆守信復 《割書:遠州浜松城主|》 七万石
寛延三《割書:庚| 午》年三月十九日移_二于当城_一。
一、永正二《割書:乙| 丑》年自_一 ̄リ城成_一 ̄リテ至_二寛延三《割書:庚| 午》年_一年歴二百四十六年乎。永禄七《割書:甲| 子》年自_レ賜_二 ̄ハリテ吉田城 ̄ヲ於酒井左衛門尉_一
至_二寛延三年_一百八十七年乎。
一、吉田城古白不_レ築_レ之、息傳蔵成方築_レ之云。明応四年財賀鎮守 ̄ノ棟札記_二 ̄スルハ古白_一 ̄ト、則明応頃成時既為_二薙染_一者乎。
明応四年者自_二永正二年_一為_二 十年余前_一也。然非_二古白築_一レ而至_二成方之時_一築_レ之歟。尚待後勘矣。
一、牧野傳蔵成方《割書:法名以天清公|》創_二-建龍拈寺_一。成方者享禄二年戦死。及_二 天文五年頃_一未_レ改_二-号吉田_一。然称_二吉田山_一
者年歴殆似_二相齟齬_一乎。且龍拈寺開基宗官和尚天文年中示寂。以年譜_一見_レ之則猶不_レ有_レ可_レ称_二吉田山_一乎。
本朝三国志所_レ載如_レ左。
天文五年為_レ令_下 ̄ンガ源廣忠公 ̄ヲ奉_上レ ̄ラ入_二 ̄レ于岡崎城_一、安部大蔵往_二駿州_一謁_二義元_一、而後帰_二今橋_一也。若_レ是則改_二-号
吉田_一者応_レ ̄ニ為_二 天文之末_一乎。或永禄年中歟。
伝曰、龍拈寺者元来在焉。而夫 ̄ノ時代無_レ呼_二 ̄ブコト於寺院 ̄ノ山号_一 ̄ヲ。牧野氏為_二吉田城主_一之時大檀那也。故請_二義
元_一寄_二-附寺領_一営_二建堂宇_一而為_二智識之大寺_一。従_レ是称_二山号於吉田山_一者也云。
寺院之部
二七
二八
御朱印廿石禅宗
今橋山興徳寺
開基 盛禅洞奭和尚 永正五《割書:戊| 辰》年二月八日示寂。
今龍拈寺建_二霊像_一為_二開基_一。然 ̄レドモ実 ̄ハ興徳寺 ̄ノ開山也。
塔司一箇寺 賢養院。
御朱印廿五石禅宗尾州大草村福厳寺末
吉田山 龍拈寺 末寺三十三箇寺
開基 休屋宗官和尚 天文十一《割書:壬| 寅》年十二月十四日寂。
今為_二龍拈寺四世_一。
塔頭四箇寺 悟慶院 長養院 日信院 清凉院
往昔有_二塔頭五箇寺_一。一箇寺頽顚為_二 四箇寺_一。
御朱印廿石興徳寺分一通、廿五石龍拈寺分一通。都 ̄テ四十五石《割書:先判今川義元|同 同 氏眞》。
自_二盛禅洞奭和尚_一至_二 ̄テ大鏡嶺圓和尚_一 ̄ニ二十代。
山門《割書:并庫裏衆寮共|》 十八世法運義官和尚建_レ之。
青銅地蔵一軀 同代正徳六《割書:丙| 申》年鋳_レ之。
庚申堂 同代創_二-建之_一。
御朱印八十石浄土宗京都知恩院末
孤峯山浄業院悟眞寺 末寺二十二箇寺
開山 《割書:貞治五丙午年開基》 善忠上人 応永二《割書:乙| 亥》年八月廿八日寂。
御朱印之外新切畑三十石免除。
是者台徳院殿為_二御茶湯料_一自_二水野隼人正_一寄_二-附之_一。任_二先規_一小笠原山城守有_二証文_一。
塔頭十三箇寺 善忠院 竹意軒 専称軒 勢至軒 三昧院 壽称院 西禅院 龍興院
法蔵院 全宗軒 東光院 西岸院 淨照院
元和二《割書:丙| 辰》年自_二 上傳馬町_一出火、余煙至_二紺屋町_一町家焼亡也。時 ̄ニ当寺回禄矣。其後水野隼人正為_二城
主_一時、書院并外廓 ̄ノ塀営_二作之_一。又表門元来向_二千本町_一。後年移_二于今 ̄ノ所_一。自_二善忠上人_一 十誉和尚迄三十
二代。
天台宗武州東叡山寛永寺末
白雲山壽命院神宮寺 末寺二箇寺
中興開基 重信法印 寛永廿《割書:癸| 未》年二月四日示寂。
塔司一箇寺 實相坊 今亡。
自_二松平主殿頭忠利_一代々城主免許地。三十一石二斗六升四合。
境内有_二白山祠_一。毎歳六月十八日新銭町白山祭礼 ̄ノ神輿見_レ入_二于此_一。
松平豊後守資訓男捨五郎葬_二此寺_一有_二廟所_一。法名全性院殿穐窓観月大童子。《割書:元文五庚申八月九日逝。
二九
三〇
当院者以_レ為_二当城祈願所_一、従_二松平主殿頭_一以来代々之城主毎歳年始 ̄ノ門餝松賜_レ之。又曰、当寺者有_レ故而
日光御門主 ̄ノ御会釈勝_二于他山_一焉。毎度御往還之刻為_二御休泊 ̄ノ御旅舘_一。当寺者南光坊天海僧正《割書:東叡山開|》
《割書:基慈眼大師|》御取立。故世々本山待遇亦鄭重也。境内 ̄ニ奉_三 ̄ルモ勧_二-請東照宮_一亦因_二此来由_一也云。
本堂 第三世詮英法印建立。
小笠原壹岐守忠知材木一色寄附。
護摩堂 第二世祐信法印造立。
依_レ為_二当城祈願所并当町祈願所_一、時之城主自_二水野忠善君_一材木等寄附且従_二町中_一有_二寄進物等_一。
日光御門主殿 第十世圓具法印造立。
御門主御休泊之節従_二城主_一有_二御殿并寺院修復_一。
庫裏小座敷 同代再建。
自_二開基重信法印_一至_二圓道法印_一 十一代。
一向宗京都東本願寺懸所
西竺山誓念寺 羽田村地
門内五箇寺 方鏡山浄圓寺 裂綱山正琳寺 大永山應通寺 惠日山仁長寺 高流山蓮泉寺
古往在_二于城内/川宅(カハケ)通_一。天正二《割書:甲| 戌》年遷_二今所_一 ̄ニ。
五箇寺之内浄圓寺境内一反五畝十七歩者有_レ故自_二松平玄蕃頭家清_一為_二免除之地_一賜_レ之。水野隼人正、
其後久世大和守以来領主代々任_二先判之旨_一有_二除地免許証文_一。
日蓮宗遠州吉美村妙立寺末
運立山妙圓寺 馬見塚村内
此寺有_二松平伊豆守信祝之別妻左近 ̄ノ廟_一。
法名 受玄院妙心日諦大姉 享保十一《割書:丙| 午》六月十五日逝。
是中川修理大夫久貞之実母也。
伊奈備前守御黒印二石浄土宗悟眞寺末
明照山東光寺 指笠町
悟眞寺末
普門山観音寺 同町
正観音堂一宇
御黒印三石悟眞寺末
無量山光明寺 上傳馬町
薬師堂一宇。
悟眞寺末
橋本山龍運寺 船町
三一
三二
如意輪観音堂一宇。
悟眞寺御朱印地内
地蔵院 下 ̄リ町
悟眞寺隠居寺
稱名院
境内除地、以_二 ̄テ三社 ̄ノ祠在_一 ̄ルヲ為_二免除之地_一。二反二畝五歩也云。然羽田村/田文(ミヅテウ)無_二畈歩_一。
境内有_二 三社叢祠_一、此所 ̄ノ地主也。是寺自_二開基_一以来為_二鎮守_一。昔年奉_レ守_二於此祠_一有_二女巫_一。名_二 三尺坊_一。故以_二
此所_一号_二御守上_一。但伝 ̄テ此/覡(カンナギ)者大神君 ̄ノ御乳母也、或御乳兄弟 ̄ト云。今当寺有_二霊碑并石塔_一。
法名 光安院殿分室怒本大姉 《割書:寛永十八辛巳年正月十三日|》。
御黒印三石禅宗龍拈寺末
日東山西光寺 手間町
御黒印一石五斗龍拈寺末
栄川山花谷院 曲尺手町裏
古来在_二羽田村栄川 ̄ノ清水 ̄ノ上_一。
御黒印四石五斗龍拈寺末
呉服山喜見寺 新銭町
但御黒印三石喜見寺分、一石五斗明徳院分、合四石五斗。
永禄七《割書:甲| 子》年神君攻_二小原肥前守_一。其時喜見寺之砦者松平主殿介、鵜殿八郎三郎守_レ之。至_二 ̄テハ当寺開
基_一 ̄ニ者年歴及_二数百年_一云。
文殊堂
是大士古往為_二呉服山明徳院之本尊_一也。寺退転而本尊并御黒印一石五斗目入_二于喜見寺_一。元喜
見寺 ̄ノ山号謂_二野口山_一、自_二是時_一改_二呉服山_一。
又曰、明徳院者在_二誓念寺門外南頬之地_一。然 ̄ルニ逮_二 ̄ンデ明徳院退転_一 ̄ニ夫門前知_レ之者鮮 ̄シ矣。故 ̄ニ去 ̄ル寛保元《割書:辛|》
《割書:| 酉》年松平豊後守資訓為_二城主_一之時有_二諍論_一。領主之臣/勠(アハセ)_二力 ̄ヲ於誓念之徒_一 ̄ニ、以_二此道_一全欲_レ ̄ス令_レ ̄メント為_二 ̄ラ誓念寺
門前_一。雖_レ然明徳院者以_レ為_二古跡_一伊奈備州有_二御黒印_一之地也。故今謂_二誓念寺門前_一者全 ̄ク為_二 ̄ルコト明徳院 ̄ノ門
前_一明焉。以_レ是不_レ得_二奈_レ之 ̄ヲ何_一 ̄トモスルヲ。于_レ時喜見寺、同 ̄ク本寺龍拈寺怱_レ之従_二 ̄ヒ和論之旨_一 ̄ニ、以_二夫門前_一誓念寺 ̄ト与_二
明徳徳院_一令_レ為_二入(イリ)-交(アヒ)之道_一 ̄ト也。
径前(ソノカミ)喜見寺境内有_二老狐_一。夫 ̄ノ狐或時入_二/篁(ヤブ)中_一突_レ目。其夜化_レ僧往_二 ̄キテ医師/相撲(スマヒ)氏宅_一 ̄ニ請_レ薬。医師/畀(アタフ)_二之薬_一 ̄ヲ。翌
朝到_レ寺問_二厥事_一。皆曰不_レ知。至_二午時_一寺主廻_二園【薗】中_一。老狐睡_二-臥于穴辺_一。其眼瞼目皆之両辺塗_レ以_レ薬。寺
主/覿(ミテ)焉《割書:云| 云》大叱。享保年中建_二禿倉_一祟_二稲荷明神_一。【禿倉ほこら】
高田宗下地村聖眼寺末
正覚山願成寺 馬見塚村地内 指笠町
三三
羽田村浄慈院末
観音堂 曲尺手町裏
境内弁【辨】才天祠近年建立。
浄土宗悟眞寺末
鏡光山善明寺
十王堂
元在_下坂下町 ̄ト与_二 ̄ノ上伝馬町_一交(アハヒ)_上 ̄ニ。寛文六《割書:丙| 午》年小笠原山城守城主之時遷_二于斯_一。代地除地三百四十九坪賜_レ
之。
又呼_二山号寺号_一者、元禄年中庵主自_二光誉欣心_一始焉。
正徳五《割書:乙| 未》年二月三日焼失。享保二《割書:丁| 酉》年再_二-建庵主信立代_一。
真言宗紀州高野山松樹院末
浄宝山大聖寺 同町
曲尺手町/商非事吏(アキナヒヒジリ)隠居所也。
元号_二聖休山不動院_一 ̄ト。近年山号寺号共改。
不動堂一宇。
済家京都妙心寺末
鶴松山壽泉寺 同町
薬師堂 城内土手町
誰昔城内八幡之社僧曰_二海蔵寺_一。其寺今亡焉。蓋其時之本尊也云。
役行者堂 御守 ̄ノ上
延享四《割書:丁| 卯》年堂新造。同三月理源大師入像供養修_二 ̄ス柴燈護摩_一 ̄ヲ。
修験者 清意。
御朱印十五石高田宗勢州一身田専修寺末
聖霊山聖眼寺 宝飯郡下地村
開基 行圓上人
聖徳太子御影堂
親鸞上人創建。其後小笠原山城守経_二-営之_一。
永禄年中大神君攻_二小原肥前守_一之時、所_レ ̄レ入_二 ̄ラセ于此寺_一 ̄ニ于_二、子_一有_二御祈誓_一。因 ̄ツテ得_二勝利_一。其節所_レ賜_二院主行實_一 ̄ニ
《割書:十二世|》之御扇并小笠原山城守記_二 ̄スル其来由_一 ̄ヲ一巻蔵 ̄メ?テ為_二 ̄ス当寺什物_一 ̄ト。是余所_レ伝口実猶多。厭_レ繁故不_レ贅。
塔頭二箇寺 祐泉坊 眞光坊。
一、中柴村小庵有_二石地蔵_一。往年斯尊像夜 ̄ニ化_二怪異之姿遊_二-行 ̄ス於所々_一 ̄ヲ。或夜上伝馬町藤三郎者逢_二彼化像_一則斫_レ之。
三五
三六
此像于_レ今無_二御首_一。従_レ是呼_二夫者_一号_二石切藤三郎_一。若_レ此怪談於_二他邦_一聞_レ有焉。抑々薩埵之変_二-化妖物_一誑_レ 人有_二何利
益_一耶。不_レ審。但御首近年庵主造_二-補之_一。
社頭之部
御朱印三十石
天王社 城内 《割書:神主 石田式部|祢宜 鈴木日向》
相殿 八王子或八将軍。
牛頭天王或祭_二持統天皇_一云。社頭及_二破損_一則自_二城主_一造_二-営之_一。《割書:上伝馬町為_二氏子_一|》。
伝曰、右大将頼朝卿之時、石田次郎為久来_二于当国_一、使_下鎌倉相馬天王於_二 三州渥美郡二日市之
北古江 ̄ノ岸入道淵 ̄ノ西方_一勧_中-請 ̄セ之_上 ̄ヲ。其時御正体【體】奉_レ 上_二小浜村_一《割書:云| 云》。然無_下可_二/援(ヒキ)-据(ヨル)_一之旧記_上。暫 ̄ク随_二伝聞_一 ̄ニ
連_二-記之_一。
此社者為_二吉田城鎮守_一。故代々城主尊信異_レ他也。当社頭者松平伊豆守信祝君営_二-造之_一。石華表松平 【石華表-石鳥居】
豊後守資訓君被_レ建焉。祭礼之日代々城主躬出而拝礼焉。其式厳重也。
天王社 御輿休町 祢宜 田中大隅
相殿 中、素盞烏尊 右、稲田媛 左、八王子。
社頭自_二城主_一造_二-営之_一。
当社氏子 札木町、本町、萱町、指笠町、御輿休町。
末社 山王《割書:猿田彦命|天鈿女命》。此社今庚申堂是也。
社家輩格々有_二持分之田原_一。慶安元《割書:戊| 子》年二月廿四日始成_二 ̄シ-賜 ̄フ御朱印_一 ̄ト。是永禄四《割書:辛| 酉》年三月十日因_二今
川氏眞之先判_一也。御朱印配分如_レ左。
十五石、石田式部 四石、鈴木日向 七石五斗、田中大隅 一石五斗、《割書:萱町|》六郎次
一石、《割書:上伝馬町|》助十郎 四斗、《割書:半町八左エ門家|》今、孫右衛門 六斗、《割書:上伝馬町菊屋市右エ門分|》今、十郎兵衛家
祭 ̄ハ六月十四日 ̄ノ夜/花炮(ハナビ)、十五日渡_二-御于御輿休之社_一。自_二城主_一米四十二俵 ̄ト与_二 ̄ヲ乗馬十三疋_一例年出_レ之。
米配分如_レ左。
十一俵石田式部 十一俵田中大隅 一俵鈴木日向 二俵《割書:菅町|》六郎次
一俵《割書:上伝馬町|》助十郎
残十六俵配_二-分 ̄ス于蓋幢八本_一 ̄ニ。一本出_レ ̄ス之 ̄ヲ寺 ̄ハ米二俵渡 ̄ル。
二俵喜見寺 同《割書:小浜村萬福寺分| 今、大隅 ̄ヨリ出_レ之》 同 明徳院 同 西光寺 同《割書:羽田村|》清源寺
同 東光寺 同 観音寺 同 願成寺
三七
三八
御朱印三十石
神明社 城内 神主 司権頭
例格亘_二廿一年_一則社頭自_二城主_一造_二-替之_一。
祭正月十四日。自_二札木町清洲屋_一今新町 ̄ノ隅迄為_二氏子_一。
社地之内大日堂一宇。
伊奈備州御黒印三石
八幡社 城内 祢宜《割書:河野志摩|磯部出羽》
社頭自_二城主_一造営。
稲荷小祠。
八月十五日有_二神事/射(マト)_一。
宿昔在_二社僧_一曰_二海蔵寺_一。有_レ故退転今亡焉。
御朱印五石
熊野権現社 魚町 《割書:新銭町| 神主 鈴木伊豫|》
保延二《割書:丙| 辰》年三月御鎮座。
社地之内、浅間社、秋葉社、稲荷社。
此社古往在_二札木町_一。後年成_二往還_一時移_二于此_一。
天文廿二《割書:癸| 丑》年今川義元本社并末社白山社造営 ̄シ為_二社領_一、寄_二-附於永銭十貫廿四文之地_一。
慶長六《割書:辛| 丑》年賜_二社領五石并祢宜宅地_一。此時成_二賜御朱印_一。元有_二社僧_一。曰_二清水寺_一。今亡焉。其寺蹟在_二
中柴村諏訪社之南_一。
正保三《割書:丙| 戌》年城主小笠原壹岐守忠知当社造営。
慶安二《割書:己| 丑》年 ̄ノ記曰、祭礼二月十八日九月十五日《割書:云| 云》。今以_二 六月八日而已_一為_二祭日_一。氏子魚町。
白山権現社 新銭町 祢宜鈴木伊豫
元在_二魚町熊野之社地_一。因号_二脇宮_一。
寛文五《割書:乙| 巳》年神輿新造。従_二此時_一 六月十八日祭例之日神輿渡_三御于神宮寺境内 ̄ノ社 ̄ト与_二 ̄ニ中柴村諏訪社_一。
氏子、新銭町下 ̄リ町垉六町。
御朱印十石
神明社 田町 《割書:神主 波多野周防|祢宜 朝倉数馬》
末社 富士浅間社、天神社、弁才天社 正徳 ̄ノ頃築_レ島建_レ社。外宮社。
九月十六日神事 ̄ノ射。氏子、坂下町田町船町。
伝曰、白鳳元年御鎮座云。未_レ詳。社領十石并神主宅地五畈歩、慶安二《割書:己| 丑》年八月十七日始成_二-
賜御朱印_一。是者永禄四年依_二今川氏眞先判之旨_一也。
三九
四〇
神明社 羽田村地 《割書:祢宜今新町| 野口小膳》
末社 稲荷祠。
祭日 九月十六日。氏子、手間町紺屋町利町元鍛治町世古町。
天白叢祠 野口 《割書:新銭町| 鈴木伊豫支配》
相殿 天白明神《割書:天白所_レ祭天長白羽神|》。稲荷明神。
天文廿二《割書:癸| 丑》年五月十五日 ̄ノ記云、社領永銭百文。以_二御鎮座之地_一号_二青木_一。
天神社 《割書:羽田村地内| 新銭町|》 祢宜 岩崎岩見
社地之内、弁天社 稲荷社。
神明社 《割書:仁連木村地内| 鍛治町裏》 祢宜 平石丹波
城内神明祭礼之時神輿奉_レ迎_二于此社_一。故 ̄ニ世俗_二談合宮_一。
城内八幡之末社 城内
稲荷社 土手町 八幡祢宜支配
稲荷社 《割書:同|》金柑丸 《割書:天王社祢宜| 田中大隅預り》
自_二昔年_一城主持之社也。一説 ̄ニ木具家具丸 ̄ト云 ̄フ。当城鎮守也。
稲荷社 喜見寺境内
享保年中松平豆州信祝之臣船津氏之建_二-立之_一。
城内神明末社
牛頭天王祠 飽海町裏 《割書:城内神明神主| 支配》
祭日 六月十五日。
諏訪社 中柴村 祢宜 佐野清太夫
祭日 七月廿七日。
【三州吉田記では「出迯」は「出外レ」】
松山天王社 《割書:中柴村出迯| 花ケ崎村》 祢宜 五平次
祭日 六月十日。
秋葉権現社 《割書:城内| 神明小路》 社僧壽明院
四一
四二
当社者自_二豆州君先祖_一尊敬以_レ異_レ他、有_二領地改替_一則於_二其得替之地_一勧請 ̄セラル焉。
吉田町之部
町数廿四町
六町 伝馬百疋、歩行役四十五 八厘三毛。但人足役家入交。
十四町 平人足役。
一町 船役。
三町 年貢地 《割書:元鍛治町、手間町、下 ̄リ町。》
寛延三庚午年改
総家数 千三百六十三軒《割書:借家居分共|》。
同
総人数 五千五百三十人《割書:内男二千八百八十五人、女二千六百四十五人|》。
往還通 ̄リ十二町、斯 ̄ノ長廿五丁十間一尺九寸。
自_二東領分堺_一瓦町迄廿八丁四尺。
自_二瓦町_一元新町迄七丁一間。
自_二西領分堺_一大橋迄一里十五丁廿間。
自_二大橋_一駅亭迄十二丁。
高札六枚《割書:正徳元辛卯年御改|》。
自_二吉田_一 二川迄一里半二丁。本馬七十三文、半荷四十七文、人足三十六文。
自_二吉田_一御油迄二里半四丁。本馬百十八文、半荷七十五文、人足五十七文。
御條目正徳二《割書:壬| 辰》年渡_二于宿駅_一。
再延享四《割書:丁| 卯》年新條目二通相添。
《割書: |(豊田氏本九十三間トアリ)》 《割書: |(豊田氏本ニヨル。他本コノ項ナシ)》
大橋長 ̄サ京間九十七間、巾四間。杭廿八通《割書:但一間六尺五寸|》。
[天正年中自_レ遷_二于船町_一以来至_二宝暦四《割書:甲| 戌》年_一御修覆八度掛替八度]
元禄二《割書:己| 巳》年掛替之時止_二/葱台(ギバウシ)_一作_二平高欄。
小橋廿二《割書:内十三、通 ̄リ町、九 裏町》。
御免許地子坪数 五万九千百七十二坪。《割書:伝馬歩行平役共| 》。此畝十九丁七反二畝十二歩。
四三
四四
自_二寛永十癸酉年_一
一、米廿四石五斗七升三合。
問屋二人、年寄六人、伝馬歩行。
右公儀御用為_二御次飛脚之料_一毎年恩_二-賜之_一。
但明暦三《割書:丁| 酉》年、二川宿十一丁寄_二西方_一。因一石八斗二合増_二 ̄シ-附 ̄ク白須賀_一。故残 ̄リ今如_レ右。
自_二寛文五己巳年_一。
一、米七石
問屋二人、年寄六人。
右自_二公儀_一毎年賜_二宿役人_一。
一、銭百貫文
寛永十三《割書:丙| 子》年自_二公儀_一拝_二-借之_一。
享保十一《割書:丙| 午》年八月此銭永 ̄ク宿駅 ̄ノ有_下可_レ為_二助成_一之号令_上。
一、金三百両
寛永廿《割書:癸| 未》年拝_二-借之_一。此時水野監物忠善足_二 二百両_一為_二 五百両_一恵_二-賜之_一。
享保十一《割書:丙| 午》年八月永 ̄ク有_下可_レ為_二助成_一之号令_上。
一、金三百両
萬治三《割書:庚| 子》年被_三扶_二-助伝馬役_一永恩_二賜之_一。
一、金百八十両
享保十《割書:乙| 巳》年如_二-同(ヲナジウス)右_一 ̄ニ。
寛永十五戊寅年
一、米五百五十俵
右者嶋原陣御用依_二脚力之繁_一 ̄キニ賜_レ之。
正保三丙戌年
一、銭三十貫文
是者院、御所御不例之時因_二/駃歩(ヒキヤク)之多_一 ̄キニ。
同四丁亥年
一、同廿貫文
斯賜者唐船漂_二-着長崎_一也。是時/捷歩(ヒキヤク)往返/数回(アマタヽビニ)因 ̄テナリ焉。
右之外拝借数回也以_二年賦_一令_二返納_一 ̄セ。故悉不_レ記。
四五
四六
一、町中市日一ケ月十二日如_レ左。
朔日、十六日、廿一日、廿六日、鍛治町。 六日、呉服町。 八日、本町。十一日、曲尺手町。
三日、十三日、十八日、廿八日、上傳馬町。十八日、札木町。
一、当城結米 三千石【三州吉田記では「結米」は「詰米」】
一、古来町地、高五百十七石九斗七升。
元禄十二《割書:己| 卯》年 小笠原御代免 田方七ツ四分五厘、畑方七ツ八分或八ツ。
久世氏御代 田方七ツ四分五厘、畑方七ツ八分。
牧野氏御代 田方七ツ、畑方六ツ八分。
享保二《割書:丁| 酉》定免松平信祝御代 田方七ツ、畑方六ツ一分。
享保九《割書:甲| 辰》 同 御代 田方七ツ、畑方五ツ五分。
松平豊州御代 田方七ツ、畑方六ツ一分。
当時高五百七十石九斗四合
一、吉田宿助郷三十六箇村。
当時高壱万五千七百廿八石。
元文元《割書:丙| 辰》年於_二堹上村_一荒地四百四十五石四斗七升三合引ケ当時如_二 上記_一。
元《割書:定助|大助》如_レ此両様也。其節定助村高三千六百九十壱石也。《割書:仁連木村、橋良村、花ケ崎村、|下地村、小池村、横須賀村。》大助村廿五箇村、
此高一万二千四百十八石。大助郷者往来繁 ̄クシテ而限_二 ̄ル人馬役多用_レ之時_一 ̄ニ。庸常定助/而已(ノミ)勤_レ之。従_二享保十、
巳年_一如_レ今混同 ̄シテ為_二 ̄ス平均_一 ̄ト。
一、自_二吉田_一京都迄道法凡五十二里余。江戸迄凡七十二里余。勢州山田迄四十四里余。
一、公儀御用宿次飛脚、自_二江戸_一来_二 ̄ルコト吉田_一 ̄ニ 三日晡時也。早無(ハヤノトキ)_レ刻(ナシ)十八九時、或 ̄ハ廿時廿一刻迄 ̄ニ倒着 ̄ス。自_二京都_一来_二吉
田_一 ̄ニ二日夕也。無_レ刻十三四時、或 ̄ハ十五刻也。
一、吉田町者渥美郡《割書:馬見塚村|羽田村》此両村 ̄ノ地入 ̄リ交(ヤヒ)《割書:飽海者属_二 八名郡_一、|下地者宝飯郡也。》
一、往歳(ソノカミ)伝馬役百五十疋也。後年東海道百疋 ̄ト与_二 百人_一被_レ ̄ル定 ̄メ之時、使_三 ̄ム五十疋 ̄ヲシテ為_二 ̄サ人足伝馬_一 ̄ト。謂_二 ̄フ之 ̄ヲ歩行役_一 ̄ト。
一、水野忠善之時、移_二呉服町作次 ̄ガ家 ̄ヲ於札木町_一 ̄ニ《割書:今、小田原屋家也|》所(ラル)_レ建_二 ̄テ賓【賔】殿_一 ̄ヲ《割書:対客所也|》。依_レ除_二 ̄クニ夫 ̄ノ家之歩行役_一 ̄ヲ、当時
四七
四八
為_二 四十五、八厘三毛_一 ̄ト。
一、牧野成央之時、以_二/標牓(セイサツ)之場狭隘_一也平十郎家間数之内《割書:巾一間|堅二間》使_三之作_二 ̄サ高札場_一 ̄ト。為_二厥地料_一 ̄ト乾金七両壱分賜_二平
十郎_一 ̄ニ。
一、火葬場之事。
古往、 龍拈寺檀家分 青木非人/宅(ヤシキ)地東
悟眞寺檀家分 大工町号_二百間長屋_一所
神宮寺檀家分 長渡 ̄リ之内
誓念寺其外小寺之分 今 ̄ノ所
於_二斯四箇所_一火葬 ̄スル也。小笠原壹岐守忠知、承応二《割書:癸| 巳》年花ケ崎村地内以_二 一畈七畝歩余之所_一 ̄ヲ《割書:高一石七斗|七升六合》
為_二除地_一。則今 ̄ノ場所也。
一、吉田城二ノ丸/庖厨所(ダイドコロ)等酒井忠次建_レ之。至_二 ̄テハ武士/宅(ヤシキ)地町割_一 ̄ニ池田輝政 ̄ノ時経_二-営之_一。輝政、田原、御油、赤坂及 ̄ビ其余近
辺領_レ之。
一、八丁小路/矢生(ヤギフ)門、遷_二 ̄シテ長篠 ̄ノ追手門_一 ̄ヲ建_二于此_一 ̄ニ。《割書:此時迄以_二飽海口_一為_二追手門_一。|到_二輝政之時_一如_レ今成焉。》
一、宝飯郡瀬木村 ̄ニ有_二古城旧地_一。謂_二古白城跡也_一 ̄ト。但古白築壘之址乎。或、為_二別業閑棲之地_一乎
又牧野村有_二田内左衛門頼成《割書:古白|之父》之古墳_一《割書:法名清誉浄永|》。按 ̄ルニ御津村大恩寺過去牒 ̄ニ記_レ ̄スト之云/不審(イブカシ)。
一、本町古往元町 ̄ト云。池田輝政之時改_二-号本町_一 ̄ト。
一、元新町元来在 ̄リ焉。迨_二水野忠清之時_一、総門之外 ̄ニ建_二町家_一号_二 ̄ス今新町_一 ̄ト。
一、坂下町、御輿休町両町 ̄ハ水野忠清、水野忠善両代作_二町家_一 ̄ト。従_レ是定_二 ̄ム人足役町_一 ̄ト。
一、下 ̄リ町、手間町、元鍛治町、是三町、小笠原山城守、同壱岐守代迄連々成_二町家_一。定_二之地子町_一。
一、水野忠善使_三治工 ̄ヲシテ遷_二往還通今之町_一 ̄ニ。
一、悪海(アクミ)、後代改_二 ̄ム飽海_一 ̄ト。
四九
五〇
一、鉄砲町、小笠原長重改_二 ̄ム手間町_一 ̄ト。
一、伝馬役、上 ̄ミ下 ̄モ於_二両所_一勤_レ之。上伝馬町、其時之名也。下 ̄モ伝馬於_二 下 ̄モ町_一 ̄ニ勉 ̄ム焉。
一、水野隼人正為_二城主_一之時、於_二吉田_一鋳_二新銭_一。其時之銭今尚散_二-在于世_一。謂_二 ̄フ吉田駒牽_一 ̄ト者亦此也。従_二是時_一有_二新
銭町之号_一。
追 考
一、或説 ̄ニ牧野氏初来_二 三州_一時、繋_二船 ̄ヲ於同国牟呂津_一、暫寓_二 八幡之神職者館_一《割書:下略|》。
按 ̄ニ源広忠公自_二勢州_一移_二于三州_一之時着_二津同国牟呂_一、寄_二寓八幡社司之宅_一 ̄ニ。
一、又或説吉田城主之中 ̄ニ有_二本多縫殿介者_一。是酒井忠次之次男 ̄ニシテ而宮内大夫家次之弟也。父忠次在_二 ̄ルノ当城_一 ̄ニ之時
同居也。後年為_二本多家之養子_一也。故混_二-加 ̄スル城主之中_一 ̄ニ者乎。
一、或説 ̄ニ問屋土橋 ̄ハ元亀元《割書:庚| 午》年移_二 ̄スト于船町_一 ̄ニ云。然 ̄レドモ縦_二-横 ̄シ通路_一 ̄ヲ配_二立 ̄シ町家_一 ̄ヲ、且遷_二 ̄ス往還之街道 ̄ヲ於外_一 ̄ニ者池田輝政也。
是以覩_レ之則可_レ不_下 ̄ル酒井氏為_二城主_一之時_上 ̄ニアラ乎。但関屋之渡江始架_二土橋_一者元亀元年歟。
一、当主松平伊豆守信復家系。
其先自_二源三位頼政_一出。頼政 ̄ノ男称_二伊豆守仲綱_一。歴_二数世_一其後胤有_二金兵衛秀綱《割書:法名休心|》者_一。秀綱 ̄ノ嫡男曰_二
大河内金兵衛久綱_一。久綱 ̄ノ男伊豆守信綱《割書:武州忍城主|》、信綱男甲斐守輝綱、輝綱 ̄ノ男伊豆守信輝《割書:法名宗見、|》
信輝男伊豆守信祝也。
維時寛延三《割書:庚| 午》季九月 三陽吉田
林 自見正森 記
五一
五二
一、三州地士林雅楽景隣初遊_二事濃州斎藤家_一。厭_二乱扈_一去_二濃州_一居_二于三州_一《割書:記_二前郷士十七人之所_一|》。其末男林十右衛門景
政達_二射芸_一。元亀三年春武田信玄襲_二吉田_一之時、師_二 ̄ヒ弓之弟子数十人_一於_二悪海口_一《割書:後改_二飽海_一|》射_二払甲軍_一。因_レ茲軍丕 ̄ヒニ得_二
勝利_一也。忠次甚褒_二賞之_一将_レ与_二采地於景政_一。于_レ時景政之家以_二富裕_一固辞焉。他日忠次賚_下感状及/蠲(ノゾク)_二其家丁役_一
之証文_上《割書:竹原宅地諸役免許証文是也》。子孫家蔵之_一。
又景政弟《割書:註.四本何レモ弟トアレド|兄ノ誤カ。解説参照。》林助兵衛正秀者仕_二池田信輝_一《割書:法名勝入|》。天正十二年信雄与_二秀吉_一迨_二 ̄ブ鉾楯_一之時、信輝
属_二秀吉_一、神君援_二-助於信雄_一。延_二于此_一神君 ̄ノ兵 ̄ト与_二信輝_一会_二戦於尾州長久手_一 ̄ニ争_二贏輸_一。然池田之軍不_レ利 ̄アラ勢竭 ̄キ力谷 ̄マル
焉。時 ̄ニ正秀奮_レ勇入_二敵陣_一/手自(テヅカラ)鍜(ツキ)_二歒五六人_一斫_二殺三人_一。切 ̄リニ見_二勝入之危_一、竟 ̄ニ与_二直政之兵_一力戦死矣。是時正秀男
弥次右衛門景重《割書:法名泰屋遊庵居士|》依_二幼稚_一也、其母懐_二‐抱之_一来_二 三州_一而恃_二叔父十右衛門_一居_二于吉田_一。自_レ爾以還子
孫相続者也。
○ 林助兵衛正秀《割書:法名節山道忠居士|》天正十二《割書:甲| 申》年四月九日卒、行年四十二歳。
尾州大野之産也。仕_二池田勝入_一於_二長久手_一戦死。
池田輝政之臣番大膳景次《割書:采地八千石|》者助兵衛 ̄ノ子也。景次親大膳景元妻 ̄ト与_二助兵衛妻_一偕河村源左衛
門女而姉妹也。時 ̄ニ大膳景元無_二男子_一。故養_二助兵衛子_一番氏之家系 ̄トス焉。
《割書: |正秀弟》
○ 林十右衛門景政《割書:法名義法徹心信士|》 天文十五《割書:丙| 午》年生、天正十四《割書:丙| 戌》年十月八日死、行年四十一歳。
正秀男景重幼稚也故景政為_二後見_一承_二-継家督_一。
《割書: |景政弟》
○ 林弥右衛門正美《割書:法名玉叟洞珠信士|》 天文十八《割書:己| 酉》年生、文禄三《割書:甲| 午》年五月二日死、行年四十六歳。
景政無_二養子_一養_二舎弟正美_一為_レ子。
《割書: |正秀男》
○ 林弥次右衛門景重 《割書:法名泰屋遊庵居士|》天正二《割書:甲| 戌》年生、寛永二《割書:乙| 丑》年十一月廿四日死、行年五十二歳。
《割書: |景重男》
○ 林弥次右衛門正行《割書:法名来庵自本居士|》慶長七《割書:壬| 寅》年生、天和二《割書:壬| 戌》年三月九日死、行年八十一歳。
《割書: |正行男》
○ 林弥次右衛門景/品(モト)《割書:法名呵心自笑上座|》寛永三《割書:丙| 寅》年生、元禄四《割書:辛| 未》年十一月八日死、行年六十六歳。
初景隆後改_二景品_一。有_二男女子廿一人_一。
《割書: |景品男》
○ 林弥次右衛門正/封(タカ)《割書:法名尹庵目計居士|》明暦元《割書:乙| 未》年七月生、元文元《割書:丙| 辰》年六月六日死、行年八十二歳。
《割書: |正封男》
○ 林弥次右衛門正森《割書:法名性岳【?】自見居士|》元禄九《割書:丙| 子》年五月廿一日生。
廿五歳而年寄役並利町世古町庄屋兼_二帯之_一。元文二《割書:巳| 》年八月四十一歳、問屋役。
五三
五四
松平豊後守様御代
柴田権左衛門
生形浅右衛門
[五十部印刷]
【見せ消ち「十五」、朱筆「二十」】
昭和八年九月十五日印刷 非売品
昭和八年九月二十日発行
【見せ消ち「二十」、朱筆「二十五」】
豊橋市上傳馬町三十五番地
編輯者 白 井 一 二
校訂兼 豊橋市中柴町字中柴七十七番地
印刷者 近 藤 恒 次
豊橋市船町二十八番地
発行者 豊 田 伊 三 美
豊橋市船町二十八番地
発行所 豊 橋 汲 古 会
357
527【貼付ラベル】
特《割書:266|72》【手書】
《割書:豊橋市史編纂委員|豊橋観光協會理事》豊田珍彦著
豊橋市及其附近案内
東三河道中記 全
豊橋 日吉堂書店
帝國図書館蔵【所蔵印】
昭和一〇・八・六・内交・【所蔵印】
序
愛國観念の源泉は郷土愛に存する、郷土精神を涵養す
るには郷土を識らしむることを第一義とする、是れ郷土
史の重要なる所以である。
抑も郷土史の編纂は容易の業でない、その背景たるべき
歴史に通暁し郷土史の本質主體を理解し、加ふるに透徹
せる史眼を有し文才亦豊富の士に非ずんば能ふ所でない
頃日友人豊田珍彦君東三河道中記を編纂し携へ來り予に
序を需めらる、君は東三河八名郡舟着村の産先考伊之吉
君は多年自治公共に参劃し帝國議會開設以來俱に談じ俱
に語りて管鮑の誼を盡した、其後豊橋に転住したので共
同事業など經営して彌々交りを深めたのである。當時珍
彦君は職を軍隊に奉じ後家庭の主となつて薬店を經営し
其傍ら靑年時代より趣味とする歴史の研鑽にふけり史跡
の研究に努め現に豊橋市史編纂委員を嘱托されて居る。
東三河道中記は君が蘊蓄を語る史眼と文才の現はれであ
るが鄕土人に便益を與ふると共に外來者の為にもよき案
内書として貢献する處偉大なるものがあらう。
昭和十年七月
《割書:豊橋市長|豊橋観光協會長》神戸小三郎
自序
由來東三河の天地には外來者に紹介する程の名所舊跡は余りない
やうに鄕土人自らが云ふ、然るにこの方面を研究して見ると事實は
全く反對で到る處に賞すべき風光があり、語るべき遺跡がある。即
ち決して乏しいのでなく知られてゐないのであるから之等の名勝舊
跡の一般を鄕士【ママ(「土」の誤植か)】人に語ると共に外來者の方々に紹介する案内書が必
要となつてくる。
尤も今迄にこれに關した若干の冊子は公刊されてはゐるが其の多
くは斷片的羅列的で案内人なくしては観光の目的を達する事も出來
ずまして案内書によつて人々の遊意をそヽるやうなものは見當らな
つか【ママ(「かつ」の誤植か)】た、そこで案内書の要らない案内書を目標に書いたのが本書で
ある。従つて本書を手に市内を巡り市外に遊ばヾ案内者の必要もな
くほぼ其の目的を達する事の出來るものと信ずる。
本書の記述は著者の創意になり、從来の案内記と趣を換へ市内は
順を撰み著者自身が案内する心持ちで述べ、市外は實際の位置を観
光の順序に書いた。本書を上下に分けたのは其の為で上巻を市内に
下巻を市外に充てた。又附録とした東三古謡集は著者が年來蒐集し
た中から古典味と郷土色豊かなのを撰んだもので、これによつて東
三河に於ける古い情操を偲び得られると共に何かしら我々の魂に触
れるものがあるやうに思はれたからである。
昭和拾年七月 著者識
東三河道中記 上巻 目次
第一日 市内東部方面 一七頁
豊橋驛 一七 岡田屋旅館 一八
豊橋市の大勢 一九 松月堂菓子舗 二六
喜見寺 二六 天神社 二七
田中屋呉服店 二八 豊橋別院 二九
白山比咩(はくさんひめ)神社 三二 牟呂用水路 三三
諏訪神社 三四 首斬地蔵 三四
松山神社 三五 潮音寺 三六
松林寺 三七 野口神明社 四〇
神宮寺 四一 西光寺 四三
龍/拈(ねん)寺 四三 時習館 四七
琵琵【琶】塚 四九 吉田城 四九
屯營 五一 縣社神明社 五二
神武天皇御銅像 五四 大松 五五
八幡社 五五 野牛門 五六
青龍寺、大蓮寺 五七 郷社神明社 五八
東田古墳 五九 二連木城址 五九
法言寺 六一 鞍掛神社 六一
戸田宣光の墓 六二 古墳 六三
徳合長者 六四 船形山 六四
全(ぜん)久(きゆう)院 六五 臨済寺 六六
陸軍墓地、楠公祠 六八 /豊(とよ)城(き)神社 六九
願(がん)城(じよう)寺 六九 不動院 七〇
常夜燈 七二
第二日 市内西部方面 七五頁
安(あん)海(かい)熊野神社 七六 妙圓寺 七八
本陣址 八〇 問屋塲址 八一
悟眞寺 八二 縣社吉田神社 八七
廣徳寺、賢養院 九一 郷社神明社 九三
大橋 九六 /聖(しよう)眼(げん)寺 九九
明治天皇御小休所 九九 龍運寺 一〇一
納豆 一〇二 稲田文笠 一〇三
稱名院 一〇三 大聖寺 一〇六
長全寺 一〇七 羽田八幡社 一〇八
羽田文庫 一〇九 浄慈院 一一三
牟呂八幡社 一一五 坂津寺址 一一七
専願寺 一一九 三ツ山古墳 一一九
上巻 目次終
東三河道中記 下巻 目次
第一信 小坂井、國府、八幡方面 一二三頁
菟(う)足(たり)神社 一二四 五社稲荷 一二八
欠(かけ)山(やま)貝塚 一二九 醫王寺 一二九
報恩寺 一三一 多美河津神社 一三三
稻荷山貝塚 一三三 東漸寺 一三四
伊奈八幡社 一三六 本多家墓地 一三七
銅鐸發見地 一三八 伊奈城址 一三八
新(しん)宮(ぐう)山古墳 一四〇 昌林寺鐘 一四一
守(しゆ)公(こう)神社 一四三 観音寺 一四三
總社 一四五 八幡社 一四六
國分寺 一四七 國分尼寺 一四八
財(ざい)賀(か)寺 一五〇 芭蕉句碑 一五二
西明寺 一五三 芭蕉句碑 一五五
宮路山 一五五 正法寺 一五六
長福寺 一五六
第二信 豊川、新城、鳳来寺方面 一五九頁
大(お)蚊(が)里(さと)貝塚 一五九 大村 一六〇
一色城址 一六〇 熊野神社 一六一
光輝庵 一六二 中條神社 一六二
八幡宮 一六三 妙嚴寺 一六四
三明寺 一六六 加茂村 一六九
麻(あさ)生(ふ)田(だ)、牧野村 一七〇 穂國故地 一七一
砥(と)鹿(が)神社 一七二 本宮山 一七四
野田城 一七五 芭蕉句碑 一七七
永住寺鐘 一七七 太田白雪 一七八
大脇寺佛像 一七九 蜂巣岩 一七九
石(いは)座(くら)神社 一七九 酒井忠次軍 一八〇
信玄塚 一八一 牧野文庫 一八二
長篠城 一八二 鳳來寺 一八四
田峰観音 一八八 郷土資料保存會 一九〇
馬(うまの)背(せ)岩 一九〇 /服(はつ)部(とり)郷 一九二
阿寺七瀧 一九二 /乳岩(ちいは)、天然橋 一九四
花祭り 一九六
第三信 東部方面
石巻神社 一九九 /正(しよう)宗(ぢう)寺 二〇一
嵩(す)山(せ)蛇穴 二〇三 /馬(ま)越(ごし)古墳 二〇四
岩屋山 二〇五 芭蕉句碑 二〇七
普門寺 二〇八 東觀音寺 二一〇
第四信 渥美郡方面 二一五頁
王塚古墳 二一六 十三本塚 二一六
高師小僧と長葉石持草 二一七 車神社 二一八
大津神戸 二一九 高縄城 二二〇
大平寺 二二一 妙見古墳 二二二
百(どう)々(どう)竈址 二二三 砲台址 二二三
長仙寺 二二三 田原城 二二四
池の原邸 二二六 華山墓地 二二六
城寶寺古墳 二二六 芭蕉句碑 二二七
吉(よし)胡(ご)貝塚 二二七 長興寺 二二九
谷の口銅鐸 二二九 阿志神社 二二九
鸚鵡石 二三一 村松銅鐸 二三一
伊川津貝塚 二三二 間宮氏 二三二
芭蕉句碑 二三三 /平(ひら)城(き)貝塚 二三四
川地貝塚 二三五 泉福寺 二三六
經瓦 二三六 伊良湖神社 二三八
瓦塲 二三八 糟谷磯丸 二三九
日(ひ)出(い)石門 二四〇 醫福寺 二四一
第五信 御油、蒲郡方面
御(み)津(と)神社 二四三 大恩寺 二四四
國坂越へ 二四七 寶住寺 二四八
養圓寺 二四八 三谷町 二四九
竹島 二五一 赤日子神社 二五二
安樂寺 二五四 /清(せい)田(だ)大楠 二五四
天桂院 二五五 坂本古鐘 二五六
長泉寺 二五七 形原神社 二五八
郷土雑感 二六〇 東三古謡集 二六七
下巻 目次終
東三河道中記 上
豊田珍彦
第一日
ヤアどうもお久し振りで、相變らず御壮健で誠に結構です。過日
は御手紙を頂き、昨日は又電報を下さいましたので、手具臑ひいて
待構へて居たわけです。此度こそは充分に御見物なさるやう、こヽ
にプログラムも作つてありますから、残らず御案内出來ると思ひま
す。サアどうぞ、これが豊橋の玄關口です。
豊橋驛【ゴチック見出し】 御覧の通り驛はあまり大きい方ではありませんが、燕の
外は特急も止りますし大變に都合はよいのです。ご承知の通りこの
驛は明治貳拾壹年九月一日の開業で、其頃は大層珍らしがられ乗客
よりはむしろ見物に來るものヽ方が多かつたといひます。其の珍ら
しさのあまり飛んだ間違ひが起りました。それは開業して間もない
廿貳年の一月廿日に豊橋分營の兵士がこれも矢張り見物た【ママ・「に」の誤植か】來た處、
驛員に侮辱されたとかいふので、越えて廿四日貳百五拾人位の兵士
が、この驛を襲撃し手當り次第に器物を破壊し亂暴を働くので、驛
長以下悉く逃げ出したといふ椿事です。此時は兵士の方で拾六人が
處刑され落着しましたが、今に話の種となる程の騒ぎだつたと申し
ます。
處でまだ少し早いから、その邊で宿をとり腹でも作つてから緩く
り御案内致しませう。今度はお急ぎでもありませんから、四五日
がかりで豊橋市内から、附近一帯を見て頂きたいと思ひます。
岡田屋旅館【ゴチック見出し】 宿は中央の札木方面にも二三よいのがあります
が、驛前ならば交通の便もよし、代表的なのがありますから、此邊
で宿をとる事に致しませう。アノ向ふに見える岡田屋、アレがよい
でせう、サアお上り下さい。この宿はもと遠州の白須賀で、古くか
らの本陣だつたのが、鐵道開通と共に、こちらへ越して來たのです
何でも大石良雄が度々泊つた事があり、最後の東下りには記念に刻
煙草を一玉くれて行つたのが今にあるさうです。市内では一流の宿
屋で設備も整つて居り、親切で居心地がよいといはれて居ります。
豊橋の大勢【ゴチック見出し】 膳が参りましたから、喰べながら市の大勢をお話
しませう。昭和五年の國勢調査では戸数が一八、三一五、人口が九
八、五五四ありました。今都市計劃も進行中で、それに昭和七年八
月一日附近の四ヶ村を併せ、面積は六、八一七方里、人口が約拾五
萬といふ中流都市へ躍進致しました。
交通の方で申しますと、豊橋驛を中心として四方へ通じて居ります
が、最も古いのが明治三十三年に開通した豊川鐵道で、其終点の長
篠驛からさき、川合驛までが鳳來寺鐵道、其川合驛から先が三信鐵
道で、やがては伊奈電鐵を通じて中央線に連結しますので、軍事上
にも産業上にも非常に期待されてゐます。途中鳳來寺鐵道鳳來口驛
から分岐して田口鐵道が北設楽郡の田口町まで通じ、又西の方へは
愛知電鐵が岡崎を経て名古屋へ通じて居ますが東海道線に較べて距
離がやヽ近く、時間も節約されるので喜ばれてゐます。南へ行くの
は渥美電鐵で、是は渥美半島の突端伊良湖まで行く計劃ですが、ま
だ途中の、田原町の少し先までしか通じて居りません。それと此處
から遠州濱松まで行く遠三電鐵といふのが計劃された事がありまし
たが、この方は實現せずに終りました。其代りといふ譯でもないで
せうが、二川驛から遠州二俣へかけて、軍用線が敷かれることにな
つたと聞いてゐます。市街電車は大正十四年の開通で、狭い土地に
も拘はらず相當の成績を挙げてはゐますが、一般に自動車全盛の時
代の事とて、東海道線、各電鐵なども共にこの自動車から非常な脅
威を受けて居る事は事實です。この為に省營自動車が二川町まで通
じ、行々は濱松まで延長する筈になつて居り、豊川鐵道が豊川まで
バスを運轉する外、田原方面や前芝、牟呂、加茂村などへも一日数
回のバスが運轉されてゐます。
産物は御承知の生糸、玉糸の外に全國に知られるやうなものはあり
ません。玉糸は全國一で、御覧の通り西から南にかけて林立して居
ます煙突、あれが皆製糸工場のもので、幾百の工塲に一万人からの
従業員が働いて居ます。原料の繭はこの地方でも可なり産出します
が、玉繭の方は全國から集つて來るのに、それで居て尚原料不足に
悩んで居る程で、全國に類のない乾繭取引所もある位です。
養蠶に就いては延喜式にありますやうに、近江、伊勢と共に上糸國
となり、色々と精巧な織物を出して居りますが、それを初めたのは
雄略天皇の朝にこの邊へも分置されました帰化人の泰人達であつた
やうです。市内の花田はもと羽田と書きまして、泰の字を用ひた文
書もあり、随分古くから養蠶の盛んな土地であつたといはれて居り
ますが、中世に於きましては木綿に壓倒され甚だ振はなかつたので
あります。處が明治になつて急激な發達を遂げ、農家などどちらが
本業か分らない位で、従つて豊橋地方の経済界は、繭糸と重大な關
係を持つて居る譯であります。
其他に産物と申しますと麻眞田加工品、毛筆、三州味噌それに海苔
位なもので、其他はマア附帯工業といつた所でせう。この毛筆は延
喜式にも三河から献る規定があり歴史も古く、海苔の方は歴史こそ
新しいが大都市へ進出して相當聲價を挙げてゐます。
豊橋と云ふ名は、明治二年六月二十三日に吉田を改めたもので、こ
の吉田は甲州にもあれば四國にもあり紛らはしいので改めたといひ
ますが何れ大名などの勢力關係もあつた事と思はれます。この豊橋
は吉田大橋といふ豊川に架けられた橋の別名をとつたもので今日で
は町の名も橋も同じ豊橋です。地圖を御覧下さると分りますが市の
西北部が一段と低くなつてゐます。此低い方面は昔然菅海と云はれ
豊川河口に當る入り海で對岸一里先の小坂井までの間を船で渡つた
といひ傳へて居ります。然し中間に當る所々に砂洲など相當な陸地
があつたものと見えまして、そこに先史時代の貝塚があつたり、原
史時代の古墳があつたりします。また台地の所々にも貝塚がありま
二四
すが、小坂井方面のやうに遺跡は豊富でないと思はれます。
豊橋の歴史は余り古い事は分りません。鎌倉時代以前の事は和名抄
に磯邊、高芦、多米などの郷名が見える外、伊勢神宮の神戸が天慶
弐年に置かれてゐます。これは飽海新神戸と申しまして戸数で十戸
ありましたのと、又薑御園、岩崎御園、橋良御厨、高芦御園、野依
御園と五ヶ所の名が伝はつて居るのに過ぎません。然し牟呂とか飯
村とかいふ原始的の名を伝へた処もあり、先史時代の遺跡も間々あ
りますから、遼遠の古代から人間の住んでゐた事は事実と思ひます
それと今一ツ、類聚三代格にある承和弐年の太政官符に渡船増加云
々とある飽海川は豊川の古名と考へられ、古来東海の官道に当つて
ゐたらしく、そこへ発生した部落が神戸の設置によつて多少発展し
たかと考へられますが、漸く著名になつたのは、戦国時代に入つて
からの事で、永正の頃牧野古白によつて築城され、それ以来城下町
として発達したものと見なくてはなりません。夫等の遺跡も追々に
御案内する考へですが、余り古いものは市中に無く、反つて市外に
多少御目にかけるやうなものがあるかと思はれます。
食事も済みましたから、ぼつ〴〵出掛けませう。順路は私にお任
せを願つて、最初に先づ電車線路に沿うて歩いて見ませう。この
駅の出来た当時は町の片隅だつたのですが、今日では殆んど中央
になりました。道が三方に岐れるこの中央のは旧停車場通りで駅
へ出る為めに鉄道の開通、間もなく開かれた路です。左は船町線
と申し、先に申しました豊橋の豊橋へ行く路、右は新停車場線と
いはれ、大正四年開通になつたものです。こゝ三四町の間は何も
御案内するやうなものはありません。
二五
二六
松月堂菓子舗 この左側角にある菓子舗の主人は河合岩次君とい
ひ豊橋では珍らしい発展家で、階上を喫茶部とする外吉田名菓等を
出し、最も進歩的な経営をやつて居られる代表的商人の一人です。
喜見寺 あの左に見えるのが喜見寺で、ここは新銭町といひ
ます。この寺は南朝の元中七年、北朝の明徳弐年に吉見太郎某とい
ふものが建てたので、初めは吉見寺と書いたといひます。最初は臨
済宗で鎌倉建長寺の末寺だつたのを、大永五年に禅宗に改め、やは
り市内にある、龍拈寺の末寺になつたといひます。もと野口山とい
ふ山号でありましたが、このすぐ近くに妙徳院と云ふ寺があり、頽
廃に及んで寛永六年にこの寺へ合併され、その妙徳院の山号が呉服
山なのでそれ以来この山号を用ふる事になりました。本尊は聖観音
ですが、この左手にある文珠堂、それにもと妙徳院の本尊だつた文
珠菩薩像が安置してあります。一尺一寸余りの座像で、多少後世の
補修もありますが、よい出来で藤原時代の作だらうといはれてゐま
す。以前喜見寺に、三石、妙徳院に一石五斗の朱印地を貰つてゐま
した。本堂が近く新築になり立派になりましたが市街宅地を沢山持
つてゐて、有福な寺ださうです。
少し東へ参りますと、四ツ角です。こゝから左へ参りますと右側
に天神社があります。
天神社 本社は名の通り菅原道真公をお祭りしてあります。
創立の時代は分りませんが、昔羽田の辺へ流れついた神像を、其附
近で祭つたのが初めで、天文の頃岩崎玄朝といふ者が此処へ遷し祭
つたといひます。今のこの拝段は延宝弐年に城主小笠原壱岐守長矩
の造営に係り、殆んど全部が欅を用ひてあります。格天井の絵は天
二七
二八
保の頃此附近の画家に一枚づゝ描かせましたが、この先の花園町に
鈴木三岳といふ画家があつて、同様一枚を引受けは致しましたが、
何かの都合でその代作を田原の渡邊崋山に頼みました。そこで崋山
は月に雁の絵を描いてよこしたのですけれども、其時崋山からの手
紙に、随分あしくきたなく描いたつもりだからたとへ私と疑はれて
も決して代筆の事は洩らさぬやうといつて來ました。其手紙と実物
とは厳重に保管され、今は写しが嵌めてありますが、此等は中々面
白い事と思ひます。
此処を北に向ひますと花園町で、さながら呉服町とでも申したい
位に呉服屋が軒を並べて居り豊橋一の田中屋呉服店もこの町にあ
ります。
田中屋呉服店 当主は国府町の竹本家から入つた人ですが兄弟が
多く、其兄弟の一人はこれも豊橋一の酒問屋川清商店主であり、他
の一人は素封家福谷家をついで医学博士、今一人は東北帝大に冶金
工学の権威として令名ある西沢博士、其上に竹本家は地方に聞えた
製油工場を経営して居られ、兄弟揃つてその道の成功者という訳で
す。
豊橋別院 次は程近い東本願寺派豊橋別院へ參りませう。門前に
並ぶ寺は北側が浄円寺、正淋寺、蓮泉寺で南側が仁長寺、応通寺で
す。この五ヶ寺の間を通り重層の楼門を潜ると、正面にあるのが本
堂です。明治四年に焼失しまして、之は其後の建築ですが、入母屋
流向拝で市内では代表的の大建築です。もと西竺山誓念寺と云つて
ゐましたが、後に吉田御坊と改め、更に又豊橋別院と呼ぶ事になり
ました。庭にある鐘楼は寛永弐拾壱年の建築、鐘も其年に出来たも
二九
三〇
のです。これと楼門とが市内で一番古い建物だと思ひますが、後世
に手が入り過ぎた為、昔の面影は余り残つてゐないやうです。鐘の
銘は本願寺の十三世宣如上人の撰文で、鋳工は宝飯郡金谷の中尾四
家です。
門前にある五ヶ寺のうち蓮泉寺と応通寺は、古い書物によると山内
にあり、他の三ヶ寺は門前にありと書き分けてありますから門の位
置が変つた事が知られます。この蓮泉寺は南朝の正平十六年八月の
建立で開祖は足助の人舟橋兵庫頭といひ、南朝の遺臣でありますが
初め碧海郡の上宮寺で僧となり、名を慶信と改め、後故郷に近い下
山と云ふ処に正行寺を建て、更にこちらへ移りました。正淋寺は永
正六年に川毛といひまして、今の城跡の辺に建ちました。開祖は玄
栄といふ人です、少し遅れて、大永弐年に応通寺が建ちました。
これは初め無量寿寺といつて、開祖の源明は碧海郡平坂、無量寿寺
の了源の三男でした。それと殆んど同じ頃浄円寺も建つたのですが
開祖は了証といつて、山科本願寺の第九世実如上人の弟子で、こち
らへ来ました処、頗る武道に達し城主の知遇を得て、一寺を建立し
て貰つたといひます。以上四ヶ寺は本坊と共に川毛にあつたのを天
正弐年に城地拡張の必要から今の地に移転させられたといひます丁
度其頃仁長寺も都合で宝飯郡伊奈から移転して来て、今見るやうに
五ヶ寺になつたのだと言ひます。本坊の方はこの移転地が西竺寺と
云ふ廃寺の跡であつたとか、又は本坊そのものゝ前身を西竺寺と呼
んだとか申しますが明らかでありません。その西竺寺のものとして
文治五年の鐘が伝はつてゐたのを火災で失つたと伝へてをります。
本尊は何れも阿弥陀如来ですが、余り古いのはありません。仁長寺
三一
三二
の寛永十七年、蓮泉寺の慶安三年位が古い処で、建築としては浄円
寺の庫裡が宝永頃で一等古く、他は御覧の通り何れも新しいもので
す。こゝで申し上げたいのは浄円寺に了願と云ふ僧がゐて文化年間
に経蔵を建て明本の一切経を備へ付けた事と、最近蓮泉寺の舟橋水
哉氏が三舟文庫を建てられた事で、その了願は非凡の僧でありまし
たし、水哉氏は元大谷大学教授、今は退いて居られます、原始仏教
史の権威で著書も沢山あり、鉄筋コンクリートの文庫と共に、断然
山内に異彩を放つて居られます。
次は今来た道を四ッ角まで戻りまして、南へ入りますと、左側に
白山比咩神社 があります。創立は保延弐年の六月、祭神は伊弉
諾尊外一柱であります。もと札木町に魚町の安海熊野神社と一所に
あつたのを天正十八年城主の池田輝政が城を城張するに当つてここ
へ遷したものと云ひます。この社では寛文五年に神輿が出来てから
七月十七、八日に花祭りと云ふのが行はれましたが今は廃絶致しま
した。この附近は新銭町といつて、寛永十四年に幕府の命を受けて
新銭を鋳造した事から起きた名だと申します。吉川駒曳銭といふの
は其時数取りに造られた絵銭です。
この社の神職は鈴木氏で、土佐守を名乗つた梁満呂は天明四年に本
居宣長の門に入り、豊橋最初の国学者でした。其子の、陸奥守を名
乗つた重野、是も寛政元年に同様宣長の門に入った人で、郷土人と
して相当敬意を払ふべき人物です。墓は二人共に中世古町花谷院に
あります。
道の都合で今少し南へ参りませう。小さい川が流れてゐます。
牟呂用水路 俗に新川といつて、この先の神野神田へ引く為に明
三三
三四
治廿七年に完成した水路で、水源は豊川の上流にありまして、一鍬
田と云ふ処に取入口を設け、延長は五里にも達しまして、今日では
この地方一帯の灌漑に用ひられ、非常な利益を与へてゐます。
諏訪神社 水路の橋を渡つて少し行つた処の左側にあります。こ
の社の御立は永仁元年といはれてゐますが詳しい事は分りません。
祭神は建御名方尊となつて居り、以前祭の時は先に寄りました白山
比咩神社の神輿はここまで渡御せられたといふ事です。
首切地蔵 この附近一帯を中柴町といひますが、この辺にもと首
切地蔵といふのがありました。寺名は蓬沢山桂徳寺とかいつて地蔵
が祀つてあつたのです。いつの頃からですか上伝馬町藤三郎といふ
者の妻が、二人の子供を失つたのを悲しみ、毎夜此処を通つては小
池の潮音寺の観音様へお参りを続けてゐました。処が藤三郎は毎夜
妻が出て行くのを密夫でもあるのではないかと疑ひ、そつと跡をつ
けて行くと、果して二人連で行きます。忽ち切りつけました処、そ
れは地蔵様が妻を送つてくれたので、其時首を切落されて以来、首
切地蔵の名がついたと申します。場所はどの辺だつたかよく分りま
せん。少し行きますと今度は右へ曲ります。この道は以前渥美郡へ
の唯一の往還路でしたが、新道が開けてからすつかり淋しくなりま
した。右側は素盞雄尊をお祭りした
松山神社 です。もと渥美順慶といふものが創立したといひます
が、中絶してゐたのが明治三年再興されたのです。
もう少し行きますと鉄道線路で、これに沿つて東に行きますと川
があります。柳生川といひますが、この下流は耕地整理に伴つて
運河が作られ、河口の牟呂から水運の便が得られるやうになりま
三五
三六
したから物資の集散に非常に役立つだらうと期待されてゐます。
この南が小池町で、その向ふに見える台地には、もと第十五師団
の兵営が置かれましたが、軍縮で廃止になり、今は教導学校、兵
器支廠などあるに過ぎません。線路を越して向ふの樹立まで行き
ませう。之が先程申しました藤三郎の女房の通つたといふ
潮音寺 で俗に潮満ちの観音様といはれてゐます。曹洞宗で市
内龍拈寺の末寺ですが、行基の創立といひ鎌倉時代には相当立派な
寺だつたと申します。其後吉田城主の池田輝政や小笠原氏などの庇
護を受けた事もあり、御覧の通り仁王門、本堂、観音堂などがあり
ます。有名な観音様は、一尺五寸許りの木彫で背に慶長廿一年三月
吉日とありますから其頃のものでせう。前立の出来はよくありませ
んが時代はずつと古く、堂は寛文年間の建築です。三間四面の入母
屋造りへ流れ向拝がつき三ッ斗組が使はれ、また斗束には実肘【月+斗】木が
使つてあります。仁王門は近頃のものですけれども、仁王尊には元
禄拾弐年九月吉日京都寺町通り三条大仏師齋藤左近法橋浄慶作と銘
があります。
これから先き、まだ〴〵御覧を願ふ処が沢山ありますが道順の都
合で引返します。この大路が先に通りました松山町の繁華を奪つ
た新道です。どうも豊橋の道は真直なのが少く、昔城下町時代に
は敵に見透かされなくてよかつたかも知れませんが今日それを踏
襲する必要はないと思ひます。この道なども出来た当時などノラ
クラ街道などといはれたものです
松林寺 左手に大きな建物が見えませう。これが松林寺で豊橋
では一等古い歴史を持つた寺なのです。御覧の通り最新式の建物で
三七
三八
一寸公会堂といふ感じがします。建築は大体信州善光寺のそれを取
つたのではないかと思ひます。横手に千体骨地蔵といふのが祀つて
ありますが、これがなか〳〵面白い由来を持つて居るのです。
寺伝によりますと、鎌倉の執権北条経時の時代に、筑紫の大守に
原田次郎種猶といふ者がありました。鎌倉に出仕した時、高橋修
理大夫といふ者の為に讒言せられて、遂に永牢入りとなり、十三
年間も捉はれの身となつてゐました。その種猶の一子に花若と云
ふ者がありまして、父が国を出る時はまだ母の胎内でしたが、何
とかして父を救ひ出さうと思ひ、十三歳になると家来の藤王丸を
連れて鎌倉へ出で、先づ由比ヶ浜に父の戦場を弔ひ、枯骨を集め
てそれで千体の地蔵尊を作りました。そして之を厨子に入れて藤
王丸に負はせ、鎌倉中を托鉢して廻りました。処が其花若は頗る
美しい児でしたので、地蔵様の化身だといふ評判が立ちました。
これを時の執権北条時宗が聞き花若を召出して会つて見ました。
色々法談などをしました揚句花若は牢獄に居る人達を見る事を乞
ひました。許されて巡つて見ると土牢に居る一人が、自分の恋慕
ふ父でありましたので、色々執権に話し漸く赦免を得、足腰も立
たぬ程衰弱してゐる父種猶を介抱をしつゝ国へ帰へる途中、こゝ
迄来て種猶は遂に死んで了つたのです。そこで花若は此処に寺を
立てゝ千体骨地蔵を祀り、父の菩堤を弔つたのだと言ひます。
尚開山の春岳栄陽尼は花若の母だという事です。
この門前に呉竹の井といふのがありますが、これは羽田の栄川の泉
と共に豊橋の名水として好事家の間に賞翫され、この名は山田宗遍
がつけたといふ事です。今は両方共殆んど湧出が止まり、其名許り
三九
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となつたのは誠に惜しい事と思ひます。
これから北へ向つて歩きませう。東側にあるのが謂信寺で、大正
八年に渥美郡野田村かち【「ら」の誤植か】移転して来たものです。少し先の左側に
ある建物は武徳殿でありまして、名古屋武徳殿の支部となつてゐ
ます。又新川を渡ると左側に小さいお宮がありませう、天白稲荷
社といつて魚町安海熊野神社の末社でありましたのを天文の頃此
処に祭つたといひます。次は俗に野口の神明樣といふ
神明社 で、これは以前この辺を野口といひ、社家も野口氏だ
つたからですが、今は神明町といひます。創立は天正十一年ださう
で、勿論天照大神をお祀りしてあります。豊橋地方は昔伊勢神宮御
領が多かつた関係で神明社が多く、外にもまた数社あります。こゝ
にはキリシタン遺物としてマリアを刻んだ灯籠があり、私が大阪毎
日に発表してから見に来られる方もあるさうです。来歴など調べて
見ましたが一向に分りません。
このキリシタン灯籠は御覧の通り竿が十字架を象つたのが特徴で
此地方に沢山ありますが、本当の潜伏キリシタン遺物と見られる
やうな古いのは、これとすぐ近くの森富蔵氏方にあるのだけで之
には像はあるが文字がなく、森氏のは像と文字とある非常に立派
なものです。今度は向側に移りますと
神宮寺 があります。山号を白雲山といひ天台宗で比叡山延暦
寺の末寺となつてゐます。維新前は江戸東叡山寛永寺の直末で別に
寿命院といふ称号を貰つて居たさうです。創立は慶長元年ですが、
寺の言ひ伝へではもと此処に長禅寺といふ寺がありまして荒廃して
ゐましたが、これを開山の重心僧都が再興したといひます。本堂は
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貞享二年の再建にかゝり、四注造りに舟肘木が使つてあります。隣
にある護摩堂、これは三間四面の入母屋造り流れ向拝の妻入で三斗
の出組が使つてあります。寛政頃の建築でせうが、総体が欅造りに
縁板は楠といふ豊橋としてはよい建物です。鐘は貞享二年の鋳造で
本堂と一所に出来たもの、山門は元禄十四年に久世山和守が建てた
ものです。本尊は大日如来の座像で三尺ばかりの木彫で、寺伝では
雲谷の普門寺にあつたものといひ、今は後世の補修によつて時代な
ぞ分らなくなりました。或は鎌倉末期か室町初期ではないかとの説
もあります。護摩堂の不動さまは衣服の盛上げ模様といひ、玉眼の
ある点から室町初期のものであらうと思はれます。これは寺伝では
寛延二年に碧海郡刈谷の嵩福寺から譲り受けたものといつて居りま
すが、智証大師の御作といふはどうでせうか、維新前は除地で三十
一石六斗を貰つてゐました。
此処の墓地に飯野柏山の墓があります。太宰春台の門人で吉田に於
ける一方の重鎮でしたが、寛政七年に七十九歳で没して居ります。
次は少し東へ参りまして南側にあるのが
西光寺 で創立は慶長六年、本尊はもと神宮寺にあつたといふ
阿弥陀如来です。維新前は黒印、三石持つてゐました。近頃住職の
発案により十二月に酉の市を開き、相当な賑ひをみせて居りまして
昔の情緒に乏しい豊橋としてはよい趣向だと思ひます。
次は境内を通りぬけて
龍拈寺 へ参りませう。この門前にある土塀の一廓、これは寺
の開基で、初めて吉田城を築いた牧野古白の墓だといふ事になつて
居ります。こちらが山門で元禄六年の建築ですが切妻破風造りで三
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ツ斗が使つてあり、比較的釣合のとれた建物と云へませう。裏手に
ある地蔵様、これは豊橋での二大露仏で、正徳六年に出来て居りま
す。サア本堂の方へ参りませう。右手の鐘楼は新らしいものですが
鐘は元禄四年に出来たもの、左手は羅漢堂で、正面の本堂は宝暦十
一年の建築にかゝり、十一間に九面の入母屋造り本瓦葺といふ堂々
たるものです。この羅漢堂の裏にある旧鐘楼は、二間一面の四注造
り慶文元年の建築ですから、豊橋としては古い建物だと云へませう
匂欄の擬宝珠に銘文があります。この鐘楼は新しいのが出来て不用
になつたのを、識者の尽力によつて保存される事になつたのです。
本尊は十一面観音で五寸許りの木像ですが、後世の補修ですつかり
駄目になつてしまひました。鎌倉時代か或はそれよりも古いもので
はないかといふ説もあります。大体この寺は大永の初めに牧野伝左
衛門成三が父古白の菩提を弔ふ為に建てた事になつてゐますけれど
も本尊がそれ程古いものとすると、その以前に小さな寺があつて、
古白はそれへ葬られ、後に菩提の為に寺を拡張したといふ事になる
かも知れません。尚境内には日信院、悟慶院、盛涼院、長養院と塔
頭が四ヶ寺あつて、中にも悟慶院と盛涼院の本尊はほんの四五寸の
ものですが室町時代の作で比較的優秀なものと思ひます。宝物には
牧野古白内室の画像、松平清康の妻華陽夫人の画像など珍重すべき
ものがあり、古文書の類も余程保存されてゐます。維新前は朱印二
十五石と、外に隠居寺広徳寺分二十石とを貰ひ、相当格式のあつた
寺で、墓地には元和から寛永頃の碑が沢山あります。変つた墓では
あの地蔵さまの裏手にある観世左近太夫の墓、これは昔此地にゐて
死んだといふ事で、御覧のとほり浄光院殿王庵全宗居土、観世左近
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太夫墓、天正五年丁丑正月廿九日としてあります。それから今一ッ
は日信院の方にある五輪塔で、地輪に月峰桂旭居士、寛永十二年七
月廿一日とあります。これは其年朝鮮からきた使節一行のもので此
地に病没したのを葬つたのですが、これに就いては国王から礼状も
来て居るさうです。又本堂西の墓地には越後流の軍学者であつた関
屋一勲の墓があります。これは元禄から安永へかけての人です。
この墓地には御覧の通り大楠が三本並んで居ります。あの中央のは
周囲が十八尺、北のが十五尺、南のが十三尺ありまして、これが市
中最大の木です。各方面を実測してみましたが、市街地の事ですか
ら切られたり枯れたりで、十尺以上のものは殆んど指を折る程しか
ありません。
今度は西の通用門を出ませう。此通りが吉屋町で、以前は元鍛冶
町といひました。これは古白が築城のとき宝飯郡牛久保から鍛冶
職のものを連れて来て八町辺に置いのを、池田輝政が城地を拡張
するときに此処へ移し、其後又移したのが今の鍛冶町で、それに
対し此処を元鍛冶町といつたのです。又先程の電車道へ出ました
北へ二ッ目の十字路のところが元大手門のあつた処で、これから
が城内でした。正面の建物が市の公会堂で昭和六年の建築です。
丁度昼になりましたから、こゝの食堂で食事をしながらお話致し
ませう。此敷地になつて居る処は、徳川時代に藩校の時習館が置
かれた処でした。
時習館 は宝暦二年藩主松平信復が創立されまして、享和三年
に一度拡張があり、明治維新に至つたものです。この中に西岡翠園
の建てた梅花文庫といふのもありました。専ら藩の子弟を教育した
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処で、教師には著名の人物も居り、吉田に於ける文教の中枢であつ
たのです。此西隣りが市役所で、もとは渥美郡役所の建物でした。
市役所は此西にありましたが、昭和三年十二月焼け、当時郡役所廃
止で不用になつてゐた建物へ移つたのです。
食事も済みましたから、またボツ〳〵出掛けませう。今度は少し
西へ参ります。
この西へ突当つた処は悟真寺ですが其手前南側に松が一本ありませ
う。此樹下に小野湖山の寓居がありました。湖山は明治五年に東京
へ移住しましたが、其邸内には明治元年湖山が同志と共に祀つた楠
公祠があり、移住と共に他に移され転々とした揚句、只今では東田
町八雲ヶ岡に祀られて居ります。それからこの西八町に
琵琶塚 といふのがありました。これは城主牧野大学成央に仕
へた土肥二三といふものがありまして、物頭役を勤めてゐました。
至つて風流な人で、茶道の心得もあれば絵も描き、殊に琵琶の名手
で邸内に妙音天を勧請して一の塚を築き琵琶塚と呼んだといふので
して、この二三の事は近世奇人伝にも出て居ります。
これから公会堂の処まで戻ります。この東側を突当つた処が十八
聯隊の兵営で昔の
吉田城 です。この城は先にも申しました通り永正二年に牧野
古白が始めて築きまして、其後数次の争奪があつて後徳川氏の手に
入りました。そして永禄八年酒井忠次が第一次の拡張をし、天正十
八年に池田輝政が第二次の拡張をして居ります。德川時代には城主
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の更迭も度々ありまして最後までゐたのが今の大河内正敏子爵家で
その治績など詳しいものが色々の書物となつて残つてゐます。この
城が敵の攻撃を受けたのは永正三年と享禄二年と永禄七年、それに
文亀二年と天正三年の五回が主なもので、永正三年には築城者の古
白が戦死し、享禄二年には松平清康の為に再びこの城に拠つた牧野
一族が亡ぼされ、一旦松平氏の手に入つたのが今度は天文十五年に
今川義元の勢力範囲となり、小原肥前守が守つてゐたのを、永禄四
年に家康が今川家に背き、東三河の諸城は皆これに従つたので肥前
守は預つてゐた人質十幾人を龍拈寺口で刺殺しました。それを永禄
