地震風火水災綴 一
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【上部】
大地震のはなし
夫山城の国平安乃都は其昔桓武
天皇草□【草冠+劍】の地にして四神相応の場
万代ふゑきのみやことかや然るに当文政
十三年寅七月二日三日両日両夜大地震
にて山崩れ加茂川大井桂川あぶれて
洛中にいたる山は東山西山愛宕鞍馬
裾通さが御室高雄山扨洛中の民家は
たおれ人多くけがあり疵付者二三万人
及ぶ死人弐千余人なり堂塔伽藍は
両門跡を初め祇園清水知恩院八坂塔
東寺のとう大寺大塔悉くたをれ
武家方御屋敷公家衆御殿向こと〳〵く
ゆりたおす宮門跡方は八方え御立退き被遊
然れとも大地をふむ者みなたおれふし
一足も行事不成四方の山に水あふれ逃
場に迷ひ人多く死す牛馬鶏犬等迄
数多失す誠に目も当てられぬ有様なり
【下部】
二日三日四日
其内五六度
ほとは
殊の外
つよく
其
せつ
は
をふ
らい【往来=道路】へ
たたみ
戸なぞ
持出し
其上にて
老若男女にも神ふつをいのりおかけにや四日の夜あけ
七ツ時よふ〳〵しつまり夫より大あめしきりにふり
出し殊に伏見なぞにて其三日の日しんとお【振動】いたし老
若男女きい【忌畏=いやがりおそれること】のおもひをなし候得ともこれまつたく王城の地ゆへけかもなくしつまりしとかや
【上部】
文政十一子都市年
十一月十二日
あさ五ツ時より
大地しんゆりいだし
十四日迄三日の
あいたちうや
ゆりやます
うみべとふり
いつもざき
【下部】
八彦明神の
山大にくづれて
海の中へおしいだし
同所
三條まち
つばめ町
また
東御門ぜきみどう大門
のこらずゆりたおし其外田はた
山川くずれこぼり大地へ
あぶれいて人馬けが任人
数しれず
凡いへかず八千げん余
たおれくずれ牛馬三千余
も打ころされ
こゝんまれなる大地しん
そのあらましを
くゝにうつしぬ
【上部】
比は嘉永二酉とし八月
廿四日九ツ半とき弁けいはし
辺ゟ出火折ふし北風はげ
しく此へんのこらす松枝丁
松下丁代地こんや丁九軒丁
大和丁岩井丁上納地もと
岩井丁夫ゟ大門通亀井丁
うらおもて小伝馬一丁めゟ
三丁メ迄同新道油丁
片かは中ほと迄大てんま
二丁め三丁目迄㉩のこる
通りはたこ丁田所丁
はせ川丁三光新みち中ほど
人形丁のとふりいつみ丁のこり
堺丁また一口はほり止より
新材木丁杉のもりのり物丁
かくやしん道ふきや丁よし丁
甚左衛門丁大さか丁小あみ丁
壱丁めよこ丁にてやけ止り
あくる五ツとき風もやみ火
しつまりて諸人やふ〳〵
あんどのおもひをなし候へは
□【そ?】のあらましをしるし申す
【下部】
覚
類焼にて窮民
御 小屋入(こやいり)相願(あいねがひ)候 者(もの)は
居町(ゐまち)町役人(ちやうやくにん)江届(とどけ)に
およばず直(じき)に当所(とうしよ)江
願出(ねがひいづ)べきもの也
但(ただし)
御小屋入之者(おんこやこやいりのもの)日々(ひゞ)
御賄(おんまかない)被下(くだされ)可稼方(かせぐべきかた)は
勝手次第(かつてしだい)当人(とうにん)江は
元手銭(もとでせん)被下(くだされ)候事
御小屋
すじかい
四日市
八丁堀
間口六軒
奥行五十四間
正月十五日類焼人数
《割書:男|女》六万四千三百八十五人
御すくい 《割書:米 三升|銭 弐百文つゝ》
米高 三斗俵に直し
六千四百三十八俵壱斗五升
銭壱両に六貫五百文
金に
〆千九百七十一両
壱貫五百文
【白紙】
かゝる目出度御代に天命のなす
処是非なき珍事おしむへし
爰に弘化四未年三月廿四日夜四ツ
時頃ゟ信州水内郡ゑん近大
地震細末抑善光寺を初めつよ
くゆりうこき堂塔伽羅かへ堂末
社寺院其外人家夥しくゆり崩
れ村里類焼川々のこう水あん
夜の事に而夜もすからしんどうし
然は人馬之損耗も有り
東は丹波嶋川田■松代屋代
戸倉坂本■上田此辺殊につよく
してかい道筋大石道にゆり出
大地さけ田中■小諸追分くつかけ
かるい沢上州口辺まで
南は稲荷山青柳会田刈屋原
岡田■松本辺是亦殊外しん
どうし人家やら焼失してさうとふ
大かたならす近へんの大川水夥しく
【下部】
是が為に人馬の損耗有り
西は長沼へん村々あら町柏原
野尻越後口まで其外遠近
之村里其数あげてかそへ□
□も貴賤の男女老たるを
助け幼をいたいてなけきかな
しむこへ野にみつ山にひゞき
あはれにも亦あまりあり
されは善光寺本堂は聊
破損のうれいなく安泰なる
は三国一の霊仏の
威徳誠に尊き事
ともなり然に御代官亦は
御領主の御手配り殊外
行届類焼洪水のふせきもよく
よく朝六ツ時頃にこと〳〵く止ぬ
兎角人馬の死亡なきは
是て治る御代印なるへし
他国の親族此書を見て安堵成へし
鹿島神詫所(かしましんたくじよ)より鯰共(なまづども)一統(いつとふ)え申 渡(わた)しの事(こと)
一鯰共の義は古来(こらい)より申 渡(わた)し置通(おくとふ)り九ハ病(やま)ひ五七が
雨(あめ)に四ツ日でり六ツ八ツならば風としるべしとの御詠歌(ごゑいか)を
守(まも)り時候(じこう)ふ 順(じゅん)の折(おり)を見あわせ質(しつ)素(そ)に渡世(とせい)致(いた)す
べき処/諸神(しょじん)出雲(いずも)へ御(ご)出仕(しゆつし)の御跡(おんあと)にて先例(せんれい)の
掟(おきて)を背(そむ)き御(ご)府内(ふない)近在(きんざい)とも乱妨(らんぼう)いたし家(いへ)蔵(くら)
身体(しんだい)を
ゆすりちらす
のみならず
どうるいの
出火を
誘引(さそい)
出し
格別(かくべつ)の
風もこれ
なきに
数(す)ヶ所(しよ)焼(やき)
はらひ候段
八百 万(よろづ)の神を
恐(おそれ)れざる
いたし方
ぬらち至極(しごく)に付
四ツ手を以(もつ)て
一疋(いつひき)ももらさず
すくいあげ
蒲(かば)やき所に
おゐて大道(たいどう)さきの
うへ火あふりにも
行(おこな)ふべきところ
格別(かくべつ)の御慈悲(おじひ)を
もつて日本六十 余州(よしう)追放(ついほう)
仰付(おふせつけ)らるゝものなり若(もし)此後 御(お)構(かま)ひ場所(ばしょ)へ立 寄(より)いたぶりがましき義(ぎ)これ有(ある)におゐては
早速(さつそく)地引(じびき)をもつてからめ取(とり)急度(きつと)酒菜(しゆさい)に行(おこな)ふべきものなり《割書:太平元年❘|おち月十日目》
抑 信陽(しんよう)は
郡数十郡高五十
四万七千三百石に及ひ
日本高土第一の国にて尤
山川多く四方に水流なし
上の国にて人はしつそにして名産多
五こく豊ぎようの国也然るはいかなるじ
せつにや有けん弘化四年丁未三月廿四日の
夜より古今 未曾有(みぞう)の大ぢしんにて山川へんじ
寺社人家をつぶし人馬の亡失多く火災
水なんに苦しむ事村里の凶へんつぶさに記し
且は 御上の御仁恵良民救助の御国恩
を後代に知らしめんが為こゝにしるすもつとも
三月陽気過度なること数日廿四日夜四五
時より山なりしんどうなし善光寺の辺別
してつよく夫ぢしんといふより早く大山は
くづれおち水はあぶれ地中めいどうなす
より五寸壱尺又は五尺壱丈と大ちさけ
黒赤のどろ吹出し火炎のごとき物もへ
上り御殿法蔵寺中十八ヶ町の人〳〵は
おし潰され大ちにめり込男女らう少泣声
天にひゞき殊にやちうといひにげ迷ひ大石にう
たれ谷川にはまりらうばい大方ならず其内
八方□火ゑん起りせうしつせり此辺の村々には北
は大峰戸がくし山上松北松しん光寺西条吉村田子
平手宝坂小平落かけ小高大高あら町柏原のじり
赤川せき川の御関所東はこんどう間の御所中の
御所あらき青木嶋大つか間嶋こしまた水沢西寺尾
田中 南の方は北ばら藤枝雨の
宮矢代向八まんし川山田小松
はらこくう蔵山茶臼山丹波島
西はあら安かみや入山田中林
木辺都て乍恐御代官様
御支配の分潰家五千三百
九十軒半潰れ二千二百
軒余但し木品は打
くだけ用には相立す
潰家同様にてし死人は凡二千七百人けが人
□百人程馬百七十三疋牛二疋大ち
にめり込家数廿軒ほ□宮寺四十
六軒郷蔵廿二ケ所是は六万石ば
かりの内也中にもあはれ成は此度善
光寺かいちやうにて諸国参詣の男女
同所止宿の者不知案内にてとほうに
くれ二百人余もおし□うたれて即死
なす一生けんめい御仏に願はんと所の者
旅人本堂にかけ入り一心にねんじたる者
七百八十余人かゝる大災別而此辺つ
よく火難の中に本堂山門けう蔵のみ
破損なくさすが末世の今に至迄三国
でんらいゑんぶたこんの尊ぞうにて利
益の程恐れ尊むべし本堂は広間
十八間奥行三十六間東西南北
四方表門にて寺号は即四つ有
東は定額山善光寺西は不拾山
浄土寺南は南めい山無料無量寿寺
北は北空山雲上寺天台宗に而
寺領千石尼寺にて由来は人
のしる所也扨又水内郡を□
に小ふせ神代あさの大くら
か小沢今井赤坂三ツ又
さかい村茂右衛門村駒きそ
戸隠小泉とかり大坪曽
根北条小さかゐわらひふか
さは第一飯山御城下にて
きびしきちしんにて逃げん
としてはころび足たゝず
あをのけにはうより仕方
もなく老子供は泣叫び
地はさけ土砂を吹出し山々
はくつれ男女乃死亡丁方
にて四百三十人其外在方
多く此内丹波川かは付村
一同に押ながし行方をしらず
更科郡は内小
■まはし本大原
和田古いち■かる
い沢よしはら竹房
今泉三水あんぞこ
小松原くぼ寺中乃
うしろ丁宿家々をた
おす中にも稲荷山に而
廿八軒つぶれたる家は廿
八日には大水におしながし
ゆくゑ不知こゝに岩倉山
といふ高山高さ十八九
丈にて安庭村山平林
むら両村の間に有
此山めいどうなし
あたかも大雷の
ごとく 半面両端崩れ壱ヶ所は三十丁壱ヶ所は八十丁丹波川の上手へおし入近村一同にうつまりこう水
あぶれ七ハ丈も高く数ヶ村湖水のごとく人馬の死ぼう数しれず同少し北の方に六丈ばかりの岩山
有しが是又抜けおち五丁程川中へ押出し土屋藤倉之両村水中へおし入「あつみ郡の分新町と申
所二百八十軒の里こと〳〵く潰れ其侭出火にて焼失なし夫ゟ大水二帖二丈ばかり高くみなぎり目も
当られぬ計りにて宮ぶち犬かひ小梅中曽根ふみ入寺竹くまくら成金町ほそかへしうら町とゞろき村
堀金村小田井中ぼり上下鳥羽住吉長尾柏原七日市御間々べ狐嶋池田町堀の内曽根原宮本
草尾舟堀むら等大破に及ぶ「小さがた郡は秋和生づか上田御ぜうかにしは新丁上小じま下
こじま此辺山なりしんとうなし地中めいどうす今にも大ちがさけるかと此辺のもの共生たる
心ちなくされど大ちのさける程のことはなしといへど家々はつふれけが人多く前田手つか山別所
米沢くつかげならもと一乃沢凡百四十ヶ村ほど「ちくま郡は八まんむら辺至りてつよく度〳〵ゆり返し
にんばそんじ多くほうふく寺七あらし赤ぬた泪村おかだ丁松岡ありかし水くみ松本御ぜうか下辺
百二三ヶ村ふるひつよく庄内田貫ちくま新町あら井永田下新かみ新三みぞ飛騨ゑつちうさかいに至る「佐久郡は小諸御ぜう下西の方は瀧原市町本丁■■村
野和魔獅子
此ノ度(たび)世(よ)に珎(めづ)らしき
野和魔獅子(やかましし)と云 怪獣(くはいぢう)
出(いで)たり抑(そも〳〵)獅子(しし)は其種類(そのしゆるひ)
最多(もつともおゝ)し散財図会(さんざいづゑ)に
委(くはし)く誌(しる)せり先(まづ)「王耶山(おゝやさん)」より【ゟ】
出(いづ)るを《割書:隠居獅子(いんきよしし)|苦累獅子(くるしし)》共(とも)云(いふ)
「ヨアキンド」より出(いづ)るを
《割書:天当獅子(てんとふしゝ)とも云(いふ)|又 加鯰獅子(かなしゝ)共云(ともいふ)》「バンヤ」の
際(わき)「カザリツケ」より【ゟ】 来(きた)るを
《割書:合力獅子(かうりよくしゝ)といゝ|また馬伽羅獅子(ばからしゝ)と云》「ヨバン」より
渡(わた)るを《割書:勢(いき)ひ獅子(しゝ)いゝ又|以也良獅子(いやらしゝ)と云(いふ)》「ヂメン
モチ」より出るを《割書:忌々獅子(いま〳〵しゝ)と云|又(また)長者獅子(てうじやしゝ)と云》
「ゴホフビ」より渡(わた)るを《割書:宇(う)|曽(そ)》
《割書:良獅子(らしゝ)といふ又|神楽獅子(かぐらしゝ)ともいう》たゞ「リウ
コシヤ」より出るは《割書:宇礼獅子(うれしゝ)と|いゝ又 存財(ぞんざい)》
《割書:割書の一とも|いふ》此の野和魔獅子(やかましゝ)は
大民(だいみん)油断(ゆだん)の産(さん)にして
対馬(つしま)の国(くに)に渡(わた)り夫(それ)より
東都(とうと)へ渡(わた)り駆廻(かけまは)る事(こと)は
昼夜(ちうや)休(やすむ)時なし虎(とら)は
嘯(うそぶい)て風(かぜ)を生(しよふ)ずと伝(つとふ)れども
この獣(けもの)は風(かせ)の烈(はげし)きに随(したがつ)て
勢猛(いきおいはげし)く砂煙(すなけむり)をあげ
地響(ぢひゞき)して爪音(つまおと)喧(かまびす)く鉄棒(かなぼふ)の如(ごと)く尻尾(しりを)逆立(さかだち)て割竹(わりだけ)の声(こへ)あり走処(はしるところ)に【「小」では。「小児」で「こども」の振り仮名だと思いますが。】児(こども)の夢(ゆめ)を驚(おど)し
諸【原文の字の旁は「者」ではなく「農」だと思います。とすれば「「濃」で「こまやかな話」の意になりますが自信はありません。】話(はなし)の腰(こし)を折(おる)其災(そのわさはい)多(おゝ)しといへども元来(もと)火防(ひぶせ)の獣(けもの)にして火難(くわなん)少(すくな)きこと不思議(ふしぎ)なり
願(ねがは)くは長(なが)く此 獣(けもの)を養育(よういく)し置(おき)て火防(ひぶせ)となさんことを万民(ばんみん)これのみ悦(よろこ)びぬ
于時火衛御年鼠年(ときにかゑいこねんねづみのとし)
蛮人(ばんにん) 呉狗楼仙伴録(ごくろうせんばんしるす) (半狂)
【上段】
おゝ津ゑぶし
そうかへ
ぶし
【下段】
火の
用心
見立
そうし
【上段・おゝ津ゑぶし・本文】
〽ちくぜんのだざいふに。
ごちんざまします
てんまんごう。これこそあら
たなる。おんやしろ。
じんごうこうくうの ご
こんりう。あまたのうつしは
しよ〳〵にあり。なかにもかめどの
こかいてうはあまたにのほう
けんであめがふる。この
せつはおまへの
ふでの大文字が。
あまたに
よくにて
しきりに
ふりまする。又てりに平川かし天じん
がこぞいてひよりの御きたうする
【下段・火の用心見立てそうし・本文】
木を
いれて
まはり
しかけの
水くるま 素白
叙
君恩四沢(くんおんしたく)に溢(あふれ)店子(たなこ)多(おほ)く露路(ろじ)に寄(よる)
龍越清気(りうこしせいき)を楊(つけ)当番(とうはん)五町(こてう)に秀(ひいつ)とは
とんだ狂詩(きやうし)のもじくりに自身番(ししんはん)の
長役(てうやく)の居 眠(ねむり)を醒(さま)し作者の本名(ほんめう)は弁(へん)
当(とう)の燗徳利(かんとくり)と共(とし)に隠(かく)して笑(おか)し割竹(わりたけ)
サラ〳〵として猫(ねこ)の舌(した)の鈴虫(すゞむし)りん〳〵として冬(ふゆ)なから
秋(あき)に似(に)たり町内(てうない)のかざりつけは大見世(おほみせ)の
二階(にかい)にひとしく鳶(とひ)の者(もの)の懐手(ふところて)も目立(めたゝ) ぬ程(ほど)に
【上段・おゝ津ゑぶし】
〽ゑいほうかたよれ〳〵と。
かなぼうもつて
すぎ王が
詞〽此せつおふれの
きびしいのにつけて
時平公の御だひ
さん。なんときいたか
さくら丸。
よいところでであふたが。
うらみをいおうじやあるまいか。
くるまやらふとうしろ
から。だいおんあげて
まつわう【松王】が
ひきかけた。
このみくるまを
なんとする。
ならばてがらに
とめてみよと
うめまつさくらの
ばつさりにらんでひようしまく
【菅原伝授手習鑑の内容らしい】
【下段・火の用心見立てそうし】
なりしは全(まつた)く公家(おほやけ)の御恵(おんめく)み大雨(おほあめ)のふりし跡(あと)かと
あやしまれ黒(くろ)くなるは天水桶(てんすいおけ)白(しろ)くなるは町内(てうない)
の名札(なふた)赤(あか)いは分別(ふんへつ)盛(さか)りの家主(いゑぬし)のあたま
青(あを)いは地主(ちぬし)にして黄(きい)ろい声(こゑ)で火(ひ)の用心(ようじん)さつ
しやりませうにふと目(め)をさませばかな棒(ぼう)の
音(おと)かん〳〵
維時嘉永五年
冬十月下旬稿成 野暮正銘(印)
春雨や
となり
近所
に
ことなかれ
てうちんを
もつ手に
とゝく
寒さかな
【上部資料右・白紙】
【上部資料左】
火之元 新板中
大(おふ)勢津ゑふし
当(てふ)世
流行(りうこふ)
【下部右】
太平山安楽院
開山(かいさん)たんねん社(しや)金棒(かなはう)上人
かいき也
〽ごしんごんにはおんそろ〳〵
ふいたりや火(くは)事なしそわか
寺中(じちう)・夜(よ)ばん院(いん)
居(ゐ)眠(ねふり)院等(いんとう)あり
本尊(ほんそん)は弁当冷飯如来(へんとうひやめしによらい)
かまの前(まへ)のおさんどん
のこけ作(つく)り
【下部左】
此てらより
火(ひ)防(ふせ)といふ
ぞく防(よけ)いづる
【上段 右丁】
春(はる)のでぞめの・夜(よ)なかのころに・ま組(ぐみ)ら組が
先(さき)に立・またぐら御もんと出おかけりや・それ
じやおしりでさわぐだろ・〼〳〵ひのこはいせい
よく・さつ又【「さすまた(刺股)」に同じ。江戸時代、突棒(つくぼう)、袖搦(そでがらみ)とともに犯罪人や乱暴者などを捕えるのに用いた武器。いわゆる三つ道具の一つ。U字形の鉄製の頭部に木製の長い柄をつけたもので、のど首を押えつけるのに用いた。】お【「を」とあるところ】つゝはらし【「突っ張らし」=棒状のものを押し当てて強く支えること。】・ありやりやんりう
こしをもちやげ【腰を持ち上げ】〼一ばん二はん三はんとつゞ
けて・たがいにいきせきはたらけは・しばしつか
れをやすめんと夜中にさかるははしごもち
【上段 左丁】
此(この)春(はる)のふく風に・せけんはあしきのいろお【「を」とあるところ】なす天水
おけ【防火用に雨水を貯えておく大桶】がくろ黒(くろ)くなり・江戸まち
〳〵の名札が白くなり
・金 持(もち)じぬしはざつぴで青(あほ)くなる・家ぬしはおみき
のかげんでゆるり【「いろり(囲炉裏)のこと】にあたつて赤くなる・店(たな)がりは
ひやうし木かち〳〵おくりばんわり竹をがら〳〵ひいて
ねむゐ目をこすり・きいろなこへ【黄色い声】をはり上て
火の用心さつしやりませうとふれてゆく
【下段 右丁】
廊(くるは)【「廊」は、ひさし、廊下等の意で「くるわ」の意味なし。「廓」とあるところ。】の言葉(ことば)覺(おぼへ)
〽ヲヤはやう 夜まはり
おざりんした 【「「おざりんす」は「ある」、「居る」の丁寧語。】
〽アレサ人かもん 弁当(べんとう)の
すいな くわんどくり【燗徳利】
〽もつとこつちへ つめばんの
およりよ いとこ
〽もうおかへりかへ あけばんの
〽アゝかつかりした ろじばん
〽何(なん)とても
いゝなんし わる口
〽まウやつと 水札を
おしまいか となりへ
〽いつそぐた〳〵 なまゑひの
するよ 長人(てうにん)
〽たいそう あんしん
おだしだね だよ
終(おわり) 以上
【下段 左丁】
おけつこうの鶏(にはとり)
あたま 小判 眼は 百銭
腹は 弐朱金 羽根壹分金
尾は 嶋【縞のこと】のさいふ
〽こりりやこれ佐どの山からいけ
どりました世の中おけこうな には
とりてムリ計御らんの通りみな
