ハワイ大学所蔵 阪巻・宝玲文庫 vol. 1の翻刻テキスト

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下等小学日本地誌略図問答

【内題】
土橋荘著  《割書:畿 内|東海道》之部


《割書:下等|小學》日本地誌畧圖問答
     《割書:附》諳射圖

京都書肆 石田文華堂藏

【表紙・外題】
《割書:土橋荘著》
日本地誌略圖問答《割書:畿 内|東海道》之部

自序 ■■■
米國丁韙良甞著格物入門。毎款必設自問自答。其意
可謂/深遠(ウイヽヤハ)矣。夫讀書學文者誰不欲字句之親切著
明者。然而方其貪課業也。時有不免鹵莽者焉。苟
讀書而鹵莽。無得其要領。則與不曾讀者。又何辨邪。
令乃試掲一問字。先令人發側耳聳聴之念。其題目或
干渉疑似者。又令人起如何當應之之工夫。次答以明
瞭之訓觧。未甞不疑團氷釋。胸襟為之洒然也。韙良
氏之著此書。其有見于此而然乎。今之讀日本地誌畧

者亦𩔫之𤇟。某山位於某。某水注於某。歴々分明。無
一放過。既而奪之卷。試問其水經山脉何如。未甞
不發亡羊之歎也。於此乎發憤踏厲。又復取卷拳讀之。
愈讀愈熟。又掩巻而跡之。凢山川都邑。往来心目。手
取足践。非復前日亾羊之比也。問答之裨益於讀
書。奚翅此日本地誌略而止乎哉。經云不憤不啓
亦是此意。
 朙治九年三月   土𫞎荘撰  【印】魯■ 【印】■

【地図】

《割書:下等|小學》日本地誌略圖答巻上
                  平安 土橋荘 著
/問(トフ)/我(ワガ)/大(ダイ)/日(ニツ)/本(ポン)ハ。/地(キ)/球(キウ)/上(シヤウ)/何䖏(イヅレ)ニ。/位(クラヰ)スルヤ
 /答(コタフ) /亞(ア)/細(シ)/亞(ア)/洲(シウ)ノ/東(トウ)/部(ブ)ナリ
問/之(コレ)フ/區(ク)/別(ベツ)セバ。/如何(イカン)
 答 /中(チユウ)/央(アウ)ヲ/本(ホン)/洲(シウ)トシ。/四(シ)/大(ダイ)/島(タウ)ト。/數(ス)/千(セン)ノ/島(タウ)/嶼(シヨ)ナリ
問/其(ソノ)/東(トウ)/南(ナン)ハ。/何(イヅ)レ/面(オモテ)スルヤ
 答 /太(タイ)/平(ヘイ)/海(カイ)
問其/西(セイ)/北(ホク)ハ。何レニ/對(タイ)スルヤ
 答 /支(シ)/那(ナ)/海(カイ)。日本海ヲ/隔(ヘダ)テ。/清(シン)/國(コク)。/朝(テウ)/鮮(セン)。/滿(マン)/州(シウ)
問其/北(ホク)/隅(グウ)ノ/樺(カバ)/太(フト)ハ。/何處(イヅク)ニ/界(サカヒ)ヲ/交(マジ)ウルヤ
 答 /魯(ロ)/西(シ)/亞(ア)

【右頁】
問其/西(セイ)/南(ナン)/隅(グウ)ノ/琉(リウ)/球(キウ)ハ。何處ト/相(アヒ)/望(ノゾム)ムヤ
 答 /臺(タイ)/灣(ワン)
問/全(ゼン)/國(コク)ヲ/大(タイ)/別(ベツ)セシ/名(ナ)ヲ。/何(ナニ)ト云ヤ
 答 /畿(キ)/内(ナイ)。/八(ハチ)/道(ダウ)
問其/國(コク)/數(スウ)ハ/如(イ)/何(カン)
 答 八十四國
問其/郡(グン)/數(スウ)ハ如何
 答 七百十八郡
問其/人(ジン)/口(コウ)ハ如何
 答 /大凢(オヨソ)三千三百十六萬九千八百人/餘(ヨ)
問其/歳(サイ)/入(ニフ)ハ如何
 答 三千百六十七萬六千四百石餘

【左頁】
問 山城國ノ/府(フ)/廳(チヤウ)ハ何ト/稱(シヨウ)スルヤ
 答 京都府
問其四境ノ西北ハ
 答 河内攝津丹波
又問其東南ハ
 答 近江伊賀
問其/郡(グン)/名(メイ)ハ
 答 /乙(オト)/訓(グニ) /葛(カド)/野(ノ) /愛宕(ヲタギ) /紀(キ)/伊(イ) /宇(ウ)/治(ヂ)
   /久(ク)/世(ゼ) /綴(ツヽ)/喜(キ) /相樂(サガラ)ノ八郡ナリ
問其/名(メイ)/山(ザン)ハ
 答 /比(ヒ)/叡(エ) /愛宕(アタゴ) /鞍馬(クラマ)
   /笠置(カサギ) /鷲(ジユフ)/峰(セ

問其大川ハ
 答 宇治(ウヂ)川
   桂(カツラ)川
   鴨(カモ)川
   木津(キヅ)川
   淀(ヨド)川
 己下問答
 ノ字ヲ省(ハブ)
 ク毎國(マイコク)コ
 レ有ト見
 ルベシ


 毎國必ス北ヲ
 上(カミ)ニス故ニ羅(ラ)
 針(シン)ヲ付セズ然(シカレ)
 トモ此圗 及(オヨ)ビ伊
 勢ノ國ノ如キ
 幅員(フクヰン)紙中ニ収(ヲサ)
 マラネバ姑(シバラ)ク
 地誌畧繪圗(ヱヅ)ノ
 方(ハウ)位(ヰ)ニ凖(ナラ)フ


【右頁】
大和國《割書:全國|  》堺縣廰管轄
 四境《割書:西北ハ河内山城|東南ハ伊賀伊勢》
     《割書:紀伊|》
 /添上(ソフノカミ) /添下(ソフノシモ) /平群(ヘグリ)
 /廣瀬(ヒロセ) /葛上(カツラノカミ) /葛下(カツラノシモ)
 /忍(オシ)/海(ウミ) /宇(ウ)/智(チ) /吉(ヨシ)/野(ノ)
 /宇(ウ)/陀(ダ) /城上(シキノカミ) /城下(シキノシモ)
 /髙(タカ)/市(イチ) /土市(トイチ) /山邉(ヤマノベ)
名山  /金(キン)/峰(ブ)/山(セン)
 /大(ダイ)/臺(タイ)《割書:ガ| 》/原(ハラ) /二(フタ)/上(カミ)
 /國(クニ)/見(ミ) /髙(タカ)/見(ミ)
 /信(シ)/貴(ギ) /生駒(イコマ)
大川   /天(テン)ノ川
 /吉(ヨシ)/野(ノ)川 /初瀬(ハツセ)
 /奈(ナ)/良(ラ) /黑田(クロダ)川

【左頁】
河内國《割書:全國|  》堺縣廰管轄
 四境《割書:西北ハ和泉攝津|東南ハ山城大和》
     《割書:紀伊|》
 /錦(ニシキ)/部(ベ) /石(イシ)/川(カハ)
 /古(フル)/市(イチ) /安(ヤス)/宿(カベ)
 /大(オホ)/縣(カタ) /髙(タカ)/安(ヤス)
 /河内(カハチ) /讃(サ)/良(ラ)
 /茨(マン)/田(タ) /交(カタ)/野(ノ)
 /若(ワカ)/江(ヱ) /澁(シブ)/川(カハ)
 /志(シ)/紀(キ) /丹(タン)/南(ナン)
 /丹(タン)/北(ホク) /八上(ヤカミ)
  十 六 郡
名山 /金(コン)/剛(ガウ)/山(セン) /二上(フタカミ)
 /千(チ)/早(ハヤ) /岩(イハ)/湧(ワク) /天(アマ)/野(ノ)
大川 /大(ヤマ)/和(ト)川 /淀(ヨド)川

【右頁】
和泉國  堺縣廰
 四境《割書:北ハ攝津 西ハ海|東南ハ河内紀伊》
 /大(オホ)/鳥(トリ) /和泉(イヅミ)
 /泉南(イズミノミナミ) /日(ヒ)/根(ネ)
     四 郡
名山
 /妙(メウ)/見(ケン)/山(ザン) /槙(マキ)ノ/尾(ヲ)/山(ヤマ)
 /牛(ウシ)/瀧(タキ)/山(ザン) /葛(カツラ)/城(キ)
 /犬(イヌ)/鳴(ナキ)/山(ザン) /雨森(アメノモリ)/山(ヤマ)
大川
 /石(イシ)/津(ヅ)川 /大(オホ)/津(ツ)
 /男(ヲ)/里(サト) /津(ツ)/田(ダ)川
佳港
 /堺(サカヒ)浦

【左頁】
攝津國 大阪府 兵庫縣廰
 四境《割書:西北ハ播磨丹波|東南ハ山城河内》
     《割書:和泉|》
 /住(スミ)/吉(ヨシ) /八部(ヤタベ) /東(ヒガシ)/成(ナリ)
 /西(ニシ)/成(ナリ) /島上(シマノカミ) /島下(シマノシモ)
 /豊(テ)/島(シマ) /河邉(カハノベ)
 /武(ム)/庫(コ) /兔(ウ)/原(バラ)
 /有(アリ)/馬(マ) /䏻(ノ)/勢(セ)
      十 二 郡
名山
 /武(ム)/庫(コ) /御(ミ)/影(カゲ)
 /摩(マ)/耶(ヤ) /再(サイ)/度(ド)
大川 /淀(ヨド)川 /安(ア)/治(チ)川
 /池(イケ)/田(ダ)川 /武(ム)/庫(コ)川
佳港 /神(カウ)/戸(べ)

【右頁】
伊賀國 《割書:全國|》三重縣廰管轄
 四境《割書:西北ハ大和山城近江|東南ハ伊勢》
 /阿(ア)/拜(ベ) /山(ヤマ)/田(ダ)
 /伊(イ)/賀(ガ) /名(ナ)/張(バリ)
   四 郡
名山
 /天(アマ)ガ/岳(ダケ) /七(ナヽ)/見(ミ)
 /長(ナガ)/野(ノ)
大川
 /名(ナ)/張(バリ)川
 /長(ナガ)/田(タ)川

【左頁】
伊勢國 三重縣廰

 四境《割書:西北ハ紀伊大和伊賀近江美濃|東南ハ内海志摩及外洋》
 /桑(クハ)/名(ナ) /朝(アサ)/明(ケ)
 /鈴(スヾ)/鹿(カ) /一(イチ)/志(シ)
 /安(アン)/藝(キ) /三(ミ)/重(ヘ)
 /阿(ア)/濃(ノ) /飯(イヒ)/髙(タカ)
 /飯(イヒ)/野(ノ) /河(カハ)/曲(ウ)
 /貟(イナ)/辨(ベ) /度會(ワタラヒ)
 /多(タ)/氣(ケ)
   十三郡

【右頁】
名山
 /矢(ヤ)/鐵(ヅ) /國(クニ)/見(ミ)
 /大(ダイ)/臺(タイ)/山(ザン) /白(シラ)/惠(ヱ)
 /朝(アサ)/㷱(マ)
 /鈴(スヾ)/鹿(カ)
 /冠岳(カフリガダケ)
 /釋迦岳(シヤカガダケ)
 /藤原岳(フヂハラガダケ)
大川
 /雲(クモ)/津(ヅ)川
 /櫛(クシ)/田(ダ)川
 /宮(ミヤ)川

【左頁】
 /揖(イフ)/斐(ヒ)川
 /木(キ)/曽(ソ)川
 /町(マチ)/屋(ヤ)川
 /關(セキ)川
 /三(ミ)/重(ヘ)川
 /搭(タラ)/世(セ)川
 /秡(ハラヒ)川
佳港
 /桒(クハ)/名(ナ)
 /四(ヨツ)/日(カ)/市(イチ)
 /安(ア)/濃(ノ)/津(ヅ)

【右頁】
志摩國
  《割書:全國|》
  三重縣廰管轄

 四境《割書:北ハ伊勢|東南西ハ海》
 /答(タフ)/志(シ) /英(ア)/虞(コ)
   二 郡
名山 /日和(ヒヨリ)山
大川 /池(イケ)/田(ダ)川
佳港 /鳥(ト)/羽(バ) /的(マト)/屋(ヤ)

【左頁】
尾張國 愛智縣廰
 四境《割書:西北ハ伊勢美濃|東ハ三河》
   《割書:南ハ内海|》
 /智(チ)/多(タ) /愛(アイ)/智(チ)
 /丹(ニ)/羽(ハ) /春(カス)/日(ガ)/井(ヰ)
 /海(カイ)/東(トウ) /海(カイ)/西(サイ)
 /葉(ハ)/栗(グリ) /中(ナカ)/島(ジマ)
   八 郡
名山 /小(コ)/牧(マキ) /二宮(ニノミヤ)
 /繼鹿(ツガノ)/尾(ヲ)
大川 /木(キ)/曽(ソ)川
   /一(イツ)/色(シキ)

【右頁】
参河國
  《割書:全國|》愛智縣管轄
 四境《割書:西北 ̄ハ尾張 美濃 信濃|東 ̄ハ遠江 南 ̄ハ海》
 /賀(カ)/茂(モ) /額(ヌカ)/田(タ) /幡(ハ)/豆(ヅ)
 /碧(アヲ)/海(ウミ) /寳(ホ)飫(ウ)【後の宝飯郡、元々は寶飫(ほお)】
 /設樂(シタラ) /八(ヤ)/名(ナ)
 /渥(アツ)/美(ミ) 八郡
名山
 /田(タ)/原(ハラ)/山(ヤマ) /本宮岳(ホングウガダケ)
 /神(カン)/田(ダ)/山(ヤマ) /煙(エン)/巌(ガン)/山(ザン)
 /石(イシ)/巻(マキ)/山(ヤマ) /嵩(ス)/瀬(セ)
大川 /矢(ヤ)/矧(ハギ) /豊(トヨ)/川(カハ)

【左頁】
遠江國 濵松縣廰
 四境《割書:西北 ̄ハ参河 信濃|東 ̄ハ駿河 南 ̄ハ大洋》
 /濵(ハマ)/名(ナ) /敷(フ)/智(チ) /豊(トヨ)/田(ダ) /引佐(イナサ)
 /麁(アラ)/玉(タマ) /長上(チヤウノカミ) /長下(チヤウノシモ) /磐田(イハタ)
 /山(ヤマ)/香(カ) /周(ス)/智(チ) /山(ヤマ)/名(ナ)
 /佐(サ)/野(ノ) /城(キ)/飼(カフ)
 /蓁(ハイ)/原(バラ) 十二郡
名山 /秋(アキ)/葉(バ) /髙(タカ)/天(テン)/神(ジン)/山(ヤマ)
大川 /大(タイ)/天(テン)/龍(リウ) 小/天(テン)/龍(リウ)
   /大(オホ)/井(ヰ)/川(カハ)
大湖 /濵(ハマ)/名(ナ)

【右頁】
駿河國  静岡縣廳
四境《割書:北 ̄ハ甲斐 信濃 東 ̄ハ相模 伊豆|西 ̄ハ遠江 南 ̄ハ海》
 志太(シダ) 益頭(マシヅ) 有度(ウド)
 安倍(アベ) 庵原(イホハラ) 富士(フシ)
 駿東(スントウ) 七郡

名山
 富士(フジ) 愛鷹(アシタカ) 足柄(アシガラ) 久能(クノウ)

大川
 黄瀬川(キセカハ) 富士(フジ)川 沖津(オキツ)川
 安部(アベ)川

佳港 清水(シミヅ)

【左頁】
甲斐國  山梨縣廳

四境《割書:西北 ̄ハ信濃|東南 ̄ハ武藏 相模 駿河》
 巨摩(コマ) 山梨(ヤマナシ) 八代(ヤツシロ)
 都留(ツル) 四郡

名山
 金峰山(キンブザン) 八(ヤツ)ガ岳(タケ)
 駒(ヤツ)ガ岳(タケ) 白根(シラネ)
鳳凰(ホウワウ) 天目山(テンモクサン)

大川

 笛吹川(ウスヒガハ) 釜梨(カマナシ)川 荒(アラ)川
 塩(シホ)川 蘆(アシ)川 桂(カツラ)川

                       ■【派?泒?】水本文ト稍名當ナラヌ所モ見ユ

【右頁】
伊豆國
 《割書:全國|》静岡縣廰管轄

 四境《割書:北ハ相模駿河|東西南ハ海》

 /田方(タカタ) /那(ナ)/賀(カ)
 /加(カ)/茂(モ) /君(キミ)/澤(サハ)
    四 郡
名山 /天(アメ)/城(ギ)/山(ザン)
大川 /狩(カノ)/野(フ)川
   /河(カハ)/津(ツ)川
   /稲(イナ)/生(ヲ)/澤(サハ)川
佳港 /下(シモ)/田(ダ)

【左頁】
相模國 神奈川縣廰管轄 四境《割書:西北ハ伊豆駿河甲斐武蔵|南ハ外洋 東ハ内海》
 /足(アシ)/柄(ガラ)/上(カミ) /足(アシ)/柄(カラ)/下(シモ) /大(オホ)/住(スミ) /餘綾(ヨロギ)
 /愛(アエ)/甲(カフ) /髙(タカ)/座(クラ) /津(ツ)/久(ク)/井(ヰ)
 /三(ミ)/浦(ウラ) /鎌(カマ)/倉(クラ) 九 郡
名山
 /雨(アメ)/降(フリ)/山(ヤマ) /足(アシ)/柄(ガラ)
 /箱(ハコ)/根(ネ)
大川
 /早(ハヤ)川
 /酒匂(サカハ)川
 /馬(バ)/入(ニフ)川
 /花(ハナ)/水(ミツ)川
大湖 /蘆湖(アシノミツウミ)
佳港 /浦(ウラ)/賀(ガ)





【右頁】
武蔵國

【左頁】
東京府
神奈川縣㕔
埼玉縣㕔
㷱谷

四境《割書:西北 ̄ハ甲斐 信濃 上野|東南 ̄ハ下總 及 内海》
久良岐(クラキ) 都(ツ)筑(ツキ) 多摩(タマ) 橘樹(タチバナ) 新坐(ニヒクラ) 入(イル)間(マ)
髙(コ) 䴡(マ) 比企(ヒキ) 横(ヨコ)見(ミ) 埼玉(サイタマ) 男衾(ヲブスマ) 児(コ)玉(ダマ)
幡(エ) 羅(ラ) 榛澤(ハンザハ) 那賀(ナカ) 加美(カミ) 足(ア)立(ダチ) 秩(チヽ)父(ブ)
荏(エ) 原(バラ) 豊(ト)島(シマ) 大里(オホサト) 葛飾(カトシカ) 二十二郡

名山 武(ブ)甲(カフ) 三峰(ミツミネ)
大川 多摩(タマ)川 甘(カン)樂(ラ)川 隅(スミ)田(ダ)川 利根(トネ)川

佳港 横濵(ヨコハマ)

安房國
  《割書:全國》千葉縣㕔管轄
四境《割書:北 ̄ハ上總|東南西 ̄ハ海》
安房(アハ) 朝夷(アサヒナ) 長(ナガ)狭(サ)
平(ヘ)羣(グリ) 四郡
名山
  鋸山(ノコギリヤマ) 横(ヨコ)根(ネ)
  清澄(キヨスミ) 花立(ハナタテ)
大川 湊(ミナト)川
佳港 館山(タテヤマ) 勝山(カツヤマ)

上總國 全國 千葉縣㕔管轄
四境《割書:西北 ̄ハ下總及内海|東南 ̄ハ安房 及 外洋》
天(アマ)羽(ハ) 周淮(スヱ)
望(バウ)陀(タ) 夷(イ)隅(スミ)
市原(イチハラ) 埴(ハニ)生(フ)
長(ナガ)柄(ラ) 山邉(ヤマノベ)
武(ム)射(シヤ) 九郡
名山  鹿野(カノ)山
大川 大(オホ)喜多(キタ)川 養老(ヤウラウ)川 小(コ)糸(イト)川
佳港  勝浦(カツウラ) 興(オキ)津(ツ)


下總國《割書:千葉縣㕔|茨城縣㕔》兩管轄
四境《割書:北 ̄ハ下野常陸|東南 ̄ハ大洋 上總》
  《割書:西北 ̄ハ上野 武蔵》
《割書:○|△》葛飾(カドシカ)《割書:○|△》相(サウ)馬(マ)○千葉(チバ)
○印旙(インバ)○匝瑳(サウサ)○海上(ウナガミ)
○香(カ)取(トリ)○埴生(ハニフ)△猿島(サジマ)
△豊(トヨ)田(タ)△岡(ヲカ)田(ダ)△結(ユフ)城(キ)
大川 利根(トネ)川 十二郡
佳港
  銚子(テウシ)ノ口(クチ)
大湖 印旛(インバ)

常陸國  山梨縣廳

四境《割書:西北 ̄ハ下野 磐城|東南 ̄ハ下總 大洋》
 新治(ニヒバリ) 真壁(マカベ) 筑波(ツクバ)
 河内(カハチ) 信太(シダ) 茨城(イバラキ)
 行方(ナメガタ) 那賀(ナカ) 久慈(クシ)
 多賀(タガ) 鹿島(カシマ) 十一郡

名山 筑波山(ツクバヤマ) 蘆穂(アシホ)
 加波山(カバヤマ) 金砂(カナサ) 月居(ツキヲリ)
 八講山(ハツコウザン) 鳥子山(トリノコヤマ)

大川 那珂(ナカ)川 久慈(クシ)川

佳港 那珂 平瀉(ヒラカタ)

《割書:下等|小學》日本地理誌畧圖問答卷上《割書:終| 》

【地図】

【地図背面】

【裏表紙】

琉球入貢紀略

【製本表紙】
【題箋】
琉球入貢紀略 完
【管理ラベル「212 79 1」】

【右丁】
山崎美成編輯 不許坊間散粥
       入銀百部毀版
《題:琉球入貢紀略》
嘉永庚戌再雕 静幽堂梓
【左丁】
【朱角印「宝玲文庫」】
【本文】
琉球入貢紀略序【角印二つ】
海以外、作風潮而朝貢於我者、有琉球焉、有
朝鮮焉、若琉球、則以其為為朝之裔、相視若一
家、尓後或曠聘問、而自島津氏兵艦一西以来、
遂靡然従服、永為我之附庸、然後随時入朝、
脩明礼典、莫敢癈弛者、既二百有余年、猗戯
不亦為盛歟、余年已七十余、幸親見其入貢者
亦且亦矣、往年嘗述其梗概、作入貢紀略一巻、以
【甞は嘗の異字体】

【右頁】
上梓、今茲庚戌孟冬、中山国復使玉川■貢方物、
謝其襲封之恩、於是余就前書、補■【闕ヵ】拾遺、的
再刻之、西山崎北峯為之校訂、北峰余老友
也、博綜今古、最通國家之典故、今以其将似之
助、而此書始成、豈非余之至幸耶、慶長間、我奥
岩城、有釋袋中者、甞赴琉球、遂■駕蛮船
以入唐山、蛮人憚之、峻拒不允、袋中因住琉球、
与縉紳馬幸朙交善、移居首里府桂林寺、

【左頁】
為幸明善琉球神道記、以記其立國頂巔末、又倣比
間庭訓往来、著琉球往来、以便■豪、錨素饗
往、留之不還、関三手乃間、嶋字袋中■■■、凌
波濤踰絶■、周施尓家■孤島之間、■其■
戴依服名已、難徳■之隆、抑■ふら謂也
皇國之餘烈■■、余生遭雍煕之日、不敢籠船
度陰、面見中山儀典於輦轎咫尽不、与袋
中国其鷹揚、而■其逸、其為至幸也■大

【右】
矣、遂併録以鳴昇楽之盛者、如此、
嘉永三年庚戌冬十月晶山老人時年七
十三題於木雞窩書屋
【印二つ】
秋巌原筆書
【印二つ】
【左】
引用書同
 隋書       日本書紀
 中山伝信録    琉球国志略
 薩州旧伝集    諸国跡譜
 分類年代記    中原康富記
 京都将軍家譜   斎藤親基日記
 和漢合運     異国政事記
 系図       駿府改革録
 南浦文集     元寛日記

【右頁】
 輪池掌録     琉球奉略
 羅山文集     近世武家編年略
 万天日記     暦代備考
 甘露叢      琉球聘使紀事
 文露叢      享保日記
 歴史要略     三国通覧
 速水見聞私記   琉球談
 南島志      性霊集
 今昔物語     中山世譜

【左頁】
 保元物語     琉球奇譚
 琉球神紀     琉球往来
 琉球年代記    琉球雑話

【右頁】
英林【英淋の印】
/里之子(さとのし)
【左頁】
/琉球国王(りゅうきうこくおう)

【右頁】
琉球国越来三明堂楽水一百土歳書
【左頁】
/琉球(りゅうきう)/入貢(にゅうこう)/紀略(きりゃく)/目録(もくろく)
  /琉球(りゅうきゅう)/古(いにしへ)の/朝獻(ちょうけん)
   /古(いにしへ)/琉球(りゅうきう)と/掖玖島(やくじま)あるひハ/多袮島(たねがしま)と《割書:いふ|ところ》
  /琉球使(りゅうきうし)/来(きた)るか
   /琉球(りゅうきう)の/名載籍(るさいせき)よ見えくる
  /琉球国(りゅうきうこく)/薩摩(さつま)の/附庸(ふよう)らるる
  /永享(えいきょう)/以後(いご)/琉球人(りゅうきうじん)/来(きた)る
  /薩州(さつしゅうの)/太守(たいしゅ)/琉球(りゅうきうう)を/征伐(せいばつ)す
   /琉球(りゅうきゅう)の/守護神(しゅごじん)/霊験(れいけん)

【右頁】
   /薩琉(さつりゅう)/軍談(ぐんだん)の/弁(べん)
  /慶長(けいちょう)/以後(いご)/入貢(じゅこう)
 /附録(ふろく)
  /琉球国(りうきうこく)/全図(せんづ)
  /三十六島図(さんじふろくとうのづ)
  /中山世系(ちうざんせいけい)
  /鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)/鬼(おに)が/島(しま)へ/渡(わた)る
  /位階(いかい)の/次第(しだい)
【左頁】
増訂(ぞうてい)琉球入貢紀略(りうきうじゆこうきりやく)
  琉球古(りうきういにしへ)の朝献(てうけん)
琉球(りうきう)は吾邦(わがくに)の南海(なんかい)にあるところの一(ひとつ)の島国(しまぐに)なり、其(その)
国(くに)の風俗(ふうぞく)もとより質朴(しつぼく)にして文字(もんじ)に習(なら)はず、これに
よりて国(くに)の名(な)は聞(きこ)えながら、開闢(かいひやく)より歴代(れきだい)の事実(じじつ)は、
史書(ししよ)などいふものもなければ、その詳(つまびらか)なることは得(え)て
考(かんが)ふべからず、唐土(もろこし)の書(しよ)には隋書(ずゐしよ)にはじめて見え
たり、煬帝(やうだい)の大業元年海帥何蛮(たいげふぐわんねんかいすゐかばん)というもの、春秋(はるあき)の

ころ天気(てんき)晴(は)れて海上(かいしやう)風(かせ)おだやかなる時(とき)、東(ひがし)の方(かた)を見(み)
渡(わた)すに、かすかに煙霧(えんむ)の如(ごと)くに見ゆるの気(き)あり、その
遠(とほ)きこと幾千里(いくせんり)といふことをはかるべからずといへるによ
りて、同(おなじ)き三年(さんねん)、帝(てい)羽(う)騎尉(きゐ)朱寛(しゆくわん)といふものをして、海(かい)
外(ぐわい)の異俗(いぞく)を訪(と)ひ尋(たづ)ねしむるにあたりて、何蛮(かばん)かねて
いへることのあれば、倶(とも)につれ往(ゆ)きけるに、遂(つひ)に琉球国(りうきうこく)
に至(いた)りけれども、言語(ことば)通(つう)ぜす、よつて一人(ひとり)を掠(かす)めて還(かへ)
れり、その翌年(よくねん)再(ふたゝび)朱寛(しゆくわん)を琉球(りうきう)につかはして、慰撫(ゐぶ)せ
しむといへども従(したが)はざれば、朱寛(しゆくわん)かの国(くに)に往(ゆき)たるしるし
に、布甲(ふかふ)【左注「よろひ」】を取(と)りて還(かへ)れり、その頃(ころ)吾邦(わがくに)の使人(つかひ)、たま〳〵
唐土(もろこし)にありて、彼(かの)布甲(ふかふ)を見ていへるは、これは夷邪久(いやく)
の国人(くにひと)の用(もち)ゆるところの物(もの)といへりとあり、吾邦(わがくに)に
は、これらの事(こと)を記(しる)したるものなしといへども、これ
によりて憶(おも)へば琉球(りうきう)の人(ひと)の、掖玖島(やくじま)の人(ひと)とともに、
吾邦(わかくに)へはやく往来(わうらい)したることゝは知(し)られたり、史(し)を
按(あん)ずるに、推古天皇(すゐこてんわう)二十四年(にじふよねん)に掖玖(やく)の人(ひ)【ママ】来(きた)ると
見えたり、この年(とし)隋(ずゐ)の大業(だいげふ)十二年(じふにねん)にあたれり、これ
より先(さき)に掖玖(やく)の人(ひと)とともに琉球(りうきう)の人(ひと)の、吾邦(わがくに)に来(きた)

りしことありしにやあらん、しからざれば大業(だいげふ)の初(はしめ)、吾(わが)
邦(くに)の人(ひと)の、隋人(ずゐひと)に答(こた)へし詞(ことば)にかなひがたし、かゝれば琉(りう)
球(きう)の名(な)は、史(し)にしるさずといへども、推古(すゐこ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)よ
り、はやく已(すで)に彼国(かのくに)より朝献(てうけん)ありしこと知(し)るべし、
 按(あん)ずるに、推古(すゐこ)天皇(てんわう)二十四年(にじふよねん)掖玖(やく)の人(ひと)来(きた)るよし見
 えたり、《割書:史に掖玖(やく)、また邪久(やく)、益久(やく)、夜句(やく)、益救(やく)なども|かけるは、文字(もじ)の異(こと)なるまでにて同(おな)じことなり、》南島(なんたう)
 の朝献(てうけん)は、この時(とき)より始(はじま)れるならん、この掖玖(やく)といへ
 るは、即(すなはち)琉球国(りうきうこく)のことなりといへり、又(また)天武(てんむ)天皇(てんわう)十(じふ)
 年(ねん)、多祢島(たねじま)へ使人(つかひ)をつかはして、その国(くに)の図(づ)を貢(みつが)し
 むることあり、おもふにこの多祢島(たねじま)といふも、亦(また)琉球(りうきう)
 のことなり、南海(なんかい)の島々(しま〴〵)の名(な)、いまだ詳(つまびらか)ならざるに
 よりて、琉球(りうきう)へ通(かよ)ふ船路(ふなぢ)この多祢島(たねじま)を経(へ)て、往来(わうらい)
 するをもつて、多祢島(たねじま)とも呼(よ)べるならん、《割書:この多祢|島といへ》
 《割書:るは今云(いまいふ)|種(たね)が島(しま)なり》後(のち)元明(げんみやう)天皇(てんわう)和銅(わどう)七年(しちねん)、南海(なんかい)の諸島(しよたう)みな内(だい)
 附(ふ)すと見えたり、《割書:南島|志》
  琉球使(りうきうし)来(きた)れる
琉球(りうきう)は掖玖(やく)の島人(しまびと)とともに、推古(すゐてん)【ママ】天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)より
来(きた)りけんが、はやく朝貢(てうこう)怠(おこた)りしなるべし、かくてその

国(くに)と往来(わうらい)なければ、たま〳〵記載(きさい)に見えたるも、みな
県聞(けんぶん)【左注「きゝつたへ」】臆度(おくど)【左注「すゐりやう」】のみにて、たしかなることなきはその故(ゆゑ)なり
とおもはる、その国(くに)もまたはるかの島国(しまぐに)にて、いづれ
の国(くに)の附庸(ふよう)にもあらず通信(つうしん)もせざりしが、明(みん)の洪(こう)
武(ぶ)年間(ねんかん)、琉球(りうきう)は察度王(さつどわう)の時(とき)にあたりて冊封(さくほう)とて唐(もろ)
土(こし)より中山王(ちうざんわう)に封(ほう)ぜられて、彼国(かのくに)へも往来(わうらい)して、制(せい)
度(ど)文物(ぶんぶつ)すべて、唐土(もろこし)にならひてぞありける、明(みん)の宣(せん)
徳(とく)七年(しちねん)に、宣宗内官(せんそうないくわん)紫山(さいざん)といへる臣(しん)に命(めい)して、勅(ちよく)
書(しよ)を齎(もた)らしめ琉球国(りうきうこく)につかはし、中山王(ちうざんわう)より人(ひと)をし
て、吾邦(わがくに)に通信(つうしん)せしむ、この宣徳(せんとく)七(しち)年(ねん)は、吾邦(わがくに)の永(えい)
享(きやう)四年(よねん)にあたれり、これによりて考(かんが)ふるに、上古(しやうこ)よ
りはやく往来(わうらい)絶(た)えて、後(のち)明(みん)宣宗(せんそう)のために、我邦(わがくに)へ使(つかひ)
せしは、はるかに年(とし)を歴(へ)て、再(ふたゝ)び吾邦(わがくに)へ琉球使(りうきうし)の来(きた)れ
る始(はじ)めなるべし、これより後(のち)も、明(みん)の正統(しやうたう)元年(ぐわんねん)英宗(えいそう)琉(りう)
球(きう)の貢使(こうし)伍是堅(ごしけん)をして、回勅(くわいちよく)を齎(もた)らして、日本国(にほんこく)
王(わう)源義教(げんぎけう)に諭(ゆ)すといひ、《割書:永享(えいきやう)八年|のことなり》嘉靖(かせい)三年(さんねん)、琉球(りうきう)の
長吏(ちやうり)【史】金良(きんりやう)のをして、日本国王(にほんこくわう)に転諭(てんゆ)す《割書:大永(だいえい)四年の|ことなり ○中》
《割書:山伝信録、琉|球国志略》といへることあれば、明(みん)の時(とき)より吾邦(わがくに)へ書(しよ)を贈(おく)

るに、琉球使(りうきうし)に命(めい)ぜらるゝこともありしとぞおもは
るゝなり
 琉球(りうきう)はもとより吾邦(わがくに)の属島(ぞくたう)なりといへども、かけ
 はなれたる島国(しまぐに)にて、その国(くに)往来(わうらい)することはやく
 絶(たえ)ぬればたま〳〵載籍(さいせき)に見ゆるものも、僅(はづか)に一(いち)二(に)
 条(てう)のみにして、その詳(つまびらか)なることを記(しる)したるものあ
 ることなし、弘法大師(こうばふだいし)の性霊集(しやうりやうしふ)に凱風(ガイフウ)朝(アシタニ)扇(アフキ)摧(クタキ)_二肝(キモヲ)
 耽羅(タンラ)之(ノ)狼心(ラウシンニ)_一、北気(ホクキ)夕(ユフヘニ)発(オコリ)失(ウシナフ)_二膽(キモヲ)留求(リウキウ)之(ノ)虎性(コセイニ)_一といへる
 文(もん)あり、これは入唐(にうたう)大使(たいし)賀能(かのう)がために、代(かは)り撰(えら)み
 て、福州(ふくしう)観察使(くわんさつし)に与(あた)ふるの書(しよ)にて、延暦(えんりやく)二十三(にじふさん)
 年(ねん)の事(こと)なり、また今昔物語(こんじやくものがたり)、智証大師(ちしようたいし)の伝(でん)に、
 仁寿(にんじゆ)三年(さんねん)八月(はちぐわつ)九日(こゝのか)、宋(そう)の商人(あきひと)良暉(りやうき)か、年来(としごろ)鎮西(ちんぜい)
 にありて、宋(そう)にかへるにあひて、その船(ふね)に乗(の)り行(ゆ)
 くに、次(つき)の日(ひ)辰(たつ)の時(とき)はかりに、琉球国(りうきうこく)に漂(たゞよひ)着(つ)く、
 その国(くに)は海中(かいちう)にありて人(ひと)を食(くら)ふ国(くに)なり、その時(とき)
 に風(かぜ)やみて赴(おもむ)かん方(かた)を知(し)らず、はるかに陸(くが)のうへ
 を見(み)れば数十(すじふ)の人(ひと)鉾(ほこ)を持(もち)て徘徊(はいかい)す、欽良暉(きんりやうき)こ
 れを見て泣(なき)悲(かなし)ぶ、和尚(をしやう)その故(ゆゑ)を問(と)ひたひたまふに、答(こたへ)て

 云(いは)く、この国(くに)人(ひと)を食(くら)ふところなり悲(かなしい)かな此(こゝ)にして
 命(いのち)を失(うしなひ)てんとすと、和尚(をしやう)これを聞(き)【ママ】て忽(たちまち)に心(こころ)至(いた)し
 て不動尊(ふどうそん)を念(ねん)じ給ふ、《割書:三善清行(みよしのきよつら)が撰(えら)みし|伝(でん)にもおなじ趣なり》といへり、
 これや琉球国(りうきうこく)の名(な)、吾邦(わがくに)の書籍(しよじやく)に見えたる始(はじ)
 めならん、さてこゝに琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふの国(くに)といへ
 るも、もとより伝説(でんせつ)の訛(あやま)りながら、またその拠(よる)と
 ころなきにあらず、隋書(ずゐしよ)に国人(コクジン)好相( アヒコノンデ )攻撃(コウゲキス)【左注「タヽカフ」】云々、取(トリテ)_二
 闘死者(タヽカヒシスルモノヲ)_一共(トモニ)聚而( アツマリテ )食(クラフ)_レ之(コレヲ)とあるをおもへば、唐土(たうど)にて
 ふるくより、琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふよしいひ伝(つた)へしを、吾邦(わがくに)
 にもかたり伝(つた)へしなるべし、これによりてもその
 国(くに)吾邦(わがくに)には近(ちか)けれども、絶(たえ)て往来(わうらい)せざることを
 知(し)るべし、
  琉球国(りうきうこく)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる
足利義満(あしかゞよしみつ)の男(なん)、大覚寺(だいかくじ)門跡(もんぜき)義昭(きせう)大僧正(だいそうじやう)、逆意(ぎやくい)の企(くわだ)
てありて九州(きうしう)へ下(くだ)りたまふが、その事(こと)露顕(ろけん)し
ければ、日向国(ひうがのくに)福島(ふくしま)の永徳寺(えいとくじ)に落下(をちくだ)り、野武士(のぶし)の者(もの)
ども御頼(おんたの)み隠(かく)れ住(す)み給ひけるに、足利義教(あしかゞよしのり)これを
聞(きこ)し召(め)しつけられ、薩州(さつしう)の大守(たいしゆ)島津陸奥守(しまづむつのかみ)忠国(たゞくに)へ

【絵図あり、帆船八艘など】
【画面右上】
    友野在易
ものゝふの手に
 とり得たる
    梓弓
 やくの貢は
  ひきも
   たえ
    せし
【画面右下】梅林【落款二つ】

討(う)ち奉(たてまつ)るべきよし命(めい)ぜられしかば、嘉吉(かきつ)元年(くわんねん)
三月十三日(さんくわつじふさんにち)、樺山某(かばやまそれがし)にあまたの兵士(へいし)を従(したが)はしめて
討手(うつて)に向(むけ)られ、永徳寺(えいとくじ)に於(おい)て、山田式部(やまだしきぶ)といふもの
僧正(そうしやう)を討(う)ち、御首(おんくび)をは将軍(しやうぐん)へ贈(おく)りけり、僧正(そうじやう)の役(やく)
人(にん)別垂 讃岐坊(さぬきばう)といへるものも、この時(とき)討(うた)れたりとぞ
聞(きこ)えしその恩賞(おんしやう)として、薩州(さつしう)の大守(たいしゆ)へ琉球国(りうきうこく)
を賜(たま)はり、討手(うつて)に向(むか)ひし樺山(かばやま)その外(ほか)の兵士(へいし)へ、みな
感状(かんじやう)ならびに太刀(たち)を下(くだ)されたり、此時(このとき)よりして
琉球国(りうきうこく)年毎(としこと)の貢物(みつきもの)たえず、通信交易(つうしんかうえき)してながく
薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となるの始(はじ)めなり、《割書:旧伝集、諸|門跡譜、》
  永享(えいかう)以後(いご)琉球人(りうきうじん)来(きた)る
文安(ふんあん)五年(ごねん)、琉球人(りうきうじん)来(きた)る、《割書:分類年|代記》
宝徳(はうとく)三年七月(さんねんしちくわつ)、琉球(りうきう)の商人(あきひと)の船(ふね)、兵庫(ひやうご)の津(つ)に着岸(ちやくがん)
したるに、守護職(しゆごしよく)細川京兆(ほそかはけいてう)やがて人(ひと)をつかはして、
彼(かの)商物(あきなひもの)を撰(えら)み取り料足(れうそく)を渡(わた)さず、先々年々(せん〴〵ねん〳〵)の借(しやく)財
四五千貫(しごせんぐわん)に及(およ)べとも返弁(へんべん)なく、その上(うへ)売物(うりもの)をおさへ
留(とゞめ)られて、琉球人(りうきうじん)難義(なんぎ)のよし申しければ、時(とき)の公方(くばう)
より、奉行(ぶぎやう)三人(さんにん)、布施下野守(ふせしもつけのかみ)、飯尾与三(いひをよさう)左衛門、同(おなじく)六郎(ろくらう)

をつかはされて、糺明(きうめい)せられしにかの押(お)して取(と)りたる
物(もの)を京兆(けいてう)より返(かへ)されさるによりて、奉行(ぶぎやう)の上洛(じやうらく)延(えん)
引(にん)せり、《割書:康富|記》
文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)七月二十八日(しちぐわつにじふはちにち)、琉球人(りうきうじん)参洛(さんらく)す、これは足(あし)
利義政(かゞよしまさ)の世(よ)になりて六度目(ろくたびめ)なり、《割書:斉藤親|基日記》
天正(てんしやう)十一年(しふいちねん)、琉球国(りうきうこく)入貢(じゆこう)、《割書:和漢合運、異|国往来記》
 按(あん)ずるに、宝徳(はうとく)三年(さんねん)、兵庫(ひやうご)に来(きた)る琉球(りうきう)の商物(あきなひもの)、先(せん)
 先(せん)年々(ねん〳〵)の借財(しやくざい)といひ、また文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)の参洛(さんら )【ママ】六度(ろくたび)
 目(め)、とあるによりておもへば、永享(えいきやう)以後(いこ)かの国人(くにひと)
 の来(きた)れること、しば〳〵なりと見ゆれども、記載(きさい)に乏(とも)
 しければ、その詳(つまびらか)なることは得(え)て考(かんが)ふべからず
  薩州太守(さつしうのたいしゆ)島津氏(しまづし)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す
琉球国(りうきうこく)は、嘉吉年間(かきつねんかん)、足利義教(あしかゝよしのり)の命(めい)ありてよりこの
かた、世々(よゝ)薩州(さつしう)の附庸(ふよう)の国(くに)たるところ、天正(てんしやう)の頃(ころ)群(ぐん)
雄(ゆう)割拠(くわつきよ)の時(とき)にあたりて、琉球(りうきう)の往来(わうらい)しばらく絶(たえ)たり、
その後(のち)世(よ)治(をさま)り士民太平(しみんたいへい)をとなふるに至(いた)りて、薩州(さつしう)の
太守(たいしゆ)島津家久(しまづいへひさ)より琉球(りうきう)へ使(つかひ)をつかはし、もとの如(ごと)く
貢使(こうし)あるべきよし再三(さいさん)に及(およ)ぶといへども、彼国(かのくに)の三司(さんし)

官(くわん)謝那(しやな)といふ者(もの)、ひそかに明人(みんひと)と事(こと)を議(はか)り、待遇(たいぐう)こと
さらに礼(れい)なく貢物(みつぎもの)もせざりければ、なほ家久(いへひさ)使(つかひ)をつか
はし、責(せめ)たゞすといへども従(したが)はざりけるによりて、止(やむ)こと
を得(え)す征伐(せいばつ)して、その罪(つみ)を正(たゞ)さんと請(こ)ふに、慶長(けいちやう)十(じふ)
四年(よねん)の春(はる) 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り、樺山権(かばやまごん)左衛門 久高(ひさたか)を惣大(そうたい)
将(しやう)とし、平田太郎(ひらたたろ)左衛門 益宗(ますむね)を副将(ふくしやう)とし、龍雲和尚(りううんをしやう)
を軍師(くんし)とし、七島郡司(なゝしまぐんし)を案内者(あんないしや)として、その勢(せい)都(つ)
合(がふ)三千余人(さんぜんよにん)、軍艦(いくさぶね)百余艘(ひやくよそう)を備(そな)へて、二月二十二日(にぐわつにじふにゝち)纜(ともつな)
を解(とき)て、琉球国(りうきうこく)へ発向(はつかう)するにのぞみて、おの〳〵出陣(しゆつぢん)の
祝(いは)ひとして餞別(はなむけ)しける、中(うち)にも世(よ)に聞(きこ)えたる勇士(ゆうし)の、
新納武蔵守(にひろむさしのかみ)一氏(かずうぢ)、老後(らうこ)入道(にふだう)して拙斉(せつさい)と号(がう)したる
が、樽肴(たるさかな)を持(もた)せられ、祇園(きをん)の洲(す)といふところまで見(み)
送(おく)り、諸軍勢(しよぐんぜい)なみ居(ゐ)けるが、樺山久高(かばやまひさたか)上坐(しやうざ)に居(ゐ)られ
ず謙退(けんたい)せられしに、新納拙斉(にひろせつさい)申されけるは、今(いま)琉球(りうきう)
征伐(せいはつ)の大将(たいしやう)として渡海(とかい)あること、即(すなはち)これ君(きみ)の名代(みやうだい)
なり、はやく大将(たいしやう)の坐(さ)になほり候へといはれしかば、其(その)
まゝ上坐(しやうざ)につかれけり、かゝれば諸軍(しよぐん)の士卒(しそつ)も自(おのづから)心(しん)
服(ふく)し、号令(がうれい)行(おこな)はれたりとかや、夫(それ)より乗船(じようせん)し、山川(やまがは)の

湊(みなと)より順風(しゆんふう)に帆(ほ)をあげ大島(おほしま)に着岸(ちやくがん)し、この島人(しまひと)
防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ひけるによりて鉄砲(てつはう)をうちかけ、防(ふせ)ぐもの
およそ千人(せんにん)ばかり、手向(てむか)ふ者(もの)どもは討取(うちと)り、首(くび)を獲(と)る
こと三百余級(さんひやくよきふ)、他(た)はみな降人(がうにん)にぞ出(いで)にける、四月朔日(しぐわつついたち)
沖(おき)の永良部(えらふ)と与論島(よろしま)を攻取(せめと)り、運天(うんてん)の湊(みなと)に乗(の)り
つけ、備(そなへ)をそろへ城(しろ)を攻(せ)めおとし、首里(しゆり)の王城(わうしやう)に取(とり)
かゝらんと、およそい一里(いちり)ほどこなたなる、那覇(なは)の湊(みなと)
におもむきけるに、湊(みなと)の口(くち)には逆茂木(さかもき)乱杭(らんくひ)すき間(ま)
なく、水中(すゐちう)には鉄(てつ)の鎖(くさり)を張(は)り、これに船(ふね)のかゝりなば、
上(うへ)より眼下(めのした)に見おろしながら、射(い)とらんとの手(て)だて
をかまへ、その余(よ)島々(しま〴〵)の要害(えうがい)いとおごそかにぞ待(まち)かけ
ける、これによりて他(た)の港(みなと)より攻入(せめい)りて、三日(みつか)が間(あひだ)攻(せめ)
たゝかひ、手負(ておひ)討死(うちじに)もなきにはあらねど、聊(いさゝか)ためらは
ず直(たゞち)に進(すゝ)みて、首里(しゆり)に攻入(せめい)り、王城(わうじやう)を取(と)り囲(かこ)みける
に、をりふく琉球(りうきう)の諸勢(しよぜい)、みな那覇(なは)の湊(みなと)なる城(しろ)にた
て籠(こも)りて、王城(わうじやう)は無勢(ぶぜい)にて、防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふべき兵士(へいし)もな
かりければ、薩州勢(さつしうぜい)の急(いそ)ぎもみにもんで、攻(せ)め破(やぶ)らん
とするいきほひに、中山王(ちうさんわう)及(およ)び三司官(さんしくわん)等(ら)、なか〳〵敵(てき)す

ることあたはず、避易(へきえき)【左注「おそれ」】【辟易】してみな降参(かうさん)に出(いで)て、落城(らくじやう)に及(およ)
ひけり、さて那覇(なは)の城(しろ)には矢尻(やじり)をそろへ待(まつ)といへども、
敵船(てきせん)一艘(いつそう)も見えざれば、こはいかにとおもふところに、
不意(ふい)に後(うしろ)より押(おし)よせられ、王城(わうじやう)もはやく已(すで)に落城(らくじやう)
と聞(きこ)えければ、一戦(いつせん)にも及(およ)はず落城(らくじやう)す、かゝれば速(すみやか)に
軍(いくさ)の勝利(しようり)を得(え)て、琉球(りうきう)忽(たちまち)に平均(へいきん)したれば、早船(はやふね)を
以(もつ)て将軍家(しやうぐんけ)へ注進(ちうしん)ありしかば、甚(はなはだ)称美(しようび)せさせたま
ひけり、かくてその年(とし)は順風(じゆんふう)の時節(じせつ)におくれける故(ゆゑ)
に、諸勢(しよせい)琉球(りうきう)に滞留(たいりう)して、翌年(よくねん)五月二十八日(ごぐわつにじふはちにち)、中山王(ちうざんわう)
尚寧(しやうねい)を召(め)しつれ軍士(ぐんし)凱陣(かいちん)す、同(おなじく□)八月(はちぐわつ)薩州(さつしう)の大守(だいしゆ)
中山王(ちうざんわう)をともなひ、駿府(すんふ)に来(きた)りて登城(とじやう)す、時(とき)に中(ちう)
山王(ざんわう)、段子(どんす)【緞子】百端(ひやくたん)、猩々皮(しやう〴〵ひ)十二尋(じふにひろ)、太平布(たいへいふ)二百疋(にひやくひき)、白銀(はくぎん)
一万両(いちまんりやう)、大刀(たち)一腰(ひとこし)を献上(けんじやう)す、かゝれば御代始(ごよはじ)めに異(い)
国(こく)御手(おんて)に入(い)りしとて、ことの外(ほか)に御感悦(ごかんえつ)遊(あそは)され、其(その)
賞(しやう)として、御腰物(おんこしのもの)ならびに琉球国(りうきうこく)を賜(たま)はりけり、中(ちう)
山王(さんわう)にも拝領物(はいりやうもの)あり、これより琉球(りうきう)ながく薩州(さつしう)の
附庸(ふよう)とぞなりにける、それよりして江戸(えど)に至(いた)り、
将軍家(しやうぐんけ)に謁(えつ)しけるに、米(こめ)千俵(せんべう)をくだしたまふ、其年(そのとし)

帰国(きこく)ありて、翌年(よくねん)中山王(ちうざんわう)も本国(ほんごく)に帰(かへ)ることを得(え)たり、
《割書:系図、旧伝集、政事録、南|浦文集等に据(より)【拠】て記(しる)す》この時(とき)よりして、ながく吾邦(わがくに)の正(せい)
朔(さく)を奉(ほう)じ、聘礼(へいれい)を修(しゆ)して、今(いま)の入貢(じゆこう)の始(はじ)めなり、この後(のち)
将軍(しやうぐん)宣下(せんげ)、若君様(わかぎみさま)御誕生(ごたんじやう)、および彼国(かのくに)中山王(ちうざんわう)継目(つぎめ)の
度毎(たびこと)には、必(かならず)貢使(こうし)かつて闕(かく)ることなし、
 慶長(けいちやう)十四年(じふよねん)、琉球(りうきう)征伐(せいばつ)の時(とき)、雨不見の渡(わた)りの中(なか)
 ほどにて、容顔(ようがん)美麗(びれい)なる尋常(じんじやう)ならぬ婦人(ふじん)の、小(こ)
 舟(ぶね)に乗(の)りて来(きた)り、大将(たいしやう)樺山氏(かばやまうぢ)の舟(ふね)に乗(の)り移(うつ)り
 ていへるやう、我(われ)は琉球国(りうきうこく)の守護(しゆご)弁才天女(べんざいてんによ)なり、
 この度(たび)征伐(せいばつ)せらるゝに、ねがふところは、多(おほ)くの人民(じんみん)
 を殺(ころ)し、国(くに)を悩(なやま)し給ふことなかれ、さあらば我(われ)案内(あんない)し
 て、速(すみやか)に琉球国(りうきうこく)を御手(おんて)に属(ぞく)し申すへし、といひ終(をは)
 りて坐(ざ)したまふと見れば、そのまゝ木像(もくざう)の弁才(べんさい)
 天(てん)なり、さて乗(の)り来(きた)りし舟(ふね)と見えつるは、簀(す)の
 板(いた)なりけり、神霊(しんれい)のいちじるしく、国(くに)を護(まも)り給ふ
 の厚(あつ)きを感(かん)じ、舟中(ふねのうち)に安置(あんち)し、帰陣(きぢん)の後(のち)、事(こと)の
 よしを申し立(た)て、池(いけ)の中(なか)なる島(しま)に祠(ほこら)を建(たて)て、いつ
 き祭(まつ)りけるとなり、《割書:旧伝|集》

 因(ちなみ)に云(いふ)、世(よ)に薩琉軍談(さつりうぐんだん)といふ野史(やし)あり、その書(しよ)の
 撰者(せんじや)詳(つまびらか)ならずといへども、あまねく流布(るふ)して、二(に)
 国(こく)の戦争(せんさう)をいふものは、かならず口実(こうじつ)とす、その
 いふところ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津(しまづ)兵庫頭(ひやうごのかみ)義弘(よしひろ)の代(よ)
 に、惣大将(そうたいしやう)新納(にひろ)武蔵守(むさしのかみ)一氏(かつうぢ)、その外(ほか)種島(たねがしま)大膳(たいせん)、佐(さ)
 野帯刀(のたてはき)等(とう)、士卒(しそつ)惣人数(そうにんず)十万(しふまん)千八百(せんはちひやく)五十四人(ごじふよにん)
 渡海(とかい)せしといへり、又(また)かの国(くに)の、澐灘湊(うんだんそう)、竹虎城(ちくこじやう)ある
 ひは、米倉島(べいさうたう)、乱蛇浦(らんじやほ)などいへる地名(ちめい)あり、その将士(しやうし)
 には、陳文碩(ちんぶんせき)、孟亀霊(まうきれい)、朱伝説(しゆでんせつ)、張助昧(ちやうぢよまい)等(とう)の名(な)をしる
 したり、実(まこと)にあとかたもなき妄誕(まうたん)にしてその書(しよ)の
 無稽(ふけい)論(ろん)を待(また)ずしてしるべし、
  慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(しゆこう)
寛永(くわんえい)十一年(しふいちねん)閏七月九日(うるふしちぐわつこゝのか)、中山王(ちうさんわう)尚(しやう)、豊賀慶使(ほうがけいし)佐敷(さしき)
王子(わうじ)、恩謝使(おんしやし)金武王子(きぶわうじ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:元寛|日記》
この年(とし)将軍家(しやうぐんけ)御上洛(ごしやうらく)ありて、京都(きやうと)にましますをも
て、二条(にでう)の御城(おんしろ)へ登城(とじやう)す、このゆゑに二使(にし)江戸(えど)に来(きた)
らず、
正保(しやうほ)元年(くわんねん)六月(ろくくわつ)二十五日(にしふこにち)、中山王(ちうさんわう)尚賢(しやうけん)、賀慶使(かけいし)金武按(きむあん)

【右丁、右下】
英林【角印「英琳」】
【絵図の札二枚に「中山王府」】
【左丁、左上】
紫瀾星極仲朝威万里東来
貢献時莫笑蛮邦尤蠢爾衣
冠猶見漢官儀
九州百変典刑空絶島猶能
見古風魋結碧臚雖陋俗先
王鼓楽在其中
   枕山大沼厚【落款「枕山」ヵ】

司(す)、恩謝使(おんしやし)国頭(くにかみ)按司(あんす)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、七月三日(しちぐわつみつか)
下野国(しもつけのくに)日光山(につくわうざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、《割書:輪池|掌録》
慶安(けいあん)二年(にねん)九月(くくわつ)、中山王(ちうさんわう)尚質(しやうしつ)、恩謝使(おんしやし)具志川(くしかは)按司(あんす)等(ら)
をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|事略》また日光山(につくわうさん)の御宮(おんみや)を拝(はい)
す、
承応(しやうおう)二年(にねん)九月二十日(くぐわつはつか)、中山王(ちうさんわう)尚質(しやうしつ)、賀慶使(かけいし)国頭(くにかみ)按(あん)
司(す)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:羅山文集、和漢合運、|近世武家編年略、》また日光(につくわう)
山(ざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、
寛文(くわんぶん)十一年(しふいちねん)七月二十八日(しちくわつにしふはちにち)、中山王(ちうさんわう)尚貞(しやうてい)、恩謝使(おんしやし)金武(きふ)
王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:万天|日記》また日光山(につくわうざん)の御(おん)
宮(みや)を拝(はい)す、《割書:琉球事略、|歴代備考》
天和(てんわ)二年(にねん)四月十一日(しくわつじふいちにち)、中山王(ちうざんわう)尚貞(しやうてい)、賀慶使(がけいし)名護(なご)按(あん)
司(す)、恩納(おんな)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:万天日記、|甘露叢》
宝永(はうえい)七年(しちねん)十(じふ)一(に)【ママ】月(くわつ)十八日(じふはちにち)、中山王(ちうさんわう)尚益(しやうえき)、賀慶使(がけいし)美里(みさと)王(わう)
子(じ)、富盛(とみもり)親方(おやかた)、恩謝使(おんじやし)豊見城(とよみくすく)王子(わうじ)与座(よさ)親方(おやかた)等(ら)をして、
方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球聘|使紀事》また東叡山(とうえいさん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、中(ちう)
山使(ざんし)の日光山(につくわうざん)に至(いた)らずして、東叡山(とうえいざん)に来(きた)ること
この時(とき)を始(はじめ)とす、

正徳(しやうとく)四年(よねん)十二月(じふにぐわつ)二日(ふつか)、中山王(ちうさんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(かけいし)与那城(よなくすく)王(わう)
子(し)、恩謝使(おんしやし)金武(きふ)王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:文露|叢》
享保(きやうほ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)十三日(じふさんにち)、中山王(ちうざんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(がけいし)越来(こえく)
王子(わうじ)、西平(にしひら)親方(おやかた)等(ら)して、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:享保|日記》
寛延(くわんえん)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)十五日(じふごにち)、中山王(ちうさんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(がけいし)具志(くし)
川(かは)王子(わうじ)、与那原(よなはら)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:歴史|要略》
宝暦(はうりやく)二年(にねん)十二月(じふにくわつ)十五日(じふごにち)、中山王(ちうざんわう)尚穆(しやうぼく)、恩謝使(おんしやし)今帰(いまき)
仁(じん)王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:歴史|要略》
明和(めいわ)元年(ぐわんねん)十一月(じふいちぐわつ)、中山王(ちうざんわう)尚穆(しやうほく)、賀慶使(がけいし)読谷山(よみたんざん)王子(わうじ)、
等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:三国通覧|速水私記》
寛政(くわんせい)二年(にねん)十二月(じふにくわつ)二日(ふつか)、中山王(ちうさんわう)尚穆(しやうぼく)、賀慶使(かけいし)宜野湾(きのわん)
王子(わうし)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|談》
寛政(くわんせい)八年(はちねん)十二月(じふにくわつ)六日(ろくにち)、中山王(ちうざんわう)尚成(しやうせい)、恩謝使(おんしやし)大宜見(おほぎみ)
王子(わうじ)、安村(やすむら)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:輪池|掌録》
文化(ぶんくわ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)二十三日(にじふさんにち)、中山王(ちうざんわう)尚顥(しやうかう)、恩謝使(おんしやし)読谷(よみたん)
山(さん)王子(わうじ)小録(をろく)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、
天保(てんほ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)中山王(ちうざんわう)尚育(しやういく)恩謝使(おんしやし)豊見城(とよみくすく)王子(わうし)
沢岻(たくし)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す

【右丁】
天保(てんほ)十三年(じふさんねん)十一月(しふいちくわつ)中山王(ちうさんわう)尚育(しやういく)賀慶使(がけいし)浦添(うらそひ)王子(わうじ)
座喜味(ざきみ)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す
嘉永(かえい)三年(さんねん)十一月(じふいちくわつ)中山王(ちうざんわう)尚泰(しやうたい)恩謝使(おんしやし)玉川(たまがは)王子(わうし)野(の)
村(むら)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す
【左丁】
附録(ふろく)
  琉球国(りうきうこく)全図(ぜんづ)
琉球国(りうきうこく)に三省(さんせい)あり、中山(ちうざん)は、中頭省(なかかみせう)、山南(さんなん)は島■【耑ヵ】省(しまじりせう)、
山北(さんほく)は国頭省(くにがみせう)なり、この属府(ぞくふ)すへて三十六(さんじふろく)、これを
間切(まぎり)といふ、《割書:間(ま)ぎりとは、城下(しやうか)といふが如し、|あるひは郡県(くんけん)をさしていへり、》その間切(まぎり)の
領主(りやうしゆ)を、おの〳〵按司(あんす)といふ、三十六(さんじふろく)の属島(えだじま)あり、鬼界(きかい)
が島(しま)は、十二(じふに)の島(しま)なり、即(すなはち)これを五島七島(いつしまなゝしま)といへり、こ
れらの島々(しま〴〵)に、産(さん)するところの物(もの)は、蕃薯(りうきういも)、草薦(りうきうおん)、蕉(ばせを)
絲(ふのいと)、五色魚(ごしきうを)、螺魚(らぎよ)、瑇瑁(たいまい)、海参(なまこ)、石芝(せきし)等(とう)、三十種(さんじふしゆ)に余(あま)る、

琉球国図(りうきうこくのづ)

【右丁】
七島は宮古の支
配にて琉球
の持なり
三十六島(さんじふろくしま)の図(づ)
【左丁】
奇界より渡名喜まで十一島みな大島の
支配なり上島の村数すべて二百六十村
あり土人は小琉球と称す
南方台陸の南に小琉球山ありこれと同じ
                  からず
       沖のゑらぶ
        琉球の持なり
【大島の左】
是より琉球の地
 五間切あり
口(くち)のゑらぶ

  中山世系(ちうさんせいけい)
∴天孫氏廿五紀(てんそんしにじふごき)─────────────────────┐
                       【英祖王へ】
  宋(そう)の淳煕(しゆんき)年間(ねんかん)、天孫氏廿五紀(てんそんしにじふごき)の裔孫(えいそん)徳微(とくび)、
  その臣(しん)利勇(りゆう)、権(けん)を専(もつはら)にして位(くらゐ)を奪(うば)ふ、故(ゆゑ)に浦添(うらそひ)
  按司(あんす)尊敦(そんとん)、義兵(ぎへい)を起(おこ)し利勇(りゆう)を討(う)つ、国人(くにたみ)尊敦(そんとん)
  を推て位(くらゐ)に就(つ)く、これを舜天王(しゆんてんわう)と云(いふ)、
○舜天王(しゆんてんわう)─────舜馬順煕(しゆんばじゆんき)─────義本王(ぎほんわう)
  姓(せい)は源(げん)、名(な)は尊敦(そんとん)、父(ちゝ)は鎮西(ちんぜい)八郎(はちらう)為朝公(ためともこう)、母(はは)は大(おほ)
  里(さと)按司(あんす)の妹(いもと)、宋乾道(そうけんだう)二年(にねん)丙戌(ひのえいぬ)降誕(がうたん)、《割書:乾道(けんだう)二年(にねん)は、|六条院(ろくてうゐん)仁安(しんあん)》
  《割書:元年に|あたる》淳煕(じゆんき)十四年(じふよねん)丁未(ひのとのひつじ)則位(そくゐ)、嘉煕(かき)元年(くわんねん)丁酉(ひのとのとり)薨(がう)
  在位(ざいゐ)五十一年(ごじふいちねん)、寿(じゆ)七十二歳(しちじふにさい)といへり、又(また)云(いふ)義本王(ぎほんわう)
  童名(どうみやう)神号(しんがう)伝(つた)はらず、在位(さいゐ)十一年(じふいちねん)、歳(とし)五 十四(じふし)の時(とき)、英(えい)
  祖(そ)に諭(ゆ)して曰(いはく)、今(いま)汝(なんぢ)政(まつりごと)に乗(じやう)せば、年(とし)豊(ゆたか)に民(たみ)泰(やす)
  からん、宜(よろし)く大統(たいとう)を承(う)けつぎて、民(たみ)の父母(ふぼ)たる
  べしといへるに、固(かた)く辞(じ)しけれども、群臣(ぐんしん)みな共(とも)
  に勧(すゝ)めて位(くらゐ)に即(つか)しむ、義本(ぎほん)位(くらゐ)を譲(ゆづ)るの後(のち)、其(その)
  隠(かく)るゝところを知(し)らず、故(ゆゑ)に寿薨(しゆがう)伝(つた)はらず、今(いま)
  考(かんが)ふべからず、《割書:為朝公(ためともこう)の血統(けつたう)、舜天王(しゆんてんわう)より義本(ぎほん)まで|三代にして絶(た)ゆ、三王(さんわう)およそ七十三年、》

┌────────────────────────────┘
└英祖王(えいそわう)──────────大成王(たいせいわう)───────────┐
  英祖(えいそ)は、天孫氏(てんそんし)の裔(えい)、恵祖(けいそ)の孫(そん)、         │
┌────────────────────────────┘
└英慈王(えいじわう)──────────王城王(わうじやうわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└西威王(せいいわう)──────────察度王(さつとわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└武寧王(ぶねいわう)──────────尚思紹王(しやうしせうわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚巴志王(しやうはしわう)─────────尚忠王(しやうちうわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚思達王(しやうしたつわう)─────────尚金福王(しやうきんふくわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚泰久王(しやうたいきうわう)───────────────────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚徳王(しやうとくわう)────────────────────────┐
                       【尚稷王へ】
  神号(しんがう)八幡(はちまん)按司(あんす)、又(また)世高王(せいかうわう)と称(しよう)す、明(みん)の正徳(しやうとく)六(ろく)
  年(ねん)辛酉(かのとのとり)降誕(がうたん)、《割書:義教(よしのり)将軍(しやうぐん)嘉吉(かきつ)|元年にあたる》在位(さいゐ)九年(くねん)、寿(じゆ)二十(にじふ)
  九(く)時(とき)に、世子(せいし)幼(いとけなく)しを立(たゝ)んとせしに、国人(くにたみ)どもこれ
  を弑(はい)し、御鎖官金丸《割書:即位(そくゐ)して|尚円王と云(いふ)》を立(たて)て君(きみ)とす、
  これより中山(ちうさん)万世(ばんせい)王統(わうとう)の基(もとゐ)を開(ひら)くといへり、《割書:尚思(しやうし)|紹(せう)よ》
  《割書:り尚徳(しやうとく)まて、七|主六十四年》
┌────────────────────────────┘
└尚稷王(しやうしよくわう)────────────────────────┐
                       【尚円王へ】
  尚稷(しやうしよく)未(いま)た位(くたゐ)に即(つか)ず、たゞ王祖(わうそ)正統(しやうとう)の重(おもき)により
  追尊(つひそん)して王(わう)と称(しよう)す、

┌────────────────────────────┘
└尚円王(しやうゑんわう)────────────────────────┐
                       【尚宣威王へ】
  童名(どうみやう)忠徳(ちうとく)、名(な)は金丸、明(みん)の永楽(えいらく)十三年(じふさんねん)乙未(きのとのひつし)降(がう)
  誕(たん)、生得(しやうとく)儼然(げんぜん)として龍鳳(りうほう)の姿(すがた)あり、ならびに足(あしの)
  下(こう)に痣(ほくろ)あり、色(いろ)金( がね)【ママ】の如(ごと)し、いまだ位(くらゐ)に即(つか)ざるの
  時(とき)、泊村の人(ひと)安里(あんり)といふ者(もの)、一(ひと)たび見て、この人(ひと)は億(おく)
  兆(てう)の上(かみ)に居(を)るべきの徳(とく)ありといへり、明(みん)の成化(せいくわ)
  十二年(じふにねん)七月(しちぐわつ)二十八日(にじふはちにち)薨(がう)、在位(さいゐ)七年(しちねん)寿(じゆ)六十七歳(ろくじふしちさい)、
┌────────────────────────────┘
└尚宣威王(しやうせんいわう)─────────尚真王(しやうしんわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚清王(しやうせいわう)──────────尚元王(しやうげんわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚永王(しやうえいわう)────────────────────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚寧王(しやうねいわう)────────────────────────┐
                       【尚豊王へ】
  童名(とうみやう)思徳(しとく)、明(みん)の嘉靖(かせい)四十三年 甲子(きのえね)降誕(がうたん)、万(ばん)
  暦(れき)十七年(じふしちねん)即位(そくゐ)、同(おなじく)四十 八年(はちねん)九月(くぐわつ)十九日(じふくにち)薨(かう)、在位(ざいゐ)
  三十三年(さんじふさんねん)、寿(じゆ)五十七歳(ごじふしちさい)、慶長(けいちやう)十五年(じふこねん)入貢(じゆこう)す、
┌────────────────────────────┘
└尚豊王(しやうほうわう)──────────尚賢王(しやうけんわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚質王(しやうしつわう)──────────尚貞王(しやうていわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚純王(しやうしゆんわう)──────────尚益王(しやうえきわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚敬王(しやうけいわう)──────────尚穆王(しやうほくわう)──────────┐

┌────────────────────────────┘
└尚成王(しやうせいわう)──────────尚顥王(しやうこうわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚育王(しやういくわう)──────────尚泰王(しやうたいわう)───────
  右(みぎ)中山(ちうざん)世系(せいけい)の略(りやく)なり、これは琉球(りうきう)尚貞王(しやうていわう)の時、
  尚弘徳(しやうこうとく)と云(いふ)ものに命(めい)じて、撰(せん)するところの、中山
  世譜(せいふ)に据(よ)りて記(しる)すところなり、
  鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)
鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)、伊豆(いづ)の大島(おほしま)に流(なが)されしが、永(えい)万 元年(ぐわんねん)
三月(さんぐわつ)、白鷺(しろさぎ)の沖(おき)の方(かた)へ飛(とび)行(ゆ)くを見(み)て、定(さだ)めて島ぞ
あるらんとて、舟(ふね)に乗(の)りて馳(は)せ行(ゆ)くに、ある島(しま)に
着(つき)てめぐり給ふに、田もなし畠(はた)もなし、汝(なんぢ)等(ら)何(なに)
を食事(しよくじ)とすると問(と)へば、魚(うを)鳥とこたふ、その鳥(とり)は鵯(ひよどり)
ほどなり、為朝これを見(み)給ひて、大鏑(おほかぶら)の矢(や)にて、木(き)
にあるを射(い)落(おと)し、空(そら)を翔(かけ)るを射殺(いころ)しなどし給へば、
島(しま)のものども舌(した)をふるひておぢ恐(おそ)る、汝(なんぢ)等(ら)も我(われ)に
従(したが)はずは、かくの如(ごと)く射殺(いころ)さんと宣(のたま)へば、みな平伏(ひれふし)
て従(したが)ひけり、島(しま)の名(な)を問(とひ)たまへば、鬼(おに)が島(しま)と申す、《割書:保|元》
《割書:物|語》この為朝(ためとも)の渡(わた)りし鬼が島といふは、即(すなはち)今(いま)の琉(りう)
球国(きうこく)のことなり、かくて国人(くにたみ)その武勇(ぶゆう)におそれ服(ふく)す、

つひに大里(おほさと)按司(あんす)の妹(いもと)に相(あひ)具(ぐ)して舜天王(しゆんてんわう)をうむ、為
朝(とも)この国(くに)にとゞまること日(ひ)久(ひさ)しく、故土(ふるさと)をおもふこと
禁(やみ)がたくして、つひに日本(にほん)に帰(かへ)れり、《割書:琉球|事略》
 按(あん)ずるに、今(いま)已(すで)に琉球(りうきう)の東北(とうほく)にあたりて、鬼界島(きかいがしま)
 といふ名(な)のあるも、その名残(なごり)なりといへり、
  位階(ゐかい)の次第(しだい)
中山王(ちうさんわう)《割書:国王(こくわう)を|いふ》中城(なかくすく)《割書:春宮(とうぐう)をいふ、○中(なか)くすくは、城(しろ)の名(な)|なり、世子殿(せいしでん)といふありて、王子 即位(そくゐ)》
《割書:あるのとき、|大礼(たいれい)を行(おこな)ふ、》中婦(ちうふ)《割書:王后(きさき)をいふ、○君万物(きんまもん)に仕(つか)ふ、○中婦君(ちうふくん)の|名(な)は、神(かみ)に仕(つか)ふる、巫 女(ぢよ)三十三人ある、その中(うち)》
《割書:に居(ゐ)るといふ|の義(き)なり、》王子(わんす)《割書:王子(わうじ)|なり、》王女(わんによ)《割書:王(わう)の女(むすめ)|なり、》
官位(くわんゐ)の品級(ひんきふ)は正従(しやうじやう)すべて九等(くとう)あり
国相(こくさう)、親方(おやかた)《割書:国(くに)の大臣(たいじん)なり、すべて|政事(せいし)を司(つかさ)どるなり》
 元侯(げんこう) 正一品、法司(はふす) 正二品、紫巾官(しきんくわん) 従二位、
  《割書:これを三司官(さんしくわん)と称(しよう)し、または何々(なに〳〵)の地(ち)の|親方(おやかた)と呼(よ)ぶものは、即(すなはち)この重官(ちようくわん)なり、》
耳目令(じもくれい)《割書:又 御鎖側(ぎよさそく)と云(いふ)、|正三品なり》謁者(えつしや)《割書:又 申口者(まうしつぎ)、|従三品也》賛議官(さんぎくわん)《割書:正四|品》
那覇官(なばくわん)《割書:なばは地名(ちめい)、|従四位なり、》察侍紀官(さじきくわん)《割書:さじきは地名(ちめい)、|従四位なり》当坐官(あたりくわん)、《割書:正五|位》
勢頭官(せかみくわん)《割書:正六|位》、親雲上(ばいきん)《割書:正七|位》、掟牌金(ていはいきん)《割書:従七|位》、里之子(さとのし)《割書:正八|位》
里之子佐(さとのしのすけ)《割書:従八|位》、筑登之(ちくとし)《割書:正九|位》、筑登之佐(ちくとしのすけ)《割書:従九|位》
紫金大夫(しきんたいふ)、正議大夫(せいぎたいふ)、長吏(ちやうり)、都通奉(とつうし)、度支官(としより)、王法宮(わうはふきう)

【右丁】
九引官(きういんくわん)、内官(だいくわん)、近習(きんじふ)、内厨(ぜんぶ)、国書院(こくしよゐん)、良医寮(くすしどころ)、茶道(さだう)、
祝長(はふり)、無瀬人(むせし)、武卒(ふんぞう)、
里(さと)の子(し)は小姓(こしやう)なり、美少年(びせうねん)をえらぶ、年(とし)をとりて髭(ひげ)生(おい)れ
は親雲上(ばいきん)となる、親雲上(ばいきん)は官名(くわんみやう)なれども、彼国(かのくに)の風俗(ふうぞく)にて、
武士(ぶし)をすべて親雲上(ばいきん)といへり、
 嘉永三年庚戌十一月 【落款印刷「美成」ヵ】
  【角印】
           【朱角印】
【左丁、裏表紙見返し、白紙】

【裏表紙】
【管理ラベル一枚、判読不能】

大日本籌海図誌

【表紙】
「大日本籌海図誌 全」

琉球

琉球

各島

【「、」はすべて赤字で後から書き加えられている】
大島
○島、在徳島北十八里。琉球北界也、国史一ツ【所ヵ】謂阿麻弥島、
或作菴美、或作奄美、阿麻美者、上世神人名也、周廻五
十九里十町、所属間切七、曰笠利、奈瀬、古見、往用【住用の誤り?】、東、西、
焼?内、去自深井浦、西北行三十五里、至于七島、■【其ヵ】海潮
常向東而落、乃是元史所謂落際者也、又去此、北行七
十五里、至大隅国、永良部島、俗謂之阿麻弥州之度、所
隷三島、曰加計奈、周廻十五里、于計、周廻九里、与論、
周廻三里二十町、並皆在大島之南、
○鬼界島、在大島東南七里、周廻六里二十四町、所
属間切五、曰志戸桶、東、西月【西目?】、椀、荒木、其港、在西、
曰椀泊、乃是明人所称吉隹也、琉球国東北
極界也、

徳島
○国史所謂度惑島、在永良部島北、其東北接
大島、周廻十七里三町、所属間切三、曰東、西、面
縄、其港三、東曰秋徳、去自永良部、東行十八里
至于此、
○永良部在与論島北、而其北接徳島、明人称
野刺普、周廻十八町、所属間切三、曰不比留、大(オホ)
城(グスク)徳時、其港、曰大和泊、去自与論島、東北行十
三里而至于此、
○与論島、明人称繇奴島、在沖縄東北、接永良部島、周廻
三里五町、去自運天湊、東北行二十里而至于此、


沖縄島

○沖縄島、即中山国也、其地南北長、東西狭、而周廻凡七十
四里、国頭居来、為首、島尻(シマジリ)居南、為尾、王府曰首里、蓋古翠
麗山、城方一里、東南距海、各二里許、至于北岸、二十九里、
去其南岸五里、凡諸島地、山渓崎嶇、四?于?【罕】有寛曠之野、其人
浜山海而居、各自有分界、謂之 間切(マキリ)間切者、猶言郡県也、
王府領間切二十七、曰 国頭(クニカミ)、名護(ナゴ)、羽地(ハネチ)、今帰人(イマキジン)、金武(キム)、越来(ゴエク)
読谷山(ヨムタニサン)、具志河(クシガワ)、勝蓮(カツレン)、北谷(キタタニ)、中城(ナカグスク)、西原(ニシハル)、浦添(ウラソヘ)、直和志(マワシ)、豊見城(トヨミグスク)、
兼城(カネクスク)、喜屋武(キヤム)、摩武仁(マブニ)、真加比(マカヒ)、南風原(ハエハル)、島添(シマソヘ)、大里(オヽサト)、佐敷(サシキ)、知念(チネン)、
玉城(タマグスク)具志頭(グシカミ)、東風平(コチヒラ)、島尻大里(シマシリオヽサト)、
○海港二、所其在東北、曰運天湊、在西南曰那覇湊、
 ○那覇港、去都城余、里此間及海外諸州船
  所輻湊也、港口四邑、居民蕃盛、置那覇港
  官四、自分治■【焉】、迎恩亭、天使館、亦在于此、
  接中国使人之所也、
 ○那覇港、深二十二町、
  闊一町二十間、堪泊
  大船三十隻、
 ○港、去長崎三百
  里、去朝鮮四百
  里、去塔加沙古【タカサゴ】
  東南海角四百八十里、

 ○運天湊、港深一里二十七町、濶二町、大船五■【六?】十隻、
  可以柄泊、去此東北、至与論島二十里、
○計羅摩島、明人称曰雞籠嶼、去那覇港西行七里而
 至于此、周廻三里、去此西徃 先島(サキシマ)、海中砂礁、其国称
 曰八重干瀬、南北五里、東西里半、或由礁東、或由礁
西、両路均是七十五里、而至 宮古島(ミヤコジマ)針孔(ハリミゾ)?之浜也、
○戸無島、在那覇港西北二十六里、周廻一里六町、
○久米島、周廻六里二十町、去那覇港四十八里、
 国史所謂 球美(クミ)、明人以称古米、閩人三十六姓
 之後所居也、直北五里、有鳥島者隷焉
○粟島、周廻二里二十町、去那覇港西北三十里、、
○伊恵島、明人称移山嶴、周廻四里七町、五島相接而至今帰仁
 西北港口、約可二里、
○恵平屋、随昼?【書】作黿鼊嶼、明人以謂熱壁山、周廻二十六町、至于
 今帰仁十里、
○伊是那、周廻二里十八町、
○鳥島、在恵平屋東北五十里、周廻二十四町、厥土産硫黄、












ンう

宮古島

○明人所謂太平山也、在計羅摩島西南七十五里、周廻十一里、所属
間切四、曰於呂加、下地、平良、鳫股【狩俣】、所隷六島、曰以計米【池間島】、周廻一里八町、
久礼米【来間島】、周囲一里、永良部【伊良部島】、周廻四里二十町、下地、周廻□里、太良満【多良間島】、周
廻四里、美徒奈(ミツナ)【水納島】、周廻一里、去此西南五十二里、至八重山、
其海潮亦常向東而落、


八重山
○石垣、入表、二島之地、総称以為八重山、国史称信覚、
星様勝覧、称重曼山、石垣島、周廻十六里十七町、所
属間切四、曰河平、宮良、大浜、石垣、其港三在、西北、曰
河平、在南曰御崎泊、堂計止美【竹富】、島、黒島、波照間
島、等隷耳、
○入表、周廻十五里、間切二、曰古見、入表、
亦有小浜、鳩間、内離、外離、等島而隷■【焉ヵ】、
去此以西、路過落際、而行四十八里至
与那国、其地周廻五里十町、乃是琉球西
界也

鴻荒之世、有二神而降炎海之洲、一男一女、因生
三子、其一為君長之始、其二為女祝之始、其三為民
庶之始、邃古闊遠、歷世綿邈、国無史書、厥祥莫聞、及
推古天皇十五年、道小野臣妹子、購書海外、因聘于
隋、是歳煬帝大業三年、遣羽騎尉朱寛等、入海求訪
異俗、因到流求、言不相通、掠一人而還、明年復令寛
慰撫之、国人不従、寛取其布甲而還、時我使者至、見
之以為比夷耶久國人所用也、隋遣武貢郎将陳稜、
朝諸大夫張鎮州、率兵浮海撃之、虜其男女数十人、
載軍実而還、国遂与隋絶、其後六年、掖玖人来朝、是
歳春秋之間、相継而至者三十人、後十五年、掖玖人
来朝、是歳欽明天皇三年也、天武天皇十年、多称人
来、献其地図、十一年多称掖玖阿麻弥人等朝貢、賜
禄各有差、自是之後、常朝貢賜、孝謙天皇、命太宰
府、重修建南島之牌、是天平勝宝六年也、是後史闕
不祥、後四百二十八年、王舜天当其国、保元之乱、為
略諸嶋之地、至南島、人莫不服者、乃狥其地而還、
有遺孤在南中、母大里按司妹、育于母氏、有乃父之
風、衆推為浦添按司、方是時、諸島兵起、按司年二十
二、乃率其衆、一匡清乱、奉国尊称王、舜天王是已、是
歲文治三年也、舜天在位五十年、以嘉禎三年卒、子
舜馬順熈立、以宝治四年卒、長子義本立、在位十一
年、歲饑疾疫行、国有称天孫氏者、民皆帰之、義本因遜
位焉、是歲弘長二年也、英祖天孫氏之後、受譲当国、
闢地始広、初隋兵来犯、歷唐五代宋元数世、不与中
国通、及至元二十八年、世宗撫之、不服加兵、英祖
卒、次子英慈立、慈卒其第四子玉城立,不徳国乱、山
南山北分而爲三、玉城據于中山、玉城卒、子子西威立、

【欄外】
山南山北分
而■【為ヵ】三、君美
曰、凡諸島地、
分隷以■【為ヵ】三
等、其一則沖
縄、及其西北
小島、其二則
与論以北、其
三則先島以
南、是則所因
古三山彊城、
而■足【点定ヵ】之熱
判然分■【矣ヵ】、甲
午使人曰、今
帰仁以北
之地称山
北、王在今
帰仁、大里
以南之地、称
山南、王在
大里、是心
不然








西威以貞和五年卒、中山王察度立、察度者故浦添
按子之子、是時元既亡、明主即位、洪武五年、其行人
揚載、齎詔往諭其国、中山王察度、山南王承察度、山
北王帕尼芝、皆遣使朝貢、十五年賜三王錂金銀印
文綺、自文武帝授位南島人等、六百八十余年於此、
而三王受封於外国焉、察度玄孫尚巴志、賢而施仁、
山南山北、遂帰于一矣、事在宣徳之初、至尚寧之世、
関白平秀吉、命薩摩州、徴貢於中山、万暦十八年春、
尚寧遣僧天龍桃庵等来聘、明年関白大徵兵、欲道
朝鮮入于燕京、是年夏、尚寧遣使請封、明年関白入
犯朝鮮、明主令其使者、自齎詔帰、冊封使能勿遣、歷
十余年朝鮮師解、尚寧堅請如故事、明王喜為不叛
之臣、乃命兵科給事中、初中山与薩摩州、世有隣好、
比歳以来、二国交悪、使命遂絶、州守源朝臣家久、以
告 神祖、乃発兵撃之、中山之兵連戦皆敗、王出降、
明年家久、率尚寧及王親倍臣等来、 神祖使帰其
国、以附庸於薩摩州、善継前好、於是則古南島地復
舊【旧】城矣、明年尚寧得還、乃遣修貢於中国、以報中山
王業已帰国、■【且】欲代我以請互市、是歳明万暦四十
年也、明主令貢使無入朝、量収方物絡賞、明已亡、順
治四年、清主遣使招撫琉球、後復遣使繳納前朝所
賜印綬、王尚質因請其封、時海冠路梗、清主既殂、太
子即位、康熙二年遣使冊封、如前朝故事、五年始勅、
以両年一貢為例、後世々相継、康熙五十二年、世子
尚敬嗣、年甫十五、是歲我正徳三年也、始自中山称
藩於中国、凡王卒、則世子訃告以諸襲封、冊封使至、
則先祭前王於寝廟、在国門外、唯在諭祭、而無贈謚、
故歴世未得有謚云、

【欄外】
浦添按司
其系不可


【欄外2】
自尚巴志之
後以尚為姓
未知其所由

官制、正従各九品、正一品□【則】王子(ハアンス)、従則 按司(アンス)、正二品
則 三司(サンズ)官 親方(ヲヤカタ)、従則親方。三品至七品、則親雲上(バーキシ)、正
従八品則 里之子(サトノシ)、正従九品則 筑登之(ヂクトシ)、
王子官號【号】也、王之同姓、異姓、凡有分封者、皆称某王
子、雖王子弟、亦未受封者、不得称王子、
按司尚言郡侯也、牌古米(バイクメ)、牌金(バイキン)、並同親雲上、
王府據山為城、方各一里、畳石為基、繞以流水、正殿
在山之嶺、殿閣二層、南北八楹、其位向西、上以奉神、
中以朝堂、下与臣下坐立、凡正殿略傚漢制、至如燕
寝、則皆如此間之制矣、王親以亦皆如我制、
男女皆露髪、男則断髪結髻於右、国史所謂切髪草
裳、右髻名曰 隻首(カタカシラ)、相伝上世之人、皆載角、昔者有神
崩厥左角、後象之、女則鬒髪如雲、結為高髻、簪不加
飾、以墨黥手、為種々花卉、状、《割書:俗謂|針衝(ハリツキ)》
擧【挙】俗敬神、而神亦霊也、其神称謂 君真者(キンマモン)、神所憑之
女、称謂君者三十三人、皆酋長之女、其長称謂 聞補(キクフ)
君、其余所在神巫、百千為群。神有時而降、鼓舞皆歌、
以楽其神、一唱百和、其声哀婉、
又有霊蛇、国人畏之如神、
諸島山谿崎嶇、洋野鮮少、厥田沙礫瘠薄、稼穡甚艱、
気候常煖、年穀早熟、而不見其繁碩也、凡中山山北
並多水田、土宜粳稲、山南地方是陸田、宜菽■之属、
即今其国税額、中山糧米、七万一千七百八十七石、
山北、三万二千八百二十八石七斗、山南、一万九千
九十六石八斗零、其余租課准此、
其産、馬螺殻、海巴、夏布、牛皮、鳥木、硫黄、磨刀石、則為
貢物、殻則稲、■、麦、菽、蔬則瓜、茄、薑、蒜、葱、韭、之属、皆有
焉、又有蕃薯、可以代穀、海菜可啖亦多、果則龍茘、蕉




子、甘蔗、石橊【石榴】、橘、柿、但無梅□桃李之類草則山丹、■
笑、風蘭、月桔、名護菊、粟菊、盛花、沢藤等不少、近時芸
烟草、木則赤木、其性堅緻、紫紅色而有白理、蓋櫚木
之類、《割書:俗曰カ|シ木》黒木即会典所謂鳥木也、蘓銕所謂鳳尾
蕉、榆、《割書:俗曰カ|ツマル》木犀、《割書:俗曰キ|イハ》阿檀福木、《割書:曰デゴ曰ヤラフ曰マネ|並皆其俗所称未祥》隋書所
謂闘樓樹、使琉球録、以謂土産無其樹、即今国人亦
謂不詳、禽鳥、則綾鳩、黒鶉鶁、亦有異色、《割書:俗云ミノ|ウツラ》蝙蝠、産
八重山者其形極大、其余野鳥之属但無鶴、鶬鶏、
而鴻雁不来、秋月之候、鷹、隼及小雀自南来者多、畜
獣則馬牛犬豕麋鹿無不有者、而虎豹犀象、亦産
異色貓【猫】、蟲豸則蛇 蝎(カツ)之属、最多毒蛇、凡七種、蝎亦能
螫人、其在于壁間、声噪如雀者、春夏之交、有赤卒、自
南来亦多鱗介則海出?白魚、亦名海馬、馬首魚身、皮
厚而青、其肉如鹿、人常啖之、馬蛟、龍蝦之類、亦皆有

【欄外】牛即水牛

琉球人参府記

琉球人参府記

  寳永六丑
  三月
一 御代替付而先例之通琉球国中山王より
  以使者御祝儀為申上度旨松平薩摩守
  相伺之右使者之儀従先祖参勤之節召連之候
  先御代始ニも彼使者父薩摩守召連参府
  仕付而今度も来夏参府之節琉球之
  使者可召連之諸事可為如先例旨年寄共

  より相達也

    六月
一 松平薩摩守琉球人召連参府之議中山王
  使者来着相縁之召連可申哉又者例年之
  時節参府仕彼使者ハ来着次第家来之者共
  差添参府可為仕哉右両條薩摩守以書付
  相伺之家来召連参府可仕候参勤延引
  之段者不若之旨哉 仰書

    十二月
一 中山王事当夏死去二付嫡孫江令相続候
  然者中山王継目之節者使者差上之継目之
  御礼前々より申上来付而此度茂以使者
  御礼申上度旨相願之御一通書可被
  仰付者  御代替付差上之使者目前

  薩摩守召連参府仕度由以書付相伺之
  中山王自分継目御礼之使者茂
  御代替付差越使者共一同ニ召連参府可仕
  之旨年寄共より相達也

   宝永七寅
    九月
一 松平薩摩守閏八月廿六日為参勤國元相立
  且従中山王之両使一同召連之段書状出来

   十一月三日晴
一 琉球人通り候道筋品川通見物大勢可有之候
  琉球人轎□等人□楽をも仕候故場廣無之
  候而者難罷通候間見物之者共道之障ニ不
  罷成様可申付之旨寺社奉行町奉行勘定
  奉行江以書付申達也

   十一月十三日晴

一 松平薩摩守事中山王両使召連昨日参府付
  為 上使本多伯耆守取連也
    但使者江者 上意無也

   十一月十四日晴
一 琉球人登 城之節御用可相勤旨
           御目付
             鈴木伊兵衛
           同
             阿野勘右衛門
 右於土圭間外永井伊賀守申渡也

   十一月十五日曇
一 月次御礼有之
      御白書院
    《割書:銀五百枚|時□三十》    松平薩摩守
 右参勤之御礼如例

   十一月十六日晴
一 松平薩摩守事今度琉球人等相替召連
  参府之段御機嫌被思召依之從四位上
  中将二被 仰付旨於御白書院縁□井上
  河内守傳達之老中列座
一 今度琉球使者召連就参府薩摩守江
  米三千俵被下也大目付仙石丹波守假宅江
  被遣也相達
    但先例者米二千俵程被下也今度者両使
    願参府三千俵被下也

   十一月十七日晴
一 琉球人昨十八日御礼登 城之節松平薩摩守
  幸轎内上座敷江五時相揃 御城より四時前比
  上座敷迄左右可有之候其節屋敷□□
  出旨薩摩守家来江以書付達也
一 昨日琉球人御礼ニ付国持大名を初表高万石

  以上之面々直垂狩衣大紋着之五半時可致
  登 城旨年寄共を以手紙相觸也
    但御三家松平加賀守不及登 城
一 高家衆詰衆同嫡子□者番同嫡子大坂
  御定番詰衆置同嫡子布以上之御役人
  直垂狩衣大紋布衣着之昨日五半時可致
  医師茂装束ニ而罷出候様是又相達也
    但無官之面々者不及登 城
一 琉球人登 城之度之四品并布衣之面々足袋
  □□候様可相觸旨大目付江井上河内守
  御目付江永井伊豆守書付渡也
一 松平薩摩守登 城之節供之者年始之通
  相心得琉球人江相隨候過労家老用人目付
  留守居布衣着させ其外之者共ハ上下ニ而
  不罷相旨以書付相達也

一 屋敷前□□上不意之者五間ニ一人程
  足軽

  中将報知_一候誠恐不備

 宝永七年十一月廿三日  井上河内守
               源正岑
             大久保加賀守
               藤原忠増
             本多伯耆守
               藤原正永
             秋元但馬守
               藤原喬知

             土屋相模守
               源政直

  奉_レ復_二 中山王 ̄ノ閣下 ̄ニ_一

  信音累 ̄リニ至 ̄ル仍 ̄テ承 ̄ル為_レ告_二
  賢-藩承-襲 ̄ノ事 ̄ヲ_一特 ̄ニ差_二使臣豊見城王子 ̄ヲ_一
  献 ̄リ_二方物 ̄ヲ_一以 ̄テ進謝 ̄ス誠-意遠 ̄ク著 ̄ハレ
 褒-弉愈 ̄ニ加幸甚之至 ̄リニ候
 賜物如 ̄ク_二別録_一附 ̄ス_二使者 ̄ノ還 ̄ルニ_一余 ̄ハ悉 ̄ク薩摩中将

中山伝信録

琉球来朝記

【製本表紙】
琉球来朝記  自八至十四終

【右丁、表紙見返し】
【左丁】
【角印「宝玲文庫」】
【題箋】
琉球人来朝記 八
【付箋】
一琉球人登 城
 御礼に付大広間南之方
 装束着座之面々

【フランク・ホーレー (Frank Hawley)、1906年3月31日生於イングランド・ノートン、1961年1月10日没於京都山科(ウィキペディア)】

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球人来朝記八【朱角印上に貼紙】
一十二月十五日琉球人就御礼大広間
 下段南板縁之次着座之面々
  大紋    久世長門守
  同断    高力若狭守
  同断    石川備中守

  同断    松平日向守
  同断    曽我伊賀守
  同断    宝賀下総守
  同断    阿部出羽守
  同断    柴田丹後守
  同断    水野越中守
  同断    中根大隅守
   《割書:当番西丸に罷在 》 大岡土佐守
  大紋    水野山城守
  同断    阿部周防守

  同断    内藤出雲守
  同断    市川出雲守
  同断    花房近江守
  同断    田沼主殿頭
  同断    仙石丹波守
  同断    佐野右兵衛尉
   《割書:当番西丸罷在》  松平長門守
  同断    松平下野守
  同断    古屋豊前守
  同断    松平備後守

  同断    石河土佐守
  同断    河野豊前守
  同断    能勢因幡守
  同断    神尾伊賀守
  同断    能勢肥後守
  同断    馬場讃岐守
  同断    神谷志摩守
  同断    神尾若狭守
  同断    曲淵豊後守
  同断    逸見出羽守

  同断    山田肥後守
  同断    服部大和守
  同断    水谷信濃守
  同断    加藤備後守
  同断    駒井能登守
  同断    大津越中守
  布衣    一色源太郎
   大広間三之間着座之面々
  同断    大岡忠四郎
  同断    金 田 采 女

  同断    川勝左兵衛
  同断    奥田八郎右衛門
  同断    柴田七左衛門
  同断    松下加兵衛
  《割書:大紋か》
  同断    竹中周防守
  同断    筒 井 内 蔵
  同断    本 多 大 学
  同断    松前八兵衛
  同断    高田忠右衛門
  大紋    曽根玄蕃頭

  布衣    加藤左兵衛
  同断    高山安左衛門
  同断    神保四郎右衛門
  同断    諏訪七左衛門
  同断    戸田庄右衛門
  同断    猪飼半左衛門
  同断    柳原市郎右衛門
  同断    曲淵市大夫
  同断    大井七郎兵衛
  同断    設樂善左衛門

  同断    平岡四郎兵衛
  同断    赤井五郎作
  同断    有 馬 一 学
  同断    別所久左衛門
  同断    山 本 大 膳
  同断    織田弥十郎
  同断    牟礼清左衛門
  同断    松平忠左衛門
  同断    大橋言右衛門
  同断    桜井内蔵助

  同断    菅谷八郎兵衛
  同断    松平源大夫
  同断    太田小左衛門
  同断    山本新五左衛門
  同断    近藤勘右衛門
    殿上之間座上着座
  直垂    松平薩摩守
一中山王書翰受取
  大紋    河野豊前守
  同断    能勢因幡守【二名上に結び線あり】

 公方様御後座勤仕之面々
  大紋    松平駿河守
  同断    阿部志摩守
  同断    藪 主計頭
  同断    三浦肥後守
  同断    巨勢大和守
  同断    大岡出雲守
  同断    高井兵部少輔
  同断    戸田土佐守
  同断    水野丹波守

  同断    松平采女正
一大広間二之間西え向着座
        具志川王子
一同所三之間着座
  布衣    中山五郎左衛門
  同断    神尾市左衛門
  同断    脇 坂 主 計
  大紋    橋本阿波守
  布衣    八木十三郎
  同断    依田平次郎

  同断    水 野 清 六
  同断    横田十郎兵衛
  同断    土屋長三郎
  同断    菅沼藤三郎
  大紋    柳生播磨守
  布衣    中島彦右衛門
  同断    加藤喜左衛門
  同断    池 田 修 理
  同断    奥山黒兵衛
  同断    稲垣清右衛門

【右丁、白紙】
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記 九
【付箋】
一西丸に而
 御礼御規式之
 次第

 琉球来朝記九
 辰十二月四日松平右近将監殿御渡
 被成候於西丸琉球中山王使者
 御礼之次第
  十二月□□

  琉球中山王使者具志川
  王子於西丸御礼之次第
一琉球人御礼申上に付溜詰御譜
 代大名高家雁之間詰御奏者
 番菊之間縁頬詰何も父子共
 且
 御本丸西丸布衣以上之御役人
 御本丸御礼相済西丸え相越
 出仕之面之【ママ】直垂狩衣大紋布衣
 素袍着之

一琉球人 御本丸御礼相済
 内桜田通西丸大手より登
 城
一具志川御玄関階之上到時大
 目付二人出向案内而殿上間下
 段着座従者同所次之間列居
 下官之族は御玄関前庭上群
 居
一松平薩摩守登 城殿上之間
 下段座上着座

一中山王書簡大目付二人に而
 請取之
  具志川御礼之次第
一大広間
 大納言様  出御
  御先立
  御太刀
 御上段
  御厚畳三畳重以唐織包之
  四角に総付之 御褥
  御刀掛

  御着座
一御簾掛之
一御後座に御側衆御太刀之役
 御刀之役伺公
一御下段西之方上より三畳目通り
 より松平肥後守井伊備中守老
 中順々着座
一西之縁頬に若年寄伺公
一西之御縁之方に畳敷之高家
 雁之間詰之四品以上列居

一南板縁次に諸大夫之雁間詰
 同嫡子御奏者番同嫡子菊之間
 縁頬詰同嫡子番頭芙蓉之間
 御役人列候
一二之間北之方二本目三本目□柱之
 間より御襖障子際東之方え四
 品以上之御譜代大名列候
一上之間に諸大夫之御譜代大名同嫡子
 三之間に布衣以上之御役人列居
一薩摩守御次御襖之外際南に向

 着座
一具志川殿上之間より大広間え大
 目付二人案内而二之間諸大夫之
 御譜代大名前西向着座
         松平薩摩守
 右出座御下段御敷居□内□
 御目見御奏者番披露之御下段上
 より四畳目迄被
 召出之今度琉球之使者遠路召
 連太儀被 思召候段

【ハワイ大学所蔵『琉球人来朝記三』第八コマにほぼ同文】

 上意有之老中御取合申上御次
 え退座其時老中召之具志
 川
 御前え可差出旨被  仰出之
 於御次    御諚之趣薩摩守
 え老中達之
  但具志川御礼之内薩摩守
  御襖之外に控罷在
一中山王より所献之品々
 出御以前より南之板縁東西に

 より
 御目通順々並置
  具志川自分之進物も同事
  並置之
  但献上之御馬諏訪部三之助
  支配之御馬乗二人庭上□牽
  出三之助差添罷出
一献上之御太刀目録御奏者番持
 出御下段上より三畳目置之中山
 王と披露之具志川出席御下

 段下より二畳目に而奉九拝而退去
 御太刀目録御奏者番引之
一老中 召之具志川儀遠境
 相越太儀被 思召旨被
 仰出之於御次
 御諚之趣薩摩守え老中伝之
 則具志川え薩摩守達之御請
 申上之其趣老中薩摩守述
 之
一具志川重而出席自分之御礼

 於板縁奉三拝御奏者番披露
 退座大目付二人案内而殿上間え
 同列下段着座薩摩守も殿上間
 え退去
        松平薩摩守
         家来一□人
 右於板縁奉拝
 台顔御太刀目録御奏者番披露
 退去畢而御間之御襖障子老
 中開之御敷居際

 立御御譜代大名其外一同
 御目見相済 入御
一大御所様え之献上物老中謁之
一老中殿上之間え相越向具志川
 会釈有之則退座其後大目付
 差図而具志川退出大目付二人
 御玄関階上迄送先達而従者順
 々退出
  但老中之送無之
一御小姓組御書院番より出人五拾

【右丁】
 人御書院番所勤仕
一大御番より出入百人大広間四之
 間に勤仕
【左丁】
【付箋】
一琉球中山王ゟ
 来翰幷老中ゟ
 右に付返翰

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球人来朝記之十
一琉球中山王ゟ之書翰
 ┌──
 │謹呈一翰候
  公方様
  大納言様

 大納言様益御機嫌能被成
 御座恐悦奉存候然者就
 御代替以使者御祝儀申上候
 儀従薩摩守奉願候処被
 仰渡前次第奉□□□□
 為御祝儀今般具志川
 王子差上候随而御太刀一腰
 御馬一疋幷目録之通献上
 仕候宜御取成奉頼候誠惶
 謹言

       中山王
  卯月十一日  尚敬
  酒井雅楽頭様
  堀田相模守様
謹上
  本多伯耆守様
  松平右近将監様
      人々御中
  大御所様え同文言
    宛所    【切紙貼付】「中山王
    西尾隠岐守様         尚敬(花押)」
       人々御中

【右丁】
      人々御中

  大納言様右同断
    宛所
    秋元但馬守
        人々御中
【左丁】
 右行合一枚くる〳〵と巻候間
 四半角取紙に巻上礼紙之体
 如左
 ┌ 上書なし
┌──────────────────┐
│    【六角結びあり】     │
└──────────────────┘

   此紙は二ツ折して包有之左候へはたち合之紙とは不見
┌──────────────────┐
│謹上 西尾隠岐守様    中山王  │
└──────────────────┘

【右丁】
  右礼紙之寸は行合壱枚を三ツ之□□
  用たる体と見へしたとへは如左か
【書簡模作品の貼付】
「角取紙
 大サ如此」
【左丁】
一右御返翰
  芳翰令披閲候
  三御所様益御機嫌能
  被成御座恐悦旨尤候
  就

【右丁、書簡模作品貼付の下】
┌─────────────┐
│      │ 此紙にて │
│      │ 角取紙  │
│ 此紙にて │   用  │
│ 書翰を  │──────│
│ 書    │此紙にて上包│
│      │礼紙に用  │
│      │      │
└─────────────┘
 判は大きさ如此
         尚敬(花押)
【左丁は前のコマで翻刻】

【書簡模作品の記入部分、縦18.5cm】
書翰巻上竪横にて此寸法也
仍而上包は是ゟ右へのひる

【書簡模作品の白紙部分、縦18.5cm】

  御代替之御事為御祝儀
  可申上今度以使者具志川
  王子如目録献上候
  御前え被 召出之
  御喜色之御儀候猶松平
  薩摩守可申述候恐々
  謹言
      松平右近将監
          武元(花押)
      本多伯耆守

  十二月十八日  正□(花押)
      堀田相模守
          正亮(花押)
      酒井雅楽頭
          □□(花押)
   中山王
      回答

  従
  大納言様同文段
      秋元但馬守
          凉朝(花押)

一大御所様ゟ返翰
  芳翰命披閲候
  三御所様益御機嫌能
  被成御座恐悦旨尤候
  就
  御代替之御事為御祝儀
  可申上今度以使者具志川
  王子如目録献上候右之趣
  遣披露候処 御喜色之
  御儀候猶松平薩摩守

  可申述候恐々謹言
       西尾隠岐守
  十二月十八日   忠直(花押)
   中山王
     回答

  琉球中山王幷正使具志川
  王子ゟ進物之次第
公方様え
一御太刀      一腰
一御馬裸背     一疋
一寿帯香      三十箱

一香餅       二箱
一龍涎香      二箱
一畦芭蕉布     五十端
一島芭蕉布     同断
一薄芭蕉布     同断
一縮緬       五十巻
一太平布      百疋
一久米島綿     百把
一青貝大卓     二脚
一堆錦硯屏     一対
一青貝飯籠     一対
一羅沙       二十間

一泡盛酒      十壺
  右中山王ゟ
公方様
一寿帯香      十箱
一太官香      十把
一太平布      二十疋
一寿帯香      十箱ツヽ【ママ】
一太官香      十把ツヽ【ママ】
一太平布      二十疋ツヽ【ママ】
一島芭蕉布     二十端ツヽ
一泡盛酒      二壺
  右正使ゟ

【右丁】
 右は十五日登 城就御礼
 献上物 両御丸え薩摩守
 家来差添納置之
【左丁】
一島芭蕉布     同断
一薄芭蕉布     同断
一久米島綿     五十巴ツヽ
一縮緬       三十巻ツヽ
一羅紗       十間ツヽ
一青貝大卓     一脚ツヽ

一堆錦硯屏     一対ツヽ
一青貝飯籠     一対ツヽ
一泡盛酒      五壺ツヽ
  右中山王ゟ
大御所様
大納言様え
一島芭蕉布     二十端
一泡盛酒      二壺
  右正使ゟ
大御所様
大納言様え
一御太刀      一腰ツヽ

【右丁】
一御馬裸背     一疋ツヽ
一寿帯香      二十箱ツヽ
一香餅       二箱ツヽ
一龍涎香      五十袋ツヽ
一太平布      五十疋ツヽ
一畦芭蕉布     三十端ツヽ
【左丁】
  琉球人御暇被下物
公方様ゟ中山王え
一白銀五百枚
一越前錦五百把

公方様ゟ正使え
     《割書:無紋熨斗目  弐|綸子散し紅裏 弐》
一時服拾 《割書:繻子     壱|繻珍     壱》【六品上に結び線】
     《割書:紗綾散し紅裏 弐|白無垢    弐》

公方様ゟ琉球人惣中え
一白銀三百枚
一越前錦三百把

公方様ゟ楽童拾三人え
一時服三宛 《割書:繻子散し紅裏 壱|無紋熨斗目  壱|紗綾散し紅裏 壱》【三品上に結び線】

大御所様
大納言様ゟ 中山王え
一時服弐拾宛 《割書:色品前に同前》
同     正使え
一白銀三百枚
一越前綿棧百把
 右之通正使えは大広間に而
 被下之楽人えは柳之間に而
 被下之

【右丁、白紙】
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記 十一
【付箋】
一琉球人
 大御所様え献上物
 規式之次第

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球来朝記十二
 辰十二月四日松平右近将監殿御渡
 被成候於 西丸琉球中山王使者
 大御所様被献上物之次第
  十二月十五日

 於 西丸琉球中山王使者具志
 川王子を以
 大御所様え献上物之次第
一大広間二之間老中若年寄
 北之方御襖障子際に附東之方え
 順々列座同三之間に
 御本丸西丸布衣以上之御役人相
 詰御車寄板縁に御目詰め罷有
一中山王より所献之品之【ママ】先達而大
 広間二之間板縁西之方より東え

 並置之具志川自分之進物は同
 三之間板縁東え退而置之
   但献上之御馬諏訪部八十郎支配
   之御馬乗二人庭上え牽出
   八十郎差添罷出
一具志川殿上間より大広間え大
 目付二人令案内松平薩摩守
 相列而具志川大広間二之間
 敷居之内南之方二畳目に到て
 老中に向而三拝于時御太刀目録

 御奏者番持出同所南中之柱之
 際に而中山王と披露御太刀目
 録は下に不置畢而具志川指戸
 之外え退
一具志川重而出席自分之御礼
 三之間上之敷居より二畳下
 南之方に而三拝御奏者番同南
 柱之際に而披露畢而殿上間え
 退座

【右丁、白紙】
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記十二
【付箋】
一琉球人音楽幷
 御暇幷規式之次第

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球来朝記十二
 辰十二月四日松平右近将監殿御渡
 被成候琉球人音楽幷御暇之
 次第
  十二月十八日

一琉球人音楽被
 聞召且御暇被下付而登
 城
一具志川王子御玄関階之上至時大
 目付二人出向案内而殿上間下段
 着座従者同所次之間列居下官
 之族は御玄関前庭上に群居
一松平薩摩守登 城殿上之間
 下段座上に着座
一出仕之面之【ママ】直垂狩衣大紋布衣

 素袍着之
一大広間御下段御次之御襖障子取
 払二之間北之方二本目三本目之柱
 間より御襖障子際東之方え四品
 以上御譜代大名列候
一二之間諸大夫之御譜代大名同
 嫡子三之間に布衣以上之御役人法印
 法眼之医師列居
一西之御縁方に畳敷之高家雁間
 詰之四品以上列居

一南板縁次に諸大夫之雁間詰同
 嫡子御奏者番同嫡子菊之間縁
 頬詰同嫡子番頭芙蓉之間御
 役人列候
一出御以前より薩摩守大広間
 御下段上より五畳目通東之方着座
 御向之縁に畳敷之具志川御縁御
 敷居之際東之方伺公琉球楽人は
 御向に列居
一大広間

 公方様
 大納言様
   御先立
  公方様
   御太刀
  大納言様
   御太刀
   御上段
    御厚畳三畳重以唐織包之
    四之角大総付之御褥御刀掛
   但

   大納言様厚畳は二畳重
  御着座
一御簾掛之
一御後座に御側衆御太刀之役御刀
 之役伺公
一御下段西之方上より三畳目通り
 より松平肥後守井伊備中守老中
 順々着座
一西之御縁頬に若年寄伺公
一御前之御簾揚之中奥御小姓役之

 之【ママ】
一音楽始御奏者番勤之
一御簾巻上音楽始り畢而琉球
 人相退き 御簾垂る其後
 又琉球人罷出 御簾巻上け
 二度目音楽始り候事
   但入御之節 御簾垂候に不及
一楽畢而琉球人殿上之間え退去
 過而薩摩守着座より直退出
 御目見老中御取合申上之御次え退

 去  入御之
  但溜詰御譜代大名謁老中
  退出薩摩守殿上間え退去
一入御以後大広間二之間老中若
 年寄北之方御襖障子際附東之
 方え順之【ママ】列座于時薩摩守先
 達而右之席南之方に着座其後
 大目付二人案内而殿上間より具
 志川大広間三之間御敷居際西え
 向着座対老中一礼有会釈有

 而具志川御敷居之内え出座之節
 薩摩守に随ひ二之間中央迄罷出
 此時 御代替に付遠路使者差上
 御喜悦に被
 思召候中山王え白銀綿被遣候
 上意右之趣老中伝達薩摩守具
 志川一礼有之
   白銀 五百枚 中山王え
   綿  五百把
 右之被遣物最前より大広間

 御下段に並置之御襖障子明置
 之具志川え為見畢而大目付
 二人差図而四之間え具志川退き
 御襖障子御同朋頭両人に而内之方
 より閉之
  白銀弐百枚 具志川王子え
  時服十
 右西之御縁より進物番持出之
 大広間三之間上より一畳隔而中
 通り東之方え並置之大目付二人

 案内而則具志川二之間中英【ママ】迄
 出座于時白銀時服被下旨老中
 伝之一礼有而三之間え退来貝【*】拝戴
 之畢而大目付二人差図而四之間え退
 座被下物御車寄之方え進物番引之
 過而
  白銀三百枚  従者惣中え
  時服三宛   楽人共え
   但時服は席え不出
 右白銀西之御縁より進物番持出

【賚(たまもの)誤ヵ、『琉球人来朝記 四之五』第九コマ参照】

 之三之間東之方御敷居際に置之
 此時具志川二之間中央迄出座
 白銀従者惣中え被下之且今日楽
 相勤付て楽人え時服被下旨具志
 川え老中伝之具志川一礼有而四之
 間え退座白銀之台御車寄之
 方え引之具志川殿上之間退去
 大目付二人令案内
一老中え薩摩守一礼有而殿上之間え
 退座

 殿上間に而中山王え被遣物之目録
 幷老中より之返翰大目付二
 人持参而具志川え相渡
一高家雁之間詰同嫡子御奏者
 番嫡子菊之間縁頬詰同嫡子
 三之間菊之間敷居際後にして
 西之方より東之方え折廻し着座
一御奏者番頭廻番頭芙蓉間御役人
 布衣以上之御役人南之御縁西之
 方より御車寄東之方え折廻し

 列居
一薩摩守帝鑑之間に而御菓子御吸
 物御酒被下之老中出席及挨拶
一具志川王子え殿上之間下段に而
 御菓子御吸物御酒被下之老中
 出席及挨拶
一従者柳之間に而御菓子御吸物
 御酒被下之
一薩摩守家来えも於蘇鉄之間
 御菓子御吸物御酒被下之

一御玄関腰懸幷於下馬腰掛下
 官え強飯被下之
一具志川退出大目付二人御玄関
 階之上迄見送
   但老中送無之
一御小姓組御書院番より出人五拾人
 御書院番所に勤仕
一大御番より出人百人大広間四之間
 勤仕

【題箋】
琉球人来朝記 十三
【付箋】
一琉球人え西丸に而
 被遣被下物御規式
 之次第

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球来朝記十三
 辰十二月四日松平右近将監殿御渡
 被成候於 西丸琉球人え被遣被下
 物之次第
  十二月十八日

一琉球中山王使者具志川王子於
 御本丸御暇相済西丸え登
 城道筋等御礼之節之通
一具志川王子御玄関階之上至
 時大目付二人出向案内而殿上
 間下段着座従者同所次之間
 列居下官之族は御玄関庭
 上群居
一松平薩摩守登 城
 殿上之間下段座上に着座長袴

一出仕之面之【ママ】長袴
一大広間二之間老中若年寄北
 之方御襖障子際え附東之方え
 順々列座于時薩摩守先達而右
 之席南之方に着座其後大目付
 二人案内而殿上之間より具志川
 大広間三之間御敷居際西え向着
 座対老中一礼老中会釈有而
 具志川御敷居之内え出座之節
 薩摩守に随ひ二之間中央迄罷出

【虫損部分は琉球大学所蔵『琉球人来朝記 八、九』を参照】

 此時
 御代替付遠路使者差上
 御喜悦に被
 思召□中山王え白銀時服被遣下
 大御所様え
 大納言様 上意之趣老中
 伝達之薩摩守具志川一礼
 有之
 大御所様
   白銀三百枚  中山王え

   時服三十
 大納言様より
   同断    同人え
 右之被下物君前より大広間
 御下段に並置御襖障子明置之
 具志川に為見畢而大目付二人
 差図而四之間具志川退御襖
 障子御同朋頭両人にて内之方ゟ
 閉之
 大御所様

   綿百把  具志川王子え
 大納言様より
   同断    同人え
 右西之御縁より進物番持出之大
 広間三之間上より一畳隔而中通
 台を並へ東西へ長く置之大目
 付二人案内而則具志川二之間
 中央迄出座于時
 大御所様
 大納言様より被下旨老中伝之

 一礼有而三之間え退来貝【*】拝戴
 畢而大目付二人差図而四之間
 え退座被下物御車寄之方え進
 物番引之具志川殿上之間え退
 去大目付二人令案内
一老中え薩摩守一礼有而殿上間
 え退座
一殿上間に而中山王え被遣物之目
 録幷老中より之返翰大目付
 二人持参而具志川え相渡

【賚(たまもの)誤ヵ、宝玲文庫『琉球人来朝記四之五』第十七コマ参照】

一具志川退出大目付二人御玄
 関階之上迄見送
  但老中送無之
一三之間に 御本丸 西丸布衣
 以上之御役人相詰御車寄板縁に御
 目付罷有
一御小性組御書院番より出人五十人
 御書院番所々勤仕
一大御番より出人百人大広間四
 之間に勤仕

【右丁、白紙】
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記 十四《割書: |大尾》
【付箋】
一琉球人音楽之節
 楽之名幷楽歌
 楽人之次第幷
 座楽之絵図
一同老中御三家廻幷
 帰国井上因硯碁之図

【右丁、白紙】
【左丁】
琉球人来朝記十四《割書:大尾》
  十二月十八日琉球人登
  金城奉奏楽曲之名帳
 第一奏楽
万年春
 嗩吶     津波親雲上

  笛     伊江里之子
  同     徳嶺里之子
  鼓《割書:小銅鑼 |鈸子》   知念里之子
  銅鑼《割書:標板|銅鑼》   奥原里之子
  韻鑼    大城里之子
  挿板    湊川里之子
【挿入「奏楽」】第二
 賀聖明
  嗩吶    津波親雲上
  笛     伊江里之子
  同     徳嶺里之子
  鼓《割書:小銅鑼 |鈸子》   知念里之子


  銅鑼《割書:標板|銅鑼》   奥原里之子
  韻鑼    大城里之子
  挿板    湊川里之子
【挿入「奏楽」】第三
 楽清明
  嗩吶    津波親雲上
  笛     伊江里之子
  同     徳嶺里之子
  鼓《割書:小銅鑼 |鈸子》   知念里之子
  銅鑼《割書:標板|銅鑼》   奥原里之子
  韻鑼    大城里之子
  挿板    湊川里之子

【挿入「唱曲」】第四
 日麗中天《割書:明曲》
 春色嬌
  洞簫    伊江里之子
  三絃    知念里之子
  琵琶    奥原里之子
  洋琴    湊川里之子
【挿入「唱曲」】第五
 乾道泰《割書:清曲》
  三絃    知念里之子
  琵琶    伊江里之子
   同十八日依

  台命又奉奏楽曲之名帳
【挿入「奏楽」】第一《割書:又|奏》
 鳳風吟
  嗩吶    津波親雲上
  笛     伊江里之子
  同     徳嶺里之子
  鼓《割書:小銅鑼 |鈸子》   知念里之子
  銅鑼《割書:標板|銅鑼》   奥原里之子
  韻鑼    大城里之子
  挿板    湊川里之子
【挿入「奏楽」】第二
 慶皇都

  嗩吶    津波親雲上
  笛     伊江里之子
  同     徳嶺里之子
  鼓《割書:小銅鑼 |鈸子》   知念里之子
  銅鑼《割書:標板|銅鑼》   奥原里之子
  韻鑼    大城里之子
  挿板    湊川里之子
【挿入「唱曲」】第三
 奉霞觴《割書:清曲》
  胡琴    伊江里之子
  三絃    知念里之子
  月琴    大城里之子

  提 筝(筝)    徳嶺里之子
【挿入「唱曲」】第四
 待家事《割書:明曲》
  洞簫    伊江里之子
  三絃   《割書:後》知念里之子
  二線   《割書:前》徳嶺里之子
  四線    大城里之子
【挿入「唱曲」】第五
 琉歌
  三線    知念里之子
  同     大城里之子
    以上

【右丁、白紙】
【左丁】
第一
ヤン  ヒヤン タア ヲウ  ネン  ツハン チン スウ
スイン シユン サヤウ スウ  フウ  タウ  ヒヤウ
トン  ヲハン テン  チヤン テン  ヒヘン ヲウ
チユン ワウ  シ   カン  チン  イ モシ フウ

サエン サウ  チヤン クハン ウヤン フウ  ハアンキ
ユヽ  スウ  シヤ  ヤン  ヒヤン アイ  ヒヤン
ツエン キウ  フウ  シヲ  ウフ  タヲ  ツヤン
ヨン  ヤ   ツエン ツイン ツウ  キユン ホユン
マン  ツヱ  ユウ  フウ  ス   タウ  キイ
ワン  アン  フウテウ シヤン アイ  ホイキ
ヤン  チウ  テエン  クハン ナア  ヲヤヲ
ウ   フウ  ツエウ  リヤウ フハン ハウ ラウ
ツイ  チヨン スウ  フ  ヤン  ライ  ヒヨク
ンアン ヒン  ツマ   コヲ  エン  ホイ ヤン

【虫損部はハワイ大学所蔵『琉球人来朝之記』第三十三コマにより翻刻】

ヲン  リヤヲ エイ  モン  トン  フン タ
トウ  マン  コウ  ロウ  クイ  エサマ
トン  ロヒ  ヤン  ツイ  ヲ   トキ
マウ  スイン シヱン リヤウ スウ  フウ タト
ウ   ヒヤウ トン  ヲハン テン  チヤン カ
ヤン  ヒヤン ワウ  キン  タア  クウ  ネン
フハン チン  スウ  スイン シユン リヤウ
スウ  タウ  ヒヤウ トン
右之類にてさしたる事は無之故跡は
爰に略せり

琉球国風行歌
ふうてんかんとゝ ふうてんかんかゝ
はつあ しうろゝやはんというもん
せんこちけ〳〵らんてんほちや
ちをおかまちよさ ひせ(上)んしのせん
れこふちくふもんいううつさゐ
こひちこ〳〵は〳〵さいとひすい
すとなんとんこめる いすふ〳〵
すはしやじへざすはのさきやちん
ふうかんさあるきんにやうにや 【「はつあ」脱ヵ】

【ハワイ大学所蔵『琉球人来朝之記』第三十三コマに相当、異同あり。「ゝ」三箇所は「く」ヵ】

【右丁、琉球歌の続き】
さあるきんにやうにや はつあ
さんにゆうにやうにや
【左丁、絵図あり】
琉球座楽器

小銅鑼

【絵図あり】
新心
嗩吶(ツフナ)
三金
三板

【絵図あり】
両班(リヤンハン)
金鑼(キンロウ)
銅鑼

【絵図あり】
管(クハン)
横笛(ホンテツ)
二 絃(スン)
弓子(キユンワウ)

【絵図あり】
長線(チヤンセン)
四線(シセン)

【絵図あり】
三線(サンスヱン)
琵琶(ヒアハア)

【右丁、絵図あり】
胡琴(フウキン)
胡子(フウツウ)
【右丁】
一琉球人明十九日老中廻り勤
 廿一日御三家方廻勤出宅刻限
 大概四時前相廻り候
 王子初人別三拾六人
  内楽童子四人

一松平摂津守家来織田信濃守
 家来相良政太郎家来京極
 佐渡守家来稲葉右京亮
 家来牧野駿河守家来仙石
 越前守家来備中左京家来
 共
  右申合之覚
 琉球人御三家方廻勤之節
 門前通行に付物頭給人間
 数に応徒士以上□紗小袖麻
 上下着用小頭以下看板改
 候事琉球人通行之節下

 座無之
 御用懸河野豊前守能勢因幡守
 中山五郎左衛門古屋長三郎右
 見廻り有之候はゝ立番之者
 不残下座可仕事
一着府之節は道筋御徒目付衆
 参先達而相達候通心得候様にと【?】
 被申渡候事
一松平薩摩守儀琉球人帰之節は
 為送在所え不罷越家来差添
 罷越朝鮮人往来共宗対馬守

 被差添候様今度も薩摩守
 如(被)差添候様不案内之旨は聊候様
 爰に記之

一辰十二月廿八日琉球人江戸
 出立帰国に赴候

  辰十二月廿五日
一松平薩摩守宅に而囲碁有之
      《割書:琉球人》
        田頭親雲上
      《割書:碁所》
        井上因硯
  右は田頭石三ツ置て押碁

    凡廿目程之勝
   此石百八十八目
一先年【*】
 文昭院様御代琉球人来朝之
 節屋良里之子と井上先因硯
 後見に而本因坊囲碁有之本因
 坊勝之屋良え免状を授け其上に
 碁之手を伝授せしや
【以下棋譜。黒置石三子、黒番百八十八手まで】

【宝玲文庫『宝永七庚寅年琉球国来聘使日記』第四十八コマに「宝永七寅十二月朔日、中押勝・本因坊、三ツ置・屋良里之子」の棋譜がある】

【右丁、棋譜】
【左丁、裏表紙見返し白紙】

【製本裏表紙、文字なし】

中山伝信録

中山伝信録巻第二
 封宴礼儀
 封舟到港
 天使館 《割書:旧使館 支応七司|》
 天妃宮行香 《割書:上天妃宮 附下天妃宮|》
 中山先王廟
 諭祭儀注
 諭祭文《割書:二道|》
 中山王府

  冊封儀注
  冊封詔勅《割書:二道|》
  中山王肄館儀仗 《割書:賀封路供|》
  中秋宴
  重陽宴 《割書:拝辞宴  餞別宴  望舟宴|》
  中山王謝 恩表疏 《割書:貢物|》
  又請存旧礼以労使臣疏
  礼部議覆疏


 封舟到港図

            迎
            恩
            亭

中山伝信録巻二
 冊封琉球国王副使 賜正一品麟蟒服翰林院修加二級《割書:臣》徐葆光纂
 封舟到_レ ̄ル港 ̄ニ
封舟六月朔旦至_二那覇港_一 ̄ニ泊_二 ̄ス海口_一 ̄ニ_一迎舟數十獨木舟雙
 使一帆 ̄ナル者(。)又數百槳世曾孫尚敬守 ̄ル_レ次(。) ̄ヲ先遣_二 ̄シテ法司以
 下 ̄ノ諸陪臣_一 ̄ヲ來_二 ̄リ迎 ̄フ







中山伝信録巻第二

下等小学日本地誌略図問答

下等小学日本地誌略図問答

琉球人来朝記

【表紙】
【管理ラベル】
「228 3」
【題箋】
琉球人来朝記 三

【表紙見返し】
【蔵書朱印「小笠原蔵書印」】

【右丁、白紙】
【左丁】
【朱角印、不詳一つ、「宝玲文庫」、「小笠原蔵書印」】
【本文】
  琉球人来朝記巻之三
   十二月十五日於西丸に琉球
   中山王使者御礼之次第
  琉球中山王使者具志川王子於
  西丸御礼之次第
一琉球人御礼申上候に付溜詰御譜

 代大名高家雁之間詰御奏者
 番菊之間縁頬詰何れも父子共
 且御本丸西丸布衣已上之役
 人御本丸御礼相済西丸相越
 出仕之面々直垂狩衣大紋布衣
 素袍着之
一琉球人御本丸御礼相済内桜
 田通り 西丸大手ゟ登 城
一具志川御玄関階之上に至時大目
 付河野豊前守能勢因幡守出向
 案内殿上之間下段着坐使者
 同所次之間列坐下官之族は御玄

 関前庭上に群居
一松平薩摩守登 城殿上之間
 下段坐上着坐
一中山王書簡大目付二人に而受取
 之
   具志川御礼之次第
一大広間
 大納言様 出御《割書:御直垂|》
   御先立
   御太刀
   御 刀
 御上段《割書:御厚畳三畳重以唐包綾之|四之角大総付御褥御刀懸》

 御着坐
 御簾懸之
一御後坐に御側衆御太刀之役御刀之
 役伺公
一御下段西の方上より三畳目通りゟ
 松平肥後守井伊備中守但馬守
 右近将監隠岐守順々着坐
一西の御縁え堀田加賀守小堀和泉
 守三浦志摩守戸田淡路守
一西の縁之間畳敷之高家雁之
 間詰四品已上
一南之板縁次に諸大夫之雁之間詰同

 嫡子御奏者番同嫡子菊之間縁
 頬詰同嫡子番頭芙蓉之間御役
 人列候
一二之間北之間二本目三本目之柱
 之間より御襖障子際東之方四品
 已上之御譜代大名列候
一二之間に諸大夫之御譜代大名同
 嫡子三之間布衣已上之御役人列
 候
一薩摩守御次御襖之外際南に向而
 着坐
一具志川殿上之間より大広間大目

 付弐人案内に而二之間諸大夫御譜
 代大名前西へ向着坐
        松平薩摩守
 右出坐御下段御敷居之内に而
 御目見御奏者番披露之御下
 段上より四畳目迄被 召出之今度
 琉球之使者遠路召連太義被
 思召之段 上意有之年寄共御取
 合申上之御次え退坐于時右近将監
 召之具志川御前へ可罷出之旨被
 仰出之於御次 御諚之趣薩摩
 守へ右近将監達之

  但具志川御礼之内薩摩守御
  襖之外に控罷在
一中山王ゟ所献之品々 出御以前ゟ
 南之板縁東西より御目通り順々
 並置具志川自分之進物も同事
 並置之
  但献上之御馬諏訪部三之助
  支配之御馬乗二人庭上に牽
  出し三之助差添罷出
一献上之御太刀目録御奏者番持
 出御下段上ゟ三畳目に置之中山王と
 披露之具志川出席御下段下より

 弐畳目に而奉九拝而退去御太刀目
 録御奏者番引之
一右近将監 召之具志川儀遠境
 相越太儀被 思召旨被 仰出之於
 御次 御諚之趣薩摩守え右近将
 監伝之則具志川え薩摩守達之
 御請申上之其趣右近将監え薩摩
 守述之
一具志川重而出席自分之御礼於
 板縁奉三拝御奏者番披露之
 退坐大目付弐人案内而殿上之間
 え同列下段着坐薩摩守も殿上之

 間に退去
      松平薩摩守家来
          島津兵庫
          鎌田典膳
 右於板縁奉拝
 台顔御太刀目録御奏者番披
 露之退去畢而御間之御襖障子開
 之御敷居際 立御御譜代大
 名其外一同 御目見相済而
 入御
一大御所様え之献上物は隠岐守
 謁之年寄共殿上之間え相越具
 志川会釈有之則退坐其後
【嶋は常用漢字で翻刻】

 大目付差図に而具志川退出大目
 付弐人御玄関階上迄送之先達
 而従者順々退出
  但年寄共之送り無之
一御小姓組御書院番ゟ出人五拾人
 御書院番所々勤仕
一大御番ゟ出 入(人)百人大広間四之
 間に勤仕

【右丁、白紙】
【左丁】
  琉球中山王幷正使具志川王子
  より進物之次第
公方様え
一御太刀         一腰
一御馬  裸背      一疋
一寿帯香         三十箱

一香餅          二箱
一龍涎香         二箱
一畦芭蕉布        五拾端
一島芭蕉布        同断
一薄芭蕉布        同断
一縮緬          五拾巻
一太平布         百疋
一久米島綿        百把
一青貝大卓        二脚
一堆錦硯屏        壱対
一青貝籠飯        壱対
一羅沙          弐十間
【嶋は常用漢字で翻刻】

一泡盛酒         十壺
  右中山王ゟ
公方様え
一寿帯香         拾箱
一太官香         拾把
一太平布         弐拾疋
一島芭蕉布        弐拾端
一泡盛酒         拾壺
  右正使ゟ
大御所様
大納言様え
一御太刀         一腰 ツヽ

一御馬  裸背      壱疋ツヽ
一寿帯香         弐拾箱ツヽ
一香餅          弐箱ツヽ
一龍涎香         弐箱ツヽ
一太平布         五拾疋ツヽ
一畦芭蕉布        三拾端ツヽ
一島芭蕉布        同断ツヽ
一久米島綿        五拾把
一縮緬          二十巻ツヽ
一羅紗          拾間ツヽ
一青貝大卓        壱脚ツヽ
一堆綿硯屏        壱対ツヽ

一青貝籠飯        壱対ツヽ
一泡盛酒         五壺ツヽ
  右中山王ゟ
大御所様
大納言様え
一寿帯香         拾箱ツヽ
一太官香         十把ツヽ
一太平布         二十疋ツヽ
一島芭蕉布        二十端ツヽ
一泡盛酒         二十壺ツヽ
  右正使ゟ

琉球人持道具之図【以下、第23コマまで絵図あり】
金鼓
刑鞭

銅鼓
太鼓


獣旗

銘牌各二本
紅涼傘


偃月刀



冠  帽
華簪 笠

【背表紙】
【管理ラベル「Ryu 090 Ryu v,2 Pts 3」】

天保三年来朝

天保三年來朝
  琉球人行列記

于時天保三年 辰十月来朝
御免   薩州御出入方
     《割書:取次   伏見箱屋町》
      判元 丹波屋新左ヱ門
        《割書:同下板橋》
         兼春市之焏
        《割書:寺町通錦小路上ル》
    京都書林 菱屋弥兵衛

 來朝之次第
慶安二年九月
承應二年九月
寛文十一年七月
天和元年十一月
正德四年十一月
享保三年八月
寛延元年十一月
宝暦二年十月
明和元年九月
寛政二年十一月
寛政八年十月
文化三年十月
天保三年十月

【下段横書き】
琉球船

【右頁】
松平薩摩守殿家老嶋津但馬高三万八千石

行列附

【右上からジグザグに】
【○に一】先払ひ 二人
鉄鉋【砲の誤りか】 十梃
弓 十張

挟箱 手代リ二人 二个
鎗 手代リ二人 二本
中鎗 手代リ 一本
立傘

台傘
徒士 十人
刀筒 二人
長刀

人数上下合一万人余人足二千人
馬八百匹
  こゝに出す所は其大概の行列なり


【左頁】
【右上からジグザグに】
旗竿
長柄 十筋
馬口取二人 道具奉行 若党
騎馬
傘 鎗

合羽篭
二人 先馬 柄杓持一人
具足櫃
手弓 二張

小姓九人 野袴着
籠 籠ノ廻り数十人 籠ノ者数十人
鎗 傘 長柄
挟箱 二人

䉴箱
茶弁当 茶坊主一人
二人 引馬 一人

中山王正副二使行列

楽器箱 一
 但し金泥にて楽
 器の二字あり
 長持の形ち也

書翰箱 二
 但し地黒に
 白字の織物也
    コノ形ち也


鞭(ヘエン) 二人
 制棒也大竹長サ一丈許
 り末の方二ツ割半ヨリ
 持所迠凡く惣朱ぬり也

牌(ハイ) 二行
 板朱ぬり文字金泥
 一ハ謝恩使 一ハ中山王
 府とかく


張旗(チヤンキイ)
 金皷の二字をかく
 二人もち也

銅鑼(ハンラウ) 両班

嗩吶(ツオル) 二行


唎叭(チヤルメル)

銅角(トンコヱ)

皷 二行

以上銅鑼ヨリ以下楽人也


虎旗(フウキ)
 虎ヲ画ク

三司宦(サンスクワン)
 国王の書翰を持す騎上
 にて音に書しの箱をつける
 かの国の三公の其一なり


冷傘(レンサン)
 但ひぢりめん
 にて二重にかざる

龍刀(ロントウ)
 青龍刀也

正使使賛 与儀覇(ヨギハ)親雲上(バイキン)
     玉城(タマグスク)親雲上(バイキン)
 トモビトノコト【?】也
 跟伴(コンハン)【左にフリガナ】数人


轎(キヤウ)乃正使 豊見城(トミグスク)王子(ワウジ)
 但シ唐の衣冠也
 跟伴数人 沓持もあり


立傘(リウサン)
 但金糸の如きものにて
 かざる

鎗(ツヤン)

正使々賛 譜久山(フクヤマ)親雲(バイキン)上
     読谷山(ヨンタンサン)親雲上
     真栄平(マエヒラ)親雲上

讃議官 普天間(フテマ)親雲上
 馬上なり
 琉球附の役人也ば【?】琉球の服也


鎗(ツヤン)


楽童子(ガクドウシ)六人 登川(ノボリカハ)里之子(サトノシ) 宇地原(ウチハル)里之子
      譜久村(フクムラ)里之子 富永(トミナガ)里之子  各馬上也
      濱元(ハマモト)里之子 小録(オロク)里之子 至て美少年也
 これ大かたは美少年なり十四歳より十六才迠唐織のかぎり
 なき美服にてすへて花/笄(カンザシ)をいたゞき琉球高貴の人の若との也
 雲上にて楽をつとむわけて音律にくわしく皆能書にし
 舞かたはら詩哥をよくす


楽師 冨山(トミヤマ)親雲上 池城(イケグスク)親雲上 具志川(クシカハ)親雲上
   内間(ウチマ)親雲上 城間(グスクマ)親雲上

楽正 伊舎堂(イシヤダウ)親雲上
 馬上なり

冷傘

龍刀


副使 沢紙(タクシ)【岻の誤り?】親方(オヤカタ)
 カゴに乗る日本の籠也
 但し唐の衣冠なり

副使々賛 與古田(ヨコタ)親雲上
     小波蔵(コバクラ)親雲上



沓持



議衛正(ギエシヨウ) 儀間(ギマ)親雲上 跟伴数人
 琉求の服也
 馬上なり 路次楽奉行也


掌翰使(シヨカンシ) 与那覇(ヨナハ)親雲上
 祐筆也 馬上なり

賛渡使(サントス) 宮里(ミヤザト)親雲上 瀬名波(セナハ)親雲上 比嘉(ヒカ)親雲上
    徳田(トクダ)親雲上 浦嵜(ウラザキ)親雲上
    許田(キヨダ)親雲上 佐久川(サクカハ)親雲上


医師 跟伴数十人
 琉球の衣冠也 日本の籠に【?】のる

讃議官従者

楽正従者


正使ノ小性【姓の誤り?】 四人
 美少年也

路次楽人


 此外数多あれとも略すこれはその大略なり上下
 都合二百人なり
 上中下官ともに印篭も■■さべるなり■■朝
 鮮の製に同し是も■用ひたるなり


音楽
 太平調(タヒヒンチヤウ) 舞人七人
 桃花源(トウフアヽエン) 同七人
 不老仙(フウスセン) 同七人
 楊香(ヤンヒヤン)  明楽ナリ 同二人
 寿尊翁(ヂユツフンオン) 清楽也  同二人
 長生苑(チヤンスエン) 舞人七人
 芷蘭香(ツウオンヒヤウ) 同七人
 寿星老(シウスインラウ) 明楽ナリ 同七人
 正月(チンイヱン)  清楽也  同七人
楽は道中宿に出立の折または日中行列の中亦宿着等
の節にもなす事あり舞は席上にてのことなり路頭
にてはなし

【上段】
道中駅路割

宿  休
伏見 勧修寺村
大津 守山
武佐 高宮
番場 今須
垂井 墨俣
稲葉 宮
岡崎 大浜
御油 吉田


二川 新居
舞坂 浜松
袋井 日坂
島田 岡部
府中 奥津
蒲原 原
三嶋 箱根
小田原 平塚
藤沢 程ヶ谷
川嵜 品川
江戸


【下段】
一琉球国より江戸迠
  七百拾壱里余
一琉球より薩州麑島迠
  三百里
一かご嶋より大坂迠
  弐百七十六里余


一大坂より江戸迠
  百三十五里

○中山王より之献上物あ
また有しとも今略す

○諸大名より之御馳走
人数あまたあれとも略ス

琉球ことは
【上段】
日を てだがなし
月を つきがなし
火を まつ
水を みづ
男を ゑんが
女を おなご
朝飯を ねーえさる
昼飯を あせ
夕飯を ゆうはえ

【下段】
簪を ぎば    三弦を さんしそ
艸履を さば   下駄を あんじや
いやじやといふ事を ばあ
かあいそふなを きもつちやげな
物をほむる時 きよらさといふ詞あり
 たとへは美男をきよらゑんがと云か如し
うそつく人わるき人を へんげもん
遊女を ぞりと云故にゆう里を
 ぞりや又ぞりみせなど云なり

琉球奇譚

【表紙】文字無

【見開き】文字無

琉球竒譚

【朱印】寶玲文庫
【黒印】芲輪里菴

   序
 琉球國(りうきうこく)は。 吾(わが)
日域薩州(ひのもとさつしう)より 南(ミなミ)にあり。 清朝(もろこし)
 福建泉州(ふくけんせんしう)の 東(ひがし)に 在(あり)。 其国(そのくに)名玉(めいぎよく)
 異寶(いはう)を 出(いだ)す。 男女(なんによ)の 風俗(ふうぞく)又異(またことなり)や。
 去歳(きよさい)秌(あき)八月。 渡海(とかい)の 商人(あきびと)に

臨(りん)貞二(ていじ)といへるもの。 何(なに)くれと 彼国(かしこ)
の 手(て)ぶりなど。 親(した)しく 語(かた)りたるを。
米山子(べいざんし)と 等(とも)に 兵庫(ひやうご)に 逰暦(ゆうれき)せし
折(をり)から。 聞(きゝ)たるまゝにかいしるして
置(おき)たりしを。 此(こ)たび 梓(あづさ)に
ちりばめて。 同志(どうし)のひとたちに
        《割書:りうきう序2》


見(ミ)をまゐらせむとするものハ
黒川(くろかは)の 里人(さとびと)
     浅嶺庵作良 印
時は天保ミつのとし
   冬時雨月
     壷輪楼高木書 印

富■漁翁
 壽
  琉球国越来三明堂樂水一百十一歳書

              りうきう序の二


琉球譚傳真記(りうきうものがたりでんしんき)
    薩州白岩       米山子著述
抑(そも〳〵)琉球国(りうきうこく)ハ。 薩州(さつまのくに)の 南(ミなミ)方にあたりて。 舟路(ふなぢ)およそ八百四十
里《割書: 海上(かいしやう)六丁をもつて一 里(り)とす 地方(ぢかた)の三十六丁を一里とするときハ。|百四十里なり。 和漢三才圖会(わかんさんさいづゑ)に 海(かい)上三百八十里と 紀(しる)せしハ 誤(あやまり)也》 其国南北(そのくになんぼく)

長(なが)さ五十九 里餘(りよ)東西(とうざい)ハ 僅(わづか)十里に 足(た)らず《割書:地方(ぢかた)三十六丁を|もつて一 里(り)とす》

その地(ち)北極(ほくきよく)の 地(ち)を 出(いづ)ること二十六 度(ど)二 分(ぶ)三 厘(りん)。されば
暖氣(だんき)なる 叓(こと)他国(たこく)に 勝(まさ)れり。《割書:正月に 桃(もゝ)さくらのはなひらき 冬(ふゆ)になりても|衣(い)るいにわたを入れるといふ事なく 蚊(か)なをうせ》

《割書:ずうちハを|手にはなさず》〇 始(はじ)め 隋(ずひ)の時流虬(ときりうきう)と 号(なづ)く。 其(そ)ハ 地(くに)の 形(かた)ち 虬(きう)

竜(りよう)の 水中(すひちう)に 浮(うか)ぶか 如(ごと)くなるを 以(も)てなり。 又(また)宋史(さうし)及(およ)び 隋書(ずいしよ)に

流求(りうきう)と 書(か)く。 元史(げんし)にハ 瑠求(りうきう)と 書(か)く。その 後今(のちいま)の 琉球(りうきう)の
字(もじ)にハ 改(あらため)たり《割書: 中山傳信録(ちうざんでんしんろく)にハ 明(ミん)の 洪武(こうぶ)年中今の 字(じ)に| 改(あらたむ)ると 紀(しる)せしハ 誤(あやまり)にて夫より前の事なり》〇 往昔(いにしへ)我国(わがくに)

より 琉球(りうきう)を 呼(よ)びて 宇留麻廼久煮尒(うるまのくに)といへり。 大貳(だいに)の 三位(さんゐ)の
狭衣(さごろも)に。 右琉間(うるま)の 島(しま)とありて。 下紐(したひも)に。うるまの 島(しま)ハ 琉(りう)
球(きう)なりと 有(ある)にて 明(あき)らけし。また 千載集(せんざいしふ)の 哥(うた)に〽おぼつかな
うるまの 島(しま)の人なれや 我言(わがこと)の 葉(は)をしらず 顔(がほ)なる。
又古(またふる)くは 於幾廼志摩(おきのしま)とも 呼(よ)びたり。 彼国人(かのくにうど)。 自(ミづか)らその
国(くに)を 屋其惹(おきの)ともいふ也。〽さつまがたおきの 小島(こじま)に 我(われ)あり
と 親(おや)にハ 告(つげ)よ 八重(やえ)のしほ 風(かぜ)」この 哥(うた)ハ 平判官康頼入道(へいはんぐわんやすよりにふどう)。


鬼界(きかい)が 島(しま)に 滴(なが)されて 彼所(かしこ)にて 詠(よめ)るにて。すなハち源平
盛衰記(せいすいき)巻の七に 載(のす)るところなり〇 世俗(せぞく)に 龍宮(りうぐう)といふ
ものハ 海龍神(わだつミのかミ)の 都(ミやこ)する 処(ところ)にて。 洋中波底(ようちうはてい)。 別(べち)に都あり
と思へるハ 誤(あやまり)也《割書:此事すでに 謝在杭(しやざいこう)が| 五雜俎(ござつそ)にも 論破(ろんは)せり》 則(すなハ)ち 琉球(りうきう)と龍宮(りうぐう)と 同音(どうおん)

なるが 故(ゆへ)にかくハ 成(なり)もて 来(きた)るもの也。 又(また)琉球 国(こく)の 王宮(わうぐう)に。
龍宮城(りうぐうぜう)といへる 額(がく)をかけたり。 又都(またミやこ)にハ 天竜地竜(てんりうちりう)の 社(やしろ)
あり。 是(これ)を 天妃(てんはい)といふ。 今異国人(いまいこくびと)の 菩薩(ぼさ)と 唱(となふ)るものハ 是(これ)也
《割書:此方に 舟玉(ふなたま)明神とて舟の| 守護神(しゆごじん)とするも此神なり》されバ 神代(かミよ)にいへる 海宮(わだつミのみや)も。 浦島(うらしま)が 子(こ)の

龍宮城(りうぐうぜう)も。 俵秀郷(たはらひでさと)の 行(ゆき)たりといふ 竜宮(りうぐう)も 今俗(いまぞく)にいふ

龍宮もミな 琉球(りうきう)といへるものなり〇琉球 国(こく)に三 省(せう)あり。
中山(ちうざん)ハ 中頭省(なかがミせう)。 山南(さんなん)ハ 島崫省(しましりせう)。 山北(さんほく)ハ 国頭省(くにがミせう)。此三
省(せう)の 属府(ぞくふ) 都(すべ)て三十六。これを 間切(まぎり)といふ〇 都(ミやこ)を 首里(すり)と
号(なづ)く。 他(ほか)ハミな 間切(まきり)といふ《割書:間ぎりハ此方の 城下(じやうか)のごとく|また 郡縣(あがた)をさしていふ》 其(その)間切(まきり)の

領主(りやうしゆ)を 各(おの〳〵)按司(あんぞ)といふ〇三十六の 属島(えだしま)あり。 奇界(きかい)《割書:また 鬼(き)|界(かい)が島(しま)》
《割書:と|いふ》八十二の 島(しま)なり則ち五島七島といふ 其(その)三十六の小
島といふハ東(ひがし)の 方(かた)に 四箇(よつ)の 島(しま)あり【以上十文字を四角で囲う】△ 久高(くだか)又 姑達佳(こだか)共(とも)
中山の 東(ひがし)十四里半《割書:かの国の 道法(ミちのり)六十丁をもつて一里とす此方の三|十六丁をもつて一里とするときハ二十四里余》

産物(さんぶつ)数品(すひん)あり。 赤秔米(あかこゞめ)。黄小米(きこゞめ)。五色魚(ごしきうを)。佳蘓魚(かそぎよ)。なほ


多(おほ)し△ 津堅(つけん)《割書:中山の東三里半此方の| 道法(ミちのり)にしてハ五里半十二丁也》△ 濱島(はましま)《割書:南北二島あり中山ゟ|道のりまへにおなじ》

△ 伊計島(いけしま)西(にし)の 方(かた)に 三箇(ミつ)の 島(しま)あり【以上十文字を四角で囲う】△ 東馬歯山(ひがしばしざん)《割書:大小五ツの| 島(しま)あり 産(さん)》
《割書: 物牛(もつうし)。 馬(むま)。 粟(あハ)。| 布(ぬの
)。 螺(にし)。 怪石(かせき)。》△ 西馬歯山(にしばしざん)《割書:大小四ツの 島(しま)あり此島の人| 極(きハ)めていろ 黒(くろ)しよく 漁(すなとり)す》〇此 島(しま)には

𫝶間(ざま)美渡(ミと)嘉敷(かふ)【以上六文字、二文字ずつ四角で囲う】 等(とう)の 間切(まぎり)あり〇 漁猟(すなどり)をよくして 水中(すゐちう)に
五六日 居(ゐ)て 魚(うを)を 得(え)るまた 山下(さんか)の 海底(かいてい)に 海松(ミる)あり
是をとりて 生計(なりはひ)とする 人多(ものおほ)し△ 姑米山(くめやま)《割書:中山より西の方四|十八里但し六十丁を》

《割書:もて一里とす此方の 道法(ミちのり)三十六|丁をもて一里とするときハ八十里也》〇此 島(しま)にハ 安河(やすがハ)【以上二文字を四角で囲う】 具志川(ぐしがハ)【以上三文字を四角で囲う】とて二ツ
の 間切(まきり)あり〇 高山(かうざん)あり 五穀(ごこく)ハさら也。 土綿(わた)。 繭紬(つむぎいと)。紙蠟燭(かミらうそく)。螺(ら)
魚(ぎよ)。 雞(にハとり)。 豚(いのこ)。 牛(うし)。 馬(うま)。 墨魚(すミうを)。なほ 産物多(さんぶつおほ)し。

【図題】
首里王城之圖(スリワカゼウノヅ)

造作日本漢土両国ノ風
アリ王城廻リ二里半
ナリ

【舜天宮説明】
舜天宮ハ
八郎為朝を
マツル



【漏刻門上の説明】
しねりきゆ
あすミきゆ
の宮

【中山牌坊下の説明】
池ニ大魚
アリ其色
赤シ
月夜ニ
カナラズ
浮ブ

長サ
一丈
アマリ
名ヲ
ハリ
ラン
バア
ト云

乾(いぬい)の 方( かた)に 五箇(いつつ)の 島(しま)あり【以上十文字を四角で囲む】△ 度那竒(となき)山(やま)《割書:山に 牛馬(ぎうば)多(おほ)し 寺(てら)あり 五宝(ごほう)| 菴(あん)といふ 盆(ぼん)おどりといふ事あり》

△ 粟国島(あぐにじま)《割書:山に 牛(うし)| 豕(ぶた)多し》〇 名産(めいさん)。 鐵樹(たがやさん)。 仏礼木(へくりげ)。 供花樹(こたらめ)△ 伊江島(いゑしま)
《割書:石山なり四方|こと〴〵く 黄砂(きすな)也》〇 粟国島(あぐにしま)に 并(なら)ぶ。 潮(しほ)の 漲(ミつ)るときハ三四丁を 隔(つだ)ち。

水(ミつ)の 退(しりぞ)くときハ 徒渉(うちわたり)して 行(ゆく)べし〇山に田あり。 黍(きび)。 稷(ひえ)
豆(まめ)。 麥多(むぎおほ)し△ 葉壁山(ゑへやま)。又 伊平屋島(いへやしま)とも〇中山の 戌亥
の方三十里にあり此 方(ほう)の 道法(ミちのり)にて五十里なり〇此 島(しま)の 米(こめ)
尤(もつとも)よし 産物(さんもつ)ハ 五穀(ごこく)。 海膽(うに)。 毛魚(もうぎよ)。 蕉絲(ばせをふのいと)〇 島(しま)の 中(なか)に 一𫝶(ひとつ)の
高山(かうざん)あり。 宛轉(ゑんてん)として 龍(たつ)の 如(ごと)し。その 山中(さんちう)にこくんろ【以上四文字を四角で囲む】といふ
鬼神(かミ)あり。 常(つね)に 美女(びぢよ)の 形容(すがた)を 現(げん)ず。 女人(をんな)をして 祷祈祭(いのりまつ)ら


すれハ 幸福(さいはひ)あり△ 硫黄山(いわうさん)又 黒島(くろしま)とも〇山に 鳥多(とりおほ)し。 因(より)て
鳥(とり)島ともいふ〇中山の 戌亥の方三十五里にあり。但し前に
いふごとく六十丁を一里とす。此方の 道法(ミちのり)三十六丁を一里と
するときハ五十八里余也〇 採硫戸(いわうとり)の 家(いへ)百二十 軒(けん)ばかり
有〇人の眼子羊の如くにして明かならずこれ硫黄の氣
に 蒸(むさ)るゝ 故(ゆゑ)なりとぞ〇島に山あり 灰推山(くわいすいさん)といふ
艮(うしとら)の 方(かた)に 八箇(やつ)の 島(しま)あり【以上十文字を四角で囲む】△ 由論(よろ)《割書:中山の丑寅の方五十里此方の|道のりにして八十三里余なり》

〇 芭蕉(ばせを)の 樫木多(やまゝきおほ)し△ 永良部(えらふ)《割書:あるひハよこなまりて|伊蘭埠(いらふ)といふ》△ 德(とく)
島《割書:中山の艮の方六十里|此方の道のり百里》△ 由呂(ゆろ)《割書: 度姑島(とくしま)の艮の方|四里にあり》△ 烏竒(うけん)奴《割書:中山|より》

《割書:艮七十七里|六丁にあり》△ 佳竒呂麻(かけろま)《割書:中山の艮七十|七里にあり》△ 大(おほ)島《割書:一名》 小琉球(せうりうきう)〇 度(と)

姑(く)島の艮にあり中山を 去(さ)ること八十里 但(たゞ)し 前(まへ)にいふごとく
六十丁を一里とすこれも此方の道法三十六丁を一里とする
ときハ百三十里 余(よ)〇琉球より此島まで 舟行(ふなぢ)三日にして
至(いた)るべし〇 島長(しまなが)さ十三里七 箇所(かしよ)の 間切(まきり)あり 西間切(にしまきり)
東間切(ひがしまきり)【以上六文字を三字ずつ四角で囲む】 笠利(かさり) 名瀬(なんせ) 屋喜(やんき) 住用(すむよ) 古見(こいミ)【以上十文字を二字ずつ四角で囲む】〇 島中都(しまのうちすべ)て二百
三十一 村(そん)あり〇 産物(さんぶつ)ハ 蕃薯(さつまいも)おほし。また 米(こめ)。 粟(あハ)。 豆(まめ)。 木綿(もめん)。
竹(たけ)。 牛(うし)。 馬(むま)。 兎(うさぎ)。 猪(ぶた)。 山猪(ゐのしゝ)。 海瓜(うミうり)。 焼酒(しやうちう)。 紅㯶(あかじゆろ)。 黒㯶櫨(くろしゆろ)《割書:あぶら| 木なり》
〇 島(しま)のうち 三箇(ミつ)の 高山(かうざん)あり しミづやま【以上五文字を四角で囲む】《割書:清水|山》 きくやま【以上四文字を四角で囲む】《割書:菊花|山》


ゑうめうざん【以上六文字を四角で囲む】《割書:永明|山》 《割書:此さんざんにハこんなんじといふ|あやしきけものあり人を食ふ》【「こんなんじ」を四角で囲む】〇 島(しま)の 北(きた)一 里(り)ばかりにして
大きやうなる 石(いし)あり 形(かた)ち 圓(まろ)くして 柱(はしら)の 如(ごと)し。 高(たか)さ 百尺(じうぢやう)ばかり。
石面(おもて)に 竜王(りうわう)の 形(かた)ちを刻(きざ)めり。 又数行(またすうかう)の 字(もじ)を 勒(ろく)すと
いへども。こと〴〵く 異體(いてい)にして 読(よ)む 事(こと)あたはず。 土人(くにひと)傳(つた)へ云
往古(いにしへ)国王(こくわう)の 鼻祖(とほつおや)天孫氏(てんそんし)の 建(たつ)るところなりと△ 鬼界(きかい)
《割書:中山を去ることりうきう道のり|九十里此方道法にてハ百五十里》〇 琉球(りうきう)艮(うしとら)の 最遠(さいゑん)の 堺(さかひ)なり 俊寛(しゆんくわん)

僧都(そうづ)の 流(なが)されしハすなハちこれなり〇これに 属(つき)て。 土噶唎(とかり)。
七島といふあり〇 此島(このしま)にへいろつばあ【以上六文字を四角で囲む】といふけものありかたち
圖(ず)の 如(ごと)しよく 言語又人(ものいふまたひと)を見てわらふあへて 害(がい)をせず

【図題】
琉球国三十六嶋圖(りうきうこくさんじうろくたうのづ)

南(ミなミ)の方に 七箇(なゝつ)の 島(しま)あり【以上十文字を四角で囲う】△ 大平山(たいへいざん)《割書:又 迷古(めこ)ともいふ今ハ|訛(よこなま)りてまこ山といふ》〇中山の
南二百里にあり《割書:六十丁|一里也》此方の 道法(ミちのり)《割書:三十六|丁一里》にして三百里なり

〇 産物(さんぶつ)草(たゝミ)薦(おもて)《割書:りうきう|おもて也》〇 筑山(ちくざん)といふ大山あり△ 伊竒麻(いけま)《割書:太平|山の》
《割書:南に|あり》△ 伊良保(いらぶ)《割書:大平山の|坤にあり》△ 達喇麻(とらま)《割書:大平山の 正西(まにし)にありあやしきけ|もの多し犬のかたちにて 人靣(にんめん)なる》

《割書:もの|あり》△ 靣那(ミつな)《割書:大平山の坤にあり大蛇(たいじや)|ありて 常(つね)に人の家にあそぶ》△ 烏噶弥(うかみ)《割書:大平山の乾にあり|おおきなるへび多し常に》

《割書:人の家に|あそぶ》△ 姑李麻(くれま)《割書:大平山の|西にあり》〇右の七 島(しま)を 土人(くにびと)ハなべて大平山と

称(とな)ふ 西南(ひつじさる)に九箇(こゝのつ)の島(しま)あり【以上九文字を四角で囲う】△ 八重山(やえやま)《割書:一名 北木山(いしかきやま)太平山の|未申の方四里にあり》〇中

山を去る 㕝(こと)琉球(りうきう)道(ミち)二百四十里《割書:六十丁|一里也》此方の 道法(ミちのり)《割書:三十六|丁一里》四百

里なり〇 産物(さんぶつ)。 海芝(かいし)。 瑇琩(たいまい)。 海参(なまこ)。螺石(といし)。草(たゝミ)薦(おもて)なほ多し


【左頁「へいろつばあ」の説明】

へいろつ
ばあ【以上七文字を四角で囲う】
頭(かしら)人(ひと)の 如(こと)く
 體(かたち)ハ 虎(とら)の
  ごとし
水上(ミづのうへ)を
 走(はし)る事
 はやし
つねに虵魚をとりて食ふ
 人を見て大いに笑ふ更に害をせず

【図の鬼界左の注記】
此けもの
きかいが
しまの
うミに
おほし
とぞ

△ 烏巴麻(うはま)《割書:八重山の|未申に有》△ 波渡間(はどま)《割書:うはまに|ならぶ》△ 由那姑呢(よなくに)《割書:はどまに||ならぶ》
△ 姑弥(くミ)《割書:やえ山の|西に有》△ 夛計富(たけとミ)《割書:くミの東にならべり此しまにびたん|といふ魚ありかたち圖のごとし》
土人傳(どぢんつた)へいふ。天孫氏の仕女。
びんたらといふもの。海に入て
魚となる。これなりと。又いふ
頭痛(づつう)をわづらふもの。此
魚のかたちをゑがき。家の
うちにはりけりおけば。忽ちにいえて
後うれひなしとぞ。およそ此島にすむ人。 頭痛(づつう)
やまひといふことなし
 〇 山海經(せんがいきやう)《割書:巻の一》 曰(いはく)。 柢山(ていざんに) 有_レ魚(うをあり) 其状(そのかたち)如(うしの)_レ牛(ごとし)又(また)有(つばさ)_レ翼(あり)。


其名(そのなを)曰鯥(りくといふ)冬(ふゆに)死而(しして)夏生(なつうまる)食之(これをくへハ)無(しや)_二腫疾(しつなし)_一。とあるものと 似(に)
たれども。 是(これ)ハ 冬(ふゆ)も 死(し)するものにあらず。
△ 久里嶋(くろしま)《割書:八重山の|いぬいに在り》△ 波照間(はてるま)《割書:たけとミに|ならべり》△ 新城(あらくすく)《割書:ゆなくにと|くミの間に》

ありて二島也〇 以上(いぜう)八箇(やつ)の 島(しま)を 土人(くにびと)ハなべて 八重山(やえやま)といふ
△ 姑巴汛麻(こはじま)《割書:是ハ前の三十六嶋の外|なり中山の正西にあたる》〇 高山夛(かうざんおほ)し。名産數品(めいさんすひん)

あり。   本朝第一(ほんてうだいいち)の 現留石(げんりうせき)と

いふ 硯石(すゞりいし)ハ 此島(このしま)にありとぞ。
 〇 右琉球国属島(ミぎりうきうこくえだじま)を 加(くは)へて。およそ 高(たか)十二万七千石
餘ありと云。

【四角囲いの文字は[ ]で示すこととする】

   〇琉球国王代畧譜(りうきうこくわうだいりやくふ)
天地開闢(てんちかいびやく)のとき 一男一女(いちなんいちによ)化生(けせう)す。《割書:化生とハ父母|なく生るゝ也》その 陽神(をとこ)

姓(せい) ハ[はあんそう]《割書:歓斯|氏》 名(な)ハ[かうらとつ]《割書:渇刺|兠》 土人(くにうど)
可老年君(からうねんくん)と 称(せう)ず。その 陰神(をんな)を[とばと]《割書:多拔|㭟》といふ。
《割書:又一書にその夫を[しねりきゆ]といひ|その婦を[あまミきゆ]といふ》その 渇刺兠(かうらとつ)。と 多拔(とば)

㭟(と)と 夫婦(ふうふ)となる。然(しか)るに 其島(そのしま)さゝやかにして。 浪(なミ)に
漂(たゞよ)へり。よりて[たしか]といふ 木(き)の 生(お)ひ 出(いで)しを 植(う)えて
やうやくに山の形とし。[しきゆ]といふ 草(くさ)をうえ。


また[あたん]といふ 樹(き)を 植(うえ)て国の 形(かた)ちとしたり
こゝに 火(ひ)といふものなかりけれバ。海底(かいてい)なる 龍王(りうわう)
の 火(ひ)を 乞(こ)ひ 得(え)て。 五行(ごぎやう)すでに 成就(ぜうじゆ)したり。 這(この)
陰陽神(ふたはしらのかみ)を 土人(くにびと)ハ 後(のち)に[あまみく]と 称(とな)ふ。 遂(つい)に
二神(ふたがミ)交合(まじはり)て。 三男二女(さんなんにじよ)を 生(う)めり。
 第一男[天孫氏]《割書:てんそん|し》即ち 国王(こくわう)の 始なり
  第二[うるかん]《割書:雲流|咸》男也〇 按司(あんず)の 始(はじめ)となる
  第三[めるかん]《割書:靣流|咸》男也〇 庻民(しよミん)の 始(はじめ)となる

    第四[くん〳〵]《割書:君君》女也〇 天津神(あまつかミ)となる
    第五[しゆく〳〵]《割書:祝祝》女也〇 滄海神(わだつミのかミ)となる
[舜天王]《割書:父ハ日本国鎮西八郎為朝也母ハ大里の按司の妹也|逆臣利勇を討て王位につく是迄二十五世天孫氏の》
《割書:時より神の代人の代を|合せて一万七千八百年余》[舜馬順煕王]《割書:在位|十一年》[義本王]《割書:在位|十一年》
〇以上三代七十三年
[英祖王]《割書:天孫氏の裔にして恵祖の嫡孫也始伊曽の按司たりしが|義本王の譲りを受て王位につく在位四十年》
[大成王]《割書:在位|九年》[英慈王]《割書:在位|五年》[玉城王]《割書:在位|廿三年》
   〇 此時国(このときくに)大(おほい)に 乱(ミだ)れ[山南王]《割書:とよミ|くすく》[山北王]《割書:ハまきた|のくすく》 此両王(このふたり)



おこりて 鼎足(ていそく)のあらそひと 成(な)る[西威王]《割書:玉城王の長子|在位十四年》
〇以上五代九十九年
[察度王]《割書:浦そひ間切 謝那村(ヤンナンムラ)の 奥間(オクマ)大親(オホオヤ)といふものゝ子にして|賢者なり世人しひて王位につかしむ在位四十六年》
[武寧王]《割書:在位|十年》察度王の子なり
〇以上二代五十六年
[思紹王]《割書:山南王の佐敷按司なたりしが子の尚巴志といふもの悪王を|討て位につかしむ在位十六年世大いにおさまる》
尚巴志王《割書:在位|十八年》[尚思達王]《割書:在位|五年》[尚金福王]《割書:在位|四年》
[尚泰久王]《割書:在位|七年》[尚徳王]《割書:在位|九年》〇 此時(このとき)王悪政(わうあくせい)苛㳒(かほふ)なる 故(ゆゑ)に 鬼界(きかい)

叛(そむ)きて軍おこる。 世子(せいし)幼少(いとけな)かりしを 国人(こくじん)弑(しい)して。 浦副(うらぞえ)の
間切(まぎり)のうち間里の主。 尚圓(せうえん)といふ人(もの)をあげて 王位(わうゐ)に
つかしむ
〇以上七代六十四年
[尚圓王]《割書:字ハ思徳金伊平の人先祖ハ舜天王の孫義本王なりむかし|義本王位を英祖にゆつりて北山にかくれたるその後裔也》
《割書:父ハ尚稷といふ|在位七年》[尚宜威王]《割書:尚圓王の弟也世子いまた弱冠|なれバ佐をつく在位二年》[尚真王]
《割書:尚国王の子|在位五十年》[尚清王]《割書:在位|二十九年》[尚元王]《割書:在位|十七年》[尚永王]《割書:在位|十六年》
[尚寧王]尚《割書:真王の孫にて尚懿の子也|在位三十二年》 三司官(さんしくわん)耶那(やな)といふもの。


明朝(ミんてう)にこびて 日本(につほん)へ 貢(ミつぎ)せざるより。 薩州候(さつしうこう)誅伐(ちうばつ)を 乞(こ)ひ。
敉千(すせん)の 人馬(にんば)をむけられ。つひに 尚寧王(せうねいわう)を 虜(とりこ)にして 薩州(さつしう)
につなぎ。 人 質(じち)とする事三年。 先非(あやまち)を 悔(く)ひて。 以来(いらい)永世(ゑいせい)
属民(ぞくみん)たらんことを 誓(ちか)ふ。 然(さ)るによりて 許(ゆる)し 帰(かへ)せり。 時(とき)
に 後水尾院(ごミをのゐん)慶長(けいちやう)十七年。 大明(たいミん)の 万歴(ばんれき)四十年なり
[尚豊王]《割書:在位|二十年》[尚賢王] 《割書:在位|七年》[尚質王] 《割書:在位|二十一年》[尚貞王] 《割書:在位|四十一年》
[尚益王] 《割書:在位|三年》[尚敬王] 《割書:在位|三十九年》[尚穆王]

【左頁上の注記】
大明万暦
三十七年
日本慶
長十四年

    〇風俗
〇すべて 此国(このくに)は 夷狄(えびす)にて。 礼儀(れいぎ)も 道(ミち)も 調(とゝの)はざる国なりしが
二條院(にでうのいん)永満(えいまん)元年。 鎮西(ちんぜい)八郎源 為朝(ためとも)。 豆州(ずしう)の島に
流(なが)され。大島より琉球に渡り。 乱賊(らんぞく)を 討(うつ)て 民(たミ)を 安(やす)んじ。
五常(ごぜう)の 道(ミち)を 教(をし)ヘ。 文武(ぶんぶ)の 法(ほふ)を 喩(さと)せしより
日本(につほん)の 風俗(ふうぞく)と 成(な)る。 又(また)一時(いちじ)明朝(ミんてう)に 媚(こび)て。 冠裳(くわんせう)。 被服(ひふく)。
屋宅(をくたく)。 器物(きぶつ)。 悉(こと〴〵)く 中華(もろこし)の風俗をうつす。 元来(ぐわんらい)其国(そのくに)
遍小(へんせう)なれバ。 自立(じりつ)する事 能(あた)はず。 中国(もろこし)の 冊封(さくほう)を受(うけ)て。
また     日域(につほん)に 臣服(しんふく)す。 然(さ)れバ今ハ 夷風(いふう)を 変(へん)

じて 両国(りやうこく)の《割書:日本|唐土》 風俗(ふうぞく)相半(あいなかバ)す。 故(ゆへ)に 物(もの)に 号(なづく)るにも
常(つね)の 言語(げんぎよ)にも 音(おん)と 訓(くん)と 混雑(こんざつ)し。 其中(そのうち)に 唐音(たういん)を
       《割書:コエ  ヨミ》
用(もち)ゆるものあり。また 琉球(りうきう)古代(こだい)の 詞(ことば)あり。 然(さ)れ共
多(おほ)くハ。 衣冠(いくわん)は 清朝(もろこし)にならひ。 言語(げんぎよ)は
日本に 真似(まねぶ)としるべし。〇 女人(をんな)ハ 墨(すミ)をもて。
首(くび)に 竜蛇(りうじや)の 形(かた)ちを 刺點(いれずミ)せしが。今ハ 形(かた)ばかり 僅(わつか)に
遺(のこ)りて。 筋(すぢ)一つを 彫入(ほりいれ)るとぞ○生平(つね)に国王(こくわう)より庻人(くにたミ)
に至るまで。君万(きんまん)物等(もんとう)の 鬼神(かミ)を 信(しん)ずるゆゑに。
無病(むびやう)にして 且(かつ)長寿(いのちなが)しとぞ。〇すべて 風俗等(ふうぞくとう)の

事(こと)ハ。 琉球傳(りうきうでん)。 琉球事畧(りうきうじりやく)。 中山傳信録(ちうざんでんしんろく)。などに
悉(くは)しくせり。
〇 寺院(てら)ハ 臨済(りんざい)。 真言(しんごん)《割書:古|儀》の二 宗(しう)のミして。 都計(すべて)
三十七ケ寺なりしが。 久米(くめ)の 普門寺(ふもんじ)。 西福寺(さいふくじ)。 廃(はい)して
今ハ三十五ケ寺となる〇 首里(しり)の三大寺といへるハ。
天王寺。天界寺。圓覚寺をいふ。 王廟(わうびやう)ハ真咊志(まわし)
安里村(あんざとむら)にあり。今ハ 新(あらた)に 堂社(だうしや)を 建(たつ)るを 禁(きん)ず。
〇 国中(くにちう)たはれたる風俗にて。 女人(をんな)の 嫁(か)せざる 前(まへ)ハ
生平(つね)に 男子(をとこ)と 交(まじハ)り 遊(あそ)び。 市町(いちまち)など手をとりて


遊行(たはれある)く。 更(さら)にこれを 耻(はづか)しとせず。 両親(ふたおや)もまた 咎(とが)めず。
これ 一竒(ひとつ)の 国俗(ならハし)也。 然(さ)れども 嫁(よめ)りて 後(のち)ハ 節(せつ)を 守(まも)
りて。 他(た)の 男(をとこ)と 同座(どうざ)だにせず。 其禁(そのいまし)めもその 貞(てい)も。
あだし 国(くに)の 及(およ)ぶべきならず。《割書:もし国法を犯すものハきんまん|もんのたゝりにてたちまちに》
《割書:神ばつをうくるはやくさんげ|してつミを訴へ出れバたゝりを消るとぞ》〇 国中(くにちう)に娼妓(あそびめ)はなはだ
おほし。 歌女(うたひめ)もあり《割書:此方にいふ|けいしやん》 蛇皮線(じやびせん)をひきて 国(くに)の 歌(うた)
を 唄(うた)ふ。 格子(こうし)はなはだ 面白(おもしろ)しとぞ。
   〇 娼家(しようか)の 流行(はやり)うた
〽ちごのもんにたつたれバ。ばびうのやうなつの 虫(むし)が。

 どたまのぢよけんをちよいとはねて。《割書:ホンダエ〳〵》
  〇ばびうハ 牛(ウシ)の 子(コ)也〇つのむしハ 蜂(ハチ)也〇どたまハあたま也
  〇ぢよけんハまげゆひ也〇ちどのもんハわが思ふ男の門をいふ
 〽ふづくのべくにものとへバ。びうがのそとにふん
  でんた。さりもよいぎやァめつたにおさおさごまく
   〇ふづくのべくとハ神のやしろのあたり也〇びうがのそととハ
    人にしのんでといふ也〇ふんでんたとハしのびあふこと
   〇おさごハ前米にて神前に米をまく也
 〽しろばりがさりぐのに。あかきんぼうにへろ
  まつた。ういがねばこでひろまれや《割書:ホンダエ〳〵》


   〇しろばりハ 雪(ユキ)の事〇さわぐハふる也〇あかきんぼうハ紅酒にて
    あかき酒の事大平山にてつくるさけ也〇へろまるハゑふたといふこと
   〇ういがねばことハわしがねどころといふこと也とぞ
右(ミぎ)ハいづれも彼国(かのくに)の 俗語(ぞくご)にて。 正(たゞ)しき 詞(ことば)にハあらざる也
又(また)流行唄(はやりうた)の 文句(もんく)ハたび〳〵かはれども 節(ふし)ハおほくハ
似(に)よりたるもの也。しかれどもその 土地(とち)によりてかはる
こと《割書:すこしつゝの合の手|又ハひやうしのちがふ也》ありといふ。いづれもほんだへ〳〵と
はやすこと也〇 又(また)此方の謡曲(うたひ)のやうなるものあり
これはなほさら節のもやうもかはりたるもの也。
〇 女郎(うかれめ)の 上品(じやうひん)なるを[うにらん]といふ《割書:此方のおいらんと|いふハやすこと是によるか》

女の風俗ハひろき袖にてすそながくおびといふものなし
こはぜにてあちこちとめたるもの也もやうハ
うつくしきそめ色あり又うすものに
五しきのいときんじなどにて
さま〴〵のくさばななどぬひたるも
あり女はこしへたまのかぎりを
ながくさげること有又冬といへども
此方のなつのごとくさむさをしらぬ
くにゆゑきぬにわたを入れると
いふことなし男の
いふくハおほよそ
もろこしにひとし
こゝにかけるハあんず
などいふくらゐの人也れいき
たゞしきくにぶりにして


うかれめになじミてあそびに
ゆくにもくわんをたゞして
おもむくこと也あげやをバ
ふるべやといふ也
おどりすることをバ
めんことぐりといふ
  〽糸柳こゝろ
   くにあら
    しやばのよて
   はろものしるかんな
    風にてりよか
  〇此うたハむかしよりうたふところ
   柳風の曲といふとぞ
     徂来翁が聘使記にも載たり

その 次(つぎ)を[びくらばう]その次(つぎ)を[ばるさめ] 又(また)下品(げひん)なる
ものを[ぶくべる]といふ《割書:此方によたか|などいふもの也》
〇 酒(さけ)ハ[きんぼ] 《割書:俗語|なり》といふ。 琉球国(りうきうこく)の 属嶋(えだじま)大平山(だひんざん)より
出(いづ)るを[だひんしう] 《割書:太平|酒》といふ。 紅酒(こうしゆ)あり。《割書:いろ朱のごとくあか|くして清し神に》
《割書:たてまつる|に用也》 八重山(やえやま)より 出(いづ)るものを[ミりんしう] 《割書:密林|酒》といふ。
上噶刺(かんむら)より 出(いづ)るを[あわきぼ] 《割書:粟|酒》といふ。 薩州(さつしう)にて
砂糖(さとう)あわもりといふもの 是(これ)なり。 右(ミぎ)いつれも 焼酎(せうちう)
にして。此方のごとき酒ハかつてなし。


〇 金銀(きん〴〵)のたぐひ 少(すくな)し。 通用(つうよう)ハ此方より 渡(わた)る 豆銀(まめぎん)
を 専(もは)ら用ゆ。 銭(ぜに)ハ 寛永通宝(くわんえいつうはう)なり。 豆銭(まめぜに)といふ
ものハ。 彼国(かのくに)にて 鋳(ゐ)るところにて。 文字(もじ)も 模様(もやう)も
なし。 輪(わ)もなし。 又花(またはな)の 形(かた)ある 物(もの)も 有(あり)。
〇 彼国(かのくに)の[ぎんとくり]といふ 器(うつわ)あり。 銭(ぜに)を 入(い)るゝ 物(もの)
なり 形(かた)ち 圖(づ)のごとし

【図の説明】
予が友
壷輪樓高木所蔵   長一尺五寸

かわにて作りたるもの也
もやうハ上のハきん万もん也
中のハもちのそなへ也
下のハ浪のかたち也とぞ
金色にてうつくしし

【図題】
琉球國全圖【横書き】

【右上説明】
〇西南福建泉州
 梅花所により舩路順風
 七日にして至

【右中説明】
首里より三マミの
はて迠五里

【左上説明】
〇西北薩州より
 舩路百四十里
  但三十六丁
   為一里

【左中説明】
首里より北のはて
まで三十八里

【左下説明】
〇此他四方
 三十六の
 属島
 あり

   〇琉球国語(りうきうのことば)
およそハ此方の詞にかはる事なし。又ものによりて
琉球のことばかはりたる物あれども。てにをはハ
すべて此地のごとし。
〇日を [おでこ]  〇月を [おつきかなし]  〇水を [へい]
〇木を [しぶり]  〇土を [なぐり]     〇人を [ふばるん]
〇火を [おまつ]  〇神を [かめかなし]   〇佛を [ほつとかなし]
〇男を [おけが]  〇女を [おいなご]    〇親を [おいやも]


〇父を [せうまい] 〇母を [あんまあ]    〇兄を[すいぎ]
〇弟を [おんとう] 〇伯父を[てんちい]    〇伯母を[てんまあ]
〇叔父を [おぢい] 〇叔母を[おばあ]     〇姪を[ミい]
〇甥を [ういちい] 〇夫を [こんとう]    〇妻を[はんべち]
〇男の子 [べいず] 〇女の子 [べする]    〇人といふを[びん]
〇衣を [いぶく]  〇刀剱(たちつるぎ)を [ほうてう]  〇帯を[うびい] 
〇宝を [とうがら] 〇字(もじ)を [おじり]    〇琴を[こんぐ]

〇天を  [うてい]   〇地を [つんぢ]  〇雨を[をミ]
〇雷を  [おどる]   〇風を [ふきご]  〇吹(ふ)くを[はる]
〇僧を  [まるどたま] 〇美女を [とろこぼう]
〇美男を [とろこせい] 〇手紙を [つんミり]
〇重宝を [うびなや]  〇 雷盆(スリバチ)を [づるばん]
〇 雷木(スリコギ)を [ずりんぎ] 〇 巫女(ミこ)を [たへぢよ]
〇 祈(いの)るといふを [きめてすり] 〇 頼(たの)むを [どんだく]


〇よいことを [うい]  〇 悪(あし)き事を [ごぶり] 〇大を[でい]
〇小を  [ちんつ]    〇 嬉(うれ)しきを [うい〳〵]
 〇なほ多く。琉球にて[ほつとろちい]といふ
  俗語あり。此方にて 恐(おそろ)しいといふやうに 聞(きこ)ゆ
  るゆゑ 然(さ)る 事(こと)と思ひたるに。 甚(はなはだ)よろこぶ
  事なりとぞ。かくの如くの 違(たが)ひ 多(おほ)かるべし
  こゝに 載(のす)るものハ。 聞(きゝ)たるまゝにかいつけて
  好事(こうず)の 覧(らん)に 備(そな)ふるのミ。

〇 彼国人(かのくにうど)酒宴(さかもり)の 席(せき)などにて。 拳(けん)をうつ
 といふ事あり。手を出すさまハ此方の風に
 おなしけれども詞はいたく 違(たが)へり
 一うんぺい 二すんぺい 三しんこ 四よろう 五うんこ
 六りんこ  七しんべい 八だんき 九きんこ 十とうらい

  〇 琉球国(りうきうこく)に 祭(まつ)るところの 神(かミ)
[おうちきう]水伯《割書:ふうなきうともいふ|水の神なり》


 其神形(そのかたち)身長(ミのたけ)一丈ばかり 白髪(はくはつ)にして 毛(け)をミだせり 眼(め)
 大きく光り 電光(いなづま)のごとし身に 黄色(きいろ)なる 衣(きぬ)を 着(き)
 足(あし)に 沓(くつ)を 穿(うが)つ 睾丸(きんたま)至つて大きやう也 犢鼻褌(ふんどし)
 をもてつゝみ 結(むす)びて 首(くび)にかくる 常(つね)に 水面(すいめん)に出
 あそぶ 見(ミ)る 人幸福(ものさいはひ)を 得(う)るとぞ 神影(しんゑい)ハ 国中(こくちう)の
 寺院(てら)などに 或(あるひ)ハ 刻(きざ)ミあるひハ 画像(ゑがき)て 尊敬(そんけう)せり
  〇 水難(すいなん)をまぬかるゝの 秘符(ひふう)あり
               是ハふうなきうの 説(と)きおしゆる
               ところなりとぞとよくすくの
               万明法師夢想にして授也
               霊驗いちじるし則ち神影也と

[やんがミこ]山鬼《割書:山の神也二童子を使う|二郞子五郎子といふ》
[きんまんもん]君万物 《割書:開闢以来(かいひやくいらい)国の 守護神(しゆごじん)也》
 〇 君万物(キンマンモン)に 陰陽(インヤウ)あり 天(テン)より 降(クダ)れるを
 [きらいかないのきんまんもん]といひまた
 海(ウミ)より 上(アガ)れるを
 [おほつうけらくのきんまんもん]といふ也
 〇 此神(コノカミ)に 仕(ツカ)ふる 巫女(フジヨ)三十三人ありいづれも王の家すぢ也
  中婦君(キサキ)も又その一人なり此方にても内親王を 斎宮(イツキ)
  に奉らしたまふと 同(ヲナ)じ。


[舜天太神宮] 首里(シユリ)にあり鎮西八郎 為朝(タメトモ)をまつる
 〇 此他(コノホカ)玉城(タマクスク)の拝林(オガミハヤシ)。 豊見城(トヨミクスク)の 拝林(オカミハヤシ)〇 北谷(キタダニ)の拝林
  高峯(タカミネ)の拝林あり。をがミばやしといふハ神の 森(モリ)
  の事にて村々にある鎮守も同しく呼ぶ。又天満宮
  の 社(ヤシロ)おほし。 天神(テンジン)といふゆゑに。多くハ孫天氏と
  おもひたがへて。 菅神(カンジン)なるよしを弁へぬ人おほし。
  是ハ為朝ならびに舜天王の信じたる故に社多き
  なりとぞ
〇 君万物(キンマンモン)もし 怒(イカ)ることあるときハ。 国人精進(クニタミセウジン)して。うでをり。
 つまおり。といふ事をして 拝(ヲガ)ミなぐさむる也。

 [きミてすり]七年に一回出現の神也
 [よみかめり]十二年に一回出現の神也
此二神出現のときハ諸人おそれうやまひ家々にまつり又
玉城より五色の傘(カサ)を持たる官人百人ばかり出て神を
城内にむかひ入れ種々の美酒珎菓をそなへ立花燈明
をさゝげて国王ミづからまつり民の安おんをいのる七日の
間傘をさしかけおくそのかささま〴〵に色どりうつく
しくかざりたるにて長さ四五丈凡【丸?】二十ひろにもあまりぬ
べしミじかき物にても二丈ぐらゐ敉百本ばかりおの〳〵
ひろにわに立おく諸人門前まで行遥拝す


     〇 位階(ゐかい)の 次第(しだい)
[ 中山王(ちうさんわう)]国王をいふ  [ 中城(なかくすく)] 春宮(とうぐう)をいふ《割書:なかくすくハ 城(しろ)の名也|世子殿といふありて》
《割書:王子即位のとき|大礼あり》 [ 中婦(ちうふ)] 王后(きさき)をいふ《割書:君万物に仕ふ。中婦君の名ハ|神に仕ふる巫女三十三人ある其》
《割書:中に居ると|いふ義也》 [ 王子(わんず)] 王子(わうじ)也 [ 王女(わんによ)]王の 女(ヒメ)也
 △\t官位(くわんゐ)の 品級(しな)ハ 正従(セウシユウ)すべて 九等(クトウ)あり
[ 国相(こくさう)]〇 親方(おやかた)《割書:国の大臣也すべて|政事をつかさどる》[ 元候(げんこう)ハ 正一品(セウイチヰ)][ 㳒司(ほふず)ハ正二品][ 紫巾官(しきんくわん)ハ従二位] 《割書:是(コレ)を 三司官(サンシクハン)と 称(セウ)じ|また 何々(ソレ〳〵)の地の 親方(オヤカタ)》
     《割書:とよびものハ即ち|この 重官(ちようくわん)なり》

[ 耳目令(ぢもくれい)]《割書:又 御鎖側(ギヨサソク)と|いふ正三品也》[ 褐者(ゑつしや)]《割書:又 申口者(まうしつぎ)|従三品也》[ 賛議官(さんぎくわん)]《割書:正四品也》
[ 那覇官(なばくわん)]《割書:なばハ地名也|従四位なり》 [ 察侍記官(さじきくわん)]《割書:さじきハ地名|従四位也》 [ 當㘴官(あたりくわん)]《割書:正五位》
[ 勢頭官(せかミくわん)]《割書:正六品》[ 親雲上(はいきん)]《割書:正七位》[ 掟牌金(ていはいきん)]《割書:従七位》
[ 里之子(さとのし)]《割書:正八品》 [ 里之子佐(さとのしのすけ)]《割書:従八位》 [ 筑登之(ちくとうし)]《割書:正九品》
[ 筑登之佐(ちくとうしのすけ)]《割書:従九品》[ 輪九之(りんくし)] [万平之(まんへいし)][ 仁屋(にや)]
[ 紫金大夫(しきんたいふ)] [ 正議大夫(せいきたいふ)][ 長吏(ちやうり)][ 都通㕝(とつうじ)][ 度支官(としより)]
[ 王㳒宮(わうほふきう)][ 九引官(きういんくわん)] [ 内宮(だいくう)][ 近習(きんじう)][内㕑(ぜんぶ)] [ 国書院(こくしよいん)]


[ 良醫寮(くすしどころ)][ 茶道(さどう)][ 祝長(はふり)][ 魚瀬人(むせし)][ 武卒(ふんぞう)]
〇 里(さと)の 子(し)ハ此方にいふ 小姓(こせう)也 美少年(びせうねん)をゑらぶ 事(こと)也。 年(とし)
 をとりて 髭(ひげ)生(お)ふれバ 親雲上(はいきん)と 成(な)る。 国風(こくふう)にて 刺刀(かミそり)
 を 用(もち)ひずひげハ 生(お)ふるまゝにのばし 置(お)く也。又いつたい
 色黒(いろくろ)けれバ 年方(とし)よりハ 古氣(ふけ)て 見(ミ)ゆる也。 親雲上(はいきん)ハ
 官名(くわんめひ)なれども 彼国(かしこ)の 俗風(ならハし)にて。 武士(ぶし)をバすべて
 [おはいきん]などいふ也

  〇来聘年曆
應永十未年   寶徳三未年   天正十一未年
同十八寅年   慶長十五戌年  寛永十一戌年
正保元申年   同二酉年    慶安二丑年
同三寅年    𣴎応元辰年   同二巳年
同三午年    寛文十戌年   同十二子年
天和元酉年   同二戌年    宝永七寅年
正徳四午年   享保三戌年   寛延元辰年
宝暦二申年   明和元申年   寛政二戌年
同八辰年    文化三寅年   天保三辰年

琉球傳眞記 尾

文字無し

【整理番号ー横書き四段】
Ryu 090 Bei c.2

琉球聘使畧

琉球聘使畧  完

天保三壬辰年十一月琉球國来
聘使人名

 正使
   《割書:上下十五人》
    豐見城(トヨミクスク)王子
       《割書:三十九才》

【トヨミクスクは赤字表記】

副使 《割書: |上下七人》
   澤(タク)紙(シ)親方(オヤカタ)
     《割書:五十三才》
讃議宦《割書: |上下四人》
   普天間(フテマ)親(バイ)雲上(キン)
       《割書:三十六才》
樂正 《割書: |上下三人》


   伊舎堂(イシヤドウ)親(バイ)雲上(キン)
       《割書:五十三才》
議衛正(ギヱシヤウ)
   儀間(キマ)親雲上
掌翰使(シヤウカンシ)
   與(ヨ)那(ナ)覇(ハル)親雲上
       《割書:五十才》

【振り仮名はすべて赤字表記】

正使賛
    與儀(ヨキ)親雲上
       《割書:五十才》
    玉城(タマクスク)親雲上
       《割書:四十六才》
    譜(フ)久(ク)山(ヤマ)親雲上
       《割書:三十六才》
    讀谷山(ヨミタンサン)親雲上
       《割書:四十七才》

    直栄平(マヱタイラ)親雲上
        《割書:同年》
    《割書:右ハ人ハ上下二人ツヽ》
副使使賛
    與古田(ヨコタ)親雲上
       《割書:四十六才》
    小(コ)波(ハ)藏(クラ)親雲上
       《割書:四十四才》
    富山(トミヤマ)親雲上
       《割書:四十一才》

【振り仮名はすべて赤字表記】

    池城(イケクスク) 親雲上
        《割書:三十一才》
     内間(ウチマ)親雲上
     具志川(クシカハ)親雲上
     城間(クスクマ)親雲上
樂童子
    譜(フ)久(ク)村(ムラ)里(サト)之(ノ)子(シ)
        《割書:十六才》
    濱元(ハマモト) 里之子
        《割書:十六才》
     登川(ノボリカハ) 里之子
        《割書:同年》
     宇地(ウチバル)原里之子
         《割書:同》
     冨永(トミナカ) 里之子
         《割書:十四才》

【振り仮名はすべて赤字表記】

    小録(コロク)里之子
賛度使
    宮里(ミヤザト)親(バン)雲上(キン)
    瀬名波(セナハ)親雲上
    徳田(トクタ)親雲上


    浦﨑(ウラサキ)親雲上
    許田(キヨタ)親雲上
    佐久川(サクカハ)親雲上
    比加(ヒカ)親雲上
    嵩原(タケバル)親雲上

【振り仮名はすべて赤字表記】

     濱元(ハマモト)親雲上
     名嘉地(ナカチ)里之子(サトノシ)
     立津(タツヽ)里之子
     當間(トウマ)親雲上
     安室(アムロ)親雲上


     國吉(クニヨシ)親雲上
     比嘉(ヒカ)親雲上
     屋加比(ヤカヒ)親雲上
正使小姓
     具志川(クシカハ)親雲上

【振り仮名はすべて赤字表記】

大工逈(バメイザコ)里之子
泉水(イツミ)里之子

田仲(タナカ)筑登之(チクトノ)
屋加比(ヤカヒ)筑登之


高原(タカバル)筑登之
古波鮫(コハザシ)筑登之
直栄田(マヱタ)筑登之
龜濵(カメハマ)筑登之
池原(イケバル)筑登之

【振り仮名はすべて赤字表記】

仲元(ナカモト)筑登之
宮城(ミヤクスク)筑登之
岸本(クシモト)筑登之
﨑山子(サキヤマシ)
新垣子(アラカキシ)


 松田(マツタ)仁屋(ニヤア)
 長田(ナカタ)仁屋
 山城(ヤマクスク)仁屋
 古波藏(コハクラ)仁屋
 宮里(ミヤサト)仁屋

【振り仮名はすべて赤字表記】

城間(クスクマ)仁屋
山城(ヤマクスク)仁屋
﨑山(サキヤマ)仁屋
知念(チネン)仁屋
松田(マツタ)仁屋


比嘉(ヒカ)仁屋
直栄城(ナヲヱクスク)仁屋
東恩陽(ヒカヲンナ)仁屋
山城(ヤマクスク)仁屋
安里(アサト)仁屋

【振り仮名はすべて赤字表記】

 安(アン) 仁屋
 森田(モリタ)仁屋
 山城(ヤマクスク)仁屋
 仲村梁(ナカンバメバリ)仁屋
 當間(トウマ)仁屋


 屋良(ヤラ)仁屋
嘉手納(カテノフ)親雲上
瀬底(セソコ)親雲上
佐久本(サクモト)筑登之(チクトノ)
嘉数(カヽズ)筑登之

【振り仮名はすべて赤字表記】

大城(ヲヽクスク)仁屋
新垣(アラカキ)仁屋
翁長(ヲナカ)仁屋
宮城(ミヤクスク)仁屋
糸数(イトカズ)仁屋


江田(エタ)仁屋
大城(ヲヽクスク)仁屋
赤峯(アカミネ)仁屋
古波藏(コハクラ)仁屋
髙良(タカラ)仁屋

【振り仮名はすべて赤字表記】

      石川(イシカワ)仁屋
      伊差川(イサカハ)仁屋
      金城(カナクスク)仁屋
      比加(ヒカ)仁屋
      玉城(タマクスク)仁屋


      龜友壽(カメトモス)
      亀嘉数(カメカカズ)
合九十七人

【振り仮名はすべて赤字表記】

路次樂噐戝具文武噐之圖


        鞭《割書:左右へ二本》

       張籏二本

两班
銅鑼


銅角
吹トキハ如是ヒキノバス也

喇叭
フクトキハ如是ヒキノバス也


哨吶

虎籏


ツボメシトコロ
凉傘

轎《割書:コシノテ》
宗根黒又リ
金マキヘニテ舞
鶴ノ模様所々
五色ミテ雲アリ

コウシゴトキ
フチタカキナ

     金

簾ハコソンニテ
コンモ舞鶴カ
繪カキテアリ
マキアゲテア
ルユヱニ見ヘス

ヒチリメンアワセ
コン地ノキンラン
フサハジンクナリ

コロ金ノイツカケ
丸キ所ハ鳳凰ノ丸也

惣躰
 皆朱ヌリ




路次樂人
   将束
後口前ヘトモニ
  ヒチリシテニ
 モヱキノウスヒノ紗綾

同カフリモ
フチホソリ黒地赤也
地アヒモウセンノヨウナモノ

衣家

王子ノユタンハ
黄色ノ□ノ
ヨウニヲボユル也

ユタン黄色
モメン
紋所朱也


座樂噐之圖
架木?   □子
朱ヌリ 鼓
 況金

銅鼓
檀板


銅鑼 □板

洋琴


三絃 提筝 擦絃

十二律 胡琴

□鑼 鑼槌 哨吶

笛 筩 琵琶


琉三線 月琴 相思板

二絃
四絃


琉球人登城行列

足軽
   畄守居《割書:手廻》
足軽

【上段】
             足軽四人       中
《割書:石連》家老《割書:手廻石連》用人《割書:手廻石連》     浅傳正《割書:□馬》儀間
             同□        同

【下段】
新番  行列直
    行列直
新番  行列直

【上段】

小姓     傘  人足 下官

親雲上 限伴          沓籠 合

□      衣家 同  下官

【上段】
   足軽     足軽 小人五人
供挾箱   合羽籠
   同      足軽 小人五人

琉球人来朝之記

      




             宝玲文庫

   琉球人来朝之記
    惣目録
   第一  
一琉球国之事略
    □日本に属する由来
   第二
一琉球人を松平薩摩守召連參次第
一同姓名幷官職
一同大坂より江戸迠之旅宿

一同官職和解之事
    巻三
一来翰
一返翰
一献上物之事
    第四
一登 城行列
一琉球ことは
    第五
一同路楽器目録
一同座楽器目録
一同音楽之名帳
    第六
一具志川御礼之次第
一同西丸御礼之次第
    第七  大尾
一琉球人音楽之事
一同賚之事

《割書:絵図|二冊》  上之巻 八之巻也
一路楽器之図
一座楽器之図
            下之巻 九之巻也
一後序
一来朝之次第
一西国舩幷琉球舟之図

  琉球貢使録序
      琉球国始祖備考
   
東涯先の生の/秉燭(ヘイショク)❘/譚(タン)に
  琉 球国は前代聞ゆる事なし
隋の時より中国に通す宋史の寰宇記には皆/流求(リウキウ)に作る
奥史には/瑠球(リウキウ)に作る予按するに一書に/流虬(リウキウ)に作る其国の
/形勢(カタチ)/虬(シッチ)の/流(ナカ)るゝか如し故に云うと国の主姓は歡セ斯氏と云と
隋の時代の事なるへし明の邵經邦か弘簡録分註に云流
球は上古無攷拠其世纉図云宋の淳凞十四年舜
天即くに王位云々舜天は日本の源/為朝(タメトモ)の男子と未□□

詳何許の人其不祧祖也在位五十年長子舜史
順凞嗣在位十一年□活九年長子義本嗣在位十一年
時に民苦疾疫に者の多し依る英祖に英祖は者天孫氏之後也
義本遂に遜ると位焉と云々然る然れは琉球の元祖は鎮西八郎
為朝の子也英祖に至りて天孫氏の後也と云えは為朝
の血脈絶る様に聞ゆれとも其国の人今に至りて為朝の子
孫と言伝へて舜天王と号すしかれは英祖も舜天
の旁支にて王位二代■たりと見へたり為朝は本朝の
皇孫の末裔なるによりて天孫の後と云なるへし清和

天皇の苗の孫なること明けし英祖を別氏と見るは誤な
りと云々

大日本接壊(壌)三国之全図

大日本背接壊三国之全図

蝦夷圖

【上部】
吾邦文明文化日新月隆也今茲処_レ製三國之輿地者参考
之諸書_一不散私杜撰之也其要使在僅々一紙上 ̄ニ而一目瞭然、
豈是僊人縮地之術者耶可_レ謂古今輿地之巨擘哉几傳好
君子。□之文房一友_一則幸甚如夫遺漏欠闕_一□_二明哲補正_一云
  丙子ノ麦秋

Haw472
   大日本接壊三国之全図 木版
            1876
     尾陽、文操閣 [《割書:1816|n o》]
        史好舍
Ryu
450
Bun

琉球国聘使記

琉球国聘使記

     琉球旧作流虬。又作流求。後作琉球。
     明人以为其地横亘萬涛。蜿蜒
     若虬浮中流之状。故名曰流虬云。
   従流或曰。永萬中。鎮西八卽为朝。求
     國而淂之。故名。按求之名見於
     隋書。成於唐貞觀中。貞觀
     十九年卽本朝大化元年。下
     距永萬五百 年(餘)。則為朝名曰求
     云者。其説㔫矣。出薩譜

琉球国聘使記         完

琉球国聘使記         完

琉球國聘使記
寶永七年庚寅十月薩矦源吉貴率琉球國中山王聘
使入都正副使各二員美里王子為賀我 新政來也冨
盛親方為副豐見城王子乃当其王襲封謝 恩來也與
座親方為副二親方共称紫巾大夫蓋其國官云贊議官二
員志賢原親雲上新城親雲上楽正一員江田親雲上儀衛
正一員佐乆本親雪上掌翰使二員屋宜親雲上宫城親雲上
圉師一員喜屋親雲上使贊十員知念里子親雲上嘉年

苅親雲上喜屋武里子親雲上玉城親雲上湧川親雲上之塲
筑登親雲上伊佐筑登親雲上仲峯筑登親雲上楽師五貟㸃
屋子親雲上安慶田親雲上保榮茂親雲上棚原里子森山里

【白紙】

内国地図

東山道之圖

琉球往来(上)

薩州分国演説記

【タイトル】
薩州分国演説記

薩州分国演説記

中山伝信録

中山伝信録   四

中山傳信録巻第四
  星野
  潮
  琉球三十六島
  琉球地圖
  紀遊

中山傳信録巻第四
 冊封琉球國王副使 賜正一品麟蟒服翰林院編修加二級《割書:臣》徐葆光纂
   星野
 琉球分野與_二揚州呉越_一同 ̄ク屬_二 ̄ス女牛星紀(、、、、) ̄ノ之次(、。)_一 ̄ニ俱 ̄ニ在_二丑
 宫(。)《割書:臣》海寶《割書:臣》徐葆 光(。)奉_レ ̄シテ冊 ̄ヲ將_レ行(。) ̄ント
上特 ̄ニ遣_二 ̄シム內廷八品 官(。)平安 ̄ノ藍生豐盛 額(。) ̄ヲシテ同 ̄ク往 ̄テ測量_二 ̄セ舊測
 北京北極出_レ ̄ルコト地 ̄ヲ四十 度(。)福建北極出_レ ̄ルコト地 ̄ヲ二十六度三
 分(。)今測琉球北極出_レ ̄ルコト地 ̄ヲ二十六度二分三(、、、、、、、)釐(、。) 地勢在_二
 福州正東偏南三里 許(。)_一 ̄ニ舊測福建偏度去_二 ̄ルコト北極 ̄ノ中 線(。)_一 ̄ヲ

 偏東四十六度三十分今測琉球偏度去北_二 ̄ルヿ極中線_一
 偏東五十四度與_二福州東西相去八度三十分每度
 二百里推□徑直海面一千七百里凡 ̄ソ船行六十里 ̄ヲ
 為一更自福州至_二 ̄ル琉球姑米山四十更計 ̄ルニ二千四百
 里自琉球姑米_一囘_二 ̄ル福州五十更計 ̄ルニ三千里乃繞_
_二 ̄テ南北_一 ̄ニ
 行 ̄ク里數故 ̄ニ少 ̄ク為_二新遠_一 ̄ヲ母向來紀載動 ̄スレハ稱_二 ̄ス數萬里_一 ̄ト皆屬 ̄ス
 懸揣_一 ̄ニ今逢_二 ̄テ
皇上 ̄ノ天縱_一 ̄ニ推_二 ̄シテ日晷 ̄ノ遠近高下_一 ̄ヲ以定_二 ̄ム里數_一 ̄ヲ輿 ̄テ圗 ̄ノ幅員瞭 ̄トシテ如_二
 指掌_一 ̄ノ海外弹丸今見_二 ̄ル凖的_一 ̄ヲ智能量_レ ̄リ海 ̄ヲ功娩_二 ̄フ指南_一 ̄ニ矣


  潮
 琉球潮候與福建不同率後三辰東西地勢往復自
 然之理也各洋潮候海舶柁工言之皆不同西洋一
 日一潮率以申漲以寅退是又以一晝夜爲消息矣
 潮生潮漲潮退率三辰爲凖今畧列表如後
  ⦿潮生 ●潮漲 ○潮退

   子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑
《割書:初一|初ニ》福建     ⦿●○   ⦿●○
《割書:十六|十七》琉球   ⦿●○   ⦿●○

《割書: 初三| 初四》福建⦿●○   ⦿●○
《割書: 十八| 十九》琉球    ⦿●○   ⦿●○
《割書: 初五| 初六》福建 ⦿●○   ⦿●○
《割書: 二十|二十一》琉球    ⦿●○   ⦿●○
《割書: 初七| 初八》福建  ⦾●○   ⦾●○
《割書:二十二|二十三》琉球     ⦾●○   ⦾●○
《割書: 初九| 初十》福建   ⦿●○   ⦿●○
《割書:二十四|二十五》琉球⦿●○   ⦿●○
《割書: 十一| 十二》福建    ⦿●○   ⦿●○
《割書:二十六|二十七》琉球 ⦿●○   ⦿●○
《割書: 十三| 十四》福建    ⦿●○   ⦿●○
《割書:二十八|二十九》琉球  ⦿●○   ⦿●○
十五 福建     ⦿●○   ⦿●○
三十 琉球   ⦿●○   ⦿●○

    琉球星野圖 日本     琉球


         寧波
   星         台州
         紹興   温州《割書:兼斗分》
   紀      金華   福寧州

 琉球三十六島
琉球屬島三十六水程南北三千里東西六百里遠
近環列各島語言惟姑米葉壁與中山爲近餘皆不
相通擇其島能中山語者給黃㡌令為酋長又遣黃
㡌官涖治之名奉行官亦名監撫使歲易人土人稱
之曰親雲上聽其獄訟徴其賦稅小島各一員馬齒
山二員太平山八重山大島各三員惟巴麻《割書:中山讀|間字音》
《割書:同麻華言山|也下倣此》伊計椅山硫磺山四島不設員諸島無
文字皆奉中山國書我

 旦奉_レ ̄ス詔(。) ̄ヲ扶桑散人樗不材謹 記(。) ̄ス
  以上在_二首里_一 ̄ニ




中山傳信錄卷四

琉球聘使記

下等小学日本地誌略図問答

《割書:土橋荘著》
日本地誌略圖問答  諳射之部

明治九年五月廿九日出版御届 《割書:三編|定價》金三十五錢
同   六月十五日三編刻成
         《割書:京都府平民》
       著者  土 橋  莊
《割書:            上京第廿區下立賣通小川西ヘ入百卅九番地|              京都府平民》
       出版人 石田 忠兵衛
《割書:            上京第廿五區ニ條通栁馬塲角二百六十三番地》
           栁原 喜兵衞
  大阪書林      花井  夘 助
           前川 善兵衛

琉球人大行列記

【右頁白紙】
【左頁】
寛政二年来朝
 琉球(りうきう)よりさつままで行程(かうてい)事
 さつまより大阪迄海上の事
 大阪より伏見迄川御船の事
 伏見より江戸までとまり休事
 正使副使并姓名の事
 御けん上もの目録の事
 りうきうことばの事
 来朝ねんだい記之事
 薩州御にんじゅの事
 りうきう人惣人数之事
 人そくてん馬の事

仲山使  琉球人大行列記 大
             全
        来朝新板給人

【資料整理ラベル】
第六八九号
   壹冊
杉浦文庫



【右頁】
一年に両度(りやうど)耕作(こうさく)すると
かや和哥(わか)にはうるまの島(しま)
と/読(よめ)り慶長(けいちやう)十五年の
ころより来朝(らいちやう)すと云々

于時寛政二年戌歳
  洛陽   辨装堂

琉球奇譚

琉球奇譚


琉球国(りうきうこく)は吾(わが)
日域(ひのもと)薩州(さつしう)より南(みなみ)にあたり。清朝(もろこし)
福建(ふくけん)泉州(せんしう)の東(ひがし)に在(あり)。其国(そのくに)名玉(めいぎよく)
異宝(いはう)を出(いだ)す。男女(なんによ)の風俗(ふうぞく)又(また)異(ことなり)や。
去歳(きよさい)秋(あき)八月。渡海(とかい)の商人(あきびと)に

臨貞二(りんていじ)といへるもの。何(なに)くれと彼国(かしこ)
の手(て)ぶりなど。親(した)しく語(かた)りたるを。
米山子(べいざんし)と等(とも)に兵庫(ひやうご)に遊歴(ゆうれき)せし
折(をり)から。聞(きゝ)たるまゝにかいしるして
置(おき)たりしを。此(こ)たび梓(あづさ)に
ちりばめて。同志(どうし)のひとたちに

【柱題】りうきう序の一

見(み)を【せヵ】まゐらせ前【むヵ】とするものは
黒川(くろかは)の里人(さとびと)
浅■【嶺ヵ】庵作良

時は天保みつのとし
冬時雨月
壷輪楼高木書

   

【右ページ】
寿
琉球国越来三明堂楽水一百十一歳書

【柱題】りうきう序の二

【左ページ】
琉球(りうきう)譚(ものがたり)伝真記(でんしんき)

薩州白岩
抑(そもそも)琉球国(りうきうこく)は薩州(さつまのくに)の南方(みなみ)にあたりて・舟路(ふなぢ)およそ八百四十
里《割書:海上(かいしやう)六丁をもつて一 里(り)とす地方(ぢかた)の三十六丁を一里とするときは。|百四十里なり。和漢三才図会(わかんさんさいづゑ)に海(かい)上三百八十里と記(しる)せしは誤(あやまり)也》其国(そのくに)南北(なんぼく)
長(なが)さ五十九 里(り)余(よ)東西(とうざい)は僅(わづか)十里に足(た)らず《割書:地方(ぢかた)三十六丁を|もつて一 里(り)とす》
その地(ち)北極(ほくきよく)の地(ち)を出(いづ)ること二十六 度(ど)二 分(ぶ)三 厘(りん)。されば
暖気(だんき)なる事(こと)他国(たこく)に勝(まさ)れり。《割書:正月に桃(もゝ)のはなひらき冬(ふゆ)になりても|衣(い)るいにわたをいれるといふ事なく蚊(か)なをうせ》
《割書:ずうちはを|手にはなさず》○始(はじ)め隋(ずひ)の時(とき)流虬(りうきう)と号(なづ)く。其は地(くに)の形(かた)ち虬(きう)
竜(りよう)の水中(しひちう)に浮(うか)ぶか如(ごと)くなるを以(も)てなり。又(また)宋史(さうし)及(およ)び隋書(ずいしよ)に





流求(りうきう)と書(か)く。元史(げんし)には瑠求(りうきう)と書(か)く。その後(のち)今(いま)の琉球(りうきう)の
字(もじ)には改(あらため)たり《割書:中山伝信録(ちうざんでんしんろく)には明(みん)の洪武(こうぶ)年中今の字(じ)に|改(あらたむ)ると記(しる)せしは誤(あやまり)にて夫より前の事なり》○往昔(いにしへ)我国(わがくに)
より琉球(りうきう)を呼(よ)びて宇留麻廼久尓(うるまのくに)といへり。大弐(だいに)の三位(さんゐ)の
狭衣(さごろも)に。右流間(うるま)の島(しま)とありて。下紐(したひも)に。うるまの島(しま)は琉(りう)
球(きう)なりと有(ある)にて明(あき)らけし。また千載集(せんざいしふ)の歌(うた)に「おぼつかな
うるまの島(しま)の人なれや我(わが)言(こと)の葉(は)をしらず顔(がほ)なる。公任。
又(また)古(ふる)くは於幾廼志摩(おきのしま)とも呼(よ)びたり。彼(かの)国人(くにうど)。自(みづか)らその
国(くに)を屋其惹(おきの)ともいふ也「さつまがたおきの小島(こじま)に我(われ)あり
と親(おや)には告(つげ)よ八重(やえ)のしほ風(かぜ)」この歌(うた)は平判官(へいはんぐわん)康頼入道(やすよりにふどう)。
鬼界(きかい)ヶ島(しま)に謫(なが)されて彼所(かしこ)にて詠(よめ)るにて。すなはち源平
盛衰記(せいすいき)巻の七に載(のす)るところなり○世俗(せぞく)に竜宮(りうぐう)といふ
ものは海竜神(わだつみのかみ)の都(みやこ)する処(ところ)にて。洋中(ようちう)波底(はてい)。別(べち)に都あり
と思【み?】へるは誤(あやまり)也《割書:此事すでに謝在杭(しやざいこう)が|五雑俎(ござつそ)にも論破(ろんは)せり》即(すなは)ち琉球(りうきう)と
竜宮(りうぐう)と同音(どうおん)
なるが故(ゆへ)にかくは成(なり)もて来(きた)るもの也。又(また)琉球 国(こく)の王宮(わうぐう)に。
竜宮城(りうぐうぜう)といへる額(がく)をかけたり。又(また)都(みやこ)には天竜(てんりう)地竜(ちりう)の社(やしろ)
あり。是(これ)を天妃(てんはい)といふ。今(いま)異国人(いこくびと)の菩薩(ぼさ)と唱(となふ)るものは是(これ)也
《割書:此方に舟玉(ふなたま)明神とて舟の|守護神(しゆごじん)とするも此神なり》されば神代(かみよ)にいへる海宮(わだつみのみや)も。浦島(うらしま)が子(こ)の
竜宮城(りうぐうぜう)も。俵秀郷(たはらひでさと)の行(ゆき)たりといふ竜宮(りうぐう)も今(いま)俗(ぞく)にいふ






【囲われている部分は「」でくくりました】
竜宮もみな琉球(りうきう)といへるものなり○琉球 国(こく)に三 省(せう)あり。
中山(ちうざん)は中頭省(なかがみせう)。山南(さんなん)は島崫省(しましりせう)。山北(さんほく)は国頭省(くにがみせう)。此三
省(せう)の属府(ぞくふ)都(すべ)て三十六。これを間切(まぎり)といふ○都(みやこ)を首里(すり)と
号(なづ)く。他(ほか)はみな間切(まきり)といふ《割書:間ぎりは此方の城下(じやうか)のごとく|郡県(あがた)をさしていふ》其(その)間切(まきり)の
領主(りやうしゆ)を各(おの〳〵)按司(あんじ)といふ○三十六の属島(ゑだしま)あり。奇界(きかい)《割書:また鬼(き)|界(かい)が島(しま)》
《割書:と|いふ》は十二の島(しま)なり則ち五島七島といふ其(その)三十六の小
島といふは「東(ひがし)の方(かた)に四箇(よつ)の島(しま)あり」△久高(くだか)又姑達佳(こだか)共(とも)
中山の東(ひがし)十四里半《割書:かの国の道法(みちのり)六十丁をもつて一里とす此方の三|十六丁をもつて一里とするときは二十四里余》
 産物(さんぶつ)数品(すひん)あり。赤(あか)祝米(こゞめ)。黄(き)小米(こゞめ)。五色(ごしき)魚(うを)。佳蘇魚。なほ
多(おほ)し△津堅(つけん)《割書:中山の東三里半此方の|道法(みちのり)にしては五里半十二丁也》△浜島(はましま)《割書:南北二島あり中山ゟ|道のりまへにおなじ》
△伊計島(いけしま)「西(にし)の方(かた)に三箇(みつ)の島あり」△東馬歯山(ひがしばしざん)《割書:大小五ツの|島(しま)あり産(さん)》
《割書:物(もつ)牛(うし)。馬(むま)。粟(あは)。|布(ぬの)。螺(にし)。怪石(かせき)》△西馬歯山(にしばしざん)《割書:大小四ツの島(しま)あり此島の人|極(きは)めていろ黒(くろ)しよく漁(すなどり)す》○此 島(しま)には
「座間(ざま)」「美渡(みと)」「嘉敷(かふ)」等(とう)の間切(まぎり)あり○漁猟(すなどり)をよくして
水中(すゐちう)に
五六日 居(ゐ)て魚(うを)を得(え)るまた山下(さんか)の海底(かいてい)に海松(みる)あり
是をとりて生計(なりはい)とする人(もの)多(おほ)し△姑米山(くめやま)《割書:中山より西の方四|十八里但し六十丁を》
《割書:もて一里とす此方の三十六|丁をもて一里とするときは八十里也》○此 島(しま)には「安河(やすがは)」「具志川(ぐしがは)」とて二ツ
の間切(まきり)あり○高山(かうざん)あり五穀(ごこく)はさら也。土綿(わた)。繭紬(つむぎいと)。紙(かみ)。蝋燭(ろうそく)。螺(ら)
魚(ぎょ)。雞(にはとり)。豚(いのこ)。牛(うし)。馬(うま)。墨魚(すみうを)。なほ産物(さんぶつ)多(おほ)し。

首里(スリ)王城(ワウゼウ)之(ノ)図(ヅ)

造作日本潢土両国ノ風
アリ王城廻二里半
ナリ

【舜天宮】
舜天宮ハ
八郎為朝ヲ
マツル
ナリ

【瑞泉池】
池ニ大魚
アリ其色
赤シ
月夜ニ
カナラズ
浮ブ

【奉神殿】
しねりきゆ
あまみきゆ
の宮

【中山牌坊】
長サ
一丈
アマリ
名ヲ
ハリ
ラン
バア
ト云

【このほかは図の中にしるす】

「乾(いぬい)の方(かた)に五箇(いつつ)の島(しま)あり」△度那奇山(となきやま)《割書:山に牛馬(ぎうば)多(おほ)し寺(あり)五宝(ごほう)|庵(あん)といふ盆(ぼん)おどりといふ事あり》
△粟国島(あぐにじま)《割書:山に牛(うし)|豕(ぶた)多し》○名産(めいさん)。鉄樹(たがやさん)。仏礼木(へくりげ)。供花樹(こたらめ)。△伊江島(いゑしま)
《割書:石山なり四方|こと〴〵く黄砂(きすな)也》○粟国島(あわぐにしま)に並(なら)ぶ。潮(しほ)の漲(みつ)るときは三四丁を隔(へだ)ち。
水(みつ)の退(しりぞ)くときは徒渉(かちわたり)して行(ゆく)べし○山に田あり。黍(きび)。稗(ひえ)
豆(まめ)。麦(むぎ)多(おほ)し△葉壁山(ゑへやま)。又 伊平屋島(いへやしま)とも○中山の戌亥(いぬゐ)
の方三十里にあり此 方(ほう)の道法(みちのり)にて五十里なり○此 島(しま)の米(こめ)
尤(もっとも)よし産物(さんもつ)は五穀(ごこく)。海胆(うに)。毛魚(もうぎよ)。蕉糸(ばせをふのいと)。島(しま)の中(なか)に一座(ひとつ)の
高山(かうざん)あり。宛転(えんてん)として竜(たつ)の如(ごと)し。その山中(さんちう)に「こくんろ」といふ
鬼神(かみ)あり。常(つね)に美女(びぢよ)の形容(すがた)を現(げん)ず。女人(をんな)をして祷祈(いのり)祭(まつ)ら
すれは幸福(さいはい)あり△硫黄山(いわうさん)又 黒島(くろしま)とも○山に鳥(とり)多(おほ)し。因(より)て鳥(とり)島ともいふ○中山の戌亥(いぬゐ)の
方三十五里にあり。但し前に
いふごとく六十丁を一里とす。此方の道法(みちのり)三十六丁を一里と
するときは五十八里なり○採硫戸(いわうとり)の家(いへ)百二十 軒(けん)ばかり
有○人の眼子(まなこ)羊(ひつじ)の如(ごと)くにして
明(あきら)かならずこれ硫黄(いわう)の気(き)
に蒸(むさ)るゝ故(ゆゑ)なりとぞ○島に山あり灰推山(くわいすいさん)といふ
「艮(うしとら)の方(かた)に八箇(やつ)の島(しま)あり」△由論(よろ)《割書:中山の丑寅の方五十里此方の|道のりにして八十三里余なり》
○芭蕉(ばせを)の樫木(やまゝき)多(おほ)し△永良部(ゑらふ)《割書:あるひはよこなまりて|伊闌埠《割書:いら|ふ》といふ》△徳(とく)
島《割書:中山の艮の方六十里|此方の道のり百里》△由呂(ゆろ)《割書:度姑島(とくしま)の艮の方|四里にあり》△烏奇(うけん)奴《割書中山:|より》

【囲われている部分は「」でくくりました】


《割書:艮七十七里|六丁にあり》△佳奇呂麻(かけろま)《割書:中山の艮七十|七里にあり》△大(おほ)島《割書:一名| 》小琉球(せうりうきう)○度(と)
姑(く)島の艮にあり中山を去(さ)ること八十里 但(たゞ)し前(まへ)にいふごとく
六十丁を一里とすこれも此方の道法三十六丁を一里とする
ときは百三十余○琉球より此島まで舟行(ふなぢ)三日にして
至(いた)るべし○島(しま)長(なが)さ十三里七 箇所(かしよ)の間切(まきり)あり「西間切(にしまきり)」「東間切(ひがしまきり)」「笠利(かさり)」「名瀬(なんせ)」「屋喜(やんき)」「住用(すむよ)」「古見(こいみ)」○島中(しまのうち)都(すべ)て二百
三十一 村(そん)あり○産物(さんぶつ)は蕃薯(さつまいも)おほし。また米(こめ)。粟(あは)。豆(まめ)。木綿(もめん)。
竹(たけ)。牛(うし)馬(むま)。兎(うさぎ)。猪(ぶた)。山猪(ゐのしゝ)。海瓜(うみうり)。焼酎(しやうちう)。紅棕(あかじゆろ)。黒棕櫨(くろしゆろ)《割書:あぶら| 木なり》
○島(しま)のうち三箇(みつ)の高山(かうざん)あり「しみづやま」《割書:清水|山》「きくやま」《割書:菊花|山》

【囲われている部分は「」でくくりました】

琉球国三十六嶋図(りうきうこくさんじうろくたうのづ)

