《題:江戸名所図会 七》
江戸名所図会(えとめいしよつゑ)巻之三
天璣之部(てんきのふ)目録(もくろく)
永田馬場日吉山王神社(なかたはゝひよしさんわうしんしや) 成田下総守長泰旧地(なりたしよふさのかみなかやすのきうち)
第六天(だいろくてん)祠 平川天満宮(ひらかはてんまんくう) 貝塚(かゐつか) 栖岸院(せいかんゐん)
寅薬師如来(とらやくしによらい) 千手観世音(せんしゆくわんせおん)《割書:秦川勝(はたのかはかつ)|守本尊(まもりほそん)》 清水坂(しみつさか)《割書:清水谷(しみつたに)|柳(やなき)の井(ゐ)》
《割書:富士見坂(ふしみさか) 玉川(たまかは)の滝(たき)|駒井小路(こまゐかうち)》 桜田(さくらた) 桜(さくら)ゕ井(ゐ)《割書:若葉(わかは)の井(ゐ)| 》 霞関旧跡(かすみかせききうせき)
溜池(ためいけ)《割書:白山(はくさん)祠|葵(あふひ)ゕ岡(おか)》 霊南坂(れいなんさか)《割書:潮見坂(しほみさか)|江戸見坂(えとみさか)》 麻布善福寺(あさふせんふくし)《割書:蔵王権現(さわうこんけん) 杖銀杏(つえいてう)|鹿島清水(かしまのしみつ) 寺宝(しはう)》
《割書:了海(りやうかい)上人|誕生図(たんしやうのつ)》 一本松(いつほんまつ) 氷川明神(ひかはみやうしん)社 七仏薬師堂(しちふつやくしたう)
霞山稲荷(かすみさんいなり)祠 朝日観音(あさひくわんおん) 子安薬師如来(こやすやくしによらい) 祥雲禅寺(しやううんせんし)
広尾毘沙門堂(ひろおひしやもんたう)《割書:光孝天皇御陵(くわうかうてんわうこりやう)|石灯篭(いしとうろう)》 広尾原(ひろおのはら) 広尾水車(ひろおみつくるま)
土筆原(つくしかはら)《割書:豊沢(とさは)|の里(さと)》 鷺森神明宮(さきのもりしんめいくう) 氷川明神(ひかはみやうしん)社 雷電宮(らいてんのみや)
三鈷坂(さんこさか) 松秀寺(しようしうし)《割書:日限地蔵(ひきりちそう)|尊(そん)》 覚林寺清正光(かくりんしせいしやうこう)社
興雲院(かううんゐん)《割書:虫食(むしくゐ)|観音(くわんおん)》 梅(むめ)ゕ茶屋(ちやや) 花城天満宮(はなきてんまんくう) 英一蝶墓(はなふさいつちやうのはか)
宝晋斎其角墓(はうしんさいきかくのはか) 二本榎(にほんえのき) 覚心寺(かくしんし) 清林寺(せいりんし) 承敬寺(しやうきやうし) 上行寺(しやうきやうし) 円真寺(えんしんし)
黄梅院(わうはいゐん)の図(つ) 正覚院(しやうかくゐん)《割書:高野山(かうやさん)|宿寺(しゆくし)なり》 《割書:丹生高野両社(たんしやうかうやりやうしや)|三鈷松(さんこのまつ)》 雉子宮(きしのみや)
元三大師堂(くわんさんたいしたう)《割書:袖(そて)ゕ|崎(さき)》 瑞聖寺(すゐしやうし)《割書:仏殿(ふつてん) 天王殿(てんわうてん) 鐘楼(しゆろう) 経蔵(きやうさう)|勧学寮(くわんかくりやう) 選仏場(せんふつちやう) 木犀(もくせい) 牌堂(はいたう)》
白銀妙見堂(しろかねみやうけんたう) 鎌作観音堂(かまつくりくわんおんたう) 誕生八幡宮(たんしやうはちまんくう) 行人坂(きやうにんさか)《割書:般若塚(はんにやつか)|五百羅漢(こひやくらかん)》
明王院(みやうわうゐん)《割書:子安観音(こやすくわんおん)|弁才天(へんさいてん)》 夕日(いふひ)の岡(おか) 富士見茶肆(ふしみちやや) 太鼓橋(たいこはし)
蟠竜寺岩窟弁財天(はんりうしいわやへんさいてん) 安養院寐釈迦堂(あんやうゐんねしやかたう)
蛸薬師堂(たこやくしたう) 目黒不動堂(めくろふとうたう)《割書:別当竜泉寺(へつたうりうせんし) 本堂(ほんたう) 経蔵(きやうさう)|八幡宮(はちまんくう) 早尾権現(はやおこんけん) 恵比須大黒(ゑひすたいこく)祠》
《割書:鐘楼(しゆろう) 水神宮(すゐしんくう) 愛染明王(あゐせんみやうわう) 大行事権現(たいきやうしこんけん) 石不動(いしふとう) 稲荷(いなり)祠 地蔵尊(ちさうそん)|聖観音(しやうくわんおん) 開山堂(かいさんたう) 太子堂(たいしたう) 太神宮(たいしんくう) 本地大日如来(ほんちたいにちによらい) 吉祥天(きちしやうてん)祠 天満宮(てんまんくう)》
《割書:鬼子母神(きしもしん) 十羅刹女(しうらせつによ)祠 虚空蔵堂(こくうさうたう) 遮軍神(しやくんしん)祠 結神(むすふのかみ)祠 役小角(えんのきやうしや) 三仏堂(さんふつたう)|子安明神(こやすみやうしん) 疱瘡神(はうさうかみ) 粟島明神(あはしまみやうしん) 石地蔵尊(いしちさうそん) 秋葉権現(あきはこんけん) 六所明神(ろくしよみやうしん) 荒神宮(くわうしんくう)》
《割書:弁才天(へんさいてん)祠 地蔵堂(ちさうたう) 観音堂(くわんおんたう) 勢至堂(せいしたう) 稲荷(いなり)祠|前不動(まゑふとう) 楼門(ろうもん) 独鈷(とくこ)の滝(たき) 鷹居(たかすゑ)の松(まつ) 名産飴屋(めいさんあめや)》 虚無僧寺(こむそうてら)《割書:東昌(とうしやう)|寺(し)》
大鳥明神(おほとりみやうしん)社 金毘羅権現(こんひらこんけん)社 千代(ちよ)ゕ崎(さき)《割書:絶景(せつけい)|観(くわん)》 長泉律院(ちやうせんりつゐん)
祐天寺(いうてんし)《割書:鐘楼(しゆろう) 円光大師堂(えんくわうたいしたう) 経蔵(きやうさう) 弥陀堂(みたたう)|二王門(みわうもん) 開山廟(かいさんひやう) 寺宝(しはう)》 碑文谷法華寺(ひもんやほつけし)【https://honkoku.org/app/#/transcription/54EDE8C36E1921B7E9D2861EB992C75A/2/】
《割書:観音堂(くわんおんたう) 榎木(えのき)|二王門(にわうもん)》 碑文谷八幡宮(ひもんやはちまんくう) 奥沢浄真寺(おくさわしやうしんし)《割書:世(よ)に九品(くほん)|仏(ふつ)といふ》 《割書:本堂(ほんたう)|地蔵尊(ちさうそん)》
《割書:開山珂碩(かいさんかせき)上人 像(さう) 曼荼羅堂(まんたらたう) 中品堂(ちゆうほんたう) 上品堂(しやうほんたう) 下品堂(けほんたう) 開山堂(かいさんたう)|開山廟(かいさんひやう) 星(ほし)の井(ゐ) 鐘楼(しゆろう) 楼門(ろうもん) 寺宝(しはう) 開山略伝(かいさんりやくてん)》
大平山(おほひらやま) 満願寺(まんくわんし)広沢先生之墓(くわうたくせんせいのはか) 赤坂御門(あかさかこもん)
赤坂氷川明神(あかさかひかはみやうしん)社 古呂故天神(ころこてんしん)社 竜泉寺(りうせんし) 《振り仮名:一ッ木弁天堂|ひとつきへんてんたう》
浄土寺(しやうとし) 専修寺(せんしゆし) 一木原(ひとつきかはら) 種徳寺(しゆとくし)狩野興意墓(かのこうゐのはか)
今井古城址(いまゐこしやうのあと) 赤根山(あかねやま) 円通寺旧跡(えんつうしきうせき) 玉窓寺(きよくそうし)
鳳閣寺(ほうかくし) 梅窓院泰平観音堂(はいそうゐんたいへいくわうおんたう)《割書:羅漢堂(らかんたう) 鯨鐘(けいしやう) 拾(ひろ)ひ桜(さくら)|楔地蔵尊(くさひちさうそん) 百済稲荷(くたらいなり) 虚空蔵堂(こくうさうたう)》
海蔵寺(かいさうし) 熊野権現(くまのこんけん)社 心見観音堂(こゝろみくわんおんたう) 善光寺(せんくわうし)《割書:信州善光寺(しんしうせんくわうし)|宿寺(しゆくし)》
《割書:観音堂(くわんおんたう)| 》 斥候塚(ものみつか) 笄橋(かうかいはし) 渋谷長者墳墓(しふやちやうしやのふんほ)
通明観(つうめいくわん) 長谷寺(ちやうこくし) 渋谷氷川明神(しふやひかはみやうしん)社 室泉寺(しつせんし)
金王麻呂守仏観音(こんわうまろまもりふつくわんおん) 鶴(つる)ゕ谷(や) 朝霧(あさきり)ゕ滝(たき)
渋谷八幡宮(しふやはちまんくう)《割書:矢拾観音(やひろひくわんおん) 子安薬師(こやすやくし)|金王桜(こんわうさくら) 什宝(しうはう)》 金王麻呂影堂(こんわうまろえいたう)
同産湯水(おなしくうふゆのみつ) 河崎高重宅旧址(かはさきたかしけのたくきうし) 姉尾光景旧館地(あねおみつかけきうくわんのち)《割書:駒繋松(こまつなきまつ)| 》
甘露水(かんろすゐ) 玉池(たまいけ) 神仙水(しんせんすゐ) 富士見坂(ふしみさか)《割書:富士見(ふしみ)|橋(はし)》
道玄坂(たうけんさか) 同 物見松(ものみのまつ) 駒場野(こまはの)《割書:蛇池(へひいけ)|鐘鋳松(かねゐのまつ)》 去我苦塚(さるかくつか)
土器塚(かはらけつか) 足毛塚(あしけつか) 氷川明神(ひかはみやうしん)社 天満宮(てんまんくう)
北沢淡島明神(きたさはあはしまみやうしん)社 池尻村祖師堂(いけしりむらそしたう) 子明神(ねのみやうしん)社 馬牽沢旧跡(むまひきさはのきうせき)
若宮八幡宮(わかみやはちまんくう)《割書:田中弁才天(たなかへんさいてん)祠| 》 円禅寺(えんせんし) 常光寺(しやうくわうし)
常盤橋(ときははし) 豪徳禅寺(かうとくせんし)《割書:臥竜桜(くわりうのさくら) 鐘楼(しゆろう) 照心堂(しやうしんたう) 古石灯篭(こいしとうろう)|開基碑(かいきのひ) 碧雲関(へきうんくわん) 清涼橋(せいりやうきやう) 境内十勝(けいたいしつしやう)》
吉良氏古城址(きらうちこしやうのあと)《割書:富士(ふし)|見松(みまつ)》 宮坂八幡宮(みやさかはちまんくう)《割書:愛縁薬師(あいえんやくし) 吉良氏古塋(きらうちのこえい)|広戸正之碑(ひろとまさゆきひ)》 実相院(じつさうゐん)《割書:学翁斎古碑(かくおうさいのこひ)|当山開闢石塔(たうさんかいひやくせきたふ)》
弦巻郷(つるまきのかう) 世田谷八幡宮(せたかやはちまんくう) 竜華山永安寺(りうけさんえうあんし)《割書:竜華樹(りうけしゆ)|石井氏移塋碑(いはゐうちゐえいのひ)》
氷川明神(ひかはみやうしん)社 帯刀先生義賢之墓(たてはきせんしやうよしかたのはか)《割書:太神宮(たいしんくう)|同 神木老松(しんほくらうしよう)》 石井神社(いはゐのしんしや)
吉祥院(きちしやうゐん) 観音寺(くわんおんし) 慶元寺(けいけんし) 天神(てんしん)の森(もり)
北見村除蝮蛇神符(きたみむらまむしよけのしんふ) 祷善寺(とうせんし)《割書:宿薬師(しゆくやくし)| 》 氷川明神(ひかはみやうしん)社
江戸遠江守旧館地(えととほ〳〵みのかみきうくわんのち) 泉竜寺(せんりうし)《割書:霊泉(れいせん)|経塚(きやうつか)》 広福寺(くわうふくし)
稲毛重成墓(いなけしけなりのはか) 韋駄天宮(いたてんのみや) 升形山(ますかたやま) 飯室山(いゐむろやま)《割書:七面富士(しちめんふし)|浅間(せんけん)祠》
《割書:長者穴(ちやうしやかあな)| 》 長森稲荷(なかもりいなり)社 雪(ゆき)ゕ坂(さか) 薬師堂(やくしたう)
大師穴(たいしあな) 五所権現(こしよこんけん)社 妙楽寺七面山(みやうらくししちめんさん) 杉山明神(すきやまみやうしん)社
稲毛薬師堂(いなけやくしたう)《割書:影向石(えうかうせき)| 》 十三塚(しふさんつか) 舟田(ふなた)
橘明神(たちはなみやうしん)社《割書:右近屋敷(うこんやしき)|左近(さこん)屋敷》 同 神廟(しんひやう) 大戸明神(おほとみやうしん)社
登戸宿(のほりとのしゆく) 同 渡(わたし) 最明寺(さいみやうし) 寿源寺(しゆけんし)
小杉御殿地(こすきこてんのち) 山王権現(さんわうこんけん)社 羽黒権現(はくろこんけん)社 丸子渡口(わりこのわたし)
四谷(よつや) 牛頭天王(こつてんわう)社 鬼子母神堂(きしもしんたう) 戒行寺(かいきやうし)《割書:分身鬼子(ふんしんきし)|母神(もしん)》【https://honkoku.org/app/#/transcription/85CA6CEFEA396E80C0039E30C25404BB/2/】
汐干観世音(しほひくわんせおん) 忍原(おしはら) 篠寺(さゝてら) 四谷 大木戸(おほきと)《割書:桜川(さくらかは)| 》
内藤新宿(ないとうしんしゆく) 大宗寺(たいそうし)《割書:六地蔵(ろくちさう)|二番目(にはんめ)》 天竜寺(てんりうし)《割書:一里塚(いちりつか)| 》 鮫河橋(さめかはし)
一行院(いちきやうゐん) 古仏弥陀銅像(こふつみたのとうさう) 吾妻堤(あつまつゝみ) 千駄谷太神宮(せんたかやたいしんくう)
遊女(いうしよ)の松(まつ)《割書:寂光寺|境内》 仙寿院(せんしゆゐん)《割書:新日暮(しんひくらしの)| 》 竜岩寺(りうかんし)《割書:庭中(ていちう)|笠松(かさまつ)》 千駄谷 観音堂(くわんおんたう)
千駄谷 八幡宮(はちまんくう)《割書:鈴懸松(すゝかけまつ)| 》 代々木野八幡宮(よゝきのはちまんくう) 鞍懸松(くらかけまつ)
代太橋(たいたはし) 高井戸(たかゐと) 鬼子母神堂(きしもしんたう) 布多(ふた)の里(さと)
布多天神(ふたてんしん)社 虎柏神社(とらかしはのしんしや) 祇園寺(きおんし)《割書:薬師堂(やくしたう)| 》 狛江入道旧館地(こまえにうたうきうくわんのち)
《割書:里(さと)の稲荷(いなり)| 》 青渭神社(あほゐのしんしや) 青渭堤(あほゐつゝみ)
深大寺(しんたいし)《割書:元三大師堂(くわんさんたいしたう) 五大尊石(こたいそんせき) 要石(かなめいし) 鐘楼(しゆろう) 亀島弁才天(かめしまへんさいてん)祠 毘沙門天吉祥天(ひしやもんてんきちしやうてん)社|深砂大王(しんしやたいわう)社 同 影向池(えうかうち) 剣立石(けんたちいし) 福満童子(ふくまんとうし)祠 仁王塚(にわうつか) 深大寺蕎麦(しんたいしそは)》
難波田弾正城址(なんはたたんしやうのしろあと) 深大寺城址(しんたいしのしろあと) 国分寺(こくふんし)《割書:薬師堂(やくしたう) 二王門(にわうもん) 二王門旧跡(にわうもんきうせき)|層塔旧跡(そうたふのきうせき) 古瓦(こくわ) 国分寺碑(こくふんしひ)》
《割書:同 伽藍旧跡(からんのきうせき)| 》 富士見塚(ふしみつか) 国分寺村炭竃(こくふんしむらすみかま) 阿弥陀坂(あみたさか)《割書:阿弥陀堂(あみたたう)| 》
恋(こひ)ゕ窪(くほ)《割書:牛頭天王(こつてんわう)| 》 傾城(けいせい)ゕ松(まつ) 武蔵野(むさしの) 武蔵野翁(むさしのおきな)
紫草(むらさき) 逃水(にけみつ) 八はた八幡宮(はちまんくう)《割書:権(こん)の|匠(かみ)》 滝(たき)の社(やしろ)
石塚社(いしつかのやしろ) 府中駅舎(ふちゆうのむまやち) 六所明神(ろくしよみやうしん)社《割書:本地堂(ほんちたう) 神輿庫(みこしくら)|阿弥陀鉄像(あみたてつそう) 護摩堂(こまたう)》【https://honkoku.org/app/#/transcription/33C3110BB079CAF6C9A50455E062A887/2/】
《割書:御宮(おんみや) 注連樹(しめのき) 随身門(すゐしんもん) 宮之姫社(みやのめのやしろ) 馬場(はゝ) 馬市(むまいち) 制札(せいさつ)|競馬(くらへむま) 神楽(かくら) 大神事(たいしんし)同 図(つ) 御田植神事(おんたうゑのしんし)同 図(つ) 天下泰平神事(てんかたいへいのしんし) 小祭(こまつり)》
《割書:天下泰平神事(てんかたいへいしんし)|田面神事(たのものしんし)》 六所宮 御旅所(おたひしよ) 御田(みた) 妙光院(みやうくわうゐん)《割書:什宝(しふはう)| 》
安養寺(あんやうし) 武蔵国造兄武日命殿館旧跡(むさしのくにのみやつこえたけひのみことてんくわんのきうせき) 是政村(これまさむら)
善明寺(せんみやうし) 津保宮(つほのみや) 分倍河原(ふんはいかはら)《割書:首塚(くひつか)|胴塚(とうつか)》 三千人塚(さんせんにんつか)
代小川(しろこかは) 陣街道(ちんかいたう) 小野宮村(おのゝみやむら) 小野神社旧址(おのゝしんしやのきうし)
《割書:欅古樹(けやきのこしゆ)| 》 神道(しんたう) 小野牧(おのゝまき) 称名寺(しやうみやうし)
高安禅寺(かうあんせんし)《割書:秀郷霊祠(ひてさとのれいし) 弁慶硯(へんけいすゝり)の井(ゐ)|観音堂(くわんおんたう)》 弥勒寺(みろくし)《割書:津戸規継墓(つとのりつくはか)| 》
谷保天神(やふてんしん)社《割書:常盤(ときは)の清水(しみつ) 本地堂(ほんちたう)|道武朝臣霊社(みちたけあそんのれいしや)》 清水立場(しみつたては)
菅原道武朝臣旧館地(すかはらのみちたけあそんきうくわんのち) 仮家坂(かりやさか) 安楽寺(あんらくし)
日野津(ひのゝつ) 普済禅寺(ふさいせんし)《割書:六面(ろくめん)|塔(たふ)》 八幡宮(はちまんくう) 万願寺(まんくわんし)
諏訪社(すはのやしろ) 多磨川(たまかは) 同 猟鮎(あゆかり) 高幡金剛寺不動堂(たかはたこんかうしふとうたう)
《割書:服石(ふくいし) 二王門(にわうもん)|総門(さうもん) 鼻井(はなのゐ)》 木切沢(ききりさは) 番匠谷(はんしやうかやつ) 別旅明神(わかたひみやうしん)
平維盛之墓(たひらのこれもりのはか) 松蓮禅寺(しようれんせんし)《割書:古経筒(こきやうつゝ) 升井(ますゐ)|八国見(やくにみ)》 二王塚(にわうつか)
百草八幡宮(もゝくさはちまんくう) 一宮大明神(いちのみやたいみやうしん)社 一本榎(いつほんえのき) 横溝八郎墳墓(よこみそはちらうのふんほ)
小山田関旧址(おやまたのせききうし)《割書:関戸(せきと)| 》 延命寺(えんめいし) 城山(しろやま) 天守台(てんしゆたい)
沓切坂(くつきりさか) 赤坂台(あかさかたい) 平台(ひらたい)《割書:甚兵衛松(しんひやうゑまつ)| 》 明覚寺(みやうかくし)
小沢小太郎居宅旧地(こさはこたらうきよたくのきうち) 威光寺(ゐくわうし) 国安明神(くにやすみやうしん)祠
穴沢天神(あなさはてんしん)社 小沢城址(こさはのしろあと) 向(むかひ)の岡(おか) 都筑(つつき)の岡(おか)
青沼明神(あほぬまみやうしん)社 寿福禅寺(しゆふくせんし)《割書:本堂(ほんたう) 鐘(かね) 弥陀堂(みたたう) 鎮守宮(ちんしゆのみや) 方丈(はうしやう)|指月橋(しけつきやう) 餐霞谷(そんかこく) 採薬阜(さいやくふ) 攫霧松(かくむしよう)》
展翼峰(てんよくほう) 浅間山(せんけんやま) 吐玉泉(ときよくせん) 法泉寺(ほうせんし)《割書:薬師堂(やくしたう)| 》
【左ページ】
日吉山王神社(ひよしさんわうのしんしや)
【表紙】
【題簽】
《題:江戸名所図会 十》
【見返し】
【赤印】東京学芸図書
【左丁】
【赤四角印】尾崎蔵書
【赤丸印】しみづさい
【整理番号】東京学芸大学竹早分館蔵書 01391
291,36 Sa25
【本文】
武蔵野国総社六所明神社(むさしのくにさうしやろくしよみやうしん ) 府中駅路(ふちゆうえきろ)の左側(ひたりかは)にあり延喜式内(えんきしきない)大(おほ)
麻止乃豆乃天神社(まとのつのてんしんのやしろ)是(これ)なり後世(こうせい)に至(いた)りて同く式内(しきない)小野神社(をのゝしんしや)を
合(あは)せ祭(まつ)る故(ゆゑ)に今(いま)両社(りやうしや)一 社(しや)の称(しよう)あり神主(かんぬし)は猿渡氏(さるわたりうち)其余(そのよ)社司(しやし)
社僧(しやそう)等(とう)奉祀(ほうし)す
本社祭神(ほんしやさいしん) 大已貴命(おほなむちのみこと)【注】 相殿(あひてん) 素盞嗚尊(そさのをのみこと) 伊弉冊尊(いさなみのみこと)
瓊々杵尊(にゝきのみこと) 大宮女大神(おほみやひめのおんかみ) 布留太神(ふるのおんかみ)《割書:以上(いしやう)六神(ろくしん)これを俗(そく)に|六所明神(ろくしよみやうしん)と称(しよう)せり》
天下春命(あまのしたはるのみこと) 瀬織津比咩命(せおりつひめのみこと) 稲倉魂大神(うかのみたまおんかみ)《割書:以上(いしやう)三神(さんしん)これを客来(きやくらい)|三所の御神と称(しよう)せり》
《割書:すへて九神 合(あは)せて共 六所宮(ろくしよのみや)と称(しよう)す此三神の事は一宮と小野神社(おのゝしんしや)との条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》
延喜式神名記曰 武蔵国多磨郡八座
大麻止乃豆乃天神社云々
武蔵国風土記曰 多摩郡
大麻止乃智天神 圭田六十七束六毛田
所祭大巳貴命【注】也安閑天皇乙卯始奠宮社花時以
花祭之新稲之時以新稲祭之云云
東鑑曰 治承六年八月十一日己酉及晩御台所有
御産気武衛渡御中略為御祈祷被立奉幣御使於
伊豆筥根両所権現并近国宮社 武蔵六所宮
葛西三郎云云
【注 「大已貴命」「大巳貴命」は「大己貴命」の誤】
【右丁】
府(ふ)
中(ちゆう)
六(ろく)
所(しよの)
宮(みや)
小野宮(おのゝみや)と分倍(ふんはい)の境(さかひ)府中(ふちゆう)
より関戸(せきと)へ行道(ゆくみち)は
往昔(むかし)奥州(あうしう)より鎌倉(かまくら)
への通路(つうろ)にしてこれを
陣海道(ちんかいたう)と称(しようし)はへる
は元弘(けんかう)より永享(えいきやう)
の間(あひた)屡(しは〳〵)戦争(せんさう)の地(ち)
にてありし
かはかくは
字(あざな)せる
と
なり
相州街道
【四角囲い文字】
けやき
銀杏
御宮
社家
本社
弁天
惣行寺
木馬
御供所
本地堂
拝殿
榊
みこし蔵
社家
【枠外】 十ノ冊 三ノ百七十七
【左丁】
此辺旅店
【四角囲い文字】
番や
注連樹
古仏阿弥陀
ごま堂
松尾
隺石
随身門
亀石
神主
【右丁】
当社(たうしや)随身門(すゐしんもん)より
外(そと)の列樹(れつしゆ)には鵜(う)
或は鷺(さき)其(その)余さま〳〵
の水禽(みつとり)巣(す)を作(つく)り
栖(すとつ)す日毎(ひこと)に品川等(しなかはとう)の海浜(かいひん)
より其巣(そのす)へ運(はこ)ひ其雛(そのひな)を
育(いく)せり然(しか)れとも随身門(すゐしんもん)より
内(うち)へは一羽(いちは)といへとも入事(いること)なき
を当社(たうしや)七 奇事(きじ)の一とす又
寒中(かんちゆう)に至(いた)れは一羽も宿(やど)る
事(こと)なく翌(あく)る年(とし)の寒明(かんあけ)に
至(いた)り 又 来(きた)つてねくらせり
甲州街道
【四角囲い文字】
土俵
宮之姫
祢冝
制札
二ノ鳥井
一ノ鳥井
【枠外】 三ノ百七十八
【左丁】
同書曰 寛喜四年二月二十四日武蔵国六所宮拝
殿破壊有修造之儀武蔵左衛門尉資頼奉行之云々
本地堂(ほんちたう)《割書:本社(ほんしや)の左(ひたり)にあり中尊(ちゆうそん)は釈迦如来(しやかによらい)左右(さいう)に正観音(しやうくわんおん)と地蔵尊(ちさうそん)とを安置(あんち)す|社僧(しやそう)六箇寺(ろくかし)にてこれをあつかる年中(ねんちゆう)恒例(かうれい)神事等(しんしとう)の節(せつ)は拝殿(はいてん)において》
《割書:大般若経(たいはんにやきやう)転読(てんとく)し此堂(このたう)に|おいても法楽(はうらく)修行(しゆきやう)せり》神輿庫(みこしくら)《割書:同(おな)し並(ならひ)にありて神輿(みこし)八 基(き)を収(をさ)む其内(そのうち)二 神(しん)|一 基(き)のものあり故(ゆゑ)に九 基(き)ならす社司([し]やし)神(しん)》
《割書:秘(ひ)と|す》阿弥陀如来鉄像(あみたによらいのてつさう)《割書:同左に並(なら)ふ高(たかさ)七尺はかりの座像(ささう)なり上に仮(かり)そめの雨(あま)|覆(おひ)の堂(たう)を建(たて)たり仏像(ふつさう)の肩(かた)に銘文(めいふん)あり文字(もんし)は高(たか)く鋳(ゐ)》
《割書:上(あけ)たり又同し膝(ひさ)に藤原氏(ふちはらうち)と二所まて同し文字(もんし)を鋳上(ゐあけ)にせり里諺(りけん)に云くむかし|秩父庄司(ちゝふのしやうし)重忠(しけたゝ)愛妓(あいき)の菩提(ほたい)の為(ため)に造立(さうりふ)するといひ傳(つた)へて其先(そのせん)《振り仮名:恋ゕ窪村|こひ くほむら》の地(ち)今(いま)阿弥(あみ)|陀坂(たさか)といふにありしを後(のち)こゝにうつすと云(いふ)といへとも妄譚(まうたん)なり次(つき)に挙(あけ)たる銘文(めいふん)を読(よみ)|得(え)て重忠(しけたゝ)の造立(さうりふ)にあらさるをしるへし重忠(しけたゝ)は元久(けんきう)二年 武蔵国(むさしのくに)二俣河(ふたまたかは)において誅(ちゆう)に|伏(ふく)せり建長(けんちやう)五年は元久(けんきう)二年より四十八年を歴(へ)たる後(のち)の年号(ねんかう)なり證(しやう)とすへし又云 或(ある)|人(ひと)の説(せつ)に此(この)銅像(とうさう)は当国(たうこく)の国分(こくふん)寺に安置(あんち)のものにしてむかし賊(そく)の為(ため)に盗(ぬす)まれたりしを|此處(このところ)に捨置(すておき)たりしよりこゝに安置(あんち)すともいへり其文(そのふん)左(さ)の如(こと)し》
大勧進念阿弥陀仏明蓮大士藤原助近
右志者過去二親并行巌▢新発意乃至
法界衆生平等利益奉鋳一丈二尺仏身
也
建長五年癸丑二月十八日丙寅彼岸初日
護摩堂(こまたう)《割書:同(おな)し並(ならひ)にあり不動尊(ふとうそん)の像(さう)を|安置(あんち)す社僧(しやそう)明王院(みやうわうゐん)これをあつかる》御供所(こくうしよ)《割書:本社(ほんしや)の前(まへ)|右(みき)にあり》
東照大権現宮(とうしやうたいこんけんくう)《割書:本社(ほんしや)の右(みき)に安座(あんさ)す元和(けんわ)|四年戊午御 創建(さうこん)といふ》注連樹(しめき)《割書:本社(ほんしや)の後(うしろ)蒼林(さうりん)の中(うち)にあり欅(けやき)の|枯株(こちゆう)にして《振り仮名:数十囲|す ゐ》あり相傳(あひつた)ふ》
【右丁】
《割書:上古(しやうこ)国造(くにつくり)此所(こゝ)より社参(しやさん)ありし項(ころ)門戸(もんこ)のありし址(あと)|なる故(ゆゑ)に注連(しめ)を引(ひき)はへたりしよりかくは号(なつ)くといへり》随身門(すゐしんもん)《割書:櫛岩間戸命(くしいわまとのみこと)|豊岩間戸命(とよいわまとのみこと)》
《割書:の木像(もくさう)を|安置(あんち)せり》宮之姫社(みやのめのやしろ)《割書:随身門(すゐしんもん)の前(まへ)左の方の林間(りんかん)にあり祭神(さいしん)須勢理比咩(すせりひめの)|命(みこと)奇稲田比咩命(くしいなたひめのみこと)木花開耶比咩命(このはなさくやひめのみこと)以上(いしやう)三神(さんしん)にして》
《割書:本社(ほんしや)の后妃(きさき)の神なり例年(れいねん)七月十二日十三日 近邑(きんいう)の神職(しんしよく)来(きた)り集(あつま)りて社前(しやせん)に|おいて神楽(かくら)を奏(さう)すむかし鎌倉時世(かまくらしせい)頼朝卿(よりともきやう)下知(けち)ありてより此(この)神事(しんし)を執行(しゆきやう)すると|なり頼朝卿(よりともきやう)の下知状(けちしやう)は天正(てんしやう)の兵火(ひやうか)に亡(ほろ)ひたりといへり》
馬場(はゝ)《割書:二の華表(とりゐ)の内(うち)左右(さいう)森(もり)の外(ほか)にあり東(ひかし)の方の一條(いちてう)を《振り仮名:■馬|せんは》【注①】といひ西(にし)の方の|一条(いちてう)を欠馬(かけは)といふ又大門 甲州街道(かうしうかいたう)を隔(へた)てゝ北(きた)の方一の華表(とりゐ)の内(うち)の左右(さいう)》
《割書:にも二條(にてう)の馬場(はゝ)あり慶長年間(けいちやうねんかん)大坂(おほさか)御勝利(こしやうり)の後(のち)御寄附(こきふ)ありしより後世(かうせい)《振り仮名:■馬|せんは》|欠馬(かけは)等(とう)の馬場(はゝ)の地(ち)多(おほ)くは社司(しやし)の住居(ちゆうきよ)となりてわつかに其形(そのかたち)を存(そん)するのみされと|《振り仮名:■馬|せんは》欠馬(かけは)等(とう)の馬場(はゝ)の地(ち)は古(いにしへ)牧(まき)の駒(こま)をえらひたりし旧跡(きうせき)なりといふ》
馬市(うまいち)《割書:毎歳(まいさい)五月三日に始(はしま)りて九月 晦日(みそか)に終(をは)るを定規(ちやうき)とす社前(しやせん)大路(おほち)の傍(かたはら)に制(せい)|札(さつ)を建(たて)て以(もつて)警(けい)す此地(このち)の馬市(うまいち)はむかし国造(こくそう)の在(いま)せし頃(ころ)毎歳(まいさい)牧(まき)の馬(うま)を取(とり)》
《割書:其(その)良(りやう)二十五 匹(ひき)をえらひて是(これ)を 帝闕(ていけつ)に献(けん)すしかして後(のち)諸国(しよこく)より牽来(ひききた)る|所(ところ)の馬(うま)を集(あつめ)て人民(にんみん)市(いち)をなすとなり此(この)馬市(うまいち)享保年間(きやうほねんかん)に止(やみ)て其後(そのゝち)は江戸(えと)|浅草(あさくさ)の藪(やふ)の内(うち)と麻布十番(あさふしふはん)との二所へ引(ひか)れたり然(しか)りといへとも御佳例(こかれい)の馬市(うまいち)|なれはとて今(いま)も江戸 馬口労頭(はくらうかしら)高木(たかき)源兵衛 山本(やまもと)傳左衛門 毎年(まいねん)当社(たうしや)に|詣(まうて)此所(このところ)の馬場(はゝ)において給はる所の御 馬(うま)に乗(しやう)し旧式(きうしき)をなして後(のち)社内(しやない)に安座(あんさ)|なし奉(たてまつ)れる》
東照大権現宮(とうしやうたいこんけんくう)へ参詣(さんけい)す
制札(せいさつ)《割書:社前(しやせん)大路(たいろ)の入口(いりくち)にあり|慶長年間(けいちやうねんかん)に建(たて)らるゝと云》
【枠外】 三ノ百七十九
【左丁】
【制札の文】
掟
一此所において馬町立之事
五月三日駒くらへより初め
九月晦日を限るへし
称堅此おもむきを相守
へし若違背之輩
於有之者曲事たるへき
者也仍下知如件
月日 奉行
【本文】
競馬(くらへうま)《割書:毎歳(まいさい)五月三日の夜(よ)六所宮(ろくしよのみや)の御旅所(おんたひしよ)の前(まへ)甲州街道(かうしうかいたう)府中(ふちやう)番場宿(はんはしゆく)の大路(おほち)において|駒役(こまやく)の者(もの)十二 疋(ひき)の駒(こま)に乗(しやう)し燈火(ともしひ)を消(け)して後(のち)暗夜(あんや)に乗競(のりくら)ふ此夜(このよ)社家(しやけ)の》
《割書:輩(ともから)撿使(けんし)として御 旅所(たひしよ)の|傍(かたはら)なる仮屋(かりや)に伺候(しこう)す》神楽(かくら)《割書:同月四日 拝殿(はいてん)|に於(おい)て修行(しゆきやう)す》大神事(たいしんし)《割書:同五日に修行(しゆきやう)す当社(たうしや)の|御神(おんかみ)出現(しゆつけん)鎮座(ちんさ)の辰(しん)なる故(ゆゑ)に》
《割書:殊(こと)に恐(おそ)れかしこみ神官(しんくわん)各(おの〳〵)四月二十五日 品川(しなかは)の海浜(かいひん)に至(いた)りてみそきし其日(そのひ)より禁足(きんそく)|して斉(いみ)に籠(こも)る当日(たうしつ)は終日(しうしつ)神楽(かくら)を執行(しゆきやう)す黄昏(たそかれ)におよひ社家一統(しやけいつとう)神主(かんぬし)の宅(たく)に集会(しふくわい)す|其後(そのゝち)神殿(しんてん)に至(いた)り神勇(かみいさめ)の大祝詞(おほのつと)を捧(さゝ)け終(をはり)て燈火(ともしひ)を消(けし)暗(くらやみ)となして神輿(みこし)をわたし|奉(たてまつ)る神輿(みこし)八 基(き)の内(うち)七 基(き)は二の華表(とりゐ)の前(まへ)より甲州街道(かうしうかいたう)の大路(おほち)を西(にし)へ渡(わた)しまゐらす|一 基(き)は随身門(すゐしんもん)の前(まへ)より左(ひたり)にわかれ府中(ふちゆう)本町の方(かた)より出(いて)てともに番場宿(はんはしゆく)の角札|辻の御 旅所(たひしよ)へ遷(うつ)しまゐらす此間(このあひた)社家(しやけ)の輩(ともから)馬(うま)に乗(しやう)し下河原(しもかはら)に鎮座(ちんさ)の津保宮(つほのみや)に至(いた)り|深秘(しんひ)の神事(しんし)ありて大幣(おほぬさ)を捧(さゝ)け帰(かへ)り来(きたり)て御 旅所(たひしよ)に入(いり)奉幣(ほうへい)の式(しき)あり神事(しんし)終(をはし)て|神主(かんぬし)猿渡氏(さるわたりうち)農夫(のうふ)野口(のくち)といへるか家(いへ)に仮家(かりや)を■(まふけ)【注②】たるに至(いた)り古例(これい)の祝事(しゆくし)をなせり|相傳(あひつた)ふ此(この)野口(のくち)と称(とな)ふる家(かへ)は往古(そのかみ)大巳貴命(おほなむちのみこと)【注③】始(はしめ)て出現(しゆつけん)の時(とき)一夜(いちや)この家(いへ)にとゝまり|たまひしとなり又同し農家(のうか)岡野(をかの)といへるは其夜(そのよ)門戸(もんこ)を閉(とち)て深(ふか)く慎(つゝし)み居(ゐ)る事》
【注① ■は「糸+日」。「細」の誤ヵ】
【注② ■は「亻+設」。「儲」「設」の誤ヵ】
【注③ 「大己貴命」の誤】
【右丁】
《割書:旧例(きうれい)なり此家(このいへ)は大巳貴命(おほなむちのみこと)出現(しゆつけん)の時(とき)宿(やと)を求(もとめ)たまひしかと思(おも)ひの事ありて一家|穢(けか)れはへりしかは辞(し)し申せし事の古(ふる)き例(ためし)を改(あらため)すしてかくするといへり御 旅所(たひしよ)の|神事(しんし)旧式(きうしき)こと〳〵く終(をは)りて祢宜(ねき)本社(ほんしや)に帰(かへ)り還幸(くわんかう)の■(まうけ)【注】をなせり神主(かんぬし)は神馬(しんめ)に|乗(しやう)し御 旅所(たひしよ)の前(まへ)において流鏑馬(やふさめ)を行(おこな)ふ終(をは)りて太鼓(たいこ)を打(うち)ならせはすへて社壇(しやたん)|より市店(してん)に至(いた)る迄 一時(いちし)に燈火(ともしひ)を点(てん)する事 先(さき)の闇(くら)きに引(ひき)かへて尤(もつとも)めさまし神(かん)|主(ぬし)は馬上(はしやう)にて前驅(せんく)たり帰輿(きよ)に及(およ)むて二鳥居(にのとりゐ)の左右(さいう)と本社(ほんしや)の前(まへ)随身門(すゐしんもん)の前(まへ)西(にし)の》
《割書:馬場(はゝ)欠場(かけは)の方(かた)へ至(いた)るの間(あひた)等(とう)すへて四箇所(しかしよ)にて篝火(かゝりひ)を焚(たき)て白昼(はくちう)の|如(こと)し又(また)神輿(しんよ)供奉(くふ)の道路(たうろ)を照(てら)す所(ところ)の挑灯(ちやうちん)尤(もつとも)多(おほ)くして実(しつ)に壮観(さうくわん)たり》御田植神(おんたうゑのしん)
事(し)《割書:同六日に修行(しゆきやう)す祠後(ほこらのうしろ)百 歩(ほ)あまりを隔(へた)てゝ南(みなみ)の方(かた)の稲田(いなた)においてこれを|行(おこな)ふ此日(このひ)当国(たうこく)の人民(にんみん)当社(たうしや)に詣(まうて)神田(しんてん)の豊熟(ほうしゆく)我上におよはむ事を願(ねか)ふか》
《割書:故(ゆゑ)に秧(なへ)を持(し)し来(きた)りて田上に集(あつま)り一朝(いつちやう)に挿(うゑ)終(をは)りて後(のち)或(あるひ)は躍(おと)り或(あるひ)は角力(すまふ)を|催(もよほ)し其興(そのきやう)とり〳〵なり依(よつて)秧(なへ)こと〳〵く泥(とろ)に浸(ひた)すといへとも明旦(あした)に至(いた)れは勃然(ほつせん)として|起(おく)又(また)其種(そのたね)を異(こと)にすといへとも終(つひ)に穂(ほ)を同くし節(ふし)の進退(しんたい)により違(たかひ)あるも歳(とし)と|して順(しゆん)ならさる事なく水旱(すゐかん)蝗螟(くわうめい)の災(わさはひ)なし俗(そく)傳(つた)へて当社(たうしや)七 奇事(きし)の一とす》
天下泰平神事(てんかたいへいのしんし)《割書:六月廿日に修行(しゆきやう)す粟饙(あはのむらつひ)を供(くう)し神楽(かくら)を奏(そう)す康平(かうへい)五年|六月廿日 頼義(よりよし)義家(よしいへ)両公(りやうこう)奥州(あうしう)発向(はつかう)の時(とき)戦勝(せんしやう)ありしより》
《割書:此日(このひ)を以(もつ)て|祭(まつ)るといふ》小祭(こまつり)《割書:七月七日に修行(しゆきやう)す俗(そく)帷子祭(かたひらまつり)又は帷子市(かたひらいち)とも称(とな)ふるは古(いにしへ)此辺(このへん)多(おほ)く|麻布(あさのぬの)を製(せい)すを以(もつ)て産業(さんきやう)とす其頃(そのころ)此府(この’ふ)に出(いて)し国守(こくしゆ)の撰(えら[みヵ])ありて》
《割書:都(みやこ)に貢奉(みつきたてまつ)り其余(そのよ)のものをは此地(このち)にて交易(かうえき)せしなり中(なか)にも七月七日を専(もつは)らと》
《割書:せし故(ゆゑ)に此名(このな)|ありといへり》天下泰平神事(てんかたいへいのしんし)《割書:七月十二日十三日 両日(りやうしつ)の間(あひた)宮之姫社(みやのめのやしろ)と本社(ほんしや)とに|おいて神楽(かくら)を奏(さう)す前(まへ)の宮之姫の社(やしろ)の前(まへ)》
《割書:に詳(つまひらか)|なり》田面神事(たのものしんし)《割書:八月朔日 終日(しうしつ)神楽(かくら)を奏(さう)す参詣(さんけい)の輩(ともから)其年(そのとし)の豊熟(ほうしゆく)を|祈(いの)る此日(このひ)角力(すまふ)を興行(かうきやう)せり其余(そのよ)一 季(き)の間(あひた)の祭事(さいし)は尤(もつとも)多(おほ)く》
《割書:こと〳〵くこれを挙(あく)るに遑(いとま)あらすしてこゝに其(その)大概(たいかい)をしるすのみ》
社記曰(しやきにいはく) 景行天皇(けいかうてんわう)の四十一年辛亥五月五日 大巳貴命(おほあなむちのみこと)此(この)小野県(をのゝめゝく)に
【注 「亻+設」。「儲」「設」の誤ヵ】
【枠外】 三ノ百八十
【左丁】
五月
五日
六所(ろくしよの)
宮祭(みやさい)
礼之(れいの)
図(づ)
【幟旗】
六所宮御宝前 商人講中
六所宮
【提灯】
一宮
一宮
下村
下村
人見
下村
人見
【右丁】
【枠上】
其二
【提灯】
人具
上村
上村
下村
下村
【枠外】 三ノ百八十一
【左丁】
【提灯】
山
山
本
山
【右丁】
【枠上】
其三
【提灯】
六社御祭礼
【幟旗】
六所大明神 商人 講中
【枠外】 三ノ百八十二
【左丁】
【提灯】
二六
二六
あまみ
下の提灯
松
石原
石原
本若
花
本若
本若
【右丁】
六所宮(ろくしよのみや)
田植(たうゑ)
五月六日は御田植(おたうゑ)
の神事(しんし)にて武蔵(むさしの)
国(くに)の人民(しんみん)早苗(さなへ)を
携(たつさ)へ来(きた)りて神田(しんてん)に
是(これ)を挿(はさ)めり郷童(きやうとう)
白鷺(しらさき)の形(かた)の造(つく)り
物(もの)ある盖鉾(かさほこ)をさゝ
けてせんはいこうしの
傘(からかさ)と唄(うた)ひ舞(まへ)は又(また)
さすものはこれもの
と唄(うた)ひて今(いま)植並(うゑなら)
【枠外】 三ノ百八十三
【左丁】
し田(た)の中(なか)に下(くた)り立(たち)て
早苗(さなへ)を踏(ふみ)したきこひち
にまみれて踊舞(をとりまふ)故(ゆゑ)に
有(あり)しにも似(に)すひちの
中(なか)にしつみはへるか一夜(いちや)
のうちにいとめて度(たゝ)起(おき)
立(たち)て葉末(はすゑ)に露(つゆ)むすひ
なんとしてうるはしき事
かきりなし
【右丁】
出現(しゆつけん)神託(しんたく)あるにより祠(やしろ)を経営(けいえい)して里人(りしん)崇敬(そうけい)し奉(たてまつ)る《割書:大麻止乃豆乃(おほまとのつの)|天神(てんしん)是(これ)なり》
《割書:延喜式(えんきしき)大麻止乃豆(おほまとのつ)とし風土記(ふとき)大麻止乃知(おほまとのち)とす知(ち)と豆(つ)は通音(つうおん)なり又 大(おほ)|麻止(まと)を以(もつ)て於保麻止とし或は布止麻止多麻止なとさま〳〵に称(とな)へたり》其後(そのゝち)
成務天皇(しやうむてんわう)五年乙亥 兄多毛比命(えたけひのみこと)をして此地(このち)に国造(くにのみやつこ)たらしむ
《割書:天穂日命(あまのほひのみこと)の孫(そん)出雲臣祖(いつものおみのおや)名(なは)二井(ふたゐの)|宇迦諸忍之神狭命(うかもろおしのかんさのみこと)十世の孫(そん)なり》因(よつ)て茲(こゝ)に府(ふ)を開(ひら)き給ふ《割書:武蔵国(むさしのくに)の国造(こくそう)の権輿(はしめ)|にして府中(ふちう)の発(おこ)るもとなり》
又(また)大巳貴命(おほなむちのみこと)【ママ】は此地(このち)出現(しゆつけん)の霊神(れいしん)なれは是(これ)を崇(たうと)み其(その)祖神(そしん)なるを以(もつて)
素盞嗚尊(そさのをのみこと)を合祭(かうさい)し《割書:兄多毛比命(えたけひのみこと)は出雲(いつも)の臣(おみ)の裔(えい)なるを以(もつて)の故(ゆゑ)にして当社(たうしや)|祭神(さいしん)の内(うち)殊(こと)に素盞嗚尊(そさのをのみこと)を崇尊(そうそん)する事 神秘(しんひ)ありと云》
相殿(あひてん)に伊弉冊尊(いさなみのみこと)瓊々杵尊(にゝきのみこと)大宮女命(おほみやめのみこと)布留大神(ふるのおほんかみ)等(とう)の四神(ししん)を配(はい)
祀(し)し新(あらた)に此地(このち)に宮祠(きうし)を経営(けいえい)ありて圭田(けいてん)を附(ふ)して以(もつ)て国社(こくしや)となし
此(これ)を称(しよう)して六所宮(ろくしよみや)大麻止乃知天神(おほまとのちのてんしん)と云 又(また)天下春命(あめのしたはるのみこと)《割書:一宮(いちのみや)の祭神(さいしん)なり|其(その)条下(てうか)に詳(つまひらか)也》
瀬織津比咩(せおりつひめ)《割書:小野神社(をのゝしんしや)の祭神(さいしん)なり|其(その)条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》倉稲魂大神(うかのみたまのおほんかみ)《割書:小野神社(おのゝしんしや)|相殿(あひてん)の神(しん)なり》以上(いしやう)の三(さん)
神(しん)を六所宮(ろくしよのみや)の相殿(あひてん)に遷座(せんさ)なして客来三所(きやくらいさんしよ)と称(しよう)し奉(たてまつ)り是(これ)を
祭(まつ)るに国社(こくしや)の礼(れい)を以(もつて)す爾来(しかりしより)大麻止乃知天神(おほまとのちのてんしん)小野神社(をのゝしんしや)二社(にしや)合(かう)
祀(し)の社(やしろ)とはなりたりしなり 安閑天皇(あんかんてんわう)乙卯年に至(いた)りては春冬(しゆんとう)
【枠外】 三ノ百八十四
【左丁】
二 時(し)の祭祀(さいし)を行(おこな)はるる由(よし)旧史(きうし)にみえたり然(しかる)に星霜(せいさう)を歴(へ)て康平(かうへい)
五年に至(いた)り源頼義(みなもとのよりよし)義家(よしいへ)両公(りやうこう)奥州(おうしう)安倍貞任(あへのさたたう)宗任(むねたう)一族(いちそく)征伐(せいはつ)
発向(はつかう)の時(とき)当社(たうしや)に詣(まうて)給ひ軍(いくさ)の勝利(しようり)を祈願(きくわん)ありて夷賊(いそく)平治(へいち)
凱歌(かいか)の時(とき)報賽(はうさい)として一華表(いちのとりゐ)の内(うち)左右(さいう)両辺(りやうへん)に槻(つき)数株(すちゆう)を種(うゑ)し
めて以(もつて)成功(せいこう)を謝(しや)し奉(たてまつ)る《割書:其(その)列樹(れつしゆ)今(いま)|猶(なほ)存(そん)す》治承(ちしやう)四年 右大将(うたいしやう)頼朝公(よりともこう)当社(たうしや)に
詣(まう)て請祷(しやうたう)し大(おほい)に戦勝(せんしよう)の功(こう)あり文治年間(ふんちねんかん)宮社(きうしや)を再興(さいかう)し又
寿永(しゆえい)年間(ねんかん)継嗣(けいし)を求(もと)め頼家公(よりいへこう)を■(まう)【注】く葛西三郎清重(かさいさふらうきよしけ)を
して神器(しんき)を献(けん)せしむ《割書:寛喜(くわんき)四年にも武蔵左衛門尉資頼(むさしさゑもんのしやうすけより)を|奉行(ふきやう)として当社(たうしや)破壊(はゑ)の修理(しゆり)を加(くは)へらる》命(めい)する
所(ところ)の祭祀(さいし)今(いま)に連綿(れんめん)として廃(はい)せす其後(そののち)足利家(あしかゝけ)に至(いた)る迠(まて)世々(よゝ)の
将軍家(しやうくんけ)相継(あひつい)て崇敬(そうけい)衰(おとろ)へす就中(なかんつく)御入国(こにふこく)に逮(およ)むて 御当家(こたうけ)より
尊信(そんしん)なし給ひ社領(しやりやう)五百石を附(ふ)し御祈祷(こきたう)の事(こと)を命(めい)せらる関原(せきかはら)
大坂(おほさか)の両役(りやうゑき)には当社(たうしや)の神主(かんぬし)猿渡左衛門佐盛道(さるわたりさゑもんのすけもりみち)をして御勝(こしやう)
利(り)の御祈祷(こきたう)を修(しゆ)せしめ給ひ御感状(こかんしやう)御直書(おんしきしよ)を給(たま)ふ其後(そののち)二代
【注 「亻+設」。「儲」「設」の誤ヵ】
【右丁】
将軍家(しやうくんけ)よりも又(また)御書判(こしよはん)の御直書(おんしきしよ)を給(たま)ふ殊(こと)に御在国(こさいこく)の
総社(さうしや)たるを以(もつ)て慶長年間(けいちやうねんかん)石見守(いわみのかみ)大久保(おほくほ)氏 某(それかし)をして神(しん)
殿(てん)を新(あらた)にし国家(こくか)の祀典(してん)に列(れつ)せしむ且(かつ)命(めい)を下(くた)して馬市(うまいち)の
法則(はふそく)を定(さため)給(たま)ふ其後(そののち)正保(しやうほ)三年 府中本町(ふちゆうほんまち)より火(ひ)出(いて)て当社(たうしや)神(しん)
領(りやう)の地(ち)に至(いた)る迄(まて)皆(みな)悉(こと〳〵)く焼亡(しやうほう)す依(よつ)て寛文(くわんもん)七年丁未 大和守(やまとのかみ)久世(くせ)
広之候(ひろゆきこう)をして造営使(さうえいし)となし給ひ宮社(きうしや)御再建(こさいこん)ありしなり
《割書:寛永(くわんえい)元年 註(しる)す所(ところ)の社記云(しやきにいはく)神主(かんぬし)猿渡三河守藤原盛正(さるわたりみかはのかみふちはらのもりたゝ)天正年間(てんしやうねんかん)北条陸奥守(ほうてうむつのかみ)|氏照(うちてる)の為(ため)に八王子(はちわうし)の城(しろ)に篭(こも)る此城(このしろ)没落(ほつらく)の時(とき)盛道(もりみち)こゝに戦死(せんし)す又(また)此(この)兵火(ひやうくわ)の災(わさはひ)に|かゝりて当社(たうしや)悉(こと〳〵)く灰燼(くわいしん)せり故(ゆゑ)に其頃(そのころ)世々(よゝ)将軍家(しやうくんけ)の證状(しやうしやう)或(あるひ)は秘蔵(ひさう)の神宝等(しんはうとう)|こと〳〵く亡(ほろ)ひたりとなり云々》
六所宮御旅所(ろくしよのみやおたびしよ) 六所明神(ろくしよのみやうしん)より一丁半はかり西(にし)の方(かた)府中番場宿(ふちゆうはんはしゆく)の
中程(なかほと)相摸街道(さかみかいたう)への岐道(えたみち)札(ふた)の辻(つし)の傍(かたはら)にあり毎歳(まいさい)五月五日 大祭(たいさい)の
辰(とき)其夜(そのよ)六所宮(ろくしよのみや)の神輿(みこし)をこゝに遷(うつ)し奉(たてまつ)る其式(そのしき)は前(まへ)の条下(てうか)に
詳(つまひらか)なり
御田(みた) 六所(ろくしよ)の宮(みや)の後(うしろ)の小径(こみち)を過(すき)て百歩(ひやくほ)はかりにあり豁然(くわつせん)たる稲(たう)
【枠外】 三ノ百八新所
【左丁】
田(てん)なり東(ひかし)は悠遠(いうゑん)にして眺望(てうはう)分明(ふんみやう)ならず南(みなみ)は多磨川(たまかは)の流(なかれ)を隔(へた)
てゝ長岡(なかをか)の上(うへ)に短松(たんしよう)の立(りつ)するを見る世(よ)に所謂(いはゆる)向(むか)ふか岡(をか)是(これ)なり此(この)
地(ち)北(きた)は府中(ふちゆう)の駅舎(ゑきしや)にして六所の林叢(りんさう)鬱然(うつせん)たり 《割書:御 田植(たうゑ)の神事(しんし)|の次第(したい)は前(まへ)の》
《割書:六所宮(ろくしよのみや)年中行事(ねんちゆうきやうし)の|下(しも)に詳(つまひら)かなり》
本覚山(ほんかくさん)玅光院(めうくわうゐん) 真如寺(しんによし)と号(かう)す府中本町(ふちゆうほんまち)の南(みなみ)の小路(こうち)にあり新義(しんき)の真(しん)
言宗(こんしう)にして花洛(くわらく)仁和寺(にんわし)の御門跡(こもんせき)に属(そく)す 清和天皇(せいわてんわう)の御宇(きよう)
貞観(ちやうくわん)紀元(きけん)の年(とし)真如法親王(しんによほふしんわう)の御願(こくわん)によりて慈斉僧正(しさいそうしやう)【注】創(さう)
建(こん)ありし佛刹(ふつせつ)たり行基大士(きやうきたいし)彫造(てうさう)の地蔵薩埵(ちさうほさつ)を本尊(ほんそん)とし
《割書:長五寸|五分》 若干(そこはく)の田園(てんゑん)を附(ふ)せらる然(しかる)に当寺(たうし)度々(たひ〳〵)の兵燹(ひやうせん)に罹(かゝ)り大(おほい)に
荒廃(くわうはい)なしたりしを永享(えいかう)十一年己未 法印宥源(ほふいんいうけん)《割書:長禄(ちやうろく)三年己卯|七月二十四日 寂(しやく)す》
再建(さいこん)して当寺(たうし)中興(ちゆうこう)の開山(かいさん)となれり《割書:天正(てんしやう)十九年辛卯 御当家(こたうけ)|より寺領(しりやう)を給ふといふ》本堂(ほんたう)
家帯(なけし)の額(かく)真如寺(しんによし)の三 大字(たいし)は勝仙院僧正日光(しようせんゐんそうしやうにつくわう)の筆(ふて)同し向拝(かうはい)
に掲(あく)る本覚山(ほんかくさん)の額(かく)は南山(なんさん)の沙門乗鎮(しやもんしやうちん)の書(しよ)裏門(うらもん)本覚山(ほんかくさん)の額(かく)は
【注 「慈斉」は「慈済」ヵ】
【右丁】
明光院(みやうくわうゐん)
安養寺(あんやうし)
【四角囲い文字】
安養寺
本堂
本堂
方丈
明光院
【左丁】
【四角囲い文字】
庫裡
二王門
観音
【右丁】
天漪(てんゐ)の筆(ふて)書院(しよゐん)無為心(むゐしん)の額(かく)は佐々木玄龍(さゝきけんりう)の書(しよ)なり観音堂(くわんおんたう)は
門(もん)の入口左の山の上にあり大悲殿(たいひてん)の額(かく)は僧禅大僧正覚眼筆(そうせんたいそうしやうかくけんのふて)と云(いふ)
本尊(ほんそん)十一面観音(しふいちめんくわんおん)の像(さう)は御長(みたけ)二尺五寸ありて聖徳太子(しやうとくたいし)の作(さく)といふ
当寺(たうし)什宝(しうはう)に北条氏照(ほうてううちてる)の書簡(しよかん)二 通(つう)を蔵(そう)す其余(そのよ)芦(あし)に鷺(さき)の画(くわ)
幅(ふく)は御筆(きよひつ)の物(もの)にして牡丹唐草(ほたんからくさ)に扇(あふき)を縫物(ぬひもの)したる五條(こてう)の袈裟(けさ)
と共(とも)に 御当家(こたうけ)より給(たま)ふところなりといへり
古磬(こけい)一 枚(まい)《割書:華物(くわもの)にして銅色(とうしよく)愛(あい)すへし台は|左甚五郎(ひたりしんこらう)か作(つく)る所(ところ)なりと云》
叡光山(ゑいくわうさん)安養寺(あんやうし) 妙光院(めうくわうゐん)の南(みなみ)の小路(こうち)を隔(へた)てゝ同(おな)し並(なら)びにあり《割書:此地(このち)の小(しやう)|名(みやう)を矢(や)の》
《割書:崎(さき)と|いふ》天台宗(てんたいしう)上州(しやうしう)世良田(せらた)の長楽寺(ちやうらくし)に属(そく)す本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は
座像(ささう)一尺六寸はかりあり作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす永仁年間(えいにんねんかん)尊海(そんかい)上人 中興(ちゆうこう)
開山(かいさん)たり近(ちか)き年(とし)地魚(ちきよ)の災(わさはひ)に罹(かゝ)りて旧記(きうき)を亡(ほろほ)すといへり
武蔵国造兄武日命殿館旧跡(むさしのくにのみやつこえたけひのみことてんくわんのきうせき) 妙光院(めうくわうゐん)の前(まへ)の岡(をか)を云(いふ)上古(しやうこ)国造居館(こくそうきよくわん)
の地(ち)なり 御入国(こにふこく)の後(のち)此(この)旧跡(きうせき)に省耕(せいかう)の御殿(こてん)を建(たて)させられしより
【枠外】 三ノ百八十七
【左丁】
大樹(たいしゆ)屡(しは〳〵)こゝに入(い)らせられたりしかとも正保(しやうほ)三年丙戌十月十二日 府中(ふちゆう)
本町(ほんまち)より出火(しゆつくわ)して此(この)御殿(こてん)焼亡(しやうほう)せり其後(そのゝち)は御再興(こさいこう)もなきにより享保(きやうほ)
年間(ねんかん)里民(りみん)に乞(こふ)に任(まか)せ陸田(りくてん)となし下(くた)さるゝとなり故(ゆゑ)に土人(としん)は御殿地(こてんち)
と称(しよう)せり此所(このところ)の眺望(ちやうほう)尤(もつとも)勝(すく)れたり
《割書:按(あんする)に国造(くにのみやつこ)は神武天皇( しんむてんわう)都(みやこ)を大倭国(やまとのくに)橿原(かしははら)に定(さた)め天皇(てんわう)の位(くらゐ)に卽(つき)給ふ時(とき)葛城(かつらきの)|国(くに)の造(みやつこ)を定(さた)め其余(そのよ)功(こう)ある者(もの)に国造を賜(たま)ひ又(また)県主(あかたぬし)を定(さた)め給ふよりこのかた|代々(よゝ)に任(にん)せられたり和銅(わとう)の比迠(ころまて)総任(さうにん)の国造百四十四 員(ゐん)あり皇朝(くわうちやう)上世は百四十|四 箇国(かこく)にて国毎(くにこと)に国造一人ッヽありて神祗祭祀(しんきさいし)を掌(にき)りかねて民事(みんし)を治(をさめ)|たりしなり《割書:嵯峨天皇より以後諸国に分割併省なしゆゑに六十|六国に壱岐対馬の二島辺要して六十八国なり》日本紀(にほんき)によつて考(かんか)ふるに|仁徳帝(にんとくてい)の御宇(きよう)に遠江国司(とほ〳〵とみのくにみこともち)又 崇峻帝(しゆしゆんてい)の御宇(きよう)に河内国司(かはちのくにみこともち)と云(いふ)事(こと)あり聖徳太子(しやうとくたいし)の|憲法(けんはふ)にも国 司(みこともち)国造の事みえたり天武紀(てんむき)に諸(もろ〳〵)の国司国造郡司およひ百姓等(ひやくしやうら)とあれは後(のち)又国|司を置(おき)給ひ尤(もつとも)国司は国造より位(くらゐ)高(たか)く権(けん)重(おも)き故(ゆゑ)に国司国造と次第(したい)して称(しよう)せられしとおほゆ|これより後(のち)世々(よゝ)の国史(こくし)にも往々(わう〳〵)国司国造の事を載(のせ)られたりされといつれの世(よ)に国造を罷(やめ)られ|しといふ事もなくいつしか廃(はい)せしと思はれたり》
是政村(これまさむら) 府中(ふちゆう)の南(みなみ)多磨川(たまかは)の北(きた)の岸頭(かんとう)にあり此地(このち)の里正(りせい)に井田氏(ゐたうち)の人(ひと)あり
其(その)家系(かけい)を按(あんする)に祖先(そせん)は畠山庄司重忠(はたけやましやうししけたゝ)の四男(よなん)井田四郎重忠(ゐたしらうしけまさ)の末葉(はつえう)にして
小田原北条家(をたはらほうてうけ)の臣(しん)井田攝津守是政(ゐたせつつのかみこれまさ)か子孫(しそん)なりと云(いふ)天正(てんしやう)十八年 小田原(をたはら)
没落(ほつらく)の頃(ころ)八王子(はちわうし)の城(しろ)敗(やふ)れしより後(のち)此地(このち)に住(ちゆう)す依(よつ)て是政村(これまさむら)の名(な)あり
【右丁】
悲願山(ひくわんさん)善明寺(せんみやうし) 圓養院(ゑんやうゐん)と号(かう)す府中本町(ふちゆうほんまち)より関戸(せきと)へ行道(ゆくみち)の右側(みきかは)に
あり《割書:相模街道(さかみかいたう)にして|古(いにしへ)の鎌倉通道(かまくらとほりみち)也》天台律院(てんたいりつゐん)にして常明院(しやうみやうゐん)に属(そく)す本尊(ほんそん)に阿弥(あみ)
陀如来(たによらい)の像(さう)を安(あん)す坐像(さそう)一丈六尺あり《割書:胎中(たいちゆう)に慈覚大士(しかくたいし)彫造(ちやうさう)の|弥陀如来(みたによらい)の像(さう)を安(あん)す》開創(かいさう)年
久く中古(ちゆうこ)寺院(しゐん)荒廃(くわうはい)して記録(きろく)を失(しつ)す然(しかる)に近来(きんらい)編無為解脱居士(へんむゐけたつこし)
《割書:俗称(そくしよう)依田伊織(よたいをり)|貞鎮(さたしけ)といふ》当寺(たうし)を再興(さいこう)ありて證海(しやうかい)上人を中興開山(ちゆうこうかいさん)とし田園(てんゑん)
等(とう)を寄附(きふ)せり故(ゆゑ)に居士(こし)の肖像(しやうさう)あり《割書:束帯(そくたい)の像(さう)なり側(かたはら)に|弟子(てし)證海(しやうかい)の像(さう)もあり》内陣(ないちん)の額(かく)に
毗尼蔵(ひにさう)とあるは准后公遵法親王(しゆこうこうそんほふしんわう)の真筆(しんひつ)なり解脱居士(けたつこし)の墓(はか)は
堂後(たうのうしろ)にあり彼岸山文庫(ひかんさんふんこ)は本堂(ほんたう)の右にあり庫中(こちゆう)収蔵(しゆさう)する所(ところ)の
書籍(しよしやく)は解脱居士(けたつこし)の蔵書(さうしよ)にしてすへて百二十二箱あり《割書:此(この)文庫(ふんこ)に収(をさ)むる所(ところ)の書(しよ)|籍目録(しやくもくろく)一冊(いつさつ)あり》
津保宮(つほのみや) 同所四丁はかり西南(にしみなみ)の方(かた)下河原(しもかはら)農民(のうみん)の地(ち)にあり当社(たうしや)は国造(くにのみやつこ)
の霊社(れいしや)なりといふ今(いま)纔(はつか)に茅祠(かやのやしろ)を存(そん)するのみされと毎歳(まいさい)五月五日 六所(ろくしよの)
宮(みや)大祭(たいさい)の節(せつ)は当社(たうしや)より六所宮(ろくしよのみや)へ奉弊使(ほうへいし)を立(たつ)る事(こと)旧式(きうしき)にして則(すなはち)六所(ろくしよの)
宮(みや)の神官(しんくわん)馬(うま)に乗(しやう)して是(これ)を勤(つと)む
【枠外】 三ノ百八十八
【左丁】
分倍河原(ふ[ん]はいかはら)
陣街道(ちんかいたう)
首塚(くひつか)
胴塚(とうつか)
【四角囲い文字】
首塚
天王森
小野宮村
胴塚
【右丁】
《割書:按(あんする)に津保(つほ)は壷(つほ)の謂(いひ)にしてつほきといふ意(こゝろ)ならん源氏物語(けんしものかたり)桐壺巻(きりつほのまき)におゝん|前(まへ)のつほせんさいのいとおもしろきさかりなるをこらんするやうにてと云々 河海抄(かかいしやう)に延喜(えんき)|元年に壷前栽(つほせんさい)に草(くさ)を植(うゑ)木(き)をくはへらるゝ由(よし)みえたり壷(つほ)とは家居(いへゐ)の建篭(たてこめ)たる中(なか)の庭(には)を|云なるへし当社(たうしや)もむかしの国造(こくそう)の庭(には)にありし宮居(みやゐ)なりし故(ゆへ)にかくは称(とな)ふるならん歟(か)》
分倍河原(ふんはいかはら) 同所の南(みなみ)代小川(しろこかは)を隔(へたて)たる耕田(かうてん)をいふ《割書:今(いま)下河原(しもかはら)中河原(なかかはら)抔(なと)と称(とな)ふ|太平記(たいへいき)鎌倉大草紙(かまくらおほさうし)南朝(なんちやう)》
《割書:紀伝(きてん)等(とう)分倍(ふんはい)に作(つく)る分梅(ふんはい)|に作(つく)るは其證(そのしやう)をしらす》正慶(しやうけい)二年の夏(なつ)新田義貞朝臣(につたよしさたあそん)鎌倉勢(かまくらせい)と合(かつ)
戦(せん)ありし地(ち) にして其時(そのとき)討死(うちしに)せし人の墓(はか)あり《割書:土人(としん)首塚(くひつか)胴塚(とうつか)なと称(とな)へて|今猶(いまなほ)此所(このところ)の田間(てんかん)に存(そん)す》
享徳(かうとく)四年の春(はる)も鎌倉成氏(かまくらしけうち)上杉房顕(うへすきふさあき)ならひに持朝(もちとも)と此地(このち)にて
争戦(さうせん)し大(おほい)に上杉勢(うへすきせい)敗北(はいほく)す又(また)享禄(かうろく)三年の夏(なつ)は北条氏康(ほうてううちやす)《振り仮名:向か岡|むかひ をか》の小沢(こさは)
の原(はら)に屯(たむろ)し上杉朝興(うへすきともおき)は多磨川(たまかは)を前(まへ)にあてゝ陣(ちん)をとる両軍(りやうくん)府中(ふちゆう)の駅(ゑき)
にて相戦(あひたゝか)ふ《割書:以上(いしやう)の合戦(かつせん)は大平記(たいへいき)鎌倉大草(かまくらおほさう)|紙(し)北条五代記(ほうてうこたいき)等(とう)に出(いて)て詳(つまひらか)なり》此余(このよ)も度々(たひ〳〵)血戦(けつせん)ありし地(ち)にして土人(としん)今(いま)も
遇(たま〳〵)此所(このところ)の田間(てんかん)を穿(うかち)て兵器(ひやうき)を得(う)るものあり《割書:此地(このち)小野宮(をのゝみや)内藤重喬(ないとうしけたか)といへる人 此地(このち)|にて一ッの矢(や)の根(ね)を得(え)て是(これ)を蔵(さう)す》
《割書:大サ図(づ)の如(こと)し| 桜(さくら)の花(はな)は| 透(すか)し| たるもの| なり》【矢の根の図】
【枠外】 三ノ百八十九
【左丁】
三千人塚(さんせんにんつか) 《割書:六所宮(ろくしよのみや)より南(みなみ)の方(かた)十五六町 計(はかり)を隔(へた)てゝ道端(みちはた)にあり高(たか)さ三尺斗 方(はう)九|尺あまりの塚(つか)ありて上(うへ)に其巾(そのはゝ)二尺七八寸 土(つち)より上(うへ)に出(いつ)る所(ところ)二尺八九寸の青(あを)き》
《割書:板石(いたいし)の古碑(こひ)を建(たて)たり漸(やうや)く大(おほひ)なる梵字(ほんし)一 字(し)のみあらはれて其余(そのよ)は土中(とちやう)に埋(うつも)れて|其限(そのかきり)をしらず先(さき)の年(とし)県令(けんれい)の下知(けち)によりて此(この)石碑(せきひ)を堀出(ほりいた)したりしに三千人の亡骨(ほうこつ)|を埋蔵(まいさう)するよしの文字(もんし)を鐫(えり)てありしよし此地(このちの)里正の口碑(こうひ)に傳(つた)ふ按(あんする)に正慶(しやうけい)|享徳(かうとく)享禄(かうろく)等(とう)の合戦(かつせん)に分倍河原(ふんはいかはら)にて討死(うちしに)せし人の墓(はか)なるへし》
代小川(しろこかは) 府中(ふちゆう)の南(みなみ)を流(なか)る西(にし)の方(かた)二里あまりを隔(へた)てゝ青柳村(あをやきむら)より多麻(たま)
川(かは)の水(みつ)を分(わけ)て此辺(このへん)耕田(かうてん)の用水(ようすゐ)となせり或(ある)人云 古(いにしへ)此地(このち)を小川郷(をかはのかう)
と号(かう)す今(いま)の代小川(しろこかは)は即(すなはち)徃古(いにしへ)の小川の変称(へんしよう)ならん歟(か)といへりしかるや
いなやをしらす
《割書:按(あんする)に慶長年間(けいちやうねんかん)官府(くわんふ)より六所宮(ろくしよのみや)へ寄(よせ)たまひし書(しよ)の中(うち)に六所宮(ろくしよのみや)川端(かははた)にありと|註(しる)されたるは其頃(そのころ)多麻川(たまかは)の水流(すゐりう)数條(すてう)に分(わか)れて其(その)社辺(しやへん)をも流(なかれ)たりし故(ゆゑ)にしか|あるならんされと慶長(けいちやう)以後(このかた)樋(とひ)を製(せい)し川(かは)を埋(うつ)め墾田(こんてん)とせしより川(かは)漸(やうやく)減(けん)し今(いま)の|如(こと)き地勢(ちせい)となりしとおもはる依(よつて)再(ふたゝひ)按(’あんする)に今(いま)小野宮(おのゝみや)耕田(かうてん)をさして土人(としん)向田(むかひた)と|字(あさな)し同し南(みなみ)を中河原(なかかはら)と号(かう)する抔(なと)何(いつ)れも川(かは)を隔(へた)てし證(しやう)とす|へき歟(か)》
陣街道(ちんかいたう) 小野宮(おのゝみや)と分倍(ふんはい)との間(あひた)の耕田(かうてん)の地(ち)にして府中本町(ふちゆうほんまち)より関戸(せきと)へ
行道(ゆくみち)の名(な)とす昔(むかし)奥羽等(あううとう)の国々(くに〳〵)より鎌倉(かまくら)或(あるひ)は大磯(おほいそ)抔(なと)への往還(わうくわん)の
道(みち)にして鎌倉(かまくら)より北国(ほつこく)東国(とうこく)へ軍勢(くんせい)を向(むけ)らるゝ頃(ころ)の通路(つうろ)なりし
【右丁】
故(ゆゑ)にかく称(しよう)すといふ
小野宮村(をのゝみやむら) 陣街道(ちんかいたう)を隔(へた)てゝ分倍(ふんはい)より艮(うしとら)に当(あた)れる地(ち)をしかいふ《割書:府中本(ふちゆうほん)|宿(しゆく)の内(うち)》
《割書:僅(わつか)に家数(いへかす)三十 軒(けん)はかりの|間(あひた)をも小野宮(をのゝみや)とよへり》小野(をの)は上古(しやうこ)郡村(くんそん)定(さたま)らさる時(とき)よりの号(な)にして
小野県(をのゝあかた)と称(しやう)せしもの是(これ)なり今(いま)は府中(ふちゆう)の舊名(きうみやう)となれり和名類聚(わみやうるいしゆ)
抄(しやう)に多磨郡(たまこほり)小野(をの)乎乃(をの)とあり《割書:此地(このち)墾田(こんてん)となりしは元亀(けんき)天正(てんしやう)の頃(ころ)にして|小野宮(おのゝみや)の耕田(かうてん)をさして向田(むかひた)といふ田地(てんち)》
《割書:開発(かいほつ)の始(はしめ)は漸(やうやく)田数(たかす)五反(たん)程(ほと)ありしとて土人(としん)五反田(こたんた)と字(あさな)せりといふ又(また)小野宮(をのゝみや)の|北(きた)田間(てんかん)の塚(つか)は中古(ちゆうこ)の甲州街道(かうしうかいたう)府中(ふちゆう)より日野(ひの)へ往還(わうくわん)の一里塚(いちりつか)にして今(いま)も其(その)野径(のみち)を|古街道(こかいたう)と唱(とな)ふ》
小野神社舊址(おのゝしんしやきうし) 小野宮村(おのゝみやむら)陣街道(ちんかいたう)の右(みき)にあり今(いま)纔(わつか)に叢祠(さうし)を存(そん)するのみ
六所宮(ろくしよのみや)の条下(てうか)に詳(つまひらか)也 合(あは)せみるへし
武蔵国風土記曰 多磨郡 小川郷
小野神社 圭田五十六束三字田
所祭瀬織津比咩也
垂仁天皇三年甲午始行祭礼有神戸巫戸等云云
延喜式神名帳曰 多磨郡八座
小野神社云云
三代実録 光孝天皇紀
元慶八年七月十五日葵酉授武蔵国従五位上小
野神正五位上云云
【枠外】 三ノ百九十
【左丁】
小野神社(をのゝしんしや)
【四角囲い文字】
本社
みたらし
いなり
【右丁】
社記云(しやきにいはく)当社(たうしや)祭神(さいしん)上古(しやうこ)は瀬織津比咩(せおりつひめ)一座(いちさ)なりしに一宮 下春命(したはるのみこと)を
遷座(せんさ)なし奉(たてまつ)り又(また)倉稲魂(うかのみたま)命を配祀(はいし)して小野神社(おのゝしんしや)を三神(さんしん)となしまゐ
らせし事は其(その)時世(しせい)しるへからす最(もつとも)舊社(きうしや)なるを以(もつ)て 成務天皇(しやうむてんわう)五年
乙亥の秋(あき)諸国(しよこく)に令(れい)して国郡(こくくん)に造長(みやつこをさ)を置(おき)給ふ時(とき)兄多毛比命(えたけひのみこと)も
詔(みことのり)を奉(うけたまは)り当国(たうこく)の国造(こくそう)として此地(このち)に至(いた)り小野県(おののあかた)に府(ふ)を闢(ひら)き給ひ
しより後(のち)崇敬(そうけい)厚(あつ)く再(ふたゝ)ひ当社(たうしや)の御神(おんかみ)を六所宮(ろくしよのみや)の相殿(あひてん)に遷(うつ)しまゐ
らせられたりとなり《割書:六所宮(ろくしよのみや)に客来三所(きやくらいさんしよ)と称(しよう)するものは即(すなはち)是(これ)なり下春命(したはるのみこと)は|後(のち)に遷座(せんさ)の御神(おんかみ)なれとも却(かへつ)て是(これ)を尊(たうと)み祭(まつり)しとおほしく》
《割書:六所宮(ろくしよのみや)にても客来三所(きやくらいさんしよ)の内(うち)|下春命(したはるのみこと)を弟(たい)【第】一とせり》しかありしより僅(わつか)に茅祠(かやのやしろ)一宇(いちう)を存(そん)して
其(その)舊址(きうし)を標(ひやう)するのみなりといへとも実(しつ)に千載(せんさい)の古(いにしへ)を想像(おもひやり)つへし
欅枯樹(けやきのこしゆ)《割書:社(やしろ)の後(うしろ)にあり今(いま)蟠根(はんこん)を存(そんす)るのみ周囲(めくり)十尋(とひろ)計(はかり)其(その)根上(ねのうへ)百人(ひやくにん)を座(さ)|せしむへし蘖(わかはへ)既(すて)に枝(えた)高(たか)く聳(そひ)へ天(てん)を摩(ま)し殆(ほとんと)二千 余歳(よさい)の想(さう)あり》
神道(しんたう) 多麻川(たまかは)の南(みなみ)一宮より此地(このち)小野神社(をのゝしんしや)へ通(つう)する田畒(てんほ)の径路(けいろ)を云
古(いにしへ)一宮(いちのみや)御神(おんかみ)より小野(をの)へ遷幸(せんかう)の時(とき)の旧路(きうろ)にして中古(ちゆうこ)迠(まて)は一宮(いちのみや)の祠官(しくわん)
此路(このみち)を経(へ)て小野社(をのゝやしろ)に至(いた)り然(しかう)して後(のち)六所宮(ろくしよのみや)へ来(きた)りしとなり其頃(そのころ)は一宮(いちのみや)
【枠外】 三ノ百九十一
【左丁】
より空輿(からこし)を舁来(かききた)れるにより小野宮邑(をのゝみやむら)の里民(りみん)挙(あけ)て多麻川(たまかは)の岸頭(かんとう)
まて送(おく)り迎(むかひ)せしよし一宮祠官(いちのみやしくわん)の口碑(こうひ)に伝(つた)ふ
小野牧(おのゝまき) 今(いま)いふ所(ところ)は府中(ふちゆう)の北(きた)国分寺(こくふんし)の辺(ほとり)より小川(をかは)砂川(すなかは)の間(あいた)の農(のう)
田(てん)となりし地(ち)其牧(そのまき)の旧跡(きうせき)なりと云傳(いひつた)ふ《割書:小野(をの)はすへて府中(ふちゆう)の惣称(そうしよう)にして|尤(もつとも)旧名(きうみやう)なり猶(なほ)前(まへ)の小野(をのゝ)宮 地(ち)》
《割書:名(めい)の条下(てうか)|に詳(つまひらか)なり》往古(そのかみ)当国(たうこく)の国造(こくそう)年々(とし〳〵)八月に至(いた)れは此地(このち)にて駒(こま)を撰(えらひ)て
鳳闕(ほうけつ)に獻(けん)しけるとなり公事根元(くしこんけん)に八月廿日 武蔵国(むさしのくに)小野(をのゝ)御馬(おんうま)
四十 疋(ひき)をひかるゝとあり《割書:六所宮(ろくしよのみや)馬市(うまいち)及(およ)ひ馬場(はゝ)の|条下(てうか)に詳(つまひらか)なり合(あは)せみるへし》
拾芥抄曰 年中行事部
八月二十日牽武蔵小野御馬云々
又同書 牧名
石川 田(由歟)比 立野 小野 秩父 己上武蔵
延喜式 左右馬寮式曰
御牧 武蔵国
石川牧 由比牧 小川牧 立野牧
右諸牧駒者毎年九月十日国司与牧監若別当人
等《割書:信濃甲斐上野三国仕|牧監武蔵国仕別当》臨牧撿印共署其帳簡繋
歯四歳己上所堪用者調良明年八月附牧監等貢
上若不中貢者便充駅伝馬《割書:下略》
又同書曰
【右丁】
凡年貢御馬者《割書:中略》武蔵国五十疋《割書:諸牧三十疋立|野牧二十疋》
凡諸国所貢繋飼馬牛者二寮均分検領訖移兵部
省其数《割書:中略》武蔵国馬十疋《割書:下略》
《割書:此余(このよ)北山抄(きたやまのしやう)西宮記(にしのみやのき)中右記(ちゆううき)猶(なほ)其外(そのほか)にも小野(をの)の牧(まき)の名(な)往々(わう〳〵)みえたり悉(こと〳〵)く挙(あく)るに|いとまあらす》
《割書:年中行事哥合》
むさし野をわけこし駒の幾かへてけふ紫の庭に出らん 頓阿
《割書:按(あんする)に延喜式(えんきしき)に小川牧(をかはまき)とあるものは則(すなはち)小野(をの)の牧(まき)の事(こと)なるへし小野(をの)は府中(ふちゆう)の|惣称(そうしよう)にして府中(ふちゆう)古(いにしへ)小川郷(をかはのかう)に属(そく)せし事 武蔵国風土記(むさしのくにふとき)にみえたり今(いま)小川(をかは)と|いふは《振り仮名:恋ゕ窪|こひ くほ》の西北(にしきた)にありて漸(やうや)く小名(こな)に残(のこ)れり今(いま)小金井村(こかねゐむら)の上(うえ)の方(かた)を|小川新田(をかはしんてん)といふもその小川(をかは)より出(いて)たる名(な)なり》
諸源山(しよけんさん)称名寺(しようみやうし) 府中番場宿(ふちゆうはんはしゆく)北(きた)の横小路(よここうち)の右側(みきかは)にあり時宗(ししう)にして
相州(さうしう)藤沢(ふちさは)の清浄光寺(しやう〳〵くわうし)に属(そく)す本尊(ほんそん)には恵心僧都(ゑしんそうつ)彫造(てうさう)の阿弥(あみ)
陀如来立像(たによらいりふさう)三尺八寸あまりの霊佛(れいふつ)を安(あん)す此地(このち)は徃古(そのかみ)六孫王経基(ろくそんわうつねもと)
居舘(きよくわん)の旧跡(きうせき)なりと云伝(いひつた)ふ《割書:古(いにしへ)は六孫王山(ろくそんわうさん)経基寺(きやうきし)と号(かう)せしとなり|中古(ちやうこ)は正明(しやうみやう)に作(つく)る今(いま)称名(しようみやう)に改(あら)たむ》其後(そののち)
一光道和(いつくわうたうわ)上人 当寺(たうし)を草創(さう〳〵)す《割書:応永(おうえい)元年|三月七日 寂(しやくす)》後復(のちまた)遊行(ゆきやう)上人 当寺(たうし)を
再興(さいこう)ありしとなり当寺(たうし)に古(ふる)き太鼓(たいこ)の胴(とう)を収(をさ)む尤(もつとも)古物(こふつ)にして
内(うち)に年号等(ねんかうとう)を記(しる)すといへとも文字(もんし)読(よみ)得(う)へからす按(あんする)に往古(わうこ)の陣太鼓(ちんたいこ)ならん
【枠外】 三ノ百九十二
【左丁】
龍門山(りうもんさん)高安護国禅寺(かうあんここくせんし) 等持院(とうちゐん)と号(かうす)六所宮(ろくしよのみや)御旅所(おたひしよ)より九丁はかり
を隔(へた)てゝ西(にし)の方(かた)甲州街道(かうしうかいたう)の左側(ひたりかは)にあり洞家(とうけ)の禅宗(せんしう)にして多(た)
麻郡(まこほり)二 股(また)の海禅寺(かいせんし)に属(そく)す本尊(ほんそん)釈迦如来(しやかによらい)《割書:御丈一尺|五寸斗》脇士(けふし)文珠(もんしゆ)普(ふ)
賢(けん)の像(さう)賢俊法眼(けんしゆんほふけん)の作(さく)なりと云(いふ)当寺(たうし)は俵藤太秀郷(たはらとうたひてさと)の開基(かいき)
にして秀郷(ひてさと)の宅地(たくち)の旧跡(きうせき)なりといへり其後(そののち)足利将軍(あしかゝしやうくん)尊氏公(たかうちこう)
中興(ちゆうこう)あり故(ゆゑ)に尊氏公(たかうちこう)の法号(ほふかう)を採(とつ)て等持院(とうちゐん)と称(しよう)す則(すなはち)尊氏(たかうち)
将軍(しやうくん)の肖像(しやうさう)あり《割書:当寺(たうし)其先(そのせん)は市川山(しせんさん)見性寺(けんしやうし)と号(かう)せしと也 当寺(たうし)を秀衡(ひてひら)|居住(きよちゆう)の旧跡(きうせき)の故(ゆゑ)にしか呼(よ)ふと云(いふ)東西南(とうさいなん)の三方(さんはう)今(いま)も堀(ほり)を》
《割書:搆(かま)へたる|形(かたち)残(のこ)れり》開山(かいさん)は大徹心悟禅師(たいてつしんこせんし)と号(かう)す本堂(ほんたう)に武野禅林(ふやせんりん)の額(かく)あり
筆者(ひつしや)詳(つまひらか)ならす
藤原秀郷霊祠(ふちはらひてさとのれいし)《割書:境内(けいたい)坤(ひつしさる)の方(かた)にあり今(いま)稲荷明神(いなりみやうしん)に勧請(くわんしやう)す|此地(このち)は秀郷(ひてさと)の宅地(たくち)の旧跡(きうせき)なるによれり》
弁慶硯水井(へんけいすゝりみつのゐ)《割書:堂後(たうのうしろ)竹薮(たけやふ)にある所(ところ)の古井(ふるゐ)をいふ弁慶(へんけい)此井水を汲(く)んて硯(すゝり)の|水(みつ)とし大般若経(たいはんにやきやう)を書写(しよしや)せしといふ然(いか)れ共 其経(そのきやう)は焼失(しやうしつ)した》
《割書:りとて今(いま)はなし又(また)弁慶(へんけい)の画(ゑ)なりとて弁慶(へんけい)机(つくゑ)によりて経(きやう)を書写(しよしや)するさまを|畵(ゑか)きし掛幅(かけもの)あり絹地(きぬち)にして甚(はなはた)古雅(こか)なるものなり又こゝに西北(にしきた)の方(かた)甲州街道(かうしうかいたう)に|架(か)する所(ところ)の橋(はし)をも弁慶橋(へんけいはし)と号(なつ)け東(ひかし)の坂(さか)を弁慶坂(へんけいさか)と呼(よ)へりすへて弁慶(へんけい)に因(ちなみ)|ある事 而已(のみ)多(おほ)けれとも弁慶(へんけい)か事(こと)は水戸黄門光圀卿(みとくわうもんみつくにきやう)の撰(えらみ)給ひし大日本(たいにほん)》
【右丁】
《割書:史(し)にも除(のそ)き給ひしは名(な)ありて実(しつ)なく證(しやう)とすへき事(こと)なけれは|なるへし》
観音堂(くわんおんたう)《割書:表門(おもてもん)を入(いり)て正面(しやうめん)にあり本尊(ほんそん)正観音(しやうくわんおん)は木佛(もくふつ)立像(りふさう)七尺あり左右(さいう)|六 観音(くわんおん)の像(さう)は何(いつ)れも四尺五六寸あり作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす》
当寺(たうし)は足利家(あしかゝけ)の再興(さいこうに)より永徳(えいとく)元年 鎌倉(かまくら)左兵衛督氏満(さひやうゑのかみうちみつ)小山(こやま)
義政(よしまさ)退治(たいち)として発向(はつかう)ありし頃(ころ)も当寺(たうし)に陣座(ちんさ)を儲(まふ)けらる又(また)応永(おうえい)
六年には左兵衛督満兼(さひやうゑのかみみつかね)周防(すはう)の大内助義弘(おほうちのすけよしひろ)か京都(きやうと)に於(おい)て逆心(きやくしん)を
起(おこ)せし時(とき)同十一月廿一日 京都(きやうと)の手合(てあわせ)として当寺(たうし)に動座(とうさ)なし給ひ
同三十年癸卯 春(はる)も又 常陸国(ひたちのくに)の住人(ちゆうにん)小栗孫五郎平満重(をくりまここらうたいらのみつしけ)か謀反(むほん)に
より鎌倉(かまくら)より持氏公(もちうちこう)結城(いうき)へ発向(はつかう)同年八月 小栗(をくり)落城(らくしやう)の後(のち)同十六日
当寺(たうし)に帰座(きさ)同三十一年十月廿三日 当寺(たうし)炎上(えんしやう)ありしかは同十一月
十四日 持氏公(もちうちこう)鎌倉(かまくら)還御(くわんきよ)ありし等(とう)の事(こと)鎌倉大草子(かまくらおほさうし)に見え
たり《割書:当寺(たうし)什宝(しうほう)の中(うち)に往古(わうこ)尊氏公(たかうちこう)陣中(ちんちゆう)にて用(もち)ひられしと云 古(ふる)き銅鑼(とうら)一口あり|しか近頃(ちかころ)紛失(ふんしつ)なしたりとて今(いま)は見えす》
石上山(せきしやうさん)弥勒寺(みろくし) 般若院(はんにやゐん)と号(かう)す高安寺(かうあんし)より六町あまり西(にし)の方(かた)同し
街道(かいたう)の右側(みきかは)にあり真言宗(しんこんしう)にして府中(ふちゆう)の妙光院(めうくわうゐん)に属(そく)す開創(かいさう)の
【枠外】 三ノ百九十三
【左丁】
始(はしめ)久(ひさしう)して今(いま)しるへきにあらす永正(えいしやう)二年乙丑 権大僧都法印良尊(こんたいそうつほふゐんりやうそん)
中興(ちゆうかう)す本尊(ほんそん)大日如来(たいにちによらい)は一尺斗の座像(ささう)にして作者(さくしや)未詳(いまたつまひらかならす)当寺(たうし)に
津戸勘解由左衛門尉菅原規継(つとかけゆさゑもんのしやうすかはらののりつくの)墓(はか)あり
墓碑如図 【四角囲い墓碑】
津戸勘解由左衛
子尅死去
延文五年七月十日
沙弥道継
門尉菅原規継
《割書:按(あんする)に此(この)勘解由左衛門規継(かけゆさゑもんのりつく)は津戸三郎為守(つとさふらうためもり)の氏族(しそく)ならん為守(ためもり)の墓(はか)は八王(はちわう)|子(し)の観池山(くわんちさん)大善寺(たいせんし)にあり今(いま)八幡宿(やはたしゆく)の農民(のうみん)六右衛門(ろくゑもん)といへるものあり津戸氏(つとうち)|にして其(その)遠裔(ゑんえい)なりといふ》
谷保天神社(やふてんしんのやしろ) 同し街道(かいたう)西(にし)の方(かた)谷保村(やふむら)道(みち)より左側(ひたりかは)にあり《割書:此所(このところ)は分倍庄(ふんはいのしやう)|栗原郷(くりはらのかう)と云》
別当(へつたう)は安楽寺(あんらくし)と号(かう)す祭礼(さいれい)は毎歳(まいとし)二月と八月の廿五日又三月十五日
には開扉(かいひ)あり十一月三日は当社(たうしや)往古(そのかみ)天神島(てんしんしま)と称(とな)ふる地(ち)より今(いま)の
地(ち)に遷座(せんさ)なし奉(たてまつ)りし縁(えん)により此日(このひ)に小菜供(わかなのみけ)を献備(けんひ)するといへり
本社(ほんしや)祭神(さいしん)天満大自在天神(てんまんたいしさいてんしん)一座(いちさ)神躰(しんたい)は菅家(くわんけ)弟(たい)【第】三嗣(さんし)菅原道武(すかはらのみちたけ)
【右丁】
谷保天神(やふてんしん)社
社内(しやない)に常磐(ときは)の
清水(しみつ)と称(しよう)する
霊水(れいすゐ)あり
【四角囲い文字】
弁天
いなり
淡島
庵
観音
常磐清水
弁天
拝殿
【枠外】 三ノ百九十四
【左丁】
【四角囲い文字】
本社
いなり
太神宮
三郎殿
仮屋坂
安楽寺
【右丁】
清水立場(しみつたては)
甲州街道(かうしうかいたう)の立場(たては)に
して此辺(このへん)こゝかしこに
清泉(せいせん)涌出(ゆしゆつ)する故(ゆゑ)に
清水村(しみつむら)の称(しよう)ありと
云此地に酒舗(しゆほ)あり
て店前(てんせん)清泉(せいせん)沸(ほつ)
流(りう)す夏日(かしつ)は索麺(さうめん)
を湛(ひた)して行人(かうにん)を饗(きやう)
応(をう)せり故(ゆゑ)に此地
往来(わうらい)の人こゝに
憩(いこ)ひて炎暑(えんしよ)
を避(さけ)さるは
なし
【品書き】
下り
そふめん
ところてん
【看板】
此むらや
【枠外】 三ノ百九十五
【左丁】
朝臣(あそん)の手刻(しゆこく)なり
額(かく)《割書:天満宮(てんまんくう)》後宇多天皇勅(こうたてんわうのちよく)世尊寺経朝卿筆(せそんしつねともきやうのふて)
《割書:額(かく)の裏(うら)に左の如(こと)きの二十四字を刻(こく)せり又(また)外(そと)に同(おな)し額(かく)の写(うつ)し一 枚(まい)あり水戸黄門(みとくわうもん)|光圀卿(みつくにきやう)これを奉納(ほうのう)なし給ひしとて裏書(うらかき)に元禄(けんろく)三年庚午 眉毛軒河埜門(ひもうけんかはのもん)|入敬彫(にふけいてう)とあり》
《割書:経朝卿(つねともきやう)の筆(ひつ)せられし額(かく)の背面(はいめん)に曰(いはく)》
建治元年己亥六月廿六日乙丑書也【注】
正三位藤原朝臣経朝
常盤清水(ときはのしみつ)《割書:裏門(うらもん)出口(てくち)道(みち)の端(はた)に小(ちひさ)き池(いけ)あり中島(なかしま)に弁財天(へんさいてん)を安置(あんち)す清泉(せいせん)湧出(ゆしゆつ)|する事 尤(もつとも)夥(おひたゝ)しく下流(かりう)水車(みつくるま)を■(まふけ)【儲】て日用(にちよう)の助(たすけ)とせり延宝年間(えんはふねんかん)筑(つく)》
《割書:紫(し)の僧(そう)某(それかし)当社(たうしや)へ詣(まふて)し頃(ころ)和哥(わか)を詠(えい)するより常盤(ときは)の清水(しみつ)と称(とな)ふるとなり》
本地堂(ほんちたう)《割書:本社(ほんしや)の右(みき)の岡(をか)にあり本尊(ほんそん)十一面(しふいちめん)|観音(くわんおん)の像(さう)は慈覚大師(しかくたいし)の作(さく)と云》道武朝臣霊社(みちたけあそんのれいしや)《割書:本社(ほんしや)の後(うしろ)に|あり土人(としん)三郎(さふらう)》
《割書:殿(との)と称(しよう)す》
社伝云(しやてんにいはく)昌泰(しやうたい)四年 菅公(くわんこう)筑前(ちくせん)の太宰府(たさいふ)へ左遷(させん)の時(とき)御三男(こさんなん)菅原(すかはらの)
道武朝臣(みちたけあそん)も又(また)此地(このち)に流(なか)されさせ給ひ三年の星霜(せいさう)を経(へ)給ひしに
延喜(えんき)三年二月二十五日 父君(ふくん)菅公(くわんこう)筑紫(つくし)にて亡(ほろひ)給ひぬときゝ悲歎(ひたん)の
あまり配所(はいしよ)の徒然(つれ〳〵)に父君(ふくん)の御像(おんさう)を手親(てつから)摸刻(もこく)し給ひ旦暮(たんほ)在(います)か
【注 建治元年は乙亥】
【右丁】
如(こと)く事(つか)へ孝道(かうたう)の誠(まこと)を尽(つく)され給ひしを後(のち)に一社(いつしや)に奉(ほう)しまゐらす
となり《割書:昔(むかし)は大社(たいしや)にて僧房(そうはう)も多(おほ)かりしとなり桜本坊(さくらもとはう)邑盛坊(いうせいはう)尊住坊(そんちゆうはう)梅本(うめもと)|坊(はう)松本坊(まつもとはう)《振り仮名:滝の坊|たき はう》以上 六坊(ろくはう)中古(ちゆうこ)迠(まて)も猶(なほ)残(のこ)りてありしに夫(それ)さへ廃(すた)れて》
《割書:今(いま)は《振り仮名:滝の院|たき いん》と号(かう)する一 宇(う)|のみ存(そん)せり是(これ)古(いにしへ)の《振り仮名:滝の坊|たき はう》なり》天暦(てんりやく)に至(いた)りては 村上帝(むらかみてい)狛犬(こまいぬ)一双(いつさう)を寄附(きふ)なし
給ふ《割書:今(いま)猶(なほ)存(そん)せり甚(はなはた)の古物(こふつ)|にして寄(き)【奇ヵ】なりとす》又(また)大般若経(たいはんにやきやう)四巻を収(をさ)む源義経朝臣(みなもとのよしつねあそん)の
奉納(ほうのう)なりと云《割書:伊勢三郎(いせのさふらう)亀井六郎(かめゐのろくらう)及(およ)ひ弁慶(へんけい)等(とう)の|四人 書写(しよしや)する所(ところ)の経巻(きやうくわん)なりといへり》
菅原道武朝臣旧館地(すかはらみちたけあそんきうくわんのち) 同所二丁 許(はかり)南(みなみ)にあり空堀(からほり)城門(しやうもん)の跡(あと)と覚(おほ)し
き所(ところ)も見えて四方二町あまりの封境(ほうきやう)なり土人(としん)三郎殿屋敷跡(さふらうとのやしきあと)と称(しやう)
す相伝(あひつた)ふ三郎道武(さふらうみちたけ)此地(このち)に住(ちゆう)し当地(たうち)の県主(あかたぬし)上平太貞盛(しやうへいたさたもり)の女(むすめ)を娵(めと)り
一子(いつし)を得(え)たり其子(そのこ)を菅原道英(すかはらみちふさ)と号(かうす)夫(それ)より六世(ろくせ)の孫(そん)を津戸三郎(つとさふらう)
為守(ためもり)と号(なつ)くると《割書:津戸為守(つとためもり)の事(こと)は安(あん)|楽寺(らくし)の条下(てうか)に詳(つまひらか)也》或云(あるひはいふ)此地(このち)は貞盛(さたもり)旧館(きうくわん)の地(ち)なり
とも《割書:道武(みちたけ)主(ぬし)貞盛(さたもり)の女(むすめ)を|娵(めと)りたる等(とう)の事(こと)は未考(いまたかんかへす)》
仮屋坂(かりやさか) 同所 安楽寺(あんらくし)の門前(もんせん)百歩(ひやくほ)計(はかり)街道(かいたう)の西(にし)の方(かた)へ向(むか)ひて上(のほ)る坂(さか)を
云(いふ)建治(けんち)二年 奉幣使(ほうへいし)此(この)谷保天神(やふてんしん)の宮(みや)へ下向(けかう)し給ひし頃(ころ)仮(かり)に旅(りよ)
【枠外】 三ノ百九十六
【左丁】
館(くわん)を■(まう)【儲】けし旧跡(きうせき)なる故(ゆゑ)に此号(このな)ありと云
梅香山(はいかうさん)安楽寺(あんらくし) 松寿西院(しようしゆさいゐん)と号(かう)す天神社(てんしんのやしろ)より一町半あまり西北(にしきた)の方(かた)
街道(かいたう)より右側(みきかは)にあり天台宗(てんたいしう)にして東叡山(とうえいさん)に属(そく)せり当寺(たうし)は
天満宮(てんまんくう)の別當寺(へつたうし)にして天暦年間(てんりやくねんかん)法円大僧正(ほふゑむたいそうしやう)開創(かいさう)せりと云
中興(ちゆうこう)は津戸三郎為守(つとさふらうためもり)尊願(そんくわん)なり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は法然(ほふねん)上人の
作(さく)にして座像(ささう)一尺五寸 計(はかり)あり仏躰(ふつたい)の中(うち)に為守(ためもり)注(ちゆう)する所(ところ)の血文(けつふん)を
収(をさ)むると云 其余(そのよ)什宝(しふはう)に為守(ためもり)の太刀(たち)一振(ひとふり)同 画像(くわさう)一幅(いつふく)同 甲冑(かつちゆう)の
中(うち)に篭(こめ)たりと云 薬師佛(やくしふつ)あり傳教大師(てんけうたいし)の作(さく)と云 像材(さうさい)は沈香(ちんかう)に
して十二 神将(しんしやう)の像(さう)迠(まて)悉(こと〳〵)く高(たか)サ一寸 斗(はかり)の厨子(つし)の内(うち)に造(つく)り篭(こめ)られ
たり《割書:津戸三郎為守(つとさふらうためもり)の墓(はか)は八王子(はちわうし)の市中(しちゆう)観池山(くわんちさん)大善寺(たいせんし)といふ十八 檀林(たんりん)の|浄刹(しやうせつ)にあり寛保(くわんほ)壬戌五百年の遠忌(ゑんき)により其(その)後裔(こうえい)津戸(つと)六郎右衛門 法名(ほふみやう)》
《割書:順譽(しゆんよ)といへる者(もの)造立(さうりふ)せる所の石碑(せきひ)なり又 為守(ためもり)か住(すみ)たりし地(ち)は同所(とうしよ)多麻川(たまかは)の南(なん)|岸(かん)石田(いした)といふ地(ち)にあり今(いま)も八幡宿(やはたしゆく)の中(うち)に其(その)子孫(しそん)連綿(れんめん)として相続(さうそく)せり津戸(つと)三郎|為守(ためもり)は法名(ほふみやう)を尊願(そんくわん)と号(かう)す文章博士(もんしやうはかせ)菅原孝標(すがはらのたかすゑ)常陸介(ひたちのすけ)に任(にん)し下国(けこく)の時(とき)武蔵(むさしの)|国(くに)の総追補使(さふついふし)秩父権守平重総(ちゝふこんのかみたいらのしけふさ)か娘(むすめ)に嫁(か)して一子(いつし)を生(しやう)す名(な)を津戸次郎為広(つとしらうためひろ)|といふ其(その)三男(さんなん)為守(ためもり)なり為守(ためもり)生年(しやうねん)十八 歳(さい)にして治承(ちしやう)四年八月 石橋山(いしはしやま)の合戦(かつせん)に|馳参(はせさん)して頼朝公(よりともこう)の旗下(きか)に属(そく)し度々(たひ〳〵)軍(いくさ)に忠(ちゆう)を顕(あらは)し名(な)をあけすといふ事》
【右丁】
日野津(ひのゝつ)
【暖簾】
江戸 一 高崎
近藤
【枠外】 三ノ百九十七
【左丁】
《割書:なし建久(けんきう)六年二月 南都(なんと)東大寺(とうたいし)供養(くやう)の為(ため)将軍(しやうくん)上洛(しやうらく)の事ありしにも為守(ためもり)|供奉(くふ)して同三月 洛(みやこ)に入(いる)同し廿一日 法然(ほふねん)上人の庵(あん)に参(まい)り念仏往生(ねんふつわうしやう)の道(みち)を承(うけたまは)りて|の後(のち)は念仏(ねんふつ)の行者(きやうしや)となり建保(けんほ)七年 竟(つひ)に出家(しゆつけ)をとく其先(そのせん)上人より贈(おく)らるゝ所(ところ)の|法名(ほふみやう)をつきて尊願(そんくわん)と号(かう)す仁治(にんち)三年十月廿八日より三七日の間(あひた)如法念仏(によほふねんふつ)を修(しゆ)す|同十一月十八日 結願(けちくわん)の夜(よ)穢土(ゑと)の住居(ちゆうきよ)無益(むゑき)なりと高声(かうしやう)に念仏(ねんふつ)しひそかに自(みつから)腹(はら)かき|切(きり)五臓六腑(こさうろくふ)を取出(とりいた)し練(ねりの)大口(おほくち)に包(つゝみ)忍(しの)ひて後(うしろ)の河(かは)へ捨(すて)させにけれとも夜陰(やいん)の事|なれば人 更(さら)に知(し)る事なしされとも苦痛(くつう)もなく十九日に至(いた)りても猶(なほ)臨終(りんしう)の心地(こゝち)な|かりければ息男(そくなん)民部太夫守朝(みんふのたいふもりとも)に此(この)事を告(つけ)けるにより始(はしめ)て人もしりける翌(あく)る四年の|正月十三日の夜(よ)夢(ゆめ)に来(き)たる十五日 午剋(うまのこく)に迎(むか)ふへき由(よし)上人 告(つけ)給ふとみる覚(さめ)て後(のち)件(くたん)の|日に至(いた)り上人より給ふ所の袈裟(けさ)をかけ念珠(ねんしゆ)をもちて西(にし)に向(むか)ひ端座(たんさ)合掌(かつしやう)して|高声(かうしやう)に念仏(ねんふつ)し午(うま)の正中(たゝなか)に息(いき)絶(たえ)ぬ紫雲(しうん)空(くう)に靉霴(あいたい)【靆】し異香(ゐかう)室(しつ)にみつ腹切(はらきり)て後(のち)水(すい)|漿(しやう)を断(たち)て五十七日 気力(きりよく)常(つね)の如(こと)くして往生(わうしやう)をとけけるも甚(はなはた)奇(き)にして殆(ほとんと)信(しん)をとり|かたしといへとも彼(かの)子孫(しそん)上人の御消息(おんせうそく)ならひに念珠(ねんしゆ)袈裟(けさ)等(とう)を相伝(さうてん)して披露(ひろう)|する事 世(よ)以(もつ)てかくれなし唯(たゝ)是(これ)尊願(そんくわん)か不思議(ふしき)の奇特(きとく)を載(のす)るのみ《割書:以上円光大師行状翼賛|の要を摘採す》》
玄武山(けんむさん)普済禅寺(ふさいせんし) 日野渡口(ひのわたしくち)より此方(こなた)の岸頭(きし)を右へ十丁斗入て芝崎(しはさき)
村(むら)と云にあり《割書:此所(このところ)を立川(たてかは)と云 昔(むかし)の郷(かう)の|名(な)なり今(いま)は小名となれり》済家(さいけ)の禅林(せんりん)にして相州(さうしう)鎌倉(かまくら)の
建長寺(けんちやうし)に属(そく)せり開山(かいさん)は真照大定禅師物外可什和尚(しんせうたいちやうせんしもつけかしふおしやう)と号(かう)す《割書:貞(てい)|治(ち)》
《割書:二年癸卯十二月八日 寂(しやく)す|禅師(せんし)の墳墓(ふんほ)及(およ)ひ肖像(しやうさう)あり》本尊(ほんそん)は正観世音座像(しやうくわんせおんささう)二尺 斗(はかり)あり左右(さいう)に
十六 阿羅漢(あらかん)十大弟子 等(とう)の木像(もくさう)を安(あん)す共(とも)に作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす中(ちゆう)
興大檀那(こうたいたんな)は立川宮内大輔(たてかはくないのたいふ)と称(しよう)す法名(ほふみやう)は宝山道貴大禅定門(はうさんたうきたいせんちやうもん)と
【右丁】
芝崎(しはさき)
普済寺(ふさいし)
境内(けいたい)に延文(えんふん)
年間(ねんかん)に制(せい)する
所(ところ)の六面(ろくめん)の
石塔(せきたふ)を存(そん)せり
【四角囲い文字】
裏門
有慶庵
城跡
庫裡
六角塔
本堂
客殿
中門
【枠外】 三ノ百九十八
【左丁】
【四角囲い文字】
かね
弁天
いなり
仏殿
総門
多摩川
青梅道
【右丁】
いふ《割書:霊牌(れいはい)は当寺(たうし)にあれとも|其(その)墳墓(ふんほ)の所在(しよさい)をしらす》
仏殿(ふつてん)惣門(さうもん)の内(うち)にあり本尊(ほんそん)は釈尊(しやくそん)にして座像(ささう)三尺 計(はかり)あり脇士(けふし)
文殊(もんしゆ)普賢(ふけん)二尺斗 共(とも)に作者(さくしや)をしらす《割書:此(この)本尊(ほんそん)の胎中(たいちゆう)に立川氏(たてかはうち)の家(か)|譜(ふ)其余(そのよ)の古文書(こもんしよ)を篭(こむ)ると》
《割書:いふ其記(そのき)に平重能(たいらのしけよし)平義親(たいらのよしちか)|平高親(たいらのたかちか)等(とう)の名(な)を記(しる)せりといふ》
五十嵐市左衛門感状曰
景虎御出陣之砌三田弾正忠政定先陣而大幡々
陣所八王子城主北条氏照与及一戦没落之所五十
嵐市左衛門竹田新八郎ト云武士ヲ討取二番着到
賞功不跡時芝崎三十貫文所ヲ被仰下者也
依而如件
永禄三庚申年三月七日
立川宮内重能 在判
開山大定禅師真像座下之記曰
彩色啓端造立助縁芳衛辨翁啓範宗来啓一宗華
【枠外】 三ノ百九十九
【左丁】
宗義啓端宗順啓勝宗範啓寿寿性了宗宗快翁
塗師行盛仏師上総法橋朝宗幹縁比丘啓達
応安三年戌十二月三日敬記
当寺(たうし)境内(けいたい)北(きた)の方(かた)は往古(そのかみ)立川宮内大輔(たてかはくないたいふ)某(それかし)の宅地(たくち)たりしとなり
数年(すねん)合戦(かつせん)の地(ち)にして今猶(いまなほ)林中(りんちゆう)に首塚(くひつか)と称(しよう)するものあるは其謂(そのいはれ)なり
と云《割書:今(いま)も隍(ほり)の跡(あと)と覚(おほ)しき地(ち)存(そん)して山中(さんちゆう)折(をり)として矢(や)の根(ね)の類(たくひ)武器(ふき)を得(う)る事|ありといへり又 慶長(けいちやう)の頃(ころ)立川承賀(たてかはしやうか)なといへる人ありこゝに云 宮内大輔(くないのたいふ)》
《割書:何(いつ)れも其(その)|一族(いちそく)なるへし》豊太閤(はうたいかう)の朱章(しゆしやう)あるを以(もつ)て当寺(たうし)天叟宗祐和尚(てんさうしういうおしやう)
御開国(こかいこく)の砌(みきり)寺領(しりやう)を乞(こひ)奉(たてまつ)り朱璽(しゆし)をたまふ又(また)宮内大輔(くないのたいふ)為討伐(ちうはつとして)
仏閣(ふつかく)を放火(はうくわ)なし給ひ静謐(せいひつ)の後(のち)は修理(しゆり)すへきとある證状(しやうしやう)を給ふ
其後(そののち)住持(ちゆうち)覚栄宗理(かくえいしうり)《割書:天叟(てんさう)の|弟子(てし)》其事(そのこと)を愁訴(しうそ)する故(ゆゑ)に御加増(こかさう)あるへき
旨(むね)被仰下(おほせくたさる)といへとも遅々(ちゝ)するか故(ゆゑ)に先栄和尚(せんえいおしやう)改衣(かいえ)の為(ため)上京(しやうきやう)なし
途中(とちゆう)遷化(せんけ)せり其後(そののち)久(ひさ)しく無住(むちゆう)の寺(てら)となり朱章(しゆしやう)を欠(かく)と云 然(しか)るに
寛永(くわんえい)の末(すゑ)住持(ちゆうち)大年(たいねん)といへる僧(そう)当寺(たうし)に住(ちゆう)せしか故(ゆゑ)ありて広福寺(くわうふくし)
といへるに退去(たいきよ)せられ什宝(しふはう)の古文書(こもんしよ)古器(こき)の類(たくひ)悉(こと〳〵)く持(ち)し去(さ)れり
【右丁】
と云て今(いま)は寺(てら)の朱章(しゆしやう)を傳(つた)へ存(そん)するのみ
日本年代配合鈔曰
永正元年甲子九月廿五日立河原於山内顕定扇
谷上杉朝義合戦 ̄ス朝義軍敗 ̄テ太田下野守 ̄ヲ為_レ始多兵
死 ̄ス
《割書:南朝紀傳(なんちやうきてん)康正(かうしやう)元年己亥【註1】正月廿一日 鎌倉成氏(かまくらなりうち)と房顕(ふさあき)は定政(さたまさ)上杉長尾景中(うへすきなかをかけなか)【註2】と|武州(ふしう)立川原(たてかはら)にて合戦(かつせん)云々》
《割書:小田原記(をたはらき)云 永正(えいしやう)元年甲子九月廿七日 駿河(するか)今川氏輝(いまかはうちてる)并 小田原(をたはら)の松田(まつた)左衛門 頼重(よりしけ)はせ|加(くはゝ)りけれは此勢(このせい)を合(あは)せて《振り仮名:扇ゕ谷|あふき やつ》の五郎 頼良(よりよし)大将軍(たいしやうくん)として武州(ふしう)立河原(たてかはら)へ陣営(ちんえい)を|布(しき)山内(やまのうち)の管領(くわんれい)上杉民部大輔可淳入道(うへすきみんふのたいふかしゆんにふたう)并に当(たう)屋形(やかた)憲房(のりふさ)東八州(とうはつしう)の軍兵(くんへう)を|催(もよほ)し押寄(おしよせ)たゝかふたり夜(よ)に入(いり)けれは山内(やまのうち)の加勢(かせい)として越後(ゑちこ)の軍勢(くんせい)はせ来(きたり)けれは|朝良(ともよし)あら手(て)にかけたてられて河越(かはこえ)の城(しろ)に落延(おちのひ)梅酸(うめす)の渇(かつ)をやすむるよし|みえたり》
六面塔(ろくめんたふ)《割書:卵塔(らんたふ)の中(うち)にあり高(たか)さ六尺はかり一片の幅(はゝ)一尺五寸あまりありて|六面(ろくめん)の石(いし)は一片々に葢石(ふたいし)と台石(たいいし)とを穿(うか)ちて立合(たてあは)せたるものなり》
《割書:前面(せんめん)の二 枚(まい)には金剛(こんかう)密迹(みつしやく)の二王(にわう)を彫刻(てうこく)し後面(こうめん)左右(さいう)の四枚(しまい)は四天王(してんわう)の像(さう)を刻(こく)|せり上の方は何(いつ)れも宝尽(たからつくし)の如(こと)きものを鐫(えり)て其(その)ありさま尋常(よのつね)の石工(せきかう)の手(て)に出(いつ)るもの|にあらす極(きは)めて妙作(みやうさく)なり増長天(そうちやうてん)の一片(いつへん)に年号(ねんかう)等(とう)を刻(こく)せり其文(そのふん)左(さ)の如(こと)し》
延文六季年辛丑七月六日 施財性了立
道圓刊
《割書:按(あんする)に前(まへ)に挙(あく)る所(ところ)の開山(かいさん)大定禅師(たいちやうせんし)肖像(しやうさう)座下(さか)の記文(きふん)に性了(しやうりやう)の名(な)あり六面(ろくめん)|塔(たふ)の財主(さいしゆ)性了(しやうりやう)一(いつ)なるへし延文(えんふん)六年は康安(かうあん)と改元(かいけん)の年(とし)也 応安(おうあん)三年に至(いた)り|わつかに十年なり然(しか)れはいよ〳〵此人なるへし》
【枠外】 三ノ二百
【左丁】
普済寺境内六角古碑(ふさいしけいたいろくかくのこひ) 《割書:高サ五尺二寸 巾一尺四寸計》
那羅延堅固(ならえんけんご)
密迹金剛(みつしやくこんがう)
増長天王(ぞうちやうてんわう)
【註1 康正元年は乙亥】
【註2 正しくは景仲】
【右丁】
多聞天王(たもんてんわう)
持国天王(ぢこくてんわう)
広目天王(くわうもくてんわう)
【枠外】 三ノ二百一
【左丁】
当寺(たうし)境内(けいたい)の地(ち)は多磨川(たまかは)の流(なかれ)に臨(のそ)み勝景(しようけい)の地(ち)なり富士(ふし)箱根(はこね)秩(ちゝ)
父郡(ふこほり)の遠嶂等(ゑんしやうとう)一望(いちはう)に遮(さへき)り尤(もつとも)幽趣(いうしゆ)あり北(きた)の方(かた)は往古(いにしへ)立川宮内大輔(たてかはくないたいふ)
某(それかし)か城営(しやうえい)の旧址(きうし)にして其(その)形勢(かたち)を存(そん)し懐旧(くわいきう)の情(しやう)を催(もよほ)さしむ又 小田(をた)
原(はら)の北条(ほうてう)幕下(はくか)なりし五十嵐小文治(いからしこふんち)といへる人(ひと)も此地(このち)にありし由(よし)
土人(としん)云傳(いひつた)へたり前(さき)に顕(あらは)せし永禄(えいろく)三年の感状(かんしやう)にも五十嵐市左衛門(いからしいちさゑもん)
といへる名(な)を注(ちゆう)したり何(いつ)れも其(その)氏族(しそく)の徒(ともから)なるへし此故(このゆゑ)に今(いま)も此地(このち)に
五十嵐氏(いからしうち)の人(ひと)尤(もつとも)多(おほ)し《割書:按(あんする)に五十嵐(いからし)小文治は和田合戦(わたかつせん)に朝比奈(あさひな)|義秀(よしひて)に討(うた)れたる人なり是(これ)を混(こん)して土人(としん)》
《割書:あやまり傳(つた)へたる歟(か)》
八幡宮(はちまんくう) 同所二町はかり北(きた)の方(かた)にあり神主(かんぬし)宮崎氏(みやさきうち)奉祀(はうし)す祭神(さいしん)
本多別命(ほんたわけのみこと)一座(いちさ)相伝(あひつたふ)建長(けんちやう)四年癸子八月十五日 勧請(くわんしやう)せりと云
本地佛(ほんちふつ)は阿弥陀如来(あみたによらい)にして黄金佛(わうこんふつ)御丈(みたけ)四寸八分ありて弘法(こうほふ)
大師(たいし)の作(さく)なりといへり《割書:背面(はいめん)は仮面(かめん)の如(こと)く凹(くほか)にして甚(はなはた)古色(こしよく)なり|按(あんする)に世俗(せそく)後光佛(こくわうふつ)と称(しよう)するもの是(これ)なり》然(しか)るに
天正年間(てんしやうねんかん)野火(のひ)の為(ため)に神殿(しんてん)烏有(ういう)となれり此時(このとき)に至(いた)り本尊(ほんそん)失(うせ)
【右丁】
立川(たてかは)
八幡宮(はちまんくう)
諏訪社(すはのやしろ)
満願寺(まんぐわんじ)
【四角囲い文字】
立川村
すは
【枠外】 三ノ二百二
【左丁】
【四角囲い文字】
かね
八まん
満願寺
太子
【右丁】
給ひて其(その)所在(しよさい)を知(し)る人なし仍(よつて)此地(このち)の領主(りやうしゆ)立川宮内(たてかはくない)某(それかし)の室(しつ)
此事(このこと)を深(ふか)く歎(なげ)き思(おも)ひ新(あらた)に弥陀像(みたのさう)一躯(いつく)を鋳(い)て當社(たうしや)に収(をさめ)らるゝと
いへり《割書:其(その)佛躰(ふつたい)の背面(はいめん)に鐫所(いるところ)の文(ふん)次(つき)に記(しる)せり按(あんする)に新像(しんさう)の膝(ひさ)に梅鉢(うめはち)の紋(もん)あり|疑(うたか)ふらくは立川氏(たてかはうち)の家(いへ)の紋(もん)ならん歟(か)或(あるひ)は其室(そのしつ)の家(いへ)の紋(もん)ならん歟(か)》
其後(そののち)宝永年間(はうえいねんかん)宮社(きうしや)を造立(さうりふ)せんとせし時(とき)境内(けいたい)松(まつ)の枯株(こちゆう)の根(ね)を
穿(うか)ちて鋤下(しよか)に失(うしな)ふ所(ところ)の本地佛(ほんちふつ)金像(こんさう)の弥陀如来(みたによらい)を得(え)たり《割書:其時(そのとき)|の鋤(すき)》
《割書:の刃(は)の跡(あと)尊像(そんさう)の|御胸(おんむね)に印(いん)せり》又(また)安永(あんえい)五年の夏(なつ)賊(そく)の為(ため)に奪(うは)はるゝといへとも霊威(れいゐ)あるを
以(もつて)同年(とうねん)八月四日 再(ふたゝひ)当社(たうしや)に還座(くわんさ)なし給ふとな
天正年間新造立所之本地佛之銘曰
武州多東郡立河郷芝崎村八幡本地并興願主
立河宮内お称か
干時天正拾四甲戌年三月十五日
本願大夫式部
大工椎名土佐守
後光鏡之銘曰
武州多磨郡立河郷芝崎村八幡宮 鏡一面
為家内安全 五十嵐与八郎
元文四年己未八月
【枠外】 三ノ二百三
【左丁】
医王山(ゐわうさん)萬願寺(まんくわんし) 同所 南(みなみ)の方(かた)四十歩 計(はかり)を隔(へた)つ黄檗派(わうはくは)の禅崫(せんくつ)
にして銕牛禅師(てつきうせんし)居住(きよちゆう)の草庵(さうあん)の旧跡(きうせき)なりしを後(のち)に一宇(いちう)の蘭若(れんにや)と
なせしといふ本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)は座像(ささう)三尺 計(はかり)恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)にして
脇士(けふし)に日光(につくわう)月光(くわつくわう)十二神将(しふにしんしやう)等(とう)の像(さう)を安(あん)せり
額(かく)《割書: 本堂(ほんたう)| 向拝(かうはい)》 医 額(かく)《割書: 堂内(たうない)| 家帯(なけし)》 東 聯(れん)《割書: 左右(さいう)| の柱(はしら)に》 願広悲深尽大地無非薬艸
《割書:に掲(か)く南(なん)|岳悦山筆(かくゑつさんのふて)》 王 《割書:に掲(かく)る当(たう)|寺(し)中興(ちゆうこう)別(へつ)|》 光 《割書:掛(かく)る黄檗(わうはく)|高泉(かうせん)の》 塵空垢浄遍法界悉是瑠璃
山 《割書:峯旦筆(ほううたんのふて)》 院 《割書:筆(ふて)なり》
諏訪(すは)社 八幡宮(はちまんくう)より六十歩計 東(ひがし)にあり祭神(さいしん)建御名方命(たけみなかたのみこと)一 座(さ)相(あひ)
伝(つた)ふ弘仁(こうにん)二年辛卯七月廿一日に勧請(くわんしやう)せしといふ当社(たうしや)も宮崎(みやさき)
氏(うち)兼帯(けんたい)奉祀(はうし)す
多磨川(たまかは) 当国(たうこく)第(たい)一の勝槪(しようかい)とす《割書:和名類聚抄(わみやうるいしゆしやう)多磨(たま)に作(つく)り太婆(たは)と訓(くん)す|万葉集(まんえふしふ)多麻(たま)に从(したか)ひ武蔵国風土記(むさしのくにふとき)残(さん)》
《割書:篇(へん)多摩(たま)とす後世(かうせい)玉(たま)に作(つく)るものは山城(やましろ)摂津(せつつ)およひ紀伊(きい)近江(あふみ)陸奥(むつ)等の国(くに)々にある|所(ところ)の玉川(たまかは)と共(とも)にあはせて六玉川(むたまかは)と称(しよう)せしよりかく文字(もんし)をあらためたりしなるへし|此川(このかは)は武甲(ふかふ)の堺(さかひ)丹波山(たはやま)に発(はつ)し多摩郡(たまこほり)の丹波村(たはむら)に添(そふ)て流(なか)るゝ故(ゆゑ)に多波川(たはかは)とは|いひたるなり日蓮(にちれん)上人 註画讃(ちゆうくわさん)大士(たいし)臨終(りんしう)の時(とき)池上(いけかみ)に移(うつり)給ふ条(てう)に武蔵国(むさしのくに)田波河(たはかは)》
【註「萬願寺」は「満願寺」の誤】
【右丁】
多磨川(たまかは)
六玉川(むたまかは)のひとつ
にて今(いま)多磨(たま)を
玉(たま)に作(つく)る
【四角囲い文字】
和泉
高尾山
猪の方
矢の口渡
中の島
菅村
【枠外】 三ノ二百四
【左丁】
【四角囲い文字】
菅生
登戸
【右丁】
其二
【四角囲い文字】
大山
長尾山
宿河原
【枠外】 三ノ二百五
【左丁】
玉川(たまかは)は砂場(すなは)広(くわう)
豁(くわつ)にして其(その)流(なか)れ
一 帯(たい)にあらす多(おほ)く
雨後抔(うこなと)には渡口(わたりくち)
移転(ゐてん)して定(さたま)る事
なし西北に秩父(ちゝふ)
をよひ甲州(かうしう)の緒(しよ)【註】
山(さん)を望(のそ)み東南は
堤塘(つゝみ)の斜(なゝめ)に連(つらな)る
を見(み)る鮎(あゆ)を此川
の産(さん)とす夏秋(なつあき)の
間(あひた)多(おほ)し故(ゆゑ)に常(つね)
に漁人(きよしん)絶(たえ)す
【四角囲い文字】
堰村
駒井
【註 「緒」「諸」の誤】
【右丁】
玉(たま)
川(かは)
猟(あゆ)
鮎(かり)
【枠外】 三ノ二百六
【左丁】
夫木
禖子内
親王
家哥合
笧【註】炎の
影にそ
しるき
玉川の
鮎ふす
瀬
には
光
そひ
つゝ
【「笧(しがらみ)」は「篝(かがり)」の誤】
【右丁】
拾遺愚草
たつくり【註】
や
さらす
垣ねの
朝露を
つらぬき
とめぬ
玉川の
里
定家
【枠外】 三ノ二百七
【左丁 文字なし】
【註 「たつくり」は「てつくり」の誤】
【右丁】
《割書:の辺(へん)にして滅(めつ)を尓(しめ)すへしともみえ又(また)北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)にも多波川(たはかは)とあり》
水源(みなもと)は甲州(かうしう)丹波山(たはやま)に発(はつ)し《割書:田澤義章(たさはよしあきら)の武蔵野地名考(むさしのちめいかう)に|此(この)丹波(たは)山を武蔵(むさし)とせしは誤(あやまり)なり》当国(たうこく)多摩郡(たまこほり)に
入ては日原(ひはら)川も会流(くわいりう)す《割書:多麻郡(たまこほり)日原山(ひはらやま)小菅山(こすけやま)等(とう)|の山谷(さんや)より発(はつ)すと云》御嶽山(みたけさん)の麓(ふもと)を経(へ)て
青梅(あをめ)の南(みなみ)に傍(そひ)羽村(はむら)《割書:四谷上水(よつやしやうすい)の|掛口(かけくち)あり》及(およ)ひ福生(ふつさ)拝島(はいしま)等(たう)の地(ち)に至(いた)る又(また)此地(このち)
にて秋川(あきかは)の流(なかれ)も落会(おちあ)ひ《割書:甲州境(かふしうさかひ)の地(ち)より発(はつ)して多磨郡(たまこほり)伊奈村(いなむら)五日 市(いち)|村(むら)等(とう)の辺(へん)に傍(そふ)て流(なか)るゝもの秋川(あきかは)なり》
又(また)石田(いした)と云(いふ)に至(いた)り浅井川(あさゐかは)も合(かつ)し《割書:八王子(はちわうし)の山間(やまあひ)|より出(いて)たり》和泉村(いつみむら)中島村(なかしまむら)等(とう)の
地(ち)より末(すへ)は多麻(たま)荏原(えはら)橘樹(たちはな)三郡(さんくん)の間(あひた)を東流(とうりう)し海(うみ)に会(くわい)せり《割書:橘樹郡(たちはなこほり)|の方(かた)は》
《割書:登戸(のほりと)二子(ふたこ)小杉(こすき)平間(ひらま)河崎(かはさき)等(とう)の地(ち)に傍(そ)ひ荏原郡(えはらこほり)は瀬田(せた)等々力(とゝろき)下丸子(しもまりこ)矢口(やくち)八幡塚(はちまんつか)|羽田(はねた)等(とう)の地(ち)に傍(そふ)て流(なか)れたり甲州国境(かうしうくにさかひ)より当国(たうこく)多磨郡(たまこほり)羽村迠(はむらまて)十 余里(より)羽村(はむら)より|六郷迠(ろくかうまて)十六 里(り)と云 武蔵野地考名(むさしのちめいかう)に周流(しうりう)する事 凡(およそ)四十里とあるは水源(みなかみ)よりの行程(きやうてい)なるへし》
万葉十四
多麻河泊尓左良須氐豆久利佐良左良尓奈仁曽(たまかはにさらすてつくりさらさらになにそ)
許能児乃己許太可奈之伎(このこのここたかなしき)
《割書:此詠(このえい)を拾遺集(しふゐしふ)恋(こひ)の四にはよみ人しらすとありて玉川(たまかは)にさらす手(て)つくり|さら〳〵にむかしの人の恋(こひ)しきやなそとあり又 六帖(ろくてふ)には昔(むかし)の今(いま)に恋(こひ)し|きやなそともあり》
拾遺愚艸
調布やさらす垣ねの朝露をつらぬきとめぬ玉川の里 定家
【枠外】 三ノ二百八
【左丁】
建保名所百首
玉河にさらすてつくり更に世を頼む日かけのあはれ過行 家隆
武蔵国風土記曰 多磨郡 多磨河
出諸鱗及鵰鴴鵢等亦里人作調布納内蔵寮云々
東鑑曰 仁治二年辛丑十月二十二日丙子以武蔵
野可被闢水田之由儀定訖就之可被懸上多磨河
水之間可為犯土之儀歟云々
《割書:按(あんする)に武蔵野(むさしの)に水田(みつた)を闢(ひら)き又 多磨川(たまかは)の水(みつ)を用水(ようすゐ)に引(ひき)たりし権輿(はじめ)なるへし》
此河(このかは)は武蔵野(むさしの)の勝概(しようかい)にして日野津(ひのゝつ)より以西は水石(すゐせき)の美(ひ)奇絶(きせつ)最(もつとも)
多(おほ)し以東は平地(へいち)といへとも長流(ちやうりう)の経(ふ)る所(ところ)往々(わう〳〵)観(くわん)を改(あらた)め亦(また)勝景(しようけい)なきに
あらす鮎(あゆ)を以(もつ)て此川(このかは)の名産(めいさん)とす故(ゆゑ)に初夏(しよか)の頃(ころ)より晩秋(はんしう)の頃迠(ころまて)
都下(とか)の人(ひと)遠(とほ)きを厭(いと)はすしてこゝに来(きた)り遊猟(いうりやう)せり
高幡山(たかはたさん)金剛寺(こんかうし) 高幡邑(たかはたむら)にあり《割書:東鑑(あつまかゝみ)に高幡三郎(たかはたさふらう)と云(いふ)人(ひと)の|名(な)あり此所(このところ)より出(いつ)る歟(か)》新義(しんき)の真言宗(しんこんしう)
にして花洛(くわらく)三宝院御門跡(さんはうゐんこもんせき)に属(そく)す大宝(たいはう)より以前(いせん)の開創(かいさう)にして
其後(そののち)弘法大師(こうほふたいし)再興(さいこう)あり又(また)慈覚大師(しかくたいし)再興(さいこう)すといふ本尊(ほんそん)不動(ふとう)
明王(みやうわう)は《割書:古佛(こふつ)にして|作不祥(さくつまひらかならす)》座像(ささう)一丈 餘(あまり)あり《割書:炎光(えんくわう)に布字(ふし)十有九を刻(こく)し利益(りやく)|無辺(むへん)自心(ししん)堅固(けんこ)の相(さう)をあらはせり》
脇士(けふし)二童子(にとうし)化人(けにん)の作(さく)なりといふ《割書:寺記云(しきにいふ)或時(あるとき)忽然(こつせん)として化僧(けそう)一人 来(きた)り|告(つけ)て云く此(この)本尊(ほんそん)に二童子(にとうし)なきは不可(ふか)》
【右丁】
【四角囲い文字】
庫裡
ふくいし
かね
本堂
あたこ
大師
不動尊
弁天
【枠外】 三ノ二百九
【左丁】
高幡(たかはた)
不動堂(ふとうたう)
【四角囲い文字】
神楽殿
二王門
長徳寺
【右丁】
《割書:なり予(よ)是(これ)を作(つく)るへしと住持(ちゆうち)諾(たく)す依(よつて)化僧(けそう)は一室(いつしつ)に入(いつ)て戸(と)を閉(とち)敢(あへ)て戸外(とくわい)に出(いつ)る事(こと)なし|不日(ふしつ)にして造功(さうこう)畢(をはん)ぬ竟(つひ)に異僧(ゐそう)は去(さつ)て其(その)行方(ゆくへ)をしらすと云々 其室(そのしつ)の地(ち)に稲荷(いなり)を勧請(くわんしやう)す》
古鰐口(こわにくち)一口《割書:不動堂(ふとうたう)に懸(かけ)たり径(わたり)一尺九寸 文字(もんし)|九十四 字(し)を刻(こく)す其銘(そのめい)左(さ)のことし》
敬白
奉懸
右尋当寺者慈覚大師建立清和天皇御願所弟【注】二建
立斗円陽成天皇
彼時頼義朝臣自於登山奉崇八幡弟【注】三建立永意得
行■两檀
大檀那美作助真并記氏一宮田人鍋師源恒有
文永十年癸酉五月廿日
銀念西守氏 鑯青蓮
服石(ふくいし)《割書:不動堂(ふとうたう)の後(うしろ)愛宕祠(あたこのやしろ)の傍(かたはら)にあり巾(はゝ)六尺はかり高(たか)サも五六尺はかりあり|あるもの此石(このいし)を拝(はい)すれは穢(けかれ)に触(ふ)れすといふ故(ゆゑ)に忌明(きめい)の時(とき)土人(としん)此石(このいし)に詣(まう)て|後(のち)諸(もろ〳〵)の佛神(ふつしん)に参詣(さんけい)すといへり》
二王門(にわうもん)《割書:左右(さいう)に金剛(こんかう)密(みつ)|迹(しやく)の像(さう)を置(おき)たり》額(かく)《割書:高幡山》僧正(そうしやう)泊如筆(はくによのふて)
惣門(さうもん)《割書:二王門(にわうもん)の|左(ひたり)に並(なら)ふ》額(かく)《割書:高幡山》僧(そう)浩然筆(こうねんのふて)
鼻井(はなゐ)《割書:庫裡(くり)の前(まへ)左(ひたり)の方(かた)の山(やま)の裾(すそ)にあり広(ひろ)サ七尺斗の井泉(せいせん)を云(いふ)相伝(あひつたふ)建武(けんむ)二年乙亥八月|四日の夜(よ)大風(たいふう)発(おこ)り御堂(みたう)忽(たちまち)に顛倒(てんたう)す故(ゆゑ)に平地(へいち)に引下(ひきくた)すといへり其頃(そのころ)本尊(ほんそん)の》
《割書:御首(みくし)の堕(おち)たる所(ところ)に清泉(せいせん)涌出(ゆしゆつ)す後(のち)鼻井(はなゐ)と称(しよう)し阿伽(あか)とす諸人(しよにん)寒熱(かんねつ)の二病(にひやう)腫物(はれもの)眼疾(かんしつ)|等(とう)其余(そのよ)諸病(しよひやう)ともに或(あるひ)は飲(のみ)或は其(その)痛所(いたむところ)に塗(ぬ)りて平愈(へいゆ)せすといふ事なしといへり》
鎌倉大草紙曰(かまくらおほさうしにいはく)享徳(かうとく)四年正月廿一日 武州(ふしう)府中(ふちゆう)分倍川原(ふんはいかはら)へ寄来(よせきた)る
【枠外】 三ノ二百十
【左丁】
成氏(なりうち)五百余騎(こひやくよき)にて馳出(はせいて)短兵急(たんへいきう)にとりひしき火(ひ)出(いつ)る程(ほと)に攻戦(せめたゝか)ひける
間(あひた)上杉方(うへすきかた)の先手(さきて)の大将(たいしやう)右馬助入道憲顕(うまのすけにふたうのりあき)深手(ふかて)負(おふ)て引(ひき)かねけるか
高籏寺(たかはたてら)にて自害(しかい)す鎌倉勢(かまくらせい)も勝軍(かちいくさ)はしかれとも石堂(いしたう)一色(いつしき)以下百五
十人 討死(うちしに)して戦(たゝか)ひつかれ分倍河原(ふんはいかはら)に陣(ちん)を取(とる)云々《割書:高籏寺(たかはたてら)といふは当寺(とうし)|の事(こと)をいふなるへし》
縁起曰(えんきにいはく)平山武者所季重(ひらやまむしやところすゑしけ)幼(をさなき)より当寺(たうし)の不動尊(ふとうそん)を崇敬(そうきやう)し世(よ)に強(かう)
勇(ゆう)の名(な)を顕(あらは)せり治承(ちしやう)の頃(ころ)平家(へいけ)追討(つゐたう)の時(とき)も鎌倉(かまくら)の右大将家(うたいしやうけ)に
属(そく)し義経(よしつね)に随(したか)ひて西国(さいこく)に趣(おもむ)き《振り仮名:一の谷|いち たに》に勇(ゆう)を輝(かゝやか)し武名(ふめい)世(よ)に
明(あき)らけし故(ゆゑ)に其後(そのゝち)当山(たうさん)の頂(いたゝき)に此(この)本尊(ほんそん)の御堂(みたう)を建立(こんりふ)す然(しかる)に建(けん)
武(む)二年乙亥八月四日 暴風(はうふう)の災(わさはひ)に罹(かゝ)りて殿堂(てんたう)破壊(はゑ)す依(よつて)後(のち)平(へい)
地(ち)にうつせり其頃(そのころ)の財主(さいしゆ)は平助綱(たひらのすけつな)およひ大中臣女等(おほなかとみのむすめとう)なりといふ
尓来(しかりしより)天下(てんか)風水(ふうすゐ)或(あるひ)は疫癘等(えきれいとう)の諸災(しよさい)あらんとする時(とき)は佛躰(ふつたい)汗(あせ)を生(しやう)
し給ふとなり其(その)威霊(ゐれい)は枚挙(まいきよ)すへからす
木切沢(ききりさは)《割書:金剛寺(こんかうし)より半町はかり西(にし)の方(かた)の谷(たに)を云(いふ)平季重(たいらのすゑしけ)御堂(みたう)建立(こんりふ)|の時(とき)此所(このところ)より堂材(たうさい)を伐出(きりいた)したる旧跡(きうせき)なりと云傳(いひつた)ふ》
【「弟」は「第」の誤】
【右丁】
番匠谷(はんしやうかやつ)《割書:同しく一町はかり西(にし)へ入(いる)谷(たに)を云(いふ)是(これ)も季重(すゑしけ)御堂(みたう)|建立(こんりふ)の時(とき)番匠(はんしやう)の削彫(さくてう)の地(ち)なりといひ傳(つた)へり》
別旅明神(わかたひみやうしん) 金剛寺(こんかうし)より三町はかり東(ひかし)の方(かた)別旅邑(わかたひむら)にありて此地(このち)の産(うふ)
土神(すな)とす則(すなはち)金剛寺(こんかうし)奉祀(ほうし)の宮社(きうしや)たり傳(つた)へ云 金剛寺(こんかうし)の本尊(ほんそん)不動(ふとう)
明王(みやうわう)の脇士(けうし)二童子(にとうし)を彫刻(てうこく)せし異僧(ゐそう)その像(さう)を造(つく)り終(をは)るの後(のち)立去(たちさ)
らんとす近里(きんり)の道俗(たうそく)喜悦(きえつ)のあまり其跡(そのあと)に随(したか)ひて此地(このち)まて来(き)たり
けるに件(くたん)の異僧(ゐそう)は忽(たちまち)にみえすなりぬ貴賤(きせん)奇異(きゐ)とし此地(このち)に一社(いつしや)を
建立(こんりふ)し別旅明神(わかたひみやうしん)と称(しやう)す地名(ちめい)も又(また)別旅邑(わかたひむら)といふとそ
平惟盛之墓(たひらのこれもりのはか) 金剛寺(こんかうし)より一町はかり西南(にしみなみ)平村(たひらむら)《割書:平山村(ひらやまむら)に|隣(とな)れり》農民(のうみん)又右衛門(またゑもん)
といへる人(ひと)の搆(かまへ)の中(うち)にあり青(あを)き一片(いつへん)の板石(いたいし)にして高(たか)サ七尺五寸あまり
巾(はゝ)二尺 程(ほと)厚(あつ)サ二寸 斗(はかり)あり上(うへ)の方(かた)にきりく字(し)を彫(ほり)下(しも)に文永(ふんえい)八年辛未
中冬(ちゆうとう)日とあり土人(としん)相伝(あひつた)へて平惟盛(たひらのこれもり)の碑(ひ)なりと云(いふ)往古(わうこ)此地(このち)に平助綱(たひらのすけつな)
と云(いふ)武士(ふし)住(すめ)り平氏(へいし)の遠裔(ゑんえい)なれは惟盛(これもり)の菩提(ほたい)を吊(とむら)はんか為(ため)に是(これ)を
造(つく)るか《割書:年歴(ねんれき)尤(もつとも)|不審(いふか)し》或(あるひ)は又(また)助綱(すけつな)か墓(はか)なりとも云(いふ)同し南(みなみ)の方(かた)二町はかり山(やま)を
【枠外】 三ノ二百十一
【左丁】
平村(たひらむら)
平惟盛(たひらこれもり)
古墳(こふん)
【板碑文】
文永八年辛未
中冬日
【注 文中「惟盛」は「維盛」の誤】
【右丁】
登(のほ)りて中腹(ちゆうふく)に又(また)古碑(こひ)あり剥落(はくらく)して読(よむ)へからす只■【平ヵ】の一字(いちし)のみ
鮮明(あさやか)なり高(たか)サ六尺 余(あま)り巾(はゝ)二尺はかり下は土中(とちゆう)に埋(うつ)む其余(そのよ)古石塔(こせきたふ)
二基(にき)何(いつ)れも高(たか)サ四尺はかりあり土人(としん)平山季重(ひらやますゑしけ)或又(あるひはまた)平氏(へいし)の人(ひと)の墳墓(ふんほ)
とも云傳(いひつた)へて分明(ふんみやう)ならす《割書:此所(このところ)は農民(のうみん)平氏(へいし)某(それかし)の家(いへ)累世(るゐせい)の|塋域(えいいき)なり康正年号(かうしやうねんかう)の碑(ひ)等もあり》此地(このち)邑名(いうみやう)を平(たひら)
と称(しよう)し殊(こと)に平氏(へいし)の人(ひと)多(おほ)し里正(りしやう)平氏(たいらうち)の家(いへ)に小田原(をたはら)北条氏直(ほうてううちなほ)の下(くた)し
文(ふみ)ありといへり
慈岳山(しかくさん)松蓮寿昌禅寺(しようれんしゆしやうせんし) 高幡(たかはた)より十二町 斗(はかり)東南(とうなん)の方(かた)百草邑(もくさむら)にあり
《割書:昔(むかし)は茂草(もくさ)に作(つく)る八幡宮社地(はちまんくうしやち)に源頼義(みなもとのよりよし)義家(よしいへ)兄弟(けうたい)奥州(あうしう)|征伐(せいはつ)凱陣(かいちん)の時(とき)山号(さんかう)升井(ますゐ)を改(あらため)て増威(ますゐ)とすと云々》黄檗派(わうはくは)の禅林(せんりん)に
して江戸(えと)白銀(しろかね)の瑞聖寺(すゐしやうし)に属(そく)せり昔(むかし)は天台宗(てんたいしう)にして増井山(そうせゐさん)と号(かう)す
天平年間(てんへいねんかん)道璿(たうせん)の高弟(かうてい)釋(しやく)道広(たうくわう)大勧進(たいくわんしん)し始(はしめ)て七堂(しちたう)全備(せんひ)の精舎(しやうしや)を
創建(さうこん)す其後(そのゝち)康平(かうへい)五年 伊予守頼義(いよのかみよりよし)奥州(あうしう)下向(けかう)の時(とき)此地(このち)をよきり
給ひ松蓮寺(しようれんし)に投宿(たうしゆく)し八幡宮(はちまんくう)を再興(さいこう)ありて朝敵(てうてき)追罰(つゐはつ)の御祈願(こきくわん)
あり又(また)建久年間(けんきうねんかん)頼朝卿(よりともきやう)以来(このかた)源家(けんけ)累代(るゐたい)の祈願所(きくわんしよ)に定(さため)られ建長(けんちやう)
【枠外】 三ノ百十二
【左丁】
七年 当寺(たうし)の住持(ちゆうち)祐慶(いうけい)相州(さうしう)より琳長師(りんちやうし)を請(しやう)して禅院(せんゐん)に改(あらた)むると
いふ慶長(けいちやう)十五年 松蓮寺(しやうれんし)方丈(はうちやう)建営(こんえい)の棟札(むねふた)あり本尊(ほんそん)釈迦佛(しやかふつ)座(さ)
像(さう)三尺斗あり脇士(けふし)は阿難(あなん)迦葉(かせう)の立像(りふさう)三尺なり仏師(ふつし)藤村中円(ふちむらちゆうゑん)
彫造(てうさう)する所(ところ)なりと云《割書:中円(ちゆうゑん)は華人(くわしん)にして肥前(ひせん)|長崎(なかさき)にありしとな り》中興開山(ちゆうかうかいさん)は慧極和尚(ゑきよくおしやう)と
号(かう)せり《割書:享保(きやうほ)六年辛丑|八月廿四日 尓寂(ししやく)》享保(きやうほ)二年丁酉 大久保加賀守忠英矦(おほくほかゝのかみたゝてるかう)の
夫人(ふしん)寿昌院殿慈岳元長尼(しゆしやうゐんてんしかくけんちやうに)中興開基(ちゆうかうかいき)たり《割書:元長尼(けんちやうに)は享保(きやうほ)六年 薙染(ちせん)し|て寿昌院慈岳(しゆしやうゐんしかく)と称(しよう)す常(つね)に》
《割書:三宝(さんはう)を恭敬(くぎやう)し竟(つひ)に当寺(たうし)を再興(さいこう)|せらる当寺(たうし)に四十五才の木像(もくさう)あり》本堂(ほんたう)内陣(ないちん)の額(かく)松蓮寿昌禅寺(しようれんしゆしやうせんし)の六(ろく)
大字(たいし)及(およ)ひ総門額(さうもんのかく)慈岳山(しかくさん)等(とう)は何(いつ)れも中興開山(ちゆうかうかいさん)明 慧極(ゑきよく)【注】の筆(ふて)なり
本尊(ほんそん)の前(まへ)に揚(あけ)たる紫金光(しこんくわう)の額(かく)は隠元禅師(いんけんせんし)の書(しよ)なり
経筒(きやうつゝ)三箇(さんか)其(その)銘文(めいふん)左(さ)の如(こと)し一は銅(あかゝね)を以(もつて)製(せい)す長(なかさ)九寸二分口
広(ひろ)さ四寸五分
長寛元年《割書:大歳|癸未》十月十三日《割書:庚|午》
工匠藤原守道
【注 「明慧極」は「道明慧極」ヵ。「道明」は「慧極(道号)」の法諱。通常は「慧極道明」と呼称】
【右丁】
茂草(もくさ)
松蓮寺(しようれんし)
【四角囲い文字】
裏門
【枠外】 三の二百十三
【左丁】
【四角囲い文字】
庫裏
書院
本堂
かね
観音
あきは
かさもり
拝殿
本社
【右丁】
■ 大勧進聖人僧辨豪
■■■■■ 結縁者僧玄久
■ 如法書冩 僧観賢
奉納妙法蓮華経 僧定円
■ 僧瑞久
■■■■■ 僧定阿
■ 僧尭尊
僧辨意
駈仕僧楽西
同一箇(おなしくいつか)《割書:銅(あかゝね)を以(もつ)て製(せい)す長(なかさ)七寸五分 口広(くちひろ)さ|渡(わた)り四寸一分 其文(そのふん)左(さ)の如(こと)し》
大勧進
僧尭尊
大檀主藤原氏満貞刋
永萬元年九月十七日天
其蓋裏曰
大勧進所百草村
松連寺【ママ】
【枠外】 三ノ二百十四
【左丁】
同一箇(おなしくいつか)《割書:金銅(こんとう)を以(もつて)製(せい)す長(なかさ)五寸 口渡(くちわた)り|三寸一分 其文(そのふん)左(さ)の如(こと)し》
承
釣命 祈
日本幕下
一宮別当
建久四年 松連寺【ママ】
八月 修之
八幡宮(はちまんくう)本地佛(ほんちふつ)阿弥陀如来像(あみたによらいのさう)金銅(こんとう)一尺四寸あり土中(とちゆう)出現(しゆつけん)の物(もの)に
して佛躰(ふつたい)の脊(せ)に鐫所(ゑるところ)の銘文(めいふん)あり左(さ)の如(こと)し
敬白冶磨金銅影像法体弥陀座光三尺六寸
奉為皇帝 日本主君 当国府君 地頭名主
御願円満 安穏泰平 信心法主 子孫平安
悉地成就 師長父母 二親巨魂 助成合力
同共往生 乃至法界 平等利益 建長二年
大歳庚戌 孟夏之天 七日壬子 南閻浮提
日本武州 多西吉冨 真慈悲寺 施主源氏
願主佛子 慶祐敬白
《割書:按(あんす)るに当寺(たうし)の弥陀佛(みたふつ)脊面(はいめん)の銘文(めいふん)に真慈悲寺(しんしひし)の号(かう)を註(ちゆう)せり東鑑(あつまかゝみ)文治(ふんち)|二年二月三日の条下(てうか)に武蔵国(むさしのくに)真慈悲寺(しんしひし)は御祈祷(こきたう)の霊場(れいちやう)なり然(しか)りといへ》
【■は梵字】
【右丁】
《割書:ともいまた荘園(しやうゑん)寄附(きふ)なきにより仏(ほとけ)は供具(くく)の備(そなへ)なく僧(そう)は衣鉢(えはつ)の貯(たくはへ)を失(うしな)ふ|爰(ここ)に僧(そう)あり今日(こんにち)参上(さんしやう)して当寺(たうし)に一切経(いつさいきやう)を安置(あんち)し破壊(はゑ)を修理(しゆり)すへきの旨(むね)|申請(まふしこふ)の間(あひた)院主職(ゐんしゆしよく)に補(ほ)せらるゝとあり又(また)同書(とうしよ)建久(けんきう)三年五月八日の条下(てうか)にも|法皇(ほふわう)四十九日の御仏事(おんふつし)を南御堂(みなみみたう)に於(おい)て修(しゆ)せられ百僧供(ひやくそうく)あり僧衆(そうしゆ)は真慈(しんし)|悲寺(ひし)より三口とあり又(また)同書(とうしよ)治承(ちしやう)五年四月廿日の条下(てうか)に小山田三郎友成(をやまたさふらうともなり)多(た)|摩郡内(まこほりのうち)由冨(よしとみ)並(ならひに)一宮(いちのみや)蓮光寺(れんくわうし)等(とう)の地(ち)を自(みつから)の所領(しよれう)に註(ちゆう)し加(くは)ふる抔(なと)あるによれは|吉冨(よしとみ)は此辺(このへん)なりとおほしされとも真慈悲寺(しんしひし)いつの頃(ころ)廃(はい)せしや今(いま)は其(その)旧跡(きうせき)さへさ|たかならす》
《割書:八幡社記曰(はちまんしやきにいはく)建久(けんきう)四年 鎌倉(かまくら)右大将家(うたいしやうけ)法華経(ほけきやう)を書写(しよしや)し金壺(きんこ)に入(いれ)て当社(たうしや)に納(をさめ)|給ふ其(その)書写(しよしや)する所(ところ)の竹紙(ちくし)法華経(ほけきやう)の文字(もんし)多(おほ)くは朽敗(きうはい)して僅(わつか)に残(のこ)るのみ》
升井(ますゐ)《割書:本堂(ほんたう)の後山麓(うしろやまのふもと)にあり寺中(しちゆう)|常(つね)に是(これ)を掬(きく)す尤(もつとも)清泉(せいせん)也》
八国見(やくにみ)《割書:本堂(ほんたう)の後(うしろ)の山(やま)の上(うへ)にあり此所(このところ)に登(のほ)れは八箇国(はつかこく)の|山(やま)々みえわたる故(ゆゑ)に此号(このかう)ありといへり》
二王塚(にわうつか)《割書:松蓮寺(しようれんし)より東南(とうなん)五丁はかり隔(へた)てたる山間(やまあひ)の少(すこ)しく小高(こたか)き所(ところ)に松樹(しようしゆ)十|株(ちゆう)あまり繁茂(はんも)せし地(ち)をさしてしか称(しよう)す此下(このした)を新堂(しんたう)と字(あさな)するは古(いにしへ)堂宇(たうう)》
《割書:のありし地(ち)なる故(ゆゑ)に名(な)とす又(また)宝蔵(はうさう)と唱(とな)ふる地(ち)もありて今猶(いまなほ)礎石(いしすゑ)こゝかしこに|存(そん)せり古(いにしへ)大伽藍(おほからん)ありしなるへし今(いま)松蓮寺(しようれんし)に収(をさむ)る所(ところ)の経筒(きやうつゝ)およひ自然銅(しねんとう)一寸|八分の観音(くわんおん)の像(さう)ならひに石瓶(いしかめ)朽壊(きうゑ)の刀剣(とうけん)数(す)十 柄(へい)華皿(はなさら)等(とう)のたくひは此所(このところ)|を穿(うか)ちて得(え)たりといふ》
百草八幡宮(もくさはちまんくう) 松蓮寺(しようれんし)より西(にし)の方(かた)山(やま)の中腹(ちゆうふく)にあり則(すなはち)松蓮寺(しようれんし)奉祀(ほうし)の
宮(みや)たり八月十五日を以(もつ)て祭辰(さいしん)とす本社(ほんしや)向拝(かうはい)の額(かく)八幡宮(はちまんくう)の三
字(し)は梅小路大納言定福卿(うめのこうちたいなこんさたよしきやう)【注】の筆(ふて)なり寺僧曰(しそういはく)正殿(しやうてん)に安置(あんち)する所(ところ)の
【枠外】 三ノ百十五
【左丁】
神躰(しんたい)は八幡宮(はちまんくう)神宮(しんくう)王仁(わうにん)津戸明神(つとみやうしん)武内大臣(たけのうちたいしん)義家公(よしいへこう)等(とう)の木像(もくさう)
なりと云(いふ)相伝(あひつたふ)康平(かうへい)五年 源頼義(みなもとのよりよし)義家(よしいへ)両公(りやうこう)奥州(あうしう)の夷賊征伐(いそくせいはつ)の時(とき)
山城国(やましろのくに)男山正八幡宮(をとこやましやうはちまんくう)の社檀(しやたん)の土(つち)を穿(うか)ちて石瓶(いしかめ)に盛(もり)来(きたつ)て一宇(いちう)の
社(やしろ)を造営(さうえい)して此地(このち)に勧請(くわしやう)なし奉(たてまつ)り願書等(くわんしよとう)を収(をさ)めらる其後(そのゝち)凶(けう)
徒(と)悉(こと〳〵)く平(たひら)け凱哥(かいか)の時(とき)再(ふたゝひ)此地(このち)に至(いた)り給ひ金銅(こんとう)の観世音(くわんせおん)の像(さう)
をも安置(あんち)し永(なか)く祭祀(さいし)を不朽(ふきう)に伝(つた)へんとす《割書:此(この)観音(くわんおん)の事(こと)は松蓮寺(しようれんし)の|下(しも)に詳(つまひらか)なり又(また)此時(このとき)五百》
《割書:石(こく)の祭田(さいてん)を寄附(きふ)|の事(こと)ありしと云》且(かつ)両将軍(りやうしやうくん)の随兵等(すゐへうら)も各(おの〳〵)軍功(くんこう)を祈(いの)り帯(たい)する処(ところ)の
刀杖(とうちやう)を収(をさ)め神徳(しんとく)を謝(しや)す尓来(しかりしより)鎌倉(かまくら)頼朝卿(よりともきやう)当社(たうしや)の神(かみ)を崇敬(そうきやう)なし
給ひ建久(けんきう)四年 法華経(ほけきやう)を書写(しよしや)し給ひ金壺(きんこ)に入(いれ)て奉納(ほうなう)ありしかとも
星霜(せいさう)を経(へ)て件(くたん)の宝器(はうき)散失(さんしつ)せしを正徳年間(しやうとくねんかん)二王塚(にわうつか)の地(ち)を穿(うかち)て
再(ふたゝ)ひ是(これ)を得(え)たりといふ寺僧云(しそういふ)当社(たうしや)境内(けいたい)の樹木(しゆもく)枯(か)るゝ後(のち)は悉(こと〳〵)く
奥州(あうしう)の方(かた)へ向(むかひ)て倒(たを)るゝ事 昔(むかし)より今(いま)に至(いた)りてしかり是(これ)当社(たうしや)の
一奇叓(いつきし)たりと云(いふ)
【注 「定福」は「さたとみ」ヵ】
【右丁】
一宮大明神(いちのみやたいみやうしん)社 百草八幡宮(もくさはちまんくう)より十五六町 北(きた)の方(かた)多麻川(たまかは)の南岸(なんかん)一宮(いちのみや)
村(むら)にあり《割書:六所宮(ろくしよのみや)よりは西南(にしみなみ)|一里(いちり)あまりを隔(へた)つ》祠宦(しくわん)新田氏(につたうち)大田氏(おほたうち)両家(りやうけ)より奉祀(ほうし)す祭(さい)
神(しん)は天下春命(あまのしたはるのみこと)なり後(のち)瀬織津比咩(せおりつひめ)及(およ)ひ稲倉魂(うかのみたま)大神を合祭(かふさい)して
三神(さんしん)一社(いつしや)三扉(さんひ)とす《割書:祭神(さいしん)今(いま)は小野(をのゝ)|神社(しんしや)に同し》奮事本記(くしほんき)に饒速日命(にきはやひのみこと)《割書:地神(ちしん)二代(にたい)天忍(あまのおし)|穂耳尊(ほみゝのみこと)の子(こ)也》
此(この)葦原(あしはら)の中津国(なかつくに)に降臨(かうりん)し給ふ時(とき)輔佐(ほさ)として随駕(すゐか)し給へる
三十二 神(しん)の其(その)一神(いつしん)にして即(すなはち)三十二 国(こく)に分降(わけくたり)給ふ其時(そのとき)信濃国(しなのゝくに)へは
天表春命(あまのうははるのみこと)武蔵国(むさしのくに)へは天下春命(あまのしたはるのみこと)降臨(かうりん)なし給ひ国(くに)を開(ひら)き給ふ
と見えたり
《割書:社司(しやし)相伝(あひつたふ)神代(しんたい)の昔(むかし)当社(たうしや)下春命(したはるのみこと)此地(このち)に止(とゝま)り給ひし歟(か)或(あるひ)は又(また)国(くに)の祖(そ)の神(かみ)なれは|後(のち)に国(くに)つ神(かみ)たちこれを祀(まつ)り給ひし歟(か)今(いま)しるへきにあらす社伝(しやてん)に一宮(いちのみや)下春(したはるの)|命(みこと)小野宮村(をのゝみやむら)小野神社(をのゝしんしや)へ遷座(せんさ)ありて倉稲魂(うかのみたま)命を配祀(はいし)なし小野神社(をのゝしんしや)三神(さんしん)となせしは|其(その)時世(しせい)詳(つまひらか)ならす然(しかる)に 成務天皇(しやうむてんわう)の御宇(きよう)国造(こくそう)兄多毛比命(えたけひのみこと)武蔵国(むさしのくに)多麻(たま)の地(ち)に府(ふ)を|開(ひら)きたまひし後(のち)一宮(いちのみや)は開国(かいこく)の祖神(そそしん)小野宮(をのゝみや)は同郷(とうかう)の旧社(きうしや)なれは国造(こくそう)崇敬(そうきやう)ありて倉稲(うかの)|魂(みたま)命と共(とも)に合(あは)せて再(ふたゝ)ひ六所(ろくしよ)の宮(みや)の相殿(あひてん)に遷(うつ)しまゐらせこれを祀(まつ)るに国社(こくしや)の礼(れい)を|儲(まふ)けられしとなり又(また)毎歳(まいさい)五月五日 六所宮(ろくしよのみや)大祭(たいさい)の辰(しん)当社(たうしや)の祠官(しくわん)府中(ふちゆう)に至(いた)り一宮(いちのみや)小野(おの)|三所(さんしよ)の神輿(みこし)を供奉(くふ)しまゐらせ御旅所(おんたひしよ)において捧(さゝく)る所(ところ)神幣(みてくら)を持(ち)し神輿(みこし)帰社(きしや)の折(をり)も|又(また)供奉(くふ)して六所宮(ろくしよのみや)に至(いた)り神事(しんし)終(をは)るの後(のち)件(くたん)の神幣(みてくら)を守護(しゆこ)して直(たゝち)に一宮(いちのみや)に帰(かへ)り当(たう)|社(しや)の内殿(ないてん)に収(をさめ)粢盛(しせい)を供(く)し祭奠(さいてん)をなすを旧礼(きうれい)とするは元(もと)つ社(やしろ)なれはなりといへり》
【枠外】三ノ二百十六
【左丁】
一宮大明神(いちのみやたいみやうしん)社
【右丁】
《割書:按(あんする)に当社(たうしや)一宮(いちのみや)の事 旧史(きうし)に所見(しよけん)なしといへとも既(すて)に地名(ちめい)を一宮と号(かうし)祠(やしろ)をも一宮と|称(しよう)したるは開国(かいこく)の祖神(そしん)弟(たい)【第】一に鎮座(ちんさ)なし給ふか故(ゆゑ)にかく一宮とは称(しよう)したりしと|おほしく旧祠(きうし)なる事 疑(うたかふ)へくもあらさるへし依(よつて)考(かんか)ふるに東鑑(あつまかゝみ)治承(ちしやう)五年四月二十日 小(を)|山田三郎重成(やまたさふらうしけなり)平太弘貞(へいたひろさた)か所領(しよれう)を自(みつから)の所領(しよれう)に註(ちゆう)し加(くは)ふると云(いふ)条下(てうか)には多磨郡(たまこほり)の内(うち)|吉富(よしとみ)ならひに一宮(いちのみや)蓮光寺(れんくわうし)等(とう)の地名(ちめい)を載(の)せ百草村(もくさむら)松蓮寺(しようれんし)所蔵(しよさう)の建久(けんきう)四年の経(きやう)|筒(つゝ)には一宮(いちのみや)別当(へつたう)松蓮寺(しようれんし)と銘(めい)せりしかる時(とき)は建久(けんきう)のむかし松蓮寺(しようれんし)当社(たうしや)の別当(へつたう)たり|し歟(か)又(また)高幡村(たかはたむら)金剛寺(こんかうし)に存(そん)する所(ところ)の文永(ふんえい)十八年の鰐口(わにくち)の銘(めい)にも一宮田人 鍋師(なくし)源経有(みなもとのつねあり)|と有て一宮の地名(ちめい)往々(わう〳〵)見(み)あたれり》
一本榎(いつほんえのき) 一宮(いちのみや)より南(みなみ)の方(かた)半町(はんちやう)はかりを隔(へた)てゝ耕田(かうてん)の中(うち)にあり樹(き)の本(もと)に
注連(しめ)を繞(めく)らせり土人(としん)百草八幡宮(もくさはちまんくう)の一鳥居(いちのとりい)の旧跡(きうせき)なりと云《割書:此所(このところ)より百草(もくさ)の八幡宮(はちまんくう)へは其間(そのあひた)|》
《割書:凡(およそ)十町は|かりあり》
横溝八郎墳墓(よこみそはちらうのふんほ) 小山田旧関(をやまたのきうくわん)の地(ち)より一町あまり西南(せいなん)道(みち)より右(みき)の方(かた)畑(はたけ)の
中(うち)にあり塚上(ちやうしやう)松(まつ)槻(つき)等(とう)の老樹(らうしゆ)繁茂(はんも)せり太平記(たいへいき)に正慶(しやうけい)二年五月十六日
新田左中将義貞公(につたさちゆうしやうよしさたこう)武州(ふしう)分倍河原(ふんはいかはら)へ押寄(おしよす)るといふ条下(てうか)に四郎左近太夫(しらうさこんのたらふ)
入道(にふたう)《割書:相模入道(さかみにふとう)の舎弟(しやてい)|にして慧性(ゑしやう)と号(かう)す》大勢(おほせい)なりといへとも三浦(みうら)か一時(いちし)の謀(はかりこと)に破(やふ)られて落行(おちゆく)
勢(せい)は散々(さん〳〵)に鎌倉(かまくら)をさして引退(ひきしりそ)く討(うた)るゝ者(もの)は数(かす)を不知(しらす)大将(たいしやう)左近入道(さこんにふたう)も
関戸辺(せきとへん)にて已(すて)に討(うた)れぬへく見(み)えけるを横溝八郎(よこみそはちらう)踏止(ふみとゝま)りて近付(ちかつく)敵(てき)二十
【枠外】 三ノ二百十七
【左丁】
三 騎(き)時(とき)の間(ま)に射落(ゐおと)し主従(しゆう〳〵)三 騎(き)討死(うちしに)す安保入道道堪(あほにふたうたうかん)父子(ふし)三人
相随(あひしたか)ふ兵(へい)百余人(ひやくよにん)同枕(おなしまくら)に討死(うちしに)す其外(そのほか)譜代奉公(ふたいほうこう)の良従(らうしう)一言芳恩(いちこんはうおん)の
軍勢共(くんせいとも)三百 余人(よにん)引返(ひきかへ)し討死(うちしに)しける間(あひた)に大将(たいしやう)四郎左近入道(しらうさこんにふたう)は其身(そのみ)
恙(つゝか)なくして山内迠(やまのうちまて)引(ひか)れけるとあり《割書:阿保入道(あほにうたう)父子(ふし)の墓(はか)も此辺(このへん)近(ちか)きにあるへ|けれとも今(いま)しりかたし関戸(せきと)入口(いりくち)相澤氏(あひさはうち)の》
《割書:搆(かまへ)の中(うち)に古墳(こふん)あり上(うへ)に榧(かや)の古樹(こしゆ)茂(しけ)りてありされとも何人(なにひと)の墓(はか)の印(しるし)なる事|しるへからす相澤氏(あひさはうち)の説(せつ)に阿保入道(あほにふたう)の墳墓(ふんほ)ならん歟(か)といへとも今(いま)是非(せひ)としるへきにあらす》
小山田関旧址(をやまたのせききうし) 今(いま)関戸(せきと)と称(しよう)するところ則(すなはち)これなり《割書:或人云(あるひといふ)此地(このち)熊野社辺(くまのしやへん)|左右(さいう)高札場(かうさつは)の地(ち)其関(そのせき)の》
《割書:旧址(きうし)なりと云(いふ)按(あんする)に此地(このち)に天守台(てんしゆたい)と云(いふ)所(ところ)あり此頂(このいたゝき)より眺望(てうはう)すれは|眼下(かんか)に玉川(たまかは)の流(なかれ)を平臨(へいりん)し又(また)遥(はるか)に上下野州迠(しやうけやしうまて)一望(いちはう)に入(い)りぬ》多麻川(たまかは)の
南岸(なんかん)にそひて古(いにしへ)府中(ふちう)より帝都(ていと)及(およ)ひ鎌倉(かまくら)への街道(かいたう)なり東奥(とうあう)
北越(ほくゑつ)の二道共(にたうとも)に此地(このち)を往還(わうくわん)せさるはなし《割書:小山田(をやまた)は荘(しやう)の名(な)にして此(この)|地(ち)も昔(むかし)は同(おな)し庄内(しやうない)にて》
《割書:ありしなり今(いま)は邑名(いうみやう)にのみ残(のこ)りて此所(このところ)より二里はかり南(みなみ)の方(かた)に小山(をやま)|田村(たむら)と称(しよう)するこれあり》
夫木抄
逢事を苗代水に任せてそこさむこさしは小山田の関 《割書:或為世|よみ人|不知》
六百番哥合
あふ事は苗代水に引とめてとほしいてぬや小山田の関 顕昭
東鑑曰 治承五年 四月廿日 小山田三郎
【右丁】
小山田旧関(をやまたのきうくわん)
関戸惣図(せきとのさうつ)
【四角囲い文字】
秩父
天守台
【左丁】
六百番哥合
あふ事は
苗代水に
引とめて
とほし
いてぬや
小山田
の
関
顕昭
【四角囲い文字】
大くり川
【右丁】
重成聊背御意之聞成怖畏篭居是以武蔵国多摩
郡内吉富并一宮蓮光寺等註加所領之内去年東
国御家人安緒本領之時同賜御下文訖而為平太
弘貞領所之旨捧申状之間糺明之處無相違仍被
付弘貞也云云
同書曰 建暦三年 十月十八日 以宗監孝
尚為武蔵国新関実撿被遺図書允清定奉行云云
《割書:按(あんする)に東鑑(あつまかゝみ)に載(のす)る所(ところ)の武蔵国(むさしのくに)の新関(しんせき)其(その)地名(ちめい)を注(しる)さす恐(おそ)らくは此(この)小山田(をやまた)の|関(せき)も其(その)一ならん歟(か)小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の所領役帳(しよれうやくちやう)に小山田弥三郎(をやまたやさふらう)小山田庄(をやまたのしやう)にて|成瀬(なるせ)《振り仮名:高ヶ坂|たかかさか》森町田(もりまちた)真光寺(しんくわうし)鶴間(つるま)大谷(おほたに)広胯(ひろまた)小川(をかは)木曽(きそ)山崎(やまさき)《振り仮名:直ヶ谷|なほかや》黒川(くろかは)|金森(かなもり)金井(かなゐ)大倉(おほくら)等(とう)の地(ち)を領(れう)する由(よし)注(ちゆう)せり又(また)同書(とうしよ)に松田左馬助(まつたさまのすけ)およひ布施(ふせ)|善三(せんさ)なと小山田庄内(をやまたしやうない)小野地(をのゝち)ならひに粟飯原(あはいひはら)四ヶ村(むら)落合(おちあひ)なとありて小山(をやま)|田庄(たのしやう)の広豁(くわうくわつ)なる事をしるへし武蔵国(むさしのくに)の図(つ)を以(もつ)て考(かんか)ふるに此(この)関戸(せきと)は|小山田庄(をやまたのしやう)の咽喉(いんこう)の地(ち)なり故(ゆゑ)に小山田(をやまた)の関(せき)の称(しよう)ある歟(か)関戸(せきと)の里正 相澤氏(あひさはうち)某(それかし)の|家(いへ)に古文書(こもんしよ)を蔵(さう)す一は天文(てんもん)二十四年 関戸宿(せきとしゆく)商人(あきうと)の問屋免許(とひやめんきよ)盛秀(もりひて)判形(はんきやう)|の證状(しやうしやう)なり二は関戸郷(せきとのかう)中河原(なかかはら)の内(うち)正戒塚(しやうかいつか)に有山源右衛門(ありやまけんゑもん)新宿(しんしゆく)立込辺(たてこめへん)の|芝原(しははら)田地(てんち)となすへきの由(よし)申出(もふしいつ)るによりて七年 芝野(しはの)に定置(さためおか)るゝ由(よし)岡谷(おかのや)某(それかし)の證文(しやうもん)|又(また)三は関戸郷(せきとのかう)市(いち)の定日(ちやうしつ)ならひに濁酒(にこりさけ)塩(しほ)あい物役(ものやく)赦免(しやめん)等(とう)岩本(いはもと)某(それかし)の證文(しやうもん)又其四は|関銭(せきせん)五貫文 有山源右衛門(ありやまけんゑもん)へ申付(もふしつく)る旨(むね)の證文(しやうもん)なり》
其地関之儀如前之可置候少も私曲之筋目
自横合聞届候に付而其可為曲事者也仍如件
【枠外】 三ノ二百十九
【左丁】
《割書:子》九月廿三日 憲秀《割書: |花押》
有山源右衛門との
此地(このち)は昔(むかし)鎌倉時世(かまくらしせい)関(せき)を居(すゑ)られける旧跡(きうせき)にして建久(けんきう)の頃(ころ)ゟ鎌倉(かまくら)の
右大将家(うたいしやうけ)浅間(あさま)三原(みはら)及(およ)ひ入間野(いるまの)等(とう)へ御狩(みかり)其余(そのよ)陸奥(みちのく)上毛(かうつけ)信濃(しなの)越(ゑち)
後(こ)等(とう)へ軍(くん)を発(はつ)し給ふ時(とき)は必(かならす)しも関戸口(せきとくち)の大将(たいしやう)を定(さため)られし事 諸(しよ)
書(しよ)の載(のせ)たり太平記(たいへいき)に正慶(しやうけい)二年 合戦(かつせん)の条下(てうか)に義貞(よしさた)数箇度(すかと)の戦(たゝか)
ひに打勝(うちかち)給ひぬと聞(きこ)えしかは東八箇国(とうはつかこく)の武士(ふし)とも順付事(したかひつくこと)雲霞(うんか)の
如(こと)く関戸(せきと)に一日(いちにち)逗留(とうりう)ありて軍勢(くんせい)の著到(ちやくたう)を着(つけ)られけるに六十萬七
千 余騎(よき)とそ注(しるし)けるとあるも此所(このところ)の事(こと)なり
延命寺(えんめいし) 寿徳寺(しゆとくし)より三四町 南(みなみ)の方(かた)道(みち)より右側(みきかは)にあり地蔵院(ちさうゐん)と号(かうす)
時宗(ししう)にして相州(さうしう)藤沢(ふちさは)の清浄光寺(しやう〳〵くわうし)に属(そく)す本尊(ほんそん)地蔵尊(ちさうそん)は立像(りふさう)一尺
五寸はかりあり作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす開山(かいさん)を普国上人(ふこくしやうにん)と号(かう)す門(もん)の入口(いりくち)
【右丁】
関戸(せきと)
天守台(てんしゆたい)
【四角囲い文字】
府中
たま川
関戸
【枠外】
三ノ二百二十
【左丁】
【四角囲い文字】
こんひら
神楽殿
仁王つか
【右丁】
右(みき)の方(かた)畑(はたけ)の傍(かたはら)に榛木(はしはみのき)の老樹(らうしゆ)を以(もつて)印(しるし)とする古塚(ふるつか)あり正慶(しやうけい)二年
武蔵野合戦(むさしのかつせん)に討死(うちしに)せし四百 余人(よにん)の墓(はか)なりといへり
城山(しろやま) 延命寺(えんめいし)の後(うしろ)の山続(やまつゝき)をいふ土中(とちゆう)稀(まれ)に古瓦(こくわ)を得(う)る事ありされとも
其(その)城主(しやうしゆ)及(およ)ひ時世等(しせいとう)詳(つまひらか)ならす土人云(としんいふ)昔(むかし)小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の幕下(はくか)関戸(せきと)
駿河守(するかのかみ)といへる人(ひと)こゝにありとも又(また)は永禄(えいろく)の頃(ころ)佐伯市助道永(さへきいちすけみちなか)といへる
武士(ふし)小田原(をたはら)の北条家(ほうてうけ)に仕(つか)へ此地(このち)に住(ちゆう)するともいへり《割書:故(ゆゑ)に此所(このところ)を佐伯谷(さへきたに)|とも号(なつ)けたり》
明徳(めいとく)元年庚午 念阿護法入道(ねんあこほふにふたう)此地(このち)に一寺(いちし)を創建(さうこん)ありて吉祥山(きちしやうさん)
寿徳寺(しゆとくし)と云(いふ)禅院(せんゐん)を再興(さいかう)す 《割書:此寺(このてら)は関戸入口(せきといりくち)道(みち)|より右側(みきかは)にあり》道永(みちなか)自(みつか)ら中興(ちゆうかう)開基(かいき)と
なり日舜宗恵大和尚(につしゆんそうゑたいおしやう)を請(しやう)して中興(ちゆうかう)開山(かいさん)とす《割書:市助(いちすけ)法名(ほふみやう)を道永(たうえい)|庵(あん)と称(しよう)す永禄(えいろく)十二》
《割書:年己巳二月三日 陸奥(みちのく)に戦死(せんし)す道永(たうえい)の子孫(しそん)三河守道也(みかはのかみみちなり)和泉守道安(いつみのかみみちやす)同 隼人(はやと)|筑後(ちくこ)抔(なと)いへる人等(ひとら)皆(みな)此地(このち)に住(ちゆう)し終(つひ)に民間(みんかん)に下(くた)りしとなり》
天守台(てんしゆたい) 同(おな)し山続(やまつゝき)西(にし)の方(かた)にあり城山(しろやま)の半腹(はんふく)より曲折(きよくせつ)して山頂(さんちやう)に至(いた)る
まて老松(らうしよう)繁茂(はんも)す此所(このところ)より四望(しはう)するに尤(もつとも)絶景(せつけい)なり《割書:近頃(ちかころ)山頂(さんちやう)|に金毘羅(こんひら)》
《割書:権現(こんけん)の宮(みや)を|営建(えいけん)せり》
【枠外】 三ノ二百二十
【左丁】
沓切坂(くつきりさか) 下関戸(しもせきと)の宿(しゆく)の南(みなみ)の坂(さか)を云(いふ)坂(さか)の上(うへ)を古市場(ふるいちは)と唱(とな)ふ昔(むかし)商戸(しやうと)
駅舎(えきしや)等(とう)ありし地(ち)なり天正已来(てんしやうこのかた)此地(このち)の古道(こたう)廃(はい)して今(いま)は名(な)のみとな
れりされとも府中(ふちゆう)より横切(よこきり)て相州(さうしう)矢倉沢(やくらさは)大磯(おほいそ)等(とう)への官用(くわんよう)の次(つき)
場(は)なり《割書:今(いま)も相州(さうしう)大山石尊(おほやませきそん)富士詣(ふしまふて)抔(なと)|常州(しやうしう)野州(やしう)辺(へん)より此道(このみち)にかゝれり》相伝(あひつたふ)正平(しやうへい)七年壬二月八日 武蔵野(むさしの)
合戦(かつせん)の時(とき)新田義貞公(につたよしさたこう)脇屋義治公(わきやよしはるこう)纔(わつか)に二百 余騎(よき)に討(うち)なされ御方(みかた)の
勢(せい)も散々(さん〳〵)に行方(ゆきかた)しらすなりしかは迚(とて)も討死(うちしに)すへき命(いのち)なれは鎌倉(かまくら)へ
打入(うちいり)て足利左馬頭基氏(あしかゝさまのかみもとうち)に逢(あふ)て命(めい)を失(うしな)はやと夜半(やはん)過(すく)る頃(ころ)関戸(せきと)を
過(すき)給ひけるに石堂入道(いしたうにふたう)三浦介(みうらのすけ)等(とう)の五六千 騎(き)の勢(せい)に出逢(いてあひ)給ひ神(か)
奈川(なかは)を経(へ)て鎌倉(かまくら)へ打入(うちいり)勝利(しようり)を得(え)給ふ頃(ころ)此坂(このさか)より馬(うま)の沓(くつ)をとり
はたせにて打(うち)給ふと依(よつ)て名(な)とすといふ
赤坂台(あかさかたい) 関戸(せきと)より十六七町 東(ひかし)の方(かた)蓮光寺村(れんくわうしむら)を横(よこ)きりて赤坂(あかさか)と号(なつ)
く坂(さか)を登(のほ)れは赤坂台(あかさかたい)なり一里 半斗(はんはかり)を経(へ)て河原谷(かはらたに)と云(いふ)地(ち)あり
平台(ひらたい) 赤坂台(あかさかたい)の東(ひかし)の続(つゝき)をいふ此所(このところ)に三圍(みかゝへ)にあまれる老松(らうしよう)一株(いつちゆう)あり
【右丁】
土人(としん)甚兵衛松(しんひやうゑまつ)と字(あさな)す此地(このち)は《振り仮名:矢の口|や くち》に属(そく)す
騰雲山(とううんさん)明覚寺(みやうかくし) 《振り仮名:矢の口村街道|や くちむらかいたう》より南(みなみ)の横(よこ)にあり《振り仮名:渡し場|わた は 》の南(みなみ)拾五町
あまりあり臨済派(りんさいは)の禅林(せんりん)にして鎌倉(かまくら)建長寺(けんちやうし)に属(そく)す本尊(ほんそん)釈迦如来(しやかによらい)は
唐佛(たうふつ)にして座像(ささう)八寸はかりあり当寺(たうし)は往古(いにしへ)足利義晴公(あしかゝよしはるこう)建立(こんりふ)なし給ふ
佛刹(ふつせつ)にして其後(そのゝち)廃寺(はいし)となりしを慶長年間(けいちやうねんかん)加藤太郎左衛門(かとうたらうさゑもん)再興(さいかう)
して菩提寺(ほたいし)となすと云(いふ)中興開基(ちゆうかうかいき)は揚雲和尚(やううんおしやう)《割書:永禄(えいろく)四年に|中興(ちゆうかう)す》と号(かうす)当寺(たうし)に
長坂血鎗九郎(なかさかちやりくらう)陣中守護(ちんちゆうしゆこ)の為(ため)鎧(よろひ)の中(うち)に篭奉(こめたてまつ)りしといふ伽羅(きやら)の正(しやう)
観音(くわんおん)を安置(あんち)せり立像(りふさう)三寸はかり弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)といふ今(いま)は一尺/斗(はかり)の
正観音(しやうくわんおん)を彫造(てうさう)して其(その)躰中(たいちゆう)に秘安(ひあん)せり
小沢小太郎居宅旧地(こさはこたらうきよたくのきうち) 当寺(たうし)境内(けいたい)の辺(へん)を云(いふ)今猶(いまなほ)馬場(はゝ)の旧跡(きうせき)なりと
称(しよう)する地(ち)あり又(また)当寺(たうし)の前(まえ)に小高(こたか)き岡(をか)ありて蔵地下(くらちけ)と号(なつ)く其頃(そのころ)
兵粮(ひやうらう)を収(をさめ)たる倉(くら)の跡(あと)なりと云《割書:次(つき)の小沢(こさは)の城址(しろあと)の条下(てうか)にも小沢(こさは)某(それかし)の名(な)有て|是(これ)を云伝(いひつた)ふこゝに小太郎といへるも其(その)氏族(しそく)の人(ひと)なるへし》
艸原山(さうけんさん)威光寺(ゐくわうし) 同所(とうしよ)明覚寺(みやうかくし)より道(みち)を隔(へた)てゝ一丁/斗(はかり)向(むか)ふ側(かは)二丁斗/左(ひたり)へ
【枠外】 三ノ二百二十二
【左丁】
入(いり)てあり新義真言宗(しんきしんこんしう)にして坂浜(さかはま)高勝寺(かうしようし)に属(そく)す本尊(ほんそん)は大日如来(たいにちによらい)
座像(ささう)三尺はかりあり当寺(たうし)は穴澤天神(あなさはてんしん)の別当(へつたう)なり《割書:天明年間(てんめいねんかん)火災(くわさい)に|罹(かゝ)りて殿堂(てんたう)僧房(そうはう)》
《割書:悉(こと〳〵)く焼亡(しやうほう)して|旧記(きうき)を亡(ほろほ)せり》
東鑑曰 治承四年庚子十一月十五日
武蔵国威光寺者依為源家数代御祈祷所院主僧
僧同相承之僧坊寺領如元被奉免之《割書:云云》
同書曰 元歴二年 四月十三日
武蔵国威光寺院主長栄懇祈日夜不怠然平家滅
亡畢有御感沙汰之處為小山太郎有高被押領寺
領之由捧去年九月所給御下文所訴申也《割書:下略》
同書曰 文治元年 九月五日
小山太郎有高押妨威光寺領之由寺僧捧解状仍
令停止其妨任例可経寺用若有由緒者令参上政
所可言上子細之旨被仰下惟宗孝尚橘判官代以
広藤判官代邦道等奉行之《割書:下略》
同書曰 承元二年戊辰七月十五日
武蔵国威光寺院主僧円海参訴曰柏江入道増西
去月廿六日率五十余人悪党乱入寺領及苅田狼
藉《割書:下略》
《割書:按(あんする)に江戸(えと)雑司谷(さうしうかや)鬼子母神(きしもしん)の別当(へつたう)威光山(ゐくわうさん)法明寺(ほふみやうし)を以(もつ)て東鑑(あつまかゝみ)に載(のす)る所(ところ)の威(ゐ)|光寺(くわうし)なる由(よし)其寺(そのてら)に云伝(いひつた)ふるといへとも恐(おそ)らくは誤(あやまり)なるへし東鑑(あつまかゝみ)にも狛江(こまえ)|入道増西(にふたうそうさい)五十 余人(よにん)の悪党(あくたう)を率(ひき)ゐて当寺(たうし)の寺飯(しはん)の田(た)を苅(かり)狼藉(らうせき)に及(およ)ふなと|あり狛江 入道(にふたう)は多麻郡(たまこほり)狛江郷(こまえのかう)の主(ぬし)なり今(いま)同郡(とうくん)佐須村(さすむら)に其(その)旧館(きうくわん)の地(ち)と》
【右丁】
国安宮(くにやすのみや)
威光寺(ゐくわうし)
【四角囲い文字】
かね
明覚寺
【枠外】 三ノ二百二十三
【左丁】
【四角囲い文字】
威光寺
社人
仮殿
国安社
【右丁】
《割書:称(しよう)するものありて此地(このち)より程遠(ほととほ)からす東 鑑(かゝみ)刊本(かんほん)に柏江(かしはえ)に作(つく)るは誤(あやまり)なり|江戸(えと)の雑司谷(さうしかや)は其間(そのあひた)七里 隔(へた)つへしされとも当寺(たうし)は天明年間(てんめいねんかん)の火災(くわさい)に旧記(きうき)亡(うしな)ひ|たりとてさらに古(いにしへ)を考(かんか)へ合(あは)すへきたよりなし猶(なほ)多日(たしつ)訂正(ていせい)すへきのみ》
国安明神(くにやすみやうしん)祠 威光寺(ゐくわうし)の南(みなみ)五十 歩斗(ほはかり)を隔(へた)てゝ同(おな)し側(かたはら)左(ひたり)の小道(こみち)を三十歩
斗入てあり神主(かんぬし)山本氏(やまもとうち)奉祀(ほうし)す神躰(しんたい)は左(さ)の如(こと)きものにして世(よ)に云(いふ)所(ところ)の
鋳形(ゐかた)の神像(しんさう)なり相伝(あひつた)ふ往古(いにしへ)小沢左衛門尉国高(こさはさゑもんのしやうくにたか)といへる人(ひと)此地(このち)を
領(れう)す国高(くにたか)此地(このち)に逍遥(しやうえう)ありし頃(ころ)松樹(しようしゆ)の下(もと)に白髪(はくはつ)の老翁(らうさう)現(けん)し尓(しめ)【示ヵ】
して曰(いは)く我(われ)は大国主神(おほくにぬしのかみ)なり此地(このち)に崇祀(あかめまつ)らは万民(はんみん)国安(くにやす)かるへしと云々
国高(くにたか)奇異(きい)の思(おも)ひをなし宮居(みやゐ)を営(いとな)んてたゝちに国安明神(くにやすみやうしん)と崇(あか)め
祭(まつ)り社領(しやれう)の地(ち)八百五十 坪(つほ)を寄附(きふ)ありて武運(ふうん)長久(ちやうきう)ならん事を祈(き)
念(ねん)すといふ
《割書:按(あんする)に小澤左衛門尉国高(こさはさゑもんのしやうくにたか)は東鑑(あつまかゝみ)に挙(あく)る所(ところ)の小澤次郎重政(こさはしらうしけまさ)同 左近将監(さこんしやうけん)|信重(のふしけ)なとの氏族(しそく)の人(ひと)ならん其(その)時世(しせい)今(いま)しるへからす》
国安神像(くにやすのしんのさう)
《割書:銅物(とうふつ)わたり六寸四分はかり上(うへ)に天蓋(てんかい)なと付(つけ)たりしと覚(おほ)しき跡(あと)あり下の方にも》
【枠外】 三ノ二百二十四
【左丁】
《割書:花瓶(くわひん)の如(こと)きものありて|上の方に口あり神躰(しんたい)は|僧形(そうきやう)にして宝珠(はうしゆ)と| 劔(けん)とを持(ち)し給ふ| 形(かたち)なり》
【図中】
本願主
山本権律師■信
応安六年辰八月十一日
穴沢天神社(あなさはてんしんのやしろ) 谷口邑(やのくちむら)威光寺(ゐくわうし)より東北(とうほく)の方(かた)三町斗を隔(へた)てゝ同(おな)し往還(わうくわん)
右(みき)の方(かた)小道(こみち)を入てあり社(やしろ)は山(やま)の中腹(ちゆうふく)にあり此辺(このへん)を《振り仮名:小沢ゕ原|こさは はら》と唱(となふ)今(いま)
祭神(さいしん)詳(つまひらか)ならす後世(かうせい)菅神(くわんしん)を合祭(かふさい)せり祭礼(さいれい)は七月廿五日なり又同日
神楽(かくら)を修行(しゆきやう)し九月廿五日に獅子舞(しゝまひ)を興行(こうきやう)す別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして
居光寺(ゐくわうし)と号(かう)す
延喜式神名帳曰 武蔵国 多磨郡
穴沢天神社云
【■は「礻+厶」 「弘」の誤ヵ。穴沢天神社の里神楽は、応安年間に初代山本権律師弘信が創始したとの記事あり。】
【右丁】
谷之口(やのくち)
穴沢天神社(あなさはてんしんのやしろ)
此辺(このへん)傍(かたはら)を《振り仮名:小沢ゕ原|をさは はら》と号(なつ)く
当社(たうしや)の後(うしろ)の山頂(さんちやう)は小沢次郎
重政(しけまさ)か住(すみ)たりし城趾(しろあと)にして
文明(ふんめい)の頃(ころ)も金子掃部助(かねこかもんのすけ)
此城(このしろ)に楯籠(たてこも)りたるを
吉里宮内(よしさとくない)左衛門尉
以下 横山(よこやま)より
打(うつ)て出(いて)此城
を責落(せめおと)
す由
鎌倉(かまくら)
大草(おほさう)
紙に
みえ
たり
【四角囲い文字】
巌崫【窟】
水車
【枠外】 三ノ二百二十五
【左丁】
【四角囲い文字】
穴沢天神
【右丁】
武蔵国風土記残編曰 武蔵国 多磨郡
穴沢天神 圭田三十六束三毛田 考安天皇
四年壬辰三月所祭少名彦神也云々
当社(たうしや)の麓(ふもと)を澗水(かんすゐ)流(なか)れて多麻川(たまかは)に合(かつ)す其流(そのなかれ)を隔(へた)てゝ山岨(さんそ)に一の
巌崫(かんくつ)【注】あり故(ゆゑ)に穴沢(あなさは)の名(な)あり昔(むかし)の巌洞(かんとう)は崩(くつ)れたりとて今(いま)新(あらた)に掘(ほり)
穿(うか)てる洞穴(ほらあな)あり洞口(ほらくち)は一にして内は二つに分(わけ)てあり《割書:内(うち)に種々(しゆ〳〵)の神仏(しんふつ)の|石像(せきさう)を造立(さふりふ)す》
小沢城址(こさはのしろあと) 谷口天神(やのくちてんしん)の山続(やまつゝき)浅間山(せんけんやま)の西(にし)に並(なら)へり東鑑(あつまかゝみ)に元久(けんきう)《振り仮名:二|■》年《割書:乙| 丑》六月
廿三日/稲毛入道(いなけにふたう)大河戸三郎(おほかはとさふらう)か為(ため)に誅(ちゆう)せらる子息(しそく)小沢次郎重政(こさはしらうしけまさ)は宇佐美与一(うさみよいち)
是(これ)を誅(ちゆう)すと又(また)同書(とうしよ)に同年十一月三日/小沢左近将監信重(こさはさこんのしやうけんのふしけ)綾小路三位師季(あやのこうちさんゐもろすへ)の
息女(そくちよ)を相伴(あひともなふ)ふて京都(きやうと)より参着(さんちやく)す行光(ゆきみつ)を以(もつて)事(こと)の由(よし)を尼御台(あまみたい)に啓(まう)す《割書:下略》又
同月四日/夜(よ)に入(いり)綾小路(あやのこうち)の姫君(ひめきみ)尼御台所(あまみたいところ)の御/亭(てい)に参(まゐ)らる御猶子(こいうし)たるへきの儀(き)なり
武蔵国(むさしのくに)小沢郷(こさはのかう)《割書:稲毛入道(いなけにふたう)|遺領(ゆゐれう)なり》知行(ちきやう)せらるへきの由(よし)仰(おほせ)らるゝとあり鎌倉大草(かまくらおほさう)
紙(し)に文明(ふんめい)九年/長尾四郎左衛門尉景春(なかをしらうさゑもんのしやうかけはる)山内上杉(やまのうちうへすき)の家務職(かむしよく)を承(うけたまは)ら
さるを憤(いきとほ)り逆心(きやくしん)を企(くはたて)顕定(あきさた)を亡(ほろほ)さんとて武州(ふしう)相州(さうしう)の内(うち)一味(いちみ)同心(とうしん)の
【枠外】 三ノ二百二十六
【左丁】
兵(へい)を催(もよほ)し上杉家(うへすきけ)を襲(おそ)ふといへる条下(てうか)に金子掃部助(かねこかもんのすけ)は小沢(こさは)と云(いふ)
城(しろ)に楯籠(たてこも)る間(あひた)太田左衛門入道(おほたさゑもんにふたう)下知(けち)として扇谷(あふきかやつ)より勢(せい)を遣(つかは)し同
三月十八日/溝呂木(みそろき)の城(しろ)を攻落(せめおと)す同日に磯(いそ)の要害(えうかい)を責(せめ)らる一日/防(ふせき)
戦(たゝか)ひ夜(よ)に入(いり)けれは越後五郎四郎(ゑちここらうしらう)かなはすして城(しろ)を渡(わた)し降参(かうさん)す夫(それ)より
小沢城(こさはのしろ)へ押寄(おしよせ)攻(せめ)けれとも城(しろ)難所(なんしよ)にて落(おち)かたし《割書:中|略》景春(かけはる)一味(いちみ)の宝相(はうさう)
寺(し)ならひに吉里宮内左衛門尉(よしさとくないさゑもんのしやう)以下(いけ)小沢(こさは)の城(しろ)の後詰(こつめ)として横山(よこやま)より
打出(うちいて)当国(たうこく)府中(ふちゆう)に陣(ちん)を取(とる)《割書:中|略》同年四月十八日/金子掃部助(かねこかもんのすけ)か籠(こも)りける
小沢(こさは)の城(しろ)も責落(せめおと)すとあり
《振り仮名:向の岡|むかひ をか》 今(いま)向岡(むかひのをか)と称(しよう)する地(ち)は多麻川(たまかは)を北(きた)に帯(おひ)て西(にし)は関戸(せきと)より発(おこつ)て
東(ひかし)は末長(すゑなか)に終(をは)るもの是(これ)なり連岡(れんかう)の長(なかさ)凡(およそ)六里あまりあり
《割書:或(あるひ)は云(いふ)今(いま)《振り仮名:向の岡|むかひ をか》と称(しよう)する連岡(れんかう)《振り仮名:向の岡|むかひ をか》にはあらさる歟(か)武蔵国風土記(むさしのくにふうとき)残篇(さんへん)により|て考(かんか)ふれは多磨郡(たまこほり)北(きた)は《振り仮名:向の岡|むかひ をか》に限(かき)るとあるを以(もつ)ても此地(このち)にあらさる事|しるへしと然(しかる)に同郡(とうくん)狭山(さやま)は南北東西五里/尾引山(をひきやま)より八国山(はちこくやま)にいたり東|西二十里の連岡(れんかう)なり四方(しはう)共(とも)に武蔵野(むさしの)にして何(いつ)れの方(かた)よりも岡(をか)に相対(あひたい)する|故(ゆゑ)に《振り仮名:向の岡|むかひ をか》の名(な)ありといへり依(よつ)て今(いま)《振り仮名:向の岡|むかひ をか》と称(しよう)する地(ち)は《振り仮名:都筑ゕ岳|つつき をか》として佳(か)|ならんとしかるや否(いなや)はしらされとも暫(しはら)く是(これ)をこゝに挙(あく)るのみ》
【注 「崫」は「窟」の誤記】
【右丁】
武蔵国風土記残編曰
多磨郡東限草窪岡西限金川南限華田浦北限向
岡《割書:云云》
新勅撰
武蔵野の向の岡の草なれはねを尋てもあはれとそおもふ 小町
続古今
朝な〳〵よそにやはみる十寸鏡向の岡につもるしらゆき 知家
玉葉
秋霧の絶間をみれは朝つく日むかひの岡は色つきにけり 後一条
入道
同
ゆふつく日向の岡の薄もみちまたき淋しき秋の色かな 定家
夫木
もと茂き向の岡の菊のえに交りて青き花の下草 為家
御家集
いつのまに向の岡の小松原月もるまてになりにけるかな 後鳥羽院
哥林名所考
夕日さす向の岡の時鳥雲のはたてにをりはへてなく 隆源
《振り仮名:都筑の岳|つつき をか》《割書:綴喜(つゝき)或(あるひは)綴(つゝ)|幾(き)に作(つく)る》小仏(こほとけ)の嶺(みね)より小山田里迠(をやまたのさとまて)は多磨郡(たまこほり)に属(そく)せり平山(ひらやま)或(あるひ)は
横山(よこやま)なといひ既(すて)に古哥(こか)にも《振り仮名:玉の横山|たま よこやま》と詠(えい)せる皆(みな)此間(このあひた)にあり又(また)官林(くわんりん)の
案内山(あんないやま)と云(いふ)より神奈川迠(かなかはまて)の間(あひた)は都筑郡(つつきこほり)に属(そく)せり南北(なんほく)に高低(かうてい)なく
坂東路(はんとうち)凡(およそ)百里あまりあり続(つゝ)く故(ゆゑ)につゝきの岳(をか)の名(な)ありといへり
【枠外】 三ノ二百二十七
【左丁】
青沼明神(あをぬまみやうしん) 同所(とうしよ)長沼村(なかぬまむら)八王子通道(はちわうしとほりみち)の傍(かたはら)にあり祭神(さいしん)大田命(おほたのみこと)猿田彦(さるたひこ)
大神(たいしん)二神(にしん)なり勧請(くわんしやう)の初(はしめ)をしらすといふ社司(しやし)福島氏(ふくしまうち)奉祀(ほうし)す祭礼(さいれい)は
八月十五日なり《割書:太平記(たいへいき)に正平(しやうへい)七年閏二月/小手差原合戦(こてさしはらかつせん)の条下(てうか)に将軍(しやうくん)の御陣(こちん)へ|馳参(はせまゐ)る人々の中(なか)に長沼判官(なかぬまはんくわん)といふ名(な)みえたり此地(このち)より出(いて)たる人(ひと)歟(か)》
《割書:按(あんする)に当社(たうしや)は延喜式内(えんきしきない)青渭神社(あをゐしんしや)ならん歟(か)土人(としん)相伝(あひつた)ふ往古(いにしへ)此地(このち)は大(おほひ)なる沼(ぬま)のありし地(ち)|なる故(ゆゑ)に長沼(なかぬま)の号(かう)ありと云されはにや今(いま)も此辺(このへん)地(ち)を掘穿(ほりうか)つときは土中(とちゆう)悉(こと〳〵)く沼(ぬま)土(つち)|なりと和名類聚抄(わみやうるいしゆしやう)に武蔵国(むさしのくに)比企郡(ひきこほり)に渭後(ぬまのしり)といへる地名(ちめい)を載(のせ)て沼乃之利(ぬまのしり)と訓(くん)す|然(しか)る時(とき)は当社(たうしや)を以(もつて)延喜式内(えんきしきない)の青渭神社(あをゐのしんしや)とするも拠(よりところ)あるに似(に)たり猶(なほ)後人(かうしん)の考(かんかへ)を俟(まつ)のみ》
仙谷山(せんこくさん)寿福禅寺(しゆふくせんし) 《振り仮名:谷の口|や くち》の東(ひかし)の山続(やまつゝき)《振り仮名:矢の口渡場|や くちわたしは》より十三町 東南(とうなん)の方(かた)
菅村(すけむら)にあり《割書:此地(このち)は多磨郡(たまこほり)後(のち)橘樹郡(たちはなこほり)に|属(そく)せり此辺(このへん)を小沢郷(こさはのかう)ともいへり》推古天皇(すゐこてんわう)六年戊午 聖徳太子(しやうとくたいし)草(さう)
創(さう)なし給ふ佛刹(ふつせつ)なりといふ昔(むかし)は天台宗(てんたいしう)たり建長寺(けんちやうし)の大安禅師(たいあんせんし)の時(とき)
より禅林(せんりん)とす今(いま)は曹洞派(さうとうは)となりて越前(ゑちせん)の永平寺(えいへいし)に属(そく)す
本堂本尊十一面観世音(ほんたうほんそんしふいちめんくわんせおん)《割書:相伝(あひつた)ふ鳥仏師(とりふつし)の雕刻(てうこく)或云(あるひはいふ)和州(わしう)長谷寺(はせてら)の像(さう)と同木(とうほく)|同雕(とうてう)なりといふ大会堂(たいゑたう)と号(なつ)く当寺(たうし)十 境(けう)の一なり》
鐘(かね)《割書:右(みき)にあり井田六郎右衛門尉(ゐたろくらうゑもんのしやう)某(それかし)応永(おうえい)七年庚辰 当寺(たうし)住持(ちゆうち)の沙門(しやもん)比丘(ひく)宗円(そうゑん)の頃(ころ)半(はん)|鐘(しやう)を寄進(きしん)す破裂(はれつ)によりて寛文(くわんふん)二年 鋳改(ゐあらたむ)るよし当寺(たうし)住持(ちゆうち)比丘(ひく)融峯(いうほう)の文(ふん)にみえたり》
阿弥陀堂(あみたたう)《割書:同(おな)し左(ひたり)にあり善応殿(せんおうてん)と号(かう)す本尊(ほんそん)は座像(さそう)四尺五|六寸 作者(さくしや)不知(しれす)左右(さいう)に地蔵(ちさう)多門等(たもんとう)の像(さう)を安(あん)す》鎮守宮(ちんしゆのみや)《割書:門(もん)の左(ひたり)にあり|八幡(はちまん)稲荷(いなり)》
《割書:大黒(たいこく)弁天(へんてん)の四 座(さ)をまつる擁護廟(おうこひやう)|と号(かう)す当寺(たうし)十 境(けう)の一なり》指月橋(しけつきやう)《割書:当寺(たうし)門外(もんくわい)の流(なか)れに架(か)する板橋(いたはし)を|号(なつ)く是(これ)も十 境(けう)の一なり》
【右丁】
【絵】
【四角囲い文字】
方丈
弁天
書院
くり
本堂
かね
土蔵
【枠外】 三ノ二百二十八
【左丁】
寿福寺(しゆふくし)
【四角囲い文字】
阿弥陀
表門
裏門
庵
指月橋
八幡
【右丁】
餐霞谷(そんかこく)《割書:同所の庫裡(くり)の後(うしろ)の谷(たに)を云(いふ)道教(たうきやう)の旧跡(きうせき)なり故(ゆゑ)に今(いま)|此地(このち)を字(あさな)して仙谷(せんこく)と号(なつ)く是(これ)も当寺(たうし)十/境(けう)の一なり》採薬阜(さいやくふ)《割書:秦徐福(しんのちよふく)|日本(にほん)に》
《割書:来(きた)り仙薬(せんやく)を|採(とる)と云々》攫霧松(かくむしよう)《割書:同所/関(せき)の左(ひたり)にありしか今(いま)は枯(かれ)たり土俗(とそく)道祖神松(たうそしんのまつ)と云(いふ)一根(いつこん)五|枝(し)にして霧(きり)を攫(つかむ)か如(こと)き故(ゆゑ)に名(な)とす当寺(たうし)十/境(けう)の一なり》
方丈(はうちやう)《割書:晩成室(はんせいしつ)といふ|十/境(けう)の一なり》
大般若経(たいはんにやきやう)六百/巻(くわん)《割書:梵函(ほんかん)に収蔵(しゆさう)す紙(かみ)は黄色(きいろ)にして薄(うす)し上古(しやうこ)名緇(めいし)高素(かうそ)の毫痕(かうこん)|なり其中(そのうち)源義経(みなもとのよしつね)と弁慶(へんけい)か筆跡(ひつせき)なりと称(しよう)するもの四巻(しくわん)ありて》
《割書:其名(そのな)を註(ちゆう)せり相伝(あひつた)ふ文治年間(ふんちねんかん)源義経(みなもとのよしつね)と弁慶(へんけい)暫(しはらく)此地(このち)に憩(いこ)ひ曽祖(そうそ)の例跡(れいせき)を追(お)ひ当(たう)|寺(し)観音(くわんおん)の尊前(そんせん)に恢復(くわいふく)の応験(おうけん)を祈(いの)り特(こと)に大会堂(たいゑたう)に入て文治年間(ふんちねんかん)経巻(きやうくわん)の闕(かけ)たるを|繕冩(せんしや)す永徳(えいとく)壬戌/鎌倉(かまくら)左兵衛督氏満(さひやうゑのかみうちみつ)師(し)の徳(とく)を慕(した)ひ参謁(さんえつ)の次(つひて)再(ふたゝ)ひ此経(このきやう)の蠹損(こそん)を修(しゆ)|補(ほ)する由(よし)縁起(えんき)にみえたり》
夫仙谷山寿福寺者推古天皇六代戊午年聖徳皇
太子就于高橋妃之亡妣入阿弥尼公終焉之地剏
建七区練若以資薦冥福之奮趾也盖山曰仙谷者
有仙人道鏡者栖遅于此山錬行修身積有年矣故
亦曰道鏡谷也今古怪異之事甚多矣是仙人所為
也寺曰寿福者曾芟搸【榛ヵ】夷地之時得虚空蔵薩埵之
像因摽【標ヵ】福一満之聖號以祱【祝ヵ】寺之遠大而安今號焉
後建長曜侍者謄虚空蔵経一軸而乞石室玖禅師
之手墨鋟梓寄焉寺像十一面観自在薩埵者権化
之人晡時来手彫刻焉自尓以来霛感滋衆矣或曰
和州長谷寺之像同木同雕也康平年中八幡太郎
義家欲排付奥州逆徒出陣之時中路而宿于茲竭
帎【忱ヵ】祈開運於斯像後果獲遇感矣在昔小沢小太郎
【枠外】 三ノ二百二十九
【左丁】
重政毎晨旋歩像前勉於晨香夕燈修現当之善因
矣梵函大般若経者名𦃓【緇ヵ】高素之毫痕也文治年中
源義経泊弁慶暫憩行於此地追曾祖之例跡祈恢
復之応験特復繕写経之闕而今尚現存矣雖然間
遭兵災寺既敗壊年久矣爰有前住建長大安禅師
大方慶和尚卓錫此地力与荒廃始振禅風僧俗雲
集永徳壬戌年鎌倉左兵衛督氏満號永安寺殿壁
山全公雅慕師之徳操而参謁之次再修補此経之
蠧損覃造営三個殿宇既而安十一面大悲像於大
会堂安弥陀善逝像於善応殿奉請弁財尊天大黒
尊天八幡大菩薩稲荷大明神於擁護庿繇是仰皇
図之鞏固祈仏運之紹隆而亹々不怠焉
応永十四丁亥稔六月十八日
沙門宗圓敬記焉
《割書:|》相伝(あひつたふ)推古天皇(すゐこてんわう)六年戊午 聖徳皇太子(しやうとくくわうたいし)高橋(たかはし)の妃(ひ)の亡妣(はうひ)入阿弥尼公(にふあみにこう)
終焉(しうゑん)の地(ち)に就(つい)て七区(しちく)の練若(れんにや)を剏建(さうけん)し以(もつ)て冥福(めういく)を資(たすくる)の奮跡(きうせき)なり
山(やま)を仙谷(せんこく)といふは仙人(せんにん)道鏡(たうきやう)なる者(もの)此山(このやま)に隠栖(いんせい)し練行(れんきやう)修身(しゆしん)事(こと)積(つもり)て
年(とし)あり故(ゆゑ)に亦(また)道鏡谷(たうきやうたに)ともいへり《割書:今古(こんこ)怪異(くわいい)の事(こと)甚(はなはた)多(おほ)し是(これ)|仙人(せんにん)の所為(しよゐ)なりと云々》寺(てら)を寿福(しゆふく)といふは
曾(かつ)て芟(かり)_レ榛(はんを)夷(たひらくる)_レ 地(ちを)の時(とき)虚空蔵薩埵(こくうさうほさつ)の像(さう)を得(え)たり因(よつ)て福一満(ふくいちまん)の聖号(しやうかう)を
【右丁 絵のみ】
【枠外】 三ノ二百三十
【左丁】
吐(と)
玉(きよく)
水(すゐ)
【右丁】
標(ひやう)して以(もつ)て寺(てら)の遠大(ゑんたい)を祝(しゆく)す《割書:後(のち)建長(けんちやう)曜侍者(ようししや)虚空蔵経(こくうさうきやう)一軸(いちちく)を■(とう)【謄ヵ】するのみ|石室(せきしつ)善形禅師(せんきやうせんし)の手墨(しゆほく)鋟梓(しんし)して寺(てら)に寄(よ)す》
康平年間(かうへいねんかん)八幡太郎義家(はちまんたらうよしいへ)奥州征伐(あうしうせいはつ)出陣(しゆつちん)の時(とき)中路(ちゆうろ)茲(こゝ)に宿(しゆく)す其頃(そのころ)当(たう)
寺(し)本尊(ほんそん)に開運(かいうん)を祈(いの)る後(のち)果(はた)して感遇(かんにあふこと)を獲(え)たり昔(むかし)小沢小太郎重政(こさはこたらうしけまさ)毎(まい)
晨(しん)歩(あゆみ)を像前(さうせん)に旋(めくら)して現当(けんたう)の善因(せんいん)を修(しゆ)す然(しかる)に兵災(ひやうさい)に遭(あひ)て寺宇(しう)既(すて)に
敗壊(はいゑ)する事(こと)年久(としひさ)し爰(こゝ)に鎌倉(かまくら)建長寺(けんちやうし)の大安禅師大方慶和尚(たいあんせんしたいはうけいおしやう)此地(このち)に
卓錫(たくしやく)し荒廃(くわうはい)を興(おこ)し始(はしめ)て禅風(せんふう)を振(ふる)ふか故(ゆゑ)に僧俗(そうそく)雲集(うんしふ)す《割書:或云(あるひはいふ)建長寺(けんちやうし)|八十四世/法慶(ほふけい)》
《割書:和尚(おしやう)是(これ)なり大方慶(たいはうけい)|といふは誤(あやまり)なり》然(しかる)に永徳(えいとく)二年壬戌/鎌倉(かまくら)左兵衛督氏満師(さひやうゑのかみうちみつし)の徳操(とくさう)を
慕(した)ひて参謁(さんえつ)するの次(ついて)三個(さんこ)の殿宇(てんう)を造営(さうえい)せられたりとなり《割書:三個(さんこ)とは所謂(いはゆる)|大会堂(たいゑたう)善応(せんおう)》
《割書:殿(てん)擁護(おうこ)|廟(ひやう)是(これ)也(なり)》
展翼峰(てんよくほう) 寿福寺(しゆふくし)の左(ひたり)に続(つゝ)きたる山(やま)を云(いふ)俗(そく)に神明山(しんめいやま)といふその形(かたち)鳥(とり)の翼(つはさ)を
展(ひろけ)たるか如(こと)し故(ゆゑ)に号(かう)とす相伝(あひつたふ)当社(たうしや)神明宮(しんめいくう)は昔(むかし)小机(こつくゑ)より飛来(とひきたり)こゝに
鎮座(ちんさ)なしたまひたりと云(いふ)《割書:寿福寺(しゆふくし)十|境(けう)の一なり 》
浅間山(あさまやま)同(おな)し山続(やまつゝき)にして山頂(いたゝき)に浅間(せんけん)の小祠(やしろ)ある故(ゆゑ)に名(な)とす土人(としん)は城(しろ)の浅間山(せんけんやま)
【枠外】 三ノ二百三十一
【左丁】
と云/是(これ)も寿福寺(しゆふくし)十/境(けう)の一にして光照崖(くわうしやうかい)と号(かう)す荊棘(むはら)をひき小(を)
篠(さゝ)をわけ登(のほ)る事《振り仮名:数十歩|す ほ》絶頂(せつちやう)に至(いた)り崖(きし)に臨(のそ)みて眺望(てうはう)すれは眼界(かんかい)
蒼茫(さうはう)として山水(さんすゐ)の美(ひ)筆端(ひつたん)に尽(つく)しかたし《割書:浅間(せんけん)の祠(ほこら)ある所(ところ)より少(すこ)し|下(さか)りて小沢(こさは)の城跡(しろあと)と称(しよう)する》
《割書:地(ち)あり小沢(こさは)の城(しろ)|の下に詳(つまひらか)なり》
吐玉泉(ときよくせん) 寿福寺(しゆふくし)より後(うしろ)の方(かた)の谷(たに)を隔(へたて)て西(にし)の山際(やまきは)農民(のうみん)の地(ち)にあり水源(みなかみ)
白砂(はくしや)を吹出(ふきいた)す故(ゆゑ)に号(な)とす昔(むかし)は小沢(こさは)の白清水(しらしみつ)といふ是(これ)も寿福寺(しゆふくし)
十/境(けう)の一なり
大谷山法泉寺(たいこくさんほふせんし) 吉祥院(きちしやうゐん)と号(かう)す寿福寺(しゆふくし)の南(みなみ)十町はかりを隔(へた)てゝ菅村(すけむら)の
内(うち)府中道(ふちゆうみち)の右(みき)にあり《割書:稲毛領(いなけれう)にして|小沢郷(こさはのかう)に属(そく)す》天台宗(てんたいしう)にして深大寺村(しんたいしむら)の深大寺(しんたいし)に
属(そく)せり阿弥陀如来(あみたによらい)を本尊(ほんそん)とす
薬師堂(やくしたう)《割書:寺(てら)より西(にし)の後(うしろ)一町半はかりにあり毎歳(まいさい)八月十二日/獅子舞(しゝまひ)ならひに弓(ゆみ)を携(たつさ)へ|て踊事(をとること)あり又(また)縁日(えんにち)は九月八日十二日にて此日(このひ)もすこふる賑(にき)はへり》
本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)の像(さう)は慈覚大師(しかくたいし)彫造(てうさう)し給ふといふ相伝(あひつたふ)左馬頭義朝(さまのかみよしとも)の
御台所(みたいところ)常盤御前(ときはこせん)護持(こち)の霊像(れいさう)たり文治(ふんち)三年丁未八月/叡山(えいさん)の文(ふん)
【右丁】
法泉寺(ほふせんし)
【四角囲い文字】
くり
本堂
【枠外】 三ノ二百三十二
【左丁】
【四角囲い文字】
根上明神
みたうし
天王
弁天
福昌寺
【右丁】
顕阿闍梨(けんあしやり)此地(このち)の領主(れうしゆ)稲毛三郎重成(いなけさふらうしけなり)と共(とも)に謀(はか)り当山(たうさん)を闢(ひら)き
一/宇(う)の梵刹(ほんせつ)とし此(この)霊像(れいさう)を安置(あんち)せらる後(のち)平政子御前(たひらのまさここせん)崇敬(そうきやう)あり
其頃(そのころ)頼朝卿(よりともきやう)よりも香花(かうけ)の資料(しれう)として当国(たうこく)高麗郡(こまこほり)の地(ち)を寄(き)
附(ふ)せらる建久(けんきう)八年丁巳/頼朝卿(よりともきやう)当寺(たうし)へ詣(けい)し給ふ又/康元(かうけん)二年丙辰
五月/頼嗣公(よりつくこう)頼経公(よりつねこう)の菩提(ほたい)のため御堂(みたう)再興(さいかう)なし給ひしより大伽(たいか)
藍(らん)となりしか正慶(しやうけい)建武(けんむ)の兵乱(ひやうらん)に廃壊(はいゑ)せしより後(のち)旧貫(きうくわん)に復(ふく)する
事なしといへり鎧兜(よろひかふと)唐木小机(からきのこつくゑ)等(とう)の二品は頼朝卿(よりともきやう)の寄附(きふ)なりと云(いひ)
伝(つたへ)て当寺(たうし)の什宝(しふはう)とす
江戸名所図絵天璣之巻 畢
【枠外】 三ノ二百三十三
【左丁】
江戸名所図会全部廿巻目次
壱之巻三冊《割書:日本橋本町通神田小川町飯田町両国霊巌島八町堀築地|鉄炮洲芝口愛宕下西久保赤羽根三田魚籃白銀芝浦》 出版
二之巻三冊《割書:品川駅大井鈴ヶ森池上矢口大森蒲田八幡六郷川崎鶴見|生麦神奈川本牧程ヶ谷杉田金沢》
三之巻四冊《割書:外桜田霞関永田馬場平川溜池麻布広尾青山目黒碑文谷北沢|世田ヶ谷渋谷四谷千駄ヶ谷代々木高井戸武蔵野府中玉川向ノ岡》 発行
四之巻三冊《割書:市谷牛込小石川大窪柏木成子堀之内中野小金井築土高|田大塚雑司ヶ谷巣鴨板橋練馬大宮野火止》
五之巻二冊《割書:湯島上野日暮根津谷中三崎駒込王子川口豊島川| 》 未春
六之巻二冊《割書:浅草下谷根岸山谷橋場千住西新井| 》
七之巻三冊《割書:深川本所亀戸押上柳島隅田川木下川松戸行徳国府台|八幡舩橋》 発行
天保五年甲午孟春 《割書:日本橋通壱丁目 須原屋茂兵衛|浅草茅町二丁目 須原屋伊三郎》
【右丁】
《割書:京都寺町通松原下ル》
勝村治右衛門
《割書:大坂心斎橋筋唐物町》
河内屋太助
《割書:大坂心斎橋筋安堂寺町》
秋田屋太右衛門
《割書:江戸両国吉川町》
須原山田佐助
《割書:江戸神田鍛冶町二丁目》
三都発 北島順四郎
《割書:江戸浅草新寺町》
和泉屋庄次郎
《割書:江戸芝神明前》
行書林 岡田屋嘉七
《割書:江戸日本橋通二丁目》
山城屋佐兵衛
《割書:江戸日本橋通二丁目》
小林新兵衛
《割書:江戸日本橋通四丁目》
須原屋佐助
《割書:江戸南伝馬町壱町目》
須原屋文助
《割書:江戸神田通新石町》
須原屋源助
【見返し】
【丸印】
【角印】 豊田家蔵
【裏表紙】
《題:江戸名所図会 十九》
三囲稲荷(みめくりいなり)社 小梅村(こむめむら)田(た)の中(なか)にあり 《割書:故(ゆへ)に田中|稲荷(いなり)とも云》 別当(へつたう)は天台宗延命寺(てんたいしうえんめいし)と
号(かう)す神像(しんさう)は弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)にして同大師(おなしたいし)の勧請(くわんしやう)なりといへり文和(ふんわ)
年間 三井寺(みゐてら)の源慶僧都(けんけいそうつ)再興(さいこう)す慶長(けいちやう)の頃迄(ころまて)は今(いま)の地(ち)より南(みなみ)の方(かた)に
ありしを後(のち)此地(このところ)に移(うつ)せり当社(たうしや)の内陣(ないちん)に英一蝶(はなふさいつてう)の書(ゑか)ける牛若丸(うしわかまる)と
弁慶(へんけい)か半身(はんしん)の図(つ)を掲(かけ)たり
《割書:五元集 牛島(うししま)みめくりの神前(しんせん)にて雨乞(あまこひ)する| ものにかはりて》
夕立や田をみめくりの神ならは 《割書:宝晋斎| 其角》
《割書:社僧(しやそう)云 元禄(けんろく)六年の夏(なつ)大(おほい)に旱魃(ひてり)すしかるに同し六月の二十八日 村民(そんみん)あつまりて神前(しんせん)にむかひ請雨(あまこひ)の|祈願(きくはん)す其日 其角(きかく)も当社(たうしや)に参詣(さんけい)せしに伴(ともな)ひし人の中に白雲(はくうん)といへるありて其角(きかく)に請雨(あまこひ)の発句(ほつく)をすへき》
《割書:よしすゝめけれは農民(のうみん)にかはりて一句を連(つら)ねて当社の神前(しんせん)にたてまつりしに感応(かむをう)やありけんその日 膏雨(かうう)|たちまちに注(そゝ)きけるとなり其 草(さう)は》
《割書:今も当社(たうしや)に伝(つた)へてあり| 》
牛御前王子権現(うしのこせんわうしこんけん)社 同所 北(きた)の方(かた)にあり別当(へつたう)は最勝寺(さいしようし)と号(かう)す牛島(うししま)の
総鎮守(そうちんしゆ)にして祭礼(さいれい)は隔年(かくねん)九月十三日 北本所石原新町(きたほんしよいしはらしんまち)の旅所(たひしよ)へ神(しん)
幸(かう)ありて同十五日に帰輿(きよ)す祭神(さいしん)素盞烏尊(そさのをのみこと) 《割書:牛御前(うしのこせん)|と称(しよう)す》 清和天皇(せいわてんわう)第七
【挿し絵】
大川橋(おほかははし)
吾妻橋(あつまはし)とも
名(な)つく
富士は
つへ
まつ
紫
の
筑波
山
大坂
淡々
夜下墨水
金竜山畔江月浮
江揺月湧金竜流
扁舟不住天如水
両岸秋風下二州
南郭
【図中の地名等】
隅田川両岸
あきは
請地
小梅
中の郷
弘福寺
三囲
大川橋
浅草川
梅若
隅田川
つくは山
神明
堀
真土山
花川戸
六地蔵河岸
【挿し絵】
三囲稲荷(みめくりいなり)社
元禄(けんろく)の頃(ころ)当社(たうしや)境内(けいたい)に
一老嫗(ひとりのうは)あり参詣(さんけい)の徒(ともから)
神供(しく)をさゝくる時(とき)この
老嫗(うは)田面(たのも)にむかひ柏掌(てをうて)は
一つの狐(きつね)いつくともなく来(きた)り
これを食(くら)ふ老嫗(うは)世に
あらすなりしより後(のち)
狐もまた出(いて)すおなり
次(つき)に記(しる)せし其角(きかく)か
句(く)は此事(このこと)を
いへる
なり
五元集
早稲酒や
きつね
よひ出す
姥か
もと
其角
【図中地名等】
隅田川東岸
御供所
本社
かくら所
すみた川
【挿し絵】
牛御前宮(うしのこせんくう)
長命寺(ちやうめいし)
五元集
牛御前
是やみな
雨を
聞く人
下
すゝ
み
其角
【図中】
隅田川東岸
あきは
須崎
弘福寺
葛西太郎
隅田河
長命寺
尺迦堂
奈木
芭蕉庵
こんせい神
地蔵
本社
延寿椎
【挿し絵】
俳諧師(はいかいし)水国(すいこく)か庵(いほり)の
旧跡(きうせき)は長命字(ちやうめいし)の
境内(けいたい)竹薮(たけやふ)の中に
あり今其あとに
芭蕉翁(はせうをう)の句碑(くひ)を
建(たて)たり
いささらは
雪見に
ころふ
所
ま
て
はせを
【図中】
隅田川東岸
寺崎
【本文】
皇子(わうし) 《割書:王子権現(わうしこんけん)|と称(しよう)す》 共(とも)に二座なり相伝(あひつた)清和天皇(せいわてんわう)の御宇(きよう)貞観(ちやうくわん)二年庚辰秋
九月 慈覚大師(しかくたいし)東国弘法(とうこくくほふ)の頃(ころ)素盞烏尊(そさのをのみこと)位冠(ゐくわん)の老翁(らうをう)と化現(けけん)し此(この)
地(ところ)に跡を垂(たれ)永(なか)く国家(こくか)を守護(しゆこ)せんと告(つけ)給ふ仍(よつて)大師(たいし)一社に奉(ほう)し
上足(しやうそく)の良本阿闍梨(りやうほんあしやり)を留(とゝめ)て是(これ)を守(まも)らしむ 《割書:当社(たうしや)の本地仏(ほんちふつ)大日如来(たいにちによらい)|の像(さう)は良本師(りやうほんし)彫刻(てうこく)と云》 又五十七代
陽成院(やうせいゐん)の御宇(きよう)清和帝(せいわてい)第七の皇子(わうし)当国(たうこく)に遷(うつ)されさせたまひ天慶(てんけい)
元年丁酉九月十五日 此地(このところ)に於(をひ)て薨(こう)し給ふ依(よつて)開山(かいさん)良本阿闍梨(りやうほんあしやり)こゝに
葬(はうふ)り奉(たてまつ)り牛御前(うしのこせん)の相殿(あひてん)に合祭(かつさい)なし奉(たてまつ)るといへり 《割書:其後(そのゝち)霊告(れいこう)ありて云く|素盞烏尊(そさのをのみこと)第(たい)二の御子(みこ)》
《割書:にて仮(かり)に清和帝(せいわてい)の皇子(わうし)と|生(しやう)を替させ給ふと云々》
《割書:或人(あるひと)云当社を牛御前(うしのこせん)と称(しよう)しまいらするはこの地(ち)いにしへ牛島(うししま)の出崎(てさき)にてありしゆへ牛島の出崎(てさき)といふ|へきを略(りやく)して牛御崎(うしのみさき)と唱(とな)へたりしならんを後世(こうせい)誤(あやまつ)りて崎(さき)を前(さき)に書(かき)あらためまたそれを御前(こせん)と伝称(てんしよう)せし》
《割書:にやと云り|》
《割書:按に摂洲(せつしう)輪田御崎(わたみさき)筑前(ちくせん)鐘御崎(かねのみさき)其余 相州(さうしう)の三崎(みさき)大江戸(えと)の月岬(つきのみさき)等(とう)すへて海(うみ)に臨(のぞ)める地(ち)なり|今当社の辺(あたり)を須崎村(すさきむら)と名つくるもむかし海辺(かいへん)の出洲(てす)にして其頃(そのころ)は文字も洲崎(すさき)に作(つく)りたりしと》
《割書:おほしくいにしへ此(この)あたり蒼海(さうかい)に浜(ひん)しやゝ年(とし)を歴(へ)て陸地(くかち)となりし事(こと)は次(つき)の寺島(てらしま)蓮華寺(れんけし)の条下(てうか)に|つまひらかなり其 条下(てうか)をあはせ考(かんか)ふる時(とき)は牛(うし)の御崎(みさき)とする説(せつ)も據(よりところ)あるに似(に)たりしかる時(とき)は御崎(みさき)の》
《割書:仮名(かな)の美(み)を御(こ)とし崎(さき)の文字を前(さき)に書(かき)あらため再(ふたゝ)ひサキの訓(くん)を音(おむ)に転(てん)してセムとは呼(よひ)しならん|されと神号(しんかう)に御前(こせん)と称(しよう)するもの又 人(ひと)のうへにも用(もち)ひたりし事(こと)往々(わう〳〵)其例(そのれい)ありこと〳〵く挙(あく)るにいとま》
《割書:あらす故(ゆへ)にこれを略(りやく)す|》
法華経千部供養碑(ほけきやうせんふくやうのひ) 《割書:今 内陣(ないちん)に収(おさめ)てあり長(なかさ)三尺三寸はかり濶は壱尺六寸あまり厚(あつ)さ|二寸 程(ほと)あり》
碑陰銘曰
奉造立釈迦像一躯
貞観十七丁未天三月日
法華千部 明王院
《割書:この碑(いしふみ)は往(いに)し年(とし)当社(たうしや)境内(けいたい)の土中(とちゆう)より窟得(うかちえ)たりとて今 本殿(ほんてん)の中(うち)に収(おさ)む青石(あをいし)にして其 質(しつ)いたつて|堅(かた)し上下 闕損(かけそん)して全(まつた)からす碑面(ひめん)に立像(りふさう)の釈迦如来(しやかによらい)の尊容(そんよう)を刻(こく)し碑陰(ひいん)は直槐(のつら)にして》
《割書:数字(すし)を鐫(せん)すといへとも法華(ほつけ)貞観(ちやうくわん)等(とう)の文字(もんし)は剥欠(はくけつ)して鮮明(せんみやう)ならす|》
千葉五郎胤道籏(ちはこらうためみちのはた) 一流 《割書:別当 最勝寺(さいしようし)に……|》
【挿し絵】
国分庄司
千葉五郎平朝臣胤道
長三尺一寸三分
幅一尺九分
房幅九分
同(おなしく)添状(そへしやう)壱通 《割書:其 文(ふん)に……|》
梶原景季書(かちはらかけすへのしよ) 《割書:石橋山合戦(いしはしやまかつせん)につき……|》
小田原北条家神領寄付状(おたはらほうてうけしんりやうきふのしやう) 壱通 《割書:其 文(ふん)に……|》
宝寿山長命寺(はうしゆさんちやうめいし) 遍照院(へんせうゐん)と号(かう)す天台宗(てんたいしう)東叡山(とうえいさん)に属(そく)せり本尊(ほんそん)は
等身(とうしん)の釈迦如来(しやかによらい)脇士(けふし)は文殊(もんしゆ)普賢(ふけん)般若十六善神(はんにやしふろくせんしん)等(とう)の像(さう)を安(あん)す牛(うし)
島弁財天(しまへんさいてん) 《割書:同し堂内(たうない)に安(あん)す|伝教(てんけう)大師の作(さく)なり》 長命水(ちやうめいすい) 《割書:同し堂(たう)の後(うしろ)の方(かた)に|あり一に般若水(はんにやすい)と云》 延寿椎(ゑんしゆのしゐ) 《割書:堂前(たうせん)にあり寺(てら)の号(な)に|因(より)て名(な)つくるとなり》
梛樹(なぎのき) 《割書:堂(たう)の左(ひたり)の方 垣(かき)そひにあり元禄(けんろく)五年壬申江戸(えと)御菓子司(おんくはしつかさ)大久保主水(おほくほもんと)某(それかし)相州(さうしう)鎌倉(かまくら)にあそひ扇(あふき)か谷(やつ)の善光寺(せんくわうし)|にして此(この)若木(わかき)の纔(わつか)に三寸斗に生出(おひいて)たりしを得(え)て当寺(たうし)にうつし植(うへ)たるよし樹下(しゆか)の碑文(ひふん)に見(み)えたり今(いま)は丈(たけ)二丈 計有(はかりあり)》
自在庵旧址(しさいあんのきうし) 《割書:堂(たう)の右竹薮(ちくそう)の中(うち)にあり俳諧師(はいかいし)水国(すいこく)こゝに庵室(あんしつ)をむすひて住(すみ)たりといへり今(いま)|其地(そのち)に芭蕉翁(はせうをう)の句(く)を彫(ゑり)たる碑(いしふみ)を建(たて)てあり》
いささらは雪見にころふところまて はせを
当寺(たうし)昔(むかし)はいさゝかの庵室(あんしつ)なりしか寛永(くはんえい)年間 大樹(たいしゆ)遊猟(いうれふ)の砌(みきり)少(すこし)く御不予(おんふよ)
にあらせられしかは此(この)寺内(しない)に休(やすら)はせたまひ庭前(ていせん)の井(ゐ)の水(みつ)をもて御薬(おんくすり)を服(ふく)し
給ひしに須臾(しゆゆ)にして常(つね)にならせ給ひしより此井(このゐ)に長命水(ちやうめいすい)の号(な)を賜(たま)はり
寺(てら)の号(な)をも改(あらた)むへき旨(むね) 台命(たいめい)あり爾来(しかりしより)長命寺(ちやうめいし)と称(しよう)す 《割書:昔(むかし)は常泉寺(しやうせんし)|と云しなり》
殊更(ことさら)当寺(たうし)は雪(ゆき)の名所(なところ)にして前(まへ)に隅田河(すみたかは)の流(なかれ)をうけて風色(ふうしよく)たらすといふことなし
牛頭山弘福禅寺(きうとうさんこうふくせんし) 牛御前宮(うしのこせんくう)の東(ひかし)に隣(とな)る此辺(このあたり)を須崎(すさき)といふ 《割書:旧(もと)洲崎(すさき)|に作(つく)る》 黄檗派(わうはくは)
の禅室(せんしつ)にして落陽(らくやう)万福寺(まんふくし)を模(うつ)す本尊(ほんそん)は唐物(たうふつ)の釈迦如来(しやかによらい)左右は迦葉(かせふ)
阿難(あなん)なり開山(かいさん)鉄牛和尚(てつきうおしやう)延宝(えむはう)紀元(きけん)癸丑 創造(さうさう)す毎歳七月十五日 大施餓鬼修行(たいせかきしゆきやう)有(あり)
【挿し絵】
大
雄
殿
仏殿(ふつてん) 《割書:額(かく)は|二重(にちゆう)》
《割書:家根(やね)に掲(かく)る|隠元(いんけん)の筆(ふて)》
【挿し絵】
大威徳
《割書:本尊(ほんそん)の上(うへ)に|掲(かく)る同筆》
【挿し絵】
覚天日月天?晦祖灯■■■
■地雲?雷普?露林木尽華栄?