七年に家康が攻めまして城を陥れ、肥前守は遂に自殺しましたので
仇を酬ひ、城を酒井忠次に与へました。やがて今川氏が衰へると今
度は武田氏の勢力が侵入し、文亀二年に信玄が来て城に迫つたので
すが大戦にもならずに退き、其後天正三年に武田勝頼が来襲しまし
たが、此時は城を持堪へる事が出来ました。天正十八年家康が関東
移封と共に酒井忠次も関東へ移り、跡へ池田輝政がやつて来て、こ
れが第二次の拡張をいたしました。城内の模様など今日それと想像
し得る程度に残つて居り、特色のない平凡な城ですが、裏手の豊川
に臨んだ処はまことによいやうに思はれます。
屯営 明治十七年にこの城跡へ屯営が置かれる事となりまし
て、それと同時に今練兵場になつてゐる処、あれには神社が三ッと
民家があつたのを他へ移して作つたので、神明小路、袋小路、八幡
小路とか土手町、川毛町などがありました。屯営が出来上つて十八
聯隊が参りましたのが明治十八年の四月で、日清戦争の時には平壌
攻撃で名を挙げ、日露戦争には数度の偉勲に感状を授つてゐます。
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面積は営内の方が三七、七〇〇坪、練兵場の方が六三、〇〇〇坪合
せて拾萬坪からあり、これを他に移して公園や市街地にしたいと云
ふ意見もありますが、少し大きすぎて、中々実現致しません。
これから追々に東に参ります。この通りは以前士族屋敷のあつた
処で、御覧の通り多少その面影を残したものもあります。
左側のが
県社神明社 此社は天慶三年朝廷から伊勢神宮へ献ぜられた神領
飽海新神戸の地にお祀りしたことになつて居り、以前の社地は城の
東に当る今の練兵場の中央北寄りの処でしたが、其処が軍用地にな
つた関係で明治十七年此地へ遷座されました。本社は城の西にある
県社吉田神社と共に古来から此地方の代表的神社で棟札によります
と、明応六年に牧野古白、天文十九年に今川義元、天正六年に酒井
忠次がそれ〴〵造営して居り社領は今川氏以来ずつと三十石持つて
ゐました。現在の社殿は昭和七年の造営で、未だに木の香が漾ふて
ゐますがこれ程整備した建築は附近に一寸見られません。
私は神明社に余り古いのはないやうに聞いてゐますが此社は天文十
九年の棟札に神明御宝殿云々とあり、又海蔵寺と云ふ別当寺のあつ
た事から見て、此附近では最古の神明社ではないかと思ひます。そ
れに文書記録では戦国時代に遡り得るに過ぎませんが、本社の神事
儀式など見ますと鎌倉時代或は平安朝時代の遺風と思はれるものが
伝へられ、創立の古さを物語つてゐるやうにも考へます。即ち毎年
二月十四、十五日に行はれる本社の祭には神幸の外に俗に鬼祭りと
云つて士烏帽子に小具足をつけた天狗が赤鬼を追払ふ式や、田楽の
遺風といはれるボンテンザラの神事、農作を占ふ榎玉争ひの神事な
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どがあり、これ等は先年喜田貞吉博士が京都帝大に居られる頃見に
来られ、雑誌歴史地理へ発表されたことがありました。この祭りに
露天で商ふ薙刀と鬼の持つ鐘木とは土俗研究者の間に喜ばれてゐる
ものです。尚本社に伝はる神楽歌は別項に載せて御覧に入れる事に
致します。社前を東へ抜けると北が練兵場で
神武天皇御銅像 が見えませう。これは明治三十年に日清戦争の
紀念に三遠駿豆四ヶ国の人達によつて建られたもので、御像は岡崎
雪声氏の作です。以前は東八町の裏通りにありましたが後、こゝら
へ移したのです。此戦役に戦病死したものの名を刻んだ碑も同時に
建られましたがこれは陸軍墓地へ移されました。
この御銅像の前方地点が去る昭和二年十一月、今上陛下の行幸を仰
ぎました際御親閲を賜つた処で、この光栄を紀念する為、其後毎年
ここで紀念式が挙げられます。
これからもとの電車道まで戻り、少し参りますと
大松 が北側に見えませう。この松は地上三尺位の処で廻り
が一丈からありますが、それより横に二間許り這つて枝を出して居
ります。相当年数を経たものと思はれ、今川義元の鎧掛松だといふ
伝説もありますし、以前に居たここの主人が女中をこの松に吊して
なぶり殺しにしたので其亡霊が残つて祀りを欠かすと崇【「祟」の誤植か】るなどとい
ふ話も残つてゐます。この東の木立が
八幡社 です。この社は秋葉神社と合併されて居りますが、以
前は両社共今練兵場になつて居る処にありましたが、明治十七年秋
葉社はここへ、八幡社は中八町へ越したのを、明治四十三年更に合
併したのです。この秋葉神社は正徳三年に大河内氏が下総の古河に
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建てましたのを、其翌年移封せられると共にこちらに移し、享保十
四年浜松へ、寛延三年又こちらへと城主と共に度々移建され明治に
なつて又此地に移されたのですから前後四回も移転してゐます。そ
れも其都度社殿は勿論水盤や石灯籠の類まで運んだのですから驚き
ます。この少し東に左へ曲る道がありませう。
野牛門 といふがここにありました。池田輝政が長篠城から移
して建たものださうで刀痕や鉄砲玉の跡があつたといひますが惜い
事に取毀されて仕舞ひました。この門には藩政時代に目安箱をかけ
人民の訴へを受付ける事になつてゐました。
この北の方に明治廿一年に開設された聯隊区司令部と市の小公園
があります。その小公園は明治卅年に置かれた旅団司令部が大正
十四年に第十五師団と共に廃止され空地になつてゐたのを市が譲
り受けたものです。別に見る程のものもありませんのでもつと東
へ参ります。四ッ角を越して次の左へ通る道、これが八名郡へ行
く別所街道でここが起点です。これからこの道を行つて二三御案
内を致しませう。この突当りが飽海町で、和名抄以来の郷名がこ
の小区域に残つて居るのです。
青龍寺 とい寺がこの裏手にあります。古義真言宗で本尊は不
動明王、大きな寺ではありませんが以前の住職で古道法印といふの
が頗る和歌の道に長じて居りました。近頃この寺から宝船を出しま
すが附近に類がありませんので喜ばれてゐます。東へ新川を渡ると
大蓮寺 が左側にあります。道路が出来て境内を両断された形
ですが。この寺は元中六年の創立といはれ、開山は覚阿和尚といつ
て真言宗だつたといひますが今は浄土宗で、本尊の阿弥陀如来は木
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像で高さ二尺八寸許りの座像ですが室町時代の作でありませう。寺
伝ではもと八名郡石巻村屏風岩にあつた廃寺のを移したものといひ
ます。こゝから東の高所に見える森は臨済寺ですが帰り途による事
として其下を通り田中の神明社へ参ります。
郷社神明社 は伊勢神宮の御領、薑御厨に祀つたものといはれ、
創立は古いでせうが余り古いものは残つてゐません。天文廿二年戸
田宣光の棟札が一等古く、慶長九年と、元和二年とのがそれに続い
てゐます。この附近は古名を薑といつたらしく思はれますが、和名
抄にはありません。今大神宮に献じた薑蔵の跡といふものが近くに
ありますが、真偽は保証の限りでありません。其後二連木といふ名
で呼ばれたこの地は楡の木があつたからともいひます。社前から西
を見ますと、田の中に小山があります。
東田古墳 といふのがこれで、以前は経塚だといふ説もありまし
たがそれは考古学的知識のないものがいふた事で、御覧の通り立派
な前方後円墳で、地形の関係で主軸が東西になつて居る事がやゝ変
つてゐます。このくびれの具合や、後円部の傾面などさながら壱千
数百年前の面影を見る事が出来ませう。明治維新前まで後円部の上
に一小社がありました。明治七年その焼跡を発堀して仿製変形鳥文
鏡と鉄刀片を発見し、今に保存されてゐますが、かやうな低地に古
墳が築造された事はこの辺古代の地形に就いて、大いに考へねばな
らぬ問題だと思ひます。
こゝから東の台地へ上ると北に城址があります。
二連木城址 といひます。この城は明応の頃渥美郡田原城にゐた
戸田宗光が築城したもので、宗光は子の憲光に田原城を守らせ、自
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分はこの城にゐましたが、宗光の死後は憲光が続いて居りました。
其後この城は暫らく放棄されてゐましたが、天文七年になつて憲光
の曽孫宣光が再興して三代程ゐましたが、天正十八年関東に移ると
共に廃城となりました。
この芝生で一服致しませう。あの高い処の紀念碑は大正四年の御
即位紀念に愛知県が建てたもので、其裏手の方など昔の有様が残
つて居るやうに思ひます。
これから東は全くの村落部ですが市の区域はまだ東へ一里もあるの
です。大して見るものもありませんから、ざつとこゝで御話し致し
ます。前方左手に見える突起した山は石巻山で、その中腹と山麓に
延喜式内の石巻神社があります。その右手の小山の上に見えるのが
市の水道配水池で、附近一帯を屏風岩といひ、一寸とした遊園地に
なつてゐます。その南の裙を少し行きますと赤岩で
法音寺 といふ真言宗の寺があります。こゝの本尊愛染明王像
は昭和三年に国宝に指定されました。高さ三尺三寸の木像で宝瓶上
に安座され、鎌倉末期の作ですが、その頭上獅子冠の中に多数の小
木像が納めてあることは面白いと思ひます。境内も広く今遊園地と
しての計画が立てられ、着々進行中ですから、将来は市の行楽地と
して一名所となりませう。寺は衰退してゐますけれども、山門だけ
は立派なのが残つてゐます。これは建久の頃三河の守護代であつた
安達藤九郎盛長が頼朝の命を受けて建営したといふ三河七御堂の一
つです。寺伝や寺宝については略しまして、次はその南に当る岩崎
町に
鞍掛神社 といふのがあります。以前は鞍馬大明神といひました
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のを源頼朝が上洛の際此附近に休息し、この社に鞍を奉納したので
鞍掛神社と呼ぶやうになつたといひます。これは地名の説明伝説で
ありませうが、然しこの地が鎌倉時代或はそれ以前の交通路であつ
た事は事実のやうで、此社には天正十八年以来の棟札が二十枚も保
存されてゐます。尚其社から数町東の道添ひに頼朝公駒止桜といふ
のがあります。本幹が枯れて新芽が成長してゐますが、ざつと大き
いのが四本小さいのが五本で、普通の山桜と思はれます。頼朝が上
洛のときこの附近で軍馬を止め、馬をこの木に繋いだといふのです
又数町東の畑地の中に
戸田宣光墓 があります。一廓を土塁で仕切り一基の石碑が建つ
て居りますが、これは二連木城を再興した戸田丹波守宣光の旧蹟を
紀念するために、その子孫の信州松本城主丹波守光則が、嘉永二年
に建てたものです。其向ふの部落が岩崎町で、天文八年創立と伝へ
る龍岩院と日吉神社とがあります。此日吉神社は神亀四年に僧行基
が建てたといふ社伝があり。其後建保三年に再興し、天文二年兵火
に焼けたといふ記録もあるさうです、現にある棟札は天文十七年の
を初め二三あります。其社の境内に古墳が一つあります。横穴式の
至つて小さい、半ば破壊されたものですが、この式では市内唯一の
ものとして保護されてゐます。
古墳 この岩崎町の北が多米町で、その多米町から岩崎を経
て南の方高師方面にかけて古墳が頗る多く、それも殆んど破壊され
てゐますけれども、探索したらまだ多少残つてゐるだらうと思ひま
す。何分にも規模が小さく、塚として地表に現はれてゐないので、
工事などの際に偶然発見されるやうな訳で、その遺構の調査どころ
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か遺物さへ行衛が分らないのですから、誠に遺憾な事だと申さねば
なりません。
徳合長者 の伝説はこの多米町に残つてゐます。この長者は敵に
攻られて水の手を絶たれた時白米で馬を洗ふ真似をして敵をあざむ
いたといふ、諸国によくある馬洗伝説ですが、古い街道に沿ふた地
ではあり駅長の居た処とも見られます。この地は和名抄にある多米
郷で其頃の範囲は豊橋市の東半部であつたやうに思はれます。
船形山 は其南一帯にそびえた山でありまして、頂上が豊橋市
の境界です。今川氏の時代には城塁があり、其辺一帯は度々兵火の
洗礼を受けてゐます。それを向ふに下つた処に有名な雲谷の普門寺
があります。これは路順の都合で二川町の方から参る事に致します
東方一帯はざつとこんな程度で、次はこのすぐ南にあつてこの城
と最も関係の深い全久院へ参ります。
全久院 この寺は大永三年に、戸田弾正忠即ち二連木城を再興
した憲光が父宗光の菩提を弔ふために創立したもので、全久とは宣
光の法名です。元禄元年及永禄五年の今川親子の寄進状から、続い
て徳川氏代々の朱印状もあり、其外古文書では道元禅師筆の聖法眼
蔵の真本といふ国宝級のものや、天文廿四年と弘治三年に光国禅師
の書いた仏書などが残つてゐます。これについて一場の美談は、こ
の戸田氏が後に信州松本に移り、そこにも全久院と云ふ寺を建てま
した。つまり全久院が二つあつて、寺領など共通してゐたのではな
いかと思ひますが、明治維新の際その松本の全久院が廃される事に
なりまして、前申しました聖法眼蔵や光国禅師筆の仏書、或は代々
の朱印状、この朱印状は大抵写したものですが、こゝのは全部が正
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本で、夫等を一纏にして住職は旅の姿も甲斐々々しく野越へ山越へ
遥々と此全久院まで届けた上、自分は郷里越後へ引退したといふの
です。其心懸の美しさには全く感服の外ありません。本堂も庫裡も
大正三年の建築で、境内には戸田氏の墓が数基あり、中に松君とい
ふのは憲光の末孫康長の妻で家康の妹でした。之で境内を出ませう
此寺の前にある蓮田は一段低くなつてずつと続いて居る処を見ます
と、どうも昔こゝに河があつたのではないかと思ひます。
次は西に向つてぼつ〳〵歩きませう。右手にあるのが先程下を通
つた時申上げた
臨済寺 で、之は曽て城主だつた小笠原忠知が、豊後の杵築に
ゐた頃父の追善の為めに建てた寺で、移封と共に飽海に移し、以前
は父の法名をとつて宗言寺と申しましたが、寛文三年に忠知が没し
子の長矩がこれ又父の追福にこゝへ移し寺号を改め、寺領として百
石を与へたといひます。維新間もなく全部取毀され、山門と庫裡だ
けが残つてゐましたのを数年前新築したものです。本尊は木彫の釈
迦像で、高さ約一尺八寸、余程古いものと思ひますが之れも後世の
補修で一寸識別がつきません。寺伝に恵心僧都作といひますのは、
比較的古いといふ事だらうと思ひます。境内には忠知以下の墓が十
基余もあり、それに寛文の石灯籠も十基からあります。又此寺には
山田宗偏が滞在したこもとありまして、今こそ見る影もありません
けれども、庭園などその差図になつたもので、今に自作の茶器数点
がこゝに所蔵されでゐます。
今度は前の路を南に参ります。電車線路を越えて突当りから右へ
曲ります。この右手の松林中が
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陸軍墓地 で日清、日露戦役に忠死された人達を葬つてあります
左手一帯を八雲ヶ岡といひ、出雲大社教分院や、もと城内にあつた
稲荷社、それから楠公祠、乃木祠、豊城神社などがあります。
楠公祠 は先に一寸申しましたやうに、明治元年に小野湖山が
羽田八幡社の祠官であつた国学者の羽田野敬雄等と謀つて、西八町
の邸内に祀りましたのが最初で、その五年に湖山は東京へ移住する
事になり、羽田野翁が自分の邸へ移し維持の任に当つたのですが、
十五年には翁も亦没し、祭祀が絶へましたのでこの北にある神葬墓
地へ移し、後此処へ迎へてお祀りする事になつたのです。前にある
碑には湖山の子正弘が建設の経過を書いて居り、「非理法権天の旗
印」は後人が備へたものです。何分法規上の神社でありませんから
どうとかして維持の出来るやうに致したいと思ひます。お隣の
豊城神社 には最後まで城主でありました大河内家の遠祖源三位
頼政卿と松平信綱とが祀つてあります。初め松平信綱の子信輝が元
禄七年に下総の古河に建て、信輝の子信祝が正徳二年吉田移封と共
に移して城中二の丸に祀りましたが、廃藩後度々其地をかへ、最後
に此処へ祀られる事になりまた。前の池を距てゝ東海道が通じ、寺
が見えます。
願成寺 といひまして真宗高田派、大永二年の創立といひます
が、もとは市内指笠町にありましたのを明治の末に移したのです。
以前はこゝに善明寺といふ寺があり、其境内に十王堂がありました
ので瓦町の十王と呼ばれたものですが、寺が他方に移転すると同時
にこの十王堂は大蓮寺へ移され、その跡へ今の寺が来たのです。前
の坂を東へ少し上つた処にあるのが
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不動院 で古義真言宗、寛文六年の創立といはれます。前庭に
あるナギの木は熱帯植物で、大体紀伊が自生北限地となつてゐます
から、移植したものでせうが、この木には一つの伝説があります。
それは神武天皇が熊野から大和へ御向ひなされます時に、土地のも
がこの木に鈴をつけたのを先頭にたて、御案内申し上げたので、其
功を嘉みし給ひ、鈴木といふ姓を賜はつた。そこで熊野地方から此
辺に拡がつてゐます鈴木姓のものに、此木の葉を紋所とするものが
あるといふ事です。
此先にはまだ寿泉寺と神明社とがあります。寿泉寺は延宝八年に
渥美郡大津村から移つて参りました、臨済宗の寺で、神明社は創立
不明ですが、境内に椎の大木許りなのは変つてゐます。又南に当つ
て大池があります。面積は十町歩もありませうか、以前は凡そ百六
十町歩の耕地へ灌漑してゐたものですけれど、牟呂用水が出来てか
らは利用されなくなりました。此池は承応三年に郡代であつた長谷
川太郎左衛門が考案し。藩主小笠原忠知の許しを受けて作りました
もので先づ吉田城の堀へ引いて洗濯などの用をした上、更に耕地へ
灌漑するといつたやうな計画でした。其水道は最近下水道工事の完
成によつて失はれましたが、それまで市中を貫通してゐたもので、
これには元禄六年と宝永五年の二度改修せられた歴史があります。
其西方台地の端に、今上陛下の御野立所があります。これは昭和二
年大演習終了後、当市に行幸遊ばされた際に全市をこゝから御覧遊
ばされた処で、此光栄を紀念する為に、市では土地所有者の寄附を
得て小公園とし、紀念碑を建てゝ後世に伝へる事としました。場所
が少し離れて居りますから参るのは止めませう。
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これから西へ坂を下りて水路を渡ります。こゝは西新町で右側に
偉大な
常夜灯 がありませう。これは銘文にある通り文化二年に出来
たものです。これに就いて一つの物語りは、西三河挙母の石屋が註
文を受けて作り上げまして、船で関屋河岸まで運んで来ましたが註
文主がどうしても分らず、従つて代金を貰ふ事も出来ないし、持ち
帰るにも費用がかゝるといふので河岸に上げたまゝ帰りました。後
年それをこゝヘ建てたのですから、これには所有者がないといふ訳
です。
これから南へ行つて西に曲つた処に東口の総門があつたさうで地
形は其頃とは大変に変つてゐます。これを今一度南へ行くと東西
の通りがあり、これが鍛冶町で、以前は鍛冶職のもので軒を並べ
てゐた処です。その次が曲尺手町、呉服町と続きその先が問屋場
本陣などのあつた札木町ですが、今日は遅くなりましたので明日
御案内致す事としまして、電車が来ましたから、一先づ宿へ引上
げ御休息を願ふ事に致しませう。
以上で今日御案内したのが凡そ市街地の七分位で、あすはその残り
の三分と時間がありましたら牟呂方面を御案内する事に致します。
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【右頁白紙】
第二日
お早やう御座います。昨日はお疲れになりましたでせう。如何です
御安眠出来ましたか。さうですかもう御食事もお済みになつて、で
は早速出掛る事に致しませう。
昨日はこれから右へ参りましたが、今日は中の道を参ります。これ
が旧停車場通りで、いま常盤通りといつてゐますが表向きの名では
ありません。あの五階建は額田銀行が建てたもので、これについて
右に廻りますと、東西が指笠町で南北の萱町と交叉してゐます。
我国の砂糖界に雄飛して居る山藤商店の本拠はこの萱町にあり、
当主福谷藤七氏は豊橋市の大立物です。又此町には県社吉田神社
の祭事として古典味豊かな笹踊りが伝はつて居り、歌詞も備はつ
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てゐます。
指笠町にはもと光明寺、観音寺、願成寺の三ヶ寺がありましたが何
れも他へ移転致しまして、今眼星しいものは東三玉糸製造同業組合
の建物だけです。次が魚町で中央に
安海熊野神社 があります。この社は保延三年の創立で、以前札
木町にありましたのを池田輝政の時此処に遷したといひます。祭神
は伊弉諾尊外八柱で、毎年六月の七、八日に行はれる例祭にはこの
能楽殿で狂言やお能の奉納があつて有名です。祭礼能を奉納して居
る処は本社と南設楽郡新城町にあるだけですが、何れも余程古い歴
史があり、道具など非常な逸品です。之を比較しますならば装束は
新城のが優り、面はこゝのが優れて居ると云はれ、昭和八年三越の
展覧会へ出陳した時には新城の衣裳三点に壱万円、こゝの面三ッに
壱万円の保険をつけた程で、この面の作者は河内、赤鶴、龍右衛門
など国宝級のものです。
この社にはもと清水寺と云ふ社僧寺があつたといひますが、確な事
は分りません。魚市場は今は位置も組織も変つて居りますが、古く
は本社の境内で開かれたもので、これは慶長七年に伊奈備前守忠次
が神社維持の方法として渥美郡一帯で獲れた魚を此処で売買させ二
分の運上を取る特権を与へ、其変りに漁船共の海上安全を怠らず御
祈祷するやうにとの事でした、安海の名はこれから起きたものかと
思ひます。
この魚町は市内一流の商店街で、化粧品問屋の片野商店、紙類問屋
の杉本屋、鰹節問屋の瀧崎商店、そから竹輪の山サ商店、青乾物の
山安商店などは豊橋に於ける代表的商人といつてよいでせう。其片
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野商店は先代が士族から転向して今日の盛大を致し、杉本屋の商標
久木は杉の文字を二分したといはれるが奈良時代の用紙に久木紙と
いうのがあつたのも面白く、山サ商店の竹輪、山安商店の海苔は郷
土の名産として広く世間から認められて居ります。
妙円寺 は熊野神社のすぐ裏手にありますから御案内しませう
これは顕本法華宗で、京都妙満寺の末寺ですが、城主池田輝政が文
録元年に創立したものです。此輝政は遠州敷知郡古美の妙立寺、日
円上人を深く信仰し時々招いて教を聞き、又二人の子供の教育を頼
んだ程でした。日円は古美から乗馬で吉田城へ通はれたさうで、其
休憩所といふ意味で建てたのがこの寺だといふ事です。それも初め
は妙立寺と申しましたが、慶長五年に輝政は姫路へ移封されて、そ
ちらへ更に妙立寺を建て日円を迎へたといひます。其後元禄十二年
に姫路との同名を避けて、妙立寺は日円の名から妙円寺と改めたと
いひますが、或は其以前に熊野神社の社僧寺清水寺が此処にあつて
清水町といふ名はそれから来たのではないかと思ひます。本堂は御
覧の通り四注造りで向拝があり、宝暦頃の再建といふ事です。本堂
の隣の入母屋造りは番神堂だつたのですがいまは座敷に使はれてゐ
ます。宝物には日蓮、日経、日円等の曼陀羅其他二三あります。鐘
は明和頃のもの、庭にある紀念碑は時習館の教授であつた大田晴斉
ので、後に教を受けた人達が建てたものです。晴斉の父が晴軒、そ
の父錦城、三代続いた有名な漢学者でありまして、墓地にその晴軒
と晴斉の碑があります。門前にある法華塔はもと瓦町にあつたさう
ですが、明治天皇様が御通りの節御目障りだといふので此処へ持つ
て来たのだと云ふことです。
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これから引返して魚町の一つ北の通りへ出ます。これが札木町、
此東が電車線を越へて呉服町、昨日通りました処で、少し東へ歩
きます。
本陣址 この左手にあるのがもと本陣があつた処でして、その
隣りの小さい家が門だつたさうです。清須屋中西与右衛門といつて
外に江戸屋山田新右衛門という脇本陣がありました。これは後に本
陣に昇格致しまして、桝屋鈴木庄七郎といふのが脇本陣となりまし
た両本陣共いまは跡方もなくなりましたが、脇本陣の桝屋の方は少
し西の南側にいまでも宿屋を営業して居りまして、門など当時の儘
に残つて居ります。さつき申し上げました清須屋本陣は、明治元年
九月廿九日と十二月十五日それからその翌年三月十八日の三回畏く
も明治天皇様の行在所に宛てられ、その上その年の十月十二日に皇
后様が御駐泊になつたといふ、豊橋としては最も意義深い聖跡であ
ります。それが明治十一年の行幸にはもう御用に立てられなかつた
といふのですから有為転変と申しますか随分変るものです。このす
ぐ東に郵便局があります。西手の三階造りは昭和六年落成しました
電話室で、これが出来ると同時に自動交換になりました。
この局のある処にもと
問屋場 がありました。この問屋場は道中奉行の支配で、吉田
町中六ヶ町で駅馬百疋を負担してゐましたが、幕末頃になると色々
負担が多くなりまして堪へられない処から近郷近在へ助郷役を割当
て、夫れでも足らぬので随分遠方へまで及んだといふことです。役
人は伝馬六ヶ町の中から官選で三人、これは苗字帯刀御免になつて
ゐました。その伝馬六ヶ町の総代を年寄といひ、他の町のものを庄
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屋と呼んで区別してゐたのです。此等のものが宿駅の行政に当つて
来たものと見えます。この町のかぎやは市内一流の薬店で、先代が
至つて風流の道に詳しく数々の名品を所蔵されますが中にも山田宗
偏自刻の阿弥陀木像は有名なもので、其他宗偏の足跡は市内の処々
に残つて居ります。
これから西の方へ参ります。この四ッ角を三四町四方が豊橋の心
臓部で、其血液に当るものは何といつても繭糸業ですが、経済界
の変動につれ時々貧血症状を起すのは困つたものです。
四ッ角を北に参ります。左にあるのが豊橋の三大寺の
悟真寺 です。浄土宗で初めは浄業院といひました。開基は善
忠上人で貞治五年の創立ださうです。もとは城の辺にあつたのを永
正二年、牧野古白が築城の際此処に移したもので、塔頭がすべて十
二ヶ寺門前に並んで居ります。御覧の通り中門は入母屋造り唐破風
で、扇棰三斗組といふ処は豊橋としては立派な建築です。文化四五
年頃の建築ださうで、正面の本堂は元禄七年に出来て居りますが、
入母屋造り二重軒で本瓦葺である点など立派なものです。本尊の阿
弥陀仏は、享保六年京都に於て誓願寺のを型にして作つたといひま
すが、其胎内に弥陀三尊が納まつてゐます。恵心僧都の作といはれ
中央弥陀が一尺五寸、前立の観音、勢至は各八寸あります。この寺
は明治十一年十月、明治天皇様の行在所となつた光栄を荷つて居り
それと明治元年に三河裁判所を此処に置かれたといふ事が寺として
は変つた歴史です。まだ昔この寺で造つた納豆を御所へ献じ御咏を
頂いて、それ以来御咏に因んで八ッ橋納豆と名づけたといひます。
宝物は色々ありまして、明治天皇様の御内覧に供した二十何点かの
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内、応永か其少し後に出来たと思はれる開基の画像など実に立派な
ものです。前庭にある弥陀の濡仏は豊橋最大のもので、これは元文
五年に京都の大仏師西村左近が作つたもの、其由来は元文元年に百
万遍講を結び、講員が毎月三文づゝを積立てこれを造つたのであり
まして、その講は現在まで続いて居ります。向ふの銀杏の根本にあ
る小さい墓、これはこの地方では相当人に知られた俳人、佐野逢宇
の墓で
「梅に残り柳にへりし寒さかな」
とあります。此前昭和五年石巻山上へ句碑の立派なのが建ちました
「神山や水もぬるまず岩ばしる」
といふのです。こちらの水盤には意亦浄とありませう、これは大国
隆正が書いたもので、この隆正は維新前復古神道の急先鋒として活
躍した頃当地の羽田野敬雄を訪ひ佐野逢宇へ身を寄せてゐた事があ
りますが、これは其時に書いたものでせうが、文句とまた彼が仏教
嫌ひであつた点から考へますと、寺のために書いたかどうか、これ
は疑問です。墓地は南と北の二ヶ所にありまして、其北の墓地には
国学者中山美石の墓があります。 美石は本居大平の門人で、それに
一宮砥鹿神社の草鹿砥宣隆神主が撰文し、藩の家老和田元長が書い
て居り、何れも当代一流の人物である処に美石の人物が偲ばれます
南の墓にはこの美石の孫に当る中山繁樹の墓があり、又市内最古の
石碑、といつても漸く慶長五年ですが、それがこの墓地にあります
その墓地に続いた観音寺には、これは墓ではありませんが、法眼是
心軒一露の碑があります。
「寒風も吹くな柳のみどりをば」
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これは寛政八年に建てたのですが、華道では是心軒の名は有名なも
ので、安永四年此地へ来られたのを手初めに、其後も時々通り懸り
に杖を止めて華道を伝へ、当時この観音寺の住職も弟子の一人でし
たが、吉田の地に華道の起つたのは此時からの事でありました。
この観音院創立は永正三年指笠町から移転して来たもので其外の塔
頭は西禅院慶長四年、三昧院永享三年、樹松院応永三年、龍興院永
和元年、専弥軒永享六年、勢至軒永禄九年、竹意軒大永五年、法蔵
院応永二年、東高院文禄四年、善忠院明徳三年、全宗軒天正十一年
で、中にも龍興院の本尊は雲谷の普門寺から伝来し、土肥実平が母
の菩堤を弔ふ為に造顕したといふ寺伝のある高さ五尺からの座像で
す。この背面に以前その来歴が書いてあつたといひますが惜しい事
には補修の際塗潰して仕舞ひました。又専弥軒のは天正頃のもので
全身に蒔絵が施して見事なもの、樹松院のはあまり上出来ではない
が鎌倉末期の作のやうに思はれます。
これから門前へ出ますと、北が関屋町その右手に吉田神社がある
から参りませう。
県社吉田神社 は土地の名を負ふて居る処、豊橋の代表的神社と
いふ事が出来ませう。此処はもと城内でありまして、神社は余程古
くからあつたと見え、源頼朝の家臣安達藤九郎盛長がこの三河に奉
行をしてゐた頃盛んに神社や仏閣の造営をやりましたが、本社も其
時造営されたといふやうな説もあります。こんな事から頼朝が崇敬
したといふ説も生れたのでせう。其後牧野古白が築城するに及んで
其処にあつた浄業院を先程の地点へ移し、本社だけは城の鎮守とし
て残したといひます。御覧の通り社殿は余り立派とは云へませんが
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歴代藩主の崇敬を受けまして、天文十六年に今川義元の寄附した神
輿の棟札と、同時に納めた木彫りの獅子面があります。其外延享三
年に松平資訓が石鳥居を、正徳六年に伊豆守信高が水盤を、享保十
七年に豊後守資訓が石灯籠を奉納したのが現に残つて居ります。祭
礼は毎年七月十三、四、五の三日に亘つて行はれますが、これは昔
から吉田の祗園祭とて有名なものでして、馬琴の羈旅漫録にも載つ
てゐますが、今も大体昔の通りに十三日にこの地方特有の花火、手
筒、大筒を放揚します。手筒は太い竹へ火薬をつめ縄を巻いて一抱
へもあるのを出すので、三間も四間もの高さに打揚り、甚だ勇壮な
ものです。以前東京の靖国神社へ奉納して放揚しました処、火事と
間違へて消防自動車が何台も馳せつけたといふ逸話もあります。大
筒の方はそれを一層大きくしたもので、この方は台に据へて打揚げ
ます。これを出す処を見ると勇壮といふよりはむしろ悲壮といつた
感がします。従つて危険性も多く、其筋でも厳重な制限を加へるや
うになりましたが若者達は怪我には懲りても花火には懲りないと豪
語して居る始末です。これは社前で出しますが翌十四日は打揚げで
今日では裏手の豊川に船を浮べ、その船から出しますが両国の川開
きなど比較にならぬ豪勢さで、其壮観は実に想像以上のものがあり
ます。旧幕時代に、祭礼中本町の通行をとめ町内で出したといふ仕
掛煙火の立物といふのは今はありません。それから十五日になると
神輿の渡御があります。この行列に子供姿の頼朝と、その乳母があ
りまして、その家来に十騎の武者が従ひます。その外饅頭喰ひとい
ひまして、これは錦の陣羽織を着用し、周囲へ幣の下つた笠をつけ
藩主の桟敷へ来て、「私頼朝の家来なり頼朝先へ通られました此処
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にて昼弁当使ふなり」といつて持つて居る嚢の中から饅頭を取出し
桟敷へ投げこんださうですが、今は藩主がありませんから、この姿
で船町の神明社へ挨拶に行きます。行列はかくして氏子中を渡御し
ますが、途中先程来ました四ッ角を南にいつた処に天王社があり、
そこで休みますので其社を御輿休天王といひ、町の名を御輿休町と
いひました。
この社は文治年中に頼朝公の武運祈願に石田治郎為久と云ふ者が勧
請した事になつて居り、初めは二日市天王といひました。この石田
家は後世まで両社に仕へた神主の家抦です。別に笹踊りといふがあ
りますが、これは大太鼓一人に小太鼓二人で、同じ衣裳に塗笠被り
錦の陣羽織、小手臑当と云ふ面白い出立ちで、昔は囃方が数十人、
揃ひの編笠に浴衣姿、提灯を吊した笹を立て囃を入れたもので、歌
詞など今に伝はつてゐます。この笹踊りはこの地方所々の神事に残
り東三だけに十ヶ所からに行はれてゐます。
本社の裏手豊川に臨んだ処は、文亀年間酒井忠次が初めて橋を架け
た処だと伝へられて居りますが、其附近は維新後一時花卉などを植
え、文人達の遊んだ処で百花園の名は今に残つて居ります。
次は少し戻つて悟真寺の屏について西へ参ります。こゝは天王町
と云つて、此処に天王門があり番所がありました。右手の奥に広
徳寺と賢養院があります。
広徳寺、賢養院 広徳寺は龍拈寺の隠居寺で以前は相当な建物も
ありましたが、火災にかゝつて本堂も庫裡もなく、今はさゝやかな
仮堂ですが、本尊だけは残つて居ります。木彫りの高さ三尺許りの
地蔵さまですが、これは創立当時のものだらうといはれてゐます。
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賢養院の方はもと広徳寺の塔頭で天文年間の創立といひます。此処
の墓地には天正年間織田信長の為に亡ぼされた浅井勢のものが遺子
を奉じて吉田に来り、船町に土着したが、其子供は成長して浅井与
次右衛門と名乗り、庄屋をして居たといふ、其与次右衛門の墓と、
今一つ伝説的な関の小万の墓があります。この小万は近松の浄瑠璃
丹波与作に出てゐますもので、事実あつたかどうか私には分りませ
んが、これが反つて世間には評判が高いのです以上で元の通りへ出
ます。
これを西へ参つて突当りが上伝馬町で北に向つた坂があります。
この坂の中辺西の総門がありまして坂下門といつて居りました。
坂を下ると東西の町がありますがこれは湊町で、次の船町との間
に神明社があります。
郷社神明社 の地籍は湊町にありますが、古来から船町の者が主
として世話をして来た関係から船町の神明社と呼び、境内にある弁
天社を田町の弁天さまと呼んでゐます。田町とは湊町の旧名です。
此社は白鳳元年の創立といひますがどうでせうか、以前此西の方、
馬見塚といふ処にあつたのを天文九年にこゝへ遷座したこと丈は分
つてゐます。此時一所にあつた八幡社が羽田の地に移され羽田八幡
社となりました。それで神領の証文などにも両社が必ず併祀されて
居ります。本社は神鳳抄にある秦御園に祀つた神社だといふ説もあ
りますが、和名抄の郷の配置などから考へても信ぜられません。宝
物には今川氏真の文書、棟札、懸仏などがあります。祭礼神事の射
的は元禄九年以来続いて行はれてゐますが、旧藩時代には藩主が非
常に奨励したものです。この池は延宝の頃大水に堤が切れて深く堀
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れた其切れ口を利用して、天和年間に山田宗偏が設計して作つたと
いはれて居ります。その池中の弁天社は宝政頃の建築で三間二面の
入母屋造り流れ向拝で、二重軒三斗である点など割合に整つた建物
と云へませう。石の反橋も其頃に出来たらしく、石灯籠には寛文の
ものもあります。正面の木の鳥居、これは昭和五年神宮式年御造営
の撤下品を頂いて作りましたもので、明治三年御造営の際に頂いた
のと建換へたものです。
島にある芭蕉句碑は昭和七年豊橋趣味曽【會の誤植カ】の発起で建てられました。
句の
「寒けれど二人旅寝ぞたのもしき」
とありますのは翁の卯辰記行に、みかはの国保美といふ処に杜国が
忍びてあるをとぶらはんと先づ越人に消息し、鳴海より後さまに二
十五里尋ね帰りてその夜よし田に泊る、とありますからその帰途の
吟でありませう。
それから本社には元四月十四日におんぞ祭りといふが行はれました
これは元和頃に初められたといひますが明治の初年まで続いた祭で
本社を中心に殆んど全市的の祭りでした。
先づ四月十一日から全市挙つて機織りや裁縫を休み、十二三歳以下
の女子が着飾つて大勢で歌を唄ひながら町々をねり歩きます。十二
日も同様、十三日になると遠州の岡本村から大神宮に献るおんぞが
送られて来ます。それを町役人以下大勢が牛川町まで出迎へ、受取
つて帰ると本社に安置し、翌十四日御祈祷をして諸人に拝ませた上
天候を見定めて船で伊勢へ御送りしたのです。これをおんぞと申し
ましても、神宮で神御衣祭に上る御衣ではありません。大方浜名神
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戸からの調庸の名残でありませう。
それを神宮へ献るのだから御衣と尊称し、また神御衣祭に三河国赤
引糸をお用ひになつた事があるので、遠州岡本村では三河から糸を
取寄せて織つたりしました為に、話が混線しましたので、この吉田
を経て送つた事は海運の便といふより外に大した理由はなかつたや
うに思ひます。
このおんぞ祭の歌は大方忘れられてゐたのですが、昭和八年にこれ
を知つて居る八十歳余のお婆さんを尋ね出し、同志と謀つて採譜印
刷して後世に伝へる事に致しました。
これで境内をぬけ堤防へ上りませう、これが豊川です。
大橋 は大正五年に出来たもので、元の橋は並んでかけてあ
る水道橋のその位置にありました。水道橋の方は昭和五年に出来た
ものでして、以前の橋は明治十二年に架けたものでした。今の親柱
は以前のをその儘使つてありすがこれを書いたのは後に県令となり
ました当時大参事であつた国貞廉平です。徳川時代にはこれより約
一丁下流に架けてありましたが、吉田大橋といひまして、六郷、矢
矧、勢多と合せ東海道の四大橋といはれ幕府の直轄でした。この橋
の起源は元亀年間に酒井忠次が関屋口へ土橋を架けたといふが初め
で、池田輝政が此処へ移し板橋としたもので、その後寛永十八年ま
での事は分りませんが、それ以来の事は記録があつて架換六回、修
繕十回といふ事になつてゐます。最も架換や修繕などの時は仮橋を
架ける事もありましたが、大抵は渡船によつたもので、其渡船場の
跡は尚一町程下流にあります。秀吉が天正十八年小田原征伐のとき
此川までやつて来て洪水に遭ひ、それを強ひて渡らうとして伊奈忠
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次にたしなめられたといふのは此渡しで、秀吉は仕方なく軍を三日
留めたといはれてゐます。この架橋について残る一つの伝説は、い
つの頃ですか江戸から大工が来て、工事にかゝりましたが流れが強
くて成功しません。そこで二川の窟観音に祈願をかけると満願の夜
夢に観音が現はれ、向ふ岸へ縄を張つてそのたるみだけ反らせよと
教へられたので、其通りにして成功しました。大工は江戸へ帰ると
其御礼に人々を説いて立派な観音像を造り、窟観音へ建てました。
それが今あの巌上に建つ観音像だといふのです。
この渡船は船町のものが引受けてゐましたので、其為に色々な特権
を持つてゐました。こゝへ出入する荷物に運上をとること、こゝか
ら伊勢へ渡す航路の権利など其重なものでしたが、大名などがこの
渡船にかゝりますと、先づ殿様が舟に召され、家臣共一同河岸に平
伏する中を漕ぎ出すのですが、向岸へは行かず上流へ漕いで行く、
其間に家臣共がすつかり渡つて向ふ河岸で平伏してゐる処へ殿様の
船が着いて上陸するといふ呑気千万なやり方だつたさうです。
今度は橋を渡つて下地町に参りませう。
明治天皇御小休所 は今郵便局の隣りで夏目直一氏の宅ですがこ
れは明治十一年十月御東行のとき大橋の流失で仮橋を御通り願つた
際、御輿に召換られる為の御休憩所でこの仮橋をお渡りになると船
町の加藤発太郎氏の宅で鳳輦に御召換になつたといふ尊い聖跡であ
ります。
少し行くと右側に大きな寺があります。
聖眼寺 といひまして真宗高田派の寺ですが、もとは八名郡の
吉祥山にあつたのを慶長九年こゝに移したといひます。開山は藤原
九九
一〇〇
房前の第五子随信房行円で、天福元年親鸞上人を迎へてから随喜し
て天台宗を真宗に改めたといひます。本堂も庫裡も立派なものです
が、この西手にある太子堂、これは此寺が移転して来ない前からあ
つたもので、永禄七年家康が吉田城を攻めた時に陣を取つた処だと
いひます。この事は朝野旧聞裒稿や牛久保密談記にも出て有名な話
となつて居ります。
その南に霊亀の上に立つ四尺許りの碑がありませう、これは芭蕉
翁の句碑で、芭蕉翁の三字は白隠禅師の書、其下の、
「ごをたいて手拭あぶる寒さ哉」
それと他の三面にある碑の由来は横井也有の書いたものです。建
てたのは明和六年ですが、其以前に至つて小さいのがありそれが磨
滅したので再建したらしく思はれます。このごといふのは松の落葉
の事でして、こちらの方言ですがそれを通りがかりの芭蕉が扱つた
のは面白いと思ひます。この下地町を西に出はづれると小坂井まで
松並木が続き、昔の情緒を味ふことが出来ます。芭蕉が咏んだごを
たいての句はその松並木の感じでありましたでせう。凡そ一里近く
続いてゐますがそれが昔の然菅の渡りで、海苔がとれたり白魚がと
れたりする前芝といふのはこの下流の河口一帯の海面です。
これから引返して大橋を渡ります。先程申しました大橋址に向ひ
合つてありますのは、
龍運寺 といふ浄土宗の寺で、創立は橋と同様天正年間、それ
に山号を橋本山などゝいふ処から諸国の例に見るやうに橋の鎮守か
とも思はれます。寺としては珍らしく北向で、然も橋に向つて居る
処などさう思ふも無理でないと思ひます。本堂は明治七年に焼けて
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三十八年の再建ですが、観音堂の方は元禄二年の建築で、三間二面
の入母屋造り、向拝が二重についた形ですがよく整つてゐませう。
本尊は阿弥陀如来の立像、観音堂の方は三寸五分許りの如意輪観音
座像でよい出来です。境内の墓地には此地の生んだ大数学家斎藤一
握の墓があります。詳しい履歴は分りませんが数学では神様のやう
に云はれる牟呂の牧野伝蔵や、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門など
その門人だつたといひます。
納豆 西隣りにある服部家は家号をいがやといひまして、そ
の先に分家があり両家共醤油醸造をなし、市内では旧家ですが、こ
の両家が近頃納豆の製造を初め、本家では浜納豆、分家では八橋納
豆の名で附近は勿論遠く名古屋、東京までも進出し市の名産といは
れるやうになりました。この納豆は一般に浜名納豆といはれるもの
で関東の糸引納豆とは違ひますが至つて風味のよいものです。
これから引返して船町の通りを南へ参りませう。この十字路から
西へ十町許りの野田の法興院に、
稲田文笠 の墓があります。文笠は谷文晁の門人でこの地の産で
すが安政三年召されて藩の画師となり明治六年歿して居ります。墓
は文笠の生前に建てられたもので碑背一面に自筆の出山の釈迦が彫
りつけてありまして面白いものであります。
次は十字路を越して次の小路から守下へ抜けます。この坂下にあ
る灯籠は、昔小坂井からの船着場で其目印に建てたといふ伝説が
ありますが建つたのは銘文にある通り嘉永三年で、勿論信用は出
来ません。この上に
称名院 があります。これは寛永十九年に悟真寺の隠居所とし
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て建てられ、それへもと指笠町にあつた光明寺が明治四十四年名古
屋へ移転する時一切をこの寺へ譲りましてただ名義だけを持つて行
きましたので、いはば合併された形です。その光明寺は大永五年の
創立でその本尊がこの寺の本尊となつてゐます。木彫りで三尺余り
の立像ですが室町時代の作でありませう。前の薬師堂には一尺三寸
程の薬師像を祀り、十二神将の像もありますが、一二体紛失して居
ります。
此処の墓地にこれも光明寺から移したのですが、秋元清左衛門の
墓があります。これは姫路藩の家臣で物頭役を勤め江戸にゐました
が、文久三年諸藩の参勤を停められたのでまだ見た事もない国許へ
妻子を連れての旅の途中、この地で疾んで死んだのです。行年は六
十五歳といふから相当の年輩で、私はその死の直前の心持を察して
気の毒でなりません。騒々しい世の中に前途のくらい旅路で知らぬ
国元へ妻子を連れて行くさへあるに、寄る年波に疲れた彼がこの吉
田で死ぬ時の心持はどんなであつたでせう。爾来風雨七十年弔ふ人
のないこの墓へ時々は香華を手向けるやうに心がけて居ります。そ
の前にある穂積清軒の墓、これは吉田へ初めて洋学を輸入した人で
色々の逸話が残つてゐます。
又門際にある庚申、これは延宝七年のものでこの地方としては古
いものですし、寛文三年の水盤は市街地では墓碑を除いて最古の金
石文です。
それからこの寺が山号を三社山といふのは元鎮守として神明、白
山、天神の三社があつたからで、古文書としては寛永、正徳、元禄
などの領地証文が残つてゐます。この前の空地は明王山大聖寺のあ
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つた処で、その大聖寺は今石塚町にありますからそれへ参りませう
裏手に当る市民病院の横を通り船町線をこへて突当りに松の一叢
がありませうこれが今申しました
大聖寺 で本来は寺でなく、醍醐三宝院派の直末修験宗の触次
所であつたのを、私かに永宝院と呼んでゐました。それを文化二年
になつて本山から寺と認められ寺号を貰ひ後此処へ移つたのですが
此処には以前から庚申堂があつて同居した訳で、今日でも石塚の庚
申と呼ぶ方がよく分ります。何もありませんがこの堂の下から附近
へかけて御覧の通り貝塚で、時々来て探す内に土器の破片を見付け
ましたので、石塚貝塚と命名し人類学会へ報告し、雑誌に発表しま
してから研究者の来訪もあり、地名表にも私の報告として載つて居
ります。発見品は特有の紋様ある弥生式土器で、この附近から磨製
石斧を採集したものもあります。この貝塚にあるサルボーといふ貝
は帝大の村松瞭博士によると暖海産のもので、現在は長崎以南でな
いとゐないさうですが、モールス博士は東京大森貝塚でこれを発見
して居り、従つてこの辺は石器時代少くとも現在の長崎以南の暖か
さであつたらうとの事です。
これから鉄道線路をこへて西に参りますが、都合で一度宿へ帰り
昼食を頂いてから出掛る事に致しませう。すぐ近くです。
さあまた出掛る事に致しませう。今度は踏切をこえ、真直ぐに行
きますと右側に寺があります。
長全寺 といひます。こゝの墓地に当地としては有名な国学者
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羽田野敬雄の墓があります。その生籬を囲らしてあるのがそれです
正面に権少教正羽田野栄木墓とあり、側面には明治十五年六月一日
歿年八十五とありませう。この翁につきましてはこの先に翁の建て
た羽田文庫の跡と云ふがありますからそこで申上ませう。
次はこの道を行きますと曲り角の手前にある寺、これは英霊殿と
もいひますが本名は宝形院といふ真言宗の寺で、以前中世古町に
あつたものです。
これを曲つてゆくとすぐ右に神社の参道があります。
羽田八幡社 です。本社は前にも申しました通り天文九年に馬見
塚から遷されたもので、数年前郷社に列せられましてから境内を整
理して見違へるやうになりました。祭礼は行灯祭といはれ一尺に三
尺位の行灯へ俳句、狂歌、地口などを書き、それに俳画を添へたり
などしたものを何百も掛けたものですが、近来は祗園祭のやうに大
筒、手筒、打揚煙火などを出すやうになりまして、昔の瓢逸な趣あ
る行灯は見られなくなりました。
此社の裏台地の下に清泉が出まして栄川の泉といひ、松山の呉竹
の井と共に代表的二名水でした。これは神主である羽田野家の所有
で本社の御手洗だといふてゐました。伝説では昔家康が此近くに休
みまして、此清泉を呑みヱイ川ぢやと褒められてその名がついたと
申しますが、今日では双方共附近が開墾されて湧出しなくなり、ほ
んの名ばかりとなつたのは惜しい事です。旧藩時代には城主の茶の
湯に召され、一時は番人まで附けられた事もあつた程です。
羽田文庫 は参道中程の東側にあります。この小さな門は当時の
ものですが、文庫は今礎石が残つてゐる許りです。羽田野家は古く
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から神明、八幡両社の神主で、敬雄は宝飯郡西方に生れ羽田野家に
入りまして、名を常陸といひ、晩年になつて栄木と改めました。敬
雄とは其名乗りです。廿一歳で養子し、廿九歳で養父上総の職をつ
いて神職となりましたが、性来の読書好きで和漢を撰ばず万巻の書
を読破したものです。それに就て一挿話は、或時吉田藩で盗賊を捕
へ訊問すると、賊のいふに、以前西方の或る家へ入らうとしたが毎
夜夜半まで熱心に読書する子供があつて遂に目的が達せられなかつ
たと申立たので調べて見るとそれが敬雄で、次第に評判が高くなり
羽田野家に懇望されたといふ事です。尤も生家である山本家は富豪
ではあり、兄が三人あつて中兄の、これも他家へ養子した飯田軍次
といふ者が本居大平の門人だつたので敬雄にも入門するやう勧め、
廿八歳のとき入門したのです。処が如何なるわけか三十歳のとき更
に平田篤胤の門に入りました。これは以前から篤胤の学風を慕つて
間接に教を受けてゐたからでもありませう。これを取次しましたの
が平田鉄胤で、非常に親密な間抦でありこちらへも度々来て居りま
す。これから後追々交際が広くなり伴信友や飯田武郷或は神宮神官
の御巫清直だの一流の人物と交際するやうになりまして、所謂志士
なども窃に翁を訪ねて来た者もありました。大国隆正なども其例で
すが、福羽美静なども二三回訪ねて居ります。
文庫は嘉永元年吉田の同志十五人の支持で計画し、安政二年には
一千部、文久元年には千六百部に達しましたが満足せず、広く一般
からの寄附を仰ぎまして、三条実万卿から類聚国史三十巻と御註の
孝経一巻を、又徳川斉昭卿からは破邪集八巻を寄せられ、藩主大河
内信古よりは書籍三十七巻と文庫永続料に毎年米十俵づゝを下され
一一一
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ました。かくて後には総数壱万参千六百余巻となりましたが、これ
は勿論公開されたものでして、中には翁の家に寄宿し勉強した後の
男爵大久保春野などもあります。此文庫は翁の歿後散逸の悲運に遭
つて、一部は西尾の岩瀬文庫、一部は長篠村信玄の牧野文庫に行つ
たとも云はれますが、其大部分は石巻村の大木氏方にあつたのを大
正二年豊橋市が譲り受け、それを基礎に図書館を経営する事になり
ました。
大正十四年十月十七日から三日間その豊橋図書館で翁の遺物展覧
会を開いた事があります。此時五百八十八種、千〇八点の出品があ
りましたが、其内には翁自筆の稿本写本が百四十六部二百八十二冊
あり、最も力を入れたのは神典でしたが郷土史的のものでは参河古
跡考十冊があります。意外に思ふのは殖産工業に対する見識で、明
治の初年に郷党に養蚕をすゝめるべく三河蚕糸考を出版して居りま
すが、其序文など実に経世済国の大文字です。文庫は御覧の通り跡
だけとなりましたが、翁の建てられた皇学四神遥拝碑と、福羽美静
の書いた翁の紀念碑とがこの中に残つてゐます。
次は西隣りの浄慈院へ参りませう。
浄慈院 この寺はもと下野の那須にあつたのですが、寛文七年
開山の良済といふが本尊の押合地蔵を負ふて諸国を巡歴する内、一
時この西の馬見塚といふ処に留まり、後高須新田といふへ移りまし
たが、其後延宝八年洪水にあつたので更に此処へ移つたといひます
これが寺の起りで、本尊はその押合地蔵だつたのが今は釈迦三尊に
なつて居り、其押合地蔵といふのは木彫りで四寸許りの地蔵が二人
立つて押合つてゐる形です。何処やらに之と似たものがあると聞ま
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したが先づ〳〵天下の珍品といつてよいでせう。その外の仏像によ
い出来のが数体ありまして永正七年の裏書ある懸仏はもと渥美郡杉
山村の或る神社にあつたものです。
昭和二年に柴田常恵氏と此処へ来て拝見した時、氏はこの押合地
蔵は権作だが珍らしいものといはれ、又地蔵堂にある地蔵尊二体は
凡作だが阿弥陀の方は室町初期のものでよい出来だ。然し手と足は
後世附替たものらしく面相に較べると非常に出来が悪い。けれども
これが寺中で一等の作だと褒めて居られました。その横にある宝筐
印塔は享保廿年の出来で、余り古くはないがこれ程形の整つたもの
はこの地方にはないやうです。
この方面には余り見て頂きたいやうなものもありませんから、少
し距れてゐますが、牟呂八幡社へ参りませう。町を出はづれて向
うに見える森がさうです。
牟呂八幡社 は御覧の通り入口が三方にありまして鎌倉の八幡宮
にならつたといひます。社標が特に立派で社殿も新らしく整つて居
る処見るからに心地よいお宮です。創立は文武天皇の御宇といふ説
もありますが鎌倉時代の勧請でせう。然し国内神名帳に従五位上牟
留天神とあるのは此社だといふ事で、すると以前に小祠があつて牟
留天神と呼ばれ、そこへ更に八幡宮を勧請したのではないかと思ひ
ます。
宝物には直径一尺三寸の円板に釈迦三尊を取つけた懸仏がありま
すこれは疑ひもなく鎌倉時代のもので今に金色燦然として実に見事
なものです。恐らく当初の御神体であつたものと思ひます。又神亀
二年二月牟呂八幡宮と彫つた鉄鉾がありますがこれは信用出来ませ
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ん。今一つ面白いのは木彫の獅子で、右が大きく左がやゝ小さい二
尺内外のものです。すつかり腐つて心だけが残つてゐますが、これ
は鎌倉時代にまで遡るものかも知れません。
古文書には朱印状が八通、八幡宮略記、牟呂村由来記、古式神事
記などがあり、外に宮座を書いたものがあります。慶長七年のと元
和九年の二通でこれは非常によい資料です。棟札には天文十一年以
後のが十数枚あり、城主などとの関係を知る上によい手懸りとなつ
てゐます。
もと社前の西寄りに神宮寺がありまして、其寺の鐘楼だつたのが
今あるあの鼓楼で、これには明応元年の鐘が懸つて居ましたが維新
の頃弘治四年の大般若経と共に失はれました。此神宮寺は今楽法寺
といひましてこの西三町許りの処にあります。この寺には高さ三尺
程の十一面観音像がありますが、その作者は木食五行上人で八十三
歳のときの作とあり、又高さ五寸許りの大黒天像が同上人の作だら
うといはれて居りゐます。
これ位にして今度はこの裏手に当る坂津寺址へ参りませう。牟呂
用水を渡るとすぐです。御覧の通り此辺には貝殻の堆積が多く、
到る処が貝塚で、時々捜して見ますが遺物は余り見付かりません
それに貝そのものが新らしいのでこの地方ではずつと後世まで貝
塚が構成されたのでせう。いや現在でも出来つゝあるのです。西
の方一帯の海は渥美湾で、蛤、あさりの産地です。
坂津寺址 は御覧の通り少し高くなつて、地形から云ふと一寸突
出した岬です。この直下は昔の然菅海で、言ひ伝へでは此処が湊で
対岸の渡津からこれへ渡つたといつてゐます。記録にはありません
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が、然しその阜頭ともいひたい此処に、古く大寺のあつた事から考
へて或る時代にはさうであつたかとも思はれます。この東へ向いた
処が湊の形で、もし渡があつたとすればこゝが船着場でなくてはな
りません。今畠になつてゐるこの一廓が寺址ですから相当大きな寺
だつたと思ひます。或は平安朝頃官道に添うて建てられた所謂官寺
ではないかとも想像されます。
これを西に行つた処に近頃橋が出来ました。殆んど豊橋と同じ形
で、其名も渡津橋といひます。渡津は和名抄以来対岸小坂井地方の
郷名ですから、所在地の古名をとるなれば然菅橋である筈で、その
上ワタムツと訓むべきをワタツとしたので何の事やら分らなくなり
ました。此等は歴史を知らないものゝ罪でせう。
その橋の近くを馬見塚といひ、こゝに
専願寺 があります。この村はもと吉田城址辺にあつたのを築
城の際移されたといひますが、この専願寺へは盆月になると解放さ
れた亡者が第一に来る処だといふので、新仏のある家々では三里五
里の道をこゝ迄出迎へる習慣になつてゐまして、旧暦六月晦日の夜
から七月朔日の朝へかけて非常な賑ひを呈します。
それからこのすぐ東に古墳があります。二町もありませうか、ご
く近いから参りませう
三ッ山古墳 といひます。この附近には培塚が二三ありましたが
開墾によつてなくなり、主墳だけが残つたものですが始【殆の誤植】んど完全に
近い前方後円墳で、主軸は東西に向ひ、前方部が十一間、後円部が
十六間あります。後円部の頂上に紀念碑が建てられ、また心なく手
入したので見苦しくはなりましたが、それでも築造当時の面影を偲
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ぶ事が出来ます。
大正二年後円部から埴輪円筒が発見され、其後私も大正九年同じ
破片を採集して居ります。東三河に古墳は沢山ありますが前方後円
は比較的少く、埴輪のあるは一層少いので此古墳など実に価値のあ
るものですから、此上もう手をつけないやうにして欲しいと思ひま
す。
これで今日の予定も終りましたから少し早いのですが引揚げる事
に致しませう。さあ宿です。
オヤ電報ですか何か御用でも起つたのではありませんか。さうで
すか「スクカヘレ」では仕方がありません。折角おいで下さつて
明日から郡部の方を御案内する積りでゐましたのに。では夜行で
お帰りになる。さうですか夕食でもおあがりになつてからで丁度
宜敷いでせう。あれで市内だけは大略見て頂きましたので、郡部
の方は書いてお送りすることに致しませう。
東三河道中記 上終
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【右頁白紙】
東三河道中記 下
第一信
先日は色々失礼致しました。御約束によつて東三河の郡部方面を
道順によつて四五回に分け、重立つた名所古蹟のあらましを申上げ
やうと思ひます。今日は其第一信と致しまして宝飯郡中部から書き
始めました。
先づ豊川に架けた豊橋を渡り、下地町を出はづれると昔のまゝの
松並木が残つてゐます。中程の下五井には以前富士見茶屋といふ
がありました。晴れた日にはこゝで富士山が見えます。これが東
海道を西から来て富士を見る初めだと云ふ事です。この並木の終
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つた処が小坂井で、豊橋駅から豊川鉄道の電車でも、又バスでも
行かれます。小坂井の町に着きますと右側に
菟足神社 があります。延喜式内社で創立は白鳳年間といつてゐ
ます。入口の左側に小さい道しるべがあります。これは羽田野敬雄
が建てたもので、翁は三河国内にある廿六の式内社を数回巡拝して
其案内記を作り人々に巡拝を勧める一方、其廿六社悉くへ道しるべ
を建てました。字句には多少相違がありますが本社のは、延喜式官
社廿六座之内菟足神社とあります。この点でも翁の敬神の念を窺ふ
ことが出来ませう。
其隣りの大きな紀念碑は県社昇格の祝に建てたもので、正面の石
鳥居は元禄四年に吉田城主小笠原良重が献納したものです。此処は
台地の端で前は昔然菅海と云つた平野を眺め、附近一帯が貝塚で台
地の下には清冷な泉が湧出して居り、先史時代人の生活にも適当な
場所であつたと思ひます。
本社の祭神は国造本紀にある穂の国造菟上足尼といふことになつて
ゐますが、これはワタリから転じたと見る方がよいやうに思ひます
これだけの渡りですからそれを守る渡りの神があつてよい筈です。
それにもと八幡社があつて、其処へ平井の柏木浜といふ処から遷座
した事になつてゐます。
宝物には色々ありますが安元元年の奥書ある大般若経これは大部
分揃つてゐますが、伝説では武蔵坊弁慶が通りがゝりに豊川の出水
で渡る事が出来ず、七日間逗留してゐる内に書いて奉納したといひ
ます。これに附属した十六善神の画像は、弁慶かどうかは分りませ
んが時代としては其頃のものです。
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それから応安三年の古鐘がありますが、北朝の年号を用ひた処が
注意されます。これは台地下の田の中から堀出したもので、頗る大
文字に彫つてある処は銘文として上乗のものです。
棟札は応永廿四年のが一等古く、又家康自筆の制札があります。
これは永禄六年吉田攻めのとき陣中で書き与へたもので用意がなか
つたから拝殿の床板で間に合せたといひます。徳川時代入口に立て
てあつたので、往来の大名は一々乗物を下りて通らねばならなかつ
たのを、気の毒に思つた神職が写しを出してこれを仕舞つて置いた
といふことです。
それと古い面が四つあります。これは元禄時代のものといはれて
ゐますが、祭礼にはこの面を模したのが初まりだといふ色々な面と
風車とを売る店が門前に並びます。これは魔除けといはれ土俗研究
者の間にも喜ばれてゐます。
この祭礼については昔人身供御があつたといふ伝へがあり、今昔
物語や宇治拾遺物語には猪を神に供へるのを見て国司の大江定基が
発心し仏に帰依するやうになつたと書いてありますが、後世では雀
十二羽を献ることになり今に行はれてゐます。
何分氏子区域が広く、それに花火があり植木市があり、春も丁度
暖かになる四月十一日の事ですから遠近から夥しい人出です。色々
の神事がありますが、最も面白いのは旧正月七日の夜に行はれるお
田祭りで、これは神前で百姓が田打ちから取入れ迄の所作をすると
いふ土俗方面からは見逃せない神事です。
又本社の最も光栄とするのは、明治天皇様が御東行のとき平田延
胤が勅使として参向された事で、これは東三河ではこの社だけでし
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た。それから明治十一年に有栖川宮熾仁親王様から社号の御染筆を
頂いて、これはその写しが鳥居に掲げてあります。神職は代々川出
氏で当主は今宮内省掌典部に奉仕し居られます。
社地全体が貝塚ですが土器、石器、骨角器などの発見品が川出家
に所蔵されてゐますが、縄紋系統のもので其内土面は珍品の部に属
しませう。尚同家にはもと神社にあつた懸仏数十体が保有されてあ
るといひますがまだ拝見して居りません。
五社稲荷 は菟足神社から一町程東にあります。大した社殿では
ありませんが中々信仰を聚めたお宮で、それに境内そのものが前方
後円の古墳でして、社殿はその後円部に建つて居ります。主軸は南
西から北東にありまして附近には培塚らしいものもあり、相当な貴
人を葬つたものらしく、三河国造の菟上足尼の塚といふ説もありま
すが、これはどうでせうか。
医王寺 はこの東に当る字篠束にありますが、此処から奈良朝
時代の古い立派な瓦を発見して居りますのと、和名抄にある篠束郷
がその附近である事から、これは街道に添ふ官寺で、或る時代然菅
を渡る要津ではなかつたかとも考へられますが、もしさうとすれば
奈良朝時代のことでなければなりません。
欠山貝塚 この五社稲荷と菟足神社との中間に欠山貝塚がありま
す。こゝは愛知電鉄が出来るとき土取場となり、其工事中石器、土
器など色々なものが出ました。不思議な事にはすぐ隣りの菟足神社
境内から発見されるものは縄紋系統のものであるのに、此処から出