【他は地図内に記す】

「南(みなみ)の方(かた)に七箇(なゝつ)の島(しま)あり」△太平山(たいへいざん)《割書:又迷姑(めこ)ともいふ今は| 訛(よこなま)りてまこ山といふ》○中山の
南二百里にあり《割書:六十丁|一里也》此方の道法(みちのり)《割書:三十六|丁一里》にして三百里なり
○産物(さんぶつ)草薦(たゝみおもて)《割書:りうきう|おもて也》○筑山(ちくざん)といふ大山あり△伊奇麻(いけま)《割書:太平|山の》
《割書:南に|あり》△伊良保(いらぶ)《割書:太平山の|坤にあり》△達喇麻(とらま)《割書:太平山の正西(まにし)にありあやしきけ|もの多し犬のかたちにて人面なる》
《割書:もの|なり》△面那(みつな)《割書:太平山の坤にあり大蛇(だいじや)|ありて常(つね)に人の家(いへ)にあそぶ》△烏噶弥(うかみ)《割書:太平山の乾にあり|大きなるへび多し常に》
《割書:人の家に|あそぶ》△姑李麻(くれま)《割書:太平山の|西にあり》○右の七 島(しま)を土人(くにびと)はなべて太平山と
称(とな)ふ「西南(ひつじさる)に九箇(こゝのつ)の島(しま)あり」△八重山(やえやま)《割書:一名 北木山(いしかきやま)太平山の|未申の方四里にあり》○中
山を去る事(こと)琉球道(りうきうみち)二百四十里《割書:六十丁|一里也》此方の道法(みちのり)《割書:三十六|丁一里》四百
里なり○産物(さんぶつ)。海芝(かいし)。玳瑁(たいまい)。海参(なまこ)。螺石(といし)。草薦(たゝみおもて)なほ多し

【左ページ】
鬼界(きかい)

此けもの
きかいが
しまの
うみに
おほし
とぞ

へいろつぱあ
頭(かしら)人(ひと)の如(ごと)く
体(かたち)は虎(とら)の
ごとし
水上(みづのうへ)を
走(はし)る事
はやし
つねに地魚をとりて食ふ
人を見て大いに笑ふ更に害をせず

【囲われている部分は「」でくくりました】

△烏巴麻(うはま)《割書:八重山の|未申に有》△波渡間(はどま)《割書:うはまに|ならぶ》△由名姑呢(よなくに)《割書:はどまに|ならぶ》
△姑弥(くみ)《割書:やえ山の|西に有》△多計富(たけとみ)《割書:くみの東にならべり此しまにびたん|といふ魚ありかたち図のごとし》r
土人(どじん)伝へいふ。天孫氏の仕女。
びんたらといふもの。海に入て
魚となる。これなりと。又いふ
頭痛(づつう)をわづらふもの。此
魚のかたちをゑがき。家の
うちにはりおけば。忽ちにいえて
後うれひなしとぞ。およそ此島にすむ人。頭痛(づつう)の
やまひといふことなし。
 ○山海経(せんがいきやう)巻の一曰。柢山(ていざんに)有(うを)_レ魚(あり)其状(そのかたち)如(うしの)_レ牛(ごとし)又(また)有(つばさ)_レ翼(あり)。
其名曰鯥(そのなをりくといふ)冬死而夏生(ふゆししてなつうまる)食之(これをくらへば)無(しゆしつ)_二腫疾(なし)_一。とあるものと似(に)
たれども。是(これ)は冬(ふゆ)も死(し)するものにあらず。
△久里嶋(くろしま)《割書:八重山の|いぬいに在り》△波照間(はてるま)《割書:たけとみに|ならべり》△新城(あらくすく)《割書:ゆなくにと|くみの間に》
《割書:ありて|二島也》○以上(いじやう)八箇(やつ)の島(しま)を土人(くにびと)はなべて八重山(やえやま)といふ
△姑巴汛麻(こはじま)《割書:是は前の三十六嶋の外|なり中山の正西にあたる》○高山(かうざん)多(おほ)し。名産(めいさん)数品(すひん)
あり。 本朝(ほんてう)第一(だいいち)の現留石(げんりうせき)といふ硯石(すゞりいし)は此島(このしま)にありとぞ。
 ○右(みぎ)琉球国(りうきうこく)属島(えだじま)を加(くは)へて。およそ高(たか)十二万七千石
  余ありと云。

  ○琉球国(りうきうこく)王代(わうだい)略譜(りやくふ)
天地開闢(てんちかいびやく)のとき一男一女(いちなんいちによ)化生(けせう)す。《割書:化生とは父母|なく生るゝ也》その男神(をとこ)
姓(せい)は「はあんすう」《割書:歓斯|氏》名(な)は「かうらとつ」《割書:渇剌|兜》土人(くにうど)
可老年君(からうねんくん)と称(せう)ず。その陰神(をんな)を「とばと」《割書:多抜|荼》といふ。
《割書:又一書にその夫を「しねりきゆ」といひ|その婦を「あまみきゆ」といふ》その渇剌兜(かうらとつ)。と多抜(とば)
荼(と)と夫婦(ふうふ)となる。然(しか)るに其島(そのしま)さゝやかにして。波(なみ)に
漂(たゞよ)へり。よりて「たしか」といふ木(き)の生(お)ひ出(いで)しを植(う)えて
やうやくに山の形とし。「しきゆ」といふ草(くさ)をうえ。
また「あたん」といふ樹(き)を植(うえ)て国の形(かた)ちとしたり
こゝに火(ひ)といふものなかりければ。海底(かいてい)なる竜王(りうわう)
の火(ひ)を乞(こ)ひ得(え)て。五行(ごぎやう)すでに成就(ぜうじゆ)したり。這(この)
陰陽神(ふたはしらのかみ)を土人(くにびと)は後(のち)に「あまみく」と称(とな)ふ。遂(つひ)に
二神(ふたがみ)交合(まじはり)て。三男二女(さんなんにぢよ)を生(う)めり。
 第一男「天孫氏」《割書:てんそん|し》即ち国王(こくわう)の始なり
  第二「うるかん」《割書:雲流|咸》男也○按司(あんず)の始(はじめ)となる
  第三「めるかん」《割書:面流|咸》男也○庶民(しよみん)の始(はじめ)となる

【囲われている部分は「」でくくりました】

  第四「くん〳〵」君君女也○天津神(あまつかみ)となる
  第五「しゆく〳〵」祝祝女也○滄海神(わだつみのかみ)となる
「舜天王」《割書:父は日本国鎮西八郎為朝也母は大里の按司が妹也|逆臣利勇を討て王位につく是迄二十五世天孫氏の》
《割書:時より神の代人の代を|合せて一万七千八百年余》「舜馬順熙」《割書:在位|十一年》「義本王」《割書:在位|十一年》
○以上三代七十三年
「英祖王」《割書:天孫氏の裔にして恵祝の嫡孫也姑伊曽の按司たりしが|義本王の譲りを受て王位につく在位四十年》
「大成王」《割書:在位|九年》「英慈王」《割書:在位|五年》「玉城王」《割書:在位|三年》
 ○此時(このとき)国(くに)大(おほい)に乱(みだ)れ「山南王」《割書:とよみ|くすく》「山北王」《割書:いまきた|のくすく》此(この)両王(ふたり)
おこりて鼎足(ていそく)のあらそひと成(な)る「西威王」《割書:玉城王の長子|在位十四年》
○以上五代九十九年
「察度王」《割書:浦そひ間切 謝那村(ヤンナンムラ)の奥間大親(オクマオホオヤ)といふものゝ子にして|賢者なり世人しひて王位につかしむ在位四十六年》
「武寧王」《割書:在位|十年》察度王の子なり
○以上二代五十六年
「思詔王」《割書:山南王の佐敷按司たりしが子の尚巴志といふもの悪王を|討て位につかしむ在位十六年世大いにおさまる》
「尚巴志王」《割書:在位|十八年》「尚忠王」《割書:在位|五年》「尚思達王」《割書:在位|五年》「尚金福王」《割書:在位|四年》
「尚泰久王」《割書:在位|七年》「尚徳王」《割書:在位|九年》○此時(このとき)王(わう)悪政(あくせい)苛法(かほふ)なる故(ゆゑ)に鬼界(きかい)


【囲われている部分は「」でくくりました】

叛(そむ)きて軍おこる。世子(せいし)幼少(いとけな)かりしを国人(こくじん)弑(しい)して。浦副(うらぞひ)の
間切(まぎり)のうち間里の主。尚円(せうゑん)といふ人(もの)をあげて王位(わうゐ)に
つかしむ
○以上七代六十四年
「尚円王」《割書:字は思徳金伊平の人先祖は舜天王の孫義本王なりむかし|義本王位を英祖にゆつりて北山にかくれたるその後裔也》
《割書:父は尚稷といふ|在位七年》「尚宣威王」《割書:尚円王の弟也世子いまた弱冠|なれば位をつく在位二年》「尚真王」《割書:尚円王の子|在位五十年》「尚清王」《割書:在位|二十九年》「尚元王」《割書:在位|十七年》「尚永王」《割書:在位|十六年》
「尚寧王」《割書:尚真王の孫にて尚懿の子也|在位三十二年》三司官(さんしくわん)邪那(やな)といふもの。

【左ページ欄外】
大明万暦
三十七年
日本慶
長十四年

【左ページ本文】
明朝(みんてう)にこびて日本(につほん)へ貢(みつぎ)せざるより。薩州侯(さつしうこう)誅伐(ちうばつ)を乞(こ)ひ。
数千(すせん)の人馬(じんば)をむけられ。つひに尚寧王(せうねいわう)を虜(とりこ)にして薩州(さつしう)
につなぎ。人 質(じち)とする事三年。先非(あやまち)を悔(く)ひて。以来(いらい)永世(ゑいせい)
属臣(ぞくしん)たらんことを誓(ちか)ふ。然(さ)るによりて許(ゆる)し帰(かへ)せり。時(とき)
に後水尾院(ごみをのゐん)慶長(けいちやう)十七年。大明(たいみん)の万暦(ばんれき)四十年なり
「尚豊王」《割書:在位|二十年》「尚賢王」《割書:在位|七年》「尚質王」《割書:在位|二十一年》「尚貞王」《割書:在位|四十一年》
「尚益王」《割書:在位|三年》「尚敬王」《割書:在位|三十九年》「尚穆王」


【囲われている部分は「」でくくりました】

  ○風俗
○すべて此国(このくに)は夷狄(えびす)にて。礼義(れいぎ)も道(みち)も調(とゝの)はざる国なりしが
二條院(にでうのいん)永満(えいまん)元年。鎮西(ちんぜい)八郎源 為朝(ためとも)。豆州(づしう)の島に
流(なが)され。大島より琉球に渡り。乱賊(らんぞく)を討(うつ)て民(たみ)を安(やす)んじ。
五常(ごぜう)の道(みち)を教(をし)へ。文武(ぶんぶ)の法(ほふ)を諭(さと)せしより
日本(につほん)の風俗(ふうぞく)と成(な)る。又(また)一時(いちじ)明朝(みんてう)に媚(こび)て。冠裳(くわんせう)。被服(ひふく)。屋宅(をくたく)。器物(きぶつ)。悉(こと〴〵)く中華(もろこし)の風俗をうつす。元来(ぐわんらい)其国(そのくに)
遍小(へんせう)なるれば。自立(じりつ)する事 能(あた)はず。中国(もろこし)の冊封(さくふう)を受(うけ)て。
また    日域(につほん)に臣服(しんふく)す。然(さ)れば今は夷風(いふう)を変(へん)
じて両国(りやうこく)の《割書:日本|唐土》風俗(ふうぞく)相半(あひなかば)す。故(ゆへ)に物(もの)に号(なづく)るにも
常(つね)の言語(げんぎよ)にも音(おん)【左ルビ:コエ】と訓(くん)【左ルビ:ヨミ】と混雑(こんざつ)し。其中(そのうち)に唐音(たういん)を
用(もち)ゆるものあり。また琉球(りうきう)古代(こだい)の詞(ことば)あり。然(さ)れ共
多(おほ)くは。衣冠(いくわん)は清朝(もろこし)にならひ。言語(げんぎよ)は
日本に真似(まねぶ)としるべし。○女人(をんな)は墨(すみ)をもて。
首(くび)に竜蛇(りうじや)の形(かた)ちを刺点(いれずみ)せしが。今は形(かた)ばかり僅(はつか)に
遺(のこ)りて。筋(すぢ)一つ彫入(ほりいれ)るとぞ○生平(つね)に国王(こくわう)より庶人(くにたみ)
に至るまで。君万物等(きんまんもんとう)の鬼神(かみ)を信(しん)ずるがゆゑに。
無病(みびやう)にして且(かつ)長寿(いのちなが)しとぞ。○すべて風俗等(ふうぞくとう)の

事(こと)は。琉球談(りうきうだん)。琉球事略(りうきうじりやく)。中山伝信録(ちうざんでんしんろく)。などに悉(くは)しくせり
○寺院(てら)は臨済(りんざい)。真言(しんごん)《割書:古|儀》の二 宗(しう)のみにして。都計(すべて)
三十七ヶ寺なりしが。久米(くめ)の普門寺(ふもんじ)。西福寺(さいふくじ)。廃(はい)して
今は三十五ヶ寺となる○首里(すり)の三大寺といへるは。
天王寺。天界寺。円覚寺をいふ。王廟(わうびやう)は真味志(まわし)
安里村(あんざとむら)にあり。今は新(あらた)に堂社(だうしや)を建(たつ)るを禁(きん)ず。
○国中(こくちう)たはれたる風位【風俗?】にて。女人(をんな)の嫁(か)せざる前(まへ)は
生平(つね)に男子(をとこ)と交(まじは)り遊(あそ)び。市町(いちまち)など手をとりて
遊(たはれ)行(ある)く。更(さら)にこれを恥(はづか)しとせず。両親(ふたおや)もまた咎(とが)めず。
これ一奇(ひとつ)の国俗(ならはし)也。然(さ)れども嫁(よめ)りて後(のち)は節(せつ)を守(まも)
りて。他(た)の男(をとこ)と同座(どうざ)だにせず。其(その)禁(いまし)めもその貞(てい)も。
あだし国(くに)の及(およ)ぶべきならず。《割書:もし国法を犯すものはきんまん|もんのたゝりにてたちまちに》
《割書:神ばつをうくるはやくさんげ|してつみを訴へ出ればたゝりを消るとぞ》○国中(こくちう)に娼妓(あそびめ)はなはだ
おほし。歌女(うたひめ)もあり《割書:此方にいふ|げいしや也》蛇皮線(じやびせん)をひきて国(くに)の歌(うた)
を唄(うた)ふ。拍子(はうし)はなはだ面白(おもしろ)しとぞ。
   ○娼家(しやうか)の流行(はやり)うた
〽ちごのもんにたつたれば。ばびうのやうなつの虫が。

 どたまのぢよけんをちよいとはねた。ホンダヱ〳〵
  ○ばびうは牛(ウシ)の子(コ)也○つのむしは蜂(ハチ)也○どたまはあたま也
  ○ぢよけんはまげゆひ也○ちごのもんはわが思ふ男の門をいふ。
〽ふづくのべくにものとへば。びうがのそとにふん
 でんた。さりもよいぎやアめつたにおさごまく。
   ○ふづくのべくとは神のやしろのあたり也○びうがのそととは
   人にしのんでといふ也○ふんでんたとはしのびあふこと
   ○おさごは前米にて神前に米をまく也
〽しろばりがさわぐのに。あかきんぼうにへろ
 まつた。ういがねばこでひろまれやホンダヱ〳〵
   ○しろばりは雪(ゆき)の事○さわぐはふる也○あかきんぼうは紅酒にて
   あかき酒の事太平山にてつくるさけ也○へろまるはゑふた【酔った】といふこと
   ○ういがねばことはわしがねどころといふこと也とぞ
右(みぎ)はいづれも彼国(かのくに)の俗語(ぞくご)にて。正(たゞ)しき詞(ことば)にはあらざる也
又(また)流行唄(はやりうた)の文句(もんく)はたび〳〵かはれども節(ふし)はおほくは
似(に)よりたるもの也。しかれどもその土地(とち)によりてかはる
こと《割書:すこしつゝ合の手|又はひやうしのちがふ也》ありといふ。いづれもほんだへ〳〵と
はやすこと也○又(また)此方の謡曲(うたひ)のやうなるものあり
これはなほさら節のもやうもかはりたるもの也。
○女郎(うかれめ)の上品(じやうひん)なるを「うにらん」といふ《割書:此方のおいらんと|いふは是によるか》

女の風俗はひろき袖にてすそながくおびといふものなし
こはぜにてあちこちとめたるもの也もやうは
うつくしきそめ色あり又うすものに
五しきのいときんじなどにて
さま〴〵のくさばななどぬひたるも
あり女はこしへたまのかざりを
ながくさげること有又冬といへども
此方のなつのごとくさむさをしらぬ
くにゆゑきぬにわたを入れると
いふことなし男の
いふくはおほよそ
もろこしにひとし
こゝにかけるはあんず
などいふくらゐの人也れいき
たゞしきくにぶりにして
うかれめになじみてあそびに
ゆくにもいくわんをたゞして
おもむくこと也あげやをば
ふるべやといふ也
おどりすることをば
めんことぐりといふ
 〽糸柳こゝろ
  くにあら
   しやばのよて
    はろものしるかんな
      風にてりよか
 ○此うたはむかしよりうたふところ
  柳風の曲といふとぞ
     徂来翁が聘使記にも載たり

【囲いは「」で代用】
その次(つぎ)を「びくらばう」その次(つぎ)を「ばるさめ」又(また)下品(げひん)なる
ものを「ぶくべる」といふ《割書:此方によたか|などといふもの也》
○酒(さけ)は「きんぶ」《割書:俗語|なり》といふ。琉球国(りうきうこく)の属嶋(えだしま)太平山(だひんざん)より
出(いづ)るを「だひんしう」《割書:太平|酒》といふ。紅酒(こうしゆ)あり《割書:いろ朱のごとくあか|くして清く神に》
《割書:たてまつる|に用う?》八重山(やえやま)より出(いづ)るものを「みりんしう」《割書:密林|酒》といふ。
上噶剌(かんむら)より出(いづ)るを「あわきぼ」《割書:粟|酒》といふ。薩州(さつしう)にて
砂糖(さとう)あわもりといふもの是(これ)なり。右(みぎ)いつれも焼酎(せうちう)
にして。此方のごとき酒はかつてなし。
○金銀(きん〴〵)のたぐひ少(すくな)し。通用(つうよう)は此方より渡(わた)る豆銀(まめぎん)
を専(もは)ら用ゆ。銭(ぜに)は寛永通宝(くわんえいつうはう)なり。豆銭(まめぜに)といふ
ものは。彼国(かのくに)にて鋳(ゐ)るところにて。文字(もじ)も模様(もやう)も
なし。輪(わ)もなし。又(また)花(はな)の形(かた)ある物(もの)も有(あり)。
○彼国(かのくに)の「ぎんとくり」といふ器(うつわ)あり。銭(ぜに)を入(い)る物(もの)
なり形(かた)ち豆(づ)のごとし。
予が友
壷輪樓高木所蔵 長一尺五寸

かわにて作りたるもの也
もやうは上のはきん万もん也
中のはもちのそなへ也
下のは浪のかたち也とぞ
金色にてうつくしし【く〜志の間が長いため「しし」と判断。衍字か。】


琉球国全図
○西南福建泉州の
梅花所より船路順風
七日にして至る

○西北薩州より
船路百四十里
但三十六丁
為一里

○此他四方
三十六の
属島
あり

【ほかは地図内に記載】

   ○琉球国語(りうきうのことば)
およそは此方の詞にかはる事なし。又ものによりて
琉球のことばかはりたる物あれども。てにをはは
すべて此地のごとし。
○日を おでた ○月を おつきかなし ○水を へい
○木を しぶり ○土を なぐり ○人を ふばるん
○火を おまつ ○神を かめかなし ○仏を ほつとかなし
○男を おけが ○女を おいなご ○親を おいやも
○父を せうまい ○母を あんまあ ○兄を すいぎ
○弟を おんとう ○伯父を てんちい ○伯母を てんまあ
○叔父を おぢい ○叔母を おばあ ○姪を みい
○甥を ういちい ○夫を こんとう ○妻を はんべち【はんべら?】
○男の子 べいず ○女の子 べする ○人といふを びん
○衣を いぶく ○刀剣を ほうてう ○帯を うびい
○宝を とうがら ○字(もじ)を おじり ○琴を こんぐ

○天を うてい ○地を つんぢ ○雨を をみ
○雷を おどろ ○風を ふきご ○吹くを はる
○僧を まるどさま ○美女を とろこぼう
○美男を とろこせい ○手紙を つんみり
○重宝を うびなや ○雷盆(スリバチ)を づるばん
○雷木(スリコギ)を ずりんぎ ○巫女(みこ)を たへぢよ
○祈(いの)るといふを きめてすり ○頼(たの)むを どんだく
○よいことを うい ○悪(あし)き事を ごぶり ○大を でい
○小を ちんつ ○嬉(うれ)しきを うい〳〵
 ○なほ多(おほ)く。琉球(りうきう)にて ふつとろちいといふ
  俗語あり。此方にて恐(おそろ)しいといふやうに聞(きこ)ゆ
  るゆゑ然(さ)る事(こと)と思ひたるに。甚(はなはだ)よろこぶ
事なりとぞ。かくの如くの違(たが)ひ多(おほ)かるべし
  こゝに載(のす)るものは。聞(きゝ)たるまゝにかいつけて
  好事(こうず)の覧(らん)に備(そな)ふるのみ。


○彼(かの)国人(くにうど)酒宴(さかもり)の席(せき)などにて。拳(けん)をうつ
 といふ事あり。手を出すさまは此方の風に
 おなしけれども詞はいたく違(たが)へり
  一《割書:うんぺい|》二《割書:すんぺい|》三《割書:しんこ|》四《割書:よろう|【よつう?】》五《割書:うんこ|》
  六《割書:りんこ|》七《割書:しんべい|》八《割書:だんき|》九《割書:きんこ|》十《割書:とう| らい》

 ○琉球国(りうきうこく)に祭(まつ)るところの神(かみ)
【囲いは「」で代用】
「おうちきう」水伯《割書:ふうなきうともいふ|水の神なり》
  其(その)神形(かたち)身長(みのたけ)一丈ばかり白髪(はくはつ)にして毛(け)をみだせり眼(め)
  大きく光り電光(いなづま)のごとし身に黄色(きいろ)なる衣(きぬ)を着(き)
  足(あし)に沓(くつ)を穿(うが)つ睾丸(きんたま)至つて大きやか也 犢鼻褌(ふんどし)
をもてつゝみ見(み)る人(もの)幸福(さいはひ)を得(う)るとぞ神影(しんゑい)は国中(こくちう)の
寺院(てら)などに或(あるひ)は刻(きざ)みあるひは画像(ゑがき)て尊敬(そんけう)せり。
   ○水難(すいなん)をまねかるゝの秘符あり
是はふうなきうの説(と)きおしゆる
ところなりとぞとよくすくの
万明法師夢想にて授く
霊験いちじるし則ち神影也と


「やんがみこ」山鬼《割書:山の神也童子を使ふ|二郎子五郎子といふ》
「きんまんもん」君万物《割書:開闢(かいひやく)以来(いらい)国の守護神(しゆごじん)也|》
 ○君万物(キンマンモン)に陰陽(インヤウ)あり天(テン)より降(クダ)れるを
  「きらいかないのきんまんもん」といひまた
  海(ウミ)より上(アガ)れるを
  「おほつかけらくのきんまんもん」といふ也
  ○此(コノ)神(カミ)仕(ツカ)ふる巫女(フヂヨ)三十三人ありいづれも王の家すぢ也
   中婦君(キサキ)も又その一人なり此方にても内親王を斎宮(イツキ)
   に奉らしたまふと同(オナ)じ。
「舜天大神宮」首里(シュリ)にあり。鎮西八郎 為朝(タメトモ)をまつる
 ○此他(コノホカ)玉城(タマクスク)の拝林(オガミバヤシ)○豊見城(トヨミクスク)の拝林(オガミバヤシ)○北谷(キタダニ)の拝林
  高峯(タカミネ)の拝林等あり。をがみばやしといふは神の森(モリ)
  の事にて村々にある鎮守も同しく呼ぶ。又天満宮
  の社(ヤシロ)おほし。天神(テンジン)といふゆゑに。多くは孫天氏と
  おもひたがへて。菅神(カンジン)なるよしを弁へぬ人おほし。
  是は為朝ならびに舜天王の信じたる故に社多き
  なりとぞ
○君万物(キンマンモン)も怒(イカ)ることあるときは。国人(タニタミ)【クニタミ】精進(セウジン)して。うでをり。
 つまをり。といふ事をして拝(オガ)みなぐさむる也。

「きみてすり」七年に一回出現の神也
「よみかめり」十二年に一回出現の神也
此二神出現のときは諸人おそれうやまひ家々にまつり又
玉城より五色の傘(カサ)を持たる官人百人ばかり出て神を
城内にむかひ入れ種々の美酒珍菓をそなへ立花灯明
をさゝげて国王みづからまつり民の安おんをいのる七日の
間傘をさしかけおくそのかささま〴〵に色どりうつく
しくかざりたるにて長さ四五丈丸二十ひろにもあまりぬ
べしみぢかき物にても二丈ぐらゐ数百本ばかりおの〳〵
ひろにわに立おく諸人門前まで行遥拝す
   ○位階(ゐかい)の次第(しだい)
『中山王(ちうさんわう)』国王をいふ「中城(なかくすく)」春宮(とうぐう)をいふ《割書:中くすくは城(シロ)の名也|世子殿といふありて》
《割書:中に居ると|いふ義也》「王子(わんず)」王子(わうじ)也「王女(わんによ)」王の女(ヒメ)也
 △官位(くわんゐ)の品級(しな)は正従(セウシユウ)すべて九等(クトウ)あり
「国相(こくさう)」○親方(おやかた)《割書:国の大臣也すべて|政治をつかさどる》《割書:「元侯(げんこう)は正一品(セウイチヰ)」|「法司(ほうず)は正二品」|「紫巾官(しきんくわん)従二位」》
是(コレ)を三司官(サンシクハン)と称(セウ)じ
また例々(ソレ〳〵)の地の親方(オヤカタ)
とよぶものは即ち
この重官(ちようくわん)なり

【一重の囲いは「」で、二重の囲いは『』でくくりました】

「耳目令(じもくれい)」《割書:又 御鎖側(ギヨサリク)と|いふ正三品也》「謁者(ゑつしや)」《割書:又 申口者(まうしつぎ)|従三品也》「賛議官(さんぎくわん)」《割書:正四品也|》
「那覇官(なばくわん)」《割書:なばは地名也|従四位なり》「察侍紀官(さじきくわん)」《割書:さじきは地名|従四位也》「当坐官(あたりくわん)」《割書:正五位| 》
「勢頭官(せかみくわん)」《割書:正六品| 》「親雲上(はいきん)」《割書:正七位|》「掟牌金(ていはいきん)」《割書:従七位| 》
「里之子(さとのし)」《割書:正八品| 》「里之子佐(さとのしのすけ)」《割書:従八位| 》「筑登之(ちくとうし)」《割書:正九品| 》
「筑登子佐(ちくとうしのすけ)」《割書:従九品| 》「輪九之(りんくし)」「万平之(まんへいし)」「仁屋(にや)」
「紫金大夫(しきんたいふ)」「正議大夫(せいきたいふ)」「長吏(ちやうり)」「都通事(とつうじ)」「度支官(としより)」
「王法宮(わうほふきう)」「九引官(きういんくわん)」「大宮(だいくう)」「近習(きんじう)」「内厨(ぜんぶ)」「国書院(こくしよいん)」
「良医寮(くすしどころ)」「茶道(さどう)」「祝長(はふり)」「無瀬人(むせし)」「武卒(ふんぞう)」
 ○里(さと)の子(し)は此方にいふ小姓(こせう)也美少年(びせうねん)をゑらぶ事(こと)也。年(とし)
  をとりて髭(ひげ)生(お)ふれば親雲上(はいきん)と成(な)る。国風(こくふう)にて剌刀(かみそり)
  を用(もち)ひずひげは生(お)ふるまゝにのばし置(お)く也。又いつたい
  色(いろ)黒(くろ)ければ年(とし)方よりは古気(ふけ)て見(み)ゆる也。親雲上(はいきん)は
  官名(くわんめい)なれども彼国(かしこ)の俗風(はらはし)にて。武士(ぶし)をばすべて
「おはいきん」などいふ也







   ○来聘年暦
応永十未年 宝徳三未年  天正十一未年
同十八寅年 慶長十五戌年 宝永十一戌年
正保元申年 同二酉年   慶安二丑年
同三寅年  承応元辰年  同二巳年
同三午年  寛文十戌年  同十二子年
天和元酉年 同二戌年   宝永七寅年
天徳四午年 明和元申年  寛政二戌年
同八辰年  文化三寅年  天保三辰年

琉球伝真記尾

中山伝信録物産考

地理《割書:十六》

中山伝信録物産考 地

【右ページは空白】


 目録
  巻之二
   番薯
   絲瓜
   冬瓜
   茄子
   生姜
   胡椒
   木耳
   石花菜

   薤
   蕹菜
   松露
   紅菜
   雞脚菜
   麒麟菜
   福木
   呀喇菩
   油樹
   山米


   古巴栃斯
   右納
   地分木
   月橘樹
   梯姑樹
   悉達慈姑
   碧桃
   桂
   木蓮
   木芙蓉

   雪毬
   仏桑《割書:同一種|》
   山丹
   菊
   寒菊
   茉莉《割書:同一種|》
   水仙《割書:同一種|》
   薔薇
   剪春蘿
   杜若


   百合
   月季花
   長春
   大葉名護蘭
   風蘭
   粟蘭
   松蘭
   竹蘭
   棒蘭
   野牡丹

   野海棠
   仙人竿
   箒桃
   野蘭
   文萱花
   山蘓花
   雷山花
   吉姑羅
   藕蔗
   茘枝


   龍眼
   桜桃
   楊梅
   梗桃
   蕉実
   阿咀呢
   女木《割書:即阿咀呢一種|》
   苦竹
   猫竹
   虎班竹

   鳳尾竹
   箒竹
   烏竹
   大竿竹
   矢竹
   竻竹
   観音竹
   大和雞
   鵯
   班鳩


   緑鳩
   鶉
   鴗
   杜鵑
   燕
   古哈魯
   鴛鴦
   麻石
   伊石求子
   烏鳳

   恨煞
   容蕋
   石求読
   莫読吏
   蝙蝠
   蜥蝪
   蜥蜴
   四脚小青蛇
   蛇
   銀縷魚


   針魚
   靴魚
   燕魚
   海馬
   石鮔
   蟳
   壁虎魚
   桅螺
   貝
   龍頭蝦

   海松《割書:一種|》
   石芝
   磨刀石


中山伝信録物産考巻之二

  日本東都  藍水 田村《割書:登|》輯

 〇物産
中山気候、多 ̄クハ暖 ̄ニシテ少 ̄シ_レ寒、無 ̄シテ_レ氷霜雪 ̄ハ 希 ̄ニ降、草木
常青、土産 ̄ノ所_レ有、同_二 中国 ̄ニ_一者、袛標_二其名 ̄ヲ_一 、異産 ̄ハ
則詳_二其形状 ̄ヲ_一、花卉 ̄ハ并 ̄テ記 ̄スヿ_二其開 ̄ヲ_一、如_レ後
穀則六穀咸 ̄ク備 ̄ル、米 ̄ハ六種、麦 ̄ハ三種、菽 ̄ハ有_二緑豆
赤豆黒豆白豆大豆小豆_一、大豆 ̄ハ即中国 ̄ノ黄
豆毛莢、七八月 ̄ニ生 ̄ス_二田中 ̄ニ_一、所_レ見比 ̄ス_二 中国 ̄ノ産 ̄スル者_一、

特 ̄ニ小僅《割書:也》、如_二細黒豆_一 ̄ノ_一〇異産 ̄ニ有_二番薯_一、在処皆
有_レ之、犂 ̄テ種 ̄ニ_二沙土中 ̄ニ_一、蔓生 ̄ノ蔽蔽 ̄フ_レ野 ̄ヲ、人以為_レ糧、功
並 ̄フ_二粒食 ̄ニ_一、
     番薯《割書:有_二 二種_一和名琉|球イモ》


家 ̄ニ種 ̄ユ_二芭蕉数十本 ̄ヲ_一、縷_レ絲織 ̄ニノ為_二蕉布 ̄ト_一、男女冬
复皆衣 ̄ル_レ之、利匹 ̄シ_二蚕桑 ̄ニ_一、明 ̄ノ冊使蕭崇業夏子
陽旧録 ̄ニ云 ̄ク、不_レ植 ̄ハ_レ綿 ̄ヲ、地 ̄ハ不_レ宜 ̄カラ_レ茶 ̄ニ、今亦間有_レ之、
但不 ̄ト_二甚繋植 ̄セ_一、云《割書:按 ̄ニ琉琉地方無 ̄シ_二山椒_二|或 ̄ノ植 ̄レ【ト+モ】_レ之 ̄ヲ亦難 ̄シ_レ育 ̄シ》
蔬 ̄ニ有_二白菜(トウナ)芥菜(カラシナ)菠菜(ホウレン)蘿(ヲ)、蔔(フナ)香菜(コウジユ)絲瓜(ヘチマ)冬瓜(トウクハ)
茄子(ナス)刀豆(ナタマメ)蚕豆(ソラマメ)芋(イモ)葱(フナキ)蒜(ニンニク)韮(ニラ)姜(ハジカミ)胡椒 薤(玉ムラサキ)芹(セリ)萕(ナツチ)
蕨(ワラビ)瓠(フクバ)萲荽(コエントロ)茴香 茼蒿(シユンギク)香菰(マコモ)紫菜(ノリ)菘(クキナ)木耳(キクラケ)石(フ)
花菜(ノリ)_一

     絲瓜《割書:一種瓜長者和名|ナガヘチマ》



   冬瓜《割書:和名カ|モウリ》


   茄子《割書:和名ナカナス》

   生姜《割書:和名トツシヤ ウカ|ス琉球シヤウカ》
     《割書:蛮名ゲンブル》


   胡椒《割書:和名ツブコシヤウ》


    木耳《割書:和名キクラゲ》

    石花菜《割書:和名コヽロブト》

異産有_二海帯菜、女旁辣蕎茯苓菜壅菜_一、又
有_二松露_一、土 ̄ニ音 ̄ス称_二蓄蘿 ̄ハ_一、九十月中 ̄ニ生 ̄ス_二大松樹
下土中 ̄ニ_一、実円 ̄ニノ白色、菌類味鮮美、産 ̄スル_二具志頭_一
者尤良灰色 ̄ナル者 ̄ハ生 ̄ス_二牛糞中 ̄ニ_一、不_レ可_レ食、 《割書:海菜 ̄ニ有|海帯_一、一》
名 ̄ハ昆布、又有_二紅菜_一、類 ̄ノ_二石花菜 ̄ニ_一而少
匾、出 ̄ツ_二海灘中 ̄ニ_一、又有_二雞脚菜麒麟菜_一、
   薤《割書:一名辣蕎和名|玉ムラサキ按此物六七月》
    採_レ根 ̄ヲ漬 ̄スフ_二塩酢中 ̄ニ_一 三年乃堪 ̄タリ_レ食 ̄スルニ
    其味甘 ̄キフ如_二蔗汁 ̄ノ_一


   蕹菜《割書:海和名イソガキ》

   松露《割書:一名蓄蘿和名|シヤウロ》

    紅菜《割書:石花菜一種和名|赤ノリ》

    雞脚菜《割書:和名|フノリ》


    麒麟菜《割書:即鹿角菜一種|和名ツノヽリ》

木 ̄ニ有_二松柏檜杉榕樟梔桺槐棕櫚黄楊梧
桐_一、甚少_二異産_一、有_二樫木等_一、
樫木一名 ̄ハ羅漢杉、葉短厚 ̄ニシテ三稜、与_二 中国 ̄ノ羅
松 ̄ハ_一同、木理堅膩、国中造 ̄ハ_二屋 ̄ノ樑柱 ̄ニ_一、皆用 ̄ユ_レ之 ̄ヲ諸

島皆有、出 ̄シ_二奇界_一者 ̄ノ尤良 ̄シ、 《割書:図見|_レ前 ̄ニ》
福木、葉如_二冬青_一特大《割書:也》対 ̄シテ_レ節 ̄ニ生長 ̄スルフ二寸許、如_二
腰子形_一、厚 ̄シテ而光沢、一名 ̄ハ常盤木、樹 ̄ハ直上 ̄シテ長
丈余、四時不_レ凋、葉可_レ染 ̄ム_二緑色 ̄ヲ_一、開 ̄ク_二小黄花_一結 ̄フ
_レ実 ̄ヲ如_レ橘 ̄ノ可 ̄シ_レ食、又有_二 一木_一、土名 ̄ハ呀喇菩(カラホ)、葉皆
似 ̄タリ_二福木 ̄ニ_一亦対 ̄シテ_レ節 ̄ニ生 ̄ス_二白花 ̄ヲ_一似_レ梅、十一二月 ̄ニ実
俱 ̄ニ号 ̄ス_二君子樹_一、葉紋 ̄ハ対縷 ̄ニシテ如_レ織 ̄ルカ、中辺映 ̄シテ_レ日通
明 ̄ニシテ作 ̄ス_二金黄色 ̄ヲ_一、旧 ̄ト伝 ̄フ、闘縷樹、葉如 ̄ク_レ橘 ̄ノ、当 ̄ニ_二即此 ̄ナル_一
也、


   福木《割書:一名常盤木按 ̄ニ即黄櫨 ̄ノ一種|也其皮可 ̄シ_レ染 ̄ム_レ緑 ̄ヲ和名クロズ》
     《割書:ミキ》

   呀喇菩(カラホ)《割書:一名君子樹》

鉄樹即鳳尾蕉《割書:之》、一名 ̄ハ海稷、櫚 ̄ノ身蕉 ̄ノ葉、葉勁
挺 ̄ニシテ対 ̄シテ出 ̄スヿ_二䙰褷 ̄ヲ_一如_二鳳尾 ̄ノ_一、映 ̄ルニ_二日中 ̄ニ_一、心一線虚明 ̄ニシテ
無 ̄シ_レ影、四時不_レ凋、処々 ̄ニ植_レ之 ̄ヲ、 《割書:図見|_レ前 ̄ニ》
烏木 ̄ハ、葉如 ̄ク_レ桂 ̄ノ直上 ̄ス、外与_二常木_一不_レ異、中心 ̄ノ木
質黒色《割書:也》、然 ̄トモ亦有 ̄リ_二白理 ̄ナル者_一、又有_二紅木_一、 《割書:図見|_レ前 ̄ニ》
油樹、葉似 ̄タリ_レ橘 ̄ニ、実似 ̄テ_レ橘大、不_レ可_レ食、用 ̄テ以 ̄テ搾 ̄ル_レ油《割書:也》、
又有 ̄リ_二福満木_一、樹 ̄ノ高 ̄サ数尺、葉似 ̄テ_二木槿 ̄ニ_一差小《割書:之》、花
如 ̄ク_レ橘 ̄ノ子累々 ̄ニシテ紅色《割書:也》、可_レ食 ̄フ、又有_レ樹葉似 ̄テ_二冬青 ̄ニ_一、
高 ̄サ丈余、花如 ̄ク_レ棗子累々 ̄ニシテ生 ̄ス、如 ̄シ_二 中国 ̄ノ女貞子 ̄ノ_一、
甘酸 ̄ニシテ可_レ食 ̄フ、亦可_レ染_レ物 ̄ヲ、作_二青連色 ̄ヲ_一、名 ̄ク_二山米 ̄ト_一、又


名 ̄ク_二野麻姑 ̄ハ_一、当 ̄シ_二即青精 ̄ナル_一、
   油樹 《割書:薩州方言風|藤木》

   山米 《割書:薩州方言山古女木疑 ̄クハ|即山礬樹之一種》

古巴梯斯 ̄ハ、樹 ̄ノ髙 ̄サ二三丈餘、葉大 ̄サ如_レ ̄ク柿 ̄
ノ葉花
五椏、八九月 ̄ニ實如_二 ̄シ青果_一 ̄ノ、而少匾《割書:也》、閩
中 ̄ニモ有_レ ̄リ名_二 ̄ク戊土_一 ̄ト、
     古巴梯斯《割書:一名戊土和名未_レ詳|按 ̄ニ疑 ̄クハ即是 ̄レ麂目也蛮》
         《割書:名カタツテス》

右納 ̄ハ樹 ̄ノ髙 ̄サ三四丈餘、葉似_二 ̄テ白桐_一 ̄ニ夏季 ̄ニ開_レ花 ̄シテ


如_二 ̄ク中国 ̄ノ秋葵_一 ̄ノ黄瓣 ̄ニシテ𣞀心、
     右納《割書:今按 ̄ルニ薩州方|言 ̄ニ大葉木》

地分木、髙 ̄サ五六丈、葉似_二 ̄テ穀葉_一 ̄ニ小、白花叢生 ̄ス、
冬月開 ̄ク、有_レ ̄リ、毒可_レ ̄シ藥_レ ̄ス魚 ̄ヲ、

   地分木《割書:大嶋上名文木和名未|_レ詳疑 ̄クハ即必栗香 ̄ノ之一種》

月橘樹、髙 ̄サ丈餘、細葉如_レ棗、五六月 ̄ニ開_二小白
花 ̄ヲ、甚芬烈《割書:也》、名_二 十里香_一 ̄ト、結_レ ̄フヿ實 ̄ヲ如_二 ̄ニシテ天竺子_一 ̄ノ稍大、
二月中 ̄ニ紅《割書:也》、纍々 ̄トシテ満_レ ̄ツ樹 ̄ニ、


   月橘樹《割書:一名十里香薩州|方言津□乃木》

梯姑樹、髙 ̄サ七八丈大者合_二数圍_一、葉大 ̄サ如_レ柹
毎葉抽 ̄テ作_二 ̄ス品字形_一 ̄ヲ、對_レ ̄シテ節 ̄ニ生 ̄ス、四月所初 ̄テ花 ̄ク、朱紅
色、長 ̄サ尺二三寸、毎幹直抽_レ ̄ク攢 ̄ヲ花数十朶、花
葉如_二 ̄シ紫木筆 ̄ノ吐_一レ ̄ルカ□ ̄ヲ、髙䴡種 ̄ハ出_二 ̄ツ大平山_一 ̄ニ、

   梯姑樹《割書:和名未_レ詳疑 ̄クハ即|刺桐 ̄ナラシ》

悉達慈姑、樹 ̄ノ髙 ̄サ丈許、葉類_レ ̄ス桃 ̄ニ、子如_二葡萄穂_一 ̄ノ、
纍々 ̄トシテ深藍色、名_二 ̄ク慈姑奶_一 ̄ト、不_レ可_レ食 ̄フ、


   悉達慈姑《割書:一名慈姑奶薩州|方言山冨志》

花 ̄ニ有_二梅桃杏桂木蘭木蓮木芙蓉紅櫻雪
毬山茶安石榴杜䳌、《割書:杜䳌 ̄ハ十月開_レ花至_二 ̄テ三|月_一 ̄ニ止 ̄ム、花絶大、四_二倍 ̄ス於》
《割書:中国所 ̄ノ|_レ産者_一 ̄ニ、》佛桑《割書:千葉 ̄ナル者有_二大紅及浅紅 ̄ノ二色_一、|単葉 ̄ナル者有_二大紅一種、中心蘂》
《割書:髙出 ̄ス花瓣外一寸許、如燭 ̄ノ承_レ盤状_一 ̄ノ、|一名_二照殿紅_一 ̄ト、四時皆花 ̄アリ、六月 ̄ヲ為_レ盛、》山丹
《割書:比_二 ̄レハ中国_一 ̄ニ特 ̄ニ大、有_レ成_レ樹、長丈餘者紅花、四出|数十朶欑生 ̄スルヿ如_レ火 ̄ノ有_二 ̄リ千葉 ̄ナル者_一、重䑓甚艶《割書:也》、五》

碧桃《割書:和名末_レ詳按 ̄ニ桃有敉種_一|碧桃最竒品《割書:之》也月令 ̄ニ謂_二》
  《割書:正月碧桃開_一 ̄ト者《割書:之》也》


桂《割書:和名トウカツラ按 ̄ニ其形状|与_二東京産 ̄ノ桂_一無_レ異 ̄ナルヿ 薩州方》
 《割書:言 ̄ニ ヲスヾバギ》

木蓮《割書:按即酔芙蓉和名|琉球フヤウ》

木芙蓉《割書:和名フヤウ按或 ̄ハ云琉|球気候温 ̄ニ霜雪少 ̄シ《割書:也》故経 ̄ル》
   《割書:_レ者其幹及_二 ̄フ丈餘_一 ̄ニ》

雪毬《割書:按即白花繍毬武州|方言トウアヂサイ》


佛桑《割書:一名照殿紅薩州方言|琉球ポデンクハ》
  《割書:リユクウ》

同《割書:一種其花千葉黄赤色|薩州方言八重佛桒》

山丹《割書:和名琉球山ユリ|按此花甚竒品也》

菊《割書:按菊有_二数種_一此 ̄レ野菊 ̄ノ單瓣淡|紫花 ̄ノ者又有_二白花 ̄ノ者_一月令 ̄ニ云》
 《割書:七月野菊秀 ̄ト是也》


寒菊《割書:按其花千瓣紅色|最可_二竒珍_一 ̄ス月令 ̄ニ十》
  《割書:一月寒菊花 ̄サクト是也》

茉莉《割書:薩州方言モウリン花|蛮名セイリンガ》

同《割書:一種千瓣紫花 ̄ノ者》

水仙《割書:一種重瓣浅黄|花按 ̄ニ此物竒品也》

同《割書:一種銀臺金盏|和名琉球水仙》

薔薇《割書:和名ノバラ按薔薇種類|尤多此山野 ̄ノ所_レ生單瓣白》
  《割書:花 ̄ノ者月令 ̄ニ云 ̄フ三月薔薇開 ̄ト|是也》

剪春羅《割書:和名ガンピ艸》

杜若《割書:按俗称_二伊豆縮砂者狹|葉紅花即真杜若也》


百合《割書:一種茎端開_二純白花_一向_レ 上|数日不_レ傾甚竒品也薩州》
  《割書:方言タモトユリ》

月季《割書:一名月々紅和|名琉球バラ》

   長春《割書:和名シキ|サキバラ》

名護蘭、葉短 ̄シテ而厚 ̄シ、与_二桂葉_一同、大 ̄サ僅 ̄ニ如_レ指、三
四月開_レ花 ̄ヲ、與_レ蘭無_レ異、一箭八九朶、攢開 ̄ス、香
清越 ̄ニシテ勝_レ ̄レリ蘭 ̄ニ、出_二名護嶽巖石 ̄ノ間_一 ̄ニ不假_二水土_一 ̄ヲ、或
寄_二樹椏上_一 ̄ニ、或以_二棕皮_一 ̄ヲ裏 ̄ンテ懸_レ之 ̄ヲ又有_二風蘭_一、葉
比_レ ̄レハ蘭較長 ̄シ、香如_二山柰、茴香_一 ̄ノ、蔑_レ ̄シテ竹 ̄ヲ爲_レ盆 ̄ト、懸_二掛 ̄ス


風前_一、極 ̄メ昜蕃衍_一 ̄シ、俗皆尚_レ ̄フ蘭 ̄ヲ號 ̄シテ爲_二孔子花_一 ̄ト
   大葉名護蘭 《割書:又名_二 ̄ク西表蘭_一按 ̄ニ天台|方外志 ̄ニ所_レ謂仙人指》
         《割書:甲蘭恐 ̄クハ即 ̄チ此物 ̄ナラシ也》

   風蘭《割書:□名孔子花薩州方言|鳳蘭》

粟蘭。一名 ̄ハ芷蘭、葉如_二鳳尾_一 ̄ノ、花如_二珍珠蘭_一、又
有_二松蘭竹蘭棒蘭_一、《割書:状如_二珊瑚樹_一 ̄ノ綠色、無_レ葉、|花從椏間_一出、似_レ ̄テ蘭 ̄ニ較小《割書:也》、》
   粟蘭《割書:摂州大坂藝花家方言キ|ンラン按 ̄ニ政冨全書所_レ ̄ノ載》


     《割書:金粟蘭与_レ此不_レ同》

   松蘭《割書:駿州府中方言マツウン|按本草所_レ ̄ノ載地柏恐 ̄クハ即此》
     《割書:物 ̄ナラン也》

松蘭《割書:駿州府中方言ナギラン|按_二秘傳花鏡所_レ ̄ノ載箸蘭恐 ̄クハ》
  《割書:即此物 ̄ナラン也》

棒蘭《割書:薩州方言ボウラン按 ̄ニ本|艸所_レ ̄ノ載良耀草恐 ̄クハ即 ̄チ此物 ̄ナラン》
  《割書:也》



仙人竿《割書:和名クロタケ按即本|艸 ̄ニ所_レ謂仙人杖》

箒桃《割書:和名ハヽ|キモヽ》

   野蘭《割書:即中国 ̄ノ青蘘和名|カウヤラン》

文萱花、一名 ̄ハ歡冬花、花如_二萱草_一 ̄ノ特小《割書:也》、葉有_二 ̄テ
青白_一、相_二間紋_一 ̄ヲ、
   文萱花《割書:一名歡冬花武州方言|イサハ萱艸按 ̄ニ即救荒》
        《割書:本艸 ̄ニ所謂粉條兒茉》


山蘓花、一名 ̄ハ猿莛花、無_レ花無_レ幹、出_レ ̄テ土 ̄ヲ長 ̄サ不
_レ及_レ尺 ̄ニ、如_レ蕉而小、堅厚 ̄ニシテ有_レ ̄リ紋、
   山蘓花《割書:一名猿莛花|和名未詳》

雷山花、土名吉茄、葉如 ̄ク_二鐡梗海棠_一 ̄ノ、花如_二 ̄ク牽
牛花_一 ̄ノ差小《割書:也》、雅翠色、四五月開 ̄ク、至_二 ̄ラ十一月_一 ̄ニ、結
_レ子 ̄ヲ、如豆苞_一 ̄ノ如_二榴房_一 ̄ノ、藏_レ ̄スワ子 ̄ヲ数十粒、可_レ種、
   雷山花《割書:一名吉茄和名琉球|ノ木アサカホ》

吉姑羅、一名 ̄ハ火鳳、人家牆上 ̄ニ多植_レ之、以辟 ̄ク
_レ火 ̄ヲ、幹似_二霸王鞭草_一 ̄ニ、葉似_二 ̄タリ鎮火草_一、花似_二黄菊_一 ̄ニ
亦有_二紅 ̄ナル者_一、名_二福禄木_一 ̄ト、


   吉姑羅《割書:一名火鳳又名_二福禄木_一 ̄ト|薩州方言□蓮花》

果 ̄ニ有_二藕蔗西瓜青瓜木瓜橘《割書:数|品》香橙金柑
佛手茘枝龍眼葡萄櫻桃楊梅覆盆子《割書:形|如》
《割書:楊|梅》栃核桃枇杷梅_一、《割書:小 ̄ニシテ如_二|龍眼_一》異産 ̄ニ有_二蕉実等_一、

   藕蔗《割書:薩州種嶋方言ムラサキ|キビ按 ̄ニ似_二荻蔗_一 ̄ニ茎肥大、状》
     《割書:似_レ ̄タリ藕 ̄ニ、故 ̄ニ名_二藕蔗_一 ̄ト、与_二荻蔗_一同|類別種也》

   茘枝《割書:肥州長崎方言|リチイ》


野牡丹、土名_二苻花_一、葉与_二牡丹_一無_レ異 ̄ナルヿ、ニ三月
花開 ̄ク、作_レ叢纍々 ̄トシテ如_二 ̄シ鈴鐸_一 ̄ノ、素瓣紫暈、𣞀心如_二
碗 ̄ノ大_一 ̄サシテ、極 ̄テ芳烈《割書:也》其葉嚼_レ ̄テ之似 ̄テ為_二口香_一、種出_二太
平山_一 ̄ニ、又有_二野海棠、仙人竿箒桃野蘭_一、《割書:即中|国 ̄ノ青》
蘘、《割書:今按胡麻葉亦名|青蘘与此不同》
   野牡丹《割書:一名 ̄ハ苻花大嶋名津牟|波加阿又名_二 ̄ク保乃火_一 ̄ト最 ̄モ可_二 ̄シ》
      《割書:竒珍_一 ̄ス也》

野海棠《割書:豊州方言久住梅按 ̄ニ其|花深紅可_レ愛最 ̄モ竒品 ̄シ也》


龍眼《割書:和名タツノメ按琉球産|龍眼子与_二咬(ジヤ)【口偏に畱】吧(ガタラ)産_一無_レ異 ̄ナルノ》

櫻桃《割書:和名 ユスラ|ムメ》

   楊梅《割書:和名ヤマモヽ按 ̄ニ其実|有白色 ̄ナル者_一甚竒品也》

   核桃《割書:和名クルミ按 ̄ニ其実|無_レ異_二於朝鮮産_一 ̄ニ》


蕉實 ̄ハ芭蕉所_レ ̄ノ結實《割書:也》、名_二甘露_一 ̄ト、花紫紅色、大如
_レ瓢 ̄ノ、日 ̄ニ開_二 一瓣_一 ̄ヲ、結 ̄フヿ_レ寔 ̄ヲ如_レ ̄ク手 ̄ノ、五六指並 ̄ニ垂 ̄ル、採 ̄テ久 ̄フシテ
_レ之 ̄ヲ膚理似_二 ̄タリ之藕最嫩 ̄ナル者_一、可_レ ̄シ成_二熟 ̄ス之_一、如_レ ̄ニシテ薯 ̄ノ而
甘 ̄シ、

   蕉實《割書:一名甘露》

阿咀呢、葉長 ̄シテ旁 ̄ニ有_レ刺、久 ̄シテ成_レ ̄ス林 ̄ヲ、連蔓 ̄シテ堅利、可
_レ為_二潘藩牆_一 ̄ト、葉可_レ造_レ蓆 ̄ニ、根可_レ造_レ索 ̄ニ、開_レ ̄ク花 ̄ヲ者 ̄ヲ為_二男
木_一 ̄ト、花白 ̄シテ若_二蓮瓣_一 ̄ノ、合_レ ̄シ尖_二 ̄ル左右_一 ̄ニ、迸叠十餘朶、直
上 ̄シテ五椏蘂露如_レ ̄シ枝 ̄ノ、長 ̄サ数寸、芳劣烈如_二 ̄ク橘花_一 ̄ノ、女
木無_レ ̄シテ花、結_レ ̄フ実 ̄ヲ、大 ̄サ如_レ ̄ク瓜 ̄ノ膚紋起_レ ̄ス釘 ̄ヲ、皆六稜《割書:也》、可
_レ食、云即婆羅蜜 ̄ノ別種、《割書:也》 ̄ト粤東 ̄ニモ亦有_レ之、名_二鳳梨_一 ̄ト
   阿咀呢《割書:一種開_レ ̄ク花 ̄ヲ者即男木《割書:也》薩|州方言アダン》


   女木《割書:阿咀呢一種無_レ花結_レ実者|即女木《割書:也》一名鳳梨肥州長》
     《割書:崎方言アナヽス》

櫧子、一名 ̄ハ芝子、如_二橡栗_一 ̄ノ、而小《割書:之》、山中處々有
_レ之、一名 ̄ハ椎子、《割書:圖見|前 ̄ニ》
竹有_二若竹猫竹虎班竹鳳竹竿竹箒竹烏
竹大竿竹矢竹□竹_一、
異産 ̄ニ有_二觀音竹_一、


    苦竹《割書:和名ナヨタケ|メダケ》

    猫竹《割書:和名子コダケ按苗竹節|々有_二小刺_一質稍近_二 ̄シ方竹_一 ̄ニ》

虎班竹《割書:和名トラフタケ按 ̄ニ其|色煤黒有_二虎班紋_一如_二画》
   《割書:作_一 ̄カ》

鳳尾竹《割書:和名 鳳凰竹》


箒竹《割書:和名コシノタケ薩州|方言シノメタケ》

烏竹《割書:和名クロフ|タケ》

大竿竹《割書:和名ヲヽタケ》

矢竹《割書:和名ヤダケ》


觀音竹、著_レ 地 ̄ニ叢生 ̄ス、葉長尺許、寛 ̄サ三四寸、紫色《割書:也》、
    觀音竹《割書:薩州方言|千年草》

獸 ̄ニ有_二牛馬羊豕犬猫鹿猿山豬_一、《割書:明 ̄ノ一統志 ̄ニ|言其土産》
《割書:有_二 ̄ト羆豹狼_一、|今考 ̄ルニ皆無_レ之》
畜 ̄ニ有_二雞鴨鵝_一、異畜 ̄ニ有太和雞、比_二 ̄レハ常雞_一 ̄ニ特 ̄ニ小《割書:也》
短足 ̄ニシテ長尾《割書:也》、種出_二 ̄ツ七嶋_一 ̄ニ、
     太和雞《割書:和名チヤボ》


禽 ̄ニ有_二雀鳥鴿鷺鷗鳬鵯班鳩線鳩 《割書:十二|月 ̄ニ来》野
鳩鶉鴗《割書:俗 ̄ニ呼_二 ̄フ|神鳥_一 ̄ト》田鳥雉鶺鴒杜鵑鴛鴦_一、燕七
月 ̄ニ来 ̄ル、不_レ巢_二 人屋_一 ̄ニ、鷹 ̄ハ九月中 ̄ニ東北風 ̄ニテ從_二外嶋_一
來 ̄ル、雁 ̄ハ遇《割書:〱》有_レ之、不_二恒 ̄ニ至_一、鶴 ̄ハ或一有、亦希_レ ̄シ見_レ ̄ルフ之 ̄ヲ、
異鳥 ̄ニ有_二古哈魯等_一、
     鵯《割書:和名ヒエトリ》

班鳩《割書:和名キシハト》

緑鳩《割書:和名ミヤ|マハト》


鶉《割書:和名ウヅラ》

鴗《割書:俗呼神鳥和名|カハセミ》

杜鵑《割書:和名ホト|トキス》


燕《割書:和名ツバメ》

鴛鴦《割書:和名ヲシ|ドリ》

古哈魯、金黄毛羽、長觜短尾、四月鳴 ̄ク、
    古哈魯《割書:和名深山シヤウ|ビン》

麻石 ̄ハ、翅羽綠色 ̄ニシテ白眉《割書:也》、九月 ̄ニ來 ̄ル、又伊石求子 ̄ハ
似_二 ̄タリ麻石_一 ̄ニ、


      麻石《割書:一名麻石求子|和名ウグヒス》
      伊石求子《割書:和名五|十カラ》

烏鳳、一名 ̄ハ王母鳥、四月 ̄ニ來 ̄ル、
   烏鳳《割書:一名王母鳥和|名ヲナガトリ》


恨煞 ̄ハ、毛羽似_レ ̄テ鷹 ̄ニ而差小 ̄シ、八月 ̄ニ來 ̄ル、
   恨煞《割書:和名ハヤブサ|》

容蕋翅、灰褐色、黒頭、八月 ̄ニ来 ̄ル、
    容蕋《割書:和名シマ|ムクトリ》

石求読 ̄ハ、毛羽似 ̄テ_レ雀 ̄ニ、十月 ̄ニ来 ̄ル、春乃鳴 ̄ク、


    石求読《割書:和名ア|ヲシ》

莫読吏 ̄ハ、緑毛《割書:也》、十月 ̄ニ来 ̄ル、
    莫読吏《割書:和名ア|ヲヒハ》

蟲 ̄ニ有_二鼠蝙蝠蝎虎_一、能作 ̄ス_レ声 ̄ヲ如_レ雀 ̄ノ、冬复皆然
蜥蜴 ̄ハ生_二水池中 ̄ニ_一、紅腹背 ̄ニ有_二金光_一、又有_二 四脚
小青蛇_一、常見_レ之、国中 ̄ノ蛇最毒 ̄アリ、九月中毎 ̄ニ_レ出 ̄ル
傷 ̄ル_レ 人 ̄ヲ、人 ̄ロニ立斃 ̄ス、《割書:前使録 ̄ニ云 ̄フ、其蛇|不 ̄ト_レ傷_レ 人 ̄ヲ未_レ然》蚊蝿皆冬生 ̄ス、
蟻与_二 中国_一同 ̄シ、但腹亮 ̄ノ如 ̄シ_レ晶 ̄ノ、斃 ̄セハ_レ之有_二点水_一、
   蝙蝠《割書:和名琉球|カワホリ》


   蝎虎《割書:和名ヤモリ|》

   蜥蜴《割書:和名イモリ|》 
 【蜥蜴は一般的にトカゲと読むが筆者が混同している可能性がある】
   四脚小青蛇《割書:和名琉球|トカゲ》


   蛇《割書:薩州方言ハブ|》

_二
鱗族 ̄ニ、有_二鮫鯉鮒鰻鰍蝦金魚銀縷魚_一、異産 ̄ニ
有_二毛魚針魚燕魚等_一、其緑色紅色緑鱗紅
章五彩相間 ̄ハリ、或 ̄ハ円或 ̄ハ長者不_レ可 ̄ニ勝数_一、土人
就 ̄テ_二其色其状 ̄ニ_一呼_レ之 ̄ヲ、皆無名《割書:也》、海魚生 ̄ニテ切 ̄リ片 ̄ニシ夜
中黒処 ̄ニ視 ̄シハ_レ之、皆明透 ̄ニシテ有_二緑火光_一、色如_二熱河 ̄ノ
夜光木 ̄ノ_一
   銀縷魚 《割書: 和名シラウヲ按潜確|類書所 ̄ノ_レ戴麫條魚即是》
      《割書:也》


毛魚 ̄ハ、細小 ̄ニシテ外 ̄ヨリ視 ̄シハ似 ̄リ_レ腐、咀嚼 ̄シテ有_レ味、閩人皆重 ̄ス
_レ之、為_二珍品 ̄ト_一、七月朔 ̄ノ前後、五日八月朔前後
五日、於_二海中_一排_レ陳出 ̄ツ、他月 ̄ハ則 ̄チ否 ̄ラス、《割書:図見|_レ前 ̄ニ》
針魚頭戴 ̄ク_二針形 ̄ヲ_一、亦名 ̄ク_レ鱵、
   針魚 《割書: 一名鱵和名|サヨリ》

靴魚 ̄ハ 、頭長 ̄ノ 如 ̄シ_レ 靴 ̄ノ
     靴魚《割書:和名ウシノシタ按 ̄ニ|即本艸 ̄ニ 所_レ 謂比月魚》


     燕魚《割書:一名鰩魚又名飛魚|和名トビウヲ》

介族 ̄ニ有_二龜黿鼈_一、異産 ̄ニ有_二玳琩等_一、
玳琩 ̄ハ甲如_二 ̄シ亀鼈_一、首尾 ̄ノ形少 ̄ニシテ尖頭《割書:也》帯_二 ̄フ淡紅色_一 ̄ヲ、
《割書:図面|_レ前》
海馬 ̄ハ、馬首魚身、無_レ ̄ク鱗、肉如_レ ̄シ承頗 ̄ル得、淂者 ̄ハ
先以進_レ ̄ム王 ̄ニ
   海馬《割書:和名タツノ|ヲトシゴ》


石鮔 ̄ハ、首圓 ̄ニシテ下 ̄ニ生_二 ̄ス八手_一 ̄ヲ、無_レ脚、土人皆以入_レ ̄ル饌 ̄ニ
   石鮔《割書:和名手長タニ按東医|寶鑑 ̄ニ所_レ ̄ノ載ハ梢魚恐 ̄クハ即》
     《割書:此物 ̄ナラシ也》

蟳 ̄ハ、肉最 ̄モ佳味《割書:也》、如_レ蟹而大《割書:也》、性温《割書:也》、蟹 ̄ハ大小種族
各□、有_二小蟹_一 五色両螯、左大 ̄ニシテ右小《割書:也》、小 ̄ハ以 ̄テ取
_レ食 ̄ヲ、大以外禦 ̄ス、惟大螯 ̄ハ朱紅色《割書:也》、名曰照火_一 ̄ト小
蟹 ̄ハ居_二 ̄ス螺殻中_一 ̄ニ名_二寄生_一 ̄ト、

   蟳《割書:和名手長ガニ蛮名|ゼーカラツヘ》

海謄 ̄ハ、背 ̄ニ生 ̄ルフ_レ刺如_レ蝟 ̄ノ、蠕々 ̄トシテ能 ̄ク運 ̄リ徐行 ̄ス、味如_二蝦
蟳 ̄ノ_一《割書:図面|_レ前》


螺族、尤異《割書:也》、五色璀璨 ̄タリ形状詭出、蛼螯 ̄ハ大 ̄ワ如 ̄ク
_レ盤 ̄ノ国人以為_レ益、為_二戸枢_一、為_レ釜皆是《割書:也》、異 ̄ナル者 ̄ハ有_二
壁虎魚等_一、
壁虎魚 ̄ハ螺殻上 ̄ニ生_二 五六爪 ̄ヲ_一、形如_二壁虎_一、名_二壁
虎魚 ̄ハ_一、
   壁虎魚《割書:和名クモ介|又ミツガイ》

桅螺 ̄ハ、殻尖出 ̄ルヿ如_レ ̄ク桅_レ ̄レテ刺満_レ ̄ツ之 ̄ニ、桅魚_一 ̄ト、
    桅螺《割書:一名桅魚和名|悪鬼介(アツキカイ)》


貝 ̄ニ有_二数種_一、一種外白色 ̄ニシテ内朱【糸偏に日】色、一種玳
瑁班内紫白色《割書:也》、
    貝《割書:和名子安貝按貝子種|類最多 ̄シ今載_二其一_一 ̄ヲ》

龍頭蝦 ̄ハ、名_レ鰝 ̄ト、大者一二尺、形絶似_レ ̄タリ龍 ̄ニ、時以
供饌、蛤【虫編に耳】之族不_レ可_二勝 ̄テ紀_一 ̄ス、

竜頭蝦《割書:和名ガザメ按即嶺表|録異 ̄ニ所_レ ̄ノ載蝦魁《割書:也》》

佳蘇魚、削_二黒饅𩵋肉_一 ̄ヲ、乾_レ之為_レ腊 ̄ト、長 ̄サ五六寸、
梭形 ̄ハ出_二久髙_一 ̄ニ者良 ̄シ、食法以_二温水_一 ̄ヲ洗 ̄ヒ一過 ̄シテ色_二 ̄ニ
蕉葉中_一 ̄ニ入_レ火畧煨 ̄シ再 ̄ヒ洗浄 ̄シ、以_二利刀_一 ̄ヲ切_レ ̄ルヿ之 ̄ヲ三


四切皆勿_レ令_レ断、第五六七始 ̄テ断、毎_二 一片_一形
如_二蘭花_一、漬 ̄ニ以_二 ̄ス清醤_一 ̄ヲ更 ̄ニ可_レ ̄シ口 ̄ニ、《割書:按 ̄スルニ是即今之|鰹節 ̄ノ之類》
海松、生_二海水中_一 ̄ニ、大者二三尺、根蟠_二海底石
上_一 ̄ニ、久_レ ̄シテ之 ̄ヲ与_レ石為_一矣、国人亦 ̄タ名 ̄テ曰_二礒松_一、似
_レ言_下 ̄フニ松本 ̄ト木類、附 ̄テ生_二石上_一 ̄ニ、如_中 ̄レト義甲義䯻之義_上 ̄ノ、
此字甚切《割書:也》、按_二 ̄ルスニ字書_一 ̄ヲ、礒 ̄ハ石 ̄ノ貌、別 ̄ニ是 ̄レ一意、其枝
葉纎細 ̄ニシテ與_二側栢_一無_二少 ̄シモ異_一 ̄ルヿ鮮燄 ̄ニシテ如_レ ̄シ火 ̄ノ、疑 ̄クハ以_二柏
枝葉_一 ̄ヲ成_二 ̄スカト朱色_一 ̄ヲ、有_二腥気_一、不_レ可_二近翫_一 ̄ス、其根木色、
輪囷屈曲 ̄シテ、如_二老樹根_一、以_レ刀 ̄ヲ刻_レ之拒 ̄テ不_レ可_レ入 ̄ル、
儼然 ̄トシテ石也、生_二馬齒山_一 ̄ニ者、較_二 ̄レハ他處_一 ̄ニ尤良《割書:也》、紅色

不_二即褪落_一 ̄セ《割書:圖見|前》
又有_二 一種_一、無_二枝葉_一、拳石殷紅 ̄ニシテ上 ̄ハ作_二蜂窠_一 ̄ヲ、細
眼攢蹙、編満 ̄シテ如_二雞冠花頭_一 ̄ノ、皆生_二海底_一 ̄ニ、惟馬
歯山 ̄ノ漁人、䏻泅_レ ̄テ水 ̄ヲ深 ̄ク没 ̄シテ取_レ之、中山 ̄ノ漁戸䏻 ̄ク
入_レ水 ̄ニ者亦不_レ䏻_レ及 ̄フ也、
   一種海松《割書:相州鎌倉方言|雞冠介》


石芝、生_二沿海海底石罅 ̄ノ中_一 ̄ニ、天使館 ̄ノ西北海
上、有_二小石山_一、名_二石筍崖_一 ̄ト、土人亦称 ̄シテ為_二波上_一 ̄ト、
此崖之下、石芝所_レ《割書:也》聚前使 ̄ノ舊録 ̄ニ云、有_レ根有
葉、大者 ̄ハ如_レ盆、小者 ̄ハ如_レ盎、其他如_レ菌如_レ菊如_二
荷葉_一 ̄ノ者、不_レ可_二勝数_一、霊壁羊肚 ̄モ俱 ̄ニ不_レ足_レ道 ̄フ、亦
惟馬歯山人䏻深 ̄ク没 ̄シテ取_レ之、塩水久 ̄ク漬 ̄シテ、而成
腥氣_一、尤_レ不_レ可_レ近、出_レ水久_レ ̄シテ之、腥気漸退 ̄ク然 ̄レトモ脆
折 ̄シテ亦難_レ致_レ遠、故 ̄ニ不_二 ̄ト貴重_一 ̄セ云、
   石芝

凡 ̄ソ石 ̄ノ大小皆極 ̄テ嵌空《割書:也》、大者如_レ樓 ̄ノ如_レ屋、玲瓏
明透、古藤營結 ̄シ、葱欎 ̄ス、即拳石、亦有_二竒致_一、山
崖海邉遍地多 ̄ク有、但質甚鬆利昜_二脆折_一、惟
磨刀石甚堅 ̄クシテ而膩、以為_レ礪、勝_二 中國 ̄ノ者_一、故 ̄ニ丗


以充_レ ̄ツ貢 ̄ニ、
     磨刀石《割書:和名アラ|トイシ》

中山伝傳録物産考巻之終

内国地図

琉球入貢紀略

【製本表紙】
【題箋があるが文字なし】
【管理ラベル「807 1」】

【製本表紙】
【題箋】
「琉球入貢紀略 完」

【右丁】
山崎美成編輯 不許坊間散粥
       入銀百部毀版
《題:琉球入貢紀略》
嘉永庚戌再雕 静幽堂梓
【朱楕円印「宍戸氏文庫 第1651号 共冊」】
【左丁】
【朱角印三つ、内二つ「宝玲文庫」「紀伊小原八三郎□良直蔵書之記」】
【本文】
琉球入貢紀略序【角印一つ】
海以外、作風潮而朝貢於我者、有琉球焉、有
朝鮮焉、若琉球、則以其為為朝之裔、相視若一
家、尓後或曠聘問、而自島津氏兵艦一西以来、
遂靡然従服、永為我之附庸、然後随時入朝、
脩明礼典、莫敢癈弛者、既二百有余年、猗戯
不亦為盛歟、余年已七十余、幸親見其入貢者
亦且亦矣、往年嘗述其梗概、作入貢紀略一巻、以
【甞は嘗の異字体】

上梓、今茲庚戌孟冬、中山王復使玉川王子貢方物、
謝其襲封之恩、於是余就前書、補闕拾遺、将
再刻之、而山崎北峰為之校訂、北峰余老友
也、博綜今古、最通国家之典故、今以其将伯之
助、而此書始成、豈非余之至幸耶、慶長間、我奥
岩城、有釈袋中者、嘗赴琉球、遂郡駕蛮船
以入唐山、蛮人憚之、峻拒不允、袋中因住琉球、
与縉紳馬幸朙交善、移居首里府桂林寺、
為幸明著琉球神道記、以記其立国巔末、又倣此
間庭訓往来、著琉球往来、以便還蒙、緇素饗
往、留之不還、閱三年乃帰、嗚乎、袋中以賤類一浮居、凌
波濤踰絶険、周遊尓最海孤島之間、使者候
戴依服不已、雖徳望之隆、抑右不可謂非
皇国之余烈所致、余生遭雍煕之曰、不敢飛舸
度険、而見中山儀典於輦轂咫尺之下、与袋
中同其応接、而貢其逸労、其為至幸也亦大
【賎は賤の異字体】

【右丁】
矣、遂併録以鳴昇楽之盛者、如此、
嘉永三年庚戌冬十月晶山老人時年七
十三題於木雞窩書屋
      【落款二つ】【鍋田三善】
          秋巌原筆書
         【落款二つ】
【左丁】
引用書目
 隋書       日本書紀
 中山伝信録    琉球国志略
 薩州旧伝集    諸国跡譜
 分類年代記    中原康富記
 京都将軍家譜   斉藤親基日記
 和漢合運     異国往来記
 系図       駿府政事録
 南浦文集     元寛日記

 輪池掌録     琉球事略
 羅山文集     近世武家編年略
 万天日記     暦代備考
 甘露叢      琉球聘使紀事
 文露叢      享保日記
 歴史要略     三国通覧
 速水見聞私記   琉球談
 南島志      性霊集
 今昔物語     中山世譜
 保元物語     琉球奇譚
 琉球神道記    琉球往来
 琉球年代記    琉球雑話

【絵図あり】
【下面右下】英林【落款「英淋」】
里之子(さとのし)
琉球国王(りうきうこくわう)

【右丁】
【角印「富□漁翁」】
寿 【丸印一つ】
琉球国越来三明堂楽水一百十一歳書
【左丁】
【本文】
琉球入貢紀略目録(りうきうじゆこうきりやくもくろく)
  琉球(りうきう)古(いにしへ)の朝献(てうけん)
   古(いにしへ)琉球(りうきう)を掖玖島(やくじま)あるひは多祢島(たねしま)と云(いふ)
  琉球使(りうきうし)来(きた)れる
   琉球(りうきう)の名(な)載籍(さいせき)に見えたる
  琉球国(りうきうこく)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる
  永享以後(えいかういご)琉球人(りうきうじん)来(きた)る
  薩洲大守(さつしうのたいしゆ)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す
   琉球(りうきう)の守護神霊験(しゆごじんれいけん)

【右丁】
   薩琉軍談(さつりうぐんだん)の弁(べん)
  慶長以後入貢(けいちやういごじゆこう)
 附録(ふろく)
  琉球国全図(りうきうこくせんづ)
  三十六島図(さんじふろくたうのづ)
  中山世系(ちうざんせいけい)
  鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)鬼(おに)が島(しま)へ渡(わた)る
  位階(いかい)の次第(しだい)
【左丁】
増訂(ぞうてい)琉球入貢紀略(りうきうじゆこうきりやく)

  琉球(りうきう)古(いにしへ)の朝献(てうけん)
琉球(りうきう)は吾邦(わがくに)の南海(なんかい)にあるところの一(ひとつ)の島国(しまぐに)なり、其(その)
国(くに)の風俗(ふうぞく)もとより質朴(しつぼく)にして文字(もんじ)に習(なら)はず、これに
よりて国(くに)の名(な)は聞(きこ)えながら、開闢(かいひやく)より歴代(れきだい)の事実(じじつ)は、
史書(ししよ)などいふものもなければ、その詳(つまびらか)なることは得(え)て
考(かんが)ふべからず、唐土(もろこし)の書(しよ)には隋書(ずゐしよ)にはじめて見え
たり、煬帝(やうだい)の大業元年(たいげふぐわんねん)海帥(かいすゐ)何蛮(かばん)というもの、春秋(はるあき)の

ころ天気(てんき)晴(は)れて海上(かいしやう)風(かせ)おだやかなる時(とき)、東(ひがし)の方(かた)を見(み)
渡(わた)すに、かすかに煙霧(えんむ)の如(ごと)くに見ゆるの気(き)あり、その
遠(とほ)きこと幾千里(いくせんり)といふことをはかるべからずといへるによ
りて、同(おなじ)き三年(さんねん)、帝(てい)羽(う)騎尉(きゐ)朱寛(しゆくわん)といふものをして、海(かい)
外(ぐわい)の異俗(いぞく)を訪(と)ひ尋(たづ)ねしむるにあたりて、何蛮(かばん)かねて
いへることのあれば、倶(とも)につれ往(ゆ)きけるに、遂(つひ)に琉球国(りうきうこく)
に至(いた)りけれども、言語(ことば)通(つう)ぜす、よつて一人(ひとり)を掠(かす)めて還(かへ)
れり、その翌年(よくねん)再(ふたゝび)朱寛(しゆくわん)を琉球(りうきう)につかはして、慰撫(ゐぶ)せ
しむといへども従(したが)はざれば、朱寛(しゆくわん)かの国(くに)に往(ゆき)たるしるし
に、布甲(ふかふ)【左注「よろひ」】を取(と)りて還(かへ)れり、その頃(ころ)吾邦(わがくに)の使人(つかひ)、たま〳〵
唐土(もろこし)にありて、彼(かの)布甲(ふかふ)を見ていへるは、これは夷邪久(いやく)
の国人(くにひと)の用(もち)ゆるところの物(もの)といへりとあり、吾邦(わがくに)に
は、これらの事(こと)を記(しる)したるものなしといへども、これ
によりて憶(おも)へば琉球(りうきう)の人(ひと)の、掖玖島(やくじま)の人(ひと)とともに、
吾邦(わかくに)へはやく往来(わうらい)したることゝは知(し)られたり、史(し)を
按(あん)ずるに、推古天皇(すゐこてんわう)二十四年(にじふよねん)に掖玖(やく)の人(ひ)【ママ】来(きた)ると
見えたり、この年(とし)隋(ずゐ)の大業(だいげふ)十二年(じふにねん)にあたれり、これ
より先(さき)に掖玖(やく)の人(ひと)とともに琉球(りうきう)の人(ひと)の、吾邦(わがくに)に来(きた)

りしことありしにやあらん、しからざれば大業(だいげふ)の初(はじめ)、吾(わが)
邦(くに)の人(ひと)の、隋人(ずゐひと)に答(こた)へし詞(ことば)にかなひがたし、かゝれば琉(りう)
球(きう)の名(な)は、史(し)にしるさずといへども、推古(すゐこ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)よ
り、はやく已(すで)に彼国(かのくに)より朝献(てうけん)ありしこと知(し)るべし、
 按(あん)ずるに、推古(すゐこ)天皇(てんわう)二十四年(にじふよねん)掖玖(やく)の人(ひと)来(きた)るよし見
 えたり、《割書:史に掖玖(やく)、また邪久(やく)、益久(やく)、夜句(やく)、益救(やく)なども|かけるは、文字(もじ)の異(こと)なるまでにて同(おな)じことなり、》南島(なんたう)
 の朝献(てうけん)は、この時(とき)より始(はじま)れるならん、この掖玖(やく)といへ
 るは、即(すなはち)琉球国(りうきうこく)のことなりといへり、又(また)天武(てんむ)天皇(てんわう)十(じふ)
 年(ねん)、多祢島(たねじま)へ使人(つかひ)をつかはして、その国(くに)の図(づ)を貢(みつが)し
 むることあり、おもふにこの多祢島(たねじま)といふも、亦(また)琉球(りうきう)
 のことなり、南海(なんかい)の島々(しま〴〵)の名(な)、いまだ詳(つまびらか)ならざるに
 よりて、琉球(りうきう)へ通(かよ)ふ船路(ふなぢ)この多祢島(たねじま)を経(へ)て、往来(わうらい)
 するをもつて、多祢島(たねじま)とも呼(よ)べるならん、《割書:この多祢|島といへ》
 《割書:るは今云(いまいふ)|種(たね)が島(しま)なり》後(のち)元明(げんみやう)天皇(てんわう)和銅(わどう)七年(しちねん)、南海(なんかい)の諸島(しよたう)みな内(だい)
 附(ふ)すと見えたり、《割書:南島|志》
  琉球使(りうきうし)来(きた)れる
琉球(りうきう)は掖玖(やく)の島人(しまびと)とともに、推古(すゐてん)【ママ】天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)より
来(きた)りけんが、はやく朝貢(てうこう)怠(おこた)りしなるべし、かくてその

国(くに)と往来(わうらい)なければ、たま〳〵記載(きさい)に見えたるも、みな
県聞(けんぶん)【左注「きゝつたへ」】臆度(おくど)【左注「すゐりやう」】のみにて、たしかなることなきはその故(ゆゑ)なり
とおもはる、その国(くに)もまたはるかの島国(しまぐに)にて、いづれ
の国(くに)の附庸(ふよう)にもあらず通信(つうしん)もせざりしが、明(みん)の洪(こう)
武(ぶ)年間(ねんかん)、琉球(りうきう)は察度王(さつどわう)の時(とき)にあたりて冊封(さくほう)とて唐(もろ)
土(こし)より中山王(ちうざんわう)に封(ほう)ぜられて、彼国(かのくに)へも往来(わうらい)して、制(せい)
度(ど)文物(ぶんぶつ)すべて、唐土(もろこし)にならひてぞありける、明(みん)の宣(せん)
徳(とく)七年(しちねん)に、宣宗内官(せんそうないくわん)紫山(さいざん)といへる臣(しん)に命(めい)して、勅(ちよく)
書(しよ)を齎(もた)らしめ琉球国(りうきうこく)につかはし、中山王(ちうざんわう)より人(ひと)をし
て、吾邦(わがくに)に通信(つうしん)せしむ、この宣徳(せんとく)七(ち)【ママ】年(ねん)は、吾邦(わがくに)の永(えい)
享(きやう)四年(よねん)にあたれり、これによりて考(かんが)ふるに、上古(しやうこ)よ
りはやく往来(わうらい)絶(た)えて、後(のち)明(みん)宣宗(せんそう)のために、我邦(わがくに)へ使(つかひ)
せしは、はるかに年(とし)を歴(へ)て、再(ふたゝ)び吾邦(わがくに)へ琉球使(りうきうし)の来(きた)れ
る始(はじ)めなるべし、これより後(のち)も、明(みん)の正統(しやうたう)元年(ぐわんねん)英宗(えいそう)琉(りう)
球(きう)の貢使(こうし)伍是堅(ごしけん)をして、回勅(くわいちよく)を齎(もた)らして、日本国(にほんこく)
王(わう)源義教(げんぎけう)に諭(ゆ)すといひ、《割書:永享(えいきやう)八年|のことなり》嘉靖(かせい)三年(さんねん)、琉球(りうきう)の
長吏(ちやうり)【史】金良(きんりやう)のをして、日本国王(にほんこくわう)に転諭(てんゆ)す《割書:大永(だいえい)四年の|ことなり ○中》
《割書:山伝信録、琉|球国志略》といへることあれば、明(みん)の時(とき)より吾邦(わがくに)へ書(しよ)を贈(おく)

るに、琉球使(りうきうし)に命(めい)ぜらるゝこともありしとぞおもは
るゝなり
 琉球(りうきう)はもとより吾邦(わがくに)の属島(ぞくたう)なりといへども、かけ
 はなれたる島国(しまぐに)にて、その国(くに)往来(わうらい)することはやく
 絶(たえ)ぬればたま〳〵載籍(さいせき)に見ゆるものも、僅(はづか)に一(いち)二(に)
 条(てう)のみにして、その詳(つまびらか)なることを記(しる)したるものあ
 ることなし、弘法大師(こうばふだいし)の性霊集(しやうりやうしふ)に凱風(ガイフウ)朝(アシタニ)扇(アフキ)摧(クタキ)_二肝(キモヲ)
 耽羅(タンラ)之(ノ)狼心(ラウシンニ)_一、北気(ホクキ)夕(ユフヘニ)発(オコリ)失(ウシナフ)_二膽(キモヲ)留求(リウキウ)之(ノ)虎性(コセイニ)_一といへる
 文(もん)あり、これは入唐(にうたう)大使(たいし)賀能(かのう)がために、代(かは)り撰(えら)み
 て、福州(ふくしう)観察使(くわんさつし)に与(あた)ふるの書(しよ)にて、延暦(えんりやく)二十三(にじふさん)
 年(ねん)の事(こと)なり、また今昔物語(こんじやくものがたり)、智証大師(ちしようたいし)の伝(でん)に、
 仁寿(にんじゆ)三年(さんねん)八月(はちぐわつ)九日(こゝのか)、宋(そう)の商人(あきひと)良暉(りやうき)か、年来(としごろ)鎮西(ちんぜい)
 にありて、宋(そう)にかへるにあひて、その船(ふね)に乗(の)り行(ゆ)
 くに、次(つき)の日(ひ)辰(たつ)の時(とき)はかりに、琉球国(りうきうこく)に漂(たゞよひ)着(つ)く、
 その国(くに)は海中(かいちう)にありて人(ひと)を食(くら)ふ国(くに)なり、その時(とき)
 に風(かぜ)やみて赴(おもむ)かん方(かた)を知(し)らず、はるかに陸(くが)のうへ
 を見(み)れば数十(すじふ)の人(ひと)鉾(ほこ)を持(もち)て徘徊(はいかい)す、欽良暉(きんりやうき)こ
 れを見て泣(なき)悲(かなし)ぶ、和尚(をしやう)その故(ゆゑ)を問(と)ひたひたまふに、答(こたへ)て

 云(いは)く、この国(くに)人(ひと)を食(くら)ふところなり悲(かなしい)かな此(こゝ)にして
 命(いのち)を失(うしなひ)てんとすと、和尚(をしやう)これを聞(き)【ママ】て忽(たちまち)に心(こころ)至(いた)し
 て不動尊(ふどうそん)を念(ねん)じ給ふ、《割書:三善清行(みよしのきよつら)が撰(えら)みし|伝(でん)にもおなじ趣なり》といへり、
 これや琉球国(りうきうこく)の名(な)、吾邦(わがくに)の書籍(しよじやく)に見えたる始(はじ)
 めならん、さてこゝに琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふの国(くに)といへ
 るも、もとより伝説(でんせつ)の訛(あやま)りながら、またその拠(よる)と
 ころなきにあらず、隋書(ずゐしよ)に国人(コクジン)好相(アヒコノンデ)攻撃(コウゲキス)【左注「タヽカフ」】云々、取(トリテ)_二
 闘死者(タヽカヒシスルモノヲ)_一共(トモニ)聚而(アツマリテ)食(クラフ)_レ之(コレヲ)とあるをおもへば、唐土(たうど)にて
 ふるくより、琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふよしいひ伝(つた)へしを、吾邦(わがくに)
 にもかたり伝(つた)へしなるべし、これによりてもその
 国(くに)吾邦(わがくに)には近(ちか)けれども、絶(たえ)て往来(わうらい)せざることを
 知(し)るべし、
  琉球国(りうきうこく)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる
足利義満(あしかゞよしみつ)の男(なん)、大覚寺(だいかくじ)門跡(もんぜき)義昭(きせう)大僧正(だいそうじやう)、逆意(ぎやくい)の企(くわだ)
てありて九州(きうしう)へ下(くだ)りたまふが、その事(こと)露顕(ろけん)し
ければ、日向国(ひうがのくに)福島(ふくしま)の永徳寺(えいとくじ)に落下(をちくだ)り、野武士(のぶし)の者(もの)
ども御頼(おんたの)み隠(かく)れ住(す)み給ひけるに、足利義教(あしかゞよしのり)これを
聞(きこ)し召(め)しつけられ、薩州(さつしう)の大守(たいしゆ)島津陸奥守(しまづむつのかみ)忠国(たゞくに)へ

【絵図あり、帆船八艘など】
【画面右上】
    友野在易
ものゝふの手に
 とり得たる
    梓弓
 やくの貢は
  ひきも
   たえ
    せし
【画面右下】梅林【落款二つ】

討(う)ち奉(たてまつ)るべきよし命(めい)ぜられしかば、嘉吉(かきつ)元年(くわんねん)
三月十三日(さんくわつじふさんにち)、樺山某(かばやまそれがし)にあまたの兵士(へいし)を従(したが)はしめて
討手(うつて)に向(むけ)られ、永徳寺(えいとくじ)に於(おい)て、山田式部(やまだしきぶ)といふもの
僧正(そうしやう)を討(う)ち、御首(おんくび)をは将軍(しやうぐん)へ贈(おく)りけり、僧正(そうじやう)の役(やく)
人(にん)別垂 讃岐坊(さぬきばう)といへるものも、この時(とき)討(うた)れたりとぞ
聞(きこ)えしその恩賞(おんしやう)として、薩州(さつしう)の大守(たいしゆ)へ琉球国(りうきうこく)
を賜(たま)はり、討手(うつて)に向(むか)ひし樺山(かばやま)その外(ほか)の兵士(へいし)へ、みな
感状(かんじやう)ならびに太刀(たち)を下(くだ)されたり、此時(このとき)よりして
琉球国(りうきうこく)年毎(としこと)の貢物(みつきもの)たえず、通信交易(つうしんかうえき)してながく
薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となるの始(はじ)めなり、《割書:旧伝集、諸|門跡譜、》
  永享(えいかう)以後(いご)琉球人(りうきうじん)来(きた)る
文安(ふんあん)五年(ごねん)、琉球人(りうきうじん)来(きた)る、《割書:分類年|代記》
宝徳(はうとく)三年七月(さんねんしちくわつ)、琉球(りうきう)の商人(あきひと)の船(ふね)、兵庫(ひやうご)の津(つ)に着岸(ちやくがん)
したるに、守護職(しゆごしよく)細川京兆(ほそかはけいてう)やがて人(ひと)をつかはして、
彼(かの)商物(あきなひもの)を撰(えら)み取り料足(れうそく)を渡(わた)さず、先々年々(せん〴〵ねん〳〵)の借(しやく)財
四五千貫(しごせんぐわん)に及(およ)べとも返弁(へんべん)なく、その上(うへ)売物(うりもの)をおさへ
留(とゞめ)られて、琉球人(りうきうじん)難義(なんぎ)のよし申しければ、時(とき)の公方(くばう)
より、奉行(ぶぎやう)三人(さんにん)、布施下野守(ふせしもつけのかみ)、飯尾与三(いひをよさう)左衛門、同(おなじく)六郎(ろくらう)

をつかはされて、糺明(きうめい)せられしにかの押(お)して取(と)りたる
物(もの)を京兆(けいてう)より返(かへ)されさるによりて、奉行(ぶぎやう)の上洛(じやうらく)延(えん)
引(にん)せり、《割書:康富|記》
文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)七月二十八日(しちぐわつにじふはちにち)、琉球人(りうきうじん)参洛(さんらく)す、これは足(あし)
利義政(かゞよしまさ)の世(よ)になりて六度目(ろくたびめ)なり、《割書:斉藤親|基日記》
天正(てんしやう)十一年(しふいちねん)、琉球国(りうきうこく)入貢(じゆこう)、《割書:和漢合運、異|国往来記》
 按(あん)ずるに、宝徳(はうとく)三年(さんねん)、兵庫(ひやうご)に来(きた)る琉球(りうきう)の商物(あきなひもの)、先(せん)
 先(ぜん)年々(ねん〳〵)の借財(しやくざい)といひ、また文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)の参洛(さんら )【ママ】六度(ろくたび)
 目(め)、とあるによりておもへば、永享(えいきやう)以後(いこ)かの国人(くにひと)
 の来(きた)れること、しば〳〵なりと見ゆれども、記載(きさい)に乏(とも)
 しければ、その詳(つまびらか)なることは得(え)て考(かんが)ふべからず
  薩州太守(さつしうのたいしゆ)島津氏(しまづし)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す
琉球国(りうきうこく)は、嘉吉年間(かきつねんかん)、足利義教(あしかゝよしのり)の命(めい)ありてよりこの
かた、世々(よゝ)薩州(さつしう)の附庸(ふよう)の国(くに)たるところ、天正(てんしやう)の頃(ころ)群(ぐん)
雄(ゆう)割拠(くわつきよ)の時(とき)にあたりて、琉球(りうきう)の往来(わうらい)しばらく絶(たえ)たり、
その後(のち)世(よ)治(をさま)り士民太平(しみんたいへい)をとなふるに至(いた)りて、薩州(さつしう)の
太守(たいしゆ)島津家久(しまづいへひさ)より琉球(りうきう)へ使(つかひ)をつかはし、もとの如(ごと)く
貢使(こうし)あるべきよし再三(さいさん)に及(およ)ぶといへども、彼国(かのくに)の三司(さんし)

官(くわん)謝那(しやな)といふ者(もの)、ひそかに明人(みんひと)と事(こと)を議(はか)り、待遇(たいぐう)こと
さらに礼(れい)なく貢物(みつぎもの)もせざりければ、なほ家久(いへひさ)使(つかひ)をつか
はし、責(せめ)たゞすといへども従(したが)はざりけるによりて、止(やむ)こと
を得(え)す征伐(せいばつ)して、その罪(つみ)を正(たゞ)さんと請(こ)ふに、慶長(けいちやう)十(じふ)
四年(よねん)の春(はる) 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り、樺山権(かばやまごん)左衛門 久高(ひさたか)を惣大(そうたい)
将(しやう)とし、平田太郎(ひらたたろ)左衛門 益宗(ますむね)を副将(ふくしやう)とし、龍雲和尚(りううんをしやう)
を軍師(くんし)とし、七島郡司(なゝしまぐんし)を案内者(あんないしや)として、その勢(せい)都(つ)
合(がふ)三千余人(さんぜんよにん)、軍艦(いくさぶね)百余艘(ひやくよそう)を備(そな)へて、二月二十二日(にぐわつにじふにゝち)纜(ともつな)
を解(とき)て、琉球国(りうきうこく)へ発向(はつかう)するにのぞみて、おの〳〵出陣(しゆつぢん)の
祝(いは)ひとして餞別(はなむけ)しける、中(うち)にも世(よ)に聞(きこ)えたる勇士(ゆうし)の、
新納武蔵守(にひろむさしのかみ)一氏(かずうぢ)、老後(らうこ)入道(にふだう)して拙斉(せつさい)と号(がう)したる
が、樽肴(たるさかな)を持(もた)せられ、祇園(きをん)の洲(す)といふところまで見(み)
送(おく)り、諸軍勢(しよぐんぜい)なみ居(ゐ)けるが、樺山久高(かばやまひさたか)上坐(しやうざ)に居(ゐ)られ
ず謙退(けんたい)せられしに、新納拙斉(にひろせつさい)申されけるは、今(いま)琉球(りうきう)
征伐(せいはつ)の大将(たいしやう)として渡海(とかい)あること、即(すなはち)これ君(きみ)の名代(みやうだい)
なり、はやく大将(たいしやう)の坐(さ)になほり候へといはれしかば、其(その)
まゝ上坐(しやうざ)につかれけり、かゝれば諸軍(しよぐん)の士卒(しそつ)も自(おのづから)心(しん)
服(ふく)し、号令(がうれい)行(おこな)はれたりとかや、夫(それ)より乗船(じようせん)し、山川(やまがは)の

湊(みなと)より順風(しゆんふう)に帆(ほ)をあげ大島(おほしま)に着岸(ちやくがん)し、この島人(しまひと)
防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ひけるによりて鉄砲(てつはう)をうちかけ、防(ふせ)ぐもの
およそ千人(せんにん)ばかり、手向(てむか)ふ者(もの)どもは討取(うちと)り、首(くび)を獲(う)る
こと三百余級(さんひやくよきふ)、他(た)はみな降人(がうにん)にぞ出(いで)にける、四月朔日(しぐわつついたち)
沖(おき)の永良部(えらふ)と与論島(よろしま)を攻取(せめと)り、運天(うんてん)の湊(みなと)に乗(の)り
つけ、備(そなへ)をそろへ城(しろ)を攻(せ)めおとし、首里(しゆり)の王城(わうしやう)に取(とり)
かゝらんと、およそい一里(いちり)ほどこなたなる、那覇(なは)の湊(みなと)
におもむきけるに、湊(みなと)の口(くち)には逆茂木(さかもき)乱杭(らんくひ)すき間(ま)
なく、水中(すゐちう)には鉄(てつ)の鎖(くさり)を張(は)り、これに船(ふね)のかゝりなば、
上(うへ)より眼下(めのした)に見おろしながら、射(い)とらんとの手(て)だて
をかまへ、その余(よ)島々(しま〴〵)の要害(えうがい)いとおごそかにぞ待(まち)かけ
ける、これによりて他(た)の港(みなと)より攻入(せめい)りて、三日(みつか)が間(あひだ)攻(せめ)
たゝかひ、手負(ておひ)討死(うちじに)もなきにはあらねど、聊(いさゝか)ためらは
ず直(たゞち)に進(すゝ)みて、首里(しゆり)に攻入(せめい)り、王城(わうじやう)を取(と)り囲(かこ)みける
に、をりふく琉球(りうきう)の諸勢(しよぜい)、みな那覇(なは)の湊(みなと)なる城(しろ)にた
て籠(こも)りて、王城(わうじやう)は無勢(ぶぜい)にて、防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふべき兵士(へいし)もな
かりければ、薩州勢(さつしうぜい)の急(いそ)ぎもみにもんで、攻(せ)め破(やぶ)らん
とするいきほひに、中山王(ちうさんわう)及(およ)び三司官(さんしくわん)等(ら)、なか〳〵敵(てき)す

ることあたはず、避易(へきえき)【左注「おそれ」】【辟易】してみな降参(かうさん)に出(いで)て、落城(らくじやう)に及(およ)
ひけり、さて那覇(なは)の城(しろ)には矢尻(やじり)をそろへ待(まつ)といへども、
敵船(てきせん)一艘(いつそう)も見えざれば、こはいかにとおもふところに、
不意(ふい)に後(うしろ)より押(おし)よせられ、王城(わうじやう)もはやく已(すで)に落城(らくじやう)
と聞(きこ)えければ、一戦(いつせん)にも及(およ)はず落城(らくじやう)す、かゝれば速(すみやか)に
軍(いくさ)の勝利(しようり)を得(え)て、琉球(りうきう)忽(たちまち)に平均(へいきん)したれば、早船(はやふね)を
以(もつ)て将軍家(しやうぐんけ)へ注進(ちうしん)ありしかば、甚(はなはだ)称美(しようび)せさせたま
ひけり、かくてその年(とし)は順風(じゆんふう)の時節(じせつ)におくれける故(ゆゑ)
に、諸勢(しよせい)琉球(りうきう)に滞留(たいりう)して、翌年(よくねん)五月二十八日(ごぐわつにじふはちにち)、中山王(ちうざんわう)
尚寧(しやうねい)を召(め)しつれ軍士(ぐんし)凱陣(かいちん)す、同(おなじく )八月(はちぐわつ)薩州(さつしう)の大守(だいしゆ)
中山王(ちうざんわう)をともなひ、駿府(すんふ)に来(きた)りて登城(とじやう)す、時(とき)に中(ちう)
山王(ざんわう)、段子(どんす)【緞子】百端(ひやくたん)、猩々皮(しやう〴〵ひ)十二尋(じふにひろ)、太平布(たいへいふ)二百疋(にひやくひき)、白銀(はくぎん)
一万両(いちまんりやう)、大刀(たち)一腰(ひとこし)を献上(けんじやう)す、かゝれば御代始(ごよはじ)めに異(い)
国(こく)御手(おんて)に入(い)りしとて、ことの外(ほか)に御感悦(ごかんえつ)遊(あそは)され、其(その)
賞(しやう)として、御腰物(おんこしのもの)ならびに琉球国(りうきうこく)を賜(たま)はりけり、中(ちう)
山王(さんわう)にも拝領物(はいりやうもの)あり、これより琉球(りうきう)ながく薩州(さつしう)の
附庸(ふよう)とぞなりにける、それよりして江戸(えど)に至(いた)り、
将軍家(しやうぐんけ)に謁(えつ)しけるに、米(こめ)千俵(せんべう)をくだしたまふ、其年(そのとし)

帰国(きこく)ありて、翌年(よくねん)中山王(ちうざんわう)も本国(ほんごく)に帰(かへ)ることを得(え)たり、
《割書:系図、旧伝集、政事録、南|浦文集等に据(より)【拠】て記(しる)す》この時(とき)よりして、ながく吾邦(わがくに)の正(せい)
朔(さく)を奉(ほう)じ、聘礼(へいれい)を修(しゆ)して、今(いま)の入貢(じゆこう)の始(はじ)めなり、この後(のち)
将軍(しやうぐん)宣下(せんげ)、若君様(わかぎみさま)御誕生(ごたんじやう)、および彼国(かのくに)中山王(ちうざんわう)継目(つぎめ)の
度毎(たびこと)には、必(かならず)貢使(こうし)かつて闕(かく)ることなし、
 慶長(けいちやう)十四年(じふよねん)、琉球(りうきう)征伐(せいばつ)の時(とき)、雨不見の渡(わた)りの中(なか)
 ほどにて、容顔(ようがん)美麗(びれい)なる尋常(じんじやう)ならぬ婦人(ふじん)の、小(こ)
 舟(ぶね)に乗(の)りて来(きた)り、大将(たいしやう)樺山氏(かばやまうぢ)の舟(ふね)に乗(の)り移(うつ)り
 ていへるやう、我(われ)は琉球国(りうきうこく)の守護(しゆご)弁才天女(べんざいてんによ)なり、
 この度(たび)征伐(せいばつ)せらるゝに、ねがふところは、多(おほ)くの人民(じんみん)
 を殺(ころ)し、国(くに)を悩(なやま)し給ふことなかれ、さあらば我(われ)案内(あんない)し
 て、速(すみやか)に琉球国(りうきうこく)を御手(おんて)に属(ぞく)し申すへし、といひ終(をは)
 りて坐(ざ)したまふと見れば、そのまゝ木像(もくざう)の弁才(べんさい)
 天(てん)なり、さて乗(の)り来(きた)りし舟(ふね)と見えつるは、簀(す)の
 板(いた)なりけり、神霊(しんれい)のいちじるしく、国(くに)を護(まも)り給ふ
 の厚(あつ)きを感(かん)じ、舟中(ふねのうち)に安置(あんち)し、帰陣(きぢん)の後(のち)、事(こと)の
 よしを申し立(た)て、池(いけ)の中(なか)なる島(しま)に祠(ほこら)を建(たて)て、いつ
 き祭(まつ)りけるとなり、《割書:旧伝|集》

 因(ちなみ)に云(いふ)、世(よ)に薩琉軍談(さつりうぐんだん)といふ野史(やし)あり、その書(しよ)の
 撰者(せんじや)詳(つまびらか)ならずといへども、あまねく流布(るふ)して、二(に)
 国(こく)の戦争(せんさう)をいふものは、かならず口実(こうじつ)とす、その
 いふところ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津(しまづ)兵庫頭(ひやうごのかみ)義弘(よしひろ)の代(よ)
 に、惣大将(そうたいしやう)新納(にひろ)武蔵守(むさしのかみ)一氏(かつうぢ)、その外(ほか)種島(たねがしま)大膳(たいせん)、佐(さ)
 野帯刀(のたてはき)等(とう)、士卒(しそつ)惣人数(そうにんず)十万(しふまん)千八百(せんはちひやく)五十四人(ごじふよにん)
 渡海(とかい)せしといへり、又(また)かの国(くに)の、澐灘湊(うんだんそう)、竹虎城(ちくこじやう)ある
 ひは、米倉島(べいさうたう)、乱蛇浦(らんじやほ)などいへる地名(ちめい)あり、その将士(しやうし)
 には、陳文碩(ちんぶんせき)、孟亀霊(まうきれい)、朱伝説(しゆでんせつ)、張助昧(ちやうぢよまい)等(とう)の名(な)をしる
 したり、実(まこと)にあとかたもなき妄誕(まうたん)にしてその書(しよ)の
 無稽(ふけい)論(ろん)を待(また)ずしてしるべし、
  慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(しゆこう)
寛永(くわんえい)十一年(しふいちねん)閏七月九日(うるふしちぐわつこゝのか)、中山王(ちうさんわう)尚(しやう)、豊賀慶使(ほうがけいし)佐敷(さしき)
王子(わうじ)、恩謝使(おんしやし)金武王子(きぶわうじ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:元寛|日記》
この年(とし)将軍家(しやうぐんけ)御上洛(ごしやうらく)ありて、京都(きやうと)にましますをも
て、二条(にでう)の御城(おんしろ)へ登城(とじやう)す、このゆゑに二使(にし)江戸(えど)に来(きた)
らず、
正保(しやうほ)元年(くわんねん)六月(ろくくわつ)二十五日(にしふこにち)、中山王(ちうさんわう)尚賢(しやうけん)、賀慶使(かけいし)金武按(きむあん)

【右丁、右下】
英林【角印「英琳」】
【絵図の札二枚に「中山王府」】
【左丁、左上】
紫瀾星極仲朝威万里東来
貢献時莫笑蛮邦尤蠢爾衣
冠猶見漢官儀
九州百変典刑空絶島猶能
見古風魋結碧臚雖陋俗先
王鼓楽在其中
   枕山大沼厚【落款「枕山」】

【大沼枕山、江戸時代後期から明治前期の漢詩人(ウィキペディア)】

司(す)、恩謝使(おんしやし)国頭(くにかみ)按司(あんす)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、七月三日(しちぐわつみつか)
下野国(しもつけのくに)日光山(につくわうざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、《割書:輪池|掌録》
慶安(けいあ )【ママ】二年(にねん)九月(くくわつ)、中山王(ちうさんわう)尚質(しやうしつ)、恩謝使(おんしやし)具志川(くしかは)按司(あんす)等(ら)
をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|事略》また日光山(につくわうさん)の御宮(おんみや)を拝(はい)
す、
承応(しやうおう)二年(にねん)九月二十日(くぐわつはつか)、中山王(ちうさんわう)尚質(しやうしつ)、賀慶使(かけいし)国頭(くにかみ)按(あん)
司(す)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:羅山文集、和漢合運、|近世武家編年略、》また日光(につくわう)
山(ざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、
寛文(くわんぶん)十一年(しふいちねん)七月二十八日(しちくわつにしふはちにち)、中山王(ちうさんわう)尚貞(しやうてい)、恩謝使(おんしやし)金武(きふ)
王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:万天|日記》また日光山(につくわうざん)の御(おん)
宮(みや)を拝(はい)す、《割書:琉球事略、|歴代備考》
天和(てんわ)二年(にねん)四月十一日(しくわつじふいちにち)、中山王(ちうざんわう)尚貞(しやうてい)、賀慶使(がけいし)名護(なご)按(あん)
司(す)、恩納(おんな)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:万天日記、|甘露叢》
宝永(はうえい)七年(しちねん)十(じふ)一(に)【ママ】月(くわつ)十八日(じふはちにち)、中山王(ちうさんわう)尚益(しやうえき)、賀慶使(がけいし)美里(みさと)王(わう)
子(じ)、富盛(とみもり)親方(おやかた)、恩謝使(おんじやし)豊見城(とよみくすく)王子(わうじ)与座(よさ)親方(おやかた)等(ら)をして、
方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球聘|使紀事》また東叡山(とうえいさん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、中(ちう)
山使(ざんし)の日光山(につくわうざん)に至(いた)らずして、東叡山(とうえいざん)に来(きた)ること
この時(とき)を始(はじめ)とす、

正徳(しやうとく)四年(よねん)十二月(じふにぐわつ)二日(ふつか)、中山王(ちうさんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(かけいし)与那城(よなくすく)王(わう)
子(し)、恩謝使(おんしやし)金武(きふ)王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:文露|叢》
享保(きやうほ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)十三日(じふさんにち)、中山王(ちうざんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(がけいし)越来(こえく)
王子(わうじ)、西平(にしひら)親方(おやかた)等(ら)して、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:享保|日記》
寛延(くわんえん)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)十五日(じふごにち)、中山王(ちうさんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(がけいし)具志(くし)
川(かは)王子(わうじ)、与那原(よなはら)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:歴史|要略》
宝暦(はうりやく)二年(にねん)十二月(じふにくわつ)十五日(じふごにち)、中山王(ちうざんわう)尚穆(しやうぼく)、恩謝使(おんしやし)今帰(いまき)
仁(じん)王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:歴史|要略》
明和(めいわ)元年(ぐわんねん)十一月(じふいちぐわつ)、中山王(ちうざんわう)尚穆(しやうほく)、賀慶使(がけいし)読谷山(よみたんざん)王子(わうじ)、
等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:三国通覧|速水私記》
寛政(くわんせい)二年(にねん)十二月(じふにくわつ)二日(ふつか)、中山王(ちうさんわう)尚穆(しやうぼく)、賀慶使(かけいし)宜野湾(きのわん)
王子(わうし)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|談》
寛政(くわんせい)八年(はちねん)十二月(じふにくわつ)六日(ろくにち)、中山王(ちうざんわう)尚成(しやうせい)、恩謝使(おんしやし)大宜見(おほぎみ)
王子(わうじ)、安村(やすむら)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:輪池|掌録》
文化(ぶんくわ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)二十三日(にじふさんにち)、中山王(ちうざんわう)尚顥(しやうかう)、恩謝使(おんしやし)読谷(よみたん)
山(さん)王子(わうじ)小録(をろく)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、
天保(てんほ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)中山王(ちうざんわう)尚育(しやういく)恩謝使(おんしやし)豊見城(とよみくすく)王子(わうし)
沢岻(たくし)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す

【右丁】
天保(てんほ)十三年(じふさんねん)十一月(しふいちくわつ)中山王(ちうさんわう)尚育(しやういく)賀慶使(がけいし)浦添(うらそひ)王子(わうじ)
座喜味(ざきみ)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す
嘉永(かえい)三年(さんねん)十一月(じふいちくわつ)中山王(ちうざんわう)尚泰(しやうたい)恩謝使(おんしやし)玉川(たまがは)王子(わうし)野(の)
村(むら)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す
【左丁】
附録(ふろく)
  琉球国(りうきうこく)全図(ぜんづ)
琉球国(りうきうこく)に三省(さんせい)あり、中山(ちうざん)は、中頭省(なかかみせう)、山南(さんなん)は島■【耑ヵ】省(しまじりせう)、
山北(さんほく)は国頭省(くにがみせう)なり、この属府(ぞくふ)すへて三十六(さんじふろく)、これを
間切(まぎり)といふ、《割書:間(ま)ぎりとは、城下(しやうか)といふが如し、|あるひは郡県(くんけん)をさしていへり、》その間切(まぎり)の
領主(りやうしゆ)を、おの〳〵按司(あんす)といふ、三十六(さんじふろく)の属島(えだじま)あり、鬼界(きかい)
が島(しま)は、十二(じふに)の島(しま)なり、即(すなはち)これを五島七島(いつしまなゝしま)といへり、こ
れらの島々(しま〴〵)に、産(さん)するところの物(もの)は、蕃薯(りうきういも)、草薦(りうきうおん)、蕉(ばせを)
絲(ふのいと)、五色魚(ごしきうを)、螺魚(らぎよ)、瑇瑁(たいまい)、海参(なまこ)、石芝(せきし)等(とう)、三十種(さんじふしゆ)に余(あま)る、

琉球国図(りいきうこくのづ)

【右丁】
七島は宮古の支
配にて琉球
 の持なり
三十六島(さんじふろくしま)の図(づ)
【左丁】
奇界より渡名喜まで十一島みな大島の
支配なり上島の村数すべて二百六十村
あり土人は小琉球と称す
  南方台陸の南に小琉球山ありこれと同じ
                  からず
      沖のゑらぶ
        琉球の持なり
【大島の左】
是より琉球の地
 五間切あり
口(くち)のゑらぶ

  中山世系(ちうさんせいけい)
∴天孫氏廿五紀(てんそんしにじふごき)─────────────────────┐
                       【英祖王へ】
  宋(そう)の淳煕(しゆんき)年間(ねんかん)、天孫氏廿五紀(てんそんしにじふごき)の裔孫(えいそん)徳微(とくび)、
  その臣(しん)利勇(りゆう)、権(けん)を専(もつはら)にして位(くらゐ)を奪(うば)ふ、故(ゆゑ)に浦添(うらそひ)
  按司(あんす)尊敦(そんとん)、義兵(ぎへい)を起(おこ)し利勇(りゆう)を討(う)つ、国人(くにたみ)尊敦(そんとん)
  を推て位(くらゐ)に就(つ)く、これを舜天王(しゆんてんわう)と云(いふ)、
○舜天王(しゆんてんわう)――――舜馬順煕(しゆんばじゆんき)――――義本王(ぎほんわう)
  姓(せい)は源(げん)、名(な)は尊敦(そんとん)、父(ちゝ)は鎮西(ちんぜい)八郎(はちらう)為朝公(ためともこう)、母(はは)は大(おほ)
  里(さと)按司(あんす)の妹(いもと)、宋乾道(そうけんだう)二年(にねん)丙戌(ひのえいぬ)降誕(がうたん)、《割書:乾道(けんだう)二年(にねん)は、|六条院(ろくてうゐん)仁安(しんあん)》
  《割書:元年に|あたる》淳煕(じゆんき)十四年(じふよねん)丁未(ひのとのひつじ)則位(そくゐ)、嘉煕(かき)元年(くわんねん)丁酉(ひのとのとり)薨(がう)
  在位(ざいゐ)五十一年(ごじふいちねん)、寿(じゆ)七十二歳(しちじふにさい)といへり、又(また)云(いふ)義本王(ぎほんわう)
  童名(どうみやう)神号(しんがう)伝(つた)はらず、在位(さいゐ)十一年(じふいちねん)、歳(とし)五 十四(じふし)の時(とき)、英(えい)
  祖(そ)に諭(ゆ)して曰(いはく)、今(いま)汝(なんぢ)政(まつりごと)に乗(じやう)せば、年(とし)豊(ゆたか)に民(たみ)泰(やす)
  からん、宜(よろし)く大統(たいとう)を承(う)けつぎて、民(たみ)の父母(ふぼ)たる
  べしといへるに、固(かた)く辞(じ)しけれども、群臣(ぐんしん)みな共(とも)
  に勧(すゝ)めて位(くらゐ)に即(つか)しむ、義本(ぎほん)位(くらゐ)を譲(ゆづ)るの後(のち)、其(その)
  隠(かく)るゝところを知(し)らず、故(ゆゑ)に寿薨(しゆがう)伝(つた)はらず、今(いま)
  考(かんが)ふべからず、《割書:為朝公(ためともこう)の血統(けつたう)、舜天王(しゆんてんわう)より義本(ぎほん)まで|三代にして絶(た)ゆ、三王(さんわう)およそ七十三年、》

┌────────────────────────────┘
└英祖王(えいそわう)──────────大成王(たいせいわう)───────────┐
  英祖(えいそ)は、天孫氏(てんそんし)の裔(えい)、恵祖(けいそ)の孫(そん)、         │
┌────────────────────────────┘
└英慈王(えいじわう)──────────王城王(わうじやうわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└西威王(せいいわう)──────────察度王(さつとわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└武寧王(ぶねいわう)──────────尚思紹王(しやうしせうわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚巴志王(しやうはしわう)─────────尚忠王(しやうちうわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚思達王(しやうしたつわう)─────────尚金福王(しやうきんふくわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚泰久王(しやうたいきうわう)───────────────────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚徳王(しやうとくわう)────────────────────────┐
                       【尚稷王へ】
  神号(しんがう)八幡(はちまん)按司(あんす)、又(また)世高王(せいかうわう)と称(しよう)す、明(みん)の正徳(しやうとく)六(ろく)
  年(ねん)辛酉(かのとのとり)降誕(がうたん)、《割書:義教(よしのり)将軍(しやうぐん)嘉吉(かきつ)|元年にあたる》在位(さいゐ)九年(くねん)、寿(じゆ)二十(にじふ)
  九(く)時(とき)に、世子(せいし)幼(いとけなく)しを立(たゝ)んとせしに、国人(くにたみ)どもこれ
  を弑(はい)し、御鎖官金丸《割書:即位(そくゐ)して|尚円王と云(いふ)》を立(たて)て君(きみ)とす、
  これより中山(ちうさん)万世(ばんせい)王統(わうとう)の基(もとゐ)を開(ひら)くといへり、《割書:尚思(しやうし)|紹(せう)よ》
  《割書:り尚徳(しやうとく)まて、七|主六十四年》
┌────────────────────────────┘
└尚稷王(しやうしよくわう)────────────────────────┐
                       【尚円王へ】
  尚稷(しやうしよく)未(いま)た位(くたゐ)に即(つか)ず、たゞ王祖(わうそ)正統(しやうとう)の重(おもき)により
  追尊(つひそん)して王(わう)と称(しよう)す、

┌────────────────────────────┘
└尚円王(しやうゑんわう)────────────────────────┐
                       【尚宣威王へ】
  童名(どうみやう)忠徳(ちうとく)、名(な)は金丸、明(みん)の永楽(えいらく)十三年(じふさんねん)乙未(きのとのひつし)降(がう)
  誕(たん)、生得(しやうとく)儼然(げんぜん)として龍鳳(りうほう)の姿(すがた)あり、ならびに足(あしの)
  下(こう)に痣(ほくろ)あり、色(いろ)金( がね)【ママ】の如(ごと)し、いまだ位(くらゐ)に即(つか)ざるの
  時(とき)、泊村の人(ひと)安里(あんり)といふ者(もの)、一(ひと)たび見て、この人(ひと)は億(おく)
  兆(てう)の上(かみ)に居(を)るべきの徳(とく)ありといへり、明(みん)の成化(せいくわ)
  十二年(じふにねん)七月(しちぐわつ)二十八日(にじふはちにち)薨(がう)、在位(さいゐ)七年(しちねん)寿(じゆ)六十七歳(ろくじふしちさい)、
┌────────────────────────────┘
└尚宣威王(しやうせんいわう)─────────尚真王(しやうしんわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚清王(しやうせいわう)──────────尚元王(しやうげんわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚永王(しやうえいわう)────────────────────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚寧王(しやうねいわう)────────────────────────┐
                       【尚豊王へ】
  童名(とうみやう)思徳(しとく)、明(みん)の嘉靖(かせい)四十三年 甲子(きのえね)降誕(がうたん)、万(ばん)
  暦(れき)十七年(じふしちねん)即位(そくゐ)、同(おなじく)四十 八年(はちねん)九月(くぐわつ)十九日(じふくにち)薨(かう)、在位(ざいゐ)
  三十三年(さんじふさんねん)、寿(じゆ)五十七歳(ごじふしちさい)、慶長(けいちやう)十五年(じふこねん)入貢(じゆこう)す、
┌────────────────────────────┘
└尚豊王(しやうほうわう)──────────尚賢王(しやうけんわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚質王(しやうしつわう)──────────尚貞王(しやうていわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚純王(しやうしゆんわう)──────────尚益王(しやうえきわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚敬王(しやうけいわう)──────────尚穆王(しやうほくわう)──────────┐

┌────────────────────────────┘
└尚成王(しやうせいわう)──────────尚顥王(しやうこうわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚育王(しやういくわう)──────────尚泰王(しやうたいわう)───────
  右(みぎ)中山(ちうざん)世系(せいけい)の略(りやく)なり、これは琉球(りうきう)尚貞王(しやうていわう)の時、
  尚弘徳(しやうこうとく)と云(いふ)ものに命(めい)じて、撰(せん)するところの、中山
  世譜(せいふ)に据(よ)りて記(しる)すところなり、
  鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)
鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)、伊豆(いづ)の大島(おほしま)に流(なが)されしが、永(えい)万 元年(ぐわんねん)
三月(さんぐわつ)、白鷺(しろさぎ)の沖(おき)の方(かた)へ飛(とび)行(ゆ)くを見(み)て、定(さだ)めて島ぞ
あるらんとて、舟(ふね)に乗(の)りて馳(は)せ行(ゆ)くに、ある島(しま)に
着(つき)てめぐり給ふに、田もなし畠(はた)もなし、汝(なんぢ)等(ら)何(なに)
を食事(しよくじ)とすると問(と)へば、魚(うを)鳥とこたふ、その鳥(とり)は鵯(ひよどり)
ほどなり、為朝これを見(み)給ひて、大鏑(おほかぶら)の矢(や)にて、木(き)
にあるを射(い)落(おと)し、空(そら)を翔(かけ)るを射殺(いころ)しなどし給へば、
島(しま)のものども舌(した)をふるひておぢ恐(おそ)る、汝(なんぢ)等(ら)も我(われ)に
従(したが)はずは、かくの如(ごと)く射殺(いころ)さんと宣(のたま)へば、みな平伏(ひれふし)
て従(したが)ひけり、島(しま)の名(な)を問(とひ)たまへば、鬼(おに)が島(しま)と申す、《割書:保|元》
《割書:物|語》この為朝(ためとも)の渡(わた)りし鬼が島といふは、即(すなはち)今(いま)の琉(りう)
球国(きうこく)のことなり、かくて国人(くにたみ)その武勇(ぶゆう)におそれ服(ふく)す、

つひに大里(おほさと)按司(あんす)の妹(いもと)に相(あひ)具(ぐ)して舜天王(しゆんてんわう)をうむ、為
朝(とも)この国(くに)にとゞまること日(ひ)久(ひさ)しく、故土(ふるさと)をおもふこと
禁(やみ)がたくして、つひに日本(にほん)に帰(かへ)れり、《割書:琉球|事略》
 按(あん)ずるに、今(いま)已(すで)に琉球(りうきう)の東北(とうほく)にあたりて、鬼界島(きかいがしま)
 といふ名(な)のあるも、その名残(なごり)なりといへり、
  位階(ゐかい)の次第(しだい)
中山王(ちうさんわう)《割書:国王(こくわう)を|いふ》中城(なかくすく)《割書:春宮(とうぐう)をいふ、○中(なか)くすくは、城(しろ)の名(な)|なり、世子殿(せいしでん)といふありて、王子 即位(そくゐ)》
《割書:あるのとき、|大礼(たいれい)を行(おこな)ふ、》中婦(ちうふ)《割書:王后(きさき)をいふ、○君万物(きんまもん)に仕(つか)ふ、○中婦君(ちうふくん)の|名(な)は、神(かみ)に仕(つか)ふる、巫 女(ぢよ)三十三人ある、その中(うち)》
《割書:に居(ゐ)るといふ|の義(き)なり、》王子(わんす)《割書:王子(わうじ)|なり、》王女(わんによ)《割書:王(わう)の女(むすめ)|なり、》
官位(くわんゐ)の品級(ひんきふ)は正従(しやうじやう)すべて九等(くとう)あり
国相(こくさう)、親方(おやかた)《割書:国(くに)の大臣(たいじん)なり、すべて|政事(せいし)を司(つかさ)どるなり》
 元侯(げんこう) 正一品、法司(はふす) 正二品、紫巾官(しきんくわん) 従二位、
  《割書:これを三司官(さんしくわん)と称(しよう)し、または何々(なに〳〵)の地(ち)の|親方(おやかた)と呼(よ)ぶものは、即(すなはち)この重官(ちようくわん)なり、》
耳目令(じもくれい)《割書:又 御鎖側(ぎよさそく)と云(いふ)、|正三品なり》謁者(えつしや)《割書:又 申口者(まうしつぎ)、|従三品也》賛議官(さんぎくわん)《割書:正四|品》
那覇官(なばくわん)《割書:なばは地名(ちめい)、|従四位なり、》察侍紀官(さじきくわん)《割書:さじきは地名(ちめい)、|従四位なり》当坐官(あたりくわん)、《割書:正五|位》
勢頭官(せかみくわん)《割書:正六|位》、親雲上(ばいきん)《割書:正七|位》、掟牌金(ていはいきん)《割書:従七|位》、里之子(さとのし)《割書:正八|位》
里之子佐(さとのしのすけ)《割書:従八|位》、筑登之(ちくとし)《割書:正九|位》、筑登之佐(ちくとしのすけ)《割書:従九|位》
紫金大夫(しきんたいふ)、正議大夫(せいぎたいふ)、長吏(ちやうり)、都通奉(とつうし)、度支官(としより)、王法宮(わうはふきう)

【右丁】
九引官(きういんくわん)、内官(だいくわん)、近習(きんじふ)、内厨(ぜんぶ)、国書院(こくしよゐん)、良医寮(くすしどころ)、茶道(さだう)、
祝長(はふり)、無瀬人(むせし)、武卒(ふんぞう)、
里(さと)の子(し)は小姓(こしやう)なり、美少年(びせうねん)をえらぶ、年(とし)をとりて髭(ひげ)生(おい)れ
は親雲上(ばいきん)となる、親雲上(ばいきん)は官名(くわんみやう)なれども、彼国(かのくに)の風俗(ふうぞく)にて、
武士(ぶし)をすべて親雲上(ばいきん)といへり、
 嘉永三年庚戌十一月     【印「美成」ヵ】
  【角印】

【左丁】
嘉永三庚戊【ママ】十一月

 発行書林 日本橋通貳丁目
        山城屋佐兵衛

【裏表紙見返し、白紙】

【製本裏表紙】
【ラベル一枚、判読不能】

払夷示琉球書四通並琉人答書

中山伝信録

中山聘使畧

琉球人行列記

内国地図

中山伝信録

沖縄県地誌畧

沖繩縣地誌略 全

沖繩師範學校編纂
沖繩縣地誌略
《割書:明治十八年|四月 出版》 沖繩縣藏版

沖繩縣地誌畧
   附言
沖繩縣ノ學事ニ於ケルヤ。去ル十三年。學制ニ據
リ學區ヲ分チ。那覇ニ師範校。首里ニ中學校。各間
切各離島ニ小學校ヲ置キシヨリ。未タ數年ナラ
スシテ。普通敎育全管ニ洽ク。啓智發蒙ノ具備ハ
レリト謂ツヘシ。唯本縣地誌ニ至リテハ。小學ノ
用書ニ充チ。幼童ノ誦讀ニ給スヘキ善本ナシ。將
ニ其書ヲ編成セントスルニ際シ。嘗テ師範校ニ
於テ起草シタル稿本アリ。因テ修正委員ヲ撰ミ。

務メテ事實ヲ取リ。虛飾ヲ去リ。更ニ校訂再三。遂
ニ活版ニ附シ。吾縣下ノ學童ヲシテ。本國ノ形勢
ヲ畧知セシメント云爾。

 明治十七年仲秋

      沖繩縣令從五位西村捨三識

   例言
一本編中那覇ヲ距ル、凡ソ幾里トアルハ。里程元
 標ヨリ各役所、若クハ各番所ニ距ルノ里程ニ
 シテ。之ヲ町數ニ止メ。戸數人口モ。亦大槪ヲ擧
 クルヲ以テ十位ニ止ム。其末數ハ皆之ヲ畧ス。
一此書ハ。小學生徒ノ爲ニ。編成シタル書ナレハ。
 力メテ簡單ノ熟字ヲ使用シ。讀ミ且解シ易カ
 ラシム。又地名ノ類ニハ。字傍ニ雙線ヲ施シ。官
 衙社寺及ヒ邸第姓名等ニハ。單線ヲ施シテ。以
 テ讀者二便ニス。

沖繩縣地誌畧
             沖繩師範學校編纂
    總論
沖繩ハ西海道薩摩ノ南、海中ニ散在セル島國ナ
リ。北緯二十四度十分ヨリ。二十七度五十分ニ至
リ。經度ハ西經十一度十分ニ起リテ。十六度五十
二分ニ止ル。東ハ太平洋ニ面シ。西ハ淸國ノ福建
泉州ト、遙々海水ヲ隔テ。北ハ麑島縣大島諸島ト、
地脉相連レリ。西南ハ台灣島ニ密邇ス。戸數七萬
五千五百七十餘ニシテ。人口三十六萬三千八百
三拾餘アリ。

全國ハ三大島、及ヒ許多ノ島嶼ヲ以テ國ヲ立ツ。
北ニ在ル一大島ヲ沖繩島ト云ヒ。其近海ニ散在
セル慶良間久米伊平屋伊江渡名喜粟國鳥島津
堅久高等ノ諸島ヲ以テ之ニ附シ。南ニ在ル宮古
八重山二大島ヲ兩先島ト云フ。其近海ニ並列セ
ル伊良部來間多良間大神池間水納武富波照間
鳩間西表小濱黑島新城與那國等ノ諸島ヲ以テ
之ニ属ス。而シテ與那國島ハ。西表島ノ西南、凡五
十里許ニアリ。台灣ヲ距ルコト甚タ遠カラス。中
ニ就キ。沖繩島最モ大ナリ。因テ本島トナシ。其名
ヲ以テ諸島ノ總稱トス。
山脉ハ國頭ノ極北邊戸西銘ノ二山ニ起リテ蟠
結シ。延テ中頭ニ移リ。蜿蜒起伏シテ。島尻ニ馳セ。
慶良間久米宮古ニ濟リ。八重山ニ赴キ。再ヒ崛起
シテ西南ニ盡ク。
山ノ高峻ナル者。國頭ニ嘉津宇岳恩納岳アリ。中
頭ニ辨ケ岳アリ。八重山ニ於茂登岳古見岳アリ。
是其大ナルモノ。其他到ル處山峯甚タ多シ。
川流ハ土地狹小ナルカ故ニ長大ナラス。但國頭
ノ安波川大川。中頭ノ天願川ヲ稍長流トス。其餘

ハ皆小川ナリ。
氣候ハ熱帯地方ニ接近セルヲ以テ。四時暖燠ニ
シテ。盛夏炎威殊ニ酷シ。華氏ノ寒溫儀。五十度乃
至九十六七度ノ間ニ昇降ス。隆冬ト雖トモ。霜雪
ヲ見ス。草木恒ニ靑葱タリ。
物產ハ飛白、蕉布、紬、細上布、砂糖、蕃藷、燒酎、藺席、藍、
蘇鉄、烏木、漆器、鼈甲、豚最モ著名ニシテ。穀物、煙草、
陶器、牛馬、魚介、菓物等ナリ。
    本島
本島ハ周回凡一百十餘里。東北ヨリ斜メニ西南
ニ至ル。綿亘凡四十里。廣袤或ハ一二里。或ハ八九
里齊シカラス。地形恰モ虬龍ノ海上ニ泛フカ如
シ。之ヲ大別シテ國頭中頭島尻ノ三地方トス。一
ニ國頭ヲ北山ト云ヒ。中頭ヲ中山ト云ヒ。島尻ヲ
南山ト云フ。更ニ又小別シテ首里那覇ノ二邑、及
ヒ三十五間切トス。東北隅ヲ邊戸岬ト云ヒ。西南
隅ヲ喜屋武岬ト云フ。東ニ伸出セルヲ勝連知念
ノ二岬トシ。西ニ斗出セルヲザンパ岬トス。
    中頭
中頭ハ本島ノ中央ニ位シ。東北ハ國頭ニ連リ。西

南ハ島尻ニ界シ。南北二方ハ海ニ枕ム。山脉東北
ヨリ西南ニ亘リ。奇峯峻嶺ナク。平坦ノ地多クシ
テ。且地味ノ肥沃ナル。本島第一タリ。之ヲ分チテ
首里那覇ノ二邑浦添西原冝野灣中城勝連與那
城具志川美里越來北谷讀谷山ノ十一間切トス。
那覇ハ中頭ノ西南端ニアリ。東ハ。眞和志間切ヲ
夾ミテ、首里ニ對シ。南ハ港灣ヲ隔テヽ、豐見城小
祿二間切ニ對シ。西南二方ハ海ニ枕ム。地勢平坦
ナリ。分チテ西村東村久米村泉崎村若狹町村泊
村ノ六箇村トス。戸數五千九百五十餘ニシテ。人
口貳萬四千三百十餘アリ。
市街ハ海ニ臨ム一帶ノ地方半里トス。縣廳アリ
裁判掛アリ警察本署アリ那覇役所アリ師範學
校アリ醫院アリ。家屋櫛比。士民商賈相錯リテ之
ニ居ル。實ニ國中第一都會ノ地ナリ。東村ニ市塲
アリ。日々數千ノ人相集リテ。日用ノ物品ヲ賣買
ス。/𤍠(ネツ)閙(タウ)殊ニ甚タシ。
那覇港ハ本國第一ノ埔頭ニシテ。商舶常ニ雲集
ス。而シテ港口暗礁多ク。港内底淺キヲ以テ。大船
ハ港外ニ碇泊ス。港ノ東南ハ灣益大ニシテ、底益

【右頁の上半分は図】那覇港

淺シ。潮水至レハ舟楫ヲ
通シ。潮水退ケハ平沙ト
ナル。唯中ニ一帶ノ細流
ヲ留ムルノミ。又灣内大
小二島アリ。大ナルモノ
ヲ奧武(オフノ)山ト云ヒ。小ナル
モノヲ鵝森(ガーナーモリ)ト云フ。潮滿
ニ際シ。潮水 漫々(マン〳〵)。湖山ノ
風致アルヲ以テ。詞人呼
ンテ漫湖(マンコ)ト云フ。
渡地ハ島尻往來ノ渡頭タリ。古ヨリ小舟ヲ以テ
人ヲ渡セシガ。明治十六年。一大橋ヲ架シ往來ニ
便ス。名ケテ明治橋ト云フ。長サ凡六十間。國中第
一ノ長橋ナリ。橋東奧武山ノ西端。灣ニ臨ミ御物
城址アリ。昔時外國ト貿易セシ貨物ヲ藏メシ所
ナリ。今其址ニ一館ヲ新設シテ。博物塲トス。
三重城ハ那覇港口ノ北ニ、突出セル古壘ナリ。海
上ニ胷壁ヲ築キ。壁間砲門箭眼アリ。南小祿間切
ヤラサ鼻ノ古壘ト。港口ヲ夾ンテ相對ス。此古壘
ニ登レハ。眼界快豁。水天萬里際涯ナシ。唯西南煙

波中ニ慶良間諸島ヲ見ルノミ。
波ノ上ハ若狹町村ノ海濱ニアリ。斷崖數十仭詞
人呼ンテ筍崖ト云フ。其形ノ似タルヲ以テナリ。
崖上平坦ニシテ。細草、毛茸、靑氈ヲ布クカ如シ。祠
堂アリ三神ヲ祀ル。繞ラスニ石垣ヲ以テス。此崖
ニ登レハ。西ハ慶良間諸島ヲ控ヘ。北ハ讀谷山ザ
ンパ岬ヲ望ミ。東南ニ中頭島尻ノ連山綿亘シ。眺
望絕佳。古ヨリ勝地ヲ以テ名アリ。
泊港ハ那覇ノ東北隅ニアリ。港内狹ク水淺シト
雖トモ。亦小舶數十艘ヲ繫クヘシ。泊村ニ巨刹ア
リ。崇元寺ト云フ。尚氏ノ香華所ナリ。
㵼原ハ曬鹽塲ニシテ。南北二百四十間。東西八十
間。西北隅一帶ハ海ニ瀕ス。士民常ニ相集リテ。乘
馬ノ技ヲ演スル所トス。
物產ハ飛白、鹽、漆器、錫細工、蘇鉄、豚等ナリ。
首里ハ那覇ヨリ東ニ距ル、一里十一町。置縣前ノ
都城タリ。廣袤一里ニ充タス。東北ハ浦添西原二
間切ニ錯リ。西南ハ眞和志間切ニ界シ。東南隅ハ
南風原間切ニ斜接ス。之ヲ分チテ眞和志平等南
風平等西平等ノ三平等トス。更ニ又小別シテ眞

和志町端山川寒水川金城大中桃原當藏鳥小堀
赤田崎山儀保赤平汀志良次久塲川ノ十五村ト
ス。戸數四千九百五十餘ニシテ。人口二萬四千四
百餘アリ。地勢山谷ニ據リ。高低一ナラス。人家ハ
率ネ山腹ニ鱗次シ。繞ラスニ石垣ヲ以テス。道路
四達シ。那覇ニ亞キテ繁華ノ地タリ。
城ハ山ヲ鏟シテ之ヲ築キ。蠣石ヲ疊ミテ外郭ト
ナス。周圍九町。正殿ハ中央ノ高所ニアリ。殿閣二
層。南北八楹。十一門アリ。其位西ニ向フ。城内淸泉
アリ。瑞泉ト云フ。當今熊本鎭臺沖繩分遣隊ノ營
所タリ
町端(マチバタ)村ニ市塲アリ。商業
稍盛ナリ。
市塲ノ東ニ池アリ。龍潭(リウタン)
ト云フ周回凡三町/辨財(ベザイ)
天池(テンチ)ト相連レリ。潭二傍
フテ首里役所警察署中
學校中城邸等アリ。池畔
古松雜樹/鬱葱(ウツソウ)タリ。池水
ニ倒蘸(タウセウ)ス。尤賞月ノ勝地

【左頁の上半分は図】首里城

タリ。
辨財天池ハ一ニ圓鑑池(エンカンチ)ト云フ。中央ニ小祠アリ。
辨財天女ヲ祀ル。其東ニ圓覺(エンカク)寺アリ。尚氏ノ香華
所タリ。尚圓(シヨウエン)王以下藩主歷代ノ靈牌ヲ安置セリ。
矩模(キボ)宏大(コウダイ)。本國第一ノ巨刹ナリ。天界寺天王寺ノ
二刹ヲ合テ三大寺ト稱ス。
萬歲嶺(マンザイレイ)ハ中山門外ニアリ。松樹/暢茂(テウモウ)。風景尤モ佳
ナリ。中ニ祠堂アリ。千手觀音ヲ祀ル。
崎山(サキヤマ)村ニ尚氏ノ別莊アリ。即チ首里城ノ巽位ナ
リ。邸内花卉ヲ雜植ス。景致頗ル深邃(シンスイ)ナリ。
物產ハ燒酎、銀細工、鼈甲細工、織物、豚等ナリ
浦添間切ハ十四箇村アリ。東南ハ西原間切、及ヒ
首里ニ交リ。西ハ海ニ臨ミ。北ハ冝野灣間切ニ連
ル。那覇ヲ距ル凡二里二町ナリ。西岸ニ牧湊アリ
ト雖トモ。底淺クシテ泊舟ニ便ナラス。往昔鎭西
八郎源爲朝、歸帆ヲ揚ケシ所ト云フ。
勢理客川ハ前田村ノ山間ヨリ發シ。西流シテ小
灣村ニ至リ海ニ入ル。
仲間村ニ極樂山アリ。其巓ニ古城址アリ。往昔浦
添按司ノ據リシ處ト云フ。山中寺院アリ。龍福寺

ト穪ス。尚氏ノ香華所ナリ。
物產ハ米、砂糖、蕃藷、西瓜、蔬菜等ナリ。
西原間切ハ十八箇村アリ。東南ハ島尻ノ知念岬
ト、相對シテ海灣ヲ抱キ。西ハ浦添間切、及ヒ首里
ニ界シ。北ハ冝野灣中城二間切ニ連ル。那覇ヲ距
ル凡二里二十九町ナリ。
嘉手苅村ニ瓦屋アリ。内間御殿ト云フ。昔時尚圓
王、内間ノ地頭タリシトキ。卜居セシ處ト云フ。
辨ノ岳ハ南境ニ峙立シ。首里及ヒ南風原間切ニ
跨ル。其巓ニ尚氏ノ行香所アリ。士民進香スル者。
絡繹トシテ絕ヘス。
末吉川ハ伊志嶺久塲川兩村界ヨリ發源シ。末吉
村ヲ經テ。安謝港ニ至リ海ニ入ル。
末吉村ノ岡上ニ末吉神社アリ。眼界快闊。西ハ慶
良間ノ諸島ヲ眺ミ。南ハ首里城ヲ控ヘ。那覇ノ各
村近ク眼下ニアリ。眺望頗ル佳ナリ。
物產ハ浦添間切ニ同シ
冝野灣間切ハ十四箇村アリ。東ハ中城間切ニ界
シ。西ハ海ニ瀕シ。南ハ浦添西原二間切ニ交リ。北
ハ中城間切ノ一角ヲ承ケテ、北谷間切ニ連ル。地

味肥沃ニシテ。物產ノ多キコト。中頭地方ノ第一
タリ。中頭役所ハ冝野灣村ニアリ。那覇ヲ距ル凡
三里七町ナリ。
普天間村ニ洞穴アリ。闊サ凡五六間。深サ凡七八
間。洞中ニ祠堂アリ。普天間宮ト云フ。香華ノ者纚
纚相属ス。洞梁ハ石乳滴下凝結シテ、柱狀ヲ成セ
リ。幾百千ナルヲ知ラス。其短キモノハ、恰モ氷柱
ヲ懸ルカ如シ。實ニ南島中ノ一奇觀ナリ。
物產ハ米、大豆、砂糖、蕃藷、藍、煙草等ナリ。
中城間切ハ二十三箇村アリ。東ハ海ニ瀕シ。西ハ
北谷間切ノ一隅ヲ承ケテ、冝野灣間切ニ交リ。南
ハ西原間切ニ界シ。北ハ美里越來二間切ニ接ス。
地味ノ肥沃ナルコト。中頭地方ノ第二等タリ。那
覇ヲ距ル凡四里二十二町ナリ。
中城城址ハ本間切ノ中央山上ニ在リ。尚氏ノ忠
臣護佐丸建築セシト云フ。城壁今尚存ス。此地東
ハ海ニ臨ミ。西又遙ニ大洋ヲ控ヘ。眼界開豁。朝暮
日月ノ波際ヨリ、出沒スルヲ觀ルヘシ。實ニ絕景
ノ地タリ。
物產ハ米、麥、砂糖、蕃藷、煙草等ナリ

勝連間切ハ七箇村アリ。中頭地方ノ小間切ナリ。
東ハ與那城間切ニ連リ。西ハ海灣ヲ隔テヽ中城
間切ニ對シ。北ハ具志川美里二間切ニ錯リ。西南
ハ海中ニ斗出シ。其岬角遙ニ島尻ノ知念岬ニ對
ス。那覇ヲ距ル凡九里ナリ。
南風原村ニ古城址アリ。勝連城ト云フ。昔時勝連
按司阿摩和利、不䡄ヲ謀リシ所ニシテ。尤モ要害
ノ地タリ。破壁今尚存ス。津堅島ハ岬角ノ前ニ横
ハリテ。知念間切ノ久高島ト相竝ヘリ。周回凡五
里。其北ニ濱比嘉島アリ。與那城間切ノ平安坐高
離島ト相對ス。其距ルコト一里ニ過キス。
物產ハ砂糖、雜穀、蕃藷、藺席等ナリ。
與那城間切ハ九箇村アリ。勝連間切ト共ニ海中
ニ、斗出シタル半島ナリ。東南ハ海ニ面シ。西ハ勝
連間切ニ連リ。北ハ金武間切ノ七日濱ニ對シテ。
具志川間切ニ接ス。那覇ヲ距ル凡九里十八町ナ
リ。
高離伊計平安座ノ三島ハ。本間切ニ属ス。
物產ハ砂糖、雜穀、蕃藷、海魚等ナリ。
具志川間切ハ十五箇村アリ。東ハ與那城間切ニ

隣リ。南ハ海ニ瀕シ。西北ハ美里及ヒ金武二間切
ニ界ス。那覇ヲ距ル凡八里二十町ナリ。
天願川ハ源ヲ美里間切山城村ヨリ發シ。曲折東
流シテ。宇堅村ニ至リ海ニ注ク。長サ凡二里二十
七町。闊サ凡四五間ヨリ七八間ニ至ル。本島第一
ノ大川ナリト云フ。
物產ハ砂糖、穀類等ナリ。
美里間切ハ十九箇村アリ。西南ハ越來中城二間
切ニ界シ。東ハ具志川間切ニ交リ。北ハ金武恩納
二間切ニ連リ。東南隅ハ海ニ瀕シテ、泡瀨島ヲ控
ヘ。遙ニ津堅島ニ對ス。那覇ヲ距ル凡六里二十五
町ナリ。
泡瀨島ハ製鹽ノ業甚タ盛ナリ。
物產ハ砂糖、穀類、鹽、木炭等ナリ。
越來間切ハ十箇村アリ。南ハ中城間切ニ界シ。西
ハ北谷間切ニ接シ。東北二方ハ美里間切ニ連ル。
那覇ヲ距ル凡六里二十二町。別ニ地ノ說クヘキ
モノナシ。
物產ハ砂糖、穀類、蕃藷、蜜柑、楊梅、木炭等ナリ。
北谷間切ハ十二箇村アリ。東南ヨリ西北ニ亘リ。

北ハ讀谷山間切ニ交リ。東ハ越來中城二間切ニ
界シ。西ハ海ニ面シ。南ハ冝野灣間切ニ隣ル。地味
磽确ニシテ山林少ナシ。那覇ヲ距ル凡四里九町
ナリ。
漏池ハモルキ山ノ麓ニアリ。長サ百五十間。闊サ
七八十間。深サ十數尋アリ。本島第一ノ大池タリ。
野國川ハ源ヲウクマカヒ山ヨリ發シ。西流シテ
野國村ノ海ニ入ル。
物產ハ米、砂糖、蕃藷、苧麻、薪炭等ナリ。
讀谷山間切ハ十六箇村アリ。東南ハ恩納美里越
來三間切ニ連リ。西北二面ハ海水ヲ受ケ。西南隅
ハ北谷間切ニ接ス。地勢東南ヨリ西北ニ亘リ。海
中ニ突出ス。其岬角ハ卽チザンパ岬ナリ。山林少
ナク又水田ニ乏シ。然レトモ砂糖ノ多キコト。中
頭地方ノ第一タリ。那覇ヲ距ル凡七里餘ナリ。
比謝川ハ源ヲ越來間切ノ山中ニ発シ。具志川間
切ニ流レ。再ヒ越來間切ニ還ヘリ。北谷間切ノ漏
池ニ入ル。
座喜味村ニ古城址アリ。座喜味城ト云フ。城壁今
尚依然タリ。

楚邊村ニ洞穴アリ。闊サ凡十間。中ニ湧泉アリ。方
二間許ニシテ。深サ五六丈。是ヲ楚邊ノ暗川ト云
フ。本村二百六十餘家ノ飮料水タリ。
物產ハ砂糖、麥、大豆、蕃藷、薪炭等ナリ。
    國頭
國頭ハ本島ノ北方ニ位シ。南ハ中頭ニ界シ。東北
西三面ハ海ニ臨ム。到處山ナラサルハナシ。只僅
ニ海濱平地アルノミ。之ヲ分チテ恩納名護本部
今歸仁羽地大冝味國頭久志金武ノ九間切トス。
恩納間切ハ十二箇村アリ。海ニ沿ヒタル狹長ノ
地ニシテ。東ハ金武間切ト山脊ヲ分チテ西二位
ス。西北二方ハ海ニ瀕シ。南ハ讀谷山間切ニ交ル。
那覇ヲ距ル凡十一里二十町ナリ。
恩納岳ハ東境ニアリ。其高サ殆ント嘉津宇岳ニ
頡頏ス。其脉延テ北ニ走リ。久志邊野古ノ諸山ニ
連レリ。
海濱ハ岬灣出入シテ。恩納岬中央ニ突出シ。ヒル
恩納安富祖ノ諸港アリト雖トモ。皆口淺クシテ。
泊舟ニ便ナラス。
萬座毛ハ海ニ臨メル高原ナリ。名護本部二間切

ノ諸山ヲ眺メ。風景ニ富メリ。昔時國王巡視シテ
此處ニ至リ。萬人ヲ坐セシムヘシト云ヒシヲ以
テ。乃チ此名アリト云フ。
安富祖村ノ山中ニ瀑布アリ。イン瀧ト云フ。高サ
一丈ニ過キスシテ。闊サ一丈五尺アリ。其水流レ
テ前袋川トナル。
物產ハ米、麥、蕃藷、薪、海魚等ナリ
名護間切ハ十三箇村アリ。南東北ハ恩納金武羽
地今歸仁本部五間切ト山脊ヲ分チ。西ハ海ニ面
ス。地形弓狀ニシテ。自ラ港灣ヲ成セリ。地味稍肥
沃ニシテ水田多シ。那覇ヲ距ル凡十七里二十四
町ナリ。
名護岳ハ東南ニアリ。羽地間切ノタニヨ岳ト相
對峙ス。其南ニ石岳アリ。
湖平底ハ許田村ニアリ。泊舟ニ便ナル良港ナリ。
數久田村ニ瀑布アリ。轟原瀧ト云フ。高サ三丈。闊
サ五六尺ナリ。四面深林鬱蒼。夏時猶寒キヲ覺フ。
川流數派アリト雖トモ。皆細小ニシテ、獨リ屋部
川ヲ稍大ナリトス。源ヲ北方ノ山間ヨリ發シ。南
ニ流レ屋部村ニ至リテ海ニ入ル。

大兼久村ハ國頭地方、最モ繁盛ノ地ニシテ。國頭
役所及ヒ診察所等アリ。又東江村ニ名護警察署
アリ。
物產ハ米、麥、蕃藷、薪、海魚等ナリ
本部間切ハ十八箇村アリ。海中ニ突出セル半島
ナリ。西北ハ海水ヲ繞ラシ、伊惠島ト相對シ。東南
ハ山林ヲ分チテ、今歸仁羽地名護三間切ニ界ス。
那覇ヲ距ル凡二十一里十八町ナリ。
東南名護間切界ニ八重岳具志川岳アリ。皆高峻
ナリ。其上ニ聳ヘタルヲ嘉津宇岳トス。本島第一
ノ高山ナリ。
渡久地(トグチ)川ハ源ヲ大嵐(オホアラシ)山ヨリ發シ。西流シ渡久地
港ニ注ク。
渡久地村ニ同名ノ港灣アリ。那覇國頭往來ノ船。
必ス此灣ニ入リ。風定ルヲ待テ帆ヲ揭ク。灣ノ西
北ニ大小二島アリ。大ナル者ヲ瀨底(セソコ)島ト云ヒ。小
ナル者ヲ水無(ミンナ)島ト云フ。皆本間切ニ屬ス。
物產ハ米、麥、砂糖、藍、木材、薪等ナリ。
今歸仁(ナキジン)間切ハ二十一箇村アリ。西南ハ山林ヲ以
テ羽地名護本部三間切ニ界シ。東北二面ハ海ニ

【右頁の下半分は図】運天港

枕ム。那覇ヲ距ル凡二十
二里十町ナリ。
オツパ岳ハ玉城(タマグスク)村ノ南。
名護本部二間切界ニア
リ。樹木 攅鬱(サンウツ)セリ。
大井(オホヰ)川ハ本部間切 伊豆(イヅ)
味(ミ)村ノ山中ヨリ發源シ。
曲折北流シテ。炬(テー)湊ニ落
ツ。
仲宗根(ナゾネ)村ニ海灣アリ。炬
湊ト云フ。底淺ク浪高キヲ以テ。大船ハ繫クヘカ
ラス。
運天港ハ本間切ノ東北隅運天村ニアリ。大船數
十艘ヲ泊スヘシ。天然ノ良港ナリ。永萬中、源爲朝
運ヲ天ニ任セ、漂着セシ所。港ノ名ヲ得ル所以ナ
リ。
古宇利島ハ運天港ヨリ、二十町許ノ海中ニ在リ。
周回凡一里二十六町ナリ。
運天港上ニ百按司墓山アリ。山腹許多ノ髑髏ア
リ。之ヲ百按司墓ト云フ。山ノ名ヲ取ル所以ナリ。

親泊村ニ城墟アリ。山北王ノ割據セシ所ナリ。破
壁今尚存セリ。内ニ受劍石アリ。王滅亡ノ時。慷慨
劍ヲ振フテ擊チシモノト云フ。
物產ハ砂糖、米、麥、蕃藷、海魚、蕉布等ニシテ。蕉布ハ
殊ニ著名ナリ。
羽地間切ハ十九箇村アリ。東南西三面ハ山脊ヲ
分チテ、久志名護本部今歸仁四間切ニ界シ。西北
隅ハ海灣ヲ抱ケリ。土地肥沃。田野能ク開ケ。水田
ノ多キコト、國頭地方ノ第一タリ。那覇ヲ距ル凡
十九里十町ナリ。
タニヨ岳ハ東南隅ニ峙立シ。大川ハ源ヲ久志羽
地二間切界ノ山中ヨリ發シ。曲折北流シテ。吳我
村ニ至リ海ニ注ク。長サ凡二里餘ナリ。
勘定納港ハ屋我地島ニ渡ルノ渡頭タリ。
物產ハ米、麥、藍、木材等ナリ
大冝味間切ハ十六箇村アリ。南東北三方ハ羽地
久志國頭三間切ト山岳ヲ分チ。西一帶ハ海ニ枕
ム。到ル處山峯多ク平地少ナシ。那覇ヲ距ル凡二
十二里二十六町ナリ。
鹽谷ハ宮城島ニ對シテ大港ヲナス。滿潮ノ時ハ。

深サ七丈ニ至ルト雖トモ。港口淺クシテ。大船ヲ
容ルヽコト能ハス。
宮城島ハ周廻凡二十町許ノ小島ナリ。根呂銘饒
波根謝銘ノ諸川ハ。東南ノ山中ヨリ發源シ。皆西
流シテ海ニ入ル。
物產ハ蕃藷、穀類、薪等ナリ
國頭間切ハ十六箇村アリ。南ハ山林ヲ以テ、大冝
味久志二間切ニ牙錯シ。東北西三面ハ海ヲ環ラ
シ。本島ノ東北隅ニ突出セル半島ニシテ。最大ノ
間切ナリ。到ル處層巒重嶺耕地ニ乏シ。海濱僅ニ
水田アリ。那覇ヲ距ル凡二十五里三十四町ナリ。
間切内數所ニ嶮坂アリ。與那ノ高坂ト云ヒ。邊野
喜坂ト云ヒ。座中坂ト云ヒ。武見坂ト云ヒ。大川坂
ト云フ。中ニ就キ。座中坂嶮峻ニシテ著名ナリ。
邊戸岳西銘岳ハ極北ノ地ニ並立シ。其脉埀レテ
岬角ヲナス。邊戸岬是ナリ。其西ニ茅打萬端ト云
フ險處アリ。斷嵒屹立高サ數十仭。海風恒ニ强烈
ナリ。故ニ頂上ヨリ茅ヲ束ネテ投下スレハ。必ス
中間ニシテ解散ス。因テ此名アリ。
安波川ハ國頭地方第一ノ巨流ニシテ。上流ヲ大

川ト云フ。源ヲ福地又山ヨリ發シ。數十ノ溪水ヲ
並セ。東流シテ安波村ニ至リ海ニ入ル。長サ二里
七町十二間アリ。
ヤカビ川ハ大冝味間切屋嘉比村ノ溪間ヨリ發
源シ。濱村ニ至リ海ニ注ク。
石橋川ハ源ヲアナマタ山ヨリ發シ。大謝川ハオ
ホクビリ山ニ發源シ。共ニ奧間村ノ鏡池湊ニ落
ツ。
鏡池湊ハ本間切第一ノ良港ナリ。
物產ハ蕃藷、木材等ナリ。
久志間切ハ十九箇村アリ。東ハ海ニ面シ。南ハ金
武間切ニ界シ。西北ハ連山ヲ以テ、名護羽地大冝
味國頭四間切ニ斜接ス。地勢南北ニ伸ヒテ。東西
ニ縮マル。那覇ヲ距ル凡十八里二十三町ナリ。
久志岳邊野古岳ハ、大冝味名護羽地三間切界ニ
聳ヘ。マテラ山ハ、金武間切界ニ聳フ。皆高峻ナリ。
海濱ハ岬灣出入シ。南ニ邊野古岬アリ。北ニ安部
ノ岬角アリ。其間一大灣ヲナス。是ヲ大浦湊トス。
灣口底淺クシテ。船舶ノ出入ニ便ナラス。其他灣
港多シト雖トモ。皆狹小ニシテ、舟ヲ繫クニ冝シ

カラス。
物產ハ雜糓、蕃藷、木材、薪等ナリ
金武間切ハ八箇村アリ。東ハ海ニ瀕シ。西南ハ名
護恩納及ヒ中頭ノ美里三間切ニ連リ。北ハ山峯
ヲ以テ久志間切ニ界ス。地勢東西ニ長ク。南北甚
タ狹シ。耕地少キモ地味膏腴ナリ。那覇ヲ距ル凡
十二里二十九町ナリ。
海濱ハ岬灣出入シ。中央ニ金武岬アリ。遠ク海中
ニ斗出ス。冝野座湊漢那湊等アリト雖トモ。底淺
ク石多キヲ以テ。碇泊ニ便ナラス。
金武村ニ洞穴アリ。長サ一町餘。晝間モ炬火ヲ照
サヽレハ入ヲ得ス。
七日濱ハ南方ノ海濱ニアリ。砂磧深クシテ踝骨
ヲ沒シ。歩行捗取ラス。因テ此名アリ。古知屋㵼原
ハ久志間切ノ境ニアリ。潮水退ケハ平沙トナル。
西北ニ久志間切ノ諸山ヲ望ミ。東南ハ與那城間
切伊計高離平安座ノ三島ニ對ス。風景尤モ佳ナリ。
    島尻
島尻ハ本島ノ西南ニ位シ。東南西三面ハ海水ヲ
環ラシ。北ハ中頭ニ連ル。高山峻嶺ナク。地勢慢坡

平坦ニシテ。地味ノ膏腴ナル。本島ノ第二等タリ。
之ヲ分チテ眞和志小祿豐見城南風原大里佐敷
知念玉城東風平高嶺具志頭摩文仁眞壁喜屋武
兼城ノ十五間切トス。
眞和志間切ハ十二箇村アリ。東北ハ南風原間切、
及ヒ首里浦添間切ニ連リ。西南ハ豐見城間切、及
ヒ那覇ニ矩接ス。地形弓狀ヲナシ。地味最モ肥饒
ナリ。那覇ヲ距ル凡一里四町ナリ。
古波藏村ニ熊本鎭臺分遣隊ノ舊兵營アリ。又農
事試驗塲アリテ。和漢洋ノ蔬菜類ヲ培養セリ。
國塲川ハ南風原間切ヨリ來リ。豐見城間切眞玉
橋ヲ過キ。那覇港ニ入ル。安里川モ亦南風原間切
ヨリ發源シ。西北ニ曲流シテ、泊湊ニ落ツ。
識名村ニ尚氏ノ別莊アリ。邸内松樹雜木欝葱タ
リ。園中ニ大池ヲ穿チテ蓮ヲ植ユ。池ノ中央ニ石
橋ヲ架シ。周圍ニ花木芳草ヲ雜栽シ。池畔ノ岩穴
ヨリ淸泉噴出ス。景致頗ル幽邃ナリ。
物產ハ米、麥、大豆、砂糖、蕃藷、煙草等ナリ。
小祿間切ハ十五箇村アリ。東南ハ豐見城間切ニ
連リ。西ハ海ニ瀕シ。北ハ灣ヲ隔テヽ那覇ニ對ス。

地味ノ肥沃ナルコト。島尻地方ノ第一タリ。那覇
ヲ距ル凡二十六町ナリ。
ヤラサ鼻ハ那覇港ノ南ニ斗出セル古壘ナリ。海
上ニ胷壁ヲ築キ。壁間箭眼アリ。三重城ト港口ヲ
隔テヽ相對ス。登臨尤モ佳ナリ。
本間切ハ機織ノ業盛ニシテ。上國ヘ輸送ノ飛白
ハ。大半此地ノ產ト云フ。
物產ハ飛白、木綿縞、米、麥、大豆、砂糖、蔬菜、魚類等ナ
リ。
豐見城間切ハ二十一箇村アリ。東南ハ兼城東風
平南風原三間切ニ連リ。西ハ海ニ面シテ、小祿間
切ニ斜接シ。北ハ那覇灣ニ瀕シテ、眞和志間切ニ
錯ハル。那覇ヲ距ル凡一里三十町ナリ。
饒波川ハ大里間切ヨリ來リ。西流シテ那覇灣ニ
注ク。
物產ハ米、麥、豆、砂糖、蕃藷、蔬菜等ナリ。
南風原間切ハ十箇村アリ。東南ハ大里東風平二
間切ニ連リ。西北ハ豐見城眞和志二間切、及ヒ首
里ニ斜接シ。東北隅ハ中頭西原間切ニ界ス。那覇
ヲ距ル凡一里三十一町ナリ。

國塲川ハ源ヲ宮城村ニ發シ。安里川ハ辨ノ岳ヨ
リ發源シ。共ニ西流シテ、眞和志間切ニ入ル。
物產ハ雜穀、砂糖、蕃藷、木綿等ナリ。
大里間切ハ二十箇村アリ。西南ハ佐敷玉城具志
頭東風平四間切ニ連リ。北ハ南風原間切ニ界シ。
東ハ海灣ニ臨ミ。東北隅ハ中頭西原間切ニ接ス。
那覇ヲ距ル凡二里十九町ナリ。
與那原港ハ五六百石ノ船ヲ容ルヽト雖トモ。港
内暗礁多ク、底淺キヲ以テ。若シ風波起ルトキハ。䌫
ヲ解キテ。佐數間切ノ津波古灣ニ避ク。
物產ハ米、雜穀、砂糖、蕃藷、綿花等ナリ。
佐敷間切ハ九箇村アリ。西北ハ大里間切ニ接シ。
東南ハ知念玉城二間切ニ連リ。正北間切ノ中央
ニ海水突入ス。灣岸鹵田アリ。地形環狀ヲ成セリ。
舊城ハ佐敷村ニアリ。一ニ上城ト云フ。雜樹密生
セリ。三山ヲ滅ホシテ。本國ヲ一統シタル。尚巴志
王佐敷按司タリシトキノ城址ナリ。那覇ヲ距ル凡
三里二十八町ナリ。
物產ハ米、麥、砂糖、蕃藷、煙草、鹽等ナリ。
知念間切ハ十二箇村アリ。東南ハ海水ヲ繞ラシ。

西北ハ佐敷玉城二間切ニ連ル。西南ヨリ斜メニ
東北ニ伸出セル半島ナリ。其伸出シタル岬角。遙
ニ勝連岬ト相對ス。前面ニ久高島アリ。周回凡二
里二十町。本間切ニ属ス。那覇ヲ距ル凡五里三十
町ナリ。
物產ハ米、雜穀、砂糖、蕃藷、海魚等ナリ。
玉城間切ハ十四箇村アリ。東南ハ知念間切ニ連
リテ海ニ枕ミ。西北ハ具志頭大里佐敷三間切ニ
牙錯セリ。那覇ヲ距ル凡五里三十町ナリ。
物產ハ知念間切ニ同シ。
東風平間切ハ十一箇村アリ。島尻ノ中央ニ位ス。
東南ハ大里具志頭眞壁三間切ニ連リ。西北ハ高
嶺兼城豐見城南風原四間切ト犬牙相接ス。東風
平村ニ島尻役所アリ。那覇ヲ距ル凡四里六町ナ
リ。
本間切ハ地勢平坦ニシテ。地味稍肥沃ナリ。東南
隅ニ八重瀨岳アリ。島尻中第一ノ高山ナリ。
物產ハ米、麥、豆、砂糖、蕃藷等ナリ。
高嶺間切ハ五箇村アリ。東ハ東風平間切ニ錯リ。
西ハ海ニ面シ。南ハ眞壁間切ニ連リ。北ハ兼城間

切ニ接ス。地勢東西二長ク。南北ニ狹シ。那覇ヲ距
ル凡三里三十三町ナリ。
大里村ニ城墟アリ。南山城ト云フ。昔時南山王ノ
割據セシ所ナリ。破壁今尚存セリ。
與座村ニ湧川アリ。與座川ト云フ。島尻第一ノ淸
泉タリ。
物產ハ東風平間切ニ同シ。
具志頭間切ハ七箇村アリ。東ハ大里玉城二間切
ニ連リ。西北ハ摩文仁眞壁東風平三間切ニ斜接
シ。南一帶ハ海ニ瀕ス。那覇ヲ距ル凡五里十八町
ナリ。
物產ハ米、雜穀、砂糖、蕃藷、海魚等ナリ。
摩文仁間切ハ六箇村アリ。東南ハ具志頭間切ニ
連リテ海ニ臨ミ。西北ハ喜屋武眞壁二間切ニ矩
接ス。地勢狹小ニシテ。地味瘠薄ナリ。那覇ヲ距ル
凡五里八町ナリ。
物產ハ東風平間切ニ同シ。
眞壁間切ハ九箇村アリ。東ハ具志頭東風平二間
切ニ界シ。西ハ海ニ面シ。南ハ喜屋武摩文仁二間
切ニ連リ。北ハ高嶺間切ニ交ル。那覇ヲ距ル凡四

里二十六町ナリ。
物產ハ東風平間切ニ同シ。
喜屋武間切ハ五箇村アリ。東北ハ摩文仁眞壁二
間切ニ連リ。西南ハ海水ヲ繞ラシ。喜屋武岬海中
ニ突出ス。卽チ本島ノ南端タリ。那覇ヲ距ル凡六
里五町ナリ。
物產ハ雜穀、砂糖、蕃藷等ナリ。
兼城間切ハ九箇村アリ。東ハ東風平間切ニ接シ
西ハ海ニ瀕シ。南ハ高嶺間切二隣リ。北ハ豐見城
間切ニ界ス。那覇ヲ距ル凡三里九町ナリ。
糸滿村ハ報得川ノ南、海濱ニアリテ。狹隘ノ地ニ
九百餘ノ人家アリ。村人漁業ヲ以テ生計ヲ營ム
モノ多シ。故ニ捕魚ノ盛ナルコト。此地ヲ以テ本
國第一トス。
物產ハ米、麥、豆、砂糖、蕃藷、魚介等ナリ。
    属島
伊江島ハ本部間切ノ西北、凡二里許ノ海上ニア
リ。周回凡四里餘。中央ニ一座ノ石山屹立ス。伊江
城ト云フ。恰モ盆石ノ狀ヲナス。地勢高平ニシテ。
全島川流ナキヲ以テ水田ナシ。然レトモ地味肥

沃ニシテ。最良ノ砂糖ヲ產ス。戸數九百六十餘ニ
シテ。人口四千四百三十餘アリ。那覇ヲ距ル凡二
十三里ナリ。
物產ハ砂糖、蕃藷、藷酒、雜穀、魚介等ナリ。
伊平屋島ハ今歸仁間切ヨリ西北ニ距ル凡十里
許ノ海中ニ在リ。山林多クシテ平野少ナシ。伊平
屋伊是名野甫具志川屋ナハノ五島ニ分ル。戸數
七百十餘ニシテ。人口四千九百二十餘アリ。那覇
ヲ距ル凡三十里ナリ。
伊平屋島ハ周回凡四里二十六町アリ。一ニ葉壁
山ト云フ。尚氏ノ祖尚圓王ハ。此島ヨリ起リシト
云フ。
伊是名島ハ伊平屋ヲ距ル一里餘ニシテ。周回凡
二里十八町。伊是名村ニ城墟アリ。伊是名城ト云
フ。神山ハ勢理客村ニアリ。樹木櫕欝スト雖トモ。
土人山神ノ崇ヲ畏レ。伐採セスト云フ。
伊是名ト伊平屋ノ中間ハ。海底ノ凸凹殊ニ甚タ
シ。故ニ怒濤逆流シテ。渡船極メテ危險ナリ。
野甫具志川屋ナハ等ハ皆小島ニシテ。周回一里
ニ過キス。

物產ハ雜穀、魚介、薪炭等ナリ。
鳥島ハ那覇ヨリ北ニ距ル、凡八十里許ニアリ。周
回凡一里餘。噴火山ニシテ硫黃ヲ產ス。故ニ島民
採硫シテ、生計ヲ營ム者多シ。戸數七十餘ニシテ。
人口五百五十餘アリ。
慶良間島ハ一ニ馬齒山ト云フ。那覇ノ西七里ヨ
リ起レル羣島ニシテ。渡嘉敷座間味阿嘉ヤカヒ
コバ安室モカラクケルマ等ノ諸島アリ。之ヲ前
後ノ兩部ニ分チ。渡嘉敷座間味ノ二間切トス。戸
數三百九十餘ニシテ。人口千六百七十餘アリ。
渡嘉敷島最モ大ニシテ。周回凡三里。其他ハ大ナ
ルモノ一里餘。小ナルモノ數町ニ過キス。各島到
ル處山林アリ。樹木欝葱タリ。地味磽确ニシテ。耕
耘ニ適セス。
座間味島ニ阿護ノ浦アリ。天然ノ良港ニシテ。巨
舶數艘ヲ泊スヘシ。故ニ暴風起レハ。那覇港ノ船
舶。皆此浦ニ避ク。
物產ハ魚介、海松、鹿、薪等ナリ。
渡名喜島ハ慶良間島ノ西ニアリ。周回凡一里餘。
戸數百六十餘ニシテ。人口七百六十餘アリ。那覇

ヲ距ル凡二十六里ナリ。
島民ハ皆農ヲ業トス。然レトモ島中岡巒重疊。平
地少ナキヲ以テ物產ナシ。
粟國島ハ渡名喜島ノ西北、七八里許ニアリ。周回
凡二里餘。戸數六百六十餘ニシテ。人口四千八十
餘アリ。
島中山林ナク。地勢平坦ナリ。颶颱ノ虞殊ニ甚シ。
故ニ家屋ノ結搆。卑低ヲ極ムト云フ。
物產ハ眞綿、桑椹煎汁、雜穀等ナリ。
久米島ハ那覇ノ西、凡四十八里許ニアリ。周回六
里二十町。分チテ仲里具志川二間切トス。戸數千
二百十餘ニシテ。人口四千八百六十餘アリ
仲里間切眞謝村ハ、久米島役所ノ在ル所ナリ。又
診察所ノ設ケアリ。眞謝村ニ同名ノ湊アリ。然レ
トモ暗礁多クシテ。泊舟ニ便ナラス。
兼城湊ハ具志川間切ニアリ。船舶ヲ繫クニ宜シ
中央ニ宇江城大岳中森等ノ諸山アリ。又南端ニ
島尻山アリ。樹木繁茂ス。然レトモ平地多クシテ。土
壤ノ肥沃ナルコト。離島中第一ト云フ。
川流ハ具志川間切嘉手苅川ヲ第一トス。源ヲ仲

里間切ノ西山ニ發シ。西流シテ兼城湊ニ入ル、長
サ凡二里。大田川儀間川ハ之ニ亞テノ長流ナリ。
阿嘉村ニ二瀑布アリ。一ヲクヒリハンタト云ヒ
一ヲヒゲ水ト云フ。皆斷崖ニ懸ル。高サ各四丈餘
常ニ海風ニ激セラレ。空際ニ飛騰スルコト十數
丈。遠ク望メハ雲烟ノ如シ。頗ル奇觀ヲ極メタリ
物產ハ紬、藺席、最モ著名ニシテ。木材、名護蘭、海綿、
穀類、魚介等ナリ。
    兩先島
先島ハ那覇港ヨリ西南ニ距ル、凡九十里許ノ海
上ヨリ起リ。西南ハ台灣島ヲ距ルコト遠カラス。
島嶼凡二十。之ヲ分チテ宮古八重山ノ二大島ト
ス。
宮古島ハ周回凡十一里餘。分チテ砂川下地平良
ノ三間切トス。戸數五千六百三十餘ニシテ。人口
二萬六千六百九十餘アリ。那覇ヲ距ル凡九十四
五里ナリ。
砂川間切西里村ハ、宮古島役所ノ在ル所ニシテ。
又診察所ノ設ケアリ。
本島ハ地勢三稜形ヲナシ。西北ノ端海中ニ斗出

シ。南北兩岐ニ分ル。南ヲ西平安名岬ト云ヒ。北ヲ
世戸岬ト云フ。其他岬角甚タ多シ。沿海ハ沙線若
クハ岩石ニシテ。泊舟スヘキ所ナシ。只漲水湊ア
ルノミ。
島中ハ田圃原野ノミニシテ山林ナシ。家屋建築
材ノ如キハ。那覇又ハ八重山ニ仰クト云フ。
東北ニ方リテ。東西凡五里。南北凡一里二十町許。
潮水常ニ東方ニ激流ス。八重干瀨ト呼ヒテ。甚タ
危險ノ處タリ。
伊良部島ハ漲水湊ヨリ西ニ距ル、凡一里許ニ在
リ。周回凡四里二十町。其西南ニ多良間水納ノ二
島アリ。池間島大神島ハ東北ニ散在シ。來間島ハ
西南ニアリ。其大ナルモノハ周回凡三四里。小ナ
ルモノハ一里ニ過キス。
物產ハ穀類、紺細上布、飛白、牛馬、魚介等ニシテ。紺
細上布、飛白ハ殊ニ著名ナリ。
八重山島ハ宮古島ヨリ西南ニ距ル、凡六十里許
ニアル羣島ナリ。分チテ。宮良石垣大濱ノ三間切
トス。地味肥沃ニシテ。氣候暖燠ナリ。然レトモ人
煙稀踈ニシテ。草莽ニ属スル所甚タ多シ。故ニ所

在皆牛馬ヲ牧ス。若シ開墾其法ヲ得ハ。遺利ヲ興
ス亦大ナルヘシ。
八重山島役所ハ、石垣島大濱間切登野城村ニア
リ。又診察所ノ設ケアリ。戸數二千二百三十餘ニ
シテ。人口一萬千九百八十餘アリ。那覇ヲ距ル凡
一百五十七里ナリ。
石垣島ハ諸島中最モ大ニシテ。周回凡十六里十
七町アリ。中央ニ於茂登岳屹立ス。山中良材多シ。
其脉埀レテ北ニ亘リ。平久保岬ニ至リテ盡ク。
川平港ハ西北岸ニアリ。大船ヲ泊スヘシ。其他港
灣甚タ多シト雖トモ。皆繫舟ニ便ナラス。
蒸滊船ハ大濱間切ト、武富島ノ間ニ碇泊ス。
武富黑島新城小濱等ノ諸島ハ。石垣島ノ西南ニ
散布ス。大ナルモノハ周回三里餘。小ナルモノハ
一里ニ過キス。
西表島ハ石垣島ヨリ西ニ距ル、凡四里十八町。周
回凡十五里。中央ニ古見岳屹立シ。樹木櫕欝セリ。
東岸ニ古見湊アリ。北岸ニ鬚川村湊アリ。皆小舟
ヲ繫クヘシ。南方ニ波照間島アリ。周回三里餘ナ
リ。

物產ハ穀類、白細上布、白地飛白、牛馬、木材、魚介等
ニシテ。白細上布ハ殊ニ著名ナリ。
與那國島ハ西表ノ西南、凡四十八里許ニアリ。即
チ台灣島ヲ距ルコト遠カラス。周回凡五里。島中
山林少ク。平野多クシテ且膏膄ナリ。戸數三百二
十餘ニシテ。人口千七百八十餘アリ。女反テ男子
ヨリ多ク。風俗質朴敦厚ニシテ。一島一家ノ如シ
ト云フ。
物產ハ米、雜穀、木綿、藺席等ナリ
沖繩縣地誌畧畢

地名讀例

慶良間(ケラマ)  久米(クメ)  伊平屋(イヘヤ)  伊江(イヱ)
渡名喜(トナキ)  粟國(アグニ)  鳥島(トリシマ)  津堅(ツケン)
久高(クダカ)  宮古(ミヤコ)  八重山(ヤヘヤマ)  伊良部(イラブ)
來間(クルマ)  多良間(タラマ)  大神(オカミ)  池間(イケマ)
水納(ミンナ)  武富(ダケドン)  波照間(ハテルマ)  鳩間(ハトマ)
西表(イリオモテ)  小濱(クバマ)  黑島(クロシマ)  新城(アラグスク)
與那國(ヨナグニ)  國頭(クンヂヤン)  嘉津宇(カツウ)  恩納(オンナ)
中頭(ナカガミ)  辨(ベン)ケ岳  於茂登(オモト)  古見(コミ)

安波(アハ)川  大(オホ)川《割書:以上|總論》  島尻(シマジリ)  邊戸(ヘド)岬
喜屋武(キヤム)岬  勝連(カツラン)  知念(チネン)《割書:以上|本島》  西原(ニシバラ)
宜野灣(ギノワン)  中城(ナカグスク)  與那城(ヨナグスク)  具志川(グシチヤア)
美里(ミザト)  越來(ゴヘク)  北谷(チヤタン)  讀谷山(ヨンタンザ)《割書:以上|中頭》
眞和志(マワシ)  豐見城(トミグスク)  小祿(ヲロク)  奧武(オウノ)山
鵝森(ガアナーモリ)  渡地(ワタンヂ)  御物城(ミモノグスク)  泊(トマリ)港
㵼原(カタバル)《割書:以上|那覇》  南風原(フヱーバラ)  眞和志平等(マワシノヒラ)、南風平等(フヱーノヒラ)
西平等(ニシノヒラ)  町瑞(マチバタ)  山川(ヤマガワ)  寒水川(スンガワ)
金城(カナグスク)  大中(オホチユン)  桃原(タウバル)  當藏(トウノグラ)
鳥小堀(トンジヨモリ)  赤田(アカタ)  崎山(サキヤマ)  儀保(ギボ)
赤平(アカヒラ)  汀志良次(テシラズ)  久塲川(クバガワ)  龍潭(リウタン)
辨財天池(ベサイテンチ)  圓鑑池(エンクワンチ)  萬歲嶺(マンサイレイ)《割書:以上|首里》   浦添(ウラソヘ)
牧湊(マキミナト)  勢理客(ゼツチヤク)川  小灣(コワン)《割書:以上浦|添間切》  嘉手苅(カデカル)
末吉(スヱヨシ)川  安謝(アジヤ)湊《割書:以上西|原間切》  普天間(フテンマ)《割書:宜野灣|間切》 比嘉(ヒジヤ)
平安坐(ヘアンザ)  高離(タカバナレ)  金武(キンム)  七日濱(ナヌカバマ)《割書:以上勝|連間切》
山城(ヤマグスク)  宇堅(ウケン)《割書:以上具志|川間切》  泡瀨(アハセ)《割書:美里|間切》  漏池(モリチ)
野國(ヌグン)川《割書:以上北|谷間切》  座喜味(サキミ)  楚邊(ソベ)《割書:以上讀谷|山間切》  恩納(オンナ)
名護(ナゴ)  本部(モトブ)  今歸仁(ナキジン)  羽地(ハネヂ)
大宜味(オホギミ)  國頭(クンヂヤン)  久志(クシ)  邊野古(ヘノコ)
安富祖(アフソ)  萬坐毛(マンザモウ)《割書:以上|國頭》  湖平底(クヘンゾコ)  許田(チユダ)

數久田(シユクダ)  轟原(トドロキ)瀧  屋部(ヤブ)川  大兼久(オホガネク)
伊惠(イエ)  八重岳(ヤヘダケ)  渡久地(トグチ)川  大嵐(オホアラシ)山
瀨底(セソコ)  水無(ミンナ)《割書:以上名|護間切》  玉城(タマグスク)  大井(オホヰ)川
伊豆味(イヅミ)  炬湊(テーミナト)  仲曾根(ナカゾネ)  運天(ウンテン)港
古宇利(コウリ)島  親泊(オヤトマリ)《割書:以上今歸|仁間切》  大川(オホカワ)  吳我(グガ)
勘定納(カンテナ)《割書:以上羽|地間切》  鹽谷(シホヤ)  宮城(ミヤグスク)  根路銘(ネロメ)
饒波(ニヨハ)  根謝銘(ネシヤメ)《割書:以上大宜|味間切》  與那高坂(ヨナノダカヒラ)
邊野喜坂(ビヌチヒラ)  座中坂(ザチユンヒラ)  武見坂(ブミヒラ)  大川坂(オホカーヒラ)
茅打萬端(カヤウチバンタン)  福知又(フクチマタ)山  大謝(オホジヤ)川  鏡地(カガミチ)湊《割書:以上國|頭間切》
宜野座(ギノザ)湊  漢那(カンナ)湊《割書:以上金|武間切》  大里(オホザト)  佐敷(サシキ)
東風平(コチンダ)  高嶺(タカミネ)  具志頭(グシチヤン)  摩文仁(マブイ)
眞壁(マカベ)  兼城(カネグスク)《割書:以上|島尻》  古波藏(コハングワ)  國塲(コクバ)川  
眞玉橋(マタンバシ)  識名(シキナ)《割書:以上眞和|志間切》  饒波(ニヨウハ)川《割書:豐見城|間切》  與那原(ヨナバル)港
津波古灣(ツハノコワン)《割書:以上大|里間切》  上城(ウヘグスク)《割書:佐敷|間切》  八重瀨(ヤヘズ)《割書:東風平|間切》
南山城(サンサングスク)《割書:高嶺|間切》  糸滿(イトマン)  報得(ムクイ)川《割書:以上兼|城間切》  伊江城(イヱグスク)
伊是名(イゼナ)  野甫(ノホ)  馬齒(バシ)山  渡嘉敷(トカシキ)
座間味(ザマミ)  阿嘉(アカ)  安室(アムロ)  阿護浦(アゴノウラ)
仲里(ナカザト)  眞謝(マジヤ)  宇江城(ウエグスク)  大岳(オホダケ)
中森(ナカモリ)  嘉手苅(カテカル)川  太田(オホタ)川  儀間(ギマ)川
台灣(タイワン)  砂川(ウルカ)  下地(シモヂ)  平良(ヒララ)

西里(ニシザト)  平安名(ヘアンナ)岬  世戸(セド)岬  漲水(ハリミズ)湊
宮良(ミヤラ)  石垣(イシガキ)  大濱(オハマ)  平久保(ヒラクボ)岬
川平(カビラ)港  鬚川(ヒゲカワ)港

【白紙】

【裏表紙】

中山伝信録

中山傳信錄 一

中山傳信錄序
古-者輶-軒 ̄ノ之-使。必紀_二 ̄シ土-風_一 ̄ヲ誌_二 ̄ス物-
冝_一 ̄ヲ。所_三-以 ̄ナリ重_二 ̄スル其 ̄ノ俗_一 ̄ヲ也。况 ̄ヤ扵_二 ̄テヲヤ萬-里 ̄ノ之
外。蠻-夷海-㠀 ̄ノ之中_一 ̄ニ乎。編-修澄-齋
徐-館-丈 ̄ノ之使_二 ̄スル琉-球_一 ̄ニ也。以_二 ̄テ文-章_一 ̄ヲ華 ̄ニシ
_レ國 ̄ヲ。以_二 ̄テ政-事_一 ̄ヲ經_レ ̄ス邦 ̄ヲ。而 ̄シテ且 ̄ツ儀-容端-偉。
言-辤敏-妙。真 ̄ニ可_レ ̄シ謂 ̄ツ使_二 ̄メ扵四-方_一 ̄ニ。不 ̄ル
_レ辱_二 ̄シメ君-命_一 ̄ヲ者 ̄ナリト矣。歸 ̄テ而作_二 ̄ル中-山傳-信

録_一 ̄ヲ。凡 ̄ソ若-干-巻。中 ̄ニ列_二 ̄シ中-山-王 ̄ノ圖_一 ̄ヲ。紀_二 ̄シテ
其 ̄ノ宴-享_一 ̄ヲ。以 ̄テ志_下 ̄ルス其 ̄ノ崇_二-奉 ̄スル中-國_一 ̄ヲ之誠_上 ̄ヲ。
又為_レ ̄メニ之 ̄カ表_二 ̄レ其 ̄ノ世-系_一 ̄ヲ。度_二 ̄リ其 ̄ノ封-疆_一 ̄ヲ。與_二 ̄ヲサヘニ
其 ̄ノ官-秩 ̄ノ之崇-卑。廩-禄 ̄ノ之厚-薄_一。又
為_レ ̄メニ之 ̄カ㝎_二 ̄メ其 ̄ノ針-路_一 ̄ヲ。無_レ ̄キトキハ過_二-用 ̄スルヿ叩-針_一 ̄ヲ。則
無_下 ̄ラシム流 ̄シテ至_二 ̄ル葉-壁-山_一 ̄ニ之患_上。終 ̄ニ為_レ之 ̄カ圖_二-
寫 ̄シ土-産卉-木動-植之物_一 ̄ヲ。必 肖(ニセ)_二其 ̄ノ
狀_一 ̄ヲ。而首 ̄ニハ則著_二 ̄シテ其 ̄ノ揚_レ ̄ケ帆 ̄ヲ奉_一レ ̄スルヲ使 ̄ヲ。為_二 ̄リ封-
舟 ̄ノ圖_一 ̄ヲ。以 ̄テ見_下 ̄ハス
聖-天-子威-靈呵-護。出_二-入 ̄シ扵千-波
萬-水 ̄ノ之中_一 ̄ニ。經_二-渉 ̄シ魚-龍 ̄ノ窟-穴_一 ̄ニ。雖_二 ̄トモ掀 ̄シ
_レ風 ̄ヲ鼓_一レ ̄スト。浪 ̄ヲ。如_上レ ̄ナルヲ履_二 ̄ムカ平-地_一 ̄ヲ。猗(アヽ)-歟壮 ̄ナル-哉。徃-
者 ̄ニ族-父舟-次先-生奉_レ ̄スル使 ̄ヲ時。排_レ ̄メ日 ̄ヲ
赴_レ ̄キ宴 ̄ニ。宴-畢 ̄テ即上_レ ̄リ舩 ̄ニ候_レ ̄ガフ風 ̄ヲ。今徐-君
公-事畢 ̄テ。閒 ̄ニ與_二其 ̄ノ陪-臣_一。搜_レ ̄リ巗 ̄ヲ剔_レ ̄シ壑 ̄ヲ。
揮_レ ̄ヒ筆 ̄ヲ賦_レ ̄ス詩 ̄ヲ。非_三以_レ是 ̄ヲ侈_二 ̄ルニ其 ̄ノ逰-眺_一 ̄ヲ。盖

将_レ ̄シテ歸 ̄ント而著-述 ̄ス。以-為 ̄ラク得_二 ̄ルハ之 ̄ヲ傳-聞_一 ̄ニ。不 ̄ト
_レ如_二 ̄カ目-見 ̄スル者 ̄ノ之為_一レ ̄ルニハ真也。其 ̄ノ國-官 ̄ノ之
尊 ̄キ者 ̄ヲ。曰_二 ̄フ紫-金大-夫_一 ̄ト。時 ̄ニ為_レ ̄ル之 ̄ト者 ̄ハ。即
舟-次先-生前 ̄ニ-使 ̄セル時。所_レ ̄ロノ請_二 ̄フ陪-臣子-
弟。入_レ ̄テ學 ̄ニ讀_一レ ̄ムヿヲ書 ̄ヲ者 ̄ナリ也。其 ̄ノ文-辤可_レ ̄シ觀 ̄ツ。
與(ト)_レ之言 ̄テ娓-娓 ̄トシテ有_レ ̄リ致。今 ̄ノ之所_レ述 ̄ル。皆
得_三之 ̄ヲ其 ̄ノ口 ̄ト。與_二 ̄ニ其 ̄ノ諸-臣 ̄ノ所_一レ言 ̄フ。證_二 ̄シ之 ̄ヲ
史-牒_一 ̄ニ。信 ̄ニシテ而有_レ ̄リ徴。嵇-含 ̄ガ之南-方草-
木-状。范-成-大 ̄ガ之桂-海虞-衡-志 ̄モ。豈 ̄ニ
足_レ ̄ランヤ羡 ̄ムニ哉。賦_二 ̄スル皇-華_一 ̄ヲ者。所_レ ̄ノ冝【左ルビ「ヘキ」】_三 ̄シク人 ̄コトニ置_二 ̄ク一-
編_一 ̄ヲ者 ̄ナリ也。康-熙六-十-年。左-春-坊左-
中-允。南-書-房 ̄ノ舊-直。汪-士-鋐序。

重刻中山傳信録序
是歳丙戌之夏。予友岡瑞卿将重
梓中山傳信録。屬予挍且序之。予
病懶不堪煩。則使門人永忠原代
挍之。及秋挍乃成矣。因為之序曰。
原夫琉球之通吾邦。未詳始於何

時。歷考國史。不少概見。《割書:或以其所|謂南島者》
《割書:當之。然此泛稱薩南諸|島耳。未足以為的證。》豈以其地
僻逺。且風濤艱險。非夫三韓渤海。
一葦可杭之屬。而置之度外而不
問耶。但世傳保元之役。源公為朝
之放于豆大島也。遂乃航洋。至琉
球而止焉。今閱是録。中山世系王
舜天紀。所謂日本人皇後裔朝公
者。時相當矣。名相符矣。則世之所
傳。信而有徵。夫舜天為球陽文敎
之始祖。而實公之男也。則雖彼未
嘗庭于我。而既隂被其化也久矣。

厥後二百余年。室町喜山覇政之
時。乃纔有来貢之信。而亦唯互市
是利。嚮化未醇。且方是之時。海内
板蕩。干戈日尋。尚何問殊域之暇
及也哉。逮至
神祖戡定。疆宇一統。風化之所訖。
朝鮮既納款。於是乎石曼子侯。震
其餘勇。奉 敎南征也。蝥弧所指。
望風奔竄。遂乃長驅入中山。繫王
尚寧。而致之 闕下。自是之後。修
聘進貢。永為我附庸矣。則今吾邦
學者。而不知其國事可乎。岡瑞卿

重刻之舉。意在斯乎。有客謂予曰。
夫琉球既為我影國。而猶且貳於
清。奉其正朔。受其冊封。而吾之
國家不討之。何也。曰。古明王之待
夷狄。羈縻不責備也。今吾之 國
家亦然耶。則益足以見其柔懐之
德爾。客唯々而退。
 旹
大日本明和三年冬十月
  平安 服天游伯和文撰

     永忠原俊平文書

中山傳信錄卷第一
  封舟
  渡海兵役
  更 《割書:針盤 玻璃漏|》
  針路
  前海行日記
  後海行日記
  歷次封舟渡海日期
  風信 《割書:風暴日期|》

  天妃靈應記
  諭祭海神文
  春秋祀典疏

中山傳信錄序
 琉-球見_レ ̄ハル自_二 ̄リ隋-書_一。其 ̄ノ傳甚 ̄タ畧 ̄ス。北-史唐-書宋-元 ̄ノ諸-史因_レ ̄ル之 ̄ニ。
 正-史 ̄ヨリシテ而-外。如_二 ̄キ杜-氏-通-典集-事-淵-海星-槎-勝-覽蠃-蟲-錄
 等 ̄ノ書_一 ̄ノ。所_レ ̄ノ載 ̄ル山-川風-俗物-產。皆多_二 ̄シ舛-漏_一。前-明洪-武五-年。
 中-山-王察-度始 ̄テ通_二 ̄ス中-朝_一 ̄ニ。而 ̄シテ明 ̄ノ一-統-志成_二 ̄ル於天-順 ̄ノ初_一 ̄ニ。百-
 年 ̄ノ中爲_レ ̄ルヿ時未_レ久 ̄シカラ。故 ̄ニ所_レ載皆仍_二 ̄ル昔-悞_一 ̄ニ。幾 ̄ント無_二 ̄シ一-實_一焉。嘉-靖
 甲-午。陳-給-事侃奉_レ ̄シ使 ̄ヲ。始 ̄テ有_レ ̄リ錄。歸 ̄テ上_二 ̄ツル於朝_一 ̄ニ。其 ̄ノ疏 ̄ニ云 ̄ク。訪_二 ̄ヒ其 ̄ノ
 山-川風-俗人-物 ̄ノ之詳_一 ̄ナルヲ。且 ̄ツ駁_二 ̄シ羣-書 ̄ノ之謬_一 ̄ヲ。以成_二 ̄ス紀-畧質-異
 二-卷_一 ̄ヲ。末 ̄ニ載_二 ̄スト國-語國-字_一 ̄ヲ。而 ̄シテ今 ̄ノ鈔-本什 ̄ニ存_二 ̄ス二-三_一 ̄ヲ矣。萬-曆-中

 再遣_二 ̄ハス使蕭-崇-業夏-子-陽_一 ̄ヲ。皆有_レ ̄リ錄。而 ̄シテ前-後相-襲 ̄フ。崇-禎六-
 年。杜-三策 ̄ガ從-客胡-靖 ̄ガ記。尤 ̄モ俚-誕。 本-朝康-煕二-年。兵-
 科張-學-禮 ̄ガ使-畧雜-錄二-卷。頗 ̄ル詳_二 ̄ナリ於昔_一 ̄ヨリ。二-十-二-年。檢-討
 汪-楫譔_二 ̄ス中-山沿-革-志二-卷。雜-錄五-卷_一 ̄ヲ。典-實遠 ̄ク非_二前 ̄ノ比_一 ̄ニ。
 然 ̄トモ於_二 ̄テ山-川 ̄ノ轄-屬_一 ̄ニ。仍 ̄ヲ有_二闕-畧_一。風-俗制-度物-產等。亦俱 ̄ニ未
 _レ備 ̄ハラ。蓋使-期促-廹。摉-討倉-猝。語-言文-字。彼-此訛-謬。是 ̄ヲ以
 所_レ聞 ̄ク異_レ ̄ニシ詞 ̄ヲ。傳 ̄ヘテ焉寡_レ ̄シ信。今《割書:臣|》奉 ̄シテ
_レ命 ̄ヲ。爲_二 ̄テ檢-討《割書:臣|》海-寳 ̄カ副_一 ̄ト以 ̄テ往 ̄ク。自_二 ̄リ巳-亥六-月朔至_一レ ̄テ國 ̄ニ。候_レ ̄シテ汛 ̄ヲ踰 ̄ユ
 _レ年 ̄ヲ。至_二 ̄テ庚-子二-月十-六日_一 ̄ニ始 ̄テ行 ̄ク。計 ̄ルニ在_二 ̄ルヿ中-山_一 ̄ニ凡 ̄ソ八-閱-月。封-
 宴 ̄ノ之-暇。先 ̄ツ致_二 ̄シ語 ̄ヲ國-王_一 ̄ニ。求_レ ̄ム示_二 ̄サンヿヲ中-山-世-鑑。及山-川 ̄ノ圖-籍_一 ̄ヲ。又
 時 ̄ニ與_下其 ̄ノ大-夫 ̄ノ之通_二 ̄セル文-字譯-詞_一 ̄ニ者_上。遍 ̄ク遊_二 ̄ヒ山-海 ̄ノ間_一 ̄ニ。遠-近形-
 勢。皆在_二目-中_一 ̄ニ。考_二其 ̄ノ制-度禮-儀_一 ̄ヲ。觀_レ風 ̄ヲ問_レ ̄フ俗 ̄ヲ。下至_二 ̄ルマテ一-物 ̄ノ異-
 狀_一 ̄ニ。必詢_レ ̄フテ名 ̄ヲ以得_二其 ̄ノ實_一 ̄ヲ。見-聞互 ̄ニ証 ̄シ。與_レ之往-復 ̄シ。去_レ ̄リ疑 ̄ヲ存_レ ̄ス信 ̄ヲ。
 因 ̄テ并_二 ̄ハセ海-行針-道封-宴諸-儀 ̄ノ圖-狀_一 ̄ヲ。并 ̄ニ列_レ ̄ネテ編 ̄ニ爲_二 六-卷_一 ̄ト。雖_レ ̄トモ未_四 ̄ト
 敢 ̄テ自 ̄ラ謂_三 ̄ハ一 ̄モ無_二 ̄ント舛-漏_一。以 ̄テ云_レ ̄ンハ傳_レ ̄フト信 ̄ヲ。或 ̄ハ庶-幾 ̄カラン焉。且 ̄ツ諸-史 ̄ノ於_二 ̄ル外-
 邦_一 ̄ニ。載-記大-率荒-畧 ̄ナリ。今琉-球雖_レ隔_二 ̄ツト大-海_一 ̄ヲ。新 ̄ニ測_一 ̄カルニ晷-景_一 ̄ヲ。與_二福-
 州_一東-西相-値 ̄ル。僅 ̄ニ一-千-七-百-里。世-世受_レ ̄ケ封 ̄ヲ。歲-歲來-貢 ̄ス。與_二
 内-地_一無_レ ̄シ。異 ̄ヿ伏 ̄シテ-觀 ̄ルニ

禁-廷新 ̄ニ刊_二 ̄ス輿-圖_一 ̄ヲ。朝-鮮哈-密拉-藏屬-國等 ̄ノ圖皆在 ̄リ焉。海-外
 藩-封。例得_レ附_二 ̄スルヿヲ於其 ̄ノ次_一 ̄ニ。若 ̄シ仍_二 ̄テ前 ̄ノ誕-妄_一 ̄ニ。不_レ ̄ン爲_二 ̄サ釐-正_一 ̄ヲ。亦何 ̄ヲ以 ̄カ
 見_三 ̄テ
聖-朝風-化 ̄ノ之遠 ̄キ。與_二 ̄ヲ外-邦内-嚮之久_一 ̄キ。以 ̄テ附_二 ̄シテ職-方_一 ̄ニ。稱_二 ̄セラレンヤ甚-盛_一 ̄ト哉。
 故 ̄ニ於_二 ̄テ載-筆 ̄ノ時_一 ̄ニ。尤兢-兢 ̄トシテ致_レ ̄スト愼 ̄ヲ云 ̄フ。康-煕六-十-年。歲在_二辛丑_一 ̄ニ。
 秋八-月。翰-林-院編-修。 《割書:臣|》徐-葆-光謹 ̄テ序。

 【図】封舟圖

中山傳信錄卷第一
 冊封琉球國王副使 賜正一品麟蟒服翰林院編修加二級《割書:臣|》徐葆光纂
  封-舟
 從-前冊-封。以_二 ̄テ造-舟_一 ̄ヲ爲_二重-事_一 ̄ト。歴_二-考 ̄スルニ前-冊_一 ̄ヲ。採_二 ̄リ木 ̄ヲ各-路_一 ̄ニ。騷_二-動 ̄シ
 夫-役_一 ̄ヲ。開_レ ̄キ厰 ̄ヲ監_一レ ̄シ造 ̄ヲ。縻_二-費 ̄ス官-帑_一 ̄ヲ。奸-吏假_レ ̄テ手 ̄ヲ。爲_レ ̄スヿ獘 ̄ヲ無_レ ̄シ窮 ̄リ。經_レ時 ̄ヲ
 累_レ ̄テ歲 ̄ヲ。其 ̄ノ事始 ̄テ舉 ̄ス。自_二 ̄リ前-明_一以至_二 ̄ルマテ
本-朝冊-封之始_一 ̄ニ。其 ̄ノ煩-費遲-久。前-後一-轍 ̄ナリ也。康-熙二-十-一
 年。使-臣汪-楫林-麟-焻。卽取_二 ̄テ現 ̄ニ有 ̄ル二-戰-艦_一 ̄ヲ充_レ ̄ツ之 ̄ニ。前-獘始 ̄テ
 絶 ̄フ。至_レ ̄テ今 ̄ニ三-十-餘-年。區-宇昇-平。海-濱利-涉。沿-海 ̄ノ縣-鎭。巨-

 舶多 ̄ク有 ̄リ。
冊-封命-下 ̄テ。《割書:臣|》等未_レ ̄ル到_レ ̄ラ閩 ̄ニ前。督_二 ̄シテ臣滿-保_一 ̄ヲ。移_二 ̄シ檄 ̄ヲ各-鎭_一 ̄ニ。選_二 ̄テ大-船_一 ̄ヲ
 充_レ ̄ツ用 ̄ニ。豫 ̄メ爲_二修-葺_一 ̄ヲ。諸-具咸-備 ̄ル。二-船取_レ ̄ル自_二 ̄リ浙-江寧-波-府屬_一。
 皆民-間 ̄ノ商-舶。較_二 ̄ルニ徃-時 ̄ノ封-舟_一 ̄ニ。大-小相-埓 ̄シ。而 ̄シテ費-輕 ̄ク辦-速 ̄ナル。前 ̄キ
 _レ此 ̄ヨリ未_レ有 ̄ラ也。《割書:按 ̄ニ宋 ̄ノ徐-兢奉_二 ̄スル使 ̄ヲ高-麗_一 ̄ニ。神-舟二。皆勅_二-賜 ̄ス名-字_一 ̄ヲ。|客-舟六。共 ̄ニ八-舟。明 ̄ノ封-舟或 ̄ハ一或 ̄ハ二。今二-舟。》
 一-號-船 ̄ハ使-臣共 ̄ニ居_レ ̄ス之 ̄ニ。二-號-船 ̄ハ載_二 ̄ス兵-役_一 ̄ヲ。一-號-船 ̄ハ前-後四-
 艙。每-艙上-下三-層。下 ̄ノ一-層 ̄ハ塡-壓 ̄シテ載_二 ̄セ巨-石_一 ̄ヲ。安_二-頓 ̄ス什-物_一 ̄ヲ。中 ̄ノ
 一-層 ̄ハ使-臣居_レ ̄ス之 ̄ニ。兩-旁 ̄ヲ名 ̄テ曰_二麻-力_一 ̄ト。截 ̄シテ爲_二兩-層_一 ̄ト。左-右八-間。
 以居_二 ̄ク從-役_一 ̄ヲ。艙-口 ̄ノ梯兩-折 ̄シテ始 ̄テ下 ̄ル。艙-中寬 ̄サ六-尺-許。可_レ ̄シ橫_二 ̄フ一-
 床_一 ̄ニ。高 ̄サ八-九-尺。上穴_二 ̄シテ艙-面_一 ̄ニ爲_二 天-窓-井_一 ̄ト。方三-尺-許以通_レ ̄ス明 ̄ヲ。
 雨 ̄フレハ卽掩_レ ̄フ之 ̄ヲ。晝-黑 ̄ノ如_レ ̄シ夜 ̄ノ。艙-面空_二 ̄シテ其 ̄ノ右_一 ̄ヲ以行_レ ̄ル船 ̄ヲ。左-邊置_二 ̄ク爐-
 竈數-具_一 ̄ヲ。板-閣跨_二 ̄ルヿ舷-外_一 ̄ニ一-二-尺-許。前-後圈_レ ̄シテ篷 ̄ヲ作_二 ̄リ小-屋一-
 二-所_一 ̄ヲ。日 ̄ニ畨-居 ̄シテ以避_二 ̄ク艙-中 ̄ノ暑-𤍠_一 ̄ヲ。水-艙水-櫃。設_レ ̄テ人 ̄ヲ主_レ ̄ラシム之 ̄ヲ。置 ̄テ
 _レ籖 ̄ヲ給_レ ̄ス水 ̄ヲ。人 ̄コトニ日 ̄ニ一-甌。船-尾虚-梢 ̄ヲ爲_二將-臺_一 ̄ト。立_二 ̄ニ旗纛_一 ̄ヲ。設_二 ̄ケ籐-牌
 弓-箭_一 ̄ヲ。兵-役吹-手居_二 ̄ス其 ̄ノ上_一 ̄ニ。將-臺 ̄ノ下 ̄ヲ爲_二神-堂_一 ̄ト。供_二 ̄ス天-妃諸-水
 神_一 ̄ヲ。下 ̄ヲ爲_二柁-樓_一 ̄ト。樓-前小-艙布_二 ̄ク針-盤_一 ̄ヲ。夥-長柁-工。及接-封 ̄ノ使
 臣。主_レ ̄ル針 ̄ヲ者居_レ ̄ス之 ̄ニ。船 ̄ノ兩-旁大-小炮-門十-二。分_二 ̄リ列 ̄ス左右_一 ̄ニ。軍-
 噐稱_レ ̄フ是 ̄ニ。蓆-篷布-篷九-道。艙-面橫_二 ̄ヘ大-木三-道_一 ̄ヲ。設_レ ̄ケ軸 ̄ヲ轉_レ ̄シテ繚 ̄ヲ

 以上_二-下 ̄ス之_一 ̄ヲ。船-戸以-下共 ̄ニ二-十-二-人。各有_二 ̄リ專-掌_一。其中最
 趫-㨗 ̄ナル者 ̄ヲ名_二 ̄ク鴉-班_一 ̄ト。正-副二-人。登_レ ̄テ檣 ̄ニ瞭-望 ̄シ。上-下 ̄スルヿ如_レ ̄シ飛 ̄フカ。兵-丁
 皆習_二 ̄フ行-船 ̄ノ事_一 ̄ニ。每-船百-人爲_二之 ̄カ佐_一 ̄ト。一-號-船 ̄ハ千-總督_レ ̄シ之 ̄ヲ。二-
 號-船 ̄ハ守-備督_レ ̄ス之 ̄ヲ。
 一-號-船長 ̄サ十-丈。寬 ̄サ二-丈八-尺。深 ̄サ一-丈五-尺。《割書:前-明封-舟。|連_二 ̄テ尾虛-梢_一 ̄ヲ。》
 《割書:長 ̄サ十-七-丈。寛 ̄サ三-丈一-尺六-寸。深 ̄サ一-丈三-尺三-寸。嘉-靖|中正-使陳-侃。副-使高-澄等。題-請 ̄シテ定_レ ̄ム式 ̄ヲ。 嘉-靖三-十-八-》
 《割書:年 ̄ノ封-舟。依_二 ̄テ舊-式_一 ̄ニ。造 ̄ル長 ̄サ帶_二 ̄テ虛-梢_一 ̄ヲ一-十-五-丈。寛 ̄サ二-丈九-尺|七-寸。深 ̄サ一-丈四-尺。 萬-曆七-年造_二 ̄ル封-舟_一 ̄ヲ。帶_二 ̄テ虚-稍_一 ̄ヲ一-十》
 《割書:四-丈。寛二-丈九-尺。深一-丈四-尺。 崇-禎六-年。冊-使杜|三-策 ̄カ從-客胡-靖 ̄カ記-錄。封-舟長二-十-丈。廣六-丈。  本-》
 《割書:朝康-熙二-年。張-學-禮 ̄カ記。形如_二梭-子_一 ̄ノ。長十-八-丈。寛二-丈|二-尺。深二-丈三-尺。 康-熙二-十-二-年。汪-楫 ̄カ記。選_二 ̄テ二-鳥》
 《割書:船_一 ̄ヲ充_レ ̄ツ用 ̄ニ。船 ̄ノ長一-十-五-丈有-奇。寛二-丈六-尺。按 ̄ニ海-防-冊 ̄ニ|云。烽-火-營 ̄ノ鳥-船一-隻。長一-十-二-丈三-尺。寛二-丈五-尺。》
 《割書:閩-安中-營 ̄ノ鳥-船一-隻。長一-十|二-丈二-尺。寛二-丈六-尺五-寸。》前-後四-艙。水-艙四。水-櫃
 四。水-桶十-二。共 ̄ニ受_二 ̄ク水七-百-石_一 ̄ヲ。
 柁長 ̄サ二-丈五-尺五-寸。寬 ̄サ七-尺九-寸。西-洋 ̄ノ造-法。名_二 ̄ク夾-板
 柁_一 ̄ト。不_レ用_二勒-肚_一 ̄ヲ。柁以_二鐵-力-木_一 ̄ヲ爲_レ ̄ル之 ̄ヲ。名 ̄テ曰_二鹽-柁_一 ̄ト。漬_二 ̄シテ海-水-中_一 ̄ニ
 愈〱堅 ̄シ。《割書:前-明 ̄ノ封-舟。定 ̄テ製_二 ̄ス鐵-力-木-柁三-門_一 ̄ヲ。每_レ ̄ニ門長三-丈五-|尺。有_二 ̄テ大-䌫_一繫_レ ̄ク之 ̄ヲ。由_二 ̄リ船-底_一兠 ̄ノ至_二 ̄ル船頭_一 ̄ニ。謂_二 ̄フ之 ̄ヲ勒-肚_一 ̄ト。以_二 ̄テ》
 《割書:櫆-藤_一 ̄ヲ爲_レ ̄ル之。今二-封-舟。皆取_二 ̄テ商-船_一 ̄ヲ充_レ用 ̄ニ。二-號製如_二鳥-船 ̄ノ|式_一 ̄ノ。用_二 ̄フ勒-肚二-條_一 ̄ヲ。一-號-船 ̄ハ係_二 ̄ル西洋 ̄ノ夾-板-柁_一 ̄ニ。不_レ用_二勒肚_一 ̄ヲ。又》
 《割書:不_レ置_二副-柁_一 ̄ヲ。將_レ ̄ル出_レ ̄シト海 ̄ヲ時。與_二閩-中 ̄ノ有-司_一。爭_レ ̄フ置_二 ̄ヿヲ副-柁_一 ̄ヲ。本-船 ̄ノ夥-|長林-某云。船柁 ̄ハ西-洋 ̄ノ造-法最堅-穩。可_レ無_レ ̄ル用_レ ̄ルヿ副 ̄ヲ。且 ̄ツ柁重 ̄サ》
 《割書:萬 ̄ト觔。船-中亦無_レ處_レ置_レ之。竟 ̄ニ|不_レ置_二 ̄カ副-柁_一 ̄ヲ。與_レ前小-異 ̄ナリト。云 ̄フ》

 大-桅長 ̄サ九-丈二-尺。圍九-尺。
 頭-桅長 ̄サ七-丈二-尺。圍七-尺。
 櫓-二 ̄ツ。長 ̄サ四-丈。寬 ̄サ二-尺三-寸。
 椗大-小各-二 ̄ツ。大-者長 ̄サ二-丈七-尺。小-者長 ̄サ二-丈四-尺。皆
 寬 ̄サ八-寸。及 ̄ヒ七-寸。形如_二个-字_一 ̄ノ。皆以_二鐵-力-木_一 ̄ヲ爲_レ ̄ル之 ̄ヲ。椗-上 ̄ノ棕-
 索二-條。長 ̄サ一-百-托。圍一-尺五-寸。《割書:按 ̄ニ字-書 ̄ニ。碇 ̄ハ錘_レ ̄スル舟 ̄ヲ石 ̄ナリ也。|與_レ矴同。無_二椗-字_一。今以》
 《割書:_レ木 ̄ヲ爲_レ之。故 ̄ニ|俗-字從_レ ̄フ木 ̄ニ。》
 大-桅 ̄ノ蓆-篷寬 ̄サ五-丈二-尺。長 ̄サ五-丈三-尺。轆-轤-索三-條。長 ̄サ
 三-十-五-托。圍一-尺二-寸。
 繚-母-索二-條。長 ̄サ一-十-五-托。圍一-尺五-寸。
 頭-桅 ̄ノ蓆-篷寬 ̄サ二-丈二-尺。長 ̄サ二-丈八-尺。
 大-桅-頂 ̄ノ篷 ̄ヲ名_二 ̄ク頭-巾-頂_一 ̄ト。惟官舶始 ̄テ用_レ ̄ユ之 ̄ヲ。商-船不_レ得_レ用 ̄ヿヲ。長 ̄サ
 五-丈四-尺。寬 ̄サ五-丈。《割書:徐-兢 ̄カ錄 ̄ニ云。大-檣 ̄ノ之巓。加_二小-帆十-|幅_一 ̄ヲ。謂_二之 ̄ヲ野-狐-帆_一 ̄ト。殆-卽頭-巾-頂 ̄ナリ也。》
 大-桅 ̄ノ下 ̄ノ布篷 ̄ヲ名_二 ̄ク篷-裙_一 ̄ト。長 ̄サ六-尺。寬 ̄サ一-丈五-尺。
 頭-桅-上布-篷 ̄ヲ名_二 ̄ク頭-幞_一 ̄ト。上尖 ̄リ下方 ̄ナリ。三-角 ̄ノ形。長 ̄サ三-丈。下 ̄ノ濶 ̄サ
 二-丈八-尺。
 挿-花布-篷長 ̄サ四-丈八-尺。寬 ̄サ三-丈四-尺。
 挿-花下 ̄ノ布-篷 ̄ヲ名_二 ̄ク挿-花-褲_一 ̄ト。長 ̄サ六-尺。寬 ̄サ一-丈五-尺。

 頭-緝 ̄ノ布-篷長 ̄サ四-丈五-尺。寬 ̄サ二-丈五-尺。
 尾-送 ̄ノ布-篷長 ̄サ四-丈。寬 ̄サ二-丈七-尺。
  共 ̄ニ篷九-道
 二-號-船長 ̄サ十-一-丈八-尺。寬 ̄サ二-丈五-尺。深 ̄サ一-丈二-尺。
 前-後共 ̄ニ二-十-三-艙。水-艙二。水-櫃-四。水-桶十-二。受_レ ̄ルヿ水 ̄ヲ六
 百-石。
 柁長 ̄サ三-丈四-尺。寬 ̄サ七-尺。制同_二 ̄シ鳥-船_一 ̄ニ。柁用_二 ̄ユ勒-肚二-條_一 ̄ヲ。長 ̄サ
 十-五-丈。從_レ尾左-右 ̄シテ夾_レ ̄ミ水 ̄ヲ。兠 ̄シテ至_二 ̄ル頭-上_一 ̄ニ。
 大-桅長 ̄サ八-丈五-尺。圍八-尺五-寸。
 頭-桅長 ̄サ六-丈五-尺。圍六-尺。
 櫓四長 ̄サ四-丈。寬 ̄サ二-尺二-寸。
 椗大-小三-具。
 大-桅蓆-篷長 ̄サ五-丈七-尺。寬 ̄サ五-丈六-尺。
 頭-桅 ̄ノ蓆-篷長 ̄サ五-丈七-尺。寬 ̄サ五-丈六-尺。
 大-桅 ̄ノ頭-巾-頂布-篷長 ̄サ五-丈。寬 ̄サ四-丈八-尺。
 大-桅 ̄ノ下 ̄ノ布-篷-裙長 ̄サ六-尺。寬 ̄サ一-丈六-尺。
 挿-花布-篷長 ̄サ四-丈八-尺。寬 ̄サ三-丈二-尺。
 挿-花-褲布-篷長 ̄サ五-丈。寬 ̄サ一-丈三-尺。

 頭-緝布-篷長 ̄サ四-丈。寬 ̄サ二-丈四-尺。
 尾-送 ̄ノ布-篷長 ̄サ三-丈六-尺。寬 ̄サ二-丈五-尺。
  共 ̄ニ篷八-道。少-頭-幞布-篷一-道。
 每-船。船-戸以-下二-十-二-人。
 正-夥-長。主_二 ̄ル針-盤羅-經 ̄ノ事_一 ̄ヲ。副-夥-長。經_二-理 ̄シ針-房_一 ̄ヲ。兼 ̄テ主_三 ̄ル水-鋾
 長-綆三-條。候_二 ̄スルヿヲ水 ̄ノ淺深_一 ̄ヲ。
 正-副舵-工二-人。主_レ柁 ̄ヲ。二-號-船 ̄ノ上 ̄ニハ。兼 ̄テ管_二 ̄ス勒-肚二-條_一 ̄ヲ。
 正-副-椗二-人。主_二 ̄ル椗四-門_一 ̄ヲ。行-船 ̄ノ時。主_二 ̄ル頭-緝布-篷_一 ̄ヲ。
 正-副鴉-班二-人。主_二 ̄ル頭-巾-頂-帆。大-桅-上 ̄ノ一-條龍-旗。及 ̄ヒ大-
 旗_一 ̄ヲ。
 正-副杉-板-工二-人。主_二 ̄ル杉-板小-船_一 ̄ヲ。行-船 ̄ノ時。主_二 ̄ル淸-風大-旗。
 及頭-帆_一 ̄ヲ。
 正-副繚-手二-人。主_二 ̄ル大-帆及尾-送布-帆。繚-母-棕。繚-木-索
 等 ̄ノ物_一 ̄ヲ。
 正-副値-庫二-人。主_二 ̄ル大-帆 ̄ノ挿-花。天-妃 ̄ノ大-神-旗_一 ̄ヲ。又主_二 ̄ル裝載_一 ̄ヲ。
 押-工一-人。主_下 ̄ル修_二-理 ̄シ槓椇_一 ̄デ。及行-船 ̄ノ時。大-桅千-觔-墜一-條_上 ̄ヲ。
 香-公一-人。主_二 ̄ル天-妃諸-水-神座-前 ̄ノ油-燈。早-晩洋-中獻_レ ̄シ紙 ̄ヲ。
 及大-帆 ̄ノ尾-繚_一 ̄ヲ。

 頭-阡一-人。主_二 ̄ル大-桅 ̄ノ繂-索。大-椗 ̄ノ索。盤 ̄ノ絞-索。大-櫓 ̄ノ車-繩_一 ̄ヲ。
 二-阡二-人。主_二 ̄ル大-桅 ̄ノ繂-索。副-椗 ̄ノ索。盤 ̄ノ絞-索。大-櫓 ̄ノ車-繩_一 ̄ヲ。
 三-阡一-人。主_二 ̄ル大桅 ̄ノ繂-索。三-椗 ̄ノ索。盤 ̄ノ絞-索。車-子數-根_一 ̄ヲ。
 正-副總-餔二-人。主_二 ̄ル鍋-飯柴-米 ̄ノ事_一 ̄ヲ。
   渡-海 ̄ノ兵-役
 正-使 ̄ノ家-人二-十-名。副-使 ̄ノ家-人十-五-名 ̄ノ外。海-防-㕔 ̄ノ送-使。
 副 ̄ルニ共_二 ̄ニス書-辨二-名。廵-捕二-名。長-班四-名。門-子二-名。皂-隷
 八-名。健-步四-名。轎-傘-夫二-十-名。引-禮-通-事二-員。《割書:鄭-任|譯。憑-》
 《割書:西-|熊。》䕶-送守-備一-員。《割書:海-壇-鎭 ̄ノ左-營。|守-備蔡-添-畧。》千-總一-員。《割書:蔡-|勇》官-兵二-
 百-名。《割書:閩-安-鎭 ̄ノ烽-火-營。海-壇-鎭 ̄ノ|左-右-中三-營。各四-十-名。》内-科醫-生一-人。外-科醫-
 生一-人。道-士三-名。老-排一-名。吹-鼓-手八-名。厨-子四-名。
 艦-匠二-名。艌-匠四-名。風-帆-匠二-名。索-匠二-名。鐵-匠二-
 名。裁-縫二-名。糊-紙-匠二-名。裱-褙-匠一-名。糕-餅-匠一-名。
 待-詔一-名_一 ̄ヲ。《割書:凡兵-役隨-身 ̄ノ行-李貨-物。每-人限_レ ̄ル帶_二 ̄ルヲ百-觔_一 ̄ヲ。按 ̄ニ|歷-來封-舟。過-海 ̄ノ兵-役-等。皆有_二壓-鈔貨-物。帶 ̄ヒ》
 《割書:往 ̄テ市-易 ̄スル舊-例_一。萬-曆七-年巳-卯。冊-使長-樂 ̄ノ謝-行-人-杰。有_二|日-東交-市-記_一。後 ̄ニ有_二恤-役一-條_一。言 ̄フ自_二洪-武 ̄ノ間_一。許_下 ̄ス過-海五-》
 《割書:百-人。行-李各百-觔。與_二琉-人_一貿易_上 ̄スルヿヲ。著 ̄シテ為_二條-令_一 ̄ト。甲-午 ̄ノ之-役|得_二萬-金_一 ̄ヲ。五-百-人各二-十-金。多 ̄キ者三-四-十-金。少 ̄キ者 ̄モ亦得_二》
 《割書:十-金八-金_一 ̄ヲ。辛-酉 ̄ノ之-役。僅 ̄ニ六-千-金。五-百-人各得_二 十-二-金_一 ̄ヲ。|多 ̄キ者 ̄ハ二-十-金。少 ̄キ者 ̄ハ五-六-金。稍失_レ ̄ス所_レ ̄ヲ望。是-以巳-卯 ̄ノ招-募。》
 《割書:僅 ̄ニ得_二 中-材應_一レ ̄スルヿヲ役 ̄ニ。不_レ能_二如_レ前 ̄ノ之精工_一 ̄ナルヿ也。所_レ獲僅 ̄ニ三-千-餘|金。人 ̄ニ各〱八-金。多 ̄キ者 ̄ハ十-五-六-金。少 ̄キ者三-四-金。大 ̄ニ失_レ ̄ス所_レ ̄ヲ望。》

 《割書:至_下 ̄ル捐_レ ̄テ廩 ̄ヲ助_レ ̄テ之 ̄ヲ。始 ̄テ得_中 ̄ニ全_レ ̄シテ禮 ̄ヲ而歸_上 ̄ヿヲ。蓋甲-午 ̄ノ之-役。畨-舶轉-販 ̄スル|者。無-慮 ̄テ十-餘-國。其 ̄ノ利既 ̄ニ多 ̄シ。故 ̄ニ我-衆所_レ獲 ̄ル亦豐 ̄ナリ。辛-酉 ̄ノ之》
 《割書:役。畨-舶轉-販 ̄スル者。僅 ̄ニ三-四-國。其 ̄ノ利既 ̄ニ少 ̄シ。故 ̄ニ我-衆所_レ獲 ̄ル亦|減 ̄ス。巳-卯 ̄ノ之-役。通-畨禁-弛 ̄フ。畨-舶不_レ至。其 ̄ノ利頓 ̄ニ絕 ̄フ。故我-衆》
 《割書:所_レ獲至 ̄テ少 ̄シ。勢使_レ然 ̄ラ也。今康-熙二-十-二-年癸-亥 ̄ノ之-役。是 ̄ノ|時海-禁方 ̄ニ嚴 ̄ナリ。中-國 ̄ノ貨-物。外-邦爭 ̄テ欲_二購-致_一 ̄セント。琉-球相-近 ̄キ諸-》
 《割書:島。如_二 ̄キ薩-摩-洲土_レ-噶-喇七-島-等 ̄ノ處_一 ̄ノ。皆聞_レ ̄テ風 ̄ヲ來-集 ̄ル。其 ̄ノ貨易 ̄シ|_レ售 ̄ラレ。閩-人沿-說 ̄シテ至_レ ̄ル今 ̄ニ。故 ̄ニ充_レ ̄ル役 ̄ニ者衆 ̄シ。昇-平日-久。琉-球歲 ̄ニ-來 ̄テ》
 《割書:貿_二-易 ̄シ中-國 ̄ノ貨-物_一 ̄ヲ。外-邦多-有。此 ̄ノ番封-舟到 ̄テ後。土-噶-喇等 ̄ノ|畨-舶。無_二 一 ̄モ至 ̄ル者_一。本-國素 ̄ト貧-乏。貨多不_レ售 ̄テレ。人-役並 ̄ニ困 ̄ス。法》
 《割書:當_三禁_二-絕 ̄ス商-賈利-徒之營-求_一 ̄ヲ。充_レ ̄ル役 ̄ニ者損_レ從 ̄ヲ减_レ裝 ̄ヲ。一 ̄ハ可_三以|紓_二小-邦物-力 ̄ノ之艱_一 ̄ヲ。一 ̄ハ可_三以絕_二衆-役覬-覦 ̄ノ之想_一 ̄ヲ。庶-幾 ̄クハ兩-》
 《割書:利俱 ̄ニ全 ̄カラン|矣乎。》