聯(れん)《割書:本尊(ほんそん)の|左右の》
《割書:柱(はしら)に掲(かく)る|木庵(もくあん)の》
《割書: 筆なり|》
【挿し絵】
■■■……
■■■……
聯(れん)《割書:同し|左右の》
《割書:柱(はしら)に並(なら)へ|掲(かく)る高泉(かうせん)》
《割書:の筆(ふて)なり|》
【挿し絵】
見相傾身敢保未■法相?
拝?■布地自然■界黄金
聯(れん) 《割書:同し|前(まへ)の》
《割書:柱(はしら)に掲(かく)る|鉄牛(てつきう)の》
《割書: 筆(ふて)也|》
木犀 《割書:仏殿(ふつてん)|の前(まへ)》
《割書:左右に分(わかち)| 殖(うへ)たり》
刹竿旗(せつかんき) 《割書:同し殿(てん)|前(せん)の左右》
《割書:にたつる|》
【挿し絵】
選
仏
場
座禅堂(させんたう) 《割書:仏殿(ふつてん)|の左》
《割書:に並(なら)ふ軒(のき)に掲(かく)る所|の額(かく)は木庵(もくあん)の》
《割書: 筆なり|》
【挿し絵】
大冶錬成未堪入選
虚空粉碎方許声■
聯(れん)《割書:同し左|右の柱(はしら)》
《割書:に掲(かく)る|鉄牛(てつきう)筆》
【挿し絵】
慈
親
堂
牌堂(はいたう)《割書:座禅堂(させんたう)に並(なら)ふ|地蔵尊(ちさうそん)そ安(あん)す》
開山堂(かいさんたう) 《割書:開山(かいさん)鉄牛和尚(てつきうおしやう)の肖像(せうさう)を安(あん)す扁(へん)して慈観(しくはん)といふ|此和尚の伝(てん)はこゝに略(りやく)す》
【挿し絵】
一株老桂長垂蔭
万斛天香遠襲人
聯(れん) 《割書:同し|左右の》
《割書:柱(はしら)に掲(かく)る|鉄牛(てつきう)筆》
食堂(しきたう) 《割書:仏殿(ふつてん)の|右に》
《割書:並(なら)ふ額(かく)は鉄牛(てつきう)の|筆なり》
【挿し絵】
聖
相
《割書:此堂(このたう)の軒(のき)|下に木魚(もくきよ)》
《割書:鐘版(しやうはん)等を|かくる》
【挿し絵】
海積山堆摩詰家風真広大
日来月往衲僧法■永殷充
聯(れん) 《割書:同し|堂(たう)に》
《割書:掲(かく)る南岳(なんかく)|悦山(ゑつさん)の筆なり》
【挿し絵】
浴
室
浴室(よくしつ)
《割書:額(かく)は鉄(てつ)|牛(きう)の筆》
【挿し絵】
弘?
福
寺
天王殿(てんわうてん) 《割書:内に布袋(ほてい)|帝釈(たいしやく)四天(してん)》
《割書:王(わう)の像(さう)を安(あん)す額(かく)|は二重家根(にちゆうやね)に掲(かく)る木庵(もくあん)の》
《割書: 筆|》
【挿し絵】
道恭玉麟現瑞
林■■鳳■■
聯(れん) 《割書:同し|堂(たう)の》
《割書:柱(はしら)に掲(かく)る|鉄牛(てつきう)の筆》
【挿し絵】
天
王
閣
《割書:同し堂(たう)の二階(にかい)|世(うしろ)の方(かた)に掲(かく)る》
《割書:額(かく)筆者(ひつしや)上に|おなし》
経蔵(きやうさう) 《割書:内に観音の像を|安す堪堂(かんたう)の筆》
《割書:せる聯額(れんかく)ありしか朽(くち)たりと|て今なし》
【挿し絵】
大■■拝仏魔■須真気
高懸宝鐙故■終■■身
《割書:方丈|聯鉄》
《割書:牛筆也|》
【挿し絵】
鐘
楼
鐘楼(しゆろう) 《割書:座禅堂(させんたう)|の前に》
《割書:並(なら)ふ額(かく)は鉄牛(てつきう)|の筆なり》
《割書:此鐘(このかね)の名は高泉(かうせん)|和尚の撰文(せんふん)なり》
《割書:般若心経(はんにやしんきやう)及ひ三陀(さんた)|羅尼(らに)等を細書(さいしよ)す》
鎮守宮(ちんしゆのみや) 《割書:天照(てんせう)春日八幡(かすかはちまん)およひ弁財天(へんさいてん)稲荷(いなり)|塩竈明神(しほかまみやうしん)等(とう)の諸神(しよしん)を崇(あか)む》
天桂石(てんけいせき) 《割書:経蔵(きやうさう)の前の石の|手水鉢(てうつはち)なり》
【挿し絵】
弘(こう)
福(ふく)
禅(せん)
寺(し)
木犀や
六尺
四人
唐
め
か
す
其角
元禄二年仲秋
初三隅田川
紀行
牛頭山にまいり
仏前に拝して
斎堂にまいり
けれは几の瓶に
朝貌をいけて
眼前のあはれに
斎堂に
あさかほ
いけて
あはれ
かな
杉風
遊牛頭寺 南郭
門外長堤墨水流
江東宝樹倚牛頭
金竜開閣誰家宴
玉女陵波何処遊
蔵壑?舟揺潮岸繋
到来心地応空濶
那更風煙起客愁
【図中】
浴室
食堂
観音
天王殿
天桂石
漢門
方丈
大雄殿
牌堂
鐘楼
座禅堂
【挿し絵】
庵崎(いほさき
俗間(そくかん)請地(うけち)
秋葉権現(あきはこんけん)の
辺(ほとり)をしか
唱(とな)ふれとも
定(さたか)なら
す
須崎(すさき)より
請地(うけち)秋葉(あきは)の
近傍(あたり)まての間(あひた)
酒肉店(れうりや)多(おほ)く
各(おの〳〵)籞(いけす)をかまへ
鯉魚(こい)を畜(かふ)
酒客(しゆかく)おほく
こゝに宴飲(えむいむ)す
中にも葛西(かさい)
太郎といへるは
葛西(かさい)三郎
清重(きよしけ)の遠裔(ゑむえい)
なりと云伝ふれ
とも是非(せひ)をしらす
むさしやといふは
昔(むかし)麦飯(むきめし)はかりを
売(うり)たりしかは麦(むき)
計(はかり)と云こゝろにて
麦斗(はくと)と唱(とな)へたり
しも今はむさしやとのみ
よひて麦斗(はくと)と号(かう)せしを
しる人まれに
なりぬ
【牛頭山弘福寺の続き】
牛頭山弘福禅寺大鐘銘並序
瑞聖鉄牛和尚住弘福之明年修葺寺宇将大完井
伊氏伯耆守直武公与玉心院太夫人寿林元栄大
師発心施金為造巨鐘以利幽顕寓書徴余銘為之
銘曰
牛首之阜兮有大法将整■淋宮兮曷殊天匠幸値
賢守兮母子全心乃召鳬氏兮乃簡赤金範斯巨器
兮永鎮禅林暁昏考撃兮以利幽顕曰福曰寿兮夫
豈浅鮮用祈 世主兮万歳千春億兆楽業兮四海
帰仁螽斯衍慶兮子孫振振以空為口兮密婁為毫
擬書厥勣兮莫碑?一毛
貞亨五年歳在著雍執徐林鐘上澣穀且
支那国伝臨済?正宗世四世高泉潡敬撰
【挿し絵】
牛
頭
山
漢門(かんもん) 《割書:総門(そうもん)をいふ|額(かく)は同(おな)し》
《割書:軒(のき)にかけたり開山(かいさん)|鉄牛(てつきう)の筆(ふて)なり》
【挿し絵】
福地弘安?竜象参
玄門高■聖■■
聯(れん) 《割書:同し|左右》
《割書:の柱(はしら)に掲(かく)る|筆者(ひつしや)上に》
《割書:同し| 》
秋葉大権現(あきはたいこんけん)社 同所三丁あまり東(ひかし)の方(かた)請地(うけち)村にあり 《割書:亀戸村(かめとむら)吾嬬権現(あつまこんけん)の社記(しやき)に|請地(うけち)上古(いにしへ)は浮地(うきち)と称(しよう)し》
《割書:たりと|あり》 遠州(えんしう)秋葉権現(あきはこんけん)を勧請(くはんしやう)し稲荷(いなり)の相殿(あいてん)とす 《割書:千代世(ちよせ)|稲荷(いなり)と云》 当社(たうしや)の権興(はしめ)
しるへからす或(あるひ)は云 正応(しやうをう)年間の勧請(くはんしやう)なりとも別当(へつたう)は三宝寺(さんはうし)末寺(まつし)にて
千葉山万願寺(ちはさんまんくはんし)と号(かう)す神泉(しんせん)の松(まつ)と称(しよう)するは社前(しやせん)にありて松(まつ)の控(うろ)より
清泉(せいせん)漏出(ゆしゆつ)するをいふ諸(もろ〳〵)の病(やまひ)に験(しるし)ありといへり 《割書:祭礼(さいれい)は毎年(まいねん)十一月|廿八日に執行(しゆきやう)あり》
境内(けいたい)林泉(りんせん)幽邃(いうすい)にして四時遊観(しいしいうくはん)の地なり門前(もんせん)酒肆(さかや)食店(りようりや)多(おほ)く各(おの〳〵)
生洲(いけす)を構(かま)へて鯉魚(こい)を畜(か)ふ
清竜山蓮華寺(せいりうさんれんけし) 寺島村(てらしまむら)にあり 《割書:寺記(しき)に云く昔(むかし)此地(このち)は海原(うなはら)なり後世(こうせい)漸(やうやく)干潟(ひかた)と|なりし頃(ころ)当寺(たうし)を創建(さうこん)ありし故(ゆへ)に寺島(てらしま)の称(しよう)ありと》
《割書:いへり小田原北条家(おたはらほうてうけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)に行方(なめかた)|与次郎 葛西(かさい)寺島(てらしま)の地(ち)を領(りやう)すとあり》 当寺(たうし)は真言宗(しんこんしう)にして醍醐(たいこ)の三宝院(さんはうゐん)に属(そく)す
本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)の像(さう)は恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)といふ
太子堂(たいしたう)本堂(ほんたう)の右にあり本尊(ほんそん)聖徳太子(しやうとくたいし)の像(さう)は十六歳の真影(しんえい)にして
太子(たいし)自(みつから)彫造(てうさう)ありしと云北条経時(ほうてうつねとき)の念持仏(ねんちふつ)にて往古(そのかみ)は相州(さうしう)鎌倉(かまくら)佐々(さゝ)
目谷(めかやつ)にありしを弘安(こうあん)三年の秋(あき)北条頼助(ようてうよりすけ)寺院(しゐん)ならひに本尊(ほんそん)共(とも)に
此地へ引移(ひきうつ)し同年八月二日入仏供養(にうふつくやう)を営(いとなみ)し故(ゆへ)今(いま)に至(いた)る此日(このひ)を
以(もつ)て縁日(ゑむにち)とす又 (これ)より先(さき)寛元(くはんけん)二年の夏(なつ)国中(こくちゆう)大(おほひ)に疫疾(えきしつ)流行(りうかう)し
人民(しんみん)死(し)する者(もの)少(すくな)からす経時(つねとき)頻(しきり)に是(これ)を歎(なけ)き本尊(ほんそん)に告(つけ)て諸人(しよにん)の病(ひやう)
【挿し絵】
請地(うけち)
秋葉権現(あきはこんけん)宮
千代世稲荷(ちよせいなり)社
社頭(しやとう)に青松(せいしよう)
丹楓(たんふう)おほし
晩秋(はんしう)の頃(ころ)
池水(ちすい)に
映(えい)して
錦(にしき)を
あらふか
ことし
奇観(きくはん)
たり
【図中】
開山堂
茶主
本社
結界堂
さる
総門
裏門
別当
【清竜山蓮華寺の続き】
苦(く)を消除(せうしよ)せんとて懇(ねころ)に祈願(きくはん)す或夜(あるよ)本尊(ほんそん)経時(つねとき)に霊示(れいし)ありて秘符(ひふ)
を賜(たま)ふ即(すなはち)此(この)秘符(ひふ)によりて其頃(そのころ)病(やまひ)を退(しりそ)け命(いのち)を全(まった)ふする者(もの)すくな
すくなからすとなり 《割書:今に至(いた)り当寺(たうし)より|件(くたん)の秘符(ひふ)を出(いた)せり》
相伝(あひつた)ふ寛元(くはんけん)四年丙午三月下旬北条経時(ほうてうつねとき)疾(しつ)に臨(のそ)む其時 舎弟 時頼(ときより)
を側(かたはら)へ招(まね)き示(しめし)て云(いは)く我(わか)疾(しつ)難治(なんち)なり死後(しこ)に至(いた)らは一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)を創(さう) 建(こん)し年頃(としころ)念(ねんす)る処(ところ)の聖徳太子(しやうとくたいし)の像(さう)を安置(あんち)すへしといひ終て同四月
朔日 享(きやう)年三十八歳にして逝去(せいきよ)あり 《割書:東鑑(あつまかゝみ)に云 寛元(くはんけん)四年丙午閏四月一日今日 入道(にうたう)正五位下|行(かう)武蔵守(むさしのかみ)平朝臣経時(たいらのあそんつねとき)卒(そつ)す法名は安楽(あんらく)年三十三》
《割書:とあり証(しよう)|とすへし》 依(よつて)時頼(ときより)遺命(ゆいめい)を奉(ほう)して鎌倉(かまくら)佐介谷(さすけかやつ)に一宇(いちう)を闢(ひら)き蓮華寺(れんけし)
と号(なつ)く 《割書:経時(つねとき)の法号(ほふかう)を蓮華寺殿(れんけしてん)前(さきの)|武州(ふしう)安楽(あんらく)大禅定門(たいせんしやうもん)と号(かう)す》 即(すなはち)弁法印(へんのほふいん)審範(しんはん)を以て開山(かいさん)とす 《割書:寺記(しき)に審範(しんはん)は|頼朝(よりとも)の外(はゝかたの)伯父(をち)》
《割書:深井法眼(ふかゐほうけん)範智(はんち)か孫(まこ)なりと云されと鎌倉(かまくら)|大日記(おほにつき)には開山(かいさん)良忠(りやうちやう)とありて一(いつ)ならす猶次に詳(つまひらか)也》 又 其後(そののち)経時(つねとき)の子 頼助(よりすけ)此(この)寺島(てらしま)を領(りやう)せしか
出離(しゆつり)の志(こゝろさし)頻(しきり)にして忽(たちまち)に剃髪(ていはつ)し弘安(こうあん)三年の秋(あき)鎌倉(かまくら)の蓮華寺(れんけし)をこの
寺島(てらしま)に移(うつ)し自(みつから)開山(かいさん)たり 《割書:佐々目大僧正(さゝめたいそうしやう)頼助(らいしよ)と号(かう)せり按(あんする)に先(さき)に審範(しんはん)を開山(かいさん)とすとあるは|鎌倉(かまくら)にありての事をいふなるへし此 寺島(てらしま)に至(いた)りては頼助(らいしよ)開山(かいさん)》
《割書:たりしなるへし諸家系図(しよけけいつ)に経時(つねとき)の子に顕助(けんしよ)といふ号(な)を載(のせ)て傍(そは)に佐々木(さゝき)僧(そう)と住(ちゆう)せり疑(うたか)ふらくは佐々目(さゝめ)|といふへきを誤(あやま)れるなるへしまた頼助(らいしよ)は顕助(けんしよ)のことをいふならん歟(か)なをかんかふへし》
【挿し絵】
寺島(てらしま)
太子堂(たいしたう)
蓮華寺(れんけし)
【図中】
太子
本堂
【蓮華寺の続き】
元亨(けんかう)三年 北条家(ほうてうけ)滅亡(めつはう)の後も……
白髭明神(しらひけみやうしん)社 隅田河堤(すみたかはつゝみ)の下(もと)にあり祭神(さいしん)は猿田彦命(さるたひこのみこと)なり祭礼(さいれい)は九月
十五日に執行(しつきやう)せり別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして西蔵院(さいさうゐん)と号(なつ)く相伝(あひつた)ふ天暦(てんりやく)
五年 辛亥(かのとゐ)慈恵大師(しゑたいし)関東下向(くはんとうけかう)の頃(ころ)霊示(れいし)によりて近江国(あふみのくに)志賀郡(しかのこほり)
打下(うちおろし)より此地(このち)に勧請(くはんじやう)し給ふとなり天正(てんしやう)九年に至(いた)り神領(しんりやう)を付(ふ)し給ふ
隅田河(すみたかは) 《割書:万葉集(まんえふしふ)角太(かくたい)に作(つく)り旧本伊勢物語(きうほんいせものかたり)墨田(すみた)に作(つく)る八雲御抄(やくもみせう)東鑑(あつまかゝみ)等(なと)に隅田(くうてん)とす澄月歌枕(ちようけつうたまくら)|夫木抄(ふほくせう)古今集(こきんしふ)井蛙抄(せいあせう)等(とう)に当国(たうこく)およひ下総(しもふさ)の国境(くにさかい)とす今は武蔵国に属(そく)せり或説(あるせつ)に》
《割書:むかしはすた河とおひけると又さらしなの日記にあすた河とそ|すみた河 諸国(しよこく)に同名多し其事は次にいたせり》 源(みなもと)は信州(しんしう)甲州(かうしう)及(およ)ひ上野(かみつけ)等(とう)の
国々(くに〳〵)の山谷(さんこく)より発(はつ)し武州(ふしう)秩父郡(ちゝふこほり)の……
【挿し絵】
白(しら)
髭(ひけ)
明(みやう)
神(しん)
社(やしろ)
【図中】
隅田川東岸
浅草
大川はし
【隅田河(隅田川)の続き、まつわる詩歌】
梅花無尽蔵……
前太平記(せんたいへいき)云(いはく)前(さきの)上総介(かつさのすけ)平忠常(たひらのたゝつね)長元(ちやうけん)元年の春(はる)より下総国(しもふさのくに)にありて
謀叛(むほん)を企(くはた)て竊(ひそか)に便宜(ひんき)の兵(へい)を招(まね)きけれは日本八年京都(きやうと)より忠常(たゝつね)
追討(ついたう)の大将(たいせう)として左衛門佐(さゑもんのすけ)平直方(たいらのなをかた)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)中原成道(なかはらのなりみち)等(とう)朝撰(てうせん)に
応(をう)し二万三千 余騎(よき)にて発向(はつかう)す忠常(たゝつね)其身(そのみ)は千葉(ちは)の城(しろ)に楯篭(たてこもり)舎弟(しやてい)
陸奥権介(むつのこんのすけ)忠頼(たゝより)を大将(たいしやう)とし其勢(そのせい)二万 余騎(よき)を卒(そつ)してすみたかはの
南(みなみ)に陣(ちん)を取(とる)同十五日 官軍(くはんくん)成道(なりみち)の舎弟(しやてい)伊勢介(いせのすけ)成俊(なりとし)直方(なをかた)の子(し)
息(そくの)阿多見(あたみ)四郎 聖範(きよのり)共(とも)に勢(せい)を合(あは)せて先登(さきかけ)し大(おほひ)に戦(たゝか)ふ故(ゆへ)に先陣(せんちん)の
忠頼(たゝより)敗走(はいそう)すされと忠常(たゝつね)か残兵(さんへい)一万五千 余騎(よき)に駆立(かけたて)られ官軍(くはんくん)の
後陣(こちん)なりける直方(なをかた)も成道(なりみち)の勢(せい)の落来(おちきた)るに推立(をしたて)られ心(こゝろ)ならす引(ひき)
返(かへ)し敗軍(はいくん)の兵卒(へいそつ)を集(あつめ)んとて隅田河原(すみたかはら)に陣(ちん)を取(とる)と云云
東鑑曰 治承四年庚子十月二日辛己武衛相乗
于常胤広常等之舟■■太井隅田両河精兵及三
万余騎赴武蔵国豊島権守清光葛西三郎清重等
最前参上又足立右馬允遠元兼日依受命為御迎
参向云云
北条九代記(ほうてうくたいき)に文治(ふんち)五年七月十九日 頼朝卿(よりともきやう)奥州(あうしう)泰衡(やすひら)追伐(ついはつ)の首途(かといて)し
給ふと云 条下(てうか)に千葉介常胤(ちはのすけつねたね)八田(やた)右衛門尉 知家(ともいへ)は東海道(とうかいたう)の大将(たいしやう)と
して常陸(ひたち)下総(しもふさ)両国(りやうこく)の㔟(せい)を卒(そつ)して宇太(うた)行方(なめかた)を経(へ)て岩崎(いわさき)より隅田(すみた)
川(かは)の湊(みなと)にて渡(わた)り逢(あふ)下略
須田河原(すたのかはら) 隅田河原(すみたかはら)におなし
夫木集
はる〳〵とすたの河原を朝行はかすめるほとや渡りなるらん
隅田河堤(すみたかはのつゝみ) 深堀橋(ふかほりはし)にはしまり態谷(くまかや)に至(いた)る行程(みちのり)凡(およそ)拾六里 是(これ)を熊谷堤(くまかやつゝみ)と
云 天正(てんしやう)二年 小田原北条氏(おたはらほうてううち)これを築(きつき)たりといへり
官府(くわんふ)の命(めい)ありて三囲稲荷(みめくりいなり)の辺(あたり)より木母寺(もくほし)の際迄(きわまて)堤(つゝみ)の左右(さいう)へ桃(もも)桜(さくら)柳(やなき)の
三樹(さんしゆ)を殖(うへ)させられけれは二月(きさらき)の末(すゑ)より弥生(やよひ)の末(すゑ)まて紅紫翠白(こうしすいはく)枝(えた)を
交(まし)へさなから錦繍(きんしう)を晒(さら)すか如(こと)く幽艶(いうえん)賞(しやう)するに堪(たへ)たりまた董菜(すみれ)砕(げゝ)
米菜(はな)盛(さか)りの頃(ころ)は地上(ちしやう)に花氈(くはせん)を敷(しく)か如(こと)く一時(いちし)の壮観(さうくわん)たり
隅田宿(すみたのしゆく) 何(いつ)れの地(ち)をいふにや今(いま)しるへからす往古(そのかみ)の奥州街道(あうしうかいたう)の駅舎(ゑきしや)
なるへし東鑑(あつまかゝみ)に治承(ちしよう)四年庚子十月二日 頼朝卿(よりともきやう)太井(ふとゐ)隅田(すみた)の両河(りやうか)を渡(わた)ら
るゝといふ条下(てうか)に今日 武衛(ふえい)の御乳母(おんめのと)故八田武者(こやたのむしや)宗綱(むねつな)か息女(そくちよ) 《割書:小山(をやま)下野(しもつけの)大掾(たいしよう)|政光(まさみつ)か妻(つま)なり》
【挿し絵】
隅田川渡(すみたかはのわたし)
隅田川東岸
初花も
けふこそ
みつれ
めつら
しき
すみた
河原の
春を
とひ
きて
冷泉
為久卿
筑波根の
峯ふき
おろす
春風に
すみた
河原
の
花そ
ほこ
ろふ
冷泉
為村卿
【図中】
橋場への
渡口
【挿し絵】
隅田川堤(すみたかはつゝみ)
春景(しゆんけい)
はる〳〵と
霞(かすみ)わたれる
隅田川(すみたかは)の堤(つゝみ)をうちみれは
青柳(あをやき)の放髪(ふりわけかみ)も緑(みとり)の眉(まゆ)
にほひやかにかきたれ莟(つほめ)る
花(はな)のほころひそめて
ゑまひ
つくらふなんと
立(たち)ましりたる夕はえいと
えむなりわきて咲みちぬる
ひとえたはたか挿頭(かさし)にや
手折らんとさすかに心の
とまる木の本
なりけらし
《割書:寒河(さむかは)の尼(あま)|と号(なつ)く》 鐘愛(しやうあい)の末子(はつし)を相具(あいく)して隅田宿(すみたのしゆく)に参向(さんかう)す則(すなはち)御前(こせん)に召(めし)て往時(わうし)
を談(かた)らしめ給ふと云々
按(あんする)に今 木母寺(もくほし)より東北(ひかしきた)の方(かた)にある所(ところ)の川流(かりう)をさして土人(としん)古隅田川(ふるすみたかは)と唱(とな)ふ隅田宿(すみたのしゆく)もまたこの
辺(あたり)ならん歟(か)
都鳥(みやことり) 《割書:旧本伊勢物語(きうほんいせものかたり)に京鳥 藻塩草(もしほくさ)城鳥に作(つく)る真淵翁(まふちをう)云(いは)く古本(こほん)に■【イ+予+鳥】とあるは草書(さうしよ)より|誤(あやま)れるならんと八雲御抄(やくもこせう)藻塩草(もしほくさ)等(とう)に都鳥(みやことり)隅田河(すみたかは)ならても京(みやこ)近(ちか)き河(かは)にもありとしるされ》
《割書:たりされは鳴神潟(なるかみかた)越(こし)の海(うみ)志賀浜(しかのはま)飾磨(しかま)をよひ難波(なには)堀江(ほりえ)高津宮(たかつのみや)輪田御崎(わたのみさき)等(とう)によみあはせはへり又 和泉(いつみ)|式部(しきふ)か家集(いへのしふ)にも和泉(いつみ)に下(くた)りはへりけるに都鳥(みやことり)のほのかに鳴(なき)けれはとあり又 古今著聞集(こきんちよもんしう)に院(ゐん)の御隨身(みすゐしん)秦(はたの)》
【この先も一文字下げ、または二文字下げ、三文字下げの割書で続きますが、何がいけないのかうまく字下げ出来なくなったので、割り書きをやめます】
頼方(よりかた)みやことりをある殿上人(てんしやうひと)に参(まいら)せたるを成季(なりすゑ)にあつけられてはへり食物(くひもの)なともしらてよろつの虫(むし)をくはせ
はへるも所(ところ)せくおほえて小田川(をたかは)美作(みまさか)茂平(しけひら)かもとへやりて飼(かは)せはへりしを建長(けんちやう)六年十二月廿日 前(さきの)相国(さうこく)の富小路(とみかこうち)の亭(てい)に
行幸(きやうこう)ありし次(つき)の日(ひ)相国(さうこく)みやことりをめして叡覧(えいらん)に備(そな)へけるときおとゝ女房(にようはう)にかはりて
すみたかはすむとしきゝしみやことりけふは雲井のうへにみるかな
前(さきの)三河守(みかはのかみ)卜部兼直(うらへのかねなを)もおなしく和歌(わか)を上(たてまつ)る
にこりかき御代にあひみるすみた河すみける鳥のなをたつねつゝ
隅田河(すみたかは)のみやことりを賞愛(しやうあいひ)せし事 古今(ここん)相(あひ)同(おな)し又丙辰記行(へいしんきかう)に都鳥(みやことり)は角田河(すみたかは)のものなれは好事(かうす)の人とりて家(いへ)に
飼(かひ)てはへるをみるにまことに觜(はし)と足(あし)と赤(あか)き鴫(しき)の大(おほき)さなりこの鳥(とり)蛤(はまくり)を好(この)みてよく食(くひ)けるなりと云々
按(あんする)に都鳥(みやことり)は鴎(かもめ)の一名(いちみやう)にして白鴎(はくおう)なる事(こと)決(けつ)せり羽(はね)の灰色(はいいろ)なるもあれと背(せ)も腹(はら)も白(しろ)きに両羽(りやうう)のつゝきに少(すこ)し
黒(くろ)きもの多(おほ)し或人云 此物(このもの)に大小(たいせう)の二種(にしゆ)ありて大(おほい)なるは鴨(かも)の如(こと)く小(ちいさ)なるは鳩(はと)の如(こと)しと又或人云 関東(くわんとう)の
海浜(かいひん)にありて形(かたち)大なるもの其声(そのこゑ)猫(ねこ)に似(に)たり故(ゆへ)に俗(そく)呼(よ)んて浜猫(はまねこ)といふ則(すなはち)食料(しよくれう)とすこの河(かは)に居(を)るものは
小鴎(せうおう)なり常(つね)は海上(かいしやう)にありて風(かせ)荒(あれ)たる時(とき)は遥(はるか)に波(なみ)の静(しつか)なるを求(もと)め来(きた)りてこゝに泛(たゝよ)ひ遊(あそ)へりとそ
其余(そのよ)所々(しよ〳〵)にあれとも其地(そのち)によりて種々(くさ〳〵)の方言(はうけん)ありて名(な)を異(こと)にせり
伊勢物語 なほゆき〳〵て武蔵国(むさしのくに)としもふさの国(くに)とのなかにいろおほき
なる河(かは)あり夫(それ)をすみた河(かは)といふそのかはのほとりにむれゐておもひ
やれは限(かきり)なくとほくも来(き)にけるかなとわひあへるに渡守(わたしもり)はや舟(ふね)にのれ
日も暮(くれ)ぬといふにのりてわたらんとするにみな人 物(もの)わひしくて
京(みやこ)におもふ人なきにしもあらす然時(さるをり)しも白き鳥(とり)の觜(はし)と足(あし)赤(あかき)
鴫(しき)のおほきさなる水(みつ)のうへにあそひつゝいをゝくふ京(みやこ)には見えぬ鳥
なれはみな人見知らす渡守(わたしもり)に問(とひ)けれは是(これ)なんみやことりといふをきゝて
なにしをはゝいさこととはん都鳥我思ふ人はありやなしやと
とよめりけれは舟(ふね)こそりてなきにけり
真淵翁(まふちをう)に都鳥(みやことり)の事を問(とふ)人ありて云 古今集(こきんしう)には川(かは)の辺(ほとり)にあそひけりとありてことはり明(あきら)けし
伊勢物語(いせものかたり)には水のうへにあそひてといへは足(あし)はみえしやと翁(おきな)こたへていふ此鳥(このとり)は鴎(かもめ)にてむれつゝあそふ故(ゆへ)に
飛立(とひたち)も辺(ほとり)に在(ある)もあるへけれはこの問(とひ)は頑(かたくなし)これはかもめなるをしらせんとてや詞(ことは)を添(そへ)つらん云々
回国雑記 かくて隅田川(すみたかは)のほとりにいたりて《割書:中略| 》猶ゆき〳〵て川上(かはかみ)にいたり
はへりて都鳥(みやことり)尋(たつね)みむと人〳〵さそひけるほとにまかりてよめる
事とはむ鳥たにみえよ隅田河都こいしとおもふ夕に 道興准后
おもふ人なき身なれともすみた河名もむつましき都鳥哉 同
都鳥(みやことり)は所々(しよ〳〵)にあれとも在五中将(さいこちうしやう)の詠(えい)によりて専(もはら)此(この)隅田河(すみたかは)の景物(けいふつ)
とす故(ゆへ)に世〳〵(よよ)の詞人(ししん)吟客(きんかく)是(これ)を賞愛(しやうあい)せり其色(そのいろ)白(しろ)く觜(はし)と足(あし)と赤(あか)く
して形状(かたち)の甚(いと)幽雅(みやひ)たるゆゑにかくは命(めい)せしならん歟
梅柳山木母寺(はいりうさんもくほし) 隅田村(すみたむら)堤(つゝみ)のもとにあり隅田院(すみたゐん)と号(かう)す天台宗(てんたいしう)にして
東叡山(とういえさん)に属(そく)す本尊(ほんそん)は五智如来(こちのによらい)なり中(なか)にも阿弥陀如来(あみたによらい)の像(さう)は聖徳(しやうとく)
太子(たいし)の作(さく)なりと云 伝(つた)ふ貞元(てうけん)年間 忠円阿闍梨(ちうゑむあじやり)当寺(たうし)を草創(さう〳〵)す《割書:天正|十八年》
《割書:台命(たいめい)あり依(よつ)て|梅柳山(はいりうさん)と号(かう)す》昔(むかし)は梅若(はいにやく)寺と呼(よひ)たりしを慶長(けいてう)十二年 近衛関白(このゑくわんはく)信尹公(のふたゝこう)武蔵(むさしの)
国(くに)に下り給ひし時(とき)隅田河(すみたかは)逍遥(せうえう)のゆくてに当寺(たうし)へ立よらせられ寺号(しかう)を改(あらた)
むへきはいかにとありしに寺僧(しそう)応諾(おうたく)す依(よつて)木母寺(もくほし)の号(な)を賜(たま)ひぬ 《割書:其時(そのとき)翰墨(かんほく)|を灑(そゝき)給ひて》
《割書:木母寺(もくほし)と画(くわく)されし真蹟(しんせき)今猶(いまなほ)伝(つた)へて当寺(たうし)第一の什宝(しふほう)とす|事跡合考(しせきかつかう)に云く大虚庵光悦(たいきよあんくわうゑつ)の筆(ふて)の木母寺(もくほし)とある額(かく)もこれありと記せり》 慶安(けいあん)以後(いこ)官府(くわんふ)より
寺料(しれう)若干(そくはく)を付(ふ)せられ朱章(しゆしやう)を賜(たま)ふ又 寛文(くはんふん)の始(はしめ) 大樹(たいしゆ)此地(このち)に
御遊猟(こいうれう)の拗(みきり)当寺(たうし)を御建立(ここんりふ)ありて新殿(しんてん)なと造(つく)らせ給ひぬ
《割書:按(あんする)に木母(もくほ)は梅(むめ)の分字(ふんし)ならんされと梅は毎(はい)に従(したか)ひ母(ほ)にあらす母(も)にしたかふものは本朝(ほんてう)の俗字(そくし)にして|止賀(とか)と訓(くん)す西斎詩話(せいさいしわ)に幸得(さいはひにえて)_二梅山信(はいさんのしんを)_一嘗(なむる)_二日本茶(につほんのちやを)_一と作(つく)りしは山城国(やましろのくに)なる栂尾(とかのを)の茶(ちや)を賞美(しやうひ)》
《割書:せしなり栂(とか)は中華(ちうくは)にはなき文字(もんし)なれは梅(むめ)の誤字(こし)にやなとおもひはかりてかく梅山(はいさん)とはせしなる|へし又 岷峨集(みんかしふ)に云く東山(ひかしやま)の僧(そう)雪村(せつそん)諱(いみな)は友梅(いふはい)と云しか栂尾(とかのを)にまうてこの山(やま)の名(な)は我(わか)諱(いみな)の文字(もんし)》
《割書:なりと云云 是(これ)も頗(すこふる)拠(よりところ)とすへき歟 爾雅(しか)に梅(むめ)は枏(なむ)【楠の異体字】なりとまた史記(しき)に江南(こうなん)枏梓(なむし)を出(いた)すとあるも|梅(むめ)の事にして冄(せん)と母と字形(しきやう)頗(すこふる)似(に)たれは冄(せん)を誤(あやま)りて母に作(つく)るものならん然(しか)れとも木母(もくほ)を》
《割書:もつて梅(むめ)とする事又 拠所(よりところ)あり因(より)て左に挙(あ)く|》
《割書:増続韻府(そうそくゐむふ)といへる書(しよ)に夷堅志(いけんし)を引(ひい)て云く|》
《割書:北朝山濤字致遠赴召宋神宗問曰卿自山路来自|駅路来濤曰自山路来上曰木公木母如何濤曰木》
《割書:公方傲歳木母正含春| 注曰木公松也木母梅也称旨除中書云云》
《割書:木母寺縁起(もくもしえんき)の跋(はつ)に湖海新聞(こかいしんふん)を引(ひい)て梅(むめ)を木母(もくほ)とする事(こと)を挙(あけ)たり湖海新聞(こかいしんふん)に出る文(ふん)上(かみ)の夷堅(いけん)|志(し)の意(い)に同し又 青木氏(あおきうち)か著(あらは)せる草盧雑談(さうろさつたん)にも此事(このこと)を載(あけ)たり古今集(こきんしふ)の歌(うた)に》
雪ふれは木毎に花そ咲にけるいつれを梅とわきておらまし 紀友則
《割書:千載集(せんさいしふ)|》
春の夜は吹まふ風のうつり香に木毎に梅とおもひけるかな 崇徳院御製
《割書:続古今集(そくこきんしふ)|》
年の内の雪を木毎の花とみて春を遅しと来ぬる鴬 将家
《割書:かく連(つら)ねたるも梅(むめ)といふ文字(もんし)を|わかちたりし秀句(しうく)なり》
梅若丸塚(むめわかまるのつか) 木母寺(もくほし)の境内(けいたい)にあり塚上(ちよしやう)に小祠(こみや)あり梅若丸(むめわかまる)の霊(れい)を祠(まつ)りて
山王権現(わんわうこんけん)とす 《割書:縁起(えんき)に梅若丸(むめわかまる)は山王(さんわう)|権現(こんけん)の化現(けけん)なりと云》後(のち)に柳(やなき)を殖(うへ)て是(これ)を印(しるし)の柳(やなき)と号(なつ)く 《割書:昔(むかし)|の》
《割書:柳(やなき)は枯(かれ)て今(いま)若木(わかき)|を殖(うへ)そへたり》 例年三月十五日 忌日(きにち)たる故(ゆへ)に大念仏興行(たいねんふつこうきやう)あり此日(このひ)都下(とか)の
貴賎(きせん)群参(くんさん)せり
回国雑記 かくてすみた河(かは)の辺(ほとり)にいたりて皆(みな)〳〵歌(うた)よみて披講(ひかう)なとして
いにしへの塚(つか)の姿(すかた)あはれさ今(いま)のことくにおほえて
古塚のかけゆく水のすみた河きゝわたりてもぬるゝ袖哉 道興准后
中頃(なかころ)一条(いちてう)関白(くはんはく)康道卿(やすみちきやう)関東(くはんとう)下向(けかう)のころ此地(このち)に
逍遥(せうえう)あり
【挿し絵】
木母寺(もくほし)
梅若塚(むめわかつか)
水神宮(すいしんのみや)
若宮八幡(わかみやはちまん)
木母寺
に
歌の
会
あり
けふの
月
其角
回国雑記
いにしへの塚の
すかたあはれさ
今のことくに
おほえて
古塚の
かけ行水
の
すみた河
聞わたり
ても
ぬるゝ
袖
かな
道興准后
【図中】
隅田川東岸
若みや八まん
木母寺
本堂
茶や
茶や
梅若塚
山王
水神
【挿し絵】
来て見るに
むさしの
国の
江戸
からは
北と
東の
隅
田
川
かな
【図中】
隅田川東岸
内川
御前栽畑
【本文、梅若丸塚の続き】
来てみれはうへし柳のしるしのみ春風渡る隅田河原に 康道公
うき事を思ひ出てや古塚に都のたよりまつ風の声 近衛信尹公
此詠(このえい)は木母寺(もくほし)に蔵(さう)する処(ところ)の短(たん)冊の和歌(わか)なり名書(かき)
山城住人(やましろのちゆうにん)とあり
しるしにとうへし柳も朽はてゝあはれはかりはのこる古塚 良尚親王
此(この)和歌(わか)は曼殊院宮(まんしゆゐんのみや)関東(くわんとう)へ下向(けかう)ありし時(とき)此地(このち)に遊(あそ)ひ給ひし頃(ころ)の詠(えい)なりと
いふ真蹟(しんせき)短冊(たんさく)今尚 木母寺(もくほし)に蔵(さう)せり名書(なかき)旅人(たひひと)とのみあり
縁起(えんきに)云(いはく)梅若丸(むめわかまる)は洛陽(らくやう)北白川(きたしらかは)吉田少将惟房卿(よしたのせうしやうこれふさきやう)の子(こ)なり 《割書:同(おなし)縁起(えむき)に惟房卿(これふさきやう)|嗣(こ)なきを憂(うれ)へ日(ひ)》
《割書:吉(よし)の御神(おんかみ)に祈願(きくわん)ありて後(のち)儲(まうけ)られたりし児(ちこ)なれは梅(むめ)か枝(え)に|咲(さき)出(いて)たりし一花(ひとはな)のこゝちすれはとて梅若丸(むめわかまる)とは号(なつ)くるなりとそ》 五歳にして父(ちゝ)に後(をく)れ
七歳の年(とし)比叡(ひえ)の月林寺(くはちりんし)に入(いり)て習学(しふかく)せり又 其頃(そのころ)東門院(しかしもんゐん)といへるにも
松若丸(まつわかまる)といふ児(ちこ)ありて日頃(ひころ)才(さえ)の程(ほと)を挑(いと)み争(あらそ)ひけれとも梅若丸(むめわかまる)には
をよはさりけりさるを彼坊(かのはう)の法師(ほうし)原口(はらくち)惜(おし)き事(こと)におもひはては闘争(とうしやう)の
事(こと)出来(いてき)にけれは梅若丸(むめわかまる)は潜(ひそか)に身(み)を遁(のか)れて北白川(きたしらかは)の家(いへ)に帰(かへ)らんと
し吟(さまよ)ふて大津(おほつ)の浦(うら)に至(いた)る頃(ころ)は二月廿日あまりの夜(よ)なり然(しかる)に陸奥(みちのく)の
信夫藤太(しのふのとうた)といへる人(ひと)商人(あきひと)に出(いて)あひ藤太(とうた)か為(ため)に欺(あさむか)れて遠(とほ)に東(あつま)の方(かた)に
【挿し絵】
梅若丸(むめわかまる)七歳のとし
比叡(ひえ)の月林寺(くはちりんし)を
のかれ出て花洛(みやこ)北(きた)
白川(しらかは)の家(いへ)に帰(かへ)らん
とし吟(さまよ)ふて大津(おほつ)の
浦(うら)に至(いた)りけるに
陸奥(みちのく)の信夫(しのふ)の藤太(とうた)
といへる人(ひと)あきひとの
ためにすかしあさむ
かれてはる〳〵とこの
隅田川(すみたかは)に来(き)ぬる
ことは本文(ほんもん)に
詳(つまひらか)なり
因(ちなみ)に云(いふ)人買(ひとかい)藤太(とうた)は
陸奥(みちのく)南部(なんふ)の産(さん)
なりとて今も南(なん)
部(ふ)の人(ひと)は其 怨霊(おむれう)
ある事を恐(をそれ)て木母寺(もくほし)
に至(いたら)さること矢口(やくち)の
新田明神(につたみやうしん)へ江戸氏(えとうち)の
人(ひと)はゝかりて
詣(まうて)さるか如(こと)し
【梅若丸塚のつづき】
下(くた)りからうして此(この)隅田川(すみたかは)に至(いた)る貞元(ちやうけん)元年丙子三月十五日なり
路(みち)の程(ほと)より病(やまひ)に罹(かゝ)り此日(このひ)終(つい)に此地(ここ)に於(おひ)て身(み)まかりぬいまはの際(きわ)に
和歌(わか)を詠(えい)す尋ねきてとはゝこたへよ都鳥すみた河原の露と消ぬと
此時(このとき)出羽国(てはのくに)羽黒(はくろ)の山(やま)に下総坊忠円(しもふさはうちゆうゑむ)阿闍梨(あしやり)とて貴(たふと)き聖(ひしり)ありけるか
適(たま〳〵)こゝに会(くはい)し土人(としん)と共(とも)に謀(はか)りて児(ちこ)の亡骸(なきから)を一堆(いつたい)の塚(つか)に築(きつ)き柳(やなき)
一株(いつちゆう)を殖(うへ)て印(しるし)とす翌年(あくるとし)の弥生(やよひ)十五日 里人(さとひと)集(あつま)りて仏名(ふつみやう)を称(とな)へ
児(ちこ)のなき跡をとむらひ侍(はへ)りけるに其日 梅若丸(むめわかまる)の母君(はゝきみ) 《割書:同(おなし)縁起(えんき)に花御前(はなこせん)とす|美濃国(みのゝくに)野上(のかみ)の長者(ちやうしや)の》
《割書:女(むすめ)なりとあり或(あるひは)云 花子(はなこ)とも後(のち)薙髪(ちはつ)して妙亀尼(めうきに)と|号(なつ)く第六巻 浅茅(あさち)が原(はら)の条下(てうか)とあはせみるへし》 児(ちこ)の行衛(ゆくゑ)を尋侘(たつねわひ)みつから物狂(ものくるをし)き
様(さま)して此(この)隅田川(すみたかは)に吟(さまよ)ひ来(きた)り青柳(あをやき)の蔭(かけ)に人の群居(むれゐ)て称名(しようみやう)せるをあや
しみ舟人(ふなひと)に其故(そのゆへ)を問聞(とひきゝ)て我子(わかこ)の塚(つか)なる事をしり悲歎(ひたん)の涙(なみた)にくれ
けるか其夜(そのよ)は里人(さとひと)と共(とも)に称名(しようみやう)してありしに其塚(そのつか)のかけより梅若丸(むめわかまる)
の姿(すかた)髣髴(はうふつ)として幻(まほろし)の容(かたち)を現(あらは)し言葉(ことは)をかはすかとと思へは春(はる)の夜(よ)
の明(あけ)易(やす)く曙(あけほの)の霞(かすみ)と共(とも)に消(きえ)うせぬ母君(ははきみ)は夜(よ)あけて後(のち)忠円阿闍梨(ちゆうゑむあしやり)に
見(まみ)へありし事(こと)ともを告(つけ)て此地(このち)に草堂(さうたう)を営(いとな)み阿闍梨(あしやり)をこゝに居(を)らしめ
常行念仏(しやうきやうねんふつ)の道場(たうちやう)となして児(ちこ)の亡跡(なきあと)をそ吊(とふら)ひける 《割書:以上 木母寺縁起(もくほしえんき)の|要(えう)を摘(つむ)》
《割書:秋夜長物語(あきのよなかものかたり)といへる草紙(さうし)の趣(をもむき)よく前(さき)の木母寺縁起(もくほしえんき)に似(に)たり其略(そのりやく)に云く後堀河院(こほりかはのゐん)の御宇(きよう)北嶺(ほくれい)|東塔(とうたふ)の衆徒(しゆと)に勧学院(くわんかくゐん)の宰相律師(さいしやうりつし)けいかいといふ道学兼備(とうかくけんひ)の師(し)あり 《割書:後(のち)西山(にしやま)の贍(せん)|西(さい)上人といふ》 たま〳〵釈門(しやくもん)に入(いり)なから名聞(みやうもん)》
《割書:利養(りやう)にのみわつらひて出離(しゆつり)の勤(つとめ)怠(をこた)りぬるを浅(あさ)ましとおもひ此事(このこと)成就(しやうしゆ)せんいのりのため石山(いしやま)に参籠(さんろう)し|たり七日まんする夜(よ)の夢(ゆめ)に美少年(ひせうねん)をみて後(のち)心(こゝろ)うかれふたゝひ石山(いしやま)にまうてぬる道(みち)にて春雨(はるさめ)の降(ふり)かゝり》
《割書:けれは聖護院(しやうこゐん)の御坊(こはう)の庭(には)の門(もん)に彳(たゝすみ)たりし時(とき)夢(ゆめ)にみしにたかはぬ美少年(ひせうねん)の花(はな)折(おり)もてるを見出(みいて)たりこはこの|御坊(こはう)に仕(つかへ)て三条(さんてう)京極(きやうこく)の花園左大臣(はなそのゝさたいしん)の子(こ)に梅若(むめわか)と云けるなりけいかいおもひこかれ終(つひい)にかしこにつかふる童(わらわ)して》
《割書:かたらひより一夜(ひとよ)はかりの契(ちきり)をむすひけるか其後(そのゝち)は恋慕(れんほ)の心(こゝろ)いやまさりつゝ伏(ふし)しつみてありけるをきゝ伝(つたへ)梅若(むめわか)は|律師(りつし)のもとを尋(たつね)んとしわらわとともに坊(はう)をさまよひ出(いて)たりしかと行衛(ゆくゑ)もしらてあゆみなやみつ童(わらわ)あまりの》
《割書:いたはしさにあはれ天狗(てんく)はけものなりともわれらをとりてひえの山(やま)へのほせよかしといひて唐崎(からさき)の松(まつ)の木(こ)かけに|やすらひたりしに年(とし)いとたけたる山伏(やまふし)来(きた)りつ児(ちこ)と童(わらわ)を輿(こし)にかきのせて大嶺(おほみね)の釈迦(しやか)の岳(たけ)といふ所(ところ)へそ》
《割書:かきもて行(ゆき)にけりされは門主(もんしゆ)大(おほ)に歎(なけ)きたまひ隈(くま)なくたつねもとめたまふしかありて律師(りつし)の事(こと)しれたりけれは|まつとて三条京極(さんてうきやうこく)なりける父(ちゝ)の大臣(おとゝ)のもとへ押寄(をしよせ)ひとつをも残(のこ)さす焼(やき)はらふ三井寺(みつゐてら)の衆徒(しゆと)是(これ)にても》
《割書:猶(なを)いきとをり散(さん)せすといへとも山門へ押寄(をしよせ)んする事(こと)はかなふへからすしよせんこのついてをもつて当寺(たうし)は城郭(しやうかく)を|かまへ三昧耶戒壇(さんまやかいたん)を建(たて)は山門(さんもん)の衆徒(しゆと)定(さため)て寄(よらん)すらんと其(その)かまへをなして待受(まちうけ)たりけれは山門(さんもん)よりも》
《割書:二十万七千余人にて乱入(みたれいり)火(ひ)をかけて焼払(やきはら)ひぬ其後(そのゝち)梅若(むめわか)は竜神(りうしん)の助(たすけ)によりて都(みやこ)へ帰(かへ)り来(き)にけれと|花園(はなその)も焼野(やけの)の原(はら)となりて問(とふ)へき人もなし三井寺(みゐてら)に行(ゆき)て門主(もんしゆ)の御事をも尋(たつね)まうさんとてゆきて見(み)》
《割書:たまへはこゝも又 残(のこ)らす焼払(やきはら)はれてかはりはてにけれは我故(われゆへ)なりし災(わさはひ)なれはと浅増(あさまし)くて石山(いしやま)にたとり|行(ゆき)わらわして律師(りつし)の許(もと)へふみつかはしつ其(その)ひまに瀬田(せた)の橋(はし)の下(もと)に身(み)を投(なけ)て空(むな)しくなれりける》
《割書:律師(りつし)も童(わらわ)ももろともに児(ちこ)の身(み)を投(なけ)ぬる事(こと)を聞(きゝ)て心(こゝろ)あきれけんといそきつゝやかてかしこに行(ゆき)て尋(たつね)けるに|くこの瀬(せ)と云 所(ところ)にてなきからを求(もと)め出(いた)しけれは律師は天(てん)にあふきてなきかなしみしかかくてしもある》
《割書:へきならねは其夜(そのよ)鳥辺野(とりへの)のけふりとなしつ遺言(ゆいこつ)を首(くひ)にかけて山林斗薮(さんりんとそう)しけるか後(のち)には西山(にしやま)岩倉(いわくら)|に庵室(あんしつ)をむすひてそつとめ行(おこな)ひける童(わらわ)も髪(かみ)をおろして高野山(かうやさん)にそとちこもりける云々》
【梅若丸塚の続き】
《割書: 又 謡曲(えうきよく)桜川(さくらかは)といふもこれに似(に)たり其略(そのりやく)に云 後朱雀院(こしゆしやくのゐん)の御宇(きよう)長暦(ちやうりやく)年中 筑紫潟(つくしかた)に桜子(さくらこ)といへる| 美少年(ひせうねん)ありしか人商人(ひとあきひと)に勾引(かとは)され常陸国(ひたちのくに)磯部(いそへ)の社僧(しやそう)神宮寺(しんくうし)にみやつかへしてありけり其母(そのはゝ)は》
《割書: かくともしらて思ひ子(こ)の行衛(ゆくゑ)を尋(たつね)さまよひ終(つい)に狂乱(きやうらん)し同(おな)し弥生(やよひ)の頃(ころ)ゆくりなく常陸国(ひたちのくに)桜川(さくらかは)に| 至(いた)岸花爛熳(かんくわらんまん)として羅水(らんすい)に漂(たゝよ)ふさまを見(み)て此(この)水中(すいちゆう)に我子(わかこ)ありと流(なか)るゝ花(はな)をむすひあけなきつくときつ》
《割書: しけれは里人(さとひと)等(ら)其故(そのゆへ)を問(とひ)おもひ合(あい)する事(こと)あれはとて彼(かの)狂女(きやうしよ)を神宮寺(しんくうし)へ伴(ともな)ひ行(ゆき)桜子(さくらこ)に逢(あは)せけれは| うれしさのあまり物(もの)くるひは忽(たちまち)にもとにふくし絶(たえ)て久しき母子(ほし)の対面(たいめん)ともに涙(なみた)もせきあへす住僧(ちゆうそう)もと
より慈悲(しひ)深(ふか)かりけれは直(すく)さま桜子(さくらこ)に暇(いとま)をとらせ母子(ほし)ともにつくしへかへされけり 《割書:此事は東国戦記に|みへたり》》
《割書: 按(あんする)に梅若丸(むめわかまる)の事蹟(しせき)は先(さき)に挙(あけ)たる如(こと)く秋夜長物語(あきのよなかのものかたり)及ひ謡曲(えうきよく)の桜川(さくらかは)等(とう)に俤(おもかけ)相似(あひに)たり|》
梅花無尽蔵詩註曰
隅田在武蔵下総両国間道傍小塚有柳
又同書曰
河辺有柳樹盖吉田之子梅若丸墓所也其母北白
河人云々
《割書: 此(この)趣(おもむき)謡曲(えうきよく)の隅田川(すみたかは)にいへる所(ところ)と木母寺(もくほし)縁起(えんき)の意(い)に相似(あひに)たりまた先(さき)に記(しる)せし回国雑記(くはいこくさつき)等(とう)の| 書(しよ)にも古塚(ふるつか)とあり回国雑記(くはいこくさつき)は文明(ふんめい)十八年の記行(きかう)にして寛政(くはんせい)の今よりは凡三百十余年を隔(へたて)たる》
《割書: 昔(むかし)なり其頃(そのころ)さへ古塚(ふるつか)と唱(とな)へたりしなれは其伝説(そのてんせつ)のさたかならぬもむへなり|》
内川(うちかは) 木母寺(もくほし)の後(うしろ)の方(かた)の小川(をかは)をいふ或(ある)人の説(せつ)に往古(そのかみ)荒川(あらかは)綾瀬川(あやせかは)千股(ちまた)に
流(なか)れし時(とき)の古址(ふるあと)なりといへり
御■栽畑(おんせんさいはたけ)【■は苒の冠が止。目録は御前栽畑】 同所 内川(うちかは)を隔(へたて)て北(きた)の方(かた)の出洲(てす)をいへり作松(つくりまつ)の木立(こたち)ありて
頗(すこふる)美景(ひけい)なり
丹頂池(たんちやうのいけ) 同所 堤(つゝみ)の下(もと)にあり池(いけ)の中(なか)に小島(こしま)を築(きつ)く往古(そのかみ) 台命(たいめい)によりて
此池(このいけ)の中島(なかしま)に丹頂(たんちやう)の鶴(つる)を放(はな)ち飼(かは)しめ給ひしとなり故(ゆへ)に名(な)とせりとそ
庵崎(いほさき) 木母寺(もくほし)の北(きた)の方(かた)とも又は請地村(うけちむら)秋葉権現(あきはこんけん)の辺(あたり)なりともいへり
澄月歌枕(ちようけつうたまくら)に武蔵国(むさしのくに)に加(くは)へ夫木抄(ふほくせう)藻塩草(もしほくさ)等(とう)に下総国(しもふさのくに)に入(いれ)たり同(とう)
名(めい)駿河(するか)にもあり紫(むらさき)の一本(ひともと)といへる冊子(さうし)に小梅(こむめ)村の出崎(てさき)を庵崎(いほさき)と云人あり
是(これ)も慥(たしか)ならすと云々又 同書(とうしよ)に昔(むかし)本所(ほんしよ)の地 入海(いりうみ)にて洲崎(すさき)殊(こと)に夥(おひたゝ)しく
ありし故(ゆへ)五百崎(いをさき)に作(つく)りしといふ然(しか)れとも未(いまた)考(かんかへす)
新後拾遺
我ためはむすひもをかぬ庵崎の隅田河原に宿やからまし 尚長
建保名所百首
今宵また誰宿からんいほさきのすみた河原の秋の月影 順徳院
関屋里(せきやのさと) 牛田(うした)の辺(ほとり)をいふ澄月歌枕(ちようけつうたまくら)には武蔵国(むさしのくに)に入(いれ)たり
庵崎のすみた河原に日はくれぬ関屋の里に宿やからまし
《割書: この歌(うた)は家集(いへのしふ)にいふ康元(かうけん)元年九月 鹿島(かしま)の社(やしろ)にまうてけるに隅田川(すみたかは)のわたりにて此渡(このわたり)の| 上(かみ)の方(かた)に河(かは)の端(はた)につきて里(さと)のあるをたつねけれは関屋(せきや)の里(さと)とまうす前(まへ)には海船(かいせん)もおほく泊(とまり)》
《割書: たりと云々| 聖護院(しやうこゐん)の宮(みや)関東(くはんとう)御下向(おんけかう)の時(とき)此地(このち)に逍遥(せうえう)し給ひて》
かへるさの道に関屋の里もあれな隅田河原のあかぬなかめに 道晃親王
【挿し絵】
鐘(かね)か潭(ふち)
丹頂(たんてう)の池(いけ)
綾瀬川(あやせかは)
鳥の跡
あやせ川
にて
錦そと
みるや
こゝろ
の
あやせ川
うつる
もみちを
いかて
折
なむ
戸田
茂睡
【図中】
隅田川両岸
丹頂池
すみた川
鐘か淵
あやせ川
千住川
【挿し絵】
牛田(うした)
薬師堂(やくしたう)
関谷里(せきやのさと)
夫木抄
庵崎の
すみた
河原に
日はくれぬ
関谷の
里に
宿や
から
まし
光俊
【図中】
隅田川上流
其二
古隅田川
西光院
やくし
千住川
其二
【挿し絵】
関谷(せきや)
天満宮(てんまんくう)
其
三
【図中】
氷川
関や
天神
此辺を
関谷の
里と
いふ
【本文】
鐘(かね)か潭(ふち) 同所 隅田河(すみたかは)荒川(あらかは)綾瀬川(あやせかは)の三俣(みつまた)の所(ところ)をさして名(な)つく 《割書:小田原北条家(をたはらほうでうけ)の|所領役帳(しよりやうやくちやう)に》
《割書:千葉殿(ちはとの)とある所領(しよりやう)の中(うち)に下足立(しもあたち)三俣(みつまた)と|いへる地名(ちめい)を加(くは)へたり按(あんする)に此地(このち)の事(こと)なるへし》 伝(つた)へ云 昔(むかし)普門院(ふもんゐん)といへる寺(てら)の鯨鐘(かね)此潭(このふち)に
沈没(ちんほつ)せりとも又 橋場(はしは)長昌寺(ちやうしやうし)の鐘(かね)なりともいひて今両寺(いまりやうし)に存(そん)する所(ところ)の
新鋳(しんちよ)の鐘(かね)の銘(めい)にも此事を載(あけ)たり何(いつれ)か是(せ)ならん
《割書:按(あんする)に鐘(かね)か淵(ふち)と名(なつ)くる地(ち)同(おなし)川上(かはかみ)岩淵(いはふち)の五徳巌(ことくいわ)といへる所(ところ)にもありしとそ往昔(そのかみ)普門院(ふもんゐん)は隅田川(すみたかは)|三胯(みつまた)の城中(しやうちゆう)にありしを元和(けんわ)二年住持(ちゆうち)栄真(えいしん)地(ち)を卜(ほく)して寺(てら)を今(いま)の亀戸(かめとむら)に移(うつ)せり》
《割書:其頃(そのころ)あやまつて華鯨(かね)を水中(すいちゆう)に投(とう)すと土俗(とそく)伝(つた)へて橋場法源寺(はしはほふけし)の鐘(かね)とするものは誤(あやまる)に| 似たり》
牛田薬師堂(うしたのやくしたう) 木母寺(もくほし)より……
葛西(かさい)の辺(あたり)は人家(しんか)の後(こう)
園(ゑん)あるは圃(はたけ)畔(あせ)にも
悉(こと〳〵)く四季(しき)の草花(さうくわ)を
植(うゑ)並(なみ)はへるかゆゑに
芳香(はうかう)常(つね)に馥郁(ふくいく)たり
土人(としん)開花(かいくわ)の時(とき)を待(まち)
得(え)てこれを刈取(かりとり)
大江戸の市街(いちまち)なる
花戸(はなや)に出して
鬻(ひさく)事もつとも
夥(おひたゝ)し
転(てん)して梵宇(ほんう)とし西光院(さいくわうゐん)と号(なつ)くといふ……
若宮八幡宮(わかみやはちまんくう) 若宮村(わかみやむら)にあり別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして善福寺(せんふくし)と号(かう)す社(しや)
伝(てん)云(いふ)往古(むかし)文治(ふんち)五年己酉七月右大将頼朝卿(うたいしようよりともきやう)奥州(あうしう)泰衡(やすひら)征伐(せいはつ)として
発向(はつかう)あるにより同十八日 伊豆国(いつのくに)より専光坊(せんくわうはう)の阿闍梨(あしやり)を召(めし)て潜(ひそか)に
泰衡(やすひら)征伐(せいはつ)の立願(りうくわん)の旨(むね)を告(つけ)られ同十九日 途出(かといて)あり其勢(そのせい)纔(わつか)に一千
余騎(よき)なり 《割書:東鑑に十九日丁丑二品奥州発向の条下に|供奉(くふ)の輩(ともから)一百四十四人の名(な)を住(ちゆう)せり》 夫(それ)より途中(とちゆう)近国他国(きんこくたこく)
の軍兵(くんひやう)招(まねか)すして走(はせ)加(くは)はる其時(そのとき)此地(このち)をよきり給ふ序(ついて)潜(ひそか)に当社(たうしや)に
参詣(さんけい)ありて源家(けんけ)繁昌(はんしやう)武運長久(ふうんちやうきう)の祈念(きねん)あり 《割書:今(いま)の四木(よつき)迄(まて)の道路(とうろ)は|昔(むかし)の奥州街道(あうしうかいたう)なりと云(いふ)》 又
手自(てつから)榎(えのき)の策(むち)を逆(さかしま)に地(ち)に指(さし)誓(ちかつ)て云(いは)く此度(このたひ)の軍(いくさ)利(り)あらは枝根(しこん)を
生(しやう)して栄(さか)ゆへしとなり 《割書:其榎(そのえのき)は枯(かれ)たりとて|今(いま)は存(そん)せす》 竟(つひ)に奥州(あうしう)を治(をさめ)て凱陣(かいちん)あり
けれは其後(そのゝち)鶴岡若宮八幡宮(つるがおかわかみやはちまんくう)を勧請(くわんしやう)す此地(このち)は葛西三郎清重(かさいさふらうきよしけ)の
領地(りやうち)たるにより清重(きよしけ)に命(めい)して社頭(しやとう)を経営(けいえい)せしめ又 神田(しんてん)等(とう)を
寄付(きふ)せらる其後(そのゝち)年代(ねんたい)遠(とほ)く隔(へたゝ)りけれは瘴霧(しやうむ)は軒(のき)を侵(をか)し淫雨(いんう)
は扉(とひら)を洗(あら)ひ春草(しゆんさう)年々(ねん〳〵)に生(しやう)し秋(あき)の蔦(つた)月々に茂(しけ)り瑞籬(すゐり)は崩(くつ)れ
神階(しんかい)朽(くち)て破壊(はゑ)におよひしを天正(てんしやう)の後(のち) 台命(たいめい)により伊奈(いな)
備前守(ひせんのかみ)再興(さいこう)ありしより重(かさ)ねて朱(あけ)の玉籬(たまかき)光(ひかり)を彰(あら)はしけるか
夫(それ)も又(また)昔(むかし)となり今(いま)は古松(こしよう)老杉(らうさん)矯々(きやう〳〵)として寥々(りやう〳〵)たる社頭(しやとう)
となれり
法華経(ほけきやう)一 部(ふ)一 巻(くわん) 《割書:其丈(そのたけ)漸(やうや)く二寸はかりありて巻(まき)たる囲(めくり)わつかに指渡(さしわた)し八九分|に過(すき)す紺紙(こんし)にして金泥(きんてい)をもて細書(さいしよ)せる物(もの)なり書(しよてい)》
《割書:甚(はなはた)奇古(きこ)なり寺僧(しそう)の説(せつ)に頼朝卿(よりともきやう)の奉納(ほうなう)なりといひつたふ筆者(ひつしや)は文覚(もんかく)なりと|いへとも是非(せひ)をしらす》
超越山(てうゑつさん)西光寺(さいくわうし) 渋江村(しふえむら)にあり 《割書:小田原北条家(おたはらほふてうけ)の古文書(こもんしよ)に山中内匠介(やまなかたくみのすけ)|所領(しよりやう)に渋江(しふえ)の地名(ちめい)を注(ちゆう)し加(くは)へたり》 往古(わうこ)は
浄土宗(しやうとしう)の寺院(しゐん)にて葛西三郎清重(かさいさふらうきよしけ) 《割書:従五位下(しゆこゐけ)壱岐守(いきのかみ)豊島(としま)|権頭(こんのかみ)清光(きよみつ)の子(こ)なり》 開基(かいき)たり
【挿し絵】
渋江(しふえ)
西光寺(さいくわうし)
清重稲荷(きよしけいなり)
【図中】
用水渡
引舟
清重
いなり
用水
しか今(いま)天台宗(てんたいしう)に改(あらた)む本尊(ほんそん)は親鸞(しんらん)上人 親筆(しんひつ)の阿弥陀如来(あみたによらい)
の画像8くわさう)を安(あん)す当寺(たうし)の開基(かいき)清重(きよしけ)は鎌倉(かまくら)代々(よゝ)勤仕(きんし)の士(し)にて
文治(ふんち)五年 奥州(あうしう)泰衡(やすひら)平治(へいち)の後(のち)同年九月 彼地(かのち)の奉行職(ふきやうしよく)に
任(まか)せられ実朝卿(さねともきやう)鶴岡八幡宮(つるかおかはちまんくう)拝賀(はいか)の頃(ころ)も随兵(すゐひやう)に加(くは)へ給ふ
代々(よゝ)此地(このち)に住(ちゆう)す親鸞(しんらん)上人 東国遊化(とうこくいうけ)の時(とき)此地(このち)に至(いた)り清重(きよしけ)
の宅(たく)に投宿(とうしゆく)あり其時(そのとき)上人の弘法(くほふ)に帰依(きえ)し弟子(ていし)の礼(れい)を
儲(まう)け名(な)を西光坊(さいくわうはう)と号(かう)す又 居宅(きよたく)の地(ち)を転(てん)して寺院(しゐん)を営建(えいこん)
し直(すく)に西光院(さいくわうゐん)と号(なつ)く本尊(ほんそん)の脇壇(けふたん)に清重(きよしけ)彫造(てうさう)する所(ところ)の
聖徳太子(しやうとくたいし)の木像(もくさう)を安置(あんち)せり
《割書:按(あんする)に東鑑(あつまかゝみ)に治承(ちしやう)四年庚子十一月十日戊牛 常陸国(ひたちのくに)佐竹太郎義政(さたけたらうよしまさ)同 冠者(くわんしや)|秀義(ひてよし)を征伐(せいはつ)して凱陣(かいちん)し鎌倉(かまくら)に帰(かへ)り給ふ条下(てうか)に武蔵国(むさしのくに)丸子荘(まりこのしやう)を以(もつ)て》
《割書:葛西三郎清重(かさいさふらうきよしけ)に賜(たま)ふ今夜(こんや)彼宅(かのたく)に御止宿(こししゆく)あり清重妻女(きよしけさいちよ)をして御膳(こせん)を|備(そな)へしむ但(たた)し其実(そのしつ)を申(もう)さす御給搆(こきうこう)の為(ため)他所(たしよ)より青女(せいちよ)を招(まね)くの由(よし)》
《割書:言上(こんしやう)すとあるも此地(このち)|にての事(こと)なるべし》
清重稲荷(きよしけいなり)祠 西光寺(さいくわうし)の西(にし)の畑(はた)の中(なか)にあり松(まつ)杉(すき)生(おひ)しけりたる
古叢(こさう)にして此所(このところ)は葛西三郎清重(かさいさふらうきよしけ)の墳墓(ふんほ)の地(ち)といふ今(いま)稲荷(いなり)を
勧請(くわしやう)す 《割書:徃(いん)し年(とし)の洪水(こうすゐ)に此塚(このつか)崩(くつ)れて土中(とちゆう)より石櫃(せきひつ)あらはれ出(いて)けれは土人(としん)蓋(ふた)を|開(ひら)きみしに蓋(ふた)の裡(うち)に梵字(ほんし)蓮花(れんけ)およひ清重(きよしけ)の名(な)をも彫付(ほりつけ)てありしと》
《割書:なり其時(そのとき)櫃(ひつ)の中(うち)より丈(たけ)三尺五寸あまりの弥陀(みた)の木像(もくさう)出(いて)たりとなり其(その)胸中(けうちゆう)に鉄仏(てつふつ)あり|丈(たけ)一寸八分はかりの座像(ささう)なり今(いま)西光寺(さいくわうし)に収(をさ)む其(その)余(よ)武具(ふく)のたくひも出(いて)たりといへり》
青砥左衛門尉藤綱(あをとさゑもんのせうふちつな)第宅旧跡(ていたくのきうせき) 青戸村(あをとむら)にあり 《割書:土人(としん)云(いはく)昔(むかし)は青砥(あをと)を作(つく)る|後世(こうせい)改(あらた)めて青戸(あをと)とすと》
《割書:永禄(えいろく)二年 小田原(をたはら)北条家(ほふてうけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)に遠山(とほやま)丹波守(たんはのかみ)所領(しよりやう)の内(うち)に|葛西青戸(かさいあをと)の号(かう)を注(ちゆう)せり今(いま)割(わり)て二村とし西青戸(にしあをと)表青戸(おもてあをと)と唱(とな)ふ》 土人(としん)城址(しろあと)又(また)
御殿跡(こてんあと)とも称(しよう)す今猶(いまなほ)四方五六 歩(ふ)の所(ところ)除地(ちよち)にして老杉(らうさん)矯々(きやう〳〵)
たる中(うち)に小祠(せうし)あり此村(このむら)農人(のうにん)の中(うち)に廓(くるわ)の誰(たれ)陣屋(ちんや)の何某(なにかし)なと
字(あさな)に唱(とな)ふるありて皆(みな)其(その)時世(しせい)より呼来(よひきた)れるといへり
《割書:按(あんする)に北条(ほふてう)九 代記(たいき)およひ太平記(たいへいき)等(とう)の書(しよ)に青砥左衛門(あをとさゑもん)は伊豆国(いつのくに)の住人(ちゆうにん)大場(おほは)|十郎近郷(しふらうちかさと)の後裔(こうえい)にして近郷(ちかさと)承久(しやうきう)の乱(らん)に宇治(うち)の手(て)に向(むか)大(おほい)に勲功(くんこう)ありけれ》
《割書:は其(その)勧賞(かんしやう)として上総国(かつさのくに)青砥(あをと)の荘(しやう)を賜(たま)はり是(これ)より相伝(さうてん)して藤満(ふちみつ)にいたる|藤綱(ひちつな)は藤満(ふちみつ)の妾腹(せふふく)に生(むま)れて末子(はつし)なりと云々しかるときは青砥荘(あをとのしやう)は上総国(かつさのくに)なっるか》
《割書:されと上総国(かつさのくに)夷灊郡(いしみこほり)臼井(うすゐ)の郷(こう)中村国香(なかむらくにか)といへる人(ひと)のあらはせし房総志料(はうさうしれう)といへる書(しよ)に|上総国(かつさのくに)青砥荘(あをとのしやう)といふ事 東鑑(あつまかゝみ)に見(み)ゆれとも其地(そのち)未(いまた)考(かんか)へすとありて定(さたか)ならす此地(このち)を》
《割書:青戸(あをと)と唱(とな)へ来(きた)るも既(すて)に久(ひさ)しうして藤綱(ふちつな)かやしき跡(あと)と称(しよう)する地(ち)なと現然(けんせん)と残(のこ)|りてあれは其(その)是非(せひ)はしらすといへともしはらくいひ伝(つた)ふるにまかせて是(これ)を記(しる)し加(くは)ふ》
古製山葵擦(こせいわさひおろし) 《割書:此地(このち)の農民(のうみん)茂右衛門(もゑもん)といへる者是(これ)を持伝(もちつた)ふ賞(しやう)すへきものにもあら|されとたゝ上古(しやうこ)質朴(しつほく)の風俗(ふうそく)を想像(おもひやる)にたれり依(よつて)其図(そのづ)をこゝに》
《割書:挙(あく)るのみ土人(としん)此器(このき)を青砥左衛門(あをとさゑもん)か工夫(くふう)に出(いて)たりと云伝(いひつたふ)れとも其(その)可否(かひ)は論(ろん)するに|たらす今(いま)も野州(やしう)辺(へん)の農家(のうか)是(これ)を用(もち)ゆるものあり其図(そのつ)左(さ)のことし》
《割書:全形(かたち)図(つ)のことく杉(すき)をもつて|製(せい)す竹(たけ)の厚(あつ)きを鋸(のこきり)の歯(は)の》
《割書:ことくにして夫(それ)を横(よこ)の板(いた)へ切(きり)|はめ横板(よこいた)の上(うへ)より同く竹(たけ)の》
《割書:縁(ふち)を打付(うちつけ)て動かぬやうにし|たる物(もの)なり或人(あるひと)の説(せつ)に》
《割書:菖蒲革(しやうふかは)に□【△を三つ横に並べた図】かくのことき|紋(もん)あるを俗(そく)にわさひおろしと》
《割書:いふも此器(このき)の形(かたち)を借(かり)ていひ|出(いた)せしならんと是(これ)しからん歟(か)》
《割書:又下に図(つ)する物(もの)も其製(そのせい)大方(おほかた)|同(おなし)うして形(かたち)すこしく異(こと)なり》
【挿し絵その一】
【奥行き】七寸三分
【幅】四寸一分
【高さ】二寸六分
【挿し絵その2】
此所朽損シ
全カラス
【幅】三寸
【長さ】四寸六分余
木下川薬師堂(きけかはやくしたう) 木下川村(きけかはむら)にあり……
天照太神宮(てんせうたいしんくう)
東照大権現神影(とうせうたいこんけんくうみえい)
本尊薬師如来縁起(ほんそんやくしによらいえんき) 一巻(いちくわん) 《割書:其文(そのふん)左(さ)の|如(こと)し》
青竜山薬師仏像縁起
原夫仏像者優填王慕仏而刻像初焉伽藍者須達
【挿し絵】
木(き)
下(け)
川(かは)
薬(やく)
師(し)
堂(たう)
江戸名所記(えとめいしよき)に
いにしへより毎月(まいけつ)
八日ならひに
元三の朝(あした)には
かならす本尊(ほんそん)
の御前(おんまへ)に竜灯(りうとう)の
あかるをはいする
人 少(すくな)からすとあり
されと此事(このこと)今(いま)は
絶(たえ)たるにや土人(としん)も
しらすといへり
【挿し絵中】
弁天
二王門
熊野
本堂
観音
白ひけ
所期末……
嘉暦二年夏六月十五日
浄光寺二十一世住持沙門 義純謹書
本尊(ほんそん)縁起(えんきに)曰(いはく)延暦年間(えんりやくねんかん)伝教大師(てんけうたいし)東国化益(とうこくけやく)の為(ため)叡山(えいさん)に於(おい)て
薬師仏(やくしふつ)を彫刻(てうこく)す漸(やうやく)半(なかは)なる頃(ころ)一夜(いちや)此尊像(このそんさう)大師(たいし)の夢(ゆめ)に告(つけ)て曰(のたまは)く
汝(なんち)か念(おも)ふ所(ところ)の如(こと)く我(われ)東国(とうこく)の衆生(しゆしやう)を利益(りやく)せんとす明旦(めいたん)便(たより)あり
我(われ)正(まさ)に行(ゆく)へしと大師(たいし)驚(おとろ)き夢覚(ゆめさめ)ぬ然(しかる)に明旦(めいたん)下野国(しもつけのくに)大慈寺(たいしし)の広智(くわうち)
其頃(そのころ)叡山(えいさん)にありしか此日(このひ)帰(かへ)らんとし先(まつ)大師(たいし)に別(わかれ)を告(つけ)んと来(きた)
り謁(えつ)すこゝに於(おい)て大師(たいし)仏意(ふつい)を悟(さと)り霊夢(れいむ)の瑞(すゐ)を語(かた)り竟(つひ)に其(その)
像腰(さうえう)を彫刻(てうこく)せすして錦繍(kんしう)をもて是(これ)を纏(まと)ひ広智(くわうち)に付属(ふそく)す 《割書:此故(このゆゑ)|に今(いま)》
《割書:仏体(ふつたい)僅(わつか)に半(なかは)より|上(うへ)を拝(はい)するのみ》 広智(くわうち)諾(たく)して仏像(ふつさう)を背負(せおひ)奉(たてまつ)り東(あつま)に還(かへ)り武州(ふしう)に
到(いた)る 《割書:今(いま)の木下川(きけかは)の|地(ち)これなり》 時(とき)に偶然(くうせん)として一(ひとり)の老翁(らうをう)に逢(あ)へり 《割書:其名(そのな)を唱翁(しやうをう)と呼(よ)ふ|姓氏(せいし)詳(つまひらか)ならす今(いま)白髭(しらひけ)》
《割書:明神(みやうしん)|とす》 翁(おきな)欣然(きんせん)として云(いは)く我(わか)霊像(れいさう)の到(いた)るを待事(まつこと)久(ひさ)しよろしく我(わか)草庵(さうあん)
に安(あん)すへしと《割書:云| 云》 智(ち)喜(よろこ)んで彼像(かのさう)を翁(おきな)に付(ふ)し又 此地(このち)に伽藍(からん)を建(たて)む事(こと)
を告(つく)翁(おきな)云(いはく)時縁(しえん)いまた熟(しくゆ)せす汝(なんち)且(かつ)還(かへ)り去(さ)れ依(よつ)て広智(くわうち)も此事(このこと)を
思(おも)ひ止(とゝま)り郷里(きやうり)に帰(かへ)る爾後(そのゝち)翁(おきな)村民(そんみん)に語(つけ)て云(いは)く後(のち)善知識(せんちしき)ありて必(かならす)
こゝに来(きた)り練若(れんにや)を営(いとなま)ん我(われ)今(いま)西州(さいしう)に行事(ゆくこと)あり若(もし)帰(かへ)り来(きた)る事 遅(おそ)
からんには此語(このこ)を伝(つたへ)よと云畢(いひをは)り空(くう)を凌(しのき)て西(にし)に去(さ)れり村里(そんり)の道俗(とうそく)
天際(てんさい)を見送(みおく)り共(とも)に深信(しん〳〵)稽首(けいしゆ)す其後(そのゝち)慈覚大師(しかくたいし)東国化導(とうこくけたう)の時(とき)
武州(ふしう)に到(いた)り暫(しはらく)浅草寺(あさくさてら)の観音堂(かんのんたう)に留(とゝま)り給ふ一日 白髪(はくはつ)の翁(おきな)来(きたり)て
【挿し絵】
木下川薬師如来(きけかはやくしによらい)の
霊像(れいさう)は延暦(えんりやく)年間の
伝教(てんけう)大師 叡山(えいさん)に
在(いま)せし頃 東国(とうこく)
化益(けやく)のため彫(てう)
造(さう)せられやゝ
半(なかは)なる頃(ころ)一夜(あるよ)
此本尊の霊(れい)
示(し)あるを以て
竟(つひ)にその像(そう)
腰(えう)を刻(こく)さす
して錦繍(きんし)を
もてこれを
纏(まと)ひ下野国(しもつけのくに)大慈寺(たいしし)の
広智(くわうち)といへる沙門(しやもん)の
東国に帰(かへ)らんとするに
付属ありしかは本
尊 有縁(うえん)の地なるを
以て木下川に安置(あんち)
なし奉りしこと
浄光寺(しやうくわうし)縁起(えんき)に
詳(つまひらか)なり
【挿し絵】
中川口(なかかはくち)
【挿し絵】
中川釣鱚(なかかはきすつり)
春鱚(はるきす)は三月の末より
四月に入て盛(さかん)なり春(はる)
釣(つり)と云は寛文(くわんふん)の頃 南総(かつさ)
伍大力(こたいりき)の船頭(せんとう)仁兵衛を
はしめとす岩崎(いわさき)兵太夫と
いふ人是に継(つく)今岩崎流
といふは則此人に始
りて是より後春鱚
を釣(つ)る事世に盛なり
しと云秋鱚は八月の末
より九月なかはを節(せつ)
とす然れとも十月に至り
寒気(かんき)にうつれは沖に
出るか故川釣に幸(さち)なし
漁人海に産するを白
鱚と呼川にあるを青
鱚と唱ふ又鱚に大小
の差あり當歳は腹(はら)
白く五六寸なるを二歳
とす腹すこし
く黄色を帯(おひ)て
背(せ)通(とほ)り黒み
あり七寸より
八寸迄を三歳と呼(よふ)
腹黄色にして赤み
を帯背の通り黒し
九寸以上を鼻曲(はなまかり)と
号く鱗(うろこ)あらし尺に
越(こゆ)るを寒風(さむかせ)と唱る
よし漁人(きよしん)の
説(せつ)なり
【挿し絵】
平井(ひらゐ)
聖天宮(しようてんくう)
【図中】
地蔵
山門
御供所
はうさう神
すは
灯明寺
不動
聖天堂
平井渡
《割書:称(しよう)し古利根川(ことねかは)とよへり往古(いにしへ)水戸黄門光圀卿(みとくわうもんみつくにきやう)水府(すゐふ)入部(にうふ)の頃(ころ)此(この)中川(なかかは)の|水中(すゐちゆう)にして一の壺(つほ)を得(え)たまひしより年々(とし〳〵)宇治(うち)へ詰茶(つめちや)に登(のほ)せられその器(き)を》
《割書:中川(なかかは)と命(めい)せられたり| 》
中川やほふりこむてもおほろ月 嵐雪
立石(たていし) 立石村(たていしむら)五方山南蔵院(こはうさんなんそうゐん)といへる真言宗(しんこんしう)の寺境(しきやう)にあり地(ち)
上(しやう)へ顕(あらは)れたる所(ところ)纔(わつか)に壱尺(いつしやく)はかりなり土人(としん)相伝(あひつた)へて石根(せきこん)地(ち)
中(ちゆう)に入事(いること)其際(そのきはま)りをしらすといへり石質(せきしつ)弱(やはらか)にして其色(そのいろ)世間(せけん)
に称(しよう)する鞍馬石(くらまいし)に似(に)たり此石(このいし)寒気(かんき)を帯(おふ)れはこゝかしこ欠(かけ)損(そん)すされとも春暖(しゆんたん)の気(き)を得(う)る時(とき)は又 元(もと)の如(こと)しと云(いへ)り 《割書:右は此石|によりて》
《割書:近郷(きんかう)四五 箇村(かむら)の名(な)とせしか分郷(ふんかう)となりし|より後(のち)は此村(このむら)のみを立石(たていし)とよへりとそ》
熊野権現(くまのこんけん)祠 同 境内(けいたい)艮(うしとら)の隅(すみ)になり今(いま)旧地(きうち)を失(うしな)ふ故(ゆへ)に鎮座(ちんさ)の
年歴(ねんれき)等(とう)を詳(つまひらか)にせすといふ神体(しんたい)は一箇(いつこ)の零石(れいせき)にして 《割書:長(たけ)二尺八寸|はかり囲(かみ)み》【かこみ、のあやまりか】
《割書:本(もと)にて二尺はかり末(すゑ)にて六寸あまり|其形(そのかたち)傘(からかさ)をつほめたるかことし》 其余(そのよ)武州練馬(ふしうねりま)の石神井村(しやくしむら)石神井(しやくしの)
社(やしろ)及(およ)ひ多摩郡(たまこほり)阿佐(あさ)か谷(や)神明(しんめい)等(とう)の神体(しんたい)の零石(れいせき)何(いつ)れも
其形(そのかたち)相似(あひに)たり
《割書:按(あんする)に神書(しんしよ)に皇孫(すめみまこ)の降(くたり)給ふ時(とき)諸部(もろとものを)の神(かみ)の佩(はか)せる頭槌剣(かうつちのつるき)なといへる事あり|此類(このたく)ひのものならん尤(もつとも)天工(てんかう)のものにして世(よ)に石剣(いしけん)と称(しよう)するもの是(これ)なり》
日照山普賢寺(にちせうさんふけんし) 上千葉村(かみちはむら)にあり……
真光山善通寺(しんくわうさんせんつうし) 逆井(さかさゐ)渡口(わたしくち)より八九町 東(ひかし)小 松川村(まつかはむら)にあり……
【挿し絵】
立石(たていし)
南蔵院(なんさうゐん)
熊野祠(くまのゝやしろ)
【挿し絵中】
中川
くまの
南蔵院
本堂
庫裡
かね
【挿し絵】
立石村(たていしむら)
立石(たていし)
【本文】
月(つき)を歴(へ)たり……
医王山妙音寺(いわうさんめうおんし) 東(ひかし)一ノ 江村(えむら)にあり……
【挿し絵】
賓頭盧尊者像(ひんつるそんしやのさう)
堂中(たうちゆう)に安置(あんち)す寺僧(しそう)伝(つた)へて
仏工春日の作なりといへり
高(たか)さ壱尺はかりあり荒木(あらき)造(つく)り
にして其(その)容貌(ようほう)甚(はなはた)異相(いさう)なり
本覚山妙勝寺(ほんかくさんめいしようし) 西(にし)二の江村(えむら)古川(ふるかは)の通(とほ)りにあり……
【挿し絵】
葛西六朗墳墓(かさいろくらうのふんほ)
葛西上千葉村(かさいかみちはむら)
普賢寺(ふけんし)の境内(けいたい)
にあり
竜亀山浄興寺(りうきさんしやうかうし) 清泰院(せいたいゐん)と号(かう)す上今井村(かみいまゐむら)渡口(わたしくち)より二丁はかり
西北(にしきた)にあり……
琴弾松(ことひきまつ) 同 境内(けいたい)堂前(たうせん)にあり……
【挿し絵】
東一之江(ひかしいちのえ)
妙音寺(めうおんし)
【図中】
本堂
弁天
【挿し絵】
二(に)の江(え)より今井(いまゐ)
船堀(ふなほり)桑川(くはかは)のあたり
に産(さん)する海苔(のり)を
世に葛西海苔(かさいのり)
と称(しよう)す本草(ほんさう)に
所謂(いはゆる)紫菜(しさい)の類(たくひ)
にして浅草海苔(あさくさのり)
に異(こと)なり
二之江(にのえ)
妙勝寺(めうしようし)
【図中】
三十番神
庵
かね
庫裡
方丈
本堂
古川通り
今井(いまゐ)の津頭(わたしは)
柴屋軒宗長(さいをくけんそうちやう)か永正(えいしやう)六
年の紀行(きかう)東土産(あつまのつと)に
隅田川(すみたかが)の河舟(かはふね)にて
葛西(かさい)の府(ふ)のうち
を半日(はんにち)はかり
葭芦(よしあし)をしのき今(いま)
井(ゐ)といふ津(わたり)より
下(をり)て浄土門(しやうともん)の寺(てら)
浄興寺(しやうかうし)に立寄(たちより)て
とあれははやくより
此 津(わたり)の
ありし
事
しられ
たり
【挿し絵】
今井(いまゐ)
浄興寺(しやうかうし)
琴弾松(ことひきまつ)
東土産
富士の根
は
遠からぬ
雪の
千里
かな
方丈の西にさし
むかひ雪くもりなく
見えわたるはかり
なり云々
宗長
【図中】
本堂
琴ひき松
【本文】
和歌(わか)を詠(えい)せらる……
天川山妙福寺(てんせんさんめいふくし) 下鎌田村(しもかまたむら)にありて浄興寺(しやうこうし)の北二町 斗(はかり)を隔(へた)□浄土(しやうと)
宗にして上今井村(かみいまゐむら)金蔵寺(こんさうし)に属(そく)す中興(ちゆうこう)開山(かいさん)は徳誉岌公和尚(とくよきうこうおしやう)と号(かうす)
本尊(ほんそん)は阿弥陀如来(あみたによらい)なり
親鸞(しんらん)上人 御影堂(みえいたう) 《割書:本堂(ほんたう)の前(まへ)左(ひたり)の方(かた)にあり相伝(あひつた)ふ昔(むかし)親鸞(しんらん)上人 東国遊化(とうこくいうけ)の頃(ころ)|此地(このち)をよきり給ふ時(とき)に其年(そのとし)旱魃(かんはつ)にて里民(りみん)の歎(なけき)ひとかた》
《割書:ならす上人 請雨(あまこひ)の祈念(きねん)ありしかは数日(すしつ)の間(あひた)雨降(あめふり)て百穀(ひやくこく)登(みの)る其後(そのゝち)上人こに止(とま)り給ふ事|三年 帰洛(きらく)の頃(ころ)自身(ししん)の肖像(せうさう)を造(つく)りてこゝに残(のこ)し置(おか)るゝとなり毎歳(まいさい)四月八日より》
【挿し絵】
天文十五年の秋(あき)小田原(おたはら)の
北条(はうてう)左京太夫(さきやうのたいふ)康(うちやす)むさし
野(の)小鷹狩(こたかかり)の時(とき)葛西(かさい)の
浄興寺(しやうかうし)に一夜(いちや)のやとりを
もとめられ松風入琴と
いへる和歌(わか)を題(たい)に
にて詠(えい)せられ
し事
武蔵野(むさしの)
紀行(きかう)に
見え
たり
松風の
吹こゑ
きけ
よも
すから
しらへ
ことなる
音こそ
かはら
ね
北条氏康
《割書:同十日迄仏龕(ふつかん)を開(ひら)きて親鸞(しんらん)上人の|御影(みえい)を拝(はい)さしむ因(よつて)道俗(たうそく)群衆(くんしゆ)す》 鏡(かゝみ)か池 《割書:本堂(ほんたう)の後(うしろ)にあり上人 自(みつか)ら肖像(せうさう)を|造(つく)りたまふ時(とき)此池(このいけ)に面影(おもかけ)をうつ》
《割書:し給ふ|といふ》 袈裟懸松(けさかけまつ) 《割書:同し傍(かたはら)にあり旧樹(きうしゆ)は|枯(かれ)て今若(いまわか)木を植(うゑ)たり》 太子堂(たいしたう) 《割書:本堂(ほんたう)の前(まへ)右(みき)の方(かた)にありて|御影堂(みえいたう)に相対(あひたい)せり聖徳太子の》
《割書:霊像(れいさう)を安(あん)す太子(たいし)自(みつか)ら作(つく)らせたまふと云伝(いひつた)へて毎歳(まいさい)二月廿一日 参詣(さんけい)あり|》
帝釈天王(たいしやくてんわう) 柴又村(しはまたむら)経栄山題経寺(けうえいさんたいけうし)に安置(あんち)す 《割書:江戸(えと)より|二里半》 当寺(たうし)は寛永(くわんえい)
年間(ねんかん)の草創(さう〳〵)なり
縁起(えんきに)云(いはく)当寺(たうし)弟(たい)【第】九世 日敬師(にちけいし)在住(さいちゆう)の頃(ころ)堂宇(たうう)大(おほい)に破壊(はゑ)す師(し)
深(ふか)く是(これ)を歎(なけ)き普(あまね)く四方(よも)に行乞(きやうこつ)して再興(さいこう)の志(こゝろさし)を励(はけま)し終(つひ)に其(その)
堂舎(たうしや)を造改(つくりあらため)んとする時(とき)梁上(りやうしやう)より此板(このいた)本 尊(そん)を得(え)たり旧(もと)当寺(とうし)に
高祖大士(かうそたいし)手刻(しゆこく)の祈祷本尊(きたうほんそん)と称(しよう)するものある由(よし)云(いひ)伝(つた)へし事(こと)の侍(はへ)り
しも此時(このとき)に至(いた)りて空(むな)□からぬを尊み則(すなはち)本尊とすといへり 《割書:長二尺五寸|幅一尺五寸》
《割書:厚(あつ)さ五分 斗(はかり)ある梨板(なしいた)なり片面(かためん)は中央(ちゆうあう)に首題(しゆたい)およひ左右に両尊 四菩薩(しほさつ)又 病即(ひやうそく)|消滅(せうめつ)等(とう)の数字(すうし)を刻(こく)し其下に五月日とありて大 士(し)の号(かう)をよひ花押(くわあふ)を印せり又片面は》
《割書:帝釈天王(たいしやくてんわう)の影像(えいさう)なり右の御手に剣(けん)を持(ち)し左の御手は開(ひら)きて憤怒(ふんぬ)の相(さう)を顕(あら)し給ふ|》
《割書:是(これ)除病延寿(ちよひやうえんしゆ)の本尊 悪魔降伏(あくまかうふく)の尊容(そんよう)なり信敬(しんけい)の輩(ともから)には是(これ)を印(いん)して与(あた)ふ点画(てんくわく)|》
《割書:あさやかにして希代(きたい)の本 尊(そん)なり往古(いにしへ)摂(せつ)の四天王寺に初(はしめ)て帝釈(たいしやく)天 降臨(かうりん)あり|しも庚申(かうしん)の日なり当寺(とうし)の板本 尊(そん)出現(しゆつけん)も又 庚申(かうしん)にあたる故に其 因縁(いんえん)にて此日を》
《割書:縁日(えんにち)とすといへり| 》
【裏表紙】
【表表紙】
【題箋】
《題:江戸名所図會 五》
【見返し】
【左丁】
河崎(かはさき) 六郷渡口(ろくかうわたしくち)より向(むか)ふの方(かた)にあり東海道(とうかいう)官驛(くわんえき)の一つにして
行程(かうてい)品川(しなかはた)より二里半/驛舎(えきしや)数百軒(すひやくけん)整々(せい〳〵)として両側(りやうかは)に聯(つらな)る
《割書:小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)に雉太新三郎(きしたしんさふらう)及(およ)び伊勢兵庫頭(いせへうこのかみ)間宮豊前守(まみやふせんのかみ)等(とう)の|所領(しよりやう)の中(うち)に此(この)河崎(かはさき)の地名(ちめい)あり又/同書(とうしよ)大珠寺分(だいしゅしふん)十九/貫(くわん)四百文の内(うち)五百文は|川崎(かはさき)に伏(ふく)すとあり》
平安記行 《割書:河崎(かはさき)といふ海近(うみちか)き宿(しゆく)にて使(つかひ)なとあとにやりてこゝにてしはし|》
《割書:やすらへは長光寺(ちやうくわうし)日耀(にちよう)上人くたもの抔(なと)僧(そう)にもたせて送(おく)り給ひぬ|馬(うま)むけんと立(たち)ものするに洲崎(すさき)にかさゝきのたてりけれは》
朝朗霞うなかす河崎に浪とみる迄たてる白鷺 持資
《割書:いさこといふ所にて》
かもめゐるいさこの里を来てみれは遊に通ふ沖津浦風 仝
《割書:按(あんする)に長光寺(ちやうくわうし)何(いつ)れなりや今(いま)しるへからす恐(おそ)らくは廃寺(はいし)となりしならん歟(か)砂子(いさこ)といふは|此(この)驛中(えきちゆう)の小/地名(ちめい)にして今(いま)も久根崎町(くねさきまち)新宿(しんしゆく)砂子町/小土呂町(ことろまち)等(とう)の名(な)あり》
河崎庄司次郎高重(かはさきしやうししらうたかしけの)宅地(たくち) 其(その)舊地(きうち)今(いま)しるへからす相傳(あひつた)ふ高重(たかしけ)昔(むかし)渋(しふ)
谷(や)に住(ちゆう)す後(のち)違論(ゐろん)の事(こと)ありて此地(このち)へ移(うつ)り住(すむ)となり又(また)旧地(きうち)堀内(ほりのうち)に
ありし山王(さんわう)の祠(やしろ)をも此(この)河崎(かはさき)に遷(うつ)すといへり
【右丁】
河崎(かはさき)万年屋(まんねんや)
奈良茶飯(ならちやめし)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
《割書:按(あんする)に今(いま)河崎(かはさき)の驛舎(えきしや)の南(みなみ)に堀(ほり)の内(うち)と字(あさな)する地(ち)ありて山王権現(さんわうこんけん)の社(やしろ)あり|疑(うたか)ふらくは高重(たかしけ)渋谷(しふや)より遷(うつ)す所(ところ)の御/神(かみ)ならん歟(か)されとも次の山王(さんわう)の社地(しやち)に》
《割書:よるときは其趣(そのおもむき)尤(もつとも)違(たか)へり又此所をも堀(ほり)の内(うち)と称(しよう)するは高重(たかしけ)か旧館(きうくわん)の地(ち)なるへ|けれとも土人もこれを詳(つまひらか)にせす猶(なほ)他日(たしつ)考(かんか)ふへきのみ》
堀内山王権現(ほりのうちさんわうこんけん)宮 河崎(かはさき)上新宿(かみしんしゆく)街道(かいたう)の中程(なかほと)より左(ひたり)へ入(いり)て二丁/斗(はかり)
南(みなみ)にあり相傳(あひつた)ふ 欽明天皇(きんめいてんわう)の御宇(きよう)勧請(くわんしやう)する所(ところ)也と河崎(かはさき)の鎮守(ちんしゆ)
にして神領(しんりやう)あり社司(しやし)鈴木氏(すゝきうち)奉祀(ほうし)す《割書:鈴木氏(すゝきうち)祖先(そせん)を三郎高重(さふらうたかしけ)と|いふ熊野(くまの)の鈴木氏(すゝきうち)より》
《割書:出(いて)たりと|見ゆ》
本社(ほんしや) 祭神(さいしん)武甕槌命(たけみかつちのみこと)相殿(あひてん)《割書:経津主命(ふつぬしのみこと) 菊理媛(くゝりひめ)|伊弉諾尊(いさなきのみこと) 伊弉冊尊(いさなみのみこと)》五神(こしん)合祀(かふし)す
正月三日/流鏑馬神事(やふさめのしんし)あり六月十五日は大祭(たいさい)にして十三日より
十六日に至(いたり)て大(おほい)に賑(にきは)へり其間(そのあひた)渡田邑(わたたむら)の海濵(かいひん)にある所(ところ)の旅(たひ)
所(しよ)へ神幸(しんかう)あり《割書:姥(うは)か森(もり)と号(なつ)く御手洗池(みたらし)ありその傍(かたはら)に弁天(へんてん)の叢祠(さうし)あり又|同書(とうしよ)に長八丁の馬塲(はゝ)あり新田家(につたけ)より寄附(きふ)ありしと云傳(いひつた)ふ》
《割書:土人(としん)云(いふ)此(この)御手洗池(みたらし)に生(しやうす)る|魚虫(うをむし)はすへて片眼(かため)なりとそ》十五日/神輿渡御(みこしときよ)の時(とき)前(さき)へ神弊(しんへい)七/柄(へい)を持(もち)
出(いた)せり相傳(あひつた)ふ弘安(こうあん)四年/川畑櫻川左近助(かははたさくらかはさこんのすけ)と申しゝ人/勅(ちよく)を奉(たてまつ)り
奉弊使(ほうへいし)として當社(たうしや)に向(むか)はれし頃(ころ)の弊串(へいくし)なりとて當社(たうしや)第(たい)一の
【左丁】
神寳(しんはう)とす《割書:奉弊使(ほうへいし)の人名(しんみやう)尤(もつとも)不審(ふしん)少(すくな)からす|只(たゝ)傳説(てんせつ)によつて記(しる)すのみ》又九月十九日には角力(すまふ)の伎(わさ)を
興行(こうきやう)し十一月廿三日には年(とし)の市(いち)立(たて)り
《割書:按(あんする)に同所(とうしよ)佐々木明神(さゝきみやうしん)の社記(しやき)に佐々木四郎高綱(さゝきのしらうたかつな)頼朝公(よりともこう)の命(めい)を蒙(かふむ)り河崎(かはさき)|山王宮(さんわうくう)の社(やしろ)造営奉行(さうえいふきやう)たりしと云事(いふこと)を載(のせ)たり當社(たうしや)の事(こと)をいへるなるへし》
洲河原桃林(すかはらもゝはやし) 河崎渡(かはさきわたし)口より大師河原迄(たいしかはらまて)の間(あひた)にして田園(てんゑん)悉(こと〳〵)く
桃樹(もゝのき)を栽(うゑ)たり故(ゆゑ)に開花(かいくわ)の時(とき)に至(いた)れは紅白(こうはく)色(いろ)を交(まし)へて奇(き)
観(くわん)たり
除厄大師堂(やくよけたいしたう) 大師河原(たいしかはら)にあり金剛山(こんかうさん)平間寺(へいけんし)金乗蜜院(こんしやうみつゐん)と号(かう)す
真言宗(しんこんしう)にして醍醐三宝院(たいこさんはうゐん)に属(そく)す《割書:當寺(たうし)に安置(あんち)せし大師(たいし)の霊像(れいさう)は|此地(このち)より出現(しゆつけん)ありし故(ゆゑ)にその地(ち)を》
《割書:大師河原(たいしかはら)と号(かう)す永禄(えいろく)二年/小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の所領(しよりやう)|役帳(やくちやう)には行方与次郎(なめかたよしらう)といふ人/此地(このち)を領(りやう)すとあり》
弘法大師像(こうはふたいしのさう)《割書:弘法大師(こうはふたいし)の真作(しんさく)にして海中(かいちゆう)より出現(しゆつけん)|ありしゆゑ佛體(ふつたい)悉(こと〳〵)く貝売(かいから)【注】相著(あひつき)てあり》
額(かく)《割書:金剛山(こんかうさん)》 石川杢亮頼直(いしかはもくのすけよりなほ)筆(ふて)《割書:客殿(きやくてん)に平間寺(へいけんし)と書(しよ)せしも|同し人の書(しよ)なり》
六字名號(ろくしみやうかうの)石碑(せきひ)《割書:堂前(たうのまへ)左の方(かた)にあり石面中(せきめんのうち)に南無阿弥陀佛(なむあみたふつ)とありて|傍(かたはら)に寛永(くわんえい)五年三月二十一日/雪翁月盛居士(せつをうけつせいこし)と注(ちゆう)し花押(くわおう)を》
《割書:印(ゐん)せり碑蔭(ひゐん)に武州(ふしう)江戸京橋(えときやうはし)紀伊國屋(きのくにや)櫻井又太夫(さくらゐまたたいふ)正月二日/御霊夢(これいむ)の所(ところ)六郷(ろくかう)|大橋(おほはし)にして大師(たいし)の御/筆(ふて)を蒙(かふむ)り此名号(このみやうかう)法名(はふみやう)雪翁月盛居士(せつをうけつせいこし)万人に愚筆(くひつ)を染(そめ)て》
【注「売」は殻の略字とされた例がある。「壳(殼の異体字)の誤ヵ」】
【右丁】
河崎山王(かはさきさんわう)社
【図】
【枠内】かくら所
【枠内】弁天
【左丁】
【枠内】神木
銀杏
【枠内】白山
いなり
【枠内】本社
【枠内】神明
霊神
第六天
【枠内】いなり
【枠内】疱瘡神
【枠内】天神
【枠内】神主
【右丁】
大師河原(たいしかはら)
大師堂(たいしたう)
正五九月の廿
一日/参詣(さんけい)多(おほ)し
就中(なかんつく)三月廿
一日は御影供(ごえいく)
にて詣人(けいしん)
稲麻(とうま)の如(こと)く
往還(わうくわん)の賑(にきは)ひ
尤(もつとも)夥(おひたゝ)し
【図】
【枠内】いなり
青龍権現
神明
【枠内】本堂
【枠内】大日
【枠内】かね
【枠内】回廊
【枠内】方丈
【枠内】玄関
【枠内】庫裡
【左丁】
【図】
【枠内】手水や
此辺
茶屋
多
し
【右丁】
《割書:供養(くやう)となすよし鐫付(ゑりつけ)たり東海道名所記(とうかいたうめいしよき)に云く寛永(くわんえい)年中/江戸京橋(えときやうはし)に紀伊國屋作内(きのくにやさくない)|とて一文/不通(ふつう)のものあり酒(さけ)を造(つく)りて業(わさ)とす作内(さくない)深(ふか)く此本尊(このほんそん)を信仰(しんかう)し常(つね)に歩(あゆみ)を》
《割書:運(はこ)ひけるにある夜(よ)の夢中(むちゆう)に大師(たいし)六字(ろくし)の名号(みやうがう)を書(かき)教(をし)へ給ふ奇異(きい)のおもひをなしあくる日|當寺(たうし)の大師(たいし)へ参詣(さんけい)し帰路(きろ)に六郷(ろくがう)の橋(はし)の上(うへ)にて筆一對(ふていつつい)拾(ひろ)ひ得(え)たり夫(それ)より大師(だいし)の教(をし)へ》
《割書:給ふ名号(みやうかう)を書(しよ)し得(え)て筆勢(ひつせい)誠(まこと)に類(たくひ)なかりけれは作内(さくない)石塔(せきたう)に名号(みやうかう)を書(かき)て鐫(ゑり)つけ|大師河原(たいしかはら)に建(たて)たりされと外(ほか)の事(こと)は一字(いちし)をも書(かき)得(え)さりきと云々》
縁起曰(えんきにいはく)弘法大師(こうはふたいし)の霊像(れいさう)は大治年間(たいちねんかん)此所(このところ)の浦(うら)に住(すめ)る平間(ひらま)
氏(うち)某(それかし)なる漁人(きよしん)常(つね)に三寳(さんはう)を敬(うやま)ふ其家(そのいへ)貧(まつ)しく産業(さんきやう)を弘(ひろめ)ん
方便(はうへん)もなく空(むな)しく年月(としつき)を送(おく)り迎(むか)へ既(すで)に四十二歳の年(とし)にあへり
依(よつ)て災厄消除(さいやくせうちよ)を神佛(しんぶつ)に祈(いの)りけるに或夜(あるよ)大師(たいし)告(つげ)て曰(のたまは)く我(われ)昔(むかし)
在唐(さいたう)の日(ひ)自(みつか)ら吾(わ)か肖像(しやうさう)を彫(てう)し有縁(うえむ)の地(ち)に漂着(ひやうちやく)すへしと
誓(ちか)ひ海水(かいすい)に投(たう)す後(のち)久(ひさ)しく海底(かいてい)にありしか今(いま)幸(さいはひ)に此浦(このうら)に止(とゝま)る
汝(なんち)網(あみ)を下(くだ)して是(これ)を得(え)は永(なが)く此地(このち)に化益(けやく)を布(しき)厄難(やくなん)を除滅(ちよめつ)
し人々の所願圓満(しよくわんゑんまん)ならしめんと漁人(きよしん)夢覚(ゆめさめ)て奇異(きい)の事とし
夜(よ)のあくるを待(まつ)て海上(かいしやう)を見渡(みわた)すに一條(いちてう)の光明(くわうみやう)赫(かく)たるあり
【左丁】
其所(そのところ)に舟(ふね)を寄(よ)せ網(あみ)を沈降(しつめくた)すに果(はた)して夢中(むちゆう)に見(み)る所(ところ)の容(よう)
貌(ほう)に毫釐(かうり)も違(たか)はさる大師(たいし)の霊像(れいさう)を得(え)たり仍(よつ)て一/宇(う)を創立(さうりふ)し
平間寺(へいけんし)と号(かうす)《割書:平間氏(ひらまうち)の号(かう)を|採(とり)て寺号(しかう)とす》爾来(しかりしより)已降(このかた)霊應(れいおう)著(いちしる)く常(つね)に詣人(けいしん)
絶(たゆ)る事(こと)なし正五九月の廿一日/別(へつし)て三月二十一日は御影供修行(みえいくしゆきやう)
ある故(ゆへ)に大(おほい)に賑(にき)はへり
蜂龍盃(はちりようはい) 大師河原村(たいしかはらむら)池上氏(いけかみうち)の家(いへ)に蔵(さう)せり往古(そのかみ)慶安年間(けいあんねんかん)此地(このち)に
於(おい)て酒戦(しゆせん)ありし時(とき)用(もち)ひたりし盃(さかつき)にして酒(さけ)七合/餘(あま)りをうらへると云(いふ)
盃中(さかつきのうち)蜂(はち)と龍(りよう)と蟹(かに)との象(かたち)を描金(まきゑ)にせり《割書:蜂(はち)はさし龍(りよう)はのむ蟹(かに)は肴(さかな)を|はさむといふ意(こゝろ)を含(ふく)めりとなり》
相傳(あひつたふ)池上氏(いけかみうち)は小田原(をたはら)の北条家(ほうてうけ)に属(そく)し仕(つか)ふ小田原(をたはら)落城(らくしやう)の後(のち)池(いけ)
上村(かみむら)に移(うつ)り池上(いけかみ)を氏(うち)とす《割書:後(のち)今(いま)の地(ち)へ|遷(うつ)るといへり》此家(このいへ)は水鳥記(すゐちやうき)に見えし酒客(しゆかく)
大蛇丸底深(たいしやまるそこふか)か末裔(はつえい)なり《割書:底深(そこふか)通称(つうしよう)を池上(いけかみ)|太郎右衛門(たらうゑもん)といふ》慶安(けいあん)元年八月/江戸(えと)大(おい)【注】
塚(つか)の地黄坊樽次(ちわうはうたるつく)《割書:茨木春朔(いはらきしゆんさく)と称(しよう)す春朔(しゆんさく)の事は第(たい)|四巻(しくわん)小石川(こいしかは)祥雲寺(しやううんし)の下(しも)に注(ちゆう)せり》此(この)底深(そこふか)か家(いへ)に至(いた)り
樽次(たるつく)底深(そこふか)共(とも)に酒将(しゆしやう)となり數多(あまた)の酒兵(しゆへう)を集(あつ)め敵身方(てきみかた)と分(わか)れ
【注 「大」の振り仮名は「おゝ」「おほ」ヵ】
【右丁】
假(かり)に一(ひとつ)の法令(はふれい)を立(たて)て犬居目礼古佛座(けんこもくれいこふつのさ)等(とう)の名(な)を設(もふ)け其(その)酒量(しゆりやう)を
様(ため)さんとて大盃(たいはい)を執(とつ)て勝劣(しやうふ)をわかつを以(もつ)て戯(たはむ)れとせし也/其事(そのこと)は
水鳥記(すゐちやうき)に詳(つまひらか)なり《割書:此書(このしよ)江戸(えと)と京都(きやうと)との二/本(ほん)ありて何(いつ)れも刊本(かんほん)也/樽次(たるつく)|高貴(かうき)の求(もと)めに應(おう)し酒客(しゆかく)を集(あつ)めあらそひ飲(のみ)し事(こと)を》
《割書:自(みつか)ら著(ちよ)せし|戯編(けへん)なり》又(また)此家(このいへ)に酒戦(しゆせん)の時(とき)酒徒(しゆと)に示(しめ)せる制札(せいさつ)あり《割書:闕損(けつそん)|して》
《割書:今(いま)わつかに其(その)半(なかは)を存(そん)せり樽次(たるつく)の書(しよ)なりとて墓(はか)【墨(すみ)ヵ】の跡(あと)高(たか)くなりて古色(こしき)疑(うたか)ふへからす|されと其文(そのふん)水鳥記(すゐちやうき)に出(いつ)る所(ところ)と少(すこし)く異(こと)なり其席(そのせき)に連(つらな)る酒客(しゆかく)の名(な)左(さ)の如(こと)し》
六位大酒官地黄坊樽次 江戸大塚住
毛蔵坊鉢呑 同 赤坂住
佐藤権兵衛胸赤 同 小石川住
鈴木半兵衛飲勝 同 舩町住
名護屋半之丞盛安 同 浅草住
木下杢兵衛飯嫌 同 同
三浦新之丞樽明 同 冨坂住
佐々木五郎兵衛助呑 同 麻布住
同 弥左衛門酒丸
松井金兵衛夜久 武州八王子住
齊藤傳左衛門忠呑 同 南河原住
喜太郎醒安 同 大師河原住
半斎坊數呑 同 蕨驛住
小倉又兵衛忠酔 同 川崎住
佐保田酔久 同 菅村住
【左丁】
來見坊樽持 相州平塚住
甚銕坊常赤 同 鎌倉住
以上十七人
大蛇丸池上太郎右衛門底深 武州大師河原住
池上 長吉底成 《割書:底深長男》
同 百助底平 《割書:同二男》
同 七左衛門底安《割書:同舎弟》
同 左太郎忠成
同 三郎兵衛强成《割書:底深甥》
四郎兵衛底廣 武州稲荷新田住
山下作内請安 《割書:底深従弟》 江戸赤坂住
藪下勘解由左衛門早呑
竹野小太郎盥呑
同 弥太郎數成
米倉八左衛門吐次
田中内德坊呑久
朝服九郎左衛門桶呑
またを九二郎常佐
以上十五人
末廣松(すゑひろまつ) 稲荷新田(いなりしんてん)石渡氏(いしわたうち)の門辺(かとへ)にあり此(この)石渡氏(いしわたうち)も水鳥記に
みえたる酒徒(しゆと)にて四郎兵衛底廣(しらうひやうゑそこひろ)といへる人の末(すゑ)なり昔(むかし)は
【右丁】
末廣松(すゑひろまつ)
【図】
【枠内】末廣松
【左丁】
庭中(ていちゆう)林泉(りんせん)の儲抔(まうけなと)ありて橋(はし)の傍(かたはら)に下戸(けこ)の輩(ともから)渡(わたる)へからすと
注(ちゆう)せし制札(せいさつ)を建(たて)たりしとなり酒客(しゆかく)宴飲(えんいん)の旧跡(きうせき)は今(いま)田園(てんゑん)と
なる此松(このまつ)も底廣(そこひろ)か愛樹(あいしゆ)にして末廣(すゑひろ)とは名(な)つけたりしといふ
此家(このいへ)にも酒戦(しゆせん)の頃(ころ)用(もち)ひたりしといふ大盃(おほさかつき)あり《割書:酒(さけ)七/合(かふ)をうくる|といふ盃中(はいちゆう)金泥(きんてい)》
《割書:をもて猩々(しやう〳〵)の形(かたち)を|描金(まきゑ)せしものなり》箱(はこ)の蓋(ふた)に水鳥底廣盃(みつとりそこひろさかつき)と題(たい)し又(また)左(さ)の如(こと)くの
發句(ほつく)を注(ちゆう)せり
大師河原にあそひて樽次といふものゝ
孫にあふ事
其蔓や西瓜上戸の花の種 沾圃
《割書:按(あんする)に底廣(そこひろ)を樽次(たるつく)と思(おも)ひ誤(あやま)りたりしとおほし|》
鹽濵(しほはま) 同所(とうしよ)南(みなみ)の方の海濵(かいひん)なり寛文(くわんふん)九年己酉/叶栄雲(かなふえいうん)
及(およ)ひ泉市右衛門(いつみいちゑもん)といへる者(もの)開初(ひらきはしめ)たりと云(いふ)依(よつ)て今(いま)も大師河原(たいしかはら)
川中島(かはなかしま)稲荷新田(いなりしんてん)等(とう)の村々(むら〳〵)塩(しほ)を製(せい)するを以(もつ)て産業(さんきやう)とする
もの少(すくな)からす此地(このち)風光(ふうくわう)甚(はなはた)佳景(かけい)なり
【右丁】
【図】
【左丁】
河崎(かはさき)
汐濵(しほはま)
【図】
【右丁】
石観音堂(いしくわんおんたう)
【図】
【枠内】本堂
【枠内】霊亀石
【左丁】
石観音堂(いしくわんおんたう) 同所/平間寺(へいけんし)より七丁斗/南(みなみ)にあり天台宗(てんたいしう)に
して慧日山(ゑにちさん)明長寺(みやうちやうし)と号(かう)す本尊(ほんそん)は石像(せきさう)の如意輪観音(によいりんくわんおん)也
《割書:故(ゆゑ)に石観音(いしくわんおん)|の称(しよう)あり》毎(まい)月十七日/道俗(たうそく)通夜参篭(つやさんろう)す霊亀石(れいきせき)は門内(もんない)左の
垣(かき)の傍(かたはら)にある所(ところ)の石(いし)の手水鉢(てうつはち)をいふ《割書:土人(としん)相傳(あひつた)ふ此石(このいし)は往(いに)し享保(きやうほ)|十八年の秋(あき)海底(かいてい)より出(いつ)る》
《割書:所(ところ)の霊石(れいせき)にして此地(このち)の漁人(きよしん)引揚(ひきあけ)むとせし時(とき)二三の霊亀(れいき)出(いて)て漁人(きよしん)と共(とも)に|捧(さゝ)け揚(あ)く依(よつ)て大悲(たいひ)の威神力(ゐしんりき)なる事をしり同七月晦日/竟(つひ)に堂前(たうせん)に居(すゑ)たり》
《割書:とそされと今(いま)は此石(このいし)破(やふ)れ|損(そん)して水(みつ)をたゝへかたし》
新田大明神(につたたいみやうしん)社 堀(ほり)の内山王(うちさんわう)の社(やしろ)より耕田(かうてん)を隔(へた)てゝ七丁/斗(はかり)南(みなみ)の方(かた)
渡田村(わたたむら)の道(みち)より右(みき)にあり《割書:渡田(わたた)昔(むかし)は|亘田(わたた)に作(つく)る》例祭(れいさい)は七月二日なり土俗(とそく)
云/毎年(まいねん)正月元日と七月二日の暁(あかつき)には必(かならす)軍馬(くんは)の■(いなゝ)【馬+固】く音(こゑ)
する事ありといへり《割書:相傳(あひつたふ)河北矢口村(かはきたやくちむら)に鎮座(ちんさ)まします庶子(しよし)義興公(よしおきこう)の神(しん)|霊(れい)此社(このやしろ)に来(きた)り給ふ故(ゆゑ)にしかりといふ》
本社祭神(ほんしやさいしん) 新田左中将源義貞朝臣(につたさちゆうしやうみなもとのよしさたあそん)の霊(れい)なり相傳(あひつたふ)義貞(よしさた)
公(こう)延元(えんけん)二年丁丑閏七月二日/越前國(ゑちせんのくに)足羽(あすは)の里(さと)の戦(たゝか)ひ利(り)
あらす竟(つひ)に主(ぬし)なき矢(や)の為(ため)に亡(ほろ)ひ給ひしかは骨鯁(こつきやう)の臣(しん)亘新左衛門(わたりしんさゑもんの)
【右丁】
河崎(かはさき)新田(につた)社
無動寺(むとうし)
亘新左衛門墓(わたりしんさゑもんのはか)
【図】
【枠内】無動寺
【枠内】新田社
【左丁】
【図】
【枠内】御霊
権現
【枠内】亘新左ヱ門墓
【枠内】不動
【枠内】庚申
【右丁】
尉早勝(せうはやかつ)無念(むねん)の涙(なみた)を拭(ぬく)ひ其所(そのところ)なる深泥(ふかきとろ)の中(なか)を捜(さか)し求(もとめ)て
義貞公(よしさたこう)の差添(さしそへ)の名剣(めいけん)と七ッ入子(いれこ)の明鏡(めいきやう)及(およひ)陣羽織(ちんはおり)等(とう)の
三種(さんしゆ)を得(え)て此地(このち)に携(たつさ)へ帰(かへ)り幽室(ゆうしつ)に安(あん)し朝夕(てうせき)給仕(きうし)する事
公(こう)の生前(しやうせん)に異(こと)なる事なし早勝(はやかつ)終(つひ)に弓馬(きうは)を捨(すて)て人に面(めん)
せす一向/静座(せいさ)して餘齢(よれい)を養(やしな)へり然(しかる)に里民等(りみんら)公(こう)の德(とく)を
追慕(つゐほ)し其三種(そのさんしゆ)を早勝(はやかつ)に乞(こ)ひ清潔(せいけつ)の地(ち)を求(もと)めて孤松(こしよう)の
本(もと)の土中(とちゆう)に埋蔵(まいさう)し廟(ひやう)を営(いとなみ)て新田大明神(につたたいみやうしん)と崇(あかめ)まゐらせ
此地(このち)の鎮守(ちんしゆ)とすといふ御開國(こかいこく)の後(のち)祭田等(さいてんとう)を附(つけ)らるゝとなり
《割書:其(その)孤松(こしよう)今(いま)は|枯(かれ)てなし》
太平記(たいへいきに)曰(いはく)越前國(ゑちせんのくに)足羽合戦(あすはかつせん)の条下(てうか)に軍(いくさ)散(さんし)て後(のち)氏家(うちゑ)
中務丞(なかつかさのしやう)《割書:重國(しけくに)|と云》尾張守(をはりのかみ)《割書:高径(たかつね)【注】といふ越前(ゑちせん)|藤島(ふちしま)の城(しろ)に篭(こも)る》の前(まへ)に参(まゐり)て重國(しけくに)こそ
新田殿(につたとの)の御一族(こいちそく)かと思(おほ)しき敵(てき)を討(うつ)て首(くひ)を取(とり)て候得(さふらえ)は
誰(たれ)とは名乗候(なのりさふら)はねは名字(みやうし)をは知候(しりさふら)はね共/馬(うま)物具(ものゝく)の様(さま)相(あひ)
【左丁】
順(したかひ)し兵(つはもの)ともの尸骸(しかい)を見(み)て腹(はら)をきり討死(うちしに)を仕候つる躰(てい)
何様(なにさま)尋常(よのつね)の葉武者(はむしや)にてはあらしと覚(おほえ)て候/是(これ)そ其死(そのし)
人(にん)の膚(はた)に懸(かけ)て候つる護(まもり)にて候とて血(ち)をも未(いまた)あらはぬ
首(くひ)に土(つち)の著(つき)たる金襴(きんらん)の守(まもり)を副(そへ)てそ出(いた)したりける尾張守(をはりのかみ)
此首(このくひ)を能々(よく〳〵)見給(みたま)ひてあな不思議(ふしき)や世(よ)に新田左中将(につたさちゆうしやう)の
顔(かほ)つきに似(に)たる所(ところ)あるそや若(もし)それならは左(ひたり)の眉(まゆ)の上(うへ)に
矢(や)の疵(きす)有(ある)へしとて自(みつから)鬢櫛(ひんくし)を以(もつ)て髪(かみ)を掻(かき)あけ血(ち)を
洗(すゝ)き土(つち)をあらひ落(おと)して是(これ)を見給(みたま)ふに果(はた)して左(ひたり)の眉(まゆ)の
上(うへ)に疵(きす)の跡(あと)あり是(これ)に弥(いよ〳〵)心付(こゝろつき)て帯(はかれ)たる二振(ふたふり)の太刀(たち)をは取(とり)
寄(よせ)て見給(みたま)ふに金銀(きん〳〵)を延(のへ)て作(つく)りたるに一振(ひとふり)には銀(きん)を以(もつて)
金膝纏(きんはゝき)の上(うへ)に鬼切(おにきり)と云(いふ)文字(もんし)を沈(しつめ)たり一振(ひとふり)には金(きん)を以(もつて)
銀脛巾(きんはゝき)の上(うへ)に鬼丸(おにまる)と云(いふ)文字(もんし)を入(いれ)らる是(これ)は共(とも)に源氏(けんし)重(ちう)
代(たい)の重宝(てうはう)にて義貞(よしさた)の方(かた)に傳(つたへ)たりと聞(きこ)ゆれは末々(すゑ〳〵)の一族(いちそく)
【注 「高径」は「高経」の誤】
【右丁】
共(とも)の帯(はく)へき太刀(たち)には非(あら)すと見るに弥(いよ〳〵)怪(あやし)けれは膚(はたへ)の守(まもり)を
開(ひら)きて見給(みたま)ふに吉野(よしの)の帝(みかと)の御/宸筆(しんひつ)にて朝敵征伐之(てうてきせいはつの)
事(こと)叡慮(ゑいりよの)所(ところ)_レ向(むかふ)偏(ひとへに)在(あり)_二義貞(よしさたの)武功(ふこうに)_一選(えらひて)未(いまた)【「す」左ルビ】_レ求(もとめ)_レ他(たを)可(へき)_レ運(めくらす)_二早速之計(さっそくのけい)
略(りやくを)_一者也(ものなり)と遊(あそは)されたり扨(さて)は義貞(よしさた)の首(くひ)に相違(さうゐ)なかりけり
とて尸骸(しかい)を輿(こし)に乗(の)せ時衆(ししゆ)八人に舁(かゝ)せて葬礼(さうれい)の為(ため)に
往生院(わうしやうゐん)へ送(おく)られ首(くひ)をは朱(あけ)の唐櫃(からひつ)に入(いれ)氏家中務(うちゑなかつかさ)を副(そへ)て
潜(たゝち)に京都(きやうと)へ上(のほ)せられけり云云
新田山(しんてんさん)成就院(しやうしゆゐん) 聖不動寺(しやうふとうし)と号(かう)す同所一丁/斗(はかり)南(みなみ)の方(かた)同(おな)し
側(かは)にあり新田大明神(につたたいみやうしん)の別當寺(へつたうし)にして新義(しんき)の真言宗(しんこんしう)
六郷(ろくかう)の宝幢院(はうとうゐん)に属(そく)せり本尊(ほんそん)不動明王(ふとうみやうわう)は弘法大師(こうはふたいし)の作(さく)
にして義貞公(よしさたこう)護持(こち)の霊像(れいさう)なりといふ《割書:今(いま)別堂(へつたう)を建(たて)て威怒堂(ゐぬたう)と|号(かう)しかしこに安(あん)す門(もん)の内(うち)》
《割書:左(ひたり)の方(かた)|にあり》相傳(あひつたふ)義貞公(よしさたこう)入間川(いるまかは)に陣(ちん)を布(しき)給ふ頃(ころ)二/童子(とうし)の枕上(ちんしやう)に
立(たち)給ひ鎌倉退治(かまくらたいち)の心願(しんくわん)あらは亘田(わたた)の里(さと)に安置(あんち)し奉(たてまつ)る所(ところ)の
【左丁】
御霊権現(こりやうこんけん)社
亘新左衛門塚(わたりしんさゑもんのつか)
【図】
【右丁】
姥(うは)ゕ森(もり)
栗生左衛門塚(くりふさゑもんのつか)
【図】
【枠内】姥ゕ森
【枠内】みたらし
【枠内】馬場
【左丁】
不動尊(ふとうそん)を崇信(そうしん)せよとなり依(よつ)て義貞公(よしさたこう)此霊像(このれいさう)に誓願(せいくわん)を
こめて竟(つひ)に高時(たかとき)を討亡(うちほろほ)し給ふといふ
亘新左衛門尉早勝(わたりしんさゑもんのせうはやかつ)居住旧址(きよちゆうのきうし)同所/門前(もんせん)半町あまり西(にし)の方(かた)道(みち)
より左(ひたり)にあり此地(このち)は元弘(けんこう)の頃(ころ)亘新左衛門(わたりしんさゑもん)か采邑(さいいう)にして則(すなはち)此(この)
地(ち)に住(ちゆう)したりといふ早勝(はやかつ)没(ほつ)するの後(のち)も里民(りみん)其(その)旧恩(きうおん)を忘(わす)れず
して一祠(いつし)を営建(えいけん)し早勝(はやかつ)の霊(れい)を鎮(しつめ)て御霊権現(これうこんけん)と
崇敬(そうきやう)す傍(かたはら)に早勝(はやかつ)の墳墓(ふんほ)あり高(たか)さ三尺/計(はかり)の石(いし)の
層塔(そうたふ)なり
姥(うは)ゕ森(もり) 成就院(しやうしゆゐん)より七八町/計(はかり)南(みなみ)の方/海濵(かいひん)にあり堀(ほり)の内(うち)
山王(さんわう)の旅所(たひしよ)にして西(にし)の方(かた)へ續(つゝ)き馬場(はゝ)の形(かたち)を存(そん)す《割書:土人/義貞(よしさた)|寄附(きふ)の》
《割書:馬場(はゝ)なりと云/御手洗池(みたらし)は森(もり)の中(うち)に|有(あり)て纔(わつか)にその形(かたち)を存(そん)するのみ》
栗生左衛門尉忠良塚(くりふさゑもんのしやうたゝよしのつか) 同/姥(うは)ゕ森(もり)よりは五丁/計(はかり)西(にし)の方/海濵(かいひん)に
臨(のそ)み方(はう)八間斗/竹藪(たけやふ)の中(うち)に有(あ)り《割書:五輪(こりん)の石塔(せきたふ)にして|文字(もんし)剝落(はくらく)せり》相傳(あひつた)ふ
【右丁】
忠良(たゝよし)卒(そつ)するの後(のち)早勝(はやかつ)朋友(ほうゆう)の信(しん)を以(もつ)て其(その)霊骨(れいこつ)を此地(このち)に
埋蔵(まいさう)し塚(つか)を築(つき)たりといへり
瑞龍山(すゐりうさん)宗参寺(しうさんし) 河崎驛(かはさきのえき)砂子(すなこ)町の右側(みきかは)の向(むかふ)にあり洞家(とうけ)の禅(せん)
刹(せつ)にして末吉(すゑよし)の宝泉寺(はうせんし)に属(そく)す本尊(ほんそん)釋迦如来(しやかによらい)は座像(ささう)にして
一尺五寸/計(はかり)の唐佛(たうふつ)なり脇士(けふし)は文珠(もんしゆ)普賢(ふけん)の木像(もくさう)にして
作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす《割書:當寺(たうし)古(いにしへ)は薬師(やくし)の別當寺(へつたうし)にして|養光寺(やうくわうし)の薬師(やくし)此寺(このてら)にありしと云》相傳(あひつた)ふ當寺(たうし)は
佐々木四郎高綱(さゝきしらうたかつな)の香花院(かうけゐん)にして其頃(そのころ)は砂子一邑(すなこいちいう)悉(こと〳〵)く當寺(たうし)の
食地(しよくち)たりしとなり開山(かいさん)は臨室玄統和尚(りんしつけんとうおしやう)と号(かうす)昔(むかし)は濟家(さいけ)の
禅林(せんりん)にて鎌倉(かまくら)の建長寺(けんちやうし)に属(そく)せしといふ遥(はるか)の後(のち)天正(てんせう)に至(いた)り
小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の功臣(こうしん)間宮豊前守信盛(まみやふせんのかみのふもり)といへるは《割書:永禄(えいろく)二年/小田(をた)|原(はら)北条家(ほうてうけ)の》
《割書:所領役帳(しよりやうやくちやう)に間宮豊前守(まみやふせんのかみ)所領(しよりやう)武蔵(むさし)久良岐郡(くらきこほり)杉田(すきた)江戸(えと)川崎(かはさき)小机(こつくゑ)末吉(すゑよし)東(ひかし)|郡(こほり)小雀(こすゝめ)入西郡(いりにしこほり)冨屋(とや)三浦(みうら)元文珠坊(もともんしゆはう)知行(ちきやう)の地(ち)等(とう)すへて六百九十八/貫(くわん)百廿二文の》
《割書:地(ち)を領(りやう)する|由(よし)みえたり》佐々木四郎高綱(さゝきしらうたかつな)か遠裔(ゑんえい)なりしかは寺境(しけう)方八丁を寄(き)
附(ふ)し末吉邑(すゑよしむら)宝泉寺(はうせんし)四代の住持(ちゆうち)自山長老(しさんちやうらう)を請(しやう)して當寺(たうし)の中(ちゆう)
【左丁】
興(こう)開山(かいさん)とし曹洞宗(そうとうしう)に改(あらた)む信盛(のぶもり)法名(はふみやう)を瑞榮院殿雲谷(すゐえいゐんてんうんこく)
宗三大居士(しうさんたいこし)と号(かう)す其(その)石塔(せきたふ)は當寺(たうし)佛殿(ふつてん)の後(うしろ)の方(かた)銀杏樹(いてふのき)の
下(した)に存(そん)す《割書:元禄年間(けんろくねんかん)御幕下(おんはくか)間宮家(まみやけ)より宗参大居士(しうさんたいこし)供養(くやう)の為(ため)其(その)采邑(さいいう)|川崎(かはさき)小田村(をたむら)にて寺領(しりやう)の地(ち)を寄附(きふ)せらるゝとなり》
《割書:按(あんする)に當寺(たうし)什物(しうもつ)元禄(けんろく)四年辛未正月/間宮家(まみやけ)寺領(しりやう)寄附状(きふちやう)に間宮豊前守(まみやふせんのかみ)|信盛(のふもり)法名(はふみやう)宗三(しうさん)といふとあり又/當寺(たうし)開基(かいき)の墓碑(ほひ)には雲谷宗参居士(うんこくしうさんこし)佐々木(さゝき)》
《割書:前豊前守入道源康信(さきのふせんのかみにうたうみなもとのやすのふ)と鐫(ちり)はむしかうして信盛(のふもり)の法名(はふみやう)を宗三に作(つく)り康信(やすのふ)の|法名(はふみやう)を宗参(しうさん)に作(つく)る猶(なほ)疑(うたか)はし然(しか)れとも寺号(しかう)を宗参寺(しうさんし)と称(しょう)し又/康信(やすのふ)を當(たう)》
《割書:寺(し)の開基(かいき)といふ時(とき)は康信(やすのふ)の法名(はふみやう)は宗参(しうさん)なる事/疑(うたかひ)無(な)きに似(に)たり》
高綱(たかつな)護持(こち)の本尊(ほんそん)は如意輪観音(によいりんくわんおん)の木佛(もくふつ)にして座像(ささう)一尺五寸
あり作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす別堂(へつたう)に安(あん)して本堂(ほんたう)の左(ひたり)にあり
海栄山(かいえいさん)養光寺(やうくわうし) 宗参寺(しうさんし)より四丁/斗(はかり)先(さき)の方(かた)砂子(すなこ)町の道(みち)より左側(ひたりかは)に
あり洞家(とうけ)の禅宗(せんしう)にして宗参寺(しうさんし)に属(そく)す指月和尚(しけつおしやう)開創(かいさう)の寺院(しゐん)
たり本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)の座像(ささう)二尺五寸/計(はかり)あり延暦(えんりやく)六年丁卯の
とし此地(このち)の海中(かいちゆう)より出現(しゆつけん)し給へりといふ《割書:土人(としん)傳(つたへ)云(いふ)此本尊(このほんそん)往古(いにしへ)|海中(かいちゆう)より出現(しゆつけん)の時(とき)海(かい)》
《割書:濵(ひん)の砂子(すなこ)を集(あつ)めて其上(そのうへ)に安置(あんち)せしより砂子(すなこ)といへる地名(ちめい)發(おこ)れりと此(この)霊像(れいさう)|昔(むかし)は宗参寺(しうさんし)の本尊(ほんそん)なりしを後(のち)當寺(たうし)に遷(うつ)すといへり》
【右丁】
河崎(かはさき)
宗三寺(そうさんし)
養光寺(やうくわうし)
佐々木宮(さゝきのみや)
【図】
【枠内】佐々木宮
【枠内】本堂
【枠内】養光寺
【枠内】佐々木塚
【枠内】本堂
【左丁】
【図】
【枠内】観音
【枠内】宗参寺
【枠内】かね
【右丁】
佐々木明神社(さゝきみやうじんのやしろ) 養光寺(やうくわうし)の境内(けいたい)本堂(ほんたう)の右(みき)に並(なら)へり此地(このち)の鎮守(ちんしゆ)
にして宗参寺(しうさんし)より奉祀(ほうし)す祭神(さいしん)近江(あふみ)の佐々木明神(さゝきみやうしん)に相同(あひおな)
しきといふ相殿(あひてん)に高綱(たかつな)の霊(れい)を崇(あか)むるとそ相傳(あひつた)ふ高綱(たかつな)
鎌倉(かまくら)右大将家(うたいしやうけ)の命(めい)を蒙(かふむ)り此(この)河崎(かはさき)の地(ち)に山王宮(さんわうくう)《割書:堀(ほり)の内(うち)|山王(さんわう)是(これ)》
《割書:なら|ん》建立(こんりふ)の奉行(ふきやう)たりしかは其縁(そのえむ)を採(とり)て間宮信盛(まみやのふもり)先霊(せんれい)の
神徳(しんとく)を追慕(つゐほ)し江州(こうしう)の本祠(ほんし)を摸(うつ)して此地(このち)に當社(たうしや)を創(さう)
立(りふ)すと云九月十九日を以て祭日(さいにち)とす
勝福寺舊址(しようふくしのきうし) 其(その)廃跡(はいせき)今(いま)知(しる)へからす然(しかる)に南総(なんさう)望陀郡(まうたこほり)奈良(なら)
輪邑(わむら)の東(ひかし)坂戸市場(さかといちは)と号(かう)する地(ち)に坂戸明神(さかとみやうしん)と称(しよう)する
社(やしろ)あり其(その)社前(しやせん)に一口の梵鐘(ほんしやう)を懸(かく)る銘(めい)に武州(ふしう)河崎(かはさき)庄内(しやうない)
勝福寺(しようふくし)とありて弘長(こうちやう)三年癸亥二月八日/大檀那(たいたんな)禅定(せんちやう)
比丘十阿(ひくしうあ)及(およ)ひ壹岐守泰綱(いきのかみやすつな)等(とう)の名(な)を注(ちゆう)せり按(あんする)に乱世(らんせい)の
頃(ころ)陣鐘(ちんかね)抔(なと)に奪(うは)ひ取(と)られしより其(その)地(ち)にはあるならん歟(か)
【左丁】
《割書:按(あんする)に東鑑(あつまかゝみ)に文應(ふんおう)二年辛酉/此年(このとし)二月/改元(かいけん)ありて弘長(こうちやう)と号(かう)す五月十三日|甲戌今日/晝番(ひるはん)の間(あひた)廣御所(ひろこしよ)において佐々木壹岐前司泰綱(さゝきいきのせんしやすつな)と渋谷(しふや)》
《割書:太郎右衛門尉武重(たらうゑもんのせうたけしけ)と口論(こうろん)に及(およ)ふと云々/然(しか)る時(とき)は鐘(かね)の銘(めい)に泰綱(やすつな)とあるは|東鑑(あつまかゝみ)に記(しる)す所(ところ)の壹岐前司(いきのせんし)の事なるへし此(この)泰綱(やすつな)は四郎高綱(しらうたかつな)の甥(をひ)にして》
《割書:信綱(のふつな)か二/男(なん)なり|》
観音堂(くわんおんたう) 市場村(いちはむら)街道(かいたう)より左(ひたり)の方(かた)一心山(いっしんさん)専念寺(せんねんし)といへる浄(しやう)
刹(せつ)に安置(あんち)せり本尊(ほんそん)千手大悲(せんしゆたいひ)の像(さう)は寛朝(くわんてう)の作(さく)御丈(おんたけ)四寸
ありて紫式部(むらさきしきふ)の念持佛(ねんちふつ)なりと云傳(いひつた)ふ承應年間(しやうおうねんかん)近江(あふみの)
國(くに)石山観音(いしやまくわんおん)の辺(へん)に老嫗(おいおうな)一人/住(すめ)り或時(あるとき)西國行脚(さいこくあんきや)の僧(そう)
愚蔵坊照西(くさうはうせうさい)といふ沙門(しやもん)此(この)老嫗(おいおうな)かもとに宿(しゆく)せし夜(よ)老嫗(おいおうな)の
病悩(ひやうのう)を救(すく)ふ其(その)報(むくひ)として此(この)霊像(れいさう)を授(さつ)く後(のち)故(ゆゑ)ありて當(たう)
寺(し)に安置(あんち)なし奉(たてまつ)るといへり毎月(まいけつ)十七日には参詣(さんけい)の人/多(おほ)し
本堂(ほんたう)に掲(かく)る所(ところ)の額(かく)に一心山(いっしんさん)と書(しよ)せしは縁山(えんさん)前大僧正(さきのたいそうしやう)
雲外(うんけ)の筆(ふて)なり
鶴見川(つるみかは) 海道(かいたう)に架(わた)す所(ところ)の橋(はし)の号(かう)も又(また)鶴見橋(つるみはし)と呼(よ)へり
【右丁】
市場観音(いちはくわんおん)
【図】
【枠内】いなり
【枠内】薬師
【枠内】観音
【枠内】地蔵
【枠内】市場村
【左丁】
《割書:長二十|七間》水源(みなもと)は多磨郡(たまこほり)小野路(をのち)都筑郡(つつきこほり)長津田(なかつた)及(およ)ひ橘樹(たちはな)
郡(こほり)馬絹(まきぬ)の辺(へん)より發(はつ)して恩田川(おんたかは)早瀬川(はやせかは)矢上川(やかみかは)鳥山川(とりやまかは)佐(さ)
江戸川(えとかは)等(とう)の川々(かは〳〵)落合(おちあ)ひ鶴見村(つるみむら)に至(いた)る故(ゆゑ)に鶴見川(つるみかは)の号(かう)
あり梅松論(はいしようろん)に元弘(けんこう)三年五月十四日/鎌倉方(かまくらかた)討手(うつて)として
武蔵守貞将(むさしのかみさたまさ)大将(たいしやう)にて向(むか)ふ下総(しもふさ)よりは千葉介定貞胤(ちはのすけさたたね)義貞(よしさた)
と同心(とうしん)の義(き)有(あつ)て攻上(せめのほ)る間(あひた)武蔵(むさし)の鶴見(つるみ)の辺(へん)に於(おい)て戦(たゝか)ひ
打負(うちまけ)て引退(ひきしりそ)くとあり
末吉不動堂(すゑよしふとうたう) 末吉村(すゑよしむら)にあり鶴見邑海道(つるみむらかいたう)より廿七町/斗(はかり)
西(にし)にあり明王山(みやうわうさん)不動院(ふとうゐん)真福寺(しんふくし)と号(かう)す天台宗(てんたいしう)にして
品川(しなかは)常行寺(しやうきやうし)に属(そく)す本尊(ほんそん)不動明王(ふとうみやうわう)を安置(あんち)すその像(さう)は
坐像(ささう)にして六尺/餘(よ)あり慈覚大師(しかくたいし)の作(さく)といふ本堂(ほんたう)には
十一面/観音(くわんおん)を安(あん)す坐像(ささう)二尺斗り行基菩薩(きやうきほさつ)の作(さく)なり仁王(にわう)
門(もん)の額(かく)真福寺(しんふくし)と書(しよ)せしは増上寺/大僧正(たいそうしやう)智堂(ちたう)和尚の書なり
【右丁】
末吉不動堂(すゑよしふとうたう)
【図】
【枠内】不動堂
【枠内】本堂
【枠内】かね
【枠内】仁王門
【枠内】末吉村
【左丁】
秋田城之介義景(あいたしやうのすけよりかけ)【注】旧館地(きうくわんのち) 其地(そのち)今(いま)しるへからす東鑑(あつまかゝみ)に仁治(にんち)
二年十一月四日 将軍家(しやうくんけ)武蔵野開發(むさしのかいほつ)の御方違(おんかたたかへ)として
義景(よしかけ)か武蔵國(むさしのくに)の鶴見(つるみ)の別荘(へつさう)に渡御(ときよ)頗以(すこふるもつ)て壮観(さうくわん)なりとあり
醫王山(いわうさん)成願寺(しやうくわんし) 鶴見村(つるみむら)の内(うち)にして街道(かいたう)より山手へ入る事三丁
斗(はかり)にあり曹洞(さうとう)の禅刹(せんせつ)にして寺尾(てらを)天光寺(てんくわうし)に属(そく)す本尊(ほんそん)釋迦(しやか)
如来(によらい)にして作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす開山(かいさん)を聲菴聞大和尚(せいあんもんたいおしやう)と号す
薬師堂(やくしたう)に安(あん)する所の薬師座像(やくしささう)にして七尺斗り古佛(こふつ)に
してともに作者(さくしや)知(し)れすといふ
白籏八幡宮(しらはたはちまんくう) 白籏村(しらはたむら)にあり義経(よしつね)の霊(れい)を鎮る所と云/傳(つた)ふ別當(へつとう)
は神奈川(かなかわ)能満院(のうまんゐん)兼帯(けんたい)す来由(らいゆ)は拾遺(しうゐ)江戸名所/圖會(つゑ)に
詳(つまひらか)なり
子安観世音(こやすくわんせおん) 子安村(こやすむら)海道(かいたう)より右(みき)の方(かた)の岳(をか)にあり子生山(こいけさん)
東福寺(とうふくし)と号(かう)す新義(しんき)の真言宗(しんこんしう)にて神奈川(かなかは)の金蔵(こんさう)
【注 「義景」の振り仮名はママ】
【右丁】
鶴見橋(つるみはし)
橋(はし)より此方(こなた)に
米饅頭(よねまんちう)を賣(うる)
家(いへ)多(おほ)く此地(このち)の
名産(めいさん)とす鶴屋(つるや)
なといへるもの尤(もつとも)
旧(ふる)く慶長(けいちやう)の頃(ころ)
より相續(さうそく)すると
いへり
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
生麥村(なまむきむら)
しからき茶店(ちやみせ)
生麥(なまむき)は河崎(かはさき)と
神奈川(かなかは)の間宿(あひのしゆく)にて
立場(たては)なり此地(このち)しか
らきといへる水茶屋(みつちやや)は
享保年間(きやうほねんかん)鄽(みせ)を
開(ひら)きしより梅干(うめほし)を
鬻(ひさ)き梅漬(うめつけ)の生(しやう)
姜(か)を商(あきな)ふ往来(わうらい)の人(ひと)
こゝに休(いこ)はさるものなく
今時(こんし)の繁昌(はんしやう)
なゝめ
なら
す
【図】
【看板】しからき
せんし茶
【左丁】
【図】
【提灯】弁財天
【看板】しからき
御せんし茶
【右丁】
成願寺(しやうくわんし)
【図】
【枠内】庫裡
【枠内】白山松
【左丁】
【図】
【枠内】薬師
【枠内】山門
【枠内】竜燈松
【枠内】本堂
【枠内】地蔵
【右丁】
【図】
【左丁】
白旗八幡宮(しらはたはちまんくう)
【図】
【枠内】本社
【枠内】白旗村
【右丁】
子生山(こいけさん)
観音堂(くわんおんたう)
【図】
【枠内】仁王門
【枠内】はせを碑
【左丁】
【図】
【枠内】光明杉
【枠内】そう堂
【枠内】観音堂
【枠内】かね
【枠内】護摩堂
【枠内】東福寺
【枠内】本堂
【右丁】
院(ゐん)に属(そく)す開基(かいき)の大祖(たいそ)は勝覚僧正(しようかくそうしやう)《割書:理源大師(りけんたいし)|の法孫(はふそん)也》本尊(ほんそん)は如意輪(によいりん)
観音(くわんおん)にして佛工(ふつこう)春日(かすか)の作(さく)一寸八分の座像(ささう)なり
縁起曰(えんきにいはく)往古(そのかみ)勝覚僧正(しようかくそうしやう)一夜(いちや)異僧(いそう)を夢(ゆめ)みる事あり然(しかる)に
件(くたん)の異僧(いそう)告(つけ)て曰(いは)く我(われ)は如意輪観音(によいりんくわんおん)なり昔(むかし)佛工(ふつこう)春日(かすか)
和州(わしう)泊瀬(はせ)の観音(くわんおん)を彫刻(てうこく)せし序(ついて)我(わか)形像(けいさう)をも刻(こく)し末(まつ)
世(せ)の衆生(しゆしやう)を利益(りやく)せよとなり然(しかる)に我(われ)海中(かいちゆう)にある事/久(ひさ)し
今(いま)武州(ふしう)鶴見川(つるみかは)の末(すゑ)生麥(なまむき)の浦(うら)に漂泊(へうはく)す是(これ)我(わか)有縁(うえん)の地(ち)
なり汝(なんち)関東(くわんとう)に至(いた)り一宇(いちう)を創立(さうりふ)して安置(あんち)せよと告(つけ)給ふと
見(み)て夢(ゆめ)さむ僧正(そうしやう)は奇異(きい)の思(おも)ひをなし直(すく)に旅装(たひよそひ)して
此(この)生麥(なまむき)の浦(うら)に至(いた)られしに光明(くわうみやう)赫爍(かくやく)として本尊(ほんそん)海中(かいちゆう)の
浪(なみ)に随(したか)つて勝覚僧正(しようかくそうしやう)の掌上(しやうしやう)に出現(しゆつけん)し給ふ時(とき)に又(また)薩埵(さつた)告(つけ)
て曰(のたまは)く此地(このち)乾隅(いぬゐのすみ)の山(やま)に安(あん)すへしと即(すなはち)勝覚僧正(しようかくそうしやう)當山(たうさん)に登(のほ)り
佛意(ふつい)に任(まか)せ地(ち)を卜(ほく)して草舎(さうしや)を経営(けいえい)し今(いま)の本尊(ほんそん)を安置(あんち)
【左丁】
せり時(とき)に寛治(くわんち)元年三月十八日なり《割書:今(いま)の御堂(みたう)の地(ち)は昔(むかし)より本尊(ほんそん)|安置(あんち)の旧跡(きうせき)にて更(さら)に地(ち)を》
《割書:改(あらたむ)る事な|しと云》其後(そののち)稲毛(いなけ)の領主(りやうしゆ)稲毛三郎平重成(いなけさふらうたひらのしけなり)《割書:中/稲毛(いなけ)の地(ち)其(その)|所領(しよりやう)なりしと也》嗣(つき)
なきを愁(うれひ)とし堂宇(たうう)を修営(しゆえい)諸人(しよにん)供(くう)する所(ところ)の米銭(へいせん)を
乞(こひ)て一年の俸(ほう)に比(ひ)し晨昏(あけくれ)大士(たいし)へ礼拝(れいはい)し事(つかふ)まつること
恰(あたか)も君(きみ)に給仕(きうし)するか如(こと)し三年の後(のち)其妻(そのつま)懐妊(くわいにん)し明年(みやうねん)十一月
一/男子(なんし)を生(しやう)せり《割書:左衛門平(さゑもんたひらの)|重安(しけやす)是(これ)なり》重成(しけなり)歓喜(くわんき)に堪(たへ)す美田(ひてん)三千畝(さんせんほ)
山林(さんりん)方一里有半(はういちりいうはん)の地(ち)を寄附(きふ)し山(やま)を子安(こやす)と号(かう)し院宇(ゐんう)を
植本(うゑもと)と称(しよう)す尓来(しかしてよりこのかた)薩埵(さつた)の威力(ゐりき)益(ます〳〵)新(あらた)にして禱賽(たうさい)する者(もの)
絡繹(らくえき)として絶(たえ)す又(また)堀川帝皇子(ほりかはていわうし)ましまさゝるを愁(うれ)へ
給ひしかは勝栄僧正(しようえいそうしやう)《割書:勝覚(しようかく)の|法嗣(はふし)也》此(この)本尊(ほんそん)の威霊(ゐれい)を奏聞(さうもん)す
依(よつ)て前大納言(さきのたいなこん)藤原道房卿(ふちはらのみちふさきやう)をして其(その)御祈願(こきくわん)の為(ため)に
當山(たうさん)に詣(まう)てしむ三年の後(のち)皇妃(くわうひ)正(まさ)に妊娠(にんしん)し給ひ明年(みやうねん)五月
太子(たいし)降誕(かうたん)なし給へり則(すなはち)鳥羽院(とはのゐん)と申/奉(たてまつ)るは此皇子(このわうし)なり
【右丁】
義高入道墓(よしたかにふたうのはか)
【図】
【左丁】
《割書:按(あんす)るに鳥羽院(とはのゐん)は康和(かうわ)五年正月十六日に|降誕(かうたん)なし給へり五月は誤(あやまり)なるへし》帝(みかと)叡感(えいかん)斜(なゝめ)ならす勅(ちよく)して子生山(こいけさん)
東福寺(とうふくし)の号(かう)を賜(たま)ふ遥(はるか)の後(のち)文亀(ふんき)永正(えいしやう)の間(あひた)東國(とうこく)屢(しは〳〵)兵戦(へうせん)起(おこ)り
し頃(ころ)大(おほい)に衰廃(すゐはい)せしかとも大悲閣(たいひかく)のみは厳然(けんせん)たりしとなり
《割書:寺僧(しそう)云(いふ)今(いま)に至(いた)り寄願(きくわん)ある者(もの)當寺(たうし)本尊(ほんそん)に詣(まうて)し諸人(しよにん)供(くう)する所(ところ)の賽銭(さいせん)を乞(こひ)年(ねん)|限(けん)を定(さた)め本尊(ほんそん)に給仕(きうし)と称(しやう)して誠信(せいしん)に祈念(きねん)し奉(たてまつ)る時(とき)は給仕(きうし)の年限(ねんけん)満(みつ)るをまたす》
《割書:して求(もとむ)る所(ところ)の諸願(しよくわん)円満(ゑんまん)ならすといふ事なしとなり》
仙鶴山(せんくわくさん)松隠寺(しようおんし) 東寺尾村(ひかしてらをむら)にあり《割書:享保(きやうほ)の頃(ころ)迄(まて)は|松音寺(しようおんし)と称(しよう)す》済家(さいけ)の禅林(せんりん)に
して鎌倉(かまくら)建長寺(けんちやうし)雲外庵(うんけあん)の佛壽禅師(ふつしゆせんし)開創(かいさう)の古刹(こせつ)なり
《割書:禅師(せんし)は建武(けんむ)二年二月十八日/化寂(けしやく)すといふ鎌倉志(かまくらし)には文和(ふんわ)|三年二月十八日/尓寂(ししやく)とあり此地(このち)は雲外庵(うんけあん)の采地(さいち)なり》本尊(ほんそん)釋迦如来(しやかによらい)は
座像(ささう)にして二尺/計(はかり)あり
慈眼堂(しけんたう) 松隠寺(しようおんし)よりさし渡(わた)し壱丁/斗(はかり)門(もん)を出(いで)て小(ちいさ)き坂(さか)を
下(を)り廻(めく)りて二丁/半斗(はんはかり)岡(をか)の上(うへ)にあり本尊(ほんそん)十一面観音(しふいちめんくわんおん)
佛工(ふつこう)春日(かすか)の作(さく)なり小机札所(こつくゑふたしよ)の一(いつ)にして松隠寺(しようおんし)より
兼帯(けんたい)せり
【右丁】
義高入道墓(よしたかにふたうのはか)《割書:仁王門(にわうもん)の傍(かたはら)古墳(こふん)の前(まへ)に石(いし)の地蔵尊(ちさうそん)を安(あん)せし小堂(しやうたう)あり軒(のき)に|義高入道(よしたかにふたう)と記(しる)せし額(かく)を掲(かゝけ)たり相傳(あひつた)ふ義高入道(よしたかにふたう)は小笠原内蔵人(をかさはらくらんと)》
《割書:と称(しよう)す後(のち)里見(さとみ)と号(かうす)小田原(をたはら)の合戦(かつせん)に討死(うちしに)せし人なりといへ共/未(いまた)考(かんかへす)此地(このち)の農家(のうか)に|平田氏(ひらたうち)某(それかし)なるあり其(その)始祖(しそ)は義高入道(よしたかにふたう)の家臣(かしん)にてありしとなり附(つけ)て云(いふ)松隠寺(しようおんし)什(しう)》
《割書:物(もつ)の中(うち)に建武(けんむ)元年に記(しる)せし圖(つ)あり人名を注(ちゆう)せし中(うち)に地頭(ちとう)阿波國守護(あはのくにしゆこ)小笠原(をかさはら)|内蔵人太郎入道(くらんとたらうにふだう)といへる名(な)ありこゝに阿波(あは)の國(くに)とあるは安房國(あはのくに)の誤(あやまり)ならん小笠原(をかさはら)》
《割書:内蔵人(くらんと)は先(さき)の義高入道(よしたかにふたう)の祖先(そせん)ならん歟(か)或(あるひ)は又/義高(よしたか)の名(な)に附會(ふくわい)して里見(さとみ)を混(こん)し|交(まし)へしもの歟(か)猶(なほ)可考(かんかふへし)》
護國山(ここくさん)観福壽寺(くわんふくしゆし) 東子安村(ひかしこやすむら)新宿海道(しんしゆくかいたう)より右(みき)の方(かた)の山脇(やまわき)に
あり世俗(せそく)浦島寺(うらしまてら)と称(しよう)す昔(むかし)は歸國山(きこくさん)浦島院(うらしまゐん)といひける由(よし)
縁起(えんき)に見えたり當寺(たうし)は 淳和帝(しゆんわてい)の勅願(ちよくくわん)にして檜尾僧都(ひのをそうつ)
開基(かいき)たり
本堂(ほんたう) 本尊(ほんそん)聖観世音菩薩(しやうくわんせおんほさつ)《割書:立像(りふさう)にして御長(おんたけ)一尺三寸あり世(よ)に浦島(うらしま)の|観世音(くわんせおん)とのみも称(しよう)せり寺傳(してん)に云(いは)く當時(たうし)》
《割書:浦島子(うらしまこ)蓬壺(ほうこ)の蘭臺(らんたい)にあそひ旧里(きうり)に走(さら)んとするの日(ひ)神女(しんによ)一箇(いつか)の玉匣(たまてはこ)と共(とも)に大悲(たいひ)の|尊像(そんさう)をあたへて曰(いは)く子(し)今(いま)本土(ほんと)にかへり去(さ)らんとす仍(よつて)渡海風波(とかいふうは)の難(なん)を凌(しの)き又/長生(ちやうせい)》
《割書:ならしめん事を祢【ねヵ】き思(おも)ふと竟(つひ)に嶋子(しまこ)故郷(こきやう)に帰(かへ)り去(さ)るの後(のち)むさしの國(くに)霞(かすみ)か浦(うら)に|いたり《割書:今のかな|川の地也》霊像(れいさう)の告(つけ)により父(ちゝ)のつかの地(ち)をしり傍(かたはら)に草堂(さうたう)を結(むす)んて彼(かの)大悲(たいひ)の》
《割書:霊像(れいさう)をうつし|まゐらすとあり》
浦島明神(うらしまみやうしん)《割書:本堂(ほんたう)に安(あん)す八千歳の御社(おんやしろ)とも称(しよう)するよし縁起(えんき)にみえたり此(この)|社(やしろ)は乃(すなは)ち浦島太郎(うらしまたらう)の霊(れい)をまつる開山(かいさん)檜尾僧都(ひのをそうつ)より五/世(せ)の後(のち)》
【左丁】
《割書:勝海(しようかい)上人の時(とき)に至(いた)り寛平(くわんへい)七年七月七日/霊告(れいこく)ありしより毎歳(まいさい)七月七日を祭日(さいにち)と|するといへり今(いま)丹後國(たんこのくに)竹野郡(たけのこほり)阿佐茂川(あさもかは)の東網野村(ひかしあみのむら)【注】といへるに浦島子(うらしまこ)の霊社(れいしや)》
《割書:あり浅毛河明神(あさもかはみやうしん)と称(しよう)せり又/網野明神(あみのみやうしん)とも号(なつ)くるよし詞林采葉(しりんさいえう)およひ神社啓(しんしやけい)|蒙(もう)等(とう)の書(しよ)に見えたり和漢三才圖會(わかんさんさいつゑ)に浦島子(うらしまこ)は根見命(ねみのみこと)の後胤(こういん)なりとあり可考(かんかふへし)》
亀化大龍女(きけたいりうによ)《割書:同/本堂(ほんたう)にあり浦島子(うらしまこ)海上(かいしやう)に釣(つり)を垂(たれ)て得(え)たりし霊亀(れいき)を祝(いは)ひ|まつるといへり渡海安穏守護(とかいあんおんしゆこ)の神(かみ)なりとて舩人(ふなひと)多(おほ)く是(これ)を崇敬(そうきやう)す》
龍燈松(りうとうのまつ)《割書:寺(てら)の後(うしろ)の方(かた)山(やま)の頂(いたゝき)にあり傳(つたへ)いふ此(この)樹上(しゆしやう)今(いま)も時(とき)として龍燈(りうとう)の懸(かゝ)る事あり|當寺(たうし)の本尊(ほんそん)は龍宮相承(りうくうさうしやう)の霊像(れいさう)なれは其(その)證(しるし)としてかくの如(こと)しとなり》
目當燈篭(めあてとうろう)《割書:龍燈松(りうとうまつ)の下(しも)にあり夜中(やちゆう)入津(にふしん)の舩(ふね)の便(たより)とす享保(きやうほ)の頃(ころ)|此地(このち)の農民(のうみん)松井某(まつゐそれかし)建立(こんりふ)せしとて今(いま)に連綿(れんめん)たり》
菩提樹(ほたいしゆ)《割書:當寺(たうし)山林(さんりん)に数株(すしゆ)ありて年々(とし〳〵)に業生(こうしやう)す相傳(あひつた)ふ|浦島子(うらしまこ)龍(たつ)の都(みやこ)より齎(もた)らし来(きた)る所(ところ)なりと》
浦島太郎墓(うらしまたらうのはか)《割書:堂前(たうせん)にあり島子(しまこ)自(みつから)建置(たておき)し|故(ゆゑ)に齢塚(よはひつか)といふなりといへり》同/足洗井(あしあらひのゐ)《割書:道(みち)の傍(かたはら)にあり|今(いま)も里民(りみん)の用水(ようすゐ)と》
《割書:せり又/布袋丸(ほていまる)の|井(ゐ)ともいふとそ》同/腰掛石(こしかけいし)《割書:其(その)旧跡(きうせき)今(いま)|さたかならす》
日本紀雄略記曰 雄略天皇二十二年戊午秋七
月丹波國餘社郡管川人水江浦島子乗舟而釣
遂得大亀便化為女於是浦島子感以為婦相逐
入海到蓬莱山歴覩仙衆語在別巻
日本後紀淳和記曰 淳和天皇天長二年帰郷至
今三百四十七年也浦島子到蓬莱居之三年春
日初暖群鳥和鳴煙霞瀁靄花樹競開問歸歟之
計婦曰列仙之陬一去難再来縦歸故郷定非住
日浦島子為訪親舊強催歸駕婦與一筥曰慎莫
【注 「綱」は誤】
【右丁】
【図】
【枠内】竜燈松
【枠内】観音堂
【枠内】浦島墓
【枠内】かね
【枠内】観福寺
【左丁】
観福壽寺(くわんふくしゆし)
浦島寺(うらしまてら)といふ
【図】
【右丁】
開此筥若不開者自再相逢浦島子到本郷林園
零落親舊悉亡逢人問之曰昔聞浦島子仙化而
去漸過百年爰帳然如失歩於邯鄲心中大■【恠ヵ】開
匣見之於是浦島子忽變衰老晧白之人不去而
死
万葉集
春日(ハルノヒ)之(ノ)霞(カスメル)時(トキ)爾(ニ)墨吉(スミノエ)之(ノ)岸(キシ)爾(ニ)出居(イテ井)而(テ)釣舩(ツリフネ)之(ノ)得(ト)乎(ヲ)
良(ラ)布(フ)見(ミレ)者(ハ)古(イニシヘ)之(ノ)事(コト)曽(ソ)所念(オモホユ)水江(ミツノエ)之(ノ)浦島兒(ウラシマコ)之(カ)堅魚(カツヲ)
釣(ツリ)鯛釣(タヒツリ)矜(ホコリ)及七日(ナヌカマテ)家(イヘ)爾(ニ)毛(モ)不来(コス)而(テ)海界(ウナサカ)乎(ヲ)過(スキ)而(テ)搒(コキ)
行(ユク)爾(ニ)海若神(ワタツミノカミ)之(ノ)女(ヲトメ)爾(ニ)邂(タマサカ)爾(ニ)伊(イ)許(コ)藝(キ)趍(ワシリテ)相(アヒ)𧨙(カタ)良(ラ)比(ヒ)言(コト)
成(ナリ)之(シ)賀(カ)婆(ハ)加(カ)吉(キ)結(ムスヒ)常代(トコヨ)爾(ニ)至(イタリ)海若神(ワタツミノカミ)之(ノ)宮(ミヤ)乃(ノ)内隔(ウチノヘ)
之(ノ)細有(タヘナル)殿(トノ)爾(ニ)擕(タツサハリ)二人(フタリ)入(イリ)居(井)而(テ)老(オイ)目(モ)不為(セス)死(シニモ)不為(セス)而(シテ)
永世(ナカキヨ)爾(ニ)有(アリ)家(ケ)留(ル)物(モノ)乎(ヲ)世間(ヨノナカ)之(ノ)愚人(シレタルヒト)之(ノ)吾(ワキ)妹(モ)兒(コ)爾(ニ)告(ノリ)
而(テ)語(カタラ)久(ク)須臾(シハラク)者(ハ)家(イヘニ)歸(カヘリ)而(テ)父母(チ丶ハ丶)爾(ニ)事(コトヲ)毛(モ)告(ノ)良(ラ)比(ヒ)如明(アスノ)
日(コト)吾(ワレ)者(ハ)來(キ)南(ナム)登(ト)言(イヒ)家(ケ)禮(レ)婆(ハ)妹(イモ)之(カ)答(イラヘ)久(ク)常世(トコヨ)邊(ヘ)爾(ニ)復(マタ)
【左丁】
變(カヘリ)來(キ)而(テ)如今(ケフノコト)将相(アハム)跡(ト)奈(ナ)良(ラ)婆(ハ)此(コノ)篋(ハコヲ)開(ヒラク)勿(ナ)勤常(ユメト)曽(ソ)己(コ)
良(ラ)久(ク)爾(ニ)堅(カタ)目(メ)師(シ)事(コト)乎(ヲ)墨吉(スミノエ)爾(ニ)還(カヘリ)來(キタリ)而(テ)家(イヘ)見(ミレ)跡(ト)家(イヘ)毛(モ)
見(ミ)金(カネ)手(テ)里(サト)見(ミレ)跡(ト)里(サト)毛(モ)見(ミ)金(カネ)手(テ)■(アヤシ)【恠ヵ】常(ト)所(ソ)許(コ)爾(ニ)念(オモハ)久(ク)從(イヘ)
家(ユ)出(イテ)而(丶)三歳(ミトセ)之(ノ)間(ホト)爾(ニ)墻(カキ)毛(モ)無(ナク)家(イヘモ)滅(ウセ)目(メ)八(ヤ)跡(ト)此(コノ)筥(ハコ)乎(ヲ)
開(ヒラキ)而(テ)見(ミ)手(テ)歯(ハ)如來本(モトノコト)家(イヘ)者(ハ)将有(アラン)登(ト)玉篋(タマクシケ)小(スコシ)披(ヒラク)爾(ニ)白(シラ)
雲(クモ)之(ノ)自箱(ハコヨリ) 出(イテ)而(丶)常世(トコヨ)邊(ヘニ)棚(タナ)引去(ヒキヌレ)者(ハ)立走(タチハシリ)叫(サケヒ)袖振(ソテフリ)■(コイ)【歹ヵ】
側(マロヒ)足(アシ)受(ス)利(リ)四(シ)筒(ツ丶)頓(タチマチニ)情(コ丶ロ)潰失(キエウセ)奴(ヌ)若有(ワカカリ)之(シ)皮(カハ)毛(モ)皺(シワシ)奴(ヌ)黒(クロ)
有(カリ)之(シ)髪(カミ)毛(モ)白斑(シラケ)奴(ヌ)由奈由奈(ユナユナ)波(ハ)氣(イキ)左(サ)倍(ヘ)絶(タエ)而(テ)後(ノチ)遂(ツヒニ)