るものは悉く弥生式系統のもの許りでしたが其時は心なき土工等の
手にかゝり破壊されたり散逸して仕舞ひました。
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昭和九年になつて附近に区画整理が行はれ土器などが出たとの噂
を聞きまして、五月廿七日試堀した処五六点の土器を得ましたので
更に秋冷を待つて九月卅日発堀を行ひますと、完全な弥生式土器廿
個と破片など小車に一台程も出ました。そして十月廿五日補充発堀
をしまして五個許りの収獲があり、これで其全貌が明らかとなりま
した。
発見品は甕形のものが大小八個、高杯形のものが四個、台付甕三
個、壺形土器が六個、高杯の脚部は四十何個あり、それに口縁部や
底部の破片には紋様に注意すべきもの、問題の有孔土器などがあり
同時に鹿角二個を獲て居ります。これには鋭利な切断面があること
が興味を惹きます。そしてこの貝塚は所謂塹濠式の直線貝塚であり
まして、巾七八尺、深さ六尺位の貝層が南北に続き、台地の端から
起つて発堀位置まで百間以上あり、土器のみで石器はなく、且つ完
全品の多い点から考へまして普通の貝塚と違ひ何か宗教的遺跡と考
へなければなりません。この式の貝塚は未だ学界へも余り報告され
て居りませんので将来相当研究が加へられるものと信じます。
次は町通りから西方へ参りますと
報恩寺 です。距離は三四町で踏切をこすと直ぐです。今は小
さい寺ですが境内は余程広かつたものと見え、丁度正面に当る東海
道線踏切の近くで十年前に明応七年在銘の鰐口を発見しました。こ
れには法音寺とありましたが、以前は其辺まで境内であつたでせう
創立は大同年間ださうで、山号を大同山といひます。
この寺は平安朝に於ける官道に添ふた官寺の一つで即ち対岸へ渡
る設備の一つであつたやうに思ひます。観音堂は元禄の建築ですが
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漸く頽廃に頻して居ります。
余り古いものはありませんが寛永七年の絵馬があり、これは狩野
法眼の筆になり、毎夜抜出ては畑へ行つて麦を喰つて困つたといふ
伝説があります。本尊は権作の千手観音で鎌倉時代のものらしく、
外に腐朽して心許りとなつた仏像があります。これは或は平安朝時
代のものと考へられるもので、庭にある鐘は幕末に吉田藩で大砲鋳
造の材料にしやうとしましたが、幸ひに其難を免れましたが当時の
文書が残つて居ります。
この後ろに寺域に接して観音山と云ふがあります。横穴式古墳で
とつくに破壊され二三の巨石が残されてゐるに過ませんが、この地
方には曽て沢山の古墳があつて、吉田築城の際大分破壊されたと言
ひ伝へて居ります。
多美河津神社 はこれから北数町の大字宿にあります。
仁徳天皇の朝創立といふ社伝と祭神が三河穂国造朝廷別王である外
とり立て云ふ程の社ではありませんが、この社の近くに平安朝時代
国府から渡津駅へ出る街道の痕跡が残り、長ボタ(ボタとは土手の
意)といつてゐます。
次はこれから西へ七八町で東海道の踏切をこえ、平井の村落を西
へ出はづれた処に貝塚があります。
稲荷山貝塚 で大正十一年に人骨五十一体を発見して天下を驚か
した処です。この貝塚の発見は明治卅三年頃此地の大林意備といふ
老人が発見して学界に報告したのが初まりで、坪井博士や大野雲外
さんなども度々来、三河最初の発見である丈けに学界では可なり有
名です。この意備老人が丹精して聚集した遺物数百点は今京都帝大
一三三
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の清野博士の所有に帰し、再び此地では見られなくなつた事は遺憾
です。其後土木工事で土取場となり今では紀念碑の外何物も残つて
ゐませんが、破片位なら採集も出来ませう。
此次は北方に見える森を目当に歩きますと、三町許りで伊奈の村
落に達します。この森に寺があります。
東漸寺 と云ひますが、明応頃の創立で、開山を享隠と云ひ、
尾張知多郡の宇宙山乾坤院の弟子でしたが、兄弟子の周鼎が萩村龍
源院の開山となり、同じく大素が八幡村西明寺の開祖となつたと云
ひます。此処の城主本多隼人佐泰次の信仰を受け、この寺を創立し
ました。
此開山について面白い話が残つて居ります。それは或時この附近
に隠れなき大中一介と云ふ大盗が此寺を襲ひました処、和尚に説破
されて弟子となつた、これが第二世の一介禅師で、又第十五世傑仙
と云ふが、撿地のとき此裏を通る平坂街道に沿ふて一夜の内に土手
を築き、この内は凡て寺領だと主張したので、今広大な田地を所有
することになつたと云ひます。そして其傑仙の墓だけは代々の墓地
になく、これは遺言でその道添ひに営まれました。
現住職は宇井伯寿さんで、今東大教授として東京に居られますが、
仏教哲学の世界的権威です。堂宇は度々焼けて新らしく古文書、記
録なども多少はあります。門前に塔頭が二ヶ寺ありましたが今はあ
りません。其代り十数ヶ寺の末寺を控へ中々格式のよい寺です。
墓地には寛永三年と同廿年の碑で板形へ五輪を半肉彫にしたのが
珍らしく、薪部屋の屋根に正徳二年吉田花ヶ崎佐藤仁右衛門が作つ
た鬼瓦があり、これはよい資料です。
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次は此寺と関係が深かつたすぐ西の八幡社です。
伊奈八幡社 は社伝では昔牛頭天王を祀つてあつたがいつの頃か
吉田へ移したので、末社の八幡社を本座に直し氏神にしたと云ひま
す。城主泰次は城の鎮主と崇め社殿を造営したり鐘を鋳て奉納した
りしました。其鐘は一時所在を失ひましたが、後年社地の西に隣る
畑地から発見し神社に戻つて現に宝蔵に納まつてゐます。明応六年
の鐘で、且那隼人佐泰次、同十郎衛門とあります。
其外古文書などもありましたが、天保年間社家の火災で大方失は
れたさうです。天正の頃その後裔本多俊次が社殿を修造したり、神
田を寄附し、昭和二年郷社に列せられたとき、膳所の本多家から先
祖代々が戦場に用ひたと云ふ鉄の面当を献じて居ります。境内の右
手にあるのは天神社で、社殿は小さい割合によい出来で徳川中期か
も少し前位の手法がよく現れてゐます。これはもと社家の邸内にあ
つたのを明治十年此処へ移したものです。此社の宝物に菅公の画像
がありまして、昔から神酒を供へるとお顔の色が赤く変ると云ひ伝
へてゐます。
本社の前を西へ村落を出はづれた処に、一寸とした松林がありま
す。此処は伊奈城主でありました
本多家墓地 で皆で四基あります。西寄りの二基は本多助太夫忠
俊と其夫人のもの、中央は本多修理亮光治、東のは本多彦八郎忠次
ので、こゝで聞く松籟は何となく戦国時代の矢叫びに似たやうに思
ひます。
この南に当るすぐ近くに前芝小学校があり、其地続きから大正十
二年十二月銅鐸を発見して居ります。
一三七
一三八
銅鐸発見地 はこの伊奈と前芝村との境に接した処ではあり、其
上前芝のものが発見したので、初めは前芝村発見と伝へられたので
す。其時はまだ小学枚【校の誤植か】の建たない以前で、全く田圃の中でした。
全部で三個が地下三尺位の処から出まして、現品は帝室博物館に所
蔵されてゐます。御承知の通り三河は銅鐸分布が非常に濃厚で、こ
れを加へると十五個に達する筈ですが、これが発見された時には相
次いで調査に来られる方々の応接に案内に不眠不休の日もあつた程
それ程私には思ひ出深い場所です。
次は
伊奈城址 で八幡社からは北西に当ります。只今では旧本丸址が
僅かに残つて居るに過ぎませんが、此城は上島城といひまして、室
町の中期から天正十八年まで本多氏の居城でありました。この本多
氏はもと山城加茂神社の社家で中務といつたのが豊後国へ流され本
田郷に居ました。其子の助秀は本多八郎と名乗り、助秀の嫡男助定
が尊氏をたすけて軍功があり、西三河へ地を貰つて移りました。東
三河へ来たのはそれより三代後の定忠のときで、此処に城を築き又
東漸寺を建てたり八幡社を崇敬した泰次はその定忠の子です。
其頃から本多家は徳川家を扶け、吉田城を攻めたり、田原城を攻
めたりしたのですが、此城址から北に当る葵ヶ池は日本外史にもあ
るやうに享禄二年徳川清康が吉田を攻落し伊奈城まで引上げた時、
定忠がこの池の葵をとりまして肴を盛つて出しますと清康は大に喜
んで、それ以来自家の紋所としたといひます。これは三ッ葉葵で、
一方本多家でも三ッ葉の立葵を紋としてゐます。
此附近はこの程度で終りまして、次は昔の街道へ出て十二三町も
一三九
一四〇
の松並木を通ると国府町です。小田淵停留所から電車の便もあり
ます。
町から御油駅へ行く街道を南に進むと川があります。此川は音羽川
といひまして持統上皇が当国へ行幸されました頃は、この辺まで船
で上ることが出来たやうにもいつてゐます。橋を渡つて少し行くと
右手に見える山が新宮山で、其麓に古墳があります。
新宮山古墳 と仮りに呼んでゐますが実に立派な前方後円の古墳
で、これは三河国造の墓だと申して居ります。三河国造といつても
一人や二人ではありますまいし、時代も其頃のものですから或はさ
うかも知れません。とに角これ程完全に遺されたものは東三河にな
いので、史蹟にでも指定されたいと思ひます。測【側の誤植か】溝もありまして清
らかな水が流れて居ります。此処から西南に当る小高い処に、昔城
があつて不意に敵襲を受けた守将はこゝまで落のび、この塚の上で
切腹したといふやうな話も伝はつて居ります。
昌林寺鐘 この塚から東に当る部落は森といつて和名抄の望理卿
の名残りと考へられますが、そこの森豊山昌林寺は佐竹刑部左衛門
政行の菩堤寺でして、寺名はその法名森豊院昌林常縏【?】居士から取つ
たものです。天正二年の創立といはれる小寺ですが、この寺にある
鎌は寛正五年に中条郷北鍛治村、今牛久保町の中条神社へ佐竹清康
といふが奉納したもので、それが慶長十六年額田郡深溝村本光寺へ
売渡され、更に寛文元年にこの村にゐた佐竹氏の後裔が買ひ戻して
自分達の先祖を祀る其寺へ納めました。この事抦が次々の銘文とな
つてゐるものです。これが明治の初めにどうした事か佐竹武雄とい
ふ人の手に渡り、それを明治十年になつて其人から改めて寄附を受
一四一
一四二
け、住職と世話人が四人それに村総代の連印で大切に保存するとい
ふ証文を出しまして、それに本山の西明寺住職が加判して居ります
処が近頃になつて村ではそこの神社の宝物にしやうと交渉中だと聞
きましたが、いつ迄経つたら安住の地が得られるかと鐘も歎いて居
る事でせう。
鐘の話序にこれから西に国坂ごえといふ古い街道がありまして、
その道添ひの金割といふ村の仲仙寺に文安三年の鐘があります。こ
の金割といふ地名は、昔武蔵坊弁慶が国分寺の鐘を持出し、そこ迄
持つて行くと国分寺恋し、国分寺恋しと鳴りだしまして中々止まな
いので、そこへ捨て行つた、この時弁慶が余り強く投げだしたので
少し割れた、その後そこを金割と呼ぶやうになつたといひます。
この仲仙寺附近から古い瓦が出ると聞きましたので奈良朝時代の
寺かと調べてみますと、それは仲仙寺でなく字豊沢といふ処の弥勒
寺址から出ることが分りました。立派な蓮弁のあるもので、それに
周縁に雷紋のあることはこの附近に類例のないものです。
国府町で見るものは守公神社と観音寺でせう。
守公神社 は町の南裏にありまして、本来はシユグウで社宮とか
社護神などと同様石神であつたと考へられますが、それをモリノキ
ミと読んで三河守公といふが祭神となつてゐます。この社には応永
廿三年の鐘があります。これは維新当時、寛文十年に当地の平松弥
太夫正家が奉納した大般若経と共に近くの高膳寺へ預けてあつたの
を近頃漸く取戻したとの事で、大般若経の方は末だに其侭になつて
ゐます。
観音寺 は町通りの南側にありまして駅から正面の大松を見当
一四三
一四四
てに行けばそこです。この寺に芭蕉の句碑があり、
「紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ」
の句を彫つてあります。建てたのは天保十四年で、この句はこの
地の白井梅阿といふ門人のもとへ杖を止められたときのものださう
で其時御油のある家の井戸へ雷が落ち早速蓋をしたと聞いて、翁も
梅阿を連れて見に行き、さて雷とはどんな物かと蓋を取つて見ると
何もゐなかつたといふ話も伝はつて居ります。
その句碑の隣りに一対の灯籠を供へた石碑があります。これは国
府市の開祖といはれる代官国領半兵衛の手代の墓です。この国府市
といふは毎年冬にこの町で盛大な市が立ちます。余程古くから行は
れてゐましたがその頃中絶してゐたのをこの片岡丈右衛門が再興し
たので、或は平安朝以来の市の名残ではないかと思ひます。
これから道順は十字路を北にとつて台地へ上り総社を見て、尚東
に進むと八幡村で八幡社国分寺国分尼寺などへ参ります。
総社 は平安朝時代一国の総社で、三河国内の神社を国司が
こゝで遥拝したのに初まり、色々の神事を行つた処から神社に発達
したものです。今の本殿は室町時代の建築と思ひますが頽廃に頻し
て居りますので、上屋が出来て居り、流造りの杮葺きで、又社殿の
配置に注意すべきものがあります。
永和四年、天文十八年などの棟札もありますが、それよりも珍ら
しいのは境内から発見された瓦で、奈良朝のものとして学界では相
当知られたものです。又土塀の下部の石垣が内側は垂直で外側に傾
斜を持ち、其外側の石が大きく内側の石が小さいのは古い形式だと
いふ事も聞きました。一体に外の神社と違つて居る点は意味のある
一四五
一四六
事でせう。森の囲りが少し高くなつてゐるのは土塀の址で注意する
と布目瓦の破片など散乱して居るのが見られます。
八幡社 は平安朝以来の古社で、社伝では源頼朝が社領として
一千町歩の地を寄せたといひますが、これは疑はしくあります。け
れども今川氏真以来五十石の朱印地を持つてゐたことは確かで、参
道の両側にある池は放生池でせう。
拝殿は徳川初期のもので重味のある建築ですが、其奥にある本殿
が余りよすぎるので一向に引立ちません。
本殿は文明九年、即ち室町時代の建築でして、国宝に指定された
此種の建物では特に優秀なものです。三間社流れ造りで、蟇股の彫
刻といひ木割の調子の整つた点、懸魚から操形のさびのある点など
実に申分のない出来であります。其上全体が優美な所が此建物の特
色で、ことに蟇股の彫刻は材題の一々変つて居る辺が他に類例がな
いといはれて居ります。東寄りに絵馬堂がありますが、こゝは祭礼
の時大弓の神事に奉納した額で一杯になつてゐます。元禄頃のが最
初のやうで、この社の矢場は東三河では最も古く且つ有名で今に至
るまで年々行はれてゐます。
国分寺 は八幡社と道一つ隔てた東隣りにありまして、聖武天
皇の御発願で国毎に建てられたものです。最初の設計によりますと
方八町で四方に大路を開き、其中には南大門と中門、それから本堂
と塔が主な建物になり、それに附属の建物がありました。今の建物
は後世廃絶してゐたのを西明寺の機外和尚が再興して末寺としたと
いふ歴史があります。西北の偶に昔の土塁と大路の跡とが残つてゐ
ますし、塔の土擅が今木立ちとなつて礎石も其当時のものが二つ三
一四七
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つ見えて居ります。
附近からは時折奈良朝時代の古瓦を発見しますが、寺には五六個
ある丈けです。鐘楼にあるのは当時の鐘で国宝に指定されてゐます
形といひ色合といひ、後世のものに較べて全く優れて居ります。こ
の鐘は昔弁慶が持出し金割まで行つて棄てた、其時流石の弁慶も余
り重いので引摺つた為八十あつた肩の乳が五十二とれた、そして投
げ出した時出来た割れ目は後追々に癒え元通りになつたといふ伝説
があります。
国分尼寺 は国分寺から三町程東にありまして近頃まで知られな
かつたのが、地名が忍地といふ事と土擅の跡がある事から研究して
漸く分りまして、国分寺跡と共に史蹟に指定されて居ります。寺は
今清光寺といつてゐます。其土擅の跡には一度火に焼けた形跡のあ
る礎石が一つ残つてゐますから、この尼寺が火災による廃滅であら
うことが想像されます。附近からは、此処でも奈良朝頃の瓦を発見
して居りますが、平瓦に飛雲紋のあるのと、磚といふ堂内に敷いた
瓦の発見されて居るのは此処だけのやうに思ひます。
此尼寺の直ぐ裏の山は踊山といつて平安朝の頃「かゞひ」とか歌
垣とかいつたものゝあつた場所で、これは余程後世まで、続いて行
はれてゐたやうです。又其東に当る山麓は国分両寺の瓦を焼いた場
所と見えまして、当時の布目瓦の破片が散乱して居ります。其山の
中腹には長篠戦役で名を挙げた鳥居強右衛門の紀念碑が立つてゐま
す。強右衛門はその南に当る市田といふ処の生れです。
これから北の方に当つて一里許りの所に財賀寺といふ寺がありま
す。路順が悪く序でといふ訳には行きません。
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財賀寺 は神亀元年に行基の開いた寺といふことなつてゐます
が、例の安達藤九郎が頼朝の命を受けて造営したといふ三河七御堂
の一つで、木【本の誤植か】堂や仁王門に見るべきものがあります。先づ仁王門か
ら申しますと、これは今単層ですが、もとは重層で其外は殆んど昔
のまゝだといひます。
三手先の組物など立派な物で、柱に粽がなく肘木や斗束など和様
の特長があり、中の仁王尊は非常に損じては居りますが、矢張り当
時のものです。本堂は五間五面の入母屋造りに流れ向拝がついて、
全部が欅材を用ひてあり、屋根は杮葺でこれは徳川時代の再建です
が余程古い材料を用ひたやうです。
本尊は千手観音で行基の作といひます。両側の廿八部衆は鳥仏師
の作といひますが奇怪な容貌をしたもので製作時代は一寸想像がつ
き兼ねます。その裏手にこの寺の鎮守として祀つた八所大明神の社
がありまして、明応四年牧野古伯が造営した棟札がありますが、こ
れは吉田城を築いた牧野古白と同一人か否かまだよく分りません。
又境内にある文殊堂は、もとこの村の入口に当る文殊山にあつたの
を移したものです。これは大江定基が愛人力寿の死んだとき、文殊
菩薩の告げで舌を切り取つてそこへ葬り、力寿山舌根寺を営みまし
たが、この文殊堂がその舌根寺に当るものといはれてゐます。本尊
には力寿の念持仏であつた文殊菩薩の像が安置されてゐます。
この寺でも小坂井菟足神社でやるやうな田舞といふがありまして
それは毎年旧暦の正月五日に行はれまま【衍字か】すが、其役は司嗣(つかさ)一人、田(た)
俊(をき)一人、田夫(たつくり)三人、撃鼓(たいこたたき)一人、携蹲(たるもち)一人、盍者(そなへものもち)一人、負児婦(こもちおんな)一人、
為摧者(うしのまねするもの)一人、駆牛者(うしをい)一人で、これは役が極つてゐて、村内の者でも
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他所で生れた者には務めさせないといふ厳しい掟があるさうです。
道順は国分寺尼寺の処から前へ出ると大通りがあります。これを
東へ行けば本野原を通つて豊川に出ますが、その本野原は実は穂
の原で、昔の穂の国の名残りでせう。宝飯郡といふは穂の国を大
化改新のとき二字制により宝飫としたのが誤つたのです。西へ向
つて進むと道は二つに分れ左は総社へ出る道で、右へとつて行く
とやがて西明寺の門前へ出ます。
芭蕉句碑 はこの門前の小高い処にあります。これは翁の五十回
忌に建てられ
「かげらふの我肩に立つ紙子哉」
とあります。芭蕉句碑としては古い方で、小さいけれども整つた
形なので、船町の神明社境内に建てた句碑はこの形をとつて作りま
した。
西明寺 は平安朝時代に三河の国司として来任し恋のロマンス
を残した大江定基が開基で、それを最明寺入道時頼が再興し、又伊
奈東漸寺の開基享隠の兄弟子だつた大素といふものが再々興したと
いふ寺で境内も広く堂宇も整つてゐます。初めは最明寺といひまし
たが永禄七年に徳川家康によつて西明寺と改められました。寺領は
二十石ですが中々格式を備へてゐまして、古文書なども沢山ありま
すが中にも金屏風へ古今の名筆二百十六枚をはつたのは又と得難い
逸物でせう。
本尊の阿弥陀木像は二尺五寸位で安阿弥の作といはれ、これは大
江定基が安置したものといひます。又此寺には北条時頼が納めた仏
舎利もある筈です。此寺を大成したのは十四世の華山和尚で学者で
一五三
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あり、書も画も上手なものでした。渡辺崋山とよく誤られるのはこ
の華山です。
門前から西へ進みますと、少し下り坂で五六町行くと昔の東海道
と出合ひます。万葉集にある三河の二見道といふのはそこだと申
して居りますが考証すれば異論もありませう。これを東にとつて
八幡社や国分寺を経て豊川に行く道は姫街道で、こゝで本道と分
れるが末は遠州の橋本宿で出合ふといふのです。本街道の出来た
のは慶長頃の事で、以前は国府へかけて通つたものでせうからこ
ゝで分れる筈もないし、今国府町といつても国府の跡は八幡村方
面にあるのですから従つて二見道といふものが愈々怪しくなつて
参ります。
これから音羽川を渡ると昔の御油宿で多少昔の面影が残つてはゐま
すが取たてゝ申上げるやうなものはありません。次の赤坂宿へは僅
か七八町で東海道では一番近い宿場でした。一九の膝栗毛にある弥
次さん喜太さんが狐にばかされて大騒ぎをした松並木といふのは此
間の事です。赤坂の入口には左側に関川神社があり、
芭蕉句碑 がこゝにもあります。句は
「夏の月御油より出でて赤坂や」
といふので明治になつて建て替へたものです。附近に折損した古
い句碑がありますがいつ頃のものか分りません。句碑は多く寺にあ
りまして、神社境内にあるのは此処と船町神明社境内だけです。
宮路山 はこれから一町程行つた処に登口があり、頂上迄二十
町近くあります。東三第一の紅葉(どうだんつゝじ)の名所で、大
宝二年持統上皇が三河へ行幸になつた節国見を遊ばされた処ですが
一五五
一五六
それを後世誤つて行在所を設けられた処だなどゝ申します。この附
近には上皇に関した伝説が到る処にあります。此町の杉森八幡宮は
このとき勧請したお宮といふ事になつて居り、神鳳抄に見える赤坂
御園は此所だともいはれて居ります。
正法寺 は町の中央にありまして、聖徳太子の開創だと伝へ、
弘仁七年箱根金剛王院の万巻上人が此処で歿したともいひます。寺
宝の関白双紙は豊臣秀次の最後を描いたもので、曽ては天覧に供し
た事もあり、東三河では代表的美術品でせう。外にも色々名画を所
蔵されてゐます。
長福寺 はその東隣りでこゝは昔国司の大江定基と恋を語つた
力寿姫の父宮路の長者の屋敷址といはれてゐます。寺中の観音堂に
ある高さ六尺の聖観音木像は甚だ立派なもので、外に力寿姫の墓と
伝へる女郎石といふもあります。
これから先はおよそ一里ある長沢村を通り本宿村へ出ます。そこ
には家康と関係の深かつた法蔵寺があつて見るべきものも少くあ
りませんが、巳【已の誤植か】に額田郡で西三河に属しますから省略し、次回は
豊川、鳳来寺方面の事を申上げる事にしてこれで擱筆致します。
早々
一五七
第二信
御約束によつて今回は豊川、新城から鳳來寺村方面の事を申上げや
うと思ひます。
先づ前回と同樣豊川に架けた豊橋を渡り、下地町から右に折れて
豊川街道を北に進みますと、これから豊川、牛久保の台地までが
一帶の田圃で、所々に村落が見えます。左手が瓜郷でそこの滿光
寺には大永五年の鐘があり、右手の大村からは古墳關係のものが
屢々發見されますので、曾て古墳のあつたことが想像されます。
少し行くと大蚊里といふ處を通ります。
大蚊里貝塚【ゴチック見出し】はこの村の西寄りにあります。彌生式系統の石器や土
器が余程廣範圍に亘つて發見されて居り、有史以前已に人間が居住
してゐた事が分ります。是迄此平野一帶は所謂然菅の海と呼ばれ奈
良朝時代までさうであつたと考へられてゐましたが、古墳や貝塚の
發見によりまして是迄の見方を換へなければならなくなりました。
この大蚊里の名を王ヶ里から轉じたものとすると、大村は王村で
あつてよいと思ひます。
大村【ゴチック見出し】はこの附近をこめた町名で、此東に當る八劒社のナギ
の木と、長光寺のお葉付銀杏の大木は共に注意すべきものでありま
せう。又大同類聚方にある三河國大村藥といふのはこの村からだし
たものといはれてゐます。
こヽ迄は豊橋市内で、尚北に進み本道から分れて牛久保の台地へ
上りますとそこに
一色城址【ゴチック見出し】があります。こヽは豊川鐵道牛久保驛のある處で今は
何も殘つてゐませんが、其すぐ近くの大聖寺には城主一色刑部少輔
と、今一つ今川義元の墓といふものがあります。此寺の本尊は室町
中期に出來た阿彌陀像で、背の方に、春日作彌陀立像一体、伽藍為
守護永奉安置大運寺者也西忠敬白とありまして、これは延徳二年に
松平親忠が御津大恩寺に寄附したものでした。その西に見える森は
熊野神社【ゴチック見出し】でこれは秦除福こと除氏古座次郞がこの附近へ永住し
熊野權現を勸請したのが初まりといふ變つた傳説をもち、享祿元年
の棟札には牧野民部丞成勝とあつたといひます。
寶物には經【徑の誤植?】九寸許りの鰐口があつて大永五年の銘があり、それに
は三州牛窪郷とありますから其頃から牛久保といつたものでせうが
其以前は一色といひました。社前の石燈籠は寛政八年に越後長岡の
城主牧野備前守忠精の寄附したもの、これは先祖以來信仰してゐた
からです。線路を越した所に、むくの大木があつて目通り二丈五尺
に達し樹勢も旺んで天然紀念物に指定されてゐます。
此社の西南に當る台地の端では先年貝塚を發見し二三の遺物を得
ました。此台地に添うて伊奈から一宮附近までは先史時代の遺物が
時々發見されまして、その遺跡であることが分ります。全く後が山
林で前に海を控へ、日當りのよい暖い岸邊には清水が湧き、此時代
人の惠まれた生活を想像すると、そぞろに昔が戀しくなります。
光輝庵【ゴチック見出し】は町の北裏にありまして、舊長岡藩主が祖先の牧野右
馬允の追福の為に建てたもので、寺號はその法名によつたものです【行末句点省略】
裏の方にその墓地があつて一基の碑が淋しく立つて居ります。
中條神社【ゴチック見出し】もこの町の東部にありまして第一信に申上げた森村昌
林寺の鐘は最初このお宮に上げたものでした。こヽは以前の南金屋
で、北金屋と共に大和から移住して來た鍛冶職のものがゐた處で神
社はそれ等のものが金山彦神を祀つたものです。この南金屋の鍛冶
職は後に吉田に移り鍛冶町となり、北金屋の方は中尾家によつて鑄
造の業を續けられ今は一家だけですが寛永頃には四家か五家あり、
此附近一帶の鐘で中尾家の鑄造でないものは殆んどありません。古
いのでは長享二年といふがありますから其歴史の長い事が分りませ
う。
八幡宮【ゴチック見出し】この牛久保町に鎭座される八幡宮の祭禮は俗に、うな
ごうじ祭といはれまして、長蛇のやうな神幸の行列が、長時間ゆる
り〳〵練り歩く處や、その行列の殿りを承るやんよう神が泥の中を
も構はず寢たり起きたりする樣は實に奇觀です。これは笹踊のはや
し方で、その轉ぶ樣がうなごうじ(うじ虫)に似てゐるから付けら
れた名です。
これから殆んど町續きで豊川町に達します。豊川の代表物は何と
いつても妙嚴寺で、俗に豊川稻荷といはれ、豊川閣の名もありま
す。
妙嚴寺【ゴチック見出し】の創立は嘉吉元年、宗派は曹洞宗、維新前寺領四十五
石を持つてゐました。有名なのはその境内に祀る吒枳尼天で、維新
前は專ら稻荷さんと通稱され境内の山林には實際狐などが住んでゐ
たものでした。
この吒枳尼天が繁昌するやうになつたのは寶暦から後の事で、三
河名所圖繪に、寶暦の頃までは牛久保西島の稻荷へ參詣するものが
多かつたが、そこから豊川の平八狐の許へ婿をくれた處、其後は豊
川の方が繁昌し。【ママ・「、」の誤植か】西島へ參詣するものが少くなつたといふ話を載せ
て居ります。昔は武將の信仰を得たもので、信長も秀吉も或は家康
もその臣下の本多忠勝も信仰してゐた事は事實です。殊に九鬼義【ママ・嘉か】隆
の如き文祿の役に秀吉の命を受けて軍船を造り、其内一等立派なの
を伊堯丸と名づけましたが、船中にこの吒枳尼天を勸請したといひ
ますし、又江戸町奉行であつた大岡越前守は、其邸内に祠を設けて
祀りましたが、それが東京赤坂の豊川稻荷だといふ事です。
賑かな門前町から一歩山内へ入ると重層の山門があり、扉に使つ
てある欅の一枚板が見ものです。正面にあるのが本堂で、重層の入
母屋造り、大屋根には疎棰木が使つてあります。こヽに安置された
地藏尊は鎌倉初期のもので今國寶に指定され運慶の作といはれてゐ
ます。
此本堂の左を通つて吒枳尼天堂へ行きます。此堂は卅年の歳月と
巨萬の財をかけて造り上げたもので、丁度明治から大正、昭和の三
代に亘り、其材料など隨分遠方から運んでゐます。とに角現代とし
ては代表建築で、これ程の木造建築は今後或は出來ないのかも知れ
ません、【ママ・「。」の誤植か】古建築を見た目には樣式や手法に物足りない点がないでも
ありませんが、それは時勢で仕方がありますまい、【ママ・「。」の誤植か】そこへ行くと今
奥院となつてゐる元の堂が遙かによい出來で、外に附屬の建物も澤
山ありますが、とりわけて云ふ程のものもありません。
庭園も甚だ立派なものです。此裏手少し距れた處に櫻の馬塲とい
つて周圍へ櫻を植ゑた馬塲があり、花時には大層賑かで、それに並
んで豊川鐵道の經營するグラウンドがあります。
三明寺【ゴチック見出し】はこれより東で台地を降りた處にあります。こヽの辨
天堂は古い建物の上へ更に建てヽありまして、今厨子になつてゐる
のがもとの建物です。時代は分りませんが天文廿三年の棟札があり
ますから或は其頃のものかと思ひます。この堂にある辨天像は、三
河の國司であつた大江定基が力壽の死を悲しみその面貌に似せて作
つたものといはれ、先年鎌倉で發見された裸辨天と同形で廿年目每
に更衣があります。抱いてゐる琵琶は定基の愛玩品だつたといひま
す。
此辨天さまは馬方辨天とも云はれますが、それは其前の道をよい
聲で唄ひながら通る馬方の其聲が辨天さんの胸に響いて或夜通りが
かりの馬方をそつと呼びとめ、唄をうたはせ、そのお禮にお金の少
し入つてゐる財布を與へ、この財布は使つただけづつ湧く財布です
がこれをお前にやる程に、私から貰つたと決していふてはなりませ
ぬぞと堅く口止めされました。馬方は決して口外しなかつたのです
一六八
が、それ以来家業も怠り勝ちで酒とバクチに日を送つてゐる処から
怪まれ、つい問ひつめられて喋舌つて仕舞つた。それと同時に其財
布は空になつてそれ以来一文のお金も出なくなつたといふのです。
又三重塔は国宝に指定されてゐますが、基礎に土檀がなく廻椽の
ある事は奈良興福寺の塔に似てゐます。屋根は杮葺で、頂上に九輪
がなく露盤の上に宝珠を置いたのは元あつた九輪が失はれたからで
せう。手法は下層と中層が和様で上層が唐様であることが変つて居
ります。此塔は後醍醐天皇の第十一王子無文元選禅師の御建立と伝
へられ、此無文禅師は遠州奥山方広寺の開山です。
こゝから西遠南信へかけて南朝方の一勢力が存したのは、伊勢の
北島氏と相応じた此禅師や、又尹良親王などが孤忠を守られた結果
で、この点から見てこの塔は尊い南朝の紀念品と思ひます。此寺は
寺伝によると大宝年間に大和橘寺の覚淵阿闍梨が創立した事になつ
て居り、これから南に当る古宿は平安朝の終りから鎌倉初期へかけ
ての宿場で、この辺で豊川を渡つたものらしくありますので、其宿
駅に営まれた寺であつたかとも思ひます。殊に寺地がわざ〴〵台地
を降りて低地である事は何か理由のある事でなくてはなりません。
加茂村 こゝから東へすぐ近くに見える孤立した山は照山とい
ひまして、豊川を距てゝ八名郡にありますがこの山へは明応だかの
ツナミに下流に当る地方の神社の御神体や寺院の本尊などが夥ただ
しく流れついたと伝へて居ります。山麓には作りかけて中止したと
思はれる古墳があつて注意を惹きます。
この村の加茂神社は徳川時代社領百石を持ち東三の大社でした。
創立は文治二年再興となつてゐますが、これは頼朝が山城の賀茂神
一六九
一七〇
社へ四十二ヶ国に亘つて神領を献じた中に八名郡小野田庄がありま
して、その神領に祀られたものといふ説があります。祭礼は大旛祭
りといはれ、それは巾五尺三寸長七十尺の麻布の浅黄色に白い模様
を染出した旗を中央に、左右にも同じ形の小形のをつけ、大旗の上
には五つの鈴と七つの鏡をとりつけまして、これを建てる所からつ
けられた名でせう。今あるのは寛文八年に造り変へたもので、地方
の一名物となつてゐます。
麻生田村、牧野村 麻生田は豊川町の東で、この附近から石器時
代の遺物が余程豊富に発見されて有名ですけれどもしつかりした研
究は加へられてはゐません。こゝの玉林寺にある楠は廻り二丈五尺
樹勢尚盛んで見事なものです。
其北に続く牧野村は吉田城を築いた牧野古白が出た処といはれ、
其古白の父といはれるものの墓もありますし、その屋敷跡として徳
川時代免租地であつた所もあります。古白の父は成富といひまして
この人の建てた福昌寺は今退転してありませんが元中七年その寺の
住職実山和尚の書いた経文が其村に伝はつてゐます。
穂国故地 豊川町の次は一宮村です。其間一里許りの間は平坦な
松林でしたが、追々に開墾されて畑地に変りつゝあります。穂国の
故地は一宮を中心とした地方であつたらしく、それには色々な理由
もありますが、先づ北に聳えてゐます本宮山麓には大小無数の横穴
式古墳がありまして、殆んど破壊されてはゐますが相当多数の人が
古く住んでゐた事が分ります。
又其処に、蚕糸についての伝説を持つ犬頭社と服部社がありまし
て、犬頭白糸は延喜式にも載り、今昔物語りの犬頭白糸の話はこの
一七一
一七二
社の事といはれて居り、服部社は貞観雑儀に見える大嘗会の御用を
承つた処で、三河の蚕業は此地附近を中心として発達したものと思
はねばなりません。其中心が奈良朝に入つて西の方八幡村へ移つた
のは豊川の水流変化による航行不便の結果、西方に海津を求められ
たによるものと私は解釈して居ります。
砥鹿神社 は三河一宮で今国幣小社です。大己貴命を祭り、文徳
実録嘉祥三年七月三河国砥鹿神授従五位下とあるを初め度々昇叙の
御沙汰がありました。社伝では大宝年間文武天皇の御悩で鳳来寺の
利修仙人をお召しになる勅使として、草砥鹿【草鹿砥】公宣卿が当国に下られ
た際神託があつて此処に祀られたといひます。現在の社殿は余り古
くはありませんが優美軽快な流れ造りで周囲の風物と誠によく調和
して居ります。もう二三百年で国宝になるかも知れません。
宝物には御西院天皇第六皇女宝鏡寺宮御染筆の伊勢物語上下二冊
と銅鐸が一口あります。この銅鐸は天保年間に北設楽郡田峰で発見
されたもので袈裟襷紋の高さ一尺二寸程の小形なものです。古文書
も昔は沢山あつたやうですが殆んど散逸しまして、ただ文政十年に
正一位を贈られた神位記があるのみです。祭礼は一月三日の田遊祭
これは菟足神社や財賀寺で行はれるのとよく似て居りまして、五月
四日の例祭に流鏑馬が行はれ、それに一月十五日、本宮山上の奥宮
で行はれます管粥祭といふのは、管を入れ粥を煮まして其管に米粒
の入る加減で其年の豊凶を占ひます。農家もこれによつて其年の方
針を定めるのでありまして、これは石巻神社にもありますが古い遺
風と見られて居ります。
社家の草祗鹿【草鹿砥の誤植】氏は神社の前方に邸があり、維新当時の宣隆神主は
一七三
一七四
国学者で、勤王家として非常な傑物でして当時京都にあつて、国事
に奔走して居る内、明治二年六月佐幕派の為に暗殺されたといはれ
ますが誠に惜しい人物でした。
本宮山 本社の背後に聳えてゐます本宮山は本茂山ともいひ、
奥宮のある処でありまして参詣人が絶えません。山麓から五十町と
いつても三十町位なものですが、頂上の景色は極めてよく、東に富
士南に伊勢から太平洋、西に伊吹山北には御嶽から加賀の白山まで
望む事が出来まして、渥美湾など泉水位に見え、十五万の人間がし
のぎを削つて争ひつゝある豊橋など眼にもとまらぬ位です。人間も
たまには高所へ登つて大自然にふれ気分を換へる必要があるやうに
思ひます。
豊川鉄道ですと一宮まで豊橋から駅が四つ停留所が二つで次が長
山です。こゝは本宮山への登山口で、又この鉄道が経営する遊園
地があります。
次の東上には直下六十尺の牛の瀧があつて夏は賑ひます。その附近
には殆んど破壊されてはゐますが古墳が数個あります。同時に又石
器時代の遺物散列地でゞもあります。次が
野田城 で、もとは本丸二の丸、三の丸、南郭輪、があり侍屋
敷がそれを取巻いて相当広いものでした。それが今は殆んど耕地と
なり、本丸だけは残つてゐますが、内側の土塁とか西から南へかけ
ての外側の土塁などによつて僅かに当時の有様を偲ぶ事が出来るの
みです。その土塁の上には大正天皇様の御即位紀念に愛知県が建て
た紀念碑があります。南郭輪には天正十八年道雲寺が移つて地形を
変へ、その上本丸との間に鉄道が通じて居るので全く別々のやうな
一七五
一七六
感が致します。
城址の際にある法性寺の山門は、もと城の二の丸門であつたと伝
へます外に、遺物は何も残つては居ません。この城は永正十三年に
菅沼定則が築きまして、子の定村と孫の定盈と三代居りました。そ
の定盈が武田信玄に攻められ三旬の間防ぎましたが、菅沼氏の親族
である山家三方衆の交渉で城を開いたといひます。彼の信玄が城中
の笛の音に聞きとれ近寄つた処を鉄砲で撃たれ、それが原因となつ
て死んだといひますのは此城だといふ事ですが、事実はどうか分り
ません。数年前まで昔を語るやうな松の大木が城址の辺にあつて、
よい目印となつてゐましたが、数年前心なき里人によつて切り去ら
れました。
次が新城で、徳川時代には菅沼氏の陣屋がありました。今もその
廃墟が東入舟といふ処に残つてゐます。これは天正三年奥平信昌
が築いたものです。
芭蕉句碑 は、この町を西へ出外れる処の庚申寺にあります。道
添ひにある大きな自然石で、
「京に飽きてこの木がらしや冬住居」
とあります。建てたのが寛政十二年で書いたのは吉田の俳人古市木
朶です。
永住寺鐘 この町の永住寺にある鐘は長享二年のもので、設楽郡
市場村(今の南設楽郡作手村)の松尾大明神にあつたものでした。
それを天正二年に奥平美作守が老母の追善にこの寺に寄附したこと
が銘文によつて知られます。これは奥平氏が軍陣の用に神社の鐘を
持出し、それが済むと今度はこの寺に寄附したと解釈せねばならぬ
一七七
一七八
と思ひます。昔の武士はしば〳〵かういふ虫のよい事をしましたの
で、社寺では云ひ合せたやうに地中に埋め隠しました。東三河の古
鐘は殆んど悉くといつてよい程後世地中から堀り出したものです。
この永住寺の墓地には太田白雪の墓があります。
大田白雪 は、この町の人で、俳人としては可成有名でした。芭
蕉の門人で、三河小町などといふ俳書を編みました。又中々の学者
でして、殊に郷土の歴史を研究しまして、古文書記録から金石文の
探索、遺跡伝説の研究に没頭すること三十余年、十数種の著書があ
り、三河二葉松も数人の共著となつてゐますが実は白雪の業蹟だと
いひます。寛文から享保へかけての人で、東三河三十三観音巡礼は
この白雪等の主唱によつて行はれるやうになりました。それに就て
三河観音道場来歴なる一書もあり、崇敬すべき我々の先輩です。
大脇寺仏像 はこゝから豊川を距てた南の八名郡八名村庭野にあ
ります。木像の薬師如来は昭和七年国宝に指定されました。藤原中
期の作で四尺二寸程の座像ですが、容姿の整備した処や、手法の剛
健な点が見るべきものでありませう。
蜂巣岩 はその庭野にあつて新城町の遊園地である桜淵に対し
てゐます。これは大体石灰岩で出来た凡そ百間にも亘る岩壁に無数
の小穴があつて恰かも蜂巣に似たので付けられた名ですが、奇観で
もあり地質学からも珍らしいといはれてゐます。尚此岩には数十間
に亘る石灰洞があり、其内部に甌穴がある事など珍らしいものとい
はれてゐます。
新城駅の次は東新町駅で、此左手山麓に延喜式の
石坐神社 があります。式には宝飯郡とありますが、其頃宝飯郡
一七九
を割いて設樂郡を置かれたことも同じ式に見えて居ります。此社に
は嘉吉三年在銘の鐘がありましたが、文明九年に遠州引佐郡の安樂
寺へ行き、文龜元年に今度は信州伊奈郡の立石寺へいつて、三様の
銘文を備へたものが現に同寺にあるといふ事です。
本社は今イハクラと讀み祭神は珍らしくも天御中主神であります
が、本來はイシニマス神社即ち石神で、これは諸國の例から考へて
もさうあるべきだと考へます。
此附近から東へ一帯の地が長篠役の古戦場で、家康が陣をとつた
茶臼山は神社のすぐ近くです。次の川路驛には勝樂寺といふ、こ
の邊としては比較的大きな寺があります。その南に渡船塲があり
ます。
酒井忠次軍【ゴチック見出し】が鳶ヶ巢の砦を夜襲するために間道を進んだといひ
ますが、この邊で川を渡つたものでせう。これから吉川村に入り松
山越を登ると鳶ヶ巢はすぐ眼下にあります。其際に私の先祖豊田一
當齋秀吉といふものが道案内をして居ります。この一當齋は以前野
田の城主菅沼家の考臣でしたが意見が合はず仕を辭して吉川村に隠
退してゐましたので、その案内をしたものでせう。今も村にその屋
敷跡が殘り一門のものが五軒續いて居ります。
信玄塚【ゴチック見出し】は川路驛の北方小高い岡の上にあります。野田城攻め
で負傷した信玄は、引上げの途中此處で死んだので葬つたといふ塚
があります。この塚から毎年夥しい蜂が出て人々を惱ますので其靈
を慰めると共に蜂を追拂ふ炬火踊りといふのが余程古くから行れて
ゐます。附近には首洗池といつていつも濁つてゐる池もあり、土地
の名まで信玄といつてゐます。
牧野文庫【ゴチック見出し】はその信玄にありまして、これは其地の醫師牧野文齋
氏が経営され、郷土に關する珍書稀籍を主とし、廣く内外の書籍に
及んでゐます。個人経営として西尾町の岩瀬文庫と共に相當有名な
もので、羽田文庫の本も一部はこヽに來て居るといふ事です。
川路驛の次は長篠驛ですが、實は大海といふ處にあるのでして、
長篠は其川東です。これから鳳來寺鐵道となつて次の鳥居驛には
すぐ近くに新勝寺があり、寺内に鳥居強右衛門の墓があります。
その東に北から流れて來る寒狭川と東から流れる三輪川との合流
点、そこが長篠城址で、豊川の名はこの合流点から下流をいひま
す。
長篠城【ゴチック見出し】の歴史は余りにも有名ですから省略しますが、この戦
史を研究された方に古くは新城町の皆川登一郎氏、近頃では對岸乗
本の柿原明十氏があります。この柿原氏は學界に知られた地質學者
でありますが、其余暇に資料を聚め色々研究されて己【ママ・已の誤植か】に發表された
ものもあり、この方でも権威者です。さて長篠城址は東西が三町南
北が二町余で、凡そ九町三段歩あり、本丸の跡は畑となつて土壘が
殘つてゐます。高さは十八九尺、延長二百五十八尺、その一部に大
正五年愛知縣が建てた長篠城址の碑があります。
土壘の外側の濠は巾三十三尺から五十四尺、深さは二十九尺あり
この西北に弾正廓、東北に帯廓、東南に野牛廓が取巻いて城を構成
してゐたのでした。今一帯が史蹟に指定されてゐますが、この城の
東北にある大通寺には杯井といふがありまして、これは甲軍のもの
が最後の戦にその無暴を諫め退軍を勸めて容れられず、愈々明日は
討死と覺悟しましてこの水を汲み最後の別れをしたといふのです。
傍に其由を認めた紀念碑が建てられてゐます。
次の鳳來寺口驛から田口鐵道に分岐して居ります。鳳來寺へはこ
こで乗換へ、次の門谷の驛から登りますが、その門谷の道添ひに
ある「ねずみさし」の老樹は圍り十一尺余もあつて全國でも稀な
ものと云ひます。
鳳來寺【ゴチック見出し】は一名煙巖山ともいひ、全山殆んど火山質で主に流紋
岩ださうです。最頂部を瑠璃山といつて海抜二千五百五十七尺あり
ます。この山は地質學及び植物學上の絶好な標本である許りでなく
風影がよく歴史に富んで居ますので、全山が天然紀念物に指定され
ました。
山麓から本堂まで凡そ十町の間に千六百の石段があり、途中二町
許りの處に仁王門があります。これは徳川初期の建築で多分慶安頃
のものでせう。仁王尊の偉大なのが頑張つてゐます。集古十種に載
せられた鳳來寺の額はこの門に掲げてあります。門のすぐ下の石段
の送【ママ・途の誤植か】中に、芭蕉の句碑がありまして、
「こがらしに岩吹きとがる杉間哉」
とあり
建てたのは明和三年ですが大分風化して余命幾何もないといつた有
様です。この門から少し登つた處に傘杉と呼ばれる大木があり、樹
高三十間余、圍り二丈二尺で枝下二十一間に達しますが、まだ〳〵
素晴しい勢で成長しつヽあります。これから三町許り参りますと尼
寺が一つ、その上に醫王院がありますがこれが塔頭で、此附近から
四町許り上の本堂邊にかけて森青蛙が住み、盛夏の候樹上に泡を吹
いて卵を生む有様は實に面白く感じます。本堂の少し下に藥師の露
佛があり、相當大きな物でして、これだけのものをよく此山上まで
運んだものと感心させられます。出來たのは享保十六年、嘉永七年
に一度修繕してゐます。本堂は數度の火災で今は假本堂と二三の小
建物がある丈ですが、近く大規模なものが建築される筈です。そこ
を通つて少し行くと東照宮の社があります。もとは寺の支配で此方
は幸ひに火難を免れ慶安年間創立のまヽで、老杉に圍まれた一段高
い處に朱塗の社殿があり、それを圍つて立派な石燈籠が十四基と鳥
居、水盤などがあります。これは近くは吉田、田原、濱松から、遠
くは福嶋、宇都宮、奥州棚倉などの城主がはる〴〵と献納したもの
で、徳川氏の勢力を雄辨に物語つてゐます。社の上方には鬼の味噌
蔵、鬼の酒蔵と呼ぶ洞穴がありますが、假本堂の左側を通つて岩壁
を登つて行くと八町許りで奥院に達します。
その途中には七本杉といふ見事な老樹がありましたが追々に枯損
して今二本だけ殘つてゐます。何れも圍り三十尺以上あつて全山を
威壓してゐます。
この寺は聖武天皇の御發願で利修仙人が創めたものと傳へられ、
仙人は七本杉の一本を切つて佛像を刻み安置したといひます。傳説
では文武天皇御惱のとき利修仙人をお招きする為め草鹿砥卿が登ら
れたとか、役行者が利修仙人に會ひに來たが路が惡く困つたともい
ひますし、又徳川家康は此寺に祀る藥師の十二神將の一人寅童子の
化身で、家康が生れたときその寅童子が失はれ、死ぬと又現はれた
など馬鹿氣たこともいつてゐます。
境内に東照宮を祀つてありますのはその庇護が厚かつたからです【ママ・行末句点省略】
昔は山中に二十ヶ寺もあり、それが天台と眞言の二派に分れ盛大な
ものでして、こヽにも安達盛長が建久の頃造營したといふ歴史があ
り、今は古義眞言宗で全國でも指折りの寺です。數度の火災に寶物
も古文書も殆んどありませんが、此山中で每年夏の夜を鳴き明す靈
鳥佛法僧と、二月の末に行はれる田樂祭は有名なもので、雅俗共に
遠近から出掛る人々で相當の賑ひを見せてゐます。
何しろ徳川時代には千石の朱印地を持ち覇を鳴らした寺ではあり
ますが、すつかり荒廢した現在ではむしろ風景として賞美されてゐ
ると思ひます。
田口鐵道はこれから海老を經て田口に達して居りまして、その田
口に近い田峰には觀首【音の誤植】堂があります。
田峰觀音【ゴチック見出し】といひますのは文明の頃此地にゐた菅沼氏の建てたも
のらしく、本尊は松芽觀音といひ、行基の作と傳へられますが大し
たものではありません。前立の十一面觀音は創立頃のものでかへつ
てこの方がよい出來です。本堂は明治になつてからの改築ですが蟇
股や組物などに古い部分が殘り、それは室町時代のものと見られて
ゐます。軒にかヽる鐘は文明十三年在銘のもので實によい出來であ
り、古いものとしては永祿十一年信景の制札があります。
此寺でも鳳來寺と同様、舊暦正月十七日の夜から朝にかけて田樂
が行はれ、歌詞も色々あつて郷土研究者の見逃せないものとなつて
ゐます。
田口からは伊奈街道によつて長野縣に通じてゐますが、この方面
から發見される先史時代の遺物は悉く信州系統のもので豊橋附近【「近」は文字転倒】
の繩紋系遺跡はこれに聯絡するものと考へられます。從つて已に
有史以前東三河と南信州との間には交通が開け物資の交換が行は
れたものと見なければなりません。
郷土資料保存會【ゴチック見出し】は下津具村にありまして、此等の考古學的遺物
から古文書記錄民族資料まで約五千点を蒐集して居ります。これは
同地の夏目一平氏の業績で北設樂郡の鞍舟及び櫻平遺跡を研究し學
界へ發表したのも同氏であり、又土俗の研究にも精進され、學界名
氏の北設樂行きは氏を訪問する事が目的となつてゐる程です。
此方面は以上で終りまして、次は鳳來寺鐵道の鳳來寺口驛から先
を申上げます。次の湯谷驛には鑛泉があり、ホテルを經營してゐ
ますが、傍を流れる豊川の上流三輪川の風景が實によく鳳來峽と
て世間に可成り知られてゐます。
馬背岩【ゴチック見出し】は驛より少し下流の河心にありまして、今天然紀念物
に指定されて居ます。この馬の背のやうな岩には中央に二尺巾位の
違つた石が縱走して居ますが、これは古い岩の弱点へ新たに異つた
岩漿が噴出したものださうで、その一端が一つの池となり名號池と
いつて居ます。傳説ではこの上流一里許りの對岸に名號村といふが
あり、昔弘法大師が廻國の際その村に泊つて名を聞かれましたが、
まだ名前がなかつたので命名を乞ふと明朝迄に考へて置くといはれ
ました所が翌朝大師は昨夜の約束を忘れて出立されたので、村の者
が追かけて河向ふを行かれる大師を見つけ、大聲でその事を賴むと
何と思つたのか紙へ南無阿彌陀佛と書いて示されました。それが河
の中の石に寫つていつまでも消えなかつたので、その村を名號村と
名づけ、池を名號池といふやうになつたといふのです。
成程この名號池の石面には、字とも繪ともつかない妙な模樣が五
六個ありまして、自然に出來たものでせうが、見て居ると神秘的な
感じが致します。
服部郷【ゴチック見出し】次の大野は八名郡で對岸にありますが、和名抄にある
服部郷をこの附近であると主張し、又令義解に載る三河赤引糸はこ
こから献つたものだといふ者もありますが、それは徳川時代に遠州
岡本村から神戸の調として絹を神宮へ納めるにつきまして、原料の
繭をこヽに求めて居た事實を捉へていふのでして、かういふ事實を
曲解し無理に歴史を作り上げやうとする態度はどうも感心しません【ママ・行末句点省略】
又夫程に思ふのなら、明治になつて神御衣祭の御料を北設樂郡稲
橋村から献じ、又渥美郡福江町から献じますのに、何故この町から
も献納の舉に出でなかつたものかと反問したい位です。
阿寺七瀧【ゴチック見出し】は大野町から山一つ越えた南の山吉田村阿寺にありま
して、七段に折れて居るので有名です。
此七ツの瀧の總高さは二百尺以上ありまして實に壯觀です。大野町
からは瀧の近く迄自動車が通じ、昭和九年名勝及天然紀念物として
指定されました。傳説では昔安倍清明が此瀧に來て修業したと又此
處の礫は子抱石といひまして、これを持ち歸つて祀ると子供が出來
るといふ信仰もあります。
次の槇原驛近くには琵琶淵といふ深淵があります。この淵の主は
頭許りの鰻で大さは四斗樽程もあるといひます。これは鰻をとつて
頭丈けを棄てたからだといはれ、此邊では鰻の頭は川へ棄てない習
慣だと聞きました。
次の川合驛は鳳來寺鐵道の終点で、三信鐵道がこヽを起点として
伊奈電鐵に通ずる筈になつて居り、今遠州佐久間迄開通して居り
ます。何れ全通は二三年後の事だらうと云はれてゐます。
乳岩、天然橋【ゴチック見出し】こヽで有名な乳岩は驛から十五六町で行けます。
海抜は千四百尺許りですから余り高い山ではありませんが、其山中
に洞窟や石門或は胎内潜りといつたやうなものがあるので有名です【行末句点省略】
此等のものを順次に見る樣に道がつけてありますが、全山流紋岩質
凝灰岩で一寸見ると石灰岩のやうです。道の順序で申上げますと、
第一が乳岩で洞窟の深さも巾も各六十尺高さ四十尺ありまして、天
井には鐘乳石が發達してゐますが石灰洞で出來るのとは違ひ長さは
漸く一尺内外です。乳岩とは其形から名づけたものでせうがかく凝
灰岩の洞穴に鐘乳石の出來るのは珍らしい例ださうです。
次が目藥岩で巾が五十尺高さが二十三尺、奥行が三十尺許り、天
井の一部から鹹味のある白い粉を吹き出してゐます。これを水に溶
かして目藥にするさうですが分折【ママ・析の誤植か】の結果は余りきヽさうにもありま
せん。
其次が天然橋といはれる石門で、巾が七十尺、高さが七十五尺と
いふ大穴が岩にありまして、下に立つて見上げますと、天然の大石
橋の空間にかヽつてゐる樣は實に奇觀でして、誠に驚くべき自然の
技工です。
道はこれから下り坂となります。さて其次が胎内潜りで、穴の長
さが約七十尺、途中で曲つて居るので中は眞暗です。次に又小さい
のが一ツありますが、この方は巾五尺、高さ四尺位で長さ十五尺に
過ぎません。次が新穴で梯子によつて井戸の底へでも降りて行くや
うな道がついてゐます。これは第一と第二と聯絡し五六十尺をかう
して降りるのですが、頭上の巨岩が今にも落て來さうであまり好い
氣持は致しません。これを出て少し行きますとこれで一周した事に
なるのでして、此全距離は約八町あるといひますが、恐らく絶景と
して又奇勝として誇り得るものだらうと思ひます。
附近の山中には色々の植物に富み、熱帯植物のカギカツラもあれ
ば、高山植物の石楠花もあります。そして岩漿中からは色々な化石
が出るといふ風に、地質學や植物學からも實際見逃せない處だとい
はれてゐます。
川合から奥は遠州への道が自然に開けて居り、原始時代に豊川を
遡つた先史時代人は此方面へ出たものと思ひます。信州への通路
は鳳來寺から田口、津具の線によつたらしく、この見方は今日發
見される諸種の遺物から判斷されるように思はれます。
尚此方面では年中行事として今も昔ながらの
花祭り【ゴチック見出し】が所々で行はれ、土俗研究者の興味をそヽつて居りま
す。此地方出身の其方面の研究家である早川孝太郎氏は、これにつ
いて膨大な著書がある程です。
其他天然紀念物とか、史實傳説などにまだ申上げたいものもあり
ますが、省略致しまして、今回はこれで擱筆する事に致します。
次回は市の東部方面について申上げたいと存じます。 敬具
一九八
【右頁白紙】
第三信
つい遅くなりまして申訳ありません。漸く筆を採り、市の東部方
面を申上げ第三信と致します。
東部と申ますと道順が二手に分れ、北寄りの八名郡と南寄りの渥
美郡とになりますが先ず八名郡の方面から申上げませう。
豊橋から別所街道を東北に進みますと、牛川町を経て石巻村となり
ますが、この道の行手を遮るやうに聳えてゐる石巻山には八名郡に
一社しかない延喜式内社、
石巻神社 の奥宮が鎮座してゐます。本社は其山下神郷村にあり
ますが、豊橋からは約二里で、一歩市外へ出た処に鳥居場があり遥
拝所であると共に登山口となつてゐます。此処に例の羽田野敬雄の
一九九
二〇〇
建てた式社二十六座夫々の道しるべが建つてゐます。
此山は全山巨岩で殊に山頂に巨大なものがある事や以前石纏の文
字を使つた事などから、本宮山と同様山岳崇拝或は巨石崇拝によつ
て起つた社と考へられます。本社のある神郷は和名抄にある美和郷
に当り、神をミワと呼んだもので、この例は蒲郡町赤日子神社の所
在地を上の郷即ち神の郷としたのと同様でせう。
文徳実録仁寿元年十月三河国石纏神授従五位下とあるのがそれで
奥宮を上社、本社を下社と呼びまして、上社は古田氏、下社は大木
氏が奉仕して来たといふ記録があります。代々の吉田城主が篤く崇
敬しまして、社殿は三河聞書に天文廿三年上社を造営したとあり官
社考集説に天文十六年下社を造営したとありますが、今の社殿は何
れも近代のものです。本社にも砥鹿神社と同様管粥の神事がありま
して、其年の五穀の豊凶を占ひ、農家はこれによつて其年の計画を
立てゝゐます。
伝説によりますと、昔この山と本宮山とが高さを争ひ、其解決に
山頂から山頂へ樋をかけて水を流しました処此山の方へ流れたので
石巻山の方が敗けにきまりました。それ以来この山に登る者は大小
に拘はらず石一つ持つて登ると御利益があり、反対に一つでも持つ
て帰ると神罰を蒙るといひ伝へて居ります。珍らしいのはこの山中
に陸産の巻貝二三種が棲む事で、これは大体が石灰岩で出来てゐる
関係からださうです。
この山の裏手嵩山といふ処に巨刹があります。
正宗寺 といふので、この寺は支那僧日顔といふ者が永仁年中
に開創したものと伝へます。此附近の地勢が達磨大師の遺跡である
二〇一
二〇二
魏の嵩山に似て幽邃の地だといふので嵩山と名づけ、一宇を建立し
たのが初めだといひます。一時は非常に栄えまして、山内に十二坊
と末寺が百ヶ寺あつたいひますが、今山内に坊はありません。其後
衰微したものと見えまして永禄年間この地にゐた西郷弾正が、伽監
を再興し寺領を寄せてゐますが、徳川時代には朱印で三十石を持つ
てゐました。曽て応挙や盧【蘆の誤植か】雪などの絵師が寄寓してゐた事があり、
其盧【蘆の誤植か】雪の描いた波の大幅は有名なものです。これは八幅に続いて只
一つの大波を描いたもので、現代人の想像にも及ばない材題ではあ
り、筆勢雄健、東三屈指の宝物です。其外にも名画を多数に所蔵し
夏の日の曝涼には参観人で賑ひます。本堂は新らしいものですがよ
く周囲の山水と調和し宏大な伽監は静寂な雰囲気に包まれてゐます
此門前を、御油に起り豊川から遠州へ出る姫街道が通つてゐます
この先に国境の山を超える本坂峠がありますが、其途中右手に石
灰洞窟があります。
嵩山蛇穴 といふがそれで、深さはどれだけあるか末だ見究めた
人がありません。所々で分岐して居りますので、一度道を失つたが
最後、もう暗黒の世界から遁れ出る事は出来ないのです。附近一帯
が石灰岩で、石灰を製造したりセメント原料に採集されてゐますが
大正十一年此地に於て化石人骨を発見しまして、旧石器時代のもの
ではないかと大騒ぎをした事がありました。しかし結局それは鹿の
骨であるとの事でしかと分らずに終りました。これがお隣りの支那
で発見されました。ミナントロプス、ペキネンシスのやうなもので
ありましたなら、それこそニホントロプス、スセネンシスとでもい
ふ大変なものになつてゐたかも知れません。
二〇三
二〇四
馬越古墳 こ村の馬越といふ処に長火塚といふ東三河第一の横穴
式古墳があります。一体この附近には古墳が到る処にありまして、
それが殆んど横穴式でありますけれども中には山上にあつて前方後
円式らしいのもあります。即ちこの東方の神社境内に一つと、それ
に隣る寺の境内には開口した横穴式のものがあり、又長楽の正八幡
宮近くには少くとも二十基以上があつたといひますがこの長火塚程
大規模のものはありません。そして又紺屋谷の七ツ塚といひまして
もとは附近に七ツの古墳があつたさうですが今はこれが一つだけで
それも巳【已の誤植か】に開口して何物も残つてゐませんし記録もありませんが、
現存せる羨道部の入口から奥壁までは四十尺に近く、玄室の高さ十
尺以上といふ豪勢さです。
尚この方面には歴史上重要な慶長以前の金石文も数点あり、棟札
などは実によく保存されて其数は百点を下らぬといひますけれど
も、研究が浅いので言及する事を避け、次は渥美郡の内二川町方
面の事を申上げる事に致します。
東海道線豊橋駅から東へ二川駅迄の間、これを高師原と云ひまし
て昔文覚上人が院宣を乞ひに都へ上りました時、高師の荘司といふ
追剥ぎの為に裸にされたといふその原ですが、事実はどうか分りま
せん。街道は殆んど並木続きで昔の面影が多分に残つて居ります。
岩屋山 は二川町の西方にあり、一ヶの大岩塊でありまして其
岩上に南面して観音様の立つて居るのが汽車の窓からよく見えます
吉田の俳人古市木朶は
「かすむ日や街道一のたちほとけ」
と咏んで居ります。此処には大岩屋の窟堂とて天平二年行基の開
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二〇六
創と伝へる寺がありまして、曽て吉田の城主でありました池田輝政
の後裔、綱政が非常に信仰して絵馬や水盤、経文など度々寄附して
居ります。伝説ではその綱政が宝永四年の秋江戸から帰る途中、白
須賀の宿に泊りました。其頃白須賀の宿は台地の下海岸近くにあり
ましたが、其夜観音様が網政の夢枕に現はれ、早く此地を立退けと
教へられました。そこで綱政は夜中にも拘はらず供揃へしまして、
二川宿へ向け台地を登つたとき、下では突然ツナミが起つたのです
不思儀に命拾ひしました綱政は、其御礼に金の灯籠を献納したと
いふのですが、実はそれは白須賀蔵法寺の観音様であつて、使者が
誤つて此寺に納めてしまつたその申訳に切腹したといふ説もあるの
ですけれど、綱政の信仰はそれ以前からの事であり間違ひとは考へ
られません。本寺大岩寺は町中にありまして、現住の住職鈴木関道
氏は「二川宿大岩加宿の研究」を著はされた程郷土研究の熱心家で
す。この町は勿論五十三駅中の一で今に本陣址も残つてゐます。
この二川は和名抄の渥美郡大壁郷に当る地でありまして、其大岩
は岩屋から得た名を伝へられてゐますが、実は大壁から転じたもの
で、此処に大壁神明社が残つて居ります。町を東に出はずれる北側
に妙泉寺がありまして、
芭蕉句碑 が建つて居ります。句は
「あぢさゐや籔を小庭の別座敷」
といふので、建てたのは寛政十年です。土地の俳人十人許りの発
起で建てたものですが、其内に一人故人の名を並べてある事は如何
にも床しく感ぜられます。
尚此寺には永享九年在銘の鰐口があり、これには三河国野方郡牧
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平合とあります。この野方郡は今の額田郡で「野」を「ヌ」と発音
した証拠であり、合の字は郷の充て字である事が面白い資料である
と思ひを【「ま」の誤植か】す。
二川町の北半里許りの処に雲谷といふ村があり、そこは平安朝時
代の街道が通じて居ります。
普門寺 はこの村にありまして、やはり行基の開創と伝へられ
又鎌倉時代に安達藤九郎盛長が頼朝の命を受けて造営した三河七御
堂の一つといひますが、とにかく少くとも平安朝頃のものでありま
せう。昔は山に拠り堂塔を構へ山内十幾坊かあつたといひますが、
度々の兵火に焼失しまして、今の堂は元禄十三年再建の茅葺四注造
り二軒で三斗が使つてあります。本尊は聖観音で弘仁以前の作と見
られ、優秀な作品ですし、又この外に国宝に指定された仏像六軀及
経筒とがあります。其国宝は一段高い処の別殿に安置され、阿弥陀
像一軀、釈迦像一軀及び四天王像四軀で、東三河の代表的な仏像で
す。経筒は久寿三年在銘のもので土筒と鏡が一面附属してゐますが
其銘文に願主年代作者迄揃つてゐるのは珍らしい例でせう。それと
まだ一つ寺伝では頼朝の寄附したといふ弘治二年陽鋳銘のある鉄灯
籠が一つあります。もとは非常に沢山の仏像があつたさうで、天文
廿二年この附近が兵火にかゝつたとき持ち出された仏像が小山の様
に積んであつたといひます。そして市内神宮寺の大日如来、悟真寺
内龍興院の本尊なども此寺から行つたものといふ事です。古文書に
は天文十八年今川義元の寄進状を初め色々ありまして、次に申上げ
る東観音寺と共に東三河の宝庫となつてゐます。此処には三州吉田
記の著者である林自見の寄附した石灯籠が一つあります。これは自
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二一〇
見の叔父がこの寺の住職であつた関係でせう。又この寺にある山田
宗偏のさゝ波の琵琶は有名なものであります。
東観音寺 は二川町から一里近く南の小松原といふ村にあり、こ
の寺も行基の開創といふ言ひ伝へがあります。以前の寺地はそれか
らまだ十町程南にありまして大平洋に臨む処でしたが、宝永四年の
ツナミに懲りて移転したといひます。寺の縁起によりますと工事に
九年の歳月を費したとありまして、室町時代に田原の城主戸田氏が
信仰し、それに関した古文書も七八通保存されてゐます。
本尊は馬頭観音で、馬の守護神として遠近の信仰を集め、毎年二
月初午に絵馬を出しますが、これを厩にかけて無事を祈り、又馬の
病気にはこの境内の笹を喰せると癒ると信ぜられて居ます。外に安
阿弥の作と伝へる阿弥陀の座像がありまして、鎌倉時代の作、高さ
四尺六寸蓮弁上に安置され、昭和七年国宝の指定を受けました。又
文永八年在銘の懸仏は一尺一寸余の円板に馬頭観音像を取りつけて
あり、次の銘文があります。
三河国奉鋳小松原寺 馬頭観世音菩薩
当地頭藤原朝臣泰盛勧請 《割書:沙門行心行決|細工沙弥成仏》
文永八年《割書:太歳|辛未》正月十五日
更に境内の多宝塔も今国宝に指定されてゐますが、これは大永八
年に藤田左京亮定光が建立したもので、慶長十四年に修繕し享保元
年に移転し、又明治十三年手入れを行つてゐます。建築当初は檜皮
葺でしたが今は杮葺となつて居ります。其外鎌倉時代の作の広目増
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長天王像や楽器散しの文様ある和鏡、文治三年から建久三年迄かゝ
つて厳朗といふ僧の筆写した一筆写経の、大般若経、文安四年の陀
羅尼経版木、大永六年の馬頭観音版木などから、古文書では田原戸