人さまのおしいほしいかかたまりまして
一ツを玉子をうみおとしやゝうまるゝに
おひてかよふな鶏と化し一名ヨクト
申しますゑじきにはたなこの外
食ませんサア〳〵となたさまは
よくきをつけて御らんなさいまし
なんとおそろしいものでムリ升
初代一筆座か画きましたよくの
くまたかをこゝににはとりにいたしたのも
やつはり作者のよくでムリ升アゝ銭がほしい金がほしい
【下段 左丁 下部】
鳴(なく)聲(こゑ)
〽 アンタイ
メデタイ
〳〵〳〵
【上部資料右】
おゝい〳〵をゝやさん。そのかぎこつちへかして
おくれ。 家(いへ)ぬしはびつくりはらをたて。いへ〳〵
此かぎはかされません。おふれがやかましゐ。
ようしがあるならばながやへあづけませう
。さて〳〵こまつたおゝやめと。くちこゞと。なん
ぎしごくのひとりもの。路じえ六ツぎり。
こんばんあかねば立すくみ
【上部資料左】
今(いま)の世の。はやりもの。あまたしやうばい
あるなかに。はんじやうは。りうこしや。水
でつほうのあたりどし。しぶい渋(しぶ)やも笑顔(わらいかお)
かじやは金棒(かなほふ)銭(せに)となるおけやはそこぬけ
もうけます。こまるははなしかかうしやくし
。 夜(よ)あきんど。よくに目のないざつとの坊(ほう)も
りよじがひまゆへあんまりむごいとぐちおいう
【下部右】
大(おふ)薬(や)鑵繁(くわんはん)用(やう)寺(じ)
此て寺の門せんには名物いとおほし
更科(さらしな)
〇 蕎麦(そば)長寿庵(てうじゆあん)
砂(すな)場
内田(うちだ)
〇 名酒(めいしゆ)四方(よも)
矢野(やの)
ようかん
〇 餅菓子(もちぐわし)いまさか
玉子のあつやき
【下部左】
〽そも〳〵下戸山上戸寺は
唐(とう)の張入道(てうにうよう)和尚(おせう)
伝来(でんらい)の
本尊(ほんそん)十一 面(めん)
観世音(くわんせおん)
ほさつ
御しんごんには
御そろ〳〵〳〵
のんだり
くつたり
そわか知
【上部右】
さかりばに夜見せなし。くれるとゆはなし木ひ
ろいせわかなし。三廿どんはくろふなし。かなほう
ひつきりなしよまわりひまはなし。よせには
入がなし。たなかりはらくはなし。せうことなし
のねづのばん。せけんにことなし火事はなし
ろじ口は六ツきり出入なし。しめりがあれは風(かせ)
がなしおかみのおふれにぬけめなし
【上部左】
新板
日本(ひのもと)大勢津ゑぶし 上
【下部右】
コレ杢兵衛さん
大そう小間物を
ヲ丶エ□
いけきたない
大そうどぶ
ろくの
にほひ
が
する
コレはち
ゑもどん
おめへそんなに
【下部左】
わらつでいづと
こゝへ来て
薬ても
のませてあけ
ねへな
いけぶせうな
なんだと
もりがさめる
どれおれも
くうべい
其間
八さんかは
らつし
【上部右】
かざで本。やうじん口。【仮名手本忠臣蔵】 夜(よ)まわり夜うちの
いで立で。四十七きのまとい組(ぐみ)大やは大めし
くらの助(すけ)。めい〳〵りゝしき合じるしかけやに
あらぬゆみはりや。 鑓(やり)にまがひのとびぐちで
。 高(こう)めうてからのけし札に。 家(いへ)ぬしはすきはら
をかゝへてわかやへもとりすみべやのかうのものを
ひきづりだしてちやつけくい。ほんもうとげる
【上部左】
へつゝいがしへ店(たな)をかり。かまや堀(ほり)うらなべ丁に。
おたんす町を。かいたい町でたゝみ丁まてしきこんで
幸(さいわい)ばしとおもふたか。うはきをすきや丁で
品川丁女と三田ならかうじ町うちにわちつと
もいなば丁。わたしをばあんまりばと丁にしよウ
でん丁いまさらぐちをいゝだ町もぬしを
代地とおもふゆへ
【下資料右ページ・道標に反転文字で】
よくどうの辻 せ人〇〇【六道の辻の洒落?】
【下資料左ページ】
一ヨリ
▲
御(こ)くろう山(さん)
この山に
の
やしろ
あり
【上部右】
春(はる)風がふきや丁。てりふり丁のそのときは
。火の用心とこへは大坂丁。わり竹丁や金ぼう
のそのおとは丁たかさご丁大家さんは丁内まわり
に北じま丁。すいど丁から水をくみりうこしでや
ねの上のへあげや町。夜るや中ねづに夜ばんお
するが丁それで火事さたさつぱり仲丁
世の中よし丁であんじん丁
【上部左】
六つ切のろじ口で。しめだしくろうたぽん
太郎。たゝゐてもあけてはくれず。いぬにわん〳〵
ほへられて。せんかたしようもなまけもの。
いつそこれから吉原へ。とまりにゆこふと
おもへ共。ごろねするにわぜにはなし。四ツすぎに
四百四びよのやまいより四百なゐのわつらい
もの野(の)じゆくはるのはなさけなや
【下資料・火の用心見立そうし】
なんぢう峠(たうげ)
とうげを越人北八
〽ヤレ〳〵たいぎだのう
弥二さんおらア火事も
おほかたたびへたつてだ
らうとおもふゼエ江戸にや
チヤンともいゝやしねへ
弥二郎
〽ソウヨこれも神のおかたのお心づ
かれたでさぞ下〳〵〳〵のものが
こまるであらうのこのたび
のゆきとゞいたおふれで此なん
ぢうとふげをこして
しまへば五斗天神
さまへおまいり申ておいら
たちも一ツへいツヽもやろうのう
喜多八
ウントコナ〳〵〳〵
此とふげをこすひとは
晦日のぢぞうをしん〴〵
してよし目の下に
氷山ひがけのもり
なしくずしのしろとう
みゆる
【上段資料・おゝ津ゑぶし】
夜(よ)まわりのきびしさに。しんみちうらやの
けいこじよもくれるとひまになりものわ
ぺんともしやんともおとはなし義(ぎ)太 夫(ゆう)はこへ
もふとざをでわり竹元や志ん内のおもて
うらきどあけ□す。火の用心とふれて
ゆく。長うたのなかき夜ばんもかせさわぎ
。きよ元大せ津(つ)文字(もじ)は六 切(ぎり)で〆ります
【上段資料・左ページ】
当世流行新板(とふせいりうこうしんばん)
火之元(ひのもと)大(おゝ)せ津絵(つゑ)ぶし
下
【下段資料・火の用心見立そうし】
〇 五斗天神(ごとうのてんじん) 神主 赤井下総(あかいしたち)
〇さゝのむの尊(みこと)御合殿(ごあいでん)
〇三十□神のやしろ
御朱印(ごしゆいん) 昼夜六百□
当社 造営(ぞうゑい)は元気(げんき)三年亥冬霜月
とりたて也
境内広くしてもつとも風□いよし
五斗天神社(ことうてんじんやしろ)
【上段資料・おゝ津ゑぶし】
風の夜(よ)にめつぽうはやく。ねぼけて出かける
火の用心。さつしやりませうと。三丁金ぼうで。
わり竹がら〴〵うちならし。ろじは六ツ切〆ッ切。
家(いへ)ぬしは詰(つめ)ばしよ仕事する。丁代さんはぢ
しんばんでまじめがほ。中にもひげだらけな番(ばん)
太郎おやじ。火事をながめ。ひようし木たゝゐて
とうい〳〵と。やけばおさして弁当箱(べんとうばこ)のぼりおもて
はしる
【上段資料・左ページ】
安政二卯年
火之用心三十六歌仙 全
【下段資料・火の用心見立そうし】
四文屋仁王の写 〇仁王尊体はかしらは酒たいにし
て水ばんのはんてんをまき
つらは五(こん)の字(し)もやつたる色
にてもつとも赤く▲
▲あたまは
▲□□をまきじやのめしぼりの
三尺のでんきなり口よりさけのにほひが
仁王そんのかたちなり
【下段資料・左ページ】
みくじのうつし【横書き】
三十三番吉【横書き】
列風吹土砂上 れいふうふいてとしやをあける
此時表子木音 このときひやうしきのおかすかけり
番太眠覚寒 ばんたねふりをさましてさむし
地主手前共悪 じぬし手まへもつともわるし
此みぐじにあふ人はめさとくしてよしもつとも二十番神
をひとすじにねがひてよし水なん火なんおほしきを
つけおくべし常にせわくらうおほくきがねありくち
くわほうあり人の上にたつ事わるしいみにくまるゝ事
ありもつともつゝしむべしおのれよりめしたの人をあ
はれみなにごともひかへめにしてよし
【上の資料・右ページ上段】 【上の資料・右ページ下段】
天智天皇 持統天皇
あきたなの はるすぎてうちから
やねまで水を どくの火事ゆへに
たな火けしわが あれ人ともに
からだまでついにぬれつゝ かぎやうかくやま
柿本人丸 山辺赤人
あしよはを 両ごくへうちいで
つれてにげゆく みればみせものゝ
やまのてへしるぺ こやのたかねへ
たづねて一夜かもねん 火のこふりつゝ
猿丸太夫 中納言家持
おくの間のたんす いさゝかのわたせる
ながもち火が にもつせおひいで
ついてすておき うしろをみれば
にげるときぞかなしき よくやけにけり
【上の資料・左ページ上段】 【上の資料・左ページ下段】
安部仲麿 喜撰法師
火のみからふり わがうちは火もとの
さきみればはるか きんしよしかも
なる身よりのへんに るすよふやけたりと
出し火事かも 人はいふなり
小野小町 蝉丸
はなのあな これやこのゆくも
くすぶりにけりな かへるもあきだな
いなづらとゆきゝの をかすもかさぬも
人がながめせしまに おふや衆のむね
僧正遍照 参議篁
みなみかぜくもを またのはら
かすみにやけて 両ごくへんへやけ
くるあさくさ ゆくと人には
だいちでしばしとゞめん つけよみつけそとまで
【下の資料・火の用心見立そうし】
○風ふきは南風
ならい 北おろし
なといたつてはけしく
去明暦三年の大焼に
十万八千人死亡夫よりひきつゝき東都数しれず
こたひおほやけよりめてたきおほせ事をこうむり
火のばんあひつとめ亥冬より子のことしに
いたるまで万民まくらをたかくして
眠らるゝ事世のためしなき政道あほぐべし
尊とむべし
【上の資料・右ページ上段】 【上の資料・右ページ下段】
陽成院 河原左大臣
つくかねの みちもなく
おとよりはやく しのびかへしを
八方へやけぞ こへてにげあしを
つもりてはいとなりぬる いためてわれならなくに
光孝天皇 中納言行平
主のためやけのに たちわかれ
いでゝはいをかく いなかへゆくも
わか小づかいに やけゆへに金を
くきをうりつゝ かりたら又かへりこん
在原業平朝臣 藤原繁行
ちはやふる神の すみなれし
ごばちかこのように ところでやけて
にからのはだかで わき丁へみせをだし
やけいつるとは たでひとめすぐらん
【上の資料左ページ・白紙】
【下の資料・火の用心見立そうし】
欲(よく)の巌窟(かんくつ)
落(おち)る事なかれ落ると
一生あかられず
〽たれもこふいふ
がんくつのある
事は此さく者
よりほかにしる人は
あるまひて
おそろしや〳〵〳〵
なんとみなさん
御用心なさい
まし
深いにかぎりは
ムリ舛セン
慈悲心(ちひしん)のみなと
常(つね)におだやかにして
波(な )かぜなし
安(やす)く世(よ)を
わたる
〽ゆたかなる
人のこゝろの
たいらふね
ゆたの
たゆたに
世や
わたるらん
【上の資料・コマ25で翻刻済み】
【下の資料・火の用心見立てそうし】
草臥相(くたひれそう)
〽火の用心サシヤリませうといふ事も
できねへよひむすびを二ツくつたきりて
はらがへつていけねへ〳〵〳〵ヲイばん太さん
いそがしいナ〽ムゝたれだ長まつどんか
おめへのとこのわかだんなは
どふした〽おらんとこの
わかだんなはちつとしく
じりの一件て本店へ
当ぶんいつてイルヨそふか
どうりて見てなさら
ないとおもつた直して
すてきとさむい かふるへて声か
てやしねへ犬のあしをふむめへヨキヤンノ〳〵それ見たか
いくふむなといふのにキヤレホイおれもけつまついた
店子(たなこ)か骨(ほね)ををり相
〽源こう手(て)めへは
玄馬かおらア龍吐水
の役ヨ
わたしや
龍越
ぬしは玄馬【玄蕃桶=消火道具】
やかてこゝまなきよく【まゝ」では。この部分意味がよく判らない】に
おけならはツとんたはるさめ【春雨】たアヽ
さむい〳〵〳〵モウ四五軒水をあげたら
自身ばん【自身番】で一へい【一杯】おみきをあけな
くちやにつちもさつちも
いけねへ龍吐水の水の音
キイチヨ〳〵〳〵
【上の資料・コマ25で翻刻済み】
【下の資料】
家主(いへぬし)が閙敷相(いそがしそう)
〽杢兵衛さんおはやうまだだれも
つめませぬかどふもいけづるいことだ
丁内にももうふるひ人がないから
せはがやけてならぬそれに出役が
しんざん【新参】だからみんなわしが所へ
もちこむじやて龍吐水の注文だの
げんば【玄蕃桶】の泡たのとナニ半天ができてき
たとみせなせへゑりじ【襟の字?】がなんたかちつ
ともわからねへト《割書:目かねを|かけて》フトウかたじ【片字?=略字】で店
はんかむづかしくかいた物たなんたと
またかなほう【金棒】を折たどふもなら
ねへ丁入用かおゝいから地主にもきの
とくてム【ござる?】はて早々又地主からよひに【呼びに】
きたとかやれ〳〵せはしねへことた
がとられ相
ハテこまつたものじやてとしも
てうど三〆【貫】五百目ほども
たらぬじやおれもなこう
おきかてめへはならぬサカイニ
チツトのうちとうち【湯治】にでも
いつてきをはらしてこよふか
しらんエヽハこれもたなこの
御奉公とおもふて十五□【文?】も
地面うちの子とも
せぎやう【施行】をだソウカ
いや〳〵〳〵よそう〳〵いや
とんとやくたいしやトヽとうも
あんじがつかんやつはり家守の
いひなりほうたいにこゝろよく出てやるがヨイハ
【上の資料・コマ25で翻刻済み】
【下の資料】
商(あきな)ひがひま相
〽イヤ伊せまんさん【伊勢万のような屋号?】いふへ【昨夜?】三平さんの市へ
いきさつたかなんたかよみせも
うれぬと見へてそこらじう
からもつて来てうりてばかり
しやホン〳〵〳〵此ころは
ひどいものでいやばんせんだ
かけせんだのととられるはかり
おきやくはたゝずいちにあくひと
引はりしや此上についかし
ほんの一冊もかりてよむとじき
に夫レ四百と五百さんざいが
できまするいやはや
ひまなことでムルテ
よせ【寄席】は入がなさ相
見物かいふ
〽モウ四ツか 〽いゝエまたて
ムリ舛ヘイあなた半札
をおもちなさいまし
ヘイおかいなさいまし
明ばんはきつとしん生が
出席いたし舛〽また出る〳〵と
いつていくばんもつられるやつさ
あしたのばんてねへとあさつてから
只でんぼうで見にくるぜ〽へゝゝゝ
〽しかし勝二郎の火事のおとしばなしは
ヨク出来たおゝかた都々(どゝ)一坊も
これじやとつらりとんても出来た
ろう〽明後日は扇歌と舞鶴か 出席いたされます▲
▲〽ヘイあなた
おかへりなさいよし
【上の資料・コマ25で翻刻済み】
【下の資料】
おさんどん
おこされ相
おらか のおかみ
さんはだんなさんが夜ばんに
じしんばんの時はよひつて【「宵居て:夜更けまで起きていること」が話し言葉でつづまって「よひ(い)って」となったと思われる。】エ
何かぐす〴〵〳〵おきていてあさ
かただんながかへるといつしよに
旦那の中にのたくりこんで
ねていなさるそれほど
ていしゆがこいしけりや
いへぬしの女房にならなけりや
よいにコレをおもやあこれからいへぬしの
女房にやおれがまご子の代までも
さぞやあしねへ火をうつおと
カチ〳〵〳〵
女房(にようぼう)
独(ひと)り寐(ね)さむし相
ひるま亀さんが為永
の中本をかしておくれた
からあんまりねられ
ないからはんぶんば
かりよんだらモウいつそ
おつなきになつて耳(みゝ)が
あつくなつてうちまたが
いつそもしやくしやして
ホンニ〳〵モウいへぬしの女房
なんぞになるものじやねへ
モウ七ツまゝや一時か半
ときとおもやうおもふ
ほとふところさむしくつてねられやアし ねへチヨツ
〽アヽいゝかげんにかへりそふなものだのう とろ〳〵と寐(ね)ると
うちの人のゆめを
見てホンニ〳〵〳〵
しれつてへのう
【上の資料・コマ25で翻刻済み】
【下の資料】
ろじばんの人さむ相
ろじばんの人はな□【「かた」カ。8行目の「はだ」の「た」に相似。】
〽はるさめにびつしよりぬるゝ
よまわりのおかげてになふ
□【水?】さへもはだにさはりていちらしや
じぬしでさへもひとすじに
ねずにさはいできがもめる若しや
ねむるしぬしはばんやがて四月五月になるならば
ヲヽうれしいじやないかいなサアサばんでもよいかいな引
ヲヽさむい〳〵どぶろくぐらいじや中々おつつかない
此図わ地震の吉凶の実正をたゞし粉れ
なきを集め明細に出板仕候
《題:《割書:江戸|地震》類焼場所図》
【下段へ】
安政二卯十月二日夜四つ時江戸大地震後出火所々に有之候場所を見廻り明細に書写又地
震の次第わ図江色わけにて大中上と印を付彫刻仕候㊀新吉原江戸丁一丁目二丁目京丁一丁目
二丁目角丁楊屋丁伏見丁仲の丁不残焼失五十間わ残郭中土蔵一ケ所も不残失焼②土手下田丁辺より
出火山川丁北の方少し残り竹門馬道北新丁猿若丁三丁目より一丁目三芝居ひがし新道わ東かわ残り候
山の宿片かは花川戸わ少しにて焼留藪の内いろは長屋寺々十ケ寺斗焼申候㊂小塚原丁遊女屋不残
下宿共焼又今戸橋きわ半丁斗焼橋場半丁斗やけ候㊃駒形横丁より出駒形両かわ諏訪丁黒舟丁両側
三好丁御馬屋河岸にて焼留り候㊄東御門跡前菊屋橋角半斗焼又一口わ堂前斗やける㊅下谷坂本
壱丁目二丁目三丁目まで両側やけ候㊆下谷上の広小路中程より出火大門丁上野丁一丁目二丁目伊藤松坂屋土蔵
九戸前共不残失焼同朋丁新黒門丁上野御家来屋敷御成道井上様少し焼車坂丁長者丁一丁目二丁目下
谷町代地中御徒士丁御旅【「旗」カ】本屋鋪凡五十軒程焼申候㊇御成通石川主殿頭様黒田豊前守様
御類焼㊈下谷池之端茅丁一丁目出火
同堺稲荷きわにて焼留り申候是
より上
御公儀様より御救小屋御立
被下置候場所左通り
幸橋御内外原
浅草広小路
深川海辺新田
同所八幡境内
上野山下火除地
東叡山御救小屋
同所山下原
街道近郷聞書
東海道金川
程ケ谷近辺
江之島鎌倉
三崎浦賀辺
中山道は
上州高崎限
此往来地われ
砂出る所又水
吹出る所有之
日光道は
宇都宮限り
草加川口へん
大崩有之候
甲州道は
八王子限りに
て格別事無
水戸街道は
土浦辺限り
往来崩る所
有之由
下総は成田辺
八日市ば辺限り
上総房州辺
格別事有之
候由
大阪は九月廿
八日地しんゆり
て大そんじの所
候由
尾州三州辺
美濃信州辺
江戸同時にゆ
り申候由
此外国々わ
格別之事無
御座候由
紫 御門跡
紅 出火所
黄 所名
藍 川筋
肉 大崩
鼠 中崩
草 小崩
【記号】神社
【記号】仏閣
【記号】見附
【記号】大道
二千枚限禁売買
【上段へ】
㊉神田橋御門内酒井雅楽頭様両御屋鋪辰
み口角森川出羽守様御類焼⑪和田倉御門内
尾張御番所松平肥後守様両御屋鋪松平
下総守様内藤紀伊守様御類焼⑫八代洲
河岸遠藤但馬守様松平相模守様御火消
屋鋪御類焼火之見斗残り候⑬日比谷御門内
松平肥前守様毛利様裏御門少し焼有馬
備後守様南部美濃守様薩州様製装束屋
敷御類焼⑭幸橋御門内松平甲斐守様伊
東修理太夫様亀井隠岐様御屋鋪一棟
御失焼⑮外桜田兼房丁少し松平
兵部守様御長屋少し御失焼⑯芝
柴井丁両側一丁焼⑰京橋南
鍛冶丁畳丁五郎兵衞丁南伝
馬丁二丁目三丁目具足丁柳丁
竹河岸炭丁稲葉丁常盤丁
本材木丁八丁目迄焼⑱鉄砲
洲十軒丁松平淡路守様御類
焼⑲霊岸嶋大川端丁塩丁
四日市丁銀丁南新堀河岸迄
焼⑳深川相川丁熊井丁蛤丁
富吉丁もろ丁北川丁中嶋丁
大嶋丁黒江丁永代寺門前丁一
の鳥居仲丁山本丁八幡門前
にて留又一口わ伊勢崎丁一丁目
二丁目㉑深川元丁御蔵一ケ所
八名川丁日向様井上様御組
屋鋪木下様火の見斗り殘る
御舟蔵前歯神社大佛殿役所
御旗本五六軒焼北六軒堀
南六軒堀神明社わのこり
門前丁森下丁井上様少し焼る
夫ゟ常盤丁一丁目二丁目太田様
少し焼る㉒扇橋土井大炊頭様
御類焼㉓本所緑丁一丁目二丁目
四丁目五丁目花丁し木橋きわ
迄焼㉔亀井戸天神門前半丁
斗やける㉕五つ目渡し場の所