壽(イノチ)死(シニ)祁(ケ)流(ル)水江(スミノエ)之(ノ)浦島子(ウラシマノコ)之(カ)家(イヘ)地(トコロ)見(ミム)
常世邊(トコヨヘニ)可住(スムヘキ)物(モノ)乎(ヲ)劔(ツルキ)刀(タチ)己之(ワカ)心(ココロ)抦(カラ)於(オ)曽(ソ)也(ヤ)是(コノ)君(キミ)
《割書:按(あんす)るに日本紀(にほんき)丹波國(たんはのくに)とするはいまた丹後國(たんこのくに)わかれさる前(まへ)なれはなり續日本(そくにほん)【𢖏は誤ヵ】|紀(き)に 元明天皇(けんめいてんわう)の和銅(わとう)六年/夏(なつ)四月乙未に丹波國(たんはのくに)五郡(こくん)を割(さき)てはしめて丹後國(たんこのくに)を|置(おく)とあり夫(それ)より後(のち)与社郡(よさのこほり)は丹後(たんこ)に属(そく)せしなり其地(そのち)の書(しよ)皆(みな)こと〳〵く丹後國(たんこのくに)と|す丹後風土記(たんこふうとき)和名抄(わみやうしやう)扶桑略記(ふさうりやくき)の類(たく)ひ與謝(よさ)に作(つく)る又/管川(くたかは)は丹後風土記(たんこふうとき)に|筒川(つゝかは)に作(つく)る水江(すみのえ)は日本紀(にほんき)に水江(みつえ)とす萬葉集(まんえうしふ)には或(あるひ)は墨吉(すみのえ)とも書(かけ)り浦島子(うらしまこ)》
【右丁】
浦島古事(うらしまのこし)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
《割書:傳(てん)續浦島子傳(そくうらしまこてん)ともに澄江(すみのえ)とす按(あんする)に仙覚律師(せんかくりつし)の萬葉集抄(まんえうしふしやう)に引(ひく)所(ところ)の丹後(たんこ)風(ふう)
|土記(とき)に美頭乃睿能宇良志麻之古(みつのえのうらしまのこ)とありてすてにみつのえとす水(みつ)は澄(すむ)の》
《割書:義(き)ある故(ゆゑ)通(かよは)して云(いふ)なるへし|》
相傳(あひつたふ)往古(わうこ) 雄略天皇(ゆうりやくてんわう)の御宇(きよう)《割書:日本紀(にほんき)雄略記(ゆうりやくき)二十二|年戊午七月とあり》丹後國(たんこのくに)與謝郡(よさのこほり)管川(くたかは)
の人(ひと)に水江(みつのえの)浦島子(うらしまこ)といふあり《割書:寺記(しきに)云(いはく)相州(さうしう)三浦(みうらの)住人(ちゆうにん)水江(みつのえの)浦島太夫(うらしまたいふ)といへるもの|大裡(たいり)の役(やく)に付(つき)てしはし丹波國(たんはのくに)餘佐郡(よさこほり)管川(くたかは)と》
《割書:云(いふ)所(ところ)にうつり住(ちゆう)す其子(そのこ)に浦島太郎(うらしまたらう)といふありと云々/古書(こしよ)浦島子(うらしまこ)に作(つく)る寺記(しき)にのみ太夫(たいふ)|或(あるひ)は太郎(たらう)なとゝせり續浦島子傳(そくうらしまこてん)に浦島子(うらしまこ)何(いつ)れの人なる事をしらす盖(けたし)上古(しやうこ)の仙人(せんにん)》
《割書:なり齢(よはひ)三百/歳(さい)を過(すき)て形容(かたち)童子(とうし)の如(こと)し人となり仙(せん)を好(この)み秘術(ひしゆつ)を学(まな)ふとあり又/丹後(たんこ)|風土記(ふうとき)には《振り仮名:日下部■|くさかへのおうと》【首ヵ】等(ら)か祖(そ)にして箇川(くたかは)【注】の島子(しまこ)と云(いふ)是(これ)乃(すなはち)水江(みつのえの)浦島子(うらしまこ)也云云》
一時(あるとき)七月の事(こと)なるに獨(ひとり)小舟(こふね)に乗(しやう)して海上(かいしやう)に釣(つり)し霊亀(れいき)を得(え)たり
其(その)形勢(ありさま)を見(みる)に尋常(よのつね)にあらさりけれは恠(あやし)み思(おも)ひ且(かつ)《振り仮名:𪫧舊|あはれみ》て是(これ)を
放(はなち)やりつ浹辰(しはらく)ありて彼亀(かのかめ)化(け)して一人の美女(ひちよ)となり前(さき)の恩(おん)を
報(むくは)んとて島子(しまこ)か手(て)を携(たつさ)へて蓬莱山(とこよのくに)海若神(わたつみ)の都(みやこ)に至(いた)りぬ
かくて後(のち)浦島子(うらしまこ)は仙室(せんしつ)の筵(むしろ)に侍(し)し常(つね)に霊薬(れいやく)の味(あちは)ひを嘗(なめ)
目(め)に花麗(くわれい)を視(み)耳(みゝ)に雅楽(かかく)の楽(たのしみ)を聞(きく)観宴(くわんえん)日(ひ)を送(おく)れり《割書:日本後記(にほんこうき)に|浦島子(うらしまこ)蓬(ほう)》
《割書:莱(らい)に至(いた)り居(をる)事(こと)三年とあり又/丹後風土記(たんこふうとき)上に同しく|萬葉集(まんえふしふ)にも家(いへを)出(いて)而(ゝ)三歳(みとせ)之(の)間(ほと)爾(に)檣(かき)毛(も)無(なく)とあり》されと本土(ほんと)を懐(おも)ふ
【左丁】
心(こゝろ)起(おこ)り獨(ひとり)二親(ししん)を戀(こふ)故(ゆゑ)に神女(しんによ)に此事(このこと)を告(つけ)けれは神女(しんによ)は島子(しまこ)か
別(わかれ)を戀慕(こひした)ふといへとも竟(つひ)に止(とゝま)るへき色(いろ)も見(み)えねはかひなく
一箇(いつか)の玉匣(たまてはこ)を與(あた)へて云(いは)く子(し)遂(つひ)に賤妾(せんせふ)を遺(わす)れすして再(ふたゝ)ひ
此(この)神仙境(とこよ)へ来(きた)らんとならは必(かならす)此(この)匣(はこ)の裏(うち)を開(ひら)き見(み)る事なかれと
島子(しまこ)其事(そのこと)を約(やく)しをはり事外(ことなく)喜(よろこ)ひ彼匣(かのはこ)を受傳(うけつた)へつゝ手(て)を
分(わか)ち辞(し)し去(さ)る頓(やかて)蓬嶺(ほうれい)の仙都(せんと)を出(いつ)るかと思(おも)へはいつしか與謝(よさ)の
舊里(きうり)に皈(かへ)り着(つき)ぬ《割書:日本後記(にほんこうきに)云(いはく)浦島子(うらしまこ)天長(てんちやう)二年/郷(さと)に帰(かへ)る今(いま)に至(いた)り三百四十|七年なりと云云/詞林采葉抄(しりんさいえふしやうに)云(いはく)島子(しまこ)蓬莱(ほうらい)に入(いる)の後(のち)帝王(ていわう)》
《割書:三十二代を送(おく)るとあり水鏡(みつかゝみ)に雄略天皇(ゆうりやくてんわう)廿三年と七月に浦島子(うらしまこ)蓬莱(ほうらい)へまかりに|けり云々/同書(とうしよ)淳和天皇(しゆんわてんわう)天長(てんちやう)二年ことし浦島子(うらしまこ)はかへれり中略/雄略天皇(ゆうりやくてんわう)の御世(みよ)に》
《割書:うせてことし三百四十七年といひしにかへりたりしなり云云/因(よつ)て考(かんか)ふるに天長(てんちやう)二年は支干(しかん)|乙巳にあたれり又/雄略天皇(ゆうりやくてんわう)廿三年己未にあたれり日本紀(にほんき)二十二年とし戊午とす然(しか)る》
《割書:ときは三百四十|八年なり》されと物換(ものかは)り星移(ほしうつ)り家園(かゑん)は變(へん)して河濵(かひん)となり山(さん)
岳(かく)は改(あらたまり)て江海(こうかい)となる荒蕪(くわうふ)の閭邑(りよいう)煙(けむ)り絶(た)え舊塘(きうたう)寂寞(しやくまく)として
道路(たうろ)跡(あと)なしましてあたりに知人(しるひと)さへなかりけれはかつ恠(あや)しみ
かつ驚(おとろ)き郷人(さとひと)に旧俗(きうそく)の行方(ゆくへ)を問(と)ふ一人の翁(おきな)答(こた)へて云(いは)く昔(むかし)聞(きく)
【注 「箇川」は「筒川」の誤ヵ。30コマ目30行目に「管川(くたかは)は丹後風土記に筒川(つゝかは)に作る」とあり。】
【右丁】
水江(みつのえ)の浦島子(うらしまこ)といへるもの釣(つり)を好(この)み舟(ふね)に乗(しやう)して海(うみ)に遊(あそ)ひ永(なか)く
家(いへ)に歸(かへ)らすといへりされと幾數百歳(いくすひやくさい)を経(ふ)る事(こと)をしらすと
《割書:續浦島子傳(そくうらしまこてん)にわつかに衣(ころも)を洗(あら)ふの老嫗(おうな)にあふて旧里(きうり)の古人(こしん)を問(とふ)嫗(おうな)答(こた)へて|いはく我(われ)年(とし)百有(ひやくいう)七/歳(さい)いまた島子(しまこ)の名(な)をきかす唯(たゝ)我祖父(わかそふ)の世(よ)古老(こらう)口傳(こうてん)して数百(すひやく)》
《割書:歳(さい)を経(ふ)るのみ傳来(てんらい)語(こ)に云(いは)く昔(むかし)水江(みつのえの)浦島子(うらしまこ)といふ者(もの)あり釣(つり)を好(このみ)舟(ふね)に乗(しやう)し久江|浦(うら)に遊(あそ)ひ遂(つひ)に帰(かへ)らす蓋(けたし)海中(かいちゆう)に入(いつ)てより幾数百歳(いくすひやくさい)を経(ふ)る事をしらすと日本(にほん)》
《割書:後記(こうきに)云(いはく)むかし聞(きく)浦島子(うらしまこ)仙化(せんけ)|して去(さ)り漸(やうや)く百年を過(すく)ると云々》こゝに於(おい)て蓬嶺(ほうれい)の仙宮(せんきう)に遊(あそ)ふの間(あひた)時世(しせい)
遥(はるか)に隔(へたゝ)り舊里(きうり)の遷(うつり)變(へん)せし事を悲歎(ひたん)し又/仙遊(せんいう)の未央(みあう)を想(おもひ)
像(やり)て悲戀(ひれん)に堪(たへ)す前(さき)の誓(ちか)ひを忘(わす)れて忽(たちまち)に玉匣(たまてはこ)を開(ひら)きけれは
裡(うち)より紫雲(しうん)出(いて)て蓬城(ほうしやう)をさして靉靆(あいたい)として去(さ)るのみ時(とき)に
其(その)形容(かたち)忽然(こつせん)として衰老(すゐらう)晧白(こうはく)の人と変(へん)す云々《割書:万葉集(まんえふしふ)氣(いき)佐倍(さへ)|絶(たえ)而(て)後(のち)遂(つひに)壽(いのち)死(しに)》
《割書:祁流(ける)水江之(みつのえの)浦島子(うらしまのこか)家(いへ)地(ところ)見(みむ)云云/丹後風土記(たんこふうとき)にも島子(しまこ)俄(にはか)に老翁(らうをう)となり遂(つひ)に死(し)す|時(とき)に天長(てんちやう)二年なりとあり扶桑略記(ふさうりやくき)日本後記(にほんこうき)上に同し續浦島子傳(そくうらしまこてん)に島子(しまこ)神(しん)》
《割書:女(によ)一諾(いつたく)の約(やく)を違(たか)へ仙遊(せんいう)再會(さいくわい)の期(こ)を失(うしな)ひ紅涙(こうるい)千行(せんかう)白鬢(はくひん)を湿(うるほ)し丹誠(たんせい)萬緒(はんしよ)絳(こう)|宮(きう)を乱(みたし)其後(そののち)金梁(きんりやう)に鳴(なゐ)て玉液(きよくゑき)を飲(のみ)紫霞(しか)を喰(くらひ)青彩(せいさい)を服(ふくし)頚鶴(けいくわく)を延(のへ)立(たつ)て遥(はるか)に》
《割書:鼇(かう)海(かい)の蓬嶺(ほうれい)神鳳(しんほう)の馳(はする)を望(のそ)み跱(そはたつ)て遠(とほ)く仙洞(せんとう)の芳淡(はうたん)を顧(かへりみ)る巌河(かんか)に飛遊(ひいう)して|海浦(かいほ)に隠淪(いんりん)し遂(つひ)に終(をは)る所(ところ)をしらす後代(こうたい)地仙(ちせん)と号(かう)す所謂(いはゆる)浦島子傳(うらしまこてん)古賢(こけん)撰(せん)》
《割書:する所(ところ)也/其言(そのこと)不朽(くちす)宜(よろ)しく千古(せんこ)に傳(つた)ふへしと云々/此傳(このてん)は延喜(えんき)十二年庚辰/﨟(らう)八月朔日に|記(しる)せしものにして始(はしめ)に承平二年壬辰四月廿二日/勘解由曹局(かけゆさうきよく)に於(おい)て坂上家高(さかのうへのいへたか)》
【左丁】
浦島塚(うらしまつか)
【図】
【右丁】
《割書:注之(これをちゆうす)とあり永仁(えいにん)二年甲午八月廿四日/丹州(たんしう)箇川庄(くたかはのしやう)【注】福田村(ふくたむら)宝蓮寺(はうれんし)如法道場(によはふたうちやう)に於(おい)て|芳命(はうめい)背(そむ)き難(かた)きに依(よつ)て筆跡(ひつせき)を顧(かへりみ)す狼藉(らうしやく)に紫毫(しもう)を馳(は)せぬと》
寺記(しきに)云(いはく)後(のち)又(また)八千/歳(さい)の齢(よはひ)を持(たも)ちて再(ふたゝ)ひ海神(かいしん)の都(みやこ)に入(いる)と
いへり《割書:諸書(しよしよ)の|要(えう)をつむ》抑(そも〳〵)當寺(たうし)は 淳和天皇(しゆんわてんわう)の勅願(ちよくくわん)にして凡(およそ)九百七十/有(いう)
餘年(よねん)を歴(ふ)るの古藍(こらん)たり同帝(とうてい)第(たい)四の妃(ひ)は浦島子(うらしまこ)か九/世(せ)の
孫(そん)なり妃(ひ)深(ふか)く佛乗(ふつしやう)に帰(き)し給ひ帝(みかと)に告(つけ)奉(たてまつ)りて空海阿闍(くうかいあしや)
梨(り)に計(はか)り檜尾僧都(ひのをそうつ)實慧(しちゑ)をして是(これ)を司(つかさと)らしめ梵宇(ほんう)営構(えいこう)
ありて真言(しんこん)の密場(みつちやう)となし給ふ《割書:元亨釋書(けんかうしやくしよに)云(いはく)如意法尼(によいはふに)は丹後國(たんこのくに)余(よ)|佐郡(さこほり)の人十/歳(さい)にして王都(わうと)に入/弘仁(こうにん)十三》
《割書:年 帝(みかと)霊夢(れいむ)を感(かん)し給ふの後(のち)花使(くわし)をつかはし妃(ひ)を得(え)給ふ妃(ひ)深(ふか)く佛道(ふつたう)に帰(き)し常(つね)に如(によ)|意輪尊(いりんそん)を敬重(けいちう)すかつて一篋(いつけう)を蓄(たくは)ふ人その裏(うち)を見(み)る事を得(え)す世(よ)に云(いふ)天長(てんちやう)元年/天下(てんか)》
《割書:大(おほい)に旱(ひてり)【卑】す守敏(しゆひん)空海(くうかい)後先(こうせん)相競(あひきそひ)て法雩(はふう)を祈(いの)る空海(くうかい)妃(ひ)の篋(はこ)を捧(さゝけ)て秘奥(ひあう)を修(しゆ)す故(ゆゑ)に|雨澤(うたく)天下(てんか)に給(きう)しぬ妃(ひ)の同閭(とうりよ)水江(みつのえ)の浦島子(うらしまこ)と云(いふ)ものあり妃(ひ)に先(さきた)つて数百歳(すひやくさい)久(ひさ)しく》
《割書:仙郷(せんきやう)に棲(す)む天長(てんちやう)二年/故郷(こけう)に還(かへ)る浦島子(うらしまこ)いはく妃(ひ)の持(もつ)所(ところ)の篋(はこ)を紫雲篋(しうんきやう)といふ空海(くうかい)|師(し)佛像(ふつさう)を刻(きさ)む時(とき)に妃像(ひさう)を筪(はこの)中(うち)にをさむと云々/同書(とうしよ)の論(ろん)にいはく妃(ひ)の篋(はこ)恐(おそ)らくは》
《割書:神仙(しんせん)の器(き)にあらしすなはち是(これ)密乗(みつしやう)の秘賾(ひさく)なり|浦島子(うらしまこ)はたゝ蓬瀛(ほうえい)の一/賓(ひん)のみ何(なん)そ是(これ)をしらんやとあり》其後(そののち)星霜(せいさう)を経(へ)て宮殿(くうてん)風(かせ)に
破(やふ)れて悲躰(ひたい)雨(あめ)にそゝき朝(あした)の霧(きり)夕(ゆふへ)の月(つき)は香(かう)の煙(けふ)り燈(ともしひ)の光(ひか)りに
かはる仍(よつ)て唯(たゝ)機縁(きえん)感應(かんおう)の時(とき)を期(こ)するのみ然(しか)るに應長(おうちやう)正和(しやうわ)の
【左丁】
頃(ころ)鎌倉(かまくら)光明寺(くわうみやうし)第(たい)二/世(せ)寂慧(しやくゑ)上人《割書:記主(きしゆ)の家弟(かてい)にして白籏(しらはた)|流(りう)の大祖(たいそ)也/傳(てん)はこゝに略(りやく)す》故郷(こけう)白(しら)
籏(はた)へ往来(わうらい)する毎(こと)に當寺(たうし)観音(くわんおん)へ詣(けい)し守者(もるもの)もなきを歎(なけ)き法弟(はふてい)
慧光(ゑくわう)上人《割書:姓(せい)大森氏(おほもりうち)|相州(さうしうの)人》をして住持(ちゆうち)たらしめ二度/寺院(しゐん)を営建(えいこん)しあら
ためて浄業(しやうけう)の精舎(しやうしや)とせしとなり
神奈川驛(かなかはのえき) 東海道(とうかいたう)五十三/驛(えき)の一なり行程(きやうてい)河崎(かはさき)より二/里半(りはん)あり
《割書:太平記(たいへいき)梅花無尽蔵(はいくわむしんさう)鎌倉大草紙(かまくらおほさうし)等(とう)の書(しよ)皆(みな)神奈川(かなかは)に作(つく)り園大暦(えんたいれき)には狩野川(かのかは)に作(つく)る|此地(このち)の名義(めいき)は次(つき)の上無川(かみなしかは)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》
本宿(ほんしゆく)《割書:新町(しんまち)より西(にし)の町迄|四町の間(あひた)の惣名(さうみやう)也》青木町(あをきまち)等(とう)の名(な)あり《割書:滝(たき)の町(まち)より下臺(しもたい)迄(まて)の|間(あひた)六町の惣名(さうみやう)なり》又/臺(たい)より
向(むかふ)軽井澤(かるゐさは)と云(いふ)地(ち)迄(まて)すへて神奈川驛(かなかはえき)と云(い)へり
《割書:平安紀行 かのかはにて》
海人小舟軒端によする心ちしてなかめえならぬかの川の里 持資
梅花無盡蔵 文明十七年乙巳
神奈河《割書:小春|二日》出世戸井赴江戸途中有老松蟠屈其
形如竜其処号𩿎森
神奈民鄽板屋連 深泥没馬打難前
𩿎森春動臥松老 未入飛竜九五乾
【注 「箇川庄」は「筒川庄」の誤。「浦嶋子傳記」(国会図書館デジタルコレクション)の奥書に同文(漢文)があり、「筒河庄」とあり】
【右丁】
神奈川(かなかは)
総圖(さうつ)
【図】
【枠内】本覚寺
【枠内】本堂
【枠内】方丈
【枠内】庫裡
【枠内】裏門
【枠内】観音
【枠内】かね
【枠内】千部塔
【枠内】中門
【左丁】
【図】
【枠内】平尾
物見の松
【枠内】こんひら
【枠内】三宝寺
【枠内】舩玉
【枠内】弁天
【枠内】総門
【枠内】地蔵
【枠内】地蔵
【枠内】薬師
【枠内】一り塚
【右丁】
其二
【図】
【枠内】子権現
【枠内】いなり
【枠内】飯綱
【枠内】番や
【左丁】
【図】
【枠内】いなり
【枠内】天神
【枠内】こんひら
神奈川臺町
【右丁】
其三
【図】
【枠内】人穴社
【枠内】人穴
【左丁】
金川駅送別
出餞西看山上山銜杯
為問太刀鐶蒼波欲通
金川海紫氣遥懸玉笥
関遊子浮雲遅暮涙故
人衰鬢別離顔驛亭不
解銷魂色征馬翩々送
徃還
南郭
【図】
【枠内】ほとか谷
【枠内】天王
【右丁】
神奈川臺(かなかはのたい)
此地(このち)はいつれも海(かい)
岸(かん)に臨(のそ)みて海亭(かいてい)
をまうけ往来(わうらい)の
人(ひと)の足(あし)を止(とゝ)む此(この)
海辺(うみへ)を袖(そて)の浦(うら)と
名(な)つく
平安紀行
あま
小舟
軒端に
よする
こゝち
して
【図】
【看板】きし田や
【看板】さくら屋
【看板】大佛師
【看板】御奈良茶
【左丁】
なかめ
えならぬ
かの
川の里
持資
【図】
【看板】きりや
【看板】御めし
【看板】一せん飯
【右丁】
京都記行
浮世かなかは(◦◦◦◦)る淵瀬は人こと純【のヵ】心の水にふみまよひぬる 澤庵
此地(このち)は太平記(たいへいき)にも正平(しやうへい)七年の閏(うるふ)二月廿日の武蔵野合戦(むさしのかつせん)に
新田義興(につたよしおき)脇屋義治(わきやよしはる)兄弟(けうたい)終(つひ)に二百/餘騎(よき)に打(うち)なされ落行(おちゆく)
へき方(かた)もなし討死(うちしに)すへき命(いのち)なれは鎌倉(かまくら)へ打入(うちいつ)て足利(あしかゝ)
左馬頭(さまのかみ)に逢(あふ)て命(めい)を失(うしな)はゝやと夜半(やはん)過(すく)る程(ほと)に関戸(せきと)を過(すき)給ひ
途中(とちゆう)にして石堂入道(いしたうにふたう)三浦助(みうらのすけ)等(ら)の勢(せい)に行逢(ゆきあ)ひ給ひ軈(やか)て
此(この)勢(せい)と打連(うちつれ)て神奈河(かなかは)に著(つき)て鎌倉(かまくら)の様(さま)を問(とひ)給ふ由(よし)みゆ
又/鎌倉大草紙(かまくらおほさうし)にも永享(えいきやう)十二年四月六日/上杉修理太夫持朝(うえすきしゆりのたいふもちとも)
伊豆國(いつのくに)を立(たつ)て山(やま)の内(うち)の庄(しやう)に帰参(きさん)し長尾郷(なかをのかう)に滞留(たいりう)せしめ
同五月十一日/神奈川(かなかは)へ出勢(しゆつせい)あるよしみえたり
上無川(かみなしかは) 本宿(ほんしゆく)中(なか)の町(まち)と西(にし)の町(まち)との間(あひた)の道(みち)を横(よこ)きりて流(なか)るゝ
小溝(こみそ)を号(なつ)く此所(このところ)に架す橋(はし)を上無橋(かみなしはし)と称(しよう)す《割書:橋(はし)の長(なか)さ|二間にたらす》
【左丁】
常(つね)に水(みつ)涸(かれ)て僅(わつか)の小流(しやうりう)なり水源(みなかみ)定(さたか)ならさる故(ゆゑ)に上無川(かみなしかは)
と云(いふ)則(すなはち)神奈川(かなかは)の地名(ちめい)の興(おこ)る所以(ゆゑん)にして後世(こうせい)美志(みし)の二
字(し)を略(りやく)してかな川(かは)とは云(いひ)けるなり品川(しなかは)も亦(また)下無川(しもなしかは)なり
しを是(これ)も毛志(もし)の二/字(し)を省(はふ)きてかく呼(よひ)ける由(よし)寛永(くわんえい)五年
齊藤徳元(さいとうとくけん)の紀行(きかう)にみえたり《割書:小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)に|矢野彦六(やのひころく)といふ人/武州(ふしう)神奈(かな)》
《割書:川(かは)にて南条(なんてう)高崎(たかさき)の|地(ち)を領(りやう)すとあり》
海運山(かいうんさん)能満院(のうまんゐん) 満願寺(まんくわんし)と号(かう)す本宿(ほんしゆく)荒井町(あらゐまち)道(みち)より右側(みきかは)に
あり古義(こき)の真言宗(しんこんしう)にして鳥山三會寺(とりやまさんゑし)に属(そく)せり開基(かいき)は
内海光善(うつみみつよし)といへる人なり開山(かいさん)は重運(てううん)と号(かう)す本尊(ほんそん)虚空(こくう)
蔵菩薩(さうほさつ)は海中(かいちゆう)より出現(しゆつけん)ありし三寸九分の霊像(れいさう)なり
相傳(あひつたふ)正安(しやうあん)元年己亥八月十三日/此地(このち)の漁者(きよしや)に内海新四郎(うつみしんしらう)
光善(みつよし)といへるあり此日(このひ)海中(かいちゆう)に網(あみ)を沈(おろ)して此(この)霊像(れいさう)を得(え)
たり然(しかる)に本尊(ほんそん)光善(みつよし)の一/女子(によし)に託(たく)して曰(いは)く我(われ)は是(これ)房州(はうしう)
【右丁】
【図】
【左丁】
北條上杉(ほうてううへすき)
神奈川闘戦(かなかはたうせん)
【図】
【右丁】
清澄寺(きよすみてら)の閼伽井(あかゐ)にありて七百/有餘歳(いうよさい)を歴(へ)たり今(いま)此(この)
地(ち)の有縁(うえん)によりて彼所(かのところ)より移(うつ)れり汝(なんち)堂宇(たうう)を営(いとな)むて我(わか)
像(さう)を安置(あんち)せよ必(かならす)子孫(しそん)をして幸福(かうふく)あらしめんとなり
依(よつ)て直(すく)に當寺(たうし)を開創(かいさう)して此(この)霊像(れいさう)を安(あん)し奉(たてまつ)るといふ
《割書:光善(みつよし)の遠孫(ゑんそん)此地(このち)に|ありて今猶(いまなほ)連綿(れんめん)たり》
洲崎明神(すさきみやうしん)祠 海道(かいたう)の右側(みきかは)にあり普門寺(ふもんし)別當(へつたう)たり安房(あはの)
國(くに)洲崎明神(すさきみやうしん)に同(おな)しき歟(か)房総志料(はうさうしれう)に天比理乃咩(あまひりのめの)
命(みこと)を祭(まつ)ると源平盛衰記(けんへいせいすゐき)に洲崎明神(すさきみやうしん)は八幡大菩薩(はちまんたいほさつ)
を祝(いはひ)奉(たてまつ)るとあれは両説(りやうせつ)を挙(あけ)て疑(うたかひ)を存(そん)す
熊野権現(くまのこんけん)社 神奈川(かなかは)本宿町(ほんしゆくまち)海道(かいたう)より右(みき)にあり別當(へつたう)は
金蔵院(こんさうゐん)東曼陀羅寺(とうまんたらし)と号(かう)す新義真言宗(しんきのしんこんしう)也《割書:當社(たうしや)昔(むかし)は|権現山(こんけんさん)の》
《割書:頂(いたゝき)に勧請(くわんしやう)ありしをこの地(ち)へ移(うつ)しまゐらせたりといふされと|旧地(きうち)権現山(こんけんさん)の頂(いたゝき)にも猶(なほ)熊野権現(くまのこんけん)の草祠(さうし)を再(さい)せり》
滝(たき)の橋(はし) 本宿(ほんしゆく)西(にし)の町(まち)と滝(たき)の町(まち)との間(あひた)海道(かいたう)を横(よこ)きり流(なか)るゝ
【左丁】
川(かは)に架(わた)す此(この)橋下(はしのした)の流(なか)れを滝(たき)の川(かは)と号(なつ)く故(ゆゑ)にしかり水源(みなかみ)は
七八町/西(にし)の方(かた)堰村(せきむら)と云(いふ)より発(はつ)する所(ところ)の流(なかれ)なり
橋本(はしもと)宗興寺(そうこうし) 橋(はし)より向(むか)ふの川添(かはそひ)半町はかり西(にし)の方(かた)道(みち)より
左(ひたり)にあり曹洞(さうとう)の禅宗(せんしう)にして同所(とふしよ)本覚寺(ほんかくし)に属(そく)せり
本尊(ほんそん)釋迦如来(しやかによらい)は定朝(ちやうてう)の作(さく)にして一尺はかりの座像(ささう)なり
《割書:此(この)本尊(ほんそん)古(いにしへ)は山上(さんしやう)観音堂(くわんおんたう)五層(こそうの)|塔(たふ)の本尊(ほんそん)にてありしとなり》堂前(たうせん)の清泉(せいせん)は寛永年間(くわんえいねんかん)
大将軍家(たいしやうくんけ)御上洛(こしやうらく)の時(とき)此地(このち)本宿(ほんしゆく)に御旅館(こりよくわん)を儲(まうけ)させられ
し頃(ころ)御/茶(ちや)の水(みつ)に掬(きく)せられしと云
観音山(くわんおんさん) 山頂(さんてう)に観音堂(くわんおんたう)あり故(ゆゑ)に山(やま)の号(かう)とせり宗興寺(そうこうし)より
令(れい)する所(ところ)にして石磴(せきとう)聳立(しうりふ)して寺(てら)の総門(さうもん)の正中(せいちゆう)に對(たい)す
本尊(ほんそん)正観音(しやうくわんおん)の像(さう)は毘首羯摩天(ひしゆかつまてん)の作(さく)にして五寸九分
あり昔(むかし)焼亡(しやうほう)によりてその旧記(きうき)を失(うしな)ひぬ今(いま)其(その)来由(らいゆ)をしら
すといふ
【右丁】
【図】
【枠内】本社
【枠内】神明
【枠内】拝殿
【枠内】神木
【枠内】天神
【枠内】いなり
【枠内】いなり
【看板】二八
【左丁】
洲崎明神(すさきみやうしん)
【図】
【枠内】いなり
【右丁】
観音山(くわんおんやま)
【図】
【枠内】熊野旧跡
【枠内】観音
【枠内】観音
【枠内】地蔵
【枠内】いなり
【枠内】宗興寺
【枠内】本堂
【枠内】天神
【左丁】
熊野権現山(くまのこんけんさん) 観音堂(くわんおんたう)の山續(やまつゝき)にして堂(たう)の左(ひたり)の方(かた)少(すこ)し高(たか)き
地(ち)に形(かた)はかりなる草祠(さうし)あり往古(いにしへ)小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の功臣(こうしん)間宮(まみや)
四郎左衛門(しらうさゑもん)の城塁(しやうるい)の址(あと)なりと云/前條(せんてう)の本宿町(ほんしゆくまち)海道道(かいたうみち)
より右(みき)に付(つけ)る所(ところ)の熊野権現社(くまのこんけんのやしろ)といふは或(あるひ)は此社(このやしろ)を移(うつ)して
其跡(そのあと)へこの草祠(さうし)を置(おき)て旧地(きうち)を存(そん)せるにや小田原記(をたはらき)に
永正(えいしやう)七年の秋(あき)七月/上杉治部少輔入道建芳(うへすきちふのしやういふにふたうけんはう)か被官(ひくわん)上田(うへた)
蔵人(くらんと)と云(いひ)し者(もの)謀叛(むほん)を企(くはた)て北條早雲(ほうてうさううん)に一味(いちみ)し武州(ふしう)神(か)
奈川(なかは)なる熊野権現山(くまのこんけんさん)を城廓(しやうくわく)に構(かま)へ楯篭(たてこも)る依(よつ)て治部(ちふの)
少輔(しやういふ)自(みつから)大将(たいしやう)として管領(くわんれい)より結【給ヵ】/加勢(かせい)成田下総守(なりたしもふさのかみ)渋江(しふえ)
孫次郎(まこしらう)藤田虎壽丸(ふちたとらしゆまろ)大石源左衛門(おほいしけんさゑもん)長尾孫太郎(なかをまこたらう)か名代(みやうたい)
矢野安藝入道(やのあきにふたう)長尾但馬守(なかをたしまのかみ)か名代(みやうたい)成田中務丞(なりたなかつかさのしやう)其外(そのほか)
武蔵(むさし)の南(みなみ)一揆(いつき)をかり催(もよほ)し同月十一日/権現山(こんけんさん)に走向(はせむか)ひ
同十九日/迄(まて)責戦(せめたゝか)ひ終(つひ)に城(しろ)を落(おと)すとあるは此地(このち)の事(こと)
【右丁】
慶雲寺(けいうんし)
【図】
【枠内】熊野
【枠内】地蔵
【左丁】
【図】
【枠内】庫裡
【枠内】玄関
【枠内】本堂
【枠内】かね
【右丁】
なり《割書:小田原記(をたはらき)に此山(このやま)は四方嶮岨(しはうけんそ)にして岸高(きしたか)く峙(そはた)ち南(みなみ)は海(うみ)北(きた)は深田(ふかた)なり|西(にし)には山續(やまつゝき)たりしを其(その)間々(あひた〳〵)を堀切(ほりきり)て山(やま)に續(つゝき)たる平覚寺(へいかくし)の地蔵堂(ちさうたう)を》
《割書:根城(ねしろ)に取(とり)|立(たつ)と云々》
吉祥山(きちしやうさん)慶運寺(けいうんし)茅草院(ちさうゐん)と号(かうす)滝(たき)の橋(はし)の北詰(きたつめ)より西(にし)の方(かた)へ一町/半(はん)
はかり入(いり)て飯田道(いひたみち)の右側(みきかは)にあり浄土宗(しやうとしう)花洛(くわらく)知恩院(ちおんゐん)に属(そく)す
本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は立像(りふさう)三尺/計(はか)あり《割書:作者(さくしや)|不知(しれす)》開山(かいさん)は音譽聖観(おんよせいくわん)
上人にして文安(ふんあん)四年丁卯/開基(かいき)といふ《割書:浄土傳燈系図(しやうとてんとうけいつ)に定蓮社(ちやうれんしや)音誉(おんよ)|聖観(せいくわん)上人は氏族(しそく)未詳(いまたつまひらかならす)或(あるひ)はいふ》
《割書:江州(かうしう)甲賀源氏(かうかけんし)と初(はしめ)橋場(はしは)の法源寺(はふけんし)第二世(たいにせ)となり又/當寺(たうし)を開創(かいさう)あり宝徳(はうとく)|元年/増上寺(そうしやうし)第三世(たいさんせ)となり文明年間(ふんめいねんかん)一日/火車(くわしや)を示現(しけん)して空中(くうちゆう)に乗(しやうし)去(さ)る》
《割書:辞世(しせい)の頌(け)及(およ)ひ和歌(わか)あり世(よ)に傳(つた)へて観音(くわんおん)の應化(おうけ)なりといふとみえたり又/音誉(おんよ)|上人/火車(くわしや)に乗(しやう)する事は新著聞集(しんちよもんしふ)にもつまひらかなり》
中興開山(ちゆうこうかいさん)は願故(くわんこ)上人と号(かうす)
東國紀行《割書: |程(ほと)なく神奈川(かなかは)につきたり此所(このところ)へも木机(こつくゑ)の城主(しやうしゆ)へ》
《割書:云つけられて旅宿(りよしゆく)慶雲寺(けいうんし)にかまへたり長老(ちやうらう)|出(いて)給ひて今日(けふ)の宴(えん)をたゝにはなとあれは》
はからすにこれもみしかな何物【注】の桃咲けふの春のやとりは 宗牧
と桃源(とうけん)の古事(こし)をおもひ出(いつ)るはかりなり 下略
【左丁】
《割書:按(あんする)に此(この)宗牧(そうほく)の紀行(きかう)に慶雲(けいうん)に作(つく)る後(のち)雲(うん)を運(うん)に改(あらたむ)るならん歟(か)又/宗牧(そうほく)乃|當寺(たうし)に宿(やと)りたりしは天文(てんふん)十四年三月三日なり》
臥龍山(くわりやうさん)雲松院(うんしようゐん) 乾徳寺(けんとくし)と号(かう)す滝(たき)の橋際(はしきは)より一里十四五町/西(にし)の
方(かた)小机村(こつくゑむら)長津田街道(なかつたかいたう)の左側(ひたりかは)にあり曹洞派(さうとうは)の禅林(せんりん)にして
遠州(ゑんしう)の石雲院(せきうんゐん)に属(そく)せり本尊(ほんそん)虚空蔵菩薩(こくうさうほさつ)は木佛(もくふつ)にして
座像(ささう)八寸/計(はかり)あり當寺(たうし)は小机(こつくゑ)の城代(しやうたい)笠原越前守信為(かさはらゑちせんのかみのふため)開創(かいさう)
の寺院(しゐん)にして《割書:當寺(たうし)霊牌(れいはい)に乾徳院殿雲松道慶庵主(けんとくゐんてんうんしようたうけいあんしゆ)|明應(めいおう)四年乙卯六月八日と注(しるし)たり》開山(かいさん)は季雲永岳(きうんえいかく)
大和尚(たいおしやう)と号(かうす)《割書:大永(たいえい)六年丙戌二月|十五日/化寂(けしやく)たり》総門(さうもん)の額(かく)臥龍山(くわりやうさん)の三大字(さんたいし)は僧(そう)
月舟(けつしう)の筆(ふて)なり《割書:小田原記(をたはらき)に弘治(こうち)三年丁巳七月二十六日/武州(ふしう)小机(こつくゑ)の城代(しやうたい)|笠原越前守(かさはらゑちせんのかみ)小田原(をたはら)において逝去(せいきよ)す法名(はふみやう)雲昌慶公庵主(うんしやうけいこうあんしゆ)と》
《割書:号(かう)す武勇(ふゆう)技藝(きけい)ともに無双(むさう)の達人(たつしん)にして古早雲寺殿(こさううんしとの)の忠臣(ちうしん)たり長総(なかふさ)に付(つき)氏綱(うちつな)|氏康(うちやす)へ忠功(ちうこう)かそへかたし其子(そのこ)は能登守(のとのかみ)なりとあり此書(このしよ)に雲昌慶公(うんしやうけいこう)とあるは》
《割書:雲松道慶(うんしようたうけい)か事なり又/同書(とうしよ)に永禄(えいろく)十年/信玄(しんけん)小田原(をたはら)へ発向(はつかう)するとある条下(てうか)に|小机(こつくゑ)には長綱(なかつな)の代(よ)に笠原能登守(かさはらのとのかみ)在城(さいしやう)すとあれは父子(ふし)共(とも)に二代の間(あひた)小机(こつくゑ)の城代(しやうたい)たり》
《割書:しなるへしされとも明應(めいおう)四年は弘治(こうち)三年に先(さき)たつ事/凡(およそ)六十三年|にして越前守(ゑちせんのかみ)没卒(ほつそつ)の年代(ねんたい)尤(もつとも)違(たか)へり猶(なほ)他日(たしつ)訂正(ていせい)すへきのみ》
鐘(かね) 《割書:堂前(たうせん)左(ひたり)の方(かた)にあり銘(めい)は明(みんの)心越禅師(しんゑつせんし)|撰(せん)する所(ところ)なり其文(そのふん)左(さ)のことし》
夫法界聖凡三途六道皆由人一念之所成擧世而
【注 「何物」は「河面」ヵ。国立公文書館デジタルアーカイブの「東國紀行」のこの歌は「はからすに 是もみしかな 河つらの もゝ咲けふの 春のやとりは」と読めます。https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037301&ID=M1000000000000060532&TYPE= 68頁】
【右丁】
小机城址(こつくゑのしろあと)
雲松院(うんしようゐん)
【図】
【枠内】相生松
【左丁】
【図】
【枠内】白山
【枠内】城跡
【枠内】住吉原
【枠内】白山
【枠内】かね
【枠内】雲松院
【枠内】本堂
【枠内】玄関
【右丁】
言之則有陰陽晝夜之分在人而言之有迷語聖凡
之別盖以我佛垂慈教齋六合無分天上人閒惟以
利生爲事然而種々隨機導利有情同圓覺性故又
設鐘聲佛號拔濟淪稱其功德曷勝言哉茲有
武州都築郡小机庄根古屋郷臥竜山雲松院住持
別峰者曹洞之末孫大源派下遠州高尾石雲院之
門葉也於是歳壬戌暮春積衆掾開鑄銅斯鐘以就
并新建立樓門而施鐘於其梁因質余銘而記之
銘曰
擧世皆暗 帷鐘是明 聲傳法界 響徹幽冥
幽處聞鐘 幽處皆明 明通幽處 幽處無形
聞而返聞 行顧速成 不聞而聞 菩提自生
恩遍六道 利極四生 無盡含識 俱登化城
東皐心越杜多稿
于時天和龍集玄■【黓】閹茂季春如意珠日
臥竜山雲松禅院現住宗靝代置之
武藏國豐島郡江戸住
根本之家御鑄物師
長谷川刑部國永作
【左丁】
小机城跡(こつくゑのしろあと) 同し通道(とほりみち)五丁/計(はかり)を隔(へた)てゝ道(みち)より右(みき)の方(かた)城坂(しろさか)と云(いふ)を
二町/斗(はかり)登(のぼつ)てあり土人(としん)は城山(しろやま)と号(かう)せり今(いま)官林(くわんりん)とす小田原記(をたはらき)に
天永(てんえい)四年甲申正月十三日/北条氏綱(ほうてううちつな)上杉朝興(うへすきともおき)を攻落(せめおと)し
歸陣(きちん)の後(のち)小机(こつくゑ)の城(しろ)を普請(ふしん)ありと記(しる)せり依(よつて)老臣(らうしん)笠原(かさはら)
越前守(ゑちせんのかみ)同(おなしく)能登守(のとのかみ)父子(ふし)を城代(しやうたい)として此処(このところ)に居住(きよちゆう)せし
むとなり封境(ほうきやう)今(いま)南北(なんほく)一町/余(よ)東西(とうさい)四町/計(はかり)の小阜(ちいさきをか)にして
回(めく)りに遑(ほり)の形(かたち)を存(そん)せり《割書:高(たかさ)六七|丈あまり》中心(ちゆうしん)の平地(へいち)纔(わつか)に百歩(ひやくほ)
ばかりありて今(いま)畠(はたけ)とす《割書:古(いにしへ)は橘樹郡(たちはなこほり)都築郡(つつきこほり)にわたりて|木机(こつくゑ)の属郷(そくかう)百八/郷(かう)ありしとなり》又/笠原(かさはら)
家(け)の臣(しん)沼上出羽(ぬまかみては)といへる人の子孫(しそん)今(いま)此地(このち)に存(そん)す其家(そのいへ)に
刀剣(とうけん)の類(るゐ)を収(をさ)むると云《割書:按(あんする)に北条家(ほうてうけ)分限帳(ふんけんちやう)に沼上(ぬまかみ)といへる人/小机(こつくゑ)の|内(うち)井田(ゐた)の地(ち)を領(りやう)するよし注(ちゆう)せしは此(この)出羽(ては)》
《割書:某(それかし)か事(こと)を云なるへし又/同書(とうしよ)に笠原藤左衛門(かさはらとうさゑもん)といへる人/小机(こつくゑ)八朔(はつさく)を領(りやう)し笠原(かさはら)|佐渡(さと)といへるは左衛門佐(さゑもんのすけ)知行(ちきやう)の内(うち)小机(こつくゑ)綱島(つなしま)箕輪(みのわ)を領(りやう)すとあり笠原弥十郎(かさはらやしうらう)は》
《割書:高田玄番助(たかたけんはのすけ)か小机(こつくゑ)菅生(すかふ)の内(うち)を領(りやう)し笠原平左衛門(かさはらへいさゑもん)といへるか所領(しよりやう)の内(うち)にも小机(こつくゑ)|師岡(もろをか)の地名(ちめい)を注(ちゆう)しかへたり按(あんする)にいつれも越前守(ゑちせんのかみ)の氏族(しそく)なりしなるへし》
白山権現(はくさんこんけん) 城山(しろやま)の東(ひかし)の山觜(さんし)にあり古(いにしへ)の鎮守(ちんしゆ)なりしと云傳(いひつた)ふ
【右丁】
松亀山(しようきさん)泉谷寺(せんこくし) 本覚院(ほんかくゐん)と号(かう)す城山(しろやま)より五六町を隔(へた)てゝ長津(なかつ)
田通道(たとほりみち)の左(ひたり)にありて大門(おほもん)三丁/計(はかり)か間(あひた)左右(さいう)に櫻(さくら)の列樹(れつしゆ)あり
《割書:此地(このち)の小名(こな)を《振り仮名:泉ゕ谷|いつみ たに》と|云(いふ)故(ゆゑ)に寺(てら)の号(かう)とせり》浄土宗(しやうとしう)にして花洛(くわらく)智恩院(ちおんゐん)に属(そく)せり本(ほん)
尊(そん)は一/光三尊(くわうさんそん)の阿弥陀如来(あみたによらい)木像(もくさう)にして二尺八寸/計(はかり)あり
作者(さくしや)しるへからす當寺(たうし)は鈴木但馬守(すゝきたしまのかみ)といへる人の開創(かいさう)なり
《割書:此人(このひと)|未考(いまたくわんかへす)》開山(かいさん)を名蓮社見誉大道善悦大和尚(みやうれんしやけんよたいたうせんえつたいおしやう)と号(かう)す《割書:弘治(こうち)元年|八月二日》
《割書:化寂(けしやく)す下総(しもふさ)飯沼(いひぬま)|弘経寺(くきやうし)の六世なり》中門(ちゆうもん)の前(まへ)に天正(てんしやう)十八年/小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)より建(たつ)る
所(ところ)の天正(てんしやう)十八年の制札(せいさつ)あり
淡島明神(あはしまみやうしん)社 相模街道(さかみかいたう)大熊村(おほくまむら)より左(ひたり)へ十三四町入て折本村(をりもとむら)に
あり神主(かんぬし)雲路氏(くもちうち)奉祀(ほうし)す祭禮(さいれい)は二月三日/縁日(えんにち)は毎(まい)月三日
十三日にして祭神(さいしん)は少彦名命(すくなひこなのみこと)及(およ)ひ神功皇后(しんこうくわうこう)二/座(さ)なり勧(くわん)
請(しやう)の初(はしめ)は詳(つまひらか)ならすと云
櫻樹(さくらのき)《割書:神前(しんせん)東(ひかし)の方(かた)にあり昔(むかし)土人(としん)此山(このやま)に入(いり)櫻(さくら)の老樹(らうしゆ)を薪(たきゝ)にせんとして是(これ)を|伐(き)り日(ひ)を経(へ)て後(のち)山(やま)より出(いた)さんとかしこに至(いた)りけるに件(くたん)の老樹(らうしゆ)の傍(かたはら)に》
【左丁】
《割書:大(おほひ)なる蛇(へひ)ありて其樹(そのき)を衛(まも)りひとへに惜(をし)むに似(に)たり里人(りしん)思(おも)へらくもしくは社(しや)|辺(へん)にありし樹(き)なれは當社(たうしや)の神(かみ)の愛樹(あいしゆ)にてやありけんとそゝろに恐怖(けうふ)し終(つひ)に其(その)》
《割書:樹(き)に手(て)を付(つく)る事なく宝永(はうえい)正德(しやうとく)の頃迄(ころまて)猶(なほ)山(やま)かけに朽残(くちのこ)りてありしとなり今(いま)|其(その)根株(ねかふ)より生(しやう)したる蘖(ひこはへ)の若木(わかき)社(やしろ)の上にありしを今(いま)神前(しんせん)の西(にし)に移(うつ)したりと》
《割書:あり社(やしろ)の東(ひかし)に栽(うゑ)たるは宝永(はうえい)|の頃(ころ)其根(そのね)を分(わか)ちたるなり》
淡島神祠之碑(あはしましんしのひ)
《割書:寛保(くわんほ)壬戌/夏(なつ)折本(をりもと)の邑長(むらをさ)藤原英至(ふちはらのてるむね)といへる人/邑民(いうみん)と共(とも)に謀(はかつ)て當社(たうしや)を新(あらた)に|せんと欲(ほつ)すその頃(ころ)此地(このち)は松下某公(まつしたそれかしこう)の采邑(さいいう)なれは英至(てるむね)此事(このこと)を告(つ)く某公(それのこう)すなはち》
《割書:祠(やしろ)に近(ちか)き地(ち)数百歩(すひやくほ)を此(この)神祠(しんし)に属(そく)す英至(てるむね)退(しりそい)て文(ふん)を麻布(あさふ)善福寺(せんふくし)の了誉(りやうよ)上人に|請(こ)ひ書(しよ)を烏石山人(うせきさんしん)に求(もと)む篆額(てんかく)は本多康桓(ほんたやすたけ)竜(りやう)の画(ゑ)は古山平國豊(ふるやまたひらくにとよ)の筆(ふて)なり》
《割書:其文(そのふん)はこゝに省(はふ)きてしるさす》
多目周防守(ためすはうのかみ)宅地(たくち) 青木(あをき)町の中(うち)なりとおほしけれとも其地(そのち)定(さたか)ならす
小田原記(をたはらき)信玄(しんけん)小田原(をたはら)を襲(おそ)ふとある条下(てうか)に多目周防守(ためすはうのかみ)その頃(ころ)
青木(あをき)といふ所(ところ)に居住(きよちゆう)したりとあり《割書:《振り仮名:程ヶ谷|ほとか や 》蒔田城(まいたしやう)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり関(くわん)|東古戦録(とうこせんろく)に此人(このひと)信州(しんしう)上州(しやうしう)の境(さかい)西(にし)》
《割書:牧(まき)の城(しろ)にありて上州(しやうしう)の國(くに)峯(みね)岩倉(いはくら)等(とう)の砦(とりて)落去(らくきよ)の時(とき)討死(うちしに)せし事(こと)見えたり|小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)に多米新左衛門(ためしんさゑもん)青木(あをき)を領(りやう)する由(よし)見(み)えたり》
《割書:按(あんする)に小田原記(をたはらき)には多目周防守(ためすはうのかみ)を吉良佐兵衛佐義門(きらさひやうゑのすけよしかと)の家臣(かしん)なりとすされと|北条家(ほうてうけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)によりて考(かんか)ふれは北条(ほうてう)の臣(しん)なる事あきらけし義門(よしかと)は》
《割書:北条氏康(ほうてううちやす)の妹聟(いもとむこ)なれは新左衛門(しんさゑもん)を後(のち)周防守(すはうのかみ)とし小田原(をたはら)より吉良家(きらけ)へ附(つけ)|人(ひと)なとにせしにより吉良家(きらけ)に属(そく)してありしならん》
【右丁】
泉谷寺(せんこくし)
【図】
【枠内】庫裡
【枠内】玄関
【枠内】本堂
【枠内】かね
【枠内】地蔵
【枠内】観音
【左丁】
【図】
【枠内】いなり
八まん
弁天
【枠内】塔中
【枠内】住吉原
【右丁】
師岡(もろをか)
熊野権現(くまのこんけん)宮
【図】
【枠内】地蔵
【枠内】山王
【枠内】いなり
【枠内】弁天
【左丁】
【図】
【枠内】拝殿
【枠内】本社
【枠内】みたらし
【枠内】別當
【枠内】ゑんま
【右丁】
折本村(をりもとむら)
淡島明神(あはしまみやうしん)社
【図】
【枠内】せつたい
ちや
【枠内】男滝
【左丁】
【図】
【枠内】天王
【枠内】本社
【枠内】いなり
【枠内】女滝
【右丁】
青木山(あをきさん)西向寺(さいかうし) 同所/青木町(あをきまち)の横小路(よここうち)の右側(みきかは)にあり虚無僧寺(こむそうてら)に
して普化宗門(ふけしうもん)金洗派(きんせんは)と称(しよう)す《割書:扣番所(ひかへはんしよ)と号(なつ)くる物(もの)に|して本寺(ほんし)にはあらす》
本覚寺切通(ほんかくしきりとほし) 同所/本覚寺(ほんかくし)の北(きた)の方(かた)の間(あひた)を切闢(きりひら)きて道路(たうろ)とす
《割書:長津田通道(なかつたとほりみち)及(およひ)三澤(みさは)|村(むら)等(とう)への路(みち)なり》永正(えいしやう)七年の秋(あき)上杉治部少輔入道建芳(うへすきちふのしやういふにふたうたつよし)か
被官(ひくわん)上田蔵人(うへたくらんと)建芳(たつよし)に背(そむ)き此地(このち)に打(うつ)て出(いて)熊野権現山(くまのこんけんさん)を
城郭(しやうくわく)に取立(とりたて)西(にし)に續(つゝ)きたる山々をは其間(そのあひた)をは堀切(ほりきり)本覚寺(ほんかくし)
の地蔵堂(ちさうたう)を根城(ねしろ)とせしよし小田原記(をたはらき)に見えたり《割書:熊野(くまの)|権現(こんけん)》
《割書:山(さん)の条下(てうか)と|あはせみるへし》
青木山(あをきさん)本覚禅寺(ほんかくせんし) 同所の南(みなみ)七軒(しちけん)町にあり曹洞(さうとう)の禅刹(せんせつ)にして
小机(こつくゑ)の雲松院(うんしようゐん)に属(そく)す本尊(ほんそん)地蔵菩薩(ちさうほさつ)は一尺四五寸の立像(りふさう)
なり相傳(あひつた)ふ當寺(たうし)は嘉禄(かろく)二年の開創(かいさう)にして其後(そののち)天文紀元(てんふんきけん)
の年/曹洞大源(さうとうたいけん)の末流(はつりう)季雲四傳(きうんしてん)の法孫(はふそん)陽廣禅師(やうくわうせんし)此(こゝ)に
住(すみ)初(はしめ)て法幢(はふとう)を建(た)てゝ禅風(せんふう)を起(おこ)す《割書:元禄(けんろく)の初(はしめ)殿堂門廡(てんたうもんふ)|悉(こと〳〵)く祝融氏(しゆくいうし)の為(ため)に廃(はい)す》佛殿(ふつてん)の
【左丁】
額(かく)に本覚禅寺(ほんかくせんし)と書(しよ)せしは圓明寺(ゑんみやうし)の開祖(かいそ)道山和尚(たうさんおしやう)の
筆(ふて)なり
圓明山(ゑんみやうさん)陽光院(やうくわうゐん)本覚寺(ほんかくし)の南(みなみ)に隣(とな)る遠州(ゑんしう)可睡齋(かすゐさい)退院(たいゐん)の地(ち)に
して曹洞(さうとう)の禅院(せんゐん)なり開山(かいさん)勅特賜本然圓明禅師(ちよくとくしほんねんゑんみやうせんし)と号(かうす)
《割書:石牛天梁(せききうてんりやう)|和尚(おしやう)と号(かうす)》後(うしろ)の山(やま)を福聚峰(ふくしゆほう)と号(かう)す門(もん)の額(かく)に福聚望(ふくしゆはう)と書(しよす)
永平圓明禅師(えいへいゑんみやうせんし)の筆(ふて)なり
道灌山(たうくわんやま) 同所/西(にし)の方(かた)の山中(さんちゆう)の字(あさな)なり昔(むかし)大田道灌入道(おほたたうくわんにふたう)此地(このち)に
城(しろ)を構(かま)へたりしよりの号(かう)なりと云
飯綱権現(いつなこんけん)社 神奈川(かなかは)臺町海道(たいまちかいたう)の右(みき)の山上(さんしやう)にあり本覚寺(ほんかくし)より
一町/斗(はかり)南(みなみ)なり別當(へつたう)は真言宗(しんこんしう)同所の萬年山(まんねんさん)普門寺(ふもんし)奉祀(ほうし)す
祭礼(さいれい)は五月十七日なり飯綱権現(いつなこんけん)本地佛(ほんちふつ)は不動明王(ふとうみやうわう)行基(きやうき)
大士(たいし)の作(さく)にして座像(ささう)一尺七八寸/垂跡(すゐしやく)は大山祗命(おほやますみのみこと)といふ相傳(あひつた)ふ
右大将(うたいしやう)頼朝卿(よりともきやう)此(この)尊像(そんさう)を深(ふか)く崇敬(そうけい)なし給ひ治承(ちしやう)四年
【右丁】
八月/伊豆國(いつのくに)石橋山(いしはしやま)敗軍(はいくん)の後(のち)安房國(あはのくに)へ渡海(とかい)の時(とき)本尊(ほんそん)の
霊尓(れいし)によりて風浪(ふうらう)の難(なん)を逃(のか)れ給ひ其後(そののち)竟(つひ)に天下一統(てんかいつとう)なし
給ひしかは文治年間(ふんちねんかん)此地(このち)に宮社(きうしや)造営(さうえい)ありて神領等(しんりやうとう)を寄(よせ)
られたりしとなり遥(はるか)の後(のち)大田道灌(おほたたうくわん)此地(このち)にありて尤(もつとも)尊信(そんしん)厚(あつ)
かりしと云
《振り仮名:袖の浦|そて うら》 此地(このち)の光景(くわうけい)長汀曲浦(ちやうていきよくほ)さなから袖(そて)の形(かたち)に似(に)たる故(ゆゑ)に名(な)
とす烏丸大納言光廣卿(からすまるたいなこんみつひろきやう)関東下向(くわんとうげかう)の頃(ころ)帰路(きろ)に再(ふたゝひ)此地(このち)に
よきり給ひて和歌(わか)を詠(えい)せらる《割書:其時(そのとき)みつから筆(ふて)を染(そめ)給ふ詠草(えいさう)は此地(このち)|江戸屋(えとや)何某(なにかし)か家(いへ)に秘(ひ)め置(おけ)り》
こたひ《振り仮名:袖の浦|そて うら》に泊(とま)りて
思ひきや袖の浦浪立かへりこゝに旅宿を重ぬへしとは 光廣
《割書:按(あんする)に黃葉集(くわうえうしふ)に初五文字をあつまちのとあらため結句(けつく)のとはをとやとす黃(くわう)|葉集(えうしふ)はおそらく傳写(てんしや)のあやまりなるへし》
冨士浅間(ふしせんけん)祠 同所の南/芝生村(しはふむら)海道(かいたう)の右(みき)の方(かた)山(やま)の中腹(ちゆうふく)にあり
【左丁】
浅間社(せんけんのやしろ)
【図】
【枠内】人穴
【右丁】
《振り仮名:保土ヶ谷|ほと や》天徳寺(てんとくし)といへる真言寺(しんこんし)の持(もち)なり此地(このち)に一の
暗窟(あんくつ)あり土俗(とそく)是(これ)を冨士(ふし)の人穴(ひとあな)と号(なつ)く相傳(あひつたふ)昔(むかし)頼朝卿(よりともきやう)
冨士(ふし)の裾野(すその)に御獵(みかり)ありし頃(ころ)仁田四郎忠常(にたんのしらうたゝつね)に命(めい)せられ
冨士(ふし)の人穴(ひとあな)の奥(おく)を究(きは)めしむ忠常(たゝつね)終(つひ)に此(この)穴中(けつちゆう)に入(い)りて抜(ぬけ)
出(いて)たりといふ誕譚(えんたん)よりところなしといへとも古(ふる)くより云傳(いひつたふ)る
故(ゆゑ)に是(これ)を闕事(かくこと)あたはす
洲乾辨財天(しうかんへんさいてん)祠 芒新田(のけしんてん)横濱村(よこはまむら)にあり故(ゆゑ)に土人(としん)横濱辨天(よこはまへんてん)
とも稱(しよう)せり別當(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして同所(とうしよ)増德院(そうとくゐん)奉祀(ほうし)す祭(さい)
礼(れい)は十一月十六日なり安置(あんち)する所(ところ)の弁財天(へんさいてん)の像(さう)は弘法大師(こうはふたいし)の
作(さく)にして《振り仮名:江の嶋|え しま》と同木(とうほく)也/此地(このち)は洲崎(すさき)にして左右(さいう)共(とも)に海(うみ)に臨(のそ)み
海岸(かいかん)の松風(まつかせ)は波濤(はたう)に響(ひゝき)をかはす尤(もつとも)佳景(かけい)の地(ち)なり
海中(かいちゆう)姥島(うはしま)なと称(しよう)する奇巌(きかん)ありて眺望(てうはう)はなはた
秀美(しうひ)なり
【尾崎蔵書】
【左丁】
【豊田家蔵】
【裏表紙】
《題:江戸名所図会 十一》
江戸名所図会(えとめいしよつゑ)巻之四(けんのし)
天権之部目録(てんけんのふもくろく)
市谷八幡宮(いちかやはちまんくう)《割書:茶木(ちやのき)|稲荷(いなり)》 薬王寺(やくわうし)《割書:稲荷(いなり)祠| 》 月桂寺(けつけいし)《割書:安座(あんさん)|宝珠(はうしゆ)》 安養寺(あんやうし)《割書:稲荷(いなり)祠|八幡宮(はちまんくう)》
薬王寺(やくわうし)《割書:一木(ひとつき)|薬師(やくし)》 大窪天満宮(おほくほてんまんくう) 七面大明神(しちめんたいみやうしん)社 諏訪明神社(すはみやうしん)社
大窪映山紅(おほくほきりしま) 自証院(ししやうゐん) 西迎寺(さいかうし) 円照寺(ゑんしやうし)《割書:右衛門桜(ゑもんさくら)| 》
鎧明神(よろひみやうしん)祠 淀橋(よとはし)《割書:水車(みつくるま)| 》 角筈十二所権現(つのはつしふにしよこんけん)社《割書:熊野滝(くまのゝたき)| 》
中野成願禅寺(なかのしやうくわんせんし) 中野長者昌蓮墓(なかのちやうしやしやうれんのはか) 中野(なかの) 中野 七塔(しちたふ)
宝仙寺(はうせんし)《割書:大師堂(たいしたう) 鐘楼(しゆろう) 二王門(にわうもん)|三層塔(さんしふのたふ) 馴象枯骨(しゆんさうのここつ)》 桃園(もゝその) 桃園観音堂(もゝそのくわんおんたう)
阿佐谷神明宮(あさかやしんめいくう) 堀(ほり)の内(うち)妙法寺(みや[う]ほふし)《割書:加持(かちの)|符(ふ)》 大宮八幡宮(おほみやはちまんくう)《割書:鞍掛(くらかけ)|松(まつ)》 《振り仮名:幡ヶ谷不動堂|はたかやふとうたう》
慈宏寺(しくわうし) 井頭弁財天宮(ゐのかしらへんさいてんくう) 井頭池(ゐのかしらのいけ)《割書:御楊枝柳(おんやうしやなき) 臥竜藤(くわりうのふち)|三(み)ッ柳(やなぎ) 御殿山(こてんやま)》
金井橋(こかねゐはし)《割書:同 看花図(はなみのつ)| 》 津久戸明神(つくとみやうしん)社 築土八幡宮(つくとはちまんくう) 逢坂(あふさか)
神楽坂(かくらさか) 若宮八幡宮(わかみやはちまんくう) 行元寺(きやうくわんし)《割書:襟掛観音(えりかけくわんおん)| 》 牛込城址(うしこみのしろあと)
閻魔堂(えんまたう) 松源寺(しようけんし) 正蔵院(しやうさうゐん) 赤城明神(あかきみやうしん)社
御殿山(こてんやま) 済松寺(さいしようし) 豊後小侍従大友義延旧館之地(ふんここししうおほともよしのふきうくわんのち)
大友松(おほとものまつ)《割書:大友 稲(いな)|荷(り)祠》 宗柏寺(そうはくし) 宗参寺(そうさんし)《割書:大胡氏墓(おほこうちのはか)|栄(さかえ)の梅(むめ)》 千手院(せんしゆゐん)
幸国寺(こうこくし)《割書:布引(ぬのひき)|祖師(そし)》 願満祖師堂(くわんまんそしたう) 早稲田神明宮(わせたしんめいくう) 赤城明神旧地(あかきみやうしんのきうち)
感通寺(かんつうし)《割書:毘沙門天(ひしやもんてん)|摩利支天(まりしてん)》 三国伝来千手観世音(さんこくてんらいせんしゆくわんせおん)《割書:西方寺(さいはうし)|自楽居士墓(しらくこしのはか)》 誓閑寺(せいかんし)《割書:稲荷(いなり)|垂枝桜(したれさくら)》
金川(かなかは) 高田八幡宮(たかたはちまんくう)《割書:若宮八幡(わかみやはやちまん)宮 御宮(おんみや) 本地堂(ほんちたう) 氷室明神(ひむろみやうしん)祠|観音(くわんおん) 光松(ひかりまつ) 鐘楼(しゆろう) 楼門(ろうもん)》
《割書:放生池(はうしやうち) 出現所(しゆつけんしよ)|能舞台跡(のうふたいのあと)》 高田稲荷(たかたいなり)社《割書:神泉| 》 毘沙門堂(ひしやもんたう)《割書:朝日庵(あさひあん) 旗立桜(はたたてさくら)|千年松(ちとせのまつ) 守宮池(いもりかいけ)》
宝泉寺(はうせんし) 高田 富士山(ふしさん)《割書:浅間(せんけん)|祠》 宗良親王陣営旧址(そうらしんわうちんえいのきうし) 戸塚(とつか)【https://honkoku.org/app/#/transcription/712D9F517D357980C7FFBAAF66364CF0/2/】
百八塚(ひやくはちつか) 高田天満宮(たかたてんまんくう) 高田馬場(たかたはゝ) 和田戸山(わたとやま)
荒藺山(あらゐやま)【藺は原文では閵】 山吹(やまふき)の里(さと) 三島山(みしまやま)《割書:三島(みしま)祠|山吹井(やまふきのゐ)》 高田 七面堂(しちめんたう)《割書:世尊堂(せそんたう)|朝日堂(あさひたう)》
《割書:朝日桜(あさひさくら)|諏訪(すは)祠》 傍(おもかけ)の橋(はし) 姿見(すかたみ)の橋(はし) 南蔵院(なんさうゐん)《割書:薬師堂(やくしたう)|鴬宿梅(あうしゆくはい)》
氷川明神(ひかはみやうしん)社 右橋(みきはし) 氷川明神(ひかはみやうしん)社 七曲坂(なゝまかりさか)
落合土橋(おちあいとはし) 奥州橋(あうしうはし) 宿坂関旧跡(しゆくさかのせききうせき) 金乗院(こんしやうゐん)《割書:観世音(くわんせおん)| 》
木花開耶姫(このはなさくやひめ)社 藤杜稲荷(ふちのもりいなり)社 泰雲寺(たいうんし)《割書:了然尼伝(りやうねんにのてん)|蘭台先生墓(らんたいせんせいのはか)》 一枚岩(いちまいいわ)
落合蛍(おちあひほたる) 牛天神(うしてんしん)社《割書:降魔狗(こまいぬ)|牛石(うしいし)》 諏訪明神(すはみやうしん)社
金剛寺(こんこうし)《割書:実朝公碑(さねともかうのひ)|地蔵堂(ちさうたう)》 道祖神(たうそしん)祠 氷川明神(ひかはみやうしん)社 大日堂(たいにちたう)
大洗堰(おほあらひせき) 竜隠庵(りうけあん)《割書:五月雨塚(さみたれつか)| 》 水神(すゐしん)社 八幡宮(はちまんくう)
駒留橋(こまとめはし) 北村季吟翁別荘地(きたむらききんをうへつさうのち) 道山幸神(みちやまかうしん)祠 目白不動堂(めしろふとうたう)
関口 八幡宮(はちまんくう) 大塚(おほつか) 本伝寺(ほんてんし)《割書:経読祖師(きやうよみそし)| 》 波切不動尊(なみきりふとうそん)
大慈寺(たいしし)《割書:日吉豊国両社(ひよしとよくにりやうしや)|造酒地蔵尊(みきちそうそん)》 室鳩巣先生墓(むろきうさうせんせいのはか) 護持院(こちゐん)《割書:本堂(ほんたう)|歓喜天(くわんきてん)》
《割書:蟹(かに)ゕ池(いけ) 権現山(こんけんやま) 護摩堂(こまたう) 方丈(はうしやう)|庫裡(くり) 中門(ちゆうもん) 総門(さうもん) 寺中(しちゆう)》 護国寺(ここくし)《割書:本堂(ほんたう) 薬師堂(やくしたう) 西国三十三番巡礼札所(さいこくさんしふさんはんしゆんれいふたしよ)の写(うつし)|富士(ふし) 経堂(きやうたう) 稲荷(いなり) 地蔵(ちさう)》
《割書:今宮(いまみや) 大師堂(たいしたう) 寺中(しちゆう)|歓喜天(くわんきてん) 二王門(にわうもん)》 星谷(ほしやと)の井(ゐ)旧地(きうち) 本浄寺(ほんしやうし)《割書:七面宮(しちめんくう)|大黒天(たいこくてん)》 清立院(せいりふゐん)《割書:日親上人影堂(にちしんしやうにんえいたう)|請雨松(あまこいのまつ)》
雑司谷鬼子母神出現所(さうしかやきしもしんしゆつけんしよ)《割書:星(ほし)の清水(しみつ)| 》 宝城寺(はうしやうし) 本納寺(ほんなふし)
雑司谷鬼子母神堂(さうしかやきしもしんたう)《割書:鷺明神(さきみやうしん)祠 稲荷(いなり)社 子授銀杏(こさつけいてふ) 石 二王尊(にわうそん)|年中行事(ねんちゆうきやうし) 麦藁細工獅子(むきわらさいくしゝ) 百度参(ひやくとまゐり)》
法明寺(ほふみやうし)《割書:釈迦堂(しやかたう) 銀杏(いてふ) 祖師堂(そしたう) 釈迦石像(しやかせきさう)|鯨鐘(かね) 二王門(にわうもん) 年中行事(ねんちゆうきやうし) 会式詣(ゑしきまうて)の図》 弦巻川(つるまきかは)
大行院(たいきやうゐん) 蓮成寺(れんしやうし) 小石川(こいしかは) 伝通院(てんつうゐん)《割書:御霊屋(これいや)|開山堂(かいさんたう)》【https://honkoku.org/app/#/transcription/ED9729C097319CCE8DA92794904694B1/2/】
《割書:八幡宮(はちまんくう) 弁才天(へんさいてん)祠 沢蔵主稲荷(たくさうすいなり)社 常念仏堂(しやうねんふつたう) 新念仏堂(しんねんふつたう)|大黒天(たいこくてん)社 経堂(きやうたう) 無縁塚(むえんつか) 無声蛙(むせいのかはつ)》 光円寺(くわうゑんし)
本木薬師如来(もときやくしによらい) 宗慶寺(そうけいし)《割書:阿茶局御廟所(あちやのつほねこひやうしよ) 了誉上人石塔(りやうよしやうにんせきたふ)|極楽水(こくらくみつ)》 祥雲寺(しやううんし)《割書:茨木春朔墓(いはらきしゆんさくのはか)| 》
無量院(むりやうゐん)《割書:小野小町墓(おのゝこまちのはか)| 》 白山神社(はくさんしんしや)《割書:旗桜(はたさくら)| 》 御薬園(おんやくえん)《割書:初音(はつね)の里(さと)| 》 療病院(りやうひやうゐん)
氷川明神(ひかはみやうしん)社《割書:聖冏庵旧跡(しやうけいあんきうせき)|祇園橋(きをんはし)》 巣鴨真性寺(すかもしんしやうし)《割書:六地(ろくち)|蔵尊(さうそん)》 庚申塚(かうしんつか)
猫狸橋(ねこまたはし) 十羅刹女堂(しふらせつによたう) 板橋駅(いたはしのゑき) 板橋原(いたはしのはら)
乗蓮寺(しやうれんし)《割書:相生杉(あひおひすき) 女男松(めおとまつ)|板橋忠康墓(いたはしたゝやすのはか)》 木下稲荷(きのしたいなり)祠 清水坂(しみつさか)
清水薬師如来(しみつやくしによらい) 千葉家城址(ちはけのしろあと) 熊野権現宮(くまのこんけんくう) 一夜塚(ひとよつか)
西台円福寺(にしたいえんふくし) 大堂(たいたう)《割書:古鐘(こしやう)| 》 松月院(しようけつゐん)《割書:千葉家(ちはけ)|墳墓(ふんほ)》 赤塚明神(あかつかみやうしん)祠
十羅刹女(しふらせつによ)宮 千葉家古城址(ちはけこしやうのあと) 吹上観音堂(ふきあけくわんおんたう) 練馬長命寺(ねりまちやうめいし)《割書:世俗 新高(しんかう)|野(や)と云》
《割書:観音堂(くわんおんたう) 鐘(かね)|大師堂(たいしたう)》 三宝寺(さんはうし)《割書:千体地蔵堂(せんたいちさうたう) 八幡宮(はちまんくう)|寺宝(しはう)》 愛宕権現宮(あたここんけんくう)《割書:城山(しろやま)|関川(せきかは)》
《割書:遅井(おそのゐ)|道潅堤(たうくわんつゝみ)》 氷川明神(ひかはみやうしん)祠 三宝寺池(さんはうしのいけ)《割書:弁才天祠| 》 照日塚(てるひつか)
石神井城址(しやくし[い]のしろあと) 石神井明神(しやくし[い]みやうしん)祠 練馬城址(ねりまのしろあと) 立野旧跡(たちのゝきうせき)
膝折里(ひさおりのさと) 宗岡(むねおか)宿 内川(うちかは)《割書:いろは樋(とひ)| 》 十玉院(しふきよくゐん)
難波田弾正旧館地(なんはたたんしやうきうくわんのち) 西蔵院(さいさうゐん)《割書:万蔵院(まんさうゐん)|百八灯供養古碑(ひやくはちとうくやうのこひ)》 阿蘇明神(あそみやうしん)祠
野火留(のひとめ) 平林禅寺(へいりんせんし)《割書:仏殿(ふつてん) 山門(さんもん) 鐘楼(しゆろう) 九十九塚(つくもつか)|業平塚(なりひらつか) 桜車道(さくらくるまみち) 弁才天(へんさいてん)宮 戴渓堂(たいけいたう)》
《割書:独立禅師木牌(とくりふせんしもくはい)| 》 安松長源寺(やすまつちやうけんし) 飽間斎藤氏墓碑(あかまさいとううちほひ) 将軍塚(しやうくんつか)
狭山(さやま)の池(いけ) 狭山(さやま) 八国山(はちこくやま) 久米川(くめかは)
曼荼羅淵(まんたらかふち) 永源寺(えうけんし)《割書:大石氏霊牌(おほいしうちれいはい)|洪鐘(こうしやう)》 北野天神(きたのゝてんしん)社《割書:末社(まつしや)|みたらし》
《割書:尊桜(みことさくら)|大納言(たいなこん)の梅(むめ)》 小手差原(こてさしはら) 山口観音堂(やまくちくわんおんたう)《割書:影向加持水(えうこうかちすゐ) 琵琶島弁天(ひはしまへんてん)祠|二王門(にわうもん)》
山口岡(やまくちのをか) 勝楽寺(しようらくし)《割書:七社権現(しちしやこんけん) 阿弥陀堂(あみたたう) 聖天宮(しやうてんくう)|薬師堂(やくしたう) 洪鐘(こうしやう) 開山塔(かいさんたふ)》
新堀玄蕃居住地(にゐほりけんはきよたくのち) 山住彦三郎旧址(やますみひこさふらうのきうし) 箱(はこ)の池(いけ) 堀兼井(ほりかねのゐ)《割書:同 碑(ひ)| 》
来迎寺(らいかうし) 還車阿弥陀如来(くるまかへしあみたによらい) 所沢(ところさは)《割書:同 卯花(うのはな)| 》 新光寺(しんくわうし)
薬王寺(やくわうし) 戸田川渡(とたかはわたし)口 羽黒権現(はくろこんけん)宮《割書:霊泉(れいせん)| 》 焼米坂(やきこめさか)
新曽妙顕寺(にゐそみやうけんし)《割書:釈迦堂(しやかたう) 宝蔵(はうさう) 開山塔(かいさんたふ)|寺宝(しはう) 鐘楼(しゆろう) 二王門(にわうもん)》 渋川義行居城旧址(しふかわよしゆききよしやうのきうし) 調神社(つきのしんしや)
子安清水(こやすのしみつ)《割書:妙典寺(みやうてんし)| 》 宮本簸川明神(みやもとひかはみやうしん)社《割書:御沼(みぬま)|文殊寺(もんしゆし)》 簸河原(ひかはのはら)
大宮氷川神社(おほみやひかはしんしや)《割書:荒波々幾社(あらはゝきのやしろ) 宗像(むねかた)社 五山祇(いつやますみ)社|本地堂(ほんちたう) 古文書(こふんしよ)》 東光寺(とうくわうし)
黒塚(くろつか) 潮田出羽守資忠城址(うしほたてはのかみすけたゝのしろあと)同 墓(はか)
《題:江戸名所図會 八》
【見返しに朱印】
【左丁】
明顕山祐天寺(みやうけんさんいうてんし) 同所/西(にし)の方(かた)五丁/計(はかり)を隔(へた)つ善久院(せんきうゐん)と号(かう)す享保(きやうほ)年間(ねんかん)
二世/祐海(いうかい)和尚(おしやう)祐天(いうてん)大僧正(たいそうしやう)の遺跡(ゆゐせき)の地(ち)を奉(ほう)して當寺(たうし)を草創(さう〳〵)し
則(すなはち)祐天(いうてん)大僧正(たいそうしやう)を開祖(かいそ)とす常行念佛(しやうきやうねんふつ)の道場(たうちやう)にして鉦鼓(しやうこ)の
聲(こゑ)は山林(さんりん)に谽谺(かんか)せり《割書:此称名(このしようみやう)は開山(かいさん)祐天大僧正(いうてんたいそうしやう)臨終(りんしう)の期(こ)開闢(かいひやく)|ありしより連綿(れんめん)として絶(た)えすとなり》毎年(まいねん)七月
十六日より同廿五日に至(いた)る迠(まて)の間(あひた)阿弥陀経千部(あみたきやうせんふ)読誦(とくしゆ)修行(しゆきやう)道俗(たうそく)
群参(くんさん)す
本堂(ほんたう)本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)《割書:御長(みたけ)一尺|五寸/計(はかり)》恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)にして開山(かいさん)生涯(しやうかい)
持念(ちねん)の尊像(そんさう)なり 開山(かいさん)祐天大僧正(いうてんたいそうしやうの)真像(しんさう)《割書:本尊(ほんそん)の龕前(かんせん)に安置(あんち)す|等身佛(とうしんふつ)にして八十二/歳(さい)の》
《割書:影像(えいさう)三輪利鑑(みわりかん)|の作(さく)なり》
鯨鐘(けいしよう)《割書:堂前(たうせん)右の方/庫裡(こり)の前(まへ)にあり|一位大夫人(いちゐたいふしん)桂昌院殿(けいしやうゐんてん)御寄附(こきふ)》圓光大師堂《割書:同し並(なら)ひにあり法然(ほうねん)上人|御在世(こさいせ)の時(とき)河内國(かはちのくに)に天野(あまの)
《割書:四郎と云(いふ)強盗(かうとう)ありしか終(つい)に上人の化導(くわたう)に帰入(きにふ)し出家(しゆつけ)して教阿弥陀佛(けうあみたふつ)と号(なつ)く
【表紙】
【題箋】
《題:江戸名所図会 十七》
【左丁】
下谷岡(したやのをか) すへて上野(うへの)のあたりを指(さし)ていふ《割書:小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の古文書(こもんしよ)に大谷(おほたに)十郎左衛門|江戸回(えとまはり)下谷(したや)にて菱野分(ひしのふん)の地(ち)を領(りやう)す》
武蔵国風土記残篇曰 豊嶋郡下谷岡貢鹿狐兎狸山鴒雉雀等又
貢薯蕷松脂《割書:云云》
五條天神宮(こてうてんしんくう) 東叡山(とうえいさん)の巽(たつみ)の麓(ふもと)瀬川氏(せかはうち)の地(ち)にあり祭神(まつるかみ)少彦名彦命(すくなひこなのみこと)
一坐(いちさ)《割書:本朝(ほんてう)医道(いたう)の祖神(そしん)に|して五條天神(こてうてんしん)と称(しよう)す》北野天満宮(きたのてんまんくう)を相殿(あひてん)とす《割書:菅神(かんしん)の像(さう)は寛永(くわんえい)十八年 慈眼(しけん)|大師(たいし)開眼(かいけん)ありて当社(たうしや)の相殿(あひてん)に》
《割書:鎮坐(ちんざ)|せしむ》当社(たうしや)はしめは東叡山(とうえいさん)のうちにありしか寛永寺(くわんえいし)草創(さう〳〵)の砌(みきり)御連(おれん)
歌師(かし)瀬川昌億(せかはしやうおく)か宅地(たくち)に遷(うつ)【迁は俗字】させらる《割書:菊岡沾涼(きくをかせんりやう)云(いふ)其(その)旧地(きうち)は上野(うえの)|御本坊(こほんほう)の辺(あたり)なりしと》毎歳(としこと)節分(せつふん)
の夜(よ)白朮神事(をけらのしんし)を修行(しゆきやう)す
北国記行云 正月の末むさし野のさかい忍の岡に優遊しはへり鎮座の社
五條天神と申はへり折ふし枯たる茅原を焼はへり
契りをきてたれかは春の初草に忍ひの岡の露の下萌 堯恵
宝王山常楽院(はうわうさんしやうらくゐん) 長福寿寺(ちやうふくしゆし)と号(かう)す天台宗(てんたいしう)五條天神(こてうてんしん)の南(みなみ)忍川(しのふかは)の向(むかふ)
にあり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は行基大士(きやうきたいし)の作(さく)にして六阿弥陀(ろくあみた)第五番目な
り二月八月の彼岸中(ひかんちゆう)甚(はなはた)賑(にき)はへり
【右丁】
山(やま)
下(した)
見せ物 曲馬
浄るり ちや屋
【左丁】
講尺 茶や
ものまね
茶や 茶や
あわもち
かるわざ
車坂
土弓 うなきや
啓運寺
【右丁】
其
二
五(こ)
条(てう)
天(てん)
神(しん)
祠(やしろ)
毎年(まいねん)
節分(せつふん)
の夜(よ)
白朮の
神事(しんし)
修行(しゆきやう)
あり
こ
ま 浄
る
り
物
ま
ね
此辺
なら
茶
や
茶
や
【左丁】
上野
五条天神
山王山 土弓
【右丁】
常楽院(しやうらくゐん)
六阿弥陀五番目
なり春(はる)秋(あき)二度
の彼岸中(ひかん )賑(にき)はし
【左丁】
養
東(とう) 玉
叡(えい) 院
山(さん)
坂(さか) 善
本(もと) 養
口(くち) 寺
り
通
本
坂
ゑ 車
む 坂
ま 下
通
り
新門
上野
【右丁】
入谷(いりや)
庚申堂(かうしんたう)
喜宝院(きほうゐん)に安(あん)す
摂(せつ)の四天王寺(してんわうし)の
青面金剛(しやうめんこんかう)と
同作の霊像(れいさう)
なりと
いへり
【左丁】
金光山養玉院(こんくわうさんやうきよくゐん) 下谷坂本(したやさかもと)壱丁目の南(みなみ)にあり天台宗(てんたいしう)にして往昔(むかし)は今(いま)
の 御城内(こしやうない)大手(おほて)の辺(あた)りにありしと慶長(けいちやう)の頃(ころ)今(いま)の地(ち)に遷(うつ)させらる往(その)
古(かみ)は三藐院(さんみやくゐん)と号(かうし)けるを宝永(はうえい)年間 今(いま)の名(な)に改(あらたむ)るといへり当寺(たうし)に釈迦(しやか)
の涅槃像(ねはんさう)の画軸(くはちく)一幅(いつふく)を蔵(さう)す上(うへ)に慈眼大師(しけんたいし)の讃(さん)あり三国伝燈大(さんこくてんとうたい)
僧正天海書(そうしやうてんかいしよ)としるせり毎年(まいねん)二月十五日 是(これ)を拝(はい)さしむ
薬王山善養寺(やくわうさんせんやうし) 延寿院(えむしゆゐん)と号(かう)す同所 坂本(さかもと)壱丁目の左側(ひたりかは)にあり天台(てんたい)
宗(しう)にして本尊(ほんそん)は薬師如来(やくしによらい)を安(あん)す《割書:寺僧(しそう)云(いふ)此(この)本尊(ほんそん)は小野照崎明神(をのてるさきみやうしん)の本地仏(ほんちふつ)なり|このゆへに小野照崎明神(をのてるさきみやうしん)の社(やしろ)は遥(はるか)に此地(このち)を離(はな)るゝと》
《割書:いへとも当寺(たうし)薬師堂(やくしとう)に|相対(あひたひ)せりとなり》当寺(とうし)は天長(てんちやう) 年中 慈覚大師(しかくたいし)の草創(さう〳〵)本尊(ほんそん)も同(おなし)大師(たいし)
の作(さく)なりといへり額(かく)に円満(ゑんまん)の二字(にし)を刻(こく)す黄壁木庵老人(わうはくもくあんらうしん)の筆(ふて)また
境内(けいたい)に閻魔堂(えむまたう)あり閻王(えむわう)の像(さう)は運慶(うんけい)の作(さく)なり正月七月十六日 参(さん)
詣(けい)群集(くんしふ)す《割書:或人(あるひと)云く当寺(たうし)閻王(えむわう)の像(さう)は野州(やしう)足利学校(あしかゝかくかう)にありし|聖像(せいさう)なりしを故(ゆへ)ありて後世(かうせい)こゝにうつしたりと》
小野照崎明神社(をのてるさきみやうしん ) 同所三丁目の右側(みきかは)にあり祭神(まつるかみ)参儀(さんき)【議】小野篁(をのゝたかむら)の
霊(れい)なりといへり社伝(しやてん)あれとも詳(つまひらか)ならす故(ゆへ)に姑(しはらく)こゝに略(りやく)す当社(たうしや)は坂(さか)
【右丁】
本(もと)の鎮守(ちんしゆ)にして八月十九日を以(もつ)て祭日(さいしつ)とす別当(へつたう)は天台宗(てんたいしう)にして
小野山嶺松院(をのさんれいしようゐん)と号(かう)す
《割書:或人(あるひと)云(いふ)当社(たうしや)は其先(そのさき)忍(しのふ)か岡(おか)に聖堂(せいたう)ありし頃(ころ)その傍(かたはら)にありて小野明神(をのみやうしん)と称(しよう)す小野篁(をのゝたかむら)ふ|かく儒教(しゆけう)を崇教(そうきやう)し野州(やしう)足利(あしかゝ)に学校(かくかう)を闢(ひら)く故(ゆへ)に其後(そののち)彼地(かしこ)にて聖堂(せいたう)の傍(かたはら)に篁(たかむら)の像(さう)を|安(あん)し祭祀(さいし)を執行(しゆきやう)すこゝにもまたかしこの例(れい)に準(しゆん)して忍(しのふ)か岡(をか)聖堂(せいたう)の傍(かたはら)に置(をき)けるを聖堂(せいたう)湯島(ゆしま)へ|遷(うつ)るの後(のち)今(いま)の地(ち)へ鎮坐(ちんさ)なしける又(また)云(いふ)当社(たうしや)の地主(ちしゆ)稲荷明神(いなりみやうしん)の使者(ししや)なりけるを白狐(ひやくこ)夜毎(よこと)に尾(お)の末(すへ)|照(てり)かゝやきて台嶺(たいれい)の松樹(まつ)に映(えい)しけれは尾(お)の先(さき)照(てる)といふ意(こゝろ)にて彼此(かれこれ)混(こん)し交(まし)へ小野照崎(をのてるさき)と|は号(なつ)けけるなりと云云》
仏迎山安楽寺(ふつかうさんあんらくし) 金杉(かなすき)にあり正保(しやうほ)年中 正蓮社意的和尚(しやうれんしやいてきおしやう)当寺(たうし)を創(さう)
立(りふ)す《割書:当寺(たうし)は知恩院宮尊朝法親皇(ちおむゐんのみやそんてうほふしんわう)|御閑居(おんかんきよ)の舊地(きうち)なりといへり》本尊(ほんそん)は宝冠(はうくはん)の阿弥陀如来(あみたによらい)なり洛陽(らくやう)
一心院(いつしんゐん)の末(まつ)にして捨世一派(しやせいいつは)の浄域(しやういく)たり昼夜(ちうや)不退(ふたい)念仏三昧(ねんふつさんまい)にし
て殊勝(しゆしやう)なり
宝鏡山円光寺(はうきやうさんゑんくわうし) 根岸(ねきし)の里(さと)にあり済家(さいか)の禅林(せんりん)にして釈迦如来(しやかによらい)を
本尊(ほんそん)とす当寺(たうし)庭中(ていちゆう)に紫藤(しとう)ありて花(はな)の頃(ころ)は一(いつ)奇観(きくはん)たり故(ゆへ)に俗(そく)
間(かん)これを藤寺(ふちてら)と称(しよう)せりまた堂前(たうせん)に鏡(かゝみ)の松(まつ)と唱(とな)ふる名樹(めいしゆ)あり
鎮守(ちんしゆ)の弁財天(へんさいてん)は弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)なりといへり
【左丁】
小野照崎明神社(をのてるさきみやうしん )
いなり
【右丁】
金杉(かなすき)
安楽寺(あんらくし)
観音
鐘樓
【左丁】
本堂
方丈
俗に此小路を
あんらあんらくじ横丁と云
【右丁】
根岸(ねきし)
円光寺(ゑんくはうし)
世俗 藤寺(ふちてら)
といふ
庭中(ていちう)架(か)を
繞(めく)らして是を
纏(まと)はしむ
朶(えた)の長(なか)さ
三四尺に充(みち)て
花色(くはしよく)最(もつとも)
艶美(えんひ)なり
かゝみ松
【左丁】
弁天
【右丁】
時雨岡(しくれのをか) 同所 庚申塚(かうしんつか)といへるより三四丁 艮(うしとら)の方(かた)小川(をかは)に傍(そふ)てあり一株(いつちゆう)
の古松(こしよう)のもとに不動尊(ふとうそん)の草堂(さうたう)あり土人(としん)此(この)松(まつ)を御行(おきやう)の松(まつ)と号(なつく)来由(らいゆ)は
姑(しはら)くこゝに省略(もら)す《割書:一に時雨(しくれ)の|松ともよへり》
《割書: 回国雑記|》 忍ふの岡といへる所にて松原のありける
かけにやすみて
霜の後あらはれにけり時雨をは忍ひの岡の松もかひなし 道興准后
《割書:按(あんする)に忍(しのふ)の岡(をか)といへるは東叡山(とうえいさん)の旧名(きうめい)なり此(この)地(ち)も東叡山(とうえいさん)より連綿(れんめん)たれは回国雑記(くはいこくさつき)に出(いつ)る|ところの和哥(わか)の意(こゝろ)を取(とり)て後世(こうせい)好事(かうす)の人の号(なつ)けしならん歟(か)》
東陽山正燈寺(とうやうさんしやうとうし) 龍泉寺町(りうせんしまち)にあり妙心寺派(めうしんしは)の禅刹(せんせつ)にして承応(しようおう)三
年に愚堂和尚(くたうおしやう)草創(さう〳〵)す《割書:和尚(おしやう)は大円宝鑑国師(たいゑんはうかんこくし)と諡号(おくりな)す天性(てんせい)明敏(めいひん)にして大(おほい)に|禅海(せんかい)の俈儔(かうたう)を鼓起(くき)す宝鑑国師(はうかんこくし)の語録(ころく)につまひらかなり》当寺(たうし)
の後園(こうゑむ)楓樹(ふうしゆ)多(おほ)し《割書:其先(そのさき)山城(やましろ)高雄山(たかをさん)|の楓樹(ふうしゆ)の苗(なへ)を栽(うゆる)と云》晩秋(はんしう)の頃(ころ)は詞人(ししん)吟客(きんかく)こゝに群遊(くんいう)し
其(その)紅艶(こうえむ)を賞(しやう)す
真覚山西光寺(しんかくさんさいくわうし) 蓑輪新町(みのわしんまち)にあり浄土宗(しやうとしう)にして長和(ちやうわ)元年の草創(さう〳〵)
なり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)開山(かいさん)は聖蓮社賢誉(しやうれんしやけんよ)上人たり
【左丁】
千束郷(せんそくのがう) 龍泉寺町(りうせんしまち)の辺(あたり)今(いま)僅(わつか)の地(ち)をいへり一(いつ)に篠堤(さゝつゝみ)と字(あさな)す菊岡(きくをか)
沾涼(せんりやう)の説(せつ)に此地(このち)を佐々津見(さゝつみ)の里(さと)とも号(なつ)くとあるは誤(あやまり)なりこの境(ち)に
叢祠(そうし)あり千束稲荷(せんそくいなり)と称(しよう)す
《割書:或人(あるひと)云(いふ)往古(むかし)は上下(かみしも)とわかれて浅草(あさくさ)天王町(てんはう )の辺(あたり)より千住(せんしゆ)の橋際(はしきわ)迄(まて)をすへて千束郷(せんそくのかう)といひけると云|仍(よつ)て按(あんする)に浅草寺(せんさうし)至徳(しとく)四年の鐘(かね)の銘(めい)に武州(ふしう)豊島郡(としまこほり)千束(せんそく)の郷(かう)金龍山(きんりうさん)浅草寺(せんさうし)とあり又(また)同(おな)し|境内(けいたい)に西宮稲荷(にしのみやいなり)と称(しよう)するあり里老(りらう)伝(つた)へて是(これ)を上千束稲荷(かみせんそくいなり)と号(なつ)くると云 小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の|古文書(こもんしよ)に千束(せんそく)の内(うち)にて阿佐谷分(あさかやふん)三戸分(みとふん)石浜(いしはま)等(とう)の地(ち)を太田新六郎(おほたしんろくらう)同(おなしく)石浜(いしはま)惣領分(そうりやうふん)の地(ち)を太(おほ)|田大膳亮(たたいせんのすけ)同(おなしく)金杉分(かなすきふん)の地(ち)を飯倉弾正忠(いひくらたんしやうのちう)同 近藤分(こんとうふん)の地(ち)を島津弥七郎(しまつやしちらう)同 朝倉分(あさくらふん)の地(ち)を
江戸番匠(えとはんしやう)等(とう)領(りやう)すること見(み)へたりこゝにをひて其地(そのち)の広大(くわうたい)なることをしるへし》
木戸三河守源孝範弟宅旧跡(きへみかはのかみみなもとのたかのりていたくのきうせき) 伝云(つたへいふ)今(いま)三河嶋(みかはしま)と称(しよう)する地(ち)は三河守(みかはのかみ)居(きよ)
住(ちゆう)の旧跡(きうせき)なる故(ゆへ)にしか号(なつ)くるとそ《割書:或(あるひと)云(いふ)此地(このち)は細谷三河守(ほそやみかはのかみ)といふ人(ひと)の|領地(りやうち)なる故(ゆへ)にかく号(なつ)くるとも》
孝範家集云 むさしの国としまといふ郡に入江かけたる所に住はへりける
まへはよしあしなと茂りて鹿の常にたゝすみける山遠き所なればめつらしく
聞をるまゝに近きあたりに都人の下りて住けり夜ふけはめさまして聞たまへと
まうしつかはしたるに夜な〳〵枕をそはたてたれとも聞はへらす人の声
なとのとほきを聞なして申にやとかこちをこすとてみやこひとの哥
暁のふなもよひするあまの子のかひよといふをしかと聞らん
返し
【右丁】
呉竹(くれたけ)の根岸(ねきし)の里(さと)は
上野(うへの)の山蔭(やまかけ)にして
幽趣(いうしゆ)あるか故(ゆへ)にや
都下(とか)の遊人(いうしん)多(おほ)くは
こゝに隠棲(いんせい)す花(はな)に
なく鶯(うくひす)水にすむ
蛙(かはつ)もともにこの地(ち)に
産(さん)するもの其声(そのこへ)
ひとふしありて
世(よ)に賞愛(しやうあい)
せられ
はへり
【左丁 文字無し】
【右丁】
時雨岡(しくれのをか)
不動堂(ふとうたう)
【左丁】
回国雑記
霜の後
あらはれに
けり
時雨をは
忍ひの
岡の
松もかひ
なし
道興准后
【右丁】
正(しやう)
燈(とう)
寺(しの)
丹(もみ)
楓(ち)
【左丁】
庭中(ていちゆう)楓樹(ふうしゆ)㝡(いと)
おほくして
晩秋(はんしう)の紅錦(こうきん)は
海晏寺(かいあんし)の園林(ゑんりん)
にも劣(をと)る色(いろ)なく
実(しつ)に一時の
奇観(きくわん)
たり
【右丁】
軒近くしか立ならす宿とひて待し夜頃のかひよともきけ
梅 花無尽蔵云 木戸公号罷鈎【釣】翁保和歌之正脈
余在洛而𥹢厥声誉久之矣今也共寓武野之佳
境隅田之上流往還無虗月豈非天之至幸乎昨
賜詠歌三篇可謂暗投也聊奉攀未篇之韵脚云
二十六日《割書:文明十七年乙丑【注】|十月二十六日也》
雪月寧非老年伴 一吟聊答数篇韵
隅田春色浪如花 鳥若知都我細問
《割書:按(あんする)に孝範(たかのり)《振り仮名:家の集|いへのしふ》に武蔵国(むさしのくに)豊島(としま)といふ郡(こほり)に入江(いりえ)かけたる所(ところ)に住(すみ)はへりける前(まへ)はよし芦(あし)|なと茂(しけ)りてと云云 又(また)梅花無尽蔵(はいくはむしんさう)の詩(し)の序(しよ)に木戸公(きへこう)を罷釣翁(ひてうおう)と号(かう)し共(とも)に武野(ふや)の|佳境(かきやう)隅田(すみた)の上流(しやうりう)に寓(くう)すといへり合(あは)せ考(かんか)ふれは三河島(みかはしま)の地勢(ちせい)その旧跡(きうせき)に似(に)たり》
木戸孝範(きへたかのり)は従五位下(しゆうこいのけ)に叙(じよ)し前三河守(さきのみかはのかみ)と云(いふ)又(また)罷釣翁(ひてうおう)と号(かう)す今川(いまかは)
了俊(れうしゆん)の一族(いちそく)にして太田道潅(おほたたうくはん)東常縁(とうのつねより)及(およ)ひ正徹(しやうてつ)宗祗(そうき)心敬(しんきやう)万里(はんり)抔(なと)
と同(おなし)時世(しせい)の人(ひと)なり鎌倉大草子(かまくらおほさうし)に孝範(たかのり)は冷泉中納言持為卿(れいせいちゆうなこんもちためきやう)の
門弟(もんてい)にして無双(ふさう)の哥人(かじん)なりとあり同書(とうしよ)に長禄(ちやうろく)元年 関東(くはんとう)の乱(らん)に
付(つい)て京都(きやうと)将軍家(しやうくんけ)の舎弟(しやてい)左馬頭政智(さまのかみまさとも)関東将軍(くはんとうしやうくん)の宣旨(せんし)を蒙(かうむ)り
下向(けかう)あるといふ条下(てうか)に供奉(くふ)の人の中(うち)に此(この)孝範(たかのり)の名(な)あり《割書:家集(いへのしふ)に曽祖父(そそふ)|貞範(さたのり)建武(けんむ)二年》
【左丁】
《割書:蔵人(くらんと)になり左近将監(さこんのしやうけん)になりて奧陸(みちのく)の夷(えひす)を鎮(しつ)む其(その)賞(しやう)として昇殿(しようてん)をゆるさるゝよし記(しる)せりまた|鎌倉大草子(かまくらおほさうし)に永徳(えうとく)二年 氏満(うちみつ)小山義政(をやまよしまさ)退治(たいち)の為(ため)発向(はつかう)とある条下(てうか)に先手(さきて)の大将(たいしやう)の中(うち)に木戸将監(きへしやうけん)|範季(のりすへ)と云(いふ)名(な)を挙(あ)く同書 応永(おうえい)二十三年 憲基(のりもと)の旗下(きか)にありて伊豆国(いつのくに)国清寺(こくしやうし)にて討死(うちしに)の人の中(なか)に|木戸将監満範(きへしやうけんみつのり)といへる名(な)を註(ちゆう)せり何(いつ)れも其(その)氏族(しそく)の人(ひと)なるへけれともいまた系図(けいつ)を考(かんか)へす》
万里居士寓居地(はんりこしくうきよのち)《割書:前(さき)に記(しる)せしことく万里居士(はんりこし)木戸孝範(きへたかのり)と共(とも)に隅田河(すみたかは)の上流(しやうりう)に寓(くう)すとあ|れは万里居士(はんりこし)の住(ちゆう)せしもまた三河島(みかはしま)のあたりならん歟(か)されと今(いま)其地(そのち)》
《割書:さたか|ならす》万里居士(はんりこし)諱(いみな)は瑞九(すいきう)初(はしめ)花洛(みやこ)の万年寺(まんねんし)に入(いり)大圭和尚(たいけいおしやう)に従(したか)ふて其法(そのほふ)
を受(う)く禅機(せんき)文材(ふんさい)ありて名誉(めいよ)四方(しはう)に揚(あく)る応仁(おうにん)の乱(らん)を避(さけ)て江左(こうさ)濃尾(のうひ)の
間(あいた)に寓(くう)す後(のち)浮屠(ふと)の業(きやう)を廃(すて)て自(みつから)漆桶居士(しつとうこし)と号(かう)し又(また)一(いつ)に梅花無尽蔵(はいくはむしんさう)
と称(しよう)す文明(ふんめい)の末(すゑ)東武(とうふ)に遊(あそ)ふ太田道潅(おほたたうくはん)眷遇(けんくう)甚(はなはた)渥(あつ)し潅(くはん)歿(ほつ)して後(のち)濃(のう)
に帰(かへ)り老(おひ)を投(とう)す曽(かつ)て天下白(てんかはく)二十五 巻(くはん)を著(あらは)す文明(ふんめい)中(ちゆう)東遊(とういう)の詩文集(しふんしふ)
あり梅花無尽蔵(はいくはむしんさう)と号(なつ)く
熱田明神社(あつたみやうしん ) 新鳥越(しんとりこえ)にあり祭(まつ)る所(ところ)日本武尊(やまとたけるのみこと)一坐なり当社(たうしや)は往古(むかし)元(もと)
鳥越(とりこえ)の地(ち)にありしか正保(しやうほ)年中(ねんちゆう)今(いま)の所(ところ)に移(うつ)れり例祭(れいさい)は隔年(かくねん)六月十五日
執行(しゆきやう)す
駿馬塚(しゆんめのつか) 同所 南側(みなみかは)何某(なにかし)か別荘(へつさう)の中(うち)にあり伝云(つたへいふ)康平(かうへい)中(ちう)源義家(みなもとのよしいへ)東征(とうせい)
【注 文明十七年は「乙巳」】
【右丁】
本社
【左丁】
山谷(さんや)
熱田明神社(あつたみやうしん )
神主
千住通り
【右丁】
駿馬塚(しゆんめのつか)
駿馬塚
【左丁】
の時(とき)愛(あい)する所(ところ)の青海原(あをうなはら)といへる駿足(しゆんそく)偶(たま〳〵)病(やまひ)してこゝに斃(へい)す公(こう)大(おほひ)に是(これ)を
傷(いた)みて朽骨(きうこつ)を駅路(ゑきろ)の傍(かたはら)に埋(うつ)め給ふとそ其後(そののち)里民(りみん)小祠(こほこら)を営(いとな)み
建(たつ)といへり又(また)近(ちか)き頃(ころ)其地(そのち)のあるし公(こう)の明徳(めいとく)を千歳(せんさい)の下(しも)に顕(あらは)さん
ことを欲(ほつ)して塚(つか)の側(かたはら)に石碑(いしふみ)を建(たて)て祠(ほこら)は其塚(そのつか)の東(ひがし)の方(かた)に遷(うつ)せり
飛鳥明神社(あすかみやうしん ) 小塚原(こつかはら)にあり此地(このち)の産土神(うふすな)とす世人(せしん)混(こん)して蓑輪(みのわ)の
天王(てんわう)と称(しよう)せり別当(へつたう)は聖護院宮末(しやうこゐんのみやのまつ)にして荊石山神翁寺(けいせきさんしんをうし)と号(かう)す
祭神(まつるかみ)大己貴命(おほあなむちのみこと)《割書:日本紀(にほんき)古語拾遺(ここしふゐ)等(とう)に大己貴命(おほあなむちのみこと)は|素盞嗚命(そさのをのみこと)の御子(みこ)なりとあり》事代主命(ことしろぬしのみこと)《割書:古事記(こしき)に事代主命(ことしろぬしのみこと)は|大国主命(おほくにぬしのみこと)の御子(みこ)なりと云》
二坐なり社伝(しやてんに)曰(いはく)往古(むかし)延暦(えむりやく)年中 比叡(ひえ)の黒珍師(こくちんし)東国(とうこく)化度(けと)の砌(みきり)此地(このち)に
至(いた)るに小篠(をさゝ)の茂(しけ)りたる一堆(いつたい)の小塚(こつか)あり《割書:此塚(このつか)によりて此地(このち)を|小塚原(こつかはら)と号(かう)せり》其塚(そのつか)より夜(よ)な〳〵
瑞光(すいくわう)を現(けん)し白衣(ひやくえ)を着(ちやく)したる二人(ふたり)の翁(おきな)荊棘(うはら)生(おひ)たる石(いし)の上(うへ)に降臨(こうりん)あり
て黒珍師(こくちんし)に示(しめ)して曰(いは)く我(われ)は素盞嗚命(そさのをのみこと)の和魂 大己貴命(おほあなむちのみこと)なりと《割書:当社(たうしや)牛頭(こつ)|天王(てんわう)と称(しやう)》
《割書:するは|是(これ)なり》又(また)一人(ひとり)の翁(おきな)曰(いはく)我(われ)は事代主命(ことしろぬしのみこと)なりと《割書:是(これ)を飛鳥(あすか)|明神(みやうしん)と号(かう)す》云云 仍(よつ)て恐敬(きやうけい)謁(かつ)
仰(かう)し清浄(しやう〳〵)の地(ち)を撰(えら)むて此(この)神(かみ)を一社(いつしや)に奉(ほう)すと《割書:牛頭天王(こつてんわう)は毎歳(まいさい)六月三日より|同九日まて千住大橋(せんしゆおほはし)の南詰(みなみつめ)に》
【右丁】
飛鳥社(あすかのやしろ)
小塚原天王宮(こつかはらてんわう )
茶や
千住海道
日慶寺
へん天
みたらし
茶や
瑞光石
【左丁】
いなり
ちそう
本社
千住大はし
昔の奥州海道
御供所
【右丁】
《割書:仮(かり)に宮居(みやゐ)を設(まう)け旅所(たひしよ)としかしこに神幸(しんかう)ありこの祭礼(さいれい)の権輿(けんよ)は天文(てんふん)十年辛丑六月三日 此(この)荒川(あらかは)へ神輿(しんよ)|一基(いつき)流(なか)れよる故(ゆへ)に是(これ)より後(のち)は此日(このひ)をもつて祭日(さいしつ)とするといへり其(その)神輿(しんよ)を取揚(とりあけ)し地(ち)今(いま)猶(なを)存(そん)す》
《割書:又(また)旅所(たひしよ)の家根(やね)を葺(ふく)に彼地(かのち)に生(しやう)したる茅草(ちかや)を用(もち)ゆること|旧例(きうれい)なりとそ飛鳥明神(あすかみやうしん)の祭礼(さいれい)は毎歳(まいさい)九月十五日に執行(しゆきやう)す》瑞光石(すいくはうせき)《割書:本社(ほんしや)の右(みき)の方(かた)小塚(こつか)の上(うへ)に|あり又(また)荊石(けいせき)ともいへり往古(そのかみ)》
《割書:二神(にしん)老翁(らうをう)に化(け)しこの石上(せきしやう)に現(けん)したまふといへり考(かんか)ふるにこれおそらくは上古(しやうこ)の荒墓(あらはか)な|らんか》
豊徳山誓願寺(ほうとくさんせいくはんし) 恵心院(ゑしんゐん)と号(かう)す飛鳥明神(あすかみやうしん)の北(きた)にあり浄土宗(しやうとしう)にして
本尊(ほんそん)に阿弥陀如来(あみたによらい)を安(あん)す開基(かいき)は恵心僧都(ゑしんそうつ)なり
寺伝(してんに)曰(いはく)僧都(そうつ)顕密(けんみつ)の二教(にけう)を究(きは)め猶(なを)諸宗(しよしう)を渡(わた)り遂(つゐ)に弥陀(みた)の本願(ほんくはん)
に帰入(きにう)し往生要集(わうしやうえうしふ)等(とう)を著(あらは)して大(おほい)に自他(した)を化(け)せり《割書:今世(いまのよ)念仏(ねんふつ)|弘法(くほふ)の初(はしめ)なり》その頃(ころ)
僧都(そうつ)上足(しやうそく)の慶祐法師(けいいうほふし)に語(かた)りて曰(いは)く念仏(ねんふつ)の教(をしへ)いまた東国(とうこく)に弘(ひろ)まら
す汝(なんち)行(ゆき)て弘法(くほふ)すへしとなり仍(よつて)慶祐法師(けいいうほふし)命(めい)を受(うけ)東国(とうこく)に遊化(いうけ)し
此地(このち)に来(きた)り当寺(たうし)を建立(こんりふ)す《割書:宇治(うち)の恵心院(ゑしんゐん)に比(ひ)して|当寺(たうし)をも恵心院(ゑしんゐん)と号(かう)す》中古(ちうこ)頽破(たいは)せしを増上寺(そうしやう )
十八世(しふはつせ)了蓮社定誉上人(れうれんしやちやうよ )随波大和尚(すいはたいおしやう)中興(ちゆうこう)せり《割書:塩尻(しほしり)といへる書(ふみ)に恵心僧都(ゑしんそうつ)の|母公(はゝきみ)より僧都(そうつ)のもとへ贈(おく)られ》
《割書:し戒(いましめ)の文(ふみ)をいたせり学仏(かくふつ)の徒(と)の教(をしへ)にもなれかしと思ひ得(う)るまゝこヽに記(しる)す其文(そのふん)に云(いは)く|》
《割書:恵心僧都(ゑしんさうつ)勅(ちよく)に依(よつ)て参内(さんたい)し称讃浄土経(しやうさんしやうときやう)を侍講(しこう)申(まう)されけれは叡感(えいかん)のあまり本尊(ほんそん)をよひ|御衣(きよい)を賜(たま)はりしかは古郷(ふるさと)なる母公(はゝきみ)の方(かた)へ御衣(きよい)を贈(をく)られし返事(かへりこと)に是(これ)を栄(えい)とし悦(よろこひ)とする》
【左丁】
《割書:心なくなか〳〵に恨(うらみ)られし其文(そのふみ)に|》
《割書:山(やま)へ登(のほ)せたてまつりて後(のち)はあけてもくれてもゆかしさは心をくたきけれともたふとき道人(たうにん)と|なしたてまつるうれしやとこそおもひしに大裡(おほうち)のましはりをし官位(くわんゐ)にすゝみ青甲(しやうかふ)紫甲(しかふ)に|衣(ころも)のいろをかへ君(きみ)にむかひたてまつり御経(おんきやう)講読(こうとく)し御布施(おんふせ)のものとりたまひ候 程(ほと)の名聞(みやうもん)利(り)|養(やう)のひしりとなりそこねたまふ口惜(くちをし)さよ唯(たゝ)命(いのち)を限(かき)りに樹下石上(しゆかせきしやう)のすまゐ草(くさ)とり木(もく)|食(しき)に身(み)をやつしはて木をこり落葉(おちは)をひろひ偏(ひとへ)に後世(こせ)たすからんとしたまへとこそこしらへたて|しにふたゝひさかゑいて王宮(わうきう)のましはりをし官位階(くわんゐかい)の品(しな)さま〳〵の袈裟(けさ)ころもにいてたちをかさり|名聞(みやうもん)の為(ため)に説法(せつほふ)し利養(りやう)の為(ため)の御布施(おんふせ)さらに出離(しゆつり)の御(おん)はたらきにあらすたゝ輪回(りんゑ)のおん身と|なりたまふそやあひかたきうとんけの仏教(ふつけう)にあひぬれはと思ひいりて後世(こせ)たすかりたまふへきに|かなしくも一旦(いつたん)の名利(みやうり)にほたされたまふ事(こと)をろかなる中の愚(をろか)なること殊(こと)に口(くち)をしき次第あさ|ましくこそ候へこれを面目(めんもく)とおもひたまふはいやしきまよひなるへし夢(ゆめ)の世(よ)におなしまよひにほた|されたる人〳〵に名をしられて何かはせん永(なか)き世にさとりをきはめて仏(ほとけ)の御前(おんまへ)にて名(な)を|あけさせたまへかし仏法(ふつほふ)をしらさる賢人(けんしん)さへ首陽山(しゆやうさん)にとりこもりて王命(わうめい)をはいなひまう|せしとかやいはんや剃髪染衣(ていはつせんえ)の御身にて捨身(しやしん)の行(きやう)におもむきたまひし山こもりのひしりの何(なん)|条(てう)さのみ勅定(ちよくちやう)にかゝつらひ男女(なんによ)雑居(さつきよ)の所へは出させたまふへきそまたたまはり候 御衣(きよい)はいかにし|たる御はからひそやすてに如法如説(によはふによせつ)のひしりさへ布施(ふせ)にうたれては地獄(ちこく)に焦(こか)さるゝとこそ申に|称讃浄土経(しようさんしやうときやう)講読(こうとく)の御布施(おんふせ)の御衣(きよい)此 尼(あま)とりて何(なに)とすへく候や後世(こせ)たすくるまてこそなくとも|かへりて三途(さんつ)に引落(ひきおと)したまふへきことあさましきとも申へきやうなくと耳(みゝ)にもふれしとおもへはこの|法師(ほふし)にかへし候云云 以上取意略文》
《割書:嗚呼(あゝ)賢(けん)なるかなこの老婆(らうは)かくてそ僧都(そうつ)も後世(こせ)を厭(いと)ふ事いやましに欣浄(こんしやう)の念(ねん)あつくして往生(わうしやう)|要集(えうしふ)を述(しゆつ)し自他(した)を利益(りやく)したまへり季世(きせい)の僧法師(そうほふし)権門勢家(けんもんせいか)にみつからちかつき諞(へつら)ひて名(な)を|もとめ利(り)をむさほるもの此(この)老尼(らうに)の筆(ふて)のあとをみはいかてか面(おもて)に汗(あせ)せすしてありなんや是(これ)に慙愧(さんき)の|こゝろなからんは禽獣(きんしう)にもをとりはへらん僧都(そうつ)もとより名利(みやうり)の人(ひと)ならすたゝ至孝(しいかう)のこゝろさしより|贈(をく)れる物(もの)をさへつれなき迄に返(かへ)しいましめられしは後人(こうしん)のをよふへくもなき所為(しよゐ)なりける云云》
【右丁】
千住川(せんしゆかは)
荒川(あらかは)の下流(かりう)
にて隅田川(すみたか[は])
浅草川(あさくさかは)の上(かみ)
なり
隅田川上流
千住大橋(せんしゆおほはし)
河原
山王
いなり
【左丁】
荒川
日慶寺
熊野
せいくわんし
【右丁】
熊野権現社(くまのこんけん ) 同 北(きた)の方 千住川(せんしゆかは)の端(はた)にあり祭神(まつりかみ)伊弉冊尊(いさなみのみこと)一坐 社伝云(しやてんにいはく)
永承(えいしやう)年中 義家朝臣(よしいへあそん)奥州征伐(あうしうせいはつ)の時(とき)此地(こゝ)に至(いた)り河(かは)を渡(わた)らんとするに
奇異(きい)の霊瑞(れいすい)あり故(ゆへ)に鎧櫃(よろひひつ)に安(あん)せし紀州(きしう)熊野権現(くまのこんけん)の神幣(みてくら)を此地(このち)に
とゝめて熊野権現(くまのこんけん)と斎(いつき)たてまつるといへり
《割書:按(あんする)に熊野権現(くまのこんけん)飛鳥明神(あすかみやうしん)何(いつ)れも紀州(きしう)に鎮坐(ちんさ)あり又 此地(このち)に両社(りやうしや)あるも所謂(いはれ)あるへきことなれとも今 伝(てん)|記(き)とり〳〵にして詳(つまひらか)なることを得(え)す余説(よせつ)を■(まうけ)【注①】むと欲(する)といへともしけきをいとひてこゝに略(りやく)す》
千住大橋(せんしゆのおほはし) 荒川(あらかは)の流(なかれ)に架(わた)す奥州海道(あうしうかいたう)の咽喉(いんこう)なり橋上(きやうしやう)の人馬(にんは)は絡繹(らくえき)
として間断(かんたん)なし橋(はし)の北(きた)壱弐町を経(へ)て駅舎(とまりや)あり此橋(このはし)は其(その)始(はしめ)文禄(ふんろく)三年
甲午九月 伊奈備前守(いなひせんのかみ)奉行(ふきやう)として普請(ふしん)ありしより今に連綿(れんめん)たり
甘露山延命寺(かんろさんえむめいし) 応味院(おうみゐん)と号(かう)す下沼田(しもぬまた)にあり真言宗(しんこんしう)の古刹(こせつ)にして
行基大士(きやうきたいし)の草創(さう〳〵)なり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は同作(おなしさく)にして六阿弥陀第二番
目とす春秋(しゆんしう)二度(にと)の彼岸(ひかん)には参詣(さんけい)多(おほ)し
富士浅間祠(ふしせんけん ) 同所 川下(かはしも)の方 深林(しんりん)の中にあり土民(とみん)伝(つたへ)云(いふ)昔(むかし)此地(このち)に足立荘司(あたちしやうし)
にて宮城宰相(みやきさいしやう)といへる者(もの)あり一女子(ひとりのむすめ)をもてり名附(なつけ)て足立姫(あたちひめ)といふ《割書:六阿弥陀|第一番》
【左丁】
《割書:第四番 両縁起(りやうえんき)には豊島(としま)左衛門尉 清光(きよみつ)の女(むすめ)ともまた二番目 縁起(えんき)には沼田荘司(ぬまたのしやうし)の女(むすめ)とも|三番目五番目をよひ六番目 縁起(えんき)には足立従二位宰相藤原正成(あたちちゆうにゐさいしやうふちはらのまさしげ)の女(むすめ)ともあり》父母(ちゝはゝ)隣県(りんけん)の豊(と)
嶋(しま)左衛門尉なりける者(もの)のもとへ娥(か)【注②】せしめんとす《割書:六阿弥陀第一番 縁起(えんき)に足立少輔(あたちのせういふ)の|もとへ送(をく)ると又四番目五番目六番目》
《割書:縁起(えんき)には沼田少輔(ぬまたのせういふ)のもとへ送(をく)るとあり三番目 縁起(えんき)|余木(きあまり)の弥陀(みだ)等(とう)の縁起(えんき)上(かみ)におなし》されとも彼(かの)女子(むすめ)常(つね)に仏神(ふつしん)を敬(けい)するの
外(ほか)他(た)なし故(ゆへ)に是(これ)に随(したか)はす父母(ちゝはゝ)強(しゐ)て婚姻(こんいむ)を整(とゝの)ふといへとも猶(なを)此事(このこと)をふかく
患(うれ)へとし竟(つゐ)に荒川(あらかは)に入て死(し)す《割書:又 沼田川(ぬまたかは)とも云 千住川(せんしゆかは)の|上にて豊島川(としまかは)の事なり》侍女(ししよ)も又ともに身(み)を投(なけ)て死(し)
せり仍(よつて)荘司(しやうし)悲歎(ひたん)に絶(たへ)す又 村人(そんしん)彼(かの)女子(によし)等(ら)の行跡(きやうせき)のたゝならぬを称(しよう)し其日(そのひ)
六月朔日の事なれはとて其(その)霊(れい)を富士浅間(ふしせんけん)と称(しよう)して一社(いつしや)に奉(ほう)すといふとし
かれとも其(その)説(せつ)未詳(いまたつまひらかならす)
浅間淵(せんけんのふち) 同所の河淵(かはふち)をさしてしかいへり足立姫(あたちひめ)溺死(てきし)の所(ところ)なりといふ
十二天森(しふにてんのもり) 足立姫(あたちひめ)の侍女(ししよ)の死骸(なきから)を収(おさ)めて十二天(しふにてん)と称(しよう)す船方村(ふなかたむら)の鎮守(ちんしゆ)なり
余木阿弥陀如来(きあまりのあみたによらい) 宮城村(みやきむら)龍燈山(りうとうさん)性翁寺(しやうをうし)に安(あん)す往古(そのかみ)行基大士(きやうきたいし)六体(ろくたい)の阿(あ)
弥陀如来(みたによらい)の像(さう)を彫刻(てうこく)ありしその余材(よさい)を以(もつ)て是(これ)を造(つく)りたまひ草堂(さうたう)の
中(うち)に安置(あんち)ありしを遥(はるか)に後(のち)明応(めいおう)の頃(ころ)正誉龍呑和尚(しやうよりようとんおしやう)改(あらため)て一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)となし
【注① ■は「亻+設」 「儲」の誤】
【注② 「娥」は「嫁」の誤】
【右丁】
光茶銚(ひかりちやかま)
千住(せんしゆ)の駅(しゆく)はなれ
道(みち)の左側(ひたりかは)にあり
土人(としん)は耆老茶(ちゝかちや)
屋(や)とも呼(よひ)あへり
むかし此店(このみせ)の茶(ちや)
銚(かま)の光沢(ひかり)の殊(こと)
に勝(すくれ)たりしを
重(おも)き御感賞(こかんせう)に
あつかりしより
此(この)茶銚(ちやかま)竟(つゐに)
名物(めいふつ)となりて
其名さへ
世に
光(かゝやく)事
とは
なりぬ
【右丁】
春秋(はるあき)二度の彼岸(ひかん)
には六阿弥陀廻(ろくあみためくり)とて
日かけの麗(うらゝか)なるに
催(もよほ)され都下(とか)の貴賤(きせん)
老(おい)たる若(わか)き打群(うちむれ)つゝ
朝(あさ)とく宅居(いへゐ)を出ると
いへとも行程(みちのり)遠(とほ)けれは
遅々(ちゝ)たる春(はる)の日も
長(なか)からす秋(あき)はことさら
暮(くれ)やすう
おもはる
へし
【右丁】
て此地(このち)に住(ちゆう)し給へり則(すなはち)此寺(このてら)の開祖(かいそ)たり当寺(たうし)に足立姫(あたちひめ)の墳墓(ふんほ)と称(しよう)するもの
あれとも詳(つまひらか)ならす
五智山総持寺(こちさんそうちし) 西新井村(にしあらゐむら)にあり真言宗(しんこんしう)にして遍照院(へんせうゐん)と号(かう)す弘法大師(こうほふたいし)の
草創(さう〳〵)にして本尊(ほんそん)弘法大師(こうほふたいし)の霊像(れいさう)も同作(おなしさく)なり霊験(れいけん)著(いちしる)く毎月廿一日には
開帳(かいちやう)ありて参詣(さんけい)頗(すこふる)おほし《割書:或人云 当寺(たうし)弘法大師(こうほふ )の霊像(れいさう)はそのかみ北総(ほくそう)真間山弘法寺(まゝさんくほふし)に安置(あんち)|ありしが日蓮宗(にちれんしう)に転(てん)したりし頃 此像(このさう)をは当寺(たうし)に遷(うつ)すとなり》【注】
阿伽井(あかゐ)《割書:本堂の左の傍(かたはら)にあり則 弘法大師(こふほふたいし)の加持水(かちすい)なり洗目(せんもく)服薬(ふくやく)に用るに|其(その)応験(しるし)あり此井に依て地名を西新井と称(しよう)すといへり》
八幡宮(はちまんくう) 六月村(ろくくはつむら)にあり別当(へつたう)を炎天寺(えむてんし)と号(かう)す伝云(つたへいふ)八幡太郎義家朝臣(はちまんたらうよしいえあそん)
奥州征伐(あうしうせいはつ)の時(とき)此国(このくに)の野武士(のふし)とも道(みち)を遮(さへき)る其時(そのとき)六月 炎天(えむてん)なりければ味方(みかた)の
勢(せい)労(つかれ)て戦(たゝかは)むとする気色(けしき)もなかりしにより義家朝臣(よしいへあそん)心中(しんちゆう)に鎌倉八幡宮(かまくらはちまんくう)を
祈念(きねん)ありしかは不思儀(ふしき)に大陽(たいやう)繞(めくる)か如く光(ひか)りを背(せ)に受(うけ)けれは敵(てき)の野武士等(のふしら)日(ひ)
にむかふ故(ゆへ)に眼(まなこ)くらみ大(おほひ)に敗北(はいほく)しぬ依(よつ)て此地(このち)に八幡宮(はちまんくう)を勧請(くはんしやう)ありしとそ此(この)
故(ゆへ)に村(むら)を六月(ろくくはつ)といひ寺(てら)を炎天(えむてん)と称(しよう)し又 幡正山(はんしやうさん)と号(かう)すとなり
白籏塚(しらはたつか) 伊興(いかう)村田(むらた)の中(なか)にあり伝云(つたへいふ)往古(そのかみ)八幡太郎義家朝臣(はちまんたろうよしいへあそん)奥州征伐(あうしうせいはつ)の時(とき)
【左丁】
此地(このち)に白籏(しらはた)を建(たて)凱哥(かいか)を唱(とな)へしより此名(このな)ありとそ近頃迄(ちかころまて)此(この)塚上(ちよしやう)に小祠(こほこら)あり
其傍(そのかたはら)へ立寄(たちよる)ものあれは崇(たゝり)【祟】ありし故(ゆへ)社(やしろ)荒廃(くはうはい)にをよひけれとも其侭(そのまゝ)に再建(さいこん)も
せさりしとて今(いま)塚(つか)はかりを存(そん)せり《割書:今も此塚(このつか)の上(うへ)に|登(のほ)る事(こと)を禁(きん)す》此辺(このあたり)の田面(たのも)を白籏耕地(しらはたかうち)と
いふ又 兜塚(かふとつか)と称(しよう)するもの五箇所(こかしよ)あり《割書:兜首(かふとくひ)実撿(しつけん)ありし後(のち)其|首を埋(うつ)めたる所とそ》
萬徳山明王院(まんとくさんみやうわうゐん) 梅林寺(はいりんし)と号(かう)す梅田村(むめたむら)にあり新義(しんき)の真言宗(しんこんしう)にして本尊(ほんそん)に
地蔵菩薩(ちさうほさつ)を安(あん)す寺記云(しきにいはく)当院(たうゐん)開基(かいき)志太三郎先生義広(したのさふらうせんしやうよしひろ)は八幡太郎義家(はちまんたらうよしいへ)
の孫(まこ)六条判官為義(ろくてうはんくわんためよし)の三男(さんなん)なり《割書:始(はしめ)常陸国(ひたちのくに)伊出(いて)に住(ちゆう)し後(のち)同国 志太村(したむら)にありける|故(ゆへ)に志太(した)を以て家号(かかう)とす八坂本平家物語(やさかほんへいけものかたり)志田(した)に作(つく)る》初(はしめ)武州(ふしう)
榎戸(えのきと)に一院(いちゐん)を創基(さうき)し祈願所(きくわんしよ)とす《割書:当院(たうゐん)是(これ)なり昔(むかし)は|同所 榎戸(えのきと)にありしなり》是(これ)より先(さき)治承(ちしよう)の頃(ころ)頼朝(よりとも)初(はしめ)
て義兵(きへい)を起(おこ)すの時(とき)義広(よしひろ)自立(しりふ)の志(こゝろさし)ある故(ゆへ)に頼朝(よりとも)に随(したか)はす却(かへつ)て小山小四郎朝(をやま とも)
政(まさ)が為(ため)に敗(やふ)らる其後(そのゝち)同左馬介義純( よしすみ)《割書:義広(よしひろ)三代|の孫なり》蟄居(ちつきよ)して此(この)梅田村(むめたむら)に住(ちゆう)す《割書:今(いま)寺(てら)の|惣門(そうもん)の》
《割書:外(そと)右(みき)の方(かた)を廓(くるは)と字(あさな)するは往古(そのかみ)|義純(よしすみ)の第宅(ていたく)の地(ち)なりといへり》其裔(そのえい)常陸介久広(ひたちのすけひさひろ)《割書:義純(よしすみ)より|三代の孫也》当院(たうゐん)の傍(かたはら)に始(はしめ)て天満宮(てんまんくう)
を勧請(くはんしやう)し鎮守(ちんしゆ)とせり又(また)神告(しんこう)に仍(よつて)姓(せい)を梅田(むめた)と改(あらた)め小太郎と号(かう)す又 遥(はるか)に後(のち)
永正(えいしやう)年間 関東(くはんとう)大(おほひ)に乱(みた)る同太郎左衛門 久義(ひさよし)《割書:小太郎久広( ひさひろ)より十六代の孫同 帯刀(たてわき)|久光(ひさみつ)の子なり後(のち)左馬介と号(かう)す》是(これ)を
【迁は俗字】
【右丁】
西新井(にしあらゐ)
大師堂(たいしたう)
《割書:毎月廿一日|開扉(かいひ)あり》
茶や
樓門
【左丁】
方丈
こま堂
本堂
加持水
【右丁】
梅田天神祠(むめたのてんしん )
不動堂(ふとうたう)
別当明王院(へつたうみやうわうゐん)
てん神
不動堂
【左丁】
弁天
別當
【右丁】
厭(いと)ひ丹州(たんしう)島村城(しまむらのしろ)に移(うつ)り住(ちゆう)し又同国 峯山城(みねやまのしろ)に移(うつ)るといへとも遂(つゐ)に敵(てき)の
為(ため)に生害(しやうかい)す《割書:長子(ちやうし)久頼(ひさより)をよひ久友(ひさとも)|続(つゝひ)て峯山(みねやま)に住(ちゆう)せり》其後(そののち)国民(こくみん)当院(たうゐん)に乱入(らんにう)し遂(つゐ)に破壊(はゑ)にをよひ
しを慶長(けいちやう)の頃(ころ)頼専坊(らいせんはう)《割書:久義(ひさよし)の|舎弟》今(いま)の地(ち)に遷(うつ)して寺院(しゐん)を再興(さいこう)し真知法印(しんちほふゐん)を
以(もつ)て中興開山(ちゆうこうかいさん)とす又(また)寛永(くはんえい)二十年の春(はる) 大樹(たいしゆ) 御放鷹(こはうよう)のみきり立(たち)
よらせ給ひ辱(かたしけなく)も当院(たうゐん)の来由(らいゆ)を聞(きこ)し召(めさ)れ寺領(しれう)等(とう)を附(ふ)せらる
不動堂(ふとうたう)《割書:本堂右の方にあり本尊 不動明王(ふとうみやうわう)は弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)にして覚鑁上人(かくはんしやうにん)根来伝法院(ねころてんほふゐん)草創(さう〳〵)ありし頃(ころ)|護摩堂(こまたう)の本尊(ほんそん)に安置(あんち)ありしを天正(てんしやう)三年 故(ゆへ)ありて花洛(みやこ)歌中山(うたのなかやま)清閑寺(せいかんし)に移(うつ)し奉(たてまつ)り又 寛保(くはんほ)元年》
《割書:不思儀(ふしき)の霊感(れいかん)あるに仍(よつ)て|終(つゐ)に当寺(たうし)に安置(あんち)せしとなり》
天満宮祠(てんまんくう )《割書:不動堂(ふとうたう)の後(うしろ)の方 小(すこし)き丘(をか)の上(うへ)なる古松(こしよう)の|下(もと)にあり来由(らいゆ)は寺記(しき)の中(うち)につまひらかなり》
正一位鷲大明神社(しやういちゐわしたいみやうしん ) 花亦村(はなまたむら)にあり此地(このち)の産土神(うふすな)とす祭神(まつるかみ)詳(つまひらか)ならす本地(ほんち)は釈(しや)
迦如来(かによらい)にして鷲(わし)に乗(しやう)する体相(ていさう)なり別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして正覚院(しやうかくゐん)と号(かう)す
毎歳十一月 酉日(とりのひ)を以(もつ)て祭日(さいしつ)とせり縁起(えむきに)曰(いはく)本地(ほんち)釈迦牟尼如来(しやかむにによらい)は新羅三郎(しんらさふらう)
義光(よしみつ)崇教(そうきやう)の霊像(れいさう)にして天喜(てんき)の昔(むかし)奥州(あうしう)安倍貞任(あへのさたたう)叛逆(ほんきやく)を企(くはたつ)るの時(とき)本尊(ほんそん)の
示現(しけん)によりて其軍(そのいくさ)勝利(しようり)ありし由(よし)を記(しる)せとも其(その)説(せつ)詳(つまひらか)ならす
【左丁】
《割書:按(あんする)に当社 鷲大明神(わしたいみやうしん)は土師大明神(はしたいみやうしん)なるへしはとわの仮名(かな)の転(てん)せしより謬(あやま)り来(きた)れる歟当社を世俗(せそく)浅(あさ)|草観音(くさくはんおん)の奥院(おくのゐん)と称(しよう)す是に因(よつ)てこれを考(かむか)ふるに浅草寺(せんさうし)縁起(えむき)のうちに土師臣中知(はしのおみなかとも)をよひ檜前浜成(ひのくまのはまなり)》
《割書:竹成(たけなり)といへる漁者(きよしや)主従(しゆう〳〵)三人の名(な)を挙(あけ)たり日本紀(にほんき)に垂仁天皇(すいにんてんわう)三十二年 野見宿称(のみのすくね)にはしめて土部臣(はしのおみ)|の姓(せい)を賜(たま)ふとあれはこの中知(なかとも)も其 遠裔(えむえい)なるへし《割書:野見宿称は天穂日命十四世の孫なり古事記に天穂日命は|出雲臣武蔵国造土師の連等か遠祖なりとあり》又
続日本紀(そくにほんき)》
《割書:曰(いはく)檜前舎人直由加麻呂(ひのくまのとねりあたへゆかまろ)といへるはむさしの国(くに)加美郡(かみこほり)の人にして土師姓(はしせい)と祖(そ)を同すとあれは此 浜成(はまなり)竹成(たけなり)も武蔵国(むさしのくに)|の人にして主従(しゆう〳〵)三人ともに姓(せい)は土師(はし)なるへし古事記(こしき)に天菩比命(あまのほひのみこと)の子(こ)に建比良鳥命(たけひらとりのみこと)といへる神(かみ)あり此神(このかみ)
は土師姓(はしせい)の祖(そ)》
《割書:なれは彼三人の漁者の輩なと是等の神を崇まつりしものならん歟当社に毎歳十一月酉の日 祭(まつり)あり世に|酉(とり)のまちと云まちは祭(まつり)の略語(りやくご)なり此日(このひ)近郷(きんかう)の農民(のうみん)家鶏(にはとり)を奉納(ほうのう)す翌日(あくるひ)納(おさむ)る所の家鶏(にはとり)をこと〳〵く浅草寺(せんさうし)》
《割書:観音(くわんおん)の堂前(たうせん)に放(はな)つを旧例(きうれい)とすこれ又より処ある歟 猶(なを)後人(こうしん)の考(かんかへ)を待(まつ)のみ》
石浜(いしはま) 今(いま)橋場(はしは)といふ義経記(きけいき)に治承(ちしやう)四年九月十一日《割書:東鑑(あつまかゝみ)に頼朝(よりとも)隅田川(すみたかは)を越(こえ)て武蔵国(むさしのくに)に|入(い)るを十月二日とす九月十一日と記(しる)せしは》
《割書:あやまり|なるへし》右大将(うたいしやう)頼朝卿(よりともきやう)下総国(しもつふさのくに)より武蔵国(むさしのくに)へ打越(うちこえ)給ふとある条下(てうか)に石浜(いしはま)と申(まうす)
処(ところ)は江戸太郎(えとのたらう)か知行所(ちきやうしよ)なりと云云《割書:按(あんする)に同書に江戸太郎重長(えとたらうしけなか)は八箇国(はつかこく)の大福長者(たいふくちやうしや)とあり則(すなはち)|重長(しけなか)は畠山庄司重忠(はたけやましやうししけたゝ)の一族(いちそく)にして其頃 豊島郡(としまこほり)江戸(えと)の地(ち)》
《割書:も一円(いちゑむ)に所領(しよりやう)のうち|なりしと見えたり》其後(そののち)千葉家(ちはけ)の所領(しよりやう)となり代々(よゝ)是(これ)を知行(ちきやう)せしなり《割書:永禄(えいろく)二年|小田原(をたはら)北(ほふ)》
《割書:条家(てふけ)の古文書(こもんしよ)に太田新六郎(おほた )同 大膳亮(たいせんのすけ)所領(しよりやう)の中(うち)に千束(せんそく)石浜(いしはま)の名(な)を加(くは)へたり又 木内宮内少輔(きうちくないのせういふ)石浜(いしはま)の今津(いまつ)|を領(りやう)し或(あるひ)は会下寺(ゑかてら)の領(りやう)にも附(ふ)するよし記(しる)せり会下寺(ゑかてら)は総泉寺(そうせんし)の事也 木内宮内少輔(きうちくないのせういふ)此地を領(りやう)せしことは
石浜城址(いしはましやうし)の|許(もと)につまひらかなり》
石浜城址(いしはまのしろあと) 其地(そのち)今(いま)さたかならす事跡合考(しせきかつかう)に神明宮(しんめいくう)の北(きた)の方(かた)なりとあり《割書:按(あんする)に|亀戸(かめ[い]と)》
《割書:普門院(ふもんゐん)洪鐘(こうしよう)の銘(めい)隅田川(すみたかは)《振り仮名:鐘ゕ淵|かね ふち》の事(こと)を挙(あけ)たる文中(ふんちゅう)に普門院(ふもんゐん)古(いにしへ)は隅田川(すみたかは)三胯(みつまた)の城中(しやうちゆう)にありと云云 普門院(ふもんゐん)は|則(すなはち)千葉自胤(ちはよりたね)創立(さうりふ)の梵刹(ほんさつ)にして三胯(みつまた)の地(ち)も又 千葉家(ちはけ)の所領(しよりやう)たりし事は小田原(をたはら)北条家(ほふてうけ)の古文書(こもんしよ)に詳(つまひらか)なり》
《割書:三胯(みつまた)と唱(とな)ふる地は荒川(あらかは)綾瀬川(あやせかは)の下流(かりう)隅田川(すみたかは)に落合(おちあふ)川股(かはまた)の所(ところ)故(ゆへ)にかく名(な)つくるといへり|然(しか)る時(とき)は事跡合考(しせきかつかう)に記(しる)せし如く神明宮(しんめいくう)の北(きた)の方(かた)その城址(しろあと)なるへき歟》鎌倉大草子(かまくらおほさうしに)云(いはく)
【左記は、振り仮名表記の異常の確認のため、暫時表記】
太田(おほた)新六郎
太田新六郎(おほた )
太田新六郎(おほた )
太田新六郎(おほた)
《振り仮名:太田 |おほた 》
《振り仮名:親文字|右ルビ|左ルビ》 親文字(右ルビ|左ルビ)
振仮名(ふりがな) (ふりがな) (ふりがな)
【右丁】
鷲大明神社(わしたいみやうしん )
【幟】
正一位鷲大明神
【左丁】
かくら所
弁天
未【末】社
とり
本社
【右丁】
千葉介胤直(ちはのすけたねなを)上杉憲忠(うへすきのりたゝ)に談(かたら)はれ父子(ふし)兄弟(きやうたい)共(とも)に一味(いちみ)して成氏(しけうち)に背(そむ)く《割書:成氏(しけうち)は将軍(しやうくん)|左馬頭(さまのかみ)なり》
こゝにまた故(こ)千葉大助(ちはのたいすけ)《割書:満|胤》か二男 陸奥守入道常輝(むつのかみにうたうしやうき)父子(ふし)《割書:其子を|孝胤(たかたね)と云》下総国(しもつふさのくに)馬加(まくはり)の城(しろ)
より打(うつ)て出(いて)成氏(しけうち)の味方(みかた)となりて合戦(かつせん)す竟(つゐ)に享徳(かうとく)四年三月廿日 胤直(たねなを)敗北(はいほく)し
其子(そのこ)胤宣(たねのふ)をよひ千葉入道常瑞(ちはにうたうしやうすい)舎弟(しやてい)中務入道了心(なかつかさにうたうれうしん)等(とう)悉(こと〳〵)く切腹(せつふく)すよつて
陸奥守(むつのかみ)は千葉(ちは)へ移(うつ)り千葉(ちは)の跡(あと)を継(つき)ける然(しか)るに上杉(うへすき)よりは中務入道了心(なかつかさにうたうれうしん)の子息(しそく)
実胤(さねたね)自胤(よりたね)二人を取立(とりたて)下総国(しもつふさのくに)市川(いちかは)の城(しろ)に楯籠(たてこもる)こゝにをひて千葉家(ちはけ)二流( りう)となり
総州(そうしう)大(おほひ)に乱(みた)る其頃(そのころ)京都(みやこ)より東下野守常縁(とうのしもつけのかみつねより)陸奥守(むつのかみ)退治(たいち)として馬加(まくはり)の城(しろ)へ馳(はせ)
向(むか)ひ攻戦(せめたゝか)ふ陸奥守(むつのかみ)かなはすして千葉(ちは)へ引退(ひきしりそ)く《割書:常縁(つねより)は千葉介常胤(ちはのすけつねたね)の六男 東(とうの)六郎太夫|胤頼(たねより)十世の孫(そん)なり時(とき)に美濃国(みのゝくに)郡上の城主(しやうしゆ)》
《割書:たり京都将軍(きやうとしやうくん)の命(めい)を|受(うけ)て下総(しもつふさ)に下向(けかう)す》康正(かうしやう)二年の正月 成氏(しけうち)市川(いちかは)の城(しろ)を囲(かこ)む同く十九日 落城(らくしやう)して
実胤(さねたね)は武州(ふしう)石浜(いしはま)へ落行(おちゆき)自胤(よりたね)は同 赤塚(あかつか)へ移(うつ)りける其後(そののち)上杉家(うへすきけ)より胤直(たねなを)の一(いつ)
跡(せき)として実胤(さねたね)を千葉介(ちはのすけ)に任(にん)せしむされと成氏(しけうち)陸奥守(むつ[の]かみ)の子(こ)孝胤(たかたね)を贔屓(ひいき)あ
りて千葉(ちは)に居置(すへをか)れける間《割書:孝胤(たかたね)は其父( ちゝ)陸奥守入道常輝(むつのかみにうたうしやうき)と共に故(こ)胤直(たねなを)兄弟(きやうたい)を亡(ほろほ)し|成氏(しけうち)へ奉公(ほうこう)の人にして故(こ)成氏(しけうち)より千葉(ちは)の跡(あと)を賜(たまは)りしなり》実胤(さねたね)は
城(しろ)へ入る事かなはすして武州(ふしう)石浜(いしはま)葛西(かさい)辺(へん)を知行(ちきやう)し時(とき)を待(まち)て居(ゐ)たりしか世(よ)の
【左丁】
鷲大明神祭(わしたいみやうしんまつり)
毎年十一月酉の日に
修行(しゆきやう)す世に酉(とり)の
まちといへり此日
近郷(きんかう)の農民(のうみん)家鶏(にはとり)を
献(けん)す祭(まつり)終(をは)るの後(のち)
悉(こと〳〵)く浅草寺観音(せんさうしくわんおん)
の堂前(たうせん)に放(はな)つを
旧例(きうれい)とす
【右丁】
中(なか)を述懐(しゆつくはい)し濃州(のうしう)に閑居(かんきよ)す依(よつ)て上杉家(うヘすきけ)より実胤(さねたね)の跡(あと)を兄(あに)の自胤(よりたね)に賜(たまは)り千葉介(ちはのすけ)
に任(にん)す是を武州(ふしう)の千葉(ちは)と号(かう)す《割書:以上鎌倉大草紙の|意を採る》
南朝紀伝(なんてうきてんに)云(いはく)丙子(ひのへね)康正(かうしやう)二年三月 千葉(ちは)の家(いへ)も成氏(しけうち)と上杉(うへすき)と相論(あいろんする)によつて
二(ふたつ)にわかれ惟胤(これたね)と園城寺(おんしやうし)の某(それかし)武州(ふしう)に趣(おもむ)く云云
梅 花 無 盡 蔵 文 明 丙 午 隅 田 河 詩 註 云 隅 田 在 武 蔵
下 総 両 国 之 間 路 傍 小 塚 有 柳 道 灌 公 為 攻 下 総 之
千 葉 構 長 橋 三 條 云云
同 書 便 面 題 詩 註 云 八 景 或 雪 讃 献 千 葉 蓋 上 総
下 総 千 葉 所 管 也 今 寓 武 州 者 与 上 下 総 之 千 葉 矛
盾 一 門 分 為 二 灌 公 ■ 在 武 者
雪 月 碧 湖 煙 雨 後 漁 歌 鐘 色 送 飛 鴻
片 帆 千 里 売 花 市 上 下 総 帰 君 握 中
蓋 祱 寓 武 之 千 葉 惟 種 也 云云
《割書:又 関東古戦録(くはんとうこせんろく)小田原実記(をたはらしつき)等(とう)の書(ふみ)に千葉大助満胤(ちはのたいすけみつたね)の庶子(そし)北総(ほくそう)馬加(まくはり)の城主(しやうしゆ)陸奥守康胤(むつのかみやすたね)異母弟(いとこ)惟胤(これたね)|と家督(かとく)をあらそひ康胤(やすたね)打勝(うちかつ)て総領(そうりやう)を持(たも)てり依(よつ)て宿老(しゆくろう)の園城寺(ゑんしやうし)左馬介次郎 惟胤(これたね)をいさなひ江戸城(えとしやう)|にいたり太田道灌(おほたたうかはん)に庇院(ひいん)を頼(たのみ)けれは道灌(たうくはん)かれる高家(かうけ)にて微力(ひりき)なるをあはれみ石浜(いしはま)の砦(とりて)をさつけて是を守(まも)|らしむ其後 惟胤(これたね)身まかり其子 次郎胤利( たねとし)しはらく上杉朝興(うへすきともおき)に仕(つか)へけるかまた南方(なんはう)の為(ため)に追(をは)れて江戸(えと)の|城(しろ)を退去(たいきよ)し後(のち)北条氏康(ほふてううちやす)の旗下(きか)に属(そく)して石浜(いしはま)近辺(きんへん)の所領(しよりやう)を安緒(あんと)【堵ヵ】し跡(あと)を胤宗(たねむね)に譲(ゆつ)れりされと天正(てんしやう)元年|癸酉十一月 古河(こか)の御所(こしよ)義氏(よしうち)下総関宿(しもつふさせきやと)の城(しろ)を攻(せむ)る頃(ころ)胤宗(たねむね)討死(うちしに)す依(よつ)て其後は石浜(いしはま)の千葉家(ちはけ)に女子(によし)のみにて|男子(なんし)なかりしにより氏政(うちまさ)の下知(けち)として北条常陸介氏繁( ひたちのすけうちしけ)の三男を養子(やうし)として彼(かの)女子(によし)に妻合(めあは)せ次郎胤村( たねむら)と名乗(なのら)|せ千葉の遺跡(ゆいせき)相続(さうそく)なさしむしかれともいまた幼少(えうせう)なれはとて木内上野(きうちかうつけ)といへる者に預(あつけ)らる上野(かうつけ)討死(うちしに)の後は其子|宮内省輔(くないのせういふ)支配(しはい)ありて其頃( ころ)は石浜領(いしはまりやう)四千貫文なりしなり然るに千葉 成人(せいしん)の後(のち)石浜(いしはま)を返(かへ)したまはるへきむね》
【左丁】
《割書:度々(たひ〳〵)まうするゝといへとも木内(きうち)か家老(からう)宇月内蔵介(うつきくらのすけ)といへる者(もの)主人(しゆしん)上野(かうつけ)ならひに宮内少輔(くないのせういふ)ともにしは〳〵高名(かうみやう)|勲功(くんこう)あけて数(かそ)ふへからす依(よつ)て石浜(いしはま)改易(かいえき)は難有(ありかたき)事なかるへしと云て延引(えむいむ)しける間(あひた)千葉次郎の内に須藤何某(すとう )とかや|いひし者 主(しゆう)の所望(しよまう)むなしき事を無念(むねん)に思(おも)ひ彼(かの)宇月(うつき)をねらひ石浜(いしはま)の総泉寺(そうせんし)といふ会下寺(えかてら)にて指違(さしちかへ)て死(し)し|けるかこの由 小田原(をたはら)へ聞(きこ)へけれはさためて千葉次郎の所行(わさ)なるへしとて石浜領(いしはまれう)をは終(つゐ)に返(かへ)されすとあり》
《割書:按(あんする)に馬加陸奥守(まくはりむつのかみ)を鎌倉大草紙(かまくらおほさうし)に常輝(しやうき)とし関東古戦録(くはんとうこせんろく)に康胤(やすたね)とす千葉系譜(ちはけいふ)を考(かむか)ふるに康胤(やすたね)入道(にうたう)|して常輝(しやうき)と号(かう)す大介満胤(たいすけみつたね)の二男なり又 梅花無盡蔵(はいくわむしんさう)の註(ちゆう)に惟種(これたね)とあるも胤(たね)を書誤(かきあやま)れり南方紀伝(なんほうきてん)を證(しよう)と|すへし惟胤(これたね)は実胤(さねたね)の孫(まこ)にして守胤(もりたね)の子(こ)なりすへて実胤(さねたね)より惟胤(これたね)まて相つゝいて此城(このしろ)に居住(きよちゆう)し文明(ふんめい)に至(いた)りて|再(ふたゝ)ひ戦争(せんしやう)にをよひしならん永禄(えひろく)二年 小田原(をたはら)北条家(ほふてふけ)の古文書(こもんしよ)に江戸(えと)赤坂(あかさか)六箇村おなしく新倉(にゐくら)小机(こつくへ)の|上丸子(かみまるこ)葛西(かさい)の上平井(かみひらゐ)下足立(しもあたち)の淵江(ふちえ)伊興寺(いこうてら)信内(のふうち)野郷(のゝかう)太多窪(おほたくほ)沼田(ぬまた)保木曽(ほきそ)三俣(みつまた)大窪(おほくほ)以上 千葉殿(ちはとの)所領(しよりやう)と|云云又 按(あんする)に此(この)石浜(いしはま)の城(しろ)は天正(てんしやう)に至(いた)り千葉(ちは)の一跡(いつせき)絶(たへ)たりしより後 廃(はい)せしなるへし》
橋場(はしは) 今(いま)神明宮(しんめいくう)の辺(あたり)より南(みなみ)の方(かた)今戸(いまと)を限(かき)り橋場(はしは)と称(しよう)す旧名(きうめい)は石浜(いしはま)
なり《割書:事跡合考(しせきかつかう)にいはく石浜(いしはま)の|地(ち)今(いま)は汐入(しほいり)と唱(とな)ふると云云》義経記(きけいき)に治承(ちしよう)四年庚子九月十一日《割書:東鑑(あつまかゝみ)に同年十月二日|頼朝(よりとも)太井(ふとゐ)隅田(すみた)の両河(りやうか)を》
《割書:済(わた)るゝとあり太井(ふとゐ)は刀袮川(とねかは)の|事にて更級記(さらしなのき)にも出(いて)たり》頼朝公(よりともこう)隅田川(すみたかは)を越(こえ)て下総国(しもつふさのくに)より武蔵国(むさしのくに)へ赴(おもき)き給ふ
時(とき)二三日の雨(あめ)に洪水(こうすい)岸(きし)を浸(ひた)し軍勢(くんせい)を渡(わた)し兼(かね)たりけれは武衛(ふゑい)江戸太郎(えとのたらう)
重長(しけなか)に仰(おほせ)て浮橋(うきはし)を係(かけ)しめむとす重長(しけなか)あへて諾(うけか)はす依(よつ)て千葉介(ちはのすけ)《割書:常|胤》葛西(かさい)
兵衛(ひやうゑ)《割書:清|重》両人(りやうにん)江戸太郎(えとのたらう)を助(たすけ)むとて知行所(ちきやうしよ)今井(いまゐ)栗川(くりかは)かめなしうしまとゝいふ
より《割書:栗川かめなしうし|まと共に詳(つまひら)ならす》海人(あま)の釣舟(つりふね)を数多(あまた)登(のほ)せ江戸太郎(えとのたらう)が知行所(ちきやうしよ)なりける
石浜に折節(おりふし)西国船(さいこくふね)の着(つき)たるを数千艘(すせんさう)集(あつ)め三日の中(うち)に浮橋(うきはし)を組(くみ)てけれは
【右丁】
石浜(いしはま)
神明宮(しんめいくう)
隅田川西岸
天神
あはしま
きんけい石
大こく
山王
水神
本社
真崎稲荷祠(まさきいなりやしろ)
【左丁】
何の
葉か
こゝにも
一木
落葉
哉
芭蕉
稲荷
茶や
文塚
天王
手置■【帆】負命
彦狭知命
ゑま所
神主
狐崫
茶や
【右丁】
其
二
思川
茶や
【左丁】
うき旅の
みちに
流るゝ
おもひ
河
泪の
袖や
水の
みな
かみ
道興准后
思河(おもひかは)
橋場渡(はしはのわたし)
この所
すみた
河の
わたし
場
茶や
船番所
【右丁】
総泉寺(そうせんし)
砂尾不動(すなをふとう)
同 薬師(やくし)
方丈
客殿
砂尾
不動
【左丁】
総泉寺
大門
此辺
別荘
おほし
其
三
【右丁】
妙亀明神社(みやうきみやうしん )
《振り仮名:浅茅か原|あさち はら》
玉姫稲荷(たまひめいなり)
其
四
人めさへ
かれて
淋しき
夕まくれ
浅茅か
原の
霜を
わけ
つゝ
道興准后
此辺
別荘
おほし
【左丁】
浅茅か
原にて
あたし
野や
焼もろ
こしの
かは
はかり
其角
玉姫いなり
妙亀堂
妙亀庵
浅茅か原
【右丁】
法源寺(ほふけんし)
《振り仮名:鏡か池|かゝみ いけ》
かゝみか池
法源寺
古碑
其
五
【左丁】
佐殿(すけとの)神妙(しんめう)なるよし仰(おほせ)られ太井(ふとゐ)隅田(すみた)を打越(うちこえ)て板橋(いたはし)に着(つき)給ふとあり《割書:隅田河(すみたかは)古(いにしへ)|海(うみ)につゝき》
《割書:海村(かいそん)なりし事は義経記(きけいき)の|文義(ふんき)にてもしるへし》
《割書:夫木抄|》
隅田河むかしはきかす今こそは身を浮橋のある世なりけれ 光俊
《割書:其(その)言葉書(ことはかき)にいはく此哥(このうた)は康元(こうけん)元年 鹿島社(かしまのやしろ)にまうてけるに角田川(すみたかは)の渡(わたり)をみれは彼(かの)わたり今は浮橋(うきはし)を|わたしたりけれはとあり又》
梅 花 無 盡 蔵 詩 註 云 隅 田 在 武 蔵 下 総 両 国 之 間 路
傍 小 塚 有 柳 道 灌 公 為 攻 下 総 千 葉 構 長 橋 三 条 云云
《割書:按(あんする)に源平盛衰記(けんへいせいすいき)をよひ光俊(みつとし)鹿島記行(かしまきこう)等(とう)の書(ふみ)に載(のす)るものは仮初(かりそめ)にまうくる所の橋(はし)なるへし源平盛衰記|をよひ太平記(たいへいき)等(とう)其余の書(ふみ)にも橋場(はしは)の名(な)みへす橋場(はしは)の号(な)をそらくは道灌(たうくわん)下総(しもつふさ)の千葉家(ちはけ)を攻(せむ)る頃(ころ)|より発(おこ)るならん南向亭(なんかうてい)云く隅田川(すみたかは)の渡場(わたしは)より一町はかり川上(かはかみ)にむかしの橋(はし)の古杭(ふるくい)水底(みなそこ)にのこりて|舟(ふね)筏(いかた)のゆきゝにさはり侍(はへ)るよしされと其(その)橋(はし)いつれの頃(ころ)のものにやと云云 依(よつ)て考(かんか)ふれは今のわたし場(は)より|一町はかり川上(かはかみ)神明宮(しんめいくう)の大門(たいもん)の通(とほ)り其 旧跡(きうせき)なるへき歟また里老(りろう)伝(つた)へいふ此地(このち)法源寺(ほふけんし)大門(たいもん)の通(とほ)りをよひ|今のわたし場(は)より南(みなみ)の方(かた)鑒船所(ふなはんしよ)のあたり共(とも)にむかしの橋場(はしは)の旧跡(きうせき)なりといへり然(しか)る時(とき)は三所(みところ)共(とも)に橋(はし)を|かくるに似(に)たりこれによつて考(かんか)ふれは梅花無尽蔵(はいくはむしんさう)に所謂(いはゆる)長橋(なかはし)三条(さんてう)を構(かま)ふとある意(こゝろ)に協(かな)へるならん》
朝日神明宮(あさひしんめいくう) 橋場(はしは)にあり石浜神明(いしはましんめい)とも《割書:或人(あるひと)の説(せつ)に此地(このち)に神明宮(しんめいくう)ある|故(ゆへ)に上古(むかし)伊勢浜(いせはま)と唱(とな)へしと云云》或(あるひは)俗(そく)に橋場(はしは)
神明(しんめい)とも号(なつ)く祭神(まつるかみ)伊勢(いせ)に同(おな)しく内外両皇太神宮(うちとりやうくわうたいしんくう)を斎(いつき)まつる社伝(しやてん)に云
人皇四十五代 聖武天皇(しやうむてんわう)の御宇(きよう)神亀(しんき)元年甲子九月十一日 鎮坐(ちんさ)と云云
牛頭天王(こつてんわう)社《割書:本社の左(ひたり)の方にあり橋場(はしは)の鎮守(ちんじゆ)にして祭礼(さいれい)は毎歳六月十五日なり世に汐入(しほいり)の押合(をしあい)|祭(まつり)とて神輿(みこし)今戸橋(いまとはし)をわたらせらる氏子(うちこ)の輩(ともから)こと〳〵く神輿舁(みこしかき)に出(いつ)るに其 神輿(みこし)に》
【右丁】
角田河渡(すみたかはのわたし)
名にし
おはゝ
いさ
こと
問ん
都鳥
【左丁】
我
思ふ
ひとは
ありや
なし
や
と
在原業平
【右丁 文字無し】
【左丁】
正平(しやうへい)七年
隅田川合戦之図(すみたかはかつせんのつ)
【右丁】
其
二
【右丁】
《割書:手(て)を附(つく)る事なく各(をの〳〵)肩(かた)はかりにて押合(をしあひ)〳〵行事(ゆくこと)なり此故(このゆへ)に押合祭(をしあひまつり)と云よし事跡合考(しせきかつかう)に見(み)えたり当社(たうしや)|に古(ふる)き神輿(みこし)壱基(いつき)あり家根(やね)の裡(うち)に天正(てんしやう)十五年丁亥四月 山城住人(やましろのちうにん)高須美作(たかすみまさか)拵之(これをこしらゆる)又同 棟札(むなふた)に同年 鈴木三郎(すゝき )|冠者(くはんしや)家平(いへひら)とあり是は則 当社(たうしや)|神主(かんぬし)の名(な)にして代々 鈴木氏(すゝき )なり》
天満宮(てんまんくう)《割書:本社の右の方にあり神像(しんさう)は菅神(かんしん)の真作(しんさく)にして明和(めいわ)四年丁亥六月五日 高辻前大納言家長卿(たかつちさきのたいなこんいへなかきやう)|勧請(くはんしやう)ありしとなり額(かく)は天満宮(てんまんくう)とありて高辻式部大輔世長朝臣(たかつちしきふたいふひさなかあそん)の筆(ふて)也其余 末社(まつしや)多(おほ)けれとこゝに省略(もら)す》
当社(たうしや)は建久(けんきう)正治(しやうち)の頃(ころ)繁昌(はんしやう)の地(ち)なりしとそ其頃(そのころ)は大社(たいしや)にて関東(くはんとう)の諸民(しよみん)伊勢(いせ)
に参宮(さんくう)せん事なりかたき輩(ともから)は当社(たうしや)に詣(まう)て祓(ぬさ)を受(うけ)たりといへり殊(こと)に千葉(ちは)
宇都宮(うつのみや)等(とう)の輩(ともから)尊信(そんしん)し神田(しんてん)等(とう)を寄附(きふ)す此地(このち)昔(むかし)は奥州街道(あうしうかいたう)にして文治(ふんち)
の頃(ころ)は鎌倉右大将家(かまくらうたいせうけ)も当社(たうしや)に参詣(さんけい)ありしとなり境内(けいたい)樹木(しゆもく)多(おほ)く鬱蒼(うつさう)として
上久(かみさひ)たり毎歳(としこと)六月晦日 名越祓(なこしのはらひ)を修行(しゆきやう)す祭礼(さいれい)は九月十六日なり《割書:此日(このひ)社地(しやち)にをひて生(しやう)|姜(か)を鬻(ひさ)く故(ゆへ)に》
《割書:俗間(そくかん)是(これ)を生姜(しやうか)|祭(まつり)と唱(とな)えたり》
真先稲荷明神社(まつさきいなりみやうしん ) 同所 隅田河(すみたかは)の流(なかれ)に臨(のそ)む祭神(まつるかみ)倉稲魂(うかのみたま)一坐(いちさ)なり社伝(しやてん)云
久代(そのかみ)千葉介兼胤家(ちはのすけかねたねのいえ)に霊珠(れいしゆ)を伝(つた)ふ此(この)霊珠(れいしゆ)の加護(かこ)にや数度(すと)の戦場(せんちやう)に
先登(さきかけ)の誉(ほまれ)あり同 守胤(もりたね)の代に至(いた)り此(この)石浜(いしはま)の城主(しやうしゆ)たりしかは城内(しやうない)の鎮守(ちんしゆ)
として彼(かの)宝珠(ほうしゆ)をもて稲荷(いなり)に勧請(くはんしやう)し真先稲荷明神(まつさきいなりみやうしん)と号(かう)すと云云《割書:往年(いんしとし)本社(ほんしや)|造営(さうえい)の頃(ころ)》
【左丁】
《割書:社(やしろ)の軒端(のきは)神木(しんほく)の榎(ゑのき)に支(さゝへ)られて心(こゝろ)の儘(まゝ)ならさりしかは後(うしろ)の方(かた)の地を穿(うか)ちけるとき件(くたん)の霊珠(れいしゆ)を得(え)たりといへり|依(よつ)て今は神殿(しんてん)に収(おさ)め有信(うしん)の輩(ともから)には毎月午日 此 神宝(しんほう)の霊珠(れいしゆ)を拝(はい)さしむ》
本社(ほんしや)の額(かく)に真崎稲荷大明神(まつさきいなりたいみやうしん)とあるは神祇伯(しんきはく)卜部朝臣兼雄卿(うらへのあそんかねをきやう)の筆(ふて)なり
神木榎(しんほくゑのき)《割書:本社の前(まへ)にありて軒(のき)を覆(おほ)ふ中間(ちゆうかん)の虚(うつろ)より霊泉(れいせん)涌出(ゆしゆつ)す|病(やまひ)あるもの服飲(ふくいん)してしるしを得(う)るといへり》
此(この)社前(しやせん)は名(な)にしあふ隅田河(すみたかは)の流(なかれ)溶々(よう〳〵)として昼夜(ちうや)を捨(すて)す食店(りやうりや)酒肆(さかや)の軒端(のきは)
は河面(かはつら)に臨(のそ)むて四時(しいし)の風光(ふうくわう)を貯(たくは)ふ殊更(ことさら)夏(なつ)の日(ひ)は杯(さかつき)を流(なかれ)に洗(あら)つて炎暑(えんしよ)を
洒(そゝ)き秋(あき)の夜(よ)は中流(ちゆうりう)に棹(さほ)さして月(つき)を掬(きく)す春(はる)の夕(ゆふへ)妖艶(えうえむ)たる須田堤(すたつゝみ)の花盛(はなさかり)よ
り皚々(かい〳〵)たる白髭(しらひけ)木母寺(もくほし)の雪(ゆき)の朝(あした)の眺望(てうまう)も共(とも)に奇々(きゝ)として実(しつ)に遊宴(いうえむ)の勝(しよう)
地(ち)なり
思川(おもひかは) 稲荷(いなり)の前(まへ)より橋場(はしは)の渡場(わたしは)へ行道(ゆくみち)を横(よこ)きれる汐入(しほいり)の小溝(こみそ)をいふ治承(ちしよう)
四年庚子 鎌倉将軍(かまくらしやうくん)頼朝卿(よりともきやう)此地を過(よき)り給ひ河水(かはみつ)にて駒(こま)を洗(あら)はしむ故(ゆへ)に
駒洗川(こまあらひかは)とも号(なつ)くる由(よし)里民(りみん)云伝(いひつた)ふ