【図】玻璃漏 針盤

  更《割書:定_レ ̄ル更 ̄ヲ法|》
 海-中船-行 ̄ノ里-數。皆以_レ更 ̄ヲ計 ̄ル。或 ̄ハ云 ̄フ百-里 ̄ヲ爲_二 一-更_一 ̄ト。或 ̄ハ云 ̄フ六-
 十-里 ̄ヲ爲_二 一-更_一 ̄ト。或 ̄ハ云 ̄フ分_二 ̄テ晝-夜_一 ̄ヲ爲_二 十-更_一 ̄ト。今問_二 ̄フニ海-舶 ̄ノ夥-長_一 ̄ニ。皆
 云 ̄フ六-十-里之-說 ̄ヲ爲_レ近 ̄ト。

 舊-錄 ̄ニ云 ̄ク。以_二木-柹_一 ̄ヲ從_二 ̄リ船-頭_一投_二 ̄シ海-中_一 ̄ニ。人疾 ̄ク趨 ̄テ至_レ ̄ル梢 ̄ニ。人柹同 ̄ク
 至 ̄ル。謂_二 ̄フ之 ̄ヲ合-更_一 ̄ト。人-行先_二 ̄ツヲ於柹_一 ̄ニ。爲_レ不_レ ̄ト及_レ更 ̄ニ。人-行後_二 ̄ルヽヲ於柹_一 ̄ニ。爲
 _レ過_レ ̄クト更 ̄ニ。今西-洋 ̄ノ舶。用_二 ̄テ玻-璃-漏_一 ̄ヲ定_レ ̄ム更 ̄ヲ。簡 ̄ニシテ而易_レ曉 ̄シ。細-口大-腹 ̄ノ
 玻-璃-瓶兩-枚。一-枚 ̄ニ盛_レ ̄テ沙 ̄ヲ滿_レ ̄ツ之 ̄ニ。兩-口上-下對-合 ̄シ。通_二 ̄シテ一-線_一 ̄ヲ
 以過_レ ̄ス沙 ̄ヲ。懸_二 ̄ク針-盤-上_一 ̄ニ。沙過 ̄キ盡 ̄スヲ爲_二 一-漏_一 ̄ト。卽倒轉 ̄シテ懸_レ ̄ク之 ̄ヲ。計 ̄ルニ一-
 晝一-夜。約 ̄スルニ二-十-四-漏。每-更船六-十-里。約 ̄スルニ二-漏半有-零。
 人-行先_二 ̄ツヲ木-柹_一 ̄ニ爲_レ不_レ ̄ト及_レ更 ̄ニ者 ̄ハ。風慢 ̄ニシテ船-行緩 ̄ク。雖_レ及_二 ̄ト漏-刻_一 ̄ニ。尚
 無_二 六-十-里_一。爲_レ不_レ及_レ更 ̄ニ也。人-行後_二 ̄ルヽヲ於柹_一 ̄ニ爲_二 ̄ハ過-更_一 ̄ト者 ̄ハ。風疾 ̄クシテ
 船-行速 ̄ナリ。當_レ ̄テ及_二 ̄ニ漏-刻_一 ̄ニ。巳 ̄ニ踰_二 ̄ルヲ六-十-里_一 ̄ニ爲_二過-更_一-也。

【図】針路圖

  針-路
 琉-球在_二 ̄テ海-中_一 ̄ニ。本 ̄ト與_二浙-閩_一 地-勢東-西相-値 ̄ル。但其 ̄ノ中平-衍
 無_レ山。船-行_二海-中_一 ̄ニ。全 ̄ク以_レ山 ̄ヲ爲_レ凖 ̄ト。福-州 ̄ヨリ往_二 ̄ク琉-球_一 ̄ニ。出_二 五-虎-門_一 ̄ヲ。
 必取_二雞-籠彭-家等 ̄ノ山_一 ̄ヲ。諸-山皆偏 ̄ニ在_レ南 ̄ニ。故 ̄ニ夏-至 ̄ニ乘_二 ̄シ西-南
 風_一 ̄ニ。叅_二 ̄シヘ-用 ̄ヒ辰-巽等 ̄ノ針_一 ̄ヲ。袤 ̄メニ繞_レ ̄テ南 ̄ニ行 ̄キ。以_レ漸 ̄ヲ折 ̄テ而正-東 ̄ス。琉-球 ̄ヨリ歸_二 ̄ル
 福-州_一 ̄ニ。出_二姑-米-山_一 ̄ヲ。必取_二 ̄ル溫-州 ̄ノ南-杞-山_一 ̄ヲ。山偏 ̄ニ在_二西-北_一 ̄ニ。故 ̄ニ冬-
 至 ̄ニ乘_二 ̄シ東-北風_一 ̄ニ。叅_二-用 ̄ヒ乾-戌等 ̄ノ針_一 ̄ヲ。袤 ̄メニ繞_レ ̄テ北 ̄ニ行 ̄キ。以_レ漸 ̄ヲ折 ̄テ而正-
 西ス。雖_二彼-此地-勢東-西相-値_一 ̄ト。不_レ ̄ル能_下純 ̄ラ用_二 ̄テ卯-酉針_一 ̄ヲ。徑-直 ̄ニ相
 往-來_上 ̄スルヿ者 ̄ハ。皆以_レ山爲_レ凖 ̄ト。且行-船必貴_レ ̄フ占_二 ̄ムルヲ上-風_一 ̄ヲ故也。

 [指-南-廣-義 ̄ニ云。]福-州 ̄ヨリ往_二琉-球_一 ̄ニ。由_二 ̄リ閩-安-鎭_一出_二 五-虎-門_一 ̄ヲ。東-沙 ̄ノ
 外 ̄ニ開_レ ̄キ洋 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ單-《割書:或 ̄ハ作|_レ 乙 ̄ニ》辰針_一 ̄ヲ十-更。取_二 ̄ル雞-籠-頭《割書:見_レ ̄レハ山 ̄ヲ卽從_二 ̄リ山 ̄ノ|北-邊_一過_レ ̄ス船 ̄ヲ。以-》
 《割書:下 ̄ノ諸-山|皆-同 ̄シ。》花-瓶-嶼彭-家-山_一 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ乙-卯並 ̄ニ單-卯針_一 ̄ヲ十-更。取_二 ̄ル釣-
 魚-臺_一 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ單-卯針_一 ̄ヲ四-更。取_二 ̄ル黃-尾-嶼_一 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ甲-寅《割書:或 ̄ハ作|_レ卯 ̄ニ》針_一 ̄ヲ十-《割書:或 ̄ハ|作》
 《割書:_レ 一 ̄ニ|》更。取_二 ̄ル赤-尾-嶼_一 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ六-更。取_二 ̄ル姑-米-山_一 ̄ヲ。《割書:琉-球西-南|方 ̄ノ界-上 ̄ノ鎭》
 《割書:山|》用_二 ̄テ單-卯-針_一 ̄ヲ取_二 ̄リ馬齒_一 ̄ヲ。甲-卯及甲-寅-針 ̄ニ。收 ̄テ入_二 ̄ル琉-球那-霸
 港_一 ̄ニ。
  福-州五-虎-門 ̄ヨリ至_二 ̄ル琉-球姑-米-山_一 ̄ニ。共 ̄ニ四-十-更 ̄ノ船。
 琉-球 ̄ヨリ歸_二 ̄ル福-州_一 ̄ニ。由_二 ̄リ那-霸-港_一用_二 ̄テ申-針_一 ̄ヲ放_レ ̄チ洋 ̄ニ。辛-酉-針一-更-半。
 見_二姑-米-山。並 ̄ニ姑-巴-甚-麻-山_一 ̄ヲ。辛-酉-針四-更。辛-戌-針十-二
 更。乾-戌-針四-更。單-申-針五-更。辛-酉-針十-六-更。見_二 ̄ル南-杞
 山 ̄ヲ。《割書:屬_二 ̄ス浙-江|溫-州_一 ̄ニ》坤-未-針三-更。取_二 ̄ル臺-山_一 ̄ヲ。丁-未-針三更。取_二 ̄ル里-麻
 山_一 ̄ヲ。《割書:一-名|霜-山》單-申-針三-更。收 ̄メテ入_二 ̄リ福-州定-海-所_一 ̄ニ。進_二 ̄ム閩-安-鎭_一 ̄ニ。
  琉-球姑-米-山 ̄ヨリ至_二 ̄ル福-州定-海-所_一 ̄ニ。共 ̄ニ五-十-更 ̄ノ船。
  前海-行日-記
 閩 ̄ノ有-司既 ̄ニ治_二 ̄シ封-舟_一 ̄ヲ畢_レ ̄ヘ工 ̄ヲ。泊_二 ̄ス于太-平-港羅-星-塔_一 ̄ニ。五-月十-
 日壬-午。賫_二 ̄テ
詔-勅_一 ̄ヲ至_二 ̄ル南-臺_一 ̄ニ。以_二 ̄テ小-舟_一 ̄ヲ至_二 ̄ル泊-船 ̄ノ所_一 ̄ニ。十-五-日祭_レ ̄リ江 ̄ヲ取_レ ̄リ水 ̄ヲ。蠲_二-吉 ̄シ

 于二-十-日壬-辰_一 ̄ニ。奉_二 ̄シテ
詔-勅_一 ̄ヲ升_レ ̄ル舟 ̄ニ。連-日-夜風。皆從_二 ̄リ東-北_一來 ̄ル。是 ̄ノ日轉_二 ̄ス西-南_一 ̄ニ。遂于_二 ̄テ未 ̄ノ
 初_一 ̄ニ起_レ ̄ン椗 ̄ヲ。至_二 ̄リ怡-山-院_一 ̄ニ。
諭_二-祭 ̄ス於海-神_一 ̄ニ。
 二-十-一-日癸-巳。日-出 ̄ニ西-南-風。日-中 ̄ニ至_二 ̄ル管-頭_一 ̄ニ。出_二 ̄ツ金-牌-門_一 ̄ヲ。
 日-入 ̄ニ未_レ ̄シテ過_二 ̄キ黃-蝦-鼻_一 ̄ヲ下_レ ̄ロス椗 ̄ヲ。
 二-十-二-日甲-午。日-出 ̄ニ丁-未-風。過_二 ̄ク梅-花-頭_一 ̄ヲ。日-中 ̄ニ丁-風帶
 _レ午 ̄ヲ。乘_レ ̄シテ潮 ̄ニ出_二 ̄テ五-虎-門_一 ̄ヲ放_レ ̄チ洋 ̄ニ。過_二官-塘-尾_一 ̄ヲ。日-入 ̄ニ至_二 ̄リ進-士-門_一 ̄ニ。夜
 至_二 ̄テ九-漏_一 ̄ニ轉_二 ̄ス丁-未-風_一 ̄ニ。接-封 ̄ノ陪-臣正-議-大-夫陳-其-湘。率_二 ̄ヒ其 ̄ノ
 國 ̄ノ夥-長_一 ̄ヲ主_レ ̄トリ針 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ乙-辰-針_一 ̄ヲ三-更-半。
 二-十-三-日乙-未。日-出 ̄ニ見_三 ̄ル東-湧在_二 ̄ルヲ船-後_一 ̄ニ。約 ̄スルニ離 ̄ルヽヿ一-更-半-許。
 丁-未-風用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ二-更。約 ̄スルニ離_二 ̄ルヽヿ官-塘_一 ̄ヲ八-更-半-許。
 二-十-四-日丙-申。日-出 ̄ニ丁-午-風。仍 ̄テ用_二 ̄ユ乙-卯-針_一 ̄ヲ。日未_レ 中 ̄セ過_二 ̄ク
 米-糠-洋_一 ̄ヲ。《割書:海-水碧-徹如_レ ̄シ靛。細-黃-沙如_二|涎-沫_一 ̄ノ。連_二-亘 ̄シテ水-面_一 ̄ニ如_二 ̄シ米-糠_一 ̄ヲ。》見_二 ̄ル羣-魚拜_一レ ̄スルヲ水 ̄ヲ。日將
 _レ入 ̄ント有_二 ̄リ大-鳥二_一。來 ̄テ集_二 ̄ル于檣_一 ̄ニ。是 ̄ノ夜風益〱利 ̄シ。用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ四-更。
 共 ̄ニ計 ̄ルニ十-三-更-半。當(ヘクシテ)_レ見_二 ̄ツ雞-籠-山花-瓶棉-花等 ̄ノ嶼。及 ̄ヒ彭-家
 山_一 ̄ヲ。皆不_レ見。夜用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ四-更-半。共 ̄ニ十-七-更。船東-北 ̄ニ下 ̄ルヿ
 一-更-半-許。

 二-十-五-日丁-酉。日-出 ̄ニ丁-未-風。輕 ̄ク用_二 ̄ルヿ單-乙-針_一 ̄ヲ二-更。乙-卯-
 針一-更-半。夜至_二 ̄リ四-漏_一 ̄ニ。轉_二 ̄ス正-南-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ單-乙-針_一 ̄ヲ一-更-半。共 ̄ニ
 計 ̄ルニ二-十-一-更。
 二-十六-日戊-戌。日-出 ̄ニ正-南-風。日未_レ ̄ルニ中 ̄セ轉_二 ̄ス丁-午_一 ̄ニ。逾_レ ̄テ時 ̄ヲ丁-
 未-風微 ̄ク起 ̄ル。用_二 ̄ルヿ單-乙-針_一 ̄ヲ一-更。日-中 ̄ニ風-靜 ̄テ。縋_レ ̄スルニ水 ̄ヲ無_レ底。晩-晡 ̄ニ
 轉_二 ̄ス丙-午-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ユ乙-卯-針_一 ̄ヲ。風-靜 ̄ニシテ船-停 ̄テ不_レ 上_レ更 ̄ニ。日-入 ̄ニ風微 ̄ク起 ̄ル。
 至_二 ̄テ四-漏_一 ̄ニ轉_二 ̄ス丁-午-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ乙-卯_一 ̄ヲ一-更。至_二 ̄ル八-漏_一 ̄ニ。又用_二 ̄ルヿ單-卯_一 ̄ヲ二-
 更。至_二 ̄ル天-明_一 ̄ニ。
 二-十-七-日巳-亥。日-出 ̄ニ丁-午-風。日未_レ ̄ルニ中 ̄セ風-靜 ̄ニシテ船-停 ̄ル。有_二大
 沙-魚二_一。見_二于船 ̄ノ左-右_一 ̄ニ。日-入 ̄ニ丁-午-風起 ̄ル。至_二 ̄リ二漏_一 ̄ニ轉_二 ̄ス丁-風_一 ̄ニ。
 用_二 ̄ルヿ乙-辰-針_一 ̄ヲ二-更-半。天將_レ ̄スルニ明 ̄ント應(ヘクシテ)_レ見_二 ̄ル釣-魚-臺黃-尾赤-尾等 ̄ノ
 嶼_一 ̄ヲ。皆不_レ見。共 ̄ニ用_二 ̄ルヿ卯-針_一 ̄ヲ二-十-七-更-半。船東-北 ̄ニ下 ̄ルヿ六-更-許。
 二-十-八-日庚-子。不_レ用_三接-封陪-臣 ̄ノ主_二-張 ̄スルヲ卯針_一 ̄ヲ。本-船 ̄ノ夥-長
 林-某。攺 ̄テ用_二 乙-辰-針_一 ̄ヲ。日未_レ ̄ルニ中 ̄セ丁-未-風。行 ̄クヿ二-更-半。鴉-班上 ̄リ
 _レ檣 ̄ニ。見_三 ̄ル山一-點在_二 ̄ルヲ乙-位_一 ̄ニ。約 ̄スルニ去 ̄ヿ四-更-餘。水-面小-黑-魚點-點 ̄タリ。
 接-封 ̄ノ陪-臣云。此 ̄レ出_二 ̄テ姑-米-山_一 ̄ヲ所_レ見。或 ̄ハ是 ̄レ姑-米 ̄ナラン。而 ̄レトモ未_レ能_レ定 ̄ヿ。
 日-入 ̄ニ風轉_二 ̄ス丁-午_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ辰-㢲-針_一 ̄ヲ二-更。
 二-十-九-日辛-丑。日-出 ̄ニ見_二 ̄ル東-北 ̄ノ小-山六-點_一 ̄ヲ。陪-臣 ̄ノ云。此 ̄レ非_二

 姑-米_一 ̄ニ。乃葉-壁-山 ̄ナリ也。在_二國 ̄ノ西-北_一 ̄ニ。始 ̄テ悟 ̄ル用_二 ̄ルヿ卯-針_一 ̄ヲ太 ̄タ-多 ̄ク。船東-
 北 ̄ニ下 ̄ルヿヲ。若非_二 ̄レハ西-北-風_一 ̄ニ。不_レ能_下提_レ ̄シ舟 ̄ヲ上-行 ̄シテ。至_二 ̄テ那-覇_一 ̄ニ收_上レ ̄ルヿ港 ̄ニ也。日-
 中 ̄ニ禱_二 ̄ル于神_一 ̄ニ。忽轉_二 ̄ス坤申-庚風_一 ̄ニ。一-時又轉_二 ̄ス子-癸_一 ̄ニ。陪-臣大 ̄ニ喜 ̄フ。
 乃迴_レ ̄シテ針 ̄ヲ東-南 ̄ニ行 ̄ク。指_二 ̄シテ一-小-山_一 ̄ヲ云 ̄ク。此 ̄レ名_二讀-谷-山_一 ̄ト。由_レ此迤 ̄メニ轉 ̄シテ
 卽入_レ ̄ル港 ̄ニ。日-入 ̄ニ轉_二 ̄ス丑-艮_一 ̄ニ。風大 ̄ニ-熾 ̄ナリ。用_二 丙-巳-針_一 ̄ヲ。又用_二 丙-午單-
 卯-針_一 ̄ヲ。先_レ ̄キ是 ̄ヨリ四-五-日前未_レ見_レ山 ̄ヲ。舟-浮 ̄テ不_レ動。水-艙將_レ竭 ̄ント。衆
 頗 ̄ル惑 ̄フ。禱_二 ̄ル于神_一 ̄ニ。珓-示 ̄ニ曰。二-十-八-日 ̄ニ見_レ山。初-一-日 ̄ニ到_レ ̄ント港 ̄ニ。至
 _レ是 ̄ニ六-月朔壬-寅。日未_レ ̄ルニ出遂入_レ ̄ル港 ̄ニ。行_二 ̄クヿ海-中_一 ̄ヲ凡七-晝八-夜 ̄ト
 云。《割書:二-號-船|港-針-簿》
  《割書:臣|》葆-光按 ̄ルニ。琉-球 ̄ノ針-路。其大-夫 ̄ノ所_レ主 ̄トスル者。皆本_二 ̄ク于指-南
  廣-義_一 ̄ニ。其 ̄ノ失在_下用_二 ̄ユルヿ卯-針_一 ̄ヲ太-多 ̄ク。每 ̄ニ有_中 ̄ルニ落-北 ̄ノ之患_上。前-使汪-
  楫記云 ̄ク。封-舟多 ̄ク有_下飄_二-過 ̄シテ山-北_一 ̄ニ。巳 ̄ニシテ復 ̄タ引-囘_上 ̄スル。稽_二 ̄ルニ諸 ̄ヲ使-錄_一 ̄ニ。
  十-人 ̄ニシテ而九。《割書:明 ̄ノ嘉-靖十-一-年。陳-侃 ̄ノ記 ̄ニ。舟至_二葉-壁-山_一 ̄ニ。小-|舟四-十。牽-挽 ̄スルヿ八-日。始 ̄テ至_二 ̄ル那-覇_一 ̄ニ。 嘉-靖三-》
  《割書:十七-年。郭-汝-霖 ̄ノ記 ̄ニ。巳 ̄ニ至_二姑-米-山_一 ̄ニ。頭-目云。得_二 一-日-夜|之力_一 ̄ヲ。卽未_二 ̄ルモ遽 ̄ニ登_一レ ̄テ岸 ̄ニ。可_レ保_レ不_レ 下_二 ̄ラ葉-壁-山_一 ̄ニ矣。可_レ見下_二 ̄ルハ葉-》
  《割書:壁_一 ̄ニ。卽琉-人亦以爲_レ戒 ̄ト。 萬-曆四-年。蕭-崇-業 ̄ノ記 ̄ニ。六-月|初-一-日過_二葉-壁-山_一 ̄ヲ。薄_一 ̄ル山-下_一 ̄ニ。由_レ此陸-路至_レ ̄ルヿ國 ̄ニ。兩-日-程》
  《割書:挽_レ舟 ̄ヲ。初-五-日始泊_二那-覇_一 ̄ニ。 康-熙二-年。張-學-禮 ̄ノ記 ̄ニ。舟|抵_二 ̄ル琉-球 ̄ノ北-山_一 ̄ニ。與_二日-本_一交_レ界 ̄ヲ。北-風 ̄ニ引_レ ̄テ舟 ̄ヲ南-行 ̄シ。始 ̄テ逹_二 ̄ス那-》
  《割書:覇_一 ̄ニ。|》封-舟不_レ至_二落-北_一 ̄ニ者 ̄ハ。惟前-明 ̄ノ冊-使夏-子-陽。及 本-
  朝 ̄ノ汪-楫二-人。考_二 ̄レハ夏-錄_一 ̄ヲ則云 ̄フ。梅-花-所 ̄ニ開_レ ̄キ洋 ̄ヲ。過_二 ̄キ白-犬-嶼_一 ̄ヲ。

  又取_二東-沙-嶼_一 ̄ヲ。丁 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ辰-㢲-針_一 ̄ヲ八-更-船。取_二 ̄ル小-琉-球
  山_一 ̄ヲ。未 ̄ノ上-風 ̄ニ乙-卯-針二-更。取_二 ̄ル雞-籠_一 ̄ヲ。申-酉 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ甲-卯-
  針_一 ̄ヲ四-更-船。取_二 ̄ル彭-家-山_一 ̄ヲ。亥 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ三-更-船。未 ̄ノ
  上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ三-更-船。取_二 ̄ル花-瓶嶼_一 ̄ヲ。丁-未 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-
  卯-針_一 ̄ヲ四-更-船。取_二 ̄ル釣-魚-嶼_一 ̄ヲ。丙-午 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ四-更-
  船。取_二 ̄ル黃-尾-嶼_一 ̄ヲ。丙 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ七-更-船。丁 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ
  辰-㢲-針_一 ̄ヲ一-更。取_二 ̄ル姑-米-山_一 ̄ヲ。又辰-㢲-針六-更-船。取_二 ̄ル土-那-
  奇翁-居-里二-山_一 ̄ヲ。《割書:今譯 ̄シテ爲_二度-那-奇。安-根-呢-|山_一 ̄ト。二-山在_二馬-齒-山 ̄ノ之西_一 ̄ニ。》又辰-㢲一-
  更。取_二 ̄テ馬-齒-山_一 ̄ヲ到_レ ̄ル港 ̄ニ。汪-錄 ̄ハ則云 ̄フ。《割書:本-錄不_レ載。見_二|洋-舶針-簿 ̄ノ内_一 ̄ニ。》乙-辰八-
  更。取_二 ̄ル雞-籠-頭_一 ̄ヲ。用_レ ̄ルヿ辰 ̄ヲ多 ̄シ。辰-㢲三-更。取_二 ̄ル梅-花-嶼_一 ̄ヲ。單-卯十-
  更。取_二 ̄ル釣-魚-臺_一 ̄ヲ。北-邊 ̄ニ過 ̄ク。乙-辰四-更。取_二 ̄ル黃-尾-嶼_一 ̄ヲ。《割書:得-力在_二|此 ̄ノ四-更_二。》
  《割書:船-身提-上 ̄シ。巳 ̄ニ見_二 ̄ル黃-尾-嶼_一 ̄ヲ。下用_二 甲-卯-|針_一 ̄ヲ取_二姑-米_一 ̄ヲ。定 ̄テ是正-西-風利 ̄ガ故也。》甲-卯十-更。取_二 ̄ル姑
  米-山_一 ̄ヲ。乙-卯七-更。取_二 ̄ル馬-齒-山_一 ̄ヲ。甲-寅并甲-卯。取_二 ̄ル那-覇-港_一 ̄ヲ。
  蓋自_二雞-籠-山_一。東行_二 ̄テ釣-魚-嶼赤-尾-嶼_一 ̄ニ。以至_二 ̄ル姑-米-山_一 ̄ニ。諸-
  山皆在_レ南 ̄ニ。借 ̄テ爲_二標-準_一 ̄ト。俱 ̄ニ從_二 ̄リ山-北-邊_一過_レ ̄ス船 ̄ヲ。見_レ ̄レハ山 ̄ヲ則針
  正 ̄シ。應_レ ̄クシテ見不_レ ̄レハ見。則針巳 ̄ニ下 ̄テ漸 ̄ク東-北 ̄ニ行 ̄キ。必至_レ ̄ル見_二 ̄ルニ葉-壁-山_一 ̄ヲ
  矣。要 ̄スルニ其 ̄ノ病皆由_下 ̄ル于用_二 ̄ルヿ卯-針_一 ̄ヲ太 ̄タ-多_上 ̄キニ。又不_レ能_二相(ミテ)_レ風 ̄ヲ用_一レ ̄ルヿ針 ̄ヲ。
  夫 ̄ノ西-南-風固 ̄ヨリ皆爲_レ順 ̄ト。而或 ̄ハ自_レ午。或 ̄ハ自_レ 丁。或自_二未 ̄ト與_一

  _レ坤者。方-位又各〱不_レ同。今指-南-廣-義所_レ ̄ニハ錄 ̄スル。則專言_レ針 ̄ヲ。
  混 ̄シテ言_レ ̄フ風 ̄ヲ。又多 ̄ク用_二 ̄ユ卯-針_一 ̄ヲ。故 ̄ニ往-往落_レ ̄チ北 ̄ニ。不_レ ̄シテ見_二姑-米_一 ̄ヲ而見_二 ̄ル
  葉-壁_一 ̄ヲ也。後-人或 ̄ハ不_レ見_レ山 ̄ヲ。不_レ可_レ信_三 ̄ス接-封 ̄ノ者主_二-張 ̄スルヲ卯-針_一 ̄ヲ。
  當_下 ̄ン深翫_二夏-汪二-錄_一 ̄ヲ。酌_レ風 ̄ヲ叅_二-用 ̄ヒ辰-㢲等 ̄ノ針_一 ̄ヲ。將_二 ̄ツテ船-身_一 ̄ヲ提-
  上_上 ̄ス。則保_レ ̄タン不_レ ̄ルヿヲ下_二葉-壁_一 ̄ニ矣。
  後 ̄ノ海-行日-記
 二-月十-六-日癸-丑。巳 ̄ノ刻封-舟自_二琉-球那-霸_一開_レ ̄キ洋 ̄ヲ。用_二 ̄テ小-
 船百-餘_一 ̄ヲ。引_二 ̄キ-出 ̄ス港-口_一 ̄ヲ。琉-球 ̄ノ官-民。夾_レ ̄テ岸 ̄ヲ送 ̄クル者數-千-人。小-船
 竪_レ ̄テ旗 ̄ヲ。夾_レ ̄ンテ船 ̄ヲ左-右 ̄ニ送 ̄ル-者數-百-槳。是 ̄ノ日晴-明。南-風送_レ ̄ル颿 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ
 乾-亥-針_一 ̄ヲ一-更-半。單-乾-針四-更。過_二 ̄ク馬-齒安-根-呢度-那-奇
 等 ̄ノ山_一 ̄ヲ。海-水滄-黑-色。日-入 ̄ニ見_二姑-米-山二-點_一 ̄ヲ。離 ̄ヿ二-更-半-許。
 夜轉_二 丁-未西-南-風_一 ̄ニ。十-三-漏轉_二 ̄ス坤-未-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ乾戌_一 ̄ヲ三-更-半。
 風有_レ力。頭-巾-項 ̄ノ索連 ̄リニ斷 ̄スルヿ三-次。
 十-七-日甲-寅。日-出 ̄ニ龍二 ̄ツ見_二于船 ̄ノ左-右_一 ̄ニ。水沸 ̄キ-立 ̄ツヿ二-三-丈。
 轉_二 ̄ス西-北-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ單-子-針_一 ̄ヲ一-更。日-入 ̄ニ至_二 ̄テ十-四-漏_一 ̄ニ轉_二 ̄ス坤-未-風_一 ̄ニ。
 用_二 ̄ルヿ乾-戌_一 ̄ヲ一-更。夜見_レ月 ̄ヲ至_レ ̄ル明 ̄ニ。
 十-八-日乙-卯。日-出 ̄ニ用_二單-乾_一 ̄ヲ。乾-戌四-更。日-入 ̄ニ至_二 十-四-漏_一 ̄ニ。
 西-南-風有_レ力。用_二 ̄ルヿ乾-戌_一 ̄ヲ四-更-半。夜見_レ月至_レ明 ̄ニ。

 十-九-日丙-辰。日-出 ̄ニ轉_二辛-酉_一 ̄ニ。西-風帶_二 ̄テ南-風_一 ̄ヲ不_レ定。用_二 ̄ルヿ單-庚_一 ̄ヲ
 一-更。日-中 ̄ニ轉_二壬-子-癸風_一 ̄ニ。用_二單-酉-針_一 ̄ヲ。至_二 ̄テ日-入_一 ̄ニ轉_二子-癸_一 ̄ニ。又
 轉_二丑-癸_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ單-戌_一 ̄ヲ三-更-半。夜見_レ月至_レ ̄ル明 ̄ニ。
 二-十-日丁-巳。日-出 ̄ニ轉_二艮-寅東-北順-風_一 ̄ニ。日-中 ̄ニ轉_二 甲-卯_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ
 辛-戌_一 ̄ヲ四-更。日-入 ̄ニ轉_二 乙-辰-風_一 ̄ニ。大-雨 ̄ス。船共 ̄ニ行 ̄クヿ二-十-六-更-半。
 是 ̄ノ日海-水見_二 ̄ル綠-色_一 ̄ヲ。夜過_レ ̄テ溝 ̄ヲ祭_二 ̄ル海-神_一 ̄ヲ。轉_二㢲-巳風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ辛-酉_一 ̄ヲ
 三-更-半。至_レ明。
 二-十-一-日戌-午。日-出 ̄ニ大-霧 ̄アリ。正-南-風轉_二西-南_一 ̄ニ。又轉_二西-北
 風_一 ̄ニ不_レ定。船-行緩 ̄シテ不_レ 上_レ ̄ラ更 ̄ニ。縋_レ ̄スルニ水 ̄ヲ四-十-八-托。有_レ鳥來 ̄テ集_二 ̄ル于
 檣_一 ̄ニ。轉_二子-癸-風_一 ̄ニ。至_二 十-三-漏_一 ̄ニ。轉_二東-北大-順-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ庚-申_一 ̄ヲ二-更。
 至_レ ̄ル明 ̄ニ。
 二-十-二-日巳-未。日-出 ̄ニ東-北-風。晴 ̄テ大 ̄ニ寒 ̄シ。用_二 ̄ルヿ庚-酉申_一 ̄ヲ四-更-
 半。日-入 ̄ニ有_レ燕二。來 ̄テ集_二 ̄ル檣-上_一 ̄ニ。至_二 十-一-漏_一 ̄ニ。轉_二 乙-卯-風_一 ̄ニ。縋_レ ̄スルニ水
 四-十-托。用_二 ̄ルヿ庚-酉_一 ̄ヲ一-更。夜-雨 ̄フリテ大-霧 ̄アリ。
 二-十-三-日庚-申。日-出 ̄ニ霧大-雨。無_レ風。縋_レ水三-十-二-托。日-
 晡 ̄ニ壬-亥-風起 ̄ル。日-入 ̄ニ轉_二壬-子-風_一 ̄ニ。夜雨 ̄フリテ大 ̄ニ寒 ̄シ。用_二 ̄ルヿ庚-酉_一 ̄ヲ二-更。
 未_レ ̄ルニ明 ̄ケ見_レ ̄ル山 ̄ヲ。離 ̄ルヽヿ一-更遠 ̄アマリ-許。
 二-十-四-日辛-酉。日-出 ̄ニ用_二 ̄ルヿ單申_一 ̄ヲ一-更。至_二 ̄ル魚-山及 ̄ヒ鳳-尾-山_一 ̄ニ。

 二-山皆屬_二 ̄ス台-州_一 ̄ニ。封-舟囘_レ ̄ル閩 ̄ニ針-路。本 ̄ト取_二溫-州南-杞-山_一 ̄ヲ。此 ̄ノ
 二-山又在_二南-杞 ̄ノ北五-百-里_一 ̄ニ。船-身太 ̄タ開_レ ̄テ北 ̄ニ行。離_二 ̄ルヽヿ南-杞_一 ̄ヲ八-
 更遠-許。日-晡轉_二北-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ丁-未-針_一 ̄ヲ三-更。日-入 ̄ニ舟至_二 ̄ル鳳-尾
 山_一 ̄ニ。風止 ̄テ下_レ ̄ロス椗 ̄ヲ。
 二-十-五-日壬-戌。無_レ風。舟泊_二 ̄ス鳳-尾-山_一 ̄ニ。夜雨 ̄ル。有_二數-小-船_一來 ̄リ
 伺 ̄フ。警 ̄シテ至_レ明 ̄ニ。
 二-十六-日癸-亥。日-出 ̄ニ東-北-風。起_レ ̄シテ椗 ̄ヲ行 ̄ク。大 ̄ニ雷-雨 ̄ス。有_二旋-風_一
 轉_レ ̄ス篷 ̄ヲ。日-晡 ̄ニ轉_二壬-亥-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ單-未坤-未_一 ̄ヲ三-更。日-入 ̄ニ風-微 ̄ナリ。用_二 ̄ルヿ
 單-未_一 ̄ヲ一-更。見_二南-杞_一 ̄ヲ。離 ̄ルヽヿ一-更-許。
 二-十-七-日甲-子。日-出 ̄ニ晴 ̄ル。見_二盤-山_一 ̄ヲ。至_二溫-州_一 ̄ニ。東-北順-風。用_二 ̄ルヿ
 坤-申庚_一 ̄ヲ四-更。縋_レ ̄スルニ水 ̄ヲ十-四-托。離_二 ̄ルヽヿ北-關_一 ̄ヲ一-更-許。日-入 ̄ニ用_二 ̄ルヿ坤-
 申-庚_一 ̄ヲ一-更。至_二 ̄リ臺-山_一 ̄ニ下_レ ̄ロス椗 ̄ヲ。夜十-八-漏又起_レ ̄コス椗 ̄ヲ。至_レ ̄テ明 ̄ニ見_二 ̄ル南
 北-關_一 ̄ヲ。二-號-船先 ̄ツヿ一-日過_二 ̄ク南關_一 ̄ヲ。
 二-十-八-日乙-丑。東-北-風無_レ力。船泊_二 ̄ス七-星-山_一 ̄ニ。縋_レ水九-托。
 夜至_二 五-漏_一 ̄ニ。颶-作 ̄テ椗-走 ̄ル。用_二 乙-辰-針_一 ̄ヲ行 ̄クヿ七-漏。加_二 ̄ヘテ副-椗_一 ̄ヲ泊_レ ̄ス船 ̄ヲ。
 二-十-九-日丙-寅。日-出 ̄ニ至_二霜-山_一 ̄ニ。東-北-風用_二申-庚-酉針_一 ̄ヲ。日-
 晡 ̄ニ與_二 二-號-船_一齊 ̄ク至_二 ̄ル定-海-所_一 ̄ニ。琉-球謝-
㤙 ̄ノ船先 ̄ツヿ一-日 ̄ニシテ到 ̄ル。相-次 ̄テ泊 ̄ス。

  三-十-日丁-卯。東-北-風。乘_レ ̄シテ潮 ̄ニ三-船雁-次 ̄ニ進_二 ̄ム五-虎-門_一 ̄ニ。日-中 ̄ニ
 至_二 ̄リ怡-山-院_一 ̄ニ。
諭_二-祭 ̄ス于海-神_一 ̄ニ。行_二 ̄ヿ海-中_一 ̄ニ凡 ̄ソ十-四晝-夜 ̄ト云 ̄フ。
  《割書:臣|》葆-光按 ̄スルニ。冊-封 ̄ノ之役有_二記-錄_一者。自_二前-明嘉-靖-中陳-
  侃_一始 ̄ル。至_二 ̄テ康-熙二-十-一-年汪-楫等_一 ̄ニ。凡 ̄ソ七-次。封-舟囘_レ ̄ル閩 ̄ニ。
  折_レ ̄リ桅 ̄ヲ漂_レ ̄ハシ柁 ̄ヲ。危-險備 ̄サニ至 ̄ル。披-閲 ̄ノ之-次。每 ̄ニ爲 ̄ニ動_レ ̄ス心 ̄ヲ。今奉_二 ̄シ
皇-上 ̄ノ威-靈_一 ̄ヲ。海-神效_レ ̄シ順 ̄ヲ。踰-年 ̄ノ行-役。幸 ̄ニ避_二 ̄ケ冬-汛 ̄ノ之危_一 ̄ヲ。半-月 ̄ノ漂-
  浮。絶 ̄テ少_二過-船 ̄ノ之浪_一。桅-柁無_レ ̄ク副。竟 ̄ニ免_二 ̄ル摧-傷_一 ̄ヲ。偶〱有_二 ̄ルモ風暴_一。
  隨 ̄テ禱 ̄レハ立 ̄ロニ止 ̄ム。上-下數百-人。安-行 ̄シテ而囘 ̄ル。遠 ̄ク勝_二 ̄ル疇-昔_一 ̄ニ。額-手
  慶-幸 ̄シ。胥(ミナ)戴_二 ̄ク
皇-㤙_一 ̄ヲ。至_二 ̄テハ于顚-仆嘔-逆。小-小 ̄ノ困-頓_一 ̄ニ。海-舶 ̄ノ之常。何 ̄ソ足_レ ̄ン云 ̄ニ也。
  歷-次 ̄ノ封-舟渡-海 ̄ノ日-期
 嘉-靖十-三-年甲-午。陳-侃 ̄カ使-錄。海-行十-八-日至_二琉-球_一 ̄ニ《割書:五|月》
 《割書:初-八-日出_レ海。二-十|五-日至_二那-霸-港_一 ̄ニ。》七日囘_二 ̄ル福-州_一 ̄ニ。《割書:九-月二-十-日出_二那-霸_一。|二-十-八-日至_二定-海-所_一 ̄ニ。》
 嘉-靖四-十-一-年壬-戌。郭-汝-霖 ̄カ使-錄。海-行十-一-日至_二琉-
 球_一 ̄ニ。《割書:五-月二-十-二-日出_レ海。閏|五-月初-九-日至_二那-霸-港_一。》十-一-日囘_二福-州_一。《割書:十-月十-八-|日出_二那-霸_二。》
 《割書:二-十-九-日|至_二 五-虎-門_一 ̄ニ。》
 萬-曆八-年庚-辰。蕭-崇-業 ̄カ使-錄。海-行十-四-日至_二琉-球_一 ̄ニ。《割書:五-|月》

 《割書:二-十-二-日出_レ海。六|月初-五-日至_二那-霸_一。》九-日囘_二福-州_一 ̄ニ。《割書:十-月二-十-四-日出_レ海。|十-一-月初-二-日到_二定》
 《割書:海|所_一。》
 萬-曆三-十-三-年乙-巳。夏-子-陽 ̄カ使-錄。八-日至_二琉-球_一。《割書:五-月|二-十-》
 《割書:四-日出_レ海。六-月|初-一-日至_二那-霸_一。》十-一-日囘_二 ̄ル福-州_一。《割書:十-月二-十-一-日出_レ海。|十-一-月初-一-日到_二 五-》
 《割書:虎|門_一。》
 崇-禎六-年癸-酉。杜-三-策。《割書:從-客胡-|靖 ̄カ錄》九-日至_二琉-球_一。《割書:六-月初-|四-日出》
 《割書:_レ海。八-日過_二|姑-米-山_一 ̄ヲ。》十-一-日囘_二福-州_一 ̄ニ《割書:十-一-月初-九-日出_レ海。|十-九-日到_二 五-虎-門_一。》
 康-熙二-年癸-卯。張-學-禮 ̄カ使-錄。十-九-日至_二琉-球_一。《割書:六-月初|七-日出》
 《割書:海。二-十-五|日到_二那霸_一。》十-一-日囘_二福-州_一。《割書:十-一-月十-四出_レ海_一。二-|十-四-日至_二 五-虎-門_一。》
 康-熙二-十-二-年癸-亥。汪-楫 ̄カ使-錄。三-日至_二琉球_一。《割書:六-月二-|十-三-日》
 《割書:出_レ海。二-十-六|日到_二那霸_一。》十-一-日囘_二福-州_一。《割書:十-一-月二-十-四-日出_レ海|十-二-月初-四-日至_二定-海》
 《割書:所_一。|》
 《割書:臣|》葆-光按 ̄スルニ。封-舟以_二夏-至 ̄ノ後_一 ̄ヲ。乘_二 ̄シ西-南-風_一 ̄ニ往_二 ̄キ琉-球_一 ̄ニ。以_二冬-
 至 ̄ノ後_一 ̄ヲ。乘_二 ̄シ東-北-風 ̄ニ囘_二 ̄ル福-州_一 ̄ニ。此 ̄レ言_二 ̄フ其 ̄ノ槪_一 ̄ヲ也。南-風和-緩。北-
 風凛-冽。故 ̄ニ歸-程尤 ̄モ難 ̄シ。非_三但 ̄ニ内-外水-勢有_二 ̄ノミニ順-逆_一也。嘉
 萬 ̄ノ封-舟囘_レ ̄ル閩 ̄ニ。率 ̄ムネ先_二 ̄テ冬-至_一 ̄ニ。在_二 九-十-月 ̄ノ中_一 ̄ニ。朔-風猶未_レ勁 ̄カラ。
 歸-帆最-宜 ̄シ。十-一-月十-二-月冬-至前-後 ̄ハ。則風-勢日 ̄ニ勁 ̄シ。
 浪必從_二 ̄リ船-上_一過 ̄グ矣。若 ̄シ正-月 ̄ハ。則風-颶最 ̄モ-多 ̄シ。且 ̄ツ應_レ ̄シテ期 ̄ニ不

  _レ爽(タガハ)。萬 ̄ニ無_二行-舟 ̄ノ之理_一。二-月-中 ̄ハ則多_レ霧。龍出_レ ̄ツ海 ̄ヲ矣。然 ̄トモ春-
  風和-緩。茲 ̄ノ-役親 ̄シク驗_レ ̄ロム之 ̄ヲ。浪無_下從_二 ̄リ船-上_一過 ̄クル者_上。殆 ̄ント遠 ̄ク勝_二 ̄レリ於
  冬-至前-後_一 ̄ニ也。海-船 ̄ノ老-夥-長言 ̄フ。十-月二-十-日 ̄ノ後。東-風
  送_レ ̄ルヲ順爲_レ吉 ̄ト。葆-光在_二 ̄テ琉-球_一 ̄ニ。無_下日 ̄トシテ不_上レ ̄ルヿ占_二 ̄ハ風 ̄ノ所_一レ ̄ヲ向 ̄フ。歷_二-考 ̄スルニ數-
  月内_一 ̄ヲ。風自_レ東來 ̄テ不_二 ̄ル間-斷_一 ̄セ者 ̄ハ。惟〱十-月二-十-日 ̄ノ後。十-一-
  月初-五-日 ̄ノ前。半-月-中 ̄ヲ爲_レ然 ̄ト。因 ̄テ考 ̄ルニ陳-侃以-來。惟〱蕭-崇-
  業之歸_レ ̄ル閩 ̄ニ。較〱爲_二安-吉_一 ̄ト。其 ̄ノ出_レ海日-期 ̄ハ。乃十-月二-十-四
  日。爲_レ不_レ ̄ト誣 ̄ヒ也。附_レ ̄シテ此 ̄ニ以告_二 ̄ク後 ̄ノ來-者_一 ̄ニ。
  風-信
 淸-明 ̄ノ後。地-氣自_レ ̄シテ南而北 ̄スレハ。則南-風 ̄ヲ爲_レ常 ̄ト。霜-降 ̄ノ後地-氣自
 _レ北而南 ̄スレハ。則北-風 ̄ヲ爲_レ常 ̄ト。若反_二 ̄スレハ其 ̄ノ常_一 ̄ニ。則颱颶將_レ作 ̄ント。 風大 ̄ニシテ
 而烈 ̄シキ-者 ̄ヲ爲_レ颶 ̄ト。又甚 ̄キ者 ̄ヲ爲_レ颱 ̄ト。颶 ̄ハ常 ̄ニ驟 ̄カニ-發 ̄コリ。颱 ̄ハ則有_レ漸。颶 ̄ハ或 ̄ハ
 瞬 ̄ニ-發 ̄ン焂 ̄ニ-止 ̄ム。颱 ̄ハ則連_二 ̄ヌ日-夜_一 ̄ヲ。或 ̄ハ數-日不_レ止 ̄ニ。大-約正-二-三-四-
 月 ̄ヲ爲_レ颶。五-六-七-八-月 ̄ヲ爲_レ颱 ̄ト。九-月 ̄ハ則北-風初 ̄テ烈 ̄シ。或 ̄ハ至_二 ̄ル連-
 月_一 ̄ニ。俗稱_二 ̄ス九-降-風_一 ̄ト。間〱或 ̄ハ有_レ ̄レハ颱。則驟 ̄カニ-至 ̄ルヿ如_二春-颱_一 ̄ノ。船在_二 ̄テ洋-中_一 ̄ニ。
 遇_レ ̄フハ颶 ̄ニ猶可_レ ̄シ爲。遇_レ ̄ハ颱 ̄ニ不_レ可_レ當矣。 十-月以-後。北-風常 ̄ニ作 ̄ル。
 然 ̄トモ颱颶無_二定-期_一。舟-人視_二 ̄テ風-隙_一 ̄ヲ以往-來 ̄ス。五-六-七-八-月應
 _レ屬_二 ̄ス南-風_一 ̄ニ。颱將_レ ̄レハ發 ̄ント。則北-風先-至 ̄リ。轉 ̄シテ而東-南 ̄シ。又轉 ̄シテ而南 ̄シ。又

 轉 ̄シテ而西-南 ̄ス。 颱颶始 ̄テ-至 ̄ル。多帶_レ ̄フ雨 ̄ヲ。九-降-風 ̄ハ則無_レ雨。 五-
 六-七-月 ̄ノ間。風-雨俱 ̄ニ-至 ̄ル。舟-人視_三 ̄ルトキハ天-色有_二 ̄ヲ點-黑_一。則收_レ ̄メ帆 ̄ヲ嚴 ̄ニシテ
 _レ舵 ̄ヲ以待_レ ̄ツ之 ̄ヲ。瞬-息 ̄ノ間風-雨驟 ̄カニ-至 ̄ル。隨-刻 ̄ニ卽-止 ̄ム。若 ̄シ豫-備少 ̄シク遲 ̄ケレハ。
 則收_レ ̄ルニ帆 ̄ヲ不_レ及。或 ̄ハ至_二 ̄ル傾-覆_一 ̄ニ。 天-邊有_二 ̄ル斷-虹_一。亦颱將_レ至 ̄ント。雲-
 片如_レ ̄キ帆 ̄ノ者 ̄ヲ曰_二破-帆_一 ̄ト。稍及_二 ̄テ半-天_一 ̄ニ。如_二 ̄キ鱟-尾_一 ̄ノ者 ̄ヲ曰_二屈-鱟_一 ̄ト。出_二北-
 方_一 ̄ニ者。甚_二 ̄シ於他-方_一 ̄ヨリ。 海-水驟 ̄カニ-變 ̄シ。水-面多 ̄ク穢 ̄シテ如_二 ̄ク米-糠_一 ̄ノ。海-蛇
 浮_二-遊 ̄スルモ水-面_一 ̄ニ。亦颱將_レ至 ̄ント。
  風-暴 ̄ノ日-期
 正-月初-四-日《割書:接-神|颶》初-九-日《割書:玉-皇-颶。此 ̄ノ日有_レ ̄レハ颶。後-颶皆|驗 ̄アリ。否 ̄ンハ-則後亦多_二 ̄シ不_レ驗者_一。》
 十-三-日《割書:關-帝|颶》二-十-九-日《割書:烏-颶。又|龍-神-會。》
  又正-月初-三-日。初-八-日。十-一-日。二-十-五-日。月-晦-日。
  皆龍-會 ̄ノ日。主_レ ̄ル風 ̄ヲ。
 二-月初-二-日《割書:白-鬚|颶》初-七-日《割書:春-明-|暴》二-十-一-日《割書:觀-音|暴》二-十-
 九-日《割書:龍-神朝_二|上-帝_一 ̄ニ》
  又二-月初-三-日。初-九-日。十-二-日。皆龍-神朝_二 ̄スルノ上-帝_一 ̄ニ之
  日。
 三-月初-三-日《割書:上-帝-颶。又|名_二眞-武-暴_一 ̄ト。》初-七-日《割書:閻-王|暴》十-五-日《割書:眞-人-颶。|又名_二眞-》
 《割書:君|暴_一。》二-十-三-日《割書:天-妃-誕。媽-祖-颶。眞-人|颶 ̄ハ多_レ風。媽-祖-颶 ̄ハ多_レ雨。》二-十-八-日《割書:諸-神朝_二|上-帝_一 ̄ニ》

  又三-月初-三-日。初-七-日。二-十-七-日。皆龍-神朝_二星辰_一 ̄ニ
  之日。
 四-月初-一-日《割書:白-龍|暴》初-八-日《割書:佛-子-颶。又|名_二太-子-暴_一 ̄ト。》二-十-三-日《割書:大-保-|暴》
 二-十-五-日《割書:龍-神大-|白-暴》
  又四-月初-八-日。十-二-日。十-七-日。皆龍會_二 ̄スルノ太-白_一 ̄ニ之日。
 五-月初-五-日《割書:係_二 ̄ル大-颶_一 ̄ニ。名_二|屈-原-颶_一 ̄ト。》十-三-日《割書:關-帝|颶》二-十-一-日《割書:龍-母|暴》
  又五-月初-五-日。十-一-日。二-十-九-日。皆天-帝龍-王朝_二
  玉-皇_一 ̄ニ之日。
 六-月十-二-日《割書:彭-祖|颶》十-八-日《割書:彭-祖|婆-颶》二-十-四-日《割書:雷-公-誕。此 ̄ノ|暴最 ̄モ准。名 ̄テ》
 《割書:爲_二洗-炊-籠-颶_一 ̄ト。自_二 十-二-日_一起 ̄リ。至_二 ̄テ|二-十-四-日_一 ̄ニ止 ̄ム。皆係_二 ̄ル大-颶_一 ̄ニ之旬。》
  又六-月初-九-日。二-十-七-日。皆地-神龍-王朝_二玉-皇_一 ̄ニ之
  日。
 七-月初-八-日《割書:神-煞|交-會》十-五-日《割書:鬼-|颶》
  又七-月初-七-日。初-九-日。十-五-日。二-十-七-日。皆神-煞
  交-會 ̄ノ之日。
 八-月初-一-日《割書:竈-君|颶》初-五-日《割書:係_二 ̄ル大-|颶_一旬》十-四-日《割書:伽-藍|暴》十-五-日
 《割書:魁-星|颶》二-十-一-日《割書:龍-神|大-會》
  又八-月初-三-日。初-八-日。二-十-七-日。皆龍-王大-會之

  日。
 九-月初-九-日《割書:重-陽|暴》十-六-日《割書:張-良|颶》十-九-日《割書:觀-音|颶》二-十-七
 日《割書:冷-風|暴》
  又九-月十-一-日。十-五-日。十-九-日。皆龍-神朝_二玉-帝_一 ̄ニ之
  日。
 十-月初-五-日《割書:風-信|暴》初-十-日《割書:水-仙|王-颶》二-十-日。《割書:東-嶽|朝_レ 天 ̄ニ》二-十-六
 日《割書:翁-爹|颶》
  又十-月初-八-日。十-五-日。二-十-七-日。皆東-府-君朝_二玉-
  皇_一 ̄ニ之日。
 十-一-月十-四-日《割書:水-伯|暴》二-十-七-日《割書:普-安|颶》二-十-九-日《割書:西-嶽|朝_レ天》
 十-二-月二-十-四-日《割書:送-神-颶。又|名_二掃-塵-風_一 ̄ト。》
 凡 ̄ソ遇_二 ̄フ風-暴日-期_一 ̄ニ。不_レ ̄レハ在_二 ̄ラ本-日_一 ̄ニ。則在_二前-後三日 ̄ノ之中_一 ̄ニ。又箕-
 壁翼軫 ̄ノ四-宿。亦主_レ ̄トル起_レ ̄スヿヲ風 ̄ヲ。皆當_二謹 ̄テ避_一レ ̄ク之 ̄ヲ。
  風-信-考以-下至_レ ̄テ此 ̄ニ。皆指-南-廣-義 ̄ノ所_レ載 ̄スル。或 ̄ハ採_二禁-忌方-
  書_一 ̄ヲ。或 ̄ハ出_二 ̄ツ海-師柁-工 ̄ノ所_一レ ̄ニ記 ̄スル。其 ̄ノ語不_二盡 ̄ク雅-馴_一 ̄ナラ。而 ̄トモ參-攷 ̄スルニ多 ̄ク
  驗 ̄アリ。今附_レ ̄シテ此 ̄ニ以告_二 ̄ク後 ̄ノ來-者_一 ̄ニ。

【図】天妃靈應圖

  天-妃靈-應-記
 天-妃 ̄ハ。莆-田湄-洲-嶼 ̄ノ林-氏 ̄ノ女 ̄ナリ也。《割書:張-學-禮記 ̄ニ云。天-妃蔡-|氏 ̄ノ女。猴-嶼人 ̄ト。非_レ是 ̄ニ。》父
 名 ̄ハ愿。《割書:字曰_二惟-愨_一。母 ̄ハ王-氏。|一 ̄ニ云。林-孚第-六 ̄ノ女。》宋 ̄ノ初官都-巡-檢 ̄タリ。妃生 ̄シテ而神-靈。
 少 ̄シテ與_二群-女_一照_レ ̄ス井 ̄ニ。有_レ神捧_二 ̄ケテ銅-符_一 ̄ヲ出 ̄テ以授_レ ̄ク妃 ̄ニ。群-女奔-駭 ̄ス。自
 _レ是屢〱著_二 ̄ス神-異_一 ̄ヲ。常 ̄ニ乘_二 ̄シテ片-蓆_一 ̄ニ渡_レ海 ̄ヲ。人咸稱 ̄シテ爲_二通-賢靈-女_一 ̄ト。一-
 日方 ̄ニ-織 ̄ル。忽據_レ ̄テ機 ̄ニ瞑-坐 ̄ス。顔-色變-異 ̄ス。母蹴-起 ̄シテ問_レ ̄フ之 ̄ヲ。寤 ̄テ而泣 ̄ク。
 曰父 ̄ハ無_レ恙。兄 ̄ハ歿 ̄ス矣。有_レ ̄テ頃 ̄ラク信-至 ̄ル。父與_レ兄渡_レ海 ̄ヲ。舟-覆 ̄ヘル。若_レ有_二 ̄カ
 挾_レ ̄ム之 ̄ヲ者_一。父得_レ不_レ ̄ルヿヲ溺 ̄レ。兄 ̄ハ以_二柁-摧_一 ̄クルヲ。遂 ̄ニ堕_レ ̄テ海 ̄ニ死 ̄ス。雍-熙四-年。昇_二-
 化 ̄ス于湄-州-嶼_一 ̄ニ。《割書:張-學-禮記 ̄ニ云。救_レ父 ̄ヲ投_レ海 ̄ニ身-亡。非_レ是 ̄ニ。一 ̄ニ云|妃生_二 ̄ル于建-隆元-年庚-申。三-月二-十-三-日_一 ̄ニ。》

 《割書:一 ̄ニ云。妃生_二 ̄ル於哲-宗元-祐八-年_一 ̄ニ。一 ̄ニ云。生_二于甲-申之歲_一 ̄ニ。按 ̄ニ|妃于_二 ̄テ宋太-宗雍-熙四-年。九-月初-九-日_一 ̄ニ昇化 ̄ス。室 ̄ニ-處 ̄ルヿ二-十-》
 《割書:八-歲則當_下以_二建-隆元-年 ̄ノ一-說_一 ̄ヲ|爲_上レ是 ̄ト。生 ̄テ彌_レ ̄テ月 ̄ヲ不_レ啼。名 ̄テ日_レ黙 ̄ト。》時 ̄ニ顯_二 ̄シ靈-應_一 ̄ヲ。或 ̄ハ示_レ ̄シ夢 ̄ヲ。或 ̄ハ示_二 ̄ス
 神-燈_一 ̄ヲ。海-舟獲_レ ̄ルヿ庇 ̄ヲ無-數。土-人相-率 ̄ヒテ祀_レ ̄ル之 ̄ヲ。宋 ̄ノ徽-宗宣-和五-
 年。給-事-中路-允-廸使_二 ̄ヒス高-麗_一 ̄ニ。八-舟溺_二 ̄ラス其七_一 ̄ヲ。獨允-廸 ̄カ舟見_三 ̄ル
 神 ̄ノ朱-衣 ̄シテ坐_二 ̄スルヲ桅-上_一 ̄ニ。遂 ̄ニ安-歸 ̄シテ聞_二 ̄ス于朝_一 ̄ニ。賜_二 ̄テ廟-額_一 ̄ヲ曰_二順-濟_一 ̄ト高-宗
 紹-興二-十-六-年。始 ̄テ封_二 ̄ス靈-惠夫-人_一 ̄ニ。賜_二 ̄テ廟-額_一 ̄ヲ曰_二靈-應_一 ̄ト。三-十-
 年。海-冦至_二江-口_一 ̄ニ。神見_二 ̄ハル風-濤 ̄ノ中_一 ̄ニ。冦-潰 ̄ヘテ就_レ ̄ク獲 ̄ニ。泉-州上_二 ̄ス其 ̄ノ事_一 ̄ヲ。
 封_二 ̄ス靈-惠昭-應夫-人_一 ̄ニ。孝-宗乾-道二-年。興-化疫 ̄アリ。神降_二 ̄ル于白-
 湖_一 ̄ニ。去_レ ̄ルヿ潮 ̄ヲ丈-許得_二甘-泉_一 ̄ヲ。飮-者立 ̄ロニ-愈 ̄ユ。又海-冦至 ̄ル。霧 ̄ニ迷_二 ̄テ其 ̄ノ道 ̄ヲ。
 至_二 ̄リ廟-前_一 ̄ニ就_レ ̄ク擒 ̄エ。封_二 ̄ス靈-惠昭-應崇-福夫-人_一 ̄ニ。淳-熙十-一-年。助_二 ̄ケ
 廵-檢姜-特-立_一 ̄ヲ。捕_二 ̄フ溫-台 ̄ノ冦_一 ̄ヲ。封_二 ̄ス靈-惠昭-應崇-福善-利夫-人_一 ̄ニ。
 《割書:汪-錄作_二靈-慈昭-應崇-善福-利夫-人_一 ̄ニ。靈-慈 ̄ハ乃廟-號。凡 ̄ソ封|皆原_二 ̄ク靈-惠始-封 ̄ノ之 ̄ノ號_一 ̄ニ。當_レ作_二靈-惠崇-福_一 ̄ニ。先-封 ̄シテ後加_二善-利》
 《割書:二-字_一 ̄ヲ。乃言_下爲_二 ̄ニ善-人_一 ̄ノ利 ̄ノ之|意_上 ̄ヲ。以-上封_二 ̄シテ夫-人_一 ̄ニ凡 ̄ソ四-封。》光-宗紹-熙三-年。以_下救_二疫-旱_一 ̄ヲ功_上 ̄ヲ。
 特 ̄ニ封_二 ̄ス靈-惠-妃_一 ̄ニ。寧-宗慶-元四-年。以_レ救_レ ̄フヲ潦 ̄ヲ封_二靈-惠助-順妃_一 ̄ニ。
 嘉-定元-年。平_二 ̄ク大-奚 ̄ノ冦_一 ̄ヲ。以_レ霧 ̄ヲ助 ̄テ擒_レ ̄ニス賊 ̄ヲ。金-人犯_二 ̄ス淮-甸_一 ̄ヲ。戰_二 ̄フ-花-
 靨-鎭_一 ̄ニ。神助_レ ̄ク戰 ̄ヲ。及_レ ̄テ戰_二 ̄ニ紫-金-山_一 ̄ニ。又見_二 ̄ハス神-像_一 ̄ヲ。再㨗_二 ̄ツ三-戰_一 ̄ニ。遂 ̄ニ解_二 ̄ク
 合-肥 ̄ノ之圍_一 ̄ヲ。封_二 ̄ス靈-惠助-順顯-衛妃_一 ̄ニ。嘉-定十-年。救_レ ̄ヒ旱 ̄ヲ。獲_二海-
 冦_一 ̄ヲ。加_二 ̄フ靈-惠助-順顯-衛英-烈妃_一 ̄ヲ。嘉-熙三-年。錢-塘潮-决 ̄シテ至_二 ̄ル

 艮-山 ̄ノ祠_一 ̄ニ。若_二有_レ ̄テ限而退_一 ̄クカ。封_二 ̄ス靈-惠助-順嘉-應英-烈妃_一 ̄ニ。寶-祐
 二-年。救_レ旱 ̄ヲ。封_二 ̄ス助-順嘉-應英-烈協-正妃_一 ̄ニ。三-年。又封_二 ̄ス靈-惠
 助-順嘉-應慈-濟妃_一 ̄ニ。四-年封_二 ̄ス靈-惠協-正嘉-應慈-濟妃_一 ̄ニ。是-
 歲浙-江隄-成 ̄ル。封_二 ̄ス靈-惠協-正嘉-應善-慶妃_一 ̄ニ。五-年。敎-授王-
 里請_二 ̄テ于朝_一 ̄ニ。封_二 ̄ス妃 ̄ノ父 ̄ヲ積-慶-侯。母 ̄ヲ顯-慶夫-人_一 ̄ニ。女-兄以-及 ̄ヒ神-
 佐。皆有_二錫-命_一。景-定三-年。反_レ ̄シテ風 ̄ヲ膠_二 ̄シテ海-冦 ̄ノ舟_一 ̄ヲ就_レ ̄ク擒 ̄ニ。封_二 ̄ス靈-惠
 顯-濟嘉-應善-慶妃_一 ̄ニ。《割書:宋封_二 ̄スルヿ夫-人_一 ̄ニ四。加_二-封 ̄スルヿ|妃_一 ̄ニ十。凡 ̄ソ十-四-封。》元 ̄ノ世-祖至-元十-
 八-年。以_三海-運得_二 ̄ルヲ神佑_一 ̄ヲ。封_二 ̄ス䕶-國明-著天-妃_一 ̄ニ。《割書:封_二 ̄スルノ天妃_一 ̄ニ|之-始 ̄メ》又進_二 ̄ム
 顯-佑_一 ̄ヲ。成-宗大-德三-年。以_二漕-運效_一レ ̄スヲ靈 ̄ヲ。封_二 ̄ス輔-聖庇-民明-著
 天-妃_一 ̄ニ。仁-宗加_二-封 ̄ス䕶-國庇-民廣-濟明-著天-妃_一 ̄ニ。文-宗天-曆
 二-年。加_二-封 ̄ス靈-感助-順福-惠徽-烈_一 ̄ニ。《割書:共 ̄ニ二-|十-字》廟-額靈-慈。《割書:元晋_二-|封 ̄スルヿ天-》
 《割書:妃_一 ̄ニ。凡五-|加-封。》皆以_二 ̄テノ海-運危-險。歷_二-見 ̄スルヲ顯-應_一 ̄ヲ故 ̄ナリ也。明 ̄ノ太-祖封_二 ̄ス昭-
 孝純-正孚-濟感-應聖-妃_一 ̄ニ。成-祖永-樂七-年。封_二 ̄ス䕶-國庇-民
 妙-靈昭-應弘-仁普-濟天-妃_一 ̄ニ。《割書:至_レ ̄テ今 ̄ニ-皆仍_二 ̄ル|此 ̄ノ封-號_一 ̄ニ》自-後遣_レ ̄テ官 ̄ヲ致_レ祭 ̄ヲ。
 歲 ̄コトニ以 ̄テ爲_レ常 ̄ト。莊-烈-帝封_二 ̄ス天-仙聖-母靑-靈普-化碧-霞元-君_一 ̄ニ。
 巳 ̄ニシテ-又加_二 ̄フ靑-賢普-化慈-應碧-霞元-君_一 ̄ヲ。《割書:明封_二 ̄スルヿ聖-妃_一 ̄ニ一。一仍 ̄テ攺_二-|封 ̄スルヿ天-妃_一 ̄ニ一。攺_二-封元-》
 《割書:君_一 ̄ニ二。凡 ̄フ|四-封。》
本-朝仍_二 ̄ル永-樂七-年 ̄ノ封-號_一 ̄ニ。康-熙十-九-年。收_二-復 ̄ス臺-灣_一 ̄ヲ。神-靈顯-

 應。福-提-萬正色上-
聞 ̄ス。加_レ ̄ヘ號 ̄ヲ致_レ ̄ス祭 ̄ヲ。神-靈昭-著。于_レ ̄テ今 ̄ニ轉〱-赫 ̄ナリ。凡 ̄ソ渡_レ ̄ル海 ̄ヲ者 ̄ハ。必載_二 ̄ス主 ̄ヲ舟-
 中_一 ̄ニ。往-年冊_二-封 ̄ス琉-球_一 ̄ニ。
諭-祭兩 ̄タヒ行 ̄ル。夏-祈冬-報。皆預 ̄メ撰_レ ̄シ文 ̄ヲ。使-臣昭 ̄ニ-告 ̄ク。皆獲_二安-全_一 ̄ヲ。蓋 ̄シ
聖-德 ̄ノ所_レ感。神-應尤 ̄モ-顯 ̄ルト云 ̄フ。
  封-舟捄-濟 ̄ノ靈-蹟《割書:惟 ̄ルニ洪-煕元-年。捄_二-濟柴-山_一 ̄ヲ靈-蹟。詳_二 ̄ナリ顯-|聖-錄_一 ̄ニ。以-下無_レ攷 ̄ルヿ。今斷 ̄シテ自_二陳-侃_一始。》
 嘉-靖十-三-年。冊-使陳-給-事-侃。《割書:陳 ̄ノ侃始有_レ記。|故 ̄ニ自_レ侃始。》高-行-人-澄。
 舟至_二 ̄テ姑-米-山_一 ̄ニ發_レ ̄ス漏 ̄ヲ。呼-禱 ̄シテ得_二塞 ̄テ而濟_一 ̄ルヿヲ。歸 ̄ニ値_レ ̄ヲ颶 ̄ニ。桅-檣俱- ̄ニ折。
 忽有_二 ̄テ紅-光_一燭_レ ̄ス舟 ̄ヲ。乃請_レ ̄テ筊 ̄ヲ起_レ柁 ̄ヲ。又有_二 ̄テ蝶-雀_一示_レ ̄ス象 ̄ヲ。是 ̄ノ-夕風-
 虐 ̄ヲ。冠-服 ̄シテ禱 ̄リ請_レ立_レ碑 ̄ヲ。風-乃弛 ̄ブ。還 ̄テ請_二春-秋祀-典_一 ̄ヲ。
 嘉-靖四-十-年。冊-使郭-汝-霖李-際-春。行 ̄テ至_二 ̄ル赤-嶼_一 ̄ニ。無_レ風。有_二
 大-魚_一蕩_レ ̄ス舟 ̄ヲ。乃施_二 ̄シ金-光-明-佛。并 ̄ニ彩-舟_一 ̄ヲ舁_レ之 ̄ヲ。遂 ̄ニ得_二 ̄テ南-風_一 ̄ヲ而
 濟 ̄ル。及_二 ̄テ囘_レ ̄ル閩 ̄ニ日_一 ̄ニ。颶將【左ルビ「ス」】_レ ̄ニ發 ̄ント。豫 ̄シメ有_二 二-雀集_レ ̄ルノ舟 ̄ニ之異_一。須-臾 ̄ニシテ颶-發
 失_レ ̄ス柁 ̄ヲ。郭-等爲_レ ̄テ文 ̄ヲ以-告 ̄ク。風乃-息 ̄ム。更 ̄ニ置_レ ̄ク柁 ̄ヲ。又有_二 ̄リ一-鳥_一。集_二 ̄テ桅-
 上_一 ̄ニ不_レ去。
 萬-曆七-年。冊-使蕭-給-事崇-業。謝-行-人-然。針-路舛-錯。莫 ̄シ
 _レ知_レ ̄ルヿ所_レ ̄ヲ之 ̄ク。且 ̄ツ柁-葉失 ̄シ-去 ̄ル。䖍-禱 ̄ノ之次 ̄デ。俄 ̄ニ有_二 一-燕一-蜻-蜓_一。飛 ̄ンテ
 繞_二 ̄ル船 ̄ノ左-右_一 ̄ヲ。遂 ̄ニ得_レ ̄テ易_レ ̄ルヿヲ柁 ̄ヲ。舟-乃平-安 ̄ナリ。

 萬-曆三-十-年。冊-使夏-給-事子-陽。王-行-人士-禎。舟過_二 ̄ク花-
 瓶-嶼_一 ̄ヲ。無_レ ̄シテ風而浪 ̄アリ。禱_二 ̄ル于神_一 ̄ニ。得_レ ̄テ風 ̄ヲ順-濟 ̄ス。歸-舟柁-索四-斷 ̄シ。失 ̄スル
 _レ柁 ̄ヲ者三 ̄ツ。大-桅亦-折 ̄ル。水-面忽 ̄チ現_二 ̄ス神-燈_一 ̄ヲ。異-雀來 ̄リ-集 ̄ル。東-風助
 _レ順 ̄ヲ。
 崇-禎元-年。冊-使杜-給-事三-策。楊-行-人-掄。歸-舟颶-作 ̄ル。折_二 ̄ルヿ
 柁 ̄ノ牙_一 ̄ヲ數-次。勒-索皆-斷。舟-中三-人。共 ̄ニ購_二 ̄フテ一-奇-楠高 ̄サ三-尺
 値 ̄ヒ千-金_一 ̄ナルヲ。捐 ̄テ刻_二 ̄ム聖-像_一 ̄ヲ。俄 ̄ニ有_二奇-鳥_一集_二 ̄ル檣-端_一 ̄ニ。舟-行 ̄クヿ若_レ ̄シ飛 ̄カ。一-夜
 抵_レ ̄ルト閩 ̄ニ云 ̄フ。
本-朝康-熙二-年。冊-使張-兵-科學-禮。王-行-人-垓。歸-舶過_二 ̄ク姑-
 米_一 ̄ヲ。颶-作 ̄テ暴-雨 ̄シ。船傾-側 ̄ス。危 ̄キヿ-甚 ̄シ。桅 ̄ノ左-右欹-側 ̄ス。龍-骨半-折 ̄ル。忽 ̄チ
 有_二 ̄テ火-光_一熒-熒 ̄タリ。霹-靂起_二 ̄ル風-雨 ̄ノ中_一 ̄ニ。截-斷 ̄シテ仆_レ ̄ス桅 ̄ヲ。舵旋 ̄テ不_レ止 ̄マ。勒-
 索皆-斷。禱_レ ̄テ神 ̄ニ起_レ ̄ス柁 ̄ヲ。三-禱三-應 ̄ス。易_レ ̄ヘ繩 ̄ヲ下_レ ̄ロス柁 ̄ヲ。時 ̄ニ有_二 一-鳥_一。綠-
 觜紅-足若_二雁-鶩_一。集_二 ̄ル戰-臺_一 ̄ニ。舟-人 ̄ノ曰。天-妃遣_二 ̄シム來 ̄テ引-導_一 ̄セ也。遂 ̄ニ
 逹_二 ̄ス定-海_一 ̄ニ。
 康-熙二-十-二-年。冊-使汪-檢-討-楫。林-舎-人麟-焻。歸-舟颶-
 風三-晝-夜。舟上-下傾-仄。水滿_二艙-中_一 ̄ニ。合-舟能 ̄ク-起 ̄ツ者。僅 ̄ニ十-
 六-人。厨-竈漂-没 ̄シ。人-盡 ̄ク餓-凍 ̄ス。䖍_二-禱 ̄シ天-妃_一 ̄ニ。許_三 ̄ス爲 ̄ニ請_二 ̄ヿヲ春-秋祀-
 典_一 ̄ヲ。桅-篐斷 ̄テ而桅不_レ散。頂-繩斷 ̄テ而蓬不_レ落。與_レ波上-下 ̄シ。竟 ̄ニ

 保_レ ̄ツ無_レ ̄キヿヲ虞 ̄リ。 
 今 ̄ノ封-舟開_レ ̄キ洋 ̄ヲ。風少 ̄シク偏-東 ̄ス。禱 ̄レハ立 ̄ロニ-正 ̄シ。多 ̄ク用_二 ̄ヒ卯-針_一 ̄ヲ。船-身太-下 ̄テ。
 幾 ̄ント至_二 ̄ル落-漈_一 ̄ニ。遂 ̄ニ䖍-禱 ̄シテ得_三攺 ̄テ用_二 ̄ヿヲ乙-辰-針_一 ̄ヲ。又筊-許 ̄ス二-十-八-日
 見_レ ̄ンヿヲ山 ̄ヲ。果 ̄シテ見_二 ̄ル葉-壁_一 ̄ヲ。船-下 ̄ルヿ六-百-餘-里。欲_レ ̄ス收_二 ̄ント那-霸_一 ̄ニ。非_二 ̄レハ西-北-風_一 ̄ニ
 不_レ能_レ逹 ̄スルヿ。禱_レ ̄レハ之 ̄ヲ立 ̄ロニ轉 ̄シ。一-夜 ̄ニ抵_レ ̄ル港 ̄ニ。 舟囘 ̄テ至_二鳳-尾-山_一 ̄ニ。旋-風
 轉_レ ̄シテ船 ̄ヲ。篷柁俱 ̄ニ-仄 ̄ツ。呼_レ ̄ンテ神 ̄ヲ始 ̄テ-正 ̄シ。至_二 ̄リ七-星-山_一 ̄ニ。夾_レ ̄ンテ山 ̄ヲ下_レ ̄ロス椗 ̄ヲ。五-更 ̄ニ
 颶-作 ̄テ走_レ ̄ラス椗 ̄ヲ。將【左ルビ「ス」】_レ ̄ニ抵(アテント)_レ礁 ̄ニ。呼_レ ̄テ神 ̄ニ船如_二 ̄シ少-緩_一 ̄ルカ。始 ̄テ得_レ 下_レ ̄スヿヲ椗 ̄ヲ。人-皆額-
 手 ̄シテ曰 ̄ク。此-皆天-妃 ̄ノ賜 ̄ナリ也。
  諭-祭 ̄ノ文《割書:祈-報二-道|》
 維 ̄レ康-熙五-十-八-年。歲次_二 ̄ス巳-亥_一 ̄ニ。五-月癸-酉朔。越(コヽニ)祭-日癸-
 巳。
皇-帝遣_二 ̄シ冊封琉-球-國。正-使翰-林-院檢-討海-寶。副-使翰-林-
 院編-修徐-葆-光_一 ̄ヲ。致_二 ̄ス祭 ̄ヲ于
 神_一 ̄ニ。曰惟 ̄シ神顯_二 ̄シ異 ̄ヲ風-濤_一 ̄ニ。效_二 ̄ス靈 ̄ヲ瀛-海_一 ̄ニ。扶_レ ̄ケ危 ̄ヲ脫_レ ̄シテ險 ̄ヲ。每 ̄ニ著_二 ̄ス神-功_一 ̄ヲ。
 捍_レ ̄キ患 ̄ヲ禦_レ ̄ク災 ̄ヲ。允 ̄ニ符_二 ̄ス祀-典_一 ̄ニ。茲 ̄ニ因 ̄テ_下冊_二-封 ̄シ殊-域_一 ̄ニ。取_中 ̄ルニ道 ̄ヲ重-溟_上 ̄ニ。爰 ̄ニ命 ̄シテ
 使-臣_一 ̄ニ。㓗 ̄シテ將_二 ̄フ禋-祀_一 ̄ヲ。尚 ̄クハ其 ̄レ默_二-佑 ̄シ津-途_一 ̄ヲ。安-流利-涉。克 ̄ク將 ̄テ成_レ ̄サハ命 ̄ヲ。
 惟 ̄レ神 ̄ノ之-休 ̄ナラン。謹 ̄テ-告 ̄ス。
 維 ̄レ康-熙五-十-九-年。歲次_二 ̄ル庚-子_一 ̄ニ。二-月戊-戌朔。越 ̄ニ祭-日丁-

 卯。
皇-帝遣_二 ̄シ冊-封琉-球-國。正-使翰-林-院檢-討海-寶。副-使翰-林-
 院編-修徐-葆-光_一 ̄ヲ。致_二 ̄ス祭 ̄ヲ于
海-神_一 ̄ニ。曰惟 ̄レ神誕 ̄ニ昭_二 ̄ニシ靈-貺_一 ̄ヲ。陰 ̄カニ翊_二 ̄ク昌-圖_一 ̄ヲ。引_二 ̄テ使-節_一 ̄ヲ以遄 ̄カニ征 ̄キ。越_二 ̄テ洪-
 波_一 ̄ヲ而利-濟 ̄ス。殊-邦 ̄ノ往-復。成_レ ̄シテ事 ̄ヲ無_レ愆 ̄チ。克 ̄ク暢_二 ̄フ國威_一 ̄ヲ。實 ̄ニ惟 ̄レ神 ̄ノ佑。
 聿 ̄ニ申_二 ̄シ昭-報_一 ̄ヲ。重 ̄テ薦_二 ̄ム苾-芬_一 ̄ヲ。神其 ̄レ鍳-歆 ̄シテ。永 ̄ク有_二 ̄レ光-烈_一。謹 ̄テ告 ̄ス。
  春-秋祀-典 ̄ノ䟽
 差-囘琉-球-國。翰-林-院檢-討《割書:臣|》海-寶。編-修《割書:臣|》徐葆-光-等
 謹 ̄テ
奏 ̄ス爲_二奏-
聞 ̄ノ事_一。《割書:臣|》等於_二康-熙五-十-七-年。六-月初-一-日_一 ̄ニ。奉 ̄レ
_レ㫖 ̄ヲ冊_二-封 ̄シ琉-球-國-王_一 ̄ヲ。十-四-日於_二𤍠-河_一 ̄ニ面請_二
聖-訓_一 ̄ヲ。出_レ ̄テ都 ̄ヲ至_レ ̄ル閩 ̄ニ。於_二 五-十-八-年。五-月二-十-日_一 ̄ニ登_レ ̄ル舟 ̄ニ。次 ̄ノ日至_二 ̄リ
 怡-山-院_一 ̄ニ。
諭_二-祭 ̄シ天-妃_一 ̄ニ。二-十-二-日。從_二 五-虎-門_一放_レ洋 ̄ヲ。西-南順-風行 ̄クヿ八-日。
 六-月初-一-日登_レ ̄ル岸 ̄ニ。二-十-七-日。行_二
諭-祭 ̄ノ禮_一 ̄ヲ。七-月二-十-六-日。行_二
冊-封 ̄ノ禮_一 ̄ヲ。諸-宴-禮以_レ次 ̄ヲ舉-行 ̄ス。十-二-月二-十-六-日。登_レ ̄リ舟 ̄ニ候_レ ̄シ汛 ̄ヲ。

 本-年二-月十-六-日。乗_二東-北順-風_一 ̄ニ行 ̄クヿ半-月。三-十-日始 ̄テ扺_二 ̄ル
 福-州五-虎-門_一 ̄ニ。《割書:臣|》等往_二-返 ̄シテ海-道_一 ̄ヲ。畧〱無_二危-險_一。皆
皇-上德邁_二 ̄キ千-古_一 ̄ニ。
福與_レ 天齊 ̄シ。《割書:臣|》等奉 ̄シテ
_レ命 ̄ヲ經_二-行 ̄ス絶-遠之-處_一 ̄ニ。神-靈效_レ ̄シ順 ̄ヲ。《割書:臣|》等闔-船官-兵。以-及從-役
 數-百-人。無_二 一 ̄モ虧-損_一。皆得_二安-歸_一 ̄ヲ。《割書:臣|》等不_レ勝_二欣-幸_一 ̄ニ。卽琉-球
 國-屬。倂_二 ̄セテ福-省-官 ̄ノ民-人等_一 ̄ヲ。俱 ̄ニ稱_レ ̄シ奇-致_レ ̄ス頌 ̄ヲ。以-爲 ̄ラク皆我 ̄カ
皇-上德遍_二 ̄キ海-隅_一 ̄ニ之所_レ ̄ナリト致 ̄ス也。其 ̄ノ中往-返 ̄ノ之-時。風少 ̄シク不-順 ̄ナレハ。《割書:臣|》
 等祈_二-禱 ̄スルニ天-妃_一 ̄ニ。卽獲_二安-吉_一 ̄ヲ。自_下前 ̄ニ平_二-定 ̄セン臺-灣_一 ̄ヲ之-時_上。天-妃顯 ̄ハシ
 _レ靈 ̄ヲ效_レ ̄ス順 ̄ヲ。巳 ̄ニ蒙_二 ̄リ
皇-上 ̄ノ加封_一 ̄ヲ致_レ ̄ス祭 ̄ヲ。今默_二-佑 ̄シ封-舟_一 ̄ヲ。種-種 ̄ノ靈-異如_レ此 ̄ノ。仰 ̄テ祈 ̄ラクハ
特-㤙 ̄ニ許 ̄サレ。着(シメン)_下該-地-方 ̄ノ官 ̄ヲシテ。春-秋致_レ ̄シ祭 ̄ヲ。以報_中 ̄セ神-庥_上 ̄ニ。伏 ̄シテ候_二 ̄ス
聖-裁_一 ̄ヲ。謹 ̄テ奏-
聞 ̄ス。
 禮-部謹 ̄テ題 ̄ス。爲_二奏-
聞 ̄ノ事_一。該-《割書:臣|》等議 ̄シ-得。差-囘琉-球-國。翰-林-院檢-討《割書:臣|》海-寶。編-
 修《割書:臣|》徐-葆-光-等奏-稱 ̄ス。《割書:臣|》等奉 ̄シテ
_レ㫖 ̄ニ冊_二-封 ̄シ琉-球-國-王_一 ̄ラ。往_二-返 ̄シテ海-道_一 ̄ニ。闔-船官-兵。以-及 ̄ヒ從-役數-百

 人。無_二 一 ̄モ虧-損_一。皆得_二安-歸_一 ̄ヲ。其 ̄ノ中往-返 ̄ノ之-時。風少 ̄シク不_レ ̄レハ順 ̄ナラ。《割書:臣|》
 等祈_二-禱 ̄スレハ天-妃_一 ̄ニ。卽獲_二安-吉_一 ̄ヲ。自_下前 ̄ニ平_二-定 ̄セン臺-灣_一 ̄ヲ之-時_上。天-妃顯
 _レ靈 ̄ヲ效_レ ̄ス順 ̄ヲ。巳 ̄ニ蒙_二 ̄フル
皇-上加_レ ̄ヘ封 ̄ヲ致_一レ ̄スヿヲ祭 ̄ヲ。今默_二-佑 ̄シ封-舟_一 ̄ヲ。種-種 ̄ノ靈-異 ̄アリ。仰 ̄キ-祈 ̄ラクハ
特-㤙 ̄ニ許 ̄サレ。着(シメン)_下 地-方 ̄ノ官 ̄ヲシテ。春-秋 ̄ニ致_レ ̄シ祭 ̄ヲ。以報_中 ̄セ神-庥_上 ̄ニ等 ̄ノ語。欽 ̄ンテ惟 ̄ルニ
皇-上德周_二 ̄ク寰-宇_一 ̄ニ。化洽_二 ̄シ海-隅_一 ̄ニ。
詔-命 ̄ノ所_レ經 ̄ル。神-靈恊-應 ̄ス。茲 ̄ニ以
冊_二-封 ̄シ琉-球-國-王_一 ̄ヲ。
特 ̄ニ遣_二 ̄シテ使-臣_一 ̄ヲ。舉_二-行 ̄ス典-禮_一 ̄ヲ。往_二-返 ̄シテ大-海絶-險之-區_一 ̄ニ。官-兵從-役數-
 百-人。皆獲_二安-吉_一 ̄ヲ。固 ̄ヨリ由_二 ̄ル天-妃顯_一レ ̄スニ靈 ̄ヲ。實 ̄ニ皆我 ̄カ
皇-上 ̄ノ懷-柔。百-神海-若。效_レ ̄スノ順 ̄ヲ所_レ致 ̄ス也。查 ̄スルニ康-熙十-九-年。《割書:臣|》部
 議得。將_二 ̄テ天-妃_一 ̄ヲ封 ̄シテ爲_二䕶-國庇-民妙-靈昭-應弘-仁普-濟天-
 妃_一 ̄ト。遣_レ ̄テ官 ̄ヲ致_レ ̄ス祭 ̄ヲ等。因 ̄テ具-題 ̄シテ。奉 ̄シ
_レ㫖 ̄ヲ依_レ ̄ル議 ̄ニ。欽-遵在_レ案 ̄ニ。今天-妃默_二-佑 ̄シ封-舟_一 ̄ヲ。種-種靈-異 ̄アリ。應_レ ̄シ令_下 ̄ム該-
 地-方 ̄ノ官 ̄ヲシテ。春-秋致_レ ̄シ祭 ̄ヲ。編 ̄テ入_中 ̄レ祀-典_上 ̄ニ。候_二 ̄シテ
命-下 ̄ル之-日_一 ̄ヲ行 ̄シ。令_二 ̄ンヿ該-督撫 ̄ヲシテ遵-行_一 ̄セ可 ̄ナリ也。《割書:臣|》等未_二敢 ̄テ擅_一 ̄ニセ。便 ̄チ
 謹 ̄テ題 ̄シテ請 ̄フ
_レ㫖 ̄ヲ等。因 ̄テ康-熙五-十-九-年。八-月初-三-日題 ̄シ。本-月初-六-日。奉 ̄シ

㫖 ̄ヲ依_レ ̄ル議 ̄ニ。
 《割書:臣|》葆-光按 ̄スルニ。元-史 ̄ノ志 ̄ニ云。至-元-中以_下䕶_二 ̄シテ海-運_一 ̄ヲ有_中 ̄ルヲ奇-應_上。加_二-
 封 ̄シ天-妃_一 ̄ニ。神-號積 ̄ヲ至_二 ̄ル十-字_一 ̄ニ。廟 ̄ヲ曰_二靈-慈_一 ̄ト。直-沽平-江周-涇
 泉-福興-化等 ̄ノ處。皆有_レ廟。皇-慶以-來。歲 ̄ニ遣_レ ̄シ使 ̄ヲ賫_レ ̄テ香 ̄ヲ遍 ̄ク
 祭 ̄ル。金-幡一-合。銀-一-錠。付_二 ̄シ平-江-官 ̄ノ漕-司。及本-府 ̄ノ官_一 ̄ニ。用_二
 柔-毛酒-醴_一 ̄ヲ。便-服 ̄ニシテ行_レ ̄フ事 ̄ヲ。祝-文 ̄ニ云。維 ̄レ-年月日。皇-帝特 ̄ニ遣_二 ̄シ
 某 ̄ノ官-等_一 ̄ヲ。致_二 ̄スト祭 ̄ヲ於䕶-國庇-民廣-濟福-惠明-著天-妃_一 ̄ニ。則(サアレハ)
 歲-時之-祭。自_レ元巳 ̄ニ有_レ之矣。前-明嘉-靖-中。冊-使陳-侃
 使 ̄シテ還 ̄リ。乞_三賜_レ ̄テ祭 ̄ヲ以答_二 ̄ンヿヲ神-貺_一 ̄ニ。禮-部議 ̄ス令_三 ̄ント布-政-司 ̄ヲシテ設_二 ̄ケ祭一-
 壇_一 ̄ヲ。報-可 ̄ス。此 ̄レ又特-祭一 ̄タヒ舉-行 ̄スル者也。萬-曆三-年。冊-使蕭-
 崇-業。始 ̄テ請_下秩_二祀 ̄シ海-神_一 ̄ヲ。合_中-舉 ̄センヿヲ祈-報二-祭_上 ̄ヲ。至_レ今 ̄ニ封-舟出 ̄ルニ
 _レ海 ̄ヲ因_レ ̄ル之 ̄ニ。康-熙二-十-二-年。冊-使臣汪-楫還。具_レ ̄シテ疏 ̄ヲ請 ̄フ照_二 ̄シ
 嶽-瀆諸-神_一 ̄ヲ。着(シメント)_三 地-方 ̄ノ官 ̄ヲシテ行_二 ̄ハ春-秋二-祭_一 ̄ヲ。禮-部議 ̄シテ未_二准-行_一 ̄セ。
 今臣-等在_二 ̄テ海-中_一 ̄ニ祈_二 ̄ル神 ̄ノ佑-庇_一 ̄ヲ。竊 ̄ニ-計 ̄ルニ封-號尊-崇巳 ̄ニ極 ̄ル。惟〱
 祀-典有_レ缺 ̄ルヿ。故 ̄ニ專 ̄ラ舉 ̄テ爲_レ詞 ̄ト。神-應昭-格。今果 ̄シテ蒙 ̄リ
_レ恩。特 ̄ニ賜_二 ̄フ允 ̄シ-行_一 ̄フヿヲ。典-禮烜-赫。以答_二 ̄ル神-庥_一 ̄ニ。超_二-越 ̄ス千-古_一 ̄ニ矣。

中山傳信錄卷第一

【裏表紙】

中山伝信録

【表紙】

【白紙】

【白紙】
【所蔵者のメモ書き貼付】

【白紙】

【白紙】

【白紙】

 康熈庚子七月十一日熱河進
呈冊封琉球圗夲副墨
 中山傳信録
 康熙六十年辛丑刊
      二友齋藏板

中山傳信録序
古者輶軒之使必紀土風誌物
冝所以重其俗也况扵萬里之
外蠻夷海㠀之中乎編修澄齋
徐館丈之使琉球也以文章華
國以政事經邦而且儀容端偉
言辤敏妙真可謂使扵四方不
辱君命者矣歸而作中山傳信

録凡若干巻中列中山王圖紀
其宴享以志其崇奉中國之誠
又為之表其世系度其封疆與
其官秩之崇卑廩禄之厚薄又
為之㝎其針路無過用叩針則
無流至葉壁山之患終為之圖
寫土産卉木動植之物必肖其
狀而首則著其揚帆奉使為封
舟圖以見
聖天子威靈呵護出入扵千波
萬水之中經渉魚龍窟穴雖掀
風鼓浪如履平地猗歟壮哉徃
者族父舟次先生奉使時排日
赴宴宴畢即上舩候風今徐君
公事畢閒與其陪臣搜巗剔壑
揮筆賦詩非以是侈其逰眺盖

将歸而著述以為得之傳聞不
如目見者之為真也其國官之
尊者曰紫金大夫時為之者即
舟次先生前使時所請陪臣子
弟入學讀書者也其文辤可觀
與之言娓娓有致今之所述皆
得之其口與其諸臣所言證之
史牒信而有徴嵇含之南方草
木状范成大之桂海虞衡志豈
足羡哉賦皇華者所冝人置一
編者也康熙六十年左春坊左
中允南書房舊直汪士鋐序

中山傳信錄序
 琉球見自隋書其傳甚畧北史唐書宋元諸史因之
 正史而外如杜氏通典集事淵海星槎勝覽蠃蟲錄
 等書所載山川風俗物產皆多舛漏前明洪武五年
 中山王察度始通中朝而明一統志成於天順初百
 年中爲時未久故所載皆仍昔悞幾無一實焉嘉靖
 甲午陳給事侃奉使始有錄歸上於朝其疏云訪其
 山川風俗人物之詳且駁羣書之謬以成紀畧質異
 二卷末載國語國字而今鈔本什存二三矣萬曆中

 再遣使蕭崇業夏子陽皆有錄而前後相襲崇禎六
 年杜三策從客胡靖記尤俚誕 本朝康煕二年兵
 科張學禮使畧雜錄二卷頗詳於昔二十二年檢討
 汪楫譔中山沿革志二卷雜錄五卷典實遠非前比
 然於山川轄屬仍有闕畧風俗制度物產等亦俱未
 備蓋使期促廹摉討倉猝語言文字彼此訛謬是以
 所聞異詞傳焉寡信今《割書:臣|》奉
命爲檢討《割書:臣|》海寳副以往自巳亥六月朔至國候汛踰
 年至庚子二月十六日始行計在中山凡八閱月封
 宴之暇先致語國王求示中山世鑑及山川圖籍又
 時與其大夫之通文字譯詞者遍遊山海間遠近形
 勢皆在目中考其制度禮儀觀風問俗下至一物異
 狀必詢名以得其實見聞互証與之往復去疑存信
 因并海行針道封宴諸儀圖狀并列編爲六卷雖未
 敢自謂一無舛漏以云傳信或庶幾焉且諸史於外
 邦載記大率荒畧今琉球雖隔大海新測晷景與福
 州東西相値僅一千七百里世世受封歲歲來貢與
 内地無異伏觀

禁廷新刊輿圖朝鮮哈密拉藏屬國等圖皆在焉海外
 藩封例得附於其次若仍前誕妄不爲釐正亦何以
 見
聖朝風化之遠與外邦内嚮之久以附職方稱甚盛哉
 故於載筆時尤兢兢致愼云康煕六十年歲在辛丑
 秋八月翰林院編修《割書:臣|》徐葆光謹序

中山傳信錄卷第一
  封舟
  渡海兵役
  更 《割書:針盤 玻璃漏|》
  針路
  前海行日記
  後海行日記
  歷次封舟渡海日期
  風信 《割書:風暴日期|》

  天妃靈應記
  諭祭海神文
  春秋祀典疏

【図】封舟至港圖

中山傳信錄卷第一
 冊封琉球國王副使 賜正一品麟蟒服翰林院編修加二級《割書:臣|》徐葆光纂
  封舟
 從前冊封以造舟爲重事歴考前冊採木各路騷動
 夫役開厰監造縻費官帑奸吏假手爲獘無窮經時
 累歲其事始舉自前明以至
本朝冊封之始其煩費遲久前後一轍也康熙二十一
 年使臣汪楫林麟焻卽取現有二戰艦充之前獘始
 絶至今三十餘年區宇昇平海濱利涉沿海縣鎭巨

 舶多有
冊封命下《割書:臣|》等未到閩前督臣滿保移檄各鎭選大船
 充用豫爲修葺諸具咸備二船取自浙江寧波府屬
 皆民間商舶較徃時封舟大小相埓而費輕辦速前
 此未有也《割書:按宋徐兢奉使高麗神舟二皆勅賜名字|客舟六共八舟明封舟或一或二今二舟》
 一號船使臣共居之二號船載兵役一號船前後四
 艙每艙上下三層下一層塡壓載巨石安頓什物中
 一層使臣居之兩旁名曰麻力截爲兩層左右八間
 以居從役艙口梯兩折始下艙中寬六尺許可橫一
 床高八九尺上穴艙面爲天窓井方三尺許以通明
 雨卽掩之晝黑如夜艙面空其右以行船左邊置爐
 竈數具板閣跨舷外一二尺許前後圈篷作小屋一
 二所日畨居以避艙中暑𤍠水艙水櫃設人主之置
 籖給水人日一甌船尾虚梢爲將臺立旗纛設籐牌
 弓箭兵役吹手居其上將臺下爲神堂供天妃諸水
 神下爲柁樓樓前小艙布針盤夥長柁工及接封使
 臣主針者居之船兩旁大小炮門十二分列左右軍
 噐稱是蓆篷布篷九道艙面橫大木三道設軸轉繚

 以上下之船戸以下共二十二人各有專掌其中最
 趫㨗者名鴉班正副二人登檣瞭望上下如飛兵丁
 皆習行船事每船百人爲之佐一號船千總督之二
 號船守備督之
 一號船長十丈寬二丈八尺深一丈五尺《割書:前明封舟|連尾虛梢》
 《割書:長十七丈寛三丈一尺六寸深一丈三尺三寸嘉靖|中正使陳侃副使高澄等題請定式 嘉靖三十八》
 《割書:年封舟依舊式造長帶虛梢一十五丈寬二丈九尺|七寸深一丈四尺 萬曆七年造封舟帶虚稍一十》
 《割書:四丈寛二丈九尺深一丈四尺 崇禎六年冊使杜|三策從客胡靖記錄封舟長二十丈廣六丈  本》
 《割書:朝康熙二年張學禮記形如梭子長十八丈寛二丈|二尺深二丈三尺 康熙二十二年汪楫記選二鳥》
 《割書:船充用船長一十五丈有奇寛二丈六尺按海防冊|云烽火營鳥船一隻長一十二丈三尺寛二丈五尺》
 《割書:閩安中營鳥船一隻長一十|二丈二尺寛二丈六尺五寸》前後四艙水艙四水櫃
 四水桶十二共受水七百石
 柁長二丈五尺五寸寬七尺九寸西洋造法名夾板
 柁不用勒肚柁以鐵力木爲之名曰鹽柁漬海水中
 愈堅《割書:前明封舟定製鐵力木柁三門每門長三丈五|尺有大䌫繫之由船底兠至船頭謂之勒肚以》
 《割書:櫆藤爲之今二封舟皆取商船充用二號製如鳥船|式用勒肚二條一號船係西洋夾板柁不用勒肚又》
 《割書:不置副柁將出海時與閩中有司爭置副柁本船夥|長林某云船柁西洋造法最堅穩可無用副且柁重》
 《割書:萬觔船中亦無處置之竟|不置副柁與前小異云》

 大桅長九丈二尺圍九尺
 頭桅長七丈二尺圍七尺
 櫓二長四丈寬二尺三寸
 椗大小各二大者長二丈七尺小者長二丈四尺皆
 寬八寸及七寸形如个字皆以鐵力木爲之椗上棕
 索二條長一百托圍一尺五寸《割書:按字書碇錘舟石也|與矴同無椗字今以》
 《割書:木爲之故|俗字從木》
 大桅蓆篷寬五丈二尺長五丈三尺轆轤索三條長
 三十五托圍一尺二寸
 繚母索二條長一十五托圍一尺五寸
 頭桅蓆篷寬二丈二尺長二丈八尺
 大桅頂篷名頭巾頂惟官舶始用之商船不得用長
 五丈四尺寬五丈《割書:徐兢錄云大檣之巓加小帆十|幅謂之野狐帆殆卽頭巾頂也》
 大桅下布篷名篷裙長六尺寬一丈五尺
 頭桅上布篷名頭幞上尖下方三角形長三丈下濶
 二丈八尺
 揷花布篷長四丈八尺寬三丈四尺
 揷花下布篷名揷花褲長六尺寬一丈五尺

 頭緝布篷長四丈五尺寬二丈五尺
 尾送布篷長四丈寬二丈七尺
  共篷九道
 二號船長十一丈八尺寬二丈五尺深一丈二尺
 前後共二十三艙水艙二水櫃四水桶十二受水六
 百石
 柁長三丈四尺寬七尺制同鳥船柁用勒肚二條長
 十五丈從尾左右夾水兠至頭上
 大桅長八丈五尺圍八尺五寸
 頭桅長六丈五尺圍六尺
 櫓四長四丈寬二尺二寸
 椗大小三具
 大桅蓆篷長五丈七尺寬五丈六尺
 頭桅蓆篷長五丈七尺寬五丈六尺
 大桅頭巾頂布篷長五丈寬四丈八尺
 大桅下布篷裙長六尺寬一丈六尺
 揷花布篷長四丈八尺寬三丈二尺
 揷花褲布篷長五丈寬一丈三尺

 頭緝布篷長四丈寬二丈四尺
 尾送布篷長三丈六尺寬二丈五尺
  共篷八道少頭幞布篷一道
 每船船戸以下二十二人
 正夥長主針盤羅經事副夥長經理針房兼主水鋾
 長綆三條候水淺深
 正副舵工二人主柁二號船上兼管勒肚二條
 正副椗二人主椗四門行船時主頭緝布篷
 正副鴉班二人主頭巾頂帆大桅上一條龍旗及大
 旗
 正副杉板工二人主杉板小船行船時主淸風大旗
 及頭帆
 正副繚手二人主大帆及尾送布帆繚母棕繚木索
 等物
 正副値庫二人主大帆揷花天妃大神旗又主裝載
 押工一人主修理槓椇及行船時大桅千觔墜一條
 香公一人主天妃諸水神座前油燈早晩洋中獻紙
 及大帆尾繚

 頭阡一人主大桅繂索大椗索盤絞索大櫓車繩
 二阡二人主大桅繂索副椗索盤絞索大櫓車繩
 三阡一人主大桅繂索三椗索盤絞索車子數根
 正副總餔二人主鍋飯柴米事
   渡海兵役
 正使家人二十名副使家人十五名外海防㕔送使
 副共書辨二名廵捕二名長班四名門子二名皂隷
 八名健步四名轎傘夫二十名引禮通事二員《割書:鄭任|譯憑》
 《割書:西|熊》䕶送守備一員《割書:海壇鎭左營|守備蔡添畧》千總一員《割書:蔡|勇》官兵二
 百名《割書:閩安鎭烽火營海壇鎭|左右中三營各四十名》内科醫生一人外科醫
 生一人道士三名老排一名吹鼓手八名厨子四名
 艦匠二名艌匠四名風帆匠二名索匠二名鐵匠二
 名裁縫二名糊紙匠二名裱褙匠一名糕餅匠一名
 待詔一名《割書:凡兵役隨身行李貨物每人限帶百觔按|歷來封舟過海兵役等皆有壓鈔貨物帶》
 《割書:往市易舊例萬曆七年巳卯冊使長樂謝行人杰有|日東交市記後有恤役一條言自洪武間許過海五》
 《割書:百人行李各百觔與琉人貿易著為條令甲午之役|得萬金五百人各二十金多者三四十金少者亦得》
 《割書:十金八金辛酉之役僅六千金五百人各得十二金|多者二十金少者五六金稍失所望是以巳卯招募》
 《割書:僅得中材應役不能如前之精工也所獲僅三千餘|金人各八金多者十五六金少者三四金大失所望》

 《割書:至捐廩助之始得全禮而歸蓋甲午之役畨舶轉販|者無慮十餘國其利既多故我衆所獲亦豐辛酉之》
 《割書:役畨舶轉販者僅三四國其利既少故我衆所獲亦|減巳卯之役通畨禁弛畨舶不至其利頓絕故我衆》
 《割書:所獲至少勢使然也今康煕二十二年癸亥之役是|時海禁方嚴中國貨物外邦爭欲購致琉球相近諸》
 《割書:島如薩摩洲土噶喇七島等處皆聞風來集其貨易|售閩人沿說至今故充役者衆昇平日久琉球歲來》
 《割書:貿易中國貨物外邦多有此畨封舟到後土噶喇等|畨舶無一至者本國素貧乏貨多不售人役並困法》
 《割書:當禁絕商賈利徒之營求充役者損從减裝一可以|紓小邦物力之艱一可以絕衆役覬覦之想庶幾兩》
 《割書:利俱全|矣乎》

【図】玻璃漏 針盤

  更《割書:定更法|》
 海中船行里數皆以更計或云百里爲一更或云六
 十里爲一更或云分晝夜爲十更今問海舶夥長皆
 云六十里之說爲近

 舊錄云以木柹從船頭投海中人疾趨至梢人柹同
 至謂之合更人行先於柹爲不及更人行後於柹爲
 過更今西洋舶用玻璃漏定更簡而易曉細口大腹
 玻璃瓶兩枚一枚盛沙滿之兩口上下對合通一線
 以過沙懸針盤上沙過盡爲一漏卽倒轉懸之計一
 晝一夜約二十四漏每更船六十里約二漏半有零
 人行先木柹爲不及更者風慢船行緩雖及漏刻尚
 無六十里爲不及更也人行後於柹爲過更者風疾
 船行速當及漏刻巳踰六十里爲過更也

【図】天使館圖

  針路
 琉球在海中本與浙閩地勢東西相値但其中平衍
 無山船行海中全以山爲凖福州往琉球出五虎門
 必取雞籠彭家等山諸山皆偏在南故夏至乘西南
 風叅用辰巽等針袤繞南行以漸折而正東琉球歸
 福州出姑米山必取溫州南杞山山偏在西北故冬
 至乘東北風叅用乾戌等針袤繞北行以漸折而正
 西雖彼此地勢東西相値不能純用卯酉針徑直相
 往來者皆以山爲凖且行船必貴占上風故也

 [指南廣義云]福州往琉球由閩安鎭出五虎門東沙
 外開洋用單《割書:或作|乙》辰針十更取雞籠頭《割書:見山卽從山|北邊過船以》
 《割書:下諸山|皆同》花瓶嶼彭家山用乙卯並單卯針十更取釣
 魚臺用單卯針四更取黃尾嶼用甲寅《割書:或作|卯》針十《割書:或|作》
 《割書:一|》更取赤尾嶼用乙卯針六更取姑米山《割書:琉球西南|方界上鎭》
 《割書:山|》用單卯針取馬齒甲卯及甲寅針收入琉球那霸
 港
  福州五虎門至琉球姑米山共四十更船
 琉球歸福州由那霸港用申針放洋辛酉針一更半
 見姑米山並姑巴甚麻山辛酉針四更辛戌針十二
 更乾戌針四更單申針五更辛酉針十六更見南杞
 山《割書:屬浙江|溫州》坤未針三更取臺山丁未針三更取里麻
 山《割書:一名|霜山》單申針三更收入福州定海所進閩安鎭
  琉球姑米山至福州定海所共五十更船
  前海行日記
 閩有司既治封舟畢工泊于太平港羅星塔五月十
 日壬午賫
詔勅至南臺以小舟至泊船所十五日祭江取水蠲吉

 于二十日壬辰奉
詔勅升舟連日夜風皆從東北來是日轉西南遂于未
 初起椗至怡山院
諭祭於海神
 二十一日癸巳日出西南風日中至管頭出金牌門
 日入未過黃蝦鼻下椗
 二十二日甲午日出丁未風過梅花頭日中丁風帶
 午乘潮出五虎門放洋過官塘尾日入至進士門夜
 至九漏轉丁未風接封陪臣正議大夫陳其湘率其
 國夥長主針用乙辰針三更半
 二十三日乙未日出見東湧在船後約離一更半許
 丁未風用乙卯針二更約離官塘八更半許
 二十四日丙申日出丁午風仍用乙卯針日未中過
 米糠洋《割書:海水碧徹如靛細黃沙如|涎沫連亘水面如米糠》見羣魚拜水日將
 入有大鳥二來集于檣是夜風益利用乙卯針四更
 共計十三更半當見雞籠山花瓶棉花等嶼及彭家
 山皆不見夜用乙卯針四更半共十七更船東北下
 一更半許

 二十五日丁酉日出丁未風輕用單乙針二更乙卯
 針一更半夜至四漏轉正南風用單乙針一更半共
 計二十一更
 二十六日戊戌日出正南風日未中轉丁午逾時丁
 未風微起用單乙針一更日中風靜縋水無底晩晡
 轉丙午風用乙卯針風靜船停不上更日入風微起
 至四漏轉丁午風用乙卯一更至八漏又用單卯二
 更至天明
 二十七日巳亥日出丁午風日未中風靜船停有大
 沙魚二見于船左右日入丁午風起至二漏轉丁風
 用乙辰針二更半天將明應見釣魚臺黃尾赤尾等
 嶼皆不見共用卯針二十七更半船東北下六更許
 二十八日庚子不用接封陪臣主張卯針本船夥長
 林某攺用乙辰針日未中丁未風行二更半鴉班上
 檣見山一點在乙位約去四更餘水面小黑魚點點
 接封陪臣云此出姑米山所見或是姑米而未能定
 日入風轉丁午用辰㢲針二更
 二十九日辛丑日出見東北小山六點陪臣云此非

 姑米乃葉壁山也在國西北始悟用卯針太多船東
 北下若非西北風不能提舟上行至那覇收港也日
 中禱于神忽轉坤申庚風一時又轉子癸陪臣大喜
 乃迴針東南行指一小山云此名讀谷山由此迤轉
 卽入港日入轉丑艮風大熾用丙巳針又用丙午單
 卯針先是四五日前未見山舟浮不動水艙將竭衆
 頗惑禱于神珓示曰二十八日見山初一日到港至
 是六月朔壬寅日未出遂入港行海中凡七晝八夜
 云《割書:二號船|港針簿》
  《割書:臣|》葆光按琉球針路其大夫所主者皆本于指南
  廣義其失在用卯針太多每有落北之患前使汪
  楫記云封舟多有飄過山北巳復引囘稽諸使錄
  十人而九《割書:明嘉靖十一年陳侃記舟至葉壁山小|舟四十牽挽八日始至那覇 嘉靖三》
  《割書:十七年郭汝霖記巳至姑米山頭目云得一日夜|之力卽未遽登岸可保不下葉壁山矣可見下葉》
  《割書:壁卽琉人亦以爲戒 萬曆四年蕭崇業記六月|初一日過葉壁山薄山下由此陸路至國兩日程》
  《割書:挽舟初五日始泊那覇 康熙二年張學禮記舟|抵琉球北山與日本交界北風引舟南行始逹那》
  《割書:覇|》封舟不至落北者惟前明冊使夏子陽及 本
  朝汪楫二人考夏錄則云梅花所開洋過白犬嶼

  又取東沙嶼丁上風用辰㢲針八更船取小琉球
  山未上風乙卯針二更取雞籠申酉上風用甲卯
  針四更船取彭家山亥上風用乙卯針三更船未
  上風用乙卯針三更船取花瓶嶼丁未上風用乙
  卯針四更船取釣魚嶼丙午上風用乙卯針四更
  船取黃尾嶼丙上風用乙卯針七更船丁上風用
  辰㢲針一更取姑米山又辰㢲針六更船取土那
  奇翁居里二山《割書:今譯爲度那奇安根呢|山二山在馬齒山之西》又辰㢲一
  更取馬齒山到港汪錄則云《割書:本錄不載見|洋舶針簿内》乙辰八
  更取雞籠頭用辰多辰㢲三更取梅花嶼單卯十
  更取釣魚臺北邊過乙辰四更取黃尾嶼《割書:得力在|此四更》
  《割書:船身提上巳見黃尾嶼下用甲卯|針取姑米定是正西風利故也》甲卯十更取姑
  米山乙卯七更取馬齒山甲寅并甲卯取那覇港
  蓋自雞籠山東行釣魚嶼赤尾嶼以至姑米山諸
  山皆在南借爲標準俱從山北邊過船見山則針
  正應見不見則針巳下漸東北行必至見葉壁山
  矣要其病皆由于用卯針太多又不能相風用針
  夫西南風固皆爲順而或自午或自丁或自未與

  坤者方位又各不同今指南廣義所錄則專言針
  混言風又多用卯針故往往落北不見姑米而見
  葉壁也後人或不見山不可信接封者主張卯針
  當深翫夏汪二錄酌風叅用辰㢲等針將船身提
  上則保不下葉壁矣
  後海行日記
 二月十六日癸丑巳刻封舟自琉球那霸開洋用小
 船百餘引出港口琉球官民夾岸送者數千人小船
 堅旗夾船左右送者數百槳是日晴明南風送颿用
 乾亥針一更半單乾針四更過馬齒安根呢度那奇
 等山海水滄黑色日入見姑米山二點離二更半許
 夜轉丁未西南風十三漏轉坤未風用乾戌三更半
 風有力頭巾頂索連斷三次
 十七日甲寅日出龍二見于船左右水沸立二三丈
 轉西北風用單子針一更日入至十四漏轉坤未風
 用乾戌一更夜見月至明
 十八日乙卯日出用單乾乾戌四更日入至十四漏
 西南風有力用乾戌四更半夜見月至明

 十九日丙辰日出轉辛酉西風帶南風不定用單庚
 一更日中轉壬子癸風用單酉針至日入轉子癸又
 轉丑癸用單戌三更半夜見月至明
 二十日丁巳日出轉艮寅東北順風日中轉甲卯用
 辛戌四更日入轉乙辰風大雨船共行二十六更半
 是日海水見綠色夜過溝祭海神轉㢲巳風用辛酉
 三更半至明
 二十一日戌午日出大霧正南風轉西南又轉西北
 風不定船行緩不上更縋水四十八托有鳥來集于
 檣轉子癸風至十三漏轉東北大順風用庚申二更
 至明
 二十二日巳未日出東北風晴大寒用庚酉申四更
 半日入有燕二來集檣上至十一漏轉乙卯風縋水
 四十托用庚酉一更夜雨大霧
 二十三日庚申日出霧大雨無風縋水三十二托日
 晡壬亥風起日入轉壬子風夜雨大寒用庚酉二更
 未明見山離一更遠許
 二十四日辛酉日出用單申一更至魚山及鳳尾山

 二山皆屬台州封舟囘閩針路本取溫州南杞山此
 二山又在南杞北五百里船身太開北行離南杞八
 更遠許日晡轉北風用丁未針三更日入舟至鳳尾
 山風止下椗
 二十五日壬戌無風舟泊鳳尾山夜雨有數小船來
 伺警至明
 二十六日癸亥日出東北風起椗行大雷雨有旋風
 轉篷日晡轉壬亥風用單未坤未三更日入風微用
 單未一更見南杞離一更許
 二十七日甲子日出晴見盤山至溫州東北順風用
 坤申庚四更縋水十四托離北關一更許日入用坤
 申庚一更至臺山下椗夜十八漏又起椗至明見南
 北關二號船先一日過南關
 二十八日乙丑東北風無力船泊七星山縋水九托
 夜至五漏颶作椗走用乙辰針行七漏加副椗泊船
 二十九日丙寅日出至霜山東北風用申庚酉針日
 晡與二號船齊至定海所琉球謝
㤙船先一日到相次泊

  三十日丁卯東北風乘潮三船雁次進五虎門日中
 至怡山院
諭祭于海神行海中凡十四晝夜云
  《割書:臣|》葆光按冊封之役有記錄者自前明嘉靖中陳
  侃始至康熙二十一年汪楫等凡七次封舟囘閩
  折桅漂柁危險備至披閲之次每爲動心今奉
皇上威靈海神效順踰年行役幸避冬汛之危半月漂
  浮絶少過船之浪桅柁無副竟免摧傷偶有風暴
  隨禱立止上下數百人安行而囘遠勝疇昔額手
  慶幸胥戴
皇㤙至于顚仆嘔逆小小困頓海舶之常何足云也
  歷次封舟渡海日期
 嘉靖十三年甲午陳侃使錄海行十八日至琉球《割書:五|月》
 《割書:初八日出海二十|五日至那霸港》七日囘福州《割書:九月二十日出那霸|二十八日至定海所》
 嘉靖四十一年壬戌郭汝霖使錄海行十一日至琉
 球《割書:五月二十二日出海閏|五月初九日至那霸港》十一日囘福州《割書:十月十八|日出那霸》
 《割書:二十九日|至五虎門》
 萬曆八年庚辰蕭崇業使錄海行十四日至琉球《割書:五|月》

 《割書:二十二日出海六|月初五日至那霸》九日囘福州《割書:十月二十四日出海|十一月初二日到定》
 《割書:海|所》
 萬曆三十三年乙巳夏子陽使錄八日至琉球《割書:五月|二十》
 《割書:四日出海六月|初一日至那霸》十一日囘福州《割書:十月二十一日出海|十一月初一日到五》
 《割書:虎|門》
 崇禎六年癸酉杜三策《割書:從客胡|靖錄》九日至琉球《割書:六月初|四日出》
 《割書:海八日過|姑米山》十一日囘福州《割書:十一月初九日出海|十九日到五虎門》
 康熙二年癸卯張學禮使錄十九日至琉球《割書:六月初|七日出》
 《割書:海二十五|日到那霸》十一日囘福州《割書:十一月十四出海二|十四日至五虎門》
 康熙二十二年癸亥汪楫使錄三日至琉球《割書:六月二|十三日》
 《割書:出海二十六|日到那霸》十一日囘福州《割書:十一月二十四日出海|十二月初四日至定海》
 《割書:所|》
  《割書:臣|》葆光按封舟以夏至後乘西南風往琉球以冬
  至後乘東北風囘福州此言其槪也南風和緩北
  風凛冽故歸程尤難非但内外水勢有順逆也嘉
  萬封舟囘閩率先冬至在九十月中朔風猶未勁
  歸帆最宜十一月十二月冬至前後則風勢日勁
  浪必從船上過矣若正月則風颶最多且應期不

  爽萬無行舟之理二月中則多霧龍出海矣然春
  風和緩茲役親驗之浪無從船上過者殆遠勝於
  冬至前後也海船老夥長言十月二十日後東風
  送順爲吉葆光在琉球無日不占風所向歷考數
  月内風自東來不間斷者惟十月二十日後十一
  月初五日前半月中爲然因考陳侃以來惟蕭崇
  業之歸閩較爲安吉其出海日期乃十月二十四
  日爲不誣也附此以告後來者
  風信
 淸明後地氣自南而北則南風爲常霜降後地氣自
 北而南則北風爲常若反其常則颱颶將作 風大
 而烈者爲颶又甚者爲颱颶常驟發颱則有漸颶或
 瞬發焂止颱則連日夜或數日不止大約正二三四
 月爲颶五六七八月爲颱九月則北風初烈或至連
 月俗稱九降風間或有颱則驟至如春颱船在洋中
 遇颶猶可爲遇颱不可當矣 十月以後北風常作
 然颱颶無定期舟人視風隙以往來五六七八月應
 屬南風颱將發則北風先至轉而東南又轉而南又

 轉而西南 颱颶始至多帶雨九降風則無雨 五
 六七月間風雨俱至舟人視天色有點黑則收帆嚴
 舵以待之瞬息間風雨驟至隨刻卽止若豫備少遲
 則收帆不及或至傾覆 天邊有斷虹亦颱將至雲
 片如帆者曰破帆稍及半天如鱟尾者曰屈鱟出北
 方者甚於他方 海水驟變水面多穢如米糠海蛇
 浮遊水面亦颱將至
  風暴日期
 正月初四日《割書:接神|颶》初九日《割書:玉皇颶此日有颶後颶皆|驗否則後亦多不驗者》
 十三日《割書:關帝|颶》二十九日《割書:烏颶又|龍神會》
  又正月初三日初八日十一日二十五日月晦日
  皆龍會日主風
 二月初二日《割書:白鬚|颶》初七日《割書:春明|暴》二十一日《割書:觀音|暴》二十
 九日《割書:龍神朝|上帝》
  又二月初三日初九日十二日皆龍神朝上帝之
  日
 三月初三日《割書:上帝颶又|名眞武暴》初七日《割書:閻王|暴》十五日《割書:眞人颶|又名眞》
 《割書:君|暴》二十三日《割書:天妃誕媽祖颶眞人|颶多風媽祖颶多雨》二十八日《割書:諸神朝|上帝》

  又三月初三日初七日二十七日皆龍神朝星辰
  之日
 四月初一日《割書:白龍|暴》初八日《割書:佛子颶又|名太子暴》二十三日《割書:大保|暴》
 二十五日《割書:龍神大|白暴》
  又四月初八日十二日十七日皆龍會太白之日
 五月初五日《割書:係大颶名|屈原颶》十三日《割書:關帝|颶》二十一日《割書:龍母|暴》
  又五月初五日十一日二十九日皆天帝龍王朝
  玉皇之日
 六月十二日《割書:彭祖|颶》十八日《割書:彭祖|婆颶》二十四日《割書:雷公誕此|暴最准名》
 《割書:爲洗炊籠颶自十二日起至|二十四日止皆係大颶之旬》
  又六月初九日二十七日皆地神龍王朝玉皇之
  日
 七月初八日《割書:神煞|交會》十五日《割書:鬼|颶》
  又七月初七日初九日十五日二十七日皆神煞
  交會之日
 八月初一日《割書:竈君|颶》初五日《割書:係大|颶旬》十四日《割書:伽藍|暴》十五日
 《割書:魁星|颶》二十一日《割書:龍神|大會》
  又八月初三日初八日二十七日皆龍王大會之

  日
 九月初九日《割書:重陽|暴》十六日《割書:張良|颶》十九日《割書:觀音|颶》二十七
 日《割書:冷風|暴》
  又九月十一日十五日十九日皆龍神朝玉帝之
  日
 十月初五日《割書:風信|暴》初十日《割書:水仙|王颶》二十日《割書:東嶽|朝天》二十六
 日《割書:翁爹|颶》
  又十月初八日十五日二十七日皆東府君朝玉
  皇之日
 十一月十四日《割書:水伯|暴》二十七日《割書:普安|颶》二十九日《割書:西嶽|朝天》
 十二月二十四日《割書:送神颶又|名掃塵風》
 凡遇風暴日期不在本日則在前後三日之中又箕
 壁翼軫四宿亦主起風皆當謹避之
  風信考以下至此皆指南廣義所載或採禁忌方
  書或出海師柁工所記其語不盡雅馴而參攷多
  驗今附此以告後來者

【図】天妃靈應圖

  天妃靈應記
 天妃莆田湄洲嶼林氏女也《割書:張學禮記云天妃蔡|氏女猴嶼人非是》父
 名愿《割書:字曰惟愨母王氏|一云林孚第六女》宋初官都巡檢妃生而神靈
 少與群女照井有神捧銅符出以授妃群女奔駭自
 是屢著神異常乘片蓆渡海人咸稱爲通賢靈女一
 日方織忽據機瞑坐顔色變異母蹴起問之寤而泣
 曰父無恙兄歿矣有頃信至父與兄渡海舟覆若有
 挾之者父得不溺兄以柁摧遂堕海死雍熙四年昇
 化于湄州嶼《割書:張學禮記云救父投海身亡非是一云|妃生于建隆元年庚申三月二十三日》

 《割書:一云妃生於哲宗元祐八年一云生于甲申之歲按|妃于宋太宗雍熙四年九月初九日昇化室處二十》
 《割書:八歲則當以建隆元年一說|爲是生彌月不啼名日黙》時顯靈應或示夢或示
 神燈海舟獲庇無數土人相率祀之宋徽宗宣和五
 年給事中路允廸使高麗八舟溺其七獨允廸舟見
 神朱衣坐桅上遂安歸聞于朝賜廟額曰順濟高宗
 紹興二十六年始封靈惠夫人賜廟額曰靈應三十
 年海冦至江口神見風濤中冦潰就獲泉州上其事
 封靈惠昭應夫人孝宗乾道二年興化疫神降于白
 湖去潮丈許得甘泉飮者立愈又海冦至霧迷其道
 至廟前就擒封靈惠昭應崇福夫人淳熙十一年助
 廵檢姜特立捕溫台冦封靈惠昭應崇福善利夫人
 《割書:汪錄作靈慈昭應崇善福利夫人靈慈乃廟號凡封|皆原靈惠始封之號當作靈惠崇福先封後加善利》
 《割書:二字乃言爲善人利之|意以上封夫人凡四封》光宗紹熙三年以救疫旱功
 特封靈惠妃寧宗慶元四年以救潦封靈惠助順妃
 嘉定元年平大奚冦以霧助擒賊金人犯淮甸戰花
 靨鎭神助戰及戰紫金山又見神像再㨗三戰遂解
 合肥之圍封靈惠助順顯衛妃嘉定十年救旱獲海
 冦加靈惠助順顯衛英烈妃嘉熙三年錢塘潮决至

 艮山祠若有限而退封靈惠助順嘉應英烈妃寶祐
 二年救旱封助順嘉應英烈協正妃三年又封靈惠
 助順嘉應慈濟妃四年封靈惠協正嘉應慈濟妃是
 歲浙江隄成封靈惠協正嘉應善慶妃五年敎授王
 里請于朝封妃父積慶侯母顯慶夫人女兄以及神
 佐皆有錫命景定三年反風膠海冦舟就擒封靈惠
 顯濟嘉應善慶妃《割書:宋封夫人四加封|妃十凡十四封》元世祖至元十
 八年以海運得神佑封䕶國明著天妃《割書:封天妃|之始》又進
 顯佑成宗大德三年以漕運效靈封輔聖庇民明著
 天妃仁宗加封䕶國庇民廣濟明著天妃文宗天曆
 二年加封靈感助順福惠徽烈《割書:共二|十字》廟額靈慈《割書:元晋|封天》
 《割書:妃凡五|加封》皆以海運危險歷見顯應故也明太祖封昭
 孝純正孚濟感應聖妃成祖永樂七年封䕶國庇民
 妙靈昭應弘仁普濟天妃《割書:至今皆仍|此封號》自後遣官致祭
 歲以爲常莊烈帝封天仙聖母靑靈普化碧霞元君
 巳又加靑賢普化慈應碧霞元君《割書:明封聖妃一仍攺|封天妃一攺封元》
 《割書:君二凡|四封》
本朝仍永樂七年封號康熙十九年收復臺灣神靈顯

 應福提萬正色上
聞加號致祭神靈昭著于今轉赫凡渡海者必載主舟
 中往年冊封琉球
諭祭兩行夏祈冬報皆預撰文使臣昭告皆獲安全蓋
聖德所感神應尤顯云
  封舟捄濟靈蹟《割書:惟洪煕元年捄濟柴山靈蹟詳顯|聖錄以下無攷今斷自陳侃始》
 嘉靖十三年冊使陳給事侃《割書:陳侃始有記|故自侃始》高行人澄
 舟至姑米山發漏呼禱得塞而濟歸値颶桅檣俱折
 忽有紅光燭舟乃請筊起柁又有蝶雀示象是夕風
 虐冠服禱請立碑風乃弛還請春秋祀典
 嘉靖四十年冊使郭汝霖李際春行至赤嶼無風有
 大魚蕩舟乃施金光明佛并彩舟舁之遂得南風而
 濟及囘閩日颶將發豫有二雀集舟之異須臾颶發
 失柁郭等爲文以告風乃息更置柁又有一鳥集桅
 上不去
 萬曆七年冊使蕭給事崇業謝行人然針路舛錯莫
 知所之且柁葉失去䖍禱之次俄有一燕一蜻蜓飛
 繞船左右遂得易柁舟乃平安

 萬曆三十年冊使夏給事子陽王行人士禎舟過花
 瓶嶼無風而浪禱于神得風順濟歸舟柁索四斷失
 柁者三大桅亦折水面忽現神燈異雀來集東風助
 順
 崇禎元年冊使杜給事三策楊行人掄歸舟颶作折
 柁牙數次勒索皆斷舟中三人共購一奇楠高三尺
 値千金捐刻聖像俄有奇鳥集檣端舟行若飛一夜
 抵閩云
本朝康熙二年冊使張兵科學禮王行人垓歸舶過姑
 米颶作暴雨船傾側危甚桅左右欹側龍骨半折忽
 有火光熒熒霹靂起風雨中截斷仆桅舵旋不止勒
 索皆斷禱神起柁三禱三應易繩下柁時有一鳥綠
 觜紅足若雁鶩集戰臺舟人曰天妃遣來引導也遂
 逹定海
 康熙二十二年冊使汪檢討楫林舎人麟焻歸舟颶
 風三晝夜舟上下傾仄水滿艙中合舟能起者僅十
 六人厨竈漂没人盡餓凍䖍禱天妃許爲請春秋祀
 典桅篐斷而桅不散頂繩斷而篷不落與波上下竟

 保無虞
 今封舟開洋風少偏東禱立正多用卯針船身太下
 幾至落漈遂䖍禱得攺用乙辰針又筊許二十八日
 見山果見葉壁船下六百餘里欲收那霸非西北風
 不能逹禱之立轉一夜抵港 舟囘至鳳尾山旋風
 轉船篷柁俱仄呼神始正至七星山夾山下椗五更
 颶作走椗將抵礁呼神船如少緩始得下椗人皆額
 手曰此皆天妃賜也
  諭祭文《割書:祈報二道|》
 維康熙五十八年歲次巳亥五月癸酉朔越祭日癸
 巳
皇帝遣冊封琉球國正使翰林院檢討海寶副使翰林
 院編修徐葆光致祭于
 神曰惟神顯異風濤效靈瀛海扶危脫險每著神功
 捍患禦災允符祀典茲因冊封殊域取道重溟爰命
 使臣㓗將禋祀尚其默佑津途安流利涉克將成命
 惟神之休謹告
 維康熙五十九年歲次庚子二月戊戌朔越祭日丁

 卯
皇帝遣冊封琉球國正使翰林院檢討海寶副使翰林
 院編修徐葆光致祭于
海神曰惟神誕昭靈貺陰翊昌圖引使節以遄征越洪
 波而利濟殊邦往復成事無愆克暢國威實惟神佑
 聿申昭報重薦苾芬神其鍳歆永有光烈謹告
  春秋祀典䟽
 差囘琉球國翰林院檢討《割書:臣|》海寶編修《割書:臣|》徐葆光等
 謹
奏爲奏
聞事《割書:臣|》等於康熙五十七年六月初一日奉
㫖冊封琉球國王十四日於𤍠河面請
聖訓出都至閩於五十八年五月二十日登舟次日至
 怡山院
諭祭天妃二十二日從五虎門放洋西南順風行八日
 六月初一日登岸二十七日行
諭祭禮七月二十六日行
冊封禮諸宴禮以次舉行十二月二十六日登舟候汛

 本年二月十六日乘東北順風行半月三十日始扺
 福州五虎門《割書:臣|》等往返海道畧危險皆
皇上德邁千古
福與天齊《割書:臣|》等奉
命經行絶遠之處神靈效順《割書:臣|》等闔船官兵以及從役
 數百人無一虧損皆得安歸《割書:臣|》等不勝欣幸卽琉球
 國屬倂福省官民人等俱稱奇致頌以爲皆我
皇上德遍海隅之所致也其中往返之時風少不順《割書:臣|》
 等祈禱天妃卽獲安吉自前平定臺灣之時天妃顯
 靈效順巳蒙
皇上加封致祭今默佑封舟種種靈異如此仰祈
特㤙許着該地方官春秋致祭以報神庥伏候
聖裁謹奏

 禮部謹題爲奏
聞事該《割書:臣|》等議得差囘琉球國翰林院檢討《割書:臣|》海寶編
 修《割書:臣|》徐葆光等奏稱《割書:臣|》等奉
㫖冊封琉球國王往返海道闔船官兵以及從役數百

 人無一虧損皆得安歸其中往返之時風少不順《割書:臣|》
 等祈禱天妃卽獲安吉自前平定臺灣之時天妃顯
 靈效順巳蒙
皇上加封致祭今默佑封舟種種靈異仰祈
特㤙許着地方官春秋致祭以報神庥等語欽惟
皇上德周寰宇化洽海隅
詔命所經神靈恊應茲以
冊封琉球國王
特遣使臣舉行典禮往返大海絶險之區官兵從役數
 百人皆獲安吉固由天妃顯靈實皆我
皇上懷柔百神海若效順所致也查康熙十九年《割書:臣|》部
 議得將天妃封爲䕶國庇民妙靈昭應弘仁普濟天
 妃遣官致祭等因具題奉
㫖依議欽遵在案今天妃默佑封舟種種靈異應令該
 地方官春秋致祭編入祀典候
命下之日行令該督撫遵行可也《割書:臣|》等未敢擅便
 謹題請
㫖等因康熙五十九年八月初三日題本月初六日奉

㫖依議
 《割書:臣|》葆光按元史志云至元中以䕶海運有奇應加
 封天妃神號積至十字廟曰靈慈直沽平江周涇
 泉福興化等處皆有廟皇慶以來歲遣使賫香遍
 祭金幡一合銀一錠付平江官漕司及本府官用
 柔毛酒醴便服行事祝文云維年月日皇帝特遣
 某官等致祭於䕶國庇民廣濟福惠明著天妃則
 歲時之祭自元巳有之矣前明嘉靖中冊使陳侃
 使還乞賜祭以答神貺禮部議令布政司設祭一
 壇報可此又特祭一舉行者也萬曆三年冊使蕭
 崇業始請秩祀海神合舉祈報二祭至今封舟出
 海因之康熙二十二年冊使臣汪楫還具疏請照
 嶽瀆諸神着地方官行春秋二祭禮部議未准行
 今臣等在海中祈神佑庇竊計封號尊崇巳極惟
 祀典有欫故專舉爲詞神應昭格今果蒙
恩特賜允行典禮烜赫以答神庥超越千古矣

【白紙】

【白紙】

【白紙】

【裏表紙】

琉球人行列記

【表紙左上角に文字?】

【両丁白紙但し右上角近くと左上角近くに文字?】

【右丁文字無し】
【左丁表紙?】
《割書:御■■■■絵入|天保三年来朝》琉球人 行列記

【右丁文字無し】
【左丁】
     序 【蔵書印】
古の書(ふみ)に留求(るく)とかき哥にうるまのしまと
よめる皆今の琉(りう)球(きう)国のことなり其国初
天孫(てんそん) 氏(し)ひらけて八郎 御曹司(ごぞうし)《割書:為|朝》の御 裔(すへ)
なるかうへは我(わか)皇(み) 国(くに)の属国(ぞくこく)なることいふも
更なるをかの朝鮮(てうせん)台湾(たいわん)の界をく南海
はるかにあら汐の八 百(を) 重(へ) 隔(へだて)たれは船の行へさへ

【右丁】
たやすからす其うへ中頃より唐土の方へ
かよひ馴つゝやかて其国の制にさへならひて
冠服(くわんふく)なども其国風にしたかひたれはいよ〳〵
さるかたに見なされてかの紅毛(をらんだ)伊芸理須(いぎりす)
なといふらむあらぬ境のものゝ類(たぐい)とさへは人
みなおもふなるへし扨此国人来朝の
【左丁】
ことは古(ふるく) 続(しよく)日本(につほん)記(き)にもみえたれど其後 暫(しはら)くは
来らさりしにや何の書にも見へさめるを
後(ご)光明(くわうめう)天皇(てんわう)の御宇慶安二年に再(ふたゝ)ひ来朝
せしより已来毎度に及へり此たび亦 国王(こくわう)
即位(そくい)恩謝(おんしや)のため正副(せいふく)二人の使を奉る事
あるにつき行粧(ぎようそう)の梗概(かうがい)をしるし梓に

【右丁】
ゑりて広く四方の人にも見せ歩(あゆみ)にくる
しまん老小の目をも歓(よろこば)しめんとす抑この
行粧の図来朝のたびことに刊行すといへ
とも皆利を射るのみの業にして正しく
其さまを見ん便となるへきものなし
いま上来(しようほう)【?】するはさる類(たくい)にあらす親(した)しく
【左丁】
聞まさしく見て写しいたす所にし
あれは眼前(まのあたり)みたらんにもをさ〳〵違ふこと
有へからす穴賢
 天保三年壬辰八月
              無名氏
                しるす

【右丁】
行粧の見物(みもの)は琉王 楽童(がくどう)子(じ)その外一体ことなる風儀めつら
しき衣服楽闍の音声を要とす文化三寅としの
来朝ゟ当辰としまて此七年目の来朝にてまた
いつのまに行粧をみんもはかりかたく実に近代の
粧観なりよつて此本を持したらんには一時行列のみみたらん
人にはなか〳〵まさるへくはた見し人のもたらんにはいよ〳〵
其くわしきにいたるへきものなり
一行列は海陸数百里の道中ゆへ少しつゝの増減前後あり
このほんやんことなき手筋をもつてくわしく
相たゝし本格の行列をしるす
【左丁】
薩州川御座御船
【御座船の絵】
北外諸大名
御馳走に川御座船
いづる今略是
【御座船の下】



【これより下段は上段記述に相当する絵】
【右丁上部】
   来朝之次第
慶安二年九月    来朝
承応二年九月    同
寛文十一年七月   同
天和元年十一月   同
正徳四年十一月   同
享保三年八月    同
寛延元年十一月   同
宝暦二年十月    同
明和元年九月    同
寛政二年十一月   同
寬政八年十月    同
文化三年十月    同
 慶安二年ヨリ
 天保三年マテ
   百八十四年ニナル
【左丁上部】
行列之次第
先はらひ
警固(けいご)
弓(ゆみ)
旗竿(はたさお)


【右丁】
長(なが)柄(ゑ)
【左丁】
道(どう)具(ぐ)
奉(ぶ)行(ぎやう)
  騎馬(きば)

【右丁】
先馬(さきむま)
具足(ぐそく)
【左丁】
弓(ゆみ)
対箱(ついはこ)
対鎗(ついやり)

【右丁】
中(なか)鑓(どうぐ)
立傘(たてがさ)
台傘(だいがさ)
徒士(かち)
【左丁】
刀(かたな)筒(つゝ)
長刀(なぎなた)
小(こ)性(しやう)

【右丁】
御(ご)家老(かろう)
島津但馬殿
 御高三万八千石
【左丁】
鎗(やり)
対箱(ついはこ)
茶弁当(ちやべんとう)

【右丁】
引馬(ひきむま)
押(おさへ)
【左丁】
楽(がつ)器(き)箱(はこ)
  但し金泥にて
  楽闍の二字あり

書簡箱(しよかんはこ)
  但し地黒《割書:ニ|》白字の
  織ものなり
【下段絵中の文字】
楽器
書簡
書簡

 鞭(むち)【左傍記「へゑん」】
但せいはい棒のこと也大竹
長《割書:サ|》一丈ばかりすへの方
ニツ割半より持所迄丸く
惣朱ぬり《割書:ニ|》したる物なり

牌(はい)   二行
板朱ぬりもんし金
泥(でい)なり

張籏(はりはた)【左傍記「ちゃんきい」】
【絵中の文字】
謝恩使
中山王府
金鼓
金鼓
【左丁】
銅鑼(とら)【左傍記「とんらう」】両班(どぢやくじゆう)
嗩吶(ひちりき)【左傍記「つをる」】   二行
唎叭(ちやるめろ)銅角【左傍記「とんしゑ」】
鼓(たいこ)   二行

【皷は鼓の異字体】

【右丁】
虎(とらの)旗(はた)【左傍記「なうき」】

三(さん)司(す)宦(くわん)
 但国王よりの書翰を
 所持するものなりかの国
 にて三公のその一なり

冷(れん)傘(さん)
 但ひぢりめんにて二重
 にかざる
【左丁】
龍(るき)刀(なた)【左傍記「ろんとう」】
 いはゆる青龍(せいりう)刀の
 ことなり
正使
 使賛(しさん)
  與儀(よぎ)覇(は)親雲上(ばいきん)【注】
  玉(たま) 城(ぐすく)  親雲上(ばいきん)
     跟伴(こんはん)数人
      供人の事也
【注:親雲上(ペーチン、または、ペークミー)は、琉球王国の士族の称号の一つ。 主に中級士族に相当する者の称号である
(Wikipedia)】



【右丁】
   轎(きやう)

正使 豊見(とみ)城(ぐすく)王子(わうじ)
  但シ唐(から)の衣(い)冠(くわん)ナリ
     跟伴
     数十人
立傘(りうさん)
 但しさきを金糸の
 ことくなるものにて
        つゝむ
【左丁】
   鎗【右ふりがな見えず。左傍記「やり」】
正使
 使賛
   譜久(ふく)山(やま)  親雲上(ばいきん)
   読谷山(よんたんさん) 親雲上
   真栄(まゑ)平(ひら) 親雲上

賛議(さんぎ)官(くわん)
   普天間(ふてま)    親雲上
正使附役人
 但琉球の衣冠なり

【両丁上段】

   鎗(つやん)

楽(がく)童子(どうじ)六人

 これ大かたは美
 少年なり十四才より
 十六才迄当御職の
 かきりなき美服を
 着すすへて琉球高
 貴の若とのなり
 雲上の席にて座
 楽をつとむわけて
 音律にくわし皆能
 書にしてかたわら
 詩哥をよくす
【両丁下段絵中の文字】
登(のぼり)川里(かはさと)之子(のし)
譜久村(ふくむら)里之子
濱元(はまもと)里之子
宇地(うち)原(はら)里之子(さとのし)
富永(とみなが)里之子(さとのし)
小録(をろく)里之子(さとのし)
  至而美少年なり

【右丁】
楽師(がくし)
 富山(とみやま)   親雲上
 池城(いけぐすく)  親雲上
 具志川(ぐしかわ)  親雲上
 内間(うちま)    親雲上
 城間(ぐすくま)   親雲上

楽正(がくしやう)
 伊舎堂(いしやどう) 親雲上
 楽人のかしらなり
 琉球の服を着す
【左丁】
 龍刀(ろんとう)
副使(ふくし)
 沢紙(たくし)  親方(をやかた)
  但し唐衣冠なり
副使
 使賛
  歟古田(よこた)  親雲上
  小波蔵(こばろう) 親雲上

【右丁】
 傘(かさ)
 鎗(やり)
議衛(ぎゑ)正(しやう)
  儀間(ぎま)  親雲上
 路次楽奉行也
  右琉球の衣冠也
     跟伴
      数人
【左丁】
掌翰使(しよかんし)
  歟那覇(よなは)  親雲上
   祐筆之事ナリ

賛(さん)渡使(めす)
  宮里(ミヤサト)  親雲上
  瀬名波(セナハ)  親雲上
  徳田(トクタ)   親雲上
  浦嵜(ウラサキ)  親雲上
  許田(キコタ)   親雲上

【右丁】
  佐久川(サクガワ) 親雲上
  比嘉(ヒカ)    親雲上

医師(いし)
  琉球の衣冠ナリ

     跟伴
      数十人
【左丁】
 讃議官従者
 楽正 従者
 正使小性
   美少年也
 供琉人
 路次楽人
此少行列数多あり
といへとも今略之

【両丁上段】
   音楽之次第
太平調(たひひんちやう)  舞人七人
桃花源(とうふあゝゑん)  同上
不老仙(ふうすせん)   同上
楊香(やんひやん)   《割書:明曲|舞人二人》
壽尊翁(ちゆつふんおん)  《割書:清曲|同上》
長生園(ちやんすゑん)   舞人七人

芷蘭香(つうおんひやう)  同上
壽星老(しうすいんらう)  《割書:明曲|同上》
正月(ちんいゑん)   《割書:清曲|同上》
右楽は道中宿々出立の
折または日中行列の中亦
宿着等の節にもなす
事あり舞は席上にての
ことなり路次にてはなし
【両丁下段】
  道中宿駅割
伏見宿   勧修寺村 休
大津宿   守山   休
武佐宿   高宮   休
番場宿   今洲   休
垂井宿   墨俣   休
稲葉宿   宮    休
鳴海宿   大濱   休
御油宿   吉田   休
二川宿   新居   休

舞坂宿   濱森   休
袋井宿   日坂   休
島田宿   岡部   休
府中宿   興津   休
蒲原宿   原    休
三嶋宿   箱根   休
小田原宿  平塚   休
藤沢宿   程ケ谷  休
川崎宿   品川   休
江戸

【右丁上段】
琉球人 凡二百人余
 但上中下官とも印篭
 壱つ宛をさくるなり扇子は
 朝鮮におなし

薩摩御人数上下凡一万人余
人足凡弐千人馬凡八百疋
 其外諸大名方より之
 御馳走人数未知跡より
        出之や
【右丁下段】
 中山王より献上物
 あまた有之今略之

琉球国より江戸まで工程
七百拾壱里余琉球より薩州
鹿児島迄三百余かご嶋より
大坂迄弐百七拾六里余大坂より
江戸まて百三十五里
【左丁上段】
    琉球ことば
一 日(ひ)を   てだがなし
一 月(つき)を   つきがなし
一 火(ひ)を   まつ
一 水(みづ)を   みづ
一 男(をとこ)を   ゑんが
一 女(おなご)を   をなご
一 朝飯(あさめし)を   ねえさる【「ね」と「え」にかけて右に「❘」】
一 昼飯(ひるめし)を   あせ
一 夕飯(ゆうめし)を   ゆうはえ【「は」と「え」にかけて右に「❘」】
一 簪子(かんざし)を   ぎば
【左丁下段】
一 三弦(さみせん)を   さんしろ
一 草履(ぞうり)を   さば
一 下駄(げた)を   あんじや
一いやじやと云事を   ばあ
一かあいそふなと云事を  きもつちや
                げな
一物をほむる時きよらさ【「き」と「よ」にかけて右に「❘」】といふ
 ことばありたとへは美男をき
 よらゑんがといふがごとし
一うそつく人わるい人をへんげもん
             といふ
一遊女をぞりといふ故にゆう里を
 ぞりやまたぞりみせるなど云なり

【右丁】
干時天保三年《割書:辰|》十月来朝
       薩州御出入方
      取次   伏見箱屋町
 御免    判元   丹波屋新左衛門
           同下板橋
            兼春市之丞
           寺町通錦小路上ル
    京都書林    菱屋弥兵衛
【左丁文字無し】

【両丁文字無し】

【裏表紙】
【緑貼紙内白い文字】RYU 090 Tan C.4

大日本分境図成

   凡例
大日本六十餘分圖 ̄ヲ製 ̄ス ト言共小冊 ̄ノ紙靣何 ̄ソ精細密 ̄ニ
至 ̄ルヿ不䏻 ̄ハ其大畧 ̄ヲ成

陸奥《割書:五十|四郡》
出羽《割書:十二郡》
南部
津輕

武藏《割書:二十二郡》 安房《割書:四郡》
上総《割書:十一郡》  下総《割書:十二郡》
常陸《割書:十一郡》  上野《割書:十四郡》
下野《割書:九郡》   伊豆《割書:三郡》
相摸《割書:八郡》

駿河《割書:七郡》 甲斐《割書:四郡》
参河《割書:八郡》 遠江《割書:十四郡》
飛驒《割書:四郡》 信濃《割書:十郡》
美濃   越中《割書:四郡》

大和《割書:十五郡》
伊賀《割書:四郡》
伊勢《割書:十五郡》
志摩《割書:二郡》

紀伊《割書:七郡》
淡路《割書:二郡》

山城《割書:八郡》 尾張《割書:八郡》
若狹《割書:三郡》 近江《割書:十四郡》
美濃《割書:十八郡》

攝津《割書:十三郡》 丹波《割書:六郡》
丹後《割書:五郡》  因幡《割書:七郡》
播磨《割書:十四郡》

美作《割書:七郡》 備前《割書:八郡》
備中《割書:九郡》 備後《割書:十四郡》
出雲《割書:十郡》

伊豫《割書:ツヾキ》
土佐


阿波《割書:九郡》
讃岐《割書:十一郡》

石見《割書:六郡》
安藝《割書:八郡》


伊豫《割書:十四郡》
土佐《割書:七郡》

周防《割書:六郡》
長門《割書:六郡》
豊前《割書:八郡》
豊後《割書:八郡》

筑前《割書:十五郡》
筑後《割書:十郡》
肥後《割書:十四郡》

肥前《割書:十一郡》

壹岐《割書:二郡》

對馬(つしま)《割書:二郡》

大隅《割書:八郡》
日向《割書:五郡》

肥後《割書:ツヾキ》
薩摩《割書:十四郡》

大日本籌海全図

沖縄県管内全図

琉球沿革志

中山世鑑云《割書:傳信錄云此書乃尚質從弟尚象賢字文英者|爲之汪使封尚貞王時此書尚未成也中山開》
《割書:闢以來至舜天始有國字至尚|象賢始窮捜博采集成此書》琉球始祖爲天孫氏其初有
一男一女生於大荒自成夫婦曰阿摩美久生三男二女長
男爲天孫氏國主始也二男爲諸矦始三男爲百姓始長女
曰君君二女曰祝祝爲國守護神一爲天神一爲海神也天
孫氏二十五代姓氏今不可考故畧之起己丑終丙午凡一
萬七千ハ百二年今斷自舜天始

中山世系圖


 〇舜天━舜馬順熙━義本━━━━━━━━━━┓
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗〇英祖━大成━英慈━玉城━西威━━━━┓
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗〇察度━武寧━━━━━━━━━━━━━┓
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗〇恩紹━━尚巴志━尚忠━尚思達━尚金福┓
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗〇尚泰久━尚德━━━━━━━━━━━━┓

下等小学日本地誌略図問答〔巻上〕

琉球人御礼の次第

【製本表紙、文字なし】

【右丁】
琉球人御礼の次第
【左丁】
    月日 【角印「宝玲文庫」】
一従琉球国中山王自分代替に付使者
 読谷山王子差渡に付登
 城

一読谷山御玄関階之上至時大目付二人出向
 案内而殿上間下段着座従者同所次之間
 列居下官之族は御玄関前庭上群居
一松平薩摩守同豊後守登 城殿上間下段
 座上に着座
一出仕之面々各長袴
一中山王書簡大目付二人に而請取之
  読谷山御礼之次第
一大広間 出御 《割書:御長袴|》
  御先立

  御刀
 御上段《割書:御厚畳三畳重以唐織包之|四之角大総付之褥御刀掛》
 御座間
一御簾掛之
一御後座に御側衆御刀之役伺候
一御下段西之方上より三畳目通りより
 松平讃岐守井伊弁二人年寄共順々
 着座
一西之御縁頬之方に畳敷高家雁之間詰四
 品以上列座

一南板縁次に雁之間詰同嫡子御奏者番同
 嫡子番頭芙蓉間御役人列候
一二之間北之方二本目三本目之柱之間
 より御襖障子際東之方に四品以上之
 御譜代大名列候
一二之間に御譜代大名同嫡子三之間に布衣
 以上之御役人法印法服之医師列居
一薩摩守豊後守御次御襖之外際に向
 着座
一読谷山殿上間より大広間え大目付二人

 案内而二之間御譜代大名前え向着座
           松平薩摩守
 右出座御下段御敷居之内に而
 御目見御奏者番披露御中段迄被
 召出之今度琉球 人(ヒ)之使者遠路召連
 大儀に被 思召之段
 上意有之年寄共御取合申上之御次え
 退座
         松平豊後守
 右出座御下段御敷居之内に而

 御目見披露同前退座過而大炊 方(頭)
 召之読谷山
 御前え可差出旨被 仰出之於御次
 御詫之趣薩摩守え大炊頭達之
  但読谷山御礼之内薩摩守豊後守御
  襖内に控罷在
一中山王より所献之品々
 出御以前より南之板縁東西より御目
 通順々並置
  読谷山自分之進物も同事に並置之
一献上之御太刀目録御奏者番持出之

 御中段下より二畳目に置之中山王と披露
 之読谷山王【ママ】出座御下段下より四畳目に而
 奉九拝而退去御太刀目録御奏者番
 引之
一大炊頭 召之読谷山儀遠境相越之儀
 被 思召旨被 仰出之於御次
 御詫之趣薩摩守え大炊頭伝之則読
 谷山え薩摩守達之御請申上其趣
 大炊頭え薩摩守述之
一読谷山重而出席自分之御礼於板縁奉

 三拝御奏者番披露退座大目付二人
 案内而殿上間え同列下段着座薩摩守
 豊後守も殿上間え退去
         松平薩摩守
             家来人
 右於板縁奉拝
 台顔御太刀目録御奏者番披露退去
 畢而御間之襖障子《割書:月番|助》開之御敷居
 際
 立御御譜代大名其外一同
 御目見相済而 入御

一年寄共殿上間え相越向読谷山会釈
 有之則退座其後大目付指図而
 読谷山退出大目付二人御玄関階之
 上迄送先立従者順々退出
   但年寄共之送り無之
一御小性頭御書院番より出人五十人
 御書院番所に勤仕
一大御番より出人百人大広間四之間に
 勤仕

【裏表紙見返し、白紙】

【製本裏表紙、文字なし】

琉球解語


琉球解語《割書:全|》

富岡手暠挍
一立斎広重寫
《題: 琉  球
 解  語》
嘉永三庚戌歳《割書:東都芝神明前| 若林堂梓》


 行列始
薩州《割書:御留守居|御物頭》

儀衛正
 高嶺親雲上

 鞭

 張籏
 銅鑼
 両班
 銅角堂

 喇叭
 嗩吶
 鼓
 虎籏

 牌

掌翰使
 伊野波
  親雲上


涼傘


 《割書:|正使》
 玉川王子

龍刀
 鎗

 牽馬
 沓籠
 翕籠

副使《割書:乗物|》
 野村親方


牽馬
 沓籠
 翕籠

賛議官
 我謝親雲上

楽正
 伊舎堂
  親雲上

楽童子
新城里之子


小録里之子


与那原里之子


宇地原里之子



安谷尾里之子


松堂里之子

正使従者
 渡久地
  親雲上

楽師
譜久山親雲上


国吉親雲上


名幸親雲上


楚南親雲上

正使之使賛
外間親雲上

薩州
 惣押《割書:御家老|御用人》
備鎗 二十本

琉球解語

  目録
        手暠校正
 〇恩謝使略
 〇官位《割書:並|》官服図説
 〇年中行事
 〇板舞之図
 〇元 服  〇剃 髪
 〇器財之説
 〇女市之図説〇嚏を好む
 〇歌舞   〇飾馬之図説
 〇琉球之狂言〇書 法
 〇宗 派  〇耕 作
 〇屏 風《割書:附伊呂波|》

中山伝信録

琉球藩史

【表紙】
【付箋】
を三
二冊

【表題】
《割書:小林居敬編次|青江 秀刪補》 琉球藩史 壹之巻
《割書:米本少藏校正》

【中表紙】
琉球藩㕜

【右頁】
鎭西八郎源爲朝肖像

【左頁】

琉球藩史例言
一文武天皇二年務廣貳文博士等八人兵ヲ率ヰテ南
 島ニ至リ之ヲ慰諭ス明年南島人博士等ニ隨ヒ來
 テ方物ヲ獻ス因テ位ヲ授ケ禄ヲ賜コト差アリ是ヨ
 リ琉球ノ我ニ屬スルヤ久シ應永中將軍足利義滿
 國體ヲ失ヒ大義ヲ誤ルノ時ニ際シ琉球蓋亦其顰
 ニ傚ヒ始メテ朱明ノ冊封ヲ受テ終ニ釐正スルコト
 能ハス世々相襲テ今日ニ至ル故ニ其國史一ニ彼ノ
 正朔ヲ用フ明治壬申 朝延尚泰ヲ以テ琉球藩王
 ニ封スルニ及テ君臣ノ名分始メテ定ル是レ藩史

 ノ作ル所以ナリ
一舜天ヨリ尚泰ニ至ルマテ歷代ノ系譜ヲ記スル諸
 書各々異同アリ或ハ支那ノ冊封ヲ愛サル王ヲ除テ
 三十四世トシ或ハ追王ノ世子ヲ加ヘテ三十五世
 トシ或ハ尚宣威ヲ以テ攝位ノ王トシテ世系ニ數
 ヘス皆吾カ取ラサル所ナリ今其正統ニ因リ定メ
 テ三十六世トス
一琉球察度以來支那ニ職貢ス故ニ其史冊ニ於テ我
 ニ來聘スルノ事跡ヲ秘ス少シク忌惮スル所アル
 ニ似タリ是レ小國ノ勢然ラサルヲ得サルニ因ルカ


 故ニ其國史中我ニ關スル事ヲ書スルモノ甚タ少ナ
 シ今此書ヲ編ムニ及ンテ國史ヲ始トシ德川氏ノ
 家書諸家ノ琉球紀事ヨリ稗官野乘ニ至ルマテ苟
 モ證左トスルニ足ルモノハ盡ク引用ニ供セサル
 ヲ得ス故ニ或ハ謬誤アルヲ恐ルト云ヘトモ此書ヲ
 本㫖疑ハ以テ疑ヲ傳ヘ信ハ以テ信ヲ傳フルニ在
 リ■【看ヵ】者之ヲ諒セヨ
一琉球固ヨリ我國字ヲ用フ而シテ中山世鑑世譜球
 陽等ハ其國人ノ撰スル所ニシテ漢文體ニ傚ヒ雜
 フルニ方言ヲ以テ自家一種ノ文體ヲナス此書多

 クハ彼書ヲ引用ス故ニ鄙野ノ詞アルモ盡ク之ヲ
 竄改セス且我古書琉球ノ事ヲ記スルモノ大抵雅
 俗ヲ混淆シ當時ノ原文ヲ直載スルモノ多キニ居
 ル今亦大抵其眞ヲ存ス是亦稽古ニ供スルノ一端
 ナリ
一予米本子ト共ニ公務ノ餘暇ヲ以テ此書ノ刪補校
 正ニ從事シタルハ随テ起草シ随テ校正シ隨テ付
 梓ス恐クハ間魯魚ノ訛アラン■【看ヵ】者幸ニ諸レヲ諒
 セヨ
              青江 秀 識


琉球藩史引用書目
 日本書記      續日本紀
 延喜式       千載和歌集
 大日本史      本朝通鑑
 續本朝通鑑     本朝通鑑附録
 史徴        大日本野史
 太平記       難太平記
 源平盛衰記     保元平治物語
 平家物語      讀史餘論
 太閤記       太平年表

 武德編年集成       東遷基業記
 榮松武鑑         武德大成記
 武德安氏記        柳營年表秘録
 御當家令條        幕府年中行事歌合
 太政官日誌        西藩野史
 分類諸家系譜       別本分類諸家系譜
 武家大系圖        本朝武林傳
 和漢三才圖繪       寶石類書
 一話一言         崐陽漫録
 昇平通鑑         和漢年契


 五事畧          南浦文集
 乗燭譚          折たく柴の記
 年成録          東海道名所國繪
 親基記          漂客譚記
 薩州風土記        還海外記
 海東諸國記        日本外志
 南島志          琉球聘使記
 琉球紀畧         中山入貢記
 琉球年代記        三國通覽圖說
 硫球人來聘記       琉球新誌

    

 近代月表      中山世鑑
 中山世譜      球陽
 球陽附録      中山雜爼
 琉球國法條     琉球國褒美條例
 琉球國各局事務法度取扱之順序
 琉球國學校之規則  琉球藩職分總計帳
 琉球户籍帳     琉球國各島產物調帳
 琉球及屬島湊津調帳
 琉球藩社祠佛寺舊記祭典式并教法調帳
 太平御覽      隋書


 元史  明史
 中山傳信錄     琉球志畧
 使琉球贈言     琉球國圖
 異本琉球國圖    前賢故實

     源爲朝傳
源爲朝ハ左衛門大尉爲義第八子ナリ猿臂善ク射ル
幼ニ乄【シテ】諸兄ヲ凌犯ス歳十三爲義其朝憲ヲ犯スコトヲ
恐レ之ヲ豐後ニ逐フ爲朝乃チ乳母子 ̄ノ尾張權守家遠
ト與ニ肥後阿蘇ニ行キ大宮司平忠國ノ女ヲ娶リ鎭
西八郎ト稱ス忠國ヲ以テ鄉導トシテ諸城ヲ攻伐ス
屢〻菊池原田ノ諸大姓ト戰フテ之ニ克チ十五歳ニ乄
終ニ盡ク九國ヲ服シ自ヲ九國總追補使ト稱ス香推
宫社人等交〻 京師ニ訴フ久壽元年十一月朝廷太宰府
ニ勅シテ曰ク源爲朝久ク宰府ニ住シ朝憲ヲ忽諸シ
咸ク綸言ニ背ク梟惡頻ニ聞エ狼藉尤モ甚シ早ク其

身ヲ禁進セシムヘシ爲朝勅ヲ奉セス二年四月爲義
之ニ坐シテ官ヲ免ス爲朝聞テ曰 ̄ク家君免黙セラルヽ
吾罪ナリ吾將ニ闕ニ至リ父ニ代テ罪ヲ受 ̄ケ ン途ニ上
ルニ及ンテ士卒從ント願フ者多シ爲朝聽 ̄カ スシテ曰 ̄ク
吾罪アリ京ニ赴ク衆ヲ從ヘハ罪益重カラント獨 ̄リ須
藤家李透間主計、髙間三郎、其弟四郎等廿八人ヲ從ヘ
闕ニ諸テ罪ヲ待ツ保元元年鳥羽法皇崩ス崇德上皇
復祚ヲ圖リ兵ヲ白河殿ニ集ム藤原頼長謀主タリ使
者ヲシテ爲義ヲ召ス爲義辭乄曰臣年七十老テ用ユ
ヘカラス且夢ニ家ニ傳ル所ノ八甲猋風ノ爲ニ飄散


セラル臣心ニ之ヲ惡ム往トモ必利ナカラン臣カ長子
義朝勇ニ乄衆アリト雖トモ既ニ高松殿ノ召ニ應ス餘
子皆碌々共ニ大事ヲ謀ルニ足ラス獨 ̄リ八子爲朝強悍
ニ乄策略アリ幼ヨリ之ヲ西國ニ逐フ頃 ̄ロ過ヲ悔テ京
ニ歸 ̄レ リ君之ヲ用ヰテ可ナラン使者聽 ̄カ 乄曰 ̄ク坐ラ勅
ヲ辭スル禮ニ非ス自 ̄ラ往テ奏狀セヨ爲義止ムコトヲ得
ス其子賴賢賴仲爲宗爲成爲朝爲仲ノ六子ヲ率 ̄ヰ テ白
河殿ニ赴ク上皇大 ̄イ ニ喜テ戰ヲ議ス爲朝爲義ニ從ヒ坐
ス上皇簾內ヨリ爲朝ヲ見ルニ身 ̄ノ長 ̄ケ七尺眼 ̄ニ雙稜アリ
大鎧ヲ着シ大弓ヲ挾ム上皇大ニ之ヲ竒偉ナリトス

【一行目枠上の注記】
禁進ノ字ハ勅
書ニ因ル

爲朝進テ曰ク臣鎭西ニ在リ大戰二十、小戰數十、盡ク九
國ヲ服ス城ヲ攻メ陣ヲ破ル夜戰ニ如クハナシ臣請
ヲ今夜髙松殿ヲ襲ヒ火ヲ其三方ニ放チ一面ヨリ攻
擊セン歒火ヲ避 ̄ク ル者ハ中リ矢ヲ避ル者ハ燒死
セン況ヤ歒將、戰ヲ知ル者ハ獨リ臣カ兄義朝ノミ然レ
トモ臣一矢コレヲ斃サン其餘將士拒ク者ハ臣縱橫合
戰、遠キ者ハ射殺シ近キ者ハ斬殺セン平清盛等ノ如キ
弱弓細矢、臣鎧袖一ヒ觸レハ皆自ラ倒レン此時乘輿
出サルヲ得ス臣其從者ヲ射バ從者乘輿ヲ捨テ奔ラ
シ即チ乘輿ヲ此ニ遷シ陛下ヲカレニ奉戴セン其易キ


コト掌ヲ反スカ如シ天未タ明サルニ大事咸ク成ラン
頼長曰爲朝ノ謀未タ密ナラス夫レ夜戰ハ年少私闘
ノ事ナリ今兩帝國ヲ爭ヒ源平相歒ス當ニ堂々ノ陣
ヲ用ユヘシ南都僧侶千余騎召ニ應シテ旦ニ來ラン
明日ヲ待テ戰フ未タ晩カラスト爲朝出テ罵テ曰 ̄ク和
漢ノ事ヲ按シ朝廷ノ禮節ヲ制スルハ公卿ノ任ナリ
軍旅ニ至テハ冝ク將帥ニ任スヘシ公卿何ヲカ知ラ
ン家兄謀略有リ今夜必來リ襲ン明日ノ僧兵何ノ益
アラン吾謀用 ̄ヰ ラレス命ナルカナ爲義亦謀ヲ獻ス頼
長聽カス乃チ其六子ト八甲ヲ分テ之ヲ擐キ一ヲ義

朝ニ贈ル爲朝軀幹絕大ニ乄服ス可 ̄カ ラス獨リ他甲ヲ
服ス爲朝諸子ヲ從ヘ百騎ヲ以テ西門ヲ守ル爲朝廿
八人ヲ以テ西河原門ヲ守ル既ニシテ義朝清盛等大
軍ヲ率キテ來リ攻ム諜者之ヲ報ス上皇大ニ驚ク爲
朝怒テ曰 ̄ク果シテ吾言ノ如シ賴長爲朝ノ言ヲ用ヰサ
ルヲ悔ヰ或ハ其用ヲ爲サヽルヲ恐レ遽ニ藏人ニ拜
ス爲朝曰 ̄ク歒兵既ニ臨ム冝ク急ニ守禦ノ謀ヲ爲スヘ
シ吾何ソ藏人ヲ用ヰン是ニ於テ義朝大炊御門ヲ攻
ム爲義之ヲ拒ク爲朝賴賢ト先ヲ爭テ闘 ̄ハ ントス爲朝
以爲ク吾嚮ニ兄長ヲ侵凌スルヲ以テ罪ヲ得タリ今


又兄ト先ヲ爭フ是吾罪ヲ重 ̄ス ルナリ乃 ̄チ頼賢ニ謝シテ
曰 ̄ク阿先セヨ若歒勁ニシテ當リ難クハ速ニ吾ニ命
セヨ清盛進テ二條河原ニ東堤ニ至ル其將伊藤景綱
二子伊藤五、伊藤六ト先 ̄ツ進ム爲朝之射テ五ノ胸ヲ
貫キ六ノ袖ニ徹ス清盛大ニ惧レテ退ク其騎山田伊
行憤憿反 ̄リ戰 ̄フ、爲朝又射テ之ヲ斃ス其馬逸シテ義朝ノ
陣ニ入ル鏃リ鞍ヲ穿ツ大サ巨鑒ノ如シ其將鎌田正
清取テ義朝ニ獻シテ曰 ̄ク是必八郎君ノ射ル所ナラン
義朝曰 ̄ク彼年弱冠筋力未タ固カラス何ソ此ノ如キ矢
ヲ放ツヲ得ンヤ詐リ設テ歒ヲ畏スノミ汝往テ試ミ

ヨ正清百騎ヲ從ヘ大 ̄ニ呼テ進ム爲朝曰爾 ̄チ吾家人ナリ
速ニ退キ去レ對テ曰 ̄ク昔ハ主君タレトモ今ハ兇徒ナリ
ト射テ爲朝ノ冑ニ中ツ爲朝大ニ怒リ矢ヲ抜キ罵テ
曰奴輩射ルニ足ラス擒シテ甘心セント叱咤シテ之ヲ
追フ正清辟易シテ走ル爲朝窮追セント欲ス既ニシ
テ以爲ラク家君老テ陣ニ在リ豈之ヲ捨テヽ遠ク歒
ヲ追ハンヤ乃 ̄チ陣ニ反ル正清還テ義朝ニ告テ曰 ̄ク八郎
君兵ヲ用ヰル雷霆ノ如シ臣板東ニ在リ接戰少シト
セス而シテ未タ此ノ如キノ猛烈ヲ見ス義朝曰 ̄ク汝彼
カ名ヲ聞テ畏ルヽノミ吾自 ̄ラ往テ之ヲ試 ̄ミ ント乃 ̄チ須藤


俊通等二百騎ヲ帥テ進ム爲朝返リ戰フ義朝呼 ̄テ曰 ̄ク吾
宜㫖ヲ奉シテ來ル汝輙チ降ラスシテ弓ヲ汝 ̄カ兄ニ彎
クハ何ソヤ爲朝曰 ̄ク大人院宣ヲ受ケテ爲朝等ヲシテ
拒カシム且ツ弓ヲ兄ニ彎クハ父ニ歒 スルニ孰レリヤ
義朝語塞リ衆ヲ麾テ疾進ス爲朝退キ辟ク義朝馬ヲ莊嚴
院門ニ立ツ爲朝望見テ箭ヲ注テ將ニ放タントス既
ニシテ惟ヘラク父此ニ在リ兄彼ニ在リ焉ソ勝敗
互ニ相救護スルノ約アルヲ知ランヤト終ニ舍テヽ
射ズ歒兵頻ニ進ム透間主計、義朝ノ屬士齋藤實盛ト
戰ヲ害セラル髙間三郎四郎亦金子家忠ニ殺サル須

藤家李、家忠ヲ射ントス爲朝之ヲ止メテ曰 ̄ク彼ハ無雙
ノ國士何ソ之ヲ殺 ̄ス ニ忍ン我勝ヲ得バ他日我カ用ト
爲サン歒兵勝ニ乘シテ爭ヒ進ム爲朝家季ニ謂テ曰
歒兵衆シ我兵一ツヲ以テ百ニ當ルト雖トモ遂ニ勝ツ
コト能ハシ吾其元帥ヲ射テ以テ其魄ヲ褫ハン家李曰
誤ルコトナキコトヲ得ンヤ爲朝曰ク弟 ̄タ【?】吾爲ル所ヲ見ヨ
乃 ̄チ射テ義朝ノ冑臍ヲ穿チ門扉ヲ貫ク義朝大ニ驚キ
呼テ曰 ̄ク八郎射未 ̄タ精シトセス爲朝曰 ̄ク能ハサルニ非ス
爲サルノミ如シ許サレハ即チ甲鬲冑題 唯(タヾ)、阿兄ノ命ノ
マヽナラシ乃チ箭ヲ注ク深巢清國進テ義朝ヲ蔽フ


絃ニ應シテ倒ル義朝率ヰル所ノ士盡ク關東ノ驍勇
生兵互ニ進ム爲朝射テ虛箭ナシ歒兵死傷數ヲ知ラ
ス爲朝亦二十三騎ヲ■【喪の異体字】フテ猶且固守ス義朝乃チ火
ヲ上風ニ縦ツ風烈シク火熾ニシテ宮中大ニ亂ル上皇
宮ヲ出ツ爲義諸士ヲ率テ從フ歒追擊ス爲朝屢〻反リ
戰フ歒兵畏レテ敢テ進マス爲朝莊嚴門ヲ過キ箙ニ
一矢ヲ餘マス乃 ̄チ矢ヲ抜キ射テ門柱ヲ穿 ̄ツ テ曰 ̄ク後人ヲ
シテ吾カ筋力ヲ知ラシメント上皇ニ從テ如意山ニ赴
ク上皇親諭シテ之ヲ散遣ス爲義留リ護セント請フ許
サス皆泣ヲ揮テ散ス爲義東國ニ奔ラントス途ニシテ

病ミ簑浦ニ抵ル官軍來リ攻ム諸子戰テ之ヲ卻ケ終
ニ黑谷ニ至リ一寺ニ入テ薙髮シ懇ニ諸子ニ謂テ曰 ̄ク
吾上皇ノ將トシテ官軍ニ歒ス誅ヲ免ルヘカラス然
レトモ義朝ニ因テ降ヲ請ハヽ彼或ハ功ヲ以 ̄テ吾命ヲ贖
ハン吾老タリ惜 ̄ム ニ足 ̄ラ ス惟(タヽ)吾赦サレナハ汝等モ亦命
ヲ免サルヽヲ得ン爲朝諫テ曰不可ナリ夫レ上皇ハ
帝ノ同母ノ兄頼長ハ關白ノ親弟ナリ然トモ聞 ̄ク上皇既
ニ讚岐ニ遷サレ賴長誅死セラルト骨肉ノ恃ムニ足ラ
サルコト此ノ如シ大人病少ク愈エハ速ニ東國ニ赴
キ三浦義明。畠山重能。等ニ倚リ關東ヲ管領セン官軍


來攻メハ兒等力ヲ竭シテ防戰シカ盡テ然後ニ死セ
ン未 ̄タ晚シトセス爲義聽カスシテ山ヲ出ツ諸子隨ヒ行
ク天既ニ明ク爲義諸子ニ命シテ逃 ̄レ去ラシム諸子涕
注シテ訣ル帝義朝ニ勅シテ父爲義ヲ誅セシム義朝
終ニ鎌田正清ニ命シテ爲義ヲ朱雀野ニ殺シ又諸弟
頼賢以下五人及ヒ幼弟乙若龜若鶴若天王ヲ舩岡山
ニ殺ス爲朝父ニ别レテヨリ近江輪田ニ潜居シ晝ハ
山中ニ匿レ夜ハ村閭ニ出テ僕ヲシテ僧トシ抖撤 ̄シ食
ヲ乞ハシム父及 ̄ビ兄弟ノ殺サルヲ聞テ切齒シテ曰 ̄ク先
ニ義朝ヲ殺サヽルハ父ノ爲ナリ圖ラサリキ今日父

ノ讐トナラントハ吾將ニ鎭西ニ至リ兵ヲ起シテ京
師ヲ攻メ賊子義朝ヲ斬リ以テ父兄ノ魂ヲ慰シ上皇
ヲ帝位ニ上ラシメ吾自 ̄ラ六十州總追補使トナラント
急ニ鎭西ニ赴カントス平氏 ̄ノ將平家貞ヲ擁シテ途
ニ要スト聞テ果サス適〻疾アリ途ニ上ルコト能ハス民
家ニ浴ス人其身材魁偉 ̄ナル ヲ見テ檢非違使源重貞ニ告
ク重貞三百余人ヲ率ヰ之ヲ圍ム爲朝裸體柱ヲ抉
シ數人ヲ撃殺ス然レトモ病嬴力盡キ終ニ縛セラレテ
闕ニ至ル罪ヲ論シテ誅ニ當ツ朝廷其勇力ヲ惜テ
死一等ヲ減シ其臂筋ヲ拔テ伊豆大島ニ流ス大輿ニ


載セ二十余人ヲシテ舁カシメ騎五十監押ス爲朝輿中
ニ在テ或ハ怒リ力ヲ極メテ坐ス輿重クシテ行クコト能
ハス或ハ笑テ曰 ̄ク輿ニ乘リ兵ヲ從ヘ配所ニ赴ク是亦
吾榮ナリト傲言不遜頗ル甚シ既ニシテ大島ニ至リ島
民ニ令シテ曰ク天子吾ニ大島ヲ賜ヘリ從ハサル者
ハ誅ヒン遂ニ三宅八丈等ノ七島ヲ併有シ大島代官
三郎太夫忠重ノ女ヲ娶ル爲朝臂筋ヲ拔カルレトモ矢
ヲ用ル舊ヨリ長ス居ルコト數年二男一女ヲ生ム永萬
元年三月爲朝海邊ヲ巡リ白鷺南飛スルヲ見テ曰 ̄ク鷺
ハ遠飛スル能ハス而シテ今南ニ飛フ近南當ニ島アル

ヘシト急ニ舟ニ乗シ南行數日果シテ一島ヲ得タリ
土人髮 ̄ヲ被リ色黑キコト鬼ノ如シ從者皆怖ル爲朝擬ス
ルニ弓ヲ以ス島人地ニ伏ス爲朝率ヰテ島中ヲ巡ル
島人恐レ爭テ布ヲ以テ爲朝ノ前ニ置ク積テ堆ヲ爲
ス爲朝島ノ名ヲ問フ對 ̄テ曰ク鬼島爲朝曰 ̄ク然ラハ爾等
鬼神ノ裔ナランカ島中奇寶アリヤ否 ̄ヤ曰 ̄ク古ハ寶多シ
今一モアルコトナシ爲朝曰 ̄ク此島蘆葦多シ今ヨリシテ
葦島ト名ケン乃チ鳥人ニ命シテ每年大島ニ入貢ス
ルヲ約シ一人ヲ從ヘテ大島ニ還ル島人益〻長服ス大
島ハ伊豆大介狩野茂光ノ所管タリ爲朝島ニ入テヨ


リ島人貢ヲ伊豆ニ入ルヲ許サス忠重密ニ貢ヲ伊豆
ニ入ル爲朝怒リ責メ其左右ノ手指六ヲ斷ツ嘉應二
年春茂光上言シテ曰 ̄ク流人源爲朝自ラ諸島ヲ畧シ遂
ニ鬼島ニ至リ鬼僮ヲ得テ奴トシ强暴至ラサル所無
シト是ニ於テ朝議茂光伊藤祐親北條時政等ニ命シ
テ討伐セシム茂光等兵五百騎戰艦二十ヲ以テ之ヲ
征ス四月大島ニ至ル爲朝ノ從者走リ報ス爲朝之ヲ
聞テ曰 ̄ク歒兵百萬アリト雖モ我一戰ニ之ヲ破リ舟ニ
乘テ他ニ遁ルヽハ難トセス然レトモ吾嘗テ勅ニ違テ
配流セラレ命ヲ惜テ此ニ處ルコト十余年其故如何ト

ナレハ家君ノ宿志ヲ繼キ陰ニ大業ヲ爲サント欲シメ
ナリ吾思フ所アリ今戰テ徒ニ人命ヲ損ス是我好ム
所ニ非サルナリ寧ロ一矢ヲ放テ自殺スルニ如カス
ト乃チ盡ク從者ヲ召集シ各〻物ヲ與ヘ懇論シテ散去
セシム其子島冠者爲頼今年九歲次子五歲女子二歳
ナリ其妻二幼子ヲ携ヘテ遁レ匿ル爲朝海岸ニ至ル
歒兵舳艫相衘テ來ル爲朝大矢ヲ放ツテ一艦ニ中ツ
艦即覆没ス餘衆畏レテ進マス爲朝舘ニ入リ先ユ爲
賴ヲ刺殺シテ自殺ス茂光等陸ニ上リ將ニ舘ニ入ラ
ントス士卒敢テ先スル者ナシ加藤景廉。爲朝既ニ自


殺セルヲ知リ先進シテ其首ヲ斬ト云 ̄フ一書ニ云足利
義兼ハ實ニ爲朝ノ子ナリ足利義康密ニ襁褓ノ中ヨ
リ養ヒ以テ子トス故ニ世人爲朝ノ子タルヲ知ル者
ナシ義兼身ノ長 ̄ケ九尺二寸膂力人ニ過ク亦頗ル爲朝
ニ類スト云フ或ハ然ラン
  爲朝ノ行事固ヨリ世人ノ知ル所ニシテ必シモ
  余カ贅言ヲ待タサルナリ今琉球藩史ヲ修ス巻
  首ニ爲朝ノ傳ヲ置 ̄ク ハ彼國人ヲシテ爲朝ノ末路ヲ
  紀ス或ハ大島ニ死ストシ或ハ逃レテ琉球ニ入

【枠外上ノ注記】
爲朝伊豆ノ大
島ヨリ八丈島
ニ徒ル鬼海ニ
往キ琉球ニ渡
ル諸島社ヲ立
テヽ祭ル島ノ
カ神ト云フ

  ルトス其事跡殆ド審ナラサル者ニ似タリ頃琉
  球國史ヲ見ルニ爲朝永萬元年琉球ニ至リ舜天
  ヲ生シコトヲ記シテ頗ル審ナリ而シテ國史
  亦永萬元年爲朝鬼島ニ至ルト記レリ我國古昔
  琉球ヲ呼テ鬼島ト云乃 ̄チ審ニ知ル爲朝琉球ニ
  至リ止ルコト數年後大島ニ歸リ自殺スルコトヲ夫
  レ爲朝惟勇力絕世ナルノミナラス其孝友慈愛
  或ハ古ヘノ名將ヲ以テ論スヘシ爲朝不幸ニシ
  テ其志ヲ内國ニ遂クル能 ̄ハ スト雖トモ琉球三十六
  世六百九十年ノ基ヲ開キ統系承傳シテ今日ニ


  至ル其功亦盛ナラスヤ天ノ其後ヲ勦絕セサル
  ハ良 ̄ニ故アルカナ
  明治七年三月        靑江秀識

【枠外上ノ注記】
一説ニ為朝實
ニ死セス遁レ
テ髙麗ニ入ル
ト云

     歷代系統
○天孫氏二十五紀  《割書:》利勇簒位

○《割書:第一》舜天 《割書:源爲朝子》  《割書:第二》舜馬順熙 《割書:舜天子》   《割書:第三》義本 《割書:舜馬順熙子》

                  山南○大里  承察度

                    汪應祖    他魯毎《割書:爲巴志|所滅》
                        他勃期簒位

○《割書:第四》英祖 《割書:天孫氏裔惠祖孫》 《割書:第五》大成《割書:英祖子》 《割書:第六》英慈《割書:大成子》 《割書:第七》玉城《割書:英慈子》 《割書:第ハ》西威《割書:玉城子》

                   山北○今歸仁   帕尼芝

                      珉    攀安知《割書:爲思紹|所滅》

○《割書:第九》察度《割書:浦添按司奥間大新子》 《割書:第十》武寧《割書:察度子》

○《割書:第十一》尚思紹《割書:佐敷按司》 《割書:第十二》尚巴志《割書:思紹子》 《割書:第十三》尚忠《割書:巴志子》 《割書:第十四》尚思達《割書:尚忠子》

 《割書:第十五》尚金福《割書:尚忠弟》 《割書:第十六》尚泰久《割書:金福》弟 《割書:第十七》尚德《割書:泰久子》



○《割書:第十八》尚圓《割書:父尚稷|義本裔》 《割書:第十九》尚宜威《割書:尚圓弟》 《割書:第二十》尚眞《割書:尚圓子》

                     女子《割書:聞得大君加那|志號月清無後 》


           女子《割書:首里大君按司|號桂月無後》
   尚亨仁《割書:無|後》     尚洪德
   尚龍德      尚范國
   尚朝榮《割書:無|後》     女子《割書:阿應理屋惠按|司號德大後無》    
   尚維衡      尚揚叢          女子《割書:首里大君按|司號一枝》
   女子《割書:佐司笠按|司號慈山》    尚禎《割書:無|後》        尚康伯
         《割書:第廿二》尚元《割書:尚清子》     《割書:第廿三》尚永《割書:尚元子》  
   尚■威       尚鑑心《割書:無|後》       尚久
《割書:第廿一》尚清《割書:尚眞子》
   尚源道《割書:無|後》     尚桓
            尚宗賢
            尚龔禮
            尚悦


          《割書:第廿七》尚質《割書:尚賢弟》     女子《割書:宮平按司|號春光 》
             女子《割書:澤㞴按司|號碧蓮》    女子《割書:大嶺按司|號善室》
   女子《割書:聞得大君加|那志號守眞》    尚文       尚弘德
《割書:第廿四》尚寧《割書:尚清弟尚懿子》    尚■【恭の異体字】
   女子《割書:聞得大君加|那志號月嶺》    女子《割書:首里大君按|司號徹心》   女子《割書: 安谷屋按司|號玉蓮》
《割書:第廿五》尚豐《割書:尚永弟尚久子》 《割書:第廿六》尚賢《割書:尚豐子》     尚弘仁
   女子《割書:島尻佐司笠|按司號剛心》          《割書:第廿八》尚貞《割書:尚質子》
          女子《割書:與那城按|司號玄禎》       尚弘毅
                      尚弘才
                      女子《割書:諸見里按司|號寛養》
                       女子《割書:與那嶺按司|號梅月》                     
                      尚弘信
                      尚弘善

  女子《割書:識名按司|號瑞嘉》       尚監
  尚紀       《割書:第廿九》尚益
  女子《割書:松堂按司|號花叢》       女子《割書:國塲按司|號瑞信》      女子《割書:富盛按司|號蘭渓》
  尚徑           尚盛      《割書:第三十》尚敬《割書:尚益子》
《割書:追王》尚純                      女子《割書:嘉手■按司|號泰心》
  尚綱                       女子《割書:古波藏按|司號》
  女子《割書:思眞鶴金號|窈心無後》                   尚徹
  女子《割書:内間按司|號月桂》                   女子《割書:内間按司|號順徳》
  女子《割書:安室按司|號坤德》 


           《割書:追王》尚哲
             女《割書:子聞得大君加|那志號法雲》 女子《割書:内井按司|號雲峰》
    女子《割書:安谷屋按司|號寂照無後》   尚周 《割書:第三十二》尚温《割書:尚穆世子尚哲子》
    女子《割書:聞得大君加|那志號順成》   女子《割書:小那覇按司|號王浦》 尚法《割書:無後》  《割書:第三十三》尚成《割書:尚温子》
    女子《割書:聞得大君加|那志號寛室》   尚圖     女子《割書:扇長按司|號温德》
《割書:第三十一》尚穆《割書:尚敬子》      尚容 尚洽《割書:無後》
    尚和       尚恪  《割書:第三十四》尚灝《割書:尚温弟》
             女子《割書:上間按司|號高■【門構に山王】》

    尚謙
    女子《割書:仲井真按司》   女子《割書:照屋按司》
    女子《割書:識名按司|號心月》    女子《割書:兼城按司》
    尚𣋿《割書:無|後》      女子《割書:末吉按司》
《割書:第二十三》尚育《割書:尚灝子》       女子《割書:國塲按司》
    女子《割書:國塲按司》    尚濬《割書:無|後》   世子尚典
    尚惇       女子《割書:上間按司》
    尚健   《割書:第三十六》尚泰《割書:尚育故|始封琉球藩王》
    尚愼       尚弼


琉球群史巻之一
               小林居敬編次
               靑江 秀刪補
               米本少藏校正
天孫氏
琉球ハ古昔呼テ宇留間島ト云 ̄フ又宇留間迺久爾、屋其
惹島、阿兒奈波島、《割書:阿児恐クハ阿鬼ノ誤ナラン|或ハ譯シテ沖縄ニ作ル》ト云 ̄フ又南
海ノ諸島ヲ呼テ南島ト云 ̄ヒ後 ̄ニ南島白石阿甑黑島硫礦
等ノ島嶼總テ之ヲ鬼界島又魚島ト云薩摩國ヲ距ル

コト二百四十里北緯二十四度ヨリ二十八度ニ至リ東
經百二十度ヨリ百三十度ノ間ニ在リ漢ノ所謂南倭
ハ即チ琉球ナリ其太古草昧ノ世ニ當リ海浪氾濫居
處スルコト能ハス時ニ一男一女アリ大■【荒の異体字】ニ生ル男ハ
志仁禮久、女ハ阿摩彌姑ト名ツク土石ヲ治シ草木ヲ
植エ海浪ヲ防キ穴居野處禽獸ヲ逐捕シ菓實ヲ食ト
ス歷年既ニ久ク天帝子出テ群ヲ分チ民ヲ定ム天帝
子三男二女ヲ生ム長子ヲ天孫氏ト云始テ琉球國君
タリ二男按司ノ始トス三男 ̄ハ百姓ノ始トス長女、君々
《割書:君々ハ婦女神職ヲ|掌ル者ノ稱ナリ》ノ始トス次女祝々《割書:祝々モ又神職|ヲ掌ルノ稱ナ》


《割書:リ》ノ始トス始テ國土ヲ區分シテ三トス曰中頭《割書:即チ|中山》
曰國頭《割書:即チ|山北》曰島尻《割書:即チ|山南》是時ニ方テ書契未タ造ラス
月ノ盈虧ヲ候 ̄フ旬朔ヲ知リ草ノ生枯ヲ枯テ時節ヲ
記ス民ニ耕種烹飪ヲ教エ海水ヲ曝シテ鹽トシ木汁
ヲ取テ酢トス昔ノ草葉皮毛 ̄モテ體ヲ蔽フ者今始テ巾裳
アリ昔ノ巢居穴處スル者今始テ屋廬アリ民習駸々
復前日ノ俗ニ非ス爰ニ地ヲ相テ都城ヲ中頭ニ建テ
首里ト名ツク又野ヲ畵【畫の古字】シ郡ヲ分チ郡ニ按司ヲ置キ
以テ斯民ヲ治ム當時風俗淳樸、民習端■【懿の異体字ヵ慤ヵ】、神ニ事テ甚
タ謹ム其天神ヲ烏富津加久羅神ト云 ̄ヒ海神ヲ儀來河

内神ト云 ̄フ又天神アリ君手摩神ト名ツク國王即位ノ
間一次出現萬歳ヲ祝ス又海神アリ新懸神ト名ツク
五年或ハ七年一次出現シ必ス善ヲ爲スモノヽ家ニ
來格ス不善ヲ爲スモノヽ家ニ來格セス其不善者ハ
神宣言シテ刑罰ヲ加フ又海神 ̄ニ荒神アリ三十年或ハ
五十年一次出現シ亂逆不仁ノ徒ヲ罸ス又天神 ̄ニ浦巡
神アリ國王一世コトニ一次出現シテ國祚ヲ守護ス
又與那原公事ハ陰陽神ナリ王妃ヲ守護ス月公事ハ
天神ナリ每月一次出現シ國祚ヲ守護ス又海神アリ
河内君眞物ト名ツク四時ニ出現ス五穀神アリ毎節


ニ出現シテ五穀ヲ保護ス國ニ不良アレハ諸神輙チ
告ク鄰冦來リ侵セハ諸神能ク米ヲ化シテ砂トシ水
ヲ易テ鹽トシ遽ニ颶風ヲ生シ舟ヲシテ沉没セシム
ト男女白紵ヲ以テ髮ヲ纏ヒ頂後ヨリ盤繞シテ額ニ
至ル男 ̄ハ鳥羽ヲ以テ冠ヲ飾リ女 ̄ハ手ヲ黥シテ文ヲナス
嫁娶スルニ珠貝ヲ以テ禮トス男女相愛スレハ便チ
匹偶トナル婦人産スレハ火ヲ以テ自 ̄ラ炙リ汗 ̄ヲ出スコ
ト數日便チ舊ニ復ス凡ソ宴會スルニ一盞ヲ以テ輪
流シテ飲ミ醉酣ナレハ一人唱ヘ衆皆和シ或ハ女子
手ヲ揚テ歌舞ス偶〻異味ヲ得レハ先ツ尊者ニ進ム然

後賤者之ヲ食フ其病死スル氣 將(マサ)ニ絕セントスルトキ
之ヲ舉テ庭ニ置キ氣絶スレハ則 ̄チ親族哭泣相吊シ死
者ノ屍ヲ浴シ布帛ヲ以テ之ヲ纏テ殯葬シ年ヲ經テ
後又其骨ヲ出シ洗テ再ヒ葬埋ス其農器石ヲ以テ刃
トス長ケ尺餘濶サ數寸兵刃ハ鐵ヲ以テ之ヲ造ル鐵
薄小ナリ骨角ヲ以テ之ヲ輔ク亂逆ヲナス者アレハ
之ヲ殺シテ以テ神ヲ祭リ又其髑髏ヲ樹ニ懸ケ箭ヲ
以テ之ヲ射ル甚シキニ至リテハ共ニ聚テ之ヲ食フ《割書:世|以 》
《割書:テ人ヲ啖フノ國ト|ス蓋シ是ニ因ル》又刑ヲ用ユルニ律ナシ獄訟決セ
サレハ王ニ告ク王羣臣ト議定ス獄ニ枷鏁ナシ唯繩


ヲ用テ縛ス輕罪ハ杖ヲ用ユ死刑ハ則 ̄チ鐵錐、大サ節ノ
如シ長 ̄サ尺余其頂ヲ鑽テ之ヲ殺ス當時俗習大概此ノ
如シ其支那ト通スルハ隋ヨリ始ル推古天皇十六年
隋王楊廣其臣朱寛ヲシテ海ニ入テ異俗ヲ訪求メシ
ム海師河蠻言每ニ天清風靜ナル時東ニ■【望の異体字】メハ■【隠の異体字】約
烟ノ若ク霧ノ若ク遠クシテ幾千里ナルヲ知ラスト
遂ニ寛ト俱ニ來リ求メ此島ヲ得タリ形チ虱龍ノ水
中ニ浮 ̄フ カ如シ故ニ名ツケテ流虬ト云後改メテ流求
トス寛陸ニ上ル語言通セス其布甲ヲ取リ一人ヲ掠
メ去ル此時 ̄ニ朝使隋ニ在リ其布甲ヲ見テ曰此那久國

人ノ用ユル所ナリ《割書:那久即チ掖玖琉球掖玖ト接近ス|故ニ其用ユル所ノ布甲同シキノ》
《割書:ミ》明年又隋將陳稜等兵ヲ率ヒテ來ル軍中崑崙人ア
リ頗ル琉球語ヲ解ス稜之ニ命シテ慰諭セシム國人
從ハス拒 ̄キ戰テ敗走ス稜進テ城邑ニ至リ屋室ヲ焚キ
男女千余人ヲ擒ニシテ去ル是ヨリ隋絶テ來ラス同
四年丙子掖玖人本朝ニ來貢ス是歳春秋ノ間相繼テ
来ル者三十人皆未タ還ルニ及ハスシテ死ス南島朝
獻スル蓋シ是ヨリ始ル舒明天皇三年二月掖玖人來
朝ス白鳳六年丁丑多禰人來朝ス八年已卯冬倭馬飼
造連上村主光文等ニ命シテ多禰島ニ使セシム十年


辛巳八月連等多禰國人ヲ率テ歸ル其地圖ヲ獻ス十
一年壬午多禰掖玖阿麻彌人等朝賀ス祿ヲ賜フ各差
アリ持統天皇九年乙未三月務廣貳文博勢進廣參下
諸田ヲ多禰ニ遣ハシ蠻ノ居ル所ヲ求ム文武天皇二
年戊戌夏四月務廣貳文博士刑部眞木等八人ヲ南島
ニ遣シ國ヲ覔メシム因テ兵器ヲ給ス三年己亥七月
十九日多褹掖久庵美度感《割書:庵美ハ即チ阿麻彌|度感ハ即チ今ノ德島》等ノ人朝
使ニ從ヒ來テ方物ヲ貢ス度感始テ通ス位ヲ授ケ禄
ヲ賜フ各差アリ大寶二年壬寅八月薩摩多禰人等命
ニ方ヒ南路隔絶 ̄ス乃チ兵ヲ發シ伐テ之ヲ平ゲ遂ニ戸

ヲ校シ吏ヲ置ク慶雲四年太宰府ニ詔シテ禄位ヲ南
島人ニ賜フ各差アリ和銅六年南島奄美信覺球美《割書:奄|美》
《割書:即 ̄チ奄美信覺即チ今ノ八|重山球美即今ノ久米島》等五十二人大朝臣遠建治ニ
随テ方物ヲ來獻ス養老四年庚申位ヲ南島人ニ授ク
ルコト凡 ̄ソ二百三十二人各差アリ神龜四年丁卯南島人
百三十二人來朝ス位ヲ授クルコト差アリ天平七年乙
亥太宰大貳小野朝臣老、高橋連牛養ヲ遣ハシテ牌ヲ
南島ニ植テ以テ所在ノ地名里數及ヒ舩ヲ泊シ水ヲ
取ル等ノ處ヲ誌ス天平勝寶五年癸巳冬遣唐大使藤
原清河、副使大伴古麿、吉備真備、唐僧鍳真等舩ヲ同シ


テ還ル洋中漂流シテ阿兒奈波島ニ至リ風ヲ候スル
コト十余日南風ヲ得テ發ス六年甲子詔シテ太太宰府ニ
令シ重ネテ南島ノ牌ヲ修ス《割書:養老天平間南島ヲ|以テ太宰府ニ隷ス》仁壽
三年癸酉秋僧圓珍唐商欽良暉ノ舶ニ附シテ唐ニ赴 ̄ク
海路颶風ニ遭ヒ漂フテ琉球ニ至ル遥ニ數十人戈矛
ヲ執テ岸上ニ立 ̄ツ ヲ見ル時ニ風息テ赴ク所ヲ知ラス
良暉哀號シテ曰我等將ニ琉球ノ爲ニ噬レン若何セ
ン圓珍佛ヲ祈ル忽シ東南風ヲ得テ免ヲ獲タリ長德
三年丁酉南蠻賊西邉ニ冠ス明年太宰府鬼界島ニ令
シテ南蠻賊ヲ追捕セシム初メ大寶和銅ノ間南島諸

【左頁枠外の注記】
天長元年九月
參議太宰大貳
從四位下小野
朝臣峯守等奏
シテ多禰島ヲ
諦 ̄メ テ大隅國ニ
隷センコトヲ請

夷多ク內附シ來貢ス後或ハ往々離叛シ長寛承安ノ
際十二島中內屬スル者五屬セサル者アリ其屬セ
サル者多 ̄ク ハ鬼界以南ナリ後天孫氏二十五紀ノ裔ニ至
リ風俗頽廃四方ノ按司割㨿シテ雄ヲ爭ヒ權臣利勇
國政ヲ專ラニシ君ヲ弑シテ自ラ國君ト稱ス是ヨリ
盜賊峰起國內大ニ亂ル浦添ノ按司尊敦兵ヲ起シ利
勇ヲ誅ス國人尊敦ヲ推戴シテ君トス是ヲ舜天王トス
天孫氏ノ裔世々相承ルコト凡 ̄ソ一萬七千八百二年ナリ
    歷史ノ上世ヲ記スルモノ大抵後人ノ想像ニ
   出テ多クハ之ヲ■【荒の異体字】唐ニ托ス琉球國初ノ記事


   亦其轍ヲ同 ̄フ セリ然リト雖トモ古昔既ニ宇留麻
   南倭ノ稱アルヲ以テ稽フレハ蓋 ̄シ其建國ニ久
   シキヲ知ルヘシ
始祖舜天王
舜天王姓ハ源名ハ尊敦實ニ清和天皇ノ後胤ニシテ父
ハ爲朝母八大里按司ノ妹ナリ仁安元年丙戌生ル父
爲朝鎭西八郎ト稱ス實ニ撿非違使爲義ノ第八子ナ
リ身ノ長ケ七尺志氣豪爽眼ニ雙稜アリ猿臂善ク射
ル年十三豐後ニ居リ數九國 ̄ノ諸大姓ト戰ヒ十五歲ノ
比ヒ遂ニ盡ク九國ヲ伏ス朝廷太宰府ニ敕シテ之ヲ討 ̄セ

シム克ツコト能ハス數〻召セトモ至タス爲義之ニ坐シテ官
ヲ免ス爲朝聞テ之ヲ病ヘ乃チ須藤家季等ト與ニ闕
ニ詣テ罪ヲ待ツ朝廷共志ヲ壯トシテ之ヲ赦ス保元
ノ亂父爲義ニ隨ヒ上皇ニ屬ス決戰頗ル勵シク歒人
皆畏縮ス亂平キ擄トナリ手筋ヲ斷テ伊豆大島ニ流
サル然レトモ矢ヲ用 ̄ユ ルコト舊ヨリ長ス永萬元年乙酉一
日爲朝慨然トシテ曰ク大丈夫豈徒死ス可 ̄ケ ンヤト乃 ̄チ
糧ヲ齎シ海ニ入テ國ヲ求ム暴風忽 ̄チ起リ所舟將ニ覆ラ
ントス舟人驚惶ス爲朝從容卜シテ曰運命天ニ在リト
數日ニシテ一島ヲ得タリ琉球是ナリ後人共所ヲ名ツ


ケテ運天ト云 ̄フ即チ今ノ山北運天江是ナリ爲朝岸ニ
上リ徧ク島中ヲ巡視シ遂ニ止ルコト年アリ土人其德
ニ懐キ其勇ニ伏シ敬慕スル者日ニ夥シ大里按司ノ
妹ヲ娶リ一男ヲ生ム爲朝時ニ年廿八居ルコト數年桑
梓ノ念自ラ禁ツルコト能ハス是ニ於テ妻子ヲ携ヘ故
國ニ還ントス䌫ヲ牧港ニ解キ航海數里颶風驟ニ起
リ却テ牧港ニ漂着ス數月ヲ閲テ吉日ヲ擇ヒ再ヒ發
ス未タ數里ナラスシテ颶風復起ルコト故ノ如シ舟人
之ヲ卜ス曰ク男女舟ヲ同ス海神崇ヲナスト爲朝乃
チ夫人ニ謂テ曰吾汝ト綢繆日久シ然ト云 ̄ヘ トモ夫婦ノ

私情君臣ノ大義ニ克ツコト能ハス請フ汝此土ニ在テ
吾兒ヲ育セヨ成長ノ後必大ニ爲スコト有ント遂ニ妻
子ニ訣别シ纜ヲ解テ去ル夫人兒ヲ携ヘ浦港ニ還リ
住ス兒幼ニシテ岐嶷稍〻長シテ動止衆ニ異ナリ器量傑
出頗ル乃父ニ類ス即 ̄チ舜天王尊敦ナリ治承四年庚子
尊敦歳十五國人其才德ヲ推尊シテ浦港按司卜ス境
內大ニ治ル此時天孫氏二十五紀ノ裔ニ當リ政道衰
頽權臣利勇其君ヲ弑シテ自立ス尊敦義ヲ倡ヘ兵ヲ
起ス四方之ニ應スルコト影響ノ如シ尊敦兵ヲ率ヰテ
其罪ヲ問フ利勇怒テ曰ク先君無道予天命ヲ奉シ國


君トナル汝何爲 ̄ル者ソ妄 ̄リ ニ兵ヲ動シ自ラ禍ヲ招クト
尊敦大ニ怒テ曰ク汝累世君恩ニ浴シ天ニ逆ヒ位ヲ
簒フ吾今義ヲ唱ヘ逆賊ヲ誅シ以テ天人ニ怨ヲ報ス
ト軍士ヲ激勵シ急ニ其城ヲ攻ム利勇能ク拒ク矢石
雨ノ如シ尊敦勇ヲ奮ヒ遂ニ城門ヲ攻メ破ル全軍勢
ニ乘シ一齊排入ス利勇力竭キ妻子ヲ殺シ自刎シテ死
ス國人大ニ悦服シ尊敦ヲ推奉シテ王位ニ就カシム時
ニ文治三年丁未尊敦二十二尊敦王位ニ即テヨリ
精ヲ勵シ治ヲ求ム丕ニ國俗ヲ變ス此時王城猶窄隘
制度未タ備ハラス尊敦其規模ヲ宏ニシ頗ル壯觀ヲ

【左頁枠外上の注記】
薩摩人川邉通
綱ナル者源頼
朝ノ㫖ニ乖キ
鬼界島ニ逃ル
頼朝又義経ノ
黨此島ニ潜ム
ト疑ヒ文治四
年天野遠景等
ヲ遣リ鬼界島
ヲ撃チ之ヲ降

爲ス始テ我文字ヲ用ヰルコトヲ教ユ《割書:即チ四十七|字母ナリ》尊敦
右鬂上ニ瘤アリ角ノ如シ常ニ髺ヲ右邉ニ結ヒ以テ
其瘤ヲ掩フ王位ニ即ニ及テ國人慕倣シ皆欹髺ヲ結
フト云フ位ニ在コト五十一年嘉禎三年丁酉薨ス歳七
十二
舜馬順熙王姓ハ源名ハ其益美父ハ舜天王文治元年
乙巳生ル歷仁元年戊戌父舜天王ニ繼テ王トナル位
ニ在コト十一年寶治二年薨ス歳六十四
義本王姓ハ源父ハ舜馬順熙王建永元年丙寅生ル建
長元年己酉父舜馬順熙王ニ繼テ王卜ナル天資軟弱


果斷ニ乏シ位ニ即 ̄ク ノ後饑饉荐ニ至リ疫癘大ニ行 ̄ハ ル
死 ̄ス ル者多シ義本大ニ惶懼シ群臣ヲ召テ曰ク先君ノ
世國豐ニ民安シ今予無德饑疫竝行 ̄ハ ル是天予ヲ棄ル
ナリ予將ニ位ヲ有德者ニ讓ラントス群臣吾爲ニ之
ヲ擇ヘ僉曰英祖生レテ聖瑞アリ王請フ之ヲ試 ̄ミ ヨ義
本乃チ英租ヲ召テ國政ヲ攝セシムルコト七年果シテ
効アリ義本英祖ニ諭シテ曰ク予天ノタメニ棄テラ
レ政ヲ爲スノ初人民半ハ死亡ス汝チ政ヲ攝シテヨ
リ年豐ニ民恭ナリ是汝カ德ニ致ス所ナリ汝冝ク大
統ヲ承ケヨ英祖固辭ス許サス遂ニ位ヲ英祖ニ讓リ

テ山林ニ隱ル其終 ̄ハ ル所ヲ知ラス在位十一年
   舜天ヨリ義本ニ至ル凡三世七十三年後二百
   年義本ノ裔尚圓統ニ復シテヨリ連錦尚泰ニ
   至ル蓋シ舜天ノ德永ク盡キサル所ナリ
英祖王
英祖王ハ父ヲ惠租ト云 ̄フ伊祖ノ按司ナリ惠租善行積
德アリ妻ヲ娶テ久シク子ナシ晚年ニ至テ妻日輪懐
ニ入 ̄ル ト夢 ̄ミ テ妊ム既ニシテ英祖ヲ生ム其生ルヽ日、光彩、
屋ニ满チ人異香ヲ聞ク幼ニシテ聰明賢ヲ親ミ道ヲ崇
フ歳二十飢疫竝 ̄ヒ行 ̄ハ レ民生ヲ聊 ̄ン セサルニ會ヒ英祖乃 ̄チ


國王義本ノ命ヲ奉シ政ヲ攝スル七年飢疫自ラ止ミ
人心始テ安シ遂ニ義本ノ禪ヲ受テ王タリ弘長元年
辛酉田野ヲ巡視シ經界ヲ正シ始テ民賦ヲ均 ̄ラ ス初 ̄メ天
孫氏ノ世賦税アル無シ國事アレハ民ニ稲一束ヲ課
ス《割書:其制索ヲ以テ人頭ヲ廽ラシ定テ一尺|トス以テ稲ヲ束ヌ名ケテ一束トス》後毎年一束
ヲ貢ス此ニ至テ均田ノ法ヲ行ヒ百度悉ク舉リ國内
大ニ治リ刑罰措テ用ヰス久米、慶良間、伊比屋、大島、ノ
諸島始テ隷属ス是ニ於テ公館ヲ泊村ニ建テ《割書:今ノ泊|御殿 》
公倉ヲ其北ニ設ク《割書:今ノ天久|山聖現寺》僧禪鑑海ニ航シテ來ル
英祖之カ爲ニ寺ヲ浦添ニ建テ極樂寺ト名ツク是レ

【左頁枠外上の注記】
弘長元年辛酉
始メテ墳墓ヲ
浦添ニ築イテ
極楽山ト云

此上ノ佛僧ノ鼻祖ナリ正應四年辛卯元主忽必烈兵
六十人ヲ■【發ヵ】シ其臣楊祥ニ命シテ來攻メシム航海中
一島軍ト會戰シ軍銳挫ケテ去ル此年元主流求ヲ改
テ瑠球トス永仁四年丙申元主銕木耳、又其將張浩、等
ニ命シ來リ侵ス此時英祖ノ恩威大ニ行レ臣民國ニ
殉シ難ニ死スルノ志盛ニシテ遂ニ事ノ成ラサルヲ知
リ漁民百三十人ヲ擄シテ去ル英祖禪ヲ受ケ位ニ在
ルコト四十年正安元年己亥八月五日薨ス歳七十一國
民愛慕追悼スルコト考妣ヲ■【喪の異体字】スルカ如シ
大成王ハ英祖ノ子寶治元年丁未生ル正安二年庚子


歳五十四父英祖ニ繼テ王トナル人トナリ温厚恭儉
ナリ上下虞ナク百姓業ヲ樂ム位ニ在コト九年延慶元
年戊申十二月八日薨ス歳六十二
英慈王ハ大成王ノ子文永五年戊辰生ル延慶二年己
酉父大成王ニ繼テ王タリ位ニ在 ̄ル ルコト五年正和二年
癸丑九月二十日薨ス歳四十六
玉城王ハ英慈王ノ第四子永仁四年丙申生ル德治元
年丙午玉城ヲ領ス玉城王子ト稱ス正和三年甲寅父
ニ繼テ王タリ酒色ヲ貪リ田猟ヲ好ミ政務ニ怠ル諸
按司朝セス百姓怨望ス國分テ三トナル大里ノ按司

自ラ山南王ト稱ス兼城、眞壁、喜屋武、摩文仁、東風平、豐
見城、具志頭、玉城、知念、佐敷、天里、十一間切《割書:群ヲ間切|トイフ》ヲ
領ス今帰仁按司自ラ山北王卜稱シ羽地、名護、國頭、金
武、四間切及ヒ伊江、伊平屋二島ヲ領ス中山ハ唯那覇、
泊村、眞和、南風原、西原、浦添、北谷、中城、越来、讀谷山、勝連、
具志川、十二間切ヲ存スルノミ三山攻戰息マス諸島
亦來貢セス中山愈〻衰フ王位ニ在ルコト二十三年延元
元年丙子三月十一日薨ス歳四十一
西威王ハ玉城ノ子嘉曆三年戊辰生ル十歲ニシテ王
祚ヲ踐ム母氏權ヲ専ラニシ國内大ニ亂ル西威位ニ


在ルコト十三年正平四年己丑四月十三日薨ス國人世
子ヲ廢シ浦添ノ按司察度ヲ立テヽ王トス
   英祖ヨリ西威ニ至ルマテ五世凡九十年ニシ
   テ英祖ノ統亡フ
察度王
察度王名ハ大眞物、元亨元年辛酉生ル父ヲ奥間大親
ト云 ̄フ浦添間切謝那村奧間 ̄ノ人ナリ世々農ヲ以テ業ト
ス某氏ヲ娶テ察度ヲ生ム察度長シテ漁猟ヲ好ミ農
業ヲ務メス常ニ四方ニ遊歷シ頗ル無頼ナリ大親常
ニ之ヲ憂フ此時二當テ勝連按司一女子アリ才美兼 ̄ネ

備ル貴族大姓媒求スル者甚多シ女子每ニ肯セス察
度之ヲ聞テ直チニ某家ニ至リ自ラ婚ヲ求ム按司及 ̄ヒ
侍者皆笑テ狂人トス女子牗間ヨリ察度ヲ窺フ容貌
魁梧常人ニ非ス乃 ̄チ父ニ謂テ曰 ̄ク此眞ニ吾佳偶ナリ父
怒テ曰汝按司ノ女ニシテ此ノ如キ賤人ニ嫁セハ將
ニ世人ノ為ニ笑ハレン女子肯セスシテ曰 ̄ク彼 ̄レ他日必 ̄ス
貴顯ナラント固ク請フテ止マス按司共志ニ違フヲ
重シ之ヲトス大吉ナリ遂ニ婚ヲ許ス察度日ヲ擇ヒ
親迎ス按司其貧シキヲ恤ミ資賄甚盛ナリ察度悦 ̄ハ ス
コト妻ニ謂テ曰汝富驕ニ生レ美飾ニ習フ吾貧賤敢テ


禮ニ當ラス妻ノ曰ク妾惟命是レ從ン乃チ諸ノ服飾
ヲ返シ察度ト俱ニ草廬ニ至ル家唯四壁ノ存スルノ
ミ察度後圃ヲ鉏テ金塊ヲ獲タリ因テ屋ヲ共處ニ築
キ金宮ト名ツク即チ今ノ謝那村金宮社是ナリ察度
性慈仁饑寒ノ者ヲ見レハ必ス衣食ヲ給ス此時我商
舩銕塊ヲ載セテ牧港ニ至ル察度盡ク之ヲ買ヒ農器
ヲ造 ̄リ テ耕者ニ與フ百姓察度ヲ仰 ̄グ コト父母ノ如シ推奉
シテ浦添ノ按司トス境内大ニ治リ遠近皆畏服ス西威
王薨スルニ及テ世子甫メテ五歳群臣之ヲ立ントス
國人 僉(ミナ)曰ク先君殘虐臣民塗炭ニ陥ル今又幼冲ヲ立

テハ國何ノ時カ安カラン浦添按司ハ仁人ナリ是民
ノ父母タルニ足レリト是ニ於テ正平五年庚寅遂ニ
察度ヲ推戴シテ王トス察度位ニ即テ弊政ヲ一洗シ寛
裕ヲ以テ民ヲ治ム而シテ恩威大ニ行ル夫人頗ル賢ニ
シテ内政亦修ル大中元年壬子明主朱元璋其臣楊載ヲ
シテ書ヲ齋シ來リ論ス其畧ニ曰ク古帝王ノ天下ヲ治 ̄ム
ル日月ノ照ス所遠邇アルコトナシ一視同仁ス元政綱
アラス天下大ニ亂ルコト十有七年朕布衣ヨリ起リ基
ヲ江左ニ開キ四方ノ不庭ヲ征ス臣民推戴 ̄シ皇帝ノ位
ニ即キ國號ヲ定テ明トイヒ元ヲ洪武ト建ツ爾チ琉


球東南遠處ニ在リ未ダ報知セス兹ニ使ヲ遣シテ往キ
論ス爾チ其レ之ヲ知レ察度其書ヲ受ケ明年其弟泰
期ヲシテ明ニ入貢セシメ表ヲ奉シテ臣ト稱シ方物ヲ
納ル明主賜フニ大統曆、金織文綺羅ヲ以ス且ツ泰期
等ニ衣幣ヲ賜フコト差アリ爾後每年入貢ス明主瑠求
ヲ改メテ琉球トス天授二年丙辰明主共臣李浩ヲシ
テ來ラシメ馬及ヒ硫磺ヲ市ハシム弘和二年壬戌明
主其臣路謙ヲシテ來ラシメ幣帛ヲ賜フ謙、國ニ歸テ明
主ニ告ルニ三山雄ヲ爭ヒ國內兵戰息マサルヲ以ス
三年癸亥中山王察度其臣亞蘭匏ヲ明ニ遣ハシ表賀

【左頁枠外上の注記】
天授元年乙卯
明主琉球ノ山
川ヲ福建ニ附
祭ス

セシム山南王承察度亦其臣師惹ヲシテ入貢セシム明
主中山王ニ賜フニ金銀印幣帛ヲ以ス山南王ニ賜フ
ニ幣帛ヲ以ス明主又其臣梁民及ヒ路謙ヲシテ中山王
ニ令シテ兵ヲ息メシム其畧ニ曰ク王能ク天ニ體シ
大ニ事フルノ禮ヲ行ヒ毎歳人ヲシテ朝貢セシム朕王
ノ至誠ヲ嘉ミス近々使者歸リ言フ琉球三王互ニ爭
ヒ農ヲ廢シ民ヲ傷ルト朕甚タ潣ム王其 ̄レ戰ヲ罷メ民
ヲ息ヘ務テ爾ノ德ヲ修メバ國家永ク安カラン又山
南王承察度山北王怕尼芝ニ令シテ曰ク天生民ノ互ニ
殘害スルヲ恐レ聰明ノ人ヲ生シテ之カ主トス邇者


琉球國王察度使ヲシテ來ラシメ山南王承察度亦人ヲ
遣ハシメ入覲ス深ク嘉尚スヘシ近々使者歸リ言フ流
球三王互ニ爭ヒ農ヲ廢シ人ヲ殘フ朕聞テ潣ム今二
王ニ論ス能ク朕カ意ヲ體シ兵ヲ息ヘ民ヲ安スレハ則
チ天必之ヲ佑ケン然ラスンハ悔トモ及コト無シ三王
其令ヲ受ケ始メテ和ヲ講シ戰ヲ息ム僧頼重卒ス賴
重ハ我邦ノ人ナリ是ヨリ先キ琉球ニ至ル王爲ニ寺
ヲ波上山ニ建ツ名ツケテ護國寺ト云元中五年戊辰
明主獲ル所ノ元主ノ次子地休奴ヲ琉球ニ流ス七年
庚午宮古八重山相率ヰテ來貢ス是ヨリ先キ中山ノ

【左頁枠外上の注記】
元中二年乙丑
使ヲ明に遣ハ
シ元旦ヲ賀ス
太祖海舟各一
ヲ中山山南ノ
二王ニ賜ヒ駝
紐鍍金銀印各
一ヲ山南山北
ニ王ニ賜フ

使、明ニ至リテ宮古島ニ漂着ス島人琉球大國ニ事フ
ルノ禮ヲ見テ感スル所アリ屬島ヲ率ヰテ臣ト稱シ
貢ヲ納ル是ヨリ中山益强シ九年王壬申王及ヒ世子武
寧使ヲ明ニ遣シ表ヲ進メ馬ヲ貢ス且ツ郷子日孜毎
濶八馬寨宮子仁悦慈三人ヲシテ國子監ニ入テ書ヲ讀
マシム明主禮遇甚タ厚シ明主又閩人三十六姓ヲ賜
ヒ朝貢譯使ニ充ツ始テ音樂ヲ節シ禮法ヲ制ス是ヨ
リ文教日ニ啓ク明主稱シテ禮義ノ邦トス此年山南王
亦卿子三五郎尾、及 ̄ヒ寨子實他盧尾賀段志、三人ヲシテ
明ニ往シメ監ニ入テ書ヲ讀マシム宮古八重山臣服


シテヨリ察度漸ク驕奢數丈ノ髙樓ヲ建築シ以テ遊
觀ニ備フ曰ク予レ此樓ニ居ル誰カ敢テ害ヲ加ヘン
ト夜ニ當テ蛇アリ王ノ左手ヲ咬ム手終ニ腫爛シテ
斷ツ是ヨリ病ヲ發シ位ニ在ルコト四十六年應永二年
乙亥十月五日薨ス歳七十五察度ノ朝ニ當テ本部郡
人健堅大親ナル者良馬ヲ海濱ニ獲タリ會〻明人漂
泊ス其馬ヲ見テ懇ニ求メ國ニ歸テ明主ニ獻シ遂ニ
明主ノ乘トナル某年正月且 ̄ニ粟 ̄ノ王城庭中ニ雨(フ)ルアリ人
以テ瑞トス
武寧王名ハ中之眞物、察度王ノ子母ハ勝連按司ノ女

正平十一年丙申生ル應永三年丙子父ニ繼テ王トナ
ル使ヲ明ニ遣シ方物ヲ貢ス察度ノ■【喪の異体字】ヲ秘メ訃告セ
ス山北王珉薨ス其子攀安知繼テ立ツ亦使ヲ明ニ遣
ス山南王承察度亦屢〻使ヲ明ニ遣ハシ土物ヲ貢ス十
年癸未明主朱棟、行人邉信等ヲシテ來ラシメ其父朱元
璋ノ■【喪の異体字】ヲ告ク是ニ於テ武寧亦使ヲ明ニ遣シ始テ察
度ノ喪ヲ告ゲ上表シテ明主ノ即位ヲ賀ス山北王攀
安知、亦使臣ヲ明ニ遣ハシ方物ヲ貢シ上表シテ冠帶
衣服ヲ請フテ以テ國俗ヲ變センコトヲ乞フ明主之ヲ
許ス十一年甲申明主行人時中ヲ遣ハシ察度ヲ賻祭


シ武寧ヲ封シテ中山王トス其冊文ニ曰ク聖王ノ治
萬邦ヲ協和シ繼承ノ道常典ニ率ヰ由ル故ノ疏球國
中山王察度命ヲ皇考太祖高皇帝ニ受ケ東籓ニ屏タ
リ克ク臣節ヲ修ム联位ニ即クニ曁ンテ率 ̄ヰ先シテ誠
ヲ歸ス今既ニ殁ス爾武寧乃 ̄チ其世子タリ特ニ爾ヲ封
シテ琉球國中山王トシ以テ厥世統ヲ承シム惟儉以テ
身ヲ修メ敬以テ德ヲ養ヒ忠以テ上ニ事ヘ仁以テ下
ヲ撫シ克ク兹道ニ循ヒ海邦ヲ鎭シ永世延祚センコト
ヲ欽メヤ察度明ニ通セシヨリ後屢〻進貢シ武寧ニ至
リ始テ冊封ヲ受ク後以テ例トス新ニ天使舘ヲ建ツ

【右頁枠外上の注記】
應永五年戌寅
明主國王ニ冠
帶諸臣ニ冠服
ヲ賜フ

應永十年癸未
明大祖汪應祖
ヲ封シテ山南
王トス

同年山南王汪應祖方物ヲ明ニ貢シ承察度ノ喪ヲ告
ケ襲爵ヲ乞フ明主之ヲ許ス應祖又使ヲ明ニ遣ハシ
後又其臣李傑等ヲシテ監ニ入テ留學セシム朝鮮、瓜哇、
暹羅國等來テ好ヲ通ス公舘ヲ那覇ニ建テ親見世ト
曰フ又公倉ヲ建設シテ貿易ノ物ヲ藏ム名ケテ御物
城トイフ《割書:歳月|未詳》武寧■■【淫荒の異体字】度ナク國政廢頽ス佐敷按司
尚巴志兵ヲ起シ來リ攻ム武寧衆叛キ勢屈シ遂ニ城
ヲ舉テ降ル巴志其父思紹ヲ奉シテ王位ニ即カシム
時ニ應永十二年乙酉ナリ武寧終ニ遁逃シ其終フル
所ヲ知ラス


   察度ヨリ武寧ニ至ルマテ二世凡ソ五十六年
   ニシテ察度ノ統亡フ
尚思紹王
尚思紹王名ハ君志眞物、父ハ鮫川大主母ハ大城按司
ノ女思紹人トナリ純厚恭儉此時ニ當テ琉球分裂シ
テ■【鼎の異体字】足ノ如ク互ヒニ歒視シ相攻擊ス思紹ノ子巴志
聰明英武統御ノ才アリ思紹之ヲ知リ代テ佐數按司
トシ退隠シテ老ヲ養フ巴志兵ヲ起シ中山ヲ亡スニ
及テ父思紹ヲ奉シテ君トシ自ラ輔翼ス臣民悦服 ̄シ中
山始テ安シ應永十四年丁亥使ヲ明ニ遣ハシ武寧ノ

喪ヲ告ク明主思紹ニ命シテ爵ヲ嗣カシメ皮弁冠服ヲ
賜フ十七年庚寅使ヲ遣ハシ明ニ入貢セシメ模都古
等三人ヲシテ監ニ入テ書ヲ學ハシム山南王汪應祖
亦屢使ヲ遣 ̄ハ シ明ニ入貢ス十八年辛卯坤湛彌等ヲ
シテ明ニ貢セシメ明主ニ琉シテ曰琉球ノ長史王茂、政ヲ
輔佐スルコト茲ニ年アリ請フ王茂ヲ以テ國相トシ長
史ノ事ヲ兼子シメン長史程復ハ先王察度ノ世ヨリ
政ヲ佐クルコト四十余年勤誠懈タラス今年歳八十一
請フ命シテ致仕シメ郷ニ還ラシメン閃主報可ス二十
年癸己模都古等歸省センコトヲ乞フ明主ノ曰ク遠人