半丁斗焼㉖徳右衛門丁一丁目
二丁目焼㉗石原弁天小路焼
㉘同中の郷表丁松平周防守
様焼㉙小梅瓦丁小倉庵やける
㉚浜丁水野出羽守様少し焼る
㉛小川丁松平駿河守様戸田様
堀田備中守様半井出雲守様溝口様
佐藤様伏屋様大久保様柘植様榊
原式部大輔様御長屋一棟焼ル神織部様
荒川様曽我様近藤様本多様新見様
小林様河内様御火消屋鋪本多出雲守様
戸田加賀守様御類焼長谷川様本郷丹後守様
松平紀伊守様一色丹後守様松平駿河守様御組
屋鋪加藤様一色様冬木様本間様大森様本目様
中条様山本様黒川様半焼にて留㉜小石川牛天神下
すわ丁半丁斗焼る㉝二御台場御失焼出火わ三日午の刻に畢候
【地図内文字】
【㊂辺から】
㊂
遊女屋
小塚原 丁仲くずれ
其出火けか人
多し
百性家
大ずれ 田中 大地われる
日本堤 今戸 銭座
土手 はしより
さける 半丁やける
【㊀㊁㊅辺】
大くずれ
大おんじまへ【?】㊀
寺々大いたみ 五丁町 田丁
坂本 よし原 吉原 六郷【?】様 ㊁ 瓦丁
入谷 大くずれ 中そんじ 芝居
大くずれ 其上出火 馬屋【?】
㊅坂本 けが人多し 【横書き】五丁とうり
御切子丁辺 くりんまる 花川戸
上の御救小屋 此の辺中いたみ 浅草寺
山下 此の辺中いたみ 別段なし
御救小屋 堂前 【横書き】東御門跡座る
【㊃㊄㊆辺】
㊄ 広小じ
㊆ 慶とくじまへ 御救小屋 材木丁 駒形
大そん 中いたみ 大たみ 大いたみ 大川橋
じ 下谷 寺丁 阿べ川丁 三けん丁
出火 此へん
中いたみ 浅草 ㊃
此へん
中そん 三味線堀 蔵まへ曲り
じ 中そんじ 中いたみ
御成道
おおそんじ 佐久間丁 御屋敷
すじかい御門 中いたみ 御蔵
福井丁 かや丁
平ゑ丁 代地
もみくら 柳はら あさくさ御門
大そんじ
お玉がいけ
今川ばし 程代
中そんじ 馬喰丁 やしき 両国橋
石丁 横山丁
本丁 大伝馬丁 かく別事なし
中 ほりどめ 中くずれ
せと物丁 人形丁通り 御やしき
いせ丁 ㉚ 新大橋
堺丁 浜丁 安藤様 大くずれ
小田はら丁 中くずれ
江戸はし 小網丁 田安様
北しんほり か相さき【?】 永代橋
日本橋 四日市 かやば丁
材木丁 中そんじ
此へん 八丁堀 南しんほり ⑲
上々 此へん中くずれ 大くずれ 黒岸島
此へん上
木挽丁 鉄炮洲
上々 ⑱ 大くずれ
西御門跡 無事
つきじ 中くずれ
此へん
御屋敷 浜御殿
方少し
かく別の
事なし
大くずれ
御やしき
方
中そんじ
大そんじ
【地図の右下】
中いたみ
向島 百姓大いたみ
土手さけ砂吹なし
㉙
小梅 尾丁
御やしき 大いたみ
此へん ㉘
大いたみ 中のや
石原 ㉗此へん大いたみ
御やしき 亀井戸 ㉔
わり下水
本所 御救小屋
御竹蔵 五つ目 ㉕
よこあみ 緑丁 けが人多し大いたみ
いたみいん
い□□ ㉓緑丁一二三四 ㉖
はするく 五花丁 伝右衛門
大そんじ 此へん小屋しくさ大そんじ
六軒堀 ㉒
しんめい㉑ 扇橋
蔵 高ばし 大そんじ
御救小屋 遠下丁
海辺
新田 深川 此へん大そんじ
大工丁 木場
大くずれ 寺々
相川丁 御救小屋
⑳ 土蔵一か所 八幡地中
中くずれ 黒江丁
山本丁
仲丁 佃丁 すさき
大くずれ 佃島
二番御台場
㉝
【北付近から上左】
北
千住草加 此へん大くずれ
王子 近へん大そんじ しん丁
稲付へんわ 三川島 みの端
百姓家 大そんじ
少しいたみ 有々し候
日くらし 此へん 此近辺百姓 此へん大たれ
御やしき 大そんじ所
中いたみ 有々し 金杉
此へん 此へん少し 此辺少しいたみ 此辺
中くずれ いたみ 谷中 天王寺 かく別事なし
駒込 千駄木
上候 根津 丁家 根岸
すがも 中そんじ こんはん無る
白山 寺々 加州様
中くす 御やしき はすいけ
れ 少しそんじ 弁天 東えい山 □□地中少し
中くずれ ㊈
土蔵わ 此へん 本郷 中そんじ 池之端
大くずれ 穴むろくずれ 湯島 天神 中そんじ
音羽 小石川 竹丁 明神社
このへん ㉛ でんつういん 中そんじ 中そんじ ㊇
大そんじ 水戸様 上 聖堂 中そんじ
御やしき
水道丁 此へん中たれ
大そんじ 牛込 御やしき
此へん中そんじ
市ヶ谷 八まん
尾州様
西
中そんじ
水道とよ吹わく
四ツ谷
大そんじ
紀州様
大そんじ てんま丁 田丁
きか□け
あろこし
赤坂 すべて此のへん 御やしき方
青山 少くずれ かるし上分 中くずれ
此へん大くずれ 御やしき方 御救小屋 芝口
寺々 少し 外桜田 ⑮はんはら丁 中くずれ
渋谷 いたみ 御やしき方少しそんじ
此へん中くずれ 谷丁 御やしき上々 中くずれ 袋井丁 ⑯
市□丁 中くずれ 西久保 宇田川丁
桜田丁 麻布 吹手丁 二丁まで大くずれ
い廿はし 残土十だん 下谷丁上々 神明社
三ツんや 少しそんじ 飯倉 山門かく別事なし 増上寺
広尾 そうしき 長坂近へん少しぐずれ 中それ
此へん原 御やしき 三田 薩州様 院松丁金杉 本芝
多きゆへ 少しいたみ 金杉
少し 此へん中すれ
此へん寺と ばも土蔵
土蔵大いたみと のこらずくずれ
下丁よりはかるこし
白根
目黒へん 由丁
かるし 少しくずれ
南
【御城周辺】
此へん大くずれ
小川丁 ㉛ するがだい中
此へん御やしき すだ丁
少しくずれ 神田 なべ丁
飯田丁 中くずれ かじ丁
此へん御やしき 三川丁
とくべつ 原 中そんじ
の事 御やしき方 田安様
なし 中くずれ 清水様
永田丁
此へん 上々 本丁 しろ銀丁
かく別の事 天神 一ツ橋様 御屋敷
なし 中 中そんじ 両かへ丁
麹丁 辰の口 中そんじ 此辺上々
此へん 御城 ㊉ かく別事 いしばし
中そんじ 此へん 日本橋
御やしき 此へんかた 少 御屋敷 まき丁 中々
少し 御やしき方 ⑪ くずれ 中そんじ ⑰
くずれ かく別事 和田倉 ⑫ あわ様
なし 上々 八代洲河岸 中
御やしき方 黒田様 日比谷 土井様 上々
少しいたみ 雲州様 ⑬ 中そんじ 京橋
中そんじ 中そんじ 中そんじ すきや
ためいけ 山王社 霞ヶ関 幸橋内 かし ぎんざ
大そんじ 上々 おなり丁
真田様 ⑭ 八けん丁 道辺上々
元(もと)は 重(おも)たつ人か見まはりてとふそ火出(ひだ)しにならぬ
元は念(ねん)を入見よ客(きゃく)あつて大火をたきしあとの
元は夏(なつ)はねむりて蚊屋(かや)かやり冬(ふゆ)さむがりのこたつ
元はひるは留主(るす)より夜(よ)は二 階(かい)納屋(なや)えん下をとくと
元は大工 左官(さくわん)のかんなくづたきちらしたる場所(ばしよ)の
元はきせるてうちん火 打(うち)ばこ付(つけ)木(き)物(もの)かげしそく
元は風呂場(ふろば)とり灰(はい)火けし壺(つほ)火に縁(えん)のあるところ
為(ため)にはしご水 籠(かご)水はゝき火たゝき鳶(とび)觜(くち)そろふ
為に 蔵(くら)の戸前(とまへ)やつち戸(と)をは折々たてゝうこく【最後のあたりは自信ないです…】
為にわらし手拭(てぬくひ)たすき帯(おひ)くすりにつかひ常(つね)に
為に着替(きかへ)のきものさためおけすはやといへる時の
為に手(て)桶(をけ)水がめ桶(をけ)の類(るい)よるは一はいみづの
為によるはなかすな風呂(ふろ)の湯(ゆ)も燃立(もえたつ)火をはしめす
為に常(つね)に見まはれ鼠(ねすみ)あなはそんなきやと蔵(くら)の
時(とき)は老人(らうしん)子供(ことも)病人(ひやうにん)を怪我(けが)せぬやうににかす
時は内仏(ないぶつ)過去帳(くはこちやう)諸(しよ)帳(ちやう)めんしよう文(もん)類(るい)をいたす
時は蔵(くら)にいれすと大せつなものはもちぬきやかぬ
時はとちめんぼうふるな長持(なかもち)やたんすの棒(ぼう)を兼(かね)て
時は盗人(ぬすひと)多(おほ)くある物ぞ顔(かほ)みて荷物(にもつ)わたす
時は火のある火鉢(はち)火入なとあはてゝ蔵(くら)へいれぬ
時は金銀(きんぎん)なとに目かくれて大事(だいじ)の命(いのち)すてぬ
火之用心
天へんかぎりなし
五穀大安売
乍恐取越御苦労を以奉申上候
一大雨の砌御座候得共益御きらひ能被遊ごろ急惑至極
奉存候光レは私見世数年来夕立類売買仕罷在候処
夜中 班鐘(はんしやう)仕 難(がたく)明(あけ)ケ仕合奉存候光ル処此度雨風の上風流
黒雲夕立類山々より沢山仕入仕可相成丈御おどろき第一仕且又常々
奉御天気 預(あづかり)候に付よふきのため下直奉差上候間へそ開き
当日より御きび〳〵敷御落雷被成下不限 昼夜(ちうやに)ごろ々向被仰付
被下置候様奉希候以上
【お品書き上段】
一所々おつこちしぼりちりめん
一まつさほかほ色木綿地
一観音経染一心不乱ちりめん
一蚊屋の中一トはゞみ
一おつかなびつくり色御望羽織地
一往来ひつそりかん紗御羽織地
一雷おつこち杉の木ぶつさき御羽織地
一八日もめん御地伴地
【お品書き下段】
一念仏 題(たい)目ゆふき木綿
一案心したよく朝御上下地
一又鳴り苦労びろふど御帯地
一夜一トよねづにもめん
一年代記にのるだろふ引さらさ御かひ巻地
一雷おつこち評判きく紋縮緬
一富士南風おりちりめん
一とらのかわ御した帯地
御婚姻御規式鶴亀松竹梅御模様大雨大振袖物仕立念入
下直奉差上候以上 但雲切品々下直奉差上候
【のれん上・横書き】
御目印
【のれん下】
天竺えちよと上る町同店
江戸驚天馬町弐丁目
雷まる店
八月八日 当日麁景御座候得共
梅の守奉差上候
【右頁】
雷■年暦并場所■
天智九年京都法隆寺雷火 仁和二年京都東寺塔雷火
当年迄千百六十五年 同 九百四十九年に成
延喜三年三月十六日京都大雷 延長八年大雷清涼殿へ落る所々
同 九百十六年に成 同 九百五年に成
久安五年高野山え落る大塔雷火 永禄六年京都東寺らい火
同 六百八十六年に成 同 二百七十二年に成
寛文五年大雷大坂表雷火 寛延三年京都大坂大雷所々落る
同 百七十年に成 同 八十三年に成
寛政十年京都大仏殿雷火 嘉永三年江戸大雷百弐ヶ所
同五十三年に成 落る
いにしへより大雷右之如く常といへどもいまだ今年のごとき大がみなりをきかす
夫天地不時の勢動は陰陽混じたゝかふの理也此故に陽気陰につゝまれて地にある
時は動いて地震をなす陰気のこり陽気にさそはれて天に昇りてこへをはつす
これを雷といふ皆是これ等は豊年のきざし也時に嘉永三年戌八月八日の夜
江戸表をはじめ関ハ州其外国々共にはたゝがみ【霹靂神】すさましく稲妻ははためき
わたりまなこをつらぬく如く女小児はおそれさはぐといへどもじつは出来秋のみ入よしとぞおも
はれける抑雷神は陽徳のものなれば陰しつをはらい邪気を
さんず此故にしつ気をうけす悪病おこらず或は五穀を始め
野さいもの又はなりくだ物すべて田畑野山に生する物熟してみのりよしとかやされば此秋
天幸ひを万民に下し玉ふ所なれば幸ひの下りし場所と小細に
しんして遠境の人らに豊年のことぶきをしらせはへくなり
鳴神御下り場所
【左頁上段】
柴打丁一海手 一下谷二ヶ所
一神明丁海町町 一ゆしま
一つきち 一つまごひ坂上
一西久保かはらけ町一本郷元丁
一もりもと 一浅草もり丁
一天徳寺 一本所立川 三ヶ所
一芝松本町 一同 石原
一赤羽根 一同 釜屋掘
一白金台丁 一浅草誓願寺
一伊皿子揃木谷 一深川北川丁
一麻布百性丁 一八丁ぼり
一同 広尾 一元浜丁
一赤坂牛なき坂上 一青山十八ヶ所
一いづみばし向 一番丁八ヶ所
○所々の立木
さける
うち
にも
もけて
青山
八五升
の
松■
二抱
年
の
大木
なり
しが
根本まで
真ッ二ッに
さけて
たわらの
ごとくになる
【左頁中段】
在方之分
一浮田 雷火にて少々やける
一船ほり
一千住
海の■
一品川沖也 三ヶ所
一船橋沖也 弐ヶ所
○
此内
一生■五ヶ所有之候
御上屋敷
一紀州様 表長屋
杉の木 千駄ヶ谷
一雷火にて焼る 紀州様御屋鋪
御家老
一尾州様 成瀬隼人正様
同
一同 竹腰兵部少輔様
一門番所鬼瓦 東ノ方通用ノ■
并■■さける 水戸様表御門
一表門敷石 松平陸奥守様
そんじ 御上屋鋪
本村丁
一榧の木 松平陸奥守様
さける 御中屋敷
三田寺丁
一杉の木 松平肥後守様
さける 御下屋敷
一芝新銭座 同
御中屋鋪
一同所 森越中守様
一向柳原 井伊兵部少輔様
■市古川
一池の中へ落る 松平八十郎様
池水湯になる
表 二番丁
一中間部屋へ落る 戸田平左衛門様
青山権田原続六道御すきや同心
一垣根際へ落る 荒川豊吉様
四谷安東寺門前■新屋敷小■■
一地内芋畑へ落る 松浦源太郎様
伊賀坂
一小石川 武士屋鋪
千駄ヶ谷
一立木へ落る 鎮守 八幡宮
一中渋谷 百性 安五郎
上野御別当
一御林の間へ落る 寒松院
松の木さける
【左頁下段】
芝新網町代地
一土蔵え落る 家持 藤兵衛
飯倉五丁目
一二階へ落る 家持 貫治
柱弐本さける
同 ■ばやしき
一玉蔵へ落る 家主 長右衛門
■打くだく
一土蔵鬼瓦打砕 神田 丁壱丁目
蔵前へ落る ■■屋新兵衛
一居宅へ落る 深川八名川丁藤兵衛店
柱弐本さける 新兵衛
麻布日ヶ窪
一浄土宗 徳乗院墓所
一二階庇へ落る 飯田丁中仮■■店
柱弐本さける 源蔵
三番空き地
一松の木二本さける 護持院ヶ原
一庇合え落る をはり丁二丁目七兵衛店
各柱一本さける 周介
一庇へ落る 宇田川丁東うら通り
音での御死 医者 佐藤氏
一かし米蔵へ落る 表■■八丁又左衛門
当火にてやける ■■■■■■■七
一土蔵へ落る 品川丁うらがし
鬼瓦けらは共砕 持家 平作
一 へ落ちる
比は安政二卯十月二日夜四つ時俄に大地震ゆり出し江戸廿里四方人家損亡おびただしく\t
北の方御府内千住宿大にゆりつふれ小塚原は家並残らす崩れて中程より出火して一軒も
残りなく焼失新吉原は一時に五丁まち残らず崩れ其上江戸丁一丁目より出火諸々にもへうつり又々
角丁より出火して大門口迄焼五十間西側半分残る也その先幸手辺まで花川戸山の宿聖天丁
此へん焼る芝居丁三丁共残りなり焼る馬道大半崩れ焼る也浅草観音はつゝがなくかみなり門
崩れ地内残らず崩れ並木通り残らずすわ町より出火して夫より駒形迄焼る又田原丁三軒丁
辺は少々なり御蔵前通りかや丁二丁目大にゆり浅草見付は石垣飛出る又馬喰丁辺横山町
大門通大伝馬丁塩丁小伝馬丁へん裏表通り大半崩れ両国むかふ本所は石原より出火
して立川通り相生丁林丁緑丁辺迄焼る又小梅通り引船へん迄出火深川は八幡の鳥居の
所より相川丁蛤町まで一えんに焼る又下谷辺は坂本より車坂辺諸々崩三枚橋廣小路伊東松坂
の所迄焼る夫より池の端仲丁裏通り崩表通りあらまし残る御成道石川様焼る根津二丁茅屋丁通り
壱丁目より二丁目迄焼るむゑん坂上は松平備後守様御屋敷焼る千駄木団子坂此辺三軒つぶれ谷中
善光寺坂上少々残るなり根津二丁共惣崩れ中程にて二三間残るなり又丸山白山けいせいがくほ辺大ぶ
崩れ本郷より出火して湯嶋切通しまで焼此所加州様御火消にて消口をとる湯嶋天神の社
少々いたみ門前は三組丁まで残らず崩れ両側土蔵残りなくふるふ又家通りはだるま横丁新丁家大川
ばたけ横根坂此辺かるしむろわれて大地一尺程さける妻恋坂は稲荷本社の土蔵少々崩れ御宮は
つゝがなし丁内は一軒も崩れず夫より坂下建部様内藤様御屋敷表長屋崩れ東えい山地中大半崩れ
本堂つゝがなし昌平橋通は神田同御台所丁旅籠丁金沢丁残らずくずれ筋違御見附少々いたみ
内神田外神田共残らずふるふ也大通りは神田須田丁新石町鍋丁かぢ丁今川橋迄裏丁
表丁百三十六ケ町ほど残らずくずれ先は十間店より日本橋表通り西川岸より呉服丁近辺
東中通りは四日市魚がしよりくれ正丁へん迄所々大くづれ又大通りは南かぢ町より出火して南伝馬丁
二丁目南大工丁畳丁五郎兵衛丁東は具足丁常盤町因幡丁しら魚屋西こんや丁迄焼る京橋
向ふは新橋辺まで崩れる夫より芝口は紫井丁宇田川丁残らず焼る也又神明前より三嶋丁
へん残らず崩れ又金杉より芝橋までしよ〳〵崩れる高なわ十八丁のこらず大地壱尺
ほどわれたり品川までそんじ芝表通りは御浜御殿少々いたむ佃島も右同断夫より芝
赤羽根通りより麻布広尾へんまでしよ〳〵崩れ出火ありまた山の手は四ツ谷かうじ丁
武家地寺院堂社のくづるゝことおびただしく御城内は寅の御門よりかすみが関は大小名
あまたそんずといへども安芸様黒田様は格別のことなし八代洲河岸はうへ村様
松平相模守様火消やしきのこらず焼るなり又和田倉内は松平下ふさの守様松平
肥後守様此へん大にふるふ夫より神田橋御門内は坂井左衛門様森川出羽守様大に崩れ小川
丁は本郷丹後守様松平紀伊守様榊原式部大輔様板くら様戸田様此へん残らず
焼る又牛込より小石川伝通院門前のこらず崩ればん町より飯田町お茶の水辺大に
ふるふ筑地門跡本堂はつゝがなく地中過半崩る小田原丁よりあさりがし向は御はた本様方御家人衆御屋敷残り
なくふるふおよそ町の間出火三拾七か所家数寺院堂社の損亡いち〳〵かぞへあぐるにいとま
あらず又東海道は川崎宿少々神奈川宿は大にふるひ大半崩れ程ケ谷宿は少々戸塚
宿はしよ〳〵ふるふ又藤沢平塚大磯小田原辺迄格別の事なしといへども諸々ふるひいたむ仲仙道
は板橋よりわらび宿浦和あげ尾大宮迄は大にふるひ其先は熊が谷宿まで所々ふるふ日光街道は草加宿
越ケ谷格別の事なしといへどもしよ〳〵いたみさみづ大もりへん御府内四里四方五千七百余
諸々ふるふ又水戸街道は市川松戸うしく宿辺下総口は行徳船橋辺はわけておびただしくふるふ奥州街
道は宇津の宮辺までふるふ又青梅街道は半能□ざきちゝぶ大宮辺迄ゆりふるふかゝる凶変は
古今未曾有にして明暦火災の度にいやまして死亡おひただしくその数いくばくといふこと量しるべからす死人は車
馬につみ船にのせて寺院へ送る誠にめもあてられぬ形勢也かゝる大変も翌日になりては火も消地震も折〳〵ふるふど
いへども格別の事なし一町数五千三百七十余崩一御屋敷弐千五百六十余軒損そ一寺院
堂社三万九千六百三十ヶ所一土蔵の数五億八万九千七百八十六ヶ所かく家やしきを失
ひたる軽き者へはそれ〳〵御手当御救米被下置四民安堵に帰し皷腹して御仁徳あふぎ
奉るは実に目出度事どもなり
【絵図四角内文字】
大名こふし
七分焼る
昨日迄書上ケ分料より化我人
十九万三千八百五十人
寺々より死人二十五万四百八十八人
神田へん
あざぶ
ひろを
大音寺
日本はし
此辺少しかるし
赤羽弥
南伝馬丁二
南大工丁
畳丁
五郎兵衛丁 はしば
具足丁
ときは丁
いなば丁
品川
西こんや丁
しら魚やしき
荒井丁 吉原 今戸
宇田川丁
佃島
しんち 永代ばし さんや
田原丁
三軒丁 観音
大はし 芝居町:
深川八まん すは丁 田丁
相川丁 こまかた
蛤丁 並木 馬道
ときは丁
六間ぼり 花川戸 小塚原
おふなくらまへ 山の宿
すさき
石原
あずまばし
ばんば:
立川
緑丁
小梅
引ふね
【上部資料】
風抜(かぜぬき)申一 対(たい)之事
一我等 風邪(ふうじや)共之儀上方筋ゟおゝくれ〳〵とわら人形
などこしらへおくりこさせ無拠江戸中
数多(あまた)流行いたさせ皆様え対(たい)し
鼻(はな)水風はおろかづゝう身ふし
をいたませせんき【疝気】すばく【寄生虫で起こる病気】など
もてつたわせ湯やかみゆひ
床(どこ)までも御なんぎ相掛候致
方全以風邪にて玉子酒のうえ上大
ねつをはつし前後ぼうきやく仕今さら
うはことの申 訳(わけ)も無御座候然る処 既(すで)に法印
様え御 願(ねがひ)被成かじ御きとうにも可及候
処 薬店(やくてん)方御さじかけんをもつてさ
つそくはつさん被致候段がた〳〵さむけ仕
なく奉存候然る上は向後急度要心致し