《割書:按(あんする)に東鑑(あつまかゝみ)に治承(ちしやう)四年庚子十月廿七日 佐竹冠者秀義(さたけくはんしやひてよし)追討(ついたう)の為(ため)に頼朝(よりとも)みつから進発(しんはつ)ありて同年十一月|四日 常陸国府(ひたちのこくふ)に着(つき)給(たま)ふよし見(み)えたり其頃(そのころ)の事ならんか又 北条(ほうてう)九代記に文治(ふんち)五年七月十九日 奥州(あうしう)|泰衡(やすひら)追討(ついたう)の首途(かといて)に頼朝(よりとも)隅田河(すみたかは)をわたらるゝ事を載(のせ)たりこのあたり往古(むかし)の奥州海道(あうしうかいたう)なれはさも|ありなんかし》
【右丁】
《割書:回国雑記 おもひ川にいたりてよめる》
うき旅の道になかるゝ思ひ川涙の袖や水のみなかみ 道興准后
《割書:かくて隅田河のほとりにいたると云云》
隅田河渡(すみたかはのわたし) 橋場(はしは)より須田堤(すたつゝみ)のもとへの古(ふる)き渡(わたり)なり今は橋場(はしは)の渡(わたし)と
唱(とな)ふ《割書:元禄(けんろく)開板(かいはん)の江戸鹿子(えとかのこ)といへる草紙(さうし)にむかしの渡(わたし)は今(いま)のところよりすこし川上(かはかみ)なりと所(ところ)のふるき|人は物語(ものかたり)するなりとありむかしは須田(すた)の渡(わたり)ともいひけるにや夫木抄(ふほくせう)に経兼(つねかね)の詠(えい)あり》
《割書:次(つき)にしるす》
《割書:古今集 むさしの国としもつふさの国とのなかにあるすみた河のほとりにいたりて都(みやこ)のいと》
《割書:こひしうおほえけれはしはし河のほとりにおりゐて思(おも)ひやれはかきりなく遠(とほ)くも来(き)に|けるかなとおもひわひてなかめをるにわたし守(もり)はや舟(ふね)にのれ日も暮(くれ)ぬといひけれは舟にのりて|わたらむとするにみな人物わひしくて都(みやこ)に思(おも)ふ人なくしもあらすさるおりに白(しろ)き鳥(とり)のはしと|あとあかき河のほとりにあそひけり京(みやこ)には見えぬ鳥(とり)なりけれはみな人見しらすわたし守に|是は何鳥(なにとり)そと問(とひ)けれは是なむ都鳥(みやことり)といひけるをきゝてよめる》
名にしおはゝいさ事とはむ都鳥我思ふ人はありやなしやと
《割書:吾妻の道の記 角田河(すみたかは)ちかしときゝて見にゆく今(いま)も船(ふね)に| のれといふはこのわたし守のくせにやあらん》
これそこのあつまち遠く思ひこしすみた河原の渡なりける 長嘯
とはてたゝそれとたのまむすみたかはむれゐる鳥はあらぬ名もこそ 同
《割書:かへりくる道(みち)にあさくさの観音(くわんおむ)とて国(くに)ゆすりてもてなす|仏(ほとけ)おはす云云》
【左丁】
《割書:夫木抄》
夕霧に須田のわたりは見えねとも舟人よはふ声聞ゆなり 経兼
石浜古戦場(いしはまこせんちやう) 橋場(はしは)の地(ち)すへて石浜(いしはま)といへるに似(に)たり《割書:新安手簡(しんあんしゆかん)に白石先生(はくせきせんせい)石浜(いしはま)の|考(かんかへ)ありこゝに略(りやく)す》
太平記云(たいへいきにいふ)正平(しやうへい)七年壬辰閏二月《割書:北朝(ほくてう)の観応(くはんおう)三年にして|文和(ふんわ)と改元(かいけん)の年なり》故(こ)新田義貞(につたよしさた)の次男(しなん)左兵
衛佐 義興(よしをき)三男 少将(せうしやう)義宗(よしむね)従父兄弟(いとこ)左衛門 義治(よしはる)義兵(きへい)を起(をこ)し其勢(そのせい)十万( まん)
余騎(よき)にて武蔵国(むさしのくに)へ打越(うちこえ)たりこれに依(よつ)て将軍(しやうくん)尊氏(たかうち)も鎌倉(かまくら)を進発(しんはつ)し
敵(てき)を道(みち)に待(まち)て戦(たゝかひ)を決(けつ)せむと同十六日 僅(わつか)に五百余騎( よき)にて武蔵国(むさしのくに)へ発(はつ)
向(かう)あり追々(をひ〳〵)に馳集(はせあつま)る勢(せい)すへて八万余騎なりしかは同廿日 武蔵野(むさしの)の
小手指原(こてさしはら)へ打(うつ)て出(いて)新田(につた)足利(あしかゝ)の両勢(りやうせい)二十万騎( まんき)入乱(いりみたれ)て大(おほい)に戦(たゝか)ひけるに足利方(あしかゝかた)
の先陣(せんちん)急(きふ)に敗(やふ)れて引退(ひきしりそ)きけれは後陣(こちん)進(すゝ)む事(こと)能(あた)はす大(おほい)に敗走(はいそう)す義宗(よしむね)
自(みつから)諸軍(しよくん)を牽(ひきゐ)て大(おほい)に呼(よばつ)て云(いわく)天下(てんか)の為(ため)には朝敵(てうてき)なり我為(わかため)には父(ちゝ)の讐(あた)なり
此戦(このたゝかひ)にあたつて尊氏(たかうち)の首(くひ)を見(み)すむは何(いつれ)の時(とき)をか期(こ)すへきとて只(たゝ)二引両(ふたつひきりやう)の
大旗(おほはた)の引(ひく)に付(つき)て小手指原(こてさしはら)より石浜迄(いしはままて)坂東道(はんとうみち)既(すて)に四十六里を片時(かたとき)か間(あひた)
に追付(をひつき)たり此時(このとき)将軍(しやうくん)は石浜(いしはま)を打渡(うちわたり)虎口(ここう)を遁(のか)る《割書:天正本(てんしやうほん)には|隅田川(すみたかは)とあり》猶(なを)将軍(しやうくん)の兵(へい)
【右丁】
士(し)残(のこ)り止(とまつ)て先途(せんと)を支(さゝへ)たる間(あひた)に日も既(すて)に酉(とり)の下(さか)りになりて河(かは)の渕瀬(ふちせ)も見(み)え
わかされは義宗(よしむね)は続(つゝひ)てわたすにもあらす又 後(あと)よりつゝく味方(みかた)もなけれはやす
からぬものかなと牙(きは)をかむて本陣(ほんちん)へ引帰(ひきかへ)さるゝとあり《割書:以上太平記|の意を採る》
砂尾不動院(すなをふとうゐん) 橋場寺(はしはてら)と号(かう)す渡場(わたしは)の少(すこ)し南(みなみ)の方(かた)道(みち)より右(みぎ)にあり天台宗(てんたいしう)
にて浅草寺(せんさうし)に属(そく)せり《割書:往古(そのかみ)は法相宗(ほつさうしう)なりしか住持(ちゆうち)教圓師(けうゑむし)の代|長寛(ちやうくわん)癸未歳より宗風(しうふう)を転(てん)すといふ》宝亀(はうき)四年癸丑 良弁僧都(らうへんそうつ)
の上足(しやうそく)寂昇(しやくしよう)上人 当寺(たうし)を開基(かいき)し本尊(ほんそん)に不動明王(ふとうみやうわう)の像(さう)を安(あん)す
縁起曰(えむきにいはく)本尊(ほんそん)不動明王(ふとうみやうわう)は良弁僧都(らうへんそうつ)相州(さうしう)大山寺(おほやまてら)にありし頃(ころ)彫刻(てうこく)ありし
三体(さんたい)の一(いつ)にして彼寺(かのてら)の本尊(ほんそん)と同木同作なり僧都(そうつ)一時(あるとき)上足(しやうそく)寂昇師(しやくしようし)に告(つけ)
て云(のたまは)く三体(さんたい)のうち一体(いつたい)は此山(このやま)にとゝめ一体(いつたい)はみつから持念(ちねん)す残(のこ)る所(ところ)の一体(いつたい)
は汝(なんち)に附属(ふそく)すへし何方(いつかた)にても有縁(うえむ)の地(ち)に安(あん)すへしとなり仍(よつ)て僧都(そうつ)化寂(けしゆく)
の後(のち)《割書:宝亀(ほうき)四年歳|八十二にして寂(しやく)せり》寂昇(しやくしよう)上人 上総(かつさ)の方(かた)へ赴(おもむ)く道(みち)の次(ついて)適(たま〳〵)此地(このち)に至(いた)り霊告(れいかう)を
得(え)て有縁(うえむ)の地(ち)たる事(こと)をしりこゝに安(あん)し則(すなはち)村老(そんろう)野人(やしん)にかたらひて草堂(さうたう)
を営(いとな)み砂尾不動尊(すなをふとうそん)と号(かうす)云云 砂尾薬師如来(すなをやくしによらい)寺内(しない)にあり本尊(ほんそん)は
【左丁】
恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)なり《割書:南向亭茶話(なんかうていさわ)に云(いは)く或説(あるせつ)に此処(このところ)に往古(むかし)砂尾修理太夫(すなをしゆりのたいふ)といふ人ありて|太田道灌(おほたたうくわん)と合戦(かつせん)すこれを石浜(いしはま)の戦(たゝかひ)といふ則(すなはち)砂尾氏(すなをうち)建立(こんりう)せし寺(てら)あり》
《割書:天台宗(てんたいしう)にて砂尾山不動院(すなをさんふとうゐん)と云(いふ)と云云されと当寺(たうし)伝記(てんき)に修理太夫(しゆりのたいふ)の事(こと)を載(のせ)すまた道灌(たうくわん)と戦(たゝか)ふこと|諸書(しよしよ)に見あたらす猶(なを)考(かんか)ふへし》
妙亀山総泉寺(めうきさんそうせんし) 曹洞派(さうとうは)の禅林(せんりん)にして江戸三箇寺(えとさんかし)の一員(いちゐむ)たり開山(かいさん)は噩叟(かくそう)
宗俊和尚(そうしゆんおしやう)と号(かう)す当寺(たうし)は千葉家(ちはけ)の香花院(かうけゐん)なり《割書:永禄(えいろく)二年 小田原(おたはら)北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)に|武州(ふしう)石浜(いしはま)の会下寺(ゑかてら)とあるは当寺(たうし)》
《割書:の事(こと)を云(いふ)|なるへし》
千葉氏墓(ちはうちのはか)《割書:境内(けいたい)卵塔(らんたふ)のうちにあり長(なかさ)三尺はかりの青石(あをいし)に梵字(ほんし)のみを鐫(ちりはめ)めて年号(ねんかう)法名(ほふみやう)等(とう)|を註(ちゆう)せす当寺(たうし)に大檀那(たいたんな)千葉介守胤(ちはのすけもりたね)の霊牌(れいはい)と称(しよう)するものあり総泉寺殿長山(そうせんしてんちやうさん)》
《割書:昌燉大居士(しやうとんたいこし)とあり寺僧(しそふ)云く守胤(もりたね)は弘治(こうち)三年丁巳十一月八日 卒去(そつきよ)すとされと守胤(もりたね)卒去(そつきよ)の時世(しせい)すこふる|たかひあるに似(に)たり又 江戸惣鹿子(えとそうかのこ)に千葉介常胤(ちはのすけつねたね)の墓碑(ほひ)には春浄院殿貞心居士(しゆんしやうゐんてんていしんこし)同 千葉介貞胤(ちはのすけさたたね)の|墓碑(ほひ)には即心自風流(そくしんしふうりう)とあるよし記(しる)せとも|今 所在(しよさい)をしらす猶(なを)他日(たしつ)考(かんか)ふへきのみ》
宇津宮弥三郎入道墓(うつのみややさふらうにうたうのはか)《割書:同 卵塔(らんたふ)のうちにあり青石(あをいし)の碑(ひ)二枚(にまい)其一(そのいつ)は正安(しやうあん)元年|十一月廿一日 其一(そのいつ)は徳治(とくち)二年丁未二月七日とあり》
《割書:按(あんする)に当寺(たうし)にいひつたふる所(ところ)の宇津宮弥三郎(うつみやや )は頼綱入道実信坊(よりつなにうたうしつしんはう)か事(こと)なるへし又の号(な)を蓮生(れんしやう)と唱(とな)ふ|源空上人(けんくう )の法(ほふ)を聴(きい)て後(のち)善恵上人(せんゑ )に就(つい)て出家(しゆつけ)す正元(しやうけん)元年己未十一月 京師(けいし)に寂(しゆく)し遺言(ゆいけん)により墳(はか)を師(し)|の石塔(せきたふ)の傍(かたはら)に儲(まうく)るよし西山上人(せいさん )の伝(てん)に見(み)えたり其地は則 京師(けいし)西山三鈷寺(にしやまさんこし)の東(ひかし)の坂(さか)なり依(よつ)て考(かんか)ふる|に当寺(たうし)にある所のものはむかし其 支族(しそく)なと此 辺(ほとり)にありて写(うつ)し建(たつ)る所の墓碑(ほひ)ならん歟されと正安(しやうあん)|徳治(とくち)いつれも正元(しやうけん)に後(をく)るゝ事四十有|余年なり最(もつとも)不審(ふしん)少(すくな)からす》
抑(そも〳〵)当寺(たうし)は正法眼蔵(しやうほふけんさう)の妙理(めうり)をしめし実相無相(しつさうむさう)の心印(しんゐん)をひらく向上(かうしやう)の一路(いちろ)
【右丁】
には着相実有(ちやくさうしつう)の草(くさ)を払(はら)ひ言下(こんか)の一喝(いつくはつ)には異学執解(いかくしうけ)の塵(ちり)を■(とは)【飛ヵ】す公案(こうあん)
の床(ゆか)の前(まへ)には一千七百の則(そく)を重(かさね)て以心伝心(いしんてんしん)を伝(つた)へ坐禅(させん)の衾(ふすま)のもとには朝三(てうさん)
暮四(ほし)の助(たすけ)を得(え)て文字言句(もんしこんく)の話頭(くわつたう)を離(はなれ)たり
浅茅原(あさちかはら) 総泉寺(そうせんし)大門(たいもん)のあたりをいふ
《割書:回国雑記 浅茅かはらといへる所にて》
人めさへかれて淋しき夕まくれ浅茅かはらの霜をわけつゝ 道興准后
妙亀塚(めうきつか)《割書:同所にあり梅若丸(むめわかまる)の母公(ほこう)妙亀尼(めうきに)の墳墓(ふんほ)なりといひつたふ小高(こたか)きところに草堂(さうたう)を建(たて)て|妙亀大明神(めうきたいみやうしん)と称(しよう)せり》
古墳一基(こふんいつき)《割書:妙亀堂(めうきたう)の下(もと)にあり青(あを)き一片(いつへん)の石(いし)にして長(たけ)二尺あまり碑面(ひめん)蓮花(れんけ)の上(うへ)円相(ゑむさう)の中(うち)法阿(ほふあ)と|云 号(な)をちりはめ下(した)に弘安(こうあん)十一年正月廿二日と彫付(ほりつけ)てあり《割書:此年四月正応|と改元あり》円光大師(えんくわうたいし)行状翼賛(きやうしやうよくさん)》
《割書:巻第四十二に云く嘉禄(かろく)三年六月廿二日《割書:此年十二月安貞|と改元あり》山門(さんもん)の衆徒(しゆと)奏聞(そうもん)を経(へ)て大谷源空( けんくう)の墳墓(ふんほ)を破却(はきやく)せん|とす其夜(そのよ)法蓮坊(ほふれんはう)覚阿坊(かくあはう)潜(ひそか)に上人の櫃(ひつぎ)を堀出(ほりいた)し蓮生坊(れんしやうはう)《割書:宇津宮|弥三郎》信生坊(しんしやうはう)《割書:塩谷|入道》法阿坊(ほふあはう)《割書:千葉六郎太夫入道此人は|東氏の祖従五位下》|道遍坊(たうへんはう)《割書:渋谷七郎|入道》西仏坊(さいふつはう)《割書:頓宮兵衛|入道》の輩(ともから)出家(しゆつけ)の身(み)なりといへとも法衣(ほふえ)に兵杖(ひやうちやう)を帯(たい)し是(これ)を供奉(くふ)し広隆寺(くわうりうし)の来(らい)|迎坊円空(かうはうゑむくう)か許(もと)にうつすよしを記(しる)せり按(あんする)にこの法阿(ほふあ)は千葉六郎太夫胤頼( たねより)か事なるへし胤頼(たねより)は常胤(つねたね)の子にして国(こ)|府六郎胤道(ふの たねみち)の弟(をとゝ)なりこの古墳(こふん)恐らくは|この法阿(ほふあ)の墓碑(ほひ)ならんか》
《振り仮名:鏡か池|かゝみ いけ》 同所 西南(せいなん)の方(かた)にあり伝(つた)へ云 妙亀尼(めうきに)梅若丸(むめわかまる)の跡(あと)をしたひ京(みやこ)より
さまよひ来(きた)りしか梅若丸(むめわかまる)身(み)まかりし事(こと)を聞(きゝ)て此池(このいけ)に身(み)を投(なけ)てむなしく
なりぬとそ《割書:元禄(けんろく)開板(かいはん)の江戸鹿子(えとかのこ)といへる草紙(さうし)にむかしは|此池(このいけ)を泪(なみた)の池(いけ)と名(な)つけしとあり》傍(かたはら)に鏡池庵(きやうちあん)と号(なつく)る小庵(せうあん)あり
【左丁】
弁財天(へんさいてん)を安(あん)す是(これ)も妙亀尼(めうきに)をまつる所(ところ)なりといへり
袈裟懸松(けさかけまつ)《割書:池(いけ)の傍(かたはら)にあり一名(いちみやう)を衣(きぬ)かけ松(まつ)ともいへり妙亀尼(めうきに)この松(まつ)の枝(えた)に衣(きぬ)をかけ置(をき)てむなしく|なりしといへり旧樹(きうしゆ)枯(かれ)て今は若木(わかき)を栽(うへ)たり》
采女塚(うねめつか)《割書:同所にあり寛文(くわんふん)の頃(ころ)吉原町(よしはらまち)にうねめといへる遊女(いうしよ)はへりしか故(ゆへ)ありて夜(よ)にまきれてこゝに|来(きた)り池中(ちちゆう)に身(み)をなけてむなしくなりぬ夜明(よあけ)てのちあたりの人こゝに来(きた)りけるにかたはらの松(まつ)》
《割書:に小袖(こそて)をかけて一首の哥(うた)をそへたり|》
名をそれとしらすともしれ猿沢のあとをかゝみか池にしつめは
《割書:かくありしにより采女(うねめ)なる事をしりけれは人あはれみて塚(つか)をきつきけるといへり|》
東野先生之墓(とうやせんせいのはか)《割書:同所 橋場(はしは)の通(とほ)り福寿院(ふくしゆゐん)といへる禅林(せんりん)にあり先生は下野(しもつけ)の人 諱(いみな)は燠図(くはんと)【注】東壁(とうへき)は字(あさな)|仁右衛門と称(しよう)す安藤(あんとう)は養家(やうか)の姓(せい)にして本姓(ほんせい)は奈須氏(なすうち)なり徂徠先生(そらいせんせい)に就(つい)て大(おほひ)に》
《割書:古文(こふん)を誦(しゆ)し共(とも)に復古(ふくこ)の学(かく)を唱(とな)ふ墓碑(ほひ)の銘(めい)は|南郭服(なんくはくふく)夫子(ふうし)述(のふ)る所なり其文(そのふん)こゝに略(りやく)す》
帰命山法源寺(きみやうさんほふけんし) 無量寿院(むりやうしゆゐん)と号(かう)す浄業(しやうこふ)の古刹(こさつ)にして総泉寺(そうせんし)の南(みなみ)に隣(とな)る
宝亀(はうき)元年庚戌の春 智海法印(ちかいほふゐむ)始(はしめ)て此地(このち)に大日堂(たいにちたう)を建立(こんりふ)す其後(そののち)延暦(えむりやく)
三年甲子の秋 村里(そんり)の人民(しんみん)力(ちから)を合(あはせ)て一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)とし砂尾(すなを)石浜(いしはま)の道場(たうしやう)
と号(なつ)く《割書:開山(かいさん)大僧都(たいそうつ)智海法印(ちかいほふゐむ)は大同(たいとう)元年丙戌三月十四日 化寂(けしやく)二世 権大僧都(こんたいそうつ)了海法印(れうかいほふゐむ)は天長(てんちやう)七年庚戌四月|十五日 帰寂(きしやく)し三世 恵海法印(けいかいほふゐむ)は斉衡(さいかう)元年甲戌四月十五日帰寂す各(をの〳〵)墳墓(ふんほ)あり》
隆性院従二位藤原朝臣四辻有理卿墓碑(りうしやうゐんしゆにいふちはらのあそんよつつちありよしきやうほひ)《割書:当寺(たうし)境内(けいたい)にあり再校江戸砂子(さいかうえとすなこ)に延暦(えむりやく)八乙巳【注】|天六月廿七日としるせりまた南向亭(なんかうてい)云く青石(あおいし)》
《割書:の碑(ひ)あり漸(やうやく)みるに四辻家(よつつちけ)の姓名(せいめい)三人の官名(くはんみやう)実名(しつみやう)あれともたしかにしれす|其 来由(らいゆ)もまたしれかたしと云云 寺伝(してん)もともにつまひらかならす》
【注 「燠図」は「煥図」の誤】
【注 「乙巳」は「己巳」の誤】
《割書:按(あんする)に知譜拙記(ちふせつき)に西園寺大政大臣公経卿(さいをむしたいしやうたいしんきんつねきやう)の四男(よなん)四辻権大納言正二位実藤卿(よつつちこんたいなこんしやうにゐさねふちきやう)より十五世の孫(そん)権大納言(こんたいなこん)正二位 公理(きんよし)|延宝(えんはう)五年丁巳六月廿七日 薨(こう)す六十八とあり実藤卿(さねふちきやう)は安貞(あんてい)より永仁(えいにん)の間(あひた)の人(ひと)にして四辻家(よつつちけ)の祖(そ)なり延暦(えむりやく)とは時世(しせい)|大(おほひ)にたかへり恐らくは従二位(しゆにゐ)は正二位(しやうにゐ)有理(ありよし)は公理(きんよし)延暦(えむりやく)は延宝(えむはう)八年は五年己巳は丁巳の誤(あやまり)なるへき歟 薨去(こうきよ)の月日(つきひ)|附合(ふかう)せりされと文字(もんし)剝欠(はくけつ)して読(よむ)へからす猶(なを)後(のち)の考(かんかへ)をまつのみ》
斎藤別当実盛墓(さいとうへつたうさねもりのはか)《割書:同所にあり石塔(せきたふ)は僧形念珠(そうきやうねんしゆ)を持(ち)したる像(さう)を彫(きさ)み裏(うら)に篠原院(せふけんゐん)前左金吾(さきのさきんこ)|従五位徳山覚道真阿大居士(しゆこゐとくさんかくたうしんあたいこし)寿永(しゆえい)二癸卯年五月七日と刻(こく)しまた当寺(たうし)七世の住(しゆう)》
《割書:侶(りよ)法誉上人(ほふよ )元泰和尚(けんたいおしやう)元禄(けんろく)七年甲戌五月廿一日 夜(よ)霊夢(れいむ)を感(かん)し孫(まこ)兵庫助信利(ひやうこのすけのふとし)是(これ)を建立(こんりふ)するよしを誌(しる)せり|法誉上人(ほふよ )は実盛(さねもり)の氏族(しそく)なるよし南向亭茶話(なんかうていさわ)にみえたり法名(ほふみやう)は其頃(そのころ)新(あらた)に命(めい)したるとそ実盛(さねもり)は寿永(しゆえい)二年五月|賀州(かしう)篠原(しのはら)に|戦死(せん )す》
鎌倉権太夫景道石塔(かまくらこんのたいふかけみちのせきたふ)《割書:同所にあり碑面向(ひめんかう)阿弥陀仏堪楽(あみたふつたんらく)延久(えむきう)二庚戌年十月廿二日とありて五輪(こりん)の石塔(せきたう)|婆(は)なり法名(ほふみやう)をよひ歿卒(ほつそつ)の年月いまた考(かんか)へす是も恐らくは後世その一族(いちそく)の人》
《割書:なとの造立(さうりふ)せしならん歟 景道(かけみち)は鎮守府将軍良兼(ちんじゆふしやうくんよしかね)四代の孫(そん)左衛門尉 致経(ともつね)の二男 村岡小五郎忠道(むらおか たゝみち)の子なり|其余 当寺(たうし)歴代(れきたい)住侶(しゆうりよ)の石塔(せきたう)また仁寿(にんしゆ)昌泰(しやうたい)正暦(しやうりやく)寿永(しゆえい)康元(かうけん)文永(ふんえい)弘安(こうあん)正安(しやうあん)嘉元(かけん)正和(しやうわ)文応(ふんおう)正慶(しやうけい)文正(ふんしやう)等の年(ねん)|号(かう)を刻(こく)せし古墳(こふん)いつれも散失(さんしつ)して多(おほ)からす》
当寺(たうし)は天台宗(てんたいしう)の古跡(こせき)にして保元(はうけん)年間 中興(ちゆうこう)して保元寺(はうけんし)と号(なつけ)しか遥(はるか)の後(のち)
大(おほひ)に荒廃(くはうはい)せり妙蓮社(みやうれんしや)聡誉上人(そうよ )酉仰和尚(いうかうおしやう)の時(とき)より台宗(たいしう)を改(あらた)めて浄家(しやうけ)
に転ず其時(そのとき)より文字(もんし)も法源(ほふけん)にあらため寺院(しゐん)再興(さいこう)ありしと云/漢字(ふりがな)《割書:当寺(たうし)中古(ちゆうこ)用(もち)ひ|たりしとて
古(ふるき)木印(もくいむ)》
《割書:を蔵(さう)す今猶 伝(つた)へてありその文字(もんし)保元寺(はうけんし)に作(つく)る又 境内(けいたい)に弥陀(みた)勢至観音(せいしくわんおん)一光(いつくわう)三尊(さんそん)の像(さう)を刻(こく)し下(した)に妙具(めうく)|色林即(しきりんそく)の五字(こし)をちりはめ裏(うら)に康平(かうへい)二年 武州(ふしう)保元寺(はうけんし)とある古墳(こふん)あり證(しよう)とすへし》
深栄山長昌寺(しんえいさんちやうしやうし) 法源寺(ほふけんし)の南(みなみ)に隣(とな)る当寺(たうし)は御府内(こふない)日蓮宗(にちれんしう)の古跡(こせき)にして延山(えむさん)
【左丁】
に属(そく)せり
《題:江戸名所図会 二十》
【挿し絵】
新宿(にゐしゆく)
渡口(わたしは)
松戸街道(まつとかいたう)
にして
川より
こなたへ
亀有(かめあり)と
いへり此
所(ところ)を流(なか)るゝ
は中川(なかかは)
にして
鯉魚(こい)を
産(さん)す
尤(もつとも)
美味(ひみ)
なり
【挿し絵】
夕(ゆふ)
顔(かほ)
観(くわん)
音(おん)
堂(たう)
【図中】
中川
【右頁】
夕顔(ゆふかほ)観音堂(くわんおんたう) 新宿(にゐしゆく)の渡口(わたしくち)より半道(はんみち)はかり西北(にしきた)の方(かた)中川(なかかは)の堤(つゝみ)
に傍(そひ)て飯塚村(いひつかむら)といふにあり本尊(ほん)聖観世音(しやうくわんせおん)は金像(こんさう)にして
御丈(おんたけ)五寸 計(はかり)ありと云(いふ)されとも深(ふか)く内龕(ないかん)に秘(ひ)して拝(はい)する事
をゆるさす別(へつ)に慈覚大師(しかくたいし)手刻(しゆこく)の観音(くわんおん)の木像(もくさう)を以(もつ)て龕前(かんせん)に
安(あん)す相伝(あひつた)ふ此地(このち)は昔(むかし)荘官(しやうくわん)関口氏(せきくちうち)某(それかし)か采地(さいち)なり《割書:江戸(えと)砂子(すなこ)に此地(このち)は|村岡(むらをか)五郎(こらう)平(たひらの)良文(よしふん)か》
《割書:墳墓(ふんほ)の旧址(きうし)なりと|あれとも拠(よりところ)なし》往古(そのかみ)関口氏(せきくちうち)此地(このち)に就(より)て熊野(くまの)権現(こんけん)及(およ)ひ水神(すゐしん)
等(とう)の社(やしろ)を創(さう)す《割書:此(この)叢祠(さうし)|今猶(いまなほ)存(そん)す》其(その)社前(しやせん)に老松(らうしよう)と榎樹(えのき)の二樹(しゆ)の雙立(さうりふ)する
あり春夏(はるなつ)は枝葉(しえふ)憔悴(せうすゐ)秋冬(あきふゆ)は翠色(すゐしよく)を増(ま)す人 以(もつ)て奇(き)なりとす
又 此(この)樹(しゆ)間(かん)時(とき)として光(ひかり)を発(はつ)し或(あるひ)は龍燈(りうとう)の梢(こすゑ)にかゝるをみるといふ
寛文(くわんふん)八年戊申 関口氏(せきくちうち)此地(このち)の医生(いせい)深谷氏(ふかやうち)と共(とも)に相謀(あいはか)りて此(この)
樹下(しゆか)を堀(ほり)しに一二の仏具(ふつく)を得(え)たり《割書:深谷氏(ふかやうち)は紀州(きしう)の産(さん)にして喜(き)兵衛と云|其頃(そのころ)齢(よはひ)七 旬(しゆん)媼(をうな)あり年(とし)相似(あひに)たり神(しん)》
《割書:祠(し)の傍(かたはら)に住(ちゆう)す翁媼(おきなをうな)素(もと)より信心(しん〳〵)にして日蓮(にちれん)の|弘法(くほふ)に帰(き)し常(つね)に妙(めう)経(きやう)唱題(しやうたい)懈怠(けたい)ある事なし》是(これ)必(かならす)古時(むかし)此地(このち)に有名(いうめい)の寺院(しゐん)
ありしならんと云(いひ)て竟(つひ)に同年六月六日 謹(つゝしん)て猶(なほ)此(この)土中(とちやう)を堀(ほり)しに
七ノ百三十二
【左頁】
金像(こんさう)の大非(たいひ)の像(さう)一躯(いつく)を獲(え)たり《割書:仏像(ふつさう)背面(はいめん)に弘長(こうちやう)二年二月|造(つくる)といへる七 字(し)を刻(こく)せり》仍(よつて)直(すく)に
深谷氏(ふかやうち)の家(いへ)に移(うつ)し假(かり)に仏壇(ふつたん)に安(あん)す相好(さうかう)端厳(たんこん)実(しつ)に凡工(ほんこう)の
所造(しよさう)に出(いて)たる所(ところ)あり然(しかる)に其(その)前宵(せんせう)深谷氏(ふかやうち)老翁(おきな)媼(をうな)共(とも)に夢(ゆめ)の
応(さとし)あるを以(もつ)てます〳〵奇(き)なりとして竟(つひ)に此地(このち)を闢(ひらき)て草堂(さうたう)を
営(いとな)み此(この)霊像(れいさう)を迁(うつ)し奉(たてまつ)りけるとそ
按(あんする)に世(よ)に夕顔(ゆふかほ)観音(くわんおん)の像(さう)は瓠瓜(こくわ)の中(うち)より出現(しゆつけん)し給ふ故(ゆゑ)に此(この)称(しよう)ありとも云 或(あるひは)云
紫(むらさき)式部(しきふ)の念持仏(ねんちふつ)なりともいひ伝(つた)へり此地(このち)の縁起(えんき)に載(のす)る所(ところ)と異(こと)也 何(なに)の故(ゆゑ)に
夕顔(ゆふかほ)の称(しよう)あるにや其(その)よる所(ところ)をしらす
猿俣(さるかまた) 新宿(にゐしゆく)より北(きた)の方(かた)の邑名(いうめう)なり
神 鳳 抄 曰 下 総 国 葛 西
猿 俣 御 厨 百 八 十 丁 新 御 厨 在 之 云 云
北条家(ほふてうけ)永禄(えいろく)二年 所領(しよりやう)役帳(やくちやう)に窪寺(くほてら)大蔵丞(おほくらのしやう)といふ人 葛西(かさい)猿俣(さるかまた)四十九 貫文(くわんもん)の地(ち)を
領(りやう)すとあり葛西(かさい)今(いま)武蔵国(むさしのくに)に属(そく)すといへとも古(いにしへ)は下総国(しもふさのくに)なり古書(こしよ)に出(いつ)る所(ところ)みなかくの如し
和同寺(わとうし)廃址(はいし)同所(とうしよ)にあり仏生山(ふつしやうさん)と号(かう)したる真言(しんこん)の古藍(こらん)にして
和銅(わどう)年間(ねんかん)の草創(さう〳〵)なりしと云伝(いひつた)ふ中古(ちゆこ)迄(まて)も伽藍(からん)巍々(きゝ)たりしに
天文(てんふん)六年 国府台合戦(こふのたいかつせん)の時(とき)兵火(ひやうくわ)の為(ため)に灰燼(くわいしん)となりて
【挿し絵】
半田稲荷(はんたいなり)社
東葛西領(ひかしかさいりやう)
金町(かなまち)にあり
来由(らいゆ)は詳(つまひらか)
ならす拾(しふ)
遺(ゐ)に記(しる)す
へし
【図中】
狐穴
本社
別当
いなり
相居?
【挿し絵】
松戸(まつと)の里(さと)
【図中】
樋の口
金町
とね川
松戸
本河岸
寺僧(しそう)も悉(こと〳〵)く追散(おひちら)されて終(つひ)に廃寺(はいし)ちなりけるとて今(いま)其号(そのかう)
のみを伝(つた)ふ
松戸津(まつとのつ) 常陸街道(ひたちかいたう)にして駅舎(えきしや)あり更級日記(さらしなにき)に鏡(かゝみ)の瀬(せ)松里(まつさと)の
津(つ)にとまりてとあるは此地(このち)の事(こと)をいふならん歟(か) 《割書:義経記(きけいき)に治承(ちしやう)四年|九月十一日 武蔵(むさし)と下(しも)》
《割書:総(ふさ)の境(さかひ)なる松戸(まつと)の庄(しやう)市河(いちかは)といふ所(ところ)に着(つき)給ふとありむかしは松戸(まつと)の庄(しやう)の名(な)にて|ありしならん歟(か)》
松戸堤(まつとつゝみ) 同所 新利根川(しんとねかは)の堤(つゝみ)をいふ鴻台戦記(こうのたいせんき)に天文(てんふん)六年十月
北条氏綱(ほふてううちつな)小弓御所義明(おゆみこしよよしあきら)を攻(せむ)る頃(ころ)其月(そのつき)四日の夜(よる)氏綱(うちつな)夜半(やはん)に
まきれて浅草川(あさくさかは)を打越(うちこえ)おほつの宿(しゆく)を夜深(よふか)に通(とほ)り過(すき)松戸(まつと)の堤(つゝみ)
にて軍議(くんき)ありし事(こと)を載(のせ)たり 《割書:おほつの宿(しゆく)いつれの地(ち)にや今(いま)しるへからす按(あんする)に|葛西(かさい)に青戸村(あをとむら)あり土人(としん)青戸(あをと)をあふとと》
《割書:唱(とな)ふ又 津(つ)と戸(と)とは通音(つうおん)なれは或(あるひ)は青戸(あをと)を云(いふ)ならん今戸八幡宮(いまとはちまんくう)の社記(しやき)に今戸(いまと)旧(もと)は|今津(いまつ)といひしとあるも同(おな)し例(れい)なるへし》
相模台(さかみたい) 松戸(まつと)の駅(えき)より東(ひかし)の方(かた)の台(たい)をいふ其広(そのひろさ)南北(なんほく)五百歩(こひゃくほ)はかり
東西(とうさい)四百 歩(ほ)にあまれり鴻台戦記(こうのたいせんき)天文(てんふん)六年十月 国府台合戦(こふのたいかつせん)の
条下(てふか)に松戸(まつと)の川(かは)を打越(うちこえ)御所陣(こしよちん)の内(うち)よりも椎津(しゐつ)村上(むらかみ)堀江(ほりえ)鹿島(かしま)を
始(はしめ)として五十 騎(き)はかり相模台(さかみたい)に打揚(うちあけ)敵(てき)の人数(にんす)を見合(みあは)すとあり
小弓御曹子墓(おゆみおんそうしのはか) 鴻台戦記(こうのたいせんき)義明(よしあきら)滅亡(めつほう)の条下(てうか)に乳母(にうほ)レンセイといひ
ける女房(にようはう)御曹子(おんそうし)の亡屍(なきから)を見(み)むとて人目(ひとめ)を忍(しのひ)此(この)相模台(さかみたい)に来(きた)り
其(その)墓所(はかしよ)に詣(まひ)る由(よし)記(しる)せとも今(いま)其墓(そのはか)の旧跡(きうせき)さたかならす
行徳船場(きやうとくふなは) 行徳(きやうとく)四丁目の河岸(かし)なり土人(としん)新河岸(しんかし)と唱(とな)ふ旅舎(りよしや)あり
て賑(にき)はへり江戸(えと)小網(こあみ)町三丁目の河岸(かし)より此地(このち)迄(まて)船路(ふなち)三 里(り)八町
あり此所(このところ)はすへて房総(はうさう)常陸(しやうりく)等(とう)の国々(くに〳〵)への街道(かいたう)なり
弁財天(へんさいてん)祠 同所四五町下の方 湊村(みなとむら)にあり昔(むかし)は潮除堤(しほよけつゝみ)の松林(まつはやし)の
下(もと)にありしとなり 《割書:其(その)旧地(きうち)を弁天山(へんてんやま)と|号(かう)して石の小祠(こほこら)あり》 今は円妙院(ゑんみやうゐん)に移(うつ)す正徳年間(しやうとくねんかん)
江戸(えと)青山(あをやま)梅窓院(はいさうゐん)の順誉(しゆんよ)唯然和尚(ゆゐねんおしやう)此神(このかみ)の霊爾(れいし)により享保(きやうほ)
三年戊戌 宮居(みやゐ)を建立(こんりふ)ありしといふ祭(まつ)る所(ところ)は芸州(けいしう)厳島(いつくしま)の御神(おんかみ)
に同(おな)しく市杵島姫神(いつきしまひめのかみ)にして海神村(わたつみむら)の阿諏訪神(あすはのかみ)は男神(をとこかみ)当社(たうしや)は
【挿し絵】
行(きやう)
徳(とく)
船(ふな)
場(は)
江戸(えと)小網(こあみ)町三丁目
行徳河岸(きやうとくかし)といへる
より此地(このところ)まて船路(ふなち)
三里八丁あり房(はう)
総(さう)の駅道(むまやち)にして
旅亭(はたこや)あり故に
行人(かうしん)絡繹(らくえき)として
繁昌(はんしやう)の地なり
殊更正五九月は
成田不動尊(なりたふとうそん)へ
参詣(さんけい)の人 夥(おひたゝ)しく
賑(にきわ)ひ大方
ならす
【図中】
名物
さゝや
うん
とん
本行徳
四丁目
神明宮
八まん宮
八はた舟はし街道
新河岸
女神(めかみ)と称(しよう)す神田(しんてん)あり弁天免(へんてんめん)と唱(とな)ふ
船霊宮(ふなたまのみや) 《割書:画像(くわさう)一幅(いつふく)探信(たんしん)の筆(ふて)なりといふ古(いにしへ)此地(このち)大船(たいせん)|入津(にふしん)の湊(みなと)なりし故(ゆゑ)此神(このかみ)を崇(あか)むるといへり》
古鈴一口(これいいつく) 湊村(みなとむら)青暘山善照寺(せいやうさんせんせうし)といへる浄刹(しやうせつ)に収蔵(しゆさう)せり芝(しは)増上(そうしやう)
寺(し)に属(そく)す開山(かいさん)は覚誉(かくよ)上人と号(かう)す慈覚大師(しかくたいし)彫像(てうさう)の観音(くわんおん)湛慶(たんけい)
の作(さく)の焔王(えんわう)又 法然(ほふねん)上人 鑑御影(かゝみのみえい)と称(しやう)するものあり
斤量(おもさ)五十二 銭(せん)目(め)余(よ)
唐銅(からかね)の如(こと)くにて甚(はなはた)古色(こしき)なり
総長(さうなか)さ三寸二 分(ふ)剣(けん)の裏延板(うらのへいた)
鈴(すゝ)大さ三寸回(はま)り内(うち)に小石(こいし)一つ宛(つゝ)
あり鈴(すゝ)の口(くち)一寸八分 剣先(けんさき)より
元(もと)まて二寸三分
【挿し絵】
一寸三分
輪長九分
広七分余
三分
五分【挿し絵ここまで】
行徳八幡宮(きやうとくはちまんくう) 本 行徳(きやうとく)三丁目 道(みち)より右側(みきかは)にあり別当(へつたう)は同所(とうしよ)一丁
目 自性院(ししやうゐん)兼帯(けんたい)す此地(このち)の鎮守(ちんしゆ)にして毎歳(まいさい)八月十五日 祭祀(さいし)を
行(おこな)ふ
神明宮(しんめいくう) 同所一丁目 街道(かいたう)の左側(ひだりかは)にあり此地(このち)の鎮守(ちんしゆ)とす別当(へつたう)は
真言宗(しんこんしう)にして自称院(ししやうゐん)と号(かう)す毎歳(まいさい)九月十六日を以(もつ)て祭祀(さいし)の
辰(しん)とす其(その)祭(まつ)る所(ところ)は伊勢内宮(いせないくう)の土砂(としや)を遷(うつ)して内外両皇大神(ないけりやうくわうたいしん)
宮(くう)を勧請(くわんしやう)し奉(たてまつる)相伝(あひつた)ふ当社(たうしや)昔(むかし)は川向(かわむかふ)中洲(なかす)と云(いふ)地(ち)にあり
しを後(のち)此所(このところ)へ遷(うつ)すとなり又 此地(このち)を金海(きんかい)の森(もり)と号(なつ)く慶長(けいちやう)十九年
甲寅 金海法印(きんかいほふいん)といへる沙門(しやもん)此地(このち)に一宇(いちう)の寺院(しゐん)を開創(かいさう)して
金剛院(こんかうゐん)と号(かう)す依(よつ)て金海(きんかい)の森(もり)といふと 《割書:金剛院(こんかうゐん)今(いま)は|廃(はい)せり》
《割書: 按(あんする)に葛西志(かさいし)といへる書(しよ)に行徳(きやうとく)は金剛院(こんかうゐん)の開山(かいさん)某(それかし)| 行徳(きやうとく)の聞(きこ)え高(たか)かりし故(ゆゑ)に地名(ちめい)とする由(よし)記(しる)せり》
金剛院(こんかうゐん)廃止(はいし) 当寺(たうし)より南(みなみ)の方(かた)にあり御行屋敷(こきやうやしき)と字(あさな)せり是(これ)
則(すなはち)先(さき)にいへる処(ところ)の金剛院(こんかうゐん)の旧地(きうち)なり金剛院(こんかうゐん)は羽州羽黒山(うしうはくろさん)法(ほふ)
漸寺(せんし)に属(そく)すといへり其昔(そのむかし)行徳(きやうとく)有験(うけん)の山伏(やまふし)住(すみ)たりしにより
竟(つひ)に此(この)地名(ちめい)となるよし云(いひ)伝(つた)ふ
海巌山徳願寺(かいかんさんとくくわんし) 本 行徳(きやうとく)の駅中(えきちゆう)一丁目の横小路(よここうち)船橋間道(ふなあしかんたう)の
【挿し絵】
行徳(きやうとく)
徳願寺(とくくはんし)
【図中】
本堂
方丈
庫裡
ゑんま
大徳寺
神明
水神
かね
自姓院
妙応?寺
長勝寺
左側(ひたりかは)にあり浄土宗(しやうとしう)にして鴻巣(こうのす)の勝願寺(しようくわんし)に属(そく)す当寺(たうし)往古(いにしへ)は
普光庵(ふくわうあん)といへる草庵(さうあん)なりしか慶長(けいちやう)十五年庚戌 開山(かいさん)聰蓮社(さうれんしや)
円誉(ゑんよ)不残(ふさん)上人 寺院(しゑん)を開創(かいさう)して阿弥陀如来(あみたによらい)の像(さう)を本尊(ほんそん)とす
《割書:丈(たけ)三尺|二寸あり》仏工(ふつこう)運慶(うんけい)の作(さく)なり往古(そのかみ)鎌倉(かまくら)二 位(ゐ)禅尼(せんに)政子(まさこ)の命(めい)に
より是(これ)を造(つく)る遥(はるか)の後(のち)天正(てんしやう)十八年に至(いた)り一品(いつほん)大夫人(たいふしん)崇源院殿(すうけんゐんでん)
鎌倉(かまくら)より移(うつ)し給ひ御持念(こちねん)ありしか後(のち)大超(たいてう)上人に賜(たま)はり又
当寺(たうし)第(たい)二世 正蓮社(しやうれんしや)行誉(きやうよ)忠残(ちゆうさん)和尚(おしやう)当寺(たうし)に安置(あんち)なし奉(たてまつ)ると
なり《割書:十七世 晴世(せいよ)上人 殊(こと)に道光(たうくわう)普(あまね)く|四方(よも)に溢(あふ)れ信心(しん〳〵)の徒(ともから)多(おほ)かりしと也》境内(けいたい)閻王(えんわう)の像(さう)は運慶(うんけい)の彫像(てうさう)
なり座像(ささう)にして八尺あり《割書:毎年(まいねん)正月七月の十六日|には参詣(さんけい)群集(くんしゆ)す》当寺(たうし)十月は十夜法(しうやほふ)
会(ゑ)にて最(もつとも)賑(にき)はし山門(さんもん)額(かく)海厳山(かいかんさん)の三大 字(し)は縁山(えんさん)前大僧正(さきのたいそうしやう)
雲臥(うんくわ)上人の真蹟(しんせき)なり
塩浜(しほはま) 同所 海浜(かいひん)十八箇村(かむら)に渉(わた)れりと 云 風光(ふうくわう)幽趣(いうしゆ)あり土人(としん)去【ママ。云 の誤りか】
此(この)塩浜(しほはま)の権輿(けんよ)は最(もつとも)久(ひさしう)して其(その)始(はしめ)をしらすといへりし然(しかる)に天正(てんしやう)
十八年 関東(くわんとう)
御入国(こにふこく)の後(のち)南総(なんさう)東金(とうかね)へ御(こ)遊猟(いうれう)の頃(ころ)此(この)し塩浜(しほはま)を見(み)そなはせ
られ船橋(ふなはし)御殿(こてん)へ塩焼(しほやき)の賤(しつ)の男(を)を召(め)し制作(せいさく)の事を具(つふさ)に聞(きこ)し
召(めさ)れ御感悦(こかんゑつ)のあまり御金(おんかね)若干(そこはく)を賜(たまは)り猶(なほ)末永(すゑなか)く塩竃(しほかま)の煙(けふり)
絶(たえ)す営(いとなみ)て天(あめ)か下(した)の宝(たから)としすへき旨(むね) 鈞命(きんめい)ありしより以来(このかた)
寛永(くわんえい)の頃迄(ころまて)は
大樹(たいしゆ) 東金(とうかね)御遊猟(こいうれう)の砌(みきり)は御金抔(おんかねなと)賜(たまは)り其後(そのゝち)風浪(ふうらう)の災(わさはひ)ありし
頃(ころ)も修理(しゆり)を加(くは)へ給はるといへり《割書:事跡(しせき)合考(かつかう)に云(いはく)此地(このち)に塩(しほ)を焼事(やくこと)は凡(およそ)一千|有余年(いうよねん)にあまれりと又 同書(とうしよ)に天正(てんしやう)十八年》
《割書:御入国(こにふこく)の後日(のちひ)あらす此(この)行徳(きやうとく)の塩浜(しほはま)への船路(ふなち)を|開(ひら)かせらるゝ由(よし)みゆ今(いま)の小奈木川(をなきかは)是(これ)なり》
此地(このち)の塩鍋(しほなへ)は其製(そのせい)他(た)に越(こえ)堅強(けんかう)にして保事(たもつこと)久(ひさ)しとそひが東(とう)八 州(しう)
悉(こと〳〵)く是(これ)を用(もち)ひて食料(しよくれう)の用(よう)とす
甲宮(かふとのみや) 行徳(きやうとく)入口(いりくち)の縄手(なはて)にあり其(その)来由(らいゆ)今知(いましる)へからす土人(としん)或(あるひは)伝(つた)へて
伝(いふ)国府台(こふのたい)合戦(かつせん)の時’(とき)某(それかし)の兜(かふと)を祀(まつ)るとさもあらん歟(か)
行(きやう)
徳(とく)
汐(しほ)
浜(はま)
【図中】
安房
上総
船橋
行徳(きやうとく)
鹽竈(しほかま)之図(のつ)
行(ぎやう)
徳(とく)
鵆(ちとり)
当社(たうしや)は行徳(きやうとく)八幡宮(はちまんくう)の
別当(べつたう)兼帯(けんたい)奉祀(ほうし)す
円光(ゑんくわう)大師(たいし)鏡(かゝみの)御影(みえい) 行徳(きやうとく)の東(ひかし)の海浜(かいひん)高谷村(たかやむら)浄土宗(しやうとしう)了楽寺(れうらくし)
に安(あん)す円光(ゑんくわう)大師(たいし)鏡(かゝみ)を照(てら)して自己(しこ)の姿(すかた)をうつし画(ゑか)き給ふ
御影(みえい)なりといへり《割書:土俗錦(とそくにしき)の御|影(えい)とも称(しやう)せり》当寺(たうし)に大僧正(たいそうしやう)祐天(いうてん)和尚(おしやう)真筆(しんひつ)の
塔婆(たふは)あり《割書:寄特(きとく)ありとて|諸人(しよにん)渇仰(かつこう)》
長島(なかしまの)湊(みなと) 葛西(かさい)長島(なかしま)と一双(いつさう)の地(ち)なり《割書:昔(むかし)此地(このち)に長島(なかしま)殿(との)と称(しよう)せし領主(りやうしゆ)| ありて此地(このち)に住(ちゆう)せしとなり》
《割書:梵音寺(ほんおんし)といへる観音(くわんおん)|霊蹟(れいせき)の廃址(はいし)あり》相伝(あひつた)ふ太田(おふた)道灌(たうくわん)の頃(ころ)は国府台(こくふのたい)の湊(みなと)に船(ふね)を
泊(はく)す其後(そのゝち)野州(やしう)奥州(あうしう)常州(しやうしう)総州等(さうしうとう)の国々(くに〳〵)高瀬舟(たかせふね)の便利(へんり)よき
を用(もち)ゆる事となりしより行徳(きやうとく)へ運送(うんさう)する事とはなれりといふ
永禄(えいろく)二年 小田原(をたはら)北条家(ほふてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)に太田(おほた)新六郎(しんろくらう)所領(しよりやう)の中(うち)に葛西(かさい)長島(なかしま)高(たか)
城(き)と云々
新利根川(しんとねか)《割書:万葉集(まんえふしふ)刀禰(とね)に作(つく)り活字版(くわつしはん)|源平盛衰記(げんへいせいすゐき)利根(とね)に作(つく)れり》旧名(きうみやう)を太井河(ふとゐかは)といふ《割書:此合(このかう)更級(さらしな)日記(にき)および|東鑑等(あつまかゝみとう)の書(しよ)に見え》
たり又清輔(きよすけ)奥義抄(あうきしゃう)云 下総国(しもふさのくに)かつしかの郡(こふり)の中(うち)に大河(たいか)ありふと井といふ河(かは)の東(ひかし)をは葛東(かとう)の
郡(こほり)といひ河(かは)の西(にし)をは葛西(かさい)の郡(こほり)といふとあり證(しやう)とすへし私に云 此河(このかは)より西(にし)は葛西(かさい)と称(しよう)して
今(いま)武蔵国(むさしのくに)に属(そく)す又北条(ほうてう)五代 記(き)国府台(こふのたい)合戦(かつせん)の条下(てうか)にはからめき川といふよし見えたり
世 俗(そく)坂東(はんとう)太郎(たらう)と称(しよう)し或(あるひ)は文巻川(ふみまきかは)又かつしかの河(かは)とも唱(とな)へたり
行徳(きやうとく)を流(なか)るゝ故(ゆゑ)に行徳川(きやうとくかは)とも号(なつ)く水源(みなもと)は上野国(かみつけのくに)利根郡(とねこほり)文珠(もんしゆか)
嶽(たけ)の幽谷(いうこく)より発(はつ)し高科川(たかしなかは)吾妻川(あつまかは)烏川(からすかは)碓井川(うすゐかは)及(およ)ひ信州(しんしう)の
国郡(こくくん)より出(いつ)る所(ところ)の諸流(しよりう)合(かつ)し武州(ふしう)幡羅(はら)郡(こほり)に至(いた)り一河(いちか)となる
又 上州(しやうしう)渡良瀬川(わたるせかは)も利根(とね)に落会(おちあひ)栗橋(くりはし)より分流(ふんりう)してい一 流(りう)は北総(ほくさう)に
入 関宿(せきやと)木颪(きおろし)等(とう)の地(ち)に傍(そひ)て東流(とうりう)し銚子(てうし)に至(いた)り海(うみ)に帰(き)す是(これ)を
利根川(とねかは)と号(なつ)く《割書:坂東太郎(はんとうたらう)|と字(あさな)す》一 流(りう)は武蔵(むさし)下総(しもふさ)の間(あひた)を南(みなみ)へ流(なか)れ国府(こふの)
台(たい)の下を行徳(きやうとく)の方へ曲流(きよくりう)し海水(かいすゐ)に帰(き)せり《割書:是(これ)を新利根(しんとね)|川と称(しよう)す》
按(あんする)に侍中(しちやう)郡要(くんえう)に散位(さんゐ)を刀祢(とね)とよめり西宮(せいきう)抄(しやう)に大節(たいせつ)には太夫(たいふ)を刀祢(とね)と称(しよう)す
と云々 公事(くし)根源(こんけん)云 大節(たいせつ)に刀祢(とね)めせと仰(おふす)るは刀祢(とね)は六位(ろくゐ)を云とあれとも古(いにし)へに
刀祢(とね)といふは五位(こゐ)以上にもわたれる名目(みやうもく)なり又 朝野(てうや)群載(くんさい)に検非違使庁(けひゐしてう)下(か)刀(と)
祢(ね)職事(しよくし)と見えまた補任(ほにん)の事を挙(あけ)たり李部王記(りほうわうき)に百官(ひやくくわん)主典(しゆてん)以上を刀祢(とね)と
称(しよう)すとあり是(これ)はもろ〳〵の長上(ちやうしやう)の官(くわん)をいへるにて主典(しゆてん)以上はみな長上の官(くわん)なり
延喜(えんき)祝祠式(しゆくししき)倭国(やまとのくに)の六御縣(むつのかあかた)能(の)刀祢(とね)男女(おとこをんな)尓(に)至万氐(いたるまて)下界かくあるは百姓(ひやくしやう)なとを
いふならんすへて蜑(あま)のとね里(さと)とねまた庭訓往来(ていきんわうらい)に淀河尻(よとかはしり)の刀祢(とね)ともありて
里長(りちやう)防令(はうれい)なとをも刀祢(とね)といへる事は古今著聞集(ここんちよもんしふ)にも見えたり播州(はんしう)日岡(ひのをか)明(みやう)
神(しん)に毎歳(まいさい)正月 初午日(はつうまのひ)大頭(たいとう)といふ事を勤(つと)む郷刀祢(さとのとね)と称(しよう)して旧家(きうか)三十六人の
内(うち)より是(これ)をつとむ各(おの〳〵)六位(ろくゐ)にて明神(みやうしん)の供奉職(くふしよく)たり其(その)日射(ひしや)あり又五節(こせつ)の式(しき)
ありて悉(こと〳〵)く刀祢(とね)の役(やく)なり其余(そのよ)山城(やましろ)の賀茂(かも)およひ鞍馬(くらま)の靭(ゆき)天神(てんしん)の神職(しんしよく)
等(とう)をも刀祢(とね)とよへり後拾遺集(こしふゐしふ)雑神祇部(さうしんきのふ)藤原長能(ふちはらのなかよし)の哥(うた)の詞書(ことはかき)にも里(さと)の
とね宣旨(せんし)にて祭(まつり)つかうまつるへきをとあり刀祢(とね)はすへて物(もの)の冠(くわん)たるを称(しよう)
揚(しやう)する辞(ことは)なる事なり是等(これら)によりてあきらかなりと知(し)るへしされは此川(このかは)も
関東(くわんとう)第(たい)一の洪河(こうか)なる故(ゆゑ)に関東(くわんとう)の河(かは)の冠(くわん)たる意(ゐを)もて刀祢(とね)とは号(なつけ)たりしなる
へし世俗(せそく)筑後川(ちくこかは)を西国(さいこく)太郎(たらう)といひ此河(このかは)を坂東(はんとう)太郎(たらう)ととなへ皇朝(くわうてう)一双(いつさう)の大河(たいか)
を称(しよう)するも其意(そのい)同(おな)しかるへし或人(あるひと)云 利根川(とねかは)は上野国(かうつけのくに)利根郡(とねこほり)文珠嶽(もんしゆたけ)より発(はつ)す
故(ゆゑ)に文珠(もんしゆ)の智恵(ちゑ)利根(りこん)の意(い)をとると是(これ)大(おほい)なる附会(ふくわい)の説(せつ)なるへし皇朝(くわうてう)文字(もし)を借(かり)
用(もちひ)る事 往(わう)々 其例(そのれい)あれは刀祢(とね)を利根(とね)に作(つく)るともあやしむへからす
万葉集
刀(ト)禰(ね)河(カ)泊(ハ)乃(ノ)可(カ)波(ハ)世(セ)毛(モ)思(シ)良(ラ)受(ス)多多(タタ)和多里奈(ワタリナ)美(ミ)
爾安布能須安埤敝伎美可母(ニアフノスアヘルキミカモ)
神楽註秘抄
篠 本
此さゝは
万葉集
可豆思賀能(カツシカノ)麻万能(ママノ)手児奈家(テコナカ)安里之可婆(アリシカハ)麻末(ママ)
乃(ノ)於須比爾(オスヒニ)奈美毛(ナミモ)登杼呂爾(トヽロニ)
真間継橋(まゝのつきはし) 弘法寺(くほふし)の大門(たいもん)石段(いしはし)の下 南(みなみ)の方の小川(をかは)に架(か)す所(ところ)の
ふた川の橋(はし)の中(なか)なる小橋(こはし)をさしていへり 《割書:或人(あるひと)いふ古(いにし)へは両岸(りやうかん)より板(いた)をもて|中梁(なかはり)にて打(うち)かけたる故(ゆゑ)に継(つき)はしとは》
《割書: いふなりとさもあるへきにや|》
万葉集
安(ア)能(ノ)於(オ)登(ト)世(セ)受(ス)由(ユ)可(カ)牟(ム)古(コ)馬(マ)母(モ)我(カ)可都思加乃(カツシカノ)麻(マ)
末(マ)乃(ノ)都芸波志(ツキハシ)夜麻受(ヤマス)可欲波牟(カヨハム)
新勅選
勝鹿や昔のまゝの継橋をわすれすわたる春かすみかな 慈円
風雅集
五月雨に越行波はかつしかやかつみかくるゝ真間の継橋 雅経
同
かつしかのまゝの海風吹にけり夕波越るよとのつきはし 朝村
按(あんする)に朝村(ともむら)の和歌(わか)によとのつきはしとあるは水(みつ)の澱(よとみ)にかけたりといふ意(い)にて
山城(やましろ)の淀(よと)とは異(こと)なり
入重玄門修凡事の意を
こゝに人を渡しはてんとせし程に我身はもとのまゝの継橋 日蓮
真間(まゝの)手児名(てこなの)旧蹟(きふせき) 同所 継橋(つきはし)より東(ひかし)の方(かた)百歩(ひやくほ)はかりにあり手児(てこ)
名(な)か墓(はか)の跡(あと)なりといふ後世(こうせい)祠(ほこら)を営(いとな)みてこれを奉(ほう)し手児名明神(てこなみやうしん)
と号(かう)す婦人(ふしん)安産(あんさん)を祈(いの)り小児(しように)疱瘡(はうさう)を患(ふれ)ふる類(たく)ひ立願(りうくわん)して其(その)
奇特(きとく)を得(うる)といへり)祭日(さいしつ)は九月九日なり 《割書:伝(つた)へ云 文亀(ふんき)元年辛酉九月九日 此(この)|神(かみ)弘法寺(くほふし)の中興(ちゆうこう)第七世 日与(にちよ)上人に》
《割書: 霊告(れいこう)ありよつてこゝに崇(あか)め奉(たてまつ)るといへり春台文集(しゆんたいふんしふ)継橋記(つきはしのき)に手児名(てこな)の事を載(のせ)たりといへとも|其説(そのせつ)里諺(りけん)によるのみにして証(しやう)とするに足(た)らす》
清輔奥義抄(きよすけあうきしやう)云 是(これ)は昔(むかし)下総国(しもつふさのくに)勝鹿(かつしか)真間野(
まゝの)の井(ゐ)に水汲(みつくむ)下女(けちよ)
なりあさましき麻衣(あさきぬ)を着(き)てはたしにて水(みつ)を汲(くむ)其(その)容貌(ようほう)妙(たへ)にして
貴女(きちよ)には千倍(せんはい)せり望月(もちつき)の如(こと)く花(はな)の咲(ゑめる)か如(こと)くにて立(たて)るを見(み)て人々(ひと〳〵)
相競(あひきそ)ふ事 夏(なつ)の虫(むし)の火(ひ)に入(いる)か如(ことく)湊入(みなといり)の船(ふね)の如(こと)くなりこゝに女(をんな)思(おも)ひ
あつかひて一生(いつしやう)いくはくならぬよしを存(そん)して其身(そのみ)を湊(みなと)に投(とうす)中略
又かつしかのまゝのてこなともよめり真間(まゝ)の入江(いりえ)真間(まゝ)の
継橋(つきはし)真間(まゝ)の浦(うら)真間井(まゝのゐ)真間(まゝ)の野(の)なとよめるみな此所(このところ)なり
云々
万葉集 過勝鹿真間娘子墓時作歌 山部宿禰赤人
古昔(イニシヘニ)有(アリ)家武(ケム)人(ヒト)之(ノ)倭(シ)文(ツ)幡(ハタ)乃(ノ)帯(オヒ)解(トキ)替(カヘ)而(テ)廬(フセ)屋(ヤ)立(タテ)妻(ツマ)
問(トヒ)為(シ)家武(ケム)勝(カツ)牡(シ)鹿(カ)乃(ノ)真間(ママ)之(ノ)手児名(テコナ)之(ノ)奥(オク)槨(ツキ)乎(ヲ)此(コ)
間(コ)登(ト)波(ハ)聞(キケ)杼(ト)真(マ)木(キノ)葉(ハ)哉(ヤ)茂(シケク)有(アル)良武(ラム)松(マツ)之(カ)根(ネ)也(ヤ)遠(トホク)久(ヒサシ)
寸(キ)言(コトノ)耳(ミ)毛(モ)名(ナ)耳(ノミ)毛(モ)我(ワレ)者(ハ)不所忘(ワスラエナクニ)
返歌
吾(ワレ)毛(モ)見(ミ)都(ツ)人(ヒト)爾毛(ニモ)将(ツケ)告(ム)勝(カツ)牡(シ)鹿(カ)之(ノ)間間能(ママノ)手児名(テコナ)
之(カ)奥(オキ)津(ツ)城(キ)処(トコロ)
詠勝鹿真間娘子歌 高橋連虫麻呂
鶏(トリ)鳴(ナク)吾妻(アカツま)之(ノ)国(クニ)爾(ニ)古昔(イニシヘ)爾(ニ)有(アリ)家留(ケル)事(コト)登(ト)至(イマ)今(マテニ)不絶(タエス)
言(イヒ)来(クル)勝(カツ)牡(シ)鹿(カ)之(ノ)真間乃(ママノ)手児奈我(テコナカ)麻衣(アサキヌ)爾(ニ)青(アウォ)衿(フスマ)着(キテ)
直(ヒタ)佐麻乎(サヲヲ)裳(モニ)者(ハ)織(オリ)服而(キテ)髪(カミ)谷(タニ)母(モ)掻(カキ)者(ハ)不梳(ケトゥラス)履(クツ)乎(ヲ)谷(タニ)
不(ハカ)看(テ)雖行(ユケトモ)錦(ニシキ)綾(ア7ヤ)之(ノ)中(ナカ)丹(ニ)裹有(ツヽメル)斎児(イハヒコ)毛(モ)妹(イモ)爾(ニ)将(シカ)及哉(メヤ)
【虫麻呂の歌には続きがあるが、この資料では乱丁で隅田河が挿入されている> https://dl.ndl.go.jp/pid/2559059/1/31 】
【左ページは乱丁で、本来ここに綴じられるものではない。巻之19のコマ13とまったく同内容である。> https://honkoku.org/app/#/transcription/346016D3BD3173DEAE979A550AD63DF7/14/ 】
【左ページの挿し絵は乱丁。巻の19のコマ14と同じものである。> https://honkoku.org/app/#/transcription/346016D3BD3173DEAE979A550AD63DF7/15/ 】
【この資料では、左ページの前に、「真間の井」「挿し絵:梨園」が欠けている】
【真間井を以下より補う > https://dl.ndl.go.jp/pid/2559059/1/31 】
真間井(まゝのゐ) 同所 北(きた)の山際(やまきは)鈴木院(れいもくゐん)といふ草庵(さうあん)の傍(かたはら)にあり手児奈(てこな)か
汲(くみ)ける井(ゐ)なりと云伝(いひつた)ふ中古(なかむかし)此井(このゐ)より霊亀(れいき)しゆつけん)せし故(ゆゑ)に亀井(かめゐ)
【挿し絵:梨園を以下より補う > https://dl.ndl.go.jp/pid/2559059/1/32】
梨園(なしその)
真間(まゝ)より八幡(やはた)へ
行道(ゆくみち)の間(あひた)に
あり二月(きさらき)の
花盛(はなさかり)は雪(ゆき)を
欺(あさゆく)に似(に)たり
李太白(りたいはく)の詩(し)
に梨(り)花(くわ)白雪(はくせつ)
香(かうはし)と賦(ふ)したる
も諾(うへ)なり
かし
【左ページ、真間の井の続き】
ともいふとなり 《割書:此(この)鈴木院(れいほくいん)と云は北条家(ほうてうけ)の臣(しん)にして俗称(そくしやう)を鈴木修理(すすきしゆり)と云けるよし|此人(このひと)の造立故(さうりうゆゑ)に鈴木と号(かう)す又 此庵(このいほり)の傍(かたはら)に其(その)祖先(そせん)鈴木近江守(あふみのかみ)の》
《割書: 石塔(せきたふ)ありこれも同(おなしく)修理(しゆり)と云人 造立(さうりふ)せしなり| 按(あんする)に寛文(くわんふん)八年戊申 相州鎌倉(さうしうかまくら)鶴(つる)か岡(をか)修造(しゆさう)の時(とき)の工匠(たくみ)を鈴木修理長常(すゝきしゆりなかつね)といふ》
《割書: 然時(しかるとき)は番匠(はんしやう)の家(いへ)ならん歟(か)鶴(つる)か岡(をか)梁牌(りやうはい)にかく載(のせ)たれとも又 別(へつ)の人にや猶(なほ)考(かんかふ)へし| 万葉集》
勝(カツ)牡鹿(シカ)之(ノ)真間之井(ママノイ)見(ミレ)者(ハ)立(タチ)乎(ナラ)之(シ)水(ミトゥ)挹(クマシ)家牟(ケム)手児(テコ)
名(ナ)之(シ)所思(オモホユ)
かつしかやまゝの井つゝのかけはかりさらぬ思ひのあとを恋つゝ 《割書:光明密寺|入道摂政》
葛飾八幡宮(かつしかはちまんくう) 真間(まゝ)より一里(いちり)あまり東(ひかし)の方 八幡村(やはたむら)にあり 《割書:常陸并房総|の街道にして》
《割書:駅なり鳥居は|道はたにあり》 別当(へつたう)は天台宗(てんたいしう)にして八幡山法漸寺(やはたさんほふせんし)と号(かう)す本地堂(ほんちたう)
には阿弥陀如来(あみたによらい)を安置(あんち)し二王門(にわうもん)には表(おもて)の左右(さいゆ)に金剛密迹(こんかうみつしやく)乃
像(さう)裏(うら)には多聞(たもん)大黒(たいこく)の二天(にてん)を置(おき)たり神前(しんせん)右(みき)の脇(わき)に銀杏(いてう)の大樹(たいしゆ)
あり神木(しんほく)とす 《割書:此樹(このき)のうろの中(なか)に常(つね)に小蛇(しやうしや)棲(す)めり毎年(まいねん)八月十五日 祭礼(さいれい)の時(とき)音楽(おんかく)|を奏(そう)す其時(そのとき)数万(すまん)の小蛇(しやうしや)枝上(ししやう)に顕(あらは)れ出つ衆人(しゆうしん)見(み)てこれを奇(き)なりとす》
古鐘(こしやう)一口 《割書:寛政年間(くわんせいねんかん)枯木(かれき)の根(ね)を穿(うかつ)とて是(これ)を得(え)たり其丈(そのたけ)三尺七寸あまり竜頭(りうつ)の|側(かたはら)に応永(おうえい)二十一年午三月廿一日と彫付(ほりつけ)てあり》
《割書: 按(あんする)に応永(おうえい)は鐘(かね)の銘(めい)にしるす所(ところ)の元亨(けんかう)元年よりは凡(およそ)九十 有余(いうよ)年 後(のち)の年号(ねんかう)なり| もしくは応永(おうえい)の頃(ころ)乱世(らんせい)を恐(おそ)れて土中(とちゆう)へかくし埋(うつ)めける時(とき)其(その)年号(ねんかう)月日を刻(こく)》
【挿し絵】
八幡不知森(やはたしらすのもり)
八幡(やはた)
八幡宮(はちまんくう)
【図中】
八幡
不知
森
弁天
観音
天神
神木
別当
本社
松尾
本地堂
みこしくら
いなり
御宮
山王
するにや
奉冶鋳銅鐘
大日本国東州下総第一鎮守葛飾八幡是大菩薩
伝聞寛平宇多天皇勅願社壇建久以来右大将軍
崇敬殊勝天長地久前横巨海後連遠村京䖝【虫】性動
鳬鐘暁声人戦眠覚金啓夜響永除煩悩能証菩提
元享元年辛酉十二月十七日
願主右衛門尉丸子真吉
別当 法印智圓
筒粥神事(つゝかゆのしんし) 《割書:毎歳(まいさい)正月十五日の朝(あさ)此神事(このしんし)あり|其年(そのとし)の豊凶(ほうきやう)をしるとて参詣(さんけい)多(おほ)し》 放生会(はうしやうゑ) 《割書:八月十五日に修行(しゆきやう)す|此日(このひ)神輿(しんよ)渡(わたら)せらる》
《割書: 又同日 津宮(つく)といふ事あり夕七 時(とき)頃(ころ)当社(たうしや)の社人等(しやにんら)集(あつま)り華表(とりゐ)の前(まへ)に檣(なき)の如(こと)く長(なか)き| 柱(はしら)に白布(しろぬの)を巻(まき)たるを建(たて)上の方にて其(その)白布(しろぬの)を結(むす)ひ合(あは)せて足(あし)をかくる代(しろ)とす念願(ねんくわん)》
《割書: ある人 身軽(みかる)になり件(くたん)の楹(はしら)の上へ登(のほ)り四 方(はう)を拝(はい)し社(やしろ)の方を拝(はい)し終(おはり)て下る此(この)行事(きやうし)は| 相州(さうしう)日向(しうか)薬師(やくし)にもありてかしこにては推登(すゐとう)といへり其(その)趣(おもむき)相似(あひに)たり又 其(その)津宮(つく)柱(はしら)の》
《割書: 下に楽屋(らくや)をまうけ神輿(しんよ)帰社(きしや)におよふ時(とき)獅子(しゝ)猿(さる)大鳥(おほとり)の形(かたち)を数(よそ)ひて此(この)楽屋(らくや)より出(いて)て| 笛(ふへ)太鼓(たいこ)に合(あは)せて舞(ま)ふ事あり同十四日より十八日 迄(まて)の間(あひた)生姜(しやうか)の市(いち)あり故(ゆえ)に土俗(とそく)生姜(しやうか)》
《割書: 祭(まち)と唱(とな)ふマチは祭(まつり)の縮語(しゆくこ)なり|》
当社(たうしや)は宇多天皇(うたてんわう)の勅願(ちよくくわん)にして寛平(くわんへい)年間(ねんかん)石清水正八幡宮(いはしみつしやうはちまんくう)を勧(くはん)
請(しやう)せし宮居(みやゐ)なり遥(はるか)の後(のち)建久(けんきう)に至(いた)り鎌倉(かまくら)将軍(しやうくん)頼朝卿(よりともきやう)再(ふたゝ)ひ朽(きう)
傾(けい)の社壇(しやたん)を修営(しゆえい)ありしより封域(ほういき)広(ひろ)くして壮麗(さうれい)たりしか又(また)星(せい)
霜(さう)を歴(へ)て今(いま)は老樹(らうしゆ)鬱蒼(うつさう)として上久(しやうきう)たる神垣(かみかき)となれり
《割書: 按(あんする)に当社(たうしや)は国分寺(こくふんし)に同(おな)しく一国一宮(いつこくいちのみや)の八幡宮(はちまんくう)にして往古(そのかみ)府中(ふちゆう)に置(おか)れし| もの是(これ)なるへし》
八幡不知森(やはたしらすのもり) 同所 街道(かいたう)の右(みき)に傍(そひ)て一つの深森(しんりん)あり方(はう)二十 歩(ほ)に過(すき)
す往古(そのかみ)八幡宮(はちまんくう)鎮座(ちんさ)の地(ち)なりと云伝(いひつた)ふ即(すなはち)森(もり)の中(なか)に石(いし)の小祠(こほこら)あり里老(りらう)
云人 謬(あやまち)て此中(このうち)に入時(いるとき)は必(かならす)神(かみ)の祟(たゝり)ありとて是(これ)を禁(いまし)む故(ゆゑ)に垣(かき)を繞(めく)
らしてあり 《割書:或云むかし平親王(へいしんわう)将門(まさかと)平貞盛(たいらのさたもり)か矢(や)にあたり秀郷(ひてさと)か為(ため)に討(うた)れ後(のち)|六人の近臣(きんしん)と称(しよう)する輩(ともから)其(その)首級(しゆきう)を慕(した)ひ此地(このち)に至(いた)りし頃(ころ)此森(このもり)を踏者(ふむもの)あれは》
《割書: 必(かならす)たゝりありとて大(おほひ)に驚怖(きやうふ)するといへり又 或(ある)人いふ此森(このもり)回帯(めくり)はこと〳〵く八幡(やはた)の地(ち)に| して森(もり)の地(ち)はかりは行徳(ちやうとく)の持分(もちふん)なりと此故(このゆゑ)に八幡村(やはたむら)の中(うち)に入会(いりあふ)といへとも他(た)の村(むら)の》
《割書: 地なる故(ゆゑ)に八幡(やはた)の八幡(やはた)しらすとは字(あさな)せしとさもあらん歟(か)|》
《割書: 因(ちなみ)に按(あんする)に八幡(やはた)はむかし荘(しやう)の号(かう)なり中山什宝(なかやましうはう)の内(うち)応永(おうえい)二十七年 千葉介(ちはのすけ)兼胤(かねたね)の| 証文(しやうもん)に下総国(しもつふさのくに)八幡庄(やはたのしやう)本妙寺(ほんめうし)法華寺(ほつけし)弘法寺(くはうし)三ヶ所寺務職(しむしよく)云々同庄(とうしやう)曽谷(そたにの)》
《割書: 郷(かう)田畠在家(たはたさいけ)云々かくの如(こと)く記(しる)せり証(しやう)とすへししかあれは真間(まゝ)のあたり曽谷(そたに)| ともに八幡(やはた)の荘(しやう)に属(そく)せしとしられたり》
曽谷妙見尊(そたにめうけんそん) 曽谷村(そたにむら)長谷山安国寺(ちやうこくさんあんこくし)に安置(あんち)せり当国(たうこく)千葉寺(ちはてら)妙(めう)
見尊(けんそん)と同木(とうほく)にして其(その)末木(まつほく)を以(もつ)て彫刻(てうこく)すといふ当寺(たうし)境内(けいたい)に王(わう)
義之宮(きしのみや)あり華表(とりゐ)の額(かく)に晋王公廟(しんのわうこうのひやう)とあり烏石葛辰(うせきかつしん)の筆(ふて)にして
《題:江戸名所図會 十二》
【見返し】
【左丁】
戸塚(とつか) 今(いま)高田(たかた)と/属(そく)す古(いにしえ)ハ/此地(このち)の惣名(そうみやう)とす/北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)より
恒岡弾正忠牛込(つねをかたんしやうのちゆううしこめ)にて冨塚(とつか)の地を領(りやう)するとの注(ちゆう)せり《割書:江戸(えと)/鹿子(かのこ)に昔(むかし)|洪水(こうすい)の時(とき)/如地(かのち)を》
《割書: うらむハ戸(と)を以(もつて)さしゆるを如(こと)く水災(すいさい)にかくらさりし故(ゆゑ)に名(な)とするとの記(しる)せとも信(しん)するに
たりす/里老(りらう)の/説(せつ)に宝泉寺(ほうせんし)の地に冨塚(とつか)と云ありて所(ところ)の名も冨塚村(とつかむら)と号(なのつ)く今(いま)より
冨(と)を戸(と)に改(あらた)むると云云/或人(あるひと)/云(いふ)/旧(いわく)/岡本氏(をかもとち)/某(それかし)の/邸(やしき)の地(ち)に古(ふる)き塚ありて/白狐(ひやくこ)の窩(すみか)とす
戸塚(とつか)ハ/狐塚(こつか)を誤(あやま)りて唱(とな)ふるにやと又/此辺(このへん)/昔(むかし)/古塚(ふるつか)/多(おお)くありし/故(ゆゑ)に十塚(とつか)と/呼(よひ)しなる
へしともいてり/按(あんする)に狐塚(こつか)といふハ水(みす)/稲荷(いなり)の社(やしろ)の傍(かたわら)にある塚の事をいふらんより高田(たかた)/雲雀(ひはり)
といわる/草紙(さうし)に戸塚の祠(ほこら)ハ宝泉寺(ほうせんし)にあり此所に狐(きつね)の形(かたち)の石(いし)の扉(とひら)ある故(ゆゑ)に昔(むかし)より戸塚といふとあり》
百八塚(ひゃくはちつか) 今(いま)/其(その)/所在(しょさい)さるなくす/里老(りらう)/伝(つた)へ/云(いふ)/往古(いにしえ)/昌蓮(しやうれん)といへる/冨民(ふみん)
/佛(ほとけ)/供養(くやう)の/為(ため)/此(この)/高田(たかた)の/辺(へん)より大久保(おおくほ)/迄(まて)の/間(あひた)すへて百八員(いん)の塚(つか)を
築(きつ)くと今(いま)ハ悉(ことこと)く其(その)/所在(しょさい)をしらす
《割書: 按(あんする)に中野村(なかのむら)/熊野(くまの)十二所(しょ)/権限(けんけん)の別当(へっとう)に成願寺(しやうかんし)といえる禅林(せんりん)あり其(その)/寺記(しき)に鈴木
荘司重邦(すすきしやうしけくに)の後裔(こうえい)鈴木(すすき)九郎とへる者(もの)あり/紀州(きしう)/藤代(ふししろ)にありしか/応永(おうえい)の頃(ころ)/武州(ふしゅう)
に来(きた)り中野(なかの)の地(ち)に住(しゆう)す/其(その)/家(いえ)/大(おおい)に冨(とみ)をなせり されと宿因(しゆくいん)にや其(その)娘(むすめ)/夭死(やうし)す
九郎大に歎(なけ)き居宅(きよたく)を壊(かい)ちく/精舎(しやうしや)とし女(むすめ)の法号正観(ほふこうしやうかん)を以(もつ)て寺号(しこう)とし
又/名(な)を正蓮(しやうれん)と改(あらた)むるとあり /昌正同音(しやうしやうとうおん)なれハ此(この)百八員(ひやくはちいん)の塚(つか)といふハ若(もし)くハ此(この)人の
造立(さうりふ)する故あらん/与(よ)/或(あるひハ)/云(いわ)く/今(いま)/馬場(ばば)/下町(したまち)を/供養(くやう)/塚町(つかまち)と唱(とな)ふるも/其(その)/旧称(きうしよう)の残(のこ)らる
にやと云云/再(ふたた)ひ案(あんす)るに此地(このち)を昔(むかし)/冨塚(とみつか)と号(なつ)けしも冨民(ふみん)の制(せい)する故なれハ彼(かの)供養(くやう)
塚(つか)を冨(とみ)塚と唱(とな)へしを中古(ちゆうこ)より美(ひ)の一/字(し)を略(りやく)して登津加(とつか)とハ呼(よひ)あやまりたるならん》
高田天満宮(たかたてんまんくう) 同所ハ幡宮より馬場(ばば)の方(かた)へ行道(ゆくみち)の左側(ひたりかは)にあり別当(へつとう)と
【右丁】
真言宗(しんごんしゆう)として真定院(しんちやういん)と号(こう)す神躰(しんたい)ハ菅神手造(かんしんしゆさう)の霊像(れいさう)にて
一寸八分ありと云相博(あひつた)ふ寛永(かんえい)の頃(ころ) 大樹(たいじゆ)/此神像(このしんさう)を大橋立慶(おおはしりふけい)に
賜(たま)ふ《割書:此立慶(このりゆうけい)ハ入木(しゆほく)/堪能(たんのふ)の人(ひと)にて大橋流(おおはしりう)/筆法(ひつほふ)の始祖(しそ)なる也(なり)/菊岡仙涼(きくおかせんりゆう)けり按(あんする)に|息男大橋長(そくなんおほはしちやう)左勝ツ重政御家流(しけまさおいえりゅう)より出て一家(いつけ)をなす是世間(これせけん)に所得(ところゆえ)大橋》
《割書:流(りゆう)と称(しよう)する|とのなり》依(よつ)て立慶(りふけい)/当社(とうしや)を建(たて)て神前(しんせん)に懸(かか)る尓(しかり)の戸帳(こちやう)に其旨(そのし)
趣(しゆ)を記(しる)し置(おく)といへり 《割書:当社の旧地(きゆうち)ハ牛込(うしこみ)/済松寺(さいしようし)の辺(あた)り今天神町(いまてんしnまち)と唱(とな)うる地(ち)|是(これ)なり望海毎談(ほうかいはいたん)といへる冊子(さうし)に寛永(かんえい)七年の事実(ししつ)を》
《割書:記(しる)せし次(つき)に御祐筆(こゆうひつ)/大橋立慶(おおはしりふけい)に高田大友(たかたおおとも)の屋敷(やしき)を給ふ|とありて其地(そのち)に天神(てんしん)の宮(みや)あるなりを記(しる)せり証(しやう)とすへし》又/菅神(かんしん)の真筆(しんひつ)の佛経(ふつきゆう)
を収(おさ)むる由(よし)/云(い)へり 社前(しやせん)にある所(ところ)の龍神(りゆうしん)及(およ)ひ鬼子(きし)/母神(もしん)/等(とう)の石像(せきさう)ハ
昔(むかし)/此地(このち)に経蔵(きやうさう)ありし頃(ころ)/守護(しゆこ)の為(ため)に造立(さうりふ)せしといふ
《割書:按(あんする)に当社(とうしや)の博(ちん)ハ大橋立慶 大樹(たいしゆ)よりたまふ和(ときころ)の菅神(かんしん)の像(さう)を一社(いつしや)に奉(かう)す
とありく旧地(きゆうち)を天神(てんしん)町とす土人済松寺(としんさいしようし)の地(ち)/昔(むかし)ハ大橋氏の宅地(たくち)なりといふ南向(なんかう)
亭茶話(ていさす)に云/大友宗五郎義延(おおともそうころうよしのふ)/自(みつか)らの宅地(たくち)に大宰府(たさいふ)の天満宮(てんまんくう)を近(ちか)しまのうす
其地(そのち)を天神町(てんしんまち)と号(なつ)く後(のち)/高田(たかた)に移(うつ)す大橋長左衛門/奉納(ほうのう)の三十六/歌仙(かせん)の絵(え)
とも今(いま)/猶(なお)/存(そん)すとあり再(ふたた)ひ按(あんする)に元禄(けんろく)二年の開板(かいはん)の江戸鹿子(えとかのこ)に二百/余(よ)年に及(およ)ふ
とあるに依(よつ)て考(かんか)うるに/大友義延(おおともよしのふ)ハ/文(ふん)禄の/頃(ころ)の人なれハ/其頃(そのころ)/宅地(たくち)に/勧請(かんしゆう)せし
を/後大橋氏(のちおおはしうち)/其跡(そのあと)に居住(きよちゆう)しく 大樹(たいしゆ)よりたまふ所の神像(しんそう)をその社(やしろ)に安置(あんち)し
たるならん/歟(か)/寛永(くわんえい)ハ寛政(くわんせい)の今(いま)に至(いた)りて未(いまた)二百年に過(すき)す》
高田馬場(たかたはは) 同し北(きた)の方(かた)にあり追廻(おひまは)しと称(しよう)して二/筋(すち)あり竪(たて)ハ東西(とうさい)丁
【左丁】
【表紙】
【題簽】
《題:江戸名所図会 九》
【見返し】
【赤印】東京學藝大學圖書
291,36
Sa25
【左丁】
【上部 赤四角印】尾崎蔵書
【赤丸印】志いさづみ【中央文字不明】
【四角印】東京学芸大学 竹早分館蔵書 01390
【本文】
四谷(よつや) 四谷御門(よつやこもん)の外(そと)より西(にし)の方(かた)内藤新宿(ないとうしんしゆく)のあたり迠(まて)の惣名(さうみやう)也 里(り)
老(らう)云(いふ)此地(このち)の四方(しはう)に谷(たに)あり故(ゆゑ)に四谷(よつや)と号(なつ)くると《割書:南向亭(なんかうてい)云く昔(むかし)麹町(かうしまち)|六七丁目の地(ち)と塩(しほ)町の》
《割書:地(ち)に谷(たに)有(あり)しが寛永(くわんえい)十三年 外廓(そとくるわ)営造(ゑいさう)の時(とき)御堀(おんほり)の揚土(あけつち)を以(もつ)て東西(とうさい)の両谷(りやうこく)を埋(うつ)め|たる故(ゆゑ)に平地(へいち)となりしかと旧名(きうみやう)はうしなはずして塩(しほ)町の入口を今も坂(さか)町と字(あさな)する其(その)|故(ゆゑ)也 又(また)古(いにし)へ坂(さか)にて有(あ)りし頃(ころ)は民家(みんか)一軒(いつけん)ありて夫婦(ふうふ)くらしの人 居住(きよちやう)せし故(ゆゑ)に夫婦(ふうふ)|坂(さか)と呼(よひ)しと云々|或人(ある人)云 御入国(こにうこく)の頃(ころ)は今(いま)の糀町(こうしまち)両側(りやうかは)番(はん)町 永田(なかた)町に至(いた)り本多弥(ほんたや)八郎 高木(たかき)九助 両家(りやうけ)|の下屋敷(しもやしき)として下(くた)し置(おか)れしか共 御城(おんしろ)近(ちか)かりしにより市谷(いちかや)の臺(たい)此原(このはら)を永代(えいたい)の|御諚(こちやう)にて下(くた)し給ふ表(おもて)四百八十間に只四人 指置(さしおか)かれしにより四家(よつや)といへりと》
此地(このち)は永禄(えいろく)の頃(ころ)霞村(かすみむら)とよひけると云傳(いひつた)ふ或(あるひは)云(いふ)往古(いにしへ)此地(このち)は武蔵(むさし)
野(の)に続(つゝ)きし曠原(くわうけん)にて此所彼所(こゝかしこ)に土民(とみん)の家(いへ)四家ありし故(ゆゑ)
四家(よつや)と云へり共いふ《割書:事跡合考(しせきかつかう)に往古(いにしへ)今(いま)の尾州公(びしうこう)御屋敷(おんやしき)表門(おもてもん)の地(ち)及(およ)ひ|坂(さか)町其余(そのよ)二所 共(とも)に民家(みんか)四軒(しけん)ありしにより鳴子(なるこ)》
《割書:高井戸(たかゐと)の方(かた)より四ッ家と称(しよう)して往来(わうらい)にやすらひたりとあり》
牛頭天王(こつてんわう)社 同所 伝馬(てんま)町一丁目二丁目の間(あいた)の左側(ひたりかは)の横小路(よここうち)を入(いり)て
二丁斗り西(にし)にあり《割書:故(ゆゑ)に俗(そく)字(あさな)して此(この)小(こう)|路(ち)を天王横町といふ》祭神(さいしん)素盏嗚尊(そさのをのみこと)《割書:本地佛(ほんちふつ)は薬師(やくし)|弘法作(こうはふさく)紫(むらさき)の一(ひと)》
《割書:本(もと)に四谷(よつや)の人家(しんか)開(ひら)けて|よりの産土神(うふすな)とすと》神主(かんぬし)は芝崎氏(しはさきうち)《割書:神田明神(かんたみやうしん)|の神主(かんぬし)也》別当(へつたう)を宝蔵院(はうさうゐん)と
号(かう)す《割書:真言宗(しんこんしう)中野(なかの)|宝仙寺末(はうせんしのまつ)》祭礼(さいれい)は毎歳(まいさい)六月十八日同所 石切町(いしきりまち)《割書:伝馬(てんま)町一丁目|の横町を云》の
【右丁】
四(よつ)谷(や)牛(こ)頭(つ)天(てん)王(わう)社(やしろ)【上部横書き】
【以下四角囲い文】
疱瘡神 みこし蔵 妙行寺
本社 秋葉 妙義 山神 愛宕 石尊 歳徳 天神 稲荷 水神 庚申
拝殿
不勤【動の誤ヵ】
いなり 春日 八まん かくら所
【枠外】 九ノ冊 三ノ百三十四
【左丁】
【四角囲い文】
別当
【右丁】
旅所(たひしよ)へ神幸(しんかう)ありて廿一日 帰輿(きよ)す地主(ちしゆ)は稲荷(いなり)明神(みやうしん)にして
共(とも)に此地(このち)の産土神(うふすな)と崇(あか)む《割書:本地(ほんち)は十一 面(めん)観音(くわんのん)|行基大士(きやうきたいし)の作(さく)也》
鬼子母神(きしもしん) 同所 坂(さか)の下(した)南寺町(みなみてらまち)日蓮宗(にちれんしう)日宗寺(にちそうし)に安置(あんち)せり《割書:当寺(たうし)旧(むかし)|糀(かうし)町 清(し)》
《割書:水谷(みつたに)に在(あり)て乗蓮寺(しやうれんし)と号(かう)す此地(このち)へうつされて後(のち)藤堂大学頭高次(とうたうたいかくのかみたかつく)の室(しつ)高見院心(かうけんゐんしん)|月日宗大姉(かつにちそうたいし)の法号(はふかう)を採(とつ)て山(やま)を高見(かうけん)と号(かう)し寺(てら)を日宗と唱(とな)へ其家(そのいへ)より寺院(しゐん)》
《割書:再興(さいかう)あり|しとなり》本尊(ほんそん)鬼子母神(きしもしん)の像(さう)は日法(にちはふ)上人の彫像(てうさう)なり相傳(あひつた)ふ
文永(ふんえい)元年十月三日 日蓮(にちれん)上人《割書:四十|三才》母君(ふくん)を拝(はい)せんとし旧里(きうり)安房(あはの)
国(くに)小湊(こみなと)に帰(かへ)る母君(ふくん)悦(よろこひ)の余(あま)り頓死(とんし)す上人 大(おほひ)に歎(なけき)て生活(しやうくわつ)の祈(き)
念(ねん)をせんとして先(まつ)徒弟(とてい)日法(にちはふ)上人に命(めい)して此(この)本尊(ほんそん)を造(つく)らしむ依(よつて)
此(この)本尊(ほんそん)に祈願(きくわん)し奉(たてまつ)るに験(しるし)ありて其(その)暁(あかつき)蘇生(そせい)し給ふ後(のち)寿(ことふき)を保(たも)
つ事(こと)四年なり鎌倉住人(かまくらのちゆうにん)鎌田氏(かまたうち)某(それかし)此(この)霊像(れいさう)を伝来(てんらい)せしが本(ほん)
尊(そん)の霊尓(れいし)によりて享保(けうほ)十三年 当寺(たうし)に安(あん)し奉(たてまつ)るといへり
玅典山(めうてんさん)戒行寺(かいきやうし) 同所 南(みなみ)に隣(とな)る日蓮宗(にちれんしう)にして延山(えんさん)に属(そく)せり
寛永(くわんえい)の頃迠(ころまて)は糀町(かうしまち)一丁目の御堀端(おんほりはた)にありて常唱(しやうしやう)題目(たいもく)
【左丁】
修行(しゆきやう)の庵室(あんしつ)なりしか近隣(きんりん)宮重氏庵主(みやしけうちあんしゆ)と共(とも)に力(ちから)を合(あは)せて
遂(つひ)に一寺(いちし)とす當寺(たうし)の日貞師(にちていし)は山本勘助晴幸入道道鬼(やまもとかんすけはるゆきにうたうたうき)
斎(さい)か孫(まこ)にて延山(えんさん)日悦(にちゑつ)上人の徒弟(とてい)也《割書:寛保(くわんほ)中八十 余歲(よさい)|にして迁化(せんけ)せらる》當寺(たうし)は明(めい)
歷(りやく)に至(いた)り此地(このち)に迁(うつ)さる總門(さうもん)の額(かく)に妙典山(めうてんさん)と書(しよ)せしは朝鮮(てうせん)
國(こく)李彥(りけん)の書(しよ)也 此所(このところ)の坂(さか)を戒行寺坂(かいきやうしさか)又 其下(そのした)の谷(たに)を戒行(かいきやう)
寺谷(したに)と唱(とな)へたり
分身鬼子母神(ふんしんきしもしん)《割書:寺中(じちゆう)圓立院(ゑんりふゐん)に安置(あんち)す定朝(ちやうてう)の作(さく)也 始(はしめ)四谷北伊賀町(よつやき[た]いかまち)|永田安節(なかたあんせつ)といふ医師(いし)の家(いへ)に傳来(でんらい)す来由(らいゆ)は事(こと)長(なか)けれは》
《割書:爰(こゝ)に略(りやく)して記(しる)さす》
汐干観世音菩薩(しほひくわんせおんほさつ) 同所 南寺町(みなみてらまち)戒行寺(かいきやうし)の裏(うら)の坂口(さかくち)真言宗(しんこんしう)
錦敬山(きんけいさん)真成院(しんしやうゐん)にあり此(この)本尊(ほんそん)は越後國(ゑちこのくに)村上義清(むらかみよしきよ)か守佛(まもりふつ)に
して其(その)末流(はつりう)村上兵部入道道樂斎(むらかみひやうふにふたうたうらくさい)大坂御陣(おほさかこちん)の時(とき)上杉(うへすき)
景勝(かけかつ)に従(したか)ひ奥州(あうしう)米泽(よねさは)より彼地(かのち)に趣(おもむ)く後(のち)江戸(えと)に帰(かへ)り
當寺(たうし)に収(をさ)むるといへり《割書:或人(あるひと)云く此(この)本尊(ほんそん)を塩踏観世音(しほふみくわんせおん)とも号(なつ)く|村上天皇(むらかみてんわう)護身(こしん)の尊像(そんさう)なり依(よつ)て村上肥後守(むらかみひこのかみ)》
《割書:頼清(よりきよ)常(つね)に崇信(そうしん)し其後(そのゝち)堂宇(たうう)を造(つく)り安置(あんち)す大坂御陣(おほさかこちん)のみきり村上(むらかみ)》
【右丁】
日宗寺(につそうし)
戒行寺(かいきやうし)
汐干観音(しほひくわんおん)
【以下四角囲い文字】
汐干観音
聖天
観音坂
鬼子母神
日宗寺
本堂
【枠外 囲い文字】三ノ百三十六
【左丁】
【以下四角囲い文字】
妙見
戒行寺
本堂
鬼子母神
普賢
【右丁】
《割書:覚玄斉(かくけんさい)当寺(たうし)弟(たい)【第】三世 看心(かんしん)に|授与(しゆよ)し当寺(たうし)に安(あん)すといふ》
本尊(ほんそん)聖観音(しやうくわんのん)《割書:作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす一尺斗の石(いし)の上(うへ)に立(たゝ)せ給ふ|此(この)臺石(たいいし)潮(しほ)の盈虚(みちひ)には必(かならす)湿(ぬ)るゝとなり》
忍原(おしはら) 同所 四谷通(よつやとほ)りの小名(しやうみやう)なり傳(つた)へ云(いふ)寛永(くわんえい)十年癸酉 武州(ふしう)
忍(おし)の城(しろ)を松平豆州侯(まつたいらつしうかう)に賜(たま)ふ其頃(そのころ)は御番城(こはんしやう)なりしかは
勤番(きんはん)の面々(めん〳〵)御家人(こけにん)を江戸(えと)へ召帰(めしかへ)され此地(このち)において宅地(たくち)を
賜(たま)ふされと其頃(そのころ)は広原(くわうけん)なりし故(ゆゑ)に字(あさな)の忍原(おしはら)とは呼(よひ)し
と也 忍川(おしかは)と唱(とな)ふる地(ち)は四谷(よつや)の通(とほ)り伝馬(てんま)町の西(にし)にあり
篠寺(さゝてら) 同所 塩(しほ)町三丁目の左(ひたり)の側(かは)に有(あ)り四谷山(しこくさん)長善寺(ちやうせんし)と
いへる禅林(せんりん)にして篠寺(さゝてら)は其(その)異名(いみやう)也 天正(てんしやう)三年乙亥の草創(さう〳〵)
にして開山(かいさん)は文叟憐学和尚(ふんそうりんかくおしやう)本尊(ほんそん)は釈迦如来(しやかによらい)脇士(けうし)は普賢(ふけん)
文珠(もんしゆ)也 傳(つた)へ云(いふ)当寺(たうし)は長善庵(ちやうせんあん)と呼(よ)ひ形(かた)はかりの草菴(さうあん)にて
満地(まんち)小篠(をさゝ)のみ繁茂(はんも)せり寛永(くわんえい)の比(ころ)
大樹(たいしゆ)此辺(このへん)御鷹狩(おんたかかり)のとき 厳命(けんめい)ありて篠寺(さゝてら)とよはせ
【枠外】
三ノ百三十七
【左丁】
篠寺(さゝてら)といへるは四谷塩(よつやしほ)町の
通(とほ)り道(みち)より左(ひたり)の傍(かたはら)にあり
長善禅寺(ちやうせんせんし)と号(なつ)く昔(むかし)
御放鷹(こはうえう)の頃(ころ)当寺(たうし)いさゝか
の庵室(あんしつ)にて満庭(まんてい)小篠(をさゝ)
のみ所(ところ)せく繁茂(はんも)
せしかは篠寺(さゝてら)と
よはせ給ひしより
字(あさな)とはなりぬる
となり依(よつて)今(いま)も
堂前(たうせん)に方(はう)三尺
はかりの小篠(をさゝ)の
隅(くま)ありて
其證(そのしよう)を
永世(えいせい)に
標(ひやう)せり
【右丁】
給ひ此地(このち)を寺境(しけう)に給ふより後(のち)此名(このな)あり故(ゆゑ)に其證(そのしやう)として今(いま)も
堂前(たうせん)に方(はう)三尺斗の地(ち)に小篠(をさゝ)の隈(くま)あり総門(さうもん)の額(かく)に笹寺(さゝてら)と書(しよ)
せしは永平寺(えいへいし)承天和尚(しようてんおしやう)の筆(ふて)なり
四谷大木戸(よつやおほきと)《割書:又(また)大関戸(おほきと)|に作(つく)る》 甲州(かうしう)及(およ)ひ青梅(あをめ)への街道(かいたう)なり土俗(とそく)云(いふ)霞(かすみ)か関(せき)
或(あるひ)は旭(あさひ)の関(せき)共 云(いふ)とそ御入国(こにふこく)の頃迠(ころまて)は此地(このち)の左右(さいう)は谷(たに)にて
一筋道(ひとすちみち)なり此関(このせき)にて往還(わうくわん)の人を糾問(きうもん)せらる近頃迠(ちかころまて)江戸(えと)
より附出(つけいた)す駄賃馬(たちんうま)の荷物(にもつ)送状(おくりしやう)なきを通(とほ)さゝりしとなり
今(いま)も猶(なほ)駄賃馬(たちんうま)の荷鞍(にくら)なきをは江戸宿(えとやと)又は荷問屋(にとひや)等(とう)の手(て)
形(かた)を出(いた)して通(とほ)るは其(その)遺風(いふう)なり此故(このゆゑ)にやこゝの番屋(はんや)は町(まち)の
持(もち)なれ共 突棒(つくほう)指脵(さすまた)錑(もしり)等(とう)を飾置(かさりおけ)り是(これ)往古(そのかみ)関(せき)のありし時(とき)の
遺風(いふう)ならん又(また)同所 西(にし)の方(かた)の往還(わうくわん)の道(みち)を横(よこ)きりて石橋(いしはし)の
下(した)を右(みき)へ流(なか)るゝ小溝(こみそ)を桜川(さくらかは)とよへり
内藤新宿(ないとうしんしゆく) 甲州街道(かうしうかいたう)の官駅(くわんえき)なり《割書:此地(このち)は旧(いにしへ)内藤家(ないとうけ)の弟宅(ていたく)の地(ち)なり|しか後(のち)町屋(まちや)となる故(ゆゑ)に名(な)とす》
【右丁】
四(よつ)
谷(や)
大(おほ)
木(き)
戸(と)
五十にて
四谷を
みたり
花の
春
嵐雪
【左丁】
【高札】
開帳
【右丁】
四谷(よつや)
内藤新駅(ないとうしんしゆく)
節季候
の
来ては
風雅
を
師走
かな
はせを
【看板】
味噌 おろし
【枠外】 三ノ百四十
【左丁】
【桶覆い】
和国屋
【天水桶】
水
【右丁】
鎌倉仏師(かまくらふつし)の作(さく)なりといへり《割書:斎藤伊勢守(さいとういせのかみ)二 親(しん)菩提(ほたい)の為(ため)と記(しる)してありとそ|此(この)斎藤(さいとう)といへるは代(よ)々 鎌倉(かまくら)に仕(つか)へて斎藤禅門(さいとうせんもん)》
《割書:浄円(しやうゑん)か裔(えい)|なりといへり》門(もん)の内(うち)に沙門(しやもん)正元坊(しやうけんはう)か造立(さうりふ)する所(ところ)の銅像(とうさう)の地蔵尊(ちさうそん)あり
《割書:江戸六地蔵(えとろくちそう)の第(たい)二 番目(はんめ)なり》
護本山(こほんさん)天龍寺(てんりうし) 同所 追分(おひわけ)より南(みなみ)の方(かた)甲州街道(かうしうかいたう)の左(ひたり)にあり
済家(さいか)の禅崫(せんくつ)にして本尊(ほんそん)千手観音(せんしゆくわんのん)開山(かいさん)は舂屋和尚(きうおくおしやう)なり当寺(たうし)
其先(そのせん)は遠州(ゑんしう)の天竜川(てんりうかは)の辺(へん)にありしを後(のち)江戸(えと)に迁(うつ)し牛込(うしこみ)に
ありしか天和(てんわ)三年癸亥二月十六日 火災(くわさい)にかゝり竟(つひ)に此地(このち)に引(ひか)れ
たり《割書:延宝(えんはう)の江戸図(えとつ)に依(よつ)て考(かんか)ふるに今(いま)の牛込(うしこみ)御徒歩町(おかちまち)の|西(にし)馬場(はゝ)のある地(ち)其(その)旧跡(きうせき)にして今(いま)も元天龍寺前(もとてんりうしまへ)といへり》境内(けいたい)に地蔵(ちさう)
堂(たう)と観音堂(くわんおうたう)有(あ)り又(また)構(かまへ)の内(うち)に一里塚(いちりつか)有(あ)り
鮫河橋(さめかはし) 紀州公(きしうこう)御中館(おんなかやかた)の後(うしろ)西南(にしみなみ)の方(かた)坂(さか)の下(した)を流(なか)るゝ小溝(こみそ)に
架(わた)すを云(いふ)今(いま)此辺(このへん)の惣名(さうみやう)となれり里諺(りけん)に昔(むかし)此地(このち)海(うみ)につゝき
たりしかは鮫(さめ)のあかりしゆゑに名(な)とすといへ共 証(しやう)とするにたらす
《割書:或人(あるひと)云(いは)く天和(てんわ)二年 公家(くけ)の御記録(おんきろく)に上一木村(かみひとつきむら)鮫(さめ)か橋(はし)とありと云々 然時(しかるとき)は此(この)|辺(へん)も一木(ひとつき)の内(うち)なりとおほし又(また)佐目河(さめかは)に作(つく)る《振り仮名:千駄ケ谷|せんたかや》寂光寺(しやくくわうし)鐘(かね)の銘(めい)に鮫(さめ)か|村ともあり》
【枠外】 三ノ百四十一
【左丁】
鮫(さめ)か橋(はし)
鳥の跡
淋しさや
友なし
千鳥
声せすは
何に
心を
なくさめ
か
はし
茂睦翁
【看板】
■上■■
【暖簾】
御誂向
■■■
大のや
【右丁】
《割書:鳥の跡| さひしさや友なしちとり声せすは何に心をなくさめかはし 茂睡》
永固山(えいこさん)一行院(いちきやうゐん) 鮫河橋(さめかはし)の西(にし)の方(かた)千日谷(せんにちたに)に在(あ)り浄土宗(しやうとしう)にして
開山(かいさん)は源蓮社本譽利覚和尚(けんれんしやほんよりかくおしやう)といふ慶長年間(けいちやうねんかん)草創(さう〳〵)す昔(むかし)は
僅(わつか)の草庵(さうあん)なりしを永井家(なかゐけ)開基(かいき)して一宇(いちう)の浄刹(しやうせつ)とす開(かい)
山(さん)利覚和尚(りかくおしやう)は則(すなはち)永井信濃守尚政(なかゐしなのゝかみなほまさ)に仕(つか)へけるか剃染(ていせん)して
此地(このち)に庵(あん)をむすひ千日(せんにち)の間(あひた)常行(しやうきやう)念仏(ねんふつ)をす結願(けちくわん)の時(とき)千日(せんにち)
不退転(ふたいてん)の回向(ゑかう)を勤(つと)む依(よつ)て道俗(たうそく)群集(くんしふ)せしより千日寺(せんにちてら)と
唱(とな)へ又(また)此所(このところ)を千日谷(せんにちたに)と呼(よ)ふとなり《割書:紫(むらさき)の一本(ひともと)といへる冊子(さうし)にさめか|橋(はし)を渡(わた)り信濃原(しなのはら)へ行(ゆく)谷(たに)を千(せん)》
《割書:日谷(にちたに)といふとあり永井家(なかゐけ)の屋敷(やしき)ある故(ゆゑ)なるへし今(いま)は信濃町(しなのまち)といひ又(また)永井原(なかゐはら)とも云と云々》
阿弥陀仏銅像(あみたふつとうさう) 権太原(こんたはら)浄家(しやうけ)長禅寺(ちやうせんし)境内(けいたい)に在(あ)り高(たか)さ五尺
はかり仏像(ふつさう)の脊(せ)に応永(おうえい)十四年丁亥八月廿五日と彫付(ほりつけ)てあり
旧(むかし)東本願寺(ひかしほんくわんし)の仏(ほとけ)にて大坂(おほさか)の御城内(こしやうない)にありしを寛永(くわんえい)の頃(ころ)
江戸(えと)に移(うつ)し当寺(たうし)に安置(あんち)せり
【枠外】 三ノ百四十二
【左丁】
権太原(こんたはら)
長禅寺(ちやうせんし)
【四角囲い文字】
本堂
【右丁】
千駄谷(せんたかや)
大神宮(たいしんくう)
寂光寺(しやくくわうし)
【四角囲い文字】
神主
【枠外】 三ノ百四十三
【左丁】
【四角囲い文字】
拝殿
神馬
神楽殿
本社
遊女松
かね
本堂
ゑんま
【右丁】
《割書:按(あんする)に応永(おうえい)十四年は足利将軍(あしかゝしやうくん)義持(よしもち)の時世(しせい)佛躯(ふつく)こゝかしこに穴(あな)あり疑(うたか)ふ|らくは昔(むかし)兵乱(ひやうらん)の時(とき)に損(そん)せしめものならん歟(か)》
吾妻堤(あつまひ[つヵ]ゝみ) 同所(とうしよ)にあり往古(いにしへ)の街道(かいたう)の余波(なこり)なりとて堤(つゝみ)の形(かたち)今(いま)も
僅(わつか)に残(のこ)れり
太神宮(たいしんくう) 同所御 焔硝倉(ゑんせうくら)の西(にし)の方(かた)に有(あ)り相伝(あひつた)ふ萬治年間(まんちねんかん)
関東(くわんとう)大(おほい)に疫疾(ゑきしつ)流行(りうかう)す富士(ふし)の根方(ねかた)より神送(かみおく)りして此地(このち)に
祭(まつ)りぬ然(しかる)に其(その)神輿(みこし)の中(うち)に太神宮(たいしんくう)の御祓(おんはらひ)有(あ)り依(よつ)て此地(このち)
鎮護(ちんこ)の為(ため)同所 八幡宮(はちまんくう)の地(ち)に祠(やしろ)を建(たて)て是(これ)を勧請(くわんしやう)す《割書:後(のち)此(この)|地(ち)に》
《割書:うつすといへり神主(かんぬし)は小川氏(をかはうち)なり》
遊女(いうちよ)の松(まつ) 同所 西(にし)に隣(とな)る天台宗(てんたいしう)寂光寺(しやくくわうし)の境地(けいち)に有(あ)り
《割書:当寺(たうし)昔(むかし)は麹町(かうしまち)の貝塚(かいつか)の地(ち)にありしか御城廓(おんしやうくわく)御造営(こさうえい)の時(とき)此地(このち)に|うつさるゝとなり始(はしめ)は日蓮宗(にちれんしう)なりしか元禄(けんろく)の頃(ころ)天台宗(てんたいしう)に改(あらた)む今(いま)の|開基(かいき)は自證大僧都円雄師(ししやうたいそうつゑんいうし)なり》
相伝(あひつた)ふ此地(このち)は往古(いにしへ)の奥州街道(あうしうかいたう)にして広豁(くわうくわつ)の原野(けんや)なりしに
此(この)松樹(しようしゆ)の鬱蒼(うつさう)として栄茂(えいも)し遠(とほ)く見(み)え渡(わた)りし故(ゆゑ)に霞(かすみ)の
松(まつ)と号(なつけ)しか寛永(くわんえい)の頃(ころ) 大樹(たいしゆ)此地(このち)に御放鷹(こはうよう)の時(とき)御 鷹(たか)翦(それ)て
【枠外】 三ノ百四十四
【左丁】
御気色(おんけしき)あしかりしか此松(このまつ)にありて御拳(おんこふし)に止(とゝま)る故(ゆゑ)に御褒賞(こほうしやう)
として其(その)御鷹(おんたか)の名(な)を此松(このまつ)に命(めい)せられ遊女(いうちよ)と唱(とな)へしめ
給ふとなり
新日暮里(しんひくらしのさと) 同所二丁はかり西南(にしみなみ)の小川(をかは)を隔(へた)てゝ法雲山(はふうんさん)仙寿(せんしゆ)
院(ゐん)といふ日蓮宗(にちれんしう)の寺(てら)の庭(には)をしかよへり此辺(このへん)の地勢(ちせい)をよひ寺(し)
院(ゐん)の林泉(りんせん)の趣(おもむき)谷中(やなか)日暮里(ひくらしのさと)に似(に)て頗(すこふ)る美観(ひくわん)たり故(ゆゑ)に日暮(ひくらしの)
里(さと)に相対(あひたい)して仮初(かりそめ)に新日暮(しんひくらし)と字(あさな)せり弥生(やよひ)の頃(ころ)爛漫(らんまん)たる
花(はな)の盛(さか)りには大(おほい)に群衆(くんしゆ)せり当寺(たうし)は紀州公(きしうこう)御母堂(こほたう)養珠(やうしゆ)
院日心大姉(ゐんにつしんたいし)正保(しやうほ)紀元(きけん)甲申 草創(さう〳〵)あり当寺(たうし)の鬼子母神(きしもしん)は
同 大姉(たいし)甲の延嶺(えんれい)にして霊尓(れいし)を感(かん)し大野(おほの)の辺(へん)の土中(とちゆう)に
得(え)られて後(のち)当寺(たうし)開創(かいさう)落成(らくせい)の日(ひ)安置(あんち)ありしとなり同所
一町はかり東南(とうなん)竜岩寺(りうかんし)といへる済家(さいけ)の禅宗(せんしう)の寺(てら)の庭中(ていちゆう)に
笠松(かさまつ)と称(しよう)するあり枝(えた)のわたり三間(さんけん)あまりあり
【右丁】
仙寿院(せんしゆゐん)
庭中(ていちゆう)
【四角囲い文字】
惣門
中門
鐘
人丸
【枠外】 三ノ百四十五
【左丁】
【四角囲い文字】
本堂
新日暮里
鬼子母神
大こく
花山明神
いなり
芭蕉塚
弁天
【右丁】
竜岩寺(りうかんし)
庭中(ていちゆう)
【四角囲い文字】
笠松
【枠外】 三ノ百四十六
【左丁】
【文字なし】
【右丁】
《振り仮名:千駄ヶ谷観音堂|せんたかやくわんおんたう》 寂光寺(しやくくわうし)より二町はかり西北(にしきた)の方(かた)にあり観(くわん)
谷山(こくさん)聖輪寺(しやうりんし)と号(なつ)くる真言宗(しんこんしう)の寺(てら)に安置(あんち)す
本尊(ほんそん)如意輪観音(によいりんくわんおん)は当寺(たうし)開山(かいさん)行基大士(きやうきたいし)の彫像(てうさう)にして御丈(おんたけ)
三尺五寸あり世俗(せそく)目玉(めたま)の観音(くわんおん)と字(あさな)し奉(たてまつ)る《割書:往古(そのかみ)慶長(けいちやう)三年の|春(はる)盗賊(とうそく)来(きた)り此(この)本(ほん)》
《割書:尊(そん)の御 双眼(さうかん)は精金(いんす)なりと聞傳(きゝつた)へ鑿(ゑり)とりて去(さら)んとせしか冥罰(みやうはつ)にやよりけん|自(みつか)ら持(もて)る所(ところ)の刃(やいは)に貫(つらぬか)れて死(し)せり此地(このち)の高橋氏(たかはしうち)某(それかし)目(ま)のあたり是(これ)をみて|驚歎(きやうたん)し堂宇(たうう)を再興(さいかう)す此故(このゆゑ)に里民(りみん)目玉(めたま)の観音(くわんおん)と字(あざな)したてまつるよし|本尊縁起(ほんそんえんき)にみゆ菊岡沾凉翁(きくをかせんりやうをう)の説(せつ)に江戸寺院(えとしゐん)の中 千有余歳(せんいうよさい)を歴(へ)たる|ものは浅草寺(あさくさてら)と|当寺(たうし)也といへり》
縁起曰(えんきにいはく)神亀(しんき)二年乙丑 行基大士(きやうきたいし)東国(とうこく)遊化(いうけ)の頃(ころ)同年(とうねん)初夏(しよか)
に暫(しはら)く此地(このち)に息(いこ)ひ給ふ時(とき)に如意輪観世音(によいりんくわんせおん)傍(かたはら)の谷(たに)より
出現(しゆつけん)し給ひ大士(たいし)に霊尓(れいし)あり依(より)て佛意(ふつい)に応(おう)しかしこにあり
し古株(こちゆう)を佛材(ふつさい)として此(この)本尊(ほんそん)を彫刻(てうこく)し奉(たてまつ)る故(ゆゑ)に観谷聖輪(くわんこくしやうりん)
の号(な)ありといへり
《振り仮名:千駄ヶ谷八幡宮|せんたかやはちまんくう》 同所一丁許 西(にし)にあり此辺(このへん)の惣鎮守(さうちんしゆ)にして
【枠外】 三ノ百四十七
【左丁】
例祭(れいさい)は九月廿七日なり別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)高雲山(かううんさん)瑞円寺(すゐゑんし)
と号(なつ)く
鈴懸松(すゝかけまつ)《割書:門前(もんせん)に松(まつ)の老樹(らうしゆ)有(あ)り寛永(くわんえい)の頃(ころ) 大樹(たいしゆ)此地(このち)に御放鷹(こはうよう)の時(とき)|御 鷹(たか)の鈴(すゝ)此松(このまつ)の枝(えた)にかゝりしとなり故(ゆゑ)に名(な)とすと》
社記云(しやきにいはく)往昔(むかし)此地(このち)深林(しんりん)の中(うち)に時(とき)として瑞雲(すゐうん)現(けん)しける又(また)
或時(あるとき)碧空(へきくう)より白気(はくき)降(くた)りて雲上(うんしやう)に散(さん)す村民(そんみん)怪(あやし)むて彼(かの)
林(はやし)の下(した)に至(いた)るに忽然(こつせん)として白鳩(しらはと)数多(あまた)西(にし)をさして飛(とひ)されり
依(よつ)て其(その)霊瑞(れいすゐ)を称(しよう)し小祠(しやうし)を営(いとな)み名(な)つけて鳩森(はとのもり)といふ貞観(ちやうくわん)
二年 慈覚大師(しかくたいし)東国(とうこく)遊化(ゆふけ)の頃(ころ)村民等(そんみんら)大師(たいし)に鳩森(はとのもり)の神(しん)
躰(たい)を乞求(こひもと)む依(より)て宇佐八幡宮(うさはちまんくう)城州(しやうしう)鳩(はと)の嶺(みね)に移(うつ)り給ふ
古(いにしへ)を思(おも)ひて神功皇后(しんこうくわうこう)応神天皇(おうしんてんわう)春日明神(かすかみやうしん)等(とう)の尊躰(そんたい)を
作(つく)り添(そへ)て正八幡宮(しやうはちまんくう)と崇(あか)め給ふ遙(はるか)に後(のち)久寿年間(きうしゆねんかん)渋谷(しふや)
正俊(まさとし)領地(りやうち)に鎮座(ちんさ)の御神(おんかみ)なるを以(もつ)て金王丸(こんわうまる)生前(しやうせん)随身(すゐしん)の
本尊(ほんそん)恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)の弥陀如来(みたによらい)の像(さう)を本地佛(ほんちふつ)とし社(やしろ)を
【右丁】
千駄谷(せんたかや)
観音堂(くわんおんたう)
【四角囲い文字】
別当
弘法大師
【枠外】 三ノ百四十八
【左丁】
【四角囲い文字】
不動
かね
本堂
すは
【右丁】
千駄(せんた)か谷(や)
八幡宮(はちまんくう)
【四角囲い文字】
いなり
富士
かくら殿
浅間社
表門
【枠外】 三ノ百四十九
【左丁】
【四角囲い文字】
鈴かけ松
いなり
神輿蔵
白山
本社
【右丁】
造営(さうえい)して此地(このち)の生土神(うふすな)と称(しよう)し奉(たてまつ)りしより霊応(れいをう)は照々(せう〳〵)として
日(ひゝ)新(あらた)なり《割書:南向亭云(なんかうていのいは)く当社(たうしや)の前路(せんろ)は鎌倉街道(かまくらかいたう)の旧跡(きうせき)にして今(いま)も|鎌倉路(かまくらみち)と字(あさな)せり青山(あをやま)の原宿(はらしゆく)より此地(このち)をへて大窪(おほくほ)へかゝり》
《割書:し也とそ北条家分限帳(ほうてうけふんけんちやう)島津孫四郎(しまつまこしらう)|所領(しよれう)の中(うち)に《振り仮名:千駄ヶ谷|せんたかや》の名(な)有(あ)り》
《振り仮名:代々木野八幡宮| きのはちまんくう》 同 西(にし)の方(かた)代々木野(よゝきの)にあり《割書:此野(このの)も武蔵(むさし)|野(の)の中(うち)なり》祭礼(さいれい)は
九月廿三日に修行(しゆきやう)す別当(へつたう)は天台宗(てんたいしう)にして宝珠山(ほうしゆさん)福泉寺(ふくせんし)智(ち)
玅院(みやういん)と号(かう)す《割書:古(いにしへ)は智明(ちみやう)|に作(つく)る》
相傳(あひつた)ふ当社(たうしや)は往古(いにしへ)源頼家公(みなもとのよりいへこう)の籏下(はたした)なりける近藤三郎(こんとうさふらう)
是茂(これもち)の家人(けにん)荒井外記智明(あらゐけきともあきら)といへる者(もの)故(ゆゑ)ありて相州(さうしう)を退(しりそ)き
此(この)代々木野(よゝきの)に蟄居(ちつきよ)し宗友(むねとも)と名(な)を改(あらた)め年月(としつき)を送(おく)れり八幡(はちまん)
宮(くう)は本国(ほんこく)の産土神(うふすな)たるにより常(つね)に尊信(そんしん)怠(おこた)る事なし
然(しかる)に建暦(けんりやく)二年八月十五日の夜(よ)夢中(むちゆう)に《振り仮名:鶴ヶ岡八幡宮|つるかをかはちまんくう》の
霊尓(れいし)ありて宝珠(ほうしゆ)の如(こと)き鏡(かゝみ)を感得(かんとく)す依(よつ)て同九月廿三日
此地(このち)を求(もとめ)めて荊棘(けいきよく)を払(はら)ひ小祠(しやうし)を営(いとな)むて初(はしめ)て《振り仮名:鶴ヶ岡|つるかおか》
【枠外】 三ノ百五十
【左丁】
八幡宮(はちまんくう)を勧請(くわんしやう)し奉(たてまつ)るとなり
鞍懸松(くらかけまつ) 同所の岡(をか)に在(あ)り傳(つた)へ云(いふ)源義家朝臣(みなもとのよしいへあそん)奥州征伐(あうしうせいはつ)の
頃(ころ)此地(このち)に陣(ちん)を取(とり)此(この)松樹(しようしゆ)の枝(えた)に鞍(くら)をかけられしより此(この)
名(な)ありといふ《割書:江戸鹿子(えとかのこ)といへる冊子(さうし)|には是(これ)を頼朝卿(よりともきやう)とす》
代太橋(たいたはし) 甲州街道(かうしうかいたう)萩窪(はきくほ)の立場(たては)より三丁あまり先(さき)の方(かた)松(まつ)
原(はら)赤堤(あかつゝみ)泉(いつみ)廻(めく)り代太等(たいたとう)の五箇村(こかむら)入合(いりあひ)の辻(つち)にありて曲折(きよくせつ)する
所(ところ)の道路(たうろ)を横切(よこきり)て流(なか)る小川(をかは)に架(か)す《割書:此所迠(このところまて)は道(みち)より左(ひたり)に添(そひ)て|流(なか)る橋(はし)より右(みき)に添(そひ)て流(あが)れ》
《割書:橋下(きやうか)にて水流(すゐりう)|左右(さいう)に替(かは)れり》橋上(きやうしやう)に土(つち)を覆(おほ)ふ故(ゆゑ)に其形(そのかたち)顕(あらは)れす《割書:此(この)橋下(きやうか)を流(なか)るゝは|多磨川(たまかは)の上水(しやうすゐ)也》
高井戸(たかゐと) 此所(このところ)も甲州街道(かうしうかいたう)にして駅舎(えきしや)あり《割書:《振り仮名:四ッ谷|よつや》内藤新宿(ないとうしんしゆく)より|此所(このところ)迠一里廿五丁 上石原(かみいしはら)》
《割書:へは二里一丁あり八王(はちわう)|子(し)へも此所を行(ゆけ)り》此所(このところ)は下高井戸(しもたかゐと)にして上高井戸(かみたかいと)は此所(このところ)より
西(にし)にあり小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)に大橋氏(おほはしうち)某(それかし)の所領(しよれう)に
無連高井堂(むれたかゐたう)とあり《割書:無連(むれ)は無礼(むれ)高井堂(たかゐたう)は此地(このち)の事(こと)いふ道興准后(たうこうしゆかう)の|回国雑記(くわいこくさつき)に堀兼(ほりかね)の井(ゐ)見にまかりて詠(よめ)る今(いま)は》
《割書:高井戸(たかゐと)といふとありて和歌(わか)あれとも堀兼(ほりかね)の井(ゐ)此地(このち)にありや今(いま)しるへからす|其(その)和歌(わか)は《振り仮名:第四巻|たい くわん》堀兼井(ほりかねのゐ)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》
【右丁】
代(よ)
々(よ)
木(き)
八(はち)
幡(まん)
宮(くう)
【四角囲い文字】
天神
本社
いなり
かくら所
別当
かね
【枠外】 三ノ百五十一
【左丁】
【四角囲い文字】
観音
【右丁】
代太橋(たいたはし)
【枠外】 三ノ百五十二
【左丁】
鬼子母神(きしもしん) 下高井戸(しもたかゐと)の道(みち)清月山(せいけつさん)覚蔵寺(かくさうし)といへる日蓮宗(にちれんしう)の
寺(てら)に安置(あんち)す鬼子母神(きしもしん)の霊像(れいさう)は宗祖大士(しうそたいし)の作(さく)にして仏(ふつ)
像(さう)の脊(せ)に建長(けんちやう)五年癸丑八月八日 日蓮刻之(にちれんこれをきさむ)とあり
《割書:縁起曰(えんきにいはく)文永(ふんえい)八年九月十二日 日蓮(にちれん)大士 相州(さうしう)龍口(たつのくち)において誅(ちう)に伏(ふく)さんとせられ|給ひし頃(ころ)一人の老女(らうちよ)ありて胡麻(こま)の餅(もち)を供養(くやう)せり大士 歓喜(くわんき)のあまり建長(けんちやう)|五年の夏(なつ)始(はしめ)て妙法蓮花経(みやうほふれんけきやう)の首題(しゆたい)を唱(とな)へ始(はし)め給ひし時 広宣流布(くわうせんるふ)の祈願(きくわん)の|為(ため)自(みつから)彫造(てうさう)ありし法流守護(はうりうしゆこ)の鬼子母神(きしもしん)の霊像(れいさう)を彼(かの)老女(らうちよ)に授与(しゆよ)し給ふ然(しかる)に|鎌倉(かまくら)福田村(ふくたむら)といへる地(ち)に安田武左衛門(やすたふさゑもん)といへる農民(のうみん)あり則(すなはち)老女(らうちよ)か裔(えい)にして家(いへ)に|此(この)霊像(れいさう)を傳(つた)ふ時(とき)に享保(きやうほ)十八年癸丑五月 此(この)尊像(そんさう)俗家(そくか)にありて法味(ほふみ)に乏(とほ)し|きか故(ゆゑ)に出家(しゆつけ)の許(もと)に贈(おく)るへき旨(むね)霊尓(れいし)あり依(よつて)当寺(たうし)第(たい)十世の住侶(ちゆうりよ)日曜師(にちようし)|鎌倉(かまくら)松葉谷(まつはかやつ)妙法寺(みやうほふし)に在(いま)せし頃(ころ)彼(かの)武(ふ)左衛門 此(この)尊像(そんさう)を携(たつさ)へ来(きた)り来由(らいゆ)を告(つけ)て|日曜師(にちようし)に附属(ふそく)せり然(しかる)に日曜師(にちようし)当寺(たうし)の破壊(はゑ)を歎(なけ)き寺院(しゐん)再興(さいこう)の為(ため)爰(ここ)に移(い)|住(ちゆう)せられし頃(ころ)当寺(たうし)へ遷(うつ)しまゐらせしと云々》
布多里(ふたのさと) 今(いま)所謂(いはゆる)布田邑(ふたむら)是(これ)なり《割書:布田(ふた)或(あるひは)布多(ふた)に作(つく)る此地(このち)布多天神社(ふたてんしんのやしろ)の|御制札(こせいさつ)には補陀郷(ふたのかう)とあり》
此地(このち)は甲州街道(かうしうかいたう)にして上下(かみしも)と分(わか)れたり《割書:石原(いしはら)上下 国領(こくりやう)等(とう)を合(あはせ)て|布田五宿(ふたこしゆく)と称(とな)ふ》
武蔵国風土記曰 多磨郡
爾布田或新田公穀三百七十二束三字田仮粟
二百十三丸三字田
貢薇蕨諸草菜及禽魚等
尓布田川 出鮎鮊鮒等云々
【右丁】
和名類聚抄曰
武蔵国 多磨郡 新田 《割書:尓布多云々》
《割書:按(あんする)に風土紀(ふとき)に出(いつ)る所(ところ)の爾布田(にふた)及(およ)ひ和名抄(わみやうしやう)に載(のす)る所(ところ)の新田(にふた)共(とも)に此地(このち)の|事(こと)を云(いふ)ならん後世(かうせい)上略(しやうりやく)して尓布多(にふた)を布田(ふた)とはかり唱(とな)ふる歟(か)又(また)風(ふ)|土紀(とき)に尓布田川(にふたかは)の名(な)あれとも今(いま)しるへからす》
万葉
多麻河泊尓左良須氐豆久利佐良左良尓奈仁(タマカハニサラステツクリサフサラニナニ)
曽許能児乃巳許太可奈之伎(ソコノコノココタカナシキ)
家集
手作やさらす垣根の朝露をつらぬきとめぬ玉河の里 定家
《割書:按(あんする)に万葉集(まんえふしふ)多磨(たま)を多麻(たま)に作(つく)り布田(ふた)も又 古(いにしへ)は布多(ふた)とす往古(そのかみ)麻(あさ)の布(ぬの)を|多(おほ)く産(さん)せしにより仮字(かな)にはあれと其意(そのい)を含(ふく)みて麻(あさ)には作(つく)るならん歟(か)當(たう)|国(こく)の府(ふ)は此地(このち)より西南(にしみなみ)にありて其間(そのあいた)遠(とほ)からす古(いに)しへ毎国(くにことに) 朝廷(ちやうてい)へ調布(つきのぬの)|を貢(みつき)せし事 国史等(こくしとう)に詳(つまひらか)なり風土記(ふとき)多麻川(たまかは)の条下(てうか)に里人(りしん)調布(つきのぬの)を作(つく)り|内蔵寮(くらのりやう)に納(をさむる)とあり然(しか)れは此国(このくに)より貢奉(みつきたてまつ)る処(ところ)の調布(つきのぬの)は當国(たうこく)に産(さん)するものを|集(あつ)めて此(この)川辺(かはへ)にて晒(さら)ししかして府(ふ)に携(たつさ)へ国司(こくし)の許(もと)へ出(いた)せしなるへし|依(よつて)多麻川(たまかは)の水流(すゐりう)を考(かんか)ふるに府中(ふちゆう)の辺(へん)より水源(みなかみ)は河瀬(かはせ)狭(せは)くして巨石(こせき)|多(おほ)く布多(ふた)より下流(かりう)は漸(やうやく)海(うみ)に近(ちか)きか故(ゆゑ)に潮(しほ)の盈虚(えいきよ)ありて調布(つきのぬの)に便(たよ)り|よろしからすたゝ此(この)布田(ふた)の辺(へん)のみ河瀬(かはせ)の広狭(くわうさ)水流(すゐりう)の滔々(たう〳〵)たる実(しつ)に布(ぬの)を|さらすによろしと思(おも)はる故(ゆゑ)に合(あは)せ考(かんか)ふれは此辺(このへん)其(その)実跡(しつせき)なるへからん又云 毎(まい)|歳(さい)三月の頃(ころ)より七八月に至(いた)り此辺(このへん)の童子等(とうしら)唄(うた)諷(うた)ひ躍(おと)り歩行(あるく)事(こと)あり|其(その)形勢(きやうせい)及(およ)ひ唄(うた)ひ物(もの)の言葉(ことは)にも調布(つきのぬの)の事(こと)を専(もつはら)とす其唄(そのうた)に云(いは)く》
【枠外】 三ノ百五十三
【左丁】
布多(ふた)
天神(てんしん)社
【四角囲い文字】
別宮
天神
【右丁】
《割書: 此川(このかは)の流(なかれ)のすへは とこま(何処迄也)て布(ぬの)を流(なか)さは海(うみ)まて》
《割書:又云| あの子(こ)は《割書:ヤレ》紅屋(へにや)の子(こ)《割書:ヤレ》いつもかはらぬ紅絞(へしほ)りさらし手(て)ぬくひ| いつ染(そめ)たさむひ瀬(せ)につくもさらすも皆(みな)おわかしゆか見(み)たさに| 御若衆(おわかしゆ)か見(み)たいまゝとて春(はる)の月夜(つきよ)を思(おも)ひそよ》
《割書:又云| 鎌倉(かまくら)の鶴(つる)か二三 羽(は)まひ日(にち)ひにち通(かよ)ひやる山越(やまこえ)て山(やま)越(こえ)て| こゝな川瀬(かはせ)に何(なに)の用(よう)さらしあけたうつくしき布(ぬの)とおわか| しゆ見たさに》
《割書:此唄(このうた)ひもの其古(そのいにしへ)をおもひあはするに足(た)れり附(つけ)て云(いふ)此地(このち)より西 府中(ふちゆう)まての|間(あひた)に染屋邑(そめやむら)と称(しよう)する地(ち)あり是(これ)も古(いにしへ)紺(こん)かきの家(いへ)多(おほ)くありて調布(つきのぬの)を染(そめ)た|りし故(ゆゑ)に此名(このな)あるならん按(あんす)るに東鑑(あつまかかみ)建久(けんきう)六年七月廿八日の条下(てうか)に武蔵国(むさしのくに)|染殿別当事(そめとのへつたうのこと)安房上野局(あはかうつけのつほね)に仰付(おほせつけ)らる糸所別当(いとところへつたう)の事(こと)は近瀬局(ちかせのつほね)これを奉(うけたまは)ると|あるも此辺(このへん)の事(こと)をいふならん歟(か)又云 和名抄(わみやうしやう)白絲布(しらいとのぬの)を天都久利乃沼乃(てつくりのぬの)|と訓(くん)す同書(とうしよ)に今(いま)按(あんする)に俗(そく)に手作布(てつくりのぬの)の三 字(し)を用(もち)ゆると云々 調布(つきのぬの)は和名(わみやう)|抄(しやう)に豆岐(つき)の沼能(ぬの)とありて貢(みつき)になす布(ぬの)の事(こと)をいへり》
布多天神(ふたてんしん)社 上布多駅舎(かみふたえきしや)の辺(へん)より右の方四丁はかりにあり別当(へつたう)は
真言宗(しんこんしう)にして広福山(くわうふくさん)栄法寺(えいほふし)と号(かう)す《割書:浅尾王禅(あさをわうせん)|寺(し)に属(そく)す》祭礼(さいれい)は隔年(かくねん)
九月二十五日に修行(しゆきやう)す当社(たうしや)祭神(さいしん)詳(つまひらか)ならす今(いま)菅神(かんしん)を相殿(あひてん)に
勧請(くわんしやう)して二 座(さ)とす当社(たうしや)昔(むかし)は多磨川(たまかは)の岸頭(かんとう)にありしか洪水(こうすゐ)の
【枠外】 三ノ百五十四
【左丁】
難(なん)に罹(かゝ)るの後(のち)今(いま)の地(ち)へ遷(うつ)すとあり《割書:今(いま)も其地(そのち)に元天神(もとてんしん)と称(しよう)して|小祠(しやうし)を存(そん)せりといへり》
延喜式神名記曰 武蔵国多磨郡
布田天神社云々
虎柏神社(とらかしはのしんしや) 同所 北(きた)の方十丁 計(はかり)を隔(へた)てゝ佐須村(さすむら)にあり《割書:佐須(さす)は古(いにしへ)|当社(たうしや)の神(かん)》
《割書:主(ぬし)の姓(せい)なりしを後(のち)地名(ちめい)に呼(よび)たりしとなり今(いま)も|その遠裔(ゑんえい)此地(このち)の里正(りせい)にして連綿(れんめん)たり》社前(しやせん)に古松(こしよう)二株(にちゆう)鬱叢(うつさう)と
聳(そひえ)たり九月十三日を以(もつ)て祭祀(さいし)の辰(しん)とす
武蔵国風土記曰 武蔵国多磨郡狛江郷
虎柏神社 圭田七十三束 所祭大歳御祖神也
崇峻天皇二年己酉八月始祭事有之云云
延喜式神名記曰 武蔵国多磨郡
虎柏神社云云
《割書:按(あんする)に深大寺縁起(しんたいしえんき)に満功(まんかう)上人の祖母(そほ)の名(な)虎(とら)と祖父(そふ)の住(すみ)たりし柏野(かしはの)の|里(さと)の名(な)とによりて虎柏(とらかしは)の神社(しんしや)ありといへるは其(その)是非(せひ)をしらす柏字 古(いにしへ)は犬(いぬ)に|从(したが)ひ狛に作(つく)りたるを後世(こうせい)字形(しきやう)相似(あひに)たるを以(もつて)今(いま)は木(き)に从(したが)ひ柏に誤(あやま)れるならん|歟(か)又 当社(たうしや)の南(みなみ)にある所(ところ)の耕田(かうてん)は古(いにしへ)社領(しやれう)なりしとて今(いま)も宮田(みやた)と称(とな)へたり|風土記(ふとき)に挙(あく)る七十三 束(そく)の圭田(けいてん)是(これ)ならん歟(か)》
虎柏山(こはくさん)祗園寺(きおんし) 同所三丁はかり東(ひかし)の方(かた)にあり日光院(にいくわうゐん)と号(かう)す天台(てんたい)
宗(しう)深大寺(しんたいし)に属(そく)せり当寺(たうし)は天平勝宝(てんへいしようはう)二年庚寅 深大寺(しんたいし)の満功(まんかう)
上人 開創(かいさう)する所(ところ)の佛域(ふついき)なりといへり本尊(ほんそん)には立像(りふさう)二尺計の弥陀(みた)
【右丁】
青渭社(あをゐのやしろ)
虎狛社(とらかしはのやしろ)
【四角囲い文字】
青渭
虎狛
【枠外】 三ノ百五十五
【左丁】
如来(によらい)の木佛(もくふつ)を安置(あんち)す《割書:作者|未詳》本堂(ほんたう)の向拝(かうはい)に掲(かく)る所(ところ)の虎柏山(こはくさん)の
三 大字(たいし)は筆者(ひつしや)をしらす
薬師堂(やくしたう) 本堂(ほんたう)の前(まへ)右(みき)の方(かた)にあり薬師佛(やくしふつ)は立像(りふさう)御 長(たけ)一尺
はかりありて行基大士(きやうきたいし)の彫造(てうさう)なりといへり《割書:佛龕(ふつかん)の内(うち)に弘法大師(こうほふたいし)の|真跡(しんせき)の般若心経(はんにやしんきやう)を収(をさ)む》
此(この)堂宇(たうう)二百 有余年(いうよねん)はかり前迠(まへまて)は此地(このち)より東南(とうなん)の方(かた)三四十
歩(ほ)を隔(へた)てゝ耕田(かうてん)の中(うち)にありしとなり《割書:今(いま)に古薬師堂(ふるやくしたう)と|いへる地(ち)是(これ)なり》其頃(そのころ)屢(しは〳〵)
賊(そく)の為(ため)に佛器(ふつき)の類(たく)ひを奪(うは)はれしかは終(つひ)に祗園寺(きおんし)の境内(けいたい)に
遷(うつ)せしとなり《割書:今(いま)薬師堂(やくしたう)より一丁 程(ほと)南(みなみ)に薬師堂面(やくしたうめん)と字(あさな)して一反(いつたん)六 畝(せ)は|かりの除地(ちよち)あり鎌倉時世(かまくらしせい)より前(まへ)に附(ふ)する所(ところ)なるよし土人(としん)》
《割書:いひ傳(つた)へたり》
狛江入道旧館地(こまえにふたうきうくわんのち) 祗園寺(きおんし)より艮(うしとら)の方(かた)六七町を隔(へた)てゝ二百 歩(ほ)あまり
の岡(をか)なり空堀(からほり)の形(かたち)なと厳然(けんせん)として残(のこ)れり此地(このち)に入道(にふたう)崇(あか)むる
所(ところ)の稲荷(いなり)の小祠(しやうし)あり土人(としん)里(さと)の稲荷(いなり)と称(しよう)す祠前(しせん)樫(かし)の老(らう)
樹(しゆ)一 株(ちゆう)六 圍(ゐ)にあまるもの存(そん)せり《割書:東鑑(あつまかゝみ)の承元(しやうけん)二年戊辰七月十五日|狛江入道増西(こまえにふたうそうさい)悪党(あくたう)五十余人を率(ひき)》
《割書:ゐて武蔵国(むさしのくに)威光寺(ゐくわうし)領内(れうない)に乱入(らんにふ)し田(た)を刈(かり)狼籍(らうしせき)に及(およ)ふ由(よし)院主(ゐんしゆ)の僧(そう)円海(ゑんかい)》
【右丁】
《割書:訴出(うつたへいつ)るといふ事を挙(あけ)たり刊本(かんほん)柏江(かしはえ)に作(つく)るは狛江を誤(あやま)りたるものならん又云|こゝに狛江 入道(にふたう)と云 傳(つた)ふるも此(この)増西(そうさい)の事(こと)をいふなるへし又 同書(とうしよ)に建久(けんきう)元年庚戌|十一月七日 二品入落供奉(にほんしゆらくくふ)の人名の内(うち)に駒江(こまえ)平四郎といふ名(な)を注(ちゆう)す》
《割書:按(あんする)に続日本後紀(そくにほんかうき)に 仁明天皇(にんみやうてんわう)の承和(しやうわ)十一年甲子五月 武蔵国(むさしのくに)多磨郡(たまこほり)狛江(このえの)|郷(かう)より節婦(せつふ)を出(いた)す事を載(のせ)られたり刊本(かんほん)猪江に作(つく)るは狛を誤(あやま)れる事 必(ひつ)|せり武蔵国風土記(むさしのくにふとき)残編(さんへん)にも多磨郡(たまこほり)の内(うち)に狛江郷(こまえのかう)といへる地名(ちめい)を出(いた)したり|和名類聚抄(わみやうるいしゆしやう)にも同(おな)し郡(こほり)の郷名(かうみやう)に狛江とありて古乃江(このえ)と訓(くん)すされと此(この)|地(ち)を今(いま)は佐須村(さすむら)と称(とな)ふしかるに多磨川(たまかは)の北(きた)宇奈根村(うなねむら)に隣(とな)りて駒井邑(こまゐむら)と|呼(よ)ふ地(ち)あり恐(おそ)らくは狛江(このえ)の郷(かう)の轉訛(あやまり)ならん北条家分限帳(ほうてうけふんけんちやう)に多波川(たはかは)の北(きた)|駒井(こまゐ)本郷(ほんかう)太田新(おほたしん)六郎 知行(ちきやう)の内(うち)にあり此所(このところ)駒井(こまゐ)の旧地(きうち)なる事しるへし》
青渭神社(あをゐのしんしや) 虎柏神社(とらかしはのしんしや)より北(きた)の方(かた)深大寺村(しんたいしむら)の中(うち)にあり土人(としん)
此地(このち)を字(あさな)して天神(てんしん)か谷戸(やと)といへり祭神(さいしん)詳(つまひらか)ならす世(よ)に
青波天神(あをはてんしん)とも称(しよう)せり相傳(あひつた)ふ古(いにしへ)は社前(しやせん)に湖水(こすゐ)ありし故(ゆゑ)
青波(あをは)の称(しよう)ありと社前(しやせん)槻(つき)の老樹(らうしゆ)あり数百余霜(すひやくよさう)を経(へ)たる
ものなり
延喜式神名帳曰 武蔵国多磨郡
青渭神社云々
《割書:按(あんする)に神名帳(しんみやう)に青渭(あおゐ)とあるを今本 阿遠伊(あをい)と訓(くん)す土人云(としんいふ)古(いにしへ)当社(たうしや)の前(まへ)は湖(こ)|水(すゐ)満(みち)たゝへたり故(ゆゑ)に青波(あをは)の称(しよう)ありといへり今(いま)青波(あをは)に作(つく)り阿遠葉(あをは)と訓(くん)するは|拠(よりところ)あるに似(に)たり猶(なほ)同巻 青沼明神(あをぬまみやうしん)の条下(てうか)と応照(てらしあはせ)てみるへし》
【枠外】 三ノ百五十六
【左丁】
狛江入道(こまえにうたうの)
旧跡(きうせき)
祇園寺(きをんし)
【四角囲い文字】
いなり
ゑんま
庫裡
本堂
やくし
【右丁】
青渭堤(あをゐつゝみ) 青渭神社(あをゐのしんしや)の辺(へん)なり古(いにしへ)は青渭(あをゐ)の湖水(こすゐ)湛(たゝへ)たりしを後(かう)
世(せい)堤(つゝみ)を切開(きりひら)きて水(みつ)を乾(かわか)し耕田(かうてん)となすといへり故(ゆゑ)に今(いま)此所(こゝ)
彼所(かしこ)に六七 歩(ほ)或(あるひ)は十 歩(ほ)にあまれる塚(つか)の如(こと)きもの残(のこ)り存(そん)して
草樹(そうしゆ)繁茂(はんも)せるは其堤(そのつゝみ)の旧跡(きうせき)なりといふ
浮岳山(ふかくさん)深大寺(しんたいし) 昌楽院(しやうらくゐん)と号(かう)す深大寺邑(しんたいしむら)にあり《割書:此所(このところ)も佐須村(さすむら)|と云(いふ)昔(むかし)は柏野(かしはのゝ)》
《割書:里(さと)と号(かう)せ|しとなり》太古(たいこ)は法相宗(ほつさうしう)なりしか恵亮和尚(ゑりやうくわしやう)以来(このかた)天台宗(てんたいしう)に改(あらた)む
本尊(ほんそん)は宝冠(はうくわん)の阿弥陀如来(あみたによらい)恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)なりといふ当寺(たうし)は
福満童子(ふくまんとうし)の宿願(しゆくくわん)によりて天平(てんへい)五年癸酉に草創(さう〳〵)する所(ところ)の
佛域(ふついき)なり《割書:日本年代配合鈔(にほんねんたいはいかふしやう)に曰(いはく)天平勝宝(てんへいしようはう)|二年庚寅 深大寺(しんたいし)建立(こんりふ)云々》四十七代 廃帝御宇(はいていのきよう)
に勅願所(ちよくくわんしよ)と定(さため)られしより平城(へいしやう)清和(せいわ)両朝(りやうちやう)も又(また)勅願所(ちよくくわんしよ)と
なし給ひしと云
元三大師堂(くわんさんたいしたう)《割書:本堂(ほんたう)の前(まへ)左(ひたり)に傍(そひ)てあり寺記(しき)に云(いふ)応和(おうわ)四年 慈恵大師(しゑたいし)|叡山(えいさん)に於(おい)て自(みつから)彫刻(てうこく)なし給ひし霊像(れいさう)なりしを慈忍(しにん)》
《割書:和尚(くわしやう)と恵心僧都(ゑしんそうつ)と心(こゝろ)をひとつにし武蔵国(むさしのくに)深大寺(しんたいし)は代々(よゝ)の帝(みかと)勅願(ちよくくわん)の地(ち)にして|尤(もつとも)灵跡(れいせき)たり永(なか)く此(この)影像(えいさう)を遷(うつ)し奉(たてまつ)りて関東(くわんとう)の群生(くんしやう)を化益(けやく)せんとて正暦(しやうりやく)二》
【枠外】 三ノ百五十七
【左丁】
《割書:年の春(はる)こゝに安置(あんち)なす尓来(しかりしより)霊応(れいをう)いちしるく月毎(つきこと)の三日十八日 殊(こと)に正五九月|の十八日には別業(へつきやう)護摩供(こまく)を修行(しゆきやう)あるか故(ゆゑ)に近郷(きんかう)の人 群参(くんさん)せり此日(このひ)門(もん)|前(せん)に市(いち)を立(たて)る》
降魔尊像(かうまのそんさう)《割書:先(さき)の霊像(れいさう)と共(とも)に叡山(えいさん)より当寺(たうし)に遷座(せんさ)|なしまゐらすと云 灵験(れいけん)尤(もつとも)著(いちしる)し》五大尊石(こたいそんせき)《割書:大師堂(たいしたう)の北(きた)の|山際(やまきは)清泉(せいせん)の》
《割書:中(うち)にあり此水(このみつ)旱魃(かんはつ)にも減(けん)する事なしといへり土人(としん)旱魃(かんはつ)の|年は此所(このところ)に来(きた)り此水(このみつ)を汲干(くみほさ)んとす果(はた)して膏雨(かうう)ありとなり》要石(かなめいし)《割書:同(おな)し泉水(せんすゐ)の|中島稲荷(なかしまいなり)の》
《割書:宮(みや)の傍(かたはら)にあり昔(むかし)此山(このやま)崖(きし)なと崩(くつ)るゝ事 屡(しは々)なりしかは|其頃(そのころ)の寺主(ししゆ)祈念(きねん)して此石(このいし)を建(たて)て要石(かなめいし)と号(なつ)くと云》鐘楼(しゆろう)《割書:大師堂(たいしたう)の後(うしろ)の|山上(やまのうへ)にあり》
武蔵国多東郡深大寺
奉治鋳槌鐘 長四尺三寸 口二尺三寸
右伏以当山蒲牢開基以来革更其数不一或雖冶
鋳有破裂而無声或雖討得有薄畧而不鳴爰緇素
数輩競勠力廼命鳬氏遂鋳鴻鐘当知三宝埀感諸
天降臨仰顛 皇風永煽佛日弥明伽藍鎮静法輪
常転更乞諸檀施主二世善願一切成就仍昭銘功
徳其辞曰
寺号深大 山名浮岳 新鋳鳬鐘 声形卓犖
百千万劫 定期渺邈 驚起塵夢 消除煩濁
滅罪生善 令人正覚
永和二年丙辰八月十五日 大工山城守宗光
大行事院主法印権少僧都辨運
別当前大僧正法印大和尚位守慧
亀島弁財天(かめしまへんさいてん)祠《割書:門前(もんせん)左(ひたり)の方(かた)の池(いけ)の中島(なかしま)にあり縁起(えんき)に所謂(いはゆる)福満童子(ふくまんとうし)を|脊負(せおふ)て渉(わた)せし霊亀(れいき)をして後(のち)に満功(まんかう)上人 弁天(へんへん)【ママ】に崇(あかめ)られたりと云》
【右丁】
深(しん)
大(たい)
寺(し)
四角囲い文字
庫裡
本堂
五大尊石
鐘
吉祥天
いなり
要石
大師堂
【枠外】 三ノ百五十八
【左丁】
【四角囲い文字】
山王二十一社 【赤印】 ■■■■■■圖書
毘沙門大こく
深砂天王
福満
弁天
【右丁】
毘沙門天吉祥天(ひしやもんてんきちしやうてん)社《割書:昔(むかし)は各(おの〳〵)別社(へつしや)にてありしを後(のち)弁天(へんてん)の相殿(あひてん)に合祭(かふさい)すと|いふ福満童子(ふくまんとうし)は毘沙門天(ひしやもんてん)の化身(けしん)吉祥天(きちしやうてん)は縁起(えんき)に出(いつ)る》
《割書:所(ところ)の童女(とうによ)をあかめ祭(まつ)る所(ところ)なりといへり》
深砂大王(しんしやたいわう)社《割書:大門並木(たいもんなみき)に相対(あひたい)す縁起曰(えんきにいはく)天平(てんへい)五年癸酉 満功(まんかう)上人 此地(このち)に当社(たうしや)を|営(いとな)みて深大(しんたい)の二 字(し)を採(とり)て寺号(しかう)とし一宇(いちう)を草創(さう〳〵)せらるゝと》
《割書:いふ 東照大権現宮(とうしやうたいこんけんくう)及(およ)ひ八幡(はちまん)|八劔権現(やつるきこんけん)等(とう)を相殿(あひてん)とす》深砂大王影向池(しんしやたいわうえうかういけ)《割書:社(やしろ)の後(うしろ)にあり往古(そのかみ)深砂(しんしや)|大王(たいわう)影向(えうかう)ありし旧跡(きうせき)と》
《割書:云傳(いひつた)へて池中(ちちやう)一ッの霊石(れいせき)あり》
劔立石(けんたちいし)《割書:同(おな)し池(いけ)のもとにあり往古(そのかみ)恵亮和尚(ゑりやうくわしやう)当国(たうこく)に勝地(しようち)を求(もと)め給はんとして|当国(たうこく)の国分寺(こくふんし)に至(いた)り不動(ふとう)の利釼(りけん)を虚空(こくう)に投(なけ)給ひしに其釼(そのつるき)此(この)石(せき)》
《割書:上(しやう)に立(たち)しとなりしかありしに|より此号(このかう)ありといひ傳(つた)ふ》福満童子(ふくまんとうし)祠《割書:深砂大王(しんしやたいわう)の祠前(しせん)|右(みき)の方(かた)にあり》仁王塚(にわうつか)《割書:同所(とうしよ)|社前(しやせん)》
《割書:の道(みち)を一丁 斗(はか)り西(にし)へ登(のほ)る坂(さか)を塔坂(たふさか)とよへり往古(いにしへ)塔(たふ)なとありしならん歟(か)其辺(そのへん)を|二王塚(にわうつか)と字(あさな)す相傳(あひつた)ふ昔(むかし)何某(なにかし)の一子(いつし)当寺(たうし)二王門(にわうもん)の辺(へん)に遊(あそ)ひてありしか忽(たちまち)に|姿(すかた)を見失(みうしな)ふ人々 驚(おとろ)き一山(いつさん)大(おほい)に騒動(さうとう)すしかるに当寺(たうし)二王門(にわうもん)の二王尊(にわうそん)の唇(くちひる)に|其児(そのちこ)の常(つね)に着(ちやく)する所(ところ)の衣服(いふく)残(のこ)りとゝまりて児(ちこ)を吞(のみ)たるに似(に)たり依(よつ)て里民(りみん)此(この)二(に)|王(わう)の像(さう)をこほちて門(もん)を破却(はきやく)し土中(とちゆう)に埋(うつ)めたりしより二王塚(にわうつか)の号(かう)ありと|いひ傳(つた)ふ》
縁起曰(えんきにいはく) 聖武天皇(しやうむてんわう)の御宇(きよう)武蔵国(むさしのくに)多磨郡(たまこほり)柏野村(かしはのむら)に猟師(れうし)あり
《割書:柏野村(かしはのむら)今(いま)佐(さ)|須村(すむら)といふ》名(な)を右近(うこん)といふ年頃(としころ)山(やま)に入(いり)水(みつ)を臨(のそ)むて殺生(せつしやう)を業(なりはひ)とす
ある時(とき)やむことなき女(をんな)来(きた)りて妻(つま)となる名(な)を虎(とら)といへり此妻(このつま)
常(つね)に夫(をつと)をいましめて殺生(せつしやう)をとゝむ右近(うこん)は妻(つま)のいふに随(したか)ひ竟(つひ)に
【枠外】 三ノ百五十九
【左丁】
狩漁(すなとり)を止(とゝ)む其後(そのゝち)一人の娘(むすめ)をまうけいつきかしつく事(こと)大(おほ)かたならす
早(はや)く生長(せいちやう)なれり然(しかる)に福満(ふくまん)と唱(とな)ふる童子(とうし)ありて此娘(このむすめ)に逢初(あひそめ)に
けれは父母(ふほ)大(おほい)に怒(いかり)かはりり賤(いや)しき人(ひと)にあはせん事(こと)本意(ほい)ならす
とて二人(ふたり)の中(なか)をさけ娘(むすめ)をは此里(このさと)の池(いけ)の中島(なかしま)に家(いへ)を営(いとな)みかしこに
居(を)らしむ福満(ふくまん)は日毎(ひこと)に岸(きし)に至(いたり)て是(これ)を歎(なけ)くといへともかひなし昔(むかし)
もろこしの玄奘三蔵(けんしやうさんさう)渡天(とてん)の時(とき)流砂川(りうさかは)に至(いた)りて仏(ほとけ)を念(ねん)せしかは
深砂王(しんしやわう)現(あらは)れ給ひ川(かは)を渉(わた)し給ひし事(こと)を思(おも)ひて一心(いつしん)に念(ねん)しけれは
一の霊亀(れいき)浮(うか)み出(いて)ぬ福満(ふくまん)其甲(そのかう)に乗(のり)て島(しま)に至(いた)り娘(むすめ)にあふ事(こと)を
得(え)たり父母(ふほ)後(のち)に此事(このこと)を聞(きゝ)て神明(しんめい)の冥助(みやうちよ)ある事(こと)を知(し)り随喜(すゐき)
して娘(むすめ)を福満(ふくまん)に妻(め)あはせけれは竟(つひ)に一人の男子(なんし)をまうく父母(ふほ)の
願(ねかひ)によりて此児(このちこ)出家(しゆつけ)し満功(まんかう)上人といふ其後(そのゝち)もろこしに渡(わた)り大乗(たいしやう)
法相(ほつさう)の旨(むね)を傳(つた)へて帰朝(きちやう)し天平(てんへい)五年癸酉 父(ちゝ)の本誓(ほんせい)により
深砂大王(しんしやたいわう)の社(やしろ)を建立(こんりふ)し当寺(たうし)を創(さう)す其時(そのとき)神霊(しんれい)水中(すゐちゆう)の岩(かん)
【右丁】
深大寺蕎麦(しんたいしそは)
当寺(たうし)の名産(めいさん)
にして
味(あちは)ひ尤(もつとも)
佳(か)なり
都下(とか)に
称(しよう)して
深大寺(しんたいし)
蕎麦(そは)
といふ
【枠外】 三ノ百六十
【左丁 文字なし】
【右丁】
上(しやう)に現(あらは)れ給ふ上人 其(その)尊容(そんよう)を摸(うつ)しとゝめんとするに御衣木(みそき)なし
然(しかる)に七月七日 玉川(たまかは)に霊木(れいほく)の流(なか)れ漂(たゝたよ)ふあり則(すなはち)是(これ)を得(え)て薬師(やくし)
佛(ふつ)三躰(さんたい)を彫刻(てうこく)し一 躰(たい)を当社(たうしや)に納(をさ)む《割書:余(よ)二躰(にたい)は下野国(しもつけのくに)日光(につくわん)|山(さん)及(およ)ひ出羽国(ではのくに)にあり》此由(このよし)
叡聞(えいふん)に達(たつ)しけれは 廃帝(はいてい)の御宇(きよう)勅願所(ちよくくわんしよ)に定(さため)られ浮岳山(ふかくさん)深(しん)
大寺(たいし)と震翰(しんかん)【宸翰】を灑(そゝ)き扁額(かく)を給ふ又(また)貞観年間(ちやうくわんねんかん)武蔵国司(むさしのこくし)蔵(くら)
宗卿(むねきやう)叛逆(ほんきやく)す叡山(えいさん)の恵亮和尚(ゑりやうくわしやう)に仰(おほせ)て乱賊降伏(らんそくかうふく)を祈(いの)らしめ
給ふ和尚(くわしやう)当国(たうこく)の国分寺(こくふんし)に至(いた)り不動(ふとう)の利釼(りけん)を虚空(こくう)に投(なけ)給ひ
隕(おち)る所(ところ)の勝地(しようち)を道場(たうちやう)とせむと誓(ちか)ひ給ふに遙(はるか)に飛(とん)て当寺(たうし)井泉(せいせん)
の辺(へん)の石上(せきしやう)に隕(おち)ぬ此石(このいし)を劔立(けんたち)の石(いし)と云(いふ)依(よつて)五大尊(こたいそん)を勧請(くわんしやう)し此(この)
地(ち)に於(おい)て秘法(ひはふ)を修練(しゆれん)せられしに行力(きやうりき)空(むなし)からす逆徒(きやくと)悉(こと〳〵く)降伏(かうふく)せり
依(よつて)叡感(えいかん)のあまり当寺(たうし)を恵亮(ゑりやう)に賜(たま)ひ此所(このところ)にて七邑(なゝむら)の地(ち)を寄付(きふ)
なし給ふ《割書:是(これ)を深大寺(しんたいし)の|七邑(なゝむら)と唱(とな)ふ》しかありしより法相宗(ほつさうしう)を転(てん)し台宗(たいしう)にあら
ためられ護国安民(ここくあんみん)の秘法(ひはふ)怠(おこた)る事(こと)なく関東(くわんとう)第(たい)一の密場(みつちやう)と
【枠外】 三ノ百六十一
【左丁】
なれり《割書:昔(むかし)は十二 宇(う)の塔頭(たつちう)ありて大伽藍(たいからん)なりしか|とも度(たひ)々の兵火(ひやうくわ)に亡(ほろ)ひて今(いま)は昔(むかし)に違(たか)へり》其後(そのゝち)野火(やくわ)の災(わさはひ)に罹(かゝ)
りて灰燼(くわいしん)となりしを世田谷(せたかや)の吉良家(きらけ)深(ふか)く尊信(そんしん)して再(ふたゝ)ひ
堂宇(たうう)を営(いとな)み波平行安(なみのひらゆきやす)の刀等(かたなとう)を寄附(きふ)す《割書:無銘(むめい)長四尺|五寸あり》
絵巻物(えまきもの)《割書:并》詞書(ことはかき)二 巻(くわん)参議右中将(さんきうちゆうしやう)藤原好公尹卿筆(ふちはらのきんまさきやうのふで)
抑(そも〳〵)当寺(たうし)は関東(くわんとう)融通念仏(ゆつうねんふつ)最初弘通(さいしよくつう)の道場(たうちやう)にして慈眼(しけん)
大師(たいし) 大猷公(たいいうこう)の 上聞(しやうふん)に達(たつ)し奉(たてまつ)り融通念仏(ゆつうねんふつ)百遍(ひやくへん)を
受(うけ)させ賜(たま)ひ忝(かたしけなく)も結縁(けちえん)の名帳(めいちやう)に御諱(おんいみな)を記(しる)させ給ひぬる事は
当寺(たうし)融通念仏(ゆつうねんふつ)の縁起(えんき)に詳(つまひらか)なり《割書:此(この)念仏(ねんふつ)は大原(おほはら)の良忍(りやうにん)上人 現(まのあたり)に|如来(によらい)の尓教(しきやう)を得(え)て弘通(くつう)し給ふ》
《割書:所(ところ)也 此法(このはふ)や或(あるひ)は十 返(へん)百 返(へん)乃至(ないし)千 返(へん)万 返(へん)を日課(につくわ)とし我(わか)唱(とな)ふる所(ところ)の称名(しようみやう)の功徳(くとく)をは|他(た)の人(ひと)の為(ため)とし他(た)の人の唱(とな)ふる所(ところ)の称名(しようみやう)をは自(みつか)らの為(ため)として互(たかひ)に融通(ゆつう)し自他(した)|平等(ひやうとう)に修(しゆ)するか故(ゆゑ)に其(その)功徳(くとく)広大無辺(くわうたいむへん)にしてはかるへからす昔(むかし)鞍馬山(くらまさん)の毘沙門(ひしやもん)|天王(てんわう)もこの念仏(ねんふつ)の結縁(けちえん)に入給ひし事ありし由(よし)其(その)縁起(えんき)にみえたり》
深大寺蕎麦(しんたいしそは)《割書:当寺(たうし)の名産(めいさん)とす是(これ)を産(さん)する地(ち)裏門(うらもん)の前(まへ)少(すこ)しく高(たか)き畑(はたけ)に|して纔(わつか)に八 反(たん)一 畝(せ)程(ほと)のよし都下(とか)に称(しよう)して佳品(かひん)とす然(しか)れ共》
《割書:真(しん)とするもの甚(はなはた)少(すくな)し今(いま)近隣(きんりん)の村里(そんり)より産(さん)するものおしなへて此名(このな)を冠(かうむ)らし|むるといへとも佳(か)ならす》
難波田弾正城跡(なんはたたんしやうしろあと) 深大寺(しんたいし)大門(たいもん)松列樹(まつなみき)の東(ひかし)の方(かた)の岡(おか)を云(いふ)土人(としん)は
【右丁】
城山(しろやま)と呼(よへ)り今(いま)は麦畑(むきはたけ)となるといへとも此所彼所(こゝかしこ)に湟池(ほりいけ)の形(かたち)
残(のこ)れり此地(このち)は往古(そのかみ) 清和帝(せいわてい)の御宇(きよう)蔵宗卿(くらむねきやう)武蔵国司(むさしのこくし)
たりし時(とき)こゝに住(ちゆう)せられたりし旧館(きうくわん)の跡(あと)にして天文(てんふん)の頃(ころ)上杉(うへすき)
朝定(ともさた)の家臣(かしん)難波田弾正忠広宗(なんはたたんしやうのちうひろむね)松山(まつやま)の城(しろ)の出張(てはり)としてこゝに
城廓(しやうくわく)を搆(かま)へたりしと也
《割書:北条五代記曰(ほうてうこたいきにいは)く上杉修理太夫朝興(うへすきしゆりのたいふともおき)の嫡男(ちやくなん)五郎朝定(こらうともさた)生年十三 歳(さい)にして家(いへ)を|継(つく)武州(ふしう)深大寺(しんたいし)といへる古城(こしやう)を再興(さいこう)し北条氏綱(ほうてううちつな)に向(むか)ひ弓矢(ゆみや)の企(くはたて)専(もつは)らなり|といへる条下(てうか)に《割書:此軍は天文六年|七月廿日なり》されはたけき中(うち)にやさしきありその日(ひ)のいくさ大将(たいしやう)|難波田(なんはた)あやなくうしろを見せ松山(まつやま)さして落行(おちゆく)を北条方(ほうてうかた)に山中主膳(やまなかしゆせん)駒(こま)かけ|よせ一首(いつしゆ)はかくそきこえける| あしからしよかれとてこそたゝかはめなと難波田のくつれ行らむ|と俳諧躰(はいかいてい)によみかけしに難波田(なんはた)もさすかよしある武士(ものゝふ)にてくつはみいさゝか引(ひき)かへし| 君を置てあたし心を我もたは末の松山浪もこえなむ|我(われ)作(つく)りかほに古今集(こきんしふ)の哥(うた)をとりあはせて返答([へ]んたふ)ありていそかはしく駒(こま)のあしはやめて|過行(すきゆき)ぬけにさもありぬへし主君(しゆくん)朝定(ともさた)を館(やかた)に残(のこ)し置(おき)難波田(なんはた)かたれなは松山(まつやま)は寄(よ)せくる|浪(なみ)もこえぬへし身(み)を全(まつたふ)して君(きみ)につかふるを忠臣(ちゆうしん)の法(はふ)といふ事あり作者(さくしや)といひ功者(かうしや)といひ|かけひきしれる勇者(いうしや)とそみな人申はへりき云々》