來リ學フ眞ニ美事ナリ親ヲ思テ歸 ̄ル モ亦人情ナリ
厚ク物ヲ賜ヒ驛傳ヲ給シテ之ヲ榮シ且ツ留學生ニ
冬夏衣ヲ賜フ二十二年乙未明主山南王汪應祖ノ長
子他魯每ヲ封シテ山南王トス初メ山南王承察度嗣子
ナシ終リニ臨ンテ遺命シテ從弟汪應租ヲシテ國事ヲ
攝セシム明主汪應祖ヲ封シテ山南王トス其兄達勃
期其主ヲ弑シテ位ヲ簒ハンコトヲ謀ル各寨諸按司
兵ヲ合セ達勃期ヲ伐テ之ヲ誅シ王ノ長子他魯毎ヲ
推シテ國事ヲ攝セシム是ニ至テ明主行人陳季芳ヲ
遣ハシ封シテ山南王トス二十三年丙申使ヲ明ニ遣

ハシ使臣ノ罪ヲ謝ス是ヨリ先キ琉球遣ハス所ノ使
臣直佳魯、法ヲ犯シ誅セラル明主王ニ論シテ曰ク比
ロ【?】王ノ使臣直佳魯等京師ニ來リ联之ヲ優待ス還ル
ニ及テ福建ニ至リ■【壇(ホシイママ)ヵ】ニ海舶ヲ奪ヒ官軍ヲ暴殺シ中
官ヲヲ毆傷シ其衣物ヲ奪フ直佳魯首罪、刑スルニ大辟
ヲ以テス其余阿勃馬結制等六十七人之ト惡ヲ同ス
罪亦死スヘシ王ノ忠誠ヲ眷シ特ニ赦シテ遣歸セシ
ム今ヨリ使ヲ遣ハス冝シク戒謹シテ朝憲ヲ犯スコト母
レ此年中山王山北ヲ滅ス山北王攀安知勇ヲ恃テ■【淫の異体字】
虐ナリ罷臣平原勇力アリ士卒頗ル驍健城池險阻ナ


リ明ノ封冊ヲ受ケシヨリ矜肆益甚タシク平原ト謀
リ中山ヲ滅サントス日ニ軍馬ヲ整頓ス羽地接按司名
護按司等中山ニ降リ告ルニ山北王兵ヲ閱スル事ヲ
以シ速ニ之ヲ征センコトヲ請フ是ニ於テ中山王世子
巴志ニ命シ急ニ軍馬ヲ督シ山北ヲ征セシム巴志即 ̄チ
浦添越來讀谷山名護羽地國頭ノ六按司ヲ率ヰテ先
ツ發シテ寒汀那港ニ至ル攀安知平原ト謀リ力ヲ協
セテ防禦ス巴志進テ城ヲ攻ム城上箭ヲ放ツコト雨ノ
如ク向フ可カラス浦添按司大ニ呼テ曰ク是レ忠臣
死ヲ致スノ日ナリ勇ヲ奮テ挺進ス諸軍先ヲ爭テ攻

擊ス城固 ̄フ シテ拔ケス乃チ戰ヲ罷メ日ヲ曠スルコト數
日巴志曰ク攀安知■【淫の異体字】虐無道千軍アリト雖トモ其實ハ
心服スルニ非ス其將平原等勇アルト雖モ智ナシ且
ツ貪人ナリ謀ヲ以テ之ヲ破ラハ何ノ難キコトカ之ア
ラン乃チ羽地按司ヲ召シ具サニ地形ヲ問フ曰ク此
城四面險塞攻ルコト難シ而シテ城ノ西南隅絶壁最モ險
ナリ意フニ歒必ス備ヲナサヽルヘシト巴志大ニ喜
ヒ乃チ輕捷ノ者ヲ撰ヒ多ク幣帛ヲ齎ラシ夜ニ乘シ
城ノ西南隅ヨリ崎嶇險ヲ踰ヘ縄ヲ以テ城ニ懸ケ縋
シテ入リ窃ニ平原ヲ見テ㗖スニ幣帛ヲ以テシ喻ス

ニ利害ヲ以ス平原遂ニ內應センコトヲ約ス次日平原
從容トシテ安知ニ說テ曰ク久シク出戰ハス歒必我ヲ
以テ怯トセン臣請フ王ト交番出テ戰ハン歒ヲ敗ル
コト必セリ安知之ニ從ヒ平原ニ命シテ居守セシメ自
ラ軍ヲ率ヰテ突戰ス巴志北軍ノ出ルヲ見テ急ニ命
シメ軍ヲ分チ城ノ西南隅ヨリ攻メ入ラシメ自ラ兵ヲ
督シ歒ヲ迎フ安知奮戰ス巴志ノ兵大ニ敗走ス安知
勝ニ乘シテ追擊ス忽チ城中火起リ烟■【燄の異体字】天ニ漲ル安知
急遽兵ヲ麾ヰテ城ニ還ル平原刀ヲ提ケ來リ迎ヘ叱
シテ曰汝無道今吾汝ヲ斬テ中山ニ降ラント安知大 ̄ニ

中山国使略

【表紙】
中山国使略 全

       冨岡手暠校正
中山国使略
 嘉永三戌新鐫  若林堂板

【蔵書印「寶玲文庫」】

其国薩州の南一千六百里福州の
正東一千七百里にあり
其地の形ち角なき龍の流れたるが如し
因て流虬(りうきう)といふ東西の広さ数十里
南北四百四十里中山の都首里より
南ハ喜屋武(きやむ)の海辺迠五十里
北ハ国頭(くにきや)の海辺迠三百八十里


  琉球輿地図

   南
  東 西
   北

  【図中地名】
  島尻省
    佐敷 知念 具志頭 麻文仁 真壁 喜屋武 
    大里 玉城 豊見城 小禄 兼城 高嶺 

  中頭省
    東風平 南風原 真和志 那覇 久米 那覇港
    首里
    勝連 與那城 中城 西原
    具志川 越来 浦添 美里 宜野湾 泊 泊津
    北谷 読谷山

  国頭省
    久志 金武 恩納
    国頭 大宜味 名護 今帰仁
    羽地 本部 運天


○我正和中国分れて三と成中山
山南山北と云我永享年中又/併(あは)せて
一統し三省に分つ中山を中/頭(きや)省とす
首里(しゆり)泊(とまり)那覇(なは)真和志/南風原(はへばる)東風平(こちたいら)
西原(にしばる)浦添/宜野湾(きのわん)中城/北谷(きや)読谷山(よんたんさん)
勝連(かつれん)與那城(よなぐすく)越来(こへく)美里(みさと)具志川の諸府
此に属(ぞく)す山南を島尻省(しましりせい)とす大里
玉城/豊見城(とみくすく)小禄(をろく)兼城/高嶺(たかみね)佐敷(さしき)
知念/具志頭(くしきや)麻文仁(まふい)真壁喜屋武の
諸府此に属(ぞく)す山北を国頭省とす
金武(き*たけ)恩納(おぐな)名護(なこ)久志(くし)羽地(はち)今帰仁(いまきにん)
本部/大宜味(おほきみ)国頭(くにきや)の諸府此に属す

○国王の都する処を
首里と云湊を那覇と云
大港(おほみなと)也属島三十六あり
遠近つらなりめぐる海上の
里数南北三千里東西
六百里なり諸島は察(ざ)
侍紀(しき)官を遣はして治しむ
此を奉行といふ大平山
八重山大島は島大なる故
三人/馬歯(ばし)は二人
其外は各一人
なり只巴麻伊計
椅山硫黄の
四島は尤小なれば
官をおかず◇
◇土着(ゐつき)の
頭目(やくにん)官を
して治めしむ


  琉球属島全図

   南
  東 西
   北

  【図中地名】
  阿喇姑斯古
  巴梯呂麻 姑弥 巴麻度 由那姑咒
  姑呂世麻 達奇麻奴 烏巴麻
  達喇麻 八重山 面郡
  姑李麻 伊良保
  烏噶弥 太平山 伊計麻
  津堅 姑達佳 東馬歯 西馬歯 姑米山
  琉球
  巴麻 伊計 由論
  度那奇 椅山 安根㞾 伊平屋 硫黄
  由呂 度姑 永良部
  佳奇呂麻 烏奇奴
  奇界 大島


○此二図伝信録の図を縮小す里
数その外も悉く伝信録に拠る

   ○日本江徃来の始
琉球事略に云。後花園院。宝徳三年七月。琉球人来りて義政将軍
に銭千貫と方物(そのくにのもの)を献す。是よりして其国人兵庫の浦に来りて
交易すと云々。案るに十五代尚金福といへる国王位に在し時也
夫より代は四代後花園。後土御門。後柏原。後奈良年は百二十
三年を歴て。正親町院元亀十一年琉球人来りて産物を献ずる
薩摩国とは隣国なれば。深く好を通じ綾船と名付て。年毎に
音物を贈りしが慶長年中。彼国の三司官。邪那といふ者。大明
と議(はか)りて国王をすゝめ日本江の徃来をとゞめける故薩州の
大守。島津陸奥守家久。使を遣はして故を糺すに。邪那。使
に対し。種々の無礼を振舞ければ家久大に憤り。同十三年
駿府に趣き
神君に見え奉り兵を遣はして誅伐すべき旨を請ふ
神君家久が所存にまかすべきよし鈞命ありければ翌年二月。
兵船数百艘を遣はして攻討しむ。諸士功を抽(ぬきん)で攻入し。同年
四月首里に乱入し。国王尚寧を擒(とりこ)にして凱陣す尚寧王。日本
に居事三年也/過(あやまち)を悔罪を謝し漸々本国に帰る事を得たり
時に慶長十六年也此時
神君家久に琉球国を属し給ひけるより。永代附属の国と
なり臣とし仕ふる事甚敬めり夫よりして将軍家御代替
には将軍家の鈞命を。薩州侯より伝達せられて。しかうして
後位を嗣。他日恩謝の使を奉るなり。其国唐と日本の間故に
嗣封の時は清よりも冊封を受るなり。去とも唐へは遠く。日本
へは近き故。日本の扶助にあらざれば常住の日用をも弁ずる
事あたはず去によりて。国人/耶麻刀(をまと)と称して甚日本を
尊となん○今年来聘の正使玉川王子副使野村親方/従官(つれ〴〵)は
賛議官我謝親雲上楽正伊舎堂・・・掌翰使伊野波・・・
儀衛正高嶺・・・楽師五人譜久山・・・国吉・・・幸地・・・
楚南・・・名幸・・・楽童子六人新城里之子小録・・・與那原・・・
宇地原・・・安谷屋・・・松堂・・・正使使賛五人外間親雲上真境
名・・・崎山・・・国場・・・宇江城・・・副使使賛二人瀬嵩親雲上
金武・・・正使従者八人渡久地親雲上儀間・・・末吉・・・上間・・・
平安座・・・渡嘉敷・・・真栄城・・・知念・・・賛議官従者仲村
柔親雲上正使小姓二人我那覇里之子川平・・・楽正従者伊集
里之子正使内上江洲親雲上喜舎場・・・名幸親雲上内大田里之子
副使内祝嶺里之子賛議官内川上筑登之供琉人新垣筑登之
正使内屋嘉部筑登之徳永子副使内仲尾次子佐久本子儀衛正内
糸数子小録里之子内長濱筑登之路次楽人金城筑登之宮城
筑登之神谷・・・真玉橋・・・瀬底・・・平良・・・大城仁屋玉城・・
仲村柔・・新垣・・大城・・知念・・喜屋武・・比嘉・・新垣・・宮城
大城小橋川・・比嘉・・新垣・・新垣・・平良・・大城・・知念・・
宮城・・金城・・又吉・・具志・・上原・・徳村・・国吉・・知念・・石原
仁屋城間・・新垣・・仲村・・比嘉・・知念・・玉奇・・親川・・
真栄城・・普天間・・玉城・・金城・・津嘉山・・比嘉・・金城・・
大城・・冨田・・又吉・・小波津・・人数九拾九人なり
○薩州鹿児島を立て同国群見崎より乗船玄海のり
 廻し小倉より瀬戸内へ入る大坂川上り伏見より上陸
 美濃路東海道をへて来る御伝馬を賜ふ

【上段】
    世系
天孫氏 父を志涅利休といひ母を
   阿摩美久といふ開闢の王なり
   世々国王たりしが卄五世にして
   絶ゆ年数知るべからず
○《割書:第|一》舜天 為朝の子
○《割書:第|二》舜馬順熙 舜天の子
○《割書:第|三》義本 舜馬順熙の子位を
   英祖にゆづりて隠る舜天より
   義本迠三代共に七十三年
○《割書:第|四》英祖 天孫氏の後恵祖の孫
○《割書:第|五》大成 英祖の子
○《割書:第|六》英慈 大成の二子
○《割書:第|七》玉城 英慈の子此時国分れて
   三となる玉城を中山王といひ
   大里按司を山南王と云今帰
   仁按司を山北王と云三山戦争
   止まず我正和年にあたる
○《割書:第|八》西威 玉城の子英祖より
   西威迠五代共に九十九年
○《割書:第|九》察度 奥間大親の子
○《割書:第|十》武寧 察度の子二代共に
   五十六年
○《割書:第|十一》思紹 本佐舗按司なり
○《割書:第|十二》尚巴志 思紹の子三山を一統す
   明より尚姓を給ふ我応永中
   にあたる
○《割書:第|十三》尚忠 巴志の二子
○《割書:第|十四》尚思達 忠の子
○《割書:第|十五》尚金福 巴志の六子
○《割書:第|十六》尚泰久 忠の二子
○《割書:第|十七》尚徳 泰久の三子思紹より
   こゝに七代共に六十四年
○《割書:第|十八》尚圓
○《割書:第|十九》尚真 圓の子
○《割書:第|二十》尚清 真の五子
○《割書:第|卄一》尚元 清の二子
○《割書:第|卄二》尚永 元の二子
○《割書:第|卄三》尚寧 真の孫尚懿の子
   慶長十四年島津家久に降り
   翌年駿府江戸に来り罪を乞ふ
   皇国に留(とゞま)る事四年にして国に
   帰る事を得たり
○《割書:第|卄四》尚豊 永の弟
○《割書:第|卄五》尚賢 豊の三子
○《割書:第|卄六》尚質 賢の弟


【下段】
   ○和歌
国人和歌をよくすることの径々(まゝ)あり
是 皇国の淳化遠裔島嶼(めぐみとをくしま〴〵)に
至るを知るべし因てしるす

 元禄中清の北京にまいりて国に
 かへりなんとせし時よみ侍る
            池城親方
たれも見よ今そまことのからにしき
 きたのみやこをたちいつる袖【?】

 忍恋         真壁親方賢寛
こゝろのみかよはぬ時はなけれとも
 よそ目にかゝる月とそくるしき

 松浦といふ所にいたりて九月十三夜
 の月を見て
            読谷山王子朝恒
秋ことに見しをともとてふるさとの
 そらなつかしく見ゆる月哉

 追風なしとてかの所に十日あまり
 舟をとゝめしころ
追風ふくかせのたよりをまつらかた【?】
 いく夜うきねの数つもるらん

 須广【磨】の浦にて敦盛の塚を見て
須广のうらにちりうく花の数とへは
 あはれとしらぬまつ風そふく

 伏見の里にて
たれもかくさひしきものかくさまくら
 ひとりふしみの夜半の月かけ

 唐崎の松
うら風もえたをならさぬ御代なれは
 猶もさかへんからさきのまつ

 真野の入江
しもむすふ尾はなか袖にいきさえて
 まのゝいりえになとり鳴なり

 鏡山
くもりなき御代のかゝ見の山なれは
 きみか千とせのかけも見へけれ

 田子の浦にてふしの山をみて
おもひきや田子の浦辺にうちいてゝ
 ふしのたかねの雲をみんとは
 ふしの山を
人とはゝいかゝこたへんことの葉の
 およはぬふしのゆきの国たへ
 霜月の初つかたむきしの国のいたり
 かの所に月を見て
たひころもはる〳〵きてもふる■に
 かはらぬものはむかふ月かけ

 藤枝といふ所にて雪つもりける
 あした
夜の月とはくさのまくらに月さえて
 あさたつのへにつもるしら雪

 松尾山
ときはなるいろこそみへぬ松尾やま
 みねもふもとも雪のふれゝは

【上段・前頁の続き】
○《割書:第|卄七》尚貞 質の子
○《割書:第|卄八》尚益 貞の孫尚純の子
○《割書:第|卄九》尚敬 益の子
○《割書:第|三十》尚穆 敬の子
○《割書:第|卅一》尚成 穆の子
○《割書:第|卅二》尚顥 成の子
○《割書:第|卅三》尚育 顥の子
○《割書:第|卅四》尚泰 育の子

舜天即位文治三年丁亥より今年
嘉永三年庚戌迠六百六十五年なり
其内革命四度なり


【下段・前頁の続き】
 深草の里
ふるゆきにうつみの床もうつもれて
 冬そあわれはふかくさの里

 ある人へかへし
袖のゆきあはれをかけしことの葉々
 君かこゝるのほともしらなん

 祝の心を
なみ風もおさまるきみか御代なれは
 みち遠からぬ日の本の国

 初春
あつさゆみはるきにけらしあけみたる
 遠のたかねにかすみたな引

 山家花
はるきても花なかりせはやまさとは
 なにのたよりに人めまたまし

 竹林燈
すむやたれ竹のはやしのふかき世に
 あるやなきかのともしひのかけ

 ふたゝひ東におもむく時
冨士のねはめつらしけれはいくたひも
 はしめてむかふこゝちこそすれ

 浮島かはらにて
ふしの根のゆき吹おろすやま風にふとむらくもるうき嶋か原

 二階氏に贈る
ふみそめしあとをむかしのちきりにてなをしるへせよしきしまの道

 淀の舟にて女に物を贈るとて    東風平里之子
ぬしやたれうき名たつとも空たきのけふりくゝふることもあらはや

 寛政己酉来聘の時         宜野湾王子
かきりなき山をいくえかなかめきてそれそとしるき雪のふしのね

 八丈が島にて
流   故  御 上 様  拝 仰  得   嬉しき
なかれ舟よゑにおんかみさまをかておよせうるをのなつかしゆ■ん

  末の一首はかの属島大島の人さきの年八丈に漂流し
  けるに土官(やくにん)のあつきめぐみにあひしを嬉しう
  おほえし余り巳【己】の陋拙(つたなき)をわすれて胸懐(おもひ)を述し
  なり是また 皇化の夷蛮(いばん)に及ふを仰くべし


    雑事
国人の性質(もちまへ)沈重(しつか)にして度量(しあん)あり事に臨んて動揺せずよく
名教(めいかう)を修め礼儀を厚し旧典を守り鬼神(かみ)を崇敬す自ら
守礼の邦《割書:首里の街口に木榜あり|守礼之邦としるす》を称するも宣【宜】なり慶長以後
かの代替りに使者を献り嗣目の礼を行ふを恩謝使といひ
大樹の御代替らせ給ふに使者を献して賀し奉るを慶賀
使といふ清主よりも王の代替に使をつかはして王位を嗣しむ
是を冊封使と云○冕(べん)は明の製也黒き紗にて作る国に在
ては王の外/臣(しん)鹿(しゝ)【?】猥(みだり)に冠せず只帕を用ゆ帕本は頂上を給ふて
髻をおふひし也今は紙に糊して骨とし上に帕を帖す前七
層(ひだ)後十二層あり色を以て差を分つ衣をは衾といふ寛博に
して袖の長さ手の指に及ふ裏衣は小也/帛葛(きぬあさ)を以て作る
帯は長サ一丈四五尺幅六七寸/腰(こし)間にまとふ共に差あり襪は斯
方足袋と同し草履木履も同し

【前頁の続き】
○男子の童形は大髻に一尺余の長簪を挿(さ)す女子と同容也
唯腰間帯をなすを異(ことなり)とす年十七八或は二十歳斗にて元服す
頂髪(いたゞき)の中心(たゝなか)を剃(そり)て小髻となし短簪二をさす一は頭は水仙花の
如く柱は六ツ稜也一は耳控形にして共に五六寸斗也卄四五に
至りて鬚(うへひげ)を生し卅一歳より髯(したひげ)を貯(たくは)ふ儒は清の国子監に
学ふ医は清に学ひ又薩府に学ふ清と薩とに学ふ者にあら
されは治術を施す事を禁せらる故に国医に学ひて私に療(りやう)
法(ち)をなすものは印篭を提け薬筥を持つ事を得ず其外
書学(てならひ)は粂村の人は古法帖(いしずり)を習ひ清音を以て読書す其余
の人は多くは 皇国の平仮名を習ひ大橋玉置様を尊み読
書も 皇国の如く顛倒(かへりてん)句読を用ゆ画は和漢の中間(あいだ)にして
自ら一家の風あり楽は明清を受て其器を用ゆ合奏唱歌
等あり即ち万年春賀清朝楽聖朝歓楽歌想郷歌春佳
景鳳凰吟慶皇都、閙元霄、雑囉等之更に自国の俗楽あり
又立花茶事棊局の類大概 皇国にひとしく武伎(ぶけい)は弓馬
火炮の術あり又国人よく拳法(けんほふ)を修(しゆ)す其/左(めう)なるものは拳を
以て甕(かめ)を破(わ)りよく人を殺すに至る凡そ男は外に出て官役(やく)を
服(こと)として家事をしらず婦は内に在て家政を理(おさ)む○女子は
五六歳に至れは棉花苧帛(めんくはちよはく)を授けて女工を習はしめ十五六
歳ばかりにて娉せられて嫁す嫁娶の礼/貴戚官家(きにんれき〳〵)は自ら
伉儷の聘あり民家は米一俵銭二貫文を以て聘物(しるし)とす児を
産は古は胎毛(うぶげ)を剃さりしが近き頃は二三歳迠そるといへり女児は
針を以て指より腕まで多く小黒子を作る国中皆然り
衣は男に比ればやゝながし裳は短し下を畳みて二重とす行く
に風も開く事なし帯を用ひす手にて襟(ゑりさき)を持てゆく
凡そ人の妻となりては他人に逢ふ事を許さず親友になりて
初て見えしむ然れ共猥に言語を通る事なしたとへば人を
訪ふに主人外に出て家に在らされば親友といへ共戸内に
入らずして還るこれ淫行の嫌疑をさくる也国中の市には
女子のみ群集して有無を通じ男子はあづからず故に諸物
を負担(になは)して至るものなし皆頭に草圏をしき其上に諸
物を戴きて来る事 皇国八瀬の女子の如し士の妻も
共に出て交易す手に尺許の布を持ものは士の妻也と
いへり遊女は多く紅衫を着て玳瑁の簪をさす銀を用ふる
事をゆるさず途に官士に逢は草靸をぬきて地に伏す
民間の女は玳瑁の長簪を倒(さかしま)にさす
○人死すれは殯(**ほふむり)【フリガナ一部不詳】する事三年にして尸(かばね)の朽(くちる)をまちて取出し
泡盛を以て清く骨を洗ひ此を小き壺にいれて墓に納む
墓は山の側を横に穴を穿て中に壺を安置し穴の口に木
或は石にて枢扉を作る遠く望めば橋門(たいこばし)の如し今は此/制(しかた)止て
常の土葬と成て多く僧家に依ると云男の墓には白布と
笠をかけ杖を立草靸木履を置く女の墓は棕葉(ひろう)片扇と白
布をかくる事花筒を設け香炉を置か如し

【前頁の続き】
○国中三種の人髪を剃て僧の如し一は医也五官正と名く
一は王宮/埶茶(さどう)役也/宗叟(そう〳〵)と名く一は灌園(にはかた)司也共に黒き片帽(へんほう)
を冠す今頭を剃るものなし○僧は真言臨済の二宗のみ
なり天界寺を前王の塋地とす凡僧唐山に入て学ぶ事
を清より禁止す故に二宗共に薩府に来て学ぶとぞ享保
以前は琉僧 皇国諸州を行脚する事ありしが今は国禁と
なりて薩の封内のみ経過す
○次に器械(とうぐ)の図を出す是も一二を挙るのみ脱漏(おちたる)を尤(とが)むべからず


冕(ベン)  帕(ハク)  片帽(ヘンホウ)

紅帽(カウホウ)  金花簪(キンクハサン)

短褂(タンクハ) 《割書:路次楽(ロシカク)の者|此ヲカク》  長簪(チヤウサン)
          短簪(タンサン)二ツ

衾(キン)  襪(ベツ)  石帯(セキタイ)

韻鑼(ウンラ)

琵琶(ビハ)

【前頁の続き】
琉三絃(リウサンゲン)

鈸子(バツシ)

架鼓(カコ)

銅鑼(ドウラ)  銅鼓(ドウコ)

挿板(サウハン)  檀板(タンハン)
     三絃(サンゲン)

洋琴(ヤウキン)

  相思板(サウシハン) ヨツダケ

【前頁の続き】
十二律(ジウニリツ)  胡琴(コキン)

嗩吶(ソウナ)

二絃(ニゲン)  簫(シヤウ)  笛(テキ)

    四絃(シゲン)

提筝(テイサウ)  月琴(ゲツキン)

  擦絃(サツケン)  鞭(ベン) 開棍(カイコン)也

喇叭(ラツパ) ウマボウ

【前頁の続き】
張旗(チヤウキ)  銅角(トウカク) 《割書:ウシ|ホラ》

     鼓(コ)

牌(ハイ)

涼傘(リヤウサン)  涼傘(リヤウサン)張(ハ)ル形(カタチ)

虎旗(コキ)

轎(キヤウ)

【前頁の続き】


龍刀(リヤウトウ)

雨傘(ウサン)

衣家(イカ)


琉球我南海中に在て千百里をへだつといへども舟槎(しうさ)自(おのづか)ら至り
易(やす)く且(かつ)其国の性情(せい〳〵)及び百事の状態に至て甚 皇国(くわうこく)に
近(ちか)しとす往古(わうご)より我朝へ臣附するの国を清(しん)朝鮮琉球/阿蘭(おらん)
陀(だ)とす清は通商(つうしやう)のみにして長崎に止り朝鮮今/都下(とか)に来らず
阿蘭陀都下に来(きた)れども僅(はづか)に三人に過ず特(ひと)り琉球の聘使(へいし)已(のみ)
昭代外夷待遇(しやうだぐわいいたいぐう)の盛礼(せいれい)を仰察(けうさつ)するに足(た)れりとす且薩国の
英武(ゑいぶ)は普(あまね)く人の知る処なれども百代の今日に至て其/光曜(くわうよう)の
後昆(こうこん)に及ぶ事/他(た)の比(ひ)すべきにあらず今先/輩(はい)の諸/説(せつ)を引(いん)
書(しよ)して小帖子を綴(つゝ)る刻(こく)して児童の輩(ともがら)に此/盛事(せいじ)を示(しめ)さんと爾云

  嘉永三
   庚戌歳十一月  東都芝神明前
             若狭屋與市梓

【裏表紙】

中山聘使畧

宝永七庚寅年琉球国来聘使日記

【製本表紙】
【題箋】
琉球国来聘使者日記  全
【管理ラベル】
部類
登録番号 808
現在冊数 1
缺欠冊数 0
函架番号
冊数番号
備考

【見開き、白紙】

【右丁、白紙】
【左丁】
          【角印「宝玲文庫」】
  宝永七庚寅年琉球国来聘使日記【朱角印「福気館図書ヵ」】
一十月廿五日伏見発足十一月十一日江府着
 将軍家 御代替琉球国中山王代替付両聘使来朝
 松平薩摩守琉球両使卒之出府之事
一十一月十六日松平薩摩守被為召琉球両聘使召連
 罷越 御機嫌 思召因茲被任中将事
一十一月十七日 上使仙石丹波守を以今度薩摩守琉球
 両聘使召連参府之事 御満足被為 思召依之
 俵子三千俵被下置事
  琉球国両聘使従者等就
  御代替従中山王聘使

   正使(チンス)    美里王子(ミサトワウシ)朝禎
   副使(フクス)    富盛親方(トモリヲヤカタ) 紫巾大夫(シキンタイウ)
   附使(フス)    志賢原親雲(シケンハルバイキン)上 賛議官(サンキクワン)
   掌翰史(ツヤンスウ)   屋宜親雲(ヤキバイキン)上
   使賛(スサン)与力  嘉手刈親雲(カテカルバイキン)上
   同     玉城親雲(タマクスクバイキン)上
   同     湧川親雲(ユカハバイキン)上
   同役人   仲嶺筑登親雲(ナカミネチクトノバイキン)上
   楽師(ヤクスウ)    棚原里之子(タナバルサトノシ)《割書:小姓役兼之》
   楽童子   内間里之子(ウチマサトノシ)《割書:奏里王子之小姓役勤之|楽も勤之》
   富盛親方与力 前川里之子親雲(マヘカハサトノシバイキン)上
   医師    宮里安忠(ミヤサトアンチウ)
   楽正(ヤウチン)    江田親雲(ヱタバイキン)上 座楽主殿
   儀衛正(テイウイチン)   佐久本親雲(サクモトバイキン)上
   囲師(キヨスウ)    真喜屋親雲(シンキヤノバイキン)上
  中山王自分代替継目付差上聘使
   正使(チンス)    豊見城王子(トヨミクスクワウシ)朝匡《割書:年二十九》
   副使(フクス)    与座親方(ヨサヲヤカタ) 紫巾大夫
   附使(フス)    新城親雲(アラクスクバイキン)上 中官賛議官
   掌翰(ツヤンスウ)    宮城(ミヤクスク)親雲上
   使賛(スサン)与力  知念里之子(チネンサトノシ)親雲上
   同     喜屋武里之子(カキヤフサトノシ)親雲上

   同役人   久場筑登(クハチクトノ)親雲上
   同     伊佐筑登(イサチクトノ)親雲上
   楽師小姓  保栄茂(ホヱモ)里之子親雲上
   楽童子   糸満(イトマ)里之子
   与座親方与力 仲原(ナカハル)筑登親雲上
   楽師    照屋(テルヤ)里之子親雲上
   楽童子   伊舎堂(イシヤトウ)里之子
   同     根路銘(ネロメ)里之子
   同     津灞(ツハ)里之子
   同     盛山(モリヤマ)里之子
   同     小禄(ヲロク)里之子
   楽師    安慶田(アケタ)親雲上
   楽童子   野国(ノクニ)里之子
   同     内嶺(ウチミネ)里之子
    路次楽拾人
    牌持四人
    中間四人
    下官幷 跟伴(クンハン)等百三十五人
    総人数百七十人余
 右十一月九日松平薩摩守芝高縄之屋敷え着右之内一人
 旅行遠州浜松之駅にて病死同国之者会集建
 碑銘曰

    《割書:琉|球》燕姓中西筑登之墓
    燕姓中西筑登之者琉球国中山王
    使美里王子家臣也従美里王子往
    江都時宝永漆年庚寅十一月二日
    因病於遠州浜松駅行年四十埋屍
    於西見寺者也同国人泣血誌
     石塔高二尺五寸《割書:四角将基頭|台石五寸》
一十一月十八日琉球国中山王両聘使登 城路頭行列
【以下横向き書き】
鞭(ヘヱン) 牌(ハイ) 張簱(チヤンキイ) 銅鑼(キンラク) 三板(サンハン)

鞭 牌 張簱 両班 三板

喇叭(リイバ) 嗩吶(ツヲナ) 鼓(クウ) 虎簱(フウキ) 鎗(ツヤン)       使賛《割書:十人従之》 

               冷傘(リヤウサン) 轎(キヤウ)《割書:アケコシ|王子束帯乗之》 賛度使
                           十輩小姓也

喇叭 嗩吶 鼓 虎簱 龍刀(ロントウ)      使賛
 銅甬(トンコヱ)

牌 鎗    使賛        傘(サン)   傘《割書:カサリカサ》

   冷傘 轎    賛度使 跟伴(クンハン)  跟伴   騎馬
      豊見城王子        十人供奉  副使富盛親方
                          束帯にて騎馬
                          但登 城之節
                          乗物

牌 龍刀   使賛        衣家  衣家(イキヤ)
                      日本の挟箱

          傘    傘

使賛同前  十人供奉   使賛
    跟伴     騎馬      賛議官(サンニイクワン) 跟伴   賛議官    跟伴
                         同前          同前
            副使与座親方  志堅原親雲(シケンハルバルキン)上   新城親雲(アラウスバイキン)上
            束帯にて騎馬   王子の附役     同前

          衣家   衣家

楽正(ヤウチ)   跟伴  楽童小(ヤトンツ)  同       跟伴  同     跟伴  同
       同                 同         同
 江田親雲上   根路銘里之子 伊舎堂里之子     内間里之子      野国里之子
  束帯にて騎馬
  座楽主殿事(サカクシユラジ)

跟伴  同    跟伴  同    跟伴  同    跟伴 儀衛正(ニイウイチン) 跟伴  掌翰吏(ウマンハヤンス)
  同        同        同                同
     津灞里之子    糸満里之子    内嶺里之子  佐栄親雲上    屋宜親雲上
                              路次楽奉行    祐筆也

【右丁、横向き書き】
跟伴 同    跟伴 同囲師   跟伴
 同 宮城親雲上 同  真嘉親雲上 同
            厩別当の事也

            総而乗馬
              三十人
【左丁、絵図あり】
鞭 朱塗
  同
牌 中山王美里  両使各二本宛
  中山使豊見城

張(チヤン)
簱(キイ)
 金鼓
 金鼓
銅鑼(トンロウ)     嗩吶(ツヲナ)
   両班あり
喇叭(リイハ)     三板

銅甬(トンコへ)
   鼓(ロウ)
虎簱(フウキ)
虎簱(フウキ)
鎗(ケヤン) 美里王
虵刀(ロントウ)

   豊見城王子
白毛 朱塗
朱塗 涼傘 両使一本宛在之
      柄朱帛にて纒之
   緋縮綿

【右丁、絵図あり】
色銀
両使一本宛有之
雨傘
【左丁】
一両聘使登城道筋松平薩摩守幸橋屋敷迄今朝
 罷越夫より松平丹後守屋敷之脇酒井石見守屋鋪脇
 前相馬讃岐守阿部民部屋敷之間より霞ヶ関坂
 通り井伊掃部頭裏門より御堀端外桜田御門より
 秋元但馬守間部越前守屋敷前より和田倉御門井上
 河内守屋敷腰掛裏通り大手御門より登 城右之
 従者幷供之族行列等薩摩守申付之道筋御徒
 二組警衛之道筋面々より屋敷前警固出之
一正使轎に乗従者騎馬大手橋之先にて下馬使者に随
 正使下乗橋之前にて屋轎より下乗但旗持鋒
 持其外之役人大手腰掛に不残相残

一使者御玄関階之上に到時大目付出向令案内殿上
 之間下段着座従者同前次之間に列居下官は
 御玄関前庭上に罷在也
一今日御規式付出仕之面々侍従以上直垂四品狩衣
 五位は大紋無官素袍御役人は布衣着之
一薩摩守先達而登 城是又殿上之間下段座上に着座
一大広間 御出《割書:御直垂着御 鞘巻|紗紅》御太刀《割書: 御刀》御剣
一御上段《割書:厚畳三畳金入を以包之四方の角に|御総有之御褥御刀掛有之》御着座御簾掛之
 御座之御後座に御太刀役 御剣役間部越前守
 御小性衆御側衆御小納戸衆は御納戸構に罷在下段松平
 肥後守老中松平下総守着座若年寄衆は西之御縁
 頬に伺公
一松之間衝立を以仕切之間之御襖取払之
一御縁之方には御簾垂之其内に外様四品以上面々列座
一三之間に御譜代衆外様之面々列座
一南之方御縁々詰衆奏者番番頭御役人列居
一西之御縁之方に高家衆列居
一出御以前に薩摩守大広間松之間衝立之外迄相越仕之
一正使殿上之間より大目付案内大広間南之方御座鋪
 構之両使差置
一薩摩守出席下段御敷居之内にて御目見奏者番披露
 中段迄被 召出琉球人遠路召連御喜悦被為 思召

 之段 上意有之最前之席え退去老中被為 召使者
 御前え可差出旨被 仰出於 御諚之趣薩摩守え
 井上河内守達之老中列座
一薩摩守重て出席下段際東之方に着座
一従中山王献上之品々 出御已前より南縁東西より
 御目通り並居但御馬は諏訪部文九郎同文右衛門庭上に牽之
 献上之御太刀目録奏者番中段下より四畳目に置之
 中山王と披露使者出席下段下より四畳目にて拝而
 最前之席え退去御太刀目録奏者番引之進物は
 進物番西之方より柳之間え引之
一中山王代替御礼之使者献上之品々大広間後之間より
 進物番持出之如前置之御太刀目録奏者番中段下より
 四畳目に置之中山王と披露之使者出席下段より四畳
 目拝而最前之席え退去御太刀目録奏者番引之
 進物は進物西之方より柳之間え引之
一御代替御礼之使者自分之御礼献上物後之間より進物
 番持参之於板縁拝礼奏者番披露則最前之席え退去
一中山王代替之御礼使者自分之御礼献上物後之間より
 進物番持出之於板縁拝礼奏者番披露則最前之席え
 退去薩摩守も退去也
一薩摩守家来於板縁 御目見奏者番披露之
一両聘使大目付令差図殿上之間え退去下段に滞座

一右畢而四品以上之面々着座より直に御前え罷出
 御目見老中御挨拶畢て退去御簾垂之中奥御小性
 役之此時仕切之衝立後之間え御同朋引之畢而御簾
 揚之下段御敷居際 在御万石以上之面々其外一統
 御目見相済 入御
一右相済て老中殿上之間え罷越而両使及挨拶則退去其
 後大目付差図有之使者退散大目付御玄関階上迄先
 達而従者順々退却
一御小性組御書院番より出人三十人宛
一御書院番所より勤仕本番共に何も素袍
一大御番出人百人大広間之四之間勤番素袍着之
一出仕之面々乗物は大手之方除之内桜田之方に置之
一両聘使之屋轎は下乗橋之張番所之際置之
一両使之外一人も 御目見無之
    御代替付献上目録
   御太刀          一腰
   御馬           一疋
   青貝中央卓        一脚
   青貝硯屏         一対
   青貝篭飯         一対《割書:台共》
   羅紗内《割書:十間黒 |十間青 》        二十間
   縮緬           五十端

   島芭蕉布         五十端
   畦芭蕉布         五十端
   薄芭蕉布         五十端
   太平布          百疋
   久目島綿         百把
   寿帯香          三十箱
   香餅           二箱
   龍涎香          二箱
   泡盛酒          十壺
    中山王継目献上目録
   御太刀          一腰
   御馬代銀         五十枚
   沉金中央卓        二脚
   沉金丸中央卓       二脚
   沉金篭飯         一対《割書:台共》
   島織芭蕉布        五十端
   練芭蕉布         五十端
   薄芭蕉布         五十端
   太平布          百疋
   久目島綿         百把
   泡盛酒          五壺
    美里王子朝禎自分御礼献上

   寿帯香          十箱
   官香           十把
   太平布          二十疋
   島芭蕉布         二十端
   泡盛酒          二壺
    豊見城王子朝匡自分御礼献上
   官香           十把
   香餅           五箱
   練芭蕉布         十端
   島織芭蕉布        十端
   泡盛酒          二壺
    御台様え御代替付献上
 しん上
   寿帯香          二十はこ
   しやひん         二はこ
   りうせん香        五十袋
   いしの人形        二体
   玉の風鈴         一対
   ちんきんの御料紙箱御硯箱 二通
   とんす          二十本
   あやけんす        五十たん
   あわもり酒        五つほ

     已上        ちうさん王しやう益【*】
    御台様え自分継目付献上
 しん上
   御かもし        五かけ
   いしの手かゝみ     二てう
   玉のけんひやう     一さう
   青かいの御卓      一脚
   ちんきんの篭飯     一対
   ちりめん        五十まき
    内《割書:くれなゐ三十まき|しろ  二十まき》
   はせをふ        三拾たん
   あわもり酒       三つほ
    已上         ちうさん王しやう益
一琉球来翰返翰之写《割書:但御返翰は御暇之節被下之》
  謹 ̄テ裁_二 ̄シテ尺-楮_一 ̄ヲ呈-上_二 ̄ス閣-下_一 ̄ニ恭- ̄ク聞 ̄ク
  貴国
 大君新 ̄タニ紹_二 ̄テ
  国-統_一 ̄ヲ四-海昇-平 ̄ニシテ万-祥畢- ̄ク臻 ̄ル如_二 ̄キ吾 ̄カ
  小邦 ̄ノ【一点脱ヵ】亦 ̄タ不_レ ̄ンヤ效_二華-封 ̄ノ祝_一 ̄ニ乎今-茲 ̄レ特 ̄ニ
  遣_二《割書:小臣美里王子》_一 ̄ヲ捧_二不_レ ̄ル腆 ̄カラ之方-物_一 ̄ヲ従_二 ̄テ我 ̄カ
  薩摩 ̄ノ少将吉貴_一 ̄ニ謹 ̄テ奉_一【一点衍ヵ】

【宝玲文庫『琉球入貢紀畧』に「宝永七年十一月十八日、中山王尚益 、賀慶使美里王子・富盛親方、恩謝使豊見城 王子・与座親方等をして方物を貢す」とある】

 《割書: |レ》申【二点脫ヵ】
  賀-儀_一 ̄ヲ伏- ̄シテ冀 ̄ハ諸-大-老捧-納焉耑 ̄テ達_二 ̄セハ
  台-聴_一 ̄ニ曷 ̄ソ任_二 ̄シ悚-踴 ̄ノ之至_一 ̄リニ誠-惶不-宣
                 中山王
   宝永七年庚寅五月三日      尚益

    謹上
     土 屋 相模守 殿
     小笠原佐渡守殿
     秋 元 但馬守 殿
     本 多 伯耆守 殿
     大久保加賀守殿
     井 上 河内守 殿

  敬 ̄テ修- ̄シテ【二点脱ヵ】尺素_一 ̄ヲ奉_レ ̄ル表_二 ̄シ微-志_一 ̄ヲ去-歳薩摩
  太守少-将吉貴遵_二 ̄ヒ依 ̄ツテ
 鈞命之旨_一 ̄チニ許_三 ̄ス寡-夫嗣_二 ̄コトヲ先人 ̄ノ之業_一 ̄ヲ敝-国
  無_レ ̄シ異 ̄コト歓-抑何-極 ̄ンヤ茲 ̄ニ欲_レ ̄ヲ拝-_二謝 ̄セント
 洪-恩_一 ̄ヲ従_二於吉貴_一 ̄ニ《割書:小臣 豊見城(トヨミクスクノ)王子》献-_二 上 ̄ス輶-
  藝 ̄ノ之士宜_一 ̄ヲ伏冀 ̄ハ以_二 ̄テ諸-大-老 ̄ノ指-教_一 ̄ヲ耑 ̄テ達 ̄セハ【ニ点脱ヵ】
 台-聴_一 ̄ニ不_レ勝_二 ̄ヘ感-激 ̄ノ之至_一 ̄リニ誠惶不備
                 中山王

   宝永七年庚寅五月三日      尚益
    謹上
     土 屋 相模守 殿
     小笠原佐渡守殿
     秋 元 但馬守 殿
     本 多 伯耆守 殿
     大久保加賀守殿
     井 上 河内守 殿

  大-使 美里(ミサトノ)王子来 ̄テ接_二 ̄ス珢-函_一 ̄ヲ就- ̄テ審 ̄カニス
  遥 ̄ニ聞_二 ̄ク
 御-代-始_一 ̄ヲ即 ̄チ献_二 ̄シテ方-物_一 ̄ヲ以進-賀 ̄ス特 ̄ニ有_二仰-
  旨_一礼-待踰_二 ̄ユ常-儀_一誠-是
  賢-藩 ̄ノ之栄幸也
 賜-物如_二目-録_一 ̄ノ附_二 ̄シ帰-使_一 ̄ニ訖 ̄ル事 ̄ト具 ̄サニ可_レ ̄ク在_二
  薩摩中将報-知_一 ̄ニ候誠-恐不備
              井 上 河内守
  宝永七月十一月廿三日   源 正 岑
             大久保加賀守
               藤原忠増
             本 多 伯耆守
               藤原正永

             秋 元 但馬守
               藤原喬知
             土 屋 相模守
               源 政 直
   奉復中山王閣下


  倍音累- ̄リニ仍承 ̄テ為_レ告_二
  賢-藩承-襲 ̄ノ事_一 ̄ヲ特 ̄ニ差 ̄ハシテ【二点脱ヵ】使-臣 豊見城(トヨミクスクノ)
  王子_一 ̄ヲ献_二方物_一 ̄ヲ以進-謝誠-意遠- ̄ク著 ̄レ
 褒-弉愈《割書:〱》-加 ̄ル幸-甚 ̄ノ之至 ̄リニ候
 賜-物如_二 ̄ヲ別-録_一 ̄ノ附_二 ̄シテ使-者_一 ̄ニ還 ̄ス余 ̄ハ悉 ̄ク薩摩
 中将可_レ有_二報-問_一者也誠-恐不備
              井 上 河内守
  宝永七年十一月二十三日   源 正 岑
              大久保加賀守
                藤原忠増
              本 多 伯耆守
                藤原正永
              秋 元 但馬守
                藤原喬知
              土 屋 相模守
                源 政 直

   奉復中山王閣下
      右御返翰御儒者荒井勘解由作之


一十一月廿一日琉球人音楽被為 聞召付登 城
一両使松平薩摩守従芝屋敷増上寺表門通り通町え
 芝口御門前より御堀端幸橋屋敷際より日比谷
 御門八代洲河岸通り龍の口井上河内守屋敷前腰懸
 後通大手御門より登 城行列幷道筋警衛等
 如元
一使者幷従者下乗下馬如前御玄関至階上時板縁え
 大目付出向而令差図殿上間下段着座従者は同次
 之間に列居下官は御玄関庭上に群居
一松平薩摩守先達て登 城殿上之間下段に着座
一大広間御次之間に御譜代衆後座に諸衆並其外
 御役人寄合法印法眼伺公
一御縁に諸衆奏者番頭御役人列居
一西之御縁之方に高家衆列居
一出御已前より薩摩守大広間下段より五畳目東之方に
 着座御向之縁に畳敷之両使御縁敷居之際に伺公
 楽人は御向に列居

一音楽に付登 城之面々侍従以上は直垂四品は狩衣五位は
 大紋無官は素袍御役人布衣着之
一大広間 出御《割書:御小直衣着御黄ウコン|御指貫濃紫島手繈》
   御太刀《割書:鞘巻御太刀也》 大沢右衛門督
   御剣 《割書:常御刀   》 宮原刑部大輔
一御上段《割書:厚畳三畳金入を以包之四の隅に大総有之|白紅練交トンホウ結有之御褥御刀懸有之》
一御簾懸之
一御着座之御後座に御太刀役御剣役間部越前守
 幷御小姓衆列居
一御側衆御小納戸衆は御納戸構に罷在
一若年寄衆は御縁頬に伺公
一松平肥後守老中松平下総守下段四の方に着座
一御簾中奥御小姓揚之音楽初楽畢而御簾垂之也
 薩摩守は御次琉球人は殿上間え退去松之間衝立引之
一重而薩摩守出座 御目見奏者番披露之中段被
 召出老中取合言上有之 上意有之而退去畢而
 下段御敷居際 立御万石以上之面々其外一同に
 御目見相済 入御
一薩摩守え紅葉間にて御料理被下老中出席及挨拶
   饗応奉行       番頭一人
   給仕         進物番
一両使殿上之間於下段御料理被下老中出席及挨拶此時

 薩摩守は不出合通詞出る大目付出座
   饗応奉行       番頭二人
   給仕         進物番
一従者え柳之間次に而御料理被下之
   饗応奉行       御目付
              小十人頭
   給仕         小十人組
一楽人え時服三宛被下置之薩摩守え老中申渡月番
 老中一人出座《割書:但拝領物は御暇之節|薩摩守家来え渡遣之》
一御小姓組御書院番より出人廿人宛御書院番所勤仕之
 本番共に素袍着之
一大御番出人七拾人大広間四之間に勤番素袍着之
一出仕之面々乗物は大手之方除之内桜田之方に置之
一両使之屋轎は下乗橋之張番所際に置之
一薩摩守家来えも御料理被下之
   御料理被下置献立《割書:金銀御振舞二人前事|一人前三汁十一菜》
     本膳木地丸各
 金嘉下輪
   鱠《割書:鯛|赤貝  》      汁《割書:鶴|よめな》
    《割書:くり|せうか|きんかん| 》       《割書:大根|松茸|は牛房【蒡誤ヵ】|めうか【?】》
    小角香者
 いとめ
   煮物《割書:くしこ |包玉子》     食
     《割書:かちくり|せり|梅干》
      二
 高盛
   板箱《割書:鮟鱇|くわへ|すり山椒》     汁《割書:鯛背切|柚》

    小角蚫膓和
   切焼 《割書:味噌漬鯛》
       三
 在付地紙南天満笹
   刺躬 《割書:鯉子付|かき鯛》
      《割書:くらけ|わさひ|くねん母【九年母】》
    二之椀    いり鳥 《割書:雁|橘麸【不詳】》
 四ツ目            五ツ目
   一ツ焼 《割書:小鯛|かけ塩》        盛合《割書:雉子焼|かまほこ》
    大ちよく  《割書:子篭》
    肴足打紙敷 《割書:かい焼|山椒すり溜》
     吸物 《割書:大蛎|花海老》       浮麸《割書:【ウキフ】》
        《割書:ゆす》
       附後段
    酢あへ《割書:むき蜜柑|こらん小ゑひ》
     小皿香物
    茶菓子 《割書:おほろ饅頭|水くり》
        《割書:にしめ長いも》
    後菓子 《割書:かすていら|枝柿くるみ入》
        《割書:蒲薗【次コマでは蒲萄】|蜜柑》

    柳之間三汁八菜 《割書:四十人前|本木地高足打》
   鱠《割書:鯛|赤貝  》      汁《割書:鶴|よめな》
    《割書:くり|せうか|きんかん》       《割書:大こんいてう|牛蒡|松茸》
       香者
   煮物《割書:串海鼠 |包玉子》     食
     《割書:みる喰【?】|せり|梅干》

      二
   杉箱《割書:鮟鱇|すり山椒》     汁《割書:背切鯛|柚》
     切焼鯛《割書:然塩》
      三
   刺躬《割書:鯉子付 |かき寒月》     汁《割書:橘入|かけ茶》
     《割書:くらけ|わさひ|くねん母》
    四ツ目
      焼小鯛  かは焼
           山椒醤油
      吸物 《割書:大蛎|花海老》
         《割書:柚》
     附後段
    酢あへ《割書:大こん|小ゑひ》    浮麸
       《割書:むき蜜柑》
      香物
    茶菓子 《割書:おほろまんちう |あさち飴》  《割書:山椒もち|にしめ山のいも》
        《割書:水栗》
    後菓子 《割書:蜜柑|かすてら》    《割書:蒲萄【ブドウヵ】|かるめいら》

     楽相勤役付
 太平調(タイヘイシヤウ) 楽
  嗩吶(ツフナ)        照屋親雲上
  横笛(ホンテウ)        内間里之子
  横笛        津覇里之子
  鼓(ソウ)小銅鑼新心(シヤウトンロウスイシ)   伊舎堂里之子
  銅鑼(トンロウ) 両班(リヤウハン)     小禄里之子

  三金(サンキン)        根路銘里之子
  三板(サンハン)        野 国 里之子
  鼓 両班      伊舎堂里之子
  銅鑼 金鑼     小 禄 里之子
  三金        根路銘里之子【ママ】
  三板        野 国 里之子【ママ】
 不老仙(フラウスヱン) 楽
  嗩吶        照 屋 親雲上
  横笛        内 間 里之子
  鼓 銅鑼      伊舎堂里之子
  銅鑼        小 禄 里之子
  三金        根路銘里之子
  三板        野 国 里之子
 楊香(ヤンヒヤン) 明曲(ミンキヨ)
  管(クワン)         伊舎堂里之子
  胡琴(フウキン)        内 間 里之子
 寿尊翁(シウツフンヲン) 清曲(チンキヨ)
  長線(チヤンスヱン)       津 覇 里之子
  琵琶(ヒイハイ)        伊舎堂里之子
 長星苑(チヤンスヱンヱン) 御望之楽
  嗩吶        照 屋 親雲上

  横笛        内 間 里之子
  横笛        津 覇 里之子
  鼓 小銅鑼新心   伊舎堂里之子
  三金        根路銘里之子
  銅鑼 両班     小 禄 里之子
  三板        野 国 里之子
 芷蘭香(ツウランヒヤン) 楽
  嗩吶        照 屋 親雲上
  横笛        内 間 里之子
  横笛        津 覇 里之子
  鼓 小銅鑼新心   伊舎堂里之子
  三金        根路銘里之子
  三板        野 国 里之子
 寿星老(シウスインラウ)
  管         伊舎堂里之子
  二線        小 禄 里之子
  三線        内 間 里之子
  三線        野 国 里之子
  四線        津 覇 里之子
 正月(チンイヱツ) 清曲
  長線        小 禄 里之子
  琵琶        根路銘里之子

 三線歌(サンスヱンコウ) 琉曲    内 間 里之子【ママ】
  三線        津 覇 里之子【ママ】
  三線
    終
  十一月二十一日
  右楽譜幷楽器之図左記之

  楽之譜
庚寅十一月廿一日登_二 ̄リ金城_一 ̄ニ奉_レ ̄ル奏_二 ̄シ明清(ミンチン)曲歌(キヨコウ)_一 ̄ヲ
  楊香(ヤンヒヤン) 明曲(ミンキヨ)
陽-香打_レ ̄ツ虎 ̄ヲ年-方(マサニ)十-四性純-良事_レ ̄へ父致_レ ̄ス孝 ̄ヲ同 ̄ク往_レ ̄ク田 ̄ニ庄-
田辺 ̄ニ穫_レ ̄ル粟 ̄ヲ転- ̄シテ過 ̄テ入_レ ̄ル岡 ̄ニ見_二 ̄ル 一 ̄ツノ猛-虎【一点脱ヵ】奔_レ ̄リ父猖-狂 ̄ス将_二 ̄ニ父 ̄ヲ
啣 ̄ミ-去 ̄リ怒 ̄リ殺_一 ̄サント楊-香噯向 ̄ヒ前 ̄スンテ救_レ ̄フ父手 ̄ニ無_二 ̄シ刀-鎗_一踴-躍
前-進 ̄テ持_レ ̄シテ挙 ̄ヲ奔-忙 ̄ス只和_レ ̄テ有_レ ̄コトヲ父不_レ_二顧己 ̄ガ-亡_一 ̄スルヲ按_二 ̄ス虎 ̄ノ頭
上 ̄ヲ【一点脱ヵ】噯揮_二 ̄ヒ挙-頭_一 ̄ヲ踢_二 ̄ス眼-眶_一 ̄ヲ那-个 ̄ノ老-虎走- ̄リ了方 ̄ニ保_レ ̄ツ父
親終 ̄ニ是無_レ恙為_レ学 ̄ヲ当_レ ̄ニ知_二趨-向_一 ̄ヲ論_レ ̄セハ修_レ ̄コトヲ身 ̄ヲ須_レ尽_二 ̄ス倹-
譲_一 ̄ヲ温-良求_レ ̄シテヲ仁 ̄ヲ未_レ入_二 ̄ラ仲-由 ̄カ堂_一 ̄ニ安_レ ̄シテ貧 ̄ヲ且 ̄ツ臥_二 ̄ス顔-囘 ̄カ巷_一 ̄ニ是 ̄レ
男-児志-気努-力 ̄シテ自-強 ̄ヨヤ聖-賢 ̄ノ径-伝潜_レ ̄シテテ心 ̄ヲ会-溝 ̄セヨ
奎-光直- ̄ニ透 ̄ル三-千-丈
  寿尊翁(シウツホンヲン) 清曲
寿-尊-翁寿 ̄フキ比_二 ̄ス南-山 ̄ノ高_一 ̄キニ寿-算綿-々(トス)以 ̄テ福-海滔-々
噯呦寿-爐-香 ̄ノ寿-香飄-渺寿-尊-前寿-燭的

香-輝寿増_二 ̄ス丹-霄_一 ̄ヲ寿-筵中撥-_二倒着 ̄ス寿-酒住-殺_一 ̄シテ
又-只見_下 ̄ル花-草山有_二 ̄リ 一-箇 ̄ノ白-猿-猴_一来 ̄ヲ献_中 ̄ヲ仙桃_上 ̄ヲ
  寿星老(レウスインラウ) 明曲(ミンキヨ)
寿-星-老寿-星儞 ̄チ就騎-_二 上了 ̄ル仙-鶴_一 ̄ニ東-方-朔半-空-中 ̄ニ
過-_二見仙-明_一 ̄ヲ噯呦紫-微-星文-曲-星儞 ̄チ就 ̄テ齋-々来 ̄リ仙
儞到 ̄ル八仙来- ̄テ礼_二 ̄ス送王-母_一 ̄ヲ賜_二 ̄フ蟠-的_一 ̄ノ桃-■【肆ヵ】_二 上 ̄ス一-到仙-
酒 ̄ヲ【一点脱ヵ】神-仙儞-的長-生再不_レ老
有_二伊-尹_一昔(ソノカミ)旧身-貧- ̄シテ困 ̄ム事_二 ̄トス犂-鋤_一 ̄ヲ親_二 ̄クラス稼-穡_一 ̄ヲ去 ̄テ的耕_二 ̄ス
有-莘_一 ̄ニ噯呦楽_二 ̄ミ堯天_一 ̄ヲ歌_二舜-日_一 ̄ヲ能安_レ分 一-朝逢_二聖-主_一 ̄ニ
三 ̄ニ聘 ̄シテ建_レ ̄ツ功-的勛晋史摽_レ名光-輝栄_二 ̄シテ昼-錦_一 ̄ヨリ
  正月(チンイヱウ) 清曲(チンキヨ)
正-月 ̄ノ裎看-_二罷(ミ)了 ̄ツテ燈_一 ̄ヲ清-明来-到 ̄ル出_二閶-門_一 ̄ヲ大-馬-頭
走_二過-了 ̄ル吊-橋_一 ̄ヲ噯呦桃-花 ̄ノ䲧杏-花的 ̄ノ村看-々来 ̄テ
到_二 ̄ル黄-家_一 ̄ニ楓-山離-的遠 ̄ク観-音-山高 ̄シ又高 ̄キ石-辺的 ̄ノ
楓-橋細 ̄カニ思-量 ̄スルニ観-_二喜 ̄ス虎-丘 ̄ノ山 ̄ノ好_一 ̄キヲ

  楽器之図

【楽器の絵図】
嗩吶(ツヲナ)
銅鑼(トンロウ)
両班(リヤウハン)
横笛(ホンテウ)
三板
小銅鑼(シヤウトンロウ)
鼓(クウ)
新心(スインシン)
三金(サンキン)
管(クワン)

【楽器の絵図】
三線(サンセン)
二線之類
胡(フウ)
琴(キン)
琵琶(ヒイバイ)
長線之類
四線

   十一月廿三日
一琉球国中山王両使就御暇登 城
一両使松平薩摩守芝屋敷より増上寺表通町え芝口
 御門前御堀端幸橋屋敷際夫より日比谷御門
 八代州河岸通龍ノ口井上河内守屋敷前腰掛之後
 通大平御門より登 城行列幷道筋警衛等は如前
 廉
一使者幷従者下乗下馬如先日御玄関至階上板縁え
 大目付出向而令差図殿上之間下段着座従者は
 同次之間列居下官は御玄関前庭上に群居
一今日御規式に付出仕之面々侍従以上直垂四品狩衣
 諸大夫大紋無官素袍御役人は布衣着之
一松平薩摩守先達而登 城殿上之間下段着座
一大広間 出御 御直垂紅紗
   御太刀 御剣
一御上段《割書:厚畳三畳金入を以包之四方の角大総有之|御褥 御刀掛有之》
一御簾掛之
一御着座之御後座に御太刀役御剣役 《割書:間部越前守|御小姓衆列居》
一御側衆御小納戸衆は御納戸構罷在
一御下段松平肥後守老中松平下総守着座
一若年寄衆は西頬御縁頬に伺公
一松之間衝立を以仕切間之御襖取払御縁之方に御

 簾垂其内に外様四品以上之面々列居
一三之間に御譜代衆外様之面々法印法眼列居
一南之方御縁に詰衆奏者番番頭諸役人列居
一西之御縁之方に高家衆列居
一出御前に松平薩摩守大広間松之間衝立の外迄相越有之
一使者殿上之間より大広間え大目付案内先日之席に滞座
一老中 御前え被為 召中山王より之使者進物等御喜悦
 之段次に両使御暇被 下之旨 上意有之薩摩守え
 井上河内守申聞之薩摩守同道於彼席両使え
 上意之趣両度に河内守伝達之且又両使自分之被下
 物之儀申渡之又老中 御前え罷出御請言上之退座
 薩摩守出席下段御敷居之内にて 御目見奏者番披露之
 中段迄被為 召出両使遠路相越大儀に被為 思召之旨
 上意有之老中御取合言上之此時薩摩守下段より
 五畳目東之方に着座
一両使一人宛於板縁 御目見奏者番披露之夫より大目付
 案内直に柳之間え相越兼而山中王え被遣物彼席に
 並置使者に為見之夫より殿上之間え相越在之
一四品以上之面々着座より直に 御前え罷出 御目見老中
 御挨拶畢而退去御簾を垂之中奥御小姓役之此時
 仕切之衝立後之間え御同朋引之畢而御簾揚之
 下段御敷居際 立御万石以上之面々其外一統に

 御目見相済 入御
一被遣物御目録幷老中よりの返翰箱に入奏者番持参
 両使え相渡之
一相済而老中殿上之間え相越此時薩摩守遠路所相越
 太儀に被為 思召旨 上意之趣両使え申聞之其後両使
 自分之拝領物進物番持参頂戴之此時従者え之
 拝領物之儀も両使え申渡之則進物番持出之
 両使御礼有之而退去此時薩摩守出座御礼述之
一大目付差図有之使者退散大目付御玄関階上
 迄先達従者順々退去
一勤番其外先日如御礼之時
     中山王え就 御代替被下候目録
   白銀         五百枚
   綿          五百把
   金襽         二十巻
     中山王代替付被下目録
   白銀         五百枚
   羽二重《割書:紅 |白》       百疋
   八丈島        五十端
     正使両人え被下目録
   白銀         二百枚
   時服         十

十二月朔日於薩摩守宅琉球人
囲碁興行有之如左
 中押勝       本因坊
 三ツ置       屋良里之子
 五ツ置       仲原筑登親雲上
 中押勝       井家因長
 二番勝       相原可硯
 定先三番打一番勝 《割書:薩摩守家来》加俊
 先二ツ置二ツ番勝  仲原筑登親雲上
 先番勝       坪田珍硯
      見物

           美里王子
           豊見城王子
           富盛親方
           与座親方
           新城親雲上
           江田親雲上
           屋宜親雲上
           仲原筑登親雲上

           井上因硯
           井上因節
       《割書:松平民部大輔家来》
           松島利硯
       《割書:戸田采女正家来》
           高橋友硯
       《割書:松平土佐守家来》
           井家因長
       《割書:松平隠岐守家来》
           相原可硯
       《割書:松平大炊頭家来》
           坪田珍硯

庚-寅 ̄ノ冬琉-球-国屋-良-里-之-子従_二 ̄ツテ
王-子_一 ̄ニ而来 ̄ル在_二 ̄リ于江-府薩-摩-候羽-林
吉-貴 ̄ノ弟_一 ̄ニ薩-摩-候 ̄ノ受_二 ̄ケテ
官-命_一 ̄ヲ與_二屋-良_一囲-碁 ̄セシム屋-良 着(ツケテ)_二 三-碁-子_一 ̄ヲ
対_二 ̄ス国-手本-因-坊_一 ̄ニ予在_レ ̄テ傍 ̄ニ観_レ ̄ル之 ̄ヲ且 ̄ツ以 ̄テ

定_二 ̄ム其手-品_一 ̄ヲ蓋 ̄シ因_二 ̄ツテナリ中山王之請 ̄ニ【一点脱ヵ】也予
許_レ ̄スニ之 ̄ニ以_下 ̄テス対_二 ̄シ国手_一 ̄ニ着(ツクルコトヲ)_中 二-碁子_上 ̄ヲ焉観_二 ̄ルニ其 ̄ノ
下_一レ ̄スヲ子 ̄ヲ資(シ)-禀(ヒン)不_レ ̄ス庸 ̄ナラ工夫有_レ ̄リ素積 ̄ムニ以_二 ̄シテ歳-
月_一 ̄ヲ而真-積(ツモリ)力- ̄ラ久 ̄シキオハ則其- ̄ノ進- ̄コト也豈 ̄ニ可_レ ̄ンヤ量 ̄ル
哉惜- ̄イカナ乎 接(セツ)-遇(クウ)日-浅 ̄ク別-離 ̄ノ期-近 ̄シテ而
教(コウ)-誨(クワイ) ̄ノ之不_レ ̄ルコトヲ数(シハ〳〵) ̄セ矣雖_レ ̄トモ然 ̄リト碁之為 ̄タル方
原(モトツキ)_二於陰-陽変-化之理_一 ̄ニ治_レ ̄メ国 ̄ヲ治_レ ̄ルコト人 ̄ヲ之
方 尽(コト〳〵ク)存_二 ̄ス於 此(コヽ)_一 ̄ニ其 ̄ノ要在_二 ̄ルノミ千万-寸之間_一 ̄ニ
而-已帰-帆之後 勉(ツトメテ)焉不_レ ̄ス怠 ̄ラ専_レ ̄ニシ心 ̄ヲ致(イタスナラハ)
《割書: |レ》志 ̄ヲ則雖_レ ̄トモ隔_二 ̄ト千-里_一 ̄ヲ猶【左ルビ「コトク也」】 ̄ヲ【二点脱ヵ】咫-尺_一 ̄ノ斯- ̄ク道在 ̄リ
《割書: |レ》己 ̄ニ豈 ̄ニ求_レ ̄ンヤ外 ̄ニ哉
  宝永七年庚寅抄冬之月
         日本国大国手井上因硯
   呈_二示 ̄ス
  琉-球-国屋-良里之子_一 ̄ニ

       宝永七寅十二月朔日 中押勝 本因坊   作リ様手前ヨリ向ヘ
                 三ツ置 屋良里之子 右ヨリ左ヘカワヘ

 十四ノ三  四ノ三   十七ノ六  十四ノ四  十三ノ四  十四ノ五  十五ノ三  十六ノ三
 十八ノ五  十六ノ六  十六ノ七  十ノ三   十三ノ五  十四ノ六  十ノ五   八ノ四
 十六ノ五  十五ノ四  十一ノ二  十ノ二   十一ノ三  十ノ四   十四ノ八  十三ノ六
 十一ノ四  十二ノ五  十一ノ五  十三ノ三  十三ノ二  十二ノ四  十二ノ七  十三ノ八
 十三ノ七  十四ノ七  十五ノ八  十一ノ六  十二ノ八  十二ノ六  九ノ六   十七ノ十三
 七ノ四   八ノ五   五ノ四   四ノ四   五ノ五   八ノ六   九ノ七   三ノ六
 五ノ三   八ノ七   九ノ八   四ノ七   十八ノ三  十八ノ四  五ノ七   八ノ八
 五ノ八   八ノ九   八ノ三   九ノ三   八ノ二   十一ノ八  十二ノ九  十一ノ七
 九ノ九   九ノ十   十一ノ九  八ノ十   十ノ十   十七ノ四  四ノ八   三ノ十三
 二ノ七   二ノ六   四ノ五   三ノ五   五ノ十三  五ノ十   四ノ十二  九ノ十二
 三ノ十二  七ノ十七  三ノ十六  三ノ十七  三ノ十五  二ノ十七  七ノ十六  六ノ十七
 十四ノ十七 十六ノ十七 九ノ十六  十ノ十一  十七ノ十一 十一ノ十六 十ノ十三  十一ノ十
 十ノ九   八ノ十四  十ノ十五  十三ノ十六 八ノ十七  四ノ十五  六ノ十六  五ノ十六
 六ノ十四  七ノ十四  五ノ十七  五ノ十八  七ノ十八  六ノ十八  五ノ十五【?】  六ノ十二
 四ノ十四  四ノ十七  九ノ十三  八ノ十三  六ノ十三  七ノ十二  十四ノ十六 十四ノ十五
 十三ノ十五 十三ノ十七 十三ノ十八 十二ノ十八 十四ノ十八 十ノ十八  十五ノ十五 十四ノ十四
 十五ノ十六 十六ノ十四 十五ノ十四 十五ノ十三 十四ノ十三 十三ノ十四 十二ノ十五 十三ノ十三
【左丁】
 十四ノ十二 十三ノ十二 十一ノ十五 十三ノ十二 十二ノ十七 十六ノ十二 十六ノ十 十五ノ十一
 十七ノ十二 十七ノ十  十八ノ十  十八ノ【十脱ヵ】三  十六ノ十五 十五ノ十五 十五ノ十二 十六ノ十三
 十六ノ十二 十四ノ十一 十七ノ九  三ノ十   三ノ九   四ノ九   二ノ三   三ノニ
 三ノ四   二ノ二   二ノ四   三ノ三   三ノ七   一ノ三   十一ノ十二 十一ノ十一
 十二ノ十  十二ノ十一 五ノ九   四ノ十   四ノ六   一ノ四   六ノ十   六ノ九
 六ノ八   七ノ九   五ノ十一  六ノ十一  八ノ十一  二ノ十二  二ノ十

一寅十二月九日薩摩守宅え因硯相越弟子相原可硯屋良里之子
 と囲碁有之作物五ツ屋良望付遣す其内伝授物有之
 故右之伝為可仕事薩摩守宅え罷越授相済已後
 屋良望付可硯と囲碁有之
        先      屋良里之子
        二勝目    相 原 可 硯

【右丁】
【蔵書印「宝玲文庫」】
【左丁、白紙】

【裏表紙見開き、文字なし】

【裏表紙、文字なし】

天保二年長崎へ問合上田久より直ニ届状

琉球国三省并諸島之図

琉球図 林子平

琉球新誌

琉球新誌《割書:図附|》 上

【枠外上部横書き】明治六年六月新刊
大槻文彦著
琉球新誌《割書:図|附》
  煙雨楼蔵版
自序
琉球眇乎南洋一島国耳、雖幷其大小数十嶼為一
域、要不足以為独立国、而従来為我皇国之附庸矣、
朱明以還、脩聘於漢土、受其冊封、称中山王、蓋其聘
於彼、則奉彼正朔、朝於我、則用我年号、一邦両属、未
知其為誰藩屛也、是以名分称呼之際、往々有疑其
当否者焉、余請挙十証以弁之、夫琉球之為国也、論
地勢、則自是我九州山脈之起伏綿亘、而迸走於南
海中者、一覧地図、則瞭然可弁耳、其証一也、論開

闢、則上古天祖神孫、闢西南諸島者、既巳□入其区
域、考古史而可知也、其証二也、論人種、則邦人与支
那無来諸国、異其種者、在鬚髥之濃美、与鼻之高、頰
之匾、而琉人骨格容貌、宛然我種之人矣、其証三也、
論言語、則毎音単呼、無復平上去入、而日常説話、反
有我古言之存者、其証四也、論文字、則雖一二長吏
用漢文、至民間応酬事、率皆用我国字、且観其善和
歌、可以知性情与我同矣、其証五也、論政体、則雖俲
彼立官号、然親雲上親方等名、皆我之称呼、而其立
制亦用我世禄之法其証六也、論保護、則毎其国治
乱、我必送金穀、遣兵卒、以済之、彼則越人肥瘠、恬不
顧、其証七也、論帰化、則在推古天皇朝、南海諸島、早
巳服我皇威矣、而彼則隋攻之不屈、胡元侵之不従、
直至朱明之時、始奉其正朔、是其所以服従、自有先
後、其証八矣、論征伐、則永万中源為朝取之、慶長中
島津家久服之、彼則徒以一封書、苟能招諭焉耳、其
証九矣、至論王統、則所謂舜天、即我鎮西八郎之胤、
而奕世綿々、以至今日、此其証之最確者矣、又況天

朝既勅為藩国華族、授之一等之官、則名称位号、確
然一定、無復所容疑而已矣、嗚呼今日開明之隆、自
千島樺太、以至沖縄諸島、南北万里、環擁皇国、悉入
版図中、而風化之所被、無有窮極、駸々乎有雄視宇
内之勢矣、豈不亦愉快哉、適琉球新誌成、書以為序、
 紀元二千五百三十三年四月
           大槻文彦 撰

例言
一去年、琉球貢使入朝ス、天朝特ニ其国ヲ擢デ藩トシ、
 其主ヲ藩王ニ冊封ス、是ニ於テ、皇国府県ノ制、更ニ
 一藩ヲ加ヘ、皇化、播テ南海ノ隅ニ及ブ、余ヤ其盛典
 ヲ聞テ、抃躍ニ堪エズ、因テ公務ノ余暇ヲ愉デ以テ
 竟ニ此篇ヲ成セリ、其自ラ尽ス所ハ、敢テ杜撰セズ
 ト雖トモ、脱誤ノ如キハ、看者請フ之ヲ訂セヨ、
一地理・地質・気候・物産ハ、米国「ペルリ」ノ琉球記行、及ビ
 博物地理等ノ諸原書ヨリ訳出シ、源君美ノ南島志、
 清ノ周煌ノ琉球国志略、及ビ源忠彦ノ日本野史ト
 照考シ、更ニ史記政体等ヲ加フ、其他和漢琉球ノ書、

 枚挙スベカラズト雖トモ、或ハ妄謬二失シ、或ハ陳腐
 ニ属ス、此篇別ニ引用スル所、凡ソ三四十部ニ至レ
 トモ、今一々書名ヲ挙ゲズ、
一凡和漢ノ地図ハ、皆誤謬ヲ免レズ、薩摩南海ノ七島
 ノ如キ、従来之ヲ詳ニスル者少シ、独リ洋人ノ地図
 ニ精ナルハ、論ナシト雖トモ、渺乎タル東洋ノ琉球群
 小島ノ如キニ至テハ、尚未ダ精微ヲ尽サズ、今伊能
 氏ノ実測図、及ビ独逸板ノ一地図ヲ参見シ、旁ラ諸
 図ト照シ、以テ此地図ヲ製ス、余カ此著ニ於ケル、図
 ニ於テ、最モ精力ヲ尽セリ、
一気候・地質・物産・農工・文教・風俗等ノ部ハ、大抵沖縄一
 島ノ事ト知ルベシ、各島ハ、各其条下ニ挙グ、然レトモ
 或ハ総論シ、或ハ錯出ス、互ニ参見スベシ、
一諸島周囲ノ里法ハ、大略ヲ記ス、各島ノ距離ハ、省テ
 載セズ、経緯度ニ拠リ計リ知ルベシ、緯度ノ一度ハ、
 廿八里余、経度ハ琉球地方ノ如キ、大抵緯度ト同算
 シテ、其大略ヲ得ベシ、其経度ハ、英国「グリーンウヰッチ」
 ヨリ算スル者ニ拠ル、
一四季ノ月名ハ、旧暦ノ称ニ依ル、改ムルニ暇ナシ、地
 名人名ハ左右ニ単柱ヲ施ス、開闢ノ事、及ビ為朝ノ
 事歴ハ、鄙説ヲ録シテ巻末ニ附ス、
                文彦 記 

目録
 巻上
  地誌
  気候
  地質
  物産
  国名
  史記
  系統
 巻下
  封貢

  国体
  人種
  政体
  歳計
  農工
  文教
  風俗
 地図

琉球新誌巻上
            大槻文彦 著
  地誌
琉球諸島ハ、九州南海諸島ノ南ヨリ起リ、南洋中ニ綿
亘碁列シ、末勢西南ニ赴キ、台湾島ノ東ニ至テ止ル、北
緯、二十四度ヨリ、二十八度四十分ニ至リ、東経、百二十
二度五十分ヨリ、百三十度十分ニ至ル、西北ハ、支那海
ニ界シ、東南ハ、太平海ニ境ス、大小四十余島、《割書:古来三十|六島トス、》
《割書:協ハ|ズ、》其他群小ノ島嶼数多シ、其群島ノ位置、大勢、中南
北ノ三部ニ分聚鼎峙シ、《割書:之ヲ古ノ中山山南山北ノ地|トスル者アルハ、旧説ノ誤ナ》
《割書:リ|》其中部南部ノ諸島ハ琉球藩ニ属シ、北部ノ諸島ハ
【枠外上部朱書「国志略轄三十六島東四、西三、西北五、東北八、南七、西南九、云、」とあり】

鹿児島県ニ属ス、三部諸島ノ里積、合シテ四百四十六
方里アリ
 中部諸島 中部ニ在リテ、二十余島アリ、但 沖縄(オキナハ)特
 ニ大ニ、余ハ皆小島ナリ、
沖縄(オキナハ)島ハ、大琉球島ト称ス、琉球諸島ノ中央ニ位シテ、
最大ニ、即チ其首府ノ本島ナリ、北緯、二十六度五分ヨ
リ、同度五十分ニ至リ、東経、百二十七度四十分ヨリ、百
二十八度二十分ニ至ル、島形、蟠屈蜿蜒、虬竜ノ状ヲ成
シ、東北ヨリ西南ニ長シ、大抵、長サ二十五六里、幅、広キ
所ハ十里、狭キ所ハ一二里、周回七八十里、平面百六十
方里許アリ、島中ヲ亘テ小山脈アリ、佳蘇 名護(ナゴ)恩納(オンナ)弁
岳八頭ノ五岳、其間ニ重畳シ、大抵、山谷多ク、広野少ク、
泉流モ亦短急ナリ、首里(シユリ)、南辺ニ在テ、諸島ノ首都タリ、
那覇(ナハ)運天(ウンテン)南北ノ二好港、以テ海運ヲ通ス、島中ヲ区別
シ、三省、三十九 間切(マギリ)、三百八十三 村(ムラ)トス、」《割書:省ハ郡ノ如ク|間切ハ郷ノ如》
《割書:シ、|》中山或ハ中頭(ナカヾミ)省ト称ス、島ノ中部ニテ、南ニ偏ス、首(シユ)
里(リ)那覇(ナハ)久米(クメ)泊(トマリ)真和志(マワシ)南風原(ハエバル)東風平(コチヒラ)西原(ニシバル)浦添(ウラゾ)宜野湾(ギノワ)
中城(ナガグスク)北谷(キタヾニ)読谷山(ヨムタンザ)勝連(カツレン)与那城(ヨナグスク)越来(コエク)美里(ミリ)【左ルビ「ミサミ」】具志川(グシカハ)ノ十八
間切、《割書:但シ首里那覇久米泊ノ|四所ハ、間切ト称セズ、》合シテ二百二村ヲ管ス、」
首里ハ琉球ノ首都ニシテ、中山ノ南部、北緯、二十六度
十四分、東経、百二十七度五十二分一秒二在リ、地ハ、斜
平ナル山崖ニテ、西南ニ開ケ、府、方半里許アリ、道路広

通シ、市家第宅ハ、高垣密樹ニ蔽ハル、王城ハ、中央山頂
ニ在リ、蠣石ヲ以テ、外郭ヲ築ク、周、十五丁許、宮殿宏麗
ニ、正殿ハ唐風ニ倣ヒ、余ハ皆内地ノ製ナレトモ、柱礎多
ク、棟梁低シ、颶風ヲ防グガ為メナリ、府中ニ寺院遊園
多シ、円覚寺ニ、尚円王以下ノ神主アリ、天界寺ニ、其陵
墓アリ、府ノ西ニ弁岳アリ、山上ニ天孫氏ノ女祝々ヲ
祀ル、五岳ノ一トス、」那覇(ナハ)ハ首里ノ西南、一里許、北緯、二
十六度十三分、東経、百二十七度四十一分十五秒ノ地
ニアリ、琉球第一ノ港頭ニテ、内外二港ヲ成ス、内地及
ヒ諸方ノ船舶、輻湊スル所、近地、風景極メテ佳ナリ、市
街、方、十五丁許、前ハ南ニ開ケ、内港ニ向ヒ、後ハ岡陵ア
リ、外港ニ面ス、市中稍繁華ニシテ、府庁、神社、仏閣、及ヒ
清使ノ旅館等、皆壮麗ナリ、市街ノ西、左右ニ、砲台ヲ築
キ、潮水其間ヲ通ジ、南ニ入リ、湖形ヲ成スヲ内港トス、
周囲一里許、極メテ浅シ、北部、深サ二三尋、日本大船、二
三十艘碇泊スベシ、内地ノ船、常ニ多ク泊ス、湖中ニ小
砲台ヲ築ケリ、外港ハ、東南陸地、両岬対峙、一湾ヲ成シ、
西北ハ、直ニ大洋ニ通ジ、港口ニ一列ノ巨礁アリ、天然
ノ防波堤ヲ成シ、港形最好ク、西洋船数艘、碇泊シテ、大
颶風ニ危難ナシ、然レトモ、暗礁ニ因テ、港口出入、最モ難
シトス、港内最深キ所、十七八尋、潮水極メテ透明ナリ
ト云、」久米(クメ)ハ、那覇ノ東北ニ隣ル、村中、皆明ノ洪武中、閩

人移住セル者ノ後裔ナリ、聖廟学校ヲ置ク、其東北ノ
泊(トマリ)ハ、小湾ヲ成ス、其東北 真和志(マワシ)ハ、壺家山ヨリ陶器ヲ
出ス、又安里村ニ、先王廟アリ、舜天以下、歴代ヲ祀ル、西
海岸、中城(ナカグスク)ニ、故城アリ、以北ハ、皆山岳重畳タリ、」山南、或
ハ島尻(シマシリ)省ト称ス、島ノ南端ニテ、三省中、最狭ケレトモ、能
ク開ケタリト見ユ、大里(オホザト)玉城(タマグスク)豊見城(トヨミグスク)小禄(ヲロク)兼城(カネグスク)高嶺(タカミネ)佐(サ)
敷(ジキ)知念(チネン)具志頭(クシカミ)麻文仁(マブニ)真壁(マカビ)喜屋武(キヤム)ノ十二間切、合シテ
百十四村トス、豊見城及ビ高嶺ニ、山南王ノ故城アリ、
高嶺ノ東北八頭岳ヲ、五岳ノ一トス、」山北、或ハ国頭(クニカミ)【左ルビ「クニカシラ」】省
ト云、島ノ北部ニテ、三省中、最大ニ、全島ノ半部之ニ属
ス、然レトモ不毛ト見エタリ、金武(キム)恩納(オンナ)名護(ナゴ)久志(クシ)羽地(ハネヂ)今(イマ)
帰仁(キシリ)本部(モトベ)大宜味(オホギミ)国頭(クニカミ)ノ九間切、六十八村アリ、東岸、金
武ハ大湾ニ浜シ、富蔵(フザウ)川流入ス、湾内浅ク、暗礁多シ、南
岸ノ恩納ハ、美景ノ地ナリ、其東南、恩納岳、東北、名護岳、
共ニ五岳中ニ位ス、其西北、今帰仁ニ、山北王ノ故城ア
リ、其西港ヲ、仁与波(ニヨハ)入江ト云ヒ、西海ノ二島ヲ、瀬底(セソコ)水(ミ)
無(ナ)ト云、《割書:共ニ本部間|切ニ属ス、》今帰仁ノ佳楚岳ハ、五岳ノ第一、沖
縄島中ノ最高山ナリ、山下ノ大栄川、西南ニ流ル、其東
北岸ニ、運天(ウンテン)港アリ、前ニ沖君 屋加(ヤカ)《割書:羽地間切|ニ属ス、》ノ二島ア
リテ、湾ヲ成ス、那覇ニ次ゲル好港ニテ、日本大船、五六
十艘、泊スヘジ、北部諸島、及ビ内地ノ船、輻湊スル所ナ
リ、其東 羽地(ハネヂ)ノ謝敷(シヤシキ)村、海岸ニ、鉄、硫黄、石炭ヲ出ス、《割書:嘉永|六年、》

《割書:米人発見ス、○沖縄ノ気候|産物地質等ハ後条ニ出ス、》○久高(クタカ)島ハ、山南ノ東海ニ
在リ、周三里許、知念間切ニ属ス、村落多シ東南ニ一湾
アレトモ、岩礁多シ、米、粟、海帯(アラメ)、及ビ竜蝦(イセヱビ)、五色魚、佳蘇魚(カツヲ)、螺
石ヲ産ス、海松(ウミマツ)多シ、○津堅(ツケン)島ハ、上ノ北、中山 勝連(カツレン)崎ノ
東南ニ在リ、周三里許、海松ヲ産ス、○浜(ハマ)島、《割書:又 巴(ハ)|麻(マ)、》平安座(ヘアンザ)
宮城(ミヤグスク)池(イケ)島《割書:又 伊(イ)|計(ケ)》ノ四小島ハ、勝連崎ノ東北ニ在リテ、勝
連間切ニ属ス、」以上諸島ハ、産物言語相似タリ、皆沖縄
ノ東岸ニアリテ、沖縄ニ属ス、
計羅摩(ケラマ)島ハ、那覇ノ西海ニアリ、属島十余、島人色黒ク、
能ク泅グ、多ク舟子ニ役セラル、産物ハ、牛、馬、布、粟、文貝(コヤスカヒ)、
螺石ニテ、海松ハ、最良品ニ、山ニ鹿多シ、本島《割書:唐人東馬|歯山ト云、》
ハ、周三里、間切一ツ、渡嘉敷(トカシキ)ト云、属島中、前計羅摩島ハ、
東ニアリ、座間味(ザマミ)島《割書:唐人西馬|歯山ト云》ハ、周二里、座間味間切ア
リ、赤島ハ、周一里半、共ニ西北ニ在リ、余ハ皆小島ニテ、
人家ナキ者多シ、○姑米(クメ)島《割書:又久|米》ハ上ノ西ニアリ、沖縄
清国、往来ノ船、必ス此山ヲ針準トス、周六里十二丁、間
切二ツ、内(ウチ)、金城(カネグスク)ト云、煙台ヲ置キ、往来船舶ノ為ニ、号火
ヲ挙グ、金城(カネグスク)山ハ、百二十丈、南岸金城湊ハ、日本大船、四
五艘泊スベシ、東岸町屋入江ハ浅シ島人秀美、言語沖
縄ニ同ジ、五穀、土棉、紬布(ツムギ)、紙、蝋燭、草蓆(タヽミオモテ)、鶏、豚、牛、馬、海螺、黒(イ)
魚(カ)等アリ、」以上諸島ハ、沖縄ノ西ニアリ、言語モ似タリ、」
伊恵(イヱ)島《割書:又伊|江》ハ、山北今帰仁ノ西ニ接ス、周四里七町、石

山ニテ、高サ五十六丈、伊江城(イエグスク)村、其他村落稲田多ク、土
民頗ル豊饒ニ、五穀ヲ産ス、○戸無(トナキ)島ハ、上ノ西北ニア
リ、周一里六丁、牛多シ○粟国(アハクニ)島《割書:或 粟(アハ)|島(シマ)》ハ、上ノ東北ニア
リ、周二里十二丁、蘇鉄豕多シ○伊足那(イソナ)島ハ、上ノ西ニ
アリ、周二里半、高サ四十丈、属島、北ニ具志河(グシカハ)、南ニ柳葉(ヤナハ)、
共ニ小島、人家ナシ、○恵平屋(エヘヤ)島《割書:又伊平也、唐人|葉壁山ト云》ハ、上ノ
北ニ接ス、周四里二十六丁、高サ一百丈南ニ乃保(ノホ)島ア
リ、属ス、産物ハ米、最佳ナリ、雑穀、棉花(ワタ)、蕉糸、海胆(ウニ)、毛魚、蠣(アラ)
石(ト)等ヲ産ス、○鳥(トリ)島《割書:又 黒(クロ)島、唐人|硫黄山ト云、》ハ、恵平屋ノ北、遥海上
ノ小島ナリ、周二里許、東ハ徳島ト対ス、異鳥多キガ故
ニ名トス、噴火山ニテ、五十四丈アリ、温泉湧出ス、島ニ
草木ヲ生セズ、多ク硫黄ヲ産ス、硫黄ヲ採ルノ家、四十
戸ヲ置キ、毎年沖縄ヨリ、米穀ヲ送リ、二頭目ヲ置キ、泊(トマリ)
間切ヨリ、之ヲ管ス、島人、硫黄気ニ薫灼セラレ眼晴精
明ナラズト云、」以上諸島、沖縄ノ西北ニアリテ、言語モ
沖縄ニ似タリ、
 南部諸島 中部諸島ノ遥ニ西南ニ在リ、宮古、石垣
 入表ノ三島、及ビ群小島ト合シ、二十島許、総称シテ
 先島(サキジマ)ト云、洋人マジコジマ諸島ト云、宮古島(ミヤコジマ)ノ訛ナ
 リ、○沖縄ヨリ、先島ニ到ル海中ニ、大暗礁アリ、方二
 里許、八重干瀬(ヤヘノヒセ)ト云、
宮古(ミヤコ)島ハ、此諸島ノ東ニ位シ、近傍六七島ト合シ、宮古

【枠外上部】太平山トハ、唐人ノ称スル名ナリ、

島、或ハ太平山ト称ス、本島、周回十一里許、稍三稜形ヲ
成シ、世登乃崎(セトノサキ)、北ニ突出ス、沿海暗礁多シ、於呂加雁股
下地 平良(ヒラヽ)四間切、別ニ村落多シ、西ノ港ヲ針水(ハリミヅ)ト云、碇
泊スベシ、筑(チク)山甚タ高シ、麓囲五六里、頂ニ碧於亭アリ
気候最暖二、地味頗富饒ニシテ、物産繁生ス、米、最多ク、
毎年五月、貢税ヲ沖縄ニ送ル、五穀、牛、馬、多ク、細上布(サツマジヤウフ)、麻(サツマ)
布(ガスリ)殊ニ上品ナリ、棉布(モメン)、草蓆(タヽミオモテ)ヲ出シ、紅酒ヲ産ス、太平酒
ト云、○伊計間(イケマ)ハ、世登乃崎ノ西北ニアリ、周一里余、又、
崎ノ北ニ大高見(オホタカミ)島アリ、○来間(コリマ)島ハ、本島ノ西南ニ接
シ、下地間切ニ属ス、周一里、○永良部(エラブ)島ハ、本島ノ西ニ
接シ、奥永良部(オクノエラブ)ト称ス、周四里半、○宇間麻(ウカマ)島《割書:又下|地島》ハ、其
西ニ接ス、○太良末(タラマ)島ハ、宮古石垣ノ間ニアリ、周四里、
○水名(ミヅナ)島ハ、太良末ノ東北ニアリ、之ニ属ス、周一里、」以
上諸島ハ、皆宮古ニ属セリ、
石垣(イシガキ)島ハ、宮古ノ西ニ在リ、入表島、及ヒ小島十余ヲ合
シ、総称、八重山(ヤヤヤマ)ト云、本島、周回十六里半、亦略三角形ヲ
成シ、平窪(ヒラクボ)崎、遥ニ北ニ突出ス、宮良 石垣(イシガキ)河平(カハヒラ)大浜四間
切、三十八村アリ、河平(カハヒラ)ハ、西岸ノ湊ニテ、日本大船、二三
十艘碇泊スベシ、南港、御崎泊ハ、大船入ラズ、島ノ西南、
於茂登(オモト)岳ハ、高サ百六十丈アリ、気候最暖ニ、土地宮古
ニ比スレバ、更ニ豊饒ナリ、米、最多ク、毎年五六月、宮古
ト共ニ、沖縄ニ貢ス、物産繁盛、五穀、細上布(ジヤウフ)、麻布(カスリ)、樫木(カシ)、牛、

馬、海参(ヤヘイリコ)、螺石、□□(シヤコ)、瑇瑁(タイマイ)珊瑚、海石類ヲ産ス、紅酒ヲ出ス、
密林酒ト云、又草蓆多シ、○武富(タケトム)島ハ、本島ノ西南ニア
リ、周二里弱、○黒(クロ)島ハ、又其西南ニ在リ、周三里、高サ百
二十丈、西ノ二属小島ヲ上離下離ト云、○波照間(ハテルマ)島ハ、
又其西南ニアリ、周三里二十丁、」以上皆石垣ニ属ス、
入表(イリオモト)島ハ、石垣ノ於茂登(オモト)岳ノ西ニ在ル故ニ名トス、方
言ニ、深奥ノ所ヲ入(イリ)ト云、表ハ於茂登(オモト)ナリ、或ハ西表(ニシオモト)島、
又 姑弥(コミ)島トモ称ス、周囲十五里、入表(イリオモト)古見(コミ)二間切、三十
村アリ、気候物産、石垣ト同シ、西表蘭、風蘭ヲ産ス、東 古(コ)
見(ミ)、北、比計(ヒケ)川村、西、曽奈比(ソナヒ)村、三港共ニ浅シ、西湾ニ、二小
島内離外離アリ、人家ナシ、○小浜(ヲハマ)島ハ、入表ノ東ニ接
ス、周三里、東北ノ属小島、宇也末(ウヤマ)、人家ナシ、○鳩間(ハトマ)島ハ
北ニ在リ、古見(コミ)間切ニ属ス、○新城(アラグスク)島ハ、西南ニアリ、○
与那国(ヨナクニ)島ハ、入表ノ正西、遥海上ニ在リ、中間潮流、急ナ
リ、島ノ周リ五里十丁、高七十丈、琉球最西ノ島ニテ、台
湾島《割書:琉球人ハ|高砂(タカサゴ)ト云、》ニ接セリ、」以上諸島、皆入表ニ属ス、
 北部諸島 中部諸島ノ北、少シ東ニ在リ、大島特ニ
 大ニ、徳島永良部等、之ニ次グ、合シテ十許島、泛称シ
 テ、大島ト云、古ヘ琉球ノ属、慶長以後、皆島津氏ニ帰
 シ、今ハ鹿児島県ニ属ス、○或ハ大島喜界徳島ヲ三
 島ト称ス、
大島(オホシマ)ハ、小琉球島ト称ス、沖縄ニ次ゲル大島ニテ、諸島

【枠外上部】興那国ハ、台湾ト相距ルヿ、僅ニ二十五六里ニシテ、島人尚野蛮兇暴ナリ、薩船ノ如キ、決シテ之ニ近カズト云、

ノ北端、琉球ノ北界ニ在リ、島ノ北端、笠利(カサリ)崎ハ、北緯二
十八度二十九分ニ在リ、島形 山葵(ワサビ)ノ根ノ如ク、稍東北
ヨリ、西南ニ長ク、大約長サ二十里許、幅員、南広ク八九
里、北狭ク一二里、周回六十里許、」此島、古昔ノ一名ヲ阿(ア)
麻弥(マミ)島ト云、今、島ノ東北端ニ、湯湾(ユワン)岳アリ、上世、神人 阿(ア)
摩美久(マミク)、始メテ此山ニ降ル、因テ旧名ヲ阿麻美(アマミ)岳ト云
ヒ、島モ亦因テ名トス、」《割書:或云、旧名、阿麻弥、後、地形稲大ナ|ルニ因テ、大島ト名クト、或云、為》
《割書:朝、此島ニ在ルトキ、伊豆|ノ大島ニ擬ヘ名クト、》湯湾岳ノ高サ、二百五十丈、即チ
島中ノ山脈起ル所ニテ、永明山、清水山、菊花山、南ニ在
ルハ、百二十五丈、島内、総テ山岳多ク、北部僅ニ平遠ナ
リ、奈瀬(ナセ)、古見(コミ)、笠利(カサリ)、住用(スムヨウ)、焼内(ヤキウチ)、西(ニシ)、東(ヒカシ)ノ七間切、別ニ瀬名(セナ)、竜(タツ)
郷(ゴウ)、赤木名(アカキナ)、大和浜(ヤマトハマ)、須垂(スダル)、渡連(ドレン)、実久(サネク)アリ、二百六十村、大里
長十二員、小里長百六十員ヲ置キ、奈瀬ヲ首府トス、奈
瀬ハ、北岸ニ在リ、笠利(カサリ)崎、島ノ北端ニ突出シテ、一湾ヲ
成シ、内ニ深井(フカヰ)浦 竜郷(タツゴウ)港アリ、共ニ北ニ向フ好港ニテ、
大船数十ヲ泊セシム、東岸住用ニ銅鉱アリ、住用川、頗
大ニ、港口船舶輻湊ス、西端ノ西古見湊ハ、大船七八艘
泊スベシ、少シク東北ニ転ジ、焼内(ヤキウチ)湊ハ、港口ニ、伊大天(イタテ)
良(ラ)島アリ、港形深ク入リ、一川会注シ、大船百余艘泊ス
ベシ、好港ナリ、更ニ北ニ、大和浜(ヤマトハマ)ノ湊アリ、」全島、田野頗
ル開ケ、山谷豊沃ノ光景、沖縄ノ如シ、人口稠密、略文学
アリト云、風俗、大抵沖縄ニ似テ、但人気険悪ナリ、婦人、

【枠外上部】大島ノ周回、尽ク好港ナラザルハナク、西洋人ノ賞スル所ナリ、殊ニ焼内竜郷ヲ最好トス、且、南岸加計留末島ト瀬戸ノ如キ、一帯ニ碇泊スベシト云、
【枠外上部】焼内ハ、或ハ、屋喜(ヤギ)内トモ書ス、元来、焼打ニテ、慶長征伐ノ時、島津氏ノ兵、焼払ヒシ処ト云、

最モ茶ヲ嗜ム、故ニ内地ノ輸入ハ、茶ヲ第一トス、交易
ニ貨幣ヲ用ヰズ、物品ヲ以テ交フ、風土ハ、冬暖ニ、夏涼
ク、百物繁生シ、五穀、木棉、芭蕉、桑、竹、棕梠、樫木(カシ)、阿且(アタン)アリ、
蘇鉄多シ、土人、凶年ニ其根ヲ碓シ食フ、甘薯(サツマイモ)ハ、終年繁
茂シ、土人常糧トス、牛、馬、犬、羊、鶏、豚、騖、鴨皆アリ、山ニ猪、
兎多シ、毒蛇アリ、波布(ハフ)ト云、人ヲ嚙メバ立ニ斃ル、海魚
頗 ̄ル多ク、□□、真珠ヲ出ス、陶器ハ、製粗ナリ、又盛ニ甘蔗
ヲ植ヱ、砂糖ノ産、諸島ニ冠タリ、毎年凡ソ一千万斤ヲ
出ス、世ニ大島ト称スル者ニシテ、皆薩摩ヨリ、内地ヘ
運搬ス、近海ノ潮流、常ニ東北ニ流ル、○加計留麻(カケルマ)島《割書:又|加》
《割書:止奈、加|計呂末》ハ、大島ノ西南ニ接ス、島形細ク、東西ニ長シ、周
十五里、○宇計(ウケ)島《割書:又 宇留(ウル)、|浮(ウキ)野、》ハ、上ノ南ニ接ス、周四里余、○
与呂(ヨロ)島ハ、又其西ニ接ス、周三里半、」以上三島、共ニ大島
ニ属ス、
喜界(キクワイ)島《割書:又鬼界、|奇界、》ハ、大島ノ東ニ在リ、周六里二十四丁山
高サ八十七丈、全島大抵平地ニテ、志戸桶、東(ヒガシ)、西目(ニシメ)、椀(ワン)、荒
本ノ五間切アリ、椀泊(ワントマリ)ハ、西南ノ港ナリ、砂糖 樫木(カシ)ヲ産
ス、最良品ナリ、硫黄ヲ出ス、滑石、雷斧、石灰石、《割書:或ハ、白金(アンナモト)|ヲ 産 ズ ト》
《割書:モ|云、》地ニ樹木少ク、馬糞ヲ焚テ、薪炭ニ代フト云、島人膚
黒シ、○徳島(トクノシマ)ハ、大島ノ西南ニ在リ、周十七里三丁、島形
法馬(フンドウ)ノ如シ、山岳多ク、北部ノ山、最高ク、二百丈アリ、東(ヒガシ)、
西目(ニシメ)、面縄、三間切アリ、東岸、秋徳(アキトク)湊、碇泊スベシ、井之川

湊、及ビ西岸、和爾也泊(ワニヤトマリ)、共ニ大船入リ難シ、物産ニ、碗豆(ヱントウ)
多ク、落地生(ラクチセウ)殊ニ多シ、砂糖ヲ出ス、世ニ徳島ト称ス、其
他、物産風俗、大抵大島ニ似タリ、島人膚黒シ、○永良部(エラブ)
島ハ、上ノ西南ニアリ、沖永良部(オキノエラブ)ト称ス、周回十里半、木
比留、大城、徳時三間切アリ、和泊ハ、東岸ノ港ニテ浅シ、
産物ハ砂糖アリ又異魚ヲ産ス、永良部(エラブ)鰻(ウナギ)ト云、細長一
丈許、腊製シ薬トス《割書:海蛇(ウミヘビ)ノ大ナ|ル者ナリ、》人物風俗ハ沖縄ニ似
テ、物産ハ大島ニ似タリ、○与論(ヨロン)島ハ、上ノ南ニ在リ、周
回三里五丁、武幾也、阿賀佐(アカサ)ノ二村アリ、西南、阿賀佐泊(アカサトマリ)
ハ、港口浅ク、大船入ラズ、砂糖ヲ出ス、芭蕉、樫木多シ、西
南、沖縄ノ運天港ニ対セリ、
 大隅(オホスミ)諸島 熊毛(クマゲ)馭謨(ゴム)二郡ノ地、《割書:以下|附録》
 種子(タネガ)島ハ、周回三十七里半、島形南北ニ長ク、大隅ノ
 南海ニ在テ、其熊毛郡ノ地ナリ、西ニ馬毛(マケ)島アリ、小
 島ニテ、同郡ニ属ス、」屋久(ヤクノ)島ハ、種子ノ西南ニ在リ、馭
 謨郡ノ地ナリ、周十六里余、島形円ナリ、南端ノ元見(モトミ)
 山ハ、高サ六百三十五丈アリ、」永良部(エラブ)島ハ、上ノ西ニ
 在リ、口永良部(クチノエラブ)ト称ス、馭謨郡ニ属ス、周六里半、島形
 東西ニ長シ、山高サ二百丈余、
 薩摩(サツマ)諸島 河辺(カハノベ)郡ノ属、
 竹島ハ、薩摩ノ南、屋久ノ北ニアリ、西ニ硫黄(ユワウ)島アリ、
 噴火山ニテ、二百三十五丈、常ニ煙霧絶エズ、又西ニ

 黒(クロ)島アリ、高サ二百十四丈、」以上三島、皆小島ニテ、薩
 摩ノ近海ニ在リ、《割書:或ハ種子、馬毛、屋久、永良部、竹島、|硫黄、黒島ヲ薩摩七島ト称ス、》
 七島 亦河辺郡ノ属、《割書:或ハ、土噶剌(トカラ)|七島ト称ス、》
 口(クチノ)島ハ、永良部ノ西南ニ在リ、高サ二百十二丈、其南
 ニ中島アリ、高サ三百二十八丈、其西ニ卧蛇(グワジヤ)島《割書:又 蛇(ヘビ)|島》
 アリ、百八十二丈、其南ニ平(タヒラ)島アリ、九十八丈、其東ニ、
 諏訪瀬(スハノセ)島アリ、噴火山、高サ二百六十丈、其西南ニ、悪(アク)
 石(セキ)島アリ、二百十八丈、又其南ニ宝(トカラ)島、《割書:又 土(ト)|噶剌(カララ)、》山高サ八
 十八丈、其南ハ即チ大島ニテ、之ヲ薩摩琉球ノ境ト
 ス、」以上七島、皆薩摩ノ遥海ニ在リ、人口万ニ満タズ、
 但宝島稍大ニ、余ハ皆小島ナリ、物産多ク、硫黄、醇酒、
 陶器、緑紋紙等ヲ出ス、又 草蓆(タヽミオモテ)ヲ産ス七島ト云、

【枠外上部】七島中、宝、悪石、卧蛇ノ外ハ、大抵無人ナリ、殊ニ、諏訪瀬ノ如キハ、近年、壊没シテ、暗礁ト為ル、総テ、七島ノ辺海ハ、一面ノ暗礁アリ、且潮風共ニ暴急ニシテ、洋中最険悪ノ所トス、中外ノ船舶、毎ニ破壊ノ難ナリ、

  気候
地位、回帰線ニ近シト雖トモ、四面ノ海風ヲ受ケ、地形高
ク、気候熱スル少シ、時ニ旱魃アレトモ、大抵耕種ニ宜シ
ク、天然ノ風土ト、居民ノ清潔ヲ好ムトニ因テ、人身ノ
健康ニ適シ、且沼沢ノ湿気無ク、海風清浄ノ空気ヲ送
リ、腐敗物ノ毒気ヨリ起ル病根ヲ掃絶ス、正月桃開キ、
枇杷熟シ、厳冬ニ、氷ナク、霜雪絶エテ無シ、終歳、山野蒼
々、百虫蟄セズ、四時、蚊帳ヲ垂レ、甘薯(サツマイモ)ヲ植ヱ、菊花尚ア
ルニ、梅既ニ回陽シ、一年皆花ナリ、○近海ニ、暴風煙霧
多シ、二月、霧多ク、秋冬、北風多シ、大凡琉球辺海ハ、彼ノ

東洋ノ颶(グ)風 颱(タイ)風ノ直道二当ルヲ以テ、大ニ其害ヲ受
ク、颶(グ)【左ルビ「オホハヤテ」】ハ、四方ヲ具シテ、方位定リナキ故ニ名トス、《割書:□(バイ)ハ|非ナ》
《割書:リ、|》大抵春夏ニ多シ、俄ニ発シ、俄ニ止ム、其起ル時、天ニ
黒点ヲ生ジ、忽チ暴至ス、颱(タイ)【左ルビ「アカシマ」】ハ、夏秋ノ交ニ多シ、漸ニ起
テ、連日止マズ、起ル時、天ニ断虹現レ、半天ニ及ンデ、変
化異状ヲ成ス、北方ニ現ルレハ最虐ナリ、西洋ノ航海
者、支那海辺ノ暴風ヲ、「タイフーン」ト唱フルハ、蓋シ颱
風ノ字音ナルベシ、其最慎ム所ナリ、又颱、颶、共ニ初メ
必ズ雨降リ、海面俄ニ変ジ、穢多ク、海 蛇(ヘビ)浮出ヅルノ徴
アリ、然レトモ、颶ハ尚避クベシ、颱ハ当ルベカラスト云、
○琉球ノ西北海ニ、一大潮流アリ、常ニ西南ヨリ東北
ニ赴ク、即チ八丈島辺 黒瀬(クロセ)川ノ原脈ナリ、総テ諸島相
離ルヽ間ハ、大抵急流ナリ、航海者慎メリ、《割書:唐人之ヲ|落漈ト云、》又
那覇近海ハ、潮ノ乾満、大抵六尺ノ差アリ、毎月望ニ清
ノ福州ハ、午時ニ満潮シ、此辺ハ、日暮ニ満潮スト云、
  地質
沖縄地面ノ質ハ、大抵陶土質ニテ、所々石灰石ヲ交ユ、
海面ヨリ、四五十丈ニ至ル、皆是ナリ、辺海ニ岩礁多ク、
波濤ノ間ニ出没ス、山ハ大抵松林茂生シ、崖間ハ巉断
トシテ、火山ノ貌ヲ成ス、山巓、稍磽瘠ナルノミ、其余、谷
野ニ至テハ、滋潤沃饒、草木所在ニ繁茂セリ、《割書:耕種ノ部|ト参見ス》
《割書:ベ|シ、》○琉球諸島ハ、火脈ニ当レリ、亜細亜東北ノアレウ

シェーン諸島ヨリ起リ、柬察加(カムサツカ)千島(チジマ)北海道日本九州ヲ
歴テ、琉球ヲ亘リ、呂宋(ルソン)島、無来(マレー)諸島ヲ過ギ終ニ印度ノ
ベンガル湾ニ入ル者、是東方火山脈ノ直道ナリ、○沖
縄島、狭長ナルガ故ニ、海水四面ヨリ環注シ、井水深ク、
鹹苦多シ、然レトモ、所在ノ山間岩穴ニ、甘泉アリテ必沸
ス、其他、河川沼沢少シ、
  物産
内地ト大同少異ナリ、爰ニ異産多少ノ者ヲ挙グ、鉱物
最少シ、唯鳥島ニ、硫黄多ク、沖縄ニ、少シク硫黄、石炭、鉄
ヲ産ズ、硯石、磨石(トイシ)、石灰石アリ、蠣石(アラト)ハ、恵平屋ニ出ヅ、大
島ニ銅鉱アリ、○穀類《割書:耕種ノ部ト|参見スベシ、》ハ、米多シ、姑米八重
山宮古亦多シ、貴人ノ食トス、薩州ニテ、琉球米ト称シ、
下品ナリ、粟、黍、麦、類皆アリ、大麦少シ、豆類亦皆アリ、落(ラク)
地生(チセウ)ハ、豆類ニテ、莢(サヤ)ハ粗紗ノ如シ、土中ニ実ヲ結ブ、諸
島皆アリ、○草類ハ、甘薯最多ク、世ニ薩摩薯、琉球薯抔
称スル者ニシテ、瘠地ヲ択マズ、諸島皆盛ニ植ヱ、土人
日常ノ糧食トス、蔗ハ、色紅ニシテ、節短シ、一年皆アリ、
小種ノ者ヲ砂糖トス、煙草亦多シ、菜類、瓜類、皆アリ、蘿(ダイ)
蔔(コン)ハ、長三尺囲二尺ニ至ル、茄(ナス)ハ樹ヲ成ス、高サ丈余、囲
ミ尺余ノ者アリ、終年実ヲ結ビ、梯子(ハシゴ)ヲ以テ摘ム、大ハ
西瓜ノ如シ、味佳ナラズ、今ノ内地ノ西瓜(スイクワ)ハ、寛永四年、
始メテ琉球種ヲ移セシ者ナリ、冬瓜(トウグワン)ハ、醋、醤油ニテ食

フ、味佳ナリ、蕨類多シ、大ナルハ、木ノ如シ、松露(セウロ)ヲ土人
ハ蓄蘿(チクラ)ト云、具志頭(グシカミ)ノ産、良ナリ、防風ハ根、小蘿蔔ノ如
ク、漬テ食フ、□(ク)草(ヾ)ハ、草蓆ヲ製ス、灯心草ハ、灯心ヲ採ル、
万年青ハ、土人モ烏木毒(オモト)ト云、蘭ノ種類、極メテ多ク、四
時皆アリ、菊モ亦類多シ、野牡丹ハ芳烈ナリ、種、宮古ニ
産ズ、火鳳(イハレンゲ)ハ、人家牆上ニ、多ク植エテ、火ヲ避ク、海草ハ
海苔(ノリ)、石花菜(トコロテン)、鹿角菜(ワノリ)海松(ウミマツ)アリ、海帯(アラメ)ハ、久高ニ出ヅ、其他、
諸草枚挙スベカラズ、○木類ハ、松最多ク、一種、根ヨリ
枝ヲ開キ、散蟠スル者アリ、檜(ハヒビヤクシン)モ亦多ク地ニ蟠ス、柏(ヒノキ)、樟(クス)、
榕、楓(カラカヘデ)、柳、榴(ザクロ)、槐(エンジユ)、烏木(コクタン)、アリ杉ハ、清ノ閩種ナリ、棕梠多シ、桐
ニ種類多ク、椰子ハ無シ、奇トイフベシ、橙類、桃、李、葡萄、
皆アリ、梅ハ内地ヨリ移ス者、花アリ実少シ、枇杷ハ、小
ニシテ微長ナリ、茉莉、海棠、扶桑(フソウクワ)アリ、樫(カシ)ハ木理堅密ニ
テ、良材ナリ、福木(フクギ)ハ、葉 冬青(モミノキ)ノ如ク大ナリ、対節ニ生ジ、
厚ク光アリ、樹身ハ、直上数丈、葉ハ緑色ヲ染ムベク、花
ハ小黄ニ実ハ橘ノ如ク食フベシ、蘇鉄(ソテツ)最多ク、凡ソ院
落路旁、皆植ウ、根ヲ碓キ粉トシ、糧ニ充ツ、櫨(ハジウルシ)ハ一ニ油
樹ト云、油ヲ榨ルベシ、阿旦(アタン)ハ、諸島ニ皆アリ、樹身ハ、棕
梠ノ如ク、葉長ク剌アリ、連蔓堅利、牆トスベシ、葉ハ蓆
トスベク、根ハ擣テ糸トシ、或ハ索トシ、或ハ布ヲ織ル、
阿旦布ト云、実ハ瓜ノ如ク、六稜ニシテ剌アリ、食フベ
シ、其他異産ノ樹多シ、○竹類モ、極メテ多ク、諸島ノ所

在、皆竹アリ、苦竹(マタケ)、虎斑竹(フタケ)、烏竹(クロタケ)アリ、方竹(シカクタケ)ハ、即チ琉球竹
ト称シ、杖トスル者ナリ、孟宗竹ハ、囲尺余、今ノ内地ノ
種ハ、即チ安永八年、此国ヨリ移ス者ナリ、観音竹(ゴギンチク)ハ、地
ニ着テ叢生シ、幹細ク短ク、紫色ナリ、棕竹(シユロチク)ハ、高サ尺余
ニ過ギズ、扇骨トスル者ナリ、竹最民用ヲ成シ、多ク人
家ノ牆トス、○鳥類ハ、国人網銃スルヿ稀ナリト雖トモ、
山林ニ野鳥少シ、奇ト云フベシ、雀、鴉、鳩、鷺、鶉、鷗、雁、アリ、
燕ハ、七月来ル、人家ニ巣クハズ、鷹ハ、九月中ノ東北風
ニ飄至ス、鶏類多シ、鵝、鴨、少シ、其他、異鳥ノ外島ヨリ飄
至スル者アリ、○獣類少シ、牛ハ、小ニシテ黒シ、馬ハ、小
健多毛、名産ニテ甚タ蕃息ス、貢献交易ニ出ダス、又終
年草ノミヲ食フ故ニ、貧民皆畜フテ耕運ニ供ス、山羊、
豚アリ、猪ハ、山林ニ多シ、鹿ハ、久高計羅摩等ニ多シ、犬、
大ニシテ、人ヲ傷フ者アリ、猿少シ、鼠最虐ナリ、猫皆玩
物ニ供シ、鼠ヲ捕ヘザル故ト云、○魚類ハ、鮫、鯉、鮒、鰻、鮹
等、極メテ多シ、鯨ハ、近海島嶼ノ間ニ出没スレトモ、捕ヘ
ズ、鰩(トビノウヲ)ハ、白鳥ノ如ク、水上ニ飛フヿ丈余ナリ、五彩魚ハ、
各種、色ニ因テ名ヅク、佳蘇魚(カツヲ)、《割書:俗ニ云鰹|節ナリ》魚脊ニテ製ス、
長サ一尺許、久高ノ産、良ナリ、煮テ煨リ、肉汁ニ漬シ、薄
切シテ食ノ、海馬(ウミムマ)ハ、馬首魚身ナリ、海蛇(ウミヘビ)ハ、長サ二三尺、
黒色□獰、僵直朽索ノ如シ、其他雑魚多シ、○介類ハ、亀、
鼈(スツポン)、蟹(カニ)、螺(ニシ)、蛤(ハマグリ)、鰒(アハビ)、蝦(エビ)等多シ、竜頭蝦(イセエビ)ノ大ナルハ、一二尺、竜形

ヲ成ス、玳瑁(タイマイ)ハ、甲、亀鼈ノ如ク、長尾尖形ニシテ、頭ハ淡
紅ヲ帯フ、長簪トス、緑螺ハ、大ハ盆ノ如ク、杯杓トシ、又
螺鈿(ラテン)器物ヲ飾ル□□(シヤコ)ノ大ナルハ、浴盆トシ、小ナルハ、
釜或ハ盎トス、器物ヲ製スニ、牙ノ如シ、海胆(ウニ)、海松(ウミマツ)、海柏(ウミヒバ)、
石芝(ボタンイシ)アリ、珊瑚、松紋ハ、八重山ニ出ツ、螺蜯中ニ真珠(シンジユ)ヲ
出ス、円ニシテ色ナシ、○虫類ハ、蝎虎(ヤモリ)尤多シ、声麻雀ノ
如シ、蜥蜴(トカゲ)モ多シ、背ニ金色アリ、蛇ニ最毒アリ、人其毒
ニ触レバ、即チ斃ル、姑米島最多シ、蝍蛆(ムカデ)ハ、長サ一尺余
ニ及ブ、傷ハズ、蚊、蠅、尤多ク、百虫終歳蟄セズ、
  国名
上古我朝、南海ノ多禰(タネ)《割書:又多褹、今|ノ種子、》掖玖(ヤク)《割書:又邪久、今|ノ屋久、》菴美(アマミ)《割書:又|奄》
《割書:美阿麻弥、|今ノ大島、》度感(トカ)《割書:今ノ徳島カ、|或云宝島、》信覚(シガキ)《割書:今ノ|石垣、》球美(クミ)《割書:今ノ|姑米、》永良部(エラブ)
貴海(キカイ)《割書:又貴賀、今|ノ喜界、》諸島ヲ、南島ト称ス《割書:孝徳斉明天武ノ朝|ニ、吐火羅(トクワラ)国ノ人、屡》
《割書:西海ニ漂着ス、日本史ニ、天竺地方ノ国|トス、疑フラクハ、今ノ宝(タカラ)島ナルベシ、》即チ今ノ琉球、
皆此内ニアリ、中古ニ至テ、白石 阿甑(コシキ)黒(クロ)島 硫黄(ユワウ)等ト合
シテ十二島、総称シテ、鬼界(キクワイ)島ト云ヒ、又五島七島ノ称
アリ、」凡ソ、中古国史ニ、鬼界島ト書シ、或ハ為朝ノ鬼島(オニガシマ)
ヲ征シ、又頼朝ノ貴賀井(キカヰ)島ヲ伐ツ、皆南島ノ泛称ナリ、
俊寛等ノ鬼界島ニ流サルヽハ、薩摩近海ノ硫黄島ナ
リ、以テ知ルベシ、《割書:今ノ喜界島ノ旧名、鬼界ト云、是古貴|海ノ同音ニ因リ、後諸島ノ泛称ヲ、一》
《割書:島ニ存セ|シノミ、》其鬼ヲ以テ目セシハ、蓋シ、上世南島野蛮ノ
風俗、世ニ人ヲ啖フノ国 ̄ト唱ヘシニ因リ、名トセシナル

ベシ、」後二条高倉帝ノ頃ニ至テ、南方ハ、既ニ叛テ、今ノ
琉球トナレルナルベシ、」《割書:南浦文集ニ、薩摩ノ諺ヲ引キ、|那覇本是河辺郡ノ句アリ、後》
《割書:或ハ、一旦薩摩ニ属セ|シモ、知ルベカラズ、》沖縄ハ孝謙帝ノ頃、吉備真備等、
阿児奈波(オコナハ)島ニ漂流ストアリ、之ヲ始トス、又空海ノ性
霊集ニ、留求トアル、琉球ノ字ノ始ナリ、」漢土ノ史ニハ、
隋書ノ流求ヲ始トス、或云隋ノ朱寛、万濤ノ間ニ、地形
ヲ見ルニ、虬竜ノ水中ニ浮ブガ如シ、始メテ流虬ト名
ヅクト、或云、為朝、海ニ浮ミ、流ニ順テ求ム、故ニ流求ト
スト、皆附会ノ説ナルノミ、」其他和漢ノ書ニ、琉球ノ異
字、数十様アリト雖トモ、皆音通ノ字ナリ、故ニ漢土ニハ、
隋ノ流求ヲ初名トシ、元ニ琉求トシ明ニ琉球ト定メ、
我朝ニハ古名ヲ南島鬼界島トシ、後ニ琉球トスト知
ルベシ、」而シテ、琉球ノ字、或ハ国名トシ、或ハ沖縄一島
ノ名トシ、或ハ諸島ノ泛称トス、今ハ、宜シク、詔ニ因テ、
諸島ノ総称ヲ、琉球藩トシ、首府ノ島名ヲ、沖縄ト称ス
ベシ、是正ニ其当ヲ得ン、

【枠外上部】異字
流求、琉求、瑠求、留求、流球、流虬、竜虬、流鬼、瑠球、留仇、

  史記
鴻荒ノ世ニ、男女二神アリ、阿摩美姑(アマミコ)ト云、始メ大島最
北ノ山ニ降リ、《割書:故ニ、島山、共ニ旧名ヲ阿麻弥ト|云大島ノ条下ト参見スベシ、》竟ニ、国
土ヲ覓メテ、此国ニ到ル、時ニ此島微小ニシテ、波浪ニ
漂フ、乃チ草木ヲ生植シ、山国ノ形体ヲ成シ、遂ニ米穀
ヲ分種シ、《割書:其地今ノ|山南地方、》稼穡ヲ伝ヘ、二神夫婦ト成リ、三男

二女ヲ生ム、長男ハ、開国ノ始王ト為リ、天孫氏ト称シ、
二男ハ 按司(アンズ)ノ始、三男ハ、民庶ノ始トナル、長女ヲ君々
ト云ヒ、天神トナリ、次女ヲ祝々ト云ヒ、海神トナル、爾
後、天孫氏世ニ国ニ王タリ、今ニ至テ、国人上世ヲ称シ、
阿摩美姑代ト云、《割書:尚神代ト云|フガ如シ、》丸推古十六年、隋主楊広、
其臣朱寛ヲ遣ハシ、琉求ヲ慰撫ス、従ハズ、其布甲ヲ取
リ還ル、時ニ我朝使、《割書:蓋シ小野|妹子ナリ、》隋ニ在リ見テ曰、是 邪久(ヤク)
国人用ヰル所ナリト、《割書:琉球ノ史ニ出ヅル、之ヲ始トス、|然レトモ、此時、朝使既ニ邪久ヲ知》
《割書:レバ先_レ是南島既ニ我ニ|帰化セシヿ知ルベシ、》十八年、隋又伐テ其王ヲ殺ス、
二十四年、掖玖(ヤク)人、始メテ来朝ス、《割書:国史ニ、南島ヲ記|スハ、之ヲ始トス、》天武
六年、多禰(タネ)人、始メテ来朝ス、十年 馬飼連(ムマカヒノムラジ)等、多禰国図ヲ
献ズ、明年、阿麻美人、始メテ来朝ス、文武二年、文忌寸博(フミノイミキハカ)
士(セ)等、兵ヲ率テ、南島ヲ慰撫ス、三年、度感(トカ)人、始メテ来朝
ス、大宝二年、多禰人、薩摩ノ隼人等ト叛テ南路隔絶ス、
乃チ兵ヲ発シ、討平シ、遂ニ戸ヲ校シ、吏ヲ置キ、掖玖ヲ
多禰ニ併セ、郡ヲ置キ、太宰府所轄、三島ノ一トス元明、
和銅六年、信覚(シガキ)球美(クミ)等、始メテ来朝ス、此ニ於テ、南島尽
ク内附ス、凡ソ推古ヨリ、寧楽ノ朝ニ至ルマデ、其間南
島陸続朝貢シ、屡々位禄ヲ賜フ差アリ、《割書:古ヘ、各島、皆君|長アリト見ユ、》
天平七年、太宰府ヨリ、南島ニ牌ヲ建テシメ、所在地名、
里数、泊船、取水等ノ所ヲ誌サシム、孝謙天平勝宝五年、
遣唐使、藤原清河吉備真備等、阿児奈波島ニ漂流ス、六

年、太宰府ニ命ジ、南島ノ牌ヲ修建セシム、爾後、南島ノ
事、史闕シテ詳ナラズ、《割書:蓋シ太宰府ニ隷シ、直ニ|其府ニ貢献セシナリ、》淳和、天
長元年、多禰島ヲ停メ、大隅国ニ隷ス、文徳、仁寿三年、僧
円珍、《割書:智|証》琉球ニ漂流ス、一条長徳三年、南蛮、西辺ニ冠ス、
明年、貴賀島ニ令シ、追捕セシム、○二条高倉帝ノ頃ニ
至テ、南海十二島中ニ、北部五島内附シ、南部七島属セ
ズ、時ニ薩摩ノ人、平忠景、朝命ニ乖キ、鬼界島ニ入ル、平
家貞ヲシテ、討タシム、果サズ、治承元年、藤原成経平康
頼僧俊寛等ヲ鬼界島ニ流ス、○初メ、源為朝、保元ノ乱
ニ、罪アリテ、伊豆ノ大島ニ流サレ、諸島ヲ侵略シ、居ル
ヿ十年、永万元年、《割書:二|条》偶、海上ニ鷺ノ飛ベルヲ見テ、島ア
リトシ、海ニ航シ、一昼夜、竟ニ一島ニ至ル、伝言シテ、鬼
島トス、即チ琉球ナリ、此時、天孫氏徳衰ヘ、諸按司叛キ、
国中乱ル、為朝島人ヲ畏服シ、一方ノ地ヲ略有シ、遂ニ
大里按司ノ妹ヲ娶リ、翌年、仁安元年男尊敦ヲ生ム、為
朝、時年二十八、居ルヿ数年、終ニ尊敦ヲ留メ、島人一人
ヲ率テ大島ニ還リ、毎歳絹百疋ヲ納レシム、嘉応二年、
為朝、官軍ヲ受ケ、大島ニ死ス、」《割書:或云、逃レテ、再ビ琉球ニ|入リ、大里按司トナリテ》
《割書:終ルト、国人、今ニ至テ、為朝ヲ称シ、|日本人皇後裔大里按司朝公ト云、》尊敦ハ、其母ニ従テ、
浦添(ウラソヘ)ニ成長ス、父ニ似テ、勇武宏量、衆ニ超エ、年十六、国
人、推シテ、浦添按司トス、民皆悦服ス、時ニ天孫氏益衰
ヘ、諸按司愈叛キ、逆臣利勇ナル者、寵権ヲ弄シ、竟ニ其

君ヲ弑シ、位ヲ簒フ、尊敦乃チ賊ヲ討ジ、之ヲ誅ス、諸按
司、乃チ推奉シテ王位ニ即カシム、是ヲ舜天王トス、」天
孫氏ハ、二十五世、大荒ノ乙丑ヨリ、文治二年丙午ニ至
ル、凡ソ一万七千八百二年ニシテ亡ブト云、然レトモ、其
事歴詳ナラズ、○文治三年《割書:後鳥|羽》舜天即位ス、時年二十
二、功ヲ賞シ、罪ヲ罸シ、国民平治ス、始メテ以呂波四十
七字ヲ制ス、」時ニ薩摩ノ人、河辺通綱ナル者、源頼朝ノ
旨ニ乖キ、鬼界島ニ逃ル、頼朝、又義経ノ党此島ニ潜ム
ト疑ヒ、文治四年、天野遠景ヲ遣リ、鬼界島ヲ撃チ降
ス、」舜天ノ孫義本、位ヲ英祖ニ譲リ、北島ニ隠ル、」天ノ
統、三世、七十四年ニテ絶ユ、《割書:後二百年、後裔尚|円王統ニ復セリ》○英祖ハ、
天孫氏ノ裔、恵祖ノ嫡孫ナリ、徳名アリ、文応元年、《割書:亀|山》即
位ス、」文永元年、姑米(クメ)計羅摩(ケラマ)恵平屋(ヱヘヤ)島等、来帰シ、三年、大
島等来帰ス、国漸ク以テ強シ、」正応四年、元主忽必烈、将
士ヲ遣リ、来リ侵ス、永仁五年、又来侵ス、並ニ之ヲ却ク、」
英祖ノ子大成、孫英慈、共ニ徳政アリ、曾孫玉城、政ニ怠
リ、国乱ル、嘉暦元年、《割書:後醍|醐》国中分裂シテ、三部トナル、大(オホ)
里(サト)按司ハ、山南王ト称シ、今帰仁(イマキジリ)按司ハ、山北王ト称シ、
玉城ハ、自ラ中山王ト称シ、《割書:其三分ノ境界ハ、今ノ|三山ノ地ト、大抵同ジ、》爾後、
三分鼎足、戦争止マズ、」玉城ノ孫、五歳即位シ、母后政ヲ
乱ル、国人廃シテ、察度ヲ立ツ、」英祖ノ統、五世、九十一年、
ニテ亡ブ、○察度ハ、浦添按司奥間大親ノ子ナリ、善ク

徳ヲ修ム、正平五年、《割書:後村|上》即位シ、国安シ、」文中元年、《割書:後亀|山》
明主朱元璋、使ヲ遣シ、来招ク、中山王察度、乃チ明ニ聘
ス、《割書:其献物中ニ内地ノ物品アリ、先_レ是、既ニ相交通セル|知ルベシ、又暹羅、等ノ国産アリ、亦相交通セリト云、》
是ヲ琉球ノ唐土二通ズル始トス、弘和三年、山南王承
察度、山北王帕尼芝、亦皆明ニ聘ス、」元中七年、宮古八重
山等来帰ス、」九年中山山南、共ニ秀才ヲ明ノ国子監ニ
送ル、是ヲ国人唐土ニ留学スルノ始トス、」《割書:爾後絶|エズ、》察度
ノ子武寧、政ヲ乱ル、尚思紹代リ立ツ、」察度ノ統、二世、五
十六年亡ブ、○尚思紹ハ、初メ山南王ノ佐敷(サジキ)按司タリ、
其子尚巴志、職ヲ嗣キ、徳望アリ、時ニ山南王驕虐ナリ、
巴志、義兵ヲ起シ、之ヲ攻メ、応永十二年、《割書:後小|松》武寧ヲ滅
シ、父思紹ヲ奉ジ、王トシ、二十三年、山北ヲ滅シ、永享元
年、《割書:後花|園》山南ヲ滅ス、初玉城ノ世ヨリ、国内三分シ、百余
年、七十余戦ニ及ビシガ、尚巴志ノ世ニ至テ、再ビ一統
セリ、然レトモ、竟ニ中山王ノ号ヲ改メズ、」巴志位ニ即キ
賢徳アリ、永享二年、明主、始メテ尚姓ヲ賜フ、」四年、巴志、
明主ノ書ヲ、将軍足利義教ニ転致ス、《割書:中古、我ニ通ズル|ハ、史ニ載スル、之》
《割書:ヲ始|トス、》八年、又転致ス、」巴志ノ子尚忠立ツ、」嘉吉元年、先_レ是、
将軍義教ノ弟 義昭(ギセウ)、《割書:大覚寺|門跡、》叛ヲ謀テ日向ノ福島ニ在
リ、島津忠国《割書:薩摩|守》命ヲ受ケ、此歳三月、義昭ヲ攻殺ス、義
教乃チ賞典トシテ、琉球国ヲ以テ、忠国ニ賜フ、《割書:或云、永|享中ヨ》
《割書:リ、既ニ島津|氏ニ属スト、》爾来島津氏ノ属ト為リ、毎歳朝貢絶エズ、」
【枠外上部】島津氏ノ臣、此時ニ、義昭ヲ殺セシ背ムク後裔、今ニ至テ、尚其祟ヲ受クト云ヘリ、

《割書:又此頃、暹羅爪哇|国等ト交通ス、》尚忠ノ子尚思達立ツ、」文安五年、使臣
参洛ス、」巴志ノ六子尚金福立ツ、」宝徳三年、使臣参洛シ、
銭一千貫《割書:先_レ是、明主時々銭ヲ|給ス、是明銭ナラン、》ヲ将軍義政ニ献ズ、義政
之ヲ禁闕ニ献ス、《割書:一書云、此時、船、兵庫ニ着ス、守護細川|氏、物ヲ取テ、価ヲ給セズ、且先々年々》
《割書:ノ積債、四五千貫ニ及ベトモ、償ハズ、島人愁苦ス、幕府、奉|行布施某等ヲ遣リ、検糺ス、未タ果サズ云々、先_レ是、屡兵》
《割書:庫ニ来リシ|ヿ、知ルベシ、》爾後、国人兵庫ニ来テ、交易シ、三年一貢ヲ
永式ト定メ、島津氏接伴ヲ掌ル、」金福薧ス、子志魯、叔父
布里ト位ヲ争ヒ、府庫ヲ焼キ、共ニ傷死ス、金福ノ長子
尚泰久立ツ、其子尚徳嗣グ、無道ナリ、鬼界島叛ク、王自
ラ討平ス、」文正元年《割書:後土|御門》使臣参洛ス」《割書:一書云、文正元年、|琉球人参洛ス、当》
《割書:御代六回ナリ云々、是義政ノ|時ナリ、六回考フベカラズ、》尚徳ノ世子立ツ、幼稚ナ
リ、国人弑シテ、尚円ヲ立ツ、」尚思紹ノ統、七世、六十四年
亡ブ、○尚円ハ、舜天ノ孫義本ノ後裔 恵平屋(エヘヤ)島ノ里之(サトノ)
子(シ)尚稷ノ子ナリ、賢徳アリ、仕ヘテ御鎖側官ニ至リ、尚
徳ノ無道ヲ諫メテ去ル、後、国人、世子ヲ弑シ、推奉スル
ニ及ビ、固辞スレトモ得ズ、文明二年、終ニ即位ス、百政皆
治リ、諸島帰伏ス、」《割書:此頃 満刺加(マラツカ)|国ト交通ス、》子尚真立ツ、天姿明敏、制
御ノ略アリ、八重山叛ク、兵ヲ発シ討平シ、因テ那覇港
ニ砲台ヲ築ク、又、旧制ニ、毎 間切(マギリ)ニ、一按司ヲ置ク、権重
ク兵争ス、尚真ノ時ヨリ以来、尽ク首里ニ聚居セシメ、
吏ヲ遣ハシ遥領セシム、」《割書:此事、或ハ尚巴志|ノ時ノ事トス、》先_レ是、大内義
興細川高国等ノ明ニ遣ハセル使僧、宗設宋素卿等、大

ニ福建ヲ擾ス、大永五年《割書:後柏|原》明主、尚真ニ托シ書ヲ足
利氏ニ贈リ、賊ヲ捕ヘンヿヲ乞フ、」尚真ノ子尚清嗣グ、
英毅ナリ、大島叛ク、討テ平グ、」享禄三年《割書:後奈|良》尚清、将軍
義晴ノ書ヲ明主ニ転致シ、旨ヲ伝ヘ、使臣等ノ暴行ヲ
謝シ、新勘合印ヲ求メ、再ビ交通セント乞フ、明主、又托
シテ義晴ニ伝言セシメ、罪魁ヲ求ム、」尚清ノ子尚元立
ツ、弘治二年、我辺民、明ノ浙江ヲ侵ス者、《割書:明人倭|寇ト云、》敗レテ
琉球ノ境ニ入ル、尚元撃テ殲ス、又大島叛テ那覇ニ至
ル、王、自ラ之ヲ撫鎮ス、子尚永嗣グ、○天正十一年、《割書:正親|町》
使臣参洛ス、」尚真ノ庻孫尚寧立ツ、十七年、春、豊臣秀吉、
島津義久ニ命ジ、尚寧ニ諭シ、正朔ヲ奉ジ、土地ヲ献ゼ
シム、尚寧聴カズ、此夏、秀吉ニ報書ス、略ニ曰、承聞、日本
六十余州、拝_二-望下塵_一、帰_二-伏幕下_一、加_レ之、及_二高麗南蛮_一、又偃_二威
風_一、吾遠島浅陋小国、雖_レ難_レ及_二 一礼_一、島津義久公、使_二大慈寺
西院和尚蒙_一_レ仰之条、差_二-上天竜桃菴和尚_一、明朝之塗物、当
国之土宜、録_レ于_二別楮_一、為 ̄メニ遂_二 一礼_一也ト、秀吉ノ復書、略ニ曰、
玉章披閲、再三薫読、抑本朝六十余州之中、不_レ遺_二寸地_一、悉
帰_二掌握_一也、頃又欲_レ弘_三政化於_二異域_一、茲先得_二貴国使節遠方 ̄ノ
奇物_一、而頗以歓悦矣、自_レ今以往、其地雖_レ隔_二千里_一、深執_二交義_一、
則以_二異邦_一、作_二 四海一家_一之情者也、自_レ是当国方物、聊投_二贈
之_一ト、且桃菴ニ諭シ、善ク尚寧ヲ説得セシム、」此冬、使臣
又、参洛ス、秀吉、乃チ明ニ通ゼント欲スルノ意ヲ托シ

聴カザレバ、大挙征討セントスルノ旨ヲ告グ、尚寧大
ニ驚キ、明ニ通ズ、明主報セズ、尚寧亦懼レテ報復セズ、
秀吉其報ナキヲ以テ、十九年、又義久ヲシテ、書ヲ贈リ、
征明ヲ諭告セシム、略ニ曰、夫我邦、百有余年、群国争_レ雄、
予也降誕、以_レ有_下可_レ治_二 天下_一之奇瑞_上不_レ歴_二 十年_一、而域中悉一
統也、由_レ是三韓琉球遠邦異域、欵_レ塞来享、今也、欲_レ征_二大明
国、蓋非_二吾所_一_レ為、天所_レ授也、如_二其国_一者、未_レ通_二聘礼_一、故先雖_レ欲
_レ使_レ討_二其地_一、原田孫七郎以_二商船之便_一、時来往、紹_二介近臣_一、曰、
某、早々至_二其国_一、而備可_レ説_二本朝発船之趣_一、然則不_レ出_二帷幕_一
決_二勝千里_一者、古人至言也、故暫不_レ命_二将士_一、来春可_レ営_二 九州
肥前_一、不移_二時日_一、可_下偃_二降幡_一而来服_上、若匍匐膝行、於_二遅延_一者、
速可_レ加_二征伐_一者必矣、勿_レ悔、不宣ト、尚寧又大ニ驚キ、明ニ
報ズ、時ニ明ノ江右ノ人許儀俊ナル者、薩摩ニ在リ、亦
書ヲ以テ、福建ニ通ズ、」文禄二年使臣参洛ス、○慶長十
四年、先_レ是、嘉吉年間、琉球、島津氏ニ属セシヨリ、年々貢
献セシガ、三司官邪那ナル者、明ト議シ、王ヲ勧メ、頃年
貢聘ヲ絶ツ、島津家久、再三開諭譴責スレトモ、無礼ニシ
テ応ゼズ、家久怒リ、将軍徳川家康ニ許可ヲ得テ、此歳
三月、樺山久高等ヲ将トシ、兵三千人、軍艦、数十艘ヲ発
シ征伐ス、先ヅ、大島ヲ歴テ、徳島ヲ襲フ、戍兵拒戦ス三
百ヲ斬リ、余衆降伏ス、四月、永良部与論島ヲ取リ、那覇
ニ到ル、軍威弥熾ナリ、初メ琉球ノ商、薩摩ニ在リ、軍装

ヲ見テ、遽ニ帰テ、国王ニ告グ、尚寧大ニ駭キ、預メ鉄鎖
ヲ那覇等ノ津口ニ設ケ、船艦巨砲ヲ列ス、我兵攻ムル
能ハズ、乃チ転シテ運天港ヨリ上陸シ、《割書:那覇ヲ敗ルト|スルハ誤ナリ、》
三日ニ五戦シ、首里ニ迫ル、尚寧降ヲ乞フ、聴カズ、五月、
竟ニ国都ニ入ル、尚寧出降ル、乃チ王子大臣以下数十
人ヲ擒ニシ、厳ニ劫掠ヲ禁シ、島民ヲ安集シ、戦陣凡ソ
六十日ニシテ、琉球諸島悉ク平定ス、《割書:世ニ、琉球軍談ナ|ル者流布ス、虚妄》
《割書:取ルベ|カラズ、》乃チ戍兵ヲ置キ、六月、尚寧以下ヲ率テ凱旋ス、

【枠外上部】此時、琉球一円ヲ賜ハルト雖トモ、島津氏ニ在テハ、其北部諸島ヲ収メ、以南ハ尚之ヲ琉球王ニ附セリ、蓋シ、北部ノ八島ハ、現ニ兵力ヲ以テ、之ヲ取ルモノニシテ、以南ハ、降伏ノ義ニ在リ、故ニ然リト、名分ノ存スル所、自ラ正ナリ、

七月幕府、書ヲ以テ其成功ノ速ナルヲ賞シ、琉球ヲ家
久ニ賜ヒ、永ク其臣属トシ、其国租、二十万石ノ半ヲ取
ラシム、《割書:此時ヨリ、琉球北部|諸島、島津氏ニ属ス、》十五年、八月、尚寧、家久ニ役
ヒ、駿府及ヒ東都ニ朝シ、方物ヲ献ジ、罪ヲ謝ス、爾来、入
朝連綿絶エズ、尚寧薩摩ニ在ルヿ三年、赦ヲ得テ、帰国
ス、」十八年、家久、書ヲ尚寧ニ贈リ、幕府ヘ朝貢センヿヲ
促シ、且将軍ノ意ヲ以テ、尚寧ニ介シ、書ヲ明ニ送リ、交
易ノ道ヲ通セント欲シ、聴カザレバ、西海道ノ兵ヲ発
シ、明ニ寇セントノ旨ヲ告ゲシム、尚寧、遂ニ明ノ福建
軍門ニ此旨ヲ達ス、」尚寧薨ズ、尚永ノ姪尚豊、其子尚賢
相継テ立ツ、正保元年、《割書:後光|明》清、燕京ヲ陥レ、明、江南ニ遷
ル、三年、尚賢乃チ清ニ聘ス、爾後、清ニ聘貢シ、絶エザル
ヿ、明ノ時ノ如シ、」弟尚質立ツ、慶安二年、明ノ魯王舟山
ニ在リ、書ヲ尚質ニ送リ、盟ヲ修メントシ、又托ンテ、書

ヲ本朝ニ寄セ、兵器ヲ仮ラント請フ、」尚質ノ子尚貞立
ツ、先_レ是、明ノ鄭経、《割書:成功|ノ子》台湾ニ拠リ、其兵琉球ノ船ヲ奪
フ、琉球、島津氏ニ依テ幕府ニ訴フ、後台湾ノ船、長崎ニ
至ル、長崎奉行、贖銀三百貫ヲ取テ、琉球ニ与フ、鄭経不
平ナリ、偶奥州ノ船、台湾ニ漂ス、鄭経供給シテ送還ス、
幕府、其厚誼ヲ称シ、銀ヲ賜ヒ、且托シテ、前ノ琉球人ヲ
還ヘサシム、延宝二年、《割書:霊|元》台湾ノ将楊英ヨリ、書ヲ長崎
奉行ニ贈テ曰、日本与_二本国_一通_レ好、彼此如_二同一家_一、予_二琉球_一
不_レ同、日国之民、即如_二吾民_一飄_レ風至_レ此、自応_二送回_一、豈有_二受_レ謝
之理_一可_下将_二原銀_一送還_上、其琉球貢_レ虜船、在_二虜地_一、孰弁_レ為_二琉球_一
之船_一琉球並無_二 一船来通一書来説_一、而興_レ詞投告、以致_三日
国稽_二留我銀_一、有_レ傷_二隣誼_一、過自在_レ彼、倘琉球有_二来説_一、本藩亦
不_レ靳_二発還_一、敬将_二原銀二千両_一、付_二官商察未訳_一、請為転啓_二 上
将軍_一ト、」尚貞ノ曾孫尚敬、孝徳アリ、政ニ務ム、其玄孫今
王尚泰ノ世ニ及デ、嘉永六年、米国使節ペルリ、那覇ニ
至リ、明年、竟ニ条約ヲ結デ帰ル、○大政維新ノ後、明治
四年、藩ヲ廃シ県トナリ、琉球諸島、鹿児島県ノ管トナ
ル、五年、秋、使臣入朝ス、天朝、特ニ其国ヲ擢デ、藩トシ、尚
泰ニ藩王華族ノ爵ヲ賜フ、」尚円ヨリ今王ニ至ル、十八
世四百余年ナリ、

  系統

○《割書:第一|》舜天《割書:源為朝子|嘉禎三年薨、七十二》 ― 《割書:第二|》舜馬順熙《割書:舜天子|宝治二年、六十四》 ― 《割書:第三|》義本《割書:舜馬順熙子|正元元年、五十四譲_レ位》
○《割書:第四|》英祖《割書:天孫氏裔恵祖孫|正安元年、七十一》 ― 《割書:第五|》大成《割書:英祖子|延慶元年、六十二》 ― 《割書:第六|》英慈《割書:大成子|正和二年、四十六》 ― 《割書:第七|》玉城《割書:英慈子|延元元年、四十一》 ― 《割書:第八|》西威《割書:玉城子|正平五年、二十三》
○《割書:第九|》察度《割書:浦添按司奥間大親子|応永二年、七十五》 ― 《割書:第十|》武寧《割書:察度子|応永十二年、五十》
○《割書:十一|》尚思紹《割書:佐敷按司|応永二十八年、欠》 ― 《割書:十二|》尚巴志《割書:思紹子|永享十一年、六十八》 ― 《割書:十三|》尚忠《割書:巴志子|文安元年、五十四》 ― 《割書:十四|》尚思達《割書:尚忠子|宝徳元年、四十二》 ― 《割書:十五|》尚金福《割書:尚忠弟|享徳二年、五十六》 ― 《割書:十六|》尚泰久《割書:金福子|寛正元年、四十六》 ― 《割書:十七|》尚徳《割書:泰久子|文明元年、二十九》
○《割書:十八|》尚円《割書:義本裔尚稷子|文明八年、六十二》 ― 《割書:十九|》尚宣威《割書:尚円弟|文明九年、四十八》 ― 《割書:二十|》尚真《割書:尚円子|大永六年、六十二》 ― 尚懿《割書:尚清弟|不_レ即_レ位》 ― 《割書:廿一|》尚清《割書:尚真子|弘治元年、五十九》  ― 《割書:廿二|》尚元《割書:尚清子|元亀三年、四十五》 ― 《割書:廿三|》尚永《割書:尚元子|天正十六年、三十七》 ― 《割書:廿四|》尚寧《割書:尚懿子|元和六年、五十七》

― 尚久《割書:尚永弟|不_レ即_レ位》 ― 《割書:廿五|》尚豊《割書:尚久子|寛永十七年、五十一》 ― 《割書:廿六|》尚賢《割書:尚豊子|正保四年、二十三》 ― 《割書:廿七|》尚質《割書:尚賢弟|寛文八年、四十一》 ― 《割書:廿八|》尚貞《割書:尚質子|宝永六年、六十五》 ― 尚純《割書:尚貞子不_レ即_レ位|宝永三年、四十七》 ― 《割書:廿九|》尚益《割書:尚純子|正徳二年、三十五》 ― 《割書:三十|》尚敬《割書:尚益子|宝暦元年、五十二》 ― 《割書:卅一|》尚穆《割書:尚敬子|寛政七年、》 ― 《割書:卅二|》尚成《割書:尚穆子|文化二年、》 ― 《割書:卅三|》尚顥《割書:尚成弟|天保二年、》 ― 《割書:卅四|》尚育《割書:尚顥子|嘉永二年、》 ― 《割書:卅五|》尚泰《割書:尚育子|》  《割書:尚穆以下、年寿不_レ詳、○自_二舜天文治三年_一、至_二|尚泰明治六年_一、三十五世、六百八十七年、》

琉球新誌巻上《割書:終|》

【裏表紙】

中山伝信録

九州明細図

大日本国細図

寛政二年八年琉球人来聘

寛政二年八年
琉球人来聘

寛政二年
姓名

第五唱曲
琉歌
三絃 渡慶次里之子
三絃 伊舎堂里之子

中山伝信録

沖縄志略

琉球入貢紀畧

【製本表紙】
【題箋】
「琉球入貢紀略 完」

【朱角印】
琉球入貢紀略序 【落款「晶山」】【角印「宝玲文庫」】
余友北峰山崎久郷、瑰瑋士也、博渉経史、
貫綜今古、海外典籍、無不通暁也、最精通
皇国之典故、着作汗牛、悉皆渉
国家之文為、実有用之学也、是以盛名伝
播一時、求之文壇、実罕輩儔、頃着琉球入
貢紀略、余訪北峰、得之凡案間、繙閲反覆、攬
要提綱、考拠精霰、援証詳審、如探珠
林、如泛玉海、真可謂会美矣、余濨慂之曰、
為斯書也、非国字以訳之、則児童走卒、不

能読之、請労高手更訳之、北峰唯諾、易以
国字、如大方君子、則就其原本、見之而可也、
書已成、受読之徒、日多一日、因命 剞劂、寿
諸■【棗ヵ】梨、省謄写之労、以応請求之士、嗚呼
北峰之於是挙、可謂勤矣、其稽古之博、考
証之詳、於是乎可窺其一斑矣、余竊雖琉球
入貢我
皇国、其来尚矣、況復慶元鞬囊、政治烋明、
徳化広被海内外、朝鮮聘問、琉球入貢、因襲故
常、修明礼典、二百有余年于茲、豈不盛大乎、
今歳壬辰仲冬、中山王使豊見城王子貢其
方物、謝襲封之恩、於是北峰有是撰、蓋掲

皇国之盛典者歟、亦用意之厚、学術之正、於
是乎可見矣、余幸遭逢昇平之世、親見琉
球使、四回于茲、見其人、想斯書、益信有裨
後昆矣、改嘗考之古、慶長年間、有釈袋中
者、我奥之岩城岩罡之人也、萍踪徧天
壌間、遂有航海之志、已到九州、欲与商舶注
唐山、以有縁故、先赴琉球、呂宋南蛮之夷

【棗(なつめ)ヵ、さらに梨棗の誤記ヵ】
【甞は嘗の異字体】

舶、通商西土者、羈在琉球、万祈請航海、彼
輩素畏憚我、
皇国之威武、峻拒不先、遂住錫琉球、其縉紳
黄冠馬幸明者、欽幕道範、䂁仰徳諠、使
袋中居於首里府桂林寺、国人無不欣戴
也、幸明語袋中曰、吾雖神国、昔未有其
伝記、䫟記之、袋中乃撰琉球神道記、復
為騞乱之徒、編琉球往来、其為体也蓋
模倣
皇国所謂逓訓往来云、袋中欲素志之不
済、頻発帰錫之情、而国俗繬素、懇請留
止、以故留連、応三寒暑矣、袋中亦屢辝浅、遂
解鑬、道俗餞送如市、充満海港、遥眺帆影、
惜錫跡之雖再云、袋中者、浄土教之徒、而所
謂名越派之臣擘也、着作凡二十有一部、余嘗
得窺其梗概、余也雖不同道、而同郷貫私汫
徳望、詳述如斯、碩乃北峰豈袋中之比哉、然
而於是書之成、掲示袋之有功於琉球、
亦余一片之婆心也、
天保玄黙執徐閏月、晶山間人書於木雞窩

【右丁】
南窓下、【落款二つ、「鍋田三善」】
    読経斎主人書【丸印「原阿曽美」】
【左丁】
琉球(りうきう)入貢紀略(にふこうきりやく)目録(もくろく)
  琉球/古(いに)しへ朝献(てうけん)ありし
  琉球使(りうきうし)始(はじ)めて来(きた)る
  琉球国/薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる
  永享以後(えいかういご)琉球使の来(きた)る
  島津氏(しまづうぢ)琉球を征伐(せいばつ)す
  慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(にふこう)
 附録(ふろく)
  琉球(りうきう)の名(な)載籍(さいせき)に見えし

【右丁】
  蛇海(じやかい) 鬼島(おにがしま)
  舜天王(しゆんてんわう)は為朝(ためとも)の子(こ)
 弁護(べんご)
  海宮(わたつみのみや)今(いま)の琉球国といふの弁(べん)
  宇留麻島(うるまのしま)琉球にあらざる弁
  永享(えいかう)年間(ねんかん)琉球 始(はじ)めて入貢(にふこう)といふの弁
  琉球の貢使(こうし)百余年(ひゃくよねん)絶(たえ)たりといふ弁
  薩琉軍談(さつりうぐんだん)の弁
  琉球(りうきう)国志略(こくしりやく)訛謬(くわべう)の弁
【左丁】
琉球入貢紀略(りうきうにふこうきりやく)
  琉球 古(いに)しへ朝献(てうけん)ありし
琉球国(りうきうこく)は、吾邦(わがくに)の南海(なんかい)にあるところの一(ひと)ツの島国(しまくに)な
り、いにしへその国(くに)の名(な)は聞(きこ)えざれど、もとより筑(つく)
紫(し)に隷(つき)たる島(しま)なり、唐土(もろこし)の書(しよ)には隋書(ずゐしよ)に始(はじ)め
て見えたり、隋(ずゐ)の大業(たいげふ)三年に煬帝(やうだい)羽(う)騎尉(きゐ)朱寛(しゆくわん)
といふ臣(しん)をして、海外(かいぐわい)の異俗(いぞく)を訪(とむら)はしめられし時(とき)
に海帥(かいすゐ)【左注「せんとう」】の何蛮(かばん)という者(もの)いへるは、過(すぎ)し年(とし)より春秋(はるあき)の
天気(てんき)晴(は)れたるときに、東(ひがし)の方(かた)にあたりて海上(かいしやう)は

るかに幾千里(いくせんり)ともしられず、煙霧(えんむ)【左注「けむりきり」】の如(ごと)くに見ゆる
島(しま)ありといへるによりて、朱寛(しゆくわん)とともに往(ゆか)しむる
に、遂(つひ)に琉球国(りうきうこく)に到(いた)りぬ、されども言語(ことば)通(つう)ぜざるに
よりて、その国(くに)の人(ひと)ひとりを掠(かす)めて還(かへ)れり、この時(とき)
より後(のち)、また朱寛(しゆくわん)をつかはして慰撫(ゐぶ)せられしかども
猶(なほ)従(したが)はず、朱寛(しゆくわん)たゞその布甲(ふかふ)【左注「よろひ」】をとりて還(かへ)れるに、
そのころ我邦(わがくに)の使人(つかひ)たま〳〵唐土(もろこし)にありてその布(ふ)
甲(かふ)を見て、これは夷邪久(いやく)の国(くに)の人 用(もち)ふるものといへり、
我邦(わがくに)にこれらのこと記(しる)したるものなしといへど、これ
によりておもへば、琉球(りうきう)も掖玖島人(やくしまのひと)とともに我邦(わがくに)へ
はやく往来(ゆきゝ)せしことありしを知(し)られたり、史(し)に推古(すゐこ)
天皇(てんわう)廿四年に、掖玖人(やくのひと)来(きた)ると見えたり、この年(とし)隋(ずゐ)の大(だい)
業(げふ)十二年にあたれり、これより先(さき)に掖玖人(やくのひと)とともに琉(りう)
球人(きうじん)の我邦(わがくに)に来(きた)りしことありしにや、しからざれば大
業(げふ)の初(はじ)め、我邦人(わがくにのひと)の隋人(ずゐひと)に答(こた)へし詞(ことば)にかなひがたし、
かゝれば琉球(りうきう)の名(な)は国史(こくし)に載(の)せずといへども、推古(すゐこ)天(てん)
皇(わう)の御宇(ぎよう)より、已前(いぜん)已(すで)に朝献(てうけん)【左注「けんじやう」】ありしことをおもふべ
し、

  琉球使(りうきうし)の来(きた)れる
琉球(りうきう)は掖玖(やく)とともに推古(すゐこ)天皇(てんわう)以前(いぜん)より入貢(にふこう)しけ
んが、はやく朝貢(てうこう)【左注「みつぎ」】怠(おこた)りて来(きた)らざりしなるべし、かくて
その国(くに)と往来(ゆきゝ)なければ、たま〳〵記載(きさい)【左注「しよもつ」】に見えたるも
みな懸聞(けんぶん)【左注「きゝつたへ」】臆度(おくど)【左注「すゐりやう」】のみにて、たしかなることなきはそ
のゆゑなりとおもはる、その国(くに)もまたはるかの島国(しまくに)
にて、いづれの国(くに)の附庸(ふよう)にもあらず、通信(つうしん)もせざりし
が、明(みん)の洪武(こうぶ)年間(ねんかん)琉球(りうきう)は察度王(さつとわう)の時(とき)にあたりて冊封(さくほう)
とて唐土(もろこし)より中山王(ちうざんわう)に封(ほう)ぜられて、彼国(かのくに)へも往来(ゆきゝ)し
て、制度(せいと)【左注「おきて」】文物(ぶんふつ)【左注「かくもん」】すべてかの国(くに)にならひてぞありける、
明(みん)の宣徳(せんとく)七年に、宣宗内官(せんそうないくわん)紫山(さいさん)といふ臣(しん)に命(めい)じて、
勅書(ちよくしよ)を齎(もた)らしめ琉球につかはし、中山王(ちうさんわう)より人をし
て、我邦(わかくに)に通信(つうしん)せしむ、この宣徳(せんとく)七年は我邦(わかくに)の永(えい)
享(かう)四年にあたれり、これによりて考(かんが)ふる、に【ママ】上古(しやうこ)【左注「おほむかし」】よ
りはやく往来(わうらい)【左注「ゆきゝ」】絶(た)えて後(のち)、明(みんの)宣宗(せんそう)のために我邦(わかくに)へ
使(つかひ)せしは、はるかに年(とし)を歴(へ)て再(ふたゝ)び我邦(わかくに)へ琉球 使(し)
の来(きた)れる始(はじ)めなるべし、これより後(のち)も明(みん)の正統(しやうとう)元年、
英宗(えいそう)琉球の貢使(こうし)伍是堅(こしけん)をして回勅(くわいちよく)を齎(もた)らし、

日本国王(にほんこくわう)源義教(けんきけう)に諭(ゆ)すといひ、《割書:これ永享八|年のことなり》嘉靖(かせい)三
年、琉球の長吏(ちやうす)【史】金良(きんりやう)の詞(ことは)に、これより先(さき)に正議(しやうぎ)大夫(たいふ)
鄭縄(ていしよう)といふものをして、日本国王(にほんこくわう)に転諭(てんゆ)す、《割書:これ大永|四年のこ》
《割書:となり○中山伝信録、|琉球国志略に見えたり》といへることあれば、明(みん)より我邦(わがくに)へ書(しよ)
を贈(おく)るに、琉球 使(し)に命(めい)ぜしこともありしとぞお
もはるゝ、
  琉球(りうきう)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる
足利義満(あしかゞよしみつ)公(こう)の男(なん)、大覚寺(だいかくじ)門跡(もんせき)義昭(ぎせう)大僧正(だいそうじやう)、逆意(ぎやくい)
の企(くわだ)てありて九州(きうしう)へ下(くだ)りたまふが、その事(こと)露顕(ろけん)【左注「あらわれ」】し
ければ、日向国(ひうかのくに)福島(ふくしま)の永徳寺(えいとくし)に隠(かく)れて、野武士(のぶし)など
頼(たの)み居(ゐ)たまひけるに、足利義教(あしかゞよしのり)聞(きこ)しめし付(つけ)ら
れ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津陸奥守(しまづむつのかみ)忠国(たゞくに)へ討(う)ち奉(たてまつ)るべき
よし命(めい)ぜられしかば、嘉吉(かきつ)元年三月十三日、樺山某(かはやまそれかし)
にあまたの兵士(へいし)を従(したか)はしめ討手(うつて)に向(むけ)られければ、僧(そう)
正(しやう)は自害(じかい)せられける即(すなは)ち御首(おんくひ)をば将軍(しやうくん)へ贈(おく)られ
たり、僧正(そうしやう)の役人(やくにん)別垂 讃岐坊(さぬきばう)といふもの、同(おな)じ時(とき)に
討(うた)れしとぞきこえし、この恩賞(おんしやう)として、薩州(さつしう)の
太守(たいしゆ)へ琉球国(りうきうこく)と通信(つうしん)【左注「ゆきかよひ」】交易(かうえき)なすべきよしの命(めい)あ

り、これ琉球(りうきう)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となるの始(はじ)めなり、《割書:旧|伝》
《割書:集、諸門跡譜等|に据りてしるす》
   永享(えいかう)以後(いご)琉球使(りうきうし)の来(きた)る
文安(ふんあん)五年、琉球人 来(きた)る、《割書:分類年|代記》宝徳(はうとく)三年七月、琉球
の商人(あきひと)の船(ふね)兵庫(ひやうご)の津(つ)に着岸(ちやくがん)したるに、守護職(しゆこしよく)
細川京兆(ほそかはけいてう)、やがて人(ひと)をつかはして、彼(かの)商物(あきなひもの)を撰(えら)み
取り料足(れうそく)を渡(わた)さず、先々年々(せん〳〵ねん〳〵)の借財(しやくさい)四五千貫(しこせんぐわん)に
及(およ)べども返弁(へんべん)なく、その上(うへ)売物(うりもの)をおさへ留(と)めら
れて、琉球人 難義(なんぎ)のよしまうしければ、時(とき)の公方(くばう)《割書:義|政》
より、奉行(ぶきやう)三人(さんにん)、布施下野守(ふせしもつけのかみ)、飯尾(いひを)与三左衛門(よさうざゑもん)同(おなじく)六(ろく)
郎(らう)をつかはされて、糺明(きうめい)【左注「たゞす」】せられしに、かの押(お)して取(とり)た
る物(もの)を、京兆(けいてう)より返(かへ)されざるによりて、奉行(ぶきやう)の上洛(しやうらく)延(えん)
引(にん)せしといふことあり、《割書:康富|記》同じ年(とし)の九月、琉球人(りうきうじん)の
献上(けんじやう)するところの、鳥目(てうもく)一千貫(いつせんぐわん)を、禁中(きんちゆう)に進献(しんけん)せ
らる、《割書:京都将|軍家請》文正(ぶんしやう)元年七月廿八日、琉球人 参洛(さんらく)す、こ
れは足利義政(あしかゞよしまさ)の世(よ)になりて、六度目(ろくたびめ)なりとぞ、《割書:斎|藤》
《割書:親基|日記》天正(てんしやう)十一年琉球 国(こく)入貢(にふこう)す、《割書:和漢合運、異|国往来記》おもふに
永享(えいかう)以後(いご)、琉球 使(し)の我邦(わがくに)に入貢(にふこう)するもの、これよ

り猶(なほ)多(おほ)かるべけれど、その頃(ころ)世(よ)おだやかならず、記(き)
載(さい)もまたに乏(ともし)ければ、その詳(つまびらか)なることは知(し)りがたき
なり、
  薩州太守(さつしうのたいしゆ)島津氏(しまづうぢ)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す
琉球国は、嘉吉年間(かきつねんかん)足利義教(あしかゝよしのり)の命(めい)ありてより
このかた、世々(よゝ)薩州(さつしう)に附庸(ふよう)の国(くに)たるを、天正(てんしやう)のころ
群雄割拠(ぐんゆうかつきよ)【左注「てんかいつとうせず」】の時(とき)にあたりて、琉球の往来(わうらい)も姑(しはら)く絶(た)
えたりければ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津家久(しまづいへひさ)より、もとの如(こと)
く貢使(こうし)あるべきよしを、再三(さいさん)使(つかひ)をもていひつ
かはしけれども、彼国(かのくに)の三司官(さんしくわん)謝那(しやな)といふ者(もの)、竊(ひそか)に明(みん)
人(ひと)と事(こと)を議(はか)りて、待遇(たいぐう)ことさらに無礼(ぶれい)なりしかば、
已(や)むことを得(え)ずして、慶長(けいちやう)十四年の春(はる)、台命(たいめい)を蒙(かうふり)
軍(いくさ)を起(おこ)し、樺山(かばやま)権左 衛門(ゑもん)久高(ひさたか)を総大将(そうたいしやう)とし、平(ひら)
田太郎(たたろ)左衛門(さゑもん) 益宗(ますむね)を副将(ふくしやう)とし、龍雲和尚(りううんをしやう)を軍(ぐん)
師(し)とし、七島郡司(なゝしまくんじ)を按内(あんない)として、その勢(せい)都合(つがふ)三千余(さんぜんよ)
人(にん)戦艦(いくさぶね)百余艘(ひやくよそう)を出(いだ)して、二月二十一日 纜(ともつな)を解(と)きて、琉
球国へ発向(はつかう)せしむ、樺山(かばやま)久高(ひさたか)総勢(そうぜい)を引卒(いんそつ)して、は
じめ大島(おほしま)に著岸(ちやくかん)し、また徳島(とくしま)に赴(おもむ)きしに、島人(しまひと)こ

れを防(ふせぐ)もの凡(およそ)千人(せんにん)ばかりなり、この戦(たゝか)ひに首(くび)を獲(う)る
こと三百 余級(よきふ)、余(よ)はみな降人(がうにん)にぞ出(いで)にける、四月朔日 那(な)
覇(は)の港(みなと)に至(いた)らんと、かのところに赴(おもむ)くに、港口(みなとぐち)には
逆茂木(さかもき)乱杭(らんぐひ)をかまへ、水中(すゐちゆう)に鉄(てつ)の鎖(くさり)をはり、是(これ)に
船(ふね)のかゝりなば、上(うへ)より眼(め)の下(した)に見おろして、射(い)とる
べき手(て)だてをかまへ、その外(ほか)の島々(しま〴〵)へも、用意(ようい)お
ごそかにしてぞ待(まち)かけたる、これによりて他(ほか)の港(みなと)よ
り攻入(せめい)りて、三日の間(あひだ)せめ戦(たゝか)ひ、手負(ておひ)討死(うちじに)少(すく)なから
ずといへども、遂(つひ)に進(すゝ)みて首里(しゆり)に攻入(せめい)り、王城(わうじやう)を囲(かこ)
みて、急(きふ)にもみにもんで攻破(せめやぶ)らんとす、琉球王(りうきうわう)及(およ)び三(さん)
司官(しくわん)等(ら)、薩州勢(さつしうぜい)の強大(きやうだい)にして、当(あた)るべからざるに避易(へきえき)【左注「おそれて」】【辟易】し、
みな出(いで)て降(がう)を乞(こ)ひけるによりて、軍(いくさ)の勝利(しようり)を得(え)て、
琉球 忽(たちまち)に平均(へいきん)【左注「たいらぐ」】せしよしを、速(すみやか)に駿府(すんふ)へ言上(こんしやう)【左注「まうしあげ」】ありしかば、
甚(はなは)だ称美(しようび)せさせたまひ、琉球を永(なが)く薩州(さつしう)の附庸(ふよう)と
ぞせられける、かくて五月廿一日に、中山王 尚寧(しやうねい)及(およ)び
諸王子(しよわうじ)を擒(とりこ)にして、薩州(さつしう)の軍士(ぐんし)凱陣(かいぢん)せり、十五年八
月、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)中山王(ちゆうざんわう)をともなひ、駿府(すんふ)に来(きた)りて
登城(とじやう)す、中山王 段子(どんす)【緞子】百端(ひやくたん)、猩々皮(しやう〴〵ひ)十二尋(しふにひろ)、太平布(たいへいふ)

琉球(りうきう)
 入貢(にふこう)の図(づ)
【行列の絵図あり】

二百 疋(ひき)、白銀(はくぎん)一万 両(りやう)、大刀(たち)一腰(ひとこし)を献上(けんじやう)す、それより
江戸(えど)に到(いた)りて、将軍家(しやうぐんけ)に謁(えつ)しけるに、米(こめ)一千俵(いつせんべう)を下(くだ)
したまふ、さてその年(とし)帰国(きこく)ありて、翌(よく)十六年中山
王 琉球(りうきう)に帰(かへ)ることを得(え)たり、これによりて十二月十五
日、琉球人 駿府(すんふ)へ帰国(きこく)御礼(おんれい)のために参(まゐ)りて、薬種(やくしゆ)及(およ)
び方物(はうぶつ)【左注「こころのしな」】くさ〴〵を貢献(こうけん)す、さて中山王 尚寧(しやうねい)降服(かうふく)し
てより、永(なが)く吾邦(わがくに)の正朔(せいさく)を奉(ほう)じ、聘礼(へいれい)を修(しゆう)すべき
よしの誓(ちか)ひをなしてけり、《割書:系図、旧伝集、政事録、南|浦文集等によりて記す、》これ
今(いま)の入貢(にふこう)の始(はじ)めなり、この後(のち)貢使(こうし)かつて闕(かく)ること
なし、
  慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(にふこう)
寛永(くわんえい)十一年閏七月九日、中山王(ちうざんわう)尚豊(しやうほう)、賀慶使(がけいし)佐敷王(さしきわう)
子(じ)、恩謝使(おんじやし)金武王子(きむわうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:元寛|日記》
この年(とし)、将軍家(しやうぐんけ)御上洛(ごしやうらく)ありて、京都(きやうと)にましますをも
て、二条(にでう)の御城(おんしろ)へ登城(とじやう)す、このゆゑに二使(にし)江戸(えど)に来(きた)ら
ず、
正保(しやうほ)元年六月廿五日、中山王 尚賢(しやうけん)、賀慶使 金武按(きむあん)
司(す)、恩謝使 国頭按司(くにかみあんす)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、七月

三日、下野国(しもつけのくに)日光山(につくわうざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、《割書:輪池|掌録》
慶安(けいあん)二年九月、中山王 尚質(しやうしつ)、恩謝使 具志川按司(くしかはあんす)等(ら)
をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|事略》また日光山の御宮を拝(はい)
す、
承応(じやうおう)二年九月二十日、中山王 尚質(しやうしつ)、賀慶使 国頭(くにかみ)按
司 等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:羅山文集、和漢合運、|近世武家編年略、》また日
光山の御宮を拝す、
寛文(くわんぶん)十一年七月廿八日、中山王 尚貞(しやうてい)、恩謝使 金武王(きむわう)
子(じ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:万天|日記》また日光山の御
宮を拝す、《割書:琉球事略、|歴代備考、》
天和(てんわ)二年四月十一日、中山王 尚貞(しやうてい)、賀慶使 名護按司(なごあんす)
恩納親方(おんなおやかた)等をして方物を貢す、《割書:万天日記、|甘露叢、》
宝永(はうえい)七年十一月十八日、中山王 尚益(しやうえき)、賀慶使 美里(みさと)王
子 富盛(ともり)親方、恩謝使 豊見城(とみくすく)王子 与座(よさ)親方等を
して方物を貢す、《割書:琉球聘|使紀事》また東叡山(とうえいさん)の御宮(おんみや)を
拝す、中山使の日光山(につくわうさん)に到(いた)らずして、東叡山に来
ることこの時を始とす、
正徳(しやうとく)四年十二月二日、中山王 尚敬(しやうけい)、賀慶使 与那城(よなくすく)

王子、恩謝使 金武(きむ)王子等をして方物を貢す、
《割書:文露|叢》
享保(きやうはう)三年十一月十三日、中山王 尚敬(しやうけい)、賀慶使 越来(こえく)
王子 西平(にしひら)親方等をして方物を貢す、《割書:享保|日記》
寛延(くわんえん)元年十二月十五日、中山王尚敬、賀慶使 具志(くし)
川王子 与那原(よなばる)親方等をして方物を貢す、《割書:歴史|要略》
宝暦(はうりやく)二年十二月十五日、中山王 尚穆(しやうぼく)、恩謝使 今帰(いまき)
仁(じん)王子等をして方物を貢す、《割書:歴史|要略》
明和元年十一月、中山王尚穆、賀慶使 読谷山(よんたんざん)王
子等をして方物を貢す、《割書:三国通覧、|速水私記、》
寛政(くわんせい)二年十二月二日、中山王 尚穆(しやうぼく)、賀慶使 宜野湾(ぎのわん)
王子等をして方物を貢す、《割書:琉球|談》
寛政八年十二月六日、中山王 尚成(しやうせい)、恩謝使 大宜見(おほきみ)
王子 安村(やすむら)親方等をして方物を貢す、《割書:輪池|掌録》
文化(ぶんくわ)三年十一月廿三日、中山王 尚灝(しやうかう)、恩謝使 読谷(よんたん)
山(ざん)王子 小禄(をろく)親方等をして方物を貢す、

【右丁、文字なし】
【左丁】
附録(ふろく)
  琉球(りうきう)の名(な)載籍(さいせき)に見えし
琉球はもとより我邦(わがくに)の属島(ぞくたう)なりといへども、かけ
はなれたる島国(しまぐに)にて、その国(くに)の往来(わうらい)【左注「ゆきゝ」】することはやく
絶(た)えぬれば、たま〳〵載籍(さいせき)【左注「しよもつ」】に見ゆるもの、僅(わづか)に一(いち)二(に)条(でう)
にして、その詳(つまびらか)なることかつて考(かんが)ふべからず、弘法大(こうぼふだい)
師(し)の性霊集(しやうりやうしふ)に、颽風朝扇(がいふうあしたにあふき)、摧肝耽羅之狼心(きもをたんらのらうしんにくだき)、北気(ほつき)
夕発(ゆふべにおこり)、失膽留求之虎性(きもをりうきうのこせいにうしなふ)、《割書:これは入唐大使賀能のために、代撰|せられて、福州観察使に与ふるの》
《割書:書の文|なり》と見ゆ、これ延暦(えんりやく)廿三年のことなり、今昔物(こんじやくもの)

語(かたり)智証大師(ちしようたいし)の伝(でん)に、仁寿(にんじゆ)三年八月ノ九日、宋(そう)ノ(の)商(あき)
人(ひと)良暉(りやうき)カ(が)、年来(ねんらい)鎮西(ちんぜい)ニ(に)有(あり)テ(て)、宋(そう)ニ(に)返(かへ)ルニ(るに)値(あひ)テ(て)、其(そ)ノ(の)船(ふね)ニ(に)
乗(のり)テ(て)行(ゆ)ク(く)、東風(ひがしかぜ)忽(たちまち)ニ(に)迅(とく)シテ(して)船(ふね)飛(と)フ(ぶ)カ(が)如(ごと)ク(く)也(なり)、而(しか)ル(る)間(あいだ)、十
三日ノ申時(さるのとき)ニ(に)、北風(きたかせ)出来(いでき)テ(て)流(なが)レ(れ)行(ゆ)クニ(くに)、次(つぎ)ノ(の)日(ひ)辰時(たつのとき)計(ばかり)ニ(に)
琉球国(りうきうこく)ニ(に)漂(たゞよひ)着(つ)ク(く)、其国(そのくに)ハ(は)海中(かいちう)ニ(に)有(あ)リ(り)人(ひと)ヲ(を)食(くら)フ(ふ)国也(くになり)、
其時(そのとき)ニ(に)風止(かぜやみ)テ(て)趣(おもむ)カム(かん)方(かた)ヲ(を)不知(しら)ラ(ず)、遥(はるか)ニ(に)陸(くが)ノ(の)上(うへ)ヲ(を)見(み)レハ(れば)、
数十(すじふ)ノ(の)人(ひと)鉾(ほこ)ヲ(を)持(もち)テ(て)徘徊(はいかい)ス(す)、欽良暉(きんりやうき)是(これ)ヲ(を)見(み)テ(て)泣悲(なきかなし)
フ(ぶ)、和尚(をしやう)其故(そのゆゑ)ヲ(を)問(と)ヒ(ひ)給(たま)フニ(ふに)、答(こたへ)テ(て)云(いは)ク(く)、此(こ)ノ(の)国(くに)人(ひと)ヲ(を)食(くら)フ(ふ)
所也(ところなり)、悲(かなしい)哉(かな)此(こゝ)ニシテ(にして)命(いのち)ヲ(を)失(うしなひ)テムトスト(てんとすと)、和尚(をしやう)是(これ)ヲ(を)聞(きゝ)テ(て)、
忽(たちまち)ニ(に)心(こころ)至(いた)シテ(して)、不動尊(ふどうそん)ヲ(を)念(ねん)ジ(じ)給(たま)フ(ふ)、《割書:三善清行が撰みし|伝にも、同じ趣きなり、》とい
へり、これや琉球(りうきう)の我邦(わがくに)の書籍(しよじやく)に見えたる始(はじ)めなら
ん、さてこゝに琉球は人(ひと)を食(くら)ふの国(くに)といへるも、もとより
伝説(でんせつ)【左注「いひつたへ」】の誤(あやま)りなることは、弁(べん)【左注「ことわる」】をまたずといへども、またそ
の据(よる)ところなにあらず、隋書(ずゐしよ)に国人好相攻撃(こくじんこのんであひこうげきす)【左注「たゝかふ」】云々、
取闘死者共聚而食之(たゝかひしするものをとりてともにあつまりてこれをくらふ)とあるをおもへば、唐土(もろこし)にて
ふるくより琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふよしいひ伝(つた)へしを、我(わが)
邦(くに)にもかたりつたへしなるべし、これによりてもそ
の国(くに)我邦(わがくに)には近(ちか)けれども、絶(た)えて往来(わうらい)【左注「ゆきゝ」】せざるをし

るべし、
  蛇海(じゃかい) 鬼島(おにがしま)
唐僧(たうそう)鑑真和尚(がんじんをしやう)の我邦(わがくに)に来(きた)られしは、唐(たう)の天宝(てんはう)十
二年なり、それより先(さき)ひとたび出帆(しゆつはん)して、難風(なんふう)に
逢(あ)ひて渡海(とかい)なりがたかりし時(とき)のことなるが、天宝(てんはう)七
載(さい)十月十六日、蛇海(じやかい)を過(す)ぐ、その蛇(じゃ)長(なが)きものは一丈(いちちやう)
余(よ)、小(せう)なる者(もの)は三尺(さんじやく)余(よ)、色(いろ)みな斑(まだら)にして、海上(かいしやう)に満泛(みちうか)
ぶといふことあり、《割書:鑑真東征伝、また宋の高僧伝|に見えたることも、同じおもむきなり》元享釈(げんかうしやく)
書(しよ)には、この鑑真(がんじん)のことを記(しる)して、日南(じつなん)に漂(たゞよ)ひ竜宮(りうぐう)に
赴(おもむ)くといへり、これは何(なに)によりて記(しる)せしにか、日南(じつなん)のこと
竜宮(りうぐう)のこと、上(かみ)の二書(にしよ)には見えず琉球神道記(りうきうしんたうき)に、毒蛇(どくじや)
を恐(おそ)るゝよし記(しる)したれば、この蛇海(じやかい)といふは、琉球の
ことにもやあらん、《割書:琉球|状》また鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)、伊豆(いづ)の大(おほ)
島(しま)に流(なが)されしが、永万(えいまん)元年三月、白鷺(しろさぎ)の沖(おき)の方(かた)
へ飛(とび)行(ゆ)くを見て、定(さだめ)て島(しま)ぞあらんとて、舟(ふね)に乗り
て馳(は)せ行(ゆ)くに、ある島(しま)につきて廻(めぐ)り見たまふに、田(た)
もなし、畠(はたけ)もなし、汝等(なんぢら)何(なに)を食事(しよくじ)【左注「くひもの」】とすると問(と)へば、
魚鳥(うをとり)とこたふ、その鳥(とり)は鵯(ひよどり)ほどなり、為朝(ためとも)これを見(み)

鎮西八郎(ちんぜいはちらう)為朝(ためとも)
翔鳥(かけとり)を射(い)るの
図(づ)
【絵図あり】
【画面右下、署名「雪堤」、落款「長谷川」】

たまひて、大鏑(おほかぶら)の矢(や)にて木(き)にあるを射落(いおと)し、空(そら)を
翔(かけ)るを射殺(いころ)しなどしたまへば、島(しま)のものども舌(した)を振(ふるひ)
ておぢ恐(おそ)る、汝等(なんぢら)も我(われ)に従(したが)はずは、かくの如(ごと)く射殺(いころ)す
べしと宣(のたま)へば、みな平伏(ひれふし)て従(したが)ひけり、島(しま)の名(な)を問(とひ)たま
へば、鬼(おに)が島(しま)と申(まう)すといへり、《割書:保元|物語》この為朝(ためとも)の渡(わた)りし鬼(おに)
が島(しま)といふも、即(すなはち)今(いま)の琉球国(りうきうこく)のことなり、《割書:琉球|事略》いま已(すで)
に琉球の東北(ひがしきた)にあたりて、鬼界島(きかいがしま)といふ名(な)のあるも、
そのなごりなりといへり、《割書:南島|志》
 舜天王(しゆんてんわう)は為朝(ためとも)の子(こ)なり
為朝(ためとも)、伊豆(いづ)の大島(おほしま)より、流(なが)れに随(したが)ひ国(くに)を求(もと)めて、琉
球国に至(いた)り、大里按司(おほさとあんす)の妹(いもと)に相具(あひぐ)して一子(いつし)を生(う)む、
名(な)を尊敦(そんとん)といふ、後(のち)浦添按司(うらそひのあんす)となる、そのころ
琉球の国王(こくわう)、天孫氏(てんそんし)の廿五世(にじふこせ)の裔孫(えいそん)、権臣利勇(けんしんりゆう)と
いふものゝ為(ため)に滅(めつ)【左注「ほろぶ」】せらる、この時(とき)浦添(うらそひ)の按司(あんす)尊敦(そんとん)、
義(ぎ)を唱(とな)へ兵(へい)【左注「いくさ」】を起(おこ)して利勇(りゆう)を誅(ちゆう)【左注「ころす」】す、これにより
て国人(くにびと)推(お)し尊(たふと)みて尊敦(そんとん)を君(きみ)とす、これ即(すなはち)
舜天王(しゆんてんわう)なり、舜天(しゆんてん)より義本(ぎほん)に至(いた)りて、三伝(さんでん)【左注「さんだい」】共(とも)に七
十三年にして、天孫氏(てんそんし)の裔(えい)、英祖(えいそ)に位(くらゐ)をゆづれりと

【右丁】
かや、《割書:中山世譜、中山伝|信録、琉球国志略》
【左丁】
弁誤(へんこ)
  海宮(わたつみのみや)今(いま)の琉球国(りうきうこく)といふの弁(へん)
或説(あるせつ)に、史所謂海神宮(しにいはゆるわたつとのみやは)、今南海諸島琉球是也(いまのなんかいのしよたうりうきうこれなり)、按海(あんするにかい)
神和多都美者(しんわたつみは)、本于諾尊之所生(そくそんのしよせいにもとつく)、少童命蓋海神(わたつみのみことはけたしかいしん)、豊(とよ)
玉彦者海島酋主(たまひこはかいたういうしゆ)焉、故云海神日向国宮崎辺人(ゆゑにいふかいしんはひうかのくにみやさきへんのひと)、依(とん[ママ])
天神勅御海事也(しんのちよくによりてかいしをきよするなり)、然則如諸島琉球(しかるときはしよたうりうきうのこときも)、当時係海神豊(たうしかいしんとよたまひこ)
玉彦之管轄(のくわんくわつにかゝる)、といへり、かゝる説(せつ)の已(すて)にありし故(ゆゑ)にや、
日本書紀通証(にほんしよきつうしよう)にも、海宮(かいくう)の条(てう)に琉球(りうきう)なるよしを
いひたり、しかれども本居宣長(もとをりのりなか)が古事記伝(こしきてん)、荒木(あらき)

田久老(たひさおい)が日本紀(にほんき)歌廼解等(うたのかいとう)に云(いふ)、海神(かいしん)の宮(みや)を今(いま)の琉
球国なりといひて、その証(しよう)などをとかくいへるは、古(こ)
伝(てん)を信(しん)せずして、みだりにいへる私(わたくし)のさかしら言(こと)なり
といへるぞ、実(け)に至当(したう)の論(ろん)といふべし、古来(こらい)より事(こと)の
たえて相似(あひに)たるをもて、附会(ふくわい)することいと多(おほ)か【*】り、
すべてみな臆度(おくと)に出(いて)でたる妄説(まうせつ)なれば信(しん)ずべ
からず、
  うるまの島(しま)琉球(りうきう)にあらざるの弁
笈埃(きふあい)随筆(すゐひつ)、夏山雑談等(かさんさつたんとう)に、うるまの国(くに)とは琉球なり
といへり、これはもと狭衣(さころも)といふ冊子(さうし)に、うるまの島(しま)と
いふことのあるを、紹巴(せうは)の下紐(したひも)といふ注釈(ちゆうしやく)に、琉球なり
といへるによると見ゆれども謬(あやま)りなり、うるまは新羅(しらき)《割書:今|の》
《割書:朝鮮|なり》の属島(そくたう)にして、琉球にはあらず自(おのつか)ら別(へつ)なり、そ
の証(しよう)は大納言(たいなこん)公任集(きんたうのしふ)に、しらきのうるまの島人(しまひと)
来(きた)りて、こゝの人(ひと)のいふことも聞(きゝ)しらずときかせたま
ひて、返(かへ)りごと聞(きこ)えざりける人(ひと)に、と詞書(ことはかき)ありて、
おぼつかなうるまの島(しま)の人(ひと)なれやわが恨(うら)むるを
しらずがほなる、《割書:千載集には、四の句を|わがことのはをに作る、》また本朝(ほんてう)麗藻(れいさう)

【影印は「ノ」に似ている、版木の欠損ヵ】

に、新羅国(しらきのくに)迂陵島人(うるまのしまひと)とも見えたり、これにて琉球
ならざることいと分明(あきらか)なり、前田夏蔭云、うるまは
迂陵(うりよう)の韓音(かんおん)なりといへり、
  永享年間(えいかうねんかん)琉球使(りうきうし)来(きた)るの弁(べん)
室町紀略(むろまちきりやくに)云(いふ)、永享(えいかう)十一年七月、是歳(ことし)琉球国 入貢(にふこう)、《割書:琉|球》
《割書:入貢|始見》また琉球事略(りうきうしりやく)に、後花園院(ごはなそのゐん)宝徳(はうとく)三年七月、
琉球人 来(きた)りて、義政将軍(よしまさしやうくん)に銭千貫(せにせんくわん)と方物(はうもつ)【左注「そのくにのもの」】を献(けん)
ず、これよりしてその国人(くにのひと)兵庫(ひやうご)の浦(うら)に来(きた)りて交易(かうえき)
すといふ、しからば彼国(かのくに)の使(つかひ)本朝(ほんてう)に来(きた)ることは、尚金(しやうきん)
福(ふく)が時(とき)をもて、その始(はじ)めとすべきかといへり、これら
の説(せつ)みな誤(あやま)りなり、按(あん)ずるに中山伝信録(ちゆうざんでんしんろくに)云(いはく)、宣徳(せんとく)七(しち)
年(ねん)、宣宗以外国朝貢独日本未至(せんそうぐわいこくのてうこうひとりにつほんいたらざるをもて)、命内官柴山齎(ないくわんさいさんにめいじてちよくを)
勅至国(もたらしくにいたる)、令王遣人(わうをしてひとをつかはし)、往日本諭之(につほんにゆいてこれをさとさしむ)と見えたり、これ実(じつ)
に我(わが)永享四年(えいかうよねん)にあたれり、かゝれば二書(にしよ)にいふと
ころ、この時より後(おく)れたれば、その始(はじめ)にあらざる
をしるべし、
  琉球(りうきう)の貢使(こうし)百余年(ひやくよねん)絶(たえ)たりといふ弁(べん)
嘉吉年間(かきつねんかん)、京都(きやうと)将軍家(しやうぐんけ)の命(めい)にて、琉球国を薩(さつ)

摩(ま)の附庸(ふよう)とせられしより、宝徳(はうとく)に来聘(らいへい)して後(のち)、百(ひやく)
余年(よねん)貢使(こうし)来(きた)らざりしかば、慶長(けいちやう)十四年、島津家(しまづけ)より
その罪(つみ)を正(たゞ)さんために、軍(いくさ)をおこしてかの国(くに)を討(うた)れ
しよしいふは非(ひがごと)なり、琉球事略(りうきうしりやく)に、近年(きんねん)その国(くに)の三司(さんし)
官(くわん)邪那(しやな)といふもの、大明(たいみん)と相議(あひぎ)して、その国王(こくわう)を勧(すゝ)め
て、日本人(につほんじん)の往来(わうらい)をとゞむといひ、また定西法師(ぢやうさいほうし)物語(ものかたり)
にも、定西(ちやうさい)いまだわかゝりしころ、薩州(さつしう)に琉球の王子(わうじ)
の来(きた)り寓(ぐう)せられしに従(したが)ひて、かの島(しま)にわたりて寵(ちよう)
を得(え)て、後(のち)我邦(わがくに)にかへりしが、慶長(けいちやう)の征伐(せいばつ)に、その王(わう)
子(し)も擒(とら)はれて駿府(すんふ)に来(きた)りしに、はからず定西(ちやうさい)に逢(あ)
へりといふこと見えたり、これらにてもその往来(わうらい)百余(ひやくよ)
年(ねん)絶(た)えしにはあらざるをおもふべし、
  薩琉軍談(さつりうぐんだん)の弁(べん)
世に薩琉軍談といふ野史(やし)あり、その書(しよ)の撰者(せんじや)詳(つまびらか)な【ママ】
ずといへども、あまねく流布(るふ)して、二国(にこく)の戦争(せんさう)【左注「たゝかひ」】をい
ふものはかならず口実(こうじつ)とす、そのいふところ、薩州(さつしう)の
太守(たいしゆ)島津(しまづ)兵庫頭(ひやうごのかみ)義弘(よしひろ)の代(よ)に、惣大将(そうたいしやう)新納(にひろ)武蔵(むさし)
守(かみ)一氏(かずうち)、種島大膳(たねがしまたいぜん)佐野帯刀(さのたてはき)等(とう)、士卒(しそつ)惣人数(そうにんず)十

万千八百五十四人 渡海(とかい)せしといへり、又かの国(くに)の澐灘(うんだん)
湊(そう)、竹虎城(ちくこぢやう)、あるひは米倉島(べいさうたう)、乱蛇浦(らんじやほ)などいふ地名(ちめい)あり、
その将士(しやうし)には、陳文碩(ちんぶんせき)、孟亀霊(まうきれい)、朱伝説(しゆでんせつ)、張助昧(ちやうじよまい)等(とう)の名(な)
をしるしたり、まことにあとかたもなき妄誕(まうたん)にして、
その書(しよ)の無稽(ぶけい)、論(ろん)を待(また)ずしてしるべし、慶長征伐(けいちやうせいばつ)
のこと、已(すで)に本編(ほんへん)に詳(つまひらか)なれば更(さら)にこゝにいはず、
  琉球国志略(りうきうこくしりやく)の訛(くわ)謬(べり[ママ])【左注「あやまり」】を弁(べんず)
琉球国志略云(りうきうこくしりやくにいはく)、万歴間(ばんれきかん)浦添孫慶長(うらぞひのそんけいちやう)即察度王後(すなはちさつとわうののち)、興(につ)
於日本(ほんにおこり)、自薩摩州挙兵入中山(さつましうよりへいをあげちゆうざんにいり)、執王及群臣以帰(わうおよびぐんしんをとらへもつてかへる)、留(とゞまる)
二年(ことにねん)、迵不屈被殺(たうくつせずころさる)、王危坐不為動(わうきざしてためにうごかず)、慶長異之卒送王(けいちやうこれをことなるとしてつひに)
帰国(わうをおくりくにゝかへす)と見えたり、唐土(もろこし)の人(ひと)もとより我邦(わがくに)の事実(しじつ)に
疎(うと)し、島津氏(しまづうぢ)をもて琉球 察度王(さつとわう)の裔(えい)とし、慶長(けいちやう)
は我邦(わがくに)の年号(ねんがう)なることを知(し)らずして島津氏(しまづうぢ)の
名(な)とす、その訛謬(くわべう)尤笑(もつともわら)ふべし、この事(こと)已(すで)に中山(ちゆうざん)
伝信録(でんしんろく)に世纘図(せいさんづ)を引(ひき)ていへりといへども、国史略(こくしりやく)は伝(でん)
信録(しんろく)に比(ひ)【左注「くらべ」】すれば頗詳(すこぶるつまびらか)にして且(かつ)正(たゞ)し、ゆゑに今(いま)国史
略につきてこれを弁(べん)ず、さて因(ちなみ)に云(いふ)初学(しよがく)の輩(ともがら)、
我邦(わがくに)の事蹟(じせき)たま〳〵唐土(もろこし)の載籍(さいせき)に見ゆるとき

は、かならず引(ひき)て証(しよう)とす、我邦(わがくに)の人(ひと)我邦の事(こと)を
記(しる)すに、猶誤(なほあやま)りなきことあたはず、況(いはん)や唐土(もろこし)の書(しよ)
にいふところ、多(おほ)くはみな懸聞(けんぶん)の訛(あやま)り臆度(おくど)の妄(まう)
のみ、

 天保三年歳次壬辰十一月   【落款「美成」ヵ】

【製本裏表紙、文字なし】

琉球唱曲

琉球解語

【表紙】

【題字】
琉球解語 全

【右頁】
冨岡手暠校
一立齋廣重冩
【朱角印「楽願済」】
 琉球
 解語

嘉永三庚戌歳 東都芝神明前
        若林堂梓


【左頁】
 行列始
薩州 御留守居
   御物頭

儀衛正
 高嶺親雲上

 鞭

張簱
銅鑼
両班
銅角

【右頁】
喇叭
嗩吶

虎簱



掌翰使
 伊野波
  親雲上


【左頁】
涼傘


 正使
  玉川王子

龍刀
 鎗

【右頁】
牽馬
沓籠
合羽籠

副使 乗物
 野村親方


【左頁】
牽馬
 沓籠
 合羽籠

賛議官
 我謝親雲上

楽正
 伊舎堂
  親雲上

【右頁】
楽童子
 新城里之子


 小録里之子


 與那原里之子


 宇地原里之子



【左頁】

 安谷尾里之子


 松堂里之子

正使従者
 渡久地
  親雲上

【右頁】
楽師
 譜久山親雲上


 国吉親雲上


 幸地親雲上


 名幸親雲上


 楚南親雲上

正使之使賛
 外間親雲上

薩州
 惣押 御家老
    御用人

備鎗 二十本


【左頁】
琉球解語
        手暠校正

   目録
 ○恩謝使略
 ○官位並官服図説
 ○年中行事
 ○板舞之図
 ○元服    ○剃髪
 ○器財之説
 ○女市之図説 ○嚏を好む
 ○哥舞    ○飾馬之図説
 ○琉球之狂言 ○書法
 ○宗派    ○耕作
 ○屏風 附伊呂波

  ○恩謝使略
皷川浸筆に曰慶長十四年己酉薩州之大守島津
家久台命を蒙りて軍を与し其無礼の罪を討其老
臣樺山権左エ門久高平田太郎左エ門益宗に三千の兵
を与へ手勢と共に三千五百人三月ともつなを解き大洋(おほうみ)【?】
を押渡り直に琉球運天の湊につき一挙にして攻上る
国人防禦の術を廻ら【尽盡ヵ】すといへども其鋭鋒に当りがたく
殊に鉄炮に駭きおそれ終に軍敗れて国王尚寧軍
門に降る爰において琉球三山諸島を平定し六月
尚寧王を携て凱陣す此時琉球玉永々【?】家久に揚【?】
はる印章を下し援け玉ふ翌十五年庚戌八月家久尚
寧を率て駿府江戸に来り方物を献し怠貢の罪
を請ふ是東迁以後琉球来聘の始にして已後使を
献じ慶を賀し恩を謝する事連緜として絶えす朝
貢再び旧に復すといふべし寛永七年庚午十一月尚豊
王賀慶正使佐敷王子恩謝正使金武王子をして方物を
献ず此時 御上洛ありし故京都二条にて拝礼す江戸


に来らず寛永廿一年甲申六月尚賢賀慶正使金
武王子恩謝正使国頭王子をして方物を献す
慶安二年己丑九月尚質王恩謝正使具志川
王子をして方物を献す又日光山を拝礼す承応
二年癸巳九月尚質王賀慶正使国頭王子をし
て方物を献ず寛文十一辛亥七月尚貞王恩謝正
使金武王子をして方物を献ず又日光山を拝礼す
天和二年壬戌十一月尚貞王賀慶正使名護王子
をして方物を献す宝永七年庚寅十一月尚益王賀
慶正使美里王子恩謝正使豊見城王子をして方物
を献正徳四年甲午十二月尚敬王賀慶正使與那城王子
恩謝正使金武王子をして方物を献す享保三年戊戌
年十一月尚敬王賀慶正使越来王子をして方物を献
寛延元年戊辰十一月尚敬王賀慶正使具志川王子をして
方物を献す宝暦二年壬申十二月尚穆王恩謝正使今帰仁
王子をして方物を献す明和元年甲申十一月尚穆王賀慶
正使読谷山王子をして方物を献す寛政二年庚戌十二
尚穆王賀慶正使宜湾王子をして方物を献ず同八年丙戌【丙辰の誤り】

【右頁】
十二月尚成王【尚温王の誤りか?】恩謝正使大宜見王子副使安村親方を
して方物を献す文化三年丙寅十一月尚顥王恩謝正使
読谷山王子副使小禄親方をして方物を献す天保三
年壬辰十一月尚育王恩謝正使豊見城王子前尚顥
王之使澤岻親方をして方物を献ず天保十三年壬寅十
一月尚育王賀慶正使浦添王子をして方物を献ず
今茲嘉永三庚戌十一月尚泰王恩謝正使玉川王子
をして方物を献ず慶長より今年に至る迠来聘
十九度に及ふ
    官位並冠服図説
位は一品より九品まであり勿論正従の別あり王の
子弟を王子(わんず)と称す《割書:正一品》領主を按司(あんず)と称ず《割書:従一品|○古は》
《割書:按司領地に住居して其地を治めしが各権威を振ふにより第十七|代の国王尚真制を改首里の城下に居住せしめ察事紀官といふ》
《割書:官人を一人宛遣はして其領内の事を支配せしめ|歳の終に物成を按司のかたへおさめしむ》天曹司地曹司
人曹司とて国家の政事を司る大臣三司官親方と
称す《割書:正一品》夫より以下の大臣を親方と称す《割書:従二品》
親雲上と称するものは武官なり《割書:三品より七|品まてあり》里之子と称
するは扈従(こせう)の少童なり《割書:八品》筑登之と称するは九品なり


【左頁】
○王(わう)帽(ほう)
黒き紗にて作る
国王是を載く


○官民帽(くわんみんほう)
一品より九品
までの製
皆同し
いたに紙を
骨にして
つくる





○短簪
長サ三四寸
元服したる者
これを用ゆ


○笠(かさ)
菱わらにて
作りまた
葦にても
作る
外を黒く
内を朱にて塗る


○長簪
長サ尺余
婦人少年の
男子元服
前にて髻の
大なるもの
是を用ゆ
金銀に■■【貴賤ヵ】を分つ
女子は玳瑁にて
製したるを用ゆ


○片帽(へんほう)
黒き■【絹ヵ】にて
つくる
六の角あり
医官楽人
茶道の外
剃髪したる
ものこれを
用ゆ

【右頁】


長サ壱丈四五尺
寛サ六七寸腰をまとふ事
三重四重にす
此帯地の地紋に
差別ある事上に
載たる如し
此帯の裁を
薩摩がんとう
とて好事の人
■■■【甚珍翫ヵ】す




袖大サ二三尺ばかり
長サ手に■【過ヵ】ず■する
物は平服なり官服は丈長し
平日
着する
物は
大抵

芭蕉布の
袴織を
用ゆる也


此外足袋
草履等
日本に
同じ
かるが
ゆゑに
図せず


【左頁】
○国王は烏紗帽(くろきしやのかふりもの)に朱き纓(ひも)龍頭(たつがしら)の簪(かんざし)雲龍の紋ある
袍(きぬ)を着し犀角白玉の帯を用ゆ何れも明朝の
製なり今清朝の冊封を受ながら冠服は古へを改
めず一品以下/帽八等(かふりものやしな)【?】簪四等帯四等あり其荒増は
一品は金の簪/彩織緞(もやうををりたるきれ)の帽。綿の帯。緑色(もへぎ)の袍を着す
《割書:江戸へ来聘する使臣は一品なれども|国王の名代故王の衣冠を着用す》二品は金の簪《割書:従二品は此【頭ヵ】を|金にて作り》
《割書:■【棒ヵ】は銀|なり》紫綾の帽。龍(くわん)蟠の紋ある黄なる帯。《割書:功ある者は紗|帯を結ふ》
深青【?】色の袍を着す。三品は。銀の簪。黄なる綾の帽。帯袍
ともに二品に同し。四品は。龍蟠(くわんりやう)の紋を織たる。紅の帯。
簪帽袍三品に同じ五品は。絲色花帯(いろいとにてもやうあるおひ)【?】。其外は三品に
同じ六品七品は黄なる絹(きぬ)の帽簪と袍とは三品に同しく。
帯は五品と同じ八品九品は。火紅綿(ひちりめん)紗の帽。其/他(ほか)は七品に
同じ。雑職(かるきやくにん)【?】は。紅絹の帽。其他は七品に同し銅の簪/紅布(あかもめん)
の帽。或は緑布の帽を蒙(かぶ)るは里長(なぬし)保長(しやうや)などなり。青
布の帽を蒙(かぶ)るは。百姓/頭目(かしら)なり。凡て官服は平服より
丈長く上より帯にてしむるなり。いかにも寛やかに着為(きな)し
紙夾(かみいれ)烟袋(たばこいれ)など懐に入る事。日本の如し。童子の衣
服は。三四寸ばかりの■【脇ヵ】明あり元服の時■浩■【縫括るヵ】元服

【右頁】
の事は下に載たり。女人の服もさして替る事なし。外(うは)
衣(ぎ)を襠(うちかけ)にし。左右の手にて襟を曳て行となり。寝衣(よぎ)
の制(いしつた)【ふりがな?】。日本と同じ。衾(ふすま)といふ。衣服に両面を反覆(うらがへ)して
着たる様に制したるも有り。惣して帽帯の織物は。
唐土■といふ地にて織。此国へ売渡す琉球国にては唯
芭蕉布のみを作る。家〳〵の女子。皆手織にす。首里(すり)にて
制(せい)する物を上品とす
   ○年中行事
正月元旦。国王冠服を改て。先年徳を許し。夫より諸
臣の礼を交。同十五日の式。元日に同じ《割書:毎月十五日諸|臣の■■【登城ヵ】あり》王ゟ
茶と酒とを賜ふ。扨民家の女子は毬(まり)をつきて遊び。
また板舞といふ戯(たはむれ)を為す。図の如く真中へ木の台
を居其上へ板を渡し。二人の女子両端に対(むか)ひて立。一人
躍(おど)り上れば一人は下にあり。躍り上りたる女子。本の
所へ落下る勢ひにて。こなたに立たる女子は五六尺も刎
上るなり。其舞。転倒せさるを妙とす。其池【地の誤り?】北極地を
出る事二十五六度なる故。暖気も格別にて桃花も䘺ひ。
長春は四季ともに花咲ども。わけて此月を盛とす。


【左頁】
板舞之図(いたまひのづ)

羊躑躅(つゝじ)は殊に見事なり。元日王宮の花瓶に挿る。恒
例なるよし。蛇はじめて穴を出。始て電し。雷則ち声を
発す枇杷の実熟す。元朝これを食ふ。正三五九の四ヶ
月を国人吉月と名つけて。婦女海辺に出水神を拝
して福を祈ると。伝信録に載たり。
○二月十二日。家〳〵にて浚井し。女子は井の水を汲て。
額を洗ふ。如此すれば。疾病を免るゝとなり此月や。土
筆萌出。海棠。春菊。百合の花。満開し。蟋蟀(こほろき)鳴(なく)。
○三月上巳の節句とて徃来し。艾糕を作て餉る。石
竹。薔薇(ろうわはら)【?】罌粟。倶に花咲く。紫藤生じ。麦/秋(みの)り。虹始
て見ゆ
○四月させる事無し。鉄/線(せん)開き。笋出。蜩鳴き蚯蚓
出。螻蝈(けら)鳴き。芭蕉実を結ふ。国人是を甘露と名つく。
○五月端午。角黍を作り蒲酒を飲事日本の如し。
此月稲登る。吉日を選んて。稲の神を祭り。然うして
後。茢収むるとなり。明の夏子陽使録に云。国中に。女
王といふ神あり。国王の姉妹。世〳〵神の告に依て。
是に替る。五穀成時に及て。此神女所々を廻り


行穂を探てこれを嚼(かむ)。いまだ其女王の嘗ざる前に。
穫(かり)入たる稲を食ふ時は立所に命を失ふゆゑ。稲盗
人絶て無し。此月蓮の花咲。桃。石榴熟す
○六月の節句あり。《割書:六月の節句中に|当る日なるべし》強飯を蒸て送る。この
月也。沙魚(わにざめ)。岸に登りて鹿となり。鹿また暑を畏るゝ
故。海辺に出て水を咂(ふく)み。亦化して沙魚となる。桔梗。扶
桑花開く。
○七月十三日。門外に迎火の炬火を照らして先祖を迎
へ十五日の盆供など。日本と替りたる事なし此月。竜眼
肉実を結ぶ。
○八月十五夜。月を拝す。白露を八月の節句とし
赤飯を作て相/餉(をく)る其前後三日ヶ間。男女戸を閉て
業を休む。是を守天孫と号す。此間に角口(いさかひ)【?】などすれば
かならす蛇に囓るゝとなり木芙蓉花さく。
○九月梅花開き。霜始て降り。雷声を収め蛇はなはだ
害を為す。此月の蛇に傷(きず)つけらるれば。立どころに死す
故に。八月の守天孫に。三日が間つゝしむなり。田は惣く
墾(あ**)ばかし【?】。麦の種を下す《割書:麦は三月|実のる也》

○十月蛇穴に墊【蟄?】し。虹蔵(にしかくれ)て見えす。小児は紙鳶をあぐ
○十一月水仙。寒菊開き。杓杷(くこ)紅(くれない)に色づき蚯蚓音を出す。
其外にさせる事なし
○十二月。庚子庚午に当る日に逢ば。糯米の粉を椶(しゆろ)の
葉にて。三重四重に包み蒸篭にてむしたるを鬼餅
と名付て餉るなり。土人の説に。昔此国に鬼出たりし
時。此物を作て祭りしとなり。是其遺れる法なるよし。
駆儺(おにやらひ)。禳疫(やひやうよけ)【?】の意なるへし。二十四竈を送り。翌年正
月始て竈を迎ふ。《割書:竈の神を送り|迎ふるなり》
   ○元服(げんふく)
此国人。元服以前は髻を蛇のわだかまりたる如くにし長き
簪を下より上へ逆しまに串きて其先きは額にいたる
なり。既に成長(ひとゝなり)て冠(かむり)する時は。《割書:二十にして冠する|は通例なり》頂(いたゝき)の髪を剃
て髻を小さくし。短き簪にて留置なり唐土明の世には
髪を剃事なかりしが。清の冊封を受る世となりてより
の事なるよしなり。案るに芴【?】子坊主なるかはりに。中剃
と遁れたるなるべし
   ○剃髪(ていはつ)


医官を五宦正といひ。茶道坊主を。家叟といひ。また
御茶湯といふ。片帽を被(かふる)。黒き十徳のこときものを
着するとなり
   ○器財(きさひ)之説
食膳の為方。膳椀にいたるまで。惣て日本の制に効(なら)ふ
王宮の給(きう)仕は。里之子なり。二人宛揃への服を着し。
進退。小笠原流をもちゆ。はなはだ行儀よき事なるよし
なり
   ○女市
此国中辻山といふ所の海/沿(ばた)に。早晩(あさばん)両度市あり商人は
残らず女なり。商ふ所のものは魚蝦(きよるい)。蕃薯(さつまいも)。豆腐。木器。
磁碟(さらこはち)。陶器(やきもの)。木梳草靸(きぐしさうり わらじ)等の麤物なり其貨物。何に
よらず首に戴き。坡に登り嶺を下るに偏(かたよら)ず。売買は
日本の銭を用ゆ。古へは洪武通宝。永楽通宝唐土
より此地へ渡りて通用せしが。今ははなはたまれにし
て。只寛永通宝のみ多しとなり
   ○嚏(くさめ)を好む
琉球人は寿命の薬なりとて嚏する事を好む客

女市之図

に対する間も。紙条を鼻孔(はなのあな)へ入てくつさめを為といへり
   ○哥舞(うたまひ)
王宮にて哥舞を興行する時は五六丈四面の舞台を
造り。四方に幕を張り。楽人は紅衣緑(くれないのきぬみとりの)衣を着し夫〳〵
の巾を戴き蛇の皮にて張たる三弦。提琴。笛/小鑼(こどら)。鼓(つゞみ)
なとを持て二行にならび。ゆるやかに楽譜を歌へば
暫く有て。階(はし)懸りの幔(まく)を褰げ。舞人出るなり
○小童四人朱き襪(ま**づ)【ふりがな不明】を履(はき)。五色の長き衣を襠にし。
頭に黒皮にて作りたる笠に。朱纓の付たるを戴き。廻(まひ)
旋場(ながらぶたい)に登り。楽人の方へ向ひて座す。楽工其笠を取。
朱纓(あかひも)を笠の上へ捲つけてあたふれば。童子うけ取て
立上り。足様【?】子を曲節に合せて舞ふ。此を笠舞
と名付く
○小童四人金扇子に花を錺りたるを戴き朱帕
を為し。五色の衣をいかにも花やかに着なし。
五色の花をつけたる索(なは)の輪に為たるを頂(くびすぢ)に
置て。場(ぶたい)に登り。其索を手にかけ手拍子を
鳴【?】て舞事。笠舞の如し。是を号て花索舞といふ


○小童三人頭に作り花を錺り。綿の半臂を着し。
小き花籃(はなかご)を肩に置て場(ぶたい)に登り前のことく舞ふ。
籃舞と名つく
○小童四人。五色の衣を着して場に登り楽工の前に
座すれば。楽工語て小竹拍片(よつだけ)【あみがしらに片?】を援(さづ)く。童子取て立上り
拍て場に舞これを拍舞といふ
○武士六人白黒の綦紋の袖を大に仕立たる短き衣を
着し。金箍(きんのはちまき)を額に結び白き杖を突て場に登り。撃(うち)
合音を節に合せて舞ふ武舞と号す
○小童二人五色の服を穿(き)。金の毬(まり)の四面に鈴をつけ。朱
き紐の長く付たるを持左右に立て舞ながら。二疋の獅子
を引て場に登り獅子を狂はせなから舞ふ。獅子は種〳〵
の狂ひをなし。其興ある曲なるはし是を毬舞といふ
○小童三人さはやかに粧(よそほ)ひ場に登り楽人より一尺ばかり
なる。金様(きんだみ)の桿(ぼう)を請けり【?】。交撃て舞ふ此曲を桿舞といふ
○小童四人手に三尺ばかりの竿に花の付たるを。各一本
宛たづさへ舞ふを竿舞といふ
   ○索馬

馬は日本と替る事なし。山坂または石原を行に蹶(ツマヅカ)
ず。山に上り。水を渉(わた)れば馳(ハス)。是自然に其土地に馴た
れはなり此地四季ともに暖気にして。冬も草の枯る事
なきによりて終歳春草を食ふかるかゆへに豆を食はす
るに及ばす民家にて馬の入用なる時は。野より牽入用事
過れば野へ放すとなり鞍鐙其外とも日本の馬具に
かはる事なし。唯【?】小紐の下と。むなかひに紅の糸にて
作りたる。丸き房を付るなり

 飾馬之図


此外舞には。扇曲(あふきのきよく)《割書:童子六人|にて舞ふ》掌節曲(てひやうしのきよく)《割書:小童三人|にて舞ふ》などゝいふ
舞あり
   楽には
太平調(たいへいちやう) 長生苑(ちやうせいゑん) 芷蘭香(しらんかう) 天孫太平歌(てんそんたいへいのうた)
桃花源(とうくはげん) 楊香(やうかう) 寿尊翁(じゆそんおう)
是等の外。数曲あり此内桃花源。楊香は明楽(みんらく)なり寿
尊翁は。清朝の楽なり。又神哥といふ物あり日本の式三
番の如く国楽を奏する始に一老人の形に打扮(いでたち)。場に
登りて此曲を舞ふ。此国混沌のはじめ。世を御したる
神垩天孫氏。世〳〵の国王位に登る毎に形を現じ
て霊祐を示す。すなはち迎神の歌を製して。もつて
これを歓楽(くわんらく)す後世にいたりて神しば〳〵形を現ぜず。
故に神代より送りたる唱哥を伝へて。国王即位の
時か。格別の儀式ある時此曲を行ふ。神哥を唱ふる
間は管弦ともに声を出さずとなん
   ○俳優
舞楽に続て俳優(わざおぎ)あり。其狂言に。鶴亀といへる兄
弟の童。父の仇を復したる古事あり。日本の曽我

兄弟の敵討に髣髴(さもに)たり昔琉球国中城といへる
所の按司(あんず)。毛国鼎(もうこくてい)といへる人。忠勇にして国を治む。其
ころ勝(かつ)連の按司。阿公といふ者。若うして郡馬(くんば)といふ
職になり国王の覚へ目出度かりしまゝ。甚■■を
極めしが。内心毛国鼎を忌(いみ)けるにより弁舌を。功にし
て国王に讒(ざん)をかまへ。毛国鼎/叛逆(ほんぎやく)の企(くはだて)有と奏聞し
ければ。国王/且驚(かつおどろ)き且/怒(いか)り。一チ応の吟味にも及はず。則(すなはち)
阿公に軍兵を授け。毛国鼎を攻討しむ。毛公無矢【?】の
罪を歎くといへども阿公一■に取あへねば今は是までと
思ひ明らめ。遂に自殺【?】をそなしにける。毛公に二人の
子あり兄を鶴といふ十三歳。弟を亀といふ十二歳。二
子別て伶俐(れいり)なり。父毛公。平日(つね〳〵)宝剣二振を以て是
に撃剣(けんじゆつ)を教(おし)へ。小腕ながらと其業においては。大人中も
おとらぬ様に仕立ける。此折■は母に従ひて。山南の査
国吉といへる。親属(しんるい)の方に出けるが。父毛公。阿公か讒(ざん)
言(げん)に依て。討手を引■無念の死を遂たると聞。天に
仰き。地に伏て涕泣せしが。■を払ひて母に請(こひ)け
るは父上の■■は。今更歎きて返らぬ■なれは。われ〳〵


兄弟面躰を見知られぬを幸に。忍ひよりて阿公を討
取。父の仇を復せんと存するなり願くは父上の秘蔵ありし
二振の宝剣を賜はらんと思ひ込て願ふるぞ。母は憂(うれい)も
打忘れ。けなげにもまうしつる兄弟かな。いて〳〵望の如く
二振の剣をあたふべしとて取出して分ち与ふ。兄弟
勇んで暇(いとま)を乞。父の紀念(かたみ)の宝剣を帯しつゝ。身をやつ
して勝連に至り。父の仇をぞねらひける。扨も阿公は
日比心憎かりし。毛公を失ひければ。今は誰にも憚らず春
の野つらを詠めんと従者(しうしや)を引連出けるを。兄弟早く
も聞出し。宝剣を懐にし。透間(すきま)もあらばと伺ひける阿
公は二人の小童を毛公が子とは夢にも知ず扨しほら
しき小冠者かな是へ参つて酌(しやく)いたせと。膝元へ招きよせ
兄弟が容皃(やうほう)の麗(うる)はしきに心乱れ。数献(すこん)の酒を傾(かたむ)けし
が酔興のあまり着せし所の衣を脱兄弟に分ち与へ。
■も足(たら)すや思ひけん。佩(はい)たる所の剣を鶴にあたふ。鶴
今は能図【?】なりと。弟に目くばせし。其剣を■手も見
せずと寄て阿公に組付。われ〳〵を誰とか思ふ。汝か讒
言に依て自殺【?】なしたる毛国鼎が二人の子なり。父の

の恨おもひ知れと。柄も通れ。拳も通れと刺通され。
あつといふと立上るを。返す刀に首打落せは。酔潰(ゑひつぶ)
れたる従者ども。此躰を見て肝を潰し。上を下へと
狼狽す。二人の童子は透間もなく四才八面を切て廻り
悉く切殺し。本望を遂たるを一局(ひとくだり)とす
○又鐘魔といふ狂言あり是は謡曲(うたひ)の道成寺に似
たり。中城(なかくすく)の姑場村(こしやうそん)といふ所の農家(ひやくせう)に。陶姓なる
者あり。一子を松寿と名付く。齢まさに十五歳。
誠に端麗の美少年なり此国の都。首里に師あ
りて。常に徃通ひ□業(きやう)を□□り。一日/浦添(うらそへ)の山径(やまみち)
にをりける時。日暮に及ひて路を失ひ。とさまかうさ
まに踏迷ふ程に。次第に昏黒(くらやみ)になりてあいろも
分ず。小竹を折て杖となし。其■に此■よとたどり
しがほのかに火影の見えければ松寿そゞろ嬉し
くて火影を便りに路をとり。辛うして其家□□□。
一チ夜の宿りを求めける。此家の主は猟人にて。一人の
娘を持てり。山家には生立(おいたて)とも。天姓の嬌態あやしき
まてにあてやかなり。年わつかに十六歳此■■は猟


に出只一人留主居してありけるが。門に人のお□なひして
知ぬ山路にさまよひたる者にて何とふ情に御宿たまは
りたしと。いふ■声もかきくれたり。娘いたはしくは思ひけれ
とも。折ふし父の留主といひ。心一ツに定めかねしが□だ
いはけなき人といひ殊さら信したる人もなけれは。さまで
に父のとかめもあらじと門の戸開きて庵にともなひ彼是
いたはりもてなせしが。松寿が姿のいつくしきに心ときめき
事に触て挑(いどみ)けれとも松寿もとより物賢き生れにて
いさゝかもうけむかず□□もやらず□し居たり。娘思ひ
にせまりてやひし〳〵と抱き付ば。松寿驚き。衣を振ふて
起上る。娘今は恨のあまり。難面(つれなき)人を生しは置じ。同じ
冥途へともなはんと。道具を取て飛懸る。松寿は魂(たましい)の天に
飛夢路をたどる心地して。足を空に迯出すを何国まで
も登□来る。其早き事飛鳥の如し松寿やう〳〵迯
延て此山の曲にある万寿寺といふ寺に駈入しか〳〵の由
を物語れは住持普徳といふ僧は。行徳いみしく。才覚
ある僧なりければ。すなはち松寿を鐘楼へともなひ。大鐘
の内に伏しめ三人の従弟をして。其■辺を看守し

む。とばかり有て彼娘。姿あらわにし□ひ来り。三人の
僧に問。何れも知ざる躰にもてなし戯(たはむれ)なぶりて帰らし
めんとす。娘は松寿を求得ず。狂■の如く泣叫(なきさけ)び。猶も
■■を尋んと門外へ駈出れは。僧共今は心易しと。件
の鐘を追んとす其物音。山彦に■さければ女早くもかけ
戻り。髪振乱し形相変り。恋しき人は此鐘の内にこそ
有たんなれと鐘の内へぞ入にける住僧驚き緒僧と供【?】に
鐘を繞りてこれを祈る。行法の験にや。かねはおのれと
鐘楼へ上り。女は鬼女の相を現はし■を以て打かける。
僧其少しもひるま■■そ動か■しらず祈りければ一ツ天
■にかき曇り震動雷電すさましく。女は其儘悪魔
となり松寿を掴んで走り出る。これまた一/局(□□り)【フリガナ判読できず】の狂言なり
此二事は皆百年以前。琉球国中にて有し古事也
となり。此外は皆唐土の哥舞妓狂言を興行すると
なり。又日本の猿楽をも伝へ舞囃子なとをも興
行す義太夫節を■好み芦茢などの節事を能覚へ
て語るとなり
   ○書法


書法は。日本の大橋流玉置流をもちゆ片仮名平仮名
は国中の貴賤おしなべて通用す。薩州藩中へ徃来の
書翰何れも竪状■状にて一筆啓上の文躰を用ゆ
書する時桌に倚ず左手に紙を持/懸腕(ちうだめ)にして書
事日本と同し
   ○宗派
此国の僧。入唐して法を伝ゆる事をゆるさす薩州へ
来りて法を学ぶ。衣は朱黄(かば)色を着す袈裟の外に
一衣を袚す。其制背心の如し。断俗と名つく。帽子
は。清人の笠帽の如し氊を以て作るとなり。宗旨は
臨済宗(りんさいしう)と真言のみなりと中山伝信録に見へたり
   ○耕作
田地は。九月十月の間に耕し種蒔十月十一月のころ
緑穂(さなへ)水を出れば。日和を見合せ本田に移し植
此□□雨時に行はれ雷声発し。蚯蚓鳴て。気候
あたかも春の如し。夫より翌年に至り。春耘(はるくさぎり)夏五月
穫収(かりおさ)む。《割書:其跡へすぐさま麦を■つけ|年□内に苅納るとなり》六月に至れは大颶(おゝかぜ)しば〳〵
作り海雨(ゆうだち)■■し。果実(くだもの)皆落るにより。穫納を■■

せざれば。風頗【?】多しかるがゆへに此国中秋耕し冬種
蒔春耘夏□む六月より九月迠□農業を事とせず
となり農具は大抵日本製を用ゆ殊に鋤鍬(すきくは)などは。
琉球にて作る物は鉄/鈍(にぶ)くして用に堪ずとなり。高田は天水
を湛(たゝ)へ下田(■ほた)【フリガナ一部不明】は次第/低(びく)にして。泉を引て下し漑(そゝ)ぐ。入江に河
などいづれも鹵入(しほいり)なる故田地の用水になり難しとぞ
   ○屏風附伊呂波
此国にて用ゆる屏風は四枚折なり。上に文行忠信。
春夏秋冬などの四字を大字に一字宛書。其下に
上の大字とは懸はなれたる詩を。二くだりに書となん。
附ていふ国中の貴賤通用するいろは仮名は為朝の子。
舜天王の時より始るといふ此国人漢文を読には。
日本の如く。訓点をほどこすとなり。此二条。上に言
落したる故爰に記す

 東都  冨岡手暠校正
 同   一立齋廣重図


   跋
大樹の陰高く繁茂して常磐に
さかえ日の光普く万国を照らし
四海の浪平につゝみを調へ風木末を鳴
して太平を唱哥うたふ実にも尊き
皇国の始る御代を仰かんとて今歳
嘉永三戌のとし中山国王より恩謝
の使臣東都に来聘す古より我朝へ
貢を奉献する事ほゝ少からすされは
其国の風俗状態等をあらかしめ著述
せし書数品ありと雖詞□言葉ある

かゆえに童蒙に解しかたくこたひ
増補して世に発行あらんにはと諸君
子のすゝめ賜ふにはり先哲の遺稿あれ
かれを求得て立亭の主人に校正を
乞ひ公に希ふてすみやかに一篇の
小冊とは成りぬ■■の舞足の踏処を
知らす歓喜にたへずたゝちに梓にの■
せて掌中の玉と■て世に広く
光りを映さんことを願ふ■■ん
【「寶玲文庫」の印】