はつくしやみにても致候はゞ大 夜着(よぎ)を引かぶり
あせをとりふり出しかつこんとう【葛根湯】にておひはらひ可申
万一右躰の引風有之候節はあんまそく力をたのみ一合
引かけ相休さつそく全快(ぜんくわい)致ぶりかへし申間敷候風邪の
ため仍而くしやみの如し だら〳〵花水橋でたらめ邪道
安心四年なんと正月 当人 大坂屋元太郎
いくじは中橋のう天横丁
仲人いたみ屋鉢五郎
ひだちや
由兵衛殿
【下部資料】
風(かぜ)の神(かみ)大津画ぶし
邪鬼攘(じやきはらひ)【「攘」は手偏で正しいのですが、原典は言偏の「讓」に見えます】
おにく風(かぜ)の神(かみ)。
おのれは此(この)
家(や)へ入(いれ)られぬ。
風の神
仰天(げうてん)し。
ハイ〳〵
鐘馗(しやうき)さま
にやかなィや
せん。 風(かせ)の袋(ふくろ)もち渋団扇(しぶうちは)。
おそれて逃(にげ)いだし
他(よそ)の家(うち)へまいりましよ。
ヤレ〳〵につくい鬼(おに)め
たとっ釼(けん)をぬいて。なんの
苦(く)もなく。 一打(ひとうち)とおもへ
ば目(め)が覚(さめ)。 風気(かざけ)もさつ
ぱり醒(さめ)ました 小林居良 作
〇作者曰此画を家内(やうち)に張置(はりおき)毎日(まいにち)此大津ゑぶしを
謡(うたひ)たまはゞ風(かぜ)の神(かみ)逃去事(にげさること)うたがひなし
【上の資料】
蓬莱に聞ばや伊勢の神たより
水下配る井戸のくみわけ
遠山も霞立けり江戸の春
四方のちまたのけに静なり
はる雨につれ〳〵草のおきて書
たしか時代は東山殿
風たゆ〳〵よりのもどらぬ縄すだれ
軒端を伝ふ拍子木の音
いかめしきすがたも交る直居番
おのづと消る庭のとふろふ
梅ちれは桃やさくらの花かさく
ついじだらくになりし長閑(のどか)さ
おゆるしが出るとひらきし山の木戸
ほころびそめし海棠の色
ほとゝきす八十八声なきつれて
きまゝに咲し卯の花の垣
右一近
【下の資料】
音曲 ほこりたゝき 三光才延玉作
〽
安政四《割書:一》【丁?】巳年正月中旬より
《割書:風邪(かせひき)流行(はやり)|風(かぜ)の神(かみ)送(おく)り》忠(ちう)九(く)抜(ぬき)文句(もんく)
【上段はじめ】
風雅(ふうか)てもなく
しやれでもなく
風(かせ)の神(かみ)送(おく)る
相談(そうだん)する丁内【町内】
是(これ)は
おもひも
よらぬ
風の神捨(すて)場所(ばしよ)の
銭もうけ
様(やう)子によつては
聞捨(きゝすて)ならぬ
親類(しんるい)に
重(おも)い風邪
たつぬる襖(ふすま)の
内よりも
せきのでる
風気
やうすを
うかゞふ
お医者(いしや)
さんの見まひ
此 程(ほど)の
こゝろつかひ
髪結床(かみゆひとこ)
風呂(ふろ)や
主人(しゆじん)の大 事(じ)と
ぞんずるうち
奉公人(ほうこうにん)風気
でしんぼう
障子(しやうじ)さらりと
引あくれば
アヽさむい〳〵
しめておけ
こつては思案(しあん)に
あたわず
風の神こし
らへる工夫
しわりし竹を
引きまはし
風の神おくる
白丁ちんの
ほそ竹
【下段】
おまへなり
わたしなり
夫(ふう)婦くらしの内(うち)
二人ながら
風引た人
烑燈((ち)やうちん)に
釣(つり)がね
道成寺と
弁けいの
風の神
仕(し)やうもよふも
無(ない)わいのふ
大せいの
家内(かない)みな
風気
ざは〳〵と
見苦(くる)しい
大せいの子供
つれて風の神
送る女中
嘸(さそ)本望(ほんもう)で
こざろふの ̄ウ
閙(いそかし)おいしや
風くすり沢山(たくさん)
売(うれ)るくすりや
徒党(ととう)の人数(にんじゆ)は
揃(そろい)つらん
サア是(これ)から
風の神おくろ
斯(かう)いふ事が
いやさに
灸(やいと)をすへ
いと言(いふ)たのに
画図(ゑづ)にくはしく
書付たり
板行(はんこう)いろ〳〵
出るであろ
仕(し)やうを
爰(こゝ)に見せ申さん
風の神の
おもひ付の
出来たの
跡(あと)の片付(かたつけ)
諸事万事(しよじばんじ)
丁内の
世話やき
/漢字/漢字(ふりがな)(
御触書之写 《割書:世話掛り|諸色掛り》え
一去る(さんる)丑年(うしとし)に菱(ひ)がき廻船(かいせん)つみ仲間(なかま) 問屋共(といやども)よりめうが金(きん)上納(せうのふ)致(いたし)来(きたり)候 処(ところ)問(とん)屋共ふ正(せう)の
趣(おもむき)に相聞(あいきこえ)候に付上納に不及(およはず)向後(こうご)諸(しよ)問屋仲間 組合(くみあい)てふじ【停止】被仰付(おふせつけられ)候所 其(その)已来(いらい)
売法(ばいほう)相くづれ諸しな下直(かしき)にも相ならす却(かへつ)而ふゆうづの趣(おもむき)相聞候に付 此度(このたび)問屋
組合之儀すべて文化(んくは)以 前(せん)の通(とうり)さいこう【再興】申 渡(わたし)弥(いよ〳〵)以(もつて)冥(めう)が金のさたはこれなく候間
其むねを存(ぞんじ)諸物(しよもつ)あたへきはだち直段(ねだん)引下(ひきさけ)〆売(しめうり)〆買(しめがい)は申におよばず品(しな)劣(おと)り
かけ目(め)げんじ等の儀 無之(これなく)一切(いつせつ)正路(せうろ)に売買(ばい〳〵)可致(いたすべく)候かつしんきなかまか入(にう)のせつ
たぶん礼金(れいきん)ふるまい等 為致(いたさせ)候儀は御 法度(はつと)之趣 前(まへ)〻(〳〵)御触(おんふれ)これあり享保度(けうほど)
諸職人(しよしょくにん)諸商人(しよあきんど)組合とりきはめ候節も新規(しんき)売買(ばい〳〵)取付(とりつき)候 者(もの)有之(これある)節(せつは)同(どう)
渡世(とせい)乃ものよりさまたげ申 間敷(まじく)段(たん)申 渡(わたし)もこれ有候おもむきにて
薬種問屋(やくしゅどひや)両替屋(れうかへや)岡鳥(おかどり)問や水鳥(みづとり)問屋こよみ問屋等の類(るい)人数(にんず)をさだめ
られ候儀は有之(これあり)候 得共(へども)その余しんきに売買(はい〳〵)相(あい)はじめ候儀を被禁(きんせられ)候
儀(ぎ)者(は)これなく候間此度問屋組合 再興(さいこう)申付候とて文化(ふんくは)度(ど)のごとく株(かぶ)
札(ふだ)等相渡(あいわた)す儀にはこれなく人数(にんず)の増減(ぞうけん)は勝(かつ)手次第(しだい)の事に付ふ筋(すじ)の
申合手をまき窮(きう)屈(くつ)の自法(ぢほう)相立候儀は決而不致 併(しかし)其 渡世(とせい)柄(がら)に寄(より)
無拠(よんところなく)人数さだまらず候而は差支(さしつかへ)候儀有之品はぎんみの上 明白(めいはく)にその謂(いわれ)
これなく候ては容易(ようい)に聞済(ききすみ)がたき儀に付 其段(そのだん)相心得文化已来 売(はい)ほうに
不流(ながれず)質素(しつそ)けんやくを第一に致 諸事(しよじ)奢侈(しやし)僭上(せんせう)の儀無之様相 慎深(つゝしみふかく)
太平(たいへい)乃 御仁徳(ごじんとく)を奉仰分々(あふぎたてまつりぶん〳〵)の渡世(とせへ)永続(ゑいぞく)致
御城下(ごじようか)に安住(あんせう)致候めうが乃 程(ほと)相弁(わきま)へ四 民(みん)のくらし方(かた)便利(べんり)の儀(ぎ)をあつく
心(こゝろ)がけ実直(じつちよく)に産業(さんめは)を営(いとなみ)候様可致 此上(このうへ)心得(こゝろへ)違(ちがへ)三の利とくに迷(まよひ)申渡を
相用(あいもちい)ざる者有之候はゝ召捕吟味(めしとりきんみ)をとげ厳重(げんぢう)に御 仕置(しおき)申付 仕儀(しき)に寄(より)
家業(かげう)取(とり)候間ふ取しまりの儀 聊(いさゝか)無之様 精々(せい〳〵)厚(あつく)可申合候右之通申
渡し候儀に付ては問屋組合共 都(すべ)而前々にかゝはらず現在(げんざい)のすがたを以
とり調(しらべ)其方(そのほう)共ゟ当月かぎり町年寄(まちとしより)月番(つきばん)え可申立 尤(もつとも)仕入(しいれ)等不致 受売(うけうり)
致候 小前(こまえ)の者共 相除(あいのぞき)候儀は勿論(もちろん)の儀に付 右等(みぎら)の処 紛敷(まぎらはし)儀(ぎ)無之様取調申
可立篤と穿鑿(せんさく)をとげ夫々(それ〴〵)沙汰(さた)に可及(およぶべく)間(あいだ)夫(それ)までは諸商人(しよあきうど)諸職人(しよしよくにん)共 全当(まつたくとう)
時(じ)の振合(ふりあい)相心得(ウカヲウカツ)罷在(まかりあり)者申 渡(わたし)已前(いぜん)家業(かげふ)筋(すじ)に付 何事(なにごと)も訴訟(そせう)申し出候儀
難相成(あいなりがたく)候 若(もし)心得違 出訟(しゆつそ)に及(および)候者有之は町役人(てふやくにん)共迄 曲事(きよくじ)可為条(たるべくのぜう)其 旨(むね)能々(よく〳〵)相心得可申事
右(みぎ)之 趣(おもむき)於町(おいてまち) 御(おん)奉行所(ふげうしよに)被(され)仰渡(おゝせわた)候間 此旨(このむね)町中(まちゞ)不残(ざるのこ)様(やう)早々(さう〳〵)可(へき)触知者(ふれしらすもの)也
嘉永四亥年三月九日
【上段】
新改勢(しんかいせい) 後町宝(ごてうほう) 年代記(ねんだいき)
【便宜上、黒地白抜きの文字を先に掲げる】
改正文(かいせい)【政?】
よくする木
屋部將(やべしやう)ぐん南街道(なんかいどう)に
出陣(しゆつちん)して
十組を亡し
問屋の蔵人
嵩めつぼうす
小 売判官(うりはんぐわん)たん生
二
同木
買(かい)の嵩(たか) 時(とき)を
吟味(ぎんみ)して
位(くらい)を下る
諸国へ直下の
札を出す
三
山の土
屋部將ぐん
卒す
所々にて
うはさある
札喰(さつくい)
かわる土
成田ふどう
深川にて
かいてう
鳥の毛かんざし
はやる
二
もゆる火
二丁目 芝居(しばい)
山の宿え
引る
りん町の人々
御めんねがひ出る
三
天上の火
上の大仏(だいぶつ)【佛】
ゑんじやう
ねづみ山
かんおうじ
引はらひ
四
はまの水
遠集 ̄ル の
しろ
ねづみ
せかいを
かき廻す
五
すゑを水
越(えち)ぜんの
国より
けんやくと云
やくを
諸国にあてる
六
大地の土
新(しん)■【奉?】
床(とこ)■せ
とりのけ
所々にて
なげく
明和■
かわる土
諸方の女郎や
よしはらへ
引
行は新よし
はらとなる
二
ながれの水
岡(おか)ばしよの
唐人(とうじん)は
ありんす国へ
うつる
直段高直となる
三
すしいの水
すしの高盛(たかもり)は
六位(ろくい)に定る
奢判官(おごりはんくはん)を
いましめる
四
高利の金
もう人を
じゆず
つなきにして
遠渡え
日なし【毎日少しずつ返済していくこと】うりは
きゝん【基金:資金】
五
つきる金
堂前(たうまへ)より
頭二ツ
ある人を
いけとる
諸国のごろ付を
いけどる
六
もうける木
砂村のうりなすびを
きんず百姓
きゝん
六つのはき物
三分一両一分
高位をきんず
七
かせ木
女じやうるり
女房(にようぼう) ̄ト化る
ぢごくにて
女のつみを
たゞす
八
同木
あたまでくふ
女の手に
ふういん付【封印付:札付き】
ていしゆ
きかん
九
下を水
上るの鯛は
金魚となる
小田原より
なき虫いづる
十
日なた水
せんとうは六位に
下りひざ切丸
にてかま共と
三介古木たいて
木を亡す
非道(ひどう)
かせ木
諸商人
正札と
なる
買人元直の
せんさく
二
むら木
七りか浜
もとのごとく
上る
置(おき)ぬし尊者
ぼつす
三
かわる金
金ぎんはしんちう
あかゞま ̄ト かへ
べつかうは
ぞうげしかの
つのと化る
四
つかへの金
金かんばん
ぬりかへ
ぬりやかべ
はじめ
左官の太夫
集りかいぢん
五
あんどうの火
席(せき)ていめつぼう
残る十六間
かけに入
夜々(よゝ)辻にて
ぐん義【群議】始る
六
かまの火
そばの
くはんじや
盛(もり)よく
二七三五 ̄ト なる
勘定(かんじやう)上人
めんどうを渡す
七
世間を水
諸々の紙は
下り
なくして
高間がはらに
とゞまる
八
諸人泪の水
ひごうの国
ひま本ゟ
化物いづる
諸人ひまだ〳〵と
なくことおびたゝし
九
かわる土
山ぶし法印(ほういん)は
水のうつはに
したがふ
是さんかく所
どつこに
せう〴〵の初り
十
堀割(ほりわる)土
いんば沼を
五頭(いつかしら)にて
どろ
ぼつけと
たゝかふ
十一
休金
きんぎん
ふきかへ
やむ
出かた
きゝん
十二
つまる金
商家ひま成
なみた川
にて
水ものめず
大かんはつ
十三
嵩をする木
江戸中に見せ
ひらき多し
時ならずして
うちはを
ちらす
十四
たんとうる木
呉ふくみせは
ふ時(じ)の
高根(たかね)に
つみ積(つも)り
三日のへいもん
強盗(こうとう)
取(とる)木
遠江の地所は
あげ水にて
吹出し
諸家方大評定有
水は引元の如し
二
かまの金
ゆしま太郎
芳長四郎
芝のかげ政の
うらもんをせむる
かまのかんじや
うち死
三
天のやり木
申の方へ夜五時
白き気出る
天ひんぼう
のごとし
又かまのかはり
そめい菊はやる
日光
ひやうし木
日光御社参
つじ
うら〳〵て
くつは虫なくこと
おびたゝし
二
てうちんの火
町々にばん小屋
たて諸人
ちうやを
まもる
しより
のごとし
三
そうの火
四月十七日夕時ゟ
両ごくにて
りうせい
天にとび江戸中
万どうの如し
四
つまる金
ひま成上
なんぎ山
こん久じ
御こんりう
開山(かいさん)ちくてん上人
五
こはがる木
国芳(くによし)丸
頼光(らいくわう)四天王の
くはいだんにて
ほまれをあらはす
こはい〳〵あぶない事
諍動
みかねる金
紀伊の国より
世直し
大明神
出げん有て
諸人のなんぎを
すくふ
二
下を水
遠集の白鼠
落し穴へ
おちる
諸人ほつと
いきをつく
三
向水
四ッ谷にて生馬の目を取
冬がれに
辻(つち)ばん
こわす
大さはぎ
四
やねの土
門内え
所々ゟ
砂石を
ふらすこと
まのごとし
五
取絵の木
社の末社は
芝(しば)のもちを
ぢきろうに入て
けんずる
六
世を開木
渡辺の
綱も切て
三田所で
へいもん
大平
大海水
小川より
太神宮
御出げん
あり
定て
世直し〳〵
二
同水
戸田の川上ゟ
蕉まきを
出して
諸々の気を
うかめる
三
川水
舟持せんどう
小舟のり
うち死
所々
かう水
四
世なおる木
ありんす国より
春秋に花見
初る市中
せきてい多くして
口談咄しか豊年
五
ゑんせうの火
所々のてつほう
ありんす国へ
渡し所々に
辻君(つちき(み))気を顕(あらは)し
助さんをうつめる
六
山の神の木
東都の内義は
びんぼう車の
うなりをはつし
山うはと成
時ならずして
はたおり虫なくこと
山中のごとし
七
よろぐの土
あみ笠内ゟ
名なしのにがを
市中に落
はびこり我
上ることあたはず
又樽代節句せん【銭】
はじまる
八
ふきかへの金
五ツ頭の
金龍を
たいじて
残る蔵穴に
ふういんつく
九
どろの水
江戸中芸色
けだ者遠国へ
はびこる
諸国の侍【貨幣の印】
江戸見物は
たのしみなし
嵩国へいもんこはがる金龍侍
【上の資料】
安政三丙辰八月十一日夜子刻
大坂 雷神下り場所附
【一段目】
ざこ場魚市場
北はま壱町め蔵内
備後丁中橋塚キ裏
安土町せんだんの木
堀江御池ばし
阿波どの橋■【留ヵ】へ入
櫂屋丁けんさいばし
雪嶋屋丁お祓すじ
堂嶋 卍ケ辻
同相場より場
北新やしき
【ニ段目】
おはつ天神丁ちんや
稗嶌村家三軒焼残
尼ケ崎小嶋□子破る
新町□の側越後丁
同 道者よこ町
新町すじ東口
天満裏門十丁め□や
生玉鳥居前
上塩町久願寺門前
□の一 骨や丁本□
三ツ寺すじさかいすし
【三段目】
板元
大坂のだ町久蔵
阿波橋北詰東□や
天満 建国寺
八尾丁壱八ケ所
播州あかし数ヶ所
中ノ嶋浜松蔵屋敷
新地側中津蔵屋敷
本丁心斎ばし南入
片丁水船へ同船破ル
権現様□宮松ノ木
安土丁 □忠
幸町弐丁□ 高松
同 茶屋大勘
番場近辺三ヶ所《割書:□□三□|ほどき》
玉造二軒茶屋野中
桜丁□田□明家
淡路丁中ノ橋西太田
裏門橋西詰仲仕場
堂安橋中国蔵屋敷
安治川持□順正寺
のだ丁東ノ加茂
下ばくろ大船《割書:八百石帆□|き□□》
九条村□□□□□
北長柄村大こん畑也
同 所岸の□ぶ
住吉加賀屋新た
同 所東かつた村
同 所近在寺いん
さゝい□もの丁
同黒門蔵柳泉屋
同地下 芦原
【下の資料】
一抑湯気のはつどふ
するは豊穣の印也
此気天にのぼるは
雷をなすまた地に
入れは地しんをなす則
地変には凶をしめし
天動には吉端をあら
わす此ゆへに萬もつ
ともにみのり諸国
豊作のしるしを天の
人々にしらしむる所か
雷神下り場所
【上段】
一王子畑ノ中 一ヶ所
一堀の内鳴子 夏□がしやのやぶ
一四ツ谷大久保 御下やしき
一雑司ヶ谷 一ヶ所
一芝□□三丁目 松屋と申質屋土蔵
一同七まがり 薩州稼御屋敷
一同広小路 一ヶ所
一同 浜 千石積船焼る
一土橋山下丁 蜂屋と申いしのうら
【下段】
一中橋桶丁 一ヶ所
一れいがんじま 物□え落る
一麻布桜田丁 一ヶ所
一浅草朝茅ケ原 一ヶ所
一本所小梅 一ヶ所
一谷中門前 余録屋と申質屋土蔵
一日比谷御門内 一ヶ所
一高田ノ馬場 原中
一品川上大崎 一ヶ所
赤羽根 芝松本町 青山二ヶ所 神田田町
和泉橋向 下谷二ヶ所 湯島 妻恋坂上
本郷元町 五【護】持院ヶ原二ヶ所 番町九ヶ所
小石川二ヶ所 飯田町 本所竪川通三ヶ所
深川六間堀柳川町 八町堀
茅屋場町霊巌橋
河岸 蔵
鳴神御下り場所
四拾三ヶ所余
右の通に候得共人倫に怪我なきは全く
神国の御威徳万々歳目出度可仰〳〵
【消し札の文字】
一番組 二番組 い組 深川組
頃■■永三戌とし二月五日朝四ツどき比【頃】糀町五丁目へんより出火
にて折ふし北風はげしく同所一丁目にて北がは表口三十間ばかり
南がは十間あまり残る夫より南にいたる此へんにては二はん組八番組
本所ふか川組にてふせぎ消西の方山元丁平川三ケ丁焼ゆしま
亀有町代地はすこし残り同つゝき木挽丁替地焼平川天神
御宮さはりなく門前の町家残らず其つゝきゆしま三組丁拝領やしき
其外此へんあまた焼る同つゝき□坂にて御代官里見源左衛門旗本
無■■此へんは 五はん組にて消止る夫より東の方三枝
宗■■永井鉄弥様嶋津伊与守様武内様内藤四郎様石丸
権六郎様谷帯刀樣菅谷兵庫様夫より俗に云三けんや糀町谷丁
柴田日向守様ゟ南の方大村丹後守様高木くらの介様安部又四郎様
高木清三郎様戸田右近様夫より駒井小路にて小田切出雲守様は
表門長家残る此へんは二ばん五ばん組尾州様御人数にてふせぎ消同所
東の方にいたり鳥居丹波守様中やしき表門は松平出羽守様御人数消止
松平豊前守様残る松岡文藏様夫より永田丁に出岡野大学様
細川豊前守様夏目左近様松平大ぜんの介様大岡左太郎様迄焼て
安倍とらの介様残り勝田左京様後藤兵部様夫より山王門前町家
残らず焼御宮はさはりなし同所丹羽左京大夫様京ごく備中守様
内藤紀伊守様は表門焼御玄関ゟ外は皆さわりなし同つゝきにて内藤
数之丞樣同北の方松平あきの守様中やしき本多豊後守様内藤紀伊
守様中やしき松平玄蕃様中やしき左野日向守様鳥居権之進様保科
永次郎様松平鉄之丞様林式部少輔様等類焼す又一口はかうじ町一丁
目ゟ隼此へんにて御はた本御医師等あまた類焼夫より御堀ばた
京ごく 樣火消神保三千次郎様松平兵部大輔樣は御掘の方長家
残り是より西の方御はた本御屋敷あまた焼る夫ゟ桜田の方に出