深大寺城跡(しんたいしのしろあと) 深大寺(しんたいし)仏堂(ふつたう)の後(うしろ)の方(かた)の山続(やまつゝき)にして其間(そのあひた)六七丁を
隔(へたて)たり空堀(からほり)或(あるひ)は柵門抔(さくもんなと)ありしと覚(おほ)しき形(かたち)今猶(いまなほ)厳然(けんせん)たり
【枠外】 三ノ百六十二
【左丁】
北条五代記(ほうてうこたいき)に大永(たいえい)四年の頃(ころ)氏綱(うちつな)江戸(えと)の城(しろ)を襲(おそ)ふ上杉(うへすき)
匠作(しやうさく)はいまた河越(かはこえ)の城(しろ)に引篭(ひきこも)り十 余年(よねん)の春秋(しゆんしゆう)を送(おく)り迎(むか)へ
ぬいつよりか例(れい)ならす心(こゝ)ちそこなひて天文(てんふん)六年の卯月(うつき)下旬(けしゆん)
世(よ)を早(はや)く去(さつ)て嫡男(ちやくなん)五郎朝定(こらうともさた)生年十三 歳(さい)にして家(いへ)を継(つき)
給ひぬていれは七々ヶ日の服忌(ふくき)さへ経(へ)すして道(みち)をあらため兵(へい)を
起(おこ)し深大寺(しんたいし)といふ古城(こしやう)を再興(さいこう)し氏綱(うちつな)へ向(むかひ)て弓矢(ゆみや)の企(くはたて)専(もつは)ら
なりとあるは則(すなはち)此所(このところ)の事(こと)なり
医王山(ゐわうさん)国分寺(こくふんし) 最勝院(さいしようゐん)と号(かうす)国分寺村(こくふんしむら)にあり府中(ふちゆう)より北(きた)の
方(かた)十八町を隔(へた)つ当寺(たうし)は天平年間(てんへいねんかん)行基菩薩(きやうきほさつ)草創(さう〳〵)する所(ところ)に
して 聖武天皇(しやうむてんわう)の勅願所(ちよくくわんしよ)なり中開山興(ちゆうこうかいさん)を教心阿闍梨(きやうしんあしやり)と号(かうす)
今(いま)は新義(しんき)の真言宗(しんこんしう)なり
薬師堂(やくしたう) 本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)《割書:脇士(けうし)日光(につくわう)月光(くわつくわう)十二 神将(しんしやう)の像(さう)は共(とも)に|開山(かいさん)行基大士(きやうきたいし)の作(さく)なり》
額(かく)《割書:金光明四天(きんくわうみやうしてん)|王護国(わうここく)之寺》深見玄岱筆(ふかみけんたいのふて)
【右丁】
国(こく)
分(ふん)
寺(し)
【四角囲い文字】
弁天
庫裡
観音
薬師
庵
本堂
【枠外】 三ノ百六十三
【左丁】
【四角囲い文字】
裏門
毘沙門
いなり
秋葉
ごうりやう
八まん
御たけ
疱瘡神
仁王門
【右丁】
国分寺(こくふんし)
伽藍旧跡(からんのきうせき)
【枠外】 三ノ百六十四
【左丁 文字なし】
【右丁】
二王門(にわうもん)《割書:石階(せきかい)の中腹(ちゆうふく)にあり金剛密迹(こんかうみつしやく)の二 像(さう)を置(おく)作者(さくしや)未詳(いまたつまひらかならす)|堂材(たうさい)は古(いにしへ)のことにして旧地(きうち)は半丁あまり南(みなみ)にあり》
続日本紀聖武紀曰 天平十九年十一月己卯詔天
下諸国国別令造金光明寺法華寺下畧
延喜式弟【第】二十六巻曰 武蔵国正税公廨各四十万
束国分寺料五万束薬師寺料四万二十束梵釈四
王料七千七百束云々
東鑑曰 建久五年 十一月二十七日 近国
一宮并国分寺可修復破壊の旨被仰下云々
同書曰 寛喜三年 五月五日 任綸旨於国
分寺可転読最勝王経之由被仰下関東御分国々
行然奉行之云々
《割書:たのもしな世を祈れとて定めつゝ国を分てる寺の数〳〵 称名院》
二王門旧跡(にわうもんのきうせき)《割書:寺前(しせん)半町あまりを隔(へた)てゝ南(みなみ)の方(かた)の|畑(はた)の中(うち)に其(その)礎石(いしすゑ)を存(そん)せり》
層塔旧跡(そうたふきうせき)《割書:国分寺(こくふんし)の少(すこ)し東南(ひかしみなみ)半丁あまりを隔(てた)てゝあり草樹(さうしゆ)繁茂(はんも)する|所(ところ)の少(すこ)しの岡(をか)なり方九尺はかり六 角(かく)に礎(いしすゑ)を居(すゑ)たり往古(そのかみ)其塔(そのたふ)》
《割書:の中真(ちゆうしん)を収(をさめ)たるものなりとて中(うち)に径(わたり)三尺はかり石(いし)にて畳(たゝみ)たる空穴(くうけつ)ありて|内(うち)に水(みつ)をたゝへたり》
古瓦(こくわ)《割書:二王門旧跡(にわうもんきうせき)の辺(あた)り数百歩(すひやくほ)の間(あひた)往(いにしへ)の古瓦(ふるかはら)の破砕(はさい)せるものあり皆(みな)堅密(けんみつ)|にして形(かたち)全(まつた)からすといへとも文綵(ふんさい)奇(き)にして国分寺(こくふんし)の古(いにしへ)大伽藍(たいからん)なり》
《割書:し事 想像(おもひやる)にたれり其地(そのち)にして得(え)たる古瓦(こくわ)の中(うち)武蔵国郡(むさしのこくくん)の名(な)を|印(いん)せしものこゝに其形(そのかたち)を挙(あけ)て證(しよう)とす》
【枠外】 三ノ百六十五
【左丁】
那珂郡(なかこほり) 秩父(ちゝふ)郡
比企(ひき)郡
榛沢(はんさは)郡 大里(おほさと)郡
【右丁】
豊島郡(としまこほり) 荏原(えはら)郡
埼玉(さいたま)郡 男衾(をふすま)郡
旛羅(はたら)郡
【枠外】 三ノ百六十六
【左丁】
国分寺碑(こくふんしのひ)《割書:薬師堂(やくしたう)の前(まへ)右(みき)の方にあり碑文(ひふん)は服元雄中英先生(ふくけんいうちゆうえいせんせい)撰(えら)む|書(しよ)は河保寿(かほうしゆ)にして当寺(たうし)法印(ほふいん)賢盛(けんせい)建(たつ)る所なり》
当寺(たうし)往古(そのかみ)源頼義朝臣(みなもとのよりよしあそん)同 義家朝臣(よしいへあそん)奥州征伐(あうしうせいはつ)発向(はつかう)の頃(ころ)も
当時(たうし)【寺ヵ】へ入給ひ其頃(そのころ)は盛大(せいたい)の寺院(しゐん)なりしと云あまたの星霜(せいさう)を
経(へ)て元弘(けんこう)の兵火(ひやうくわ)に亡(ほろ)ひしを新田家(につたけ)にて再興(さいこう)ありしも兵革(へいかく)の
世(よ)終(つひ)に古(いにしへ)に復(ふく)す事なし然(しかる)に宝暦年間(はうりやくねんかん)権大僧都(こんたいそうつ)法印(ほふいん)
賢盛(けんせい)衆縁(しゆうえん)を募(つの)り新(あらた)に医王閣(ゐわうかく)を営建(えいこん)し傳(つた)ふる所(ところ)の灵像(れいさう)を
安(あん)して霊跡(れいせき)を表(へう)す今(いま)古伽藍(こからん)の礎石(いしすへ)のみ厳然(けんせん)として田間(てんかん)
阡陌(せんはく)の間(あいた)に埋(うつも)れて懐旧(くわいきう)情(しやう)を催(もよほ)せり《割書:此(この)寺前(しせん)畑(はたけ)の中(なか)にかつたい塚(つか)|かうかけ場(は)なと字(あさな)する地(ち)》
《割書:あり或人(あるひと)云かつたいは乞食(かつたい)かうかけ場(は)は頸掛場(かうかけは)なるへしと依(よつ)て按(あんする)に古(いにし)へ合戦(かつせん)の|後(のち)敵方(てきかた)の首級(しゆきう)を掛(かけ)し地(ち)なれは其傍(そのかたはら)に乞食(こつしき)なと住居(ちゆうきよ)してありしならん
歟(か)》
富士見塚(ふしみつか) 国分寺(こくふんし)より西(にし)の方(かた)五町 斗(はかり)を隔(へた)つ此所(このところ)に登(のほ)れは一瞬(いつしゆん)千(せん)
里(り)殊(こと)に奇観(きくわん)たり東(ひかし)は浩茫(かうほう)として限(かき)りなく天涯(てんかい)はるかに地(ち)に
接(せつ)するを見(み)るのみ中秋(ちゆうしう)の夕月(ゆふへつき)のあかきには草(くさ)より出(いて)て草(くさ)に入(いる)の
古詠(こえい)に古(いにしへ)を想像(おもひやられ)て感情(かんしやう)少(すくな)からす此故(このゆゑ)に幽人(いうしん)騒客(さうかく)こゝに来(きたり)て
【右丁】
国分寺村(こくふんしむら)
炭(すみ)かま
【枠外】 三ノ百六十七
【左丁 文字なし】
【右丁】
《振り仮名:恋ゕ窪|こひ くほ》
阿弥陀堂(あみたたう)
傾城松(けいせいのまつ)
牛頭天王(こつてんわう)
四国雑記
恋ゕ窪と
いへる所にて
朽はてぬ
名のみ
【四角囲い文字】
傾城松
熊野
八まん
庵
冨士見坂
【枠外】 三ノ百六十八
【左丁】
残れる
恋ゕくほ
今はた
問も
契
ならすや
道興准后
【四角囲い文字】
東商寺
こひかくほ
庵
阿弥陀堂
あみた坂
【右丁】
遊賞(いうしやう)せり《割書:高(たか)さ三丈はかりめくり|五十 歩(ほ)あまりあり》
阿弥陀坂(あみたさか) 富士見塚(ふしみつか)より十三町あまりを隔(へた)てゝ《振り仮名:恋ゕ漥村|こひ くほむら》の地(ち)北(きた)へ
向(むか)ひて下(くた)る坂(さか)を云(いふ)此坂(このさか)の左(ひたり)に傍(そひ)たる岡(おか)に草庵(さうあん)あり土人(としん)阿弥(あみ)
陀堂(たたう)と称(しよう)す木像(もくさう)の阿弥陀如来(あみたによらい)を本尊(ほんそん)とす《割書:延享(えんきやう)四年 鶴心(くわくしん)と云(いふ)僧(さう)|此(この)草庵(さうあん)の廃(すたれ)たるを興(おこ)す》
土人云(としんいふ)古(いにしへ)の本尊(ほんそん)は銅像(とうさう)にして今(いま)府中六所宮(ふちゆうろくしよのみや)の社地(しやち)にあるもの
是(これ)なりと相傳(あひつた)ふ往古(そのかみ)畠山庄司次郎重忠(はたけやましやうししらうしけたゝ)此地(このち)《振り仮名:恋ゕ窪|こひ くほ》の駅舎(えきしや)に
やとりし頃(ころ)寵愛(ちやうあい)せし遊君(いうくん)ありしか重忠(しけたゝ)平家追討(へいけつゐはつ)につきて西国(さいこく)へ
出陣(しゆつちん)せらる然(しかる)に其後(そののち)をこのものありて重忠(しけたゝ)討死(うちしに)したる由(よし)いつ
はりすかしたりしを実(まこと)としかの遊君(いうくん)歎(なけ)きのあまり終(つひ)に自殺(しさつ)し
たりしを後(のち)重忠(しけたゝ)聞(きゝ)てあはれと彼(かの)遊君(いうくん)か節操(せつさう)を感(かん)し菩提(ほたい)の
為(ため)に此(この)阿弥陀堂(あみたたう)建立(こんりふ)し銕(てつ)を以(もつ)て弥陀如来(みたによらい)の像(さう)を鋳(ゐ)て安置(あんち)
せしといふ《割書:因(ちなみ)に云(いふ)此地(このち)に道場畑(たうちやうはた)と字(あさな)する地(ち)あり土人(としん)云むかし此地(このち)に無量山(むりやうさん)|道成寺(たうしやうし)と号(かう)する寺院(しゐん)ありし故(ゆゑ)にしか昌(とな)ふるとそしかるときは此(この)》
《割書:阿弥陀堂(あみたたう)も其(その)境内(けいたい)にありしものなるへき歟(か)又云(またいふ)今(いま)府中六所宮(ふちゆうろくしよのみや)の社地(しやち)に|ある所(ところ)の銕像(てつさう)の弥陀佛(みたふつ)は重忠(しけたゝ)愛(あい)せし遊君(いうくん)の菩提(ほたい)の為(ため)造立(さうりふ)する所(ところ)の佛躰(ふつたい)》
【枠外】 三ノ百六十八百六十九
【左丁】
《割書:なりといへとも其(その)仏像(ふつさう)の銘文(めいふん)年号(ねんかう)等(とう)を考(かんか)ふれは重忠(しけたゝ)とは時世(しせい)大(おほい)に違(たか)ひ|誤(あやまり)なる事 明(あき)らけし猶(なほ)六所宮(ろくしよのみや)の条下(てうか)をみるへし》
《振り仮名:恋ゕ窪|こひ くほ》 同所 坂(さか)より下(した)の低(ひく)き地(ち)をいふ古(いにし)へ東奥(とうあう)北越(ほくえつ)等の国々(くに〳〵)より
京師(けいし)及(およ)ひ鎌倉(かまくら)等へ至(いた)るの駅路(うまやち)にて其頃(そのころ)は遊女(いうちよ)の家居(いへゐ)なと
ありていとにきはしかりしとなり《割書:此地(このち)に牛頭天王(こつてんわう)の叢祠(さうし)あり竹林(ちくりん)の|中(うち)に凹(くほか)なる地(ち)あるを古(いにし)への北国街道(ほつこくかいたう)の》
《割書:旧址(きうし)なりといへり》
《割書:四国雑記 《振り仮名:恋ゕ窪|こひ くほ》といへる所(ところ)にて| 朽はてぬ名のみ残れる恋か窪今はたとふもちきりならすや 道興准后》
《振り仮名:傾城ゕ松|けいせい まつ》 同所 艮(うしとら)の方(かた)八幡宮(はちまんくう)の社地(しやち)にあり同(おな)し程(ほと)の古松(こしよう)二株(ふちゆう)
雙立(さうりふ)せり土人(としん)重忠(しけたゝ)か愛(あい)せし遊君(いうくん)の塚印(つかしるし)の松(まつ)なりといひ伝(つた)ふ
然(しか)れとも社地(しやち)なるものは此(この)八幡宮(はちまんくう)の神樹(しんしゆ)なるへし
武蔵野(むさしの) 南(みなみ)は多摩川(たまかは)北(きた)は荒川(あらかは)東(ひかし)は隅田川(すみたかは)西(にし)は大嶽(たいかく)秩父根(ちゝふね)を
限(かきり)として多磨(たま)橘樹(たちはな)都筑(つつき)荏原(えはら)豊島(としま)足立(あたち)新座(にひくら)高麗(こま)比企(ひき)入間(いるま)
等(とう)すへて十 郡(くん)に跨(またか)る草(くさ)より出(いて)て草(くさ)に入(いる)又(また)草(くさ)の枕(まくら)に旅寝(たひね)の
日数(ひかす)を忘(わす)れ問(とふ)へき里(さと)の遥(はるか)なり杯(なと)代々(よゝ)の哥人(かしん)袂(たもと)をしほりしか
【右丁】
御入国(こにふこく)の頃(ころ)より昔(むかし)に引(ひき)かへ十 萬戸(まんこ)の炊煙(すいえん)紫霞(しか)と共(とも)に棚引(たなひき)
僅(わつか)に其(その)旧跡(きうせき)の残(のこ)りたりしも承応(しようおう)より享保(きやうほ)に至(いた)り四度迠(よたひまて)新田(しんてん)
開発(かいほつ)ありて耕田(かうてん)林園(りんえん)となり往古(そのかみ)の風光(ふうくわう)これなしされと月夜(けつや)
狭山(さやま)に登(のほ)りて四隣(しりん)を顧望(こもう)するときは嚝野(くわうや)蒼茫(さうはう)千里(せんり)無限(きはまりなし)
往古(いにしへ)の状(しやう)を想像(さうさう)するにたれり《割書:狭山(さやま)は弟【第】四 巻(くわん)|の中(うち)に入たり》
万葉十四東歌
武(ム)蔵(サシ)野(ノ)-尓(ニ)宇(ウ)良(ラ)敝(へ)-可(カ)多(タ)也(ヤ)伎(キ)麻(マ)左(サ)氐(テ)尓(ニ)毛(モ)乃(ノ)良(ラ)奴(ヌ)伎(キ)
美(ミ)我(カ)名(ナ)宇(ウ)良(ラ)尓(ニ)低(テ)尓(ニ)家(ケ)里(リ)
武(ム)蔵(サシ)野(ノ)乃(ノ)乎(ヲ)具(ク)奇(キ)我(カ)吉(キ)芸(キ)志(シ)多(タ)知(チ)和(ワ)可(カ)礼(ㇾ)伊(イ)尓(ニ)之(シ)与(ヨ)
比(ヒ)欲(ヨ)利(リ)世(セ)呂(ロ)尓(ニ)安(ア)波(ハ)奈(ナ)布(フ)与(ヨ)
古(コ)非(ヒ)思(シ)家(ケ)波(ハ)素(ソ)氐(テ)毛(モ)布(フ)良(ラ)武(ム)乎(ヲ)牟(ム)射(サ)志(シ)野(ノ)乃(ノ)宇(ウ)家(ケ)良(ラ)
我(カ)波(ハ)奈(ナ)乃(ノ)伊(イ)呂(ロ)尓(ニ)豆(ッ)奈(ナ)由(ユ)米(メ)
伊(イ)可(カ)尓(ニ)思(シ)氐(テ)古(コ)非(ヒ)波(ハ)可(カ)伊(イ)毛(モ)尓(ニ)武(ム)蔵(サシ)野(ノ)乃(ノ)宇(ウ)家(ケ)良(ラ)我(カ)
【枠外】 三ノ百七十
【左丁】
波(ハ)奈(ナ)乃(ノ)伊(イ)呂(ロ)尓(ニ)低(テ)受(ス)安(ア)良(ラ)牟(ム)
武(ム)蔵(サシ)野(ノ)乃(ノ)久(ク)佐(サ)波(ハ)母(モ)呂(ロ)武(ム)吉(キ)可(か)毛(モ)可(カ)久(ク)母(モ)伎(キ)美(ミ)我(カ)麻(マ)
尓(ニ)末(マ)尓(ニ)吾(ワレ)者(ハ)余(ヨ)利(リ)尓(ニ)思(シ)乎(ヲ)
和(ワ)我(カ)世(セ)故(コ)乎(ヲ)安(ア)杼(ト)可(カ)母(モ)伊(イ)波(ハ)武(ム)牟(ム)射(サ)志(シ)野(ノ)乃(ノ)宇(ウ)家(ケ)良(ラ)
我(カ)波(ハ)奈(ナ)乃(ノ)登(ト)吉(キ)奈(ナ)伎(キ)母(モ)能(ノ)乎(ヲ)
《割書:新古今| 行末は空もひとつの武蔵野に草の原より出る月かけ 摂政| 太政大臣》
《割書:続古今| むさしのは月の入るへき山もなし尾花か末にかゝる白雲 通方》
《割書:玉葉| 旅人の行かた〳〵にふみわけて道あまたあるむさしのゝ原 右大臣》
《割書:続千載| むさし野は猶行く末も秋萩の花摺衣かきりしられす よみ人| しらす》
《割書:続後拾遺| 春もまた色には出すむさしのや若紫の雪の下草 家隆》
《割書:新続古今| むらさきのゆかりの色も問わひぬみなから霞むむさしのゝ原 定家》
《割書:千五百番哥合| 若菜摘ゆかりにみれはむさしのゝ草はみなから春雨そふる 雅経》
【右丁】
《割書:夫木| 花の色も籠りし妻やこれならん一本菊のむさしのゝ原 為実》
《割書:回国雑記 むさし野(の)にて残月(さんけつ)をなかめて| 山遠し有明のこるひろ野かな 道興| 准后》
《割書:桂林集 むさし野(の)に長陣(なかちん)せし時(とき)ほとゝきすを聞(きゝ)て| むさしのは木陰も見えす時鳥幾日を草の原に鳴らん 直朝》
《割書:武蔵野記行| 天文(てんもん)十五年 仲秋(ちゆうしう)の頃(ころ)むさし野(の)をみんと此(この)年月(としつき)| 思(おも)ひ立(たち)ぬることなれは人〳〵あまたうちつれて小鷹(こたか)かり| して遊(あそ)はんとて《割書:中略》むさし野(の)をかり行(ゆく)にまことにゆけ| ともはてあらはこそ萩(はき)薄(すゝき)女郎花(おみなへし)の露(つゆ)にやとれる| 虫(むし)の声(こゑ)〳〵あはれをもよほすはかりなり| むさし野といつくをさして分入らん行もかへるも果しなけれは 氏康| いにしへの草(くさ)のゆかりもなつかしけれはなり是(これ)も| むらさきのひともとゆゑなるへし| 道たつなよ我世の中の人なれはしるもしらぬも草の一本 同》
《割書:武蔵野(むさしの)の古哥(こか)は万葉集(まんえふしふ)をはしめとし代(よ)々の撰集(せんしふ)其余(そのよ)哥合(うたあはせ)およひ家々(いへ〳〵)|の集等(しふとう)にあまたあれとも枚挙(まいきよ)にいとまあらすたゝ世(よ)に耳(みゝ)なれたるもの其(その)|百(ひやく)かひとつを記(しる)しはへるのみ》
【枠外】 三ノ百七十一
【左丁】
武蔵野翁(むさしのゝおきな) 翁(おきな)は其(その)郷(かう)姓(せい)話(かた)らすたゝ郁芳門院(いくはうもんゐん)の一《振り仮名:﨟士|ろうし》と
云(いふ)院(いん)崩(ほう)するの後(のち)齢(よはひ)二十九にして世(よ)を避(のかれ)て諸国(しよこく)を遊歴(いうれき)し
此(こゝ)に止(とゝま)る庵(いほ)を結(むす)ひ月(つき)に臥(ふ)して武蔵野(むさしの)の広(ひろき)を愛(あい)す六十年を
経(へ)て西行法師(さいきやうほふし)に邂逅(かいこう)す一宿(いつしゆく)を投(とう)して通宵(よもすから)古(いにしへ)を淡(たん)【談ヵ】し涙(なみた)を
緇衲(しのふ)に濺(そゝ)き暁(あかつき)に迨(およん)て別(わつ)る《割書:続扶桑隠逸傳(そくふさうゐんいつてん)|の文意(ふんい)をとる》
《割書:西行物語 さしていつくを心(こゝろ)さすともなけれは月(つき)のひかりにさそはれて| はる〳〵とむさし野(の)にわけ入(いる)ほとにをはなか露(つゆ)にやとる月(つき)末(すゑ)こす風(かせ)に| 玉(たま)ちりて小萩(こはき)かもとのむしのねいと心(こゝろ)ほそくむさし野(の)の草(くさ)のゆかりを| 尋(たつね)けんもなつかしくやとをは月(つき)にわすれてあすの道行なんと| 口(くち)すさひて行(ゆく)程(ほと)に道(みち)より五六町はかりさし入(いり)て経(きやう)をとくしゆする| こゑしけれは人里(ひとさと)は此末(このすゑ)に遥(はるか)に道たゝりたるとこそ聞(きゝ)しにあやしと| 思(おも)ひて声(こゑ)につきて尋(たつ)ね入(いり)てみれはわつかなる庵(いほ)のうへをはうす| から萱(かや)にてふき萩(はき)女郎花(をみなへし)いろ〳〵の秋(あき)の草(くさ)にてめくりをかこひ夜(よ)ふす| 所(ところ)とおほえて東(ひかし)によりてわらひのほとろを折(をり)しき西(にし)のかへに画(ゑ)さう| の普賢(ふけん)をかけ奉(たてまつ)り御(み)まへには法華(ほつけ)八 軸(ちく)を置(おか)れたり庭(には)には千草(ちくさ)の| 花露(はなつゆ)にかたふき虫(むし)のこゑ〳〵所(ところ)からにあはれにいつこそと問(と)ふ人(ひと)もあら| しとおもへはかよひちもたえにけり庵(いほり)の内(うち)を見(み)いれたれはかうへには雪(ゆき)| ふりまゆには霜(しも)をたれたる老僧(らうそう)九十 有余(いうよ)とおほえたるか在於閑處(さいおけんしよ)| 修摂其心(しゆせうこしん)とよみたてまつる若(もし)仙人(せんにん)なとにてもやとあやしく思(おも)ひて| 八月十五 夜(や)名(な)にたかはぬ月(つき)のかけなれはいつくのかくれ家(か)まてもまかふ》
【右丁】
《割書: へきかたもなしあゆみよりまへに侍(はへ)りけれともたかひにあきれたる| さまにて物(もの)ものたまはすやゝ久(ひさ)しくありて西行(さいきやう)いかなる人のかくては| おはするやらんと問(とひ)けれともこたふる事なしかさねて我(われ)は都(みやこ)のほとりの| ものなりあつまのかたゆかしくて下(くた)りはへりしかむさし野(の)のけしき| あるさとにて聞(きゝ)しよりもあはれに覚(おほ)えてわけ入(いる)程(ほと)になんこれより| 人(ひと)住(すむ)方(かた)もはるかなりときくなにをつたよりの御すま居(ゐ)にかいにしへの| 御事(おんこと)もゆかしくなんといへは老僧(らうそう)郁芳門院(いくはうもんゐん)の侍([さ]むらい)の一﨟(いちろう)にてはへりしか| 女院(によゐん)かくれさせたまひてのち出家(しゆつけ)して国々(くに〳〵)修行(しゆきやう)せしか此野(このの)へ仏道(ふつたう)| 修行(しゆきやう)のかくれ家(か)にたよりありとおもひて廿九の年(とし)よりすてに六十 余(よ)| 年 此所(このところ)にとゝまれりされは読誦(とくしゆ)の数(かす)七万 余部(よふ)なりとかたる| 西行(さいきやう)も郁芳門院(いくはうもんゐん)の御事もよそならぬ御事なれはたかひに| かたりこけのたもとをしほり名残(なこり)をしくおほえけれともあかつき| かた立(たち)わかるゝとて| いかて我きよくくもらぬ身となりて心の月のかけをみかゝん| いかゝすへき世にあらはやは世をも捨てあなうの世やとさらに思はん| 秋はたゝこよひはかりの名なりけり同し雲井に月はすめとも》
紫草(むらさき) 武蔵野(むさしの)の景物(けいふつ)とす和名類聚抄(わみやうるゐしゆしやう)無良散岐(むらさき)と訓(くん)す
紫(むらさき)は最上(さいしやう)の色(いろ)にして古歌(こか)にも免(ゆるし)の色(いろ)又(また)位(くらゐ)の色(いろ)抔(なと)詠(よみ)あはせ
たり根(ね)を砕(しほり)て染(そむ)る故(ゆゑ)に紫(むらさき)の根染(ねそめ)又(また)紫(むらさき)の根摺(ねすり)ともいへり女(をんな)に
比(ひ)しては縁(ゆかり)の色(いろ)抔(なと)もいへり江戸(えと)の紫染(むらさきそめ)は最(もつとも)絶妙(せつみやう)にして他邦(たほう)に
比類(ひるゐ)なし故(ゆゑ)に江戸(えと)むらさきの称(しよう)あり
【枠外】 三ノ百七十二
【左丁】
延喜式 内蔵寮式曰
紫草二萬二百斤武蔵国信濃国二千八百斤云々
同書曰 民部省式曰
紫草三千三百斤云々
《割書:古今| 紫の一本故に武蔵野の草はみなからあはれとそみる よみ人| しらす》
《割書:後撰| むさし野は袖ひつはかりわけしかと若紫は尋わひにき 同》
《割書:新勅撰| 武蔵野の野中をわけて摘初し若紫の色はかきりか 九条| 右大臣》
《割書:続古今| むさし野に生とし聞は紫の其色ならぬ草もむつまし 小町》
逃水(にけみつ) 武蔵野(むさしの)の景物(けいふつ)なり里老(りらう)云(いは)く仲秋(ちゆうしう)の末(すゑ)霖雨(りんう)の頃(ころ)此(この)
野(の)を行(ゆく)に凹(くほか)なる所(ところ)に水(みつ)湛(たゝ)へて通(かよ)ひかたし此所(こゝ)に除(よけ)彼所(かしこ)にさけて
行(ゆく)に道(みち)も定(さたか)ならす草根(さうこん)沼(ぬま)の如(こと)し故(ゆゑ)に往来(わうらい)の人(ひと)《振り仮名:吟■|さまよひ》【注】歩行(あるく)を云と
此説(このせつ)信(しん)とするに足(たら)さるへし或(あるひは)云(いふ)天日(てんしつ)快明(くわいめい)の時(とき)嚝野(くわうや)陽熖(やうゑん)の気(き)に
よりて遠(とほ)く望(のそ)めは草(くさ)の葉(は)末(すゑ)の風(かせ)に靡(なひく)か水(みつ)の流(なか)るゝ如(こと)く見(み)ゆるを
いふ依(よつて)其所(そのところ)とおほしき辺(あたり)へ至(いた)れとも素(もと)水流(すゐりう)あるにあらされは
【注 ■は「口+由」。「呻吟」ヵ】
【右丁】
府中(ふちゆう)
八(や)はた
八幡宮(はちまんくう)
【四角囲い文字】
八幡宿
八幡
【枠外】 三ノ百七十三
【左丁】
【四角囲い文字】
染谷村
【右丁】
終(つひ)に其水(そのみつ)の原(もと)に至(いた)る事(こと)を得(え)す故(ゆゑ)に此名(このな)ありといふそよろしかるへき
《割書:夫木| 東路にありといふなる逃水のにけかくれても世を過すかな 俊頼》
《割書:同| むさし野の草葉かくれに行水の逃かくれてもありとこそきけ よみ人| しらす》
性霊集詠陽燄喩 遅々春日風光動陽燄紛々嚝野
飛舉體空々無所有狂児迷渇遂㤀帰遠而似水近
無物走馬流川何処依下略
運敝註智論曰 飢渇悶極見熱気如野馬謂之為
水疾走趣之転近転滅走馬流川皆謂陽炎状貌也
唐陸勲志怪録曰 深州東鹿県中有水影長七八尺
遥望見人馬往来如在水中乃至前不見水
周處風土記曰 広野中陽燄望之如波濤奔馬謂之
水影此天地之気絪縕盪潏回薄変幻何往不有
《割書:按(あんする)に性霊集(しやうりやうしふ)其余(そのよ)前(まへ)に載(のす)る所(ところ)の書(しよ)いつれも陽燄(やうゑん)の気(き)のな■【すヵ】所(ところ)なりとす先(さき)の説(せつ)|思(おも)ひあはすへしされと今(いま)は悉(こと〳〵)く民居(みんきよ)又(また)は田園(てんゑん)に沿革(えんかく)して俤(おもかけ)をさへ残(のこ)す事なし》
武蔵野(むさしの)の勝槩(しようかい)たるや名所(めいしよ)多(おほ)きか中(なか)にも殊更(ことさら)に其(その)聞(きこ)え高(たか)く凡(およそ)
東西(とうさい)十三里 南北(なんほく)十里あまりもやあらん旧記(きうき)に四方八百里に余(あま)れ
りと書(かけ)るは筆(ふて)のすさひと云へし天正(てんしやう)以来(このかた)江戸(えと)の地(ち)を以(もつ)て御城営(こしやうえい)
に定(さため)させられしより広莫(くわうはく)の原野(けんや)も田に鋤(すき)畑(はた)に耕(たかや)し尾花(をはな)か浪(なみ)も
【枠外】 三ノ百七十四
【左丁】
民家(みんか)林藪(りんさう)に沿革(えんかく)して万か一を残(のこ)せるのみ《割書:元禄中(けんろくちゆう)柳澤矦(やなきさはかう)川越(かはこえ)を|領(りやう)せられし頃(ころ)北武蔵野(きたむさしの)》
《割書:新田開発(しんてんかいはつ)により下宿(けしゆく)といふ地(ち)の傍(かたはら)に原野(けんや)の形勢(かたち)を残(のこ)され大野(おほの)と号(なつ)くる|故(ゆゑ)に月(つき)にうそふき露(つゆ)をあはれみまた千種(ちくさ)の花(はな)を愛(めて)虫(むし)の音(ね)を賞(しやう)せんと|中秋(ちゆうしう)の頃(ころ)幽情(いうしやう)をしたふの輩(ともから)こゝに遊(あそ)へり其(その)行程(きやうてい)江戸(えと)よりは十里あま|りあり》
八幡宮(はちまんくう) 府中六所宮(ふちゆうろくしよのみや)の末社(まつしや)にして甲州街道(かいしうかいたう)八幡宿(やはたしゆく)の道(みち)より左(ひたり)に
あり祭(まつ)る所(ところ)応神天皇(おうしんてんわう)なり六所宮(ろくしよのみや)の神主(かんぬし)猿渡氏(さるわたりうち)兼帯(けんたい)奉祀(ほうし)
す相伝(あひつたふ)聖武天皇(しやうむてんわう)の御宇(きよう)日域(にちいき)の国(くに)々に勧請(くわんしやう)し営宮(えいくう)する所(ところ)の
もの皆(みな)是(これ)八幡村(やはたむら)の八幡宮(はちまんくう)といふ多(おほ)くは総社神祠(さうしやしんし)の近(ちか)きにあり
当社(たうしや)も古(いにしへ)は本社(ほんしや)礼殿(れいてん)並(なら)ひ建(たち)て荘厳(さうこん)蕩々(たう〳〵)たり其後(そののち)は漸(やうやく)
衰敝(すゐへい)に逮(およ)ひ今(いま)は即(すなはち)茅宮小社(かやふきのしやうしや)なり《割書:四十年あまり前(まへ)まては老杉(らうさん)一 株(ちゆう)|ありて空(くう)に聳(そひ)え千歳の徴(しるし)と》
《割書:しるにたれりされと其樹(そのき)明和年間(めいわねんかん)の|暴風(はうふう)に吹折(ふきをれ)て今(いま)は其(その)あとのみを存(そん)せり》又(また)社境(しやけう)圃園(ほゑん)の中(なか)に《振り仮名:権ノ正|こん かみ》といふ
地名(ちめい)あり古(いにしへ)の宮守(みやもり)居住(きよちゆう)の跡(あと)なりといへり
《振り仮名:滝の社|たき しや》 当社(たうしや)も六所宮(ろくしよのみや)の末社(まつしや)にして八幡宮(はちまんくう)より三町あまり
東南(とうなん)の方(かた)にあり祭神(さいしん)倉稲魂大神(うかのみたまおほかみ)なり社(やしろ)の傍(かたはら)に少(すこ)し斗(はかり)の
【右丁】
府中(ふちゆう)
称名寺(しようみやうし)
弥勒寺(みろくし)
善明寺(せんみやうし)
高安寺(かうあんし)
【四角囲い文字】
称名寺
本堂
地蔵
天神
六所宮
【枠外】 三ノ百七十五
【左丁】
【四角囲い文字】
善明寺
本堂
熊野
みろく
本堂
弥勒寺
高安寺
七観音
本堂
【右丁】
飛泉(たき)あり六所宮(ろくしよのみや)の御手洗(みたらし)池と称(しよう)す毎年(まいねん)五月五日/大祭(たいさい)の時(とき)
神幸供奉(しんかうくふ)の輩(ともから)は五月朔日より此滝(このたき)に浸(ひた)りて身(み)を清(きよ)め神㕝(しんし)に
たつさはれりと云(いふ)
石塚社(いしつかのやしろ) 当社(たうしや)も又(また)六所宮(ろくしよのみや)の末社(まつしや)にして同所/南(みなみ)の方(かた)代小川(しろこかは)の辺(へん)に
あり祭神(さいしん)磐筒男命(いはつゝをのみこと)磐筒女命(いはつゝめのみこと)二/座(さ)なり
府中駅舎(ふちゆうのえきしや) 甲州街道(かうしうかいたう)の官駅(くわんえき)にして江戸日本橋(えとにほんはし)より七里《割書:布田(ふた)より|一里廿七丁》
《割書:日野(ひの)へ二里|八丁あり》旅舎(りよしや)多(おほ)し《割書:新宿(しんしゆく)本宿(ほんしゆく)番場(はんは)|宿(しゆく)等(とう)の名(な)あり》旧名(きうみやう)を小野県(をのゝあかた)と/称(しよう)す武蔵国(むさしのこく)
府(ふ)にして上古(しやうこ)国造居館(こくそうきよくわん)の地(ち)なり和名類聚抄(わみやうるゐしゆしやう)にも武蔵国府(むさしのこくふ)は
多麻郡(たまこほり)にありと載(のせ)たり徴(しるし)とすへし延喜(えんき)延長(えんちやう)の頃(ころ)一変(いつへん)して此辺(このへん)
すへて小川郷(をかはのかう)と称(しよう)す《割書:風土記曰小川郷穀二百六十七束|三毛田貢は松桃鞍靴之類云々》又/其後(そののち)小野小(をのを)
川(かは)の称(しよう)止(やむ)て府中領(ふちゆうれう)と総称(さうしよう)す尚(なほ)此郡(このこほり)玉川(たまかは)を境(さかひ)とし川南を多(た)
西郡(さいこほり)川北を多東郡(たとうこほり)とも称(しよう)したりし事(こと)古文書(こもんしよ)にみえたり《割書:常陸(ひたち)対(つし)|馬(ま)長門(なかと)》
《割書:越前(ゑちせん)越後(ゑちこ)皆(みな)|/府中(ふちゆう)と称(しよう)せり》
【赤印】尾﨑藏書
【枠外】 九ノ冊 三ノ百七十六
【裏表紙】
【表紙】
【題箋】
《題:江戸名所図會 十六》
【見返し】
【左丁】
江戸名所図会(えとめいしよつゑ)巻之六(けんのろく)
開陽之部目録(かいやうのふもくろく)
金竜山浅草寺(きんりうさんせんさうし)《割書:観音堂(くわんおんたう) 古絵馬(こゑま) 山門(さんもん) 五層塔(こしふのたふ) 輪蔵(りんさう) 随身門(すゐしんもん)|三社権現(さんしやこんけん)堂 熊谷稲荷(くまかやいなり)社 十社権現(しつしやこんけん)社 念仏堂(ねんふつたう) 閻魔堂(えんまたう)》
《割書:地蔵菩薩古碑(ちさうほさつのこひ) 慈覚大師護摩檀之旧跡(しかくたいしこまたんのきうせき) 護国殿(ここくてん) 淡島(あはしま)祠 銭塚弁天(せにつかへんてん)祠 例幣使松(れいへいしのまつ)|西宮稲荷(にしのみやいなり)社 平内兵衛石像(へいないひやうゑのせきさう) 石(いし)の枕(まくら)来由(らいゆ) 一権現(いちのこんけん)社 姥(うは)ゕ池(いけ) 楊枝店(やうしみせ) 六地蔵石灯篭(ろくちさういしとうろう)》
《割書:坊舎(はうしや) 雷神門(らいしんもん) 観世音出現(くわんせおんしゆつけん)の図 藜堂来由(あかさたうらいゆ)の図 六月十五日 祭(まつり)の内 節分会(せつふんゑ)の図|十二月十八日 年(とし)の市(いち)図 薮内馬市(やふのうちむまいち)図》
浅草川(あさくさかは) 駒形観音堂(こまかたくわんおんたう) 三島明神(みしまみやうしん)社 清水稲荷(しみついなり)社《割書:同 来由(らいゆ)|の図》
諏訪明神(すはみやうしん)社 榧寺(かやてら)《割書:御厩河岸(おむまやかし)|渡(わた)しの図》 大蔵前八幡宮(おほくらまへはちまんくう) 閻魔堂(ゑんまたう)《割書:奪衣婆(たつえは)|地蔵(ちさう)観音(くわんおん)》
祗園(きをん)社《割書:同 祭(まつり)の図|十王堂(しふわうたう)》 銀杏八幡宮(いてうはちまんくう) 第六天神(たいろくてんしん)社《割書:篠塚(しのつか)|稲荷(いなり)社》 鳥越里(とりこへのさと)
鳥越明神(とりこへみやうしん)社 西福寺(さいふくし)《割書:御宮|弁天(へんてん)祠》 浄念寺(しやうねんし) 東漸寺(とうせんし)
手向野旧址(たむけのゝきうし) 東本願寺(ひかしほんくわんし)《割書:報恩講(ほうおんかう)|参詣(さんけい)図》 報恩寺(ほうおんし)《割書:開山古事(かいさんこし)|寺宝(しはう)》 誓願(せいくわん)寺
日輪寺(にちりんし) 天岳院(てんかくゐん) 称往院(しやうわうゐん) 東光院(とうくわうゐん)
海禅寺(かいせんし) 清水寺観世音(せいすゐしくわんせおん) 上宮太子堂(しやうくうたいしたう) 除厄太子堂(やくよくたいしたう)
祝言寺(しゆうけんし) 長遠寺日蓮大士(ちやうをんしにちれんたいし) 幡随意院(はんすゐゐゐん)《割書:妙竜水(みやうりうすゐ)| 》 信州善光寺灯明(しんしうせんくわうしとうみやう)《割書:灯明(とうみやう)|寺(し)》
【右丁】
永昌寺(えいしやうし) 広徳寺(くわうとくし) 下谷稲荷(したやいなり)社 下谷岡(したやのをか)
東叡山山下(とうえいさんやました)の図(つ) 五条天神(こてうてんしん)社 常楽院(しやうらくゐん)《割書:六阿弥陀|五番目》 上野坂本口(うへのさかもとくち)図
養玉院(やうきよくゐん) 善養寺閻魔堂(せんやうしえんまたう) 入谷庚申堂(いりやかうしんたう) 小野照崎明神(おのてるさきみやうしん)社
金杉安楽寺(かなすきあんらくし) 根岸円光寺(ねきしゑんくわうし)《割書:庭中(ていちゆう)|藤棚(ふちたな)》 時雨岡(しくれのおか)
不動堂御行(ふとうたうおきやう)の松(まつ) 正灯寺(しやうとうし)《割書:園中(ゑんちゆう)|楓樹(かえて)》 簑輪西光寺(みのわさいくわうし) 千束郷(せんそくのかう)《割書:千束(せんそく)|稲荷(いなり)社》
木戸孝範第宅旧跡(きへたかのりていたくのきうせき)《割書:三河島| 》 万里小路寓居之地(まてのこうちくうきよのち) 山谷熱田明神(さんやあつたみやうしん)社
駿馬(しゆんめ)の塚(つか) 小塚原天王(こつかはらてんわう)社 飛鳥明神(あすかみやうしん)社《割書:瑞光石(すゐくわうせき)| 》 誓願寺(せいかんし)
熊野権現(くまのこんけん)社 千住大橋(せんしゆおほはし)《割書:千住川| 》 光茶銚(ひかりちやかま) 沼田延命寺(ぬまたえんめいし)《割書:六阿弥陀|二番目》
《割書:彼岸詣(ひかんまうて)の図| 》 富士浅間(ふしせんけん)宮 浅間(せんけん)の淵(ふち) 十二天森(しふにてんのもり)
余木弥陀如来(きあまりみたによらい) 西新井弘法大師堂(にしあらゐこうほふたいしたう) 大師 加持水(かしすゐ) 六月村八幡宮(ろくくわつむらはちまんくう)
白籏塚(しらはたつか)《割書:白籏耕地(しらはたかうち)|兜塚(かふとつか)》 梅田明王院(むめたみやうわうゐん) 天満宮(てんまんくう) 不動堂(ふとうたう) 鷲大明神(わしたいみやうしん)社《割書:同 祭(まつり)|の図(つ)》
石浜(いしはま) 石浜 城跡(しろあと) 橋場(はしは) 朝日神明宮(あさひしんめいくう)
牛頭天王(こつてんわう)祠 天満宮(てんまんくう) 真崎稲荷(まつさきいなり)社《割書:神木(しんほく)|榎(えのき)》 思(おも)ひ川(かは)
【左丁】
隅田川渡(すみたかはわたし) 石浜古戦場(いしはまこせんちやう) 正平合戦之図(しやうへいかつせんのつ) 砂尾不動堂(すなをふとうとう)
総泉寺(そうせんし)《割書:千葉介墳墓(ちはのすけのふんほ)|宇都宮入道墳墓(うつのみやにうたうのふんほ)》 浅茅(あさち)ゕ原(はら) 妙亀塚(みやうきつか)《割書:妙亀明神(みやうきみやうしん)社|古墳(こふん)》
鏡(かゝみ)ゕ池(いけ) 袈裟掛松(けさかけまつ) 采女塚(うねめかつか) 玉姫稲荷(たまひめいなり)祠
東野先生墓(とうやせんせいのはか) 法源寺(ほふけんし)《割書:従二位有理卿墓碑(しゆにゐありよしきやうのほひ) 斎藤別当実盛墓(さいとうへつたうさねもりのはか)|権太夫景道石塔(こんのたいふかけみちのせきたふ)》
長昌寺(ちやうしやうし)《割書:宗論(しうろん)の芝(しは)|鐘(かね)ゕ淵(ふち)来由(らいゆ)》 今戸八幡宮(いまとはちまんくう) 聴水鶏(くひなきゝ)の図(つ) 今戸陶器師(いまとすゑものし)
山谷掘今戸橋(さんやほりいまとはし)の図 慶養寺(けいやうし) 真土山(まつちやま)
聖天宮(しやうてんくう) 日本堤(にほんつゝみ) 新吉原町(しんよしはらまち)
金龍山(きんりうさん)淺草寺(せんさうし) 傳法院(てんほふゐん)と號(かう)す坂東順禮所(はんとうしゆんれいしよ)第十三番目なり天台(てんたい)
宗(しう)にして東叡山(とうえいさん)に屬(そく)せり
《割書:按(あんす)るに東鑑(あつまかゝみ)に建久(けんきう)三年壬子五月八日 法王(ほふわう)四十九日の御佛事(おんふつし)に百僧供(ひやくそうく)を修(しゆ)せらるゝと其(その)条下(てうか)に|僧衆(そうしゆ)の中(うち)淺草寺(せんさうし)よりも三口(さんく)とあり又同書に建長(けんちやう)三年辛亥三月六日 淺草寺(せんさうし)へ牛(うし)の如(こと)きもの|忽然(こつせん)と出現(しゆつけん)し奔走(ほんそう)す時に寺僧(しそう)五十口(こしつく)はかり食堂(しきたう)に集會(しゆふくはい)する所(ところ)に件(くたん)の恠異(けい)を見て廿四人 立所(たちところ)に病(ひよう)|瘂(あ)を受(うく)七人 即座(そくさ)に死(し)するよしと記(しる)せり寺僧(しそう)五十口(こしつく)はかりとあるときは徃古(むかし)も猶(なを)大伽藍(たいからん)なる事|をしるへし永禄(えいろく)二年 小田原北条家(をたはらほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)に淺草寺家分(せんさうしけふん)四拾貫九百文を附(ふ)せらるゝよし|出たり》
本堂(ほんたう) 本尊(ほんそん)聖観世音菩薩(しやうくわんせおんほさつ)《割書:世(よ)に傳(つた)へいふ御長(みたけ)一寸八分としかれとも古(いにしへ)より秘佛(ひふつ)にし|て輙(たやすく)宝帳(はうちやう)を褰(かゝけ)されは其實(そのまこと)を知(しり)かたし》
《振り仮名:𦚰士|けふし》梵天(ほんてん)帝釋(たいしやく)《割書:むらさきの一本(ひともと)といへる草紙(さうし)に|此二尊は行基大士(きよううきたいし)の作なりとあり》四天王(してんわう) 《振り仮名:𦚰壇|けふたん》 右 不動明王(ふとうみやうわう) 左
愛染明王(あいせんみやうわう) 後左右(うしろのさいう) 三十三身像(さんしふさんしんのさう)《割書: 其 余(よ)堂内(たうない)に諸(もろ〳〵)の佛天(ふつてん)を安置(あんち)す中(なか)にも賔頭盧(ひんつる)|尊者(そんしや)は慈覚大師(しかくたいし)の作(さく)にして霊験(れいけん)いちしるし》
額(かく)《割書:観音堂》《割書:御拜(こはい)の|上にかくる》大明福州漳郡龍邑(たいみんふくしうしやうくんりういふ)徐紹勲筆(しよせうくんのふて)
額(かく)《割書:施無畏》《割書:外陣(けちん)の家帯(なけし)|にかけてあり》深見玄岱筆(ふかみけんたいのふて)《割書:天井(てんせう)の龍(りよう)ならひに内陣(ないちん)天井(てんせう)の鳳凰(ほうわう)後壁(うしろかへ)|の二十八部衆等(にしふはちふしゆとう)は狩野永眞(かのえいしん)の筆(ふて)拜殿(はいてん)》
《割書:の天井(てんせう)に畵(ゑかけ)る天人(てんにん)は狩野洞春(かのとうしゆん)の筆(ふて)なり》
聯(れん)
《割書:内陣(ないちん)の左|右に掲(かく)る印(いん)》《題: 山頭月影雲光色々無非般若》
【左丁】
《割書:に元壽(けんしゆ)の|二字を住(ちゆう)|す筆者(ひつしや)|孟寛(まうくはん)の傳(てん)|あれともしけきをいとひて|こゝに畧(りやく)せり》
《題: 檻外松濤竹浪聲々都入圓通》
古繪馬(こゑま) 《振り仮名:𦚰壇|けふたん》左(ひたり)の方 不動尊(ふとうそん)の前(まへ)にかけたり世俗(せそく)古法眼元信(こほふけんもとのふ)の筆(ふて)
なりといふは誤(あやまり)なり《割書:寛政(くはんせい)の始(はしめ)本堂 修営(しゆえい)ありし頃(ころ)狩野何某(かのなにかし)親(したしく)是を影写(えいしや)す実(じつ)に六七百|年を経(へ)たる古物(こふつ)うたかふへからす傍(かたはら)に画家(くはか)の名(な)及(をよひ)印章等(いんしやうとう)あれとも湮滅(いんめつ)し》
《割書:て讀(よむ)へからす既(すて)にして|木(き)の性(しやう)をうしなへり》傳(つたへ)いふ徃古(そのかみ)此馬(このむま)毎夜(よこと)に額(かく)を秡(ぬけ)【拔】出て境内(けいたい)の草(くさ)を喰(はみ)あたり
近(ちか)き田畑(たはた)をもあらしけれは其頃(そのころ)左甚(ひたりちん)五郎といへる名譽(めいよ)の彫工(てうこう)を頼(たの)みて曳縄(ひきなは)を
書添(かきそへ)しむ仍(よつて)其後(そのゝち)は此事 止(やみ)けりとそ《割書:是大なる附會(ふくわい)の説(せつ)ならん曳縄(ひきなは)も同時の物(もの)にして|後世(こうせい)書加(かきくは)へたるにはあらす図(つ)に依(よつ)て辨(へん)し明(あきらむ)へし》
《割書:されと畫(くは)する所(ところ)の馬(むま)に霊(れい)ありて秡出(ぬけいて)たるといへる事 頗(すこふる)|妄誕(まうたん)に似(に)たりといへとも其 證(しよう)とするあり|歷代名画記(れきたいめいくはき)巻第八に云く唐世祖(とうのせいそ)の時(とき)楊子蕐(やうしくわ)といへる人あり甞(かつて)壁上(へきしやう)に馬を畫(ゑか)く其馬(そのむま)夜(よる)嘶(いなゝい)て|水草(すいさう)を索(もとむ)るか如し仍(よつ)て天下(てんか)號(なつ)けて画聖(くはせい)と称(しよう)すと云云又|揮塵後録(きちんこうろく)に曰 聖宮門(せいきうもん)の両廡(りやうふ)の下(した)に畫(ゑか)く所(ところ)の人馬(しんは)みな流汗(りうかん)の迹(あと)あり慶暦中(けいれきちゆう)に一夕(いつせき)人馬(しんは)の声(こへ)|あり明(あくる)に至(いた)つてこれを観(み)るに汗(あせ)の流(なか)るゝあり今にいたつて滅(きえ)すと云云|元亨釋書(けんかうしやくしよ)に云く昔(むかし)天王寺(てんわうし)の道公(たうこう)紀(き)の熊野山(くまのさん)に安居(あんこ)す夏(け)終(おわつ)て帰(かへ)るさの道暮(みちくれ)に逮(をよ)んて大樹(たいしゆ)の|下(もと)に宿(しゆく)せり其 夜半(やはん)騎馬(きは)の者(もの)あまた樹下(しゆか)にいたつて翁(をきな)ありやととふ一老翁(いちらうをう)荅(こたへ)てありといへり彼者(かのもの)|云く何そ前(さき)に進(すゝ)まさるとまた翁(おきな)こたへて云く馬(むま)の足(あし)損(そん)して乗(のる)に任(たえ)す齢(よはひ)もまた衰(おとろ)へたれ|は徒歩(かち)より行(ゆく)事あたはすと荅(こた)へけれはいさとて皆々(みな〳〵)通り過(すき)けり明旦(あくるあした)公(こう)恠(あやしみ)て樹下(しゆか)を見るに》
【右丁】
金龍山(きんりうさん)
淺草寺(せんさうし)
全圖
《割書:共五枚》
花川戸
並木町
名酒
隅田川
淺草川
番屋
手水屋
【左丁】
回國雜記
淺草といへる所に
とまりて
庭に殘れる草花を
みて
冬の色は
また浅草の
うら枯に
秌の露をも
のこす
庭かれ
道興准后
東國記行
角田川も見えわたるに
森のやうなる梢ありとへは
関東順禮観音浅草と云
所となん立よりて結緣
すべしなといへは
秋ならぬ木末の花も
あさくさの
露なかれそふ
角田川かな
宗牧
風雷神
かしま
秋葉
弁天
大神宮
【右丁】
其二
《割書:二十 軒茶屋(けんちやや)は|哥仙茶屋(かせんちやや)とも|いへり昔(むかし)はこの所の|茶店(ちやみせ)にて御福(こふく)の|茶(ちや)まいれとて叅(さん)|詣(けい)の人を呼(よ)ひけるとそ|今(いま)は其家(そのいへ)の貟(かす)|二十 余軒(よけん)ある故(ゆへ)に|俗(そく)是(これ)をよむて|二十 軒茶屋(けんちやや)と| いひならは| せり》
妙けん
松の尾
金ひら
出世大こく
不動
このかは珠数屋
ねはん堂
【左丁】
五元集
石の
枕に
鮨や
あり
ける
今の
茶
屋
其角
このかは手遊屋
石そん
子聖
銭瓶弁天
くしやくも門
観音
二王
時鐘
錦袋円
梅園院
【右丁】
其三
地藏
東谷
講釈
二十けん茶屋
平内像
ばんや
東■【谷ヵ】
手遊やおほし
観音
せいし
せいし
芝居
五重塔
手水や
傳法院
人丸
因果地藏
【左丁】
輪藏
二王門
本坊
ず
隨身門
ゑひす
ゑま堂
地主いなり
両かはゆうしや
鐘ろう
両かはゆうしや
【右丁】
不動
聖天
手水や
神馬や
御供所
三社權現
山王
番や
ひしや門
かすか
八まん
ふけん
もんしゆ
㐧六天
寅やくし
いたてん
御供水
【左丁】
其四
ほうそう神
勅使末
此へんやうしみせおほし
十社
ゑひす
大こく
銭塚弁天
熊■【谷】いなり
ちそう
秋は
尺■【処ヵ】
あはしま
地藏
人丸
笠神明
かせん店【?】
念佛堂
源水
薬師
【右丁】
其五
千本さくら
こま堂
楊弓
芝居
くまの
古碑
芥の助
みこしや
地藏
ゑんま
楊弓
【左丁】
法威能救衆生憂
小白蕐山彼岸舟
若把馬郎令渡水
應同海底有泥牛
羅山子
水茶や
冨士
なめし茶や
若宮いなり
なめし茶や
なめし茶や
【右丁】
《割書:小神祠(こほこら)ありその像(さう)朽損(くちそん)す前(まへ)に|一片(いつへん)の古(ふる)き絵馬(ゑま)あり前足(まへあし)の|ところその板(いた)破裂(はれつ)す公(こう)すなはち|糸(いと)をもつて繋補(けいほ)し|前(さき)の神言(しんけん)をこゝろみんと|して次(つき)の夜(よ)も猶(なを)樹下(しゆか)に|宿(しゆく)す中夜(ちうや)また騎馬(きは)の人|来(きた)つて翁(おきな)を問(と)ふ翁 馬(むま)に乗(しよう)|してさきに進(すゝみ)て出さり|暁(あかつき)に至(いた)つて帰(かへ)りきたり|公(こう)に向(むか)ひ謝(しや)して云〳〵師(し)|馬(むま)の脚(あし)を治(ち)し給ふこと
幸(さいは)ひに堪(たえ)たり公(こう)問(とふ)騎馬|の人は何そ翁(おきな)曰 役疫神(ゑきしん)|管内(くわんたい)を巡(めく)れるなり我(われ)|も其 前驅(せんく)たりもし出されは|かならす罵(のゝしり)を受(う)く今(いま)師(し)の|恵(めくみ)を蒙(かうむ)り喜慶(よろこひ)甚(はなはた)深(ふか)しと云云|丙辰記行(へいしんきかう)に昔此所に牛鬼(うしおに)の出て|走(はし)りありきし事を心に不図(ふと)思ひ出て|馬(むま)こそ大士(たいし)の化現(けけん)なれなにとて|牛(うし)は出けるそおかしかりきとあり
また|挙白集(きよはくしふ)あつまの道(みち)の記(き)に云く|浅草(あさくさ)の観音(くわんおん)とて国(くに)ゆすりてもて|なす仏(ほとけ)おはす口(くち)にまかせて》
【図】
所提筆
【左丁】
いかなれや野辺にかり飼ふ浅草の くはむおむ(◦◦◦◦◦)まのはみのこしつる 長嘯子
《割書:按(あんする)に挙白集(きよはくしふ)なとにも其事となけれとかはかり趣(おもむき)の似(に)たる事を詠(えい)せりまた丙辰記行(へいしんきかう)にも馬(むま)を|大士の化身(けしん)なりなと旁(かた〳〵)此 絵馬(ゑま)に霊(れい)ありて抜(ぬけ)出たる事(こと)なしとも云へからす此 絵馬(ゑま)昔も人の|もてはやしけるにや寛永(くわんえい)年中 観音堂(くわんおんたう)回録(くわいろく)のとき木村市兵衛といへる者来り名画(めいくは)の筆跡(ひつせき)|焼(やけ)うせん事を歎(なけ)き助(たす)け出したりとて別当(へつたう)智楽院僧正(ちらくいんそうしやう)其 志(こゝろさし)を感(かん)して絵馬(ゑま)の縁(ふち)に左の|如(こと)く記(しる)し置(をか)れたり|寛永十九壬午二月十九日炎焼之時武州江戸之住木村市兵衛出之》
紅葉狩絵馬(もみちかりのゑま)《割書:同し所に掲(かけ)たり曾我蛇足(そかのしやそく)九代孫(くたいのそん)曾我紹叔(そかのせうしゆく)|の筆(ふて)なり》
静長刀(しつかのなきなた)《割書:本堂の後(うしろ)の方 家帯(なけし)にかけてあり世に義経(よしつね)の妾(おもひもの)静御前(しつかこせん)納(おさむ)る所なりと云 伝(つた)へたりこれ|恐らくは静流(しつかりう)の長刀(なきなた)ならん歟(か)あるひは云 長刀鍛冶(なきなたかち)志津(しつ)三郎 兼氏(かねうち)の作なるへしと》
山門(さんもん)《割書:楼上(ろうしやう)に文殊菩薩(もんしゆほさつ)の像(さう)を安置(あんち)す楼下(ろうか)の左右には金剛力士(こんかうりきし)の像(さう)を置(をく)来由(らいゆ)は此巻 報恩(ほふおん)|寺 什宝(しふはう)蛇反剣(しやかへしのつるき)【釼は俗字】の条下(てうか)に詳(つまひらか)なりされと往古(むかし)の霊像(れいそう)は回録(くはいろく)に亡(ほろひ)たりとそ今(いま)ある所(ところ)の像(さう)は》
《割書:後人(こうしん)の作(さく)なり毎年 春秋(しゅんしう)二度の彼岸(ひかん)の中日(ちゆうにち)ならひに正月七月十六日は諸(しよ)人の登(のほ)る事をゆるす》
額(かく)【額字】《題: 浅草寺》 曼珠院(まんしゆゐん)二品良尚法親王(にほんりやうしやうほふしんわうの)真蹟(しんせき)
五層塔(こそうのたふ)《割書:山門の内右の方にあり|内に五智如来(こちのによらい)を安置(あんち)す》転輪蔵(てんりんさう)《割書:同所にあり一切経(いつさいきやう)を収(おさ)む前(まへ)に傅大士(ふたいし)ならひに普(ふ)|賢(けん)普成(ふしやう)の像(さう)を置(おく)此(この)ふたつの堂(たう)は其始 安房守(あはのかみ)公(きん)》
《割書:雅(まさ)の建立(こんりふ)にして今ある所の堂(たう)は天和(てんわ)年中|焼亡(しやうはう)の後(のち)の御建立(ここんりふ)なり》随身門(すいしんもん)《割書:同所 東(ひかし)の方にあり豊磐間戸(とよいはまとの)|命(みこと)櫛磐間戸命(くしいはまとのみこと)の像(さう)を置(をけ)り》鐘楼(しゆろう)《割書:同所|にあり》
《割書:按(あん)するに本尊(ほんそん)縁起(えんき)の中(なか)に永和(えうわ)四年戊午十二月十三日 伽藍(からん)回録(くわいろく)あり嘉慶(かけい)元年より三歳(みとせ)の居諸(きよしよ)を|送(をく)るといへとも未(いまた)一宇(いちう)の再興(さいこう)も致(いた)さす大衆(たいしゅ)愁吟(しうきん)絶(たえ)さる所に修行(しゆきやう)の聖(ひしり)定済(ちやうさい)なるもの十方(しつはう)に勧進(くわんしん)》
【右丁】
《割書:し応永(おうえい)に至り建立(こんりふ)成就(しやうしゆ)すとあり然れは名所記(めいしよき)等(とう)の書に天慶(てんけい)中 安房守(あはのかみ)平公雅(たいらのきんまさ)観音堂(くわんおんたう)再興(さいこう)のとき|一躯(いつく)の鳬鐘(ふしやう)を鋳(い)てたかく一楼(いちろう)にかくるとあるは永和(えうわ)の回録(くわいろく)に亡(ほろ)ひたる鐘(かね)の事にして至徳(しとく)四年に至(いた)り》
《割書:再(ふたゝ)ひ今ある所の洪鐘(こうしやう)を鋳冶(とうや)せしとしるへし至徳(しとく)四年は嘉慶(かけい)と改元(かいけん)の年なり|》
日本国武州豊島郡千束郷金龍山浅草寺洪鐘銘
《割書:並》序
夫鐘者震梵苑之枯禅発騒檀之深省者矣南閻浮
提各以音声長為仏事西郡勝地特開榛莾剏此道
場於是傳法聊持短■【疏ヵ】勧発善縁新鋳鳬乳之鐘永
扣龍沢之月耳根契證者速趨解脱之門庭眼裏聞
声者則■【護ヵ】円通之妙果当時若不記者後代誰得識
哉銘曰
末鋳成前 響隔九天 新鋳成後 福応大千
規摸脱出 当空高懸 軽軽撞着 堕仏事辺
至徳《割書:二|二》年《割書:丁|卯》五月初三日
大勧進僧都海誉
小勧進大和国道高
鋳工和泉守経宏
三社大権現(さんしやたいこんけん)社《割書:本堂より艮(うしとら)の方にあり土師臣中知(はしのをみなかとも)ならひに家人(けにん)檜前浜成(ひのくまのはまなり)武成(たけなり)等(とう)の霊(れい)を配(あわ)せ崇(まつ)|祠(る)則(すなはち)当寺(たうし)の護法神(こほふしん)とす世(よ)に三処(さんしよ)の護法(こほふ)ともいへり神体(しんたい)は慈覚大師(しかくたいし)の作(さく)とそ当社(たうしや)》
《割書:は浅草(あさくさ)の惣鎮守(そうちんしゆ)にして祭礼(さいれい)は三月十八日 隔年(かくねん)に執行(しゆきやう)あり三社(さんしや)の来由(らいゆ)は本尊縁起(ほんそんえんき)の中(うち)に詳(つまひらか)なれは|こゝに略(りやく)す傍(かたはら)の堂(たう)に荒沢不動尊(あらさはふとうそん)歓喜天(くはんきてん)等(とう)を安置(あんち)す》
額(かく)《割書:三社大権現|》随喜楽院(すいきげうゐん)【注】一品公遵法親王(いつほんこうそんほふしんわうの)真蹟(しんせき) 熊谷稲荷(くまかやいなり)祠《割書:本堂の後(うしろ)の方(かた)に|あり熊谷(くまかや)安(やす)左衛門と》
《割書:いへる人 勧請(くわんしやう)す来由(らいゆ)は繁(しけき)をいとひてこゝに略(りやく)す|内陣(ないちん)に狩野周信(かのちかのふの)筆(ふて)の橋弁慶(はしへんけい)の掛絵(かけゑ)あり》十社権現(しつしやこんけん)祠《割書:同所左の方にあり十人(しふにん)の草刈(くさかり)を鎮(まつ)ると|いへり来由(らいゆ)は本尊縁起(ほんそんえんき)の条下(てうか)につまひらか也》
【左丁】
念仏堂(ねんふつたう)《割書:同所にあり阿弥陀如来(あみたによらい)を本尊(ほんそん)とす|昼夜二六時中に念仏(ねんふつ)を唱(とな)ふ》閻魔堂(えんまたう)《割書:本堂の乾(いぬゐ)の方にあり閻魔堂(えんまたう)像(そう)|は運長(うんちやう)の作(さく)なり毎年正月七月》
《割書:十六日 参詣(さんけい)群(くん)をなせり額(かく)に閻王殿(えんわうてん)と|あるは朝鮮国(てうせんこく)真狂金啓升(しんきやうきんけいしよう)の筆(ふて)なり》脱衣婆像(たつえはのさう)《割書:同堂中にあり慈覚(しかく)大士の作|にして霊験(れいけん)あり》地蔵古碑(ちさうのこひ)
《割書:同所井の傍(かたはら)にあり世に長石地蔵(なかいしちさう)と云又 俗(そく)誤(あやまつ)て小野小町(をのゝこまち)か石塔(せきたふ)とも称(しよう)し弘法(こうほふ)大師の作(さく)なりとも|いへと共(とも)に誤(あやま)れり長(なかさ)壱丈余 潤(ひろ)さ壱尺六寸程 厚(あつ)み二寸はかりあり寛保(くはんほ)二年八月の暴風(はうふう)に吹折(ふきをれ)》
《割書:て今三 段(たん)となれり上の方は伝法院構(てんほふゐんかまへ)の中(うち)稲荷(いなり)の叢祠(みや)の傍(かたはら)にあり其(その)形状(ありさま)上に地蔵薩埵(ちさうさつた)の種字(しゆし)を|鐫(ゑり)中段(ちゆうたん)に立像(りふさう)の地蔵尊(ちさうそん)を刻(こく)す側(かたはら)に沙門(しやもん)是(これ)を敬礼(きやうらい)する体相(ていさう)あり又下の方に花瓶(はなかめ)に蓮花(れんけ)を挿(さしはさみ)其》
《割書:左右に文字(もんし)三十有九字を鐫(せん)す其文に云く|》
右志者四殊由三昧沙弥西仏先妻女並男女二子
為一殊四弥西仏現当二世諸願円満西仏敬白
《割書:按(あんす)るに西仏(さいふつ)と称(しようす)る者(もの)三人ありて是非(せひ)をしらす其一(そのひとつ)は法然(ほふねん)上人の弟子(てし)に頓宮(とんくうの)内藤(ないとう)五郎兵衛|盛政入道西仏(もりまさにふたうさいふつ)又其 二(ふたつ)は海野幸親(うんのゆきちか)の男(なん)蔵人通広(くらふとみちひろ)世に太夫坊覚明(たいふはうかくめい)と云 是(これ)なり後(のち)親鸞(しんらん)上人》
《割書:の弟子(てし)となりて西仏(さいふつ)と号(かう)す又其 三(みつ)に東鑑(あつまかゝみ)建長(けんちやう)五年八月廿日 下総国(しもつふさのくに)下河辺庄(しもかうへのしやう)の堤(つゝみ)を築(つき)|固(かたむ)へき由(よし)沙汰(さた)あつて奉行(ふきやう)人を定(さため)らるゝといへる条下(てうか)に鎌田三郎入道西仏(かまたさふらうにふたうさいふつ)といへる名(な)を挙(あけ)たり》
《割書:かくのことく同名(とうめい)三人まてあれはいつれを是(せ)とすへきや碑面(ひめん)年号(ねんかう)を記(き)せされは詳(つまひらか)に定(さため)かたし猶(なを)後人(こうしん)の訂正(ていせい)|を竢(まつ)といふ》
護摩壇之趾(こまたんのあと)《割書:同所 熊野権現(くまのこんけん)の後(うしろ)の方 垣(かき)の中にあり淳和帝(しゆんわてい)天長(てんちやう)年間 慈覚(ちかく)大師 東国(とうこく)|遊化(いうけ)の路次(ついて)適(たま〳〵)当寺に宿(やと)り宝前(はうせん)に持念(ちねん)するのあひた三社権現(さんしやけんけん)の霊示(れいし)ありけれは》
《割書:伽藍(からん)を再営(さいえい)ありて永(なか)く止観(しくわん)の法灯(ほうとう)をかゝけ中興(ちゆうこう)の大祖(たいそ)と称(しよう)す此(こん)とき一千 座(さ)の護摩(こま)を修(しゆ)し|》
《割書:伽藍 人法(にんほふ)の繁栄(はんえい)を祈(いの)り給ひし|よし坂東順礼記(はんとうしゆんれいき)に出たり》護国殿(ここくてん)《割書:同所にあり五大明王(こたいみやうわう)の像(さう)ならひに自然木(しせんほく)の|多聞天(たもんてん)等(とう)を安置(あんち)す此 堂(たう)は往古(むかし)淡島明神(あはしまみやうしん)の地(ち)に》
《割書:東照大権現(とうせうたいこんけん)の御宮ありし頃(ころ)の護摩堂(こまたう)たりしか寛永(くわんえい)十九年二月の炎上(えんしやう)に焼残(やけのこ)りけるをその|儘(まゝ)【侭は略字】此所へ遷(うつ)しけるとそ此 故(ゆへ)に柱(はしら)其外にも葵(あふひ)の御紋(こもん)を附(つけ)たり》
淡島明神(あはしまみやうしん)社《割書:本堂の左の方にあり昔(むかし)此地に 東照大権現(とうせうたいこんけん)の御宮ありしか寛永(くわんえい)十九年|二月十九日門前より出火(しゆつくは)す其 時(とき)にあたつて 御宮(おんみや)焼亡(せうはう)ありしに依(よつ)》
【注 「随喜楽院」は「随宜楽院」ヵ】
【右丁】
【図】
【左丁】
六月十五日
祭礼之図(さいれいのつ)
【右丁】
節分会(せつふんゑ)
【左丁】
【図】
【右丁】
《割書:御城内(こしやうない)紅葉山(もみちやま)へ 御遷坐(こせんさ)ありて其跡へ此 神(かみ)を勧請(くわんしやう)す其 御 宮(みや)ありし地(ち)はこの淡島明神(あはしまみやうしん)の|後(うしろ)の方なり人の踏(ふま)ん事を恐(をそ)れて垣(かき)を結廻(ゆひまは)してあり傍(かたはら)の六角堂(ろくかくたう)に地蔵尊(ちさうそん)を安(あん)す是(これ)も》
《割書:御宮(おんみや)ありし頃(ころ)の御供水(こくうすい)にして則(すなはち)堂(たう)の下は井(ゐ)なり又社前の石橋(いしはし)も其 儘(まゝ)に存(そん)せり傍(かたはら)の小祠(こほこら)なる|石(いし)の蛭子(ゑひす)大黒(たいこく)の両像(りやうさう)はともに弘法(こふほふ)大師の作(さく)なりといへり》
銭塚弁財天(せにつかへんさいてん)祠《割書:同所にあり来由(らいゆ)銭瓶(せにかめ)|弁天(へんてん)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》例幣使松(れいへいしのまつ)《割書:同所 御手洗(みたらし)池のかたはらにありて垣(かき)|をめくらせり毎歳(まいさい)四月十七日 日光(につくはう)御祭(こさい)》
《割書:礼(れい)に依(よつ)て例幣使(れいへいし)参向(さんかう)のとき昔(むかし)よりのならはせにて帰洛(きらく)の日はかならすこの地にて休息(きうそく)あり往古(むかし)は|此所に 御宮(おんみや)ありし故にかくのことしとそ今猶 旧例(きうれい)によつてしかり》
西宮稲荷祠(にしのみやいなりのみや)《割書:山門の前右の方にあり当山 地主(ちしゆ)の神(かみ)にして 浅草(あさくさ)の鎮守(ちんしゆ)なりかたはらに蛭子(ゑひす)|祠(みや)ある故(ゆへ)に此号(このな)あり是(これ)を上千束稲荷(かみせんそくいなり)と称(しよう)す下谷(したや)龍泉寺村(りうせんしむら)にあるところの》
《割書:稲荷(いなり)を下千束(しもせんそく)稲荷といへりとそ紫銅(からかね)の華表(とりゐ)の額(かく)に稲荷大明神とあるは大明院公弁法親王(たいみやうゐんこうへんほふしんわう)の真蹟(しん[せ]き)|なりといへり旁(かたはら)の祠(やしろ)に頓阿法師(とんあほふし)の作(さく)の人丸(ひとまる)の神像(しんさう)を安(あん)す又同し左の方に石地蔵(いしちさう)あり祈願(きくはん)あ》
《割書:るもの因果(いんくは)をもつて念(ねん)す故に因果(いんくは)|地蔵(ちさう)の称(しよう)あり霊験(れいけん)尤いちしるし》平内兵衛像(へいないひやうゑのそう)《割書:二王(にわう)門の前(まへ)右の方にあり平内兵衛は|兵藤氏(ひやうとううち)なり耳底(にてい)記といへる書にむかし》
《割書:青山主膳(あをやましゆせん)といへる人の家士(かし)にして強勇(きやうゆう)の人なりと云云 後年(のち)石平道人正三(せきへきたうしんしやうさん)《割書:鈴木|九太夫》の門人となりて大に|禅学(せんかく)を修(しゆ)す則此 石像(せきさう)も二王座禅(にわうさせん)の体相(ていさう)にして平内兵衛 生前(しやうせん)にみつから造立(さうりふ)せりとそ世に粂平内(くめのへいない)と》
《割書:称(しよう)するは大(おゝい)なるあやまりなり駒込(こまこみ)海蔵寺(かいさうし)墳墓(ふんほ)夫婦同会(ふうふとうくわい)の碑面(ひめん)に兵藤氏無関一索居士(ひやうとううちむくわんいつそこし)粂氏(くめうち)|松室瑩寿大姉(しようしつえいしゆたいし)とあれは平内兵衛は兵藤氏なる事あきらけし恐(をそ)らくは妻女(さいしよ)の氏(うち)をもつて混雑(こんさつ)せしものならん》銭瓶(せにかめ)
弁財天(へんさいてん)社《割書:山門の前右の方 池(いけ)の中島(なかしま)小山(こやま)の上にあり世(よ)に老女弁才天(らうしよへんさいてん)と唱(とな)ふ神体(しんたい)は慈覚(しかく)大師|の作(さく)といへり江戸雀(えとすゝめ)をよひ紫一本(むらさきのひともと)ならひに寛文(くわんふん)年中の江戸絵図(えとゑつ)にも当社は二王門(にわうもん)》
《割書:の左今 西宮稲荷(にしのみやいなり)明神の社地より奥(おく)にあるよしを記(しる)せり延宝(えんはう)年中の江戸絵図には今の社地(しやち)は|空地(あきち)にて観音勢至(くわんおんせいし)の銅像(とうそう)のみありて堂社(たうしや)なし紫一本(むらさきのひともと)に山門の東(ひかし)の方に大仏(たいふつ)を安置(あんち)し奉ら》
《割書:むと築(きつき)たる山ありといへるの【るヵ】は今の弁才天(へんさいてん)の社(やしろ)ある所の小山(こやま)をいへり故(ゆへ)にむかしは大仏山(たいふつやま)といひけるよし|按(あんす)るに淡島(あはしま)明神の地に銭塚弁天(せにつかへんてん)といへる小祠(こほこら)あり是も当社(たうしや)と一体(いつたい)の神(かみ)ならん歟(か)小田原記(をたはらき)をよひ》
《割書:北条(ほうてう)五代記 等(とう)の書(しよ)に大永(たいえい)二年九月のはしめ北条氏綱(ほうてううちつな)よりの使(つかひ)として冨永(とみなか)三郎左ヱ門 古河(こか)の御(こ)|所(しよ)へ参(まい)りける帰(かへ)るさ当寺(たうし)の観音へ参詣(さんけい)せしに折(をり)ふし十八日なれは常(つね)よりも殊(こと)に参詣(さんけい)の人》
【左丁】
兵藤平内兵衛(ひやうとうへいないひやうへ)
二王座禅像(にわうさせんのさう)
【図】
【右丁】
鎌田政清造立(かまたまさきよさうりふ)
六地蔵石灯籠(ろくちさうのいしとうろふ)
【図】
【左丁】
《割書:群集(くんしう)す此とき弁天堂(へんてんたう)の辺(へん)より銭(せに)湧(わき)出る事ありと参詣(さんけい)の人此 銭(せに)をとる寺僧(しそう)制(せい)しけれともきかす冨永(とみなか)奇(き)|異(い)の思(おも)ひをなし帰(かへり)て此事を氏綱(うちつな)へ申けるよしを記(しる)せり》
鯨鐘(けいしよう)《割書:同所にあり二六時(にろくし)|是を撞(つけ)り》
鐘銘曰寛永丙子歳
大猷院家光公詣当山観音堂見伽藍破壊即 命改
作之凡二十余所又於堂後林中創建
東照宮後僅数歳民屋火起神宮仏閣悉燠燼 公復
命老臣某等営造如初自爾㠯還日往年来超四十
風雨所侵寝至敗毀今
大樹幕下承 先公之事起土木之功 命山城守戸
田忠昌使十郎左衛門尉建部昌孝五郎左衛門尉
三浦義成八郎右衛門尉国領重清薫匠事嗚呼結
搆之崇彩飾之美仰而可望俯而可欽功徳之大豈
可量哉其楼上所掛之鐘亦破裂因改鋳之備後守
牧野成貞喜捨黄金二百両為常報十二時之資糧
鐘既成作銘《割書:並》序刻之銘曰
鎔銅鋳鐘 治功己成 撞之撃之 殷殷雷轟
鐘本無音 触物能鳴 触物是何 一切衆生
衆生一切 種種有声 音声種種 唯一銅鯨
鯨吼忽発 迷夢頓驚 况斯薩埵 威徳崢嶸
誠念彼力 恭称其名 諸若解脱 悲願維明
元禄五年次壬申八月日
武州豊島郡金龍山浅草寺
別当 権僧正宣存拝撰
【右丁】
鋳師武州深川
大田近江大椽【掾】藤原正次
石枕(いしのまくら)《割書:坊中(はうちゆう)東中谷(ひかしなかたに)明王院(みやうわうゐん)にあり庭中(ていちゆう)に小(ちいさ)き池(いけ)あり是を姥(うは)か池(いけ)と号(かう)すまた当寺の什宝(しうはう)に此石の枕|あり伝説(てんせつ)は文明(ふんめい)年中 道興准后回国雑記(たうこうしゆこうくわいこくさつき)に出たる文章(ふんしやう)をこゝに記(しる)す頗(すこふ)る俗伝(そくてん)と異(こと)なり旧記(きうき)たる》
《割書:をもつて左(さ)に挙(あけ)て其 伝(つた)へ|来(きた)る事の久(ひさ)しきをしらしむ》
回国雑記云 此里のほとりに石枕(いしのまくら)といへるふしきなる石あり其故(そのゆゑ)を
尋(たつね)けれは中頃(なかころ)の事にやありけむなまさふらひ侍り娘(むすめ)を一人(ひとり)持(もち)はへり
き容色(ようしよく)おほかたよのつねなりけりかの父母(ちゝはゝ)娘(むすめ)を遊女(あそひ)にしたて道(みち)ゆき
ひとに出(いて)むかひかの石(いし)のほとりにいさなひて交会(かうくわい)のふせひを事とし
はへりけり兼(かね)てよりあいつの事(こと)なれは折(おり)をはからひて彼(かの)父母(ちゝはゝ)枕(まくら)のほと
りに立寄(たちより)てともねしたりける男(おのこ)のかうへをうちくたきて衣装(いしやう)以下(いけ)
の物(もの)を取(とり)て一生(いつしやう)を送(をく)り侍りきさるほとに彼娘(かのむすめ)つや〳〵思ひけるやう
あなあさましや幾程(いくほと)もなき世(よ)の中(なか)にかゝるふしきの業(わさ)をして父母(ちゝはゝ)
もろともに悪趣(あくしゆ)に堕(た)して永劫沈淪(やうかうちんりん)せむ事のかなしさ先非(せんひ)に置(をき)て
は悔(くひ)ても益(ゑき)なし是(これ)より後(のち)の事さま〳〵工夫(くふう)して所詮(しよせん)我(われ)父母(ちゝはゝ)を出(た)しぬ
【左丁】
楊枝店(やうしみせ)
境内(けいたい)楊枝(やうし)を
鬻(ひさ)く店(みせ)甚(はなはた)
多(おほ)し柳屋(やなきや)と
称(しよう)するものを
もて本源(ほんけん)とす
されと今(いま)は其(その)
家号(いへな)を唱(とな)ふる
もの多(おほ)く竟(つい)に
此地(このち)の名産(めいさん)とは
なれり僧祗律(そうきりつ)【祇】
に楊枝(やうし)に五(いつ)ッの
利(り)ある事を載(のせ)て
云く
一に口 苦(にか)からす
二に口 臭(くさ)からす
三に風(かせ)を除(のそ)き
四に熱(ねつ)を去(さ)り
五に痰(たん)をのそく
とあり
【図】
【暖簾】
柳屋
【看板】
本やなき屋
御やうし所
【右丁】
一権現(いちのこんけん)祠
姥(うは)か池(いけ)
【図】
【枠内】一ノこんけん
【枠内】槐
【枠内】うはか池
【枠内】弁天
【左丁】
きて見(み)むと思(おも)ひある時(とき)道行人(みちゆくひと)ありと告(つけ)て男(おのこ)の如く出立(いてたち)て彼石(かのいし)に
臥(ふし)けりいつもの如く心得(こゝろえ)て頭(かしら)を打(うち)くたきけり急(いそ)き物(もの)とも取(とら)むとて
引(ひき)かつきたる衣(きぬ)をあけて見(み)れは人 独(ひとり)なりあやしく思(おも)ひてよく〳〵
みれは我娘(わかむすめ)なり心(こゝろ)もくれまとひてあさましとも云(いふ)はかりなし夫(それ)
より彼(かの)父母(ふほ)すみやかに発心(ほつしん)して度々(たひ〳〵)の悪業(あくけふ)をも慙愧(さんき)懺悔(さんけ)して今(いま)の
娘(むすめ)の菩提(ほたい)をも深(ふか)くとふらひはへりけると語伝(かたりつた)へけるよし古老(こらう)の人申けれ
は
つみとかの くつる( つくるィ )世もなき石枕(いしまくら)さこそはおもき思(おもひ)なるらめ
当所(たうしよ)の寺号(しかう)浅草寺(せんさうし)といへる十一面( 千手ィ )観音(くはんおむ)にてはへりたくひなき
霊仏(れいふつ)にてまし〳〵けるとなむ《割書:下略|》
一権現(いちのこんけん)社《割書:同所 顕松院(けんしようゐん)の境内(けいたい)にあり土俗(とそく)あかむ堂(たう)と云 往古(むかし)当寺(たうし)本尊 観世音(くはんせおむ)出現(しゆつけん)のとき|草刈(くさかり)の輩(ともから)蓼(あかさ)をもつて柱(はしら)としひとつの草堂(さうたう)を建(たて)て彼(かの)霊像(れいさう)を安置(あんち)し奉(たてまつ)りし旧跡(きうせき)》
《割書:なり故(ゆへ)にあかさ堂(たう)と唱(とな)ふへきを後世(のち)謬(あやまつ)て阿加牟堂(あかむたう)と|いへり傍(かたはら)に観音影向(くはんおむやうかう)の槐(ゑんしゆ)あり》
六地蔵石灯籠(ろくちさうのいしとうろう)《割書:雷神門(らいしんもん)の外(そと)花川戸町(はなかはとまち)の入口 角(かと)にあり故(ゆへ)に土人(としん)此所の河岸(かし)をさして六地蔵(ろくちさう)|河岸(かし)といへりこの地は往古(むかし)より奥州海道(あうしうかいたう)の馬次(むまつき)なりしとそ其頃(そのころ)はくわんおんの》
【右丁】
十二月十八日
年(とし)の市(いち)
【図】
【左丁】
観音堂(くはんおんたう)の
西面(せいめん)
より
念仏堂(ねんふつたう)の
かたを
望(のそ)む
図(つ)
【図】
【右丁】
馬市(むまいち)
藪(やふ)の内(うち)と
いへるに
あり
毎歳(まいさい)
十二月
なかはの
ころ
南部駒(なんふこま)
三歳立(さんさいたち)
なるを
こゝに出して
売(うり)
買(かひ)
す
【図】
【枠内】桟鋪
【枠内】桟鋪
【左丁】
【図】
【右丁】
《割書:門前(もんせん)旅籠屋町(はたこやまち)にして此 六地蔵石灯籠(ろくちさういしとうろう)のあたり馬(むま)駕籠(かこ)の立場にてありしといへり此 故(ゆへ)に今も毎年|十二月十八日の市(いち)には此辺 浅草海苔(あさくさのり)を賈(あきな)ふ家(いへ)〳〵にて近在(きんさい)より参詣(さんけい)する旅人(たひゝと)をして止宿(ししゆく)せしむるとそ》
《割書:伝(つた)へ云(いふ)久安(きうあん)二年丙寅 左馬頭義朝(さまのかみよしとも)当寺(たうし)観音(くわんおむ)へ参詣(さんけい)あつて諸堂(しよたう)造営(さうえい)の時(とき)鎌田兵衛正清(かまたひやうえまさきよ)奉納(ほうなふ)あ|りしといへり竿石(さほいし)に銘(めい)あれとも文字(もんし)剝落(はくらく)して鮮明(せんみやう)ならす唯(たゝ)久安(きうあん)六月十一日《割書:一書に十月|廿二日とあり》兵衛(ひやうえ)の九字(くし)のみ今》
《割書:猶(なを)現然(けんせん)たり高さ六尺あまり火袋(ひふくろ)の|六面(ろくめん)に六体(ろくたい)の地蔵尊を彫刻(てうこく)せり》
坊舎(はうしや)三十余宇(さんしうよう)《割書:当寺(たうし)は浅草(あさくさ)第一の精舎(しやうしや)にして境内(けいたい)霊神霊仏(れいしんれいふつ)甚(はなはた)多(おゝ)く枚挙(まいきよ)にいとまあらす|故(ゆへ)に悉(こと〳〵)く拾遺(しふい)にゆつりてこゝに略(りやく)せり》
専堂坊(せんたうはう) 斎堂坊(さいたうはう) 常音坊(しやうおんはう)《割書:此 三坊(さんはう)は漁者(きよしや)三人の遠裔(ゑんえい)にして妻帯(さいたい)なれは今にあり|子孫(しそん)連綿(れんめん)として相続(さうそく)す則 隔年(かくねん)三月十七日 祭(さい)礼の》
《割書:時(とき)も三人の輩(ともから)三基(さんき)の神輿(みこし)を供奉(くふ)す又 三坊(さんはう)のうちより|観音略縁記(くはんおんりやくえんき)牛王宝印(こわうはうゐん)等(とう)を出せり》
雷神門(らいしんもん)《割書:当寺(たうし)南の総門(そうもん)なり左右に風雷(ふうらい)の二神(にしん)を安置(あんち)す明和(めいわ)の回録(くはいろく)に罹(かゝ)りて烏有(ういう)となり|しか寛政(くはんせい)の今 再建(さいこん)ありて昔(むかし)に復(ふく)せり》
額(かく)《割書:金龍山|》曼珠院二品良尚親王(まんしゆゐんにほんりやうしやうしんわうの)真蹟(しんせき)
本尊縁起曰(ほんそんえむきにいはく)人皇三十四代 推古天皇(すいこてんわう)の御宇(きよう)土師臣中知(はしのおみなかとも)といへる人 故(ゆへ)あ
りて此地に流浪(さすらふ)《割書:日本紀曰(にほんきにいはく)垂仁(すいにん)天皇三十一年 野見宿祢(のみのすくね)に始(はしめ)て土師臣(はしのおみ)の姓(せい)を賜(たま)ふとあり野見宿(のみのすく)|祢(ね)は天穂日命(あまのほひのみこと)十四世の孫(そん)なりこゝにいへる中知(なかとも)も此 遠裔(ゑんえい)なるへし山岡明阿弥(やまをかみやうあみ)》
《割書:陀仏(たふつ)云(いふ)中知は奈加登茂(なかとも)又|登茂奈利(ともなり)とも訓(くん)すといへり》家臣(かしん)檜熊浜成(ひのくまのはまなり)武成(たけなり)と云(いふ)二人(ふたり)の兄弟(きやうたい)附添(つきそひ)て主従(しゆう〳〵)三
人 恒(つね)に漁猟(すなとり)を産業(なりわひ)としてこゝに年月(としつき)を送(をくり)けり《割書:檜熊(ひのくま)或(あるひは)檜前(ひのくま)に作(つく)る新撰姓氏録(しんせんせいしろく)|に檜前舎人連(ひのくまのとねりむらし)と云云 然時(しかるとき)は檜前》
《割書:に作(つくり)て可(か)ならん歟(か)し続日本後記(そくにほんこうき)に檜前舎人直由加麻呂(ひのくまのとねりあたへゆかまろ)武蔵国(むさしのくに)加美郡(かみこほり)の人にして土師氏(はしうち)と祖(そ)を同(おなしう)|するとあり又 延喜式(えんきしき)兵部省(ひやうふしやう)諸国馬牛(しよこくはきう)の牧(まき)の中(うち)にも武蔵国(むさしのくに)檜前馬牧(ひのくまのむまのまき)とあり是等(これら)によるとき》
【左丁】
《割書:は浜成(はまなり)武成(たけなり)も此 国(くに)の|人(ひと)ならん歟(か)》同三十六年戊子三月十八日の朝(あした)碧落(へきらく)に雲消(くもきえ)て蒼溟(さうめい)に
風静(かせしつか)なりけれは小舟(こふね)に乗(しよう)し此所の沖(おき)に出(いて)て網(あみ)を下(おろ)すに《割書:浅草川(あさくさかは)むかし|海にちかし旧(きう)》
《割書:名(めい)を宮戸(みやと)|川(かは)と称(しよう)す》遊魚(いうきよ)はさらになく幾度(いくたひ)も同(おな)し観音大士(くはんおんたいし)の尊像(そんそう)のみかゝり賜(たま)ふ
異浦(ことうら)に至(いた)りてもいよ〳〵しかり依(よつ)て主従(しゆう〳〵)驚(おとろ)き是(これ)を奉持(ほうち)して帰(かへ)り
機縁(きえん)の浅(あさ)からさるを思(おも)ひて其家(そのいへ)に安(あん)すといへとも唯(たゝ)臭魚(しうきよ)の穢(けかれ)に雑(ましは)る事
を恐(おそ)るゝのみ《割書:世(よ)に草刈(くさかり)の童(わらは)集(あつま)つて藜(あかさ)をもつて仮(かり)の|御堂(みたう)を造(つく)るといへる事 縁起(えんき)に所見(しよけん)なし》こゝにをひて終(つゐ)に魚舎(きよしや)をあら
ためて一宇(いちう)の香堂(かうたう)を経営(つく)り彼(かの)尊像(そんさう)を安置(あんち)し奉る《割書:今の一権現(いちのこんけん)の|地其 旧跡(きうせき)なり》其(その)
後(のち)舒明(しよめい)天皇の御宇(きよう)十年戊戌正月十八日 霊告(れいこう)ありて回録(くわいろく)す《割書:其後(そののち)又三ヶ月|を経(へ)て炎上(えんしやう)し》
《割書:夫(それ)より回録(くはいろく)七度(なゝたひ)に及(をよ)ふといへとも本尊(ほんそん)は自(をのつか)ら火焔(くはえん)を免(まぬか)れ出給ひて恙(つゝか)なし衆人(しゆうしん)皆(みな)奇(き)なりとす|是(これ)累年(るいねん)此地は漁猟(きよれふ)殺生(せつしやう)を業(わさ)として汚穢(をゑ)の所(ところ)なれは焼除(やきのそき)て無垢(むく)の霊場(れいしやう)となさんかためかく》
《割書:は本尊 示現(しけん)ありしとそ依(よつ)て|炎上(えんしやう)の後(のち)霊験(れいけん)いよ〳〵いちしるし》後(のち)久(ひさし)く堂宇(たうう)破壊(はゑ)にをよひしを孝徳(かうとく)天皇 大化(たいくは)元
年乙巳 勝海(しようかい)上人 東行(とうかう)の次(ついて)適(たま〳〵)こゝに来(きたつ)て再営(さいえい)す《割書:則(すなはち)当寺(たうし)の開山(かいさん)と称(しよう)すこのとき|勝海(しようかい)上人 本尊(ほんそん)の花容(くはよう)を拝(はい)し》
《割書:て奇異(きい)の霊告(れいかう)をかうむり夫(それ)より|己降(このかた)秘仏(ひふつ)として拝(はい)する事なし》天慶(てんけい)五年壬寅 安房守平公雅(あはのかみたいらのきんまさ)《割書:大系図(おほけいつ)に従五位上 平(たひらの)|公雅(きんまさ)武蔵守(むさしのかみ)に任(にん)する》
《割書:よし記(しる)せり前太平記(せんたいへいき)第六巻に藤原秀郷(ふちはらのひてさと)平親王将門(へいしんわうまさかと)を誅(ちゆう)する功(こう)によつて天慶(てんきやう)三年三月廿九日|武蔵(むさし)下野(しもつけ)両国(りやうこく)の守(かみ)に任(にん)せらるゝとあり又同書に同四年七月十六日《割書:将門記に二月|十四日誅すとあり》将門(まさかと)純友(すみとも)誅戮(ちゆうりく)の時(とき)も》
【右丁】
浅草寺(せんさうし)観音大士(くはんおんたいし)
の出現(しゆつけん)ありしは
推古天皇(すいこてんわう)三十六年
戊子三月十八日なり
土師臣中知(はしのおみなかとも)をよひ
檜前浜成(ひのくまのはまなり)武成(たけなり)等(とう)
の主従(しゆう〳〵)三人こゝの宮(みや)
戸川(とかは)に網(あみ)を下(おろ)して
此 本尊(ほんそん)を得(え)奉り
しよし縁記(えんき)
の中に詳(つまひらか)なり
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
往古(そのかみ)土師臣中知(はしのをみなかとも)をよひ
檜前浜成(ひのくまのはまなり)武成(たけなり)等(とう)の
主従(しゆう〳〵)浅草川(あさくさかは)に網して
観音大士(くはんおんたいし)の霊像(れいさう)を
感得(かんとく)せし頃此地の
草刈(くさかり)集(あつまり)て藜(あかさ)を
もて仮(かり)の御堂(みたう)を作(つくり)
其内に彼(かの)本尊(ほんそん)を
安置(あんち)し奉(たてまつ)りけると
いひ伝ふ其 旧跡(きうせき)は今の
東谷(ひかしたに)《振り仮名:一の権現|いち こんけん》の地
なり草刈(くさかり)は後(のち)神(かみ)に
奉(ほう)して十社権現(しつしやこんけん)と
いつきまつれり
【右丁】
《割書:両度(りやうと)の戦(たゝか)ひに軍功(くんこう)あるを以(もつ)て武蔵守(むさしのかみ)に任(にん)せられしか同五年の夏(なつ)任限(にんけん)満(みた)すして重病(ちゆうひやう)にかゝつて卒(そつ)す依(よつ)て公雅(きんまさ)|を此 国(くに)の守(かみ)に任(にん)せらるゝとあり公雅(きんまさ)は常陸大椽国香(ひたちのたいしやうくにか)【注①】の弟(おとゝ)上総介良兼(かつさのすけよしかね)の長男(ちやうなん)にして平将門(たいらのまさかと)を諌(いさめ)て切腹(せつふく)あ》
《割書:りし六郎公連(ろくらうきんつら)|の兄(あに)なり》当寺(たうし)に詣(もうて)当国(たうこく)の大守(たいしゆ)たらむ事(こと)を祈求(ききう)すいくはくならすして辻任(せんにん)【注②】し
此国(このくに)の守(かみ)となりけれは霊験(れいけん)の空(むなし)からさるをあふき奉(たてまつ)り本堂(ほんたう)をよひ宝塔(はうたふ)鐘楼(しゆろう)
楼門(ろうもん)経蔵(きやうさう)法華(ほつけ)常行(しやうきやう)六所(ろくしよ)の社壇(しやたん)《割書:六所(ろくしよ)の社壇(しやたん)|いまた考(かんか)へす》を造立(さうりふ)し田園(てんえむ)数百町(すひやくちやう)を附(ふ)して長(なか)く龍(りう)
華(け)の暁(あかつき)を期(こ)せしむ《割書:又 長久(ちやうきう)二年辛巳十二月廿二日 大地(たいち)震動(しんとう)して仏閣(ふつかく)顛倒(てんたう)|せり寂円阿闍梨(しやくゑんあしやり)永承(えいしやう)六年に造営(さうえい)す》遥(はるか)に後(のち)白河院(しらかはのゐん)承暦(しやうりやく)
三年己未十二月四日 堂塔(たうたふ)回禄(くわいろく)す其時(そのとき)本尊(ほんそん)火中(くはちゆう)を出(いて)て坤(ひつしさる)の榎(えのき)の梢(こすゑ)にうつり
給ふ承徳(しやふとく)二年戊寅四月 藤原成実(ふちはらのしけみつ)四箇年の間(あひた)当国(たうこく)を拝任(はいにん)し猶(なを)重任(ちやうにん)の望(のそみ)
ありて祈願(きくわん)し霊験(れいけん)あり依(よつて)代々(たい〳〵)罕籠(かんろう)の田畑(たはた)を尋(たつね)て元(もと)の如(こと)く皆(みな)施入(せにふ)し奉(たてまつ)
る《割書:按(あんする)に大系図(おほけいつ)に源成実(みなもとのしけみつ)と云し人 武蔵介(むさしのすけ)に|なりたる事ありこゝに藤原(ふちはら)とあるは誤(あやまり)なるへし》
其後 左馬頭源義朝(さまのかみみなもとのよしとも)当寺(たうし)へ参詣(さんけい)ありて
堂塔(たうたふ)を修営(しゆえい)し彼(かの)坤(ひつしさる)の榎(えのき)を以(もつて)新(あらた)に観音(くわんおむ)の像(さう)を彫刻(てうこく)して納(おさめ)らる《割書:其 像(さう)今 内陣(ないちん)|に安(あん)す台座(たいさ)に》
《割書:奉行(ふきやう)鎌田兵衛政清(かまたひやうゑまさきよ)と書付(かきつけ)てあり坂東順礼記(はんとうしゆんれいき)に康治(かうち)年中 義朝(よしとも)当寺(たうし)観音(くわんおむ)へ詣(まうつ)るとありまた花川(はなかは)|戸(と)六地蔵(ろくちさう)の石灯籠(いしとうろう)の銘(めい)に久安(きうあん)二年丙寅とありて鎌田兵衛(かまたひやうゑ)の建立(こんりふ)なりといへり依(よつ)て按(あんす)るに康治(かうち)より久安(きうあん)》
《割書:まてわつかに五年の間(あいた)なれはいつれも政清(まさきよ)命(めい)をうけて|普請(ふしん)の事をつ かさとりしころの事(こと)なるへし》又 仁安(にんあん)三年戊子 用舜法印(ようしゆんほふゐん)大衆(たいしゆ)に同心(とうしん)
して仏閣(ふつかく)を修営(しゆえい)す治承(ちしやう)四年庚子十月十七日《割書:縁起(えんき)に八月十七日とあるは誤(あやまり)なり十七日は北(ほう)|条(てう)を初(はしめ)宗徒(むねと)の人々 八牧判官兼隆(やまきのはんくわんかねたか)か館(たち)に》
【左丁】
《割書:むかふよし源平盛衰記(けんへいせいすいき)をよひ平家物語(へいけものかたり)等(とう)の書(ふみ)に出(いて)たり石橋山(いしはしやま)の戦(たゝか)ひも同廿日の事にしていまた安房(あはの)|国(くに)へもわたらさる先(さき)なれは頼朝(よりとも)当寺(たうし)へ参詣(さんけい)あるへきにあらす又 盛衰記(せいすいき)に治承(ちしやう)四年九月十一日 武衛(ふゑい)武蔵(むさし)下総(しもつふさ)》
《割書:の境(さかひ)なる松戸(まつと)の庄(しやう)市川(いちかは)に着(つき)たまふと東鑑(あつまかゝみ)には治承(ちしやう)四年十月二日 武衛(ふゑい)太井(ふとゐ)|隅田(すみた)の両河(りやうか)を渡(わた)らるゝとあれは八月十七日とするはおほひなる誤(あやまり)なり》右兵衛佐源頼朝(うひやうゑすけみなもとのよりとも)参詣(さんけい)あり
て田園(てんゑむ)若干(そくはく)を寄附(きふ)せらる是(これ)平家追罰(へいけついはつ)の祈願(きくわん)に依(よつ)てなり承久(しやうきう)三年辛巳
には禅尼(せんに)政子(まさこ)二品(にほん)及(をよひ)相州(さうしう)武州(ふしう)両刺史(りやうしゝ)敬信(けいしん)し願書(くわんしよ)を棒(さゝ)【注③】け白檀(ひやくたん)の大悲(たいひ)の
像(さう)一躯(いつく)と白色(しろいろ)の綾羅(りようら)の帳(とはり)一なかれ信濃布(しなのぬの)千端(せんたん)を寄附(きふ)ありまた伏見院(ふしみのゐんの)
御宇(きよう)正応(しやうおう)二年己丑十月廿一日大輔 聖(ひしり)といへる沙門(しやもん)其頃(そのころ)堂宇(たうう)の破壊(はゑ)を歎(なけき)十(しつ)
方(はう)に勧進(くはんしん)して正安(しやうあん)二年庚子三月十八日 修営(しゆえい)落成(らくせい)す其後 建武(けんむ)年中 将軍(しやうくん)
尊氏(たかうち)鎮西(ちんせい)発向(はつかう)の折(おり)から夢想(むそう)に依(よつ)て当寺(たうし)観音(くわんおん)へ願書(くわんしよ)をこめられ同 観応(くはんおう)
三年壬辰《割書:今年 文和(ふんわ)と改元(かいけん)あり|南朝(なんてう)の正平(しやうへい)七年なり》閏二月廿日《割書:縁起(えんき)に三月廿日と|あるは誤(あやまり)なり》武蔵野合戦(むさしのかつせん)にも兼(かね)て勝(しよう)
利(り)あらん事を祈願(きくわん)ありて合戦(かつせん)の後(のち)美田(ひてん)を寄(よせ)らる《割書:永和(やうわ)四年戊午十二月十三日 伽藍(からん)回禄(くわいろく)|すといへとも本尊(ほんそん)は恙(つゝか)なしこゝに》
《割書:至(いたつ)て回禄(くわいろく)九度(こゝのたひ)におよへり其後 嘉慶(かけい)元年丁卯 修行(しゆきやう)の聖(ひしり)|定済(ちやうさい)なる者(もの)勧進(くわんしん)の功(こう)を募(つの)り応永(おうえい)にいたり建立(こんりふ)成就(しやうしゆ)せり》夫(それ)より後(のち)天文(てんふん)四年乙未八月十八日 炎(えん)
上(しやう)す其 頃(ころ)相州(さうしう)小田原(をたはら)の城主(しやうしゆ)北条氏綱(ほうてううちつな)当国(たうこく)を領(りやう)しけれは破壊(はゑ)の諸堂(しよたう)再(さい)
興(こう)ありて大伽藍(たいからん)とし《割書:天文(てんふん)八年己亥五月十八日 当寺(たうし)奉加帳(ほうかちやう)に島津長徳軒(しまつちやうとくけん)大道寺盛(たいたうしもり)|冨(とみ)松田盛秀(まつたもりひて)等(とう)の名(な)を注(ちう)し加(くは)ふ是(これ)本文(ほんもん)の意(こゝろ)に合(かつ)せり又 知足軒(ちそくけん)》
【注① 「椽」は「掾」の誤】
【注② 「辻」は「迁(遷の異体字)の誤ヵ】
【注③ 「棒」は「捧」の誤】
【右丁】
《割書:友山翁(いうさんをう)の説(せつ)に元和(けんわ)年中迄の棟札(むなふた)に武州(ふしう)河越城主(かはこえのしやうしゆ)大道寺(たいたうし)|駿河守(するかのかみ)是(これ)を奉行(ふきやう)すとありと云云》忠善(ちうせん)上人を以(もつ)て別当職(へつたうしよく)とす《割書:忠善(ちうせん)|上人は》
《割書:北条幕下(ほうてうはくか)遠山丹波守(とをやまたんはのかみ)の末子(はつし)なり又 其師(そのし)忠海(ちうかい)上人といへるは摂州(せつしう)細川律師定禅(ほそかはりつしちやうせん)の末葉(はつえう)武州(ふしう)金沢(かなさは)の城主(しやうしゆ)|伊丹三河守(いたみみかはのかみ)の子(こ)なり三河守(みかはのかみ)宿願(しゆくくわん)の事(こと)ありて末子(はつし)を沙門(しやもん)とし当寺(たうし)の別当(へつたう)とす是(これ)より後(のち)は代々 伊丹(いたみ)遠山(とをやま)の》
《割書:両家(りやうけ)より別当職(へつたうしよく)を|相続(さうそく)せしとなり》然(しか)るに元禄(けんろく)年中 故(ゆへ)ありて《割書:或人云 貞享(ちやうきやう)|二年の事(こと)なりとそ》別当(へつたう)知楽院権僧正宣存(ちらくゐんこんそうしやうせんそん)
鎌倉(かまくら)へ退居(たいきよ)し夫(それ)より東叡山(とうえいさん)に属(そく)す当寺(たうし)本尊(ほんそん)は殊(こと)に
大神君(たいしんくん) 御信仰(こしんかう)最厚(もつともあつき)に 依(よつ)て寺領(しりやう)若干(そくはく)を附(ふ)せられ寛永(くはんえい)十九年二月十九日
回禄(くわいろく)の後(のち)も慶安(けいあん)三年庚寅六月三日 手釿(てをの)はしめありて堂塔(たうたふ)御建立(ここんりふ)ありしより
このかた 公(おほやけ)より修理(しゆり)を加(くは)へられ誠(まこと)に無双(ふそう)の霊場(れいちやう)となれり
修正会(しゆしやうゑ)《割書:除夜(しよや)より正月六日に至(いた)る|一七日の間 毎夕(まいせき)追儺(ついな)あり》牛王加持(こわうかち)《割書:同五日巳の刻(こく)執行(しゆきやう)す同日 三社(さんしや)|権現(こんけん)の社前に流鏑馬(やふさめ)あり》多羅尼会(たらにゑ)《割書:同十二日より|十八日に至(いた)り》
《割書:一七日の間 昼夜(ちうや)|温座(おんさ)にて修行(しゆきやう)す》祭礼(さいれい)《割書:隔年(かくねん)三月十八日なりこの祭礼(さいれい)は往古(むかし)正和(しやうわ)元年の神詫(しんたく)【託】に依(よつ)てこれをはしむ十七日に三社(さんしや)の|神輿(みこし)を本堂(ほんたう)へうつし拍板(ひんさゝら)獅子舞(ししまひ)あり当日は神輿(みこし)を浅草(あさくさ)の大通(おほとほ)りを渡(わた)し浅草橋(あさくさはし)に》
《割書:至(いた)るそれより船(ふね)に乗(しよう)し帰輿(きよ)は駒形(こまかた)より上(あか)らせらる此日 旧例(きうれい)として武州(ふしう)六郷(ろくかう)大森(おほもり)等(とう)の海村(かいそん)より猟船(れふせん)を出(いた)しかし|こより漁人(きよしん)来(きた)りてこれを供奉(くふ)す往古(むかし)此地の漁師(れふし)を大森村(おほもりむら)の辺(あたり)へ移(うつ)しけるより今も祭礼に此 儀(き)有(あり)といへり》
簔市(みのいち)《割書:同日 近在(きんさい)の農夫(のうふ)簔(みの)を持(もち)出て雷神(らいしん)門の前(まへ)|をよひ馬道(むまみち)等(とう)の辺(へん)にて是を鬻(ひさ)く》拍板(ひんさゝら)《割書:毎年六月十五日 執行(しゆきやう)す此日も三月十七日の如(こと)|く本堂(ほんたう)の前(まへ)に舞台(ふたい)をしつらひ是(これ)を勤(つと)む神楽(かくら)》
《割書:其外 神事(しんし)を執行(しゆきやう)す此 祭礼(さいれい)は鎌倉右府将軍(かまくらうふしやうくん)再興(さいこう)|ありしといへり其 拍子(ひやうし)等甚 古雅(こか)にして殊勝(しゆしよう)なり》千日参(せんにちまいり)《割書:七月十日 前夜(せんや)より参詣(さんけい)群集(くんしふ)せり俗(そく)にこの|日をもつて四万六千日 詣(まふて)と称(しよう)す》
《振り仮名:年の市|とし いち》《割書:毎歳(まいさい)十二月十七日十八日両日のあいた衢(ちまた)に仮屋(かりや)を■(まう)【儲】け注連飾(しめかさり)蓬莱飾(ほうらいのかさり)物 等(とう)すへて歳首(としのはしめ)の賀(ことふき)に|用(もち)ゆへき種(くさ)〳〵を売買(うりかい)す浅草大通(あさくさおほとをり)をよひ下谷通(したやとほ)りともに群集(くんしふ)す殊更(ことさら)境内(けいたい)は尺寸(せきすん)の地(ち)な》
【左丁】
《割書:く只(たゝ)人を以て地を覆ふに異ならす実(まこと)に此日の繁昌(はんしやう)江戸(えと)第一(たいいち)にて|遠近(ゑんきん)に轟(とゝろ)けり往古(むかし)は毎月三八の日此所にて市(いち)立(たち)しとそ》節分会(せつふんゑ)《割書:此日 節分(せつふん)の守札(まもり)をいたす|是(これ)を受得(うけえ)んとする輩(ともから)堂》
《割書:中(ちう)に充(みち)て其 囂(かまひす)しき事 言葉(ことは)に述(のへ)かたし猶其 余(よ)の|行事(きやうし)は繁(しけき)をいとひてこゝに略(りやく)せり》
抑(そも〳〵)当寺(たうし)は一千百七十有 余(よ)年を経(ふる)の古刹(こせつ)にして実(しつ)に日域無双(にちいきふそう)繁昌(はんしやう)の霊(れい)
区(く)なり其(その)霊験(れいけん)の著(いちしるき)事は普(あまね)く世(よ)に知(しる)所(ところ)なり常(つね)に金鈴玉磬(きんれいきよくけい)の響(ひゝき)絶(たえ)す焼香(せうかう)
散華(さんくは)の勤行(つとめ)怠(をこた)る事(こと)なし朝(あした)より夕(いうへ)に至(いた)る迄 参詣(さんけい)の貴賤(きせん)袖(そて)を連(つらね)て場(には)に
充満(みちみて)り殊更(ことさら)月毎(つきこと)の十七日には通夜(つや)の緇素(しそ)堂中(とうちやう)に参籠(さんろう)して終夜(よもすから)誦経(しゆきやう)念(ねん)
咒(しゆ)怠慢(たいまん)なし又 境内(けいたい)売物(うりもの)の数(かつ)多(おゝき)か中(なか)にも錦袋円(きんたいゑん)浅草餅(あさくさもち)揚枝(やうし)【楊】珠数(しゆす)五倍(ふしの)
子(こ)茶筌(ちやせん)酒中花(しゆちゆうくは)香煎(かうせん)浮人形(うきにんきやう)の類(るい)殊(こと)に浅草海苔(あさくさのり)は其名世に芳(かんは)し手遊(てあそひ)
錦絵(にしきゑ)等(とう)を商(あきな)ふ店(みせ)軒(のき)をならへたり他邦(たはう)の人こゝに至りて其/繁昌(はんしやう)をしるへし
浅草川(あさくさかは) 隅田河(すみたかは)の下流(かりう)にして旧名(きうめい)を宮戸川(みやとかは)と号(かう)す《割書:古鹿子(ふるかのこ)に三(み)|屋戸(やと)に作(つく)る》白魚(しらうを)紫鯉(むらさきこい)の
二品(にひん)を此河(このかは)の名産(めいさん)とす美味(ひみ)にして是(これ)を賞(しやう)せり鰻鱺(うなき)蜆(しゝみ)も又 佳品(かひん)とす
《割書:按に本尊縁起(ほんそんえんき)の中に宮戸川の沖(おき)に網(あみ)を下すといへる事あり源平盛衰記(けんへいせいすいき)に治承(ちしやう)四年九月 頼朝(よりとも)下(しもつ)|総(ふさ)より武蔵(むさし)へ打越(うちこへ)らるゝ条下(てうか)に石浜(いしはま)とまうす所(ところ)は江戸太郎(えとのたらう)か知行所(ちきやうしよ)なりおりふし西国船(さいこくふね)の着(つき)た》
《割書:るを数千艘(すせんさう)あつめ三日の中に浮橋(うきはし)をくみけるとありしかるときは往古(むかし)は石浜(いしはま)の辺(あたり)入津(にふしん)の湊(みなと)にて西国の|船(ふね)も入来(いりきた)りしとみえたり又 氏康武蔵野記行(うちやすむさしのきこう)に墨田河(すみたかは)に着(つき)ぬ《割書:中略|》むかひは安房(あは)上総(かつさ)まのあたり見渡(みわた)》
【■は、「亻+設」「儲」の誤】
【右丁】
駒形堂(こまかたたう)
清水稲荷(しみついなり)
【図】
【枠内】並木町
【枠内】駒形堂
【枠内】禁殺碑
【左丁】
此碑
ては
江を
あはれ
まぬ
蛍
かな
其角
【図】
【枠内】いなり
【右丁】
《割書:さるゝとあり今あはせて考(かんか)ふれは往古(そのかみ)は石浜(いしはま)のあたりより東南(とうなん)此 浅草(あさくさ)のあたり迄も打開(うちひらき)たる海面(かいめん)にて|ありしなるへし土俗(とそく)の口碑(こうひ)に其むかし本所深川(ほんしよふかかは)のあたり海面(かいめん)なりし頃は今の真土(まつち)山は沖(おき)より入津(にふしん)の》
《割書:船(ふね)の目 的(あて)にてありしとそ仍(よつ)てまた考ふるに木下(きけ)川より須田村(すたむら)のあたりを限(かき)りとし南のかたは|寺島(てらしま)柳島(やなきしま)牛島(うししま)大(おゝ)島 猿江(さるえ)永代(えいたい)島なと称(しよう)してむかし海面なりしといへる事よりところとするにたれり》
駒形堂(こまかたとう) 駒形町(こまかたまち)の河岸(かし)にあり往古(むかし)は此所に浅草寺(せんそうし)の総門(そうもん)ありしといふ
《割書:其 頃(ころ)は左右(さいう)並木(なみき)にして桜花(さくら)数株(すちう)を栽(うへ)ましへ春時(はる)は殊更(ことさら)なかめも深かりしにや寛永(くはんえい)二十年の|印本(いんほん)東(あつま)めくりといへる書(ふみ)に駒形堂の近辺(きんへん)並木(なみき)の桜花(さくら)爛熳(らんまん)たるよしをしるせり》本尊(ほんそん)は
馬頭観音(はとうくはんおん)なり浅草寺縁起(せんそうしえんき)に天慶(てんけい)五年 安房守(あはのかみ)平公雅(たいらのきんまさ)浅草寺 観音(くはんおん)
堂(とう)造営(そうえい)の時此 堂宇(とうう)も建立(こんりふ)ありしよしを記(しる)せり《割書:祈願(きくはん)ある者 賽(かへりまうし)にはかならす駒の|形(かたち)を作(つく)り物にして堂内(とうない)へ奉納(ほうのふ)す故に》
《割書:駒形堂と唱(とな)へ地名(ちめい)も|またこれに因(よつて)おこる》此 堂(とう)の傍(かたはら)に浅草寺領内(せんさうしりやうない)殺生禁断(せつしやうきんたん)の碑(ひ)あり
禁殺碑
武蔵之州浅草之川遠出乎源近注干海大悲薩埵
現像垂跡洋洋如在昭昭而著其為霊境亦己尚矣
然恣事釣漁夭傷水族寃苔之惨不勝哀愍腥臭之
穢固可厭悪伏惟霊刹数 回禄蓋以大悲為此有
所不安也幸遇 今時丕承 洪運仁慧
四海深重物命礼崇三宝㫄興寺宇於是去歳闔寺
堂舎修治補葺猶如新成因立制令厳戒殺生乃以
南自諏訪町北至聖天岸十町余計為界嗚呼盛哉
好生之大徳種福之勝業一在干斯 人主之
天恩意足仰而望菩薩之観心可従而知区区愚哀
【左丁】
感仰有余乃為銘曰
維斯一心 即具三千 以我則乖 以観則円
鱗介異類 好悪同然 詎忍残殺 不知哀憐
営生■味 速禍取愆 畏報於後 思戒於肯
文明遇時 慈悲如天 網罟作禁 魚龞無度
豈伹物命 因慈得全 教化所及 弊習能悛
元禄第六歳次昭陽作噩春三月
武州豊島郡金龍山浅草寺権僧正宣存誌
三島明神(みしまみやうしん)社 駒形(こまかた)町の西二丁はかりにあり祭神(さいしん)大山袛命(おほやますみのみこと)一坐(いちさ)《割書:伊予(いよ)の国(くに)風(ふう)|土記(とき)には大山(おほやま)》
《割書:積(つみ)につく|れり》土人(としん)伝云(つたへいふ)往古(むかし)河野何某(かうのなにかし)本国(ほんこく)予州(よしう)の地(ち)より此 武蔵国(むさしのくに)へ赴(おもむ)くの海上(かいしやう)
にて風波(ふうは)の難(なん)に逢(あふ)仍(よつて)本国(ほんこく)一宮(いちのみや)の御神(おんかみ)に祈(いの)り奉(たてまつ)りしに恙(つゝか)なく着岸(ちやくかん)
せしかは神恩(しんおん)を報(むくひ)奉(たてまつ)らむか為(ため)弟宅(ていたく)の地に勧請(くはんしやう)ありし由(よし)昔(むかし)は下谷坂本(したやさかもと)にありし
を元禄(けんろく)年中 今(いま)の地(ち)へ遷(うつ)さる《割書:其 旧地(きうち)東叡山(とうえいさん)の東(ひかし)の|麓(ふもと)根岸村(ねきしむら)にあり》祭礼(さいれい)は毎歳(まいさい)五月十五日なり
清水稲荷(しみついなり)社 駒形(こまかた)町にあり往古(むかし)嘉承(かしよう)年中 弘法大師(こうほふたいし)東国遊化(とうこくいうけ)のみき
り此 国(くに)へ入給ひし頃(ころ)霊告(れいかう)によつて如意宝珠(によいはうしゆ)を神体(しんたい)とし稲荷(いなり)に勧請(くわんしやう)した
まふとそ《割書:其 地(ち)より清泉(せいせん)涌出(わきいつ)る故(ゆへ)に清水(しみつ)の名(な)あり其 後(のち)谷中(やなか)感応寺(かんおうし)の持(もち)となり法華(ほつけ)の勧請(くはんしやう)と|なりしか彼寺(かのてら)改宗(かいしう)の後(のち)東叡山末(とうえいさんまつ)となり別当(へつたう)を妙行院(めうきやうゐん)といふ旧地(きうち)は東叡山(とうえいさん)の西(にし)のかたに》
《割書:ありて寒松院搆(かんしやうゐんかまへ)のうちとなる今 清水門(しみつもん)と号(なつく)るも其 旧号(きうかう)をうしなはさるの証(しよう)なり元禄(けんろく)の頃(ころ)三島(みしま)明神と|共(とも)にこの地(ち)にうつされたり按(あんす)るに元禄(けんろく)二年 開板(かいはん)の江戸惣鹿子(えとそうかのこ)といへる草紙(さうし)に谷中稲荷清水(やなかいなりのしみつ)今に絶(たえ)せ》
【■は「嗜」ヵ】
【前コマと重複】
【右丁】
《割書:すとあれは元禄(けんろく)の頃(ころ)まては其(その)清水(しみつ)現然(けんせん)としてありしならむ今 池(いけ)のはたより護国院(ここくゐん)へ|行道(ゆくみち)御花畑(おはなはたけ)と称(しよう)する地(ち)の谷合(たにあい)より流(なか)れいつる清水(しみつ)ありこれならむ歟(か)》又 江戸名所記(えとめいしよき)の説(せつ)
に弘法大師(こうほふたいし)東国遊化(とうこくいうけ)の砌(みきり)武蔵国(むさしのくに)にてひとつの小坂(こさか)に《割書:東叡山(とうえいさん)西(にし)の麓(ふもと)清水門(しみつもん)|の坂(さか)是(これ)なりといへり》かゝり
給ふ頃(ころ)老女(らうしよ)の水桶(みつおけ)を戴(いたゝき)て行(ゆく)あり大師(たいし)彼(か)の水(みつ)を乞(こひ)たまふ時(とき)老女(らうしよ)の云(いは)く此辺(このあたり)に
水(みつ)なく遠(とほ)く是(これ)を汲由(くむよし)まうしけれは大師(たいし)憐(あはれ)み独鈷(とつこ)を以(もつ)て加持(かち)したまひけれは
其所(そのところ)に清泉(せいせん)涌出(ゆしゆつ)す其傍(そのかたはら)に当社(たうしや)を勧請(くはんしやう)し給ひけるといふ
諏訪明神(すはみやうしん)社 同所 諏訪町(すはちやう)にあり祭神(さいしん)は信州(しんしう)の諏訪(すは)に同しく健御名方命(たてみなかたのみこと)
なり当社(たうしや)の権輿(けんよ)は至(いたつ)て久遠(きうをむ)にして来由等(らいゆとう)詳(つまひらか)ならす
榧寺(かやてら) 同所 黒船(くろふね)町にあり浄土宗(しやうとしう)にして増上寺(そうしやうし)に属(そく)す池中山正覚寺(ちちゆうさんしやうかくし)と号(かう)す
本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)にして開山(かいさん)は観智国師(くはんちこくし)なり往古(そのかみ)当寺(たうし)に
名(な)ある大木(たいほく)の榧(かや)ありし故(ゆへ)に号(な)とせりといへり
石清水正八幡宮(いはしみつしやうはちまんくう) 大倉前(おほくらまへ)にあり元禄(けんろく)五年 台命(たいめい)に仍(よつ)て石清水正八幡宮(いはしみつしやうはちまんくう)を
勧請(くはんしやう)せり《割書:昔(むかし)は文殊院(もんしゆゐん)の八幡(はちまん)と称(しよう)し高野山(かうやさん)行人派(きやうにんは)の僧(そう)住職(ちゆうしよく)|ありしか故(ゆへ)あつて其地(そのち)を改(あらため)られ石清水正八幡宮(いはしみつしやうはちまんくう)を勧請(くはんしやう)せり》別当(へつたう)を大護院(たいこゐん)と号(かう)し雄(お)
徳山(とこやま)と云 開山(かいさん)幸沼法印(かうせうほふゐん)なり護摩堂(こまたう)の本尊(ほんそん)は五大明王(こたいみやうわう)にして運慶(うんけい)の作(さく)なり
【左丁】
弘法大師(こうほふたいし)東国遊化(とうこくいうけ)の
みきり武蔵(むさし)の国に
至(いた)りひとつの小坂(こさか)に
かゝり給ふ時に一老女(いちらうしよ)
の遠(とほ)く水(みつ)を運(はこ)ふあり
大師(たいし)深(ふか)く是(これ)をあはれみ
給ひたゝちに其地を加持(かち)
し給へは忽然(こつせん)として
清泉(せいせん)涌出(ゆしゆつ)せるよし
江戸名所記(えとめいしよき)に
出たり今(いま)東叡山(とうえいさん)
寒松院(かんしやうゐん)の境内(けいたい)
西(にし)の梺(ふもと)にある
ところの清水(しみつ)
を云
ならん歟(か)
【図】
【右丁】
三島明神(みしまみやうしん)社
諏訪明神(すはみやうしん)社
【図】
【枠内】みしま明神
【枠内】井
【枠内】みたらし
【枠内】諏訪明神
【左丁】
閻魔堂(えむまたう) 八幡宮(はちまんくう)より南(みなみ)の方弐三丁を隔(へた)つ称光山長延寺(しようくはうさんちやうえんし)と号(かう)す本尊(ほんそん)閻羅王(えむらわう)
は運慶(うんけい)の作(さく)にして其丈(そのたけ)壱丈六尺あり額(かく)に閻王殿(えむわうてん)とあるは延享(えんきやう)年中 来聘韓(らいへいかん)
人(しん)の筆(ふて)なり当寺(たうし)は慈覚大師(しかくたいし)草創(さう〳〵)ありて《振り仮名:■昔|むかし》【疇昔】は下野国(しもつけのくに)にありしを文永(ふんえい)年
中此地へ遷(うつ)すとそ《割書:或説(あるせつ)に昔(むかし)は《振り仮名:霞か関|かすみ せき》にありしを国初(こくしよ)の頃(ころ)馬喰町(はくろうちやう)へ|うつされ後(のち)復(また)いまの地(ち)へひかるゝといへり》毎歳(まいさい)正月七月十六日 参(さん)
詣(けい)群集(くんしふ)す
奪衣婆像(たつえはのさう)《割書:運慶(うんけい)の作(さく)にして本尊(ほんそん)|閻王(えんわう)と同木(とうほく)なりといへり》化馬地蔵尊(けはちさうそん)《割書:聖徳太子(しやうとくたいし)の作(さく)昔(むかし)は紀(き)の那智山(なちさん)にありしとそ|昔(むかし)仏法(ふつほふ)を徘傍(ひはう)【誹謗】せし女(をんな)あり是(これ)を化度(けと)せんか為(ため)に》
《割書:馬(むま)に化(け)して彼女(かのをんな)を仏道(ふつたう)に|帰入(きにふ)せしめ給ひしとなん》花山観世音(くはさんくわんせおむ)《割書:花山院(くわさんのゐん)深(ふか)く観音薩埵(くわんおんさつた)を尊信(そんしん)し給ひ真蹟(しんせき)の普門品(ふもんほん)大悲(たいひ)|の大陀羅尼等(たいたらにとう)の経巻(きやうくわん)をもつて大悲(たいひ)の像(さう)を作(つく)らせたまひ》
《割書:仏眼(ふつけん)上人をして点眼供養(てんかんくやう)せしめ法皇(ほふわう)みつから観音(くわんおむ)の霊区(れいく)三十三所《割書:観音順礼|のはしめなり》順礼(しゆんれい)あらせられけるとき負(おは)|せ給ひし尊像(そんさう)なり故(ゆゑ)あつて東叡山(とうえいさん)よりこゝに移(うつ)し奉(たてまつ)る是則(これすなはち)笈仏(おひふつ)の権輿(はしめ)なり当寺(たうし)境内(けいたい)に文永(ふんえい)十一年の》
《割書:古墳(こふん)|あり》
祗園社(きをんのやしろ) 同所 閻魔堂(えむまたう)の南(みなみ)に隣(とな)る当社(たうしや)牛頭天王(こつてんわう)は天暦(てんりやく)年中の鎮座(ちんさ)なりとそ
大倉前(おほくらまへ)の総鎮守(そうちんしゆ)にして別当(へつたう)を大円寺(たいえんし)と号(かう)す
十王堂(しふわうたう)《割書:境内(けいたい)にあり慶長(けいちやう)十八年《割書:又 寛文|ともいへり》御建立(ここんりふ)ありしとそ中尊(ちゆうそん)は地蔵菩薩(ちさうほさつ)にして左右(さいう)に冥府十王(めいふしふわう)|の像(さう)を安置(あんち)せり》
銀杏八幡宮(いちやうはちまんくう) 同所 福井町(ふくゐちやう)にあり伝(つた)へ云 当社(たうしや)は永承(えいしやう)六年 源頼義朝(みなもとのよりよしあそん)同(おなしく)
【■は「日+壽」】
【右丁】
正 覚寺(かくし)
《割書:一に榧寺(かやてら)とも|いへり》
八幡宮(はちまんくう)
【図】
【枠内】御馬や渡し
【枠内】方丈
【枠内】かや寺
【左丁】
【図】
このへん
御米蔵あるゆへに
大倉前と唱ふ
【枠内】八幡宮
【右丁】
御厩河岸渡(おむまやかしのわたし)
【図】
【枠内】駒留はし
【枠内】駒留石
【枠内】椎木やしき
【左丁】
義家朝臣(よしいへあそん)奥州下向(あうしうけかう)の時(とき)こゝに至(いた)りたまふに河上(かはかみ)より銀杏木(いちやうのき)の流(なか)れ来(きた)る
あり則(すなはち)義家公(よしいへこう)手(て)つから地(ち)にさし誓(ちかつ)て曰(いはく)朝敵退治(てうてきたいち)勝利(しようり)あらは此樹(このき)すみやかに
枝葉(しえふ)を栄(さか)ふへしとなり遂(つゐ)に其軍(そのいくさ)勝利(しようり)ありて凱陳(かいちん)【陣】の時(とき)ふたゝひこゝに至(いた)り給ふに
枝葉(しえふ)栄(さかへ)けれは八幡宮(はちまんくう)を勧請(くはんしやう)し給ひしとそ其昔(そのむかし)は八幡塚(はちまんつか)と唱(となへ)けりとなん神木(しんほく)
の銀杏樹(いちやうのき)は延享(えむきやう)二年の秋(あき)暴風(ほうふう)に吹折(ふきおられ)て今わつかに其枯株(そのこちゆう)を存(そん)せり
第六天神社(たいろくてんしんのやしろ) 浅草橋(あさくさはし)の外(そと)にあり昔(むかし)は大倉前(おほくらまへ)森田町(もりたちやう)にありしを享保(きやうほ)四年 火(くは)
災(さい)の後(のち)今の地に移(うつ)る祭神(さいしん)は面足尊(おもたるのみこと)惶根尊(かしこねのみこと)なり《割書:天神六代|の神なり》祭礼(さいれい)は毎歳(まいさい)六月五日なり
篠塚稲荷社(しのつかいなりのやしろ) 当地(たうち)の旧社(きうしや)なり《割書:往古此所を茅原(かやはら)の里と|云よし社伝(しやてん)に云り》昔(むかし)新田家臣(につたのかしん)篠塚伊賀守(しのつかいかのかみ)当社(たうしや)を信
仰(かう)し晩(のち)に入道(にふたう)して社(やしろ)の側(かたはら)に庵室(あんしつ)を結(むす)ひて住(ちゆう)す別当(へつたう)玉蔵院(きよくさうゐん)は其 裔孫(えいそん)なりと云(いへ)り
鳥越里(とりこえのさと) 鳥越明神(とりこえみやうしん)の辺より大倉前(おほくらまへ)の辺まてをいへり北条家分限帳(ほうてうけふんけんちやう)に冨永善左衛門(とみなかぜんさゑもん)
江戸(えと)鳥越村(とりこえむら)の内(うち)を領(りやう)するよし記(しる)せり
《割書:尭恵北国記行に文明十八年十二月廿三日 隅田河(すみたかは)の辺(ほとり)鳥越といへる海村(かいそん)に善鏡(せんきやう)といへる翁(おきな)あり彼宅(かのいへ)|に笠やとりして閑林(かんりん)にあかめ置たる金光寺(こんくわうし)に在宿(さいしゆく)しはへり同十九年元日に》
おさまれる波をかけてや筑波根のやまとしまねに春の立らん 尭恵
【右丁】
大倉前(おほくらまへ)
閻魔堂(ゑんまたう)
牛頭天王(こつてんわう)
十王堂(しふわうたう)
【図】
【枠内】本堂
【枠内】観音
地蔵
うは
【左丁】
【図】
【枠内】長延寺
【枠内】大円寺
【枠内】神木
【枠内】十王堂
【枠内】てんわう
【右丁】
祗園会篠団子(きをんえのさゝたんこ)
毎歳六月八日の暁(あかつき)
是を修行(しゆきやう)す氏子(うちこ)の
家々にて団子(たんこ)を
製(せい)し悉(こと〳〵)く篠(さゝ)の枝(えた)
につけて是を宝前(はうせん)
に供(こう)す時(とき)に諸人(しよにん)
争(あらそ)ひこれをとり得(え)て
家内(かない)に収(おさ)め置(をき)
疫災(ゑきさい)を除(のそ)く
の守護(まもり)
とす
【図】
【幟】牛頭天王御祭禮
【幟】牛頭天王御祭禮 氏子中
【左丁】
【図】
【右丁】
第六天(たいろくてん)
篠塚稲荷(しのつかいなり)
【図】
【枠内】いなり
【枠内】本社
【枠内】金ひら
【左丁】
四国雑記 鳥越(とりこえ)の里(さと)といふ所(ところ)に行くれて
暮にけりやとりいつくといそく日になれも寝に行鳥越乃里 道奥准后
鳥越明神(とりこえみやうしん)社 元鳥越町(もととりこえまち)にあり此辺(このへん)の産土神(うふすな)とす祭神(さいしん)日本武尊(やまとたけのみこと)相殿(あいてん)天(あまの)
児屋根命(こやねのみこと)なり《割書:昔(むかし)は第六天神(たいろくてんしん)熱田明神(あつたみやうしん)を合(あは)せて鳥越三所明神(とりこえさんしよみやうしん)と号(なつ)けしか正保(しやうほ)二年此地|公用(こうよう)の為(ため)に召上(めしあけ)られ三谷(さんや)にて替地(かへち)を給ひわつかに社(やしろ)の地(ち)はかりを残(のこ)さるその頃(ころ)》
《割書:より熱田(あつた)は三谷(さんや)の地(ち)へうつし第六(たいろく)|天(てん)は森田町(もりたちやう)へうつせしといへり》当社(たうしや)は最古跡(もつともこせき)なれとも旧記等(きうきとう)散失(さんしつ)して勧請(くはんしやう)の年暦(ねんれき)
来由等(らいゆとう)詳(つまひらか)ならすといへり祭礼(さいれい)は隔年(かくねん)六月九日なり
東光山(とうくわうさん)西福寺(さいふくし) 良雲院(りやううんゐん)と号(かう)す《割書:良雲院殿(りやううんゐんてん) 御尊骸(こそんかい)を当寺(たうし)に葬(さう)し|奉(たてまつ)る故(ゆへ)に院号(ゐんかう)とす当寺(たうし)に 御墓所(おんほしよ)あり》鳥越明神(とりこえみやうしん)
より三町はかり東(ひかし)の方にあり江戸(えと)浄宗(しやうしう)四ヶ寺の随一(すいいち)にして本尊(ほんそん)阿弥陀如(あみたによ)
来(らい)は安阿弥(あんあみ)の作(さく)なり《割書:三州(さんしう)よりうつ|さるゝとそ》開山(かいさん)を真蓮社貞誉了伝(しんれんしやていよれうてん)上人と号(かう)す《割書:元和(けんわ)八|年五月》
《割書:廿七日に|寂す》遠州(ゑんしう)犀(さい)か渕(ふち)戦死(せんし)の迷魂得脱(めいこんとくたつ)の師(し)なり迷魂得脱(めいこんとくたつ)の功(いさをし)は武父(ふふ)の戦功(せんこう)
に等(ひと)しけれは其功(そのこう)を永世(えいせ)に伝(つた)へよと 神祖(しんそ) 松平(まつたひら)の御称号(おんしようかう)并 山号(さんかう)
等(とう)を給ふ往古(むかし)三州(さんしう)にありしを慶長(けいちやう)の頃(ころ) 台命(たいめい)に依(よつ)て当国(たうこく)駿河台(するかたい)
に移(うつ)され又 寛永(くわんえい)十五年今の所(ところ)にて地を給ふ一夏中(いちけのうち)法幢(ほつとう)を立(たて)檀林(たんりん)に准(しゆん)す
【右丁】
西福寺(さいふくし)
【図】
【枠内】中塔
【枠内】中塔
【左丁】
【図】
【枠内】庫理【裡の誤】
【枠内】弁天
【枠内】方丈
【枠内】本堂
【右丁】
新堀端(しんほりはた)
浄念寺(しやうねんし)
東漸寺(とうせんし)
龍宝寺(りうはうし)
【図】
しんほり
【枠内】浄念寺
【左丁】
【図】
【枠内】東漸寺
【枠内】龍宝寺
【右丁】
東照大権現宮(とうせうたいこんけんくうの)神影(しんえい)《割書:神祖(しんそ)并に 台徳公(たいとくこう)及(をよ)ひ 良雲尼公(りやううんにこう)の御寿影(おんしゆえい)をも寄附(きふ)せられ|共(とも)に三軸(さんちく)あり毎歳(まいさい)四月十七日御祭禮のとき諸人(しよにん)に拝(はい)せしむ》
江島弁財天(えのしまへんさいてん)祠《割書:当寺(たうし)の鎮守(ちんち)たり本尊(ほんそん)は画像(くはさう)にして弘法(こうほふ)大師の筆(ふて)なりといへり当寺(たうし)第二世|称誉(しようよ)上人 感徳(かんとく)ありてこゝに安(あん)せらる》
化用山(けようさん)常照院(しやうせうゐん)浄念寺(しやうねんし) 同所 西福寺(さいふくし)の北(きた)の通(とほり)にあり浄土宗(しやうとしう)開山(かいさん)は性誉(しやうよ)上人
露休和尚(ろきうおせう)にして永禄(えいろく)年中の草創(さう〳〵)とそ本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は慈覚(しかく)大師の作(さく)
《割書:作(つく)り収(おさめ)の尊像(そんさう)と称(しよう)す胎中(たいちゆう)に鑿(のみ)|鋸(のこきり)等(とう)を入(いれ)収(おさ)む其 長(たけ)二尺三寸なり》寛永(くはんえい)十二年 駿河台(するかたい)より今の地(ち)に移(うつ)る《割書:境内(けいたい)に慈覚(しかく)|大師の作(さく)の》
《割書:聖観音(しやうくわんおん)をよひ土中(とちゆう)出現(しゆつけん)の|渡唐(とたう)の天神 等(とう)を安置(あんち)す》
正保山(しやうほさん)東漸寺(とうせんし) 医王院(いわうゐん)と号(かう)す天台宗(てんたいしう)にして東叡山(とうえいさん)に属(そく)す浄念寺(しやうねんし)の北に
あり本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)は行基大師(きやうきたいし)の作(さく)なり《割書:書写性空(しよしやのしやうくう)上人 常(つね)に護持(こち)の霊像(れいさう)にして脇士(けふし)|に十二 神将(しんしやう)の像(さう)を置 世俗(せそく)かはらけ薬師(やくし)と》
《割書:称(しよう)す寄願(きくわん)ある者(もの)かならす|かはらけを供(くう)するの故(ゆへ)なり》開山は慈覚(しか[く])大師にして太田道灌(おほたたうくわん)再興(さいこう)す始(はしめ)御城内(こしやうない)にあ
りしを後(のち)に神田芝崎村(かんたしはさきむら)に移(うつ)し又 正保(しやうほ)年中 今(いま)の地(ち)へうつせり
手向野(たむけの) 《割書:寛文(くはんふん)の頃(ころ)戸田茂睡(とたもすい)といへる哥人(かしん)此所(このところ)に草庵(さうあん)をむすひしはらく住(すめ)り一子伊右衛門なるもの|天和(てんわ)二年十八歳にして卒(そつ)せり故(ゆへ)に此 手向野(たむけの)に葬(はふむ)り傍(かたはら)に碑(ひ)を立(たて)て手向野(たむけの)と彫(ゑり)て和哥(わか)を》
《割書:記(しる)す其地は同所 金龍寺(きんりうし)の境内(けいたい)にして茂睡 夫婦(ふうふ)並(ならひ)に一子伊右衛門か墓(はか)さへありされは金龍寺のあたりを手向野と紫の|一本(ひともと)にもいひしなるへしされと新寺町 東陽寺(とうようし)の境内なるよし諸書に載(の)せ東陽寺にも今は此茂睡か哥さへ石碑にえりたり》
《割書:或人云此辺 往古(むかし)は奥州海道(あうしうかいたう)にして刑罪場(けいさいば)なり其頃 往来(ゆきゝ)の人 香花(かうけ)なと手向けれはかく唱(とな)へしといへともしるへからす| 風の音苔のしつくもあめつちの絶ぬ御法の手向にはして 茂睡》
【左丁】
東本願寺(ひかしほんくはんし)
十一月廿二日より
同しく廿七日迄
開山忌(かいさんき)にて門(もん)
徒(と)の道俗(たうそく)
群参(くんさん)す
【図】
【枠内】塔中
【枠内】塔中
【枠内】惣門
門跡前通り
此辺
あま
さけや
おほし
【右丁】
其
二
【図】
【枠内】書院
【枠内】方丈
【枠内】内玄関
【枠内】唐門
【枠内】塔中
【枠内】裏門
【枠内】玄関
【左丁】
【図】
【枠内】庫裡
【枠内】本堂
【枠内】番所
【枠内】塔中
【枠内】鐘
【枠内】西門
【枠内】邪堀川
下谷大通り
【右丁】
【図】
報恩講(ほうおんこう)
俗(そく)に御講(おこう)と
いふ
【左丁】
【図】
平等
に
わたせる
はしや
お
霜月
西山宗因
【右丁】
東本願寺(ひかしほんくわんし) 新堀端大通(しんほりはたおほとほり)にあり開山(かいさん)教如(けうによ)上人 其先(そのさき)本山(ほんさん)の住(ちゆう)
職(しよく)たりしを豊臣家(とよとみけ)のはからひとして順如(しゆんによ)上人《割書:教如(けうによ)上人|の舎弟(しやてい)也》を本寺(ほんし)の門跡(もんせき)に定(さた)め
られ教如(けうによ)上人をは故(ゆへ)なく退隠(たひいむ)せしめ裏屋舗(うらやしき)に置(をか)れしを《割書:此故に東門跡(ひかしもんせき)を|裏方(うらかた)とはいへり》
神祖(しんそ)竟(つゐ)に 召出(めしいた)され開祖(かいそ)上人の真影(しんえい)を御寄附(こきふ)ありて六条室町(ろくてうむろまち)の末(すへ)にて
新(あらた)に御堂屋舗(みたうやしき)を下(くた)し賜(たまは)る夫(それ)より後(のち)東西(とうさい)とわかる《割書:其後(そのゝち)江戸(えと)に末寺(まつし)建立(こんりふ)あり度由(たきよし)|訟(うつた)へ則 神田(かんた)にて寺地(てらち)を拝領(はいりやう)す》
《割書:一宇を建(たて)て京都よりの輪番所(りんはんしよ)となり江戸中(えとちゆう)の門徒(もんと)を勧化(くはんけ)す|其地(そのち)今(いま)昌平橋(しやうへいはし)の外(そと)加賀屋敷(かゝやしき)と唱(となふ)る所(ところ)也 明暦(めいれき)の後(のち)今の地(ち)に移(うつ)されたり》当寺(たうし)は朝鮮人(てうせんしん)来聘(らいへい)の
砌(みきり)旅館(りよくはん)となる
立花会(りつくはゑ)《割書:毎年(まいねん)七月七日 興行(こうきやう)す|参詣(さんけい)の人に見物(けんふつ)を許(ゆる)す》開山忌(かいさんき)《割書:毎年十一月廿二日より同廿八日まての間 読経説法等(とくきやうせつほふとう)あり|俗(そく)に是(これ)を御講(おこう)と称(しやう)す一に報恩講(ほうおんこう)ともいふそのあひた》
《割書:門徒(もんと)の貴賤(きせん)|群参(くんさん)せり》
高龍山(かうりうさん)報恩寺(はうおんし) 謝徳院(しやとくゐん)と号(かう)す東本願寺(ひかしほんくわんし)の東(ひかし)に隣(とな)る一向派(いつかうは)にして宗(しう)
祖(そ)上人の遺跡(ゆいせき)二十四 輩所(はいしよ)の随(すい)一なり当寺(たうし)は下総国(しもつふさのくに)豊田(とよた)の左(しやう)【庄ヵ】横曾(よこそ)
根(ね)に有(ある)事 数(す)十世 後(のち)結城(ゆふき)の城主(しやうしゆ)七郎左衛門 晴朝(はるとも)の臣(しん)多賀谷何某(たかやなにかし)
といへる者(もの)の為(ため)に寺領田園等(しりやうてんゑんとう)を押領(あふりやう)せられ終(つゐ)に武州(ふしう)に移(うつ)り桜(さくら)
【左丁】
【図】
報恩寺(はうおんし)
【枠内】田原町
【枠内】塔中
【枠内】清光寺
【枠内】浅草寺
【枠内】表門
【枠内】鐘
【枠内】塔中
【枠内】報恩寺
【枠内】裏門
【右丁】
【図】
誓願寺(せいくわんし)
日輪寺(にちりんし)
【枠内】塔中
【枠内】東本願寺塔中
【枠内】くまの
【枠内】東本願寺裏門
【枠内】方丈
【枠内】鐘
【枠内】塔中
【左丁】
【図】
【枠内】いなり
【枠内】誓願寺
【枠内】塔中
【枠内】塔中
【枠内】裏門
【枠内】方丈
【枠内】日輪寺
【枠内】正定寺
【右丁】
【図】
【枠内】天かく院
【枠内】松源寺
【枠内】隆光寺
【枠内】称往院
【枠内】いなり
【枠内】鐘
【枠内】東光院
【枠内】清水寺
【枠内】善徳寺
【枠内】祝言寺
【左丁】
海(かい)
禅(せん)
寺(し)
天嶽院(てんかくゐん)
称往院(しようわういん)
東光院(とうくはうゐん)
清水寺(せいすいし)
慈眼院(しけんゐん)
聖徳寺(しやうとくし)
祝言寺(しゆうけんし)
【図】
【枠内】実相寺
【枠内】いなり
【枠内】本覚寺
【枠内】聖徳寺
【枠内】方丈
【枠内】海禅寺
【枠内】客殿
【枠内】慈眼院
【右丁】
田(た)にありしか後(のち)八丁堀(はつちやうほり)に遷(うつ)り明暦火後(めいれきくはこ)今の地に至(いた)る《割書:旧地(きうち)横曽根(よこそね)にとゝむる所の|寺(てら)を聞光寺(もんくはうし)と号(かう)して今》
《割書:猶(なを)存(そん)|せり》開山(かいさん)性信房(しやうしんはう)俗姓(そくしやう)は大中臣(おほなかとみ)常州(しやうしう)鹿島郡(かしまこほり)の産(さん)也 幼名(えうみやう)を與(よ)四郎といふ
天性(てんせい)多力勇悍(たりきゆうかん)心(こゝろ)狼戻(らうれい)にして礼法(れいほふ)をしらす唯(たゝ)漁猟殺生(きよれふせつしやう)を事(こと)とするのみ
《割書:故(ゆへ)に悪五(あくこ)|郎(らう)といふ》十八歳の春《割書:元久(けんきう)三|年なり》紀(き)の熊野山(くまのさん)へ詣(まふ)て帰(かへ)るさ洛陽(らくやう)に至(いた)り適(たま〳〵)東山(ひかしやま)
吉水(よしみつ)にをひて法然(ほふねん)上人 他力本願(たりきほんくはん)の旨(むね)を説(とき)給ふを聞(きゝ)頓(とみ)に鬢髪(ひんはつ)を
薙(なき)て仏門(ふつもん)にいらん事を願(ねか)ふ依(よつ)て性信(しやうしん)と名(な)を授(さつ)く夫(それ)より鸞師(らんし)に随(したかつ)
て昼夜(ちうや)側(かたはら)をさらす師(し)左遷(させん)の時(とき)も陪従(はいしゆう)して凡二十五年を経(へ)たり建保(けんほ)二
年 師(し)下総(しもつふさ)に往(ゆき)て大(おほひ)に群生(くんしやう)を化(け)す同国 横曽根(よこそね)の郷(かう)に朽敗(きうはい)の古刹(こせつ)あ
り性信(しやうしん)をして住(すま)しむ其後(そのゝち)貞永(ちやうえい)元年 竟(つゐ)に師(し)の命(めい)に応(おう)し彼地(かのち)に逗(とゝま)つて
大(おほひ)に東関(とうくわん)を化度(けと)せんとし念仏門(ねんふつもん)を弘通(くつう)するに道俗(たうそく)充満(しゆうまん)して場(には)に溢(あふ)
る爰(こゝ)にをひて古刹(こせつ)再興(さいこう)の志願(しくはん)を企(くはた)て其地(そのち)を求(もとむ)かしこに沼(ぬま)あり飯沼(いひぬま)
といへり則(すなはち)是(これ)を湮埋(いむまい)して仏閣(ふつかく)を営(いとな)み報恩寺(はうおむし)と号(かう)す《割書:則(すなはち)当寺(たうし)の|権輿(けんよ)なり》その沼(ぬま)の
側(かたはら)に天満神(てんまんしん)の祠(やしろ)あり同年十一月七日 此神(このしん)老翁(らうをう)と化(け)しきたつて
【左丁】
聞法随喜(もんほうすいき)し師弟(してい)の約(やく)慇懃(いんきん)なり《割書:此時(このとき)紫(むらさき)の戸帳(とはり)一重(ひとかさね)|を袈裟(けさ)の料(れう)にたまふ》又 天福(てんふく)元年正月十日 此神(このかみ)何(なに)
某(かし)か夢(ゆめ)に告(つけ)て曰(のたまは)く是(これ)より後(のち)永(なか)く師資(しし)の礼譲(れいしやう)として御手洗(みたらし)の鯉魚(こい)を
報恩寺(はうおんし)に贈(をく)るへしと云云 依(よつて)鯉魚(こい)二 喉(こう)を捕(とり)て師(し)に贈(をく)る師(し)も又是を謝(しや)せんか為(ため)神(しん)
前(せん)に鏡餅(かゝみもち)二枚(ふたひら)を供(くう)す《割書:此 贈答(そうたふ)の例(れい)今に至(いた)つて怠慢(たいまん)なし毎歳(まいさい)正月十一日 飯沼天神(いひぬまてんしん)の御手洗(みたらし)の|鯉(こい)二喉(にこう)を報恩寺(はうおんし)に贈(をく)り性信房(しやうしんはう)の前に供(くう)すれは又 報恩(はうおん)寺よりも》
《割書:返礼(へんれい)として鏡餅(かゝみもち)を供(くう)す則(すなはち)彼地(かのち)にても天満宮(てんまんくう)の神前(しんせん)に供(くう)し|同廿五日 初連歌(はつれんか)を興行(こうけう)し後(のち)鏡餅(かゝみもち)を開(ひら)き祝(いは)ふを旧例(きうれい)とす》建長(けんちやう)二年の頃(ころ)性信(しやうしん)夢(ゆめ)見る事
あつて奥州(あうしう)山中(さんちう)に自(みつから)過去生(くはこしやう)の枯骨(ここつ)を得(え)たり《割書:其地(そのち)に寺(てら)を営(いとなみ)て法徳寺(ほふとくし)と号(かう)す中古(ちうこ)|済家(さいか)の禅宗(せんしう)に改(あらた)め光徳寺(くはうとくし)と号するを》
《割書:画上(くはしやう)に|詳(つまひらか)なり》竟(つゐに)建治(けんし)元年七月十七日 下総(しもうさ)にをひて寂(しやく)を示(しめ)す化寿(けしゆ)八十九《割書:以上 開山伝(かいさんてん)の要(えう)|を摘(つん)て記(しる)す》
寺宝(しほう) 親鸞(しんらん)上人 寿像(しゆさう)《割書:右に払子(ほつす)を持(ち)し左に珠数(しゆす)を持(もつ)嘉貞(かしやう)乙未年 性信坊(しやうしんはう)洛陽(らくやう)に至る|のとき高祖(かうそ)に謁(えつ)して東国(とうこく)漸(やうやく)宗風(しうふう)に化(くは)せし事を語(かた)るそのとき自(みつから)》
《割書:彫刻(てうこく)ありて性信(しやうしん)にあたへられし|六十三歳の影像(えいさう)なりといへり》 五色仏舎利(こしきのふつしやり) 本尊名号(ほんそんのみやうかう)《割書:十字(しうし)の名号(みやうかう)なり宗祖(しうそ)上人の|真蹟(しんせき)にして横曽根(よこそね)聞光寺(もんくわうし)の》
《割書:本尊(ほんそん)|たり》同九 字名号(しのみやうかう)《割書:同宗祖上人|の真蹟(しんせき)なり》珠数一連(しゆすいちれん)《割書:親鸞(しんらん)上人より性信坊に賜ふ|誕生椋(たんしやうむく)の実(み)の念珠(ねんしゆ)なり》性信坊(しやうしんはう)過(くは)
去生骨(こしやうのほね)《割書:夢想(むそう)に依(よつ)て奥州(あうしう)土湯(つちゆ)|山中に得(う)るところの枯骨(ここつ)也》教行信證一部六巻(けうきやうしんしやういちふろくくはん)《割書:親鸞(しんらん)上人の真蹟(しんせき)なり貞永(しやうえい)元|年上人 帰洛(きらく)のとき性信坊(しやうしんはう)に附(ふ)》
《割書:属(そく)ありしとそ今猶(いまなを)|当寺(たうし)に伝(つた)へてあり》蛇反釼(しやかへしのつるき)《割書:長六寸七分 波平(なみのひら)の作(さく)とも又は了戒(れうかい)の作ともいへり性信坊 横曽(よこそ)|根(ね)の古院(こいん)に住(ちう)する頃(ころ)其沼(そのぬま)に悪龍(あくりう)すむて漸(やゝ)もすれは害(かい)をなせり》
《割書:性信(しやうしん)是を退(しりそ)けんとするに力(ちから)なく空(むなし)く年月をうつせり然るにあるとき斗藪(とそう)の僧(そう)一人 来(きた)り山門(さんもん)の傍(かたはら)に|熟睡(しゆくすい)す時に池中(ちちう)より悪龍(あくりよう)出て彼僧(かのそう)を呑(のま)むとすしかるに懐中(くわひちう)より寸釼(すんけん)飛出(とひいて)て彼(かの)悪龍を防(ふせ)く又》
【右丁】
《割書:山門の金剛力士(こんかうりきし)出て足をもつて悪龍を池中に踏込(ふみこむ)《割書:浅草寺の山門に安置せしか|そのかみ回禄に亡たりといへり》性信(しやうしん)此 体(てい)を見て僧(そう)を請(しやう)し具(つふさ)に件(くたん)の|趣(をもむき)を語(かた)る往(ゆき)て見(み)るに金剛力士(こんかうりきし)の足(あし)泥土(ていと)に漫(ひた)【浸】せる跡(あと)あり則性信 彼(かの)寸釼を乞(こひ)得て悪龍(あくりう)を退(しりそ)けんとす終(つい)に悪龍》
《割書:雲に乗(しよう)して常州(しやうしう)三俣(みつまた)の水中(すいちう)に入(いり)後(のち)この釼(つる[き])を証智(しようち)比丘尼(ひ[く]に)に与(あた)ふ《割書:この尼は性信の|むすめなり》尼(に)あるとき鹿島(かしま)へ詣(まうて)舟(ふね)に乗(のり)て三(みつ)|俣(また)に至るに風 烈(はけ)しく須臾(しゆゆ)にして逆浪(けきらう)起(おこ)り既(すて)に船(ふね)を覆(くつかへ)さむとす時に其 寸釼(すんけん)自(をのつから)飛(とひ)出て水中(すいちう)に入けれは風(ふう)》
《割書:浪(らう)たちまちにおさまれり下向(けかう)に又 舟(ふね)に乗(しよう)してこゝに至るに前(さき)の悪龍(あくりよう)水中より|あらはれ彼(かの)寸釼(すんけん)頭(かしら)にあり尼(に)是を得(え)て帰(かへ)る是より後(のち)字(あさな)して蛇反(しやかへし)の釼(つるき)といへりとそ》松風茶碓(まつかせのちやうす)《割書:上は石にして|下は樟(くす)なり》
茶入(ちやいり)《割書:唐桑(からくは)のすん切(きり)なり|袋(ふくろ)は二重蔓(ふたへつるの)唐織(からをり)》笈(をひ)《割書:網代(あしろ)にて製(せい)す性信坊(しやうしんはう)の作(つく)る所なりといへり其余(そのよ)団扇(うちは)■(きんちやく)【幐ヵ】四(よつ)もゝの刀(かたな)雀割(すめわり)の|薙刀(なきなた)をよひ覚如(かくによ)上人の筆(ふて)の絵伝(ゑてん)すへて三十 余品(よひん)あり》
田島山(たしまさん)誓願寺(せいくはんし) 快楽院(けらくゐん)と号(かう)す東本願寺(ひかしほんくはんし)の北にあり浄土宗(しやうとしう)江戸(えと)四ヶ寺の一(いつ)
室(しつ)にして開山(かいさん)は見蓮社東誉(けんれんしやとうよ)上人なり本尊(ほんそん)弥陀如来(みたによらい)は安阿弥(あんあみ)の作にして
世(よ)に歯吹如来(はふきによらい)と称(しよう)せり伝云(つたへいふ)往古(そのかみ)建仁(けんにん)三年十二月廿八日 元祖(くはんそ)円光大師(ゑんくわうたいし)室(しつ)に
在(いま)して集会(しうゑ)念仏(ねんふつ)の時(とき)金像(こんさう)の弥陀(みた)尊仏堂(そんふつとう)の屏障(へいしやう)に映現(えいけん)し須臾(しゆゆ)にして
没(ほつ)す大師(たいし)感嘆(かんたん)して乃(すなはち)仏工(ふつこう)安阿弥(あんあみ)に命(めい)して彼(かの)尊容(そんよう)を写(うつ)し御長(みたけ)三尺に
彫刻(てうこく)せしむ自(みつから)開眼(かいけん)ありて常(つね)に持念(しねん)し給ふ同三年十月十五日 彼(かの)尊像(そんさう)惚(こつ)
然(せん)として口を開き音(こゑ)を発(はつ)し親(した)しく大師(たいし)に十念を授(さつけ)給ふ尓来(しかつしより)面門(めんもん)遂(つい)
に啓歯(とけは)微(すこしく)露(あらは)れ息(いき)を吹(ふき)語(ことは)を発(はつ)するの状(かたち)に髣髴(さもにたり)時の人 称(しよう)して歯吹(はふき)
の尊像(そんさう)と云《割書:くわしくは語燈録(ことうろく)をよひ明遍僧都(めいへんそうつ)の添状等(そへしやうとう)に|つまひらかなれはこゝにもらしつ》大師の滅後(めつこ)勢観坊源(せいくはんはうけん)
【左丁】
智(ち)上人《割書:縁起(えんき)に小松内府重盛卿(こまつのないふしけもりけう)の子(こ)備中守平朝臣師盛(ひつちうのかみたひらのあそんもろもり)の息なりとそ又 幡随意(はんすいい)上人|行化伝(けうけてん)に源智(けんち)上人は洛陽(らくやう)知恩寺(ちおんし)第(たい)二世なりとあり》貞応(しやうおう)の
はしめ高野山(かうやさん)に常行念仏(しやうけうねんふつ)の道場(たうしやう)を創起(さうき)し蓮華三昧院(れんけさんまいいん)と号し
彼(かの)尊像(そんさう)を伝持(てんち)して本尊(ほんそん)とす竟(つい)に安永(あんえい)の末(すゑ)故(ゆへ)ありてこゝに移(うつ)したて
まつるとそ
当寺(たうし)往昔(そのかみ)相州(さうしう)小田原(をたはら)にありしを天正(てんしやう)十八年 台命(たいめい)に依(よつ)て当国(とうこく)にう
つされ文禄(ふんろく)元年 本銀町(ほんしろかねちやう)壱丁目にをひて始(はしめ)て寺地(てらち)を賜(たま)ふ又 慶長(けいちやう)のころ
神田須田(かんたすた)町へ移(うつ)され明暦(めいれき)の火後(くはこ)浅草(あさくさ)にて替地(かへち)を賜ふ元禄(けんろく)中 用誉龍(ようよりう)
岳(かく)上人 国寵(こくちよう)を蒙(かうむ)り常紫衣(しやうしえ)を賜(たまは)る尓来(しかなりしより)已降(このかた)檀林(たんりん)の中より住職(しうしよく)す則
当寺(とうし)の規摸(きほ)とせり
神田山(かんたさん)日輪寺(にちりんし) 芝崎道場(しはさきとうしやう)と号(かう)す誓願寺(せいくわんし)の北の方にあり本尊(ほんそん)阿弥陀(あみた)
如来(によらい)は安阿弥(あんあみ)の作なり当寺は時宗(ししう)にして当国(たうこく)弘法(くはふ)最初(さいしよ)の道場(とうしやう)とそ《割書:相州(そうしう)|藤沢(ふちさは)》
《割書:清浄光(しやう〳〵くはう)寺|に属(そく)せり》開山(かいさん)真教坊(しんけうはう)は一遍(いつへん)上人第二世にして往古(むかし)諸国遊化(しよこくいうけ)の頃(ころ)当国(たうこく)豊(と)
島郡(しまこほり)芝崎村(しはさきむら)に至(いた)るにかしこにひとつの叢祠(そうし)あり《割書:神田明神是なり今の神田橋(かんたはし)御門|の辺(へん)旧名(きうめい)を芝崎村(しはさきむら)といへり》其(その)
【右丁】
傍(かたはら)に一宇(いちう)の草庵(さうあん)を結(むす)ひ芝崎 道場(とうしやう)と号(かう)す《割書:当寺(たうし)の|権輿(けんよ)なり》其後(そののち)あまたの星霜(せいさう)を
経(へ)て慶長(けいちやう)年中 神田明神(かんたみやうしん)は駿河台(するかたい)へ遷(うつ)され当寺は柳原(やなきはら)のもとに地を
賜ふ又 明暦(めいれき)の頃(ころ)今の地にうつる《割書:寺僧(しそう)云(いは)く往古よりの由緒(いうしよ)によりて今も隔年(かくねん)九月十五日|神田明神(かんたみやうしん)祭礼(さいれい)執行(しゆけう)の時は当寺より上人以下 衆僧等(しそうら)社(しや)》
《割書:頭(とう)に至りて誦経念仏等(しゆけうねんふつとう)種(さま)〳〵の修法(しゆはふ)ありて後(のち)神輿(みこし)を渡(わた)したてまつるを恒例とする事今に至りてしか|りとそ当寺住職(とうししうしよく)其阿(こあ)上人は柳営(りうえい)御連歌(おんれんか)の御連衆(これんしう)たり》
光明山(くわうみやうさん)天嶽院(てんかくいん) 遍照寺(へんせうし)と号す日輪寺(にちりんし)の西(にし)に隣(とな)る浄社(しやうしや)の法崫(ほうくつ)にして天正
年中 善空(せんくう)上人 草創(さう〳〵)す開山(かいさん)は円蓮社満誉(ゑんれんしやまんよ)上人と号(かう)せり本尊(ほんそん)手嶋観世(てしまくはんせ)
音菩薩(おんほさつ)は唐仏(とうふつ)にして順徳帝(しゆんとくてい)建保(けんほ)年中 相州(そうしう)鎌倉(かまくら)鶴岡(つるかをか)の社僧(しやそう)良真僧都(りやうしんそうつ)
入宋(につそう)の時 育王山(いわうさん)能仁寺(のうにんし)より将来(しやうらい)せる尊像(そんそう)なりしを其後(そののち)豊太閤(ほうたいかう)の幕下(はくか)
津田勝重(つたかつしけ)といへる者 此像(このそう)を感得(かんとく)す息(そく)元重(もとしけ)伊賀国(いかのくに)手島(てしま)と云 所(ところ)に至る頃(ころ)此
霊像(れいそう)の告(つけ)によりて群賊(くんそく)の蜂起(ほうき)を治め武威(ふい)を国中(こくちう)に振(ふる)ひぬ依(よつて)人民(しんみん)伏(ふく)して
手島殿(てしまとの)と称(しよう)す其後 元重(もとしけ)当国(とうこく)に趣(おもむ)きし頃(ころ)故(ゆへ)ありて当寺(たうし)に収(おさ)む則 寺(し)
内(ない)に手島元重(てしまもとしけ)の墳墓(ふんほ)あり当寺(とうし)旧(もと)は浅草橋(あさくさはし)のうちにありしか明暦(めいれき)
回禄(くはいろく)の後(のち)此地に移(うつ)る
【左丁】
一心山(いつしんさん)称往院(しょうわうゐん) 同 西(にし)に隣(とな)る捨世寺(しやせいし)と号(かう)す浄土宗(しやうとしう)にして本尊(ほんそん)阿弥陀(あみた)
如来(によらい)は丈六(ちやうろく)の座像(ささう)にして恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)なり脇(わき)に観音勢至(くはんおんせいし)の二菩薩(にほさつ)を
安置(あんち)す開山(かいさん)は幡蓮社白誉称往(はんれんしやはくよしようわう)上人《割書:姓(せい)は飯田氏(いひたうち)下(しも)の野州(やしう)|宇津宮(うつのみや)の人なり》当寺(たうし)昔(むかし)は小田原(をたはら)
にありしか慶長(けいちやう)年中 当国(たうこく)へ移(うつ)され湯島(ゆしま)に地(ち)を賜(たま)ふ後(のち)復(また)今の地(ち)に
引(ひか)れたり捨世一派(しやせいいつは)常行念仏(しやうきやうねんふつ)の道場(たうちやう)にして殊勝(しゆしよう)なり《割書:当寺(たうし)に円光大師(ゑんくわうたいし)|月影(つきかけ)の御影(みゑい)といふあり》
薬王山(やくわうさん)東光院(とうくわうゐん) 同く西(にし)に隣(とな)る医王寺(ゐわうし)と号(かう)す天(てん)台にして東叡山(とうえいさん)に属(そく)す本(ほん)
尊(そん)瑠璃光如来(るりくわうによらい)の像(さう)は仏工(ふつこう)春日(かすか)の作(さく)なり伝云(つたへいふ)慈覚大師(しかくたいし)当寺(たうし)を草創(さう〳〵)
ありしとそ往古(そのかみ)は顕密二教(けんみつにけう)ともに弘(ひろま)りて台宗(たいしう)一百八箇寺の総本寺(そうほんし)たり
中古(ちゆうこ)太田道灌(おほたたうくはん)此 霊像(れいさう)を崇敬(そうきやう)し江城(こうしやう)の鬼門(きもん)に置(をき)又(また)其後(そののち)慶長(けいちやう)年中日光
御門主(こもんしゆ)一品尊敬法親王(いつほんそんきやうはふしんわう)山門(さんもん)無動寺(むとうし)の松林坊賢海法印(しようりんはうけんかいはふゐん)に仰(おほせ)て再興(さいこう)せし
む
神祖(しんそ)其時(そのとき)院主(ゐんしゆ)に命(めい)ありて江城(こうしやう)長久(ちやうきゆう)の御祈禱(おんきたう)として正五九月に大般若経(たいはんにやきやう)転(てん)