田氏関係文書、今川家関係文書、徳川氏に関するもの等実に豊富で
す。境内は頗る広濶で奥庭に芭蕉の句碑があります。
「道のベの木槿は馬に喰はれけり」
の句で、寛政庚申之夏洛柳後苑野狂の署名がありますが、それに
よると同寺にこの句の真蹟と翁の念持仏でありました西行上人の像
が納められた事になつてゐます。
そこでこのやうな立派な寺がどうしてこんな田舎にあるかと申ま
すと、これは東海道から分岐しまして渥美郡を縦断する往還があり
その先は船で伊勢へ交通があつた事と、今一つは宝飯郡小坂井の渡
津駅から牟呂の坂津へ渡つたとしまして其侭東南に進みますとこの
東観音寺へ出ますので、これが奈良朝から平安朝へかけての官道で
あつたからかとも考へられます。この渥美郡方面は次回に譲りまし
て今回は簡単ながらこれにて擱筆致します。 以上
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【右頁白紙】
第四信
引続いて今回は渥美郡の方面を申上げやうと思ひます。第一日に
御案内しました小池町の潮音寺、あれから南の方面ですが尚暫くの
間はまだ市内で、豊橋駅前から出ます渥美電鉄、この線を基準に申
上げる事に致します。
市内花田町字松山の正林寺前を通る田原街道はそこで分岐しまし
て左に進めば小松原東観音寺へ達しますがこの田原街道を進みま
すと其先は豊橋市が周囲の町村と合併せぬ前高師村と呼んだ処で
和名抄にある磯辺郷、高芦郷は柳生川流域の磯辺町、梅田川流域
にある高師の地と考へられ、其外神領であつた橋良御厨、野依御
厨、高師御厨などが町名として残つて居りまして、大凡の想像を
二一五
二一六
下す事が出来ます。
王塚古墳 はこの磯辺にありまして、小字を王ヶ崎といふ処です
これは弘化三年に偶然発見しまして、その際色々の器物を発見しま
したが、崇【祟の誤植か】りを恐れ再び埋葬したといふ記録があります。そして大
正十一年五月渥美郡史編纂に際し資料を得る為に再び発堀をやりま
して、十四五点の遺物を得ましたが、特に珍らしいのは椎頭の大刀
一振と、狛剣と呼ぶ双龍環頭の大刀一振が出ました事で、是等は国
家の所有として当然帝室博物館へ収蔵される筈なのを、当時の歴史
課長文学博士高橋健自先生の御厚意でそこの小学校に保存される事
になりました。
十三本塚 は富本町にあります。この町名は十三をトミと読んで
合併当時新たに命名されたもので、此処は永禄七年吉田の城代小原
肥前守鎮実が、龍拈寺口で殺した人質十三人を埋めた処だといひま
すが、大口氏によりますと、このとき鎮実の殺した人質は十三人許
りでなく、又永禄三年にも永禄五年にも人質を殺してゐるさうです
から信用し兼ねると思ひます。恐らくこれは小規模な古墳でもあつ
て名付けられたのではないかと思ひます。一説には天平の頃一人の
行者が来て潮音寺の観音堂に参籠し法華経を書いて十三の塚に分ち
納めたといひますが、附近に経塚といふ地名の残るのも不思議です
高師小僧と長葉石持草 高師から老津、二川へかけての原は高
師原で、所々に村落が介在してはゐますが大体二里に三里位の広漠
たる原野です。こゝで食虫植物として知られた長葉の石持草と、水
酸化鉄の固りである高師小僧を産します。私は二川町から雲谷へ行
く途中でこの水酸化鉄の一種を採集して居りますが、その分布は相
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当広いやうに思はれます。
台地を南へ下りて梅田川を渡ると左手の田圃の中に森があります
これはフグの森と呼ばれ、植田町車神社の所在地です。
車神社 の社地は立派な前方後円墳でして、神社の名はこの古
墳の俗称車塚から来たものでありませう。これと同名の神社が八名
郡八名村にも一社あります。神社はその古墳の後円部に建てられて
居り、明治三十六年七月に大野雲外氏が調査に来られて、発堀をな
し、色々のものを発見されましたし、又以前に発見して神庫に保存
されてゐるものを研究して帰られまして、その結果を人類学雑誌二
十巻二百三十号に発表されてゐますが、珍らしいのは三鈴のついた
杏葉と三十三個一連の出雲石の管玉でせう。外に硝子製の曲玉、鉄
刀片などがあります。
此社の神様は昔船で来られましたが、上陸の時暴風雨の為に船が
転覆したのをフグに救けられて無事上陸されたといふので村の人は
決してフグを喰べない習慣ださうです。又古来宮座があつて多少は
変つて来ましたが、今に行はれて居る事は珍らしい事と思ひます。
この社から西に当る大崎には古城址があります。領主中嶋氏の居館
で慶長五年から引続いて明治初年に及びました。その近くの龍源院
はその菩提寺でありまして、境内には天然紀念物に準ずるお葉付銀
杏の老樹があり、樹勢は今尚熾んで年々多数の結実を見せて居りま
す。
以上で市内の御案内を終り、一歩市外へ出る事になります。
大津神戸 は老津村にあります。維新前は大津と書きましたので
今でも老津と書いてオウツと呼びます。この村は文治元年の太政官
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符に依り神戸に定められた所で、これは高倉天皇がホウソウにかゝ
らせ給ふたとき中宮の藤原殖子が御平癒祈願の為め献られた御厨を
此時官符によつて神戸に改められたものといひます。その神戸に就
いての神明社もありましたが、今は老津神社と云ふのを創設しそれ
に合祀されました。この老津神社は村中の小社を合祀してゐますが
其中に熊野社といふのがありまして、明治の末頃迄その社に宮座の
制度がありました。その熊野神社はその村の熊野山安養寺の支配で
熊野から移住した人達によつて祀られたものです。その安養寺は今
市内向山町へ移転しまして嵩山正宗寺の別院となつてゐます。
高縄城 は小字向田にあり、文明の頃戸田氏が西三河から来て
第一に足溜りとした処で、戸田氏が田原に移つたのはその後のこと
です。城址は今城山といひ、その前方一帯も城の名をその侭に高縄
城といつてゐます。
大平寺 はその高縄城にありまして、寺伝では嘉応年間の創立
となつて居りもと真言宗であつたのを南北朝の頃大暁禅師と云ふ人
が臨済宗に改めたといひます。寺宝には高麗本の紺紙金泥の金剛般
若経があり、是には支那の至正十一年の奥書がありまして我国の正
平六年に当ります。又今から二百年許り前に後の山が崩れましたと
き偶然発見した明応四年在銘の古鐘があります。古文書で一等古い
のは大永八年の八月の戸田宗光田地寄進状で、次いで天文十七年の
今川義元寄進状、永禄七年蔵人家康の寄進状などがあり、殊に義元
の寄進状には目録が添へてありまして、貴重な資料となつてゐます
境内には苔むした五輪三基がありまして、戸田氏の墓といはれて
ゐます。本堂は火災に遭ひ、明治になつてからの再建ですが境内は
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相当広く整つた立派な寺です、
妙見古墳 は西方村界に近い丘の上に営まれたもので、前方後円
で然も横穴式といふ変つた形式をもつてゐます。明治初年迄は玄室
内に入ることが出来て内部は八塁【疊の誤植か】敷程あつたといひますが、其後天
井の墜落によりまして、今は入口から漸く窺知し得るだけです。羨
道部が南に向つて開口し、前方部が北に向つてゐることゝ、其基底
部に貝層のあることなど殊に興味あることゝ思ひます。此の村には
外に二三の古墳がありましたが、今は外に老津神社境内に一つ残つ
て居るに過ぎません。そしてこれは玄室の一部を残してゐるだけで
す。又岸に近い海中には古墳築造のため運んで来た巨石を取落し其
侭になつてゐるものがありますが、これは築造技術の方面から見て
面白い資料と考へます。
次は杉山村で、こゝには百々の窯址、砲台の址、長仙寺などがあ
り、又神鳳抄にある杉山御園、浜田御園、泉御園もこの村だつた
といはれてゐます。
百々窯址 は、字六連といふ処にありまして、南面した傾斜地を
利用し登り竈に築かれ全長十四尺、高さ七尺程あり、色々の遺物が
其中から発見されてゐます。これは大正十一年三月史蹟に指定され
ました。
砲台址 はこの村の太平洋に面した処にありまして、高さ凡そ
七十間位の丘上に、五間に七間位を地均しした所があるだけですが
徳川の末つ方、海岸防備の必要からこれへ大砲を据付け、外国船を
打払ふといふ田原藩の企てであつたのです。
長仙寺 は寺伝によりますと、三河守大江定基が頽廃を歎いて
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再興したことになつてゐますが、鎌倉時代には相当栄えた寺で寺領
六百貫を寄進されてゐたといひます。慶長六年伊原備前守の検地の
とき、住職が遠州の麻訶耶寺へ行つて不在だつたので寺領が帳落と
なりましたのを、寛文四年になつて田原の戸田氏から漸く三十石を
貰つたといふ事です。当時は西三河の猿投神社と何かの関係があつ
たと見えまして、この寺の康安年間の論語、文和年間の白氏文集の
二点が現に同神社に保存されて居るといひます。
杉山の次は田原で、此処には色々のものがありますから順を追つ
て申上げませう。先づ第一が
田原城 これは明応年間に戸田宗光が築きましたもので、豊橋
二連木城の根拠地でありました。其後宗光の子の憲光、孫の政光か
ら宗光、尭光と続きましたが、この尭光は牟呂八幡社、小坂井菟足
神社を造営したことが夫々棟札に残つて居ります。天文十六年今川
義元に攻められ城は陥り一族は亡びました。それから今川氏が城代
を置き守つてゐましたが、永禄七年徳川氏が攻めてこれを取り、慶
長頃は池田輝政の支配下にありましたが、其後戸田氏の一族戸田尊
次のものとなり、寛文になると三宅氏が西三河の挙母から転封にな
つて維新当時まで続きました。尚この城につきましては、天正十五
年七月に家康が、慶長十五年二月に秀忠がこの附近に狩する為め暫
く滞在したこともあります。
現在では本丸址が残つて居りまして、此処に県社巴江神社が祀つ
てあります。文化十二年の創立で、城主三宅康和がその祖先児島高
徳と三宅康貞とを祀つたものです。以前は城址の一偶にありました
のを最近本丸址へ遷し、新たに造営されたのです。これ等を含めて
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城址一帯は公園として町で経営してゐます。
池の原邸 は渡辺崋山の遺跡で城址から少し距れた処にあります
崋山が蟄居し自裁した場所ですが其家は己【已の誤植か】になく、礎石が復原して
保存されてゐますのと、外に崋山の銅像及び東郷元帥の書かれた紀
念碑とがあります。崋山の筆蹟はこの地方処々に残つてはゐますが
中でも巴江神社と、この町の有志によつて組織されてゐる崋山会と
にその代表作が網羅収蔵されてゐるとの定評です。
崋山墓地 は駅に近い城宝寺にあります。夫人の墓と並んで居り
ます。至つて小形な墓石で、これが偉人崋山の墓かと驚かされる位
です。明治元年に息小華が建てたものでして、その小華の墓もこれ
に近く建つて居り、この方は関根痴堂の撰文です。
城宝寺古墳 はこの寺域内にありまして、横穴式の大古墳です。
南に向つて開口し、奥壁に沿うて二三の石仏が安置してあります。
玄室も羨道も完備し、東三では馬越の長火塚に亜ぐ大規模のもので
すが、発堀されたのは遥か以前の事で遺物も記録も伝はつてゐませ
ん。頂上には弁天堂が建つてゐまして、多少形態を損じてはゐます
けれど尚よく当初の偉容を偲ぶことが出来ます。
芭蕉句碑 は龍泉寺にあります。句は
「すくみ行くや馬上に凍る影法師」
とあり、これは貞享四年保美に居ました杜国を訪ねる途中天津畷
での吟です。碑は天明二年に出来ましたが適当の場所がなく其侭に
なつて居たのを、後年この寺内へ建てたといふ事です。
吉胡貝塚 はこの方面で私共が最も関心を持つものゝ一つで、場
所は町から十町許り距れた字矢崎といふ処にあります。此処は大正
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十一年清野謙次博士が大発堀されました結果、二百三十六体の人骨
及び多数の遺物を発見した処で、それ等の遺物は悉く清野博士の庫
中に納まり跡には何一つ残つてゐないといふ日本一の銘を打たれた
歴史的貝塚であります。
この外附近には古墳が七八基ありまして、多少の発見品が伝はつ
て居り、また竈址はこれから南、神戸村にかけて所々に残つてゐ
ます。それは平安朝から鎌倉時代へかけてのものと認められてゐ
ますが、この地方は上代以来竈業の盛んな地方であつた事は諸々
の遺物遺跡によつて知ることが出来ます。
田原町にあつた神領の御厨御園は吉胡、根田、田原、加治、勢谷
弥熊などで、これに隣る神戸村が三河最古の神領である渥美本神戸
の地でして、和名抄に載る渥美郷は勿論この地方でありました。
長興寺 は大久保にあつて、明応九年版の妙法蓮華経がありま
す。これは田原城主戸田宗光の発願で着手され其子憲光によつて完
成されましたもので、この地方で刊行された経文はこれ以外にない
やうに思ひます。
谷の口銅鐸 は此神戸村字谷の口におきまして寛政四年用水地を
築くとき、偶然発見されました。今其所在を失ひましたが、記録に
よると同時に三口出たやうで、三尺四寸と三尺五分の高さのもの及
び八寸六分といふ小形なものが出て居る様子です。この内一口が今
ロンドン博物館にある由を聞きましたので、先年京都大学の梅原末
治氏が外遊の節調べて貰ひましたけれでも、それは他所発見のもの
でありまして、今日では全く捜索の手懸りを失つてしまひました。
阿志神社 は田原の先の野田村にあります。文徳実録に仁寿元年
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十月参河国阿志神授従五位下とあるこの郡唯一の延喜式内社であり
ますが、永らく荒廃しまして、その社地さへも分らなくなつてゐま
したのを、寛文十年に田原の藩主三宅康勝の再興したものでして、
其時藩主の寄附した石灯籠一対が今に、昔を物語つてゐます。伝説
には康勝の夢に神が現はれ、阿志神杜は大切な官社だからこれを再
興したら姫の病気が癒るであらうと教へられたので、早速家臣を遣
はし地を求めて再興されたといひます。今の社殿は明治少し前のも
ので、附近の葦の池は社に対して如何にも幽邃の趣を添へてゐます
次の泉村へかけては和名抄にある和太郷の地と考へられますが、
これが和地に転じ、田原以南の総称であつた時代もあります。今
日では和地の地は伊良湖岬の一偶に残りまして僅かに其名残を留
めてゐます。この泉村にも鸚鵡石や銅鐸発見地、貝塚などの見る
べきものが残つてゐます。
鸚鵡石 は字馬伏にありまして、これは昔恋する乙女が男を恨
み秘蔵の笛をくはへ、この岩上から飛び降りて死んだ、其後この石
はいかな音でも反響するがただ笛の音だけは反響しないといふ哀話
を伝へてゐます。
村松銅鐸 は我国銅鐸発見史上重要なもので、三代実録に、貞観
二年八月十四日三河国銅鐸を献す高三尺四寸経【径の誤植か】一尺四寸渥美郡村松
山中に之を得たり或は阿育王の宝鐸と曰ふ、とあるものです。口碑
ではその村松山中小字名金堀といふ処だと申しますが、羽田野敬雄
は、名草の山間に金堀といふ処あり、村松の西南にて馬伏の地なり
鸚鵡石の西三町許りの所にて柳七八本ありこの処ならんと考証して
ゐます、これもやはり伊河津の地内でありますが、何分にも千年以
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上昔の事でありますから確かな事は分りません。
伊川津貝塚 はこの村の神明社から西に亘つてあります。明治三
十六年大野雲外氏が調査されたを初めとし、大正十一年には小金井
良精博士が柴田常恵氏と共に大発堀をやつて人骨二十七体其他色々
な遺物を得て居られますが、こゝから発見された有髯の土偶は殊に
有名です。その外この村には貝の浜貝塚、石神貝塚がありまして、
貝の浜貝塚は海岸波打際にあることで名高く石神貝塚は相当広い区
域に亘つてゐまして、まだ調査の余地が多分に残されてゐます。
次に福江町で色々と見るべきものもありますが、第一に申上げた
い事は間宮氏の事です。
間宮氏 は此処を根拠としてゐたもので、権太夫直綱は永禄六
年今川家を去つて徳川家に仕へ、この附近を領してゐましたが天正
六年に死にました。そこの栖了院にさゝやかな五輪が残つてゐます
其子広綱は天正十八年に家康に従つて関東に移り、其子の之等は関
ヶ原の軍功により再びこの地を領しましたが、僅が【「か」の誤植か】五年で田原の戸
田氏に譲り隠退致しました。この栖了院はこの直綱が建てた寺でそ
の開基となつてゐますが、その墓地にはこれ等一族の立派な墓が多
数並んでゐます。
芭集句碑 は町の西端潮音寺の境内にあります。これは芭蕉杜国
及び越人の俳諧三つ物が彫まれ、明治になつてからの建設です。杜
国の本名は南彦左衛門といひまして名古屋のものですが、貞享三年
故あつてこゝに配流され、保美といふ地に居て、元禄三年二月その
地に歿しました。芭蕉がこの地に来ましたのはその杜国を訪ふ為で
東海道を西へ鳴海宿まで行つて引返したものなのです。こゝで咏ん
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二三四
だ三ッ物か後年句碑となつたので、
「麦はへてよき隠家や畠村」 芭蕉
「冬を盛りに椿さくなり」 越人
「ひるの空のみかむ犬の寝返りて」 野仁
と咏んで居ります。野仁は杜国の別名です。この時は暫く滞在し
て居たと見えまして伊良湖にも遊んで句が残つてゐます。
「鷹一つ見つけてうれし伊良湖岬」
の句がそれでこれは寛政五年碑に刻し其地に建てられてゐます。
今陸軍射撃場内の巨岩の上に建つてゐます。
平城貝塚 はその杜国のゐた保美にありましで【「て」の誤植か】、福江町から西南
七八町の地、その小字平城に貝塚があるのです。普通は保美貝塚と
呼ばれますが、学界へは保美平城貝塚として報告されてゐます。最
初に調査されたのは明治三十六年大野雲外氏で、同じ四十二年清野
博士がまだ学生時代に二十日も滞在して研究し、大正十一年には柴
田常恵氏と博物館の後藤守一氏が発堀し、続いて大山公爵と小金井
博士が発堀しまして十九体の人骨と多数の遺物を得られました。
私はこゝで牛の角一個を採集して居ります。我国の石器時代に牛の
ゐたかどうかは未だ明かでなかつたので、この発見は熱田高蔵貝塚
の馬骨と共に相当重要性をもつものと思ひます。
川地貝塚 はその南に当る亀山の小字川地にあります。豊島ヶ池
といひまして、もとは入海であつたと考へられる大池の傍にありま
すが、此処から大正十一年清野博士が二十五体の人骨と色々な遺物
を獲て居られます。中にも彫刻のある石冠は非常な珍品といはれて
ゐます。
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泉福寺 は大字山田にありまして、天平二十年渥美重国の建て
たものといはれる古い寺です。その重国はこゝの郡司で泉村に住ん
でゐたと伝へられてゐますが、渥美は安曇で白水郎をアマと読み安
曇の一族ですから、白水の二字を合せると泉となり村の名も寺の名
もこれによつたものといはれて居ます。神戸村の大泉寺にある誕生
仏は寺伝によると渥美氏の祖先渥美白水から伝へたものといはれ、
支那六朝式のものです。又知多郡野間の大御堂には大勧請栄源奉施
入三州渥美郡泉福寺拝殿、元応二年八月日と刻んだ錫杖があります
し、伊良湖岬村和地の医福院には正和五年六月十日三州渥美郡山田
郷泉福寺東坊云々の奥書ある大般若経のある事などから見て余程古
くから栄えた寺といふ事が出来ませう。
経瓦 保美の海宝天神社にある経瓦は附近の経塚から発見さ
れましたもので、尊勝陀羅尼経が殆んど揃つて居ます。書体から見
ると平安朝のものらしく、外に又伊勢の天神山で発見された経瓦に
は承安四年六月渥美郡伊良湖郷の銘があり、更に東観音寺には其頃
のものと思はれる立派なものが残つて居るのを見ますと、文化的に
見ても面白いものだと思ひます。
次の伊良湖は福江から殆んど南に当つて居ます。此処は渥美郡の
突端で、知多郡師崎とで三河湾を造り遥かに伊勢と相対して居ま
す。
此地を万葉集にある五十良児島とする事は肯定されませんが名所
であることは間違ひなく、道路に沿ふ西方一帯は陸軍の試砲場と
なつて居まして自由に立入ることは許されません。それ許りでな
く有名な伊良湖神社を初め一村全体が他に移され、移されないの
二三七
二三八
は前申した芭蕉句碑だけですが、それも危険区域にある事とて、
いつ重砲なり爆弾なりの洗礼を受けぬ共限らず、思へば心許ない
限りです。聞く処によればこの句碑は次に申上げる伊良湖神社境
内へ移建されたと云ひますから、その心配はもうなくなつた訳で
す。
伊良湖神社 はもと伊良湖御厨に祀られた社でありませう。其創
立は明かでありませんが、古来神宮との関係が深く式年御造営毎に
撤下材を拝授して其度毎に造営する事になつて居り、又四月十四日
に行はれる御衣祭には十里二十里先からも参詣する者が多く非常な
賑ひです。
瓦場 は伊良湖と小塩津とに跨つて今も地名に残ります。東
大寺再築のとき、こゝでも瓦を焼いたもので、間々完全なものが発
見されてゐます。これは建久再建のときのもので。其巴瓦には東大
寺大仏殿瓦の七字が周囲に配されてあります。此処で焼かれました
瓦は船で安濃津に送られ、それから山越に奈良へ行つたものと研究
されてゐます。
糟谷磯丸 はこの地の生れで徳川時代に於ける特異な一大歌人で
ありました。殆んど無学文盲でして、四十歳近くになつて漸く仮名
を覚えた位ですが、非常に歌才があつて人を驚かして居ります。吉
田藩主に従つて将軍に謁した事もあり。更に芝山大納言の計ひで一
日だけの五位を授けられ、天顔を拝した事もあります。其歌は天地
の自然を咏んだ詩的のものもあり、又道歌狂歌の類もありますが、
よく味ふと愈々味が出て来て、哲学を詩化したのが磯丸の歌だとさ
へ云はれてゐます程で、実に近代の歌聖と申すべき人であらうと思
二三九
二四〇
ひます。
日出石門 は字日出にあつて、大平洋に面し怒濤岸を噛む処にあ
りますが、地理大系には次のやうな説明が加へられてあります。
伊良湖附近は海岸平野上に古生代岩石の丘陵が立ち其先端は浸蝕
されて伊良湖岬となり、次の突角附近が日出の石門となる地形学
上の対置海岸である。岸頭から石門や神島の眺望はよい。褶曲に
富んで奇岩の島と岩丘とを打寄せる怒濤が、断層断に沿ふて貫い
た洞穴が石門である。石門から灯台へ小径をたどる途中恋路浜は
風景一層佳である。
浜辺からの眺より、私は巌上から見下した景色が一段よいと思ひ
ます。私は遠慮なく川合の天然橋と共に三河の二大絶勝だと推称し
てよいと思ひます。
医幅寺 は大宇和地にありますが、此寺の大般若経は木曽義仲
の祐筆であつた太夫坊覚明の筆といはれてゐます。事実覚明の奥書
もあるが最後の奥書に正和五年六月十日比丘円澄【?】とあるので一筆写
経ではありません、又貞治何年かに補修したといふ奥書もあります
がとに角有名な経文です。
次回は市の西方を申上げて一通り御案内を終り、又足らない処や
申残したものなどを補つて見たいと思ひます。では今度はこれで
失礼致します。 草々
二四一
二四二
【右頁白紙】
第五信
これまで四回に分けて申上げましたのは豊橋市を中心として北と
東と南の三方面で、今回は西に当る御津、三谷、蒲郡方面を申上げ
て一通りの御案内を終ることに致します。
東海道線で参りますと、次は御油駅ですがその御油の町は駅から
二十町も北にあり、駅は御津村西方にあります。
御津神社 は駅から西北数町の山の間にあります延喜式内社で、
文徳実録に仁寿元年十月参河国御津神授従五位下とあるものです。
祭神は大国主命で、摂社の磯宮には綿津見命、船津神社には猿田彦
神、御舳玉神社には住吉大神がお祀りしてあります。社伝によりま
すと昔祭神が船で御出になり、御津村の六本松といふ処へ御上陸に
二四三
二四四
なつたといひますが、この点から見ましても海部系の神様である事
が知られます。社殿は流れ造り檜皮葺で、拝殿が妻入である事が注
意されます。
今の建物は余り古くありませんが棟札には応永廿一年、永享十一
年、天文十五年、天正八年などあり、宝物の古鐘は享徳元年在銘の
もので、当庄刺吏細川刑部少輔源朝臣藤原政家の名があり、又永禄
元年在銘の鰐口は慶応三年に近くの山中で発堀したものです。又大
同類聚方には此社の伝方として母良世薬といふを載せて居ります。
これはそこの村瀬貫名に伝へられたことになつてゐます。
次はこの社と殆んど相対して居る大恩寺です。
大恩寺 は浄土宗の大寺で、古くは新宮山の麓にあつたのを延
徳二年に遷したといふ事でして、其頃は大運寺といひました。当時
の往【住】職は愚底上人で後に岡崎大樹寺の開山となつた人です。松平親
忠が非常に信仰して本堂其他を再興し、阿弥陀の仏像を寄附して居
ります。本堂は最近のもので単層入母屋造り、設備は立派ですが取
立てゝいふ程のものでなく、山門の重層入母屋造りの方が遥かに優
つてゐます。
左側にある阿弥陀堂は今国宝に指定され、天文廿二年の建築で、
初め杮葺であつたのを後に桟瓦葺に改めましたから外観が少し重苦
くし【しく】見えます。然も構造も手法も中々立派なもので、組物が極彩色
であつたり、柱間に詰組があつたりする処は実によい感じです。そ
れに内陣が三間二面で廻廊が化粧屋根裏である事がこの建物の特色
で、繋拱梁も面白い出来です。正面の須弥擅は様式から見ても確か
に天文頃のもので、其屋根にある鯱と三花懸魚とは我国に現存せる
二四五
二四六
最古の実例として珍重すべきものだとも聞きました。
宝物も沢山ありますが、中に王宮曼陀羅一幅が国宝に指定されて
ゐます。これは絵の中に皇慶元年二月とありますから支那伝来品で
せうが、作者の名は分りません。観無量寿経の説相が描いてありま
して摩掲陀国王舎城の阿闍太子と其父母についての因縁を表し、そ
れが城内王宮に起つた事なので王宮曼陀羅の名がついたといひます
これは松平親忠が寄附したものです。
外にこれに準ずるやうな絵画も二三点あり、又古文書では明応三
年三月五日と明応八年三月廿三日の綸旨が二通、牧野右馬允の消息
徳川家康の消息、文亀四年山県三郎兵衛の制札などがありますが、
それ等が何れもこの寺の歴史に関した物許りで実に得難い資料であ
ります。
国坂越え は御津村広石から宮路山の南麓金割を通つて蒲郡町の
五井に出る古い街道で、この沿道には奈良時代の創立と思はれる弥
勒寺址がありますし、五井長泉寺は神亀年間の創立と伝へる外、附
近には長者の伝説も残り、今日余り利用されない通路ですが歴史的
には興味津々たる処で、一度は杖を曳いてよいと思ひます。
これから三谷、蒲郡へは勿論鉄道も通じてゐますが陸路では平坂
街道が通じてゐます。途中の大塚村は其名が示すやうに古墳が所
々にありまして、発堀されたのもあればまだ未発堀もあり、深く
研究されてゐませんので早晩この方面は研究者の好目標となりま
せう。現に数年前三谷町の一青年が突然神懸り状態となつて、我
は氏神の主筋に当る田上塚である、どうか我を氏神として呉れる
やうと口走つたので大変な評判となり、見物人が押しかけた事が
二四七
二四八
ありますが、これも殆んど破壊された横穴式の古墳でした。
法住寺 はこの大塚村赤根にありまして、こゝの千手観音像は
昭和七年国宝に指定されてゐます。明治の初年伊勢から貰つて来た
とかいはれ、高さ五尺八寸からある立派なものです。藤原末期の作
で、処々に菊丸紋や亀甲繋などの截金模様が残り、手法は多少繊弱
な感はありますが兎に角立派な仏像です。
養円寺 は同村相楽にあります。もと保国山全福寺の塔頭十二
院の一だといひますがこれだけが残つたものでせう。その全福寺は
例の行基が神亀年中に開創したと伝へる寺で、建久の頃安達盛長が
頼朝の命で造営したといふ三河七御堂の一つです。
後の御堂山に観音堂がありまして、こゝに全福寺の本尊であつた
といふ十一面観音像が安置してあります。高さ五尺二寸、寺伝では
行基の作となつてゐますが相当な出来です。記録などから見ますと
全福寺の名よりはこの御堂山観音の方が多く現はれ、それだけに人
にも多く知られてゐます。養円寺にある宝国山記一巻と宝円山養円
寺記一巻は余り古いものではありませんが、この全福寺の来歴を物
語つて居ものです。
三谷町 は大塚村の西に当る県下有数の漁港でありまして、其
東方の突出した岬の上に乃木公園があります。此処には乃木将軍の
石像が三河湾を睥んで立つて居られます。三谷は和名抄の美養郷に
当る処で、其海岸は三谷浜といひまして古来歌の名所として有名で
す。近年この浜辺へ後撰和歌集にある清原元輔の歌、
「みやはまのいさごのこすなわが君の
たからのくらひかぞへみむかし」
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二五〇
とありますものを御歌所寄人の坂正臣氏の揮毫によりまして立派な
歌碑が建ちました。
乃木山下にある八剣神社は、神名帳にある従五位上八剣天神、座
宝飯郡とあるのです。この祭礼は俗に三谷祭といひ、神輿の海中渡
御がありまして勇ましい祭です。これは遠州灘は勿論遠く朝鮮や南
洋までも活躍して居りますこの村の漁民たちの一年一度の祭でして
如何に違【遠】方に居る者でもこの祭には必ず帰るといふ事です。
前面海上に浮ぶ大島、小島、仏島は西の形原村と似寄りの距離に
ありまして、昔両村で地を争ひましたとき、相談の上同じ時刻に船
を出して早く着いた方の村のものにしやうといふ事になりましたが
三谷の方が勝ちまして、其時から三谷の地に属したといふ誠に漁村
に相応しい物語が伝はつてゐます。其大島は毎年夏キヤンプ村が出
来て賑ひます。仏島は島が海中に没し僅に山骨を海面に現はしてゐ
ますので、それが如何にも墓場のやうな感がある処から名付けられ
たものです。
竹島 はその近くにありますが、これは蒲郡町に属し海岸か
ら何程も距れて居りません。そして干潮時には徒渉出来る程ですが
今では永久的な橋がかゝりました。全島暖地性の植物が繁茂し鬱蒼
として居りまして、遠く望むと笠を伏せた形に見えます。此処に生
育する五十余科百数十種の植物を保護する為、昭和五年天然紀念物
に指定されました。
この島には日本七弁天の一だといはれる弁天様が祀つてあり、八
百富神社と号してゐますが、これは安徳天皇の養和元年、藤原俊成
卿が江州竹生島から勧請して参り、其時竹を二本移し植えた事から
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竹島の名が起つたといひます。八百富の名は享保廿年八月、時の神
祗伯が命名したものださうです。
この海岸一帯は海水浴の名所である許りでなく風景佳絶で、国際
観光ホテルもあり遊覧設備も着々進行中でありますから、将来は東
海の一名勝として喧伝されるでありませう。
この蒲郡はもと蒲形西郡二村を合せた名で、その蒲形には蒲形城
址があつて、建久年間安達藤九郎の築城したものといひます。又
上の郷、五井、不相にも城がありました。この町で見るべきもの
は赤日子神社、安楽寺、天桂院などであります。
赤日子神社 は神の郷にある延喜式内社で、文徳実録及三代実録
に三回程叙位のことが見え、国内神明帳には正二位赤孫大明神と載
つて居ります。境内の風致もよく社殿も立派です。
社伝によりますと昔此社から神宮へ神御衣祭御料の麻を献じた、
それが三河赤引糸だと申して居りますが、本社の祭神が海部系統の
神であること、穂国の中心から距れてゐる事及び赤引とは絹糸に負
せた名である事などから推して信用し兼ねる説だと思ひます。
大体この地方は地形から見ても一種変つた処で、延喜式又は和名
抄以来宝飯郡に属してはゐますが、三河と穂の二国に狭まれた小独
立国の観があり、それが熊野によく似た状態である許りでなく、熊
野新宮の別当行範の男十郎蔵人行家は五井城を築いて居りますし、
又供僧常香の後裔鵜殿藤太郎長門は神の郷に城を築いて居りまして
非常にその地方と関係が深く、この社が海部神を祀つてあることも
実は当然で彼等に養蚕の技術があつた事はどの方面にも伝へられて
ゐません。
二五三
二五四
安楽寺 は清田にあります。小高い丘の上に構へられ本堂も山
門も重層の立派な建築で恐らく東三第一の結構といつてもよいでせ
う。創立は応永十五年、開基は額田郡法蔵寺の開基と同じく龍芸上
人で以前こゝに勧学院がありました。
これは長保二年寂照法師(大江定基)が創立したもので荒廃に及
んでゐたのをこの時再興したやうに云ふてゐます。本尊はその勧学
院の本尊で行基の作といふことです。
この寺が現在のやうに規模を大きくしたのは久松佐渡守の庇護に
よるもので、寛永七年に本堂が出来、宝暦二年に大門、又明和七年
に総門が出来てゐます。境内にはその久松佐渡守の墓が五輪で残つ
てゐます。
清田大楠 は安楽寺の北方にありまして、天然紀念物に指定され
た三河一等の大樹であります。囲りが四丈余、高さが八丈、枝張り
は東西へ八丈、南北へ九丈で樹勢は豪も衰へてゐません。この樹に
つきましては、昔八幡太郎が奥州征伐に行くとき植えたとか、時々
龍灯が上るとか、この木を切ると村中を焼尽くす火事が起きるなぞ
の伝説があり。村人達によつて大切に保存されて居ます。
天桂院 は文亀三年竹の谷の城主松平左京亮一家の菩提を弔ふ
為に松平守親が建てたものです。もとは今の塩津村にありまして龍
台院と云ひましたが、天正十八年松平玄蕃頭の武蔵八幡山転封と共
にその地へ移し、慶長六年吉田へ転封とともに又吉田へ移し、この
とき寺号を全栄寺と改め、慶長十七年再びこの地へ転封して寺を移
し、寺号を母天桂夫人の名によつて改めたといひます。今にその墓
地には代々の墓が残つてゐます。
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二五六
境内には俗に沙羅双樹と呼ぶ大小二本の樹がありますが、実はや
まぼうしと云ふ木で大きな木ではありませんが珍らしい木だといは
れてゐます。
坂本古鐘 は蒲郡から北へ一里許り坂本の大塚寺といふ無住の小
寺にあります。この鐘は今廃寺となつた薬勝寺のものでして、一時
安楽寺に預けてあつたといひますが後年こゝに納まつたものと見え
ます。寛喜二年のもので箱根から鈴鹿までの間で第一等の古鐘です
この鐘は一時所在を失ひ、人々から惜まれてゐたのを数年前私が友
人と手を尽し捜し当てたもので、山上無住のこんな小寺にあらうと
は思ひがけ□【ま?】せんでした。
銘文は陽鋳で、これを鋳造した行範は五井城を築いた蔵人行家の
父で熊野新宮の別当湛海の孫に当るとか聞きましたが、これは将来
国宝に指定される可能性あるものと思ひます。
長泉寺 は五井にありまして創立は寺伝によると神亀年中行基
の開創となり、これを建久年中、安達藤九郎盛長が再興したと伝へ
て居ます。この盛長の造営した寺が三河に七ヶ寺ありまして、これ
を三河七御堂といひ、普門寺、法言寺、財賀寺、鳳来寺、御堂山そ
れにこの寺と西三河の金蓮寺といふ事になつゐます。
仏像には行基の作と伝へる千手観音像、慧心僧都の作と伝へられ
る薬師三尊、運慶の作と伝へる不動、毘沙門の二像もあり、又境内
には安達盛長の墓や松平家の墓もあります。
次は形原方面のことを申上げませう。形原は宝飯郡の西端、幡豆
郡に接した処で、和名抄にも載り或は昔慶雲が見えたといふやう
なことも伝はつてゐます。殆んど漁村ですが、こゝに式内官社が
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一社あります。
形原神社 は国内神名帳に従四位下形原明神、座宝飯郡とありま
す。これには異説がありまして、八幡村八幡社がそれだといひます
が、郷の配置から見てこの社と見られるのであります。中世ひどく
荒廃して殆んど所在もみとめられなかつたやうな有様でありました
が、其の後復興されたものです。社伝では舒明天皇の十一年摂政藤
原千方公が埴安大神を祀られたのが初めだと申します。吉田の国学
者羽田野敬雄は天保四年此の社に詣でて、
「いにしへの栄へも今は形の原
かた許りなる御社はなぞ」
と咏じまして荒廃を歎きましたが、其の後六年を経て天保十年再び
詣でますとすつかり造営が出来、立派になつてゐましたので、
「かたの原形許りなる御社も
古きに帰る時は来にけり」
と咏んで喜ばれたといふ事が翁の記録に見えて居ります。
以上で豊橋市及び其の附近の名所旧蹟に就きまして大体の御案内
を終りました。それもほんの重立つたものゝ概略でありまして、細
かい点まで申上げますれば際限もありません。のみならず御感興も
湧かないだらうと存じ省略致しました。尚郷土特有の士【土の誤植か】俗なども御
紹介致したいと思ひましたが色々の都合で省かせて頂きました。
最後に補遺でもなく概論でもない、云はば郷土雑感のやうなもの
を申上げて御約束の責任を果したいと思ひます。
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二六〇
先日私が一寸とした用事で豊橋駅に居りますと、豊川稲荷参詣の
団体がゐまして、一人が豊橋に何処か見物する処はないかと聞くと
一人が恐らく何もない処だ、町らしい町はこの駅前だけだと話して
ゐましたので私が傍から話かけて二三勧めて見ましたが格別興味も
惹かなかつたと見え其の侭帰つて行きました。尢【尤】も此の人達には趣
味と時間の余裕を持たない関係もあつたでありませうが、それにし
ても今少し外来者の足を止めるやうな設備があつてもよいと思ひま
す。旅行協会もあり観光協会もあるのですからこれは何とかしなけ
ればならぬ問題でせう。
余談はさて置き、私共としては住めば都でこれでも多少は郷土の
誇といふやうなものを持つて居ります。尢【尤】も土地自慢は大底の場合
主観的な自惚れで、客観的立場からはお笑草に過ぎない場合がよく
ありますから其のおつもりで御覧を願ひます。
土地自慢にも色々の方面がありまして、御承知のあの岩屋山上に
ある観音像も、仏法僧の鳴く鳳来寺も、或は又日本一多数の人骨を
出した吉胡貝塚も、市としては不似合な程立派な公会堂をもつ事も
自慢の種であるかも知れませんが、私は主として歴史の方面から少
し許り自惚れて見たいと思ひすす。
御承知の通り東三河は古くは穂国といひ、大化改新のとき今日い
ふ西三河を合せて三河国が出来ました。それから千余年後の今日で
も東三と西三とは言語風俗又は人情習慣の上に多少の相違が認めら
れるのでありまして、この点で伝統の力が如何に強いものであるか
を知ることが出来ると思ひます。この穂といふ名前には五穀豊穣の
意味が含まれ、農業とか養蚕について先進国であつたのであります
二六一
二六二
これには帰化人である秦人達の功績を考へなければなりませんが、
其の結果は奈良朝から平安朝を通じ三河白絹の名で声価をあげ、践
祚大嘗祭には持に当国の絹糸を御採用になりまして、犬頭糸の名に
依つて朝廷の御料に供すると共に、畏くも神宮で神御衣祭の御料に
三河赤引糸を召されたといふ事実があります。此れ等は何処の国に
も求め得られない名誉であると私は考へて居ります。
それから近頃研究の結果によりますと、東三河の地は非常に考古
学的遺物の豊富の処で、学界著名な遺跡も十指に余ります。その発
見品には先史、原史時代を通じあらゆるものが出て居ります。私は
それ等の遺物の発見を誇るでなく、二千年三千年の昔に、かくも多
数の器物を遺す程の人間が住んでゐた事が、この地方の自然の恵の
如何に篤かつたかを語るもとして、誇るべきだとも思ひます。
然しながらこの自然の恩恵は人々を保守的な退嬰的な気風に陥れ
それに東西交通の衝に当つて色々の事物に接する結果人情は軽薄と
なり敦厚の風は見られません。これが古来大人物の出なかつた大き
な理由でありませう。勿論元亀天正頃には多少覇気のあるものも出
ましたが、気の利いたものは天正十八年家康に従つて江戸へ出て仕
舞ひ、跡には屑許りが残つた形です。その上徳川氏が三河全国を十
小藩に分ち尚其の間に天領を置いて大勢力の発生を防いだ、これが
余程人心に影響して居るやうに見られます。
次に物の方面で申しますと、国宝が十四点、史蹟が三ヶ所、これ
に天然紀念物が十ヶ所許りあります。其の内国宝では国分寺にある
奈良朝時代の鐘、普門寺にある久寿三年の経筒などは立派なもので
史蹟としては奥平信昌、鳥居強右衛門によつて知られた長篠城、天
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然紀念物では鳳来寺山と蒲郡の竹島、川合の天然橋でありまして、
此れ等が東三河の代表物と云ふべきでせう。
景観としては、その竹島と天然橋へ日出の石門を加へて東三の三
景と申してもよく、これに次ぐものが鳳来峡の秋色かと思ひますか
其の外本宮山頂の眺望、史実と伝説に富む宮路山の紅葉なども棄て
難いものです。
古社寺の方では延喜式に載る官社が八社ありますが、何れも小社
で其の筆頭が一宮砥鹿神社です。今国弊小社になつてゐます。寺で
は国分寺と、小坂井町の医王寺、御津村の弥勒寺は奈良時代栄えた
寺と思ひますが、現在では世間的に有名な豊川閣と安達藤九郎の所
謂七御堂が僅に残る程度に過ぎません。
歴史の徴証としての金石文では、最古のものが前にも申しました
久寿三年の普門寺経筒で、寛喜二年の大塚寺の古鐘もよく、慶長以
前のものは約三十点を数へる事が出来ます。又棟札の類には室町時
代頃からのものが所々に残り地方誌に確実な基礎を与へてくれます
最後に今一つ申上げたいのは北設楽郡稲橋村と渥美郡福江町にそ
れ〴〵献糸会がありまして、神宮に於ける神御衣祭御料の糸を献つ
てゐる事で、これは古く三河赤引糸を召されたのですが長く中絶し
てゐましたのを、明治十二年稲橋村古橋源六郎氏が復興を願ひ出て
組織し、又明治三十五年には福江町渡辺熊十氏が願ひ出で組織した
ものでこの福江の献糸会へ大正十三年から知多郡半田町も参加して
居ります。これは他に類例のない東三河独特のものでありまして、
国体観念の上から或は産業振興の立場から大に誇つてよいものと信
じます。
二六五
二六六
以上長々と取止めもない事を申上げ失礼致しましたがこれにて擱
筆いたします。いつかまた御閑暇の節再度御来遊を御侍【待】ち申して居
ります。 敬具
東三河道中記下 終
附録
東三古謡集
二六七
催馬樂 貫河 本文一五五頁參照
一段
ぬき河の瀬々の小菅の やはら手枕 やはらかにぬる 夜は【「は」字、右転倒】なくて
おや(イキ)避くる夫(つま)
二段
おやさくる夫は ましてるはしも もかし(イキ)あらば矢矧の市
に 沓買ひにいかむ
三段
沓かはば /線鞋(せんかい)の細底(さくつ)を買へ さしはきて 上裳とりきて 宮路か
よはむ
砥鹿神社 田遊祭歌詞 本文一七二【「頁」抜けか】參照
田うち
田を作らば門を作れ 門には田の門吉の〳〵くわそめに ふたねを
ひろめ まいも〳〵まヽいもの きぬをば田ごのもに吉の
なはしろ
白金のにはとこ 小金のこくさぎ めんどりはにしいといと おん
どりはにしいといと
もみまき
ふくまんごく〳〵〳〵
鳥追ひ
こりやたが【こりゃ誰が】 鳥追ひ 天下樣の鳥追ひ こりやたが鳥追ひ 御供田
の鳥追ひ おへおへ扨とり追ひ 山のものにとりはておふべきもの
あり みねをはしるは みみやういくのこうさぎ谷にふすは いの
丸かつら 田におつれば おふべきものあり ひろひくらう小すず
め すすり喰ふくろかも あぜをのたるは とうかめ あぜをもつ
は けら丸 おへ〳〵鳥追ひ
田うゑ
いたづかのそおとめ 五萬人よなつかのそおとめ 五萬人しろかき
田京次 つつみ打とうまれい
田刈
京からくだるふしくろのいね いねは三ばで米は八石 京からくだ
るふくらすずめよ よねたはら いただいてくだる ふんまんごく
の もちつく要は うすもとよりも おくおみみたまへば けすぞ
樂しや〳〵
束かぞへ
まちに萬束 せまちに千束 千萬束 まヽのそん〳〵
いなぶら
いなふらは打は打つて候が あそうぎのほどが めんどりはいゆか
うて候 京の九條のとうの九りんのゆかう田を 京ばん正が京わら
んべにわらわれしとて 夜のまに直したつ らんがふせいこいなだ
うが こしのふんなうを以て 直さばやと存候 直しは直りて候が
我君五万歳まで 御さかえしよちには しよちかさせ りやうちに
は りやうをおさしそえて このおんいなぶら いつときのまに
つく〳〵とわき出候
田峯觀音堂 田樂神歌 本文一八八頁參照
ヤイヤア 美濃に上品尾張に紬 三河白絹 遠江にあらヽぎが米
甲斐に黑駒 伊豆に大黑 上總にゆんぎ 出雲に轡 武蔵に鞦(しりかい)
紺の手綱を持ちや揃へて これのみうちへもつてぞまいる
ハイヤイヤ
ヤイヤア 新らしき年の初めに年男 あきかたから白銀をひさぐに
まげて水汲めば 水諸共に とびや入ります
ヤイヤア /東(あづま)には女はなきかよ 女はあれども ヤイヤア神のきら
ひで 男巫子
ヤイヤア しやぐじ大ぼさん 只ならぬ神でまあします 星の位に
まします さか盛りや酒やが子供も△△△△【ママ】まする あからぬて
いで あれにまします
ヤイヤア 白鳥大明神の御前 十一面觀音の御前 あやすけも 皆
まいりうどの祝ひなるらん
ヤイヤア 東山小松山影出づる月 西へもやらじこれへ照す
ヤイヤア 春くればいかにくはごも惠とるらん いかにくはごも嬉
しかるらん
ヤイヤア 春くればおそね花よね うちまぜて 皆まいりうどの祝
ひなるらん
ヤイヤア 辭義を申せよ辭義ならば くきと申すか 辭義をは神も
厭ひなるらん
ヤイヤア 譲り葉や 若狹にもとるよ 白鳥大明神△△【ママ】
ヤイヤア 十一面觀音の北の林のすもヽの芝が 千代 千代と常に
囀ずる
ヤイヤア 白鳥大明神の鳥居の御座に綾を敷き 錦を敷きて御座を
定めて
門に五常の松を祝ひ御代若き万歳おはします我等も千△【ママ】さむらん
あいの門を開きて 御前參りて打△【ママ】の錦のけちやうもんを卷揚△
△△△【ママ】し給へ 玉のみうちや
田峯盆踊歌詞 本文一八八頁參照
これが山家の十六踊り 足が九つ手が七つ
ヤンサ彌之助來たそな背戸へ 一分雪駄の音がする
踊れ若衆三人でなりと 四角三角そばのなり
オサマ甚句はどこからはよた 三州振草オサマ下田から
ハヨイ節なら習はにやならぬ 國へ土産にせにやならぬ
セツセ踊りはせつない踊り 腹にある子をもみさげる
何が何でもすくいサでなけりや東しや切れても夜があけぬ
其他多數あり略之
財賀寺田植歌 本文一五〇頁參照
善哉ようしんや 作田たをつくる 作前田かとだ【ママ・かどたの誤植か】んをつうくる 善哉よ
うしんや 自前田かどたんよく 入遠田いりまんするとほもに 善哉よ
うしんや 所徂ゆくところ /善哉(ようしんや) 善哉 桑麻實種くはさうのこだん
滋ゆをひろめ 善哉 繭與麻まいもまい 麻繭可織まいもきぬうんな
善哉 田衣繭たごろもにきぬ 可織うんな 善哉 陳銀壺しろがねのつ
ぼをならべ 善哉 水■【奭?・器の異体字か】みつくうめば 水候みづもつとうもに 善哉
富有とみぞあるんな
下干春田はるたにおくるなら 稻苗其葉とうみやうさのはを 摘入干兩
手み【ママ・りの誤植か】やうてにつみれての 詣社みやへまゐるよの 白壟上るすもとよりも
春裏田うらをみやればの 稻苗彼面とうみやうかつらち 所滋蔓ねざす
とこをの
小坂井菟足神社笹踊歌詞 本文一二四頁參照
一番 大明神諸神 しめを引けや〳〵
/八百萬神(やんよろ)神も そんよそうよ
二番 おさじきの御前で梅はほうろり
まりは枝にとうまれよう
三番 金の金の御幣を差上げて
參ろうよ 差上げて參ろうよ
四番 卯の花をかきねならびに ほとヽきすやきすや
八百萬神も そんよそうよ
五番 あれを見よ 沖つ島でこぐ船は
へさきではやらひてさんさで でて行笹の林ぶんぶ
牛久保町八幡宮笹踊歌詞 本文一六三頁參照
一、馬塲先の千本松は西東の名所よ〳〵
(ハヤシ)サーゲニモサー やんよく神もやんよう
(一節每ハヤシあり)
一、武運長久 御役所も榮えろう〳〵
一、いざや參らうよ 若宮へ參らうよ 若宮へ參たら
福の神を貰うだよ〳〵
一、八幡の先達は 白鳩を迎へらう〳〵
一、丑の年丑の月日に初まりて牛久保と名をつけた
一、二六七さい每市も榮えらう〳〵
一、南に熊野權現 東に天王 中に八幡とどまりまします
一、千早振神の生垣に松を植えて久しき名所と愛でたよ
一、きのふけふ若葉なりしが若宮のおふろの杉も榮えろう〳〵
一、げにも貴や 我内の神はよ〳〵今日こそ共に參らうよ
一、氏子揃ふて今子の橋を渡るよ 今子の橋を渡れば遙かに森が見
えるよ
一、當所氏神は熊野の分れで あら神にてまします
一、熊野權現の御神体は若一王子にてまします
豊川進雄神社笹踊歌詞
一、豊川の水の流れは清ければ 本のか原に神とどまりまします
げにもさよ〳〵神もさよ〳〵
一、豊川の西に若宮東に三社高のごぜん南に妙高辨財天
天に熊野權現 中に天王御立有り
一、豊川は名所〳〵よ 豊川の口は七口丸市塲 市は四日九日〳〵
一、天王の御奥の院とう光寺 藥師は福神でまします
一、旅人のこよひやはぎにかりねして 明日や渡らん豊川の水
一、豊川の浪も風もしずかに 治まる御代の 目出度〳〵
一、天王へ參たれば福の神をたもつた實にもさよ〳〵神もさよ〳〵
八幡村踊山の歌詞 本文一四八頁參照
○しかくはしらは かどらしよござる かどのないのがそれよかろ
○ひともとすすき ゑんややと ひきや手がきれる
○梅は匂へど櫻は花よ 人は見目より ただ心
○末を申せば まだなごござる お伊勢踊りは これまでよ
牟呂村雨乞の歌 本文一一五頁參照
ちはやふる 神の御前でささおどり
神のめぐみで いよ雨がふる
わしは澤水 出はでて來たが
岩にせかれて 落ちあはぬ
いつも出てくる 背戸がの水が
こよい出て來て 名をながす
いよさヽおどり 神のめぐみで雨がふる
市塲
おどろ〳〵となるかみなりは
おきのくらやみ雨となる
北設樂郡方面花祭唄 本文一九六頁參照
○伊勢の國高天原はこヽなれば こヽなれば 集り給へ四方の神々
集り給へ四方の神々おもしろ
○諏訪の海水なそこ照すこだま石 手にはとれねど 袖はぬらさじ
○神道はみちも百網 みち七つ 中なる道は神の通ふ道
○七瀧や八瀨の水を汲み上げて きよめればこそしようじとはなる
(外に澤山あり略之)
縣社吉田神社笹踊歌詞 本文八七頁參照
天王の御本尊は 何佛にてまあします
藥師の十二神と現はれ給ふ神々 サーゲニモサーヨ
聖王と申するは唐土の國の神々 サーゲニモサーヨ
大師文殊を拜むとて ヤアー
/忉利(とうり)天へ上れよ/忉利(とうり)天へ上れよ
衆生利益の為にとて此所へ天下らせ
君を守り玉【ママ】ふよ君を守り給ふよ
さるに此の所と申するは 目出度かろう すろう
樂しかろう すろう すろう
各々御幣を差上げて祈る祈る
感應なるらんヤンヨウ 神ヲヤンヨヨウ
熊野なる入江の奥の椰の葉よ
參りの人の祝なるらん ヤンヨウ 神ヲヤンヨヨウ
井垣に建てる榊葉よヤアー
神のしるしなるらんヤンヨウ 神ヲヤンヨヨウ
三河なる今子の橋を いざやとどろ〳〵と打渡り
ハア思ふ人渡れよ ハア思ふ人渡れよ
橋本の千本の松は西東の名所よ ハア沖の白浪
見下せば 鹽見坂名所よ 鹽見坂名所よ
姫島をさし出て見れば笠島よ
沖こぐ船に袖ぬらす ぬれてさヽらすろう すろう
駿河なる富士の高根は名所かな 富士の高根の洲流れて
流れもやらぬ浮島が原 ヤンヨウ神ヲヤンヨヨウ
奈良の都の八重櫻ヤー 奈良の都の八重櫻
田面はしれば志賀の都名所よ 志賀の都名所よ
鶯が櫻の枝にすをかけて
ゆられて花のちるをしさよヤンヨウ 神ヲヤンヨヨウ
時鳥深山渡りをするときはヤア卯月に渡れほとヽぎす
里へ下ればさへずるならんヤンヨウ神ヲヤンヨヨウ
秋の野のさを鹿戀にこそやつれよ
秋こそ虫がさらりさらりと ヤンヨウ神ヲヤンヨヨウ
鹿の啼く音に夢さめて 秋は心すごいよ 秋は心すごいよ
青柳の糸をくりくりためて
はたをへるハアもようよ もようよ
吉田おんぞ歌詞 本文九三頁參照
一、おみすヨイヨイヨイヨイ出處は岡本さまよナ
田町お宮へ踊りこむ (以下調子略ス)
二、此處は田町の神明樣よ
皆んな揃ふて踊りこむ
三、おんぞふれ〳〵六尺袖を
袖を振らねば踊られぬ
四、橫町々々は暮しとござる
花の本町星月夜
五、坂を上れば關屋がござる
かうてやりましよまき筆を
六、田町船町清水車
たれを待つやらくる〳〵と
七、橋のらんかん腰うちかけて
月をながめりや餘念なや
八、おんぞ踊子が橋から落ちて
橋の下では踊られぬ
九、おどる中でもあの子が一寸いと
さぞや親達うれしかろ
一〇、わしと行かぬかおくらのせどへ
忍び櫻の枝おりに
一一、吉田本町萬やさまに
一期居りたや風の期に
一二、吉田通れば二階から招く 然もかの子のふりそでで
縣社神明社神樂歌 本文五二頁參照
一、新玉にヨウ御門に。五葉の松を立て。松は祝つて立つたぞよ。
千年經よと榮えけるヨウヤア。新玉の年の始めに。ヤウ年男。
ヤンヤア。年男年もてまゐるは。ヤウヤア。美濃の上品ヤンヤ
ア。年男年立ちかへりヤウヤア。空見れば。ヤンヤア。空見れ
ばそらこそよけれ。ヤウヤア。
二、新玉にヨウ御門に。五葉の松を立て。松は祝つて立つたぞよ。
千年經よと榮えける。ヤウヤア。白銀をひしやくにまげて。ヤ
ウヤア。水汲は水諸共に。ヤウヤア。富ぞくまゐる。ヤウヤア【行末句点省略】
春くれば。先花米をヤウヤア。打ちまきて。ヤウヤア。打ちま
きてみな人よしと。ヤウヤア。
三、新玉にヨウ御門に。五葉の松を立て。松は祝つて立つたぞよ。
千年經よと榮えけるヤウヤア。桑園に。蠶種をひろめ。ヨウ。
ヤンヤア。繭も繭もヤンヤア。繭も繭も繭もの絹は。ヤウヤア【行末句点省略】
毛衣にせよ。ヤンヤア。氏人のあるちやう。里は。ヤウヤア。
身も寶。ヤンヤア身も寶。丸生る石のヤウヤア。ひらくなるま
で。
八名郡嵩山大念佛歌
和讃
澄めよ澄ませよ心静めて歌を腹せよ
朝日さす兩日輝く此の堂に黄金作りの佛まします
觀音の前の小池に蓮放し舟を差出し蓮を切りそろ
目出度や此處のお庭に井戸堀つて水は出もせで黄金わきそろ
白金の銚子ひしやげに茶釜茶びしやく此處の泉を汲むぞ目出たき
十五夜の月に曇はなけれども庭の櫻で内のくらさよ
此の櫻きろよ〳〵と思へども花の咲く木でよもや切られん
此の宿は如何なる宿と人問へば風は吹かねど吹きあげの宿吹きあげ
て入(いり)破(は)七(なな)口(ぐち)出(で)破(は)八(や)口(くち)出破こまよふて我が友達
我親の野邊の送りに空晴れて廣き白きが四百八流千の疊を敷きなら
べ讀まずやお經を七日讀ませよ
我親の野邊の送りを見てやれば四方幕にて絹を七疋七疋の駒を引け
な人ならば四方幕にて絹ぞ七疋
北設樂郡/古戸(ふつと)田樂歌詞
みよしうた
春は東にや林あり 夏は南にや林あり
秋は西にや林あり 冬は北にや林あり
今はみよしのや花ざかり〳〵
春のでゐにおりぬれんば〳〵
櫻山吹や岩つヽじ〳〵
夏のでゐにおりぬれんば〳〵
夏はこゑだかのやせみのこゑ〳〵
秋のでゐにおりぬれんば〳〵
いなごむしやちら〳〵 くつはむしやざき〳〵
とびにとほだか よいおりやそよ〳〵と
冬のでゐにおりぬれんば〳〵
わがやどんのいたやの軒に
しらげのよねがざらりざらりと
ふるぞめでたや〳〵
北設樂郡富山村大谷御神樂歌詞
ねぎ
ゆとんとは やれ いじや/御(み)扉(と)ひらき 神の御扉ひらき
をりかはや 神の心をとる〳〵 どこに のこり
とどまる神あらじ うれしげになるたき川を渡り來て いかに大し
やも
つちのみかどをあらめにあけて拜むには 神をかいして 神さかへ
かきたてるぞよ しでの葉ごてに をごる神神あらはれて ゑぎや
うしたヽめ
空には梵天帝釋や 下にはしいだい天王や
上には ごぞうの神やうが なるいかづち
ぼうせんごくや ほしのみかどを
そらふくは くわれ 風のさむらう殿や
おりゐて花の きよめの 御湯召すときのみるかげは
湯本で見える あたいとヽまる うれしかるらん
うれしげに なにをかとうせ 唐ごろも たもとをとうりし
よろこびや なほ喜びがかさなれば
ゆをうが山に 袖はぬらさじ
類別索引
二九八
東三河三景
乳岩天然橋 一九四 伊良湖岬 二四〇 蒲郡竹島 二五一
三河七御堂 (西三河の金蓮寺を加ふ)
法言寺 六一 財賀寺 一五〇 鳳来寺 一八四
普門寺 二〇八 御堂山 二四八 長泉寺 二五七
延喜式内社
菟足神社 一二四 砥鹿神社 一七二 石座神社 一七九
石巻神社 一九九 阿志神社 二二九 御津神社 二四三
赤日子神社 二五二 形原神社 二五八
芭蕉句碑
船町神明社 九四 下地聖眼寺 一〇〇 国府観音寺 一四四
八幡西明寺 一五二 赤坂関川神社 一五五 新城庚申寺 一七七
鳳来寺 一八五 二川妙泉寺 二〇七 東観音寺 二一二
田原龍泉寺 二二七 福江潮音寺 二三三 伊良湖神社 二三四
国宝所在地
法言寺 六一 八幡社 一四六 国分寺 一四七
妙厳寺 一六四 三明寺 一六六 大脇寺 一七九
普門寺 二〇八 東観音寺 二一〇 大恩寺 二四四
法住寺 二四八
史蹟名勝天然紀念物
国分寺址 一四七 国分尼寺址 一四八 蜂巣岩 一七九
長篠城址 一八二 鳳来寺 一八四 馬背岩 一九〇
阿寺七瀧 一九二 乳岩天然橋 一九四 百々竈址 二二三
竹島 二五一 清田大楠 二五四
二九九
三〇〇
貝塚及古墳
東田古墳 五九 岩崎古墳 六三 三ッ山古墳 一一九
菟足貝塚 一二四 五社古墳 一二八 欠山貝塚 一二九
報恩寺古墳 一三一 稲荷山貝塚 一三三 新宮山古墳 一四〇
大蚊里貝塚 一五九 麻生田貝塚 一七〇 馬越古墳 二〇四
王塚古墳 二一六 十三本塚 二一六 車神社古墳 二一八
妙見古墳 二二二 城宝寺古墳 二二六 吉胡貝塚 二二七
伊川津貝塚 二三二 平城貝塚 二三四 川地貝塚 二三五
大塚村古墳 二四七
土俗
鬼祭 五二 笹踊 八七、一二四、一六三 小坂井祭 一二四
踊山 一四九 財賀寺田植 一五〇 牛久保祭り 一六三
砥鹿神社田遊祭 一七二 鳳来寺田楽祭 一八四 田峰田楽 一八八
花祭り 一九六 三谷祭り 二四九
伝説地
首切地蔵 三四 松林寺 三七 琵琶塚 四九
鞍掛神社 六一 徳合長者 六四 人身御供 一二七
国分寺址 一四七 宮地山 一五五 三明寺 一六六
信玄塚 一八一 名号池 一九一 琵琶淵 一九三
十三本塚 二一六 車神社 二一八 鸚鵡石 二三一
竹島 二五一 清田大楠 二五四
慶長以前の古鐘
菟足神社鐘 一二四 伊奈八幡社鐘 一三六 昌林寺鐘 一四一
仲仙寺鐘 一四二 守公神社鐘 一四三 国分寺鐘 一四七
三〇一
三〇二
永住寺鐘 一七七 岩座神社鐘 一七九 田峰観音鐘 一八八
大平寺鐘 二二一 御津神社鐘 二四三 坂本古鐘 二五六
東三古謡集
催馬楽貫河 二六九 砥鹿神社田遊祭 二七〇 田峰田楽歌 二七三
田峰盆踊歌 二七六 財賀寺田植歌 二七七 小坂井笹踊 二七八
牛久保笹踊 二七九 豊川笹踊 二八一 八幡踊山歌 二八二
牟呂雨乞歌 二八三 花祭歌 二八四 豊橋笹踊 二八五
吉田おんぞ歌 二八八 県社神明社神楽歌二九〇 嵩山大念仏歌 二九一
古戸田楽歌 二九三 大谷田楽歌 二九五
昭和十年七月廿七日印刷
昭和十年八月三日発行
著作
権
所有
定価金六拾銭
豊橋市瓦町字臨済寺前二十七番地
著作者 豊田珍彦
豊橋市上伝馬町一一四番地ノ九
発行者 菅谷克美
豊橋市新川町市南八番地ノ一
印刷者 小林鶴治
豊橋市門前町三丁目
印刷所 清豊社
発行所 《割書:豊橋市上伝馬町|常盤通り三丁目》日吉堂書店
振替名古屋一八〇八二番
【裏表紙】
東海道五拾三駅
二川
名物
かしは餅
立祥画
三十四
【表紙】
豊橋商工案内
【右頁】
【屋号:井桁に平】井ヅヘイ 醤油
豊橋市船町
服部醤油合資会社
(長)電話三一一番
【左頁】
競馬印
果実蜜
コーヒーシロップ
クリームシロップ
ホットクリーム
豊橋市船町
製造本舗
丸三商会
電話八七五番
【右頁】
資本金 五千七百五拾万円(払込済)
積立金 六千百五拾五万円
豊橋市魚町九十五番地
《割書:株式|会社》第一銀行豊橋支店
電話番号 一九一番 一三九一番
振替口座 名古屋 一三七〇〇番
総預金 五億六千余万円
総貸金 参億四千余万円
【左頁】
会議所屋上より観たる豊橋市全
会議所屋上より観たる豊橋市全景
【左頁】
豊橋商工会議所
【右頁】
豊橋停車場
【左頁】
三遠玉糸製造同業組合
撿査玉糸受付の実況
組合一日の生産高に百五十梱以上
本邦生産額の約六割を占む
繰返し並に繊度検査の実況
製品に対し一定の量及時間の繰返
をなし再繰能率並に繊度を撿査す
正量撿査の実況
含水量歩合を厳密に撿査し之に拠
り正量取引を行ふ
【右頁】
豊橋
【左頁】
神武天皇御銅像
【右頁】
大手通神明町停留場
【左頁】
歩兵十八聯隊前停留場
【右頁】
豊橋市役所
豊橋郵便局
【左頁】
龍拈寺
悟真寺
【右頁】
県社神明社
県社吉田神社
【左頁】
豊橋市郊外岩屋山観世音
【右頁】
旧吉田城址
【左頁】
三州豊川閣総門
【右頁】
豊川・鳳来寺鉄道沿線名勝
鳳来寺山東照宮社前
仝 東照宮社殿
田峯観世音
【左頁】
豊川・鳳来寺鉄道沿線名勝
新城町桜淵
新城町桜淵蜂の巣岩
【右頁】
豊川・鳳来寺鉄道沿線名勝
牛久保町今川義元の墓
長篠古戦場鳥居勝商の墓
【左頁】
豊川・鳳来寺鉄道沿線名勝
長篠古戦場馬場美濃守の墓
東上牛の瀧
【右頁】
渥美電鉄沿線名勝
田原城址
田原渡邊華山の銅像
【左頁】
渥美電鉄沿線名勝
田原町渡邊華山玉砕の碑
伊良湖岬日の出岩
【右頁】
渥美電鉄沿線名勝
伊良湖岬恋路ヶ浦海水浴場
伊良湖岬石門附近
【左頁】
東邦電力株式会社
豊橋市関屋町一八
豊橋営業所
電話一四七番 三七七番
【右頁】
豊川いなり参詣
豊川グラウンド 豊川鉄道株式会社
鳳来峡探勝
霊鳥仏法僧 鳳来寺鉄道株式会社
東海道線豊橋駅 聯絡
【左頁】
駅名
新豊橋 花田 柳生橋 小池 師団口 司令部前
兵器廠前 空地 高師 芦原 植田 大清水 老津
杉山 谷熊 豊島 天白 神戸 三河田原 黒川原
開業線 末【未の誤植か】開業線
○省線豊川線
市内電車と
連絡運輸
○自動車連絡
運輸
○貨物車連絡
○大清水グラ
ウンド公園
渥美電鉄株式会社
豊橋市松山町
電話一二七〇
【左頁地図中の地名】
長篠 豊川
蒲郡 岡崎 名古屋
渥美郡
豊橋 大清水 老津 田原 黒川原 福江
沙魚釣り 片浜海水浴 江比間海水浴
赤羽根大網【?】 日出石門 伊良湖岬 ウジヤマダ
【右頁】
豊橋市
豊橋電気軌道株式会社
電話 一七二八番(本社)
一五二六番(営業所)
【左頁】
会頭
福谷元次君
副会頭
山本安太郎君
副会頭
神野三郎君
【右頁】
常議員
服部弥八君
常議員
今泉福太郎君
常議員
河合孜郎君
常議員
氏原助造君
【左頁】
常議員
福谷藤太良君
常議員
白井浅治郎君
常議員
鈴木清君
常議員
清水熊太郎君
【右頁】
議員
山田芳蔵君
議員
山田末治君
議員
花井丹次君
議員
内藤太郎吉君
【左頁】
議員
金子丈作君
議員
河合藤四郎君
議員
近田繁吉君
議員
三浦多吉君
【右頁】
議員
大山長平君
議員
瀧崎安之助君
議員
大山銀蔵君
議員
熊田嘉平君
【左頁】
議員
平石丈三郎君
議員
白井勝治君
議員
富安鷹次君
議員
白井権八君
【右頁】
議員
鈴木磯太郎君
理事
鈴木澄衛君
【左頁】
顧問
大口喜六君
顧問
鈴木五六君
【右頁】
顧問
田部井勝蔵君
顧問
神戸小三郎君
【左頁】
文化ノ魁!!
ラヂオト電気
常ニ最新ナ機械ト
部分品ヲ集メ
品質=勉強=技術ヲ
モットートスル顧客本意ノ店
《割書:株式|会社》川北電気企業社
松下電気器具製作所 代理店
SEC
旭商会本店
豊橋市札木町一ノ五
電話二〇一二番
旭商会分店
豊橋市魚町花園角
電話一九九三番
【右頁】
【屋号:カネ田】
呉服
豊橋市花園町
田中屋呉服店
電話 六六番
一六六四番
一八一八番(洋品部)
振替東京三一五三三番
【左頁】
染料塗料
工業薬品
コールター
計量器 商
豊橋市指笠町
守田屋商店
藤田保吉
電話八四番
振替名古屋六〇一三番
【右頁】
米雑穀
牛馬糧
鶏飼料 商
豊橋市魚町
佐藤伝平商店
電話八七〇番
振替大阪三八六二一番
【左頁】
時計の御用は
野末時計店
豊橋市西八町
【右頁】
豊橋市曲尺手町
硝子板
諸金物 商 紅久商店
電話一九四二番
豊橋市花田町狭間
製紙原料
銅鉄空物 商 紅久合名会社
電話七六四番
【左頁】
営業種目
一般薬品
各国売薬
度量衡
計量器
和漢薬
豊橋市呉服町
【屋号:山形に山】堺屋 木村薬舗
木村連作
電話二二四番
振替東京九三七八番
【右頁】
乗合
田原行
福江行
堀切行
二川廻リ
細谷廻リ 白須賀行
富岡行
前芝行
一般貸切
市街乗合
豊橋自動車株式会社
電話本店七八三番
仝 五八六番
仝 東田九二九番
仝 駅前八〇一番
仝 田原一二九番
仝 福江五二番
【左頁】
書籍
と
雑誌
豊橋市札木町
文海堂書店
電話四五番
振替口座 東京五四五番
名古屋三二九三番
【右頁】
岡崎 電話三五五番
振替口座 東京一四六八六番
名古屋二〇八番
茶問屋 兵藤茶舗
豊橋 電話八八六番
振替口座 東京三八五四九番
名古屋一〇八三番
【左頁】
登録商標【屋号:松葉菱に若】
豊橋
名物 ゆたかおこし
袖もやう
千喜利まんぢう
豊橋市札木町
製造元 若松園
電話三三六番
振替口座東京一一四九三
【右頁】
手軽ニ荷物ガ送レテ
速ク・・・・・安ク・・・・・
配達ハ無料!