三宅土佐守様井伊掃部頭様焼東がは少のこる向にて松平安芸
守様は少焼て別余なく霞ヶ関にいたり松平みのゝ守様表門残る
此所は深川組大にはたらき丁ふせぎたるよし北長家は六はん組と松平
大隅守様藤堂和泉守様吉川監物様等の火役御助勢有て消止る
同西の方九鬼長門守様徳永伊与守様丹羽左京大夫様中やしき九鬼
長門守様中やしき杉うら八九郎様中川様神尾いおり様岩本大隅守様
夫よりさゝひしかに出御はた本残らず焼裏霞の通りにて小出
豊次郎様高木主水正様松平伯耆守様村瀬平四郎様内藤能登
守様迄焼る此所るろは御堀限り焼て風替りて御門内向かは三浦様
西尾様等残り御門外へ飛火にて御勘定所□京ごく長門守様類焼し
向御用屋敷残る夫ゟ新橋の通にて木下主計頭様稲葉富太郎様仁賀保
力之介一柳土佐守様焼林百介様残る土方備中守様毛利安房守様備前丁
かじ丁堀田豊前守様和泉丁伏見丁は残る一柳兵部様松平兵部様残る阿部様
中やしきと小堀大ぜん様は表かは斗残る又一口は金ぴら様ゟ谷主計様相良志摩守
様焼て野せ宗右エ門様残り此辺御はた本多くやける青山様中やしき竹中図書
様共残り東かは御はた本皆焼る加藤備中守様松平丹波守様中やしき曲渕
甲斐守様田村小路田村様中やしき松平三郎左エ門様松平小十郎様小出介四郎
細川豊前守様中やしき土岐信濃守様井上新左エ門様大嶋肥大左京様松平平次兵へ
大沢様いなば様有馬夢一様仁賀保様堀田様中やしき川勝様田村左京大夫様秋田
あはの守様米津越中守様井上遠江守様迄焼大久保鉄之丞様消止る仙台中
やしき植村様中やしき平野権平様仁木様井上様柳生但馬守様有馬日向守様
夫ゟ柴井丁神明丁宇田川丁新銭座と松平肥後守様残る又一口は朽木周防守様
此辺御やしき多く焼け下や丁車坂丁残り天徳寺あたご山此へん寺〳〵焼牧野様中やしき
片桐助作様松平隠岐守様田村伊与守様はせ川為三郎様池田様本多様夫ゟ
神津様□□■■様焼関但馬様残る大久保加賀守様戸田様中やしき藤掛出羽守
様ゟ□□■■裏表共門残り東かは寺は南迄焼る夫ゟ片門前中門前六ケ丁
■松丁□丁南北しんあみ丹羽様少焼戸田采女様残る金杉濱がは迄寺院両
やける金杉四丁目少残る松平因幡守様焼間部下総守中屋敷にて火止る
【下部”東”字の右側四角枠】
黒き分は残り
白き所類焼也
しかれとも半
焼けたる所等は又
大小の起かひあり
【下部”東”字の左側】
・神明丁の所は図の
ことく曲にあらずたゝ
紙上の体にしたがひ
しるしたれは見る人
とがむる事なかれ猶
此外にもあまたあり
さつしたまふべし
【下部左隅】
此所■芝四丁目迄両かはの
町家類焼して東の多
濱かは迄やける尤図面所々
のひちみ有て聊たかふ事
あらん見る人ゆるし給へ
頃は安政元年十二月廿八日
夜五ツ時神田多町辺より
出火しておりしも西北の風
はげしく同町一町目二丁目
横大工丁たて大工丁なべ丁
松田丁代地黒門丁小
柳丁一二三丁目此所東
かはおもて通り九
番十番に而けす
かじ丁一二丁目
こんや丁一二三
丁目同東かわ
少々のこる此所
けし口は元黒井丁
小ぶな丁小あみ丁ほりへ丁
小伝馬丁亀井町右六ヶ町
若衆にてけす乗物丁三嶋丁
富山丁こんや丁二丁目代地元乗
物丁代地福田やしき平吉やし
き兵庫やしき長井丁北角十番
九番にてけす一口は通新石丁須
田丁上白かべ丁佐柄木丁れん若
丁きじ丁北がわ五番六番にて
けす新銀丁せき口丁ろうそく
丁長富丁一二三四丁目ぬし丁川合
新石丁みな川丁一二三丁目
松下丁新吹や丁四間丁角
五番六番にてけす三河丁一二
三四丁目本多ぶぜんの守様
御やしき東おもて長や少々本多かゞの守様
御やしき黒べいやける内御馬や少々鎌倉丁
豊嶋やみせのこる又北風つよく竜閑丁四間や
しき龍閑ばしもんとがし通のこらずやけ今川橋のこる
中のはしやけおち本銀丁一弐三四丁目ろうやしきのこる
本石丁一弐三四丁目かねつき堂やけ十けんだな岩附丁
金座おもて通のこる本丁一弐三四丁目本吹や丁駿河丁
本両がへ丁北さや丁品川丁室町一弐三丁目浮世かうじせと物
丁南がわ五番六番本所深川組にてけす舟丁がし折まがり家
数十四五間のこる一番二番三番五番にてけす同北角半やけ一番
八番本所深川組にてけす也火はやう〳〵明六ッ時しづまり
人々あんどのおもいをなしゑん国へ知らせんため一紙につゞるなり
江戸丁々火用心道具品数附
【1段目】 【2段目】
室町一丁目 瀬戸物丁
一 はしこ 二丁 一 はしこ 四ツ
一 りうこし 二ツ 一 りうこし 五ツ
一 ておけ 三ツ 一 けんば 五ツ
一 けんは 二ツ 一 ておけ 二十五
一 かこつるへ 二十 一 つるべ 三ツ
一 高はり 二ツ
同二丁目 駿河丁
一 はしご 二丁 一 はしご 三ツ
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 四ツ 一 けんば 五ツ
一 ておけ 十二 一 ておけ 十二
一 つるべ 十二 一 つるべ 五ツ
一 高はり 二ツ 一 たかはり 二ツ
同三丁目 伊勢丁
一 はしご 三丁 一 はしご 二ツ
一 りうこし 三ツ 一 りうこし 【六?】ツ
一 げんば 七ツ 一 水でつほう ニツ
一 ておけ 十六 一 ておけ 二十五
一 片ておけ 十 一 か【ご?】つるべ 三ツ
一 つるべ 五ツ 同裏がし
一 たかはり 四ツ 一 はしご 一ツ
一 りうこし 一
一 げんば 二ツ
一 つるべ 三ツ
本船丁 同横がし
一 たかはり 三ツ 一 りうこし 二ツ
一 はしご 四丁 一 げんば 二ツ
一 りうこし 一ツ 一 ておけ 三ツ
一 けんば 二ツ 一 つるべ 六ツ
一 ておけ 三十
同下がし のだ平
一 はしご 二丁 一 りうこし 二ツ
一 ておけ 六ツ 一 げんば 三ツ
一 げんば 二ツ 一 はしご 二丁
一 つるべ □ツ 一 つるべ 五ツ
一 たかはり 二ツ
同米がし 本両替丁
一 はしご 二丁 一 はしご 一ツ
りうこし 四ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 八ツ 一 げんば 二ツ
一 ておけ 五十 一 たかはり 二ツ
一 たかはり 一ツ
くき店 同川岸
一 はしご 三丁 一 はしご 三ツ
一 りうこし 二ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 五ツ 一 けんば 二ツ
一 つるべ 大十 一 小おけ 十
一 たかはり 三ツ 一 つるべ 五ツ
安針丁 本草屋丁
一 はしご 一丁 一 はしご 二ツ
一 龍こし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 ておけ 十二 一 けんば 二ツ
一 つるへ 二ツ
一 たかはり 二ツ
同所 金吹丁
一 りうこし 一ツ 一 はしご 二ツ
一 ておけ 十 一 りうこし 三ツ
一 つるべ 三ツ 一 けんば 六ツ
一 ておけ 十二
一 つるべ 二ツ
一 たかはり 一ツ
長浜丁一丁目 本丁壱丁目
一 はしご 一丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 四ツ
一 けんば 二ツ 一 けんば 三ツ
一 つるへ 二ツ 一 ておけ 六ツ
一 たかはり 一ツ
同二丁目 同二丁目
一 はしご 一丁 一 はしご 弐丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 げんば 二ツ 一 けんば 二ツ
一 つるべ 二ツ
一 かたつるべ 十
小田原丁壱丁目 同三丁目
一 はしご 二丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 二ツ
一 けんば 三ツ 一 けんば 七ツ
一 つるべ 二ツ 一 つるへ 五ツ
一 たかはり 二ツ
同二丁目 同四丁目
一 はしご 一丁 一 りうこし 四ツ
一 げんば 二ツ 一 げんば 六ツ
一 ておけ 二ツ 一 ておけ 六十
一 たかはり 一ツ
品川丁 十軒店
一 はしこ 三丁 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ りうこし 一ツ
一 けんば 六ツ げんば 二ツ
一 つるへ 四ツ つるべ 四ツ
一 たかはり 一ツ たかはり 二ツ
北鞘丁 岩附丁
一 はしご 二丁 はしご 一丁
一 りうこし □ツ りうこし 一ツ
一 けんば 六ツ けんば 二ツ
一 てけ 十 つるへ 二ツ
一 つるべ 四ツ かこつるべ 十二
一 たかはり 二ツ たかはり 一ツ
通壱丁目 江戸橋蔵屋敷
一 はしご 二丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 十 一 りうこし 一ツ
一 げんば 十二 一 けんば 三ツ
一 かこつるべ 八ツ 一 水でつほう 三ツ
一 つるべ 二ツ
一 たかはり 一ツ
同二丁目 元四日市丁
一 はしご 二丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 九ツ 一 りうこし 二ツ
一 けんば 十七 一 げんば 三ツ
一 つるべ 三ツ
一 たかはり 二ツ
一 長でうちん 一ツ
同三丁目 青物丁
一 はしご 一丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 四ツ 一 りうこし 二ツ
一 げんば 三ツ 一 けんば 四ツ
一 手おけ 百三十 一 つるべ 三ツ
一 かごつるべ 三十
一 天りう水 二本
同四丁目 萬丁
一 はしご 一丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 げんば 一ツ 一 けんば 五ツ
一 ておけ 五十六 一 ておけ 十二
一 たかはり 二ツ 一 つるべ 六ツ
一 たかはり 一ツ
中橋広小路 与作屋敷
一 はしご 一丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 二ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 三ツ 一 けんば 二ツ
一 つるべ 二ツ 一 ておけ 十
一 つるべ 三ツ
一 たかはり 一ツ
南伝馬丁一町目 銀座壱丁目
一 はしご 三丁 一 はしご □丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 二ツ
一 げんば 五ツ 一 けんば 二ツ
一 ておけ 十 一 ておけ 二十
一 小おけ 五ツ 一 ひしやく 五本
一 つるべ 二ツ 一 つるべ 三ツ
一 たかはり 二ツ 一 たかはり 二ツ
同弐丁目 同二丁目
一 はしご 七丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 四ツ 一 げんば 一ツ
一 けんば 五ツ 一 ておけ 三ツ
一 ておけ 六ツ 一 つるべ 二ツ
一 おけ 十
一 つるべ 二ツ
一 かごつるべ 三ツ
一 たかはり 二ツ
西川岸丁 同所
一 はしご 二丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 三ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 八ツ 一 げんば 二ツ
一 ておけ 十 一 ておけ 三ツ
一 つるべ 六ツ 一 つるべ 二ツ
一 たかはり 二ツ 一 たかはり 一ツ
□□【数寄?】屋丁 同所
一 はしご □丁 一 はしご 二丁
一 りうこし □ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 四ツ 一 けんば 二ツ
一 ておけ □ 一 ておけ 六ツ
一 つるべ 八ツ 一 つるべ 二ツ
一 たかはり 二ツ 一 たかはり 一ツ
【3段目】 【4段目】
養安院屋敷
一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ
一 げんば 二ツ
一 つるべ 三ツ
一 たかはり 一ツ
三河丁一町目
一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ
一 とひ口 二十本
一 けんは 三ツ
一 ておけ 十五
一 かこつるへ 三ツ
一 たかはり 二ツ
本石丁一町目 同二丁目
一 はしご 二ツ 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 げんば 五ツ 一 けんば 五ツ
一 ておけ 十 一 つるへ 十五
一 つるべ 三ツ 一 かこつるべ 五ツ
一 たかはり 二ツ 一 たかはり 二ツ
同二丁目 同三丁目
一 はしご 三丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 三ツ 一 けんば 五ツ
一 つるへ 五ツ 一 つるへ 十五
一 かごつるべ 十 一 かこつるべ 五ツ
一 たかはり 二ツ 一 たかはり 二ツ
同三丁目 同四丁目
一 はしご 二丁 一 はしご 二ツ
一 りうこし 一ツ 一 ておけ 六ツ
一 けんば 二ツ 一 つるべ 二ツ
一 ておけ 十二 一 たかはり 二ツ
一 かごつるへ 一ツ
一 たかはり 二ツ
同四丁目 永富丁一町目
一 はしご 一丁 一 はしご 三丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 二ツ 一 けんば 五ツ
一 つるべ 五ツ
一 たかはり 二ツ
鉄炮丁 同三丁目
一 はしご 一丁 一 はしご 二丁
一 げんば 二ツ 一 りうこし 一ツ
本銀丁一町目 一 けんば 二ツ
一 はしご 二丁 一 つるべ 三ツ
一 りうこし 一ツ 一 たかはり 二ツ
一 けんば 二ツ
一 つるべ 二ツ 永富二町目 新かわや町
一 たかはり 二ツ 皆川丁 蝋燭丁
同二丁目 一 はしご 六丁
一 はしご 一丁 一 りうこし 一ツ
一 りうこし 一ツ 一 けんば 四ツ
一 げんば 四ツ 一 ておけ 六ツ
一 つるべ 四ツ 一 つるべ 十
同三丁目 新銀丁
一 はしご 一丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 二ツ
一 げんば 三ツ 一 けんば 二ツ
一 つるべ 二ツ 一 かこつるべ 五ツ
照降丁 上白壁丁
一 げんば 十 一 はしご 二丁
一 ておけ 五十 一 りうこし 一ツ
同七軒持店中 一 げんば 二ツ
一 げんば 十 一 つるべ 二ツ
一 手桶 十五
一 かこつるべ 二つ
本銀丁四軒屋敷 神田紺屋丁一町目
一 はしご 二丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 二ツ 一 けんば ツに
一 つるべ 一ツ 一 ておけ 三十
一 たかはり 二ツ 一 つるべ 五ツ
後藤屋敷 同二丁目
一 はしご 二丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんは 二ツ 一 けんば 二ツ
一 つるべ 二ツ 一 つるべ 一ツ
一 たかはり 一ツ
元乗物丁 同三丁目
一 はしご 一丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 一ツ 一 げんば 三ツ
一 つるべ 二ツ 一 水でつほう 一ツ
神田鍛冶丁一町目 一 とひ口 五本
一 はしご 二丁 一 ておけ 六ツ
一 りうこし 三ツ 一 つるべ 一ツ
一 けんば 七ツ 一 たかはり 一ツ
一 つるべ 三ツ
一 かこつるべ 二ツ
一 たかはり 一ツ
新石丁野嶋屋敷 元岩井丁
一 はしご 一丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 げんば 二ツ 一 げんば 二ツ
一 つるへ 二ツ 一 つるべ 二ツ
一 かこつるべ 十
一 たかはり 二ツ
鎌倉丁 同上納地
一 はしご 二丁 一 りうこし 一ツ
一 りうこし 一ツ 一 けんば 二ツ
一 げんば 二ツ 一 つるべ 二ツ
一 たかはり 二ツ 一 たかはり 一ツ
同所としま屋 亀井丁
一 はしご 二丁 一 はしご 三丁
一 りうこし 三ツ 一 りうこし 二ツ
一 げんば 四ツ 一 げんば 四ツ
一 かごつるべ 五ツ
一 たかはり 一ツ
銀座弐丁目 三十間堀壱丁目
一 はしご 一丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 四ツ 一 けんば 四ツ
一 ておけ 六ツ 一 ておけ 四十三
一 つるべ 三ツ 一 水てつほう 一ツ
一 たかはり 一ツ 一 つるべ 二ツ
一 たかはり 二ツ
同所 同四丁目
一 はしご 一丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 二ツ 一 けんば 三ツ
一 ておけ 三ツ 一 ておけ 十
一 つるべ 二ツ 一 つるべ 二ツ
一 たかはり 二ツ
同所 同五町目
一 はしご 一丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 二ツ
一 けんば 六ツ 一 けんば 十一
一 ておけ 十 一 ておけ 六十
一 つるべ 二ツ 一 たかはり 三ツ
一 □□□ちん 二ツ
しんば 同六丁目
一 はしご 四丁 一 はしご 二丁
一 龍こし □ツ 一 りうこし 一ツ
一 かごつるべ 十三 一 けんば 五ツ
一 つるべ 二ツ 一 つるべ 三ツ
一 たかはり 二ツ
本材木丁三丁目四丁目 北紺屋丁
一 はしご 一丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 二ツ
一 けんば 二ツ 一 けんば 二ツ
一 ておけ 六ツ 一 ておけ 十
一 つるべ 二ツ 一 つるべ 六ツ
一 たかはり 一ツ 一 たかはり 二ツ
福しま丁 下まき丁 南紺屋丁
一 はしご 一丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 二ツ
一 けんば □ツ 一 げんば 四ツ
一 ておけ 六ツ 一 ておけ 十
一 つるべ 二ツ 一 つるべ 六ツ
一 たかはり 二ツ 一 たかはり 二ツ
はくや丁 岩くら丁 休伯屋敷
一 はしご 一丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 二ツ 一 けんば 二ツ
一 ておけ 六ツ 一 ておけ 六ツ
一 たかはり 一ツ 一 つるべ 五ツ
一 たかはり 一ツ
檜物丁 弓丁
一 はしご 二丁 一 はしご 三丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 三ツ
一 けんば 二ツ 一 けんば 四ツ
一 ておけ 十二 一 ておけ 二十
一 つるべ 二ツ 一 つるべ 六ツ
一 てうちん 二ツ 一 たかはり 二ツ
桶丁 東尾張丁二丁目
一 はしご 三丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 二ツ 一 けんば 三ツ
一 けんば 二ツ 一 ておけ 十五