 嘉永三
  庚戌年
       梓元
        若林堂謹誌


御願済目録
 琉球解語   横本一冊
 中山国使略  折本一冊
 琉球恩謝使略 奉書 一枚摺
 琉球人行列附 三枚継

  東都芝神明前
    若狭屋與市版

【裏表紙】

【管理タグ】
Ryu
880
Tomi.2
c. 2

中山伝信録

中山伝信録

中山伝信録

骨董録

骨董録       全

【右頁シール】
骨董
苐二■【號の異体字-号扁に乕】
   壱冊

【右頁添付資料(横書き)】
Haw520
骨董録  新井白石 ms.
  殊号事略・外国通信事略
  中華並外国土産・琉球事略
  琉球国事略・本朝宝貨通用事略
  高野山事略・殊号事略後編

【左頁】
骨董録目録【下に3朱印】
 殊號事略
  日本天皇の御事
  日本國王の御事
  本朝異朝の天子往來書式の事
  異朝の天子外國王と日本國王往來書式の
  事
  當家御代朝鮮來聘書式の事
 外國通信事略
  安南 柬埔塞 呂宋 暹邏 亞馬港 卧
  亞 太泥 占城 阿蘭陀 新伊西把彌亞
   漢乂刺亞 塔伽沙古 伊西把彌亞
 

 中華《割書:并》外國土產《割書:於長﨑交易|之品物也》
 中國十五省
  北京《割書:并》遼東 南京 山西 山東 河南
  陝西 浙江 江西 湖廣 四川 福建
  廣東 廣西 雲南 貴州
 外國西洋
  東京 東寧 廣南 占城 太泥 東埔塞
  六崑 暹邏 咬𠺕吧 阿蘭陀
 琉球國事略
  琉球國の儀異朝の書に見えし事
  琉球國の人所申の其國の事
  琉球册封使《割書:并》朝貢使の事


  琉球國職名の事
 本朝寶貨通用事略
  金銀銅出し事
  金銀の制之事
  金銀外國に流入し事
 高野山事略
  學侶行人聖等由來の事
  木食上人高野山を再興せし事
  學侶行人兩派わかれたる事
   《割書:并》文珠院の事
  文珠院を江戸に移す事
  東照宮高野山に御鎮座の事

   學侶行人爭論之始の事
   學侶行人第二度爭訟の事
   學侶行人第四度爭論并興山寺住持興山の
   法孫斷絶の事
   行人僧徒流刑《割書:并》高野山 東照宮神法樂御
   法事の儀闕如の事


骨董錄目次 終


 骨董錄
  殊號事略
   日本天皇の御事
 本朝の事異朝の史書に見へしハ後漢の時を始
 とす魏の代より以來倭王倭國王倭奴國なと見  【本文上に「王」有】
 えしハ皆皆本朝天皇の御事にて魏の時に當り
 て倭女王と見へしは神功皇后の御事也𣈆宋齊
 梁の間に倭國王自ら使持節都督倭百濟新羅任
 那加羅秦韓等の國諸軍事と稱して其國臣を以
 て平西征虜冠軍輔國等の將軍に除す抔と見へ
 し事は本朝履中反正允恭安康雄略五代の天皇
 の御代の事に當れりすへて異朝の書に外國の

君を稱して其國王と記す事ハ世世の史官おの
おの我本朝の天子を相尊の常なれは是等ハ論
するに及はす其後隋の場帝の世に當りて倭國
王奉れる書に日出處天子致書日沒處天子とし
るされし由見へたり《割書:異國の書に本朝天皇の御|事を天子としるせし事隋》
《割書:の代を以て|始とすへし》其後唐の代に至てしるせし所ハ日
本ハ古の倭奴國也其王の初 天御中(アマノミナカ)ヨリ 彦灘(ヒコナキサ)に
至ては皆以尊爲號彦灘の子神武より後ハ㪅以
天皇爲號と見へたり《割書:異朝の書に本朝天皇の御|事を天皇としるせし事ハ》
《割書:唐の代を以て|始とすへし》其後宋の世に及ひて本國圓融院
永觀の初に東大寺の僧奝然宋に渡りて本朝の
皇年代記職員令等の書を以て彼天子に獻すこ


れよりこのかた本朝天皇の御事とも猶詳かに
聞えて彼國代代の史書に見へし所も詳になり
ぬ《割書:元明の史書に見へし所共皆皆宋史により|て本朝代代の天皇の御事ともをしるせり》其
後明の代に日本天皇日本國王の御事をわかち
しるして天皇の御事ハ國事に與らす兵馬を幹
らすたゝ世世國王の供奉を享給ふ由をしるせ
り《割書:朝鮮の書にハ日本天皇代序日本國王序なと|詳にしるして本朝の傳記にもみへたる事共》
《割書:詳に記せし|物共あり》
  日本國王の事
異朝の書に見へし日本國王の御事鎌倉の頼朝
の御事を以て國王の始として京都代代の公方
の御事皆皆日本國王としるせり其中に鹿苑院

の公方ハ正しく明の太宗の時日本國王に封せ
られ薨逝の後に恭獻王といふ諡をも賜られき
《割書:當時南朝の君臣此事を諭して日本小國といへ|共開闢以来異朝の爵を受し事なし義滿の時に》
《割書:及ひて異朝に臣と稱する事ハ日本の恥なりと|のたまいしよし記したる物あり誠にことハり》
《割書:なりと|可申歟》其後また明の神宗の時豐臣秀吉を以て
日本國王と封せられしを我もとより日本國王
たり異朝の封を受へきにあらすとて其使をお
し返され《割書:此時に 東照宮をも右都督に拝せら|れて冠服まてをもつかハされき秀吉》
《割書:の其封爵をしりそけ給ひし事誠|に日本の面おこしと申すへし》朝鮮の書にし
るせし所も異朝の書に同し但し其國王我國王
に贈れる書に日本國王としるし來りしハ秀吉
の時を始とすへき歟


  本朝異朝の天子往來書式の事
異朝の書に魏𣈆宋の代代倭國王上表し天子詔
書を倭國王に賜ふなと見へし事とも本朝の國
史にハ見へす《割書:表とハ臣下の天子に奉る書なり|詔とは天子臣下に賜る書なり》
但し異朝歷代の史にしるせし所最詳なれは其
事なしとはいふへからすおもふにこれは其比
ほひ本朝より三韓の地に置れし日本府の宰臣
本朝天皇に承りて異朝の天子に朝聘せし事共
ありしと見へたり《割書:三韓の國國ハ今の朝鮮の地|是也其地漢土の東邊につら》
《割書:なりて上世以來其上國に服屬せり然るに神功|皇后の御時に當りて三韓の國國西藩の臣とな》
《割書:なりしかは日本府を其地に置れて諸藩の事治ら|る其後新羅高麗等の國國やゝもすれは本朝に》
《割書:二心ありしによりて日本府の宰臣其上國の威|靈を假りて諸藩の心を鎮服すへきかために朝》

《割書:聘の事等ありとみへたり齋明天皇の御代の末|に至りて果して新羅つゐに本朝に叛き唐國に》
《割書:内附し百濟高麗を滅して三韓の地を併せたり|き初神功皇后新羅を征せられしより齋明天皇》
《割書:の御代に至るまて本朝天皇とも二十四代曆數四|百四十七年の間ハ三韓の地みな是本朝藩臣の》
《割書:國にてありき其後高麗また新羅を滅して其地|に王たる事歷世久しくして其臣の爲に國を奪》
《割書:はれ今の朝鮮の祖ハ則高麗の重臣にて其君の|國を奪ひし人也すへて是等の事を詳にせんに》
《割書:は文殊になかけれ|はこゝにハ略しぬ》隋の煬帝大業三年倭國王朝
貢す其書に日出處天子日沒處天子としるせし
由見へたれハ本朝推古天皇の御時の事也但し
本朝の國史に載られし所ハ彼國史にしるせし
所にハ同しからす日本書紀にハ推古天皇十五
年の秋唐國に使をつかハさる《割書:天武天皇の御代|に日本書紀を撰》
《割書:はれし時に異朝にしてハ唐の代に當れるを以|てあやまりてかくハしるされしなり隋國と有》


《割書:へき|事也》十六年の夏本朝の使歸る時に彼國の使も
來れり其書に皇帝問倭皇としるされし由見へ
たり《割書:本朝經後傳記を按するに推古天皇十二年|正月始て曆日を用ひらる此時我國の書籍》
《割書:多からす是によりて隋國に使をつかハされて|書籍を買求らる兼てまた隋の天子に聘せらる》
《割書:る其書に日出處天子致書日沒處天子としるさ|る隋帝又使して我國の使を送られし其書に皇》
《割書:帝問倭皇としるさる聖徳太子《割書:天子》の號をしりそけ|て倭王となす事をにくみて其使を賞せられす》
《割書:其書に報ひて東天皇白西天皇としるされしに|し見へたり此紀によりて見る時ハ我國彼國の》
《割書:史にみへし所ハおの〳〵一時の事を而己記し|て事の始末詳ならす但し又日本書紀にも正徳》
《割書:太子傳にも隋帝の書に倭皇としるされしと見|へたるを經後傳記にハ倭王としるされしよし》
《割書:みへたりおもふに日本書紀聖徳太子傳も本朝|天皇の御事を尊て稱而記されし事猶異朝世世》
《割書:の臣の書法の如くなるへし然れハ經後傳記|にミへし所を其事の實を得たりしと云へし》其後
唐太宗貞觀五年倭國の王使を遣して入朝せり

太宗も使して其國に往しめられしに使臣其王
と禮をあらそひて平かならす天子の命を宣す
して還る久しく而㪅に新羅の使に附て上書せ
りといふ事見へたりこれも本朝の國史に載ら
れし所にハ同しからす日本書紀にハ舒明天皇
二年の秋唐國に使をつかハさる四年の秋本朝
の使歸る時に唐帝の使來りて五年の春其使返
るとしるされて其使と禮を爭ハれしなといふ
事見へす但し此時の唐記に唐の國書の事を載
らるるに及はさるハもし其書式無禮なりとて
受られすして還されし事もありしを異朝の書
にかくハ記されしにや《割書:日本書紀に隋帝の書來|る事ハ詳に載られしに》


《割書:唐代の書來れるや否の事載られ|さるによりてかくは存する所也》 其後聖武天皇
天平年中に唐玄宗本朝に勅せられし書の事其
國史には見へすといへとも唐の賢相張九齡の
文集并に文苑英𦶎等の書にみへたり其書にハ
勅日本國 主明樂美樹徳(スメンラミカント)としるさるこれ則張九
齡の草せし所也大國の體をも失はす隣國の禮
を失はすしてふたつなから相得たる書法とこ
そ申すへけれ《割書:是ハ本朝の遣唐使の外國に漂流|せしを天子渤海に勅而我國に送》
《割書:り歸されし時の事也よの常にハ兩朝の天子書|を相贈らるる事なしと言とも常例にあらされ》
《割書:ハ璽書をなされし事と見へたり大國の天子と|して外國の君を以て天皇と稱せられん事もし》
《割書:かるへからす又國王とのミしるされんにハ本|朝の君臣相悦はさる所なるへし爰を以て本朝》
《割書:にて天皇の御事を稱し申言葉を兼用ひてしる|されしと見へたり本朝儀制令の義解を按する》

【𦶎は華の異体字でテキストの字は草冠の下に一画あり】

《割書:に異朝の文字に天子と記す事本朝の言葉にう|つしてハ須明樂美銜徳と讀へしと見へたり然》
《割書:らハ天子と記し主明樂美銜徳と記すも其文字|ハ替れもと其義におひてハ相同しけれハ日本》
《割書:國王としるして大國の天子外國の君に命せら|るる所の体を存し主明樂美銜徳としるして我》
《割書:國の天皇を尊ひ稱せらるの禮を存し|ふたつなから相得たる事と申へし》いくほと
なくて唐の世既に亂れしよりこのかた本朝天
皇の使かしこに行事もなく異朝天子の使こゝ
に來れる事もなく但鳥羽院元永の初に宋國の
牒狀太宰府に來れる事もありしに其書辭無禮
なりとて返牒に及はれぬ事ハ候むき又本朝公
式令の詔書の式を按するに集解にハ本朝天皇
大唐に詔書をなされし事有し由を注したりき
解にハ其由をは注せす况又桓武天皇延曆年中


遣唐大使藤原賀能朝臣唐國に至りて其福州觀
察使に贈し書に本朝の天皇異朝の天子に聘問
を通せらるるに璽書を用られし例なきよしを
記せり《割書:此書ハ釋空海の|草せしところ也》然ハ推古天皇の御時隋
帝に書を致されし事より後ハ本朝の天皇異朝
の天子に璽書をなされし事はなしと見へたり
令集解の說ハあやまれるに似たり又古の時三
韓の國國の藩王本朝の天皇に上表せし所の式
詳ならす中世よりこのかた新羅渤海高麗等の
國王奉りし所ハ皆皆その國王啓すと記して天
皇を以て稱しまいらせ本朝天皇の勅書にハ天
皇敬問其國王としるされし由代代の國史には

見へたり
  異朝天子外國の王日本國と往來書式の事
元の世祖の代に當りて日本國王に璽書を給ひ
て其入貢の事を勅せられし事度度に及ひしに
其書に報ひ申事なきのミにあらす其使を鎌倉
に召よせ龍口におゐて斬てすてられしに至て
世祖怒に堪給ハす大元高麗の軍を起して日本
を征せられしに十萬の兵生て還るものわつか
に六人其後成宗位を嗣給ひて僧一山を使とし
て日本國王に書をたまひしかとも日本の人つ
ゐに至らさると其代の史にみへたりしハ本朝
にして龜山院後宇多院御在位の間にて鎌倉殿


ハ宗尊惟康等の親王の時に當りき異朝の天子
日本の國王に書を贈られし事ハ此時を以て始
とすへし然るに世の人相傳て蒙古の天子我朝
の天子に書を賜られしなと申事ハ然るへから
す此時の書式ハ大蒙古國皇帝奉書日本國王と
題せられき是ハ我國と上下の分いまた定まら
さるか故とみへたり《割書:此事の始に元朝の使對馬|の國に至りて塔二郎彌二》
《割書:郎といふ二人を生捕て歸る事あり世祖者と|もに我國の事共を尋問れて後に趙良弼といふ》
《割書:者に璽書を授て我國に使せしめられる此度の使|筑紫の守護所に止まる事年を經て後歸る事を
《割書:得て日本君臣の爵號州》郡の名數風俗土宜を具|に奏上せし由彼國史に見へし上は此ころ本朝》
《割書:天皇の威令國中に行ハれす大小の政事ハ北条|か家のはからいに出し事ハ世祖能能知りたま》
《割書:ひし所也亦成宗の時僧一山を我國に渡されし|事も鎌倉の執権北條の禪法を好し事を聞しめ》

《割書:されし故と見へたり然るに成宗の日本國王に|贈られし由をしるされしはハ當時鎌倉殿の事に》
《割書:て國王と見へしハ宗尊以來皆皆親王にておは|しませし故の事と見へたり此事の始末を詳に》
《割書:記すへきハ文長けれハこゝに略す蒙古とハ世|祖の出たまひし本國の名なり當代の國をは大》
《割書:元と申し|たりき》元滅し後明の太祖の代初に日本國王
良懷に璽書を賜ふ事度度におよひしに後禮部
の官をして日本國王并征夷將軍に移書せしめ
られしなといふ事見へたり日本國王良懐と見
へしハ南朝後醍醐院の 皇子 懷良(ヤスナカ)親王花園宮と
も申し牧の宮とも申す征西將軍の宣旨を蒙り
給ひ鎮西におもむき給ひしを菊地大村千葉等
の宮方かしつきまひらせて關西親王家とも征西
將軍の宮とも申せし御事也明の天子に使をつ


かハされし事も度度に及ひしと見へたれとも
我國書の事ハ詳ならす但し日本國王明の天子
に奉りし表なりとて彼國にて相傳へしものは
は【不要ヵ】一通見へたり其詞を見るに明の天子の御事
を輕んし侮りし事共見へたり太祖の璽書禮部
の移書の中に其表に答へられし所也と見へし
もの共あれは懐良親王の奉られし所なる事疑
へからす《割書:一書に戒嚴王の表と題せしもの|あり戒嚴王と云事心得られす》又一
書に禮部の移せし所を日本國征夷將軍義滿と
しるせし物あり然らは鹿苑院の公方の御事と
見へたれとも其書詞を見るに正しく義滿の御
事なるへしとも思はれす菊地の許に移書せし

事のことくには見へたり其後太祖日本眞の國
王ありと聞しめして仲猷克勤等の僧をして日
本に使たらしめ給ひし時の勅使に持明天皇關
西親王國王なと云ふ事見へたれは此時に至り
て日本國王と稱し給ひしは義滿の御時をさゝ
れし也《割書:持明天皇とハ後光嚴院後圓融院皆皆當|時におひて持明院殿と稱し奉りしか故》
《割書:他關西親王ハ懷良の御事|日本國王ハ義満の事也》其後建文の天子より
《割書:太祖の皇孫にて太祖の|位を嗣給ひし御事也》義滿に賜られし詔書に
は奉天承運皇帝詔日本國王源道義なと記され
たり《割書:道義とハ則ち|義滿の別名也》其後太宗の詔書の式も又こ
れに同しく其勅書の式ハ皇帝勅論日本國王源
道義としるさる義滿薨逝の後勝定院殿へたま


ハりし勅書には勅日本國世子源義持としるさ
れ《割書:世子とハ國王の|嗣子を申すなり》其後宣宗英宗の代に暜廣院
殿に《割書:義|教》たまひ景泰の天子《割書:景帝と|申す》慈照院殿に《割書:義|政》
賜ひし勅書に義滿の御時の式のことし其後萬
曆の天子《割書:神宗と|申す》豐臣太閤に賜ひし詔書も奉天
承運皇帝詔す封璽爲日本國王なと見へたり又
本朝の國王異朝の天子に書を奉られし事懷良
親王を以て始とすへししかれとも其書式ハ詳
ならす又外國往來書式の事鎌倉の代に高麗の
國王元の世祖の勅によりて日本に書を贈りし
事ハ見へたれとも其詳なる事ハ見へす應永二
十九年の夏勝定院の公方朝鮮の書に答られし

を以て其事の始とすへき也《割書:従是先者我國の管|領彼國議政府と往》
《割書:來の書ハ見へたり兩國の|君往來の始ハ未詳ならす》其後世世我國よりつ
かはされし書式ハ日本國姓某奉書朝鮮國王殿
下又日本國姓某拝復朝鮮國王殿下としるされ
彼國の書式ハ朝鮮國王姓某奉復日本國殿下亦
朝鮮國王姓某奉復日本國殿下としるせり《割書:京都|の代》
《割書:に明の天子に奉られしにハ日本國王としるさ|れて朝鮮につかハされし所ハ日本國姓某と而》
《割書:己記されし事如何なる謂にや彼國よりの書に|日本國殿下とのミ見へしハ我國の書に其稱と》
《割書:すへき所の見へさる故にかくハ記せしと見へ|たり日本國姓某とのミ記すへきハ我國にて一》
《割書:官一職の稱すへき事も無者の外國の人に|贈るへき所の書式也心得られぬ事なり》其後
豐富太閤の時に至て彼國よりの書をハ朝鮮國
王姓某奉書日本國王殿下としるし來れり其報


書にハ日本國關白秀吉奉復朝鮮國王閤下と記
されたり《割書:秀吉の書に姓を記されす亦閤下の|字を用られし事皆皆心得られす》
  當家御代朝鮮人來聘書式の事
慶長五年關个原御陳の後天下 神祖に歸し同
七年宗對馬守義智《割書:對州之|太守》江戸に参勤す 神祖
義智に謂て宣く太閣秀吉朝鮮征伐の後ハ兩國
交信斷絕せり彼國より使をして和睦の事を請
ふにおひてハ元のことく通信をゆるすへしし
からすハ每年我國の農民をして彼國の米穀を
刈取しむへし此事を彼國に告て其答を申へし
となり義智則台命を朝鮮國に告しらせけるに
彼國王大に驚き同九年僧松雲に孫父或といへ

【右の付箋】
一本殊號事略上中下三冊ト分ケ皆々心得ラレズト
云迠ヲ上巻トシ今代外國来聘之事ト云ヲ
中巻トシ朝鮮聘使後議之事ト云ヲ下巻トナシタル
アリ其本ニハ當家御代朝鮮人来聘書式之事ト有事
ハ曽ヲナシ異本トヲモハル夫故中巻下トモ寫シ置

る官人と副て我國に使たらしめ和平の事をこ
ひねかはる對馬守先兩使を對州にとゝめ置家
司柳川下野守をして江戸に遣しめて言上す
神祖の仰に來年乙己 秀忠公を御同伴にて上
洛あるへし其序を以て使の禮を受させらるへ
し兩使を京都に伴ふへしとなり同十年對馬守
兩使を京都に伴ひ來て台顔を拜せしむ事畢て
後本多佐渡守正信をして對馬守の旅館に至し
め給ひ朝鮮國通信の事ゆるされ來年丙午天下
を以て 秀忠公に讓り給ふへし近年の中朝鮮
王より使をして賀さしめ申へし松雲ハ僧徒な
り使たるへからす官人をして使たらしむへき


由を仰下さる對馬守則松雲文或等にいひ傳へ
て被國に歸す慶長十二年朝鮮國王三使をして
秀忠公嗣業の事を賀さしむ《割書:此時の三使ハ呂祐|吉慶丁好寛等なり》
まつ對州に來りて三月對州を發して同四月江
戸に至りて聘禮の節燕饗の儀等畢て三使駿府
に叅拜す此時本多上野介正純か亭におひて飲
食を給ふ三使歸國の後朝鮮王大によろこひ柳
川下野守の嫡子豐前守に嘉善大夫の官を授し
也此時 台德公へ贈り奉られし書に朝鮮國王
姓某奉書日本國王殿下としるされ其報書に日
本國源秀忠奉復朝鮮國王殿下としるされたり
元和元年大坂の亂静謐せしによりて同三年朝

鮮王三使をして賀さしめられ此時の來翰報書
ともに慶長十二年の式のことし同九年 大猷
公嗣て立給ふによりて寛永元年朝鮮より三使
來聘す此時の書式もまた元和三年の如くなり
寬永十二年宗對馬守義成《割書:義智の|子なり》其家臣柳川豐
前守《割書:下野守か|子なり》異論の事あり 大猷公自ら大廣
間に出給ひて其爭訟を聞しめしたまふ《割書:此日ハ|諸大名》
《割書:諸士のこら|す登營す》朝鮮國王より贈り奉られし所の書
に慶長十二年元和三年寛永元年三度ともに朝
鮮國王奉書日本國王殿下としるされし事其國
王として外國の將軍と書翰往來の事本意にあ
らさるよし朝鮮王憤り申さるるによりて豐前


守其旨にまかせて彼國書にハ日本國王としる
させ彼國におひて將軍の御事をハ國王と心得
たるよしを申上て其御報をは對州に於て豐前
守私に是を書直し日本國源家光としるされし
國の字の下に王の字を書入て 朝鮮國の使に渡
し遣しける事露顯せり《割書:此時對馬守義成若年に|して諸事柳川か計ひに》
《割書: 出て其式の事とも對馬守ハしらさる事五山|の方長老申上る其事明白によりて對馬守をハ》
《割書: 咎めたまハす豐前守ハ奥州津輕に流刑せらる|方長老も柳川に一味せしによりて同州南部に》
《割書:配せら|れき》是に依て對馬守に命せられて豐前守か
私曲の次第を朝鮮國に告知らせこれより後朝
鮮國王の書にハ日本國大君としるすへし御報
書にハ日本國姓某としるさるへきよしに究り

けり其後寬永十三年《割書:猷廟の|御時也》同二十年《割書:同し御|時なり》明
曆元年《割書:嚴廟の|御時也》天和二年《割書:憲廟の|御時也》朝鮮國の通信使
來る時の書にハ朝鮮國王奉書日本國大君殿下
としるされ其御返書にハ日本國姓某奉復朝鮮
國王殿下としるされたり正德 年 文昭公の
御代朝鮮の使來聘の時御復號の事ありて其國
書にハ朝鮮國王李奉書日本國王殿下としるさ
れ其御報書には日本國王源家宣奉復朝鮮國王
殿下としるされたり
  御印之字
 神祖 源忠恕  台德公 源秀忠
 大獸公 源忠德 嚴有公 源忠直


 常憲公 源忠敬 文昭公 嚴有公の御世子
 たりし時 源監國 諍德院殿 源緝熙


殊號事略《割書:畢》

外國通信事略《割書:當家御世はしめよ|り通せし國國なり》
  安南
慶長六年に始て書を奉りて物を贈りしより寛
永九年に至るまて通路絕へす御返書をなされ
し也其後は通路絕ぬ
  柬埔塞(カンボチヤ)
慶長六年に始て書を奉り物を贈る但し是より
さきに此方より御書と物とを贈られし返禮の
由書中に見へたり寛永四年の後は通路絕たる
か其國の使來る時は叅拜の事ありき
  呂宋(ロソン)
慶長六年より始て書を奉り物を贈れり同十八

年の後ハ使來る事いまた見る所なし其國の使
叅拜の儀ありて御返書を賜ハれり
 但し此國の事ハ西洋の歐邏巴の地方 伊西把(イスハ)
 彌亞(ニア)より治る所也これによりて呂宋國王よ
 りの使にハあらす伊西把彌亞の官人よりの
 使也。
  暹邏(シヤムロウ)
慶長十一年に此方より御書と物とを贈られし
より彼國の使も常に來りて叅拜の儀ありき寛
永六年以後其國の使叅拜の儀ハ聞へす其商船
ハ今に年年渡り來れり
  亞馬港(アマカハ)  卧亞(ゴア)


此國國の事ハ西洋の歐邏巴の地方波羅多伽兒
よりして官人を卧亞につかハしをき卧亞より
して亞馬港を兼帶して治る由也これすなはち
我國にて南蠻人といひ其船を黑船とも申す事
也《割書:伊西把論亞より呂宋を治め波羅多伽兒より|卧亞等を治る事ハたとへは阿蘭陀より咬𠺕》
《割書:吧を治る事のことし|事長けれは詳にし難し》我國の船相通せし事ハ
慶長の初よりの事か書と物とを奉りて其使を
引見せられし事ハ慶長十七年より始る元和七
年の後ハ使來る事いまた聞す
  太泥(タニ)
慶長七年に始て書を奉り物を賜ハれり《割書:是より|先慶長》
《割書:四年に御書をつか|ハされし事ありき》慶長十一年の後ハ其使來ら


  占城(チヤンパン)
慶長十一年に此方よりつかはされし御書に前
年も御書を遣はされし由見ゆ彼國よりの書は
未見る所なし
  阿蘭陀(ヲウランダ)
慶長十四年に書と物とを始て奉れり御返書を
も賜はれり寬永四年に至て我國に入られまし
き由議定有て其使をもおし返されし事あり其
後又渡り來る事をゆるされて今に至る
  新伊西把彌亞(ノウイスハニア)《割書:此方の人 ノビ|スハンといふ歟》
此國も歐邏巴の伊西把彌亞より新に取得し國


なり此國より呂宋へ交替の番船我國に漂著せ
しに船を造り給はりて其國に遣されしよりし
て通路あり此方よりも朱屋三成と云者の船を
彼國に遣されし事有三成か子孫は唯今堺に住
居の朱座則是也彼國より始て書を奉りしは慶
長十七年の事にて御返書をなさる其後は通路
絶へぬ《割書:按するに此國は日本の下にあたる|地なり殊の外に遠き事なりといふ》
  漢乂刺亞(カンガイラア)
此國の事を此方にては インカラテイラ
ヲトフリタンヤ インキリス エンケレス
ナト申事なリ慶長十八年に始て書を奉りて
返書をなされしなり

  塔伽沙古(タカサゴ)
寛永四年十一月に此國の理伽といふ者叅拜の
儀あり是より先叅拜の例ありしやいまた詳な
らす
  伊西把彌亞(イスハニア)
寛永元年此國より使を奉る《割書:すへて|三百人》此國は天主
の法をたつとふ事によりて其使をおしかへさ

  田彈
慶長十一年御書をつかはさる竒楠の上品の物
を求らる但し田彈といふ國の名きゝも見も及
はす邏馬人《割書:寶永の比邪蘇法を我國にすゝめん|とて薩摩國屋久島に渡り來り江戸》
《割書:にめして後に刑せられし|ヨハンといひしもの也》阿蘭陀人等に尋ると
いへともしらすもしは番丹國の事を傳寫あや
まりて番と田と誤寫し彈丹同音の字なれは通
し用ひしか未詳
  此外
唐船の渡り來りし始は慶長十四年也
朝鮮の使來りし始は慶長十二年也
琉球の入貢は慶長十五年より始れる也


外國通信事略《割書:畢 》

中華并外國土産
  中國
北京省《割書:古燕地今大清之帝都也八府所謂 順天|府 保定府 河間府 眞定府 順徳府》
   《割書:廣平府 大名府 永平府也 十|九州 百十六縣 二都指揮使司》
 此所より商人渡り來り商船は來らす
 土宜 眞珠《割書:順天府の産也こゝにしるす所の|名は一省の内府州の名にして其》
 《割書:所の産物なり後みなこれに俲へ但し其府州|州の名を記ささるものはあまねく其一省の》
 《割書:地より出る所|のものなり》水晶《割書:萬全|都》 瑪瑙《割書:同|上》 丹錫《割書:永|平》
 《割書:府》 紙《割書:同|上》 畫眉石《割書:順天|府》 玄精石《割書:順徳|府》 紫斑
 石 小間物道具《割書:順天|府》 ■器【瓷器(じき)ヵ】《割書:順徳|府》 書籍 人
 參《割書:永平|府》 蟾酥《割書:保定|府》 蔓荊子《割書:河間|府》 紫艸《割書:大名|府》
 藥種色色 牡丹《割書:保安|州》 葡萄《割書:延慶|州》 榛實《割書:同|上》

 栗 綿梨《割書:順天|符》 銀魚《割書:同|上》
遼東《割書:或曰九邊韃靼之|堺北京之附屬也》
 此所より商人稀に來る商舶は來らす
 土宜 弓 人參 麝香 牛黄 鹿角膠 鶯(イン)
 歌(カウ) 鷹 馬 天馬 駱駝(ロトウ) 貂鼠(トツヒ)  銀鼠(シロネツミ)
南京省《割書:古吳之地也十五府所謂 應天府 鳳陽|府 蘇州府 松江府 常州府 楊州府》
   《割書: 鎭江府 准安府 盧州府 安慶府 太|平府 寧國府 池州府 徴州府 廣徳》
   《割書:府 十七州 九十七縣|日本より三百七十里程》 
 此所より商人渡り來る商船の所は蘇州府《割書:日|本》
 《割書:より三|百里程》松江府常州楊州府准安府崇明縣《割書:島|也》
 《割書:南京の附屬也日本よ|り二百五十里程也》
 土宜 白糸《割書:廣徳|州》 綢(サヤ)《割書:或 花紬(サヤ)|蘇州府》 錦《割書:同|上》 綾(リンス)《割書:松江|府》


 綾機(リリン)《割書:蘇州府》 羅(ロ)《割書:同|上》 緞子《割書:同|上》 木綿《割書:或 花布(モメン)又紫|花布松江府》
 《割書:蘇州|府》 織物類《割書:應天|府》 筆《割書:徽州|府》 墨《割書:同|上》 扇《割書:蘇州|府》
 櫛《割書:同|上》 鍼《割書:同|上》 紙《割書:池州|府》 涇紙(ハヽヒロカミ)《割書:同|上》 小間物道具
 《割書:應天|府》 書籍《割書:同|上》 花石《割書:徐|州》 硯《割書:徽州|府》 盆景(ホンサン)《割書:徐|州》
 銀朱(クワウシヤウシユ)《割書:蘇州|府》 海螵蛸《割書:准安|府》 黄精《割書: |州》 蒷實《割書:應天|府》
 何首烏《割書:徐|州》 藥種色色 茶《割書:廣徳府池州|府盧州府》 香茶
 《割書:同|上》 茶出《割書:常州|府》 石花(トコロテンクサ)《割書:准安|府》 紫菜(アマノリ)《割書:同|上》 白鶴《割書:楊
|州》
 《割書:府》 天鵞《割書:和|州》 告天鳥《割書:同|上》 烏骨鷄《割書:寧國|府》 鱸《割書:松|江》
 《割書:府》 鰣《割書:同|上》 鯽《割書:松江|府》 子鱭魚《割書:同|上》 櫻 桃 楊
 梅 梅 橘 芍薬《割書:楊州|府》 蓴菜《割書:准安|府》
山西省《割書:古梁魏之地也五府所謂 大原府 平陽|府 大同府 潞安府 汾州府也 二十》
 《割書:州 七十|八縣也》

 此所より商人渡り來らす
 土宜 毛氊《割書:大原|府》 瑪瑙《割書:大同|府》 花班石《割書:同|上》 石
 綠 ■器【瓷器(じき)ヵ】《割書:大原|府》 人參 麝香《割書:遼|州》 無名異《割書:同|上》
 龍骨《割書:平陽|府》 黄茋《割書:泌|州》 茅香《割書:遼州|澤州》 天花《割書:大原|府》
 羊《割書:同|上》 藥種色色 黄鼠《割書:大同|府》 蒲萄《割書:平陽|府》 石
 菖蒲《割書:泌|州》
山東省《割書:古齊魯之地也六府所謂 濟南府 褱州|府 東昌府 青州府 登州府 萊州府》
   《割書:也 十四州|八十九縣》
 此所より商人稀に渡り來る商船は來らす
 土宜 黄糸《割書:東昌|府》 繭紬(ケンチウ)《割書:同|上》 硯石 《割書:登州|府》 五色
 石《割書:萊州|府》 方竹 河鮫《割書:靑州|府》 海驢皮《割書:靑州|府》 海
 龍皮《割書:同|上》 青鼠《割書:遼東|都》 阿膠《割書:褱|州》 牛黄《割書:靑州府|登州府》 蘋


 婆菓 文蛤(キフン)《割書:萊州|府》 藥種色色《割書:同|上》 驢馬 黄鼠
 《割書:遼東|都》 貂鼠《割書:同|上》 海犳(ヲツトセイ)《割書:或膃肭臍|登州府》 昆布《割書:同|上》 蒙
 頂茶《割書:褱州》 松子《割書:遼東|都》 金杏《割書:濟南|府》 杓杷《割書:東昌|府》
 棗《割書:同|上》 胡桃
河南省《割書:古梁趙韓之地也八府所謂 開封府 歸|徳府 彰徳府 衞徳府 衞輝府 懷慶》
   《割書:府 河南府 南陽府 汝寧|府也 二十州 九十七縣》
 此所より商人來れとも商舶は來る事なし
 土宜 弓《割書:開封|府》 磁石《割書:彰徳|府》 碁子(ゴイシ)石《割書:汝寧|府》 官
 粉 石靑《割書:南陽|府》 ■器【瓷器(じき)ヵ】《割書:開封|府》 蓍艸《割書:汝寧 |府》 艾《割書:彰|徳》  《割書:府|》 地黄《割書:懷慶|府》 劉寄奴《割書:同|上》 鹿茸《割書:河南|府》 白花
 《割書:汝寧|府》 香橙(フシユカン)《割書:南陽|府》 瓜子(スイクワタネ)《割書:同|上》 來禽 羊棗(ナツメ)《割書:河南|府》

 薯蕷 牛《割書:彰徳|府》 綠毛龜(イシカメ)《割書:南陽|府》 蠟梅《割書:河南|府》 牡
 丹《割書:同|上》
陝西省《割書:古秦關中之地也八府所謂 西安府 鳳|翔府 漢中府 平涼府 鞏昌府 臨洮》
   《割書:府 慶陽府 延安府他 二十一州 九|十六縣 一行都司 二十三衞 二十六》
   《割書:所》
 此所より商人は渡り來れとも商舶は來る事
 なし
 土宜 羢(トロメン)《割書:西安|府》 毛氊《割書:西安府|臨洮府》 瑪瑙《割書:延安|府》 ■
 器【瓷器(じき)ヵ】《割書:平原|府》 洮石硯《割書:洮川|衞》 白纓《割書:臨洮|府》 黑纓《割書:同|上》
 士豹皮《割書:同|上》 辰砂 麝香《割書:漢中府|鞏昌府》 雄黄《割書:鞏昌|府》
 蜜 石油 熊膽《割書:漢中|府 》烏蛇《割書:鳳翔|府》 羚羊《割書:西|安》
 《割書:府鞏|昌府》 鹿茸《割書:漢中|府 》蟾酥《割書:慶陽|府》 旱藕《割書:西安|府》 石


 膽《割書:鞏昌|府》 紫河車《割書:漢中|府》 靑木香《割書:寧夏|衞》 錦糸艸
 《割書:慶陽|衞》 犳杞《割書:寧夏|衞》 藥種色色 水梨(ナシ) 胡麻
 豹《割書:洮川衞|岷州衞》 野馬 駱駝 牛《割書:陝西|行都》 氂牛《割書:臨洮|府北》
 《割書:尾白熊黑熊|赤熊になる》 羊《割書:寧河中衞|陝西行都》 羱羊《割書:同|上》 飛鼠《割書:西|安》
 《割書:府栗鼠|の類也》 黄鼠《割書:延安|府》 白毛鵰 鸚鵡《割書:鳳翔|府》 馬
 鷄《割書:陝西|行都》 錦鷄《割書:岷州|衞》 天鷄《割書:陝西|行都》 天鵝《割書:同|上》 牡
 丹《割書:延安|府》
浙江省《割書:古呉越之地也十二府所謂 杭州府 嘉|興府 巖州府 金華府 衢州府 處州》
   《割書:府 紹興府 寧波府 台州府 温州府|舟山府也 一州 七十五縣 日本より》
   《割書:三百五|十里程》
 此所より商人渡り來る商舶の來ると所は《割書:杭州|府》
   《割書:嘉興府 湖洲府 寧波府 台州府 温州府|[以上三府日本より三百五十里程] 舟山府[日本より三|百二十里程]》

 等也
 土宜 白糸《割書:湖州|府》 錦《割書:嘉興|府》 雲絹《割書:同|上》 縐紗《割書:湖|州》
 《割書:府》 絞《割書:同|上》 緞子 裏絹《割書:嘉興|府》 綢《割書:湖州|府》 羅《割書:同|上》
 棉紬《割書:紹興|府》 葛布《割書:寧波|府》 綿布()《割書:》 綿《割書:同|上》 毛
 氊《割書:杭州|府》 靑■器【瓷器(じき)ヵ】《割書:處州|府》 筆《割書:湖州|府》 墨《割書:同|上》 硯《割書:衞|州》
 《割書:府》 扇紙 藤紙 竹紙 方竹《割書:台州|府》 小間物
 道具《割書:杭州|府》 鐵 鉛 茶 酒 漆《割書:杭州|府》 茶碗
 藥《割書:紹興|府》 胭脂綿(セウエンジ) 黄精《割書:杭州|府》 紅木犀《割書:寧波|府》
 蒷實《割書:杭州|府》 麥門冬 白石英 藥種色色《割書:杭州|府》 
 葛粉 藕粉(ハスノセン) 冬筍《割書:杭州|府》 橘 ■柑(クネンボ)【■は草冠に㪅】 南棗《割書:金|華》
 《割書:府》金雀《割書:同|上》 黄雀《割書:同|上》 八歌《割書:同|上》(ハコウ) 畫睂鳥《割書:同|上》
 竹鷄《割書:同|上》 蠟蟕鳥 銀魚《割書:紹興|府》 鰣魚《割書:同|上》 江瑤(タイワ)


 柱(ギ)《割書:同|上》 金松 楊梅 玉芝 菱
江西省《割書:古楚之地也十三府所謂 南昌府 饒州|府 廣信府 南康州 九江府 建昌府》
   《割書:撫州府 臨江府 瑞州府 吉安府 袁|州府 贑州府 南安府也 一州 七十》
   《割書:七縣|也》
 此所より商人は來れとも商舶は來る事なし
 土宜 金絲布《割書:建昌|府》 葛府《割書:南康|府》 紵府《割書:臨江|府》
 紙《割書:廣信|府》 矢竹《割書:撫州府|南安府》 斑竹《割書:贑州|府》 紵磨《割書:臨江|府》
 染付■器【瓷器(じき)ヵ】之類《割書:廣信|府》 水晶《割書:吉安|府》 雲母(キラヽ)
 茶 銀朱 黄丹(タン) 石靑《割書:瑞州|府》 石綠《割書:同|上》 石蜜
 地黄《割書:袁州|府》 黄精《割書:同|上》 仙茅 玄參 苦參
 龍順艸《割書:吉安|府》 藥種色色 紫艸 紫苑
湖廣省《割書:古楚之地也十五府所謂 武昌府 漢陽|府 襄陽府 徳安府 廣州府 荊州府》

   《割書:嶽州府 長沙府 寶慶府 衡州府 常|徳府 辰州府 永州府 承天府 郢陽》
   《割書:府 十六州 百十縣 一衞 二|宣慰使 四宣撫司 八安撫司也》
 此所より商人は來れ共商舶は來る事なし
 土宜 沙金 銀 銅 鐵 水晶 葛布《割書:徳安|府》
 綄絲(アカイイト)《割書:同|上》 紙《割書:武昌|府》 艸帋(バフシカミ)《割書:武昌|府》 硯石《割書:荊州|府》 石
 磬《割書:同|上》 方竹《割書:嶽州|府》 矢竹《割書:同|上》 湘妃竹(マタラタケ)《割書:長沙|府》 竹
 簟《割書:同|上》 茶《割書:武昌|府》 白■【虫扁に承】《割書:徳安|府》 黄■【虫扁に承】《割書:同|上》 石綠
 石靑 麝香 丹砂《割書:或朱|砂》 白艾《割書:黄州|府》 芒硝
 石燕 貝母 連翹 山梔子 五倍子 烏頭
  畢薢《割書:承天|府》 石膏 白花蛇《割書:黄州|府》 地揄《割書:衡州|府》
 異蛇《割書:永州|府》 金星艸《割書:施州|府》 龍牙艸《割書:同|上》 石合艸
 《割書:同|上》 金陵藤《割書:同|上》 藥種色色 萬年松 藟艸《割書:荊|州》


 《割書:府》 佛頭柑《割書:常徳|府》 橘《割書:漢陽|府》 銀杏 覆盆子
 虎《割書:保|請》 野馬《割書:永|順》 水獺 綠毛龜《割書:黄州|府》 鼈甲《割書:同|上》
 花猫《割書:三毛之猫|也承天府》 天鵞《割書:漢陽|府》 白鷴《割書:保|請》 鷓鴣《割書:寶|慶》
 《割書:府》 錦鷄《割書:黄州|府》 山鷄《割書:同|上》 黑鷴《割書:保|請》
四川省《割書:古楚之地也十四府所謂 成都府 保寧|府 順慶府 敘州府 重慶府 夒州府》
   《割書:龍安府 馬胡府 湩川府 烏蒙府 烏|撒府 東川府 漳州府 鎮雄府[此外一府未詳]》
   《割書:二十州 百十縣 一行都使 一指揮司|三宣撫司 六衞 一招討司 一安撫司》
   《割書:九所 二十|六長官司也》
 此所より商人渡り來る商舶は來らす
 土宜 麩金 銀 銅 鐵 錫 白銅 黄糸
 《割書:保寧府|順慶府》花斑布 毛氊《割書:疊|溪》 氊袗《割書:モウセンキ|ルモノ東川》
 《割書:府》 毛織物《割書:東川|府》 蒲江硯《割書:功|州》 薛濤牋《割書:シヨカ|ンカミ》

 《割書:成都|府》 扇《割書:重慶|府》 斑竹《割書:眉州播|州黎州》 花竹簟《割書:同|上》 月
 竹《割書:同|上》 刺竹《割書:烏撒|府》 竹細工之道具 漆 黄蠟
  茶《割書:瀘州|天金》 象頂茶《割書:雅|州》 水銀 石綠《割書:瀘|州》 石靑
 《割書:同|上》 麝香 空靑《割書:湩州|府》 雄黄《割書:播|州》 丹砂《割書:重慶府|播州》
 蟾酥《割書:龍安|府》 天門冬《割書:順慶|府》 山礬花《割書:功|州》 五佳皮
 《割書:敘州|府》 苦藥子《割書:重慶|府》 牛黄《割書:黎|州》 附子《割書:成都|府》 烏
 頭《割書:同|上》 川芎《割書:同|上》 蜜《割書:播|州》 藥種色色《割書:成都|府》 羚羊
 角《割書:保寧府|龍安府》 犀角《割書:播|州》 石花《割書:鎭雄|府》 異馬《割書:永寧|府》
 氂牛《割書:疊|溪》 熊 馬 錦鷄《割書:龍安府|天全》 鸚鵡《割書:烏蒙|府》
 畫眉鳥《割書:邑梅|洞》 白鷴《割書:疊|溪》 馬鷄《割書:同|上》 山鷄《割書:夒州府|鎭雄府》
 蔗霜(サトウキヒ) 橘 柑子(クネンホ) 棗《割書:漳州|府》 荔枝 松子《割書:東川|府烏》
 《割書:撒|府》 喬麥 杉 梅 海棠 牡丹《割書:成都|府》


福建省《割書:古閩越之地也八府所謂 福州府 泉州|府 延平府 建寧府 汀州府 興花府》
   《割書:邵武府 漳州府 一州福寧|州といふか 五十七縣なり》
 此所より商人多く渡り來る商舶の來る處は
 福州府《割書:日本より|五百里程》 潼州府《割書:日本より六|百三十里程》 泉州府《割書:日|本》
 《割書:より五百|七十里程》福寧州《割書:日本より六|百五十里程》 沙埋(サチン)《割書:日本より四|百二十四里》
 《割書:程》等也
 土宜 花絨(モンヒロウト) 天鵝絨 紗 木綿 永春布《割書:泉|州》
 《割書:府》 絲布《割書:興花|府》 白布《割書:延平|府》 葛布 水晶 花
 紋石《割書:延平|府》 書籍 紙《割書:建寧|府》 竹櫛《割書:福州|府》 牛筋
 《割書:同|上》 茶《割書:建寧府興花|府邵武府》 白砂糖《割書:泉州府|漳州府》 冰砂糖
 《割書:泉州|府》 黑砂糖《割書:漳州|府》 蔗《割書:砂糖竹之事也|福州府泉州府》 茘枝
 《割書:福州府泉州|府興花府》 枇杷《割書:泉|州》 橄欖《割書:福州府|泉州府》 綠礬《割書:福|州》

 《割書:府》 明礬《割書:同|上》 藥䔧花《割書:福州府|泉州府》 天門冬《割書:同|上》 鹿
 角菜《割書:福寧|州》 銀魚《割書:漳州|府》 海蜇《割書:同|上》 獐皮 山馬
 皮
廣東省《割書:古楚之地也十府所謂 廣州府 韶州府|南雄府 蕙州府 潮州府 肇慶府 高》
   《割書:州府 廉州府 雷州府 瓊州府也 八|州 七十六縣也 十五省之内大也日本》
   《割書:より八百七|八十里程》
 此所より商人渡り來る商舶の來る所は廣州
 府《割書:日本より八百|三十里ほと》 潮州府《割書:日本より|七百里ほと》 高州府《割書:日本|より》
 《割書:千里|程》 廣州府之門内碣石衞《割書:日本より|八百里程》 潮州府之内
 南洋《割書:日本より六百|八十里ほと》 等也
 土宜 沙金《割書:廉州|府》 銀《割書:同|上》 鐵《割書:同|上》 窩鉛《割書:同|上》 銅
 器《割書:同|上》 錫器《割書:同|上》 漆器《割書:同|上》 鍋《割書:同|上》 端硯 眼鏡(ハナメカネ)


 《割書:同|上》 鍼《割書:同|上》 金緞《割書:同|上》 綿 《割書:同|上》 片金緞《割書:同|上》 ■緞(イロトンス)【■は門構に乂-閃緞ヵ】
 《割書:同|上》 斜文緞《割書:同|上》 繻子《割書:或 八糸(シユス)|同上》 柳條緞(シマシユス)《割書:同|上》 天
 鵝絨《割書:同|上》 二彩(クヒイ)《割書:同|上》 鎖服《割書:同|上》 蟲絲(スシ)《割書:同|上》 花梨(クワリン)木
 《割書:雷|州》 紫檀《割書:同|上》 烏木(コクタン)《割書:》 鐵刀木《割書:》(タカヤサン) 白
 檀香《割書:同|上》 車渠《割書:同|上》 水銀《割書:》 珍珠《割書:廣州府|雷州府》 玳
 瑁《割書:同|上》 沈香《割書:廣州府|雷州府》 丹砂《割書:同|上》 石斛《割書:高州|府》 蚺
 蛇膽《割書:廣州府潮州|府高州府》 攀枝花《割書:廣州|府》 㯽榔子《割書:雷州|府》
 嫰石《割書:韶州|府》 英石《割書:同|上》 鍾乳《割書:同|上》 波羅蜜《割書:廣州|府》
 藥梨花《割書:同|上》 土茯苓《割書:同|上》 椰子《割書:》 藥種色色
 荔枝《割書:廣州府|潮州府》 龍眼《割書:同|上》 牛《割書:雷州|府》 潛牛《割書:同|上》 𢹯
 牛《割書:同|上》 孔雀《割書:肇慶府高州府|廉州府雷州府》 鸚鵡《割書:蕙州府|高州府》 碧
 鷄《割書:蕙州|府》 五色雀《割書:同|上》 鵕䴊鳥《割書:同|上》 雲白《割書:雷州|府》

廣西省《割書:古楚之地也十二府所謂 桂林府 柳州|府 慶遠府 平樂府 悟州府 潯州府》
   《割書:南寧府 太平府 思明府 思恩府 鎭|安府 泗城府也 三十八州 五十九縣》
   《割書:二長官|司也》
 此所より商人は渡り來れとも商舶は來る事
 なし
 土宜 銀《割書:慶遠|府》 黑鉛《割書:同|上》 紵《割書:潯州|府》 降眞香《割書:鎭|安》
 《割書:府泗|城府》 鐵刀木《割書:潯州|府》 紫檀《割書:同|上》 烏木《割書:同|上》 白蠟
 《割書:平樂|府》 黄蠟《割書:鎭安|府》 龍眼《割書:柳州|府》 荔枝《割書:慶遠|府》 辰
 砂《割書:慶遠府|悟州府》 犀角《割書:悟州|府》 白蛇《割書:同|上》 蛇黄《割書:潯州|府》
 石燕《割書:桂林|府》 蚺蛇膽《割書:柳州府悟州|府桂林府》 雄黄《割書:泗城|府》
 肉桂《割書:潯州|府》 鬱金香《割書:柳州|府》 藥種色色 不死艸
 《割書:柳州|府》 象《割書:南寧|府》 猩猩《割書:悟州|府》 錦鷄《割書:南寧|府》


雲南省《割書:楚州之地也二十二府所謂 雲南府 大|理府 臨安府 楚雄府 徴江府 蒙化》
   《割書:府 景東府 廣西府 鎭沆府 永寧府|曲靖府 廣南府 姚安府 順寧府 鶴》
   《割書:慶府 武寧府 尋甸府 麗江府 元江|府 永昌府 孟定府 孟良府也 四十》
   《割書:州 三十一縣 二衞 一安撫司 三|宣撫司 二十一長官司 六宣慰司也》
 此所より商人は來れとも商舶は來る事なし
 土宜 金《割書:永昌|府》 銀《割書:同|上》 銅《割書:同|上》 鐵《割書:同|上》 錫《割書:同|上》
 瑪瑙《割書:同|上》 琥珀《割書:永昌府|麗江府》 毛褐《割書:徴江|府》 細布《割書:永昌|府》
 毛氊《割書:雲南府廣西|府徴江府》 五色寶石《割書:雲南|府》 矢竹《割書:楚雄|府》
 斑竹《割書:蒙化|府》 竹䶉《割書:同|上》 漆《割書:永昌|府》 埀絲《割書:蒙化|府》 柴
 花木《割書:雲南|府》 烏木《割書:元江府|北勝》 白檀《割書:八百|大甸》 沈香《割書:車|里》
 茶《割書:鎭西|府》 松子《割書:鶴慶府|麗江府》 香橙《割書:鉏|兀》 胡椒《割書:不|拝》 蔗
 《割書:鉏|兀》 人參《割書:姚安|府》 麝香《割書:姚安府|蒙化府》 當歸《割書:武定|府》 橄


 欖《割書:鉏|兀》 蛤蚧《割書:元江|府》 石燕《割書:曲靖|府》 乳香《割書:老檛|軍》 鹿
 茸《割書:瀾滄|衞》 安息香《割書:八百|大甸》 紫枇榔《割書:臨安|府》 波羅蜜《割書:同|上》
 木香《割書:車里軍|老檛軍》 鱗蛇瞻《割書:臨安|府》 靑魚瞻《割書:徴江|府》 石
 精 藥種色色 點蒼石 木槵子
 《割書:府》 象《割書:■【彳扁に面】|甸》 馬《割書:雲南|府》 ■牛【牙攵に牛-㹈ヵ】《割書:永寧|府》 犀《割書:老檛|軍》 猩
 猩《割書:永昌|府》 孔雀《割書:鎭抗府|新化府》 小《割書:瀾滄|衞》鷄 山鷄《割書:同|上》
 翡翠《割書:楚雄|府》
貴州省《割書:元夷狄之地也大明永樂年中屬中華九府|所謂 貴陽府 思州府 思南府 鎭遠》
   《割書:府 石阡府 銅仁府 ■【黎異体字ヵ】平府 都甸府|貴州府也 九州 十七県十二衞 一》
   《割書:宣慰司 一安撫司 十七長|官司也 十五省之内小也》
 此所より商人稀に來る商舶は來らす
 土宜 金《割書:思州府|石阡府》 鐵《割書:石阡|府》 蠟 葛布《割書:思南府|銅仁府》


 矢竹《割書:銅仁|府》 茶《割書:貴陽府|平越府》 水銀《割書:思州府|石阡府》 硃砂《割書:思|州》
 《割書:府銅|仁府》 雄黄《割書:普安|府》 木黄《割書:平越|府》 茯苓《割書:■【黎異体字ヵ】平|府》 柘
 榴《割書:鎭遠|府》 橙巻 銀杏 海棠《割書:鎭遠|府》 梅《割書:同|上》 蘭
 《割書:思南府|貴州府》 芙蓉《割書:鎭遠|府》 芭蕉 菖蒲《割書:貴陽|府》
  右十五省
 外國西洋
東京《割書:日本より千六|百四十里程》 此國より商人渡り來る商
 舶も來る
 土宜 黄絲 綾 王綾《割書:》 花絹 縐紗
 天鵝絨 紕(シヨロン) 紦(ハ) 白 𦆙(ツムキ) 黑𦆙 醤色(カハ)𦆙 漆
 器之類 斑竹 護神香 麝香 肉桂 砂仁
  牛黄 藿香 㯽榔子 粉珠 魚皮

東寧《割書:元塔迦沙古といふ今臺灣と|も申す日本より六百四十里程》 此國より商
 舶來る
  土宜 白砂糖 冰砂糖 黑砂糖 鹿皮 山
 馬皮 獐皮
廣南《割書:又跤趾(カウチ)といふ元東京|の内今は別國なり》 此國より商舶來る
 土宜 竒楠(キヤラ) 沈香 東香 綾 紗 白𦆙
 黒糖 羅 王絹 黄糸 糸頭(フレイト) 鐵刀木 藤
  白砂糖 黑砂糖 砂糖水 蜜漬類 攀枝
 綿 椰子 㯽榔 菆黄 姜香 牛黄 烏藥
  藿香 紫■【木扁に㪅-梗異体字】 燕窩 樹皮 谷精艸
占城《割書:元暹邏の内今は別國也|日本より千七百里程》 此國より商舶來
 る


 土宜 竒楠《割書:上》 沈香 東香 樹皮 㯽榔子 
  攀枝綿 椰子 魚皮
太泥《割書:此國女王也柬蒲塞と通せす是も又元暹邏|の内今別て一國となる日本より二千二百》
  《割書:里|程》此國より商舶來る
 土宜 沈香 檀香 丁香 降眞香 樹皮 
 燕窩 阿片 冰片 卑撥《割書:或㮿|撥》 西國米 糖
 水 胡椒 佳文席(アンタコサ) 藤席 藤 臘 錫 牛
 皮 山馬皮 牛角 石蟹 干海老
柬蒲寨《割書:元暹邏の内今は別國也|日本より千八百里ほと》 
 土宜 漆 臘 藤 黑砂糖 血竭 白豆寇
  紫■【木扁に㪅-梗異体字】 大楓子 菆黄 鹿皮 獐皮 牛皮
  象皮 象牙 犀角 牛角 山馬皮

六崑《割書:元暹邏之地今別國なり|日本より二千四百里程》 此國より商舶來
 る
 土宜 獐皮 山馬皮 魚皮 藤 藤席 樹
 皮 乳香 燕窩 㯽榔
暹邏《割書:日本より二|千四百里程》 此國より阿蘭陀の商舶來る
 又モウル人は此國より日本へ渡り來る
 土宜 花毛氈 柳條布(ヲクレマ) 花布(サラサ) 木綿 錫
 鉛 硝(エンセウ) 蠟 漆 黑砂糖 藤 藤席 象牙
  象皮 犀角 牛角 鹿皮 獐皮 山馬皮
  牛皮 水牛角 魚皮 紅土(エツチ) 血竭 㯽榔
  大楓子 樹皮 椰子油 薑黃 乳香 白
 豆寇 大腹皮 鬱金 蘇木 西國米 ■【草冠に取】黃


  蘆薈 藥種色色 
咬■【口扁に留】吧《割書:西洋の大島也 ■【口扁に爪】哇(チヤア)國の内也此國に阿蘭|陀のセネラル居住す日本より三千三百 》
   《割書:里|程 》此國より阿蘭陀の商舶渡り來る
 土宜 柳條布 花布 大木綿 毛織類 佳
 文席 藤 藤席 琥珀 珊瑚樹 丁香 檀
 香 沈香 龍腦 安息香 石黃 血竭 乳
 香 沒藥 殊砂 猴棗(ハサル) 肉豆寇 㯽榔子
 蘇香油 胡椒 砂糖《割書:白黑|冰》 蜜薑 紫檀 牛
 皮 鹿皮 鳥獸
阿蘭陀《割書:七州有所謂 セイラント クルウネケ|ウ イタラキト ケルトルラント ヲ》
   《割書:ウフルイセト フルラント也六州也|阿蘭陀共に七州也と云日本より一萬三》
   《割書:千里|程》 此國より商舶來る

 土宜 猩猩皮 大羅紗 小羅紗 羅脊板
 すためんと かるさい へるへとわん へ
 るさい ばれいた あるめんさい さゑつ
 ざるぜ さあい ころふくれん れいかと
 うる ふらあた ちよりめん ちやうたむ
 い 紅毛金入 緞子 繻子 毛絨 かへち
 よろ 珊瑚樹 琥珀 瑪瑙 水晶 浮玉
 玳瑁 水銀 一角 薫■【草冠に陸】 薫青 へいたら
 ほると へいてらはさる みいら るさら
 し 血竭 痰の藥 殊砂 血留石 外降圖
  世界圖 紅毛繪 胃甲 皮楯 萬力 鐵  
 炮 火取玉 遠目鏡 目鏡 磁石鍼 物縫


 鍼 香鋪 硝子道具 造花 琥珀造物 ■
 器【次の下に尾・瓷器(じき)ヵ】 土圭《割書:大|小》 燈籠 刃鐵 金唐皮 紅毛唐
 皮 石筆《割書:赤|黑》 とろんへいた さふらん 酒
 あせとうなの油
右外國西洋十國也
 左にしるす所は西洋の地にして阿蘭陀人の
 行て交易する國國也
雞卵《割書:島也日本を去る|事二百九十里程》 此島よりも阿蘭陀の商
 舶來る
 土宜 金 硫黃 鹿皮 燒炭
もは《割書:日本を去る|事六千里程》
 土宜 糸織物類 血竭

さらあた《割書:日本を去る事|四千五百里程》
 土宜 ■■【瑪瑙ヵ】 柳條布 金巾《割書:大|小》 大木綿 か
 あさ木綿 花巾(サラサ) 霜降花巾 さらた島布
 きかん島布 算崩島布 せいしす島布 み
 ふう島布 金入織 こんてんき島布 縫の
 ふとん 花毛氊 木香 乳香 木没藥 胡
 黃蓮 蘇香油 安息香 眞珠 薫陸 海椰
 子 石青 薫青 ■【草冠に取】黃 ひりり 紅土 魚
 皮
はるしや《割書:日本を去る事|五千百里程》
 土宜 金入織物 糸色色《割書:はるしや|糸といふ》  花毛氊
  はるしや皮 蘇香油 乳香 甘草 あめ


 んとう  へいたし 猴棗 花のよろほし
 ふとう酒 馬 羊
ふるはある《割書:日本を去る事三|千七百五十里程》
 土宜 米 武具類 楯の板 血留石 すら
 んかすてんるさらし 麝香猫
さいろん《割書:島也日本を去|る事三千里》
 土宜 肉桂 㯽椰子 眞珠 海椰子 象牙
  水牛角 水牛皮
こすとかるもんている《割書:日本を去る|事三千里程》
 土宜 柳條布 木綿 金巾《割書:大|小》 金花布 算
 崩島 きかん島布 こんてれき島布 島織
 物類 白鹽硝 てやまんの玉 魚皮

べんから《割書:日本を去る事|三千三百里程》
 土宜 金入織物類 糸織物類 糸類《割書:辨柄糸|といふ》
 辨柄奧島 辨柄大筋奧島 海黃島絹 らか
 て島布 あれしや島布 島木綿 辨柄ちや
 う島布 算崩島布 もうる金巾 きかん島
 布 ぬいのふとん 島の砂糖《割書:白黑|冰》 紅土
 ほうしや あひん しやかう ほつとる
 蟲糸(テクス)
あらいん《割書:日本を去る事二|千九百四十里程》
 土宜 金 米 蠟 象牙 麻苧 綱
へいぐう《割書:日本を去る事二|千六百四十里程》
 土宜 金 米 漆 象牙 ろうへんの玉


ふらか《割書:日本を去る事千|七百四十里程》
 土宜 錫 米 胡椒 へいたらほると ゑ
 んす 畜類
ふかさある《割書:日本を去る事|三千三百里程》
  土宜 金 白檀 米 たはこ
ていもうる《割書:島也日本を去る事|三千八百五十里程》
 土宜 丁番 沈香 白檀 胡椒 肉豆寇
 たはこ 呼子 烏色色
せいろん《割書:島也日本を去る事|三千八百七十里程》
 土宜 肉豆寇 るさらし びりり 胡椒
 たはこ 音呼鳥色色 ふう鳥 かすわか鳥
たるなあた《割書:島也日本を去る事|三千八百九十里程》

 土宜 沈香 丁香 檀香 肉豆寇 びりり
ばんだ《割書:島也日本を去る|事三千九百里程》 
 土宜 沈香 丁香 檀香 肉豆寇 びりり
  胡椒 たはこ 音呼鳥邑邑
あんほん《割書:島也日本を去る|事三千九百里程》
 土宜 沈香 丁香 檀香 肉豆寇 胡椒
 まそうや びりり かすわる鳥 ふう鳥
 音呼鳥色色
ほるねを《割書:島也日本を去る|事三千九百里程》
 土宜 佳文席 藤 龍腦 へいたら猴棗(ハサル)
 てやマんの玉
すまあにら《割書:島也日本を去る|事二千四百里程》


 土宜 金 佳文席 藤 玳瑁 硫黃 胡椒
  へいたらはさま
またかすたる《割書:島也人家なしをらんた人行て其|土宜を取て交易す日本を去る事》
      《割書:五千|里程》
 土宜 烏木 畜類
かあほてふわすふらんと《割書:阿蘭陀人此國へ行て|肉食を求む日本を去》
           《割書:る事六千|三百里程》
 土宜 虎 野牛 牛 鹿 猪 犀 大鳥
 鳥獸
けねい《割書:日本を去る事|八千四百里程》
 土宜 金 象牙 砂糖《割書:白黑|冰》 音呼鳥色色
とるけいむ《割書:日本を去る事一萬|千二百五十里程》

 土宜 金入織物 毛織物 糸織物 木綿織
 物
ふらんかれき《割書:日本を去る事一萬|二千八百十里程》
 土宜 糸織物 木綿織物 小間物 酒
といちらんと《割書:日本を去る事一萬|三千百四十里程》
 土宜 金 銀 水晶 水銀 五穀 酒色色
  鬱金
ほうる《割書:日本を去る事一萬|三千六百五十里程》
 土宜 琥珀 五穀 畜類の皮
むすかうへや《割書:日本を去る事一萬|四千二百餘里程》
 土宜 琥珀 香敷の銀 五穀 なめし皮
ていぬまるか《割書:日本を去る事一萬|三千三百八十里程》


 土宜 銅 鐵 石火矢 碇 船の網 麻苧
  材木
すへいて《割書:日本を去る事一萬|三千三百八十里程》
 土宜 銅 鐵 石火矢 碇 船の網 麻苧
  ちやん 材木
のふるういき
 土宜 刀鐵 鐵 材木 船の柱
くるうんらんと《割書:此國人家なし阿蘭陀人行て鯨|の油をとる日本を去る事一萬》
       《割書:五千|里程》
 土宜 鯨 鯨油
右阿蘭陀の商人行て交易する國三十一所也
中華并外國土産《割書:畢》

琉球國事略
  異朝の書に見へし琉球國の事
琉球は其國大小二つあり今の中山は其大琉球
の國也《割書:小琉球は中国に通る事なしと見へた|り某琉球の人に此事を問しに小琉球と》
《割書:いふ所は詳ならす今の大島の地を申せしにや|と申すこの説心得す異朝の書に小琉球は泉州の》
《割書:島に彭湖(ヒロンテ)といふ所と煙火相朢といひ又閩中の|鼓山に上て朢むへしといふ然は閩中に近き海》
《割書:上にある也大島ならんには閩を去る事數千里|を隔つまた朝鮮の書に小琉球の地は琉球の東南》
《割書:水路七八日か程にあり国に君長もなく人皆は|けたかく大にして衣裳といふもなく人死ぬれ》
《割書:は其親族あつまりて其肉をくらひ其かしらに|うるしぬりて飲器の器とすといふ事あり是も》
《割書:又信用に|たらす》古より中國に通せしことは聞えす隋煬
帝大業年中羽騎尉朱寛をして異俗を訪求めし
む始て其國に至る其語言通せす一人を掠て還

る後に武賁郎將陳稜をして兵をひきゐて其國
に至らしめ男女五千人を生捕て還れり《割書:隋の煬|帝大業》
《割書:六年の事也本朝推古天|皇十八年にあたれり》其後大元の時に至りて
使して招諭せられしかともつゐに従はず《割書:是元|の世》
《割書:祖日本を招諭せられし時の事なるへし|本朝にては龜山院御在位の時に當るか》其國王
初の姓は歡斯(ハアンスク)氏名は渇刺兜(カツラテウ)國人これを呼ひて
可老羊(コラウカン)といふ其妻を多抜荼(トハト)といふ《割書:一説に其國|王の姓名の》
《割書:事等は詳にたしかな|らぬ説なりといふ》數世を經て後國わかれて
三つとなる中山山南山北これなり大明の太祖
洪武五年日本につかはされし行人楊載使の事
訖りて歸る時に琉球を過て中國に内附すへき
由を招きけれは此年秋七月其王おの〳〵使し


て朝貢し封爵の事を請申す《割書:我國南朝龜山院文|中元年北朝後圓融》
《割書:院應安五年の事也大明の太祖の使明州の天寧|寺の僧祖闡南京の瓦官寺の僧無逸九州に來り》
《割書:て南朝の關西の懷良親王のまみへき楊載此等|の僧と共に來るへし是大明より我國への使第》
《割書:二度に及し|時の事也》同十五年《割書:我國南朝弘和元年|北朝永徳二年也》中山王
察度山南王承察に印幣等を賜はる《割書:これ中國よ|り冊封使あ》
《割書:る事のは|しめ也》此使還て三王たかひに雄をあらそひ
て相攻る由を申けれは三王相平らくへき由の
詔書を賜はりて同十六年《割書:我國南朝弘和三年北|朝後小松院永徳三年》
山北王怕尼芝にも印文綺等を賜はり此事勘合
文冊を三王に賜はるこれより山王皆中國に請
て其封を嗣《割書:王には紵絲紗羅冠服王妃には紵絲|紗羅王■【女扁に室】王相寨官等には絹公服等》
《割書:を賜ひ|し也》同二十五年《割書:我國比時南北一綂す|後小松院明徳三年》中山王

其子姓陪臣の子弟等をして國學に入らしむ太
租よろこひ給ひて其禮遇山南山北にこへすく
れて閩人のよく船を操者三十六姓を賜はりて
其往來に■【人扁に㪅】し給ひ二年ことに一たひ朝貢し船
ことに百人多しとも百五十人に過へからすと
定めらる福建南臺の外に番使館を設て其使を
待たる《割書:朝貢の使の朝を拝する等の義|事長けれはしかるに及はす》その貢物
は 馬 硫黃 蘇木 胡椒 螺殼 海巴 生
紅 銅 牛皮 摺子扇刀(ヲリアフキ) 錫 瑪瑙 摩刀石
 烏木 降香 木香  其中硫黃螺殼海巴牛皮
摩刀石は其國の產物にて蘇木胡椒等は歲歲暹
羅日本より易る所にて摺子扇はすなはち日本


の扇也《割書:按するに蘇木胡椒は我國の物にあらす|日本より易るといふ事はあやまれり日》
《割書:本の扇の事は古より彼|國にて申傳へる所也》景帝の景泰元年《割書:本朝後|花園院》
《割書:寶徳二|年也》中山王尚思達か代に至りて山南山北を
併せて使をまいらせて朝貢す《割書:此説あやまれる|か山南山北を併》
《割書:せしは尚巴志か事の由琉球の人は申す|也此事の詳なる事は下の條に見へたり》此後凡
三年に一たひ朝貢して貢使百五十人に過へか
らすと定めらる神宗萬曆元年《割書:本朝正親町|院天正元年》琉球
册封使蕭崇業謝杰等還て其國に日本館ありて
日本の人數百人利刀を執りて往來す其國人の
心愼み懾るる懾よしを奏す《割書:中山王尚永嗣|封の年の事也》同十七
年《割書:天正十|七年也》日本國平秀吉ことことく六十六州の
地を併せて中山の世子尚寧を招く尚寧關白に

臣たらん事を恥て降らす《割書:尚寧か父王尚永去年|萬曆十六年に薨して》
《割書:尚寧いまた冊封をうけさる|故に世子とは稱せしなり》同十八年《割書:天正十八|年なり》
秀吉朝鮮の地を經て中國に入寇せん事を謀り
て琉球の朝貢を禁すこれその入寇の事を漏さ
ん事を恐れて也琉球相鄭迵密に其事を奏問す
《割書:亦一書に萬曆十八年九月關白一和尚を指して|琉球に至らしめ正朔を奏し土地を獻する事を》
《割書:説しむ亦其國の長吏鄭迵に百錢を送る時に國|王尚永新に逝して世子尚寧監國し人人疑ひ惶》
《割書:る迵日本の人の變詐多きを以て世子を勸めつ|とめて辭し金を請す一和尚をさして行しめ關》
《割書:白に報禮す關白厚く和尚に賄して差て世子に|説しむと見へたり以上の二説皆皆關白より琉
《割書:球に使遣せしといふ》事はあやまり傳へしなる|へし此年五月琉球より關白に贈りし書を按す》
《割書:るに此時島津義久入道龍伯大慈寺西院和尚と|いふ僧を琉球に指遣したる也關白よりの使に》
《割書:はあらす此時琉球より關白に始て使をまいら|せたり其使は天龍桃庵和尚と申す僧也關白よ》


《割書:り其書に答られし書をは鹿苑|寺の僧西笑和尚宗草したりき》同二十年《割書:本朝文|禄元年》
尚寧僧天龍等をして日本に至て二百の蕉布等
のものを關白に送る琉球の地薩摩を去る事海
路四日か程日本と琉球の界北山の地は其延袤
三百里琉球を去事わつかに一日か程也《割書:北山と|いふは》
《割書:今の大島徳|島等の地か》 されは北山の地を得る時は琉球を
得る事たやすくして閩廣の地を侵さん事も又
■【人扁に㪅-便ヵ】あり《割書:閩廣とは今の福|州漳州等の地方》 關白其使に求むるに北
山の地に兵を屯せん事を以てす彼僧あへて其
命に違事なしやかて銀四百塊毎塊重き事四兩
三錢なる物をあたへて賞す《割書:しるす所によりて|按するに銀一塊は》
《割書:則一枚とい|ふもの也》天龍等日本の使とおなしく本國に

歸りて其由を申す尚寧ゆるさす此僧つゐに自
縊れ死す日本の使歸りてかくと申けれは關白
大きに怒りて北山の地を以て我にあたふる事
なからんにはいかてか我銀をは受ぬへきとて
毎年の利として銀四千兩をはたりせむ尚寧や
む事を得すして其銀を倍して還す《割書:按するに此|事は本朝文》
《割書:禄元年秀吉筑紫の名古屋に陳して兵を遣して|朝鮮の兩都を打敗られし時の事也此頃琉球の》
《割書:使關白の陳に來たりし事なし思ふに是等の事|共皆薩摩の國守の事を申せしことに似たり》
同二十一年《割書:文禄|二年》また僧建羞等を使して日本に
遣す關白其僧をとゝめて返さす新納(ニイロ)といふ者
を琉球に遣して萬人の兵の三年の糧を載て朝
鮮に至るへき事をもとむ琉球もとより國小し


く民困みて其糧を出すへき所なく同二十二年
《割書:文禄|三年》使の僧を日本に遣して其由を陳謝す《割書:此事|もま》
《割書:た薩摩の國守の事を以て關白にしるすに似た|り新納はさるはちさつまの國守の家徒なり》
同三十二年《割書:慶長|九年》琉球冊封使夏子陽還り て其國
に住する所の日本人すてに千人にちかし其國
必日本に併せらるへしと奏す《割書:世子尚寧冊封の|事朝鮮の軍事に》
《割書:よりて果されす此年はし|めて中山王に封せらる》同三十七年其國王果
して薩摩の國のために執へらる《割書:慶長十四年の|事也尚寧薩摩》
《割書:に在る事三年に|して本國に歸る》同四十年十一月尚寧使をして
再たひ朝貢を修し歸國の事を奏す福建の巡撿
丁繼嗣奏して日本の將琉球をして互市を請し
              《割書:たがひにあきなふ》
む琉球既に日本のために併せられ其貢物は忽

日本の産也琉球の心はかるへけり識へからす
と申す海道參政石崑玉其貢物を驗むるに日本
の産物相雜しかは其使入朝の事をとゝめて其
貢物を量り収て物多く賜はりて賞せらる《割書:慶長|十七》
《割書:年の事也此時島津陸奥守家久中山王に命して|福建の軍門に書を贈て日本大明互市の事を請》
《割書:としむ其書を僧南浦艸す南浦は四書集註に點|を加へし薩摩の僧文之といひしは則是なり》
同四十四年五月尚寧其通事蔡廛をして日本の
艦五百餘雜籠淡水を脅して取りて閩廣を犯さ
んとする事を奏す《割書:元和二年の事也日本の戰艦|雜籠淡水を攻取りしといふ》
《割書:事心得られす雜籠は一つに東蕃(トンハン)と云今の大清|の諸羅縣の地にあり則是臺灣の地なり淡水洋》
《割書:は呂宋の地にちかし按するに大明萬曆年中に|泉州の人鄭芝龍といふもの本朝に來りて肥前》
《割書:國松浦郡平戸にとゝまり其後に長﨑にうつり|住す平戸老一官といひし は是也つゐに我國を》

 
《割書:去て海盗の爲に推されて賊首となり喜宗天啓|六年十二月閩中に入て漳浦の白鎭に處る是本》
《割書:朝寛永三年の事也懷宗崇禎元年九月に大明に|降て福建の海防使となさる是本朝寛永五年の》
《割書:事也初め芝龍我國を去り塔伽沙古に行居事一|年にして船よそひして安海に行といふ思ふに》
《割書:日本戰艦雜籠淡水を脅取といふ事は鄭芝龍か|事をいふか又按するに芝龍大明に降りて海盗》
《割書:を平けし功によりて後に大子大師に拝せらる|其子鄭成功は肥前國松浦の人寛永七年我國を》
《割書:去て安浦に行て父にしたかひ永曆の天子の時|思明州に鎭して延平王に封せられ國姓爺とい》
《割書:はれしは是也其後寛文九年塔伽沙古の地を併|せて東寧國とあらたむ則今の臺灣是也又按す》
《割書:るに大明の書にこれより後の事を|しるせしものはいまた見及はす》
  琉球の國人所申其國の事
天地開けし初一男一女化生して三男二女を生
其一男は君王の始にて天孫氏といひ二男は按
司の始とし 三男を庶民の始とし一女を女君の

始とし二女を内侍の始とす民俗淳朴にして神
因りてあらはる是を君眞物と稱す《割書:慶長年中本|朝の僧彼國》
《割書:にありて其国土の事を記せシ書を按するに此|國のはしめ一男一女化生す其男をシネリキユ》
《割書:といひ其女をアマミキユとイフ此時其島小に|して波にたゝよへりタシカといふ木の生し出》
《割書:しを植て山の體としてシキユといふ草を植へ|又アタンといふ木を植て漸に國の體となしつ》
《割書:ゐに三子を生す一子は所所の主の始なり二子|は祝の始なり三子は土民の始なり其國に火な》
《割書:かりしに龍宮より求得て其國成就し人物を生|して守護の神あらはるこれをキンマモンと稱》
《割書:す其神に陰陽あり天より下るをキライカナイ|ノキンマモンといひ海より上るをオボツカク》
《割書:ヲクノキンマモンといふ毎月に出現して託女|に託して所所の拝林(オカミハヤシ)にあそふ其託女三十三人》
《割書:は皆王家也王妃もまた其一人也國中の託女は|其數をしらす其神もし怒る時は國人腕折爪折》
《割書:して是を拝慰む其俗にて嶽嶽浦浦の大石大樹|ことことく皆神にあかめ祭る又七年に一回の》
《割書:あら神十二年のあら神ありて遠國諸島一時に|出現すあら神の出現をキミテスリといふその》


《割書:出へき前に其年の八九月の間にアタリといふ|ものあらはる其山をアヲリ嶽といふ五色あさ》
《割書:やかにして種種の荘嚴ありて三つの嶽に三本|あらはる其大さ一山をおほひ盡す其十月に至》
《割書:て神必出託女王臣おの〳〵鼓うち歌うたひて|神をむかふ王宮の庭を以て神の至る所とし𠎃》
《割書:三十餘をたつ其𠎃の大なる事高さ七八丈その|輪十尋餘小きなるものは一丈はかり又山神時》
《割書:ありて現はる其數多くあらはるる事あり又す|くなき事あり其面は明ならす袖の長きものを》
《割書:著すその衣裳たちまち變して或は錦繡の如く|或は麻衣のことく二人の童を從ふ二郎五郎(ジラゴラ)と》
《割書:いふ其衣裳は日本の製のことくにして小袖に|上袴也神いかなる事ありと見へて童を𩋸打事》
《割書:あり童の啼聲犬のことく又ヲウチキウといふ|海神現るヽ事あり其丈は一丈はかりなして陰》
《割書:嚢殊に大きけれは裩を結ひて肩にかく是等の|神の現はれし事正しく見たりし事の由しるせ》
《割書:り其國の人の君眞物としるしたるはこれらの|神の事也と見へたり猶事の子細はよくよく尋》
《割書:ぬへし此外伊勢熊野八幡天滿宮のことき|本朝の神を祭りし社ともおほしといふ》天孫
氏代を相嗣く事とも一萬八百餘年其德おとろへ

て政すたれ諸按司多くは是に叛くつゐに賊臣
のために弑されて其位を簒はる浦添の按司其
賊を誅す國人これを推して君に登らしむこれ
を舜天王といふ王はもと日本鎮西八郎源爲朝
の子其母は大里按司の妹也
二條院永萬年中爲朝海に浮て流にしたかいて
國を求め琉球國に至る《割書:流に求るの義によりて|琉球と改稱せしといふ》
《割書:此説然るへからすこ|れより先此名あり》國人其武勇に畏れ服ふ其
國の名をあらためて流求と名付てつゐに大里
按司の妹にあひたして舜天王をうむ是則宗孝
宗乾道二年の事なり爲朝此國に止る事日久し
く故土をおもふ事禁かたくしてつゐに日本に


歸れり《割書:爲朝は義家将軍の嫡孫六條判官爲義の|八男十八歳の時保元の戰に父と同しく》
《割書:新院の御方にありて軍破て伊豆國大島に流さ|る二十九歳にして鬼島に渡り歸國の後國人等》
《割書:かうつたへに依て高倉院嘉應二年四月官兵を|さしむけらる三十三歳にして自殺す按するに》
《割書:本朝にて鬼島といふものは則今の琉球是也但|し爲朝二十九歳にて鬼か島に渡るといふ時は
《割書:六条院仁安元年の》事也此年は永萬二年にて其|八月に仁安とは改元ありき則宋乾道二年にあ
《割書:たれりしからは爲朝二》十八歳にて彼國に至れ|るにや彼國に至りし年に舜天王生るへしとも》
《割書:思はれす我國に傳へし所彼國に傳へし|所ふたつの間少しくあやまれるにや》爲朝本
國に還りし後は其母にしたかいて浦添の里に
あり成長するに從ひて其人よのつねなりにこ
ゑすたれしかは十五歲にして國人の ために推
したつとひられて浦添の按司となり二十二 歳
にしてつゐに此國の王とはなりたり《割書:今川伊豫|守入道了》

《割書:俊の記されし物に尊氏将軍の先祖足利の義兼|は實は爲朝の子也しを義家朝臣の孫足利陸奥》
《割書:の判官義康むつきの上よりやしなひ世に憚り|て人にかくしけれはつゐにしる人なし賴朝右》
《割書:大将には事㪅近付たまひしかは猶世に憚りて|むなしき物狂となり給ふて其代は無異に過た》
《割書:まひし細川畠山なとは義兼の下より分れたる|にやと見へたり此義兼身の尺八尺餘にて力も》
《割書:人にすくれたりしといふ舜天王の事も又思ひ|はかられぬ若然は彼國王は本朝足利細川畠山》
《割書:等の流の諸家の源氏と同|く爲朝の後と見へたり》在位五十一年にて薨
す其歳七十二《割書:宋理宗嘉煕元年本|朝四條院嘉禎三年》
第二代舜馬順煕在位十一年六十四歳にて薨す
《割書:宋理宗淳祐八年本朝|後深草院寶治二年》
第三代義本在位十一年にあたりて疾疫國に行
はれ人民多く死す位を遜て其子に譲る《割書:宋理宗|實祐七》
《割書:年後深草院正|元元年の事也》其後五十四歳にして薨す


第四代英祖在位四十年七十一歳にて薨す《割書:大元|成宗》
《割書:大德三年本朝後|伏見院正安元年》
第五代大成在位九年六十二歳にして薨す《割書:元武|宗至》
《割書:天元年本朝花|圓院延慶元年》
第六代英慈在位五年四十六歳にして薨す《割書:元仁|宗皇》
《割書:慶二年花園|院正和二年》
第七代玉城在位二十三年四十一歳にて薨す《割書:元|順》
《割書:宗至元二年本朝後|醍醐院延元元年》
玉城立て其德明ならすその政行はれす國人あ
らそひ戰ふ事年を 經てつゐに其國わかれて三
つとなる中山南山北山是也
第八代西威在位十三年二十二歲にして薨す《割書:元|順》

《割書:宗至正九年我國南朝後村上院|正平五年北朝崇光院觀應元年》
第九代察度在位四十六年七十五歳にして薨す
《割書:大明太祖洪武二十八年我朝後小松院應永二年|按するに太祖中山の主中國の封爵をうくる事》
《割書:察度より|始る》
第十代武寧在位十年にて薨す其壽傳はらすと
いふ《割書:大明太宗永樂三年我朝|後小松院應永十二年》
第十一代尚志紹《割書:志一|作思》在位十六年にて薨す其壽
又傳はらす《割書:永樂十九年應|永二十八年》
第十二代尚巴志在位十八年六十八歳にして薨
す《割書:大明英宗正綂四年我朝|後花園院永亨十一年》
尚巴志か代に當りて國人其德になつきしかは
つゐに山南山北を併せて其國を一綂す《割書:按する|にわか》


《割書:れて又合ふ事其中|間百餘年を經たり》
第十三代尚忠在位五年五十四歳にして薨す《割書:大|明》
《割書:英宗正綂九年我朝|後花園院文安元年》
第十四代尚思達在位五年四十二歳にして薨す
《割書:大明英宗正綂十四年我|朝後花園院寶德元年》
第十五代尚金福在位四年五十六歳にして薨す
《割書:大明景帝景泰四年我朝後花園院亨德二年按す|るに尚忠尚思達尚金福在位年みしかくして其》
《割書:壽相遠からすおもふに父に相續しものとは見|へす又按するに後花園院寶德三年七月琉球人》
《割書:來りて義政将軍に物を獻すこれよりして其國|人兵庫の浦に來りて交易すといふ然らは彼國》
《割書:の使本朝に來る事は尚金福か|時をもつてその始とすへきか》
第十六代尚宣威在位六个月壽傳はらす
第十七代尚眞在位五十年六十二歳にして薨す

《割書:大明世宗嘉靖五年本|朝後柏原院大永六年》
第十八代尚清在位二十九年五十九歳にして薨
す《割書:大明嘉靖三十四年本|朝後奈良院弘治元年》
第十九代尚元在位十七年四十五歳にして薨す
《割書:大明穆宗隆慶六年本|朝正親町院元龜三年》
第二十代尚寧在位三十二年五十七歳にして薨
す《割書:大明光宗泰昌元年本|朝後水尾院元和六年》
尚寧か代に當りて大明の神宗萬曆三十七年日
本國薩摩の守護の爲に執はれ居る事三年にし
て國に歸る《割書:按するに慶長十三年島津陸奥守家|久朢請ふには薩摩國琉球と隣國の》
《割書:好を通せし事年代すてに久しく彼國より綾船|と名付て毎年に物を贈る事絶す然るに近年其》
《割書:國の三司官邪那といふもの大明と相議而其國|王をすゝめて日本への往來をととむ家久二使》


《割書:をつかはして其故を問ふに邪那其使を待する|事無禮なり此上は兵をさしつかはし其無禮を》
《割書:誅すへしと申す 神祖其請所をゆるさる同十|四年二月薩摩の兵戰艦百餘にとり乘て彼國に》
《割書:押わたる邪那其國の兵を引具して大島に出む|かひてふせき戰ふ薩摩の兵その軍をわかちて》
《割書:後より襲ひせむ彼國の戰破れて討るゝ者數百|人手負ふ者數をしらすつゐに德島をも攻破り》
《割書:て四月首里に攻入り又彼國の兵數百人をきり|すて王城を打破て其王をいけとる同十五年八》
《割書:月二日家久琉球をたして【くたしてヵ】駿府に參り 神祖を|拜せしむ其王緞子百卷羅紗十二尋蕉布百卷太》
《割書:平布二百巻を獻す其國を以て家久に屬せられ|王駿府にとゝまりし内に第三子病て死す[佐敷王子]》
《割書:[といふか其墳墓に清見寺に有也]今家久又王を具して關東に參|り九月十二日 将軍家を拜せしむ此月二十日》
《割書:に關東を立て薩摩に歸る王薩摩にととま|る事一年にして本國に歸る事を得たり》
第二十一代尚豐在位二十年五十一歳にして薨
す《割書:大明懷宗崇禎十三年本|朝明正院寛永十七年》
第二十二代尚賢在位七年二十三歳にして薨す

《割書:大清太祖順治四年本朝後光明院正保四年按す|るに尚賢か代に當りて大明ほろひて大清の代》
《割書:とはなりたり然れとも此頃は閩廣の地いまた|大清に服せすおもふに大清に入貢の事は後王》
《割書:の時より始|れるにや》
第二十三代尚質在位二十一年四十歳にして薨
す《割書:大清康煕七年本朝後光明院承應二年按する|に尚質嗣封の後慶安三年九月我國に使を奉》
《割書:る》
第二十四代尚貞在位四十一年六十五歳にして
薨す《割書:大清康煕四十八年本朝今上寶永六年按す|るに尚貞か代に當りて[寛文十七年七月天和二年四月]我》
《割書:國に使を|奉れり》
第二十五代尚益在位三年    にして薨す
《割書:大清康煕五十年本朝今上正德二年按する|に尚益か時に寶永七年我國に使を奉れり》
  琉球冊使并朝貢の事


琉球冊封の事大明洪武年中に始れりそれより
後は其國王嗣立て貢使を進らせて封を請ふに
及て給事中一員行人一員を封使となされ玉帶
蟒衣極品の服色を假さる閩の三司その使の料
大船二艘を作る凡其價おの〳〵二千五百兩餘
を費す黃屋二層を作りて詔書を安置し貯ふ所
の器用そこはくを以てす冊使福州に至りて南
海の神を祭て船に乘る船彼國に至る時其王法
司官一員をして數千人を引具して其船を那㶚(ナハノ)
港(ミナト)に引入れしめ其國の衆官大小百餘員をして
龍亭を迎恩亭にむかへ拜せしむ《割書:龍亭は詔書を|藏めし小しき》
《割書:なる輿|を申す》天使館にみちひき至て《割書:迎恩亭より館ま|て五里はかり有》

【右頁】
《割書:といふ|唐道》龍亭を中堂に安置し衆官又禮を行ふ事
初のことし三日ことに大臣一員をして安否を
問册使まつ先王を祭るの禮を行ふ事其廟は國
門の外にあり天使廟に至る時世子素衣黑帶《割書:服|の》
《割書:装束|なり》して門外に候す祭訖て後中堂におひて酒
を行ふ次に封王の禮を行ふの日世子衆官をし 
て館門の外に候せしめ詔勅をみちひき王官に
至るその國門館を去る事三十里路ことに險し
門を去る事五里の外に牌坊ありて其扁を中山
といふ《割書:牌坊とは我國のよのつねの門のことく|にして額をうつ所なり扁は則額なり》  
是よりしては道平かにして左右は石をたたみ
て墙とす世子此所に出て龍亭を迎拜して國門
【左頁】
にみちひく《割書:此時世子の冠服の事みえす一書に|は烏紗帽紅袍玉帯たるよし見ゆ其》 
《割書:國の人申す所封王の禮行はれさる間|の冠服といふものは一書の説に同し》其門をは
勸㑹門といふ門を入れはすなはち王宮なり宮
門は三層にて層ことに堦あり正殿は山の巓に
あり龍亭を殿の眞中に設てこれを拜す《割書:王王妃|に賜は》
《割書:る所の物の事は第|一條に見へし如し》禮終りて別殿に宴を設く《割書:是|册》
《割書:使路次の塵を|拂ふの義か》後日又天使をむかゑて天界圓覺
等の寺に遊しむ其後王始て天使館に至る後日
錢行の宴を設く行に臨みて黃金を以て送贐の
禮とすすてにして册使船に登る王又是を護送
せしむる事始め迎ふる事のことく又王親長史
等をして表を進りて恩を謝すといふ《割書:按するに|琉球の册》



















《割書:使の別棺二つを作りて船にのす其棺の前に天|朝使臣の柩といふ字をきさみて又銀の牌を釘》
《割書:にてうつこれは福州より彼國に行く海路殊の|外に險なれば風波の難のかれかたき時に册使》
《割書:おの〳〵其柩に入りて釘にて打をき船くつか|へりいつれの地にも流れよらんにその所の人》
《割書:此銀をとりて棺をすて置かんにその後の使其|棺をもとめて載歸るへきためなりされは此使》
《割書:にあてられし人還て後に海路の事を申にきく|人皆皆事故なく還れる事を慶賀せすといふ事》
《割書:なし是によりて彼國に使をつかはされん事無|益也只其國の使來れるものに詔書をわたしつ》
《割書:かはさるへしといさめ申せし事ありしかれと|もすてに代代の例となりし事なれは其事をと》
《割書:とめられかた|しと見へたり》今大淸の代となりし以後其使官   
の記載いまた傳はらす《割書:但し琉球の人の申す所|を併せ按するに明の代》
《割書:の例に大きにたか|ひし事とも聞ゑす》又進貢使の例大明の例其進
見辭見皇太子并に宰臣に參見の儀その餘藩國
使臣の例に相同しく而又其儀注事長けれは是
【左頁】
を略す只今大淸の代に至りて其國進貢の例前
代の時に同しからさる事も有か《割書:大明の時は三|年一貢なり今》
《割書:は毎年一貢|なりといふ》閩廣の人に尋問しに其答所のもの
に見へし所は琉球國大淸に貢する事福州より
入る一年を全貢といふ其船二艘次年を折貢と
いふ其船一艘來る事は冬至を期とし去る事は
端午を期とす琉球館を福州に設てこれをまつ
其貢官は二員正使は耳目官といひ副使は大夫
といふ其使至る時は福建承宣使司より轎傘執
事等を以て是をむかへ筵を設け通船の人こと
ことく宴賞ある事其差あり其貢物は匹頭(タンモノ)漆器
銅器海味土産の類也十二月に京師に進す唐官

【右頁】
一員是を護送し朝廷宴を設て優待せらる《割書:是等|の次》
《割書:第は薩州より進する所の書付に|見へたれはしるすにおよはす》其交易の例船
數を定められて銀額をは定められす全貢の年
は十餘萬折貢の年は只五六萬を用ゆこれは福
州の港淺くして大船進みかたきか故に小しき
にして多く載る事かないかたきか故也其國人
買ふ所の唐貨細物は絲綢綾緞等粗物は紙藥材
等其銀は老板元銀二寶を用ゆ《割書:老板は我國の古|銀元銀は我國の》
《割書:元字銀といふものと見へたり全貢の年に十萬|といふは銀千貫目にて折貢の年に五六萬とい》
《割書:ふは銀五六百目を|用る事と見へたり》是より先は其國の使福州の
各官に送る所の例萬金を費やす康熙三十七年
《割書:本朝元祿|十五年》巡撫官張仲挙擧
一㮣に蠲免せしかは其
【左頁】
國の人彼德に感して今に至るまてこれ祠る
  琉球國職名の事
王子 正一品 是王の子弟
按司 従一品 是所所の領主諸矦のことくな
   るものか
三司官親方 正一品
 天曹司 一員
 地曹司 一員
 人曹司 一員
親方 従二品
親雲上 三品より七品に至るおの〳〵正従あ



里之子 正從八品
筑登之 正從九品
 按するに正は皆皆定まれる員あり從は其員
 數定れる員なしと見へたり

琉球國事略《割書:畢》


本朝寶貨通用事略
  金銀銅出し事
一天武白鳳三年三月對馬より銀を貢す
  人皇より四十代曆數千三百三十四年を經
  て我國の銀は始て出たり延喜式に太宰府
  より每年銀八百九十兩つつ貢すと見へし
  は對馬より出せる所なり此後鳥羽堀川の
  頃まて對馬より銀を出せし由見へたり
一元明和銅元年春武藏國より銅を貢す
  人皇より四十三代曆數千三百六十八年を
  經て我國の銅は始て出たりこれより先に
  も本朝にて銅を用ひられし事とも見へた

  りそれらは皆皆外國より來れる所なるへ
  し倭國の銅これを始とすれは年號も和銅
  とは改らる倭和相通して用ゆ
一聖武天平二十一年三月陸奥國より黄金を貢
 す
  人皇より四十五代暦數千四百九年を經て
  我國の黃金は始て出たりこれより先にも
  本朝にて黃金を用ひられし事とも見へた
  れともみな〳〵外國より來れる所なり此
  時大佛の像を造られしにこれを裝るへき
  料の黃金なけれは異朝に求られしに陸奥
  國より始て黃金を九百兩貢せしかは悦は


  せ給ふ事限りなくやかて年號を天平勝寶
  とは改られたり延喜式にも陸與國より毎
  年砂金三百五十兩つゝ貢せしとあるは世
  に奧州の貢金といひしもの也其後後白河
  の項まて此貢金をまいらせし也
一延喜式に下野國より毎年砂金百五十兩練金
 八十四兩つゝ貢せし由見ゆ此國より金出し
 始は未詳にせす
  謹按本朝國ひらけし初より千餘年を經て
  我國の金銀銅始て出て天地の大寶を秘す
  る事と又其代の材用とほしかりし事をお
  もひはかるへき事かそれより後我國の金

 

  銀出すといへとも年ことに出す所の數す
  くなきを以て國用のゆたかならさる事も
  またおもひはかるへし
一佐渡國には黃金ある由宇治大納言物語に見
 えたりされは此國には昔よりありしかと世
 に是を採るすへをしらさる也近き頃ほひ上
 杉謙信入道彼國を攻取りしより後其金を採
 りて國用を足す太閤秀吉かねてより此事を
 傳へ聞て代をしられし後に謙信の義子中納
 言景勝を欺て奧州に移し佐渡國をおしとり
 て金を採らせられしかと金出すしてほとな
 く薨せられたり慶長五年關个原の事終りし


 明る年より此國の銀出る事おひたゝしとも
 いふはかりなしかゝる事は我國のいにしへ
 より傳聞さる所なり同十三年の頃より銀出
 る事はしめのことくにはあらすこれより年
 年にすくなくなりて或は又黃金もましえ出
 たり
一石見國より黃金を出せる事其始をしらす是
 も始は出る事多からす慶長六七年の間より
 出る事多くなれり程なく此國の金を採るを
 は止められき
一伊豆國より黃金白銀を出す此國より出し事
 も聞えす是も慶長十一年の頃より出て其數

 大かたは佐渡國より出る事のことし程なく
 出る事多からすして採る事をとゝめらる
一陸奥國の南部より黄金出つ是も慶長十三年
 の頃出し事殊に多くしてほとなく出す
  謹按するに佐渡石見伊豆奧州の南部より
  金銀を出せし事古にきかす 當家世をし
  ろしめされし初より出し事本朝の古より
  つゐに聞さる所なり是より此方百年の今
  に至りて我國の金銀萬國にすくれ多くし
  て材用のゆたかなる事ひとり我國のいに
  しへに例なきのみにあらす外國にも類ひ
  なき事也今の代の人かゝる事をもしらす


  して 神祖の恩德我國萬代の後まてに至
  るへき御事をもしらす口惜き事なり又是
  によりて我國天地の運慶長五年よりあら
  たに開き初りし事をもしりぬさらは
  聖子神孫よく祖業を守らせ給ひ天下の貴
  き賤しきおの〳〵其所を得せしめ給はゝ
  神祖の御後は天地と共に久しかるへき事
  うらなはすして知りぬへき御事也又按す
  るに 神祖かくれ給ひし後にも爰かしこ
  より金銀出し事代代に聞へしかと其數多
  からすわつかに佐渡薩摩等の地より出す
  事ある由を申すか
 

  金銀の制の事
一天武白鳳十二年用銅錢廢銀錢
  これより先の代代には物を交易する事米
  穀絹布を用ひき白鳳三年我國の銀出しよ
  り銀錢を用ひられしとみへたり其十二年
  に及て銅は外國より來れるなるへし
   謹按するにこれ我國にて銀銅を寶貨と
   せし始か
一元明和銅元年始而行銀錢銅錢
  此時より我國の銅にて錢を鑄出し又銀錢
  をも兼用られしなり
一孝謙天平寶字四年鑄新錢


  此時銅錢改鑄らる《割書:萬年|通寶》又銀錢を改鑄ら
  る《割書:太平|元寶》銀錢一つを以て銅錢十に當つ又金
  錢を新たに造らる《割書:開基|通寶》金錢一つを以て銀
  錢十に當つ
一稱德《割書:すなはち孝謙|重祚の尊號》天平神護元年㪅鑄錢《割書:神功|開寶》
一桓武延曆十五年㪅鑄錢《割書:承和|昌寶》
   嘉祥元年㪅鑄錢《割書:長平|永寶》
一清和貞觀三年㪅鑄錢《割書:饒益|神寶》
   貞觀十二年㪅鑄錢《割書:貞觀|永寶》
一宇多寬平二年㪅鑄錢《割書:寬平|大寶 》
一醍醐延喜七年㪅鑄錢《割書:延喜|通寶》
一村上天德二年㪅鑄錢《割書:乾元|大寶》

  此後本朝にて錢を鑄られし事いまた聞す
  皆皆異朝歴代の銭を用ひしと見へたりか
  くて大明永樂の天子太宗の代に及て鹿苑
  院公方義滿彼國の封爵を受られ其頃異朝
  にして永樂新錢を鑄られしかは我國へも
  頒賜はり《割書:是永樂錢我國へ|來りし始め也》其後東山公方義
  政の世に奢侈を好みて國用甚た促しかは
  寛正五年文明七年同十五年三度まて大明
  の天子に錢を賜ふへき由を朢請ひ申さる
  中にも文明十五年には十萬貫をたにたま
  はりなは我國の用足なんと歎き申されき
  其頃にはかほとまてに我國の財用はとほ


  しかりき
   謹按するに一說に文禄天文の頃より我
   國にて永樂錢を通用せしといふ事あり
   是は永樂一貫文を以て古銭四貫文に當
   て永樂錢法にて古銭をも用ひしといふ
   事なり
一天正十六年造黄金の大判小判
  織田殿は財を生する才略おはせしかは國
  富たり秀吉また其才おはせしかは天下を
  しりたまひしより天下の財を聚斂して國
  用を足されき天正十六年新に大判小判等
  を造らる是世に天正十六年判といふもの
 

  なり但し是より三年の前天正十三年の秋
  金賦とて大名小名に金銀を給ひし《割書:金五十|枚銀三》
  《割書:萬|枚》さらは其頃すてに大判丁銀等はありし
  也是は古よりありしものにて十六年の制
  とは同しからさる也
一慶長四年始造一分判、
  此年は秀吉薨し給ひし明る年にて關个原
  の前の年也おもふに秀吉の末年に此事を
  たくみ出されてかくれ給ひし後に功訖て
  世に行はれしなるへし
   謹按するに以上は皆皆 當家より前代
   の事ともなり


一慶長六年の後に大判小判一分判丁銀豆板等
 の制改る駿河判江戸判なと皆皆造ら
 れし所を以て稱す此外に甲州判といふあり
 これより後元緑八年まて年年に造り出せし
 所の金銀の總數まつは金七千萬兩銀八十萬
 貫目ほとのつもりと申す歟
一慶長十三年止永樂錢用京錢
  京錢といふは異朝代代の古錢の事也これ
  より永樂錢法はやみしなり
一寬永十三年六月新鑄錢《割書:寛永|通寶 》
 江戸と近江國坂本と兩所にて鑄らるこれよ
 りして本朝の銅錢ゆたかになりたり 猷廟

 の御恩德も又有かたき御事なり是より後に
 寛文年中又新錢を鑄らる《割書:■【裏の異体字】に文の字|をしるさる》元禄中
 金銀を改造られ其後又銀をふたたひ改鑄ら
 れし事大錢を鑄られし事共は人人しれる所
 なれはしるすにおよはす
  謹按するに以上の事ともを以て先しるへ
  し國家の財用古には艱難にて今の賑富し
  事ともを
  本朝金銀銅外國へ入りし總數の事
一慶長五年より前上古よりの事はしはらく論
 せす室町殿の代より信長秀吉兩代に至るま
 て西國中國の地より外國へ入りし金銀の數


 いか程といふ事をしるへからす《割書:これ|一つ》
一慶長六年の夏交趾の舶來りて《割書:其舶に乘りし|者千二百人あ》
 《割書:り|き》これ 當家に及て海舶の來れる始也是よ
 り正保四年まて四十六年か間に我國の金銀
 外國へ入りし事いかほとといふ事はしれす
 《割書:これ|二つ》
一慶長六年の夏外國の舶我國へ來り始て寛永
 元年まて二十四年の間は九州の内いつれの
 浦浦へも心まゝに舶をよせて商賣せし事も【「事も」の右に「なり」と有】
 東國へも舶つきて商賣せし事もあり《割書:慶長十四年|上総大多喜》
 《割書:浦に黑ふねつ|きし事ありき》長崎より外にての商賣を禁せ
 られし事は慶長【右に「一本作寛永」と有】二年に始まれりされは二十

 四年の間諸國の浦浦にて外舶商賣せし時取
 行し所の金銀の數はしるへからす《割書:これ|三つ》
一慶長六年より寛永十一年まて三十三年の間
 は御朱印船とて我國の商人とも《割書:今の呉服所|の先祖又は》
 《割書:富る商人共ゆるさ|れて行しなり》亞馬港ノビスバン暹邏安
 南呂宋等の國國に年ことに行て商賣し此外
 にも私に行てあきなふ事年年に絕へす其時
 に我國の金銀をもち行し事其數いくらとい
 ふ事をしらす《割書:これ|四つ》
一寛永の初まては今來れる國國の外交趾 占
 城 安南 呂宋 ノビスバン イキレス
 カレウタ イタリヤ 亞馬港なといふ國國


 より年ことに來り商なひしたり其後耶蘇の
 法をいたく禁せられしよりこれらの國國よ
 り來る事をゆるされす是等の國國へ持行し
 金銀のかす〳〵もしるへからす《割書:これ|五つ》
一寛永の初邪蘇の法をいたく禁せられしより
 前かた三四十年か間我國にて其法を信受せ
 しものとも年ことに其國國の師のもとへ贈
 り遣し禮物金銀の《割書:これは商|賣の外也》いくらといふ事
 をしらす《割書:これ|六つ》
一近年に至りて長﨑にて商賣の外私の商賣に
 《割書:抜荷といふ|ことなり》外國へ入りし金銀の數しるへか
 らす《割書:これ|七つ》

一慶長の初より今年に至りて對馬國より朝鮮
 へ入りし金銀の數いくらといふ事を詳かに
 すへからす《割書:これ|八つ 》
一いにしへより今に至て薩摩國より琉球へ入
 る金銀の數いくらといふ事を詳にすへから
 す《割書:これ|九つ 》
  右九條の事はいつれも詳にすへからす《割書:こ|れ》
  《割書:ら某か愚なるか心付し|所也此外にも有へし》此九條の外に長崎
  一所より外所へ入りし金銀銅の大數まつ
  しれし所左のことし
一金二百三十九萬七千百兩餘《割書:正保五年より|寶永五年まて》
  《割書:凡六十一年の間に外|國へ入りし大數也》


一銀三十七萬四千二百九貫目《割書:正保五年より寶|永五年まてとも六》
 《割書: 十一年間に外國|へ入りし大數也》
一銅一億一萬一千四百四十九萬八千七百斤餘
 《割書:寛文三年より寶永五年まて凡三十六年か間|外國へ入りし所なり但し銀は慶長六年より》
 《割書:寛文二年まて凡六十一年か|間の事分明ならすといふ也》
  謹按するに長崎一所より外國に入りし所
  六十一年か間の大數も右のことしまして
  や前にしるせし所のはかりしるへからさ
  る九條の大數おもひやるへし今暫く法を
  立て長﨑一所にて六十一年か間に外國へ
  入りし大數を以てかのはかり知るへから
  ぬ九條の大數を推し量るに

一金六百十九萬二千八百兩餘《割書:慶長六年より正|保四年まて凡四》
 《割書:十六年か間に外國に入りし大積|并に正保五年より此かたの總數也》
一銀百十二萬二千六百八十七貫目餘《割書:慶長六年|より正保》
 《割書:四年まて凡四十六年か間に外國に入りし所|の大積りならひに正保五年よりこのかたの》
 《割書:總數|也》
  《割書:右金銀の事は正保五年より寶永五年まて|長崎一所にて外國に入りし大數を二倍に》
  《割書:して兩口を都合|せしつもり也》
一銅二億二萬二千八百九十九萬七千五百斤餘【「萬」に重複あり先の「二萬」誤りヵ】
 《割書:慶長六年より寶永五年まて凡六十一年か間|に外國へ入りし大積り并に寛永六年よりこ》
 《割書:のかたの總數なりこれは寶永六年よ|りこのかたの數を一倍せしつもり也》
  右は慶長六年より寶永五年まて凡百七年
  の間に我國の金銀銅外國へ入りし所の大


  數也比較を以て推す時は外國に入りし所
  の金は只今我國にある所の金の數三分一
  に當れり《割書:我國只今の新金は古金二千萬兩|を造り出せし所なりといふ六百》
  《割書:十九萬兩を三つ合すれ|は大數二千萬兩に近し》銀は只今我國にあ
  る所の數よりは二倍ほと多く外國に入り
  し也《割書:我國の内古銀の數四十萬貫目ならて|はなしといふしかるに外國へ入りし》
  《割書:數百二十萬貫目に近くなれは|我國の銀殊の外減せしなり》但し大數
  はよほと引入れしたる積りなるへしとも外
  國に入りし所の金銀銅の總數是よりはな
  をおひたたしき事にや
異國の實貨古今の事を按するに漢の代ほと黄
金おほかりし代はあらすと申傳へたり其後代

代を經て次第に金銀すくなくなりしほとに宋
の世の中頃より交鈔といひて我國の紙錢のこ
とくなるものを用ひて國用を通する事になり
て元朝に至ては專ら此交鈔はかりを通し用ひ
明朝に及て銅錢を以て交鈔に雜え用ひて今に
至れり是漢の代より後には金銀銅共に世に出
る事多からぬ故なりされは彼國代代の人の論
せし所は金銀の天地の間に生するこれを人に
たとふれは骨のことし其餘の寶貨は皆皆血肉
皮毛のことく也血肉皮毛は傷れきすつけとも
又又生するものなり《割書:米穀布帛をはしめてもろ|もろの器物等皆然なり》
骨のこときは一たひ折れ損してぬけ出ぬれは


二たひ生するといふ事なし金銀は天地の骨也
《割書:五行のうち木火土水は|血肉皮也金は骨なり》是を採る後には二たひ
生するの理なし是を以て上古より漢の世に至
るまて採得し後中國の金銀ふたゝひ生する理
なしといへり又漢の代さはかり多かりし金銀
の後の代に及てうせ果し事は五胡五代遼金元
の代代の亂に夷狄の地にとり行また海外諸國
の商賣の爲にうせたり《割書:我國の昔より寛永の頃|まて六十餘州の中にて》
《割書:用ひし銅錢は皆皆異朝の錢なり日本一州に取|來りしはかりもおひたたしき事なりまして萬》
《割書:國に取ゆきし事|おしはかるへし》次には佛事興れるによれりと
申傳へたり《割書:是は異朝にてもよのつねの事に金|銀の簿なと多く用ゆる事もなく又》
《割書:殿閣等を飾るとても金銀をちりはむる事希也|佛像を造り佛殿佛閣等をつくるにはおひたた》

《割書:しき金銀を費|するゆへなり》是等の論によりて我國る事を考
るに此國ひらけ始しより後千餘年か間は金銀
銅出る事もなくそれらの世にも代はゆたかに
おさまれきその後是等の寶貨我國に出しかと
其數はすくなかりし事また千年に及へり我
神祖の起給ふに至て天地も其功をたすけさせ
給ひしとみへて我國の金銀銅の出し事我國の
事はさて置ぬ萬國の中にかゝるためしをきか
すしかりとはいへとも我國土の骨一たひ出て
ぬれは二たひ生すへからさるの理なり此後千
萬年を經るとも 神祖の御時のことくに金銀
銅の多く出る事あるへからす《割書:漢の代より後の|事を以ておしは》


《割書:かるへき|ものなり》然るにそれより後百餘年か間外國に
流入れし所の數彼五胡五代遼金元の代代にと
ほしき中國の金銀を夷狄も地にとり行し數に
くらふれは猶萬萬多かるへしかくて此後も今
迄の事のことく毎年に十四五萬兩を失ひなは
十年にして百四五十萬兩をうしなひ百年にし
て千四五百萬兩をうしなふへし 神祖より
當代に及はせ給ひて既に百年に及ひぬれはこ
れより後又百年をすくるとも四五世の御ほと
には過へからすされは 聖子神孫十世二十世
の御のちには我國にて用ひ給ふへき金銀銅と
ほしき事彼異朝の事のことくなるへし我國の

むかし金銀銅なかりし事千餘年のほと世も豐
に治りしといへとも其代代は時代ことの外に
上りて人の心も俗もすなほなりし故也今より
百年千年の後次第に時代も下りて人の心も俗
もうすくなりゆかんには世はいかになるへき
事にやすへて異國のものの中に藥物は人の命
をすくふへきものなれは一日もなくてはかな
ふへからす是より外無用の衣服翫器の類ひの
物に我國開け初しより此方 神祖の御代に始
て出たりし國の寶を失はむ事返す返すも惜む
へき事也我國萬代の後の代迄の事を思召れ
神祖の御心をもて御心となされんには今の時


に及てその御心得有へき事難有御惠み成へし
然らは自ら 神祖の御後は天地と共に長く久
しくおはしまして其世世も民豐に國治まりぬ
へき事掌を見るかことくなるへし


本朝寶貨通用事略《割書:畢》

高野山事略
  學侶行人聖等由來の事
古は高野山大衆の中學侶行人なといひし事は
聞へす《割書:元寇建武の頃まても滿山の大衆なと申|せしにや太平記とうにはそのことし 》
世に申し傳ふる説には弘法大師この山を開か
れし後に其法孫の專ら密教を修し行ひし者を
學侶といふ大師より先役行者此山に千手堂を
草創せしより此方此山に住せし行者の法孫其
後大師の弟子となりて密教を修し行ひ兼ては
又大峰葛城等の山山にて修煉行法するものを
行人といひしといふまた一說に應仁の亂後天
下大きに亂れしより此方滿山の大衆の中強壮

の者は帶劍防戦して國内の狼籍を守護し老弱
のものは讀經修法して山中の安穏を祈禱せし
よりおのつから學侶行人等の名は出來しと云
また行人方を總分といひ學侶方を多分といひ
しも天正の頃より世の人申しならはせる所也
といふ聖といふ者は中頃時宗の此山に來り住
て或は念佛を修行し或は廻國勸進せしを
神祖の御時に至て眞言秘密の靈場に其法侶に
あらさるものの雜り居へき事然るへからさる
由の仰せによりて悉く皆眞言の教に随ひしと
いふ
  木食上人高野山を再興せし事


興山寺の開祖興山上人應其といひしは木食修
行の僧なりしかは世には又木食上人とも申せ
し也此上人もとは近江守護佐佐木の流にて三
十七の時に出家し高野山に登て修禪煉行す秀
吉關白世をしり給ひし始に紀伊國高野根來の
僧徒等やゝもすれは甲冑をよろひ弓箭をとり
て某を押妨たる事佛法にもちかひ王法にも背
き甚無道の至り也とて天正十三年の春自ら十
萬餘騎の兵引具して國中の要害ことことく
に打傷りてうたるる者二千餘人まつ根來寺に
攻入り堂塔寺院ことことくに焼亡さる高野大
衆會合して僉議するに防戰ふせき義勢もなく

大師の靈跡破滅せん事此時を以て其期とす應
其大悲願を發しいかにもして此厄難をはらゐ
て佛祖の恩にむくふへしと思ひ此僧か申す旨
に任せられは一身を以て大衆の命にかはり秀
吉の軍をしりそけて我山の再興を致すへしと
いふ大衆大きに力を得て是則曩祖大師の再來
し給ひて我山を中興し給ふ所也いかてかのた
まふ所に背く者あるへきといふ應其やかて
嵯峨天皇曩祖大師の手印等をうけとりて秀吉
の陣に行むかい此山亡さるへき事然るへから
さる事の由を歎き申けれは秀吉忽に心とけて
七條をしるして一山の僧徒を詰難せらる大衆


一同に怠状を捧しかは木食上人一身を捨て大
衆の命に代りて歎き申す所を感し上人の爲に
此山を建置よしの壁書を下され上人を以て一
山の僧綂とせられ學侶行人時宗客僧悉く皆上
人に附屬せらるる由を以て下知せらる同十八
年上人一寺を建立す關白の執奏によりて宸翰
を染られ《割書:後陽成院|の御時也》興山寺の額を賜て勅願寺と
なされ勅して千石の地を以て竒附せらる《割書:是朝|家よ》
《割書:り御竒附の申也といふ亦秀吉つねに人に【右に二字追記】むかひて|高野の木食と思へからす木食の高野也と宣ひ》
《割書:又上人の寺を興山と附られし事も上人此山を|再興せし功德を顯さるる所なりと見へたり》
同二十年秀吉の母公上人をして一寺を建立せ
しめ三千石の地を竒附せらる今の靑巖寺是也

上人興山靑嚴兩寺の住持職を兼帶し慶長の初
兩寺を以て其弟子勢譽に附屬し同十三年近江
國飯導寺にして入寂す七十三歳といふ
  學侶行人兩派わかれ立事《割書:附》文珠院の事
文珠院勢譽は學德才能山中第一の聞ゑありし
かは木食上人關白に申て我弟子とし終に興山
靑嚴兩寺の住持職をゆつる慶長五年の九月東
西の戰興ると聞て大峰修煉の道場より相從ふ
僧徒に物具させて關个原の御陳に馳參る
神祖の御感斜ならす此年の冬興山靑嚴住持職
の事相遺あるへからさる由御書を賜はる同六
年の五月沙門の身多くの所領あらん事然るへ


からさるよし仰せありて《割書:木食上人の遺領は興|山寺領千石靑巖寺領》
《割書:三千石行人方行事領二千|石都合六千石の地なり》靑巖寺領三千石の地
を三分せられ《割書:興山寺領は|もとの如し》千石を以て一山伽藍
修理料として興山に附られ千石を以て學侶撿
校に附られ千石を以て碩學の僧配分料とせら
れ勢譽を以て興山寺の住持とし撿校を以て靑
嚴寺の住持となさる是よりして學侶行人の兩
派わかれたり《割書:此事本願寺を二つに分けられしに|相同しき神慮たるのよし世に申》
《割書:傳わる|所なり》其後 神祖駿河に御をうつされし時勢
譽を召れて今より後は常に御前に伺候すへし
とて其寺地を下されしかは文珠院を駿府に建
立して移り住し興山寺を以て其弟子應昌に讓

る《割書:慶長十三年の|事也といふ》同十七年に入寂す六十六歳《割書:神|祖》
《割書:此の僧を三能の僧と仰せられしは博學武勇醫術|之三つ也といふ若き時弓矢打物とりては山中》
《割書:に■【雙の異体字】ひなく織田信長と戰ひし時に其軍將松山|と組て首をとる老衰の後身煩はしくして一溪》
《割書:道三に醫術を學ひて其道を得たりき其老たる|をあはれませたまひて乘物に乘なから御玄關》
《割書:に至る事を免され御前にても蒲團に坐せしめ|られしによりて其頃に文珠院蒲團と申せしは》
《割書:是な|り》
  文珠院を江戸に移す事
興山第三世應昌は勢譽附法の第子として其師
の讓りを得て興山寺の住持職となされ常に駿
府に伺公し五年每に登山して山の事を沙汰す
慶長十九年の冬大坂御陳に供奉す十二月五日
應昌をめされて南都内山吉野大峰熊野北山等


の山卧土民等大坂に組せし者とも退治すへき
由の仰せを蒙り爰かしこに馳向ひて一揆等を
降伏し明年四月御暇を賜ふて登山し山の僧徒
に物具させ大坂の御陳に馳參る 神祖かくれ
させ給ひし後江戶淺草にして寺地を賜はり駿
府にありし文珠院の坊舎を引移し《割書:其後北丸の|御座敷を下》
《割書:され文殊院修造|の事有しと也》常に御前に伺候し五年に一た
ひ登山し山の事を沙汰する事もとのことし
  東照宮高野山に御鎭座の事
神祖御在世の時文珠院に命せられて高野山は
萬代不易の靈場也我千秋の後には彼山に跡を
垂はやと仰ありし御事を以て 神宮造立の事

を朢申しけれは尤以て神妙の事なりと仰あり
て御ゆるしを蒙りしかは《割書:德祖 猷祖御父子の|仰せありしといふ》
やかて登山し自らの力を以て興山寺の山上に
神宮拜殿寶庫鐘樓等を造り出して是よりして
毎月十七日には六十口の僧を供養して法事を
なし毎日に御本地藥師供養并に護摩の法を修
する事闕如なし是則寛永四年の事也
  學侶行人爭論の始の事
正保元年の春應昌并に行人の僧徒等 東照宮
神前におひて灌頂曼荼羅供等の大法會を修し
て神威を永代に耀さん事を以て朢請ふ其年九
月應昌をめされ其請ふ所をゆるさる《割書:猷祖こと|に御感あ》


《割書:りしと|いふ》又御使を登山せしめられ一山の大衆に
其由を仰下さる《割書:御使は五味|金右衞門也》學侶僧徒あへて師
の旨に從はすして事終に行はれす同二年の春
學侶行人等の僧爭に及ふ《割書:是より先寛永十六年|興山寺庭儀灌頂の事》
《割書:に付て學侶の僧寶性院異論の事ありき終に此|時に至りて學侶行人とうの爭論起れるなり》
此年五月應昌入寂す八月又御使を以て山中を
鎭められ《割書:此度之御使は小堀遠江守|伏見より發向すといふ》學侶の僧寶
性院無量壽院并に應昌か弟子の僧立詮等同し
く江戸におひて蟄居せしめられ《割書:世の人逼塞と|申す事なり》
十一月かさねて御使登山して學侶行人兩派の
事を糺問せらる《割書:此度の御使は安藤右京進曾我|丹波守五味金右衞門林春齋等》
《割書:也此御使還りて學侶は公家のことく行人は武|家のことく聖方は町人の如きと申すを御感あ》

《割書:りしと|いふ》慶安二年九月御使また登山して《割書:此度の|御使は 》
《割書:松平出雲守久世大和守兼松又| 四郎駒井右京五味備前守等也》高野山御制條を
下さる又其寺領の御朱印を改下さる應昌の弟
子の立詮を召出されて其師席を繼て興山寺の
住持職をなされ 東照宮御神領百石の地を以
て興山寺に新に附られ《割書:是則御神領の|はしめなり》又興山寺
領千石の內四百二十石を割て行人の上首六人
の役料とせられ《割書:行人方組頭六人と|いふ事のはしめ也》自今以後は
學侶の僧三人行人の上首二人つゝ輪番交替而
江戸に伺候すへき由を仰出さる學侶行人の爭
論凡六年にして事決す《割書:此時御條目に行人の|庭儀灌頂大曼荼羅供等》
《割書:の執行の事を禁せらるるの一條あり是により|て學侶は大きに其志を得る事を悦ひ行人は大》


《割書:きに其志を失ふ事をいきとほりて終に其爭論|やむ事なかりしといふ惜むへきの事なりきま》
《割書:た御靈屋領二百石の地を聖方の僧|大德院に御寄附も此時の事なり》
  學侶行人第二度爭論の事
明曆二年十一月高野山鎭守神壇一宮遷宮の儀
あり其神宮の鑰にて學侶の僧訴狀を捧く是に
よりて行人の僧を召決せらる萬治二年八月に
至て學侶の四人《割書:實性院無量壽院|大衆院高祖院》行人の僧四人
《割書:文珠院則立詮なり見樹院則雲|堂なり蓮蕐言院實瓶院等也》追放せらる慶安
年中御使度度登山の後いくほとなく爭論に及
ふを以て也同三年七月寺社奉行より御條目九
个條を下すつゐに 神宮の鑰をは天野神主に
附らる神鑰の論とも四年にして決す《割書:此爭論は |嚴祖の御治》

《割書:世の始也此度の事は灌頂論の事すてに學侶の
志を得しに依て其利に乘して行人の僧徒を滅》
《割書:すへきか爲に事を神鑰に假りて|また爭論を聞きしといふなり》寛文三年七月
大赦によりて學侶行人の僧等召還さる此年八
月立詮入寂を
  學侶行人第三度爭論の事
寛文三年十一月立詮か弟子の僧雲堂を召出さ
れて興山寺住持職になさる十二月學侶行人等
の制條を改定められ同四年五月聖方の制條を
下さる行人の僧等供養供法等異同の愁訴なり
《割書:今度の條目を出されて慶安の條|目をめし返されしによりて也》同六年八月雲
堂を丹羽左京大夫に召預られ奥州二本松に謫
居す是行人の僧制條に従はるるものと同去の


事然るへからさる由を以てなり
  學侶行人第四度爭論《割書:并》興山寺住持職興山
  上人法孫斷絕之事
延寶三年十月雲堂謫居の事御免ありて同四年
十月十八日雲堂并に學侶行人の僧等を評定所
に召され學侶行人の僧等自今以後は慶安の制
條の旨相守るへき由仰下され雲堂を以て興山
寺の住持職に還補せらる《割書:これより下は 憲祖|の御時の事也此時寛》
《割書:文六年學侶行人へ下されし三十六个條并に聖|方への制條ことことく皆めし返されて自今以》
《割書:後は 猷祖の御時の御條目|を相守へきよしの仰せなり》元祿二年二月學侶
の僧訴申すむねありて行人の僧等召問るる事
あり同四年四月學侶行人の僧等を評定所にめ
僧う論 等りりこの 召す事 環べる

され二十一个條の法制を以て學侶訴論の事を
決せられ雲堂事は隱居あるへきよしを仰られ
高野の僧來迎院某を召下されて興山寺住持職
に補せられ興山上人より此方師資相承御代の
法脉此時に至て斷絶す《割書:此度興山寺の住持職の|事行人の組頭の僧等誓》
《割書:詞を捧て興山住持の僧をゐらひおのおの入札|を進すへきよしにて來迎院を住持となされき》
《割書:此時の誓詞の前書等高野山にて用ゆる所の文|言なりいかにしてこれらの事はしろしめされ》
《割書:しにやと一山の行人等あやし|みおもひし事なりといふ》
  行人の僧徒流刑《割書:并》高野山 東照宮神法樂
  御法事の儀闕如の事
元祿四年の夏來迎院某興山寺住持職になされ
其後追箇條と稱せられて先に下されし二十一


个條の外に仰出さるる事ともあり是に於て行
人の僧徒愁訴の旨出來たり同五年七月つゐに
來迎院を始として行人の僧六百八十人餘遠流
に處せられ興山の事在山行人の上首《割書:組頭六人|の内也》
輪番交替して執務させらるされは 東照宮毎
月毎日の神法樂天下御祈禱の法事供養等の儀
本導師といふものもなくわつかに其舊義【右に「一作人數」と追記有】の存
する事すてに二十四年に及へり【「事」より下、右に「にて毎月十七日御祈祷あるなり」と追記有】


高野山事略《割書:畢》

骨董録《割書:大尾》

殊號事略後編
  朝鮮聘使後議之事
本朝古の時隋唐の代代に往來を通せられし事
は我國の子弟の才俊なる者をして彼の國學に
就てものまなはせ《割書:是を大唐留|學生と云》其餘は經籍藥物
等の求のために候ひき唐の世亂れし後は遣唐
の使の事はやみて彼國より來れる商舶の利の
みを通せられ求法の僧の■【便の異体字】船に加りて彼國に
往事は候ひき《割書:入宋沙門なとゝ申せしは此頃の|事なり其後元の代となりても此》
《割書:事ありきすへて以上の事ともを詳にし|るすへきには文長けれは大概を記す》其後京
都公方の代に及ひ明の天子に使をまいらせ朝
鮮と好を結はれし事とも皆皆我國に乏しき物

とも求め得らるへきためと見へたり《割書:甚しくし|ては慈照》
《割書:院殿の時期の天子に奏して銅錢十萬貫を賜る|へき由を申されき是等の事は我國の恥辱と申》
《割書:すへ|し》
東照宮 御代をしろしめされし初に日本朝鮮
の和議を講せられし御事は以上の事ともの
御為にはあらす文祿の初に日本朝鮮の戰起り
て其禍相逮る事七年にして太閤秀吉薨逝の後
我國の軍は還る事を得たりき蜂蠆たにも毒有
と申す事の候へは朝鮮君臣の事はいふに及は
す明の天子も其怨を我國に報せられんには東
西生靈の禍やむ時有へからさる事を思召めた
らされしによりてなり朝鮮の君臣も明の天子


のために其厄難を援られて其封内をは安堵し
けれとも明の兵猶其國に留り鎭めて其將士相
驕り國人を凌轢せし事も我國の兵禍に大かた
かはる所もなかりしかはいかにもして國人を
蘇息せん事をおもひしに
東照宮 御代をしろしめされて前代の非を改
られし事ともを傳聞又朝鮮の男女吾邦の兵の
ためにとらはれしものとも還し遣はされし所
前後三千人におよひけれはやかて兩國の和事
成て是より此かた彼國東西の民兵革の事を相
忘れしこと既に百年には及ひたり我國再造の
恩に於ては彼國の君臣長く相忘るへからさる

所なり慶長元和の間祖宗創業の 御時に當り
て國家の 御政事務て簡易を要とせられけれ
は彼國の信使來れる時に其聘禮を講し明めら
るゝにも及はす然るに彼信使はもとより武事
に於ては其國の敵しかたき事を恥ぬれはいか
にもして文事を以て吾國に長たらむ事を爭ひ
しかとも彼使を迎られし事はもとより兩國和
好の事によりけれは其不恭の事をも咎めらる
るに及はす逐に主賓應接の事例の如くに成し
事とも有り《割書:元和の時に國書并に執政の書の事|を論し申せし事は是其文事を以て》
《割書:爭ふの一つなり或は客館に入る時に輿に乘な|から門に入或は信使自ら其國書を捧て進する》
《割書:に及はすすへて正德の時に改定められし事と|も皆皆其不恭の事ともなり然るに我國の人彼》


《割書:使を勅使と稱し甚しくしては國書の中に大明|の事を天朝と記されし類は當時文事を承れる》
《割書:人人の不學誤とも申すへき歟彼使を勅使と|しるせし事は金地院の日記にも見へしなり》
前代の御時朝鮮修聘の事あるへきによりて古
の聘禮はいふに及はす彼國にして日本國王の
使を應接の事例迄をも講し明らめられて朝鮮
信使禮待の事例を改定められまつ信使客館に
入る時門外に於て輿を下り我國の使客館に至
る時階下に迎へ送るへき禮節を以て對馬守義
方に仰下さる義方其事を以て告諭しけるに信
使其禮を爭ひて事決せす大坂に至る日に及ひ
て客館に入る禮におゐて我國の約束に從へり
吾邦の使を階下に迎送の事に於ては相爭ふ事

【右頁】
日をかさねて後對馬守客館使岡部美濃守長泰
館伴兩長老と共に信使と對議するに其日申時
の初より夜半に過れとも事決せす對馬守か家
人《割書:平田直右衛門|眞賢と申す》進て申けるは我島主祖先以來
隣好の事を掌る事既に百餘年今義方か時に當
て諸君の爲に誤られて兩國の和を失ふへきは
吾國の 御爲のみにあらす朝鮮の御ためにも
然るへからす所詮諸君みつから階を下りて官
使を迎送せらるへき事かなふましくは某等諸
君をたすけて階を降り升【のぼ】りて其禮を終ふへし
といひしに其詞屈して副使病してこゝにあら
す彼と相議して答申すへしとて其夜もすきぬ
【左頁】
對馬守か家人等密に相謀りて信使等階を降ら
さらんには我我とつて引おろすへし相従ふ軍
官共信使をたすけんとするものをは一一にか
らめとれとて其組手共を定めし事とも漏聞え
しにや此事も又つゐに我國の約束には隨ひた
り《割書:其後彼國の學士此事を論し申すは改定めら|れし所盡く禮制に相かなひし事談論するに》  
《割書:も及はすたゝ國命をうけし日に聘事例のこと|くに行へしと有しに其例に變すへき事國命に》
《割書:たかふか故なり|と申せしとなり》都下に至るにおよひて改定めら 
るゝ所の禮制を以て對馬守に下されて信使等
に示し諭す《割書:此時信使等驚き顧て明主なる哉と|歎し申てさらはおのれ等も公服を》
《割書:以て見へ奉る事然るへからす朝服をそなふへ|しとて金冠玉佩等の服をそなふ此儀は此度を》
《割書:以てはし|めとす》信使進見の儀盡く改定られし禮のこ




































【右頁】
とし賜饗の日に及ひて三家御相伴の事を以て
對馬守に申す旨有て客位に就いて後《割書:すなはち|殿上の間》某
出むかひしに又其事を以て申す事ともありて
問對時を移せとも事決せす最後に某いかにも
かなふましきよしを申切し事候ひしに其詞屈
して此日も亦改定られし禮の如くに事訖れり
辭見の日も又改定られし所の如くにして禮畢
りぬ日を隔て後に國書を改め賜はるべき由の
事起りたりき是よりさき《割書:某|》存する所候ひしか
は對馬守か問ふ事の如くにして朝鮮の國諱を
問はせ候にいむ事なくして言(もう)さむにいかて諱
とは申すへきとて答す賜饗の明日《割書:某|》客館に至
【左頁】
りし時に正使我國におゐて諱の法を尋問ふこ
と候ひき此時《割書:某|》彼宿謀を覺悟し候ひしかは其
心得して答候ひしに案の如くに國書を賜りし
に及ひて其國王七代の祖の諱を犯され候由を
以て對馬守家人して《割書:某|》か許に申送り候ひき《割書:某|》
其使に答て彼國の書すてに我國諱を犯された
りもし必らす我國の書を改らるへき事を請申
されんにはまつ其國の書を改らるへきかと申
す事によりてもし請ふ所かなふへからすんは
其國に歸らん事もかなふへからすと申す大か
た其氣色各死を以て相誓ひぬと見へしなとゝ
申す事にて其事から以の外には申沙汰し候ひ







  

【右頁】
き《割書:これらの事とも前に申せし文事を以て彼國|の長たらむ事を爭ひ候事ともにて候なり》
此事遂に 御聴に達して仰下さるゝ御旨あり
て彼此の國書相改りて信使等其國にかへる事
を得たりき《割書:此時に信使等其國に到りしとひと|しく罪をかふむりし由聞へ候ひし》
《割書:事此後使來らん時の|謀のためと見へたり》事訖りて後《割書:某|》議を上りし
には日本朝鮮隣好を修められし御事は兩國の
和睦を講せらるへき御ために候を只今迄の如 
くにてはつゐには兩國相爭ふ事の媒と申すへ
く候其時にあたりて上に 英王の剛斷と申す
御事もなく下に國家の大體古今の典故なと申
す事をも存知候ものもなく候はんには必らす
我國の恥辱を取らるへき御事に候況や彼國一
【左頁】 
行の使を迎られんために五畿七道の人民を相 
累され候事國家の長策とは申すへからすむか
し後漢の光武帝玉門關を閉て西域を謝絶せら
れしを威徳の御事と萬代の今に申傳て候ひし
御事はしろしめされし所にて候へは此時を以
て彼國を謝絶せられ候て可然候事に候但し其
謝絶の 御詞には禮尚往来といふ事は我往て
彼來らさるも禮にあらす彼來りて我往さるも
禮にあらす《割書:此語は禮記の曲|禮に見へたり》朝鮮の我における
祖宗より以來彼國の使は來れとも吾國の使往
しことなしたとひ彼國をして我報禮を朢む事
あらすとも我いかてか彼國に報ゆるに共に非




 

禮に相失するに至るへきや彼國もし前王の好
を忘れすして辱く我國を存問せらるへくんは
自今以後彼使の來る我國の竟上に至り止まれ
我使も亦竟上に就て其使を迎接して禮に報ゆ
へし然則は彼も來り我も往て往來の禮に於て
ふたつなから相失する所なかるへし彼國もし
此事を欲せさらんには請ふ今よりして我に辱
き事なかるへし此由を以て彼國に告知らすへ
きよし對馬守に仰下さるは彼邦必らす我にし
たかはすといふ事あるへからす若しからは彼
國の使對馬國に到り止りて對馬守其禮信の物
を轉送し吾邦よりは御使を對馬國に遺はされ


《割書:此 御使は 高家貳人に御使|番衆を差副らるへく候歟》報禮の物を彼使に
附還され候はんには其禮は簡易にして其事も
永久に行はるへき御事に候若彼國の我に從ふ
事なくして信使をは進すましき由を申す事も
候はんには吾國より其好を絕れしと申候事に
もあらすしておのつから彼國を謝絕せらるへ
き事是又可然御事の由を以て申候ひしに幾程
なくして 御他界の御事につきて其事も果し
て行はれす候ひき
 前 御代の御時《割書:某》今より後は朝鮮の使を我
 國中に迎らるへからすと申候ひし事は其謂
 ある事ともにて候昔慶雲院の公方《割書:義|勝》代の初

に朝鮮の使來候ひしに天下諸大名の財用つ
がすして京都にむかゑらるゝ事かなふへか
らす兵庫より還さろへきなと議せられし事
も候ひき天地の運も必らす盛衰の時候によ
りて國家の財も常に贍足た事はあらす候へ
はもし今より後萬代の御間に京都の代の事
の如くなる御事も出來候はんには我邦の弱
を外國に示されん事尤以て不可然御事に候
當時吾國富強の御時に當りて 御子孫萬代
迄の御事を深く遠くおほし召めたらされて
いつれの御代迄もたやすく事行はるへき所
を議定し置候を以て國家の長策と申すへき


御事にて是のみならす候子細等ある事に候
其故は朝鮮歴代の書共を見候に大方我國を
以て彼國に臣屬せし事のことくに記し置き
甚しくしては倭酋倭奴倭賊なとしるし候事
筆を絕(たち)候はす酋とは蠻夷魁帥之稱と註し候
て夷の長を賤しみ稱候辭にて奴と云ひ賊と
申す事はきはめて人を賤しみ稱し候詞に候
其國の書共にかくの如くに記し候事は昔三
韓の國國我邦に臣屈せし事とも本朝歴代の
國史に見へ候のみにあらす異朝に於ても魏
■【晋の異体字】宋齊梁陳隋の代代の史に相見へ候事とも
にて其後我國の兵禍に苦しみ候ひし事世と

してこれなき事もなく新羅文武王と申せし
は我國の兵を患られて自ら誓ひて死せし後
には龍と成て國を護り寇を防くへしとて東
海の水中に葬られし故其子神文王父を慕ひ
て高き臺を築て東を朢まれしに大龍海中に
あらはれ見へしとて今も我國の方の慶尚道
の海邊に大王巖なと申す所現在し候程の事
に候へは彼國の君臣の我國の事を恨愠り候
事誠に萬世の讎と思ひなし候故にて候然る
を又秀吉の御時彼國の兩京を陷れ先王の墳
墓をも押破り其禍七年に相つらなり百年の
今に及候得とも我國の方の地凡七百萬石許


の所は荒野の如くに成果壬辰の年に《割書:すなは|ち文祿》
《割書:元|年》我國の軍うち入候日を以て海上に戰艦を
泛て吾邦の兵調伏の法を行ひ候事年年に絶
す元より其兵弱くして我國に敵すへからさ
る事をは覺悟しいかにもして文事を以て其
恥をすゝくへしと思ひめくらし候ひしかは
此年頃思はるる外の事共に外國の侮をは取
候事も候ひき然るに此度に於ては彼國の者
共其志をうしなひ候事とも多く候へは此後
必しも一國の力を盡しても亦其志を得候は
ん所を相謀るへき事に候鄙しき辭にも勝て
は冑の緒を縮ると申ならはす事も候へは此

時に及ひて宜く其御沙汰有へき御事に候歟
たとひ彼國の者共の我國におゐて宿怨こと
ことくに解やらすとも
東照宮の彼國を再造せられし御恩に於ては
其國王大臣にありて相忘るへからさる事に
候へは我國におゐても唯隣國の御交を全く
せらるへき事國體に於ても可然御事に候と
存寄たる故にて候ひき然るに
前御代 御他界の後に至りて朝鮮の大學士
崔鳴告と申せし者の其大臣と相議し國王に
申て修し正し候攷事撮要と申其書を見候に
慶長以來彼國の使來りし事共みな〳〵其情


形を偵探【左に「ウカヽヒサグル」と有】して明の天子に奏聞せし由を記し
き《割書:我國の案内撿見の|使と申す事なり》それのみならす
東照宮の御事始奉りて
御代代の御事皆皆倭酋を以て稱し候ひき彼
國の人常に隣國の交は禮と信とを以てする
由を申又朝鮮は古より禮義の邦也なとゝ申
そ事に候得とも我國にひかひて隣好を繼て
聘禮を脩め候と申て其國にては倭情を偵探
するの使とし吾邦にむかひては國王を以て
尊ひ稱し其國にては賤しめ稱して倭酋と申
候事何の禮とし信とする所候はんやなにの
禮義の邦とすへき所候はんや誠に古に申傳

へ候ひし■【豸 扁に歳・わい】貃東夷之國俗とは申すへき事に
候《割書:■【豸 扁に歳・わい】貃は東方の夷地則|今の朝鮮の地にあり》
前御代 御在世の日《割書:某》いまた此書を得す候
ひしかは言上の趣もいまた其詞激切ならす
候ひし事見聞の博からさるの故に候へはみ
つから羞自ら憾とも猶あまりある事ともに

正德乙未春二月二十六日脫藁
            源君美識

殊號事略後編《割書:終》【朱印】

白紙

裏表紙

中山伝信録

中山伝信録

[琉球人行列記]

中山伝信録

南島志

南嶋志 呂

南島志

南嶋志總序
琉球國。古未_レ有_レ聞焉。始見_レ於_二隋書_一。曰。大業元年。海師何
蠻等。毎_二春秋二時。天清風靜_一。東望依希似_レ有_二烟霧之氣_一。
亦不_レ知_二幾千里_一。三年。煬帝令_三羽騎尉朱寛入_レ海。求_二-訪異
俗_一。何蠻言_レ之。遂與_レ蠻俱徃。因到_二流求國_一。言不_二相通_一。掠_二 一
人_一而還。明年。復令_三寛慰_二-撫之_一。流求不_レ從。寛取_二其布甲_一而
還。時倭國使來。見_レ之曰。此夷邪久國人所_レ用也。 天朝
史書。不_レ紀_二其事_一。然據_二彼所_一_レ書。則知_二其國既通_一_レ于_レ斯矣。考_二
諸國史_一。曰。 推古天皇二十四年。掖玖人來。南嶋朝獻。

葢自_レ此始。是歳實隋大業十二年也。曰邪久。曰掖玖。曰
夜句。曰益久。曰益救。東方古音。皆通。此云_二掖玖_一。隋書以
爲_二邪久_一。卽是流求也。又曰。 天武天皇二十一年秋。所
_レ遣多禰嶋使人等。貢_二多禰國圖_一。其國去_レ京五千餘里。居_二
筑紫南海中_一。所_レ謂多禰國。亦是流求也。當_二是之時_一。南海
諸嶋。地名未_レ詳。故因_二其路所_一_レ由。而名_二多禰嶋_一。卽路之所
_レ由。而後隸_二大隅國_一。一作_二多褹_一。唐書亦作_二多尼_一。多禰國卽
南海諸嶋。於_レ後總而稱_二之南嶋_一者是已。 元明天皇和
銅六年。南海諸嶋。咸皆内附。至_二 孝謙天皇天平勝寳
後_一。史闕不_レ詳。初 文武天皇大寳中。併_三掖玖嶋於_二多褹
嶋_一。置_二能満益救二郡_一。以爲_二太宰府所_レ管三嶋之一_一。及_二
仁明天皇天長初_一。停_二多褹嶋_一。以隸_二大隅國_一。於_レ是乎南嶋
貢獻。葢既絕矣。而此閒之俗亦稱_レ之。以爲_二流求_一。且謂其
俗啖_レ 人之國。殊不_レ知此昔時所_レ謂南嶋也。至_三後又名曰_二
鬼嶋_一。則遂併_二流求之名_一而失_レ之矣。既而其國稱_二藩中國_一。
且通_三市舶於_二我西鄙_一。流求之名。復聞_レ於_レ此。以迨_レ于_レ今。按
流求古南倭也。南倭北倭。並見_二山海經_一。而南倭復見_二海
外異記_一。二書葢皆後人所_レ作。雖_レ然。其書並出_二魏晉之際_一。

如_二其所_一_レ傳。亦既尚矣。美嘗按東方輿地。經短緯長。限_レ之
以_レ海。莫_レ有_下海内可_三以容_二南北倭_一者_上。若_二彼流求蝦夷之地_一。
接_二我南北_一。相去不_レ逺。葢此其所_レ謂者也。且如_二後漢倭國
列傳所_一_レ載。光武中元二年。倭奴國奉_レ貢朝賀。以爲_二倭國
之極南界_一也。魏晉已前。 天朝未_レ有_下通_二 中國_一者_上。所_レ謂我
極南界。卽是古南倭也。其傳併_二載夷洲澶洲_一。而鮮卑傳
亦有_下檀石槐東撃_二倭人國_一。得_二千餘家_一之事_上焉。呉志又曰。
大帝黃龍二年。遣_二將軍衞温諸葛直等_一。率_二 甲士萬人_一浮
_レ海。求_二夷洲及澶洲_一。澶洲所_レ在絕逺。卒不_レ得_レ至。但得_二夷洲
數十人_一還。是時亦莫_レ有_下異邦之人。來擾_二我邉境_一者_上。據_二西
洋所_レ刻萬國全圖_一。本邦及流求蝦夷。並在_二海中洲嶋之
上_一。或絕或連。以爲_二東方一帶之地_一。其他可_二以爲_一レ國者。如_二
彈丸黒子_一。亦未_レ有_レ之也。然則鮮卑所_レ撃者古北倭。後所
_レ謂蝦夷。而呉人所_レ至者。亦是古南倭。後所_レ謂流求而已。
若_二彼二國_一。方俗雖_レ殊。然方言頗與_二此俗_一同。如_二其地名_一與_二
此閒_一。不_レ異者徃徃在焉。且夫後漢魏晉以來。歷世史書。
並傳_二我事_一。而有_二與_レ我不_レ合者_一。葢與_二彼南北二倭_一相混而
已矣。世之人。槩以爲_二其懸聞之訛_一。非_二通論_一也。初隋人名

曰_二流求_一。其所_レ由未_レ詳。曰自_二義安_一浮_レ海。到_二高蕐嶼_一。又東行
二日。到_二黿鼊嶼_一。又一日。便到_二流求_一。義安卽今潮洲。高蕐
嶼。後俗謂_二之東番_一。卽今台灣。黿鼊嶼。卽今其國所_レ謂惠
平也嶋。明人以謂_二𤍠壁山_一。又謂_二葉壁山_一。古今方音之轉
耳。據_レ此而觀_レ之。流求本是其國所_レ稱。而隋人因_レ之。亦不
_レ可_レ知也。國人之說曰。永萬中。源爲朝浮_レ海。順_レ流求而得
_レ之。因名_二流求_一。明洪武中。勅改_二今字_一。蓋不_レ然也。隋世既有_二
流求之名_一。而元史亦作_二瑠求_一。且據_二野史_一。爲朝始至_二鬼嶋_一。
其地生_二萑葦之大者_一。因名曰_二葦嶋_一。明人又以謂於_レ古爲_二
流虬_一。地界_二萬濤_一。蜿蜒若_三虬浮_二水中_一。因名。後轉謂_二之琉球_一。
《割書:出_二世|法錄_一。》葢亦不_レ然也。其國未_二之前聞_一也。隋人始至以爲_二琉
求_一。且謂國無_二文字_一。豈有_レ取_下虬浮_二水中_一之義_上也哉。不_三强求_二
其說_一可也。其國風俗。隋書所_レ載最詳。後之說者。因所_レ述
焉。明嘉靖中。給事中陳侃與_二行人高澄_一。徃封_二其國_一。及_レ還
上_二使琉球錄二巻_一。言從前諸書。亦多_二傳訛_一。乞下_二所_レ錄史
舘_一。詔從_レ之。後人遂以_二陳氏之書_一。爲_レ得_二其實_一也。前者。寳永
正德之際。中山來聘。美每蒙_二 敎示_一。得_下見_二其人_一。釆_中覽異
言_上。因知_下陳氏所_レ駁。未_二必盡得_一レ之。而從前諸書。未_中必盡失_上

_レ之也。葢自_レ隋至_レ明。歷_二 十世_一之閒。其國沿革。復有_レ不_レ同。而
君長之號。國地山川之名。與_二其風俗語言_一。古今殊異。豈
能得_レ無_レ訛_三謬於_二其閒_一哉。雖_レ然。美嘗據_二國史_一。考_三之於_二隋及
歷代之書_一。證以_二其國人之言_一。古之遺風餘俗。猶存_レ于_レ今
者。亦不_レ少矣。乃細_二繹舊聞_一。以作_二南嶋志_一。庻幾後之觀_レ風
詢_レ俗。以有_レ所考焉。享保 己亥。十二月戊午。源君美序。

南嶋志目錄
 上巻
  地理第一
  世系第二
 下卷
  官職第三
  宮室第四
  冠服第五
  禮刑第六

  文藝第七
  風俗第八
  食貨第九
  物産第十

南島志上卷
                 東都 新井君美在中 著
  地理第一
 琉球在_二西南海中_一。依_二洲島_一爲_レ國。建國以來。不_レ知_二其代
 數_一云。葢古之時。厥民各分散。洲島自有_二君長_一。然莫_二能
 相壹_一。迨_レ于_二 中世_一。始合而爲_レ 一。未_レ幾其地亦分。爲_二 中山
 山南山北之國_一。既而中山遂併_二南北_一。以迄_レ于_レ今。三山
 分_レ域。亦皆未_レ詳。而今按_二其地圖_一。挍_二其計書_一。曩者鼎立
 之勢。略可_二得而見_一矣。因作_二 地理志_一。

沖繩島。○卽中山國也。其地南北長。東西狹。而周廻凢
七十四里。《割書:是據_二此間里數_一而言。凢六尺爲_レ間。六|十間爲_レ町。三十六町爲_レ里。後皆倣_レ此。》國頭居
_レ北爲_レ首。島尻居_レ南爲_レ尾。王府在_二西南_一。曰_二首里_一。葢古翠麗
山地。今作_二首里_一。方音之轉也。《割書:翠麗山。見_二|星槎勝覽_一。》城方一里。東西
距_レ海。各二里許。至_レ于_二北岸_一 二十九里。去_二其南岸_一 五里。凢
諸島地。山谿﨑嶇。罕_レ有_二寛曠之野_一。其人濵_二山海_一而居。各
自有_二分界_一。謂_二之間切_一。間切者。猶_レ言_二郡縣_一也。王府領_二間切
二十七_一。曰_二國頭_一。曰_二名護_一。曰_二羽地_一。曰_二今歸仁_一。《割書:舊作_二伊麻|竒時利_一。》曰_二
金武_一。《割書:舊作_二鬼|具足_一。》曰_二越來_一。《割書:舊作_二|五欲_一。》曰_二讀谷山_一。曰_二具志河_一。曰_二勝連_一。
《割書:舊作_二賀|通連_一。》曰_二北谷_一。曰_二 中城_一。《割書:舊作_二 中|具足_一。》曰_二西原_一。曰_二浦添_一。《割書:舊作_二浦|傍_一。○已》
《割書:上在_二都|城東北_一。》曰_二眞和志_一。曰_二豊見城_一。曰_二兼城_一。曰_二喜屋武_一。曰_二摩文
仁_一。曰_二眞賀比_一。《割書:已上在_二|都城西_一。》曰_二南風原_一。曰_二島添大里_一。曰_二佐敷_一。曰_二
知念_一。曰_二玉城_一。《割書:舊作_二玉|具足_一。》曰_二具志頭_一。曰_二東風平_一。曰_二島尻大里_一。
《割書:舊作_二島尻_一。○已|上在_二都城南_一。》海港二所。其在_二東北_一。曰_二運天湊_一。湊者水
上人所_レ會。而此間海舶所_レ泊也。《割書:運天湊。舊作_二運見泊_一。在_二|今歸仁間切_一。湊者此閒》
《割書:古言曰_二水門_一也。港深一里二十七町。闊二町。大舩五|六十隻。可_二以栖泊_一。○去_レ此東北行。至_二與論島_一 二十里。》在_二
西南_一曰_二那覇港_一。厺_二都城_一里餘。此間及海外諸州舩所_二輻
湊_一也。《割書:那覇港。舊作_二那覇津_一。港深二十二町。闊一町二十|間。堪_レ泊_二大舩三十隻_一。去_二長﨑_一 三百里。去_二朝鮮_一 四百》

《割書:里。去_二塔加沙古東南海角_一。四百八|十里云。塔加沙古。卽今台灣也。》港口四邑。居民蕃盛。
置_二那覇港官四員_一分治焉。迎恩亭天使舘。亦在_レ于_レ此。迎_二-
接中國使人_一之所也。
計羅摩島。《割書:舊作_二計|羅婆島_一。》○明人稱謂_二鷄籠嶼_一。即此。《割書:鷄籠嶼。見_二|崑山鄭士》
《割書:若琉球國圖_一。按_二皇明實記所_一_レ載鷄籠淡|水。一名_二東番_一。非_レ謂_二此島_一也。其名偶同耳。》去_二那覇港_一。西行
七里。而至_レ于_レ此。其周廻三里。座間味島赤島隸焉。旁近

【枠外上部】二里。一作_二 一里_一。

小島凢八。土壤狹少。皆非_下有_二民居_一者_上。《割書:座間味島。周廻二|里二十四町。赤島》
《割書:周廻一里十八町。國人云。|中國人稱_二馬齒山_一者。即此。》去_レ此西徃。先島。《割書:南海諸島。總|稱曰_二先島_一。》
海中砂礁。其國稱曰_二 八重干瀬_一者。南北五里。東西里半。
《割書:使琉球錄所_レ謂古米山。水急|礁多。舟至_レ此而敗者。即此。》或曰_二礁東_一。或曰_二礁西_一。兩路
均是七十五里。而至_二宮古島。針孔之濵_一也。
戸無島。○島在_二那覇港西北二十六里_一。周廻一里六町。
側近小島曰_二 天未奈_一。其地甚狹。無_二 人住者_一。
久米島。《割書:舊作_二 九|米島_一。》○在_二那覇港。及計羅摩島西_一。周廻六里
二十町。所_レ屬間切二。曰_二 中城_一。曰_二具志河_一。港二。其南曰_二兼

【枠外上部】一町一作_二 二町_一。

城湊_一。《割書:港深一町。濶五十間。|可_レ泊_二大舩四五隻_一。》其東曰_二町屋入江_一。《割書:其港淺狹。|舩隻難_レ泊。》
並皆去_二那覇港_一。四十八里。國史所_レ謂球美。《割書:見_二續日|本書紀_一。》明人
以稱_二古米_一。即此。《割書:見_二使琉球錄。|及廣輿圖等_一。》閩人三十六姓之後所_レ居

也。直北五里。有_二鳥島者_一隸焉。《割書:即謂_二久米|鳥島_一者。》

【枠外上部】二里。一作_二 三里_一。

粟島。○島在_二戸無島北_一。其周廻二里十二町。去_二那覇港_一
西北三十里。
伊惠島。《割書:舊作_二|泳島_一。》○卽明人所_レ稱移山嶴。《割書:見_二使琉球錄。及|廣輿圖。閩書等_一。》五
島相接。而至_二今歸仁西北港口_一《割書:港名曰_二爾|與波入江_一。》島去_二港口_一。約
可_二 二里_一。其周廻四里七町。
惠平屋島。《割書:舊作_二惠|平也島_一。》○隋書作_二黿鼊嶼_一。明人以謂_二熱壁山_一。
或謂_二葉壁山_一。《割書:熱壁。見_二使琉球錄。及廣輿圖_一。葉壁。見_二閩|書_一。按廣輿圖。分_二-載黿鼊嶼。熱壁山_一者訛。》周
廻二十六町。在_二今歸仁間切。正北十里_一。其南小島。名曰_二
乃保_一。卽隸_レ于_レ此。《割書:乃保島。周廻二十三|町。去_二惠平屋島_一 五町。》
伊是那島。○島在_二惠平屋島南里餘_一。周廻二里十八町。
所_レ隸二島。其南曰_二具志河_一。其北曰_二柳葉_一。並皆狹小。非_下有_二
居人_一者_上。
鳥島。○島在_二惠平屋島東北五十餘里_一。周廻二十四町。
厥土産_二硫黄_一。明人所_レ謂硫黃山。卽此。《割書:見_二使琉球錄。及|廣輿圖。閩書等_一。》
  以上九島。古中山之地。
與論島。《割書:舊作_二輿|論島_一。》○明人稱_二繇奴島_一。在_二沖繩島東北_一。而其
北接_二永良部島_一。《割書:繇奴。見_二|閩書_一。》周廻三里五町。所_レ屬村二。曰_二武

幾也_一。曰_二阿賀佐_一。其港曰_二阿賀佐泊_一。泊卽謂_下可_二泊舩_一之所_上
也。去_レ自_二運天湊_一。東北行二十里。而至_レ于_レ此。《割書:港口淺狹。大|舩未_レ易_二出入_一。》
永良部島。《割書:舊作_二惠|羅武島_一。》○在_二與論島北_一。而其北接_二德島_一。明人
稱_二野剌普_一。卽此。《割書:見_二閩書_一。南島名_二永良部_一者凢三。隸_二大隅|國_一。謂_二之口永良部_一。隸_二 八重山_一。謂_二之奥永》
《割書:良部_一。名義|未_レ詳云。》周廻十里十八町。所_レ屬間切三。曰_二木比留_一。曰_二
大城_一。曰_二德時_一。其港曰_二大和泊_一。去_レ自_二與論島_一。東北行十三
里。而至_レ于_レ此。《割書:港深二町二十間。濶二町|四十間。大舩未_レ易_二出入_一。》
德島。《割書:舊作_二度|久島_一。》○國史所_レ謂度感島。《割書:見_二續日|本書紀_一。》在_二永良部島
北_一。而其東北接_二大島_一。周廻十七里三町。所_レ屬間切三。曰
_レ東。曰_二西目_一。曰_二面繩_一。港三。其東曰_二秋德港_一。《割書:港深一町。濶■|町。可_レ泊_二大舩三》
《割書:隻_一。|》去_レ自_二永良部島_一。東北行十八里。而至_レ于_レ此。其西曰_二大
和爾也泊_一。其北曰_二井之川_一。西北二港。並皆淺狹。大舩未
_レ易_二出入_一。
大島。○島在_二德島東北十八里_一。琉球北界也。《割書:續文獻通|考所_レ謂琉》
《割書:球北山。|是也。》國史所_レ謂阿麻彌島。或作_二菴美_一。或作_二奄美_一。並皆
謂_レ此。阿麻彌者。上世神人名也。其東北有_レ山。乃神人所
_レ降。因名曰_二阿麻美嶽_一。島亦因得_二此名_一。地形稍大。後稱以
爲_二大島_一。其周廻五十九里十町。所_レ屬間切七。曰_二笠利_一。曰_二

奈瀬_一。曰_二古見_一。曰_二住用_一。曰_レ東。曰_レ西。曰_二燒内_一。港八。曰_二西古見
湊_一。曰_二燒内湊_一。曰_二大和馬塲湊_一。曰_二奈瀬湊_一。曰_二深井浦_一。曰_二世
徒多浦_一。曰_二瀬名浦_一。曰_二住用湊_一。《割書:西古見湊。港深五十間。濶|三十間。可_レ泊_二大舶五六隻_一。》
《割書:此去到_レ于_二德島_一。有_二兩路_一。其一。正南行十八里。可_三以抵_二井|之川_一。其一。西南行十八里。可_三以抵_二大和泊_一。燒内湊。在_二其》
《割書:東■里_一。港深三里。濶三十町。可_レ泊_二大船二百隻_一。其東七|里。卽大和馬塲湊。港深五町。濶三町。可_レ泊_二大船五六隻_一。》
《割書:又其東五里。卽奈瀬湊。港深十二町。濶五町。可_レ泊_二大船|十四五隻_一。又其東北■里。卽深井浦。港深三十町。濶四》
《割書:町。可_レ泊_二大船三十隻_一。其東南八里。卽世徒多浦。此嶴淺|狹。不_レ可_レ泊_レ船。其南四里。卽瀬名浦。亦不_レ可_レ泊_レ船。其西南》
《割書:四里半。卽住用湊。港深三町。濶二町。可_レ泊_二大船七|八隻_一。自_レ此南去。而轉_二西北_一。抵_二西古見湊_一。約十三里。》去_レ自_二
深井浦_一。西北行三十五里。至_レ于_二 七島_一。《割書:島之大小十餘。錯|在_二海中_一。總稱_二 七島_一。》
《割書:隸_二薩摩國_一。使琉球錄。及|閩書所_レ謂七島者。卽此。》其海潮常向_レ東而落。乃是元史
所_レ謂落漈。水趨下而不_レ囘者也。凡諸島相離中間。所_レ謂
落漈者。徃徃在焉。《割書:使琉球錄以爲落漈不_レ知_レ所_レ在。謂_下|逺去_二琉球_一。而非_二經過之處_一也_上者非。》又
去_レ此北行七十里。至_レ于_二大隅國_一。永良部島。俗謂_二之阿麻
彌洲之度_一。葢古遺言也。所_レ隸三島。曰_二加計奈_一。《割書:周廻十|五里。》曰_二
于計_一。《割書:周廻四|里九町。》曰_二與路_一。《割書:周廻三里|二十町。》並皆在_二大島之南_一。
鬼界島。○島在_二大島東南七里_一。《割書:自_二世徒多浦_一。東南行|七里。至_二鬼界島椀泊_一。》周
廻六里二十四町。所_レ屬間切五。曰_二志戸桶_一。曰_レ東。曰_二西目_一。
曰_レ椀。曰_二荒本_一。其港在_レ西。曰_二椀泊_一。乃是明人所_レ稱吉佳。《割書:見_二|閩》

《割書:書_一。|》琉球國東北極界也。《割書:國人云。小琉球|葢此。未_レ知_二是否_一。》
  以上五島。古山北之地。
宮古島。○島卽明人所_レ謂大平山也。《割書:見_二廣輿圖_一。按星槎|勝覽云。琉球有_二大》
《割書:竒山_一。島夷志云。大﨑山極高峻。夜半登_レ之。望_二|暘谷日出_一。紅光燭_レ 天。山頂爲_レ之俱明。或此。》在_二計羅摩
島西南七十五里_一。周廻十一里。所_レ屬間切四。曰_二於呂加_一。
曰_二 下地_一。曰_二平良_一。曰_二雁股_一。《割書:此島無_二可|_レ泊_レ船之所_一。》所_レ隸六島。曰_二以計米_一。
《割書:周廻一|里八町。》曰_二久礼末_一。《割書:周廻|一里。》曰_二永良部_一。《割書:卽是奧永良部島。|周廻四里二十町。》曰_二
下地_一。《割書:周廻|■里。》曰_二太良満_一。《割書:周廻|四里。》曰_二美徒奈_一。《割書:周廻|一里。》去_レ此西南行
五十二里。至_二 八重山_一。其海潮亦常向_レ東而落。乃所_レ謂落
漈者。《割書:去_二宮古島針孔濵_一。向_二西南_一行三十五里。至_二太|良満島_一。又去西至_二石垣島平窪﨑_一 十八里。》
八重山島。○石垣入表二島之地。總稱以爲_二 八重山_一。國
史稱_二信覺_一。《割書:見_二續日|本書紀_一。》星槎勝覽。稱_二重曼山_一。葢皆謂_二此石垣_一。
乃是信覺之轉耳。石垣島。周廻十六里十七町。所_レ屬間
切四。曰_二河平_一。曰_二宮良_一。曰_二大濵_一。曰_二石垣_一。其港二。在_二西北_一曰_二
河平湊_一。《割書:去_二宮古島針孔濵_一。五十八里半。港深六町|三十間。濶一町。大船二三十隻。可_二以収-泊_一。》在_レ南
曰_二御﨑泊_一。港口淺狹。不_レ可_レ泊_レ船。唯其西南要津耳。堂計
止美島。黒島。波照間島等隸焉。《割書:堂計止美島。在_二御﨑泊|西一里二十八町_一。周廻》
《割書:一里三十町。黒島。在_二堂計止美島西南二里二十町_一。周|廻亦二里二十町。其所_レ管二島。曰_二 上離島_一。周廻二十町。》

《割書:曰_二 下離島_一。周廻二十七町。並在_二黒島西南_一。波照間島。周|廻三里二十町。去_二黒島_一 十四里許。乃是琉球南界也。》
入表島。在_二石垣島之西南_一。《割書:石垣島有_レ山。曰_二於茂登嶽_一。此|島在_二彼山之南_一。故名曰_二伊利》
《割書:於茂登島_一。方言凢深奥之所。謂_二之伊-利_一。|伊利卽入也。表者。於茂登之語訛耳。》周廻十五里。所
_レ屬間切二。曰_二古見_一。曰_二入表_一。亦有_二小濵。鳩間。内離。外離等
島_一而隸焉。《割書:小濵在_二堂計止美西二里_一。其周廻三里。小濵|之北。有_二宇也末島_一。狹小而無_二 人住者_一。鳩間島。》
《割書:在_二入表西北_一。海上二里半。内外離島。在_二入|表西南海灣_一。三島亦皆狹小。非_下有_二民居_一者_上。》去_レ此以西。路
過_二落漈_一。而行四十八里。至_二與那國_一。其地周廻五里十町。
乃是琉球西界也。《割書:與那國。亦隸_二|入表島_一焉。》
  以上二嶋。古山南之地。
    世系第二
 琉球。古南島也。琉求之名。始見_二隋書_一。曰。王姓歡斯氏。
 不_レ知_二其由來有_レ國代數_一也。按_二諸國史。及中山世譜。世
 系等書_一。葢其國非_二自_レ古有_一_レ王。而其由來代數。不_レ可_二得
 而知_一也。未_下始有_中王_二其國_一。可_三以紀_二其由來代數_一者_上也。國
 在_二海中洲嶼之上_一。或絕或連。壤地不_レ接。諸島各有_二君
 長_一。而莫_二能相一_一。隋書以謂其國有_レ王。又有_二小王_一。乃據_三
 其君長所_レ統地。有_二小大_一而言也。《割書:隋書所_レ謂王及小王。|猶_レ言_三唐書曰_二邪古波》
 《割書:邪多尼王_一。小王乃|謂_二諸島酋帥_一也。》據_二國史_一。南島朝貢者。凢以_レ 十數。而

 授_二其位_一。賜_二其禄_一。各有_レ差。亦以_下其所_レ統大小。各有_二差等_一
 之故_上耳。隋書以_二歡斯_一爲_二王姓_一者非也。歡斯卽其君長
 之稱。後稱曰_二按司_一。曰_二王子_一。皆是古遺言也。自_レ有_レ王以
 來。代數歴年。可_二得而記_一者。以序_二其略_一云。
鴻荒之世。有_二 二神_一。而降_レ于_二炎海之洲_一。一男一女。因生_二 三
子_一。其一爲_二君長之始_一。其二爲_二女祝之始_一。其三爲_二民庻之
始_一。邃古闊逺。歴世綿邈。國無_二史書_一。厥詳莫_レ聞。《割書:慶長間。僧|袋中南遊。》
《割書:輯_二-錄異聞_一。其略如_レ此。中山世系圖序云。大荒之世。有_二 一|男一女_一。因生_二 三男二女_一。長男爲_二君王之始_一。號曰_二 天孫氏_一。》
《割書:中男爲_二按司之始_一。少男爲_二蒼生之始_一。長女爲_二女君之始_一。|少女爲_二内侍之始_一。天孫氏世世傳統。一萬八百餘年。其》
《割書:代數不_レ詳。二說皆出_レ於_二其國所_一レ傳。而本無_レ所_レ稽。雖_レ然袋|中所_レ聞。考_二諸國史及隋書_一。或庻幾焉。今姑從_レ此。君長乃》
《割書:按司也。女祝乃女君也。其書又述_二 上世之事_一。且記_二 二神|之名_一。其男曰_二之彌利幾遊_一。其女曰_二阿末三幾遊_一。他皆荒》
《割書:唐之言。不|_レ足_レ徴也。》及_二 推古天皇十五年_一。遣_二小野臣妹子_一購_二書
海外_一。因聘_レ于_レ隋。是歳煬帝大業三年。遣_二羽騎尉朱寛等_一。
入_レ海求_二-訪異俗_一。因到_二流求_一。言不_二相通_一。掠_二 一人_一而還。明年
復令_三寛慰_二-撫之_一。國人不_レ從。寛取_二其布甲_一而還。時我使者
至。見_レ之以爲此夷邪久國人所_レ用也。隋遣_二武賁郎將陳
稜。朝請大夫張鎭州_一。率_レ兵浮_レ海撃_レ之。虜_二其男女數十人_一。
載_二軍實_一而還。國遂與_レ隋絕。其後六年。而掖玖人來朝。《割書:掖|久。》

《割書:卽邪|久也。》是歳。春秋之閒。相繼而至者。凡三十人。皆未_レ及_レ還
而死。後十五年。掖玖人來朝。是歳。 欽明天皇三年也。
後四十六年。多禰島人來朝。是歳。 天武天皇六年也。
八年冬。遣_二倭馬飼造連上村主光欠等_一。使_二多禰島_一。十年
秋。連等率_二多禰國人_一。來_二-獻其地圖_一。《割書:多禰島。多禰國。義見_二|総序_一。日本書紀云。其》
《割書:國去_レ京五千餘里。居_二筑紫南海中_一。切髪草裳。粳稻|常豊。一藝兩收。土毛支子莞草。及種種海物等多。》十一
年。多禰。掖玖。阿麻彌人等朝貢。賜_レ禄各有_レ差。《割書:多禰。掖玖。|後隸_二大隅》
《割書:國_一。唐書以謂_二多尼。邪古_一。卽此。|阿麻彌。卽今大島。詳見_レ于_レ前。》後十三年。遣_二文忌寸博士
譯語諸田等_一。使_二多禰國_一。其後三年。文忌寸博士等八人。
率_レ兵以至_二南島_一慰_二-撫之_一。明年。多禰。掖久。菴美。度感人等。
《割書:菴美。卽阿麻彌。|度感。卽今德島。》隋_二博士等_一。來_二-獻方物_一。授_レ位賜_レ禄。各有_レ差。
是歳。 文武天皇三年也。後三年。薩摩多禰人等方_レ命。
南路隔絕。乃發_レ兵伐而平_レ之。遂挍_レ戸置_レ吏。是歳。大寳二
年也。其後五年。詔_二太宰府_一。授_三-位賜_四-禄於_二南島人_一。各有_レ差。
是年慶雲四年也。後六年。南島奄美。信覺。球美等五十
二人。隨_二大朝臣逺建治_一。來_二-獻方物_一。是歳。 元明天皇和
銅六年也。《割書:奄美。卽菴美。信覺。卽今八|重山。球美。卽今久米島。》後七年。授_二位南島_一。
凡二百三十二人。各有_レ差。是歳。 元正天皇養老四年

也。後七年。南島人百三十二人來朝。叙_レ位有_レ差。是歳。
聖武天皇神龜四年也。後七年。太宰大貮小野朝臣老
遣_二高階連牛養_一。植_二牌南島_一。以誌_二所在地名里數。及泊船
取水等處_一。是歳。天平七年也。後十九年。詔令_三太宰府重
修_二-建南島之牌_一。是歳。 孝謙天皇天平勝寳六年也。自
_レ是之後。史闕不_レ詳。《割書:按延喜式太宰府別貢。有_二南島方物_一。|葢養老天平閒。以_二南島_一隸_二太宰府_一。故》
《割書:史亦略不_二|盡舉_一而己。》後四百二十八年。而王舜天當_二其國_一。先_レ是保
元之亂。故將軍源朝臣義家孫廷尉爲義子爲朝竄_二伊
豆州_一。及_二平氏擅_一レ權。朝政日衰。常憤憤欲_レ復_二祖業_一。因浮_二海
上_一。略_二諸島之地_一。遂至_二南島_一。爲朝爲_レ 人魁岸絕力。援臂善
_レ射。南島人皆以爲_レ神。莫_二不_レ服者_一。乃狥_二其地_一而還。居未_レ幾。
官兵襲_二-攻之_一。竟自殺。有_三遺孤在_二南中_一。母大里按司妹。育
_レ于_二母氏_一。幼而岐嶷。有_二乃父之風_一。及_レ長。衆推爲_二浦添按司_一。
方_二是時_一。諸島兵起。戰鬪不_レ息。按司年二十二。乃率_二其衆_一。
一匡清_レ亂。舉國尊稱。以爲_レ王。舜天王是已。是歳文治三
年也。《割書:宋淳凞十四年也。事出_二 中山世系圖序_一。據_二保元紀|事。及世系圖序_一。永萬元年春。爲朝年二十八而至_二》
《割書:南島_一。明年。舜天生。是歳。仁安元年也。嘉應二年夏。爲朝|自殺。年三十三。大里。浦添。並是中山地名。○東鑑云。文》
《割書:治四年夏五月。貴賀井島降。先_レ是源頼朝欲_レ撃_二貴賀井|島_一。衆諫_レ之。乃已。是歳春三月。鎮西人藤信房獻_二島地及》

《割書:海路圖_一。且請_レ撃_レ之。遂命_二西海鎭將藤逺景及信房等_一。率|_レ兵撃_レ之。島人乃降。按貴賀_一井。盖鬼界也。其事適當_二舜天》
《割書:爲_レ王之初_一。而東鑑所_レ載止|_レ此。不_レ得_二其詳_一以俟_二後考_一。》在位五十年。以_二嘉禎三年_一卒。
享年七十二。《割書:宋嘉凞元年。○宋史流求國列傳曰。國在_二|泉州之東_一。有_二海島_一。曰_二彭湖_一烟火相望。淳凞》
《割書:閒。國之酋豪。嘗率_二數百軰_一。猝至_二泉之水澚圍頭等村_一。肆|行_二殺掠_一。喜_二鉃器及匙筋_一。人閉_レ戸則免。伹刓_三其門圏_一而去。》

【枠外上部】㥧恐頫。俯也。

《割書:擲以_二匙筋_一。則㥧拾_レ之。見_二鉃騎_一則爭刓_二其甲_一。駢_レ首就_レ戮。而|不_レ知_レ悔。臨_レ歒用_二摽鎗_一。繋_レ繩十餘丈爲_二操縱_一。葢惜_二其銕_一。不》
《割書:_レ忍_レ棄也。不_レ駕_二舟楫_一。唯縛_レ竹爲_レ筏。急則群舁_レ之。泅_レ水而遁。|按流求去_二澎湖_一 五百里。豈是烟火相望之地哉。而海路》
《割書:險惡。舟楫之制。非_二其堅厚_一。則不_レ可_レ渉矣。且其喜_二鉃器_一。縛|_レ竹爲_レ筏。皆是巴旦之俗。其國亦去_二澎湖_一。不_二甚相逺_一。葢宋》
《割書:人謬認之言耳。雖_レ然其事|亦當_二舜天之世_一。因附_レ于_レ此。》長子舜馬順凞嗣立。在_レ位十
一年。享年六十四。以_二寳治四年_一卒。《割書:宋淳祐|八年也。》長子義本嗣。
在_レ位十一年。而歳荒荐饑。疫疾並行。國有_下稱_二 天孫氏_一者_上。
民皆歸_レ之。義本因遜_レ位焉時年五十一。是歳弘長二年
也。《割書:宋景定|三年。》英祖天孫氏之後。受_レ讓當_レ國。闢_レ 地始廣。《割書:出_二世|纉圖_一。》
《割書:按世系圖。英祖上加_レ圏。而刪_二-去天孫氏之後數字_一。葢彼|人不_レ欲_三告_レ我以_二舜天氏絕_一レ統耳。又據_二世纉圖_一。以爲_二英祖》
《割書:當_レ國闢_レ 地始廣_一。則知先世未_レ有_二統一之主_一也明矣。|世系圖所_レ謂天孫氏世爲_下王_二其國_一者_上。果其非_レ實也。》初隋
兵來犯。歴_二唐五代宋元數世_一。不_下與_二 中國_一通_上。及_二元至元二
十八年_一。世宗遣_二海船萬戸楊祥。福建人呉忠斗等_一。捧_レ詔
而行。詔曰。朕収_二-撫江南_一。已十七年。海内諸蕃。罔_レ不_二臣屬_一。
惟琉求密_二-邇閩境。未_三嘗會_二歸附_一。議者請卽加_レ兵。朕惟祖

宗立_レ法。凡不庭之國。先遣_レ使招降。來則安堵如_レ故。否則
必致_二征討_一。今命_レ使宣_二-諭汝國_一。果能慕_レ義來朝。存_二爾國統_一。
保_二爾黎民_一。若不_レ効_レ順。自恃_二險阻_一。舟師奄及。恐貽_二後悔_一。爾

【枠外上部】主恐至。

其愼擇_レ之。明年三月。祥主_二其國_一。先令_下軍官劉閏。二百人
以_二小舟_一載_二軍器_一。領_二 三嶼人陳煇者_一登_上_レ岸。國人不_レ解_二 三嶼
人語_一。爲_二其殺死_一者三人。遂不_レ將_二其命_一而還。成宗元貞三
年。復遣_三福建省都鎭撫張浩新軍萬戸張進赴_二其國_一。禽_二
生口百三十人_一。後三年。英祖卒。在位四十年。享年七十
二。是歳正安二年也。《割書:元大德|四年。》子大成嗣。《割書:世纉圖|作_二大城_一。》在_レ位九
年。以_二延慶元年_一卒。享年六十二。《割書:元至大|元年。》其次子英慈嗣。
在_レ位五年。以_二正和二年_一卒。享年四十六。《割書:元皇慶|二年。》其第四
子玉城嗣。不德國亂。山南山北。分而爲_レ 三。玉城據_レ于_二 中
山_一。二十三年。以_二延元元年_一卒。享年四十一。《割書:元後至元二|年。○美問_二 甲》
《割書:午使人_一。以_二 三山分域_一。對曰。今歸仁以北之地。稱_二山北_一。山|北王在_二今歸仁城_一。大里以南之地。稱_二山南_一。山南王在_二大》
《割書:里城_一。美竊疑_レ之。葢事未_二講究_一。而臆斷以置_レ對而己。三山|割據。壤地雖_レ小。各自立_レ國。百有餘年。乃就_二 一島南北之》
《割書:地_一而言可乎。嘗觀_二其地圖_一。沖繩島地。南北稍長。東西甚|狹。皆極_レ乎_レ海。其周廻僅七十四里。若如_二其言_一。今歸仁以》
《割書:北。屬_レ于_二山北_一。大里以南。屬_レ于_二山南_一。則中山地。南北十三|里。東西五里。山南地。南北三里。東西五里。真是蠻觸國》
《割書:耳。設使_下先島以南。皆屬_二山南_一。與論以北。皆屬_中山北_上而中|山攝_レ于_二其間_一。足_レ食足_レ兵。幾何。可_三以歒_二南北_一也。卽今據_二其》

《割書:計帳_一。凡諸島地分隸。以爲_二 三等_一。其一則沖繩及其西北|小島。其二則與論以北。其三則先島以南。是則所_レ因古》
《割書:三山疆域。而鼎足之勢。判然分矣。|其歳租亦各自及_レ供_二軍國之用_一也。》長子西威嗣。在位十
三年卒。享年二十三。是歳貞和五年也。《割書:元至正|九年。》中山王
察度立。察度者故浦添按司之子。《割書:世纉圖云。玉城長子|西威在_レ位十四年。至》
《割書:正十年。察度卽_二王位_一。察度者不_レ知_レ所_二自始_一。其父爲_二浦添|按司_一。按世系圖云。西威在_レ位十三年。元至正十年卒。年》
《割書:二十三。又加_三 一圏於_二察度上_一。以分_二其統_一耳。葢世纉圖據_二|其實_一而言。然察度之立。其故不_レ詳。始舜天以_二浦添按司_一》
《割書:卽_二王位_一。察度父亦稱_二浦添按司_一者。|葢其苗裔乎。而今不_レ可_二得而考_一。》是時元既亡。明主卽_二
帝位_一。洪武五年。其行人楊載齎_レ詔徃諭_二其國中山王察
度山南王羕察度山北王怕尼芝_一。皆遣_レ使朝貢。十五年
賜_二 中山王山南王鍍金銀印文綺_一。使還言。三王爭_レ權相
攻。十六年。賜_二山北王_一。如_二 中山山南之例_一。因詔令_二罷_レ兵息_一
_レ民。始自_三 文武天皇授_二位南島人等_一。六_二-百-八-十-餘年於_一
_レ此。而三王受_三封於_二外國_一焉。《割書:三王受_レ封。葢此|永德年閒也。》二十一年。明
以_二所_レ獲元主次子地儞奴發_一居_二琉球_一。二十五年。中山王
遣_二其子侄及陪臣子弟_一入_二大學_一。明主禮遇獨優。賜_二閩人
三十六姓。善操_レ舟者_一。令_二徃來朝貢_一。二十八年。中山王察
度卒。享年七十五。在_レ位凢四十六年。《割書:世纉圖世系圖皆|云。察度元至正十》
《割書:年。卽_二王位。在_レ位四十六年。而明人諸書。以爲中山王察|度。永樂二年卒。葢誤以_二山南王羕察度_一。爲_二 中山王察度_一》

《割書:也。|》世子武寧嗣。永樂二年。山南王羕察度卒。無_レ子。令_三從
弟汪應祖攝_二國事_一。應祖遣_レ使請_レ命。乃賜_二冠服_一。嗣_二山南王_一。
《割書:山南王羕察度。或作_二羕察_一非。或|以_二汪應祖_一爲_二羕察度弟_一亦非。》三年。中山王武寧卒。在
_レ位十年。《割書:世系圖云。|享年不_レ詳。》尚思紹嗣。《割書:世纉圖云。察度卒。子尚思|紹嗣。自_レ是以_レ尚爲_レ姓。而其》
《割書:所_レ紀中山代序。止_レ乎_レ此。世系圖。又加_三 一圏於_二尚思紹上_一。|二書並皆可_レ疑。據_二閩書_一。永樂中。思紹所_レ獻表。有_二臣祖察》

【枠外上部】不恐乎《割書:屬□|》

《割書:度之語_一。又皇明世法錄云。察度世子。武寧嗣。武寧卒。子|思紹嗣。由_レ是觀_レ之。世纉圖。誤脱_二武寧一世_一。不_レ可_レ疑也。世》
《割書:系圖加_三圏於_二思紹上。葢其以爲_二尚氏之始_一故乎。抑亦尚|思紹以_二武寧兄弟之子_一。入繼_二其統_一乎。姑存_レ疑以俟_二後考_一。》
在_レ位十六年。以_二永樂十九年_一卒。《割書:世系圖云。享年不_レ詳。閩|書以爲_二宣德初。思紹卒_一。》
《割書:與_二世系|圖_一不_レ合。》世子尚巴志立。請_レ封。宣德三年。勅_二内監柴山_一徃
封_二巴志_一嗣王。是後遣_レ使册封。以爲_二故事_一。巴志賢而施_レ仁。
衆皆悅服。山南山北。遂歸_レ于_レ 一矣。《割書:續文獻通考。及閩書。|以爲景泰元年尚志》
《割書:逹遣_レ 人朝貢。未_レ幾。山南山北爲_二 中山所_一レ并。世法錄以爲|景泰五年。尚泰久嗣。先_レ是山南王汪應祖爲_二其兄逹勅》
《割書:期所_一レ弑。尋與_二山北_一。併_レ於_二 中山_一。袋中所_レ錄。亦謂尚泰久之|世。諸島悉平。諸說皆與_二國人之言_一不_レ合。惟其袋中所_レ錄。》
《割書:葢謂_三尚金福卒。復國亂。尚|泰久嗣_レ封。以定_二其亂_一而已。》在位十八年。以_二正德四年_一卒。
享年六十八。初三山稱_レ蕃。朝貢不_レ時。至_三 中山併_二南北_一。遂
令_二 二年一貢_一。每船百人。多不_レ過_二百五十人_一。卽福建南臺

【枠外上部】館穀。出_二左傳_一。

外。置_二蕃使館_一。《割書:卽今流|球館也。》使至館穀。逓入_二京師_一。《割書:中山朝貢。續|文獻通考。以》
《割書:爲初三山每_二 二年_一朝貢一次。至_二尚志逹時_一。南北俱爲_レ所|_レ併。遂令_二 三年一貢_一。閩書以爲思逹時。令_二 三年一貢_一。世法》

《割書:錄以爲成化七年。尚圓嗣。十一年。貢使還。至_レ閩恣_二殺掠_一。|詔着令_二閒歳一貢_一。諸說頗有_二異同_一。按大明會典云。祖訓。》
《割書:琉球朝貢不_レ時。國有_二 三王_一。後惟中山王至。諭令_二|一年一貢_一。葢得_レ之矣。國係_二之巴志_一。以俟_二後考_一。》世子尚
忠嗣。在_レ位五年。以_二正統九年_一卒。享年五十四。世子尚思
逹嗣。在_レ位五年。以_二正統十四年_一卒。享年四十二。尚忠弟
尚金福嗣。在_レ位四年。以_二景泰四年_一卒。享年五十四。弟布
里與_二子志魯_一。爭_レ立國亂。失_二其印綬_一。次弟尚泰久馳奏。命
給_二泰久印_一嗣王。景泰五年。泰久嗣_レ封。克_二-定四方_一。在_レ位七
年。以_二 天順四年_一卒。享年四十六。子尚德嗣。以_二成化五年_一
卒。享年二十九。在_レ位九年。尚圓嗣。在_レ位七年。以_二成化十
二年_一卒。享年六十二。《割書:世系圖。又加_三圏於_二尚圓上_一。因考_二閩|書_一云。察度後五傳至_二尚圓_一。尚圓者。》
《割書:尚德之仲子也。世法錄云。尚德嗣_二父泰久_一立。卒。子尚圓|嗣。按世系圖。泰久卒。時四十六歳。子尚德嗣。在_レ位九年。》
《割書:二十九歳卒。尚圓嗣。在_レ位七年。六十二歳卒。然則尚圓|與_二尚泰久_一同_二 甲子_一。長_レ於_二尚德_一 二十六歳。是非_下爲_二泰久之》
《割書:子_一者_上。而况爲_二德之子_一者也乎。閩書尚德之德。當_レ作_レ忠。葢|誤冩而已。初忠世子思逹卒。忠弟金福立。金福卒。弟布》
《割書:里與_二金福子志魯_一爭_レ立。明主命_二金福次弟泰久_一嗣王。泰|久卒。世子德嗣。卒。而無_レ子。國人立_二思逹弟圓_一以爲_二其君_一。》
《割書:故曰。察度後五傳至_二尚圓_一。又曰尚圓者。尚忠之仲子也。|雖_レ然。世系圖。畧而不_レ詳。姑存_二其疑_一。以俟_二後考_一。又按。閩書》
《割書:及世法錄。以爲_二尚圓。成化十|五年卒_一。亦誤。五當_レ作_レ 二耳。》世子尚宣威立。六月而卒。
《割書:閩書以_二宣威_一爲_二尚|德之長子_一者非。》仲子尚眞嗣。在_レ位五十年。以_二嘉靖五
年_一卒。享年六十二。世子尚清嗣。在_レ位二十九年。以_二嘉靖

三十四年_一卒。享年五十九。世子尚元嗣。是歳嘉靖三十
五年夏。海冦徐海敗_レ于_レ浙。直有_下逃_二-入琉球境_一者_上。尚元發
_レ兵邀撃殱焉。得_二所_レ掠金坤等六人_一。遣_レ使送歸。《割書:時汪直徐|海等。亡_二-命》
《割書:海島之中_一。嘯_二-聚逋逃_一。入_三-冦于_二|沿海諸郡_一。明人號曰_二倭冦_一。》賜_レ勅奬諭。厚賫_二金幣_一。隆慶
六年。尚元卒。享年四十五。在_レ位十七年。世子尚永嗣。在
_レ位十六年。以_二萬暦十六年_一卒。《割書:世系圖云。|享年不_レ詳。》世子尚寧立。時
關白平秀吉命_二薩摩州_一。徴_三-貢於_二 中山_一。萬暦十八年春。尚
寧遣_二僧天龍桃菴等_一來聘。《割書:事見_二續文獻通考_一。伹其以爲_三|事在_二萬暦二十年_一者非。両朝》
《割書:平壤錄。以爲_二萬暦十七年事_一。葢得_レ之矣。中山使人。|以_二 天正十八年春_一至_レ此。此卽是萬暦十八年也。》明年。
關白大徴_二諸州兵_一。欲_下道_二朝鮮_一入_上レ于_二燕京_一。是年夏。尚寧遣
_レ使請_レ封。其相鄭禮密以_二關白情由_一報聞。明年春。關白遂
發_レ兵。入_二-犯朝鮮_一。明主令_二其使者。自齎_レ詔歸_一。册封使能勿
_レ逹。歴_二 十餘年_一。朝鮮師觧。尚寧堅請如_二故事_一。明主嘉_三其爲_二
不_レ叛之臣_一。乃命_二兵科給事中夏子陽。行人王一禎_一徃封
焉。初中山與_二薩摩州_一。世有_二隣好_一。此歳以來。二國交惡。使
命遂絕。州守源朝臣家久以告_二我 神祖_一。乃發_レ兵撃_レ之。
前鋒進取_二北山之地_一。斬_レ首百餘級。水陸鼓行。並入_二那覇
港_一。中山之兵。連戰皆敗。王城遂陷。尚寧出降。師起四十

餘日。宗社失_レ守矣。明年秋八月。家久率_二尚寧及王親陪
臣等_一來。 神祖乃命_二王尚寧_一。使_レ歸_二其國_一。以附_三-庸於_二薩摩
州_一。善繼_二前好_一。敬羕_二先祀_一。於_レ是則古南島地。復_二舊域_一矣。《割書:二|國》
《割書:兵端。畧見_二南浦文集。及續文獻通考閩書等_一。|按始自_三 三山稱_二蕃中國_一。乃至_レ此凢二百卅年。》明年。尚寧
得_レ還。乃遣_レ使修_三貢於_二 中國_一。以報。中山王業己歸_レ國。且欲_三
代_レ我以請_二互市_一。是歳明萬暦四十年也。海道參政石崑
玉等。驗_二貢物_一。雜_二我産_一。請_三阻回俟_二勢定_一。中丞丁繼嗣。直指
陸夢祖。因具_レ疏謂。緩_二外貢_一。修_二我内-備_一。明主從_レ之。令_三貢使
無_二入朝_一。量_二-収方物_一給賞。《割書:出_二閩書及皇明世法錄等_一。按皇|明三大征考云。萬暦三十七年。》
《割書:倭并_二琉球_一虜_二其王_一。撃取_二雞籠淡水_一。侵_二閩廣_一。皇明實紀又|云。萬暦四十年十一月。日本冐_二琉球貢海上_一。福建廵撫》
《割書:丁繼嗣奏言。倭將明檄_二琉球_一挾_レ其代_二-請互市_一。又閩越亡|命郭國安等。寄_二書其家_一。暗指_二入犯之期_一。其檄與_レ書。語多_二》

【枠外上部】逺恐逹。

《割書:狂悖_一。倭將謂_二薩摩州守_一也。檄_二琉球_一。謂_四州守令_三尚寧逺_二書|福建軍門_一也。其書見_二南浦文集_一。郭國安閩人。流_二-寓薩摩》

【枠外上部】備。前作_レ侵。

《割書:州_一。州人稱_二汾陽氏_一者。卽其子孫也。暗指_二入犯之期_一。卽所|_レ謂擊取_二雞籠淡水_一。備_二閩廣_一事也。世法錄云。萬暦四十四》
《割書:年五月。中山王尚寧遣_二通事蔡纒_一。報_下倭造_二戰艦五百餘_一。|脋_中-取雞籠山島野夷_上。並是三大征考所_レ謂丙辰倭犯_二南》

【枠外上部】□字可_レ疑。

《割書:□外洋_一。閩來告_レ急。已而寂然是已。卽非_三我實有_二此事_一也。|美甞聞_二薩摩州人之言_一曰。初尚寧受_二州守之命_一。代_レ我以》
《割書:請互市_一。明人量_二-収方物_一。又使_二 十年一貢_一。事皆如_二閩書世|法錄所_レ載者_一。中山自請_二朝貢_一如_二故事_一。乃聴_二 五年一貢_一。厥》
《割書:後亦請不_レ巳。|久_レ之復_レ舊云。》尚寧在_レ位凢三十二年。以_二元和六年_一卒。享
年五十七。是歳明泰昌元年也。世子尚豊嗣。在_レ位二十

年。以_二寛永十七年_一卒。享年五十一。是歳明崇禎十三年
也。世子尚賢嗣。當_二是之時_一。明既亡。韃靼入_二 中國_一。建_レ號曰
_レ清。紀_レ元曰_二順治_一。順治三年。閩平。明年。清主遣_レ使招_二-撫琉
球_一。是歳正保四年。尚賢卒。在_レ位七年。享年二十二。尚質
嗣。《割書:按世系圖。賢二十二歳卒。時質|年十九。質非_二賢之子_一。未_レ聞_二厥詳_一。》後六年。清主復遣_レ使。
繳_二-納前朝所_レ賜印綬_一。尚質乃遣_レ使齎送。因請_二其封_一。是時
海冦縱横。路梗不_レ通。清主既殂。太子卽位。改_二-元康凞_一。康
凞二年。遣_レ使册封。如_二前朝故事_一。尚質遣_レ使表謝。明年。復
奉_レ表。賀_二卽位_一。五年。始勅以_二兩年一貢_一爲_レ例。尚質在_レ位。凢
二十一年。以_二寛文八年_一卒。享年四十。是歳康熈七年也。
世子尚貞嗣。在_レ位四十一年。以_二寳永六年_一卒。享年六十
五。是歳康熈四十八年也。世子先卒。嫡孫尚益嗣。在_レ位
四年。以_二正德三年_一卒。享年三十五。是歳康凞五十二年
也。世子尚敬嗣。年甫十五。始自_四 中山稱_三蕃於_二 中國_一。凢王
卒。則世子訃告。以請襲_レ封。册封使至。則先祭_三前王於_二寢
廟_一。寢廟在_二國門外_一。唯有_二諭祭_一。而無_二贈諡_一。故歴世末_レ得_レ有
_レ諡云。

南島志巻上《割書:終|》

南島志巻下
             東都 新井君美在中著
  官職第三
 古時流求諸島地。各有_二君長_一。若_二隋書所_レ謂王小王島
 了師_一。因_二其所_レ統大小_一。而所_レ稱亦不_レ同。至_二其諸島君長_一。
 咸皆内_二-附 天朝_一。授_レ位亦各有_レ差。天平勝寳後。史闕
 不_レ詳。厥後六百三十餘年。中山山南山北。皆稱_二蕃中
 國_一。受_二其封-爵_一。王妃王姪。國相寨官。亦各賜_二冠服_一。乃是
 中山品官制所_二由起_一也。其文武職名。始見_二嘉靖使琉

 球錄_一。葢所_レ謂奉_二正朔_一。設_二官職_一。被服冠裳。夷習稍變。有_二
 蕐風_一焉者也。因錄_レ所_レ聞。畧記_二官名_一焉。
中山品官制。正從各九品。一品則王子。從一品則按
司。正二品則三司官親方。從二品則親方。三品至_二 七品_一
則親雲上。正從八品則里之子。正從九品則筑登之。皆
是國中所_レ稱也。王子官號也。王之同姓。及異姓。凢有_二分
封_一者。皆稱_二某地王子_一。雖_レ曰_二王子弟_一。亦未_レ受_レ封者。不_レ得_レ稱_二
王子_一。按司猶_レ言_二郡守_一也。王子之子。有_二分封_一者。稱_二某地按
司_一。至_二尚巴志_一。始并_二 三山_一。各地按司。皆賜_二第宅_一。不_レ得_レ就_二其
封_一焉。三司者天曹司。地曹司。人曹司。各一員。猶_二漢三公_一。
卽所_レ謂國相也。親方者。尊親之稱。凢任_二其官_一者。皆附_二宗
籍_一。親雲上親近也。雲上殿上也。猶_レ言_二堂上官_一也。俗稱_二親
雲上_一。曰_二牌古米_一。或曰_二牌金_一。其義不_レ詳。里之子。本爲_二邑宰
之子_一者。任_二此官_一。卽今非_二其人_一亦任_レ之。筑登之義。亦不_レ詳
云。《割書:出_レ于_二庚寅甲午使人等所_レ記中山官制_一。葢其以_二王子_一|爲_二官號_一。以_二按司_一爲_下王子之子。有_二分封_一者_上。並據_二今制_一而》
《割書:言。非_レ古也。古時所_レ稱按司。卽其君長之稱也。據_二 中山世|系圖序_一。初舜天爲_二衆所_一_レ推。爲_二浦添按司_一。後遂稱_レ王。舜天》
《割書:本非_下爲_二王子之子_一者_上。厥後凢王之親戚。尊次_二其王_一者。稱|爲_二王子_一。其爲_二君長之稱_一。亦猶_二古時_一也。隋書以爲_二歡斯_一。是》
《割書:已。三品至_二 七品_一。稱謂_二牌古米_一。九品稱謂_二筑登之_一。亦皆古|之遺言也。里之子者。里主之轉語也。袋中所_レ錄古時有_下》

《割書:稱_二里主_一者_上。而今猶有_二那覇里主之職名_一。明|人以爲_二察度官_一。卽此。察度方言所_レ謂里也。》漢稱謂_二王親_一。
卽王子。按司所_レ謂王之下。則王親尊而不_レ與_レ政者也。法
司官卽三司也。察度官國稱_二那覇里主_一。那覇港官。國稱_二
御物城_一。各有_二 二員_一。分_二-治那覇四邑_一焉。耳目官六員。卽法
司之屬。猶_二漢六卿_一也。以上所_レ謂士官。而爲_二武職_一者也。大
夫長吏通事等官。則專司_二朝貢_一。不_レ與_二政事_一。皆爲_二文職_一。明

【枠外上部】南雍。南京大學乎。

初所_レ賜。閩三十六姓之後。讀_二-書南雍_一。歸卽爲_二通事_一。累_二陞
長吏大夫_一。令僅存_二 七姓_一。而食_レ禄者百餘人。凢朝貢事例。
單年則正貢二船。以_二耳目官_一。充_二正使_一。正議大夫。充_二副使_一。
並正三品官也。其屬有_二都通事。才府使。官舎使等職_一焉。
雙年則接貢一船。接貢使。才府使。各一員。並從四品官
也。《割書:卽是|近例。》若有_二 中國大䘮_一。則以_二正議大夫_一充_二進香使_一。新天
子登_レ極。則以_二㳒司官正議大夫各一員_一。充_二慶賀使_一。其國
嗣_レ封。則以_二㳒司官紫金大夫各一員_一。充_二謝恩使_一。其官皆
是所_レ稱_レ于_二異邦_一也。古時國無_二姓氏_一。只因_二所_レ居之地_一。而稱
_レ之。中世以來。王親豪族。稱_レ之以_二其食邑_一。其餘有_レ職者。亦
因_下其所_二自出_一。及所_レ居之地_上。而稱曰_二某地某官_一。其有_二姓氏_一
者。閩人之後耳。雖_レ然。其稱_レ於_二國中_一。猶_二國人_一也。而今國人

皆有_二漢姓_一。亦有_二漢名_一。皆非_レ古也。《割書:使琉球錄云。國王姓尚|氏。至_レ於_二陪臣_一。則無_二姓氏_一。》
《割書:伹以_二先世及已所_レ轄之地_一爲_レ姓。自_二 上世_一以來。皆命_レ名以_二|漢字_一。按尚思紹之後。世稱以_二尚姓_一。猶_下以_二王父字_一爲_上レ氏。而》
《割書:非_二古之所_レ謂姓_一也。國人稱_レ之以_二先世及已所_レ轄之地_一。猶_二|因_レ 地命_一レ氏。而非_二古之所_レ謂姓_一也。陳氏以謂琉球不_レ習_二漢》
《割書:字_一。又謂自_二 上世_一以來。皆命_レ名以_二漢字_一。何其謬之甚也。隋|時猶傳_三國無_二文字_一。而况於_二其上世_一乎。美甞聞_二之甲子使》
《割書:人_一。曰。我王稱_二尚氏_一。始_レ於_二思紹王_一。然其用_二尚姓_一。不_レ知_レ所_レ由|也。國人各自有_レ姓。以_二所_レ轄地名_一爲_レ姓。親雲上已下。雖_レ曰_二》
《割書:我王_一。亦有_二其姓_一。是又據_二陳氏之說_一而言耳。其國本非_レ有_二|姓氏_一也。王以_レ尚爲_レ姓。葢其俗所_レ謂漢姓也。甲子慶賀使》
《割書:與那城王子知念親方。謝恩使金武王子勝連親方。其|所_レ稱皆是某地某官也。其從官有_下曰_二宮里親雲上_一者_上。其》
《割書:所_レ稱亦是某地某官。而其姓程。名順則。字寵文。卽閩人|之後。文章之士也。又有_下曰_二玉城親雲上_一者_上。其名朝薰。亦》
《割書:自稱曰。漢姓向氏。漢名受祐。又有_下曰_二砂邊親雲上_一者_上。不|_レ知_二其名_一。漢姓曰_レ曾。漢名曰_レ暦。並是國人。而有_二漢姓漢名》
《割書:者。|》
  宮室第四
 隋書曰。王所_レ居舎。其大一十六閒。彫_二刻禽獸_一。民閒門
 戸。必安_二獸頭骨角_一。使琉球錄以謂殿宇朴素。亦不_二彫
 _レ禽刻_レ獸以爲_一レ竒。大抵琉球俗朴而忠。民貧而儉。富貴
 家。僅有_二瓦屋二三閒_一。其餘則茅茨土階。不_レ勝_二風雨飄
 揺之患_一。人不_レ善_レ陶。雖_二王屋_一。亦無_二獸頭_一。况民閒乎。傳者
 訛矣。陳氏葢據_二其所_一レ見而言耳。唯其以_二獸頭_一爲_二鴟吻
 類_一。亦訛。此土民閒。亦以_二牛馬頭骨_一。掛_二之門戸_一。云是避_二

 疫鬼_一。古之遺俗也。今時之制。畧述_レ所_レ聞。
王府之制。據_レ山爲_レ城。方各一里。疊_レ石爲_レ基。繞以_二流水_一。城
有_二王門_一。其西爲_二國門_一。葢以_下 天使館在_二西南港口_一之故_上也。
厺_二國門_一西里許。有_二牌房一座_一。扁曰_二 中山_一。國門曰_二歡會_一。府
門曰_二漏刻_一。殿門曰_二奉神_一。每門有_レ扁。四周皆石壁。府門外
有_二小池_一。泉自_二石龍口中_一噴出。名曰_二瑞泉_一。王府汲_レ之供_二飲
食_一。取_二其甘潔_一也。正殿巍然在_二山之巓_一。殿閣二層。南北八

【枠外上部】恐有_レ誤

楹。其位向_レ西。上以奉_レ神。中爲_二朝堂_一。下與_二臣下_一㘴立。閣門
俱五色珠爲_二簾櫳_一。正中三門。畧加_二金碧_一。旁有_二側樓_一。亦有_二
平屋_一。皆覆以_レ瓦。簾不_レ逺_レ 地而階亦近_レ除。凢正殿畧倣_二漢
制_一。至_レ如_二燕寢_一。則皆如_二此閒之制_一矣。《割書:中山殿屋制。詳見_二使|琉球錄_一。曰。殿閣二層。》
《割書:上爲_二寢室_一。屋皆以_レ板代_レ瓦。席_レ 地而坐。美甞聞_二之甲午使|人_一。曰。正殿上層。奉_レ神之所。順治火後。屋皆陶瓦。楹塗_レ之》
《割書:以_二黒漆_一。按殿門扁曰_二奉神_一。陳氏以_二閣上_一爲_二寢室_一。非也。層|閣之制。葢由來久矣。袋中記云。昔者大世王之世。王畏_二》
《割書:毒蛇_一。乃起_二高樓_一以居。自謂無_レ害。未_レ幾毒蛇螫_二王左手_一。有_二|一國相_一。急抽_レ刀斷_二其臂_一。亦斷_二已臂_一以續_レ之。其像見_三-在於_二》
《割書:求吉佛寺_一矣。葢其王樓居以避_二蛇害_一也。大世未_レ詳。世纉|圖有_二王大城_一。世系圖作_二大成_一。疑此人。使人曰。正殿及門》
《割書:墻庭階。皆倣_二漢制_一。其餘一皆如_二本朝制_一。而有_二廣閒書院|玄關等所_一。皆鋪_レ 地用_レ板。坐設_二疊席_一。所_レ謂席_レ 地而坐也。按》
《割書:正殿之制。爲_二册使_一而設也。如_二其便殿_一。則葢古制也。伹|其所_レ謂廣閒書院等所。我有_二此制_一。亦始_レ自_二近時_一耳。》王
親以下。品官第宅。衆庻屋舎。亦皆如_二我制_一。板屋茅茨。隨_二

其有無_一。皆繞以_二石垣_一。其地多_レ石故也。
  冠服第五
 隋書曰。流求用_二鳥羽_一爲_レ冠。裝以_二珠貝_一。飾以_二赤毛_一。形製
 不_レ同。織_二鬪樓樹皮。并雜色紵及雜毛_一。以爲_レ衣。製裁不
 _レ 一。綴_レ毛垂_レ螺爲_レ飾。葢是古制。卽今不可_二得而考_一。
王及王親以下。品官章服制。明世册封。錫以_二皮弁玉圭
麟袍犀帶_一。眎_二 二品秩_一。王侄相寨官。賜以_二公服_一。明既亡。
韃靼爲_二 中國之主_一。文武品官。皆編髪胡服。而中山君臣。
猶依_二舊制_一。其王受_レ册。則皮弁服。正旦冬至。則烏紗折上
巾。蟒衣玉帯。未_レ襲_レ封。則用_二烏紗帽_一。其臣三品以上。皆幞
頭公服。其織成_二花様_一。文職用_レ禽。武職用_レ獸。革帶用_二金銀
鈎䚢_一。其餘品官冠服。皆如_二其俗_一。古俗用_二色布一丈三尺_一
纒_二其首_一。王尚寧之世。其臣名分薙國。始製_二今冠_一。常服_二用
之_一。王及王親用_二 五色_一。謂_二之五綵巾_一。次用_二紫色絹_一。謂_二之紫
光巾_一。次用_二黃絹_一。又次用_二赤絹_一。簮以_二金銀_一差等。其衣則廣
袖寛博。製如_二道服_一。腰束_二大帶_一。《割書:庚寅使人所_レ作圖皆如_レ此|甲午之冬。美請觀_二其王子》
《割書:冠服制_一。烏紗帽麟袍象笏金帶。卽是明世所_レ賜_二其王_一也。|當今爲_二王子章服_一何也。纒首之制。見_二使琉球錄_一。乃據_二其》
《割書:所_一レ見而言也。今制揉_二-曲簿板_一。被_三色|絹於_二其上_一。分薙國。或 ̄ニ作_二湧稻國_一。》童子結䯻。簮用_二金花

四埀者_一。凢俗。足著_二草履_一。入_レ室則脫。讀書號_二秀才_一者。亦戴_二
中國方素巾_一。足不_二草履_一而鞋矣。
  禮刑第六
 隋書曰。流求國無_二君臣上下之節。拜伏之禮_一。父子同
 _レ牀而寢。大明一統志因而述焉。陳氏使琉球錄。以謂
 諸書亦多_二傳訛_一。其君臣之分。雖_レ非_二蕐夏之嚴_一。而上下
 之節。亦有_二等級之辨_一。隋書又曰。獄無_二枷鎻_一。唯用_レ繩縛。
 决_二死刑_一以_二銕錐大如_レ筋。長尺餘_一。鑚_レ頂而殺_レ之。使琉球
 錄曰。國小刑嚴。凢有_二竊_レ物者_一。卽加以_二劓剕之刑_一。閩書
 曰。有_二盗竊_一。輙加_二開腹劓剕之刑_一。卽今詢_二其風俗_一。禮樂
 刑政。其制寖備矣。
朝會之禮。歳元旦冬至。凢大慶會。則王親以下。衆官具_二
冠服_一。行_二拜跪禮_一。四時俗節朔望。亦皆冠服而朝。尊者親
者。則延至_二殿内_一。賜_レ坐賜_レ酒。冠昏䘮祭制。世子冠禮。葢冠
以_二烏紗帽_一。《割書:據_三世子未_レ襲_レ封。|則用_二烏紗帽_一也。》王子按司之子。冠_レ于_二朝堂_一。王

【枠外上部】拜恐於

賜以_二其冠_一。其餘有_レ職者之子。冠亦皆拜_レ朝焉。昏禮畧與_二
此閒俗_一同。凢婦女子織_レ紝組_レ紃。學以_二女事_一。莫_レ有_二識_レ字及
飲_レ酒者_一。葢防_レ滛也。如_二其親戚_一。亦非_二賀正_一。不_レ見_二男子_一。夫死

無_レ子而不_レ嫁。民閒貧賤之女。亦罕_レ有_二再醮者_一。閩人之後。
男不_レ爲_二國壻_一。女不_レ爲_二王妃_一。王妃則立_下國人有_レ職者之女。
爲_二嬪御_一而有_レ寵者_上焉。國䘮一皆如_二大明集禮之制_一。世子

【枠外上部】册下疑脫_レ封。

居_レ䘮。素衣黑帯。嗣_レ封之日。册使先祭_三前王於_二寢廟_一。世子
憂服。北靣立。禮畢。從_レ吉。歳時祭。亦如_二禮制_一。臣庻之家。不_二
必如_一レ制。父母之䘮。不_レ喫_レ肉。不_レ飲_レ酒。殯葬必謹。如_二其七七
日百日朞年再朞_一。亦如_二近世俗_一。凢有_レ職者。給_レ暇五十日。
起復就_レ職。至_レ如_二公私慶賀燕會_一。則皆不_レ與焉。三年而後
復_レ初。《割書:隋書曰。其死者。氣將_レ絕。擧至_レ庭。親賔哭泣相弔。浴_二|其屍_一。以_二布帛_一纒_レ之。裏以_二葦草_一襯_レ土。而殯_レ之。上不_レ起》
《割書:_レ墳。子爲_レ父者。數月不_レ食_レ肉。使琉球錄曰。子爲_二親䘮_一。數月|不_レ食_レ肉。死者以_二 中元前後日_一。溪水浴_二其屍_一。厺_二腐肉_一収_二其》
《割書:骸骨_一。以_二布帛_一纒_レ之。裏以_二葦草_一襯_レ土而殯。上不_レ起_レ墳。若_二王|及陪臣之家_一。則以_レ骸匣_三-藏於_二山穴中_一。仍以_二木板_一爲_二小牗》
《割書:戸_一。歳時祭掃。則啓_レ鑰視_レ之。葢恐_二木朽而骨露_一也。卽今國|人之言曰。殯後三年。藏_二-尸石龕_一。仍植_二位牌_一。葢墓碑也。其》
《割書:說畧與_二陳|侃之言_一合。》凢燕會僃_レ樂。樂有_二國中中國二部_一。國樂。其唱
曲則如_二我里謡_一。其器則三線子。中國樂。曰萬年春。曰賀
聖明。曰喜昇平。曰樂清朝。曰慶皇都。曰永太平。曰鳳凰
吟。曰飛龍引。曰龍池宴。曰金門樂。曰風雲會。其明曲。則
有_二王者國。百花開。爲人臣。爲人子。楊香。壽星。老上。蓬萊
等曲_一。其清曲。則有_二 天初曉。頌皇清。壽尊翁。正月四季歌

等曲_一。其器則嗩吶。横笛。管皷。銅鑼。三金三枝。二線三線。
四線長線。胡琴琵琶。又有_二路樂_一。其器則兩班銅鑼。喇叭。
銅甬。嗩吶。皷。凢刑典。有_二笞杖徒流大-辟絞斬梟-首等法_一
而不_レ赦_二謀反惡逆。不道不孝不義等罪_一。若_二其輕罪_一。閒有_二
赦宥_一焉。総而論_レ之。則其俗朴而忠。其政簡而便。文_レ之以_二
禮樂_一。非_二復曩者之陋_一矣。
  文藝第七
 琉球之學。自_二 中山王察度_一始。厥後閩人從裔。世傳_二其
 業_一。雖_レ然洪永之閒。賜_三閩人於_二其國_一。以_二比歳徃來朝貢_一。
 故賜_二其善操_レ舟者_一耳。察度始使_二其子侄。及陪臣子弟。
 入_一レ于_二大學_一。如_二閩人子弟_一。家本在_二内地_一不_レ因。肄_三業於_二其
 鄕先生_一。歸。卽得_レ爲_二通事_一。累陞_二長史大夫_一者。徃徃不_レ絕。
 於_レ今其文彬彬可_二以觀_一者。則察度之化逺矣。
國無_二文字_一。俗相傳云。昔有_二 天人降_一。而敎_レ 人以_二文字_一。其體
如_二古篆_一然。《割書:出_二袋中所_一レ錄云。昔有_二 天人降_一。而敎_レ 人以_二文字_一。|其地近_レ于_二 中城_一。厥後城閒之人。凶日起_レ宅。天》
《割書:人又降。召_二-問占者_一。以_レ不_レ告_二其凶_一。對曰。彼人不_レ問。故不_レ告。|卽怒曰。汝知_二其凶_一。亦何不_レ告。乃分_二-裂其書_一而厺。唯存_二其》
《割書:半_一。字猶百餘。以占_二凢事吉凶_一。甚驗。葢此占卜書也。美甞|觀_レ于_二文字_一。其體如_二古篆_一。古俗凢稱_二 天人_一。不_レ係_二此地之人_一》
《割書:也。未_レ知_三其|爲_二何國字_一。》中世以來。始傳_二此閒文字_一。明初。其王察度請

以_二子侄及陪臣子弟_一。入_レ于_二大學_一。成化閒。王尚眞以_二官生
蔡賔等五人_一。肄_二業南雍_一。學既成而還。卽爲_二通事_一。累_二歴文
職_一。自_レ是之後。凢章表文移。皆其所_レ掌焉。國中所_レ用文字。
一如_二此閒之俗_一。亦有_下善_レ於_二歌詞_一者_上。《割書:閩書曰。陪臣子弟。與_二|凢民之秀_一。則諸士大》
《割書:夫敎_レ之。以儲_下長史通事。習_二蕐言_一入貢_上。餘不慧者。宗_二倭僧_一|學_二蕃字_一而已。閒有_レ學_レ詩。僅曉_二聲律偶對_一。又世㳒錄云。經》
《割書:籍無_二 五經_一有_二 四書_一。以_二杜律虞註_一爲_レ經。 觀_二其俗_一。|今皆不_レ然。讀_レ書作_レ字。賦_レ詩詠_レ歌。亦有_下可_二以觀_一者_上。》凢學之
㳒。王親已下。品官子弟。皆入_二國學_一。學有_二孔廟_一。毎_二春秋_一釋
奠焉。凢民子弟。則皆學_レ於_二鄕校_一云。《割書:俗閒子弟。皆自_二實語|敎_一始。庭訓式目等書》
《割書:次_レ之。醫卜方伎之術。亦有_二|所_レ傳者_一。而非_二其所_一レ長也云。》
  風俗第八
 天下之俗。古今不_レ同。風化之變。若_三隂陽晝夜於_二萬物_一
 然。時既變矣。物不_レ能_レ不_レ變也。雖_レ然萬物之生_二 天地_一。猶
 不_レ能_レ齊。安知_下 天下之俗。有_中未_二始變_一者。亦在_上レ乎_二其既變
 之閒_一也哉。我觀_二流求之俗_一。若_二其因□_一。則隋唐之際。既 
 無_二考據_一。况於_二 上世之事_一乎。今試聞_二其方言_一。有_下可_二以解_一
 者_上焉。有_下不_レ可_二以解_一者_上焉。葢其可_二以解_一者。此閒之語。最
 爲_レ不_レ少。而如_二漢語_一。亦有_二 十之一二_一焉。若_下其不_レ可_二以解_一
 者_上。則彼古之遺言而已矣。若_二彼方俗_一。亦然。中世之俗。

 與_二此閒_一同。近世之俗。畧與_レ漢同。若_二其非_レ此亦非_レ彼者_一。
 則彼古之遺俗而已矣。因錄_二舊聞_一。以爲_二風俗志_一。
男女皆露䯻。男則斷髪結䯻。於_二古國史_一。所_レ謂切髪草裳。
其由來既久矣。右䯻名曰_二隻(カタ)首_一。相傳云。上世之人。皆戴_二
頭角_一。昔者有_レ神崩_二厥左-角_一。後俗結_レ䯻。以象_レ乎_レ古也。漢人
之裔。結_二䯻於_一レ 中。皆挿以_二金銀簮_一。纒_レ首用_二色布大餘_一。今之
冠制始_レ于_レ此。厠賤猶露䯻而已。衣則寛博廣袖。腰束_二大
帶_一。足著_二草履_一。通國之禮。义手膜拜。若_レ見_二異邦之人_一。則拜
揖加_レ儀。凢卑幼路遇_二尊者_一。結_レ袖而掛_レ肩。卸_レ履而跪_レ 地。《割書:俗|曰。》
《割書:公廨袖結。葢義|取_二其執役_一也。》女則鬒髪如_レ雲。結爲_二高䯻_一。簮不_レ加_レ飾。以
_レ墨黥_レ手。爲_二種種花卉狀_一。《割書:俗謂針衝。猶|_レ言_二針剌_一也。》上衣下裳。其裳如
_レ裙。而倍_二其幅_一。摺_レ細而制_レ之。長掩_二其足_一也。上衣之外。更用_二
大衣廣袖_一者。蒙_二之背-上_一。見_レ 人則以_レ手下_レ之。而蔽_二其靣_一。《割書:此|閒》
《割書:假䯻。出_レ自_二琉球_一者。最稱_二 上品_一。葢以_二其䯻鬒黒而長_一|故也。又蒙_二其背_一者。此閒婦女所_レ用蒙衣之制而已。》貴家
大族之妻。出入則戴_レ笠。坐_レ於_二馬上_一。女僕三四從_レ之。婦女
之俗。幽閑貞淑。不_レ滛不_レ妬。若_二其妓娼_一。頗事_二艶冶_一。大抵其
地。土瘠民貧。勤儉質朴。憂深思逺。以_下有_二唐國之風_一者_上。俗
好_二聲樂_一。皆弄_二 三絃_一。相傳以爲_三絃響能避_二蛇害_一。農家挿_レ秧

穫_レ禾。乃携_二妓女_一。饁_二彼南-畒_一。絃歌鼓舞。先終_レ畒者。妓女乃
侑_二其觴_一。其疆域雖_レ小。風氣或殊。山南之人。不_レ患_二痘疹_一。山
北之人。最爲_二驍健_一。國無_二醫藥_一。民不_二夭札_一。壽至_二期頥_一。亦徃
徃有焉。君臣民庻。畏_レ神尤甚。葢上世以降。厥民分_二-散洲
嶼_一。各自有_二君長_一。亦莫_二能相一_一。唯有_レ神降_レ于_二其閒_一。爲_レ威爲
_レ福。禁_二民爲_一レ非。是故舉俗敬_レ神。而神亦靈也。其神稱謂_二君
眞物_一。神所_レ慿之女。稱謂_レ君者三十三人。皆酋長之女。其
長稱謂_二聞補君_一。其餘所在神巫。百千爲_レ群。神有_レ時而降。
鼓舞歌謡。以樂_二其神_一。一唱百和。其聲哀惋。神喜則衆皆
相慶焉。神怒則衆無_レ不_レ懼焉。又有_二靈蛇_一。國人畏_レ之如_レ神。
《割書:按使琉球錄及閩書云。俗信_レ鬼畏_レ神。神以_下婦人不_レ經_二 二|夫_一者_上爲_レ尸。降則數著_二靈異_一。能使_二愚民竦懼_一。王及世子倍》
《割書:臣。莫_レ不_二稽首下拜_一。國人凢謀_二不善_一。神輙告_レ王。王就擒_レ之。|惟其守_二-護斯土_一。是以國王敬_レ之。而國人畏_レ之也。尸婦名_二》
《割書:女君_一。首從動至_二 三五百人_一。各頂_二草圏_一。携_二樹枝_一。有_二乘騎者_一。|有_二徒行者_一。入_二王宮中_一以遊戱。一唱百和音聲凄慘。倐忽》
《割書:徃來。莫_レ可_二踪跡_一。袋-中所_レ錄其畧相同。而尤爲_二詳悉_一。凢其|神異鬼怪。不_レ可_二舉數_一而已。甲午使人曰。本國舊俗。詳見_二》
《割書:袋中書_一。百年以來。民風大變。神怪之事。今則絕矣。昔夏|之世。逺方國物。貢_二金九牧_一。鑄_レ鼎象_レ物。百物而爲_レ備。使_三民》
《割書:知_二神姦_一。葢其國絕逺。僻_二-在南荒_一。山海異氣所_レ生。鬼神竒|異之物。亦何足_レ怪焉。且聞古之時。國人無_二君臣上下之》
《割書:節_一。好相攻撃。諸島各爲_二部隊_一。不_二相救助_一。収_二-取鬪死者_一。共|聚而食_レ之。若非_下有_レ神作_レ威_三作_上レ福_四於_二其閒_一。則民之無_レ生。亦》
《割書:既久矣。方今文命祗承。乃暨_二聲敎_一。而威福之權。既有_レ所|_レ歸。其鬼亦不_レ神耶。抑不_レ知使人自耻_二鬼俗_一。其所_レ言亦如》

《割書:_レ此耶。古俗或以_二其國_一爲_二鬼島_一。如_三今其東北島名稱有_二鬼|界_一。葢謂_三其有_二神怪_一也。又使琉球錄曰。有_二蛇蝎_一。亦螫_レ 人。蛇》