豊橋合同運送株式会社
本部
電話一三八九番
発送部
電話二二七・二七〇番
到着部
電話四九・一四五・三四一番
魚菜部
電話二一二番
小荷物特別小口配達部
電話一三八三番
新豊橋駅荷扱所
電話九三一番
【左頁】
一本会議所は商工会議所事務権限に準拠して経営するものなれば、商工業に関する各
種の御意見等は何事に依らず申出られたし。
一商品の産額、集散額、運輸交通及び金融状態等時々御報道を煩したし。
一商工業の状況調査材料蒐集等の為め本所員訪問の際、又は書面を以て照会致したる
節に特に御便宜を与へられたし。
一諸会社組合等に於て業務報告書御作成の節は其都度御寄贈ありたし。
一商工業家各位にして、本会議所の照会、紹介又は証明書等を要せらるゝ向は御遠慮
なく申出られたし。
一商工業に関して、紛議を生じたる場合には御申出により仲裁判断をなし、或は調停
和解の労を採ります。
一本会議所には各方面より寄贈に係る商工業に関する有益なる図書の備付あれば執務
時間中に何時にても閲覧に供します。
豊橋商工会議所
【右頁】
商工会議所の機能
一、商工業に関する通報をする事
二、商工業に関する仲介又は斡旋する事
三、商工業に関する調停又は仲裁する事
四、商工業に関する証明又は鑑定する事
五、商工業に関する統計の調査及編纂する事
六、商工業に関する営造物の設置及管理する事
七、其他商工業の改善を図るに必要なる施設をする事
八、商工会議所は商工業に関する事項に付行政庁に建議することを得
九、商工会議所は行政庁の諮問に対し答申する事
十、行政庁は商工会議所に対し商工業に関する事項の調査を命ずることを得
十一、商工会議所は商工業者に対し商工業に関する総計其の他の調査を為す為必要な
る資料の提出を求むることを得
【左頁】
豊橋商工案内目次
総説……………………………………………………………………………………………………………………《割書:自一頁|至九頁》
沿革、池勢、気象、富力、官公署及新聞社、隣接町村、其他統計
財政……………………………………………………………………………………………………………………《割書:自一〇頁|至二三頁》
市予算、前年度との比較、主なる歳入出、負担額、事業と財源、関係統計
商工業…………………………………………………………………………………………………………………《割書:自二四頁|至二七頁》
営業別と其分布、重要物産、工業施設と農業方面、商業と資本の活動、金融と労働賃金
調査統計………………………………………………………………………………………………………………《割書:自二七頁|至六六頁》
豊橋物産、豊橋市内諸物貨卸値段、仝日用品小売平均値段、玉糸産額、生糸産額、豊橋繭取引市場取引高、
豊橋倉庫出入貨物、豊橋市酒類生産査定高、仝織物生産査定高、豊橋市内組合銀行営業概況、電灯数、電動
機取付台数及馬力数、電線路、瓦斯
【右頁】
豊橋市内諸会社…………………………………………………………………………………………………《割書:自六七頁|至八四頁》
商工業者人名……………………………………………………………………………………………………《割書:自八五頁|至二四五頁》
人頭割ヲ納ムル有権者…………………………………………………………………………………………《割書:自二四六頁|至二四九頁》
交通と通信………………………………………………………………………………………………………《割書:自二五〇頁|至二七六頁》
交通施設、市民経済、都市の脹膨、通信状況、産業生活の充実、其他統計
教育宗教…………………………………………………………………………………………………………《割書:自二七七頁|至二八九頁》
教育機関、学級数と児童、秀才教育施設、宗教心の陶冶、神社と寺院、古建築
社会事業…………………………………………………………………………………………………………《割書:自二九〇頁|至二九一頁》
社会係、研究調査項目、社会的疾患、都市改良の根本義、共同責任の観念
土木衛生…………………………………………………………………………………………………………《割書:自二九二頁|至二九三頁》
地方開発、都市計画
【左頁】
名勝旧蹟…………………………………………………………………………………………………………《割書:自二九三頁|至二九九頁》
今橋城、戸田今川の争闘、家康と織田氏、城主の交代、最後の藩主、旧城址、仁連木城、其来歴と宗光、重
貞の戦死、天正の戦、宗長の戦功、豊川の清流、古名色々橋梁移転、地子御免、貨物の運上、旧幕時代の港
豊橋名代行事……煙火……鬼祭………………………………………………………………………………《割書:自二九九頁|至三〇〇頁》
附近町村を探ねて………………………………………………………………………………………………《割書:自三〇一頁|至三〇六頁》
豊川鳳来寺鉄道沿線……豊橋以西……豊橋以東……渥美電鉄沿線渥美半島……八名郡及下地方面
市内に於ける民衆娯楽場………………………………………………………………………………………《割書:自三〇六頁|至三〇七頁》
市内諸組合………………………………………………………………………………………………………《割書:自三〇七頁|至三一〇頁》
衆議院議員、愛知県会議員、所得調査委員
都市計画愛知地方委員 …………………………………………………………………《割書:自三一一頁|至三一二頁》
市会議員…………………………………………………………………………………………………………《割書:自三一二頁|至三一五頁》
【右頁】
弁護士……………………………………………………《割書:自三一五頁|至三一六頁》
商工会議所議員顧問役員職員…………………………《割書:自三一六頁|至三二〇頁》
商工会議所沿革…………………………………………《割書:自三二〇頁|至三二三頁》
【左頁】
商工業者営業別索引
【一段目】
営業名 頁
い、ゐ之部
印刷業 八五
糸商 八六
石材店 八六
医療機械 八六
飲食店 八六
は之部
生花商 八九
煙火商 八九
履物商 八九
に之部
肉商 九二
【二段目】
営業名 頁
荷札製造 九三
ほ之部
防水布商 九三
紡績 九三
帽子 九三
へ之部
米穀、大豆、雑穀
飼料 九四
米穀取引及仲買 一〇一
と之部
時計、貴金属、
金銀細工 一〇二
豆腐、油揚製造 一〇三
【三段目】
営業名 頁
陶磁器 一〇四
砥石 一〇四
ち之部
茶、茶道具 一〇五
賃貸業 一〇五
帳簿、製本 一〇五
り之部
旅人宿業 一〇六
料理店、席貸 一〇八
理化学器械 一一八
ぬ之部
塗師屋 一一八
【四段目】
営業名 頁
を、お之部
折箱 一一八
織物業 一一八
桶、樽 一一九
わ之部
綿商 一二〇
か之部
蒲鋒竹輪 一二〇
和傘 一二〇
髢製造 一二一
甘藷 一二二
貸ボート、貸船 一二二
【右頁】
【一段目】
金網製造 一二二
籠 一二二
玩具商 一二三
紙 一二三
楽器、蓄音機 一二四
海産物、塩乾魚、
鰹節 一二四
菓子、パン、餅 一二六
鋼鉄器、平板、
刃物、鉄商 一三三
瓦 一三五
瓦斯 一三六
株式問屋 一三六
看板、ペンキ塗 一三八
和洋家具商 一三八
硝子器、板硝子 一三八
貸自動車 一三八
【二段目】
貨物自動車運送業 一四〇
紙箱、団扇製造 一四〇
よ之部
洋服、古洋服、
小供洋服商 一四一
洋物、雑貨、足袋
メリヤス 一四二
洋酒、洋食料品
洋食品 一四五
撚糸商 一四五
養鶏 一四五
た之部
畳表、畳製造 一四六
箪笥 一四六
建具、指物 一四七
保険代理業 一四九
煙草元売捌 一四九
種子 一四九
【三段目】
れ之部
煉炭 一五〇
そ之部
染物、洗張、悉皆 一五〇
葬具、造花 一五一
倉庫業 一五二
つ之部
漬物、佃煮 一五二
釣道具 一五三
な之部
苗木 一五三
納豆 一五三
う之部
魚、鰻、川魚 一五四
請負業 一五六
【四段目】
鰻料理 一五八
乳母車 一五八
薄板 一五九
饂飩、蕎麦 一五九
運動具 一六一
植木 一六一
運送業 一六一
の之部
農具、蚕具 一六二
く之部
靴、鞄、馬具 一六二
襤褸、屑物、古銅鉄 一六三
車商 一六三
繰物 一六四
や之部
薬種、売薬、滋養食
料品、工業薬品、染料 一六四
【左頁】
【一段目】
柳行李 一六六
ま之部
繭問屋 一六六
繭屑、生皮苧 一六九
万年筆 一七〇
へ之部
鶏卵商 一七〇
鶏肉商 一七〇
ふ之部
文房具 一七一
袋物 一七二
古道具 一七二
錻力細工 一七三
船具 一七三
古着 一七三
蒲団蚊帳 一七四
【二段目】
麩 一七四
こ之部
氷 一七四
小間物、化粧品 一七五
呉服太物 一七七
昆布製造 一八一
糀 一八一
骨董 一八二
駅構内商人 一八二
粉商 一八二
蒟蒻製造 一八三
え、ゑ之部
絵葉書 一八三
て之部
鉄道 一八三
電気器具、電池
ラジオ商 一八四
【三段目】
鉄工、鍛冶、蹄鉄 一八五
電気供給業 一八六
あ之部
荒物 一八六
青物、果物、乾物
缶詰 一八八
麻真田製造 一九二
餡製造 一九四
漁網 一九四
飴 一九五
麻 一九六
さ之部
蛹 一九六
砂糖 一九六
裁縫 一九七
蚕種 一九八
雑貨 一九八
【四段目】
材木、白木、板
製材業 一九九
酒、麦酒、洋酒
味噌、溜 二〇三
き之部
生糸、玉糸、問屋 二〇九
金銭貸付 二一〇
銀行業 二一二
機械商 二一三
際物 二一四
牛乳 二一五
め之部
鍍金 二一五
眼鏡 二一六
み之部
味噌、溜、醤油 二一六
し之部
【右頁】
【一段目】
消防服 二一八
刺繍請負 二一八
歯科材料 二一九
周旋業 二一九
書籍、文房具 二二〇
砂利 二二〇
塩 二二〇
【二段目】
写真 二二一
薪、炭、竹 二二二
銃砲火薬 二二三
自転車 二二四
漆器 二二五
質屋 二二六
仕出 二二六
【三段目】
殖産 二二七
ひ之部
肥料 二二七
表具 二二八
も之部
毛筆 二二八
せ之部
【四段目】
製糸業 二二九
西洋洗濯 二四〇
石炭商 二四〇
石油、各種油 二四一
清涼飲料水 二四二
セメント、左官材料 二四二
西洋料理業 二四三
【左頁】
洋服
豊橋市札木町
富安洋服店
電話一五九一番
【右頁】
豊橋市南島
大一青果鶏卵市場
電話四六二番
【左頁】
商標
漁網
麻苧
ロープ
漁具
豊橋市新川町
網太 山本安太郎
電話 二四四番
振替東京一五一六一番
大阪六八二六四番
【右頁】
TRADE【社章:マルK】MARK
豊橋市花田町
株式会社豊橋製陶所
電話二一一六番
【左頁】
資本金 弐千六拾万円
諸積立金九百〇六万円
豊橋市札木町
《割書:株式|会社》名古屋銀行豊橋支店
電話六三番 三五〇番
宝飯郡牛久保町
牛久保出張所
電話豊川 三二番
【右頁】
資本金 壱千五百万円
豊橋市本町
《割書:株式|会社》愛知銀行 豊橋支店
電話 二三六番
五五三番
五八九番
宝飯郡下地町
同 下地出張所
電話 三九七番
【左頁】
【題字】
豊橋商業会議所地区内図
一万二千分一
【左頁】
不許複製
凡例
・郡市境界
・村界
・道路
・汽車線路
・電車線路
・川
・市街及村落
官公署
・傾斜地
・堤塘
・池
・二連木城址
・旅団司令部
・聯隊区司令部
・憲兵隊
・兵営
・衛戍病院
・帝室林野管理局
出張所
・裁判所
・税務署
・専売局出張所
・郵便局
・警察署
・刑務所
・警察取締所
・学校
・市役所
・元郡役所
・町村役場
・市立病院
・図書館
・商業会議所
・米穀取引所
・魚市場
・青果市場
・銅像
・武徳殿
・神社
・寺院
・基督教会
・動物園
・演芸場
活動写真館
東
北 南
西
縮尺一万二千分ノ一
メートル 0 500 1000
町 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9
【左頁】
豊橋商工案内
総説
沿革―地勢―気象―富力―官公署及新聞社―隣接町村―其他統計
東海道五十三次の一として名高かった吉田の宿が、豊橋と改称されたのは明治二年六月
であるが、彼の吉田と呼んだ頃の戸口は一体どの位有ったであらうかと云ふに昔から吉田
の二十四ヶ町と言つて、徳川三百年の間に変りの無かつた如く、戸数にも左程の増減を見
なかつた。貞享五年に一千戸のものが、寛永七年に一千十一戸、宝政十年に一千二戸と云
ふ実況である、尤も此の以前即ち寛永四年に大地震があつて、総戸数一千十一戸の内全潰
戸数二百十戸半潰戸数二百六十六戸で、外に死者十一人も出した事であるからだとしても
極めてその増加率の少かつたのは事実である。随つて人口も亦弘化元年に男女合せて五千
五百四十五人であつたものが、其の翌年には十人を減じ、嘉永元年に至つて五千五百十九
人と云ふ数を示して居る、然るに明治二十二年始めて自治制を実施された当時には今の豊
(1)
(2)
橋市の区域は豊橋町、豊橋村、花田村、豊岡村の一町四ヶ村であつた、其の内豊橋町に属
する戸数は三千五百九十七戸、人口一万二千三百三十九人を算し、夫れから明治二十八年
一月に豊橋町と豊橋村の合併が行はれ、明治三十九年七月更らに花田豊岡の二村も之に合
併し、続いて仝年八月市制施行地となつたのであるが、当時の戸数は九千九百戸人口三万
七千六百三十五人であつたが、明治四十一年十一月第十五師団の設置により、膨脹し翌四
十二年には戸数一万一千七百五十九戸人口四万四千六百八十七人となり、大正九年の国勢
調査で人口六万五千百六十三人であつたのが、五年後の大正十四年第二回の国勢調査では
八万二千三百七十一人を数ふるの状態に至つたのである、師団廃止後蚕糸業の発達により
影響する処極めて尠く将来益々発展の趨勢を示して居る。
豊橋市は三河の東南に在つて北は豊川と朝倉川との水流を境となし、南は柳生川で限られ
て居るから地形は東西に延びて南北に短かい、即ち南北二十八町三十間であるのに、東西
は二里十八町二十間である。而して之れが東経百三十七度二十三分三十秒、北緯三十四度
四十五分四十秒と云ふ位置で総面積は僅かに一方里強、豊川に沿ふた方の低地は概して沖
積層であるが、市街の大部分は高地で多くは古生層である。気象は其の年に依つて多少の
差はあるが最近の調べに依ると、最も暑さの厳しい七、八月の温度が三〇、七乃至三〇、八
最も寒い一、二月が○、二乃至一、二で之れを平均すると、七、八月の二八、○乃至二八、四と
一、二月の五、一乃至六、九が普通の温度で、降雹降雪等も少く、降雨適量晴曇又余り申分
はない、唯だ困らせられるのは風丈けである。豊橋地方を吹き捲くる風は三河の空ッ風と
称して、彼の上州の空ッ風赤城颪しと共に昔から天下に知られて居る。
豊橋市は現今四十一個の町即ち
船町、湊町、上伝馬町、松葉町、本町、札木町、関屋町、魚町、指笠町、三浦町、花園町、新銭町、新川町、
中柴町、萱町、呉服町、曲尺手町、鍛冶町、下町、西八町、中八町、東八町、清水町、神明町、紺屋町、手間町、
吉屋町、飽海町、旭町、東新町、西新町、談合町、中世古町、向山町、岩田町、岩崎町、飯村町、三ノ輪町、
瓦町、東田町、花田町、
等を以て区画し各町には町総代が置いてある。町総代は町民の自由選挙に依り直接間接市
の補助機関となつて居る。而して以上四十一ヶ町を通じて本年六月末現在総戸数は一万六
千余戸総人口九万一千余人の多きに達して居るが、戸口共に尚益々増加せんとする趨勢を
見せて居る。富力の程度に就いては却々調査が困難であり到底之れを明瞭的確にする事は
期し難いが、併し大体に於ては貧富の懸隔が少ないのは何人も一致する観察で、其の半面
(3)
(4)
には比較的富の分配が良く行はれて居ると云ふ事を意味するので少くとも社会上喜ぶべき
現象であらねばならぬ。尚市内の官公衙所在町名を挙ぐれば
豊橋市役所(西八町) 豊橋市農会(仝上) 豊橋商工会議所(花田町字石塚) 豊橋区裁判所(中八町)
豊橋警察署(中八町) 豊橋税務署(東八町) 豊橋郵便局(札木町) 萱町郵便局(萱町)
下町郵便局(下町) 花田郵便局(花田町字手棒) 新川郵便局(新川町字新銭)
愛知県蚕業取締所豊橋支所(花田町字手棒) 名古屋地方専売局豊橋出張所(花田町字間田)
愛知県豊橋土木工区事務所(西八町) 豊橋駅(花田町字西宿) 公証人役場(東八町)
帝室林野局豊橋出張所(中八町) 執達吏役場(中八町) 名古屋刑務所豊橋出張所(東八町)
豊橋職業紹介所(西八町) 愛知県方面委員豊橋方面事務所(西八町) 愛知県蚕業試験所豊橋支場(花田町字妙立寺)
愛知県第二道路改良事務所(西八町)
等で軍隊側としては
歩兵第十八聯隊(中八町) 工兵第三大隊(向山町) 豊橋聯隊区司令部(東八町)
で新聞社は、市内に本社を有するもの十一、支局二、合計十三と、通信所等で其の所在地
は左の如くである、尚之に特殊の新聞雑誌を加ふると実に驚くべき数に達するであらう。
参陽新報社(西八町) 新朝報社(松葉町) 豊橋日日新聞社(松葉町) 豊橋新報社(中八町)
東海時報社(本町) 東海時事社(曲尺手町) 豊橋通信新聞社(西八町) 豊橋毎日新聞社(花田町字狭間)。
東海朝日新聞社(中八町) 名古屋新聞支局(中八町) 新愛知新聞支局(中八町) 豊橋民有新聞社(中八町)
豊橋商業新報社(花田町字石塚) 大阪朝日新聞豊橋通通【衍字か】信所(松葉町) 大阪毎日新聞豊橋通信所(中八町)
官公衙及新聞社は以上の如く配置されて居るが、更らに市外に設けられてある官衙であつ
て直接常に豊橋市に関係を有するものを掲げると
騎兵第四旅団司令部(《割書:渥美郡|高師村》) 騎兵第二十五聯隊(仝上) 騎兵第二十六聯隊(仝上)
豊橋衛戍病院(仝上) 豊橋憲兵分隊(仝上) 第三師団経理部豊橋出張所(仝上)
陸軍兵器本廠豊橋出張所(仝上) 豊橋陵【陸の誤植か】軍教導学校(仝上)
農林省水産講習所豊橋養魚試験場(《割書:渥美郡牟呂吉|田村大字牟呂》)
等である。由来東三河と称するのは豊橋市を中心とし、渥美、八名、宝飯、南設楽、北設
楽の一市五郡を云ふので、豊橋の接続町村は渥美郡二川町、仝郡高師村、仝郡牟呂吉田村
宝飯郡下地町、八名郡下川村である。
(5)
堤 塘| 九二| 九二| 九二| 九二| 一〇一
溝 渠| 二二| 二二| 二二| 二二| 二二
道 路| 七七六| 七六一| 七五八| 七二二| 七一五
計 | 四、九二〇| 四、九〇五| 四、八九一| 四、八六六| 四、八五七
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○豊橋市免租地
種 別| 昭和二年 | 昭和元年 | 大正十四年 | 大正十三年 | 大正十二年
學校敷地|一五 四(反)| 一五 四(反)| 一三 三(反)| 一一 六(反)| 一六 六(反)
社 地| 八| 八| 九| 八| 八
墳墓地| 六四| 六四| 六四| 六四| 六四
火葬塲敷地| 一| 一| 二| 一| 〇
用惡水路| 一九| 一九| 一八| 一八| 一八
溜 池| 四二三| 四二三| 四二三| 四二三| 四二三
堤 塘| 七| 七| 九| 九| 九
溝 渠| 一〇七| 一〇七| 一〇八| 一〇八| 一〇七
鐵用地| 二三| 二三| 二四| 二三| 二三
道 路| 六八| 四一| 一九| 二一| 二〇
保安林| 三四| 三四| 三三| 三四| 三四
市役所敷地| 二| 二| 二| 一| 二
警察署敷地| 二| 二| 二| 一| 二
診療所敷地| 一| 一| 二| 一| 二
蠶業取締所敷地| 三| 三| 三| 三| 三
圖書舘敷地| 四| 四| 四| 四| 四
傳染病院敷地| …| …| 一一| …| 四
蠶業試驗塲敷地| 六| …| …| …| …
屠塲敷地| 二| …| …| …| …
水道敷地| 一| …| …| …| …
(10)
財政
市予算―前年との比較―主なる歳入出
負担割―事業―関係統計………………
豊橋市に於ける昭和三年度歳入出予算は金百弐十六万七千九百六拾円で之を前年度に比
較すると総予算高に於て七万八千三百四十四円の増加であつて歳入の主なるものは言ふま
でもなく市税であつて之は都市の膨脹産業自治の発展に伴ひ年と共に増加するは自然の趨
勢である試みに最近の市税実収高を調べて見ると大正十二年度四十八万六千九百五十六円
同十三年度五十二万一千七百四十五円同十四年度五十五万八千三百十七円昭和元年度六十
四万五千六百三十四円同二年度六十四万三千十五円であつて昭和三年度の予算高は六十九
万九千四百五十一円であるが之を細別すると
地租附加税 二万五百六十六円
特別地租附加税 九百三十八円
所得税附加税 二万五十八円
取引所営業税附加税 六百円
営業収益税附加税 八万四千円
県税家屋税附加税 二十七万九千四百十五円
県税営業税附加税 一万七千五百円
仝 雑種税附加税 二十六万五千三百七十四円
特別税観覧税 三千円
特別税煽風機税 八千円
の割合になって居る而して昭和二年末に調査した豊橋市の現在戸数は一万六千四百三十二
戸人口八万九千二百人であるから其の負担割合は一戸平均四十二円五十六銭七厘一人平均
七円八十四銭一厘弱に当るのであるが次に歳出方面で主なるものは経常部の小学校費二十
万八千五百四円商業学校費六万一千百三十五円高等女学校費五万一千三百五十一円役所費
九万五千四百二十六円が最も多いのである、臨時部では土木費年度割支出額四十四万六千
四百一円小学校営繕費年度割支出額四万八百二十四円公債費六万七千六百五十六円水道特
別会計繰入金七万五千五百九円等である
特別会計に属する水道費本年度の歳入出は九十五万百九円である
(11)
(24)
取引所税 取引所税 二三・二三八 ― ― ― 二八・一一六
清涼飲料税 清涼飲料税 三二・九九一 一三・六九七 ― ― ―
商工業
営業別と其の分布……重要物産……工業施設と農業方面…
商業と資本の活動……金融と労働賃金………………………
我が豊橋市の産業界が著しく発展した市内に於ける各種の営業に就いては、生産者、問
屋、小売業者を通じて大体百数十種に区別するを得べく、其内最も主なるものを挙ぐれば
玉糸製造業、生糸製造業、麻真田業、繭糸屑物問屋、材木商、米穀商、肥料商、呉服商、酒類商、履物商、
味噌醤油商、菓子商、洋物雑貨商、足袋商、荒物雑貨商、乾物商、薪炭商、運送業、家具商、魚類商、
海産物商、青物商、鶏卵商、文房具商、糸類商、魚網商、織布業
等である。特に此の地方に於ける繭の生産高は素晴しいもので。真に全国一と言ふを得べ
く。昭和三年春繭の市場出廻高は二十一万五千四百三十五貫で金額は百四十八万二千七百
十九円である。亦之に伴ふて製糸業の発展は実に驚くべきもので、就中玉系に至つては彼
の本場の上州を凌駕し所謂三州玉糸の特産地であつて、生産高は我国玉糸総産額の六割を
占め恰も長野県諏訪湖畔に於ける生糸業と相並び本邦製糸界の二大中心として内外に遍く
知悉せらる処であつて東海道線豊橋駅の西南に林立する煙筒は何れも其の工場であつて地
方の俗謡に「吉田鹿の子と昔は言へど今は玉糸日本一」とさへ謡はるのである。豊橋市及
附近に於ける最も重要な物産としては第一に玉糸生糸を挙げなければならぬが、之に次で
麻真田、醤油、溜、綿布、菓子、酒類、木竹製品、蒲鉾、毛筆、履物、足袋、製網、製綿、
清涼飲料、乾物、甘藷、野菜
等なども決して見遁す事の出来ない物産である、尚右各種の営業に就き工業方面から見れ
ば、繊維工業、機械器具工業、化学工業、飲食品工業、特別工業、製作工業、土木建築業
其他で工場及職工数も却々多数に上つてゐる、されど之等工場に対する運輸其他の状況は
と云ふと、中には良好なるものあるけれど、未だ遺憾の点が少くないのであるから、今後
相当な時機に於て工業地帯を設置し之に充分なる施設をなし以て運輸其他の利便を与へ斯
(25)
(26)
業の発展を図る必要があると思ふ。次に工場労働者の福利増進に対する施設である。職工
をして工場主と利害の観念を同うせしめ、且つ共同の精神を発揮せしめ、基礎を確立する
にはどうしても之が適切なる施設を要するのは勿論である。
更らに農業方面であるが、現在の農家は八百七十戸に過ぎないのであるから、至つて微
々たるものだが、近来果樹蔬菜の栽培など園芸に属する方面は次第に発達の状況を示し、
尚其の外に養鶏業の発達は眼覚しいものである。農産の主なるものとしては繭、甘藷、メ
ロン、柑橘などを数へなければなるまい、耕地は田四百三十六町歩、畑四百五十二町歩と
なつてゐる。之が機関としては市農会を最高なるものにして養蚕同業組合、養鶏組合、農
業に関する産業組合位なものである。
然らば現今商業方面に於ける機関はどうであるかと云ふに、商工会議所、米穀取引所、
魚市場、青物市場、小売市場、繭取引所等が設立され、何れも目覚ましい活動を続けて居
る、市内に本店を有する諸会社の数は本年六月末の調査によると株式会社六十二、合名会
社二十五、合資会社七十二であつて、支店を有するもの株式会社十五、合名会社三、合資
会社二、合計二十である。而して市内に本店を有する会社の活動を事業別にすると鉱業一
金三万円、工業四十四金五百八十六万七千五百円、商業九十三金六百六十六万五百円、運
輸及倉庫業十五金千四百九十二万七千円其の他六金百六十万八千円で此の総資本額二千八
百九万三千円である。
是等の会社は我が豊橋の産業界の為めに直接間接多大の利益を齎らしてゐる事は云ふま
でもないけれど前述の状況から観察する時は、未だ豊橋に置ける資本の活動の甚だ微弱な
るを感ずると共に、吾人は将来我が事業界産業界の為めに大いに研究を費さなければなる
まいと思ふ。
産業界現下の状勢は大要以上の如くで、尚之に直接重要な関係を有する金融界の状況
は、三州貯蓄銀行と三河銀行の本店銀行があるが何れも萌芽時代で、大野銀行、愛知銀行
、明治銀行、名古屋銀行、日本貯蓄銀行、愛知県農工銀行、額田銀行、第一銀行の各支店
銀行により支配をされて居る。尚此の外信用組合、産業組合、金銭貸付業等、数種の機関
があつて第三階級に属する商工業者及び労動者の為めに便益を与へてゐるけれども、茲に
之を省略する事にした。因に市内の各種労働賃金は他の都市と比較して見ると余り高い方
ではない。
(27)
【右頁】
(66)
粁 粁 本 粁 粁 本
昭和二年 一四二・〇 六二三・〇 二・九五〇 六二五・〇 二・四八二・〇 一三・〇三〇
昭和元年 一四〇・〇 六〇八・八 三・〇四一 五九九・二 二・三七二・九 一二・四七二
大正十四年 一三九・二 六〇五・二 三・〇四一 五八三・二 二・二五九・五 一二・二三〇
大正十三年 一三九・二 六〇四・八 三・〇四一 五四三・六 二・〇八一・九 一一・三三六
○瓦斯
年次 延呎数 引用戸数 孔口数
本枝管 供給管 屋内 灯火口 熱用
間 呎 呎 戸 個 個
昭和二年 一四・三三八 一一七・七二五 二八二・四八六 三・一三二 六・一三二 六・七〇一
昭和元年 一二・九八〇 一〇六・六六五 二六五・三一一 二・七〇七 六・二二七 五・八七一
大正十四年 一二・三〇八 一〇三・五六五 二五八・四七五 二・五二一 六・二九七 五・四二一
大正十三年 一〇・七五七 九四・三三四 二四三・〇五五 二・一一九 六・五六八 四・一一三
【左頁】
豊橋市内諸会社 (昭和三年七月現
○株式会社
資本金 設立年月日 営業種目 所在地 名称 取締役氏名
円
二、八〇〇、〇〇〇 大正一〇、九、一 電気鉄道業 花田町字 鳳来寺鉄道株式会社 大橋正太郎 倉田藤四郎
石塚九〇 望月喜平次 金田安二郎
佐々木茂八 矢部和作
加藤庄次郎
五〇、〇〇〇 同一〇、一一、二〇 活動写真興行 神明町四 株式会社豊明館 安藤角次郎 沼野作平
ノ一 松坂勤平 大林峰次
四、八〇〇、〇〇〇 明治二九、一、二四 電気鉄道業 花田町字 豊川鉄道株式会社 末延道成 馬越恭平
石塚九〇 松方正雄 渡邊義郎
倉田藤□郎
二、〇〇〇、〇〇〇 大正一〇、二、一 電気供給業 花田町字 豊橋電気株式会社 武田賢治 今西卓
東郷一二 山内元平 野村重兵衛
ノ二 鈴木権六 廣中素介
上村杢左エ門
六〇〇、〇〇〇 同一三、九、一七 魚問屋業 魚町三五 株式会社豊橋魚市場 野澤藤五郎 瀧崎安之助
内藤太平 内藤齋平
瀧崎山平
(67)
【右頁】
(68)
五〇〇、〇〇〇 明治四二、一〇、一〇 石炭瓦斯製造業 花田町字 豊橋瓦斯株式会社 福谷元次 神野三郎
手棒五一 竹内実晴 原田覚次郎
神戸小三郎
五〇〇、〇〇〇 大正一三、三、一七 電気鉄道業 花田町字 豊橋電気軌道株式会社 武田賢治 今西卓
東郷一二 伊東治郎 服部彌八
ノ二 三浦源六 鈴木久
三七五、〇〇〇 同一一、六、一〇 青果市場 花田町字 豊橋委託運輸株式会社 河合孜郎 倉橋源平
南島一三 山田安平 渡邊明二
七ノ一 加藤発太郎 杉田八五郎
中村為太 石原佐紋次
中島駒次
三五〇、〇〇〇 同一四、三、一六 貨物運送倉庫業 花田町字 東三運輸倉庫株式会社 瀧崎安之助 夏目和七
西宿八一 鈴木安吉 富田伊三郎
増田才吉 酒井宝一郎
三五〇、〇〇〇 同八、九、二六 米肥料精米業 花田町字 東三委託株式会社 神野三郎 増田才吉
小田原 田中田新 福谷藤太良
六七ノ三 河合藤四郎
三〇〇、〇〇〇 同一三、一、一五 電力電灯供給業 花田町字 豊川電気株式会社 武田賢治 関谷守男
並ニ 東郷一二 今西卓
電気諸用品販売業 ノ二
二〇〇、〇〇〇 同一二、一二、五 川魚問屋業 花田町字 豊橋川魚問屋株式会社 神野三郎 原田覚次郎
北新起 福谷藤太良 山田豊作
二四ノ一 福谷元次
【左頁】
二〇、〇〇〇 明治三四、一、一五 家屋賃貸業 上伝馬町 《割書:株式|会社》豊橋商工品陳列館 遠藤道太郎 中谷精
丙二九 中尾光太郎 平野稠
三〇、〇〇〇 大正一四、一〇、二一 有価証券売買 関屋町八七 株式会社平信会 植田陽三 植田初恵
金銭貸付業 植田平四郎
三〇〇、〇〇〇 昭和二、一一、六 鉄道業 花田町字 田口鉄道株式会社 倉田藤四郎 立元祐方
石塚九〇 関谷守男 原田真一
今泉米作 平松雅夫
伊藤新
二〇〇、〇〇〇 大正八、一〇、一四 製氷冷蔵業 湊町一六 大正製氷冷蔵株式会社 長谷川金伍 熊田嘉平
福井廉次 中川千之助
八木秀作 西村東一郎
二、五〇〇、〇〇〇 同一一、三、六 電気鉄道業 花田町字 渥美電鉄株式会社 吉原祐太郎 高橋小十郎
東郷一二 川口定嗣 廣中素介
ノ二 山内元平 今西卓
上村杢左エ門 武田賢治
森彦市
一〇、〇〇〇 同一五、四、一〇 動産、不動産売買 関屋町一〇 十合株式会社 野澤藤五郎 山田末治
金銭貸付業 中村為太
五〇、〇〇〇 同一二、六、六 印刷業 花田町字 千代田印刷株式会社 山本岩次郎 黒野作平
流川八〇 鈴木介蔵 山本源兵衛
五〇、〇〇〇 昭和三、六、七 土地建物ヲ所有シ 中世古町 長祝齋園株式会社 山口雪次 新井実
農林業ヲ営ミ又ハ 字西ノ又 竹本建一
賃貸ヲナス 七〇
(69)
【右頁】
洋物の御下命は
浦柴屋へ
買いよい店
安い確な店
浦柴屋洋品店
豊橋市新銭町
電話二七八番
取扱い品
トンビ
マントー
其他毛織物
各種帽子
メリヤス類全部
子供服及子供服装品
旅行用品
毛布
トランク
袋物
洋服附属品
男女洋傘
各香水化粧品
流行肩掛
紳士服
毛糸及毛製品
【左頁】
御旅館
豊橋駅前 山田館 《割書:電話|五五番》
仝 つぼや 《割書:電話|一四三番》
仝 岡田屋 《割書:電話|二四三番》
仝 大村屋 《割書:電話|六二二番》
仝 吉野屋 《割書:電話|八八五番》
豊橋市西八町 豊屋 《割書:電話|二九五番》
仝 札木町 小島屋 《割書:電話|二一番》
仝 仝 ます屋 《割書:電話|一〇七番》
《割書:豊橋市清水町|広小路五丁目》 【カク一】村田屋 《割書:電話|六二番》
《割書:豊橋市松葉町|停車場通リ》 朝日屋 《割書:電話|六四五番》
【右頁】
砂糖
麦粉
販売
豊橋市萱町
【屋号:ヤマ藤】《割書:合名|会社》福谷商店
電話四番・五九〇番
名古屋市西区伝馬町二丁目
【屋号:ヤマ藤】《割書:合名|会社》福谷商店名古屋支店
電話本局一三七〇番・二九六六番・三九四六番
西局 市外専用 一三番
東京市日本橋区箱崎町二丁目
【屋号:ヤマ藤】《割書:株式|会社》福谷商店
電話茅場六番・一〇六八番
大阪市南区末吉橋通二丁目
会員組織大阪砂糖取引所会員
【屋号:ヤマト】福谷商店
電話船場一八九一番・一八九二番
【左頁】
袋物鞄製造
絽刺材料仕立
長門筒材料漆塗
袋物附属一式
純金銀煙管各種
豊橋市大手通札木町
杉浦袋物店
電話八十九番
《割書:振替|口座》 名古屋四六六六番
東京五〇四〇八番
【右頁】
業務
米雑穀肥料問屋業
貿易業、精米業
東三委託株式会社
豊橋市萱町橋南
電話八二三番
二三〇番
【左頁】
鮮魚鰹節
海産物類
砂糖澱粉
小麦粉
諸油一切
豊橋市魚町十七番地
【屋号:山形に一】《割書:合名|会社》瀧崎商店
電話一六二番 電略(タキヤス)
振替貯金口座東京一〇三四四番
大阪 九八二一番
【右頁】
定評ある
オイシイ藤村の煎餅と
吾妻あられいろ〳〵
豊橋市本町
藤村煎餅舗
電話一四五九番
【左頁】
豊橋市呉服町
各国時計
貴金属品
装身具品商 後藤時計店
店主 永井綱太郎
電話二五三番
【右頁】
豊橋市鍛冶町弐拾七番戸
井桁屋
金物
銅鉄卸商【屋号:井桁】神戸小三郎商店
電話三二八番
電略(カンヘ)
振替東京一二四八七番
【左頁】
豊橋市札木町七十五番地
《割書:株式|会社》不動貯金銀行豊橋支店
電話五四三番
【右頁】
長門袋物
絽刺製造
附属品一式
豊橋市大手通紺屋町
一心堂
【屋号:一心】古澤凖一
電話七五六番
振替口座東京二七九一一番
名古屋三七七五番
【左頁】
豊橋市松葉町
《割書:株式|会社》額田銀行豊橋支店
電話二二六番
八一六番
豊川派出所
電話二九番
【右頁】
《割書:株式|会社》明治銀行豊橋支店
豊橋市本町
電話三五
二三二
九一
資本金 壱千四百五万円
諸積立金 参百六拾万余円
【左頁】
商工業者人名
○い、ゐ之部
◎印刷業
営業種目 昭和三年 昭和二年 住所 商号又 電話番号 氏名
営業収益税 営業収益税 ハ記号
円 円
活版 ― 二六、六四 中世古町 一五二五 株式会社中央印刷所
仝 二二、四〇 二一、八四 花田町字西宿 秀文舎 三五九 大場鹿太郎
仝 四七、六〇 四八、七二 手間町二三 高運堂 七 渡邊 実
活版、石版 七三、九七 七〇、六三 指笠町 高木印刷所 四四五 高木鴻之介
活版、コロタイプ 六七、二〇 六七、二〇 西八町 三陽堂 一二四三 田中周平
活版、石版 七一、二四 七一、〇一 湊町 明真堂 八九二 山田勇吉
活版 五四、五四 五三、七九 上伝馬町 豊橋印刷所 九五七 丸山頼二
仝 九二、一二 八四、四二 西八町 藤田印刷所 七一六 藤田庄太郎
(85)
【右頁】
登録商標
花鶏
酔翁【?】
合名会社
豊橋市 中六商店
電話一八四番
【左頁】
御料理
老松館 豊橋ホテル
豊橋市関屋町
電話一一二番
一一〇五番
【右頁】
優等清酒
日之出正宗
開運
豊橋市下地町
醸造元 永井仙十
電話三〇三番
【左頁】
株式
会社
大野銀行豊橋支店
船町出張所
下町出張所
中央出張所
高師出張所
二川出張所
【右頁】
【社章:マルに貯】
豊橋市札木
株式会社 日本貯蓄銀行
豊橋支店
【左頁】
材木商 大山長平
豊橋市湊町
電話四六八番
電略(ダイ)
【右頁】
豊橋市札木町六拾九番地
【屋号:山形にウ】かぎや 小原薬店
電話六九番
《割書:振替|口座》 東京 八七七番
名古屋三〇六六番
【左頁】
《割書:株式|会社》三河銀行
豊橋市萱町
電話五七番
【右頁】
粋な履物
おつな傘
豊橋市札木町
さいとう
電話一七九五番
【左頁】
豊橋市中八町
《割書:株式|会社》愛知県農工銀行
豊橋支店
電話二四二番
預金 普通預金(定期,小口,当座)
特約預金(農工債券特約預り)
【右頁】
豊橋市花園町広小路通リ四丁目
《割書:株式|会社》三州貯蓄銀行《割書:本|店》
電話八二四番
当行ハ預金総額ノ三分ノ一以上政府ヘ供託
【左頁】
登録
マル弘印
玄徳硯
筆墨
文具 発売元
【屋号:マルに弘】 弘文堂商店
豊橋市魚町五十二番地
電話一〇〇四番
振替東京九〇四五番
【右頁】
原料棉花
紡績落綿
製綿絹綿
国産真綿
豊橋市花園町
【屋号:マルに草】加藤常吉商店
電話三〇一番
工場 豊橋市広小路四丁目
電話一九九九番
【左頁】
【屋号:山形に田】
【屋号:山形に上】印 溜醤油
三州田原町
醸造元 山内合名会社
電話 田原《割書:五|六》番
【右頁】
豊橋市札木町
千歳楼
電話《割書:二六一|九五二》番
センザイロウ
【左頁】
吉田駅
階上食堂
《割書:西洋|料理》偕楽亭
電話一五七四番
【右頁】
自動車用幌
自動車内張
各種雨具日除製造
並 修繕
【下段:判読不能】
【左頁】
○ち之部
◎茶、茶道具
茶 一七、〇八 一六、八〇 花田町字西宿 浜島七郎
茶、茶道具 七〇、〇〇 七五、六〇 札木町 兵藤茶舗 八八六 兵藤義一
仝 仝 二五、二〇 二四、〇八 仝 太田茶舗 九三六 太田順二
仝 仝 二八、〇〇 二八、〇〇 本町 大山茶舗 五三二 大山復次郎
仝 二四、九二 二二、四〇 新銭町 木下直一
◎賃貸業
家屋賃貸 ― 三九、〇〇 上伝馬町 《割書:株式|会社》豊橋商工品陳列館
仝 ― 二五、七二 西八町 株式会社 有楽館
物品貸付 二一、〇〇 一九、六〇 飽海町 鈴木節治
◎帳簿、製本
(105)
【右頁】
紐育スタンダード石油会社代理店
砂糖
小麦粉
石油類 問屋 【屋号:カネ正】《割書:合名|会社》山内商店
豊橋・札木
電話六九六番
【左頁】
汽缶汽機、水車製板精米、ハイトリ器
消防井ポンプ、並ニ改良横置ポンプ
軽便消火器兼養蚕植物用噴霧器
繭乾燥機其他
諸機械製造所
豊橋市鍛冶町 【屋号:入山形に六】鉄工所
電話 鍛冶 八十八番 本店
中世古八十八番 工場
【右頁】
豊橋駅構内商人
加藤 利商店
豊橋駅前
豊香園
【左頁】
味噌
【屋号:マルに太】
醤油
醸造元
豊橋市新銭町
内藤斎平
振替東京一六四一四番
電話四二四番
【右頁】
肥料 輸入製造
米穀飼料 輸入移入 業
豊橋下地町 桝屋商店
店主 磯村弥八
電略(マスヤ)又ハ(マ)
下地町本店 電話五九番
一三六九番
豊橋駅前出張所 九二二番
【左頁】
米食に優る
最新式の電熱機で出来た
滋養パン
電化パン製造所
松月堂
豊橋市広小路二丁目萱町線角
電話一六九〇番
【右頁】
豊橋市魚町
株式会社 豊橋魚市場
鮮魚部
電話四五六番
【屋号:マルに仲】塩乾魚部
電話四〇八番
【左頁】
豊橋市花園町
雑穀商 石川商店
電話七八番
【右頁】
豊橋名産
竹輪
蒲鉾
豊橋市魚町
【屋号:山形にサ】佐藤善作
電話四三五番
電略(ヤマサ)又ハ(サ)
振替東京二五九五〇番
【左頁】
イガヤ印【屋号:井桁に彌】
賜天覧
御買上
之栄
登録商標
いがや
国華
冨士
松
竹
梅
溜醤油醸造元
豊橋市
服部弥八
伊賀屋本家
【右頁】
豊橋市花田町角田
玉糸製造【屋号:カネ仙】曲仙合名会社
電話八四四番
一六三番【?】
生糸製造【屋号:カネ仙】花田分工場
電話五一一番【?】
生糸製造【屋号:カネ仙】中野分工場
電話一六六五番
【左頁】
◎繭屑、生皮苧
繭屑、生皮苧 二六、〇四 四五、九二 旭町字旭 【カネ今】 一五七五 今泉浦太郎
仝 仝 二〇、九一 三〇、一五 松葉町 【マル井】 三九〇 花井丹次
仝 仝 二八、〇〇 五三、二〇 萱町 【カネホ】 一二一七 堀 多四郎
仝 仝 三〇、八〇 四二、八四 花田町字西宿 【一○ヨ】 一一七四 河合与平
仝 仝 二五、二〇 五一、五二 仝 流川 【ヤマ平】 三六一 土屋武蔵
仝 仝 二〇、一六 四九、五六 花田町字西宿 【ヤマカ】 八〇五 松尾幸次郎
仝 仝 一九、九七 四三、四九 花田町字稗田 【ヤマ福】 三七四 福田愛三
仝 仝 一六、八〇 三〇、二四 松葉町 【ヤマ十】 一〇三八 天野重造
仝 仝 一五、四〇 一三、七二 花田町字狭間 【ヤマ源】 一四七一 彦坂順次
仝 仝 二〇、一六 三五、五六 仝 稗田 【カネ二】 一〇五四 日比理吉
仝 仝 二八、〇〇 四二、〇〇 仝 【マル正】 八五九 杉山鉄郎
仝 仝 一五、四〇 二〇、一六 神明町 【カネヨ】 一五〇六 鈴木芳太郎
(169)
【右頁】
豊橋名代
絹与
の
羊羹
【左頁】
“現代室内
装飾家具
設計並製作”
渡邊家具店
電話197.
振替名古屋6279
豊橋呉服町.
【前頁に入力済み】
【次頁に入力】
【右頁】
設備一流
宿料三流 主義
旅館 浪花
電話(長)六〇一番
豊橋市呉服町突当リ
(札木停留所ヨリ呉服町一■
【左頁】
○豊橋市内各駅乗降客
駅名 年次 乗降人員並ニ賃金 手小荷物数量並賃金
乗客 賃金 降客 個数
人 円 人
豊橋駅 昭和二年 九三五・四一八 七六三・〇八三 九三七・三〇四
昭和元年 九五八・三六三 八〇五・四三五 九四六・五〇八
大正十四年 九三一・八一〇 八一五・五七二 九一六・九四五
大正十三年 八七二・四四二 八二二・四七六 八五五・八一七
大正十二年 八五三・三七四 七五四・四七〇 八四五・三一一
吉田駅 昭和二年 七六一・二二三 一六四・二七七 七五二・三□〇
愛電一一五・六五六 九四・二四四 一二三・九一二
昭和元年 六九四・一〇六 一九三・五八一 七五一・四四八
大正十四年 五四七・五七三 一四一・三三七 五五六・二八七
大正十三年 四七八・九〇四 一三四・四四五 四九〇・二六六
大正十二年 三九〇・四二〇 一二三・九七三 四二九・八三〇
花田駅 昭和二年 一一八・二八四 三九・四五二 一〇八・二七三
昭和元年 一二六・六〇四 五〇・九三四 一二八・〇三三
大正十四年 五八・二五六 二五・二六六 六八・三四四
(265)
(276)
鳶人夫 ― ― 二・四〇 ― ― 二・七〇 ― ― 二・七〇 ― ― 二・六五
其他 日雇 男 一・八〇 一・五〇 一・六〇 二・〇〇 一・五〇 一・八〇 二・〇〇 一・五〇 一・八〇 ― ― 一・八〇
女 一・〇〇 ・七〇 ・八〇 一・〇〇 ・七〇 ・八〇 一・〇〇 ・七〇 ・八〇 ― ― ・八〇
庭師 ― ― 二・五〇 ― ― 二・八〇 ― ― 二・八〇 ― ― 二・七三
電気工夫 二・七四 ・六〇 一・五三 二・七七 ・六九 一・四八 二・七〇 ・七九 一・五〇 二・六九 ・八一 一・六五
仲仕(陸) 三・〇〇 二・〇〇 二・五〇 三・五〇 二・〇〇 三・〇〇 三・五〇 二・五〇 三・〇〇 三・〇〇 二・〇〇 二・四一
下男 月給 三〇・〇〇 一八・〇〇 二五・〇〇 三〇・〇〇 一八・〇〇 二五・〇〇 三〇・〇〇 一八・〇〇 二五・〇〇 三〇・〇〇 一八・〇〇 二五・〇〇
下女 仝 一八・〇〇 一二・〇〇 一五・〇〇 一八・〇〇 一二・〇〇 一五・〇〇 一八・〇〇 一二・〇〇 一五・〇〇 一八・〇〇 一二・〇〇 一五・〇〇
教育宗教
教育機関…学級数と児童数…秀才教育施設…
宗教心の陶冶…神社と寺院…古建築…………
我が豊橋市の教育は輓近著しく進歩発展の域に達したのであるけれども一般の状況に就
き殊に施設上の事に関しては之を大勢の上より観察するならば未だ到底満足する事は出来
ないのである、目下市内には県立豊橋中学校、市立高等女学校、市立商業学校、私立豊橋
商業学校並に一昨年五月市外下川村に開校された豊橋第二中学校を始め
豊橋高等小学校、岩田尋常高等小学校、花田尋常小学校、八町尋常小学校、新川尋常
小学校、東田尋常小学校、松葉尋常小学校、狭間尋常小学校、松山尋常小学校
の九小学校と昨年四月設置された商業専修学校、女子商業専修学校、中部公民学校、東部
公民学校、裁縫専修学校と此の外豊橋裁縫女学校、豊橋松操女学校、豊橋実践女学校、盲
唖学校、幼稚園、市外小池の豊橋和洋裁縫女学校等の私立学校が設けられて居る。此の外
に市立図書館、私立安藤動物園あり更らに教育関係の事業を企画実行し又は直接教育の研
(277)
(278)
究を目的とする市教育会並に教員組合会其他修養と研究を目的とする青年団とがある。県
立市立の中等学校及特種の学校を除いて以上公立小学校の学級数は尋常科百六十八、高等
科二十一学級、児童数一万八百九十八人で之を男女別にすれば男五千五百六十人女五千三
百三十八人而かも年々増加する児童は著しく、既設の校舎は忽ち狭隘を告げ年次校舎の増
設を行つて居る有様である。青年団は漸次良好なる発達を見るに至り殊に大正十四年開設
された青年訓練所は青年教育上至大の効果を修めつゝあり。
次に財団法人豊橋育英会は昨年十月二十六日設立許可を得将来有為の人材を養成する為
め、広く育英資金を募つて学資の関係上廃学にならんとする者に貸費補給を為し、更に進
んで右補給生及豊橋出身の学生の為に全国六大都市に寄宿舎を設置し各自の負担を減じて
向学の便を図るべく目下計画を進めてゐる。其他生活の改善を高唱し社会に貢献する所極
めて大なるものがある。其の外教育会、水練会、少年野球協会を始め幾多の教育及学術研
究会が行はれ何れも相当効果を収めてゐる。
次には宗教方面であるが豊橋市民の宗教心は果して如何に陶冶されてゐるであろうか茲
に之を具体的に述ぶる事は却々困難であるけれども比較的正しい批判力の下に自由信仰の
態度を持つてゐる様に見受けられるのは何んとなく嬉しい感じを起させる。而して現今市
内に於ける神社の数は三十六社で其の内県社が二社、郷社が三社、村社が十六社、無格社
が十五社、尚寺院は総て六十一ヶ寺之を宗派別にすると曹洞宗二十二ヶ寺、浄土宗二十ヶ
寺、顕本法華宗二ヶ寺、真言宗五ヶ寺、天台宗一ヶ寺、臨済宗三ヶ寺、真宗七ヶ寺と外に
真宗大谷派本願寺別院の一ヶ所で其他神道教会三十ヶ所、仏道教会、仝説教所十一ヶ所、
基督教会五ヶ所と云ふ状態である。然し飽海時代即ち鎌倉期以前に於ける神戸(今の豊橋
地方を云ふ)のものとしては中八町県社神明社、羽田御厨のものとしては湊町の郷社神明
社、並に薑御園のものとしては東田町の郷社神明社などが顕著なもので、尚飽海時代に創
立された神社には関屋町県社吉田神社、東八町村社八幡社、花田町郷社八幡社、岩崎町村
社日吉神社、次て岩田町村社神明社、魚町村社安海熊野神社、新銭町村社白山比咩神社、
岩崎町村社鞍掛神社の八社あり、寺院には西竺寺、妙徳寺、正琳寺等があつたけれど多く
は既に廃滅に帰し今日遺跡の残つてゐるのは独り正琳寺のみである。
又建築の最も古いものを謂へば寛文元年の建設に係る龍拈寺の鐘楼、外に延宝二年の
建築で新銭天神社の拝殿、夫れから貞亨【享の誤植】二年で神宮寺の本堂、元禄二年で龍拈寺の観音堂
(279)
(280)
仝六年で龍拈寺の三門、仝七年悟真寺の本堂、十四年神宮寺の三門、仝未年で浄円寺の庫
裡などである。浄円寺の本堂も元禄以前の様に聞へられるが如何んせん明確でない、外に
神宮寺の護摩堂は寛永二十年、別院の鐘楼は仝二十一年の建築であるが何れも後世の修繕
が甚しく原形を残して居る部分は少ない様に考へると同時に之を純の芸術として誇るに足
るものは殆んどない。
○豊橋市立各学校 (昭和三年四月末調)
校名 学級数 教員数 生徒(児童)数 昭和三年
男 女 計 男 女 計 三月卒業者
商業学校 一八 三五 ― 三五 八一九 ― 八一九 七六
高等女学校 一七 一八 一一 二九 ― 八二三 八二三 二一九《割書:本科一八九|補習科三〇》
豊橋高等小学校 二一 一八 八 二六 七五六 四三六 一・一九二 五四二
岩田《割書:尋常|高等》小学校 一三 一二 四 一六 三二五 二八〇 六〇五 八四
東田尋常小学校 一四 一一 五 一六 四四六 四三九 八八五 一二八
八町尋常小学校 二四 一七 一〇 二七 六一七 六六一 一・二七八 二二一
松葉尋常小学校 二四 一九 八 二七 七〇三 七二九 一・四三二 二三八
花田尋常小学校 二五 一七 一〇 二七 七四八 七四六 一・四九四 二一八
狭間尋常小学校 二三 一七 八 二五 五七六 六〇三 一・一七九 二一四
松山尋常小学校 一八 一四 六 二〇 五五五 五五二 一・一〇七 一六三
新川尋常小学校 二七 二〇 九 二九 八三四 八九二 一・七二六 二七八
商業専修学校 四 一三 ― 一三 八二 ― 八二 六
《割書:女|子》商業専修学校 二 八 一 九 ― 四九 四九 一二
中部公民学校 二 九 ― 九 八八 ― 八八 三
東部公民学校 三 四 ― 四 三三 ― 三三 三
裁縫専修学校 四 五 三 八 ― 一七五 一七五 一〇
○豊橋市内私立各学校幼稚園
校名 学級数 教員数 生徒(児童)数 昭和三年
男 女 計 男 女 計 三月卒業者
豊橋商業学校 九 一八 ― 一八 四一六 ― 四一六 七九
豊橋裁縫女学校 五 五 六 一一 ― 三五〇 三五〇 一八〇
豊橋松操女学校 四 五 五 一〇 ― 一九八 一九八 五〇
(281)
(290)
社会事業
研究調査項目…社会的疾患………………
都市改良の根本義…共同責任の観念……
欧州戦乱以来世界思潮は急激なる変化を来たし社界政策の気運頓に勃興し諸般の行政一
つとして此の問題を度外に置く事が出来なくなり曩に社会事業調査員会を組織され各種の
社会施設に関し其の研究実行に着手したのである。されど所謂其社会事業なるものの範囲
は。実に広範多岐であつて今俄かに凡ゆる方面に亘り之が研究施設を為すを得ないから逐
次其の充実を期せんとする摸様である。市は行旅病者、仝死亡者、窮民及軍事の救護や罹
災救助は之迄よりも一層完全にすると共に人事相談失業者の救済及細民調査と隣保同化事
業尚ほ進んでは無料診療所なども追々実施する方針を採り、目下着々調査の歩を進めて居
る。社会事業は総て事実に立脚しなければならない、現状を曝露して識者の考慮を促すの
は今日の最も急務とする処である社会状態の調査研究は従来余り重きを置かなかつたので
あるから将来大に此の方面に努力を払つて貰はなければならない社会組織の欠陥から来る
落伍者の数が物質文明の進歩に伴ひ年と共に激増の勢を示し、且つ其の多くは集団を成し
て所謂細民地区なるものさへ形成するに至るのである。社会的疾患は之から生ずるので之
を治療する事は一面には各個人存在権の人道上の要求に合致し他面には社会自衛又は社会
向上に欠くべからざる処で又都市改良の根本義であらねばならぬ。此の意味からして各種
事業の施説【設の誤植か】計画中失業者救済に関する職業紹介所は豊橋市役所内に開設し其成績大に見る
べきものがある。一昨年市役所内に設けられた方面委員豊橋方面事務所の顧問は豊橋市長
で十二名の方面委員は関係官公吏と提携して一般的生活状態要救護者の状況調査と既存社
会的施設の活動を即成し新に施設を要する事業等を研究して居る。併し此外小住宅の建設
保育所、簡易食堂、公設市場、公設質屋等の社会的施設に着手せられん事は望ま欲しく思
ふ殊に最も注意すべきは市内に於ける救済施設の助成監督であつて今其の既設事業を分類
すれば育児感化及托児人事相談等を兼ねて居る東田の有隣財団と豊橋盲唖学校なと其の主
なるものであるが、尚豊橋仏教会施設の無料宿泊所も好成績を挙て居る。之等は周到なる
社会現象並に其の原因の調査に基き統制的有機組織に依って一斎に其の歩を進め共同責任
の観念に依つて根本的に之が改善向上を企図しなければならぬと思ふ。
(291)
土木衛生
地方開発…都市計画……………
輓近豊橋市及接続町村の急激なる人口増加の趨勢並に商業の殷賑工業の隆昌其他市及町
村部落を通し蔚然物興の機運を醸成せる産業の発展に伴ひ、人車の交通、貨物の集散愈々
繁劇の度を加へ随つて交通機関の整備改善は蓋し急務中の急務に属するのである。市当局
は之等交通の状態に鑑み、豊橋市を中心として各道路の改善其幹線の連絡並に主要鉄道停
車場を連絡する主要道路の改善に関しては鋭意之を企図すると共に地方開発に必要なる道
路の改修を計画し以て時運に伴ふ施設を完ふせん事を頻りに研究調査を重ねつゝあつたが
大正十二年都市計画法に依る市として指定発表せられ仝年七月一日から実施せらるゝ事と
なつたが、上水道は総費額金三百五万余円の継続費を大正十五年六月三十日市会で可決さ
れ一昨年七月十八日起工式を挙行したが其の工事の概要を示せば、豊川の伏流水を水源と
して豊橋市を距る約一里余の八名郡下川村西下条三ノ下地先の河底に集水埋渠を構築し送
水喞筒井により東南三十三町を距る仝郡石巻村大字多米の濾過池に揚水し浄水となし高揚
喞筒で配水池に送り同所より市内では岩崎町と岩田町飯村町の一部を除き隣町下地町大字
下地の市街地を成せる一部の給水区域に送り人口十六万人に給水し将来新に形成される市
街地の給水は拡張計画に待つとのことである。
名勝旧蹟
今橋城…戸田今川の争闘…家康と織田氏…
城主の交代…最後の藩主…吉田城址………
今の豊橋を吉田と称へたのは天文年間から明治二年迄で、其以前は今橋と謂つた。当時
三河の国の守護は吉良氏であつたが、文明の頃に至つて牧野古白が此の今橋に築城したの
である然るに永正三年八月駿河の今川氏自ら軍を率ゐて今橋城を攻めたのであつた。古白
は城に拠つて固守する事六十余日、悪戦苦闘を続けたけれど力遂ひに及ばすして自殺する
に至つた。此に於て城は一時田原の城主戸田弾正憲光の一族戸田金七郎の有となつたので
あつたが其後大永の始め頃に至つて、古白の遣子伝左衛門成之と伝蔵信成の為めに再び取
り返されたのである。程なく成之は隠居して信成其後を襲いたが亨【享の誤植】保二年岡崎の松平清康
(293)
(294)
大挙して此城を襲来し、信成は一族郎党と共に下地に於て戦つたが運拙くして遂ひに戦死
し、城は一時松平氏の有に帰した。然るに天文四年吉田時代に入り清康の守山崩れ以後は
復び戸田金七郎の有となり爾来十有余年間舟形山一帯の山脈を境界として、戸田今川両氏
の争闘が絶へなかつたのであるが、天文十五年遂ひに今川義元の範囲に入つたのである。
処が永緑【禄の誤植】三年五月桶狭間の戦ひに於て義元戦死した、其時徳川家康はまだ松平元康と云つ
て今川氏の味方であつたが、其翌四年に至つて義元の子氏真との間に不和を生じ隣交は断
絶となつたのである。
其頃吉田城には今川氏の将小原肥前守鎮実が居つて、東三河に於ける諸将の人質を此城に
預つて居たが、家康に属したものは悉く龍拈寺口と云ふ処で殺して仕舞つた。家康が岡崎
から大挙して此の城を攻めたのは永緑【禄の誤植】七年の初めであつたが其頃今の豊橋市の東郊に当る
仁連木にも城があつて戸田主殿介重貞が居つた、此重貞も早くから家康に心を寄せて居た
のであつたけれと何分にも其母が人質として此城に容れてあつた為め反旗を翻す前に先づ
母を奪ひ戻さなければならぬと考へ種々工夫した末に首尾よく目的を達したのである、家
康は翌八年鎮実を亡ぼし此城を酒井左衛門尉忠次に与へたのであつた、斯くて程なく今川
氏は衰へ三河は勿論遠江全国までも徳川氏の有に帰するに至つたが、其代り今度は追々甲
州から武田氏の侵入が始まつたのである。即ち元亀三年十二月信玄軍を率ゐて遠江と三方
ヶ原に於て戦つたのであつたが、此合戦は徳川氏の大敗となつた、信玄は勢に乗じ更らに
三河に進入し、天正元年正月南設楽郡の野田城を陥れたけれど、此の戦の為めに逝去する
に至つたのである。然るに天正三年四月其子勝頼大兵を挙げて二連木城を襲ひ続ひて吉田
城に迫つた、夫れから長篠の合戦となつたのであるが、今度は武田方の大敗となり、之れ
が原因で天正十年三月織田信長と家康との為に其の根拠を侵略されて、武田氏全く滅亡す
るに至つたのである。其年六月信長は本能寺に於て明智光秀に殺され、之れより秀吉の舞
台となつた、秀吉と家康は小牧山で一度戦を交へたけれど程なく相和し、天正十八年秀吉
が小田原に北条氏を征伐した時にも家康も国を明けて秀吉に捧げ自分も之に従軍した、其
役の終つた処で家康は秀吉の為めに関東八州へ移封せられたのである。此時忠次は既に隠
居し其子家次が相続して居たが之れも家康に従つて上州碓井の城に移つた。家次の後へ来
たのは池田三左衛門輝政で牛久保、新城、田原の三城も其配下に属し知行十五万二千石を
領する事となつた。仁連木城は此時廃止されたのである。然るに慶長五年関ヶ原の合戦後
(295)
(296)
輝政は功を以て播州姫路五十二万石に封ぜられ、吉田城を去り其後を継いだのは松平玄蕃
頭家清であつた。封禄三万石其の後慶長十七年に松平主殿介利忠、寛永九年に水野隼人正
忠清、仝十九年に水野監物忠善と数々城主の更迭があつたが禄高は矢張り多い処で四万五
千石位のものであつた。正保二年小笠原壱岐守忠知城主となつたが、夫れから長矩、長祐、
長重と四代の間継続した、小笠原氏に次いて元禄十年久世出雲守重之が来たが、之れも在
城十年にして寛永二年牧野備前守成春と交代した。成春の次は其子大学成央で牧野氏に代
つて此の地の城主となつたのは大河内氏である、大河内氏は正徳二年信親の時代に初めて
古河から移封されて来たのであるが、亨【享の誤植】保十四年一度浜松に転封になり、之れに代つたの
が松平豊後守資訓で之れも寛永二年になつて再ひ大河内氏と交代になつた、封禄七万石当
時大河内氏は信親の子信復の代であつたが、夫れから信礼、信明、信順、信宝、信璋を経
て信古に至つたので、之れが最後の城主で吉田城址は今の歩兵第十八聯隊の営舎がある処
である。
仁連木城…其来歴と宗光…重貞の戦死…
天正の戦…康長の戦功……………………
【左頁】
迅速
緻密
低廉
正確
免【兎の誤字】に角印刷は
高木印刷へ
豊橋市指笠町
高木印刷所
電話四四五番
【次頁に入力】
【右頁】
愛知県田原町
醤油
醸造業【屋号:一に山形に十】野村重兵衛
電話 本店 一〇番
第二工場 二一番
振替口座東京九九三二番
【左頁】
万漬物
珍味食料品
八丁味噌
卸小売
【屋号:カク久】
発売元
漬物
佃煮
各種
製造
豊橋札木大手通リ
名物屋漬物店
電話六九五番
【右頁】
ダルマ印米粉
三星印 米粉
【マル奈】うどん
【マル奈】素麺
【マル奈】ひやむぎ
【マル奈】平麺
【マル大】大森俊治
豊橋市西八町八十八番地
電話一九二番
振替口座東京一四六四二番
専属工場
【マル奈】製麺製粉場
豊橋市大手通リ松山
電話一四五〇番
【左頁】
廻転式電化
豊橋市広小路弐丁目
ジヨーパン製造元 松盛堂
電話一二三一番
【次頁に入力】
【右頁】
陸軍御用
カゴメ【屋号:籠目】サイダー
飲料水各種製造
近藤商店
豊橋市松山
電話七五七番
【左頁】
最上味噌醤油
登録商標【屋号:カネ大】
味噌醤油製造業
大山銀蔵
豊橋市花園町
電話五一〇番
【右頁】
創業明治十八年
神代鍬印
多木肥料 《割書:株式|会社》多木製肥所
東三一手特約店
豊橋市関屋町
今泉福太郎商店
電話四二七番
振替口座 東京九八四一番
名古屋一〇一〇五番
【左頁】
豊橋電気株式会社
豊橋市花田町字東郷一二ノ一
電話六九三番
【右頁】
一般冷蔵業
大正製水冷蔵株式会社
豊橋市湊町一六
電話一三五一番
【左頁】
東田の北に朝倉川と云ふ小川が流れて居る。之は八名郡との境界をなすもので蝉川の下
流であるが、此川に臨める高地に仁連木城の旧址がある。此城の来歴に就いて種々なる説
があるけれど、明応年中戸田弾正左衛門尉宗光の築いたのであると云ふのが事実らしい宗
光は初め碧海郡上野の城に居たが、寛正六年五月徳川家康から六代目の祖に当る松本和泉
守信光と共に室町幕府の命を受けて、三河国内の一揆を平定した事は蜷川親元の日記など
にもあつて有名な話である。宗光は其後居を渥美郡の老津に移し、更らに一色氏の後を襲
いで、永正十三年の頃田原に根拠を構へたが、其後更らに時を得て此仁連木にも城を築き
田原をば其子憲光に委ねて、自分は此処に移つたのであるが、多分明応初年頃であると思
を。宗光卒去の後は憲光及其次男吉光も亦此処に居城した事実がある。其後は此城も暫ら
く放棄されてあつた様に考へられるが、天文十年に至つて憲光の曽孫に当る丹波守宜光が
牛窪の加治村から之を再興したのである、永禄七年吉田城から其母を奪ひ返した主殿介重
貞は即ち其子であつたが、重貞は其の年の十一月吉田の城攻めに於て戦死したので、其後
を弟の甚平忠重が襲ひだ、然るに之れも亦た永禄十年五月病没したのである、当時其子の
康長はまだ六歳の子供であつたから、一族の戸田伝十郎吉国と云ふ人が之れを扶けて陣代
(297)
(298)
となつた。即ち元亀三年武田信玄の襲来に方つても、天正三年五月武田勝頼の来攻に際し
ても共に吉国後見の時代であつたが、其家臣等の奮闘によつて天正の戦には敵首十八級を
得以て家康の台覧に供したと伝へられて居る。之より先康長は松平の姓を賜はり、家康の
仝母妹久松氏に配したのであるが、後屡々徳川氏の為に戦功を立て、天正十八年家康の関
東移封と同時に武蔵国東方一万石に封ぜられたのである。爾来仁連木城は遂に廃城となつ
て今日に至つたのであるが、今は大口喜六氏の所有地となり、一部農園を経営して居る。
豊川の清流…古名の色々…橋梁移転……
地子御免…貨物の運上…旧幕時代の湊…
豊橋の架つて居る川が即ち豊川である。其の源を北設楽郡段戸山に発し南流して段嶺村
を過ぎ、作手川を容れて寒狭川となり南設楽郡長篠村に至り三輪川を合し、更に西南に流
れて宝飯、八名、渥美、豊橋、三郡一市の界を為し前芝村に至つて渥美湾に入るのである
が、延長凡そ十七里である。此河の古名を飽海河と謂ひ、後吉田川とも言つたが、近世一
名姉川の称があつた。併し此名は余り世に知られて居らぬ昔飽海郷と宝飯郡と渡会郷との
間に志香須賀と云ふ豊川の渡しがあつた。地形の変遷が甚だしいので今其位置が明かでな
い元は此の名を然菅と書いたが中世からは白菅の字を訛用したるものと思はれるが其後又
た更らに鹿菅などとも書かれて居る。豊橋を渡れば宝飯郡の下地町である、橋の此方が市
内の船町である。此町は池田輝政の橋梁移転に依つて漸次発展を来たしたものであるが、
船乗又は運送渡世の者が多かつたので、慶長五年関ヶ原の役には城主輝政の命を受けて伊
勢の津又は松坂などへ往来したのである。夫れか縁故となつて爾来引続き藩主から船役を
命せられ、地子御免の上、此河に輸入する貨物の運上を取る事をも認められて居たのであ
る。而かも旧幕時代には此処以外豊川沿岸の地に湊を許されなかつたから。伊勢又は尾張
地方に交通する船舶は常に橋下に輻輳して、船町の繁昌は著しかつたものであつた。
豊橋名代行事
煙火…………鬼祭
元禄時代と謂へば誰も知らぬものはない江戸全盛の時であるが、其矯【驕の誤植か】奢の風は地方にま
でも流れて来たので、彼の吉田の花火なども此頃から盛大になつたのである。勿論此花火
は関屋町県社吉田神社の祭礼に於て行れたのであるが、元同社の神官であつた石田家の記
(299)
(300)
録に依つて見ると、初めて建物(花火の一種)の大きなものが出来たのは元禄十三年の事で
長十三間幅三間半で其費用は廿四両かゝつたとしてある。旧幕時代には祭礼中本町の通行
を禁じ市街に於て打揚げたのであつたが、今は社前と豊川水上に於て行つて居る。又同祭
礼に要する本町の山車に幕の出来たのも元禄十六年の事であるとしてあるが、萱町から出
る笹踊の装束も元は木綿の浴衣であつたのを元禄に入つて絹更紗染に改め、其十七年に至
つて緞子のものが出来た様子である。それのみならず右の記録の中には其の頃笹踊を囃す
為めに大太鼓や小太鼓の打手の中に頗る名人の出来たと云ふ事か詳しく記してある。吉田
神社の祭例は毎年七月十三、四、五日の三日間であるが、吉田時代の風流を偲ぶ花火や笹踊
りは今尚ほ此祭日には盛んに行はれ、天下名代のものとなつて居る。此の外豊橋市に於け
る年中行事として主なるものは、中八町県社神明社の鬼祭である。此社の例祭は毎年二月
十四五の両日を以て行はれ、俗に之を鬼祭と称へて居るが、其式は天狗の面をつけ土烏帽
子小具足を着けた武者が赤鬼を追ひ払ふのである。夫れが済むと神輿の渡御になる順序で
此神事は極めて奇なる祭であると云ふ事である。
附近町村を探ねて
豊川鳳来寺鉄道沿線…豊橋以西…豊橋以東…
半島方面…八名郡及下地方面…………………
我が東三河は古い歴史を有つて居る丈けに、今尚王朝以来の遺蹟を初め室町期即ち群
雄割拠時代の城塁並に古戦場其他武将の墳墓等が到る処に見受けられるのである、先づ豊
川鉄道の沿線では、小坂井町の東端に在る風祭で名高い菟足神社、次には徳川氏に葵の紋
所が起つたと云ふ由緒のある伊奈城址、牛久保では今川義元並に旧一色城主一色刑部少輔
の墓がある大聖寺、山本勘助の墓所で知られて居る長谷寺等があり、尚夫れから程遠から
ぬ処に牧野民部亟【丞の誤植】成定の為めに建立した光輝庵がある。牛久保駅より僅か進むと豊川に達