読(とく)せしめらる《割書:此 例(れい)今(いま)に至(いた)つてしかり慶長(けいちやう)の頃迄(ころまて)は常盤橋(ときははし)の北(きた)にありしか其後(そののち)小伝馬町(こてんまちやう)へうつさる其地(そのち)|をさして今(いま)も猶(なを)薬師堂前(やくしたうまへ)といへり浅草(あさくさ)の地(ち)へ寺(てら)を移(うつ)せしは明暦回禄(めいれきくはいろく)の後(のち)なり》
【右丁】
建長(けんちやう)二年の秋(あき)
性信坊(しやうしんはう)夢想(むそう)に
よつてみつから過去(くはこ)
生(しやう)の枯骨(ここつ)の所在(しよさい)を
しり奥州(あうしう)信夫郡(しのふこほり)
土湯山(つちゆさん)に至(いたる)時(とき)に一(ひとり)の
猟人(れうしん)あり師云(しいは)く
此(この)松下(しようか)に我(わか)過去生(くはこしやう)の
枯骨(ここつ)あり汝(なんち)
是(これ)を堀(ほり)て
得(え)さすへしと
猟人(れうしん)云く
我(われ)業(けふ)を
なさゝれは
明日(あす)の糧(かて)
なしとて
さらに■(うけか)【注】は
す依(よつ)て性(しやう)
信坊(しんはう)猟者(れうしや)か
【図】
【左丁】
持(もつ)ところの
弓箭(きうせん)をとつて
石上(せきしやう)に投(とう)すれは
其箭(そのや)をのれと
発(はつ)し一鹿(ひとつのしか)を射(い)たり
師(し)則(すなはち)是(これ)をあたふ
猟人(れうしん)驚(おとろ)ひて其(その)凡(ほん)
ならさるを悟(さと)り直(たゝち)に
松下(しやうか)を穿(うか)ち既(すて)にして
枯骨(ここつ)を得(え)けれは性(しやう)
信坊(しんはう)歓喜踊躍(くはんきゆやく)し
竟(つゐ)に其地(そのち)を封(ほう)して
一(ひとつ)の精舎(せいしや)を営(いとな)み
号(なつ)けて法得寺(ほふとくし)
とはいひける
【図】
【注 「■:止+貝」は「肯」の誤】
【右丁】
大雄山(たいいうさん)海禅寺(かいせんし) 同所 新堀(しんほり)の小川(をかは)を隔(へたて)て西(にし)の方(かた)にあり妙心寺派(めうしんしは)の禅宗(せんしう)
にして江戸(えと)四箇寺の一(いつ)なり往古(そのかみ)平親王将門(へいしんわうまさかと)総州相馬郡(そうしうさうまこふり)にあつて草創(さう〳〵)
する所(ところ)の仏刹(ふつせつ)なりされと将門(まさかと)亡(ほろふ)るの後(のち)年(とし)を歴(へ)て荒廃(くわうはい)にをよひさなから狐(こ)
兎(と)の栖(すみか)となりしを慶長(けいちやう)の頃(ころ)覚印和尚(かくゐんおせう)再興(さいこう)して寺(てら)を江府湯島(こうふゆしま)の地(ち)に
移(うつ)せり其頃(そのころ)
神祖(しんそ)和尚(おせう)の道徳(たうとく)を聞(きこ)しめし尊敬(そんきやう)あらせられしより後(のち)は寺院(しゐん)も輪奐(りんくはん)と
して宗流(しうりう)殊(こと)に盛(さかむ)なり《割書:明暦回禄(めいれきくはいろく)の後(のち)今(いま)の|地(ち)に遷(うつ)させられたり》
清水寺(せいすいし)観世音菩薩(くはんせおんほさつ) 海禅寺(かいせんし)の向(むか)ふ新堀端(しんほりはた)にあり昔(むかし)は浅草橋(あさくさはし)の内(うち)にあ
りしか明暦火後(めいれきくはこ)今(いま)の地(ち)にうつさる寺(てら)を江北山(こうほくさん)清水寺(せいすいし)と号(かう)す天長(てんちやう)年中
慈覚大師(しかくたいし)ひとつの勝地(しようち)を求(もと)め天台法流(てんたいはふりう)の一院(いちゐん)を建立(こんりふ)ありてみつから
一刀三礼(いつたうさんれい)にして千手大悲(せんしゆたいひ)の像(さう)を作(つく)り本尊(ほんそん)とす其昔(そのむかし)は仏閣(ふつかく)甍(いらか)を
ならへ巍々(きゝ)たりしに年去(としさり)年来(としきた)り星霜(せいさう)を歴(ふる)まゝに堂塔(たうたふ)大(おほひ)に破壊(はゑ)せ
しを文禄(ふんろく)年間 慶円法印(けいゑんはふゐん)といへる沙門(しやもん)霊告(れいかう)を得(え)て叡山(えいさん)正覚坊(しやうかくはう)の探題(たんたい)
【左丁】
豪盛僧正(かうしやうそうしやう)と相謀(あいはかつ)て堂宇(たうう)を修営(しゆえい)し昔(むかし)に復(ふく)せしむ
上宮太子堂(しやうくうたいしたう) 同所壱丁はかり坤(こん)の方(かた)にあり寺を用明山(ようめいさん)聖徳(しやうとく)寺と号(かう)す
浄土宗(しやうとしう)にして本尊(ほんそん)聖徳太子像(しゃうとくたいしのさう)は御自作(おんしさく)なりといふ《割書:世(よ)に孝養(かうやう)の御影(みえい)と称(しよう)|す伝云(つたへいふ)往古(いにしへ)御父(おんちゝ)用明(やうめい)》
《割書:天皇(てんわう)御悩(このう)の時 太子(たいし)神明仏陀(しんめいふつた)に祈誓(きせい)したまひ至孝(しかう)の誠(まこと)を擢(ぬきんて)給ふにより御悩(こなう)直(たゝち)に|平愈(へいゆ)ましますよつて許賽(かへりならし)の為(ため)に自ら作(つく)らせ給ふ御(おん)年十六歳の御影像(おんえいさう)なりとそ》往古(むかし)聖実(しやうしつ)
上人 念仏弘通(ねんふつくつう)の為(ため)此 霊像(れいさう)を守(まも)り奉(たてまつ)りて関東(くはんとう)に下り坪根沢(つほねさは)に一宇(いちう)の
精舎(せいしや)を建立(こんりう)す《割書:又は局沢(つほねさは)に作(つく)る御城内(こしやうない)|吹上(ふきあけ)と称(しよう)するは其 旧地(きうち)也》其後(そののち)亨徳(かうとく)【注】二年 忠蓮社(ちうれんしや)加誉(かよ)上人 良(りやう)
祐和尚(いうおしやう)中興(ちうこう)し台宗(たいしう)を改(あらた)めて浄家(しやうけ)とす慶長(けいちやう)の頃(ころ)馬喰町(はくらうちやう)馬場(はゝ)の辺(へん)に
移(うつ)され明暦(めいれき)の後(のち)今の地に引れたり当寺(たうし)門の内に地蔵尊(ちさうそん)の石像(せきさう)あ
り《割書:相州一沢(さうしういちのさは)木喰弾誓(もくしきたんせい)上人の作(さく)にして当山(たうさん)十七世の住侶(しうりよ)霊告(れいこう)によつて土中(とちう)を穿(うかち)此(この)地蔵尊(ちさうそん)|の御首(みくし)を得(え)たり仍(よつ)て石工(せきこう)に命(めい)して全体(せんたい)を補造(ほそう)せしめ其 背面(はいめん)に件(くたり)の旨趣(ししゆ)を鐫(せん)す》
除厄太子堂(やくよけたいしたう) 同所北の方 浄土宗(しやうとしう)天然山(てんねんさん)慈眼院(しけんいん)に安す聖徳太子(しやうとくたいし)四十
二歳の御時(おんとき)除厄(しよやく)の為(ため)自(みつから)彫刻(てうこく)し給ひし霊像(れいさう)なりといへり《割書:当寺(たうし)昔(むかし)は神田(かんた)|橋本町(はしもとちやう)の辺(へん)にあ》
《割書:り明暦回禄(めいれきくはいろく)の時 本尊(ほんそん)を失ふ依(よつて)住僧(しゆうそう)徳誉(とくよ)上人 深(ふか)く是を悲(かなし)み竟(つい)に霊告(れいこう)を|得(え)て忍(しの)はすの池の中島(なかしま)にして此(この)本尊を感得(かんとく)し再(ふたゝ)ひこゝに安置せしむるといへり》
萬年山(まんねんさん)祝言寺(しうけんし) 同所南の方 通(とほり)を隔(へたて)て西南の方にあり曹洞派(さうとうは)の禅宗(せんしう)
【注 「かうとく」は「けうとく」ヵ】
【右丁】
にして良山存久和尚(りやうさんそんきうおしやう)開山(かいさん)たり往古(そのかみ)は江戸 城(しやう)の辺(あたり)祝言村(しうけんむら)といへるにありて天(てん)
文(ふん)二十年の頃(ころ)太田道灌(おほたたうくわん)草創(さう〳〵)す天正(てんしやう)の頃 山号(さんかう)を賜(たま)ひ又此地に遷(うつ)さる
日蓮大菩薩(にちれんたいほさつ) 同所 新寺(しんてら)町より半丁はかり西南(ひつしさる)の方にあり安立山(あんりうさん)長遠寺(ちやうをんし)
に安置(あんち)す伝云(つたへいう)往古(むかし)花洛(みやこ)南禅寺(なんせんし)の普門禅師(ふもんせんし)多年(たねん)日天子(につてんし)を信敬(しんけい)し
一朝(あるあした)日輪(にちりん)の中(うち)に二菩薩(にほさつ)の尊影(そんえい)を拝(はい)す依(よつ)て自(みつから)筆(ふて)をとつて親(まのあたり)是(これ)を摸(うつ)
し奉(たてまつ)り霊告(れいこう)によつて弘長(こうちう)元年辛酉六月 遥(はるか)に関東(くはんとう)に下(くた)り豆州(つしう)伊(い)
東(とう)に至り同六日 日蓮(にちれん)上人に謁(えつ)し彼(かの)二尊(にそん)の点眼(てんげん)を乞求(こひもと)む則(すなはち)上人 開眼(かいけん)
供養(くやう)あつて花押(くはあふ)を添(そへ)らる又 禅師(せんし)深(ふかく)上人の徳沢(とくたく)を慕(した)ふ故(ゆへ)に大士
自(みつから)肖像(せうさう)を造(つく)りて禅師(せんし)のもとに贈(をく)らる《割書:当寺(たうし)日蓮(にちれん)大士|の像(さう)是なり》禅師(せんし)帰寂(きしやく)の後(のち)京(けい)
師(し)要法寺(えうほうし)にうつし又 妙栄寺(みやうえいし)に安置(あんち)せしか故(ゆへ)あつて文禄(ふんろく)三年の
頃(ころ)当寺(たうし)に遷(うつ)せり
神田山(かんたさん)幡随意院(はんすいいいん) 新知恩寺(しんちおんし)と号す浄家(しやうけ)十八 檀林(たんりん)の一室(いつしつ)にして本(ほん)
尊(そん)阿弥陀如来(あみたによらい)は安阿弥(あんあみ)の作(さく)なり 妙龍水(みやうりうすい)《割書:本堂(ほんたう)の左にあり傍(かたはら)に碑(いし)|碣(ふみ)を建(たつ)る其 文中(ふんちう)に開(かい)》
【左丁】
《割書:山(さん)幡随意(はんすいい)上人 天正(てんしやう)十年 の秋(あき)越後国(ゑちこのくに)高田(たかた)の善導寺(せんたうし)に在(いま)して一七日の間 別時念仏(へつしねんふつ)修行(しゆきやう)あ|りし頃(ころ)龍女(りうによ)ありて上人のもとに来り浄土(しやうと)の脈譜(みやくふ)を受(うけ)て畜身(ちくしん)を解脱(けたつ)し成仏(しやうふつ)せりとそ》
《割書:依(よつ)て其(その)のち法恩(ほふおむ)の為(ため)に捧(さゝく)るところの清泉(せいせん)なりといへり|妙龍(みやうりう)は則(すなはち)龍女(りうによ)の法号(ほふかう)にして上人 授与(しゆよ)ありしなり》
開山(かいさん)演蓮社智誉(えんれんしやちよ)上人《割書:始(はしめ)の号(な)は|典誉(てんよ)》幡随意白導(はんすいいはくたう)と号(かう)す相州(さうしう)藤沢郷(ふちさはのかう)善(せん)
行寺村(きやうしむら)の産(さん)俗姓(そくしやう)は川島氏(かはしまうち)なり天文(てんふん)十一年壬寅十月十五日に生(むま)る児(し)た
る時(とき)常(つね)に仏像(ふつさう)を礼(れい)し沙門(しやもん)を敬(けい)す九歳に及(をよ)ふの頃(ころ)出家(しゆつけ)せん事をのそ
むといへとも父母(ふほ)是(これ)を許(ゆるさ)す既(すて)にして十一歳 竟(つゐ)に同国 玉縄邑(たまなはむら)二伝寺(にてんし)の範誉(はんよ)
上人に投(とうし)て落髪授戒(らくはつしゆかい)し幡随意(はんすいい)と号(かう)す爾来(しかありしより)所々(しよ〳〵)を経歴(けいれき)し数回(すくはい)の年(ねん)
序(しよ)を経(へ)宗要(しうえう)の玄微(けんひ)を究(きは)む《割書:天正(てんしやう)年中 上州(しやうしう) 館林(たてはやし)の刺史(しし)藤原康政(ふちはらのやすまさ)の請(しやう)によりて彼地(かのち)に|一宇(いちう)を創立(さうりふ)し終南山(しゆうなんさん)善導寺(せんたうし)と号(かう)す十八 檀林(たんりん)の一(いつ)なり又》
《割書:下総国(しもふさのくに)関宿(せきやと)に大竜寺(たいりうし)を草創(さう〳〵)し又|越後国(ゑちこのくに)高田(たかた)にても善導寺(せんたうし)を開基(かいき)せり》慶長(けいちやう)七年壬寅《割書:歳六|十一》洛陽(らくやう)知恩院(ちおむゐん)に住職(しゆうしよく)
す此時(このとき)紫服(しふく)を賜(たま)はり鳳闕(ほうけつ)に登(のほ)り浄家(しやうけ)の秘牘(ひたく)を講(こう)す主上(しゆしやう)大(おほい)に叡感(えいかん)
あり同九年甲辰 東武(とうふ)の招(まねき)により再(ふたゝ)ひ此地(このち)に下向(けかう)し神田(かんた)の台(たい)に《割書:駿河(するか)|台(たい)也》
地(ち)を給ひ一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)を闕(ひらひ)【注】て神田山(かんたさん)新知恩寺(しんちおむし)と号(かう)す《割書:明暦(めいれき)の頃迄(ころまて)|池(いけ)の端(はた)にあり》同十
三年庚申《割書:歳六|十七》武州(ふしう)熊谷邑(くまかやむら)に至(いた)り蓮生法師(れんしやうほふし)の遺跡(ゆいせき)に小(すこし)き草庵(さうあん)あ
【注 「闕」の振り仮名「ひらひ」は疑問。「闢」「開」ヵ】
【右丁】
廣徳寺(くわうとくし)
【図】
【枠内】塔中
【枠内】塔中
【枠内】塔中
【枠内】塔中
【枠内】庫裡
【枠内】鐘
【枠内】表門
【左丁】
【図】
【枠内】方丈
【枠内】客殿
【枠内】塔中
【枠内】脾堂【牌堂ヵ】
【枠内】塔中
下谷大通り
【右丁】
りしを転(てん)して精舎(しやうしや)とし熊谷寺(くまかやてら)と号(なつく)《割書:台命(たいめい)によりて金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を|たまひ寺領等(しりやうとう)を附(ふ)せらる》同十六年
辛亥《割書:歳|七十》勢州(せいしう)山田(やまた)に入門寺(にふもんし)を開基(かいき)す然(しかる)に同十八年癸丑《割書:歳七|十二》蛮夷(はんい)の
凶賊(きやうそく)九州に発(をこ)り邪法(しやほふ)を弘(ひろ)め幻術(けんしゆつ)を以(もつ)て人を惑(まとは)し頗(すこふる)国(くに)を傾(かたふけ)んとする
の兆(てう)ありされとも是(これ)を平治(へいち)するに干戈(かんくは)を動(うこか)す時(とき)は国中(こくちゆう)の人民(しんみん)を鏖(みなころし)にするに
至(いた)れり高僧(かうそう)に命(めい)し正法(しやうほふ)に導(みちひか)しめむにしかしこゝにをひて衆義一決(しゆうきいつけつ)し
幡随意(はんすいい)其器(そのき)なりとて直(たゝち)に召(めさ)れ 大樹(たいしゆ)自(みつから)命(めい)せられて云(いは)く吾(われ)聞(きく)国(くに)に
患(うれへ)ある時(とき)は必(かならす)仏法(ふつほふ)の護持(まもり)によるといへり師(し)は既(すで)に天下(てんか)の法将(ほふしやう)にして邪徒(しやと)
を退治(たいち)すへきの英雄(えいゆう)なり又(また)邪徒(しやと)に対(たい)するは軍将(くんしやう)の干戈(かんくは)を揮(ふる)ひ敵陣(てきちん)に向(むかふ)に
等(ひと)しけれはとて蜀江(しよくこう)の陣羽織(ちんはをり)及(をよ)ひ金(きん)の軍配団扇(くんはいうちは)とを賜(たま)ひ急(いそ)き彼地(かのち)
に赴(おもむ)き凶徒(きようと)を教化(けうけ)せしめ国家(こくか)の患(うれへ)を除(のそく)へきの旨(むね)鈞命(きんめい)ありしかは師(し)も辞(し)
するに語(ことば)なく命(めい)に応(おう)し終(つゐ)に九州に至り邪徒(しやと)と宗義(しうき)の対論(たいろん)ありしに
各(おの〳〵)道理(たうり)に帰(き)して凶徒(きようと)直(たゝち)に志(こゝろざし)をひるかへし邪法(しやほふ)を出(いて)て浄土門(しやうともん)に入ける実(しつ)
に師(し)の徳(とく)のしからしむる故(ゆへ)なるへし《割書:軍配団扇(くんはいうちは)は幡随意院(はんすいいゐん)に蔵(さう)す|陣羽織(ちんはをり)は法孫(ほふそん)是(これ)を伝持(てんち)せり》其後(そののち)又(また)
【左丁】
令命(れいめい)によりかしこに梵宇(ほんう)を創立(さうりう)し観音寺(くはんおんし)と号(かう)す《割書:有馬氏(ありまうち)越前国(ゑちせんのくに)丸岡(まるをか)に移(うつす)|今(いま)の二河山(にかさん)白導寺(はくたうし)是(これ)なり》其(その)
後(のち)崎陽(きやう)に至り大音寺(たいおんし)を闢(ひら)き竟(つゐ)に晩年(はんねん)にをよひ紀州(きしう)和歌山(わかやま)に於(をひ)て万(はん)
松寺(しようし)を建立(こんりふ)してこゝに住(しゆう)せられしに一日(あるひ)微疾(ひしつ)を示(しめ)す上 足(そく)意天(いてん)和尚《割書:深川(ふかかは)霊(れい)|巖寺(かんし)第》
《割書:二世|なり》かしこに至(いた)り師(し)の病床(ひやうしやう)を訪(とふら)ふ師(し)大(おほひ)に喜(よろこ)ひ伝燈(てんとう)の法主(ほつしゆ)たるへしとて委(こと〳〵)【悉ヵ】く
伝法(てんほふ)あり且(かつ)諸弟(しよてい)に教誡(けうかい)し遂(つゐ)に猊床(けいしやう)に坐(さ)し筆(ふて)を求(もと)め辞世(しせい)の偈(け)を書(しよ)
して云(いは)く白道(はくたう)運歩(うんほ)数十年(すしふねん)《振り仮名:以_レ火|ひをもつて》《振り仮名:消_レ火|ひをせうす》難思術(なんしのしゆつ)と書(かき)畢(をはつ)て筆(ふて)を擲(なけ)端坐(たんさ)
合掌(かつしやう)して高声(かうしやう)に弥陀(みた)の尊号(そんかう)を唱(とな)へ眠(ねむる)か如(こと)くにして化(け)す■(とき)【口+之】に元(けん)
和(わ)元年乙卯正月十五日 歳算(せいさん)七十四《割書:以上行化伝の|要を摘》
信州(しんしう)善光寺(せんくはうし)燈明(とうみやう) 寺町 赤城山(あかきさん)燈明寺(とうみやうし)といへる台宗(たいしう)の寺(てら)にあり有心(うしん)の
輩(ともから)是(これ)をうく寺内(しない)に赤城明神(あかきみやうしん)を鎮(まつ)れり
朝日山(あさひさん)永昌寺(えいしやうし) 願成院(くはんしやうゐん)と号(かう)す下谷大通(したやおほとをり)にあり浄土宗(しやうとしう)にして鎮蓮社尊誉(ちんれんしやそんよ)上人
を開祖(かいそ)とす本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は運慶(うんけい)の作(さく)千手観音(せんしゆくはんおん)は慈恵大師(しゑたいし)の作(さく)とそ
《割書:世に除厄(やくよけ)の|本尊と称(しよう)す》寺伝(してん)に云 当寺(たうし)は天正(てんしやう)年間 下谷(したや)長者(ちやうしや)某(それかし)《割書:其名今|しるへからす》草創(さう〳〵)すもと同所 長者(ちやうしや)
【右丁】
下(した)
谷(や)
稲(い)
荷(なり)
明(みやう)
神(しんの)
社(やしろ)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
町(まち)といへるにありしを元和(けんわ)の頃(ころ)今の地に引(ひき)たりとそ明暦(めいれき)二年丙申 松浦家(まつらけ)の
母儀(ほき)永昌院(えいしやうゐん)再興(さいこう)ありしとなり則(すなはち)境内(けいたい)に長者(ちやうしや)の墳墓(ふんほ)あり
円満山(ゑんまんさん)広徳寺(くわうとくし) 同所にあり大徳寺派(たいとくしは)の禅宗(せんしう)にして始(はしめ)相州(さうしう)小田原(をたはら)
にありしを天正(てんしやう)十九年 江戸(えと)に遷(うつ)され神田(かんた)にて地(ち)を賜(たま)ふ《割書:事跡合考(しせきかつかう)に昌(しやう)|平橋(へいはし)の内(うち)其ころ》
《割書:いまた足入(あしいれ)の沼地(ぬまち)なりしをとやかくして纔(わつか)なる堂(たう)|一宇(いちう)を建(たて)たりと其頃(そのころ)迄(まて)は当寺(たうし)昌平橋(しやうへいはし)の内(うち)にありしなり》其後(そののち)寛永(くはんえい)の末(すゑ)今(いま)の地(ち)に遷(うつ)る開(かい)
山(さん)を希叟宗竿禅師(きさうしうかんせんし)といへり
《割書:当寺(たうし)の総門(そうもん)は名匠(めいしやう)の差図(さしづ)にして是迄(これまて)風火(ふうくは)の難(なん)度々(たひ〳〵)にをよふといへとも恙(つゝか)なし最(もつとも)番匠(はんしやう)の規(き)|矩(く)とする所(ところ)なり詳(つまひらか)に梅臘主人(はいらふしゆしん)【注①】あらはせる新斎夜話(しんさいやわ)といへける草紙(さうし)に出たり》
下谷稲荷(したやいなり)社 広徳寺(くわうとくし)の向(むか)ふ側(かは)にあり故(ゆへ)に俗(そく)呼(よひ)て広徳寺(くわうとくし)の稲荷(いなり)と称(しよう)す
是(これ)大(おほい)なる誤(あやまり)なり別当(へつたう)を正法院(しやうほふゐん)といふ祭神(さいしん)は蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)【注②】にして本地(ほんち)十一(しふいち)
面観世音(めんくはんせおむ)は行基大士(きやうきたいし)彫刻(てうこく)の霊像(れいさう)なりとそ中(なか)の鳥井(とりゐ)に正一位稲荷大(しやういちゐいなりたい)
明神(みやうしん)と書(かけ)る額(かく)あり崇保院公寛法親王(そうほゐんこうくはんほふしんわう)の真蹟(しんせき)なり拝殿(はいでん)に掲(かけ)たる
同 神号(しんかう)の額(かく)は蓮花光院(れんけくはうゐん)道恕(たうによ)【注③】の筆(ふて)なり当社(たうしや)祭礼(さいれい)は隔年(かくねん)三月
十一日に執行(しゆきやう)す下谷(したや)の鎮守(ちんちゆ)と称(しよう)す
【左丁】
【見返】
【蔵書印】豊田家蔵
【注① 「臘」は「朧」ヵ】
【注② 「蒼」は「倉」ヵ】
【注③ 「道恕」の振り仮名の「とうによ」は「たうじよ」ヵ】
【裏表紙】
根津(ねつ)権現(こんけん)社 《場所:上野(うへの)》より五町はかりを隔(へたて)て乾([い]ぬい)の方にあり
祭神(さいしん) 素盞烏命(そさのをのみこと) 御産土神(おんうふすな)相殿(あいてん) 《割書:左 山王権現(さんわうこんけん) 御城鎮守神(おんしろのちんしゆ)|右 八幡宮(はちまんくう) 源家祖神(けんけのそしん)》
当社(たうしや)境内(けいたい)始(はしめ)は 甲府(かうふ)公
御館(おんやかた)の地(ち)なりしか根津(ねつ)権現(こんけん)は
大樹(たいしゆ)の《割書:文昭公》 御産土神(おんうふすな)にして御宮参(おんみやまいり)迄(まて)ありける故(ゆへ)後(のち)に右の御舘(おんやかた)
の地(ち)を賜([た]ま)はり宝永(はうえい)年中 新(あらた)に当社(たうしや)を御造営(こさうえい)ありて結構(けつこう)備(そな)はる随身門(すいしんもん)
に掛(かく)る根津大権現(ねつたいこんけん)の額(かく)は大明院宮公(たいみやうゐんのみや)公弁法親王(こうへんはふしんわう)の真蹟(しんせき)なり旧地(きうち)は千(せん)
駄木坂(たきさか)の上(うへ)元根津(もとねつ)といへるところにあり《割書:祭礼は隔(かく)年|九月廿一日なり》
【挿し絵】
当社(たしや)の
境内(けいたい)を
世(よ)に
曙(あけほの)の里
と
いへり
清水
ちそう
いなり
総門
いなり
【左ページ】
賎(せん)の信仰(しんかう)少(すくな)からす……
日登山妙林寺(につとうさんめいりんし) 法住寺(ほふちゆうし)の西(にし)小川(をかは)を……
大観音(おほくはんおん) 千駄木(せんたき)七軒寺町 光源寺(くわうけんし)といへる浄宗(しyうしう)の寺内にあり和州(わしう)
長谷寺(はせてら)の写(うつし)にして十一面観音の立像(りふさう) 《割書:長一丈|六尺》 なり又同堂内に千体(せんたい)の
【挿し絵】
【左ページ】
観音(くわっほん)を安(あん)す貞享(しやうきやう)年中 江府(えと)の商人(あきひと)丸吉兵衛(まるきちひやうへ)なるもの是を建立(こんりふ)す
大覚山淨心寺(だいかくさんしやうしんし) 丸山片町(まるやまかたまち)に……
《右ページ》
王子権現(わうしこんけん)社 飛鳥山(あすかやま)の北(きた)の方音無河(をとなしかは)を隔(へたて)てあり
本殿(ほんてん) 祭神(さいしん) 伊弉冊尊(いさなみのみこと)《割書:左(ひたり) 速玉男命(はやたまのおのみこと)
右(みき) 事解男命(ことさかのおのみこと)》 三神鎮座(さんしんちんさ)
社記曰若一王子社(しやきにいはくことくいちわうしのやしろ)ハ紀伊国熊野権現(きいのくにくまのこんけん)を勧請(かんしやう)す後醍醐天皇(こたいこてんわう)の御𡧃
元亨(けんこう)年中豊島(としま)何の〱の主(ぬし)とかや新(あらた)に祠𡧃(しう)を建(たて)て祟(あかめ)けるか風霜(ふうそう)
ふり歳月深(としつきふかふ)して朝(あした)の霧(きり)ハ香(かう)を焚(たく)のとあやしみ夜(よる)の月(つき)ハ燈(ともしひ)を
挑(く□)に似(に)きたり霊神(れいしん)ハ人の敬(うやまふ)によりて其威(そのい)をまし境致(けいち)ハ霊神(れいしん)の徳(とく)
によりて其名(そのな)を顕(あらは)すつらく此神の本(もと)を尋(たつね)れハ伊弉諾伊弉冊(いさなきいざなみ)
の尊(みこと)と申(まう)す二柱(ふたはしら)のみこと国土(くにつち)をうみ萬(よろつ)の物(もの)をうめり其広大(そのくはうたい)の功(く)
徳既(とくすて)に成(なり)て後伊弉冊尊神退(のちいさなみのみことかんさり)ましのれハ紀州熊野(きしうくまの)の有馬村(ありまむら)
におさめまつる熊野大神(くまのゝおほはかみ)是より此神を祭(まつ)るなの春は花をえて
祭り鼓(つゝみ)うち笛吹旗立(ふえふきはたたて)て諷舞(うたひまふ)て祭る白河院(しらかわゐん)の御製(きよせい)に咲臭(さきにほ)ふ
花のけしきを見なくに神のんそと小しらるくとよみゐるハ
花(はな)しつめの事(こと)なるへし此神(このかみ)の御子(おんこ)を熊野早玉男(くまのはやたまのお)ともうす其第二(そのたいに)
《左ページ》
王(わう)
子(し)
権(こん)
現(けんの)
社(やしろ)
【挿し絵】
花鎮(はなしつめ)の
祭礼(まつり)は
今 絶(たえ)
たり
ふるきを
存(そん)せんか
ため
古図(こつ)を
模写(うつし)て
加(くはう)ふ
【挿し絵】
十八講(しふはちこう)
毎歳(としこと)正月十七日
王子村(わうしむら)農家(なふか)に
是(これ)を行(をこな)ふ当日(たうしつ)
権現(こんけん)の別当(へつたう)金輪(きんりん)
寺(し)の住持(ちうち)を
詔講(てうしやう)し酒飯(しゆはん)の
饗応(きやうおう)半(なかは)にして
当番(たうはん)の百姓(ひあくしやう)杵(きね)
飯鍬(しやくし)魚盤(まないた)の
三品(みしな)を携(たつさ)へ出(いて)て
のめそよいやさの
懸声(かけこゑ)をなして
食(しよく)をすゝむ
是(これ)此地(このち)の旧(きう)
例(れい)にして
十八講(しふはちこう)とは昔(むかし)
神領(しんりやう)十八箇(しふはちか)
村(むら)ありし頃(ころ)の
旧称(きうしようと)
きこゆ
松橋弁財天窟(まつはしべんさいてんのいはや)
石神井川(しやくしかは)
【挿し絵】
不動滝(ふどうのたき)
泉流滝(せんりうのたき)とも云
正受院(しやうしゆゐん)の本堂(ほんたう)の
後坂路(うしろはんろ) を
廻(めく)
下(くた)る
事
数十歩(すしつほ)
に
飛泉(ひせん)
あり
滔(たう)々と
して
峭壁に
趨(はし)る
此境(このち)は
常(つね)に
蒼樹蓊鬱(さうしゆをううつ)
として
白日(はくしつ)を
さゝへ
青苔(せいたい)露(つゆ)
なめら
かに
して
人跡(しんせき)
稀(まれ)
な
り
不動尊(ふとうそん)は即(すなはち)大師(たいし)の作(さく)なり其後(そののち)あまたの星霜(せいそう)を経(へ)て荒廃(くはうはい)
にをよひ他(た)の宗風(しうふう)に化(くは)せり天文(てんふん)の頃(ころ)中興(ちうこう)阿闍梨(あしやり)看印(かんゐん)なるもの
曩祖(なうそ)開基(かいき)の霊地(れいち)をして他(た)の宗風(しうふう)に転(てん)せし事(こと)を歎(なけ)き其頃(そのころ)北条(ほうてう)
氏康(うちやす)に訴(うつた)へて再(ふたゝひ)真言(しんこん)の霊句(れいく)に復せしむとそ
滝不動尊(たきふとうそん) 金剛寺(こんかうし)の東二丁あまりにあり此境(このち)後(うしろ)は石神井川(しやくしかは)
に臨(のそ)めり寺(てら)を正受院(しやうしゆゐん)と号(なつ)く伝云(つたへいふ)弘治(こうち)年中 和州(わしう)竜門(りうもん)の奥(おく)に
学仙坊(かくせんはう)といへる僧住(そうすむ)て不動尊(ふとうそん)の法(ほふ)を修(しゆ)する事(こと)年(とし)あり或時(あるとき)霊夢(れいむ)
を得(え)て東国(とうこく)に来(きた)り此所(このところ)に滝(たき)のありけるを観(み)て是(これ)を幸(さいわひ)とし
其傍(そのかたはら)に庵(いほり)を結(むす)ひて不動(ふとう)の法(ほふ)を修(しゆ)せりしかるに其年の秋(あき)洪水(こうすい)に
て此河(このかは)夥(おひたゝ)しく水かさまさりしに水中(すいちう)に光(ひかり)あり水落(みつおつ)るの後(のち)彼(かの)
光(ひかり)のさしけるあたりを求(もとむ)るに不動(ふとう)の霊像(れいさう)を得(え)たり不例(ふしき)に感得(かんとく)
せしをよろこひ即(すなはち)こゝに安置(あんち)し奉(たてまつ)るとそ
自得山静勝寺(しとくさんしやうしやうし) 曹洞派(さうとうは)の禅宗(せんしう)にして稲付(いなつけ)にあり此地(このち)は太田道潅(おほたたうくはん)
間讌(かんえむ)の居跡(きよせき)なり……
江戸名所図会 一
【目録の場所】
1. 天枢之部(20巻の1)
https://honkoku.org/app/#/transcription/98102D4B5EE4B6C98BB62A56BCCE95CA/20/
2. 天璇之部(20巻の4)
https://honkoku.org/app/#/transcription/B97526B43D33B4F752C2BB4A6C581FCD/2/
3. 天璣之部(20巻の7)
https://honkoku.org/app/#/transcription/04B643AB698048867221B37E43A10054/2/
4. 天権之部(20巻の11)
https://honkoku.org/app/#/transcription/3A4293B76CA3D33A6BB50C288A4030FE/2/
5. 玉衡之部(20巻の14)
https://honkoku.org/app/#/transcription/AD5ABC1C3B0DA004EA5A07662DB78DF0/2/
6. 開陽之部(20巻の16)
https://honkoku.org/app/#/transcription/8AE19AF500B8557738741A344D344E8E/2/
7. 揺光之部(20巻の18)
https://honkoku.org/app/#/transcription/9E7921B2AC233A112E2066C4D184EC1D/2/
《題:東都名所図
会《割書:松濤軒長秋編輯|長谷川雪旦図畫》》
【左頁】
都名所圖會始/出(、)適在_二余成童
/特(、)_一 一閲_レ之即謂此可_三以供_二卧游_一
/矣(、)則江戸亦不_レ可無_二是輯_一/也(、)後
數/歳(、)聞_二諸酉山大久保/翁(、)_一有_二齋
藤幸雄/者(、)_一有_二探勝之/癖(、)_一方撰_二江
戸名所圖/會(、)【_一?】採擇稍/遍(、)描寫頗
/盡(、)然獨病_下江戸稱_二名所者僅僅
不_上レ足_二僂指_一/也(、)余謂凡名所之稱
本岀_二於咊歌者/流(、)_一盖其設_レ法謹
厳畫/一(、)縦令有_二山秀水/麗(、)_一足_二以
吟/咏(、)_一而其不_レ為_二古歌所_一レ取/者(、)不
_レ得稱_二之名/所(、)_一是其所_下以雖_三世有_二
序之一
汗/隆(、)_一 要不_上レ失_レ為_二雅馴_一/也(、)然名所者
賓/也(、)實者主/也(、)主豈可_二以_レ賓加
損_一焉/哉(、)矧秋里氏之/撰(、)非_二惟所
_レ謂名所而/己(、)_一神祠佛/寺(、)説係_二恠
/誕(、)_一■陌綺/街(、)事渉_二猥瑣_一/者(、)無網
羅而不_レ遺/乎(、)矧復江戸之為_レ /地(、)
[右]
武野之曠秩嶺之山濹流之永
玉川之澄絡_二澤那域_一霞関忍
孝亦以_二文化戌寅_一□又遺_二托之
男幸成_一奉成泣受_レ之□勉不_一怠
校讐極_レ力竟竣_二其功_一間者幸成
突然抵_レ門通_レ刺出_二其全帙_一示_レ之
且需_二序言_一是蓋由_三余注日介_レ 人
□_二其成_一也余乃一閲三難汪追_下念
與_二酉山翁_一言_上 三_二紀於茲_一喜悲交
集又憾_下幸雄奉孝與_二酉山翁_一皆
不_上レ觀_二其完成_一矣然其所_二以暦年
若_レ之此其久_一者敵_二慎遺托_一不_二敢軽
豊奉_一則死者而有_レ知必曰予子若
孫相積能成_二吾志_一矣抑面會之
有_レ ̄リ 人。逝者無_レ 憾矣。乃走_レ 尓?微_二序 ̄ヲ於
余_一 ̄ニ。時 ̄ニ去_二承 ̄カ先-人易_一レ簀。盖八-稔矣。而余
以_二薄枝_一。浪 ̄リニ代_二先-人 ̄ノ之任 ̄ニ。大-方 ̄ノ之誚。
固 ̄ニ所_レ不_レ免也。天保癸巳【天保四年1833】春三月
江戸 亀田長梓 謹識
牧野信書
あらかねの土てふものはとこしへに勅事なきことわりなから とし月
のうつりゆくにつけてハ 山崩れ海あせてかはりゆく事なき【支】に
しもあらぬハ そのあたれらん国〻にとりてハ 大きなるさわき【騒ぎ】
にはありぬへけれと そも大塊のうへより見れハ まことに九牛の
毛ひとつにもおよはすとかいひけん諺のたくひになんひとし
かるへき されはむかしより名にきこえたるところ【呂】〳〵も猶
おのつから しかもなりゆきあるハたよりにつけて田とも溝【うなで?】とも
きは【際?】軒をならふ【布】る市人のすみかともうつろひきぬる事
なれは あまたの世をへての後にハ たゝ名はかりハ むなしう
残れるものからあらぬおもむき【趣】になりもてきぬる事 こゝのミ
にしもあらぬこと国にもかそへつくしかたう【数え尽くし難う】なんあるへき され
は今の世よりしてはそことしも まさしくさしてこゝなりけんとは
しりかたき事おほかれと 猶そのすち【筋】の事ともかいしるしたる
ものらそここゝにちりほひのこりてあれは それにつきて考
あはすれは あたらすといへと遠からすといひけん さかひにハ
いたるへき事又少からすおほゆるよ こゝに藤原幸雄といふ
翁ありておもへらくいにいにしへの事ハ それしか成きぬ 今此二
百年はかりの事たに日にそへて此大江戸の承旅ゆくにつけ
てもと有つるところ〳〵をこゝかしこに称されたる事いた
おほかるをそれたにはたしる人まれなれハ かくていよゝま
すますにさかえゆきてんには市人の家をしもおきなら
へんにところせくしていま見およふ所をしも又うつされも
し玉ふへき御代のにきはひにしあれは いかて今見るさまつ
はらに書しるしあつめてん近きころ何某主内日刹都の
名にきこえたるところ〳〵を委しうしるしえなとかゝせて
世にあらはされて後大和なる河内なる摂津国なる紀伊国
なるつき〳〵に出来ぬるハ まことに世中にすミとすむ人な
りはひ撫?て出たらん愁もなく沓代費さんわつらひもなく
たゝゐなからにゆき見たらんこゝちすへけれは遠くあそは
されとのたまひけん聖のみこころにもかなふへきはしにもなり
ぬへけれはよのなかの人のためにハ まことに大きなるいさを【功】な
らんかしとておもひおこされしなりとそ されとはこやの山を
なかはとか聞つるよはひなれはことおほきにやたへさりけん
つひにはたすともなくて通られきさるをその子幸孝うけ
つき【受け継ぎ】ていか侍ほい【本意】のことはたしてんと こゝろはせめくりて
ものしつる そのまきれに【紛れに】いかにとりおとしけんとしころ【年頃】かいつめ
おかれしうちなる一巻をうしなひきさるを本所石原のわ
たりなる番場てふ所に妙源寺海煉上人とてたふとき【貴き】ひし
りおはしけり もとより世中ハおもひはなれて山水の清くいさき
よきに心をすましことはの花のたへにかくはしきを衣にしめて
もてあそひものとし玉へるか 常に我つふミ【文】ならしおはするついてに
この二年はかりをち【遠=昔】なりきわかすむてらの事なと委しうねも
ころ【懇ろ】にとひあきらめて【明めて】かへりし人のわすれたりけん かゝる一巻
なんおちゐたる あはれかはかり【かばかり】にも心いれたるものをとおもへは
いとほしくて月ころすきやうしありく【歩く?】にもくひにかけて【首に掛けて?】
その人と見しりたる人あらハ かへしあたへてんとおもへと
みちかひ【見違い】にてもさる人とおほえたるはなく哥よむ人〻
にあふときハ かゝることおもひたちたる人やあるととひあ
はせ【問い合わせ】なとしつれとふつに【全く】たつね出ねは今萬侍にかくハ
おもへとかひなく かくはかりにもこゝろつくしたるものをと
かたられたれはい侍そハおのかしりたる人になんといへは
ひしりよろこほひてそ【其】はとしころのほい【本意】かなひたり いと
うれしさらハ【さあらば】 かへしやりてん その人にたかはすハ【違いなければ】とらせ給
ひてよとて ふところより出されたるをやかてミつからもてゆ
きてけふハしか〳〵の事ありて来つといふを湯あミし
てありけるか聞つけてさなからにはしり岀てあれうれし この
巻うしなひしより さるへきをりにつけてはかた〳〵とあなくり
もとむれと わすれぬることハあやにくなるものにて あまた渡かた
ふけと そこ【其処】なりけんとハおもひよらぬものなるよ おやのしたゝめ給へる
ものにしあれは いかて身にかへてもとおもへと すへなくて通しつるを
なといひていとよろこほひてれしとおもひたるけしきなりけ
れは 帰りてそのよしつはらに【委曲に】のふ【述】れは我も此としころめくりあひて
その人なりけりとしらハ【知らば】かへし【返し】あたへてんとおもひつるかひありてと
よろこはれたるおもゝちまことありてあはれに有かたかりき さる
こゝろもち玉へれはこそ つひに身延山の貫主とあかめられ玉ひ
て去年の春かの御山にハうつり玉へるなれこハくた〳〵しう【くどくどと】
こゝにしるすへき事にしもあらねと上人の有かたかりし御心さし
をものはへ【述ばへ?】まほしくおもへは およはぬ筆のつたなさもわすれての
事なりけり まことやこの幸孝ぬしは市人の長たちてうたへことま
かなひつかふなるかうへにせさ?いもの奉る納屋あつかりてさへつとめられ
たれは かた〳〵につけてのかるへき【逃るべき】ひまなさにはつか【二十日】なるいとまうるをり〳〵
のたのミのみにて通されつるほとに 此ぬしもふとおもひかけなう【思いがけなく】
いミしき【いみじき】やまひにかゝりてよもつ国にまかられたるは たれ人か
をしまさらんや しかハあれとそのいたつきむなしからさらしめし
とさきはひ【幸い】玉ふ神やまし〳〵けんその子幸成主清うあらため
書て今かく世にひろうなりゆかん事このふたりのぬしたちのミたま
しも天かけりて見玉はハ いかはかりよろこひおもはさらんやあハれ
世人いかはかりめてもてはやさゝらんやかれ今板にゑりておほやけ
にせはやとてよはひまたはたちにもおよはさりしころよりおもひ
おこされて文政三年といふとし亀田の翁なとかたらひて世に
あらはさんとはかられつるそのきさみにおのれこの父ぬしより
明くれとひとはれし友にハあらねとさるへきゆかりはたなきにしも
あらねははしにまれおくにまれいさゝかしるしてよとこはれたれハ
いなむへきなからひにしもあらねはつたなきものから草とりて
いさゝかしるしおきつれと十あまりの年もへぬる事にしあれハいつく
にかさしおきけん見うしなひて今はもとむれとさくり出つへき
たよりなしさるハ去年やよひのすゑとしころすみならしたる家
のまへうしろこよなうかまひすしうよからぬいと竹の愁をいとひて
根岸といふ山里にかこかなるすみかもとめてうつろひかくろへぬる
そのまきれにやありけんいかて見いてゝんともとむれともとより
やまひかちにて何事もおもふかひなくはか〳〵しからぬ身にし
あれは友たちの哥むしろなとにたにものうくおほえてたち
あはんともせすかきこもりてのみすくすに今ハ老のくるしさゝへ
せめ来つれハうしなひつるものさかしもとめんとするちからさ
へなく気むつかしけれはいかてひとくたりのことをたにしたゝむ
へきかうかよわくやまひかちになりてたゝみつからをやしなふ
のみをたけきものにてあかしくらせはいまことさらにしたゝ
めん
きてなりともえさせよとせめらるゝをもとき聞えんたにこゝち
むつかしけれはたゝひとくたり茟とる手さへちからなきかへるの
子のやうにてなんそも〳〵この幸雄の翁といふハ吾浄有翁とハ
へたてなき友とちにて佛の道をも心にいれて相ともに
おこなひから人のをしへをもわするゝまなくつようまもりて相
ともにちからいれられたる翁にしあれハさる心よりおもひおこ
されての事にしあれはいかて身延山の貫首なと世にもくす
しうなさけある御方のやうなるさいはひにしもあひ奉らさ
らんや天保三年といふとしの五月はしめかたをかの寛光
このころ世にひろうもてとゝろ
かしきこゆる国つ名ところ圖
絵てふ書そしかもこのくにつ
文字して女児等にもいとめや
すう将こよなきなくさなり
そハうち日さすみやこあたりを
初めにてあらひきの大和路より
おしてる浪速のうらつたひかうち
いつみもともに名におへるとこ
ろ〳〵ゑらひものして五ツのくに
またくそれかあまりにハ神風の
伊勢の国東路の五十まり三ツの
うまや〳〵も■るかたなくまさしに
絵かきつことのよしをもつはら
にかひあつめてその境■しらぬ
人にたより先のいさをハ實に
みやこ人のみやひの心よりなれる
わさにていと雄ゝしくなも
おのれゑひす心にしてかれをま
ねふとにはあらねとその
大江戸にすめる身にしてこの
あたりしらてあらむもうたて
心くるしくてとし月いゆきめ
くらひぬる処ゝかいあつめぬれ
ハさすかに書かましくもなりぬる
にこそ
付言
此書は祖父か寛政中の編にして父縣麻呂か刪補文化の末に至て
なり文政の今に至て上梓の功を終りぬ凡年序を経る事三十有余年
江都蕃昌に随て神社寺院境地沿革するもの頗多し一向の小祠も
須臾に壮麗たる大社となり纔の草庵も巍然たる荘厳となれる
もの少からす或は祝融の災に罹りて楼門回廊を消失し礎石のみ
存するの類興廃枚挙すへからす然りといへとも時々是を改る事能わす
故に今時の体に差へるもの多し見るものいふかる事なかれ
斉藤月岑識
【左丁】
江戸名所図会(えとめいしよつゑ)巻之一(けんのいち)
天枢之部(てんすうのふ)目録(もくろく)
武蔵国号基(むさしこくかうのもと) 日本武尊(やまとたけのみこと)秩父岩倉山(ちゝふいわくらやま)に武器(ふき)を収(おさめ)給ふ図(つ)
江戸始元(えとのしけん) 御城興基(おんしろのかうき) 大江戸東南(おほえととうなん)の市街(いちまち)より内海(うちうみ)を望(のそむ)の図(つ)
元旦諸侯登城図(くわんたんしよこうとしやうのつ) 吹上御庭(ふきあけおんには) 松原小路(まつはらこうち) 梅林坂(はいりんさか)《割書:平河天満宮(ひらかはてんまんくう)|旧地(きうち)》
八代曽河岸(やよすかし) 竜(たつ)の口(くち)《割書:平田明神(ひらたみやうしん)|蒲生飛騨守宅地(かまふひたのかみたくち)》 道三橋(たうさんはし)
銭瓶橋(せにかめはし) 常盤橋(ときわはし) 一石橋(いちこくはし)《割書:八橋一覧(やつはしいちらん)図|桧木河岸(ひのきかし)》 日本橋(にほんはし)《割書:同 魚市(うをいち)| 》
天王御旅所(てんわうおたひしよ)《割書:大伝馬(おほてんま)町|小船(こふな)町》 通町(とほりちやう)《割書:駿河(するか)町 三井呉服店(みつゐこふくたな)本町 薬種(やくしゆ)店|大伝馬町 木綿(もめん)店》
浮世小路(うきよしやうち) 十軒店(しつけんたな)《割書:同 雛市(ひゐないち)| 》 本石(ほんこく)町 時(とき)の鐘(かね) 堀留(ほりとめ)《割書:伊勢(いせ)町 米河岸(こめかし)|同 塩河岸(しほかし)》
福田村旧址(ふくたむらきうし)《割書:白籏稲荷(しらはたいなり)祠| 》 千代田村旧跡(ちよたむらきうせき)《割書:千代田稲荷祠| 》
本銀(ほんしろかね)町 土手(とて) 今川橋(いまかははし)《割書:主水井(もんとのゐ)|下駄新道(けたしんみち)》 神田明神旧地(かんたみやうしんのきうち) 神田橋(かんたはし)《割書:鎌倉(かまくら)町 豊島(としま)屋|酒店(しゆてん)白酒(しろさけ)を集(あきな)ふ図》
護持院旧地(こちゐんきうち) 菰淵(まこもかふち)《割書:蟋蟀橋(きり〳〵すはし) 魚板橋(まないたはし)|飯田(いゐた)町 世継稲荷(よつきいなり)祠》 小川町基立(おかはまちきりう)《割書:小川清水(おかはのしみつ)|神田淵(かんたかふち)》
田安台(たやすのたい) 築土明神旧地(つくとみやうしんきうち) 飯田町(いゐたまち)《割書:中坂(なかさか)|九段(くたん)坂》 御茶(おちや)の水(みつ)
【右丁】
水道橋(すゐたうはし)《割書:駒込(こまこみ)吉祥寺(きちしやうし)旧地(きうち)|三崎稲荷(みさきいなり)祠》 駿河台(するかたい) 筋違橋(すちかゐはし)《割書:八小路(やつこうち)| 》
昌平橋(しやうへいはし)《割書:淡路坂(あわちさか)|太田姫稲荷(おほたひめいなり)祠》 神田川(かんたかは) 丹後殿前(たんことのまゑ)
藍染川(あゐそめかは)《割書:頬焼(ほうやき)|薬師(やくし)》 於玉(おたま)か池(いけ)《割書:於玉(おたま)稲|荷》 弁慶橋(へんけいはし) 柳原封疆(やなきはらとて)《割書:柳森(やなきのもり)稲|荷》
《割書:稲荷(いなり)|河岸(かし)》 馬喰(はくろふ)町 馬場(はゝ)《割書:東錦絵店(あつまにしきゑみせ)| 》 浅草橋(あさくさはし)
柳橋(やなきはし)《割書:薬研堀(やけんほり)| 》 両国橋(りやうこくはし) 清水如水宅地(しみつしよすゐたくち) 杉森稲荷(すきのもりいなり)社【https://honkoku.org/app/#/transcription/EFAE46D49E3E87F3F7B07117751CE5D8/2/】
歌舞妓芝居(かふきしはゐ)《割書:堺(さかゐ)町 中村座(なかむらさ)|葺屋(ふきや)町 市村座(いちむらさ)》 吉原町旧地(よしはらまちきうち)《割書:大門(おほもん)|通(とほり)》 賀茂真淵翁(かものまふちをう)閑居地(かんきよのち)
新大橋(しんおほはし) 三派(みつまた)《割書:別(わかれ)の淵(ふち)|》 江戸橋(えとはし)《割書:木更津(きさらつ)|河岸(かし)》 四日市(よつかいち)《割書:土手蔵(とてくら)|才蔵市(さいさういち)》
《割書:根津権現(ねつこんけん)|御旅所旧地(おたひしよきうち)》 中橋(なかはし) 天王御旅所(てんわうおたひしよ)《割書:南伝(みなみてん)|馬(ま)町》 鎧(よろひ)の渡(わたし)《割書:鎧(よろひ)の淵(ふち)| 》
兜塚(かふとつか) 永田馬場(なかたはゝ)山王(さんわう)御旅所(おたひしよ)《割書:同 御祭礼(こさいれい)|の図(つ)》 茅場(かやは)町 薬師堂(やくしたう)
《割書:天満(てんまん)|宮(くう)》 俳仙(はいせん)其角翁(きかくをうの)宅地(たくち) 徂来先生(そらいせんせい)居宅地(きよたくのち)
伊雑太神宮(いそへたいしんくう) 三(み)ッ橋(はし) 霊巌島(れいかんしま)《割書:霊巌|橋》 随見屋舗(すゐけんやしき)
新川太神宮(しんかはたいしんくう) 新川酒問屋図(しんかはさかとひやのつ) 永代橋(えいたいはし) 薬師堂(やくしたう)橋本稲荷(はしもといなり)社
恵比須前稲荷(ゑひすまへいなり)社 湊稲荷(みなといなり)社 鉄炮洲(てつはうす) 半井卜養翁(なからゐほくやうをう)居宅地(きよたくのち)
【左丁】
了然禅尼(りやうねんせんに)菴室地(あんしつのち) 佃島(つくたしま)同 白魚網(しらうをあみ) 住吉明神(すみよしみやうしん)社 鎧島(よろひしま)
江風山月楼(かうふうさんけつろう) 咳嗽耆嫗(せきのぢゝばゝ) 寒橋(さむさはし) 西本願寺(にしほんくわんし)
采女原(うねめかはら)《割書:采女井| 》 木挽(こひき)町 歌舞妓芝居(かふきしはゐ) 織田有楽斎(おたうらくさい)第宅地(ていたくのち)
新橋(しんはし) 汐留橋(しほとめはし) 尾張(おはり)町 呉服店(こふくたな)《割書:金六町しからき|茶店(ちやみせ)》
三縁山増上寺(さんえんさんそうしやうし)《割書:本堂(ほんたう) 経堂(きやうたう) 開山堂(かいさんたう) 鐘楼(しゆろう) 熊野祠(くまのゝやしろ) 黒本尊堂(くろほそんたう)|三門(さんもん) 安国殿(あんこくてん) 五層塔(ごそうのたう) 涅槃石(ねはんせき) 曼荼羅石(まんたらいし) 鷹門(たかもん)》【https://honkoku.org/app/#/transcription/C5E07A532F4452AAD21E4D48444FE861/2/】
《割書:極楽橋(こくらくはし) 宗廟(そうひやう) 御常念仏堂(おんしやうねんふつたう) 性寿院(しやうしゆゐん) 飯倉天満宮(いゐくらてんまんくう) 茅野天満宮(かやのてんまんくう) 円光大師旧跡(えんくわうたいしきうせき)|円坐松(えんさのまつ) 円山(まるやま) 芙蓉洲弁才天(ふようしうへんさいてん)祠 子聖(ねのひしり)社 産千代稲荷(うふちよいなり)祠》
《割書:阿加牟堂(あかんたう) 大門(たいもん) 御成門(おなりもん)|涅槃門(ねはんもん) 柵門(やらいもん)》 飯倉神明宮(いゐくらしんめいくう) 宇田川橋(うたかははし)
日比谷稲荷(ひゝやいなり)祠 烏森稲荷(からすもりいなり)社 薮小路(やふこうち) 桜川(さくらかわ)
真福寺(しんふくし) 愛宕山権現(あたこさんこんけん)社《割書:愛宕山(あたこさん)正月三日|祭事(さいし)之図》 青松寺(せいしようし)《割書:含海山(うんかいさん)| 》
金地院(こんちゐん)《割書:閻魔(ゑんまの)|石像(せきさう)》 天徳寺(てんとくし) 城山(しろやま) 太田道灌城跡(おほたたうくわんしろあと)《割書:一名 番(はん)|神山(しんやま)》
西窪八幡宮(にしのくほはちまんくう) 飯倉(いゐくら) 熊野権現宮(くまのこんけんくう) 勝手(かつて)か原(はら)
赤羽川(あかはねかは) 赤羽橋(あかはねはし) 心光院(しんくわうゐん)《割書:布引観世音(ぬのひきくわんせおん)|竹女故事(たけしよかこし)》 芝浦(しはうら)
三穂神社(みほのしんしや) 鹿島神社(かしましんしや) 毘沙門堂(ひしやもんたう)《割書:日親(につしん)堂| 》 西応寺(さいをうし)
【右丁】
三田(みた) 綱坂(つなさか)《割書:手引坂(てひきさか) 産湯水(うふゆのみつ)|駒繋松(こまつなきまつ) 綱塚(つなつか)》 小山神明宮(こやましんめいくう)
春日明神(かすかみやうしん)社 月波楼(けつはろう) 三田八幡宮(みたはちまんくう) 聖坂(ひしりさか)
功運寺(こううんし) 済海寺(さいかいし) 竹柴寺旧址(たけしはてらきうし)同 古事(こし)
亀塚(かめつか) 徂来先生墓(そらいせんせいのはか) 魚籃観音堂(きよらんくわんおんたう) 潮見坂(しほみさか)
伊皿子薬師堂(いさらこやくしたう) 牛小屋(うしこや) 高輪大木戸(たかなわおほきと)《割書:七月廿六 夜待(やまち)之図| 》
高輪(たかなわ)か原(はら) 泉岳寺(せんかくし) 如来寺(によらいし)《割書:臥竜岡(くわりうのおか)| 》 太子堂(たいしたう)庚申堂(かうしんたう)
稲荷(いなり)祠 常光寺(しやうくわうし) 宝蔵寺(ほうそうし)《割書:子安観音|弁才天》 釈神(しやくしん)社
高山稲荷(たかやまいなり)社 東禅寺(とうせんし)《割書:有喜寿(うきす)|八幡宮》 谷山(やつやま)
【左丁】
武蔵(むさし)
【挿し絵】
日本武尊(やまとたけのみこと)東夷征代(とうゐせいはつ)【伐の誤りか】
の時(とき)武具(ふく)を秩父(ちゝふ)
岩倉山(いわくらやま)に収(おさめ)給ふ
是 武蔵国号(むさしこくかう)の
濫觴(はしめ)なり
倭健戎容猛
征西又伐東
腰間十束剣
草薙偃威風
春斎子
【挿し絵】
江戸東南(えとひかしみなみ)の
市街(いちまち)より
内海(うちうみ)を
望(のそ)む図(つ)
【挿し絵】
駿河町(するかちやう)
三井呉服店(みつゐこふくたな)
元日の
みる
ものに
せん
不二
の
山
宗鑑
【挿し絵】
本町(ほんちやう)
薬種店(やくしゆたな)
【挿し絵】
大伝馬町(おほてんまちやう)
木綿店(もめんたな)
橋(はし)京橋(きやうはし)新橋(しんはし)を経(へ)て金杉橋(かなすきはし)の辺迄(あたりまて)の総名(そうみやう)にして町幅(まちはゝ)十 間余(けんよ)あり
浮世小路(うきよしやうち) 室町(むろまち)三丁目の間(あひた)の東(ひかし)の横小路(よここうち)を云(いふ)されと其故(そのゆゑ)をしらす
或人云(あるひといふ)畳表(たたみおもて)浮世臥座(うきよこさ)商(あきな)ふみせある故(ゆゑ)にいふとも又は風呂屋(ふろや)遊女(いうちよ)の居(ゐ)たり
し故(ゆゑ)ともいへり
十軒店(しつけんたな) 本町(ほんちやう)と石町(こくちやう)の間(あひた)の大通(おほとほり)をいふ桃(もゝ)の佳節(かせつ)を待得(まちえ)ては大(たい)
裡(り)雛(ひな)裸人形(はたかにんきやう)手道具(てとうく)等(とう)の鄽(みせ)軒端(のきは)を並(なら)へたり端午(たんこ)には冑人(かふとにん)
形(きやう)菖蒲刀(しやうふかたな)こゝに市を立(たて)て其賑(そのにきは)ひをさ〳〵弥生(やよひ)の雛市(ひないち)におと
らす又 年(とし)の暮れ(くれ)に至(いた)れは春(はる)を迎(むか)ふる破魔弓(はまゆみ)手毬(てまり)破胡板(はこいた)を商(あきな)ふ
共(とも)に其市(そのいち)の繁昌(はんしやう)言語(けんきよ)に述尽(のへつく)すへからす実(しつ)に大平(たいへい)の美(ひ)とも云ん
かし 《割書:其余(そのよ)尾張町(おはりちやう)浅草(あさくさ)茅町(かやちやう)池(いけ)の端(はた)仲町(なかちやう)麹町(かうしまち)|駒込(こまこみ)抔(なと)にも雛市(ひないち)あれとも此所の市(いち)にはしかす》
時鐘(ときのかね) 石町(こくちやう)三丁目の小路(こうち)にあり辻源(つしけん)七といへる者(もの)是(これ)を役(やく)す此鐘(このかね)
初(はしめ)は御城内(こしやうない)にありしとなり 《割書:其余(そのよ)都城(としやう)の繞(めく)りに有(あり)て候時(こうし)を報(はう)する|ものすへて八ヶ所なり所謂(いはゆる)浅草寺(せんさうし)本所(ほんしよ)横(よこ)》
《割書:川町(かはちやう)上野(うへの)芝(しは)切通(きりとほし)市谷八幡(いちかやはちまん)目白不動(めしろふとう)赤坂(あかさか)田町(たまち)成満寺(しやうまんし)四谷天竜寺(よつやてんりうし)等(とう)なり| 》
銘曰 宝永辛卯四月中浣鋳物御大工椎名伊豫
藤原重休
【挿し絵】
祇園会(きおんゑ)
大伝馬町御旅所(おほてんまちやうおたひしよ)
五元集
天王の御旅所と
拝す
里の子
の
夜宮
に
いさむ
鼓
かな
其角
【挿し絵】
堀留(ほりとめ)
【挿し絵】
主水井(もんとのゐ)
【左ページ】
侯(こう)の弟宅(ていたく)ありし故(ゆゑ)に又 大炊殿橋(おほいとのはし)とも号(かうし)たるとなり 《割書:事跡合考(しせきかつかう)に|云(いは)く昔(むかし)は神田(かんた)》
《割書:橋(はし)の外(そと)に茅商人(かやあきんと)あまた住(ちゆう)す今(いま)の八丁堀(はつちやうほり)の茅場町(かやはちやう)是(これ)なり又 其後(そのゝち)|本所(ほんしよ)にも遷(うつ)さるゝ今(いま)本所(ほんしよ)の茅場町(かやはちやう)といふはこの故(ゆゑ)なりと云々》 此御門(このこもん)の
外(そと)の町(まち)をすへて神田(かんた)と号(なつ)く
護持院旧地(ごちゐんきうち) 神田橋(かんたはし)と一橋(ひとつはし)との間(あひた)御溝(おんほり)の外(そと)の芝生(しはふ)を云(いふ)此所(このところ)は
大塚護持院(おほつかこちゐん)の旧址(きうし)なり 《割書:元禄年間(けんろくねんかん)柳原(やなきはら)の南(みなみ)にありし知足院(ちそくゐん)を引て|護持院(こちいん)と号(なつけ)られ殿堂(てんたう)御建立(ここんりふ)ありしか享保(きやうほ)》
《割書:回録(くわいろく)の後(のち)大塚(おほつか)の地(ち)へ|移(うつ)され後(のち)明地(あきち)となる》 林泉(りんせん)の形(かたち)残(のこ)りて頗(すこふ)る佳景(かけい)なり夏秋(かしう)の間(あひた)是(これ)を
開(ひら)かせられ都下(とか)の人こゝに遊(あそ)ふ事をゆるさる冬春(とうしゆん)の間(あひた)は時(とき)として
大将軍家(たいしゃうくんけ)こゝに御遊猟(こいうりやう)あり故(ゆゑ)に此所(このところ)を新駒(しんこま)か原(はら)とも唱(とな)ふる
となり世俗(せそく)は護持院(こちゐん)の原(はら)と呼(よ)へり
菰(まこも)か淵(ふち) 元飯田町(もといひたまち)の東(ひかし)の入堀(いりほり)をしか号(なつ)く蟋蟀橋(きり〳〵すはし)と云は同所 北(きた)の
方(かた)の小溝(こみそ)に架(わた)す石橋(いしはし)の号(かう)なり又 小川町(おかはまち)より九段坂(くたんさか)へ向(むか)ふ所(ところ)の
橋(はし)を今(いま)魚板橋(まないたはし)と唱(とな)ふ 《割書:又 俎板(まないたはし)|に作(つく)る》 されと其所以(そのゆゑん)をしらす 《割書:江戸名勝志(えとめいしようし)|に此川(このかは)を飯(いひ)》
《割書:田川(たかは)と云と|しるせり》 世継稲荷(よつきいなり)は飯田町(いひたまち)の中坂(なかさか)にあり文安(ふんあん)の頃(ころ)より此地(このち)に
御大工棟梁(おんたいくとうりやう)弁慶(へんけい)小左衛門といへる人の工夫(くふう)によりて懸初(かけはしめ)しと
いへり此地(このち)の形(かたち)に応(おう)し衢(ちまた)を横切(よこきり)て筋替(すちかへ)にかくる尤(もつとも)奇(き)なり
【挿し絵】
岩本町
松枝町
水
水
弁慶橋之図
元岩井町
横山町三丁目代地
【挿し絵ここまで】
柳原封壃(やなきはらのとて) 筋違橋(すちかひはし)より浅草橋(あさくさはし)へ続(つゝ)く其間(そのあひた)長(なかさ)凡(およそ)十町 斗(はかり)あり
享保(きやうほ)年間(ねんかん)此所(このところ)の堤(つゝみ)に悉(こと〳〵)く柳(やなき)を栽(うゑ)させらる 《割書:寛永(くわんえい)十一年の江戸絵図(えとゑつ)|には柳堤(やなきつゝみ)とあり》
堤(つゝみ)の外(そと)は神田川(かんたかは)なり又 此堤(このつゝみ)の下(した)に柳森稲荷(やなきのもりいなり)と称(しやう)する叢(さう)祠あり
故(ゆゑ)に此地(このち)を稲荷河岸(いなりかし)と呼(よ)へり 《割書:昔(むかし)は神田川(かんたかは)の隔(へたて)もなく此川(このかは)の南北(なんほく)ともに|おしなへて柳原(やなきはら)といひし広原(くわうけん)なりしとなり》
馬場(はゝ) 馬喰町(はくろちやう)三丁目の西北の裏通(うらとほり)にあり江戸馬場(えとはゝ)の中(うち)最(もつと)も古(ふる)し
慶長(けいちやう)五年 関(せき)か原(はら)御陣(こちん)の時(とき)御馬揃(おんうまそろへ)ありし所(ところ)なりと云(いひ)伝(つた)ふ
御馬工郎(おんはくらう)高木源兵衛(たかきけんひやうゑ)是(これ)を預(あつか)り奉(たてまつ)る 《割書:此地(このち)を馬喰町(はくらふちやう)といふも此(この)御由緒(こゆいしよ)によりて|なり昔(むかし)は富田半七(とみたはんしち)と高木源兵衛(たかきけんひやうゑ)と両人(りやうにん)》
《割書:まりしとそ寛永(くわんえい)廿年開板(かいはん)あつまめくりといへる草紙(さうし)に末(すゑ)は馬喰町(はくらふちやう)とかや侍(さふらひ)あまたうち|つれてこゝにくり毛(け)の馬(うま)もありあるひは月毛(つきけ)鹿毛(かけ)かすけ皆(みな)せめ事とうちみえて云々 其頃(そのころ)は》
《割書:追廻(おひまは)しといひて左(さ)の如(こと)き形(かたち)なりしとなり寛永(くわんえい)明暦(めいれき)延宝(えんはう)等(とう)の江戸絵図(えとゑつ)にしかしるせり| 》
【挿し絵】
四丁目
三丁目
二丁目
はくろう丁
馬場 追廻し
唯念寺
法泉寺
日■ゐん
聖徳寺
浄安寺
せんとくし
■■寺
本泉寺
大正寺
【挿し絵ここまで】
浅草橋(あさくさはし) 神田川(かんたかは)の下流(かりう)浅草御門(あさくさこもん)の入口(いりくち)に架(わた)す此 所(ところ)にも御高札(こかうさつ)を建(たて)
【挿し絵】
馬喰町馬場(はくろふちやうはゝ)
鶴岡放生会職人歌合
博労恋
なへて
世の
人に手なれの
あた
こゝろ
つけすまひ
こそ
よしな
かり
けれ
良基
錦絵(にしきゑ)
江戸(えと)の名産(めいさん)にして
他邦(たほう)に比類(ひるい)なし
中(なか)にも極彩色(こくさいしき)殊(こと)
更(さら)高貴(かうき)の御 翫(もてあそ)
ひにもなりて諸国(しよこく)
に賞美(しやうひ)する事 尤(もつとも)
夥(おひたゝ)し
【挿し絵中、右ページ下の桶】
通油町
【左ページの凧】
竜
【看板】
さうし問□
鶴屋
本問屋
喜右衛門
【描かれているのは鶴屋喜右衛門の店の様子】
【挿し絵】
薬研堀(やけんほり)
不動(ふとう)
金毘羅(こんひら)
歓喜天(くわんきてん)
らる馬喰町(はくらふちやう)より浅草(あさくさ)への出口(てくち)にして千住(せんぢゆ)への官道(くわんたう)なり此東(このひかし)の大(おほ)
川口(かはくち)にかゝるを柳橋と号(なつ)く柳原堤(やなきはらつゝみ)の末(すゑ)にある故(ゆゑ)に名(な)とするとそ 《割書:此所(このところ)諸方(しよはう)へ|の貸船(かしふね)あり》
両国橋(りやうこくはし) 浅草川(あさくさかは)の末(すゑ)吉川町(よしかはちやう)と本所元町(ほんしよもとまち)の間(あひた)に架(わた)す長(なかさ)九十六 間(けん) 《割書:橋(はし)の|前後(せんこ)》
《割書:并(ならひに)橋上(きやうしやう)に番屋を|居(すゑ)て是(これ)を守(まも)らしむ》 万治(まんち)二年己亥 官府(くわんふ)より始(はしめ)て是(これ)を造(つく)り給ふ 《割書:三橋記(さんきやうき)|或(あるひ)は云(いふ)》
《割書:寛文(くわんふん)元年辛丑 新(あらた)に両国橋(りやうこくはし)を架(かけ)しめらる御普請奉行(こふしんふきやう)芝山(しはやま)坪内(つほうち)両氏(りやうし)に命(めい)せ|られしと云々旧名(きうみやう)を大橋(おほはし)と号(かう)す事跡合考(しせきかつかう)に万治(まんち)二年 東(ひかし)の大川筋(おほかはすち)に始(はしめ)て大(おほ)》
《割書:橋(はし)一ヶ所をかけらるゝとあるも此橋8このはし)の事なり又むさしあふみといへる草紙(さうし)|にも此橋(このはし)を大橋(おほはし)としるしてあり事跡合考(しせきかつかう)云 此橋(このはし)の形(かたち)は扇(あふき)を開(ひら)きたるにかたとると云々》
其昔(そのむかし)此川(このかは)を国界(くにさかい)とせしにより両国橋(りやうこくはし)の号(かう)ありといへとも今(いま)の
如(こと)く利根川(とねかは)を以(もつて)界(さかい)と定(さた)め給ふにより後(のち)は本所(ほんしよ)の地(ち)も同(おな)しく武蔵(むさしの)
国(くに)に属(そく)すといへとも橋(はし)の号(かう)は唱(とな)へ来(きた)るに任(まか)せて其侭(そのまゝ)改(あらため)られすと
なり 《割書:或人(あるひと)云(いは)く長享(ちやうきやう)三年丙寅春三月 利根川(とねかは)|の西(にし)を割(わり)て武蔵国(むさしのくに)に属(そく)せしめらるゝと云々》 此地(このち)の納涼(なうりやう)は五月廿八日に
始(はしま)り八月廿八日に終(おは)る常(つね)に賑(にき)はしといへとも就中(なかんつく)夏月(かけつ)の間(あひた)は尤(もつとも)
盛(さかん)なり陸(くか)には観場(みせもの)所(ところ)せき斗(はかり)にして其(その)招牌(せうはい)の幟(のほり)は風(かせ)に飄(ひるかへり)て
扁翻(へんほん)たり両岸(りやうかん)の飛楼高閣(ひろうかうかく)は大江(たいかう)に臨(のそ)み茶亭(さてい)の床几(しやうき)は水辺(すゐへん)に立(たて)
【表紙】
【題箋】
江戸名所図会 十八
江戸名所図会(えとめいしよつゑ)巻之七(けんのしち)
揺光之部(ようくわうのふ)目録(もくろく)
富賀岡八幡宮(とみかおかはちまんくう)《割書:四隅鎮守(しくうちんしゆ) 園女桜(そのめさくら) 永代寺(えいたいし)|弥生山開(やよいやまひらき)の図 境内(けいたい)拍戸(りやうりや)雪中遊宴(せつちゆうゆうゑん)の図》 三十三間堂(さんしふさんけんたう)
洲崎弁財天(すさきへんさいてん) 砂村元八幡宮(すなむらもとはちまんくう) 深川木場材木屋図(ふかかはきはさいもくやのつ) 陽岳寺(ようがくし)《割書:英信勝(はなふさのふかつ)|之墓(のはか)》
海福寺(かいふくし)《割書:武田信玄(たけたしんけん)|九層塔(くしうのたふ)》 採荼庵旧蹟(さいとあんのきうせき) 浄心寺(しやうしんし)《割書:祖師堂(そしたう)|七面堂(しちめんたう)》 霊巌寺(れいかんし)《割書:六地蔵(ろくちさう)| 》
本誓寺(ほんせいし)《割書:石地蔵尊(いしちさうそん)| 》 一蝶寺(いちてうてら) 法禅寺(ほふせんし) 雲光院(うんくわういん)
五本松(こほんまつ)《割書:小奈木川(おなきかは)|尊空法親王(そんくうほふしんわう)御閑居之地(こかんきよのち)》 霊雲院(れいうんゐん)《割書:延寿稲荷(えんしゆいなり)社| 》 芭蕉庵旧址(はせをあんのきうし)
六間堀神明宮(ろくけんほりしんめいくう) 弥勒寺(みろくし)《割書:弥勒寺橋(みろくしはし)| 》 深川八幡宮御旅所(ふかかははちまんくうおたひしよ) 一之橋弁財天(いちのはしへんさいてん)祠
回向院(ゑかうゐん)《割書:千体弥陀如来(せんたいみたによらい) 三仏堂(さんふつたう) 一言観音堂(ひとことくわんおんたう) 藁囊(わらつと)弁才天祠 馬頭観音堂(はとうくわんおんたう)|円光大師堂(ゑんくわうたいしたう) 蓮池(はすいけ) 阿弥陀仏銅像(あみたふつとうさう) 開帳参(かいちやうまいり)の図》
猿江泉養寺蓮(さるえせんゆうしのはす) 日先社《割書:摩利(まり)|支天(してん)》 五百羅漢寺(こひやくらかんし)《割書:五百羅漢(こひやくらかん)造立之来由(さうりうのらいゆ)|仏殿羅漢堂(ふつてんらかんたう)内相(ないさう)之図》
《割書:三匝堂(さんそうたう) 天王殿(てんわうてん) 禅堂(せんたう) 鐘楼(しゆろう)|摂待所(せつたいしよ) 開山堂(かいさんたう) 漢門(からもん) 五ッ目 渡場(わたしは)》 亀戸天満宮(かめとてんまんくう)《割書:紅梅殿(かうはいてん) 老松殿(らうしやうてん) 回廊(くわいらう)|璥門(けいもん) 反橋(そりはし) 御岳(みたけ)社》
《割書:花園(はなその)社 頓宮神社(とんくうしんしや) 兵洲辺(ひやうすへ)神祠 連歌家(れんかや) 二月廿五日 御忌神事(きよきしんし)図|八月十五日 祭礼(さいれい)図 年中行事(ねんちゆうきやうし) 天神橋(てんしんはし)》 普門院(ふもんゐん)《割書:御腰掛松(おんこしかけまつ)|慈眼水(しけんすゐ)》
《割書:身代観世音(みかはりくわんせおん)| 》 亀戸邑道祖神祭(かめとむらたうそしんまつり)の図 臥竜梅(くわりやうはい) 入神明宮(いりしんめいくう)《割書:網干榎(あみほしえのき)|太平塚(たいへいつか)》
東覚寺(とうかくし)《割書:不動堂(ふとうたう)| 》 香取太神宮(かとりたいしんくう) 宝蓮寺(ほうれんし) 常光寺(しやうくわうし)《割書:六阿弥陀 六番目|来迎松(らいかうのまつ)》
《割書:竜灯松(りうとうのまつ)| 》 慈光院(しくわうゐん) 吾嬬権現(あつまこんけん)社《割書:吾嬬(あつま)の森(もり) 神木相生樟(しんほくあいおひくす)|神宝古鈴(しんはうこれい)》
殖髪太子堂(うゑかみたいしたう) 萩寺庭中(はきてらていちゆう)の図 柳島妙見堂(やなきしまみやうけんたう)《割書:鏡(かゝみ)の|松》 押上最教寺(おしあけさいけうし)
蒙古退治(もうこたいち)日(ひ)の丸(まる)旗(はた)曼荼羅(まんたら)縁起(ゑんき)并図《割書:七面堂(しちめんたう)| 》 大法寺(たいほふし)《割書:番神(はんしん)社|広布石(くわうふせき)》
霊山寺(りやうせんし)《割書:尊空法親王(そんくうほうしんのう)御廟(こひやう)|観音堂(くわんおんとう)》 法恩寺(ほふおんし)《割書:番神(はんしん)堂| 》 中の郷(かう)瓦匠(かはらし)の図
業平天神(なりひらてんしん)社 中郷八幡宮(なかのかうはちまんくう) 第六天(たいろくてん)祠 多田薬師堂(たたやくしたう)
遠州秋葉山宿寺(ゑんしうあきはさんしゆくし)《割書:図中|に在》 本久寺(ほんきうし) さらしの井
妙源寺(みやうけんし) 最勝寺(さいしやうし) 牛島神明宮(うししましんめいくう) 太子堂(たいしたう)
大川橋(おほかははし)の図 三囲稲荷(みめくりいなり)社 牛御前王子権現(うしのこせんわうしこんけん)社《割書:法華経千部供養碑(ほけきやうせんふくやうのひ)|千葉家旗(ちはけのはた) 古文書(こふんしよ)》【https://honkoku.org/app/#/transcription/346016D3BD3173DEAE979A550AD63DF7/2/】
長命寺(ちやうめいし)《割書:牛島弁才天(うししまへんさいてん) 長命水(ちやうめいすゐ) 梛樹(なきのき)|延寿(えんしゆ)の椎(しゐ) 自在庵旧址(しさいあんのきうし)》 弘福寺(かうふくし)《割書:仏殿(ふつてん) 木犀(もくせい) 座禅堂(させんたう) 牌堂(はいたう)|開山堂(かいさんたう) 食堂(しきたう) 天王殿(てんわうてん) 経蔵(きやうさう)》
《割書:鐘楼(しゆろう) 鎮守宮(ちんしゆのみや)|天桂石(てんけいせき) 漢門(からもん)》 請地秋葉権現(うけちあきはこんけん)千代世稲荷(ちよせいなり)社《割書:神泉(しんせん)|松》 寺島蓮華寺(てらしまれんけし)《割書:太子|堂》
白髭明神(しらひけみやうしん)社 隅田河(すみたかわ) 須田(すた)の河原(かはら) 隅田河堤(すみたかはつゝみ)《割書:堤春|景》
隅田(すた)の宿(しゆく) 都鳥(みやことり) 木母寺(もくほし)《割書:梅若山王(むめわかさんわう)|権現(こんけん)社》 梅若丸塚(むめわかまるのつか)《割書:同 縁起(えんき)| 》
《割書:印(しるし)の柳(やなき)|水神(すゐしん)社》 内川(うちかは) 御前載畑(こせんさいはたけ) 丹頂(たんてう)か池(いけ)
庵崎(いほさき) 関屋(せきや)の里(さと) 綾瀬川(あやせかは) 鐘(かね)か潭(ふち)
牛田薬師堂(うしたやくしたう) 若宮八幡宮(わかみやはちまんくう) 関屋天満宮(せきやてんまんくう)《割書:元天神| 》 葛西花畠(かさいはなはたけ)の図
渋江西光寺(しふへさいくわうし) 清重稲荷(きよしけいなり)社 青研藤綱之旧蹟(あほとふちつなのきうせき)《割書:古製(こせい)山葵㨸(わさひおろし)の図| 》【㨸=てへんに密、擦の書き間違いか】
木下川薬師堂(きけかはやくしたう)《割書:白髭(しらひけ)明神祠 太神宮 山王宮 弁才天祠|熊野祠 御神影 二王門 本尊彫造之来由(ほんそんてうさうのらいゆ)》 中川(なかかは)《割書:同 釣魚(いをつり)の図| 》
平井聖天宮(ひらゐしやうてんくう)《割書:不動堂(ふとうたう) 灯明寺(とうみやうし)|平井(ひらゐ)の渡(わたし)》 立石(たていし)《割書:南蔵院(なんさうゐん)| 》 熊野権現(くまのこんけん)祠
普賢寺(ふけんし) 葛西六郎墳墓(かさいろくらうのふんほ) 善通寺(せんつうし)《割書:什宝(しふほふ)中将姫製弥陀像(ちゆうしやうひめのせいみたさう)|親鸞上人筆十字名号(しんらんしやうにんのふてしふしめいかう)》
一(いち)の江(え)妙音時(みやうおんし)《割書:賓頭(ひんつ)|盧像(るのさう)》 二(に)の江(え)妙勝寺(みやうしやうし)《割書:水神(すゐしん)|宮(くう)》 浄興寺(しやうかうし)《割書:琴弾松(ことひきまつ)| 》 北条氏康(ほうてううちやす)小鷹狩(こたかかり)の図
今井渡(いまゐのわたし) 鎌田妙福寺(かまたみやうふくし)《割書:親鸞上人御影堂(しんらんしやうにんみえいとう) 鏡(かゝみ)か池(いけ)|袈裟掛松(けさかけまつ)》 柴又村帝釈天(しはまたむらたいしやくてん)社
新宿渡口(にゐしゆくわたしくち) 夕顔観音堂(ゆふかほくわんおんたう) 猿(さる)か脵(また) 和銅寺廃址(わとうしはいし)
半田稲荷(はんたいなり)社 松戸(まつと)の津(つ) 松戸 堤(つゝみ) 相模台(さかみたい)【https://honkoku.org/app/#/transcription/6833A3198946B63897C0F95AE482A057/2/】
小弓御曹子墓(おゆみおんそうしのはか) 行徳船場(きやうとくふなは) 弁財天(へんさいてん)祠《割書:船霊宮(ふなたまのみや)| 》 善照寺(せんしやうし)什宝(しうはう)古鈴(これい)
行徳八幡宮(きやうとくはちまんくう) 神明宮(しんめいくう) 金剛院廃址(こんかうゐんはいし) 徳願寺(とくくわんし)《割書:閻魔堂(ゑんまたう)| 》
行徳塩浜(きやうと[く]しほはま)《割書:同(おなしく)千鳥(ちとり)| 》 同 塩竃図(しほかまのつ) 甲宮(かふとのみや) 円光大師(ゑんくわうたいし)鏡御影(かゝみのみゑい)
長島湊(なかしまのみなと) 新利根川(しんとねかは) 迦羅鳴起瀬(からめきのせ) 市川渡口(いちかはわたしは)
市河城址(いちかはしろあと) 根本橋(ねもとはし) 総寧寺(そうねいし)《割書:太田道灌(おほたたうくわん)手植榎(てうゑのえのき) 同 梅(むめ)|塩竃明神(しほかまみやうしん)社》
国府台(こふのたい)《割書:羅漢井(らかんゐ) 殿守台旧址(てんしゆたいきうし) 浅間(せんけん)社|石櫃(せきひつ) 古墳(こふん) 断岸(たんかん)の図(つ)》 同 古戦場(こせんちやう) 鐘(かね)か淵(ふち)
国府城址(こふのしろあと) 金光明寺(きんくわうみやうし)《割書:国分寺(こくふんし)|なり》 《割書:楼門(ろうもん) 釈迦堂(しやかたう)|什宝(しふほう)》 内膳山(ないせんやま)
鏡石(かゝみいし) 持国坂(ちこくさか) 真間弘法寺(まゝくほふし)《割書:楓古樹(かへてこしゆ) 遍覧亭(へんらんてい) 楼門(ろうもん)|手児名(てこな)明神社》
真間浦(まゝのうら) 真間浜(まゝのはま) 真間入江(まゝのいりえ) 真間 於須比(おすひ)
真間継橋(まゝのつきはし) 真間 手児名旧跡(てこなのきうせき) 真間(まゝ)の井(ゐ) 梨園(なしその)
葛飾八幡宮(かつしかはちまんくう) 八幡不知森(やはたしらすのもり) 曽谷妙見(そたにみやうけん)尊 高石明神(たかいしみやうしん)社
安房須明神(あはのすみやうしん)社 正中山法華経寺(しやうちゆうさんほけけうし)《割書:祖師堂(そしたう) 祈祷堂(きとうたう) 法花堂(ほつけたう) 鬼子母神堂(きしもしんたう)|経蔵(きやうさう) 竜淵橋(りうゑんきやう) 常唱堂(しやうしやうたう) 泣銀杏(なきいてう)樹》
《割書:五層塔(こさうのたふ) 番神(はんしん)社 宗門最初転法輪旧地(しうもんさいしよてんほふりんきうち) 宝庫(はうこ) 支院(しゐん)|二王門(にわうもん) 中興日祐上人墓(ちゆうかうにちゆうしやうにんのはか) 奥(おく)の院(ゐん) 開山墓(かいさんのはか) 寺宝(しはう)》 若宮八幡宮(わかみやはちまんくう)
妙正池(みやうしやうかいけ) 妙正大明神(みやうしやうたいみやうしん)祠 葛飾明神(かつしかみやうしん)社《割書:葛(くす)の井(ゐ) 万善寺(まんせんし)|宝城寺(ほうしやうし)》
勝間田池(かつまたのいけ)《割書:熊野宮(くまのゝみや)| 》 洗川(あらひかは) 阿須波明神(あすはみやうしん)社 石芋(いしいも)
意富日神社初鎮座(おふひのしんしやはしめちんさ)の地(ち) 夏見厨(なつのみくりや) 船橋(ふなはし)
天道念仏(てんたうねんふつ) 遠(おち)か澪(みを) 慈雲寺(しうんし) 意富日神社(おふひのしんしや)《割書:世(よ)に船橋太(ふなはしたい)|神宮(しんくう)と云》
《割書:神宝(しんはう) 常盤御宮(ときはおんみや)|斎殿(いはひとの) 御饌殿(みけとの)》 九月廿日 祭礼(さいれい)図 茂侶神社(もろのしんしや)
【挿し絵】
富岡八幡宮(とみかをかはちまんくう)
五元集
永代橋
八幡宮奉納
汐干なり
尋て
まゐれ
次郎貝
其角
社内拍戸多きか中にも
二軒茶屋とよふもの
ことに名高し
【図中】
茶やまち
茶や
蓬莱橋
六地蔵
茶や
五本桜
そりはし
茶や
二の鳥居
表門
番屋
本宮
【挿し絵、富岡八幡宮の続き】
其
二
【図中】
弁天
観音
富岡
地蔵
茶や
ゑま堂
神馬
仲町通り
茶やまち
二間茶や
いせや
松本
御供所
本社
太子
神楽所
水や
不動
大こく
裏門
聖天
【挿し絵、富岡八幡宮の続き】
其
三
立ならふ
ときはの
まつも
いろそへて
をさまる御代は
なかき代の
てら
仁和寺宮
【図中】
二間茶や
山本
みこしや
花園門
永代寺
富岡八幡宮(とみかをかはちまんくう) 深川永代島(ふかかはえいたいしま)にあり別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして大栄山(たいえいさん)金剛(こんかう)
神院(しんゐん)永代寺(えいたいし)と号(かう)す 《割書:江戸名所記(えとめいしよき)に寛永(くはんえい)五年の夏(なつ)弘法大師(こうほふたいし)の霊爾(れいし)あるにより|高野山(かうやさん)の両門主(りやうもんしゆ)碩学(せきかく)其外 東国一派(とうこくいつは)の衲僧(なふそう)此 永代島(えいたいしま)に集会(しふくはい)し》
《割書:一夏九旬(いちけくしゆん)の間(あひた)法談(ほふたん)あり別(へつ)に弘法大師(こうほふたいし)の御影堂(みえいたう)を建(たて)て真言三密(しんこんさんみつ)の秘賾(ひさく)を講(こう)すそれより以後(いこ)|神前(しんせん)に竜灯(りうとう)のあかる事ありと云々》
本社(ほんしや) 祭神(さいしん) 応神天皇(おうしんてんわう) 《割書:神影(しんえい)は|菅神作(かんしんのさく)》 相殿(あひてん) 《割書:右 天照(てんせう)大神宮|左 八幡(はちまん)大明神》 三座(さんさ)
相伝(あひつたふ)往古(そのかみ)源三位頼政(けんさんゐよりまさ)当社(たうしや)八幡宮(はちまんくう)の神像(しんさう)を尊信(そんしん)す其後(そののち)千葉家(ちはけ)
及(およ)ひ足利将軍(あしかゝしやうくん)尊氏公(たかうちこう)鎌倉(かまくら)の公方(くはう)基氏(もとうち)又 官領(くわんれい)上杉(うへすき)等(とう)の家々(いへ〳〵)に伝(つた)へ
太田道潅(おほたたうくはん)崇敬(そうきやう)殊(こと)に厚(あつ)かりしか道潅(とうくはん)没(ほつ)するの後(のち)は神像(しんさう)の所在(しよさい)も定(さたか)
ならさりしに寛永(くはんえい)年間 長盛法印(ちやうせいほふいん)霊爾(れいし)によりて感得(かんとく)す 《割書:今(いま)当社(たうしや)より|十二町はかり》
《割書:東(ひかし)の方(かた)砂村(すなむら)の海浜(かいひん)に元八幡宮(もとはちまんくう)と|称(しよう)する宮居(みやゐ)あり当社(たうしや)の旧地(きうち)といふ》 依(よつて)此地(このち)に当社(たうしや)を創建(さうこん)すといへともいまた
華構(くはこう)の錺(かさり)におよはす唯(たゝ)茅茨(はうし)の営(いとなみ)をなすのみ然(しか)るに大和国(やまとのくに)生駒山(いこまさん)
の開基(かいき)宝山師(はうさんし)正保(しやうほ)三年丙戌 永代寺(えいたいし)周光阿闍梨(しゆうくわうあしやり)の法弟(ほふてい)となり寛文(くはんふん)
四年の頃(ころ)霊夢(れいむ)を感(かん)し宮社(きうしや)を経営(けいえい)す日あらすして落成(らくせい)し結構(けつこう)
備(そな)はるしかありしより以降(このかた)神光(しんくわう)日々(ひゝ)に新(あらた)にして河東(かとう)第一(たいいち)の宮居(みやゐ)と
なれり当社(たうしや)の額(かく)に八幡宮(はちまんくう)と書したるは青蓮院宮尊証法親王(しやうれんゐんのみやそんしようほふしんわう)の
真蹟(しんせき)なり社内(しやない)末社(まつしや)多(おほ)し依(よつて)悉(こと〳〵)く是(これ)を略(りやく)す
当社四隅鎮守(たうしやよすみのちんしゆ) 艮隅(うしとら) 蛭子宮(ゑひすのみや) 《割書:宮川町(みやかはちやう)の|川端(かははた)にあり》 巽隅(たつみ) 荒神宮(くわうしんくう) 《割書:入船町(いりふねちやう)の道(みち)の傍(かたはら)に|あり》
坤隅(ひつしさる) 摩利支天宮(まりしてんくう) 《割書:永代寺門前(えいたいしもんせん)|仲町(なかちやう)の南(みなみ)にあり》 乾隅(いぬゐ) 大勝金剛宮(たいしようこんかうくう) 《割書:同所 黒江町(くろえちやう)に|あり》
園女桜(そのめさくら) 《割書:永代寺(えいたいし)林泉(りんせん)のうちにあり正徳(しやうとく)年間 園女(そのめ)といひて俳諧(はいかい)を好(この)める婦女(ふちよ)これを植(うゑ)たりと|いへり歌仙桜(かせんさくら)とも名(な)つく今(いまは)枯(かれ)てわつかに存(そん)せりその頃(ころ)三十六 株(ちゆう)ありしゆゑに歌仙(かせん)とは名(な)つけたりしとなり》
二華表(にのとりゐ) 《割書:惣門(そうもん)の前(まへ)にあり石(いし)をもて製(せい)す左右の柱(はしら)に銘文(めいふん)を刻(こく)す此文(このふん)は鳴島氏(なるしまうち)撰(せん)する所(ところ)にして書(しよ)は|赤井得水(あかゐとくすい)なり其文(そのふん)左(さ)のことし》
富賀岡八幡神祠石華表銘並序
維著雍敦牂之歳都下人某某等拾柒名戮力率銭
建富岡八播祠歬石華表凡厥高壱丈伍尺左右中
間称焉石以代木備不朽也厥石取諸相之土肥山
焉蓋此挙也欽祈 国家旁及自祷云𨔁具状来諏
鳳卿以文之鳳卿聞之采■【憼ヵ】采蘋可薦於鬼神忠信
由中也而況於不朽周之所帰風之所自於是乎観
人載 上之心矣神之歆可知也因叙厥載勒右柱
銘以繋左柱亦其所需也
銘云
繄昔応神 帝徳恊天 発跡于豊 男山之遷
威霝顕赫 奕世且千 邈矣東海 斎祠壱公
惟石之柱 礱之祠前 懇祈報𤦒 私祷相延
敦忠祗粛 神監昭然 幽宮陰騭 福釐永年
元文戊午夏五月
東都中秘書監源鳳卿子陽甫撰
得水赤井啓拝書
山開(やまひらき) 《割書:毎年(まいねん)三月廿一日 弘法大師(こうほふたいし)の御影供(みえいく)を修行(しゆきやう)す此日より同廿八まて当社(たうしや)別当(へつたう)永代寺(えいたいし)の林泉(りんせん)|をひらきて諸人(しよにん)に見物(けんふつ)をゆるす俗(そく)に山開(やまひらき)ととなへて大(おほひ)に群衆(くんしふ)す》
祭礼(さいれい) 《割書:隔年(かくねん)八月十五日に執行(しゆきやう)す此日 神輿(しんよ)三基(さんき)本所(ほんしよ)一(いち)の橋(はし)の南(みなみ)蔵舟浦(おふなくら)【御船蔵ヵ】の前(まへ)なる行祠(おたひしよ)へ神幸(しんかう)同日|帰輿(きよ)すこの祭礼(さいれい)は寛永(くはんえい)二十年癸未八月十五日 初(はしめ)て執行(しゆきやう)ありけるより連綿(れんめん)たるよし江戸名所(えとめいしよ)》
《割書:記(き)にみえたりまた慶安(けいあん)四年の秋(あき)天下泰平(てんかたいへい)の御祷(おむいのり)の為(ため)相州(さうしう)鎌倉(かまくら)鶴岡八幡宮(つるかをかはちまんくう)の法式(ほふしき)を摸(うつ)して|当社(たうしや)に流鏑馬(やふさめ)をはしむ左右に仮屋(かりや)桟敷(さんしき)をかまへて是(これ)を見物(けんふつ)す貴賎(きせん)市(いち)をなせるよし同書に》
《割書:みえたり後世(こうせい)にいたり浅草(あさくさ)の三十三間 堂(たう)をこゝに遷(うつ)されたるも其(その)流鏑馬(やふさめ)の余風(よふう)によれる|ならん歟(か)》
当社門前一華表(たうしやもんせんいちのとりゐ)より内(うち)三四町か間(あひた)は両側(りやうかは)茶肆(ちやや)酒肉店(れうりや)軒(のき)を並(なら)へて常(つね)に
絃歌(けんか)の声(こゑ)絶(たえ)す殊(こと)に社頭(しやとう)には二軒茶屋(にけんちやや)と称(しよう)する貨食屋(れうりや)抔(なと)ありて
遊客(いうかく)絶(たえ)す牡蠣(かき)蜆(しゝみ)花蛤(はまくり)鰻鱺魚(うなき)の類(たく)ひを此地(このち)の名産(めいさん)とせり
三十三間堂(さんしふさんけんたう) 同所二町はかり東(ひかし)の方(かた)にあり相伝(あひつたふ)寛永(くはんえい)年間 《割書:或人云十九年|なりと》 大江戸(えと)
の弓師(ゆみし)備後(ひんこ)といへる者(もの)射術稽古(しやしゆつけいこ)の為(ため)京師(みやこ)蓮華王院(れんけわうゐん)を摸(うつ)して三十三
間 堂(たう)を創立(さうりふ)せん事(こと)を乞(こふ)依(よつて)浅草(あさくさ)において地(ち)を賜(たま)ひ諸家(しよけ)に勧進(くはんしん)し
て建立(こんりふ)の功(こう)を募(つの)るこゝに於て同十九年壬午十一月 普請落成(ふしんらくせい)す 《割書:浅草(あさくさ)|清水寺(せいすゐし)》
【挿し絵】
永代寺山開(えいたいしやまひらき)
毎年三月廿一日より
同廿八日迠のうち
林泉(りんせん)をひらきて
諸人(しよにん)に見せしむ
【挿し絵、永代寺山開のつづき】
其
二
【挿し絵、永代寺山開のつづき】
其
三
【本文】
《割書:の辺(ほとり)を今(いま)矢崎(やさき)と字(あさな)するは三十三間 堂(たう)の旧地(きうち)なれはなりその地(ち)|今(いま)は町家(まちや)となれり俗間(そくかん)堂前(たうまへ)と唱(とな)ふるも三十三間 堂(たふ)の前(まへ)と云(いふ)へき略語(りやくこ)也》 然(しか)るに元禄(けんろく)十一年戊寅九月
回録(くはいろく)の災(わさはひ)に罹(かゝり)て灰燼(くはいしん)せしかは其後(そののち)今(いま)の地(ち)に移(うつ)させられたりとなり
《割書:江戸(えと)三十三間 堂(たふ)矢数帳(やかすちやう)に慈眼大師(しけんたいし)の発起(ほつき)なりとあり又 一説(いつせつ)にむかし森刑部直義(もりきやうふなほよし)といへる射術(しやしゆつ)一(いち)|流(りう)の武士(ものゝふ)これを建立(こんりふ)し江戸射術(えとしやしゆつ)の達人(たつしん)数輩(すはい)と共(とも)に力(ちから)を尽(つく)せし所(ところ)なりともいへり》
洲崎弁財天(すさきへんさいてん)社 同所 東(ひかし)の方(かた)洲崎(すさき)にあり別当(へつたう)を吉祥院(きちしやうゐん)と号(かう)す本尊(ほんそん)
弁財天女(へんさいてんによ)の像(さう)は弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)といふ相伝(あひつたふ)元禄(けんろく)年間 深津氏正隆(ふかつうちまさたか)
台命(たいめい)を奉(ほう)し八幡宮(はちまんくう)より東(ひかし)の方(かた)の海浜(かいひん)を築立(つきたて)て陸地(くか)とす依(よつて)同
十三年庚辰 護持院(こちゐん)の大僧正(たいそうしやう)隆光(りうくわう) 《割書:字(あさな)栄春(えいしゆん)|河辺氏(かはへうち)》 此地(このち)に天女(てんによ)の宮居(みやゐ)を建立(こんりふ)すと
なり
此地(このち)は海岸(かいかん)にして佳景(かけい)なり殊更(ことさら)弥生(やよひ)の潮尽(しほひ)には都下(とか)の貴賎(きせん)袖(そて)を連(つらね)
て真砂(まさこ)の文蛤(はまくり)を捜(さく)り又(また)は楼船(ろうせん)を浮(うか)へて妓婦(きふ)の絃歌(けんか)に興(きよう)を催(もよほ)
すもありて尤(もつとも)春色(しゆんしよく)を添(そふ)るの一奇観(いつきくはん)たり又 冬月(とうけつ)千鳥(ちとり)にも名(な)を得(え)たり
長光山陽岳寺(ちやうくわうさんやうかくし) 深川(ふかかは)富岡橋(とみをかはし)の北詰(きたつめ)横(よこ)小路(こふち)にあり妙心寺派(めうしんしは)の禅宗(せんしう)に
して本尊(ほんそん)観音大士(くはんおむたいし)の像(さう)は恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)なりと云 向井氏忠勝(むかゐうちたゝかつ)開(かい)
【挿し絵】
此地(このち)は江都(かうと)東南(とうなん)の
佳境(かきやう)にして月(つき)に花(はな)に
四時(しいし)の勝趣(しようしゆ)多(おほ)かる
中(なか)に取(とり)わきて初雪(はつゆき)
の頃(ころ)なとには都下(とか)の
騒人(さうしん)こゝにつとひ
来(き)つゝ亭中(ていちう)の静閑(せいかん)を
賞(しやう)して一杯(いつはい)を酌(くみ)かわし
ては酔興(すゐきやう)のあまり
冬篭(ふゆごも)る梅(むめ)の木(こ)の本(もと)
秋(あき)ならは尾花(おはな)苅(かり)しき
一夜(ひとよ)の夢(ゆめ)を結(むす)ふもまた
多(おほ)かりぬべし
二軒茶屋(にけんちやや)
雪中遊宴之図(せつちゆういうえむのつ)
【挿し絵】
三十三間堂(さんしふさんけんたう)
五元集
新三十三間
堂にて
若草や
きのふの
箭見
も
木綿
うり
其角
【挿し絵】
洲崎(すさき)
弁財天(へんさいてん)社
【図中】
別当
本社
銅仏
とほめ
かね
あり【遠眼鏡あり】
茶や
木場
料理や
料理や
波除碑
【挿し絵】
砂村(すなむら)
富岡元八幡宮(とみかをかもとはちまんくう)
洲崎弁天(すさきへんてん)より
十八丁あまり東(ひかし)
の海浜(かいひん)にあり
深川八幡宮(ふかかははちまんくう)の
旧地(きうち)なりと
いへり
【図中】
此辺
矢竹
多し
水神
弁天
いなり
本社
御供所
道祖神
此辺
矢竹
多し
【挿し絵】
深川(ふかかは)
木場(きは)
橋台に
菜の
花
さけり
舟
わたし
宗瑞
【陽岳寺の続き】
基(き)の精舎(しやうしや)にして文室和尚(ふんしつおしやう)を開山(かいさん)とす 《割書:陽岳(やうかく)は向井(むかゐ)|氏(うち)の法号(ほふかう)なり》 和尚(おしやう)は相州(さうしう)三崎(みさき)見(けん)
桃寺(たうし)白室和尚(はくしつおしやう)の法弟(ほふてい)なり 《割書:見桃寺(けんたうし)も領主(りやうしゆ)向井(氏(むかゐうち)|布金(ふきん)の道場(たうしやう)なりといふ》
出山釈迦如来(しゆつさんのしやかによら□)像 《割書:立像(りふさう)三尺はかりあり極(きはめ)て妙作(めうさく)なり坪内大隅正勝(つほのうちおほすみまさかつ)といへる人(ひと)当寺(たうし)文室(ふんしつ)|和尚(おしやう)の需(もとめ)に応(おう)して彫刻(てうこく)せしよし寺記(しき)にみえたり》
二代目 英一蝶墳墓(はなふさいつてうのふんほ) 《割書:当寺(たうし)卵塔(らんたふ)の中(うち)にあり碑面(ひめん)に機外道輪信士(きくわいたうりんしんし)元文(けんふん)二年丁巳閏十一月十二日|と記(しる)してあり通称(つうしよう)は長八 名(な)は信勝(のふかつ)といふ》
永寿山海福寺(えいしゆさんかいふくし) 同所寺町 通(とほ)り中程(なかほと)の右側(みきかは)にあり黄檗派(わうはくは)の禅林(せんりん)にして
江戸触頭(えとふれかしら)二箇寺(にかし)の一員(いちゐん)たり万治(まんち)元年戊戌の創建(そうこん)開山(かいさん)は隠元禅師(いんけんせんし)
中興(ちゆうこう)は独本和尚(とくほんおしやう)なり本尊(ほんそん)釈迦如来(しやかによらい)左右に迦葉(かせふ)阿難(あなん)十六 阿羅漢(あらかん)等(とう)
の像(さう)を安(あん)す開山(かいさん)隠元禅師(いんけんせんし)の肖像(せうさう)もあり
【挿し絵1】
大
徳?
宝
殿
仏殿(ふつてん) 《割書:額(かく)は二重|家根に》
《割書:掲(かく)る開山(かいさん)隠元禅師(いんけんせんし)の|筆(ふて)なり》
【挿し絵2】
無
尽
灯
《割書:本尊(ほんそん)の上(うへ)に|掲(かく)る額筆(かくひつ)》
《割書:者(しやい)かみに|おなし》
【挿し絵3】
妙相瑞発?万丈?玉亀長現瑞
慈門弘■千秋福?海尽来朝
聯(れん) 《割書:本尊(ほんそん)|の左(さ)》
《割書:右(いう)柱(はしら)に掲(かく)る|同し筆(ふて)なり》
【挿し絵4】
金■■二妙道■隆前?万代
禅刹中興法雷?振■■千秋
聯(れん) 《割書:同し前(まへ)の柱(はしら)に|掲(かく)る当寺七世》
《割書:対州和尚(つ?いしうおしやう)の筆(ふて)|なり》
【挿し絵5】
天
王
殿
天王殿(てんわうてん) 《割書:内(うち)に|関帝(くはんてい)の》
《割書:像(さう)を安(あん)す額(かく)は二(に)|階(かい)の軒(のき)にかくる》
【挿し絵6】
■国衆?民風高■而潤?■
降魔捕正法■■以安宇
聯(れん) 《割書:おなし|左右の》
《割書:はしらに掲(かく)る|大鵬(たいほう)の筆》
【挿し絵7】
鐘
楼
《割書:花鯨(かね)の銘文(めいふん)は隠(いん)|元禅師(けんせんし)撰(せん)する所(ところ)》
《割書:なり|其文(そのふん)左(さ)のことし》
当山洪鐘者寛文壬子年石川政勝本住居士捐之
為大福田因請銘乎 開山隠老和尚永令垂不朽
也時天和二年壬戌之冬劫火俄起焔燎殿宇巨器
等■者同氏思失先亡之本願忻然鳩金重新造焉
及乎竣工知事来乞銘遂再挙此以鐫其上銘曰
大化炉内 一火鋳成 中虚而寂 有扣則鳴
洪音嘹喨 醒覚群生 禅林令振 地府業軽
返聞自性 寂寂惺惺 寿源綿衍 福海澄清
化風永扇 家国昇平 覚王声教 大矣難名
開山八十一翁隠元琦謹題
右
天和三年癸亥小陽吉日 臨済正宗三十三世
永寿山海福禅師住持沙門独本和尚南謹識
檀主 石川氏《割書:正之|正茂》
冶工武州江戸居住中村喜兵衛斎藤正次
九層塔(きうそうのたふ)《割書:寺境(しきやう)池(いけ)のかたはらにあり高(たかさ)一丈はかりの石(いし)の塔(たふ)なり相伝(あひつた)ふ武田信玄(たkたしんけん)の|ものなりとむかし土屋氏某(つちやうちそれかし)これを持伝(もちつた)へしか当寺(たうし)へうつし建(たつ)るといへり》
【挿し絵】
総高一丈余
【本文】
採荼庵旧蹟(さいとあんのきうせき) 同所 平野町(ひらのちやう)にあり俳諧師(はいかいし)杉風子(さんふうし)の庵室(あんしつ)なり杉風(さんふう)本国(ほんこく)は
参州(さんしう)にして杉山氏(すきやまうち)なり杉山氏(すきやまうち)なり鯉屋(こひや)と唱(とな)へ大江戸(えと)の小田原町(をたはらちやう)に住(すむ)て魚售(なや)たり
後(のち)隠棲(いんせい)して一元(いちけん)と号(かう)す 《割書:蓑翁(すゐをう)蓑 杖(ちやう)|等(とう)と号(な)あり》 常(つね)に俳諧(はいかい)を好(この)み壇林(たんりん)風(ふう)を慕(した)ひ
のち芭蕉翁(はせををう)を師(し)として此 筵(むしろ)に遊(あそ)ふ事(こと)凡六十年 翁(おきな)常(つね)に興(きよう)せられ
て云く去来(きよらい)は西(にし)三十三 箇国(かこく)杉風(さんふう)は東(ひかし)三十三 箇国(かこく)の俳諧奉行(はいかいふきやう)なり
と 《割書:かはかりこの道(みち)の達人(たつしん)なりしなり杉風(さんふう)一(いつ)に芭蕉庵(はせをあん)の号(な)ありしか後(のち)桃青翁(たうせいをう)にゆつれり其(その)旧地(きうち)は|次(つき)の芭蕉庵(はせをあん)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり享保(きやうほ)十七年壬子六月十三日八十六歳にして没(ほつ)せり西本願寺(にしほんくわんし)の中(うち)成勝寺(しやうしようし)に》
《割書:塔(たふ)す|》
杉風句集 予閑居採荼庵それかかきねに
秋萩をうつしうゑて初秋の風ほのかに
露おきわたしたるゆふへ
白露もこほれぬ萩のうねりかな はせを
このあはれにひかれて
萩うゑてひとり見ならふやま路かな 杉風
時雨
深川は月も時雨る夜かせかな 同
深川にとしくれて
川の音薮の起臥としくれぬ 同
法苑山淨心寺(ほふをむさんしやうしんし) 同し通(とほ)り正覚寺橋(しやうかくしはし)より北(きた)の方(かた)右 側(かは)にあり日蓮宗(にちれんしう)甲斐(かひの)
国(くに)身延山(にほふさん)に属(そく)す乃(すなはち)身延山(みのふさん)の弘通所(くつうしよ)と称(しよう)せり万治(まんち)元年戊戌 創建(さうこん)の
寺院(しゐん)にして開山(かいさん)は通遠院(つうをんゐん)日義上人(にちきしやうにん)と号(かう)す中興(ちゆうこう)は覚成院(かくしやうゐん)日念上人(にちねんしやうにん)
たり本尊(ほんそん)に釈迦如来(しやかによらい)の像(さう)を安(あん)す 《割書:この本尊(ほんそん)は延山(えむさん)の日脱師(にちたつし)より日念(にちねん)上人 授与(しゆよ)|ありて当寺(たうし)にうつしたてまつるとなり》
【挿し絵】
海福寺(かいふくし)
武田信玄(たけたしんけん)の
持(もち)つたへたりと
云(いふ)石(いし)の塔(たふ)
壱基(いつき)
堂前池(たうせんいけ)の
傍(かたはら)に
あり
【図中】
北条
石門
仏殿
天王殿
鐘楼
増林寺
九重塔
正覚寺橋通り
祖師堂(そしたう) 《割書:本堂(ほんたう)の左にならふ|日蓮(にちれん)上人の像(さう)を安(あん)す》 七面堂(しちめんたう) 《割書:同し堂前(たうせん)にあり当寺(たうし)の鎮守(ちんしゆ)とあかむ此(この)七面尊(しちめんそん)|は身延山(みのふさん)奥(おく)の院(ゐん)の七面(しちめん)と同作(とうさく)にてかしこより》
《割書:当寺(たうし)に遷(うつ)すと|いふ》
相伝(あひつたふ)当寺(たうし)は浄心院殿妙秀大姉(しやうしんゐんてんめうしうたいし)の菩提(ほたい)を吊(とむら)はせ給はんか為(ため)に御建(ここん)
立(りふ)ありし精舎(しやうしや)なりと当時(そのかみ)浄心尼(しやうしんに)は小堀正一(こほりまさかつ)入道(にうたう)宗甫(そうほ)の妾(せふ)なり
寛永(くはんえい)十八年辛巳 大樹(たいしゆ) 御誕生(こたんしやう)ありし頃(ころ)正一入道(まさかつにうたう)の忠心(ちゆうしん)を
補(おきな)ふの一分(いちふん)に備(そなへ)んと春日(かすか)の局(つほね)に就(つい)て 御乳母(おんめのと)となり
大樹(たいしゆ)を育(いく)し奉(たてまつ)る故(ゆゑ)に浄心尼(しやうしんに)卒(そつ)するの後(のち)も猶(なほ)生前(しやうせん)の勤労(きんらう)を思召(おほしめし)出(いた)
され万治(まんち)元年戊戌当寺(たうし)境内(けいたい)若干(そくはく)の地(ち)を封(ほう)し賜(たま)ひ又 当舎(たうしや)経(けい)
営(えい)の料(れう)として大(おほい)に資財(しさい)を喜捨(きしや)し給ひ日義(にちき)上人をして当寺(たうし)開山(かいさん)たらしむ乃(すなはち)浄心尼(しやうしんに)の遺廟(ゆゐへう)を建(たて)又 香燭(かうしよく)の料(れう)として同三年庚子 寺(し)
産(さん)を付(ふ)せられたり 《割書:当寺(たうし)境内(けいたい)に阿部侯(あへこう)侍従(ししゆう)忠秋(たゝあき)の母堂(ほたう)加藤主計頭(かとうかすへのかみ)清正(きよまさ)の息女(しくしよ)蓮成院(れんしやうゐん)|殿日宗(てんにつそう)大姉の墓(はか)あり》
道本山霊巌寺(たうほんさんれいかんし) 同し北(きた)に隣(とな)る浄土宗(しやうとしう)関東(くはんとう)十八檀林(しふはちたんりん)の一室(いつしつ)にして宏壮(くわうさう)の
梵刹(ほんせつ)なり本尊(ほんそん)は阿弥陀如来(あみたによらい)開山(かいさん)は霊巌和尚(れいかんおしやう)たり 《割書:和尚 諱(いみな)は松風檀蓮社(しようふうたんれんしや)|雄誉(をうよ)と号(かう)す浄土高僧(しやうとかうそう)》
《割書:伝(てん)に姓(せい)は里見氏(さとみうち)南総小糸(なんそうこいと)の産(さん)なり十三歳 同県(とうけん)青竜寺(せいりやうし)の秀岩師(しうかんし)の室(しつ)に入 剃染(ていせん)す其性(そのせい)明敏(めいひん)に|して寔(まこと)に檀林(たんりん)の英(えい)たり寛永(くはんえい)十八年九月一日 化寂(けしやく)す報寿(はうしゆ)八十云々又 浄土伝灯系図(しやうとてんとうけいつ)に南総(なんそう)》
《割書:天羽郡(あまはこほり)佐貫(さぬき)の人或云 讃州(さんしう)府中(ふちゆう)の産(さん)姓(せい)は今川氏(いまかはうち)沼津(ぬまつ)浄運院(しやううんゐん)開山(かいさん)の|法嗣(ほふし)なりと和尚 開創(かいさう)の精舎(しやうしや)数箇寺(すかし)あり枚挙(まいきよ)にいとまあらす依(よつて)是(これ)を略(りやく)す》 台旨(たいし)によりて
寺産(しさん)を付(ふ)せらる寮舎(れうしや)僧坊(そうはう)甍(いらか)を連(つら)ねて魏然(きせん)たり正元坊(しやうけんはう)か造立(さうりふ)
せし銅像(とうさう)の地蔵尊(ちさうそん)は大江戸六地蔵の一員(いちゐむ)にして総門(そうもん)の内(うち)正面(しやうめん)に
対(むか)ふ毎歳四月朔日より同十日まて阿弥陀経千部(あみたきやうせんふ)読誦修行(とくしゆしゆきやう)あるか
ゆへに道俗(たうそく)群詣(くんけい)せり
相伝(あひつたふ)寛永(くはんえい)年間 当寺(たうし)開山(かいさん)霊巌和尚(れいかんおしやう)或日(あるひ)大江戸の東渚(とうしよ)を顧(かへりみ)て侍(し)
者(しや)に謂(いつ)て云く我 大藍(てら)を此地に建(たて)む侍者(ししや)の云く江潮(こうてう)浪(なみ)高(たか)く鉢(はつ)
盂(う)底(そこ)空(むな)し爭(いかて)巨楹碩梁(きよえいせきりやう)を架(か)せん師(し)笑(わらつて)云く俟(まて)夫(それ)日あらん於是(こゝにおいて)師(し)
化疏(けそ)を筆(ひつ)し諸檀家(しよたんか)を勧励(くはんれい)す一簀(いつき)毎(こと)に十念(しふねん)して脈譜(みやくふ)を結縁(けちえん)する
か故に四輩(しはい)競靡(きそひなひき)広汀(くわうてい)日あらすして陸地(くろ)となる 《割書:今 霊巌島(れいかんしま)と|称(しよう)するは其 旧地(きうち)也》 其地早く
成て梵刹(ほんせつ)を開創(かいさう)し霊巌寺(れいかんし)と号すこゝに於て学資(かくし)五十石を給ふ
爾(しかりしより)法幢(ほつとう)盛(さかん)に起(おこり)て五百の義竜(きりよう)恆(つね)に蟠(わたかま)る然に珂山(かさん)和尚の世 《割書:当寺第二世|松蓮社大誉(しようれんしやたいよ)》
《割書:頑魯(くはんろ)と号(かう)す|泉州堺(せんしうさかい)の人也》 明暦(めいれき)丁酉の回録(くはいろく)に罹(かゝ)り悉(こと〳〵く)灰燼(くはいしん)となるの後今の地に移(うつ)
さるゝといへり其頃(そのころ)は今の地も海浜(かいひん)にして軏(たやすく)寺院(しゐん)構営(こうえい)もなりかた
かりしを珂碩和尚(かせきおしやう) 《割書:珂山和尚の弟子にして|奥沢九品仏(おくさはくほんふつ)の開基(かいき)也》 十方に勧進(くはんしん)して地を築固(つきかた)め諸(しよ)
堂(たう)を建立(こんりふ)せられしとなり
当知山本誓寺(たうちさんほんせいし) 重願院(ちゆうくはんゐん)と号す同通りの向側にあり浄土宗江戸四
箇寺(かし)の一員(いちゐむ)たり 《割書:京都(みやこ)知恩院(ちおんゐん)|に属(そく)せり》 唐仏(たうふつ)の阿弥陀如来を本尊とす
相伝(あひつたふ)此本尊は相州小田原の漁者(きよしや) 《割書:其名を|詳(つまひらか)にせす》 魚網(きよまう)を沈(ちん)して彼(かの)地の海中
に得(え)て後(のち)霊示(れいし)に任(まか)せ当寺に安し奉るといへり当寺往古は小田原に
ありて伝蓮社曜誉酉冏(てんれんしやえうよいうけい)和尚 《割書:酉冏師は北総飯沼(ほくそういひぬま)|弘経寺(くきやうし)の第三世也》 創建(さうけん)し藤枝氏(ふちえたうち)開基(かいき)の
精舎(しやうしや)なりしか文禄(ふんろく)四年丁未 厳命(けんめい)に依寺を大江戸に移す 《割書:其|旧》
《割書:地は今の御廓内(おんくるはうち)|日比谷(ひゝや)御門の辺なり》 貞蓮社大誉れ(しやうれんしやたいよ)上人文賀和尚 中興(ちゆうこう)の開祖となる 《割書:伝灯系図(てんとうけいつ)|に念誉(ねんよ)と》
《割書:あり俗姓(そくしやう)は田中氏相州小田原の人なり無双の|碩学(せきかく)にして門下に名僧おほしといへり》 其後馬喰町の辺にて地を賜(たま)ひし頃
水戸中納言頼房卿(みとちゆうなこんよりふさきやう)の御母堂(おんほたう)英勝院殿(えいしようゐんてん)当寺を修造(しゆさう)なし給へり 《割書:当寺もと|馬喰町に》
《割書:ありし頃まては朝鮮(てうせん)の三使(さんし)来聘(らいへい)のみきりは鴻臚館(こうろくはん)たり天和二年 回録(くはいろく)の後今の地にうつりてよりは|東本願寺(ひかしほんくわんし)を以て朝鮮(てうせん)人の旅館(りよくはん)に定め給へり》
地蔵尊石像(ちさうそんせきさう) 《割書:当寺 境内(けいたい)に安置(あんち)す始(はしめ)は卵塔(らんたふ)の中にありて人の印の石なりしか享保(きやうほ)の|霊験(れいけん)ありとて大に群集まる(くんしふ)せしとなり今一宇の香堂(みたう)を建(たて)てこれを安置(あんち)す奇(き)》
《割書:願(くはん)するに猶(なを)霊応(れいおう)|いちしるしといへり》
一蝶寺(いつてふてら) 同所東の方 海辺(うみへ)新田(うみへしんてん)薮(やふ)の内(うち)にあり京師(みやこ)妙心寺(めうしんし)派の禅(せん)
宗(しう)蒼竜山(さうりうさん)宜雲寺(きうんし)と号す元禄(けんろく)七年甲戌 創建(そうこん)の梵園(ほんゑむ)にして卓禅(たくせん)
和尚開山たり英一蝶翁(はなふさいつてふをう)曽(かつて)当寺に寓居(くうきよ)す其頃の遊(すさみ)とて仏殿(ふつてん)僧房(そうはう)
等(とう)の屏障(へいしやう)悉(こと〳〵)く翁(おきな)の画(ゑ)なり故に世俗(せそく)一蝶寺(いつてふてら)と字(あさな)す 《割書:一蝶の伝は第三巻|に見へたり》
日照山法禅寺(につせうさんほふせんし) 同所南の小路にあり浄土宗にして都師(みやこ)知恩院(ちおんゐん)に属(そく)す
本尊阿弥陀如来の像(さう)は仏工(ふつこう)安阿弥(あんあみ)の作なり 《割書:世に海中 出現(しゆつけん)の|霊像(れいさう)と称(しよう)す》 左右二十五
菩薩(ほさつ)の像(さう)は雲中に羅列(られつ)して常は行者を護念(こねん)し賜(たま)ふ所の体粧(ていしやう)
を模擬(ほき)す 《割書:奥院(おくのゐん)と称(しよう)するもまた極楽(こくらく)上品上生の体相(ていさう)ありて|荘厳(しやうこん)すこふる美(ひ)を尽(つく)せり故に世俗(せそく)極楽寺(こくらくし)と字す》 開山は長蓮社英誉心(ちやうれんしやえいよしん)
阿(あ)上人と号す 《割書:慶長(けいちやう)七年九月|廿二日に化寂(けしやく)す》 濃州(しやうしう)恵那郡(えなこほり)粕塚(かすつか)の住人(ちゆうにん)俗性(そくしやう)は伊賀氏(いかうち)
にして三郎五郎則俊(のりとし)と号く 《割書:伊賀左衛門佐 則吉(のりよし)の|三男なり後伊賀守に改む》 弘治(こうち)元年乙卯粕塚に
一城(いちしやう)を築(きつ)き江田(えた)の城(しろ)と号けかしこに居住(きよちゆう)す 《割書:斎藤山城守(さいとうやましろのかみ)の籏下(きか)たりしか永禄(えいろく)|三年 織田家(をたけ)に随(したか)ふ終(つい)に信長(のふなか)の》
《割書:為に|亡(ほろほ)さる》 後出家して駿州(すんしう)に至り中島と云地に閑居(かんきよ)をかまへ多良庵(たらうあん)
と号け雲碩(うんせき)と改めて浄業(しやうこふ)を修行(しゆきやう)しけるに 《割書:多良庵今|了善院(れうせんゐん)と云》 天正十八年関東
御打入(おんうちいり)の頃(ころ)道徳殊勝(たうとくしゆしよう)の聞へあるを以大江戸に召れ品川にをひて寺
境(ち)を賜(たま)ふ 《割書:今品川にも|法禅寺(ほふせんし)あり》其後 文禄(ふんろく)二年癸巳道三河岸へ移(うつ)され又柳原へ
地を替させられたりしか終(つい)に天和三年に至りて今の地にうつる 《割書:むか|し》
《割書:御城辺にありし頃は正月三元日の間ははゝかりて鉦鼓(しやうこ)を鳴(ならさ)さりしとそ|其 旧例(きうれい)にしたかひ今も正月三元日の間は鉦鼓を鳴さすといへり》
竜徳山雲光院(りふとくさんうんくわうゐん) 光巌教寺(くわうかんけうし)と号す同所西に隣(とな)る浄土宗江戸 四箇(しか)
寺の一にして本尊阿弥陀如来の像(さう)は京師(けいし)東山獅子谷 忍徴(にんちよう)上人
の作といふ開山は還蓮社往誉(くはんれんしやわうよ)上人 潮呑(てうとん)和尚と号す 《割書:観智国師(くはんちこくし)の法嗣(ほふし)に|して黒谷 清心庵(せいしんあん)》
《割書:に寂(しやく)|せり》 本願(ほんくはん)は阿茶局(あちやのつほね)なり 《割書:甲州(かうしう)武田家(たけたけ)の臣(しん)飯田(いひた)筑後守(ちくこのかみ)の孫同久左衛門某の女(むすめ)にして|後に駿州(すんしう)今川氏 義元(よしもと)の士神尾孫兵衛 久宗(ひさむね)の室(しつ)となる》
《割書:同 刑部少輔(きやうふのせういふ)|守世(もりよ)の母也》 局(つほね)は 大将軍家 泥近(ちつきん)の侍女(しちよ)にして元和(けんわ)六年庚午
女御(にようこ) 入内(しゆたい)の時 供奉(くふ)の功により従一位に叙(しよ)せらる当寺 創開(さうかい)の
砌も黄金二千枚をよひ堂材(たうさい)を下し賜(たま)ふ 《割書:雲光院(うんくはうゐん)は局(つほね)の法号(ほふかう)也雲光院|殿(てん)従一位尼公(しゆいちゐにこう)松誉周栄大姉(しようよしうえいたいし)》
《割書:と号(かう)すむかし柳原堤(やなきはらつゝみ)の南にありし頃(ころ)は当寺を光巌寺(くわうかんし)と号せり|天和二年 回録(くはいろく)の災(わさはい)にかゝる依おなしく三年今の地に移(うつ)れり》 雲光院(うんくわうゐん)の三大字(さんたいし)の
額(かく)は 後水尾帝(こみをのみかと)の勅(みことにり)を奉して良恕法親王(りやうしよほふしんわう)筆を染られしと
いふ 《割書:昔は堂に掲(かく)る今は|開山堂に収(おさめ)てあり》
五本松(こほんまつ) 同所 小名木川(をなきかは)通り大島にあり 《割書:或人云 旧名(きうめい)女木三谷(をなきさんや)なりと古き江戸|の図にうなき沢とも書り江戸 雀(すゝめ)》
《割書:小奈木川(をなきかは)に作る又此地に鍋匠(なへつくり)の家ある|故に俗間(そくかん)字(あさな)して鍋谷堀とよへり》 九鬼家(くきけ)の構(かまへ)の中(うち)より道路(たうろ)を越て水
面を覆(おほ)ふ所の古松をいふ 《割書:昔は此川筋に同し程の古松(こしよう)五株(こちゆう)まてありし|となり他(た)は枯(かれ)てたゝ此 松樹(まつ)のみ今猶 蒼々(さう〳〵)たり》 又此
川を隔(へたて)て南岸の地は知恩院宮尊空法親皇(ちおんゐんのみやそんくうほふしんわう)御幽棲(こいうせい)の旧跡(きうせき)な
り 《割書:同巻本所 霊山寺(りやうせんし)の|条下(てうか)を合せみるへし》
天王山霊雲院(てんわうさんれいうんゐん) 清澄(きよすみ)町大川の端(はた)万年橋(まんねんはし)の南 詰(つめ)にあり禅宗(せんしう)にして
武州(ふしう)越生(をこせ)の竜隠寺(りうをんし)に属(そく)す本尊は聖観世音(しやうくはんせおむ)開山(かいさん)は放光明東明(はうくわうみやうとうめい)
和尚(おしやう)と号く宝暦(はうりやく)七年丁巳 台命(たいめい)あり依創建(さうこん)する所の蘭若(てら)
なり 《割書:開基(かいき)の年歴(ねんれき)久しきにあらさるを|もて世俗(せそく)深川の新寺と称(とな)ふ》
【挿し絵】
深川(ふかかは)
霊雲院(れいうんゐん)
【図中】
霊雲院
ゑんしゆいなり
神明宮
芭蕉庵旧址(はせをあんのきうし) 同し橋の北詰(きたつめ)松平遠州候(まつたひらゑむしうこう)の庭中(ていちゆう)にありて古池(ふるいけ)の形(かたち)今
猶 存(そん)せりといふ延宝(えむはう)の末(すゑ)桃青翁(とうせいをう)伊賀国(いかのくに)より始(はしめ)て大江戸(おほえと)に来り
杉風(さんふう)か家に入後 剃髪(ていはつ)して素宣(そせん)と改む又 杉風子(さんふうし)より芭蕉庵(はせをあん)の
号(な)を譲請(ゆつりうけ)夫より後此地に庵(いほり)結ひ泊船堂(はくせんたう)と号(かう)す 《割書:杉風子(さんふうし)俗称(そくしやう)|を鯉屋(こひや)藤左衛門》
《割書: といふ江戸小田原(えとをたはら)町の魚牙(なや)子たりし頃(ころ)の籞(いけす)やしきなり後此 業(わさ)をもせさりしかは生洲(いけす)に| 魚もなく自(おのつから)水面(すいめん)に水草(みくさ)覆(おほ)ひしにより古池の如(こと)くになりしゆへに古池の口すさみあり》
《割書: しといへり|》
芭蕉を移す辞
菊は東籬にさかへ竹は北窓の君となる牡丹は紅白の是非ありて世塵にけかさる荷葉は
平地にたゝす水清からされは花咲すいつれの年にや棲を此境にうつす時芭蕉一もとを植ゆ
風土芭蕉の心にやかなひけん数株茎をそなへその葉茂りかさなりて庭をせはめ
萱か軒端もかくるゝはかりなり人呼て草庵の名とす旧友門人ともに愛して芽をかき
根をわかちて所々にをくる事年々になんなりぬ一とせみちのくの行脚おもひ立て芭蕉庵
すてに破れんとすれはかれは籬の隣に地をかへてあたり近き人〳〵に霜の覆ひ風のかこひ
なと頼置てはかなき筆のすさみにも書のこし松はひとりになりぬへきにやと遠き旅
寝のむねにたゝまり人〳〵のわかれ芭蕉のなこりひとかたならぬ侘しさも終に三年の
春秋を過してふたゝひはせをに涙をそゝく今年五月の半花橘のにほひもさすかに
遠からされは人〳〵の契りも昔にかはらす猶此あたりえたちさらて旧き庵もやゝちかう
三間の茅屋つき〳〵しう杉の柱いと清けに削なし竹の枝折戸やすらかに芦垣あつう
しわたし南に向ひ池に臨むて水楼となす地は富士に対して柴門景をすゝめてなゝめ
なり浙江の潮三股の淀にたゝへて月をみるたよりよろしけれは初月の夕より雲をいとひ
雨をくるしむ名月のよそほひにとてまつ芭蕉をうつす其葉ひろふして琴をおほふに
たれり或はなかは吹折て鳳鳥の尾を痛しめ青扇やふれて風を悲しむたま〳〵花咲
も花やかならす茎太けれとも斧にあたらすかの山中不材の類木にたくへてその性よし
僧懐素は是に筆をはしらしめ張横渠は新葉を見て修学の力とせしとなり予その
ふたつをとらすたゝこのかけに遊ひて風雨に破れやすきを愛す以上
古池や蛙とひこむ水のをと はせを
花の雲鐘は上野か浅草か 同
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 同
明月や角へさしくる汐かしら 同
明月や池をめくりて夜もすから 同
初雪やさひはひ庵にまかりあり 同
いつれも此地にありし頃の吟詠なり
《割書: 翁(おきな)は伊賀国(いかのくに)上野(うへの)の産(さん)俗性(そくしやう)は松尾氏宗房(まつをうちむねふさ)といふ通称(つうしよう)は忠右衛門或は甚七郎とも号(なつく)るとそ実(しつ)に| 中興(ちゆうこう)の俳仙(はいせん)にして一家(いつか)の祖(そ)たり業(けふ)を拾穂軒季吟(しふすいけんききん)叟(そう)にうけて風月(ふうけつ)の才(さえ)に長(ちやう)す西行(さいきやう)宗祇(そうき)の》
《割書: 跡(あと)を追慕(ついほ)するの志(こころさし)ありて身(み)を風雲(ふううん)にまかせ生涯(しやうかい)遠遊(ゑむいう)を旨(むね)とし吉野(よしの)竜田(たつた)の花(はな)紅葉(もみち)に| うかれ更科(さらしな)越路(こしち)の月(つき)雪(ゆき)にさまよひ終(つひに)元禄七年十月十二日難波(なには)の偶居(くうきよ)にして身まかり》
《割書: ぬるよし其角(きかく)かあらはせる芭蕉翁(はせををう)| 終焉(しゆうえむ)の記(き)にみえたり》
神明宮(しんめいくう) 同所 森下(もりした)町にあり猿江(さるえ)の泉養寺(せんやうし)別当(へつたう)たり 《割書:天台宗東叡山(てんたいしうとうえいさん)|に属(そく)すこの寺(てら)》
【挿し絵】
芭蕉庵(はせをあん)
古池や
蛙
飛
こむ
水の
音
桃青
【本文】
《割書:むかしは社地(しやち)より南(みなみ)今(いま)の井上家(ゐのうへけ)|藩邸(はんてい)の地(ち)にありしとなり》 毎歳(まいさい)正月と九月の十三日には旧式(きうしき)の祭祀(まつり)あり
是(これ)を歩射(ふしや)と号(なつ)く相伝(あひつた)ふ昔(むかし)此地(このち)開創(かいさう)の里正(なぬし)深川(ふかかは)八郎右衛門 某(それかし)
宅地(たくち)に伊勢(いせ)両皇太神宮(りやうくわうたいしんくう)を勧請(くはんしやう)なし奉り泉養寺(せんやうし)の開山(かいさん)秀順法(しうしゆんほふ)
印(いむ)をして奉祀(ほうし)せしむるといふ此地(このち)は深川(ふかかは)氏 宅地(たくち)の旧跡(きうせき)なりといへり 《割書:付(ふし)て|いふ》
《割書: 泉養寺記録(せんやうしきろく)に深川(ふかかは)の起立(きりふ)の事実(ししつ)を載(のす)其略(そのりやく)に云く深川(ふかかは)の地(ち)往古(そのかみ)は広々(くわう〳〵)たる原野(けんや)なりしに| 其頃(そのころ)摂洲(せつしう)の産(さん)にて深川(ふかかは)八郎右衛門 某(それかし)と称(しよう)する人ありてこの地に居住(きよちゆう)す然るに慶長(けいちやう)元年丙申》
《割書: 大将軍家はしめて此地(このち)に至らせたまひ此八郎右衛門に地名を問(とは)せたまひしかと旧(もと)より此八郎右衛門の| 外(ほか)に住(すむ)人もなき荒広(くわう〳〵)の地(ち)なれは地名(ちめい)もなきよし答(こた)へ奉(たてまつ)りしに然らは汝(なんち)此地(このち)を開創(かいさう)し苗字(めうし)》
《割書: 深川(ふかかは)の文字(もんし)を地名(ちめい)に唱(とな)へまうすへき旨(むね) 厳命(けんめい)ありしより深川(ふかかは)の地名(ちめい)発(おこる)といふこの八郎右衛門の| 子孫(しそん)数世(すせい)此地に住(ちゆう)して里正(なぬし)たりしか宝暦(はうりやく)の頃(ころ)故(ゆへ)ありて其家(そのいへ)断絶(たんせつ)せりされと泉養寺(せんやうし)は八郎右衛門か》
《割書:香花院(ほたいしよ)なる故(ゆへ)に今も猶(なを)深川(ふかかは)氏 累世(るいせ)の墳墓(ふんほ)存(そん)せり同所 砂村新田(すなむらしんてん)の東(ひかし)に八郎右衛門 新田(しんてん)と称(となふ)る耕地(かうち)| あるも此人 開発(かいはつ)せし故(ゆへ)の名(な)なり今 土俗(とそく)字(あさな)して其地(そのち)を四十丁村とよへり》
《割書: 因(ちなみ)に云この泉養寺(せんやうし)の池(いけ)に重弁紅花(ちやうへんこうくは)の蓮(はちす)あり花形(くはきやう)牡丹(ほたん)に髣髴(さもに)たり故(ゆへ)に開花(かいくは)の時(とき)を待(まち)てこゝに| あそふ人 少(すくな)からす寛政(くはんせい)十年の晩夏(はんか)初(はしめ)て此花(このはな)を生(しやう)せしより今に至(いた)り年々しかり奇観(きくはん)とすへし》
万徳山弥勒寺(まんとくさんみろくし) 同所二丁あまりを隔(へたて)て弥勒寺橋(みろくしはし)の北詰(きたつめ)にあり真言新(しんこんしん)
義(き)の触頭(ふれかしら)江戸四箇寺(えとしかし)の一室(いつしつ)なり本尊(ほんそん)は薬師如来 《割書:世(よ)に河上薬師(かはかみやくし)と称(しよう)せり|伝記(てんき)失(うせ)たりとて其(その)来(らい)》
《割書: 由(ゆ)を| 知(しら)す》 中興(ちゆうこう)開山(かいさん)を宥鑁(いうはん)上人と号(かう)す総門(そうもん)の額(かく)に弥勒寺(みろくし)と書せしは朝鮮(てうせん)
国(こく)雪月堂(せつけつたう)の筆跡(ひつせき)なり当寺(たうし)旧(もと)柳原(やなきはら)の地(ち)にありしを天和(てんわ)二年 回禄(くはいろく)
【挿し絵】
本所(ほんしよ)
弥勒寺(みろくし)
【図中】
弥勒寺橋
塔中
竪川二の橋通り
塔中
本堂
【挿し絵】
本所一目(ほんしよひとつめ)
弁財天(へんさいてん)社
深川八幡御旅所(ふかかははちまんおたひしよ)
【図中】
八まん
いわや
弁天
一の橋
料理茶や
の後(のち)此地(このち)へ移(うつ)されたり毎月八日十二日を縁日(えむにち)として参詣(さんけい)多(おほ)し
深川八幡宮御旅所(ふかかははちまんくうおたひしよ) 大川端(おおかわはた)大船倉(おふなくら)の前(まへ)にあり富賀岡八幡宮(とみかをかはちまんくう)祭(さい)
礼(れい)の砌(みきり)は神輿(みこし)此地(このち)へ渡(わた)らせらる
弁財天(へんさいてん)社 同所 一(いち)の橋(はし)の南(みなみ)の詰(つめ)にあり祭所(まつるところ)相州江島(さうしうえのしま)に同し元禄(けんろく)
の始(はしめ)総検校(そうけんきやう)杉山氏(すきやまうち)勧請(くはんしやう)す己巳の日参詣(さんけい)多(おほ)し 《割書:相伝(あひつた)ふ杉山検校(すきやまけんきやう)奥州(あふしう)の|産(さん)にして信都(けいいち)といふその》
《割書: 志(こころさし)天下(てんか)に名(な)をなさんことを欲(ほつ)し三七日の間 飲食(いんしい)を断(たち)て相州江島(さうしうえのしま)に至(いた)り天女崫(てんによくつ)に参籠(さんろう)し| 至心(ししん)に其事(そのこと)を祈請(きしやう)せしに果(はた)して霊験(れいけん)あるを以て竟(つい)に鍼術(しんしゆつ)に妙(めう)を得たり故(ゆへ)に世に称(しよう)して》
《割書: 杉山流(すきやまりう)といふ慶安(けいあん)の頃 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り屢(しは〳〵)営中(えいちゆう)に召(めさ)れ泥近(ちつきん)す元禄(けんろく)のはしめ今(いま)の地(ち)をたまふこゝにをいて| 一派(いつは)の規矩(きく)備はれり毎年(まいねん)二月十六日六月十九日には瞽者宝前(こしやはうせん)に集会(しふくわい)して琵琶(ひわ)を弾(たん)し平曲(へいきよく)を》
《割書: 奏(そう)す京師(けいし)積塔舎にならふて行ふ所(ところ)なり|》
国豊山回向院(こくふさんゑかうゐん) 両国橋(りやうこくはし)の東詰(ひかしつめ)にあり 《割書:昔(むかし)は此 辺(あたり)も柳島(やなきしま)の中(うち)にして大西(おほにし)と|称(しよう)したる由 事跡合考(しせきかつかう)といへる冊子(さうし)に見(み)ゆ》 当寺(たうし)は
称念(しようねん)上人の遺風(ゐふう)にして捨世一派(しやせいいつは)の仏域(ふついき)たり明暦(めいれき)三年丁酉の春(はる)大火(たいくは)
の時(とき)焼死(せうし)の輩(ともから)の冥魂(めいこん)追福(ついふく)のため毎歳(まいさい)七月七日 大施餓鬼(おほせかき)法会(ほふゑ)を
修行(しゆきやう)す又同八日 仏餉施入(ふつしやうせにふ)の檀主(たんしゆ)現当両益(けんたうりやうやく)の法事(ほふし)あり総門(そうもん)の額(かく)
に国豊山とあるは縁山定月和尚(えんさんちやうけつおしやう)の筆(ふて)なり
本堂(ほんたう) 本尊(ほそん)阿弥陀如来座像(あみたによらいささう)壱丈 許(はかり)あり 《割書:元禄(けんろく)十六年の冬当寺 回録(くはいろく)の|災(わさはひ)にかゝりてむかしの本尊 金(こん)》
《割書: 銅(とう)の阿弥陀仏(あみたふつ)銷化(とろけ)る故(ゆゑ)に当寺第四世 観誉(くはんよ)上人 祐鑑和尚(いうかんおしやう)ふたゝひ今の本尊を造立(さうりふ)す堂前に存(そん)する| 所の銅像(とうそう)の鋳型(いかた)をもて本尊とすこの堂むかしは今の方丈(はうちやう)の地にありしを天和(てんわ)二年 回録(くはいろく)の後(のち)当寺》
《割書: 第三世 喚霊和尚(くはんれいおしやう)今の| 地にうつされたりといふ》 備中千体阿弥陀如来(ひちゆうせんたいあみたによらい) 《割書:後堂(こうたう)に安置(あんち)す俗(そく)称(しよう)して奥(おく)の院(ゐん)といふ|本尊 長(みたけ)一尺一寸 恵心僧都(ゑしんそうつ)の作にして》
《割書: 黒本尊(くろほんそん)と同体(とうたい)なりといふ縁山(えんさん)二十三世の貫首遵誉(くはんしゆしゆんよ)貴屋(きをく)上人 念持仏(ねんちふつ)にして明暦(めいれき)の大火(たいくは)に焼死(せうし)| 溺死(てきし)せる所の十万八千余人の亡者(まうしや)を回向(ゑかう)あるへき旨(むね) 命(めい)せられ其頃(そのころ) 官府(くはんふ)より仮(かり)の仏(ふつ)堂を造営(さうえい)》
《割書: せしめたまひしかはこの霊像(れいさう)を本尊となして回向ありしと| なり故に焼死(せうし)溺死(てきし)の亡魂(ほうこん)得脱(とくたつ)の如来(によらい)とも称(しよう)したり》 三仏堂(さんふつたう) 《割書:本堂の右にあり弥陀(みた)釈迦(しやか)大日(たいにち)|等(とう)の三尊(さんそく)を安置(あんち)すこの堂は》
《割書: 牢死(らうし)刑死(けいし)の者の幽魂追福(いうこんついふく)の為 万治(まんち)年間 官府(くはんふ)より建立(こんりう)なしたまひし堂前の石塔婆(せきたふは)に其 旨趣(ししゆ)を| 彫付(ほりつけ)られてあり当寺より日々に大江戸の市街(いちまち)を順行(しゆんかう)し仏餉(ふつしやう)を乞(こふ)所(ところ)の僧徒(そうと)十六口常にこの堂中(たうちゆう)に居(を)れり》
一言観音(ひとことくはんおむ) 《割書:池の傍(かたはら)にあり本尊 聖観音(しやうくはんおん)恵心僧都(ゑしんそうつ)の作なり南都招提寺(なんとせうたいし)より遷(うつ)すといふ有信(うしん)の|人ありて至心(ししん)にこの本尊を念すれは其(その)祈願(きくはん)一言(ひとこと)にして成就(しやうしゆ)する故(ゆへ)に霊応(れいおう)の著(いちしるき)を》
《割書:表(ひよう)して|いふと也》 弁財天(へんさいてん)祠 《割書:同所にあり世に藁裹(わらつと)弁才天(へんさいてん)と称(しようす)昔(むかし)当寺(たうし)の開山(かいさん)上人 勤行(こんきやう)念仏(ねんふつ)の間|仏堂の前にして藁裹(わらつと)に弁才天(へんさいてん)の御首(みくし)はかりを入たるを拾(ひろ)ひ得(え)たりまさ》
《割書: しく弘法大師(こうほふたいし)の作なるへき事を推知(すいち)し新(あらた)に仏体(ふつたい)を|彫刻(てうこく)して小祠(ほこら)を営(いとな)み当寺の護法神(こほふしん)とあかめたりといへり》 馬頭観世音(はとうくはんせおむ) 《割書:本堂(ほんたう)の前左(まへひたり)の方にあり明暦(めいれき)中|幕下(はくか) 御慈愛(こちあひ)の名馬(めいは)斃(へう)し》
《割書: たるを深(くか)くあはれませたまひ当寺に葬(はふむ)り吊(とふら)ふへき旨(むね)| 台命(たいめい)ありしにより開山(かいさん)上人 馬頭観音(はとうくはんおん)にあかめけるといへり》 円光大師(えんくわうたいし)堂 《割書:同しならひにあり|円光大師(ゑんくわうたいし)播州(はんしう)室津(むろのつ)の》
《割書: 遊女(いうしよ)某(それかし)乞(こふ)にまかせて作りたまふ時に船子(ふなこ)出船(しゆつせん)を急(いそき)告(つけ)けれは御首(みくし)はかりをあたへらる其後(そのゝち)彼(かの)遊女(いうしよ)| 土をつかねて全身(せんしん)を造(つく)りそへたりとなり遊女(いうしよ)は尼(あま)となり念仏三昧(ねんふつさんまい)にして終(つい)に七十五歳にして大往生(たいわうしやう)》
《割書: を遂(とけ)たり| しと》 蓮池(れんち) 《割書:信誉(しんよ)上人常に蓮実(れんしつ)をもて念珠(ねんしゆ)に代(かへ)て称名(しようみやう)す其(その)蓮実(れんしつ)の積(つも)る事三十五石に|およへりとなり今この池(いけ)に生(しやう)する蓮(はちす)はこの種(たね)より生するところなりといへり》
樟(くす) 《割書:是も信誉上人 手自(てつから)植(うへ)られし|とて同し池のかたはらにあり》 阿弥陀如来銅像(あみたによらいのとうさう) 《割書:本堂の正面(しやうめん)にあり|座像(ささう)一丈六尺あり》
【挿し絵】
回向院(ゑかうゐん)
不見煙中寺
但聞煙外鐘
江城秋色遠
落日隠高峯
白石
【図中】
一言観音
弁天
表門
茶や
尺迦
本堂
方丈
茶や
【挿し絵】
諸国(しよこく)の霊仏(れいふつ)霊(れい)
神(かみ)等(とう)結縁(けちゑむ)のため
大江戸に出て
啓龕(かいちやう)せんと
欲(す)るもの多くは
当院(とうゐん)に於て
拝(はい)せしむ諸(しよ)方
より便(たよ)りよき
地なる故
殊(こと)に
参詣(さんけい)
多(おほ)し
回向院開帳参(ゑかうゐんかいちやうまいり)
【図中、不明瞭ではあるが、右ページ下の方、奉納された提灯に「富本豊前太夫」「中村屋」「坂東三津……」などの文字が見える】
相伝(あひつたふ)明暦(めいれき)三年丁酉の春 《割書:正月十八日|同 十九日》 大江戸(えと)大火(たいくは)に仍(より)て焼死(せうし)する者(もの)凡(およそ)
十万八千余人なり時(とき)に 台命(たいめい)ありて此地(このち)を卜(ほく)し方六十
許歩(きよほ)の地(ち)に件(くたん)の焼死骸(せうしのかはね)を埋蔵(まいさう)し上(うへ)に一堆(いつくはい)の塚(つか)を築(きつ)き号(なつ)けて漏沢(むえん)
園(つか)と唱(とな)ふ乃(すなはち)亡魂(はうこん)追福(ついふく)の為(ため)増上寺(そうしやうし)第二十三世 貴屋大和尚(きをくたいおしやう)をして
一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)を創起(さうき)せしめらる当寺(たうし)是(これ)なり 《割書:昔(むかし)は諸宗山無縁寺(しよしうさんむえんし)といふとそ|明暦(めいれき)大火(たいくは)の事実(ししつ)はむさしあふみと》
《割書:いへる冊子(さうし)|に見(み)ゆ》 諸宗(しよしう)の僧(そう)を集(あつ)め一七日の間(あひた)塚(つか)の前(まへ)に於(おいて)千部(せんふ)の経(きやう)を読誦(とくしゆ)せしめ
大法会修行(たいほふゑしゆきやう)ありされとも住持(ちゆうし)なかりしかは其頃(そのころ)小石川(こいしかは)知香寺(ちかうし)の信(しん)
誉(よ)自心(ししん)上人 道光(たうくはう)世(よ)に隠(かく)れなかりしかは当寺(たうし)に移住(いちゆう)せしめ第二世にて
開山(かいさん)と称(しよう)したまふ依(よつて)上人 彼(かの)塚上(ちようしやう)に堂宇(たうう)を建営(こんえい)し長(とこしなへ)に幽魂(いうこん)の冥(みやう)
福(ふく)を助(たすけ)むか為(ため)不断(ふたん)念仏(ねんふつ)の道場(たうしやう)とせられたり 《割書:因(ちなみ)に云(いふ)信誉(しんよ)上人 仏像(ふつさう)を造(つく)る|に妙(めう)を得(え)て恵心僧都(ゑしんそうつ)の彫(てう)》
《割書:刻(こく)に髣髴(はうふつ)たり当院(たうゐん)に安(あん)する所(ところ)の|仏像(ふつさう)は悉(こと〳〵)く此(この)上人の彫像(てうさう)なりといへり》
天恩山五百大阿羅漢禅寺(てnおむさんこひやくあらかんせんし) 本所(ほんしよ)五目 竪川(たてかは)より南(みなみ)にあり黄檗派(わうはくは)の
禅林(せんりん)にして河東(かとう)第一の名藍(めいらん)たり開山(かいさん)は鉄眼禅師(てつけんせんし)中興(ちゆうこう)は象先和尚(さうせんおせう)又
【挿し絵】
猿江泉養寺(さるえせんやうし)の池頭(いけ)に
生(しやう)するところの蓮花(はちす)は
重弁紅花(ちやうへんこうくは)にして花形(くはきやう)
牡丹(ほたん)に髣髴(さもに)たり故(ゆへ)に
奇観(きくはん)とす寛政(くはんせい)
九年の晩夏(はんか)
はしめて
この花(はな)を
発(ひらき)しより
今に
至(いた)り
年々(とし〳〵)に
しかり
【挿し絵】
猿江(さるえ)
摩利支天(まりしてん)祠
霊験(れいけん)炳然(いちしるし)とて
詣人(けいしん)常(つね)に絶(たえ)す
来由(らいゆ)は拾遺(しふい)江戸
名所図会に
よつて
みる
へし
【本文、五百羅漢禅寺の続き】
松雲禅師(しよううんせんし)を以(もつて)開基(かいき)の大祖(たいそ)と称(しよう)す
仏殿(ふつてん) 本尊(ほんそん)釈迦牟尼仏拈華像(しやかむにふつねんけのさう) 《割書:長(たけ)一丈六尺 下(した)に巨石(きよせき)を|畳(たゝみ)て座(さ)を儲(まう)く》 脇侍(けふし)文殊(もんしゆ)
普賢(ふけん) 《割書:各(をの〳〵)高(たかさ)|八尺》 阿難(あなん)迦葉(かせふ) 《割書:各(をの〳〵)高(たかさ)|九尺》 左右(さいう)の階壇(かいたん)に列(つらな)れる所(ところ)の五百阿羅漢(こひやくあらかん)
の像(さう)は各(をの〳〵)等身(とうしん)にして共(とも)に松雲禅師(しよううんせんし)彫刻(てうこく)する処(ところ)なり
【挿し絵1】
万徳尊
額(かく)《割書:本尊(ほ んそん)の|上(うへ)に掲(かく)る》
《割書:黄檗(わうはく)隠元老(いんけんらう)|人(しん)の筆なり》
【挿し絵2】
大六妙相前■■■■■祇園■地
半千■者現■■■■■■石■■
聯(れん) 《割書:同 堂内(たうない)|左右の》
《割書:柱(はしら)に掲(かく)る象(さう)|先(せん)の筆なり》
【挿し絵3】
螧【コマ40の挿し絵によれば虫ではなく山偏】
闍
崛【耆闍崛山=霊鷲山のことだとは思います】
額(かく) 《割書:同 堂内(たうない)|の正面(しやうめん)》
《割書:に掲(かく)る黄檗(わうはく)|即非(そくひ)の筆》
《割書:なり|》
【挿し絵4】
光
明
幢
額(かく) 《割書:仏殿(ふつてん)|二重》
《割書:家根(やね)の軒(のき)に|掲(かく)る隠元和(いんけんお)》
《割書:尚(しやう)の筆なり|》
【本文続き】
五百羅漢(こひやくらかん)造立之来由(さうりゆのらいゆ)
松雲禅師(しよううんせんし)は京兆(みやこ)の人 寛雄(くはんゆう)にしてすこしく正信(しやうしん)を具(く)す 《割書:或人(あるひと)云く松(しよう)|雲禅師(うんせんし)始(はしめ)は》
《割書:仏工(ふつこう)にして俗称(そくのな)を|九兵衛と呼(よひ)たりしとなり》 寛文(くはんふん)九年己酉 《割書:歳二|十二》 摂(せつ)の瑞竜精舎(すいりうしやうしや)に入て鉄眼禅師(てつけんせんし)に
隨(したか)ひ薙髪(ちはつ)して僧(そう)となる後(のち)遊方(いうはう)の懐(おもひ)あるにより師(し)の許(もと)を辞(し)して
【挿し絵】
小名木川(をなきかは)
五本松(こほんまつ)
深川の末
五本松といふ
所に船を
さして
川上と
この
かはしも
や
月の
友
芭蕉
【五百羅漢禅寺のつづき】
海西(かいさい)に飄歴(ひようれき)し豊前国(ふせんのくに)羅漢寺(らかんし)に至(いた)り唐土(もろこし)天台山(てんたいさん)の逆流(きやくりう)並(ならひ)に賢(けん)
順(しゆん)といへる二僧(にそう)一夜(いちや)に造立(さうりふ)せしといへる五百聖者(こひやくしやうしや)の石像(せきさう)を膽礼(せんらい)し【瞻礼のあやまりか】
恭敬(くきやう)日々(ひゝ)に厚(あつ)く其後(そのゝち)潜(ひそか)に五百羅漢(こひやくらかん)の像(さう)を手彫(しゆてう)せんとするの意(こゝろ)
あり帰省(きせい)の日(ひ)鉄眼禅寺(てつけんせんし)果(はた)して其命(そのめい)あるを以(もつて)遂(つひ)に貞享(ちやうきやう)年間 江戸(えと)
に来(きた)り元禄(けんろく)辛未 始(はしめ)て浅草寺(せんさうし)の境内(けいたい)寿松院(しゆしようゐん)に就(つい)て仮屋(かりや)を儲(まう)け
衆人(しゆうしん)をすゝめ羅漢(らかん)の木像(もくさう)を彫刻(てうこく)す興福寺(こうふくし)の鉄牛和尚(てつきうおしやう)衣資(えし)を喜(き)
捨(しや)し一尊(いつそん)を刻(きさ)ましむるといへとも時至(ときいたら)すして施(ほとこし)ある事 微(すくな)くこゝに
歳月(としつき)を歴(へ)たり然(しか)るに同壬申の年大倉前(おほくらまへ)一十六員(いちしふろくゐん)の道俗(たうそく)結盟(きつめい)
補佐(ほさ)す癸酉孟春に至(いた)り五十尊(そん)成(なる)甲戌三月 忝(かたしけなく)も
御国母(おんこくほ)桂昌一位尼公(けいしやういちゐにこう)金(こかね)を賜(たまは)り仏像(ふつさう)造立(さうりふ)の資(たすけ)となし給ふ此時(このとき)
十尊(しつそん)を彫営(てうえい)すしかありしより縁化(えんけ)響(ひゝき)の応(おう)するか如(こと)く施財(せさい)日々(ひゝ)
に多(おほ)く竟(つい)に一十余霜(いちしふよさう)を経(へ)て完(まつた)く本堂(ほんそん)丈六の釈迦仏(しやかふつ)及(およ)ひ
阿羅漢(あらかん)等(とう)すへて五百三千有 余(よ)体(たい)の仏像(ふつさう)縹緲(ひやう〳〵)として現(けん)す其(その)
【挿し絵】
五百羅漢寺(こひやくらかんし)
三匝堂(ささいたう)
【図中】
開山堂
方丈
【挿し絵、五百羅漢の続き】
其二
【図中】
渡しば
玄関
禅堂
東羅漢堂
庫裡
鐘楼
せつたい
西羅漢堂
茶や
さゝい堂
茶や
天王殿
漢門
梵相(ほんさう)の奇古(きこ)座立(さりふ)の威儀(いき)儼然(けんねん)として生(いける)か如(こと)く其(その)妙手(めうしゆ)常人(しやうしん)のおよは
さる所あり瞻礼(せんらい)する者をして霊山(りやうせん)一会(いちゑ)未散(みさん)の嘆(たん)あらしむ同八年
乙亥夏五月 《割書:鐘(かね)の銘(めい)に|七月とす》 公聴(こうちやう)に達(たつ)し本境(ほんきやう)一千五百 畝(ほ)を賜(たま)ひ
又 天恩山羅漢寺(てんおんさんらかんし)の号(な)を賜(たま)ふ依(よつて)仮(かり)に堂宇(たうう)を造立(さうりふ)して仏像(ふつさう)を遷(うつ)
せり同年八月 黄檗(わうはく)高泉和尚(かうせんおしやう)偶(たま〳〵)東行(とうかう)あり迎(むかへ)て点眼(てんけん)の導師(たうし)とす
又 先師(せんし)鉄眼和尚(てつけんおしやう)をして開山祖(かいさんそ)とす是(これ)其原(そのもと)を貴(たふと)むの故(ゆへ)とそ又其時
黄檗山(わうはくさん)の末寺(まつし)となる松雲禅師(しよううんせんし)其頃(そのころ)既(すてに)伽藍(からん)建立(こんりふ)の企(くはたて)ありといへとも
時縁(しえん)至(いたら)すして宝永七年庚寅 一旦(いつたん)疾(しつ)に罹(かゝ)り月を越(こへ)て起(おき)す終(つい)に
同年秋七月十一日 奄然(あんせん)として化す時に歳六十有三なり 《割書:法臘四|十二年》
【図】五百大阿羅漢尊号
第一
阿若憍陳如尊者 阿泥楼頭尊者 有賢無垢尊者
須跋陀羅尊者 迦留陀夷尊者 聞声得果尊者
栴檀蔵王尊者 施憧無垢尊者 憍梵般提尊者
因陀得慧尊者
第十一
迦那行那尊者 婆蘇槃豆尊者 法界四楽尊者
優楼頻螺尊者 仏陀密多尊者 那提迦葉尊者
那延等目尊者 仏陀難提尊者 末田底迦尊者
難陀多化尊者
第二十一
優波毱多尊者 僧迦耶舎尊者 教説常住尊者
南那和修尊者 達磨婆羅尊者 迦耶迦葉尊者
定果徳業尊者 荘厳無憂尊者 憶持因縁尊者
迦那提婆尊者
第三十一
破耶神通尊者 堅持三字尊者 阿㝹楼駄尊者
鳩摩羅多尊者 毒竜帰依尊者 同声稽首尊者
毘羅昡子尊者 伐蘇密多尊者 闍提首那尊者
僧法耶舎尊者
第四十一
悲密世間尊者 献花提記尊者 眼光定力尊者
伽耶舎那尊者 莎底苾蒭尊者 婆闍提婆尊者
解空無垢尊者 伏陀密多尊者 富那夜舎尊者
伽耶天眼尊者
第五十一
不著世間尊者 解空第一尊者 羅度無尽尊者
金剛破魔尊者 願護世間尊者 無憂禅定尊者
無作慧善尊者 十劫慧善尊者 栴檀徳香尊者
金山覚意尊者
【挿し絵】
正面図
東羅
漢堂
東面
之図
五百羅漢堂
内相之図
共五枚
【図中、羅漢さんの中に置かれている箱の文字】
さいせん筥
賽銭□
□□箱
【羅漢の名前、かなり不明瞭】
はつたら尊者
ゑらく尊者【ゑこく尊者?】
しやりほつ尊者
ひんたら尊者【?】
もくれん尊者
【挿し絵、五百羅漢の続き】
東羅
漢堂
西面
之図
正
面
図
【図中、箱に書いてある文字】
賽銭筥
さい銭
さいせん箱
賽銭箱
さいせんはこ
【羅漢の名前】
しうほこ尊者【?】
きゆふそく尊者【?】
まんしゆく尊者【?】
くりうめふ尊者【?】
【この外にもいくつか見えるが不明瞭で読めず】
【挿し絵】
正
面
図
耆【山偏の耆】
闍
崛
万徳尊
正面
中尊
之図
正
面
図
十六善神
緊那羅王
大般若
大般若
けく?うみち
さんけいみち
はきものむよう
賽銭筥
【羅漢の名前】
にいまこんそく尊者【?】
ふゆふとく尊者【?】
【ほか柱にかかっている聯の文字が読めず。コマ32にあるのと同じもの】
【挿し絵、五百羅漢の続き】
正
面
図
西羅
漢堂
東面
之図
【図中、箱に書いてある文字】
賽銭箱
さいせん筥
【羅漢の名前】
世はち尊者【?】
によいりん尊者【?】
そひんた尊者【?】
ちゑ尊者【?】
こふ□い尊者
【挿し絵、五百羅漢の続き】
西羅
漢堂
西面
之図
正
面
図
【図中、箱に書いてある文字】
賽銭筥
【羅漢の名前】
ほうつふ尊者【?】
ひんつる尊者
ちゆ□□尊者
ほうめう尊者【?】
あいきよう尊者【?】
【挿し絵】
羅漢堂(らかんたう)
護法神(こほふしん)宮
本尊(ほんそん)の後(うしろ)に
安(あん)す
【図中】
一万度御祓
【本部、五百羅漢の名前の続き】
慧作尊者 助歓尊者 難勝尊者
善徳尊者 宝涯尊者 観身尊者
花王尊者
第百七十一
徳首尊者……
三匝堂(さゝいたう) 《割書:総門(そうもん)の内 左(ひたり)の方 天王殿(てんわうてん)にならふ本尊は白衣観音(ひやくえくわんおん)魚藍観音(きよらんのくわんおん)をよひ弥陀(みた)勢至(せいし)|地蔵(ちさう)等(とう)を本尊とす上繞(うへのめくり)は西国(さいこく)中繞(なかのめくり)は坂東(はんとう)下繞(したのめくり)は秩父(ちゝふ)以上百番の札所(ふたしよ)》
《割書:観音(くわんおん)の霊跡(れいせき)を模擬(うつ)して百躯(ひやくたい)の観音(くわんおん)また華厳会上(けこんゑしやう)五十三の善知識(せんちしき)の像(さう)を安置す|当寺 中興(ちゆうこう)象先和尚(さうせんおしやう)工夫(くふう)を凝(こら)し無上(むしやう)の法式(ほふしき)は右繞施匝(うねうせさう)を最勝(さいしよう)第一とするといへる意(こゝろ)を》
《割書:とりて寛保(くわんほ)元年辛酉是を造立(さふりふ)せられたり右繞三匝(うねうさんさう)にしておほえす三階(さんかい)の高楼(かうろう)に登(のほ)る|事を得はへり俗間(そくかん)栄螺堂(さゝいたう)と唱(とな)へ後世(こうせい)三匝堂を造(つくる)の規範(きはん)とす其 機功(きかう)称(しよう)するに堪(たえ)たり》
【原典中の帀、迊はともに匝の異体字】
【挿し絵1】
右
繞
三
匝
堂
額(かく) 《割書:向拝(かうはい)の|内に》
《割書:掲(かく)る当寺|雪村(せつそん)和尚の》
《割書:筆なり|》
【挿し絵2】
■
■
閣
額(かく) 《割書:同堂|の二(に)》
《割書:階(かい)の軒(のき)|に掲(かく)る当》
《割書:寺 象先(さうせん)|和尚の》
《割書: 筆なり|》
天王殿(てんわうてん)
《割書:同所 右(みき)に並ぶ内には径山寺(きんさんし)の布袋和尚(ほていおしやう)護法(こほふ)|関帝(くわんてい)をよひ韋駄天(いたてん)毘沙門(ひしやもん)増長(そうちやう)等(とう)の三天ならひ》
《割書:に緊那羅王(きんならわう)の木像(もくさう)を安置(あんち)せり各(おの〳〵)松雲禅師(しよううんせんし)|の作(さく)にして享保(きやうほ)十六年の造立(さうりふ)なり》
【挿し絵3】
天恩山
額(かく) 《割書:天王殿(てんわうてん)の|軒に掲(かく)る》
《割書:当寺 宝州和尚(はうしうおしやう)|の筆なり》
禁石(きんせき) 《割書:羅漢同(らかんたう)の|まへにあり》
刹竿籏(せつかんき) 《割書:同所 左右(さいう)にた|つる享保十三》
《割書:年三月より建初(たてそむ)るといへり|》
禅堂(せんたう) 《割書:同所 右(みき)の方の|後(うしろ)にあり》
【挿し絵4】
■
仏
場
額(かく) 《割書:同し堂(たう)の軒(のき)|に掲(かく)る》
《割書:黄檗木庵(わうはくもくあん)|の筆》
接待所(せつたいしよ) 《割書:どうしょにならふ|》
【挿し絵5】
笑?
茶?
玄?