【枠外上部】驚恐變。

《割書:則不_レ爲_レ害。前使遭_二蛇怪_一之驚無_二是事_一也。袋中以謂南中|可_レ畏之甚者毒蛇也。昔有_下其王遭_二蛇害_一者_上。又有_下神怒乃》
《割書:使_二毒蛇螫_一レ 人者_上。蛇類有_二 七種_一。美亦聞_二諸使人_一。曰。國有_二毒|蛇_一。明世册封使遭_二蛇怪_一。我俗亦傳_レ之。方言毒蛇曰_二 八不_一。》
《割書:其大者五六尺。不_三常入_二 人家_一。按毒|蛇曰_二羽羽_一。卽是。此閒之古言也。》又其國多有_下奉_二祀
天朝宗社之神_一者_上焉。 伊勢大神祠自_二尚金福_一始。 八
幡大神祠自_二尚泰久_一始。波上之社。洋之社。尸棄那之社。
普天閒之社。末吉之社。並皆奉_二祀 熊野大神_一也。其始
不_レ詳云。葢古之時。 天朝使臣所_レ至。乃命_二其祀_一以爲_二國
鎭_一也。菅神祠自_二尚元之世。久米島人林氏_一始。又有_二 天祀
天巽等祠_一。凢所_レ在大樹大石。祭以爲_レ神。不_レ遑_二枚舉_一焉。《割書:事|詳》
《割書:見_二袋中|所_レ錄者_一。》國人又信_二浮圖之法_一。其法唯有_二襌與_レ密之二敎_一
耳。圓-覺天-界二寺。在_二都城南北_一。殿宇壯麗。亞_レ於_二王宮_一。逹-
善相-國報-恩寺。皆襌寺也。龍-福天-王安-國普-門潮-音等。
皆密院也。其餘寺院亦多。《割書:見_二使琉球錄。及|袋中所_レ錄者_一。》
  食貨第九
 隋書曰。厥田良沃。先以_レ火燒。而引_レ水灌_レ之。持_二 一鍤_一以
 _レ石爲_レ刃。長尺餘闊數寸。而墾_レ之。土宜_二稻粱禾黍麻豆
 赤豆胡豆黑豆等_一。國史曰。《割書:日本|書記。》稉稻常豐。一藝兩収。

 卽今詢_二其土俗_一。皆不_レ然也。使琉球錄曰。厥田沙礫。不_二
 肥饒_一。是以五穀雖_レ生。而不_レ見_二其繁碩_一也。至_レ於_二賦歛_一。則
 寓_二古人井田之遺法_一。但名義未_二詳備_一。王及臣民。各分
 _レ土以爲_二禄食_一。上下不_二交征_一。有_レ事則暫取_二諸民_一而不_レ常
 也。寰宇記曰。無_二他竒貨_一。故商賈不_レ通。閩書曰。時時資_三
 潤于_二隣島之富_一者。葢皆得_レ之矣。但其使琉球錄以謂
 貿易。唯用_二日本所_レ鑄銅錢_一。亦不_レ然也。是則古時其國
 所_レ鑄如_二宋鵞眼錢_一者耳。星槎勝覽曰。俗好_二古畵銅器_一。
 使琉球錄亦以謂古畵銅器。非_二其所_一レ好。其所_レ好者。唯
 銕器綿布焉。葢其地不_レ産_レ銕。土不_レ宜_レ綿。故民閒炊爨。
 多用_二螺殻_一。紅女織紝。唯事_二麻縷_一。如欲_下以_二釜甑_一爨。以_レ銕
 耕_上。必易_レ自_二王府_一。而後用_レ之。否則犯_レ禁而有_レ罪。陳氏所
 _レ駁。葢據_二當時_一而言耳。卽今觀_レ之。盡皆不_レ然也。畧記_レ所
 _レ聞。以誌_二其食貨_一焉。
諸島之地。山谿﨑嶇。沃野鮮少。厥田沙礫瘠薄。稼穡甚
艱。氣候常煖。年穀早熟。而不_レ見_二其繁碩_一也。《割書:稉稻。六月乃|熟。薩摩州人》
《割書:所_レ謂琉球米。其|穀品最下者。》凢中山山北。並多_二水田_一。土宜_二稉稻_一。山南
地方。多是陸田。宜_二菽麥之屬_一。卽今其國稅額。中山糧米

七萬一千七百八拾七石。山北糧米三萬二千八百二
十八石七斗。山南糧米一萬九千九十六石八斗零。其
餘租課亦准_レ此。《割書:三山疆界。|見_二 地理志_一。》地無_二竒産_一。商賈不_レ通。民貧而
儉。男女事_二耕織_一。厥産多出_二蕉布_一。禹貢卉服。國史草裳。葢
謂_レ之也。炎方蒸溽。不_レ見_二霜雪_一。隆冬之日。時有_二雨霰_一而已。
故凢蕐卉之屬。皆不_二凋枯_一。取_二芭蕉生三年者_一。辟纑成_レ布。
最極_二纎巧_一。麻苧次_レ之。南島所_レ産。閩書所_レ謂南有_二太平_一。出_二
禾苧_一。卽此。久米島産_二絲及綿_一。閩書所_レ謂西有_二古米_一。出_二土
綿_一。亦此也。《割書:太平山見_二 地理志_一。方物曰_二|太平布_一。曰_二久米綿_一。卽此。》通國貿易。古時用_二
海巴_一。厥後國鑄_二銅錢_一用_レ之。既久。散亡少_レ餘。唯今用_二穀布
之屬_一。若_下其與_二 中國_一交易銀貨_上。則此閒所_レ産矣。《割書:海巴。貝也。|銅錢。使琉》
《割書:球錄。以謂薄小無文。每十折_レ 一。每貫折_レ百。殆如_二宋季之|鵞眼綖貫錢_一者。伹其以爲_二日本所_一レ鑄。卽非。美甞問_二福建》
《割書:人_一。以_二琉球交易事例_一。曰。琉球交易。上限_二船數_一。不_レ限_二銀額_一|全貢用_二 十餘萬_一。折貢用_二 五六萬_一。以_二船小不_一レ堪_二多載_一也。若》

【枠外上部】上恐只

《割書:用_二大船_一。則福州港淺。不_レ能_レ進矣。所_レ賣唐貨。細則|絲綢綾緞等物。粗則紙藥材等物。不_レ能_二詳錄_一焉。》凢百器
制。皆與_二此閒_一同。唯其甲冑兵刃。不_二甚堅利_一。弓材用_レ檿。斷
而弦_レ之。性急易_レ折。良者難_レ得。螺鈿諸器。頗得_二我㳒_一。民閒
炊爨。多用_二螺殻_一。葢古俗也。海産_二大螺_一。貧家以代_二釜甑_一云。
凢飲食之饌。造製清潔。畧與_二此閒_一同。使琉球錄以謂不

_レ知_二烹調和劑之味_一。特不_レ習_二此俗_一耳。造釀之方。酒醪醋醬。
及乾醬之屬。亦皆如_二我制_一。使琉球錄又謂酒以_レ水漬_レ米
越_レ宿。婦人嚼以取_レ汁。曰_二米竒_一。甚非也。酒曰_二米竒_一。卽此閒
方言也。唯其露酒方。始傳_レ自_二外國_一。色味清而淡。久_レ之不
_レ壞。能易_レ醉_レ 人。使琉球錄曰。出_レ自_二暹羅_一。亦非也。造㳒不_下與_二
暹羅酒_一同_上。蒸_レ米和_レ麴。各有_二分劑_一。不須不水。封釀而成。以

【枠外上部】不須二字可_レ疑。

_レ甑蒸取_二其滴露_一如_レ泡。盛_二之甕中_一。密封七年。而後用_レ之。首
里所_レ釀。最稱_二 上品_一。《割書:其俗名泡盛酒。相傳云。昔有_二外國人|來_一曰。國居_二南海瘴霧之中_一。人必夭死。》
《割書:因授以_二避_レ毒方_一。卽露酒也。薩摩州人之言曰。天地生_二斯|人_一。方物各有_レ所_レ宜。本兵戌_レ于_二 中山_一者。三年一代_レ之。性 ̄ニ不》
《割書:_レ嗜_レ酒者。亦征_二彼中_一。善飲_二露酒_一。乃至_二 十數鍾_一。而不_レ醉。北歸|此_レ至_二大島_一。不_レ堪_二數鍾_一。及_レ歸不_レ能_レ 下_レ喉。亦復如_レ初。凢布帛》
《割書:之屬。溽暑生_レ黴。酒以_二露|酒_一。色卽鮮明。亦是一竒。》茶茗之品。此閒所_レ産。尤爲_二珍惜_一。
茶室茶具之式。候_レ湯立_レ茶之㳒。一皆傚_二我制_一。閩書以謂
厥土獨不_レ宜_二茶茗_一。卽藝_レ之。亦不_レ萠。蓋其然也。《割書:其國相傳|云。茶㳒傳》
《割書:_レ自_二此閒_一。使琉球錄以謂烹_レ茶之㳒。設_三古鼎於_二几上_一。煎_レ水|將_レ沸。用_二茶末一匙於_一レ鍾。以_レ湯沃_レ之。以_二竹刷_一瀹_レ之。少頃奉》
《割書:飲。其味甚清。是則此閒|之俗。所_レ謂臺子式而已。》甘蔗卽藝_二之首里地_一。氷霜潔白。
不_レ及_二南産_一。亦是以供_二菓品_一。國所_レ製香品。有_二香-餅壽-帶香
竹-心-香龍-涎-香官-香等_一。頗爲_二竒絕_一。
   物産第十

 隋書曰。俗無_二文字_一。望_二月虧盈_一。以紀_二時節_一。候_二草榮枯_一。以
 爲_二年歳_一。葢紀_二其上世之事_一也。後之說者。皆據而言者
 非也。其國相傳云。昔有_二 天人_一降而教_二文字_一。其書頗雖_二
 放失_一。而干支古字。於_レ今猶存。紀_レ年候_レ時。豈在_二草木榮
 枯_一也哉。至_レ於_二明世_一以來。奉_二其正朔_一。每歳頒_レ暦一百。本
 國亦造_レ暦。以授_二民時_一。且其地僻_二-在南荒之中_一。氣候多
 煖。不_レ見_二霜雪_一。海颶時作。草木凋枯而已。凢物産。畧與_二
 澹耳朱厓_一同。其餘則不_レ異_二此閒_一也云。因作_二物産志_一。
大明會典云。琉球貢物。馬。刀。金。銀。酒-海。金-銀-粉匣。瑪-瑙。
象-牙。螺-殻。海-巴。櫂-子扇。泥-金-扇。生-紅銅-錫。生-熟夏-布。牛-
皮。降-香。木-香。連-香。丁-香。檀香。黃-熟-香。蘓-木。烏-木。胡-椒。琉-
黃。磨-刀-石。若_二其馬及螺-殻海-巴夏-布牛皮烏木琉-黃磨-
刀-石_一。則其國所_レ産而已。其餘則所_下與_二此閒及諸國_一交易_上
也。穀則稻秫稷麥菽。蔬則瓜茄薑蒜葱韭之屬。皆有焉。
亦有_二蕃薯_一。可_二以代_レ穀而食_一。此閒俗曰_二琉球薯_一。卽此。海菜
可_レ啖亦多。果則龍-茘蕉-子甘-蔗石-榴橘柹。伹無_二梅杏桃
李之類_一。近時有_レ梅。移_レ自_二此閒_一者。唯著_レ花而不_レ結_レ子。草則
山-丹佛-笑風-蘭月-桔名-護-菊粟菊盛花澤藤等品不_レ少。

近藝_二烟草_一。葉細而長。木則赤木。其性堅緻。紫紅色而有_二
白理_一。葢櫚木之類。本朝式所_レ謂南島所_レ出赤木。卽此。《割書:俗|曰》
《割書:加之|木。》黑木。卽會典所_レ謂烏木也。蘓銕卽琉球錄所_レ謂鳳

【枠外上部】琉上。恐脱_二使字_一。

尾蕉。其野生則不_レ如_下栽在_二園庭_一者_上。榆。《割書:俗曰加|津末留。》木犀。《割書:俗曰|幾伊》
《割書:八。|》何檀福木。《割書:曰底巳。曰也良不。曰末|禰。並皆其俗所_レ稱未_レ詳。》隋書所_レ謂鬪樓樹。

【枠外上部】何恐阿

使琉球錄以謂土産無_二其樹_一。卽今國人亦謂不_レ詳。《割書:隋書|曰。鬪》
《割書:樓樹如_レ橘。而葉密條纎如_レ髪然。|下垂。又云。纎鬪櫻皮以爲_レ衣。》禽鳥則綾鳩黑鶉。鶉亦
有_二異色者_一。《割書:俗名三乃宇津良。葢
|謂_三其毛文有_二 三色_一也。》蝙蝠産_レ于_二 八重山_一者。其
形極大。《割書:俗名八重|山蝙蝠。》其餘有_二烏-鴉麻-雀野-雉野-鳬之屬_一。伹
無_二鶴及鶬鷄_一。而鴻鴈不_レ來。秋月之候。鷹隼及小雀。自_レ南
來者多。畜獸則烏牛《割書:卽水|牛。》犬豕麋鹿之屬。皆無_二不_レ有者_一。
而無_二虎豹犀象_一。亦産_二異色貓_一。蟲豸則蛇蝎之屬最多。毒
蛇凢七種。蝎亦能螫_レ 人。其有_レ在_レ于_二壁閒_一。聲噪如_レ雀者。春
夏之交。有_二赤卒自_レ南來_一亦多。鱗介則海出_二白魚_一。亦名_二海
馬_一。馬首魚身。皮厚而青。其肉如_レ鹿。人常啖_レ之。馬鮫龍蝦
之類。亦皆有_レ之。棘鬛其色不_レ紅。而味亦不_レ佳。鯨魚每出_二-
没洲嶼之閒_一。而莫_二敢捕者_一。蛟龍時時自_二海中_一起。而能致_二
風雨_一。俗謂_二之風待_一也。螺蛤之屬。多_二竒品_一。貝子。卽會典所

_レ謂海巴螺-殻。大者可_三以代_二釜甑_一云。

南島志巻下 《割書:終|》

【裏表紙】

琉球三省并三十六嶋之図

中山世譜

東韓事略・琉球事略

琉球来朝人名記録

新板

【表紙】

新板
 琉球人
  行列
   記

    序   【蔵書印:寶玲文庫】
古の書(ふみ)に留(る)水(み)とかき哥にうるまのしまと
よめる皆今の琉(りう)球(きう)國のことなり其國初
天(てん)孫(そん)氏(し)にひらけて八郎/御(ご)曹(ぞう)子(し)《割書:為|朝》の御/裔(すへ)
なるかうへは我(わか) 皇(み)國(くに)の属(ぞく)国(こく)なることいふも
更なるをかの朝(てう)鮮(せん)臺(たい)湾(わん)の界近く南海
はるかにあら汐の八/百(を)重(へ)隔(へだて)たれは船の行通さへ

たやすからす其うへ中頃より唐土のすく
かよひ馴つゝやかて其國の制にさへならひて
冠(くわん)服(ふく)なども其國風にしたかひたれはいよ〳〵
さるかたに見なされてかの紅(をらん)毛(だ)伊(い)芸(ぎ)理(り)須(す)
なといふらむあらぬ境のものゝ類(たぐい)とさへは人
みなおもふなるへし扨此國人来朝の
ことは古(ふるく)続(しよく)日(につ)本(ほん)記(ぎ)にもみえたれど其後/暫(しはら)くは
来らさりしにや何の書にも見えさめるを
後(ご)光(くわう)明(めい)天(てん)皇(わう)の御宇慶安二年に再(ふたゝ)ひ来朝
せしより已来毎度に及へり此たび亦/国(こく)王(わう)
即(そく)位(い)恩(おん)謝(しや)のため正(せい)副(ふく)二人の仗を奉る事
あるにつき行(ぎよう)粧(そう)の梗(かう)概(がい)をしるし梓に

ゑりて広く四方の人にも見せ歩(あゆみ)にくる
しまん老少の目をも歓(よろこば)しめんとす抑この
行粧の図来朝のたびことに刊行すといへ
とも皆利を射るのみの業にして正しく
其さまを見ん便となるへきものなく
いま上(しよう)木(ほく)するはさる類(たくい)にあらす親(した)しく
聞まさしく見て写(うつ)しいたす所にし
あれは眼(まの)前(あたり)みたらんにもをさ〳〵違ふこと
有へからす穴賢
 天保三年壬辰八月
           無名氏
            しるす

一行粧の見(み)物(もの)は琉王/楽(がく)童(どう)子(じ)その外一躰ことなる風儀めつら
 しき衣服楽器の音声を要とす文化三寅としの
 来朝より当辰としまて廿七年目の来朝にてまた
 いつのよに行粧を見んもはかりかたく実に近代の
 粧(そう)観(くわん)なりよつて此本を持したらんには一時行列のみみたらん
 人にはなか〳〵まさるへくはた見し人のもたらんにはいよ〳〵
 其くわしきにいたるへきものなり
一行列は海陸数百里の道中ゆへ少しつゝの増減前後あり
 このほんやんことなき手筋をもつてくわしく
 相たゝし本格の行列をしるす
【左丁上段図内】
薩州川御座御船



此他諸大名方より
御馳走に川御座船
いづる今略之
【左丁下段図内】



来朝之次第
慶安二年九月  来朝
承應二年九月  同
寛文十一年七月 同
天和元年十一月 同
正徳四年十一月 同
享保三年八月  同
寛延元年十一月 同
宝暦二年十月  同
明和元年九月  同
寛政二年十一月 同
寛政八年十月  同
文化三年十月  同
 慶安二年ヨリ
 天保三年マテ
  百八十四年ニナル

行列之次第
先はらひ
警(けい)固(ご)
弓(ゆみ)
旗(はた)竿(さほ)



長(なが)柄(ゑ)


道(どう)具(ぐ)
奉(ぶ)行(きやう)
 騎(き)馬(ば)


先(さき)馬(むま)

具(ぐ)足(そく)

弓(ゆみ)

對(つい)箱(はこ)
對(つい)鎗(やり)

中(なか)鑓(どうぐ)
立(たて)傘(がさ)
臺(だい)傘(がさ)
徒(か)士(ち)
刀(かたな)筒(つゝ)
長(なぎ)刀(なた)

小(こ)姓(しやう)

濱村大和守様

 御(ご)家(か)老(ろう)

  ☒☒☒☒☒
   御高三万八千石

鎗(やり)
對(つい)箱(はこ)
茶(ちや)辨(べん)當(とう)


引(ひき)馬(むま)

押(おさへ)

樂(がつ)器(き)箱(はこ)
 但し金泥にて
 樂器の二字あり
書(しよ)翰(かん)箱(はこ)
 但し地黒に白字の
 織ものなり
【下段行列図内】





  楽器

書翰
  書翰

 鞭(むち|へゑん)
但せいはい棒のこと也大竹
長 ̄サ一𠀋ばかりすへの方
二つ割半より持所迄丸く
惣朱ぬりしたる物なり
牌(はい)  二行
 板朱ぬりもんし金
 泥(でい)なり
張(はり|ちやん)旗(はた|きい)
銅(と|とん)鑼(ら|らう) 両(どぢやく)班(じやう)
嗩(ひち|つを)吶(りき|な) 二行
唎(ちやる)叭(める) 銅( |とん)角( |しゑ)
鼓(たいこ)  二行

【下段行列図内】


 謝恩使
 中山王府
 金鼓
 金鼓

樂(がく)人(じん)

虎(とらの|ふう)旗(はた|き)

三(さん)司(す)宦(くわん)
 但國王よりの書箱を
 所持するものなりかの國
 にて三公のその一なり
冷(れん)傘(さん)
 但ひぢりめんにて二重
 にかざる
龍(なぎ|ろん)刀(なた|とう)
 いはゆる青(せい)龍(りう)刀の
 ことなり
正使
 使(し)賛(さん)
 與(よ)儀(ぎ)覇(は)親(ばい)雲(きん)上
 玉(たま)城(くずく) 親(ばい)雲(きん)上
    跟(こん)伴(はん)数人
     供人の事也

 轎(きやう)
正使/豊(と)見(み)城(くずく)王(わう)子(じ)
  但 ̄シ唐(から)の衣(い)冠(くわん)ナリ
     跟 伴
     数十人
  立(りう)傘(さん)
   但しさきを金糸の
   ことくなるものにてつゝむ
  鎗( |やり)
正使
 使賛
  譜久(ふく)山(やま) 親(ばい)雲(きん)上
  讀(よん)谷(たん)山(さん) 親雲上
  真(ま)栄(ゑ)平(ひら) 親雲上

讃(さん)議(ぎ)宦(くわん)
  普(ふ)天(て)間(ま) 親雲上
正使附従人
  但琉球の衣冠なり

鎗(つやん)

樂(がく)童(どう)子(じ)六人

 これ大かたは美
 少年なり十四才より
 十六才は唐織の
 かきりなき美服を
 着すすへて琉球高
 貴の人の若とのなり
 雲上の席にて座
 楽をつとむわけて
 音律にくわし皆能
 書にしてかたわら
 詞歌をよらす

【下段行列図内】


登(のぼり)川(かは)里(さと)之(の)子(し)

譜(ふ)久(く)村(むら)里之子

 濱(はま)本(もと)里之子
 宇(う)地(ち)原(はら)里(さと)之(の)子(し)

富(とみ)永(なが)里(さと)之(の)子(し)


小(を)録(ろく)里之子
 至而美少年ナリ

樂(がく)師(し)
 冨(とみ)山(やま)  親雲上
 池(いけ)城(ぐすく)  親雲上
 具(く)志(し)川(かわ) 親雲上
 内(うち)間(ま)  親雲上
 城(ぐすく)間(ま)  親雲上
樂(がく)正(しやう)
 伊(い)舎(しや)堂(どう) 親雲上
 樂人のかしらなり
 琉球の服を着す
龍(ろん)刀(とう)

副(ふく)使(し)
 沢(たく)紙(し) 親(をや)方(かた)
   但 ̄シ唐衣冠ナリ
副使
 使賛
  與(よ)古(こ)田(た) 親雲上
  小(こ)波(ば)蔵(くら) 親雲上

傘(かさ)
鎗(やり)
議(ぎ)衛(ゑ)正(しやう)
 儀(き)間(ま) 親雲上
 路次樂奉行也
  古琉球の衣冠也
    跟伴
     数人
掌(しよ)翰(かん) 使(し)
 與(よ)那(な)覇(は) 親雲上
  祐筆之㕝ナリ
賛(さん)渡(め)使(す)
 宮(ミヤ)里(サト)  親雲上
 瀬(セ)名(ナ)波(ハ) 親雲上
 徳(トク)田(タ)  親雲上
 浦(ウラ)嵜(サキ)  親雲上
 許(キヨ)田(タ)  親雲上

 佐久(サク)川(ガワ) 親雲上
 比(ヒ)嘉(カ)  親雲上

醫(い)師(し)
 琉球の衣冠ナリ
   跟伴
    数十人

 讃議宦従者
 樂正 従者
 正使小性
   美少年也
 供琉人
 路次樂人
此外行列数多あり
といへとも今略之
【下段行列図末尾】
   公寶瀉【四角印】

【上段】
 音樂之次第
大(たひ)平(ひん)調(ちやう) 舞人七人
桃(とう)花(ふあゝ)源(ゑん) 同上
不(ふう)老(す)仙(せん) 同上
楊(やん)香(ひやん)  明曲舞人二人
壽(ちゆつ)尊(ふん)翁(おん) 清曲同上
長(ちやん)生(す)苑(ゑん) 舞人七人
芷(つう)蘭(おん)香(ひやう) 同上
壽(しう)星(すいん)老(らう) 明曲同上
正(ちん)月(いゑん)  清曲同上
右樂は道中宿々出立の
折または日中行列の中亦
宿着等の節にもなす
事あり舞は席上にての
ことなり路次にてはなし
【下段】
 道中宿驛割
伏見宿  勧修寺村 休
大津宿  守山   休
武佐宿  高宮   休
番場宿  今洲   休
垂井宿  墨俣   休
稲葉宿  宮    休
鳴海宿  大濱   休
御油宿  吉田   休
二川宿  新居   休
舞坂宿  濱松   休
袋井宿  日坂   休
島田宿  岡部   休
府中宿  奥津   休
蒲原宿  原    休
三崎宿  箱根   休
小田原宿 平塚   休
藤沢宿  程ヶ谷  休
川崎宿  品川   休
江戸

【右丁上段】
琉球人 凡二百人余
 但上中下官とも印篭
 壱つ宛をさくるなり扇子は
 朝鮮におなし
薩摩御人数上下凡一万人余
人足凡弐千人馬凡八百疋
 其外諸大名方より之
 御馳走人数未知跡より
        出之也
【右丁下段】
中山王より獻上物
あまた有之今略之

琉球国より江戸まで行程
七百拾壱里余琉球より薩州
鹿児島迄三百里余かご嶋より
大坂迄二百七拾六里余大坂より
江戸まて百三十五里


【左丁:上段から下段へ】
   琉球ことば
一 日(ひ)を   てだがなし
一 月(つき)を   つきがなし
一 火(ひ)を   まつ
一 水(みづ)を   みづ
一 男(をとこ)を   ゑんが
一 女(おなご)を   をなご
一 朝(あさ)飯(めし)を  ねえ(ー)さる
一 昼(ひる)飯(めし)を  あせ
一 夕(ゆう)飯(めし)を  ゆふ/はえ(ー)
一 簪子(かんざし)を  ぎば
一 三弦(さみせん)を  さんしう
一 草(ぞう)履(り)を  さば
一 下(げ)駄(た)を  あんじや
一 いやじやと云事を  ばあ
一 かあいそふなと云を きもつちやげな
一 物をほむる時 きよ(ー)らさといふ
  ことばありたとへは美男をき
  よらゑんがといふがごとし
一 うそつく人わるい人をへんげもんといふ
一 遊女をぞりといふ故にゆう里を
  ぞりや又ぞりみせなど云なり

干時天保三年辰十月来朝
       薩州御出入方【朱印:叔葉萬改】
 御免    取次判元 伏見箱屋町
              丹波屋新左ヱ門
            同下板橋
              兼春市之丞
       京都書林 寺町通錦小路上ル
              菱屋弥兵衛【墨印:■■檢】

【裏表紙見開き】
大坂府下心齊  ■【淿・綿ヵ】

【裏表紙】
【左下隅に4段ラベル:Ryu|090|Tan|c.1】

琉球人来朝記

【表紙】
【題箋】
琉球人来朝記 四之五
【管理ラベル「228 3」】

【右丁、白紙】
【左丁】
【朱角印三つ、内一つ不詳、「宝玲文庫」・「小笠原蔵書印」】
【本文】
 琉球人来朝記巻四
  十二月十八日琉球人音楽幷
  御暇之次第
一琉球人音楽被 聞召且御暇
 被下付而登 城
一具志川王子御玄関階上に到時

 大目付河野豊前守能勢因幡守
 出向案内而殿上之間下段着坐
 従者同所次之間列居下官之族
 は御玄関前庭上に群居
一松平薩摩守登 城殿上之間下
 段坐上に着坐
一出仕之面々直垂狩衣大紋布衣
 素袍着之
一大広間 下段御次之御襖障子
 取払二之間北之方弐本目三本目
 之柱之間ゟ御襖障子際東之方え
 四品已上之御譜代大名列候

一二之間に諸大夫之御譜代大名同嫡
 子三之間布衣已上之御役人法印
 法眼之医師列居
一西之御縁之間に畳敷之高家
 雁之間詰之四品以上列居
一南板縁次に諸大夫之雁之間詰同
 嫡子御奏者番菊之間縁頬詰同
 嫡子番頭芙蓉之間御役人列居
一出御以前より薩摩守大広間御
 下段上ゟ五畳目通り東之方着
 坐御向之縁に畳敷之具志川御縁
 御敷居之際東之方伺公琉球楽

 人え御向列居
一大広間
 公方様 大納言様 出御《割書:御直垂|》
   御先立
  公方様
   御太刀
   御刀
  大納言様
   御刀

 御上段《割書:御厚畳三畳重以唐綾包之|四の角大総付御褥御刀懸》
  大納言様御厚畳弐畳重
 御着坐

 御簾懸之
一御後坐に御側衆御太刀之役御刀
 之役伺公
一御下段西の方上ゟ三畳目通りゟ
 松平肥後守井伊備中守年寄衆
 但馬守順々着座
一西之御縁頬に而若年寄三浦志摩
 守戸田淡路守伺公
一御前之御簾揚之中奥御小姓役之
一音楽始
一楽畢而琉球人殿上之間退去過而
 薩摩守着坐ゟ直に進出 御目見

 年寄共御取合申上之御次へ退去
 畢而 入御
  但溜詰御譜代大名謁年寄共
  退出薩摩守殿上之間へ退去
一入御以後大広間二之間年寄共
 若年寄北之方御襖障子際に而東
 之方ゟ順々列座于時薩摩守先
 達而右之席南之方着座其後大
 目付河野豊前守案内而殿上之間ゟ
 具志川大広間三之間御敷居際西
 に向着坐若年寄共一礼各会釈
 有之具志川御敷居内え出座之節

 薩摩守随ひ二之間中央迄罷出
 此時 御代替付而遠路使者差
 上御喜悦被 思召候中山王《割書:え綿|白銀》
 被遣候由 上意之趣右近将監伝
 達之薩摩守具志川一礼有之
  白銀五百枚  中山王え
  綿 五百把
 右之御遣物最前より大広間下段
 並置之御襖障子明置具志川え
 為見畢而大目付河野豊前守能勢
 因幡守差図に而四之間え具志川退
 御襖障子御同朋頭両人に而内之方ゟ

 閉之
  白銀弐百枚  具志川王子
  時服【ふた品の上に結び線】
 右西之御縁ゟ進物番持出大広
 間三之間上ゟ壱畳隔而中通り左
 之方え並置之大目付弐人案内而則
 具志川二之間中央迄出坐于時白
 銀時服被下旨右近将監伝之一礼
 有之三之間退賚物拝戴之畢而
 大目付弐人差図而四之間え退座
 被下物御車寄之方え進物番引之
  白銀三百枚  従者惣中え

  時服三充    楽人え
   但時服は席え不出
 右白銀西之御縁ゟ進物番持出
 之三之間東之方御敷居際に置之
 此時具志川二之間中央迄出坐白銀
 従者惣中え被下之且今日楽相勤
 候に付而楽人え時服被下旨具志
 川え右近将監伝之具志川一礼
 有之四之間へ退坐白銀之台御
 車寄之方へ引之具志川殿上之
 間へ退去大目付弐人令案内
一年寄共え薩摩守一礼有而殿上之

 間え退坐
一殿上之間■【*】中山王え被遣物之目録
 幷年寄共ゟ之返簡大目付弐人
 持参而具志川え相渡
一高家雁之間詰同嫡子御奏者番
 嫡子菊之間縁頬詰同嫡子三之間
 南之方敷居際後にして西之方ゟ
 東之方え押回し着坐
一御奏者番頭廻番頭芙蓉之間御役
 人布衣已上之御役人南之御縁西之方
 ゟ御車寄東之方へ折廻し列居
一薩摩守帝鑑之間に而御菓子御吸物

【琉球大学所蔵『琉球人来朝記八、九』第二十一コマでは「殿上之間に而」と読める】

 御酒被下年寄共出席及挨拶
一具志川王子え殿上之間下段に而
 御菓子御吸物御酒被下之年寄
 共出席及挨拶
一従者え柳之間に而御菓子御吸物御酒
 被下之
一薩摩守家来も於蘇鉄之間御菓
 子御吸物御酒被下之
 御玄関腰懸幷下馬腰懸に於而
 下官え強飯被下之
一具志川退出大目付弐人御玄関
 階之上迄見送

【右丁】
 【貼り紙下「但年寄共」透け見え】
   但年寄共送りは無之
一御小姓組御書院番ゟ出人五拾人
 御書院番所へ勤仕
一大御番ゟ人出人百人大広間四之間に
 勤仕
【左丁】
 琉球人来朝記巻之五
  十二月十八日於西丸琉球人へ被遣物
  被下候物次第
一琉球中山王使者具志川王子於
 御本丸御暇相済西丸へ登 城
 道筋等御礼之節之通

 具志川王子御玄関階之上に到時
 大目付弐人出向案内之而殿上之間下
 段着坐従者同所次之間列居下
 官之輩は御玄関前庭上群居
一松平薩摩守登 城殿上之間下段
 座上に着坐長袴
一出仕之面々長袴
一大広間二之間隠岐守但馬守右近
 将監堀田加賀守小堀和泉守三浦
 志摩守戸田淡路守北之方御襖障子
 際え付東之方え順々列坐于時先達
 而薩摩守先達而右之席南方着

 坐其前大目付弐人案内殿上之間ゟ
 具志川大広間三之間御敷居
 際西へ向着坐則年寄共一礼
 各会釈有之具志川御敷居内
 え出坐之節薩摩守随ひ二之間
 中央迄被罷出此時
  御代替に付而遠路使者さし上
  御喜悦に被思召候旨中山王へ白銀
  時服被遣候
 大御所様 大納言様 上意之趣
 隠岐守但馬守伝達之薩摩守え
 具志川一礼有之

 大御所様ゟ
   白銀 二百枚 中山王え
   時服 弐十
 大納言様ゟ
   同断     同人え
 右之被遣物君前ゟ大広間御下段
 並置之御襖障子明置之具志川え
 為見畢而大目付二人差図而四之間え
 具志川退御襖障子御同朋頭
 両人にて内之方ゟ閉之
 大御所様ゟ
  綿百把    具志川王子え

 大納言様ゟ
  同断     同人え
 右西之御縁ゟ進物番持出大広
 間三之間上ゟ壱畳隔而中通り台
 を並へ東西へ長く置大目付弐人案
 内而則具志川二之間中央迄出座之于
 時
 大御所様 大納言様ゟ被下旨隠
 岐守但馬守伝之一礼有之三之間へ
 退き賚(タマモノ)拝戴畢而大目付弐人
 差図四之間え退き被下物御車寄
 之方へ進物番引之具志川殿上之間

 え退去大目付弐人令案内
一年寄共へ薩摩守一礼有之殿上之
 間退坐
一殿上之間に而中山王え被遣物之目録
 幷隠岐守但馬守ゟ之返翰大目付
 弐人持参之具志川へ相渡す
一具志川退出大目付弐人御玄関階
 之上迄見送
  但年寄共送り無之

【琉球大学所蔵『琉球人来朝記八、九』には、このあと一つ書が四項ある】

  琉球人登城道筋
一芝松平薩摩守屋敷より増上寺
 表門夫ゟ通り町芝口橋より御堀
 端通幸橋御門へ入薩摩守屋敷
 立寄夫ゟ松平丹後守屋敷脇松
 平大膳大夫屋敷脇日比谷御門入

【琉球大学所蔵『琉球来聘志(仮)天保十三年』参照、官職に相違あり】

 八代洲河岸龍之口間三浦志摩守《割書:中|》屋
 敷前大手御門登 城
   御本丸ゟ 西丸え登 城幷
   退出之道筋
一内桜田御門より御厩前通り西
 丸大手門ゟ登 城退出之節は
 同所大手御門より堀田相模守
 屋敷前外桜田御門を出上杉大炊頭
 屋敷前松平大膳大夫屋敷脇夫
 ゟ御本丸え登 城之節《割書:之|》道筋之通
 罷帰候事

【右丁】
一琉球人壱人え給人壱人足軽壱人中間
 壱人三人ツヽ附申候
一琉球人騎馬壱人え琉球人草履取
 壱人ツヽ其余は薩摩守家来附申候

   行列之次第
【左丁】
    徒士       押
同三人 次薩摩守家来布衣 押
    麻上下      押

  何茂鎗   傘壱人ツヽ     徒士   三人ツヽ
次に騎馬九人  小童六人   次に騎馬布衣   同騎馬五人
                是は薩摩守家来  是は琉球人
  日傘    草履取一人ツヽ   同    同

【何茂鎗、不詳】

   板札壱本ツヽ 薩摩守家来 鎗    長柄     鎗
次騎馬       紅涼傘     輿王子     副使籠
   板札     同徒士   偃月刀  舄持     傘

徒士役羽織  金鼓旗  鐸(サヽヲ) 簘  太鼓二ツ  獣旗
是ゟ琉球人    楽人      行烈
同二人ツヽ  金鼓旗  銅鼓 笛  太鼓二ツ  獣旗

             徒士
松平薩摩守 是より弐町程   琉官五人 布衣之徒麻上下
          下り
             徒士

【右丁】
先払役之騎馬弐人《割書:布衣に而|》
【左丁】
   琉球人登 城之節出仕之面々
   供回り御城内差置之場所覚
一御玄関前冠木御門外に而相残り候
 供回り幷御玄関腰懸召連候供回
 台部屋口御門内へ相払差置申候
 事

一中の口ゟ登 城之面々供回りは中の
 口御門片寄差置之事
一諸大名留守居御坐敷向は勿論
 中之口辺にも一切差置不申候主
 人刀持草履取差置之場所え相
 払申候事
  琉球人登 城之節下乗ゟ内
  供回り召連候覚
一四品已上幷万石以上共に下乗ゟ内
 御玄関前冠木御門外迄は侍弐人
 草履取壱人雨天之節は傘持
 壱人召連冠木御門ゟ内之刀持

 壱人雨天之節は手傘用之事
 壱万石以下下乗ゟ内へ侍壱人草履
 取壱人召連御玄関前冠木御門
 ゟ内は刀持壱人雨天之節は手傘
 用候事
一万石以上以下共に挟箱下乗橋内へ
 一切入申間敷事
  但部屋有之面々は挟箱内へ入候事
一中之口ゟ登 城之面々は草履取
 召連候事
 右之通御心得可被成候

 御本丸西丸え罷越候面々は蓮池
 御門通り罷越西丸中之口より
 登 城退出之節は同所御玄関
 より大手御門通り退散之事
一西丸え登 城無之面々は琉球人
 御本丸より退散後大手御門通り
 退出之事
  但内桜田御門通り之方へ退出
  之面々は琉球人西丸大手御門
  入を見合退出之事
 大手御門内桜田御門西丸大手御門
 下馬に相残候供之分は主人登 城之

 直に神田橋御門内酒井左衛門尉屋敷之
 脇和田倉御門内馬場外桜田御門
 外へ相払差置申候且又下乗に相残
 之乗物挟箱幷供廻りは小笠原
 右近将監屋敷前本多伊予守屋敷
 後明候地へ相払差置出仕之面々
 退散之節屋敷向寄之方右之場
 所〳〵之内へ相廻り居候様御申付可
 被成候尤供回り差引之ため御徒士目
 付御小人目付差出候間諸事差
 図相用候様是又御申付可被成候

【右丁、白紙】
【左丁】
  十二月十二日
 《割書:従四位上|中将》     松平薩摩守
右は此度 琉球人召連被越候に付
昇進被 仰付之
 同日
参府御礼     松平薩摩守

【右丁】
右 御目見被 仰付
     薩摩守家来
       島津兵庫
       鎌田典膳
 右に付 御礼申上之
【左丁、裏表紙見返し、白紙】

【製本裏表紙】
【ラベル「Ryu 090 v,3 Pts4-5」】

琉球新誌

琉球新誌《割書:図附|》 下

琉球新誌巻下
                 大槻文彦 著
  封貢
推古ノ朝ヨリ、寧楽(ナラ)朝ノ末ニ至ルマデ、南島陸続朝貢
シ、屡〱各島ノ君長ニ禄位ヲ賜ヒ、或ハ征討慰撫ス、後太
宰府ノ所轄トナルヨリ、直ニ其府ニ貢献ス、其後往々
離叛シ、六条高倉ノ朝ニ至テハ、半ハ既ニ叛ク、頼朝ノ
鬼界島ヲ伐シヨリ、声息相絶エ、足利氏ノ中世ニ至リ、
再ビ相通ジ、明ト足利氏ノ間ニ周旋シ、嘉吉元年、足利
氏始メテ琉球ヲ島津氏ニ属セシメ、常ニ兵庫ニ来リ、
三年一貢ス、其後又絶エ、豊臣氏ニ至リ、復通ジ、屡〱参洛

ス、」慶長十四年、島津氏其不貢ヲ征セシヨリ、徳川氏更
ニ琉球ヲ島津氏ニ賜ヒ、其臣属トス、爾来、国王嗣立ノ
時ハ、幕府ノ教ヲ以テ、島津氏之ヲ封ジ、乃チ恩謝使ヲ
来シ、又将軍襲職ノ時ハ、賀慶使ヲ来ス、共ニ王子(ワウジ)ヲ正
使トシ、親方(オヤカタ)ヲ副使トシ、従者数十人、大抵ハ鹿児島ヲリ
九州西海ヲ廻リ、下ノ関ヨリ大坂伏見ヲ過ギ、美濃路
ヨリ、東海道ヲ歴テ、東都ニ至ル、官ヨリ駅馬ヲ給ス、来
朝、多クハ冬月ナリ、芝ノ薩邸ヲ旅館トス、登城ノ日ハ、
《割書:往復、外桜田ノ薩邸ニ於テ、冠服|ヲ装束ス、俗ニ装束屋敷ト云、》明服ヲ用ヒ、正使ハ王
服ニ擬ス、副使賛議官以下、儀衛音楽ヲ用ヒ、島津侯之
ヲ率ヒ、重臣兵士護衛ス、将軍巳ノ刻ニ、大広間ニ面ス
《割書:長袴ヲ|着ス、》献物ハ、大抵太刀、駿馬、寿帯香、竜涎香、香餅、太平
布、芭蕉布、青貝卓、羅紗、縮緬、泡盛等ナリ、正副使モ亦進
献アリ、後、再ビ日ヲ期シ、登城シ、散楽ノ宴ヲ賜ハル、又
初メハ、使臣、必ズ日光山ヘ詣スルヲ例トセシガ、宝永
七年ヨリ、日光ヲ止メ、上野ノ東照宮ヲ拝スルヲ例ト
ス、又滞都中ハ、幕府ヨリ米二千俵ヲ給セシト云、帰国
ノ時ハ、島津侯、又率テ登城ス、大広間中段ニ、賜物ヲ列
シ、正使 次(ツギ) ̄ノ間(マ)ニ坐ス、閣老、台意ヲ伝ヘ、次ニ三(サン) ̄ノ間(マ)ニテ、正
使ニ賜物ヲ伝フ、大抵、国王ニ白銀五百枚、綿五百把、正
使ニ銀二百枚、時服十枚、其余ニ銀三百枚ヲ賜フト云、
国王ノ奉書ハ、松平薩摩守内中山王某ト書シ、閣老ニ

呈シ、将軍ニ達ス、之ヲ披露状ト云、今寛文ノ書例ヲ挙
グル、左ノ如シ
 謹而令_レ呈_二-上一翰_一候、抑去歳吾薩州之太守光久、奉_二鈞
 命_一、而予嗣_二琉球国之爵位_一、為_レ奉_レ述_二賀詞_一使_下小臣金武王
 子附_レ于_二光久_一献_中-上不腆之土宜_上候、伏冀以_二諸大老之指
 南可_レ達_二台聴_一儀奉_レ仰候、誠惶不宣、
  寛文十一年五月廿五日 中山王尚貞判
   板倉内膳正殿《割書:連名略ス|》
 使_二价金武来貢_一、芳簡披閲、面話唯同、抑去年従_二薩摩国
 主光久_一、就_レ申_二-達琉球国伝封之旨_一為_二安堵之賀儀_一被_レ献_二
 進土宜件々_一、使者奉_レ之、登営如_レ数披_二-露之_一、奉_レ備_二台覧_一之
 処、使者被_二召出_一、而奉_レ拝_二御前_一畢、御気色殊宜、幸甚〱〳〵、
 可_レ被_レ安_二-堵遠懐_一、猶亦諭_二使者_一畢、不宣、
  寛文十一年八月九日 従四品侍従兼内膳正源朝臣重矩
    回報 中山王 館前   連名ハ略ス

【枠外上部】島津氏ニテ、琉球在番ノ任ヲ重ンズルヿ、貴族ナラザレバ、必、用人以上ノ人ナリシト云、

島津氏嗣立ニハ、亦別ニ使臣ヲ来シ、賀儀ヲ致シ、麑島
ニ琉球館ヲ置キ、常ニ国臣ヲ在勤セシム、又島津氏ヨ
リハ、例年ニ鎮撫ノ官吏ヲ沖縄ニ置ク、其余ノ遇待、家
臣ニ異ナラズ、書ヲ奉ズレハ、執政ニ介ス、偶一書例ヲ
得タリ、俗文ヲ憚ラズ、左ニ挙グ、
 一筆致_二啓達_一候、去歳雄五郎様、御男子御出生、省之進
 殿 ̄ト御名被_レ進、島津兵庫殿嫡子又八郎殿養子被_二仰出、

 御引越被_レ為_レ済候之旨、承知仕、恐悦奉_レ存候、御祝詞為
 可_二申達_一、如_レ斯御坐候、恐惶謹言、
   卯月三日            《割書:中山王|》尚温判
    島津登殿
 《割書:案ズルニ、尚温ノ名、系統ニ見エズ、一書ニ、寛政八年、|尚温恩謝使トモアリ、尚成ト同人カ、後考ヲ俟ツ、》
徳川氏ノ世ニ在リテ、慶長ヨリ嘉永ニ至ル、来朝凡ソ
二十回ニ至ル、左ノ如シ、

  慶長十五年  尚寧入朝
  同 十六年  使臣入朝
  寛永十一年  尚豊、賀慶正使 佐敷(サシキ)王子、恩謝正使 金武(キブ)王子、
  正保 元年  尚賢、賀慶正使金武王子、恩謝正使 国頭(クニカミ)王子、
  慶安 二年  尚質、恩謝正使 具志川(クシカハ)王子、
  承応 二年  同  賀慶正使国頭王子、
  寛文十一年  尚貞、恩謝正使金武王子、副使 越来(コエク)親方、
  天和 二年  同  賀慶正使 名護(ナゴ)王子、副使 恩納(オンナ)親方、
  寛永 七年  尚益、賀慶正使 美里(ミサト)王子、恩謝正使 豊見城(トヨミグスク)王子、
  正徳 四年  尚敬、賀慶正使 与那城(ヨナグスク)王子、恩謝正使金武王子、
  享保 三年  同  賀慶正使越来王子、副使 西平(ニシヒラ)親方、
  寛延 元年  同 、賀慶正使具志川王子、副使 与那原(ヨナバル)親方、
  宝暦 二年  尚穆、恩謝正使 今帰仁(イマキジリ)王子、
  明和 元年  同  賀慶正使 読谷山(ヨムタンザ)王子、
  寛政 二年  同  賀慶正使 宜野湾(ギノワ)王子、副使 幸地(コウチ)親方、
  同  八年  尚成、恩謝正使 大宜見(オホギミ)王子、副使 安村(ヤスムラ)親方、
  文化 三年  尚顕、恩謝正使読谷山王子、副使 小禄(ヲロク)親方、
  天保 三年  尚育、恩謝正使豊見城王子、副使 沢岻(タクシ)親方、
   同 十三年  同  賀慶正使 浦添(ウラソヘ)王子、副使 座喜見(ザキミ)親方、
  嘉永 三年  尚泰、恩謝正使 玉川(タマカハ)王子、副使 野村(ノムラ)親方、

慶長十五年ハ、尚寧自ラ入朝ス、爾後ハ皆使臣ナリ、唯
寛永十一年ハ、将軍上洛ス、因テ使臣二条城ニ謁シテ
帰ル、○大政維新ノ後明治四年七月ヨリ、琉球諸島ヲ

鹿児島県ノ管轄トス、五年九月、尚泰ノ賀慶正使 伊江(イエ)
王子、副使 宜野湾(ギノワ)親方、賛議官 喜屋武(キヤム)親雲上(ベイキン)以下凡ソ
四十人、東京ニ着ス、十四日、午後第一時、三使参朝シ、外
務卿、式部助之ヲ引キ、太政大臣諸省卿等列立シ、皇上
ニ拝謁ス、尚泰ノ上表ニ曰、
 恭惟、皇上登極以来、乾綱始張、庻政一新、黎庻皇恩ニ
 浴シ、歓欣鼓舞セザルナシ、尚泰南陬ニ在テ、伏シテ
 盛事ヲ聞キ、懽扑ノ至リニ勝ヘズ、今正使尚健副使
 向有恒賛議官向維新ヲ遣シ、謹ンデ朝賀ノ礼ヲ修
 メ、且方物ヲ貢ス、伏メ奏聞ヲ請フ、
   明治五年壬申七月十九日  琉球尚泰謹奏
貢物ハ、唐筆、墨、硯、画、上布、綸子、縮緬、純子、青貝箱、焼酎等
ナリ、別ニ皇后ヘ上表献物アリ、使臣等モ、亦自ラ皇上
ヘ献物アリ、共ニ嘉納ノ勅語ヲ賜フ、次ニ外務卿、冊封
ノ詔ヲ宣読ス、詔書ニ曰、《割書:首ニ大日本国璽ノ印アリ|尾ニ天皇御璽ノ印アリ、》
 朕、上天ノ景命ニ膺リ、万世一系ノ帝祚ヲ紹ギ、奄ニ
 四海ヲ有チ、八荒ニ君臨ス、今琉球近ク南服ニ在リ、
 気類相同ク、言文殊ナル無ク、世々薩摩ノ附庸タリ、
 而シテ爾尚泰能ク勤誠ヲ致ス、宜ク顕爵ヲ予フベ
 シ、陞シテ琉球藩王ト為シ、叙シテ華族ニ列ス、咨爾
 尚泰、其レ藩屛ノ任ヲ重シ、衆庻ノ上ニ立チ、切ニ朕
 ガ意ヲ体シテ、永ク皇室ニ輔タレ、欽ヲ哉、

  明治五年壬申九月十四日
使臣等、謹デ詔命ノ辱ヲ拝ス、次ニ皇上、皇后ヨリ、王、王
妃ニ錦、天鵞絨、博多織、敷物、花瓶、銃、鞍、□、等ノ賜物アリ、
更ニ三使ニ錦、綾、陶器、新貨幣等ヲ賜フ、其余従行ノ者
皆恩賜アリ、別ニ琉球藩ヘ新貨幣三万円ヲ賜フ、」使臣
等滞京中、外務省ニ、入費一万円ヲ給シ、勅任官ノ格ヲ
賜ヒ、鉄道開業ノ行幸、及ビ吹上御苑和歌御会等ニ侍
ル、又琉球ノ諸外国ト結ベル条約ハ、尽ク外務省ニ管
シ同省及ビ大蔵省ノ官員、琉球在勤ヲ命ゼラル、廿九
日、琉球藩王尚泰ニ、一等官ノ格ヲ賜ヒ、又府下飯田町
ニ第宅ヲ賜フ、十月始、使臣等帰国ス、

【枠外上部】今ハ、藩ト為ルモ、尚鹿児島県ニ依テ、事ヲ通ジ、大抵、其県吏ヲ、外務省ノ官員トシテ、在留セシメ、東京ニ来レバ、外務省、直ニ之ヲ管ス、

唐土ノ封貢ハ、隋煬帝、始メテ流求国ヲ攻ム、従ハズ《割書:推|古》
《割書:ノ朝ニ|当ル、》唐五代宋ヲ歴テ通ゼズ、元世祖成宗共ニ琉求
ヲ攻ム、亦従ハズ、」《割書:北条時宗貞時|ノ頃ニ当ル、》明太祖、琉球ヲ招撫ス、
中山王察度、乃チ使ヲ遣ハシ、方物ヲ献ズ、太祖仍テ中
山王ニ封ズ、是唐土ニ聘スルノ始ニテ、実ニ洪武五年
ナリ《割書:南朝、文中元|年ニ当ル、》爾来、山南王山北王亦継デ聘ス、太祖
共ニ之ヲ封ジ、三王ニ、各、冠服及ビ駝紐鍍金銀印ヲ給
ス、山南山北滅スル後、中山独リ聘礼絶エズ、始メ一年
一貢、後二年一貢、人員一二百人、正副使以下一二十人、
京ニ赴クト定ム、後我朝鮮ノ役、及慶長征伐ノ時、僅ニ
絶ユ、洪武ノ貢物ハ、馬、刀、金、銀、酒、金銀粉匣、瑪瑙象牙、螺

殻、泥金扇、紅銅、錫、夏布、牛皮檀香、黄熟香、蘇木、烏木、胡椒、
硫黄、磨石等、爾後多クハ馬、硫黄ナリ、賜物ハ、大抵、衣冠、
綾、羅、綢、緞、幣、暦、銭等ナリ、」明滅スル後、更ニ前印ヲ繳シ、
清ニ聘ス、清主乃チ鍍金銀印ヲ給シ封冊ス、後相継テ
亦聘貢絶エズ、始ハ、金銀匣、盃、囲屛、扇、蕉布、麻布、胡椒、蘇
木、刀、鎗、甲冑、鞍、糸、綿、螺盤等ヲ貢ス、後ハ、硫黄一万二千
六百斤、螺殻三千斤、紅銅三千斤、錫千斤ト、定ム、賜物ハ
大抵綾羅錦鏽等ナリ、」明ノ時、三王並ビ封ズルニ因リ、
中山王ノ号ヲ以テ分別ス、後三山ヲ一統スト雖トモ、冊
封印璽、共ニ琉球国中山王ト称ス、清ニ至テハ、印文ハ、
只琉球国王之印トシ、冊封書ニ中山王トス、」明ニ在テ
ハ、正ニ品、皇子
新王ヲ降ルヿ
一等、弁冠、蟒服、
白玉犀帯ナリ、
清ニ在テハ、品
位ヲ定メズ、衣
冠旧ニ依リ、列
ハ朝鮮ノ下、安
南 緬甸(ビルマ)ノ上ニ
在リ、二年ニ一
貢シ、其間年ニ

【国王の印の図】
【図の上に横書きで】琉球国王之印
【図の左に】右ハ篆、左ハ満字、大サ図ノ如シ、

接貢アリ、《割書:接貢ニ使|臣ナシ、》謝恩、慶賀ニ、法司官、紫金大夫、正副
使タリ、常貢ハ、耳目官、正議大夫、正副使タリ、清主殂ス
レバ、正議大夫、進香使タリ、」常貢船ハ二艘、第一ハ、百二
十人、第二ハ、七十人、接貢(ツンコン)船《割書:或ハ折貢|ニ作ル、》ハ、一艘、百人許ナ
リ、貢使ハ、那覇ヲ発シ、福州五虎門ノ川ニ溯リ、琉球館
ニ入ル、大抵、初冬ニ、正副使二十人許、発程シ轎、馬、舟、車、
四十余日、北京ニ入リ、大和殿ニ朝シ、清帝ニ謁シ貢献
ス、王妃使臣以下尽ク賜物アリ、使臣清主ニ謁スルニ
明服ヲ許サズ、国服ヲ用ユ、滞京中、饗宴豊美ヲ尽ス、凡
ソ旅舎路費、尽ク官給ナリ、明年夏至ノ頃、接貢船ニ、乗
テ帰国ス、」凡ソ察度王ヨリ以下、歴世、明清ノ冊封ヲ受
ケザル者、僅ニ数王ノミ、冊封使ハ、明ニ在テハ、大抵給
事中、正使、行人、副使タリ、清ニ在テハ、正使ハ必満人、副
使ハ漢人、共ニ翰林院ノ文臣タリ、冊封ノ礼ハ、国王新
ニ位ヲ嗣ゲバ、中山王世子ト称シ、冊封ヲ請フ、清主乃
チ正副使ヲ命ジ、儀衛服飾ヲ厳重ニシ、福州ヨリ発シ、
那覇ニ上陸シ、世子以下迎恩亭ニ迎ヘ、滞留中、那覇ノ
天使館ニ置ク、先ヅ真和志(マワシ)ノ先王廟ニ、前王ヲ諭祭シ、
《割書:唯諭祭ノミ、故|ニ歴代諡ナシ、》次ニ首里ノ王城ニ、冊封ノ礼ヲ行フ、世
子以下皆明服ヲ用ユ、音楽儀典厳粛ナリ、其余滞留中、
舞楽宴饗甚タ厚シ、冊封使ハ、大抵夏至後ノ南風ニ発
シ、南路ヲ取リ、冬至後ノ東北風ニ還リ、北路ヲ取ル、然

レトモ、海上風潮ノ険多ク、加之、唐船脆弱ナレバ、毎ニ風
浪ノ難ニ逢フ、琉球冊封使ノ命ニ当ル者ハ、皆死ヲ以
テ期待スト云、
  国体
琉球国、上古我内附ノ国タリ、中古声息相絶エ、足利氏
ノ始ヨリ、明ニ聘シ、復我ニ属シ、遂ニ両属ノ国トナル、
慶長以後、全ク島津氏ニ陪属シ、尚明ニ聘シテ止マズ、
徳川氏島津氏措テ制セズ、剰ヘ其国ニ托シ、貿易ヲ明
ニ求ムルニ至ル、其国威名義ニ於テ、大ニ立タザル所
アリ、且其遇待、既ニ陪属タレトモ、又外国ノ体アリ、其国
モ亦我ニ朝スレバ、我正朔ヲ奉ジ、彼ニ聘スレバ、彼年
号ヲ用ユ、《割書:朝鮮、我ニ聘スル如キハ、唯支干|ヲ書シ、国中ハ彼年号ヲ用ユ、》且我ニ向テ、
彼事ヲ秘セズ、彼ニ向ヘバ、甚シク我事ヲ秘シ、絶エテ
日本アルヲ知ラズトス、《割書:内地ノ船、琉球ニ在テ、唐船ニ|逢ヘバ、必ス避匿スルヲ定メ》
《割書:トスト|云フ、》且国中及ビ諸外国ノ交際ニ、皆彼正朔ヲ用ヰ、
清国藩屛独立国ト称セリ、其情実ヲ察スレバ、一ハ我
陪臣ノ名ニ恥ヂ、彼藩屛独立国ノ名ニ艶矜シ、一ハ国
貧小ナレバ、依テ交易ノ利ヲ得テ、国用ニ足スガ為メ
ノミ、既ニ之ヲ失ハンヲ恐ルレバ、之ヲ慎マザルベカ
ラズ、亦憐ムベシ、当初島津氏ノ制セザルモ、亦慈ト利
トニ出ヅル者カ、然レトモ、彼ハ唯一年一貢、我ハ往来織
ルガ如シ、其生計ヲ依頼スルハ、偏ニ我ニ在ルノミ、然

ルニ、安政元年、ペルリ独立国体ヲ以テ、条約ヲ結バン
ト言ヒシトキ、国人、清ニ対シ、臣義ヲ失フトテ、一旦之ヲ
拒ミ、後竟ニ条約調印セルトキ、咸豊ノ年号ヲ用ヰタリ、
因テ西洋各国、亦大ニ疑ヲ起セリ、抑万国ノ通義ニ、焉
ゾ一国両国ニ属スルノ理アランヤ、今ヤ皇上政ヲ親
ラシ、名義ヲ正シ、国威ヲ明ニシ、藩王ニ叙シ、幣帛ヲ賜
ヒ、優待撫恤、以テ上世南島ノ故地ヲシテ、再ビ全ク皇
化版図ニ復セシム、其国ノ如キモ、亦漸ク皇恩ニ浴シ、
同気ノ国ニ附服シ、遂ニ外国ノ封ヲ甘ンゼザルニ至
ラン、今ペルリ琉球記行中ヨリ、衆論ヲ略文摘訳シ、陳
腐ヲ憚ラズ、左ニ挙グ、

【枠外上部】此時、外国交際ノ始ニシテ、其情尚料ラレズ、故ニ、咸豊ノ号ヲ用ヰシメレハ、蓋シ、島津氏深意ノアリシ所ト云、
【枠外上部】旧来、薩摩ヨリノ負債、莫大ニシテ、年々、空シク、其返弁ニ奔労セシニ、一新以来、尽ク之ヲ消却ス、国人固ヨリ樸直ナレバ、大ニ天朝ノ恩ニ感泣シ、去歳、冊封ノ議ノ如キ、事速ニ弁ゼリト云、

 爰ニ琉球ノ所属ニ就テ、疑案アリ、或云、日本薩摩公
 ニ属ス、或云、支那ニ属スト、然レトモ、衆論帰スル所ハ、
 其国自ラ独立ノ体アリテ、全ク日本ニ属シ、又支那
 ニ、名目ヲ以テ、臣属スル者トス、其毎年支那ニ送レ
 ル貢租ハ、定則ノ如ク見ユレトモ、琉球ノ官吏ハ、支那
 人ナラズ、又漢文漢語ヲ鮮スル者アリト雖トモ、通用
 ノ言語ハ自ラ別ナリ、然ルニ、那覇ノ一官吏嘗テペ
 ルリニ語ルニ曰、明朝以来、我国支那外藩ノ一国ニ
 列スルヲ得シヿ、我国ノ大ニ栄誇スル所ナリ、支那
 帝、多年我王ニ官爵ヲ賜フ、我国モ亦方物ヲ拮据シ
 テ之ニ奉ゼリ、我国人支那ニ住テ、絹、綢精薬、其他国

 用ノ諸物ト交易シ、尚足ラザルトキハ、土噶喇(トカラ)島ニ至
 リ、一ノ近親国ト交易セリ云々ト、此近親国トハ、日
 本ヲ諷言セルナリ、然レトモ、其交易ハ、日本船ヲ用ヰ
 多ク日本ト行ヒ、日本ヨリモ、毎年凡四百五十 頓(トン)積
 位ノ船三四十艘モ、送リ来レリ、然ルニ琉球ヨリハ、
 僅ニ毎年一二艘ノ船ヲ、支那ニ送ルノミニテ、支那
 船ハ一艘モ那覇ニ入レシメズ、且危難アレバ、只日
 本ニ依頼シ、支那ニ恃マザルガ如シ、且琉球ニテ、日
 本人ヲ見ルヿ許多ニシテ、皆土人ト隔意ナク婚姻
 交通シ、実ニ基本国ニ居ルガ如ク、且守兵モ来テ那
 覇ニ屯営セリ、然ルニ、支那人来レバ、諸外国人ト一
 様ニ看做セリ、況其人種、言語、風俗徳、悪、先能ク日本
 属縁ノ国タルヿヲ証シ、就中、其骨格言語、酷ニ相類
 セリ、上世日本ヨリ殖民セルヿ疑ナシ、然レトモ、其開
 化文学ノ一半ハ、大ニ支那ノ浴化ニ因リ、且毎年貢
 物ヲ送リ、支那帝モ亦、新王嗣立ノ時ハ、特任使節ヲ
 送リ、王号ヲ与ヘ、自(オ)ラ独立国ノ体ヲ成セリ、然レトモ、
 到底、実着上ニモ、政法上ニモ、琉球ハ、百事、日本ノ属
 国ナルヿ疑ナク、更ニ其実ヲ言ヘバ、日本薩摩公ニ
 臣属スル者ナリ、云々、

【枠外上部】万国ノ公法ニ、国ハ其保護ノ在ル所ニ属ス、ペルリノ論ズル此ノ如ク、余モ亦既ニ之ヲ序論ニ挙グ、ペルリノ時モ、薩州ヨリ、大ニ武備兵卒ヲ送リシト云、清国ニ、嘗テ此事ナク、国人モ亦之ヲ頼マズ、是我属国ノ証、確乎タルモノナリ、

  人種
琉球記行曰、日本琉球両人種ハ、甚ダ相類セリ、両種共

ニ、身丈同ク、骨格好クシテ強壮ニ、色、暗赭ニテ、間(マヽ)魁偉
秀美ノ者アリ、頭骨、楕円、深目長鼻、欧羅巴人種ニ似タ
リ、前頂ノ骨円ク、面、亦楕円ニテ、額、高ク、面容、柔和愛ス
ベシ、東方人種ノ方面ナルハ、頬骨高キニ因レトモ、両種
共ニ甚タ高カラズ、眼ハ大ニシテ気采アリ、濃眉、弓形
ヲ成シ、鼻形、能ク適シ、支那 無来(マレー)人ノ如ク低カラズ、孔
モ大ナラズ、口、稍大ニ、歯、広シ、婦人モ、骨格、恰モ好ク、細
腰繊頸、胸、大ニ開ケ、身、稍短小ニ、面モ稍方形ニテ、鼻モ
低シ、間美艶ナルアリ、因テ考フレバ、琉球、元来日本ト
同人種ニテ、太古ノ世ニ、日本ヨリ殖民シ、後、漂流等ノ
事ニ因リ、支那台湾 無来(マレイ)人等モ少シク加ハリ、現今人
種ト混成セシナルベシ、凡日本琉球人種ノ、支那無来
人種ニ異ナルハ、鬚髯ノ多ク剛ク黒キニ在リ、支那無
来ニ、大抵此事ナシ云々、○性質ハ、欣々トシテ、情アリ、
順良ニシテ少シク冶風アレトモ、沈重度量アリテ、頗ル
智敏ナリ、然レトモ、海島ニ僻在シ、外国ト交ル少キニ因
リ、質朴ヲ存シ、名利労心ノ欲少ク、優寛天然ニ安ンジ、
天寿ヲ致ス者多シト云、婦人モ、行儀柔和ニ、男女共ニ、
労苦飢寒ニ堪エ、日夜労作シテ息セズ、然レトモ、如何セ
ン、天質美ナルモ、政治ノ弊カ、欺罔悪詐モ亦間アリ、古
ハ血気ニシテ、不平ニハ闘殺割腹ノ風アリシト云、今
ハ人気殊ニ平穏ニ、絶エテ争闘無シ、」五六十年前ニ英

人ハシルホールナル者、嘗テ東洋ニ来リ、琉球ノ国風
ヲ探リ、国人古来ヨリ絶エテ戦争ナル物ヲ知ラズト
伝聞シ、後セイントヘレナ島ヲ歴テ、那勃列翁(ナポレオン)ニ会シ、
談、偶々其事ニ及ビシカバ、那勃列翁ハ、其特奇ナル天稟
ヲ聞クニ及ンデ、驚然肩ヲ脅カシ、「戦争絶エテ無シト
歟、是レ決シテ能ハザルヿナリ」ト語リシトゾ、彼ノ戦
ヲ好メル大武将ノ心ニ在テハ、左モアルベシ、然レトモ、
古ヘ国内分裂シ、古城ノ遺蹟モ、今尚存スレバ、争乱ノ
禍モ亦時トシテ免レザルヿアリ、而シテ此渺乎タル
一島中ニ、分裂攻戦セシヲ見レバ、其人性ノ優悠小量
ナル、亦量リ知ルベシ、○言語ハ、皆内地ト小異アルノ
ミ、然レトモ「テニヲハ」ト土音ハ、異ナルアリテ、会話明ニ
通ジ難シ、琉球(リユウキユウ)ヲ「ドューキュー」ト云ヒ、首里(シユリ)泊(トマリ)ヲ「シュイ」「トマ
イ」ト云フ、皆訛音ナリ、総テ良行(ラギヤウ)ノ音ヲ誤レルハ、薩人
モ亦然リ、古ヘ隼人(ハイト)ノ同人種ナルヿ知ルベシ、然レトモ、
其称呼ニ内地ノ古言存スル者、却テ多ク、内地ヲ「ヤマ
ト」ト称シ、甚タ尊崇ス内地ノ人ヲ日本人(ヤマトチウ)ト称シ、琉球
人ハ、自ラ沖縄人(オキナンチウ)ト称ス、其方言一二ヲ左ニ揚グ
 水(ミセ) 茶(チヤ) 日(ヘ) ̄テタ 火(ヒヨ) ̄マツ 月(シチエ) 星(フゼ) 風(ハゼ) 鶏(ヌアトエ) 卵(トマグ) 海(ウメ) 眼(メー)
 手(テー) 鼻(ハナ) 口(クチエ) 木(ケー) 米(クメー) 甘薯(カラエム) 鍋(メデー) 酒(サケ) 煙草(トバコ) 駕(カグ) 銀(ナンゼー)
 鉄(テゼー) 鉢巻(ハチエマチエ)《割書:帽ヲ|云》 鏡(カヾメ) 書物(シユムゼー) 椅子(テー) 石(イザー) 豚(ブバー) 飯(メシ) 男(エングワ) 女(オンナ)
 父(ヂウ) 母(アンマ) 兄(ヤクメ) 弟(オツトウ) 庖丁(ホウテウ) 衣服(イブク) 名(ナ) 百姓(ハクシヤウ) 春(ハロ) 色(イロ) 神(カメカナシ)

 仏(ホトケカナシ) 薩吏(トノカナシ) 《割書:総テ「カナシ」ハ|尊称ナリ》 毒蛇(マジモノ)《割書:蠱義|ナリ》 妻(トジ)《割書:刀自|ナリ》 子(クワ) 美娘(キヨラミワラハ)《割書:清ラ女|童ナリ》
尋常会話ノ末語ニ、「デアベル」ト言フ、是レ、古言ニ、「デア
リハベル」トイヘルノ、略言ナリト云フ、
  政制
政体ハ、立君特裁ニテ、血系ヲ以テ相嗣ギ、政権ハ、執政
ノ手ニ在リ、貴族士族等皆世禄ノ制ニテ官吏ハ皆其
門家ヨリ登用ス、然レトモ、土着ナラズ、皆首里那覇等ニ
聚居ス、各村及ヒ各島ノ里長ハ、庻民ヨリ挙ゲ、官吏ヲ
遣ハシ制治シ、首里ノ政府、其総制ヲ統ブ、位ハ一品ヨ
リ九品ニ至ル、各正従アリテ、十八等トス、官服ハ明制
ニテ、帕、簪、袍、帯ノ色製ヲ以テ、等級ヲ別ツ、官ニ国官、唐
官ノ二様アレトモ、職務ハ相合ス、《割書:蓋シ、国官ハ古来ノ遺|称ニテ、爵名ノ如ク、唐》
《割書:官ハ、唐山ニ倣ヒ|シ者ナルベシ、》
【以降表形式】
国官  位  唐官《割書:加銜ハ格ナリ|座ハ見習ナリ》  帕  簪  袍  帯

王子  正一品  国相  《割書:左相一員|右相一員》  《割書:紫綾五色花|青綾五色花》  金  紅  錦花  王子、按司、才徳アル者之ニ任ス

按司  従一品  法司官《割書:除授刑法一員|銭穀出入一員|礼儀図籍一員》  紫綾  同  緑  錦  又三司官ト称ス

親方  正ニ品  紫金大夫加法司銜  同  同  深青  黄地竜蟠
親方  従ニ品  紫金大夫  同  金花銀茎  同  同  紫帕ヲ被ムルニ因又紫巾官ト称ス

親雲上  正三品  耳目官《割書:司賓、司賞、|司刑、司礼、》各一員  黄綾  銀  同  同  皆、謁者、又ハ申口衆ト称ス

親雲上  従三品  正議大夫加耳目官銜  同  同  同  同  申口座ト称ス
親雲上  正四品  吟味官  同  同  同  赤地竜蟠  賛議トモ称ス
親雲上  正四品  正議大夫  同  同  同  同
親雲上  従四品  中議大夫  同  同  同  同  御物城トモ
親雲上  従四品  都通事  同  同  同  同
親雲上  正五品  正殿遏闥理官  同  同  同  雑色花
親雲上  従五品  副通事加遏闥理官銜  同  同  同  同
親雲上  正六品  正殿勢頭官  黄絹  同  同  同  或ハ儀衛
親雲上  従六品  加勢頭官  同  同  同  同  或ハ加儀衛
親雲上  正七品  里之子親雲上  同  同  同  同
親雲上  従七品  筑登之親雲上  同  同  同  同

里之子  正八品  正殿里之子  大紅縐紗  同  同  同
里之子  従八品  里之子座  同  同  同  同

筑登之  正九品  正殿筑登之  同  同  同  同
筑登之  従九品  筑登之座  同  同  同  同
【表形式ここまで】
国王ハ、皮弁朱纓、竜頭金簪、蟒袍、錦帯ナリ、中山王ト称
シ、源尚二姓ヲ用ユ、《割書:昔シ、山北王戦敗レ、宝剣重金丸ヲ|河中ニ擲ツ、百年ノ後、流至ス、恵平》
《割書:屋島ノ人、得テ献ス今王府第一ノ|宝剣タリ、今帰仁ニ擭剣渓アリ、》王妃ハ鳳頭金簪、花
緞衣ナリ、中婦君ト称ス、太子ハ中城(ナカグスク)ト称ス、○王子(ワウシ)ハ、
王叔子弟、或ハ異姓モ之ニ任ズ、按司(アンズ)ハ、王子ノ子孫、之
ニ任ズ、親方(オヤカタ)ハ、親戚ノ義ニテ、宗籍ニ准ズ、親雲上(ベイキン)ハ、殿
上ニ近キ義ナリ、《割書:堂上方ト云フガ如シ、「ベ|イキン」ハ、古ノ遺言ナリ、》以上皆地ヲ

賜ヒ、某地何官ト称ス、里之子(サトノシ)ハ、世禄ノ士家ニ、里之子
家ハ称スル者アリテ、其子孫之ニ任ジ、終ニ親雲上ヨ
リ親方ニ昇ル、《割書:里之子ハ里主(サトヌシ)ノ訛ナリ、士|族ノ部屋住、小姓ノ類ナリ、》筑登之(チクドン)ハ筑
登之家ト称スル者《割書:世禄ナ|ラス、》ノ子弟、之ニ任ジ、親雲上ニ
昇リ止ム、別ニ仁也(ニヤ)家ト称スル者アリ、略(ホヽ)、平民ニ同ジ、
亦筑登之ヨリ親雲上ニ昇ル、《割書:筑登之仁也モ、|古ノ遺言ナリ、》又久米村
閩人三十六姓ノ後裔、《割書:今僅ニ七|姓ヲ存ス、》百余家アリ、皆唐土ニ
留学シ、通事ヨリ紫金大夫ニ昇リ、文筆応答ヲ司ル、○
法司官ハ、分職アリト雖トモ、毎事、必ス三人議定シ、国相
ニ稟ス国王ハ成ヲ受クルノミ、首里ノ尚向翁毛馬夏
等ノ七姓之ニ任ズ、《割書:向翁毛馬ヲ、首里ノ四大姓ト云|其女妹ヲ常ニ王妃ニ納ルヽトス、》耳
目官ノ司賓ヲ或ハ御鎖側ト称シ、司宝ヲ或ハ御双紙
庫裡、司刑ヲ或ハ平等側、司礼ヲ或ハ泊地頭ト称ス、○
凡ソ閥禄アル者ハ、皆首里那覇久米泊ニ聚居シ、此四
所ノ人ノミ官吏ニ任ジ、余ハ総テ民戸ニテ、略仮字ヲ
知ル者ヲ村吏トス、皆昇進セズ、三省、各島ハ、村吏ノ長
地頭ト称スル者、銀簪ヲ許スノミ、余ハ皆銅簪、藍袍、定
マラズ、三省ノ各間切ハ、各、吏二員ヲ遣ハシ、各島ハ、大
小ニ随ヒ、監撫ノ吏、《割書:奉行官|ト云、》三員、二員、或ハ一員ヲ遣ハ
シ、之ヲ治メシメ毎年ニ交替ス○禄秩ニ、三様アリ、一
ハ、俸米ニテ、時ヲ定メ給ス、世禄ナリ、二ハ采地ニテ、子
孫次第ニ減ジ、曾孫ニ至レバ減セズ、永ク世禄トス、三

ハ、切米ト云、功アレハ給ス、其身一世トスルアリ、定限
数年、或ハ数世トスルアリ、又永世トスルアリ、○暦ハ、
通事官預メ万年書ニ拠リ、推算暦ヲ製用シ、清ニ到リ、
例年ニ清暦一百冊ヲ齎還リ、倣テ国中ニ領与ス、○里
法ハ、三十六町里法ヲ用ユ、○元旦、上元、及冬至ニ祝賀
アリ、国王ノ誕目ニ、大賀儀アリ、叙任大赦ヲ行フ、其他
宗廟社稷等ノ祭祀儀典ノ制略備ル、○武備甚タ薄シ
大抵文官、武職ヲ兼ヌ、兵制ハ、兵ヲ農ニ寓シ、五家ヲ伍
トシ五伍相統ブ、親雲上筑登之ト称スル者、皆武ニ習
ヒ、事アレバ出テ戦フ、兵器ハ、甲、冑、矛、刀、弓、矢、鎗、砲、等ナ
リ、多ク、舟艦水戦ノ用ニ備フ、国内ニ、王城ノ外、城砦ナ
シ、那覇ニ、演武場及ビ砲台ヲ備フ○刑法ハ、死刑、三ツ
剉斬、斬首、磔ナリ、軽刑、五ツ、流、曝日、夾、枷、笞ナリ、罪ヲ犯
ス者アレハ、大夫ヨリ法司ニ達シ、法司曲直ヲ決シ、遅
留セズ、裁判ノ法、極メテ厳ニ、顕官モ憚ラズ、父子兄弟
モ情ヲ曲ゲズト云、
  国計
中部南部諸島ノ歳入ハ、九万四千二百三十石トス、《割書:旧|記》
《割書:ニ、中部諸島ヲ、七万一千七百八十七石、南部|諸島ヲ、一万九千〇九十六石八斗余トス》北部諸島
ハ五万二千八百〇四石トス《割書:旧記ニ、三万二千八百|二十八石七斗トス、》○
田制ニ三様アリ、一ハ、王府ノ公田ナリ、二ハ、各官ノ采
地ナリ、三ハ、民間ノ私田ニテ、売買ヲ許ス、然レトモ、価甚

【枠外上部】琉球ヨリ、薩州ニ納ルヽ、毎年ノ貢米ハ、僅二千石ニ足ラズシテ、却テ薩ヨリニ三万石宛、毎年送リシト云、
【枠外上部】従来、其国貧小ナレバ、已ムヲ得ズ、薩ニ借ルニ、薩ハ高利ヲ以テ、之ヲ借シ、積年ノ元利、莫大ト為リ、年々ノ産物ノ如キ、大抵其返償ニ没入セシガ、維新以来、元利共ニ、之ヲ消却セシニ因リ、大ニ恩ニ感ズト云、

タ貴シ、各属島ハ、公田私田ノミ、監吏、租税ヲ徴シ、王府
ニ送ル、」年租ハ、大抵十分ノ六分ハ正租、二分ハ、雑税、ニ
分僅ニ農民ニ入ルト云、又人毎ニ、役二日アリ、事アレ
ハ皆役ス、○慶長成功ノ時、幕府、琉球ノ半、十万石ヲ、島
津氏ニ賜フト云、《割書:北部諸島ノ|地ナルベシ、》琉球記行ニ、薩摩公ハ、毎
年琉球ヨリ、大凡九十万 弗(ドルラル)ヲ受クトアリ、是訛聞ナル
ベシ、試ニ十万石ニ九十万 弗(ドルラル)ヲ当ツレバ、一石九弗ニ
当ル、其算過当ト云フベシ、然レトモ、其余、雑税交易ノ利
モアリトスレバ、或ハ然ランカ、《割書:世俗ニ薩摩ノ国用ハ、|半ハ琉球ニアリシト》
《割書:云|》○明治三年ノ改計ニ、中部南部諸島ノ戸数、四万三
千四百九十九戸、同人口、二十三万四千三百六十九人、
《割書:男、十三万六千百八十一人、|女、九万八千百八十八人、》北部諸島ノ戸口詳ナラズ
○古来ヨリ、国ニ金銀ナク、唯銭ヲ用ユ《割書:明朝、銭ヲ給セ|シガ、清朝ニ至》
《割書:テ、給|セズ、》今通用スルハ、皆寛永通宝ナリ、《割書:世ニ文銭ト称|スル者多シ、》別
ニ内地ノ銀玉(ギンダマ)ヲ通用ス、又清ノ冊封使、滞留中ノミ、別
ニ小銭ヲ鋳ル、鉛ナラズ、鉄ナラズ、輪郭文字ナク、草縄(サシ)
ヲ貫キ、固封シテ用ユト云、明治五年、天朝、金銀紙幣三
万円ヲ賜フ、使臣、又別ニ自ラ乞ヒ、換ヘ得テ齎還レリ
ト云、○国貧小ニシテ、交易ノ利ヲ以テ、大ニ国用ヲ助
ク、年々船舶ヲ以テ、薩摩ト互ニ相往来交易シ、貨幣ヲ
用ヰズ、品物相交フ、旧来琉球ノ産物ハ、唯薩摩ヲ限リ、
他ノ内地ノ人ト、交易スルヿヲ禁ゼシカ、今年三月、令

【枠外上部】内地ノ輸入品ハ、木綿、茶、煙草、鉄器ノ類ヲ最多シトス、

アリテ、其禁ヲ許セリ、」清国ヘモ、一艘二艘、隔年ニ、朝貢
ニ托シ貿易ス、此利モ亦大ニシテ、明清以来、朝貢絶エ
ザルハ、其実此故ト云、清国ノ交易ハ、只船数ヲ限リ、銀
額ヲ限ラズ、全貢ハ、十余万銀、接貢ハ、五六万銀ナリ、小
船多載スル能ハズ、大船ナレバ、福州港浅ク、船入ル能
ハズ、買フ所ノ唐物ハ、糸、綢、綾、緞、紙、薬、金、銀等ナリ、」昔ハ
暹羅(シヤムロ)満剌加(マラツカ)爪哇(ジヤヷ)国等ト交易セリ、」国ノ輸出品ハ、砂糖、
泡盛、芭蕉布綿布、上布、紬、紙、硫黄、草蓆、塩豚漆器等ナリ、

【枠外上部】畢竟、内地ト、清国トノ品物ヲ、彼此販売交易シテ、生産トセルナリ、
【枠外上部】琉球ノ国計ハ、泡盛、サツマ上布、サツマガスリ、芭蕉布ノ四産物トス、塩豚、之ニ次グ、砂糖ハ、特ニ大島ノ産トス、

  農工
沖縄全島ヲ百六十方里トシ、其八分ノ一、二十方里、即
チ二十五万余反ヲ田畝トス、此中、十四万反ヲ甘薯ト
シ、八千反ヲ蔗トス、米ハ凡ソ三万六千石、麦ハ九千石
トス、《割書:各現石ノ|算ナリ、》其他雑穀芋菜等、数千万反アリ、大抵、穀
ハ一反ニ一石程生ズ、」土人最能ク耕種ニ務ム、山上ハ
半腹断崖ニ至ルマデ皆開墾ス、器械耒鋤ノ類、皆内地
ヨリ渡ル、自国ノ製、殊ニ鈍ナリ、其他、耕耘、作田、水樋或
ハ牛馬ヲ使用スル法、大抵内地ト同ジ、小河湾江ハ塩
気アリ、用水ニナラズ、故ニ高田ハ雨水ヲ湛(タヾ)ヘ、下田(クボタ)ハ
次第ニ低クシ、泉水ヲ漑グ、中山山北水田多シ、地質、稲
ニ宜シ、山南陸田多シ、地、豆麦ニ宜シ、或ハ収稲ノ後、又
麦芋薯ヲ植ヱ、一年再収スルモアリ、大抵、秋耕シ、冬種
ヱ、春耘リ、夏収ム、終年温暖ナレハ、両熟スベキ理ナレ

トモ、例年六月後ハ、大颶屡起リ、海雨横飛シ、稲菓皆其害
ヲ受クルガ故ナリ、○砂糖ハ、小蔗草ヲ碾(ヒ)キ、汁ヲ熬(イ)リ
製ス、黒(クロ)白(シロ)氷(コホリ)砂糖アリ、首里ニ多ク、北部諸島最多シ国
内ハ貴人ノ食トシ、又交易品トス、」煙草ハ、葉細ク長シ、
各地ニ製セトモ、上下皆嗜ムニ因テ足ラズ、多ク大隅ヨ
リ輸入ス」塩ハ、潮水ヲ曝シ製ス、色白シ、宜野湾今帰仁
那覇ニ製塩場アリ、又塩豚ノ製出、頗ル多シ、」茶ハ少シ、
土質茶ニ宜シカラズト云、殊ニ内地ノ茶ヲ珍惜シ、又
多ク清ヨリ来ル、」漆器ハ、匣盃皿等、朱漆ヲ上品トス、女
製シ男画ク、」泡盛ハ先ヅ、純白米ヲ粷ト為シ、適宜ノ水
ヲ加ヘ、手ニテ、頻ニ能ク揉ミ和シ、之ヲ蒸溜シテ、円長
陶壺ニ密封シ、床下ニ置キ、又屢頻ニ其壺ヲ転(コロガ)シ、儲フ
ルヿ、数年ノ後、用ユ、味極メテ芳烈ナリ、相伝フ、昔シ、外
国人来テ曰、国、南海瘴霧中ニ居ル、人必ス夭死セント、
因テ毒ヲ避クルノ方ヲ授ク、即チ泡盛ナリト、薩人酒
ヲ嗜マザル者、琉球ニ戌スレバ、多ク泡盛ヲ飲ミ酔ハ
ズ、大島ニ帰ル頃ハ、数杯ニ堪エズ、竟ニ国ニ帰レハ、故
ノ如ク一杯ニ堪ユスト云、又布帛ノ類、盛暑ニ黴(カビ)ヲ生
ズ、泡盛ヲ以テ晒セバ、色即チ鮮明ナリト云、泡盛ノ輸
出頗多シ、又焼酎清濁酒、醋、醤油、味噌ノ製、内地ニ同ジ、
紅酒ハ南部諸島ヨリ出ヅ、」絹ハ甚ダ少シ、但姑米島多
ク養蚕ス、糸粗黒ナリ、紬(ツムギ)布ヲ織出ス、《割書:総テ織機ハ婦人|ノ業ナリ、機梭ハ》

【枠外上部】泡盛ヲ製スル家、唯首里ニ四戸アルノミ、貧小ノ国、一二名産ノ法、他ニ漏レンヿヲ憂ヘ、従来、之ヲ厳秘セシガ、前薩侯、特旨ヲ以テ、之ノ国王ヨリ伝ヘタリト云、蓋シ、白米ヲ用ヰルト、手ニテ揉ムト、壺ヲ転ンテ、香気ヲ出ストヲ、特妙ノ法トス、然レトモ、薩人倣ヒ製スルモ、風土ノ異ルカ、竟ニ其芳烈ニ及バズト云、

《割書:製内地|ニ同ジ、》又唐山ノ絹糸ヲ以テ織ル、皆 縞(シマ)或ハ無地(ムヂ)ナリ
世ニ琉球紬(リウキウツムギ)ト称シ緊且美ナリ」綿布ハ、世ニ薩摩(サツマ)ガス
リト唱ヘ、薩人ハ琉球縞(リウキウジマ)ト称ス、其製ハ、染メテ唯屡能
ク叩ク、故ニ屡洗フテ色変ゼズ、木綿ハ、沖縄姑米《割書:姑米|綿ト》
《割書:云|フ》恵平屋、及ビ南部諸島ニ産ズレトモ、極メテ少シ、皆内
地ヨリ輸入スル者トス、」麻布ハ細上布(ホソジヨウフ)ト称シ、世ニ薩
摩上布ト唱フ、生麻(キアサ)ヲ治メテ織ル、最貴シ、綿布、麻布、共
ニ山藍ヲ以テ染ム、南部諸島ノ産ヲ先島織(サキジマオリ)ト称シ、殊
ニ上品ナリ、」芭蕉布(バセウフ)ハ、芭蕉成長凡ソ三年ノ者ヲ伐リ、
之ヲ煮テ、五六日間、流水中ニ浸シ、後其皮内ノ糸ヲ縷
シテ織ル、最モ繊巧テ極ム、首里ノ産ヲ上品トシ、多ク
輸出ス、」草蓆ハ、□(ク)草(ヾ)ヲ以テ編ム姑米及ビ南部諸島ニ
出ヅ、精細ナル者アリ、人家皆筵席トス、世ニ琉球(リユウキユウ)ト称
スル畳表(タヽミオモテ)是ナリ、交易品トス、」紙ハ、穀樹皮ニテ製ス、数
種アリ、棉紙、清紙等ノ称アリ、護寿紙、最佳ナリ、」油ハ魚
油アリ、魚脂ヨリ製ス、灯油ハ油樹ノ実ヨリ製ス、桐油
少シ、」蝋ハ、姑米島ニ出ヅ、燭ハ色微黒ナリ、鎔ケテ衣紙
ニ滴ルトキハ、凝ルヲ待チ、剔リ去ルニ、油痕ナシト云

【枠外上部】琉球表ハ、北部諸島最多シ、

  文教
上世ニ文字ナシ、俗伝フ、昔シ、天人、中城ノ地ニ降リ、文
字ヲ授ク、体、古篆ノ如ク、今尚百余字ヲ余シ、吉凶ヲ占
フニ験アリト云、《割書:俗ニ天人云フハ、皆外国人ナリ、案|ズルニ、朝鮮ノ諺文、及ビ此字、彼ノ神》

《割書:代ノ日文(ヒブミ)ニテ、我神代|ノ人、来リ伝フル者カ、》中古舜天王我国字ヲ伝ヘシヨ
リ、国中普ク平仮字片仮字ヲ用ヰテ、国音ヲ綴レリ、《割書:始|メ》
《割書:テ明ニ通ゼシトキ、木簡ヲ革縫|シ、仮字(カナ)ヲ刻シ送リシト云、》又、文章ニ、漢字仮字ヲ雑
用シ、及ビ贈答書翰ノ文、或ハ鉤挑旁記ヲ以テ、漢文ヲ
逆読スル如キ、皆内地ト同シ、仮字付(カナヅキ)板本漢書類、内地
ヨリ渡ル、唯久米村、閩人ノ裔、古法帖ヲ習ヒ、漢書ヲ音
読ス、」明ノ洪武中、始メテ留学生ヲ明ニ遣ハセシヨリ、
清ヲ歴テ、今ニ至ルマデ、例年絶エズ、」首里那覇久米ニ
学校アリ、王親以下、各官ノ子弟、皆入テ孔孟ノ学ヲ講
ジ、漢字ヲ鮮シ、古経書ヲ読ム、久米ノ学校、学制略備ハ
ル、聖廟アリ、孔子四聖ヲ祀ル、庻人ノ子弟ハ、寺ヲ塾ト
シ、僧ヲ師トシ、実語教式目、庭訓等ヲ学ブ、」書ハ大橋、玉
置等ノ流、行ハレ、又一般ニ皇学ヲ務メ、最和歌ニ長ジ、
書モ亦優美ナリ、画ハ皇漢相半シ、自ラ一風アリ、医ハ
薩摩或ハ清国ニ学ブ、両国ノ学ヲ歴ザレバ、治術ヲ施
スヲ禁ズ、又卜筮師アリ、○国中ニ伊勢太神、八幡、天神、
熊野神等ノ社多シ、」弁岳ニ天孫氏ノ女ヲ祀ル、又君真
物ト云ヘル神ヲ崇奉ス、其他、天地山川ノ神ヲ祀ルニ、
皆石ヲ以テ神体トセリ、」天妃宮トハ、宋ノ乾隆年間ニ
生レシ、林氏ノ女ニシテ、海上ニ霊アリトシ、歴代ノ冊
封使、従シテ此ニ祀リ、風浪ヲ鎮スル者ニテ、船玉神ノ
類ナリ、」仏法ハ、臨済真言ノ二宗ノミ、寺院頗ル多ク、僧

徒ノ崇奉モ亦厚シ、僧徒ノ唐土ニ入ルハ、清国ヨリ禁
ジ、皆薩摩ニ留学ス、故ニ善ク皇語ヲ鮮ス、享保以前ハ、
琉球僧、内地諸州ヲ行脚セシガ、後国禁ト為リ、薩摩封
内ノミヲ経過スト云、」嘉永年間、英国耶蘇宗徒等、一僧
ヘッテルヘームナル者ヲ遣ハシ、那覇ニ在留セシメ、其
法ヲ説カシメシニ政府之ヲ欲セズ、国人モ亦強ヒテ
拒マズト雖トモ、竟ニ入ル者ナク、数年ニシテ去レリト
云、
  風俗
国人、名利労心ノ累ナク、民間、有余不足ニ安ンジ、群集
遊戯少ク、貧ナレトモ、険樸ニシテ、盗セズ、又能ク法ヲ畏
レ、日夜ニ労作怠ラズ、殊ニ耕漁ヲ務ム、相交ル甚ダ丁
寧ニ、吉凶ニ情厚シ、大抵百姓ハ皆貧ニテ、男女共ニ耕
種ス、然レトモ、一般ニ男逸シ女労スルノ弊アリ、又一異
俗アリ、人死スレバ、三年ノ後、其屍ヲ墓穴ヨリ出シ、渓
水ニ洗ヒ、再 ̄ビ余骨ヲ納ム、之ヲ骨洗ト云、冠婚喪祭ノ礼、
内地ト大同小異ナリ、婦人ハ大抵貞淑妬淫セズ、酒ヲ
飲マズ、然レトモ、文字ヲ識ル者少シ、五六歳女工ヲ習ハ
シ、十四五ニ至レバ、手指背ニ黥スルノ弊アリ、嫁スレ
バ、猥リニ男子ト面セス、再嫁スル稀ナリ、大抵一村内
相婚娶ス、男女相愛スレバ即チ配偶トナル、官家ノ婦
人、出レバ笠或 蒙衣(カツギ)ヲ戴キ、馬ニ騎ルニ、両足一□ヲ共

ニシ、西洋婦人ノ騎馬ノ風アリ、港頭ニ娼妓アリ、頗ル
艶冶ニシテ、善ク三絃ヲ弄ス、又女子市ヲナシ、男子ハ
市セズ、年中ノ行事モ、内地ト略同ジ、」居家器什ノ制、内
地ト異ナルヿナシ、清潔ヲ好ム、茅屋多シ、或ハ赤色ノ
瓦ヲ用ユ、二階ナシ、床高ク湿気ヲ避ケ、屋低ク颶風ヲ
防グ椅子ヲ用ヒズ、畳ヲ敷キ、之ニ坐シ、戸外ニ履ヲ脱
ス、園庭ニ、竹木小池ヲ設ク、大抵、礪石或ハ竹木ヲ籬ト
シ、家ノ四面ヲ囲ミ、馬厩、豚柵、鶏塒、皆此内ニアリ、官道
ハ砌石ヲ敷キ、街衢ハ清潔ナリ、」器械ノ類、船舶ニ至ル
皆内地ニ同シ、但シ太平山船ハ、長サ八丈余、寛サ二丈
五六尺、櫓ヲ用ユ、漁夫ハ丸木船ヲ用ユ、軽ク迅シ、」貴人
ハ米ヲ食ヒ、貧人ハ甘薯ヲ食フ、共ニ魚肉ヲ食ヒ、肉食
稀ナリ、最煙草ヲ嗜ム、茶ハ内地ノ産ヲ賞美ス、煎茶ノ
台子式、行ハレ、羞膳ニ小笠原流、行ハル、飲食料理、膳椀、
杯盤、煙盆(タバコボン)、唾壺(ハヒフキ)等、大抵同ジ、」貴人ハ絹綿ヲ衣ル、貧人ハ
麻布蕉布ヲ着ル、服ハ寛闊ニ、広袂(ヒロソデ)ニテ長シ、帯ヲ約シ
一袋ヲ挿ミ、煙具等ヲ納ム足袋草履等ノ製、異ナラズ、
貴人ハ帽、傘、扇ヲ用ユ、賤人ハ露頭徒跣スル者アリ、婦
人ハ帯ヲ用ヰズ、」二百年前ハ、頭髪ヲ剃セズ、今ハ頂髪
ヲ剃シ、外髪一囲ヲ留メ、頂上ニ蟠髻ヲ綰シ、油ヲ用ヰ
沐理ス、貴人ハ鬚髯ヲ長シ、賤民ハ禁ズ、婦人ハ髪ヲ剃
セズ、髻少シ前頂ニ在リ、簪ハ髻ニ挿ム、男ハ数本、女ハ

一本、貴人ハ金銀賤民ハ銅鉛真鍮等ナリ、元服前ハ、長
簪ヲ用ヰ、後ハ短簪ヲ用ユ婦人ノ簪ニ、飾ナシ、」国人ニ、
名アリ姓ナシ、名ノ数、僅ニ三四十、故ニ同名ノ者多シ、
然レトモ、父子ハ同名ヲ得ズ、祖孫ハ関セズ、其名字ハ、太
郎、次郎、思次郎、思五郎、真三郎、或 ̄ハ松、鶴(ツル)、亀(カメ)等ノ称ヲ用ユ、
官吏ハ、別ニ漢字ノ姓名アレトモ、多クハ某地何官ト称
ス、久米村閩人ノ裔、漢字ノ姓名アレトモ、別ニ琉球名ヲ
常用ス」宴楽ハ、内地ノ猿楽、謡曲、囃子(ハヤシ)、義太夫等ノ俗曲、
行ハレ、一般ニ、三絃ヲ弄ス、明清ノ舞楽俗曲モアリ、又
自国ノ古事ヲ演劇ニス、楽工伶童ハ、貴人ノ子弟、之ヲ
習フ者モ多シ、楽器ハ、三絃、胡弓、琵琶、笛、小鑼、喇叭、鼓等
ナリ、又煙火競渡ノ戯アリ、碁、象棋、行ハレ、宴会ニ拇戦
抔アリ、《割書:永禄ノ頃、琉球ヨリ、蛇皮ヲ以テ張リタル、二絃|ノ楽器ヲ渡ス、泉州堺ノ盲人某、之ニ一絃ヲ増》
《割書:ス、即チ今ノ内地|ノ三絃ナリト云、》

【枠外上部】尊卑ノ分、厳ニシテ、貴族ノ少年ハ、太郎カナ、松カナ、ナド呼ビ、次ハ、太郎グヮ、松グヮ、ナド呼ブ、「カナ」ハ「カナシ」ノ略、「グヮ」ハ、子ト云フヿ、共ニ尊称ナリ、大島辺ノ人ノ名ハ、内地人ノ名乗ノ如シ、中栄(ナカエイ)ナド云フ、

琉球新誌巻下《割書:終|》

琉球新誌跋
琉球開闢ノ始祖、男女二神ノ名ヲ阿摩美姑(アマミコ)ト云フ、一
書ニ、二神ノ名ヲ阿摩美久(アマミキユ)、之禰利久(シネリキユ)トス、初メ、大島最
北ノ山ニ降リ、《割書:史記及ヒ地理大|島ノ部ヲ見ヨ》国土ヲ求メテ、今ノ沖(オキ)
縄(ナハ)島ニ到リ、地ヲ開キ、米粟ヲ播ク、其長男ハ、天孫氏ト
称シ、長女ハ天神ト為リ、次女ハ海神ト為ル、云々、案ズ
ルニ、我神代ノ二尊、八大洲ヲ生メル後、更ニ六島ヲ生
ム、中ニ大島アリ、先哲ノ論、其所在ヲ詳ニセズ、今琉球
ノ大島ヲ覧ルニ、佐渡隠岐ニ比スレバ、更ニ大ナリ、蓋
シ是ヲ謂フ歟、素盞烏尊(スサノオノミコト)ハ新羅ニ降リ、瓊々杵尊(ニニギノミコト)ハ日
向ニ降ル、神代開闢ノ跡、皆西海ニ偏スレバ、彼ノ大島

ヲ指ス、必シモ牽強ト云フベカラズ、蓋シ阿摩美姑ハ
天孫氏ノ字訓ニシテ、天御子(アマミコ)ナリ、之禰利久(シネリキユ)ハ或ハ姫(ヒメ)
御子(ミコ)ノ転歟、瓊々杵尊以下ヲ天孫ト称シ、尊(ミコト)ノ皇子、火(ホ)
照尊(デリノミコト)ヲ薩摩 隼人(ハヤト)ノ祖トス、隼ハ鷙鳥ノ名ニシテ、古言
ニ又猛勇ヲ波夜(ハヤ)トモ云ヘバ、因テ名トス、古史ニ、琉球
人ノ獰悪ナルヲ説キ、且薩人琉人ノ土音、今尚同ジケ
レバ、《割書:人種言語ノ|部ヲ見ヨ》皆隼人ト、同人種ナルヿ知ルベシ、因
テ考フルニ、火照尊、薩摩ヨリ、漸ク南海諸島ヲ開キ、隼
人人種ヲ生殖シ、而シテ天孫ノ皇族ナレバ、即チ阿摩
美姑ト称セシナルベシ、且其初メ、大島最北ノ山ニ渡
リ、次ニ沖縄ニ到ルガ如キ、尤内地ヨリ渡ルノ痕跡ヲ
見ルニ足リ、又米粟ヲ播クハ、瑞穂国ノ種ヲ伝フル者
ナルベシ、火照尊ノ皇弟、彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)、海宮(ワタツミノミヤ)ニ入リ、豊(トヨ)
玉姫ヲ娶リ、居ルヿ三年ノ後、豊玉姫ハ、妹玉依姫ト、風
波ヲ渡テ、海浜ニ到リ、産スル時、竜ト化シテ去リ、玉依
姫ハ留テ還ヘラズ、是レ海宮ヲ琉球トシ、長女ノ天神
ト為ルヲ豊玉姫トシ、次女ノ海神ト為ルヲ玉依姫ノ
去テ還ヘラザルニ考フレバ、共ニ火照尊ノ女トシテ、
正ニ相合ハン、其叔姪相婚スルハ、上古ノ常ナリ、而シ
テ彦火々出見尊以後、海宮ノ往来絶エタリト見ユ、大
隅ノ麑島社ハ、尊(ミコト)ノ霊ヲ祀ル、其遊漁ノ故跡ハ、今ノ鹿児
島ノ湾ナルベシ、又 沖縄(オキナハ)島ノ人、自ラ屋其惹(オキナ)島ト称ス、

是レ沖(オキ)ノ島ニテ、古ヘ洋中ノ島ノ意ニテ称呼シ、後ノ
ヲナハニ訛セルナルベシ、」琉球人著ハセル中山世譜
ニ、舜天姓源、号_二尊敦_一、父鎮西八郎為朝公、母大里按司妹、
南宋乾道元年乙酉、為朝至_レ国生_二 一子_一而返、其子名_二尊敦_一、
長為_二浦添按司_一、後国人推戴為_レ君、是舜天也、云々、案ズル
ニ、保元物語ニ、二条帝永万元年、為朝鬼島ニ入ルトス、
即チ乾道元年ナリ、或云嘉応二年、為朝伊豆ノ大島ニ
死スル時、季子大島二郎為家年五歳、其母抱テ逃レ、琉
球ニ入ル、是レ即チ舜天ナリト、蓋シ嘉応二年五歳ノ
文、舜天文治三年即位、年二十二ノ文ト、適ニ相符合ス
レバ、果シテ一人ナレトモ、其孰カ是非ヲ詳ニセズ、又保
元物語ニ、島人ノ衣網ノ如シ、太キ葦多ケレバ葦島(アシヾマ)ト
名ヅク、伊豆ノ大島ニ還ヘルニ及ンデ、絹百匹ヲ納レ
シム、云々、蓋シ、琉球ノ地、所在ニ竹多シ、葦ハ竹ノ一種
ヲ誤レルニテ、衣ハ芭蕉布ナラン、又此時為朝既ニ、八
丈ヲ略取スレバ、八丈ヲ除テ此辺海ニ、毎歳絹百匹ヲ
納ムベキ島ハ、琉球ノ外ニ有ルヲ見ズ、又国人為朝ヲ、
日本人皇後裔大里按司朝公ト称ス、為朝ノ外、人皇後
裔ノ人、此島ニ入ル者、恐ラクハ無カラン、大里按司ト
アレバ、逃レテ此島ニ終ル者歟、且舜天始メテ伊呂波
ヲ制スト云ヘバ、邦人ノ裔ナルヿ、論ヲ待タズ、又今王
府第一ノ宝剣ヲ、重金丸ト名ヅク、是レ蓋シ、為朝ノ遺

物ニシテ、源家ノ宝刀タリシ者ナルモ知ルベカラズ、」
以上鄙考ヲ録シテ以テ、此篇末ノ跋ニ代フト云、
  明治癸酉六月
                   平文彦 記

【裏表紙】

大日本籌海全図

中山聘使畧

中山伝信録

新鐫大日本海陸全図:附朝鮮

新鐫 大日本海陸全図 附朝鮮琉球


大日本全図

沖縄島全図

琉球諸島全図
 七島
 北部諸島
 中部諸島
 南部諸島

大島及近傍諸島

宮古島

八重山

那覇港図【?】

森琴石著
新鐫 大日本海陸全図 附朝鮮琉球全図 全


千島諸嶋之図

森琴石著
新鐫 大日本海陸全図 附朝鮮琉球全図 全


北海道之図

森琴石著
新鐫 大日本海陸全図 附朝鮮琉球全図 全


北海道之図

朝鮮国全図

朝鮮国全図

新鐫 大日本海陸全図 附朝鮮琉球

森琴石著
新鐫 大日本海陸全図 附朝鮮琉球全図 全

森琴石著
新鐫 大日本海陸全図 附朝鮮琉球全図 全

琉球へアメリカ船渡来書

【表紙】
【題箋】
琉球へアメリカ船渡来書

【右丁】
【付箋】
Haw 501
琉球へアメリカ船渡来書 Ms,
松平薩摩守
嘉永六年(1853)
【左丁】
一琉球国え亜墨利加船渡来に付松平薩摩守様ゟ御届書左之通
  私領琉球国之内那覇沖へ当四月十九日異国船三艘見得来
  弐艘は火輪船に而追々卸碇候付役々差越本国来着
  之次第相尋候処北亜米唎加 朝(幹)船に而唐人乗合弐艘は
  乗組に而同月十日三艘共上海ゟ出帆致来着肝要用
  向に而無之段申出同廿日逗留 𠸄(イギリス)【第二ルビ「アケレス」】】人右船え差越無程
  大将壱人通事唐人壱人𠸄人一同上陸役人え致面会
  度申出応其意候処右壱人を以北亜米唎幹国欽差水
  師提督ゟ可為相談儀候間船元え参呉候様申出本船
  え乗 帰(カイリ)候付同廿一日役々右船え差越候処提督
  幷外弐艘之船主通事唐人逗留𠸄人も

【翻刻入力者メモ:口偏に英のフォント、𠸄 は入力画面では[??]である】

【右丁】
且又通事唐人ゟ此地へ多艘可致来着其儀は
世話に存間敷追々江戸え可相渡而申聞逗留𠸄人にも
前条同様及承候由琉球人え申聞候右船には北亜米唎
幹之内合衆国に而提督は兵船弐拾艘【挿入・構】楼程之
者に而此以前江戸表えも為致渡海候者之由跡船皆
着之上は一同出帆之向に相見得候趣差渡置候
役々ゟ極内申越候右に付而は軽輩之者琉球人ゟ咄に而
実否難取究儀に御座候得共何分不容易儀故申来候
形行極内早々各様迄申上候様申付越候事
            松平薩摩守内
  六月十一日       早川五郎兵衛
【左丁】
 ワシングトン
本船蒸気船軍艦  名シユスフィンナ
 上官名ホンモトーレ。マツチピー
 将官爵名ベツヱルヘツプル 名フランキリンブカナシ
 副官爵名セスプアンランドミラール。スタフ名ハー。アー。
 アー。タムス
 士官頭名爵名ヱンシユダンー。フアン。テンアミトラール
  名ヨーンコンチー
 鉄蒸気軍艦名ミスシスシフィー
 二艘軍艦名フレガツト

【右丁、星条旗の模式図あり】
【蔵書印】
「宝玲文庫」
【左丁、白紙】

【裏表紙、文字なし】

琉球紀事

【製本表紙】
【朱書】四百三十五
【ラベル「四六四四」】
琉球紀事    【朱書】上

【表紙見返し、白紙】

【右丁、白紙】
【左丁】
琉球紀事

【右丁、白紙】
【左丁】
琉球紀事  【角印「宝玲文庫」】【朱角印一つ】
  寛文十一年七月来朝
使者 金武王子 副使 越来親方
 宇良親雲上 金城──── 川頭────
 伊計 ── 垣本──── 稲福────
 津波古── 前田──── 平安山───
 新川 ── 保栄茂里子  大城里子
 思次良   松兼   大良兼  真三良
外路次楽人十四人
 来書

  謹今呈上一翰柳【抑誤ヵ】去歳吾薩州之太守光久奉
釣□而予嗣琉球国平定爵位。因茲為奉述賀詞使
 小臣金武王子。附于光久。献上不腆之土宜
 伏北異以諸大老之指南。可達
台聴儀所仰候。誠惶不宣
 寛文十年《割書:庚|戌》五月廿五日    中山王尚貞判
進上
     板倉内膳正殿 《割書:酒井雅楽頭は|別紙同文なり》
     土屋但馬守─
     久世大和守─
     稲葉美濃守─
   返書
 使者金武遥来芳墨入手欣然不浅柳琉球国可
 被伝続之旨去年自薩州国主光久就申達之為
 安堵之慶賀而進献土産如目録使者持参登
 城即遂披露奉備
上覧之処彼召使者於
御前奉拝謁畢
御気色快然可謂幸也莫労遠想猶使者可演説者
 也不宣

【抑誤ヵ、本コマ二箇所、次コマも同様ヵ】

          従四品左近衛少将雅楽頭
 寛文十一年八月九日     源朝臣忠酒
 回答 中山王館前
   又
 使价金武来貢芳簡披閲面話惟同柳去年自薩
 州太守光久就申達琉球国伝封之儀為安堵之
 賀儀被献進土宜件之使者捧之処使者被召出
 奉拝
御前御気色殊宜事甚々也可被安遠【見消ち「徳」】懐猶亦諭使
 者畢不宣
 寛文──── 従四品侍従兼内膳正源朝臣重矩
        ───── 但馬守──数道
        ───── 大和守──広之
        ───── 美濃守越智正則
  右中山王襲封之時来貢也

常憲院殿薨御御時琉球王弔書

  謹呈上一簡今歳《割書:己 | 丑》子春十日
先大樹薨御訃音達陋邸驚【見消ち「痛」】痛絶言語候由是今【見消ち「度」】度
 小臣大宜味親方到于薩州就我太守少将吉貴
 恭弔詞以詣大老【見消ち「聚」】取捨奏達所仰候誠惶謹言
  宝永六歳《割書:己 | 丑》     中山王尚貞【花押】

 信書遠来仍承特差使者大宜親方到于薩州
 弔慰困哀事達
上聴被嘉其厚誼候余悉州守少将可有伝説候
 恐々不備
  宝永六年十月廿七日  井上河内守  判
             大久保加賀守 同
             本多伯耆守  同
             秋元但馬守  同
             小笠原佐渡守 同
             土屋相模守  同
 回後
  中山王館前

 琉球帰服記《割書:薩州家蔵》
夫琉球国者自往古属我国者年尚■【*】雖然背【見消ち「田」】旧規
不来貢遣使再三敢不聴故達相国家康公之高聞
以欲伐之【見消ち「夫」】夫鎖之小島雖不屑慶長十四年己酉春に
樺山権左衛門尉久高為将平田太郎左衛門尉為副将
宰兵器者【見消ち一字】平田民部左衛門尉長谷場十郎兵衛
児玉四郎兵衛或山鹿越右衛門尉為船大将其外
佐多越後守何上掃部助本田弥六布采八左衛門尉
本田伊賀【見消ち「宋」】守頴娃主水助 白(シラ)坂式部■【廿ヵ】輔市成
蔵人伊集院【見消ち一字】□右衛門尉有馬治右衛門尉毛利内膳正を

【*:上から「ム・止・ハ」で一字】

柏原周防守村尾源左衛門入道隠栖市朱【見消ち二字】備後守
東郷阿波入道休半伊地知四郎兵衛友野次郎
衛門等為卒将都合其勢三十【ママ】余人艤兵船一百
余艘而二月廿一日觧纜以発向琉球国已著大島
振威又赴徳島即出向而防戦者殆千有余人其
中刎首者三百余人也故残党不日属于旗下畢
同年四月初一日欲到那覇之津彼徒卒為陰謀
張設鉄鎖津口警固焉故従異津上陸交【見消ち二字】鋒相戦
三日過騎将歩卒数百人《割書:梅北照|孝討死》終入都門 囲(カコミ)_二其城_一而
既欲攻時国王三司官及至士卒共請和於是不剣刃
其功終焉件旨告来之則以使奏于家康公《割書:使者貴島》
《割書:采女》飯【見消ち一字】牟礼喜之助也家康感其戦功以黒印賜彼島
於家久【見消ち「思」】恩恵莫大之也且又同年五月廿 五(五)日
供奉中山王来因茲翌年庚戌五月十六日家久定
将 彼王(ノ)上洛同八月六日到于駿府同八日家久伴
球王登城献相国公以段子百巻羅紗十二尋太平
布二百匹白銀一万両太刀一腰同十八日久会■【宴ヵ】
■【有ヵ】能常陸守殿御鶴殿亦為之警視聴再酒肴珍味
尽善尽美家久賜【見消ち一字】貞□脇指《割書:貞宗》同十九日賜暇翌
日立駿府同□五到□城同廿六日有上使同廿七日

【右丁】
亦上使■【令ヵ】賜八木千俵同廿八日登城自家久献将
軍秀忠公以段子百巻虎皮十枚白銀一万両太刀長光
献若君公以太刀馬紅糸百斤九月三日賜美膳
七日賜御茶十二日家久伴球王而登城十六日
美膳賜家久以馬■【令ヵ】桜田屋敷同日賜暇同廿日
立江戸経木曽路上洛敢不移年月中山王得赦
帰我本郡矣
 此書嘗薩州侍医狩玄 養(養)所蔵之本貞享初
 請其子道益以謄写
【左丁】
  国俗
地窄人多以海舶行商為業西通南蛮中国東通日
本我国日本南蛮商舶亦集其国都海浦国人為置
肆浦辺互市
国王楼居毎宴他国使為構仮楼与之相対中国及
我国書至具■【蒔ヵ】毒県出迎
有左右長史二人納王命有五軍統制府議政司
六曹
地常暖無霜雪艸木不凋落
水田一年再収毎十一月播種三月移秧六月収穫

【右丁】
即又播種七月移秧十月又穫
男女衣服与日本同小異
地界東西七八日程南北十二三日䅣【ママ】
 右出於朝鮮叔舟所作海東諸国記
  赤間か関にて
なかむれは秋も最中の色見へてもみちあかまの里の浦山
行々行々又行々日夜行々向武城上国風光宥念
好不才豈赦黙詩情    裏喬 薩州人
 万里の海山越後て旅館のつれ〳〵思ひ【見消ち二字】 やるも
 猶あさてやは
【左丁】
故心に夢も幾かまさめぬらん草の枕の夜半のあらしに
 返し           王城親雲上
たまさかにむすふとすれと夢さめて夜(よ)半の嵐の声の【見消ち一字】 みそきく
  琉球のはやり小歌
けよのふく ら(ら)しやなふにきやなたてるつふてをる花【?】
の露きやたこと
ちん 【見消し一字】やきやしとめてひの物かたりいつまてもとまれ
あかぬまつひ
九【見消ち「事」】重のうちにつほへし露まちは【見消ち一字】すおれしときく
の花と【見消ち一字】やよる

【右丁】
里と我な ら(か)やとしろの四はしらあとこのちおゆる
おきもひとつき
そて【見消ち一字】かちかいよらそとかゝらいよらよあらじ【見消ち一字】うす
かせのさためくれしや
あらひうのなかくましらひき御かちすれとかめさ
を(と)みしよはかま
あかれうちむかひとひよる あやは【見消ち一字】へるまつよ
まつ也【?】はへるいやいかたち
 右屋宜親雲上知念親雲上参等之時聞しとそ

  安永庚子仲春
【左丁、裏表紙見返し、白紙】

【製本裏表紙】
【管理ラベル「Ryu  090 Ryu K」】

中山伝信録

琉球沿革志

天保三壬辰年琉球人参府之節勤方書留

天保三壬辰年・琉球人参府・弐朱吹立御触写

【製本表紙】
【題箋、文字なし】

【表紙見返し、文字なし】

【右丁、白紙】
【左丁】
天保三壬辰年
 琉球人参府
 弐 朱 吹 立 御触写
【朱角印二つ、「■■■■図書館ヵ■」・「宝玲文庫」】

一琉球人参府に付見物罷出候者共大勢
 可有之候町中に留らせ候而は往来之障に
 可相成旨町中に立休らひ不申様可仕候事
一琉球人通り道筋町々人留も無之候得共
 行掛りに見物可致旨罷出候者前々ゟ

 多く道筋致群集夫々制候事着【?】
 候得共怪我人有之も難計候に付近日
 琉球人登 城幷御三家方御老中方
 若年寄衆え罷越候節上野拝参御当地
 出立之砌道筋之町々横町木戸有之候所は
 琉球人通り候少々前ゟ木戸立置可申候
 木戸無之町々は喰違竹矢来致尤馬
 駕籠等通候に差支無之様琉球人通り候節は
 人留可致候勿論用有之願又は病用或は
 見当之者に而も参先随に断候分は相通

 可申事
 右之通り可相触候
  十月
   申渡
一琉球人近々参府仕登 城退出幷
 御三家方御老方中若年寄衆え罷越候
 道筋之道橋下水板橋木戸矢来等
 繕可申候但早速出来兼候木戸矢来は
 取払候而苦かる間鋪分は取払可申候
  但火之元盗賊等之ため冬春と申【?】内

  町々仮木戸矢来申付置候処木戸矢来
  之内見苦敷分は琉球人通候節
  計為取払相済候はゝ早速如元
  取付候様可申付候
 右は琉球人え馳走と申に而は無之候間
 馬足不危候様手軽に取繕可申候但難心得
 事は早々書付可差出候
  辰十月
 一看板  一暖簾
 右は先年も一様に無之勝手次第取外し致候

 此度も其通り相心得尤見苦敷看板は
 取外し可申候事
 一幕屏風
 右同断右之内二階には有合候簾掛
 可申事
一横町見通場所矢切不及候事
一町屋之内明地
 右仮囲には不及竹垣葭簀に而取囲
 可申事
一町々木戸無之横町縄張致棒突人足

 差出置可申事
一琉球人登 城之節は芝大隅守
 屋敷ゟ幸橋屋敷迄夜中罷越候由に
 候間道筋町々相応に挑灯差出可申事
一御暇之節退出候刻万一夜に入候はゝ町々え
 挑灯差出候儀同断
一〆切人留手次等に不及候事
一日本橋肴商売之事
 右は上野 御宮参詣帰路に候故
 刻限夕方に相成可申間平生之道筋可

 相済事
一宇田川橋左右矢切致候に不及寄麗に
 掃除片付置可申事
一高輪水茶屋冬之内は有之間鋪候
 若有之候はゝ取払可申事
 至着之日登 城之日其外所々え
 出候日も大火焚候商売不及相止候事
一町々火消道具取入可申事
一名主裏付上下町人羽織立附着可申事
 右之通従町 御奉行所被 仰渡候間

 前書之趣相心得間違無之様取計可申候
  辰十月
   申渡
一琉球人通り之節見物之者制方かさつに
 無之様可致候且通行筋に琉球表有
 之旨書記候暖簾看板等取入可申事
 右之趣相心得可申事
  辰十月
  琉球人登 城道筋
一芝松平大隅守屋鋪ゟ将監橋増上寺

 表門前夫ゟ通町芝口橋際ゟ左え幸橋
 御門え入大隅守屋鋪前脇松平肥後守
 屋鋪脇松平大膳大夫屋鋪脇前通り
 日比谷御門八代洲河岸龍之口水野
 出羽守殿屋鋪脇前大手御門登
 城
    御本丸ゟ西丸え登
    城幷退出道筋
一内桜田御門ゟ水野越前守殿屋鋪
 前通り外桜田御門上杉弾正大弼

 屋鋪脇前道松平肥後守屋鋪脇を
 大隅守屋鋪え立寄夫ゟ登
 城之道筋
   紀伊殿尾張殿え罷越候道筋
一芝松平大隅守屋鋪ゟ赤羽根橋
 土器町西久保八幡前天徳寺裏門前
 相良壱岐守屋敷前道御堀端え出夫ゟ
 虎御門え入松平備前守屋鋪前脇
 井伊掃部頭屋敷後永田馬場松平
 出羽守屋鋪脇前紀伊殿御屋敷脇通

 井伊掃部頭中屋鋪脇前紀伊殿
 中屋敷脇前喰違通紀伊殿赤坂
 御屋敷え罷越夫ゟ御堀端通り尾張殿え
 罷越市谷八幡前夫ゟ立戻り御堀端
 通り四ツ谷御門え入麹町通半蔵御門外
 右ゟ火消屋敷脇御堀端通松平河内守
 屋鋪脇通西尾隠岐守屋鋪前脇通
 青山房次郎屋鋪前脇新橋ゟ出
 愛宕下通左え阿部大膳屋鋪脇前
 秋田信濃守屋鋪脇前通

 中川修理太夫中屋鋪前脇宇田川町
 増上寺表門前通将監橋夫より芝
 大隅守屋鋪
   御老中若年寄衆え罷越候道筋
一芝大隅守屋敷ゟ将監橋増上寺表門前
 夫ゟ通町芝口橋際ゟ左え幸橋御門え入
 大隅守屋鋪前脇松平肥前守屋敷脇
 松平大膳大夫屋敷脇前通日比谷御門
 八代洲河岸馬場先御門前ゟ右え大名小路
 永井肥前守え罷越夫ゟ田沼玄蕃頭殿

 松平和泉守殿増山河内守殿え罷越
 立戻り林肥後守殿え罷越松平丹波守
 屋敷脇道松平伯耆守殿大久保
 加賀守殿え罷越夫ゟ小普請方定小屋
 前左え酒井雅楽頭屋鋪前通夫ゟ
 水野出羽守殿え罷越和田倉御門え入土手
 通り小笠原相模守堀大和守松平
 周防守殿柳川内膳正水野越前守殿
 え罷越夫ゟ松山下野守殿本多豊後守え
 罷越外桜田御門上杉弾正大弼屋敷前

 松平大膳大夫屋敷脇通夫ゟ元之道筋
 芝大隅守屋鋪
   上野御宮参詣道筋
一芝松平大隅守屋敷ゟ将監橋増上寺表門
 前夫ゟ通町芝口橋際ゟ左え幸橋御門え入
 大隅守殿前脇松平安芸守屋敷前
 松平河内守屋敷脇前井伊掃部頭屋敷前
 御堀端通半蔵御門え入竹橋御門出平川
 御門前民部卿殿屋形前通神田橋御門出
 本多伊予守屋敷脇通稲葉丹後守

 屋鋪前戸田因幡守屋敷前筋違橋御門出
 御成道通上野黒門文殊楼通御宮え
 参詣夫ゟ文殊楼え出凌雲院前通り
 本坊え罷越夫ゟ大隅守宿坊明王院え
 立寄罷帰り候節元之道筋筋違橋
 御門入須田町通日本橋通芝口橋増上寺
 表門通将監橋夫ゟ大隅守屋鋪

   着之筋
 品川片町通田町壱町目より松平

【右丁】
 壱岐守屋敷東角辻番所前え廻夫ゟ
 大隅守屋鋪
【左丁】
    覚
 此度世上通用之ため弐朱之歩判金
 吹立被 仰付候間右歩判八ツを以金壱両
 之積尤銀銭共為替小判弐分判壱分判
 壱朱判同様之割合に相心得追々弐朱銀に

 取変無滞可致通用候
 右之趣国々えも可触知もの也
    覚
一右金銀弐朱判真字弐分判共引替所
 之儀当辰十月迄被差置候段去卯年相触
 候処今以引替残有之真字弐分判之儀
 猶又来巳十月迄は是迄之通被差置候且又
 西国中国筋は別而右金銀引替残有之
 趣に相聞候諸家領分場広之地抔
 有之自引替方手後れ候場所も有之哉に付

 領主に而弥遂穿鑿最寄引替所に而
 引替候様可致候
一真字弐分判之儀頓而通用停止可被
 仰付候間此節精出し引替可申幷右金銀
 弐分判共所持之者は早々引替所え差出
 来巳十月迄銀急度引替可申旨遠国
 末々迄相心得候様国々在々御領は御代官
 私領は領主地頭ゟ入念可申付候
 右之趣可相触候
   十月

    覚
一此度世上通用ため吹立被 仰付候
 弐朱金之儀来廿四日ゟ可致通用候
 尤先達而相触候通小判弐分判壱分判
 弐朱銀壱朱金銀相交無差別取引
 可致候条通用差滞申間敷事
一弐朱金両替に付切賃之儀弐分判壱分判
 弐朱銀壱朱金銀同様に相心得取替可
 致事
 右之趣可相触候

【右丁】
   十月
【左丁、製本裏表紙見返し、文字なし】

【製本裏表紙、文字なし】

琉球藩史

《割書:小林居敬編次|靑江 秀刪補|米夲少藏校正》琉球藩史  貳之巻

琉球藩史 卷之二
               小林居敬編次
               靑江 秀刪補
               米夲少藏校正

尚圓王
尚圓王名ハ思德金、金丸ト號ス應永二十二年乙未生《割書:ル》
父《割書:ハ》尚稷本姓ハ源。義本ノ裔ナリ惠平屋島ノ里正トナ
リ瑞雲ヲ娶テ金丸ヲ生ム金丸生レテ足底ニ痣アリ
其色黄金ノ如シ泊村《割書:ノ》人大安里相《割書:シ》テ曰《割書:ク》必ス貴

【左頁上部】
王金丸按司添
未續王仁子ト
號ス踐祚ノ次
月ニ神アリ此
號ヲ進ム生レ
テ容貌威厳粛
然トシテ王者
ノ相アリ父ヲ
輔ケテ耕ヲ為《割書:シ》
䏻ク其徳ヲ宣
フト云

カラン年二十父母俱ニ䘮ス弟宣威甫テ五歳金丸困
苦カヲ農事ニ盡ス時ニ天久シク雨フラス田水皆涸
ル獨金丸ノ田ノミ水アリ村人金丸ヲ以テ水ヲ盜《割書:ム》ト
シ金丸ヲ殺サントス金丸懼レ田園ヲ棄テ妻及ヒ弟
ヲ携ヘ逃レテ國頭ニ隠ル後又首里ニ至リ越來王子
尚泰久ニ依ル泰久其人トナリヲ異トシ王尚思達ニ
薦メ家來赤頭トナス享德元年壬申黄冠ヲ服スルヲ
許サル泰久王位ニ卽ニ及テ内間領主トナル管内大
ニ治《割書:マ》ル長禄三年己卯御物城御鎻側官《割書:卽《割書:チ》耳|目官》トナル泰
久甚《割書:タ》信託ス寛政元年庚辰泰久薨ス世子尚德位ヲ嗣


剛愎自ラ用ヒ擅ニ良民ヲ殺ス金丸諫メテ曰君主ノ
道德以テ身ヲ修メ仁以テ民ヲ養フベシ今王妄《割書:リ》ニ典
法ヲ壞リ擅《割書:マ》ニ無辜ヲ殺ス恐クハ民ノ父母タルノ道
ニ非ス願クハ忠諫ヲ納レ前非ヲ改メヨ尚德聽カス
尚德久高ニ祭リ環テ與那原ニ至ル從者饑色アリ尚
德命シテ食ヲ給セス金丸諫テ曰《割書:ク》先王久髙ニ祭リ環
テ此ニ至レハ必ス扈從ニ酒食ヲ給ス著《割書:シ》テ典例トス
請フ暫ク駕ヲ停メテ酒食ヲ賜ヘ尚德大ニ怒ル群臣
危懼ス金丸衣ヲ曳キ哭シテ諫ム尚德己ムヿヲ得ス
之ニ從フ後尚德益放縱金丸屢極諫スレトモ聽《割書:カ》ス慶仁

下等小学日本地誌略図問答

五事略

琉球雑話

【表紙 題箋】
琉球雑話  全

【右丁 表紙裏(見返し) 文字無し】
【左丁版面右側に蔵書印】
寶玲文庫
【本文行頭欄外に丸印】

【本文】
琉球雑話序(リウキウザツハジヨ)【この行の下部に角印あり「烏江」ヵ】
夫此書(ソレコノシヨ)タルヤ。琉球国(リウキウコク)ノ
天度(テンド)。地理(チリ)。人物(ジンブツ)。風俗(フウゾク)。土(ト)
産等(サントウ)ニ至(イタ)ルマテ書記(シヨキ)ス。日(ニチ)
本薩州(ホンサツシウ)ヨリ。彼島(カノシマ)ニ至(イタ)ル

【右丁】
ノ【この字の上に「合」の丸印を押印】海路(カイロ)。三百 余里(ヨリ)ヲヘ【この字の上に「合」の丸印を押印】ダツ
ト【この字の上に「合」の丸印を押印】イヘドモ。座(イ)ナガラニシテ【この字の上に「合」の丸印を押印】。心(コヽロ)
ヲ【この字の上に「合」の丸印を押印】彼島(カノシマ)ニ遊(アソバ)シムルハ。亦面(マタヲモ)
白(シロ)【この字の上に「合」の丸印を押印】カラズヤ。其外(ソノホカ)此(コノ)【この字の上に「合」の丸印を押印】世界(セカイ)ノ
サイゲンヲ見(ミン)トテ。海中(カイチウ)ニ【この字のやや下に「合」の丸印を押印】

【左丁】
乗出(ノリイダ)シタルハナシ。又海中(マタカイチウ)ニ
異類異形(イルイイギヤウ)ノ獣(ケダモノ)魚等(ウオトウ)ア
ルノ。奇談(キダン)ヲ書記(シヨキ)ス
【瓢箪型の印】
神田商人
【其下に角印】
■■

【右丁 文字無し】
【左丁】
  琉球雑話(りうきうざつわ)
夫(それ) 天地世界(てんちせかい)の濶大(くわつだい)なる事(こと)は
人(じん)力をもつて其際限(そのさいげん)をきわむべ
からず仏説(ぶつせつ)にいわく此(この)南瞻部(なんぜんぶ)
州(しう)に大国(たいこく)十六あり中国五百有り
十千の小 国(こく)あり粟散国(そくさんこく)とて

【右丁】
粟(あわ)をちらしたるごとくの小島(こしま)は無量(むりやう)
にてあげてかぞへがたし其国々(そのくに〳〵)島(しま)
々(〴〵)の風土(ふうど)又人物おなじからず米穀(べいこく)
豊饒(ふにやう)なる国(くに)あり又一 向(こう)五こくなくし
て海中(かいちう)のうろくずをすなどりして
食(しよく)にあつるの島(しま)あり又あかはだかに

【左丁】
て色(いろ)くろく其(その)生れつき勇悍(ゆうかん)にして
剛強(こうきやう)なりといへ共 愚智(ぐち)にて禽獣(きんじう)
におなじき島(しま)あり琉球(りうきう)等は日本に
隣(となり)たる島(しま)にて五穀豊饒(ごこくふにやう)たる島(しま)也
此書(このしよ)琉球国(りうきうこく)の風俗(ふうぞく)人物等をしら
しめ其外 万国(はんこく)の奇談(きだん)をあつむ

【右丁】
夫琉球国(それりうきうこく)は日本 薩摩(さつま)の国より
海上 行程(かうてい)三百余里をへだつもと朝(てう)
鮮国(せんこく)の幕下(ばくか)なりしが近来 彼国(かのくに)に
も伏(ふく)せず勿論(もちろん)日本へも陏(したか)【「隨」の仮借】はざりき
然るに慶長十四乙酉年四月上旬
の比 薩州(さつしう)の大守に命(めい)じて琉(りう)

【左丁】
球(きう)を征伐(せいばつ)せしめ給ふ依て十万 余騎(よき)
をもつて彼国(かのくに)を征(せい)する事いにしへ唐土(とうど)
三国の時 諸葛武侯(しよかつぶこう)か南蛮(なんばん)を
征伐せしごとく謀事(はかりごと)機(き)にのぞんで
変(へん)に応(をふ)じ進退度(しんたいど)に当り人数を
損(そん)ぜず智勇(ぢゆう)をもつてせしかば六風

【右丁】
の草木(さうもく)をなびかすがごとく日本の威(い)
風(ふう)になびき永く日本の属国(ぞくごく)と成り
依し 御家督の節は日本関東
に参府して御祝義申上る事とはなり
ぬ日本ゟ琉球国(りうきうこく)にいたる船の揚(あがり)
場に関所あり要渓灘と名付く夫

【左丁】
ゟ五十里へて城郭(ぜうくわく)ありこれを千里
山といふ前に流るゝ川有り岩石岨立(がんせきそばたち)
洪逆立(なみさかだち)漂(ひやう)〳〵としてあたかも龍門の
たきともいひつべし此城より七里ばかり
隔(へだて)て辰巳の方にあたりて肺竹城(はいちくぜう)と
て三里四方の城地あり夫ゟ南の方は

【右丁】
海上(かいせう)にして水面蒼々(すいめんさう〳〵)として十里余り
西の方に当りて一ツの島あり此島凡二里
四方爰に米倉(こめくら)あり米穀雑穀(べいこくざつこく)を納る
蔵百七十ヶ所あり依て米倉島と名
付く左りへ廻りて湊あり是を乱炮録(らんほうろく)と
いふ此所に又一ツの関所あり方一里也

【左丁】
夫より五里 続(つゞき)たる松原の内に平城
あり是をへて三里めに高さ三十丈の
揚出しの楼門(ろうもん)あり此門を高鳳門(かうほうもん)と云
是より南側左右には商家軒をなら
べ市店をかまへ立ならふ此町の長さ凡
百七十町余夫より一ツの門有是を都(と)

【右丁】
入門(にうもん)といふ都の惣門なり是ゟ前後
左右に諸官人の屋敷大身小身入
乱(みだ)れ軒(のき)をならべたる事凡数万券軒此
間一里斗打越 石垣(いしがき)あり高さ二十丈
余にして惣築地(さうついぢ)廻りに堀(ほり)をかまへ
方四里の城地(しろち)也四方に橋(はし)をかける事

【左丁】
百七十二ヶ所 後(うしろ)に日頂山(につてうさん)とて高山あり
是より山を越(こへ)て八里 後詰(ごづめ)に城あり
右は聞伝へたる事をつど〳〵と書しるしいつ
ては彼島(かのしま)を一見せざればこれが是非(ぜひ)
をしらず彼島の地理をしりたる人 幸(さいわい)
にたゞし給へ又 通商考(つうせうかう)にいわく

【右丁】
琉球国(りうきうこく)過半は福州(ふくしう)に従ひて唐(とう)ゟ
往来もこれあり薩摩(さつま)より往来の
所もこれある也海上さつまゟ三百余里
南海(なんかい)の島国也四季 暖(あたゝか)なる国(くに)なり
北極(ほくきよく)地を出る事二十五六度

【左丁】
註(ちうして)云く北極といふは北のいごかぬほしの事なり
此ほしをしんぼうとして天体(てんたい)がまわる也
天のめぐりを三百六十 度(ど)にわりて此
星(ほし)が地ゟ出る事が二十五六度(ど)と
いふ事としるべし左に図(づ)をあら
はす

【右丁】
人物(じんぶつ)は朝鮮(てうせん)に似(に)て別也
詞も中花【中華のことか】と通ぜず此国に
は日本 鎮西(ちんぜい)八郎 為朝(ためとも)の
寺あつく位牌(いはい)を安置
すとぞ又此国の詞には日本
の詞とおなじき事多し

【右丁 右下】
地ゟ出る事
二十五六度

【左丁】
酒をみき食(しよく)をそといふの類なり最
仏神儒道(ぶつしんじゆどう)をたつとび日本の風義【「風儀」のこと=行儀作法】を
ならふ者多し女人家内を主とり
男子は耕作商売(こうさくせうばい)をつとめ常に琵琶(びわ)
三味線をひきてたのしめり此国の
舟日本の地に漂流(ひやうりう)の時其所

【右丁】
より長崎へ送(おく)りとゞけ長崎ゟ薩摩(さつま)
へ渡して帰国(きこく)す
      土産
木綿(もめん)     芭蕉布(ばせうふ)   黒砂糖(くろさとう)
あわもり酒  火の酒   薬種(やくしゆ)《割書:色々》
藺筵     竹器(ちくぎ)《割書:色々》   骨柳(こり)《割書:色々》【行李のこと】

【左丁】
布     塗(ぬり)物《割書:道具 青貝色々》
土焼物   米
右之外色々これありといへ共皆福
州に交易(かうゑき)する類多し
 私にいわく今世間に専 流布(るふ)する三
 味線はもと琉球国(りうきうこく)ゟ渡(わた)るといふ

【右丁】
おらんだ人此 世界(せかい)のはてを見きわめん
とて舟にてのりいだしたる事 紅毛談(こうもんだん)
といふ書に出たり其文を爰(こゝ)にのする
元禄【「録」とあるは誤り】年中に来りしおらんだじんに荒
井氏いろ〳〵の事を問れし中 彼(かの)かび
たん物語せしは我等本国にて五十

【左丁】
年以前の事なりしに世界(せかい)のはてを
見極めんといへる相談いたし船十二 艘(さう)
仕立 糧米塩薪(りやうまいしほたきゞ)の類まであまた積
入舟三 艘(ざう)で東西南北へ遣はしける先
此地をさる事二三千里ばかり東へこぎ
行しに何となく船おもくなり後には

【右丁】
風もあるに船さきへとては行す幾(いく)
度(ど)こげども西へ〳〵と舟かへり一向行こと
あたはず夫(それ)ゟ本国へ帰りしとなり是は
東方 発生(はつせい)の気(き)甚だつよきゆへ如此
あるらんと申き又南方をさして
行けるものいへるは是も二三千里南へ

【左丁】
こぎ行しに其丈十丈斗或は二十丈斗
の瀧(たき)南へ落て一向船を下の海へ落す
べき術(てだて)なく是非(ぜひな)なく帰りしとなり
此処にて遠目鏡(とふめがね)を出し南の方を
見けるに凡六百里もあらんと思ふ所に
また瀧(たき)ありて南ゟ北に向て落(をち)けるを

ゝ右丁】
見しと是は世界(せかい)のまよこにてもあるら
んと評判しけるとなりさて西へ行し
ものゝいへるは西をさして二三千里も漕(こぎ)【艚】
行しに天気(てんき)の甚だくもりたる様子にて
先へ行ほどだん〳〵くらく後には其 空(くう)
中(ちう)何やらん手にさわるやうに覚しが蜘(くも)の

【左丁】
巣(す)を一面はりたるごとくにて後には其
蜘(くも)の巣(す)も甚だつよくおしやぶり〳〵舟
行の及ぶたけはこぎしが後には水面も
彼もの一面にありて一 向(こう)舟とをらざるゆへ
是非なく本国(ほんごく)へ帰りしとなり何たるわけ
と知たる人なしさてまた北へ行たる舟の

【右丁】
ものゝ申せしは是も三四千里もこぎ行し
に是には余(よ)ほどの島(しま)ありけるゆへもし
ひらきなば生産(せいさん)の便(たより)【「さより」とあるも誤記と思われる】ともなるべきとて
人々五十人ほどあげ置き俵米(ひやうまい)など
多くあてがい来年又来るべきとて残り
は帰りけり此処殊の外北によりし国なれ

【左丁】
ば昼半年夜半年といひし国は此処
なりとぞ昼半年の時 草木葉(さうもくは)を出し
夜半年のときみな枯るゝとぞさて来
春 本国(ほんごく)より来り彼島(かのしま)へあがり見ける
に去年留置ける人数不残相はてさつ
するに此国殊の外なる寒国(かんこく)ゆへ夜

【右丁】
半年の時じこと〴〵く凍死(こゞへしゝ)たるていと
相見へ其のちは何の利用もあるまじ
きとて往来せざるなり
又通商考(つうせうこう)にいわく大海の中には奇(き)
怪(くわい)の生類甚だ多し獣(けだもの)のごとくのもの
あり人のごとくのものあり異魚(いぎよ)のたぐひ

【左丁】
あげてかぞふべからず其内 異国人(いこくじん)の説(せ)
話(わ)に聞伝へたる者あら〳〵記し児童(じどう)
の啼(なき)を止むるが為とす大魚あり長(たけ)
十四五丈広き事一丈二三尺目の大さ
三尺腹の下に口あり濶(ひろ)さ七八尺 歯(は)の
わたり一尺ばかりなるは三十枚斗也

【右丁】
此 魚(うを)大海より陸地(くがぢ)近くいたる時は
必す大風おこるといへり又大魚あり身
の長(たけ)二三十丈 頭(かしら)に大きなる穴二ツあり
此穴より水を吐(はき)出すに河(かわ)のごとくつよ
し大洋(たいよう)を渡る大船に遭(をふ)ときは則(すなわち)
其 首(かしら)を揚(あげ)て水を船中に吐(はき)いるゝ

【左丁】
は時に水 満(みち)て船 沈没(ちんぼつ)す此ゆへに船
此魚にあふときは酒を樽に入て海中に
投いるれば是を呑てされりたま〳〵浅き
処に漂(たゞよ)ひいたる事ある時人是をころ
して油を煎(せん)ずといふ又大魚あり長(たけ)
二十四五丈名を仁魚(じんぎよ)と号す船を損(そん)

【右丁】
じ或(あるひ)は過(あやまつ)て海中に没溺(ぼつでき)せんとする
時此 魚(うを)たま〳〵これにあふ時は能人を
保護(ほうご)して助(たす)くる事あり或は漁人(ぎよじん)等悪
魚の為にくるしめらるゝに此魚たやすく
往て悪魚を追(をい)しりぞくとぞこ此ゆへに
其辺の諸国(しよこく)此魚をとる事を大きに

【左丁】
禁(きん)ずるの法也といふ又一魚あり其くち
ばしの長さ一丈歯は鋸(のこぎり)の如く力 強(つよ)く
猛(たけ)し諸の大魚と戦(たゝかつ)て必ずかつ
此時海水 紅(くれない)なりたま〳〵此魚くちは
しをすつて往来の船にふるれば
船則やぶる諸舶(しよはく)甚だ是をおそる

【右丁】
又一 魚(ぎよ)あり其大さ数十丈力甚だつよし
船にあふ時は首尾(しゆび)をもつて船の両頭
をいだく是をうたんとして船中 動(どう)ずる
ときは舟 即(すなわち)くつかへる是等の事あるを
もつて洋沖(ようちう)にては時々 大鳥銃(いしびや)【「石火矢」のこと】を
放(はなつ)て海魚(かいぎよ)を驚(おどろ)かすときは船を避(さく)とぞ

【左丁】
又海中に人あり是を海人と号(ごう)す
是に二 種(しゆ)あり其一ツは全体(ぜんたい)皆人にし
て頭髪(づはつ)鬚眉(しゆび)こと〴〵くそなはれりたゞ
手足の指(ゆび)水鳥の如く相連なつて水
かきあり何れの国にてか是を捕(とり)て国
王に献(けん)ず是にものいへ共 応(をう)ぜず飲(いん)

【右丁】
食(しい)をあたゆるにくらはず終(つい)に狎(なる)べからずと
して本の海に放(はな)つ盻顧(へいこ)して人を
視(み)て掌(たなこゝろ)をうち大笑(たいせう)して没(ぼつ)し去て
復(また)見へず是一 種(しゆ)なり又海人あり
総身(さうみ)に肉の皮(かわ)有て下にたれては
かまを着たるがごとく身体(しんたい)について生じ

【左丁】
たるものにて離(はな)るゝ事なし其余は皆 人(じん)
体(たい)なり陸地(くがぢ)に登りて数日にても死(し)な
ずといふ已上二 種(しゆ)共に海中(かいちう)にありと
いへ共常に何れの所にありといふ事を
しらず又女人もありといふ最(もつとも)人に似(に)て
人にあらす海獣(かいじう)の類(たぐひ)なる者か

【右丁】
儒医
  華坊素善撰

天明八《割書:申》年
    正月吉日
  神田かぢ町二丁目
      本屋彦右衛門板

【左丁 白紙】

【裏表紙 文字無し】

琉球国事畧

大日本籌海全図(部分)

大日本籌海全図

中山伝信録

琉球来朝記

【製本表紙】
琉球来朝記  自一至七

【表紙見返し】
【左丁】
【題箋】
琉球来朝記 一
【右上付箋】
一島津家久琉球を
 攻取て日本え令
 来使次第
一琉球人古来度々
 日本え来使之次第
【右下付箋】
琉球来朝記□□
 【楕円印「吟味」】 国

【以下、嶋は常用漢字で翻刻】

【右丁、中表紙見返し、白紙】
【左丁】
《割書:寛|延》琉球来使記【朱角印「根津文庫」】
   惣目録    【角印「宝玲文庫」】
  巻之一
一島津家久琉球を攻取て日本へ
 令来使之次第
一琉球人古来度々来使之次第

【天保三年版『琉球入貢略』に「寛延元年十二月十五日、中山王尚敬、賀慶使具志川王子与那原親方等をして方物を貢す」の記載あり】

  巻之二
一此度琉球来使之儀薩摩守え
 品々被 仰付之次第
一右御用懸り御役人被 仰付之次第
一右に付諸向え御触書
  巻之三
一琉球人来朝旅行幷人数之次第
一琉球人江戸表往来道筋等之
 次第
  巻之四
一琉球人官職姓名幷和解
一同行列幷諸道具絵図

  巻之五
一琉球人御本丸に而御礼規式
 之次第
  巻之六
一琉球人登 城に付大広間西之
 方装束着座之面々
  巻之七
一琉球人登 城御礼に付大広間
 東之方装束着座之面々
  巻之八
一琉球人登 城御礼大広間南之
 方装束着座之次第

  巻之九
一琉球人西丸に而御礼御規式
 之次第
  巻之十
一琉球中山王ゟ来翰幷老中ゟ
 右に付返翰
一琉球人
 三御所様え品々献上物之次第
  巻之十一
一大御所様え 西丸に而献上物之
 御規式次第
  巻之十二

一琉球人登 城音楽幷御暇
 御規式之次第
  巻之十三
一同 西丸に而被下物之御規式之次第
  巻之十四
一琉球人十二月十八日登 城有之
一右音楽之節楽之名幷楽歌
 楽人之次第幷座楽之絵図
一琉球人老中御三家廻り幷
 帰国之次第幷井上因碩碁之図
   以上

琉球人来朝記巻之一
  島津家久琉球を攻取て
  始て日本へ来朝せしめし事
慶長十四年二月薩摩の国主
島津陸奥守家久
東照宮の命を承り琉球を攻

しむ国は東海の南に在て大琉球
小琉球といひ閩越福建(ミンエツフクケン)の地を
相対し順風なれは七日にして福建ゟ
琉球に達す薩州ゟ三百五拾里
にして飈風にしては十日を過す
して至る太閤秀吉公の時琉球ゟ
市買交易(イチガイカウエキ)を通せんため使を通し
朝貢(チヤウカウ)す薩摩大隅船路能きにより
て船の往来有り大(タイ)-明(ミン)是を聞て
琉球を責め日本の通信を絶しむ
是よりして琉球より通し無き事
拾余年也家久此事を申上る

家久家臣を撰ひ横山権左衛門久高を
大将とし平田太郎左衛門を副将として
兵士八千余人兵船百余艘を琉球へ
遣す中山王国中の兵五千余人を
以て日本山に陣を取る此山は中山
王都より百里計有て日本の界
に在り島津が兵日本山に至り弓
鉄炮にて急に攻けれは琉球の兵多く
討れ敗軍して逃去る同年四月
島津が兵船を進て那覇津(ナバノツ)に入る
津の兵船鉄 鎖(クサリ)を津の口に張る
島津が兵他の津より上り相戦事

三日にして都に入り王城を圍(カコ)み
大に破る中山王幷同宮みな降参を
乞けれは横山等早船を以て家久に
注進す家久使を江府駿府に馳て
此由を申上る五月中山王 虜(トリコ)となり
けれは島津が兵中山王幷小子姪
妃妾を皆捕へ国兵を治て還る家久
中山王尚寧を客館に置き然に
撫育して駿府江府へ注進す七月
島津が注進を駿府に達しけれは
東照宮大に悦給ひ家久に下し文
有りて其功を賞せられ琉球

国を賜ふ
台徳院殿よりも兵庫入道義弘
幷家久に書を賜りて大功を
褒せらる翌年八月二日島津陸奥守
家久は中山王 尚寧(シヤウネイ)を引倶して
駿府へ来朝す八日登 城有り
東照宮烏帽子直衣を着し給ひ
大広間上段に 御着座尚寧段子
百疋【見消ち「薩」】羅紗百廿尋芭蕉布百疋
太平布弐百疋を献し拝礼畢て
退く家久は太刀白銀千枚を献し
拝礼して尚寧駿府に在るの間

其弟病死しけれは暫く逗留し
十八日家久幷中山王尚寧御饗宴
を賜り猿楽を観(ミ)せしむ頼宣《割書:紀州の|御先祖》
頼房《割書:水戸の |御先祖》舞給ふ其 間(間)酒宴有り
東照宮ゟ家久に貞宗の太刀脇指を
賜る十九日家久尚寧御暇候て
賜物有り廿五日家久尚寧を引倶
江戸に参着す廿六日
台徳院殿 仰に依て家久か遠
方ゟ中山王を召連来る事を
労し給ひて御使を家久か桜田の
館に遣さる廿七日家久か館へ再ひ

上使有て白米千俵を賜ふ廿八日
尚寧登 城
台徳院殿に謁し奉り段子百疋
芭蕉布百疋太平布弐百疋を
献し拝礼して退く段子百疋
白銀千枚長光の太刀を献し
太刀一腰馬壱疋絲百斤を【*】
大猷院殿に献し拝礼畢而九月
十二日家久尚寧に饗宴を賜ひ
後上使を桜田の宅へ下し遣は
され御馬を家久に賜り帰国の
御暇有り廿日家久尚寧を引

【琉球大学所蔵『琉球人来朝記一、二』は「糸」の字を使う。】

倶し木曽路より国に帰る初め
尚寧
台徳院殿に謁し奉る時に含
有りけるは琉球国は累代中山王
の居なれは他姓の人を立へからす
本国に帰り祖考の祀(マツリ)を継へしと
仰付られ家久にも其 命有り
て琉球の年貢(ネング)を賜ふ家久尚寧
を引具して薩摩へ帰り中山王
其外の俘囚(トラハレ)ともを悉く琉球へ
送り還し薩摩より監国(カンコク)の置
手法制を定め毎年琉球の貢(カウ)

 税(ゼイ)六万石を収納(シユノウ)すと云々
【ここまで琉球大学所蔵『琉球人来朝記一、二』とほぼ同文】
  琉球人前々来朝之次第
室町将軍義政公
 宝徳三辛未年七月
東照宮 御代
台徳公
 慶長十五辛戌年八月
大猷公御代
 寛文十一辛亥年七月
常憲公御代
 天和弐壬戌年七月
文昭公御代

 宝永七庚寅年十一月
有章公御代
 正徳四甲午年十一月
大御所公御代
 享保三戊戌年
当御代
 寛延元戊辰年十二月
  当辰九月二日三日大風而
  薩州拾八万石余損毛有之
  同月九日琉球人琉球国
  発足

【右丁、白紙】
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記 二
【付箋】
一此節琉球来使之儀
 薩摩守え品々被
 仰付之次第
一右御用懸り御役人被
 仰付右に付諸向え
 御触書

 琉球人来朝記巻之二
一今度就 御代替如先例松平大隅守
 継豊琉球人同道可致之処病気
 に付去々寅の十月廿一日願之通隠居【*】
 同姓薩摩守宗信え家督被
 仰出同年十一月十八日薩摩守儀

【寛延元年(一七四八)は戊辰である】

 従四位少将に転任被 仰出去卯年
 四月十六日老中本多伯耆守正珍
 為 上使被成下国元え之
 御暇初而被 仰出来冬琉球人
 同道可致旨演達之
一辰八月十一日
      《割書:老中  》松平右近将監
 右琉球人御用懸於奥被 仰付
      《割書:大目付 》河野豊前守
         能勢因幡守
 右者当冬琉球人参府に付
 御用懸被 仰付之旨於新部屋

 前松平右近将監被申渡之
      《割書:御目付 》
        中山五郎左衛門
        土屋長三郎【二名上に結び線あり】
 右同断之旨於同席板倉佐渡守
 被申渡之
一琉球人参府に付通筋町中え
 御触書
 一火之元念入可申事
 一道筋壱ヶ月前ゟ車御用
  之外は無用之事

 一通行之節掃除可致事
 一参懸り候節計人留可致候事
   但医者取揚ばゝは断次第
   可通候事
 一壱町に提灯八張ツヽ之心得
  可申事
 一登 城之日終日銭湯たき
  申間敷事
 一煤道筋十二月十日前払
  可申事
 一琉球人通行之節指さし
  仕間敷事

【右丁】
 一門開き見物之儀不苦候
  見込不申候様幕打可申事
 一二階に而見物之儀はすたれ
  かけ可申事
   以上
【左丁】
 琉球人御本丸え登城同日
 西丸えも登 城有之候付御触書
御本丸ゟ西丸え被相越候面々は
蓮池御門通り罷越 西丸中の口ゟ
登 城退散之節は同所御玄関
より大手御門通り退散之事

一西丸え登 城無之面々は琉球人
 御本丸より退散後大手御門通り
 退出之事
  但し内桜田御門之方え退出之
  面々は琉球人西丸大手御門
  入候を見合退出之事
一大手御門内桜田御門西丸大手御門
 下馬に相残り候供之分は主人登
 城候はゝ直に神田橋御門内酒井左衛門尉
 屋敷脇和田倉御門内馬場に付
 桜田御門外え相払差置申候且亦
 下乗に相残り候乗物挟箱幷供廻りは

 小笠原右近将監屋敷前本多伊予守
 屋敷後明地え相払差置出仕之
 面々退散之節屋敷向寄之方
 右之場所々々之内相廻り居候様
 御申付可被成候尤供廻り差引之
 ため御徒目付御小人目付差出候間
 諸事差図相用候様是又御申
 可被成候
  十一月   中山五郎右衛門
        土屋長三郎
   琉球人登城之節出仕之面々
   供廻り御城内差置候場所覚
一御玄関前冠木御門外に而相残り候

 供廻り幷御玄関腰懸召連候供廻り
 台部屋口御門内え相払差置申候事
一中の口ゟ登 城之面々供廻りは中の口
 御門片寄差置申候事
一諸大名留守居御座敷向は勿論
 中之口辺にも一切差置不申候主人
 刀持草履取差置候場所え相払
 候事
   琉球人登 城之節下乗ゟ
   内供廻り召連候覚
一四品以上幷万石以上共下乗
 内御玄関前冠木御門外迄

 侍弐人草履取壱人雨天之節
 傘持壱人召連冠木御門ゟ内は
 刀持壱人雨天之節は手傘用持候事
一壱万石以下下乗より内え侍
 壱人草履取壱人召連御
 玄関前冠木御門ゟ内は刀持
 壱人雨天之節は手傘用候事
一万石以上以下共挟箱下乗橋内
 一切入申間敷候事
  但し部屋有之面々は挟箱内え
  入候事
一中の口ゟ登 城之面々は草履取

 召連候事
右之通御心得可被成候

一十二月十一日
       《割書:上使 本多伯耆守》
          松平薩摩守
 右琉球人召連就参府被遣之
 上意之趣伯耆守演達之

一同十二日
       《割書:琉球人召連参府》
  《割書:銀八拾枚|豊物弐拾》     松平薩摩守
 右参府  御礼於御黒書院
 御目見え 上意有之

     《割書:松平薩摩守家来》
  《割書:豊物|銀馬代 》    鎌田典膳
今度琉球人御用相勤参府之
御礼申上 御目見被 仰付

一同十三日
        松平薩摩守【*】
            《割書:廿弐歳》
 右は此度琉球人召連就参府
 従四位上中将昇進被 仰付旨
 老中列座堀田相模守被申渡之
一薩摩守祖父松平上総入道両度
 琉球人被召連候得共宰相に昇進

【 宗信、享保十三年(一七二八)六月十三日生(ウィキペディア)】

【右丁】
 不被 仰付正四位上之中将に
 位階計転任に而不興あられ
 隠居之由虚実之段は不詳候
 得共風聞有之候事故度に記之
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記 三
【付箋】
一琉球人旅行 幷
 人数之次第
一同江戸表往来之
 道筋

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球人来朝記巻之□【三】
  琉球人旅行幷人数之次第
一琉球之両使松平薩摩守召連罷越候
 琉球人は薩摩より直に乗船薩摩守
 豊前国小倉迄陸地旅行彼国大里
 より乗船琉球人一同に大阪へ着津

【右丁】
 薩摩守人数四千人程琉球人幷警固
 人数共四千人程都合八千程の人数故
 薩州より小倉迄之内に右之人数
 乗候船繋候湊無之に付て
 薩摩守は小倉迄陸地旅行なし
一琉球人惣人数百六拾九□□□□
【左丁】
  琉球国え薩州ゟ之道程
 薩州棒の津ゟ役(エン)の島迄四拾八里
 《割書:薩州の |地内也 》役の島ゟ種ヶ島迄拾六里
 《割書:日本の地内にては|穀高四万石計也》種ヶ島ゟ七島まて
 拾六里《割書:七島|有り》七島ゟ大島迄□□里

【宝玲文庫『(嘉永三年)琉球入貢紀略』の「三十六島の図」に七島―大島・間の距離記載なし】

【右丁】
 《割書:是ゟ琉球の地|内は六郡有り》大島ゟ八幡馬場
 九拾里有り《割書:此所琉球国|の国郡也》
【左丁】
  琉球人登 城之道筋
一芝松平薩摩守屋敷ゟ増上寺
 表門夫ゟ通丁芝口橋ゟ御堀端
 通幸橋御門え入薩摩守屋敷え
 立寄夫より松平丹後守相□脇

【宝玲文庫『琉球人来朝記巻之五』には「薩摩守屋敷立寄夫ゟ松平丹後守屋敷脇」とある】

 松平大膳大夫屋敷脇通り日比谷
 御門え入八代洲河岸龍之口三浦志摩守
 中屋敷前大手御門登 城
  御本丸ゟ 西丸え登 城幷
  退出之道筋
一内桜田御門ゟ御厩前通り西丸
 大手御門ゟ登 城退出之節は
 同所大手御門ゟ堀田相模守屋敷
 前通り外桜田御門を出上杉大炊頭
 屋敷前松平大膳大夫屋敷脇
 夫ゟ 御本丸え登 城之道筋
 通罷帰候以上

   御三家え罷越候節之道筋
一松平薩摩守屋敷より赤羽橋
 土器町西久保八幡屋前天龍寺裏
 門前相良政吉郎屋敷前堀端
 通り虎の御門え入 松平備前守
 屋敷脇紀伊掃部頭屋敷後
 永田馬場松平出羽守屋敷脇前ゟ
   紀伊大納言殿
 夫より糀町五丁目五丁目より
 四谷御門出御堀端通り市谷
 八幡前より

   尾張中納言殿
 夫より又八幡前え出市谷御門
 外堀端通り舟河原橋小石川
 御門外
   水戸宰相殿
 夫より御茶の水聖堂昌平
 橋え入り須田丁通り丁芝口橋
 増上寺表門前通り夫より
 薩摩守屋敷え帰る
  老中若年寄中え罷越
  道筋

一芝松平薩摩守屋敷ゟ増上寺
 表門前夫より通り丁芝口
 橋より堀はた通り 幸橋
 御門え入松平丹後守屋敷脇松平
 大膳大夫屋敷脇前通り日比谷
 御門八代州河岸龍の口小普請
 定小屋脇より
         小堀和泉守
         松平宮内少輔
         秋元但馬守
 夫より松平右京大夫屋敷通り
         酒井雅楽頭

 夫より
         三浦壱岐守
         西尾隠岐守
 夫より龍の口
         本多伯耆守
 夫より和田倉御門え入 松平
 肥後守屋敷脇後より
         戸田淡路守
         板倉佐渡守
         松平右近将監
         堀田加賀守
         小出信濃守

【右丁】
 夫より又右近将監屋敷前通り
         堀田相模守
         本多伊予守
 夫より外桜田御門出上杉大炊頭
 屋敷前松平大膳大夫屋敷脇
 夫より元之通筋罷帰る
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記 四
【付箋】
一琉球人官職和名
一同行列幷諸道具
 絵図

【右丁、白紙】
【左丁】
琉球人来朝記巻之四
  琉球人姓名幷官職
正使( シヤウシ)《割書:慶賀》    具(グ)-志(シ)-川(カハ)王子
副使(フクシ)《割書:紫巾大夫(シキンタイフ)》   與(ヨ)-那(ナ)-原(ハラ)親(ヲヤ)-方(カタ)
賛議官(サンニイクハン)    池(イケ)-城(グスク) 親雲(ヲハイキン)上
楽正(ガクセイ)     平(ヘ)-鋪(シキ)親-雲-上

儀衛正    呉(ゴ) 屋(ヤ) 親 雲 上
掌翰史    津嘉山(ツカサン)親雲上
圄師     真嘉屋(シンカヤ)親雲上
使賛(シサン)     金城(カナグスク)親雲上
       渡嘉鋪(トカシキ)親雲上
       座喜味(サキミ)親雲上
       幸 地 親 雲 上
       名嘉地親雲 上
       稲 嶺 親 雲 上
       伊舎堂親雲 上
       名 護 親 雲 上
       津 波 親 雲 上

【琉球大学所蔵『琉球人来朝記一、二』は、名嘉地親雲上の上に楽師あり、名護親雲上なし。】

楽童子(カクトウジ)    知念里之子(トネサトノシ)
        奥原(ヲクハラ) 里之(ノ)子
       大(タイ)-城(クスク)里之(ノ)子
       徳嶺(トクミネ)里之(ノ)子
       湊(ミナト)-川(カハ)里之(ノ)子
       伊江(イエ) 里之子
   以上
  外に
路次楽    拾六人
涼傘持    弐人
牌持     弐人
中官     四人

【右丁】
   右惣人数上中下官共
    都合九拾八人
【左丁】
  官職之和会
一 紫巾大夫(シキンタイフ)
 琉球の官名は親方(ヲヤカタ)と唱(トノ)ふ紫巾大夫の
 内より三人仕置する者を法司といふ
 琉球にては右三人の職名を司官
 と唱ふ

一 賛儀官(サンエイクワン)
 中官の内にて位階高きものなり
 琉球の官名は親(ソバ)-雲(イ)-上(キン)といふ日本に
 於ては勘定頭なとかつての職分也
一 楽正(カクセイ)
 中官の内にて位階高き者なり琉球にて
 官名は親雲上といふ日本に於ては
 小姓組番頭なと恰好(かつかう)の者にて座楽を
 正す兼職なり
一 掌翰史(シヤウカンシ)
 中官の内右筆職なり
一 圍(ギヨ)-師(シ)

 中官の内 厩(ムマヤ)あつかりなり
一 使賛(シサン)
 中官の内使番目付なと恰好の職なり
一 楽師(ガクシ)
 職名なり中官の者又中官の者と
 楽を弁するもの相勤るに付て官
 位は入交りけるなり
一 儀(キ)-衛(ヱイ)-正(セイ)
 中官の内路次楽の頭なり物頭恰
 好のものなり

一 親(ヲ)-雲(バイ)-上(キン)
 中官の惣名にて位階順々あり
 唐の官名は黄巾といふ
一紅冠の者は筑登(チクト)といふ下官にて
 位階段々有之唐官名は紅巾
 といふ
一 里之子(サトノシ)
 里之子は一村一里を持る者の世倅
 部屋柄の者を里之子といふ

【右丁、白紙】
【左丁】
琉球人行列
【以下横向き書き】
先払 騎馬弐人《割書:布衣》

          徒士
松平薩摩守《割書:是ゟ弐丁程下り》  騎馬五人《割書:布衣》  徒士《割書:麻上下》
          徒士

徒士《割書:羽折》 金鼓旗  両班 簘 太鼓二 虎旗□
《割書:是ゟ》琉球人   楽人
徒士《割書:羽折》 金鼓旗  銅鑼 簘 太鼓二 虎旗一

   牌   薩摩守家来 鎗 長柄       鎗

                 両班     副使
騎馬    紅涼傘      屋轎      駕
                 具志川王子

   牌一  薩摩守家来 偃月刀 長柄     傘

   鎗《割書:壱本ツヽ》  傘《割書:壱本ツヽ》       徒士三人

               薩摩守家来   琉球人
          騎馬      布衣
騎馬九人  小童六人      騎馬      騎馬五人

   日傘《割書:壱ツヽ 》  草履取《割書:壱人□》     徒士三人

【右丁、横向き書き】
   徒士《割書:麻上下》   押
同三人    薩摩守家来
   徒士《割書:麻上下》   押
【左丁】
一琉球人壱人え給人壱人足軽壱人
 中間壱人宛附申候
一琉球人騎馬壱人え琉球人之草履取
 壱人宛附申候其余は皆薩摩守
 家来附人也

【左丁の文言は琉球大学所蔵『琉球人来朝記三、四』第十三コマ(巻三)にほぼ同一である】

琉球人諸道具之図
金鼓
刑鞭


銅鼓

太鼓
獣旗

【鼓は皷の常用漢字】


表「中山王府」
裏「賀慶正使」
紅冷傘


偃月刀
屋轎【やかごヵ】



冠  帽巾
華簪【簪の誤記ヵ】 帽笠

【右丁】
 【絵図二つに「舄」】
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記 □【五ヵ】

一同十三日
    上使 河野豊前守
  《割書:弐千俵》    松平薩摩守
 右は此度琉球人参府に付
 被下之旨豊前守演達之

一同十四日諸向え御触書
  明十五日琉球人御礼申上候間
  直垂狩衣大紋布衣着用
  五半時登 城
  御本丸相済次第 西丸え
  罷出候様に可被達候無官之面々は
  不及登 城候
   十二月十四日
  猶以 御本丸相済 西丸え
  蓮池御門通可被相越候
一琉球人登 城之節
  御本丸御玄関前当番

  幕之役鳩      高力若狭守
   西丸右同断
  同沢瀉       水野越中守
一御城内固め
  塀重御門      都築長十郎
        御先手
  中の御門      大久保甚五左衛門【「御先手」下、二名上に結び線あり】
  御台所前      青木伝左衛門

       西丸御手先
            土岐左兵衛佐
  的場曲幡
            小出伊左衛門【二名上に結び線あり】

【右丁、白紙】
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記 六
【付箋】
一琉球人登 城御礼
 に付装束に而着座
 之次第

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球人来朝記
一十二月十五日琉球人御礼大広間
 御下段西方上ゟ三畳目通より
 着座勤仕之面々
  直垂    松平肥後守

  狩衣    井伊備中守
  同     酒井雅楽頭
  同     堀田相模守
  同     本多伯耆守
  同     松平右近将監
  同断    西尾隠岐守
  同断    秋元但馬守
     西之御縁頬
  大紋    本多伊予守
  同断    板倉佐渡守

  同断    小出信濃守
  同断    松平宮内少将
  同断    堀田加賀守
  同断    小堀和泉守
  同断    三浦志摩守
  同断    戸田淡路守
   西丸御縁頬ゟ畳敷之
  直垂    前田出雲守
  同断    織田能登守
  狩衣    堀川兵部大輔

  同断    前田信濃守
  同断    日野若狭守
  同断    由良播磨守
  同断    畠山民部大輔
  同断    畠山飛騨守
  同断    織田主計頭
  同断    長澤土佐守
  同断    松平右兵衛大夫
    南板縁次
  大紋    阿部飛騨守
  同断    阿部伊予守

  同断    土屋能登守
  同断    戸田能登守
  同断    井上河内守
  同断    久世出雲守
  同断    間部若狭守
  同断    稲垣摂津守
  同断    松平能登守
  同断    石川内膳正
  同断    阿部因幡守
  同断    牧野内膳正
  同断    牧野越中守
  同断    大久保山城守

  同断    松平豊後守
  同断    稲葉丹後守
  同断    松平紀伊守
  同断    青山因幡守
  同断    牧野因幡守
  同断    内藤大和守
  同断    永井伊賀守
  同断    朽木土佐守
  同断    松平備前守
  同断    酒井山城守
  同断    井上遠江守
  同断    鳥居伊賀守

  同断    大岡越前守
  同断    松平因幡守
  同断    牧野豊前守
  同断    永井若狭守
  同断    朽木出羽守
  同断    稲垣和泉守
  同断    黒田豊前守
  同断    板倉伊賀守
  同断    三浦玄蕃頭
  同断    金森出雲守
  同断    水野肥前守
  同断    遠藤備前守

  同断    酒井飛騨守
  同断    堀 長門守
  同断    有馬備後守
  同断    安部摂津守
  同断    板倉摂津守
  同断    内藤美濃守
  同断    渡辺越中守
  同断    稲垣若狭守
  同断    井上出雲守
  同断    京極備後守
  同断    戸田大炊頭
  同断    柳生備前守

  同断    永井信濃守
  同断    本庄和泉守
  同断    松平大蔵少輔
  同断    植村土佐守
  同断    酒井近江守
  同断    大久保伊勢守
  同断    青木縫殿頭
  同断    水野河内守
  同断    酒井越中守
  同断    青山備前守
  同断    土屋兵部少輔
  同断    下村近江守

【右丁】
  同断    小谷出羽守
  同断    藤堂肥後守
  同断    戸田和泉守
  同断    戸田近江守
     以上
【左丁】
【題箋】
琉球人来朝記 七
【付箋】
一琉球人登 城
 御礼に付大広間
 東之方装束に而
 着座之面々

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球人来朝記之七
一十二月十五日琉球人就御礼大広間
 二之間北之方二本目三本目之柱之
 間より御襖障子東之方着座
 勤仕之面々
  狩衣    松平隠岐守

  同断    松平美濃守
  同断    松平下総守
   一 二之間
  大紋    松平遠江守
  同     松平兵庫頭
   病気断  大久保出羽守
  大紋    松平越中守
  同断    戸田采女正
  同断    奥平大膳大夫
  同断    内藤佐渡守
   病気断  相馬弾正少弼
  大紋    松平丹波守

  大紋    松平周防守
  同断    内藤紀伊守
  同断    秋田河内守
  同断    土岐伊予守
  同断    松 平 市 正
  同断    諏訪因幡守
  同断    松平山城守
  同断    加藤豊後守
  同断    小笠原伊予守
  同断    本多美濃守
  同断    酒井摂津守
  同断    西尾主水正

  同断    松平河内守
  同断    松平内膳正
  同断    松平主水正
  同断    本多丹後守
  同断    松平靭負佐
  同断    松平近江守
  同断    井伊兵部少輔
  同断    本多越中守
  同断    松平志摩守
  同断    松平弾正少弼
  同断    本多肥前守
  同断    堀田若狭守

  同断    松平淡路守
  同断    丹羽和泉守
  同断    保科越前守
  同断    松平備中守
  同断    小笠原信濃守
  同断    丹羽越中守
      三之間
  大紋    牧野越前守
   病気断  松平石見守
  布衣    菅 沼 民 部
  同断    上田弥右衛門

  同断    諏 訪 内 膳
  同断    横田甚右衛門
  同断    斉 藤 左 門
  同断    松平又十郎
  同断    近 喜太郎
  同     倉橋内匠助
  大紋    酒井安芸守
     御持弓頭
  布衣    堀 田 主 膳
  大紋    川口能登守

  大紋    堀 因幡守
  布衣    美濃部八郎右衛門
  同断    浅 岡 靭 負
  同断    西 尾 左 兵
  同断    戸川五左衛門
      御鉄炮御用衆
      御手先
      定火消
      御使番
      御留守居番

      御詫頭
      小十人頭
      御船手頭
      二丸御留守居
      御高師頭
      御広敷御用人
      御納戸頭
      御腰物奉行
      奥御右筆組頭

一大広間三之間着座
  大紋    梶 摂津守
  同断    桑山下野守
  同断    鈴木対馬守
  同断    官田肥前守
  同断    木下伊賀守
  同断    三浦織部正
  同断    武田越前守
  同断    前田讃岐守
  同断    岡部丹波守

  同断    戸田豊前守
  同断    小笠原越中守
  同断    松平若狭守
  同断    松平飛騨守
  同断    松平左衛門佐
  同断    松平対馬守
  同断    太田美濃守
  同断    岡部伊賀守
  同断    稲葉紀伊守
  同断    浅野備前守

【右丁】
  大紋    三枝備中守
  同断    吉川下総守
  同断    大久保下野守
     以上
【左丁、製本見返し、白紙】

【製本裏表紙、文字なし】

琉球より異船届書

琉球より異船届書

【左丁】
琉球
       弘化三午年四月五日同十六日琉球国え異国船
       弐艘来船一件御届之写書《割書:留》
  当四月五日琉球国之内那覇沖え異国壱艘渡来卸碇候に付
  役々差越相尋候処異国人は文字言語不相通唐人弐人乗組
  イキリス国之船にて船中拾四人外乗組医師壱人右は妻壱人
  男子壱人女子壱人右之唐人弐人都合拾人乗組広東ゟ
  差越候旨申出外子細不申端船ゟ上陸可致滞留候に付
  宿借受申致願出不相成国法之後【趣】申聞候処中【本】国

【右丁】
  皇帝之命を請差越候ニ付地方買取住居いたし度
  申候猶以不相成頻ニ相断候得共更ニ不聞入医師壱人
  右之妻壱人子共両人唐人壱人都合五人上陸荷物を卸シ
  置同八日未ノ刻酉ノ方江向本船は出航いたし候ニ付無■■【是非】
  近道【辺】し【之】寺中明■【除】ケ召置候柵詰番所数軒相構昼
  夜勤番申付三司官を始堅取締申付置■■【任望】食料等
  相与へ候尤医師ゟ病人有之候ハゝ療治致度旨申出候ニ付
  当国医師は国中において傳梗用弁致来候間申■【断】置候
【左丁】
  然ル処去々年三月琉球江残シ置候ふフランス人ゟ致面会度申
  出強テ差留候得共承引無之候ニ付役々附添互【ニ】往来■【為】致
  面会候同六日日国之内領山谷間切沖江異国船壱艘相見候
  漸々日国那覇之様乗来リ川口江まきり居候間残置候佛朗
  寿人唐人渡来船江可乗小船貸呉候様申出是又差留候得共
  承引無之候ニ付相渡候処大船江漕付乗移小舟は差
  返し其夜は大船江逗留左候而翌七日は所中湊江卸
  碇候ニ付役々差越相尋候処佛朗面船ニテ人数三百人乗組

【右丁】
  居広東奥門ゟ出帆ニ而来着候多し【いたし】大総兵船等
  弐艘迄之可参渡来候間夫迄は逗留候たく【いたし】居候段申出
  逗留し両人ハ右船卸碇候間帰来候間本之如く■【驚ヵ】甚
  厳重ニ申付置候尤石火矢等乗付有之候得共兵船之様子
  とハ不相見夜白勤番申付三司官始相詰堅く取締
  申付且船中江嘆咭唎国之ものとも相招候ニ付強差留候
  得共承引不致医師並右妻男子召連端舟【ゟ】差越
  候間役々付添為致面会候尤フランス人共浜辺ゟ上陸
【左丁】
  印鑑相量地様之仕方有之候ニ付相断候得共承引不致
  大総船来着何様難渋申掛候而も及理解無異儀為致
  出帆候様取計且嘆咭唎人之儀も夫々被仰渡置候通
  取扱いたし度事ニ候得共 端嶋之儀何分其通難
  取斗いつれ彼国出船来着之上是又無異儀為致
  帰帆候様可取斗旨琉球国ゟ飛船取仕立申越候
  右ニ付而は平日差渡置候家来共有之尚兼而非常
  之手当申付置候一組之人数去々七月差渡置候得共

【右丁】
  自然及異儀候時宜二【ニ】候ハゝ別段人数差渡し手当
  仕置候事


  以上状得其定ハ【貴意候】然ル当四月五日琉球国那覇沖江
  イキリス国之船一【壱】艘同六日一【壱】艘越渡來候一件ニ付別紙之通【趣】
  並■【井戸】対馬守様山口内通様江国中【本】家老共に今日御届ケ仕候
  此段為【御知】可得其意如斯御座候以上
     午閏五月十三日        長崎西■【淀渲?】町薩摩■■■■■【蔵屋敷詰】
                    同国之重役ゟ差越聞居役と唱
                         奥 四郎
       類役申【中】宛
         御【諸】花【蔵】屋敷■【様ヵ】ケ所
          家

五事略

中山伝信録

南島志

狩谷棭齋手冩書入
南島志 一冊

□□石先生南島志 上下

南島志總序
流求國古未有聞焉。始見於隋書曰。大業元年海師何
蠻等。每春秋二時天淸風靜。東朢依希似有烟霧之氣。
亦不知幾千里。三年。煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異
俗。何蠻言之。遂與蠻俱往。因到流求國。言不相通。掠一
人而還。明年復令寛尉撫之。流求不從。寛取其布甲而
還。時倭國使來。見之曰。此夷邪久國人所用也。
天朝史書不紀其事。然據彼所書。則知其國既通于斯
矣。考國史曰。
推古天皇二十四年。掖玖人來。南島朝獻蓋自此始是

歲實隋大業十二年也。曰邪久。曰掖玖。曰夜句。曰益救。
東方音皆通。此云掖玖。隋書以爲邪久。卽是流求也。又
曰。
天武天皇二十一年秋。所遣多禰島使人等。貢多禰國
圖。其國去京五千餘里。居筑紫南海中。所謂多禰國。亦
是流求也。當是之時。南海諸夷【朱書訂正】島 。地名未詳。故因其路之
所由而名。多禰島卽路之所由。而後隷大隅國。一作多
褹。唐書亦作多尼。多禰國卽南海諸島。於後而總而稱
之南島者是已。
元明天皇和銅六年。南海諸島咸皆内附。至
孝謙天皇天平勝寶後。史闕不詳。初。
文武天皇大寶中。併掖玖島於多褹島。置能滿益救二
郡。以爲太宰府所管三島之一。及
仁明天皇天長初。停多褹島以隷大隅國。於是乎南島
貢獻蓋既絕矣。而此間之俗亦稱之以爲流求。且謂其
俗啖人之肉。殊不知此昔時所謂南島也。至後又名曰
鬼島。則遂併流求之名而失之矣。既而其國稱藩中國
且通市舶於我西鄙。流求之名。復聞於此。以迨于今。按
流求古南倭也。南倭北倭並見山海經。而南島復見海
外異記。二書蓋皆後人所作。雖然。其書並出魏晉之際

如其所傳亦既尚矣。《割書:美|》嘗按東方輿地。經短緯長。限之
以海。莫有海内可以容南北倭者。若彼流求蝦夷之地。
接我南北相去不遠。蓋此其所謂者也。且如後漢倭國
列傳所載。光武中元二年倭奴國奉貢朝賀。以爲倭國
之極南界也。魏晉以前

天朝未有【朱書補筆】通  中國者。所謂我極南界。卽是古南倭也。其傳

【上欄朱書】按中國上疑脫通字

併載夷洲澶洲。而鮮卑傳亦有亶【朱書訂正】檀 石槐東擊倭人國。得
千餘家之事焉。呉志亦曰。大帝黃龍二年。遣將軍衞温

【上欄朱書】鮮卑傳註引魏書作檀石槐東撃汗國得千餘家

諸葛直等。率甲士萬人。浮海求夷洲及亶洲。亶洲在所

【上欄朱書】所在

絕遠。卒不得至。但得夷洲數千人還。是時亦莫有異邦
之人來擾我邊境者。據西洋所刻萬國全圖。本邦及流
求蝦夷。並在海中洲島之上。或絕或連。以爲東方一帶
之地。其他可以爲國者。如彈丸黑子亦未有之也。然則
鮮卑所擊者古北倭。後所謂蝦夷。而呉人所至者亦是
古南倭。後所謂流求而已。若彼二國。方俗雖殊。然方言
頗與此俗同。如其地名。與此間不異者往往在焉。且夫
後漢魏晉以來。歷世史書並傳我事。而有與我不合者。
蓋與彼南北二倭相混而已矣。世之人槩以爲其懸聞
之訛。非通論也。初。隋人名曰流求。其所由未詳。曰自義
安浮海到高華嶼。又東行二日到黿鼊嶼。又一日便到

流求。義安。卽今潮州。高華嶼。後俗謂之東番。卽今台灣。
黿鼊嶼。卽今其國所謂惠平島也。明人以謂熱壁山亦
謂葉壁山。古今方音之轉耳。據此而觀之。流求本是其
國所稱。而隋人因之。亦不可知也。國人之說曰。永萬中。
源爲朝浮海。順流求而得之。因名流求。明洪武中。勅改
今字。蓋不然也。隋世既有流求之名。而元史亦作瑠求。
且據野史。爲朝始至鬼島。其地生□葦之大者。因名曰
葦島。明人又以謂於古爲流虬。地卑萬濤晼蜒。若虬浮
水中。因名。後轉謂之琉球。《割書:出世|法錄》 蓋又不然也。其國未之
前聞也。隋人始至以爲流求。且謂國無文字。豈有取虬
浮水之中義也哉。不强求其說可也。其國風俗。隋書所
載最詳。後之說者因而述焉。明嘉靖中。給事中陳侃與
行人高澄往封其國。及還上使琉球錄二卷。言從前諸
書亦多傳訛。乞下所錄史館。詔從之。後人遂以陳氏之
書爲得其實也。前者寶永正德之際中山來聘。《割書:美|》每蒙
教旨得見其人。釆覽異言。因知陳氏所駁未必盡得之。
而從前諸書未必盡失之也。蓋自隋至明。歷十世之間。
其國沿革復有不同。而君長之號。國地山川之名。與其
風俗語言。古今殊異。豈能得無訛謬於其間哉。雖然。《割書:美|》
嘗據國史。考之於隋及歷代之書。證以其國人之言。古

之遺風餘俗。猶存于今者亦不少矣。乃細繹舊聞以作
南島志。庶幾後之【朱書訂正】人 觀風詢俗以有所考焉。享保己亥
十一月戊午源君美序

南島志目録
  卷之上
   地里第一
   世系第二
  卷之下
   官職第三
   宮室第四
   冠服第五
   禮刑第六
   文藝第七

   風俗第八
   食貨第九
   物産第十

南島志卷上
   地里第一
  琉球在西南海中。依洲島爲國。有國以來不知其
  代數云。蓋古之時。厥民各分散洲島。自有君長。然
  莫能相壹。迨乎中世。始合而爲一。未幾。其地亦分
  爲中山山南山北之國。既而中山遂併南北。以迄
  于今。三山分域亦皆未詳。而今按地圖。挍其計書。
  曩者鼎立之勢。略可得而見矣。因作地志。
沖繩島(ヲキナワシマ) 卽中山國也。其地南北長東西狹。而周廻凡
    七十四里。《割書:是據此間里數而言。凡六尺爲間。|六十間爲町。三十六丁爲里。後皆》

    《割書:倣|之》
國頭(クニカミ)居北爲首。島尻(シマシリ)居南爲尻。王府在西南曰 首里(シヲリ)。蓋
古翠麗山地。今作首里。方音之轉也。 《割書: 翠麗山見|星槎勝覽》 城方一
里。東西距海各二里許。至于北岸二十九里。去其南岸
五里。凡諸島地。山谿﨑嶇。罕有寛曠之野。其人濵山海
而居。各自有分界。謂之 間切(マキリ)。間切者。猶言郡縣也。王府
領間切二十七。曰國頭。曰 名護(ナゴ)。曰 羽地(ハネチ)。曰 今歸仁(イマキシン)。《割書: 舊作|伊麻》
《割書:竒時|利》 曰金武。《割書: 舊作鬼|具足》曰 越來(ゴヘク)。《割書:舊作|五欲》曰 讀谷山(ヨミタンサン)。曰 具志河(クシカハ)
曰 勝連(カツレン)。《割書:舊作賀|通連》曰北谷。曰 中城(ナカクスク)。《割書:舊作中|具足》曰 西原(ニシハル)。曰 浦添(ウラソヘ)。
《割書: 舊作浦傍○己|上在部城東北》曰眞和志。曰 豐見城(トヨミクスク)。曰 兼城(カネクスク)。曰 喜屋武(キヤム)。
曰 摩文仁(マフニ)。曰 眞賀(マカ)比。《割書:己上在|都城西》曰 南風原(ハエバル)。曰 島添大里(シマソヘオヲサト)。曰
佐敷(サシキ)。曰 知念(チネン)。曰 玉城(タマグスク)。《割書:舊作玉|具足》曰 具志頭(クシカミ)。曰 東風平(コチヒラ)。曰 島(シマ)
尻大里(シリヲホサト)。《割書:舊作島尻○己|上在都城南》海港二所。共在東北。曰運天湊。
湊者。水上人所會。而此間海舶所泊也。《割書:運天湊舊作 運(ウン)|見泊(ケンノトマリ)。在今歸仁》
《割書:間切。湊者。此間古言水門也。港深一里二十一町。濶二|町。大船五六十隻可以栖泊。去此東地行至與論島二》
《割書:十|里。》在西南曰 那覇港(ナハカウ)。去都城里餘。此間及海外諸州船
所輻凑也。《割書:那覇港舊作那覇津。港深二十二町。濶一町|三十間。堪泊大船三十隻。去長﨑 三百里。去》
《割書:朝鮮四百里。去塔加沙古東南海角四|百八十里云。塔加沙古卽今台灣也。》港口四邑。居民
蕃盛。置那覇港官四員分治焉。迎恩亭天使館亦在于
此。迎接中國使人之所也。

計羅摩島(ケラマシマ)《割書:舊作計|羅婆島》明人稱謂鷄籠嶼卽此。《割書:鷄籠嶼見崑|山鄭子著琉》
《割書:球國圖。按皇明實記所載鷄籠淡水。|一名東番。非謂此島也。其名偶同耳。》去那覇港西行七
里而至于此。其周廻三里。座間味島(サマミシマ)赤島(アカシマ)隷焉。旁近小
島凡八。土壤狹少。皆非有民居者。《割書:座間味島。周廻一里|二十四町。赤島。周廻》
《割書:一里十八町。國人云。中|國人稱馬島山者卽此。》去此西往 先(サキ)島。《割書:南海諸島總|稱曰先島》海
中砂礁。其國稱曰 八重干瀨(ヤヘヒセ)者。南北五里。東西里半。《割書:使|流》
《割書:球録所謂古米山。水急礁|多。舟至此而敗者。卽此。》或由礁東。或由礁西。兩路均
是七十五里。而至 宮古島(ミヤコシマ)鍼乳(ハリミツ)之濵也。

【上欄朱書】一本乳作孔

戸無島(トナシマ) 島在那覇港西北二十六里。周廻一里六町。
側近小島曰 天末奈(テマナ)。其地甚狹。無人者住者。
久米島《割書:舊作九|米島》有那覇港及計羅摩島西。周廻六里二
十町。所屬間切二。曰 中城(ナカグスク)。曰 具志河(クシカハ)港二。其南曰兼城
港。《割書:港深一町。濶五十間。|可泊大船四五隻。》其東曰 町屋入江(マチヤイリヘ)。《割書:其港淺狹。|船隻難泊。》並
皆去那覇港四十八里。國史所謂 球美(クミ)。《割書:見續日|本書紀》明人以
稱古米。卽此。《割書:見使琉球録。|及廣輿圖等。》閩人三十六姓之後所居也。
直北五里有馬島者隷焉。《割書:卽謂久米|鳥島者》

【上欄朱書】一本馬作鳥

粟島 島在戸無島北。其周廻二里十二町。去那覇港
西北三十里。
伊惠(イエ)島《割書:舊作|泳島》卽明人所稱移山嶴。《割書:見使琉球録。及|廣輿圖。閩書等。》 五島
相接。而至今歸仁西北港口。《割書:港名曰亦|與波入江》島去港口約可

【上欄朱書】一本亦作尓

二里。其周廻四里七町。
惠平屋島《割書:舊作惠|平也島》隋書作黿鼊嶼。明人以謂熱壁山。或
謂葉壁山。《割書:熱壁。見使琉球錄。及廣輿圖。葉壁。見閩|書。按廣輿圖分載黿鼊嶼熱壁山者訛。》周廻
二十六町。在今歸仁間切正北十里。其南小島名曰 乃(ノ)
保(ホ)。卽隷于此。《割書:乃保島。周廻二十三|町。去惠平屋島五町。》
伊是那島(イカナシマ) 島在惠平屋島南里餘。周廻二里十八町。
所隷二島。其南曰具志河。其北曰 柳葉(ヤナハ)。並皆狹小。非有
居人。
鳥島(トリシマ) 島在惠平屋島東北五十餘里。周廻二十四町。
厥土産硫黃。明人所謂硫黃山卽此。《割書:見使琉球録。及|廣輿圖。閩書等。》以
上九島。古中山之地。
與論島(ヨロンシマ)《割書:舊作輿|論島》明人稱繇奴島。在沖繩島東北。而其地

【上欄朱書】一本地作北

接 永良部(エラブ)島。《割書:繇奴見|閩書》周廻三里五町。所屬村二。曰 武幾(ムキ)
也(ヤ)。曰 阿賀佐(アカサ)。其港曰阿賀佐泊。泊卽謂可泊船之所也。
去自運天湊。東北行二十里而至乎此。《割書:港口淺狹。大|船未易出入。》
永良部島。《割書:舊作惠|羅武島》在與論島北。而其北接 德(トク)島。明人稱
野刺普卽此。《割書:見閩書。西島名永良部者凡三。隷大隅國。|謂之口永良部。隷八重山。謂之奥永良部。》

【上欄朱書】一本西作南

《割書:名義未|詳云。》周廻十里十八町。所屬間切三。曰 木比留(キヒル)。曰 大(ヲホ)
城(グスク)。曰 德時(トクトキ)。其港曰 大和泊(ヤマトトマリ)。去自與論島。東北行十三里
而至于此。《割書:港深二町二十間。濶二町|四十間。大船未易出入。》

德 ̄ノ島《割書: 舊作度|九島》國史所謂 度感(トカヌ)島。《割書:見續日|本書紀》在永良部島北。
而其東北接大島。周廻十七里三町。所屬間切三。曰東。
曰西 目(シメ)。曰面繩。港三。其東曰 秋德(アキトクノ)港。《割書:港深一町。濶一町。|可泊大船三隻。》
去永良部島。東北行十八里而至于此。其西曰 大和爾(ヤマトニ)
也泊(ヤトマリ)。其北曰 井之川(ヰノカワ)。西北二港。並皆淺狹。大船未易出
入。
大島 島在德島東北十八里。琉球北界也。《割書:續文獻通|考所謂流》
《割書:球北山|是已》 國史所謂 阿麻彌(アマミ)島。或作 菴美(アンミ)。或作 奄(アン)美。並皆
謂此。阿麻彌者。上世神人名也。其東北有山。乃神人所
降。因名曰 阿麻彌嶽(アマミタケ)島。亦因得此名。地形稍大。後稱以
爲大島。其周廻五十九里十町。所屬間切七。曰 笠利(カサリ)。曰
奈瀨。曰古見。曰 住用(スムヨウ)。曰東。曰西。曰 燒(ヤキ)内。港八。曰 西古見(ニシコミ) ̄ノ
湊。曰燒内湊。曰大和馬塲湊。曰奈瀨湊。曰深井浦。曰世
徒多浦。曰瀨名浦。曰住用湊。《割書:西古見湊港。深五十間。濶|三十間。可泊大船五六隻》
《割書:此去到于德島。有兩路。其一。正□南行十八里。可以抵|井之川。其一。西南行十八里。可以抵大和泊燒内湊。在》
《割書:其東□里。港深三里。濶三十町。可以泊大船二百隻。其|東七里。卽大和馬塲湊。港深五町。濶三町。可泊大船五》
《割書:六隻。又其東五里。卽奈瀨湊。港深十二町。濶五町。可泊》
《割書:大船十四五隻。又其東北□里卽深井浦。港深三十町。》
《割書:濶四町。可泊大船三十隻。其東南八里。卽世徒多浦。此|嶴(ミナト)淺狹。不可泊船。其南四里。卽瀨名浦。亦不可泊船。其》
《割書:西南四里半。卽住用湊。港深三町。濶二町。可泊大船|七八隻。自此南去。而轉西北。抵西古見湊。約十三里。》 去
自深井浦。西北行三十五里。至于 七島(シチトウ)。《割書:島之大小十餘。|錯在海中總稱》

【上欄書入】按字典云吾學編琉球國西有彭湖嶋海水漸低謂之落際舟行誤入者百無一反

《割書:七島。錄薩摩國使琉球錄。|及閩書所謂七島者。卽此》其海潮常向東而落。乃是元
史所謂落漈水。趨下而不回者也。凡諸島相離中間。所
謂落漈者往往在焉。《割書:使琉球錄。以爲落際不知所在。殆|遠去琉球。而非經過之處也者非。》
又去此北行七十里。至于大隅國 永羅部(エラブ)島。俗謂之 阿(ア)
麻彌洲(マミス)之 渡(ワタリ)。蓋古遺言也。所隷三島。曰 加計奈(カケナ)。《割書:周廻十|五里》
曰 于計(ウケ)。《割書:周廻四|里九町》曰與路。《割書:周廻三里|二十町》並皆在大島之南。
鬼界(キカイ)島 島在大島東南七里。《割書:自世徒多浦。東南行|七里。至鬼界島椀泊。》周
廻六里二十四町。所屬間切五。曰 志戸桶(シトヲケ)。曰東。曰 西目(ニシメ)。
曰 椀(ワン)。曰 荒木(アラキ)。其港在西曰椀 ̄ノ泊(トマリ)。乃是明人所稱吉住。《割書:見|閩》
《割書:書|》琉球國東北極界也。《割書:國人云。小琉球|蓋此。未知是否。》以上五島。古山
北之地。
宮古島(ミヤコシマ) 島卽明人所謂大平山也。《割書:見廣輿圖。按星槎|勝覽云。琉球有大》
《割書:竒山。島夷志云。大﨑山極高峻。夜半登之。朢|暘谷日出。紅光燭 天。山頂爲之俱明。或此。》在計羅島
西南七十五里。周廻十一里。所屬間切四。曰 於呂加(ヲロカ)。曰
下地(シタヂ)。曰 平良(ヒラ)。曰 鴈股(カリマタ)。《割書:此島無可|泊船之所》所隷六島。曰 以計末(イケマ)。《割書:周|廻》
《割書:一里|八町》曰 久禮末(クレマ)。《割書:周廻|一里》曰 永良部(ヱラブ)。《割書:卽是奥永良部島。|周廻四里二十町。》曰下
地。《割書:周廻|□里》曰 太良滿(タラマ)。《割書:周廻|四里》曰 美徒奈(ミツナ)。《割書:周廻|一里》去此西南行五
十二里至 八重山。其海潮亦常向東而落。乃所謂落漈
者。《割書:去宮古島針乳濵。向西南行三十五里。至太|良滿島。又去西至石垣島 平窪(ヒラクボ)﨑十八里。》

【上欄朱書】一本乳作孔下注同

八重山島(ヤヘヤマシマ) 石垣(イシガキ)入表(イリヲモテ)二島之地。總稱以爲八重山。國

史稱 信覺(シカク)。《割書:見續日|本書紀》星搓勝覽稱重曼山。蓋皆謂此石垣。
乃是信覺之轉耳。石垣島。周廻十六里十七町。所屬間
切四。曰 河平(カハヒラ)。曰 宮良(ミヤラ)。曰 大濵(ヲヽハマ)。曰石垣。其港二。在西北曰
河平 ̄ノ湊。《割書:去宮古島針乳濵五十八里半。港深六町|三十間。濶一町。大船二三十隻可以收泊。》在南
曰御﨑泊。港口淺狹。不可泊船。唯其西南要津耳。堂計(タケ)
止美島(トミシマ)黑島(クロシマ)波照間島(ハテルマシマ)等隷【朱書補筆】焉。 《割書:堂計止美島。在御﨑泊西|一里二十八町。周廻一里》
《割書:三十町。黑島。在堂計止美島西南二里二十町。周廻亦|二里二十町。其所管二島。曰上離島。周廻二十町。曰下》
《割書:離島。周廻二十七町。並在黑島西南。波照|間島。周廻二里二十町。去黑島十四里許。》乃是琉球南
界也。入表島(イリヲモテシマ)。在石垣島之西南。《割書:石垣島有山曰於茂登|嶽。此島在彼山之南。故》
《割書:名曰伊利於茂登島。方言凡深奥之所。謂之|伊利。伊利卽入也。表者。於茂登之語訛耳。》周廻十五
里。所屬間切二。曰古見。曰入表。亦有小濵 鳩間(ハトマ)内離(ウチハナレ)外(ソト)
離(ハナレ)等島而隷焉。《割書:小濵。在堂計止美西二里。其周廻三里。|小濵之北有宇也末島。狹小而無人住》
《割書:者。鳩間島。在入表西北海上二里半。内外離島。|在入表西南海灣。三島亦皆狹小。非有民居者。》 去此以
西。路過落漈而行四十八里至與那國。其地周廻五里
十町。乃是琉球西界也。《割書:與那國亦隷|入表島焉》以上二島。古山南
之地。
   世系第二
  琉球。古南島也。流球之名始見隋書。曰。王姓歡斯
  氏。不知其由來。有國代數也。按諸國史。及中山世
  纘世系等書。蓋非其國自古有王。而其由來代數

  不可得而知也。未始有王其國可以記其由來代
  數者也。國有海中洲嶼之上。或絕或連。壤地不接。
  諸島各有君長。而莫能相一。隋書以謂其國有王。
   又有小王。乃據其君長所統地有小大而言也。《割書: 隋|書》
  《割書:所謂王及小王。猶言唐書曰邪古波| 邪古尾三小王。乃謂諸島酋帥也。》 據國史。南島

【上欄朱書】一本古尾作多尼

  朝貢者凡以十數。而授其位賜其祿各有差。亦以
  其所統大小各有差等之故耳。隋書以歡斯爲王
  姓者非也。歡斯卽君長之稱。後稱曰按司。曰王子。
  皆是古遺言也。自有王以來代數歷年可得而記
  者。以序其略曰。
鴻荒之世。有二神而降于炎海之洲。一男一女。因生三
子。其一爲君長之始。其二爲女祝之始。其三爲民庶之
始。遂【朱書訂正】邃 古濶遠。歷世綿邈。國無史書。厥詳莫聞。 《割書: 慶長間。僧|袋中南遊。》
《割書:輯錄異聞。其略如此。中山世系圖序云。大荒之世有|男一女。因生三男二女。長男爲君王之始。號曰天孫氏。》
《割書:中男爲按司之始。少男爲蒼生之始。長女爲女君之始。|少女爲内侍之始。天孫氏世世傳統。一萬八百餘年。其》
《割書:代數不詳。二說皆出於其國所傳。而本無所稽。雖然。袋|中所聞。考諸國史及隋書。或庶幾焉。今姑從此。君長乃》
《割書:按司也。女祝乃女君也。其書又述上世之事。且記二神|之名。其男曰シネリキユ。其女曰アマシキユ。他皆荒》
《割書:唐之事。不|足徴也。》及 推古天皇十五年。遣小野臣妹子購書
海外。因聘于隋。是歲煬帝大業三年。遣羽騎尉朱寛等
入海求訪異俗。因到流求。言不相通。掠一人而還。明年

復令寛尉撫之。國人不從。寛取其布甲而還。時我使者
至。見之以爲此夷 邪久(ヤク)國人所用也。隋遣武賁郎將陳
稜朝請大夫張鉬【朱書訂正】鎭 州率兵浮海擊之。虜其男女數千人。
載軍實而還。國遂與隋絕。其後六年而掖玖人來朝。 掖
玖。卽邪久也。 是歲。春秋之間相繼而至者凡三十人。皆
未及還而死。後十五年。掖玖人來朝。是歲。 欽明天皇
三年也。後四十六年。多禰島人來朝。是歲。 天武天皇
六年也。八年冬。遣倭馬飼造連上村主光欠等。使多禰島。十年秋。連等率多禰國人來。獻其地圖。《割書:多禰島。多禰|國。義見總序。》
《割書:日本書紀曰。其國去京五千餘里。居筑紫南海中。切髪|草裳。粳稻常豊。一藝兩收。土毛支子莞草。及種種海物》
《割書:等|多。》 十一年。多禰掖玖阿麻彌人等朝貢。賜祿各有差。《割書:多|禰》
《割書:掖玖。後隸二大隅國。唐書以謂多尼邪|古。卽此。阿麻彌卽今大島。詳見于前。》後十三年。遣文忌
寸博士譯語諸田等。使多禰國。其後三年。文忌寸博士
等八人率兵以至南島慰撫之。明年。多禰夜玖菴美度
感人等。《割書:菴美卽阿麻彌。|度感卽今德島。》 隋博士等來獻方物。授位賜祿
各有差。是歲。 文武天皇三年也。後三年。薩摩多禰人
等方命。南路隔絕。乃發兵伐而平之。遂挍戸置吏。是歲。
大寶二年也。其後五年。詔太宰府。授位賜祿於南島人。
各有差。是歲。慶雲四年也。後六年。南島菴美信覺玖美
等五十二人。隨大【朱書訂正】天 朝臣遠建治來獻方物。是歲。 元明

天皇和銅六年也。《割書:奄美。卽菴美。信覺。卽今八|重山。球美。卽今久米島。》後七年。授
位南島。凡二百三十二人。各有差。是歲。 元正天皇養
老四年也。後七年。南島人百三十二人來朝。叙位有差。
是歲。 聖武天皇神龜四年也後七年。太宰大貳小野
朝臣老遣高階連牛養植牌南島。以誌所在地名里數。
及泊船取水等處。是歲。天平七年也。後十九年。詔令太
宰府重修建南島之牌。是歲。 孝謙天皇天平勝寶六
年也。自是之後。史闕不詳。《割書:按延喜式。太宰府別貢有南|島方物。蓋養老天平間。以南》
《割書:島隷太宰府。故史|又略不盡擧而己。》後四百三十八年。而王舜天當其國。
先是保元之亂。故將軍源朝臣義家孫廷尉爲朝竄伊
豆州。及平氏檀權。朝政日衰。常憤憤欲復祖業。因浮海
上。略諸島之地。遂至南島。爲朝爲人魁岸絕力。猨臂善
射。南島人皆以爲神。莫不服者。乃徇其地而還。居未幾。
官兵襲攻之。竟自殺。有遺孤在南中。母大里按司妹。育
于母氏。幼而岐嶷。有乃父之風。及長衆推爲浦添按司。
方是時諸島兵起。戰鬭不息。按司年二十二。乃率其衆。
一匡靖亂。擧國尊稱以爲王。舜天王是已。是歲文治丁
未三年也。《割書:宋淳熙十四年也。事出中山世系圖序。據保|元紀事。及世系圖序。永萬元年春。爲朝年二》
《割書:十八而至南島。明年舜天生。是歲。仁安元年也。嘉應二|年夏。爲朝自殺。年一十三。大里浦添並是中山地名。○》
《割書:東鑑云。文治四年夏五月。貴賀井島降。先是源頼朝欲|擊貴賀井島。衆諫之。乃己。是歲春三月。鎮西人藤信房

《割書:獻島地及海路圖。且請擊之。遂命西海鎭將藤遠景及|信房等率兵擊之。島人乃降。按貴賀井。蓋鬼界也。其事》
《割書:適當舜天爲王之初。而東鑑所|載止此。不得其詳。以俟後考。》在位五十一年。以嘉禎
三年卒。享年七十二。《割書:宋嘉熙元年○宋史流求國列傳|曰。國在衆州之東。有海島曰彭湖》
《割書:烟火相朢。淳熙之間。國之酋豪嘗率數百輩。猝至泉之|水澚。圍頭等村。肆行殺掠。喜鐵器及匙筋。人閉戸則免。》
《割書:但刓其門圏而去。擲以匙筯則頫拾之。見鐵騎則爭刓|其甲。駢首就戮。而不知悔。臨敵用摽鎗。繫繩十餘丈爲》
《割書:操縱。蓋惜其鑯不忍棄也。不駕舟揖。唯縛竹爲筏。急則|羣舁之泅水而遁。按流求去彭湖五百里。豈是烟火相》
《割書:朢之地哉。而海路險惡。舟楫之制。非其堅厚則不可渉|矣。且其喜鐵器。縛竹爲筏。皆是巴旦之俗。其國又去彭》
《割書:湖不甚遠。蓋宋人謬認之言耳。雖|然其事亦當舜天之世。因附于此。》長子舜馬順熙嗣立。
在位十一年。享年六十四。以寶治二年卒。《割書:宋享祐|八年也》長子
義本嗣。在位十一年。而歲荒荐饑。疾疫並行。國有稱天
孫氏者。民皆歸之。義本因遜位焉。時年五十一。是歲弘
長二年也。《割書:宋景定|三年。》英祖。天孫氏之後。受讓當國。闢地始
廣。《割書:出世纘圖。按世系圖。英祖上加圏。而刪去天孫氏之|後數字。蓋彼人不欲告我以舜天氏絕統耳。又據世纘》
《割書:圖。以爲英祖當國闢地始廣。則知先世未有統一之主|也。明矣世系圖所謂天孫氏世爲王其國者。果其非實》
《割書:也。|》初。隋兵來犯。歷唐五代宋元數世。不與中國通。及元
至元二十八年。世宗遣海船萬戸楊祥福建人吳志斗
等。捧詔而行。詔曰。朕收撫江南。己十七年。海内諸諸蕃。罔
不審屬。惟流求密邇閩境。未曾會歸附。議者請卽加兵。
朕惟祖宗立法。凡不庭之國。先遣使招降。來則安堵如
故。不則必致征討。今命使宣諭汝國。果能慕義來朝存

爾國統。保爾黎民。若不効順。自恃險阻。舟師奄及。恐貽
後悔。爾其愼擇之。明年三月。祥至其國。先令軍官劉閏
二百人。以小舟載軍器。領三嶼人陳煇者登岸。國人不
解三嶼人語。爲其殺死者三人。遂不將其命而還。成宗
元貞三年。復遣福建省都鎭撫張浩新軍萬戸張進赴
其國。禽生口百三十人。後三年英祖卒。在位四十年。享
年七十二。是歲正安二年也。《割書:元大德|四年》子大成嗣。《割書:世纘圖|作大城》
在位九年。以延慶元年卒。享年六十三。《割書:元至大|元年》其次子
英慈嗣。在位五年。正和二年卒。享年四十六。《割書:山【朱書訂正】元 皇度【朱書訂正】慶|于【朱書訂正】二 年》其
第四子玉城嗣。不德國亂。山南北分而爲三。玉城據于
中山。二十三年。以延元元年卒。享年四十一。《割書: 元後至元|二年○美》
《割書:問甲子使人以三山分城。對曰。今歸仁以北之地。稱山|北。山北王在今歸仁城。大里以南之地稱山南。山南王》
《割書:在大里城。美竊疑之。蓋事未講究。而臆斷以置對而己。|三山割據。壤地雖小。各自立國百有餘年。乃就一島南》
《割書:北之地而言可乎。嘗觀其地圖。沖繩島地南北稍長。東|西甚狹。皆極于海。其周廻僅七十四里。若如其言。今歸》
《割書:仁以北屬于山北。大里以南屬于山南。則中山地南北|十三里。東西五里。山南地南北二里。東西五里。眞是蠻》

【上欄朱書】一本二里作三里

《割書:觸國耳。設使先東以南皆屬山南。與論以北皆屬山北。|而中山其攝乎其間。足食足兵幾何可以敵。南北也。卽》
《割書:今據其計帳。凡諸島地分隷以爲三等。其一則沖繩及|其西北小島。其二則與論以北。其三則先島以南。是則》
《割書:所因古三山疆域。而鼎足之勢判然分|矣。其歲租亦各自足供軍國之用也。》長子西威嗣。在
位十三年卒。享年二十三。是歲貞和五年也。《割書:元至正|九年》中
山王察度立。察度者。故浦添按司之子。《割書:世纘圖云。玉城|長子西威在位》

《割書:十四年。至正十年察度卽王位。察度者。不知所自始。其|父爲浦添按司。按世系圖云。西威在位十三年。元至正》
《割書:十年卒。年二十三。又加一圏於察度上。以分其統耳。蓋|世纘圖。據其實而言。然察度之立。其故未詳。始舜天以》
《割書:浦添按司卽王位。察度父亦稱浦添按|司者。蓋其苗裔乎。而今不可得而考。》是時元既亡。明
主卽帝位。洪武五年。其行人楊載齎詔往諭其國。中山
王察度。山南王承察度。山北王帕尼芝。皆遣使朝貢。十
五年。賜中山王山南王鍍金銀印文綺。使還言三王爭
權相攻。十六年。賜山北王如中山山南之例。因詔令罷
兵息民。始自 文武天皇授位南島人等。六百八十餘
年。於此而三王受封於外國焉。《割書:三王度【朱書訂正】受 封。蓋此|永德年間也。》二十一
年。明以所獲元主次子地你奴發居琉球。二十五年。中
山王遣其子侄及陪臣子弟入大學。明王禮遇獨優。賜
閩人三十六姓善操舟者。令往來朝貢。二十八年。中山
王察度卒。享年七十五。在位凡四十六年。《割書:世纘圖世系|圖皆云。察度。》
《割書:元至正十年卽王位。在位四十六年。而明人諸書以爲|中山王察度永樂二年卒。蓋誤以山南王承察度爲中》
《割書:山王察|度也。》世子武寧嗣。永樂二年。山南承察度卒。無子。令
從弟汪應祖攝國事。應祖遣使請命。乃賜冠服。嗣山南
王。《割書:山南王承察度。或作承察。非。或|以汪應祖爲承察度弟。亦非。》三年。中山王武寧卒。
在位十年。《割書:世系圖云。|享年不詳。》尚思紹嗣。《割書:世纘圖云。察度卒。子尚|思紹嗣。自是以尚爲姓。》
《割書:而其所記中山代序止于此。世系圖亦如一圏於尚思|紹上。二書並皆可疑。據閩書。永樂中思紹所獻表。有臣》
《割書:祖察度之語。又皇明世法録曰。察度世子武寧嗣。武寧|卒。子思紹嗣。由是觀之。世纘圖誤脫武寧一世不可疑》

《割書:也。世系圖。加圏於思紹上。蓋其以爲尚氏之始故乎。抑|亦尚思紹。以武寧兄弟之子入繼其統乎。姑存疑以俟》
《割書:後|考。》在位十六年。以永樂十九年卒。《割書: 世系圖云。享年不詳。|閩書以爲宣德初思》
《割書:紹卒。與世|系圖不合。》世子尚巴志立請封。宣德三年勅内監柴山
往封巴志嗣立【朱書訂正】王 。是後遣使冊封。以爲故事。巴志賢而施
仁。衆皆悅服。山南山北遂歸于 一矣。《割書:續文獻通考。及閩|書。以爲景泰久嗣》

【上欄朱書】閩書作景泰元年尚思逹遣人《割書:云|》云久嗣二字衍

《割書:元年尚思逹遣人朝貢。未幾。山南山北爲中山所并。世|法録。以爲景泰五年尚泰久嗣。先是山南王汪應祖。爲》
《割書:其兄逹勅期所殺。尋與山北併於中山。袋中所録。亦謂|尚泰久之世。諸島悉平。諸記皆與國人之言不合。惟其》
《割書:袋中所録。蓋謂尚金福卒後國|亂。尚泰久嗣封。以定其亂而己。》在位十八年。以正統四
年卒。享年六十八。初三山稱蕃。朝貢不時。至中山併南
北。遂令二年一貢。每船百人。多不過百五十人。卽福建
南臺外置番使館。《割書:卽今流|球館也》使至。館穀遂入京師。《割書:中山朝|貢。續文》
《割書:獻通考以爲初三山每二年朝貢一次。至尚思逹時。南|北俱爲所併。遂令三年一貢。閩書以爲思逹時令三年》
《割書:一貢。世法録以爲成化七年尚圓嗣。十一年貢使還至|閩恣殺掠。詔著令間歳一貢。諸說頗有異同。按大明會》
《割書:典曰。祖訓琉球朝貢不時。國有三王。後惟中山王至。|諭令二年一貢。蓋得之矣。因侍之巴志以俟後考。》世
子【朱書補筆】尚 忠嗣。在位五年。以正統九年卒。享年五十四。世子尚
思逹嗣。在位五年。以正統十四年卒。享年四十二。尚忠
弟尚金福嗣。在位四年。以景泰四年卒。享年五十四。弟
布里與子志魯爭立國亂。失其印綬。次弟尚泰久馳奏。
命給泰久印嗣王。景泰五年。泰久嗣封。克定四方。在位
七年。以天順四年卒。享年四十六。子尚德嗣。以成化五

年卒。享年二十九。在位九年。尚圓嗣。在位七年。以成化
十二年卒。享年六十二。《割書:世系圖又加圏於尚圓上。因考|閩書云。察度後五傳至尚圓。尚》
《割書:圓者。尚德之仲子也。世法錄云。尚德嗣父泰久立。卒。子|尚圓嗣。按世系圖。泰久卒時四十六歲。子尚德嗣。在位》
《割書:九年。二十九歲卒。尚圓嗣。在位七年。六十二歲卒。然則|尚圓與尚泰久同甲子。長於尚德六十六歲。是非爲泰》
《割書:久之子者。而况爲【朱書補筆】德 之子也乎。閩書尚德之德當作忠。蓋|誤冩而已。初忠世子思逹卒。忠弟金福立。金福卒。弟布》
《割書:里與金福子志魯爭立。明主命金福次弟泰久嗣王。泰|久卒。世子德嗣。卒而無子。國人立思逹弟圓以爲其君。》
《割書:故曰察度後五傳至尚圓。又曰。尚圓者。尚忠之仲子也。|雖然。世系圖略而不詳。姑存其疑。以俟後考。又按閩書》
《割書:及世法錄。以爲尚圓成化十|五年卒。亦誤。五當作二年。》世子尚宣威立。六月卒。《割書:閩|書》
《割書:以宣威爲尚德|之長子者非也》仲子尚眞嗣。在位五十年。以嘉靖五年
卒。享年六十二。世子尚淸嗣。在位二十九年。以嘉靖三
十四年卒。享年五十九。世子尚元嗣。是歲。嘉靖二十五
年。夏。海寇徐海敗于浙直。有逃入琉球境者。尚元發兵
邀擊殲焉。得所掠全坤等六人。遣使送歸。《割書:時王直徐海|等亡命海島》
《割書:之中。嘯聚逋逃。入寇于沿|海諸郡。明人號曰倭寇。》賜勅奬諭。厚賫金幣。隆慶六
年尚元卒。享年四十五。在位十七年。子尚永嗣。在位十
六年。以萬曆十六年卒。《割書:世系圖云。|享年不詳。》世子尚寧立。時關白
平秀吉命薩摩州徵貢於中山。萬曆十八年春。尚寧遣
僧天龍桃菴等來聘。《割書:事見續文獻通考。但其以爲事在|萬曆二十年者非。兩朝平壤錄以》
《割書:爲萬曆十七年事。蓋得之矣。中山使人以慶|長十八年春至于此。卽是萬曆十八年也。》明年關白
大徵諸州兵。欲道朝鮮入于燕京。是年夏。尚寧遣
使請

封。其相鄭禮密以關白情由報聞。明年春。關白遂
發兵
入犯朝鮮。明主令其使者自齎詔歸。冊封使羅【朱書訂正】罷 勿遣。歷

【上欄朱書】閩書作于時倭犯朝鮮海氛不靖令其使者自齎詔冊歸使臣罷勿遣

十餘年。朝鮮師解。尚寧堅請如故事。明主嘉其爲不叛
之臣。乃命兵科給事中夏子陽行人王一禎往封焉。初。
中山與薩摩州。世有隣好。此歲以來二國交惡。使
命遂
絕。州守源朝臣家久以告我 神祖。乃發兵擊之。前鋒
進求北山之地。斬首百餘級。水陸鼓行。並入那覇
港。中
山之兵連戰皆敗。王城遂陷。尚寧出降。師起四十餘日。
宗社失守矣。明年秋八月。家久率尚寧及王親陪臣等
來。 神祖乃命王尚寧使歸其國。以附庸於薩摩
州。善
繼前好。敬承先祀。於是則古南島地復舊城矣。《割書:二國兵|端略見》
《割書:南浦文集。及續文獻通考。閩書等。按始自|三山稱藩中國。乃至此凡二百三十年。》明年尚寧

還。乃遣使修貢於中國。以報中山王業己歸國。且欲代
我以請互市。是歲。明萬曆四十年也。海道參政石崑

等驗貢物雜我産。請阻回俟勢定。中丞丁繼嗣直指


【上欄朱書】丁繼嗣一作丁繼明注同皇明實記作丁繼嗣

夢祖因具疏謂緩外貢。修我内僃。明主從之。令貢使

入朝。量收方物給賞。《割書:出閩書。及皇明世法錄等。按皇明|三大征考云。萬曆三十七年倭并》
《割書:琉球虜其王。聲收鷄籠淡水。侵閩廣。皇明實記又云。萬|曆四十年十一月。日本冒琉球貢海上。福定巡撫丁繼》

【上欄朱書】建

《割書:嗣奏言。倭將明撽琉球挾其代請互市。又閩越亡命郭|國安等寄書其家。暗指入犯之期。其撽與書語多狂悖》

【上欄朱書】安國

《割書:倭將。謂薩摩州守也。撽琉球。謂州守令尚寧遣書福建|軍門也。其書見南浦文集。郭安國。閩人流寓薩摩州。州》

《割書:人稱汾陽氏者。卽其子孫也。暗指入犯之期。卽所謂聲|取鷄籠淡水僃閩廣事也。世法錄云。萬曆四十四年五》

【上欄朱書】上取作收僃作侵

《割書:月。中山王尚寧遣通事蔡廛報倭。造戰艦五百餘。脅取|鷄籠山島野夷。並是三大征。考所謂丙辰倭犯南□外》

【上欄朱書】□一作塵

《割書:洋。閩來告急。已而寂然。是已。卽非我實有此事也。美甞|聞薩摩州人之言曰。初尚寧受州守之命。代我以請互》
《割書:市。明人量收方物。又使十年一貢。事皆如閩書世法錄|所載者。中山自請朝貢如故事。乃聽 五年一貢。厥後亦》
《割書:請不已。久|之復舊云。》尚寧在位凡三十二年。以元和六年卒。享年
五十七。是歲。明泰昌元年也。世子尚豐嗣。在位二十年。
以寛永十七年卒。享年五十一。是歲。明崇禎十三年
也。
世子尚賢嗣。當是之時。明既亡。韃靼入中國。建號曰淸。
紀元曰順治。順治三年閩平。明年淸主遣使招撫琉
球。
是歲正保四年。尚賢卒。在位七年。享年二十二。尚質嗣。
《割書:按世系圖。質二十二歲卒。時質|年十九。質非賢之子。未聞厥詳。》後六年。淸主復遣使繳
納前朝所賜印綬。尚質乃遣使齎送。因請其封。是時

寇縱横。路梗不通。淸主既殂。太子卽位。改元康熙。康熙
二年遣使冊封。如前朝故事。尚質遣使表謝。明年復奉
表賀卽位。五年始勅以兩年一貢爲例。尚質在位凡二
十一年。以寛文八年卒。享年四十。是歲康熙七年也。世
子尚貞嗣。在位四十一年。以寶永六年卒。享年六十
五。
是歲。康熙四十八年也。世子先卒。適孫尚益嗣。在位四
年。以正德三年卒。享年三十五。是歲康熙五十二年
也。
世子尚敬嗣。年甫十五。始自中山稱藩於中國。凡王卒

則世訃告以請襲封冊封。使至則先祭前二於寝廟寝
廟衍在國門外。唯有諭祭而無贈諡。故歴世末得有諡
云。

【上欄書入】一本無衍字

南島志卷上《割書:終|》

南島志卷下
   官職第三
  古時琉球諸島地。各有居【朱書訂正】君 長。若隋書所謂王小王
  鳥子師。因其所綂大小。而所稱亦不同。至其諸島
  君長。咸皆内附天朝。授位亦各有差。天平勝寶後
  史闕不詳。厥後六百三十餘年。中山山南山北皆
  稱藩中國。受其封爵。王妃王姪國相寨官。亦各賜
  冠服。乃是中山品官制所由起也。其文武職名始
  見嘉靖使琉球錄。蓋所謂奉正朔。設官職。被服冠
  裳。夷習稍變。有華風焉者也。因録所聞。略記官名

  焉。
中山品官制。正從各九品。正一品則王子。從一品則按
司。正二品則三司官 親方(ヲヤカタ)。從二品則親方。三品至七品。
則 親雲(バイキン)上。正從八品則 里之子(サトノシ)。正從九品則 筑登之(チクトシ)。皆
是國中所稱也。王子官號也。王之同姓及異姓。凡有分
封者。皆稱某地王子。雖曰王子弟。亦未受封者。不得稱
王子。按司。猶言郡侯也。王子之子有分封者。稱某地按
司。至尚思巴始并三山。各地按司皆賜第宅。不得就其
封焉。三司者。天曹司。地曹司。人曹司各一員。猶漢三公。
卽所謂國相也。親方者。尊親之稱。凡任其官者皆附宗
籍。親雲上。親近也。雲上。殿上也。猶言堂上官也。俗稱親
雲上曰 牌古米(バイクメ)。或曰 牌金(バイキン)。其義不詳。里之子。本爲邑宰
之子者任此官。卽今非其人亦任之。筑登之義。亦不詳
云。《割書:出于庚寅甲午使人等所記。中山官制。蓋其以王子|爲官號。以按司卽爲王子之子皆【朱書訂正】有 分封者並據今制》
《割書:而言。非古也。古時所稱按司。卽其君長之稱也。據中山|世系圖序。初。舜天爲衆所推。爲浦添按司。後遂稱王。舜》
《割書:天本非爲王子之【朱書補筆】子 者。厥後凡王之親戚尊次其王者。稱|爲王子。其爲君長之稱。亦猶古時也。隋書以爲歡斯是》
《割書:己。三品至七品稱謂牌古米。凡品稱謂筑登之。亦皆古|之遺言也。里之子者。里主之轉語也。袋中所錄。古時有》
《割書:稱里主者。而今猶有那覇里主之職名。明|人以爲察度官卽此。察度方言所謂里也。》漢稱謂王親
卽王子。按司所謂王之下。則王親尊而不與政者也。法
司官。卽三司也。察度官。國稱那覇里主。那覇港官。國稱