するのであるが、此処には吒枳尼尊天によつて天下に有名な妙厳寺の稲荷と外に三妙寺の
名蹟と県立蚕業試験場豊川支場とがある。国幣小社砥鹿神社は一宮駅を去る三町許り東方
で祭神は大己貴命である、次は長山駅で砥鹿神社奥宮の鎮座する三河第一の高山である本
宮山へ此駅から頂上までは五十余町である、東上駅附近に牛の瀧あり直下六十尺、行路極
(301)
(302)
めて平坦駅から八丁夏季避暑客極めて多い。野田城駅は笛の名人村松芳休の劉喨たる妙音
に誘はれて武田信玄が狙撃せられたる野田城址へは僅かに五町、更らに新城に入り菅沼定
盈の墓がある、此の地は豊橋以北の小都会で県立農蚕学校を始め高等女学校官衙公署があ
つて商工業亦盛である、豊川鉄道の終点は長篠駅で豊川鳳来寺両線の接続する所である。
大野を経て川合に至る鳳来寺鉄道と海老、田口、津具を経て信州飯田に至る伊奈街道との
分岐点で駅前から東三自動車が一日二回まで往復の便がある、此の駅を距る十四町余寒狭
川三輪川二流交叉の処に長篠古城址があつて附近一帯は武田、徳川、織田三氏の古戦場であ
る、長篠役は天正三年五月甲斐の武田勝頼が家康の臣奥平信昌を此の城に囲みたるに起因
し、此の時鳥居強右工【エ/ヱ/衛いずれかの誤植か】門の最後は人口に膾灸【炙の誤植】せる処であつて、其墳墓は今も鳥居駅から一
町余の寒狭河畔に存在して居る、其他此合戦に戦死せる甲将馬場美濃守信房内藤修理亮昌
豊山県三郎兵衛昌景其の他の墳墓は今尚此地を中心として附近に散在し行人をして低回顧
眄の情に堪へさらしむる者がある、鳳来寺の旧時を偲ばむとするものは長篠駅から二里余
自動車人力車の便によつて山麓に達す鳳来寺駅から下車すれば二十余町山麓から本堂薬師
如来迄は九町を登るのである同寺は推古天皇の勅願により僧利修の開創せる処天台真宗の
二宗を兼ね極めて古い由緒を有つて居る全山風物総て壮観を極めたものであつたが数度の
火災に逢つて今日旧態を存せず僅かに三門並東照宮祠などは尚昔時の面影を留めてゐる、
東照宮は慶安四年の創立で後度々修繕を加へられてゐるが尚明かに徳川初期の様式を見る
べきものである殊に此の山は阿蘇火山脈の終点に位し悉く火山岩で構造され極めて断壁千
仞の奇勝に富んで居る、三河大野駅から行者越に道を取れば鳳来寺で最も近径で大野橋を
渡ると八名郡大野町である此地名勝に富み商工業亦盛なれば駅には設備整ひたるホテルを
設け旅客の便を計る町はづれに天神山公園と不動瀧がある此処から山吉田村阿寺迄は二里
余りで馬車自動車の便あり飛泉豊で七折の高さ百二十五尺阿寺の七瀧と称し夏猶寒きを覚
ゆる避暑地である。湯谷駅は所謂鳳来峡の中間で三輪川(板敷川)を隔てた対岸は県道別所
街道が坦々として北へのび恰かも耶馬渓を見るが如き風趣をたゝゑて居る川の流れに沿ひ
小盆地から湧出づる鉱泉がある之れを鳳液泉と謂ひ万病に効顕ありとて駅は此処にホテル
を経営し旅客をして心行くまで享楽せしむるとの事である。三河槇原駅は鳳来寺山から搬
出の山と積まれた木材薪炭製材の響附近殊に佳景に富み幾多の鳳来峡名所がある此地山深
きに平地多ければ都人の別荘地として有望である。三河川合駅は本郷御殿振草を経て信州
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新野及飯田に至ると浦川中部を過ぎ久根銅山水窪に至る分岐枢要地点である此駅から凡そ
三十町余りで有名なる乳岩に達す鐘乾洞に入れば乳岩大神不動明王の鎮座し鐘乳豊かに下
るも嬉しく石門に至れば雄大なる自然の美に打たれ茫然漸く我に返り展望せんか巌層より
なる連峯の雅趣を一眸に収め川合の村落は浮絵の如く眼界に入る春の山を飾る石楠花深山
躑躅の咲き乱るゝ麗はしさ夏の納涼秋の紅葉に衣を染むべき勝地此附近に多く詩人墨客の
杖を引くべき地である、されば駅に於てホテルを直営し遊覧に便せしむ。
尚旧東海道沿線豊川橋以西では御油駅の県社御津神社、大恩寺、御油海岸等で。蒲郡
は元西郡と蒲形を合せたもので、今では海岸に海水浴場の設けがあり、風光頗る明媚にし
て夏季に入ると各地から来り遊ぶ者が却々多い。愛電で豊川を越へ伊奈駅へ入る此附近は
伊奈城のあつた処で其の名を知られ愛電、豊川線の分岐点であつて将来を嘱目されて居る
国府は旧東海道で往昔三河の国府があつた処で同町の白鳥に総社があり八幡村に国分寺と
八幡社があつて国府に関係の浅からさるものがある西明寺入口の鷺坂などもよく知られて
居る八幡社の社殿は特別保護建造物で有名なものである八幡村より東北二里余りの山中に
ある財賀寺は聖武天皇の勅願により行基の開創した名刹てある赤坂駅は古来から紅葉の名
所で知られて居る宮路山に近く宮路山は持統天皇の旧蹟であつて山頂の遠望天下に絶し春
の蕨狩秋の茸狩に佳く長沢山中本宿は東海道古駅路て古から知られて居る。
次に東海道鉄道沿線を豊橋から東に向へば、二川町の岩屋観音、高師山、雲谷の普門寺
小松原の東観音寺、鷲津の本興寺が歴史的に世上著聞の場所であるが、殊に岩屋観音が其最
なるものであろう。又一方下地町になると聖眼寺、水神社、大蚊里、正岡、花井寺、古宿大
村など比較的史実に富んだ処として指を屈せねばなるまい。夫れから八名郡方面では法言
寺、石巻山、石巻神社、本坂峠、嵩山正宗寺、月谷大洞窟等最も名ある処となつて居る。
更らに渥美半島方面に於ては渥美電鉄の沿線高師村に入れば小池駅附近に潮音寺がある
曹洞宗に属し行基の開創せるものと伝へられて居る、此寺の観音は潮道の観音と称し旧来
有名なるものである、師団口駅は騎兵第四旅団司令部を始め教導学校等の所在地であつて
明治四十一年十一月第十五師団司令部が此地に置かれて以来著しく発展したのであるが、
大正十三年五月軍備縮少により第十五師団司令部を廃止せられ今は第三師団の管下となつ
て居る串蜊の製造に於て有名なる大崎へは師団口駅より約一里である、芦原駅より十町程
で野依毘沙門天へ行く事が出来る、大清水駅附近には渥美電鉄に於て娯楽場として野球グ
(305)
(306)
ランドを設け常に試合を催し好球家を喜ばして居る、老津、谷熊、豊島の各駅より多賀寿命
殿長仙寺の名刹へ何れも十三町である、此の寺は天平十七年行基の開創で現在の本堂は延
宝九年頃の建築である、天白、神戸の各駅を経て田原駅に入ると、此処は明応年間戸田宗
光の築いた田原城址等がある田原藩の老臣にして書画を能くし詩文に長じ、更らに海外の
事情に通じたる渡辺華山の墓は仝町城宝寺境内にあつて三宅氏の祖児嶋高徳を祀る県社巴
神社は旧城址の一隅に鎮座ましますのである。又田原藩の執政で火技を研究し造船の法に
長じ後挙げられて藩政を掌つた村上藩致の墓も仝町に在つて、片浜海水浴場へは仝町より
十八町である。其他神戸神明社、阿志神社、長興寺、泉村鸚鵡石、福江泉福寺、伊良湖岬、
石門、村松。豊川河口では牟呂吉田、神野新田、前芝など何れも三河の名所旧蹟として広
く紹介する価値がある、特に牟呂吉田農林省水産試験場豊橋養魚試験場の如きは大ひに見
るべきものがあると思ふ。
○豊橋市内に於ける民衆娛楽場
所在 座名 電話番号 主ナル目的
呉服町 東雲座 二二三 演劇
花田町字石塚 豊橋劇場 七四一 演劇
上伝馬町 帝国館 二二五 活動写真
神明町 豊明館 四一九 仝
松葉町 ニシキ館 仝
西八町 大盛館 五二九 仝
清水町 蝶春座 寄席
上伝馬町 河原座 仝
○豊橋市内諸組合
名称 所在地 名称 所在地
三遠玉糸製造同業組合 指笠町 東三醬油同業組合 花田町字石塚
東三生糸製造同業組合 花田町字石塚 豊橋輸出麻真田工業組合 新川町
東三繭糸問屋同業組合 指笠町 豊橋麻糸同業組合 手間町
(307)
【右頁】
昭和三年十月十七日印刷
昭和三年十月二十日発行
豊橋市瓦町字臨済寺前十一番地
発行兼編輯人 鈴木澄衛
豊橋市指笠町参拾七番地
印刷人 高木鴻之助
豊橋市指笠町参拾七番地
印刷所 高木印刷所
豊橋市花田町字石塚四拾二番地ノ一
発行所 豊橋商工会議所
電話二〇九番
【左頁】
薪
炭
竹 問屋
豊橋市西八町
白井浅治郎商店
電話三九五番
振替口座名古屋七四〇八番
【右頁】
豊橋市西新町
呉服
太物 小野屋商店
電話二一〇五番
【左頁】
豊橋蛹工場
肥料製造
蛹油工業
絹綿精練 熊田嘉平
豊橋市花田町字大塚
電話一一一六番
【右頁】
豊橋市花田町字池田
生糸
製造 【屋号:マルに中】清水製糸場
場主 清水熊太郎
電話四八六番
九〇四番
【左頁】
塩
乾
魚
売買問屋【屋号:マルに一】豊橋水産市場
豊橋市関屋町
電話一二七三番
電略(○一)又ハ(○)
【右頁】
月姫セーキ
月姫サイダー
月姫レモン
月姫ストロビヤ 製造元
丸太商会
豊橋市関屋町
電話五四九番
【左頁】
登録商標【屋号:井桁に白】 醤油醸造
豊橋市西新町
醸造元 白井権八
電話五一五番
【右頁】
各種
石炭
販売 《割書:合資|会社》【屋号:カネ八】杉八商店石炭部
電話五三七番
電略(カネ八)又ハ(八)
営業所 豊橋市関屋町
【左頁】
サントスコーヒー発売元
豊橋市新銭町
和洋酒
類問屋 水藤商店
電話六一二番
【右頁】
TMスチームトラツプ発売元
各種《割書:モートル|ポンプ》
発動機
鉄管ベルト
一般諸機械
製作販売 機械商 《割書:合資|会社》トミタ商店
豊橋市花田町城海津石塚角
電話九二三番
【左頁】
青果物問屋
豊橋市松葉町船町通
い 一和商会
電話一〇二七番
【右頁】
食料品界ノ寵児
今売出シノチヤキ〳〵
洋食器
洋食料品 卸小売 伊藤商店
伊藤菊次
豊橋市札木町十五番地
電話一五一五番
【左頁】
営業種目
書籍、雑誌
・事務用品
・文房具
・万年筆
・謄写版
・写真帖
運動具ト服装
トランプ
花札、かるた
豊橋市呉服町
豊川堂書店
電話三六八番 五二五番
【右頁】
【上段】
事業種目
定期貯金 六ヶ月以上年利六分
当座貯金 三百円以上百円ニ付日歩八厘
普通貯金 一円以上百円ニ付日歩壱銭弐厘
三年積立貯金
貸付金
当座貯金貸越
年賦貸付 年利一割
但貸付金及当座貸越年賦貸付ハ組合員ニ限リマス
豊橋市神明町一番地 電話一四七七番
《割書:有限|責任》豊橋信用組合
仝 花田町流川八十番地 電話一二四〇番
花田支所
組合長理事 神戸小三郎
専務理事 三浦深蔵
理事 原田万九
理事 佐藤善六
理事 内藤斎平
監事 河合孜郎
監事 白井浅治郎
監事 白井権八
《割書:信用評|定委員》 今西卓
小木曽丈三郎
藤田保吉
佐藤弥平
白井貞次郎
【下段】
本組合ノ事業
◆本組合ハ社会奉仕ノ為メ営利ヲ離レ産業経済ノ発展
ヲ資ケ且ツ組合員相互ノ徳義ト信用トヲ涵養シ各副
利ヲ増進セントスル国家的事業デアリマス
◆本組合ハ親銀行トシテ中央金庫ガアリマス中央金庫
トハ各府県ノ信用組合ノ余裕金ヲ預リ又必要ナル資
金ヲ融通スル親銀行ニテ政府ト組合トノ共同経営デ
アリマスカラ恰モ日本銀行モ同ジデアリマス
安全ナル庶民銀行ノ特色
◆本組合ハ其筋カラ所得税、営業税其他ノ課税ハ免除
セラレ且ツ低利資金ノ融通ヲモ受ケテ居リマス
◆本組合ハ産業組合法ニ依リ設ケラレタル社会法人ニ
テ大蔵省、農林省ノ管理ニ属シ県庁並ニ市長ノ厳重
ナル監督ノ下ニ業務ヲ取扱ツテ居リマスカラ御安心
デアリマス
◆本組合ハ市街地信用組合デアリマスカラ組合員ノ外
ノ何人デモ自由ニ貯金ガ出来マス又組合員ニ加入モ
何時ニテモ出来マス出資ハ一口弐拾円デ三十口以上
持ツコトハ出来マセン
◆本組合ハ貯金総額ノ四分ノ一以上ノ金額ヲ払戻準備
金トシテ国庫ニ供託シ猶毎事業年度ノ剰余金ノ四分
ノ一以上ヲ積立テヽ居リマス
◆本組合ハ銀行ト違ヒ預金貸出共市内ニ限ラレテ居リ
マスカラ利益ヲ市外ヘ搬ビ去ル事ハアリマセン
【左頁】
楽器の御用
でしたら
是非御利用
願ひます
豊富品揃
豊橋市札木(郵便局東)
代理店 永井楽器店
電話一〇八五番
蓄音器とレコード
大売捌元
【右頁】
【屋号:マルに一】日本紙業株式会社特約店
豊橋市萱町五拾四番地
《割書:内外|諸紙》【屋号:マルに雷】来本紙店
電話 長四二八番
一六八〇番
振替東京八四六五番
【左頁】
理化器械
博物標本
度量衡器 石原製作所
豊橋市花田町西宿
電話一五一二番
【右頁】
消防と被服
火傷・・・・・打撲傷を完全に防備する
消防着は刺子服あるのみ
市田商店
豊橋市
曲尺手町三丁目七十三番地
電話一〇二八番
振替名古屋四八六一番
【左頁】
豊橋市花田町
豊橋瓦斯株式会社
電話五二三番
【裏表紙】
東海名産
【屋号:山形に安】の海苔製品
豊橋 魚町
山安商店
電話一五三番
【表紙】
【白紙】
《題:豊橋市《割書:市制|施行》二十年誌
【白紙】
昭和二年十一月
《題:豊橋市《割書:市制|施行》二十年誌》
豐橋市発行
【右頁 白紙】
【左頁(透写紙) 次々頁写真の題名】
豊橋市全景
(七〇〇米の高空より撮影)
【右頁 白紙】
【左頁 写真】
【右頁 白紙】
【左頁(透写紙) 次々頁写真の題名】
仝 余興
市制施行二十週年祝賀式場 仝 市役所玄関前
【右頁 白紙】
【左頁 写真】
《題:序》
本市往年市政十年史の編纂を企てたが脱稿に至らなかった。後再び十五
年史の発行を計画したが又遂に成らなかった。依って本市は客年市制
施行二十週年を迎ふるに当って、本誌の発刊を企て従来蒐集の資料を参
案し、之に取捨補足を加へ、必ずしもその完全を期せずして、茲に其実現を
見るに至った。市史編纂は固より容易の業では無い。本誌は主として
本市最近二十年間の事歴、変遷を記述したものであって、所謂市史の一断
片に過ぎざるものである。殊に本誌は僅かに吏員に命じ、常務の余暇を
以て編纂に当らしめたものであるから、調査攻究の至らざる所もあるで
あらうが、本誌が他日市史編纂の資料たるを得ば幸甚である。
昭和二年十一月
豊橋市長 田 部 井 勝 蔵
《題:凡例》
一、本誌は本市市制施行二十週年記念の為め編纂せるものにして、主として、本市最近二
十年間の事歴、変遷を叙述したるものなれば、所謂市史の一部分たるに過ぎざるもの
なり。
一、本誌は吏員常務の余暇、多事匆々の間に編述したるものなれば、誤謬脱漏多かるべし、
修補是正は之を他日に俟たんとす。
一、本誌は曩に市制十年史、十五年史編纂の為め、当時蒐集せし資料に取捨補足を加へ掲
載したるもの尠しとせず、依て自ら序次文章の一貫を缺き、又資料の根拠に遡り之を
精査攻究するの遑なかりしを以て、書写校正の誤りなきを保し得ざるを遺憾とす。
一、本誌の記述中、歴史並に名勝史跡等に関する記載は概ね、山口喜六氏の「豊橋市史談
」及び仝氏の著述に依る本市教育会発行の「豊橋市及其付近」に拠りて記述し、又
其全文を転載せるもの尠しとせず、茲に之を特記す。
一、本誌挿入の写真は大半前記「豊橋市及其付近」発行当時使用の銅版(原版は大口氏
自ら撮影のもの尠からずと云ふ)の保存せられたらるを幸とし、市教育会に諮り之を使
【右頁】
用し紙面に光彩を添へ得たるは、最も欣幸とする処なり。
一、本誌中単に「現に」「現今」「現在」と記載し、又は年月の記載なきは、概ね大正十五年を指示
せるものなりとす。
【左頁】
《題:目 次》
第一章 地 理・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一)
位置・・地勢・・気候・・区劃
第二章 変 遷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(四)
一、市の沿革・・・・・・・・・・・・・・・・・・(四)
飽海時代・・今橋時代・・吉田時代・・明治維新後
二、市街の変遷・・・・・・・・・・・・・・・・・(一三)
第三章 土地及人口・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二四)
一、土地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二四)
土地一覧・・官有地調・・免租地調・・有租地調
二、戸数及人口・・・・・・・・・・・・・・・・・(二七)
戸口累年表・・国勢調査に依る人口及世帯数
第四章 市政の沿革・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(三十)
一、自治制実施前・・・・・・・・・・・・・・・・(三〇)
二、町制の施行・・・・・・・・・・・・・・・・・(三三)
沿革・・町の機関・・町の経済・・町勢一班
三、市制の施行・・・・・・・・・・・・・・・・・(五七)
市制施行の準備・・市の成立・・市制施行後の事歴・・
市会議決事項
第五章 市の機関・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(九六)
一、市会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(九六)
市会議長・・市会副議長・・名誉職参事会員・・市会議員
二、市吏員・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一〇五)
市長・・助役・・收入役・・其他の吏員
三、委員・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一〇八)
学務委員・・小学校臨時営繕委員・・産業統計調査員
第六章 議員選挙及各種委員・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一一三)
一、各種議員・・・・・・・・・・・・・・・・・(一一三)
衆議院議員・・県会議員・・郡会議員
二、各種委員・・・・・・・・・・・・・・・・・(一一六)
営業税調査委員・・所得調査委員・・都市計画愛知地方委
員会委員
第七章 市の経済及税務・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一二一)
一、市の歳入出・・・・・・・・・・・・・・・(一二一)
豊橋市歳入出決算額
二、市有財産・・・・・・・・・・・・・・・・(一二八)
土地・・建物・・現金及株券・・書籍及器具類
三、市公債・・・・・・・・・・・・・・・・・(一三〇)
四、税務・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一三一)
市税及国県税の沿革・・使用料及手数料の沿革・・市税及
県税の賦課率・・市税及国県税負担額・・徴税方法・・
金庫制度
第八章 教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一四八)
一、本市の教育・・・・・・・・・・・・・・・(一四八)
二、小学校・・・・・・・・・・・・・・・・・(一五一)
沿革・・豊橋高等小学校・・岩田尋常高等小学校・・
東田尋常小学校・・八町尋常小学校・・松葉尋常小学校・・
花田尋常小学校・・狭間尋常小学校・・松山尋常小学校・・
新川尋常小学校
三、中学校・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一七八)
愛知県豊橋中学校・・愛知県豊橋第二中学校
四、高等女学校・・・・・・・・・・・・・・・・(一八〇)
豊橋市立高等女学校
五、実業学校・・・・・・・・・・・・・・・・・(一八四)
豊橋市立商業学校・・私立豊橋商業学校
六、補習学校・・・・・・・・・・・・・・・・・(一八七)
本市の補習教育・・豊橋市立実業補習学校
七、各種学校・・・・・・・・・・・・・・・・・(一八九)
豊橋裁縫女学校・・豊橋松操女学校・・豊橋実践裁縫女学校
豊橋製糸夜学校・・豊橋看護婦講習所・・私立鳥居病院付
属助産婦看護婦養成所
八、盲唖学校・・・・・・・・・・・・・・・・・(一九一)
豊橋盲唖学校
九、幼稚園・・・・・・・・・・・・・・・・・・(一九二)
豊橋幼稚園・・小百合幼稚園・・旭幼稚園
一〇、社会教育・・・・・・・・・・・・・・・・・(一九三)
豊橋市立図書館・・青年訓練所・・青年団・・安藤動物園
一一、其他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二〇三)
大日本武徳会豊橋支部・・一心館・・古武学院・・
速算学会・・豊橋市教育会・・豊橋市教員協会・・
豊橋市小学校連合運動会・・豊橋市水練会・・豊橋市少年
野球協会
第九章 産業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二一一)
一、本市の産業・・・・・・・・・・・・・・・(二一一)
蚕糸業・・醸造業・・麻真田製造及毛筆製造業・・
各種工業・・農業・・林業・・養蚕・・養禽及畜産・
・水産・・瓦斯及電気・・商業
二、産業上の施設及機関・・・・・・・・・・・・(二四二)
倉庫及運送・・金融機関・・農会及商業会議所・・
産業組合及同業組合・・会社・・工場
三、度量衡取締・・・・・・・・・・・・・・・・(二六七)
第十章 保健衛生・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二七〇)
伝染病・・種痘・・トラホーム予防・・清潔法・・汚物掃
除・・市立病院・・市立消毒所・・市有墓地・・市立火
葬場・・市立屠場・・私立病院・・医師、薬剤師、産婆
第十一章 社会事業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二八一)
一、本市の社会事業・・・・・・・・・・・・・・(二八一)
米騒動・・関東大震火災・・社会事業費
二、市の施設・・・・・・・・・・・・・・・・・(二八五)
豊橋市職業紹介所・・貧困者救助・・行路病者収容所
三、団体の施設・・・・・・・・・・・・・・・・(二八七)
豊橋有隣財団・・無料宿泊所・・児童遊園・・勤倹奨励会
愛知県結核予防会豊橋支会・・方面事業助成会
第十二章 警備・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二九一)
一、消防組の組織及沿革・・・・・・・・・・・・(二九一)
消防組一覧表
二、防火設備・・・・・・・・・・・・・・・・・(二九五)
三、警備費・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二九五)
第十三章 兵事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二九七)
一、徴兵の状況・・・・・・・・・・・・・・・・(二九七)
二、戦病死者・・・・・・・・・・・・・・・・・(三〇〇)
三、軍部関係の事業・・・・・・・・・・・・・・(三〇二)
師団設置の運動及歓迎・・諸演習の後援・・満洲駐剳軍の
送迎慰問・・軍備整理に伴ふ送迎
四、兵事関係の諸団体・・・・・・・・・・・・・(三〇六)
在郷軍人会・・豊橋市尙武会
五、軍衙及軍隊・・・・・・・・・・・・・・・・(三〇八)
豊橋聯隊区司令部・・第十五師団司令部・・歩兵第十七旅
団司令部・・騎兵第四旅団司令部・・歩兵第十八聯隊・・
【26行目:「剳」は「箚」の誤植】
―目次 八
歩兵第六十聯隊……騎兵第十九聯隊……野砲兵第二十一聯隊
輜重兵第十五大隊……工兵第十五大隊……工兵第三大隊…
高射砲第一聯隊……騎兵第二十五聯隊……騎兵第二十六聯隊
豊橋憲兵分隊……豊橋衛戍監獄……豊橋衛戍病院…………
陸軍兵器本廠豊橋出張所……第三師団経理部派出所
第十四章 交通運輸通信…………………………………………………………………(三一四)
一、道路…………………………………………………………………(三一四)
国道及県道……市道……市区改正並に街衢の改修
二、鉄道…………………………………………………………………(三三〇)
国有鉄道東海道本線……豊川鉄道……鳳来寺鉄道……
渥美電鉄……市内電車
三、水運…………………………………………………………………(三三四)
四、郵便電信及電話……………………………………………………(三三四)
第十五章 上水道及下水道………………………………………………………………(三三四)
一、上水道………………………………………………………………(三三七)
二、下水道………………………………………………………………(三三九)
第十六章 都市計画………………………………………………………………………(三四一)
一、都市計画法の適用…………………………………………………(三四一)
二、都市計画区域の決定………………………………………………(三四一)
三、街路網の調査………………………………………………………(三四五)
第十七章 官衙公署………………………………………………………………………(三四七)
豊橋区裁判所……豊橋警察署……豊橋税務署……豊橋郵
便局……豊橋駅……愛知県蚕業取締所豊橋支所……名古
屋地方専売局豊橋出張所……帝室林野管理局名古屋支局豊橋
出張所……名古屋刑務所豊橋出張所……愛知県土木工区事
務所……渥美郡役所……豊橋市役所……県立蚕業試験場
製系部
第十八章 各種団体………………………………………………………………………(三五三)
日本赤十字社豊橋市委員部……愛国婦人会豊橋市幹事部……
報国婦人会……愛知県仏教会豊橋支会
第十九章 新聞社…………………………………………………………………………(三五七)
―目次 九
本市に於て発行する日刊新聞・・本市に支局または通信部を設
くる新聞
第二十章 劇場 旅館 料理店・・・・・・・・・・・・・・・・・(三五八)
劇場・・旅館及料理店
第二十一章 神社 寺院 名勝 史跡・・・・・・・・・・・・・・(三六一)
一、神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(三六一)
指定神社・・其他・・著名の神社
二、寺院・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(三六九)
寺院一覧・・著名の寺院
三、教会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(三八〇)
神道協会・・仏教協会・・基督教教会
四、名勝史跡・・・・・・・・・・・・・・・・・(三八二)
市内名勝・・付近名勝
《題:豊橋市《割書:市制|施行》二十年誌》
第一章 地理
一、位置
本市は愛知県に属し三河の東南、豊川の河口を扼し、東西両京の中間に位し、西は岡崎名古屋に、東は浜松静岡に隣し
頗る形勝の地を占む、これを地学的に示せば東経百三十七度二十三分三十秒、北緯三十四度四十五分四十秒にして海抜三十
三尺に位す。
二、地勢
地勢概して平坦なれども多少の起伏あり、東部より西部に傾斜し、東西二里十八町二十間、南北二十八町三十間、面積
一方里三九三を有し東三平野の要枢を占め沃野遠く連り、道路東西に通し、鉄路南北に走り、水運北部を貫き、運輸交通
の便に富み地勢頗る良好なり。
三、気候
気候は温暖にして冬季厳寒の候と雖も、降雪結霜を見ること稀に、夏季涼風に乏しからず、冬季西風の強烈なると、夏
―第一章 地理 二
時夕凪の烈しきとは、稍苦痛とする処なるも、年内を通ずれば天気晴朗寒暑中和の天恵に富み、全国有数の健康地として
住居を此地に移すもの尠からず。
四、区画
旧藩時代に於ける区画は概ね狭小にして町別も多かりしが、維新後屡々分合を行ひ、自治制施行前后に在りては
豊橋松葉町 豊橋花園町 豊橋関屋町 仝 鍛冶町
仝 指笠町 仝 三浦町 仝 札木町 仝 船町
仝 本町 仝 新銭町 仝 八町 仝 紺屋町
仝 手間町 仝 吉屋町 仝 萱町 仝 湊町
仝 清水町 仝 神明町 仝 魚町 仝 上伝馬町
仝 曲尺手町 仝 呉服町 仝 下町
の二十三ヶ町を称へしが明治二十八年二月豊橋村を合併し同村に属せし
飽海、旭町、東新町、西新町、談合、中世古、新川、中柴、向山
九ヶ字を合し三十二ヶ町となり同時に八町を
東八丁、中八丁、西八丁
に分ち三十四ヶ町を算へたりしが明治三十九年七月花田、豊岡の両村を合し
花田村の分 花田
豊岡村の分 岩田、飯村、岩崎、瓦町、東田、三ノ輪
の七ヶ字を合し四十一ヶ町となり、各区域を大字と称したりしが、大正十五年二月之を廃し、左記の如く改称するに至れ
り。
旧称 改称 旧称 改称 旧称 改称 旧称 改称
大字船 船町 大字中八 中八町 大字三浦 三浦町 大字瓦町 瓦町
仝 港 港町 仝 西八 西八町 仝 花園 花園町 仝 東田 東田町
仝 上伝馬 上伝馬町 仝 関屋 関屋町 仝 新銭 新銭町 仝 旭 旭町
仝 萱 萱町 仝 本 本町 仝 曲尺手 曲尺手町 仝 飽海 飽海町
仝 魚 魚町 仝 札木 札木町 仝 鍛冶 鍛冶町 仝 東新 東新町
仝 清水 清水町 仝 呉服 呉服町 仝 下 下町 仝 中柴 中柴町
仝 神明 神明町 仝 西新 西新町 仝 花田 花田町 仝 向山 向山町
仝 手間 手間町 仝 談合 談合町 仝 岩崎 岩崎町 仝 松葉 松葉町
仝 紺屋 紺屋町 仝 中世古 中世古町 仝 岩田 岩田町
仝 吉屋 吉屋町 仝 新 新川町 仝 飯 飯町
仝 東八 東八町 仝 指笠 指笠町 仝 三ノ輪 三ノ輪町
―第一章 地理 三
―第二章 変遷 四
第二章 変遷
一、市の沿革
一、飽海時代(鎌倉期以前)
和名抄等の記載によれば、一千年程以前の豊橋は只だ飽海、幡太の二郷なりしが、豊川の流れを隔て、渡津の郷あり、
これ今の宝飯郡小坂井より宿、平井辺を指したるものならん。此の渡津と飽海との間は、
一帯の水流にして交通不便なりしが、東海道の要路に当れるを以て渡船の設備ありき。こ
れ即ち志香須賀の渡にして、清少納言の枕草紙にも載り古歌にも数々詠まれたり。当時、
渡船の数少く橋梁備はらず、担夫等河辺に集りて常に闘争を事とし旅人日を累ねて渡るを
得ず、時に或は身命を害し財宝を失ふものもあり、斯の如く渡船の困難なりし結果は自然
往来の別路を求むることとなり、何時しか御油町の辺より本街道を北に分れ、これより八
幡を経て本野ヶ原にかゝり、牛久保より其頃の豊川宿に出て、豊川の流れを渡り岩崎に出
で船方の山脈を越え遠江に入り、鷲津、古美などの辺を過ぎて浜名の橋本に至り、此処に
て再び本街道に合せしものにて、古来三河の二見道とて有名なりしはこの状態をさしたるものなり。其後此の別路は次第
に繁盛に趣き、旧来の本街道たる此の地方は却つて漸く衰退に帰し、一時は往来も杜絶すべき状況なりき。
【図の説明】本野原より本宮山を望む
然るに其後、豊川の流域に変更あり、且つ追々河心に三角洲を生じ次第に郷も出来、渡の困難減少されたるを以て、此
の別路の繁盛も僅に二百六七十年にして街道は再び元の渡津道へ復れり。
要するに此の時代の豊橋は初め、東海道の要路なりしが、往来の変遷によつて一時衰運
に向ひ其後の再変にて、又元の街道となるに至りしなり。当時此地の発達程度は詳ならざ
れども、住民の聚落ありし事は想像さる。此時代に於ける三河の国府は今の宝飯郡国府町
附近にありしなり。大江定基が三河国国司たりしは永観の頃にして、志香須賀の渡も一時
衰亡に帰せし時代なり、其後鎌倉の初期に当りては頼朝の弟範頼が三河守となり、安達盛
良其奉行たりしが、之れより先、聚落飽海郷は天慶三年八月廿三日の太政官符を以て、既
に伊勢神宮の新神戸に編入せられたり、神宮雑例集に「三河国新神戸十戸号飽海神戸」と
あるは即ち之なり。神鳳抄に秦御厨薑御薗といふも、亦今の豊橋市の内花田及び東田に当
るものにして、此地方も亦古くより神宮の神領なりしなり。花田の内には今も羽田の地名残り、東田にも字名に薑といふ
名を存せり。今尚ほ豊橋地方の神社に、天照大神を奉祀せるものゝ多きは此ためならん、其中往昔より飽海神戸のものと
しては中八町の県社神明社、秦御厨のものとしては湊町の郷社神明社並に薑御薗のものとしては、東田の郷社神明社等顕
著なるものなり。其他飽海時代の創立と思はるゝ神社は、関屋町の県社吉田神社、東八町の村社八幡社、花田の郷社八幡
社、岩崎の村社日吉神社等にして、石田の村社神明社、魚町の村社安海熊野神社、新銭町の村社白山吡咩神社、岩崎の村
社鞍掛神社等も亦此時代に加ふるものならん。以上の神社は何れも度々の変遷に遭ひ、当初の位置を保存せるは稀なり。
又寺院としては、西竺寺、妙徳院、正林寺等は此時代に入るべきものなれど多くは、既に廃滅に帰し、幸にも其遺跡の残れ
【図の説明】豊川の清流(志香須賀古の渡)
―第二章 変遷 五
―第二章 変遷 六
るは、独り正林寺のみなり。
二、今橋時代(室町初期より享禄年間に至る)
此地の発展は実に街道復旧以後なり。正平十六年(康安元年)には今の蓮泉寺の前身たる正行寺、馬見塚に創立せられ
仝二十一年(貞治五年)には悟真寺の前身たる浄業院、今の城址の西隅辺に建てられ続いて元中七年(明徳元年)喜見寺
の創立ありたりと云ふ。其頃には既に此地方に今橋といふ地名生れたり。宝飯郡御津村御津神社に保存せる納経の奥書に
は「於三州今橋悟真寺住持比丘慈智翁応永十六年十二月二十九日申刻了」とあり。当時三河国の守護は吉良氏にして、幡
豆郡西尾町に根拠を構へ居たりしが、室町の季世に至りて其威力次第に行はれず、文明の頃には早や東三河の天地も所謂
英雄割拠の状態となれり。此時に方り此今橋の地に築城せしは牧野古白なり、古白は永正二年自ら之に拠りしが、翌三年
田原の城主戸田憲光と不和を生じ、戸田方には今川氏の援ありしが、古白は城に拠つて固守すること六十余日苦戦を重ね
遂に力及ばずして自殺するに至れり。此に於て、城は一時憲光の一族戸田金七郎の有となりしが、大永の初頃古白の遺子
伝左工門成三、伝蔵信成の二人協力して再び此城を復せり。其頃より吉田の称ありしものゝ如く、牛久保密談記其他によ
りて推定せらる。されど今橋の地名も亦其以後廿余年の天文年間までも用ひられたり。程なく成三隠居し信成其後を襲ぎ
しが、当時天下は益々乱れて麻の町く、此地方の如きも殆ど戦時の状況を継続せり。亨禄二年岡崎の松平清康は大挙して
此城に襲来し、信成は之と下地に於て戦ひしが遂に運拙く戦死せり。
此時代に於ける豊橋は大いに発達せるものと見るべきなり。古白の築城に方りて、多数の鍛冶職を牛久保の長山より此
地に移住せしめたり、これ後に鍛冶町の出来たる原因と見るべし。
寺院の如きも前述の正行寺、浄業院、喜見寺の外、文明年間に興徳寺の建立あり、永正の中頃より大永の初に亘り王琳
寺、応通寺、浄国寺等も川毛に創立され、所謂川毛道場の名を伝ふるに至れり、其他大永の初に龍拈寺の建立あり。今は
其遺址をも認め得ざれども大雄山吉祥院も亦此頃の寺なり。
神社にも此時代の創立と伝ふるものに中柴町の諏訪神社あり。
此時代の地名には細かきものあり。即ち飽海の地名は最早東南の一小部分にのみ用ひられ、羽田の地名は今の花田より
北は船町、東は松葉町、花園町の辺にまで及びしが此両者の間には、馬見塚、川毛、二日市、野口等の地名ありたり。
其中馬見塚は旧城址より八町練兵場辺までを称したるものの如く、川毛も今の東八町附近より練兵場へかけての総称な
りしかば自然馬見塚との区別判然せず、或は馬見塚の名は古く川毛の名は稍新しきものならんか。二日市は町の中央部を
称し、野口は其南部に当りて、今の紺屋町辺より魚町辺をもこめて、花園町辺に至るまで一帯の地名なりしならん、され
ば今橋の地名はこれ等の何程までを総称せしものか判然せず。
三、吉田時代(徳川幕府前)
牧野氏亡びて後此城は一時松平氏の有となりしが、天文四年復び戸田金七郎の有に帰し、爾来十余年の間は舟形山一帯
の山脈を境界として、戸田、今川両氏
の間に争闘の絶ゆることなかりき、然
るに天文十五年に至り遂に今川義元の
勢力範囲に入れり。当時義元の勢力は偉大にして民政の上にも頗る留意したる形跡見ゆ。然るに義元は永禄三年五月十九
日桶狭間に戦死し、翌四年其子氏真と松平元康(徳川家康)との中に間隔を生じ遂に隣交断絶となれり。其頃吉田城に
は今川氏の将、小原肥前守鎮実ありて東三河に於ける諸将の人質を此域に頂り居たりしが、家康に属せるものは悉く龍拈
【図の説明】今川義元花押
【図の説明】今川氏真花押
―第二章 変遷 七
―第二章 変遷 八
寺口にて殺せり。此頃此地を中心として東三河の地には戦の絶間なく西三河にも一向専宗の乱ありしため家康の来攻はな
かりしが、永禄七年の初に至り家康岡崎より大挙して攻め来れり。其頃今の豊橋市の東郊なる仁連木にも仁連木城ありて
城主戸田主殿介重貞は家康に欵を通ぜり、然るに鎮実能く拒ぎしかば家康も容易に、抜く能はざりしが翌八年に及び漸く
其手に帰することゝなれり。かくて家康は此城を酒井左衛門尉忠次に与へしかば、爾来忠次は此城を根拠として東三河の
旗頭を勤め、城池の拡張をも計画し、元亀元年には今の関屋川岸より初めて豊川に土橋を架設せり。斯くして吉田は追々
繁盛に赴きたり。
元亀二年四月武田信玄自ら出
馬して仁連木城を抄略し吉田城
に押寄せしが未だ大戦にもなら
ずして引退きたり。天正三年四
月其子勝頼又々大兵を率ゐて仁連木に襲来し吉田城に迫り引続き長篠会戦となれ
り。
其後家康、秀吉の為に関東八州へ移封せらるるに及び、茲に長き間の歴史を重
ねたる此地方も一度徳川氏と別るることゝなり、城主家次(忠次退隠)も家康に従ひて上州碓井の城へ移れり。
次に此地に来りしは、池田三左衛門輝政なり、知行十五万二千石にして仁連木城は其時より廃せられしも牛久保、新城
田原の諸城は其配下に属せり。輝政は又直ちに城池の拡張を計画せり。先づ関屋の橋梁を船町に移して(現在の位置より一
町余の下流)擬宝珠勾欄の板橋とせり。これ豊橋(橋名)の始とも云ふべきなり。其他市区の改正などを実施せし事少なか
【図の説明】酒井忠次花押
【図の説明】池田輝政の花押
らざりしが、慶長五年開ヶ原の戦後功を以て播州姫路五十二万石に封ぜられ此吉田城を去れり。此地の発展は本時代に於
て最も著しきものあり。今川氏の施設は頗る多方面に渉り租税の徴収法に改革を加へ、商工業の発達にも干渉する処あり
しが一面には神社仏閣を造営し、之に金品を寄附したることも少なからざりき。されば此期に於ては神社仏閣の創立され
しは比較的少きも在来のものにて、面目を一新せし事は著しかりき。酒井忠次の時代となりて大いに市区の整理を行ひ此
地も追ひ〳〵城廓として体を具ふるに至りしが、更に池田輝政によりて、これが拡張を計画せられたり豊川の河身の如き
も現今のものは輝政の計画になりたるものの如し。
徳川幕府時代(●●●●●●) 輝政移封の後を襲ぎしは松平玄蕃頭家清にして、封禄僅に三万石なりき。
其後慶長十七年に松平主殿助忠利、寛永九年に水野隼人正忠清、寛永十九年に水野監物忠善と数々城主の交迭ありしが禄
高は多きも四
万五千石なり
しかば、到底
城下の発展は
望むを得ざり
き。然るに其
頃より此地を
代表すべき名
物の出来しは吉田の大橋なり。即ち輝政の架設せしものなるが徳川幕府に至り之を公儀の直営となしたり。
【図の説明】元禄二年吉田大橋仕様帳
【図の説明】小笠原長祐花押
【図の説明】久世広之の花押
―第二章 変遷 九
―第二章 変遷 一〇
正保二年小笠原壱岐守忠知城主となり。長矩、長祐、長重と四代間継続せり。長祐の時代は貞享書上の出来し時にして
当藩に於ても種々の調査をなせり。又現今の用下水は承応三年小笠原忠知の時に計画せられ元禄六年長重の時代に整理を
終へたるものなり。小笠原氏に次ぎて元禄
十年久世出雲守広之来りしが在城僅に十年
にして、宝永二年牧野備前守成春と交代せ
り。成春の次は其子大学成央にして、此時
宝永四年の大地震あり古記によれば吉田の
総戸数一千十一戸の内全潰戸数三百十戸、
半潰戸数二百六十六戸、死者十一人を出せりといふ。牧野氏に代りて此地の城主となりしは
最后の大河内氏なり。大河内氏は正徳二年大河内信祝古河より移封せられしが、享保十四年
浜松へ転封せられたり。之に代りしは松平豊後守資訓なりしが寛延二年復び浜松の大河内氏と交代せり。当時大河内氏は
信祝の子信復の代なりしが、
信礼、信明、信順、信宝、信
璋と続きて信古に至れり。之
即ち最後の藩主なり。此歴代
は孰れも賢明にして伊豆守に
叙し閣老又は京都所司代大阪城代等の職につきしが、中にも信明と信古とは大に伝ふべき人物なりき。
【図の説明】吉田風俗(寛文の頃)
【図の説明】元禄頃の吉田古地図
【図の説明】松平資訓筆蹟
【図の説明】松平信古自画
【図の説明】松平信祝花押
【図の説明】松平信復花押
【図の説明】松平信明花押
【図の説明】松平信明筆蹟
徳川幕府時代吉田藩主交迭表
藩主名 最終の石高 就封年月 就封の事由 退去年月 退去の事由
松平玄蕃頭家清 三万石 慶長六年二月 池田輝政に代り武蔵国八幡山より転封 慶長十五年十二月廿一日 卒去
松平玄蕃頭忠清 仝上 相続 慶長十七年四月二十日 卒去
松平主殿助忠利 仝上 慶長十七年十一月十二日 松下玄蕃頭に代り三河国深溝より転封 寛永九年五月五日 卒去
松平主殿助忠房 仝上 寛永九年八月十一日 相続 宝永九年八月十一日 三河国刈谷へ移封
水野隼人正忠清 四万五千石 寛永九年八月十一日 松平忠房に代り三河国刈谷より転封 宝永十九年九月六日 信濃国松本へ移封
水野監物忠善 仝上 寛永十九年九月六日 水野忠清に代り遠江国田中城より転封 正保二年正月十一日 三河国岡崎へ移封
小笠原壱岐守忠知 仝上 正保二年正月十一日 水野忠善に代り豊後国杵築より転封 宝文三年七月二十六日 卒去
小笠原山城守長矩 四万石 寛文三年十月九日 相続 延宝六年二月八日 卒去
小笠原壱岐守長祐 仝上 延宝六年三月晦日 相続 元禄三年六月十七日 卒去
小笠原佐渡守長重 仝上 元禄三年十月十日 相続 元禄十年四月十九日 武蔵国若槻へ移封
―第二章 変遷 一一
―第二章 変遷 一二
久世出雲守重之 五万石 元禄十年六月十日 小笠原長重に代り丹波国亀山より転封 宝永二年十月朔日 下総国関宿へ移封
牧野備前守成春 八万石 宝永二年十月晦日 久世重之に代り下総国関宿より転封 實【宝の誤植】永四年三月廿六日 卒去
牧野大学成央 仝上 宝永四年三月 相続 正徳二年七月十二日 日向国延岡へ移封
(大河内)
松平伊豆守信祝 七万石 正徳二年七月十二日 牧野成央に代り下総国古河より転封 享保十四年二月十五日 遠江国浜松へ移封
(本荘)
松平豊後守資訓 仝上 享保十四年二月十五日 松平信祝に代り遠江国浜松より転封 寛延二年十月十五日 遠江国浜松へ移封
松平伊豆守信復 仝上 寛延二年十月十五日 松下資訓に代り遠江国浜松より転封 明和五年九月 卒去
松平伊豆守信礼 仝上 明和五年十一月十六日 相続 明和七年六月廿二日 卒去
松平伊豆守信明 仝上 明和七年六月 相続 文化十四年八月十六日 卒去
松平伊豆守信順 仝上 文化十四年八月 相続 天保十三年十二月十三日 隠居
松平伊豆守信宝 仝上 天保十三年十二月十三日 相続 弘化元年十月十七日 卒去
松平伊豆守信璋 仝上 弘化元年十二月廿九日 相続 嘉永二年七月廿七日 卒去
松平伊豆守信吉 仝上 嘉永三年十一月十五日 相続 明治二年六月十七日 版籍奉還
(後刑部大輔)
四、明治維新後
吉田の豊橋と改名されしは明治二年六月二十三日なり。豊橋の名称は旧幕府時代より橋の別名なりしを以て、新地名は
此橋の名より考へしものならん。
徳川氏大政を奉還し王政復古に帰し、三職八局の制を定められ、内局事務局の下に各地に裁判所の設置せらるゝや、慶応
四年四月三河国裁判所を市内悟真寺に置きて三遠駿三国の事を管轄し、参与職平松甲斐権介時厚之れが総裁となる。然る
に僅に二ヶ月許の間にて廃せられ三河県を亦坂に置かれしが、明治二年六月之を廃し、信州の伊奈県に合併せられたり。
明治四年七月廃藩置県となりしが三河国には其十一月岡崎に額田県を置かれて此地も其管内に入れり。翌五年九月県下
を六大区九十小区に区分せしが、同年十一月又額田県を廃して愛知県に合併し、県下を分つて十五大区となし此地に大区
会所を設けられたり。其後多少の異動を経て、同明治十一年七月郡区町村編成法の制定あり其十二月旧大手門外の西側に
渥美郡役所を設けられ区長を廃し郡長を置かれたり。
明治二十二年自治制を実施して、豊橋町と称し、仝二十八年豊橋村を合せ、仝三十九年七月花田豊岡両村を合し、仝八
月一日市制を実施して茲に豊橋市の現出を見たり。
二、市街の変遷
橋名「豊橋」は吉田大橋の別名なりしが、地名吉田を豊橋と改称せられてより橋の名も亦豊橋と呼ばるるに至れり、元
亀元年酒井忠次が初めて土橋を架設せしは関屋の地先な
りしが、天正十八年池田輝政が此地に封ぜられ城地を拡
張するに当り、今の船町に移転せるも当時の構造は擬宝
珠勾欄の板橋にて頗る壮観を呈し、武蔵の六郷、三河の
矢矧、近江の瀬田と共に東海道の四橋と称し、架換修繕
共に幕府の直営工事なりしが架替毎に漸次簡略に赴きた
りといふ。明治十二年架替前は現在の位置よりも約四十
間下流に在りたり。現在の鉄橋は大正五年七月十日の竣
【図の説明】明治二十年頃の豊橋
【図の説明】大正三四年頃改造中の豊橋
―第二章 変遷 一三
―第二章 変遷 一四
工に係り県工事にして、総工費十三万五千円を要したり長八十一間二分幅五間あり。
舩町 藩主池田輝政の橋梁移転後、船町は漸次発展
を来たし、船乗若しくは運送を業とするもの此処に集ま
り、爾来藩侯よりは特に船役を命ぜられ、輸入貨物の運
上を取ることを許されたる所なり、今も尚ほ商業取引盛
なり殊に大正四年停車場に通ずる船町路線の開通以来、
往来一層繁劇となりたり。
湊町 船町の東隣にして以前田町坂下町の二ヶ町に
分れしが、明治十一年十二
月合併して、此称を用ふるに至れり。
上伝馬町 湊町を右折すれば旧坂下町にして、往時坂路の中程に惣門あり。当時に於け
る城下西入口の第一門なりき。坂上は即ち上伝馬にして昔は札木町と仝じく旅籠屋飯盛女を
許されたる所なり。維新後貸座敷業軒を並べたるが、明治四十三年八月東田遊廓地へ移転し
爾后今日の状をなすに至れり。
萱町 上停馬町の南にあり。大正十一年七月(用水北は大正三年九月開通)竣工したる
萱町線の基点にして、之より柳生橋に通ずる、道路の開鑿によりて、市街は面目を一新せ
【図の説明】船町古図(貞享年間)
【図の説明】昔の船町
【図の説明】改修当時の船町
り。
本町
本町は昔
時元町と
称せしこ
とあり。
上伝馬の
南に接し池田輝政の城廓拡張以来、此名称を用ふるに至りしものなり。現今商業中心地とし
て頗る殷賑を極む。
札木町 札木町は本町の東に連り旧幕時代繁華
雑沓を極めたる所にして、本陣脇本陣等軒を並べ、
現今本町に続きて商業盛なり。
旧本陣は札木町北側にありしものにして、清須屋
事中西与右衛門を本陣とし、江戸屋事、山田新右衛
門を脇本陣とせしが、その後江戸屋も本陣格に昇進
して、別に桝屋事鈴木庄七郎脇本陣の取扱を受くるに至れり。斯くて明治元年車駕東幸の
際は、清須屋を以て行在所と定められ、前後三回までも御駐輦遊ばされたり。明治二年昭
【図の説明】船町より湊町を望む
【図の説明】坂下惣門古図(貞享年間)
【図の説明】上伝馬通り
【図の説明】本町通
【図の説明】嘉永の頃の札木町(吉田名蹤綜録所載)
―第二章 変遷 一五
―第二章 変遷 一六
憲皇太后御東行の砌にも同家に御駐駕あらせらる。
伝馬所跡 今の郵便局のある所にして、俗に問屋場といへり。
主として駅伝の事を司り、市内坂下町、上伝馬、本町、札木、呉
服、曲尺手の六ヶ所に於て駅馬百足を負担したるものなり。
大手通 札木、呉服両町の間を直角に横ぎり南北に走れり。
旧藩時代所謂城廓の正門に通ぜし道路なり。明治四十四年三月改
修工事竣りて道幅拡張せられたり。今は電車通りとなれり。
往時大手通の西角
に高札所あり。又東
角には水野忠善時代
に参勤交代のため通
行する諸大名を接待
し、又は孝子義僕を
表彰するための対客所の設ありしといふ。
呉服町 呉服町は札木町の東に連り旧東海道筋に当り、札木
と共に現今繁華なる市街なり。
曲尺手町 呉服町を北に屈曲すれば即ち曲尺手町にして、此町の中央より北折せる道路は即ち以前城廓に通じたるも
【図の説明】札木町通
【図の説明】大手通古図(貞享年間)
のにして、所謂曲尺手門のありし所なり。
鍜冶町 曲尺手町の東にあり。古来鍜冶職軒を並べ、吉田鎌の名、遠近に聞へたりしが、近来漸くその跡を絶ちて、
商家と変ずるに至れり。町名の起原は初め牧野古白が今橋城を築くに当り、牛久保より鍜冶
職を移して、今の八町辺に住居せしめ、輝政の城地拡張によりて、元鍛冶町(今の吉屋町)
に移し、更に松平忠利の時代に至りて、今の地に移し、此名称を用ひたるものなりといふ。
下町 鍜冶町の東に連り旧
藩時代には町の中央より南北に
通ずる道路ありて、その東側に
塹壕あり、その外側の出入口に
当り城下東口の惣門ありたり。今は塹壕も埋め立てられ、昔
時の状態を知るに由なし。
西新町、東新町 西新町は旧時今新町といひし処に
て東総門の外に在り水野忠清時代初めて家居を許されたる
処なり。東新町は西新町の東につづき旧時元新町と称せし処なり。
瓦町 東新町に接し東海道に当る、領主小笠原長矩の時代、開発せし土地なりといふ。
向山町 市の南端一帯の高地にして市街を一眸に集め眺望最も佳なり。往時は全く菜園麦圃の地なりしが明治四十一
年工兵隊の設置と共に人家漸く繁く耕地整理の地区に属せるが完成後は住宅地として発展を見るに至るべし。東方の低地
【図の説明】曲尺手町
【図の説明】下町惣門古図(貞京【享か】年間)
【図の説明】鍜冶町通
―第二章 変遷 一七
―第二章 変遷 一八
に溜池あり、向山の大池と称す。瓦町の地内に跨れるを以て瓦
町の大池とも称す。承慶三年小笠原忠知の時代郡代長谷川太郎
左工門の考案により築造せるものなり。
三の輪町 向山の東方にあり。所謂旧東海道の出外れにし
て亭々たる老松道路の両側にあり。旧幕府時代参勤交代の昔を
忍ばしむ。而して其東端は飯村に接す。
飯村町 飯村は東街道吉田と二川の中間に位し、往時は懸
茶屋などあり。故人の紀行文集にも屡見ゆる処にして沿道の松
並木は今も尚ほ其面影を存せり。
岩田町 三の輪を出て、東北に進めば岩田、岩崎等の農村部落あり。全く市街の面目を認むるなく、村翁野媼農桑に
親しみ、田畝に耕し麦隴菜圃相連る所、全く紅塵の外にあり。岩崎は市の東北端
をなし。元手洗と上岩崎とを合せしものにして明治二十二年豊岡村に併合せられ
更に、仝三十九年豊橋町に合併して市の一部をなすに至れり。而して此地は今を
去る七百年乃至九百年前頃には東海道に当り、頼朝が此地を通行せしことなど伝
説に見る処なり、今は依然たる農村部落をなせり。
東田町 岩田を経て西に向へば東田の地に到る。此地は極めて古き歴史を有する処にして、明治十一年以前、仁連木
と呼び、往昔は之を薑郷と称して今も其字名を存せり。
【図の説明】工兵第十五大隊
【図の説明】向山大池
【図の説明】旧東海道松並木 (三ノ輸【輪の誤植】附近)
其後何時の頃よりか此地に仁連木の別名起り遂に村名に移りしなり。仁連木城址今に存せり。明治四十三年八月東田の一
部二反田方面に遊廓を移転してより忽ちにして歌舞管絃の不夜城を現出するに至れり。
これより東北に進めば東田の一部上地あり。上地の西に西脇あり。更に東南に舟原あり。而して所謂東田と称するの地
は地域広く此地幾多の小字に区分せらる。
飽海町 東田に接し市の東北八名郡に通ずる要街にして、
伊奈街道の基点なり。八名方面への唯一の出入口として知ら
れたり。
飽海の名は古来此地方一帯の称なりしが、後今橋の地名生
じてより、一部分に限らるゝに至りしものの如し。而して牧野
古白が今橋築城の当時は、尚ほ此方面を正門とし、元亀、天正
の頃にありても、大手門たりしこと古記に存する所なり。
旭町 飽海より南すれば旭町に達す。一番丁より五番町に
至る。此地は旧藩時代東組の下級の士分又は徒卒の住宅地にして、此辺の家屋今は全くその面目を一新して軍人、官吏、
教員等の住宅を構ふるも多し。
八町通り 西八、中八、東八の三ヶ町に分れ、大手通は之と丁字形をなせり。此地旧幕時代は士族屋敷のありたる所
にして、今尚昔時の面影を忍ばしむるものあり。斯くて八間通り東端より北折せるものは即ち旧道にして、昔は茲に野牛
門あり。此門は新町口より城廓内に入る第二門にして、池田輝政が城地拡張の際、長篠城より移築せるものなりしと伝ふ。
【図の説明】二連木城趾
【図の説明】東田遊廓
―第二章 変遷 一九
―第二章 変遷 二〇
されど今は空しく崩されて歴史を語る跡なきは遺憾とする所なり。
八町通りは昔八町一丁目、二丁目、三丁目と称したりしが明治十一年十二月南仲町と合併して単に八町と呼び仝十九年
七月更に宮下町、袋町、東町、八幡町、川毛町の六ヶ町を合併し仝廿八年一月現称に改めたり。
関屋町 西八町の西端に接し南北に通す。その豊川に臨める所は、即ち永禄八年酒井忠次が土橋を架設したる所なり
とす。此地河辺に添へる一帯の地に百花園あり、廃藩后草花を栽植し文人墨客の閑居せしもの多かりしが、今は殆どその
面影なし。
松葉町 上伝馬西裏より、花田に至る一帯の地にして、
旧藩時代に於ては市街の西端をなし、一盤町、二盤町、三盤
町は東部旭町と相対し西組の徒卒の住居地なりしが、停車場
設置以来其発展実に著しく殆んど旧状を有せず、近来其一部
は弦歌の衢と化し所謂松葉街をなするに至れり。
指笠町、魚町 指笠町は萱町の東にそれと丁字形をな
し、本町と腹背相接し魚町は指笠町の東に連り札木町の南に
並行し、魚市場の中心地として、魚商軒を並へ大正十五年一月幅員改修以来、全く面目を一新し益々繁盛に赴き市内一流
の街衢をなすに至れり。古来此地の魚市場は熊野神社の境内にて行はれ運上を取ることを許され、其後旧藩時代に至りて
も数戸の問屋町内に設けられ之れに関係の魚商は当町を初め、指笠町、萱町、並に今の花園町、新銭町、清水町などにも
軒を並べ繁盛を極めたりといふ。
【図の説明】松葉町停車場通
【図の説明】嘉永の頃の魚市場(吉田名蹤綜録所載)
吉屋町 吉屋町は魚町の東に連り以前は元鍜冶町と称せしが、明治十一年十二月世古町を合せ今の名に改めたり。
中世古町 中世古は龍拈寺境内の東に当り曲尺手町の南裏をなせるが、大正十四年六月曲尺手町と十字をなせる南北
貫通の道路竣工以来此辺の面目全く一新を見たり。
談合町 談合は中世古の東に連り其最端は鍜冶町の中央に通せり。
手間町 吉屋町の南方に並行せるものにして、昔は鉄砲町といひしが小笠原長
重の時今の名に改めたりといふ。
紺屋町 紺屋町は手間町の西に連る小衢に過ぎざりしが今は大手線に中り電車
通りとなる。
神明町、清水町 神明町は紺屋町の南に接し
一部は大手線に加はり、市内電車神明社前に於て
丁字形をなし市内有数の繁栄地となる。清水町は
神明町の西魚町の南にあり。
花園町 新銭町の北方にありて、魚町及清水
町等と丁字形をなせり。此辺一般に旧幕吉田時代
に於て、羽田村と錯綜したる所にして、下り町と抱六町との二ヶ町なりしが、明治二年元浜町及び豊楽町と称し、更に明
治十一年十二月合併して現称を用ゆるに至れり。
【図の説明】神明町丁字点
【図の説明】吉田駒曳銭
―第二章 変遷 二一
―第二章 変遷 二二
新銭町 旧幕時代には散地と称し、羽田地、野田地、馬見塚地等の錯綜せる所なりしが、明治九年之を二分して、豊
橋村と豊橋町とに分属せしめ、更に明治二十八年町村合併の結果、村に属せし分を新川町、町に属せし分を新銭町と称す
るに至れり。
新銭の名称は寛永十四年幕府の鋳銭所を設けられたるによるものにし
て、当時幕府は新銭鋳造を企て、前年は江戸及び近江の坂本に於て寛永
通宝を鋳造せしめしが、十四年
更に水戸、仙台、吉田、松本、
高田、長門、備前、豊後、中川
内膳領内に於て鋳造せしむるこ
ととなれり。吉田は我豊橋にし
て此処にて鋳たる寛永通宝は俗
に二水永と称するものにて有名
なる吉田の駒曳は当時の鋳造にかゝる。
新川町 新銭町の南に連れるを新川町といふ。元は新銭町の一部なりしが、
明治二十八年豊橋町と豊橋村との併合の際今の名に改めたるものなり。
中柴町 中柴は新川の南に連れり電車通りに面せり。
花田町 市の西部一帯の称にして、南端より北端に及び、維新前は即ち羽田、
【図の説明】吉田銭
【図の説明】三河銭
【図の説明】花田城海津踏切陸橋附近
花ヶ崎の二ヶ村なりしが、維新以後花田村と称するに至れり、羽田の地名は頗る古きものにて一千年の昔既に秦御厨と称
し伊勢の神領たりしを示せり、其区域広濶に過ぐるを以て今は仮りに、地域を松山、石田、花中郷、野黒、羽根井、立花、
羽田中、百度、北側、中央、小田原、停車場、城海津、石塚、池田、守下、西宿、狭間十八小区に分てり、鉄路此地区を貫
走し、豊橋駅、吉田駅、新豊橋駅皆こゝに在り運輸交通の衝に当れるを以て、近年製糸工業盛に興り、今や全く市の工場
地帯として繁盛を呈するに至れり。
【図の説明】昔の吉田
―第二章 変遷 二三
―第四章 市政の沿革 三〇
第四章 市政の沿革
一、自治制実施前
明治新政の初頭にあたり、三職八局の制定められ、内国事務局の下に各地に裁判所の設置せらるや、慶応四年四月当
地に三河国裁判所を設置せられたるが、僅か二ヶ月にして廃止せられ、仝年六月更に三河県を置かれ、明治二年六月之を
廃し、信州伊奈県に合せられ、四年七月廃藩置県の事行はれたる結果、同年十一月従来の
諸県を廃し、更に新制に依り三河国一円並に尾張国知多郡を合せ支配する為め額田県を岡
崎に置かれ渥美郡長に小野道平氏、仝副郡長に広中六太夫氏就任せり。翌五年九月県下を
六大区とし、更に之を小区に分ちたりしが、渥美郡は第五大区となり、大区長に上田疇氏
任せられ、豊橋を第一区と称し、能勢一也氏区長にに任せられたり、五年十一月額田県を
愛知県に合し管内を十五大区に分ち、各区に会所を設け区長、副区長を置き各小区に戸長、
副戸長、用係、組頭を置きしが渥美郡は第十五大区と称し豊橋に会所を置き富田若水氏大
区長小野道平氏仝副長となる。額田県の当時支庁を豊橋に置き札木町旧本陣を庁舎に充て
島義之氏支庁長に任せられたるが、六年一月愛知県支庁となり。設楽、宝飯、渥美、八名の四郡を管轄することとなり、仝
【図の説明】三河国裁判所を置かれた悟真寺総門
一庁舎を襲用し依然島義之氏支庁長たりしが間もなく清水敏氏之れに代れり。仝九年八月従来の大小区を廃し更に十八区
を置き、渥美郡は第十七区と称するに至りしが、区会所は勿論豊橋に設けられ富田若水氏引続き区長たり。
然るに明治十一年七月、郡区町村制の布告あり各町村又は数ヶ町村に区長を置かしめ、仝十一月より区会所を廃し、郡
役所を置き区長に代ふるに郡長を以てするに至れり、中村道太氏最初の郡長となる。
中村氏は在職僅か一ヶ年半に過きざりしが松井譲氏其幾
を襲ひ在職実に二十一年の長きに及び功労顕著なるもの
ありき、明治三十三年九月松井氏の退官と共に山田正氏
其後を受け、仝三十六年市川信順氏之れに代はる。仝氏の
時代に於て本市は市制を施き渥美郡の管轄を脱したり。
戸長は従来官選なりしが郡区町村制実施の時より町村
の公選となりたり、又新制実施に当り各郡に亘り町村の
分合を行ひ町村名の改称を行へるもの尠からざりき、本
市関係の区域に属するものを挙ぐれば左の如し。
分合 旧町村名 新町村名 分合 旧町村名 新町村名
合併 餌指町、旭町、東新町、西新町、談 豊橋村 分合 手間町、世古町 手間町
合宮町、中瀬古町、中柴町、新銭町 分合 元鍜治町、世古町 吉屋町
飽海町、仁連木分地 合併 札木町、利町 札木町
合併 八町一丁目、二丁目、三丁目、南仲町 八町 仝 本町、御輿休町 本町
【図の説明】大区長 富田若水氏
【図の説明】郡長 松井譲氏
【図の説明】渥美郡役所
―第四章 市政の沿革 三一
―第四章 市政の沿革 三二
仝 元浜町、豊楽町 花園町 仝 六軒町、西中町、南町、三旗町、西町 松葉町
仝 上伝馬町、天王町 上伝馬町 仝 下岩崎村、上岩崎村、手洗村、田尻 岩田村
仝 田町、坂下町 湊町 村 平川新田
仝 船町、境町 船町 仝 花々崎村、羽田村 花田村
仝 一盤町 二盤町、三盤町 仝 瓦町村、仁連木村 東田村
斯の如き分合を行ひたるも必ずしも事情に適せざりしを以て、明治十五年六月左記の変更を行ひたり。
分合 旧町村名 新町村名 分合 旧町村名 新町村名
分裂 東田村 東田村、瓦町村 分製 岩田村 岩田村、岩崎町
明治十七年七月従来の戸長役場を廃し別に役場区域を定め、郡内を二十八組に分ち、第何組戸長役場と改称せり。本市
関係の町村につき之を示せば左の如し。
役場名 役場位置 町村名
第一組 港町 船町、港町、上伝馬町、八町、宮下町、川毛町
第二組 八幡町 袋町、八幡町、土手町、東町 関屋町
第三組 呉服町 本町、札木町、呉服町、曲尺手町、鍜治町、下町
第四組 指笠町 松葉町、萱町、指笠町、三浦町、花園町、新銭町
第五組 紺屋町 魚町、清水町、神明町、手間町、紺屋町、吉屋町
第六組 豊橋村 豊橋村
第七組 花田村 花田村、東豊田村
第十一組 岩田村 瓦町、東田町、三の輪、飯村、岩田村、岩崎村
斯く町村を大括りにし官選の戸長を置き所轄事務を取扱ひしが、翌十八年三月布達を以てこれを改め、仝年五月より何
々町(村)戸長役場と改称し三ヶ町村以上所轄の役場は何町(村)外何ヶ町村戸長役場と称したり。町の合併を行ひ二十
三ヶ町となし、之を五区に分ち戸長役場を設置せり。
豊橋五ヶ町役場時代の戸長左の如し。
役場の位置 戸長氏名 役場の位置 戸長氏名
第一 港町神明社内 鈴木源吉 第四 指笠町観音寺内 鈴木吉兵衛
第二 八町神明社内(今の練兵場の中心地) 石川汀 第五 魚町権現社内 富田良穂
第三 現在東雲座のある所 久野寛一郎
二、町制の施行
△沿革
明治二十一年四月市制及町村制発布せられしが、翌廿二年九月県令第四十七号を以て仝年十月一日より之を実施せられ
たり、此に際し豊橋町に於ては従来の廿三ヶ町を以て豊橋町を構成実施する事となり、町役場を札木町卅六番地なる旧本
陣趾に設け町政事務を開始し、元呉服町外五ヶ町戸長久野寛一郎氏町長事務取扱を命ぜられ、町会議員選挙人名簿の調製
に着手し、明治二十二年十月廿五日町会議員最初の選挙を執行せり。
選挙人名簿に登録せられたる選挙人員は一級百九十三名二級五百二十六名、合計七百二十二人(直接国税納額総計一
千〇四十四円七銭四厘)にして議員定数一級二級各十二名なりき、選挙場を町役場に設け二級選挙に在りては元呉服町
外五ヶ町戸長に於て永野武三、菅沼源六、遊佐発の三名を選挙掛に選任し、元戸長久野寛一郎選挙掛長となり、廿五日午
前九時開会午后三時投票を閉鎖し開票を行ひたるが、投票総数の内有効投票四千三百七十六点にして左記の通り当選せ
―第四章 市政の沿革 三三
―第四章 市政の沿革 三四
り。
二級当選者 ( )内得点以下仝じ
富田良穏 (二一三) 久野寛一郎(一八七) 西岡松枝(一七八) 伊東米作 (一五六)
杉田権次郎(一四七) 遊佐 発 (一三六) 伊藤貞吉(一一五) 鈴木吉兵衛(一一一)
永野武三 (一〇四) 富田佐一郎(一〇三) 曽田良吉(九九) 西山左内 (九六)
一級選挙に在りては、仝所を選挙場とし永野武三、遊佐発、原田万久、大場儀平の四名を選挙掛に選任し、元戸長久野寛
一郎選挙掛長となり、廿六日午前十一時開始午后四時投票を閉鎖し開票せるが、有効投票二千〇〇壱点にして左記当選
せり。
一級当選者
佐藤弥吉 (九〇) 原田万久(六七) 佐藤市十郎(六六) 伊東耕一 (六六)
田中佐次郎(六三) 土屋庄七(六三) 大山復次郎(六三) 福谷元治 (五九)
石川 汀 (五七) 鈴木源吉(五一) 中村卯兵衛(五〇) 高橋小十郎(四九)
斯く多数の人員が成法に依り厳格なる投票を行へるは真に最初の事なれば掛員も事務に熟せす選挙人も又法規に通せず、
殊に当時は連記の投票にして無筆者の為めには係員の代筆を認めたる為め、事務の繁雑を来たし、無効投票も多種多数に
発見されたるが如し。
豊橋町民は元来政治趣味に富めるが故に議員選挙に当りて、一部の競争も見たるが町長選挙には、劇甚なる競争を惹き
起し、一派は三浦碧水氏を候補とし、他の一派は佐藤善六氏を擁立して、互に競争せしが、三浦氏遂に当選せる結果一派
は之を憤慨し猛烈なる辞職勧告の運動をなすあり、町会議員中に若干の辞任者を出さすに至れり、斯くて十一月廿五日、
三浦町長認可就職と同時に鈴木源吉氏助役に就任、仝十二月廿五日白井直次氏収入役に就任、茲に全く町制機関の完備
を見たり。