額(かく) 《割書:軒(のき)に掲(かく)る|細井九皐(ほそゐきうかう)の》
《割書: 筆なり|》
藤棚(ふちたな) 《割書:御腰掛(おんこしかけ)の傍(かたはら)|にあり元文(けんふん)》
《割書:四年己未是を| 栽(うへ)しめたまふと》
《割書: いへり|》
鐘楼(しゆろう) 《割書:庫裡(くり)の前(まへ)にあり元禄(けんろく)九年 牧野備後侯成貞(まきのひんごこうなりさた)の令室(れいしつ)高祥院殿(かうしやうゐんてん)これを建(こん)|立(りふ)せらる銘(めい)は弘福寺(こうふくし)の鉄牛(てつきう)和尚 撰(せん)する所なり》
天恩山五百大阿羅漢禅寺鐘銘並引
武蔵国天恩山……
一音纔動警覚暁昏 修洪規範解塵労煩
観音大士如人此門 円通無礙卻忘聞根
幽明莫滞功徳難論 由声生悟直証本源
存没倶利消融百寃 国平氓泰斯子斯孫
雲禅巧烈函盍乾坤
元禄九年丙子四月穀旦
桜樹(さくら) 《割書:境内(けいたい)にあり元文(けんふん)五年庚申 桜樹(さくら)九十 余株(よちゆう)を |たまはりて是を植(うゆ)るといへり》
桃(もゝ)の土手(とて) 《割書:元文紀年(けんふんはしめのとし)丙辰|当寺(たうし)の境外(けいくわい)南(みなみ)》
《割書:の方(かた)の土手(とて)にこれを|栽(うへ)しめ給ふとなり》
開山堂(かいさんたう) 《割書:方丈(はうしやう)の東(ひかし)にあり此地は享保(きやうほ)十八年の頃(ころ)鉄眼禅師(てつけんせんし)当寺(たうし)を退去(たいきよ)の後(のち)|隠栖(いんせい)の地なりといへり鉄眼師(てつけんし)をよひ象先(さうせん)和尚ならひに松雲(しよううん)老人 等(とう)》
《割書:の像(さう)を置(をく)故(ゆへ)に三代堂(さんたいたう)とも唱(とな)ふ開山(かいさん)鉄眼(てつけん)|禅師(せんし)の行実(きやうしつ)は摂洲(せつしう)瑞竜寺(すいりうし)の碑文(ひふん)に詳(つまひらか)なり》
中興(ちゆうこう)象先和尚(さうせんおしやう)は黄檗(わうはく)四世の法孫にして鉄眼禅師(てつけんせんし)の法脈(ほふみやく)たり
当時(そのかみ)松雲禅師(しよううんせんし)化寂(けしやく)の後(のち)は仮堂(かりたう)も破壊(はゑ)し仏像(ふつさう)も雨露(うろ)の
為(ため)に侵(をか)されたりしを深(ふか)く患(うれい)とし正徳(しやうとく)三年癸巳 本師(ほんし)鉄眼和尚(てつけんおしやう)の命(めい)を受(うけ)始(はしめ)て大江戸(おほえと)に来(きた)り当寺(たうし)に住(ちゆう)す享保(きやうほ)二年丁酉
正月より十有余年の間(あいた)心肝(しんかん)を砕(くた)き寒暑風雪(かんしよふうせつ)の厭(いとひ)なく
日々に府下(ふか)の街市(いちまち)に入て行乞(たくはつ)し既(すて)にして勧進(くわんしん)の功(こう)を募(つの)り受(うく)
る所(ところ)の一握一投(いちあくいつとう)の米銭(へいせん)を積(つむ)て其料(そのれう)に充(あて)同十年乙巳に至(いた)り今(いま)
存(そん)する所の仏殿(ふつてん)僧房(そうはう)悉(こと〳〵)く建立(こんりふ)成就(しやうしゆ)せり依(よつて)同十四年己
酉二月 開堂総供養(かいたうそうくやう)の大法会(たいほふゑ)を行(おこな)ひまた盂蘭盆(うらんほん)の大施餓(たいせか)
鬼会(きゑ)を開(ひら)く当寺(たうし)開山(かいさん)は象先和尚(さうせんおしやう)たる事 其理(そのり)顕然(けんせん)たり
といへとも故(ゆへ)ありて鉄眼禅師(てつけんせんし)を開山(かいさん)とし自(みつから)の師(し)宝州和尚(はうしうおしやう)
を二代とし又(また)松雲禅師(しよううんせんし)創業(さうけふ)の大功(たいこう)あるを以(もて)一代 開基(かいき)と称(しよう)し
自(みつから)三代の席(せき)に座せらる隠元禅師(いんけんせんし)帰化(きけ)の後(のち)は持斎(ちさい)一食(いちしき)にして
深(ふか)く貧者(ひんしや)をあはれみ仏像(ふつさう)経巻(きやうくわん)と古(ふる)き袈裟(けさ)の外(ほか)には聊(いさゝか)も
身(み)に貯(たくは)ふる事(こと)なし日々の勤行(こんきやう)には般若(はんにや)理趣分(りしゆふん)五巻と花厳(けこん)
経(きやう)行願品(きやうくはんほん)百五十巻とを読誦(とくしゆ)し観音(くわんおん)の尊号(そんかう)を書写(しよしや)する事
其数(そのかす)積(つん)て山(やま)の如(こと)し又(また)大般若経(たいはんにやきやう)一部(いちふ)六百巻 一字百礼(いちしひやくらい)にして
是(これ)を書写(しよしや)す其先(そのせん)出家(しゆつけ)得道(とくたう)の時(とき)摂(せつの)瑞竜寺(すいりうし)に入て法道(ほふたう)成(しやう)
就(しゆ)の誓願(せいくわん)を発(はつ)し三年の間(あいた)双手(そうしゆ)の指(ゆひ)を切(きり)八十巻の花厳経(けこんきやう)を
血書(けつしよ)す其後(そののち)当寺(たうし)殿堂(てんたう)の営(いとなみ)大半(たいはん)成(なる)といへとも宗門(しうもん)の座禅(させん)
夏冬(なつふゆ)の結制(けつせい)行(おこなは)れたるを闕典(けつてん)なりとす依(よつて)後住(こちゆう)栄朝師(えいてうし)命(めい)
を受(うけ)て元文(けんふん)二年丁巳の冬 洞済両首座(とうさいりやうしゆそ)を立(たて)て五千指(こせんし)の僧(そう)を
集(あつ)め江湖(こうこ)の大会(たいゑ)を行(おこな)ふ此時(このとき) 大樹(たいしゆ)こゝに至(いた)らせたまひ
座禅(させん)の行相(きやうさう)をみそなはす則(すなはち)江湖(こうこ)の僧財(そうさい)として米(こめ)五百 俵(へう)
たまふ夫(それ)より後(のち)般若(はんにや)の全文(せんふん)を真読(しんとく)して御札(おむふた)を献(けん)す
竟(つひ)に寛延(くわんえん)三年己丑六月五日七十三歳にして涅槃(ねはん)の大定(たいちやう)
に入 貴賎(きせん)香花(かうけ)を捧(さゝけ)むとつとひ来(きた)る事三日三夜 炎暑(えんしよ)甚(はなはた)
しといへとも遺骸(ゆいかい)聊(いさゝか)変(へんす)る色(いろ)なく荼毘(たひ)して全身(せんしん)舎利(しやり)となる
《割書:其 舌根(せつこん)は宝塔(はうたふ)に収(おさめ)て今猶|中興堂(ちゆうこうたう)に存(そん)せり》
当寺(たうし)は黄檗派(わうはくは)江戸(えと)最大(さいたい)の禅園(せんゑむ)にして仏閣(ふつかく)の巍々(きゝ)たる事
日域(にちいき)にかくれなし元禄(けんろく)年間寺領山(しりやうさん)号等(かうとう)を賜(たまは)り享保(きやうほ)九
【挿し絵】
亀戸(かめと)
宰府天満宮(さいふてんまんくう)
当社(たうしや)の門前(もんせん)貸(りやう)
食店(りや)多く各(おの〳〵)
生洲(いけす)を構(かま)へ鯉魚(りきよ)を
畜(か)ふ業平蜆(なりひらしゝみ)もこの
地(ち)の名産(めいさん)にして
尤 美味(ひみ)なり
【挿し絵、亀戸天満宮の続き】
其
二
【図中】
妙義
末社
ひやうすへ神
とん宮
花その
■■
藤棚
総門
茶や
茶や
天神はし
別当
神楽所
けい門
手水や
紅梅神
老松宮
本社
牛やとり
こんひら
連寿や
梅その
うら門
茶や
茶や
【五百羅漢禅寺の続き】
年甲辰十二月 大樹(たいしゆ)始(はしめ)て当寺(たうし)へ入せられ其後(そののち)同十五年正
月 晩課(はんくわ) 御聴聞(こちやうもん)翌年十二月 方丈(はうちやう)に於(おひて)陞座(しんそ)住持(ちゆうち)象先(さうせん)是(これ)を
勤(つと)む同十九年甲寅三十畝(ほ)の地(ち)を添(そへ)給ひ同二十年乙卯境(けい)
内(たい)に新殿(しんてん)を営(いとなま)せられ夫(それ)より後(のち)此地(このち)に 御放鷹(こはうよう)のころは
かならす当寺(たうし)へ立寄(たちよら)せ給ふ事となれり月毎(つきこと)の朔日には
観音(くわんおん)懺法(せんほふ)を修行(しゆきやう)し十五日には大般若経(たいはんにやきやう)転読(てんとく)あり七月
に至(いた)れは毎夕(まいせき)施餓鬼(せかき)を修(しゆ)し十六日廿一日廿五日晦日は殊(こと)に
道俗(たうそく)群参(くんさん)す象先師(さうせんし)より已来(このかた)当寺(たうし)の住持(ちゆうち)は風雨寒暑(ふううかんしよ)
を厭(いと)はす日々に大江戸(おほえと)の市中(しちゆう)を行乞(たくはつ)するをもつて勤行(こんきやう)
とせり
宰府天満宮(さいふてんまんくう) 亀戸村(かめとむら)にあり故(ゆへ)に亀戸天満宮(かめとてんまんくう)とも唱(とな)ふ
別当(へつたう)を天原山東安楽寺聖廟院(てんけんさんひかしあんらくしせいへうゐん)と号(かう)す司務(しむ)兼(けん)宮司(くうし)
大鳥居氏(おほとりゐうち)奉祀(ほうし)せり 《割書:当社(たうしや)別当(へつたう)は柳営(りうえい)御連歌(おれんか)の列(れつ)に加(くわ)へられ毎歳(まいさい)|正月十一日 営中(えいちゆう)に至(いたり)御連歌(おれんか)百韻(ひやくゐん)興行(こうきやう)す》 御旅(おたひ)
所(ところ)は当社(たうしや)の南(みなみ)竪川通(たてかはとほり)北松代町(きたまつしろちやう)四丁目にあり 《割書:筑前国(ちくせんのくに)榎寺(えのきてら)の模(うつし)なり|薬師堂(やくしたう)あり八月廿四日》
《割書:祭礼(さいれい)の時 神輿(みこし)を|此処(このところ)に遷(うつ)しまいらす》
本社(ほんしや) 祭神(さいしん)天満大自在天陣(てんまんたいしさいてんしん) 相殿(あひてん) 《割書:天穂日命(あまのほひのみこと)|土師宿禰(はしのすくね)》 三座
紅梅殿(こうはいてん) 《割書:本社(ほんしや)の前(まへ)右(みき)の方にあり筑前太宰府(ちくせんたさいふ)|より栽(うつ)す所の飛梅(とひむめ)の稚木(わかき)なり》 老松殿(おひまつてん) 《割書:同 左(ひたり)の方に並(なら)ふ花洛(みやこ)北野(きたの)の|法性坊尊意僧正(ほつしやうはうそんいそうしやう)の霊(れい)を勧請(くわんしやう)》
《割書:菅神(かんしん)の師(し)たるによりて是(これ)をまつるといふ卯の日を以て縁日(えんにち)とす|ことさら正月初の卯の日は参詣(さんけい)群集(くんしふ)せり》 花園社(はなそのゝやしろ) 《割書:御手洗(みたらし)|の池(いけ)の右(みき)》
《割書:にあり菅神(かんしん)の北(きた)の方(かた)並(ならひ)に御子(おんこ)|十四 前(せん)を相殿(あひてん)とす》 頓宮明神(とんくうみやうしん) 《割書:同所にあり昔(むかし)菅神(かんしん)筑紫(つくし)へ左遷(させん)の時 同(とう)|国(こく)榎寺(えのきてら)にて夕陽(せきやう)に至(いた)りけれと御宿(おんやと)もさた》
《割書:まらす然(しかる)に賎(しつ)の家(いへ)を求(もと)めさせ給ふにあるしの翁(おきな)左遷(させん)の人にてましませは御宿(おんやと)はかなふましき|よし情(なさけ)なく申けれと其家(そのいへ)の老女(らうちよ)は情(なさけ)ある者(もの)にて扉(とほそ)の上(うへ)に新(あたらしき)薦(こも)を敷(しき)て請(しやう)したてまつり》
《割書:麹(かうし)の飯(いひ)を松(まつ)の葉(は)に盛(もり)て捧(さゝけ)たりしに志(こゝろさし)は松(まつ)の葉(は)に包(つゝむ)とのたまひしとある諺(ことはさ)を表(へう)し|たり頓宮(とんくう)とは其 老嫗(らうう)をさしていへり老夫(らうふ)は縄(なわ)を以て縛(はく)すいつれも後(うしろ)の青赤(あをあか)の二鬼(にき)彳(たゝすみ)てあり》 兵洲(ひやうす)
辺神祠(へのしんし) 《割書:同所にあり菅神(かんしん)逢(あ)ひたまふ所(ところ)の河童(かはわらは)|をあかめたりといへり水中守護(すいちゆうしゆこ)の神(しん)とす》 連歌家(れんかや) 《割書:池(いけ)の西にあり此処(このところ)に|をひて連歌(れんか)を興行(こうきやう)す》
《割書:延宝(えんはう)五年丁巳二月十二日 大樹(たいしゆ)この辺(へん) 後放鷹(こはうよう)の時 此(この)連歌家(れんかや)に立(たち)よらせ給ひしとて|享保(きやうほ)の頃(ころ)も官府(かんふ)より修理(しゆり)を加(くわ)へられたりといへり》
裏白連歌会(うらしろれんかゑ) 《割書:正月二日 連歌家(れんかや)に|をひて興行(こうきやう)す》 若菜神供(わかなのしんく) 《割書:同七日 今朝(こんてう)若菜(わかな)の餅(もち)をたて|まつりすへて元日より此日に》
《割書:至るまて毎朝(まいてふ)宮司(みやつこ)|社人(しやにん)等 神供(しんく)を奉(たてまつ)る》 菜種神事(なたねのしんし) 《割書:二月廿五日菅神(かんしん)の御忌(きよき)によりて二十四日 通夜(よもすから)連歌(れんか)|興行(こうきやう)二十五日午時に至(いた)り神前(しんせん)にをひて社人(しやにん)等(とう)梅(むめ)の》
【挿し絵】
二月二十五日
菜種神事(なたねのしんし)
五元集
元禄十四年
二月二十五日
聖廟八百齢
御年忌於
亀戸御社詩
歌連俳令興
行一座
梅松
や
あかむる
数も
八百所
其角
【挿し絵】
亀戸天満宮祭礼(かめとてんまんくうさいれい)
神輿(しんよ)渡御(ときよ)行列(きやうれつ)之図(のつ)
毎歳(まいさい)八月廿四日 北松代町(きたまつしろちやう)
の御 旅所(たひしよ)へ神幸(しんかう)あり
て行粧(きやうさう)厳重(けんしうなり)
産子(うふこ)の町も練物(ねりもの)を出し
都鄙(とひ)の貴賎(きせん)群集(くんしふ)して
此辺(このへん)の一盛事(いつせいし)なり
【挿し絵、亀戸天満宮祭礼のつづき】
【幟の文字】
寛政十二庚申■■八月吉日
亀戸天満宮御祭礼
本所二つ目
氏子中
《割書:枝(えた)を持(もち)梅花(はいくは)の神詠(しんえい)二十八首を披講(ひかう)す又 夜(よ)に入(いり)て宮司(みやつこ)社人(しやにん)松明(たいまつ)を照(てら)し榊(さかき)と幣(にきて)とを|神体(しんたい)とし本社(ほんしや)より心字(しんし)の池(いけ)をめくり橋(はし)を越(こえ)て璥門(けいもん)より入(いり)社前(しやせん)に松明(たいまつ)を積(つん)て是(これ)を焚(たく)》
《割書:この祭事(さいし)は宰府(さいふ)の形(かたち)を|うつす所(ところ)なりといへり》 雷神祭(らいしんまつり) 《割書:四月朔日より七日に至(いたる)|まてこれを修行(しゆきやう)す》 神御衣(かんみそ) 《割書:四月晦日と九月|晦日の夜御衣(みそ)を》
《割書:たてま|つる》 名越祓(なこしのはらへ) 《割書:六月二十五日 竪川(たてかは)の西大河口(にしおほかはくち)|船中(せんちゆう)これを修行(しゆきやう)す》 七夕和歌連歌会(しつせきわかれんかゑ) 《割書:七月七日これ|を興行(こうきやう)す》
祭礼(さいれい) 《割書:隔年(かくねん)八月二十四日に修行(しゆきやう)す当日 竪川通(たてかはとほり)北松代町(きたまつしろちやう)の御旅所(おたひしよ)へ神幸(しんかう)同日 還輿(きよ)|あり 後水尾帝(こみつのおのみかと)の勅許(ちよくきよ)によりて神輿(みこし)供奉(くふ)の行粧(きやうさう)すへて宰府(さいふ)の礼式(れいしき)に》
《割書:准(なそら)へて尤壮観たり別当(へつたう)大鳥居氏(おほとりゐうち)乗車(しようしや)す生子(うふこ)の町々よりも練物(ねりもの)車楽(たんしり)等(なと)を出(いた)して甚(はなはた)|にきはへり翌(あくる)二十五日に至(いた)りて神詠(しんえい)披講(ひかう)社頭(しやとう)におよひて行ふ》
月見連歌会(つきみれんかゑ) 《割書:九月十三日|に興行(こうきやう)す》 火焼神事(ひたきのしんし) 《割書:十一月廿五日に|修行(しゆきやう)す》 年越神事(としこえのしんし) 《割書:十二月晦日|通夜(よもすから)修行(しゆきやう)》
《割書:せり| 》追儺神事(ついなのしんし) 《割書:節分(せつふん)の夜(よ)修行(しゆきやう)す其余(そのよ)一季(いつき)の中(うち)神事(しんし)多(おほ)しといへともこゝに略(りやく)す|当社(たうしや)の祭式(さいしき)はすへて宰府(さいふ)の例(れい)に准(なら)ふか故(ゆへ)に一社(いつしや)の法式(ほふしき)あり尤(もつとも)古(こ)》
《割書:雅(か)にして他(ほか)に異(こと)なる|こと多(おほ)し》
社記(しやき)云 開祖(かいそ)信祐(しんいう) 《割書:菅原(すかはら)善外|の苗裔(へうえい)なり》 始(はしめ)筑前(ちくせん)太宰府(たさいふ)にありし頃(ころ)正保(しやうほ)三
年丙戌 一夜(あるよ)菅神(かんしん)の霊示(れいし)を蒙(かうふ)る其(その)夢中(むちゆう) 十立(かふたち)て栄(さか)ふる
梅(むめ)の稚枝(わかえ)かな といへる発句(ほつく)を得(え)たり依(よつて)其後(そののち)飛梅(とひむめ)を以て
新(あらた)に神像(しんさう)を造(つく)り是(これ)を護持(こち)して江戸(えと)に下(くた)り彼(かの)天満宮(てんまんくう)を今(いま)
の亀戸村(かめとむら)に勧請(くわんしやう)す 《割書:初(はしめ)勧請(くわんしやう)の地(ち)は今(いま)の宮居(みやゐ)より東南(とうなん)の方 耕田(かうてん)の中(うち)にあり|元宮(もとみや)と称(しよう)してかしこにも菅神(かんしん)の叢祠(そうし)あり》
其後(そののち)寛文紀元(かんふんはしめのとし)辛丑 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り同年壬寅 始(はしめ)て今(いま)の
地(ち)を賜(たま)ふ同三年癸卯 宮居(みやゐ)を営(いとな)み心字(しんし)の池(いけ)楼門(ろうもん)等(とう)すへ
て社頭(しやとう)の光景(ありさま)宰府(さいふ)の俤(おもかけ)を模(うつ)せり依(よつて)同十一年辛亥
御水尾帝(こみつのおのみかと)震翰(しんかん)を灑(そゝ)き菅神(かんしん)の尊号(そんかう)を下(くた)し給ふ又 元禄(けんろく)
十年丁丑 一社(いつしや)の神事(しんし)法式(ほふしき)等(とう)宰府(さいふ)本宮(ほんくう)の例(れい)に准(しゆん)すへき
むね 同帝(おなしみかと)の勅許(ちよくきよ)を蒙(かうふ)る爾来(しかりしより)神威顕赫(しんいけんかく)として霊瑞昭(れいすいせう)
著(ちよ)なり当社(たうしや)至宝(しはう)と称(しよう)するものは菅神(かんしん)佩(はか)せらるゝところの天国(あまくに)
の宝剣(はうけん)なり
福聚山普門院(ふくしゆさんふもんゐん) 善応寺(せんおうし)と号(かう)す同所(とうしよ)一丁はかり東(ひかし)の方(かた)に有(あり)
真言宗(しんこんしう)にして今(いま)大日如来(たいにちによらい)を本尊(ほんそん)とす 《割書:慶安(けいあん)二年己丑 住持(ちゆうち)沙門(しやもん)栄賢(えいけん)博(はく)|給(きう)の誉(ほまれ)あるをもつて 公命(こうめい)を》
《割書:得(え)て寺産若干(しさんそくはく)を賜(たまは)り永(なか)く|香燭(かうしよく)の料(れう)に充(あて)しむとなん》
御腰懸松(おんこしかけのまつ) 《割書:堂前(たうせん)にあり昔(むかし) 大樹(たいしゆ) 御放鷹(こはうよう)の砌(みきり) 御腰(おんこし)を|かけさせられしとなり故(ゆへ)にこの名(な)あり》 慈眼水(しけんすい) 《割書:同所にあ|り加持水(かちすい)》
《割書:に用ゆ普門慈眼(ふもんしけん)の意(こゝろ)を|とりて名(な)とす》
【挿し絵】
普門院(ふもんゐん)
【図中】
御腰掛松
慈眼水
表門
【本文】
身代観世音菩薩(みかはりくわんせおんほさつ) 《割書:当寺(たうし)に安置(あんち)す伝教大師(てんけうたいし)の作(さく)にして|聖観音(しやうくわんおん)なり》
縁起(えんき)云大永(たいえい)二年壬丑 千葉介(ちはのすけ) 《割書:中務|太夫》 自胤(よりたね) 《割書:兼胤(かねたね)の孫にて|季胤(すへたね)の二男なり》 三勝(みつまさ)の城中(しやうちゆう)に
一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)を闢(ひら)き【闢はくにがまえ】此 霊像(れいさう)を安置(あんち)し長賢(ちやうけん)上人をして始祖(しそ)
たらしむ 《割書:今(いま)の普門院(ふもんゐん)これなり三胯(みつまた)といへるは隅田川(すみたかは)綾瀬川(あやせかは)荒川(あらかは)の落合(おちあ)ひ三俣(みつまた)に|なる所(ところ)をいへり昔(むかし)千葉家(ちはけ)在城(さいしやう)の地なり其頃(そのころ)普門院(ふもんゐん)の廓(くるは)と称(しよう)しける》
《割書: となり然(しか)れとも後(のち)兵火(へいくわ)にかゝり堂塔(たうたふ)こと〳〵く灰燼(くわいしん)せり此際(このきは)にいたり洪鐘(こうしやう)一口隅田川に| 沈没(ちんほつ)す其地を名(な)つけて鐘(かね)か淵(ふち)と呼(よ)ふ元和(けんわ)二年 《割書:或云|六年》住持(ちゆうち)栄真法印(えいしんほふゐん) 公命(こうめい)によりて三胯(みつまた)の》
《割書: 地(ち)を転(てん)して寺院(しゐん)を今の亀戸(かめと)の邑(むら)に移(うつ)すといふ| 猶当寺 縁起(えんき)をよひ当寺 新鐘(しんしよう)の銘(めい)に詳(つまひらか)なり》 往古(そのかみ)千葉自胤(ちはよりたね)の臣(しん)佐田(さたの)
善次盛光(せんしもりみつ) 《割書:後(のち)薙髪(ちはつ)して|観慧(くわんゑ)と号(かう)せり》 虚名(きよめい)の罪(つみ)により誅(ちゆう)に伏(ふく)す時(とき)日頃(ひころ)念(ねん)する
所の此 霊像(れいさう)の加護(かこ)にて其(その)白刃(はくしん)段々(たん〳〵)に壊(ゑ)し危難(きなん)を遯(まぬか)れたり
《割書:此(この)霊瑞(れいすゐ)により自胤(よりたね)三胯(みつまた)の城中(しやうちう)に当寺(たうし)を|創(さう)し長賢(ちやうけん)上人を導師(たうし)とし且つ(かつ)開祖(かいそ)とす》 又 天文(てんぶん)三年 国中(くにちゆう)大(おほい)に疫疾流行(えきしつりうかう)
し死(し)に至(いた)る者(もの)少(すくな)からすされと此(この)霊像(れいさう)を念(ねん)する輩(ともから)は悉(こと〳〵)く病(やまひ)
平愈(へいゆ)し将(はた)病(やまひ)に臨(のそま)さる者は病者(ひやうしや)と床(ゆか)を等(ひとしう)すといへとも敢(あへて)染(せん)
延(えん)の患(うれへ)なし其後(そのゝち)住持(ちゆうち)長栄(ちやうえい)上人 睡眠(すいみん)の中(うち)一老翁(いちらうをう)の来(きた)るあり
吾(われ)は是(これ)施無畏(せむい)大士なり多くの人に代(かは)り疫病(えきひやう)を受故(うくゆゑ)に病苦(ひやうく)
【挿し絵】
亀戸邑(かめとむら)
道祖神祭(たうそしんまつり)
毎歳(まいさい)正月十四日
にこれを興行(こうきやう)す
此地(このち)の童子(わらはへ)多(おほ)く
あつまりて菱垣(ひかき)
造(つくり)にしたる
小(ちいさ)き船(ふね)に五彩(いついろ)の
幣帛(みてくら)を建(たて)松竹(まつたけ)抔(なと)
をも装飾(さうしよく)し其中(そのちゆう)
央(あう)に宝舟(たからふね)といへる文字(もんし)
を染(そめ)たる幟(のほり)を建(たて)
たるを荷担(になひ)同音(とうおむ)に
唄(うた)ひ連(つれ)て此辺(このあたり)を
持(もち)歩行(ある)けり其夜(そのよ)
童子(わらはへ)集会(しうくはい)して遊(あそ)ひ
戯(たはむ)るゝを
恒例(こうれい)
とす
【普門院のつづき】
一身(いつしん)に逼(せま)れり上人 願(ねかはく)は我(わが)法一千座(ほういつせんさ)を修(しゆ)して予か救世(くせ)の加彼(かひ)
力(りき)となるへしと夢覚(ゆめさめ)て後(のち)益々(ます〳〵)軽重(けいちう)を加(くは)へ本尊(ほんそん)を拝(はい)し奉(たてまつ)るに
仏体(ふつたい)に汗(あせ)みちて蓮台(れんたい)に法(したゝ)?る感涙(かんるゐ)肝(きも)に命(めい)し夫(それ)より昼夜(ちうや)不(ふ)
退(たい)に一千座(いつせんさ)の観音供(くわんおんく)を修(しゆ)しけれは国中(こくちゆう)頓(とみ)に疫疾(えきしつ)の患(うれ)ひを
遁(のか)れけるとそ故(ゆゑ)に世俗(せそく)身代観世音(みかはりくはんせおん)と唱(とな)へ奉るとなり
臥竜梅(くはりうばい) 同所 清香庵(せいかうあん)にあり俗間(そくかん)梅屋敷(うめやしき)と称(しよう)す其花(そのはな)一品(いつひん)
にして重弁(ちやうへん)潔白(けつはく)なり薫香(くんかう)至(いたつ)て深(ふか)く形状(けいしやう)宛(あたか)も竜(りよう)の蟠臥(わたかまりふす)か
如(こと)し園中(ゑんちゆう)四方 数十丈(すしうしやう)か間に蔓(はひこり)て梢(こすゑ)高(たか)からす枝毎(えたこと)に半(なかは)は
地 中(ちゆう)に入 地中(ちちゆう)を出(いて)て枝茎(ゑけい)を生(しやう)し何(いつれ)を幹(みき)ともわきてしり
かたししかも屈曲(くつきよく)ありて自(おのつから)其 勢(いきほひ)を彰(あらは)す仍(よつて)臥竜(くわりう)の号(な)ありと
いへり梅譜(はいふ)に臥梅(くわはい)梅竜(はいりう)抔(なと)いへるにかなへり
《割書:梅譜曰 去都城二十里有臥梅偃蹇十余丈相伝唐|物也謂之梅竜好事者載酒遊之云々》
神明宮(しんめいくう) 同所にあり宮居(みやゐ)は一堆(いつたい)の塚上(ちようしやう)にあり相伝(あひつた)ふ上古(いにしへ)此地(このち)は
一の小島(こしま)にして其繞(そのめく)りは海面(かいめん)なりしと其頃(そのころ)渡海(とかい)の船(ふね)風浪(ふうらう)の
難(なん)に逢(あひ)けるに伊勢(いせ)両皇太神宮(しやうくわうたいしんくう)の加護(かこ)により命(いのち)を全(まった)ふせし
報賽(ほうさい)のため此地(このち)に此(この)御神(おんかみ)を勧請(くわんしやう)なし奉り宮居(みやゐ)を営(いとな)みし
といふ 《割書:往古(そのかみ)は此地(このち)船(ふね)多(おほ)く泊(とま)る所なる故に入(いり)と唱(とな)へしをもて|今も古(ふる)きを失(うしな)はすして此地(このち)字(あさな)に呼(よふ)といふ》 網干榎(あみほしえのき)と云は社
の傍(かたはら)にありて神木とす 《割書:昔(むかし)此辺(このへん)ひとつゝきの海(うみ)なりし頃(ころ)漁者(きよしや)の網(あみ)を懸(かけ)|干たる故にしか号(なつく)るといふ今も此あたりの地を》
《割書:穿(うか)ては土中(とちゆう)より漁網(きよまう)に具(く)する所の硾(いは)と名つくるもの出るとなり依(よつて)海辺(かいへん)なりし証(しやう)とする|よし土人云ならはせり此 榎(えのき)の一名を太平榎(たいへいえのき)と号(なつ)く社地をも太平塚(たいへいつか)と称せり》
明王山東覚寺(みやうわうさんとうかくし) 同所南の方にあり真言宗(しんこんしう)にして寺島(てらしま)の蓮(れん)
華寺(けし)に属(そく)す本尊(ほんそん)は弥陀(みた)観音(くはんおん)勢至(せいし)の三尊(さんそん)なり当寺(たうし)は享禄(きやうろく)
四年辛卯 草創(さうさう)する所の寺院(しゐん)にして開山(かいさん)を玄覚法印(けんかくほふゐん)と号(かう)す
不動(ふとう)堂 《割書:当寺(たうし)に安置(あんち)す良弁僧都(らうへんそうす)の彫像(てうさう)にして相州(さうしう)大山寺(おほやまてら)の本尊と胴体(とうたい)|なりといへり》
《割書:縁起(えんき)曰当寺 往古(そのかみ)草庵(さうあん)たりし頃(ころ)開山(かいさん)玄覚法印(けんかくほふゐん)こゝに住(ちゆう)せらる然(しか)るに享禄四年|辛卯 或時(あるとき)負笈(ふきう)の優娑塞(うはそく)来りて投宿(とうしゆく)を乞(こひ)求(もと)む法印 許諾(きよたく)し其夜同床に安臥(あんくは)》
《割書:しぬ翌朝(あくるあさ)法印 疾起(とくおき)て仏間(ふつま)に入むとするに傍(かたはら)に一人の壮夫(さうふ)の忙然(はうせん)として彳(たたすむ)あり|法印 怪(あやし)み其故を問(とふ)といへとも壮夫(さうふ)は聾唖(ろうを)の如くさらに答(こた)ふる所なし其時(そのとき)投(とう)》
【挿し絵】
梅屋敷(むめやしき)
白雲
の
竜を
はゝ
む
や
梅の
花
嵐雪
如月(きさらき)の花盛(はなさかり)
には容色(ようしよく)
残(のこん)の雪(ゆき)を
欺(あさむ)き余香(よかう)は
芬々(ふん〳〵)として四方(よも)に
馥(かんはし)また花(はな)の
後(のち)実(み)をむすふ
を採(とり)収(おさめ)て日に
乾(かはか)し塩漬(しほつけ)
として常(つね)にこれ
を賈(あきな)ふ味(あちは)ひ
殊(こと)に甘美(かんひ)
なれはこゝに
遊賞(いうしやう)する人
かならす
估(かふ)て
家(いへ)土産(つと)
とす
【東覚寺の続き】
《割書:宿(しゆく)の優娑塞(うはそく)これを聞(きゝ)立出(たちいて)て示(しめ)して云くこれ我笈(わかおひ)の中(うち)に安する所の不動尊(ふとうそん)罰(はつ)したまふ|所ならんと云て即(すなはち)笈(おひ)の前(まへ)にひさまつき漸(やゝ)祈念(きねん)せしに不例(ふしき)に彼(かの)壮夫(さうふ)身体(しんたい)の自由(しゆう)なる》
《割書:事をおほえこゝにおいて語(こ)を発(はつ)する事を得(え)て大に歓喜(くわんき)し且つ(かつ)盗賊(とうそく)なる事を示(しめ)し|其罪(そのつみ)を謝(しや)して永(なか)く良心(りやうしん)にひるかへさむ事 約(やく)し去(さり)ぬ依(よつて)法印これを奇(き)とし其本尊の由縁(ゆへ)》
《割書:を問 優娑塞(うはそく)こたへ云くむかし良弁僧都(らうへんそうつ)相州大山(さうしうおほやま)を開基(かいき)したまふ頃 我(わか)始祖(しそ)其 麓(ふもと)なる|子安村(こやすむら)に住(ちゆう)せしか其時僧都を供奉(くふ)しまゐらせ前路(せんろ)を開通(かいつう)し僧都をして山頂(さんてう)に》
《割書:至らしむこれ相州(さうしう)大山寺の興基(こうき)なり其御僧都 随従(すゐしう)の労(らう)を謝(しや)して此本尊を我(わか)始祖(しそ)|に付属(ふそく)なしたまひ告(つけ)て云く人界(にんかい)の大患(たいくわん)は盗難(とうなん)剣難(けんなん)のふたつに過たるはなし此 霊像(れいそう)を護持(こし)》
《割書:せは永(なか)く汝(なんし)か子孫(しそん)およひ見聞(けんもん)結縁(けちゑん)の輩(ともから)も又 其難(そのなん)を遁(のか)れしめんと云々しかありしより|我家(わかいへ)に相伝(さうてん)せし事今に至りて二十五代なり回国(くはいこく)の間も路中(ろちゆう)危難(きなん)を遁(のか)れし事 屢々(しは〳〵)多》
《割書:かりしもこの霊像の応護(おうこ)による所なりと語けれは法印 深(ふか)く感歎(かんたん)しこの霊像を永く|此地にとゝめ一宇(いちう)を建立(こんりふ)し普(あまね)く衆生(しゆしやう)を結縁(けちゑん)せんと欲(ほつ)し頻(しきり)に此霊像を乞求(こひもと)む》
《割書:優娑塞(うはそく)も終(つい)に其意(そのい)を応(おう)しこの尊像(そんそう)を玄学(けんかく)に付与(ふよ)す玄学(けんかく)直(すく)に一宇(いちう)の香堂(かうたう)を|営(いとな)むて此霊像を安す当寺これなり故(ゆゑ)に世人 盗難除(とうなんよけ)不動尊(ふとうそん)と称(しよう)しまゐらせり》
香取大神宮(かとりたいしんくう) 同所二丁許 乾(いぬゐ)の方にあり 《割書:此地も昔は泰平津かと等(ひと)しく海|にして一の離島(はなれしま)なり亀(かめ)の浮(うか)へるに》
《割書:似(に)たりとて旧名(きうめい)を亀津島(かめつしま)と|唱(とな)へたりといふ》
本社(ほんしや) 祭神(さいしん)経津主命(ふつぬしのみこと) 《割書:下総一宮の|神胴体》 相殿(あひてん) 《割書:建甕槌命(たけみかつちのみこと) 鹿島大神宮|猿田彦命 大杉大神宮》 三座
当社(たうしや)は亀戸村(かめとむら)草創(さう〳〵)よりの勧請(くはんしやう)にして此辺(このへん)第一(たいいち)の古跡(こせき)なりと
いへり 《割書:或説に当社は大職冠(たいしよくわん)鎌足(かまたり)|公の勧請なりといふ》 例祭は毎年六月十四日十五日に修(しゆ)
行(きやう)す旅所(たひしよ)は吾妻森(あつまのもり)より二三十歩東の方 田(た)の中(なか)にあり往古(そのかみ)
【挿し絵】
入神明宮(いりのしんめいくう)
太平榎(たいへいゑのき)
【挿し絵】
香取太神宮(かとりたいしんくう)
【図中】
神木
本社
水神
神主
金ひら
【挿し絵】
亀戸邑(かめとむら)の常光寺(しやうくわうし)は江戸(えと)
六阿弥陀回(ろくあみためくり)の第六番目(たいろくはんめ)
なり春秋(はるあき)二度(にと)の彼岸(ひかん)
中(ちゆう)都鄙(とひ)の老若(らうにやく)参詣(さんけい)
群集(くんしふ)
せり
【図中、幟の文字】
本堂建立
【亀戸村、香取大神宮の続き】
祭礼(さいれい)を行(おこな)はむとせし頃(ころ)は此辺(このあたり)なへて海面(かいめん)なりしかは舂(うす)【注:春ではない】を流(なか)し
其(その)止(とゝま)る地(ところ)を以(もつて)旅所(たひしよ)に定(さたむ)へしと誓(ちか)ひたりしに其舂(そのうす)かしこに止(とゝま)り
しとなり故(ゆゑ)に今(いま)も昔(むかし)の例(れい)により僅(わつか)の間(あひた)なからも十間川(しつけんかは)に至(いた)り
て神輿(みこし)を船(ふね)に移(うつ)し旅所(たひしよ)へ神幸(しむかう)なしまゐらす
東林山宝蓮寺(とうりんさんはうれんし) 華蔵院(けさうゐん)と号(かう)す真言宗(しんこんしう)にして寺島(てらしm)の蓮華寺(れんけし)に属(そく)す本尊(ほんそん)虚空蔵菩薩(こくさうほさつ)は行基大士(きやうきたいし)の作(さく)なり 《割書:江戸三虚空蔵|の一員(いちゐん)なり小石川(こいしかは)》
《割書:白山西福寺(はくさんさいふくし)品川(しなかは)|養願寺(ようくわんし)等(とう)なり》 当寺(たうし)は吾嬬権現(あつまこんけん)の別当寺(へつたうし)なり相伝(あひつたふ)嘉元(かけん)元年
癸卯 俊鑁(しゆんはん)法印 草創(さうさう)する所の精舎(しやうしや)にして始(はしめ)は相州小田原(さうしうをたはら)に
ありしとなり鎌倉(かまくら)北条家(ほうてうけ)の時 此地(このち)に移(うつ)すといふ
西帰山常光寺(さいきさんしやうくわうし) 同所一丁あまり巽(たつみ)の方にあり曹洞派(さうとうは)の禅刹(せんせつ)
にして橋場(はしは)の総泉寺(そうせんし)に属(そく)す開山(かいさん)は行基大士(きやうきたいし)中興(ちゆうこう)は勝庵最大(しようあんさいたい)
和尚(おしやう)と号(かう)す本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)の像(さう)は即(すなはち)行基大士の作(さく)なり 《割書:江(え)|戸(と)》
《割書:六阿弥陀(ろくあみた)第(たい)|六番目(ろくはんめ)なり》 来迎松(らいかうまつ)は仏殿(ふつてん)の前(まへ)に存(そん)せり 《割書:中古 火災(くわさい)の時当寺の本尊 火焔(くはえん)|を出(いて)て此樹上にうつりたまふといへり》
竜灯松(りうとうのまつ)は同し左(ひたり)の方にあり 《割書:時として樹上へ|竜灯(りうとう)揚(あか)るよしいへり》 毎歳(まいさい)二月八月の彼岸(ひかん)中(ちゆう)参詣(さんけい)多し
亀命山慈光院(きめうさんしくわうゐん) 同所十間川を隔(へたて)て向(むか)ふにあり当寺(たうし)も洞家(とうけ)の
禅林(せんりん)にして同しく総泉寺(そうせんし)に属(そく)す永正(えいしやう)十一年甲戌 葛西(かさい)出雲守(いつものかみ)
某(それかし)の令室(れいしつ)慈光院殿(しくわうゐんてん)草創(さうさう)する所の寺院(しゐん)たり開山(かいさん)は嵐巌和尚(らんかんおしやう)
本尊(ほんそん)観世音菩薩(くわんせおんほさつ)の像(さう)は此地より東の方の土中(とちゆう)より出現(しゆつけん)
ありしといふ又 境内(けいたい)に安置(あんち)せる弁財天(へんさいてん)の像(さう)は智証大師(ちせうたいし)の作(さく)
にして葛西出雲守某(かさいいつものかみそれかし)の尊信(そんしん)ありし霊像(れいさう)なりといへり
吾嬬権現(あつまこんけん)社 同所十間川の端(はた)にあり此地を吾嬬森(あつまのもり)又 浮州森(うきすのもり)
とも号(なつ)く別当(へつたう)は宝蓮寺(ほうれんし)なり
本社(ほんしや) 祭神(さいしん) 弟橘媛命(おとたちはなひめのみこと) 一座
日本書紀神代巻曰 日本武尊初至駿河其処賊
陽従之欺曰是野也麋鹿甚多気如朝霧足如茂林
臨而応狩日本武尊信其言入野中而覓獣賊有殺
王之情放火焼其野王知被欺則以燧出火之向焼
而得兎
一云王所佩剣叢雲自抽之薙攘王之傍草因是
得免故号其剣曰草薙也叢雲此云武羅玖毛
王同殆被欺則悉焚其賊衆而滅之故号其処曰焼
津亦進相模欲往上総望海高言曰是小海耳可立
跳渡乃至干海中暴風忽起王船漂蕩而不可渡時
有従王之妾曰弟橘媛穂積氏忍山宿祢之女也啓
王曰今風起浪泌王船欲没是必海神心也願以妾
之身贖王之命而入海言訖乃被瀾入之暴風即止
船得著岸故時人号其海曰馳水下略
相生樟(あいをひのくすのき) 《割書:本社(ほんしや)の前(まへ)右(みき)の方(かた)にあり世に連理(れんり)と称(しよう)するものにして一根(いつこん)二幹(にりん)なりわつかに|地(ち)を離(はな)るゝ事四尺はかりにして二股にわかる社記(しやき)に往古(そのかみ)日本武尊(やまとたけのみこと)弟橘媛(おとたちはなひめ)の神霊(しんれい)を》
《割書:鎮(しつめ)まゐらせ御 食(しき)し給ひし時樟(くすのき)の御箸(おんはし)をもて末代平天下(まつたいへいてんか)ならんには此箸(このはし)二本共に栄(さか)ふへし|と宣(のたま)ひ御手自(みてつから)御廟(こひやう)の東(ひかし)の地(ち)にさゝせ給ひしに》
《割書:後(のち)枝葉(しえふ)を生(しやう)し今に至(いた)りて栄茂(えいも)す又|
其傍(そのかたはら)に同し樟(くす)の蘗(き)あり是も一根二幹(いつこんにけん)なり》
神宝(しんはう)古鈴(これい)一口 《割書:長(なか)さ八寸はかりあり|銅色愛すへし》【挿し絵1】
《割書:是(これ)に同しきもの常陸(ひたち)の鹿島正等寺(かしましやうとうし)にもあり又 息男県麿(そくなんあかたまろ)か|家(いへ)にも蔵(さう)せり其形状(そのけいしやう)大同小異なる故(ゆゑ)に図を臨し加(くは)ふのみ》
【挿し絵2】
鹿島正等寺蔵
【挿し絵3】
藤原県麿蔵
社記(しやき)曰(いはく)人皇(にんわう)十二代 景行天皇(けいかうてんわう)の御宇(きよう)四十年 皇子(わうし)日本武尊(やまとたけのみこと)東夷(とうい)を
征伐(せいはつ)し給ふ時(とき)相模国(さかみのくに)より上総国(かみつふさのくに)に往(ゆか)むとし王船(みふね)に乗(のり)たまふ
海中(かいちゆう)に至(いた)り給ふ頃(ころ)暴風(あからしまかせ)忽(たちまち)起(おこ)り王船(みふね)漂蕩(たゝよひ)て渡(わた)るへからす時(とき)に
妾(ひめ)弟橘媛(おとたちはなひめ)曰(のたまはく)今(いま)風(かせ)起(おき)浪(なみ)泌(はやく)して王船(みふね)没(しつま)むと欲(ほつ)す是(これ)必(かならす)海神(わたつみ)の
心(こゝろ)なり願(へかはく)は妾(やつこ)の身(み)を以(もつ)て王(みこ)の命(いのち)を贖(あかな)ひて海(うみ)に入(いら)むと言訖(のたまひをはり)て瀾(なみ)を
披(わけ)て入給ひぬ暴風(あからしまかせ)即(すなはち)止(やみ)て王船(みふね)岸(きし)に着(つく)事を得(え)給ふ 《割書:難風(なんふう)に逢(あい)たまふ|海上(かいしやう)を馳水(はしりみつ)と云》
《割書:今 走水(はしりみつ)に|作(つく)る》 其後(そのゝち)弟橘媛(おとたちはなひめ)の御裳(みも)此辺(このあたり)の海上(かいしやう)に浮(うか)ひけれは尊(みこと)群臣(くんしん)に
命(めい)して此所(このところ)に収(をさ)め壇(たん)を築(つ)かしめ瑞籬(たまかき)を巡(めくら)して御 廟(ひやう)となし給ふ
《割書:尊骸(そんかい)の寄(より)ける地(ち)に御 廟(ひやう)を築(つ)きたてまつる上総国(かみつふさのくに)君不去(きさらす)の吾妻(あつま)明神是なり|又 其(その)御櫛(みくし)の寄(より)けるを取揚(とりあけ)て御陵(こりやう)を造(つく)るは今(いま)の相州梅沢(さうしううめさは)の吾妻明神(あつまみやうしん)なりと云》 当社(たうしや)古(いにしへ)は
荒陵(くはうりやう)のみなりしを承久(しやうきう)元年 北条泰時(ほうてうやすとき)の幕下(はくか)鈴木隼人正(すゝきはやとのかみ)神尾(かみを)
采女(うねめ)井出(ゐて)大学(たいかく)等(とう)の諸士(しよし)小祠(しようし)を創営(さうえい)し神領(しんりやう)三百石を付(ふ)したり
しとなり其後(そのゝち)永禄(えいろく)の頃(ころ)も小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の臣(しん)遠山丹波守(とほやまたんはのかみ)当社(たうしや)
を再興(さいこう)せしといへり
【挿し絵】
吾嬬森(あつまのもり)
吾嬬権現(あつまこんけん)
連理樟(れんりのくす)
鳥かなく
あつまの
森を
見わたせ
は
月
は
入江の
波そ
しら
め
る
藤原恭光
入道
此(この)和歌(わか)は戸田茂睡(とたもすい)
入道のあらはせし
鳥(とり)の跡(あと)といへる和歌(わか)
の集(しふ)に載(のせ)たりし
自(みつから)の詠(えい)なりその
はしにこの吾妻(あつま)の
森(もり)は東人(あつまひと)といへるか
住(すみ)し所なりとあり
この東人いかなる
人にやいまた
考へす
【図中】
十間川
神木樟
本社
いなり
【挿し絵】
日本武尊(やまとたけのみこと)東夷(とうい)征伐(せいはつ)し
たまふ時 相模国より上総(かみつふさの)
国(くに)に往(ゆか)んとし給ひし
其(その)海上(かいしやう)暴風(あからしまかせ)忽(たちまち)起(おこ)り
王船(みふね)漂蕩(たゝよふ)て危(あやう)かりし
かは妾(みめ)弟橘媛(おとたちはなひめ)自(みつから)の御身(おんみ)
をもて贖(あかなひ)尊(みこと)
の命(いのち)をたすけ
まいらせん事を
海神(わたつみ)に誓(ちか)ひ
竟(つい)に瀾(なみ)を披(わけ)
て入たまひ
ぬる事は
日本紀(にほんき)に
みえ
たり
【吾嬬権現社の続き】
《割書:按に小田原北条家の所領役帳(しよりやうやくちやう)にも遠山丹波守(とほやまたんはのかみ)所領(しよれう)の中に葛西小村井(かさいをむらゐ)の地名(ちめい)を注(ちゆう)し加(くは)ふ小村|井は亀戸(かめと)村に接(せつ)して即(すなはち)此社(このやしろ)の北の人村をいふ昔(むかし)社地(しやち)の辺(あたり)も丹波守の領地(りやうち)にてやありけん故(ゆゑ)に当社(たうしや)を》
《割書:修理(しゆり)せしならん歟(か)|》
殖髪聖徳太子堂(うゑかみしやうとくたいしたう) 同所 亀戸天満宮(かめとてんまんくう)の裏門(うらもん)の通り川端(かははた)に傍(そひ)
て慈雲山竜眼時(しうんさんりうかんし)といへる天台宗(てんたいしう)の寺境(しきやう)に安置(あんち)す聖徳太子(しやうとくたいし)の
御影(みえい)は太子 自(みつから)彫像(てうさう)なし給ふとて御長(みたけ)二尺五寸あり 《割書:其霊像(そのれいさう)の|頂(いたゝき)に太子と》
《割書:妃(みめ)との鬘髪(みくし)を殖(うゑ)させたまふと|なり故に世に殖髪(うゑかみ)太子と称(まう)す》 当寺(たうしの)蔵(さう)太子(たいし)縁起(えんき)云 推古天皇(すゐこてんわう)十一年癸亥
太子 御齢(おんよはひ)三十二歳同年十一月廿八日 桧隈宮(ひのくまのみや)におひて霊木(れいもく)を得(え)
て自親(みみつから)影像(えいさう)を作(つく)り斑鳩(いかるか)の夢殿(いめとの)に納(をさめ)たまふ 《割書:太子 伝暦(てんれき)等(とう)に此年(このとし)影像(えいさう)|を造(つく)る事を載(の)せす》
其後(そのゝち)代々(よゝ)の帝王(ていわう)大寺(たいし)をなし世々の君子(くんし)堂(た)に移(うつ)す仍(よつて)天智帝(てんちてい)の
七年に百済寺(くたらてら)を営(いとな)むて安置(あんち)奉(たてまつ)りしより慶長(けいちやう)七年壬寅に至(いた)る
迄の間(あひた)南都(なんと)大安寺(たいあんし)及(およ)ひ花洛(くはらく)蓮花王院(れんけわうゐん)高雄(たかを)の神護寺(しんこし)あるひは
豆州田方(つしうたかた)の般若王寺(はんにやわうし)相州鎌倉(さうしうかまくら)の法華堂(ほつけたう)武州小菅(ふしうこすけ)の最明寺(さいみやうし)
江州滋賀(こうしうしか)菅原寺(すかはらてら)摂洲(せつしう)金胎寺(こんたいし)等(とう)へ移(うつ)し奉(たてまつ)り竟(つい)に宝暦(はうれき)十二年
壬午十月 武州荏原郡(ふしうえはらこほり)の清谷寺(せいこくし)より移(うつ)し長(なか)く当寺(たうし)に安置(あんち)
し奉るといへり
当寺(たうし)の後園(こうえん)萩(はき)を多(おほ)く栽(うゑ)て中秋(ちゆうしう)の頃(ころ)開花(かいくは)の時節(しせつ)は壮観(さうくはん)
たり故(ゆゑ)に世俗 萩寺(はきてら)と字(あさな)せり
妙見大菩薩(めうけんたいほさつ) 同し川端(かははた)橋(はし)を越(こえ)て向(むか)ふ角(かと)にあり日蓮宗(にちれんしう)法(ほふ)
性寺(しやうし)に安(あん)す本尊(ほんそん)の来由(らいゆ)詳(つまひらか)ならす近世(きんせい)霊験(れいけん)著(いちしる)しとて詣人(けいしん)
常(つね)に絶(たえ)す堂前(たうせん)に影向松(えうかうまつ)と号(なつく)る霊樹(れいしゆ)あり本尊(ほんそん)初(はしめ)て此樹上(このしゆしやう)に
降臨(かうりん)ありしといふ故(ゆゑ)星降松(ほしくたりまつ)とも千年松(せんねんまつ)とも呼(よへ)り元和(けんわ)の頃(ころ)
大樹(たいしゆ)此地(このところ)に至(いた)らせ給ひし頃(ころ)更(あらため)て鏡(かゝみ)の松(まつ)と号を賜(たま)ひしと云(いひ)
伝(つた)ふ
天松山最教寺(てんしやうさんさいけうし) 同所三丁はかりを隔(へた)てゝ西(にし)の方(かた)にあり日蓮宗(にちれんしう)
にして本尊(ほんそん)に釈迦如来(しやかによらい)の像(さう)を安(あん)す寛永年間(くはんえいねんかん)延山(えんさん)二十七世 通(つう)
心院(しんゐん)日境(にちきやう)上人 開基(かいき)す当寺(たうし)に鎌倉将軍(かまくらしやうくん)惟康親王(これやすしんわう)蒙古鎮制(もうこちんせい)
【挿し絵】
竜眼寺(りうかんし)
庭中(ていちゆう)萩(はき)を多(おほ)く
栽(うへ)て中秋(ちゆうしう)の一(いつ)
奇観(きくはん)たり故(ゆへ)に
俗(そく)呼(よん)て萩寺(はきてら)と
称(しよう)せり万葉集(まむえうしふ)
芳子(はき)に作(つく)り和名(わみやう)
抄(せう)鹿鳴(はき)草に作(つく)る
続日本後紀(そくにほんこうき)に
仁明帝(にんみやうてい)承和(しやうわ)
元年八月 清涼(せいりやう)
殿(てん)に内宴(ないえむ)す
是(これ)を芳宜(はき)華
の讌(えむ)といふと
ありて皇朝(くわうてう)
古(いにしへ)より萩(はき)を
愛(あい)せられし
事(こと)かくの
如(こと)し
【挿し絵】
柳島(やなきしま)
妙見堂(めうけんたう)
【図中】
十間川
妙見堂
ふち山
法性寺
影向松
【挿し絵】
押上(おしあけ)
最教寺(さいけうし)
当寺(たうし)に蒙古(もうこ)
退治(たいち)の籏曼(はたまん)
荼羅(たら)あり
【本文、西教寺の続き】
の為(ため)に書(かゝ)しむる所の日蓮(にちれん)上人 親蹟(しんせき)の曼荼羅(まんたら)の旗(はた)あり
七面堂(しちめんたう) 《割書:境内(けいたい)にあり本山(ほんさん)身延(みのふ)同体(とうたい)の霊像(れいさう)なりと云 三沢流祈祷(さんたくりうきとう)の本尊(ほんそん)にして当寺(たうし)第一世の|住持(ちゆうち)仙能院日宗(せんのうゐんにちそう)尊師(そんし)二百日 加行(けきやう)して池(いけ)の傍(かたはら)に社殿(しやてん)を建立(こんりふ)すと云》
日(ひ)の丸(まる)旗曼荼羅(はたまんたら) 一幅
【挿し絵】
竪六尺五寸
幅五尺五寸
毎歳(まいさい)七月十六日
よりおなし廿二日
まて虫払(むしはらひ)として
七面堂(しちめんたう)に掲(かけ)て諸(しよ)
人(にん)に拝(はい)さしむ
月の丸 曼荼(まんた)
羅(ら)は身延山(みのふさん)に
あり
両面之大旗来由記
弘安四年辛已五月二十一日従大元国蒙古賊船
四千余艘人数二十四万余責来七月於九州防戦
其時這八大竜王之御旗円中日蓮聖人為祈濤之
大漫荼羅令書此御旗先立向親王九州給時其為
武之大将至九州則日本霊神擁護有神風吹彼賊
船其人数第不残破異国江追払給目出度旗成故
我家是預給畢
十二月二十一日
這両面之大旗者 帷康親王所持之御旗也弘安
四年五月二十一日従大元国蒙古来船四千艘人
数二十四万人也于時親王此旗四方八大竜王四
角四天王中円相内十界大曼荼羅日蓮聖人仰而
令書是為持九州向攘蒙古災給御旗是也
正応元年十月十三日 武州池上村
右衛門太夫宗仲判
蒙古退治旗曼荼羅来由(もうこたいちはたまんたらのらいゆ) 人皇(にんわう)九十代 後宇多帝御宇(こうたのていのきよう)弘安(こうあん)
三年庚辰 春(はる)二月 《割書:元(けんの)至元(しけん)十|七年に当(あた)る》 鎌倉(かまくら)において元使(けんし)杜世忠(とせいちゆう)を殺(ころ)す 《割書:元史(けんし)|日本(にほん)》
《割書:伝(てん)に元(けん)の世祖(せいそ)の至元(しけん)一年 《割書:日本文永|元年に当る》 高麗人(こまひと)趙彝(てうい)等(ら)日本国(につほんこく)に通(つう)すへしと言(ことは)を以て使(つかひ)を遣(つかは)すへき|者を択(えら)ふ同三年八月兵部侍郎(へいほうしらう)黒的(こくてき)礼部侍郎(れいほうしらう)殷弘(いんこう)等(ら)に命(めい)し日本(につほん)に使(つかひ)すとのりて日本の弘(こう)》
《割書:安(あん)四年迄元使(けんし)日本(につほん)へ書(しよ)を奉し来る|事しは〳〵なりといへともこれに応せす》 元王(けんわう)憤(いきとほり)て阿刺罕(あしかん)《割書:五倫書巻二十一 阿斯罕(あしかん)に作(つく)る|阿刺罕(あしかん)途(みち)にして病(やまひ)に係(かゝり)て》
《割書:卒(そつ)すこゝに於(おい)て阿塔海(あたふかい)|を以て是に代(かはら)しむ》 范文虎(えんふんこ)。及(およひ)欣都(きんと)。洪茶丘(こうさきう)等(とう)の四将に師(いくさ)十万を牽(ひきゐ)
しめて日本を撃(うた)むとす 《割書:東国通鑑(とうこくつうかん)巻の三十八高麗記云 茶丘(さきう)欣都(きんと)蒙麗漢(もうれいかん)四万の軍(いくさ)|を牽(ひき)て合浦(かつうら)を発(はつ)し范(えん)文 虎(こ)蛮軍(はんくん)十万を牽て江南を》
《割書:発し倶に一岐島(いきしま)に会すこと太平記|三百万騎とし縁起(えんき)二十四万人とす》 同四年辛巳 夏(なつ)五月 《割書:元至元十八|年に当(あた)る》 蒙(もう)古の賊(そく)
船(せん) 《割書:東国通鑑(とうこくつうかん)戦鑑(いくさふね)三千五百 艘(さう)又 太(たい)平記七万|余艘とす縁起四千余艘として一ならす》 督(とく)し来(きたつ)て鎮西(ちんせい)に冠(あた)し壱岐(いき)対馬(つしま)
の二島及ひ筑前 肥(ひ)前に入る 《割書:元史(けんし)日本伝六月 海(うみ)に入七月平 壺島(ことう)に至り五竜(こりう)|山にうつる八月一日風船を破(やふ)るとあり異称日本伝(ゐしやうにほんてん)》
《割書:に平 壷(こ)また平戸なり 戸(こ)壷(こ)音(おん)通(つう)す平戸こゝには比羅度(ひらと)と云 三才図会(さんさいつゑ)|飛蘭鳥に作る五竜山は鷹島なり此島は筑前(ちくせん)の国にある所なり》 天下の人 民(みん)戦慄(せんりつ)
せさるはなしこゝに於て鎌倉には征夷(せいい)大将軍 帷康親王(これやすしんわう)蒙古退治(もうこたいち)
の為自(みつから)九州(きうしう)に向はむとしまつ宇都宮貞網(うつのみやさたつな)をして先陣(せんちん)の大将(たいしやう)た
らしむまた日蓮上人に命(めい)して日月(しつけつ)の旗(はた)の円中(えんちゆう)に大 曼荼羅(まんたら)を
書(かゝ)しめ其 旗(はた)を貞綱(さたつな)に与(あた)へ西海(さいかい)に発向(はつかう)せしむ其時同年閨七月
一日なり貞(さた)網 海浜(かいひん)に至(いた)り彼旗(かのはた)を押 立(たつ)るに颶風(くふう)俄(にはか)に起(おこ)り逆(けき)
浪(らう)天を浸(ひた)し賊船(そくせん)漂蕩(へうたう)し或(あるひ)は巌崖(かんかい)に触(ふれ)て多(おほ)く壊(くつ)れ蛮軍(はんくん)
溺死(てきし)して魚腹(きよふく)に葬(はふむ)らるゝもの其数(そのかす)を知らす元師(けんし)大(おほひ)に敗北(はいほく)
す虜(とりこ)にする者(もの)凡(およそ)三万人 悉(こと〳〵)く是を梟首(きうしゆ)す其 余(よ)于閶(むしやう)。莫青(はくせい)。呉(こ)
【挿し絵】
鎌倉将軍(かまくらしやうくん)
惟康親王(これやすしんわう)
蒙古夷賊(まうこのいそく)
退治(たいち)の図(つ)
【挿し絵、惟康親王蒙古退治のつづき】
其
二
【惟康親王蒙古退治旗曼荼羅来由のつづき】
万五(はんこ)等(ら)を赦(ゆる)して還(かゑ)らしむ是(これ)此事(このこと)を元主(けんしゆ)にしらしめんか
為なり蒙古(もうこ)の敗卒(はいそつ)還(かゑ)る事(こと)を得(う)る者 僅(わつか)に此三人のみ 《割書:大学衍(たいかくえん)|義補(きほ)に》
《割書:云元(けん)の世祖(せいそ)の至元(しけん)十八年 日本(につほん)を撃(うつ)兵十余万 海島(かいとう)に死(し)す還(かゑ)る事を得(う)る者(もの)僅(わつか)に三十人とある|を異称日本伝に三十人の十の字は衍(あやまり)なりと云々 元史(けんし)に十万の兵還(へいかゑ)る事を得(う)る者三人のみと》
《割書:ありて三人の名(な)を挙(あけ)たり曰く于閶(かんしやう)曰く莫青(はくせい)曰く呉万五(こはんこ)等なり以上 元史日本伝(けんしにつほんてん)東国(とうこく)|通鑑(つうかん)続(そく)資治 通鑑(つうかん)綱(こう)目 大学衍義補(たいかくえんきほ)五倫書(こりんしよ)帝王編年集成(ていわうへんねんしふせい)太平記(たいへいき)北条(ほうてう)九代記 当寺(たうし)》
《割書:縁起(えんき)等(とう)の|要(やう)を摘(つむ)》 依(よつて)凱陣(かいちん)の後(のち)勧賞(けんしやう)として永(なか)く此旗(このはた)を貞綱(さたつな)に賜(たま)ふ貞(さた)
綱(つな)来由(らいゆ)を書(しる)して身延山(みのふさん)に納(をさむ)然(しかる)を当寺(たうし)開山(かいさん)日境(にちきやう)上人 身(み)
延(のふ)より携(たつさへ)来(きた)りて永(なか)く当寺(たうし)の什宝(ちうはう)たらしむるとなり
宝聚山大法寺(はうしゆさんたいほうし) 同三丁はかり西(にし)にあり日蓮宗(にちれんしう)にして同所 法(ほう)
恩寺(おんし)に属(そく)す当寺(たうし)は大永(たいえい)六年丙戌 創立(さうりう)の梵宇(ほんう)にして開山(かいさん)は
法恩治(ほうおんし)第八世 大権院日功(たいこんゐんにちかう)上人なり其頃(そのころ)は法恩寺(ほふおんし)と共(とも)に
今の御廓内(おんかくない)平川(ひらかは)の地にありしを後(のち)谷中(やなか)に移(うつ)され又 元禄(けんろく)年
間 今(いま)の地(ち)に転(てん)せしむるとなり
三十番神堂(さんしふはんしんのたう) 《割書:本堂(ほんたう)の左にあり番神(はんしん)の像(さう)は日功(にちこう)上人の作(さく)なり日功尊師(にちかうそんし)六歳の時疱瘡(はうさう)|を病 既(すて)に死(し)せり父母(ふほ)悲(かなしみ)に絶(たえ)さる所に三十番神の霊示(れいし)に良薬(りやうやく)を得(え)て》
《割書:忽(たちまち)に蘇生(そせい)す則(すなはち)広布石(くわうふせき)并に番神(はんしん)の加護(かこ)なりとて後(のち)其(その)子を出家(しゆつけ)せしむ日功 是(これ)なり|今猶 夢想(むさう)の疱瘡(はうさう)の守礼(まもり)当寺(たうし)より出せり》
広布石(くわうふせき) 《割書:当寺(たうし)本堂(ほんたう)に秘安(ひあん)す今 卵塔(らんたふ)の内(うち)に其模(そのうつし)を置(おき)たり真物(しんふつ)は日蓮(にちれん)上人親筆(しんひつ)|の法華首題(ほつけしゆたい)を鐫(ゑり)たる石塔(せきたふ)なり伝へ云 往古(そのかみ)此 霊石(れいせき)亀戸(かめと)村の地にありしと》
《割書:亀戸村 昔(むかし)は鎌倉(かまくら)への海道(かいたう)たり建長(けんちやう)五年日蓮上人 下総国(しもつふさのくに)より鎌倉へ至り給ふ頃(ころ)彼|所を過(すき)たよひ此 石面(せきめん)に法華(ほつけ)の首題を書 賜(たま)ひ大(おほひ)に広宣流布(くわうせんるふ)の願を誓(ちか)ひ給ふ依(よつて)広(くわう)》
《割書:布石(ふせき)と号(なつ)く其後(そのゝち)千葉家(ちはけ)に相伝(さうてん)せし故 千葉石(ちはいし)とも称せり然るに日功上人は俗性(そくしやう)千|葉氏なりし故に出家(しゆつけ)得度(とくと)の後 当寺(たうし)を創立(さうりう)し此霊石をもこゝに安置(あんち)あり功師も又》
《割書:自(みつから)此石面に三十番神の尊号(そんかう)をも|彫添(ゑりそへ)られけるとなり》
常在山霊山寺(しやうさいさんれうせんし) 二尊教院(にそんけうゐん)と号(かう)す同所の南(みなみ)法恩寺(ほふおんし)の北(きた)に隣(とな)る
浄家(しやうけ)十八 壇林(たんりん)の随一(すゐいち)なり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)の像(さう)は慈覚大師(しかくたいし)
の作(さく)釈迦如来(しやかによらい)の像(さう)は唐仏(たうふつ)なり 《割書:此故(このゆゑ)に二尊|教院といふ》 開山(かいさん)は念蓮社専誉(ねんれんしやせんよ)
上人 大超和尚(たいてうおしやう)と号(かう)す中古 寺院(しゐん)既(すて)に荒廃(くはうはい)し壇林(たんりん)の統脈(とうみやく)絶(たえ)ん
とせしを最蓮社親誉俊応(さいれんしやしんよしゆんおう)和尚 深(ふか)く此事(このこと)を慨(なけき)屢(しは〳〵)
官府(くわんふ)に訟(うつた)へて竟(ついに)貞享(しやうきやう)二年 壇林(たんりん)再興(さいこう)の命(めい)を蒙(かふむ)りて往昔(むかし)の浄(しやう)
域(いき)に復(ふく)すされとも功(こう)を後住(こちゆう)に譲(ゆつり)て武州(ふしう)熊谷寺(くまかやてら)に隠(かく)る故(ゆゑ)に
光蓮社明誉遊安廓栄(くわうれんしやみやうよいうあんかくえい)和尚を中 興(こう)開山(かいさん)とす廓栄(くわくえい)和尚は一 宗(しう)
【挿し絵】
押上(おしあけ)
法恩寺(ほふおむし)
霊山寺(りやうさんし)
【図中】
庫理
方丈
法恩寺
塔中
表門
塔中
庫理
霊山寺
くわんおん
表門
まりし天
【挿し絵】
瓦師(かはらし)
中之郷(なかのかう)の辺(へん)
瓦師(かはらし)の家(いへ)
多(おほ)く是(これ)を
業(なりはひ)と
するもの
多し
【常在山霊山寺の続き】
の高徳(かうとく)碩学(せきかく)にして往生要集(わうしやうえうしふ)指麾抄(したいしやう)を著(あらは)し大に世に行(おこな)はる
当寺昔は湯島妻恋坂にありしか明暦 火災(くはさい)の後浅草に
移りまた元禄年間今の地にうつる 《割書:浅草にありし頃の地は今の誓(せい)|願寺(くはんし)中安養寺の所なり》
知恩院 尊空法親皇(そんくうほふしんわうの)御廟(こひやう) 《割書:本堂の西にあり尊空親皇(そんくうしんわう)は深川に小名木川辺り|五本松に御 閑居(かんきよ)あり其故はしはらくこゝに》
《割書:略す御影堂(みえいたう)は地中 照満院(しやうまんゐん)にあり| 浄土伝灯系図曰 尊空天蓮社帝誉号照満伏見》
《割書: 守邦親王子入于霊巌室剃染嗣法住洛知恩院元| 禄元年十一月七日寂》
観音堂 《割書:本堂の前右の方にあり本尊は慈覚(ちかく)大師の作にして|桂昌一位尼公(けいしやういちゐにこう)御念持仏(こねんちふつ)なりしといへり》
平河山法恩寺(へいかさんほふおんし) 柳島出村にあり日蓮宗にして花洛(くはらく)本国寺
の触頭(ふれかしら)江戸三 箇寺(かし)の一員(いちゐん)たり本堂には宗祖上人の像を安す
日法上人の作なり相伝ふ当寺は太田大和守 資高(すけたか) 《割書:道潅(たうくわん)の孫なり|法華霊場記(ほつけれいちやうき)》
《割書:に資高は江戸谷中法恩寺|日悦尊霊(にちゑつそんれい)なりと云々》 先考(せんかう)六朗左衛門 資康(すけやす)入道 法恩斎(ほふおんさい) 《割書:日恩(にちおん)|と号》
十三回忌 追悼(つゐたう)の為三田村の内を寄付(きふ)し日住上人を開祖とす
則大永四年甲申武州江戸下平河に精舎(しやうしや)を営建(えいこん)し一家の霊(れい)
【挿し絵】
業(なり)
平(ひら)
天(てん)
神(しん)
祠(やしろ)
此処王孫遊
煙波落日浮
自看洲鳥白
京国至今愁
右在五祠
南郭
中郷(なかのかう)
第六天(たいろくてん)
八幡宮(はちまんくう)
【図中】
南蔵院
夫婦竹
天満宮
ちそう
第六天
八まん
【平河山法恩寺のつづき】
牌(はい)を居ると云々
三十番神堂(さんしふはんしんたう) 《割書:本堂の前右の方にあり 関東古戦録(くわんとうこせんろく)といへるものに云 傍(かたはら)に三十番神の堂|をしつらひ密談所(みつたんしよ)にかまへ置たりと又北条五代記小田原 実記(しつき)等(とう)の書》
《割書:に資高(すけたか)北条家を背(そむ)き里見 義弘(よしひろ)に刀をあはせ永く豊島郡の地を知行(ちきやう)せんとて兄弟の|ともから番神堂の前にて神水を呑此事思ひ定ぬるうへは再(ふたたひ)かへすへからすと誓約(せいやく)ありしよし》
《割書:記(しる)せり其頃は今の御城内|平川の地にありしなり》
当寺 往古(そのかみ)は今の御城内平河にありて本住院(ほんちゆうゐん)と号(かう)せしとなり 《割書:北条|家の》
《割書: 所領役帳(しよりやうやくちやう)に本住坊寺領(ほんちゆうはうしりやう)に三田内総領分の地を| 付すとあり則本住坊は本住院の事を云なるへし》 法恩寺(ほふおんし)と改しは後世の事と
みえたり遥(はるか)に天正の後柳原の辺へ移(うつ)され其後谷中清水坂の地へ
転(てん)せられ元禄(けんろく)の初今の地へひかれたりといへり 《割書:境内(けいたい)に平河清水と称|する稲荷の小 祠(みや)あり》
《割書:是乃ち平河より清水坂へうつりたりし証にして|ふたつの地名をあはせてかくは称するなり》
業平天神(なりひらてんしん)社 中(なか)の郷(こう)南蔵院(なんさうゐん)といへる天台宗の寺境(しきやう)にあり伝(つた)いふ
在原業平朝臣(ありはらなりひらあそん)の霊(れい)を鎮(しつむ)ると云々 《割書:江戸名所記に業平すでに都にのほ|らむとし舟に乗(しやう)すしかるに其乗する所》
《割書:の舟このあたりの浦にて覆(くつかへ)り溺死(てきし)す乃(すなはち)里民(りみん)塚(つか)に築(つき)こめたりし故に塚のかたち舟の|ことくなり其在所を今も業平村と云と又江戸鹿子といへる冊子にも成平に作り相撲(すまい)》
《割書:とす紫の一本にも業衡(なちひた)に作り武夫(たけを)とするの類(たく)ひ猶多しといへともいつれも証と|するにたらす求涼亭(きうりやうてい)云く此 祠(やしろ)昔は今小梅の水府公(すゐふこう)御やしきの地にありしとなり横川》
《割書:掘割(ほりわり)の頃(ころ)今の地に移(うつ)さるゝとはり又 南向亭(なんかうてい)の説(せつ)に中(なか)の郷(こう)は業平(なりひら)仮住(かちゆう)の地(ち)なれは|中将(ちゆうしやう)の郷(こう)といふへきを誤(あやま)りて中(なか)の郷(こう)と云とあれとも付会(ふくはい)なるへし》
《割書:按に当社(たうしや)の伝説(てんせつ)紛々(ふん〳〵)として詳(つまひらか)ならす南向亭(なんかうてい)の茶話(さは)に河越(かはこえ)の三吉野(みよしの)の里(さと)は|在五中将(さいこちゆうしやう)の詠(えい)によるとなくなるみよしのの里とありし地なれはにや後(のち)三吉野 天(てん)》
《割書:神(しん)の相殿(あひてん)に業平(なりひら)の霊(れい)と菅神(かんしん)とを合(あは)せまつれりされは此所(このところ)も隅田川(すみたかは)の流 近(ちか)く|はた彼(かの)伊勢物語(いせものかたり)に因(ちなみ)てこゝにも業平の霊を斎(いつき)まつり菅(くはん)神をも勧請(くはんしやう)せし故に》
《割書:業平天神とは称しけるならん歟(か)とあり此 説(せつ)の如く伊勢物語を作りたるものと|しらて後世に付会(ふくはい)せしものならん》
中郷八幡宮(なかのこうはちまんくう) 同所 南(みなみ)の方(かた)荒井(あらゐ)町にあり南番場(みなみはんは)町 天台宗(てんたいしう)泉(せん)
竜寺(りうし)奉祀(ほうし)す相伝(あひつた)ふ文明(ふんめい)七年乙未の鎮座(ちんさ)なりといへり
第六天(たいろくてん)祠 同 北(きた)に隣(とな)る大川端(おほかはのはた)普賢寺(ふけんし)別当(へつたう)たり当社(たうしや)も文明(ふんめい)五年
癸巳の勧請(くはんしやう)なりと云伝(いひつた)ふ
多田薬師堂(たゝやくしたう) 同所 大川端(おほかはのはた)にあり玉島山明星院(きよくたうさんみやうしやうゐん)東江寺(とうこうし)と
号(かう)す 《割書:天台宗(てんたいしう)東叡(とうえい)|山(さん)に属(そく)す》 総門(そうもん)に掲(かく)る所の玉島山(きよくとうさん)の額(かく)は韓人(かんしん)雪月堂(せつけつたう)
李三錫(りさんしやく)の筆(ふて)なり本尊(ほんそん)薬師仏(やくしふつ)の像(さう)は恵心(ゑしん)僧(そう)都の作(さく)にして
多田満仲(たゝまんちゆう)公の念持仏(ねんちふつ)なりといへり 《割書:左右(さいう)の脇壇(けうたん)に十二 神将(しんしやう)|の像(さう)を置(おき)たり》
相伝(あいつた)ふ村上帝(むらかみていの)御宇(きよう)天徳(てんとく)二年 摂洲(せつしう)多田郷(たゝのかう)に一宇(いちう)の伽藍(からん)を
【挿し絵】
秋葉社は毎年
十一月十六日祭礼
ありて賑へり
多田薬師(たゝのやくし)堂
【図中】
秋葉
本堂
元三大師
旅宿寺
東江寺
【挿し絵】
中之郷(なかのかう)
さらし井
世の
中は
蝶々
とまれ
かくも
あれ
西山
宗因
【本文、多田薬師堂の続き】
造営(さうえい)ありて沙羅連山石峰寺(しやられんさんせきはうし)と号(かう)し此(この)本尊(ほんそん)を安置(あんち)す其(その)
後(のち)文永(ふんえい)の頃(ころ)兵火(ひやうくは)に罹(かゝ)りて諸堂(しよたう)悉(こと〳〵)く回禄(くはいろく)す依(よつ)て一山の大(たい)
衆(しゆ)これを悲(かなし)み此(この)本尊(ほんそん)を石函(せきかん)に収(をさめて)山中(さんちゆう)に埋(うつ)め奉りぬ
夫(それ)より後(のち)星霜(せいさう)を経(へ)て慶長(けいちやう)元年 郷民等(こうみんとう)沙羅山におひて
此(この)石函(せきかん)を穿(うかち)出(いた)せり蓋(ふた)に沙羅連山 石峰寺(せきはうし)薬師(やくし)の銘(めい)あり郷(こう)
民等(みんとう)奇異(きい)の思(おも)ひをなし直(すく)に一 宇(う)を営(いとなむ)て是(これ)を安す同八年
其庵主(そのあんしゆ)宗玄(そうけん)と云 者(もの)に本尊(ほんそん)告(つけ)給ふ事ありて都師(みやこ)五条(こしやう)の因幡(いなは)
堂(たう)に暫(しはら)く安置(あんち)し又 五条(こてう)の橋詰(はしつめ)東(ひかし)の方 若宮八幡宮(わかみやはちまんくう)の辺
に堂舎(たうしや)を建(たて)て石峰寺(せきほうし)と号(かう)す宝永(はうえい)の頃(ころ)彼(かの)寺(てら)は黄檗(わうはく)の千(せん)
呆(はい)和尚 深草(ふかくさ)に移(うつ)す其時(そのとき)故(ゆゑ)ありて本尊(ほんそん)薬師仏(やくしふつ)を当寺(たうし)に
安置(あんち)なし奉るといへり
照法山本久寺(しやうほふさんほんきうし) 北本所表町(きたほんしよおもてまち)にあり日蓮宗(にちれんしう)にして平賀本土寺(ひらかほんとし)
に続(そく)す天正(てんしやう)三年乙亥の創立(さうりふ)にして開山(かいさん)は清眼院日有(しやうけんゐんにちう)上人と
【挿し絵】
中郷(なかのかう)
最勝寺(さいしようし)
神明宮(しんめいくう)
太子堂(たいしたう)
【図中】
最勝寺
如意輪寺
太子
神宮寺
聖天
いなり
神明
【照法山本久寺の続き】
号(かう)す当寺(たうし)に安置(あんち)する所(ところ)の宗祖大士(しうそたいし)の像(さう)は日朗師(にちらうし)御首(みくし)を彫刻(てうこく)
し日法師(にちほふし)全体(せんたい)を造(つく)り添(そへ)られしといふ体中(たいちゆう)三寸に六寸の首(しゆ)
題(たい)の札(ふた)を収(をさ)めたり日朗(にちらう)およひ日法(にちほふ)等(とう)の真跡(しんせき)なりといへり
此(この)御影(みえい)始(はしめ)谷中(やなか)感応寺(かんおうし)に安置(あんち)す元禄(けんろく)四年 彼寺(かのてら)改宗(かいしう)の時(とき)
檀家(たんか)に八牧弥宗(やまきやそう)と云へる有信(うしん)の人ありしか此(この)影像(えいさう)ならひに
三 光天子(くはうてんし)大黒天(たいこくてん)等(とう)を其家(そのいへ)にうつして崇教(そうきやう)ありしを後(のち)当(たう)
寺(し)に安置(あんち)し奉るとなり境内(けいたい)安置の七面大明神(しちめんたいみやうしん)は花洛村汲む(くはらくむらくも)の
尼御所(あまこしよ)随竜寺殿(すゐりやうしてん)仕女(しちよ)数馬女(かすまめ)感得(かんとく)の霊像(れいさう)にして故(ゆへ)ありて当寺(たうし)
に安置(あんち)し奉るとなり
正覚山明源寺(しやうかくさんめうけんし) 同所 北本所(きたほんしよ)番場町(はんは)町にあり日蓮宗(にちれんしう)にして下(しも)
野(つけ)佐野(さの)妙顕寺(めうけんし)に属(そく)す建武年間(けんむねんかん)の草創(さう〳〵)にして中老(ちゆうらう)僧(そう)天目(てんもく)
上人 開山(かいさん)たりといふ総門(そうもん)の額(かく)正覚山(しやうかくさん)の三大字は平林惇信(ひらはやししゆんしん)の
筆跡(ひつせき)にして消日居(せうしつきよ)と記し(しる)してあり
牛宝山最勝寺(きうはうさんさいしようし) 明王院(みやうわうゐん)と号(かう)す同所表町にあり天台宗(てんたいしう)にして
東叡山(とうえいさん)に属(そく)す本尊(ほんそん)不動明王(ふとうみやうわう)の像(さう)は良弁僧都(らうへんそうつ)の作(さく)なり当(たう)
寺(し)は牛御前(うしのこせん)の別当寺(へつたうし)にして貞観(ちやうくわん)二年庚辰 慈覚大師(しかくたいし)草創(さう〳〵)
良本阿闍梨(りやうほんあしやり)開山(かいさん)たり寛永年間(くはんえいねんかん) 大樹(たいしゆ) 此辺(このあたり)御遊猟(こいうりやう)
の頃(ころ)屢(しは〳〵)当寺(たうし)へ 入御(しゆきよ)あらせられしにより其頃(そのころ)は仮(かり)の御殿(こてん)抔(なと)
栄構(えいこう)なし置(おか)れたりとなり 《割書:今(いま)も御殿(こてん)跡(あと)と称(しよう)する地(ち)に|山王権現(さんわうこんけん)を勧請(くはんしやう)す》
牛島神明宮(うししましんめいくう) 同所に並(なら)ふ相伝(あひつた)ふ貞観(ちやうくはん)年間(ねんかん)の鎮座(ちんさ)なりと別(へつ)
当(たう)を神宮寺(しんくうし)と称(しよう)して最勝寺(さいしやうし)より兼帯(けんたい)す 《割書:江戸名所記(えとめいしよき)云 安徳帝(あんとくてい)の|寿永(しゆえい)年間 本所(ほんしよ)の郷民(こうみん)》
《割書: 夢(ゆめ)みらく伊勢大神宮(いせたいしんくう)虚空(こくう)よかけり大光明(たいくはうみやう)の内(うち)に微妙(みみやう)の御声(おんこゑ)にて我(か)此 土(と)安穏(あんおん)天人(てんにん)常(しやう)| 充満(しゆまん)と云 法華経(ほけきやう)寿量品(しゆりやうほん)の文を唱(とな)へ我(われ)はこれ伊勢(いせ)の大神宮(たいしんくう)なりとのたまふとみて夢(ゆめ)覚(さめ)》
《割書: たり郷中(こうちう)の人民(しんみん)互(たかい)に語(かた)りあいするにすこしも夢(ゆめ)の趣(おもむき)たかふ事なし依(よつて)奇異(きい)とし宮処(くうしよ)をかまへ| 伊勢(いせ)の御神(おんかみ)を勧請(くはんしやう)し奉るよしみえたり》
《割書: 因(ちなみ)に云 牛島(ふししま)は北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)にも江戸牛島(えとうししま)四ヶ村とありて富永(とみなか)弥(や)四郎の所領(しよりやう)の中(うち)| なり今も本所(よんしよ)中(なか)の郷(こう)辺(あたり)より須崎(すさき)まてこの総名(そうみやう)とせり江戸(えと)の古図(こつ)に回向院(ゑかうゐん)の辺に牛島(うししま)と記(しる)して》
《割書: あり|》
太子堂(たいしたう) 同所元町にあり天台宗(てんたいしう)如意輪寺(によいりんし)に安置(あんち)す本尊(ほんそん)聖徳太子(しやうとくたいし)
の像(さう)は十六歳にならせ給ふ時(とき)自(みつから)親造(つく)り給ふとなり当寺(たうし)は淳和(しゆんわ)
天皇(てんわう)の嘉祥(かしやう)年間(ねんかん)慈覚大師(しかくたいし)東国遊化(とうこくいうけ)の頃(ころ)の創建(さうこん)にして帝(みかと)百(ひやく)
畝(ほ)の水田(すゐてん)を寄付(きふ)し給ふ天文(てんふん)の頃(ころ)此地(このち)祝融氏(しゆくゆうし)の災(わさはひ)にかゝりし
ときも太子(たいし)の霊像(れいさう)は自(みつから)火焔(くはえん)を遁(のか)れ出(いて)給ひて恙(つゝか)なかりしよし
江戸名所談(えとめいしよはなし)にみえたり
【裏表紙】
《題:江戸名所図会 十四》
江戸名所図会巻之五(えとめいしよつゑけんのこ)
玉衡之部目録(きよくかうのぶもくろく)
湯島聖堂(ゆしませいたう)《割書:昌平坂(しやうへいさか)| 》 神田明神(かんたみやうしん)社 同 祭礼(さいれい)の図(つ)
祇園三社(きをむさんしや) 円満寺(ゑんまんし) 霊雲寺(れいうんし)《割書:潅頂堂(くわんちやうたう) 大元堂(たいけんたう) 鐘楼(しゆろう)|地蔵堂(ちさうたう)》
妻恋明神(つまこひんみやうしん)社 湯島天満宮(ゆしまてんまんくう) 湯島神社(ゆしましんしや)《割書:地主戸隠(ちしゆとかくし)|明神なり》 麟祥院(りんしやうゐん)《割書:二位局御(にゐのつほねみ)|影堂(えいたう)》
根生院(こんしやうゐん) 三橋(みつはし)《割書:忍川(しのふかわ)| 》 池(いけ)の端(はた)錦袋円店(きんたいゑんのみせ) 不忍池(しのはすのいけ)《割書:看蓮(はすみ)図| 》
中島弁財天(なかしまてんさいてん)《割書:聖天(しやうてん)|宮(くう)》 東叡山寛永寺(とうえいさんくわんえいし)《割書:中堂(ちゆうたう) 竹台(ちくたい) 廊門(らうもん) 雲水塔(うんすゐたふ)|番神(はんしん)社 輪蔵(りんさう) 法花堂(ほつけたう) 常行堂(しやうきやうたう)》
《割書:鐘楼(しゆろう) 御宮(おんみや) 大仏殿(たいふつてん) 時(とき)の鐘(かね) 天王(てんわう)社 宝光堂(はうくわうたう) 文殊楼(ふんしゆろう)|御本坊(こほんはう) 忍岡稲荷(しのふかおかいなり)社 桜(さくら)ゕ峰(みね) 清水観音堂(きよみつくわんおんたう) 秋色桜(しうしきさくら) 山王権現(さんわうこんけん)社 学寮(かくりやう)》
《割書:講堂(かうたう) 常念仏堂(しやうねんふつたう) 宗廟(そうひやう) 坊舎(はうしや) 忍(しのふ)の岡(おか) 二王門跡(にわうもんのあと) 開山堂(かいさんたう)|十月二日 開山忌(かいさんき)の図(つ) 毎月晦日 両大師(りやうたいし)遷座(せんさ)の図 清水堂花見(きよみつたうはなみ) 正月三日 護国院大黒詣(ここくゐんたいこくまうて)》
《割書:慈恵太師影像(しけんたいしえいさう) 同 除魔(まよけ)影|慈眼大師真影(しけんたいししんえい) 大悲籤(たいひせん)》【注】 谷中瑞林寺(やなかすゐりんし) 感応寺(かんおうし)《割書:五層塔(こじふのたふ) 笠森稲荷(かさもりいなり)社|長安寺寿老人堂(ちやうあんししゆらうしんたう)》
本行(ほんきやう)寺《割書:道潅斥候塚(たうくわんものみつか)|三十 番神堂(はんしんたう)》 蛍沢(ほたるさわ)《割書:宗林(そうりん)寺| 》 日暮里(ひくらしのさと)《割書:経王寺(きやうわうし) 長相寺(ちやうしやうし) 南泉寺(なんせんし)|妙隆寺(みやうりうし) 神明宮(しんめいくう) 修性院(しゆしやうゐん)》
《割書:番神(はんしん)社| 》 七面大明神(しちめんたいみやうしん)社 養福寺(やうふくし)《割書:百 観音(くわんおん)|西山宗因塚(にしやまそうゐんのつか)》 諏訪明神(すはみやうしん)社
淨光寺(しやうくわうし)《割書:人麻呂祠(ひとまろのやしろ)|地蔵堂(ちさうたう)》 青雲寺(せいうんし)《割書:船繋松(ふなつなきまつ) 観音堂(くわんおんたう)|布袋堂(ほていたう)》 道潅山(たうくわんやま)《割書:聴虫(むしきゝ)之図| 》
【注 「慈恵(しけん)」は「(しゑ)の誤 前述の「両大師」は「慈恵大師」と「慈眼大師」 後述の「除魔影」は俗称「角大師」】
根津権現(ねつこんけん)社《割書:清水観音堂(きよみつくわんおんたう) 曙(あけほの)の里(さと)|吹上弁天(ふきあけへんてん)宮》 三崎法住寺(さんさきほふちゆうし) 妙林(みやうりん)寺《割書:田中弁天(たなかへんてん)社|顧地蔵尊(かえりみちさうそん)》
《割書:霊験不動尊(れいけんふとうそん)|蛍沢(ほたるさは)》 根津権現旧地(ねつこんけんきうち) 駒込大観音(こまこみおほくわんおん) 丸山淨心寺(まるやましやうしんし)
目赤不動堂(めあかふとうたう) 駒込吉祥寺(こまこみきちしやうし) 神明宮(しんめいくう) 富士浅間宮(ふしせんけんくう)
六月朔日 富士詣(ふしまうで)の図(つ) 田畑与楽寺(たはたよらくし)《割書:六阿弥陀|四番目》 八幡宮(はちまんくう)《割書:東覚寺(とうかくし)| 》
円勝寺(ゑんしようし)《割書:勢至堂(せいしたう)|五石松(ここくのまつ)》 染井西福寺(そめゐさいふくし)《割書:染井稲荷(そめゐいなり)祠| 》 《振り仮名:西ヶ谷無量寺|にしかはらむりやうし》
《割書:六阿弥陀二番目|七(なゝ)の社》 昌林寺(しやうりんし)《割書:末木(すえき)|観音(くわんおん)》 平塚明神(ひらつかみやうしん)社《割書:鎧塚(よろひつか)|城官寺(しやうくわんし)》同 来由(らいゆ)の図(つ)
白髭明神(しらひけみやうしん)社 平塚城跡(ひらつかのしろあと) 同 合戦(かつせん)の図 犬追物(いぬをふもの)上覧(しやうらん)の地(ち)
飛鳥山(あすかやま) 音無川(をとなしかは)《割書:飛鳥橋(あすかはし)| 》 同所 酒亭(しゆてい)の図 短冊翁旧跡(たんさくをうのきうせき)
王字権現(わうしこんけん)社《割書:若一王子(にやくいちわうし)社 飛鳥社(あすかやしろ) 太神宮(たいしんくう) 本地堂(ほんちたう)|康家清光(やすいゑきよみつ)社 御宮(おんみや) 楼門(ろうもん) 金輪寺什宝(きんりんししふはう)》 花鎮祭(はなしつめまつり)の図(つ)
七月 祭礼(さいれい)の図(つ) 王子稲荷(わうしいなり)社 装束畠衣裳榎(しやうそくはたけいしやうえのき) 除夜狐火(おほみそかきつねひ)の図(つ)
金輪寺(きんりんし)《割書:五香湯(こかうたう)| 》 十八講(しふはちかう)の図(つ) 石神井川(しやくし[い]かは) 松橋弁財天(まつはしへんさいてん)
金剛寺(こんかうし) 滝不動尊(たきふとうそん) 泉流滝(せんりうのたき) 稲付静勝寺(いなつきしやうしようし)《割書:観音(くわんおん)|堂(たう)》
《割書:道潅入道影堂(たうくわんにうたうえいたう) 五葉松(こえうのまつ) 亀(かめ)ゕ池(いけ)|太田(おほた)道潅 富士峰(ふしはう)を望(のそ)むの図》 赤羽山八幡宮(あかはねやまはちまんくう) 川口渡(かはくちのわたし)
川口善光寺(かわくちせんくわうし) 鍋匠(なべつくり)の図(づ)《割書:鍋屋(なへや)|の井(ゐ)》 豊島(としま)の駅(むまやち) 西福寺(さいふくし)《割書:六阿弥陀|壱番》
梶原塚(かちはらつか) 清光寺(せいくわうし)《割書:釈迦堂(しやかたう)| 》 豊島康家清光之墓(としまやすいゑきよみつのはか)
紀州明神(きしうみやうしん)社《割書:観音|堂》 地蔵堂(ちさうたう)《割書:専称院(せんしやうゐん)| 》 若宮八幡宮(わかみやはちまんくう) 豊島川(としまかは)
味(み)を奉(たてまつ)り乳母(にうぼ)の称(しよう)を汚(けが)し
金剛宝山根生密院(こんがうはうざんこんしやうみつゐん) 延寿寺(えんじゆじ)と号(がう)す
不忍池(しのはずのいけ) 《割書:又 篠輪津(しのわづ)|に作(つく)る》 東叡山(とうえいざん)の西(にし)の麓(ふもと)にあり江州琵琶湖(ごうしうびわこ)に比(ひ)す 《割書:不忍(しのはす)とは忍(しのぶ)の岡(をか)に|対(たい)しての名(な)なり》
広(ひろさ)方(はう)十丁 許(ばかり)池水(ちすい)深(ふか)ふして旱魃(かんばつ)にも涸(かる)ることなし殊(こと)に蓮(はちす)多(おほ)く花(はな)の頃(ころ)は紅白(こうはく)咲乱(さきみだ)れ
天女(てんによ)の宮居(みやゐ)はさながら蓮(はちす)の上(うへ)に湧出(ゆしゆつ)するが如(ごと)く其(その)芬芳(ふんはう)遠近(ゑんきん)の人(ひと)の袂(たもと)を襲(をそ)ふ
風土記曰豊島郡篠輪津池貢鯉鮒鰻魚鴻雁鸛鶴鷺
鴨等周行十里許程旱日水不涸霖雨不為害祈旱
雨人詣于茲所祭瀬織津比咩也 云 云
中島弁財天(なかじまべんざいてん) 不忍池(しのはずのいけ)の中島(なかじま)にあり当社(たうしや)は江州(ごうしう)竹生島(ちくぶしま)のうつしにして
安学成即足……
勧学坊了翁僧都(くはんかくはうれうをうそうつ)……
諸国(しよこく)を経歴(けいれき)し……
常念仏堂(しやうねんふつとう)
宗廟(そうへう)
坊舎(はうしや)凡(をよそ)三十五 宇(う)
忍(しのふ)の岡(をか) 《割書:古(ふる)き名所(なところ)にして当山(たうさん)の総名(そうみやう)なり八雲御抄(やくもみしやう)をよひ歌枕名寄(うたまくらなよせ)等(とう)にも武蔵(むさし)の国(くに)に|いれたり》
按(あんする)に当山(たうさん)の総名(そうみやう)を上(うへ)野と号(かう)す或人云むかし藤堂侯の邸宅ありし頃(ころ)本国(ほんこく)伊賀(いか)
の上野(うへの)に地勢(ちせい)相似(あいに)たるをもつて名(な)とすとなん是 大(おほい)なる誤(あやまり)なり永禄(えいろく)二年 小田原(をたはら)北条(ほうてう)
家(け)分限帳(ふんけんちやう)に島津(しまつ)孫四郎をよひ円城寺(へんしやうし)左馬助 等(とう)江戸(えと)知行の中に上野(うへの)の地名(ちめい)を
加(くは)ふよつて古(ふる)くより唱(とな)へ来る事のあきらかなるをしるへし
北国記行 むさし野のさかひ忍(しの)ふの岡(をか)に優遊(いう〳〵)しはへり鎮座(ちんさ)の社(やしろ)五条(ごしやう)の
天神(てんしん)とまうしはへりおりふし枯(かれ)たる茅原(ちはら)を焼(やき)はへり
十月二日開山堂
法華八講(ほつけはつこう)
【表紙題箋】
《題:江戸名所図会 六》
【資料整理ラベル】
291.36
Sa25
【右丁白紙 蔵書印と書き込みあり】
東京学
芸大
学図書
291.36
Sa25.
【左丁】
本牧(ほんもく)十二天宮(てんくう) 本牧(ほんもく)の塙(はなわ)にあり真言宗(しんこんしう)多聞院(たもんゐん)別當(へつたう)奉祀(ほうし)
す祭神(さいしん)は十二 天神(てんしん)躰(たい)は海上出現(かいしやうしゆつけん)と云(いふ)尤(もつとも)佳景(かけい)の地(ち)なり神(か)
奈川(なかは)の台(たい)より眺望(てうはう)する所(ところ)の絶壁(せつへき)はすなはち此社(このやしろ)の右(みき)の
裏手(うらて)
横濱(よこはま)
辨財天(へんさいてん)社
芒村(のけむら)
姥島(うはうはしま)
此(この)地(ち)よりも
海苔(のり)を産(さん)
すといへとも
品川(志中は)に増(まさ)
らすと云
本牧槁(ほんもくのはな)
十二天社(しふにてんのやしろ)
本牧(ほんもく)
吾妻権現宮(あつまこんけんくう)
本牧(ほんもく)の地(ち)ハ
神奈川(かなかハ)驛(えき)の
南に續(つヽ)きて
海上に鋭(さし)出(いて)たる
一方の景地(けいち)に
いて勝區(しようく)城
探(さく)る人おり〳〵
屋をこふ取(とる)と
見へたり按(あん)ずるに
本牧(ほんほく)の名ハもくハ
昔時(そのかみ)牧馬(ぼくは)の地(ち)
たるゆえにこの称(しよう)
あるもの乾(か)今ハ
海利(かいり)魚鹽(ぎよえん)の郷(きやう)と
なり漁人(ぎょじん)の家多く
常(つね)に魚をとれて東海の
驛路(えきろ)及び東都の
市(いち)にも輸(おく)り
鬻(ひさ)ぐなるべし
新後撰
御製
蜑の
すむ
里の
しるへや
これならん
くるれは
見ゆ類
いさり
火蓋
影
奉祀(ほうし)して千歳(せんさい)御神威(こしんゐ)を仰(あふ)き奉(たてまつ)るも鎮まも護(ちんこ)國家(こくか)の盛功(せいこう)末代(まつたい)に及(およ)ほし給うの故(ゆゑ)なるへし《割書:詳(つまひらか)なる事(こと)ハ本所(ほんしよ)吾嬬森(あつまのもり)の|下に出(いつ)るゆゑにこヽに畧(りやく)せり》
《場所:杉山神社(すきやましんしや)》《場所:新町(しんまち)》より八町あまり北(きたきた)の方(かた)《場所:下星川村(しもほしかハむら)》にあり延喜(えんき)式内(しきない)の神社(しんしや)にして霊縦(れいしう)尤(もつとも)掲然(けつせん)たり今(いま)ハ日蓮宗(にちれんしう)法性寺(ほふしやうし)といへるなり兼帯(けんたい)奉祀(ほうし)して釈迦如来(しやかによらい)を本地佛(ほんちふつ)とせり例祭(れいさい)ハ毎年(まいねん)六月十四日に修行(しゆきやう)す
延喜式神名帳日 都築郡一座小
杉山神社
續日本後紀第七日
養和五年二月庚戌武蔵國都築郡枌山神社預之官幣以霊験
同書日
同十五年五月庚辰奉授武蔵國无位杉山明神從五位下
按(あんする)に刋本(かんほん)の續日本後(そくにほんかう)紀に枌山(すきやま)に作(つく)るは誤(あやまり)なり
《場所:帷子里(かたひらのさと)》芝生(しはふ)の南(みなみ)に並(なら)ぶ徃古(いにしへ)ハ宿驛(しゆくえき)の名(な)なりしか今(いま)ハ《場所:程ヶ谷(ほとうやの)》驛(えき)に加(くハ)へられて小地名(しやうちめい)となれり《割書:此(この)所(ところ)を下帷子(しもかたひら)と名(なつ)け岩間(いはま)|神戸(こうと)の南にあるを《場所:上帷子(かみかたひら)》と》
杉山明神社(すきやまみようしん)
延喜式(えんきしき)内(ない)都築(つゝき)
郡(こほり)杉山神社(すきやましんしや)是(これ)
なり
【鳥瞰図内】
法性寺
七面
杉山社
【表紙】
《題:江戸名所図会 四》
【見返し】
【左丁】
江戸名所図会(えとめいしよつゑ)巻之二
天璇之部(てんせんのふ)目録(もくろく)
東海寺(とうかいし)《割書:仏殿(ふつてん) 山門(さんもん) 中門(ちゆうもん) 鐘楼(しゆろう) 要津橋(えうしんきやう) 千歳杉(せんさいすき)|浴鳳池(よくほうち) 釣玄室(てうけんしつ) 豢竜井(けんりうせい) 万年石(まんねんせき) 法宝堂(ほふほうたう) 方丈(はうじやう)》
《割書:開山沢庵和尚廟(かいさんたくあんおしやうのひやう) 県居大人墓(あかたゐうしのはか) 南郭先生墓(なんくわくせんせいのはか) 鎌倉権五郎景政霊祠(かまくらこんこらうかけまさのれいし)|牛頭天王(こつてんわう)社 同 祭礼(さいれい)の図(つ) 坂稲荷(さかいなり) 人麻呂(ひとまろ)の碑(ひ)》
御殿山(こてんやま)《割書:鐘鋳(かねゐ)|の松(まつ)》 問答河岸(もんたふかし) 磯(いそ)の清水(しみつ) 品川駅(しなかはのえき)《割書:同 汐干(しほひ)|の図》
光厳寺(くわんこんし) 長徳寺(ちやうとくし) 中(なか)の橋(はし) 洲崎弁財天(すさきへんさいてん)
貴船明神(きふねみやうしん)社 寄木明神(よりきみやうしん)社《割書:兜島(かふとしま)| 》 本光寺(ほんくわうし)《割書:開山日什(かいさんにちしう)|上人 墓(はか)》 大竜寺(たいりうし)
天竜寺(てんりうし) 海竜寺(かいりうし) 常行三昧寺(しやうきやうさんまいし) 妙国寺(みやうこくし)《割書:本堂(ほんたう)|五層(こしうの)塔》
《割書:多宝塔(たほうたふ) 諏訪明神(すはみやうしん)社 二王門(にわうもん)|総門(さうもん) 鐘楼(しゆろう)》
海晏寺(かいあんし)《割書:鮫頭観音(さめつくわんおん) 北条時頼朝臣石塔(はうてうときよりあそんのせきたふ) 二階堂出羽守(にかいたうてはのかみの)石塔 梶原景時(かちはらかけとき)石塔|北条時宗(はうてうときむね)石塔 境内楓樹(けいたいかへて) 千貫牡丹(せんくわんほたん) 千貫松(せんくわんまつ) 竜淵 両渓橋(りやうけいきやう)》
《割書:蓬莱山(はうらいさん) 梶原屋敷(かちはらやしき) 石地蔵(いしちさう) 権現御手洗(こんけんみたらし)池|延命水(えんめいすゐ) 明神森(みやうしんのもり) 山王(さんわう)社 八幡宮(はちまんくう)》 鮫頭明神(さめついやうしん)社
上古海道(しやうこかいたう) 来福寺(らいふくし)《割書:本尊経読地蔵尊(ほんそんきやうよみちさうそん) 延命桜(えんめいさくら)|梶原塚(かちはらつか) 梶原松(かちはらまつ)》 納経塚(なうきやうつか)
西光寺(さいくわうし) 光福寺(くわうふくし) 了海上人産湯井(りやうかいしやうにんうふゆのゐ) 鹿島明神(かしまみやうしん)
【右丁】
鈴森八幡宮(すゝのもりはちまんくう)《割書:鈴石(すゝいし)|烏(からす)いし》 笠島(かさしま) 磯馴松(そなれまつ) 荒藺崎(あらいかさき)
鎧懸松(よろひかけまつ) 八景坂(やけいさか)《割書:俗(そく)やけん坂(さか)|といふ》 行慶寺(きやうけいし) 戸越八幡宮(とこえはちまんくう)
木原山(きはらやま)《割書:相模街道(さかみかいたう)|熊野弁天(くまのへんてん)》 桃雲寺(たううんし) 蓮華(れんけ)寺 女塚(おんなつか)
長栄山本門寺(ちやうえいさんほんもんし)《割書:祖師堂(そしたう) 釈迦堂(しやかたう) 輪蔵(りんさう) 鐘楼(しゆろう) 題目堂(たいもくたう)|鬼子母神(きしもしん)祠 妙見堂(みやうけんたう) 楼門(ろうもん) 五層塔(こしうのたふ) 七面倒(しちめんたう)》
《割書:宝蔵(はうさう) 檀所(たんしよ)【壇ヵ】 祖師荼毘所(そしたひしよ) 探幽法印墓碑(たんいうほふゐんほひ) 祖師終焉旧跡(そししうゑんのきうせき)|祖師鏡御影(そしかゝみのみえい) 同 滅(めつ)に臨(のそみ)て靠(よりかゝり)給ふ柱(はしら) 硯井(すゝりゐ) 旅立御影(たひたちのみえい) 日蓮大士石塔(にちれんたいしせきたふ) 池上宗仲墓(いけかみむねなかのはか)》
《割書:坊舎(はうしや) 惣門(さうもん)|寺宝略記(しはうりやくき) 祖師略伝(そしりやくてん)》 千束池(せんそくのいけ)《割書:日蓮上人|腰掛松(こしかけまつ)》 中延八幡宮(なかのふはちまんくう) 万福寺(まんふくし)《割書:梶原景時墓(かちはらかけときのはか)|寺宝(しはう)》
馬込八幡宮(まこみはちまんくう) 梶原氏宅地(かちはらうちたくち) 鳳来寺峰(ほうらいしみね)の薬師堂(やくしたう)
鵜木村光明寺(うのきむらくわうみやうし)《割書:功徳水(くとくすゐ) 観音堂(くわんおんたう) 当麻曼荼羅(たえままんたら)|善導大師像(せんたうたいしのさう) 開山善慧(かいさんせんゑ)上人 略伝(りやくてん)》 光明寺(くわうみやうし)の池(いけ)
矢口村新田明神(やくちむらにつたみやうしん)社《割書:河崎(かはさき)に同(とう)|社(しや)あり》 《割書:鞍掛榎(くらかけえのき) 矢口古事(やくちのこし)|古廟碑(こひやうひ)》 十騎社(しつきのやしろ)《割書:日本武尊(やまとたけのみこと)祠| 》
古川薬師堂(ふるかはやくしたう)《割書:銀杏古樹(いてうのこしゆ) 杉本霊泉(すきもとれいせん)|五智堂(こちたう)》 高畑村光明寺(たかはたむらくわうみやうし)
大森(おほもり)《割書:名産海苔(めいさんのり) 同 麦藁細工(むきわらさいく)|和中散店(わちゆうさんのみせ)》 貴船明神(きふねいみやうしん)社 蒲田梅林(かまたむめはやし)
行方弾正忠明連宅地(なめかたたんしやうのちゆうあきつらのたくち) 円頓寺(えんとんし) 蒲田八幡宮(かまたはちまんくう)
妙安寺(みやうあんし) 長照寺(ちやうしやうし) 六郷八幡宮(ろくかうはちまんくう)《割書:八幡塚(やはたつか) 籏立杉(はたたてすき)|古屋敷(ふるやしき)》
【左丁】
六郷渡(ろくかうのわたし) 羽田弁才天(はねたへんさいてん)社 河崎(かはさき)《割書:奈良茶店(ならちやみせ)| 》 河崎高重宅地(かはさきたかしけたくち)【https://honkoku.org/app/#/transcription/38E64CA25DB873D2854E760F69DD13E8/2/】
堀内山王宮(ほりのうちさんわうくう) 洲河原桃林(すかはらもゝはやし) 厄除大師堂(やくよけたいしたう)《割書:六字名号碑(ろくしみやうかうのひ)| 》
池上氏所蔵蜂竜盃(いけかみうちしよさうはちりやうのさかつき)《割書:慶安中酒徒(けいあんちうしゆとの)|略伝(りやくてん)》 末広松(すえひろまつ) 塩浜(しほはま)
石観音堂(いしくわんおんたう) 河崎新田明神(かはさきにつたみやうしん)社 成就院(しやうしゆゐん) 御霊権現(こりやうこんけん)社
亘新左衛門尉早勝塚(わたりしんさゑもんのしやうはやかつのつか) 同居住旧址(おなしくきよしうきうし) 姥(うは)か森(もり)
栗生左衛門尉忠良塚(くりふさゑもんのしやうたゝよしのつか) 宗参寺(さうさんし) 養光寺(やうくわうし)
佐々木明神(さゝきみやうしん)社 勝福寺旧址(しやうふくしきうし) 市場観音堂(いちはくわんおんたう) 鶴見川《割書:鶴見橋| 》
末吉不動堂(すへよしふとうたう) 秋田城介義景旧館地(あいたしやうのすけよしかけきうくわんのち) 成願寺(しやうくわんし)
白旗八幡宮(しらはたはちまんくう) 子安観音堂(こやすくわんおんたう) 松隠寺(しようおんし) 慈眼堂(しけんたう)
義高入道墓(よしたかにふたうのはか) 観福寿寺(くわんふくしゆし)《割書:世(よ)に浦島(うらしま)|寺(てら)といふ》《割書:浦島明神(うらしまみやうしん) 亀化竜女(きけりうによ) 竜灯松(りうとうのまつ)|目当灯篭(めあてとうろう) 菩提樹(ほたいしゆ) 浦島墓(うらしまのはか)》
《割書:浦島足洗井(うらしまあしあらひのゐ) 同 腰掛石(こしかけいし)|浦島古事(うらしまこし)》 浦島塚(うらしまつか) 神奈川駅(かなかはのえき)《割書:同 総図(さうつ) 三宝寺(さんはふし)|本覚寺(ほんかくし) 平尾物見(ひらをものみ)の松(まつ)》
《割書:金毘羅祠(こんひらのやしろ) 飯綱社(いゝつなのやしろ) 人穴社(ひとあなのやしろ) 人穴(ひとあな)|神奈川台貸食店(かなかはたいりやうりや)》 上無川(かみなしかは) 能満院(のうまんゐん)
北条上杉合戦図(はうしやううゑすぎかつせんのつ) 洲崎明神(すさきみやうしん)祠 熊野権現(くまのこんけん)社 滝(たき)の橋(はし) 《割書:滝(たき)の川(かは)| 》
【右丁】
宗興寺(さうかうし) 観音山(くわんおんやま) 熊野権現山(くまのこんけんやま)《割書:古戦(こせん)|場(ちやう)》 慶雲寺(けいうんし)
雲松院(うんしようゐん) 小机城跡(こつくへのしろあと) 泉谷寺(せんこくし) 師岡熊野権現宮(もろおかくまのこんけんくう)
折本淡島明神(おりもとあはしまみやうしん)社《割書:桜樹(さくら)|神祠碑(しんしのひ)》 多目周防守宅地(ためすはうのかみたくち) 西向寺(さいかうし)
本覚寺切通(ほんかくしきりとほし) 本覚禅寺(ほんかくせんし) 陽光院(やうくわんゐん) 道灌山(たうくわんやま)
飯綱権現(いつなこんけん)社 袖(そて)ゕ浦(うら) 富士浅間(ふしせんけん)祠 洲乾弁財天(しうかんへんさいてん)祠
姥島(うはしま) 本牧十二天宮(ほんもくしふにてんくう) 吾妻明神(あつまみやうしん)社《割書:天神(てんしん)|の森(もり)》 杉山神社(すきやましんしや)【https://honkoku.org/app/#/transcription/B42E378426DF3587A0A6DAEE5AFF557F/2/】
帷子里(かたひらのさと) 帷子川(かたひらかは) 程(ほと)ヶ谷新町(やしんまち) 神戸川(かうとかは)
太神宮(たいしんくう) 品野坂(しなのさか)《割書:一名 権太坂(こんたさか)| 》 古町海道(こまちかいたう) 界木(さかいき)《割書:地蔵堂(ちさうたう)| 》
蒔田城跡(まいたのしろあと) 乗蓮寺(しやうれんし) 二位禅尼影堂(にゐせんにえいたう) 住吉明神(すみよしみやうしん)社
青木明神(あほきみやうしん)社 弘妙寺(くみやうし)《割書:天満宮(てんまんくう) 熊野(くまの)祠 麻耳山(まにさん)|鐘楼(しゆろう) 七(なゝ)ッ石(いし) 二王門(にわうもん)》【弘明寺ヵ】
神明宮(しんめいくう) 杉田梅園(すきたむめその) 同 海鼠(なまこ)を製(せいす)る図(つ)
金沢(かなさは)《割書:同 総図(さうつ)| 》 能見堂(のうけんたう) 擲筆松(ふてすてまつ) 称名寺(しやうみやうし)《割書:鐘楼(しゆろう)|金沢顕時墓(かなさはあきときのはか)》
《割書:金沢貞顕墓(かなさわさたあきらのはか) 美女石(ひしよいし) 姥石(うはいし) 青葉楓(あほはのかへて) 西湖梅(せいこのむめ) 桜梅|普賢象(ふけんさう) 文殊桜(もんしゆさくら) 一室(いちのむろ) 阿弥陀院(あみたゐん) 二王門(にわうもん) 熊野新宮(くまのしんくう) 寺宝略目(しはうりやくもく)》
【左丁】
金沢文庫旧址(かなさはふんこのきうし) 御所(こしよ)ゕ谷(やつ) 兼好法師閑居旧址(けんかうほふしかんきよのきうし)
薬王寺(やくわうし) 薬師堂(やくしたう) 天然寺(てんねんし) 竜華寺(りうけし)
浦(うら)の郷(かう) 善応寺(せんをうし) 野島(のしま)《割書:土人 百軒島(ひやくけんしま)|と云》 《割書:金沢(かなさは)の原(はら)|乙鞆(おとも)の浦(うら)》
野島(のしま)の渡(わたし) 洲崎(すさき) 瀬戸(せと) 瀬戸橋(せとはし)《割書:旅亭東屋(りよていあつまや)| 》
照天松(てるてのまつ) 瀬戸明神(せとみやうしん)社《割書:鐘楼(しゆろう) 薬師堂(やくしたう)|三本杉(さんほんすき) 蛇混柏(しやひやくしん)》 瀬戸弁財天(せとへんさいてん)《割書:福石(ふくいし)| 》
円通寺(えんつうし)《割書:御宮(おんみや)| 》 金竜院(きんりうゐん)《割書:飛石(とひいし)|九覧亭跡(きうらんていのあと)》 泥牛庵(ていきうあん) 日荷上人加持水(にちかしやうにんかちすゐ)
能仁寺旧跡(のうにんしきうせき) 上行寺(しやうきやうし)《割書:日荷上人石塔(にちかしやうにんせきたふ)| 》 嶺松寺(れいしやうし) 六浦(むつら)
六浦川(むつらかは) 専光寺(せんくわうし) 油堤(あふらつゝみ) 侍従川(ししうかは)
光伝寺(くわうてんし) 界地蔵(さかいちさう) 三艘浦(さんさうかうら) 太寧寺(たいねいし)《割書:蒲冠者(かはのくわんしや)|範頼墓(のりよりのはか)》
筥根権現(はこねこんけん)社 雀(すゝめ)ゕ浦(うら) 《割書:一名 天(てん)|神(しん)ゕ崎(さき)》 巾着岩(きんちやくいわ)根付岩(ねつけいわ) 榎戸湊(えのきとのみなと)
烏帽子島(ゑほししま) 夏島(なつしま) 猿島(さるしま) 裸島(はたかしま)
名産甲香(めいさんかいかう)
【右丁 白紙】
【左丁】
萬松山(ばんしようさん)東海禪寺(とうかいせんし) 品川(しなかは)北馬塲(きたはんは)にあり花洛(くわらく)大德寺派(たいとくしは)の禪宗(せんしう)
江戸(えと)觸頭(ふれかしら)の一員(いちゐん)たり當寺(たうし)は輪番(りんはん)にして年〻八月に交代(かうたい)す
寛永(くわんえい)十五年戊寅 台命(たいめい)を奉(ほう)して澤庵和尚(たくあんおしやう)開創(かいさう)する
所(ところ)の禪園(せんえむ)なり《割書:塔中(たつちう)十七|宇(う)あり》
佛殿(ふつてん) 釋尊(しやくそん)の像(さう)を安(あん)す 額(かく)《割書:祈禱堂》天倫筆(てんりんふて) 二重屋根額(にちゆうやねのかく)
《割書:世尊寺殿》同筆(おなしふて) 山門樓上(さんもんろうしやう)に観音(くわんおん)を安(あん)す 額(かく)《割書:潮音閣|十境の一》大明院宮(たいみやうゐんのみや)
公辨法親王真跡(こうへんはふしんわうのしんせき) 中門額(ちゆうもんのかく)《割書:東海禪寺》天倫筆(てんりんふて)
鐘樓(しゆろう)《割書:本堂(ほんたう)の右にあり豁夢(くわつむ)|樓(ろう)と号(かう)す十境の一》 《振り仮名:要津𣘺|えうしんきやう》《割書:南(みなみ)の方にあり|十境の一》 千歲杉(せんさいすき)《割書:同所 𣘺(はし)より|南(みなみ)の方の》
《割書:門(もん)へ行道(ゆくみち)の右にあり寛永(くわんえい)の頃(ころ) 大樹(たいしゆ)命(めい)せられて千歲杉(せんさいすき)と云(いふ)とそ是(これ)も|十境の一也 宝曆(はうりやく)の頃(ころ)暴風(はうふう)に吹折(ふきをれ)たりとて今(いま)は其幹(そのもと)わつかに残(のこ)れり》 浴鳳池(よくほうち)
《割書:方丈(はうちやう)の庭(には)の泉水(せんすゐ)をいふ十境の一なり寺後 ̄ノ|山下 ̄ヨリ清泉流出師_レ引_レ之開_二 一池 ̄ヲ於室之北面 ̄ニ_一《割書:云| 云》 釣玄室(てうけんしつ)《割書:池(いけ)の北(きた)の汀(みきわ)にあり 大樹(たいしゆ)寛永(くわんえい)|二十年 仲秋(ちゆうしう)の頃(ころ)澤庵和尚(たくあんおしやう)と》
《割書:此所(このところ)にて御法問(こはふおん)ありしとなり則(すなはち)十境の一なり東海和尚年賦云寛永二十年癸未仲秋之夕|台駕入_二東海_一翫_二月於山亭_一台𩓲怡怡而出_二山亭_一猶乗_二月明_一倚_二池上小亭_一亦侍_レ傍《割書:云| 云》》
豢龍井(けんりようせい)《割書:釣玄室(てうけんしつ)の東(ひがし)に並(なら)ふ寛永(くわんえい)の頃(ころ) 大樹(たいしゆ)御茶(おんちや)の水(みつ)に|掬(きく)せしむその水(みつ)清冷甘美(せいれいかんひ)なり是(これ)も十境の一也》 萬年石(まんねんせき)《割書:池中(ちちゆう)東(ひかし)の方(かた)|にあり十境の》
《割書:一なり寛永(くわんえい)二十年癸未三月十四日 大樹(たいしゆ)當寺(たうし)へ台駕(たいか)を移(うつ)させ給ふ|其時(そのとき)遠州矦(ゑんしうこう)小堀政一(こほりまさかつ)に命(めい)せられてよはせらるゝ所(ところ)なり》
【右丁】
萬年石之記 今玆寛永癸未三月十四日偶
左相府見移 台座於此池沼下池有島島有幽
䂖熟見之無奇形恠狀不端險挺立若由醉兮栗里
翁之石乎或由醒兮李悳祐之䂖乎皆不然彼防風
之朽骨乎或於莵之白額乎共不然唯突兀而在草
裡痴兀而含德容是世之求奇者未曾知此石之所
貴偏得恬淡虚無之趣而有谷神不死之體如至虚
極也似守靜篤也 相君命侍臣曰此石不可無
名各以所思聞焉於此諸子雖有所思非無所懼斟
酌相半也時小堀遠江守政一侍茶爐下 君有
旨政一卽起向石三呼萬年石石三点頭矣
君下佳言曰不疑是萬年石也大度之一言以定天
下况於䂖乎嗚呼䂖乎哉石乎哉入于 台覽一
旦發光而陟變改其觀益【葢】爲萬之言也未必可以十
千而限凡數者始一而窮十始十而窮百始百則窮
千始千則窮萬以萬筭則不知幾十百千萬億兆年
以此無窮爲石之壽量以石之壽量比 君壽山
則累蕐頂萬八千丈猶在麓者耶以世計則復不知
其幾萬世矣村語以銘曰 重於九鼎萬年石
鈞命如驚豈可輕 和氣一團無盡藏 以秋送復
以春迎 住山老衲澤庵宗彭敬書
法寳堂(はふはうたう)《割書:一切經(いつさいきやう)を収蔵(しゆさう)す池(いけ)より北(きた)に|あり當寺(たうし)十境の其一なり》
方丈(はうぢやう)《割書:書院(しよゐん)内佛(ないふつ)廊下(らうか)等(とう)の杉戸(すきと)壁上(へきしやう)の画(ゑ)は狩野探幽(か の たんいう)の筆(ふて)なり|加茂競馬(かものけいは)南都焚木能(なんとたきゝののう)其餘(そのよ)人物花鳥(しんふつくわちやう)の類(たくひ)なり》
【左丁】
午頭天王社(こつてんわう )【牛頭】
東海禪寺(とうかいせんし)
【図】
御殿山
神主
【右丁】
其二
【図】
中門
いなり
曽根松
御供取【所】
坂いなり
不動
天王
弁天
太神宮
清德寺
山神
虚空蔵
【左丁】
【図】
塔中
額門
車門
浴室
【右丁】
其三
【図】
豢竜井
山門
鈎玄室
法宝堂
塔中
万年石
鐘楼
浴鳳池
本堂
白槙
客殿
方丈門
【左丁】
【図】
方丈
庫裡
塔中
塔中
要津𣘺
千歳杉
【右丁】
其四
【図】
塔中
澤庵和尚廟 塔中
為朝社
鎌倉権五郎社
南門
塔中
【左丁】
【左丁】
開山澤庵和尚廟(かいさんたくあんおしやうのひやう)《割書:方丈(はうちやう)の西北(にしきた)の隅(すみ)丘(をか)の上(うへ)にあり開山和尚(かいさんおしやう)の遺志(ゆゐし)により石塔(せきたふ)を|建(た)てすたゝ自然(しねん)の巨石(きよせき)を置(おく)左右(さいう)に高(たか)さ三四 程(ほと)つゝの》
《割書:石(いし)を数(す)十 立並(たてなら)へたり是(これ)を羅漢石(らかんいし)と号(なつ)くすへて廟地(ひやうち)の趣(おもむき)は小堀遠州矦(こほりゑんしうこう)の指図(さしつ)なりと|いへり傍(かたはら)に和尚(おしやう)の行實(きやうしつ)を記(しる)せし石碑(せきひ)を建(たて)たり是(これ)を慈隱(しいん)塔と号(なつ)く當山(たうさん)十境の一|なり銘文(めえいふん)|左(さ)のことし》
開山澤庵和尚塔銘並序
昔者南浦明公正元間艤南遊棹入大宋國偏曆諸
老時虚堂祖翁主淨慈往謁之參禪大徹終提堂之
正印歸于本朝而啟迪作家爐鞴陶冶天下學者入
其室者一千有餘人嗣其法者以十有五數計若興
禪大燈國師其一人也國師入萬鍛洪爐恰似精金
無變色得證明而後閱二十之寒暑竪起大法幢炫
燿于朝廷山林自爾以降燈燈相續明明不盡方今
挑其焰昭其化者澤庵禪師也師諱彭㝠之其自謂
也晩稱東海■【暮】翁天正初元生於但馬州出石縣平
氏少受僧業於邑之宗鏡禪寺希先西堂西堂授法
諱曰秀喜年十有四而祝髪探賾於竺墳索隱於魯
典每聞先之𡬹諙有徧詢之志先逝而去龍寳山大
德禪寺董甫仲公居宗鏡丈室師方咨叩及仲公歸
大德師乃參隨至彼粤𨸩諱宗彭仲公赴江左瑞岳
寺師與之東行矣仲公蛻而後還本寺依大寳圓鑒
國師請益亦周旋于山中諸老閒多獲言論風旨也
師穷■【窶】而無一鉢之資只雋永于法喜禪悅而已一
朝飛錫乎泉南就文西西堂酌文字流文西是黄龍
泒下頭角而尤老文學者也西臨終焉之期以所貯
【右丁】
之典籍附師初雲英偉公玉甫琮公以法器期師招
之弗就明堂古鏡禪師一凍滴公住邑之陽春菴師
亟見之機辨縱横應答如響實透網金鱗而頓轡青
驪也鏡移同邑南宗寺師執侍巾瓶日夜參究鏡知
師有所契悟授印證語号曰澤菴賦祗夜抒其義師
命𦘕匠冩鏡壽像索贊鏡渉毫書曰麁面易描中眉
難冩平素作略入魔界而還降魔宗活機自由入佛
界而能殺佛者快拂子突出云父攘羊隱之底不是
彭禪子麼《割書:予》失笑云何不問起大平天下師領之珍
襲寳護同邑有宗無者爲先考齋緇侶殊請圓鑑國
師入室師之酬對敏捷而玉轉珠囬也此時鏡臥病
于陽春聞師勘辨而驚異嘉■【謨謹ヵ】云眞跨竈兒也於鏡
殁也師𩠐衆陽春補席慶長丁未師年三十有五遷
本寺板■【𩠐ヵ】繼臨德禪同年秋八月主龍興山南宗禪
寺經二年而入院于本寺大德一香爲古鏡供住山
綽有古人風味亡何告■【𨔒ヵ】還于泉南泉南緇素郊迎
驩喜如見■佛同邑有宗印者創建一菴名曰祥雲
延師爲開山祖也師𪛋法語慶之讚之于泉南于龍
峰視其去畱知其輕重陽■【明ヵ】殿下信尹公一夕入師
禪室問道詰且馳書謝之癸丒一新南宗之鐘樓甲
寅再造大仙之拾雲軒師禪坐之暇編大燈年譜収
在雲門菴乙卯南宗■【罹ヵ】鬱攸之災師告邑宰相攸於
邑之南再建南宗不亟不徐尋復𦾔觀師視名利■【若ヵ】
塵埃視聲色若泡幻有時在泉南天下邑而愛幽䆳
深靖有時寓南京之芳林菴韜光匿耀有時入泊瀬
勝槩抱𤇆霞沈痼有時僑城州薪之妙勝寺守空寂
【左丁】
生涯爾後歸山陰之故里構一把茆於宗鏡主山之
下扁投淵軒折脚鐺内煮麻麥粟豆給日食而無有
飢色寛永己巳師有事■【馵ヵ】玉室翁同貶于窮卿遐徼
然師知其行止係數不變容色壬申 幕下降
鈞命召還二翁師抵武陵於城外民村一牛鳴之地
卓庵曰撿束暫寓止焉 幕下徵師於營中時時
問法𡢗睠遇優渥𡬹望愈高戊寅秋師之京師
大上皇召入 仙院講原人論辨瀾激起如懸江
河 皇情大悅師奏我山第二世徹翁唯有禪師
号無國師号也願下 綸旨 上皇允之圭章寳
黑不日而下謚天應大現國師有功于曩祖若此也
幕下於金城南品川創草梵刹使師住持山曰萬松
寺曰東海落成之日賦賀頌𦤺𨤲祝厥後 台輿
入山草木生輝師奉 鈞命賦和歌一首祈國基
之鞏固䜟新筑之久昌辛巳歲降使本寺出世制法
復𦾔規之 鈞命葢是依師之所願也有功于本
寺其可知也正保乙酉夏令𦘕師劃一圓相相中親
加一點墨書于贊詞於其上以爲壽㝐同年仲冬示
疾預知縁盡遺誡云瘞全身於後山莫誦經設齋莫
受道俗■【予ヵ】賻衆僧著衣喫飯如平日矣且莫爲求謚
号而煩 朝奏莫入木牌於本寺之祖堂云云彌
月不痊一日暁天授筆書夢一字泊然而逝實十二
月十一日也世壽七十有三僧臘五十有九瘞于全
身於東海之西北岡唯種松乎其上不樹塔葢依遺
𫝇也門人在泉南者祥雲樹塔名曰寂然曩【昔ヵ】參學
弟子武野氏安齋翁往年昇師行實求銘其塔因循
【表表紙】
【題箋】
《題:江戸名所図會 三》
【見返し】
【左丁】
三縁山(さんえむさん)増上寺(そうしやうし)廣度院(くわうとゐん)と号(かうす)関東浄家(くわんとうしやうけ)の総本寺(さうほんし)十八/檀林(だんりん)の
冠首(くわんしゆ)にして盛大(せいたい)の佛域(ふついき)たり百一代 後小松院(ここまつのゐん)の御願(こくわん)にして
開山(かいさん)は大蓮社(たいれんしや)酉誉(いうよ)上人/中興(ちゆうこう)は普光観智国師(ふくわうくわんちこくし)なり
《割書:十八/檀林(たんりん)は武総常野(ふさうしやうや)等(とう)に存在(そんさい)す/阿弥陀佛(あみたふつ)六八/本願(ほんくわん)の中(うち)第(たい)十八を|以て最勝(さいしやう)とするに因(ちな)み 御當家(こたうけ) 御称号(こしやうかう)松平氏(まつたひらうち)の松(まつ)や千歳(せんさい)を閲歴(えつれき)し|能(よく)雪霜(せつさう)におかされす又(また)君子(くんし)の操(みさを)ありてしかも太夫(たいふ)の封(ふう)を受(う)く其字(そのし)や|木公(もくこう)に従(したか)ふ細(こつか)にわかつときは十八公(しうはつこう)なり依(よつ)て是(これ)を弥陀(みた)の十八/願(くわん)にかたとり|給ひ精舎(しやうしや)十八/区(く)を建(たて)て永く栴檀林(せんたんりん)とし多(おほ)く英才(えいさい)を育(いく)して法運(ほふうん)無窮(むきう)の謀(はかりこと)を|設(まう)けたまひ御子孫(こしそん)永(なか)く安(やす)からん事は霜雪(さうせつ)の後(のち)松樹(しやうしゆ)独(ひとり)栄茂(えいも)する如(ごと)くとの|盛慮(せいりよ)に従(したか)ひ源家(けんけ)の御代(みよ)を浄家(しやうけ)の白旗流義(しらはたりうき)により千代万代(ちよよろつよ)まても守護(しゆこ)し|奉るへき旨(むね)を表(ひやう)し給ふなりとそ以上/浄宗護国篇(しやうしうここくへん)新著文集(しんちよもんしふ)等(とう)の意(い)を採摘(さいてき)す》
本堂(ほんたう)本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)《割書:恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)にして座像(ささう)御長(おんたけ)四尺|はかりあり或云/佛工(ふつこう)運慶(うんけい)か作(さく)なりと》
額(かく)《割書:三縁山》廓山(くわくさん)上人/真蹟(しんせき)《割書:上人は當寺(たうし)第(たい)十三世なり甲州(かふしう)の産(さん)にして|高坂弾正(かうさかたんしやう)の子(こ)なりといへり》
御経蔵(おんきやうさう)《割書:本堂(ほんたう)の前(まへ)左の方/塀(へい)の中(うち)にあり或人云こゝに納(をさむ)る所(ところ)の一代(いちだい)蔵経(さうきやう)は|宋板(さうはん)にして其先(そのせん)豆州(つしう)修善寺(しゆせんし)にありて平政子(たひらのまさこ)の寄附(きふ)なりとそ》
《割書:後(のち)彦坂九兵衛尉(ひこさかくひやうゑのしやう) 台命(たいめい)を奉(ほう)し當山(たうさん)にうつすとなり菊岡沾涼(きくをかせんりやう)云/昔(むかし)は方丈に|ありしを寛永(くわんえい)九年/照誉(せうよ)上人/了学(りやうかく)大和尚(おしやう)経蔵(きやうさう)を創立(さうりふ)したるとなり今は|官造(くわんさう)に列(れつ)す》
開山堂(かいさんたう)《割書:同所左にならふ當寺(たうし)開山(かいさん)以下/累世(るゐせ)大僧正(たいそうしやう)の|肖像(しやうさう)およひ霊牌(れいはい)等(とう)を置(おか)れたり》
【右丁】
開山(かいさん)酉誉(いうよ)上人/諱(いみな)は聖聰大蓮社(せいさうたいれんしや)と号(かう)す《割書:鎮西正統(ちんせいしやうとう)弟|八世の祖(そ)とす》貞治(ていち)五年
七月十日《割書:千葉系図(ちはけいつ)貞治(ていち)二年|六月三日とあり》北総(ほくさう)の千葉(ちは)に生(うま)る父(ちゝ)は千葉陸奥守(ちはむつのかみ)
氏胤(うちたね)母(はゝ)は新田氏(につたうち)なり童名(とうみやう)を徳壽丸(とくしゆまる)と云(いふ)《割書:一書(いつしよ)に徳(とく)|千代(ちよ)とあり》加冠(かくわん)して
胤明(たねあきら)と称(しよう)す出離(しゆつり)の志(こゝろさし)深(ふか)く釋典(しやくてん)を慕(した)ふ九歳にして遂(つひ)に同國(とうこく)
千葉寺に入(いつ)て落飾(らくしよく)し初(はしめ)て密教(みつきやう)を学(まな)ひ後(のち)冏公(けいこう)に投帰(たうき)して浄(しやう)
宗(しゆう)に入/智道(ちたう)倍(ます〳〵)熾(さかん)なり其後(そののち)武州(ふしう)豊島郡(としまこほり)江戸(えと)貝塚(かひつか)の光明寺(くわうみやうし)に
住(ちゆう)せらる《割書:今(いま)の増上寺(そうしやうし)是(これ)なり江戸名勝志(えとめいしようし)に云/増上寺(そうしやうし)の|旧地(きうち)は糀(かふし)町一丁目/越後(ゑちこ)やしきと云(いふ)辺(へん)なりとあり》此寺(このてら)始(はしめ)は真言(しんこん)瑜伽(ゆか)の
道場(たうしやう)なりしか竟(つひ)に光明寺(くわうみやうし)を改(あらため)て三縁山(さんえむさん)増上寺(そうしやうし)と号(かう)し宗(しゆう)
風(ふう)をも轉(てん)して浄業(しやうこう)の精舎(しやうしや)とす永享(えいきやう)十二年庚申七月十八日
寂(しやく)す歳(とし)七十五/臘(らう)六十七《割書:東國高僧傳(とうこくかうそうてん)に應永(おうえい)二十四年|に寂(しやく)す壽(しゆ)詳(つまひらか)ならすとあり》中興開山(ちゆうこうかいさん)
勅賜(ちよくし)普光観智國師(ふくわうくわんちこくし)諱(いみな)は存應(そんおう)字(あさな)は慈昌貞蓮社源誉(ししやうていれんしやけんよ)上人
と号(かう)す《割書:平山左衛門尉季重(ひらやまさゑもんのしやうすゑしけ)の後裔(こうえい)なり傳燈(てんとう)|系図(けいつ)に云/姓(せい)は由木(ゆき)又は金吾校尉(きんこかうゐ)源利重(みなもとのとししけ)云々》天文(てんふん)十三年《割書:護國篇(ここくへん)|十年に作(つく)る》
武州(ふしう)由木(ゆき)に生(うま)る始(はしめ)衣(ころも)を片山(かたやま)の宝臺寺(ほうたいし)に摳(かいつくろ)ひ十八歳/感誉(かんよ)
【左丁】
三(さん)
縁(えん)
山(さん)
増(そう)
上(しやう)
寺(し)
【図】
【枠内】馬場
【枠内】神明宮
【右丁】
其二
【図】
【枠内】切通し
【枠内】方丈
【枠内】観智
【枠内】阿加牟堂
【枠内】大門
【枠内】下馬
【左丁】
【図】
【枠内】涅槃門
【枠内】九重桜
【枠内】白全いなり
【枠内】熊野
【枠内】鐘楼
【枠内】山門
【枠内】番所
【枠内】産千代いなり
【右丁】
【図】
【枠内】切通し
【枠内】本殿
【枠内】輪蔵
【枠内】開山堂
【枠内】稲荷
【枠内】極楽橋
【左丁】
其三
【図】
【枠内】黒本尊
【枠内】御鷹門
【枠内】飯倉天神
【枠内】白太夫
【右丁】
其四
【図】
【枠内】円山
【枠内】丸山いなり
【枠内】安国殿
【枠内】拝殿
【枠内】茅野天神
【左丁】
上人に帰(き)して登壇(とうたん)受戒(しゆかい)す天資(てんし)聰悟(さうこ)にして顕密(けんみつ)の教(をしへ)を
究(きは)む上人/没後(もつこ)上蓑に到(いたり)て長傳寺(ちやうてんし)を創(さう)し大(おほい)に法席(ほふせき)を
開(ひら)く人/呼(よん)て教海(けうかい)の義龍(きりやう)蓮苑(れんゑん)の祥鳳(しやうほう)といふ天正(てんしやう)十三年
雲誉(うんよ)上人の會下(ゑか)にあり同十七年八月/璽書(ししょ)を傳承(てんしやう)して
増上寺(そうしやうし)第(たい)十二世となる《割書:當寺(たうし)第(たい)|十二世たり》同十八年天下/安靖(あんせい)なるに逮(およ)
んて大に
大神君(たいしんくん)の眷顧(けんこ)を給ひ屡(しは〳〵)営中(えいちゆう)に請(しやう)せられて法要(ほふえう)を聴(ちやう)
受(しゆ)し給ひ崇信(そうしん)他(た)に異(こと)なり竟(つひ)に増上寺(そうしやうし)を修営(しゆえい)せられ
植福(しよくふく)の地(ち)となし給へり又
後陽成帝(こやうしやうてい)師(し)を宮内(きうない)に徴(め)して道(みち)を問(とひ)給ふ盛(さかん)に浄教(しやうけう)の深(しん)
旨(し)を陳(ちん)す 叡感(えいかん)ありて褒章(ほうしやう)を加(くは)へ新(あらた)に宸翰(しんかん)を染(そめ)給ひ
特(こと)に普光観智國師(ふくわうくわんちこくし)の号(かう)を賜(たま)ふ時(とき)に慶長(けいちやう)十五年七月十
九日なり元和(けんわ)六年/師(し)微恙(ひしつ)を示(しめ)【尓は誤】す嗣君(しくん)
【右丁】
増上寺山内
芙(ふ)
蓉(よう)
洲(しう)
弁(へん)
天(てんの)
社(やしろ)
池中に
蓮多し
【図】
【枠内】こんひら
【枠内】本社
【枠内】妙見
【枠内】いなり
【枠内】柵門
【左丁】
【図】
【枠内】いなり
【枠内】切通
【枠内】瘡守いなり
【枠内】ゑんま
薬師
子聖
【枠内】赤羽
【右丁】
大将軍(たいしやうくん)親(みつか)ら臨(のそ)むて忝(かたしけな)くも疾(やまひ)を問(とは)せ給ふ十一月二日/諸徒(しよと)に遺誡(ゆゐかい)
し辞世(しせい)の偈(け)を書(しよ)して曰く佛話(ふつわ)提撕(ていせい)心頭塵(しんとうのちん)末後(まつこの)一句(いつく)但(たゝ)【注】
称佛(ふつとしやうす)と筆(ふて)を抛(なけうち)て端座合掌(たんさかつしやう)し佛号(ふつかう)を唱(とな)へて化(くわ)す世壽(せいしゆ)七十
有七(いうしち)僧臘(そうらう)六十《割書:護国篇(ここくへん)世壽(せいしゅ)八十とあり|いつれか是(せ)なる事をしらす》門葉(もんえふ)甡々(しん〳〵)として学(かく)
徒(と)流(なかれ)に浴(よく)す撰述(せんしゆつ)する所(ところ)論義決擇集(ろんきけつちやくしふ)阿弥陀経直譚(あみたきやうちきたん)
等(とう)大(おほい)に世(よ)に行(おこな)はる《割書:以上/浄土高僧傳(しやうとかうそうてん)浄宗護国篇(しやうしゆうここくへん)|傳燈系図(てんとうけいつ)等(とう)に出(いて)つ》
大銅鐘(たいとうしやう)《割書:本堂(ほんたう)の右の方にあり鐘(かね)の厚(あつ)さ尺余(しやくよ)口(くち)の渡(わた)り五尺八寸はかり|高(たか)さ一丈/程(ほと)あり銘曰(めいにいはく)新(あらたに)鋳供鐘(こうしやうをゐて)掛三縁山増上寺之楼(さんえむさんそうしやうしのろうにかゝく)二十六世》
《割書:森誉(しんよ)上人/歴天大和尚(れきてんたいおしよう)延宝(えむほう)元癸丑年十一月十四日/神谷長五郎(かみやちやうこらう)平直重(たひらのなほしけ)須田(すた)|次郎太郎(しらうたらう)源祇寛(みなもとのたゝひろ)鋳工(しよこう)椎名伊豫吉寛(しいないよよしひろ)云々/其聲(そのこゑ)洪大(こうたい)にして遠(とほ)く百里(ひやくり)に|聞(きこ)ゆ一撞(ひとつき)の間の響(ひゝき)尤(もつとも)長(なか)くして行人(かうしん)一里(いちり)を歴(ふ)るとて諺(ことはさ)に一里鐘(いちりかね)と称(しよう)す|風(かせ)に従(したか)ひて當國(たうこく)熊谷(くまかや)の辺(へん)に聞(きこ)ゆる事ありかしとは江戸(えと)より十六里を|隔(へた)つ又/安房(あは)上総(かつさ)へも聞(きこ)ゆるといへり》
熊野三所権現(くまのさんしよこんけん)祠《割書:同所(とうしよ)にあり則(すなはち)當寺(たうし)の鎮守(ちんしゆ)|にして護法(こほふ)の神(かみ)と称(しよう)す》
黒本尊堂(くろほそんのたう)《割書:本堂(ほんたう)の後(うしろ)蓮池(はすいけ)より奥(おく)の方(かた)にあり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)の像(さう)は恵心(ゑしん)|僧都(そうつ)の作(さく)なり御長(おんたけ)二尺六寸/相向(さうかう)圓備(ゑんひ)にして生身(しやうしん)の佛(ふつ)》
《割書:體(たい)に向(むか)ふか如(こと)し世人(せしん)呼(よ)んて黒本尊(くろほそん)と称(しよう)せり多(おほ)くの星霜(せいさう)を歴(へ)て金泥(きんてい)こと|ことく変(へん)して黒色(こくしよく)となる故(ゆゑ)に此(この)称(しよう)ありとも或(あるひ)は源九郎義経(けんくらうよしつね)奉持(ほうし)する所》
【左丁】
《割書:故(ゆゑ)に九郎本尊(くらうほんそん)といふの意(ゐ)なりとも始(はしめ)参州桑子(さんしうくはこ)の明眼寺(みやうけんし)にありしを某(それかし)の邑(むら)の|調(ちやう)を以て寺産(しさん)に充(あつ)此(この)霊像(れいさう)を得(え)給ひて常(つね)に御念持佛(こねんしふつ)となし給ひしか竟(つひ)に當(たう)》
《割書:寺(し)に遷(うつ)し給ふとなり元禄(けんろく)八年/増上寺(そうしやうし)御修営(こしゆえい)の時(とき)桂昌一位尼公(けいしやういちゐにこう)重(かさね)て佛龕(ふつかん)を|新たにし宝帳(ほうちやう)玉扉(きよくひ)構飾(こうしよく)精巧(せいこう)を極(きは)むと以上/浄宗護国篇(しやうしゆうここくへん)に載(のす)る所也/毎歳(まいとし)正月》
《割書:十六日四月八日同十七日/諸人(しよにん)こゝに|参詣(さんけい)する事をゆるさる》
三門(さんもん)《割書:元和(けんわ)九年癸亥/御建立(ここんりふ)或云八年なりと楼上(ろうしやう)に釈迦(しやか)文珠(もんしゆ)普賢(ふけん)|およひ十六/阿羅漢等(あらかんとう)の木像(もくさう)を置(おく)正月七月の十六日二月八月》
《割書:の彼岸(ひかん)の中日(ちゆうにち)又二月十五日四月|八日/等(とう)に登楼(とうろう)をゆるさる》
安国殿(あんこくてん)《割書:本堂構(ほんたうかまへ)の外(そと)南(みなみ)の方にあり四月十七日は御祭礼(こさいれい)にて参拝(さんはい)を許(ゆる)さるゝ故(ゆゑ)に詣(けい)する|人/多(おほ)し来由(らいゆ)は其(その)憚(はゝかり)あるを以て是(これ)を略(りやく)す御別當(おんへつたう)を安立院(あんりふゐん)と号(かう)す》
五層塔(こそうのたふ)《割書:同所(とうしよ)御佛殿(こふつてん)の地(ち)蒼林(さうりん)の中(うち)にあり|酒井雅楽侯(さかゐうたこう)の建立(こんりふ)なりといへり》涅槃石(ねはんせき)《割書:同所にあり御彫物師(おんほりものし)|吉岡豊前作(よしをかふせんさく)なりと》
《割書:いへり羅漢石(らかんせき)|とも号(なつ)く》曼荼羅石(まんだらいし)《割書:同所にあり後藤祐乗得乗(ことうゆうしやうとくしやう)の|作(さく)也とそ来迎石(らいかういし)とも名(な)つく》鷹門(たかもん)《割書:同所に|あり》
極楽橋(こくらくはし)《割書:同所/前(まへ)の溝(みそ)に架(か)する|所(ところ)の石橋(いしはし)をいふ》
宗廟(そうひやう)《割書:御當家(こたうけ) 御代々(こたい〳〵)の 御霊屋(これいや)なり|當寺院中(たうしゐんちゆう)より御別當(おんへつたう)を務(つと)む》
御常念佛堂(おんしやうねんふつたう)《割書:涅槃門(ねはんもん)の方(かた)にあり恵照律院(ゑしやうりつゐん)と号(かう)す浄土律(しやうとりつ)にして當山(たうさん)の|別院(へつゐん)たり横蓮社縦誉心岩(わうれんしやしゆうよしんかん)上人/開基(かいき)す同巻(とうくわん)赤羽心光院(あかはねしんくわうゐん)の》
《割書:条下(てうか)に詳(つまひらか)なり當院(たうゐん)に上人/真筆(しんひつ)の涅槃像(ねはんさう)の印板(ゐんはん)あり有信(うしん)の輩(ともから)に授与(しゆよ)す|他(た)の図(つ)に異(こと)なり》
性壽庵(しやうしゆあん)《割書:方丈(はうしやう)の後(うしろ)の方(かた)にあり尾州清須城主(ひしうきよすのしやうしゆ)松平薩摩守忠吉(まつたひらさつまのかみたゝよし)の霊牌(れいはい)を|置故(おくゆゑ)に俗(そく)に薩摩堂(さつまたう)とよべり側(かたはら)に小笠原監物(をかさはらけんもつ)を始(はしめ)として殉死(しゆんし)》
【注 大谷愍成編著「普光観智国師」によれば、「佛話」は「佛陀」とあり】
【右丁】
《割書:五人の石塔(せきたふ)あり柳(やなき)の井(ゐ)といふは同所(とうしよ)|南(みなみ)の坂通(さかとほ)りにある名泉(めいせん)なり》
飯倉天満宮(いひくらてんまんくう)《割書:天神谷(てんしんたに)にあり當山(たうさん)の地主神(ちしゆしん)なり昔(むかし)飯倉(いひくら)の神明(しんめい)も此地(このち)にあり|しとなり社地(しやち)に梅樹(はいしゆ)を多(おほ)く栽(うゑ)て二月の頃(ころ)一時(いちし)の荘観(さうくわん)【壮】たり》
《割書:宝松院(ほうしやうゐん)|別當(へつたう)す》茅野天満宮(かやのてんまんくう)《割書:同所(とうしよ)南(みなみ)の方(かた)松林院(しやうりんゐん)にあり|神像(しんさう)は菅神(くわんしん)の直作(ちきさく)とそ》圓光東漸大師(ゑんくわうとうせんたいし)
舊跡(きうせき)《割書:山下谷(やましたたに)明定院(みやうちやうゐん)にあり是(これ)も當山(たうさん)の別院(へつゐん)なり明定院(みやうちやうゐん)前大僧正(さきのたいそうしやう)定月(ちやうげつ)|大和尚(たいおしやう)明和(めいわ)七年に建立(こんりふ)せらる六間四面の堂(たう)にして戒壇造(かいたんつく)りなり》
圓座松(ゑんさのまつ)《割書:同所(とうしよ)に|あり》圓山(まるやま)《割書:同所(とうしよ)に|あり》辨財天祠(へんさいてんのやしろ)《割書:赤羽門(あかはねもん)の内/蓮池(はすいけ)の中島(なかしま)にあり|本尊(ほんそん)は智證大師(ちしやうたいし)の作(さく)なり》
《割書:右大将(うたいしやう)頼朝卿(よりともきやう)鎌倉(かまくら)の法花堂(ほつけたう)に安置(あんち)ありしか星霜(せいさう)を経(へ)て後(のち)観智国師(くわんちこくし)感(かん)|得(とく)ありて當寺(たうし)宝庫(ほうこ)に納(をさ)めありしを貞享(ていきやう)二年/生誉霊玄(しやうよれいけん)上人此所に一宇(いちう)を》
《割書:建(たて)て一山の鎮守(ちんしゆ)とあかめられ宝珠院(ほうしゆゐん)別當(へつたう)たり中島(なかしま)を芙蓉洲(ふようしう)と号(なつ)く|此所(このところ)門(もん)より外(そと)は赤羽(あかはね)にして品川(しなかは)への街道(かいたう)なり》
子聖権現社(ねのひしりこんけんのやしろ)《割書:山下谷(やましたたに)にあり|清林院(せいりんゐん)別當(へつたう)す》産千代稲荷(うふちよいなり)《割書:観智院(くわんちゐん)にあり昔(むかし)は普光院(ふくわうゐん)|と号(かう)すとなり當寺(たうし)は合蓮社(かふれんしや)》
《割書:明誉檀通(みやうよたんつう)上人の|旧跡(きうせき)なりといへり》阿加牟堂(あかむたう)《割書:東(ひかし)の大門の通り常照院(しやうしやうゐん)にあり|常念佛(しやうねんふつ)の道場(たうしやう)なり》
大門(たいもん)《割書:東に向(むか)ふ當山(たうさん)の総門(さうもん)なり|外(そと)に下馬札(けはふた)を建(たて)らる》御成門(おなりもん)《割書:北(きた)の方/馬場(はゝ)に相對(あいたい)す此所(このところ)|にも下馬札(けはふた)あり》
涅槃門(ねはんもん)《割書:切通(きりとほし)の上にあり恵照院(ゑしやうゐん)に|涅槃像(ねはんさう)ある故(ゆゑ)なるへし》柵門(やらひもん)《割書:山下谷(やましたたに)より赤羽(あかはね)へ出(いつ)る故(ゆゑ)に|また赤羽(あかはね)門ともよへり》
當寺(たうし)旧古(きうこ)は貝塚(かひつか)の地(ち)にありて光明寺(くわうみやうし)と号(かう)せし真言(しんこん)
瑜伽(ゆか)の密場(みつしやう)にして 後小松院(ここまつのゐん)の御願(こくわん)に依(よつ)て草創(さう〳〵)ありし
【左丁】
古刹(こせつ)なりしに至徳(しとく)二年/酉誉(いうよ)上人/移(うつ)り住(ちゆう)するの後(のち)竟(つひ)に了誉(りやうよ)
上人《割書:傳通院(てんつうゐん)《振り仮名:三ヶ月|みかつき》|上人の事なり》の徳化(とくくわ)に帰(き)し寺(てら)を改(あらた)めて三縁山(さんえむさん)増上寺(そうしやうし)と
号(かう)し宗風(しゆうふう)を轉(てん)して浄刹(しやうせつ)とす《割書:事跡合考(しせきかふかう)に出(いた)せる三縁山(さんえむさん)歴代系(れきたいけい)|譜(ふ)に云く當寺(たうし)草創(さう〳〵)之地者(のちは)貝塚(かひつか)》
《割書:今(いま)糀町邊(かうしまちへん)中頃(なかころ)《振り仮名:移_二于日比谷邊_一|ひゝやへんにうつる》後(のち)慶長初(けいちやうのはしめ)《振り仮名:移_二于芝_一|しはにうつる》云々/日比谷(ひゝや)より芝(しは)へ|移(うつ)りしは慶長(けいちやう)三年戊戌八月なり武徳編年集成(ふとくへんねんしふせい)に慶長(けいちやう)三年戊戌/去(いぬ)る》
《割書:天正(てんしやう)十八年辛卯/平川口(ひらかはくち)へ移(うつ)されし増上寺(そうしやうし)を芝(しは)の地(ち)にうつすとあり平川(ひらかは)日(ひ)|比谷(ひや)古(いにし)へ地(ち)を接(せつ)す故(ゆゑ)に混(こん)していふ歟》
東照大神君(とうせうたいしんくん)天正(てんしやう)十八年/始(はしめ)て江戸(えと)の大城(おほしろ)に入らせ給ふとき州民(しうみん)
鼓腹(こふく)し老幼相携(らうえうあいたつさへ)て道路(たうろ)に拝迎(はいけい)し奉(たてまつ)る幸(さいはひ)に寺門(しもん)の前路(せんろ)を
通御(つうきよ)あるにより観智国師(くわんちこくし)も是(これ)を拝(はい)せんとし出(いて)て寺前(しせん)に
あり《割書:是(これ)則(すなはち)比々谷(ひゝや)の|地(ち)にありての事也》時(とき)に師(し)の道貌雄毅(たうほうゆうき)尋常(よのつね)ならさるを見(み)
そなはし給ひ其名(そのな)を問(とは)せられ乃(すなはち)寺(てら)に入て憩(いこひ)給ひ其後(そのゝち)當(たう)
寺(し)を以(もつ)て植福(しよくふく)の地(ち)となし給ひ永(なか)く師檀(したん)の御契約(こけいやく)あり
《割書:御崇敬(こそうけい)あつく屡(しは〳〵)師(し)を営中(えいちゆう)に請(しやう)せられ法要(ほふえう)を聴受(ちやうしゆ)なし給ひ待(たい)するに|礼(れい)を殊(こと)にし是(これ)を親王(しんわう)に比(ひ)せられ師(し)をして乗輿(しやうよ)して殿階(てんかい)に昇(のほ)る事(こと)を》
《割書:得(え)せしむ以(もつ)て永式(えいしき)とす今(いま)に至(いた)り|歴代(れきたい)の住持(ちゆうし)咸(みな)この栄(ゑい)をうく》時(とき)に寺境(しきやう)隘狭(あいけふ)にしてしかも
【右丁】
大城(たいしやう)に接近(せつきん)す《割書:是(これ)乃(すなはち)比々谷(ひゝや)に|ありし時(とき)の事也》依(よつ)て今(いま)の地(ち)に移(うつ)され大(おほい)に資材(しさい)を
喜捨(きしや)し殿堂(てんたう)房室(ほうしつ)に至(いた)るまて悉(こと〳〵)く営建(えいこん)し給ひ最(もつとも)宏壮(こうさう)の大梵(たいほん)
刹(せつ)となる《割書:事跡合考(しせきかふかう)に慶長(けいちやう)十年乙巳/本堂(ほんたう)|回廊等(くわいらうとう)御造営(こさうえい)ありて大伽藍(たいからん)となる云々》於是(これにおいて)浄家(しやうけ)の宗教(しゆうきやう)一時(いちし)に
勃興(ほつこう)し念佛(ねんふつ)の聲(こゑ)天下に洋々(やう〳〵)たり《割書:以上/浄宗護国篇(しやうしうここくへん) ̄ニ出たり慶長(けいちやう)十年|一朝(いつてう)門前(もんせん)の老翁(らうおう)師(し)に謂(いつ)て云く》
《割書:今夜(こんや)祥夢(しやうむ)を感(かん)す師(し)微笑(ひしやう)して云く你(なんち)其(その)夢(ゆめ)を鬻(ひさ)け吾(われ)買(かは)んとて青銅(せいとう)二十|疋(ひき)を畀(あた)ふ既(すて)にして翁(おきな)云く増上寺(そうしやうし)軒端(のきは)の垂木(たるき)繁(しけ)るらん師曰(しいは)く吉徴(きつちやう)なり慎(つゝしみ)て》
《割書:人に語(かた)ることなかれと果(はた)して翌日(よくしつ)伽藍(からん)営復(えいふく)の命(めい)ありて竟(つひ)に宏構(こうこう)鉅材(きよさい)天下の|壮観(さうくわん)となれる由(よし)浄土高僧傳(しやうとかうそうてん)に出(いて)たり》
抑(そも〳〵)當山(たうさん)は関東(くわんとう)浄刹(しやうせつ)の冠首(くわんしゆ)にして龍象(りうさう)の聚(あつま)る所(ところ)實(しつ)に霊山(りやうせん)
會上布金紺園(ゑしやうふきんこんえん)にも比(ひ)すへけん数百戸(すひやくこ)の学寮(かくりやう)は畳々(ちやう〳〵)として
軒端(のきは)を輾(きし)り支院(しゐん)は三十/餘宇(よう)靡々(ひゝ)として甍(いらか)を連(つらね)たり三千
餘(よ)の大衆(たいしゆ)は常(つね)にこゝに集(あつま)る中(なか)にも能化(のうけ)は一代(いちたい)の法蔵(ほふさう)を胸間(きやうかん)に
貯(たくは)へ所化(しよけ)は十二の教文(きやうもん)を眼裡(かんり)に晒(さら)せり三心即一(さんしんそくいつ)の窓(まと)の前(まへ)
には五念四修(こねんししゆ)の月(つき)を弄(もてあそ)ひ事理俱頓(しりくとん)の林(はやし)の中には実報受(しつほうしゆ)
用(よう)の花(はな)を詠(えい)す佛閣(ふつかく)の荘麗(さうれい)【壮】たる七宝荘厳(しつほうしゃうこん)の浄土(しやうと)も又/此(こゝ)を
【左丁】
去(さ)る事(こと)遠(とほ)からすとそ思(おも)はれける
御忌参(きよきまゐり)《割書:正月|廿五日》涅槃會(ねはんゑ)《割書:二月|十五日》誕生會(たんしやうゑ)《割書:四月|八日》開山忌(かいさんき)《割書:七月十八日に修行(しゆきやう)す一山/惣出仕(さうしゅつし)並に|近在(きんさい)の末寺(まつし)より出て大法會(たいはうゑ)を修(しゆ)す》
十夜法會(しふやほふゑ)《割書:十月六日より同十|五日迄/修行(しゆきやう)す》
飯倉神明宮(いひくらしんめいくう)同/東(ひかし)の方/神明(しんめい)町にあり《割書:江戸名所記(えとめいしよき)等(とう)に日比谷神明(ひゝやしんめい)と|あり今(いま)俗間(そくかん)芝神明(しはしんめい)と称(しよう)す》
其(その)舊地(きうち)は増上寺(そうしやうし)境内(けいたい)飯倉天神(いひくらてんしん)の社地(しやち)なりと或(あるひは)云(いふ)赤羽(あかはね)の南(みなみ)小(こ)
山神明宮(やましんめいくう)の地(ち)なりとも社司(しやし)は西東氏(さいとううち)《割書:名所記(めいしよき)に往古(わうこ)當社(たうしや)の神(かみ)|託宣(たくせん)ありしにより相州(さうしう)》
《割書:足柄郡(あしからこほり)より斎藤氏(さいとううち)なる|人を招(まねき)て神主(かんぬし)とすと云々》別當(へつたう)は金剛院(こんかうゐん)と号(かう)す其(その)餘(よ)社家(しやけ)巫女(ふちよ)等あり
神鳳抄云 武蔵國飯倉御厨 當時四貫文
同書又曰 飯倉御厨 長日 御幣五十丁
東鑑曰 寿永三年甲辰五月三日庚寅武衛被奉
寄附両村於二所大神宮去永暦元年二月御出
京之刻感霊夢之後當宮事御信仰異他社然者
平家党類等在伊勢國之由依令風聞遣軍士之
時者縦雖為凶賊之在所不相触事之由於祠宮
無左右不可乱入神明御鎮座砌之旨度々所被
仰含也謂件両所者内宮御分武蔵國飯倉御厨
被仰付當宮一祢宜荒木田成長神主外宮御分
【右丁】
飯倉神明宮(いゐくらしんめいくう)
世(よ)に芝(しは)の神明宮
といふ
【図】
【枠内】弁天浮嶋
【枠内】いなり
【枠内】不動
【枠内】いなり
【枠内】しばゐ
【枠内】茶や
【枠内】吹矢
【枠内】茶や
【左丁】
【図】
【枠内】本社
【枠内】拝殿
【枠内】土弓
【枠内】春日
【枠内】天王
【枠内】大こく
【枠内】茶や
【枠内】手水や
【枠内】八まん
【枠内】いなり
【枠内】すは
【枠内】天神
【枠内】別当
【枠内】神主
【右丁】
【図】
【枠内】神主
【枠内】楼門
【枠内】住吉
【枠内】惣門
【左丁】
安房国東條御厨被付會賀次郎大夫生倫訖為
一品房奉行遣両通御寄進状《割書:下略》
寄進 伊勢皇太神宮御厨壹処
在武蔵國飯倉
右志者奉為 朝家安 為成就私願殊抽忠丹
寄進状如件
寿永三年五月三日
正四位下前右兵衛佐源朝臣
《割書:按(あんする)に當社(たうしや)を飯倉神明宮(いひくらしんめいくう)と称(しよう)し奉(たてまつ)るは旧(もと)飯倉(いひくら)の地(ち)にありし故(ゆゑ)にしか称(しよう)|するなり其(その)地(ち)は正(まさ)に三縁山(さんえむさん)今(いま)の飯倉天満宮(いひくらてんまんくう)の社辺(しやへん)なり飯倉(いひくら)と云(いふ)は往古(わうこ)|此地(このち)に伊勢太神宮(いせたいしんくう)の御厨(みくりや)ありし故(ゆゑ)に地名(ちめい)を飯倉(いひくら)と唱(とな)へ又/伊勢(いせ)の|御神(おほんかみ)を齊(まつ)りしなるへし猶(なほ)飯倉(いひくら)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり又/東鑑(あつまかゝみ)に同年正月|武蔵國(むさしのくに)大河土の御厨(みくりや)を豊受太神宮(とよけたいしんくう)の御領(こりやう)に寄附(きふ)の事/抔(なと)あれは一國(いつこく)の|内(うち)にもこゝかしこにありしなるべし》
社記云(しやきにいはく)人皇(にんわう)六十六代 一條帝(いちてうてい)の寛弘(くわんこう)二年乙巳九月十六日
伊勢皇太神宮(いせくわうたいしんくう)を鎮座(ちんさ)なし奉(たてまつ)る《割書:其時(そのとき)神幣(みてくら)と大牙(おほきは)一枚(いちまい)此地(このち)に|天降(あまくた)る又/此地(このち)の童女(とうによ)に神託(しんたく)》
《割書:ありて彼(かの)二種(ふたくさ)のしるしをあらはして此地(このち)に跡(あと)を|とゝめ給はんとなり依(よつ)て當社(たうしや)を営(いとな)み奉るとそ》其後(そののち)建久(けんきう)四年癸丑/右大将(うたいしやう)
頼朝卿(よりともきやう)下野國(しもつけのくに)奈須野(なすの)の原(はら)狩猟(しゆりやう)の時(とき)當社(たうしや)の神殿(しんてん)に宝剣(ほうけん)
【右丁】
九月十六日
飯倉神明宮祭礼(いゐくらしんめいくうさいれい)
世にしやうか
まつりといふ
十一日ゟ廿一日迄
参詣群集す
【図】
【幟】御門前氏子中
【看板】千客萬来
【左丁】
【図】
【看板】太好庵
【暖簾】太好庵
【暖簾】たいこう坊
【幟旗】《割書:永八歳巳亥次九月吉辰|《題:神宮御祭禮》| 深川三井親和■》《割書:御門前|氏子中》
【右丁】
一振(ひとふり)を納(をさ)め一千三百/餘貫(よくわん)の美田(ひてん)を寄附(きふ)ありて其頃(そのころ)繁昌(はんしやう)の
宮居(みやゐ)たりしに遥(はるか)に後(のち)明應(めいおう)三年/伊勢新九郎氏茂(いせしんくらううちしけ)小田原(おたはら)の
城主(しやうしゆ)大森實頼(おほもりさねより)を亡(ほろほ)して後(のち)威(ゐ)を逞(たくまし)うせし頃(ころ)是(これ)か為(ため)に神(しん)
領(りやう)を掠(かすめ)とらる依(よつ)て宮社(きうしや)は霧(きり)に朽(くち)風(かせ)に破(やふ)れ奉祀(ほうし)の人も
なく大(おほひ)に荒廃(くわうはい)したりしを天正(てんしやう)に至(いた)り四海昌平(しかいしやうへい)の御時(おんとき)
忝(かたちけな)くも台命(たいめい)によつて當社(たうしや)の廃(すた)れたるを興(おこ)し給ひ神領(しんりやう)若(そこ)
干(はく)を附(ふ)せられ又/寛永(くわんえい)十一年甲戌にいたり神殿(しんてん)を修造(しゆさう)
なし給ひしより社頭(しやとう)舊観(きうくわん)に復(ふく)す依(よつて)神燈(しんとう)の光(ひか)りは赫々(かく〳〵)
として和光(わくわう)の月(つき)になそらへ利物(りもつ)の花(はな)ふさは匂(にほ)ひ深(ふか)くして
神威(しんゐ)昔(むかし)に倍(はい)せり《割書:當社(たうしや)の祭礼(さいれい)は九月十六日なり同し十一日より廿一日に|至(いた)るの間/参詣(さんけい)群集(くんしゆ)す商(あきな)ひ物(もの)多(おほ)きか中にも》
《割書:藤(ふち)の花(はな)を画(ゑか)きたる檜割篭(ひのきのわりこ)およひ土生姜(つちしやうか)殊(こと)に夥(おひたゝ)し故(ゆゑ)に世俗(せそく)生姜市(しやうかいち)又|生姜祭(しやうかまつり)とも唱(とな)へたり江戸名所(えとめいしよ)はなしに臼(うす)杵(きね)木鉢(きはち)鮓(すし)菓物(くたもの)多(おほ)しとあれと》
《割書:今(いま)は是(これ)を鬻(ひさ)かす檜割篭(ひのきわりこ)を俗(そく)にちきと名(な)つく又/生姜(しやうか)を賣(うる)事(こと)は尤(もつとも)久(ひさ)し|きよりの事にて其(その)拠(よりところ)をしらす》
宇田川橋(うたかははし) 宇田川町(うたかはちやう)の大通(おほとほ)りを横切(よこきつ)て流(なか)るゝ小溝(こみそ)に架(か)せり
【左丁】
日比谷(ひゝや)
稲荷(いなり)社
毎年(まいとし)初午祭(はつうままつり)には二日
以前より源助町と芝口
三丁目の間の横小路へ
仮(かり)屋を補理ひ神輿(しんよ)
御/旅出(たひで)ありて
此辺の蕃昌(はんしやう)
いふはかり
なし
【図】
【右丁】
烏森(からすもり)
稲荷(いなり)社
【図】
【左丁】
今(いま)は上(うへ)に土(つち)を覆(おほ)ふ故(ゆゑ)に橋(はし)の形(かたち)を失(しつ)す《割書:宇田(うた)或(あるひ)は|宇多(うた)を作(つく)る》小田原(をたはら)北條(ほうてう)
家(け)の臣(しん)宇多川和泉守(うたかはいつみのかみ)といへる人/架(わた)せしと云(いひ)傳(つた)ふ《割書:小田原記(おたはらき)に大永(たいえい)|四年/上杉修理太夫(うへすぎしゆりのたいふ)》
《割書:朝興(ともおき)北条氏総(ほうてううちつな)【注】に責(せめ)られ品川表(しなかはおもて)にて戦(たゝか)ふと云(いふ)条下(てうか)に氏総(うちつな)【注】朝興(ともおき)を亡(ほろほ)し首(くひ)とも
|実験(しつけん)ありて後(のち)品川(しなかは)の住人(ちゆうにん)宇田川和泉守(うたかはいつみのかみ)以下/降参(かうさん)の者(もの)ともに申つけ普請(ふしん)ねん》
《割書:ころに沙汰(さた)すとあり東海道驛路鈴(とうかいたうえきろのすゝ)に長禄(ちやうろく)元年丁丑四月八日/大田道灌(おほたたうくわん)江戸に|うつる其後(そのゝち)宇田川和泉守長清(うたかはいつみのかみなかきよ)は品川(しなかは)の舘(たち)に住(すむ)とあり又/元禄(けんろく)開板(かいはん)の江戸鹿子(えとかのこ)と|》
《割書:いへる草紙(さうし)に昔(むかし)此所(このところ)へ宇田(うた)といふ刀(かたな)を堕(おと)しける故(ゆゑ)に此名(このな)ありといへ共/證(しやう)とするに|たらす》
日比谷稲荷(ひゝやいなり)祠/芝口(しはくち)三丁目/西(にし)の裏通(うらとほ)りにあり《割書:此所(このところ)町巾(まちはゝ)至(いたつ)て狭(せは)し故(ゆゑ)に|土人(としん)日蔭町(ひかけちやう)と字(あさな)す》
本山方(ほんさんかた)の修験(しゆけん)寂静院(しやくしやうゐん)別當(へつたう)たり萬治(まんち)の頃(ころ)藍屋五兵衛(あいやこひやうゑ)と
いへる者(もの)託宣(たくせん)に依(よつ)て花洛(くわらく)藤森(ふちのもり)の稲荷(いなり)を勧請(くわんしやう)なせしと
いへり《割書:日比谷(ひゝや)昔(むかし)は比々谷(ひゝや)に作る小田原(おたはら)北条家(ほうていけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)にも|比々谷(ひゝや)に作(つく)り此地(このち)を大胡宮内少輔(おほこくないのしやういう)所領(しよりやう)の中(うち)に加(くわ)ふ》
烏森稲荷(からすもりいなり)社 幸橋(さいはひはし)より二丁/斗(はかり)南(みなみ)の方/酒井下野侯邸(さかゐしもつけこうやしき)の北(きた)の
横通(よことほ)りにあり往古(わうこ)よりの鎮座(ちんさ)といへとも年暦(ねんれき)来由(らいゆ)共(とも)に詳(つまひらか)
ならす《割書:元禄(けんろく)開板(かいはん)の江戸/鹿子(かのこ)といへる草紙(さうし)に天慶(てんけう)年間(ねんかん)藤原(ふちはらの)|秀郷(ひてさと)将門(まさかと)退治(たいち)の時(とき)の勧請(くわんしやう)なりといへとも信(しん)としかたし》又/如何(いか)
なる故(ゆゑ)ありてや當社(たうしや)の神宝(しんほう)に古(ふる)き鰐口(わにくち)一口(いつこう)を納(をさ)む《割書:表(おもて)に元暦(けんりやく)|元甲辰年》
【注 「北条氏総」は「北条氏綱」の誤ヵ】
【右丁】
《割書:正月/下河辺(しもかうへ)庄司行平(しやうしゆきひら)建立(こんりふ)と彫付(ほりつけ)てあり江戸/名所(めいしよ)はなしに日比谷稲荷(ひゝやいなり)の条下(てうか)に云く|此(この)宮地(みやち)は借地(しやくち)にてありしに既(すて)に断絶(たんせつ)におよふへき頃(ころ)稲荷(いなり)の神(かみ)宮守(みやもり)に告(つけ)て古来(こらい)よりの》
《割書:證拠(しようこ)なりとて鰐口(わにくち)ひとつを与(あた)へ給ふ宮守(みやもり)公(おほやけ)へ訴(うつた)へ此(この)證(しやう)によつて宮居(みやゐ)つゝかなしとあるは|當社(たうしや)の事を誤(あやま)りていふならん歟(か)或(ある)人云く明暦(めいれき)の回禄(くわいろく)に奇瑞(きすゐ)ありしかは其後(そのゝち)社(やしろ)の辺(へん)》
《割書:除地(ちよち)と|なるとそ》社司(しやし)山田氏(やまたうち)は柳営御連歌(りうえいおんれんか)の御連衆(おんれんしゆ)たり別當(へつたう)は快長院(くわいちやうゐん)と
号(かう)して本山方(ほんさんかた)の修験(しゆけん)なり祭禮(さいれい)毎年二月初午に執行(しつきやう)す《割書:幸橋(さいわいはし)御門に假屋(かりや)|を補理(しつらい)て神輿(しんよ)を》
《割書:移(うつ)す参詣(さんけい)群集(くんしゆ)して賑(にき)はへり|》
古河御所(こかこしよ)
足利成氏(あしかゝなりうち)願書(くわんしよ)一通(いつつう)《割書:當社(たうしや)に|蔵(さう)す》
稲荷大明神願書事
今度發向所願悉於成就者當社可遂修造願書
之状如件 佐兵衛督源朝臣
享徳四年正月五日 成氏判
藪小路(やふこうち) 愛宕(あたこ)の下通(したとほ)り加藤侯(かとうこう)の邸(やしき)の北(きた)の通(とほ)りを云(いふ)同所/艮(うしとら)
の隅(すみ)裏門(うらもん)の傍(かたはら)に少(すこ)しはかりの竹叢(ちくさう)あり故(ゆゑ)にしかいへりされと
其(その)来由(らいゆ)詳(つまひらか)ならす傳説(てんせつ)あれとも證(しやう)としかたし《割書:慶長(けいちやう)より寛永(くわんえい)の|頃(ころ)に至(いた)り細川(ほそかは)》
《割書:三斎侯(さんさいこう)此地(このち)に住(ちゆう)せられその庭中(ていちう)の|小池(こいけ)を三斎堀(さんさいほり)と号(なつ)くといふ》
【左丁】
藪小路(やふこうち)
【図】
【枠内】桜川
【右丁】
櫻川(さくらかは) 同所(とうしよ)愛宕(あたこ)の麓(ふもと)を東南(とうなん)へ流(なか)るゝ溝(みそ)川をしか名(なつ)く新(しん)
著聞集(ちよもんしふ)に昔(むかし)虎(とら)の門(もん)の辺(へん)より愛宕(あたこ)の辺迄(へんまて)悉(こと〳〵)く田畑(たはた)にて
畔(くろ)に櫻樹(さくらのき)幾株(いくかふ)ともなくありし其中(そのなか)を流(なか)るゝ故(ゆゑ)櫻川(さくらかは)と
いひしとあり《割書:下流(かりう)は宇田川橋(うたかははし)の方(かた)へ流(なか)れ又(また)三縁山(さんえむさん)に|傍(そ)ふて金杉(かなすき)の川(かは)へも落會(おちあ)へり》
摩尼珠山(まにしゆさん)真福寺(しんふくし) 櫻川(さくらかは)の西岸(さいかん)に傍(そ)ひてあり真義(しんき)の真言宗(しんこんしゆう)
にして江戸四箇寺(えとしかし)の一員(いちゐん)知積院(ちしやくゐん)【注】の触頭(ふれかしら)なり當寺(たうし)本尊(ほんそん)
薬師如来(やくしによらい)の霊像(れいさう)は弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)なり慶長(けいちやう)の頃(ころ)甲州(かふしう)の領(りやう)
主(しゆ)浅野長政(あさのなかまさ)當寺(たうし)中興(ちゆうこう)照海(せうかい)上人をして自(みつか)らの等身(とうしん)に薬師(やくし)
佛(ふつ)の像(さう)を手刻(しゆこく)せしめ件(くたん)の霊佛(れいふつ)をは其胎中(そのたいちゆう)に籠(こめ)奉(たてまつ)ると
いへり《割書:毎月八日十二日は縁日(えんにち)|にして参詣(さんけい)多し》
愛宕山(あたこさん)権現(こんけん)社 同/南(みなみ)に並(なら)ふ世俗(せそく)城州(しやうしう)愛宕山(あたこさん)に同(おな)しといへ共
自(おのつか)ら別(へつ)なり本地佛(ほんちふつ)は勝軍地蔵尊(しようくんちさうそん)にして行基大士(きやうきたいし)の作(さく)
なり永(なか)く火災(くわさい)を退(しりそ)け給ふの守護神(しゆこしん)なり楼門(ろうもん)の金剛力士(こんかうりきし)は
【注 智積院の誤りでは 新義真言宗智山派総本山】
【左丁】
【図】
愛宕下(あたこした)
真福寺(しんふくし)
薬師堂(やくしたう)
此次二丁之図
愛宕本社に
至る迄/續画(つゝきゑ)
なり
【枠内】真福寺
【枠内】薬師堂
【枠内】弁天
【枠内】観音
【枠内】不動
【枠内】聖天
【右丁】
【図】
愛宕(あたこ)社
総門(さうもん)
其二
【枠内】女坂
【枠内】勝軍地蔵
【枠内】本地堂
【枠内】子安観音
【枠内】土弓
【枠内】土弓
【左丁】
【図】
【枠内】男坂
【枠内】役行者
【枠内】総門
【枠内】別当
京洛移遷座武州築檀
構閣陟山丘誰知幣帛
神封物却作沙門活命
謀
羅山子
【右丁】
其三
山上(さんしやう)
愛宕山権現(あたこさんこんけん)
本社図(ほんしやのつ)
【図】
【枠内】祇園
【枠内】荒神
【枠内】八まん大神宮春日
【枠内】弁天
【枠内】本社
【枠内】拝殿
【枠内】茶屋
【枠内】太郎坊大権現
【枠内】地蔵
【枠内】いなり
【枠内】拝殿
【枠内】茶や
【枠内】女坂上り口
【左丁】
宕山高倚勝軍宮
晴日登臨積水東
江樹千里連闕下
海雲一半傍城中
祇憐精衛仍含水
誰識鵬鯤忽撃風
羞殺魚監都會地
治生無似陶朱公
服元喬
【図】
【枠内】額堂
【枠内】御舟所
【枠内】大黒
【枠内】弘法大師
【枠内】人丸
【枠内】鐘楼
【枠内】二王門
【枠内】茶や
【枠内】男坂上り口
【右丁】
運慶(うんけい)の作(さく)同二/階(かい)の軒(のき)に掲(かゝけ)し愛宕山(あたこさん)の三字は智積院(ちしやくゐん)権(こん)
大僧正(たいそうしやう)の筆(ふて)なり別當(へつたう)圓福教寺(ゑんふくけうし)は石階(せきかい)の下にあり新義(しんき)の
真言宗(しんこんしゆう)江戸の触頭(ふれかしら)四箇寺(しかし)の随一(すゐいち)なり開山(かいさん)を神證(しんしやう)上人と
號(かう)す二世(にせ)俊賀(しゆんか)上人といふ《割書:四箇寺(しかし)とは湯島根生院(ゆしまこんしやうゐん)本所弥勒寺(ほんしよみろくし)|當所真福寺(たうしよしんふくし)並に當寺をいふ》
《割書:神證(しんしやう)上人/字(あさな)を春音(しゆんおん)といひ後(のち)あらためて春香(しゆんかう)と号(かう)す下/野(つけ)の人にして姓(せい)は|塩谷氏(えんやうち)母(はゝ)は皆川氏(みなかはうち)なり元和(けんわ)五年 鈞命(きんめい)に依(よつ)て金剛院(こんかうゐん)に退去(たいきよ)をゆるされ》
《割書:天年(てんねん)を終(を)ふ春音(しゆんおん)の坊(ほう)は遍照院(へんせうゐん)と号(かう)す今の圓(ゑん)福寺/是(これ)なり金剛院(こんかうゐん)普賢院(ふけんゐん)|満蔵院(まんさうゐん)鏡照院(きやうせうゐん)壽桂院(しゆけいゐん)等(とう)すへて六/院(ゐん)あり俊賀(しゆんか)上人/字(あさな)は圓精(ゑんせい)と号(かう)す野州(やしう)》
《割書:西方邑(にしかたむら)の人/姓(せい)は越路(こしち)氏にして宇都宮(うつのみや)弥三郎/頼綱(よりつな)か後裔(こうえい)父(ちゝ)は伊勢守近律(いせのかみちかのり)神(しん)|祠(し)に祈(いのり)て産(さん)す其始(そのはしめ)下妻(しもつま)の圓福寺(ゑんふくし)に住(ちゆう)す然(しか)るに其頃(そのころ)下総(しもふさ)結城(ゆうき)の元寿(けんしゆ)上州(しやうしう)》
《割書:松井田秀算(まつゐたしうさん)等(ら)一世の豪俊(かうしゆん)にして俊賀(しゆんか)上人をあはせて新義(しんき)の三/傑(けつ)と称(しよう)せらる|元和(けんわ)五年/俊賀(しゆんか)上人/愛宕権現(あたここんけん)の別當(へつたう)に命(めい)せられ共(とも)に圓(ゑん)福寺の号(かう)を以て一宇(いちう)を》
《割書:闢(ひら)かしめ給ひ永(なか)く大法幢(たいほふとう)を樹(たて)大法鼓(たいほふこ)を撃(うち)夏冬(かとう)廃(すつ)る事なし終に檀林職(たんりんしよく)と|なる学徒(かくと)業(けう)々として雲(くも)の如(こと)く屯(むらか)り川の如く起(おこ)る実(しつ)に江城(こうしやう)檀林(たんりん)の権輿(はしめ)なり》
縁起曰(えんきにいはく)天平(てんへい)十年戊寅/行基大士(きやうきたいし)江州(こうしう)信楽(しからき)の辺(へん)行化(きやうくゑ)の時(とき)當(たう)
社(しや)の本地(ほんち)将軍地蔵尊(しやうくんちさうそん)の像(さう)を彫刻(ちやうこく)し給ひ後(のち)安部内親王(あへないしんわう)に
奉(たてまつ)る《割書:第四十六代 孝謙(かうけん)|天皇(てんわう)の御事なり》親王(しんわう)則(すなはち)彼地(かのち)に宝祠(ほうし)を営(いとな)みて是(これ)を安置(あんち)なし
給ふ《割書:其旧跡(そのきうせき)をも今(いま)|宮村(みやむら)と名(な)つく》然(しか)るに天正(てんしやう)十年壬午の夏(なつ) 台旗(たいき)泉州(せんしう)を
【左丁】
發(はつ)し給ひ大和路(やまとち)より宇治(うち)を経(へ)て江州信楽(こうしうしからき)に入(いら)せ賜(たま)ふ此時(このとき)
多羅尾四郎右衛門(たらをしらうゑもん)といへる者(もの)の宅(たく)に舎(やと)らせられける頃(ころ)あるし
此像(このさう)を献(けん)す《割書:多羅尾家譜(たらをかふ)にいふ左京進光俊(さきやうのしんみつとし)初(はしめ)て多羅尾(たらを)と号(かう)す|其子(そのこ)常陸介綱知(ひたちのすけつなとも)三好(みよし)若江(わかえ)の三人/衆(しゆ)といふ其子(そのこ)四郎兵衛(しらうひやうゑ)》
《割書:光綱(みつつな)江州信楽(こうしうしからき)を領(りやう)すと云々/多羅尾(たらを)は四郎左衛門(しらうさゑもん)に|あらす四郎兵衛光綱(しらうひゃうゑみつつな)入道(にふたう)道賀(たうか)の事なるへし》其節(そのせつ)同國(とうこく)磯尾村(いそをむら)の
沙門(しやもん)神證(しんしやう)といふを供(く)せられ此霊像(このれいさう)を持(ち)して東國(とうこく)に赴(おもむき)給ふ
爾(しかりし)より 御出陣毎(こしゆつちんこと)に神證(しんしやう)をして此(この)勝軍地蔵尊(しようくんちさうそん)を祈念(きねん)
せしめたる遂(つひ)に慶長(けいちやう)八年癸卯の夏(なつ) 台命(たいめい)によつて同庚
子年/石川六郎左衛門尉(いしかはろくらうさゑもんのしやう)當山(たうさん)を闢(ひら)き假(かり)に堂宇(たうう)を造建(さうこん)し
給ひ其後(そのゝち)同十五年庚戌/本社(ほんしや)を始(はしめ)悉(こと〳〵)く御建立(ここんりふ)有/元和(けんわ)三年
丁巳/同國(とうこく)豊島郡(としまこほり)王子邑(わうしむら)に於(おい)て百石(ひやくこく)の社領(しやりやう)を附(ふ)し給ふ
となり《割書:惣鹿子(さうかのこ)といへる冊子(さうし)に此地(このち)は元(もと)櫻田(さくらた)の村民(そんみん)内藤(ないとう)六郎といへる人の|宅地(たくち)なりしを沙門(しやもん)春音(しゆんおん)慶長(けいちやう)庚子の御出陣(こしゆつちん)に勝軍(しようくん)の法(ほふ)を》
《割書:修(しゆ)せし地(ち)にて凶徒(けうと)御征伐(こせいはつ)ありしによりて當社(たうしや)を御/建立(こんりふ)ありしと云々又/同書(とうしよ)に|慶長(けいちやう)八年九月廿四日/貴賤(きせん)の参詣(さんけい)を許(ゆる)さるゝとあり江戸名勝志(えとめいしようし)同/名所(めいしよ)はなし》
《割書:等(とう)に始(はしめ)山城(やましろ)の愛宕(あたこ)を遠州(ゑんしう)鳴子坂(なるこさか)に勧請(くわんしやう)し夫(それ)より駿州(すんしう)宇津屋(うつのや)に移(うつ)し後(のち)|又/爰(こゝ)に安置(あんち)す慶長(けいちやう)の頃(ころ)本多美濃守(ほんたみのゝかみ)の家臣(かしん)都築(つつき)某(それかし)といへる人の勧請(くわんしやう)なり》
【右丁】
愛宕山(あたこさん)円福寺(ゑんふくし)毘沙門(ひしやもん)の使(つかひ)は毎歳(まいとし)正月
三日に修行す女坂(おんなさか)の上愛宕やといへる
茗肆(みつちやや)のあるし旧例(きうれい)にてこれを勤(つと)む
この日/寺主(ししゆ)を始とし支院(しゐん)よりも
出頭(しゆつとう)して其次第により座(さ)を儲(まう)け
強飯(ごうはん)を饗(きやう)す半(なかは)に至る頃此/毘沙門(ひしやもん)
の使と称する者/麻(あさ)上下を着(ちやく)し
長き太刀を佩(はき)雷槌(すりき)を差/添(そえ)又
大なる飯(いゐ)かいを杖(つえ)に突(つき)初春(はつはる)の
飾(かさ)り物にて兜(かふと)を造(つく)り是を冠(かむ)る
相/随(したか)ふもの三人共に本殿(ほんてん)より
男坂を下り円福寺(ゑんふくし)
に入て此席(このせき)に至り
俎机(まないた)によりて彳(たゝすみ)
飯(いゐ)かいをもて三度
魚板(まないた)をつきなら
して曰
まかり出たる
者は毘沙門天の
御使/院家(ゐんけ)役者(やくしや)
をはしめ寺中の
面々(めん〳〵)長屋(なかや)の
所化とも勝手の
【図】
【左丁】
諸役人に
至る迄
新参(しんさん)は
九杯(くはい)古(こ)
参は七杯
御/飲(の)みや
れ〳〵
おのみや
らんに
よつては此
杓子(しやくし)を以て
御まねき申か
返答(へんたう)はいかんといふ
時/其(その)一﨟(いちらう)たる
もの答て曰/吉礼(きちれい)
の通りみなたへふ
するにて候へと
云々しからは
毘沙門の使は
罷帰るて御座
あるといひて
本殿へ
立返る
【図】
【右丁】
《割書:とあり此説(このせつ)圓福寺(ゑんふくし)に云/傳(つた)ふる事なく證(しよう)とすへからす按(あんする)に此山の地主神(ちしゆしん)は毘沙門天(ひしやもんてん)なりとて|今(いま)も本社(ほんしや)の相殿(あいてん)に安置(あんち)す毎歳(まいさい)正月三日/毘沙門(ひしやもん)の使(つかひ)と称(しよう)する舊礼(きうれい)の式(しき)あり其式(そのしき)画上(くわしやう)に詳(つまひらか)》
《割書:なり按(あんする)に當寺(たうじ)開山(かいさん)俊賀師(しゆんかし)は始(はしめ)野州(やしう)にあり野州辺(やしうへん)こと〳〵くこの強飯(こうはん)の式(しき)ありて世(よ)に所謂(いわゆる)|日光(につくわう) の古式に准(なら)ふて當寺(たうし)に行ふものも恐らくは俊賀(しゆんか)上人より始るならん歟》
抑(そも〳〵)當山(たうざん)は懸岸壁立(けんかんへきりふ)して空(くう)を凌(しの)き六十八/級(きう)の石階(せきかい)は畳々(てう〳〵)として
雲(くも)を挿(さしはさむ)が如(ごと)く聳然(しうぜん)たり山頂(さんちやう)は松柏(しようはく)欝茂(うつも)し夏日(かじつ)といへとも
こゝに登(のほ)れは涼風凛々(りやうふうりん)としてさながら炎暑(えんしよ)をわする見落(みおろ)せは
三條九陌(さんてうきうはく)の万戸千門(まんこせんもん)は甍(いらが)をつらねて所(ところ)せく海水(かいすゐ)は渺焉(へうえん)と
ひらけて千里(せんり)の風光(ふうくわう)を貯(たくは)へ尤(もつとも)美景(びけい)の地(ち)なり月(つき)ごとの廿四日は
縁日(えんにち)と称(しよう)して参詣(さんけい)多(おほ)くとりわき六月二十四日は千日参(せんにちまゐり)と号(なつ)
けて貴賤(きせん)の群参(くんざん)稲麻(たうま)の如(こと)し《割書:縁日(えんにち)ごとに植木(うゑき)の市(いち)立(たち)て四時(しいじ)の|花木(くわぼく)をこゝに出(いた)す尤(もつとも)壮観(さうくわん)なり》
萬年山(まんねんざん)青松寺(せいしようし)同/南(みなみ)に隣(とな)る曹洞派(さうとうは)の禅刹(せんせつ)にして江戸(えと)
三箇寺(さんがじ)の一員(いちゐん)たり本尊(ほんぞん)は釈迦如来(しやかによらい)開山(かいさん)を雲崗俊徳大(うんかうしゆんとくだい)
和尚(おしやう)といふ文明年間(ぶんめいねんかん)太田左衛門佐持資(おほたさゑもんのすけもちすけ)草創(さう〳〵)す初(はじめ)は貝(かひ)