御物城。各有二員。分治那覇曰邑焉。耳目官六員。卽法
司之屬。猶漢六卿也。以上所謂士官而爲武職者也。大
夫長史通事等官。則專司朝貢。不與政事。皆爲文職。明
初所賜閩三十六姓之後。讀書南雍。歸卽爲通事。累陞
長史大夫。今僅存七姓。而食祿者百餘人。凡朝貢事例。
單年則正貢二船。以耳目官充正使。正議大夫充副使。
並正三品官也。其屬有都通事。才府使。官舎使等職焉。
䨇年則接貢使。才府史各一員。並從四品官也。《割書:卽是|近例》若
有中國大喪。則以正議大夫充進香使。新天子登極。則
以法司官正議大夫各一員充慶賀使。其國嗣封。則以
法司官紫金大夫各一員充謝恩使。其官皆是所稱于
異邦也。古時國無姓氏。只因所居之地而稱之。中世以
來。王親豪族。稱之以其食邑。其餘有職者。亦因其所自
出及所居之地。而稱曰某地某官。其有姓氏者。閩人之
後耳。雖然。其稱於國中。猶國人也。而今國人皆有漢姓
亦有漢名。皆非古也。《割書:使琉球錄云。國王世尚氏。至於陪|臣。則無姓氏。但以先世及已所轄》
《割書:之地爲姓。自上世以來。皆命名以漢字。按尚思紹之後。|世稱以尚姓。猶以王父字爲氏。而
非古之所謂姓也。國》
《割書:人稱之以先世及已所轄之地。猶因地命氏。而古之所|謂姓也。陳氏以謂琉球不習漢字。又謂自 上世以來皆》
《割書:命名以漢字。何其謬之甚也。隋時猶傳國無文字。而况|於其上世乎。美甞聞之甲午使人曰。我王稱尚氏。始於》
《割書:思紹王。然其用尚姓不知所由也。國人各自有姓。以所|轄地名爲姓。親雲上已下。雖曰無地。亦有其姓。是又拜》

《割書:陳氏之說而言耳。其國本非有姓氏也。王以尚爲姓。蓋|其俗所謂漢姓也。甲午慶賀使與那地王子知念親方。》
《割書:謝恩使金武王子勝連親方。其所稱皆是某地某官也。|其從官有曰宮里親雲上者。其所稱亦是某地某官。而》
《割書:某姓䄇名順。則字寵文。卽閩人之後。文章之士也。又有|曰玉城親雲上者。其名朝薫。亦稱曰漢姓向氏漢名受》
《割書:祐。又有曰砂邊親雲上者。不知其名。漢姓曰|曾。漢名曰歷。並是國人而有漢姓漢名者也。》
   宮室第四
  隋書曰。王所居舎。其大一十六間。彫刻禽獸。民間
  門戸必安獸頭骨角。使琉球錄以謂殿宇科素亦
  不彫刻禽獸以爲竒。大抵琉球俗扑而忠。民貧而
  儉。富貴家僅有瓦屋二三間。其餘則茅茨土階。不
  勝風雨飄搖之患。人不善陶。雖王屋亦無獸頭。况
  民閒乎。傳者訛矣。陳氏蓋據其所見而言耳。唯其
  以獸頭爲鴟吻類亦訛。此土民間亦以牛馬頭骨
  掛之門戸云。是避疫鬼。古之遺俗也。今時之制略
  述所聞。
王府之制。據山爲城。方各一里。疊石爲基。繞以流水。城
有三門。其西爲國門。蓋以天使館在西南港口之故也

出門四里許。有牌房一座。扁曰中山。國門曰歡會。府門
曰漏刻。殿門曰奉神。每門有扁。四周皆石壁。府門外有
小池。泉自石龍口中噴出。名曰瑞泉。王府汲之供飮
食。
取其甘潔也。正殿巍然在山之巓。殿閣二層。南北八楹。

其位向西。上以奉神中爲朝堂。下與臣下坐立。閣門

五色珠爲籠櫳。正中三間。略加金璧。旁有側樓。亦有平
屋。皆覆以瓦。廉不遠地。而階亦近除。凡殿略倣漢
制。至
如燕寢。則皆如此間之制矣。《割書:中山殿屋制。詳見使琉球|錄。曰殿閣二層。上爲寢室。》
《割書:屋皆以板代瓦。席地而坐。美甞聞之甲午使人曰。正殿|上層奉神之所。順治之後屋皆陶瓦。楹塗之以黑漆。按》
《割書:殿門扁曰奉神。陳氏以閣上爲寢室。非也。層閣之制。蓋|由來久矣。袋中記曰。昔者大世王之世。王畏毒蛇。乃起》
《割書:高樓以居。自謂無害。未幾毒蛇螫王左手。有一國相。急|抽刀斷其臂。亦斷已臂以續之。其像見在於求吉備寺》
《割書:矣。蓋其王樓居以避蛇害也。大世未詳。世讚圖有王大|城。世系圖作大成。疑此。又使人曰。並殿及門墻庭階皆》
《割書:倣漢制。其餘一皆如本朝制。而有廣間書院玄關等所。|皆鋪地而用板。坐設疊席。所謂席地而坐也。按正殿之》
《割書:制。爲冊使而設也。如其便殿。則蓋古制也。但其所謂廣|間書院等所。我有此制。亦始自近時耳。 【朱書補筆】以下正文當大書 王親以下品官》
《割書:第宅。衆庶屋舍。亦皆如我制。板屋茅茨|隨其有無。皆繞以石垣。其地多石故也。》
   冠服第五
  隋書曰。琉球用鳥羽爲冠。裝以珠貝。飾以赤毛。形
  制不同。織鬭鏤樹皮。并雜色紵衣【朱書訂正】及 雜毛以爲衣。制

【上欄朱書】鬪樓樹似橘而葉密條纖如髪然下垂見隋書

  裁 不一。綴毛垂螺爲飾。蓋是古制及今不可得而
  考。
王及王親以下品官章服制。明世冊封錫以皮弁玉圭
麟袍犀帯。眎二品秩。王侄相寨官。賜以公服。明
既亡
靼爲中國之主。文武品官皆編髪胡服。而中山君臣

依舊例【朱書訂正】制 。其王受冊。則皮弁服。正旦冬至。則爲鳥紗折上

巾。蟒衣玉帶。未襲封。則用鳥紗帽。其臣三品以上皆幞
頭。公服其織成花樣。文職用禽。武職用獸。革帶用金銀
鉤䚢。其餘品官。冠服皆如其俗。古俗用色布一丈三尺
纏其首。王尚寧之世。其臣名分薙國。始製今冠。常服用
之。王及王親用五色。謂之五綵巾。次用紫色絹。謂之紫
光巾。次用黃絹。又次用赤絹。簪以金銀差等。其衣則廣
袖寛博。製如道服。腰束二大帶。《割書:庚寅使人所作圖皆如之|甲午之冬。美請觀其王子》
《割書:冠服制。鳥紗帽麟袍象笏金帶。卽是明世所賜其王也。|當今爲王子章服何也。纏首之制。見使琉球錄。乃據其》
《割書:所見而言也。今制操曲簿板被色|絹於其上。分薙國或作湧稻國。》 童子結髪。簪用金花
四垂者。凡俗足著草履。入室則脫。讀書號秀才者。亦戴
中國方素巾。足不草履而鞋矣。
   禮刑第六
  隋書曰。流球國無君臣上下之節。拜伏之禮。父子
  同牀而寢。大明一綂志因而述焉。陳氏使琉球錄
  以謂讀書亦多傳訛。其君臣之分。雖非華夏之嚴。
  而上下之節。亦有等級之辨。隋書又曰。獄無枷鏁。
  唯用繩縛。決死刑。以鐵錐大如筯長尺餘。鑽項而
  殺之。使琉球錄曰。國小刑嚴。凡有竊物者。卽加以
  劓剕之刑。閩書曰。有盜竊。輙加開腹劓剕之刑。卽

【上欄書入】腹一作後非

  今詢其風俗。禮樂刑政其制寢僃矣。

朝會之禮。歲元旦冬至。凡大慶會。則王親以下衆官。具
冠服行拜跪禮。四時俗節朔朢。亦皆冠服而朝。尊者親
者則延至殿内。賜坐賜酒。冠昏喪祭制。世子冠禮。蓋冠
以鳥紗帽。《割書:據世子未襲封。|則用鳥紗帽也。》王子按司之子冠于朝堂。王
賜以其冠。其餘有職者之子。冠亦皆拜朝焉。昏禮略與
此間俗同。凡婦女子織紅組紃。學以女事。莫有識字及
飮酒者。蓋防淫也。如其親戚。亦非賀正不見男子。夫死
無子而不嫁。民間貧賤之女。亦罕有再醮者。閩人之後。
男不爲國壻。女不爲王妃。王妃則立國人有職者之女
爲嬪御而有寵者焉。國喪一皆如大明集禮之制。世子
居喪。素衣黑帶。嗣封之日。冊使先祭前王於寢廟。世子
憂服北面立。禮畢從吉。歲時祭亦如禮制。臣庶之家不
必如制。父母之喪。不喫肉不飮酒。殯葬必謹。如其七七
日百日朞年再朞。亦如近世俗。凡有職者。給暇五十日。
起復就職。至如公私慶賀燕會。則皆不與焉。三年而後
復初。《割書:隋書曰。其死者氣將絕。舉至庭。親賔哭泣相弔。浴|其屍。以布帛纏之。裏以葦草。襯土而殯之。上不起》
《割書:墳。子爲父者。數月不食肉。使琉球錄曰。子爲親喪。數月|不食肉。死者以中元前後日。溪水浴其屍。去腐肉收其》
《割書:骸骨。以布帛纏之。裏以葦草。襯土而殯。上不起墳。若王|及陪臣之家。則以骸匣藏於山穴中。仍以木板爲小牖》
《割書:戸。歲時祭掃。則啓鑰視之。蓋恐木朽而骨露也。卽今國|人之言曰。殯後三年藏尸石龕。仍植位牌。蓋墓碑也。其》
《割書:說略與陳|侃之言合。》凡燕會僃樂。有國中中國二部。國樂。其唱曲

則如我里謠。其器則三線子。中國樂。曰萬事春。曰賀正
明。曰喜昇平。曰樂淸朝。曰慶皇都。曰永太平。曰鳳凰吟。
曰飛龍引。曰龍池宴。曰金門樂。曰風雲會。其明曲。則有
王者國。百花開。爲人臣。爲人子。揚香。壽星。老工。蓬萊等
曲。其淸曲。則有天初曉。頌皇淸。壽尊翁。正月四季歌等
曲。其器則嗩吶。横笛。管鼓。銅鑼。三金。三枝。二線。三線。四
線。長線。胡琴。琵琶。又有路樂。其器則兩班。銅鑼。喇叭。銅
角。嗩吶。鼓。凡刑典。有笞杖徒流大辟絞斬梟首等法。而
不赦謀反。惡逆。不道。不孝。不義等罪。若其輕罪。間有赦
宥焉。總而論之。則其俗朴而忠。其政簡而便。文之以禮
樂。非復曩者之陋矣。
   文藝第七
  琉球之學。自中山王察度始。厥後閩人從裔世傳
  其業。雖然。洪永之間。賜閩人於其國。以比歲往來
  朝貢。故賜其善操舟者耳。察度始使其子侄及陪
  臣子弟入于大學。如閩人子弟。家本在内地。亦因
  肄業於其鄕先生。歸卽得爲通事。累陞長史大夫
  者往往不絕。於今其文彬彬可以觀者。則察度之
  化遠矣。
國無文字。俗相傳云。昔有天人降。而教人以文字。其體

如古篆然。《割書:出袋中所錄曰。昔有天人降而教人以文字。|其地近于中城。厥後城間之人凶日起宅。天》
《割書:人又降召問占者。以不告其凶。對曰。彼人不問。故不告。|卽怒曰。汝知其凶。亦何不告。乃分裂其書而去。唯存其》
《割書:半。字猶百餘。以占凡事吉凶甚驗。蓋此占卜書也。美甞|觀于文字。其體如古篆。古俗凡稱天人。不係此地之人》
《割書:也。未知其|爲何國字。》中世以來始傳此間文字。明初其王察度請
以子侄及陪臣子弟入于大學。成化間。王尚眞以官生
蔡賔等五人肄業南雍。學既成而還。卽爲通事。累歷文
職。自是之後。凡章表之文移。皆其所掌焉。國中所用文
字。一如此間之俗。亦有善於歌詞者。《割書:閩書曰。陪臣子弟|與凡民之秀。則諸》
《割書:士大夫教之。以儲長史通事。習華言入貢。餘不慧者。宗|倭僧學番字而已。間有學詩。僅曉聲律偶對。又世法錄》
《割書:云。經籍無五經。有四書。以杜律虞註爲經。美觀其|俗今皆不然。讀書作字。賦詩詠歌亦有可以觀者。》凡學
之之法。王親已下。品官子弟。皆入國學。學有孔廟。毎春
秋釋奠焉。凡民子弟。則皆學有於鄕挍云。《割書:俗間子弟皆|自實語教始。》
《割書:庭訓式目等書次之。醫卜方技之|術亦有所傳者。而非其所長也。》
   風俗第八
  天下之俗古今不同。風化之變。若陰陽晝夜。於萬
  物然。時既變矣。物不能不變也。雖然。萬物之生。 天
  地猶不能齊。安知天下之俗。有未始變者。亦有乎
  其既變之間也哉。我觀琉球之俗。若其因革。則隋
  唐之際。既無考據。况於上世之事乎。今試聞其方
  言。有可以解者焉。有不可解者焉。蓋其可以解者。

  此間之語最爲不少。而漢語亦有十之一二焉。若
  其不可以解者。則彼古之遺言而已矣。若彼方俗
  亦然。中世之俗與此間同。近世之俗略與漢同。若
  其非此亦非彼者。則彼古之遺俗而已矣。因錄舊
  聞以爲風俗志。
男女皆露髻。男則斷髪。結髻於右。國史所謂切髪草裳。
其由來既久矣。右髻名曰隻首。相傳云。上世之人皆戴
頭角。昔者有神崩厥左角。後俗結髻以象乎古也。漢人
之裔結髻於中。皆揷以金銀簪。纏首用色布丈餘。今之
冠制始于此。厠賤猶露髻而已。衣則寛博廣袖。腰束大
帶。足著草履。通國之禮槎手膜拜。若見異邦之人。則拜
楫如儀。凡卑幼路遇尊者。結袖而掛肩。卸履而跪 地。《割書:俗|謂》
《割書:公廨袖結。蓋義|取其執役也。》女則鬒髪如雲。結爲高髻。簪不加飾。以
墨黥手。爲種種花卉狀。《割書:俗謂鍼衝。猶|言鍼刺也。》上衣下裳。其裳如
裙而信其幅。摺細而刺之。長掩其足也。上衣之外。更用

【上欄書入】刺一作制【以下朱書】閩書作下裳褶細而制長欲覆足不令顯也

大衣廣袖者蒙之。皆上見人。則以手下之而蔽其面。《割書:此|間》
《割書:假髻。出自琉球者最稱上品。蓋以其髪鬒黑而長|故也。又蒙其背者。此間婦女所用蒙衣之制而已。》貴家
大族之妻。出入載笠。坐於馬上。女僕三四從之。婦女之
俗。幽閑貞淑。不淫不妬。若其妓娼。頗事艷冶。大抵其地
土瘠民貧。勤儉質朴。憂深思遠。以有唐國之風者。俗好

聲樂。皆弄三絃。相傳以爲絃響能避蛇害。農家揷秧穫
禾。乃擕妓女。饁彼南畞。絃歌鼓舞。先終畞者。妓女乃侑
其觴。其疆域雖小。風氣或殊。山南之人不患痘疹。山北
之人最爲驍健。國無醫藥。民不夭札。壽至期頤。亦往往
有焉。君臣民庶畏神尤甚。蓋上世以降厥民分散洲嶼。
各自有君長。亦莫能相一。唯有神降于其間。爲威爲
福。
禁民爲非。是故舉俗敬神。而神亦靈也。其神稱謂 君眞(キンマ)
物(モン)。神所憑之女稱謂君者三十三人。皆酋長之女。其長
稱謂 聞補君(キクブキミ)。其餘所在神巫。百千爲羣。神有時而降。鼓
舞歌謠以樂其神。一唱百和。其聲哀惋。神喜則衆皆相
慶焉。神怒則衆無不懼焉。又有靈蛇。國民畏之如神
。《割書:按|使》
《割書:琉球錄。及閩書云。俗信鬼神。以婦女不經二夫者爲尸。|降則數著靈異。能使愚民竦懼。王及世子倍臣莫不稽》
《割書:首下拜。國人凡謀不善。神輙告王。王就擒之。惟其守護|斯土。是以國王敬之。而國人畏之也。尸婦名女君。首從》
《割書:動至三五百人。各頂草圏擕樹枝。有乗騎者。有徒行者。|入王宮中以遊戱。一唱百和。音聲悽慘。倐忽往來。莫可》
《割書:踪跡。袋中所錄其略相同。而尤爲詳悉。凡其神異鬼怪。|不可舉數而已。甲午使人曰。本國舊俗詳見袋中書。百》
《割書:年以來民風大變。神怪之事今則絕矣。昔夏之世。遠方|國物貢金九牧。鑄鼎象物百物而為僃。使民【朱書補筆】知 神姦。蓋其》
《割書:國絕遠僻仁。南荒山海異氣所生。鬼神竒異之物。亦何|足怪焉。且聞古之時。國人無君臣上下之節。好相攻擊。》
《割書:諸島各爲部隊。不相扶助。收取鬭死者。共聚而食之。若|非有神作威作福於其間。則民之無生亦既久矣。方今》
《割書:文命。祇承乃暨尸教。而威福之權既有所歸。其鬼亦不|神那。抑不知使人自恥鬼俗。其所言亦如此乎。古俗或》
《割書:以其國爲鬼島。如今燕東北島名猶有鬼界。蓋謂其有|神怪也。又使琉球錄曰。有蛇蝎亦螫 人。蛇則不爲害。前》

【上欄朱書】一本無燕字

《割書:使遭蛇怪之驚爲是事也。袋中以謂南中可畏之甚者|毒蛇也。昔有其王遭蛇毒者。又有神怒。乃使毒蛇螫人》

【上欄書入】一本爲作無

《割書:者。蛇類有七種。美亦聞諸使人曰。國有毒蛇。明世冊封|使遭蛇怪。我俗亦傳之。方言毒蛇曰ハブ。其大者五六》
《割書:尺。不常入人家。按毒蛇曰|羽羽。卽是此間之言也。》又其國多有奉祀 天朝宗
社之神者焉。
伊勢大神祠。自尚金福始。 八幡太神祠。自尚泰久始。
波上之社。洋(オキ)之社。尸棄那(シキナ)之社。普天間(フテマ)之社。末吉(スヘヨシ)之社。
並皆奉祀 熊野大神也。其始不詳云。蓋古之時。 天
朝使臣所至。乃命其祀以爲國鎭也。菅神祠。自尚元之
世。久米島人林氏始。又有天妃巽等祠。凡所在大樹大
石祭以爲神。不遑枚舉焉。《割書:事詳見袋|中所錄者》國人又信浮圖之
法。其法唯有禪與密之二教耳。圓覺天界二寺在都城
南北。殿宇壯麗。亞於王宮。建善相國報恩等。皆禪寺也。
龍福天王安國普門潮音等。皆密院也。其餘寺院亦多。
《割書:見使琉球錄及|袋中所錄者》
   食貨第九
  隋書曰。厥田良沃。先以火燒。而引水灌之。持 一鍤
  以石爲刀。長尺餘濶數寸而墾之。土宜稻梁禾黍
  麻豆赤豆胡豆黑豆等。國史曰。《割書:日本|書紀》 稻稉常豐。一
  藝兩收。卽今詢其土俗。皆不然也。使琉球錄曰。厥
  田沙礫不肥饒。是以五穀雖生。而不見其穀繁碩也。

  至於賦歛。則寓古人井田之遺法。但名儀未詳僃。
  王及臣民。各分土以爲祿食。上下不交征。有事則
  暫取諸民而不常也。寰宇記曰。無他竒貨。故商賈
  不通。閩書曰。時時資潤于隣島之富者。蓋皆得之
  矣。但其使琉球錄。以謂貿易惟用日本所鑄銅錢。
  亦不然也。是則古時其國所鑄。如宋鵞眼錢者耳。
  星槎勝覽曰。俗好古畫銅器。使琉球錄亦以謂古
  畫銅器非其所好。其所好者。唯鐵器綿布焉。蓋其
  地不産鐵。土不宜綿。故民間炊爨多用螺殻。紅女
  織紝。唯事麻縷。如欲以釜甑爨。以鐵耕。必易自王
  府而後用之。不則犯禁而有罪。陳氏所駁。蓋據當
  時而言耳。卽今觀之。盡皆不然也。略記所聞以誌
  其食貨焉。
諸島之地。山谿﨑嶇。沃野鮮少。厥田沙礫瘠薄。稼穡甚
難。氣候常煖。年穀早熟。不見其繁碩也。《割書:稉稻六月乃熟。|薩摩州人所謂》
《割書:琉球米。其穀|品最下者。》凡中山山北並多水田。土宜稉稻。山南地
方多是陸田。宜菽麥之屬。卽今其國稅額。中山糧米七
萬一千七百八拾七石。山北糧米三萬二千八百二十
八石七斗。山南糧米一萬九千九十六石八斗零。其

祖課亦凖此。 三山《割書:疆界見| 地里志》地無竒産。商賈不通。民貧而

【上欄朱書】一本三山小書属注文

儉。男女事耕織。厥産多出蕉布。禹貢卉服。國曳草裳。蓋
謂之也。炎方蒸溽。不見霜雪。隆冬之日。時有雨霰而已。
故凡草卉之屬。皆不凋枯。取芭蕉三年者。辟纑成布。
最極纖巧。麻苧次之。南島所産。閩書所謂南有太平山【朱書訂正】出
禾苧。卽此。久米嶌産絲及綿。閩書所謂西有古米出土
綿。亦此也。《割書:太平山見地里志。方物曰|太平布。曰久米綿。卽此。》通國賈易。古時用
海巴。厥後國鑄銅錢用之。既久散亡少餘。唯今用穀布
之屬。若其與 中國交易銀貨。則此間所産矣。《割書:海巴。貝也。|銅錢。使琉》
《割書:球錄以謂薄小無文。每十折 一。無貫折百。殆如宋季之|鵞眼綖貫錢者。但以爲日本所鑄。卽非。美甞問福建人》
《割書:以琉球交易事例。曰。琉球交易止限船數。不限銀額。全|貢用十餘萬。折貢用五六萬。以船小【朱書補筆】不 堪多載也。若用大》
《割書:船。則福州港淺不能近矣。所賣唐貨。細則絲|綢綾緞等物。粗則紙藥材等物。不能詳錄焉。》 凡百器制
皆與此間同。唯其甲冑兵刀不甚堅利。弓材用檿。斲

弦之。性急易折。良者難得。螺鈿諸器頗得我法。民間炊
爨多用螺殻。蓋古俗也。海産大螺。貧家以代釜甑云。凡
飮食之饌。造製精潔。略與此間同。使琉球錄以謂不知
烹調和劑之味。特不習此俗耳。造釀之方。酒醪醋醬

乾醬之屬。亦皆如我制。使琉球錄又謂酒以水漬米越
宿。婦人嚼以取汁曰 米竒(ミキ)。甚非也。酒曰米竒。卽此間方
言也。唯其露酒方。始傳自外國。色味淸而洌。久之不壞。
能易醉人。使琉球錄曰。出自暹羅。亦非也。造法不與暹

羅酒同。蒸米和麴。各有分劑。不須下水。封釀而成。以甑
蒸取其滴露如泡。盛之甕中。密封七年而後用之。首

所釀最稱上品。 其俗名泡盛酒。相傳云。昔外國人來曰。
國居南海瘴露之中。人必夭死。因授以避毒方。卽露酒
也。《割書:薩摩州人之言曰。天地生斯人。方物各有所宜。本兵|戌于 中山者。三年一代之。性不嗜酒者。亦在彼中善》
《割書:飮露酒。乃至十數鍾而不醉。此歸北至大島。不堪數鍾。|及歸不能下喉亦復如初。凡布帛之屬。溽暑生黴。洒以》
《割書:露酒也卽鮮|明。亦是一竒。》茶茗之品。此間所産尤爲珍惜。茶室茶具
之式。候湯立茶之法。一皆倣我制。閩書以謂厥土獨不
宜茶茗。卽藝之亦不萌。蓋其然也。《割書:其國相傳云。茶法傳|自此間。使琉球錄以》
《割書:謂烹茶之法。設古鼎於几上煎水。將沸。用茶末一匙於|鍾。以湯沃之。以竹刷瀹之少頃。奉飮。其味甚淸。是則此》
《割書:間之俗所謂|臺子式而已。》甘蔗卽藝之首里地。冰霜潔白。不及南産。
亦是以供菓品。國所製香品。有香餅壽帶香竹心香龍
涎香官香等。頗爲竒絕。
   物産第十
  隋書曰。俗無文字。朢月虧盈以紀時節。候草榮枯
  以爲年歲。蓋紀其上世之事也。後之說者皆據而
  言者非也。其國相傳云。昔有天人降而教文字。其
  書頗雖放失。而干支古字於今猶存。紀年候時豈
  在草木榮枯也哉。至於明世以來奉其正朔。每歲
  頒歷一百本。國亦造曆以授民時。且其地僻在南

  荒之中。氣候多煖。不見霜雪。海颶時作。草木凋枯
  而已。凡物産略與儋耳朱厓同。其餘則不異此間
  也云。因作物産志。
大明會典云。琉球貢物。馬刀。金銀酒海。金銀粉匣。瑪瑙。
象牙。螺殻。海巴。摺子扇。泥金扇。生紅銅錫。生熟夏布。牛
皮。降香木連香。丁香。檀香。黃熟香。蘇木烏木。胡椒。硫黃。
磨刀石。若其馬及螺殻海巴夏布牛皮烏木硫黃磨刀
石。則其國所産而已。其餘則所與此間及諸國交易也。
穀則稻秫稷麥菽。蔬則瓜茄薑蒜葱韮之屬皆有焉。亦
有蕃薯。可以代穀而食。此間俗曰琉球薯卽此。海菜可
啖亦多。菓則龍茘。蕉子。甘蔗。石榴。橘。柹。但無梅杏桃
李之類。近時有梅。移自此間者。唯著花而不結子。草則
山丹。佛笑。風蘭。月桔。名護蘭。栗蘭盛花。澤藤等品不少。
近藝烟草。葉細而長。木則赤木。其性竪緻。紫紅色而有
白理。蓋櫚木之類。本朝式所謂南島所出赤木卽此。 《割書:俗|曰》
《割書:カシ|木》黑木。卽會典所謂烏木也。蘇鐵。卽使琉球錄所謂
鳳尾蕉。其野生則不知。栽在園庭者。榆。《割書:俗曰カ|ツマル》木犀。《割書:俗|曰》
《割書:キイ|ハ》阿檀(アタン)福木(フクキ)。《割書:曰デゴ。曰ヤラフ。曰マ|テ。並皆其俗所稱。未詳。》隋書所謂蕩鬭鏤

【上欄朱書】マテ一本作マネ

樹。使琉球錄以謂土産無其樹。卽今國人亦謂不詳。《割書: 隋|書》
《割書:曰。鬭鏤樹。如橘而華密。條纖如髪|然下垂。又云。纖鬭鏤皮以爲衣。》 禽鳥則 綾鳩(アヤハト)黑 鶉(ウツラ)。鶉

亦有異色者。《割書: 俗名ミフウツラ。蓋|謂其毛文有三色也。》蝙蝠産于八重山者
其形極大。《割書:俗名 八重(ヤヘ)|山蝙蝠(ヤマカウモリ)》其餘有烏鴉麻雀野鳬之屬。但無
鶴及鶬鷄。而鴻雁不來。秋月之候。鷹隼及小雀自南

者多。畜獸則馬牛卽水牛【朱書補筆:注文當小書】 犬豕麋之屬。皆無不有者。而
無虎豹犀象。亦産異色猫。蟲豸則蛇蝎之屬最多。毒

凡七種。蝎亦能螫人。其有在于壁間。聲噪如雀者。春夏
之交。有赤卒自南而來亦多。鱗介則海出白魚。亦名海
馬。馬首魚身。皮厚而靑。其肉如鹿。人常啖之。馬鮫龍蝦
之類亦皆有之。棘鬣。其色不紅而味亦佳。鯨魚每出沒
州嶼之間。而莫敢捕之。蛟龍時時自海中起。而能致

雨。俗謂之風待也。螺蛤之屬最多竒品。貝子卽會典所
謂海巴。螺殻大者可以代釜甑。

南島志卷下 《割書: 終|》

【白紙】

【白紙】

【裏表紙】

琉球往来(下)

江関集(蘐園集)

内国地図

琉球三省并三十六嶋之図

下等小学日本地誌略図問答

【表紙】

【題字】
土橋荘著
日本地誌略図問答  諳射之部

【蔵書印「内田七郎兵衛」】

【蔵書印「寶玲文庫」】
【蔵書印「仝内田文庫記」】

諳射日本地図
   北海道琉球之部

【右頁】
【白地図・渡島国】


【左頁】
【白地図・後志国 奥尻島】

【右頁】
【白地図・石狩国】


【左頁】
【白地図・天塩国】

【白地図・北見国】

【右頁】
【白地図・胆振国】


【左頁】
【白地図・日高国】

【右頁】
【白地図・十勝国】


【左頁】
【白地図・釧路国】

【右頁】
【白地図・根室国 歯舞群島 色丹島】


【左頁】
【白地図・得撫島?】

【白地図・国後島 択捉島】

【白地図・樺太島南部】

【白地図・樺太島中部】

【右頁】
【白地図・樺太島北部】


【左頁】
【白地図・沖縄島北部 伊江島】

【右頁】
【白地図・沖縄島南部 久高島】


【左頁】
【白地図・渡嘉敷島(右下) 久米島(左下)か?】

【右頁】
【白地図・地域不明】


【左頁】
【白地図・宮古島 伊良部島】

【白地図・石垣島 西表島 波照間島 与那国島】

【白地図・奄美大島】

【右頁】
【白地図・徳之島】


【左頁】
日本地誌略図問答巻之四 終

【右頁】
明治九年十月廿日出版御届 《割書:四編|定価》金弐拾七銭
同  年十一月 四編刊成

     著者 《割書:京都府平民》土橋荘
      上京第廿区下立売通小川東入町百三十九番屋敷

     出版人 《割書:京都府平民》石田忠兵衛
      上京第廿五区柳馬場通二条上ル町二百六十三番屋敷

京都書林 神先治郎助
丹州亀岡 内藤半七
     柳原喜兵衛
大阪書林 前川善兵衛
     花井夘助


【左頁】
書籍開版所
 紀州若山小野町二丁目 野田大二郎
 同   本町二丁目  平井文助
 同   新通リ二丁目 高市伊兵衛
 同   駿河町    福田佐兵衛
 同   五町目    阪本屋源助
 大阪心斎橋筋安土町  華井夘助

【裏表紙】

琉球談

中山伝信録

【表紙】

【白紙】

【白紙】

中山傳信録序
古者輶軒之使必紀土風誌物
冝所以重其俗也况扵萬里之
外蠻夷海㠀之中乎編修澄齋
徐館丈之使琉球也以文章華
國以政事經邦而且儀容端偉
文辤敏妙真可謂使扵四方不
辱君命者矣歸而作中山傳信

錄為若干卷中列中山王圖紀
其宴享以志其崇奉中國之誠
又為之表其世系度其封疆與
其官秩之崇卑廩禄之厚薄又
為之㝎其針路無過用叩針則
無流至葉壁山之患終為之圖
寫土産卉木動植之物必肖其
狀而首則著其揚帆奉使為封
舟圖以見
聖天子威靈呵護出入扵千波
萬水之中經渉魚龍窟穴雖掀
風鼓浪如履平地猗歟壮哉徃
者族父舟次先生奉使時排日
赴宴宴畢即上舩候風今徐君
公事畢閒與其陪臣搜巗剔壑
紀逰賦詩非以是侈其逰眺盖

将歸而著述以為得之傳聞不
如目見者之為真也其國官之
尊者曰紫金大夫時為之者即
舟次先生前使時所請陪臣子
弟入學讀書者也其文辤可觀
與之言娓娓有致今之所述皆
得之其口與其諸臣所言證之
史牒信而有徴嵇含之南方草
木状范成大之桂海虞衡志豈
足羡哉賦皇華者所冝人置一
編者也康熙六十年左春坊左
中允南書房舊直汪士鋐序

中山傳信錄序
 琉球見自隋書其傳甚畧北史唐書宋元諸史因之
 正史而外如杜氏通典集事淵海星槎勝覽蠃蟲錄
 等書所載山川風俗物產皆多舛漏前明洪武五年
 中山王察度始通中朝而明一統志成於天順初百
 年中爲時未久故所載皆仍昔悞幾無一實焉嘉靖
 甲午陳給事侃奉使始有錄歸上於朝其疏云訪其
 山川風俗人物之詳且駁羣書之謬以成紀畧質異
 二卷末載國語國字而今鈔本什存二三矣萬曆中 

 再遣使蕭崇業夏子陽皆有錄而前後相襲崇禎六
 年杜三策從客胡靖記尤俚誕 本朝康熙二年兵
 科張學禮使畧雜錄二卷頗詳於昔二十二年檢討
 汪楫譔中山沿革志二卷雜錄五卷典實遠非前比
 然於山川轄屬仍有闕畧風俗制度物產等亦俱未
 備蓋使期促廹摉討倉猝語言文字彼此訛謬是以
 所聞異詞傳焉寡信今《割書:臣|》奉
命爲檢討《割書:臣|》海寳副以往自巳亥六月朔至國候汛踰
 年至庚子二月十六日始行計在中山凡八閱月封
 宴之暇先致語國王求示中山世鑑及山川圖籍又
 時與其大夫之通文字譯詞者遍遊山海間遠近形
 勢皆在目中考其制度禮儀觀風問俗下至一物異
 狀必詢名以得其實見聞互証與之往復去疑存信
 因并海行針道封宴諸儀圖狀并列編爲六卷雖未
 敢自謂一無舛漏以云傳信或庶幾焉且諸史於外
 邦載記大率荒畧今琉球雖隔大海新測晷景與福
 州東西相値僅一千七百里世世受封歲歲來貢與
 内地無異伏觀

禁廷新刊輿圖朝鮮哈密拉藏屬國等圖皆在焉海外
 藩封例得附於其次若仍前誕妄不爲釐正亦何以
 見
聖朝風化之遠與外邦内嚮之久以附職方稱甚盛哉
 故於載筆時尤兢兢致愼云康煕六十年歲在辛丑
 秋八月翰林院編修《割書:臣|》徐葆光謹序

中山傳信錄卷第一
  封舟
  渡海兵役
  更 《割書:針盤 玻璃漏|》
  針路
  前海行日記
  後海行日記
  歷次封舟渡海日期
  風信 《割書:風暴日期|》

  天妃靈應記
  諭祭海神文
  春秋祀典疏

【図】封舟圖

中山傳信錄卷第一
 冊封琉球國王副使 賜正一品麟蟒服翰林院編修加二級《割書:臣|》徐葆光纂
  封舟
 從前冊封以造舟爲重事歴考前冊採木各路騷動
 夫役開厰監造縻費官帑奸吏假手爲獘無窮經時
 累歲其事始舉自前明以至
本朝冊封之始其煩費遲久前後一轍也康熙二十一
 年使臣汪楫林麟焻卽取現有二戰艦充之前獘始
 絶至今三十餘年區宇昇平海濱利涉沿海縣鎭巨

 舶多有
冊封命下《割書:臣|》等未到閩前督臣滿保移檄各鎭選大船
 充用豫爲修葺諸具咸備二船取自浙江寧波府屬
 皆民間商舶較徃時封舟大小相埓而費輕辦速前
 此未有也《割書:按宋徐兢奉使高麗神舟二皆勅賜名字|客舟六共八舟明封舟或一或二今二舟》
 一號船使臣共居之二號船載兵役一號船前後四
 艙每艙上下三層下一層塡壓載巨石安頓什物中
 一層使臣居之兩旁名曰麻力截爲兩層左右八間
 以居從役艙口梯兩折始下艙中寬六尺許可橫一
 床高八九尺上穴艙面爲天窓井方三尺許以通明
 雨卽掩之晝黑如夜艙面空其右以行船左邊置爐
 竈數具板閣跨舷外一二尺許前後圈篷作小屋一
 二所日畨居以避艙中暑𤍠水艙水櫃設人主之置
 籖給水人日一甌船尾虚梢爲將臺立旗纛設籐牌
 弓箭兵役吹手居其上將臺下爲神堂供天妃諸水
 神下爲柁樓樓前小艙布針盤夥長柁工及接封使
 臣主針者居之船兩旁大小炮門十二分列左右軍
 噐稱是蓆篷布篷九道艙面橫大木三道設軸轉繚

 以上下之船戸以下共二十二人各有專掌其中最
 趫㨗者名鴉班正副二人登檣瞭望上下如飛兵丁
 皆習行船事每船百人爲之佐一號船千總督之二
 號船守備督之
 一號船長十丈寬二丈八尺深一丈五尺《割書:前明封舟|連尾虚梢》
 《割書:長十七丈寛三丈一尺六寸深一丈三尺三寸嘉靖|中正使陳侃副使高澄等題請定式 嘉靖三十八》
 《割書:年封舟依舊式造長帶虛梢一十五丈寬二丈九尺|七寸深一丈四尺 萬曆七年造封舟帶虛稍一十》
 《割書:四丈寛二丈九尺深一丈四尺 崇禎六年冊使杜|三策從客胡靖記錄封舟長二十丈廣六丈  本》
 《割書:朝康熙二年張學禮記形如梭子長十八丈寛二丈|二尺深二丈三尺 康熙二十二年汪楫記選二鳥》
 《割書:船充用船長一十五丈有奇寛二丈六尺按海防冊|云烽火營鳥船一隻長一十二丈三尺寛二丈五尺》
 《割書:閩安中營鳥船一隻長一十|二丈二尺寛二丈六尺五寸》前後四艙水艙四水櫃
 四水桶十二共受水七百石
 柁長二丈五尺五寸寬七尺九寸西洋造法名夾板
 柁不用勒肚柁以鐵力木爲之名曰鹽柁漬海水中
 愈堅《割書:前明封舟定製鐵力木柁三門每門長三丈五|尺有大䌫繫之由船底兠至船頭謂之勒肚以》
 《割書:櫆藤爲之今二封舟皆取商船充用二號製如鳥船|式用勒肚二條一號船係西洋夾板柁不用勒肚又》
 《割書:不置副柁將出海時與閩中有司爭置副柁本船夥|長林某云船柁西洋造法最堅穩可無用副且柁重》
 《割書:萬觔船中亦無處置之竟|不置副柁與前小異云》

 大桅長九丈二尺圍九尺
 頭桅長七丈二尺圍七尺
 櫓二長四丈寬二尺三寸
 椗大小各二大者長二丈七尺小者長二丈四尺皆
 寬八寸及七寸形如个字皆以鐵力木爲之椗上棕
 索二條長一百托圍一尺五寸《割書:按字書碇錘舟石也|與矴同無椗字今以》
 《割書:木爲之故|俗字從木》
 大桅蓆篷寬五丈二尺長五丈三尺轆轤索三條長
 三十五托圍一尺二寸
 繚母索二條長一十五托圍一尺五寸
 頭桅蓆篷寬二丈二尺長二丈八尺
 大桅頂篷名頭巾頂惟官舶始用之商船不得用長
 五丈四尺寬五丈《割書:徐兢錄云大檣之巓加小帆十|幅謂之野狐帆殆卽頭巾頂也》
 大桅下布篷名篷裙長六尺寬一丈五尺
 頭桅上布篷名頭幞上尖下方三角形長三丈下濶
 二丈八尺
 揷花布篷長四丈八尺寬三丈四尺
 揷花下布篷名揷花褲長六尺寬一丈五尺

 頭緝布篷長四丈五尺寬二丈五尺
 尾送布篷長四丈寬二丈七尺
  共篷九道
 二號船長十一丈八尺寬二丈五尺深一丈二尺
 前後共二十三艙水艙二水櫃四水桶十二受水六
 百石
 柁長三丈四尺寬七尺制同鳥船柁用勒肚二條長
 十五丈從尾左右夾水兠至頭上
 大桅長八丈五尺圍八尺五寸
 頭桅長六丈五尺圍六尺
 櫓四長四丈寬二尺二寸
 椗大小三具
 大桅蓆篷長五丈七尺寬五丈六尺
 頭桅蓆篷長五丈七尺寬五丈六尺
 大桅頭巾頂布篷長五丈寬四丈八尺
 大桅下布篷裙長六尺寬一丈六尺
 揷花布篷長四丈八尺寬三丈二尺
 揷花褲布篷長五丈寬一丈三尺

 頭緝布篷長四丈寬二丈四尺
 尾送布篷長三丈六尺寬二丈五尺
  共篷八道少頭幞布篷一道
 每船船戸以下二十二人
 正夥長主針盤羅經事副夥長經理針房兼主水鋾
 長綆三條候水淺深
 正副舵工二人主柁二號船上兼管勒肚二條
 正副椗二人主椗四門行船時主頭緝布篷
 正副鴉班二人主頭巾頂帆大桅上一條龍旗及大
 旗
 正副杉板工二人主杉板小船行船時主淸風大旗
 及頭帆
 正副繚手二人主大帆及尾送布帆繚母棕繚木索
 等物
 正副値庫二人主大帆揷花天妃大神旗又主裝載
 押工一人主修理槓椇及行船時大桅千觔墜一條
 香公一人主天妃諸水神座前油燈早晩洋中獻紙
 及大帆尾繚

 頭阡一人主大桅繂索大椗索盤絞索大櫓車繩
 二阡二人主大桅繂索副椗索盤絞索大櫓車繩
 三阡一人主大桅繂索三椗索盤絞索車子數根
 正副總餔二人主鍋飯柴米事
   渡海兵役
 正使家人二十名副使家人十五名外海防㕔送使
 副共書辨二名廵捕二名長班四名門子二名皂隷
 八名健步四名轎傘夫二十名引禮通事二員《割書:鄭任|譯憑》
 《割書:西|熊》䕶送守備一員《割書:海壇鎭左營|守備蔡添畧》千總一員《割書:蔡|勇》官兵二
 百名《割書:閩安鎭烽火營海壇鎭|左右中三營各四十名》内科醫生一人外科醫
 生一人道士三名老排一名吹鼓手八名厨子四名
 艦匠二名艌匠四名風帆匠二名索匠二名鐵匠二
 名裁縫二名糊紙匠二名裱褙匠一名糕餅匠一名
 待詔一名《割書:凡兵役隨身行李貨物每人限帶百觔按|歷來封舟過海兵役等皆有壓鈔貨物帶》
 《割書:往市易舊例萬曆七年巳卯冊使長樂謝行人杰有|日東交市記後有恤役一條言自洪武間許過海五》
 《割書:百人行李各百觔與琉人貿易著為條令甲午之役|得萬金五百人各二十金多者三四十金少者亦得》
 《割書:十金八金辛酉之役僅六千金五百人各得十二金|多者二十金少者五六金稍失所望是以巳卯招募》
 《割書:僅得中材應役不能如前之精工也所獲僅三千餘|金人各八金多者十五六金少者三四金大失所望》

 《割書:至捐廩助之始得全禮而歸蓋甲午之役畨舶轉販|者無慮十餘國其利既多故我衆所獲亦豐辛酉之》
 《割書:役畨舶轉販者僅三四國其利既少故我衆所獲亦|減巳卯之役通畨禁弛畨舶不至其利頓絕故我衆》
 《割書:所獲至少勢使然也今康煕二十二年癸亥之役是|時海禁方嚴中國貨物外邦爭欲購致琉球相近諸》
 《割書:島如薩摩洲土噶喇七島等處皆聞風來集其貨易|售閩人沿說至今故充役者衆昇平日久琉球歲來》
 《割書:貿易中國貨物外邦多有此畨封舟到後土噶喇等|畨舶無一至者本國素貧乏貨多不售人役並困法》
 《割書:當禁絕商賈利徒之營求充役者損從减裝一可以|紓小邦物力之艱一可以絕衆役覬覦之想庶幾兩》
 《割書:利俱全|矣乎》

【図】玻璃漏 針盤

  更《割書:定更法|》
 海中船行里數皆以更計或云百里爲一更或云六
 十里爲一更或云分晝夜爲十更今問海舶夥長皆
 云六十里之說爲近

 舊錄云以木柹從船頭投海中人疾趨至梢人柹同
 至謂之合更人行先於柹爲不及更人行後於柹爲
 過更今西洋舶用玻璃漏定更簡而易曉細口大腹
 玻璃瓶兩枚一枚盛沙滿之兩口上下對合通一線
 以過沙懸針盤上沙過盡爲一漏卽倒轉懸之計一
 晝一夜約二十四漏每更船六十里約二漏半有零
 人行先木柹爲不及更者風慢船行緩雖及漏刻尚
 無六十里爲不及更也人行後於柹爲過更者風疾
 船行速當及漏刻巳踰六十里爲過更也

【図】針路圖

  針路
 琉球在海中本與浙閩地勢東西相値但其中平衍
 無山船行海中全以山爲凖福州往琉球出五虎門
 必取雞籠彭家等山諸山皆偏在南故夏至乘西南
 風叅用辰巽等針袤繞南行以漸折而正東琉球歸
 福州出姑米山必取溫州南杞山山偏在西北故冬
 至乘東北風叅用乾戌等針袤繞北行以漸折而正
 西雖彼此地勢東西相値不能純用卯酉針徑直相
 往來者皆以山爲凖且行船必貴占上風故也

 [指南廣義云]福州往琉球由閩安鎭出五虎門東沙
 外開洋用單《割書:或作|乙》辰針十更取雞籠頭《割書:見山卽從山|北邊過船以》
 《割書:下諸山|皆同》花瓶嶼彭家山用乙卯並單卯針十更取釣
 魚臺用單卯針四更取黃尾嶼用甲寅《割書:或作|卯》針十《割書:或|作》
 《割書:一|》更取赤尾嶼用乙卯針六更取姑米山《割書:琉球西南|方界上鎭》
 《割書:山|》用單卯針取馬齒甲卯及甲寅針收入琉球那霸
 港
  福州五虎門至琉球姑米山共四十更船
 琉球歸福州由那霸港用申針放洋辛酉針一更半
 見姑米山並姑巴甚麻山辛酉針四更辛戌針十二
 更乾戌針四更單申針五更辛酉針十六更見南杞
 山《割書:屬浙江|溫州》坤未針三更取臺山丁未針三更取里麻
 山《割書:一名|霜山》單申針三更收入福州定海所進閩安鎭
  琉球姑米山至福州定海所共五十更船
  前海行日記
 閩有司既治封舟畢工泊于太平港羅星塔五月十
 日壬午賫
詔勅至南臺以小舟至泊船所十五日祭江取水蠲吉

 于二十日壬辰奉
詔勅升舟連日夜風皆從東北來是日轉西南遂于未
 初起椗至怡山院
諭祭於海神
 二十一日癸巳日出西南風日中至管頭出金牌門
 日入未過黃蝦鼻下椗
 二十二日甲午日出丁未風過梅花頭日中丁風帶
 午乘潮出五虎門放洋過官塘尾日入至進士門夜
 至九漏轉丁未風接封陪臣正議大夫陳其湘率其
 國夥長主針用乙辰針三更半
 二十三日乙未日出見東湧在船後約離一更半許
 丁未風用乙卯針二更約離官塘八更半許
 二十四日丙申日出丁午風仍用乙卯針日未中過
 米糠洋《割書:海水碧徹如靛細黃沙如|涎沫連亘水面如米糠》見羣魚拜水日將
 入有大鳥二來集于檣是夜風益利用乙卯針四更
 共計十三更半當見雞籠山花瓶棉花等嶼及彭家
 山皆不見夜用乙卯針四更半共十七更船東北下
 一更半許

 二十五日丁酉日出丁未風輕用單乙針二更乙卯
 針一更半夜至四漏轉正南風用單乙針一更半共
 計二十一更
 二十六日戊戌日出正南風日未中轉丁午逾時丁
 未風微起用單乙針一更日中風靜縋水無底晩晡
 轉丙午風用乙卯針風靜船停不上更日入風微起
 至四漏轉丁午風用乙卯一更至八漏又用單卯二
 更至天明
 二十七日巳亥日出丁午風日未中風靜船停有大
 沙魚二見于船左右日入丁午風起至二漏轉丁風
 用乙辰針二更半天將明應見釣魚臺黃尾赤尾等
 嶼皆不見共用卯針二十七更半船東北下六更許
 二十八日庚子不用接封陪臣主張卯針本船夥長
 林某攺用乙辰針日未中丁未風行二更半鴉班上
 檣見山一點在乙位約去四更餘水面小黑魚點點
 接封陪臣云此出姑米山所見或是姑米而未能定
 日入風轉丁午用辰㢲針二更
 二十九日辛丑日出見東北小山六點陪臣云此非

 姑米乃葉壁山也在國西北始悟用卯針太多船東
 北下若非西北風不能提舟上行至那覇收港也日
 中禱于神忽轉坤申庚風一時又轉子癸陪臣大喜
 乃迴針東南行指一小山云此名讀谷山由此迤轉
 卽入港日入轉丑艮風大熾用丙巳針又用丙午單
 卯針先是四五日前未見山舟浮不動水艙將竭衆
 頗惑禱于神珓示曰二十八日見山初一日到港至
 是六月朔壬寅日未出遂入港行海中凡七晝八夜
 云《割書:二號船|港針簿》
  《割書:臣|》葆光按琉球針路其大夫所主者皆本于指南
  廣義其失在用卯針太多每有落北之患前使汪
  楫記云封舟多有飄過山北巳復引囘稽諸使錄
  十人而九《割書:明嘉靖十一年陳侃記舟至葉壁山小|舟四十牽挽八日始至那覇 嘉靖三》
  《割書:十七年郭汝霖記巳至姑米山頭目云得一日夜|之力卽未遽登岸可保不下葉壁山矣可見下葉》
  《割書:壁卽琉人亦以爲戒 萬曆四年蕭崇業記六月|初一日過葉壁山薄山下由此陸路至國兩日程》
  《割書:挽舟初五日始泊那覇 康熙二年張學禮記舟|抵琉球北山與日本交界北風引舟南行始逹那》
  《割書:覇|》封舟不至落北者惟前明冊使夏子陽及 本
  朝汪楫二人考夏錄則云梅花所開洋過白犬嶼

  又取東沙嶼丁上風用辰㢲針八更船取小琉球
  山未上風乙卯針二更取雞籠申酉上風用甲卯
  針四更船取彭家山亥上風用乙卯針三更船未
  上風用乙卯針三更船取花瓶嶼丁未上風用乙
  卯針四更船取釣魚嶼丙午上風用乙卯針四更
  船取黃尾嶼丙上風用乙卯針七更船丁上風用
  辰㢲針一更取姑米山又辰㢲針六更船取土那
  奇翁居里二山《割書:今譯爲度那奇安根呢|山二山在馬齒山之西》又辰㢲一
  更取馬齒山到港汪錄則云《割書:本錄不載見|洋舶針簿内》乙辰八
  更取雞籠頭用辰多辰㢲三更取梅花嶼單卯十
  更取釣魚臺北邊過乙辰四更取黃尾嶼《割書:得力在|此四更》
  《割書:船身提上巳見黃尾嶼下用甲卯|針取姑米定是正西風利故也》甲卯十更取姑
  米山乙卯七更取馬齒山甲寅并甲卯取那覇港
  蓋自雞籠山東行釣魚嶼赤尾嶼以至姑米山諸
  山皆在南借爲標準俱從山北邊過船見山則針
  正應見不見則針巳下漸東北行必至見葉壁山
 矣要其病皆由于用卯針太多又不能相風用針
 夫西南風固皆爲順而或自午或自丁或自未與

  坤者方位又各不同今指南廣義所錄則專言針
  混言風又多用卯針故往往落北不見姑米而見
  葉壁也後人或不見山不可信接封者主張卯針
  當深翫夏汪二錄酌風叅用辰㢲等針將船身提
  上則保不下葉壁矣
  後海行日記
 二月十六日癸丑巳刻封舟自琉球那霸開洋用小
 船百餘引出港口琉球官民夾岸送者數千人小船
 堅旗夾船左右送者數百槳是日晴明南風送颿用
 乾亥針一更半單乾針四更過馬齒安根呢度那奇
 等山海水滄黑色日入見姑米山二點離二更半許
 夜轉丁未西南風十三漏轉坤未風用乾戌三更半
 風有力頭巾頂索連斷三次
 十七日甲寅日出龍二見于船左右水沸立二三丈
 轉西北風用單子針一更日入至十四漏轉坤未風
 用乾戌一更夜見月至明
 十八日乙卯日出用單乾乾戌四更日入至十四漏
 西南風有力用乾戌四更半夜見月至明

 十九日丙辰日出轉辛酉西風帶南風不定用單庚
 一更日中轉壬子癸風用單酉針至日入轉子癸又
 轉丑癸用單戌三更半夜見月至明
 二十日丁巳日出轉艮寅東北順風日中轉甲卯用
 辛戌四更日入轉乙辰風大雨船共行二十六更半
 是日海水見綠色夜過溝祭海神轉㢲巳風用辛酉
 三更半至明
 二十一日戌午日出大霧正南風轉西南又轉西北
 風不定船行緩不上更縋水四十八托有鳥來集于
 檣轉子癸風至十三漏轉東北大順風用庚申二更
 至明
 二十二日巳未日出東北風晴大寒用庚酉申四更
 半日入有燕二來集檣上至十一漏轉乙卯風縋水
 四十托用庚酉一更夜雨大霧
 二十三日庚申日出霧大雨無風縋水三十二托日
 晡壬亥風起日入轉壬子風夜雨大寒用庚酉二更
 未明見山離一更遠許
 二十四日辛酉日出用單申一更至魚山及鳳尾山

 二山皆屬台州封舟囘閩針路本取溫州南杞山此
 二山又在南杞北五百里船身太開北行離南杞八
 更遠許日晡轉北風用丁未針三更日入舟至鳳尾
 山風止下椗
 二十五日壬戌無風舟泊鳳尾山夜雨有數小船來
 伺警至明
 二十六日癸亥日出東北風起椗行大雷雨有旋風
 轉篷日晡轉壬亥風用單未坤未三更日入風微用
 單未一更見南杞離一更許
 二十七日甲子日出晴見盤山至溫州東北順風用
 坤申庚四更縋水十四托離北關一更許日入用坤
 申庚一更至臺山下椗夜十八漏又起椗至明見南
 北關二號船先一日過南關
 二十八日乙丑東北風無力船泊七星山縋水九托
 夜至五漏颶作椗走用乙辰針行七漏加副椗泊船
 二十九日丙寅日出至霜山東北風用申庚酉針日
 晡與二號船齊至定海所琉球謝
㤙船先一日到相次泊

  三十日丁卯東北風乘潮三船雁次進五虎門日中
 至怡山院
諭祭于海神行海中凡十四晝夜云
  《割書:臣|》葆光按冊封之役有記錄者自前明嘉靖中陳
  侃始至康熙二十一年汪楫等凡七次封舟囘閩
  折桅漂柁危險備至披閲之次每爲動心今奉
皇上威靈海神效順踰年行役幸避冬汛之危半月漂
  浮絶少過船之浪桅柁無副竟免摧傷偶有風暴
  隨禱立止上下數百人安行而囘遠勝疇昔額手
  慶幸胥戴
皇㤙至于顚仆嘔逆小小困頓海舶之常何足云也
  歷次封舟渡海日期
 嘉靖十三年甲午陳侃使錄海行十八日至琉球《割書:五|月》
 《割書:初八日出海二十|五日至那霸港》七日囘福州《割書:九月二十日出那霸|二十八日至定海所》
 嘉靖四十一年壬戌郭汝霖使錄海行十一日至琉
 球《割書:五月二十二日出海閏|五月初九日至那霸港》十一日囘福州《割書:十月十八|日出那霸》
 《割書:二十九日|至五虎門》
 萬曆八年庚辰蕭崇業使錄海行十四日至琉球《割書:五|月》

 《割書:二十二日出海六|月初五日至那霸》九日囘福州《割書:十月二十四日出海|十一月初二日到定》
 《割書:海|所》
 萬曆三十三年乙巳夏子陽使錄八日至琉球《割書:五月|二十》
 《割書:四日出海六月|初一日至那霸》十一日囘福州《割書:十月二十一日出海|十一月初一日到五》
 《割書:虎|門》
 崇禎六年癸酉杜三策《割書:從客胡|靖錄》九日至琉球《割書:六月初|四日出》
 《割書:海八日過|姑米山》十一日囘福州《割書:十一月初九日出海|十九日到五虎門》
 康熙二年癸卯張學禮使錄十九日至琉球《割書:六月初|七日出》
 《割書:海二十五|日到那霸》十一日囘福州《割書:十一月十四出海二|十四日至五虎門》
 康熙二十二年癸亥汪楫使錄三日至琉球《割書:六月二|十三日》
 《割書:出海二十六|日到那霸》十一日囘福州 《割書:十一月二十四日出海|十二月初四日至定海》
 《割書:所|》
  《割書:臣|》葆光按封舟以夏至後乘西南風往琉球以冬
  至後乘東北風囘福州此言其槪也南風和緩北
  風凛冽故歸程尤難非但内外水勢有順逆也嘉
  萬封舟囘閩率先冬至在九十月中朔風猶未勁
  歸帆最宜十一月十二月冬至前後則風勢日勁
  浪必從船上過矣若正月則風颶最多且應期不

  爽萬無行舟之理二月中則多霧龍出海矣然春
  風和緩茲役親驗之浪無從船上過者殆遠勝於
  冬至前後也海船老夥長言十月二十日後東風
  送順爲吉葆光在琉球無日不占風所向歷考數
  月内風自東來不間斷者惟十月二十日後十一
  月初五日前半月中爲然因考陳侃以來惟蕭崇
  業之歸閩較爲安吉其出海日期乃十月二十四
  日爲不誣也附此以告後來者
  風信
 淸明後地氣自南而北則南風爲常霜降後地氣自
 北而南則北風爲常若反其常則颱颶將作 風大
 而烈者爲颶又甚者爲颱颶常驟發颱則有漸颶或
 瞬發焂止颱則連日夜或數日不止大約正二三四
 月爲颶五六七八月爲颱九月則北風初烈或至連
 月俗稱九降風間或有颱則驟至如春颱船在洋中
 遇颶猶可爲遇颱不可當矣 十月以後北風常作
 然颱颶無定期舟人視風隙以往來五六七八月應
 屬南風颱將發則北風先至轉而東南又轉而南又

 轉而西南 颱颶始至多帶雨九降風則無雨 五
 六七月間風雨俱至舟人視天色有點黑則收帆嚴
 舵以待之瞬息間風雨驟至隨刻卽止若豫備少遲
 則收帆不及或至傾覆 天邊有斷虹亦颱將至雲
 片如帆者曰破帆稍及半天如鱟尾者曰屈鱟出北
 方者甚於他方 海水驟變水面多穢如米糠海蛇
 浮遊水面亦颱將至
  風暴日期
 正月初四日《割書:接神|颶》初九日《割書:玉皇颶此日有颶後颶皆|驗否則後亦多不驗者》
 十三日《割書:關帝|颶》二十九日《割書:烏颶又|龍神會》
  又正月初三日初八日十一日二十五日月晦日
  皆龍會日主風
 二月初二日《割書:白鬚|颶》初七日《割書:春明|暴》二十一日《割書:觀音|暴》二十
 九日《割書:龍神朝|上帝》
  又二月初三日初九日十二日皆龍神朝上帝之
  日
 三月初三日《割書:上帝颶又|名眞武暴》初七日《割書:閻王|暴》十五日《割書:眞人颶|又名眞》
 《割書:君|暴》二十三日《割書:天妃誕媽祖颶眞人|颶多風媽祖颶多雨》二十八日《割書:諸神朝|上帝》

  又三月初三日初七日二十七日皆龍神朝星辰
  之日
 四月初一日《割書:白龍|暴》初八日《割書:佛子颶又|名太子暴》二十三日《割書:大保|暴》
 二十五日《割書:龍神大|白暴》
  又四月初八日十二日十七日皆龍會太白之日
 五月初五日《割書:係大颶名|屈原颶》十三日《割書:關帝|颶》二十一日《割書:龍母|暴》
  又五月初五日十一日二十九日皆天帝龍王朝
  玉皇之日
 六月十二日《割書:彭祖|颶》十八日《割書:彭祖|婆颶》二十四日《割書:雷公誕此|暴最准名》
 《割書:爲洗炊籠颶自十二日起至|二十四日止皆係大颶之旬》
  又六月初九日二十七日皆地神龍王朝玉皇之
  日
 七月初八日《割書:神煞|交會》十五日《割書:鬼|颶》
  又七月初七日初九日十五日二十七日皆神煞
  交會之日
 八月初一日《割書:竈君|颶》初五日《割書:係大|颶旬》十四日《割書:伽藍|暴》十五日
 《割書:魁星|颶》二十一日《割書:龍神|大會》
  又八月初三日初八日二十七日皆龍王大會之

  日
 九月初九日《割書:重陽|暴》十六日《割書:張良|颶》十九日《割書:觀音|颶》二十七
 日《割書:冷風|暴》
  又九月十一日十五日十九日皆龍神朝玉帝之
  日
 十月初五日《割書:風信|暴》初十日《割書:水仙|王颶》二十日《割書:東嶽|朝天》二十六
 日《割書:翁爹|颶》
  又十月初八日十五日二十七日皆東府君朝玉
  皇之日
 十一月十四日《割書:水仙|暴》二十七日《割書:普安|颶》二十九日《割書:西嶽|朝天》
 十二月二十四日《割書:送神颶又|名掃塵風》
 凡遇風暴日期不在本日則在前後三日之中又箕
 壁翼軫四宿亦主起風皆當謹避之
  風信考以下至此皆指南廣義所載或採禁忌方
  書或出海師柁工所記其語不盡雅馴而參攷多
  驗今附此以告後來者

【図】天妃靈應圖

  天妃靈應記
 天妃莆田湄洲嶼林氏女也《割書:張學禮記云天妃蔡|氏女猴嶼人非是》父
 名愿《割書:字曰惟愨母王氏|一云林孚第六女》宋初官都巡檢妃生而神靈
 少與群女照井有神捧銅符出以授妃群女奔駭自
 是屢著神異常乘片蓆渡海人咸稱爲通賢靈女一
 日方織忽據機瞑坐顔色變異母蹴起問之寤而泣
 曰父無恙兄歿矣有頃信至父與兄渡海舟覆若有
 挾之者父得不溺兄以柁摧遂堕海死雍熙四年昇
 化于湄州嶼《割書:張學禮記云救父投海身亡非是一云|妃生于建隆元年庚申三月二十三日》

 《割書:一云妃生於哲宗元祐八年一云生于甲申之歲按|妃于宋太宗雍熙四年九月初九日昇化室處二十》
 《割書:八歲則當以建隆元年一說|爲是生彌月不啼名日黙》時顯靈應或示夢或示
 神燈海舟獲庇無數土人相率祀之宋徽宗宣和五
 年給事中路允廸使高麗八舟溺其七獨允廸舟見
 神朱衣坐桅上遂安歸聞于朝賜廟額曰順濟高宗
 紹興二十六年始封靈惠夫人賜廟額曰靈應三十
 年海冦至江口神見風濤中冦潰就獲泉州上其事
 封靈惠昭應夫人孝宗乾道二年興化疫神降于白
 湖去潮丈許得甘泉飮者立愈又海冦至霧迷其道
 至廟前就擒封靈惠昭應崇福夫人淳熙十一年助
 廵檢姜特立捕溫台冦封靈惠昭應崇福善利夫人
 《割書:汪錄作靈慈昭應崇善福利夫人靈慈乃廟號凡封|皆原靈惠始封之號當作靈惠崇福先封後加善利》
 《割書:二字乃言爲善人利之|意以上封夫人凡四封》光宗紹熙三年以救疫旱功
 特封靈惠妃寧宗慶元四年以救潦封靈惠助順妃
 嘉定元年平大奚冦以霧助擒賊金人犯淮甸戰花
 靨鎭神助戰及戰紫金山又見神像再㨗三戰遂解
 合肥之圍封靈惠助順顯衛妃嘉定十年救旱獲海
 冦加靈惠助順顯衛英烈妃嘉熙三年錢塘潮决至

 艮山祠若有限而退封靈惠助順嘉應英烈妃寶祐
 二年救旱封助順嘉應英烈協正妃三年又封靈惠
 助順嘉應慈濟妃四年封靈惠協正嘉應慈濟妃是
 歲浙江隄成封靈惠協正嘉應善慶妃五年敎授王
 里請于朝封妃父積慶侯母顯慶夫人女兄以及神
 佐皆有錫命景定三年反風膠海冦舟就擒封靈惠
 顯濟嘉應善慶妃《割書:宋封夫人四加封|妃十凡十四封》元世祖至元十
 八年以海運得神佑封䕶國明著天妃《割書:封天妃|之始》又進
 顯佑成宗大德三年以漕運效靈封輔聖庇民明著
 天妃仁宗加封䕶國庇民廣濟明著天妃文宗天曆
 二年加封靈感助順福惠徽烈《割書:共二|十字》廟額靈慈《割書:元晋|封天》
 《割書:妃凡五|加封》皆以海運危險歷見顯應故也明太祖封昭
 孝純正孚濟感應聖妃成祖永樂七年封䕶國庇民
 妙靈昭應弘仁普濟天妃《割書:至今皆仍|此封號》自後遣官致祭
 歲以爲常莊烈帝封天仙聖母靑靈普化碧霞元君
 巳又加靑賢普化慈應碧霞元君《割書:明封聖妃一仍攺|封天妃一攺封元》
 《割書:君二凡|四封》
本朝仍永樂七年封號康熙十九年收復臺灣神靈顯

 應福提萬正色上
聞加號致祭神靈昭著于今轉赫凡渡海者必載主舟
 中往年冊封琉球
諭祭兩行夏祈冬報皆預撰文使臣昭告皆獲安全蓋
聖德所感神應尤顯云
  封舟捄濟靈蹟《割書:惟洪煕元年捄濟柴山靈蹟詳顯|聖錄以下無攷今斷自陳侃始》
 嘉靖十三年冊使陳給事侃《割書:陳侃始有記|故自侃始》高行人澄
 舟至姑米山發漏呼禱得塞而濟歸値颶桅檣俱折
 忽有紅光燭舟乃請筊起柁又有蝶雀示象是夕風
 虐冠服禱請立碑風乃弛還請春秋祀典
 嘉靖四十年冊使郭汝霖李際春行至赤嶼無風有
 大魚蕩舟乃施金光明佛并彩舟舁之遂得南風而
 濟及囘閩日颶將發豫有二雀集舟之異須臾颶發
 失柁郭等爲文以告風乃息更置柁又有一鳥集桅
 上不去
 萬曆七年冊使蕭給事崇業謝行人然針路舛錯莫
 知所之且柁葉失去䖍禱之次俄有一燕一蜻蜓飛
 繞船左右遂得易柁舟乃平安

 萬曆三十年冊使夏給事子陽王行人士禎舟過花
 瓶嶼無風而浪禱于神得風順濟歸舟柁索四斷失
 柁者三大桅亦折水面忽現神燈異雀來集東風助
 順
 崇禎元年冊使杜給事三策楊行人掄歸舟颶作折
 柁牙數次勒索皆斷舟中三人共購一奇楠高三尺
 値千金捐刻聖像俄有奇鳥集檣端舟行若飛一夜
 抵閩云
本朝康熙二年冊使張兵科學禮王行人垓歸舶過姑
 米颶作暴雨船傾側危甚桅左右欹側龍骨半折忽
 有火光熒熒霹靂起風雨中截斷仆桅舵旋不止勒
 索皆斷禱神起柁三禱三應易繩下柁時有一鳥綠
 觜紅足若雁鶩集戰臺舟人曰天妃遣來引導也遂
 逹定海
 康熙二十二年冊使汪檢討楫林舎人麟焻歸舟颶
 風三晝夜舟上下傾仄水滿艙中合舟能起者僅十
 六人厨竈漂没人盡餓凍䖍禱天妃許爲請春秋祀
 典桅篐斷而桅不散頂繩斷而篷不落與波上下竟

 保無虞
 今封舟開洋風少偏東禱立正多用卯針船身太下
 幾至落漈遂䖍禱得攺用乙辰針又筊許二十八日
 見山果見葉壁船下六百餘里欲收那霸非西北風
 不能逹禱之立轉一夜抵港 舟囘至鳳尾山旋風
 轉船篷柁俱仄呼神始正至七星山夾山下椗五更
 颶作走椗將抵礁呼神船如少緩始得下椗人皆額
 手曰此皆天妃賜也
  諭祭文《割書:祈報二道|》
 維康熙五十八年歲次巳亥五月癸酉朔越祭日癸
 巳
皇帝遣冊封琉球國正使翰林院檢討海寶副使翰林
 院編修徐葆光致祭于
 神曰惟神顯異風濤效靈瀛海扶危脫險每著神功
 捍患禦災允符祀典茲因冊封殊域取道重溟爰命
 使臣㓗將禋祀尚其默佑津途安流利涉克將成命
 惟神之休謹告
 維康熙五十九年歲次庚子二月戊戌朔越祭日丁

 卯
皇帝遣冊封琉球國正使翰林院檢討海寶副使翰林
 院編修徐葆光致祭于
海神曰惟神誕昭靈貺陰翊昌圖引使節以遄征越洪
 波而利濟殊邦往復成事無愆克暢國威實惟神佑
 聿申昭報重薦苾芬神其鍳歆永有光烈謹告
  春秋祀典䟽
 差囘琉球國翰林院檢討《割書:臣|》海寶編修《割書:臣|》徐葆光等
 謹
奏爲奏
聞事《割書:臣|》等於康熙五十七年六月初一日奉
㫖冊封琉球國王十四日於𤍠河面請
聖訓出都至閩於五十八年五月二十日登舟次日至
 怡山院
諭祭天妃二十二日從五虎門放洋西南順風行八日
 六月初一日登岸二十七日行
諭祭禮七月二十六日行
冊封禮諸宴禮以次舉行十二月二十六日登舟候汛

 本年二月十六日乘東北順風行半月三十日始扺
 福州五虎門《割書:臣|》等往返海道畧危險皆
皇上德邁千古
福與天齊《割書:臣|》等奉
命經行絶遠之處神靈效順《割書:臣|》等闔船官兵以及從役
 數百人無一虧損皆得安歸《割書:臣|》等不勝欣幸卽琉球
 國屬倂福省官民人等俱稱奇致頌以爲皆我
皇上德遍海隅之所致也其中往返之時風少不順《割書:臣|》
 等祈禱天妃卽獲安吉自前平定臺灣之時天妃顯
 靈效順巳蒙
皇上加封致祭今默佑封舟種種靈異如此仰祈
特㤙許着該地方官春秋致祭以報神庥伏候
聖裁謹奏

 禮部謹題爲奏
聞事該《割書:臣|》等議得差囘琉球國翰林院檢討《割書:臣|》海寶編
 修《割書:臣|》徐葆光等奏稱《割書:臣|》等奉
㫖冊封琉球國王往返海道闔船官兵以及從役數百

 人無一虧損皆得安歸其中往返之時風少不順《割書:臣|》
 等祈禱天妃卽獲安吉自前平定臺灣之時天妃顯
 靈效順巳蒙
皇上加封致祭今默佑封舟種種靈異仰祈
特㤙許着地方官春秋致祭以報神庥等語欽惟
皇上德周寰宇化洽海隅
詔命所經神靈恊應茲以
冊封琉球國王
特遣使臣舉行典禮往返大海絶險之區官兵從役數
 百人皆獲安吉固由天妃顯靈實皆我
皇上懷柔百神海若效順所致也查康熙十九年《割書:臣|》部
 議得將天妃封爲䕶國庇民妙靈昭應弘仁普濟天
 妃遣官致祭等因具題奉
㫖依議欽遵在案今天妃默佑封舟種種靈異應令該
 地方官春秋致祭編入祀典候
命下之日行令該督撫遵行可也《割書:臣|》等未敢擅便
 謹題請
㫖等因康熙五十九年八月初三日題本月初六日奉

㫖依議
 《割書:臣|》葆光按元史志云至元中以䕶海運有奇應加
 封天妃神號積至十字廟曰靈慈直沽平江周涇
 泉福興化等處皆有廟皇慶以來歲遣使賫香遍
 祭金幡一合銀一錠付平江官漕司及本府官用
 柔毛酒醴便服行事祝文云維年月日皇帝特遣
 某官等致祭於䕶國庇民廣濟福惠明著天妃則
 歲時之祭自元巳有之矣前明嘉靖中冊使陳侃
 使還乞賜祭以答神貺禮部議令布政司設祭一
 壇報可此又特祭一舉行者也萬曆三年冊使蕭
 崇業始請秩祀海神合舉祈報二祭至今封舟出
 海因之康熙二十二年冊使臣汪楫還具疏請照
 嶽瀆諸神着地方官行春秋二祭禮部議未准行
 今臣等在海中祈神佑庇竊計封號尊崇巳極惟
 祀典有缺故專舉爲詞神應昭格今果蒙
恩特賜允行典禮烜赫以答神庥超越千古矣

【白紙】

【白紙】

【裏表紙】

琉球諸嶌図

琉球人大行列記

琉球秊代記

琉球秊代記 附雑話 全

【右頁】
【枠外上】(横書き)
天保三壬辰新鐫
【表題】
太田先生著
     《割書:|附録》
琉球秊代記《割書:琉球|雜話》
此書(このしよ)は琉球国(りうきうこく)開闢(かいびやく)よりして歷代(れきだい)の即位(そくゐ)
あるひは王(わう)の壽(ことふき)とうをしるし且(かつ)は来聘(らいへい)の
年歷(ねんれき)ならびに國中(こくちう)の雜説(ざつせつ)竒談(きだん)こと〴〵く
圖画(づくわ)をくはへてつまびらかに擧(あぐ)る


【左頁】
琉球年譜序
方今重煕累洽之運寰宇寧謐。吾濟鮮
生。得優游于操觚之中。而耳擩目熟乎図
書之圃。翰巻之朴。聞而識四方遐陬之風
俗。豈得非昇乎膏降之所覃也哉。此琉
球臣附于我。三百有餘年如一日。請封朝貢。無
有■【懈の異体字】怠。其誠欵謹恪。旌不嘉尚。雖然其
國僻遠在于極南海之中。一筆所抗。所謂
風馬牛不相及■。以故其制度文物。人不得詳
之。余嘗得一二之書。讀之足以知其國之梗

概焉。若波明請之士。張變東西洋考。鄭
若曾琉球圖説。張學禮使琉球紀畧。徐葆
光中山傳信録。周煌琉球國史略。若我先
修之士。新井君美南島志。物茂卿琉球
聘使記。青木敦書琉球紀畧。赤崎楨幹
中山入貢記。編著不一。歴々可證。頃者亦得斯
書読之。既佚非考之名氏。雖固不詳為人之
所著。自其封冊甲子朝貢年月。至民間歌謡
風俗理事。雅俗古拳無不収載。其詳畧
出入。雖不及諸家之書。亦足以知其國之


梗概焉。書估北降生持刻斯書。乞言於余。
余謂之曰。昔者琉球不貢。蠢有違言。薩即

命。三軍此征。勢如破竹。殺伐于張。自爾至
今。氷附庸于公家。当迷之時。足躡其土目覩
其地。不啻生悪王之被荼毒。我三軍之士。寄
命於孤島絶域之際波濤萬里之上。督慶真
宇内處分勞乎外。豈如方々之耳聞哉。然前生之
有斯擧也。欲使吾濟鮮生。優游于操觚之中。
聞而識四方遐陬之風俗。亦非所以鼓舞


非興於昇平膏澤之所覃矣哉。遂書以為
序。
天保三年 壬辰之暮秋琴臺陳人
東條耕書于掃葉山房南尉
        【角印二つ】  
【琴臺陳人東條=東條琴臺】


    目録
一 年代記(ねんたいき)并 来聘年曆(らいへいねんれき)
二 国王(こくわう)の印(いん)并 花押(かきはん)の図
三 王廟(わうのびやう)がくの図
四 首里(すり)三大寺(さんたいじ)の説
五 いしぶみの説
六 護国(ごこく)寺 不動明王(ふとうめうおう)の説
七 波上寺八幡宮(はしやうじはちまんぐう)の説
八 善興寺(ぜんこうじ)天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)の説
九 天孫神(てんそんしん)の画像(ぐわぞう)
【各行頭の漢数字は全て○囲い】

十  寶剣重金丸(ほうけんてうきんまる)の来由(らいゆ)并図
十一 女子の説并図
十二 娼妓(たはらめ)謡歌(こうた)おとりの説并図
十三 梅津(うめづ)少将(せう〳〵)三線傳来(さみせんでんらい)の説
十四 託女荒神(たくじよくはうじん)ばらひ并図
十五 酒の説
十六 諳厄利亞人(あんぎりあじん)紀行(きこう)
十七 錢(せに)の説
十八 君子樹(くんしじゆ)の説
十九 古郡(ふるこほり)八郎 漂流(ひやうりう)の話(はなし)并図
【各行頭の漢数字は全て○囲い】


琉球年代記

(天孫氏(てんそんじ)王) 抑(そも〳〵)此国 開闢(かいびやく)の始(はじめ)・一男一女おのづから降(かみさがり)て・
男神(おかみ)をシネリキユ・女神(めかみ)をアマミキユといひ・三男二女
をうむ・長男を天孫氏(てんそんし)と云・王の始也・次男は按司(あんず)《割書:諸候|なり》
の始となり・三男は百姓の始となる・長女はクン〳〵・次女を
シユク〳〵と云・クン〳〵は天神(あまつかみ)・シユク〳〵は海神(わたつみのかみ)となる・此ふた
はしらの神・ともに国の守護神(しゆごじん)なりと云・陏書(ずいしよ)に
いはゆる・大業(たいきやう)元年・《割書:推古帝|十三年》阿蛮(あばん)と云者・上言(しやうげん)すらく
海上(かいしやう)烟霧(ゑんむ)のかたちみゆ・これすなはち流求(りうきう)也と・しば〳〵

【一頁右】
まねけども服(ふく)せず・同六年・陏(ずい)の兵船(ひやうせん)攻(せめ)きたりて・王
を殺(ころ)す・その後(のち)《割書:文治二年|宋淳煕十三年》逆臣(ぎやくしん)利勇(りゆう)毒(どく)を以て王を弑(しい)
し・自(みづから)立(たち)て王と称(しやう)す・此時 浦添(うらそえの)按司 舜天(しゆんてん)・利勇を討(うつ)・
利勇これに死(し)す・もろ〳〵の按司・舜天の德(とく)をあほひて・
推(お)して王位(わうい)につかしむ・《割書:以上廿五代一万七千八百二年》
(舜天(しゆんてん)王) 傳信録(てんしんろく)に・舜天王は日本 人皇(じんこう)の後裔(こうゑい)・大里(おほさとの)按司
朝公(てうこう)の子・浦添(うらそへの)按司たり・逆臣利勇を討・衆人(しうじん)推(お)して
王位につかしむ・《割書:文治三年|淳煕十四年》時に年廿一《割書:嘉禎三年|嘉煕元年》薨(こうず)・在位(ざいゐ)
五十一年・壽(ことぶき)七十二・〇保元平治物語に云・為朝(ためとも)十八歳
の時・父 六条判官為義(ろくじやうはんがんためよし)とおなしく・新院(しんいん)の御味方(おんみかた)となり・


【一頁左】
軍(いくさ)やぶれて・伊豆国(いつのくに)に流(なか)さる廿九歳にして・鬼(おに)が島(しま)へわたり
帰国(きこく)の後・国人(くにたみ)のうつたへによりて・官兵(くはんへい)をさしむけ
られ・三十三歳にして自殺(じさつ)す・云々○琉球本略に云・
二条院永万年中・為朝海にうかみ・ながれにしたがひて・
国を求め・琉球国にいたる・国人その武勇(ふゆう)におそれふくす
つゐに大里按司の妹(いもうと)に相具(あいぐ)し・舜天王をうむ・為朝
この国にとゝまる事・日久しく・故土(こと)をおもふ事・禁(きん)しがたく
して・つゐに日本に帰(かへ)れり・云々○中山世譜・《割書:紫金|大夫》
《割書:蔡温撰す尚敬王の代康熙|五十六年清に使するもの也》南宋乾道(なんそうのけんどう)元年乙酉・鎭西(ちんせい)為朝
公・随(したがひ)_レ流(なかれに)至(いたる)_レ國(くにゝ)・生(うみて)_二 一子_一而 返(かへる)・其子名 ̄は尊敦(そんとん)・後為(のちなる)_二浦添 ̄の


【二頁右】
按司_一 ̄と・云々又云舜天王・姓源(せいはけん)・■_二【號(こうす)の異体字】尊敦_一 ̄と父 ̄は鎮西八郎為
朝公・母 ̄は大里按司 ̄の妹・云々
(舜馬順熙(しゆんばしゆんき)王)舜天王の子・《割書:文治元年|淳煕十二年》生・《割書:歷仁元年|嘉煕二年》位を
つく・年五十四・《割書:宝治二年|淳祐八年》薨・在位十一年・寿六十四・
(義本(ぎほん)王)舜馬順熙の子・《割書:建永元年|開禧二年》生・《割書:建長元年|淳祐九年》位をつく・年
四十四・国中(こくちう)飢饉(ききん)うちつゞき疫疾(ゑきしつ)おほし・こゝにおいて
王 群臣(ぐんしん)をめして曰(のたまはく)・飢疫(きゑき)ふたつなからおこなはれて・人民(しんみん)
死(し)するもの半(なかば)にすぐ・これ我(われ)不徳王位(ふとくわうい)をふむにたへず・汝等(なんじら)
賢人(けんじん)をあけて・二災(ふたつのわさはい)をまぬかれしめよと・群臣すなはち
天孫氏(てんそんし)の後裔(こうゑい)・惠祖(けいそ)嫡孫(ちやくそん)・英祖(えいそ)といふ人をすゝむ・王 大(おほい)に


【二頁左】
よろこび・試(こころみ)に国政(こくせい)をとらしむること七年・賢(けん)をすゝめ・不肖(ふしやう)
をしりぞけ・国中(こくちう)こと〳〵くやすんして・二災ともにやみぬ・王
位(くらい)をゆづりて・北山(ほくざん)にしりそきかくる・在位十一年・寿五十
四・《割書:以上三代七十三年》
(英祖(えいそ)王)天孫氏の裔・惠祖の嫡孫・《割書:寛喜元年|紹窆二年》生長して伊祖(いその)
按司となる・《割書:建長五年|寧祐元年》より摂政し・《割書:文應元年|景窆元年》義本王■
ゆつりをうく・年三十二・《割書:正安元年|大德三年》薨・在位四十年・寿七十一・
(大成(だいせい)王)英祖王の子・《割書:宝治元年|淳祐七年》生・《割書:正安二年|大德四年》位につく・年五十四・
《割書:延慶元年|至大元年》薨・在位九年・寿六十二
(英慈(えいじ)王)大成王の次子・《割書:文永五年|咸淳四年》生・《割書:延慶二年|至大二年》位につく・年四十

【三頁右】
二・《割書:正和二年|皇慶二年》薨・在位五年・寿四十六・
(玉城(きよくしやう)王)英慈王の四子・《割書:永仁四年|元貞二年》生・《割書:正和三年|延祐元年》位につく・年
十九・此王内には酒色(しゆしよく)にふけり・外には田猟(みかり)を事として・
政(まつりこと)すたれ・世(よ)おとらふ・こゝにおいて・諸 ̄の按司・みなそむきて・
わつかに中山王と号して・首里(すり)・真和志(まわし)・浦添(うらそへ)・北谷(きたたん)・中城(なかぐすく)・
越来(こへく)・讀谷山(よむたんさん)・具志川(ぐしかは)・勝連(かつれん)・西原(にしはら)・与那城(よなぐすく)・泊(とまり)・南風原(はへはら)・東風(こち)
平(ひら)・等(とう)の数國(すこく)のみを領(りよう)して・餘(よ)は大里 ̄の豊見城(とよみくすく)に自立(みつからたち)
て・山南王(さんなんわう)と号(ごう)し・今歸仁(いまきにの)按司は山北王(さんほくわう)ととなん・国 𪔂足(ていそく)
のいきほひをなして・合戦(かつせん)一日もやむ時なし・《割書:建武三年|至元二年》薨・
在位廿三年・寿四十一・


【三頁左】
(西威(せいゐ)王) 玉城王の子《割書:嘉曆三年|至和元年》生《割書:建武四年|至元三年》位につく年十歳 国政(こくせい)
こと〳〵く母妃(ぼひ)に帰(き)せりいはゆる牝鶏晨(ひんけいのあした)するのならひなれば
事としてみだれざるはなし《割書:観応元年|至正十年》薨・在位十四年寿廿三
此時浦添按司に察度(さいと)といふ賢者(けんしや)あり人々みなこれに
帰服(きふく)せしかば王の世子(せいし)を廃(はい)してこの察度にしひて王位を
つがしむ《割書:以上五代九十九年 》
(察度(さつと)王)浦添間切・謝那村(やなむら)・奥間大親(おくまおほおや)の子にして・はしめ
浦添按司たりし時・西威王薨じて・世子わづかに五蔵・
母妃いよ〳〵政をみだりければ・國人 世子(せいし)を廃(はい)して・王位
につかしむ・《割書:観応元年|至正十年》なり・《割書:応永二年|明洪武廿八》薨・在位四十六年・壽

詳(つまひらか)ならず
武寧(ぶねい)王 察度王 ̄の子・《割書:延文元年|至正十六年》生・《割書:応永三年|洪武二十九年》位につく・年四十一・
此王父とはこころざし大小たがへり・酒色田猟(しゅしょくでんりやう)を事として
昼夜放逸(ちうやほういつ)にふけりければ・按司みなそむく・《割書:応永十二年|永楽三年》薨【みまかる】
在位十年・寿五十・此と紀山南王の属下(ぞくか)に・佐敷(さしきの)按司・思紹(しせう)
の子・尚巴志(しやうはし)といふ人・父の職(しよく)をつぎてありしが・山南王/無道(ぶどう)
なりしかば・兵(へい)を発(はつ)してこれを攻(せめ)滅(ほろぼ)し・ならびに山北王を
ほろぼし・つゞひて中山をせめほろぼし・父をすすめて・
王位につかしめ・国中を一統(いつとう)していにしへにかへす・《割書:以上二代》
《割書:五十六年》

思紹(ししやう)王 はじめは山南王の佐敷按司たり・子尚巴志・山
南王の暴虐(ぼうぎやく)をにくみて・これをほろぼし・次第に山北中山
をたいらげ・父(ちち)をして王位につかしむ・《割書:応永十三年|永楽四年》なり・《割書:応永二十八年|永楽十九年》
薨・在位十六年・寿詳ならず・
尚巴志(しやうはし)王 思紹王の子・《割書:応安五年|洪武五年》生・《割書:応永九年|洪武三十五年》年三十一にして
佐敷按司をつぐ・後父をすゝめて王位につかしめ・《割書:応永二十九年|永楽二十年》
位につく・年五十一・《割書:永享十一年|正統四年》薨・在位十八年・寿六十八・
尚忠(しやうちう)王 尚巴志王 ̄の次子・《割書:明徳二年|洪武二十四年》生・《割書:永享十二年|正統五年》位につく・年五十・
《割書:文安元年|正統九年》薨・在位五年・寿五十四
尚思達(しやうしだつ)王 尚忠王の子・《割書:応永十五年|永楽六年》生・《割書:文安二年|正統十年》位につく・年三


十八・《割書:宝徳元年|正統十四年》薨・在位五年・寿四十二・世子なかりしかば・叔父(しゆくふ)
なりける・尚金福をして・位をつがしむ・
尚金福(しやうきんふく)王 尚巴志王の第六子・《割書:応永五年|洪武三十一年》生・《割書:宝徳二年|景泰元年》位を
つく・年五十三・《割書:享徳二年|景泰四年》薨・在位四年・寿五十六・此王・宝徳三
年・将軍(しやうぐん)義政公(よしまさこう)へ銭千貫(せにせんくはん)と方物(ほうぶつ)を献ず・
尚泰久(しやうたいきう)王 尚金福王の子・《割書:応永二十二年|永楽十三年》生・《割書:享徳三年|景泰五年》位につく・年
四十・《割書:寛正元年|天順四年》薨・在位七年・寿四十六・
尚徳(しやうとく)王 尚泰久王の第三子・《割書:嘉吉元年|正統六年》生・《割書:寛正二年|天順五年》位につく・年
二十一・此王 君(きみ)たるの徳(とく)なく・漁(ぎよ)猟(りやう)夜(よ)をもつて日につぐ・暴虐(ぼうぎやく)
いふばかりなかりしかば・鬼界島(きかいがしま)そむきて・年々の貢(みつき)を


おさめさりしかば・王みづから将(しやう)として征伐(せいばつ)し・おほひにほこる・《割書:文明元年|成化五年》薨・在位九年・寿廿九・世子(せいし)いとけなかりしを国人/弑(しい)して・
浦添/間切(まきり)の内間(うちま)里主(さとのぬし)・尚円(しやうえん)をあげて・位をつがしむ・《割書:以上七代》
《割書:六十四年》
尚円(しやうえん)王 字(あさな)は思徳(しとく)・金伊平(きんいへい)の人にして・その先祖(せんそ)いづれの
人なりとをしらず・一説(いつせつ)に・舜天王の孫義本王・位を英祖王
にゆづりて・北山にかくる・その後裔(こうゑい)也と・父は尚稷(しやうしよく)といひて・
伊平里 ̄の主たり・此王うまれながらにして異瑞(いずい)おほく・ことさらに
賢(けん)なり・国おほいに旱(ひでり)せしに・此人の田のみはあめなきに
水かれず・人々みなおとろきて奇瑞(きずい)とす・しかれどもなを〳〵・

つゝしみてほこらず・妻子(つまこ)をひき具して・かくるゝ事十四年・
しきりにめして黄帽官(こうほうくわん)となし・また耳目官(じもくくはん)に転ぜり・尚《割書:一行目|二行目》
徳王/不義(ふぎ)なりしかば・しば〳〵これをいさむれともさらにきかさり
しかば・浦添の内間にさけかくる・王薨しければあげて位を
つかしめんとすれども・王には世子いませりとて・かたく辞(ぢ)して
いでず・よつて国人世子を弑(しい)して・尚円をむかへ・推して
王位につかしむ・《割書:文明二年|成化六年》なり・《割書:文明八年|成化十二年》薨・在位七年・寿六十二・
世子尚真(しやうしん)・年十二なりしかば・王の弟尚宣威(しやうせんゐ)位を摂す・
尚宣威(しやうせんゐ)王 尚円王の弟なり・世子いまだ弱冠(じやくかん)なりしかば・位を
摂せり・立(たち)て翌年(よくねん)尚真王に位をゆづりて・越来(こへぐ)間切に
しりぞきてかくる・此年薨・《割書:文明九年|成化十三年》寿四十七・国人/義忠(きちう)王
とおくり名す・その子孫いまに越来(こゑぐ)の領主(りやうしゆ)たり・
尚眞王 尚円の子・《割書:寛正六年|成化元年》生・《割書:文明九年|成化十三年》位につく・年十三・
《割書:大永六年|嘉靖五年》薨・在位五十年・寿六十二・
尚清王 尚真王の子・《割書:明応六年|弘治十年》生・《割書:大永七年|嘉靖六年》位につく・年三十一・《割書:弘治|嘉靖》
《割書:元年|丗四年》薨・在位二十九年・寿五十九・
尚元王 尚清王の次子・《割書:享禄元年|嘉靖七年》生・《割書:弘治二年|嘉【?】靖卅五年》位につく・年廿九・《割書:元亀|隆慶》
《割書:三年|六年》薨・在位十七年・寿四十五・
尚水王 尚元王の次子・《割書:天文廿一年|嘉靖卅一年》生・《割書:天正元年|万暦元年》位につく・年廿一・《割書:天正十六年|万暦十六年》
薨・在位十六年・寿三十五・世子なし・








【七頁右】
(尚 寧(ねい)王)尚真王の孫にして・尚 懿(い)と云人の子なり・尚永王世
子なりしかば・《割書:天正十七年|万曆十七年》位につく・年廿六《割書:元和六年|泰昌元年》薨・在位三十二年・
寿五十七・世子なし・
○此時の三司官(さんしくわん)・邪那(やな)と云者・明朝(みんてう)にこびて・日本へ朝貢すること
  をやむ・こゝにおゐて薩州候(さつしうこう)・使をつかはしてことをたゞすに・邪
  那こと〴〵く無礼(ぶれい)をおこなひければ・候おほいにいきどほり・慶長
  十三年・駿府の  御城におもむき・
神祖(しんそ)にまみえ奉り・琉球 誅伐(ちうばつ)のむねをこひ奉るに・請(こふ)ところ
  をゆるし給ひければ・同十四年二月・薩州 兵舩數百艘(へうせんすひやくそう)を・
  つかはして・攻(せめ)うたしむ・同年四月・たゝちに首里にいりて


【七頁左】
  王尚寧をとりこにして凱陣(かいじん)す・翌十五年八月六日・候尚寧
  をひきぐして駿府へ登(と)  城(ぢやう)す・尚寧薩州に質(ひとしち)たる事
  三年・あやまちを悔(くひ)・つみを謝(しや)し・以来属臣(いらいぞくしん)たらんことを
  ちかひければ・同十六年・赦(ゆる)して本国に帰(かへ)す・是よりして
  薩州へ属(ぞく)し・永世附庸(ゑいせいふやう)の国とはなれり・しかしてより・
將軍家(しやうぐんけ)・慶賀(けいが)のおり〳〵は・使臣(ししん)として王子(わんす)を来朝(らいてう)せしめて・
  貢(みつぎ)を献す・又その国の代(よ)かはりす・
將軍家の鈎命(きんめい)を薩州候よりつたへて・位をつがしむ・他日(たじつ)
  恩謝(おんしや)の使臣を奉ることはなりぬ・
(尚 豊(ほう)王)尚永王の弟(をとゝ)にして・尚久王の第(だい)四子たり・《割書:天正十八年|万曆十八年》生・

【八頁右】
《割書:元和七年|天啓元年》位につく・年三十二・《割書:寛永十七年|崇禎十三年》薨・在位廿年・寿五十一・
(尚 賢(けん)王)尚豊王の第三子・《割書:寛永二年|天啓五年》生・《割書:寛永十八年|崇禎十四年》位につく・年十七・
《割書:正保四年|清順治四年》薨・在位七年・寿二十三・
(尚 質(しつ)王)尚賢王の弟・《割書:寛永六年|崇禎二年》生・《割書:慶安二年|順治五年》位につく・年廿一・《割書:寛文八年|康煕七年》
薨・在位廿一年・寿四十一
(尚 貞(てい)王)尚質王の子《割書:正保三年|順治二年》生・《割書:寛文九年|康煕八年》位につく・年廿五《割書:宝永六年|康熙四十八年》
薨・在位四十一年・寿六十五
(尚 益(ゑき)王)尚貞王の世子尚 純(じゆん)の子・《割書:延宝六年|康煕十七年》生・尚純世子たりし
かども・先だちて卒(そつ)せり・よりて《割書:宝永七年|康煕四十九年》嫡孫(ちやくそん)たるをもちて・
位をつぐ・年三十三・《割書:正德二年|康煕五十一年》薨・在位三年・寿三十五・


【八頁左】
(尚 敬(けい)王)尚益王の子・《割書:元禄十三年|康熙卅九年》生・《割書:正徳三年|康煕五十二年》位につく・年十 四・《割書:宝曆|乾隆》
《割書:元年|十六年》薨・在位三十九年・寿五十二・
(尚穆(ほく)王)尚敬王の子・《割書:元文四年|乾隆四年》生・《割書:宝曆二年|乾隆十七年》位につく・年十四

【九頁右】
   〇來聘年曆
〇應水十未年 〇寶德三未年  〇天正十一未年
〇同十八寅年 〇慶長十五戌年 〇寛永十一戌年
〇正保元申年 〇同二酉年   〇慶安二丑年
〇同三寅年  〇■【承の異体字】應元辰年 〇同二巳年
〇同三午年  〇寬文十戌年  〇同十二子年
〇天和元酉年 〇同二戌年   〇寛永七寅年
〇正德四午年 〇享保三戌年  〇寬延元辰年
〇寶曆二申年 〇明和元申年  〇寬政二戌年
〇同八辰年  〇文化三寅年  〇天保三辰年


【九頁左】
琉球雜話
此國もと和名・宇留麻府迺久爾(うるまのくに)と云・また屋其惹島(をきのしま)
ともいふ・いま沖繩島(をきなわしま)といふ・正和のころ・三つにわかれて・
中山王・山南王・山北王と唱(となへ)しが應永年中・思紹王
國を一統してより・今に中山王と稱(しやう)す・王城の地名
を首里(すり)といふ・属する島〳〵をくはえて・凡高十二万三千
石余ありと云・もとより言葉の國にして文字なし・
舜天王のよりして・真字(まな)・仮字(かな)・ともにおこなはれ・察度王
はじめて・明(みん)へ通(つう)じて・經學(からまなび)やうやくにひらけぬ・文(ぶん)の讀(よみ)
法(かた)・日本にひとし・傳信錄に載(の)するところ・和漢三才(わかんさんさい)

【十頁右】
図繪(づゑ)等(とう)・みな日本の古言(こげん)おほく・まゝ方言(ほうげん)あるは・日本の
国〳〵にても・みなしかはあるならひなり・

【枠外上に二と有】

〇國王印并に花押

【上角印下の説明】
銅印(とういん)にして・鏕(ろく)金虎鈕(きんのこちう)なり・
綬(じゆ)は紫(むらさき)をもちゆ・印文(いんぶん)は
中山王之印・篆文(てんぶん)は・清(せい)の
乾隆(けんりう)年間・長洲の人・
沈德潛(しんとくせん)・書するところ
なりと云・


【十頁左】

【上の角印】
首里之印【横書き】

【下の花押(右から)】
貞 益 敬 【横書き】


【十一頁右】

【枠外上に三と有】
寺院(じいん)は臨濟真言(りんさいしんごん)の二宗(にしう)のみにして・三十七寺なりしが・久米村
普門寺(ふもんじ)・西福寺(さいふくじ)・廢(はい)して・今は三十五寺となれり・王廟(わうひやう)は真和志(まわし)
安里(やすさと)村にあり・前堂(ぜんどう)に匾(がく)あり

【匾の下の文字】
肅容【横書き】


【十一頁左】

【枠外上に四と有】
首里(すり)三大寺と称するは・圓覺(ゑんがく)寺天王寺 天界(てんかい)寺なり・
円覚寺中に・辨才天(べんさいてん)の社(やしろ)あり・もつとも荘厳(そうごん)をきはむ・
天女堂と号(こう)し・天女槗・観蓮槗(くわんれんばし)・なんとありて勝景(しやうけい)いふ
ばかりなし・こゝに円覚 八景(はつけい)ありて・幽景(ゆうけい)の地なりと・すべて
此国八景と称する地おほし・中山八景の図は・周煌(しうくわう)が國志(こくし)
略(りやく)にみゆれば是を・畧(りやく)す・こゝに明洪武(みんのこうぶ)十一年 官板(くわんはん)の般若心經(はんにやしんきやう)・
金剛(こんごう)經・楞伽(りゆうがん)經・の注解(ちうかい)ありて・各(おの〳〵)御製(ぎよせい)の序(じよ)をくわふ・臨済十
八世・季潭禅師(きたんぜんし)の注するところなり・一經づゝを三大寺に配(わかち)
て什物(ぢうもつ)とす・はなはだ美槧(びざん)也と云・これは洪武廿五年かの地へ・
學(からまなび)に行し人々のもちかへりしもの也となん・

【枠外上に五と有】
炮䑓(だいば)のあるみなとに碑(ひ)あり・了欖新森城(りやうらんしん〳〵しやう)と・中字に彫(ほり)て・
下に文(ぶん)を刻(こく)するは・尚清王のたつるところ也と・又一 石(せき)は■【梵字】
かくのごとき梵字をゑりて・下に文をきざめりいつれも解(げ)
すへからさるよしを・周煌がしるせるは・和文なるべし・
【枠外上に六と有】
辻(つぢ)山の護国(ごこく)寺は王の祈願所(きぐわんしよ)なり・此寺の不動明王(ふとうめうわう)・ことに霊(れい)
厳(げん)にして・国中みな尊信(そんしん)す・王みつから参詣(さんけい)し・僧徒集会(そうとしうくはい)
して・讀經(どくきやう)ひとしほ殊勝(しゆせう)なりと・國人もつねにこれを拝(はい)す・
佛前(ぶつぜん)に銅(あかがね)をもてせいしたる鉢(はち)に・水をたゝへて・その数(かづ)十を備(そなふ)・
佛燈(ぶつとう)ひかりをゑいじて・水上にきらめく・これを・ヲカゲヒカナシ
と云・拝するもの水中にゆびをうるほして・あるひはなめ・或は


【十二頁左】
ひたいにそゝぎて・合掌(がつしやう)していはく・キライカナイ・オホツカクヲク・
ナムフドウメウワウ・セウマイアンマア・ヲケカヲイナコ・ツヽゲノキンマモン
〳〵と数(す)へんとなへて・拝伏(はいふく)す・これを佛事(ぶつじ)と称す・
【枠外上に七と有】
波上(はしやう)寺 境内石筍崖(けいだいせきしゆんがい)といふは・中山八景に一にして・海望無双(かいぼうぶそう)
の地也・岸(きし)のうへに・八幡宮(はちまんぐう)ありて・毎年(まいねん)八月十八夜・国中の
男女・うちつどひて・海潮(かいてう)を眺望(てうぼう)し・遊宴(いうゑん)あかつきを侵(おか)す・
此地に阿弥陀堂(あみだどう)ありて・左右に観音薬師(くわんおんやくし)の両堂(りやうどう)をたつ・
尚豊王のたつる所也・阿弥陀堂中は像(ぞう)なく・たゞあかがねの
札(ふだ)に・奉(たてまつる)_レ寄御幣(よせごへい)の四字を刻(こく)して・その下に國の咒辞(しゆじ)をゑり・
うらに天和八年壬戌とのみをしるす・

【十三頁右】
【枠外上に八と有】
善興(ぜんこう)寺に天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)の社あり・すべて日本の諸神(しよじん)は
舜天王 尊信(そんしん)をしことにて・今にいたるまで・王みづから参詣して・
これを礼拝(らいはい)す・さるをまゝ土俗(とぞく)は菅公(くわんこう)なることをしらずして・
かのかン〳〵を天神といふに・混(こん)じて・あやまりこゝろ
ゑるものもありと・今に神扉(しんひ)ひらくことをゆるさず・拝(はい)する
ものは・神前に白米ひとつかみをそなへて・拝伏(はいふく)す・これを
ヲサゴをあげると云・又 天孫神(てんそんじん)と云あり・三首六臂(さんしゅろくへき)にして・
女神也・これぞ天神といふ神にして・シネリキユアマミキユ
の長女・かン〳〵なり・土俗あやまりて・これを辨才天と云は・
女神なればかくはなれるなり・像図(ぞうづ)のことし


【十三頁左】
【枠外上に九と有】
天孫神の像

【十四頁】
【枠外-十】
此国に重金丸といふ名劔(めいじん)あり・これはもと・山北王 帕尼芝(はくにし)日本
よりゑし太刀(たち)にて・ことさらに秘珍(ひちん)してつたへしか・應永(おほゑい)年中
尚巴志とたゝかひ・数度(すど)の功(こう)はなすといへとも・士卒(しそつ)こと〴〵く降人(こうにん)に
いでしかは・山北王はたゞ一騎(いつき)大軍をきりぬけ・志慶真河(しけまかい)の
ほとりまでにげのびしに・漁人(ぎよじん)きたりて・日本へおち給へかし
あないしまいらせん・とすゝめけれども・はかりことにやあらん
と・うたがひて・みつからこの太刀おつとり・おのれが首(くび)をかき切
て・太刀とともに川ヘなげこみてぞ死したりける・その後・百年
をへて・文明の頃・尚真王の代にあたりて・親泊村(おやとまり)の川中より・
よな〳〵白氣をはなち・金龍(きんりやう)のごときもの・のほることしは〳〵なり


【十五頁】
しかは人々これをあやしみおそれて・そのほとりへちかつくことも
なかりしが・こゝに惠平屋島(ゑへやしま)の人に・強健(ごうけん)のものありて・此所に
かよひ・一夜(ひとよ)金氣ののぼるをまちゑて・はたとうちおとしければ・
たしかにてこたへして・水底(すいてい)に雷声(らいせい)のこときおとあり・此ものすこ
しもひるまず・ゑたりとくゞり入て・もとむるに・一ふりの太刀
をそゑたりける・いそぎ此よしを申て・王に献(けん)ず・群臣(ぐんしん)これを
けみするに・重金の銘ありければ・これそいはゆる・山北王の
珍重(ちんてう)たりし・重金丸の宝劔(ほうけん)なることうたかふへくもあらすとて・
国王第|の宝劔とはなりぬ・いまにその所を・護劔渓(ごけんけい)と
なづく・一説に爲朝の太刀なりと云・

【十五頁右】
   重金丸中心之図
       重金
           惠平屋師志魯謹摸

【枠外上に十一と有】
牝鷄之晨者十室而九(ひんけいのあしたするものじうしつにしこゝのつて)と・夏子陽(かしやう)が録(ろく)する如く・また弁才天の島
なりとて・男子より女を敬(うやまふ)ふと・西定法師傳(じやうさいほうしでん)にもいふに似(に)て
女子いまだ嫁(か)せざるうちは・つねに父母にははなれおり・もつはら
男とまじはりあそび・あひともに手をとりあふて・市中(いちなか)を
往來(わうらい)すれども・いさゝかもはぢはゞからず・されどすでに・嫁して
よりならは・操(みさほ)もつはら貞(たゞ)し・もし罪(つみ)をおかすものは・あひ

【十五頁左】
ともにみづから死す
ゆへに国中
もとより
獄屋等
のもの
なしと
いえり

【枠外上に十二と有】
國中 唱妓(たはれめ)はなはだ多し・すへて風俗(ふうぞく)は琉球談にくはし簪(かんざし)は
玳瑁(たいまい)鼈甲(べつこう)にして・銀(ぎん)を挿(さす)ことを禁(きん)ず・途(みち)にして貴人(きにん)に
あへば・草履(そうり)をぬぎて・足(あし)ばやに通(とほ)るを法(ほう)とす・又 浪華(なには)に
いふ・ピンシヤウの如く・小舟(こふね)にうかみいでゝ・外島(くはいとう)より来る舟人(ふなびと)に
すゝむるもあり・ちかき頃は酒席(しゆせき)にましはる時は・謡歌(こうた)をうたひ・
三絃(さみせん)にあはせて・月扇(げつせん)をもちおどる・坐客(さかく)おほひに興(きやう)じて
酒席のたすけとなる・其かたにいはく・
 ちごのもんにたつたればばびうのやうなつのむしがどたま
 のぢよけんをちよひとはねたホンダエ〳〵〳〵《割書:ばひうは牛(うし)の子|なりつのむしは》
 《割書:はちなりとたまはあたま也ちよけんはあたまのたかき所也ちごのもんとは|わが思ふわかき男の門にしのひよりしかははちにあたまをさゝれしといふ意なるべし》


【十六頁左】
おどりの圖

【十七頁右】
【枠外上に十三と有】
後栢原院(ごかしははらいん)の御宇(ぎよう)のころ・梅津少將(うめづせう〳〵)と云人・生質音學(むまれつきおんがく)にくはし
かりしが・應仁の乱(らん)をさけて・長門國なる・大内義隆(おほうちよしたか)により給ひ
しに・少將の門に入てまなぶもの・若干(そこばく)におよびぬ・此ころ義隆
の家老(かろう)に陶尾張守晴賢(すへをはりのかみはるかた)・《割書:天文廿年八月晴賢そむく・九月朔日義隆|自殺(じさつ)す・晴賢すなはち大友 宗麟(そうりん)が弟義長》
《割書:を豊後国よりむかへて・長門国をつがしめ・その身は入道して全姜(せんきやう)と号(ごう)す・|弘治元年十一月・毛利元就にうたれて・全姜義長あひともに自殺す・》
といふものありて・ひそかに少將を害(がい)せんことをはかりしかは・
門人このよしをきゝいだして・いそぎ少將につけまいらせしに・
おどろき給ひて・とく義隆にはかり給ひしかは・義隆 文(ふみ)を書(しる)して・
毛利元就(もうりもとなり)へさけしめまいらす・そのふね暴風(ぼうふう)にあふて・いづちとも
なくたゞよひ・からうじて・琉球に漂着(ひやうちやく)し給ひしを・兼城(かねぐすくの)按司


【十七頁左】
いつくしみまいらせしに・按司のむすめよく月琴(げつきん)を弾ぜり・
少將はもとより・音律(おんりつ)にたくみなりしかば・たちどころに
目琴の妙手(めうしゆ)とはなれりけり・つゐに此女に通(つう)じて・夫婦(ふうふ)と
なれり・ともに月琴の名国中にかくれなかりしかば・尚元王
このよしをきく。夫婦を宮中(きうちう)にまねきて・月琴をこゝろま 
しむ・少將 王位(わうゐ)をしやうして・うたをつくりうたひ給ふ・いま
琉球 組(くみ)とよにとなふるものこれなり・徂徠(そらい)の琉球 聘使記(へいしき)に・
三線歌琉曲也(さんせんうたはりうきよくなり)といふにおなし・王この曲(きよく)にかんじて・しな〳〵
ひきでものありて・日本へ歸しおくらしむ・正親町院(おほきまちいんの)御宇・
永禄五年の春・夫婦ともに豊前国(ぶぜんのくに)につき・それより同国

【十八頁右】
石田(いしだ)村といふ所にかくれすみ給ひて・一子をうむ・幼名(やうめう)を石(いし)
麻呂(まろ)となづく・此石麻呂 晩年(ばんねん)におよんで・瞽(めしい)となれり・月
琴の秘曲を・父母よりうけゑたりしかば・そのかたちをものずき
して・丸胴(まるどう)を角(かく)胴に製(せい)し・八乳(やつち)の描皮(ねこのかは)をもちて・両面(りやうめん)にはり・
月琴の意(こゝろ)を以て・海老尾(かいろうび)に月のかたちをのこす・此人のち
増官(ぞうくはん)して・石村検校(いしむらけんぎやう)とはなれりけり・
 月琴は晋(しん)の阮咸(けんかん)あかかねをもて・丸銅につくりしをはじめ
 とす・すべて三絃(さみせん)は元(げん)の代(よ)にはじまれりと・楊升菴詞話(やうしやうあんしわ)
 にしるせるはあやまりなり・すでに唐(とう)の崔令欽(さいれいきん)が敎(こう)
 坊記(ほうき)にもみゆ・琉球にては・椰子(やし)をもて胴をつくり・うす


【十八頁左】
 き板(いた)にて・うらをはり・蛇皮(じゃひ)《割書:エラブウナギと云海蛇の皮|もつとも大なるをもちゆ》をもて
 おもてを張(はり)・石村かくどうにせいしかへし・製作(せいさく)は・總尺(そうしやく)
 三尺・《割書:天地人の|三極に表ス》棹(さを)二尺余・《割書:陰陽の|両氣》海老尾五寸・《割書:五|星》胴幅(どうはゝ)・六寸・《割書:六|合》
 同長六寸余・《割書:地の六種|震動》厚(あつさ)三寸・《割書:高下平の|三形》轉手(てんしゆ)・絃手(けんしゆ)・また天(てん)
 柱(しゆ)とも書す・《割書:天のかたち|を表す》糸巻・《割書:三|台》一の糸・《割書:虗|精》二の糸・《割書:陸|淳》・三の糸《割書:曲|順》
 一越(いちこつ)・斷金(だんきん)・平調(ひやうてう)・勝絶(しやうぜつ)・の四を一の糸これを兼(かね)・下無(けむ)・雙調(そうてう)・
 鳬鐘(ふせう)・黄鐘(わうせう)・の四を二の糸にそなへ・鸞鐘(らんせう)・盤渉(ばんしき)・神仙(しんせん)・
 上無(しやうむ)・の四を三の糸にかねて・十二調(しうにてうし)こと〳〵く三絃(みすぢ)にそなふ・
 今世にもちゆる三線は・總長三尺一寸五分・海老尾五寸二分・
 棹二尺五分・胴幅六寸・同長六寸六分・天手三寸五分・なり・

【十九頁右】
【枠外上に十四と有】
此国 竒(き)なることは・託女(たくぢよ)ととなへて巫女(ふじよ)おほく・民間にこと〴〵く
これを信(しん)ず・毎年正三五九月を・吉月(きちげつ)として・家々いはひたの
しむ・朔望(さくぼう)【陰暦で、月の朔日と十五日のこと】には・早朝(さうてふ)より・かの託女をまねきて・荒神(くはうじん)ば
らひの如き祈祷(きとう)あり・託女のまへに・八重山酒(やえまさけ)《割書:みりんの|如き酒也》一 盃(はい)
を盆(ぼん)にのせていだす・第一に・シネリキユ・アマミキユ・あまつかみ・
うなはらのかみ・八幡宮・天満大自在天神を拝(はい)し・爲朝公より代(よ)々
の賢王(けんわう)の御名(みな)をとなへ・琵琶(びわ)を弾(たん)じなから・法華經(ほけきやう)・礼文(らいもん)を
だみたるこゑにて・いともなかきふしにとなふ・荒神といふは・天孫
神のことのよしにて・祈祷神慮(きとうしんりよ)にかなふをキメテスリと云・祈(いのり)終(おはれ)ば
八重山酒をのみて・その盆へ札一枚をのせてかへる・図左のごとし・


【十九頁左】
荒神ばらいの図


此札國中家〳〵にはりおく        太田蜀山所蔵

【十九頁左】
【枠外上に十五と有】
酒は焼酒(せうちう)にして・あぢはひはなはだはげしく・水をわり用ゆ・
太平山(だひんざん)よりいつるを・太平酒(だひんしゆ)といひ・八重山(やゑま)よりいつるを・蜜林(みりん)
酒(しゆ)と云・上噶喇(かみむら)よりいつるは・あぢはひひとしほあまくして
あはし・日をける時は・変(へん)じて酸(す)となる・これを土中(どちう)に
うづめおくこと一年にして・焼酒(せうちう)につくれば・あぢはひたぐひ
なし・薩州(さつしう)にていふサトウアハモリこれ也・清人(せいひと)は女の口中(こうちう)にて
かみてつくるときゝて・うすきたなく思ふまゝに・のむ人すく
なし・国人はことさらに佳絶(かぜつ)也とて・きそひもてはやす ・
となん・


【二十頁左】
【枠外上に十六と有】
諳厄利亞(おんぎりあ)【英国】の人・紀行(きこう)の書(しよ)を見るに・千八百十六年・《割書:文化十三年丙子|年にあたる》
九月・琉球國にいたりし条に・此島は日本・あるひは朝鮮(てうせん)の孫(そん)
ならん・その容皃(ようほう)朝鮮人とあひおなじ・その性(せい)開豁(かいくわつ)にして
柔弱(じうじやく)なり・云々・また云・アルセスト《割書:舩の|名也》の舶吏(はくり)の長(てう)の婦おほく
陸にありしに・此島の官人(くはんにん)等のめぐみをうけしに・ある日 貴人(きふ)
来りて・おほひなる家をよくかざり・諸器(もろ〳〵うつわ)を設(まうけ)いれおくべしと
いえり・ある日また貴人・舶中(はくちう)へ来りし時・かの婦人(ふじん)に對し・
はなはだ丁寧(ていねい)なるやうにて・扇(あふき)をあたへしが・その後たつとき
一女(いちぢよ)・好事(こうず)にて諳■【厄の誤】利亞の婦を見んとて・かの婦ひとりおり
し處(ところ)へきたり・かの婦を四方より穴(あな)のあくほど見たりしが・

【二十一頁右】
かの扇をもちゐたりしゆへか・いかにも妬情(ねたみこゝろ)をふくみし眼(め)の色(いろ)
にて・やゝひさしく見てぞかへりけり。《割書:さきに扇を【?】あたへし貴人|は国王にてのちにきたりし》
《割書:貴女は王の|妃なるべし》われ開帆の期すてにさたまりて・九月廿六日・琉球人
祭服(さいふく)して寺におもむき・犠牲(いけにゑ)を神に供(きやう)し・諳■【厄の誤】利亜人を
加護(かご)し・つゝがなく本国へかへらしめんことをいのれり・すでに
ひらけしほかのくにの・いつはりてなすところの・別離(べつり)の情(じやう)よ
りは・よく心にてつしてかなしかりを・此 質朴(しつぼく)の善心(ぜんしん)より・いづる
所なれば也・祈(いのり)おはりて・別(わかれ)をなさんとて・登 舶(ふね)にきそひ来りぬ・
無情の・ボナハルテ《割書:悪王|の名》なりとも・いかでかこれにかんぜさらんや・登舶
すでにさりし後も・ひさしく船中より手をあけて・其情(そのじやう)をしらし


【二十一頁左】
めり・われすでに南方へむかひおもむきしに・順風(じゅんふう)にて・
たゞちに此島はみえずなりにけり・しかれども此 土俗(とぞく)の
深切(しんせつ)と・情の厚(あつき)は・わが諸人(しよにん)の心に・ふかくかんじ・恩(おん)とし
たふとむなり・云々
【枠外上に十七と有】
銀は日本より渡す・豆銀はことにくらゐよろしく・是を
たうとみもちゆ・閩(びん)人はこれを球餅(きうへい)といふ・銭は寛永通
宝なり・別(べつ)に一種(いつしゆ)の國銭(こくせん)ありて・文字もなく外郭(そとのわ)もなし・
紙に刺して吉事の進物にもちゆ・

【図の下】
如此にしていたつてうすし

【二十二頁右】
【枠外上に十八と有】
君子樹(くんしじゆ)といふ樹(き)ふたつあり・一は福木(ふくぼく)と云 ・葉(は)は冬青(もち)に似て
おほひなり・實(み)は橘(たちはな)のことくにして・あちはひいたつて美(び)なり・
一はガラボといふ・葉は福木におなじ・花は白梅の如し・この
實をしほりて油につくる・極上品也と云・二樹ともに・冬
にいたれとも葉おちず・ゆへに常盤木(ときはぎ)と称す・
【枠外上に十九と有】
いつの頃にや周防國(すはうのくに)に古郡(ふるこほり)八郎と云人ありけるが・主従(しう〴〵)
十八人にて大隅(おほすみ)国へわたらんとて・ふなよそほひしていて立
しが・ころは八月のころになんありけるに・豊後(ぶんご)の海を
わたるとき・天気 須臾(しゆ)に変更(へんこう)して・一天墨(いつてんすみ)をそゝぐか如く・
楫(かち)帆柱(ほはしら)もこと〴〵く打こぼち・つかの間すぐるいく千里・なみの


【二十二頁左】
ひゝきのみおそろしく・船中の人々は・風にまたゝくともし火の
きゆるとはかりのこゝちして・いまや大魚の腹中(ふくちう)にほゝむら
るゝかと・たゞ金毘羅(こんひら)をいつしんにいのるより・外のことぞなかり
ける・その夜もはやあけちかくなるまゝに・風もすこしはおだ
やかになり行しが・ふしぎやふねのかたはら一丁はかりはなれて・
山の如き魚のうきいでしか・暴風(ぼうふう)なぎわたるにしたがひ・かき
けす斗りにうせたりしかは・こは金毘羅の守護(しゆご)し給ふ
ならんと・いよゝたうとみおそれけり・《割書:按ずるに此魚はまさに|■(せい)【魚扁に聖】といふものなるべきか》
《割書:ヲキナといひておほひなるものはながさ六七里あるひは二三里の|ものもありといふこの魚うかみいつるときはせんちうのものこと〴〵く》
《割書:けつさいしてこれをまつるときはなんふうしづまりてうれいなし|つゝしみあしきときはふねをやぶるすべてほつかいにおほし小平次が》

【二十三頁右】
《割書:漂流記に船やふれてせんすべなかりしときかたはらにひとつの山いてさ【きの誤ヵ】た|りしかばその山にのぼりてふねをつくろいてのりうかみいでしかはその山は》
《割書:うごきてしづみしはヲキナにてぞありける云々これは北アメリカのおきの|ことにてそありしいまゑそよりいつるヲキナの牙(きば)といえるもこのたぐひなり》
《割書:どくけしとのみ俗(ぞく)にいへともさのみにあらずよくねつをさますことをつかさとる|もの也此ものおほひなるものゝとゞまりにてすべておほきしなどいふことばのも》
《割書:ともこれより|いでしとなり》いかにもして・いつちになりもこぎよらんものをと・
たたよいめくる所に・ことなる衣裳(いしよう)つけたる漁人(ぎょじん)・十 艘(そう)ばかりの
舟・こぎつれてとほりければ・はるかにさしまねきて・ふねを
ちかよせ・こゝはいつちぞとたつぬれとも・さらにつうぜず・紙に
文字をなしてとひければ・天地といふ二字をしるして・おの〳〵
ふねをはやめてこぎさりぬ・八郎もせんすべなく・漁に舟の往来(わうらい)
するをみれば・いづれにも地(ち)かたとほからじと・なみにまかせて


【二十三頁左】
こぐほとに・はるかに一の山をみだしたりければ・人々おほいに力を
ゑて・やう〳〵なぎさちかく・こきよりてのぼりみれば・こゝも異国(いこく)の
漁村(ぎよそん)にやあるらん・網(あみ)なんどさらして・家の二十軒はがり【ばかりヵ】も見えて・
かたはらに一のやしろあり・前殿(ぜんでん)に推朱(すいしゆ)やうの彫紋(ほりもん)ありて・文
字は黄(き)なるいろ・にほりあげたる・鎮面君真物(ちんめんくんしんぶつ)といふ匾(がく)をそ
かけたりける・《割書:按するに鎮西君真物(チンゼイキンマモン)なるべし爲朝のことならんか琉球|にては神をとうとむにかならすキンマモンとしやうすること》
《割書:をもて|はかる》これくきやうのばしよ也とて・船中の粮米(ろうまい)・武器(ぶき)なんど
はこびて・やう〳〵に食事つかひて・あたりを見まはすに・たゞ
蘇鉄(そてつ)・芭蕉(ばせを)のみおほくして・そが中にひとつの竒樹(きじゆ)あり・
枝(えだ)は藤(ふじ)の如く・葉は胡麻(ごま)のおほひなるににて・いつれを根と

【二十四頁右】
いふことをしらず・𨌎(みき)はまとひてふたかゝへもあるべく・そのさき
又地にいりて根をなす・あひ對(たい)して門(もん)のかたちににたり・
何の樹なることをしらず・《割書:按するに南方草木収にいはゆる榕(やう)なるべし|かたちすこぶる相似たり此樹南方のものに》
《割書:して閩廣(ひんかう)のあいだにおほし福州の城を榕城といふ剣州はそのとなりなれ|どもさふき故に生ぜずことはざにいふ榕不_レ過_レ剣とこれ也天竺にてはニキリツド》
《割書:と云薩州にてはガツマルといふ詩は桺宗元が栁州の作にはじめてみゆその後|宗元明清にいたるまで詩賦あけてかそへがたく榕江―菴―巣―村等【?】と号》
《割書:する人おほしくはしきことは|廣東新語もつともつくせり》とかふするうちに・漁者(きよしや)男女数十人
つどひきたりて・何とも辨(べん)じかたき果(くだもの)をあたふ・よつてその地の
名をとへども・さらにつうぜず・しばらくありて・年老(としおい)たる人いで
きたりて・いつちの人にて候哉と・日本のことばにてたづぬる
ありければ・とるものもとりあえず・さればこそ我々は・


【二十四頁左】
日本のものなるが・なんふうにあひて・いたくなんぎ候ぞ・そも〳〵
此地はいかなる国にて・そのかたはいうにして我国のことばをしり候ぞ
といんぎんにこたへければ・さればこそ此所は・ヨナクニ といふ島にて・
我は琉球國王より命(めい)をうけて・薬品をもとめにまいりおる
ツバノコヲヤカタと申もの也とて・宿所(しゆくしよ)へあんないして・さも深切(しんせつ)
にぞとりあつかひ・さて此所より送り参らせたく候へども・ふねは
あの如くそんじてのりがたし・ひとまづ琉球へ御渡り候【?】はゝ・国王へも
とゞけ候て・御送りまいらすべしとて・その島の船に打のせ・琉球
へ着船(ちやくせん)し・ことのおもむきをつばらにとゞけ・王へもまみへさせければ・
日本周防人古郡八郎と・名札をしるして出しければ・官人ども・

【二十五頁右】
いにしへの八郎爲朝ときゝつたへおれば・こと〴〵くうやまひおそれしも
おかし・それよりツバノコのやかたに滞留(たいりう)して・日々打とけてもの
かたりしけるが・もはや船も出来あがり・帰國(きこく)ほどちかくなり
ければ・ツバノコがいふやう・貴国(きこく)は大国にてことに冨饒(ふにやう)の地にし
あれば・何ひとつとしてたらざることはあらじ・されどかほどに
したしみまいらするからには・かたみにまいらすものとて外には
候はねど・我先祖中国に往来して・うけゑたりし・竒薬(きやく)
あり・惹意(とくゐ)牽情散(けんじやうさん)と申はたはれたる薬にて・わかき人々の
もてあそぶには・竒代(きたい)の法なれば・傳授(でんじゆ)まいらすべし・
御用ひ候て御わらひ候へかしとて・方書(ほうしよ)をしめす・
んどう


【二十五頁左】
  牡丹花 天茄子花 天仙子 《割書:各等分》
 右細末にして茶あるひは酒に入ておもふ婦人に飲(のま)しむる
 ときはたちまちに情をうこかすと如神
いよ〳〵出帆の時いたりければ・國王より四人の者をそへて送(おくら)
らしむ・その名は・孝貴(こうき)・伊久麻(いくま)・美里二(みりじ)・那古祢(なこね)・とそいひける・
八郎はあつく恩(おん)をしやして・かれらをめしつれて・うかみ出しが・
その日のひるすきより・雷雨(らいう)はなはだしく・慕風(ぼうふう)【暴風の誤ヵ】しきりに起(おこ)りて・
いかりをおろせば引きられ・楫をそんじ・帆柱をおる・又もかゝる
めにあふものかなと・海神をまつり・金毘羅をねんじ・髪(かみ)
をきりてはなげいれ・その外 具足(ぐそく)太刀(たち)のたくひまでもなけ入

【二十六頁右】
〳〵・いのれどもそのかひなく・二《割書:タ》月あまりももみにもまれ・ふき
にふ【布】かれて・水はこと〴〵くつかひはたして・いかがはせんとあんじ煩ひしを・
四人のものどもの工夫にて・釜(かま)のそこに・椀(わん)をうつふけに打ふせて・
米をいれてこれをかしぐに・此わんのうちにしほとゞまりて・
つねの飯にかはることなし・なをもとやかくしてうかみ行ほどに・
いつくともしらぬ国はるかに見えければ・人々あらうれしやと・よろ
ぼひなからもよろこびしに・孝貴をはじめ四人のものともは・さき
なる地をきつと見てゐたりしが・おたがひに小音(しやうおん)にかたり
あひしが・がんしよく土の如くになりてかなしみければ・八郎は
おほひにいかり・なんぢ等なにとて・かゝる不祥(ふしやう)のなかたちをなす・


【二十六頁左】
いつものくにゝもせよ・地のあらんこそ・漂船(ひようせん)の扶助(ふじよ)なるを・いま
はしき者ともかな・いで上陸(しやうりく)のちまつりにせんと・つかに手を
そえてのゝしりければ・孝貴ことはをあらためていふやう・
あれにみえ候は明(みん)の国にて候・そも〳〵我琉球は・南北わづか
六十里ばかり・東西十四五里の小国にして・大国の間にあり・
これにくはうるに・師旅(しりよ)のうれいある時は・いかなる賢君(けんくん)・勇(いう)
謀(ぼう)の将・ありとも・なかく社稷(しやしよく)をたもつことあたはず・ゆへに
鄰国(りんこく)のたすけにあらされば・寝食(しんしよく)をやすんぜず・よつて
貴国へも・応永(おうゑい)十年 六浦泻(むつらがた)についてよりこのかた・貢(みつぎ)を
献じ・後宝德三年より・兵庫の浦に交易(こうゑき)することを得

【二十七頁右】
たり・又明朝へも貢をいれて・交易することすでに年あり・
いにしへ天孫氏の代のうち・陏(ずいの)【隋の誤りではなく「ずゐ」の音が同じなので仮借として用いているのでは。『大漢和辞典』で「陏」に国名と有り。】煬帝(やうだい)太業(たいぎやう)三年《割書:推古天皇十五|年丁卯にあたる》
よりしてしば〳〵来服(らいふく)すへきよしを申来れとも・あえて
したがはさりしかば・同六年陏 の兵舩(へいせん)・數万艘(すまんぞう)・海上(かいしやう)にはかに
陸地(くがち)の如く・蜄𣱛(しんき)【「𣱛」は「氣」の古字】此ところに・乾闥婆城(けんだつばじやう)をはき出せるれと・
あやしまれしほとの大軍・たゝちに首里にせめ入て・王をさし
ころし・忠臣(ちうしん)義士(ぎし)・こと〴〵く討死(うちじに)せしよしなりしが・其のち・貴(き)
国(こく)の爲朝公の御子・舜天王より四代をへて・英祖王の時・元(げん)の
至元(しげん)年中・《割書:建武|年中》又もや・軍舩(げんせん)数万(すまん)よせ来たりしが・もはや
我国にても・貴国の武威(ぶゐ)に傳習(でんしう)せしかば・鎮護嚴緊(ちんごげんきん)


【二十七頁左】
にして・やはかあだに上陸はさせずして・追(おい)かえせしかとも・元貞(げんてい)《割書:永仁|の頃》
のはじめまで・しば〳〵海濱(かいひん)をおかされ・一日も安堵(あんど)のおもひを
なさゝりしが・つゐにしたがはさりしに・元の代すでにほろ
びて・明(みん)の太祖(たいそ)の代となりければ・洪武(こうぶ)のはじめ・行人(こうじん)を使(つかひ)
として・とほきをしたしむのこゝろざし・あつかりしかば・
時の王は舜天王をさること九代にして・察度王とて・賢德(けんとく)いみ
じかりしかば・大国によしみなきは・後代のうれひ也とて・
これよりはじめてかの国へも往来し・王の従子(じうし)等(ら)の人々・
漢學(うちまなび)にも参られしかば・《割書:洪武|廿五》閩といふ所の人・三十六人をたま
ものとしておくれり・その子孫今に久米の南門村に居(お)れり

【二十八頁右】
古郡八郎琉球人の
  さかやきを剃る圖

【二十九頁右】
されど・我琉球は・爲朝公よりして・貴国の風俗(ふうぞく)に化(くは)し・義𣱛(ぎき)も
やゝ相おなじ・しかはあれども・小国のあさましさには・貴国へは彼国へ
往来することをはゞかり・彼国へは・貴国へ奉貢(ほうこう)することをいみ
かくす・しかる時は・今度貴国の人々と・同船(どうせん)するを見ば・
貴国にぞくして・往来することをさとりて・我々かいのち
のみかは・国のうれいをひきいだせることを・ひつじやうせり・さらんと
すれは・船そんじてのりがたし・のぼらんとすれは・國のうれいをま
ねく・前後道なし・いかゝはせんとなししつむ・八郎もことのむね
をきゝとゞけて。ことはりなるかなとしあんし・ひとつの謀(はかりこと)をめぐら
して・四人のものをさかやきそりて・衣裳をきせかへ・孝貴を孝八・


【二十九頁左】
伊久麻を伊之助・美里二を道次・耶古称を古助と・あらためて・
日本人にしたてければ・四人の者は・まことにきたいの良策(りやうさく)なる
かなと・こおどりしてよろこび・うちつれて上陸す・通辞(つうじ)来
りて漂着(ひようちやく)のいはれをきゝたゞし・食をすゝめ・水をおくりし
かは・二《割書:タ》月あまり水にかつへし人々なれば・なにかはもつてこらふ
べき・おの〳〵水二三升ほどをかたむけしと・それよりなんなく
帰國することを得たりとなん・《割書:此漂流の記は中国のことつばらにありて|西湖の景なんどまのあたりゆひさすが》
《割書:ことくにて太田蜀山の秘蔵なりしをたゞ琉球人の月代を|剃て明人をくらませしおかしさをつまみてこゝに載するのみ》

琉林雜話終  天保三年秋   杏花園蔵版

【三十頁右】
此国の狂歌もまた昇平のめてたきまゝに鶴龜の
二首を末に附するのみ
    鶴
  くびながく觜【くちばし】なかくあしなかく
    いのちもなかくそろひつるかな
    龜
  手も出さすかしらも出さす尾もたさす
    身をおさめたる龜は萬年


【三十頁左】

先■南畝いま川橋は近き
となん聞えしか終に水瓶の
甲に乗て仙境に逰ひし
より既に年ありねくらも
反古をひきくらして蠧魚を
逐ちらすそか中にうるまの

国のふり一二を録せるをほり
いたして襍話となつけ暦代
譜のしりにふつゝけかきのつふて
文字をは蜀【蜀山人ヵ】と共にかくものは
天保やつあたりならぬ三の年
のほそみ【ほそみ=八朔日ヵ】人といふもの也

【最終行「の朔蜀山人といふもの也」ヵ】

【裏表紙】

【整理記号】(横書き)
Ryu 090 Ota c.2

琉球聘使記

中山伝信録

【表紙】

 康熈庚子七月十一日熱河進
呈冊封琉球圗夲副墨
 中山傳信録
 康熙六十年辛丑刊
      二友齋藏板

中山傳信録序
古者輶軒之使必紀土風誌物
冝所以重其俗也况扵萬里之
外蠻夷海㠀之中乎編修澄齋
徐館丈之使琉球也以文章華
國以政事經邦而且儀容端偉
言辤敏妙真可謂使扵四方不
辱君命者矣歸而作中山傳信

録凡若干巻中列中山王圖紀
其宴享以志其崇奉中國之誠
又為之表其世系度其封疆與
其官秩之崇卑廩禄之厚薄又
為之㝎其針路無過用叩針則
無流至葉壁山之患終為之圖
寫土産卉木動植之物必肖其
狀而首則著其揚帆奉使為封
舟圖以見
聖天子威靈呵護出入扵千波
萬水之中經渉魚龍窟穴雖掀
風鼓浪如履平地猗歟壮哉徃
者族父舟次先生奉使時排日
赴宴宴畢即上舩候風今徐君
公事畢閒與其陪臣搜巗剔壑
揮筆賦詩非以是侈其逰眺盖

将歸而著述以為得之傳聞不
如目見者之為真也其國官之
尊者曰紫金大夫時為之者即
舟次先生前使時所請陪臣子
弟入學讀書者也其文辤可觀
與之言娓娓有致今之所述皆
得之其口與其諸臣所言證之
史牒信而有徴嵇含之南方草
木状范成大之桂海虞衡志豈
足羡哉賦皇華者所冝人置一
編者也康熙六十年左春坊左
中允南書房舊直汪士鋐序

中山傳信錄序
 琉球見自隋書其傳甚畧北史唐書宋元諸史因之
 正史而外如杜氏通典集事淵海星槎勝覽蠃蟲錄
 等書所載山川風俗物產皆多舛漏前明洪武五年
 中山王察度始通中朝而明一統志成於天順初百
 年中爲時未久故所載皆仍昔悞幾無一實焉嘉靖
 甲午陳給事侃奉使始有錄歸上於朝其疏云訪其
 山川風俗人物之詳且駁羣書之謬以成紀畧質異
 二卷末載國語國字而今鈔本什存二三矣萬曆中

 再遣使蕭崇業夏子陽皆有錄而前後相襲崇禎六
 年杜三策從客胡靖記尤俚誕 本朝康煕二年兵
 科張學禮使畧雜錄二卷頗詳於昔二十二年檢討
 汪楫譔中山沿革志二卷雜錄五卷典實遠非前比
 然於山川轄屬仍有闕畧風俗制度物產等亦俱未
 備蓋使期促廹摉討倉猝語言文字彼此訛謬是以
 所聞異詞傳焉寡信今《割書:臣|》奉
命爲檢討 臣 海寳副以往自巳亥六月朔至國候汛踰
 年至庚子二月十六日始行計在中山凡八閱月封
 宴之暇先致語國王求示中山世鑑及山川圖籍又
 時與其大夫之通文字譯詞者遍遊山海間遠近形
 勢皆在目中考其制度禮儀觀風問俗下至一物異
 狀必詢名以得其實見聞互証與之往復去疑存信
 因并海行針道封宴諸儀圖狀并列編爲六卷雖未
 敢自謂一無舛漏以云傳信或庶幾焉且諸史於外
 邦載記大率荒畧今琉球雖隔大海新測晷景與福
 州東西相値僅一千七百里世世受封歲歲來貢與
 内地無異伏觀

禁廷新刊輿圖朝鮮哈密拉藏屬國等圖皆在焉海外
 藩封例得附於其次若仍前誕妄不爲釐正亦何以
 見
聖朝風化之遠與外邦内嚮之久以附職方稱甚盛哉
 故於載筆時尤兢兢致愼云康煕六十年歲在辛丑
 秋八月翰林院編修《割書:臣|》徐葆光謹序

中山傳信錄卷第一
  封舟
  渡海兵役
  更 《割書:針盤 玻璃漏|》
  針路
  前海行日記
  後海行日記
  歷次封舟渡海日期
  風信 《割書:風暴日期|》

  天妃靈應記
  諭祭海神文
  春秋祀典疏

【図】封舟圖

中山傳信錄卷第一
 冊封琉球國王副使 賜正一品麟蟒服翰林院編修加二級《割書:臣|》徐葆光纂
  封舟
 從前冊封以造舟爲重事歴考前冊採木各路騷動
 夫役開厰監造縻費官帑奸吏假手爲獘無窮經時
 累歲其事始舉自前明以至
本朝冊封之始其煩費遲久前後一轍也康熙二十一
 年使臣汪楫林麟焻卽取現有二戰艦充之前獘始
 絶至今三十餘年區宇昇平海濱利涉沿海縣鎭巨

 舶多有
冊封命下《割書:臣|》等未到閩前督臣滿保移檄各鎭選大船
 充用豫爲修葺諸具咸備二船取自浙江寧波府屬
 皆民間商舶較徃時封舟大小相埓而費輕辦速前
 此未有也《割書:按宋徐兢奉使高麗神舟二皆勅賜名字|客舟六共八舟明封舟或一或二今二舟》
 一號船使臣共居之二號船載兵役一號船前後四
 艙每艙上下三層下一層塡壓載巨石安頓什物中
 一層使臣居之兩旁名曰麻力截爲兩層左右八間
 以居從役艙口梯兩折始下艙中寬六尺許可橫一
 床高八九尺上穴艙面爲天窓井方三尺許以通明
 雨卽掩之晝黑如夜艙面空其右以行船左邊置爐
 竈數具板閣跨舷外一二尺許前後圈篷作小屋一
 二所日畨居以避艙中暑𤍠水艙水櫃設人主之置
 籖給水人日一甌船尾虚梢爲將臺立旗纛設籐牌
 弓箭兵役吹手居其上將臺下爲神堂供天妃諸水
 神下爲柁樓樓前小艙布針盤夥長柁工及接封使
 臣主針者居之船兩旁大小炮門十二分列左右軍
 噐稱是蓆篷布篷九道艙面橫大木三道設軸轉繚

 以上下之船戸以下共二十二人各有專掌其中最
 趫㨗者名鴉班正副二人登檣瞭望上下如飛兵丁
 皆習行船事每船百人爲之佐一號船千總督之二
 號船守備督之
 一號船長十丈寬二丈八尺深一丈五尺《割書:前明封舟|連尾虚梢》
 《割書:長十七丈寛三丈一尺六寸深一丈三尺三寸嘉靖|中正使陳侃副使高澄等題請定式 嘉靖三十八》
 《割書:年封舟依舊式造長帶虛梢一十五丈寬二丈九尺|七寸深一丈四尺 萬曆七年造封舟帶虛稍一十》
 《割書:四丈寛二丈九尺深一丈四尺 崇禎六年冊使杜|三策從客胡靖記錄封舟長二十丈廣六丈  本》
 《割書:朝康熙二年張學禮記形如梭子長十八丈寛二丈|二尺深二丈三尺 康熙二十二年汪楫記選二鳥》
 《割書:船充用船長一十五丈有奇寛二丈六尺按海防冊|云烽火營鳥船一隻長一十二丈三尺寛二丈五尺》
 《割書:閩安中營鳥船一隻長一十|二丈二尺寛二丈六尺五寸》前後四艙水艙四水櫃
 四水桶十二共受水七百石
 柁長二丈五尺五寸寬七尺九寸西洋造法名夾板
 柁不用勒肚柁以鐵力木爲之名曰鹽柁漬海水中
 愈堅《割書:前明封舟定製鐵力木柁三門每門長三丈五|尺有大䌫繫之由船底兠至船頭謂之勒肚以》
 《割書:櫆藤爲之今二封舟皆取商船充用二號製如鳥船|式用勒肚二條一號船係西洋夾板柁不用勒肚又》
 《割書:不置副柁將出海時與閩中有司爭置副柁本船夥|長林某云船柁西洋造法最堅穩可無用副且柁重》
 《割書:萬觔船中亦無處置之竟|不置副柁與前小異云》 

 大桅長九丈二尺圍九尺
 頭桅長七丈二尺圍七尺
 櫓二長四丈寬二尺三寸
 椗大小各二大者長二丈七尺小者長二丈四尺皆
 寬八寸及七寸形如个字皆以鐵力木爲之椗上棕
 索二條長一百托圍一尺五寸《割書:按字書碇錘舟石也|與矴同無椗字今以》
 《割書:木爲之故|俗字從木》
 大桅蓆篷寬五丈二尺長五丈三尺轆轤索三條長
 三十五托圍一尺二寸
 繚母索二條長一十五托圍一尺五寸
 頭桅蓆篷寬二丈二尺長二丈八尺
 大桅頂篷名頭巾頂惟官舶始用之商船不得用長
 五丈四尺寬五丈《割書:徐兢錄云大檣之巓加小帆十|幅謂之野狐帆殆卽頭巾頂也》
 大桅下布篷名篷裙長六尺寬一丈五尺
 頭桅上布篷名頭幞上尖下方三角形長三丈下濶
 二丈八尺
 揷花布篷長四丈八尺寬三丈四尺
 揷花下布篷名揷花褲長六尺寬一丈五尺

 頭緝布篷長四丈五尺寬二丈五尺
 尾送布篷長四丈寬二丈七尺
  共篷九道
 二號船長十一丈八尺寬二丈五尺深一丈二尺
 前後共二十三艙水艙二水櫃四水桶十二受水六
 百石
 柁長三丈四尺寬七尺制同鳥船柁用勒肚二條長
 十五丈從尾左右夾水兠至頭上
 大桅長八丈五尺圍八尺五寸
 頭桅長六丈五尺圍六尺
 櫓四長四丈寬二尺二寸
 椗大小三具
 大桅蓆篷長五丈七尺寬五丈六尺
 頭桅蓆篷長五丈七尺寬五丈六尺
 大桅頭巾頂布篷長五丈寬四丈八尺
 大桅下布篷裙長六尺寬一丈六尺
 揷花布篷長四丈八尺寬三丈二尺
 揷花褲布篷長五丈寬一丈三尺

 頭緝布篷長四丈寬二丈四尺
 尾送布篷長三丈六尺寬二丈五尺
  共篷八道少頭幞布篷一道
 每船船戸以下二十二人
 正夥長主針盤羅經事副夥長經理針房兼主水鋾
 長綆三條候水淺深
 正副舵工二人主柁二號船上兼管勒肚二條
 正副椗二人主椗四門行船時主頭緝布篷
 正副鴉班二人主頭巾頂帆大桅上一條龍旗及大
 旗
 正副杉板工二人主杉板小船行船時主淸風大旗
 及頭帆
 正副繚手二人主大帆及尾送布帆繚母棕繚木索
 等物
 正副値庫二人主大帆揷花天妃大神旗又主裝載
 押工一人主修理槓椇及行船時大桅千觔墜一條
 香公一人主天妃諸水神座前油燈早晩洋中獻紙
 及大帆尾繚

 頭阡一人主大桅繂索大椗索盤絞索大櫓車繩
 二阡二人主大桅繂索副椗索盤絞索大櫓車繩
 三阡一人主大桅繂索三椗索盤絞索車子數根
 正副總餔二人主鍋飯柴米事
   渡海兵役
 正使家人二十名副使家人十五名外海防㕔送使
 副共書辨二名廵捕二名長班四名門子二名皂隷
 八名健步四名轎傘夫二十名引禮通事二員《割書:鄭任|譯憑》
 《割書:西|熊》䕶送守備一員《割書:海壇鎭左營|守備蔡添畧》千總一員《割書:蔡|勇》官兵二
 百名《割書:閩安鎭烽火營海壇鎭|左右中三營各四十名》内科醫生一人外科醫
 生一人道士三名老排一名吹鼓手八名厨子四名
 艦匠二名艌匠四名風帆匠二名索匠二名鐵匠二
 名裁縫二名糊紙匠二名裱褙匠一名糕餅匠一名
 待詔一名《割書:凡兵役隨身行李貨物每人限帶百觔按|歷來封舟過海兵役等皆有壓鈔貨物帶》
 《割書:往市易舊例萬曆七年巳卯冊使長樂謝行人杰有|日東交市記後有恤役一條言自洪武間許過海五》
 《割書:百人行李各百觔與琉人貿易著為條令甲午之役|得萬金五百人各二十金多者三四十金少者亦得》
 《割書:十金八金辛酉之役僅六千金五百人各得十二金|多者二十金少者五六金稍失所望是以巳卯招募》
 《割書:僅得中材應役不能如前之精工也所獲僅三千餘|金人各八金多者十五六金少者三四金大失所望》

 《割書:至捐廩助之始得全禮而歸蓋甲午之役畨舶轉販|者無慮十餘國其利既多故我衆所獲亦豐辛酉之》
 《割書:役畨舶轉販者僅三四國其利既少故我衆所獲亦|減巳卯之役通畨禁弛畨舶不至其利頓絕故我衆》
 《割書:所獲至少勢使然也今康煕二十二年癸亥之役是|時海禁方嚴中國貨物外邦爭欲購致琉球相近諸》
 《割書:島如薩摩洲土噶喇七島等處皆聞風來集其貨易|售閩人沿說至今故充役者衆昇平日久琉球歲來》
 《割書:貿易中國貨物外邦多有此畨封舟到後土噶喇等|畨舶無一至者本國素貧乏貨多不售人役並困法》
 《割書:當禁絕商賈利徒之營求充役者損從减裝一可以|紓小邦物力之艱一可以絕衆役覬覦之想庶幾兩》
 《割書:利俱全|矣乎》

【図】玻璃漏 針盤

  更《割書:定更法|》
 海中船行里數皆以更計或云百里爲一更或云六
 十里爲一更或云分晝夜爲十更今問海舶夥長皆
 云六十里之說爲近

 舊錄云以木柹從船頭投海中人疾趨至梢人柹同
 至謂之合更人行先於柹爲不及更人行後於柹爲
 過更今西洋舶用玻璃漏定更簡而易曉細口大腹
 玻璃瓶兩枚一枚盛沙滿之兩口上下對合通一線
 以過沙懸針盤上沙過盡爲一漏卽倒轉懸之計一
 晝一夜約二十四漏每更船六十里約二漏半有零
 人行先木柹爲不及更者風慢船行緩雖及漏刻尚
 無六十里爲不及更也人行後於柹爲過更者風疾
 船行速當及漏刻巳踰六十里爲過更也

【図】針路圖

  針路
 琉球在海中本與浙閩地勢東西相値但其中平衍
 無山船行海中全以山爲凖福州往琉球出五虎門
 必取雞籠彭家等山諸山皆偏在南故夏至乘西南
 風叅用辰巽等針袤繞南行以漸折而正東琉球歸
 福州出姑米山必取溫州南杞山山偏在西北故冬
 至乘東北風叅用乾戌等針袤繞北行以漸折而正
 西雖彼此地勢東西相値不能純用卯酉針徑直相
 往來者皆以山爲凖且行船必貴占上風故也

 [指南廣義云]福州往琉球由閩安鎭出五虎門東沙
 外開洋用單《割書:或作|乙》辰針十更取雞籠頭《割書:見山卽從山|北邊過船以》
 《割書:下諸山|皆同》花瓶嶼彭家山用乙卯並單卯針十更取釣
 魚臺用單卯針四更取黃尾嶼用甲寅《割書:或作|卯》針十《割書:或|作》
 《割書:一|》更取赤尾嶼用乙卯針六更取姑米山《割書:琉球西南|方界上鎭》
 《割書:山|》用單卯針取馬齒甲卯及甲寅針收入琉球那霸
 港
  福州五虎門至琉球姑米山共四十更船
 琉球歸福州由那霸港用申針放洋辛酉針一更半
 見姑米山並姑巴甚麻山辛酉針四更辛戌針十二
 更乾戌針四更單申針五更辛酉針十六更見南杞
 山《割書:屬浙江|溫州》坤未針三更取臺山丁未針三更取里麻
 山《割書:一名|霜山》單申針三更收入福州定海所進閩安鎭
  琉球姑米山至福州定海所共五十更船
  前海行日記
 閩有司既治封舟畢工泊于太平港羅星塔五月十
 日壬午賫
詔勅至南臺以小舟至泊船所十五日祭江取水蠲吉

 于二十日壬辰奉
詔勅升舟連日夜風皆從東北來是日轉西南遂于未
 初起椗至怡山院
諭祭於海神
 二十一日癸巳日出西南風日中至管頭出金牌門
 日入未過黃蝦鼻下椗
 二十二日甲午日出丁未風過梅花頭日中丁風帶
 午乘潮出五虎門放洋過官塘尾日入至進士門夜
 至九漏轉丁未風接封陪臣正議大夫陳其湘率其
 國夥長主針用乙辰針三更半
 二十三日乙未日出見東湧在船後約離一更半許
 丁未風用乙卯針二更約離官塘八更半許
 二十四日丙申日出丁午風仍用乙卯針日未中過
 米糠洋《割書:海水碧徹如靛細黃沙如|涎沫連亘水面如米糠》見羣魚拜水日將
 入有大鳥二來集于檣是夜風益利用乙卯針四更
 共計十三更半當見雞籠山花瓶棉花等嶼及彭家
 山皆不見夜用乙卯針四更半共十七更船東北下
 一更半許

 二十五日丁酉日出丁未風輕用單乙針二更乙卯
 針一更半夜至四漏轉正南風用單乙針一更半共
 計二十一更
 二十六日戊戌日出正南風日未中轉丁午逾時丁
 未風微起用單乙針一更日中風靜縋水無底晩晡
 轉丙午風用乙卯針風靜船停不上更日入風微起
 至四漏轉丁午風用乙卯一更至八漏又用單卯二
 更至天明
 二十七日巳亥日出丁午風日未中風靜船停有大
 沙魚二見于船左右日入丁午風起至二漏轉丁風
 用乙辰針二更半天將明應見釣魚臺黃尾赤尾等
 嶼皆不見共用卯針二十七更半船東北下六更許
 二十八日庚子不用接封陪臣主張卯針本船夥長
 林某攺用乙辰針日未中丁未風行二更半鴉班上
 檣見山一點在乙位約去四更餘水面小黑魚點點
 接封陪臣云此出姑米山所見或是姑米而未能定
 日入風轉丁午用辰㢲針二更
 二十九日辛丑日出見東北小山六點陪臣云此非

 姑米乃葉壁山也在國西北始悟用卯針太多船東
 北下若非西北風不能提舟上行至那覇收港也日
 中禱于神忽轉坤申庚風一時又轉子癸陪臣大喜
 乃迴針東南行指一小山云此名讀谷山由此迤轉
 卽入港日入轉丑艮風大熾用丙巳針又用丙午單
 卯針先是四五日前未見山舟浮不動水艙將竭衆
 頗惑禱于神珓示曰二十八日見山初一日到港至
 是六月朔壬寅日未出遂入港行海中凡七晝八夜
 云《割書:二號船|港針簿》
  《割書:臣|》葆光按琉球針路其大夫所主者皆本于指南
  廣義其失在用卯針太多每有落北之患前使汪
  楫記云封舟多有飄過山北巳復引囘稽諸使錄
  十人而九《割書:明嘉靖十一年陳侃記舟至葉壁山小|舟四十牽挽八日始至那覇 嘉靖三》
  《割書:十七年郭汝霖記巳至姑米山頭目云得一日夜|之力卽未遽登岸可保不下葉壁山矣可見下葉》
  《割書:壁卽琉人亦以爲戒 萬曆四年蕭崇業記六月|初一日過葉壁山薄山下由此陸路至國兩日程》
  《割書:挽舟初五日始泊那覇 康熙二年張學禮記舟|抵琉球北山與日本交界北風引舟南行始逹那》
  《割書:覇|》封舟不至落北者惟前明冊使夏子陽及 本
  朝汪楫二人考夏錄則云梅花所開洋過白犬嶼

  又取東沙嶼丁上風用辰㢲針八更船取小琉球
  山未上風乙卯針二更取雞籠申酉上風用甲卯
  針四更船取彭家山亥上風用乙卯針三更船未
  上風用乙卯針三更船取花瓶嶼丁未上風用乙
  卯針四更船取釣魚嶼丙午上風用乙卯針四更
  船取黃尾嶼丙上風用乙卯針七更船丁上風用
  辰㢲針一更取姑米山又辰㢲針六更船取土那
  奇翁居里二山《割書:今譯爲度那奇安根呢|山二山在馬齒山之西》又辰㢲一
  更取馬齒山到港汪錄則云《割書:本錄不載見|洋舶針簿内》乙辰八
  更取雞籠頭用辰多辰㢲三更取梅花嶼單卯十
  更取釣魚臺北邊過乙辰四更取黃尾嶼《割書:得力在|此四更》
  《割書:船身提上巳見黃尾嶼下用甲卯|針取姑米定是正西風利故也》甲卯十更取姑
  米山乙卯七更取馬齒山甲寅并甲卯取那覇港
  蓋自雞籠山東行釣魚嶼赤尾嶼以至姑米山諸
  山皆在南借爲標準俱從山北邊過船見山則針
  正應見不見則針巳下漸東北行必至見葉壁山
  矣要其病皆由于用卯針太多又不能相風用針
  夫西南風固皆爲順而或自午或自丁或自未與

  坤者方位又各不同今指南廣義所錄則專言針
  混言風又多用卯針故往往落北不見姑米而見
  葉壁也後人或不見山不可信接封者主張卯針
  當深翫夏汪二錄酌風叅用辰㢲等針將船身提
  上則保不下葉壁矣
  後海行日記
 二月十六日癸丑巳刻封舟自琉球那霸開洋用小
 船百餘引出港口琉球官民夾岸送者數千人小船
 堅旗夾船左右送者數百槳是日晴明南風送颿用
 乾亥針一更半單乾針四更過馬齒安根呢度那奇
 等山海水滄黑色日入見姑米山二點離二更半許
 夜轉丁未西南風十三漏轉坤未風用乾戌三更半
 風有力頭巾頂索連斷三次
 十七日甲寅日出龍二見于船左右水沸立二三丈
 轉西北風用單子針一更日入至十四漏轉坤未風
 用乾戌一更夜見月至明
 十八日乙卯日出用單乾乾戌四更日入至十四漏
 西南風有力用乾戌四更半夜見月至明

 十九日丙辰日出轉辛酉西風帶南風不定用單庚
 一更日中轉壬子癸風用單酉針至日入轉子癸又
 轉丑癸用單戌三更半夜見月至明
 二十日丁巳日出轉艮寅東北順風日中轉甲卯用
 辛戌四更日入轉乙辰風大雨船共行二十六更半
 是日海水見綠色夜過溝祭海神轉㢲巳風用辛酉
 三更半至明
 二十一日戌午日出大霧正南風轉西南又轉西北
 風不定船行緩不上更縋水四十八托有鳥來集于
 檣轉子癸風至十三漏轉東北大順風用庚申二更
 至明
 二十二日巳未日出東北風晴大寒用庚酉申四更
 半日入有燕二來集檣上至十一漏轉乙卯風縋水
 四十托用庚酉一更夜雨大霧
 二十三日庚申日出霧大雨無風縋水三十二托日
 晡壬亥風起日入轉壬子風夜雨大寒用庚酉二更
 未明見山離一更遠許
 二十四日辛酉日出用單申一更至魚山及鳳尾山

 二山皆屬台州封舟囘閩針路本取溫州南杞山此
 二山又在南杞北五百里船身太開北行離南杞八
 更遠許日晡轉北風用丁未針三更日入舟至鳳尾
 山風止下椗
 二十五日壬戌無風舟泊鳳尾山夜雨有數小船來
 伺警至明
 二十六日癸亥日出東北風起椗行大雷雨有旋風
 轉篷日晡轉壬亥風用單未坤未三更日入風微用
 單未一更見南杞離一更許
 二十七日甲子日出晴見盤山至溫州東北順風用
 坤申庚四更縋水十四托離北關一更許日入用坤
 申庚一更至臺山下椗夜十八漏又起椗至明見南
 北關二號船先一日過南關
 二十八日乙丑東北風無力船泊七星山縋水九托
 夜至五漏颶作椗走用乙辰針行七漏加副椗泊船
 二十九日丙寅日出至霜山東北風用申庚酉針日
 晡與二號船齊至定海所琉球謝
㤙船先一日到相次泊

  三十日丁卯東北風乘潮三船雁次進五虎門日中
 至怡山院
諭祭于海神行海中凡十四晝夜云
  《割書:臣|》葆光按冊封之役有記錄者自前明嘉靖中陳
  侃始至康熙二十一年汪楫等凡七次封舟囘閩
  折桅漂柁危險備至披閲之次每爲動心今奉
皇上威靈海神效順踰年行役幸避冬汛之危半月漂
  浮絶少過船之浪桅柁無副竟免摧傷偶有風暴
  隨禱立止上下數百人安行而囘遠勝疇昔額手
  慶幸胥戴
皇㤙至于顚仆嘔逆小小困頓海舶之常何足云也
  歷次封舟渡海日期
 嘉靖十三年甲午陳侃使錄海行十八日至琉球《割書:五|月》
 《割書:初八日出海二十|五日至那霸港》七日囘福州《割書:九月二十日出那霸|二十八日至定海所》
 嘉靖四十一年壬戌郭汝霖使錄海行十一日至琉
 球《割書:五月二十二日出海閏|五月初九日至那霸港》十一日囘福州《割書:十月十八|日出那霸》
 《割書:二十九日|至五虎門》
 萬曆八年庚辰蕭崇業使錄海行十四日至琉球《割書:五|月》

 《割書:二十二日出海六|月初五日至那霸》九日囘福州《割書:十月二十四日出海|十一月初二日到定》
 《割書:海|所》
 萬曆三十三年乙巳夏子陽使錄八日至琉球《割書:五月|二十》
 《割書:四日出海六月|初一日至那霸》十一日囘福州《割書:十月二十一日出海|十一月初一日到五》
 《割書:虎|門》
 崇禎六年癸酉杜三策《割書:從客胡|靖錄》九日至琉球《割書:六月初|四日出》
 《割書:海八日過|姑米山》十一日囘福州《割書:十一月初九日出海|十九日到五虎門》
 康熙二年癸卯張學禮使錄十九日至琉球《割書:六月初|七日出》
 《割書:海二十五|日到那霸》十一日囘福州《割書:十一月十四出海二|十四日至五虎門》
 康熙二十二年癸亥汪楫使錄三日至琉球《割書:六月二|十三日》
 《割書:出海二十六|日到那霸》十一日囘福州《割書:十一月二十四日出海|十二月初四日至定海》
 《割書:所|》
  《割書:臣|》葆光按封舟以夏至後乘西南風往琉球以冬
  至後乘東北風囘福州此言其槪也南風和緩北
  風凛冽故歸程尤難非但内外水勢有順逆也嘉
  萬封舟囘閩率先冬至在九十月中朔風猶未勁
  歸帆最宜十一月十二月冬至前後則風勢日勁
  浪必從船上過矣若正月則風颶最多且應期不

  爽萬無行舟之理二月中則多霧龍出海矣然春
  風和緩茲役親驗之浪無從船上過者殆遠勝於
  冬至前後也海船老夥長言十月二十日後東風
  送順爲吉葆光在琉球無日不占風所向歷考數
  月内風自東來不間斷者惟十月二十日後十一
  月初五日前半月中爲然因考陳侃以來惟蕭崇
  業之歸閩較爲安吉其出海日期乃十月二十四
  日爲不誣也附此以告後來者
  風信
 淸明後地氣自南而北則南風爲常霜降後地氣自
 北而南則北風爲常若反其常則颱颶將作 風大
 而烈者爲颶又甚者爲颱颶常驟發颱則有漸颶或
 瞬發焂止颱則連日夜或數日不止大約正二三四
 月爲颶五六七八月爲颱九月則北風初烈或至連
 月俗稱九降風間或有颱則驟至如春颱船在洋中
 遇颶猶可爲遇颱不可當矣 十月以後北風常作
 然颱颶無定期舟人視風隙以往來五六七八月應
 屬南風颱將發則北風先至轉而東南又轉而南又 

 轉而西南 颱颶始至多帶雨九降風則無雨 五
 六七月間風雨俱至舟人視天色有點黑則收帆嚴
 舵以待之瞬息間風雨驟至隨刻卽止若豫備少遲
 則收帆不及或至傾覆 天邊有斷虹亦颱將至雲
 片如帆者曰破帆稍及半天如鱟尾者曰屈鱟出北
 方者甚於他方 海水驟變水面多穢如米糠海蛇
 浮遊水面亦颱將至
  風暴日期
 正月初四日《割書:接神|颶》初九日《割書:玉皇颶此日有颶後颶皆|驗否則後亦多不驗者》
 十三日《割書:關帝|颶》二十九日《割書:烏颶又|龍神會》
  又正月初三日初八日十一日二十五日月晦日
  皆龍會日主風
 二月初二日《割書:白鬚|颶》初七日《割書:春明|暴》二十一日《割書:觀音|暴》二十
 九日《割書:龍神朝|上帝》
  又二月初三日初九日十二日皆龍神朝上帝之
  日
 三月初三日《割書:上帝颶又|名眞武暴》初七日《割書:閻王|暴》十五日《割書:眞人颶|又名眞》
 《割書:君|暴》二十三日《割書:天妃誕媽祖颶眞人|颶多風媽祖颶多雨》二十八日《割書:諸神朝|上帝》

  又三月初三日初七日二十七日皆龍神朝星辰
  之日
 四月初一日《割書:白龍|暴》初八日《割書:佛子颶又|名太子暴》二十三日《割書:大保|暴》
 二十五日《割書:龍神大|白暴》
  又四月初八日十二日十七日皆龍會太白之日
 五月初五日《割書:係大颶名|屈原颶》十三日《割書:關帝|颶》二十一日《割書:龍母|暴》
  又五月初五日十一日二十九日皆天帝龍王朝
  玉皇之日
 六月十二日《割書:彭祖|颶》十八日《割書:彭祖|婆颶》二十四日《割書:雷公誕此|暴最准名》
 《割書:爲洗炊籠颶自十二日起至|二十四日止皆係大颶之旬》
  又六月初九日二十七日皆地神龍王朝玉皇之
  日
 七月初八日《割書:神煞|交會》十五日《割書:鬼|颶》
  又七月初七日初九日十五日二十七日皆神煞
  交會之日
 八月初一日《割書:竈君|颶》初五日《割書:係大|颶旬》十四日《割書:伽藍|暴》十五日
 《割書:魁星|颶》二十一日《割書:龍神|大會》
  又八月初三日初八日二十七日皆龍王大會之

  日
 九月初九日《割書:重陽|暴》十六日《割書:張良|颶》十九日《割書:觀音|颶》二十七
 日《割書:冷風|暴》
  又九月十一日十五日十九日皆龍神朝玉帝之
  日
 十月初五日《割書:風信|暴》初十日《割書:水仙|王颶》二十日《割書:東嶽|朝天》二十六
 日《割書:翁爹|颶》
  又十月初八日十五日二十七日皆東府君朝玉
  皇之日
 十一月十四日《割書:水伯|暴》二十七日《割書:普安|颶》二十九日《割書:西嶽|朝天》
 十二月二十四日《割書:送神颶又|名掃塵風》
 凡遇風暴日期不在本日則在前後三日之中又箕
 壁翼軫四宿亦主起風皆當謹避之
  風信考以下至此皆指南廣義所載或採禁忌方
  書或出海師柁工所記其語不盡雅馴而參攷多
  驗今附此以告後來者

【図】天妃靈應圖

  天妃靈應記
 天妃莆田湄洲嶼林氏女也《割書:張學禮記云天妃蔡|氏女猴嶼人非是》父
 名愿《割書:字曰惟愨母王氏|一云林孚第六女》宋初官都巡檢妃生而神靈
 少與群女照井有神捧銅符出以授妃群女奔駭自
 是屢著神異常乘片蓆渡海人咸稱爲通賢靈女一
 日方織忽據機瞑坐顔色變異母蹴起問之寤而泣
 曰父無恙兄歿矣有頃信至父與兄渡海舟覆若有
 挾之者父得不溺兄以柁摧遂堕海死雍熙四年昇
 化于湄州嶼《割書:張學禮記云救父投海身亡非是一云|妃生于建隆元年庚申三月二十三日》

 《割書:一云妃生於哲宗元祐八年一云生于甲申之歲按|妃于宋太宗雍熙四年九月初九日昇化室處二十》
 《割書:八歲則當以建隆元年一說|爲是生彌月不啼名日黙》時顯靈應或示夢或示
 神燈海舟獲庇無數土人相率祀之宋徽宗宣和五
 年給事中路允廸使高麗八舟溺其七獨允廸舟見
 神朱衣坐桅上遂安歸聞于朝賜廟額曰順濟高宗
 紹興二十六年始封靈惠夫人賜廟額曰靈應三十
 年海冦至江口神見風濤中冦潰就獲泉州上其事
 封靈惠昭應夫人孝宗乾道二年興化疫神降于白
 湖去潮丈許得甘泉飮者立愈又海冦至霧迷其道
 至廟前就擒封靈惠昭應崇福夫人淳熙十一年助
 廵檢姜特立捕溫台冦封靈惠昭應崇福善利夫人
 《割書:汪錄作靈慈昭應崇善福利夫人靈慈乃廟號凡封|皆原靈惠始封之號當作靈惠崇福先封後加善利》
 《割書:二字乃言爲善人利之|意以上封夫人凡四封》光宗紹熙三年以救疫旱功
 特封靈惠妃寧宗慶元四年以救潦封靈惠助順妃
 嘉定元年平大奚冦以霧助擒賊金人犯淮甸戰花
 靨鎭神助戰及戰紫金山又見神像再㨗三戰遂解
 合肥之圍封靈惠助順顯衛妃嘉定十年救旱獲海
 冦加靈惠助順顯衛英烈妃嘉熙三年錢塘潮决至

 艮山祠若有限而退封靈惠助順嘉應英烈妃寶祐
 二年救旱封助順嘉應英烈協正妃三年又封靈惠
 助順嘉應慈濟妃四年封靈惠協正嘉應慈濟妃是
 歲浙江隄成封靈惠協正嘉應善慶妃五年敎授王
 里請于朝封妃父積慶侯母顯慶夫人女兄以及神
 佐皆有錫命景定三年反風膠海冦舟就擒封靈惠
 顯濟嘉應善慶妃《割書:宋封夫人四加封|妃十凡十四封》元世祖至元十
 八年以海運得神佑封䕶國明著天妃《割書:封天妃|之始》又進
 顯佑成宗大德三年以漕運效靈封輔聖庇民明著
 天妃仁宗加封䕶國庇民廣濟明著天妃文宗天曆
 二年加封靈感助順福惠徽烈《割書:共二|十字》廟額靈慈《割書:元晋|封天》
 《割書:妃凡五|加封》皆以海運危險歷見顯應故也明太祖封昭
 孝純正孚濟感應聖妃成祖永樂七年封䕶國庇民
 妙靈昭應弘仁普濟天妃《割書:至今皆仍|此封號》自後遣官致祭
 歲以爲常莊烈帝封天仙聖母靑靈普化碧霞元君
 巳又加靑賢普化慈應碧霞元君《割書:明封聖妃一仍攺|封天妃一攺封元》
 《割書:君二凡|四封》
本朝仍永樂七年封號康熙十九年收復臺灣神靈顯

 應福提萬正色上
聞加號致祭神靈昭著于今轉赫凡渡海者必載主舟
 中往年冊封琉球
諭祭兩行夏祈冬報皆預撰文使臣昭告皆獲安全蓋
聖德所感神應尤顯云
  封舟捄濟靈蹟《割書:惟洪煕元年捄濟柴山靈蹟詳顯|聖錄以下無攷今斷自陳侃始》
 嘉靖十三年冊使陳給事侃《割書:陳侃始有記|故自侃始》高行人澄
 舟至姑米山發漏呼禱得塞而濟歸値颶桅檣俱折
 忽有紅光燭舟乃請筊起柁又有蝶雀示象是夕風
 虐冠服禱請立碑風乃弛還請春秋祀典
 嘉靖四十年冊使郭汝霖李際春行至赤嶼無風有
 大魚蕩舟乃施金光明佛并彩舟舁之遂得南風而
 濟及囘閩日颶將發豫有二雀集舟之異須臾颶發
 失柁郭等爲文以告風乃息更置柁又有一鳥集桅
 上不去
 萬曆七年冊使蕭給事崇業謝行人然針路舛錯莫
 知所之且柁葉失去䖍禱之次俄有一燕一蜻蜓飛
 繞船左右遂得易柁舟乃平安

 萬曆三十年冊使夏給事子陽王行人士禎舟過花
 瓶嶼無風而浪禱于神得風順濟歸舟柁索四斷失
 柁者三大桅亦折水面忽現神燈異雀來集東風助
 順
 崇禎元年冊使杜給事三策楊行人掄歸舟颶作折
 柁牙數次勒索皆斷舟中三人共購一奇楠高三尺
 値千金捐刻聖像俄有奇鳥集檣端舟行若飛一夜
 抵閩云
本朝康熙二年冊使張兵科學禮王行人垓歸舶過姑
 米颶作暴雨船傾側危甚桅左右欹側龍骨半折忽
 有火光熒熒霹靂起風雨中截斷仆桅舵旋不止勒
 索皆斷禱神起柁三禱三應易繩下柁時有一鳥綠
 觜紅足若雁鶩集戰臺舟人曰天妃遣來引導也遂
 逹定海
 康熙二十二年冊使汪檢討楫林舎人麟焻歸舟颶
 風三晝夜舟上下傾仄水滿艙中合舟能起者僅十
 六人厨竈漂没人盡餓凍䖍禱天妃許爲請春秋祀
 典桅篐斷而桅不散頂繩斷而篷不落與波上下竟

 保無虞
 今封舟開洋風少偏東禱立正多用卯針船身太下
 幾至落漈遂䖍禱得攺用乙辰針又筊許二十八日
 見山果見葉壁船下六百餘里欲收那霸非西北風
 不能逹禱之立轉一夜抵港 舟囘至鳳尾山旋風
 轉船篷柁俱仄呼神始正至七星山夾山下椗五更
 颶作走椗將抵礁呼神船如少緩始得下椗人皆額
 手曰此皆天妃賜也
  諭祭文《割書:祈報二道|》
 維康熙五十八年歲次巳亥五月癸酉朔越祭日癸
 巳
皇帝遣冊封琉球國正使翰林院檢討海寶副使翰林
 院編修徐葆光致祭于
 神曰惟神顯異風濤效靈瀛海扶危脫險每著神功
 捍患禦災允符祀典茲因冊封殊域取道重溟爰命
 使臣㓗將禋祀尚其默佑津途安流利涉克將成命
 惟神之休謹告
 維康熙五十九年歲次庚子二月戊戌朔越祭日丁

 卯
皇帝遣冊封琉球國正使翰林院檢討海寶副使翰林
 院編修徐葆光致祭于
海神曰惟神誕昭靈貺陰翊昌圖引使節以遄征越洪
 波而利濟殊邦往復成事無愆克暢國威實惟神佑
 聿申昭報重薦苾芬神其鍳歆永有光烈謹告
  春秋祀典䟽
 差囘琉球國翰林院檢討《割書:臣|》海寶編修《割書:臣|》徐葆光等
 謹
奏爲奏
聞事《割書:臣|》等於康熙五十七年六月初一日奉
㫖冊封琉球國王十四日於𤍠河面請
聖訓出都至閩於五十八年五月二十日登舟次日至
 怡山院
諭祭天妃二十二日從五虎門放洋西南順風行八日
 六月初一日登岸二十七日行
諭祭禮七月二十六日行
冊封禮諸宴禮以次舉行十二月二十六日登舟候汛

 本年二月十六日乘東北順風行半月三十日始扺
 福州五虎門《割書:臣|》等往返海道畧危險皆
皇上德邁千古
福與天齊《割書:臣|》等奉
命經行絶遠之處神靈效順《割書:臣|》等闔船官兵以及從役
 數百人無一虧損皆得安歸《割書:臣|》等不勝欣幸卽琉球
 國屬倂福省官民人等俱稱奇致頌以爲皆我
皇上德遍海隅之所致也其中往返之時風少不順《割書:臣|》
 等祈禱天妃卽獲安吉自前平定臺灣之時天妃顯
 靈效順巳蒙
皇上加封致祭今默佑封舟種種靈異如此仰祈
特㤙許着該地方官春秋致祭以報神庥伏候
聖裁謹奏

 禮部謹題爲奏
聞事該《割書:臣|》等議得差囘琉球國翰林院檢討《割書:臣|》海寶編
 修《割書:臣|》徐葆光等奏稱《割書:臣|》等奉
㫖冊封琉球國王往返海道闔船官兵以及從役數百

 人無一虧損皆得安歸其中往返之時風少不順《割書:臣|》
 等祈禱天妃卽獲安吉自前平定臺灣之時天妃顯
 靈效順巳蒙
皇上加封致祭今默佑封舟種種靈異仰祈
特㤙許着地方官春秋致祭以報神庥等語欽惟
皇上德周寰宇化洽海隅
詔命所經神靈恊應茲以
冊封琉球國王
特遣使臣舉行典禮往返大海絶險之區官兵從役數
 百人皆獲安吉固由天妃顯靈實皆我
皇上懷柔百神海若效順所致也查康熙十九年《割書:臣|》部
 議得將天妃封爲䕶國庇民妙靈昭應弘仁普濟天
 妃遣官致祭等因具題奉
㫖依議欽遵在案今天妃默佑封舟種種靈異應令該
 地方官春秋致祭編入祀典候
命下之日行令該督撫遵行可也《割書:臣|》等未敢擅便
 謹題請
㫖等因康熙五十九年八月初三日題本月初六日奉

㫖依議
 《割書:臣|》葆光按元史志云至元中以䕶海運有奇應加
 封天妃神號積至十字廟曰靈慈直沽平江周涇
 泉福興化等處皆有廟皇慶以來歲遣使賫香遍
 祭金幡一合銀一錠付平江官漕司及本府官用
 柔毛酒醴便服行事祝文云維年月日皇帝特遣
 某官等致祭於䕶國庇民廣濟福惠明著天妃則
 歲時之祭自元巳有之矣前明嘉靖中冊使陳侃
 使還乞賜祭以答神貺禮部議令布政司設祭一
 壇報可此又特祭一舉行者也萬曆三年冊使蕭
 崇業始請秩祀海神合舉祈報二祭至今封舟出
 海因之康熙二十二年冊使臣汪楫還具疏請照
 嶽瀆諸神着地方官行春秋二祭禮部議未准行
 今臣等在海中祈神佑庇竊計封號尊崇巳極惟
 祀典有缺故專舉爲詞神應昭格今果蒙
恩特賜允行典禮烜赫以答神庥超越千古矣

大日本国細図

中山伝信録

中山伝信録

中山伝信録

中山伝信録

琉球国外交録

【白紙】

18琉球國外交錄(稿本) 安政元年元年一月ペルリ3
艦を率て琉球國を威嚇し6月遂に開港條約に調印せ
しめし顛末を內務省藏史料(大震災の爲燒失)に基き
編年輯錄す附仏蘭西との外交並條約文美罫72枚15圖

安政元年正月三日
 二月一日(陽暦)
二月一日「ワンダリヤ」號「レジングトン」號「ソ
ーザ《割書:ン》プトン」號を率ゐ出㠶せり艦将は七日(旧正月十日)
に於て汽舩サスキハンナ號ポーハタン號
ミシシツピ號の三艦を率ゐて出㠶せり糧
食舩サツプラヒ號は凖備のため翌八日(正月十一日)に
上海に向つて出㠶するの命を受けたり是
れ該地に於て石炭其他生蓄を積込み江戸

湾に於て艦隊に追付くべき約束に依れり
宣教師ベテーレムは他の英吉利宣教師モ
ルトン来つて其職に代りしを以てサツブ
ライ號に乘込み家族を率ゐ上海に向ふて
出㠶の積りなり
安政元年
 正月六日(陽暦二月三日)
昨日四時分亜國提督光并穌貴哼那舩米四
々比舩両艭舩主譒譯官副将参将提督嫡子
其外小官二十人通事唐人一人兵之者九十


九人其内九十一人は銘々釼付鉄炮八人は
太刀持樂皷人四十三人水主十五人都合百
八十五人傳間十艘より泊の(江)下兵共は先に
備ひ提督以下官人等は後に備ひ本道通〻
て首里に罷登守禮門内にて致下轎候付久
米村大夫両人并板良敷里之子親雲上歡會
御門外出迎提督并官貟等六人之帖総理官
布政官江与申譒譯官より板良敷江相渡候
付請取案内にて罷通兵卒共は歡會御門外
江召置提督始舩主両人繙譯官副将参将提

督嫡子小官十九人通事唐人一人入
城総理官并布政官棚原親方安室親方にて
西之御殿江招入り乐(亙)面會の挨拶濟て提督
より
太子樣
國母樣を初各官之年首祝并御安否御尋有
之茶菓子馳走致し候事
附本文外供水主五人列入都合三十二人
一、提督より総理官布政官䓁舩元江相招度
候得共二三日内舩々惣樣出㠶之手筈にて


障(ヒマ)無之其儀不相叶江戸ヨリ帰後招可申ト
為申由
一、石炭守護トシテ小官水主䓁七八人天久
寺ニ召置候間白料所望物䓁無不足相達呉
候樣且右水主共無調法之仕形モ亥ハヽ不
隠置即々小官ヘ可相達左候ハヽ其取扱可
致ト申候付右見格護方ハ此方ヨリ取計可
申亥間止宿之者共ハ引取候樣段々申入候
得共聞入無之是非可残置為申由
一、提督ヨリ翻譯官ヲ以亜國金銀度 隹(佳)喇嶋

【横の小書きの文字は赤字】

金銀繰替候様申ニ付此間ヨリ申達矣通此
地度隹喇島之金銀通融無之持居候者不罷
居繰替不相調段申達候處此地之人福州ヘ
持渡買物イタシ矣儀現在見及居矣ヲ不有
合卜ノ申分落着不罷咸ト申ニ付間ニハ度
隹喇嶋人共唐用物ト(料)シテ日本得免許貢舩
渡唐之時分持来覆唐末々之者ヘ頼有之節
ニ持渡申事ニテ琉人自分買物料持渡乏儀
ニ而ハ無之矣右繰替一件ハ此間ヨリ被申
出籍調用ハ中國ヨリ相尋サセ矣得共簪調


用僅計之持渡簪調矣砌モ求方至而六ケ敷
有之當分持居矣者無之繰替不相調段再三
譯ケ而相達矣而モ落着不致渡合之度佳𡃤(ラ)
嶋人䓁モ相尋屹ト繰替可致ト左之通金銀
調之蕃分大中小調蕃分差出各同量目ヲ以
繰替矣様ニト差出此上相断矣得ハ怒立候
氣象相見得矣付度佳喇島人ヘハ持居矣者
モ可有之哉相尋何分可申聞支間先以御方
䓁致所持矣様申達矣得共聞取無之押々右
蕃分相渡為申由

一金大蕃分一枚
一同中蕃分一枚
一同ヨリ少シ小形蕃分一枚
一同右ヨリ少シ小形蕃分二枚
一同小蕃分五枚
一銀大蕃分四枚
一同中蕃分二枚
一同小蕃分七枚
一銅蕃分一枚
一、右相済総理官ヨリ衛門ニ而軽キ馳走イ


タシ度矣間被帰候砌ハ立寄給矣様申入候
處沗ト申追而退
城前条入城之人數大美御殿ヘ沗(参)矣付総理
官并布政官棚原親方ハ先達而差越居候而
招入茶菓子十二椀三料理馳走イタシ左之
通帖目録取𣸸手渡品相懸矣処別テ喜入謝
禮申出左矣而明日ハ総理官布政官ヘ品物
差懸度矣間於天久寺請取矣様且江戸ヨリ
帰後各官招矣莭ハ彌被罷出度㫖重而挨拶
為有之由

戊辰琉球人来朝之式

下等小学日本地誌略図問答

中山伝信録

【表紙】

重刻中山傳信録序
是歳丙戌之夏。予友岡瑞卿将重
梓中山傳信録。屬予挍且序之。予
病懶不堪煩。則使門人永忠原代
挍之。及秋挍乃成矣。因為之序曰。
原夫琉球之通吾邦。未詳始於何

時。歷考國史。不少概見。《割書:或以其所|謂南島者》
《割書:當之。然此泛稱薩南諸|島耳。未足以為的證。》豈以其地
僻逺。且風濤艱險。非夫三韓渤海。
一葦可杭之屬。而置之度外而不
問耶。但世傳保元之役。源公為朝
之放于豆大島也。遂乃航洋。至琉
球而止焉。今閱是録。中山世系王
舜天紀。所謂日本人皇後裔朝公
者。時相當矣。名相符矣。則世之所
傳。信而有徵。夫舜天為球陽文敎
之始祖。而實公之男也。則雖彼未
嘗庭于我。而既隂被其化也久矣。

厥後二百余年。室町喜山覇政之
時。乃纔有来貢之信。而亦唯互市
是利。嚮化未醇。且方是之時。海内
板蕩。干戈日尋。尚何問殊域之暇
及也哉。逮至
神祖戡定。疆宇一統。風化之所訖。
朝鮮既納款。於是乎石曼子侯。震
其餘勇。奉 敎南征也。蝥弧所指。
望風奔竄。遂乃長驅入中山。繫王
尚寧。而致之 闕下。自是之後。修
聘進貢。永為我附庸矣。則今吾邦
學者。而不知其國事可乎。岡瑞卿

重刻之舉。意在斯乎。有客謂予曰。
夫琉球既為我影國。而猶且貳於
清。奉其正朔。受其冊封。而吾之
國家不討之。何也。曰。古明王之待
夷狄。羈縻不責備也。今吾之 國
家亦然耶。則益足以見其柔懐之
德爾。客唯々而退。
 旹
大日本明和三年冬十月
  平安 服天游伯和文撰

     永忠原俊平文書

中山傳信錄序
古-者輶-軒 ̄ノ之-使。必紀_二 ̄シ土-風_一 ̄ヲ誌_二 ̄ス物-
冝_一 ̄ヲ。所_三-以 ̄ナリ重_二 ̄スル其 ̄ノ俗_一 ̄ヲ也。况 ̄ヤ扵_二 ̄テヲヤ萬-里 ̄ノ之
外。蠻-夷海-㠀 ̄ノ之中_一 ̄ニ乎。編-修澄-齋
徐-館-丈 ̄ノ之使_二 ̄スル琉-球_一 ̄ニ也。以_二 ̄テ文-章_一 ̄ヲ華 ̄ニシ
_レ國 ̄ヲ。以_二 ̄テ政-事_一 ̄ヲ經_レ ̄ス邦 ̄ヲ。而 ̄シテ且 ̄ツ儀-容端-偉。
言-辤敏-妙。真 ̄ニ可_レ ̄シ謂 ̄ツ使_二 ̄メ扵四-方_一 ̄ニ。不 ̄ル
_レ辱_二 ̄シメ君-命_一 ̄ヲ者 ̄ナリト矣。歸 ̄テ而作_二 ̄ル中-山傳-信

録_一 ̄ヲ。凡 ̄ソ若-干-巻。中 ̄ニ列_二 ̄シ中-山-王 ̄ノ圖_一 ̄ヲ。紀_二 ̄シテ
其 ̄ノ宴-享_一 ̄ヲ。以 ̄テ志_下 ̄ルス其 ̄ノ崇_二-奉 ̄スル中-國_一 ̄ヲ之誠_上 ̄ヲ。
又為_レ ̄メニ之 ̄カ表_二 ̄レ其 ̄ノ世-系_一 ̄ヲ。度_二 ̄リ其 ̄ノ封-疆_一 ̄ヲ。與_二 ̄ヲサヘニ
其 ̄ノ官-秩 ̄ノ之崇-卑。廩-禄 ̄ノ之厚-薄_一。又
為_レ ̄メニ之 ̄カ㝎_二 ̄メ其 ̄ノ針-路_一 ̄ヲ。無_レ ̄キトキハ過_二-用 ̄スルヿ叩-針_一 ̄ヲ。則
無_下 ̄ラシム流 ̄シテ至_二 ̄ル葉-壁-山_一 ̄ニ之患_上。終 ̄ニ為_レ之 ̄カ圖_二-
寫 ̄シ土-産卉-木動-植之物_一 ̄ヲ。必 肖(ニセ)_二其 ̄ノ
狀_一 ̄ヲ。而首 ̄ニハ則著_二 ̄シテ其 ̄ノ揚_レ ̄ケ帆 ̄ヲ奉_一レ ̄スルヲ使 ̄ヲ。為_二 ̄リ封-
舟 ̄ノ圖_一 ̄ヲ。以 ̄テ見_下 ̄ハス
聖-天-子威-靈呵-護。出_二-入 ̄シ扵千-波
萬-水 ̄ノ之中_一 ̄ニ。經_二-渉 ̄シ魚-龍 ̄ノ窟-穴_一 ̄ニ。雖_二 ̄トモ掀 ̄シ
_レ風 ̄ヲ鼓_一レ ̄スト。浪 ̄ヲ。如_上レ ̄ナルヲ履_二 ̄ムカ平-地_一 ̄ヲ。猗(アヽ)-歟壮 ̄ナル-哉。徃-
者 ̄ニ族-父舟-次先-生奉_レ ̄スル使 ̄ヲ時。排_レ ̄メ日 ̄ヲ
赴_レ ̄キ宴 ̄ニ。宴-畢 ̄テ即上_レ ̄リ舩 ̄ニ候_レ ̄ガフ風 ̄ヲ。今徐-君
公-事畢 ̄テ。閒 ̄ニ與_二其 ̄ノ陪-臣_一。搜_レ ̄リ巗 ̄ヲ剔_レ ̄シ壑 ̄ヲ。
揮_レ ̄ヒ筆 ̄ヲ賦_レ ̄ス詩 ̄ヲ。非_三以_レ是 ̄ヲ侈_二 ̄ルニ其 ̄ノ逰-眺_一 ̄ヲ。盖

将_レ ̄シテ歸 ̄ント而著-述 ̄ス。以-為 ̄ラク得_二 ̄ルハ之 ̄ヲ傳-聞_一 ̄ニ。不 ̄ト
_レ如_二 ̄カ目-見 ̄スル者 ̄ノ之為_一レ ̄ルニハ真也。其 ̄ノ國-官 ̄ノ之
尊 ̄キ者 ̄ヲ。曰_二 ̄フ紫-金大-夫_一 ̄ト。時 ̄ニ為_レ ̄ル之 ̄ト者 ̄ハ。即
舟-次先-生前 ̄ニ-使 ̄セル時。所_レ ̄ロノ請_二 ̄フ陪-臣子-
弟。入_レ ̄テ學 ̄ニ讀_一レ ̄ムヿヲ書 ̄ヲ者 ̄ナリ也。其 ̄ノ文-辤可_レ ̄シ觀 ̄ツ。
與(ト)_レ之言 ̄テ娓-娓 ̄トシテ有_レ ̄リ致。今 ̄ノ之所_レ述 ̄ル。皆
得_三之 ̄ヲ其 ̄ノ口 ̄ト。與_二 ̄ニ其 ̄ノ諸-臣 ̄ノ所_一レ言 ̄フ。證_二 ̄シ之 ̄ヲ
史-牒_一 ̄ニ。信 ̄ニシテ而有_レ ̄リ徴。嵇-含 ̄ガ之南-方草-
木-状。范-成-大 ̄ガ之桂-海虞-衡-志 ̄モ。豈 ̄ニ
足_レ ̄ランヤ羡 ̄ムニ哉。賦_二 ̄スル皇-華_一 ̄ヲ者。所_レ ̄ノ冝【左ルビ「ヘキ」】_三 ̄シク人 ̄コトニ置_二 ̄ク一-
編_一 ̄ヲ者 ̄ナリ也。康-熙六-十-年。左-春-坊左-
中-允。南-書-房 ̄ノ舊-直。汪-士-鋐序。

中山傳信錄序
 琉-球見_レ ̄ハル自_二 ̄リ隋-書_一。其 ̄ノ傳甚 ̄タ畧 ̄ス。北-史唐-書宋-元 ̄ノ諸-史因_レ ̄ル之 ̄ニ。
 正-史 ̄ヨリシテ而-外。如_二 ̄キ杜-氏-通-典集-事-淵-海星-槎-勝-覽蠃-蟲-錄
 等 ̄ノ書_一 ̄ノ。所_レ ̄ノ載 ̄ル山-川風-俗物-產。皆多_二 ̄シ舛-漏_一。前-明洪-武五-年。
 中-山-王察-度始 ̄テ通_二 ̄ス中-朝_一 ̄ニ。而 ̄シテ明 ̄ノ一-統-志成_二 ̄ル於天-順 ̄ノ初_一 ̄ニ。百-
 年 ̄ノ中爲_レ ̄ルヿ時未_レ久 ̄シカラ。故 ̄ニ所_レ載皆仍_二 ̄ル昔-悞_一 ̄ニ。幾 ̄ント無_二 ̄シ一-實_一焉。嘉-靖
 甲-午。陳-給-事侃奉_レ ̄シ使 ̄ヲ。始 ̄テ有_レ ̄リ錄。歸 ̄テ上_二 ̄ツル於朝_一 ̄ニ。其 ̄ノ疏 ̄ニ云 ̄ク。訪_二 ̄ヒ其 ̄ノ
 山-川風-俗人-物 ̄ノ之詳_一 ̄ナルヲ。且 ̄ツ駁_二 ̄シ羣-書 ̄ノ之謬_一 ̄ヲ。以成_二 ̄ス紀-畧質-異
 二-卷_一 ̄ヲ。末 ̄ニ載_二 ̄スト國-語國-字_一 ̄ヲ。而 ̄シテ今 ̄ノ鈔-本什 ̄ニ存_二 ̄ス二-三_一 ̄ヲ矣。萬-曆-中

 再遣_二 ̄ハス使蕭-崇-業夏-子-陽_一 ̄ヲ。皆有_レ ̄リ錄。而 ̄シテ前-後相-襲 ̄フ。崇-禎六-
 年。杜-三策 ̄ガ從-客胡-靖 ̄ガ記。尤 ̄モ俚-誕。 本-朝康-煕二-年。兵-
 科張-學-禮 ̄ガ使-畧雜-錄二-卷。頗 ̄ル詳_二 ̄ナリ於昔_一 ̄ヨリ。二-十-二-年。檢-討
 汪-楫譔_二 ̄ス中-山沿-革-志二-卷。雜-錄五-卷_一 ̄ヲ。典-實遠 ̄ク非_二前 ̄ノ比_一 ̄ニ。
 然 ̄トモ於_二 ̄テ山-川 ̄ノ轄-屬_一 ̄ニ。仍 ̄ヲ有_二闕-畧_一。風-俗制-度物-產等。亦俱 ̄ニ未
 _レ備 ̄ハラ。蓋使-期促-廹。摉-討倉-猝。語-言文-字。彼-此訛-謬。是 ̄ヲ以
 所_レ聞 ̄ク異_レ ̄ニシ詞 ̄ヲ。傳 ̄ヘテ焉寡_レ ̄シ信。今《割書:臣|》奉 ̄シテ
_レ命 ̄ヲ。爲_二 ̄テ檢-討《割書:臣|》海-寳 ̄カ副_一 ̄ト以 ̄テ往 ̄ク。自_二 ̄リ巳-亥六-月朔至_一レ ̄テ國 ̄ニ。候_レ ̄シテ汛 ̄ヲ踰 ̄ユ
 _レ年 ̄ヲ。至_二 ̄テ庚-子二-月十-六日_一 ̄ニ始 ̄テ行 ̄ク。計 ̄ルニ在_二 ̄ルヿ中-山_一 ̄ニ凡 ̄ソ八-閱-月。封-
  中山傳信録後序
  自_レ古聲-教 四(ヨモニ)-訖(イタル)。未_レ有_レ如_二 ̄キハ我 ̄カ
 國-朝 ̄ノ之盛_一 ̄ナルカ。而 ̄シテ逺 ̄ク奉_二 ̄シ簡-書_一 ̄ヲ。採_二 ̄ル風 ̄ヲ異-域_一 ̄ニ。亦未_レ有_下如_二 ̄キ徐-太-史
  之慎 ̄テ以 ̄テ周_一 ̄キカ者_上 ̄ハ也。余獲_下附_二 ̄シテ星-槎_一 ̄ニ抵_二 ̄タリ中-山_一 ̄ニ。遍 ̄ク探_二 ̄クリ鮫-俗_一 ̄ヲ。見_中-
  聞 ̄スルヿヲ殊-異_上 ̄ヲ。盖其 ̄ノ國-禁素 ̄ヨリ-嚴 ̄ナリ。事無_二 ̄ク鉅-細_一 ̄ト。皆噤 ̄シテ不_レ語_レ ̄ラ客 ̄ニ。自_二
  有-明 ̄ノ通-貢_一 三-百-餘-年。嘉-靖以-後奉_レ ̄スル使 ̄ヲ者。人-人有_レ録。
  而 ̄トモ皆不_レ ̄ル免_二 ̄レ于略 ̄ニシテ且 ̄ツ誤_一 ̄ルヿヲ者 ̄ハ。職 ̄トシテ是 ̄ノ故 ̄ナリ也。副-使徐-太-史 ̄ノ奉_二 ̄スル
冊-命_一 ̄ヲ。于_二 ̄テ康-熈己-亥六-月朔_一 ̄ニ至_二 ̄リ其 ̄ノ國_一 ̄ニ。明-年二-月始 ̄テ還 ̄ル。在_レ ̄ヿ彼 ̄コニ
  八-閲-月。使-事之-暇。孜-孜 ̄トシテ採-訪 ̄シ。凢 ̄ソ其 ̄ノ貴-官士-庶。求_レ ̄メ書 ̄ヲ

  問_レ ̄テ字 ̄ヲ謁-請 ̄スル者。概 ̄シテ與 ̄ニ延-接 ̄シ。尋_二-繹 ̄シ舊-聞_一 ̄ヲ。質_レ ̄シ疑 ̄ヲ削_レ ̄リ妄 ̄ヲ。又致_二 ̄シ
  語 ̄ヲ國-王_一 ̄ニ。求_二 ̄ム其 ̄ノ山-川 ̄ノ圖-籍_一 ̄ヲ。于_レ ̄テ是 ̄ニ其 ̄ノ屬三-十-六-島 ̄ノ之-名 ̄ト。
  與_二其 ̄ノ國三-省轄-屬之制_一。今始 ̄テ大 ̄ニ顯 ̄ハル。置_レ ̄キ棊 ̄ヲ聚_レ ̄メ米 ̄ヲ。繪 ̄シテ以
  為_レ ̄ル圖 ̄ヲ。太-史日 ̄ニ居_二 ̄リ小-樓_一 ̄ニ。手-自 ̄カラ題-署 ̄ス。因 ̄テ并_二 ̄セ海-舟針-路。封-
  宴禮-儀。世-系官-制冠-服。風-俗物-產之詳_一 ̄ナルヲ。一-一備_二 ̄エ其 ̄ノ
  形-狀_一 ̄ヲ。右_レ ̄ニシ圖 ̄ヲ左_レ ̄ニス錄 ̄ヲ。凢 ̄ソ二-十-餘-目。分 ̄テ為_二 上-下两-冊_一 ̄ト。縹-装
  錦-褁。以 ̄テ為_二使 ̄シ歸 ̄ル之獻_一 ̄ト。庚-子秋七-月十-一-日。至_二 ̄テ熱-河 ̄ノ
 行-宮_一 ̄ニ復-
命 ̄シ。既 ̄ニ陳_二 ̄シ
乙-覽_一 ̄ニ。藏_二 ̄サムヽヲ之秘-府_一 ̄ニ矣。茲 ̄ニ以 ̄テ副-墨排-纂 ̄シ。分 ̄テ為_二 六-巻_一 ̄ト。而 ̄シテ少 ̄ク加_レ ̄フ詳 ̄ヲ
  焉。命 ̄シテ曰_二 ̄フ中-山傳-信-錄_一 ̄ト。今-年秋鋟-板始 ̄テ成 ̄ル。余遊_二 ̄ヒ京-師_一 ̄ニ。
  適〱與_二 ̄ル校-讐 ̄ノ之末_一 ̄ニ。獲_レ觀_二 ̄ヿヲ其 ̄ノ。全_一 ̄ヲ先-後銓-次。不_レ支 ̄セ不_レ漏 ̄セ。有
  _レ典有_レ則。以 ̄テ云_二 ̄フ傳-信_一 ̄ト。誠 ̄ナル哉其 ̄ノ無_レ ̄キ媿_二 ̄ルヿ斯 ̄ノ目_一 ̄ニ巳。余隨_レ ̄ヒ封 ̄ニ逾
  _レ年 ̄ヲ。太-史採_レ ̄ル風 ̄ヲ。幸 ̄ニ附_二 ̄ス摉-討_一 ̄ニ。今三-省五-嶽。太-史 ̄ノ圖-錄。已 ̄ニ
  標_二 ̄ス其 ̄ノ大_一 ̄ヲ。以_二 ̄スルニ余 ̄カ所_一レ ̄ヲ聞 ̄ク。又有_二 ̄リ四-森_一焉。森 ̄ハ猶_レ云_レ ̄ンガ府 ̄ト也。其 ̄ノ地
  有_二 ̄テ名-山_一森-森-然 ̄タリ。如_下 ̄キ首-里 ̄ニ有_二辨-嶽龜-山_一。泊-府 ̄ハ則有_二 天-
  久_一。久-米 ̄ニ有_二雲-巒_一。那-覇 ̄ニ有_中 ̄ルカ辻山_上。此 ̄ノ四-府皆王-公冠-盖 ̄ノ
  里-居。故 ̄ニ得_二稱 ̄シテ為_一レ ̄ヿヲ森 ̄ト。其 ̄ノ他 ̄ノ民-廬聚-落 ̄ハ。但稱_二 ̄スル間切_一 ̄ト而-已。

  中-山-世-鑑世-系備 ̄レリ矣。竊 ̄ニ聞 ̄ク天-孫-氏開_二-闢 ̄ス此 ̄ノ土_一 ̄ヲ。如_二 ̄シ中-
  國 ̄ノ之盤-古-氏_一 ̄ノ。二-十-五-傳 ̄シテ至_二 ̄ル舜-天_一 ̄ニ。當_二 ̄ル南-宋 ̄ノ時_一 ̄ニ。誅_二 ̄シテ逆-臣_一 ̄ヲ
  定_レ ̄ム國 ̄ヲ。三-傳 ̄シテ至_二 ̄リ義-夲_一 ̄ニ。求_二 ̄メ賢 ̄ヲ于野_一 ̄ニ。而禪 ̄ルニ以_レ ̄テス位 ̄ヲ。如_二 ̄シ中-國 ̄ノ之
  尭-舜_一 ̄ノ。尚-巴-志䧺-武。能一_二 ̄ニシ其 ̄ノ國_一 ̄ヲ。尚-圓崛_二-起 ̄シ北-山_一 ̄ニ。臣-庶
  推-戴 ̄ス。如_二 ̄シ中-國 ̄ノ之湯-武_一 ̄ノ。尚-圎 ̄ノ弟宣-威。既 ̄ニ立 ̄ツヿ六-月。能掖_二-
  植 ̄シテ幼-主_一 ̄ヲ。而退_二-居 ̄ス臣-位_一 ̄ニ。諡 ̄シテ為_二義-忠_一 ̄ト。如_二 ̄シ中-國 ̄ノ之伊-周_一 ̄ノ。此 ̄レ
  國-中故-老 ̄ノ所_レ傳。可_レ補_二 ̄フ史-賛_一 ̄ヲ。太-史載-筆謹-嚴。先_二 ̄ンス其 ̄ノ大 ̄ナル
  者_一 ̄ヲ。余竊 ̄ニ掇_二-拾 ̄シテ之_一 ̄ヲ。以附_二 ̄ス于次_一 ̄ニ。又聞 ̄ク國-中有_二 三-國-志_一。載_二 ̄セラ
  中-山山-南山-北-王 ̄ノ時 ̄ノ事_一 ̄ヲ甚-悉 ̄ナリ。而未_レ見_二其 ̄ノ書_一 ̄ヲ。則闕 ̄テ以
  俟_レ ̄ツ考 ̄ヲ。皆太-史 ̄ノ志 ̄ナリ也。至_二 ̄テハ其 ̄ノ採-訪 ̄ノ之勤_一 ̄メニ。蒙 ̄ヤ也不-才。屡〱獲_二
  逰-從_一 ̄ヲ。披_二 ̄キ殘-碑 ̄ヲ于荒-艸_一 ̄ニ。問_二 ̄フ故-壘 ̄ヲ于空-山_一 ̄ニ。渉_レ ̄リ海 ̄ヲ探_レ ̄リ竒 ̄ヲ。停 ̄メ
  _レ驂 ̄ヲ吮_レ ̄フ墨 ̄ヲ。詳-慎苦-心。實 ̄ニ所_二親 ̄シク見_一 ̄ル。故 ̄ニ忘_二 ̄レ其 ̄ノ固-陋_一 ̄ヲ。為 ̄メニ志_二 ̄ルシ数-
  言 ̄ヲ于後_一 ̄ニ。以 ̄テ見_二 ̄ハス採-風 ̄ノ之使。誠 ̄ニ未_一レ ̄ルヿヲ有_下 ̄ラ如_二茲 ̄ノ役_一者_上 ̄ノハ。日出_二 ̄ツ海-
  隅_一 ̄ニ。彬-彬 ̄タル文-物。昔 ̄ノ之稱_二 ̄スル斯 ̄ノ邦_一 ̄ヲ者云-何 ̄ン。今 ̄ノ之稱_二 ̄ル斯 ̄ノ邦_一 ̄ヲ者
  云-何 ̄ン。覽_二 ̄ル是 ̄ノ編_一 ̄ヲ者。于_二 ̄テ
聖-朝風-教 ̄ノ之逺 ̄シテ不_一レ ̄ルニ已 ̄マ。略見_二 ̄ンカ其 ̄ノ一-斑_一 ̄ヲ矣-乎。康-熈六-十-年辛-
  丑。秋八-月。海-槎從-客。建-安 ̄ノ翁-長-祚。謹 ̄テ述_二 ̄ス扵京-師之
  梁-氏-園_一 ̄一。

中山傳信錄卷第一
  封舟
  渡海兵役
  更 《割書:針盤 玻璃漏|》
  針路
  前海行日記
  後海行日記
  歷次封舟渡海日期
  風信 《割書:風暴日期|》

  天妃靈應記
  諭祭海神文
  春秋祀典疏

 【図】封舟圖

中山傳信錄卷第一
 冊封琉球國王副使 賜正一品麟蟒服翰林院編修加二級《割書:臣|》徐葆光纂
  封-舟
 從-前冊-封。以_二 ̄テ造-舟_一 ̄ヲ爲_二重-事_一 ̄ト。歴_二-考 ̄スルニ前-冊_一 ̄ヲ。採_二 ̄リ木 ̄ヲ各-路_一 ̄ニ。騷_二-動 ̄シ
 夫-役_一 ̄ヲ。開_レ ̄キ厰 ̄ヲ監_一レ ̄シ造 ̄ヲ。縻_二-費 ̄ス官-帑_一 ̄ヲ。奸-吏假_レ ̄テ手 ̄ヲ。爲_レ ̄スヿ獘 ̄ヲ無_レ ̄シ窮 ̄リ。經_レ時 ̄ヲ
 累_レ ̄テ歲 ̄ヲ。其 ̄ノ事始 ̄テ舉 ̄ス。自_二 ̄リ前-明_一以至_二 ̄ルマテ
本-朝冊-封之始_一 ̄ニ。其 ̄ノ煩-費遲-久。前-後一-轍 ̄ナリ也。康-熙二-十-一
 年。使-臣汪-楫林-麟-焻。卽取_二 ̄テ現 ̄ニ有 ̄ル二-戰-艦_一 ̄ヲ充_レ ̄ツ之 ̄ニ。前-獘始 ̄テ
 絶 ̄フ。至_レ ̄テ今 ̄ニ三-十-餘-年。區-宇昇-平。海-濱利-涉。沿-海 ̄ノ縣-鎭。巨-

 舶多 ̄ク有 ̄リ。
冊-封命-下 ̄テ。《割書:臣|》等未_レ ̄ル到_レ ̄ラ閩 ̄ニ前。督_二 ̄シテ臣滿-保_一 ̄ヲ。移_二 ̄シ檄 ̄ヲ各-鎭_一 ̄ニ。選_二 ̄テ大-船_一 ̄ヲ
 充_レ ̄ツ用 ̄ニ。豫 ̄メ爲_二修-葺_一 ̄ヲ。諸-具咸-備 ̄ル。二-船取_レ ̄ル自_二 ̄リ浙-江寧-波-府屬_一。
 皆民-間 ̄ノ商-舶。較_二 ̄ルニ徃-時 ̄ノ封-舟_一 ̄ニ。大-小相-埓 ̄シ。而 ̄シテ費-輕 ̄ク辦-速 ̄ナル。前 ̄キ
 _レ此 ̄ヨリ未_レ有 ̄ラ也。《割書:按 ̄ニ宋 ̄ノ徐-兢奉_二 ̄スル使 ̄ヲ高-麗_一 ̄ニ。神-舟二。皆勅_二-賜 ̄ス名-字_一 ̄ヲ。|客-舟六。共 ̄ニ八-舟。明 ̄ノ封-舟或 ̄ハ一或 ̄ハ二。今二-舟。》
 一-號-船 ̄ハ使-臣共 ̄ニ居_レ ̄ス之 ̄ニ。二-號-船 ̄ハ載_二 ̄ス兵-役_一 ̄ヲ。一-號-船 ̄ハ前-後四-
 艙。每-艙上-下三-層。下 ̄ノ一-層 ̄ハ塡-壓 ̄シテ載_二 ̄セ巨-石_一 ̄ヲ。安_二-頓 ̄ス什-物_一 ̄ヲ。中 ̄ノ
 一-層 ̄ハ使-臣居_レ ̄ス之 ̄ニ。兩-旁 ̄ヲ名 ̄テ曰_二麻-力_一 ̄ト。截 ̄シテ爲_二兩-層_一 ̄ト。左-右八-間。
 以居_二 ̄ク從-役_一 ̄ヲ。艙-口 ̄ノ梯兩-折 ̄シテ始 ̄テ下 ̄ル。艙-中寬 ̄サ六-尺-許。可_レ ̄シ橫_二 ̄フ一-
 床_一 ̄ニ。高 ̄サ八-九-尺。上穴_二 ̄シテ艙-面_一 ̄ニ爲_二 天-窓-井_一 ̄ト。方三-尺-許以通_レ ̄ス明 ̄ヲ。
 雨 ̄フレハ卽掩_レ ̄フ之 ̄ヲ。晝-黑 ̄ノ如_レ ̄シ夜 ̄ノ。艙-面空_二 ̄シテ其 ̄ノ右_一 ̄ヲ以行_レ ̄ル船 ̄ヲ。左-邊置_二 ̄ク爐-
 竈數-具_一 ̄ヲ。板-閣跨_二 ̄ルヿ舷-外_一 ̄ニ一-二-尺-許。前-後圈_レ ̄シテ篷 ̄ヲ作_二 ̄リ小-屋一-
 二-所_一 ̄ヲ。日 ̄ニ畨-居 ̄シテ以避_二 ̄ク艙-中 ̄ノ暑-𤍠_一 ̄ヲ。水-艙水-櫃。設_レ ̄テ人 ̄ヲ主_レ ̄ラシム之 ̄ヲ。置 ̄テ
 _レ籖 ̄ヲ給_レ ̄ス水 ̄ヲ。人 ̄コトニ日 ̄ニ一-甌。船-尾虚-梢 ̄ヲ爲_二將-臺_一 ̄ト。立_二 ̄ニ旗纛_一 ̄ヲ。設_二 ̄ケ籐-牌
 弓-箭_一 ̄ヲ。兵-役吹-手居_二 ̄ス其 ̄ノ上_一 ̄ニ。將-臺 ̄ノ下 ̄ヲ爲_二神-堂_一 ̄ト。供_二 ̄ス天-妃諸-水
 神_一 ̄ヲ。下 ̄ヲ爲_二柁-樓_一 ̄ト。樓-前小-艙布_二 ̄ク針-盤_一 ̄ヲ。夥-長柁-工。及接-封 ̄ノ使
 臣。主_レ ̄ル針 ̄ヲ者居_レ ̄ス之 ̄ニ。船 ̄ノ兩-旁大-小炮-門十-二。分_二 ̄リ列 ̄ス左右_一 ̄ニ。軍-
 噐稱_レ ̄フ是 ̄ニ。蓆-篷布-篷九-道。艙-面橫_二 ̄ヘ大-木三-道_一 ̄ヲ。設_レ ̄ケ軸 ̄ヲ轉_レ ̄シテ繚 ̄ヲ

 以上_二-下 ̄ス之_一 ̄ヲ。船-戸以-下共 ̄ニ二-十-二-人。各有_二 ̄リ專-掌_一。其中最
 趫-㨗 ̄ナル者 ̄ヲ名_二 ̄ク鴉-班_一 ̄ト。正-副二-人。登_レ ̄テ檣 ̄ニ瞭-望 ̄シ。上-下 ̄スルヿ如_レ ̄シ飛 ̄フカ。兵-丁
 皆習_二 ̄フ行-船 ̄ノ事_一 ̄ニ。每-船百-人爲_二之 ̄カ佐_一 ̄ト。一-號-船 ̄ハ千-總督_レ ̄シ之 ̄ヲ。二-
 號-船 ̄ハ守-備督_レ ̄ス之 ̄ヲ。
 一-號-船長 ̄サ十-丈。寬 ̄サ二-丈八-尺。深 ̄サ一-丈五-尺。《割書:前-明封-舟。|連_二 ̄テ尾虚-梢_一 ̄ヲ。》
 《割書:長 ̄サ十-七-丈。寛 ̄サ三-丈一-尺六-寸。深 ̄サ一-丈三-尺三-寸。嘉-靖|中正-使陳-侃。副-使高-澄等。題-請 ̄シテ定_レ ̄ム式 ̄ヲ。 嘉-靖三-十-八-》
 《割書:年 ̄ノ封-舟。依_二 ̄テ舊-式_一 ̄ニ。造 ̄ル長 ̄サ帶_二 ̄テ虛-梢_一 ̄ヲ一-十-五-丈。寛 ̄サ二-丈九-尺|七-寸。深 ̄サ一-丈四-尺。 萬-曆七-年造_二 ̄ル封-舟_一 ̄ヲ。帶_二 ̄テ虛-稍_一 ̄ヲ一-十》
 《割書:四-丈。寛二-丈九-尺。深一-丈四-尺。 崇-禎六-年。冊-使杜|三-策 ̄カ從-客胡-靖 ̄カ記-錄。封-舟長二-十-丈。廣六-丈。  本-》
 《割書:朝康-熙二-年。張-學-禮 ̄カ記。形如_二梭-子_一 ̄ノ。長十-八-丈。寛二-丈|二-尺。深二-丈三-尺。 康-熙二-十-二-年。汪-楫 ̄カ記。選_二 ̄テ二-鳥》
 《割書:船_一 ̄ヲ充_レ ̄ツ用 ̄ニ。船 ̄ノ長一-十-五-丈有-奇。寛二-丈六-尺。按 ̄ニ海-防-冊 ̄ニ|云。烽-火-營 ̄ノ鳥-船一-隻。長一-十-二-丈三-尺。寛二-丈五-尺。》
 《割書:閩-安中-營 ̄ノ鳥-船一-隻。長一-十|二-丈二-尺。寛二-丈六-尺五-寸。》前-後四-艙。水-艙四。水-櫃
 四。水-桶十-二。共 ̄ニ受_二 ̄ク水七-百-石_一 ̄ヲ。
 柁長 ̄サ二-丈五-尺五-寸。寬 ̄サ七-尺九-寸。西-洋 ̄ノ造-法。名_二 ̄ク夾-板
 柁_一 ̄ト。不_レ用_二勒-肚_一 ̄ヲ。柁以_二鐵-力-木_一 ̄ヲ爲_レ ̄ル之 ̄ヲ。名 ̄テ曰_二鹽-柁_一 ̄ト。漬_二 ̄シテ海-水-中_一 ̄ニ
 愈〱堅 ̄シ。《割書:前-明 ̄ノ封-舟。定 ̄テ製_二 ̄ス鐵-力-木-柁三-門_一 ̄ヲ。每_レ ̄ニ門長三-丈五-|尺。有_二 ̄テ大-䌫_一繫_レ ̄ク之 ̄ヲ。由_二 ̄リ船-底_一兠 ̄ノ至_二 ̄ル船頭_一 ̄ニ。謂_二 ̄フ之 ̄ヲ勒-肚_一 ̄ト。以_二 ̄テ》
 《割書:櫆-藤_一 ̄ヲ爲_レ ̄ル之。今二-封-舟。皆取_二 ̄テ商-船_一 ̄ヲ充_レ用 ̄ニ。二-號製如_二鳥-船 ̄ノ|式_一 ̄ノ。用_二 ̄フ勒-肚二-條_一 ̄ヲ。一-號-船 ̄ハ係_二 ̄ル西洋 ̄ノ夾-板-柁_一 ̄ニ。不_レ用_二勒肚_一 ̄ヲ。又》
 《割書:不_レ置_二副-柁_一 ̄ヲ。將_レ ̄ル出_レ ̄シト海 ̄ヲ時。與_二閩-中 ̄ノ有-司_一。爭_レ ̄フ置_二 ̄ヿヲ副-柁_一 ̄ヲ。本-船 ̄ノ夥-|長林-某云。船柁 ̄ハ西-洋 ̄ノ造-法最堅-穩。可_レ無_レ ̄ル用_レ ̄ルヿ副 ̄ヲ。且 ̄ツ柁重 ̄サ》
 《割書:萬 ̄ト觔。船-中亦無_レ處_レ置_レ之。竟 ̄ニ|不_レ置_二 ̄カ副-柁_一 ̄ヲ。與_レ前小-異 ̄ナリト。云 ̄フ》

 大-桅長 ̄サ九-丈二-尺。圍九-尺。
 頭-桅長 ̄サ七-丈二-尺。圍七-尺。
 櫓-二 ̄ツ。長 ̄サ四-丈。寬 ̄サ二-尺三-寸。
 椗大-小各-二 ̄ツ。大-者長 ̄サ二-丈七-尺。小-者長 ̄サ二-丈四-尺。皆
 寬 ̄サ八-寸。及 ̄ヒ七-寸。形如_二个-字_一 ̄ノ。皆以_二鐵-力-木_一 ̄ヲ爲_レ ̄ル之 ̄ヲ。椗-上 ̄ノ棕-
 索二-條。長 ̄サ一-百-托。圍一-尺五-寸。《割書:按 ̄ニ字-書 ̄ニ。碇 ̄ハ錘_レ ̄スル舟 ̄ヲ石 ̄ナリ也。|與_レ矴同。無_二椗-字_一。今以》
 《割書:_レ木 ̄ヲ爲_レ之。故 ̄ニ|俗-字從_レ ̄フ木 ̄ニ。》
 大-桅 ̄ノ蓆-篷寬 ̄サ五-丈二-尺。長 ̄サ五-丈三-尺。轆-轤-索三-條。長 ̄サ
 三-十-五-托。圍一-尺二-寸。
 繚-母-索二-條。長 ̄サ一-十-五-托。圍一-尺五-寸。
 頭-桅 ̄ノ蓆-篷寬 ̄サ二-丈二-尺。長 ̄サ二-丈八-尺。
 大-桅-頂 ̄ノ篷 ̄ヲ名_二 ̄ク頭-巾-頂_一 ̄ト。惟官舶始 ̄テ用_レ ̄ユ之 ̄ヲ。商-船不_レ得_レ用 ̄ヿヲ。長 ̄サ
 五-丈四-尺。寬 ̄サ五-丈。《割書:徐-兢 ̄カ錄 ̄ニ云。大-檣 ̄ノ之巓。加_二小-帆十-|幅_一 ̄ヲ。謂_二之 ̄ヲ野-狐-帆_一 ̄ト。殆-卽頭-巾-頂 ̄ナリ也。》
 大-桅 ̄ノ下 ̄ノ布篷 ̄ヲ名_二 ̄ク篷-裙_一 ̄ト。長 ̄サ六-尺。寬 ̄サ一-丈五-尺。
 頭-桅-上布-篷 ̄ヲ名_二 ̄ク頭-幞_一 ̄ト。上尖 ̄リ下方 ̄ナリ。三-角 ̄ノ形。長 ̄サ三-丈。下 ̄ノ濶 ̄サ
 二-丈八-尺。
 挿-花布-篷長 ̄サ四-丈八-尺。寬 ̄サ三-丈四-尺。
 挿-花下 ̄ノ布-篷 ̄ヲ名_二 ̄ク挿-花-褲_一 ̄ト。長 ̄サ六-尺。寬 ̄サ一-丈五-尺。

 頭-緝 ̄ノ布-篷長 ̄サ四-丈五-尺。寬 ̄サ二-丈五-尺。
 尾-送 ̄ノ布-篷長 ̄サ四-丈。寬 ̄サ二-丈七-尺。
  共 ̄ニ篷九-道
 二-號-船長 ̄サ十-一-丈八-尺。寬 ̄サ二-丈五-尺。深 ̄サ一-丈二-尺。
 前-後共 ̄ニ二-十-三-艙。水-艙二。水-櫃-四。水-桶十-二。受_レ ̄ルヿ水 ̄ヲ六
 百-石。
 柁長 ̄サ三-丈四-尺。寬 ̄サ七-尺。制同_二 ̄シ鳥-船_一 ̄ニ。柁用_二 ̄ユ勒-肚二-條_一 ̄ヲ。長 ̄サ
 十-五-丈。從_レ尾左-右 ̄シテ夾_レ ̄ミ水 ̄ヲ。兠 ̄シテ至_二 ̄ル頭-上_一 ̄ニ。
 大-桅長 ̄サ八-丈五-尺。圍八-尺五-寸。
 頭-桅長 ̄サ六-丈五-尺。圍六-尺。
 櫓四長 ̄サ四-丈。寬 ̄サ二-尺二-寸。
 椗大-小三-具。
 大-桅蓆-篷長 ̄サ五-丈七-尺。寬 ̄サ五-丈六-尺。
 頭-桅 ̄ノ蓆-篷長 ̄サ五-丈七-尺。寬 ̄サ五-丈六-尺。
 大-桅 ̄ノ頭-巾-頂布-篷長 ̄サ五-丈。寬 ̄サ四-丈八-尺。
 大-桅 ̄ノ下 ̄ノ布-篷-裙長 ̄サ六-尺。寬 ̄サ一-丈六-尺。
 挿-花布-篷長 ̄サ四-丈八-尺。寬 ̄サ三-丈二-尺。
 挿-花-褲布-篷長 ̄サ五-丈。寬 ̄サ一-丈三-尺。