明治二十四年助役一名を増員し小野道平氏就任せり、仝月廿七八両日を以て市会議員の補欠選挙を行ひたり。
二級当選者
田中新九郎(五九) 加藤久男(五三) 横田善十郎(五一)
一級当選者
繁野清彦(四九)
翌廿五年二月三浦町長病気の為め辞任仝年三月服部弥八氏第二代の町長として後を襲ひし
が、仝氏亦在任三ヶ月にして辞任、助役小野道平氏之に代はり仝年六月第三代の町長とし
て就任、永野武三、遊佐発の両氏助役となり町政の衝に当れり。
当時の議員は任期を六ヶ年とし、三ヶ年毎に半数改選を行ふ制度なりしを以て抽籤にて
半数の退任者を定め、廿五年九月廿六日(二級)廿七日(一級)の両日半数改選及補欠選挙を行ひたり。
二級当選者
福谷元治(二六三) 瀧崎安之助(二五〇) 杉田久吉(二二〇) 中村卯兵衛(二一三)
(補欠)
菅沼源六(二〇八) 高沢彦七 (一九一) 原田万久(二二七)
【図の説明】町長 三浦碧水氏
【図の説明】町長 小野道平氏
―第四章 市政の沿革 三五
―第四章 市政の沿革 三六
一級当選者
加藤倉次(七四) 内藤源蔵 (七二) 加藤久男 (六六) 外山芳太郎(六〇)
(補欠) (補欠)
大場儀平(五九) 家田徳次郎(五四) 杉田八五郎(六二) 西岡松枝 (五九)
斯る間に日清戦役の勃発に際会し、国を挙げて軍国の事に従ひし為め町政上格別なる変化も波欄もなかりしが、夙に問題
たりし豊橋村合併の議漸く熟し、明治廿八年二月廿五日其実施を見るに至れり。
告示第二十号 明治廿八年二月廿五日
県下渥美郡豊橋町及豊橋村ヲ合併シ豊橋町ト称ス
右町村制第四条ニ依テ処分ス
告示第百八号 明治廿八年十一月廿六日
渥美郡豊橋町大字豊橋町大字豊橋村ヲ左ノ通リ改称ス
大字豊橋町改称ノ分
船町、湊町、上伝馬、西八町、中八町、東八町、関屋、本町、札木、呉服、曲尺手、鍜治、下町
魚町、清水、神明、紺屋、手間、吉屋、松葉、萱町、指笠、三浦、新銭、花園
大字豊橋村改称ノ分
飽海、旭町、東新町、西新町、談合、中世古、新川、中柴、向山
元来豊橋町と豊橋村とは往昔より一駅をなし吉田駅と謂ひ、豊橋町と称せしに明治九年其一部を分離して豊橋村を組織せ
しものなるが、其当時より至当の理由ありしにあらざれば両町村の間、種々利害の密着して離るべからざるの事情は依然
として存在し、為めに政務の施行を阻遏すること尠からざりしを以て明治廿七年一月豊橋町よりは町会の決議を以て其筋
に合併の請願をなし、終に其実現を見るに至れるものなるか、左記当時の請願書に依れは、其間の消息を明かにするを得。
明治二十七年一月十七日議決
一、豊橋町と豊橋村両町村合同の必要を認む依て別紙の通り愛知県参事会へ請顧ス
豊橋町豊橋村合同之儀ニ付請願
豊橋町長小野道平豊橋町会ノ議決ニ依リ愛知県参事会愛知県知事時任為基閣下ニ請願ス 我豊橋町ト豊橋村トハ往昔ヨリ相共ニ一駅
ヲナシ地勢相同シク境界犬牙錯雑シテ加フルニ人家連檐接続シ就テ之ヲ視ルモ猶ホ容易ニ其豊橋町タルト豊橋村タルトヲ識別スヘカ
ラサルカ如シ此故ニ人情風俗亦タ同一ニシテ隣保団結ノ旧慣誠ニ深シ然ルニ明治九年初メテ其ノ一部分ヲ割キ今ノ豊橋村ヲ組成セシ
モ素ヨリ地勢人情風俗ノ異ナルカ為メニアラス当時改租ノコトアリシヲ以テ諸税ノ負荷是ヨリ漸ク当サニ町村ノ軽重ヲ異ニスヘシ
トノ妄説ニ迷惑セラレ遂ニ漫然此失計ヲ取リシニ過キス去レハ分立シテ一村ヲ組成セルモ我豊橋町ト相関聯シテ離ルヘカラサルハ依
然事実ノ上ニ存シ彼ノ町村ニ最モ重大ノ責務タル教育ノ如キハ町村分立セルニモ抱ハラス尚ホ且ツ其事務経済ヲ共ニシ殊ニ明治二十
五年新学令実施ノ際ノ如キ豊橋村ニ於テハ独立シテ普通教育事務ヲ経理スル能ハサルノ事情アリテ昨年三月遂ニ其事務ノ全部ヲ挙ケ
テ我豊橋町ニ委託スルノ止ムヲ得サルニ至レリ又衛生事務ノ如キモ明治十九年避病室健設以来両町村相共同使用スルノミナラス悪水
路ノ浚渫改良ノ如キ或ハ道路橋梁ノ修補改築ノ如キ両町村ニ跨ル処甚タ多ク為メニ複雑ナル手数ヲ要シ遂ニ改善ノ計図ヲ阻隔スルモ
ノ一ニシテ足ラス其他商業ニ交通ニ警察ニ比々皆然ラサルハナシ然ルニ明治廿二年町村制実施ノ当時尚ホ豊橋村ヲ存立シテ一村トナ
ス是レ大ニ其当ヲ得サリシモノト云フヘシ上来陳フル処ノ如ク我豊橋町ト豊橋村ト相関聯シテ離ルヘカラサルハ之ヲ過去ノ歴史ニ照
―第四章 市政の沿革 三七
―第四章 市政の沿革 三八
ラシ之ヲ現在ノ事実二徴スルモ誠ニ明ナリ故ニ今我豊橋町ト豊橋村ト相合同セハ百般ノ事物大ニ両町村ヲ益スルノミナラス自治体ノ
基礎ヲ鞏固ニシ特ニ商業ノ始キハ直接ニ間接ニ便益ヲ与ヘ其発達進歩ヲ助クル実ニ尠少ニアラサルナリ今ヤ豊橋村亦タ大ニ爰ニ感ス
ルアリ将ニ其分立ヲ廃シ我豊橋町ニ合同セントスルノ議既二決シタリト聞ク本町民亦嘖々之ヲ唱道シ巳ニ一町ノ与論タルヲ信ス故ニ
此際断然我豊橋町ト豊橋村ト相合同シテ以テ完全鞏固ナル一自治体ヲ構成シ百年ノ長計ヲ完フセンコトヲ誠ニ渇望ノ至リニ堪ヘス茲
ニ町会ノ議決ヲ具シ謹テ請願候也
明治二十七年一月 日 愛知県渥美郡豊橋町長 小野道平
愛知県参事会
愛知県知事 時任為基殿
町村廃合の為め町長を始め一切の機関一旦消滅に帰したる結果改選を要することとなり廿八年五月十日(二級)十一日
(一級)町会議員の総選挙を行ひたり。
二級当選者
佐藤弥吉(五一二) 大口喜六(四九二) 宅間菊太郎(四九〇) 渡辺喜三郎(四八二)
原田万久(四八二) 伊藤来作(四七四) 神戸小三郎(四七二) 古市兼吉 (四七一)
伊藤次七(四六九) 西郷源作(四二五) 中村登平 (四二一) 磯部庄次郎(四一四)
一級当選者
大場儀平(一〇三) 杉田久吉(九五) 土屋庄七 (八二) 松下栄三郎(八〇)
外山芳太郎(八〇) 内藤源蔵(七九) 白井直次 (七九) 加治千万人(七八)
佐藤市十郎(七五) 石川喜八(七二) 鳥居新三郎(六四) 中村密橋 (五九)
二十八年三月町村合併以来元豊橋町長小野道平氏町長事務取扱を命ぜられ、町政に当れるが町会の成立を見たるに依り
町長選挙を行ひたるに三浦碧水氏当選五月廿五日就任せり。伊東次七、平尾閑一郎の両氏助役となる。
三十年五月平尾助役辞任、仝年九月高城与之吉氏之に代り、仝三十一年三月伊東助役辞任、仝年四月西岡松枝氏之に代
はり就任せり。
明治三十一年五月十日(二級)十一日(一級)の二日間に亘り定期半数改選及補欠選挙を行ひたり。
二級当選者
富田良穏 (四八〇) 西川由次 (四七六) 西村松三郎(四六〇) 植田茂平(四三五)
(補欠)
佐藤市十郎(三六六) 加藤熊次郎(三四三) 杉田八五郎(二九二)
一級当選者
高須豊蔵 (六二) 中島忠太郎(六二) 神道金一郎(六一) 青山兵作(六〇)
加藤弥太郎(六〇) 筧蔦蔵 (五九)
然るに今回の選挙に於て、代人を以て投票をなさしめ、又公民にあらざる者をして選挙会場に立ち入り投票をなさしめた
る如きは、違法の選挙なるが故に其全部を取消し再選挙をなすものなり、との趣旨を以て訴願書を提出するものあり、茲
に物議を生じたり、三浦町長辞任三十一年五月十七日大口喜六氏之れに代はり就任せり、而して曩日執行の選挙は遂に無
効となりたるにより、八月十七日(二級)十八日(一級)の両日を以て再選挙を挙行したり。
二級当選者
―第四章 市政の沿革 三九
―第四章 市政の沿革 四〇
富田良穂(三二八) 佐藤市十郎(二一二) 西川由次 (二〇七) 杉田八五郎(二〇一)
(補欠)
鈴木増造(一九八) 山本大蔵 (一七九) 横田善十郎(三二〇)
一級当選者
高須豊蔵 (五三) 中島長作 (四三) 遊佐 発(二四) 加藤弥太郎(四一)
中島忠太郎(四〇) 西村松三郎(三七)
従来町長は所謂名誉職として多くは自宅に在り、町制事務の料理は実際助役の任する処なりしが、大口町長就任以来は少
壮気鋭因襲を打破して、自ら町政の衝に当り各般の事務を総攬し、吏員を督して能率の増進に努むる処あり。町政の刷新
を見るに至れるが三十二年五月辞任、仝年七月退役陸軍大尉月岡才蔵氏町長に当選就任せしが、教員問題に端を発し遂に
辞任の止むなきに至り、三十三年四月高木、西岡、両助役も共に辞任せり。
三十三年五月永野武三氏助役に就任、仝月退役陸軍大尉伊東保紹氏町長に当選、仝六月外山芳太郎氏助役に就任せしが、
学校基金問題より紛議を生じ仝年十一月伊東町長の辞任となり、町政の渋滞を生ずるに至れるを以て、時局収拾の為め、
三十四年一月福谷元治氏を町長に推薦せり。仝年五月外山助役辞任神戸小三郎氏之に代りたり。
三十四年五月十日(二級)十一日(一級)両日町会議員定期半数改選を行ふ。
二級当選者
神戸 大場儀平 伊藤次七 中村登平
瀧川 享 鈴木要助
一級当選者
加藤卯平 原田幸七 中谷 精 植田茂平
岡田 実 (不詳一人)
三十四年十一月神戸助役辞任富田良穂氏之れに代る、福谷町長就任以来町政の整理刷新に力め見るべきもの尠からざり
しが、此頃より市制施行の議漸く具体化し大口喜六氏等により盛に主張さるるに至りしが、一面に於ては又有力なる尚早
論者も尠からざりき、三十五年七月福谷町長引退大口喜六氏これに代り。専ら問題の解決に当り、町会に調査委員を設け
終に町会に於て、市制実施の議を決し三十五年十一月其筋に意見書を提出し、又大に輿論の喚起に努めたり。三十六年八
月大口町長辞任、仝年十月再び就任仝月永野武三氏助役に就任せり。
明治三十七年五月十日(二級)十一日(一級)定期半数改選を行ふ当選者左の如し。
二級当選者
三浦多吉 山本 精 佐藤市十郎 若杉房次郎
外山芳太郎 黒柳 亘
一級当選者
片野金次 福谷元治 池谷八百作 花井彦次
(補欠)
富田安市 杉浦与平 横田善十郎
かくて、市制実施の問題漸く喧しからんとするの時に際し、偶々日露戦役の勃発に遭遇し、軍国多忙の間に二年間を経過
―第四章 市政の沿革 四一
―第四章 市政の沿革 四二
せしが、戦後第一年に於て豊岡花田の両村を併せ其実施を見、茲に町制十七年間の終りを告げたり。
△町の機関
町長
就職年月日 退任年月日 氏名
明治二十二年十一月廿五日認可 明治廿五年二月廿四日辞任 三浦碧水
明治二十五年三月十日認可 明治二十五年六月八日辞任 服部弥八
明治二十五年六月十七日認可 明治二十八年二月二十八日豊橋村と 小野道平
合併の結果自然失職
明治二十八年五月二十五日認可 明治三十一年五月十七日辞任 三浦碧水
明治三十一年五月二十八日認可 明治三十二年五月十四日辞任 大口喜六
明治三十二年七月十三日認可 明治三十三年四月十二日辞任 月岡才蔵
明根三十三年五月卅一日認可 明治三十三年十一月卅日辞任 伊東保紹
明治卅四年一月九日認可 明治三十五年七月二十五日辞任 福谷元治
明治三十五年八月五日認可 明治三十六年八月十七日辞任 大口喜六
明治三十六年十月七日認可 明治三十九年七月三十一日自然失職 大口喜六
町助役
就職年月日 退任年月日 氏名
明治二十二年十一月廿五日認可 明治廿五年三月廿三日辞任 鈴木源吉
明治二十四年一月二十二日認可 明治二十五年六月十七日町長ニ就任 小野道平
明治廿五年四月九日認可 明治廿八年二月廿八日豊橋村と合併 永野武三
ノ為メ自然失職
明治廿五年七月二日認可 仝上 遊佐 発
明治二十八年五月廿五日認可 明治三十一年三月一日辞任 伊東次七
明治廿八年九月廿七日認可 明治三十年五月廿二日辞任 平尾閑一郎
明治卅年九月九日認可 明治卅三年四月十日辞任 高城与之治
明治卅一年四月十四日認可 明治卅三年四月六日辞任 西岡松枝
明治三十三年五月十九日認可 明治三十六年八月十七日辞任 永野武三
明治三十三年六月二日認可 明治三十四年五月廿九日辞任 外山芳太郎
明治三十四年六月十五日認可 明治三十四年十一月十九日辞任 神戸小三郎
明治三十四年十二月七日認可 明治三十八年十二月六日任期満了 富田良穂
明治三十六年十月廿七日認可 明治三十九年七月卅一日自然失職 永野武三
明治三十八年十二月六日就職 仝上 富田良穂
収入役
就職年月日 退任年月日 氏名
明治廿二年十二月廿五日認可 明治廿六年十二月廿五日辞任 向井直次
明治廿六年十二月廿六日認可 明治廿八年二月廿八日豊橋村ト合併 北地梅蔵
ノ結果自然失職
明治廿八年七月一日認可 明治卅二年六月三十日任期満了 北地梅蔵
―第四章 市政の沿革 四三
―第四章 市政の沿革 四四
明治卅二年六月卅日認可 明治卅四年八月十九日辞任 北地梅蔵
明治卅四年八月十六日認可 明治卅八年八月十五日辞任 富田佐一郎
明治卅八年八月十五日認可 明治卅九年七月自然失職 加藤倉次
豊橋村長
就職年月日 退任年月日 氏名
明治廿二年十一月廿日認可 明治廿三年五月十九日辞任 服部源助
明治廿三年六月五日認可 明治廿四年十一月廿一日辞任 榎並満寿多
明治廿四年十一月卅日認可 豊橋町ト合併ノ結果明治廿八年二月 西川由次
廿八日自然失職
豊橋村助役
就職年月日 退任年月日 氏名
明治廿二年十一月廿日認可 明治廿四年二月二日辞任 早川重吉
明治廿四年二月十日認可 明治廿八年二月九日満期 草場金蔵
明治廿八年二月五日認可 明治廿八年二月廿八日豊橋町ト合併 草場金蔵
ノ結果自然辞職
豊橋村収入役
就職年月日 退任年月日 氏名
明治廿二年十二月五日認可 明治廿三年七月十九日辞任 宅間菊太郎
明治廿三年七月廿九日認可 明治廿五年四月六日辞任 伊東次七
明治廿五年四月十二月認可 明治廿八年二月廿八日自然失職 森 平六
町会議員
別項記載の通り。
学務委員
就任年月日 事由 退任年月日 氏名
明治卅一年七月五日 市規定ニ依リ任期三ヶ年 明治卅四年七月五日満期退任 三浦碧水
仝 三十二年三月十五日 仝 仝三十五年三月十五日満期退任 大場儀平
仝 上 仝 仝 内藤源蔵
仝 三十三年八月四日 仝 仝卅四年十二月十四日助役当選 富田良穂
ニ付辞任
仝 上 仝 仝三十六年八月四日満期退任 神戸小三郎
仝 三十四年二月四日 小学校令ニ依リ任期四ヶ年 仝三十八年二月四日満期退任 遠藤安太郎
仝 三十三年六月十四日 無任期 仝卅九年七月卅一日自然失職 藤森彦男
仝年八月七日 仝 仝 多代寅三郎
仝 三十四年三月四日 仝 仝 渥美元治
仝年七月十三日 任期四ヶ年 仝三十八年七月十三日満期 三浦碧水
仝 三十四年六月十四日 無任期 仝卅九年七月卅一日自然失職 児島 温
仝 三十五年三月一日 補欠当選 仝三十六年八月四日満期退任 外山芳太郎
―第四章 市政の沿革 四五
―第四章 市政の沿革 六六
一大祝賀会を開催せり。式は「君ガ代」の奏楽に始まり、市長事務取扱大口喜六氏の式辞並に来賓の祝辞あり、大口氏の
発声にて市の万歳を唱へて式を了へ、式後立食の宴あり、此日来賓の主なるは岡谷聯隊長、庄司中佐、岩本、長野両少佐
戸田判事、市川郡長、井口警察署長其他各官衙長、学校長、新聞記者等にして、盛大を極めたり。
同年十月十日(三級)十一日(二級)十二日(一級)の三日間に亘り市会議員の選挙を行ひたるがかなり劇甚なる競争
あり左記当選せり。
三級当選者 十名
岩瀬駒次郎 神戸小三郎 平山季人 山本清三郎 伊東次七
中林登平 織田清 長坂浅次郎 影山愛蔵 丸地栄次郎
二級当選者 十名
中村東十 横田善十郎 若杉房次郎 大橋清一 三浦多吉
高須孝 深井正憲 桜井祥造 榊原弁吾 住野三代蔵
一級当選者 十名
小木曽吉三郎 福谷元次 花井彦次 富田安市 山田七平
山本 潤 伊東米作 宮川算造 永野武三 浅井常三
仝月廿九日最初の市会を開き正副議長の選挙を行ひたるに、議長に福谷元次氏、副議長に長坂浅次郎氏当選せり。
同年十二月十四日内務大臣より市長候補者推薦の命令あり、仝月廿二日市会に於て、大口喜六氏外二名を市長候補者に
選挙し明治四十年一月七日裁可あり大口喜六氏初代の市長として就任せり。
【図の説明】議長 福谷元次氏
同月十三日市会に於て市参事会員六名の選挙を行ひ左記当選せり。
大野九郎八 桜井祥造 小木曽吉三郎 田中田新 原田万久 小野田米松
仝日市長より助役の推薦を行ひ、仝月十九日永野武三氏就任せり、仝月廿六日の市会に於て市長より収入役の推薦をな
し、二月六日富田良穂氏就任せり。同年一月廿六日及二月十八日の市会に於て諸般の条例規程を議決し茲に市制機関の完
成を見たり。
△市制施行後の事歴
明治卅九年 七月五日、内務省告示を以て豊橋町を市制施行地に指定せられ仝月三
十一日市役所位置を町役場に指定あり、町長大口喜六氏市長事務取扱を命ぜられ、八月一
日茲に市制の実施を見たり。△十月十日、十一日、十二日
の三日間に亘り市会議員の選挙を行ひ、仝月廿九日の市会
に於て正副議長の選挙を行ひ議長に福谷元次氏、副議長に
長坂浅次郎氏当選せり。△仝月廿二日市会にて、大口喜六
氏外二名を選挙せり。△此の年花田尋常小学校を花田町西宿前北新起に新築移転し市農会
を設立し事務所を市役所内に設置せり。又市立火葬場を向山字西猿に新築移転せり。
明治四十年 △一月七日裁可あり大口喜六氏初代の市長として就任せり。△仝月十
三日市会に於て市参事会員六名の選挙を行ひ、尚市長より助役の推薦をなし仝月十九日永野武三氏助役に就任せり。△仝
【図の説明】市制実施当時の記念スタンプ
【図の説明】市立火葬場
―第四章 市政の沿革 六七
―第四章 市政の沿革 六八
廿六日市会に於て市長より収入役の推薦をなし、二月六日富田良穂氏収入役に就任せり。△仝廿六日参事会員の補欠選挙
を行ふ。△市制実施の結果として二月二十八日限り、市内各小学校一旦廃校となり
翌三月一日新名称を以て設置せられたり。
明治四十一年 △三月、市内電話開通し、通
信上、一新時期を画せり。△五月衆議院議員選挙。
△八月、三十七八年戦役の労に依り元豊橋町恤兵団
は銀盃壱組下賜の御沙汰書を拝受せり。△新設第十
五師団の設営成り前屯営地習志野より移転到着に付
き十一月十八日高師原練兵場に歓迎式挙行、更に仝
日豊橋練兵場に招宴を開催す。爾来剣光帽影市内に
往来して一層繁盛を見るに至れり。△十月十八日米
国大西洋艦隊来航に付き当市長より仝艦隊司令長官に宛て「誠意ヲ以テ閣下ノ艦隊ヲ歓迎
シ閣下ノ健康ヲ祝ス」の祝電を発したるに仝司令長官「スペリー」氏より「御懇電ヲ深謝
ス」との返電ありたり。△十一月九日日本赤十字社愛知支部豊橋市委員部社員惣会を八町
練兵場に於て挙行来会者壱千参百余名にして頗る盛会なりき。
明治四十二年 一月十三日、市参事会員の半数改選を行ふ。△七月、騎兵旅団の各
隊、新設せらる。東田遊廓設置の計画成り、市内の貸座敷業者は之に移転す。△八月、狭
【図の説明】第十五師団歓迎式
【図の説明】師団司令部
【図の説明】移転前の東田遊廓敷地
間尋常小学校校舎花田町狭間に新築落成し、次いで開校す。△九月九日、市会議員の補欠選挙を行ふ。△十月十日、十一
日、十二日の三日間市会議員の半数改選を行ふ。
明治四十三年 △二月豊橋瓦斯株式会社工を竣へ、瓦斯の供給を開始す。△三月十六日より九十日間名古屋市に於
て、本県主催第十回関西府県聯合共
進会を開催せり、本市より多数出品
△六月、豊橋市史料展覧会を八町高
等小学校に開催し、市の歴史を周知
せしめ、愛郷の念を鼓舞す。△七月
岩田尋常高等小学校分教場を岩崎に
設置。△九月五日日韓合併奉祝の為
め市長より上記の賀状を奉呈せり。
△皇太子殿下、本市及第十五師団へ行啓被仰出十一月十九日午后四時当駅御着御駐泊所なる、第十五師団偕行社へ成らせ
られ有資格者は停車場に奉迎各種団体、学校生徒一般市民は沿道に奉迎せり、殿下には翌二十日午前八時御駐泊所御出門
【囲み内のテキスト】
伏テ惟ルニ
天皇陛下鴻徳八肱ニ輝キ内紀綱ヲ張リ外威信ヲ立テ給
フ今ヤ韓国上下我徳ニ懐キ我化ニ服シ爼豆揖譲国ヲ
挙テ茲ニ之ヲ
陛下ニ納ル洵ニ東洋ノ平和ヲ永遠ニ維持シ帝国ノ安全
ヲ将来ニ確保セル所以ニシテ振古未曽有ノ盛事ナリ
之レ偏ニ
聖徳ノ然ラシムル所ニシテ臣等盛世ニ遭遇シ感激ノ至
リニ堪ヘス恭シク
宝祚ノ無疆
皇運ノ隆昌ヲ祈リ茲ニ豊橋市会ノ議決ヲ具シ誠恐誠惶
以テ聞ス
明治四十三年九月五日
豊橋市参事会
豊橋市長 勲七等 大口喜六
【図の説明】豊橋瓦斯株式会社
【図の説明】豊橋偕行社
―第四章 市政の沿革 六九
―第四章 市政の沿革 七〇
第十五師団司令部に行啓賜謁の儀あり、順次各隊御巡覧の上御還啓仝午后一時、更に御出
門歩兵第十八聯隊に行啓御順路に於て、本市小学校尋常科第四学年以上の女生徒一千三百
余名の桜花遊戯を台覧遊ばされ工兵隊並に第四中学校へ行啓、仝日午后四時御還啓あらせ
られたり。仝日午后五時頃より尋常小学校五年以上の男生徒千五百余名提灯行列を行ひ、
渥美郡小学校生徒五百余名と共に御駐泊所前に整列万歳を三唱し外廊を廻り帰路につけり
殿下には翌二十一日午前八時十五分豊橋駅御出発御還啓被遊たり。△殿下行啓に先ち御巡
路に当れる道路急設工事を昼夜続行竣工せり。△十二月、東八町東端より、東田遊廓に至
る、八町線道路開鑿工事竣工す。
明治四十四年 一月十三日市
参事会員の補欠選挙及半数改選を行
ふ。△三月、札木角より柳生橋に至
る、大手線道路開鑿工事竣工す。△
七月、花田尋常小学校を花田町大塚
の地に改築移転す。△八月一日本市
市制施行五週年祝賀会を八町高等小
学校講堂に開く。市内各小学校生徒
提灯行列を行ふ。
【囲み内のテキスト】
豊橋市制実施五週年祝賀の歌
一、今橋城は昔にて 吉田の里も夢なれや
名を豊橋とよびてより 四十余年は過ぎにけり
二、市制布かれて五星霜 戸数一万五千あり
人口五万の余を数ふ 県下第二の大都会
三、十五師団を迎へては 市運いよ〳〵栄え来て
西に東に開けゆく 大路の数の果て知らず
四、白帆かゝげて上り来る 大船繁き豊川や
豊川線と官線と 並びて走る汽車の窓
五、見よや人々商工の いや栄ゆくこのまちを
祝へ人々繁盛の 末限なきこの市を
【図の説明】台覧桜花遊戯
【図の説明】新築当時の花田小学校
△仝月船町より牟呂吉田村東豊田に至る、牟呂吉田線道路開鑿工事成る△九月二十日、本年八月上旬の暴風被害者へ御救
恤御下賜金ありたり。△十月廿六日市参事会員の補欠選挙を行ふ。△十二月二十日、豊橋市立高等女学校々舎を旭町に新
築落成し、之に移転す。
明治四十五年 一月七日、大口市長辞任す。△仝月、松山尋常小学校を新設し、校舎
を花田町間田に新築落成す。△二月十二日、高橋小十郎氏市長に就任す。△三月、瓦町より
東田遊廓に至る、瓦町線道路開鑿工事竣工す。△四月一日、松山尋常小学校開校す。△五月
豊明舘前より停車場に至る新停車場線道路開鑿工事竣成し市の面目を一新せり。△仝月衆議
員議員選挙あり大口喜六氏当選。△十二月、前市長大口喜六氏へ本市より特別慰労金三千円
を贈る。△七月、伏見宮貞愛親王殿下特命検閲使として御来豊、札木町千歳楼に御宿泊あら
せらる。市民熱誠を以て歓迎し奉る。私立豊橋盲唖学校よりは、仝校概況一部献上したるに
仝十月一日御附武官橋本大佐を仝校へ御差遣の上金壱封御下賜ありたり。△仝月、市庁舎新築落成に付きこれに移転せり。
△仝月廿二日、聖上陛下御違例の趣御発表あらせられたるにより市民驚愕措く所を知ら
ず。高橋市長及福谷市会議長は市民を代表し、宮内大臣宛天機奉伺の電報を奉呈せり。
△陛下御不例の趣御発表以来、挙国憂懼に堪へず斎戒沐浴一向御平癒を祈り奉りしに其
甲斐もなく、七月三十日午前零時四十三分遂に御崩御あらせられ、皇太子殿下直に践祚
神器渡御式を行はせられたり。恐懼極り無し。△七月三十日市長及市会議長より別記の
通り電奏(市長議長仝文)△七月三十一日より大正元年と改元
【図の説明】豊橋市庁舎
【図の説明】市長 高橋小十郎氏
―第四章 市政の沿革 七一
―第四章 市政の沿革 七二
大正元年 △八月三日、八町高等小学校講堂に於て市民奉悼式挙行。△八月三十日市参事会員の補欠選挙を行ふ。
△九月十三日御大喪当日午后九時、東八
町軍人記念碑境内に於て遥拝式挙行市長
及市会議長は大喪儀に参列の為め上京せ
り。△仝十四日午前十時五十二分御霊柩
列車当駅御着、仝五十五分御発車被為在
たるに付き、市民恐懼哀悼謹んで奉迎送申し上げたり。△十月上伝馬坂上より湊町中央に至る上伝馬国道改修工事竣成せ
り。△仝月市会議員改選を行ふ。△仝月廿四日市参事会員の補欠選挙を行ふ。△仝
月二十四日小木曽吉三郎氏市会議長に当選。
大正二年 一月十八日、市立図書館開館式を挙げたり。△一月十八日永野助
役満期退任。二月四日、仝氏助役に再任す。△仝
月五日富田収入役期満仝日再任。△仝六日市参事
会員の補欠選挙を行ふ。△三月八日高橋市長辞任
△七月三十日明治天皇御一週年祭に付き軍人記念
碑境内に於て遥拝式挙行。△八月二十九日、榊原
弁吾氏市長に就任。△十月十日永野助役辞任。
大正三年 △三月二十八日榊原市長辞任。△仝月三十一日市長事務管掌とし
【囲み内のテキスト】
天皇陛下 崩御被為遊候趣拝承洵ニ恐懼ニ堪
ヘズ謹テ哀悼ノ誠意ヲ表シ奉ル
豊橋市長 高橋小十郎
宮内大臣伯爵 渡辺千秋殿
【図の説明】市会議長小木曽吉三郎氏
【図の説明】市立図書館開館記念
【図の説明】市長 榊原弁吾氏
て県属山本武五郎氏来任。△四月十一日
皇太后陛下崩御あらせらる恐懼哀悼措
く所を知らず市会議長天機奉伺。△四月
廿七日大口喜六氏市長に就任。△五月廿
二日山本松二氏助役に就任せり。△前助役永野武三氏へ本市より特別慰労金五百円を贈
る。△五月廿四日、御大喪儀当日に付き午后九時より軍人記念碑境内に斎壇を
設け遥拝式挙行。翌二十五日御霊柩列車御通過に付き、各官衙長公職者駅内に
て奉迎送申上げたり。△六月十五日市参事会員の補欠選挙を行ふ。△上伝馬四
ツ角より牟呂用水路に至る萱町線道路開鑿工事竣工す。△仝月廿三日市参事会
員の補欠選挙を行ふ。△九月十一日より十七日まで連日市内各指定神社に於て
宣戦報告祭執行す。△十一月青島陥落につき祝賀式を挙げ提灯行列を行ふ。市
内思ひ〳〵の余興あり雑沓を極む。
大正四年 一月四日凱旋祝賀会挙行に付き学校生徒提灯行列を行ふ。△
一月廿一日竹田宮殿下騎兵第十九聯隊長として御来任遊されたり。△三月衆議
院議員選挙を行ふ。△四月十一日、照憲皇太后御一週年祭に付き、午前十時よ
り軍人記念碑境内に於て遥拝式挙行。△六月船町より停車場に至る船町線道路
開盤工事竣工す。△十月廿五日御大礼奉祝の為め、本市より生糸二括献上の儀
【囲み内のテキスト】
皇太后陛下崩御アラセラレタル公告ヲ拝承シ
洵ニ恐懼ニ堪ヘズ謹テ哀悼ノ誠意ヲ表シ天機
ヲ伺ヒ奉ル
【図の説明】助役 山本松二氏
【図の説明】市内花田竹田宮邸
―第四章 市政の沿革 七三
―第四章 市政の沿革 七四
宮内大臣宛願出づ。△十一月六日聖上御大礼の為め当駅御通輦につき奉迎送。△七日大礼記念小学校聯合運動会を八町練
兵場に行ふ。△仝八日皇太子殿下御通過に付
き奉迎送。△十一月十日午前十時市役所に於
て高齢者に対し御下賜品伝達式を挙行。△仝
日午后一時より市会開会賀表議決。△仝日午
后三時三十分八町高等小学校に於て市民奉祝
式挙行万歳三唱△仝日仝刻各学校仝上△仝十二日大口
市長京都御所へ出頭賀表奉呈。△十四日より十六日ま
で各指定神社へ供進使参向。△十八日八町高等小学校
運動場に於て市民奉祝会を開く。△仝廿八日鳳輦奉迎
送。△市内前田の地御大典記念事業として耕地整理に
着手したり。
大正五年 一月十九日市参事会員の補欠選挙を
行ふ。△二月二十日大口市長辞任す。△仝月十五日市
会議員補欠選挙を行ふ。△七月十日豊川架橋竣成開通
式挙行。△九月十三日竹田宮殿下より本市へ金一千五百円御下賜ありたり。△十月
十日より三日間に亘り市会議員改選を行ふ。△十月廿二日福谷元次氏市会議長に当
【囲み内のテキスト】
天皇陛下至仁至徳大統ヲ継承シ給ヒ即位ノ大
礼ヲ挙ケサセ給フ億兆歓呼シ万邦来リ賀ス洵
ニ振古未曽有ノ盛事ナリ臣等感激ノ至リニ堪
ヘズ茲ニ本市会ノ議決ニヨリ謹デ賀表ヲ奉ル
【図の説明】大礼記念運動会
【図の説明】仝上敬老席
【図の説明】新装の豊橋
選。△仝廿二日市参事会員の補欠選挙を行ふ。△十一月三日立太子礼を
行はせらるゝにより市会を開き賀状奉呈の議決をなす。
大正六年 一月十八日細谷忠男氏
市長に就任。△二月三日富田収入役期満
仝日仝氏重任。△四月衆議院議員選挙あ
り大口喜六氏当選、△四月より七月に亘
りて黒疫流行し、市民の驚愕一方ならず、
市は予防費一万五千円を可決して、防疫施設をなし、市民協力して之が
撲滅に努力したる結果、五名の患者発生したるのみにて、遂に終熄せし
むるを得たり。△七月市内に始めて自働電話を設置せらる。△八月久邇宮殿下、第十五
師団長として御来任遊ばさる。
大正七年 一月廿六日市参事会員の補欠選挙を行ふ。△二月大手線道路拡張工事
竣功す。仝月本市金庫制度を新設、市金庫を愛知銀行豊橋支店に設くると共に派出所を分
設して、納税者の便宜と取扱上の安全を期せり。△五月十五日、山本助役辞任す。△八
月十二日、米暴動勃発し翌十三日に亘りて、全市は暗黒修羅場と化し悽惨を極めたりし
が、当局の施設と軍隊の援助とによりて十四日遂に鎮静を見るに至れり。△本市は市会
の決議により救済の目的を以て内国米及外国米の廉価販売並に外国米の実費分配を実施
【囲み内のテキスト】
伏テ惟ルニ
天皇陛下允文允武歴世不磨ノ典ヲ重ネ給ヒ春
宮冊立ノ礼ヲ挙ケサセ給フ闔国遍ク慶シ兆民
斉ク賀ス臣等感激ノ至リニ堪ヘズ茲ニ本市会
ノ議決ニヨリ謹フテ賀状ヲ奉ル
【囲み内のテキスト】
伏シテ惟ルニ皇太子殿下至孝至仁今ヤ立儲ノ
礼ヲ行ハセラル闔国遍ク慶シ兆氏斉シク賀ス
臣等感激ノ至リニ堪ヘス茲ニ本市会ノ議決ニ
ヨリ謹ミテ賀表ヲ奉ル
【図の説明】市長 細谷忠男氏
【図の説明】開通大手線
―第四章 市政の沿革 七五
―第四章 市政の沿革 七六
せり。△八月二十二日、久邇宮殿下近衛師団長に御栄転御赴任に付き本市へ金五百円御下賜あり。△十月一日より一週間
に亘り高師村天白原に於て、陣地攻防演習を挙行せられ、畏き辺より、東宮殿下及侍従武宮を御差遣あらせられ。尚、久
邇宮、梨本宮、朝香宮、北白川宮、閑院宮の五宮殿下及李王世子殿下には、演習見学の為御来豊遊ばされたり。其他文武
大官貴顕縉紳来集して当市空前の盛況を極めたり。△各宮殿下に対し本市より真綿一箱づつを献上せり。△皇太子殿下よ
り本市へ金百円御下賜。△十一月六日前助役山本松二氏へ本市より特別
慰労金六百円を贈る。△十一月二十三日休戦条約成立につき八町高等小
学校に於て市主催祝賀会を挙行し宮内大臣内閣総理大臣、大谷軍司令官
聯合与国大公使へ祝電を電送せり。△十二月二十日市参事会員の補欠選
挙を行ふ。
大正八年 △五月七日皇太子殿下御成年奉祝式を八町高等小学校内
に挙け、宮内省式部職及東宮職へ賀表電
奏。小学校児童の旗行列を行ふ。午后六
時より十八聯隊練兵場に於て祝賀会を開
催せり、来会者一千五百余名小学校生徒
の提灯行列を行ひたり。△十月二十二日
石田甲太郎助役に就任。△本年に於て予て工事中なりし萱町線竣成を告げ交通運搬の便大に開たり。△七月一日講和条約
調印の報あり市長より宮内大臣宛賀表を電奏しを宮内、総理、外務、陸海軍各大臣並に与国大公使へ祝電を発送せり。
【囲み内のテキスト】
本日ヲ以テ皇太子殿下御成年式ヲ行ハセ給フ
皇運益々隆昌天壌ト倶ニ窮リナシ臣等感激ノ
至リニ堪ヘス恭ク祝シ奉ル茲ニ豊橋市会ノ議
決ヲ具シ臣忠男誠恐誠惶謹ミテ白ス
右御執奏ヲ請フ
大正八年五月七日
【囲み内のテキスト】
本日ヲ以テ御成年式ヲ行ハセ給フ 皇運益々
隆昌天壌ト倶ニ窮リナシ臣等感激ノ至リニ堪
ヘス恭ク祝シ奉ル茲ニ豊橋市会ノ議決ヲ具シ
臣忠男誠恐誠惶謹ミテ白ス
右御執奏ヲ請フ
大正八年五月七日
【図の説明】助役 石田甲太郎氏
大正九年 △五月衆議院議員選挙あり。△十月一日第一回国勢調査
を行ふ世帯数一二、九〇八。人口男二八、三一三人、女三四、七八三人計
六三、〇九六人、△十月十日より三日間に亘り市会議員選挙を行ふ。△仝
二十四日大口喜六氏市会議長に鈴木五六氏副議長に当選せり。△仝日市参
事会員の改選を行ふ。△十二月名古屋電灯株式会社が豊橋電気株式会社を
合併せんとするあり、茲に電灯問題の端を発せり。
大正十年 △一月細谷市長満期退任となりしが、翌二月同氏再び市長に就任せり。△仝月二日収入役富田良穂氏退
任仝日徳島忠次郎氏之に代はる。△第十五師団は満洲駐剳の大命を受け三月より一部の留守部隊を留め主力を以て南満洲
鉄道沿線各地に駐屯することゝなりしを以て、本市は渥
美郡尚武会と聯合して三月廿四日八町高等小学校に於て
派遣将校及准士官を招待し盛大なる送別宴を催したり。
次いて四月に亘り逐次出発する派遣部隊に対しては一般
市民学校児童生徒在郷軍人、青年団等盛大に敬送せり。
△五月、豊橋商業会議所を、中柴より本町に移転す。△九月二十日金子丈作氏市会議長に当選。△九月二十三日、市制施
行十五週年祝賀式を市役所前庭に挙げ、式後八町高等小学校内に於て盛大なる祝賀会を開催せり、市内国旗を掲揚し軒灯
を吊し。市内小学校児童の旗行列及提灯行列、市中を練り歩きて、非常なる賑ひを呈せり。△十月、助役石田甲太郎氏は
橋本書記を随へ満洲駐剳中なる第十五師団の各部隊を慰問し、酒肴料を贈りたり△十二月二十二日花田町字守下なる松葉
【囲み内のテキスト】
講和条約調印巳ニ成リ我帝国ノ正義公道遂ニ
克ク光輝アル終局ノ成果ヲ収ム欣躍何ソ堪ヘ
ン茲ニ豊橋市会ノ議決ヲ経謹ミテ
陛下ノ万歳ヲ祝シ奉ル請ン御執奏アランコト
ヲ
大正八年七月一日
【図の説明】収入役 徳島忠次郎氏
【図の説明】市会議長 金子丈作氏
―第四章 市政の沿革 七七
―第四章 市政の沿革 七八
尋常小学校新校舎落成し之に移転す。△仝月二十九日市参事会員の補欠選挙を行ふ。△尚本年四月より市役所に社会係を
新設し、又社会事業調査委員、都市計画準備臨時調査委員を設置し夫々
調査に着手せり。△豊橋電気株式会社は近年著しく事業の発展を見たる
が昨年十二月名古屋電灯株式会社と合併の計画事業者間に起り合併契約
の発表を見るに至りしかば市民間に反対の声起り勢の赴く処電気事業の
市営を計画せんとし市会議員の協議会を開き電灯会社に対し買収の内交
渉を開始せしが此時既に名電会社に於ては株主総会を開きて合併の決議
をなし市に向つて公式に承諾を求め来りしかば、市会に委員を設け買収
交渉を重ねしが会社はこれに応ずるの意志なく、一旦協定せんとせし覚
書の調印をも回避せんとするが如きものありしを以て、七月二十九日市
会に於て合併不承認の議決をなし、九月二十二日開会の市会に於て臨時
電気事業調査委員を設け調査に着手せるが電灯料金値下の声喧く輿論沸
騰し事態紛糾を極めたり。
大正十一年 △七月、萱町線牟呂用水より高師村福岡に至る萱町先線道路開鑿竣成せり。△前年来の電価問題未た
解決を見さるに商業学校設置、八町高等小学校の移転及市立図書館の移転増築並に之に伴ふ増税問題より市会に紛擾を生
し、九月十二日遂に騒擾事件を惹起せり。△十月十一日、石田助役逝去せらる△仝月市会議員金子丈作、村上芳次郎、野
沢藤五郎及橋本書記の一行は満洲駐屯部隊の慰問をなしたり。△仝月本市附近にて騎兵特別演習施行せられ閑院宮(龍拈
【図の説明】市制施行十五週年祝賀記念式場
寺御宿泊)賀陽宮(原田覚次郎氏宅御宿泊)両殿下演習御視察の為め御来豊あらせらる。△十月三十日八町高等小学校に
於て市及市教育会の聯合主催に係る学制頒布記念式並に学事功労者表彰式を挙行せり当日左記の諸氏表彰せらる。
故尾藤徳義 故児島閑窓 故三浦碧水 故遠藤安太郎 故藤森彦男
故渥美元治 児島 温 多代寅三郎 伊藤卯一 水野鎌次郎
今井勘次郎 岡本九一郎
△十二月市立病院を三ノ輪本興寺に新築移転せり。尚本年内市役所に職業紹介所を設け求人
求職の便を計り、住宅新築奨励規程を実施し、店頭装飾品評会を開き、非常防備の為め市内
五ヶ所に貯水池を設け、又市庁舎の増築を行ひたり。
大正十二年 △一月、向山に在りし市立消毒所を三の輪なる市立病院内に新築移転せ
り。△三月、二ヶ年に亘る満洲駐剳の大任を了へて帰還せる第十五師団の一部隊を歓迎せり。△四月一日、豊橋市立商業
学校を開校す。△仝六日、細谷市長、岡田市会議員、橋本書記の一行は、師団司令部歓迎の
為神戸市に出張す。△仝二十四日、野沢氏外七名の市会議員は、熱田港に出張帰還部隊を歓
迎す。△五月十二日、本市は渥美郡尚武会と聯合して、八町高等小学校に於て、帰還各隊の
准士官以上を招待し歓迎会を催し、尚下士以下に対しては、酒肴料を贈呈せり。△八月、細
谷市長辞任せり助役欠員の為め本県より市長職務管掌として吉川事務官助役職務管掌として
大村県属の派遣を見たり。△九月一日、関東に大震災起る。△仝三日、市会協議会を開き金
一万二千円の関東大震災慰問救護費を議決す。△仝四日、三上、斎藤両書記は、上京中大震
【図の説明】市立病院
【図の説明】市立消毒所
―第四章 市政の沿革 七九
―第四章 市政の沿革 八〇
災に逢ひし吉川市長職務管掌を捜索の為上京す。△仝六日、白米六百俵震災事務局へ引継ぎの為、宮林、加藤両書記熱田
港を出発す。駅前に救護所を設け震災避難者の救護に尽せり。△仝二十四日、救護費及慰問品費の追加予算を、市会に於
て決議す。△十一月十日、前市長細谷忠男氏へ本市より特別慰労金六百円を贈る。
大正十三年 二月、摂政宮殿下御成婚奉祝の為、官民合同の祝賀式を挙げ、夜は提灯行列を行ふ。市内小学校職員
児童は市役所前庭に奉祝記念碑を建てたり。△三月、花田
町流川地内の下水工事竣成す。△五月衆議院議員選挙あり
大口喜六氏当選。△六月十日、市長職務管掌吉川一太郎氏
市長に就任す。△九月二十五日、豊橋高等小学校東田移転
第一期工事竣成し全生徒東田の校舎に移転す。△仝月関屋
町地内下水工事竣成す。△十月十日、十一日の両日市会議員の総選挙を行ふ△仝月二十五日、神戸小三郎氏市会議長に当
選、△十一月十六日、師団対抗演習御統監の為、久邇宮邦彦王殿下御来豊、岡田屋旅館に御宿泊あらせらる。△仝十七日
演習御視察の為、閑院宮殿下(服部弥八氏宅御宿泊)梨本宮殿下(今西卓氏宅御宿泊)の両宮殿下御来豊遊ばさる。△仝
十九日小学校児童は練兵場に於て桜花遊戯を行ひ各宮殿下の台覧を仰ぎたり。△十二月廿二日市参事会員の補欠選挙を行
ふ。
大正十四年 △一月八日、豊橋都市計画区域認可せらる。△一月三十日、市参事会員の補欠選挙を行ふ。二月二日
徳島収入役期満当日再任。△三月三十一日、豊橋高等小学校東田新校舎落成す。△四月二十四日、本市及渥美郡尚武会聯
合の下に、軍縮の結果廃止さるべき第十五師団各部隊の将校を招待し、豊橋高等小学校に於て送別会を開催せり。△五月
【図の説明】市長 吉川一太郎氏
【図の説明】市会議長 神戸小三郎氏
一日、浜松市に分屯の歩兵第十八聯隊第三大隊を敬送せり。△五月五日、名古屋市より移転
の工兵第三大隊を歓迎す。△五月七日新設高射砲第一聯隊の到着を歓迎せり。△五月十日、
神戸市会議長より両陛下御結婚満二十五年奉祝の電報を宮内大臣へ差出したり。△五月十八
日、市農会は農産品販売斡旋所を萱町に設置せり。
△七月、市内電車開通して、市内交通上に一新時期
を画すると共に、現代都市としての面目を加へた
り。△十月一日、第二回、国勢調査を行ふ。世帯数
一五、五四三、人口男三五、四〇二人女四五、三〇
〇人計八〇、七〇二人。△仝月二十四日、田部井勝
蔵氏助役に就任す。△十一月十八日、吉川市長辞任
す。△十二月七日、皇孫殿下御降誕奉祝の為、官民
合同の祝賀式を小公園に催し、市会議長より賀表賀
箋を奉呈し、夜間は提灯行列を行へり。
大正十五年 四月三日、市立商業学校校舎竣
工式を挙行す。○仝七日、愛知県豊橋第二中学校を
市外牛川に設置せらる。○五月十五日、市役所屋上に時報器を取附け本日より時報を開始せ
り。△六月、上水道敷設計画を市会に於て可決す。△七月一日、青年訓練所を各小学校(高
【囲み内のテキスト】
謹ミテ
天皇 皇后両陛下御結婚満二十五年
ヲ賀シ奉ル
右御執奏ヲ乞フ
【囲み内のテキスト】
謹ミテ
皇孫殿下ノ御誕生ヲ賀シ奉ル
右執奏ヲ乞フ
【囲み内のテキスト】
謹ミテ
内親王殿下御誕生ヲ賀シ奉ル
右言上ヲ乞フ
【図の説明】青年訓練所生徒天長節観兵式参加(大正十五年)
―第四章 市政の沿革 八一
―第四章 市政の沿革 八二
等小学校を除く)に併置し、一斉に開始す。△八月五日、田部井助役市長に当選就任す。△仝二十四日横田忍氏助役に当選
就任せり。△九月四日、暴風襲来被害劇甚を極めたるが仝
十七日再び来襲あり更に被害を加へたり。△十月一日、よ
り二日間
に亘り市
制施行二
十週年祝賀会を開催せり。第一日は練兵場に祝賀式を挙げ八町尋常小学
校に於て祝宴を開き昼夜煙火を打揚げ第二日は児童生徒の旗行列、提灯
行列、各町内催し物あり非常の雑沓
を極め又一日より三日間に亘り八町
尋常小学校内に豊橋人士遺黒展覧会
を開き又各商店は商業会議所主催の
下に聯合売出をなし成功をおさめた
り。△十二月十四日、天皇陛下御不
例の趣に付き市会議長より天機奉伺
並に皇后宮及皇太子殿下御機嫌奉伺の電報を奉呈せり。△十二月十四日午后一時より
市会議員市吏員其の他の公職者は県社吉田神社、仝神明社に於て、聖上陛下御平癒祈願を為せり。△仝二十五日、 天皇
【囲み内のテキスト】
天皇陛下御不例ノ趣恐懼ニ堪ヘ
ズ市会ノ決議ヲ以テ謹ミテ天機
ヲ伺ヒ奉ル
右執奏ヲ乞フ
【囲み内のテキスト】
天皇陛下御不例ノ趣恐懼ニ堪ヘ
ズ市会ノ決議ヲ以テ謹ミテ御機
嫌ヲ伺ヒ奉ル
右言上ヲ乞フ
【図の説明】市長 田部井勝蔵氏
【図の説明】助役 横田忍氏
【図の説明】祝賀当日の市役所
陛下本日午前一時二十五分崩御遊ばさせられたる旨御発表あり、
恐懼措く所を知らず市長は市民を代表し宮内大臣宛左記電報を奉
呈せり。
【囲み内のテキスト】
天皇陛下 崩御被為遊候拝承
洵ニ恐懼ニ堪ヘズ謹ミテ哀悼ノ
誠意ヲ表シ奉ル
△大正十五年十二月二十五日以後を昭和元年と改元。△仝二十七
日午后五時より小公園に式壇を設け奉悼式を挙行せり。
【囲み内のテキスト】
祝歌
一、今橋吉田の昔より 源遠き豊川の
清き流れに影映る 我が豊橋ぞ美はしき
二、水陸両つの利を占めて 商工業も弥栄え
生気衢に漲れる 我が豊橋ぞ賑はしき
三、市制布かれて二十年 進歩の蹟を温ねつつ
鋭意市運を開き行く 八万市民ぞ勇ましき
四、高き理想の計画に 文化の都市と称ふへき
大豊橋は生れなん 市の将来ぞ頼もしき
祝へや今日の記念日を
豊橋万歳万々歳
△市会議決事項
市制実施以来本市会に於て議決せる重要事項を抄録すれば概左の如し。尤も重要事項と雖も歳入出予算の如き常例に属
するものは繁を避くる為め、これを省略せり。
明治四十年
月日 議決 件名
番号
一、二六 一 条例規則告示公告式制定
仝上 二 市長代理順序制定
仝上 三 収入役身元保証金徴収の件制定
二、一八 一一 書記其他附属員使丁人員及給料規程制定
四月廿日第七十四号議決を以て一部更正す
九月四日第八十四号議決を以て一部更正す
仝上 一二 名誉職員実費弁償規程制定
―第四章 市政の沿革 八三
―第七章 市の経済及税務 一三二
明治維新後の租税制度は、大体に於て徳川幕府の制度を承継せり。明治元年八月の布告により、租税は一般に姑く旧法
を襲用すべきを令し、幕府の三種税、即ち第一地租(穫米納)、第二小物成(産物貢納の営業雑税)、第三課役(道路其
他工作に要する労役米銭納の雑役)を以て、中央及び地方官庁の財源となせり。明治四年七月廃藩置県となるに及び、全
国画一の制度を布くに至りたりといへども、種々の名称の下に依然各地不同の課税をなし、税制の統一及び国税地方税の
別の如き、之を見ること能はざりしなり。
当時国庫租税の最も重きをなせるは地租にして、五公五民より八公二民に至る各種不同の負担各地に行はれしを以て、
明治六年七月太政官布告第二百七十二号を以て地租条例を改正し、根本的の整理を行ひ、米納を金納に、段別制を地価制
とし、四公六民の原則に依り、地価百分の三を以て正租即ち国税とし、本税三分の一を府県税となせり。最れ土地に対す
る課税につき、国税県税の区別を定められたる始めなり。
明治七年布告七号を以て、僕婢馬車人車等諸税の歩増、並に劇場芸妓等諸税の各府県限り収入せるものは、自今賦金と
なすの制を設け、明治八年二月布告第二十三号を以て、其種目の大部分を廃し、其他旧時の小物成中、酒類税、醤油税、
船税、牛馬売買税、蚕糸税、銃猟税、鉱山税、碇泊税の九種を国税に更定し、更に国税として専売特許税、僕婢税、馬車
税、人力車税、駕籠税、乗馬税、遊船税、証券印紙税、醤麹税、諸会社税、車税、煙草税、度量衡税の十三種を起せり。
此国税は爾后時に臨み廃止せられたるものありしが、大部分は明治二十九年の雑税整理に依つて、営業税法施行に至るま
で存続せり。明治八年九月布告第百四十号を以て国税府県税の区別を明にし、明治十一年七月布告第十九号を以て地方税
規則を発布し、府県財政と区町村財政とを分離し、府県は(一)地租五分の一以内、(二)営業税並雑種税、(三)戸数割の三種に限
定し、仝年十二月布告第三十九号を以て、県税営業税並に雑種税の種類及制限を定め、明治十三年四月布告第十七号を以
て、県税営業税の営業を商業工業(工業税創設)の二種に改正し、現今に至れり。其間明治十四年二月布告第五号、仝十
五年一月布告第二号を以て部分的小改正ありしも、大綱に関係なし。
明治十三年太政官布告第十六号に、地方税とは単に府県税のみを指称せり。当時市町村は協議費を以て支弁すべく、地
方税の限に非ずとせられたり。是市町村は基本財産を維持するの義務を負ひ、其の所要経常費は此の財源より生ずる果実
其の他雑収入を以て支弁するを原則とし、市町村税は単に之を補充するの性質を有するに過ぎざるも、府県は府県税を以
て支弁するを原則とし、其の趣大に異なりしを以てなり。然るに明治二十一年四月法律第一号を以て市町村制を発布し、
法律上明に之を自治法人とし、同時に市町村へ課税権を認め、其の税目は国税、県税の附加税、直接又は間接の特別税と
なせり。
◇地租附加税 明治八年十月布告第百五十六号を以て区費本税三分の一の制を設く。明治十年減租の聖詔に依り
仝年一月布告第一号を以て地租本税を地価百分の二個半となし、附加税は本税の五分の一となす。明治十年布告第二十五
号を以て県税は本税三分の一、市町村税は本税七分の一の制を設く。其後多少の変遷を経て、地租は宅地地価百分の二個
半、田畑百分の四個半、(大正三年法律第十八号改正)其他の土地百分の五個半、県税は本税一円につき宅地百分の三十
四、其他の土地百分の八十三、市町村税は本税一円に対し、宅地百分の二十八、其の他の土地百分の六十六とし、大正九
年八月法律第三十七号を以て地方税制限法を設け現今に至れり。
◇所得税附加税 明治二十一年法律第一号市町村制に依り、市町村に於て、所得税附加税の課税を認められ市町村
税は本税百分の五十までを課し得るの制なりしが、明治四十一年法律第三十七号を以て県税は本税百分の十(創設)、市村町
税は本税百分の三十五と改正して、県市税併課の途を啓き、其の後多少の変遷を経て、大正九年八月法律三十七号の地方
―第七章 市の経済及税務 一三三
―第七章 市の経済及税務 一三四
税制限法に依り、県税は本税百分の三十六、市税は本税百分の十四と定め、以て現今に至れり。
◇営業税附加税 明治二十七八年日清戦役後国税整理をなし、明治二十九年三月法律第三十三号を以て国税営業税
法を施行せらる。仝時に営業税附加税を創設し、県税は本税十分の二、市税は本税百分の五十と定めたり。後明治四十一
年法律第三十七号を以て県税は本税の百分の二十五、市税は本税の百分の三十五に改正し、其后多少の変遷を経て、大正
九年法律第三十七号を以て、県税は本税の百分の二十九、市税は本税の百分の四十七と制限し、以て現今に至れり。
◇売薬営業税附加税 売薬税法は明治三十一年五月法律第七十一号を以て創設せられ、明治四十四年法律第四十
二号の改正に依り、仝時に売薬営業税附加税の制を設けられ、県税は本税百分の三、市税は本税百分の五以内に制限課税
したるが大正十二年度に於て廃止せられたり。
◇特別市税芸妓置屋税 明治四十一年三月第三十九号議決を以て創設せり。当時第十五師団新設に伴ひ、戸数は著
しく増加し、道路は狭隘を感じ、新に国道より分岐して師団に通ずるものとを開鑿し、且つ小学校令改正修業年限の延長
に伴ひ、教室増築等の新規計画の必要上、起債二十万円の許可を得、其元利償還に要する財源の一部に補充するために、
新設せしものなるが大正八年度限り癈止せり。
◇特別市税土地建物所有権移転税 明治四十一年三月第三十九号議決を以て、前項芸妓置屋税と仝時に創設せし
も、当時其の筋の歩一税、即ち不動産所税得、不動産所有権移転税等に関する許可標準の内規に種々の条件あり。時機尚
早と認め、明治四十一年度限廃止せり。
◇特別市税遊興税 遂年就学児童の増加に伴ひ、教室の不足且つ校舎の腐朽等教授上至大の支障を来たし、他面
道路下水の施設改善等、新規事業の計画遂行上新たなる財源を要し時代に順応したる新税として、大正八年八月第四十六
号議決を以て創設せり、施行以来種々の困難に遭遇せしも、本税普及の徹底に勉め、漸次相当の成績を呈せしも大正十五
年度は県税遊興税附加税として徴収する事となり、県税雑種税遊興税を、賦課する期間其施行を停止したり。
而して遊興税附加税徴収義務者の組織したる組合にして、徴収成績良好のものに対し払込毎に徴収金の百分の四の割合
を以て奨励金を交付するの規程を設けたり。
◇特別市税観覧税 大正八年八月第四十七号議決を以て遊興税と同時に創設し、現今に至れり。
◇戸数割家屋税 戸数割は生活分限税にして、家屋税は収益税又は物件税なり。戸数割は明治十一年太政官布
告第十九号地方税規則に端を発し、仝十三年廃止、更に仝年太政官布告第十七号を起し、最近に至る。其賦課方法区区な
りしを以て、大正十年十月勅令第四百二十二号を以て之を統一せり。家屋税は明治十五年郡区部会規則を以て、始めて市
部に之を認むるの端を発し、明治二十一年大蔵省告示第九十五号、及び明治三十三年法律第三十号府県税並に明治三十二
年勅令第二百七十六号に依り、幾多の変遷を経過して、大正十年勅令第四百二十二号を以て統一の制度を設けられたり。
豊橋市は元豊橋町時代に於て従来戸数割制度なりしを明治三十年四月家屋税制度に更改せり県税は明治三十五年四月始め
て家屋税制度を採用し家屋税を賦課するに至れり。
市制施行当時は元豊橋市賦課個数四十七万八千八百九十九個此現在戸数七千八百五十七戸、元花田村一千三百四十八戸
元豊岡村六百九十五戸、合計戸数九千九百戸、人口三万七千六百三十五人にして、元花田村元豊岡村は、戸数割制度なり
しを明治四十年四月家屋税制度に統一せり。大正六年一月県令第九号県税賦課規則を制定し現今に至れり。
◇賦金 明治七年太政官布告第七号を以て僕婢、馬車、人車等諸税の歩増並に劇場、芸妓等諸税の各府県限り
収入せるものは自今賦金と唱ふべしとて、此の時始めて賦金の制度を創設せり。明治二十一年八月閣令第十二号を以て、
―第七章 市の経済及税務 一三五
―第七章 市の経済及税務 一三六
貸座敷引手茶屋娼妓の賦金は、府県知事に於て適宜に之を賦課し、地方税雑収入に編入することになり、明治三十年十二
月県訓令第八十六号を以て、賦金徴収取扱手続を定め、明治三十三年引手茶屋を廃し、明治四十三年八月県令第五十五号
を以て、豊橋市内賦金徴収規則を定む。当時市内上伝馬に二十九軒、札木に二十四軒の貸座敷営業者を有せしに、明治四
十三年九月現吾妻遊廓に移転せり。当時上伝馬より貸座敷十一軒札木より、二軒転住、新規開業者六軒計十九軒にして、
其の娼妓数八十八人なりしに、現在貸座敷五十六軒此の娼妓数三百八十一人に増加せり。其の後大正九年二月県令第五百
二十四号を以て、旧則を廃止し現行の賦金徴収規則を制定せり。而して賦金徴収方法に付ては、明治九年より貸座敷組合
事務所に於て、各納税義務者より徴収をなし、取締役、管理人或は惣代等の名称の下に、本税完納の風を存せしが、之れ
則ち現時の所謂納税組合の端緒にして、現時遊廓賦金納税組合に組織を改め、古来の美風を存続せり。
△使用料及手数料の沿革
◇手数料条例 明治四十年二月第十五号議決を以て創設し、而して大正十年二月納税告知書並徴税令書の
再交付に対する手数料を追加し現今に至れり。
◇督促手数料条例 明治四十年二月第十六号議決を以て剣【創の誤植】設し其後数度の改正を経て現今に至れり。
◇市税賦課徴収規程 明治四十年二月第七十三号議決を以て創設し本税の改廃に伴ひ数度の改正を経て現今に至
れり。
◇授業料徴収規程 明治四十年第三十五号議決を以て創設し数度の改正を経て現今に至れり。
◇寄宿舎費徴収規程 本市立高等女学校寄宿舎舎費徴収規程は明治四十三年第三十八号議決を以て創設し数度の
改正を経て現今に至れり。
◇道路占用料規程 大正六年第三十一号議決を以て里道使用に関する規程を創設し大正十一年告示第三十二号
を以て道路法の改正に伴ひ旧規程を廃し現行法となれり。
◇火葬場使用料徴収条例 明治四十五年第三十六号議決を以て創設し大正九年第六号を以て改正し現今に至れり
◇墓地使用条例 大正七年第十六号議決を以て創設し仝年第八十号及第百一号の改正を経て現今に至れり。
◇市有土地及家屋貸与規程 明治四十二年第三号議決を以て創設し仝四十四年第百十五号の改正を経て現今に至
れり。
△市税及県税の賦課率
◇県税賦課率
年度 地租附加税 所得附加税 営業税附加税 売薬税附加税 取引所附加税 家屋税
厘 厘 厘 厘 厘 厘
明治三十九年 五一一、〇 ― 一〇〇、〇 ― ― 二七三、〇
明治四十年 五七三、三 ― 二〇〇、〇 ― ― 二七〇、〇
明治四十一年 五四九、〇 一〇〇、〇 二四六、〇 ― ― 二七五、〇
明治四十二年 四九二、〇 〇七五、〇 一八五、〇 ― ― 二八六、〇
明治四十三年 一二八、〇 〇四〇、〇 一一〇、〇 ― ― 二九九、〇
三一六、〇
明治四十四年 二一八、〇 〇四〇、〇 一一〇、〇 ― ― 三四七、〇
五三八、〇
大正元年 二八一、八 〇四〇、〇 一一〇、〇 ― ― 四六一、〇
六九三、八
―第七章 市の経済及税務 一三七
―第八章 教育 一四八
第八章 教育
一、本市の教育
吉田藩主松平信復聡明にして、広く古今の学に通じ賢を求め材を挙げ夙に興学の志あり、宝暦二年藩黌を創設して之に
時習館と命名し、老臣北原忠光に命じて時習館の文字を扁額に書せしめたり。次いで信明に至り大に文武を奨励し、藩学
の興隆に勉め藩校の規模を拡張し規律を改め、西岡善助を儒官とし教授職に任じ一藩の子弟を教養せしめ、其の晩年には
太田錦城を招致して教授とせり。
爾来中山弥助、西岡介蔵、山本忠佐、小野湖山、児島閑窓等相次ぎて教導の任に当り三百余の子弟はこゝに文武両道を
兼修して明治維新に及べり。
又一般平民は多く寺子屋家塾等に入りて学習せり。当時此等私学校は何人と雖も相当学力あるものは教導の任に当るこ
とを得、僧侶又は手習師匠等専ら之が教授の任に当れり。斯くて廃藩置県に際し一時藩学を廃止せるが故に、時の額田県
大参事木村成章は児島閑窓に嘱して成章義塾を創設せしめ、和漢洋及び一般普通学科を教授せしめたり。
明治五年学制頒布さるゝに及び学区を分ちて小学校を設け漸次其の数を増して八町学校、三町学校、関屋学校、吉屋学
校、魚町学校、旭学校等を数へしが、明治十四年上等小学豊橋学校の創立以来、屡々改廃ありて明治三十二年には高等
小学豊橋学校及東部西部の二尋常小学校となり、仝三十四年南部尋常小学校の創立により四ヶ校となりたり、中等教育
の為めには明治二十六年町立尋常中学時習館の創立を見、仝三十三年県立第四中学校となり、仝三十五年町立高等女学校
の開校を見、又仝三十九年に至り私立豊橋商業学校の設立あり、男女中等教育の機関漸く実現するに至れり、然るに市制
の実施に依り地域の拡大するあり、時運の推移に伴ふ市勢の発展又著しく小学校は漸次増加して九校となり、大正十二年
市立実業補習学校を設置し翌十三年市立商業学校の創立を見、実業教育の機関漸く備はるに至れり、裁縫技芸を修めんと
する女子の為めには明治三十五年私立豊橋裁縫女学校の設立あり、次いで松操裁縫女学校設立せられ最近又実践女学校の
実現を見、其他幼稚園、盲唖学校あり私立に属すれども設備略備はる、社会教育の方面にありては市立図書館、安藤動物
園を数ふべく、青年訓練所、青年団は各小学校の通学区域毎にこれを設け、其成績概ね良好なり、其他教育開係の団体尠
からず何れも事業の成績を挙げつゝあり。
本市の教育施設が最近二十年間に於て如何に変遷発達せしかは左表により教育費の漸増累加の状況を見て之を知るを得
べし。
◇教育費(経常部)一覧
年度 商業学校 高等女学校 小学校 補習学校 青年訓練所 図書館 学事諸費 計
明治四十年 ― 五、六八五 二五、〇二五 ― ― ― ― 三〇、七一〇
仝四十一年 ― 八、八二三 三二、〇九八 ― ― ― ― 四〇、九二三
仝四十二年 ― 八、一三九 三五、一三二 ― ― ― ― 四三、二七一
仝四十三年 ― 八、七二四 三九、二七五 ― ― ― ― 四七、九九九
仝四十四年 ― 九、一九二 四五、六七八 ― ― 三、〇九六 ― 五七、九六四
大正元年 ― 八、九八四 四七、三一九 ― ― 一、二三五 ― 五七、五三七
仝 二年 ― 八、七二四 四六、七五八 ― ― 一、二六九 ― 五六、七五一
―第八章 教育 一四九
―第八章 教育 一五〇
仝三年 ― 八、二九五 四一、一九二 ― ― 九五三 ― 五〇、四四〇
仝四年 ― 八、五三〇 四二、八二六 ― ― 一、〇一七 一一三 五二、四八六
仝五年 ― 八、一八八 四五、八八九 ― ― 八六六 八一 五五、〇二四
仝六年 ― 八、三三九 四七、八一五 ― ― 八三九 二七一 五七、一六四
仝七年 ― 一〇、四三九 六〇、五〇六 ― ― 八〇五 一、三一五 七三、〇六五
仝八年 ― 一〇、八八八 六五、五二六 ― ― 一、〇二一 三一、七五七 一〇九、一九二
仝九年 ― 一九、九三六 一三〇、二一三 ― ― 一、六九〇 三、〇八七 一五四、九二六
仝十年 ― 二四、六〇七 一四五、三九一 ― ― 一、九一九 五、二六六 一七七、一八三
仝十一年 二、五七〇 二九、七三六 一五八、五九〇 ― ― 二、一七六 七、六七一 二〇〇、七四三
仝十二年 一五、六六〇 三九、八六五 一七六、二四六 六、一九八 ― 四、三〇四 六、九八〇 二四九、二五三
仝十三年 二〇、七七三 四五、一三二 一八五、五八五 一一、七八二 ― 四、六五八 七、四四六 二七五、三七六
仝十四年 三二、五七五 五二、六三三 一九四、四五〇 一三、七二一 ― 五、〇八一 八、二八四 三〇六、七四四
仝十五年 四二、三〇一 四九、三一二 一九五、四三九 一〇、四九八 六、四九四 五、〇四六 七、三三一 三一六、四二一
◇教育補助費(臨時部所属)一覧
年度 盲唖学校 水練会 教育会 幼稚園 商業学校 製糸 動物園 少年野 青年団 合計
夜学校 球協会 (指導)
明治三十九年 三〇 一〇〇 ― ― ― ― ― ― ― 一三〇
仝四十年 一〇〇 一五〇 ― ― ― ― ― ― ― 二五〇
仝四十一年 一〇〇 一五〇 一六〇 ― ― ― ― ― ― 四一〇
仝四十二年 一〇〇 一二〇 一六〇 ― ― ― ― ― ― 三八〇
仝四十三年 二〇〇 一二〇 一六〇 一〇〇 ― ― ― ― ― 五八〇
仝四十四年 二五〇 二〇〇 二〇〇 一五〇 ― ― ― ― ― 八〇〇
大正元年 二五〇 二〇〇 七〇〇 一五〇 ― ― ― ― ― 一、三〇〇
仝二年 二五〇 二〇〇 二〇〇 一五〇 三〇〇 ― ― ― ― 一、一〇〇
仝三年 二五〇 一六〇 一六〇 一五〇 三〇〇 一〇〇 ― ― ― 一、一二〇
仝四年 二五〇 二〇〇 一六〇 一五〇 三〇〇 一〇〇 ― ― ― 一、一六〇
仝五年 二五〇 二〇〇 一六〇 一五〇 三〇〇 一〇〇 ― ― ― 一、一六〇
仝六年 二五〇 二〇〇 一六〇 一五〇 三〇〇 一〇〇 ― ― ― 一、一六〇
仝七年 二五〇 二〇〇 一〇〇 一五〇 三〇〇 一〇〇 ― ― ― 一、一〇〇
仝八年 三〇〇 二五〇 一〇〇 二〇〇 三〇〇 一〇〇 ― ― ― 一、二五〇
仝九年 四〇〇 三〇〇 一五〇 二五〇 四〇〇 一五〇 ― ― ― 一、六五〇
仝十年 四〇〇 三〇〇 一五〇 二五〇 四〇〇 一五〇 五〇〇 ― 一、三四六 三、四九六
仝十一年 四〇〇 三〇〇 四〇〇 二五〇 四〇〇 一五〇 五〇〇 一五〇 七四一 三、二九一
仝十二年 五〇〇 三〇〇 六五〇 二五〇 四〇〇 一五〇 五〇〇 一五〇 五〇〇 三、四〇〇
仝十三年 八〇〇 三〇〇 九〇〇 三〇〇 四〇〇 一五〇 五〇〇 一五〇 五〇〇 四、〇〇〇
仝十四年 八〇〇 三〇〇 一、一五〇 三五〇 四〇〇 一五〇 五〇〇 一五〇 八〇〇 三、六〇〇
仝十五年 一、〇〇〇 三〇〇 一、一五〇 五〇〇 四〇〇 一五〇 五〇〇 一五〇 八〇〇 四、九五〇
二、小学校
◇学制の実施 明治五年八月頒布の学制は我が教育制度の全体に亘る包括的の規程にして全国を分ちて八大学区とし
毎区に大学校一ヶ所を置き一大学区を分ちて、三十二中学区とし毎区に中学校一ヶ所を置き、一中学区を更に二百十小学
区に分ち毎区に小学校一ヶ所を置く事に定め、小学校は当時人口六百に対し一校を置き、中学校は人口十三万に対し一校
なりしを以て本県に在りては翌六年県下を十中学区に区ち、宝飯、渥美の両郡を以て第十中学区となし、更に之を二百十
小学区に分ち小学校の建設を督励したるを以て続々其実現を見るに至れり。斯くて学制の実施と共に旧藩県以来の諸学校
―第八章 教育 一五一
―第八章 教育 一五二
は廃止せられたり。而して小学校は上下二等とし、各等を八級に分ち下等八級より上等一級に至る毎級の期間を六ヶ月と
し、小学校教則を発布して学科の配当、教科用書、教授方法等を示し、政府はこれが督励に努めたれども画一的の実施は
頗る困難にして其後数年を経るも全国を通じ小学校設置の数は予定の半数にも充たざりしを以て、明治十二年九月学制を
廃し教育令の発布を見るに至れり。
◇教育令の実施 教育令にありては、学校の種類を分ちて小学校、中学校、大学校、師範学校、専門学校其他の各
種学校とし、小学校は毎町村或は数町村聯合し公立として設置し或は私立学校を以て之れに代用し得ることを許し、六才
より十四才までを学齢とし、学齢間少くも十六ヶ月は義務として普通教育を受くべきを規定せるも学制に比すれば頗る寛
大にして自由主義のものなりしを以て国家教育の頽勢を生ずるに至れり。依つて翌十三年十二月再び教育令を改正し、学
校の設置、廃止の取締を厳にし小学校の学期を三ヶ年以上八ヶ年以下とし、授業日数を毎年三十二週間以上、授業時間を
一日三時間以上六時間以下とし小学校三ヶ年の課程を終らざる間は毎年十六週以上の就学を強要し就学督励規則を定め厳
に之を励行せり。明治十四年四月調の渥美郡学区表によれば郡内を五十八区に分ち、七十三校を設置せり。本市関係区域
の分左の如し。
学区 町村 校名 所在地 創立年月
第一区 八町、宮下町、袋町、川毛町、八幡 八町学校 八町 明治六年十月
町、東町、土手町、関屋町、上伝馬
町、松葉町、萱町、指笠町、三浦町
本町、花園町、新銭町、神明町、清
水町、紺屋町、札木町、呉服町、曲尺
手町、鍜治町、下町、吉屋町、手間町
第二区 湊町、船町 三町学校 湊町 仝十二年十二月
第三区 魚町 魚町学校 魚町 仝十三年一月
第四区 豊橋村 旭学校 豊橋村 仝上
第八区 花田村 幡田学校 花田村 仝六年十月
花ヶ崎学校 仝上 仝十二年四月
第九区 東田村(瓦町を除く) 二連木学校 東田村 仝十一年五月
第十区 岩田村 岩田学校 岩田村 仝六年十月
第十一区 三ノ輪村(佐藤瓦町入ル) 三ノ輪学校 三ノ輪村 仝上
第十二区 飯町(高師原入ル) 飯村学校 飯村 仝十二年六月
右表中関屋学校吉屋学校の名称を存せざるは時々変更ありしによるなるべし
明治十四年五月「小学校教則綱領」の発行あり、小学科を分ちて初等、中等、高等の三等とし学期は初等科中等科を各
三ヶ年とし高等科を二ヶ年とし通じて八ヶ年とし、土地の情況により伸縮するを得れども初等科は三ヶ年を下るを得ず各
科通じて八ヶ年を超ゆるを得ざるものとせり。明治十五六年の頃は米価最も低落し農民の生活を脅し仝十八年に至り不景
気其極に達せしかば、教育費の節減を企つるに至り就学督励規則の励行によりて漸く就学児童の減少を防止せるが如き状
況なりしが時恰も政府は官制の大改革を行ひ、各省の卿を廃して新たに大臣を置き森有礼氏文部大臣に任し、教育制度の