一 つるべ 三ツ 一 永てうちん 一ツ
一 たかはり 二ツ
【5段目】 【6段目】
小伝馬丁一町目 豊島丁
一 はしご 一丁 一 はしご 六丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 三ツ
一 げんば 二ツ 一 げんば 六ツ
一 つるべ 三ツ 一 つるべ 九ツ
同二丁目 一 たかはり 三ツ
一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ
一 げんば 二ツ
一 つるべ 二ツ
同三丁目 久右衛門丁一町目
一 はしご 二丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 げんば 九ツ 一 げんば 二ツ
一 つるべ 六ツ 一 つるべ 二
一 たかはり 一ツ
大伝馬塩丁 久右衛門丁二橋本三
一 はしご 二丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 三ツ 一 けんば 二ツ
一 たかはり 二ツ 一 かごつるへ 三ツ
一 たかはり 一ツ
大伝馬丁一町目 橋本丁壱丁目
一 りうこし 八ツ 一 はしご 三丁
一 けんば 二ツ 一 りうこし 一ツ
一 ておけ 十一 一 けんば 六ツ
一 つるべ 十 一 たかはり 一ツ
同二丁目 同二丁目
一 はしご 二丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 二ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 八ツ 一 けんば 二ツ
一 ておけ 十六 一 つるべ 二ツ
一 つるべ 八ツ 一 たかはり 一ツ
一 たかはり 三ツ
通旅籠丁 同四丁目
南側店中 一 はしご 二丁
北側店中 一 りうこし 一ツ
一 たか張 三ツ 一 けんば 二ツ
一 つるべ 二ツ
大丸店中 一 たかはり 一ツ
一 はしご 三丁 吉川丁
一 龍こし 一ツ 一 はしご 一丁
一 けんば 六ツ 一 りうこし 二ツ
一 つるべ 六ツ 一 けんば 五ツ
一 つるべ 四ツ
(大) りうこし 二ツ 一 たかはり 一ツ
橘丁壱丁目
一 はしご 二丁
一 げんば 大小三ツ
一 つるべ 二ツ
一 たかはり 二ツ
弥兵衛丁 同二丁目丁
一 はしご 二丁 一 はしご 二丁
一 水でつほう 二ツ 一 りうこし 一ツ
一 げんば 二ツ 一 けんば 二ツ
一 つるへ 二ツ 一 つるへ 十
一 たかはり 一ツ 一 たかはり 一ツ
横山丁一町目 同三丁目
一 はしご 二丁 (一 はしご 丁)
一 りうこし □ツ 一 りうこし 一ツ
一 げんば 二ツ 一 けんば 二ツ
一 たかはり 二ツ 一 つるべ 一ツ
一 たかはり 二ツ
同二丁目 村松丁
一 はしご 二丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 二ツ
一 けんば 二ツ 一 げんば 四ツ
一 ておけ 六ツ 一 ておけ 十
一 たかはり 二ツ 一 たかはり 二ツ
一 丸たかはり 二ツ
同三丁目丁 久松丁
一 はしご 二丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 げんば 二ツ 一 げんば 二ツ
一 たかはり 一ツ 一 ておけ 六ツ
馬喰丁一町目 元浜丁
一 はしご 二丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 つるべ 三ツ 一 げんば 三ツ
一 つるべ 二ツ
一 たかはり 二ツ
同二丁目 富沢丁
一 はしご 三丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 二ツ 一 りうこし 二ツ
一 げんば 三ツ 一 けんば 四ツ
一 ておけ 八十五
一 つるべ 四ツ
一 たかはり 二ツ
同三丁目 高砂丁
一 はしご 二丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 二ツ
一 けんば 二ツ 一 けんば 二ツ
一 つるべ 四ツ 一 つるへ 四ツ
一 かごつるべ 五ツ 一 たかはり 二ツ
一 たかはり 二ツ
同四丁目 長谷川丁
一 はしご 二丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 げんば 二ツ 一 小けんば 三ツ
一 かごつるべ 五ツ 一 ておけ 十
一 つるべ 三ツ
一 たかはり 二ツ
西尾張丁弐丁目 堺丁
はしご 三丁 一 はしご 三丁
一 りうこし 二ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 二ツ 一 げんば 二ツ
一 ておけ 十 一 かごつるべ □ツ
一 水でつほう 二ツ 一 たかはり 一ツ
一 長てうちん 一ツ
南新堀壱丁目丁 新和泉丁
一 はしご 二丁 一 はしご 一丁
一 龍こし 十四 一 りうこし 一ツ
一 げんば 九ツ 一 ておけ 三ツ
一 水でつほう 十 一 つるべ 二ツ
一 手おけ 四十五 一 たかはり 一ツ
一 つるべ 五ツ
一 かこつるべ 七ツ
南新堀二丁目 同四方
一 はしご 四丁 一 はしご 二丁
りうこし 六ツ 一 りうこし 三ツ
一 けんば 九ツ 一 けんば 六ツ
一 ておけ 五十二
一 つるべ 四ツ
一 かごつるべ 七ツ
同九軒持 田所丁
一 はしご 一丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 二ツ 一 けんば 二ツ
一 ておけ 六ツ 一 ておけ 十□
一 つるべ 二ツ 一 かごつるべ 三ツ
一 永てうちん 一ツ
北新堀 難波丁
一 はしご 四丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 四ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 九ツ 一 げんば 二ツ
一 ておけ 十五 一 たかはり 一ツ
一 つるべ 三ツ
一 たかはり 二ツ
小網丁壱丁目 同裏川岸
一 はしご 二丁 一 はしご 一丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 三ツ 一 けんば 一ツ
一 ておけ 六ツ 一 ておけ 六ツ
一 たかはり 二ツ 一 つるべ 二ツ
一 たかはり 二ツ
同二丁目 堀江丁一丁目
一 はしご 二丁 一 りうこし 二ツ
一 りうこし 一ツ 一 ておけ 三十
一 けんば 三ツ 一 つるべ 四ツ
一 つるべ 二ツ 一 たかはり □ツ
一 たかはり 二ツ
同三丁目 同二丁目
一 はしご 二丁 一 はしご 三丁
一 りうこし 一ツ 一 りうこし 一ツ
一 とひ口 五本 一 けんば 四ツ
一 かごけんば 三ツ 一 ておけ 十二
一 かごつるべ 九ツ 一 たかはり 二ツ
一 たかはり 四ツ
葺屋丁 同三丁目
一 はしご 三丁 一 はしご 二丁
一 りうこし 弐ツ 一 りうこし 一ツ
一 けんば 三ツ 一 げんば 二ツ
一 ておけ 六ツ 一 ておけ 十
一 たかはり 二ツ
嘉永七甲寅十一月新板
諸国大地震
地震之弁
抑地しんとは寒暑温冷(かんしよおんれい)平順(へいしゆん)【平穏】なるときは安全にして
異変(いへん)震雷等有ことなしいん気 陽(よう)に押いれ発(はつ)生
する事なりがたしきにより大小のぢしん有はその気の
強ぢやくによるところなり惣してふじゆんのせつは天雷
ぢしんのきう変あつて其気の甚しきところは
つなみとうあつて村里をかい中へ引入大舟を山岳へ打上
古代の江川流地とう【池塘?】を埋みあらたに泉わき出地裂(さけ)て
火気出て民家をやく木有ば諸人心得あつてりんじ
のあくさい【悪災?】をのかるべしすでに今度嘉永七寅年十一月四日
五ッ時大ぢしん大つなみの入し国々を委細しるす
東海道をはじめ先さかみの国は小田原大久保加賀守様
御城内少々そんじ宿中は土蔵三十余くづれ町
家大はんそんじけが人ておい多し箱根は少々
そんしけがにんすくなし山中は人家大はん
つふれ三つ谷崩れ御関所そんじ山々しんとう
なし大石大木うち折湯もとをへん
はしめ人家大ひにつふれそんじける
三島宿は人家をたをし其上新町
はしきはより出火いたし明じん前
伝馬町久保町方へ三丁よやける
ぢしんはます〳〵つよくなり死人
けが人七十よ人きう馬【?】迄
やけしす又うつまり死するも有
あわれといふかおろか也伊豆の国は
大しまかんず【神津島?】三倉三宅其外しま
〳〵大ひにゆれいろをかさき【石廊崎】戸田河津
いなし赤さは伊東北条にら山に仁
田しゆぜんじあたみへん一同につぶれ
死亡のもの多くけがにん少なからす下田は
千弐百けんよの人家つなみにて押ながし
あと十五軒程のこる人々大てい山上へ
にげあがりたすかるもの少なからすと云
あしろ【網代】大せん四十そうよ小舟かずしれ
ず大つなみにて引れ大はんゆくへしれず
又は山上へうちあけ破そんの舟おゝく候
しらすかも大あれにてゆりつふす
人家五百よつなみにしかれ死亡けがにん
すくなからすふしのこしは二三百石づみの船二
そう十二三丁ほどくうちへ【?】うちあけるするがの国
沼津水野出羽守様御城下大そんじにて
家つぶれ出火となり又も浜手は大つなみに
人家のそんほうおひたゞしく凡このところ【合字か?】にて
二百人よておいけが人ありあるひは牛馬迄死
かん原宿由井【由比】おきつ【興津】は人家そんし出火
なし七分とふり焼失なすえしり宿は清水
のみなと町家不残つふれ大火となりてをい
けが人は少からす老若男女八方へさんらんいたし
そのこへ【声】て地にしひき【ひびき?】まことめもあてられ【「ぬ」の欠落?】ことなり
同日おなしこくけん【刻限】ふし川のがげ【崖】くつれ二丁よ埋る
川水わうくわん【往還?】に流れるさつたとうげ【薩埵峠】くずれ
三保の松原甚つよく吉田辺も同断なり
府中の御城下大はんそんじやけるなり弥勒
へんあへ川まん水にてとまる小嶋一万石
松平丹後守様御じんや下まりこ宿うつのや峠
みね大あれにてくつれおかへ【岡部】宿藤枝宿甚つよく
田中本多豊前守御城下大そんし人家は
大はんつぶれ焼失に及ぶせと【瀬戸】川まん水にて留
三けんや【三軒屋】しまだ宿つふれ大井川古今の大
水ためし少し金谷たいはんつぶれ日坂同断
さよの中山大地ごく小ぢごくこと〴〵く崩れ
しんとうなすかけ川太田摂津守様御城
下大はんそんじ宿中大ひにつふれしゆつ火
となり六分どふりやける袋井宿見付宿は
同断池田いづれも大そんし大てん龍小てん龍
此川一つになるにもたらず五百軒程つゝみ切
人家あまたそんする也横須賀西尾おきの守様
御城下大しんじ人家つぶれうつまるなる袋井見
付宿ゆりくすし出火となり三分どふりやける
浜松井上河内守様御場内人家そんじる舞さか
あら井大はんつなみになかすなを又七里のうみは大あれ
にて人家大はんなかすしらすか【白須賀】二川三分とふりそんじ
吉田松平いづの守様御場内少々そんし町や大はん
つふれや多し御油あかさかふぢ川大あれ宿々はそん
しなりおかざき御城下人家少々そんしる也
同こく田原三宅対馬守様御城内町家そん
しるなりちりう【知立】なるみ【鳴海】宮の宿長しまへんそんじ
桑名松平越中守様御城少々人家もそんし
少々四日市つふれ四十三げんはまて【浜手?】大つなみ
神戸本多いよの守様御城下白子上の
三分とふり大そんなり津藤堂いつみの守様
御城下大ゆれなれどもそんじ少し
くもつ月本六けん松坂くしだ小はだ【?】山田
丁は家蔵大ひにそんじ宇治ばし二見かうら
大はんそんじ■も内宮外宮御別条近へんの
人々少もけかなく恐れ尊べし石やくし庄の宿
亀山石川日向守御城下しんし町家は
大ひにくつれ伊賀の国はそんじすくな
し尾張みやの宿大はんそんしる也
浜手は二十三間つふれ土蔵は
くづれ御役しよそんし
かめざき半田大つなみ
名古屋清洲少々そんじ
摂津国大坂安治川ぐち
すじあち川ばし大仏
じま九条嶋このへん人家
大はんそんしる御舟奉行
御蔵御番所舟つばし大そん
山田町兵庫丁みなとばし六
左■丁みなとばし常安へん大つなみにて
ながす仁兵へ丁床村新田郎丁次郎
べいてうふくしま天神正せんじ本町狐辻
あはち丁大ちわれすな水ふきあげ町家は
二十けんほどながすせとのまちかく川道
ふき丁江戸ぼりしんさいばし三枚ばし
二十けんよつぶれあぢ川大つなみにて大舟
小ふねおひたゞしく押上はし〴〵三十八なかす
又は大黒ばし迄大舟四五そうゆりあげ
てんまふね小舟とうは大ふねにあたりて
大はんみちん【微塵?】と成死人けが人かず多し
天保山大そんしついけた【池田】いたみ【伊丹】にしの
み【西宮?】へん兵庫大そんなりあまがさき
松平とを〳〵みの守様御城下そんしる
三田九鬼長門守様御城下へんそんじ
あさ田青木かいの守様御しんや大そん也
山城国淀の御城下伏見京都大和河内は
大ぢしん也紀伊国はくまのうら大つ浪
家々大はんそんじるわか山紀伊様御
城下そんじる田辺安藤飛騨守新くう【新宮】
水野土佐守様御城下大ひにそんじる
人家大半つふれ惣て九十九浦黒江日方
藤代大つなみにてゆか下三尺計り汐上
同広うら【広浦】とふり流失いたし候河原箕
じまゆらのみなとなかれる大しま有田の
加太日高辺大そんし泉しう【泉州】きしのわだ【岸和田】
大そんじさかいの丁大坂同やうにそんじ
越前ふく井の御城下大そんしるなり
同つるが辺丹波亀山同そのべ四こくぢ
一ゑんあしう【悪しく?】徳しま御城下大
にそんじ其之上五百らかんへんは
大はんそんじ土佐のくには大そん
しるあはじ島大つなみ丸がめ
京極土佐守様御城下そんしる也
いよのくに少々播しうは赤かう
森ゑつ中の守様御城下そんじる
びぜんたの口【田ノ口】下むら【下村】へんひつちう【必定?】くら
敷玉しまへんひんご【備後】尾の道鞆ふく
山 阿部いせの守様御城下へんは
少々そんじ靏さきそんじ少肥後の
くま本御領分大ちしんつなみにそんじるなり
日向のなた【灘】大ひに海あれる肥前之国少々そんし唐人(ナカサキ)やしき内
この外同時しんしうわた峠辺下のすは【諏訪】福しま
御関所へん上ヶまつ【上ヶ松】すはら【須原】の尻へんいたつてつよく
そんし飯田の御城下大そん也松本御城下大はん松代御城下
つふれ家多しなか〳〵筆紙につくしがたくこゝに略す
嘉永七寅十一月五日朝五ッ時ゆり出し
《割書:東海道|大阪辺》大地震津波図
【上部】
嘉永七寅六月十四日大
地震ゆり出し候へ共市中
無別条候に付氏神へ御礼
之御千度いたし目出度
悦居候所又十一月四日の朝
五ッ時大地震ゆり出し
所々損じ候へども格別
の事も無し又五日七ッ
時に前日同様の地しん
ゆり夫より後止事
なくゆり夜五ッ時に大
地震ゆり都合三度の
大地しんにて終に所々夥しく損し申候併怪我人は十人計り
の由に御座候尤門口に固いたし毎夜野宿いたし申候誠に
前代未聞成事に御座候損じ候所荒増を左にしるす
一天王寺清水舞台 一座摩宮鳥居 一北久太郎町丼地北
一塩町さのやばし 一御霊社井戸家形 家二三軒
一汐津ばし近辺 一天満天神井戸家形 一福島五百らかん
一京町堀三丁目 一順けい町丼池角 一籠屋町
一阿わざ戸や町近辺 一玉造二軒茶や十 一なんば新地みぞ
都合二十軒計 軒ばかり のかは
一御池通五丁目四軒 一あみだ池横門すじ 一住吉とうろふ六分
ばかりくすれ 一橘通三丁目 通こける
此外所々少し□【宛?】損じあれども数多く筆に
尽しがたく候也
【下部】
寅十一月五日大地震ゆり通しの中へ湊口沖手
より大津波打込川口に碇泊有之大船小船とも
不残安治川橋上手へ打上ヶ安治川ばしかめばし
打流れ申候其大船帆柱立たる侭橋より上へ打上ヶ
申候道頓堀川にては大黒橋迄はし残らず落申候て
大黒ばし之上大船小ふね共打込又材木等も沢山に打上ヶ
何れの川筋も船并に材木にて押詰り破舟等之数
知れず大□見聞したる所にては常に碇泊の船九分通りは
破損に相成流人の数何程とも不知此度之津波の有
さま筆紙に書尽しがたく前代見聞せず大変なり
其場所へ行見たる人は能御存じ人の咄しと申は五寸
ばかりの事壱尺にもいふものなれ共今度の事計りは
壱丈の事が五尺によりいふ事不出来位の事にて誠に
存知もよらぬ大変也湊口図にしるしたる川々残らず
津波打込町家は流れ申さず船計りに御座候尤も
船はみじん又くだけ申候落たる橋々左にしるす
からかねばし 高ばし 水わけばし
安治川橋 かめ井ばし 黒がねばし
日吉ばし 汐見ばし 幸ばし
住よし橋 大黒ばしにて止り申候
かなやばし
嘉永七甲寅十一月四日五ッ半時ゟ
《割書:諸|国》大地震(おゝじしん)大津波(をゝつなみ)《割書:三|編》
【上段右】
御公儀様難有
御仁誠に依而市中
の人々是を悦び寔に
有がたく思わぬもの
壱人もなし然るに
諸色米万端何に
不寄直段追々下直に
相成悦ぶ事限りなし
依之市中の人々第一
火の用心大切に相守り
万事の事心を懸物
事諸人に至る迄相慎
候事
【上段左】
大坂川口大津波の大略
安治川尻近辺死人凡
三百人よざこば近辺死人
凡弐百人よ寺嶋同死人凡
五百五十人よ堀江川近辺
同三百人よ道頓堀木津川
近辺にて凡三百人よ其ほか
所々廿人三十人あるひは
十人五人と即死いたし候
事は世にはめずらしき事也
もつともけが人は其数し
れず即死の数凡弐千余
に聞へ候此人々一度に声
をあげなきわめき其
あわれさはなすにはなし
きれ申さず候
十一月五日くれ六ッゟ夜
五ッ時過までの事に御座候
【中段右】
伊勢山田并志州鳥羽
右同日大地震大あれ
にて人家大躰半分
はくずれ大いなる
こんざつなりその
あわれさ申にたへず
こゝに御筆のことく成は
御師さまは年頭の
したくをいたされ
大坂表へのぼり此度
の大坂のつなみにて暦
等進物のたぐい難
船せし御方もあり
まことに〳〵前代未
聞の事也尤大神宮
御社并に末社社家の
家々地震がために少々
いたみ候処数多く
▲志州鳥羽辺は同日に
大地震一通りならず
大ゆりにて人家くずれ候
事は大躰其国は半ぶん
はかりくづれ候所へ大
津浪打来り御家中
町家とも大半ながれ
人々の難儀致し候はあわれ
なり其大変文面の
しらせのうつし是にしるす
【中段左】
尾州路《割書:書しるす事数|多有とも略す》
同日同刻大地震にて
町家損じたる事その
数をしれす寺院名古や
御城下御家中は申に不及
大地震に而大崩言語に
のべがたくまことに〳〵
あわれなる次第なり
【下段】
伊勢四日市《割書:十一月四日|辰ノ半刻ゟ》
大地震ゆりはしめ其
おそろしさ弁述に
のべがたくもつとも
家かず三千けん計り
ゆりくづれ男女
子どもにいたる迄その
混難おそろし事成に同日
申ノ刻に迄に又ゆり大地われ
益々強くゆり人々其中へ
落込候事は其数しれず
又同日いせ津へん同様なり
尤家かず二十四五けんも
くづれそんじたるは
其数しれず外に白子
かんべ松坂桑名へん
大じしんなれども
少々のいたみ
嘉永七年 大坂心齋橋文正堂
《割書:聞|書》諸国(しよこく)大 地震(ぢしん)并出火 京大坂堺河内紀州摂州丹波
丹後其外国々少々つゝの不同は
あれとも大てい同時同格の大地
震誠に稀なる珍事也《割書:十六日くれ方にて|七十三度》
【上段】
奈良
寅六月十四日夜八ッ時ゟゆり始明六ッ時迄少々つゝ