 頭-緝布-篷長 ̄サ四-丈。寬 ̄サ二-丈四-尺。
 尾-送 ̄ノ布-篷長 ̄サ三-丈六-尺。寬 ̄サ二-丈五-尺。
  共 ̄ニ篷八-道。少-頭-幞布-篷一-道。
 每-船。船-戸以-下二-十-二-人。
 正-夥-長。主_二 ̄ル針-盤羅-經 ̄ノ事_一 ̄ヲ。副-夥-長。經_二-理 ̄シ針-房_一 ̄ヲ。兼 ̄テ主_三 ̄ル水-鋾
 長-綆三-條。候_二 ̄スルヿヲ水 ̄ノ淺深_一 ̄ヲ。
 正-副舵-工二-人。主_レ柁 ̄ヲ。二-號-船 ̄ノ上 ̄ニハ。兼 ̄テ管_二 ̄ス勒-肚二-條_一 ̄ヲ。
 正-副-椗二-人。主_二 ̄ル椗四-門_一 ̄ヲ。行-船 ̄ノ時。主_二 ̄ル頭-緝布-篷_一 ̄ヲ。
 正-副鴉-班二-人。主_二 ̄ル頭-巾-頂-帆。大-桅-上 ̄ノ一-條龍-旗。及 ̄ヒ大-
 旗_一 ̄ヲ。
 正-副杉-板-工二-人。主_二 ̄ル杉-板小-船_一 ̄ヲ。行-船 ̄ノ時。主_二 ̄ル淸-風大-旗。
 及頭-帆_一 ̄ヲ。
 正-副繚-手二-人。主_二 ̄ル大-帆及尾-送布-帆。繚-母-棕。繚-木-索
 等 ̄ノ物_一 ̄ヲ。
 正-副値-庫二-人。主_二 ̄ル大-帆 ̄ノ挿-花。天-妃 ̄ノ大-神-旗_一 ̄ヲ。又主_二 ̄ル裝載_一 ̄ヲ。
 押-工一-人。主_下 ̄ル修_二-理 ̄シ槓椇_一 ̄デ。及行-船 ̄ノ時。大-桅千-觔-墜一-條_上 ̄ヲ。
 香-公一-人。主_二 ̄ル天-妃諸-水-神座-前 ̄ノ油-燈。早-晩洋-中獻_レ ̄シ紙 ̄ヲ。
 及大-帆 ̄ノ尾-繚_一 ̄ヲ。

 頭-阡一-人。主_二 ̄ル大-桅 ̄ノ繂-索。大-椗 ̄ノ索。盤 ̄ノ絞-索。大-櫓 ̄ノ車-繩_一 ̄ヲ。
 二-阡二-人。主_二 ̄ル大-桅 ̄ノ繂-索。副-椗 ̄ノ索。盤 ̄ノ絞-索。大-櫓 ̄ノ車-繩_一 ̄ヲ。
 三-阡一-人。主_二 ̄ル大桅 ̄ノ繂-索。三-椗 ̄ノ索。盤 ̄ノ絞-索。車-子數-根_一 ̄ヲ。
 正-副總-餔二-人。主_二 ̄ル鍋-飯柴-米 ̄ノ事_一 ̄ヲ。
   渡-海 ̄ノ兵-役
 正-使 ̄ノ家-人二-十-名。副-使 ̄ノ家-人十-五-名 ̄ノ外。海-防-㕔 ̄ノ送-使。
 副 ̄ルニ共_二 ̄ニス書-辨二-名。廵-捕二-名。長-班四-名。門-子二-名。皂-隷
 八-名。健-步四-名。轎-傘-夫二-十-名。引-禮-通-事二-員。《割書:鄭-任|譯。憑-》
 《割書:西-|熊。》䕶-送守-備一-員。《割書:海-壇-鎭 ̄ノ左-營。|守-備蔡-添-畧。》千-總一-員。《割書:蔡-|勇》官-兵二-
 百-名。《割書:閩-安-鎭 ̄ノ烽-火-營。海-壇-鎭 ̄ノ|左-右-中三-營。各四-十-名。》内-科醫-生一-人。外-科醫-
 生一-人。道-士三-名。老-排一-名。吹-鼓-手八-名。厨-子四-名。
 艦-匠二-名。艌-匠四-名。風-帆-匠二-名。索-匠二-名。鐵-匠二-
 名。裁-縫二-名。糊-紙-匠二-名。裱-褙-匠一-名。糕-餅-匠一-名。
 待-詔一-名_一 ̄ヲ。《割書:凡兵-役隨-身 ̄ノ行-李貨-物。每-人限_レ ̄ル帶_二 ̄ルヲ百-觔_一 ̄ヲ。按 ̄ニ|歷-來封-舟。過-海 ̄ノ兵-役-等。皆有_二壓-鈔貨-物。帶 ̄ヒ》
 《割書:往 ̄テ市-易 ̄スル舊-例_一。萬-曆七-年巳-卯。冊-使長-樂 ̄ノ謝-行-人-杰。有_二|日-東交-市-記_一。後 ̄ニ有_二恤-役一-條_一。言 ̄フ自_二洪-武 ̄ノ間_一。許_下 ̄ス過-海五-》
 《割書:百-人。行-李各百-觔。與_二琉-人_一貿易_上 ̄スルヿヲ。著 ̄シテ為_二條-令_一 ̄ト。甲-午 ̄ノ之-役|得_二萬-金_一 ̄ヲ。五-百-人各二-十-金。多 ̄キ者三-四-十-金。少 ̄キ者 ̄モ亦得_二》
 《割書:十-金八-金_一 ̄ヲ。辛-酉 ̄ノ之-役。僅 ̄ニ六-千-金。五-百-人各得_二 十-二-金_一 ̄ヲ。|多 ̄キ者 ̄ハ二-十-金。少 ̄キ者 ̄ハ五-六-金。稍失_レ ̄ス所_レ ̄ヲ望。是-以巳-卯 ̄ノ招-募。》
 《割書:僅 ̄ニ得_二 中-材應_一レ ̄スルヿヲ役 ̄ニ。不_レ能_二如_レ前 ̄ノ之精工_一 ̄ナルヿ也。所_レ獲僅 ̄ニ三-千-餘|金。人 ̄ニ各〱八-金。多 ̄キ者 ̄ハ十-五-六-金。少 ̄キ者三-四-金。大 ̄ニ失_レ ̄ス所_レ ̄ヲ望。》

 《割書:至_下 ̄ル捐_レ ̄テ廩 ̄ヲ助_レ ̄テ之 ̄ヲ。始 ̄テ得_中 ̄ニ全_レ ̄シテ禮 ̄ヲ而歸_上 ̄ヿヲ。蓋甲-午 ̄ノ之-役。畨-舶轉-販 ̄スル|者。無-慮 ̄テ十-餘-國。其 ̄ノ利既 ̄ニ多 ̄シ。故 ̄ニ我-衆所_レ獲 ̄ル亦豐 ̄ナリ。辛-酉 ̄ノ之》
 《割書:役。畨-舶轉-販 ̄スル者。僅 ̄ニ三-四-國。其 ̄ノ利既 ̄ニ少 ̄シ。故 ̄ニ我-衆所_レ獲 ̄ル亦|減 ̄ス。巳-卯 ̄ノ之-役。通-畨禁-弛 ̄フ。畨-舶不_レ至。其 ̄ノ利頓 ̄ニ絕 ̄フ。故我-衆》
 《割書:所_レ獲至 ̄テ少 ̄シ。勢使_レ然 ̄ラ也。今康-熙二-十-二-年癸-亥 ̄ノ之-役。是 ̄ノ|時海-禁方 ̄ニ嚴 ̄ナリ。中-國 ̄ノ貨-物。外-邦爭 ̄テ欲_二購-致_一 ̄セント。琉-球相-近 ̄キ諸-》
 《割書:島。如_二 ̄キ薩-摩-洲土_レ-噶-喇七-島-等 ̄ノ處_一 ̄ノ。皆聞_レ ̄テ風 ̄ヲ來-集 ̄ル。其 ̄ノ貨易 ̄シ|_レ售 ̄ラレ。閩-人沿-說 ̄シテ至_レ ̄ル今 ̄ニ。故 ̄ニ充_レ ̄ル役 ̄ニ者衆 ̄シ。昇-平日-久。琉-球歲 ̄ニ-來 ̄テ》
 《割書:貿_二-易 ̄シ中-國 ̄ノ貨-物_一 ̄ヲ。外-邦多-有。此 ̄ノ番封-舟到 ̄テ後。土-噶-喇等 ̄ノ|畨-舶。無_二 一 ̄モ至 ̄ル者_一。本-國素 ̄ト貧-乏。貨多不_レ售 ̄テレ。人-役並 ̄ニ困 ̄ス。法》
 《割書:當_三禁_二-絕 ̄ス商-賈利-徒之營-求_一 ̄ヲ。充_レ ̄ル役 ̄ニ者損_レ從 ̄ヲ减_レ裝 ̄ヲ。一 ̄ハ可_三以|紓_二小-邦物-力 ̄ノ之艱_一 ̄ヲ。一 ̄ハ可_三以絕_二衆-役覬-覦 ̄ノ之想_一 ̄ヲ。庶-幾 ̄クハ兩-》
 《割書:利俱 ̄ニ全 ̄カラン|矣乎。》

【図】玻璃漏 針盤

  更《割書:定_レ ̄ル更 ̄ヲ法|》
 海-中船-行 ̄ノ里-數。皆以_レ更 ̄ヲ計 ̄ル。或 ̄ハ云 ̄フ百-里 ̄ヲ爲_二 一-更_一 ̄ト。或 ̄ハ云 ̄フ六-
 十-里 ̄ヲ爲_二 一-更_一 ̄ト。或 ̄ハ云 ̄フ分_二 ̄テ晝-夜_一 ̄ヲ爲_二 十-更_一 ̄ト。今問_二 ̄フニ海-舶 ̄ノ夥-長_一 ̄ニ。皆
 云 ̄フ六-十-里之-說 ̄ヲ爲_レ近 ̄ト。

 舊-錄 ̄ニ云 ̄ク。以_二木-柹_一 ̄ヲ從_二 ̄リ船-頭_一投_二 ̄シ海-中_一 ̄ニ。人疾 ̄ク趨 ̄テ至_レ ̄ル梢 ̄ニ。人柹同 ̄ク
 至 ̄ル。謂_二 ̄フ之 ̄ヲ合-更_一 ̄ト。人-行先_二 ̄ツヲ於柹_一 ̄ニ。爲_レ不_レ ̄ト及_レ更 ̄ニ。人-行後_二 ̄ルヽヲ於柹_一 ̄ニ。爲
 _レ過_レ ̄クト更 ̄ニ。今西-洋 ̄ノ舶。用_二 ̄テ玻-璃-漏_一 ̄ヲ定_レ ̄ム更 ̄ヲ。簡 ̄ニシテ而易_レ曉 ̄シ。細-口大-腹 ̄ノ
 玻-璃-瓶兩-枚。一-枚 ̄ニ盛_レ ̄テ沙 ̄ヲ滿_レ ̄ツ之 ̄ニ。兩-口上-下對-合 ̄シ。通_二 ̄シテ一-線_一 ̄ヲ
 以過_レ ̄ス沙 ̄ヲ。懸_二 ̄ク針-盤-上_一 ̄ニ。沙過 ̄キ盡 ̄スヲ爲_二 一-漏_一 ̄ト。卽倒轉 ̄シテ懸_レ ̄ク之 ̄ヲ。計 ̄ルニ一-
 晝一-夜。約 ̄スルニ二-十-四-漏。每-更船六-十-里。約 ̄スルニ二-漏半有-零。
 人-行先_二 ̄ツヲ木-柹_一 ̄ニ爲_レ不_レ ̄ト及_レ更 ̄ニ者 ̄ハ。風慢 ̄ニシテ船-行緩 ̄ク。雖_レ及_二 ̄ト漏-刻_一 ̄ニ。尚
 無_二 六-十-里_一。爲_レ不_レ及_レ更 ̄ニ也。人-行後_二 ̄ルヽヲ於柹_一 ̄ニ爲_二 ̄ハ過-更_一 ̄ト者 ̄ハ。風疾 ̄クシテ
 船-行速 ̄ナリ。當_レ ̄テ及_二 ̄ニ漏-刻_一 ̄ニ。巳 ̄ニ踰_二 ̄ルヲ六-十-里_一 ̄ニ爲_二過-更_一-也。

【図】針路圖

  針-路
 琉-球在_二 ̄テ海-中_一 ̄ニ。本 ̄ト與_二浙-閩_一 地-勢東-西相-値 ̄ル。但其 ̄ノ中平-衍
 無_レ山。船-行_二海-中_一 ̄ニ。全 ̄ク以_レ山 ̄ヲ爲_レ凖 ̄ト。福-州 ̄ヨリ往_二 ̄ク琉-球_一 ̄ニ。出_二 五-虎-門_一 ̄ヲ。
 必取_二雞-籠彭-家等 ̄ノ山_一 ̄ヲ。諸-山皆偏 ̄ニ在_レ南 ̄ニ。故 ̄ニ夏-至 ̄ニ乘_二 ̄シ西-南
 風_一 ̄ニ。叅_二 ̄シヘ-用 ̄ヒ辰-巽等 ̄ノ針_一 ̄ヲ。袤 ̄メニ繞_レ ̄テ南 ̄ニ行 ̄キ。以_レ漸 ̄ヲ折 ̄テ而正-東 ̄ス。琉-球 ̄ヨリ歸_二 ̄ル
 福-州_一 ̄ニ。出_二姑-米-山_一 ̄ヲ。必取_二 ̄ル溫-州 ̄ノ南-杞-山_一 ̄ヲ。山偏 ̄ニ在_二西-北_一 ̄ニ。故 ̄ニ冬-
 至 ̄ニ乘_二 ̄シ東-北風_一 ̄ニ。叅_二-用 ̄ヒ乾-戌等 ̄ノ針_一 ̄ヲ。袤 ̄メニ繞_レ ̄テ北 ̄ニ行 ̄キ。以_レ漸 ̄ヲ折 ̄テ而正-
 西ス。雖_二彼-此地-勢東-西相-値_一 ̄ト。不_レ ̄ル能_下純 ̄ラ用_二 ̄テ卯-酉針_一 ̄ヲ。徑-直 ̄ニ相
 往-來_上 ̄スルヿ者 ̄ハ。皆以_レ山爲_レ凖 ̄ト。且行-船必貴_レ ̄フ占_二 ̄ムルヲ上-風_一 ̄ヲ故也。

 [指-南-廣-義 ̄ニ云。]福-州 ̄ヨリ往_二琉-球_一 ̄ニ。由_二 ̄リ閩-安-鎭_一出_二 五-虎-門_一 ̄ヲ。東-沙 ̄ノ
 外 ̄ニ開_レ ̄キ洋 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ單-《割書:或 ̄ハ作|_レ 乙 ̄ニ》辰針_一 ̄ヲ十-更。取_二 ̄ル雞-籠-頭《割書:見_レ ̄レハ山 ̄ヲ卽從_二 ̄リ山 ̄ノ|北-邊_一過_レ ̄ス船 ̄ヲ。以-》
 《割書:下 ̄ノ諸-山|皆-同 ̄シ。》花-瓶-嶼彭-家-山_一 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ乙-卯並 ̄ニ單-卯針_一 ̄ヲ十-更。取_二 ̄ル釣-
 魚-臺_一 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ單-卯針_一 ̄ヲ四-更。取_二 ̄ル黃-尾-嶼_一 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ甲-寅《割書:或 ̄ハ作|_レ卯 ̄ニ》針_一 ̄ヲ十-《割書:或 ̄ハ|作》
 《割書:_レ 一 ̄ニ|》更。取_二 ̄ル赤-尾-嶼_一 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ六-更。取_二 ̄ル姑-米-山_一 ̄ヲ。《割書:琉-球西-南|方 ̄ノ界-上 ̄ノ鎭》
 《割書:山|》用_二 ̄テ單-卯-針_一 ̄ヲ取_二 ̄リ馬齒_一 ̄ヲ。甲-卯及甲-寅-針 ̄ニ。收 ̄テ入_二 ̄ル琉-球那-霸
 港_一 ̄ニ。
  福-州五-虎-門 ̄ヨリ至_二 ̄ル琉-球姑-米-山_一 ̄ニ。共 ̄ニ四-十-更 ̄ノ船。
 琉-球 ̄ヨリ歸_二 ̄ル福-州_一 ̄ニ。由_二 ̄リ那-霸-港_一用_二 ̄テ申-針_一 ̄ヲ放_レ ̄チ洋 ̄ニ。辛-酉-針一-更-半。
 見_二姑-米-山。並 ̄ニ姑-巴-甚-麻-山_一 ̄ヲ。辛-酉-針四-更。辛-戌-針十-二
 更。乾-戌-針四-更。單-申-針五-更。辛-酉-針十-六-更。見_二 ̄ル南-杞
 山 ̄ヲ。《割書:屬_二 ̄ス浙-江|溫-州_一 ̄ニ》坤-未-針三-更。取_二 ̄ル臺-山_一 ̄ヲ。丁-未-針三更。取_二 ̄ル里-麻
 山_一 ̄ヲ。《割書:一-名|霜-山》單-申-針三-更。收 ̄メテ入_二 ̄リ福-州定-海-所_一 ̄ニ。進_二 ̄ム閩-安-鎭_一 ̄ニ。
  琉-球姑-米-山 ̄ヨリ至_二 ̄ル福-州定-海-所_一 ̄ニ。共 ̄ニ五-十-更 ̄ノ船。
  前海-行日-記
 閩 ̄ノ有-司既 ̄ニ治_二 ̄シ封-舟_一 ̄ヲ畢_レ ̄ヘ工 ̄ヲ。泊_二 ̄ス于太-平-港羅-星-塔_一 ̄ニ。五-月十-
 日壬-午。賫_二 ̄テ
詔-勅_一 ̄ヲ至_二 ̄ル南-臺_一 ̄ニ。以_二 ̄テ小-舟_一 ̄ヲ至_二 ̄ル泊-船 ̄ノ所_一 ̄ニ。十-五-日祭_レ ̄リ江 ̄ヲ取_レ ̄リ水 ̄ヲ。蠲_二-吉 ̄シ

 于二-十-日壬-辰_一 ̄ニ。奉_二 ̄シテ
詔-勅_一 ̄ヲ升_レ ̄ル舟 ̄ニ。連-日-夜風。皆從_二 ̄リ東-北_一來 ̄ル。是 ̄ノ日轉_二 ̄ス西-南_一 ̄ニ。遂于_二 ̄テ未 ̄ノ
 初_一 ̄ニ起_レ ̄ン椗 ̄ヲ。至_二 ̄リ怡-山-院_一 ̄ニ。
諭_二-祭 ̄ス於海-神_一 ̄ニ。
 二-十-一-日癸-巳。日-出 ̄ニ西-南-風。日-中 ̄ニ至_二 ̄ル管-頭_一 ̄ニ。出_二 ̄ツ金-牌-門_一 ̄ヲ。
 日-入 ̄ニ未_レ ̄シテ過_二 ̄キ黃-蝦-鼻_一 ̄ヲ下_レ ̄ロス椗 ̄ヲ。
 二-十-二-日甲-午。日-出 ̄ニ丁-未-風。過_二 ̄ク梅-花-頭_一 ̄ヲ。日-中 ̄ニ丁-風帶
 _レ午 ̄ヲ。乘_レ ̄シテ潮 ̄ニ出_二 ̄テ五-虎-門_一 ̄ヲ放_レ ̄チ洋 ̄ニ。過_二官-塘-尾_一 ̄ヲ。日-入 ̄ニ至_二 ̄リ進-士-門_一 ̄ニ。夜
 至_二 ̄テ九-漏_一 ̄ニ轉_二 ̄ス丁-未-風_一 ̄ニ。接-封 ̄ノ陪-臣正-議-大-夫陳-其-湘。率_二 ̄ヒ其 ̄ノ
 國 ̄ノ夥-長_一 ̄ヲ主_レ ̄トリ針 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ乙-辰-針_一 ̄ヲ三-更-半。
 二-十-三-日乙-未。日-出 ̄ニ見_三 ̄ル東-湧在_二 ̄ルヲ船-後_一 ̄ニ。約 ̄スルニ離 ̄ルヽヿ一-更-半-許。
 丁-未-風用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ二-更。約 ̄スルニ離_二 ̄ルヽヿ官-塘_一 ̄ヲ八-更-半-許。
 二-十-四-日丙-申。日-出 ̄ニ丁-午-風。仍 ̄テ用_二 ̄ユ乙-卯-針_一 ̄ヲ。日未_レ 中 ̄セ過_二 ̄ク
 米-糠-洋_一 ̄ヲ。《割書:海-水碧-徹如_レ ̄シ靛。細-黃-沙如_二|涎-沫_一 ̄ノ。連_二-亘 ̄シテ水-面_一 ̄ニ如_二 ̄シ米-糠_一 ̄ヲ。》見_二 ̄ル羣-魚拜_一レ ̄スルヲ水 ̄ヲ。日將
 _レ入 ̄ント有_二 ̄リ大-鳥二_一。來 ̄テ集_二 ̄ル于檣_一 ̄ニ。是 ̄ノ夜風益〱利 ̄シ。用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ四-更。
 共 ̄ニ計 ̄ルニ十-三-更-半。當(ヘクシテ)_レ見_二 ̄ツ雞-籠-山花-瓶棉-花等 ̄ノ嶼。及 ̄ヒ彭-家
 山_一 ̄ヲ。皆不_レ見。夜用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ四-更-半。共 ̄ニ十-七-更。船東-北 ̄ニ下 ̄ルヿ
 一-更-半-許。

 二-十-五-日丁-酉。日-出 ̄ニ丁-未-風。輕 ̄ク用_二 ̄ルヿ單-乙-針_一 ̄ヲ二-更。乙-卯-
 針一-更-半。夜至_二 ̄リ四-漏_一 ̄ニ。轉_二 ̄ス正-南-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ單-乙-針_一 ̄ヲ一-更-半。共 ̄ニ
 計 ̄ルニ二-十-一-更。
 二-十六-日戊-戌。日-出 ̄ニ正-南-風。日未_レ ̄ルニ中 ̄セ轉_二 ̄ス丁-午_一 ̄ニ。逾_レ ̄テ時 ̄ヲ丁-
 未-風微 ̄ク起 ̄ル。用_二 ̄ルヿ單-乙-針_一 ̄ヲ一-更。日-中 ̄ニ風-靜 ̄テ。縋_レ ̄スルニ水 ̄ヲ無_レ底。晩-晡 ̄ニ
 轉_二 ̄ス丙-午-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ユ乙-卯-針_一 ̄ヲ。風-靜 ̄ニシテ船-停 ̄テ不_レ 上_レ更 ̄ニ。日-入 ̄ニ風微 ̄ク起 ̄ル。
 至_二 ̄テ四-漏_一 ̄ニ轉_二 ̄ス丁-午-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ乙-卯_一 ̄ヲ一-更。至_二 ̄ル八-漏_一 ̄ニ。又用_二 ̄ルヿ單-卯_一 ̄ヲ二-
 更。至_二 ̄ル天-明_一 ̄ニ。
 二-十-七-日巳-亥。日-出 ̄ニ丁-午-風。日未_レ ̄ルニ中 ̄セ風-靜 ̄ニシテ船-停 ̄ル。有_二大
 沙-魚二_一。見_二于船 ̄ノ左-右_一 ̄ニ。日-入 ̄ニ丁-午-風起 ̄ル。至_二 ̄リ二漏_一 ̄ニ轉_二 ̄ス丁-風_一 ̄ニ。
 用_二 ̄ルヿ乙-辰-針_一 ̄ヲ二-更-半。天將_レ ̄スルニ明 ̄ント應(ヘクシテ)_レ見_二 ̄ル釣-魚-臺黃-尾赤-尾等 ̄ノ
 嶼_一 ̄ヲ。皆不_レ見。共 ̄ニ用_二 ̄ルヿ卯-針_一 ̄ヲ二-十-七-更-半。船東-北 ̄ニ下 ̄ルヿ六-更-許。
 二-十-八-日庚-子。不_レ用_三接-封陪-臣 ̄ノ主_二-張 ̄スルヲ卯針_一 ̄ヲ。本-船 ̄ノ夥-長
 林-某。攺 ̄テ用_二 乙-辰-針_一 ̄ヲ。日未_レ ̄ルニ中 ̄セ丁-未-風。行 ̄クヿ二-更-半。鴉-班上 ̄リ
 _レ檣 ̄ニ。見_三 ̄ル山一-點在_二 ̄ルヲ乙-位_一 ̄ニ。約 ̄スルニ去 ̄ヿ四-更-餘。水-面小-黑-魚點-點 ̄タリ。
 接-封 ̄ノ陪-臣云。此 ̄レ出_二 ̄テ姑-米-山_一 ̄ヲ所_レ見。或 ̄ハ是 ̄レ姑-米 ̄ナラン。而 ̄レトモ未_レ能_レ定 ̄ヿ。
 日-入 ̄ニ風轉_二 ̄ス丁-午_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ辰-㢲-針_一 ̄ヲ二-更。
 二-十-九-日辛-丑。日-出 ̄ニ見_二 ̄ル東-北 ̄ノ小-山六-點_一 ̄ヲ。陪-臣 ̄ノ云。此 ̄レ非_二

 姑-米_一 ̄ニ。乃葉-壁-山 ̄ナリ也。在_二國 ̄ノ西-北_一 ̄ニ。始 ̄テ悟 ̄ル用_二 ̄ルヿ卯-針_一 ̄ヲ太 ̄タ-多 ̄ク。船東-
 北 ̄ニ下 ̄ルヿヲ。若非_二 ̄レハ西-北-風_一 ̄ニ。不_レ能_下提_レ ̄シ舟 ̄ヲ上-行 ̄シテ。至_二 ̄テ那-覇_一 ̄ニ收_上レ ̄ルヿ港 ̄ニ也。日-
 中 ̄ニ禱_二 ̄ル于神_一 ̄ニ。忽轉_二 ̄ス坤申-庚風_一 ̄ニ。一-時又轉_二 ̄ス子-癸_一 ̄ニ。陪-臣大 ̄ニ喜 ̄フ。
 乃迴_レ ̄シテ針 ̄ヲ東-南 ̄ニ行 ̄ク。指_二 ̄シテ一-小-山_一 ̄ヲ云 ̄ク。此 ̄レ名_二讀-谷-山_一 ̄ト。由_レ此迤 ̄メニ轉 ̄シテ
 卽入_レ ̄ル港 ̄ニ。日-入 ̄ニ轉_二 ̄ス丑-艮_一 ̄ニ。風大 ̄ニ-熾 ̄ナリ。用_二 丙-巳-針_一 ̄ヲ。又用_二 丙-午單-
 卯-針_一 ̄ヲ。先_レ ̄キ是 ̄ヨリ四-五-日前未_レ見_レ山 ̄ヲ。舟-浮 ̄テ不_レ動。水-艙將_レ竭 ̄ント。衆
 頗 ̄ル惑 ̄フ。禱_二 ̄ル于神_一 ̄ニ。珓-示 ̄ニ曰。二-十-八-日 ̄ニ見_レ山。初-一-日 ̄ニ到_レ ̄ント港 ̄ニ。至
 _レ是 ̄ニ六-月朔壬-寅。日未_レ ̄ルニ出遂入_レ ̄ル港 ̄ニ。行_二 ̄クヿ海-中_一 ̄ヲ凡七-晝八-夜 ̄ト
 云。《割書:二-號-船|港-針-簿》
  《割書:臣|》葆-光按 ̄ルニ。琉-球 ̄ノ針-路。其大-夫 ̄ノ所_レ主 ̄トスル者。皆本_二 ̄ク于指-南
  廣-義_一 ̄ニ。其 ̄ノ失在_下用_二 ̄ユルヿ卯-針_一 ̄ヲ太-多 ̄ク。每 ̄ニ有_中 ̄ルニ落-北 ̄ノ之患_上。前-使汪-
  楫記云 ̄ク。封-舟多 ̄ク有_下飄_二-過 ̄シテ山-北_一 ̄ニ。巳 ̄ニシテ復 ̄タ引-囘_上 ̄スル。稽_二 ̄ルニ諸 ̄ヲ使-錄_一 ̄ニ。
  十-人 ̄ニシテ而九。《割書:明 ̄ノ嘉-靖十-一-年。陳-侃 ̄ノ記 ̄ニ。舟至_二葉-壁-山_一 ̄ニ。小-|舟四-十。牽-挽 ̄スルヿ八-日。始 ̄テ至_二 ̄ル那-覇_一 ̄ニ。 嘉-靖三-》
  《割書:十七-年。郭-汝-霖 ̄ノ記 ̄ニ。巳 ̄ニ至_二姑-米-山_一 ̄ニ。頭-目云。得_二 一-日-夜|之力_一 ̄ヲ。卽未_二 ̄ルモ遽 ̄ニ登_一レ ̄テ岸 ̄ニ。可_レ保_レ不_レ 下_二 ̄ラ葉-壁-山_一 ̄ニ矣。可_レ見下_二 ̄ルハ葉-》
  《割書:壁_一 ̄ニ。卽琉-人亦以爲_レ戒 ̄ト。 萬-曆四-年。蕭-崇-業 ̄ノ記 ̄ニ。六-月|初-一-日過_二葉-壁-山_一 ̄ヲ。薄_一 ̄ル山-下_一 ̄ニ。由_レ此陸-路至_レ ̄ルヿ國 ̄ニ。兩-日-程》
  《割書:挽_レ舟 ̄ヲ。初-五-日始泊_二那-覇_一 ̄ニ。 康-熙二-年。張-學-禮 ̄ノ記 ̄ニ。舟|抵_二 ̄ル琉-球 ̄ノ北-山_一 ̄ニ。與_二日-本_一交_レ界 ̄ヲ。北-風 ̄ニ引_レ ̄テ舟 ̄ヲ南-行 ̄シ。始 ̄テ逹_二 ̄ス那-》
  《割書:覇_一 ̄ニ。|》封-舟不_レ至_二落-北_一 ̄ニ者 ̄ハ。惟前-明 ̄ノ冊-使夏-子-陽。及 本-
  朝 ̄ノ汪-楫二-人。考_二 ̄レハ夏-錄_一 ̄ヲ則云 ̄フ。梅-花-所 ̄ニ開_レ ̄キ洋 ̄ヲ。過_二 ̄キ白-犬-嶼_一 ̄ヲ。

  又取_二東-沙-嶼_一 ̄ヲ。丁 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ辰-㢲-針_一 ̄ヲ八-更-船。取_二 ̄ル小-琉-球
  山_一 ̄ヲ。未 ̄ノ上-風 ̄ニ乙-卯-針二-更。取_二 ̄ル雞-籠_一 ̄ヲ。申-酉 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ甲-卯-
  針_一 ̄ヲ四-更-船。取_二 ̄ル彭-家-山_一 ̄ヲ。亥 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ三-更-船。未 ̄ノ
  上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ三-更-船。取_二 ̄ル花-瓶嶼_一 ̄ヲ。丁-未 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-
  卯-針_一 ̄ヲ四-更-船。取_二 ̄ル釣-魚-嶼_一 ̄ヲ。丙-午 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ四-更-
  船。取_二 ̄ル黃-尾-嶼_一 ̄ヲ。丙 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ乙-卯-針_一 ̄ヲ七-更-船。丁 ̄ノ上-風 ̄ニ用_二 ̄ルヿ
  辰-㢲-針_一 ̄ヲ一-更。取_二 ̄ル姑-米-山_一 ̄ヲ。又辰-㢲-針六-更-船。取_二 ̄ル土-那-
  奇翁-居-里二-山_一 ̄ヲ。《割書:今譯 ̄シテ爲_二度-那-奇。安-根-呢-|山_一 ̄ト。二-山在_二馬-齒-山 ̄ノ之西_一 ̄ニ。》又辰-㢲一-
  更。取_二 ̄テ馬-齒-山_一 ̄ヲ到_レ ̄ル港 ̄ニ。汪-錄 ̄ハ則云 ̄フ。《割書:本-錄不_レ載。見_二|洋-舶針-簿 ̄ノ内_一 ̄ニ。》乙-辰八-
  更。取_二 ̄ル雞-籠-頭_一 ̄ヲ。用_レ ̄ルヿ辰 ̄ヲ多 ̄シ。辰-㢲三-更。取_二 ̄ル梅-花-嶼_一 ̄ヲ。單-卯十-
  更。取_二 ̄ル釣-魚-臺_一 ̄ヲ。北-邊 ̄ニ過 ̄ク。乙-辰四-更。取_二 ̄ル黃-尾-嶼_一 ̄ヲ。《割書:得-力在_二|此 ̄ノ四-更_二。》
  《割書:船-身提-上 ̄シ。巳 ̄ニ見_二 ̄ル黃-尾-嶼_一 ̄ヲ。下用_二 甲-卯-|針_一 ̄ヲ取_二姑-米_一 ̄ヲ。定 ̄テ是正-西-風利 ̄ガ故也。》甲-卯十-更。取_二 ̄ル姑
  米-山_一 ̄ヲ。乙-卯七-更。取_二 ̄ル馬-齒-山_一 ̄ヲ。甲-寅并甲-卯。取_二 ̄ル那-覇-港_一 ̄ヲ。
  蓋自_二雞-籠-山_一。東行_二 ̄テ釣-魚-嶼赤-尾-嶼_一 ̄ニ。以至_二 ̄ル姑-米-山_一 ̄ニ。諸-
  山皆在_レ南 ̄ニ。借 ̄テ爲_二標-準_一 ̄ト。俱 ̄ニ從_二 ̄リ山-北-邊_一過_レ ̄ス船 ̄ヲ。見_レ ̄レハ山 ̄ヲ則針
  正 ̄シ。應_レ ̄クシテ見不_レ ̄レハ見。則針巳 ̄ニ下 ̄テ漸 ̄ク東-北 ̄ニ行 ̄キ。必至_レ ̄ル見_二 ̄ルニ葉-壁-山_一 ̄ヲ
  矣。要 ̄スルニ其 ̄ノ病皆由_下 ̄ル于用_二 ̄ルヿ卯-針_一 ̄ヲ太 ̄タ-多_上 ̄キニ。又不_レ能_二相(ミテ)_レ風 ̄ヲ用_一レ ̄ルヿ針 ̄ヲ。
  夫 ̄ノ西-南-風固 ̄ヨリ皆爲_レ順 ̄ト。而或 ̄ハ自_レ午。或 ̄ハ自_レ 丁。或自_二未 ̄ト與_一

  _レ坤者。方-位又各〱不_レ同。今指-南-廣-義所_レ ̄ニハ錄 ̄スル。則專言_レ針 ̄ヲ。
  混 ̄シテ言_レ ̄フ風 ̄ヲ。又多 ̄ク用_二 ̄ユ卯-針_一 ̄ヲ。故 ̄ニ往-往落_レ ̄チ北 ̄ニ。不_レ ̄シテ見_二姑-米_一 ̄ヲ而見_二 ̄ル
  葉-壁_一 ̄ヲ也。後-人或 ̄ハ不_レ見_レ山 ̄ヲ。不_レ可_レ信_三 ̄ス接-封 ̄ノ者主_二-張 ̄スルヲ卯-針_一 ̄ヲ。
  當_下 ̄ン深翫_二夏-汪二-錄_一 ̄ヲ。酌_レ風 ̄ヲ叅_二-用 ̄ヒ辰-㢲等 ̄ノ針_一 ̄ヲ。將_二 ̄ツテ船-身_一 ̄ヲ提-
  上_上 ̄ス。則保_レ ̄タン不_レ ̄ルヿヲ下_二葉-壁_一 ̄ニ矣。
  後 ̄ノ海-行日-記
 二-月十-六-日癸-丑。巳 ̄ノ刻封-舟自_二琉-球那-霸_一開_レ ̄キ洋 ̄ヲ。用_二 ̄テ小-
 船百-餘_一 ̄ヲ。引_二 ̄キ-出 ̄ス港-口_一 ̄ヲ。琉-球 ̄ノ官-民。夾_レ ̄テ岸 ̄ヲ送 ̄クル者數-千-人。小-船
 竪_レ ̄テ旗 ̄ヲ。夾_レ ̄ンテ船 ̄ヲ左-右 ̄ニ送 ̄ル-者數-百-槳。是 ̄ノ日晴-明。南-風送_レ ̄ル颿 ̄ヲ。用_二 ̄ルヿ
 乾-亥-針_一 ̄ヲ一-更-半。單-乾-針四-更。過_二 ̄ク馬-齒安-根-呢度-那-奇
 等 ̄ノ山_一 ̄ヲ。海-水滄-黑-色。日-入 ̄ニ見_二姑-米-山二-點_一 ̄ヲ。離 ̄ヿ二-更-半-許。
 夜轉_二 丁-未西-南-風_一 ̄ニ。十-三-漏轉_二 ̄ス坤-未-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ乾戌_一 ̄ヲ三-更-半。
 風有_レ力。頭-巾-項 ̄ノ索連 ̄リニ斷 ̄スルヿ三-次。
 十-七-日甲-寅。日-出 ̄ニ龍二 ̄ツ見_二于船 ̄ノ左-右_一 ̄ニ。水沸 ̄キ-立 ̄ツヿ二-三-丈。
 轉_二 ̄ス西-北-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ單-子-針_一 ̄ヲ一-更。日-入 ̄ニ至_二 ̄テ十-四-漏_一 ̄ニ轉_二 ̄ス坤-未-風_一 ̄ニ。
 用_二 ̄ルヿ乾-戌_一 ̄ヲ一-更。夜見_レ月 ̄ヲ至_レ ̄ル明 ̄ニ。
 十-八-日乙-卯。日-出 ̄ニ用_二單-乾_一 ̄ヲ。乾-戌四-更。日-入 ̄ニ至_二 十-四-漏_一 ̄ニ。
 西-南-風有_レ力。用_二 ̄ルヿ乾-戌_一 ̄ヲ四-更-半。夜見_レ月至_レ明 ̄ニ。

 十-九-日丙-辰。日-出 ̄ニ轉_二辛-酉_一 ̄ニ。西-風帶_二 ̄テ南-風_一 ̄ヲ不_レ定。用_二 ̄ルヿ單-庚_一 ̄ヲ
 一-更。日-中 ̄ニ轉_二壬-子-癸風_一 ̄ニ。用_二單-酉-針_一 ̄ヲ。至_二 ̄テ日-入_一 ̄ニ轉_二子-癸_一 ̄ニ。又
 轉_二丑-癸_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ單-戌_一 ̄ヲ三-更-半。夜見_レ月至_レ ̄ル明 ̄ニ。
 二-十-日丁-巳。日-出 ̄ニ轉_二艮-寅東-北順-風_一 ̄ニ。日-中 ̄ニ轉_二 甲-卯_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ
 辛-戌_一 ̄ヲ四-更。日-入 ̄ニ轉_二 乙-辰-風_一 ̄ニ。大-雨 ̄ス。船共 ̄ニ行 ̄クヿ二-十-六-更-半。
 是 ̄ノ日海-水見_二 ̄ル綠-色_一 ̄ヲ。夜過_レ ̄テ溝 ̄ヲ祭_二 ̄ル海-神_一 ̄ヲ。轉_二㢲-巳風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ辛-酉_一 ̄ヲ
 三-更-半。至_レ明。
 二-十-一-日戌-午。日-出 ̄ニ大-霧 ̄アリ。正-南-風轉_二西-南_一 ̄ニ。又轉_二西-北
 風_一 ̄ニ不_レ定。船-行緩 ̄シテ不_レ 上_レ ̄ラ更 ̄ニ。縋_レ ̄スルニ水 ̄ヲ四-十-八-托。有_レ鳥來 ̄テ集_二 ̄ル于
 檣_一 ̄ニ。轉_二子-癸-風_一 ̄ニ。至_二 十-三-漏_一 ̄ニ。轉_二東-北大-順-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ庚-申_一 ̄ヲ二-更。
 至_レ ̄ル明 ̄ニ。
 二-十-二-日巳-未。日-出 ̄ニ東-北-風。晴 ̄テ大 ̄ニ寒 ̄シ。用_二 ̄ルヿ庚-酉申_一 ̄ヲ四-更-
 半。日-入 ̄ニ有_レ燕二。來 ̄テ集_二 ̄ル檣-上_一 ̄ニ。至_二 十-一-漏_一 ̄ニ。轉_二 乙-卯-風_一 ̄ニ。縋_レ ̄スルニ水
 四-十-托。用_二 ̄ルヿ庚-酉_一 ̄ヲ一-更。夜-雨 ̄フリテ大-霧 ̄アリ。
 二-十-三-日庚-申。日-出 ̄ニ霧大-雨。無_レ風。縋_レ水三-十-二-托。日-
 晡 ̄ニ壬-亥-風起 ̄ル。日-入 ̄ニ轉_二壬-子-風_一 ̄ニ。夜雨 ̄フリテ大 ̄ニ寒 ̄シ。用_二 ̄ルヿ庚-酉_一 ̄ヲ二-更。
 未_レ ̄ルニ明 ̄ケ見_レ ̄ル山 ̄ヲ。離 ̄ルヽヿ一-更遠 ̄アマリ-許。
 二-十-四-日辛-酉。日-出 ̄ニ用_二 ̄ルヿ單申_一 ̄ヲ一-更。至_二 ̄ル魚-山及 ̄ヒ鳳-尾-山_一 ̄ニ。

 二-山皆屬_二 ̄ス台-州_一 ̄ニ。封-舟囘_レ ̄ル閩 ̄ニ針-路。本 ̄ト取_二溫-州南-杞-山_一 ̄ヲ。此 ̄ノ
 二-山又在_二南-杞 ̄ノ北五-百-里_一 ̄ニ。船-身太 ̄タ開_レ ̄テ北 ̄ニ行。離_二 ̄ルヽヿ南-杞_一 ̄ヲ八-
 更遠-許。日-晡轉_二北-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ丁-未-針_一 ̄ヲ三-更。日-入 ̄ニ舟至_二 ̄ル鳳-尾
 山_一 ̄ニ。風止 ̄テ下_レ ̄ロス椗 ̄ヲ。
 二-十-五-日壬-戌。無_レ風。舟泊_二 ̄ス鳳-尾-山_一 ̄ニ。夜雨 ̄ル。有_二數-小-船_一來 ̄リ
 伺 ̄フ。警 ̄シテ至_レ明 ̄ニ。
 二-十六-日癸-亥。日-出 ̄ニ東-北-風。起_レ ̄シテ椗 ̄ヲ行 ̄ク。大 ̄ニ雷-雨 ̄ス。有_二旋-風_一
 轉_レ ̄ス篷 ̄ヲ。日-晡 ̄ニ轉_二壬-亥-風_一 ̄ニ。用_二 ̄ルヿ單-未坤-未_一 ̄ヲ三-更。日-入 ̄ニ風-微 ̄ナリ。用_二 ̄ルヿ
 單-未_一 ̄ヲ一-更。見_二南-杞_一 ̄ヲ。離 ̄ルヽヿ一-更-許。
 二-十-七-日甲-子。日-出 ̄ニ晴 ̄ル。見_二盤-山_一 ̄ヲ。至_二溫-州_一 ̄ニ。東-北順-風。用_二 ̄ルヿ
 坤-申庚_一 ̄ヲ四-更。縋_レ ̄スルニ水 ̄ヲ十-四-托。離_二 ̄ルヽヿ北-關_一 ̄ヲ一-更-許。日-入 ̄ニ用_二 ̄ルヿ坤-
 申-庚_一 ̄ヲ一-更。至_二 ̄リ臺-山_一 ̄ニ下_レ ̄ロス椗 ̄ヲ。夜十-八-漏又起_レ ̄コス椗 ̄ヲ。至_レ ̄テ明 ̄ニ見_二 ̄ル南
 北-關_一 ̄ヲ。二-號-船先 ̄ツヿ一-日過_二 ̄ク南關_一 ̄ヲ。
 二-十-八-日乙-丑。東-北-風無_レ力。船泊_二 ̄ス七-星-山_一 ̄ニ。縋_レ水九-托。
 夜至_二 五-漏_一 ̄ニ。颶-作 ̄テ椗-走 ̄ル。用_二 乙-辰-針_一 ̄ヲ行 ̄クヿ七-漏。加_二 ̄ヘテ副-椗_一 ̄ヲ泊_レ ̄ス船 ̄ヲ。
 二-十-九-日丙-寅。日-出 ̄ニ至_二霜-山_一 ̄ニ。東-北-風用_二申-庚-酉針_一 ̄ヲ。日-
 晡 ̄ニ與_二 二-號-船_一齊 ̄ク至_二 ̄ル定-海-所_一 ̄ニ。琉-球謝-
㤙 ̄ノ船先 ̄ツヿ一-日 ̄ニシテ到 ̄ル。相-次 ̄テ泊 ̄ス。

  三-十-日丁-卯。東-北-風。乘_レ ̄シテ潮 ̄ニ三-船雁-次 ̄ニ進_二 ̄ム五-虎-門 ̄ニ。日-中 ̄ニ
 至_二 ̄リ怡-山-院_一 ̄ニ。
諭_二-祭 ̄ス于海-神_一 ̄ニ。行_二 ̄ヿ海-中_一 ̄ニ凡 ̄ソ十-四晝-夜 ̄ト云 ̄フ。
  《割書:臣|》葆-光按 ̄スルニ。冊-封 ̄ノ之役有_二記-錄_一者。自_二前-明嘉靖中陳-
  侃_一始 ̄ル。至_二 ̄テ康-熙二-十-一-年汪-楫等_一 ̄ニ。凡 ̄ソ七-次。封-舟囘_レ ̄ル閩 ̄ニ。
  折_レ ̄リ桅 ̄ヲ漂_レ ̄ハシ柁 ̄ヲ。危-險備 ̄サニ至 ̄ル。披-閲 ̄ノ之-次。每 ̄ニ爲 ̄ニ動_レ ̄ス心 ̄ヲ。今奉_二 ̄シ
皇-上 ̄ノ威-靈_一 ̄ヲ。海-神效_レ ̄シ順 ̄ヲ。踰-年 ̄ノ行-役。幸 ̄ニ避_二 ̄ケ冬-汛 ̄ノ之危_一 ̄ヲ。半-月 ̄ノ漂-
  浮。絶 ̄テ少_二過-船 ̄ノ之浪_一。桅-柁無_レ ̄ク副。竟 ̄ニ免_二 ̄ル摧-傷_一 ̄ヲ。偶〱有_二 ̄ルモ風暴_一。
  隨 ̄テ禱 ̄レハ立 ̄ロニ止 ̄ム。上-下數百-人。安-行 ̄シテ而囘 ̄ル。遠 ̄ク勝_二 ̄ル疇-昔_一 ̄ニ。額-手
  慶-幸 ̄シ。胥(ミナ)戴_二 ̄ク
皇-㤙_一 ̄ヲ。至_二 ̄テハ于顚-仆嘔-逆。小-小 ̄ノ困-頓_一 ̄ニ。海-舶 ̄ノ之常。何 ̄ソ足_レ ̄ン云 ̄ニ也。
  歷-次 ̄ノ封-舟渡-海 ̄ノ日-期
 嘉-靖十-三-年甲-午。陳-侃 ̄カ使-錄。海-行十-八-日至_二琉-球_一 ̄ニ《割書:五|月》
 《割書:初-八-日出_レ海。二-十|五-日至_二那-霸-港_一 ̄ニ。》七日囘_二 ̄ル福-州_一 ̄ニ。《割書:九-月二-十-日出_二那-霸_一。|二-十-八-日至_二定-海-所_一 ̄ニ。》
 嘉-靖四-十-一-年壬-戌。郭-汝-霖 ̄カ使-錄。海-行十-一-日至_二琉-
 球_一 ̄ニ。《割書:五-月二-十-二-日出_レ海。閏|五-月初-九-日至_二那-霸-港_一。》十-一-日囘_二福-州_一。《割書:十-月十-八-|日出_二那-霸_二。》
 《割書:二-十-九-日|至_二 五-虎-門_一 ̄ニ。》
 萬-曆八-年庚-辰。蕭-崇-業 ̄カ使-錄。海-行十-四-日至_二琉-球_一 ̄ニ。《割書:五-|月》

 《割書:二-十-二-日出_レ海。六|月初-五-日至_二那-霸_一。》九-日囘_二福-州_一 ̄ニ。《割書:十-月二-十-四-日出_レ海。|十-一-月初-二-日到_二定》
 《割書:海|所_一。》
 萬-曆三-十-三-年乙-巳。夏-子-陽 ̄カ使-錄。八-日至_二琉-球_一。《割書:五-月|二-十-》
 《割書:四-日出_レ海。六-月|初-一-日至_二那-霸_一。》十-一-日囘_二 ̄ル福-州_一。《割書:十-月二-十-一-日出_レ海。|十-一-月初-一-日到_二 五-》
 《割書:虎|門_一。》
 崇-禎六-年癸-酉。杜-三-策。《割書:從-客胡-|靖 ̄カ錄》九-日至_二琉-球_一。《割書:六-月初-|四-日出》
 《割書:_レ海。八-日過_二|姑-米-山_一 ̄ヲ。》十-一-日囘_二福-州_一 ̄ニ《割書:十-一-月初-九-日出_レ海。|十-九-日到_二 五-虎-門_一。》
 康-熙二-年癸-卯。張-學-禮 ̄カ使-錄。十-九-日至_二琉-球_一。《割書:六-月初|七-日出》
 《割書:海。二-十-五|日到_二那霸_一。》十-一-日囘_二福-州_一。《割書:十-一-月十-四出_レ海_一。二-|十-四-日至_二 五-虎-門_一。》
 康-熙二-十-二-年癸-亥。汪-楫 ̄カ使-錄。三-日至_二琉球_一。《割書:六-月二-|十-三-日》
 《割書:出_レ海。二-十-六|日到_二那霸_一。》十-一-日囘_二福-州_一。《割書:十-一-月二-十-四-日出_レ海|十-二-月初-四-日至_二定-海》
 《割書:所_一。|》
 《割書:臣|》葆-光按 ̄スルニ。封-舟以_二夏-至 ̄ノ後_一 ̄ヲ。乘_二 ̄シ西-南-風_一 ̄ニ往_二 ̄キ琉-球_一 ̄ニ。以_二冬-
 至 ̄ノ後_一 ̄ヲ。乘_二 ̄シ東-北-風 ̄ニ囘_二 ̄ル福-州_一 ̄ニ。此 ̄レ言_二 ̄フ其 ̄ノ槪_一 ̄ヲ也。南-風和-緩。北-
 風凛-冽。故 ̄ニ歸-程尤 ̄モ難 ̄シ。非_三但 ̄ニ内-外水-勢有_二 ̄ノミニ順-逆_一也。嘉
 萬 ̄ノ封-舟囘_レ ̄ル閩 ̄ニ。率 ̄ムネ先_二 ̄テ冬-至_一 ̄ニ。在_二 九-十-月 ̄ノ中_一 ̄ニ。朔-風猶未_レ勁 ̄カラ。
 歸-帆最-宜 ̄シ。十-一-月十-二-月冬-至前-後 ̄ハ。則風-勢日 ̄ニ勁 ̄シ。
 浪必從_二 ̄リ船-上_一過 ̄グ矣。若 ̄シ正-月 ̄ハ。則風-颶最 ̄モ-多 ̄シ。且 ̄ツ應_レ ̄シテ期 ̄ニ不

  _レ爽(タガハ)。萬 ̄ニ無_二行-舟 ̄ノ之理_一。二-月-中 ̄ハ則多_レ霧。龍出_レ ̄ツ海 ̄ヲ矣。然 ̄トモ春-
  風和-緩。茲 ̄ノ-役親 ̄シク驗_レ ̄ロム之 ̄ヲ。浪無_下從_二 ̄リ船-上_一過 ̄クル者_上。殆 ̄ント遠 ̄ク勝_二 ̄レリ於
  冬-至前-後_一 ̄ニ也。海-船 ̄ノ老-夥-長言 ̄フ。十-月二-十-日 ̄ノ後。東-風
  送_レ ̄ルヲ順爲_レ吉 ̄ト。葆-光在_二 ̄テ琉-球_一 ̄ニ。無_下日 ̄トシテ不_上レ ̄ルヿ占_二 ̄ハ風 ̄ノ所_一レ ̄ヲ向 ̄フ。歷_二-考 ̄スルニ數-
  月内_一 ̄ヲ。風自_レ東來 ̄テ不_二 ̄ル間-斷_一 ̄セ者 ̄ハ。惟〱十-月二-十-日 ̄ノ後。十-一-
  月初-五-日 ̄ノ前。半-月-中 ̄ヲ爲_レ然 ̄ト。因 ̄テ考 ̄ルニ陳-侃以-來。惟〱蕭-崇-
  業之歸_レ ̄ル閩 ̄ニ。較〱爲_二安-吉_一 ̄ト。其 ̄ノ出_レ海日-期 ̄ハ。乃十-月二-十-四
  日。爲_レ不_レ ̄ト誣 ̄ヒ也。附_レ ̄シテ此 ̄ニ以告_二 ̄ク後 ̄ノ來-者_一 ̄ニ。
  風-信
 淸-明 ̄ノ後。地-氣自_レ ̄シテ南而北 ̄スレハ。則南-風 ̄ヲ爲_レ常 ̄ト。霜-降 ̄ノ後地-氣自
 _レ北而南 ̄スレハ。則北-風 ̄ヲ爲_レ常 ̄ト。若反_二 ̄スレハ其 ̄ノ常_一 ̄ニ。則颱颶將_レ作 ̄ント。 風大 ̄ニシテ
 而烈 ̄シキ-者 ̄ヲ爲_レ颶 ̄ト。又甚 ̄キ者 ̄ヲ爲_レ颱 ̄ト。颶 ̄ハ常 ̄ニ驟 ̄カニ-發 ̄コリ。颱 ̄ハ則有_レ漸。颶 ̄ハ或 ̄ハ
 瞬 ̄ニ-發 ̄ン焂 ̄ニ-止 ̄ム。颱 ̄ハ則連_二 ̄ヌ日-夜_一 ̄ヲ。或 ̄ハ數-日不_レ止 ̄ニ。大-約正-二-三-四-
 月 ̄ヲ爲_レ颶。五-六-七-八-月 ̄ヲ爲_レ颱 ̄ト。九-月 ̄ハ則北-風初 ̄テ烈 ̄シ。或 ̄ハ至_二 ̄ル連-
 月_一 ̄ニ。俗稱_二 ̄ス九-降-風_一 ̄ト。間〱或 ̄ハ有_レ ̄レハ颱。則驟 ̄カニ-至 ̄ルヿ如_二春-颱_一 ̄ノ。船在_二 ̄テ洋-中_一 ̄ニ。
 遇_レ ̄フハ颶 ̄ニ猶可_レ ̄シ爲。遇_レ ̄ハ颱 ̄ニ不_レ可_レ當矣。 十-月以-後。北-風常 ̄ニ作 ̄ル。
 然 ̄トモ颱颶無_二定-期_一。舟-人視_二 ̄テ風-隙_一 ̄ヲ以往-來 ̄ス。五-六-七-八-月應
 _レ屬_二 ̄ス南-風_一 ̄ニ。颱將_レ ̄レハ發 ̄ント。則北-風先-至 ̄リ。轉 ̄シテ而東-南 ̄シ。又轉 ̄シテ而南 ̄シ。又

 轉 ̄シテ而西-南 ̄ス。 颱颶始 ̄テ-至 ̄ル。多帶_レ ̄フ雨 ̄ヲ。九-降-風 ̄ハ則無_レ雨。 五-
 六-七-月 ̄ノ間。風-雨俱 ̄ニ-至 ̄ル。舟-人視_三 ̄ルトキハ天-色有_二 ̄ヲ點-黑_一。則收_レ ̄メ帆 ̄ヲ嚴 ̄ニシテ
 _レ舵 ̄ヲ以待_レ ̄ツ之 ̄ヲ。瞬-息 ̄ノ間風-雨驟 ̄カニ-至 ̄ル。隨-刻 ̄ニ卽-止 ̄ム。若 ̄シ豫-備少 ̄シク遲 ̄ケレハ。
 則收_レ ̄ルニ帆 ̄ヲ不_レ及。或 ̄ハ至_二 ̄ル傾-覆_一 ̄ニ。 天-邊有_二 ̄ル斷-虹_一。亦颱將_レ至 ̄ント。雲-
 片如_レ ̄キ帆 ̄ノ者 ̄ヲ曰_二破-帆_一 ̄ト。稍及_二 ̄テ半-天_一 ̄ニ。如_二 ̄キ鱟-尾_一 ̄ノ者 ̄ヲ曰_二屈-鱟_一 ̄ト。出_二北-
 方_一 ̄ニ者。甚_二 ̄シ於他-方_一 ̄ヨリ。 海-水驟 ̄カニ-變 ̄シ。水-面多 ̄ク穢 ̄シテ如_二 ̄ク米-糠_一 ̄ノ。海-蛇
 浮_二-遊 ̄スルモ水-面_一 ̄ニ。亦颱將_レ至 ̄ント。
  風-暴 ̄ノ日-期
 正-月初-四-日《割書:接-神|颶》初-九-日《割書:玉-皇-颶。此 ̄ノ日有_レ ̄レハ颶。後-颶皆|驗 ̄アリ。否 ̄ンハ-則後亦多_二 ̄シ不_レ驗者_一。》
 十-三-日《割書:關-帝|颶》二-十-九-日《割書:烏-颶。又|龍-神-會。》
  又正-月初-三-日。初-八-日。十-一-日。二-十-五-日。月-晦-日。
  皆龍-會 ̄ノ日。主_レ ̄ル風 ̄ヲ。
 二-月初-二-日《割書:白-鬚|颶》初-七-日《割書:春-明-|暴》二-十-一-日《割書:觀-音|暴》二-十-
 九-日《割書:龍-神朝_二|上-帝_一 ̄ニ》
  又二-月初-三-日。初-九-日。十-二-日。皆龍-神朝_二 ̄スルノ上-帝_一 ̄ニ之
  日。
 三-月初-三-日《割書:上-帝-颶。又|名_二眞-武-暴_一 ̄ト。》初-七-日《割書:閻-王|暴》十-五-日《割書:眞-人-颶。|又名_二眞-》
 《割書:君|暴_一。》二-十-三-日《割書:天-妃-誕。媽-祖-颶。眞-人|颶 ̄ハ多_レ風。媽-祖-颶 ̄ハ多_レ雨。》二-十-八-日《割書:諸-神朝_二|上-帝_一 ̄ニ》

  又三-月初-三-日。初-七-日。二-十-七-日。皆龍-神朝_二星辰_一 ̄ニ
  之日。
 四-月初-一-日《割書:白-龍|暴》初-八-日《割書:佛-子-颶。又|名_二太-子-暴_一 ̄ト。》二-十-三-日《割書:大-保-|暴》
 二-十-五-日《割書:龍-神大-|白-暴》
  又四-月初-八-日。十-二-日。十-七-日。皆龍會_二 ̄スルノ太-白_一 ̄ニ之日。
 五-月初-五-日《割書:係_二 ̄ル大-颶_一 ̄ニ。名_二|屈-原-颶_一 ̄ト。》十-三-日《割書:關-帝|颶》二-十-一-日《割書:龍-母|暴》
  又五-月初-五-日。十-一-日。二-十-九-日。皆天-帝龍-王朝_二
  玉-皇_一 ̄ニ之日。
 六-月十-二-日《割書:彭-祖|颶》十-八-日《割書:彭-祖|婆-颶》二-十-四-日《割書:雷-公-誕。此 ̄ノ|暴最 ̄モ准。名 ̄テ》
 《割書:爲_二洗-炊-籠-颶_一 ̄ト。自_二 十-二-日_一起 ̄リ。至_二 ̄テ|二-十-四-日_一 ̄ニ止 ̄ム。皆係_二 ̄ル大-颶_一 ̄ニ之旬。》
  又六-月初-九-日。二-十-七-日。皆地-神龍-王朝_二玉-皇_一 ̄ニ之
  日。
 七-月初-八-日《割書:神-煞|交-會》十-五-日《割書:鬼-|颶》
  又七-月初-七-日。初-九-日。十-五-日。二-十-七-日。皆神-煞
  交-會 ̄ノ之日。
 八-月初-一-日《割書:竈-君|颶》初-五-日《割書:係_二 ̄ル大-|颶_一旬》十-四-日《割書:伽-藍|暴》十-五-日
 《割書:魁-星|颶》二-十-一-日《割書:龍-神|大-會》
  又八-月初-三-日。初-八-日。二-十-七-日。皆龍-王大-會之

  日。
 九-月初-九-日《割書:重-陽|暴》十-六-日《割書:張-良|颶》十-九-日《割書:觀-音|颶》二-十-七
 日《割書:冷-風|暴》
  又九-月十-一-日。十-五-日。十-九-日。皆龍-神朝_二玉-帝_一 ̄ニ之
 日。
 十-月初-五-日《割書:風-信|暴》初-十-日《割書:水-仙|王-颶》二-十-日。《割書:東-嶽|朝_レ 天 ̄ニ》二-十-六
 日《割書:翁-爹|颶》
  又十-月初-八-日。十-五-日。二-十-七-日。皆東-府-君朝_二玉-
  皇_一 ̄ニ之日。
 十-一-月十-四-日《割書:水-伯|暴》二-十-七-日《割書:普-安|颶》二-十-九-日《割書:西-嶽|朝_レ天》
 十-二-月二-十-四-日《割書:送-神-颶。又|名_二掃-塵-風_一 ̄ト。》
 凡 ̄ソ遇_二 ̄フ風-暴日-期_一 ̄ニ。不_レ ̄レハ在_二 ̄ラ本-日_一 ̄ニ。則在_二前-後三日 ̄ノ之中_一 ̄ニ。又箕-
 壁翼軫 ̄ノ四-宿。亦主_レ ̄トル起_レ ̄スヿヲ風 ̄ヲ。皆當_二謹 ̄テ避_一レ ̄ク之 ̄ヲ。
  風-信-考以-下至_レ ̄テ此 ̄ニ。皆指-南-廣-義 ̄ノ所_レ載 ̄スル。或 ̄ハ採_二禁-忌方-
  書_一 ̄ヲ。或 ̄ハ出_二 ̄ツ海-師柁-工 ̄ノ所_一レ ̄ニ記 ̄スル。其 ̄ノ語不_二盡 ̄ク雅-馴_一 ̄ナラ。而 ̄トモ參-攷 ̄スルニ多 ̄ク
  驗 ̄アリ。今附_レ ̄シテ此 ̄ニ以告_二 ̄ク後 ̄ノ來-者_一 ̄ニ。

【図】天妃靈應圖

  天-妃靈-應-記
 天-妃 ̄ハ。莆-田湄-洲-嶼 ̄ノ林-氏 ̄ノ女 ̄ナリ也。《割書:張-學-禮記 ̄ニ云。天-妃蔡-|氏 ̄ノ女。猴-嶼人 ̄ト。非_レ是 ̄ニ。》父
 名 ̄ハ愿。《割書:字曰_二惟-愨_一。母 ̄ハ王-氏。|一 ̄ニ云。林-孚第-六 ̄ノ女。》宋 ̄ノ初官都-巡-檢 ̄タリ。妃生 ̄シテ而神-靈。
 少 ̄シテ與_二群-女_一照_レ ̄ス井 ̄ニ。有_レ神捧_二 ̄ケテ銅-符_一 ̄ヲ出 ̄テ以授_レ ̄ク妃 ̄ニ。群-女奔-駭 ̄ス。自
 _レ是屢〱著_二 ̄ス神-異_一 ̄ヲ。常 ̄ニ乘_二 ̄シテ片-蓆_一 ̄ニ渡_レ海 ̄ヲ。人咸稱 ̄シテ爲_二通-賢靈-女_一 ̄ト。一-
 日方 ̄ニ-織 ̄ル。忽據_レ ̄テ機 ̄ニ瞑-坐 ̄ス。顔-色變-異 ̄ス。母蹴-起 ̄シテ問_レ ̄フ之 ̄ヲ。寤 ̄テ而泣 ̄ク。
 曰父 ̄ハ無_レ恙。兄 ̄ハ歿 ̄ス矣。有_レ ̄テ頃 ̄ラク信-至 ̄ル。父與_レ兄渡_レ海 ̄ヲ。舟-覆 ̄ヘル。若_レ有_二 ̄カ
 挾_レ ̄ム之 ̄ヲ者_一。父得_レ不_レ ̄ルヿヲ溺 ̄レ。兄 ̄ハ以_二柁-摧_一 ̄クルヲ。遂 ̄ニ堕_レ ̄テ海 ̄ニ死 ̄ス。雍-熙四-年。昇_二-
 化 ̄ス于湄-州-嶼_一 ̄ニ。《割書:張-學-禮記 ̄ニ云。救_レ父 ̄ヲ投_レ海 ̄ニ身-亡。非_レ是 ̄ニ。一 ̄ニ云|妃生_二 ̄ル于建-隆元-年庚-申。三-月二-十-三-日_一 ̄ニ。》

 《割書:一 ̄ニ云。妃生_二 ̄ル於哲-宗元-祐八-年_一 ̄ニ。一 ̄ニ云。生_二于甲-申之歲_一 ̄ニ。按 ̄ニ|妃于_二 ̄テ宋太-宗雍-熙四-年。九-月初-九-日_一 ̄ニ昇化 ̄ス。室 ̄ニ-處 ̄ルヿ二-十-》
 《割書:八-歲則當_下以_二建-隆元-年 ̄ノ一-說_一 ̄ヲ|爲_上レ是 ̄ト。生 ̄テ彌_レ ̄テ月 ̄ヲ不_レ啼。名 ̄テ日_レ黙 ̄ト。》時 ̄ニ顯_二 ̄シ靈-應_一 ̄ヲ。或 ̄ハ示_レ ̄シ夢 ̄ヲ。或 ̄ハ示_二 ̄ス
 神-燈_一 ̄ヲ。海-舟獲_レ ̄ルヿ庇 ̄ヲ無-數。土-人相-率 ̄ヒテ祀_レ ̄ル之 ̄ヲ。宋 ̄ノ徽-宗宣-和五-
 年。給-事-中路-允-廸使_二 ̄ヒス高-麗_一 ̄ニ。八-舟溺_二 ̄ラス其七_一 ̄ヲ。獨允-廸 ̄カ舟見_三 ̄ル
 神 ̄ノ朱-衣 ̄シテ坐_二 ̄スルヲ桅-上_一 ̄ニ。遂 ̄ニ安-歸 ̄シテ聞_二 ̄ス于朝_一 ̄ニ。賜_二 ̄テ廟-額_一 ̄ヲ曰_二順-濟_一 ̄ト高-宗
 紹-興二-十-六-年。始 ̄テ封_二 ̄ス靈-惠夫-人_一 ̄ニ。賜_二 ̄テ廟-額_一 ̄ヲ曰_二靈-應_一 ̄ト。三-十-
 年。海-冦至_二江-口_一 ̄ニ。神見_二 ̄ハル風-濤 ̄ノ中_一 ̄ニ。冦-潰 ̄ヘテ就_レ ̄ク獲 ̄ニ。泉-州上_二 ̄ス其 ̄ノ事_一 ̄ヲ。
 封_二 ̄ス靈-惠昭-應夫-人_一 ̄ニ。孝-宗乾-道二-年。興-化疫 ̄アリ。神降_二 ̄ル于白-
 湖_一 ̄ニ。去_レ ̄ルヿ潮 ̄ヲ丈-許得_二甘-泉_一 ̄ヲ。飮-者立 ̄ロニ-愈 ̄ユ。又海-冦至 ̄ル。霧 ̄ニ迷_二 ̄テ其 ̄ノ道 ̄ヲ。
 至_二 ̄リ廟-前_一 ̄ニ就_レ ̄ク擒 ̄エ。封_二 ̄ス靈-惠昭-應崇-福夫-人_一 ̄ニ。淳-熙十-一-年。助_二 ̄ケ
 廵-檢姜-特-立_一 ̄ヲ。捕_二 ̄フ溫-台 ̄ノ冦_一 ̄ヲ。封_二 ̄ス靈-惠昭-應崇-福善-利夫-人_一 ̄ニ。
 《割書:汪-錄作_二靈-慈昭-應崇-善福-利夫-人_一 ̄ニ。靈-慈 ̄ハ乃廟-號。凡 ̄ソ封|皆原_二 ̄ク靈-惠始-封 ̄ノ之 ̄ノ號_一 ̄ニ。當_レ作_二靈-惠崇-福_一 ̄ニ。先-封 ̄シテ後加_二善-利》
 《割書:二-字_一 ̄ヲ。乃言_下爲_二 ̄ニ善-人_一 ̄ノ利 ̄ノ之|意_上 ̄ヲ。以-上封_二 ̄シテ夫-人_一 ̄ニ凡 ̄ソ四-封。》光-宗紹-熙三-年。以_下救_二疫-旱_一 ̄ヲ功_上 ̄ヲ。
 特 ̄ニ封_二 ̄ス靈-惠-妃_一 ̄ニ。寧-宗慶-元四-年。以_レ救_レ ̄フヲ潦 ̄ヲ封_二靈-惠助-順妃_一 ̄ニ。
 嘉-定元-年。平_二 ̄ク大-奚 ̄ノ冦_一 ̄ヲ。以_レ霧 ̄ヲ助 ̄テ擒_レ ̄ニス賊 ̄ヲ。金-人犯_二 ̄ス淮-甸_一 ̄ヲ。戰_二 ̄フ-花-
 靨-鎭_一 ̄ニ。神助_レ ̄ク戰 ̄ヲ。及_レ ̄テ戰_二 ̄ニ紫-金-山_一 ̄ニ。又見_二 ̄ハス神-像_一 ̄ヲ。再㨗_二 ̄ツ三-戰_一 ̄ニ。遂 ̄ニ解_二 ̄ク
 合-肥 ̄ノ之圍_一 ̄ヲ。封_二 ̄ス靈-惠助-順顯-衛妃_一 ̄ニ。嘉-定十-年。救_レ ̄ヒ旱 ̄ヲ。獲_二海-
 冦_一 ̄ヲ。加_二 ̄フ靈-惠助-順顯-衛英-烈妃_一 ̄ヲ。嘉-熙三-年。錢-塘潮-决 ̄シテ至_二 ̄ル

 艮-山 ̄ノ祠_一 ̄ニ。若_二有_レ ̄テ限而退_一 ̄クカ。封_二 ̄ス靈-惠助-順嘉-應英-烈妃_一 ̄ニ。寶-祐
 二-年。救_レ旱 ̄ヲ。封_二 ̄ス助-順嘉-應英-烈協-正妃_一 ̄ニ。三-年。又封_二 ̄ス靈-惠
 助-順嘉-應慈-濟妃_一 ̄ニ。四-年封_二 ̄ス靈-惠協-正嘉-應慈-濟妃_一 ̄ニ。是-
 歲浙-江隄-成 ̄ル。封_二 ̄ス靈-惠協-正嘉-應善-慶妃_一 ̄ニ。五-年。敎-授王-
 里請_二 ̄テ于朝_一 ̄ニ。封_二 ̄ス妃 ̄ノ父 ̄ヲ積-慶-侯。母 ̄ヲ顯-慶夫-人_一 ̄ニ。女-兄以-及 ̄ヒ神-
 佐。皆有_二錫-命_一。景-定三-年。反_レ ̄シテ風 ̄ヲ膠_二 ̄シテ海-冦 ̄ノ舟_一 ̄ヲ就_レ ̄ク擒 ̄ニ。封_二 ̄ス靈-惠
 顯-濟嘉-應善-慶妃_一 ̄ニ。《割書:宋封_二 ̄スルヿ夫-人_一 ̄ニ四。加_二-封 ̄スルヿ|妃_一 ̄ニ十。凡 ̄ソ十-四-封。》元 ̄ノ世-祖至-元十-
 八-年。以_三海-運得_二 ̄ルヲ神佑_一 ̄ヲ。封_二 ̄ス䕶-國明-著天-妃_一 ̄ニ。《割書:封_二 ̄スルノ天妃_一 ̄ニ|之-始 ̄メ》又進_二 ̄ム
 顯-佑_一 ̄ヲ。成-宗大-德三-年。以_二漕-運效_一レ ̄スヲ靈 ̄ヲ。封_二 ̄ス輔-聖庇-民明-著
 天-妃_一 ̄ニ。仁-宗加_二-封 ̄ス䕶-國庇-民廣-濟明-著天-妃_一 ̄ニ。文-宗天曆-
 二-年。加_二-封 ̄ス靈-感助-順福-惠徽-烈_一 ̄ニ。《割書:共 ̄ニ二-|十-字》廟-額靈-慈。《割書:元晋-|封 ̄スルヿ天-》
 《割書:妃_一 ̄ニ。凡五-|加-封。》皆以_二 ̄テノ海-運危-險。歷_二-見 ̄スルヲ顯-應_一 ̄ヲ故 ̄ナリ也。明 ̄ノ太-祖封_二 ̄ス昭-
 孝純-正孚-濟感-應聖-妃_一 ̄ニ。成-祖永-樂七-年。封_二 ̄ス䕶-國庇-民
 妙-靈昭-應弘-仁普-濟天-妃_一 ̄ニ。《割書:至_レ ̄テ今 ̄ニ-皆仍_二 ̄ル|此 ̄ノ封-號_一 ̄ニ》自-後遣_レ ̄テ官 ̄ヲ致_レ祭 ̄ヲ。
 歲 ̄コトニ以 ̄テ爲_レ常 ̄ト。莊-烈-帝封_二 ̄ス天-仙聖-母靑-靈普-化碧-霞元-君_一 ̄ニ。
 巳 ̄ニシテ-又加_二 ̄フ靑-賢普-化慈應碧-霞元-君_一 ̄ヲ。《割書:明封_二 ̄スルヿ聖-妃_一 ̄ニ一。一仍 ̄テ攺_二-|封 ̄スルヿ天-妃_一 ̄ニ一。攺_二-封元-》
 《割書:君_一 ̄ニ二。凡 ̄フ|四-封。》
本-朝仍_二 ̄ル永-樂七-年 ̄ノ封-號_一 ̄ニ。康-熙十-九-年。收_二-復 ̄ス臺-灣_一 ̄ヲ。神-靈顯-

 應。福-提-萬正色上-
聞 ̄ス。加_レ ̄ヘ號 ̄ヲ致_レ ̄ス祭 ̄ヲ。神-靈昭-著。于_レ ̄テ今 ̄ニ轉〱-赫 ̄ナリ。凡 ̄ソ渡_レ ̄ル海 ̄ヲ者 ̄ハ。必載_二 ̄ス主 ̄ヲ舟-
 中_一 ̄ニ。往-年冊_二-封 ̄ス琉-球_一 ̄ニ。
諭-祭兩 ̄タヒ行 ̄ル。夏-祈冬-報。皆預 ̄メ撰_レ ̄シ文 ̄ヲ。使-臣昭 ̄ニ-告 ̄ク。皆獲_二安-全_一 ̄ヲ。蓋 ̄シ
聖-德 ̄ノ所_レ感。神-應尤 ̄モ-顯 ̄ルト云 ̄フ。
  封-舟捄-濟 ̄ノ靈-蹟《割書:惟 ̄ルニ洪-煕元-年。捄_二-濟柴-山_一 ̄ヲ靈-蹟。詳_二 ̄ナリ顯-|聖-錄_一 ̄ニ。以-下無_レ攷 ̄ルヿ。今斷 ̄シテ自_二陳-侃_一始。》
 嘉-靖十-三-年。冊-使陳-給-事-侃。《割書:陳 ̄ノ侃始有_レ記。|故 ̄ニ自_レ侃始。》高-行-人-澄。
 舟至_二 ̄テ姑-米-山_一 ̄ニ發_レ ̄ス漏 ̄ヲ。呼-禱 ̄シテ得_二塞 ̄テ而濟_一 ̄ルヿヲ。歸 ̄ニ値_レ ̄ヲ颶 ̄ニ。桅-檣俱- ̄ニ折。
 忽有_二 ̄テ紅-光_一燭_レ ̄ス舟 ̄ヲ。乃請_レ ̄テ筊 ̄ヲ起_レ柁 ̄ヲ。又有_二 ̄テ蝶-雀_一示_レ ̄ス象 ̄ヲ是 ̄ノ-夕風-
 虐 ̄ヲ。冠-服 ̄シテ禱 ̄リ請_レ立_レ碑 ̄ヲ。風乃弛 ̄ブ。還 ̄テ請_二春-秋祀-典_一 ̄ヲ。
 嘉-靖四-十-年。冊-使郭-汝-霖李-際-春。行 ̄テ至_二 ̄ル赤-嶼_一 ̄ニ。無_レ風。有_二
 大-魚_一蕩_レ ̄ス舟 ̄ヲ。乃施_二 ̄シ金-光-明佛。并 ̄ニ彩-舟_一 ̄ヲ舁_レ之 ̄ヲ。遂 ̄ニ得_二 ̄テ南-風_一 ̄ヲ而
 濟 ̄ル。及_二 ̄テ囘_レ ̄ル閩 ̄ニ日_一 ̄ニ。颶將【左ルビ「ス」】_レ ̄ニ發 ̄ント。豫 ̄シメ有_二 二-雀集_レ ̄ルノ舟 ̄ニ之異_一。須-臾 ̄ニシテ颶發
 失_レ ̄ス柁 ̄ヲ。郭-等爲_レ ̄テ文 ̄ヲ以-告 ̄ク。風乃-息 ̄ム。更 ̄ニ置_レ ̄ク柁 ̄ヲ。又有_二 ̄リ一-鳥_一。集_二 ̄ナ桅
 上_一 ̄ニ不_レ去。
 萬-曆七-年。冊-使蕭-給-事崇-業。謝-行-人-然。針-路舛-錯。莫 ̄シ
 _レ知_レ ̄ルヿ所_レ ̄ヲ之 ̄ク。且 ̄ツ柁-葉失 ̄シ-去 ̄ル。䖍-禱 ̄ノ之次 ̄デ。俄 ̄ニ有_二 一-燕一-蜻-蜓_一。飛 ̄ンテ
 繞_二 ̄ル船 ̄ノ左-右_一 ̄ヲ。遂 ̄ニ得_レ ̄テ易_レ ̄ルヿヲ柁 ̄ヲ。舟-乃平-安 ̄ナリ。

 萬-曆三-十-年。冊-使夏-給-事子-陽。王-行-人士-禎。舟過_二 ̄ク花-
 瓶-嶼_一 ̄ヲ。無_レ ̄シテ風而浪 ̄アリ。禱_二 ̄ル于神_一 ̄ニ。得_レ ̄テ風 ̄ヲ順-濟 ̄ス。歸-舟柁-索四-斷 ̄シ。失 ̄スル
 _レ柁 ̄ヲ者三 ̄ツ。大-桅亦-折 ̄ル。水-面忽 ̄チ現_二 ̄ス神-燈_一 ̄ヲ。異-雀來 ̄リ-集 ̄ル。東-風助
 _レ順 ̄ヲ。
 崇-禎元-年。冊-使杜-給-事三-策。楊-行-人-掄。歸-舟颶-作 ̄ル。折_二 ̄ルヿ
 柁 ̄ノ牙_一 ̄ヲ數-次。勒-索皆-斷。舟-中三-人。共 ̄ニ購_二 ̄フテ一-奇-楠高 ̄サ三-尺
 値 ̄ヒ千-金_一 ̄ナルヲ。捐 ̄テ刻_二 ̄ム聖-像_一 ̄ヲ。俄 ̄ニ有_二奇-鳥_一集_二 ̄ル檣-端_一 ̄ニ。舟-行 ̄クヿ若_レ ̄シ飛 ̄カ。一-夜
 抵_レ ̄ルト閩 ̄ニ云 ̄フ。
本-朝康-熙二-年。冊-使張-兵-科學-禮。王-行-人-垓。歸-舶過_二 ̄ク姑-
 米_一 ̄ヲ。颶-作 ̄テ暴-雨 ̄シ。船傾-側 ̄ス。危 ̄キヿ-甚 ̄シ。桅 ̄ノ左-右欹-側 ̄ス。龍-骨半-折 ̄ル。忽 ̄チ
 有_二 ̄テ火-光_一熒-熒 ̄タリ。霹-靂起_二 ̄ル風-雨 ̄ノ中_一 ̄ニ。截-斷 ̄シテ仆_レ ̄ス桅 ̄ヲ。舵旋 ̄テ不_レ止 ̄マ。勒-
 索皆-斷。禱_レ ̄テ神 ̄ニ起_レ ̄ス柁 ̄ヲ。三-禱三-應 ̄ス。易_レ ̄ヘ繩 ̄ヲ下_レ ̄ロス柁 ̄ヲ。時 ̄ニ有_二 一-鳥_一。綠-
 觜紅-足若_二雁-鶩_一。集_二 ̄ル戰-臺_一 ̄ニ。舟-人 ̄ノ曰。天-妃遣_二 ̄シム來 ̄テ引-導_一 ̄セ也。遂 ̄ニ
 逹_二 ̄ス定-海_一 ̄ニ。
 康-熙二-十-二-年。冊-使汪-檢-討-楫。林-舎-人麟-焻。歸-舟颶-
 風三-晝-夜。舟上-下傾-仄。水滿_二艙-中_一 ̄ニ。合-舟能 ̄ク-起 ̄ツ者。僅 ̄ニ十-
 六-人。厨-竈漂-没 ̄シ。人-盡 ̄ク餓-凍 ̄ス。䖍_二-禱 ̄シ天-妃_一 ̄ニ。許_三 ̄ス爲 ̄ニ請_二 ̄ヿヲ春-秋祀-
 典_一 ̄ヲ。桅-篐斷 ̄テ而桅不_レ散。頂-繩斷 ̄テ而蓬不_レ落。與_レ波上-下 ̄シ。竟 ̄ニ

 保_レ ̄ツ無_レ ̄キヿヲ虞 ̄リ。 
 今 ̄ノ封-舟開_レ ̄キ洋 ̄ヲ。風少 ̄シク偏-東 ̄ス。禱 ̄レハ立 ̄ロニ-正 ̄シ。多 ̄ク用_二 ̄ヒ卯-針_一 ̄ヲ。船-身太-下 ̄テ。
 幾 ̄ント至_二 ̄ル落-漈_一 ̄ニ。遂 ̄ニ䖍-禱 ̄シテ得_三攺 ̄テ用_二 ̄ヿヲ乙-辰-針_一 ̄ヲ。又筊-許 ̄ス二-十-八-日
 見_レ ̄ンヿヲ山 ̄ヲ。果 ̄シテ見_二 ̄ル葉-壁_一 ̄ヲ。船-下 ̄ルヿ六-百-餘-里。欲_レ ̄ス收_二 ̄ント那-霸_一 ̄ニ。非_二 ̄レハ西-北-風_一 ̄ニ
 不_レ能_レ逹 ̄スルヿ。禱_レ ̄レハ之 ̄ヲ立 ̄ロニ轉 ̄シ。一-夜 ̄ニ抵_レ ̄ル港 ̄ニ。 舟囘 ̄テ至_二鳳-尾-山_一 ̄ニ。旋風
 轉_レ ̄シテ船 ̄ヲ。篷柁俱 ̄ニ-仄 ̄ツ。呼_レ ̄ンテ神 ̄ヲ始 ̄テ-正 ̄シ。至_二 ̄リ七-星-山_一 ̄ニ。夾_レ ̄ンテ山 ̄ヲ下_レ ̄ロス椗 ̄ヲ。五-更 ̄ニ
 颶-作 ̄テ走_レ ̄ラス椗 ̄ヲ。將【左ルビ「ス」】_レ ̄ニ抵(アテント)_レ礁 ̄ニ。呼_レ ̄テ神 ̄ニ船如_二 ̄シ少-緩_一 ̄ルカ。始 ̄テ得 下_レ ̄スヿヲ椗 ̄ヲ。人-皆額-
 手 ̄シテ曰 ̄ク。此-皆天-妃 ̄ノ賜 ̄ナリ也。
  諭-祭 ̄ノ文《割書:祈-報二-道|》
 維 ̄レ康-熙五-十-八-年。歲次_二 ̄ス巳-亥_一 ̄ニ。五-月癸-酉朔。越(コヽニ)祭-日癸-
 巳。
皇-帝遣_二 ̄シ冊封琉-球-國。正-使翰-林-院檢-討海-寶。副-使翰-林-
 院編-修徐-葆-光_一 ̄ヲ。致_二 ̄ス祭 ̄ヲ于
 神_一 ̄ニ。曰惟 ̄シ神顯_二 ̄シ異 ̄ヲ風-濤_一 ̄ニ。效_二 ̄ス靈 ̄ヲ瀛-海_一 ̄ニ。扶_レ ̄ケ危 ̄ヲ脫_レ ̄シテ險 ̄ヲ。每 ̄ニ著_二 ̄ス神-功_一 ̄ヲ。
 捍_レ ̄キ患 ̄ヲ禦_レ ̄ク災 ̄ヲ。允 ̄ニ符_二 ̄ス祀-典_一 ̄ニ。茲 ̄ニ因 ̄テ_下冊_二-封 ̄シ殊-域_一 ̄ニ。取_中 ̄ルニ道 ̄ヲ重-溟_上 ̄ニ。爰 ̄ニ命 ̄シテ
 使-臣_一 ̄ニ。㓗 ̄シテ將_二 ̄フ禋-祀_一 ̄ヲ。尚 ̄クハ其 ̄レ默_二-佑 ̄シ津-途_一 ̄ヲ。安-流利-涉。克 ̄ク將 ̄テ成_レ ̄サハ命 ̄ヲ。
 惟 ̄レ神 ̄ノ之-休 ̄ナラン。謹 ̄テ-告 ̄ス。
 維 ̄レ康-熙五-十-九-年。歲次_二 ̄ル庚-子_一 ̄ニ。二-月戊-戌朔。越 ̄ニ祭-日丁-

 卯。
皇-帝遣_二 ̄シ冊-封琉-球-國。正-使翰-林-院檢-討海-寶。副-使翰-林-
 院編-修徐-葆-光_一 ̄ヲ。致_二 ̄ス祭 ̄ヲ于
海-神_一 ̄ニ。曰惟 ̄レ神誕 ̄ニ昭_二 ̄ニシ靈-貺_一 ̄ヲ。陰 ̄カニ翊_二 ̄ク昌-圖_一 ̄ヲ。引_二 ̄テ使-節_一 ̄ヲ以遄 ̄カニ征 ̄キ。越_二 ̄テ洪-
 波_一 ̄ヲ而利-濟 ̄ス。殊-邦 ̄ノ往-復。成_レ ̄シテ事 ̄ヲ無_レ愆 ̄チ。克 ̄ク暢_二 ̄フ國威_一 ̄ヲ。實 ̄ニ惟 ̄レ神 ̄ノ佑。
 聿 ̄ニ申_二 ̄シ昭-報_一 ̄ヲ。重 ̄テ薦_二 ̄ム苾-芬_一 ̄ヲ。神其 ̄レ鍳-歆 ̄シテ。永 ̄ク有_二 ̄レ光-烈_一。謹 ̄テ告 ̄ス。
  春-秋祀-典 ̄ノ䟽
 差-囘琉-球-國。翰-林-院檢-討《割書:臣|》海-寶。編-修《割書:臣|》徐葆-光-等
 謹 ̄テ
奏 ̄ス爲_二奏-
聞 ̄ノ事_一。《割書:臣|》等於_二康-熙五-十-七-年。六-月初-一-日_一 ̄ニ。奉 ̄レ
_レ㫖 ̄ヲ冊_二-封 ̄シ琉-球-國-王_一 ̄ヲ。十-四-日於_二𤍠-河_一 ̄ニ面請_二
聖-訓_一 ̄ヲ。出_レ ̄テ都 ̄ヲ至_レ ̄ル閩 ̄ニ。於_二 五-十-八-年。五-月二-十-日_一 ̄ニ登_レ ̄ル舟 ̄ニ。次 ̄ノ日至_二 ̄リ
 怡-山-院_一 ̄ニ。
諭_二-祭 ̄シ天-妃_一 ̄ニ。二-十-二-日。從_二 五-虎-門_一放_レ洋 ̄ヲ。西-南順-風行 ̄クヿ八-日。
 六-月初-一-日登_レ ̄ル岸 ̄ニ。二-十-七-日。行_二
諭-祭 ̄ノ禮_一 ̄ヲ。七-月二-十-六-日。行_二
冊-封 ̄ノ禮_一 ̄ヲ。諸-宴-禮以_レ次 ̄ヲ舉-行 ̄ス。十-二-月二-十-六-日。登_レ ̄リ舟 ̄ニ候_レ ̄シ汛 ̄ヲ。

 本-年二-月十-六-日。乗_二東-北順-風_一 ̄ニ行 ̄クヿ半-月。三-十-日始 ̄テ扺_二 ̄ル
 福-州五-虎-門_一 ̄ニ。《割書:臣|》等往_二-返 ̄シテ海-道_一 ̄ヲ。畧〱無_二危-險_一。皆
皇-上德邁_二 ̄キ千-古_一 ̄ニ。
福與_レ 天齊 ̄シ。《割書:臣|》等奉 ̄シテ
_レ命 ̄ヲ經_二-行 ̄ス絶-遠之-處_一 ̄ニ。神-靈效_レ ̄シ順 ̄ヲ。《割書:臣|》等闔-船官-兵。以-及從-役
 數-百-人。無_二 一 ̄モ虧-損_一。皆得_二安-歸_一 ̄ヲ。《割書:臣|》等不_レ勝_二欣-幸_一 ̄ニ。卽琉-球
 國-屬。倂_二 ̄セテ福-省-官 ̄ノ民-人等_一 ̄ヲ。俱 ̄ニ稱_レ ̄シ奇-致_レ ̄ス頌 ̄ヲ。以-爲 ̄ラク皆我 ̄カ
皇-上德遍_二 ̄キ海-隅_一 ̄ニ之所_レ ̄ナリト致 ̄ス也。其 ̄ノ中往-返 ̄ノ之-時。風少 ̄シク不-順 ̄ナレハ。《割書:臣|》
 等祈_二-禱 ̄スルニ天-妃_一 ̄ニ。卽獲_二安-吉_一 ̄ヲ。自_下前 ̄ニ平_二-定 ̄セン臺-灣_一 ̄ヲ之-時_上。天-妃顯 ̄ハシ
 _レ靈 ̄ヲ效_レ ̄ス順 ̄ヲ。巳 ̄ニ蒙_二 ̄リ
皇-上 ̄ノ加封_一 ̄ヲ致_レ ̄ス祭 ̄ヲ。今默_二-佑 ̄シ封-舟_一 ̄ヲ。種-種 ̄ノ靈-異如_レ此 ̄ノ。仰 ̄テ祈 ̄ラクハ
特-㤙 ̄ニ許 ̄サレ。着(シメン)_下該-地-方 ̄ノ官 ̄ヲシテ。春-秋致_レ ̄シ祭 ̄ヲ。以報_中 ̄セ神-庥_上 ̄ニ。伏 ̄シテ候_二 ̄ス
聖-裁_一 ̄ヲ。謹 ̄テ奏-
聞 ̄ス。
 禮-部謹 ̄テ題 ̄ス。爲_二奏-
聞 ̄ノ事_一。該-《割書:臣|》等議 ̄シ-得。差-囘琉-球-國。翰-林-院檢-討《割書:臣|》海-寶。編-
 修《割書:臣|》徐-葆-光-等奏-稱 ̄ス。《割書:臣|》等奉 ̄シテ
_レ㫖 ̄ニ冊_二-封 ̄シ琉-球-國-王_一 ̄ラ。往_二-返 ̄シテ海-道_一 ̄ニ。闔-船官-兵。以-及 ̄ヒ從-役數-百

 人。無_二 一 ̄モ虧-損_一。皆得_二安-歸_一 ̄ヲ。其 ̄ノ中往-返 ̄ノ之-時。風少 ̄シク不_レ ̄レハ順 ̄ナラ。《割書:臣|》
 等祈_二-禱 ̄スレハ天-妃_一 ̄ニ。卽獲_二安-吉_一 ̄ヲ。自_下前 ̄ニ平_二-定 ̄セン臺-灣_一 ̄ヲ之-時_上。天-妃顯
 _レ靈 ̄ヲ效_レ ̄ス順 ̄ヲ。巳 ̄ニ蒙_二 ̄フル
皇-上加_レ ̄ヘ封 ̄ヲ致_一レ ̄スヿヲ祭 ̄ヲ。今默_二-佑 ̄シ封-舟_一 ̄ヲ。種-種 ̄ノ靈-異 ̄アリ。仰 ̄キ-祈 ̄ラクハ
特-㤙 ̄ニ許 ̄サレ。着(シメン)_下 地-方 ̄ノ官 ̄ヲシテ。春-秋 ̄ニ致_レ ̄シ祭 ̄ヲ。以報_中 ̄セ神-庥_上 ̄ニ等 ̄ノ語。欽 ̄ンテ惟 ̄ルニ
皇-上德周_二 ̄ク寰-宇_一 ̄ニ。化洽_二 ̄シ海-隅_一 ̄ニ。
詔-命 ̄ノ所_レ經 ̄ル。神-靈恊-應 ̄ス。茲 ̄ニ以
冊_二-封 ̄シ琉-球-國-王_一 ̄ヲ。
特 ̄ニ遣_二 ̄シテ使-臣_一 ̄ヲ。舉_二-行 ̄ス典-禮_一 ̄ヲ。往_二-返 ̄シテ大-海絶-險之-區_一 ̄ニ。官-兵從-役數-
 百-人。皆獲_二安-吉_一 ̄ヲ。固 ̄ヨリ由_二 ̄ル天-妃顯_一レ ̄スニ靈 ̄ヲ。實 ̄ニ皆我 ̄カ
皇-上 ̄ノ懷-柔。百-神海-若。效_レ ̄スノ順 ̄ヲ所_レ致 ̄ス也。查 ̄スルニ康-熙十-九-年。《割書:臣|》部
 議得。將_二 ̄テ天-妃_一 ̄ヲ封 ̄シテ爲_二䕶-國庇-民妙-靈昭-應弘-仁普-濟天-
 妃_一 ̄ト。遣_レ ̄テ官 ̄ヲ致_レ ̄ス祭 ̄ヲ等。因 ̄テ具-題 ̄シテ。奉 ̄シ
_レ㫖 ̄ヲ依_レ ̄ル議 ̄ニ。欽-遵在_レ案 ̄ニ。今天-妃默_二-佑 ̄シ封-舟_一 ̄ヲ。種-種靈-異 ̄アリ。應_レ ̄シ令_下 ̄ム該-
 地-方 ̄ノ官 ̄ヲシテ。春-秋致_レ ̄シ祭 ̄ヲ。編 ̄テ入_中 ̄レ祀-典_上 ̄ニ。候_二 ̄シテ
命-下 ̄ル之-日_一 ̄ヲ行 ̄シ。令_二 ̄ンヿ該-督撫 ̄ヲシテ遵-行_一 ̄セ可 ̄ナリ也。《割書:臣|》等未_二敢 ̄テ擅_一 ̄ニセ。便 ̄チ
 謹 ̄テ題 ̄シテ請 ̄フ
_レ㫖 ̄ヲ等。因 ̄テ康-熙五-十-九-年。八-月初-三-日題 ̄シ。本-月初-六-日。奉 ̄シ

㫖 ̄ヲ依_レ ̄ル議 ̄ニ。
 《割書:臣|》葆-光按 ̄スルニ。元-史 ̄ノ志 ̄ニ云。至-元-中以_下䕶_二 ̄シテ海-運_一 ̄ヲ有_中 ̄ルヲ奇-應_上。加_二-
 封 ̄シ天-妃_一 ̄ニ。神-號積 ̄ヲ至_二 ̄ル十-字_一 ̄ニ。廟 ̄ヲ曰_二靈-慈_一 ̄ト。直-沽平-江周-涇-
 泉-福興-化等 ̄ノ處。皆有_レ廟。皇-慶以-來。歲 ̄ニ遣_レ ̄シ使 ̄ヲ賫_レ ̄テ香 ̄ヲ遍 ̄ク
 祭 ̄ル。金-幡一-合。銀-一-錠。付_二 ̄シ平-江-官 ̄ノ漕-司。及本-府 ̄ノ官_一 ̄ニ。用_二
 柔-毛酒-醴_一 ̄ヲ。便-服 ̄ニシテ行_レ ̄フ事 ̄ヲ。祝-文 ̄ニ云。維 ̄レ-年月日。皇-帝特 ̄ニ遣_二 ̄シ
 某 ̄ノ官-等_一 ̄ヲ。致_二 ̄スト祭 ̄ヲ於䕶-國庇-民廣-濟福-惠明-著天-妃_一 ̄ニ。則(サアレハ)
 歲-時之-祭。自_レ元巳 ̄ニ有_レ之矣。前-明嘉-靖-中。冊-使陳-侃
 使 ̄シテ還 ̄リ。乞_三賜_レ ̄テ祭 ̄ヲ以答_二 ̄ンヿヲ神-貺_一 ̄ニ。禮-部議 ̄ス令_三 ̄ント布-政-司 ̄ヲシテ設_二 ̄ケ祭一-
 壇_一 ̄ヲ。報-可 ̄ス。此 ̄レ又特-祭一 ̄タヒ舉-行 ̄スル者也。萬-曆三-年。冊-使蕭-
 崇-業。始 ̄テ請_下秩_二祀 ̄シ海-神_一 ̄ヲ。合_中-舉 ̄センヿヲ祈-報二-祭_上 ̄ヲ。至_レ今 ̄ニ封-舟出 ̄ルニ
 _レ海 ̄ヲ因_レ ̄ル之 ̄ニ。康-熙二-十-二-年。冊-使臣汪-楫還。具_レ ̄シテ疏 ̄ヲ請 ̄フ照_二 ̄シ
 嶽-瀆諸-神_一 ̄ヲ。着(シメント)_三 地-方 ̄ノ官 ̄ヲシテ行_二 ̄ハ春-秋二-祭_一 ̄ヲ。禮-部議 ̄シテ未_二准-行_一 ̄セ。
 今臣-等在_二 ̄テ海-中_一 ̄ニ祈_二 ̄ル神 ̄ノ佑-庇_一 ̄ヲ。竊 ̄ニ-計 ̄ルニ封-號尊-崇巳 ̄ニ極 ̄ル。惟〱
 祀-典有_レ缺 ̄ルヿ。故 ̄ニ專 ̄ラ舉 ̄テ爲_レ詞 ̄ト。神-應昭-格。今果 ̄シテ蒙 ̄リ
_レ恩。特 ̄ニ賜_二 ̄フ允 ̄シ-行_一 ̄フヿヲ。典-禮烜-赫。以答_二 ̄ル神-庥_一 ̄ニ。超_二-越 ̄ス千-古_一 ̄ニ矣。

中山傳信錄卷第一

【裏表紙】

大日本国細図

中山伝信録

北海道諳射訳図

淺野明道撰  北海道譯圗
說田孫三郎撰 琉球諸島譯圗

琉球人来朝記

【製本表紙】
【題箋】
琉球人来朝記 一之二
【管理ラベル「228 3」】

【右丁、表紙見返し、白紙】
【左丁】
【朱角印三つ(内二つは「宝玲文庫」・「小笠原蔵書印」)、朱丸印一つ「消印」】
【本文】
琉球人来朝記巻之一
 琉球人姓名《割書:幷》官職
正使(シヤウシ)《割書:慶賀|紫巾大夫》   具志川(クシカハ)王子(ワウシ)
副使(フクシ)      与那原(ヨナハラ)親方(ヲヤカタ)
賛議官(サンエイクワン)     池城(イケクスク)親雲(バイキン)上
楽正(カクセイ)      平鋪(ヘシキ)親雲(ハイキン)上

儀衛正(キヱセイ)     呉屋(コヤ)親雲上
掌翰史(シヤウカンシ)     津嘉山(ツカサン)親雲上
■(キヨ)【「圍ヵ」左注】師(シ)      真嘉屋(シカヤ)親雲上
使賛(シサン)      金城(カナクスク)親雲上
        渡嘉鋪(トカシキ)親雲上
        座喜味(サキミ)親雲上
        幸地親雲上
楽師(ガクシ)      名嘉地(ナカチ)親雲上
        稲嶺(トウレイ)親雲上
        伊舎堂(イシマトウ)親雲上
        津波(ツハ)親雲上
楽童子(カクトウシ)     知念(チネン)里之子

【右丁】
        奥原(ヲウハン)里之子
        大城(タイクスク)里之子
        徳嶺(トクミネ)里之子
        湊川(ミナトカハ)里之子
        伊江(イヘ)里之子
 上下合九拾八人也
【左丁】
琉球人来朝記
  琉球国の事略
異国の書を按るに。むかし是琉求
と記したり。近代に及て琉球とは
しるせり。一 説(せつ)に流虬としるせしを。写
は琉球としるす。此国 虬(ミツチ)【左注「アマレウ」】の大海の流の

中にわたかまれるゝ如くなれは。流虬とは
云しと云々。按るに流虬の説心得ら
れす。我国の書に見へし処は。む
かし鎮西八郎為朝大海の流に
したかひて求め出されし国なれは流
求としるすといふ此説もあやまれりそれ
より先 倭漢(わかん)の書に。有之流求と
しるしたり。又一説に。新宮といひし
なり。異国の書に。新宮といひならわせ
しは。即ち此国の事也といふ。これも
又心得られす。只なにとなくいにしへより
りうきうといひしを。後に漢字をか

りて。流求とも。琉球とも。しるせしなるへ
し。
此国の事。異朝の諸書に見へし
処は。此国いにしへよりの事は詳か
ならす。隋(ずい)の煬帝(ようだい)の時。朱寛(しゆくはん)と云
ものをして異俗(いそく)を訪求(といもと)められしに。
始て此国にいたるに。詞通せさりし
かは。壱人を捕へてかへる。其後に
舟師(ふないくさ)して再ひ其国に到らし
めて。男女五百人をとりて帰れり。
《割書:是此国の名。異朝の書に|初てみへたるものなり。》其後。唐宋の
世には。中国に通せす。大元の代に

使して招(まね)かれしかとも来らす。大
明(みん)の代に及ひて。大祖の洪武の初
に貢使(こうし)をまいらす。其国三ツに分
れて。中山山南山北の三王あり。
其後 封爵(ほうしやく)請ひしかは。中山山南
の二王に。鍍金(れききん)の銀印を賜りたり。
《割書:鍍金とは金|をやき付る事》此時三王たかひに争ひ
戦ひしかは。天子其中を和らけ給ひ。
山北も印幷に文綺(ふんき)【左注「をりもの」】等を給はる
《割書:中山山南を封せられしは。洪武十五年の事。山北|を封せられしは。同十六年の事也。本朝後円融永徳》
《割書:二年三年。公方鹿苑院|とのゝ時にあたれり》同しき二十五年。中
山王察度。《割書:王の名なり。姓は|向【ママ】とあり》その子姪(してつ)幷に

陪臣の子弟をつかはして国学に
入る。此国むかし隋元等の代に。攻
れとも屈せす。拓けとも到らす。然るに
大明の代。初てみつから来り貢し
て。其国の君臣に弟をして。学に中
国にしたかひしかは。天子其忠順の志
を悦ひ給ふ事大かたならす。《割書:此故に外|国にありて。》
《割書:此国ほと恩寵あつき|はなかりき》閩人のよく舟をのるもの
三十六姓を給わりて。年毎に往来
すへき使とせらる。察度(サツト)か曾孫 巴志(ハシ)其
統を嗣し時より。かの国王代を継てし
時に。かならす中国の天子使を其

につかはして冊封せらるゝ例始れり
《割書:此処闕たり歳代国王何々にとあるなるへし|》
        景泰のはしめに代
を継き程もなく山南山北をうちほろほし
《割書:此処また闕たり| 》   《割書:是より流【ママ】球王を中山|王といふ事なり。景泰は》
《割書:大明第五代。英宗の年号にて。本朝後花園院の|宝徳のころ。公方は東山義政の御時なり。此国より》
《割書:継賈【?】はしめて通うも。此|時なり。後に見ゆる》是より三年に
二度中国に遣貢する例は始れり。
《割書:今も此例の如|くなりといふ》王 思達(シタツ)か六代の孫。王永の代
に当りて。日本関白の《割書:秀吉の御事此時|高麗陣あり》
ために其国みたり。王永は程なく卒し
て。其子王 寧(ネイ)代を継き。万暦(バンレキ)三十一
年。その国に使を給はりて冊封あり。

《割書:万暦は。明の十三代神宗の年号。その三十一年は。|本朝後陽成院。慶長八年。神祖征夷大将軍》
《割書:に任せられ給ふ|としなり》その使還り奏していわく。琉
球かならす倭のためにくたかるへし。日本
の人にはかり利刃をさしはこみて其
市に出入せりと申す。いく程なく。同き
三十七年。王寧薩摩州のために
捕はれ申し。同き四十年。王寧使して
進貢し。帰国の事を申。また日本の
ために市を通せん事を望請ふ。《割書:万暦|三十》
《割書:七年は。本朝慶長十四年なり。此年五月|島津彼国王をとりこにして来り。国にとゝむ》
《割書:る事三年にして。これをかへす。慶長十七年|本朝のために。楽市の事を大明福建の》
《割書:軍門に申せし|ことありき。》

右異朝の諸書に見へし処なり。
これより後の事記せしものは考へす。
此国の事。本朝の書に見へし処。これ
も古への事詳かならす。五十五代文
徳天皇。仁寿三年。僧円珍《割書:智証大|師》
唐国に赴く時。北風にて流【*】されて流求
に到りしといふ事。元亨釈書に見
へたり。是本朝にして彼国の名きこ
へし初にや。其後きこゆる事なくして。
東山の公方義政の頃。享徳三年
七月。琉球の使きたれり。《割書:これ則彼国|にて山南北》
《割書:を併せし。中山王思達か時なり。此時公方より|も書を贈(をく)られて。其礼にこたへられき。其書は》

【*、影印は「流」のサンズイ省画「㐬」に見える】

《割書:仮名字を用ひて。琉球|国の世のぬしとしるされたり。》是より後。其国の
人つねに来りて。兵庫の湊にてあき
もの等したり。太閤秀吉の代になりて。
使まいらせて。天下の事知り給ふこと
を賀し。程なく朝鮮の事起りて。
太閤もうせ給ひ。《割書:太閤へ使をまいらせし|は応永のころなるや》
当家のはしめ。島津のためにみた
れて。遂に其属国の如くになり
たるなり。
右本朝諸記に見へし処なり。
世には。彼国は鎮西八郎為朝
の末世になり【左注「此三字なりの二字か」】。されは今と其国に為朝

の遺跡とも多しといふ也。東山殿の【*】
頃より。彼国には我国の仮名字
を用ひしと見へ。また其国の人とも。
我国の和歌をよくするもの少(すくな)からす。
《割書:琉球人の。和歌いくらも見へたり。|此らよめるものともあり。》山川等の名
も。人の名にも。みな〳〵我が国の言葉
なるも多し。誠に我国の神々をま
つれるゆへ。故蹟いくらも世に聞へ
たり。されは彼国の始祖は。我国の
人たる事は一定なり。但し為朝の
後と申は。如何あるへき。都(すべ)て彼国
の事とも審りならぬこと多し。

【*「殿の・頃」の下に不可解な修正あり】

【右丁】
琉球の渡海。日本より春秋両度。
琉球よりは。六七月の内一度。船にて
渡海いたすよし。
【左丁】
 琉球人来朝記巻之二
  十二月十五日琉球人御礼之次第
 琉球国中山王
 御代替に付使者具志川王子差
 渡候に付而登 城
一具志川御玄関階之上に到時

 大目付河野豊前守能勢因幡守
 出迎案内而殿《割書:此下闕か|》
 従者同所次之間列坐下官之族
 は御玄関前庭上に群居
 松平薩摩守登 城殿上之間
 下段坐上に着坐
一出仕之面々直垂狩衣大紋布衣
 素袍着之
一中山王書翰箱大目付河野豊前
 守能勢因幡守受取之
  具志川御礼之次第
一大広間 出御《割書:御直垂|》

   御先立
   御太刀
   御刀
 御上段《割書:御厚畳三畳重以唐織包之|四方角大総付褥御刀懸》
一御簾懸之
一御後坐に御側衆御太刀之役
 御刀之役伺候
一御下段西之方上ゟ三畳目通りより
 松平肥後守井伊備中守年寄共
 順に着坐
一西之御縁頬に若年寄伺候
一西之縁之方に畳敷之高家雁

 之間詰之四品以上列居
一南板縁次に諸大夫之雁之間詰同嫡
 子御奏者番同嫡子菊之間縁
 頬詰同嫡子番頭芙蓉之間御役
 人列候
一二之間北之方二本目三本目之柱之
 間  御襖障子際東之方に四品
 以上之御譜代大名列候
一二之間諸大夫之御譜代大名同
 嫡子三之間に布衣以上之御役人
 法印法眼之医師列居
一薩摩守御次御襖之外際相向着

 坐
一具志川殿上之間より大広間大目付
 河野豊前守能勢因幡守案内に而
 二之間諸大夫之御譜代大名前西え向
 着坐
          松平薩摩守
 右出坐御下段御敷居之内に而
 御目見御奏者番披露之御中
 段迄被 召出之今度琉球之使者
 遠路召連太義被 思召之段
 上意有之年寄共御取合申上之
 御次え退坐申時右近将監 召之

 具志川御前え可差出之旨被 仰出
 之於御次 御諚之趣薩摩守に
 右近将監達之
  但具志川御礼之内薩摩守御
  襖外に控罷在
一中山王ゟ所献之品々 出御已前ゟ
 南之板縁東西より御目通り順々
 差置
  具志川自分之進物も同事並
  置《割書:但 |》献上之御馬諏訪部文右
  衛門支配之御馬乗弐人庭上え
  牽出之文右衛門差添

一献上之御太刀目録御奏者番持
 出御中段下より弐畳目置中山
 王被披露具志川出席御下段下ゟ
 四畳目に而奉九拝而退去御太刀
 目録御奏者番引之
一右近将監召之具志川儀遠境相
 越太儀に被 思召旨被 仰出之於
 御次 御諚之趣薩摩守え右近
 将監伝之則具志川え薩摩守
 達之御請申上之其趣右近将監え
 薩摩守述之
一具志川重而出席自分之御礼

 於板縁奉三拝御奏者番披露
 退坐河野豊前守能勢因幡守
 案内に而殿上之間同列下段着坐
 薩摩守も殿上之間退去
      松平薩摩守家来
          島津兵庫
          鎌田典膳
 右於板縁奉拝 台顔御太刀目
 録御奏者番披露之退去畢而御
 間之御襖障子開之御敷居際
 立御御普【ママ】代大名其外一同御目見
 相済畢而 入御
【嶋は常用漢字で翻刻】

一年寄共殿上之間え相越向具志川
 会釈有之節退坐其後大目付
 差図に而具志川退出大目付河野
 豊前守能勢因幡守御玄関階
 上迄送先達而従者順々退出
  但年寄共之送りは無之
一御小姓組御書院番ゟ出 入(人か)五拾人
 御書院番所々勤仕
一大御番ゟ出入百人大広間四之間に
 勤仕

【裏表紙】
【ラベル「Ryu 090 Ryu v,1 Pts1-2」】

沖縄県地誌畧

 【伊藤篤太郎記 印】

沖縄県地誌畧 全

沖縄師範学校編纂
《題:沖縄県地誌略》
《割書:明治十八年|四月 出版》  沖縄県蔵版

沖縄県地誌畧
   附言
沖縄県ノ学事ニ於ケルヤ去ル十三年学制ニ拠
リ学区ヲ分チ那覇ニ師範校首里ニ中学校各問
切各離島ニ小学校ヲ置キシヨリ未タ数年ナラ
スシテ普通教育全管ニ洽ク啓智発蒙ノ具備ハ
レリト謂ツヘシ唯本県地誌ニ至リテハ小学ノ
用書ニ充チ幼童ノ誦読ニ給スヘキ善本ナシ将
ニ其書フ編成セントスルニ際シ嘗テ師範校ニ
於テ起草シタル稿本アリ因テ修正委員ヲ撰ミ

務メテ事実ヲ取リ虚飾ヲ去リ更ニ校訂再三遂
ニ活版ニ附シ吾県下ノ学童ヲシテ本国ノ形勢
ヲ略知セシメント云爾

 明治十七年仲秋

      沖縄県令従五位西村捨三識

          【西村捨三 印】【□ 印】

   例言
一本編中那覇ヲ距ル凡ソ幾里トアルハ里程元
 標ヨリ各役所若クハ各番所ニ距ルノ里程ニ
 シテ之ヲ町数ニ止メ戸数人口モ亦大概ヲ舉
 クルヲ以テ十位ン止ム其末数ハ皆之ヲ略ス
一此書ハ小学生徒ノ為ニ編成シタル書ナレハ
 力メテ簡単ノ熟字ヲ使用シ読ミ且解シ易カ
 ラシム又地名ノ類ニハ字傍ニ雙線ヲ施シ官
 衙社寺及ヒ邸第姓名等ニハ単線ヲ施シテ以
 テ読者ニ便ニス

【右ページは空白】


沖縄県地誌畧
           沖縄師範学校編纂
    総論
沖縄ハ西海道薩摩ノ南海中ニ散在セル島国ナ
リ北緯二十四度十分ヨリ二十七度五十分ニ至
リ経度ハ西経十一度十分ニ起リテ十六度五十
二分ニ止ル東ハ太平洋ニ而シ西ハ清国ノ福建
泉州ト遙々海水ヲ隔テ北ハ【鹿+兒】島県大島諸島ト
地脈相連レリ西南ハ台湾島ニ密邇ス戸数七万
五千五百七十余ニシテ人口三十六万三千八百
三拾余アリ

全国ハ三大島及ヒ許多ノ島嶼ヲ以テ国ヲ立ツ
北ニ在ル一大島ヲ沖縄島ト云ヒ其近海ニ散在
セル慶良間久米伊平屋伊江渡名喜粟国鳥島津
堅久高等ノ諸島ヲ以テ之ニ附シ南ニ在ル宮古
八重山二大島ヲ両先島ト云フ其近海ニ並列セ
ル伊良部来間多良間大神池間水納武富波照間
鳩間西表小濱黒島新城与那国等ノ諸島ヲ以テ
之ニ属ス而シテ与那国島ハ西表島ノ西南凡五
十里許ニアリ台湾ヲ距ルコト甚タ遠カラス中
ニ就キ沖縄島最モ大ナリ因テ本島トナシ其名


ヲ以テ諸島ノ総称トス
山脈ハ国頭ノ極北辺月西銘ノ二山ニ起リテ蟠
結シ延テ中頭ニ移リ蜿蜒起伏シテ島尻ニ馳セ
慶良間久米宮古ニ済リ八重山ニ赴キ再ヒ崛起
シテ西南ニ盡ク
山ノ高峻ナル者国頭ニ嘉津宇岳恩納岳アリ中
頭ニ茅ヶ岳アリ八重山ニ於茂登岳古見岳アリ
是其大ナルモノ其他到ル処山峯甚夕多シ
川流ハ土地狭小ナルカ故ニ長大ナラス但国頭
ノ安波川大川中頭ノ天願川ヲ稍長流トス其余

ハ皆小川ナリ
気候ハ熱帯地方ニ接近セルヲ以テ四時暖燠ニ
シテ盛夏炎威殊ニ酷シ華氏ノ寒温儀五十度乃
至九十六七度ノ間ニ昇降ス隆冬卜雖トモ霜雪
ヲ見ス草木恒ニ青葱タリ
物産ハ飛白蕉布紬細上布砂糖蕃藷糖焼酎席藍
蘇鉄烏木漆器鼈甲豚最モ著名ニシテ穀物煙草
陶器牛馬魚介菓物等ナリ
    本島
本島ハ周回凡一百十余里東北ヨリ斜メニ西南


ニ至ル綿亘凡四十里広袤或ハ一二里或ハ八九
里斉シカラス地形恰モ虬龍ノ海上ニ泛フカ如
シ之ヲ大別シテ国頭中頭島尻ノ三地方トス一
ニ国頭ヲ北山ト云ヒ中頭ヲ中山ト云ヒ島尻ヲ
南山ト云フ更ニ又小别シテ首里那覇ノ二邑及
ヒ三十五間切トス東北隅ヲ辺戸岬卜云ヒ西南
隅ヲ喜屋武岬ト云フ東ニ伸出セルヲ勝連知念
ノ二岬卜シ西ニ斗出セルヲザンパ岬トス
    中頭
中頭ハ本島ノ中央ニ位シ東北ハ国頭ニ連リ西

南ハ島尻ニ界シ南北二方ハ海ニ枕ム山脈東北
ヨリ西南ニ亘リ奇峯峻嶺ナク平坦ノ地多クシ
テ且地味ノ肥沃ナル本島第一タリ之ヲ分チテ
首里那覇ノ二邑浦添西原宜野湾中城勝連与那
城具志川美里越来北谷読谷山ノ十一間切トス
那覇ハ中頭ノ西南端ニアリ東ハ真和志間切ヲ
夾ヨテ首里ニ対シ南ハ港湾ヲ隔テヽ豊見城小
禄二間切ニ対シ西南二方ハ海ニ枕ム地勢平坦
ナリ分チテ西村東村久米村泉崎村若狭町村泊
村ノ六箇村トス戸数五千九百五十余ニシテ人


口貳万四千三百十余アリ
市街ハ海ニ臨ム一帯ノ地方半里トス県庁アリ
裁判掛アリ警察本署アリ那覇役所アリ師範学
校アリ医院アリ家屋櫛比士民商賈相錯リテ之
ニ居ル実ニ国中第一都会ノ地ナリ東村ニ市場
アリ日々数千ノ人相集リテ日用ノ物品ヲ売買
ス熱(子ツ)閙(タウ)殊ニ甚タシ
那覇港ハ本国第一ノ埔頭ニシテ商舶常ニ雲集
ス而シテ港口暗礁多ク港内底浅キヲ以テ大船
ハ港外ニ碇泊ス港ノ東南ハ湾益大ニシテ底益

          浅シ潮水至レハ舟楫ヲ
          通シ潮水退ケハ平沙ト
          ナル唯中ニ一帯ノ細流
          ヲ留ムルノミ又湾内大
          小二島アリ大ナルモノ
          ヲ奥(オウ)武(ノ)山ト云ヒ小ナル
          モノヲ鵞(ガーナー)森(モリ)ト云フ潮満
          ニ際シ潮水 漫(マン)々(〱)湖山ノ
          風致アルヲ以テ詞人呼
          ンテ漫(マン)湖(コ)ト云フ


渡地ハ島尻往来ノ渡頭タリ古ヨリ小舟ヲ以テ
人ヲ渡セシカ明治十六年一大橋ヲ架シ往来ニ
便ス名ケテ明治橋ト云フ長サ凡六十問国中第
一ノ長橋ナリ橋東奧武山ノ西端湾ニ臨ミ御物
城址アリ昔時外国ト貿易セシ貨物ヲ蔵メシ所
ナリ今其址ニ一館ヲ新設シテ博物場トス
三重城ハ那覇港口ノ北二突出セル古塁ナリ海
上ニ胸壁ヲ築キ壁間砲門箭眼アリ南小禄間切
ヤラサ鼻ノ古塁卜港口ヲ夾ンテ相対ス此古塁
ニ登レハ眼界快豁水天万里際涯ナシ唯西南煙

波中ニ慶良間諸島ヲ見ルノミ
波ノ上ハ若狭町村ノ海浜ニアリ断崖数十仭詞
人呼ンテ筍崖ト云フ其形ノ似タルヲ以テナリ
崖上平坦ニシテ細草毛茸青氈ヲ布クカ如シ祠
堂アリ三神ヲ祀ル繞ラスニ石垣ヲ以テス此崖
ニ登レハ西ハ慶良間諸島ヲ控ヘ北ハ読谷山ザ
ンパ岬ヲ望ミ東南ニ中頭島尻ノ連山綿亘シ眺
望絶佳古ヨリ勝地ヲ以テ名アリ
泊港ハ那覇ノ東北隅ニアリ港内狭ク水浅シト
雖トモ亦小舶数十艘ヲ繋クヘシ泊村ニ巨刹ア


リ崇元寺ト云フ尚氏ノ香華所ナリ
潟原ハ曬塩場ニシテ南北二百四十間東西八十
間西北隅一帯ハ海ニ瀕ス士民常ニ相集リテ乗
馬ノ技ヲ演スル所トス
物産ハ飛白塩漆器錫細工蘇鉄豚等ナリ
首里ハ那覇ヨリ東ニ距ル一里十一町置県前ノ
都城タリ広袤一里ニ充タス東北ハ浦添西原二
間切ニ錯リ西南ハ真和志間切ニ界シ東南隅ハ
南風原間切ニ斜接ス之ヲ分チテ真和志中等南
風平等西平等ノ三平等トス更ニ又小別シテ真

和志町端山川寒水川金城大中桃原当蔵鳥小堀
赤田崎山儀保赤平汀志良次久場川ノ十五村ト
ス戸数四千九百五十余ニシテ人口二万四千四
百余アリ地勢山谷ニ拠リ高低一ナラス人家ハ
率子山腹ニ鱗次シ繞ラスニ石垣ヲ以テス道路
四達シ那覇ニ亜キテ繁華ノ地タリ
城ハ山ヲ鏟シテ之ヲ築キ蠣石ヲ畳ミテ外郭ト
ナス周囲九町正殿ハ中央ノ高所ニアリ殿閣二
層南北八楹十一門アリ其位西ニ向フ城内清泉
アリ瑞泉ト云フ当今熊本鎮台沖縄分遣隊ノ営


          所タリ
          町端(マチバタ)村ニ市場アリ商業
          稍盛ナリ
          市場ノ東ニ池アリ龍潭
          卜云フ周回凡三町 弁(ベ)財(ザイ)
          天(テン)池(チ)ト相連レリ潭ニ傍
          フテ首里役所警察署中
          学校中城邸等アリ池畔
          古松雜樹 鬱(ウツ)葱(ソウ)タリ池水
          ニ倒(タウ)蘸(セウ)ス尤賞月ノ勝地

タリ
弁財天池ハ一ニ円(エン)鑑(カン)池(チ)ト云フ中央ニ小祠アリ
弁財天女ヲ祀ル其東ニ円(エン)覚(カク)寺アリ尚氏ノ香華
所タリ尚(シヨウ)円(エン)王以下藩主歴代ノ霊牌ヲ安置セリ
矩(キ)模(ボ)宏(コウ)大(ダイ)本国第一ノ巨利ナリ天界寺天王寺ノ
二刹子ヲ合テ三大寺ト称ス
万(バン)歳(ザイ)嶺(レイ)ハ中山門外ニアリ松樹 暢(テウ)茂(モウ)風景尤モ佳
ナリ中ニ祠堂アリ千手観音ヲ祀ル
崎(サキ)山(ヤマ)村ニ尚氏ノ別荘アリ即チ首里城ノ巽位ナ
リ邸内花卉ヲ雑植ス景致頗ル深(シン)邃(スイ)ナリ


物産ハ焼酎銀細工鼈甲細工織物豚等ナリ
浦添間切ハ十四箇村アリ東南ハ西原間切及ヒ
首里ニ交リ西ハ海ニ臨ミ北ハ宜野湾間切ニ連
ル那覇ヲ距ル凡二里二町ナリ西岸ニ牧湊アリ
ト雖トモ底浅クシテ泊舟ニ便ナラス往昔鎮西
八郎源為朝帰帆ヲ揚ケシ所ト云フ
勢理客川ハ前田村ノ山間ヨリ発シ西流シテ小
湾村ニ至リ海ニ入ル
仲間村ニ極楽山アリ其巓ニ古城址アリ往昔浦
添按司ノ拠リシ処ト云フ山中寺院アリ龍福寺

ト称ス尚氏ノ香華所ナリ
物産ハ米砂糖蕃藷西瓜蔬菜等ナリ
西原間切ハ十八箇村アリ東南ハ島尻ノ知念岬
ト相対シテ海湾ヲ抱キ西ハ浦添間切及ヒ首里
ニ界シ北ハ宜野湾中城二間切ニ連ル那覇ヲ距
ル凡二里二十九町ナリ
嘉手苅村ニ瓦屋アリ内間御殿ト云フ昔時尚円
王内間ノ地頭タリシ【ト+キ】ト云ト居セシ処ト云フ
弁ノ岳ハ南境ニ峙立シ首里及ヒ南風原間切ニ
跨ル其巓ニ尚氏ノ行香所アリ士民進香スル者


絡繹トシテ絶ヘス
末吉川ハ伊志嶺久場川両村界ヨリ発源シ末吉
村ヲ経テ安謝港ニ至リ海ニ入ル
末吉村ノ岡上ニ末吉神社アリ眼界快闊西ハ慶
良間ノ諸島ヲ望ミ南ハ首里城ヲ控ヘ那覇ノ各
村近ク眼下ニアリ眺望頗ル佳ナリ
物産ハ浦添間切ニ同シ
宜野湾間切ハ十四箇村アリ東ハ中城間切ニ界
シ西ハ海ニ瀕シ南ハ浦添西原二間切ニ交リ北
ハ中城間切ノ一角ヲ承ケテ北谷間切ニ連ル地

味肥沃ニシテ物産ノ多キコト中頭地方ノ第一
タリ中頭役所ハ宜野湾村ニアリ那覇ヲ距ル凡
三里七町ナリ
普天間村ニ洞穴アリ闊サ凡五六間深サ凡七八
間洞中二祠堂アリ普天間宮ト云フ香華ノ者纚
纚相属ス洞梁ハ石乳滴下凝結シテ柱状ヲ成セ
リ幾百千ナルヲ其知ラス短キモノハ恰モ氷柱
ヲ懸ルカ如シ実ニ南島中ノ一奇観ナリ
物産ハ米大豆砂糖蕃藷藍煙草等ナリ
中原間切ハ二十三箇村アリ東ハ海ニ瀕シ西ハ


北谷間切ノ一隅ヲ承ケテ宜野湾間切ニ交リ南
ハ西原間切ニ界シ北ハ美里越来二間切ニ接ス
地味ノ肥沃ナルコト中頭地方ノ第二等タリ那
覇ヲ距ル凡四里二十二町ナリ
中城城址ハ本間切ノ中央山上ニ在リ尚氏ノ忠
臣護佐丸建築セシト云フ城壁今尚存ス此地東
ハ海ニ望ミ西又遥ニ大洋ヲ控ヘ眼界開豁朝暮
日月ノ波際ヨリ出没スルヲ観ルヘシ実ニ絶景
ノ地タリ
物産ハ米麦砂糖蕃藷煙草等ナリ

勝連間切ハ七箇村アリ中頭地方ノ小間切ナリ
東ハ与那城間切ニ連リ西ハ海湾ヲ隔テヽ中城
間切ニ対シ北ハ具志川美里二間切ニ錯リ西南
ハ海中ニ斗出シ其岬角遥ニ島尻ノ知念岬ニ対
ス那覇ヲ距ル凡九里ナリ
南風原村ニ古城址アリ勝連城ト云フ昔時勝連
按司阿摩和利不軌ヲ謀リシ所ニシテ尤モ要害
ノ地タリ破壁今尚存ス津堅島ハ岬角ノ前ニ横
ハリテ知念間切ノ久高島ト相並ヘリ周回凡五
里其北ニ浜比嘉島アリ与那城間切ノ平安座高


離島ト相対ス其距ルコト一里ニ過キス
物産ハ砂糖雑穀蕃藷藺席等ナリ
与那城間切ハ九箇村アリ勝連間切ト共ニ海中
ニ斗出シタル半島ナリ東南ハ海ニ面シ西ハ勝
連間切ニ連リ北ハ金武間切ノ七日浜ニ対シテ
具志川間切ニ接ス那覇ヲ距ル凡九里十八町ナ

高離伊計平安座ノ三島ハ本間切ニ属ス
物産ハ砂糖雑穀蕃藷海魚等ナリ
具志川間切ハ十五箇村アリ東ハ与那城間切ニ

隣リ南ハ海ニ瀕シ西北ハ美里及ヒ金武二間切
ニ界ス那覇ヲ距ル凡八里二十町ナリ
天願川ハ源ヲ美里間切山城村ヨリ発シ曲折東
流シテ宇堅村ニ至リ海ニ注ク長サ凡二里二十
七町闊サ凡四五間ヨリ七八間ニ至ル本島第一
ノ大川ナリト云フ
物産ハ砂糖穀類等ナリ
美里間切ハ十九箇村アリ西南ハ越来中城二間
切ニ界シ東ハ具志川間切ニ交リ北ハ金武恩納
二間切ニ連リ東南隅ハ海ニ瀕シテ泡瀬島ヲ控


ヘ遥ニ津堅島ニ対ス那覇ヲ距ル凡六里二十五
町ナリ
泡瀬島ハ製塩ノ業は甚タ盛ナリ
物産ハ砂糖穀類塩木炭等ナリ
越来間切ハ十箇村アリ南ハ中城間切ニ界シ西
ハ北谷間切ニ接シ東北二方ハ美里間切ニ連ル
那覇ヲ距ル凡六里二十二町別ニ地ノ説クヘキ
モノナシ
物産ハ砂糖穀類蕃藷蜜柑楊梅木炭等ナリ
北谷間切ハ十二箇村アリ東南ヨリ西北ニ亘リ

北ハ読谷山間切ニ交リ東ハ越来中城二間切ニ
界シ西ハ海ニ面シ南ハ宜野湾間切ニ隣ル地味
磽确ニシテ山林少ナシ那覇ヲ距ル凡四里九町
ナリ
漏池ハモルキ山ノ麓ニアリ長サ百五十間闊サ
七八十間深サ十数尋アリ本島第一ノ大池タリ
野国川ハ源ヲウクマカヒ山ヨリ発シ西流シテ
野国村ノ海ニ入ル
物産ハ米砂糖蕃藷苧麻薪炭等ナリ
読谷山間切ハ十六箇村アリ東南ハ恩納美里越


来三間切ニ連リ西北二面ハ海水ヲ受ケ西南隅
ハ北谷間切ニ接ス地勢東南ヨリ西北ニ亘リ海
中ニ突出ス其岬角ハ即チザンパ岬ナリ山林少
ナク又水田ニ乏シ然レトモ砂糖ノ多キコト中
頭地方ノ第一タリ那覇ヲ距ル凡七里余ナリ
比謝川ハ源ヲ越来間切ノ山中ニ発シ具志川間
切ニ流レ再ヒ越来間切ニ環ヘリ北谷間切ノ漏
池ニ入ル
座喜味村ニ古城址アリ座喜味城ト云フ城壁今
尚依然タリ

楚辺村ニ洞穴アリ闊サ凡十間中ニ湧泉アリ方
二間許ニシテ深サ五六丈是ヲ楚辺ノ暗川ト云
フ本村二百六十余家ノ飲料水タリ
物産ハ砂糖麦大豆蕃藷薪炭等ナリ
    国頭
国頭ハ本島ノ北方ニ位シ南ハ中頭ニ界シ東北
西三面ハ海ニ臨ム到処山ナラサルハナシ只僅
ニ海浜平地アルノミ之ヲ分チテ恩納名護本部
今帰仁羽地大宜味国頭久志金武ノ九間切トス
恩納間切ハ十二箇村アリ海ニ沿ヒタル狭長ノ


地ニシテ東ハ金武間切ト山脊ヲ分チテ西ニ位
ス西北二方ハ海ニ瀕シ南ハ読谷山間切ニ交ル
那覇ヲ距ル凡十一里二十町ナリ
恩納岳ハ東境ニアリ其高サ始ント嘉津宇岳ニ
頡頏ス其脈延テ北ニ走リ久志辺野古ノ諸山ニ
連レリ
海浜ハ岬湾出入シテ恩納岬中央ニ突出シヒル
恩納安冨祖ノ諸港アリト雖トモ皆口浅クシテ
泊舟ニ便ナラス
万座毛ハ海ニ臨メル高原ナリ名護本部二間切

ノ諸山ヲ眺メ風景ニ富メリ昔時国王巡視シテ
此処ニ至リ万人ヲ座セシムへシト云ヒシヲ以
テ乃チ此名アリト云フ
安冨祖村ノ山中ニ瀑布アリイン滝ト云フ高サ
一丈ニ過キスシテ闊サ一丈五尺アリ其水流レ
テ前袋川トナル
物産ハ米麦大豆蕃藷薪海魚等ナリ
名護間切ハ十三箇村アリ南東北ハ恩納金武羽
地今帰仁本部五間切ト山脊ヲ分チ西ハ海ニ面
ス地形弓状ニシテ自ラ港湾ヲ成セリ地味稍肥


沃ニシテ水田多シ那覇ヲ距ル凡十七里二十四
町ナリ
名護岳ハ東南ニアリ羽地間切ノタニヨ岳ト相
対峙ス其南ニ石岳アリ
湖平底ハ許田村ニアリ泊舟ニ便ナル良港ナリ
数久田村ニ瀑布アリ轟原滝ト云フ高サ三丈闊
サ五六尺ナリ四面深林欝蒼夏時猶寒キヲ覚フ
川流数派アリト雖トモ皆細小ニシテ独リ屋部
川ヲ稍大ナリトス源ヲ北方ノ山間ヨリ発シ南
ニ流レ屋部村ニ至リテ海ニ入ル

大兼久村八国頭地方最モ繁盛ノ地ニシテ国頭
役所及ヒ診察所等アリ又東江村ニ名護警察署
アリ
物産ハ米麦蕃藷薪海魚等ナリ
本部間切ハ十八箇村アリ海中ニ突出セル半島
ナリ西北ハ海水ヲ繞ラシ伊恵島ト相対シ東南
ハ山林ヲ分チテ今帰仁羽地名護三間切ニ界ス
那覇ヲ距ル凡二十一里十八町ナリ
東南名護間切ニ界八重岳具志川岳アリ皆高峻
ナリ其上ニ聳ヘタルヲ嘉津宇岳トス本島第一


ノ高山ナリ
渡(ト)久(グ)地(チ)川ハ源ヲ大(オホ)嵐(アラシ)山ヨリ発シ西流シ渡久地
港ニ注ク
渡久地村ニ同名ノ港湾アリ那覇国頭往来ノ船
必ス此湾ニ入リ風定ルヲ待テ帆ヲ掲ク湾ノ西
北ニ大小二島アリ大ナル者ヲ瀬(セ)底(ソコ)島ト云ヒ小
ナル者ヲ水(ミン)無(ナ)島ト云フ皆本間切二属ス
物産ハ米麦砂糖藍木材薪等ナリ
今(ナ)帰(キ)仁(ジン)間切ハ二十一箇村アリ西南ハ山林ヲ以
テ羽地名護本部三間切ニ界シ東北二面ハ海ニ

枕ム那覇チ距ル凡二十
二里十町ナリ
オッパ岳ハ 玉(タマ)城(グスク)村ノ南
名護本部二間切界ニア
リ樹木 攅(サン)鬱(ウツ)セリ
大井川ハ本部間切 伊(イ)豆(ヅ)
味(ミ)村ノ山中ヨリ発源シ
曲折北流シテ炬(テー)湊ニ落

仲(ナ)宗(ゾ)根(子)村ニ海湾アリ炬


湊ト云フ底浅ク浪高キヲ以テ大船ハ繋クヘカ
ラス
運天港ハ本間切ノ東北隅運天村ニアリ大船数
十艘ヲ泊スヘシ天然ノ良港ナリ永万中源為朝
運ヲ天ニ任セ漂着セシ所港ノ名ヲ得ル所以ナ

古宇利島ハ運天港ヨリ二十町許ノ海中ニ在リ
周回凡一里二十六町ナリ
運天港上ニ百按司墓山アリ山腹許多ノ髑髏ア
リ之ヲ百按司墓ト云フ山ノ名ヲ取ル所以ナリ

親泊村ニ城墟アリ山北王ノ割拠セシ所ナリ破
壁今尚存セリ内ニ受剣石アリ王滅亡ノ時慷慨
剣ヲ振フテ撃チシモノト云フ
物産ハ砂糖米麦蕃藷海魚蕉布等ニシテ蕉布ハ
殊ニ著名ナリ
羽地間切ハ十九箇村アリ東南西三面ハ山脊ヲ
分チテ久志名護本部今帰仁四間切ニ界シ西北
隅ハ海湾ヲ抱ケリ土地肥沃田野能ク開ケ水田
ノ多キコト国頭地方ノ第一タリ那覇ヲ距ル凡
十九里十町ナリ


タニヨ岳ハ東南隅ニ峙立シ大川ハ源ヲ久志羽
地二間切界ノ山中ヨリ発シ曲折北流シテ吳我
村ニ至リ海ニ注ク長サ凡二里余ナリ
勘定納港ハ屋我地島ニ渡ルノ渡頭タリ
物産ハ米麦藍木材等ナリ
大宜味間切ハ十六箇村アリ南東北三方ハ羽地
久志国頭三間切ト山岳ヲ分チ西一帯ハ海ニ枕
ム到ル処山峯多ク平地少ナシ那覇ノ距ル凡二
十二里二十六町ナリ
塩谷ハ宮城島ニ対シテ大港ヲナス満潮ノ時ハ

深サ七丈ニ至ルト雖トモ港口浅クシテ大船ヲ
容ルヽコト能ハス
宮城島ハ周廻凡二十町許ノ小島ナリ根路銘饒
波根謝銘ノ諸川ハ東南ノ山中ヨリ発源シ皆西
流シテ海ニ入ル
物産ハ蕃藷穀類薪等ナリ
国頭間切ハ十六箇村アリ南ハ山林ヲ以テ大宜
味久志二間切ニ牙錯シ東北西三面ハ海ヲ環ラ
シ本島ノ東北隅ニ突出セル半島ニシテ最大ノ
間切ナリ到ル処層巒重嶺耕地ニ乏シ海浜僅ニ


水田アリ那覇ヲ距ル凡二十五里三十四町ナリ
間効内数所ニ嶮坂アリ与那ノ高坂ト云ヒ辺野
喜坂ト云ヒ座中城ト云ヒ武見坂ト云ヒ大川坂
ト云フ中ニ就キ座中坂險峻ニシテ著名ナリ
辺戸岳西銘岳ハ極北ノ地ニ並立シ其脈垂レテ
岬角ヲナス辺戸岬是ナリ其西ニ茅打万端ト云
フ險処アリ断嵒屹立高サ数十仭海風恒ニ強烈
ナリ故ニ項上ヨリ茅ヲ束子テ投下スレハ必ス
中間ニシテ解散ス因テ此名アリ
安波川ハ国頭地方第一ノ巨流ニシテ上流ヲ大

川ト云フ源ヲ福地又山ヨリ発シ数十ノ渓水ヲ
並セ東流シテ安波村ニ至リ海ニ入ル長サ二里
七町十二間アリ
ヤカヒ川ハ大宜味間切屋嘉比村ノ渓間ヨリ発
源シ浜村ニ至リ海ニ注ク
石橋川ハ源ヲアナマタ山ヨリ発シ大謝川ハオ
ホクビリ山ニ発源シ共ニ奧間村ノ鏡池湊ニ落

鏡池湊ハ本間切第一ノ良港ナリ
物産ハ蕃藷木材等ナリ


久志間切ハ十九箇村アリ東ハ海ニ面シ南ハ金
武間切ニ界シ西北ハ連山一以テ名護羽地大宜
味国頭四間切ニ斜接ス地勢南北ニ伸ヒテ東西
ニ縮マル那覇ヲ距ル凡十八里二十三町ナリ
久志岳辺野古岳ハ大宜味名護羽地三間切界ニ
聳ヘマテラ山ハ金武間切界ニ聳フ皆高峻ナリ
海浜ハ岬湾出入シ南ニ辺野古岬アリ北ニ安部
ノ岬角アリ其間一大湾ヲナス是ヲ大浦湊トス
湾口底浅クシテ船舶ノ出入ニ便ナラス其他湾
港多シト雖トモ皆狭小ニシテ舟ヲ繋クニ宜シ

カラス
物産ハ雑穀藩藷木材薪等ナリ
金武間切ハ八箇村アリ東八海ニ瀕シ西南ハ名
護恩納及ヒ中頭ノ美里三間切ニ連リ北ハ山峯
ヲ以テ久志間切ニ界ス地勢東西ニ長ク南北甚
タ狭シ耕地少キモ地味膏腴ナリ那覇ヲ距ル凡
十二里二十九町ナリ
海浜ハ岬湾出入シ中央ニ金武岬アリ遠ク海中
ニ斗出ス宜野座湊漢那湊等アリト雖トモ底浅
ク石多キヲ以テ碇泊ニ便ナラス


金武村ニ洞穴アリ長サ一町余昼間モ炬火ヲ照
サヽレハ入ヲ得ス
七日浜ハ南方ノ海浜ニアリ砂磧深クシテ踝骨
ヲ没シ歩行捗取ラス因テ此名アリ古知屋潟原
ハ久志間切ノ境ニアリ潮水退ケハ平沙トナル
西北ニ久志間切ノ諸山ヲ望ミ東南ハ与那城間
切伊計高離平安座ノ三島ニ対ス風景尤モ佳ナリ
    島尻
島尻ハ本島ノ西南ニ位シ東南西三面ハ海水ヲ
環ラシ北ハ中頭ニ連ル高山峻嶺ナク地勢慢坡

平坦ニシテ地味ノ膏腴ナル本島ノ第二等タリ
之ヲ分チテ真和志小禄豊見城南風原大里佐敷
知念玉城東風中高嶺具志頭摩文仁真壁喜屋武
兼城ノ十五間切トス
真和志間切ハ十二箇村アリ東北ハ南風原間切
及ヒ首里浦添間切ニ連リ西南ハ豊見城間切及
ヒ那覇ニ矩接ス地形弓状ヲナシ地味最モ肥饒
ナリ那霸ヲ距ル凡一里四町ナリ
古波蔵村ニ熊本鎮台分遣隊ノ旧兵営アリ又農
事試験場アリテ和漢洋ノ蔬菜類ヲ培養セリ


国場川ハ南風原問切日以来以豊見城間切真玉
橋ヲ過キ那覇港ニ入ル安里川モ亦南風原間切
ヨリ発源シ西北ニ曲流シテ泊湊ニ落ツ
識名村ニ尚氏ノ別荘アリ邸内松樹雑木欝葱タ
リ園中ニ大池ヲ穿チテ蓮ヲ植ユ池ノ中央ニ石
橋ヲ架シ周囲ニ花木芳草ヲ雑栽シ池畔ノ岩穴
ヨリ清泉噴出ス景致頗ル幽邃ナリ
物産ハ米麦大豆砂糖蕃藷煙草等ナリ
小禄間切ハ十五箇村アリ東南ハ豊見城間切ニ
連リ西ハ海ニ瀕シ北ハ湾ヲ隔テヽ那覇ニ対ス

地味ノ肥沃ナルコト島尻地方ノ第一タリ那覇
ヲ距ル凡二十六町ナリ
ヤラサ鼻ハ那覇港ノ南ニ斗出セル古壘ナリ海
上ニ胸壁ヲ築キ壁間箭眼アリ三重城ト港口ヲ
隔テヽ相対ス登臨尤モ佳ナリ
本間切ハ機織ノ業盛ニシテ上国ヘ輸送ノ飛白
ハ大半此地ノ産ト云フ
物産ハ飛白木綿縞米麦大豆砂糖蔬菜魚類等ナ

豊見城間切ハ二十一箇村アリ東南ハ兼城東風


平南風原三間切ニ連リ西ハ海ニ面シテ小禄間
切ニ斜接シ北ハ那覇湾ニ瀕シテ真和志間切ニ
錯ハル那覇ヲ距ル凡一里三十町ナリ
饒波川ハ大里間切ヨリ来リ西流シテ那覇湾ニ
注ク
物産ハ米麦豆砂糖蕃藷蔬菜等ナリ
南風原間切ハ十箇村アリ東南ハ大里東風平二
間切ニ連リ西北ハ豊見城真和志二間切及ヒ首
里ニ斜接シ東北隅ハ中頭西原間切ニ界ス那覇
ヲ距ル凡一里三十一町ナリ

国場川ハ源ヲ宮城村ニ発シ安里川ハ弁ノ岳ヨ
リ発源シ共ニ西流シテ真和志間切ニ入ル
物産ハ雑穀砂糖蕃藷木綿等ナリ
大里間切ハ二十箇村アリ西南ハ佐敷玉城具志
頭束風平四間切ニ連リ北ハ南風原間切ニ界シ
東ハ海湾ニ臨ミ東北隅ハ中頭西原間切ニ接ス
那覇ヲ距ル凡二里十九町ナリ
与那原港ハ五六百石ハ船ヲ容ルヽト雖トモ港
内暗礁多ク底浅キヲ以テ若シ風波起ル【ト+キ】ハ䌫
ヲ解キテ佐敷間切ノ津波古湾ニ避ク


物産ハ米雑穀砂糖蕃藷綿花等ナリ
佐敷間切ハ九箇村アリ西北ハ大里間切ニ接シ
東南ハ知念玉城二間切ニ連リ正北間切ノ中央
ニ海水突入ス湾岸鹵田アリ地形環状ヲ成セリ
旧城ハ佐敷村ニアリ一ニ上城ト云フ雑樹密生
セリ三山ヲ滅ホシテ本国ヲ一統シタル尚巴志
王佐敷按司タリシ【ト+キ】ノ城址ナリ那覇ヲ距ル凡
三里二十八町ナリ
物産ハ米麦砂糖蕃藷煙草塩等ナリ
知念間切ハ十二箇村アリ東南ハ海水ヲ繞ラシ

西北ハ佐敷玉城二間切ニ連ル西南ヨリ斜メニ
東北ニ伸出セル半島ナリ其伸出シタル岬角遥
ニ勝連岬ト相対ス前面ニ久高島アリ周回凡二
里二十町本間切ニ属ス那覇ヲ距ル凡五里三十
町ナリ
物産ハ米雑穀砂糖蕃藷海魚等ナリ
玉城間切ハ十四箇村アリ東南ハ知念間切ニ連
リテ海ニ枕ミ西北ハ具志頭大里佐敷三間切ニ
牙錯セリ那覇ヲ距ル凡五里三十町ナリ
物産ハ知念間切ニ同シ


東風平間切ハ十一箇村アリ島尻ノ中央ニ位ス
東南ハ大里具志頭真壁三間切ニ連リ西北ハ高
嶺兼城豊見城南風原四間切ト犬牙相接ス東風
平村ニ島尻役所アリ那覇ヲ距ル凡四里六町ナ

本間切ハ地勢平坦ニシテ地味稍肥沃ナリ東南
隅ニ八重瀬岳アリ島尻中第一ノ高山ナリ
物産ハ米麦豆砂糖蕃藷等ナリ
高嶺間切ハ五箇村アリ東ハ東風平間切ニ錯リ
西ハ海ニ面シ南ハ真壁間切ニ連リ北ハ兼城間

切ニ接ス地勢東西ニ長ク南北ニ狭シ那覇ヲ距
ル凡三里三十三町ナリ
大里村ニ城墟アリ南山城ト云フ昔時南山王ノ
割拠セシ所ナリ破壁今尚存セリ
与座村ニ湧川アリ与座川卜云フ島尻第一ノ清
泉タリ
物産ハ東風平間切ニ同シ
其志頭間切ハ七箇村アリ東ハ大里玉城二間切
ニ連リ西北ハ摩文仁真壁東風平三間切ニ斜接
シ南一帯八海ニ瀕ス那覇ヲ距ル凡五里十八町


ナリ
物産ハ米雑穀砂糖蕃藷海魚等ナリ
摩文仁間切ハ六箇村アリ東南ハ具志頭間切ニ
連リテ海ニ臨ミ西北ハ喜屋武真壁二間切ニ矩
接ス地勢狭小ニシテ地味瘠薄ナリ那覇ヲ距ル
凡五里八町ナリ
物産ハ東風平間切ニ同シ
真壁間切ハ九箇村アリ東ハ具志頭東風平二間
切ニ界シ西ハ海ニ面シ南ハ喜屋武摩文仁二間
切ニ連リ北ハ高嶺間切ニ変ル那覇フ距ル凡四

里二十六町ナリ
物産ハ東風平間切同シ
喜屋武間切ハ五箇村アリ東北ハ摩文仁真壁二
間切ニ連リ西南ハ海水ヲ繞ラシ喜屋武岬海中
ニ突出ス即チ本島ノ南端タリ那覇ヲ距ル凡六
里五町ナリ
物産ハ雑穀砂糖蕃藷等ナリ
兼城間切ハ九箇村アリ東ハ東風平間切ニ接シ
西ハ海ニ瀕シ南ハ高嶺間切ニ隣リ北ハ豊見城
間切ニ界ス那覇ヲ距ル凡三里九町ナリ


糸満村ハ報得川ノ南海濱ニアリテ狭隘ノ地ニ
九百余ノ人家アリ村人漁業ヲ以テ生計ヲ営ム
モノ多シ故ニ捕魚ノ盛ナルコト此地ヲ以テ本
国第一トス
物産ハ米麦豆砂糖蕃藷魚介等ナリ
    属島
伊江島ハ本部間切ノ西北凡ニ里許ノ海上ニア
リ周回凡四里余中央ニ一座ノ石山屹立ス伊江
城ト云フ恰モ盆石ノ状ヲナス地勢高平ニシテ
全島川流ナキヲ以テ水田ナシ然レトモ地味肥

沃ニシテ最良ノ砂糖ヲ産ス戸数九百六十余ニ
シテ人口四千四百三十余アリ那覇ヲ距ル凡二
十三里ナリ
物産ハ砂糖蕃藷藷酒雑穀魚介等ナリ
伊平屋島ハ今帰仁間切ヨリ西北ニ距ル凡十里
許ノ海中ニ在リ山林多クシテ平野少ナシ伊平
屋伊是名野甫具志川屋ナハノ五島ニ分ル戸数
七百十余ニシテ人口四千九百二十余アリ那覇
ヲ距ル凡三十里ナリ
伊平屋島ハ周回凡四里二十六町アリ一ニ葉壁


山ト云フ尚氏ノ祖尚円王ハ此島ヨリ起リシト
云フ
伊是名島ハ伊平屋ヲ距ル一里余ニシテ周回凡
二里十八町伊是名村ニ城墟アリ伊是名城ト云
フ神山ハ勢理客村ニアリ樹木櫕欝スト雖トモ
土人山神ノ崇ヲ畏レ伐採セスト云フ
伊是名ト伊平屋ノ中間ハ海底ノ凸凹殊ニ甚タ
シ故ニ怒濤逆流シテ渡船極メテ危険ナリ
野甫具志川屋ナハ等ハ皆小島ニシテ周回一里
ニ過キス

物産ハ雑穀魚介薪炭等ナリ
島島ハ那覇ヨリ北ニ距ル凡八十里許ニアリ周
回凡一里余噴火山二シテ硫黄ヲ産ス故ニ島民
採硫シテ生計ヲ営ム者多シ戸数七十余ニシテ
人口五百五十余アリ
慶良間島ハ一ニ馬歯山ト云フ那覇ノ西七里ヨ
リ起レル群島ニシテ渡嘉敷座間味阿嘉ヤカヒ
コバ安室モカラクケルマ等ノ諸島アリ之ヲ前
後ノ両部ニ分チ渡嘉敷座間味ノ二間切トス戸
数三百九十余ニシテ人口千六百七十余アリ


渡嘉敷島最モ大ニシテ周回凡三里其他ハ大ナ
ルモノ一里條小ナルモノ数町ニ過キス各島到
ル処山林アリ樹木欝葱タリ地味磽确ニシテ耕
耘ニ適セス
座間味島ニ阿護ノ浦アリ天然ノ良港ニシテ巨
舶数艘ヲ泊スヘシ故ニ暴風起レハ那覇港ノ船
舶皆此浦ニ避ク
物産ハ魚介海松鹿薪等ナリ
渡名喜島ハ慶良間島ノ西ニアリ周回凡一里余
戸数百六十余ニシテ人口七百六十余アリ那覇

ヲ距ル凡二十六里ナリ
島民ハ皆農ヲ業トス然レトモ島中岡巒重畳平
地少ナキヲ以テ物産ナシ
粟国島ハ渡名喜島ノ西北七八里許ニアリ周回
凡二里余戸数六百六十余ニシテ人口四千八十
余アリ
島中山林ナク地勢平坦ナリ颶颱ノ虞殊ニ甚シ
故ニ家屋ノ結搆卑低ヲ極ムト云フ
物産ハ真綿桑椹煎汁雑穀等ナリ
久米島ハ那覇ノ西虎四十八里許ニアリ周回六


里二十町分チテ仲里具志川二間切トス戸数千
二百十余ニシテ人口四千八百六十余アリ
仲里間切真謝村ハ久米島役所ノ在ル所ナリ又
診察所ノ設ケアリ眞謝村ニ同名ノ湊アリ然レ
トモ暗礁多クシテ泊舟ニ便ナラス
兼城湊ハ具志川間切ニアリ船舶ヲ繋クニ宜シ
中央ニ宇江城大岳中森等ノ諸山アリ又南端ニ
島尻山アリ樹木繁茂ス然レ【ト+モ】平地多クシテ土
壌ノ肥沃ナルコト離島中第一ト云フ
川流ハ具志川間切嘉手苅川ヲ第一トス源ヲ仲

里間切ノ西山ニ發シ西流シテ兼城湊ニ入ル長
サ凡ニ里大田川儀間川ハ之ニ亜テノ長流ナリ
阿嘉村ニ二瀑布アリ一ヲクヒリハンタト云ヒ
一ヲヒゲ水ト云フ皆断崖ニ懸ル高サ各四丈余
常ニ海風ニ激セラレ空際ニ飛騰スルコト十数
丈遠ク望メハ雲烟ノ如シ頗ル奇観ヲ極メタリ
物産ハ紬藺席最モ著名ニシテ木材名護蘭海綿
穀類魚介等ナリ
    両先島
先島ハ那覇港ヨリ西南ニ距ル凡九十里許ノ海


上ヨリ起リ西南ハ台湾島ヲ距ルコト遠カラス
島嶼凡二十之ヲ分チテ宮古八重山ノ二大島ト

宮古島ハ周回凡十一里余分チテ砂川下地平良
ノ三間切トス戸数五千六百三十余シ二テ人口
二万六千六百九十余アリ那覇ヲ距ル凡九十四
五里ナリ
砂川間切西里村ハ宮古島役所ノ在ル所ニシテ
又診察所ノ設ケアリ
本島ハ地勢三稜形ヲナシ西北ノ端海中ニ斗出

シ南北両岐二分ル南ヲ西平安名岬ト云ヒ北ヲ
世月岬ト云フ其他岬角甚タ多シ沿海ハ沙線若
クハ岩石ニシテ泊舟スへキ所ナシ只漲水湊ア
ルノミ
島中ハ田圃原野ノミニシテ山林ナシ家屋建築
材ノ如キハ那覇又ハ八重山ニ仰クト云フ
東北ニ方リテ東西凡五里南北凡一里二十町許
潮水常ニ東方ニ激流ス八重干瀬ト呼ヒテ甚タ
危険ノ処タリ
伊良部島ハ漲水湊ヨリ西ニ距ル凡一里許ニ在


リ周回凡四里二十町其西南二多良間水納ノ二
島アリ池間島大神島ハ東北ニ散在シ来間島ハ
西南ニアリ共大ナルモノ、周回凡三四里小ナ
ルモノハ一里ニ過キス
物産ハ穀類紺細上布飛白牛馬魚介等ニシテ紺
細上布飛白ハ殊ニ著名ナリ
八重山島ハ宮古島ヨリ西南ニ距ル凡六十里許
ニアル群島ナリ分チテ宮良石垣大濱ノ三間切
トス地味肥沃ニシテ気候暖燠ナリ然レトモ人
煙稀踈ニシテ草莽ニ属スル所甚タ多シ故ニ所

在皆牛馬ヲ牧ス若シ開墾其法ヲ得ハ遺利ヲ興
ス亦大ナルヘシ
八重山島役所ハ石垣島大濱間切登野城村ニア
リ又診察所ノ設ケアリ戸数二千二百三十余ニ
シテ人口一万千九百八十余アリ那覇ヲ距ル凡
一百五十七里ナリ
石垣島ハ諸島中最モ大ニシテ周回凡十六里十
七町アリ中央ニ於茂登岳屹立ス山中良材多シ
其脈垂レテ北ニ亘リ平久保岬ニ至リテ盡ク
川平港ハ西北岸ニアリ大船ヲ泊スヘシ其他港


湾甚タ多シト雖トモ皆繋舟ニ便ナラス
蒸汽船ハ大濱間切ト武富島ノ間ニ碇泊ス
武富黒島新城小濱等ノ諸島ハ石垣島ノ西南ニ
散布ス大ナルモノハ周回三里余小ナルモノハ
一里ニ過キス
西表島ハ石垣島ヨリ西ニ距ル凡四里十八町周
回凡十五里中央ニ古見岳屹立シ樹木櫕欝セリ
東岸ニ古見湊アリ北岸ニ鬚川村湊アリ皆小舟
ヲ繋クヘシ南方ニ波照間島アリ周回三里余ナ 

物産ハ穀類自細上布白地飛白牛馬木材魚介等
ニシテ白細上布ハ殊ニ著名ナリ
与那国島ハ西表ノ西南凡四十八里許ニアリ即
チ台湾島ヲ距ルコト違カラス周回凡五里島中
山林少ク平野多クシテ且膏腴ナリ戸数三百二
十余ニシテ人口千七百八十余アリ女反テ男子
ヨリ多ク風俗質朴敦厚ニシテ一島一家ノ如シ
ト云フ
物産ハ米雑穀木綿藺席等ナリ
沖縄県地誌畧畢

地名読例

慶(ケ)良(ラ)間(マ)  久(ク)米(メ)  伊(イ)平(ヘ)屋(ヤ)  伊(イ)江(エ)
渡(ト)名(ナ)喜(キ)  粟(ア)国(グニ)  鳥(トリ)島(シマ)   津(ツ)堅(ケン)
久(ク)高(ダカ)   宮(ミヤ)古(コ)  八(ヤ)重(ヘ)山(ヤマ)  伊(イ)良(ラ)部(ブ)
来(クル)間(マ)   多(タ)良(ラ)間(マ) 大(オ)神(カミ)   池(イケ)間(マ)
水(ミン)納(ナ)   武(タケ)富(トン)  波(ハ)照(テル)間(マ)  鳩(ハト)間(マ)
西(イリ)表(オモテ)   小(オ)濱(ハマ)  黒(クロ)島(シマ)   新(アラ)城(グスク)
与(ヨ)那(ナ)国(グニ)  国(クン)頭(ヂヤン)  嘉(カ)津(ツ)宇(ウ)  恩(オン)納(ナ)
中(ナカ)頭(ガミ)   弁(ベン)ヶ岳 於(オ)茂(モ)登(ト)  古(コ)見(ミ)

安(ア)波(ハ)川  大(オホ)川《割書:以上|総論》  島(シマ)尻(ジリ)   辺(ヘ)戸(ト)岬
喜(キ)屋(ヤ)武(ン)岬 勝(カツ)連(レン)    知(チ)念(ネン)《割書:以上|本島》   西(ニシ)原(バラ)
宜(ギ)野(ノ)湾(ワン)   中(ナカ)城(グスク)   与(ヨ)那(ナ)城(グスク)  具(グ)志(シ)川(チヤア)
美(ミ)里(サト)   越(ゴエ)来(ク)    北(チヤ)谷(タン)    読(ヨン)谷(タン)山(ザ)《割書:以上|中頭》
真(マ)和(ワ)志(シ)  豊(ト)見(ミ)城(グスク)   小(ヲ)禄(ロク)   奥(オ)武(ウノ)山
鵞(ガアナー)森(モリ)  渡(ワタン)地(チ)    御(ミ)物(モノ)城(グスク)  泊(トマリ)港
潟(カタ)原(バル)《割書:以上|那覇》  南風(フエー)原(バラ)  真(マ)和(ワ)志(シノ)平(ヒ)等(ラ)南風(フエーノ)平(ヒ)等(ラ)
西(ニシノ)平(ヒ)等(ラ) 町(マチ)瑞(バタ)    山(ヤマ)川(ガワ)   寒(ス)水(ン)川(ガワ)
金(カナ)城(グスク)   大(オホ)中(チユン)   桃(タウ)原(バル)   当蔵(トウノクラ)
鳥(トン)小(ジ)堀(モリ)  赤(アカ)田(タ)   崎(サキ)山(ヤマ)   儀(ギ)保(ボ)

赤(アカ)平(ヒラ)    汀(テ)志(シ)良(ラ)次(ズ)  久(ク)場(バ)川(ガワ)  龍(リウ)潭(タン)
弁(□□)財(サイ)天(テン)池(チ)  円(エン)鑑(クワン)池(チ)   万(マン)歳(サイ)嶺(レイ)《割書:以上|首里》 浦(ウラ)添(ソエ)
牧(マキ)湊(ミナト)   勢(ジ)理(ツ)客(チヤク)川 小(コ)湾(ワン)《割書:以上浦|添間切》  嘉(カ)手(デ)苅(カル)
末(スエ)吉(ヨシ)川  安(ア)謝(ジヤ)湊《割書:以上西|原間切》普(フ)天(テン)間(マ)《割書:宜野湾|間 切》比(ヒ)嘉(ジヤ)
平(ヘ)安(アン)座(ザ)  高(タカ)離(バナシ)   金(キン)武(ム)   七(ナヌ)日(カ)浜(バマ)《割書:以上勝|連間切》
山(ヤマ)城(グスク)   宇(ウ)堅(ケン)《割書:以上具志|川間切》泡(アハ)瀬(セ)《割書:美里|間切》  漏(モリ)池(チ)
野(ヌ)国(グン)川《割書:以上北|谷間切》座(サ)喜(キ)味(ミ)  楚(ソ)辺(ベ)《割書:以上読谷|山 間 切》恩(オン)納(ナ)
名(ナ)護(ゴ)   本(モト)部(ブ)   今(ナ)帰(キ)仁(ジン)  羽(ハ子)地(ヂ)
大(オホ)宜(ギ)味(ミ)  國(クン)頭(ヂヤン)   久(ク)志(シ)   辺(ヘ)野(ノ)古(コ)
安(ア)富(フ)祖(ソ)  万(マン)座(ザ)毛(モウ)《割書:以上|国頭》  湖(ク)平(ヘン)底(ゾコ)  許(チユ)田(ダ)

数(シユ)久(ク)田(ダ)  轟原(トドロキ)滝  屋(ヤ)部(ブ)川  大(オホ)兼(ガ子)久(ク)
伊(イ)恵(エ)   八(ヤ)重(ヘ)岳(ダケ)  渡(ト)久(ク)地(チ)川 大(オホ)嵐(アラシ)山
瀬(セ)底(ソコ)   水(ミン)無(ナ)《割書:以上名|護間切》 玉(タマ)城(グスク)   大(オホ)井(ヰ)川
伊(イ)豆(ズ)味(ミ)  炬(テー)湊(ミナト)   仲(ナカ)曾(ゾ)根(子)  運(ウン)天(テン)港
古(コ)宇(ウ)利(リ)島 親(オヤ)泊(トマリ)《割書:以上今帰|仁間切》大(オホ)川(カワ)   吳(グ)我(ガ)
勘(カン)定(テ)納(ナ)《割書:以上羽|地間切》鹽(シホ)谷(ヤ)   宮(ミヤ)城(グスク)   根(子)路(ロ)銘(メ)
饒(ニヨ)波(ハ)   根(子)謝(ジヤ)銘(メ)《割書:以上大宜|味間切》     与(ヨ)那(ナノ)高(ダカ)坂(ヒラ)
辺(ヒ)野(ヌ)喜(チ)坂(ヒラ) 座(ザ)中(チユン)坂(ヒラ)  武(フ)見(ミ)坂(ヒラ)  大(オホ)川(カー)坂(ヒラ)
茅(カヤ)打(ウチ)万(バン)端(タン) 福(フク)知(チ)又(マタ)山 大(オホ)謝(ジャ)川  鏡(カガミ)地(ヂ)湊《割書:以上国|頭間切》
宜(ギ)野(ノ)座(ザ)湊 漢(カン)那(ナ)湊《割書:以上金|武間切》大(オホ)里(ザト)   佐(サ)敷(ジキ)


東風(コチン)平(ダ)   高(タカ)嶺(ミ子)   具(グ)志(シ)頭(チヤン)  摩(マ)文(ア)仁(イ)
真(マ)壁(カベ)   兼(カ子)城(グスク)《割書:以上|島尻》 古(コ)波(ハ)蔵(グワ)  国(コク)場(バ)川
真玉(マタン)橋(バシ)  識(シキ)名(ナ)《割書:以上真和|志間切》饒(ニヨウ)波(ハ)川《割書:豊見城|間切》与(ヨ)那(ナ)原(バル)港
津(ツ)波(ハノ)古(コ)湾(ワン)《割書:以上大|里間切》    上(ウヘ)城(グスク)《割書:佐敷|間切》 八(ヤ)重(ヘ)瀬(ズ)《割書:東風平|間切》
南(ナン)山(サン)城(グスク)《割書:高嶺|間切》糸(イト)満(マン)   報得(ムクイ)川《割書:以上兼|城間切》伊(イ)江(エ)城(グスク)
伊(イ)是(ゼ)名(ナ)  野(ノ)甫(ホ)    馬(バ)歯(シ)山   渡(ト)嘉(カ)敷(シキ)
座(ザ)間(マ)味(ミ)  阿(ア)嘉(カ)    安(ア)室(ムロ)    阿(ア)護(ゴノ)浦(ウラ)
仲(ナカ)里(ザト)   真(マ)謝(ジヤ)    宇(ウ)江(エ)城(グスク) 大(オホ)岳(ダケ)
中(ナカ)森(モリ)   嘉(カ)手(テ)苅(カル)川 太(オホ)田(タ)川 儀(ギ)間(マ)川
台(タイ)湾(ワン)   砂川(ウルカ)   下(シモ)地(ヂ)   平(ヒラ)良(ラ)

西(ニシ)里(ザト)   平(ヘ)安(アン)名(ナ)岬 世(セ)戸(ト)岬  漲(ハリ)水(ミズ)湊
宮(ミヤ)良(ラ)   石(イシ)垣(ガキ)   大(オ)濱(ハマ)   平(ヒラ)久(ク)保(ボ)岬
川(カ)平(ヒラ)港  鬚(ヒゲ)川(カワ)港

【左下端にRyu 290 Oki c.2のシールが貼られている。】

沖縄県地誌畧

沖繩縣地誌畧 全

沖繩師範學校編纂
沖繩縣地誌略
《割書:明治十八年|四月 出版》 沖繩縣藏版

沖繩縣地誌畧
   附言
沖繩縣ノ學事ニ於ケルヤ。去ル十三年。學制ニ據
リ學區ヲ分チ。那覇ニ師範校。首里ニ中學校。各間
切各離島ニ小學校ヲ置キシヨリ。未タ數年ナラ
スシテ。普通敎育全管ニ洽ク。啓智發蒙ノ具備ハ
レリト謂ツヘシ。唯本縣地誌ニ至リテハ。小學ノ
用書ニ充チ。幼童ノ誦讀ニ給スヘキ善本ナシ。將
ニ其書ヲ編成セントスルニ際シ。嘗テ師範校ニ
於テ起草シタル稿本アリ。因テ修正委員ヲ撰ミ。

務メテ事實ヲ取リ。虛飾ヲ去リ。更ニ校訂再三。遂
ニ活版ニ附シ。吾縣下ノ學童ヲシテ。本國ノ形勢
ヲ畧知セシメント云爾。

 明治十七年仲秋

      沖繩縣令從五位西村捨三識

   例言
一本編中那覇ヲ距ル、凡ソ幾里トアルハ。里程元
 標ヨリ各役所、若クハ各番所ニ距ルノ里程ニ
 シテ。之ヲ町數ニ止メ。戸數人口モ。亦大槪ヲ擧
 クルヲ以テ十位ニ止ム。其末數ハ皆之ヲ畧ス。
一此書ハ。小學生徒ノ爲ニ。編成シタル書ナレハ。
 力メテ簡單ノ熟字ヲ使用シ。讀ミ且解シ易カ
 ラシム。又地名ノ類ニハ。字傍ニ雙線ヲ施シ。官
 衙社寺及ヒ邸第姓名等ニハ。單線ヲ施シテ。以
 テ讀者二便ニス。 

沖繩縣地誌畧
             沖繩師範學校編纂
    總論
沖繩ハ西海道薩摩ノ南、海中ニ散在セル島國ナ
リ。北緯二十四度十分ヨリ。二十七度五十分ニ至
リ。經度ハ西經十一度十分ニ起リテ。十六度五十
二分ニ止ル。東ハ太平洋ニ面シ。西ハ淸國ノ福建
泉州ト、遙々海水ヲ隔テ。北ハ麑島縣大島諸島ト、
地脉相連レリ。西南ハ台灣島ニ密邇ス。戸數七萬
五千五百七十餘ニシテ。人口三十六萬三千八百
三拾餘アリ。

全國ハ三大島、及ヒ許多ノ島嶼ヲ以テ國ヲ立ツ。
北ニ在ル一大島ヲ沖繩島ト云ヒ。其近海ニ散在
セル慶良間久米伊平屋伊江渡名喜粟國鳥島津
堅久高等ノ諸島ヲ以テ之ニ附シ。南ニ在ル宮古
八重山二大島ヲ兩先島ト云フ。其近海ニ並列セ
ル伊良部來間多良間大神池間水納武富波照間
鳩間西表小濱黑島新城與那國等ノ諸島ヲ以テ
之ニ属ス。而シテ與那國島ハ。西表島ノ西南、凡五
十里許ニアリ。台灣ヲ距ルコト甚タ遠カラス。中
ニ就キ。沖繩島最モ大ナリ。因テ本島トナシ。其名
ヲ以テ諸島ノ總稱トス。
山脉ハ國頭ノ極北邊戸西銘ノ二山ニ起リテ蟠
結シ。延テ中頭ニ移リ。蜿蜒起伏シテ。島尻ニ馳セ。
慶良間久米宮古ニ濟リ。八重山ニ赴キ。再ヒ崛起
シテ西南ニ盡ク。
山ノ高峻ナル者。國頭ニ嘉津宇岳恩納岳アリ。中
頭ニ辨ケ岳アリ。八重山ニ於茂登岳古見岳アリ。
是其大ナルモノ。其他到ル處山峯甚タ多シ。
川流ハ土地狹小ナルカ故ニ長大ナラス。但國頭
ノ安波川大川。中頭ノ天願川ヲ稍長流トス。其餘

ハ皆小川ナリ。
氣候ハ熱帯地方ニ接近セルヲ以テ。四時暖燠ニ
シテ。盛夏炎威殊ニ酷シ。華氏ノ寒溫儀。五十度乃
至九十六七度ノ間ニ昇降ス。隆冬ト雖トモ。霜雪
ヲ見ス。草木恒ニ靑葱タリ。
物產ハ飛白、蕉布、紬、細上布、砂糖、蕃藷、燒酎、藺席、藍、
蘇鉄、烏木、漆器、鼈甲、豚最モ著名ニシテ。穀物、煙草、
陶器、牛馬、魚介、菓物等ナリ。
    本島
本島ハ周回凡一百十餘里。東北ヨリ斜メニ西南
ニ至ル。綿亘凡四十里。廣袤或ハ一二里。或ハ八九
里齊シカラス。地形恰モ虬龍ノ海上ニ泛フカ如
シ。之ヲ大別シテ國頭中頭島尻ノ三地方トス。一
ニ國頭ヲ北山ト云ヒ。中頭ヲ中山ト云ヒ。島尻ヲ
南山ト云フ。更ニ又小別シテ首里那覇ノ二邑、及
ヒ三十五間切トス。東北隅ヲ邊戸岬ト云ヒ。西南
隅ヲ喜屋武岬ト云フ。東ニ伸出セルヲ勝連知念
ノ二岬トシ。西ニ斗出セルヲザンパ岬トス。
    中頭
中頭ハ本島ノ中央ニ位シ。東北ハ國頭ニ連リ。西

南ハ島尻ニ界シ。南北二方ハ海ニ枕ム。山脉東北
ヨリ西南ニ亘リ。奇峯峻嶺ナク。平坦ノ地多クシ
テ。且地味ノ肥沃ナル。本島第一タリ。之ヲ分チテ
首里那覇ノ二邑浦添西原冝野灣中城勝連與那
城具志川美里越來北谷讀谷山ノ十一間切トス。
那覇ハ中頭ノ西南端ニアリ。東ハ。眞和志間切ヲ
夾ミテ、首里ニ對シ。南ハ港灣ヲ隔テヽ、豐見城小
祿二間切ニ對シ。西南二方ハ海ニ枕ム。地勢平坦
ナリ。分チテ西村東村久米村泉崎村若狹町村泊
村ノ六箇村トス。戸數五千九百五十餘ニシテ。人
口貳萬四千三百十餘アリ。
市街ハ海ニ臨ム一帶ノ地方半里トス。縣廳アリ
裁判掛アリ警察本署アリ那覇役所アリ師範學
校アリ醫院アリ。家屋櫛比。士民商賈相錯リテ之
ニ居ル。實ニ國中第一都會ノ地ナリ。東村ニ市塲
アリ。日々數千ノ人相集リテ。日用ノ物品ヲ賣買
ス。/𤍠(ネツ)閙(タウ)殊ニ甚タシ。
那覇港ハ本國第一ノ埔頭ニシテ。商舶常ニ雲集
ス。而シテ港口暗礁多ク。港内底淺キヲ以テ。大船
ハ港外ニ碇泊ス。港ノ東南ハ灣益大ニシテ、底益

【右頁の上半分は図】那覇港

淺シ。潮水至レハ舟楫ヲ
通シ。潮水退ケハ平沙ト
ナル。唯中ニ一帶ノ細流
ヲ留ムルノミ。又灣内大
小二島アリ。大ナルモノ
ヲ奧武(オフノ)山ト云ヒ。小ナル
モノヲ鵝森(ガーナーモリ)ト云フ。潮滿
ニ際シ。潮水 漫々(マン〳〵)。湖山ノ
風致アルヲ以テ。詞人呼
ンテ漫湖(マンコ)ト云フ。
渡地ハ島尻往來ノ渡頭タリ。古ヨリ小舟ヲ以テ
人ヲ渡セシガ。明治十六年。一大橋ヲ架シ往來ニ
便ス。名ケテ明治橋ト云フ。長サ凡六十間。國中第
一ノ長橋ナリ。橋東奧武山ノ西端。灣ニ臨ミ御物
城址アリ。昔時外國ト貿易セシ貨物ヲ藏メシ所
ナリ。今其址ニ一館ヲ新設シテ。博物塲トス。
三重城ハ那覇港口ノ北ニ、突出セル古壘ナリ。海
上ニ胷壁ヲ築キ。壁間砲門箭眼アリ。南小祿間切
ヤラサ鼻ノ古壘ト。港口ヲ夾ンテ相對ス。此古壘
ニ登レハ。眼界快豁。水天萬里際涯ナシ。唯西南煙

波中ニ慶良間諸島ヲ見ルノミ。
波ノ上ハ若狹町村ノ海濱ニアリ。斷崖數十仭詞
人呼ンテ筍崖ト云フ。其形ノ似タルヲ以テナリ。
崖上平坦ニシテ。細草、毛茸、靑氈ヲ布クカ如シ。祠
堂アリ三神ヲ祀ル。繞ラスニ石垣ヲ以テス。此崖
ニ登レハ。西ハ慶良間諸島ヲ控ヘ。北ハ讀谷山ザ
ンパ岬ヲ望ミ。東南ニ中頭島尻ノ連山綿亘シ。眺
望絕佳。古ヨリ勝地ヲ以テ名アリ。
泊港ハ那覇ノ東北隅ニアリ。港内狹ク水淺シト
雖トモ。亦小舶數十艘ヲ繫クヘシ。泊村ニ巨刹ア
リ。崇元寺ト云フ。尚氏ノ香華所ナリ。
㵼原ハ曬鹽塲ニシテ。南北二百四十間。東西八十
間。西北隅一帶ハ海ニ瀕ス。士民常ニ相集リテ。乘
馬ノ技ヲ演スル所トス。
物產ハ飛白、鹽、漆器、錫細工、蘇鉄、豚等ナリ。
首里ハ那覇ヨリ東ニ距ル、一里十一町。置縣前ノ
都城タリ。廣袤一里ニ充タス。東北ハ浦添西原二
間切ニ錯リ。西南ハ眞和志間切ニ界シ。東南隅ハ
南風原間切ニ斜接ス。之ヲ分チテ眞和志平等南
風平等西平等ノ三平等トス。更ニ又小別シテ眞

和志町端山川寒水川金城大中桃原當藏鳥小堀
赤田崎山儀保赤平汀志良次久塲川ノ十五村ト
ス。戸數四千九百五十餘ニシテ。人口二萬四千四
百餘アリ。地勢山谷ニ據リ。高低一ナラス。人家ハ
率ネ山腹ニ鱗次シ。繞ラスニ石垣ヲ以テス。道路
四達シ。那覇ニ亞キテ繁華ノ地タリ。
城ハ山ヲ鏟シテ之ヲ築キ。蠣石ヲ疊ミテ外郭ト
ナス。周圍九町。正殿ハ中央ノ高所ニアリ。殿閣二
層。南北八楹。十一門アリ。其位西ニ向フ。城内淸泉
アリ。瑞泉ト云フ。當今熊本鎭臺沖繩分遣隊ノ營
所タリ
町端(マチバタ)村ニ市塲アリ。商業
稍盛ナリ。
市塲ノ東ニ池アリ。龍潭(リウタン)
ト云フ周回凡三町/辨財(ベザイ)
天池(テンチ)ト相連レリ。潭二傍
フテ首里役所警察署中
學校中城邸等アリ。池畔
古松雜樹/鬱葱(ウツソウ)タリ。池水
ニ倒蘸(タウセウ)ス。尤賞月ノ勝地

【左頁の上半分は図】首里城

タリ。
辨財天池ハ一ニ圓鑑池(エンカンチ)ト云フ。中央ニ小祠アリ。
辨財天女ヲ祀ル。其東ニ圓覺(エンカク)寺アリ。尚氏ノ香華
所タリ。尚圓(シヨウエン)王以下藩主歷代ノ靈牌ヲ安置セリ。
矩模(キボ)宏大(コウダイ)。本國第一ノ巨刹ナリ。天界寺天王寺ノ
二刹ヲ合テ三大寺ト稱ス。
萬歲嶺(マンザイレイ)ハ中山門外ニアリ。松樹/暢茂(テウモウ)。風景尤モ佳
ナリ。中ニ祠堂アリ。千手觀音ヲ祀ル。
崎山(サキヤマ)村ニ尚氏ノ別莊アリ。即チ首里城ノ巽位ナ
リ。邸内花卉ヲ雜植ス。景致頗ル深邃(シンスイ)ナリ。
物產ハ燒酎、銀細工、鼈甲細工、織物、豚等ナリ
浦添間切ハ十四箇村アリ。東南ハ西原間切、及ヒ
首里ニ交リ。西ハ海ニ臨ミ。北ハ冝野灣間切ニ連
ル。那覇ヲ距ル凡二里二町ナリ。西岸ニ牧湊アリ
ト雖トモ。底淺クシテ泊舟ニ便ナラス。往昔鎭西
八郎源爲朝、歸帆ヲ揚ケシ所ト云フ。
勢理客川ハ前田村ノ山間ヨリ發シ。西流シテ小
灣村ニ至リ海ニ入ル。
仲間村ニ極樂山アリ。其巓ニ古城址アリ。往昔浦
添按司ノ據リシ處ト云フ。山中寺院アリ。龍福寺

ト穪ス。尚氏ノ香華所ナリ。
物產ハ米、砂糖、蕃藷、西瓜、蔬菜等ナリ。
西原間切ハ十八箇村アリ。東南ハ島尻ノ知念岬
ト、相對シテ海灣ヲ抱キ。西ハ浦添間切、及ヒ首里
ニ界シ。北ハ冝野灣中城二間切ニ連ル。那覇ヲ距
ル凡二里二十九町ナリ。
嘉手苅村ニ瓦屋アリ。内間御殿ト云フ。昔時尚圓
王、内間ノ地頭タリシトキ。卜居セシ處ト云フ。
辨ノ岳ハ南境ニ峙立シ。首里及ヒ南風原間切ニ
跨ル。其巓ニ尚氏ノ行香所アリ。士民進香スル者。
絡繹トシテ絕ヘス。
末吉川ハ伊志嶺久塲川兩村界ヨリ發源シ。末吉
村ヲ經テ。安謝港ニ至リ海ニ入ル。
末吉村ノ岡上ニ末吉神社アリ。眼界快闊。西ハ慶
良間ノ諸島ヲ眺ミ。南ハ首里城ヲ控ヘ。那覇ノ各
村近ク眼下ニアリ。眺望頗ル佳ナリ。
物產ハ浦添間切ニ同シ
冝野灣間切ハ十四箇村アリ。東ハ中城間切ニ界
シ。西ハ海ニ瀕シ。南ハ浦添西原二間切ニ交リ。北
ハ中城間切ノ一角ヲ承ケテ、北谷間切ニ連ル。地

味肥沃ニシテ。物產ノ多キコト。中頭地方ノ第一
タリ。中頭役所ハ冝野灣村ニアリ。那覇ヲ距ル凡
三里七町ナリ。
普天間村ニ洞穴アリ。闊サ凡五六間。深サ凡七八
間。洞中ニ祠堂アリ。普天間宮ト云フ。香華ノ者纚
纚相属ス。洞梁ハ石乳滴下凝結シテ、柱狀ヲ成セ
リ。幾百千ナルヲ知ラス。其短キモノハ、恰モ氷柱
ヲ懸ルカ如シ。實ニ南島中ノ一奇觀ナリ。
物產ハ米、大豆、砂糖、蕃藷、藍、煙草等ナリ。
中城間切ハ二十三箇村アリ。東ハ海ニ瀕シ。西ハ
北谷間切ノ一隅ヲ承ケテ、冝野灣間切ニ交リ。南
ハ西原間切ニ界シ。北ハ美里越來二間切ニ接ス。
地味ノ肥沃ナルコト。中頭地方ノ第二等タリ。那
覇ヲ距ル凡四里二十二町ナリ。
中城城址ハ本間切ノ中央山上ニ在リ。尚氏ノ忠
臣護佐丸建築セシト云フ。城壁今尚存ス。此地東
ハ海ニ臨ミ。西又遙ニ大洋ヲ控ヘ。眼界開豁。朝暮
日月ノ波際ヨリ、出沒スルヲ觀ルヘシ。實ニ絕景
ノ地タリ。
物產ハ米、麥、砂糖、蕃藷、煙草等ナリ

勝連間切ハ七箇村アリ。中頭地方ノ小間切ナリ。
東ハ與那城間切ニ連リ。西ハ海灣ヲ隔テヽ中城
間切ニ對シ。北ハ具志川美里二間切ニ錯リ。西南
ハ海中ニ斗出シ。其岬角遙ニ島尻ノ知念岬ニ對
ス。那覇ヲ距ル凡九里ナリ。
南風原村ニ古城址アリ。勝連城ト云フ。昔時勝連
按司阿摩和利、不䡄ヲ謀リシ所ニシテ。尤モ要害
ノ地タリ。破壁今尚存ス。津堅島ハ岬角ノ前ニ横
ハリテ。知念間切ノ久高島ト相竝ヘリ。周回凡五
里。其北ニ濱比嘉島アリ。與那城間切ノ平安坐高
離島ト相對ス。其距ルコト一里ニ過キス。
物產ハ砂糖、雜穀、蕃藷、藺席等ナリ。
與那城間切ハ九箇村アリ。勝連間切ト共ニ海中
ニ、斗出シタル半島ナリ。東南ハ海ニ面シ。西ハ勝
連間切ニ連リ。北ハ金武間切ノ七日濱ニ對シテ。
具志川間切ニ接ス。那覇ヲ距ル凡九里十八町ナ
リ。
高離伊計平安座ノ三島ハ。本間切ニ属ス。
物產ハ砂糖、雜穀、蕃藷、海魚等ナリ。
具志川間切ハ十五箇村アリ。東ハ與那城間切ニ

隣リ。南ハ海ニ瀕シ。西北ハ美里及ヒ金武二間切
ニ界ス。那覇ヲ距ル凡八里二十町ナリ。
天願川ハ源ヲ美里間切山城村ヨリ發シ。曲折東
流シテ。宇堅村ニ至リ海ニ注ク。長サ凡二里二十
七町。闊サ凡四五間ヨリ七八間ニ至ル。本島第一
ノ大川ナリト云フ。
物產ハ砂糖、穀類等ナリ。
美里間切ハ十九箇村アリ。西南ハ越來中城二間
切ニ界シ。東ハ具志川間切ニ交リ。北ハ金武恩納
二間切ニ連リ。東南隅ハ海ニ瀕シテ、泡瀨島ヲ控
ヘ。遙ニ津堅島ニ對ス。那覇ヲ距ル凡六里二十五
町ナリ。
泡瀨島ハ製鹽ノ業甚タ盛ナリ。
物產ハ砂糖、穀類、鹽、木炭等ナリ。
越來間切ハ十箇村アリ。南ハ中城間切ニ界シ。西
ハ北谷間切ニ接シ。東北二方ハ美里間切ニ連ル。
那覇ヲ距ル凡六里二十二町。別ニ地ノ說クヘキ
モノナシ。
物產ハ砂糖、穀類、蕃藷、蜜柑、楊梅、木炭等ナリ。
北谷間切ハ十二箇村アリ。東南ヨリ西北ニ亘リ。

北ハ讀谷山間切ニ交リ。東ハ越來中城二間切ニ
界シ。西ハ海ニ面シ。南ハ冝野灣間切ニ隣ル。地味
磽确ニシテ山林少ナシ。那覇ヲ距ル凡四里九町
ナリ。
漏池ハモルキ山ノ麓ニアリ。長サ百五十間。闊サ
七八十間。深サ十數尋アリ。本島第一ノ大池タリ。
野國川ハ源ヲウクマカヒ山ヨリ發シ。西流シテ
野國村ノ海ニ入ル。
物產ハ米、砂糖、蕃藷、苧麻、薪炭等ナリ。
讀谷山間切ハ十六箇村アリ。東南ハ恩納美里越
來三間切ニ連リ。西北二面ハ海水ヲ受ケ。西南隅
ハ北谷間切ニ接ス。地勢東南ヨリ西北ニ亘リ。海
中ニ突出ス。其岬角ハ卽チザンパ岬ナリ。山林少
ナク又水田ニ乏シ。然レトモ砂糖ノ多キコト。中
頭地方ノ第一タリ。那覇ヲ距ル凡七里餘ナリ。
比謝川ハ源ヲ越來間切ノ山中ニ発シ。具志川間
切ニ流レ。再ヒ越來間切ニ還ヘリ。北谷間切ノ漏
池ニ入ル。
座喜味村ニ古城址アリ。座喜味城ト云フ。城壁今
尚依然タリ。

楚邊村ニ洞穴アリ。闊サ凡十間。中ニ湧泉アリ。方
二間許ニシテ。深サ五六丈。是ヲ楚邊ノ暗川ト云
フ。本村二百六十餘家ノ飮料水タリ。
物產ハ砂糖、麥、大豆、蕃藷、薪炭等ナリ。
    國頭
國頭ハ本島ノ北方ニ位シ。南ハ中頭ニ界シ。東北
西三面ハ海ニ臨ム。到處山ナラサルハナシ。只僅
ニ海濱平地アルノミ。之ヲ分チテ恩納名護本部
今歸仁羽地大冝味國頭久志金武ノ九間切トス。
恩納間切ハ十二箇村アリ。海ニ沿ヒタル狹長ノ
地ニシテ。東ハ金武間切ト山脊ヲ分チテ西二位
ス。西北二方ハ海ニ瀕シ。南ハ讀谷山間切ニ交ル。
那覇ヲ距ル凡十一里二十町ナリ。
恩納岳ハ東境ニアリ。其高サ殆ント嘉津宇岳ニ
頡頏ス。其脉延テ北ニ走リ。久志邊野古ノ諸山ニ
連レリ。
海濱ハ岬灣出入シテ。恩納岬中央ニ突出シ。ヒル
恩納安富祖ノ諸港アリト雖トモ。皆口淺クシテ。
泊舟ニ便ナラス。
萬座毛ハ海ニ臨メル高原ナリ。名護本部二間切

ノ諸山ヲ眺メ。風景ニ富メリ。昔時國王巡視シテ
此處ニ至リ。萬人ヲ坐セシムヘシト云ヒシヲ以
テ。乃チ此名アリト云フ。
安富祖村ノ山中ニ瀑布アリ。イン瀧ト云フ。高サ
一丈ニ過キスシテ。闊サ一丈五尺アリ。其水流レ
テ前袋川トナル。
物產ハ米、麥、蕃藷、薪、海魚等ナリ
名護間切ハ十三箇村アリ。南東北ハ恩納金武羽
地今歸仁本部五間切ト山脊ヲ分チ。西ハ海ニ面
ス。地形弓狀ニシテ。自ラ港灣ヲ成セリ。地味稍肥
沃ニシテ水田多シ。那覇ヲ距ル凡十七里二十四
町ナリ。
名護岳ハ東南ニアリ。羽地間切ノタニヨ岳ト相
對峙ス。其南ニ石岳アリ。
湖平底ハ許田村ニアリ。泊舟ニ便ナル良港ナリ。
數久田村ニ瀑布アリ。轟原瀧ト云フ。高サ三丈。闊
サ五六尺ナリ。四面深林鬱蒼。夏時猶寒キヲ覺フ。
川流數派アリト雖トモ。皆細小ニシテ、獨リ屋部
川ヲ稍大ナリトス。源ヲ北方ノ山間ヨリ發シ。南
ニ流レ屋部村ニ至リテ海ニ入ル。

大兼久村ハ國頭地方、最モ繁盛ノ地ニシテ。國頭
役所及ヒ診察所等アリ。又東江村ニ名護警察署
アリ。
物產ハ米、麥、蕃藷、薪、海魚等ナリ
本部間切ハ十八箇村アリ。海中ニ突出セル半島
ナリ。西北ハ海水ヲ繞ラシ、伊惠島ト相對シ。東南
ハ山林ヲ分チテ、今歸仁羽地名護三間切ニ界ス。
那覇ヲ距ル凡二十一里十八町ナリ。
東南名護間切界ニ八重岳具志川岳アリ。皆高峻
ナリ。其上ニ聳ヘタルヲ嘉津宇岳トス。本島第一
ノ高山ナリ。
渡久地(トグチ)川ハ源ヲ大嵐(オホアラシ)山ヨリ發シ。西流シ渡久地
港ニ注ク。
渡久地村ニ同名ノ港灣アリ。那覇國頭往來ノ船。
必ス此灣ニ入リ。風定ルヲ待テ帆ヲ揭ク。灣ノ西
北ニ大小二島アリ。大ナル者ヲ瀨底(セソコ)島ト云ヒ。小
ナル者ヲ水無(ミンナ)島ト云フ。皆本間切ニ屬ス。
物產ハ米、麥、砂糖、藍、木材、薪等ナリ。
今歸仁(ナキジン)間切ハ二十一箇村アリ。西南ハ山林ヲ以
テ羽地名護本部三間切ニ界シ。東北二面ハ海ニ

【右頁の下半分は図】運天港

枕ム。那覇ヲ距ル凡二十
二里十町ナリ。
オツパ岳ハ玉城(タマグスク)村ノ南。
名護本部二間切界ニア
リ。樹木 攅鬱(サンウツ)セリ。
大井(オホヰ)川ハ本部間切 伊豆(イヅ)
味(ミ)村ノ山中ヨリ發源シ。
曲折北流シテ。炬(テー)湊ニ落
ツ。
仲宗根(ナゾネ)村ニ海灣アリ。炬
湊ト云フ。底淺ク浪高キヲ以テ。大船ハ繫クヘカ
ラス。
運天港ハ本間切ノ東北隅運天村ニアリ。大船數
十艘ヲ泊スヘシ。天然ノ良港ナリ。永萬中、源爲朝
運ヲ天ニ任セ、漂着セシ所。港ノ名ヲ得ル所以ナ
リ。
古宇利島ハ運天港ヨリ、二十町許ノ海中ニ在リ。
周回凡一里二十六町ナリ。
運天港上ニ百按司墓山アリ。山腹許多ノ髑髏ア
リ。之ヲ百按司墓ト云フ。山ノ名ヲ取ル所以ナリ。

親泊村ニ城墟アリ。山北王ノ割據セシ所ナリ。破
壁今尚存セリ。内ニ受劍石アリ。王滅亡ノ時。慷慨
劍ヲ振フテ擊チシモノト云フ。
物產ハ砂糖、米、麥、蕃藷、海魚、蕉布等ニシテ。蕉布ハ
殊ニ著名ナリ。
羽地間切ハ十九箇村アリ。東南西三面ハ山脊ヲ
分チテ、久志名護本部今歸仁四間切ニ界シ。西北
隅ハ海灣ヲ抱ケリ。土地肥沃。田野能ク開ケ。水田
ノ多キコト、國頭地方ノ第一タリ。那覇ヲ距ル凡
十九里十町ナリ。
タニヨ岳ハ東南隅ニ峙立シ。大川ハ源ヲ久志羽
地二間切界ノ山中ヨリ發シ。曲折北流シテ。吳我
村ニ至リ海ニ注ク。長サ凡二里餘ナリ。
勘定納港ハ屋我地島ニ渡ルノ渡頭タリ。
物產ハ米、麥、藍、木材等ナリ
大冝味間切ハ十六箇村アリ。南東北三方ハ羽地
久志國頭三間切ト山岳ヲ分チ。西一帶ハ海ニ枕
ム。到ル處山峯多ク平地少ナシ。那覇ヲ距ル凡二
十二里二十六町ナリ。
鹽谷ハ宮城島ニ對シテ大港ヲナス。滿潮ノ時ハ。

深サ七丈ニ至ルト雖トモ。港口淺クシテ。大船ヲ
容ルヽコト能ハス。
宮城島ハ周廻凡二十町許ノ小島ナリ。根呂銘饒
波根謝銘ノ諸川ハ。東南ノ山中ヨリ發源シ。皆西
流シテ海ニ入ル。
物產ハ蕃藷、穀類、薪等ナリ
國頭間切ハ十六箇村アリ。南ハ山林ヲ以テ、大冝
味久志二間切ニ牙錯シ。東北西三面ハ海ヲ環ラ
シ。本島ノ東北隅ニ突出セル半島ニシテ。最大ノ
間切ナリ。到ル處層巒重嶺耕地ニ乏シ。海濱僅ニ
水田アリ。那覇ヲ距ル凡二十五里三十四町ナリ。
間切内數所ニ嶮坂アリ。與那ノ高坂ト云ヒ。邊野
喜坂ト云ヒ。座中坂ト云ヒ。武見坂ト云ヒ。大川坂
ト云フ。中ニ就キ。座中坂嶮峻ニシテ著名ナリ。
邊戸岳西銘岳ハ極北ノ地ニ並立シ。其脉埀レテ
岬角ヲナス。邊戸岬是ナリ。其西ニ茅打萬端ト云
フ險處アリ。斷嵒屹立高サ數十仭。海風恒ニ强烈
ナリ。故ニ頂上ヨリ茅ヲ束ネテ投下スレハ。必ス
中間ニシテ解散ス。因テ此名アリ。
安波川ハ國頭地方第一ノ巨流ニシテ。上流ヲ大

川ト云フ。源ヲ福地又山ヨリ發シ。數十ノ溪水ヲ
並セ。東流シテ安波村ニ至リ海ニ入ル。長サ二里
七町十二間アリ。
ヤカビ川ハ大冝味間切屋嘉比村ノ溪間ヨリ發
源シ。濱村ニ至リ海ニ注ク。
石橋川ハ源ヲアナマタ山ヨリ發シ。大謝川ハオ
ホクビリ山ニ發源シ。共ニ奧間村ノ鏡池湊ニ落
ツ。
鏡池湊ハ本間切第一ノ良港ナリ。
物產ハ蕃藷、木材等ナリ。
久志間切ハ十九箇村アリ。東ハ海ニ面シ。南ハ金
武間切ニ界シ。西北ハ連山ヲ以テ、名護羽地大冝
味國頭四間切ニ斜接ス。地勢南北ニ伸ヒテ。東西
ニ縮マル。那覇ヲ距ル凡十八里二十三町ナリ。
久志岳邊野古岳ハ、大冝味名護羽地三間切界ニ
聳ヘ。マテラ山ハ、金武間切界ニ聳フ。皆高峻ナリ。
海濱ハ岬灣出入シ。南ニ邊野古岬アリ。北ニ安部
ノ岬角アリ。其間一大灣ヲナス。是ヲ大浦湊トス。
灣口底淺クシテ。船舶ノ出入ニ便ナラス。其他灣
港多シト雖トモ。皆狹小ニシテ、舟ヲ繫クニ冝シ

カラス。
物產ハ雜糓、蕃藷、木材、薪等ナリ
金武間切ハ八箇村アリ。東ハ海ニ瀕シ。西南ハ名
護恩納及ヒ中頭ノ美里三間切ニ連リ。北ハ山峯
ヲ以テ久志間切ニ界ス。地勢東西ニ長ク。南北甚
タ狹シ。耕地少キモ地味膏腴ナリ。那覇ヲ距ル凡
十二里二十九町ナリ。
海濱ハ岬灣出入シ。中央ニ金武岬アリ。遠ク海中
ニ斗出ス。冝野座湊漢那湊等アリト雖トモ。底淺
ク石多キヲ以テ。碇泊ニ便ナラス。
金武村ニ洞穴アリ。長サ一町餘。晝間モ炬火ヲ照
サヽレハ入ヲ得ス。
七日濱ハ南方ノ海濱ニアリ。砂磧深クシテ踝骨
ヲ沒シ。歩行捗取ラス。因テ此名アリ。古知屋㵼原
ハ久志間切ノ境ニアリ。潮水退ケハ平沙トナル。
西北ニ久志間切ノ諸山ヲ望ミ。東南ハ與那城間
切伊計高離平安座ノ三島ニ對ス。風景尤モ佳ナリ。
    島尻
島尻ハ本島ノ西南ニ位シ。東南西三面ハ海水ヲ
環ラシ。北ハ中頭ニ連ル。高山峻嶺ナク。地勢慢坡

平坦ニシテ。地味ノ膏腴ナル。本島ノ第二等タリ。
之ヲ分チテ眞和志小祿豐見城南風原大里佐敷
知念玉城東風平高嶺具志頭摩文仁眞壁喜屋武
兼城ノ十五間切トス。
眞和志間切ハ十二箇村アリ。東北ハ南風原間切、
及ヒ首里浦添間切ニ連リ。西南ハ豐見城間切、及
ヒ那覇ニ矩接ス。地形弓狀ヲナシ。地味最モ肥饒
ナリ。那覇ヲ距ル凡一里四町ナリ。
古波藏村ニ熊本鎭臺分遣隊ノ舊兵營アリ。又農
事試驗塲アリテ。和漢洋ノ蔬菜類ヲ培養セリ。
國塲川ハ南風原間切ヨリ來リ。豐見城間切眞玉
橋ヲ過キ。那覇港ニ入ル。安里川モ亦南風原間切
ヨリ發源シ。西北ニ曲流シテ、泊湊ニ落ツ。
識名村ニ尚氏ノ別莊アリ。邸内松樹雜木欝葱タ
リ。園中ニ大池ヲ穿チテ蓮ヲ植ユ。池ノ中央ニ石
橋ヲ架シ。周圍ニ花木芳草ヲ雜栽シ。池畔ノ岩穴
ヨリ淸泉噴出ス。景致頗ル幽邃ナリ。
物產ハ米、麥、大豆、砂糖、蕃藷、煙草等ナリ。
小祿間切ハ十五箇村アリ。東南ハ豐見城間切ニ
連リ。西ハ海ニ瀕シ。北ハ灣ヲ隔テヽ那覇ニ對ス。

地味ノ肥沃ナルコト。島尻地方ノ第一タリ。那覇
ヲ距ル凡二十六町ナリ。
ヤラサ鼻ハ那覇港ノ南ニ斗出セル古壘ナリ。海
上ニ胷壁ヲ築キ。壁間箭眼アリ。三重城ト港口ヲ
隔テヽ相對ス。登臨尤モ佳ナリ。
本間切ハ機織ノ業盛ニシテ。上國ヘ輸送ノ飛白
ハ。大半此地ノ產ト云フ。
物產ハ飛白、木綿縞、米、麥、大豆、砂糖、蔬菜、魚類等ナ
リ。
豐見城間切ハ二十一箇村アリ。東南ハ兼城東風
平南風原三間切ニ連リ。西ハ海ニ面シテ、小祿間
切ニ斜接シ。北ハ那覇灣ニ瀕シテ、眞和志間切ニ
錯ハル。那覇ヲ距ル凡一里三十町ナリ。
饒波川ハ大里間切ヨリ來リ。西流シテ那覇灣ニ
注ク。
物產ハ米、麥、豆、砂糖、蕃藷、蔬菜等ナリ。
南風原間切ハ十箇村アリ。東南ハ大里東風平二
間切ニ連リ。西北ハ豐見城眞和志二間切、及ヒ首
里ニ斜接シ。東北隅ハ中頭西原間切ニ界ス。那覇
ヲ距ル凡一里三十一町ナリ。

國塲川ハ源ヲ宮城村ニ發シ。安里川ハ辨ノ岳ヨ
リ發源シ。共ニ西流シテ、眞和志間切ニ入ル。
物產ハ雜穀、砂糖、蕃藷、木綿等ナリ。
大里間切ハ二十箇村アリ。西南ハ佐敷玉城具志
頭東風平四間切ニ連リ。北ハ南風原間切ニ界シ。
東ハ海灣ニ臨ミ。東北隅ハ中頭西原間切ニ接ス。
那覇ヲ距ル凡二里十九町ナリ。
與那原港ハ五六百石ノ船ヲ容ルヽト雖トモ。港
内暗礁多ク、底淺キヲ以テ。若シ風波起ルトキハ。䌫
ヲ解キテ。佐數間切ノ津波古灣ニ避ク。
物產ハ米、雜穀、砂糖、蕃藷、綿花等ナリ。
佐敷間切ハ九箇村アリ。西北ハ大里間切ニ接シ。
東南ハ知念玉城二間切ニ連リ。正北間切ノ中央
ニ海水突入ス。灣岸鹵田アリ。地形環狀ヲ成セリ。
舊城ハ佐敷村ニアリ。一ニ上城ト云フ。雜樹密生
セリ。三山ヲ滅ホシテ。本國ヲ一統シタル。尚巴志
王佐敷按司タリシトキノ城址ナリ。那覇ヲ距ル凡
三里二十八町ナリ。
物產ハ米、麥、砂糖、蕃藷、煙草、鹽等ナリ。
知念間切ハ十二箇村アリ。東南ハ海水ヲ繞ラシ。

西北ハ佐敷玉城二間切ニ連ル。西南ヨリ斜メニ
東北ニ伸出セル半島ナリ。其伸出シタル岬角。遙
ニ勝連岬ト相對ス。前面ニ久高島アリ。周回凡二
里二十町。本間切ニ属ス。那覇ヲ距ル凡五里三十
町ナリ。
物產ハ米、雜穀、砂糖、蕃藷、海魚等ナリ。
玉城間切ハ十四箇村アリ。東南ハ知念間切ニ連
リテ海ニ枕ミ。西北ハ具志頭大里佐敷三間切ニ
牙錯セリ。那覇ヲ距ル凡五里三十町ナリ。
物產ハ知念間切ニ同シ。
東風平間切ハ十一箇村アリ。島尻ノ中央ニ位ス。
東南ハ大里具志頭眞壁三間切ニ連リ。西北ハ高
嶺兼城豐見城南風原四間切ト犬牙相接ス。東風
平村ニ島尻役所アリ。那覇ヲ距ル凡四里六町ナ
リ。
本間切ハ地勢平坦ニシテ。地味稍肥沃ナリ。東南
隅ニ八重瀨岳アリ。島尻中第一ノ高山ナリ。
物產ハ米、麥、豆、砂糖、蕃藷等ナリ。
高嶺間切ハ五箇村アリ。東ハ東風平間切ニ錯リ。
西ハ海ニ面シ。南ハ眞壁間切ニ連リ。北ハ兼城間

切ニ接ス。地勢東西二長ク。南北ニ狹シ。那覇ヲ距
ル凡三里三十三町ナリ。
大里村ニ城墟アリ。南山城ト云フ。昔時南山王ノ
割據セシ所ナリ。破壁今尚存セリ。
與座村ニ湧川アリ。與座川ト云フ。島尻第一ノ淸
泉タリ。
物產ハ東風平間切ニ同シ。
具志頭間切ハ七箇村アリ。東ハ大里玉城二間切
ニ連リ。西北ハ摩文仁眞壁東風平三間切ニ斜接
シ。南一帶ハ海ニ瀕ス。那覇ヲ距ル凡五里十八町
ナリ。
物產ハ米、雜穀、砂糖、蕃藷、海魚等ナリ。
摩文仁間切ハ六箇村アリ。東南ハ具志頭間切ニ
連リテ海ニ臨ミ。西北ハ喜屋武眞壁二間切ニ矩
接ス。地勢狹小ニシテ。地味瘠薄ナリ。那覇ヲ距ル
凡五里八町ナリ。
物產ハ東風平間切ニ同シ。
眞壁間切ハ九箇村アリ。東ハ具志頭東風平二間
切ニ界シ。西ハ海ニ面シ。南ハ喜屋武摩文仁二間
切ニ連リ。北ハ高嶺間切ニ交ル。那覇ヲ距ル凡四

里二十六町ナリ。
物產ハ東風平間切ニ同シ。
喜屋武間切ハ五箇村アリ。東北ハ摩文仁眞壁二
間切ニ連リ。西南ハ海水ヲ繞ラシ。喜屋武岬海中
ニ突出ス。卽チ本島ノ南端タリ。那覇ヲ距ル凡六
里五町ナリ。
物產ハ雜穀、砂糖、蕃藷等ナリ。
兼城間切ハ九箇村アリ。東ハ東風平間切ニ接シ
西ハ海ニ瀕シ。南ハ高嶺間切二隣リ。北ハ豐見城
間切ニ界ス。那覇ヲ距ル凡三里九町ナリ。
糸滿村ハ報得川ノ南、海濱ニアリテ。狹隘ノ地ニ
九百餘ノ人家アリ。村人漁業ヲ以テ生計ヲ營ム
モノ多シ。故ニ捕魚ノ盛ナルコト。此地ヲ以テ本
國第一トス。
物產ハ米、麥、豆、砂糖、蕃藷、魚介等ナリ。
    属島
伊江島ハ本部間切ノ西北、凡二里許ノ海上ニア
リ。周回凡四里餘。中央ニ一座ノ石山屹立ス。伊江
城ト云フ。恰モ盆石ノ狀ヲナス。地勢高平ニシテ。
全島川流ナキヲ以テ水田ナシ。然レトモ地味肥

沃ニシテ。最良ノ砂糖ヲ產ス。戸數九百六十餘ニ
シテ。人口四千四百三十餘アリ。那覇ヲ距ル凡二
十三里ナリ。
物產ハ砂糖、蕃藷、藷酒、雜穀、魚介等ナリ。
伊平屋島ハ今歸仁間切ヨリ西北ニ距ル凡十里
許ノ海中ニ在リ。山林多クシテ平野少ナシ。伊平
屋伊是名野甫具志川屋ナハノ五島ニ分ル。戸數
七百十餘ニシテ。人口四千九百二十餘アリ。那覇
ヲ距ル凡三十里ナリ。
伊平屋島ハ周回凡四里二十六町アリ。一ニ葉壁
山ト云フ。尚氏ノ祖尚圓王ハ。此島ヨリ起リシト
云フ。
伊是名島ハ伊平屋ヲ距ル一里餘ニシテ。周回凡
二里十八町。伊是名村ニ城墟アリ。伊是名城ト云
フ。神山ハ勢理客村ニアリ。樹木櫕欝スト雖トモ。
土人山神ノ崇ヲ畏レ。伐採セスト云フ。
伊是名ト伊平屋ノ中間ハ。海底ノ凸凹殊ニ甚タ
シ。故ニ怒濤逆流シテ。渡船極メテ危險ナリ。
野甫具志川屋ナハ等ハ皆小島ニシテ。周回一里
ニ過キス。

物產ハ雜穀、魚介、薪炭等ナリ。
鳥島ハ那覇ヨリ北ニ距ル、凡八十里許ニアリ。周
回凡一里餘。噴火山ニシテ硫黃ヲ產ス。故ニ島民
採硫シテ、生計ヲ營ム者多シ。戸數七十餘ニシテ。
人口五百五十餘アリ。
慶良間島ハ一ニ馬齒山ト云フ。那覇ノ西七里ヨ
リ起レル羣島ニシテ。渡嘉敷座間味阿嘉ヤカヒ
コバ安室モカラクケルマ等ノ諸島アリ。之ヲ前
後ノ兩部ニ分チ。渡嘉敷座間味ノ二間切トス。戸
數三百九十餘ニシテ。人口千六百七十餘アリ。
渡嘉敷島最モ大ニシテ。周回凡三里。其他ハ大ナ
ルモノ一里餘。小ナルモノ數町ニ過キス。各島到
ル處山林アリ。樹木欝葱タリ。地味磽确ニシテ。耕
耘ニ適セス。
座間味島ニ阿護ノ浦アリ。天然ノ良港ニシテ。巨
舶數艘ヲ泊スヘシ。故ニ暴風起レハ。那覇港ノ船
舶。皆此浦ニ避ク。
物產ハ魚介、海松、鹿、薪等ナリ。
渡名喜島ハ慶良間島ノ西ニアリ。周回凡一里餘。
戸數百六十餘ニシテ。人口七百六十餘アリ。那覇

ヲ距ル凡二十六里ナリ。
島民ハ皆農ヲ業トス。然レトモ島中岡巒重疊。平
地少ナキヲ以テ物產ナシ。
粟國島ハ渡名喜島ノ西北、七八里許ニアリ。周回
凡二里餘。戸數六百六十餘ニシテ。人口四千八十
餘アリ。
島中山林ナク。地勢平坦ナリ。颶颱ノ虞殊ニ甚シ。
故ニ家屋ノ結搆。卑低ヲ極ムト云フ。
物產ハ眞綿、桑椹煎汁、雜穀等ナリ。
久米島ハ那覇ノ西、凡四十八里許ニアリ。周回六
里二十町。分チテ仲里具志川二間切トス。戸數千
二百十餘ニシテ。人口四千八百六十餘アリ
仲里間切眞謝村ハ、久米島役所ノ在ル所ナリ。又
診察所ノ設ケアリ。眞謝村ニ同名ノ湊アリ。然レ
トモ暗礁多クシテ。泊舟ニ便ナラス。
兼城湊ハ具志川間切ニアリ。船舶ヲ繫クニ宜シ
中央ニ宇江城大岳中森等ノ諸山アリ。又南端ニ
島尻山アリ。樹木繁茂ス。然レトモ平地多クシテ。土
壤ノ肥沃ナルコト。離島中第一ト云フ。
川流ハ具志川間切嘉手苅川ヲ第一トス。源ヲ仲

里間切ノ西山ニ發シ。西流シテ兼城湊ニ入ル、長
サ凡二里。大田川儀間川ハ之ニ亞テノ長流ナリ。
阿嘉村ニ二瀑布アリ。一ヲクヒリハンタト云ヒ
一ヲヒゲ水ト云フ。皆斷崖ニ懸ル。高サ各四丈餘
常ニ海風ニ激セラレ。空際ニ飛騰スルコト十數
丈。遠ク望メハ雲烟ノ如シ。頗ル奇觀ヲ極メタリ
物產ハ紬、藺席、最モ著名ニシテ。木材、名護蘭、海綿、
穀類、魚介等ナリ。
    兩先島
先島ハ那覇港ヨリ西南ニ距ル、凡九十里許ノ海
上ヨリ起リ。西南ハ台灣島ヲ距ルコト遠カラス。
島嶼凡二十。之ヲ分チテ宮古八重山ノ二大島ト
ス。
宮古島ハ周回凡十一里餘。分チテ砂川下地平良
ノ三間切トス。戸數五千六百三十餘ニシテ。人口
二萬六千六百九十餘アリ。那覇ヲ距ル凡九十四
五里ナリ。
砂川間切西里村ハ、宮古島役所ノ在ル所ニシテ。
又診察所ノ設ケアリ。
本島ハ地勢三稜形ヲナシ。西北ノ端海中ニ斗出

シ。南北兩岐ニ分ル。南ヲ西平安名岬ト云ヒ。北ヲ
世戸岬ト云フ。其他岬角甚タ多シ。沿海ハ沙線若
クハ岩石ニシテ。泊舟スヘキ所ナシ。只漲水湊ア
ルノミ。
島中ハ田圃原野ノミニシテ山林ナシ。家屋建築
材ノ如キハ。那覇又ハ八重山ニ仰クト云フ。
東北ニ方リテ。東西凡五里。南北凡一里二十町許。
潮水常ニ東方ニ激流ス。八重干瀨ト呼ヒテ。甚タ
危險ノ處タリ。
伊良部島ハ漲水湊ヨリ西ニ距ル、凡一里許ニ在
リ。周回凡四里二十町。其西南ニ多良間水納ノ二
島アリ。池間島大神島ハ東北ニ散在シ。來間島ハ
西南ニアリ。其大ナルモノハ周回凡三四里。小ナ
ルモノハ一里ニ過キス。
物產ハ穀類、紺細上布、飛白、牛馬、魚介等ニシテ。紺
細上布、飛白ハ殊ニ著名ナリ。
八重山島ハ宮古島ヨリ西南ニ距ル、凡六十里許
ニアル羣島ナリ。分チテ。宮良石垣大濱ノ三間切
トス。地味肥沃ニシテ。氣候暖燠ナリ。然レトモ人
煙稀踈ニシテ。草莽ニ属スル所甚タ多シ。故ニ所

在皆牛馬ヲ牧ス。若シ開墾其法ヲ得ハ。遺利ヲ興
ス亦大ナルヘシ。
八重山島役所ハ、石垣島大濱間切登野城村ニア
リ。又診察所ノ設ケアリ。戸數二千二百三十餘ニ
シテ。人口一萬千九百八十餘アリ。那覇ヲ距ル凡
一百五十七里ナリ。
石垣島ハ諸島中最モ大ニシテ。周回凡十六里十
七町アリ。中央ニ於茂登岳屹立ス。山中良材多シ。
其脉埀レテ北ニ亘リ。平久保岬ニ至リテ盡ク。
川平港ハ西北岸ニアリ。大船ヲ泊スヘシ。其他港
灣甚タ多シト雖トモ。皆繫舟ニ便ナラス。
蒸滊船ハ大濱間切ト、武富島ノ間ニ碇泊ス。
武富黑島新城小濱等ノ諸島ハ。石垣島ノ西南ニ
散布ス。大ナルモノハ周回三里餘。小ナルモノハ
一里ニ過キス。
西表島ハ石垣島ヨリ西ニ距ル、凡四里十八町。周
回凡十五里。中央ニ古見岳屹立シ。樹木櫕欝セリ。
東岸ニ古見湊アリ。北岸ニ鬚川村湊アリ。皆小舟
ヲ繫クヘシ。南方ニ波照間島アリ。周回三里餘ナ
リ。

物產ハ穀類、白細上布、白地飛白、牛馬、木材、魚介等
ニシテ。白細上布ハ殊ニ著名ナリ。
與那國島ハ西表ノ西南、凡四十八里許ニアリ。即
チ台灣島ヲ距ルコト遠カラス。周回凡五里。島中
山林少ク。平野多クシテ且膏膄ナリ。戸數三百二
十餘ニシテ。人口千七百八十餘アリ。女反テ男子
ヨリ多ク。風俗質朴敦厚ニシテ。一島一家ノ如シ
ト云フ。
物產ハ米、雜穀、木綿、藺席等ナリ
沖繩縣地誌畧畢

地名讀例

慶良間(ケラマ)  久米(クメ)  伊平屋(イヘヤ)  伊江(イヱ)
渡名喜(トナキ)  粟國(アグニ)  鳥島(トリシマ)  津堅(ツケン)
久高(クダカ)  宮古(ミヤコ)  八重山(ヤヘヤマ)  伊良部(イラブ)
來間(クルマ)  多良間(タラマ)  大神(オカミ)  池間(イケマ)
水納(ミンナ)  武富(ダケドン)  波照間(ハテルマ)  鳩間(ハトマ)
西表(イリオモテ)  小濱(クバマ)  黑島(クロシマ)  新城(アラグスク)
與那國(ヨナグニ)  國頭(クンヂヤン)  嘉津宇(カツウ)  恩納(オンナ)
中頭(ナカガミ)  辨(ベン)ケ岳  於茂登(オモト)  古見(コミ)

安波(アハ)川  大(オホ)川《割書:以上|總論》  島尻(シマジリ)  邊戸(ヘド)岬
喜屋武(キヤム)岬  勝連(カツラン)  知念(チネン)《割書:以上|本島》  西原(ニシバラ)
宜野灣(ギノワン)  中城(ナカグスク)  與那城(ヨナグスク)  具志川(グシチヤア)
美里(ミザト)  越來(ゴヘク)  北谷(チヤタン)  讀谷山(ヨンタンザ)《割書:以上|中頭》
眞和志(マワシ)  豐見城(トミグスク)  小祿(ヲロク)  奧武(オウノ)山
鵝森(ガアナーモリ)  渡地(ワタンヂ)  御物城(ミモノグスク)  泊(トマリ)港
㵼原(カタバル)《割書:以上|那覇》  南風原(フヱーバラ)  眞和志平等(マワシノヒラ)、南風平等(フヱーノヒラ)
西平等(ニシノヒラ)  町瑞(マチバタ)  山川(ヤマガワ)  寒水川(スンガワ)
金城(カナグスク)  大中(オホチユン)  桃原(タウバル)  當藏(トウノグラ)
鳥小堀(トンジヨモリ)  赤田(アカタ)  崎山(サキヤマ) 儀保(ギボ)
赤平(アカヒラ)  汀志良次(テシラズ)  久塲川(クバガワ)  龍潭(リウタン)
辨財天池(ベサイテンチ)  圓鑑池(エンクワンチ)  萬歲嶺(マンサイレイ)《割書:以上|首里》  浦添(ウラソヘ)
牧湊(マキミナト)  勢理客(ゼツチヤク)川  小灣(コワン)《割書:以上浦|添間切》  嘉手苅(カデカル)
末吉(スヱヨシ)川  安謝(アジヤ)湊《割書:以上西|原間切》  普天間(フテンマ)《割書:宜野灣|間切》  比嘉(ヒジヤ)
平安坐(ヘアンザ)  高離(タカバナレ)  金武(キンム)  七日濱(ナヌカバマ)《割書:以上勝|連間切》
山城(ヤマグスク)  宇堅(ウケン)《割書:以上具志|川間切》  泡瀨(アハセ)《割書:美里|間切》  漏池(モリチ)
野國(ヌグン)川《割書:以上北|谷間切》  座喜味(サキミ)  楚邊(ソベ)《割書:以上讀谷|山間切》  恩納(オンナ)
名護(ナゴ)  本部(モトブ)  今歸仁(ナキジン)  羽地(ハネヂ)
大宜味(オホギミ)  國頭(クンヂヤン)  久志(クシ)  邊野古(ヘノコ)
安富祖(アフソ)  萬坐毛(マンザモウ)《割書:以上|國頭》  湖平底(クヘンゾコ)  許田(チユダ)

數久田(シユクダ)  轟原(トドロキ)瀧  屋部(ヤブ)川  大兼久(オホガネク)
伊惠(イエ)  八重岳(ヤヘダケ)  渡久地(トグチ)川  大嵐(オホアラシ)山
瀨底(セソコ)  水無(ミンナ)《割書:以上名|護間切》  玉城(タマグスク)  大井(オホヰ)川
伊豆味(イヅミ)  炬湊(テーミナト)  仲曾根(ナカゾネ)  運天(ウンテン)港
古宇利(コウリ)島  親泊(オヤトマリ)《割書:以上今歸|仁間切》  大川(オホカワ)  吳我(グガ)
勘定納(カンテナ)《割書:以上羽|地間切》  鹽谷(シホヤ)  宮城(ミヤグスク)  根路銘(ネロメ)
饒波(ニヨハ)  根謝銘(ネシヤメ)《割書:以上大宜|味間切》  與那高坂(ヨナノダカヒラ)
邊野喜坂(ビヌチヒラ)  座中坂(ザチユンヒラ)  武見坂(ブミヒラ)  大川坂(オホカーヒラ)
茅打萬端(カヤウチバンタン)  福知又(フクチマタ)山  大謝(オホジヤ)川  鏡地(カガミチ)湊《割書:以上國|頭間切》
宜野座(ギノザ)湊  漢那(カンナ)湊《割書:以上金|武間切》  大里(オホザト)  佐敷(サシキ)
東風平(コチンダ)  高嶺(タカミネ)  具志頭(グシチヤン)  摩文仁(マブイ)
眞壁(マカベ)  兼城(カネグスク)《割書:以上|島尻》  古波藏(コハングワ)  國塲(コクバ)川  
眞玉橋(マタンバシ)  識名(シキナ)《割書:以上眞和|志間切》  饒波(ニヨウハ)川《割書:豐見城|間切》  與那原(ヨナバル)港
津波古灣(ツハノコワン)《割書:以上大|里間切》  上城(ウヘグスク)《割書:佐敷|間切》  八重瀨(ヤヘズ)《割書:東風平|間切》
南山城(サンサングスク)《割書:高嶺|間切》  糸滿(イトマン)  報得(ムクイ)川《割書:以上兼|城間切》  伊江城(イヱグスク)
伊是名(イゼナ)  野甫(ノホ)  馬齒(バシ)山  渡嘉敷(トカシキ)
座間味(ザマミ)  阿嘉(アカ)  安室(アムロ)  阿護浦(アゴノウラ)
仲里(ナカザト)  眞謝(マジヤ)  宇江城(ウエグスク)  大岳(オホダケ)
中森(ナカモリ)  嘉手苅(カテカル)川  太田(オホタ)川  儀間(ギマ)川
台灣(タイワン)  砂川(ウルカ)  下地(シモヂ)  平良(ヒララ)

西里(ニシザト)  平安名(ヘアンナ)岬  世戸(セド)岬  漲水(ハリミズ)湊
宮良(ミヤラ)  石垣(イシガキ)  大濱(オハマ)  平久保(ヒラクボ)岬
川平(カビラ)港  鬚川(ヒゲカワ)港

沖繩縣略圖【地図一枚】

【白紙】

【裏表紙】

大日本籌海全図