塚(つか)の地(ち)にありしを後(のち)《割書:或云(あるひはいふ)天正(てんしやう)|又/慶長(けいちやう)共》此地(このち)に遷(うつ)さる《割書:故(ゆゑ)に今(いま)も俗(ぞく)に貝塚(かひつかの)|青松寺(せいしようじ)と称(しよう)せり》
【左丁】
《割書:一に青松寺(せいしようし)の旧地(きうち)は今(いま)の平川馬場(ひらかははゝ)の南の方なりと云々/南向亭(なんかうてい)云く青松甲斐(あをまつかひ)|と云人/草創(さう〳〵)す其旧跡(そのきうせき)は糀町(かうしまち)の貝塚(かひつか)當時(たうし)玉虫(たまむし)八左衛門といへる屋鋪(やしき)にありて》
《割書:彼墓(かのはか)を甲斐塚(かひつか)と云と菊岡沾涼(きくをかせんりやう)は青松宮内(あをまつくない)と云人の建立(こんりふ)なりといへり又/當(たう)|寺(し)に太田道灌(おほたたうくわん)の塚(つか)ありといへ共/詳(つまひらか)ならす》
當寺(たうし)の後(うしろ)の山を含海山(かんかいさん)と号(なつ)く眺望(てうまう)愛宕山(あたこさん)に等(ひと)しく美景(ひけい)の
地(ち)なり惣門(さうもん)の額(かく)万年山(まんねんさん)の三大字(さんたいし)は閩沙門(みんのしやもん)道霈(たうはい)の筆(ふて)
なり
勝林山(しようりんさん)金地院(こんちゐん) 増上寺(そうしやうし)の西(にし)切通(きりとほし)の上(うへ)にあり京師(けいし)南禅寺(なんせんし)の
塔頭(たつちう)にして南禅寺(なんせんし)の宿寺(しゆくし)なり五山(こさん)の僧録(そうろく)と称(しよう)す本尊(ほんそん)は
唐佛(たうふつ)の聖観世音菩薩(しやうくわんせおんほさつ)なり《割書:或人云(ある人のいふ)宋人(さうひと)陳和卿(ちんくわけい)か作(さく)なりといふ|毎月十八日/観音懺法(くわんおんせんほふ)修行(しゆきやう)す》
開山(かいさん)を大業和尚(たいきやうおしやう)と云(いふ)《割書:其頃(そのころ)碩学(せきかく)なりけれは五山の僧禄司(そうろくし)に命(めい)せられ|評定衆(ひやうちやうしゆ)に加(くは)へ給ひ寺社(ししや)の訴(うつた)へを決断(けつたん)せしむ》
《割書:都留(つる)の毛衣(けころも)と云(いふ)草紙(さうし)に古(いにしへ)は寺社(ししや)裁許(さいきよ)の事/金地院(こんちゐん)|斗(はか)らひけるか寛永中(くわんえいちゆう)より武家(ふけ)の職(しよく)となる云々》境内(けいたい)に青葉楓(あをはのかへて)と
称(しよう)する古木(こほく)ありしか今(いま)は焼亡(やけほろ)ひてなしといへり《割書:此木(このき)も昔(むかし)當寺(たうし)|御城内(こしやうない)にありし》
《割書:頃(ころ)の物(もの)にて後(のち)此地(このち)へ|栽(うへ)るといへり》閻魔王(えんまわう)の石像(せきさう)は塔中(たつちゆう)二玄庵(にけんあん)の前(まへ)にあり
宝永(ほうえい)の頃(ころ)南部(なんふ)の領主(りやうしゆ)霊尓(れいし)に依(よつ)て彼地(かのち)より麻布(あさふ)の別荘(へつさう)に
【右丁】
青松寺(せいしようし)
萬年山上荷青松
盤結高分坐似龍
知是抱珠眠更穏
彩雲飛送下堂鐘
南郭
【図】
【枠内】総門
【左丁】
【図】
【枠内】庫裡
【枠内】方丈
【枠内】玄関
【枠内】本堂
【枠内】中門
【右丁】
遷(うつ)され再(ふたゝ)ひ威霊(ゐれい)あるによつて又こゝに安(あん)すといふ金地院(こんちゐん)と書(しよ)
せし三/大字(たいし)の額(かく)は水雲(すゐうん)寫とあり方丈(はうちやう)同(おなしく)涬溟筆(かうめいのふて)薦福殿(せんふくてん)
岩元雄(かんけんいゆう)の書(しよ)塔中(たつちゆう)二玄庵(にけんあん)の額(かく)も同筆(とうひつ)なり本尊(ほんそん)観世音(くわんせおん)の
像(そう)は大の月/三月(みつき)続(つゝき)たる中の月の十八日には開帳(かいちやう)あり
光明山(くわうみやうさん)天徳寺(てんとくし) 和合院(わかふゐん)と号(かう)す西久保(にしのくほ)神谷(かみや)町にあり花洛(くわらく)
智恩院(ちおんゐん)に属(そく)す浄家(しやうけ)江戸四箇(えとしか)の一にして紫衣(しえ)の地たり
支院(しゐん)十七/宇(う)あり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は行基大士(きやうきたいし)の作(さく)開山(かいさん)は
三蓮社縁誉称念(さんれんしやえんよしようねん)上人なり師(し)諱(いみな)は吟翁(きんをう)武州/品川(しなかは)の邑(むら)に
生(うま)る《割書:父(ちゝ)を藤(ふち)田/左衛門尉道昭(さゑもんのしやうみちあき)と云|母(はゝ)は冨永氏(とみなかうち)或(あるひ)は云/冨田氏(とみたうち)》九歳(くさい)にして甫(はしめ)て増上寺(そうしやうし)第七世(たいしちせ)親誉(しんよ)
上人に従(したか)つて薙染(ちせん)す聡明絶倫(さうめいせつりん)なり師(し)の遷化(せんくゑ)に及(およ)ひて北(ほく)
総飯沼(さういひぬま)の弘経寺(くきやうし)に至(いた)り鎮誉和尚(ちんよおしやう)に謁(えつ)して浄土一乗(しやうといちしやう)の大
戒(かい)を受(うけ)十六歳/岩附(いはつき)の浄國寺(しやうこくし)に住(ちゆう)し大(おほい)に法輪(はふりん)を轉(てん)す志(こゝろさし)猶(なほ)
世塵(せちん)を厭(いと)ふか故(ゆゑ)に後(のち)古郷(こきやう)に帰(かへ)りて天智/庵(あん)《割書:知或は又|地(ぢ)を作(つく)る》を草創(さう〳〵)す
【左丁】
今(いま)の天徳寺(てんとくし)是(これ)なり《割書:天文(てんふん)二年の草創(さう〳〵)といふ先師(せんし)親誉(しんよ)を以て開山祖(かいさんそ)とし|自二世に居(を)る舊地(きうち)は西丸(にしのまる)御城(おんしろ)の邊(へん)なりしといへり》
師(し)弥(いよ〳〵)遁世(とんせい)の志(こゝろさし)深(ふか)く一包破笠(いつはうはりつ)を携(たつさ)へ錫(しやく)を荷(にな)ひて洛(らく)の知恩院(ちおんゐん)に
至(いた)り傍(かたはら)に一/精舎(しやうしや)を建(たて)て住(ちゆう)す是(これ)を一心院(いつしんゐん)と号(かうす)《割書:一心院(いつしんゐん)は念佛三(ねんふつさん)|昧(まい)の一本寺(いつほんし)也》
昼夜(ちうや)不退(ふたい)に常行念佛(しやうきやうねんふつ)を修(しゆ)し新(あらた)に念佛三昧(ねんふつさんまい)の法則(はふそく)を製(せい)
し永世(えいせい)の標準(ひやうしゆん)とす今(いま)諸國(しよこく)厭悠(ゑんたん)の道場(たうちやう)此法式(このはふしき)を以(もつ)て定矩(ちやうく)
とす《割書:花洛(くわらく)市原野(いちはらの)の専称庵(せんしようあん)上嵯峨(かみさか)の称念寺(しようねんし)下嵯峨(しもさか)の正定院(しやうちやうゐん)桂(かつら)の極(こく)|楽寺(らくし)田井の會念寺(ゑねんし)淀(よと)の念佛寺(ねんふつし)等(とう)を草創(さう〳〵)する事/少(すくな)からすいつ》
《割書:れも不断念仏(ふたんねんふつ)|の道場(たうちやう)とす》天文(てんふん)廿三年の秋(あき)一心院(いつしんゐん)に寂(しやく)す實(しつ)に七月十九日なり
化壽(くゑしゆ)四十一と聞(きこ)えし《割書:今(いま)世間(せけん)用(もち)ゆる所(ところ)の二連数珠(にれんすゝ)も師(し)の製(せい)する所(ところ)|にして是(これ)を貫輪(くわんりん)といふ佛号(ふつかう)を唱(とな)ふるの徒(ともから)》
《割書:此(この)念珠(ねんしゆ)を用(もち)ひ|さるはなし》
城山(しろやま)西窪(にしのくほ)土岐山城侯(ときやましろこう)の藩邸(やしき)の辺(へん)を云(いふ)土俗(とそく)熊谷次郎直實(くまかやのしらうなほさね)の
城跡(しろあと)といひ傳(つた)ふるは誤(あやまり)なるへし昔(むかし)熊谷氏(くまかやうち)の人(ひと)の居宅抔(きよたくなと)有(あり)
し地(ち)ならんかし同所(とうしよ)神谷(かみや)町にかゝる所の石橋(いしはし)を熊谷橋(くまかやはし)と号(なつく)るも
故(ゆゑ)あるへけれと今(いま)傳説(てんせつ)詳(つまひらか)ならす《割書:菊岡沾涼(きくをかせんりやう)云/此所(このところ)は昔(むかし)麻布(あさふ)|殿(との)とかやの出丸(てまる)の地(ち)なりしと云》
【右丁】
金地院(こんちゐん)
【図】
【枠内】寺中
【左丁】
【図】
【枠内】本堂
【枠内】方丈
【枠内】ゑんま
【右丁】
太田道灌(おほたたうくわんの)城跡(しろあと) 或(あるひ)は番神山(ばんしんさん)とも号(かう)す西窪(にしのくほ)仙石家(せんこくけ)弟宅(やしき)の地(ち)なり
といふ《割書:紫(むらさき)の一本(ひともと)にいふこゝも太田道灌(おほたたうくわん)取立(とりたて)し城地(しやうち)なり|今(いま)は土取場(つちとりば)となりても【ひたヵ】と堀(ほり)崩(くつ)せしと云々》又(また)昔(むかし)此地(このち)に小堂(しやうだう)
ありて土佛(とふつ)の釈迦(しやか)を安置(あんち)し法華堂(ほつけだう)と号(なつ)く後(のち)豆州(つしう)玉澤(たまさは)
法華寺(ほつけし)の日朗上人(にちらうしやうにん)持念(ちねん)する所(ところ)の墨画(すみゑ)の三十/番神(はんしん)の画影(くわえい)を
携(たつさへ)来(きた)りて諸人(しよにん)を結縁(けちえん)す然(しかる)に小田原(をたはら)北条氏(ほふでううち)後(のち)に社(やしろ)を建(たて)て
彼(かの)番神(ばんしん)を勧請(くわんしやう)す故(ゆゑ)に番神山といふ其(その)画像(くわさう)は後(のち)京師(けいし)に
移(うつ)すとあり
西窪八幡宮(にしのくほはちまんくう) 同所(とうしよ)天徳寺(てんとくし)裏門(うらもん)より南(みなみ)の方(かた)三町/程(ほと)飯倉(いひくら)町
一丁目にあり別當(べつたう)は天台宗(てんたいしう)にして東叡山(とうえいさん)の末(まつ)八幡山(やはたさん)普門院(ふもんゐん)
と号(かう)す西窪の鎮守(ちんしゆ)にして旅所(たひしよ)は小山(こやま)にあり相傳(あひつた)ふ當社(たうしや)八幡(はちまん)
宮(くう)は寛弘年間(くわんこうねんかん)の鎮座(ちんさ)なりといへり慶長(けいちやう)五年/関原(せきかはら)御一戦(こいつせん)の時(とき)
崇源院殿(そうけんゐんてん)より其(その)軍(いくさ)御勝利(こしようり)と御安全(こあんせん)との御願書(こくわんしよ)をこめ
られ別當(べつたう)秀圓(しうゑん)御祈禱(こきたう)修行(しゆきやうす)はたして其(その)奇特(きとく)ありけれは
【左丁】
西久保八幡宮(にしのくほはちまんくう)
【図】
【枠内】別當
【枠内】本社
【枠内】かくら所
【枠内】いなり
【枠内】人丸
【右丁】
寛永(くわんえい)十一年甲戌二月/終(つひ)に宮社(きうしや)御建立(ここんりふ)ありしといへり祭禮(さいれい)は
毎歳(まいさい)八月十五日なり
飯倉(いひくら)西窪(にしのくほ)の南を云(いふ)此地(このち)は往古(そのかみ)伊勢太神宮(いせたいしんくう)の神厨(みくりや)の地たり
し故(ゆゑ)に其(その)御饌料(こせんれう)の稲(いね)を収(をさ)めし倉を飯倉(いひくら)と唱(とな)へいつしか
地名(ちめい)に呼(よひ)けるなるへし《割書:永禄(えいろく)の頃小田/原(はら)北条家(はふてうけ)の臣(しん)大草左近太夫(おほくささこんのたいふ)|飯倉弾正忠(いひくらたんしやうのちう)太田新(おほたしん)六郎/島津孫(しまつまこ)四郎/等(ら)此》
《割書:地(ち)を領(りやう)せしよし北条家(はふてうけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)に見えたり同書(とうしよ)に飯倉の内(うち)櫻田(さくらた)と|あれは往古(わうこ)飯倉の地(ち)の廣(ひろ)かりし事しるへし又(また)駒込(こまこめ)吉祥寺(きちしやうし)に蔵(さう)する》
《割書:所の北条家人(はふてうのけにん)遠山左衛門太夫政景(とほやまさゑもんのたいふまさかけ)元亀(けんき)二年江戸にて五十五/貫(くわん)六百八十五文|の地(ち)を彼(かの)寺(てら)に寄附(きふ)する状(しやう)に飯倉の地名(ちめい)ありて此中三貫三百文は以前(いせん)より》
《割書:箕輪大蔵(みのわおほくら)か寄附せし地なりとあり猶(なほ)前(まへ)の芝神明宮(しはしんめいくう)の条下(てうか)にも|神鳳抄(じんほうしやう)東鑑(あつまかゝみ)等(とう)の書(しよ)を引(ひき)拠(よりところ)とす照合(てらしあは)せて見るへし》
熊野権現(くまのこんけん)宮 飯倉(いひくら)町にあり或人(あるひと)云(いふ)養老年間(やうらうねんかん)芝(しは)の海濱(かいひん)に
勧請(くわんしやう)ありしを遥(はるか)の後(のち)今(いま)の地(ち)に移(うつ)さるとそ別當(へつたう)は三集山(さんしふさん)
正宮寺(しやうくうし)といふ天台宗(てんたいしう)にして東叡山(とうえいさん)に属(そく)せり《割書:毎年六月朔日より三日|まて祭礼を修行す》
勝手(かつて)ゕ原(はら) 土器(かはらけ)町より赤羽(あかはね)へ出(いつ)る廣小路(ひろこうち)の辺をいふとそ昔(むかし)は三田(みた)の
方へかけて廣寞(くわうはく)の原野(けんや)なりしかは太田道灌(おほたたうくわん)江戸の城(しろ)より
【左丁】
飯倉(いひくら)
熊野権現(くまのこんけん)社
【図】
【枠内】本社
【枠内】水神秋葉
【枠内】いなり
【枠内】地蔵
【右丁】
勢(せい)を出(いた)す時(とき)は此所(このところ)にて人数(にんす)を揃(そろへ)られたりしとなり
赤羽川(あかはねかは) 渋谷川(しふやかは)の下流(かりう)なり新堀(しんほり)と号(なつ)く《割書:延宝江戸図(えんはうえとつ)に麻布(あさふ)|新堀(しんほり)とあり元禄(けんろく)開板(かいはん)》
《割書:の江戸鹿子(えとかのこ)といへる草紙(さうし)に|此(この)河(かは)の上に赤羽(あかはね)の池(いけ)と云(いふ)ありと云々》元禄(けんろく)の始(はしめ)鈞命(きんめい)によつて是(これ)を掘(ほ)らしめ
たまふとなり《割書:江戸名勝志(えとめいしようし)に溝口信濃守(みそくちしなのゝかみ)伊達美作守(たてみまさかのかみ)|の両侯(りやうこう)これを承(うけたま)はられたりとあり》
赤羽橋(あかはねはし) 同(おな)し流(なかれ)に架(か)す按(あんする)に赤羽(あかはね)は赤埴(あかはに)の轉(てん)したるならん歟(か)
此辺(このへん)茶店(さてん)多(おほ)く河原(かはら)の北(きた)には毎朝(まいてう)肴市(さかないち)立(たち)て繁昌(はんしやう)の地(ち)なり
心光院(しんくわうゐん) 同所(とうしよ)橋(はし)より北(きた)の河原道(かはらみち)より右(みき)にあり増上寺(そうしやうし)の別(へつ)
院(ゐん)にして宝暦(はうれき)の頃(ころ)縁山(えんさん)より此地(このち)に移(うつ)さる《割書:其(その)旧地(きうち)は涅槃門(ねはんもん)|の辺(へん)なりと云》當(たう)
寺(し)は鎮西(ちんせい)上人の古跡(こせき)にして常行念佛(しやうきやうねんふつ)の道場(たうちやう)なり惠照(ゑせう)
律院(りつゐん)光阿(くわうあ)上人/開基(かいき)たり《割書:光阿(くわうあ)上人は横連社縦誉(わうれんしやしゆうよ)心岩頑夢(しんかんくわんむ)と号(かう)す|加州(かしう)小松(こまつ)の人/姓(せい)は加波氏(かはうち)越前(ゑちせん)浄光院(しやうくわうゐん)の随(すゐ)》
《割書:流(りう)に投(たう)して剃染流頓(ていせんりうとん)に嗣法(しはふ)す宝永(はうえい)三年乙卯八月晦日/當寺(たうし)に於(おい)て寂(しやく)する由(よし)傳燈(てんとう)|系図(けいつ)に見えたり加州(かしう)大日寺(たいにちし)及(およ)ひ當寺(たうし)并/惠照院(ゑせうゐん)等(とう)を開基(かいき)し不断念佛(ふたんねんふつ)の道場(たうちやう)を刱(はし)む》
布引観世音菩薩(ぬのひきくわんせおんほさつ)《割書:境内(けいたい)に安(あん)す本尊(ほんそん)は馬頭観音(はとうくわんおん)にして増上寺(そうしやうし)の行者(きやうしや)文周(ふんしう)|代(よ)々これを奉持(ほうち)するといへり慶長(けいちやう)の頃(ころ)丹羽五郎左衛門尉(にはこらうさゑもんのしやう)》
《割書:長重(なかしけ)奥州(おうしう)二本松(にほんまつ)に在國(さいこく)の時(とき)ある日(ひ)城下(しやうか)に出(いて)られしに熊野道者(くまのたうしや)の馬(うま)に乗(しやう)するあり|其(その)馬(うま)駿足(しゆんそく)なりけれは農民(のうみん)に乞(こ)ふて長重(なかしけ)乗(のり)試(こゝろむ)るに実(しつ)に名馬(めいは)なりけれは則(すなはち)名(な)を》
【左丁】
《割書:道者(たうしや)と唱(とな)ふ終(つひ)に 大将軍家(たいしやうくんけ)へ献(けん)す駈(かけ)を追(おは)せ給ふに布(ぬの)一端(いつたん)を後輪(うしろは)の塩手(しほて)|両方(りやうはう)にむすひ附(つけ)給ふに彼(かの)布(ぬの)一文/字(し)に翻(ひるかへ)る故(ゆゑ)に改(あらため)て布引(ぬのひき)と命(めい)せられて愛(あい)し》
《割書:給ひしかは彼馬(かのうま)斃(へい)するの後(のち)増上寺(そうしやうし)境内(けいたい)に埋(うつ)めて石塔(せきたう)を建(たて)たりしか其後(そのゝち)又(また)|件(くたん)の石塔(せきたう)を本尊(ほんそん)として馬頭観音(はとうくわんおん)に崇(あか)むるとなり宝暦(はうれき)の頃(ころ)寺(てら)と共(とも)に此地(このち)へ》
《割書:引(ひか)れたりし|といへり》
竹女水盤(たけちよすゐはん)《割書:新著聞集(しんちよもんしふ)に云/江戸(えと)大傳馬(おほてんま)町/佐久間勘解由(さくまかけゆ)か召仕(めしつかひ)の下女(けちよ)たけは|天性(てんせい)仁慈(しんし)の志(こゝろさし)深(ふか)く朝夕(てうせき)の飯米(はんまい)己(おのれ)か分(ふん)は乞丐人(こつかいにん)に施(ほとこ)し其(その)身(み)は》
《割書:水盤(すゐはん)の角(すみ)に網(あみ)を置(おき)て洗(あら)ひ流(なか)しの飯(いひ)をうけ其(その)溜(たま)りしものを自(みつか)らの食料(しよくりやう)とす|常(つね)に称名(しょうみやう)怠(おこた)る事なく終(つひ)に大往生(たいわうしやう)を遂(とけ)しとなり彼(かの)竹女(たけちよ)か常(つね)に網(あみ)をあて置(おき)し》
《割書:水盤(すゐはん)は今(いま)増上寺(そうしやうし)念佛堂(ねんふつたう)心光院(しんくわうゐん)の門(もん)の天井(てんしやう)に掛(かけ)てありとみゆ件(くたん)の水盤より光(くわう)|明(めう)を放(はな)ちたりし事は當寺(たうし)の縁起(えんき)の中に詳(つまひらか)なり》
芝浦(しはうら) 本芝(ほんしは)町の東(ひかし)の海濱(かいひん)をいふ芝口(しはくち)新橋(しんはし)より南田町(みなみたまち)の邊(へん)迄(まて)の
惣名(さうみやう)なり上古(しやうこ)は芝(しは)を竹柴(たけしは)の郷(かう)といひしを後世(こうせい)上略(しやうりやく)して柴(しは)
とのみ呼(よひ)来(きた)れり又(また)文字(もんし)も芝(しは)に書改(かきあらため)たりとそ《割書:更級日記(さらしなにき)に竹柴(たけしは)の|郷(かう)といふ事を挙(あけ)たり》
《割書:猶(なほ)三田(みた)済海寺(さいかいし)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり南向亭(なんかうてい)云(いはく)芝(しは)といふは彼地(かのち)の古老(こらう)の説(せつ)に海岸(かいかん)|近(ちか)き所(ところ)に柴(しは)を建(たて)海苔(のり)のかゝるをとる故(ゆゑ)に木(き)の小枝(こえた)を柴(しは)といふより地名(ちめい)によひ》
《割書:しか後(のち)芝(しは)に改(あらため)作(つく)る歟(か)と云々/按(あんする)に此(この)説(せつ)是(せ)ならす海苔(のり)をとるは元浅草(もとあさくさ)の辺(へん)のみ|にて昔(むかし)は今(いま)の如(こと)く品川(しなかは)にはなかりしなれは古(いにし)へにいはんは断(ことはり)なきに似(に)たり》
此地(このち)を雑魚場(さこは)と号(なつ)け漁猟(きよりやう)の地(ち)たり此(この)海(うみ)より産(さん)するを芝(しは)
肴(さかな)と称(しよう)して都下(とか)に賞(しやう)せり
【右丁】
赤羽(あかはね)
【図】
【枠内】赤羽橋
【枠内】赤羽川
【枠内】心光院
【左丁】
丹鳳城南赤羽濵
郊天晴近五雲新
芝山樹擁銀臺色
麻谷流侵碧海春
客裡■【携】家羞白髪
人間ト地避紅塵
少年車馬休相汚
沐罷聊裁頭上巾
南郭
【図】
【枠内】芝浦
【枠内】増上寺
【枠内】山内
【枠内】柵門
【右丁】
赤羽(あかはね)
心光院(しんくわうゐん)
【図】
【枠内】庫裡
【左丁】
【図】
【枠内】玄関
【枠内】本堂
【枠内】牌堂
【枠内】観音
赤羽川
【右丁】
竹女(たけちよか)
故事(こし)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
平安記行 文明(ふんめい)十あまり二年の頃(ころ)水無月(みなつき)のはしめつかた土(つち)さへ
さけてとか旅人(たひゝと)のぬしのものせし避暑(へきしよ)の床(ゆか)をはなれて
都(みやこ)にまうのほりぬ《割書:中略》芝(しは)といふ所(ところ)を過(すく)るとて
露しけき道の芝生を踏ちらし駒に任するあけくれの空 太田道灌
回國雑記 芝(しは)の浦(うら)といへる所(ところ)にいたりけれは塩屋(しほや)のけふりうちなひき
て物淋(ものさひ)しきに塩木(しほき)はこふ舟(ふね)ともを見て
やかぬより藻汐の煙名にそ立舟にこりつむ芝の浦人《割書:道興| 准后》
此浦(このうら)を過(すき)てあら井といへる所にて云々
《割書: |江戸にて》
芝といふものゝ候夏さしき 梅翁
御穂神社(みほのしんしや) 同所(とうしよ)本芝通(ほんしはとほ)りより西(にし)の横町(よこてう)にあり本芝(ほんしは)の
産土神(うふすなかみ)にして祭禮(さいれい)は三月十五日なり別當(へつたう)は正福寺(しやうふくし)と
号(かう)す天台宗(てんたいしう)にて東叡山(とうえいさん)に属(そく)す傳(つた)へ云(いふ)往古(そのかみ)駿河國(するかのくに)三穂(みほ)の
海人(あま)此浦(このうら)に来(きた)り住(ちゆう)す故(ゆゑ)に古郷(こきやう)の御神(おほんかみ)なれはとて文明(ふんめい)
十一年庚子のとしこゝに當社(たうしや)を勧請(くわんしやう)せしとなり祭神(さいしん)
御穂津彦(みほつひこ)御穂津媛(みほつひめ)等(とう)の二神(ふたはしらのかみ)なりといへり《割書:土俗(とそく)當社(たうしや)を|以(もつ)て痘瘡(とうさう)の》
【左丁】
御穂神社(みほのしんしや)
鹿島神社(かしまのしんしや)
【図】
【枠内】三穂社
【枠内】鹿島社
【枠内】かくら所
【枠内】住吉
【枠内】いなり
【枠内】天神
【右丁】
《割書:守護神(しゆこしん)とし祈願(きくわん)|するもの多(おほ)し》
鹿島神社(かしまのしんしや)同所(とうしよ)海濱(かいひん)にあり別當(へつたう)は御穂神社(みほのしんしや)に相(あひ)同(おな)し
祭禮(さいれい)も又同しく三月十五日なり土人(としん)傳(つた)へ云(いふ)寛永年間(くわんえいねんかん)此(この)
浦(うら)に一(ひとつ)の小祠(ほこら)漂流(ひやうりう)して汀(みきは)に止(とゝま)るあり漁人(きよしん)これを揚(あけ)て其(その)
本所(ほんしよ)を尋(たつぬ)るに常州(しやうしう)鹿島大神宮(かしまたいしんくう)の社地(しやち)にありし小祠(ほこら)なり
けるよし又/其頃(そのころ)十一/面観音(めんくわんおん)の木像(もくさう)同し海汀(かいてい)に流(なかれ)よりし
かは鹿島明神(かしまみやうしん)も十一/面観音(めんくわんおん)を以(もつ)て本地佛(ほんちふつ)とせしなれは
是(これ)にもとつきて當社(たうしや)の御神(おほんかみ)を勧請(くわんしやう)せしとなり
毘沙門堂(ひしやもんたう) 金杉(かなすき)の通(とほ)り東(ひかし)の方(かた)の横小路(よここうち)にあり松林山(しようりんさん)
正傳寺(しやうてんし)といへる中山派(なかやまは)の日蓮宗(にちれんしう)の寺境(しきやう)にあり本尊(ほんそん)は
傳教大師(てんけうたいし)の作(さく)にして後(のち)日親(につしん)上人/再(ふたゝ)ひ點眼供養(てんけんくやう)する
とそ往古(わうこ)は摂州(せつしう)梶折邑(かちをりむら)一乗寺(いちしようし)といへる寺(てら)にありしかとも僻(へき)
地(ち)にして結縁(けちえむ)の人/少(すくな)し《割書:一乗寺(いちしようし)は金仙寺(きんせんし)といひし真言(しんこん)の密場(みつしやう)なり|しを日親(につしん)上人の弘教(ぐけう)に帰(き)して本化(ほんけ)の宗(しう)に改(あらた)む》
【左丁】
毎月(まいつき)寅(とら)の日
貴賤(きせん)群集(くんしふ)
して賑(にきは)ひおほ
かたならす
金杉(かなすき)
毘沙門堂(ひしやもんたう)
【図】
【幟旗】奉献毘沙門天王
【右丁】
依(よつ)て寛文(くわんふん)の頃(ころ)衆生(しゆしやう)化益(けやく)の為(ため)日栄(にちえい)上人こゝに移(うつ)し奉(たてまつ)るとなり
霊験(れいけん)感應(かんおう)の著(いちしる)しき事は寺記(しき)に詳(つまひらか)なり故(ゆゑ)に参詣(さんけい)の貴賤(きせん)日(ひ)々に
多(おほ)く寅日(とらのひ)は殊(こと)に群集(くんしゆ)せり《割書:正月/初(はしめ)の寅日(とらのひ)参詣(さんけい)の人大方は芝(しは)の神明(しんめい)|宮(くう)の門前(もんせん)にて燧石(ひうちいし)をもとめて帰(かへ)る輩(ともから)あり》
《割書:洛北(らくほく)の鞍馬(くらま)山の毘沙門天(ひしやもんてん)へ正月/初(はしめ)の寅日(とらのひ)詣(けい)する輩(ともから)|燧石(ひうちいし)を買(かひ)て家土産(いへつと)とすこれを畚(ふこ)おろしといふこれに準(なそら)ふといふ》日親堂(につしんたう)《割書:日親(につしん)上人の|像(さう)を安(あん)す》
《割書:霊験(れいけん)著(いちしる)し|といへり》
田中山(てんちゆうさん)西應寺(さいおうし) 金杉(かなすき)の通(とほ)りより西(にし)の裏(うら)にあり《割書:門前(もんせん)を西應(さいおう)|寺町(しまち)と呼(よ)ふ》浄土(しやうと)
宗(しう)にして三縁山(さんえんさん)に属(そく)す支院(しゐん)三/宇(う)あり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)
の像(さう)は慧心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)なりと云傳(いひつた)ふ應安(おうあん)紀元(きけん)戊申の年(とし)明賢(みやうけん)
上人/草創(さう〳〵)す《割書:明賢(みやうけん)上人は應永(おうえい)五年戊寅/黄鐘(わうしやう)|十日に遷化(せんくゑ)す年八十六歳といへり》天正(てんしやう)の頃(ころ) 大将軍家(たいしやうくんけ)
當寺(たうし)に駕(か)を枉(まけ)させられ寺領(しりやう)御寄附(こきふ)ありしかは学徒(かくと)朝夕(てうせき)
の助(たすけ)寛(ゆたか)にして学道(かくたう)盛(さかん)なり又(また)當寺(たうし)十六世/存冏和尚(そんけいおしやう)一
宗(しう)の碩学(せきかく)にして當時(たうし)法門(はふもん)の龍象(りうさう)学道(かくたう)の麟鶴(りんくわく)なり
けれは 大将軍家(たいしやうくんけ)深(ふか)く崇敬(そうけい)まし〳〵けるにより
【左丁】
依(よつ)て一夏(いちけ)の間(あひた)法幢(はふとう)を建(たて)一百/餘(よ)人の衆僧(しゆうそう)に宗風(しうふう)の法意(はふい)を
示(しめ)すすへて念佛三昧(ねんふつさんまい)他力往生(たりきわうしやう)のをしへ日(ひ)々に大(おほ)いに弘(ひろま)れり
三田(みた)或(あるひ)は御田(みた)及(およ)ひ箕多(みた)に作(つく)ると《割書:古(いにしへ)神領(しんりやう)に寄(よせ)られし地(ち)を御田(みた)|と書(かき)たる由(よし)古老(こらう)の説(せつ)なり》
和名類聚鈔云 荏原郡御田云云
武蔵國風土記残篇云 荏原郡御田郷或箕多
公穀三百六十七束假粟百三十九丸貢松竹蕨▢
等亦有諸禽允大膳或木工寮云云
《割書:按(あんする)に此地(このち)を以(もつて)渡辺(わたなへ)の綱(つな)か旧跡(きうせき)とするは誤(あやまり)なるへし或(ある)人云/此地(このち)は三田家(みたけ)の|旧領(きうりやう)にして三田氏(みたうち)累世(るゐせい)こゝに居住(きよちゆう)す三田家譜(みたかふ)に三田三河守(みたみかはのかみ)其子(そのこ)駿河守(するかのかみ)》
《割書:綱勝(つなかつ)武州(ふしう)三田(みた)に住(ちゆう)す代(よ)々/綱(つな)といふ字(し)を名(な)とす依(よつ)て後人(こうしん)渡辺(わたなへ)の綱(つな)と|混(こん)し交(まし)へて誤(あやま)れる歟(か)と云々/渡辺系図(わたなへけいつ)に云/源次充(けんしみつる)武蔵國(むさしのくに)足立郡(あしたちこほり)箕田(みたの)》
《割書:郷(かう)に配(はい)せらるとありて三田(みた)とする事なし三田(みた)箕田(みた)同訓(とうくん)なる故(ゆゑ)に混雑(こんさつ)し|てかゝる附會(ふくわい)の説(せつ)をはまうけたりしなるへし鵞峰文集(かほうふんしふ)に箕田園(みたえん)の》
《割書:記(き)と号(かう)するものありて此地(このち)を渡辺綱(わたなへのつな)か旧跡(きうせき)とせらる其(その)文(ふん)はこゝに略(りやく)せり|永禄(えいろく)二年/小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の所領役帳(しよりやうやくちやう)に大田新六郎(おほたしんろくらう)知行(ちきやう)の内(うち)に三田(みた)内(うち)壽(しゆ)》
《割書:楽寺分(らくしふん)同/箕輪寺屋分(みのわてらやふん)又/島津弥七郎(しまつやしちらう)知行(ちきやう)三田(みた)坂間分(さかまふん)及(およひ)中村平次左衛門(なかむらへいしさゑもん)|知行(ちきやう)三田(みた)高福寺分(かうふくしふん)本住坊寺領(ほんちゆうはうしりやう)に同所にて惣領分(さうりやうふん)の地(ち)等(とう)を配(はい)すと見(み)》
《割書:えたり》
綱坂(つなさか) 同所(とうしよ)松平隠岐侯(まつたひらおきこう)と會津家(あひつけ)との藩邸(やしき)の間(あひた)を寺町(てらまち)へ
【右丁】
小山神明宮(こやましんめいくう)
【図】
【枠内】本社
【左丁】
下(くた)る坂(さか)を号(なつ)く《割書:惣鹿子(さうかのこ)に渡辺坂(わたなへさか)とあり菊岡沾凉(きくをかせんりやう)云|此所(このところ)は箕田武蔵守(みたむさしのかみ)の居城跡(きよしやうのあと)なりと》又/同所(とうしよ)有馬(ありま)
家(け)の藩邸(やしき)の南(みなみ)の坂(さか)を綱(つな)か手引坂(てひきさか)と号(なつ)く綱(つな)か産湯水(うふゆのみつ)
と云は同所(とうしよ)肥後侯(ひここう)の園中(えんちゆう)綱(つな)か駒繋松(こまつなきまつ)と称(しよう)するは隠岐侯(おきこう)の
藩邸(やしき)綱塚(つなつか)は同所(とうしよ)功雲寺(こううんし)の境内(けいたい)にあり
《割書:按(あんする)に窪三田(くほみた)に綱生山(かうしやうさん)當光寺(たうくわうし)といへる一向派(いつかうは)の寺(てら)あり渡辺(わたなへ)の綱(つな)か出生(しゆつしやう)の地(ち)|なりといひ傳(つた)ふ又/三田八幡宮(みたはちまんくう)の神躰(しんたい)をも渡辺(わたなへ)の綱(つな)か守護神(しゆこしん)なりとし》
《割書:すへて此辺(このへん)綱(つな)に縁(えん)ある事のみ多(おほ)し會津家(あいつけ)の別荘(へつさう)にも綱(つな)か塚(つか)と称(しよう)するもの|ありて塚上(ちやうしやう)の松(まつ)を懐古松(くわいこのまつ)と号(なつ)けられ鵞峯先生(かほうせんせい)の箕田園(みたえん)の記(き)を作(つく)らる》
《割書:其(その)略(りやく)に云く武蔵國(むさしのくに)荏原郡(えはらこほり)渋谷荘(しふやのしやう)箕田邑(みたむら)は源綱(みなもとのつな)か陳跡(ちんせき)なり綱(つな)老(おひ)て|仕(つかへ)をかへし此所(このところ)に終(をは)るしかりしより已来(このかた)数百(すひやく)の星霜(せいさう)を歴(ふる)といへとも其塚(そのつか)猶(なほ)》
《割書:存(そん)す塚上(ちやうしやう)に松(まつ)を栽(うゑ)遺蹤(いしやう)を摽(ひやう)す則(すなはち)是(これ)壮氣(さうき)いまた散(さん)せす千歳(せんさい)の餘情(よしやう)|あるものか明暦(めいれき)四戊戌の夏(なつ)會津(あいつ)源公(けんこう)此地(このち)を賜(たま)ひ別荘(へつさう)とし給ふ猶(なほ)其(その)》
《割書:塚(つか)を存(そん)する事は蓋(けたし)その勇(ゆう)を取(と)り古(いにしへ)の士(し)を尚(たつとみ)たまふ儀(き)歟(か)と云々かくの|如(こと)く記(しる)されたれと此地(このち)は箕田(みた)にあらす猶(なほ)前(まへ)の三田(みた)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》
《割書:照合(てらしあは)せてみるへし|》
小山神明宮(こやましんめいくう) 同所(とうしよ)有馬家(ありまけ)と黒田家(くろたけ)の間(あひた)小高(こたか)き所(ところ)にあり
神躰(しんたい)は雨寳童子(うはうとうし)別當(へつたう)は天台宗(てんたいしう)不動院(ふとうゐん)と号(かう)す此所(このところ)を
飯倉神明宮(いひくらしんめいくう)の舊地(きうち)とするは誤(あやま)なり
【右丁】
三田(みた)
春日明神(かすかみやうしん)社
【図】
【枠内】本社
【枠内】神楽殿
【枠内】地蔵
【左丁】
春日明神社(かすかみやうしんのやしろ) 三田(みた)一丁目にあり別當(へつたう)を三笠山(さんりつさん)神宮寺(しんくうし)と号(かう)
す和州(わしう)三笠山(さむりふさん)春日(かすか)四/所(しよ)の御神(おほんかみ)を鎮座(ちんさ)なし奉(たてまつ)るとそ
三田(みた)の産土(うふすな)神にして例祭(れいさい)は毎年(まいねん)九月九日に修行(しゆきやう)す傳(つた)へ
云/當社(たうしや)は村上天皇(むらかみてんわうの)天徳年間(てんとくねんかん)武蔵國司(むさしのこくし)藤原正房(ふちはらのまさふさ)任國(にんこく)
の頃(ころ)藤原氏(ふちはらうち)の宗廟(そうひやう)たる故(ゆゑ)に此(この)御神(おほんかみ)を此地(このち)に勧請(くわんしやう)せし
むるとなり其(その)後(のち)文明(ふんめい)の頃(ころ)法印(はふいん)慶賢(けいけん)中興(ちゆうこう)す本地佛(ほんちふつ)は
十一/面観世音(めんくわんせおん)にして弘法大師(こうはふたいし)の彫造(てうさう)なりといふ慶賢(けいけん)瑞(すゐ)
夢(む)によりて感得(かんとく)の霊佛(れいふつ)なりといひ傳(つた)ふ
月波楼(けつはろう) 同所(とうしよ)松平主殿侯(まつたひらとのもこう)別荘(へつさう)の看楼(ものみ)の号(かう)なり此地(このち)の
眺望(てうはう)實(しつ)に洞庭(とうてい)の風景(ふうけい)を縮(ちゝめ)たるか如(こと)く岳陽(かくやう)の大観(たいくわん)を摸(うつす)に
似(に)たり依(よつ)て城南(しやうなん)の勝地(しようち)とす羅山先生(らさんせんせい)の東明集(とうめいしふ)に詳(つまひらか)也
三田八幡宮(みたはちまんくう) 芝田町(しはたまち)七丁目にあり三田(みた)の惣鎮守(さうちんしゆ)にして祭(まつ)る所(ところ)
山城(やましろ)男山八幡宮(をとこやまはちまんくう)と同くして 後一条帝(こいちてうていの)寛仁年間(くわんにんねんかん)草創(さう〳〵)
【右丁】
三田八幡宮(みたはちまんくう)
【図】
【枠内】別當
【枠内】海辺
【左丁】
【図】
【枠内】天神
【枠内】不動
【枠内】石尊
【枠内】いなり
【枠内】拝殿
【枠内】本社
【枠内】神楽殿
【右丁】
聖坂(ひしりさか)
済海寺(さいかいし)
功運寺(こううんし)
【図】
【枠内】本堂
【枠内】済海寺
【枠内】観音
【枠内】大増寺
【枠内】本堂
【枠内】功運寺
【枠内】かね
【左丁】
【図】
【枠内】いなり
三社
観音
【右丁】
すといひ傳(つた)ふ旧地(きうち)は窪三田(くほみた)にあり《割書:土人(としん)云/當社(たうしや)は延喜式(えんきしき)の神名記(しんみやうき)|及(およ)ひ武蔵風土記(むさしふとき)等(とう)の書(しよ)に載(のす)る》
《割書:所(ところ)の薭田神社(ひゑたのしんしや)是(これ)なり今(いま)も其(その)旧地(きうち)に|一社(いつしや)あり窪三田八幡宮(くほみたはちまんくう)と称(しよう)す》正保年間(しやうほねんかん)今(いま)の地(ち)へ移(うつ)し奉(たてまつ)るといへり
此地(このち)後(うしろ)は山林(さんりん)にして前(まへ)は東海(とうかい)に臨(のそ)む故(ゆゑ)に風光(ふうくわう)秀美(しゆうひ)なり
別當(へつたう)は天台宗(てんたいしう)にして眺海山(ちやうかいさん)無量院(むりやうゐん)と号(かう)す祭禮(さいれい)は隔年(かくねん)八月
十五日に修行(しゆきやう)す放生會(はうしやうゑ)あり
延喜式神名帳云 武蔵國荏原郡御田郷
薭田八幡
武蔵國風土記残篇云 荏原郡御田郷薭田八幡
圭田五十八束三字田
所祭應神天皇也武内宿祢荒木田襲津彦等也和
銅二年己酉八月十五日始行神禮有神戸巫戸等
龍谷山(りうこくさん)功運寺(こううんし) 同所(とうしよ)聖坂(ひしりさか)にあり《割書:聖坂(ひしりさか)とはむかし此地(このち)に高野聖(かうやひしり)多(おほ)く|住(すみ)て開(ひら)きたりし坂(さか)なれはかく云(いふ)とそ》
曹洞派(さうとうは)の禅窟(せんくつ)にして三州(さんしう)龍門寺(りうもんし)に属(そく)す開山(かいさん)を黙室天周(もくしつてんしう)
和尚(おしやう)といふ支院(しゐん)三ヶ寺(し)あり當寺(たうし)は定會地(ちやうゑち)にして所化寮(しよけりやう)
あり當寺(たうし)境内(けいたい)に綱塚(つなつか)と称(しよう)するものあり《割書:綱(つな)か事(こと)は前(まへ)の三田(みた)及(およ)ひ|綱坂(つなさか)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》
【左丁】
周光山(しうくわうさん)済海寺(さいかいし) 聖坂(ひしりさか)の上道より左側(ひたりかは)にあり浄土宗(しやうとしう)にして
京師(けいし)智恩院(ちおんゐん)に属(そく)す上古(しやうこ)は竹柴寺(たけしはてら)と号(かう)して巍(き)々たる真(しん)
言(こん)の古刹(こせつ)なりしか中古(ちゆうこ)荒廃(くわうはい)に逮(およ)ぶ依(よつ)て法誉(はふよ)上人/念無和(ねんむお)
尚(しやう)中興(ちゆうこう)す《割書:その庭(には)海岸(かいかん)に臨(のそ)むて|沖(おき)より目當(めあて)の燈篭(とうろう)あり》
當寺(たうし)庭中(ていちゆう)の眺望(てうはう)は實(しつ)に絶景(せつけい)なり房総(はうさう)の群山(くんさん)眼下(かんか)にあり
て雅趣(かしゆ)すくなからす朝夕(てうせき)に漂(たゝよ)ふ釣舟(つりふね)は沖(おき)に小(ちひさ)く暮(くれ)て数點(すてん)の
漁火(きよくわ)波(なみ)を焼(やく)かと疑(うたか)はる群芳(くんはう)發(はつ)して緑陰(りよくいん)深(ふか)く風露(ふうろ)爽(さはやか)に
して氷霜(ひやうさう)潔(いさきよ)し四時(しいし)に観(くわん)をあらためて風人(ふうしん)の眼(まなこ)を凝(こら)しむる
一勝地(いつしようち)なり月(つき)の岬(みさき)といふも此辺(このへん)の惣名(さうめう)なり
竹柴寺舊址(たけしはてらのきうし) 済海寺(さいかいし)と同(おなし)隣(となり)の土岐侯(ときこう)の邸(やしき)の地(ち)其(その)舊跡(きうせき)なり
といひ傳(つた)ふ《割書:山岡明阿(やまをかみやうあ)云(いふ)按(あんする)に今(いま)の地(ち)は海辺(かいへん)にてしかも岡(をか)の上(うへ)なれは更級日記(さらしなにき)|にいへる所(ところ)にかなはす若(もし)いよ〳〵此寺(このてら)にてあらは昔(むかし)は外(ほか)にありしを》
《割書:後(のち)にこの所(ところ)へうつせしなるへしと云々|更級日記云》
今(いま)は武蔵國(むさしのくに)になりぬ殊(こと)にをかしき所も見えす濱(はま)も砂子(すなこ)
【右丁】
白(しろ)く波(なみ)もなくこひちの様(やう)にて紫生(むらさきおふ)と聞(きく)野(の)も蘆(あし)荻(をき)のみ
高(たか)く生(おひ)て馬(うま)に乗(のり)て弓(ゆみ)もたる末(すゑ)見えぬ迄(まて)高(たか)く生茂(おひしけ)りて
中(なか)を分行(わけゆく)に竹柴(たけしは)といふ寺あり遥(はるか)にいゝさろうといふ
所(ところ)の楼(ろう)の跡(あと)礎(いしすゑ)なとありいかなる所そと問(とへ)は是(これ)はいにしへ
竹柴(たけしは)といふさかなり國(くに)の人のありけるを火焚家(ひたきや)の火(ひ)
焚(たく)衛士(ゑし)にさし奉(たてまつ)りたりけるに御前(おまへ)の庭(には)を掃(はく)とて
なとや苦(くる)しきめをみるらむ我國(わかくに)に七つ三つ造(つく)り
居(すゑ)たる酒壺(さかつほ)にさし渡(わた)したるひたえの瓢(ひさこ)の南風(みなみかせ)吹(ふけ)は
北(きた)に靡(なひ)き北風(きたかせ)吹(ふけ)は南(みなみ)になひき西(にし)吹(ふけ)は東(ひかし)に靡(なひ)き東(ひかし)
吹(ふけ)は西(にし)になひくを見てかくてあるよと獨(ひとり)こちつふやき
けるを其時(そのとき)の帝([み]かと)の御(おん)むすめいみしうかしつかれ
たまふ只(たゝ)獨(ひと)り御簾(みす)の際(きは)に立出(たちいて)給ひて柱(はしら)に寄(より)かゝ
りて御覧(こらん)するにこのをのこかく獨(ひとり)こつをいと
【左丁】
哀(あはれ)にいかなる瓢(ひさこ)のいかに靡(なひく)ならんといみしう床(ゆか)しく
おほされけれは御簾(みす)を押明(おしあけ)てあのをのここちよれと
めしけれはかしこまりて高欄(かうらん)のつらに参(まゐ)りたりけれは
云(いひ)つる事/今(いま)ひとかへり我(われ)にいひて聞(きか)せよと仰(あふせ)られけれは
酒壺(さかつほ)の事今ひとかへり申けれは我(われ)ゐていきて見せよ
さいふやうありと仰(あふせ)られけれはかしこく恐(おそろ)しと思(おも)ひ
けれとさるへきにやありけんおひたてまつりて下(くた)るに
便(ひん)なく人(ひと)追来(おひきた)らんと思(おも)ひて其夜(そのよ)勢多(せた)の橋(はし)のもと
に此宮(このみや)を居(すゑ)たてまつりて瀬田(せた)の橋(はし)をひとまはかり
こほちて夫(それ)を飛越(とひこえ)て此宮(このみや)をかきおひ奉りて七日(なぬか)
七夜(なゝよ)といふに武蔵國(むさしのくに)にいきつきにけり帝(みかと)后(きさき)御子(みこ)
うせ給ひぬとおほしまとひもとめ給ふにむさしの
國(くに)の衛士(ゑし)のをのこなんいとかうはしきものを首(くび)に
【右丁】
【図】
【左丁】
竹柴寺(たけしはてらの)
古事(こし)
【図】
【右丁】
引(ひき)かけて飛様(とふやう)に逃(にけ)たると申出(まをしいて)て此をのこを尋(たつぬ)るになかり
けり論(ろん)なく本(もと)の國(くに)にこそ行(ゆく)らめと公(おほやけ)より使(つかひ)下(くた)りて追(お)ふに
勢田(せた)の橋(はし)こほれて得(え)行(ゆき)やらす三月(みつき)といふにむさしの
國(くに)にいきつきて此をのこを尋(たつぬ)るに此(この)御子(みこ)公(おほやけ)使(つかひ)をめして
我(われ)さるへきにやありけん此(この)男(をとこ)の家(いへ)ゆかしくてゐて行(ゆけ)と
いひしかはゐて來(きた)りいみしくこゝあかよく覚(おほ)ゆこの男(をとこ)罪(つみ)
しきうせられは我(われ)はいかてあれと是(これ)も前世(さきのよ)に此國(このくに)に
跡(あと)をたるへきすくせことありけめはや帰(かへり)て公(おほやけ)に此(この)
よしを奏(さう)せよと仰(あふせ)られけれはいはんかたなくてのほりて
御門(みかと)にかくなんありつると奏(さう)しけれは云(いふ)かひなし其(その)男(をとこ)
を罪(つみ)しても今(いま)は此宮(このみや)をとりかへし都(みやこ)にかへし奉(たてまつ)る
へきにもあらす竹柴(たけしは)のをのこにいけらん世(よ)の限(かき)り
むさしの國(くに)を預(あつけ)とらせて公事(おほやけこと)もなさせしたゝ宮(みや)に
【左丁】
其(その)國(くに)あつけ奉(たてまつ)らせ賜(たま)ふよしの宣旨(せんし)下(くた)りけれは此(この)家(いへ)を
内裡(たいり)のことく造(つく)りて住(すま)せたてまつりける家(いへ)を宮(みや)なと
うせ給ひにけれは寺(てら)になしたるを竹柴寺(たけしはてら)といふ
なり云々
亀塚(かめつか) 済海寺(さいかいし)の北(きた)に隣(とな)りて隠岐家(おきけ)の別荘(べつさう)の地(ち)にあり
《割書:昔(むかし)は竹柴寺(たけしはてら)の境内(けいたい)なりしを御開國(こかいこく)の頃(ころ)地(ち)を割(わり)て隠岐家(おきけ)の別荘(へつさう)に|給ふ故(ゆゑ)に此時(このとき)亀塚(かめつか)は隠岐家(おきけ)邸(やしき)の内(うち)に入(いり)たりとそ其(その)塚(つか)のかたはらに其(その)主(しゆ)の》
《割書:建(たて)られたる亀塚(かめつか)の|碑(ひ)と称(しよう)するものあり》相傳(あひつた)ふ往古(そのかみ)竹柴(たけしは)の衛士(ゑし)の宅地(たくち)に酒壺(さかつほ)あり
其(その)もとに一(ひと)つの霊亀(れいき)栖(すめ)り後(のち)土人(としん)崇(あか)めて神(かみ)に祀(まつ)れり
いつの頃(ころ)にやありけん或時(あるとき)夜(よ)もすから風雨(ふうう)あり其(その)翌日(よくしつ)
彼(かの)酒壺(さかつほ)一堆(いつたい)の石(いし)に化(くわ)せりと云/又(また)文明(ふんめい)中(ちゆう)太田道灌(おほたたうくわん)此地(このち)に
斥候(ものみ)を置(おき)其(その)亀(かめ)の霊(れい)あるをもつてこれを河圖(かと)と号(なつく)る
といへり《割書:済海寺(さいかいし)の山号(さんかう)を昔(むかし)は亀塚山(きちようさん)と唱(とな)へしと也|今(いま)も猶(なほ)土人(としん)は亀塚(かめつか)の済海寺(さいかいし)と呼(よ)へり》
徂徠先生墓(そらいせんせいのはか) 三田寺町(みたてらまち)長松寺(ちやうしようし)といへる浄家(しやうけ)の境内(けいたい)にあり
【右丁】
魚籃(きよらん)【魚監】
観音堂(くわんおんたう)
【図】
【枠内】大こく
弁天
毘沙門
【枠内】いなり
【枠内】地蔵
【図】
【枠内】観音堂
【右丁】
碑文(ひふん)は猗蘭侯(いらんこう)撰(せん)す
嗚呼夫東物先生之墓也嗚呼先生復學於古歸道
鄒魯博究物理立言修辭徳崇名垂不朽莫大焉嗚
呼先生出也如日之升也乃影之及無所不照其朦
焉嗚呼實出先生天意可知也其為人其行状弟子
識矣享保戊申正月十九日六十有三卒姓物部茂
卿以字行銘曰洋洋聖謨世用惑久天降文運斯人
云受乃化乃弘徽猷維厚大業巳成日新冨有瑕其
不壽天奪斯人匪天維奪有司列辰嘻我小信瑕能
孚神盛徳不朽永于牖民
先生(せんせい)は荻生氏(をきふうち)本姓(ほんせい)は物部(ものゝへ)名(なは)雙松(さうしょう)字(あさな)は茂卿(もけい)字(あさな)を以て行(おこな)はる一号(いちかう)は蘐園(けんえん)
通称(つうしよう)は惣右衛門(さうゑもん)と云/父(ちゝ)は方庵(はうあん)と号(かう)して官医(くわんゐ)たり先生(せんせい)父(ちゝ)に従(したかつ)て南総(なんさう)に
住(ちゆう)す五歳(こさい)にして文字(もんし)を識(しる)十五/歳(さい)よく文(ふん)を属(そく)す家(いへ)極(きはめ)て貧(まつ)しく東都(とうと)に出て
力学(りよくかく)す業(きやう)成(なり)て柳澤侯(やなきさはこう)の挙(おこ)るに遇(あ)ひ食禄(しよくろく)五百石を賜(たま)はり編修惣裁(へんしゆさうさい)となる
享保(きやうほ)十三年戊申正月十九日に卒(そつ)す著述(ちよしゆつ)の書(しよ)八十/餘部(よふ)といふ
魚籃観音堂(きよらんくわんおんたう) 同所(とうしよ)浄閑寺(しやうかんし)といへる浄刹(しやうせつ)に安置(あんち)す本尊(ほんそん)は木像(もくさう)
にして六寸/計(はかり)あり《割書:面相(めんさう)唐女(たうしよ)のことくにして右(みき)の御手(みて)に魚籃(きよらん)を|携(たつさへ)左(ひたり)の御手(みて)には天衣(てんえ)を持(ち)したまへり》
縁起(えんきに)曰(いはく)唐(たうの)元和年間(けんくわねんかん)《割書:憲宗(けんそう)の|年号(ねんかう)なり》金沙灘(きんしやたん)といへる地(ち)に一人(ひとり)の美婦(ひふ)の
籃(かこ)を持(ち)して魚(うを)を鬻(ひさ)くあり見(み)る人(ひと)其(その)容貌(ようはう)の麗(うるは)しきを競(きそ)ふ
【左丁】
女(をんな)の云(いは)く我性(わかしやう)佛経(ふつきやう)を悦(よろこ)ふ若(もし)夫(それ)に通(つう)せむ人あらは夫(をつと)とせんと
云/其(その)中(うち)に馬氏(はし)なる人(ひと)あり是(これ)をよくす依(よつて)此(この)女(をんな)をむかへけるに程(ほと)
なく死(し)せり馬氏(はし)悲(かなしみ)に堪(たへ)す日(ひ)を経(へ)て後(のち)異僧(いそう)来(きた)りて馬氏(はし)と
共(とも)に塚(つか)を見るに霊骨(れいこつ)こと〳〵く金鎖(きんさ)となりて光(ひかり)を放(はな)つ是(これ)より
其(その)國(くに)こそりて三寶(さんはう)を崇(たつと)ふとなむ《割書:初(はしめ)金沙灘(きんしやたん)に應化(おうくゑ)まします妙相(みやうさう)を|あかめて魚籃観音(きよらんくわんおん)とは号(なつ)けたてまつる》
爰(こゝ)に當寺(たうし)の開山(かいさん)称誉(しようよ)上人/自(みつから)の師(し)法誉(はふよ)上人/肥州(ひしう)長崎(なかさき)に遊化(いうくゑ)の
頃(ころ)一老婦(いちらうふ)より此(この)霊像(れいさう)を感得(かんとく)し元和(けんわ)三年丁巳/豊前國(ふせんのくに)中(なか)
津(つ)といふ地(ち)に假(かり)に浄舎(しやうしや)を営(いとな)み御座(こさ)を構(かま)へて魚籃院(きよらんゐん)と号(かう)す
竟(つひ)に寛永(くわんえい)七年庚午/三田(みた)の地(ち)に奉安(ほうあん)せしを称誉(しようよ)上人/其地(そのち)の
所(ところ)せきを歎(なけ)き承應(しやうおう)元年壬辰/正(まさ)に今(いま)の地(ち)に移(うつ)し當寺(たうし)を
建立(こんりふ)す尓(しかりし)より緇素(しそ)ます〳〵渇仰(かつかふ)し衆人(しゆうしん)打群(うちむれ)て歩(あゆみ)を運(はこ)ふに
より霊應(れいおう)いやまし香煙(かうゑん)常(つね)に風(かせ)に靡(なひ)き梵唄(ほんはい)うたゝ林(はやし)に
こたふ
【右丁】
潮見坂(しほみさか)
【図】
【左丁】
潮見坂(しほみさか) 聖坂(ひしりさか)の南(みなみ)伊皿子臺町(いさらこたいまち)より田(た)町九丁目へ下(くた)る坂(さか)をいふ
《割書:或人(あるひと)云(いふ)潮見坂(しほみさか)旧名(きうみやう)は潮見崎(しほみさき)と呼(よひ)たりしといふ古(いにしへ)はすへて此辺(このへん)に七(なゝ)崎あり|しと云/按(あんする)に潮見崎/月岬(つきのみさき)袖(そて)ゕ崎/大(おほ)崎/荒藺崎(あらゐかさき)千代(ちよ)ゕ崎/長南(ちやうなん)ゕ崎/是(これ)等(ら)を》
《割書:合(あは)せて七(なゝ)崎|といひしか》
伊皿子薬師堂(いさらこやくしたう) 潮見坂(しほみさか)より高輪(たかなわ)へ下(くた)る坂(さか)の左側(ひたりかは)にあり寺(てら)を醫(ゐ)
王山(わうさん)福昌寺(ふくしやうし)と号(かう)す《割書:天台宗(てんたいしう)城琳(しやうりん)|寺(し)に属(そく)す》本尊(ほんそん)薬師佛(やくしふつ)の像(さう)は智證大(ちしようたい)
師(し)の作(さく)にして右大将(うたいしやう)頼朝卿(よりともきやう)の念持佛(ねんちふつ)なりしといへり往古(そのかみ)相州(さうしう)
鎌倉(かまくら)の佐介谷(さすけかやつ)にありて薬師堂(やくしたう)といふ其のち騒乱(さうらん)の時(とき)住僧(ちゆうそう)護(こ)
持(ち)して當國(たうこく)品川(しなかは)の地(ち)に移(うつ)し奉(たてまつ)る《割書:今(いま)の御殿山(こてんやま)|の地(ち)なり》終(つひ)に寛永年間(くわんえいねんかん)
今(いま)の地(ち)に安置(あんち)すといふ《割書:今(いま)鎌倉(かまくら)佐介谷(さすけかやつ)に薬師堂跡(やくしたうあと)と|字(あさな)する地(ち)あり其(その)旧跡(きうせき)なり》
東鑑曰
建保六年戊寅十二月二日庚子右京兆依霊夢所
令草創給之大倉新御堂安置薬師如来像《割書:雲慶奉|造之》
今日被遂供養導師荘厳房律師行勇咒願圓如房
阿闍梨遍曜堂達頓覺房良喜《割書:若宮|供僧》也施主並室家
等坐簾中
《割書:按(あんする)に東鑑(あつまかゝみ)には此(この)薬師佛(やくしふつ)を運慶(うんけい)の作(さく)とし寺傳(してん)智證大師(ちしようたいし)とす又(また)東鑑に右(う)|京兆(けいちやう)とあるは北条右京太夫義時(ほふてううきやうのたいふよしとき)の事(こと)なり
》
【右丁】
伊皿子(いさらこ)
薬師堂(やくしたう)
【図】
【枠内】本堂
【左丁】
牛小屋(うしこや) 牛町(うしまち)にあり《割書:延宝江戸図(えんはうえとつ)に此地(このち)を|牛(うし)の尻(しり)と云(いふ)とあり》牛(うし)を畜(きう)する家(いへ)多(おほ)く牛(うし)の数(かす)
一千疋(いつせんひき)に餘(あま)れり養(やしな)ふ処(ところ)の牛(うし)額(ひたひ)小(ちひさ)く其(その)角(つの)後(うしろ)に靡(なひ)きたるを藪(やふ)
覆(くゝり)と号(なつ)けて上品(しやうひん)なり都(すへ)て牛(うし)は行事(ゆくこと)正(たゝ)しく殊(こと)に早(はや)し形(かたち)婉(たをやか)に
して精氣(せいき)撓(たわま)す力量(りきりやう)勝(すくれ)たるに軛(くひき)をかけ重(おもき)を乗(の)せて遠(とほ)きに
運(はこ)ふ人(ひと)の用(よう)を助(たすく)る事(こと)其功(そのこう)誠(まこと)に少(すくな)からす古(いにしへ)は淀(よと)鳥羽(とは)にのみ
ありて都(みやこ)の外(ほか)には牛車(うしくるま)なかりしに御入國の頃(ころ)より許宥(きよいう)
ありて江府(こうふ)にも是(これ)を用(もち)ゆる事となれり餘(よ)は駿河(するか)にあるのみ
にて唯(たゝ)此(この)《振り仮名:三ヶ所|さんかしよ》に限(かき)れりとそ
高輪大木戸(たかなわおほきと) 宝永(はうえい)七年庚寅/新(あらた)に海道(かいたう)の左右(さいう)に石垣(いしかき)を築(きつか)せ
られ高札場(かうさつは)となし給ふ《割書:其(その)初(はしめ)は同所(とうしよ)田町(たまち)四丁目の三辻(みつゝち)に|ありし故(ゆゑ)に今(いま)も彼地(かのち)を元札(もとふた)の辻(つち)と唱(とな)ふ》此地(このち)は
江戸(えと)の喉口(こうこう)なればなり《割書:田町(たまち)より品川(しなかは)迄(まて)の|間(あひた)にして海岸(かいかん)なり》七軒(しちけん)と云(いふ)辺(へん)は酒旗(しゆき)肉(にく)
肆(し)海亭(かいてい)をまうけたれは京登(きやうのほ)り東下(あつまくた)り伊勢参宮(いせさんくう)等(とう)の旅(りよ)
人(しん)を餞(おく)り迎(むか)ふるとて来(き)ぬる輩(ともから)こゝに宴(えん)を催(もよほ)し常(つね)に繁(はん)
【右丁】
高輪(たかなは)
牛町(うしまち)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
高輪(たかなは)
大木戸(おほきと)
【図】
【枠内】休所
【左丁】
緑海控郊関高阡
上路間早朝平吐
日残霧半含山遠
近征帆出東西驛
馬班長安従此去
萬里幾人還
南郭
【図】
【右丁】
高輪海邊(たかなはうみべ)
《割書:七月》
二十六/夜待(やまち)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
昌(しやう)の地(ち)たり後(うしろ)には三田(みた)の丘(をか)綿々(めん〳〵)とし前(まへ)には品川(しなかは)の海(うみ)遥(はるか)に
開(ひら)け渚(なきさ)に寄(よす)る浦浪(うらなみ)の真砂(まさこ)を洗(あら)ふ光景(ありさま)なと最(いと)興(きやう)あり
高輪(たかなわ)ゕ原(はら) 里老(りらう)云(いは)く白金臺(しろかねたい)及(およ)ひ二本榎(にほんえのき)品川臺(しなかはたい)大井村(おほゐむら)抔(なと)いふ
辺(あた)り迄(まて)の惣称(さうしよう)なりとそ異本(ゐほん)北條五代記(ほふてうこたいき)に上杉修理太夫朝興(うへすきしゆりのたいふともおき)
武州(ふしう)江戸(えと)の城(しろ)に居住(きよちゆう)す大永(たいえい)四年正月十三日/小田原(をたはら)北条家(ほふてうけ)
より二万餘騎(にまんよき)を引卒(いんそつ)し朝興(ともおき)を攻(せめ)ん為(ため)に彼地(かのち)を發向(はつかう)す
依(よつ)て稲毛(いなけ)六郷(ろくかう)の上杉(うへすき)の家人(けにん)より早馬(はやうま)をもて急(きう)を告(つく)る
朝興(ともおき)は俄(にはか)の事(こと)にて軍評定(いくさひやうちやう)にも及(およ)はす中途(ちゆうと)に出迎(いてむか)ひて勝(しよう)
負(ふ)を決(けつ)すへしと討(うつ)て出(いて)小田原(をたはら)の先陣(せんちん)と品川(しなかは)高輪(たかなわ)ゕ原(はら)
にて渡(わた)り合(あふ)とあり《割書:小田原記(をたはらき)に永禄(えいろく)信玄(しんけん)小田原(をたはら)を攻(せめ)むとする条(てう)|下(か)に一手(ひとて)は江戸(えと)品川(しなかは)の縄嶋(なはしま)の辺(へん)を焼(やき)て民屋(みんおく)を》
《割書: 追捕(つゐほ)すとあり又(また)江戸咄(えとはなし)に高縄手(たかなはて)とあり然(しか)る時(とき)は高縄(たかなは)は高縄手(たかなはて)なり| 按(あんする)に今(いま)の海道(かいたう)は後世(こうせい)に開(ひら)けしものにて古(いにしへ)は丘(をか)の上通(うへとほ)りを通路(つうろ)せしなれは》
《割書: さもありなんかし|》
萬松山(まんしようさん)泉岳寺(せんかくし) 海道(かいたう)の右(みき)にあり野州(やしう)冨田(とんた)の大中寺(たいちゆうし)に属(そく)す曹洞(さうとう)
【左丁】
宗(しう)江戸三箇寺(えとさんかし)の一員(いちいん)たり《割書:橋場(はしば)総泉寺(さうせんし)芝(しは)|青松寺(せいしようし)當寺(たうし)等(とう)也》坊舎(はうしや)三/宇(う)学寮(かくりやう)九
宇(う)あり當寺(たうし)は往古(そのかみ)慶長年間(けいちやうねんかん) 台命(たいめい)を奉(ほう)して門庵宗関(もんあんそうくわん)
和尚(おしやう)外櫻田(そとさくらた)の地(ち)に創建(さうこん)する所(ところ)の禅刹(せんせつ)なり後(のち)寛永(くわんえい)十
八年辛巳/再(ふたゝひ)命(めい)ありて寺(てら)を今(いま)の地(ち)に移(うつ)したりといふ本尊(ほんそん)
釈迦如来(しやかによらい)は座像(ささう)二尺/計(はかり)あり脇士(けふし)は文珠(もんしゆ)普賢(ふけん)なり総(さう)
門(もん)の額(かく)萬松山(まんしようさん)の三大字(さんたいし)は華僧(くわそう)閩沙門(みんのしやもん)道霈(たうはい)の書(しよ)にして
康熙(かうき)辛酉/孟冬(まうとう)上浣(しやうくわん)と記(しる)せり
當寺(たうし)は浅野家(あさのけ)の香花院(かうけゐん)にして其(その)家(いへ)累代(るゐたい)の兆域(ちやういき)あり
又(また)浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみなかのり)及(およ)ひ義士(きし)四十七人の石塔(せきたふ)あり方丈(はうちやう)
より南(みなみ)の丘(をか)の半腹(はんふく)にあり傍(かたはら)に當寺(たうし)住僧(ちゆうそう)建(たつ)る所(ところ)の石(せき)
碑(ひ)あり其(その)旨趣(ししゆ)を注(ちゆう)す二月三月の四日/及(およ)ひ正月七月の十
六日/等(とう)には英名(えいめい)を追慕(つゐほ)してこゝに集(つと)ふ人(ひと)少(すくな)からす又(また)當寺(たうし)に
義士等(きしら)の遺物(ゆゐもつ)を収蔵(しゆさう)する事/多(おほ)し
【右丁】
泉岳寺(せんかくし)
【図】
【枠内】方丈
【枠内】本堂
【枠内】禅堂
【枠内】庫裡
【枠内】かね
【枠内】いなり
【枠内】学寮
【枠内】塔中
【左丁】
浅野家の
義士等を
いたむ
松も
たかの
陰を
引なり
かきつ
はた
其角
【図】
【枠内】四十七士墓
【枠内】学寮
【枠内】学寮
【枠内】学寮
【枠内】中門
【枠内】総門
【右丁】
元禄(けんろく)十四年三月十四日/浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみなかのり)吉良上野介義英(きらかうつけのすけよしひて)
を刃傷(にんしやう)に及(およ)ふにより長矩(なかのり)に死(し)を給ふ後(のち)其(その)家(いへ)の長臣(ちやうしん)大石(おほいし)
内蔵助良雄(くらのすけよしを)本國(ほんこく)播州(はんしう)赤穂(あかほ)に在(あり)て君(きみ)の讐(あた)には共(とも)に天(てん)を
戴(いたゝく)へからすと云(いふ)の義(き)により血盟(けつめい)を以(もつ)て同志(とうし)の者(もの)をかた
らひ終(つひ)に元禄(けんろく)十五年十二月十四日/讐家(しうか)に至(いた)り義士(きし)四十
七人/義英(よしひて)の所在(しよさい)を捜(さか)して其(その)首級(しゆきう)を得(え)當寺(たうし)に至(いたつ)て亡(はう)
君(くん)の墓前(ほせん)に祭(まつ)るの後(のち)誅(ちう)を待(まつ)て翌(よく)十六年二月四日/自殺(しさつ)せ
し事は諸書(しよしよ)に詳(つまひらか)なるを以(もつ)てこれを省(はふ)く
歸命山(きみやうさん)如来寺(によらいし) 大日院(たいにちゐん)と号(かう)す泉岳寺(せんかくし)の南(みなみ)に隣(とな)る天台宗(てんたいしう)
にして東叡山(とうえいさん)に属(そく)せり本尊(ほんそん)五智如来(こちによらい)は座像(ささう)各(おの〳〵)一丈あり
《割書:俗(そく)に芝(しは)の|大佛(おほほとけ)と称(しよう)す》木食(もくしき)但唱師(たんしやうし)の彫造(てうさう)なり《割書:但唱(たんしやう)は佛工(ふつこう)にしてもとより|佛躰(ふつたい)を作(つくる)に妙(みやう)を得(え)たり故(ゆゑ)に》
《割書:奇妙佛(きみやうふつ)と号(かう)せり京都(きやうと)鳴滝(なるたき)の五智山(こちさん)に安(あん)する所(ところ)の石像(せきさう)の|五智如来(こちによらい)十三佛(しふさんふつ)等(とう)は但唱(たんしやう)の作(さく)にして并に自(みつから)の像(さう)をも作(つく)れり》但唱(たんしやう)は
摂州(せつしう)有馬郡(ありまこほり)高須村(たかすむら)の産(さん)なり《割書:彼所(かしこ)に霊亀山(れいきさん)興勝寺(こうしようし)と云(いふ)古刹(こせつ)|ありしを再興(さいこう)して本尊(ほんそん)に釈迦(しやか)》
【左丁】
《割書:如来(によらい)及(およ)ひ自(みつから)の像(さう)をも|彫刻(てうこく)し安置(あんち)せり》其(その)母(はゝ)有馬薬師(ありまやくし)に祈請(きしやう)して是(これ)を設(まう)く
三歳(さんさい)にして魚肉(きよにく)を食(しよく)せす九歳(くさい)初(はしめ)て出家(しゆつけ)す年十五に至(いた)り
木食(もくしき)但善(たんせん)の弟子(てし)となり夫(それ)より後(のち)信州(しんしう)檀特山(たんとくせん)に篭(こも)り
百日(ひやくにち)の中(うち)に念佛三昧(ねんふつさんまい)を修得(しゆとく)し向(むかひ)の峯(みね)に三尊(さんそん)の影向(えうかう)を
拝(はい)す同國(とうこく)浅間嶽(あさまかたけ)及(およ)ひ南紀(なんき)の那智山(なちさん)等(とう)に篭(こも)る事(こと)各(おの〳〵)
百日/宛(つゝ)又(また)南海(なんかい)北溟(ほくめい)の間(あひた)を普(あまね)く回(めく)り諸(もろ〳〵)の奇特(きとく)を見(み)る事(こと)
多(おほ)し終(つひ)に江戸(えと)に下(くた)り寛永(くわんえい)十二年/當寺(たうし)を開創(かいさう)し五智如来(こちによらい)
の像(さう)を作(つく)るといふ《割書:三時念佛(さんしねんふつ)の勧(すゝめ)は但善(たんせん)|但唱(たんしやう)二代にして絶(たえ)たり》
臥龍岡(くわりやうのをか) 境内(けいたい)堂前(たうのまへ)北(きた)の岡(をか)を云(いふ)形状(きやうしやう)を以(もつて)号(かう)とす上(うへ)に天満(てんまん)
宮(くう)の祠(やしろ)ある故(ゆゑ)に天神山(てんしんやま)と呼(よ)へり
太子堂(たいしたう) 同所(とうしよ)旭曜山(きよくえうさん)常照寺(しやうせうし)といへる天台宗(てんたいしう)の寺(てら)にあり聖徳(しやうとく)
太子(たいし)の像(さう)は十六/歳(さい)の尊容(そんよう)にして自(みつから)作(つく)り給ふといふ
《割書:元禄年間(けんろくねんかん)開板(かいはん)の江戸鹿子(えとかのこ)といへるものに明暦年間(めいれきねんかん)越後守光長卿(ゑちこのかみみつなかきやう)の|陪臣(はいしん)川木八兵衛(かはきはちひやうゑ)某(それかし)故(ゆゑ)ありて此(この)所(ところ)に安置(あんち)したてまつるとあり》
【右丁】
如来寺(によらいし)
世に
大佛(おほほとけ)と
いふ
【図】
【枠内】臥龍岡
【枠内】秋葉
【枠内】天神
【枠内】観音
【枠内】大日
【枠内】地蔵
【枠内】二王礎
【左丁】
【図】
【枠内】本堂
【枠内】かね
【枠内】方丈
【右丁】
稲荷祠(いなりのやしろ) 太子堂(たいしたう)庚申堂(かうしんたう)の中(なか)に並(なら)ひ立(たゝ)せ給ふ高輪(たかなわ)の
産土神(うふすな)なり
庚申堂(かうしんたう) 同(おな)し境内(けいたい)にあり本尊(ほんそんは)青面金剛(せいめんこんかう)の木像(もくさう)なり摂州(せつしう)
四天王寺(してんわうし)の住侶(ちゆうりよ)民部卿(みんふきやう)僧都(そうつ)豪範(かうはん)の作(さく)といふ縁起云(えんきにいふ)
大宝(たいはう)元年辛丑正月/庚申(かのえさる)の日(ひ)は一年(いちねん)の間(あひた)六度(ろくと)ありて八専(はつせん)
の間日(まひ)に中(あた)れり人間(にんけん)に三尸(さんし)といふ三(みつ)の悪蟲(あくちう)ありて災(わさはひ)を
招(まね)く然(しかる)に庚申(かうしん)を祭(まつ)る時(とき)は此蟲(このむし)退散(たいさん)し身(み)に幸(さいはひ)を来(きた)らしめ
若(もし)不信(ふしん)の輩(ともから)ある時(とき)は命根(めいこん)を吸(すひ)悪業(あくごふ)を天帝(てんてい)に訴(うつた)ふ今(いま)帝(たい)
釈天王(しやくてんわう)衆生(しゆしやう)をあはれみ給ふ故(ゆゑ)に汝(なんち)に此法(このはふ)を附属(ふそく)す我(われ)は
則(すなはち)青面金剛(せいめんこんかう)なりと又十二の誓願(せいくわん)を示(しめ)し給へり僧都(そうつ)信(しん)
心(しん)肝(きも)に命(めい)し直(すく)に感見(かんけん)し奉(たてまつ)る所(ところ)の尊容(そんよう)を彫刻(てうこく)し普(あまね)く
衆生(しゆしやう)に庚申(かうしん)の法(はふ)を授(さつ)くとなり
光照山(くわうせうさん)常光寺(しやうくわうし) 同所(とうしよ)北町(きたまち)にあり浄土宗(しやうとしう)にして芝(しは)増上寺(そうしやうし)に
【左丁】
属(そく)す開山(かいさん)を大誉(たいよ)上人と号(かう)す本尊(ほんそん)は金像(こんさう)の阿弥陀如来(あみたによらい)
なり《割書:世(よ)に信州(しんしう)善光寺(せんくわうし)分身(ふんしん)|の弥陀如来(みたによらい)と称(しよう)す》縁起云(えんきにいはく)此(この)霊像(れいさう)は聖徳太子(しやうとくたいし)難波(なには)
の堀江(ほりえ)の水面(すゐめん)にして尊容(そんよう)を拝(はい)し給ひその像(さう)を鋳(ゐ)さ
しむ後(のち)元暦(けんりやく)元年/播州(はんしう)一(いち)の谷合戦(たにかつせん)の時(とき)武蔵國(むさしのくに)の住人(ちゆうにん)
岡部六弥太忠澄(をかへのろくやたたゝすみ)摂州(せつしう)蘆屋(あしや)の里(さと)に陣(ちん)しける時(とき)或翁(あるおきな)
此像(このさう)を忠澄(たゝすみ)に受与(しゆよ)す忠澄(たゝすみ)大(おほひ)に歓喜(くわんき)し鎧櫃(よろひひつ)に収(をさ)め
出陣(しゆつちん)す然(しかる)に霊威(れいゐ)の事ありて危難(きなん)を除(のか)れ剰(あまつさ)へ忠度(たゝのり)を
討(うつ)て武名(ふめい)を顕(あらは)せり依(よつて)代々/其家(そのいへ)に傳(つた)へしを獨夜(とくや)と云/僧(そう)
故(ゆゑ)ありて増上寺(そうしやうし)第(たい)四十六世/前大僧正(さきのたいそうしやう)定月和尚(ちやうけつおしやう)へ奉(たてまつ)る
遂(つひ)に定月和尚(ちやうけつおしやう)件(くたん)の旨趣(ししゆ)を自記(しき)し給ひ本尊(ほんそん)と共(とも)に
當寺(たうし)に収(をさめ)られしといふ此故(このゆゑ)にや當寺(たうし)境内(けいたい)に岡部六弥太(をかへのろくやた)か
墓(はか)と呼(よ)ふ古(ふる)き石塔(せきたふ)の破壊(はゑ)せるものを存(そん)せり
珠玉山(しゆきよくさん)宝蔵寺(はうさうし) 同所(とうしょ)にあり浄土宗(しやうとしう)にして芝(しは)増上寺(そうしやうし)に属(そく)す
【右丁】
太子堂(たいしたう)
稲荷社(いなりのやしろ)
庚申堂(かうしんたう)
【図】
【枠内】太子
【枠内】稲荷
【枠内】庚申
【枠内】かね
【枠内】かくら所
【枠内】高輪海辺
【左丁】
常光寺(しやうくわうし)
【図】
【枠内】本堂
【枠内】方丈
【枠内】弁天
【右丁】
開山(かいさん)は順清法印(しゆんせいはふいん)と号(かう)す往古(わうこ)は慈覚大師(しかくたいし)開創(かいさう)の梵刹(ほんせつ)
にして天台宗(てんたいしう)なりしといへりいつの頃(ころ)よりか今(いま)の宗風(しうふう)に轉(てん)
して七世/忍空甚光勅(にんくうしんくわうちよく)上人/慧順和尚(ゑしゆんおしやう)中興(ちゆうこう)す本尊(ほんそん)阿弥陀(あみた)
如来(によらい)の像(さう)は善導大師(せんたうたいし)の作(さく)にして御手(おんて)に宝珠(はうしゆ)を持(ち)し給ふ
故(ゆゑ)に世俗(せそく)宝珠阿弥陀如来(はうしゆあみたによらい)と称(しよう)す《割書:本尊(ほんそん)の背面(はいめん)に永隆(えいりう)元年|十一月十七日/彫刻(てうこく)と鐫(ゑり)》
《割書:付(つけ)て|あり》
子安観世音(こやすくわんせおん) 當寺(たうし)に安(あん)す画像(くわさう)にして 延喜帝(えんきてい)の震筆(しんひつ)【宸筆の誤】
なりと云(いふ)縁起(えんき)一巻(いちくわん)あり《割書:画縁起(くわえんき)は土佐光信(とさのみつのふ)と云(いふ)略縁起(りやくえんき)は|和田義盛(わたよしもり)撰(せん)する所(ところ)といふ》
縁起略(えんきりやく)に云/建久(けんきう)元年十一月/右大将頼朝卿(うたいしやうよりともきやう)上洛(しやうらく)す其(その)
途中(とちゆう)一人の婦(ふ)ありて告(つけ)て云く此霊像(このれいさう)は梁武帝(りやうのふてい)未(いまた)皇(くわう)
太子(たいし)ましまさゝりし時(とき)常(つね)に観音(くわんおん)を祈念(きねん)し給ふ或時(あるとき)此(この)
霊像(れいさう)を感得(かんとく)なし給ひしに程(ほと)なく太子(たいし)降誕(かうたん)ましま
せり昭明太子(せうめいたいし)是(これ)なり其後(そのゝち)此霊像(このれいさう)本朝(ほんてう)に渡(わた)りしに
【左丁】
石神(しやくしん)社
縁遠(えんとほ)き婦人(ふしん)
當社(たうしや)に詣(まうて)
良縁(りやうえん)を祈(いの)
れは必(かならす)験(しるし)あり
といふ
報賽(はうさい)には
社地(しやち)に何(なに)に
限(かき)らす
樹木(しゆもく)を
栽(うゆ)るを
習俗(ならひ)と
せり
相傳(あひつた)ふ
石剱(せきけん)を
祭(まつ)ると
いふ
【図】
【右丁】
欽明天皇(きんめいてんわう)御/崇敬(そうけい)あり又(また) 醍醐天皇(たいこてんわう)も尊信(そんしん)なし給ひ
震翰(しんかん)【ママ】を注(そゝ)き縁起(えんき)を作(つく)らせ給ふてこれを将軍(しやうくん)にたまふと
なり頼朝卿(よりともきやう)これを得(え)給ひ鎌倉(かまくら)に安置(あんち)し尊信(そんしん)浅(あさ)から
さるにより其頃(そのころ)和田左衛門尉義盛(わたさゑもんのしやうよしもり)再(ふたゝひ)縁起(えんき)を書添(かきそへ)たり
しとなり此霊像(このれいさう)鎌倉(かまくら)兵乱(ひやうらん)の後(のち)當寺(たうし)に遷(うつ)しまゐらすと
いへり
辨財天(へんさいてん) 慈覚大師(しかくたいし)江州(かうしう)竹生島(ちくふしま)に詣(まう)て給ひし頃(ころ)海中(かいちう)
波間(なみま)に影現(えうけん)ありし宇賀神(うかしん)の形(かたち)を摸擬(もき)し御長(おんたけ)七寸
三分に彫刻(てうこく)なし給ひしを當寺(たうし)に安置(あんち)し奉(たてまつ)るとなり
石神社(しやくしんのやしろ) 同所(とうしよ)高輪南町(たかなわみなみまち)鹿児島(かこしま)久留米(くるめ)両侯(りやうこう)の間(あひた)の小路(こうち)
を入て西(にし)の方(かた)二丁/斗(はかり)にあり祭神(さいしん)詳(つまひらか)ならす同所(とうしよ)天台宗(てんたいしう)
安泰寺(あんたいし)の持(もち)なり昔(むかし)は遮軍神(しやくんしん)に作(つく)るとなり寄願(きくわん)ある者(もの)
成就(しやうしゆ)の後(のち)は必(かならす)何(なに)によらす樹木(しゆもく)を携(たつさ)へ来(きた)り社地(しやち)に栽(うゑ)て
【左丁】
高山(たかやま)
稲荷(いなり)社
薩州侯
御藩の
南にあり
【図】
【枠内】本社
【枠内】庚申
疱瘡神
いなり
あきは
天神
いなり
【右丁】
東禅寺(とうせんし)
【図】
【枠内】本堂
【枠内】方丈
【枠内】開山堂
【枠内】庫裡
【左丁】
【図】
【枠内】塔中
【枠内】塔中
【枠内】天神
【枠内】経堂
【枠内】山門
【枠内】八まん
【枠内】総門
【右丁】
賽(かへりまうし)すといふ此地(このち)を石神横町(しやくしんよこてう)と字(あさな)するは此社(このやしろ)ある故(ゆゑ)なり
土人(としん)誤(あやま)りておしやもし横町(よこてう)と唱(とな)ふ
佛日山(ふつにちさん)東禅寺(とうせんし) 同所(とうしよ)高輪中町(たかなわなかまち)にあり妙心派(みやうしんは)の禅宗(せんしう)江戸(えと)
四箇寺(しかし)の一(いつ)なり本尊(ほんそん)は釋迦如来(しやかによらい)開山(かいさん)は嶺南和尚(れいなんおしやう)と号(かう)す
《割書:宝鑑國師(はうかんこくし)|と諡(おくりな)す》和尚(おしやう)は日向國(ひうかのくに)飫肥(おひ)の人(ひと)守永氏肥前守祐良(もりなかうちひせんのかみすけよし)の五(こ)
男(なん)なり幼(いとけなき)より佛門(ふつもん)に入(いつ)て後(のち)宗門(しうもん)の大徳(たいとこ)たり《割書:寛永(くわんえい)二十年|癸未七月廿》
《割書:七日/寂(しやく)す|歳(とし)六十二》慶長(けいちやう)の頃(ころ)江戸(えと)に来(きた)り阿左布(あさふ)に一宇(いちう)を闢(ひら)く當寺(たうし)
是(これ)なり《割書:其地(そのち)を今(いま)も|霊南坂(れいなんさか)と云(いふ)》寛永年間(くわんえいねんかん)今(いま)の地(ち)に移(うつ)さる総門(さうもん)は海(うみ)に
臨(のそ)む此門(このもん)の額(かく)海上禅林(かいしやうせんりん)の四大字(したいし)は朝鮮國(てうせんこく)雪峯(せつほう)の筆(ふて)
なり頗(すこふ)る世(よ)に称(しよう)せり
宝鑑録云
敕諡大夫法鑑禅師嶺南和尚大心中興主盟東禅
開闢始祖得法洛西之地撥轉向上機関盛化海東
之邊云云
有喜壽八幡宮(うきすはちまんくう) 寺外(しくわい)右(みき)の方(かた)にあり安泰寺(あんたいし)奉祀(ほうし)す
【左丁】
此地(このち)を有喜壽(うきす)の森(もり)と号(なつ)く《割書:或人(あるひと)云(いふ)古(いにし)へ老樹(らうしゆ)の柊(ひ[ゝ]らき)一株(ひとかふ)ありて|鵜(う)の塒(ねくら)ありしかは鵜樹巣(うきす)とも》
《割書:かくと|いへり》
谷山(やつやま) 今(いま)云(いふ)所(ところ)は品川(しなかは)の入口(いりくち)にありて海(うみ)に臨(のそ)む丘(をか)をさして
しかよへり昔(むかし)は大日山(たいにちさん)と号(なつけ)けるとそ《割書:紫(むらさき)の一本(ひともと)といへる草紙(さうし)に昔(むかし)|此地(このち)に出崎(てさき)ありしとも或(あるひ)は》
《割書:諸侯(しよこう)八人の弟宅(やしき)ありし故(ゆゑ)にしか|唱(とな)ふるといへとも証(しやう)とするにたらす》谷山(やつやま)は邑名(いうめい)にして目黒(めくろ)の南(みなみ)より
袖(そて)ゕ崎(さき)仙臺侯(せんたいこう)別荘(へつさう)の地(ち)の辺(へん)へかけて都(すへ)て谷山村(やつやまむら)なり
此地(このち)に限(かき)るの号(かう)にはあらす《割書:大日山(たいにちさん)とよひしは昔(むかし)此地(このち)に石像(せきさう)の|大日如来(たいにちによらい)立(たゝ)せ給ひし故(ゆゑ)なりとそ》
《割書:後世(こうせい)其堂宇(そのたうう)破壊(はえ)せし頃(ころ)谷山稲荷(やつやまいなり)の地(ち)にうつし又/品川(しなかは)北馬場(きたはゝ)の光厳(くわうけん)|寺(し)へ収(をさ)むるといへと今(いま)は其(その)石像(せきさう)の所在(しよさい)をしらす》
【右丁】
江戸名所圖會天樞下終
【左丁】
【見返し】
【裏表紙】
《題:江戸名所図会 十三》
大宮氷川神社(おほみやひかはのじんしや) 大宮駅(おほみやえき)の中(うち) 《割書:此所を氷川戸庄(ひかはとのしやう)|高鼻村(たかはなむら)といふ》 街道(かいたう)の右(みき)の方に鳥居(とりゐ)立石(たていし)あり
これより十八町 入(いり)て御本社(こほんしや)なり神領(しんりやう)三百石 神主(かむぬし)角井氏(つのゐうち)岩井氏(いはゐうち)
これを奉祀(ほうし)す祭神三座(さいしんさんさ)本社(ほんしや)の右は素盞雄尊(そさのをのみこと) 《割書:男体(なんたい)の宮(にや)と称(しやう)す|奥(おく)の社(やしろ)ともいふ》 同(おなしく)
左(ひたり)は奇稲田媛命(くしいなたひめのみこと) 《割書:女体(によたい)の宮(みや)と称(しやう)す|是(これ)も奥(おく)の社(やしろ)と唱(とな)ふ》 本宮(ほんくう)は大己貴尊(おほあなむちのみこと)を斎ひ奉る 《割書:簸王子宮|と称す》
これ即(すなはち)武蔵国第一宮(むさしのくにたいいちくう)にして延喜式(えんきしき)名神(みやうしん)大社(たいしや)大月嘗新嘗(おほつきなみにひなみ)に列する第一(たいいち)の宦舎(くわんしや)たる所なり
荒波々幾社(あらはゝきのやしろ) 《割書:本社の傍(かたはら)に在(あり)手摩乳(てなつち)足摩乳(あしなつち)二神を祀(まつ)る武蔵国風土記に|観松彦香殖稲(みまつひこかゑしねの)天皇御宇三年所祭とあるは此社をいへるにや》
宗像社(むなかたのやしろ) 《割書:同橋(おなしはし)の左(ひたり)の方にあり祭神(さいしん)田心姫(たこりひめ)湍津姫(おきつひめ)|市杵島姫(いちきしまひめ)等(とう)の三(み)はしらの女神を祀(まつ)る》
五山祇社(いつやまつみのやしろ) 《割書:本社(ほんしy)の後(うしろ)の方(かた)にあり大(おほ)-山(やま)-祇(つみ) 中山祇(なかやまつみ) 麓山祇(ふもとやまつみ)|正勝山祇(まさかやまつみ) 闇山祇(くらやまつみ) 以上五神を祀(まつ)る》
本地堂(ほんちだう) 《割書:神池(みたらし)の北(きた)にあり観音(くわんおん)を本尊(ほんそん)とす社僧(しやそう)五宇(こう)あり江戸|護持院末(こちゐんまつ)新義真言宗(しんきしんこんしう)にして本地供(ほんちく)を主務(しゆむ)すといへり》
《割書:延喜式神名帳曰武蔵国足立郡氷川神社名神大| 月次新嘗 云 云》
《割書:一宮記曰武蔵国足立郡氷川神社素盞烏命 云 云| 神名帳頭註曰武蔵国足立郡氷川社日本武尊東》
《割書: 征之時勧請素盞尊也 云 云|三代実録曰貞観十一年十一月十九日壬申授武》
《割書: 蔵国従四位下氷川神社正四位下 云 云|武蔵国風土記曰足立郡氷川神社神田百束十字》
《割書: 四囲田観松彦香殖稲天皇御宇三年戊辰所祭| 素盞烏尊大己貴奇稲田比咩合三座也 云 云》
《割書:東鑑曰治承四年庚子十一月十四日壬戌土肥次| 即実平向武蔵国内寺社是諸-人乱入清浄地致》
《割書: 狼藉之由依有訴可令停止之旨加下知之故也| 云 云》
《割書:同書曰安貞三年己丑十一月十日依去四日雷電| 為世上御祈近国一宮被立奉幣御使相模国駿》
《割書: 河守武蔵国武州御使 《割書:中略| 》 各被進神馬御剣等|又於社壇可転読大-般若経之由被仰別当等》
《割書:教師員源忠季氏等奉行之|慕景集 《割書:氷川(ひかは)の社(やしろ)奉納(ほうなふ)の和歌(わか)すめらきはへりて|残雪(のこんのゆき)といふことをよめる》》
老らくの身をつみてこそむさしのゝ草にいつまて残る白雪 持資
平貞盛願書(たひらのさたもりのくわんしよ)一通 《割書:前太平記(せんたいへいき)に上平太貞盛(しやうへいださたもり)およひ舎弟(しやてい)重盛兼任(しけもりかねたふ)と共(とも)に将門(まさかと)退(たい)|治(ち)として東国(とうこく)に発向(はつかう)ありし時(とき)当社(たうしや)に詣(まうて)ておの〳〵上差(うはさし)の鏑(かふら)》
《割書:一筋(ひとすち)つゝを願書(くわんしよ)にそへて宝殿(ほうてん)に篭(こめ)らるゝことあり又(また)其時(そのとき)の神職(しんしよく)兵部少輔(ひやうふのせふ)正範(まさのり)とあり|社記に兵部権大輔富則と云けるあり願書(くわんしよ)の文に曰く》
《割書:敬白 祈願事 夫以氷川大明神者本地冥慮之|月明晶于東方瑠璃之光垂跡化現之徳新利于南》
《割書:贍卒土之浜爰頃年之間有平賊将門恣取掠八州|悩乱万民自称親王私置諸司蔵如王道忽緒人望》
《割書:暴悪莫甚焉然愚父国香不忍見彼積悪起兵而欲| 》
【表紙】
【題箋】
《題:江戸名所図會 二》
【見返し】
【前「両国橋」の続き】
【左丁】
連(つら)ね燈(ともしひ)の光(ひかり)は玲瓏(れいらう)として流(なかれ)に映(えい)す楼船扁舟(ろうせんへんしう)所(ところ)せくもやひつれ
一時(いちし)に水面(すゐめん)を覆(おほ)ひかくしてあたかも陸地(りくち)に異(こと)ならす弦歌(けんか)鼓吹(こすゐ)は
耳(みゝ)に満(みち)て囂(かまひす)しく実(しつ)に大江戸(おほえと)の盛事(せいし)なり
此(この)人数(にんしゆ)舩(ふね)なれはこそすゝみかな 其角
千人か手を欄檻(らんかん)やはしすゝみ 同
このあたり目にみゆるものみなすゝし 芭蕉
清水如水宅地(しみつしよすゐのたくち) 横山町(よこやまちやう)に住(すみ)けるといへり如水(しよすゐ)は藤根堂(とうこんたう)と号(かう)す狂(きやう)
歌(か)に名(な)あり《割書:常(つね)に酒(さけ)をたしめり酔(ゑは)さる時(とき)はしほ〳〵として猥(みたり)に言語(けんきよ)を発(はつ)する|事なく酒(さけ)を飲(いん)する時(とき)はのひ〳〵として勢(いきほ)ひよくはひあるきけれは》
《割書:とて人(ひと)名付(なつけ)て藤根堂(とうこんたう)と呼(よひ)けるとなり按(あんする)に雄長老(いうちやうらう)卜養(ほくやう)又/近(ちか)くは九州(きうしう)の甚久(しんきう)|法師(ほふし)抔(なと)各(おの〳〵)狂哥(きやうか)に名(な)ありて家集(いへのしふ)もあれと此(この)如水(しよすゐ)は名(な)さへしる人まれなり》
如水(しよすゐ)一時(いちし)大和国(やまとのくに)法隆寺(ほふりうし)に蔵(さう)する所(ところ)の賢聖(けんせい)の瓢(ひさこ)といへる器物(きふつ)を
見(み)て後(のち)瓢(ひさこ)に彫物(ほりもの)をする事を得(え)たりしかも鈍刀(とんたう)を用(もち)ひて
其巧(そのかう)尤(もつとも)絶妙(せつめう)なり依(よつ)て其需(そのもとめ)多(おほ)かりけれは此(この)匏瓜(ひさこ)の為(ため)に身(み)を
押(おさ)へられたりとの意(ゐ)にて自(みつか)ら迷淵蟠鯰候(めいゑんはんねんこう)とそ名(な)のりける住家(ちゆうか)
【右丁】
両(りやう)
国(こく)
橋(はし)
【図】
壱両か
花火
間も
なき
光
かな
其角
【図】
【枠内】元柳はし
【枠内】かるわさ
【枠内】舟宿多し
【枠内】土弓
【枠内】土弓
【枠内】かみゆひ床
【枠内】芝居
【枠内】茶や
【左丁】
【図】
【枠内】土弓
【枠内】かみゆひ床
【枠内】舟宿多し
【枠内】料理や多し
【枠内】本所一ッ目
【右丁】
此人
数
舟
なれは
こそ
涼
かな
其角
【図】
【枠内】茶や
【枠内】柳はし
【枠内】かるわさ
【枠内】みせもの
【左丁】
より東(ひかし)に薬研堀(やけんほり)と云所(いふところ)あり其辺(そのあたり)知人(しるひと)の許(もと)に行(ゆき)て楼上(ろうしやう)より
遠近(をちこち)を見(み)やりて
見おろせは気(き)の薬(くすり)なり薬研堀(やけんほり)月(つき)は白湯(さゆ)にてかけは水(みつ)にて
又ある時(とき)漁夫(きよふ)の辞(ことは)の意(ゐ)をよめる
世(よ)はすめり我(われ)ひとりのみ濁酒(にこりさけ)酔(ゑふ)て寝(ねる)にてさふらふの水
享保(きやうほ)十三年戊申正月三日/朝起(あさおき)て
公事(くし)喧嘩(けんか)地震(ちしん)雷(かみなり)火事(くわし)晦日(みそか)飢饉(きゝん)煩(わつらひ)なき国(くに)へゆく
かくよみて同し五日の暮方(くれかた)剃頭(さかやき)湯(ゆ)あみし太神宮(たいしんくう)を拝(はい)し奉り
しまゝに終(をはり)をとれり《割書:行年(きやうねん)七十二/歳(さい)今(いま)も浅草(あさくさ)金竜寺(きんりうし)に墓碑(ほひ)あり石(いし)を以(もつ)て|瓢(ひさこ)の形(かたち)に造立(さうりふ)す如幻庵(しよけんあん)東湖老和尚(とうこらうおしやう)此(この)如水(しよすゐ)か臨終(りんしゆう)の》
《割書:記(き)をかゝれたりといへり按(あんする)に墓碑(ほひ)に一陽如睡(いちやうしよすゐ)とあり水睡同音(すゐすゐとうおん)なれは其(その)臨終(りんしゆう)の|相(さう)を表(ひやう)して没後(もつこ)文字(もんし)を如睡(しよすゐ)と改(あらた)めしならん歟》
杉森稲荷社(すきのもりいなりのやしろ) 新材木町(しんさいもくちやう)にあり《割書:俗(そく)に當社(たうしや)ある故(ゆゑ)に此所(このところ)|をいなり新道(しんみち)と字(あさな)す》社記云(しやきにいふ)此(この)神像(しんさう)は
相馬(さうま)の将門(まさかと)威(ゐ)を東国(とうこく)に逞(たくま)しうせし頃(ころ)藤原秀郷(ふちはらひてさと)朝敵誅伐(てうてきちゆうはつ)
の計策(けいさく)を廻(めく)らし此(この)御神(おんかみ)の加護(かこ)に依(よつ)て遂(つゐ)に将門(まさかと)を亡(ほろほ)したり
【右丁】
杉森(すきのもり)稲荷(いなり)神社
【図】
【枠内】こんひら
【枠内】神輿蔵
【左丁】
【図】
【枠内】神主
【枠内】本社
【枠内】白狐神
【右丁】
後(のち)霊夢(れいむ)を感(かん)し此地(このところ)に至(いた)り矯々(きやう〳〵)たる杉(すき)の森(もり)ある地(ち)に崇(あか)め祀(まつ)る
《割書:當社(たうしや)|是(これ)なり》寛正(くわんしやう)の頃(ころ)東国(とうこく)大(おほい)に旱魃(かんはつ)す太田道灌(おほたたうくわん)江戸城(えとしやう)にありて深(ふか)く
是(これ)を患(うれひ)とし此御神(このおんかみ)に禱(いの)るに其験(そのしるし)ありて雨降(あめふ)り百穀(ひやくこく)大(おほい)に
登(のほ)る依(よって)其頃(そのころ)山城國(やましろのくに)稲荷山(いなりやま)を摸(うつ)して伍社(こしや)の御神(おんかみ)を勧請(くわんしやう)なし
奉(たてまつ)るとなり毎年四月十六日/祭奠神主(さいてんかんぬし)小針氏(こはりうち)奉祀(ほうし)す《割書:當社(たうしや)始(はしめ)は|町屋(まちや)の後(こう)》
《割書:園(ゑん)にありて参詣(さんけい)の道(みち)さへなかりしに元禄(けんろく)十六年/本多(ほんた)弾正少弼(たんしやうのせうひつ)忠晴(たゝはる)寺社(ししや)の|観林(くわんりん)たりし時(とき)社(やしろ)へ参詣(さんけい)の道(みち)を開(ひら)き給ふとなり菊岡沾凉(きくをかせんりやう)云(いはく)此所(このところ)は昔(むかし)杉(すき)の木(こ)》
《割書:立(たち)いと深(ふか)かりしとなり又/此地(このち)の或古老(あるこらう)の話(はなし)に寛文(くわんふん)の頃(ころ)此地(このち)は小針孫右衛門(こはりまこゑもん)といへる|商戸(しやうこ)の地(ち)にして彼宅地(かのたくち)にありし稲荷(いなり)の祠(みや)なりしか其後(そのゝち)延宝(ゑんはう)七年五月二十九日》
《割書:此辺(このへん)火災(くわさい)に依(よつ)て焦土(せうと)となりし頃(ころ)此祠(このみや)のみ現然(けんせん)と残(のこ)りけれは諸人(しよにん)皆(みな)これを奇(き)とす|吉川氏(よしかはうち)某(それかし)深(ふか)く信仰(しんかう)して新(あらた)に蛭子(ひるこ)と姫太神(ひめおほかみ)とを相殿(あひてん)に祀(まつ)ると云又/或人云(あるひといふ)長谷(はせ)》
《割書:川町(かはちやう)旧名(きうみやう)を祢宜町(ねきまち)と云/昔(むかし)當社(たうしや)の巍々(きゝ)たりし時(とき)祢宜(ねき)の住(すみ)し所故(ところゆゑ)にしか号(なつ)くる|とされとも此説(このせつ)信(しん)しかたし》
歌舞妓芝居(かふきしはゐ) 堺町(さかいちやう)葺屋町(ふきやちやう)にあり《割書:木挽町(こひきちやう)|にもあり》寛永(くわんえい)元年甲子の春(はる)中村(なかむら)
勘三郎(かんさふらう)《割書:堺町(さかいちやう)狂言座元(きやうけんさもと)の始祖(しそ)なり初(はしめ)道順(たうしゆん)と号(かう)す昔(むかし)禁闕(きんけつ)及(およ)ひ営中(えいちゆう)に|於(おい)ても猿若(さるわか)の狂言(きやうけん)をなし又は官舩(くわんせん)安宅丸(あたけまる)大江戸(おほゑと)の川口(かはくち)へ入津(にふしん)の》
《割書:時(とき)綱引(つなひき)の音頭諷(おんとうた)を諷(うた)はしめられし折(をり)から御褒賞(こほうしやう)として賜(たま)はる所(ところ)の金(きん)の|麾(さい)ならひに猿若(さるわか)狂言(きやうけん)の衣装(いしやう)及(およ)ひ御簾(きよれん)の揚巻等(あけまきとう)今(いま)猶(なほ)其家(そのいへ)に傳(つた)へて重宝(ちやうはう)》
《割書:とす又/上京(しやうきやう)せし時(とき)勘三郎(かんさふらう)か忰(せかれ)新発知(しんほち)に明石(あかし)といへる|名(な)を賜(たま)はりし事/抔(なと)は皆(みな)中村座(なかむらさ)の規模(きほ)たり》官府(くわんふ)の免許(めんきよ)を蒙(こふむ)り
【左丁】
江戸中橋(えとなかはし)において始(はしめ)て太鼓櫓(たいこやくら)を揚(あけ)猿若狂言尽(さるわかきやうけんつくし)の芝居(しはゐ)を興行(こうきやう)
す《割書:是(これ)大江戸(おほえと)常芝居(しやうしはゐ)の始元(しけん)なり江戸鹿子(えとかのこ)といへる草紙(さうし)に寛永(くわんえい)より前(まへ)は芝居(しはゐ)|町(ちやう)にありと記(しる)せしは柴井町(しはゐちやう)の事を云ならん歟(か)按(あんする)に芝居(しはゐ)ありし故(ゆゑ)にしか呼(よひ)》
《割書:しを後世(こうせい)に至(いた)り芝居(しはゐ)を柴井(しはゐ)に書改(かきあらた)めたるならんか又/江戸名所(えとめいしよ)はなしに芝居町(しはゐちやう)|より中橋(なかはし)へうつり又/堺町(さかいちやう)へ引移(ひきうつ)したる事を挙(あけ)たり事跡合考(しせきかつかう)に寛永(くわんえい)元年》
《割書:日本橋(にほんはし)の西河岸町(にしかしちやう)に芝居(しはゐ)を取建(とりたて)るとあり可考(かんかふへし)寛永(くわんえい)十八年の印行(いんかう)のそゝろ|物語(ものかたり)といへる冊子(さうし)に中橋(なかはし)にて米島(よねしま)丹後守(たんこのかみ)哥舞妓(かふき)ありと高札(かうさつ)を建(たて)けれは》
《割書:貴賤群集(きせんくんしふ)|すとあり》同九年壬申/中橋(なかはし)より祢宜町(ねきまち)へ引(ひき)遂(つい)に慶安(けいあん)四年
辛卯/今(いま)の地(ち)に移(うつ)る《割書:祢宜町(ねきまち)といふは今(いま)の長谷川町(はせかはちやう)の事なり今(いま)俗(そく)に此所(このところ)|を人形町(にんきやうちやう)と字(あさな)するは人形屋(にんきやうや)多(おほ)く住故(すむゆゑ)にしか唱(とな)へたり》
《割書:寛永(くわんえい)二十年/印本(いんほん)吾嬬(あつま)めくりといへるものに祢宜町(ねきまち)に左近(さこん)といへる哥舞妓芝居(かふきしはゐ)|又/角力(すもう)其外(そのほか)薩摩太夫(さつまたいふ)虎屋(とらや)か操(あやつり)土佐(とさ)か能(のう)なとありける由(よし)にて賑(にきは)しき》
《割書:趣(おもむき)を挙(あけ)|たり》又/寛永(くわんえい)十一年甲戌/村山又三郎(むらやままたさふらう)といふ者(もの)《割書:此(この)又三郎といへるは|名護屋(なこや)山三郎(さんさふらう)の》
《割書:弟子(てし)村山(むらやま)又左衛門の子村山|又八といへる者(もの)の次男(しなん)なりといふ》泉州堺(せんしうさかい)より此地(このち)に下(くた)り公許(こうきよ)を得(え)て常(しやう)
芝居(しはゐ)を興行(こうきやう)し能(のう)の狂言(きやうけん)をやつし役者(やくしや)をましへ舞子(まひこ)六人に勤(つとめ)
しむ市村羽左衛門座(いちむらうさゑもんさ)是(これ)なり《割書:葺屋町(ふきやちやう)狂言座元(きやうけんさもと)の興起(こうき)なり二代目を|竹之丞(たけのしやう)といふ堺町(さかいちやう)狂言座元(きやうけんさもと)二代目/明石(あかし)》
《割書:勘三郎(かんさふらう)の門弟(もんてい)たり寛文(くわんふん)四年に至(いた)り始(はしめ)て續狂言(つゝききやうけん)を工夫(くふう)し引幕(ひきまく)|道具建(たうくたて)を製(せいし)出(いた)す故(ゆゑ)に其頃(そのころ)市村座(いちむらさ)を大芝居(おほしはゐ)と称(しよう)したりしとなり》其後(そのゝち)萬治(まんち)
三年庚子/森田太郎兵衛(もりたたらうひやうゑ)といへる者(もの)是(これ)も官府(かんふ)の免許(めんきよ)により
【右丁」
堺町(さかいちやう)
葺屋町(ふきやちやう)
戯場(しはゐ)
【図】
あやつり座
さかい町
中村座
よし町
あやつり座
【左丁】
【図】
がくや新道
市村座
ふきや町
【右丁】
猿若狂言之古圖(さるわかきやうけんのこつ)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
木挽町(こひきちやう)五丁目/汐入(しほいり)の地(ち)へ芝居(しはゐ)を取建(とりたて)坂東(はんとう)又九郎といへる者(もの)の
二男又七といへるを養子(やうし)とし名(な)を森田勘弥(もりたかんや)と改(あらた)む《割書:木挽町(こひきちやう)狂言(きやうけん)|座元(さもと)なり猶(なほ)》
《割書:同巻(とうくわん)木挽町(こひきちやう)|の下に詳(つまひらか)也》其餘(そのよ)堺町(さかいちやう)葺屋町(ふきやちやう)の間(あひた)に操座(あやつりさ)木偶芝居(にんきやうしはゐ)ありて四時(しいし)に
賑(にき)はへり《割書:元禄開板(けんろくかいはん)の江戸鹿子(えとかのこ)に堺町(さかいちやう)葺屋町(ふきやちやう)の二丁は古(いにし)へより操見(あやつりみ)せ物又は狂(きやう)|言尽(けんつくし)あるひは放下(はうか)の品玉(しなたま)縄切(なはきり)の曲(きよく)を業(わさ)とする者(もの)とも寄(より)あつまり終日(しゆうしつ)》
《割書:観楽(くわんらく)をなす地(ち)なりとあり又/江戸名所(えとめいしよ)はなしに江戸(えと)大薩摩(おほさつま)土佐(とさ)の太夫(たいふ)和泉太夫(いつみたいふ)か|浄瑠理(しやうるり)天満八太夫(てんまはちたいふ)江戸孫四郎(えとまこしらう)江戸半太夫(えとはんたいふ)か説経(せつきやう)鶴屋源太郎(つるやけんたらう)か南京(なんきん)あやつりなと》
《割書:さま〳〵のみせものあり|しことをしるせり》
吉原町(よしはらまちの)旧地(きうち) 和泉町(いつみちやう)高砂町(たかさこちやう)住吉町(すみよしちやう)難波町(なにはちやう)等(とう)其(その)旧地(きうち)なり《割書:住吉町(すみよしちゃう)|難波町(なにはちやう)》
《割書:等(とう)の河岸(かし)を竃河岸(へつゝいかし)と字(あさな)するは竃屋(へつゝいや)多(おほ)き故(ゆゑ)の|俗称(そくしよう)なり此所(このところ)の小溝(こみそ)は則(すなはち)昔(むかし)の曲輪(くるわ)の外堀(そとほり)なりと云》慶長(けいちやう)十七年/庄司甚右衛門(しやうしちんゑもん)
といへる者(もの)街(くるわ)を一所に定(さた)め給はり度旨(たきむね) 官府(くわんふ)に訴(うつた)へ奉(たてまつ)りし故(ゆゑ)に
初(はしめ)てこの此地(このち)を賜(たま)はり花街(くるわ)とす往時(そのかみ)慶長(けいちやう)の頃迄(ころまて)は江戸(えと)に定(さたま)り
たる傾城町(けいせいまち)もなく二軒三軒(にけんさんけん)つゝこゝかしこに散在(さんさい)せし也/其中(そのうち)軒(のき)を
並(なら)へたりしは麴町(かふしまち)八丁目にて十四五/軒(けん)ありて何(いつ)れも京六条(きやうろくてう)より
遷(うつ)【迁は俗字】る又/鎌倉河岸(かまくらかし)にも十四五/軒(けん)大橋(おほはし)柳町(やなきちやう)にも廿/軒(けん)ありしと云
【左丁】
《割書:此(この)大橋(おほはし)と云(いふ)は今(いま)のときははし也|柳町(やなきちやう)と云(いふ)は道三河岸(たうさんかし)の辺(あたり)をいふ》此(この)柳町(やなぎちやう)へは駿府(すんふ)弥勒町(みろくまち)より移(うつ)り其外(そのほか)伏(ふし)
見(み)夷町(ゑひすまち)奈良(なら)木辻(きつし)等(とう)よりも追々(おひ〳〵)大江戸(おほえと)に移(うつ)りぬ慶長(けいちやう)十一年の頃(ころ)
柳町(やなきちやう)の地(ち)は召上(めしあけ)られ元(もと)誓願寺(せいくわんし)前(まへ)へ引移(ひきうつり)たりしか傾城屋(けいせいや)とも打寄(うちより)
相談(さうたん)の上(うへ)場所(はしよ)取立度由(とりたてたきよし)願(ねかひ)けれとも御免(こめん)なき所(ところ)庄司甚右衛門(しやうしちんゑもん)
初(はしめ)て同十七年の頃(ころ)願(ねか)ひ元和(けんわ)三年の頃(ころ)被仰付(おほせつけられ)元和(けんわ)三年/霜月(しもつき)地(ち)
形(きやう)普請(ふしん)出来(しゆつたい)して商賣(しやうはい)せり江戸町(えとちやう)一丁目は御一統(こいつとう)の後(のち)初(はしめ)て開基(かいき)せし
ゆゑかく号(なつ)け同二丁目は鎌倉河岸(かまくらかし)より引(ひけ)京町(きやうまち)一丁目は麴町(かふしまち)より
引(ひく)同二丁目は追々(おひ〳〵)に来(きた)りし上方(かみかた)の傾城屋(けいせいや)を置(おけ)り一/両年(りやうねん)にして
普請(ふしん)悉(こと〳〵)く成就(しやうしゆ)せしかは新町(しんまち)と名付(なつけ)たり角町(すみちやう)は京橋(きやうはし)角町(すみちやう)より
うつり寛永(くわんえい)三年に至(いた)り五町/全(まつた)く家居(いへゐ)落成(らくせい)して此(こゝ)に移(うつ)れり
然(しかる)に明暦(めいれき)二年/浅草(あさくさ)の後(うしろ)今(いま)の地(ち)へ遷(うつ)【迁は俗字】されん事を申わたさるゝと
いへとも明年(みやうねん)引移(ひきうつ)り度(たき)由(よし)の所(ところ)翌年(よくねん)五月十八日の大火(たいくわ)に焼亡(しやうほう)す
依(よつ)て同年六月/悉(こと〳〵)く元吉原(もとよしはら)の地(ち)を引拂(ひきはらふ)同年八月/今(いま)の地(ち)へ移(うつ)る
【右丁】
大門通(おほもんとほり)
昔(むかし)此地(このち)に吉原町(よしはらまち)
ありし頃(ころ)の大
門の通(とほ)りなり
しによりかく
名(な)つく今(いま)は銅(かな)
物屋(ものや)馬具師(はくし)
多(おほ)く住(すめ)り
鐘
ひとつ
うれぬ
日も
なし
江戸
の
春
其角
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
普請(ふしん)の間(あひた)今戸(いまと)鳥越(とりこえ)山谷(さんや)の間(あひた)に借宅(しやくたく)いたし渡世(とせい)する事を
ゆるさる花街(くわかい)今(いま)に旧地(きうち)に在(あり)なは戯場(しはゐ)相接(あいせつ)し滋(ます〳〵)繁昌(はんしやう)をは極(きは)むへ
けれと祝融(しゆくいう)の祟(たゝり)弥(いよ〳〵)しけかるへししかるに彼地(かのち)へ移(うつ)されし事
おほやけの御/恵(めくみ)いと有難(ありかた)き事にこそ《割書:第六巻(たいろくくわん)新吉原町(しんよしはらまち)の|条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》
《割書:按(あんする)に哥舞妓(かふき)は其始(そのはしめ)遊女(いうちよ)より出(いて)たる名(な)にして哥(うた)ひ舞(まふ)の妓女(きちよ)なりといふ|略語(りやくこ)なり昔(むかし)は専(もつは)ら高貴(かうき)の人(ひと)に愛(あい)せられし故(ゆゑ)にたはむれに長門守(なかとのかみ)丹後守(たんこのかみ)》
《割書:抔(なと)と呼(よひ)ならはしけるよりいつしか遊女(いうちよ)およひ哥舞妓役者(かふきやくしや)に太夫(たいふ)の称(しよう)發(おく)りし|となり故(ゆゑ)に今(いま)狂言座元(きやうけんさもと)を太夫(たいふ)元と唱(とな)へ若女形(わかをんなかた)の藝(けい)に長(ちやう)したるを太夫(たいふ)と》
《割書:呼(よ)ふは其余風(そのよふう)なるへしされと今(いま)大江戸(おほえと)には遊女(いうちよ)に太夫(たいふ)の称(しやう)をうしなへり|寛永(くわんえい)十八年の印本(いんほん)そゝろ物語(ものかたり)といへるものにこの吉原町(よしはらまち)の哥舞妓女(かふきをんな)を愛(あい)》
《割書:することをあけたり中(なか)にも佐渡島正吉(さとしましやうきち)村山左近(むらやまさこん)國本織部(くにもとおりへ)北野小太夫(きたのこたいふ)出来島(てきしま)|長門守(なかとのかみ)杉山主殿(すきやまとのも)米島丹後守(よねしまたんこのかみ)なとゝいひて名(な)を得(え)し遊女(いうちよ)あり是等(これら)は一座(いちさ)の》
《割書:かしらにて其頃(そのころ)哥舞妓(かふき)にて和尚(おしやう)と称(しやう)せしとそ又/日(ひ)を重(かさ)ね此町/繁昌(はんしやう)せる故(ゆゑ)|町割(まちわり)をなし本町(ほんちやう)およひ京町(きやうまち)江戸町(えとちやう)伏見町(ふしみちやう)堺町(さかいちやう)大坂町(おふさかちやう)墨(すみ)町/新町(しんまち)抔(なと)と名付(なつけ)家(いへ)》
《割書:居(ゐ)美々(ひゝ)しく軒(のき)をならへ草(くさ)の仮家(かりや)をあらためて板葺(いたふき)に作(つく)りかへ又/本(ほん)町を中(なか)に|こめて其(その)めくりに揚屋町(あけやまち)を置(お)き幾筋(いくすち)ともなく横(よこ)町をひらき能(のう)哥舞妓(かふき)の舞(ふ)》
《割書:台(たい)をしつらひ置(おき)ひことに興行(こうきやう)しける由(よし)記(しる)せり又/江戸名所記等(えとめいしよきとう)にも遊女(いうちよ)等(ら)|芝居(しはゐ)をかまへ哥舞妓(かふき)をなせしに皆(みな)人めてまとひて世(よ)のさまたけともなりけれは》
《割書:是(これ)を禁(きん)せられ其後(そのゝち)は若衆(わかしゆ)哥舞妓(かふき)と云事を興行(こうきやう)ありしかはうるはしき|少年(しやうねん)に哥(うた)諷(うた)はせ舞(まは)せけるとなり》
賀茂真淵翁(かものまふちをう)閑居地(かんきよのち) 濱町(はまちやう)にあり《割書:宝暦(はうれき)十四年/此地(このち)へうつり住(ちゆう)|するよし家集(いへのしふ)に見えたり》真淵翁(まふちをう)一に
【左丁】
岡部衛士(をかへのゑし)又は縣居(あかたゐ)とも称(しよう)せり賀茂縣主成助(かものあかたぬしなりすけ)の末葉(まつえふ)にして世々(よゝ)洛北(らくほく)
賀茂(かもの)大神の宮司(みやつこ)たり同/師朝(もろとも)の時(とき)文永(ふんえい)十一年甲戌/遠州濱松庄(ゑんしうはままつのしやう)
岡部郷(をかへのかう)なる賀茂(かも)の新宮(しんくう)を斎(いつき)まつるへき詔(みことのり)を蒙(こふむ)り又/彼地(かのち)を賜(たまはり)て
其宮(そのみや)の神主(かんぬし)となり即(すなはち)岡部郷(をかへのかう)に住(ちゆう)せり翁(おきな)は其後裔(そのこうえい)定臣(さたをみ)といへるか
子にて元禄(けんろく)十一年丁丑/彼地(かのち)に生(うま)る壮(わかゝりし)より深(ふか)く國朝(おほみくに)の学(まなひ)に心(こゝろ)を
よせ享保(きやうほ)十八年癸丑/花洛(くわらく)に至(いた)り荷田宿祢春満(かたのすくねあつままろ)の教(をしへ)を受(う)け後(のち)
大(おほい)に國学(こくかく)を以(もつ)て世(よ)に鳴(なる)《割書:荷田宿祢(かたのすくね)は本姓(ほんせい)なり世(よ)に羽倉斎宮(はくらいつき)|と称(しよう)す此人(このひと)は洛南(らくなん)稲荷社(いなりのやしろ)の祠官(しくわん)なり》寛延(くわんえん)三年
庚午/大江戸(おほえと)に来(きた)り田安(たやす)の殿(との)の召(めし)に応(おう)し古(いにし)への書(ふみ)の道(みち)の博士(はかせ)として
特(こと)に愛(めて)させ給ひ其頃(そのころ)御衣(きよい)を賜(たま)はりしかは其(その)かしこまりに和哥(わか)を奉(たてまつ)る
あふひてふあやの御衣を氏人のかつかむものと神やしりけん
其後(そのゝち)宝暦(はうれき)十年庚辰/仕(つかへ)をかへし奉(たてまつ)りて濱町(はまちやう)に隠栖(ゐんせい)す翁(おきな)を縣居(あかたゐ)
と唱(とな)ふるは庭(には)を田居(たゐ)の様(やう)に作(つく)りしかも賀茂氏(かもうち)の姓(かはね)にも縁(よし)あれは
とてみつから家(いへ)の号(な)に呼(よは)れたるとなり生涯(しやうかい)の著述(ちよしゆつ)凡(およそ)六十/餘部(よふ)其(その)
【右丁】
新大橋(しんおほはし)
三派(みつまた)
【図】
【左丁】
山もあり
また
舩も
あり
川もあり
数は
ひとふた
みつまたの
景
半井
卜養
【図】
永代橋
【右丁】
門(もん)に入(いり)て教(をしへ)を受(うけ)世(よ)に其名(そのな)を聞(きこ)ゆる者(もの)本居宣長(もとおりのふなか)橘千蔭(たちはなちかけ)平(たひらの)
春海(はるみ)藤原宇万伎(ふちはらのうまき)楫取魚彦(かんとりなひこ)及ひ倭文女(しつちよ)等(とう)也
家集 《割書:はう暦(れき)十四年の秋(あき)濱(はま)まちといふ所へ家(いへ)をうつして》
《割書:庭(には)を野へまたは畑(はた)につくりて所もいさゝかかたへなれは|名をあかたゐといひて住そめける九月十三夜に月めてん|とてしたしき人〳〵つとひて哥よみけるついてによめる》
こほろきの鳴やあかたの我宿に月かけ清しとふ人もかな
あかたゐのちふの露原かきわけて月見にきつる都人かも
《割書:くすみ氏(うち)のもとより嵐(あらし)の朝(あした)とふらひておこしたる|かへりことに夜(よ)へ吹(ふき)ちらしたる屋根板(やねいた)にかきて|やりぬ》
野わきしてあかたの宿はあれにけり月見にこよと誰に告まし
《割書:きさらきのまつかたいく女の君おはしたるに庭(には)を|はたにつくれるかすゝなの花咲(はなさき)たりけるに》
春されは鈴菜花咲あかたみに君来まさんと思ひかけきや
新大橋(しんおほはし)両國橋(りやうこくはし)より川下(かはしも)の方(かた)濱町(はまちやう)より深川(ふかかは)六/間堀(けんほり)へ架(わた)す長(なかさ)
凡(およそ)百八間あり此橋(このはし)は元禄(けんろく)六年癸酉/始(はしめ)て是(これ)をかけ給ふ両國橋(りやうこくはし)の
【左丁】
旧名(きうみやう)を大橋(おほはし)と云/故(ゆゑ)に其名(そのな)によつて新大橋(しんおほはし)と号(なつけ)らるゝとなり
風羅袖日記 《割書:元禄(けんろく)五申年の冬/深川大橋(ふかかはおほはし)》
《割書:なかはかゝりけるとき》
初雪やかけかゝりたるはしのうへ 芭蕉
《割書:同しく橋(はし)成就(しやうしゆ)せし時(とき)》
ありかたやいたゝひて踏はしのしも 仝
三派(みつまた) 新大橋(しんおほはし)の下(しも)分流(ふんりう)の所(ところ)を云(いふ)浅草川(あさくさかは)と箱崎(はこさき)の間(あひた)の流(なかれ)との
分(わか)れ流(なか)るゝ所(ところ)なれはなり《割書:此所(このところ)を別(わか)れの淵(ふち)と云(いふ)は汐(しほ)と|水(みつ)とのわかれ流(なか)るゝ所故(ところゆゑ)にいふ》此所(このところ)は月(つき)の
名所(めいしよ)なり《割書:因(ちなみ)に云(いふ)明和(めいわ)八年辛卯/中流(ちゆうりう)を堙埋(いんまい)して人居(しんきよ)とし中洲(なかす)と称(しよう)せり|されと洪水(こうすゐ)の時(とき)便(たより)あしきとて寛政(くわんせい)元酉年に至(いた)り復(また)元(もと)の如(こと)くの川(かは)に》
《割書:堀立(ほりたて)|らる》昔(むかし)は多(おほ)く遊女(いうちよ)哥舞妓(かふき)の類(たく)ひこゝに船(ふね)をうかへて宴(えん)を催(もよほ)し殊(こと)
更(さら)月(つき)の夕(ゆふへ)は清光(せいくわう)の隈(くま)なきを翫(もてあそ)ひ酒(さけ)に對(たい)して哥(うた)諷(うた)ひなんと
甚(はなはた)賑(にきは)しかりしとなり《割書:江戸雀(えとすゝめ)に諸國(しよこく)の大船(おほふね)殊(こと)に唐船(たうせん)此川(このかは)にかくる|隈(くま)なき納涼(なうりやう)の地(ち)なれは船遊(ふなあそ)ひの船(ふね)に波(なみ)の》
《割書:つゝみ風(かせ)のさゝら芦(あし)の葉(は)の|笛吹(ふへふき)ならしと云々》
三叉江泛舟 春台
風静叉江不起波 軽舟汎々酔中過 天遊只
【右丁】
【図】
四日市(よつかいち)
うぢ橋
【左丁】
【図】
江戸橋
【右丁】
《割書:三河万歳(みかはまんさい)江戸(えと)に|下りて毎歳(まいとし)極月(しはす)|末(すゑ)の夜(よ)日本橋(にほんはし)の|南詰(みなみつめ)に集(あつま)りて|才蔵(さいさう)をえらひて|抱(かゝ)ゆるなり是を|才蔵/市(いち)といふ》
【図】
【左丁】
在人間外 長嘯高吟雑棹歌
《割書:人々にともなはれて八月の十六夜/三派(みつまた)に舟(ふね)を|うかへて月見(つきみ)はへりしに歌(うた)諷(うた)ふ哥舞妓(かふき)子の|年十六なりといへは》
美しき人も二八の十六夜月もみつまたあるものてない 卜養
山もありまた舟もあり川もあり数はひとふたみつまたの景 仝
江戸橋(えとはし) 日本橋(にほんはし)の東(ひかし)にありて伊勢町(いせちやう)より本材木町(ほんさいもくちやう)へ行(ゆく)間(あひた)に架(わた)す
南(みなみ)の橋詰(はしつめ)巽(たつみ)の角(すみ)に船宿(ふなやと)あり江戸(えと)の内(うち)諸方(しよはう)への船場(ふなは)なり又
同所/西(にし)の方(かた)木更津河岸(きさらつかし)と字(あさな)す房州(はうしう)木更津(きさらつ)渡海往還(とかいわうくわん)の
船(ふね)こゝに集(つと)ふ故(ゆゑ)に名(な)とす
四日市(よつかいち) 江戸橋(えとはし)と日本橋(にほんはし)の間(あひた)川(かは)より南(みなみ)の方(かた)の大路(おほち)を云(いふ)昔(むかし)は四日市(よつかいち)
場(は)といひし村(むら)にていにしへは今(いま)の繫華(はんくわ)の如(こと)き事なけれは萬(よろつ)の賈(こ)
衒(けん)も市(いち)をなして交易(かうえき)せされは得(え)かたし故(ゆゑ)に所々(しよ〳〵)に其日市(そのひいち)を
立(たつ)る區(ちまた)を名(な)つけて某日市(それのひのいち)と云(いふ)羽州(うしう)のあたりには二日/市(いち)と云(いふ)より
十日/市(いち)と云(いふ)迄(まて)區(ちまた)の名(な)につき交易(かうえき)せり此地(このところ)も昔(むかし)は毎月四の日に
【右丁】
中橋(なかはし)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁 挿絵】
南傳馬町(みなみてんまちやう)
祇園會(きをんゑ)
御旅所(おたひしよ)
【左丁】
市(いち)を立(たて)し所(ところ)なりとそ故(ゆゑ)に今(いま)も其(その)遺風(ゐふう)にて草物(くさもの)又は野菜(やさい)の
類(たく)ひ其(その)余(よ)乾魚(ひうを)なとの市(いち)ありて繁昌(はんしやう)の地(ち)なり此地(このち)に根津(ねつ)
権現(こんけん)の御旅所(おたひしよ)あり《割書:正徳(しやうとく)年中(ねんちゆう)に造(さう)|営(えい)ありとそ》同所/河岸(かし)に傍(そひ)て封疆蔵(とてくら)
あり下(した)より石(いし)を以(もつ)て畳揚(たゝみあけ)上に家根(やね)を覆(おほ)ふ《割書:明暦(めいりやく)開板(かいはん)のむさしにあふ|みといへる草紙(さうし)に日本(にほん)》
《割書:橋(はし)の南(みなみ)萬町(よろつちやう)より四日市迄(よつかいちまて)の町屋(まちや)を取除(とりの)け高(たか)さ四/間(けん)に川端(かははた)にそふて|北(きた)をうけ東西(とうさい)二町/半(はん)に土手蔵(とてくら)を畳(たゝみ)あけらると云々/今(いま)霊岸島(れいかんしま)【灵は略字】に四日市(よつかいち)と》
《割書:いへる町家(まちや)あるは此所(このところ)|より引(ひき)たるなり》
祇園會旅所(きおんゑたひしよ) 南傳馬町(みなみてんまちやう)一丁目と二丁目の間(あひた)の辻(つし)にあり本社(ほんしや)は神田(かんた)
明神(みやうしん)の地(ち)にあり祭所(まつるところ)素盞嗚尊(すさのをのみこと)にして是(これ)を大政所(おほまんところ)と称(しよう)せり
毎年六月七日こゝに神幸(しんかう)ありて同十四日/帰輿(きよ)し奉(たてまつ)る其(その)間(あひた)参詣(さんけい)
多(おほ)く甚(はなはた)にきはへり
鎧(よろひ)の渡(わたし) 茅場町(かやはちやう)牧野家(まきのけ)の後(うしろ)を云(いふ)此所(このところ)より小網町(こあみちやう)への舟渡(ふなわたし)を
しか唱(とな)へたり往古(わうこ)は大江(たいかう)なりしとなり里諺(りけん)に云/永承年間(えいしやうねんかん)源(みなもとの)
義家朝臣(よしいへあそん)奥州征伐(あうしうせいはつ)の時(とき)此所(このところ)より下総國(しもふさのくに)に渡(わた)らんとす時(とき)に
【右丁】
鎧之渡(よろひのわたし)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
暴風(はうふう)吹發(ふきおこ)り逆浪(けきらう)天(てん)を浸(ひた)し既(すて)に其舩(そのふね)覆(くつかへ)らんとす義家朝臣(よしいへあそん)
鎧一領(よろひいちりやう)をとつて海中(かいちゆう)に投(とう)し龍神(りうしん)に手向(たむけ)て風波(ふうは)の難(なん)なか
らしめむ事(こと)を祈請(きしやう)す遂(つひ)につゝかなく下総國(しもふさのくに)に着岸(ちやくかん)ありし
より此所(このところ)を《振り仮名:鎧か淵|よろひ ふち》と呼(よ)へりとなり《割書:元禄(けんろく)開板(かいはん)の江戸鹿子(えとかのこ)に平将門(たひらのまさかと)|此所(このところ)に兜鎧(かふとよろひ)を置(おく)兜(かふと)は塚(つか)に築(つき)て》
《割書:牧野侯(まきのこう)の庭中(ていちゆう)に|ありと記(しる)せり》
兜塚(かふとつか) 同所/海賊橋(かいそくはし)の東詰(ひかしつめ)牧野家(まきのけ)の庭中(ていちゅう)にあり源義家朝臣(みなもとのよしいへあそん)
奥州征伐(あうしうせいはつ)凱陣(かいちん)のとき先(さき)の報賽(ほうさい)のため且(かつ)は東夷鎮護(とういちんこ)の為(ため)と
して日本武尊(やまとたけのみこと)の古(ふる)き例(ためし)に準(なら)ひ自(みつから)の兜(かふと)を一堆(いつたい)の塚(つか)に築(つ)き
篭(こめ)給ひしとなり今(いま)其(その)傍(かたわら)に義家朝臣(よしいへあそん)の霊(れい)を鎮(まつ)る小祠(こみや)
あり《割書:紫(むらさき)の一本(ひともと)といへる双紙(さうし)に甲山(かふとやま)とありて藤原秀郷(ふちはらのひてさと)平将門(たひらのまさかと)を討(うち)|其首(そのくひ)を冑(かふと)と共に持添(もちそへ)きたりしか冑(かふと)をは此地(このち)に埋(うつ)めたるとあり》
永田馬場(なかたはゝ)山王(さんわう)御旅所(おんたひしよ) 茅場町(かやはちやう)にあり遥拝(ゑうはい)の社(やしろ)二宇(にう)並(なら)ひ建(たて)り
寛永(くわんえい)年間(ねんかん)此地(このち)を山王(さんわう)の御旅所(おたひしよ)に定(さため)らるゝといへり《割書:一/宇(う)は神主(かんぬし)|樹下氏持(しゆけうちもち)也》
《割書:一/宇(う)は別當(へつたう)|観理院持(くわんりゐんもち)也》隔年(かくねん)六月十五日/御祭礼(こさいれい)にて永田馬場(なかたはゝ)の御本社(こほんしや)より
【左丁】
神輿三基(しんよさんき)此所(このところ)に神幸(しんかう)あり假(かり)に神殿(しんてん)を儲(まう)け供御(くこ)を献備(けんひ)し
別當(へつたう)は法楽(ほふらく)を捧(さゝ)け神主(かんぬし)は奉幣(ほうへい)の式(しき)を行(おこな)ひ夜(よ)に入て帰輿(きよ)
なり其(その)行装(きやうさう)榊(さかき)大幣(おほぬさ)菅蓋(すけかさ)錦蓋(にしきのかさ)雲(くも)の如(こと)く社司(しやし)社僧(しやそう)は騎馬(きは)に
跨(またか)り或(あるひ)は輿(こし)に乗(しやう)し前後(せんこ)に扈従(こしう)す諸侯(しよこう)よりは神馬(しんめ)長柄鎗(なかえのやり)
等(とう)を出(いた)されて途中(とちゆう)の供奉(くふ)厳重(けんちゆう)なり又/氏子(うちこ)の町々(まち〳〵)よりは思(おも)ひ〳〵に
練物(ねりもの)あるひは花屋臺(はなやたい)車楽(たんしり)等(とう)に錦爛純子(きんらんとんす)抔(なと)のまん幕(まく)を打(うち)
はへ各(おの〳〵)其(その)出立(いてたち)花(はな)やかに羅綾(らりやう)の袂(たもと)錦繡(きんしう)の裔(すそ)をひるかへし粧(よそほ)ひ
巍々(きゝ)堂々(とふ〳〵)として善美(せんひ)を尽(つく)せり此日(このひ) 官府(くわんふ)の御沙汰(こさた)として
神輿通行(しんよつうかう)の御道筋(おんみちすち)は横(よこ)の小路々々(こうち 〳〵 )は矢来(やらい)を結(ゆ)はしめて往(わう)
来(らい)を禁せらる実(まこと)に大江戸(おほえと)第一(たい )の大祀(たいし)にして一時(いちし)の壮観(さうくわん)たり
薬師堂(やくしたう) 同(おなし)く御旅所(おんたひしよ)の地(ち)にあり本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)は恵心僧都(ゑしんそうつ)の
作(さく)なり山王権現(さんわうこんけん)の本地佛(ほんちふつ)たる故(ゆゑ)に慈眼大師(しけんたいし)勧請(くわんしやう)し給ふ
といへり縁日(えんにち)は毎月八日十二日《割書:正五九月廿日|には開帳(かいちやう)あり》にして門前(もんせん)二三町の間/植木(うゑき)の
【右丁】
六月十五日
山王祭(さんわうまつり)
【図】
《割書:麴|町》壹町目
【左丁】
我等
まて
天下
まつり
や
土車
其角
【図】
【右丁】
其二
【図】
山王御祭禮
神主
別當
【左丁】
【図】
奉納山王御祭禮
はこさきはし
衆徒
榊
山王御祭禮
薬師堂
【右丁】
【図】
山王御旅所
三ノ宮
れいかんはし
二ノ宮
山王
山王
獅頭
【左丁】
其三
【図】
一ノ宮
鉾
奉獻御祭禮
奉獻御祭禮
湊橋
山王御祭禮
【右丁】
永田馬場(なかたはゝ)
山王(さんわう)御旅所(おんたびしよ)
六月十五日
御祭礼(こさいれい)の
時(とき)此所(このところ)へ
神輿(しんよ)行幸(きやうかう)
あり
【図】
【枠内】山王宮
【枠内】山王権現
【左丁】
茅場町(かやはちやう)
薬師堂(やくしたう)
【図】
【枠内】ゑんま
【枠内】役行者
【枠内】いなり
【枠内】地蔵
【枠内】此辺傘屋多し
卍
卍
【右丁】
夕やくし
すゝしき
風の
誓
かな
其角
【図】
【左丁】
毎月八月十二日
薬師(やくし)の縁日(えんにち)には
植木(うへき)を商(あきな)ふ事
夥(おひたゝ)しく参詣(さんけい)
群集(くんしふ)して
賑(にきわ)えり
【図】
市(いち)立(たて)り別當(へつたう)は醫王山(ゐわうさん)智泉院(ちせんゐん)と号(かう)す《割書:元(もと)は鎧島山(かいとうさん)と|号(なつけ)しとなり》本尊縁起(ほんそんえんきに)日(いはく)
恵心僧都(ゑしんそうつ)は其父母(そのふほ)大和國(やまとのくに)高尾寺(たかをてら)の薬師佛(やくしふつ)に禱(いの)りて設(まう)くる
所(ところ)の霊児(れいし)なり僧都(そうつ)佛門(ふつもん)に入て後(のち)法恩(ほふおん)を謝(しや)せんか為(ため)自(みつか)ら此本(このほん)
尊(そん)を彫刻(てうこく)ありて高尾寺(たかをてら)に安置(あんち)せられしに遥(はるか)の後(のち)相州(さうしう)大場(おほは)
村(むら)に遷(うつ)し奉(たてまつ)りたり然(しかる)に慈眼大師(しけんたいし)東叡山(とうえいさん)にうつし奉(たてまつ)る此地(このち)也
大城(たいしやう)の東(ひかし)に位(くらゐ)ししかも山王(さんわう)の本地佛(ほんちふつ)たるによりこゝに安置(あんち)なし
奉(たてまつ)らるゝとなり
天満宮(てんまんくう) 同(おなし)境内(けいたい)にあり社司(しやし)諸井氏(もろゐうち)奉祀(ほうし)す《割書:二月八月共に廿五日を|祭(さい)日とせり神像(しんさう)は画(くわ)》
《割書:幅(ふく)にして寛永(くわんえい)年間(ねんかん)柳営(りうえい)に奉仕(ほうし)の春日局(かすかのつほね) 大樹(たいしゆ)より拝受(はいしゆ)せられしを山王(さんわう)の|神主(かんぬし)日吉(ひよし)右京進(うきやうのしん)へ附与(ふよ)あり其後(そのゝち)諸井氏(もろゐうち)請(こひ)得(え)てこゝに勧請(くわんしやう)なし奉(たてまつ)るとなり》
類柑子 北(きた)の窓(まと)
我栖(わかすむ)北隣(きたとなり)に芦荻(あしをき)茂(しけ)く生(おひ)て笹阿(さゝのくま)なる地(ち)あり茅場町(かやはちやう)といふ
名(な)にふれて昔(むかし)は海邊(うみへ)なりしを今(いま)は栄行(さかえゆく)家作(いへつく)りして
山王権現(さんわうこんけん)の御旅所(おたひしよ)と定(さた)め薬師佛(やくしふつ)立(たち)給ふに堂(たう)のかみ斗(はかり)
【左丁】
たゝほのかに繪(ゑ)にかけると見ゆ空地(くうち)は水(みつ)をためて池(いけ)めかし
深草(みくさ)引(ひく)人しなけれは蓼(たて)の花穂(はなほ)に立(たち)のひなも■【みヵ】箒木(はゝきゝ)
色(いろ)つきわたる雨風(あめかせ)につけても虫(むし)の聲(こゑ)聞(きゝ)まさり大(おほ)かたの
空(そら)もうつゝなるに待(まつ)にかならす出(いつ)る月(つき)かなとことはりし
窓(まと)ふたかたに明(あく)めり《割書:中略》北(きた)にうたゝねして炎夏(えんか)わつら
はしからす竹(たけ)の簀子(すのこ)に這出(はひいて)て蛍(ほたる)をかそふるもはした
なし娘(むすめ)の四つはかりなるあふなくふとはしりてとらん
とすあやまちすへしさはおりぬものよ手(て)とりてなと
母(はゝ)そすかすめり《割書:下略》
俳仙(はいせん)宝晋斎(はうしんさい)其角翁(きかくをうの)宿(やと) 茅場町(かやはちやう)薬師堂(やくしたう)の辺(あたり)也(なり)といひ傳(つた)ふ元禄(けんろく)の
末(すへ)こゝに住(ちゆう)す即(すなはち)終焉(しゆうえん)の地(ち)なり
《割書:按(あんする)に梅(うめ)か香(か)や隣(となり)は荻生(をきふ)惣右衛門といふ句(く)は其角翁(きかくをう)のすさひなる由(よし)普(あまね)く人口(しんこう)に|膾炙(くわいしや)す依(よつ)て其(その)可否(かひ)はしらすといへともこゝに注(ちゆう)して其(その)居宅(ゐたく)の間(あひた)近(ちか)きをしるの一助(いちしよ)たらしむるのみ》
徂徠先生(そらいせんせい)居宅地(きよたくのち) 同所/植木店(うゑきたな)なりといふ先生(せんせい)一/号(かう)を蘐園(くわんゑん)といはれし
【右丁】
伊雑(いそへ)大神宮(たいしんくう)
【図】
【左丁】
勧進聖判職人尽
歌合の内花と獅子舞
たはふれて
春の
木かけに
まふ
獅子の
たゝく
鼓に
花も咲そへ
逍遥院
【図】
蘐(くわん)は萱(かや)と同し字義(しき)なれは称(しよう)せられしなりよつて此地(このち)に住(ちゆう)せ
られし事(こと)知(し)るへし
伊雑(いそへ)太神宮(たいしんくう) 北八町堀(きたはつちやうほり)松屋橋(まつやはし)より一町はかり艮(うしとら)の方(かた)塗師町(ぬしちやう)代地(たいち)
町屋(まちや)の間(あひた)にあり《割書:當社(たうしや)ある故(ゆゑ)に此所(このところ)を字(あさな)|して磯辺(いそへ)横町(よこちやう)と呼(よ)へり》土俗(とそく)磯辺(いそへ)太神宮(たいしんくう)といふ
伊雑(いそへ)の御神(おんかみ)は天照皇太子神宮(てんしやうくわうたいしんくう)の別宮(へつくう)にして祭神(さいしん)は伊佐波登(いさはと)
美命(みのみこと)と玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)二座(にさ)なり寛永(くわんえい)元年甲子/伊勢長官(いせちやうくわん)出口(てくち)
市正(いちのかみ)某(それかし)伊雑宮(いそへのみや)より移(うつ)しまゐらせ通(とほり)三丁目に宮社(きうしや)を営(いとな)めり
《割書:今(いま)神明長屋(しんめいなかや)と|唱(とな)ふるは則(すなはち)是(これ)也》同十年癸酉/今(いま)の地(ち)へ移(うつ)し奉(たてまつ)るといへり例祭(れいさい)は
六月廿六日に修行(しゆきやう)す
《振り仮名:三ッ橋|み はし》 一ッ所に橋(はし)を三所/架(わた)せし故(ゆゑ)にしか呼(よへ)り北八町堀(きた ほり)より本材木(ほんさいもく)
町(ちやう)八丁目へ渡(わた)るを弾正橋(たんしやうはし)と呼(よ)ひ《割書:寛永(くわんえい)の頃(ころ)今(いま)の松屋町(まつやちやう)の角(すみ)に島田(しまた)|弾正少弼(たんしやうのせうひつ)やしきありし故(ゆゑ)といふ》本(ほん)
材木町(さいもくちやう)より白魚屋鋪(しらうをやしき)へ渡(わた)るを《振り仮名:牛の草橋|うし くさはし》といふ又/白魚屋敷(しらうをやしき)より
南八町堀(みなみ ほり)へ架(か)するを真福寺橋(しんふくしはし)と号(なつ)くるなり
【左丁】
霊巌島(れいかんしま) 箱崎(はこさき)の南(みなみ)にあり《割書:町数(ちやうすう)今十八|町/斗(はかり)あり》昔(むかし)雄誉(いうよ)霊巖和尚(れいかんおしやう)此地(このち)の海(かい)
汀(てい)を築立(つきたて)て梵宮(ほんくう)を営(いとなみ)て霊巖寺(れいかんし)と号(なつ)く《割書:依(よつ)て後世(こうせい)霊巖島(れいかんしま)といふ|地名(ちめい)起(おこ)れり初(はしめ)は江戸(ゑと)の中(なか)》
《割書:島(しま)とよひしとなり東海道名所記(とうかいたうめいしよき)にれいかん島(しま)も江戸(えと)の|地(ち)をはなれて東(ひかし)の海中(かいちゆう)へ築出(つきいた)したる島(しま)なりと云云》後世(こうせい)寺(てら)を深川(ふかゝは)へ移(うつ)
されて其跡(そのあと)を町家(まちや)となし給ふといへり故(ゆゑ)に此地(このところ)の北(きた)の通(とほ)りより
茅場町(かやはちやう)へ渡(わた)る橋(はし)を霊岸橋(れいかんはし)と号(なつ)けたり
随見屋鋪(すゐけんやしき) 同所/新川(しんかは)一の橋(はし)の北詰(きたつめ)塩町(しほちやう)の辺(へん)其(その)舊地(きうち)なりといへり
《割書:此所(このところ)に瀬戸物屋(せとものや)多(おほ)く住(ちゆう)せり故(ゆゑ)に茶碗(ちやわん)|鉢店(はちたな)とも号(なつ)く或(あるひは)随見長屋(すゐけんなかや)ともよへり》川村随見(かはむらすゐけん)は諸国(しよこく)の水土(すゐと)を考(かんか)ふ
るに精(くは)しふして大(おほい)に世(よ)に勲功(くんこう)あり海(うみ)を築(きつ)き川(かは)を堀(ほり)田畑(たはた)を開(かい)
發(はつ)す河内國(かはちのくに)の水(みつ)を落(おと)さんとして摂泉(せつせん)の堺(さかい)に大和川(やまとかは)を堀(ほり)淀(よと)
川(かは)の溢(あふるゝ)を治(をさめ)んとして大坂(おほさか)に安治川(あちかは)を鑿(ほり)《割書:随見(すゐけん)自(みつか)らの実名(しつみやう)を安治(やすはる)と|いふ音(おん)に呼(よひ)て安治川(あちかは)と云とそ》
其(その)土砂(としや)を以(もつ)て川下(かはしも)に新(あらた)に山(やま)を築(きつ)き洪水(こうすゐ)の時(とき)高波(たかなみ)を防(ふせき)除(のそ)かむ
為(ため)を専(もつは)らとし且(かつ)沖(おき)よりの目當(めあて)とす《割書:世(よ)に随見山(すゐけんやま)と称(しよう)せり|本名(ほんみやう)は波除山(なみよけやま)といへり》其餘(そのよ)の功(こう)
最(もつとも)少(すくな)からす《割書:菊岡沾涼(きくをかせんりやう)云く川村随見(かはむらすゐけん)は|御幕下(おんはくか)川村氏(かはむらうち)の始祖(しそ)なりと云々》
【右丁】
《振り仮名:三ッ橋|み はし》
【図】
【枠内】牛のくさ橋
【枠内】弾正橋
【左丁】
風羅袖日記
八丁堀にて
菊の
花
さくや
石屋
の
石
の
間
芭蕉
【図】
イ ナ リ
【枠内】七観音
【枠内】いなり
【枠内】真福寺橋
【右丁】
新川(しんかは)
酒問屋(さかとひや)
【図】
【左丁】
【図】
【枠内】酒賣場
【右丁】
新川(しんかは)
大神宮(たいしんくう)
【図】
【枠内】八百万神
【枠内】牛頭大王
【枠内】冨士
【枠内】いなり
【枠内】天神
【枠内】三峰
【枠内】弁天
【左丁】
何の
木の
花
とも
しら
す
匂ひ
かな
芭蕉
【図】
【枠内】いなり
【枠内】拝殿
【右丁】
伊勢太神宮(いせたいしんくう) 同所/四日市町(よつかいちまち)にあり此地(このち)の産土神(うふすな)とす《割書:此所(このところ)を俗間(そくかん)に新川(しんかは)と|唱(とな)ふ酒問屋(さけとひや)多(おほ)く》
《割書:ありて繁(はん)|昌(しやう)の地(ち)なり》伊勢(いせ)内外(ないけ)両(りやう)皇太神宮(くわうたいしんくう)を勧請(くわんしやう)し奉(たてまつ)り遥拝所(えうはいしよ)とす遷(せん)
宮(くう)伊勢(いせ)と同年(とうねん)なり《割書:江戸鹿子(えとかのこ)には寛永(くわんえい)|中(ちゆう)草剏(さうさう)とあり》伊勢内宮(いせないくう)の社僧(しやそう)慶光院(けくわうゐん)比(ひ)
丘尼(くに)江戸(えと)参府(さんふ)の折柄(をりから)旅亭(りよてい)の儲(まうけ)の為(ため)に此地(このち)を給ふとそ《割書:慶光院(けいくわうゐん)伊勢(いせ)|上人は格式(かくしき)》
《割書:御門跡(こもんせき)並(なみ)に比(ひ)せられ紫衣(しえ)を賜(たま)はりて御朱印地(こしゆゐんち)なり始祖(しそ)の比丘尼(ひくに)は内宮(ないくう)建立(こんりふ)の時(とき)|より連綿(れんめん)として社僧(しやそう)たり依(よつ)て内宮(ないくう)の御師(おんし)山本太夫(やまもとたいふ)は始祖(しそ)慶光院(けくわうゐん)の子孫(しそん)なる故に|今(いま)も彼寺(かのてら)の住持(ちゆうち)比丘尼(ひくに)は代々この家(いへ)より嗣(つき)侍(はへ)るとなり》
《割書:按(あんする)に明暦(めいれき)の江戸繪図(えとゑつ)に今(いま)所謂(いはゆる)三の御丸(おんまる)の地(ち)に伊勢(いせ)上人の屋鋪(やしき)としるせし所あり|此(この)上人の旅宿(りよしゆく)なるへし後(のち)に此所(このところ)へ遷(うつ)させられしならん》
《割書:年山紀聞云》
《割書:永禄元年日記《割書:記者|不詳》後 ̄ノ六月三日中山亜相《割書:神官ノ|傳奏》被_レ談云 ̄ク去月廿三日神官《割書:外|宮》|上棟無事 ̄ニ令_二沙汰_一之由注進有_レ之或比丘尼号_二 上人_一《割書:先皇 ̄ノ御代被_レ 下_二 上人 ̄ノ|号_一女房初例歟》名 ̄ハ■号_二|慶光院 ̄ト_一以_二諸国勧進之力_一此上棟取 ̄リ立 ̄ル者也内々又内宮 ̄ノ上棟存立 ̄ト云云雖_二|不相應之事_一末世如_レ此之儀神恵有_二子細_一歟不_二測知_一事也》
永代橋(えいたいはし) 箱崎(はこさき)より深川(ふかかは)佐賀町(さかちやう)に掛(かく)る元禄(けんろく)十一年戊寅/始(はしめ)て是(これ)を
架(か)せしめらる永代島(えいたいしま)に架(わた)す故(ゆゑ)に名(な)とす長(なかさ)凡(およそ)百十間/餘(よ)あり此所(このところ)は
諸国(しよこく)への廻船(くわいせん)輻湊(ふくそう)の要津(えうしん)たる故(ゆゑ)に橋上(きやうしやう)至(いたつ)て高(たか)し《割書:此橋(このはし)のかゝら|さりし已前(いせん)は》
《割書:深川(ふかかは)の大渡(おほわた)りとて|舩渡(ふなわた)しなりといふ》東南(とうなん)は蒼海(さうかい)にして房総(はうさう)の翠巒(すゐらん)斜(なゝめ)に開(ひら)け芙(ふ)
【左丁】
蓉(よう)の白峯(はくほう)は大城(たいしやう)の西(にし)に峙(そはたち)筑波(つくは)の遠嶺(ゑんれい)は墨水(ほくすゐ)に臨(のそ)むて朦朧(もうろう)たり
台嶺金龍(たいれいきんりう)の宝閣(はうかく)は緑樹(りよくしゆ)の蔭(かけ)に見(み)えかくれて自(おのつから)丹青(たんせい)を施(ほとこ)すに
似(に)て風光(ふうくわう)さなから画中(くわちゆう)にあるかことし
薬師堂(やくしたう) 霊巖島(れいかんしま)銀町(しろかねちやう)にあり別當(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして医王山(ゐわうさん)圓覚寺(ゑんかくし)
と号(かう)す本尊(ほんそん)は三州(さんしう)鳳来寺(ほうらいし)峰(みね)の薬師(やくし)と同木同作(とうほくとうさく)にして《割書:理趣仙人(りしゆせんにん)|刻(こく)する所(ところ)也》
大宝年間(たいはうねんかん)に造立(さうりふ)ありしとなり《割書:座像(ささう)御丈(みたけ)三尺あり鳳来寺薬師(ほうらいしやくし)|と称(しよう)し又は橋本薬師(はしもとやくし)とも称(しよう)せり》此霊(このれい)
像(さう)はもと高野山(かうやさん)橋本(はしもと)の里(さと)にありしを慶長年間(けいちやうねんかん)當寺(たうし)の開基(かいき)
恵生(ゑしやう)阿闍梨(あしやり)此地(このち)に遷(うつし)奉(たてまつ)り後(のち)霊巖寺(れいかんし)の境内(けいたい)に安(あん)す《割書:深川(ふかかは)霊(れい)|巖寺(かんし)の》
《割書:事(こと)なり彼寺(かのてら)始(はしめ)|此地(このち)にあり》萬治(まんち)の後(のち)霊巖寺(れいかんし)深川(ふかかは)にうつる其頃(そのころ)此(この)薬師堂(やくしたう)と
稲荷(いなり)の社(やしろ)のみは此地(このち)に残(のこ)しとゝめらるゝといへり
橋本稲荷社(はしもといなりのやしろ) 同(おなし)境内(けいたい)にあり此所(このところ)の鎮守(ちんしゅ)とす社記云(しやきにいはく)神像(しんさう)は弘法(こうほふ)
大師(たいし)の作(さく)にして《割書:御丈(みたけ)一尺|二寸あり》山城國(やましろのくに)伏見稲荷明神(ふしみいなりみやうしん)と同木同作(とうほくとうさく)なりと
いへり往古(そのかみ)高野山(かうやさん)の麓(ふもと)橋本(はしもと)の里(さと)に宮居(みやゐ)を造(つく)りて安置(あんち)ありしか
【右丁】
永代橋(えいたいはし)
東望天邊海氣高
三又口上接滔々
布帆一片懸秋色
欲破長風萬里涛
南郭
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
故(ゆゑ)ありて後(のち)こゝに勧請(くわんしやう)なし奉(たてまつ)るとなり
恵比須前(ゑひすまへ)稲荷(いなり)祠 同所/東湊町(ひかしみなとちやう)の南高橋(みなみたかはし)の北詰(きたつめ)人家(しんか)の間(あひた)に
あり《割書:別當(へつたう)は天台宗(てんたいしう)にして|普門院(ふもんゐん)と号(かう)す》昔(むかし)は向井侯(むかゐこう)のやしきにありしか海賊橋(かいそくはし)より
引移(ひきうつ)られし頃(ころ)宮居(みやゐ)を構(かまへ)の外(そと)に出(いた)されしとそ此所(このところ)をゑひすの
宮前(みやまへ)又は蛭子前(えひすまへ)と唱(とな)へはへり《割書:古老云(こらういは)く昔(むかし)此地(このち)より鉄炮洲(てつはうす)築地(つきち)へ|かけて一圓(いちゑん)の海(うみ)なりし頃(ころ)は此所彼所(こゝかしこ)に》
《割書:出洲(てす)のみあり此辺(このあたり)の洲(す)に芝海老(しはえひ)といへるもの多(おほ)く集(あつま)る故(ゆゑ)に漁(きよしん)字(あさな)にえひの洲(す)|と唱(とな)へ其(その)洲崎(すさき)にありし稲荷(いなり)の宮(みや)なるをもて海老洲(えひす)の宮(みや)とのみよひならはせ》
《割書:しか後世(こうせい)誤(あやま)りて蛭子神(ひるこのかみ)に混(こん)し又/夷子(えひす)に轉(てん)しいよ〳〵附會(ふくわい)せしなりとそこの|説(せつ)さもありなんかし》
湊稲荷社(みなといなりのやしろ) 高橋(たかはし)の南詰(みなみつめ)にあり鎮座(ちんさ)の来由(らいゆ)詳(つまひらか)ならす此地(このち)は廻船(くわいせん)
入津(にふしん)の湊(みなと)にして諸国(しよこく)の商舩(あきなひふね)普(あまね)くこゝに運(はこ)ひ碇(いかり)を下(おろ)して此社(このやしろ)の
前(まへ)にて積所(つむところ)の品(しな)を悉(こと〳〵)く問屋(とひや)へ運送(うんさう)す此故(このゆゑ)にや近世(ちかころ)吉田家(よしたけ)
より湊神社(みなとしんしや)の号(かう)を贈(おく)らるゝ當社(たうしや)は南北(なんほく)八丁堀(はつちやうほり)の産土神(うふすな)なり又(また)
此川口(このかはくち)の北(きた)に監舩所(ふなやくしよ)ありて舩(ふね)の出入(ていり)を改(あらため)らる《割書:事跡合考(しせきかつかうに)云(いふ)此祠(このやしろ)昔(むかし)は|八丁/堀(ほり)一丁目の南岸(みなみきし)に》
《割書:ありしか此地(このち)年月を重(かさ)ねて家居(いへゐ)立(たち)つゝき|けれは八丁目の大川(おほかは)はしに遷(うつ)せしとそ》
【左丁】
鉄炮洲(てつはうす) 南北(なんほく)へ凡(およそ)八町はかりもあるへし傳云(つたへいふ)寛永(くわんえい)の頃(ころ)井上(ゐのうへ)稲冨(いなとみ)等(ら)
大筒(おほつゝ)の町見(ちやうけん)を試(こゝろみ)し所(ところ)なりと或(あるひは)此(この)出洲(てす)の形状(きやうしやう)其器(そのき)に似(に)たる故(ゆゑ)の
号(かう)なりともいへり《割書:白石先生(はくせきせんせい)の説(せつ)に此地(このち)は明暦火災後(めいれきくわさいこ)に桑山傳兵衛(くはやまてんひやうへ)某(それかし)を|奉行(ふきやう)として築出(つきいた)されしとなり又/故家(あるいへ)珍蔵(ちんさう)の舊図(きうつ)に新(しん)》
《割書:出洲(てす)と|記(しる)せり》今(いま)は薪(たきゝ)炭(すみ)石抔(いしなと)の問屋(とひや)多(おゝ)く住(ちゆう)せり
打出る月は世界の鉄炮洲玉のやうにて雲をつんぬく《割書:半井| 卜養》
半井卜養翁(なからゐほくやうおう)居宅地(きよたくのち) 同所(とうしよ)明石町(あかしまち)の裏通(うらとほ)りにあり《割書:或人(あるひと)云(いふ)延宝(えんはう)九年|半井卜仙(なからゐほくせん)拝領(はいりやう)屋(や)》
《割書:敷(しき)は父(ちゝ)卜養(ほくやう)の時(とき)賜(たま)はる所なりと云云/寛文(くわんふん)江戸繪圖(えとゑつ)に十間町(しつけんてう)の|西(にし)の裏通(うらとほ)り寒(さむ)さ橋(はし)の東詰(ひかしつめ)の北(きた)の方(かた)川(かは)に傍(そひ)たる角(すみ)に記(しる)してあり》半井卜養翁(なからゐほくやうおう)は
東都(とうと)の御醫官(おんゐくわん)にして牡丹花肖柏(ほたんくわせうはく)の裔孫(えいそん)なり連哥(れんが)およひ
狂歌(きやうか)を能(よく)せらる此地(このち)を賜(たま)はりし頃(ころ)の口(くち)すさみに
卜養は本道とこそ思ひしにうみちをとるは外科か望か
《割書:按(あんする)に江戸砂子(えとすなこ)に卜養(ほくやう)の詠(えい)とすれとも哥意(うたのこゝろ)は他(た)の人(ひと)の詠(よめ)るか如(こと)く不審(ふしん)少(すくな)からす》
了然禅尼(りやうねんせんに)庵室地(あんしつのち) 此地(このところ)に住(すみ)はへりしよし紫(むらさき)の一本(ひともと)といへる草紙(さうし)に
見(み)えたり禅尼(せんに)の行實(きやうしつ)は第(たい)四/巻(くわん)落合泰雲寺(おちあひたいうんし)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり
【右丁】
佃島(つくたしま) 鉄炮洲(てつはうす)に傍(そひ)たる孤島(こたう)をいふ《割書:舟松町(ふなまつちやう)より舟渡(ふなわたし)|ありてこゝに至(いた)る》文亀年間(ふんきねんかん)江戸(えと)
の舊図(きうつ)に向島(むかふしま)とあり天正年間(てんしやうねんかん)
東照大神君(とうせうたいしんくん)遠州濱松(ゑんしうはままつ)の御城(おんしろ)にまし〳〵皇都(くわうと)へ上(のほ)り給ふ頃(ころ)摂津(せつつの)
國(くに)多田(たゝ)の御廟(こひやう)およひ住吉大神(すみよしたいしん)にまうて給ふとき神崎川(かうさきかは)御舩(おんふね)
なかりしに佃村(つくたむら)の漁夫(きよふ)猟舩(りやうせん)をこき出(いた)して渡(わた)し奉(たてまつ)りしかは伏見(ふしみ)
御城(おんしろ)にまします時(とき)も御膳(こせん)の魚(うを)を奉(たてまつ)るへき旨(むね) 台命(たいめい)あり又
西国(さいこく)へ御使(おんつかひ)なとの折(をり)からはかならす漁船(きよせん)を以(もつ)て仕(つか)へ奉るへき
旨(むね) 命(めい)ありしかは大坂(おほさか)両度(りやうと)の御陣(こちん)にも軍事(くんし)の密使(みつし)或(あるひ)は御膳(こせん)の
魚猟(きよりやう)等(とう)の事日々/怠(おこたり)なく仕(つか)へ奉りしかは其後(そのゝち)漁人(きよしん)三十四人/江戸(えと)へ
めされ慶長年間(けいちやうねんかん)浅草川(あさくさかは)御遊猟(こいうりやう)の時(とき)網(あみ)を引(ひか)せ給ひ同十八年
八月十日/海川(うみかは)漁猟(きよりやう)すへき旨(むね)免許(めんきよ)なし給へり《割書:其頃迄(そのころまて)は安藤(あんとう)石川(いしかは)|両侯(りようこう)の藩邸(はんてい)ありし》
《割書:頃(ころ)は今(いま)の小石川(こいしかは)網干坂(あみほしさか)小網町(こあみちやう)難波町(なにはちやう)等(とう)に旅宿(りよしゆく)して居(ゐ)たりしとなり|難波町(なにはちやう)に今(いま)も六人/河岸(かし)と云(いふ)所(ところ)ありて六人網(ろくにんあみ)と号(なつ)けて専(もつは)ら用(もち)ゆるとなり》然(しかる)に寛永年間(くわんえいねんかん)
鉄炮洲(てつはうす)の東(ひかし)の干潟(ひかた)百間四方(ひやくけんよはう)の地(ち)を給り正保(しやうほ)元年二月/漁家(きよか)を立並(たてなら)へて
【左丁】
本國(ほんこく)佃村(つくたむら)の名(な)を採(とり)て即(すなはち)佃島(つくたしま)と号(なつ)く又/白魚(しらうを)を取(とり)て奉(たてまつ)るへき
旨(むね) 台命(たいめい)によりて毎年(まいねん)十一月より三月/迄(まて)怠(おこた)らす奉る其(その)
間(あひた)は他(た)の猟(りやう)を堅(かた)く禁(いまし)め給へり猶(なほ)其後(そのゝち)深川八幡宮(ふかかははちまんくう)の前(まへ)にて
空地(くうち)三千/坪(つほ)を給はりて佃町(つくたちやう)と号(なつ)けられ御菜魚(こさいきよ)をも奉(たてまつ)れる
事(こと)となれり《割書:或人(あるひと)の説(せつ)に此所(このところ)は始(はしめ)安藤右京進(あんとううきやうのしん)やしきの地(ち)にして住吉(すみよし)の社(しや)|頭(とう)に繁茂(はんも)する所(ところ)の藤(ふち)は安藤家(あんとうけ)にて栽(うへ)る所なりといへり廣(くわう)》
《割書:貢(く)に佃島(つくたしま)は紀州(きしう)賀多(かた)の漁人(きよしん)雑居(さつきよ)し|一/島(とう)皆(みな)本願寺宗(ほんくわんししう)にて他宗(たしう)なしと云々》此地(このち)は殊更(ことさら)白魚(しらうを)に名(な)あり故(ゆゑ)に
冬月(とうけつ)の間(あひた)毎夜(まいや)漁舟(きよしう)に篝火(かゝりひ)を焼(たき)四手網(よつてあみ)を以(もつ)て是(これ)を漁(すなと)れり都(と)
下(か)おしなへて是(これ)を賞(しやう)せり春(はる)に至(いた)り二月の末(すへ)よりは川上(かはかみ)に登(のほ)り
弥生(やよひ)の頃(ころ)子(こ)を産(さん)す其子(そのこ)秋(あき)に至(いた)りて七八月の頃(ころ)江海(かうかい)に入と云
《割書:事跡合考(しせきかつかう)に云/両国(りやうこく)の川筋(かはすち)に産(さん)する所(ところ)の|白魚(しらうを)は尾州(ひしう)名古屋(なこや)の浦(うら)よりとりよせ給ふと云々》
住吉明神(すみよしみやうしん)社 佃島(つくたしま)にあり祭(まつ)る神(かみ)摂州(せつしう)の住吉(すみよし)の御神(おんかみ)に同し神主(かんぬし)は
平岡氏(ひらをかうち)奉祀(ほうし)す正保年間(しやうほねんかん)摂州(せつしう)佃(つくた)の漁民(きよみん)に初(はしめ)て此地(このち)を賜(たま)はり
しよりこゝに移(うつ)り住(すむ)本國(ほんこく)の産土神(うふすな)なる故(ゆゑ)に分社(ふんしや)してこゝにも
【右丁】
佃島(つくたしま)
住吉明神(すみよしみやうしん)社
【図】
【左丁】
名月
や
こゝ
住吉(すみよし)
の
つくた
嶋
其角
【図】
【枠内】安房
【枠内】上総
【枠内】佃島
【枠内】住吉
【右丁】
其二
湊(みなと)
稲(いな)
荷(りの)
社(やしろ)
【図】
【枠内】佃新地
【枠内】冨士
【左丁】
【図】
【枠内】永代橋
【枠内】稲荷
【枠内】いなり橋
【右丁】
佃島(つくたしま)
白魚網(しらうをあみ)
【図】
【左丁】
白魚に
價
ある
こそ
恨
なれ
はせを【芭蕉】
【右丁】
住吉(すみよし)の宮居(みやゐ)を建立(こんりふ)せしとなり《割書:摂州(せつしう)の佃村(つくたむら)は西成郡(にしなりこほり)にあり古今集(こきんしふ)にた|みのゝ島(しま)とよめるは是(これ)なりかしこにも》
《割書:住吉明神(すみよしみやうしん)の宮居(みやゐ)ありて神功皇后(しんこうくわうこう)三韓征伐(さんかんせいはつ)御帰陣(こきちん)の時(とき)其地(そのち)に御舩(みふね)の艫綱(ともつな)を|かけ給ひしより已降(このかた)佃村(つくたむら)の地(ち)に御舩(おんふね)の鬼板(おにいた)を傳(つた)へいつき祭(まつ)る事/千有余年(せんいうよねん)なりと》
《割書:いへり當社(たうしや)は|此(この)分社(ふんしや)たり》毎歳(まいさい)六月晦日/名越祓修行(なこしはらひしゆきやう)あり《割書:例祭(れいさい)は毎歳(まいさい)六月廿八日廿九日|両日なり人々/群集(くんしふ)す》
逍遥院実隆公(せうえうゐんさねたかかう)住吉奉納和哥(すみよしほうなうわか)十首の題(たい)を詠(えいし)て奉りし中に
江上月
此浦の入江の松に澄月のみなれそなれて幾秋かへむ 戸田茂睡
名月やこゝ住吉のつくたしま 其角
此地(このち)は都下(とか)を去(さる)事/咫尺(しせき)なれとも離島(はなれしま)にして漁人(きよしん)の住家(ちゆうか)のみ
所得顔(ところえかほ)なり弥生(やよひ)の潮乾(しほひ)には貴賤(きせん)袖(そて)を交(まし)へて浦風(うらかせ)に酔(ゑひ)を醒(さま)し
貝(かひ)拾(ひろ)ひあるは磯菜摘(いそなつむ)なんと其(その)興(きやう)殊(こと)に多(おほ)し月(つき)平沙(へいさ)を照(てら)しては
漁火(きよくわ)白(しろ)く芦辺(あしへ)の水鶏(くひな)波間(なみま)の千鳥(ちとり)も共(とも)に此地(このち)の景色(けいしよく)に入て四(しい)
時(し)の風光(ふうくわう)足(たら)すとする事なし
鎧島(よろひしま) 佃島(つくたしま)の北(きた)に並(なら)へり今(いま)石川島(いしかはしま)と号(なつく)《割書:俗(そく)に八左衛門殿島(はちさゑもんとのしま)ともいへり昔(むかし)|大猷公(たいいうこう)の御時(おんとき)石川氏(いしかはうち)の先代(せんたい)此島(このしま)を》
《割書:拝領(はいりやう)するよりかく唱(とな)ふるとなり寛政(くわんせい)四年/石川氏(いしかはうち)|永田(なかた)町へ屋敷替(やしきかへ)ありしより炭置場(すみおきは)人足寄場(にんそくよせば)等(とう)になれり》舊名(きうみやう)を森島(もりしま)と云(いふ)よし江戸(えと)の
【左丁】
古図(こつ)に見えたり《割書:文亀(ふんき)|古図(こつ)》又/其図(そのつ)に記(しるし)て云(いは)く此島(このしま)一/名(みやう)を鎧島(よろひしま)と号(なつ)く
古(いにし)へ八幡太郎義家朝臣(はちまんたらうよしいへあそん)鎧(よろひ)を収(をさ)めて神體(しんたい)とし八幡宮(はちまんくう)を勧請(くわんしやう)
す石川大隅守(いしかはおほすみのかみ)居住(きよちゆう)の時(とき)は其(その)庭中(ていちゆう)にありしか今(いま)は鉄炮洲稲荷(てつほうすいなり)
境内(けいたい)にありと云云《割書:或人云(あるひといふ)昔(むかし)猷廟(いうひやう)の御時(おんとき)異国(いこく)より鎧(よろひ)一領(いちりやう)を奉(たてまつ)りけるに|重(おも)くして是(これ)を持(もつ)ものなかりし時石川氏の祖(そ)大力なりけれは》
《割書:是(これ)を片手(かたて)に持(もち)て 大樹(たいしゆ)の御前(こせん)へ披露(ひろう)なし奉(たてまつ)る故(ゆゑ)に御感賞(こかんしやう)のあまり此所(このところ)を|宅地(たくち)にたまふとなり鎧(よろひ)を携(たつさ)へし賞(しやう)として給ふ所(ところ)の地(ち)なれはとて鎧島(よろひしま)と号(なつ)け|られけるとなり》
江風山月楼(かうふうさんけつろう) 築地稲葉侯(つきちいなはこう)別荘(へつさう)の号(かう)なり寛文(くわんふん)二年壬寅の春(はる)此所(このところ)
の海汀(かいてい)を塡(うつ)み土(つち)を積(つみ)石を畳(たゝ)むて翌(あく)る年(とし)の秋(あき)其功(そのこう)なれりと
いふ風光(ふうくわう)他(た)に勝(すく)れ殊(こと)に洞庭(とうてい)の秋影(しうゑい)にも越(こえ)たりとなり
咳逆(せきの)耆嫗(ちゝはゝ)《割書:同/藩中(はんちゆう)にありいつれも高さ二尺はかりの石像(せきさう)なり稲葉侯(いなはこう)の始(し)|祖(そ)小田原(をたはら)にありし時(とき)其(その)辺(あた)りを巡見(しゆんけん)せられしにとある深(み)山に至(いた)るに》
《割書:一の草庵(さうあん)に一人の老僧(らうそう)の住(すめ)るあり其(その)号(かう)を風外(ふうくわい)と云(いふ)と後(のち)是(これ)を城中(しやうちゆう)に請(しやう)せんとする|事(こと)屡(しは〳〵)なり故(ゆゑ)に其後(そのゝち)一度/城(しろ)に入來(いりきた)り城主(しやうしゆ)に見(まみ)ゆるといへともあへてよろこひとせす》
《割書:受(うく)る所(ところ)の種々(くさ〳〵)は其(その)家臣(かしん)田崎某(たさきそれかし)か許(もと)に置(おき)て出去(いてさり)終(つひ)に行方(ゆくへ)をしらすとなり其(その)住(すみ)たる|所の庵(いほり)に件(くたん)の石像(せきさう)を残(のこ)してありしを後(のち)此地(このち)にうつされけるとなりされと耆嫗(きう)共(とも)に》
《割書:何人なる事をしらすとそ傳云(つたへいふ)此(この)耆嫗の石像(せきさう)を一/雙(さう)並(なら)へ置(おく)時はかならす耆の石像/倒(たを)|るゝ事ありとそ依(よつて)耆の石像は稲葉侯(いなはこう)累代(るいたい)の牌堂(はいたう)に遷(うつ)し嫗の石像は稲荷社前(いなりのしやせん)に|置(おく)となり又耆の石像は口中に病(やまひ)あるもの寄願(きくわん)し嫗の石像は咳(せき)を悩(なやむ)もの■(き)【寄ヵ】》
【右丁】
寒橋(さむさはし)
【図】
【枠内】西本願寺
【左丁】
青海や
浅黄に
なりて
秋の
くれ
其角
【図】
【右丁】
西本願寺(にしほんくわんし)
【図】
【枠内】本堂
【枠内】台所門
【枠内】台所
【枠内】対面所
【枠内】鼓楼
【枠内】番所
【枠内】手水や
【枠内】玄関
【左丁】
【図】
【枠内】輪番所
【枠内】番所
【枠内】鐘楼
【枠内】手水や
【枠内】唐門
【枠内】茶所
【枠内】寺中
【枠内】番所
【枠内】寺中
【枠内】寺中
【枠内】寺中
【右丁】
【図】
【枠内】裏門
【枠内】寺中
【枠内】寺中
【枠内】寺中
【枠内】寺中
【枠内】寺中
【枠内】総門
【左丁】
《割書:願(くわん)するにかならす|霊験(れいけん)ありといへり》
西本願寺(にしほんくわんし) 同所/川(かは)を隔(へた)てゝ北(きた)の方(かた)にあり俗(そく)に築地(つきち)の門跡(もんせき)とよへり
《割書:或人云(あるひとのいふ)此地(このち)は明暦(めいれき)四年に仰(あふせ)の事|ありて築所(つくところ)なりといへり》一向派(いつかうは)にして京都(きやうと)西六条(にしろくてう)よりの輪番(りんはん)
所(しよ)なり《割書:宗派(しうは)のもの是(これ)を|表方(おもてかた)といふ》塔頭(たつちう)五十七/宇(う)あり始(はしめ)横山町(よこやまちやう)二丁目の南側(みなみかは)
裏通(うらとほ)りにありしを明暦大火(めいれきたいくわ)の後(のち)此地(このち)に移(うつ)さる准如上人(しゆんによしやうにん)を當寺(たうし)の
開祖(かいそ)とす《割書:江戸名所記(えとめいしよき)に 神祖(しんそ)御在世(こさいせ)の時(とき)より京都西本願寺(きやうとにしほんくわんし)の末寺(まつし)を立(たて)られ|宗流(しうりう)を汲(くむ)輩(ともから)を勧(すゝめ)らるゝと云々/白石先生(はくせきせんせい)云(いは)く善養寺(せんやうし)といふ一向僧(いつかうそう)東(ひかし)》
《割書:本願寺(ほんくわんし)の建立(こんりふ)を見(み)て公(おほやけ)へ願(ねか)ひて立(たつ)る所(ところ)なりとそ|和漢年契(わかんねんけい)に延宝(えんはう)八年庚申/西本願寺(にしほんくわんし)立(たつ)とあり》本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は聖徳(しやうとく)
太子(たいし)の彫像(てうさう)にして泉州堺(せんしうさかひ)の信證院(しんしやうゐん)よりうつす毎年(まいねん)七月七日
立花會(りつくわゑ)十一月廿八日/開山忌(かいさんき)にて七昼夜(しちちうや)の法會(ほふゑ)修行(しゆきやう)あり是(これ)を
報恩講(はうおんこう)と云又/俗間(そくかん)御講(おこう)と称(しよう)す《割書:塔頭(たつちゆう)成勝院(しやうしようゐん)に俳仙(はいせん)杉風(さんふう)|翁(をう)の墳墓(ふんほ)あり》
《振り仮名:采女ゕ原|うねめ はら》 木挽町(こひきちやう)四丁目より東(ひかし)の方(かた)此所(このところ)に馬場(はゝ)あり常(つね)に賑(にきは)しく
講釈師(こうしやくし)浄瑠璃(しやうるり)の類(たく)ひ軒(のき)を並(なら)へて行人(こうしん)の足(あし)をとゝむ享保(きやうほ)九年
迄(まて)此地(このち)に松平采女正定基(まつたひらうねめのかみさたもと)のやしきありし故(ゆゑ)となり同年(とうねん)正月晦日
【右丁】
【図】
【枠内】西本願寺
【枠内】万年橋
【左丁】
《振り仮名:采女ゕ原|うねめ はら》
【図】
【右丁】
魚見せ
や
一はん
太鼓
二番
鳥
老鼠
【図】
【左丁】
木挽町(こひきちやう)
芝居(しはゐ)
【図】
【枠内】一のはし
【右丁】
新橋(しんはし)
汐留橋(しほとめはし)
【図】
【枠内】通し町
【枠内】汐留橋
【左丁】
【図】
【枠内】新橋
【枠内】松坂屋
【右丁】
尾張町(をわりちやう)
布袋屋
亀 屋
恵比須屋
呉服店
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
金六町(きんろくちやう)
しからき
茶店(さでん)
【図】
【左丁】
【図】
【右丁】
火災(くわさい)の後(のち)やしきは麴町(かふしまち)三丁目の裏(うら)へうつされ同十二年の頃(ころ)其(その)跡(あと)へ
新(あらた)に馬場(はゝ)を開(ひら)かるゝといへり《割書:馬場(はゝ)の地(ち)は天明(てんめい)五年/今(いま)の芝西應寺町(しはさいおうしまち)その代(たい)|地(ち)にて町屋(まちや)の地(ち)馬場(はゝ)なりといふ》
此所(このところ)の井(ゐ)を采女(うねめ)の井(ゐ)といふも彼(かの)やしきの用水(ようすゐ)なり故(ゆゑ)にしか名(な)つくるなり
哥舞妓芝居(かふきしはゐ) 木挽町(こひきちやう)五丁目にあり今(いま)森田勘弥(もりたかんや)の哥舞妓芝居(かふきしはゐ)綿々(めん〳〵)
として相続(さうそく)す《割書:芝居(しはゐ)の基原(きけん)は堺町(さかひちやう)葺屋町(ふきやちやう)|哥舞妓芝居(かふきしはゐ)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》昔(むかし)は此所(このところ)六丁目に山村長太夫(やまむらちやうたいふ)
といひし名代(なたい)の狂言座(きやうけんさ)ありて中村(なかむら)市村(いちむら)森田(もりた)等(とう)の芝居(しはゐ)をあはせて
すへて四/座(さ)なりしかと正徳(しやうとく)四年の頃(ころ)故(ゆゑ)ありて此芝居(このしはゐ)を止(や)めらる《割書:山村長(やまむらちやう)|太夫座(たいふさ)を》
《割書:初(はし)めは岡村(をかむら)長兵衛と云(いふ)実子(しつし)なくして従子(をひ)七十郎といへるを養(やしなひ)て子(こ)とす二代/岡村(をかむら)|五郎左衛門/是(これ)なり後(のち)に名(な)を改(あらため)て山村(やまむら)長太夫といふ是(これ)も女子(によし)のみありしかは婿(むこ)をとりて》
《割書:相続(さうそく)す此時(このとき)に至(いた)りて断絶(たんせつ)せしなり此芝居(このしはゐ)は正保(しやうほ)元年申歳に始(はしま)るとそ東海道名所(とうかいたうめいしよ)|記(き)に木挽町(こひきちやう)に喜太夫(きたいふ)か浄瑠理(しやうるり)其外(そのほか)異類(いるい)異形(いきやう)のものを見するとあれは昔(むかし)は狂言(きやうけん)》
《割書:座(さ)の外(ほか)に見(み)せ物(もの)の類(るい)|ありしなるへし》
織田有楽斎(おたうらくさい)弟宅地(ていたくのち) 元数寄屋町(もとすきやちやう)の地(ち)なりと云(いふ)慶長(けいちやう)の頃(ころ)此地(このち)を織田(おた)
有楽斎(うらくさい)に賜(たま)はりしか其後(そのゝち)は空地(くうち)となりて三四丁か程(ほと)芝生(しはふ)となり春(はる)は
摘草(つみくさ)夏(なつ)は池水(ちすゐ)に涼(すゝみ)なんとして其頃(そのころ)は林泉(りんせん)の形(かたち)も残(のこ)り殊更(ことさら)櫻楓(あうふう)等(とう)の
【左丁】
二樹(にしゆ)多(おほ)く春秋共(はるあきとも)に遊望(いうまう)の地(ち)にて寛永(くわんえい)の頃(ころ)迄(まて)は折(をり)にふれて
大樹(たいしゆ)此地(このち)に御遊猟(こいうりやう)なとあらせられしとなり《割書:有楽斎(うらくさい)名(なは)長益源五郎(なかますけんこらう)と|称(しよう)す乃其軒(ないきけん)と号(かう)す法名(ほふみやう)》
《割書:融覚(いうかく)信長公(のふなかこう)の弟(おとゝ)にして茶道(さたう)を利休居士(りきうこし)に受(うけ)て一家(いつけ)の風(ふう)あり元和(けんわ)七年に卒(そつ)す|此人/茶事(さし)に長(ちやう)す故(ゆゑ)に宅地(たくち)にいくつともなく数寄屋(すきや)を建置(たておか)れし旧跡(きうせき)なれはとて|後世(こうせい)土人(としん)数寄屋(すきや)の唱(となへ)をうしなはすして町(まち)の名(な)によへりとなり》
新橋(しんはし) 大通(おほとほ)り筋(すち)出雲町(いつもちやう)と芝口(しはくち)一丁目との間(あひた)に係(かく)る正徳(しやうとく)元年辛卯/朝鮮(てうせん)
人(しん)来聘(らいへい)の前(まへ)宝永(はうえい)七年庚寅/此所(このところ)に新(あらた)に御門(こもん)を御造営(こさうえい)ありて
芝口御門(しはくちこもん)と唱(とな)へ橋(はし)の名(な)も芝口橋(しはくちはし)と更(あらため)られしか享保(きやうほ)九年正月廿九日
の火災(くわさい)に焼亡(しやうほう)するの後(のち)は復旧(またいにしへ)の町家(まちや)となされたり此川筋(このかはすち)の東(ひかし)木挽町(こひきちやう)
七丁目と芝口新町(しはくちしんまち)の間(あひた)に架(わた)せしを
汐留(しほとめ)はしといふ
正徳(しやうとく)四年
江戸図(えとつ)
【図】
【右丁】
江戸名所圖會天枢之上畢
【印 尾崎蔵書】
【左丁】
【印 豊田家蔵】
【裏表紙】