ふるひ十五日朝五ッ時ゟ大地震にて町家一軒も無事な
るはなく勿論一人も家内に居る事ならず皆々野又は
興福寺其外広き明地などにて夜をあかし大道
往来の者一人もなく皆内を〆よていつれに居共不分
毎夜〳〵野宿にて
目もあてられぬ次第也
南方清水通り不残
家くづれ木辻四ッ辻ゟ
西十軒計り崩れ鳴川
町にて二部通りのこり
北方西手貝通りにて三部残り北半田西丁手貝通り南北
大くつれ川久保町大崩れ家二軒残る中ノ方細川丁
北向丁北風呂辻子町右三町別して大くづれ其内にも
三条通りゟ北は少々くづれ都て奈良中の大そんじ
前代未聞の大変なり
死人凡弐百五十人小児五十人けが人数しれず
古市木津も家四五軒のこる
十六日暮方までに七十三度の大地震なり
伊賀
上野十四日夜九ッ時ゟ大地震ゆりはじめ御城大手
御門大にそんじ市中は凡六部通り崩れ四部通は菱に
なり猶又鍵の辻ゟ出火にて黒門前迄焼失に
およぶ夫ゟ嶋の原といふ所ゟ大川原といふ所迄螺乃
ために一面の泥海のごとく其混乱筆につくしがたし
十六日暮方迄に七十五度の地震なり
【下段】
郡山并に南大和
六月十四日夜九ッ時ゟ少々ゆり始め八ッ時に大地震柳町
壱丁目ゟ同四丁目迄家数凡丗八九軒くつれ其外
市中凡三部通り家くづれ其外奈良同様也
死人凡百弐三十人小児十七八人けか人多し
誠にあわれ至極也是も十六日くれ方迄に七十三度ゆる
一南大和ゆり出し同時けが人少々死人なし家少々
そんじくつれるほどの事もなし
江州
六月十四夜九ッ時より少々ゆり始め七ッ時ゟ大地震にて
三井寺下ゟ尾花川と申所迄家数百 軒余(けんよ)崩(くづ)れ其外
せゞの御城少々そんじ土山などは四五軒つゝ七八ヶ所くつれ
此内の人六部通りおしにうたれ四部は助(たす)かる又石山は別(べつ)して
大い成岩なども崩れ落ち殊に大そんじ其外御城下
在町大そんじ是も十六日くれ方迄大小共六十八度ゆる
勢州四日市
六月十四日夜四ッ時ゆり始め六ッ時ゟ大地震と成家数
三百軒余崩れ昼五ッ時ゟ出火にて家数四百軒余焼失
死人凡百四五十人 しれざる人弐百人余
其外勢州尾州其辺の国々大にそんじ候
越前福井
六月十三日五ッ時ゟ塩町かじや町
より出火東西南北共不残焼失
其朝大風にて九十九橋ゟ二百町
計り寺院百ヶ所両本願寺共
焼失近在凡十ヶ所焼失其
夜四ッ時に鎮り申候
又十四日夜八ッ時ゟ大地しん
田地なども泥海と成所々の家崩れ死人凡四五十人誠に〳〵
其混乱筆につくしがたし十六日暮方迄に大小六十七八度ゆる
【上段】
天保五午
二月七日 御救小屋場所附
大火に附
御公儀様ヨリ 此度数万の人々え
御救小屋御立被下き□つにも及はす
雨露にもうけずそのうへめい〳〵
御鳥目を下されし事実に
たうとく有かたき
御仁政のほど申もおそれ
多き事ながら万民よろこび
万歳をぞうたひける
一毎日御たき出し
御用にて深川追茶屋〳〵ヨリ
持はこびいたし候
土橋久保町家 一ヶ所
筋違御門外 一ヶ所 両国広小路 二ケ所
常盤橋御門外 一ヶ所 江戸橋 一ヶ所
数支の橋御門外 一ヶ所 八町堀 三ヶ所
幸橋御門外 一ヶ所 築地 壱ヶ所
神田橋御門外 一ヶ所 御小屋数
都合十三ヶ所
右出火に付御救小屋に罷在候者又は所々難渋
之者どもへ而て合力ほ□こし召出候品□に名前付
【下段】
天保五甲午年二月七日大火に付
御公儀様ゟ御救小屋所々え御建被成下
難有仕合に奉存候猶又此度諸町々より
両国佐久間町御救小屋えほどこしの性名
一壱人前《割書:たばこ|銭百文つゝ》 浅草駒形内田
一壱人前《割書:竹のかわ包|一つ宛 》 浅艸伝法院
一壱人前《割書:紙 五帖| はし》 通油町さかなや十助
一壱人前《割書:おはち一つ|ちやわん一つ》 かうじ町伊勢八
一壱人前《割書:てぬくひ|一筋つゝ》 御蔵まへかさくら
一壱人前《割書:銭三百文| つゝ》 同所ふださし二番組
一壱人前《割書:どびん一つ|ちゃわん五つ》 筋違うちだ
一壱人前《割書:銭三百文| つゝ》 佐久間町ふしみや
一壱人前《割書:銭七拾弐文| つゝ》 なまへしれず
一壱人前《割書:銭三百文| つゝ》 東両国《割書:内田|岡崎屋》
一壱人前《割書:ひもの廿枚| つゝ》 両国竹
右之通り難渋之人々え施候事仁心之慮也
凡(およそ)世上の災(わざはひ)といへる内/雷火天火(らいくはてんくは)等(とう)は
天の□□にして人力もて量(はかる)べからず
されど平生より心慮なく火をば麁(そ)
略になし其身計にあらで其/余災(よさい)
他人に及事偏にいたはしからすや
今嘉永三戌年二月五日は朝より
北風/烈(はけしく)折から朝五ツ半時麹町五丁め
裏通より失火して高貴の御□を始(はじめ)
御はた本其外大小の御屋敷/且(かつ)は神社
仏閣あまた類焼(るいせう)なしける故(ゆえ)諸人力を
尽(つくし)防消(ふせきけす)と雖(いへとも)風/強(つよく)して思はず広大(くはうだい)に至(いたり)
冬天をこがし煙(けふり)雲(くも)を染家居は崩(くづるゝ)音
すさまじく遠近に聞ておびたゝし其夜の亥刻に火は静(しづまり)て
諸人安堵の□□なすと雖斯も世の煩(わづらひ)とならん事其/恐不少(おそれすくなからず)
我も人もつてめて火の元を大事になし殊(こと)に下人などに猶(なを)
□く示て火を敬ひつかふときはかくつちの神の恵(めぐみ)をかふむり△下へ
《割書:上より|つゝく》△
其家ます〳〵富さかえて
火災をのがるゝよし古書に
見へたり其外火は人を養い
徳ありて其恩をしらず
みだりにあつかふ事ゆめ〳〵
有へからず是によりて
唯〻世の人の為にも成ぬ
べき事と遠方の人にも
しらせん便ともならんと
図をしるし拙言を添るのみ
【タイトル】
関東類焼 大地震
御救御小屋三ヶ所 浅草広小路 深川海辺大工町 幸橋御見附外
【本文】
乾坤和順せざるときは陰地中に満て一時に発す是地上に地震といひ海上に津浪といふ山中に発する時は洞のぬけたるなど
皆風雨不順の為す所にして恐るべきの大事なり于茲安政二年乙卯冬十月二日夜四ッ時過るころ関東の国々は
地震のとゝかさることなく一時に舎坊を崩し人命を絶こと風前のともしびの如し其中に先御府内焼亡ノ地は千住小塚原
不残焼け千住宿は大半崩れ山谷橋はのこらす崩れ今戸橋きは数十軒やける新吉原は五丁共不残焼死人おびただしく
田丁壱丁目弐丁目山川町浅草竹門北馬道聖天町芝居町三町北谷中谷能守院南馬道より花川戸半町ほどやける山の宿町
聖天町は崩る浅草寺は無事にて雷門の雷神ゆるぎ出す広小路並木辺残らす崩れ駒形町中頃より出火諏訪町黒船町御馬や
河岸にてやけどまる御蔵前茅町辺富坂町森下辺大破東門跡恙なし菊屋橋きは新寺町新堀共少しやける大音寺より
三の輪金杉辺崩れ坂本は三丁目やける山端町東坂広徳寺前通り崩多し又は山本仁太夫矢来内死人多く家不残崩る其外寺院は
大破損亡おびたゞし〇谷中三崎千駄木駒込は崩少し根津門前は大半崩池の端茅町二丁目境いなり向よりやけ同壱丁目不残
木戸際にて留る切通し坂下大崩仲町は片側丁崩多く両かは丁すくなし御すきや町は大崩広小路東かは中程より伊東松坂屋角迄
上野町より長者町辺やける御徒町近辺より三味せん堀七まがりは大名方組屋敷共崩るといへとも多分のことなし御成通より明神下
破れ多く外神田町家の分崩少し湯島天神は崩少し門前町崩多く妻恋町少しも不崩稲荷の社無事也本郷台破
少し筋違御門より日本橋通り左右神田東西共崩多し小川町本郷様松平紀伊守様板倉様戸田様やける榊原様外かは
焼神田橋内酒井雅楽頭様同御向やしき龍之口角森川出羽守様又下口は八代浦川岸植村但馬守様因州様御火消屋敷
等なり和田倉御門内は松平肥後守様松平下総守様やける近所崩れ其外丸の内御大名方所々崩多し鍋嶋様御上屋敷
不残やける山下御門内阿部様のこらす大崩となり夫より幸橋内松平甲斐守様伊東様亀井様共やける薩摩様装束屋敷崩る
霞関は諸家様大半くづれ黒田様御物見のこる永田町三間家かうじ町辺は崩少し四ツ谷市ヶ谷牛込小日向小石川番町迄
あれも損亡おほし赤坂青山麻布渋谷白銀品川高輪台町共崩少し赤羽根三田飯倉西ノ久保は崩多し増上寺無事
〇北本所は中の郷松平周防守様やける此辺大崩にて所々より出火あり同所番場丁弁天小路辺やける其外寺院損亡多し法恩寺橋
町家やける亀戸町二ヶ所やけるまた竪川通りは相生町緑町三ッめ花町迄やける又御船蔵前町より黒八名川町六間堀森下町高橋にて
留る又下口は深川相川町より黒江町大嶋町はまぐり町永代寺門前町八幡宮鳥居きはにて止る又乙女橋向角大川端少しやける
本所深川おしなへて地震つよく損亡おびたゞし〇日本橋より南東西中通り河岸通り共大崩にて南伝馬町弐丁目三丁目左右川岸
京橋川通り迄やける銀座町三十間堀尾張町辺少したわみ新橋向築地木挽町桜田久保町あたご下崩れ多し芝口通り少し露月丁崩れ柴井町やける神明町三嶋町大崩怪我人多し神明宮恙なし浜手御屋敷残すいたむ中門前片門前浜松町金杉本
芝辺崩少し田町大木戸品川宿格別の崩なし翌三日より七日まで明日すこしづゝふるひけれ共別にさはることなく追々静謐におよひ下々へは
御救を被下置御救小屋三ヶ所へ御立被下御仁徳の御国恩を拝謝し奉らん人こそなかりけれあらありがたき
事共なり 但シ出火のせつわ三十二口なれともやけるところは図のことし 火の用心〳〵
越 信州十郡
佐久伊那高井
信濃国大地震 埴科小県水内
筑摩更科諏訪
後 安曇コゝ二記ス
抑天地不時乃変動ハ陰陽こんじて天にあれば雷雨となり地にいればぢしんをなす又神仏のおうくも是をおさむることかたしされバ此度
弘化四丁未三月廿四日夜亥の刻より信州水内郡の辺より前代ミもんの大地しんにて山をくつし水をふき火ゑん天地をくらまし人
馬乃損ずることおびたゞしゑんごく他所にてかの地ゑんるいのもの安否をたづねなげきかなしむも少なからず仍てち名をくわしくあげ遠近に
しらせかつハ後代のかたりつたへにもならんか先善光寺乃辺ことにはなはたしそれ地しんといふより早くしんどうなし大山をくつし川を
うつめ土中ゟくわゑんのことき物ふき出し御殿宝蔵寺丁屋ハ申に及はすあるひハつぶれ或ハ大地にめり込大たんーーー
僧ぞくなん女ろうせう乃死人あげてかぞへがたしあまつさへ地火八方にちり不残せうぼうし廿七迄水火にくるしむ事を
ひつしにつくしかたし是より北乃かた大峯くろひめ山戸がくし山上松北郷しんかうじ福岡上の西条吉村田子平手室飯
まち小平落影小馬大馬柏はらしほじり赤川せき川乃お御関所辺よりゑちご高田御ぜう下へん廿四日よりゆりはじめ廿九日
午の刻頃別してつよくゆり土蔵寺しや人家をくづし首きこふりの分ことにひどく大山ハくずれ田畑をうずめ大水にておしなが
し死にんけがにん多くその内長澤村と申小村にて死亡の者六七十人も是あり此内土にうづまりわつか手足のミ有之
是ハぜんかうじより二三日おそくそうどうに及ぶ同寺よりひがしの方ハごんどう宿間の御所中乃御所あら木此辺ゟ□ーーー
ことににきびしくおばすて山の名ハおろか親ハ子をすて子ハ親をたずね大地におちいりかゑんにまなこくらみ地ハさけてどろをふきだし
近辺乃山〳〵一同にくずれ川をうづめ此へん平地と成にげまよふ人〳〵□□といひ山手よりしんとう黒けむりに方角をうしない□ーー
川にはまり木石にうたれ水火になやミ牛馬乃そんじおびたゝしく青木嶋大塚間嶋こしまた水沢西寺尾田中辺ゟ□ーー
になり松代乃御城辺きびしく度〳〵ゆり返しけるに廿九日の朝晦日の夕方迄つよくふるひ山〳〵よりがんぜきをくずし安庭むら山平
むら《割書:さらしな
|水乃内》両村の間に岩くら山といふ高山半面両はしくすれ一方ハ四十丁一方ハ九十丁ほとさい川の上手へおし入其辺のむら〳〵うづまり
こう水あふれ七八丈も高く数ヶ村湖水乃ごとくみなぎり平林かけ村赤しば関屋西条関屋川上下とくら中条横尾金井鼠宿
上下の塩じり村辺つよくちひさがた郡秋和生塚上田御ぜうか西の方ハ新丁かミにしま下にしま此辺山なり地中はらいのごとくなれハ此
辺乃者どもいきたる心ちなく前田手つか山田別所よねざハ沓かけなら本一の沢等およそ百四十三ヶ村ほど善光寺ゟ南乃方和□
雨の宮小嶋やしろ向八幡し川山田新山此へん山つゞき筑摩郡に至りほうふく寺七あらし赤ぬ田洞村おかた町松岡あり尾水くまゟ松本□ーー
御城下きんへん百二三ヶ村ふるひつよく家居を多くたをす庄内田貫橋ちくま新丁あらゐ永田下新上新三賤より飛驒ゑつちう堺松もと
より西の方あつミ郡宮ふち犬かい小海渡し中曽根ふミ入寺所熊くら城金丁ほそがやうら町とゞろき村下丁堀金むら小田井中むら
上下鳥羽すミよし長尾柏ばら七日市また此を辺き□ーー池田丁ほりの内曽根原宮本くさを舟場むら度〳〵ゆり□ハし□
さらしな郡の内小嶋はしにし大原和田下いちばかるゐ沢よし原竹房いま泉三水あんどこ小松原くぼでら中の□町人家乃損亡甚しく善光
寺より北乃方水内郡小ぶせかミしろあさの大倉かに沢今井赤さハ三ッ又さかいむら茂右衛門村□- --戸かく小泉とかり大つぼ曽根□
小ざかいわらびの深沢山なりしんどうちうやゆり動き中にも飯山御しよう下きびしく大水押出し人馬多く死す善かうじゟ東の方髙井郡のふん
中じまとう高米持さかひ井沢八まん矢部高なし辺佐久郡ハ小もろの御城下西ハたきはら市町与良むら四ッ谷間瀬追はけかり宿□ーー
くつかけ赤沢かるい沢峠町矢さき山あさま山上州口まですハ郡ハ□しぬの□ぜうゟ大ーーー木此辺少しく□内八重原大日向ほそ谷平村□ーーー
此辺ハ少しつよく廿四日より善光寺辺は廿五日朝やう〳〵少しずまり松代ゑちご路ハ廿五六日より廿九日晦日べつしてつよくちうやのぢしん
御代官様御地頭様よりかくべつの御手配にて水火をふせぎ人民の助けにかくも御れんミんにて米銭を御□当有がたき事実にたいそうの
御めぐミ申もなか〳〵おろかなり夫大ぢしんをきくに遠きいにしえハさし置□ハ文禄四年豊臣ひでよし公乃時代伏見大ぢしんにて京都
大仏でんをたをす慶長十八年冬京都大ぢしん寛永十年小田はら大ぢしん等々箱根山をくづし寛文二年京中大地震寛政
四年江戸大ぢしんにて六日七夜さゆる文政十一年霜月ゑちごの国大ぢしん天保元年京都大ぢしん是らハ人乃しる所なり□ーー
へにて如此数度是あるといへとも此たび信しうのぢしんハきないの□ーなり人馬の死がいあげてかぞへがたし凡里数三十里四方
に及ぶしかるに当時ぜんかうじ如来
おかいちやうにて諸国より
参詣の者数万人
此大へんにあひ土地
不案内にてしんたい
□しらせ
大方ならず本堂に
かけ入御仏にすがり
一心にねんじたるもの
七百八十余人壱人も
けがなく石垣を崩し
大地割たる中に本どう
山門きやう蔵泰ぜんとして□
□ハ仰ぎ尊むべしむべ
なる哉人わう三十代
欽明天皇十二年三国伝来
ゑんぶだごんの尊ぞうにて百さい
こくより弐本に渡す時の
大臣守屋物部自分
いたんのおしへ神明乃
御心にかなワじとなんば
の池にすてさせ畢
其後信濃国の住人
本田よしミつ池の
ほとりを通行なすに
池乃中より金じき
の光りをはなちし
ぜんとおんこえ有て善
光を御よびとめたれハ
よしミつおどろひて池
ちうをさぐりこ乃
如来の尊ぞう
を得て旧きよ
しなの国伊奈
郡ざこうじむら
に至り臼のうへに
あんちす然るに
れいむにかつて水
内郡今乃地にう
つらせ給ふ御堂ハ三
十六代
皇極の女帝 勅願也
けいちやう二年七月
十八日太閤ひでよし
公の命によりて如
来を京都大ぶつでんに
うつされしに如来乃
仏意にかなわせら
れずしば〳〵おん
たゝりつよく還
住のおんつげ是有
にまかせ同年八月
しなのゝ国にかへら
せ給ふ是あまねく
人のしるところ
にて日本三によらい
のだい壱なりさればこの度もかゝる
きうへんの折からに御どうつゝがなかれハ
まつたくもつて仏力のしからしむるところ也
来世の利現いちじるしくかつハゑん者さんけいの諸
にんもさしてけがとうすくなきよしいよ〳〵
しんじあほぐべき事にとそ
御大名附
/真田信濃守(まつしろ十万石) /松平伊賀守(上田五万三千石)
/松平丹波守(まつもと六万石) /内藤駿河守(たかとを三万三千石)
/諏訪稲葉守(たかしま三万石) /牧野遠江守(こもろ一万五千石)
/本多豊後守(いゝ山二万石) /内藤豊後守(いハむらだ一万五千石)
/堀兵庫頭(いゝだ一万七千石) /堀長門守(すさか一万五千石)
【立て看板】
《割書:くらの| 》開扉
落涙山非常明王(なみださんひじやうめうわう)
念仏題目等
当十月二日夜四つ時より翌日朝迄
一同令難渋者也
地震院 火事
そも〳〵なみだ山 非常(ひじやう)明王は御救(おすくひ)の小屋山町法大事(こやさんてうほうたいじ)の御 作(さく)にして
地震雷火事親父(ぢしんかみなりくわじおやぢ)を倶足(ぐそく)し奉る本尊なり悪魔隆伏(あくまかうぶく)は
もちろん世上(せじやう)の人気(しんき)をなほし放蕩惰弱(ほうとうだぢやく)を止(とゞめ)たまふとの御せいくわん也
地震(ぢしん)と現(げん)じ給ふ時 強欲(がうよく)いんあくの土蔵(どさう)をおとし雷鳴(らいめい)とあら
はるゝときは聾(つんぼう)の耳を貫(つらぬき)魂(たましい)を天蓋(てんがい)にとばして無慈悲(むじひ)の心(しん)
中(ちう)をかはらしむ火事(くわじ)身(しん)を現(げん)じてはつぶれし家(いへ)より火(ひ)をはなち
消人(けして)なければやけほうだい夜(よ)の明(あけ)るにしたがひていつしかきえてあと
かたはなきの涙(なみだ)の箸(はし)もたぬまでになりても命(いのち)さえあれば一法(ひとほう)かき
かへてだますとすれば親仁身(おやぢしん)それかけ出して野宿(のじゆく)の雨(あめ)津浪(つなみ)が
くるとだまされて逃(にげ)たあとから盗(ぬす)みする極悪人(ごくあくにん)はいざしら浪(なみ)心を
直(すぐ)にもつものは誓(ちかひ)て助(たす)けまゐらする非常(ひじやう)明王の御剣(みつるき)は
おやの異見(いけん)の剱(けん)なるべし片手(かたて)にぎる財布尻(さいふじり)しめしを守(まも)る
子孫(しそん)へあたへたまふとの御つげなればつぶれ
しんで後悔(こうくわい)あられませう
やう〳〵
安堵(あんど)し
たてまつる
本尊の由来(ゆらい)を
くやしくたずねるにむかし
地震王(ぢしんわう)またかど焼亡(しやうほう)のきこえ
ありて商売(しやうはい)ださだまりかねて命(めい)をかうむり田原俵(たはらへう)だ
火出(ひで)たと御すくひとして二合半のもつそうにておめしに
かりふくれがはらにおしよせたり此ときなみだ山毎日(まいにち)大(たい)そう
不そうおうをいのり施(ほどこ)し米(ごめ)のはかりことをもつて又門(またかど)の崩(くづ)れと
なりしもこの尊像(そんざう)の御とくなり此ときのうたに
またかどでこめかみよりぞうたれける
かはらおちたがさはりこそして
さいなん
けんのん
らいよけ
火なんよけ
こゞとよけの
御守は
これより
出升
こんがり
どうじ
せいたか
とうじ
【上段】
御救小屋場所附
并出火類焼場所附 禁売買
《割書:大江戸|関八州》大地震(おほぢしん)
石坐子先生撰 《割書:武陽| 》能調堂 印
大江戸八百八町は四里四方の外にあまり
新地代地門前地を加へ当時五千六百五十余丁
但し里数にして百五十八里三十弐町也
此度の地震
崩候土蔵数は
御大名方
一万四千五百八十七斗戸前
御旗本方
二十五万千六百廿九
御家衆方
三万弐千四百二十八
寺院方土蔵堂宮
五千八百十八前
町方土蔵類焼致候共
拾一万四千四百六十九
【下段】
惣土蔵数
〆八百四拾五万
九百七十六也
かゝる天災火難の
中に御城内をはじめ
両山御用屋敷等
一ツの損亡ななくしつまり