一大刷新を企て、仝十九年三月「帝国大学令」を発布し、翌年更に「師範学校令」「小学校令」及諸学校通則を発布し、
諸学校は小学校令を基本として秩序整然たる系統を成すに至れり。
◇小学校令実施 此規程によれば小学校、中学校、師範学校は何れも尋常高等の二級に分れ、高等小学校の卒業者
は尋常中学校に尋常中学の卒業者は高等中学校へ高等中学校の卒業者は更に大学に進学し又高等小学校の卒業者は尋常師
範学校へ尋常師範学校の卒業者は高等師範学校へ進む直系傍系の二大系統を明かにし、加之諸学校令に聯関して教員免許、
―第八章 教育 一五三
―第八章 教育 一五四
教科用図書の検定供給其他の諸規則に一大改正を行ひ我が国の教育制度は全くこゝに面目を一新するに至れり。
新学校令実施の為めには学区の地域を拡大して、学校の規模を大にし多数の児童を収容して教育の統一を図るの必要を
生じたるにより、二十年四月の新令実施に先ち郡内学区の整理を行ひ校数を約三分ノ一に減じ二十一学区二十一校とせり
本市関係地域の分を挙ぐれば左の如し。
学区 学校位置 区 学校名
第一区 (追テ指定スルマテ当分旧 八町、船町、湊町、魚町、本町、札木町、呉服町、関 豊橋学校
ニ依ル) 屋町、曲尺手町、鍜治町、下町、松葉町、萱町、指笠
町、三浦町、花園町、新銭町、清水町、神明町、手間
町、紺屋町、吉屋町、上伝馬町、豊橋村
第二区 東豊田村 花田村、東豊田村 三吉野学校
第五区 岩田村 岩田村、東田村、瓦町村、三ノ輪村、岩崎村、飯村 岩田学校
右は二十年三月の県令に依るものにして従来の五十八区七十余校を一躍二十一校に減少せる結果は通学距離の遠隔、道路
の難易、習慣の相違等新学区に対する非難続出せり。
高等小学校は之を郡立とし、二十年四月より渥美郡立高等小学校を豊橋市に設立し授業を開始せるが、翌二十一年四月
之を渥美郡第一高等小学校と改称し田原町に仝第二高等小学校を増設し郡内の生徒を両学校に収容せり。
◇小学校令の改正 明治二十二年十月より自治制の実施せらるゝあり、小学校令及其関係法規に一大改正の必要を生
じ明治二十三年十月勅令第二百十五号を以て新たに小学校令を公布し従来の小学校令を廃止せり。旧令によれば小学校の
経費は児童の授業科及寄附金を以て弁ずるものとして、若し之を支弁し能はざる場合に於ては区町村の議決を以て区町村
費より其不足を補ふことを得しめ、又土地の情況に依りては区町村費を以て小学簡易科を設け尋常小学校に代用し得る規
定なりしが、新小学校令に於ては市町村は学齢児童を就学せしむるに足るべき尋常小学校を設置し、其の経費は市町村の
負担たるべきことを規定せられ町村内に於ける尋常小学校の校数位置は郡長の権能に依り定めらるゝ事となりたり。
明治二十三年三月郡立高等小学校を廃止し豊橋町立高等小学校の設置を見、仝年六月開校修業年限を三ヶ年に改めた
り。尋常小学校は自治制実施後に於ても渥美郡元船町外二十三ヶ町村聯合第一尋常小学校区を以て尋常小学豊橋学校を存
続し、郡長を管理者とし経費は聯合会の議決により町村の分割負担とせり。
改正小学校令の実施に当りては何れの町村に在りても夫々教育是の樹立を必要とせしにより豊橋町に在りては二十五年
三月町会の議決により臨時委員五名を挙げ計画施設を担任せしむる事となし仝年八月町立高等小学校設立の認可を得、尋
常小学校に就きては従来の聯合学校を廃止し町の独立を以て三校を設置し位置を大字八町に二校、湊町に一校と定め豊橋
町立第一(第二)(第三)尋常小学校と称し明治二十六年四月より之を実施せり、尚仝時に豊橋村学齢児童教育事務の委託
を受くることゝなりたるも校舎の余裕なかりしに依り、豊橋村字旭町に一校を設置しこれを第四尋常小学校と称せり。其
頃の情況を示せば左の如し。
◇学齢児童 (明治二十八年十二月現在)
種別 男児 女児 計 種別 男児 女児 計
尋常小学卒業者 六七四 五〇三 一、一七七 未就学ノ者 二八五 四〇〇 六八五
尋常小学在学ノ者 七二五 六四三 一、三六八 合計 五四〇 七三五 一、二七五
合計 一、三九九 一、一四六 二、五四五 人 人 人
不就学ノ者 二五五 三三五 五九〇 就学歩合 七二、一五 六〇、九六 六六、六二
―第八章 教育 一五五
―第八章 教育 一五六
◇小学校一覧 (明治二十八年十二月現在)
校名 豊橋町町立高等小学校 豊橋町町立 仝第二尋常小学校 仝第三尋常小学校 仝第四尋常小学校
第一尋常小学校
位置 豊橋町大字八町 豊橋町大字八町 仝 大字八町 仝 大字船町 仝 大字旭町
創立年月日 明治廿三年六月十五日 明治廿六年四月廿日 明治二十六年 明治廿六年 明治廿六年
四月廿日 四月廿日 四月廿日
一、設置区域 町一円 船町、湊町、上伝馬町、 仝上 船町、湊町、松葉 西新町、東新町、
関屋、本町、松葉町、萱 町、上伝馬町 旭町、飽海町、中
町、指笠町、三浦町、花 世古町、談合町、
園町、清水町、魚町、札 餌指町
木町、呉服町、八町、吉
屋町、紺屋町、曲尺手町
鍜冶町、下町、中世古町
談合町、手間町、神明町
坪 坪 坪 坪 坪
校地坪数 七五〇 六七四 四三〇 一三三 四〇〇
校舎坪数 三五六 三二四 一七〇 八二 一一二
建築年月日 明治十四年十月 明治廿四年五月 明治廿四年五月 明治廿五年二月 明治廿五年三月
仝廿六年五月
教室数 七 一一 六 三 五
体操場坪数 三〇〇 三二〇 二八〇 四〇 二〇〇
学級数 七 一一 六 三 五
児童数 男 一八七 三〇一 一七八 一二七 一二一
女 九九 三一五 一五八 八〇 一五〇
教員数 正教員七 准教員一 正教員九 准教員三 正教員 四 正教員 二 正教員 三
専科 一 嘱託 一 准教員 三 准教員 一 准教員 三
修業年限 三ヶ年 四ヶ年 四ヶ年 四ヶ年 四ヶ年
授業料 三〇銭、四〇銭、五〇銭 七銭 七銭 七銭 七銭
明治二十八年二月豊橋町と豊橋村との合併成り、二十九年一月町立第二尋常小学校の位置を大字東八町に、第三尋常小
学校の位置を大字松葉に移し其分教場を大字湊町に置く事に改め、仝年度に両校新築移転を実施せり、三十二年四月第二
尋常小学校を東部尋常小学校、第三尋常小学校を西部尋常小学校と改称し第一、第四両校を廃止し、三十四年四月南部の
尋常小学校を大字新川町に新設し東部西部両小学校の通学区域を変更し児童を分割収容せり。
明治三十九年八月一日市制実施の結果四十二年二月二十八日を以て全部一旦廃校となり、翌三月一日を以て之を復活し
之を八町高等小学校、八町尋常小学校、松葉尋常小学校、新川尋常小学校と改称し、同時に旧花田村に属せし花田尋常小
学校、豊岡村に属せし岩田尋常高等小学校、東田尋常小学校を加へ七校となれり。
然るに明治四十一年第十五師団の設置以来頓に市勢の発展膨脹を見、従つて就学児童も著しく増加し、何れも校舎の狭
隘を告ぐるに際し、義務教育年限の延長ありたるを以て、遂に一校増築に決し四十二年三月狭間尋常小学校を設置し、又
遊廓移転等に依る児童の激増せる東田校の増築を行ひ、仝四十四年花田校の移転を行へり。
然るに其后児童増加し殊に西南部の発展著しかりしを以て、仝四十五年三月松山尋常小学校を新設し、狭間小学校に属
せし児童を分割収容せり。
斯くて二校増設の結果稍小康を見たれども松葉小学校は校地狭隘校舎腐朽して其用に堪えざるを以て、大正十年十二月
現在の地に移転改築せり。
大正十三年一月八町高等小学校の移転に着手し仝年十月一部の竣工と共に之れに移転し豊橋高等小学校と改称せり。
其後本市の就学児童は人口の増加に伴ひ逐年其数を増し、従つて校舎の不足は其増築を促したるにより、各校に対する
増築の外新に一校を増設すべく大正十四年度より仝二十年度に至る七ヶ年継続事業として五十一万参百十一円の予算を以
―第八章 教育 一五七
―第八章 教育 一五八
て之を実施するに決せり。仍つて大正十四年度事業として東田、狭間、八町、花田、松葉の各校拡張敷地の買収を了し、
岩田校敷地の寄付を採納し、これに属する地上物件の移転及整地の一部を終へ、又岩田校の使丁室並に八町校の便所移転
改築、新川校の校舎三棟の大修繕を竣工し十五年度に於て、岩田、狭間、花田各校の校舎増築、松葉の整地を了へ予定計
画の遂行中にあり。
◇小学校一覧 (大正十五年四月末現在)
【上段】
校名 学級数 教員数 児童数 校長氏名
豊橋高等小学校 二二 二五 一、二一一 伊与田次郎作
岩田尋常高等小学校 一二 一五 五七八 加藤松治
東田尋常小学校 一二 一四 七二四 田中幸市
八町尋常小学校 二四 二六 一、三一七 森谷広三郎
松葉尋常小学校 二四 二六 一、四〇二 夏目秀治
【下段】
校名 学級数 教員数 児童数 校長氏名
花田尋常小学校 一九 二一 一、二一六 鈴木淳平
狹間尋常小学校 二三 二四 一、二三一 伊藤精一
松山尋常小学校 一八 二〇 一、〇七二 池田京平
新川尋常小学校 二五 二七 一、六二八 荻野清次
合計 一七九 一九八 一〇、三七九 九人
◇学齢児童就学状況
【上段】
年次 学齢 就学 不就学 就学歩合
児童数 児童数 児童数
明治三十九年度 五、八〇二 五、七七七 二五 九九、七六
仝 四十年度 六、二〇五 六、一八二 二三 九九、九一
仝 四十一年度 七、〇〇三 六、九七五 二八 九九、六一
仝 四十二年度 六、四一七 六、三八四 三三 九九、四九
仝 四十三年度 六、〇五四 六、〇一七 三七 九九、二六
仝 四十四年度 六、九〇九 六、六九二 二一七 九六、九一
大正元年度 七、一一一 六、九二八 一八九 九七、一二
仝 二年度 七、二六六 七、〇三四 二三二 九六、八一
【下段】
年次 学齢 就学 不就学 就学歩合
児童数 児童数 児童数
仝 三年度 七、三一五 七、〇五六 二五九 九六、四六
仝 四年度 七、五一三 七、二九四 二一九 九七、〇六
仝 五年度 七、七二四 七、五八九 一三五 九八、二三
仝 六年度 八、三八三 八、二七〇 一一三 九八、六五
仝 七年度 八、八一四 八、六八五 一二九 九八、〇三
仝 八年度 九、三三三 九、二一三 一二〇 九八、七一
仝 九年度 九、七三三 九、五九七 一三六 九八、六四
仝 十年度 一〇、二五八 一〇、一四三 一一五 九八、八八
【上段】
仝 十一年度 一〇、七一九 一〇、六三七 八二 九九、二三
仝 十二年度 一〇、九九八 一〇、九二六 七二 九九、三五
仝 十三年度 一一、三九六 一一、二八六 一一〇 九九、〇三
【下段】
仝 十四年度 一一、五六〇 一一、四九四 六六 九九、五二
仝 十五年度 一二、二四〇 一二、一六〇 八〇 九九、三五
◇小学校児童数累一年覧表
年度 尋常小学校 高等小学校
学級 教員 児童数 学級 教員 児童数
男 女 計 男 女 計
明治三十九年度 四八 五三 一、二七七 一、二六九 二、五四六 二七 三四 八〇一 五一四 一、三一五
仝 四十年度 五五 六一 一、四一五 一、四五〇 二、八六五 二八 三五 八二九 五四九 一、三七八
仝 四十一年度 六六 七三 一、九一〇 一、八五八 三、七六八 二〇 二五 五三七 三六八 九〇五
仝 四十二年度 九七 一〇五 二、八七九 二、七九一 五、六七〇 一四 二〇 三一〇 二一七 五二七
仝 四十三年度 九三 九八 二、五八九 二、五七八 五、一六七 一二 二一 二九五 二五〇 五四五
仝 四十四年度 九四 一〇七 二、七七四 二、八〇〇 五、五七四 一四 二二 三〇九 二九四 六〇三
仝 四十五年度 一〇四 一一四 二、八一五 二、七九一 五、六〇六 一四 二四 三三〇 二六五 五九五
大正二年度 一〇八 一一九 二、八三二 二、八四二 五、六七二 一四 二五 三四三 二六一 六〇四
仝 三年度 九九 一〇七 二、八六三 二、七五九 五、六二二 一四 二三 四〇二 二九一 六九三
仝 四年度 一〇一 一〇九 三、一四八 二、八一五 五、九六三 一四 二三 四〇四 二九〇 六九四
仝 五年度 一〇七 一一四 三、二二一 二、九八四 六、二〇五 一四 二三 四一六 三一七 七三三
仝 六年度 一一五 一二三 三、四六九 三、二一七 六、六八六 一四 二三 四四九 二八九 七三八
仝 七年度 一一九 一二八 三、六三二 三、三七五 七、〇〇七 一四 二二 四三一 二九一 七二二
仝 八年度 一一九 一二五 三、八二〇 三、五一三 七、三三三 一四 二一 五〇二 三〇七 八〇九
仝 九年度 一二三 一二九 三、九三八 三、七二七 七、六六五 一五 二三 六〇二 三五九 九六一
仝 十年度 一三一 一三九 四、一〇二 三、九七三 八、〇七五 一八 二六 七二四 三九九 一、一二三
仝 十一年度 一三六 一四五 四、一九四 四、一四一 八、三三五 二一 二九 七九六 四〇六 一、二〇二
―第八章 教育 一五九
法定調伝染病としては赤痢、腸室扶斯、パラチフス、ジフテリアの患者最も多く、明治四十一年に痘瘡患者二十名を出し、大正六年に「ペスト」患者五名を出したるは稀有の事なるが、特に黒疫の発生は市民を戦慄せしめたるものなり、当時の状況を摘記すれば左の如し。
―第十四章 交通運輸通信 三一四
第十四章 交通運輸通信
一、道路
△国道及県道
本市を通ずる国県道に就いて之を検すれば、国道第一号線市を東西に貫き仝三十号線市内大手線によりて高師村に通じ
県道に在りては牟呂吉田村に通ずるもの及下川村に通ずるものあり。
◇国道第一号線 旧東海道線にして隣接地渥美郡二川町境界より本市内に入り、古松天に聳へ人家稀薄なる飯村町
三ノ輪町を経て瓦町に出で、坂を下りて東新町西新町を過ぎ、茲に屈折して下町、鍜冶町、曲尺手町等を経て南折し、直
に西折して呉服町に至り、大手線を横断して札木町に出で、本町を過ぎ北折して上伝馬に至り、坂を下りて更に西折し、
湊町に至り茲に北折して船町に入り、豊橋を渡りて宝飯郡下地町に通ず、此の延長、三千九百八十九間、幅員平均三間を
有す。
◇国道第三十号線 札木町呉服町の角より南進して、隣接地渥美郡高師村福岡に至る所謂大手線にして、此の延長七
百六十九間余、幅員六間余を有す。
◇国道特四号線 国道三十号線中花田町字東郷地内より分岐して高師村境界に至る延長十五間(内橋梁五間)の路
線あり浜街道に通するものなり。
◇県道豊橋本郷線(元別所街道) 西新町より旭町、東田町西脇を経て隣接地八名郡下川村牛川に至るものにし
て、此の延長五百十間、幅員平均二間を有す。
◇県道田原豊橋停車場線(新停車場線) 神明町豊明館前より
豊橋停車場に至るものにして、此延長三百七十八間、幅員六間余を有
す。
◇県道豊橋停車場線 上伝馬町元陳列館前より豊橋停車場に至る
ものにして、此の延長三百三十間、幅員平均三間を有す。
◇県道豊橋牟呂港線 県道豊橋停車場線松葉より分岐し、城海津
省線踏切を経て、牟呂港に至るものにして、此の延長七百九十七間幅員
平均一間五分を有す。
△市道
現在に於ける本市市道の総延長は十四万九千壱百四拾壱間七分七厘(
大正十四年末調)なるが、今其の内重なるものを挙ぐれば次の如し。
◇八町線 西八町の西端に起り、中八町東八町を経て東田遊
廓に至るものにして、此の延長千九百十間、幅員平均四間五分を有す。
◇魚町線 国道大手線より分れ魚町指笠町及び萱町線を経て、松葉町に至り、県道豊橋停車場線と交叉し、船
【図の説明】国道(飯村附近)
―第十四章 交通運輸通信 三一五
―第十四章 交通運輸通信 三一六
町線に至る。此の延長四百九間四厘、幅員平均四間を有す。
◇萱町線 国道上伝馬町元陳列館前より起り花田町稗田を経て、牟呂用水路を渡り高師村に至る。此の延長八
百参拾七間四分、幅員四間を有し、本線は大手線と共に高師兵営に通ずる重要道路なり。
◇大山塚羽根井線 萱町線より起り省線大山塚踏切より牟呂吉田村に至る。此の延長六百九十六間四分、幅員四間五
分乃至三間を有す。
◇船町線 国道船町地内より分れ、豊橋駅に至るものにして、此の延長四百弐拾壱間、幅員四間を有す。
◇関屋線 国道札木線より分れ、関屋豊川河岸に至るものにして、此の延長弐百四拾間、幅員三間乃至四間
を有す。
◇花園中柴線 国道札木町より分れ、魚町を経て、新銭町に於て、新停車場通を越へ、新川町中柴町を経て高師村
に至る。延長七百八拾九間、幅員二間一分余を有す。
◇八町中世古線 八町線東八町十字路より分れ、曲尺手町に於て国道を越え、中世古を経て向山工兵隊に至るものに
して、延長六百八拾三間、幅員四間乃至弐間を有す。
◇向山工兵隊線 萱町線中花田町東郷より起り、向山工兵隊に至るものにして、此の延長三百六十間、幅員三間を有
す。
◇飯村射撃場線 国道東海道の南部飯村町より分れ、陸軍射撃場に至る道路にして、此の延長四百二十三間、幅員四
間を有す。
◇陸軍墓地東南線 延長五十間幅員平均一間八分(陸軍省にて開鑿明治四十二年四月市道に編入)仝東方線延長十間
幅員二間(仝上明治四十二年九月市道に編入)
◇飯村射撃場西南線 延長四百五十四間幅員二間(陸軍省開鑿四十二年九月市道に編入)
△市区改正並に街衢の改修
本市はもと東海道の主要駅にして古来旅客の往来頻繁なりしも、道路は概ね狭隘にして、車馬の交通に適せざるのみなら
ず第十五師団設置以来急激なる発達をなし、本市及附近の人口増加及産業の発達頓に加はり、旅客の交通貨物の集散益々
繁劇の度を加へ、随て交通機関の整備改善を要すること急なるに至れり、茲に於て旧幕時代より市内の中枢部なる札木、
上伝馬両町に存在せし遊廓を東郊東田の地に移転すると同時に第一期線第二期線の道路開鑿を決定し総工費二十八万円の
内二十四万九千五百円を市債に求め、四十三年より向三ヶ年の継続事業として第一期工事に着手し大手線、新停車場線、
八町線、萱町線、船町線等の改修を遂げ引き続き第二期線工事として着手したるが大正七年大手線竣工大正十一年萱町線先
の竣工を以て之が完成を遂げたり。其後随時土木事業を起し街衢の改良を計れるもの大小六十余線に達せり。尚最近に至
りては市民が道路拡張の必要を自覚せる結果、工費を寄附し或は敷地を提供するもの漸次増加せしにより其趣勢に乗じて
改修に着手し既に竣工せるもの尠からず、未成功のもの及計画中のものを合すば三十余線に達すべし、斯くて本市の道路
は逐年改善を見つゝあるも此等は皆所謂都市計画の補助線に属するものなり。
主要路線の開鑿
◇八町線 東八町の東端八幡社前より東田遊廓に至るものにして、明治四十三年二月起工、仝年十二月竣功せ
るものなり、延長約千四百間、幅員四間五分あり。工費約二万五千円にして、東田坂上まで七百八十七間七分、夫よ
―第十四章 交通運輸通信 三一七
―第十四章 交通運輸通信 三一八
り遊廓に至るまで六百十間余あり。
◇大手線 呉服町、札木町の角より南方柳生橋に至るものにして、明治四十三年四月起工、仝四十四年三月竣
功せるものなり。延長七百六十九間、幅員七間にして、工費約六万八千二百円を要せり。
◇新停車場線 神明町豊明館前より西に向ひ西宿停車場に至るものにして、明治四十三年九月起工し、仝四十五年
五月竣功せり。延長三百七十八間、幅員七間、工費約五万七千四十円なり。
◇牟呂吉田線 船町の国道より分岐して牟呂吉田村東豊田に至るものにして、明治四十四年三月起工、仝年八月竣
功せり。延長二百六十五間、幅員三間にして、工費四千三百七十余円なり。
◇瓦町線 瓦町国道分岐点より遊廓に至るものにして、明治四十四年十二月起工、仝四十五年三月竣功せり。
延長五百六十二間、幅員四間なり。
◇上伝馬線 上伝馬坂上より湊町に至る国道改修にして、明治四十五年六月起工、大正六年十月竣功せり、工費
約九千円、其の延長百三十六間、勾配を減じ、幅員を三間以上拡張せり。
◇萱町線 上伝馬町元陳列館前より、花田字稗田の牟呂用水路に至るものにして、大正三年三月起工、仝年九
月竣功せり。工費三万一千七百九十五円にして、延長三百五十四間余、幅員四間なり。
◇船町線 船町より停車場に至るものにして、大正四年一月起工、仝年六月竣功せり。工費三万六千五百八十
五円延長四百二十一間、幅員四間なり。
◇大手線 呉服町及び、札木町の角より八町通に至る間、延長三十三間七分にして、幅員約二間を拡張せり。
工費は八百十五円にして、大正七年一月起工、仝年二月竣功せるものなり。
◇萱町先線 御大典記念前田耕地整理組合に於て施行に係る。萱町線の終端より起り、高師村大字福岡に於て国
道大手線に達す、延長百間、幅員四間にして、工費一万七千五百拾六円を以て、大正十一年三月起工、仝年七月竣功
せり。
臨時施工の路線
前記第一期第二期以外の臨時工事を挙ぐれば次の如し。
◇向山台線 延長四十間七分、幅員一間此の工費金三十四円三銭、明治四十一年十二月二十三日工事施行許可、
仝四十二年二月二十日竣功。
◇船服部線 延長四十三間二分、幅員一間三分余。此の工費金十一円二十二銭五厘。明治四十二年三月十六日工
事施行許可。仝年四月六日竣功。
◇花田絹田守下南島線 延長二百五十四間二分、幅員八尺此の工費金二百七円四十二銭六厘、明治四十二年三月三
十一日工事施行許可、仝年五月三十一日竣功。
◇花田石塚線 延長五十二間七分、幅員三間此工費金四十五円八十一銭五厘、明治四十二年九月十三日工事施行許
可、仝年十月五日竣功、
◇新川市南線 延長四十七間、幅員平均一間四分余、此の工費金弐拾六円。明治四十三年三月四日工事施行許可、
仝年三月十八日竣功。
◇瓦町南裏線 延長二百一間三分、幅員二間五分。此の工費金三百七十四円九十七銭、明治四十三年三月二十九日
―第十四章 交通運輸通信 三一九
―第十四章 交通運輸通信 三二〇
工事施行許可、仝年四月二十五日竣功。
◇瓦町南裏東田南蓮田線 延長六十間、幅員二間此の工費金十六円七十銭、明治四十三年九月十五日工事施行許可、
仝年十月二十七日竣功。
◇花田白川町線 延長七十三間、幅員二間、此の工費金一円、明治四十三年九月十五日工事施行許可、仝年十月二十
七日竣功。
◇花田稗田線 延長六十二間四分、幅員一間三分余此の工費金二十九円三十銭八厘、明治四十三年九月十五日工事
施行認可。仝年十月二十七日竣功。
◇行啓御道筋 明治四十三年三月十一日皇太子殿下軍隊御巡視の為め、第十五師団へ行啓仰出され、本市は各隊へ
通ずる御順路の急施工事をなし、日数切迫の為め、昼夜の別なく工事を続行し、工費総額六千四百四十八円六銭を以
て、予定の期間に於て左の通り竣功せり。
一、松葉停車場通り分岐、田原街道に至る。 延長百六十五間、幅員二間
二、中学校前橋梁より八十九号橋梁に至る。 延百八十五間、幅員一間五分。
三、大手線紺屋町より龍拈寺前に至る。 延長百五十五間、幅員一間五分。
四、大手線札木町角より手間町に至る。 延長百間、幅員二間。
五、龍拈寺前より八十九号橋梁に至る。 延長七十間、幅員一間五分。
六、八十九号橋梁より工兵隊正門に至る。 延長四百四十間、幅員一間五分
七、牟呂用水路橋梁架設。 延長四間、幅員参間
◇旭町線 延長四十二間五分幅員五分、延長五十一間三分幅員一間五分、此工費金弐百七円七十二銭八厘、明治
四年一月十四日工事施行許可、仝年六月三十日竣功。
◇中世古東田舟原線 延長六十間五分、幅員二間、此工費金二百九十六円、明治四十四年三月二十四日工事施行許可、
仝年三月二十七日竣功
◇花田神田町線 延長百八間七分、幅員二間。此工費金六十七円八十銭、明治四十四年五月五日工事施行許可仝年六
月二十五日竣功
◇花田黒福線 延長十間、幅員一間五分。此工費金五円七十五銭、明治四十四年五月三十日工事施行許可、仝年六
月三十日竣功
◇中柴道六外山線 延長二間八分、幅員五分。此工費金一円五十銭、明治四十四年九月二十五日工事施行許可仝年十
月三十一日竣功
◇手間町線 延長六間六分七厘、幅員五分、此工費金七十六銭、明治四十四年九月二十五日工事施行許可仝年十
月三十一日竣功
◇東田北臨済寺大塚線 延長五十七間五分、幅員二間。此工費金四十八円七十三銭、明治四十四年九月廿五日工事
施行許可、仝四十五年三月十日竣功
◇小松原線 延長六間八分、幅員三間五分及橋梁長八間、幅員三間。此工費金二千百十三円五十銭。明治四十五
年二月九日工事施行許可、仝五月三十一日竣功。
◇中柴道六中学校西線 延長十間、幅員一間五分。延長十間、幅員八尺。此工費金十二円四十八銭。明治四十四十
五年五月十三日工事施行許可、仝年六月三十日竣功
―第十四章 交通運輸通信 三二一
―第十四章 交通運輸通信 三二二
◇瓦町宮下線 延長十五間三分、幅員壱間五分。此工費金十六円三十銭。明治四十五年五月十三日工事施行許可仝
年六月二十日竣功。
◇新川市南線 延長十六間、幅員一間。此工費金五円五十七銭。明治四十五年五月十三日工事施行許可、仝年六月
二十日竣功。
◇花田百北線 延長百五十二間、幅員一間五分。溜池廃溜に付堤防敷の一部を明治四十五年五月十四日許可を得第
三種道路敷に編入、内務省所管。
◇新銭町線 延長八間四分、幅員二間四分弱。此工費金九十九円。明治四十五年六月二十日工事施行許可。大正
元年十月十六日竣功。
◇紺屋町線 延長四間、幅員二間。此工費金十円。大正二年二月二十一日工事施行許可、仝四月二十六日竣功
◇守下線 延長九十四間、幅員弐間五分。此工費金百五十六円十六銭。大正二年二月二十一日工事施行許可大
正四年四月三十日竣功。
◇花田間田小田原線 延長百二十間八分、幅員平均一間二分余。此工費金五円四十銭。大正二年四月二十三日工事
施行許可、仝年六月十九日竣功。
◇中柴線 延長二百八十七間三分、幅員十三尺、此工費金六千五百円。大正三年四月二日工事施行許可、仝八
月三十一日竣功。
◇図書館南線 延長七十二間、幅員壱間。此工費金百弐円七十二銭五厘。大正三年十二月十五日工事施行許可、仝
四年四月三十日遊功。
◇花田流川大塚線 延長二十間五分、幅員一間二分。此工費金十九円。大正四年三月三十日工事施行許可、仝六月
三十日竣功。
◇船藤佐線 延長二間五分、平均幅員一間五分。此工費金一円二十五銭。大正四年九月二十八日工事施行許可仝
十月二十日竣功。
◇中世古吉屋線 延長二十六間三分、幅員一間三分余。此工費金五円九十四銭。大正五年三月三十日工事施行許可仝
年四月三十日竣功。
◇向山南中畑線 延長五十一間、幅員平均一間七分五厘。此工費金二十八円六十七銭。大正五年三月三十日工事施行
許可、仝年四月三十日竣功。
◇東新町線 延長百九十五間九分、幅員二間五分。此工費金三百九十円。大正五年四月一日工事施行許可、仝年
七月三十一日竣功。
◇松葉坂下線 延長十二間、幅員拡張三間。此工費金十四円九十四銭。大正五年六月七日工事施行許可、仝年七月
三十日竣功。
◇羽根井線 延長五百七十四間八分四厘、幅員二間。此工費金七百四十五円八十二銭。大正五年七月五日工事施
行許可、仝年十月三十一日竣功。
◇東八町線 延長四十八間、幅員三間。此工費金二十円。大正五年六月七日工事施行許可、仝七月三十日竣功
◇西宿線 延長五間一分、幅員一間。此工費金二円八十四銭。大正五年十二月二十一日工事施行許可、仝六年
一月五日竣功。
―第十四章 交通運輸通信 三二三
―第十四章 交通運輸通信 三二四
◇清水線 延長七間一分、幅員六分。此工費金一円九銭。大正六年三月二十七日工事施行許可、仝三月三十一
日竣功。
◇西羽田線 延長百五十間七分、幅員二間。此工費金七十一円二十三銭。大正六年三月二十八日工事施行許可仝
年六月三十一日竣功。
◇瓦町南裏東西線 延長三間三分、幅員一間五分。此工費金二円二十三銭。大正六年七月二十四日工事施行許可、
仝年八月十九日竣功。
◇三ノ輪線 延長百六十四間五分、幅員二間。延長二十六間四分、幅員二間。此工費金四十一円九十二銭。大正
六年七月二十四日工事施行許可、仝年八月三十一日竣功。
◇関屋拡張線 延長三十八間二分五厘、幅員四分五厘強。此工費金三円十四銭。大正六年八月十六日工事施行許可、
仝八月三十日竣功。
◇岩崎森下拡張線 延長十六間二分、幅員一間三分余。此工費金十五円六十三銭。大正六年九月八日工事施行許可、
仝年十一月十日竣功。
◇西宿ノ甲線 延長十間六分、幅員一間三分余。此工費金十五円六十三銭。大正六年九月八日工事施行許可、仝年
十一月十日竣功。
◇中柴道六線 延長七間一分五厘、幅員八分余。此工費金参円七十三銭。大正六年十二月二十七日工事施行許可、
大正七年一月三十一日竣功。
◇花田十文字線 延長四十二間五分、幅員一間三分余。此工費金十九円六十四銭。大正七年三月十五日工事施行許可、
仝三月二十八日竣功。
◇飯墓地線 延長三十二間四分五厘、幅員一間五分。此工費金九十八円二十銭。大正七年五月十日工事施行許可、
仝年十二月三十一日竣功。
◇飯線 延長二百六十三間八分、幅員二間五分。此工費金千五百五十九円三十二銭。大正七年七月六日工事
施行許可、大正八年一月三十日竣功。
◇萱町橋架設 長二十四尺、幅員二十四尺。此工費金二千七百四十円。大正九年五月十一日着手、仝年六月十四日
竣功。
公私共同施工の路線
其の後最近に於ては、一般に道路の改善をなすことは、市の発展を誘致するものなることを覚りたる結果、時に工費の
一部を寄附するものあり。又は用地の無償提供を為すもの等漸次増加したるにより、之れが大勢を利用して、或は時機に
応じ、或は必要に迫り道路の改良、即ち改築又は新設を決行したるもの多し、今これを列挙すれば左の如し。
◇中柴線 元県道田原街道中柴より起り、花田町東郷に於て国道大手線に達する延長二百八十七間三分幅員十
三尺にして、工費六千五百円を以て大正三年四月起工仝年八月竣功せり。
◇船第六号線 豊川沿岸堤防より起り、南して牟呂吉田村東豊田耕地整理内道路に達する延長二百五十四間五分幅
員二間五分にして、工費四千七百参円を以て大正十一年三月起工、仝年三月竣功せり。
◇花田守下第三号線 船町線より分岐し松葉小学校前に達する延長五十四間幅員参間にして、工費一千三百十八円
を以て大正十二年二月起工、仝年三月竣功せり。
―第十四章 交通運輸通信 三二五
―第十四章 交通運輸通信 三二六
◇花田城海津鉄道踏切陸橋 府知道豊橋牟呂港線鉄道踏切に架設したるものにして、橋長百五十八呎有効幅員六呎
二吋を有し、一万一千四百十一円二十九銭を以て、大正十二年一月起工、仝年三月三十日竣功せり。但し本橋は鉄道
省並に豊川鉄道株式会社の共同計画に対して、本市より三千四十円を納付の上、出来せるものなり。
◇松葉魚線 国道第三十号線大手通りより起り、府県道豊橋停車場線を横断して船町線に達する延長四百九間四
厘、幅員四間にして、工費十二万五千八十八円五十八銭を以て、大正十一年八月起工仝十五年一月竣功せり。
◇前田三十号線 国道第一号線中下町地内より分岐し、西新町地内牟呂用水線に達する延長百五間二分五厘、幅員参
間にして、工費六千参百五十七円十八銭を以て、大正十一年一月起工、仝十二年十月竣功せり。
◇南島第十四号線 牟呂吉田線より分し、松葉小学校西に達する延長二百四十三間五分幅員四間にして工費六千二百
二十八円四銭を以て、大正十二年二月起工仝十三年十月竣功せり。
◇湊第四号線 国道第一号線中湊町地内にて分岐し花田町守下に達する延長八十四間五分幅員四間にして、工費一
万三千六十二円四十二銭を以て大正十二年二月起工、仝十三年五月竣功せり。
◇中世古曲尺手線 国道第一線中曲尺手地内より分岐し、中世古地内牟呂用水路線に達する延長百六十五間五分幅員
四間にして、工費五万一千九百二十六円二十五銭を以て、大正十二年二月起工仝十四年六月竣功せり。
◇花田第四十六号線 萱町線中字間田地内より分岐し、東海道線鉄道を踏切り、字野黒に達する延長百二十二間四
分幅員四間五分にして、工費三万六千四十四円七十七銭を以て大正十三年二月起工仝十五年三月竣功せり。
◇斎藤流川線 府県道豊橋牟呂港線より分岐する路線の一部にして、延長二十五間幅員三間、工費九百十一円を以
て大正十二年二月起工、同十四年三月竣功せり。
◇三ノ輪向山第八十四号線 国道第一号線より分岐する三ノ輪線に接続する路線にして、延長二百五十三間幅員二
間五分なり。工費一千九百八円を以て、大正十三年二月起工、同十五年三月竣功せり。
◇飽海第七号線 旧府県道豊橋本郷線より分岐じ、十八聯隊射的場沿の壕端に達する延長八十五間幅員十四尺にして、
工費一千五百九十一円二十銭を以て大正十三年二月起工、同年十二月竣功せり。
◇花田野添第四号線 府県道豊橋牟呂港線より分岐する竣長百四十三間五分幅員一間五分にして工費三十九円を以
て大正十二年二月起工同十三年三月竣功せり。
◇新銭花田線 府県道田原豊橋停車場線中新銭町地内より分岐し狭間地内に於て牟呂用水路縁に達する延長百二十
二間幅員三間にして、工費予算三万五千九百三円を以て、大正十三年二月起工、目下工事中にあり。
◇一四八遊廓線【「西八遊廓線」の誤植か】 西八遊廓線の一部延長四十四間を工費九間に拡築したるものにして、大正十四年六月起工仝十
五年三月竣功せり。
◇西八呉服線 大手線の一部にして西八遊廓線と十字街を為す。延長九十間幅員七間乃至十三間にして、工費予算
は一六線と共に二万二千八百二十二円にして、大正十四年六月起工、目下工事中にあり。
◇東郷深田線第七十一号 萱町線より分岐する延長十五間幅員四間にして、大正十三年四月起工目下工事中に
あり。
◇深田稗田線第六十一号 国道第三十号線より分岐する萱町線の一部、延長三十八間二分を幅員五間に改修するも
のにして、工費予算一八線と共に九百三十五円を以て大正十三年四月起工目下工事中にあり。
◇旭東田線第三十九号 府県道豊橋本郷線中旭町地内より分岐し商業学校前に達する区間、延長四百二十五間を
―第十四章 交通運輸通信 三二七
―第十四章 交通運輸通信 三二八
幅員四間に拡築するものにして、工費予算二万五千四百四十八円を以て、大正十四年十二月起工、目下工事中にあ
り。
◇東田北線 飽海町地内旧県道より分岐し府県道豊橋本郷線と十字街を為し、牟呂用水路を経て東田神明社前に
至る、此の延長三百六十二間を幅員三間に改修するものにして、工費予算一万四千七百四十八円を以て大正十五年度
に起工し、竣功すべく、設計中にあり。
◇東田中部南北横断線 西八遊廓線より分岐し、旭東田線と十字街を為す、前畑北線に連絡する区間延長二百十二
間を幅員三間乃至四間に改修するものにして、工費予算九千四百六十六円を以て、大正十五年度に於て起工し、竣功
すべく設計中にあり。
◇関屋曲尺手線第三十六号 呉服裏通にして、国道第一号線中曲尺手地内より分岐し、大手通りに達する区間延長
九十六間を幅員二十尺に拡張するものにして、工費予算三万一千百八十九円を以て起工し目下用地収用並に障碍物移
転中にあり。
◇東田遊廓仁連木線及東田堂前前畑線 前者仁連木線は東田遊廓線より分岐し、仁連木及び朝倉川を経て下
川村牛川に達するもの、又後者は市立商業学校前より仁連木線と十字街をなし、東田町東部に達するものにして、合
計延長五百三十二間幅員四間と為し、工費予算二万九千円を以て、大正十五年度に於て起工し、竣功すべく測量中に
あり。
◇新銭中柴線 新銭町に於て府県道田原豊橋停車場線より分岐し中柴町に達する延長三百十七間の区間を、幅員六
間に拡張するものにして、工費予算二十万二千四百三十円を以て、大正十五年度より向ふ三ヶ年間に竣功すべく決
定測量中にあり。
◇神明中世古線 神明町に於て国道第三十号線より分岐し、牟呂用水路に達する延長百八十間を幅員四間に改築する
ものにして、工費予算一万八千三百円を以て大正十五年度より向三ヶ年内に竣功すべく側量中にあり。
◇手間紺屋吉屋線 手間町に於て国道第三十号線より分岐し、新川小学校前に達する所謂手間通り延長百八間を、
幅員四間に拡張するものにして、工費予算五万五百円を以て大正十五年度より向二ヶ年内に竣功すべく測量中にあ
り。
◇間田中柴線 萱町線間田地内より分岐し、新銭中柴線と十字街を為し、国道第三十号線に達する延長百八十二
間を幅員四間に改築又は新設するものにして、工費予算六万二百円を以て大正十五年度より向二ヶ年内に竣功すべく
測量中にあり。
◇間田寺東線 萱町線中間田地内より分岐し、国道第三十号線に達する延長百八十三間四分を、幅員四間に改築
するものにして、工費予算五万二千八百円を以て、大正十五年度より向二ヶ年内に竣功すべく測量中にあり。
◇大塚堀先線 県道豊橋牟呂港線より分岐し、花田小学校西に沿ひ牟呂用水路を渡る、此の延長百五十三間を幅
員三間に改築するものにして、工費予算一万四千二百円を以て、大正十五年度より向二ヶ年内に竣功すべく測量中に
あり。
◇道六線 中柴町字道六に於て国道第三十号線より分岐し県立第一豊橋中学校前線に並行して、東部前田耕
地整理地区に達する延長一百一間六分を幅員二間五分に改築するものにして、工費予算一万八千二百円を以て、大正
十五年度内に於て竣功せしむべく測量中にあり。
―第十四章 交通運輸通信 三二九
―第十四章 交通運輸通信 三三〇
◇曲尺手鍜冶東八線 豊橋区裁判所前通りより東進し、鍜冶町、中世古町、東八町地内に亘る在来溝渠に蓋覆を施
し此の上を一般道路として供用せんとするものにして、此の延長百十一間を、幅員七尺以上に改造すべく、工費予算
四千九百円を以て起工し大正十五年度内に竣功せしむべく設計中にあり。
二、鉄道
鉄道は東海道本線を以て本市を南北に貫き主要都市の連絡を保ち、豊川鉄道は本市を起点として豊川、新城を経て長篠
に至り鳳来寺線に延長して河合に達し信州方面に連絡し、愛知電気鉄道は名古屋を発し岡崎を経て本市に入り沿線都邑を
連結し、渥美電気軌道は渥美半島田原方面の交通に便し、市内電気鉄道は豊橋駅に起り新停車場通りを神明町に至り南北
二線に岐れ、南して大手線を高師村に達し一は北進して大手線八町線を東田遊廓に達し以て市内の交通に便す、尚ほ将来
本市に起り浜松に達する遠三鉄道の竣功を見、更に信州飯田に通する三信鉄道の実現を見るに至らば、運輸交通上に一大
革新を将来すべし。
△国有鉄道東海道本線
市の西部を南北に貫通す、明治二十一年九月一日の開通に係る、豊橋駅は市内花田の東端にあり東京駅へ百八十九哩七
分、神戸駅へ百八十六哩七分にして殆んど両者の中央に位す、開通当時の駅舎は渥美郡花田村の内西宿に設置され当時の
豊橋市へは約六町を距て其の規模亦狭小にして現今の三分の一にも及ばず、木造平家建の倭屋にして今日より之を見れば
一閑駅たるに過ぎざりしが途中下車駅、弁当販売駅、機関車給水駅に指定され、名古屋浜松間に於ける主要駅たりしは勿論
なり、明治三十年豊川鉄道の開通仝三十九年市制の実施、仝四十年師団の設置に伴ふ市の発展に従ひ駅舎の狭隘を告ぐる
に至り大正五年三月現駅舎改築竣工して今日に及べり。
師団設置前に於ての駅構内線路の延長は僅かに一哩三十鎖、坪数七千百二十六坪六合に過ぎざりしが漸次拡張され今や
線路延長四哩三十九鎖、坪数二万三千九百二坪に及べり。
◇乗降人員発着貨物数量表
年次 旅客数 仝上賃銀 大貨物数 小貨物数 運額賃総
数量 賃銀 数量 賃銀
人 円 屯 円 屯 円 円
明治三十九年 乗 二四六、七二一 一五八、一一三 発 二三、四〇〇 六六、一一〇 発 一一九 四、一二五 二二〇、三四八
降 二五七、七〇五 着 二七、九一七 不明
大正元年 乗 三五六、九七二 二一七、六一三 発 三二、七一〇 一〇一、三四七 発 六六、四五〇斤 九、二四五 三二八、二〇五
降 四一一、〇九七 着 三六、二三六 着 不詳
大正五年 乗 四四一、二二九 二四二、〇〇〇 発 七七、二二四 一四五、一〇〇 発 九九、四七九 一六、五六三 四〇三、六六三
降 四四一、二二四 着 七三、〇五八 到 一二五、五二八
大正十年 乗 七八五、三九四 六六〇、八五九 発 八二、九五八 三七九、八九九 発 一五七、一二七 五七、二八九 一、〇九八、〇四七
降 七七七、四五五 着 一二四、九〇六 到 二二七、六三九
大正十四年 乗 九四六、九一六 三八〇、九六〇 発 九四、〇六〇 四九三、二〇八 発 三二五、八三九 七九、七四九 一、四〇三、九一七
降 九三〇、〇三三 着 一四一、二六二 着 六六五、〇七八
△豊川鉄道
豊川鉄道株式会社の経営にして明治二十九年二月資本金四十万円を以て会社設立、仝年五百五十万円に増資し十二月工
事に着手、仝三十年七月豊橋豊川間開通三十三年九月全線開通せり、市内花田町吉田駅を起点とし、南設楽郡長篠に至る
十七哩四分の鉄道なり、明治三十五年百五十万円に増資、更に大正九年二百三十万円に増資せり。沿線には豊川稲荷、三
―第十四章 交通及通信 三三一
―第十四章 交通運輸通信 三三二
明寺、祗鹿神社、野田城址等の名勝あり長篠の古戦場は長篠線附近に散在して戦蹟探求の興多く、三河川合に至る鳳来寺
鉄道に接続し大正十四年七月二十八日全線に亘り電化をなし交通の便大に加はる。
◇乗降人員及貨物数量表
年次 旅客人員 旅客賃金 大貨物噸数 大貨物運賃 小荷物斤量 小荷物賃金 運貸総額
人 円 屯 円 斤 円 円
明治三十九年 二二七、五九五 三三、六八七 三、七二七 二、二二二 五一、六六八 三四七 三六、二五八
大正元年 二九二、八五三 四五、九〇六 六、七八六 五、二九九 八九、七九六 四八六 五一、六九二
大正五年 二八四、四九五 四五、五三〇 一〇、四〇七 八、七九七 三三七、六六八 五七七 五四、八九七
大正十年 四八〇、〇三八 一一二、四五三 一六、九三四 三一、七四九 五一八、〇五九 二、八五五 一四七、〇五八
大正十四年 六四一、四二四 一三六、九七四 一一、九〇八 二四、三四三 四〇一、五一三 一、九九二 一六三、三一〇
△鳳来寺鉄道
鳳来寺鉄道株式会社の経営にして大正十年九月の創立に係る資本金百三十万円にして豊川鉄道終点の長篠駅を起点と
し、鳥居、鳳来寺三河大野、湯谷、三河槇原を経て、三河川合に至るものなり。其の延長十哩七分を算す。
△渥美電鉄
渥美電鉄株式会社の経営に係る軌道は豊橋市を起点とし渥美半島を縦断する交通機関なり。
大正十一年三月の創立にして目下延長十三哩あり、渥美郡田原町黒川駅を終点とす。尚第二期工事として半島の尖端福
江港まで延長し近き将来に勢州鳥羽港へ海上連絡による発展をなす計画なりといふ。
大正十四年五月より大正十五年四月に至る旅客人員及運賃を挙ぐれば左の如し。
◇乗降客並ニ小荷物
駅名 年次 乗降人員並に賃金 手小荷物数量並賃金
乗客 賃金 降客 個数 発送 賃金 個数 到着
人 円 人 個 斤 円 個 斤
新豊橋駅 大正十四年 五八、二五六 二五、二六六 六八、三四四 一、二五〇 四六、二六八 二五一 一、二五三 五〇、〇八〇
昭和元年 一二六、六〇四 五〇、九三四 一二八、〇三三 四、六一二 一七三、三三三 九一八 六、〇〇二 二三八、六一七
柳生橋駅 大正十四年 二八、六七二 九、七二二 二五、六一一 五〇二 一九、四九九 一〇三 一六二 五、七四一
昭和元年 七三、二四七 二二、六四三 八〇、一〇三 一、九三〇 七四、八四四 四〇〇 一、二五〇 五一、五四六
◇発着貨物
駅名 年次 小口扱 貸切扱 合計
発送 到着 発送 到着 発送 到着
数量 賃金 数量 数量 賃金 数量 数量 賃金 数量
噸 円 噸 噸 円 噸 噸 円 噸
新豊橋駅 大正十四年 二、二〇五 三、八四二 三、五七三 六九二 七六四 二、八七三 三、八九七 四、六〇七 五、四四六
昭和元年 四、九〇三 七、八六一 三、五六九 二、〇四三 二、二八七 七、五五三 六、九四六 一〇、四一八 一一、一二二
柳生橋駅 大正十四年 三〇〇 五四〇 八六 ― ― ― 三〇〇 五四〇 八六
昭和元年 八六七 二、三七〇 四四六 二四六 三五二 一、八三五 一、一一三 二、七二二 二、二八一
△市内電車
豊橋電気軌道株式会社の経営にして大正十年十一月自働車鉄道を出願したるに端を発し、仝十年十二月電気鉄道に変更し
仝十二年三月許可を得、翌十三年三月工事に着手し、仝十四年七月柳生橋線、並に駅前、東八町赤門間を開通し十二月東
田本線全線開通せり。
大正十四年七月より十五年四月末に至る乗車人員左の如し。
―第十四章 交通運輸通信 三三三
―第十四章 交通運輸通信 三三四
乗車人員 一、二三六、〇八八人 同 賃銀 五七、七二九円
三、水運
豊川は其源を北設楽郡名倉山に発し南流して段嶺を過ぎ、作手川を容れ南設楽郡
長篠にて三輪川と合し、更に西南流して宝飯、八名、渥美、豊橋の三郡一市の界を
なし宝飯郡前芝に至り渥美湾に入る。延長十七里舟筏の便あり、然れども本市より
河口前芝に至る間最も運輸の利に富む、本市の繁栄古来此川に負ふ所誠に甚大なる
ものあり。
往時鉄道の便未だ開けざりし時代に於ては参宮往復の旅客海路を選ぶ者此地に集
合せしを以て船町河岸一帯は最も段賑を極めたり、今日其盛を見ずと雖も、貨物の
出入に至りては往時に幾倍し関屋船町下地に亘る両岸は船舶常に輻輳して水運の恩
恵甚大なるを思はしむべく又豊川鉄道は支線船町駅を設け水陸の連絡を計りつゝあ
り。
四、郵便電信及電話
市内札木町に豊橋郵便局あり、郵便、電信、電話、為替貯金其他全般の通信事務を取扱ひ尚萱町、新川町、下町、花田町の四
【図の説明】渥美電鉄本社附近
局を置き三等局の事務を取扱ひ、且つ豊橋駅に於ても公衆電話の取扱を為す。
本市に電話の開通せるは明治四十一年三月にして茲に通信上の一新時期を画せり。
◇郵便取扱数量
【上段】
年次 種類 引受数 配達数 計
明治卅九年 普通々常 二、五七一、三九三 二、二九九、五九六 四、八七〇、九八九
仝 小包 一四、五六七 一三、七五九 二八、三二四
書留小包 三、一五二 一〇、七八四 一三、九三六
大正元年 普通々常 四、二二〇、八四九 三、三四七、五七七 七、五五八、四二六
仝 小包 一三、〇八六 三八、二三六 五一、三二二
書留小包 四、〇三〇 一一、〇六八 一五、〇九八
広告郵便 八五、九四五 一〇五、七一九 一九一、六六四
仝五年 普通々常 四、六九七、七一四 四、一六五、四八九 八、八六三、二〇三
仝 小包 一五、〇三六 四四、〇九五 五九、一三一
【下段】
年次 種類 引受数 配達数 計
書留小包 五、一三七 一三、五七一 一八、七〇八
広告郵便 三三、一三五 一一八、二六五 一五一、四〇〇
仝十年 普通々常 一一、二九三、八四五 九、一二二、四〇八 二〇、四一六、二五三
仝 小包 二七、四四四 七一、七六七 九九、二一一
書留小包 一六、〇七五 二七、七三一 四三、八〇六
広告郵便 一〇三、一四三 二一一、〇三七 三一四、一八〇
仝十四年 普通々常 一一、二六九、八九〇 八、九〇八、六六三 二〇、一七八、五五三
仝 小包 二四、六二一 八八、三二七 一一一、九四八
書留小包 三六、三〇六 三八、六五九 七四、九六五
◇電報取扱数量
【上段】
引受数 配達数 計
明治三十九年 四三、九五七 六五、七六九 一〇九、七二六
大正元年 五四、二六六 六七、四八〇 一二一、七四六
仝五年 八二、七二六 一〇二、四二〇 一八五、一四六
【下段】
引受数 配達数 計
仝十年 一七二、六六四 一九四、六六四 三六七、三二八
仝十四年 一八一、一二七 二一三、七九三 三九四、九二〇
◇電話加入者累年表
【上段】
年度 単独加入 共同線 連接加入 長距離
加入 加入
明治四十年 二八一 ― ― 一三三
【下段】
年度 単掲加入 共同線 連接加入 長距離
加入 加入
仝四十一年 五一一 二 一 一八九
―第十四章 交通運輸通信 三三五
―第十四章 交通運輸通信 三三六
【上段】
仝四十二年 五三〇 二 一 二〇一
仝四十三年 六五五 二 三 二〇六
仝四十四年 六五六 二 三 二一四
大正元年 七六五 四 一〇 二一八
仝二年 七九九 二 九 二一六
仝三年 八一二 二 一〇 二〇四
仝四年 八四八 二 一〇 一九五
仝五年 八七一 四 一〇 二〇三
仝六年 九四八 四 一〇 二一九
仝七年 九四八 四 一〇 二一九
【下段】
仝八年 九八三 四 一〇 二五五
仝九年 一、〇七六 四 一二 二七三
仝十年 一、一九九 四 一三 二九八
仝十一年 一、二七六 二 一三 三二七
仝十二年 一、三三〇 二 一三 三七〇
仝十三年 一、三六六 四 一三 三九一
仝十四年 一、五七三 四 一四 二二
仝十五年 一、八四六 一四 一二 五二
備考 大正十四年ニ長距離加入欄ニ於テ著シク減少シタルハ大正十四年十月一日より長距離ヲ廃シ特別長距離ヲ長距離ニ変更ノ
為メナリ。
◇郵便貯金取扱数量
貯金預入口数 仝上金額 仝上払出口数 仝上金額
明治三十九年 一一、五八九 五二、八九四、五八二 三、六〇九 七〇、四四一、六二〇
大正元年 二四、七六二 一〇八、五四一、一四七 五、九八三 一二六、〇〇九、九二一
仝五年 三四、一七一 二〇一、一一〇、六二九 六、二四〇 一四六、七一〇、八一六
仝十年 二九、〇八九 三四八、三五五、二四〇 八、六一五 四四一、四五八、七七八
仝十四年 五五、七一三 四八八、五八五、三五〇 一〇、三〇〇 六〇三、五五二、四五八
第十五章 上下水道
一、上水道
本市の地勢は、豊川の南岸に位し、西北は豊川朝倉川、南は柳生川を以て境し、南北に短く、東西に長し。地質は洪積
層及沖積層より成り、其の大部は洪積層なり。洪積層は本市並に其の東南部の丘陵地に発達して、膠結不十分なる礫及び
砂の互層より成り、水平に層成す。中には屡々褐鉄鉱の小塊若くは薄層を介在す。礫は硅岩粘板岩片麻岩頁岩花崗岩等を
主とし、其の大さは一吋大より四吋位のものを普通とすれど稀には七八吋位のものあり。概して偏平にして水平に配列す
砂は前記諸岩の細片にして灰褐色を呈せり。
沖積層は豊川の沿岸及柳生川上流低地及豊橋市西端に発達して礫、砂、粘土等より成り、礫は硅石、片麻岩、頁岩、花
崗岩及玢岩を主として、其の大き五六吋以下なり。砂は上記岩石の細片にして、粘土は砂質の黄褐色を主となす。市の西
部の低地には有機物を含有して、褐黒色なるものあり。礫及砂は相混して河床をなす。而して本市西端花田附近には厚さ
数十尺の腐植質の粘土地表に堆積するあり。
洪積層砂礫層の中には褐鉄鉱の小塊若くは薄層を含有し、屡々砂及び礫を褐色に染め該層中に鑿井するものは、
概して其の井水は赤褐色を呈するを常とす。従つて不色水の大部は此の種のもの、若くは低地の腐植土中に属するが
故に、飲料水としては煮沸又は濾過を要するものとす。加ふるに排水設備不完全なるを以て、浅き井水は飲料に適せざ
―第十五章 上下水道 三三七
―第十五章 上下水道 三三八
るなり。
大正三年施行に係る市内井水々質調査の結果に徴すれば、調査井総数五千百十五井中より良水の湧出ずるものは僅かに
九百七十九井を算するに過ぎずして、尚煮沸若くは濾過を要するものは其の数実に参千八拾五井に達し、其の他の壱千五
拾井は全く飲用に適せざる結果を現せり。
右の如くなるを以て、本市の衛生状態は連年不良に陥り、伝染病死亡患者は、全市死亡者千人に付、大正二年十九人四
分四厘、仝八年六拾六人弐分七厘、仝十二年七十四人八分四厘と言ふが如く、漸次不良状態を増進し、実に憂慮すべきも
のなるを以て、上水道布設の必要は益々痛切に其の促進を感ずるに至れり。此に於てか市は上水道布設の経営を為さんと
欲し、先づ水源地として、地表水又は地下水の何れに依るを得策とすべきかを研究する事となし、大正十三年八月農商務
省地質調査所長に地下水利用に関する調査を委嘱し、専門技術官に於て精細調査を遂け、其の結果に依るときは、或地点
を限り地下水脈の存在は確実なるも、尚精査を遂る手段として鑿孔に依り調査せられん事を望むと結論せられたるを以て
更に地下水及地表水等の可否得失に付ての研究を重ねたる結果、豊川の伏流水に依るものとして、計画を樹て、大正十五
年六月市会に於て水道費三百五万余円の継続費を可決し仝年七月敷設認可申請並に仝起債稟請及国庫県費の補助申請をな
したるに仝年十二月布設認可を得たるにより昭和二年三月事務を開始し続いて水道布設事業の認定を内務大臣に申請せり
又起債に関しては仝年二月内務、大蔵両大臣の許可を得たるにより近く簡易保険積立金の借入をなし又国庫並に県費補助
に対しても其筋の詮議を経て許可の内諜に接するを得る予定なり、斯の如くにして諸般の準備漸く整ひたるにより近く起
工式を挙げ事業の進行を図り昭和四年中に一部給水を見る予定なり。本市水道は前述の如く本市を環流する豊川の伏流水
を水源とするものにして本市を距る一里余の上流八名郡下川村大字西下条三ノ下地先仝川本流の河底に集水埋渠を構築し
仝河畔の送水場喞筒井に導流し仝所より新設送水管路及県道村道を経て東南三十三町を距る八名郡石巻村大字多米に設置
する濾過池に揚水して浄水となし仝所内の高揚卿筒を以て浄水場の東八十間を距る多米の高地に設置する給水場内配水池
に送り是より計量室を経由して自然流下法により本市内並に隣接地に配水する計画なり。
水源地における水質及水量の善良豊富なるは本市水道の誇りとする所にして給水区域内の現在人口は九万に過ぎざるも
水道完成後は急激の発達を来たす見込を以て現計画を十二万人に対する施設とし尚濾過池喞筒等は相当増設の余地を存し
将来人口増殖し十六万に達するも送水及配水管の増設並に相当附加工事を施すに於ては給水に応ずべき設備と為せり。
今期敷設の水管は配水給水を合せ実に九万四千九百六間に達し工事費弐百六十九万円を計上せり工事費内訳左の如し。
水源費 七四、六六五 測量試験費 五七、八〇〇
送水場費 一一一、二〇八 施工事費 三六、〇〇〇
浄水場費 二八七、一四七 残土整理費 一、四六八
送水本管及弇布設費 一四七、六九八 建築費 九九、七四二
給水場費 一六五、六二九 事務費 二九二、一八六
配水管及弇並に布設費 一、一五四、二二九 雑費 一二四、九七一
用地買収費 七五、〇四七 計 二、六九〇、〇〇〇
機械器具費 六二、二一〇
二、下水道
本市の地勢は東方より西方に向つて傾斜すると雖も、人家密接の市街地は、概ね低地部に属すると、市街地内に河川溝
渠等の配置尠なきを以て、自然排水に不便を感じ、従つて一朝豪雨の際は勿論平時と雖も、汚水は停滞勝ちに属す。故に
―第十五章 上下水道 三三九
―第十五章 上下水道 三四〇
本市の衛生状態は極めて不良に属する事は、上水道の項に於て詳述せる如く、伝染病患者数等も亦相当に大なるあり。斯
くて本市衛生改善上の見地よりして、下水の計画は焦眉の急を感ずる所なり、依て最近改良計画調査中にあり。尚部分計
画として焦眉の急を告ぐる場所に対して稍々組織的施工を為したるもの左の如し。
一、竣功 大正十三年三月
場所 花田町字流川地内
工費 金五千五百六十一円二十七銭
工法大要 内径四尺の鉄筋コンクリート管を延長六十一間埋設し人孔、土砂溜枡等を附属し在来下水路を経
て柳生川に排水す。
二、竣功 大正十三年十月
場所 関屋町地内
工費 金壱万四千百八十九円五十一銭
工法大要 内径四尺鉄筋コンクリート管延長九十六間八分を埋設し人孔、掃除枡を附属し板新道在来下水路
の大部分を豊川に排水せり。
第十六章 都市計画
一、都市計画法の適用
市勢の発展と共に逐年人口の増加を加ふに拘らず、都市百般の設備は之れに伴はず、商工業の発達著しく随所に工場の
濫設を見るの結果、市街地の秩序は甚だしく錯綜乱雑に陥り、道路の狭隘、不便其他上下水道、公園、高速度交通機関等
都市的施設の欠如と共に都市改良の必要漸く現実の問題たるに至れり。
茲に於て本市は市区改正事業の竣工に先立ち大正十年七月臨時都市計画準備委員会を設置し、本市百年の対策を樹立せ
んが為め諸般の調査を開始せり。かくて大正十二年二月同調査委員会は都市計画法適用請願を可決し、また市会に於ても
同様請願を議決するに至り同年三月五日内務大臣に之を提出せり。然るに四年四月内務大臣は都市計画中央委員会に諮問
するに都市計画法適用を二十市に指定する提案を以てし本市は之れより除外せられたる為め、斯の如きは本市年来の熱望
期待に反するのみならず此機を逸せんか再び機会を得るの至難なるに想到し、再び請願を提出して極力目的の達成に努力
したるが、一方前述中央委員会に対する内務大臣の諮問案は審議の結果二十市の外更に五市追加の希望を附して答申せら
れたる為め本市又幸にして其選に入るを得、同年五月二十九日勅令第二百七十六号を以て都市計画法を適用することを公
布せられ七月一日より実施せらるゝに至れり。
二、都市計画区域の決定
―第十六章 都市計画 三四一
―第十六章 都市計画 三四六
の布設を促進し、交通上現在の欠陥を救済すると共に都市発展の基準を定むるは最も喫緊の事に属するを以て、都市発展
の趨勢、街路関係、圏外都邑との連絡並に将来市街地建築物法施行せらるゝ場合に於ける各種地域制の設定に関する条伴
等を考察して既に街路網の成案を内務省に具申し今や同省に於て審理中なれば近く地方委員会の議を経て確定公布せらる。
ゝに至るべし。
更に本市を産業都市として発達を誘致すべき施設たる運河網の計画は一面豊川の改修と呼応し漸次確定を為す見込なり
其の他市街地建築物法適用と共に公園網計画の確立、地域制計画の確定、建築線の指定、防火地区の設定等の諸般計画
の樹立を急ぎつゝあり。
【図の説明】昔の吉田(重広画)
第十七章 官衙公署
△豊橋区裁判所
中八町に在り、明治九年七月愛知県第二区裁判所を旧本陣内に設けられしが、其の年十一月豊橋区裁判所と改称す、明
治十三年現在の位置に移転し仝十五年一月豊橋治安裁判所と改称、仝二十三年十一月更に現今
の名称に改めらる今の庁舎は大正四年三月改築落成せるものなり。東三一市五郡を管轄区域と
す。
歴代所長氏名左の如し
判事補 高島正載 仝 松波光叙
仝 三田昇馬 仝 戸田忠正
仝 西村重敏 監督判事 松原久之
仝 松波光叙 仝 岩下知敦
仝 小塩 幹 仝 岡田清次
仝 木崎永正 仝 寺田正次郎
判事 松浦久彦 仝 多田九二八
仝 桜井祥造
【図の説明】改築前の豊橋区裁判所
【図の説明】現在の豊橋区裁判所
△豊橋警察署
―第十七章 官衙公署 三四七
―第十七章 官衙公署 三四八
中八町にあり豊橋市及渥美郡の一部を管轄区域とす本署はもと札木町にありしが、明治四十年新築して現在の地に移転
せり、市内左記十ヶ所に巡査派出所を置き警備に任ず署長以下定員百二十七名なり。
巡査派出所
停車場巡査派出所 花田町西宿
西羽田羽根井巡査派出所 花田町流川
清水町巡査派出所 清水町
柳生橋巡査派出所 花田町寺東
呉服町巡査派出所 呉服町
船町巡査派出所 船町
松葉町巡査派出所 松葉町
旭町巡査派出所 旭町
歴代署長氏名左の如し
警部 下 政恒 仝 岩泉守三 仝 松田一吉
仝 肥田五郎 仝 田中従義 仝 矢崎万吉
仝 市川信順 警視 井田正忠 仝 岩瀬勇八郎
仝 伊藤清人 仝 坂梨雄蔵 仝 羽田野金作
仝 竹村栄太郎 仝 大山綱岳 仝 山本喜久蔵
仝 宮本吾三郎 仝 国宗鹿太郎 署長心得警部 石井春治
仝 寺内悠麿 仝 鶴見専太郎 警視 塚本作太郎
仝 戸田義三 署長心得警部 上野一男 仝 都築鈴太郎
仝 武田孝継 警視 角南角三郎 警視 須藤鈴太郎
【図の説明】豊橋警察署
△豊橋税務署
東八町にあり、現庁舎は明治四十四年の新築にして中八町の仮庁舎より移転せり、本市及
渥美、宝飯の二郡を管轄区域とす。
歴代署長氏名左の如し
税務属 加藤 豊 税務官 細谷忠男
仝 神谷鉄次郎 司税官 永沢謙三郎
仝 二村喜一 仝 清水至
仝 鬼頭鑑太郎 仝 小野光男
仝 太田治郎吉 仝 渡部昇
仝 吉田善蔵
△豊橋郵便局
市内札木町に在り郵便制度創始の当初郵便局は呉服町に設けられ、電信局は札木町の南側
油屋瀬古の入口に設けられしが、其後前者は舟町に後者は悟真寺の一角に移され、更に郵便
局は札木上伝馬等に移され、再び札木町現在位置の南側に移され電信局と合併し、大正元年
七月現庁舎竣工之に移転せるものなり。
尚ほ市内に左記四局を設置せり。
下町郵便局 萱町郵便局
新川郵便局 花田郵便局
【図の説明】豊橋税務署
【図の説明】豊橋郵便局
―第十七章 官衙公署 三四九
―第十七章 官衙公署 三五〇
歴代局長氏名左の如し
遠藤晏平 河崎光千代 川島友次郎
遠藤安太郎 富田政輝 飯野毅夫
荒木助太郎 吉村清久 渋谷静雄
村上得三 松濤菊五郎 向山善次郎
横山鎮雄 浅井兵一
戸倉能利 吾妻耕一
△豊橋駅
花田町にあり東海道本線の要枢を占め、明治二十一年九月一日の開駅にして旅客
並に貨物の出入年と共に増加す(第十四章交通運輸通
信参照)歴代駅長氏名左の如し
岸耕三郎 曽根豊一
合田正氏 風早清志
伊藤祐親 中沢安太郎
玉水庄太郎 富永貫一
山本亀蔵 池見豊彦
吉谷俊熊
△愛知県蚕業取締所豊橋支所
花田町にあり明治三十五年一月の創立にして、当時豊橋蚕種検査所と称せしが三
【図の説明】豊橋停車場
【図の説明】旧豊橋停車場
十八年一月蚕病予防法の実施と共に蚕病予防事務所と改め更に明治四十五年一月今の名称に改めたるものなり。
△名古屋地方専売局豊橋出張所
明治三十八年見付煙草製造所分工場として花田町に設置せられ仝四十三年船町原田万久氏
の工場へ移転大正十三年今の名称に改められ、仝十五年七月煙草製造作業廃止と共に塩販売
事務を開始し従来の煙草販売事務と併せ行ふ、昭和二年三月花田町間田の現庁舎竣工之れに
移転せり。
△帝室林野管理局名古屋支局豊橋出張所
東八町に在り、大正五年八月の創設にして、豊橋市、岡崎市、渥美、八名、宝飯、額田、東西加茂、碧海の二市七郡に
亘れる帝室林野の管理を司り現今は主として造林に力を注ぎつゝあり。
△名古屋刑務所豊橋出張所
東八町に在り、豊橋区裁判所に於て判決をなす未決囚を収容せり名古屋刑務所より派遣の刑事部長之れが主任となる。
△愛知県土木工区事務所
西八町元渥美郡役所内に在り、県内八工区の一つとして豊橋市、渥美郡、宝飯郡、八名郡の内金沢村、加茂村、大和村
、三上村、下川村、石巻村を管理区域とし県費支弁に属する土木工事の施行、道路橋梁、渡船場、河川及堤防等の監視、
県費補助に関する土木工事の調査監督に関する事務を掌理せり。
【図の説明】旧専売支局豊橋支所
―第十七章 官衙公署 三五一
―第十七章 官衙公署 三五二
所長以下三十二名の職員及修繕工夫三十七名河川工夫二名其事務に当る現所長は小塚俊夫氏なり。
△渥美郡役所 (廃止)
明治十一年十二月従来の大区会所廃止に当り初めて大手通りに設置せられ、明治十九年四月現在の庁舎竣成、之に移転
せり、爾来四十余年間渥美郡統治の庁舎たりしが、大正十五年同郡役所廃止の為め廃庁となり爾来本県土木工区並に仝郡
各種団体の事務所に使用されつゝあり。
歴代郡長の氏名左の如し
中村道太 市川信順 河野省一郎
松井 譲 木原勝太郎 根来長太
山田 正 菅 政治
△豊橋市役所
西八町にあり、其前身たる町役場は今の農工銀行所在地に在りしが明治四十五年七月一日現庁舎新築落成して之に移転
したるものなり。
△県立蚕業試験場製糸部
本試験場は本県に於て本年度より二ヶ年継続事業として本市へ設定することゝなれるものなるが之れが整地及び敷地土
盛、排水工事は本市より本県へ寄附するものなるにより、本敷地を東田町字前田に設定し其面積二千坪之れに附帯する排
水路及び同所に通ずる道路の改築等を計画し近く之れが実施に着手すべく設計中にあり。
第十八章 各種団体
△日本赤十字社豊橋市委員部
本委員部は渥美郡委員部に属し豊橋町分区と称せしが市制施行と共に郡委員部を離れ新たに市委員部となれるものなり
爾来廿年社員も漸次増加して今日に至れるが更に社員の大増募をなし事業の振興を計るべき計画中にあり
赤十字社員調
年度別 特別社員 正社員 計
有功 特別 完納 納期中
明治四十年 一 一一 三三四 七四一 一、〇八七
仝四十一年 三 一一 四二一 一、一一六 一、五五一
仝四十二年 二 一一 四四〇 一、〇三一 一、四八四
仝四十三年 三 一七 五四〇 一、〇〇五 一、五六五
仝四十四年 三 一六 五五二 九四七 一、五一八
大正元年 三 一八 五九九 八三九 一、四五九
仝二年 二 一八 七〇六 七〇三 一、四二九
仝三年 三 一八 七五一 六六五 一、四三七
仝四年 三 一八 七六七 六四五 一、四三三
仝五年 三 一九 九七四 四二〇 一、四一六
仝六年 一 二一 一、〇八六 三〇八 一、四一六
仝七年 一 一八 一、二二一 一八一 一、四二一
仝八年 一 一七 一、二二二 一七五 一、四一五
―第十八章 各種団体 三五三
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【裏表紙】