候事嘉ぶにかぎりなし
猶諸国文音の為くわしくしるし
衆人のあんどをつゞるのみ
御上より御救に小屋御立被下置▲
▲その場所三ヶ所
浅草広小路
幸橋御門外
深川
海辺大工町
上野山下
火の用心
安政日記
天地(てんち)の変動(へんどう)は陰陽(いんやう)の病労(びやうく)にしてその気(き)混(こん)し濁(にご)り蟠(わだかま)り久しく屈(くつ)して発(はつ)する時は
上(のぼ)りて雷雨電光(らいうでんくわう)ひらめき下(くだ)りて地中大ひにうごめき念魚(ねんぎよ)怒りて首尾(しゆひ)を発せば
蒼海(さうかい)も浅(あさ)しとし須弥山(しゆみせん)も軽しとす就中(なかんつく)御/府内(ふない)は大都会(たいとくわい)の繁昌地(はんち)にして諸国の
人/民招(みんまね)かず群集(あつまる)これに依(よつ)て遠国他邦(ゑんごくたほう)の親類縁者(しんるゐえじや)へ過急(くわきう)の存亡を告知らし
めて安危を一時にはからんが為に天災火難の来歴を巨細するに頃は安政二乙卯
十月二日夜四ツ時すぐるに北の方は千住宿を大半ゆりくづし小塚原町残らず焼失
夫より新吉原は地震の上江戸町一丁目より出火し五丁目残らず焼る大門外は五十
間西側少しのこる田中崩れ田町山川町焼る山谷通り大崩れ北馬道より南馬道は
寺地共のこらす焼る花川戸片側のこり片かは半余焼る山の宿聖天町は崩れ芝居
町は三丁共焼る浅草観音は御堂つゝがなく雷神門いたますして雷神ゆるきてる地
京大坂伏見
大地震
頃は文政十三
七月二日ひる
七ツ時ゟ
ゆりいたし
京大坂伏見
らく中落かへ
にし東本かんし
町家土蔵此へん
へつして【別して=とりわけて】つよく
牛馬命うしのふ
事かづしれず
【上段】
于時嘉永六癸丑二月二日辰の下刻豆相の国さかへ
箱根山の絶頂(ぜつちよ)より地震(ちしん)ゆりいだし追々はげ敷
通路とまり樹木(しゆもく)家蔵堂宮をゆりたをし田
畑はゆり崩(くづれ)其道筋山中箱根宿は不申及 姥(うば)ケ平
てうし口斎かち坂柏木湯本笠松象ケ鼻(はな)祖
師堂早川辺をゆりくづし夫より小田原御城下は足
軽(かる)町始山角丁すじかい橋大手御門通らんかんはしは
ういろう虎屋此辺悉くつぶれ出火二ヶ所夫より横
丁青物丁一ゑんにゆりたをし此辺出火四ヶ所大通万
町にて出火壱ヶ所大工丁出火壱ヶ所御城御見附一ヶ所
矢倉二ヶ所ゆりたをし出火は都合八ヶ所其余水
道ゆりつぶじ【ママ】水 満々(まん〳〵)と押流老若男女の一同に打
驚(おどろき)四方に散乱(さんらん)して其有様目もあてられず翌(よく)
三日午の上刻にやう〳〵しづまりかゝる天災有といへ
ども人馬共つゝがなきは全鹿島の神の神恵に
よる所并に当所 道了(どうりやう)大権現の守らせ給ふ故成べし
と諸人 安堵(あんど)の思をなしぬ
【下段】
【読点は朱書き】
ころは嘉永七とらどし六月十四日のようしのこくやつどきごろ
おわり、いせ、あふみ、みの四かこく、おゝじしんのしだい、とうかいどう
すじ、なるみじゆく、みやじゆく、なごやかいどうは、いはつか
、ばんば、かもり、さやじゆく、つしま五づてんわう、もつとも卅日
御さいれいにておゝこんざつ、どうしよはじいんそのほかまちや
はもうすにおよばすあいたおれ候またきたのかたは、いぬやま
、小まきへんみなみのかたは、のま、うつみ、もろさきへんまで
、さや川のにし、いせのくには、ながしま、くわな、四かいち、おゐわけ
へんのこらずあいくつれ候そのうヘ出火にあいなりしにん
けがにんあまたなりおなじく、いしやくし、せうの、かめやま
、せき、さかの下じゆくへんのこらず、あふみのくには、つち山、みな
、くち、いしべじゆくへんにしきたは、みのゝくに、大がき、なんぐう、たか
す、かしはばら、さめがい、たかみや、ゑち川、むさへんまで
そのほかにしきたのやま〳〵もうすにおよばすたい
はんおゝしんと【右肩に朱で濁点】うにてくづれ候もつとも十五日あけ六ツ
はんごろにやう〳〵しづまり候それより日々しやう〳〵
づゝ之ぢしんこれあり候古こんまれなるおゝぢしん
ゆえにあらましをかきしるししよにんあん
どのためかきしるししらしむるものなり
【上段】
十一月四日朝五ツ時大地しんにて
府ちうより先宿におゐてい
まりこ岡べうつのや峠あれる
ふし枝しまだ宿大井川其
外川々留るかなや日坂峠大に
あれる掛川御城下ゆりつふれ
やけるふくろ井見附辺つよく
はま松まい坂辺迄も大かた
ならずこゝに同日五ツ半時
伊豆七島【嶋】下田津なみは
五丈ほど大山のくずるゝ
ごとし家千軒ほど打なが
され大船五十そう小舟は
其数をしらす
浦賀大津金
沢又沼津の
浜【濱】手いづ
れも大津
なみにて
人家の損
亡大かたな
らずおうご【往古=いにしえ】
よりししん
つなのるい聞
伝【傳】ふといへども
かゝる大いなる
を聞ずよつて
いさいをこゝに記す
【上段左上】
〇信州大地震
信州松本大ぢしん
にてくずれ大はん
やけ飯田松代
ぜん光
じ辺
まで其
ひゝぎ【「ひびき」カ】
大かたな
らず人馬
けが有
こと其
かづを
しらず
【下段】
同月四日朝五ツ時昼夜何ヶ度もなく
大きに震天満天神大きに崩れ堂島【嶋】
辺西寺町金毘羅さまくつれかなく五百らかん
堂くつれらかんさま堂外え飛出し浜津
はし人家大きにくつれ南御堂大きに
そんし天王寺しろく堂【「ろくじ(六時)堂のことか】こつ堂前花立いし
大きにそんし高津辺くつれ玉造口二軒茶屋一丁
斗り東えくつれ此辺東西南北そんしたる処その数
しれす道とん堀芝居大きにそんし住吉の石とうろう
残らす崩れ天下茶屋塀廻りくつれ長ほりさのやはし東え入
長屋大きに崩れ住家ならす順慶町丼池人家大くつれ成
二間斗り残り住家ならす帯屋町大土蔵鳩くら
大くつれなり見る人めもあてられぬありさまなり
其外町々崩れ神社仏【佛】かくくつれし処おひたゝし
中にも諸々大名様は蔵やしき大きにくつれ夫ゟ
日暮六ツ時大津浪西南方より泉尾新田勘介【「助」とあるところ】島【嶋】ちしましんてん木津川すし安治川口とみ
しま辺大津なみ五丈程の大山の崩もことく往来
に打上り大舟小舟かち合くつれる事おひたゝし
流れ死する人幾万とも数しれす落たる橋は
かめ井はし安治川橋国津はし水分はしくろ
かねはし高はし日吉はし汐見はし
金谷【「屋」とあるところ】はし大黒橋にて留る夫ゟ大和路奈良
町々大きにそんし春日様社くつれ鳥居
金とうろうくつれ落なり兵庫は家七
八軒くつれ伊丹池田の辺【邊】大ししんなりな
れともくつれし家はなし柏原村大きに
くつれ出火におよふ西宮なたは大坂に同
し誠に前代未聞の珍事成ゆへ諸方
の文通にしならんとこゝにくはしく記す
【下段 左上部】
〇四国大地震
大津浪
同播州路
四日五ツ時四
五辺不残大
ちしん大つ
浪そんし
中にも阿波
徳しま御城下
大きにそ
んし須磨
明石あこ
ふの浜【濱】大
津浪なり
姫路御城下
そんし其
外くつれし
処津浪
にて流
されし処
数し
れす
【上の資料】
年魚(なまづ)瓢箪(ひようたん)人浮状(にんうきじやう)之 事(こと)
一此 震(うご)九郎と申者 生国(せうこく)は常陸国(ひたちのくに)要石郡(かなめいしごうり)地潜村(ぢもぐりむら)出生(しゆつせう)にて慥(たしか)
成(なる) 動々(ぶり〳〵)者(もの)に付 燃上(もえあが)り之 火事(くわじ)等(ら)共(ども)燃人(やけにん)に相立 危難(きなん)加多(がた)え
御 麁相(そゝう)に震(ゆり)上候所 物騒(ぶつそう)也 難(なん)義之儀は当卯十月二日之 晩(ばん)
於眠氣(おねむけ)時より翌(あくる)三日四ツ 這(ばい)迄に相定御 損(そん)金として損両(そんりやう)損分(そんぶ)
損(そん)朱 惜(おしく)も焼取れ申候御仕 着(きせ)之義は夏は震電雷鳴(ごろ〳〵かみなりの)白雨光物(ゆふだちしまひかりもの)
一ツ 冬(ふゆは)焔散粉(ひのこのふる)布(ぬの)子一枚可被下候事
一 御関東様(ごくわんとうさま)御八 州(しゆ)之義不及申 諸国(しよこく)一統(いつとう)為相動(あいゆるがせ)申 間鋪(まじく)候万一
此者御台所 勝手(かつて)ケ間敷 氷仕女(おさんとん)方へ参(まい)り大摺木(おゝすりこぎ)を震立(ふるひたて)摺鉢(すりはち)を
破(こわし) 這々(はい〳〵)之上内々之 地震(ちしん)致候 歟(か)亦(また)は動逃(ゆりにげ)壁落(かべおち) 致(いため)め候はゞ高梁(かうばり)を以(もつて)
取繕(とりつくろひ)急度(きつと)したる大工 左官(しやくわん)差出(さしいたし)早速(さつそく)埒明(らちあけ)可申候
一 愁障(しうせう)之義は鐘(つりがね)之 難題宗(なんだいしう)にて寺は小 動(ゆれ)川 散々(さん〴〵)橋ぢやんぐわら寺(じ)暫(ざん)
時(じ)に崩(くづれ)家(いへ)□【「なく」カ】候 御八方(ごはつほう)を震支丹焼宗門(ゆりしたんやけしうもん)には無之候 若(もし)此物 音儀(おとぎ)に付
日合(ひや ひ)よりがらくら動振(ゆすぶり)等(とう)無之候万一 震返(ゆりかへ)し津浪(つなミ)等致候はゞ要(かなめ)石に判人(はんにん)乃
堅(かたい)我等(われら)地しんに早速(さつそく)曲出(まかりいで)ぎうと押付(おしつけ)野田(のでん)へ転寐(ごろね)御 苦労(くろう)小屋 掛(がけ)差(さし)
懸(かけ)申間敷候 地震(ぢしん)之 後(のち)材木(ざいもく)買而(かつて)直段(ねだん)之 高(たか)し
安心(あんしん)二年
是(これ)から〆この夘の十月
請(うけ)に人(入にん) 天井張(てんじやうはり)下水仕事(げすいしごと)新井丁(あらいまち)
ふしん屋でき介店
家根屋大九郎(印)
人(ひと)入 主(ぬし) へたくた壁塗(かべぬり)門内(もんうち)左官(しやくわん)は早(はやく)智光院(ちかういん)地内(ぢない)
こまい屋角左衛門店
つた屋煉兵衛(印)
積田(つんだ)金蔵(かねくら)河岸(がし)
無事田(ぶじだ)繁昌(はんじやう)郎様
【下の資料】
夫/陰陽混克(いんやうこんこく)して地気天降(ちきてんがう)の時を得て埋(うづも)れたる気を発
し物和順するが故俗世なをしとふ此言すてべからず人和合順□【敬ヵ】を
元とすべし是を孝とす孝は百行のつよさなれば人孝なきを木□【石ヵ】と
いふしかある時は親に善事をきかすべし必麁略に思ひ給ふなみづから
もとむる災ひは悔みても□【詮ヵ】なし天災をのがるゝも孝徳の余慶なれば
早く故郷の父母につげて安心さすべし頃は安政二卯年十月二日すこし
くもりけれど風いとしづか成けるに俄に鳴動して地震一時に夥敷家倒
けがする人数しれず此故に出火して新吉原丁不残此内けが人かずしれず
田丁山の宿聖天丁三芝居不残やけ花川戸浅草かんのん地内やけて
十八□□ばかりのこる駒形並木すは丁黒船丁にてとまる下谷は三のわ
坂本火除地まで池のはた仲丁一めん松平豊之丞様榊原式部大夫様
御中やしき小川丁まないたばし御やしき丁家ともごじいん原地さける
又上の広小路ゟおなりかいどふ石川主殿守様井上ちくごの守様
小笠原左京太夫様御中やしき神田ばし内松平紀伊守様小出
信濃守様酒井左衛門様森川信濃守様大名小路大小名方
所〻崩れる和田倉内松平肥後守両御やしき松平下総守様
小笠原左衛門様林大学頭様松平相模守様半やけ日比谷御門
内永井肥前守様松平主殿頭様土井大炊頭本多中務
大輔様さいはい橋御門内丹羽長門守様有馬備前守様夫ゟ
さつま様せうぞくやしき少〻やける山下御門内は松平甲斐守様
伊東修理大夫様亀井隠岐守様南部美濃守様松平肥前
守様又品川辺□【強ヵ】ゆれ芝神明前地しんにて家倒るゝ事夥し
芝口京ばし南伝馬丁辺鉄炮洲佃嶋深川諸所〻すさきまで
本所は中の郷原丁いし原辺又弐ツ目ゟ三ツ目迄林丁と【「き」カ】く川丁
六間ぼり森下丁霊がん島大川ばたはま丁此外すこしづゝ
の出火地しんゆり倒れ諸〻にあれども略す此時これ火しづ
まりしは翌朝四ツ時過全く太平になりけれは人〻あんどの
思ひをなし御代のゆたかはんじやうよろこひ□□【けりヵ】
【上の資料】
一ふくでこり〳〵薬 但し
妙ゆり出し 質(しち)やの内
がた〳〵ふるへるに妙なり でいりなく候ゆへ
一名 不自由散(ふじゆうさん)と申候
気(き)ばかりながらつよひかうぜう奉申上候
一抑此妙ゆりだしくづれの義は先(せん)ねん信(しん)しうにてゆりひろめ
候所大ゆれ大なんじう仕候間けつしてたこくへせりゆりおしゆり一切
いださず候所きん年しよこくにまぎらはしきにせくづれ相みへ申候べつして
京大坂 東(とう)かいとふすじをおしゆり致又々江戸おもてまでもにせくづれおしゆり
仕そのうへ火事木とうをあげしごくぐらちの義に付きつとゆりどめ申付私かた
いつほうゆりに仕候 尤(もつとも)もふたんとはゆりもふさず当十月かぎりにゆり子へ申 渡(わたし)候間
にげだしのじゆくの御さはぎなく御あんしん被成らく〳〵とごふうふ中よく夜なかの
ゆりだしはごじしんにてまいよ〳〵二三ぶくつゝ御 用(もち)ひ可被成候はゞ御しそんはんじやう致し
のらぐらの御子どもしゆは無御座候間しつかり御だき付被成《割書:アヽ|もふ》いつそいゝ世(よ)の中(なか)と
御評判被成御求可被下候以上
効能(かうのふ)
一《割書:目のまわるよふに|いそがしひ》職人(しよくにん) 一《割書:目のかすむのは|帳合さし引》材木屋(ざいもくや) 一《割書:ねつのやふに|あせをかく》車力(しやりき) 一《割書:かたのはつた| 》日雇(ひやとい)
一《割書:よあかしで|風をひいた》人入(ひといれ) 一《割書:づつうに|やんだ》借金(しやくきん) 一《割書:なんじうの|やまひに》施行(ほどこし)
禁物(きんもつ)
一 高利座頭(かうりざとう) 一 地面持(ぢめんもち) 一 株持(かぶもち) 一かけ取(とり)《割書:なんでもとりるい|一さいをいむ也》
一 諸芸人参(しよげいにんじん) 一 猫(ねこ)のへん〳〵草(くさ)《割書:并に大だいこ| 小だいこ》 一 土蔵(どぞう)粉(こ)にしてみなこの類(るい)忌(いむ)べし
○用様(もちひやう) 二日のばんにぐはら〳〵と一度大きくゆりだしあとは度々ゆら〳〵とゆりだして
人の手をかりずぢしんに用ひへし又せんじるには火の用じんを第一とすべし
本家 取押糾明所(とりおさへきうめいどころ) こゝはどこ〴〵かしまのかいどうすじ
しつかりとうけあつたまち百丁目
かなめ屋石蔵 神力
【下の資料】
【欄外上】 慶長以来
【中央】
当
安政二乙卯 五街道筋 差《割書:元|禄》京都大雷 勧 愛宕神社
為御覧 十月二日夜 江戸大地震大火 《割書:嘉|永》江戸大雷 進
四ツ時ヨリ 近在近郷 添《割書:万|治》大坂大雷 要 鹿嶋太神宮
司
【右側】
大火方
大関 明暦三 丸山本妙寺出火
関脇 明和九 目黒行人坂出火
小結 文化三 高輪牛町出火
前頭 文政十二 和泉橋際出火
前頭 天保五 佐久間町《割書:ヨ| リ》出火
前頭 弘化三 本郷丸山出火
前頭 嘉永三 麹町《割書:ヨ| リ》出火
前頭 弘化二 青山《割書:ヨ| リ》出火
前頭 享和九 江戸大火 同 寛文元 京都大火
前頭 寛政四 糀町出火 同 享保九 江戸大火
前頭 寛文元 京都大火 同 安政元 江戸大火
前頭 享保九 大坂大火 同 天保五 江戸大火
前頭 安永元 江戸大火 同 同二 江戸大火
前頭 安永七 江戸大火 同 安政元 江戸大火
前頭 天明八 京都大火 同 寛文四 江戸大火
前頭 天和元 江戸大火 同 安政元 中山道筋大火
前頭 寛政五 根津出火 同 ヽ 東海道筋大火
前頭 承応 京都大火 同 ヽ 宇都宮大火
前頭 元和六 京都大火 同 ヽ 大坂大火
前頭 安政元 神田出火 同 寛政 南都大火
同 ヽ 中国大火
洪水部
大関 延宝四 諸国大洪水
関脇 宝永二 中国大洪水
小結 文政五 関東大洪水
前頭 享保二 長崎大洪水
前頭 享和二 関東大洪水
前頭 弘化四 関東大洪水
前頭 宝暦七 関東大洪水
前頭 寛保元 関東大洪水
前頭 享保十三 関東大洪水
前頭 寛延二 江戸大洪水
前頭 天和三 江戸大洪水
前頭 文化五 関東大洪水
【左側】
地震方
大関 文政十一 越後大地震
関脇 弘化四 信濃大地震
小結 元禄十六 関八州大地震
前頭 嘉永元 小田原大地震
前頭 寛永四 関東大地震
前頭 寛政十 小田原大地震
前頭 天明二 関東大地震
前頭 安政元 大坂大地震
前頭 天和三 日光大地震 同 安政二 行徳大地震
前頭 寛政十 京師大地震 同 ヽ 船橋大地震
前頭 文化九 関東大地震 同 ヽ 神奈川大地震
前頭 安政元 摂州大地震 同 安政元 阿波大地震
前頭 同 駿河大地震 同 ヽ 伊予大地震
前頭 安政二 遠州大地震 同 安政二 中山道筋地震
前頭 同 甲斐大地震 同 ヽ 東海道筋地震
前頭 同 信州大地震 同 ヽ 水街道大地震
前頭 同 三河大地震 同 ヽ 日光道中地震
前頭 同 紀州大地震 同 ヽ 下総大地震
前頭 同 土佐大地震 同 ヽ 上総大地震
前頭 同 播州大地震 同 ヽ 青梅街道大地震
同 ヽ 秩父大地震
津浪部
大関 文化元 奥州大津波
関脇 仝 出羽大津波
小結 寛保 松前大地震
前頭 安政元 豆州大津波
前頭 仝 駿州大津波
前頭 仝 摂州大津波
前頭 仝 紀州大津波
前頭 仝 土州大津波
前頭 仝 播州大津波
前頭 仝 阿州大津波
前頭 仝 泉州大津波
前頭 仝 勢州大津波
【欄外左下】 禁売 松久堂□【蔵ヵ】板
相模国大地震
頃は嘉永六癸丑どし二月二日
ひる九つ時相州小田原御城下
町々をはしめとして東は
田村川辺厚木荻の山中【荻野山中】淘綾
郡神戸井こ大磯宿中村金子
すゝ川みのけかすや伊せばら
子やす辺大山辺大住郡
近邊山々上村谷村
おか本早川石はし山
二子やま箱根并に
七湯の湯場こと〳〵く
湯本畑宿山中
三ツ谷辺西は伊豆
のくにあたみ辺み
しま宿海尻峠
岩渡とうは峠
するが国はぬまず
辺まで尤原宿
よし原宿辺迄
も中〳〵の
ひらきなり
北は愛甲郡
三増川むら
此へん山々
大にあれる
津く井郡
青の原とう
し川 下へ
鼠坂はし本辺少しあれるよしの
小はらへん関のへんまても大かたの
ひらきにて夜九つ時過まて都合
いく度といふ数を知らずといへども
大ゆれにいたせしを五度にして
やう〳〵ゆり止り諸人あんどの
思ひをなしにけるよつて
此よし諸国の親類
ゑん者へ知らせ
ん為一紙に
くわしく
しるす
【図中の地名等です】
○北【横書】
甲斐国【逆書】
関の よしの【逆書】小原【逆書】
つる島
二子沢【「一子沢」カ】【逆書】上の原 鼠坂
此辺少し とうし川 此辺少し
竹井野【逆書】青の原【逆書】
津久井郡 早小川 此辺少し
三増 はし本 〇東
山伏岳?【逆書】 相模国 愛甲郡 荻の山中【荻野山中】
中島【逆書】 川村 子安
小山【逆書】此辺そんじ【横書】大住郡 かすや 厚木
大山 蓑毛 伊勢原 此辺
竹の下【逆書】 矢倉沢 此辺そんじ 鈴川 愛甲
駿河国【逆書】仙石原 岡本 金子 井□ 神戸
大期【逆書】とうば峠【逆書】 早川 淘綾郡 田村川
海尻桛【逆書】 小田原 中村 此辺そんじ
足柄郡【横書】 大いそ 花水川 馬入川
〇西【逆書】 二子山 石ばし山
ねぶ川 さかは川
此辺そんじ【逆書】湖水 はこね【横書】 土肥
ぬまづ【逆書】三しま【逆書】あたみ【逆書】
伊豆国【逆書】 笠しま 〇南
【全体の上段】
じしんのいりはじめハ
おほかたあさの 四ツ谷
おろしや船がつなミにまかれ
たといふのハうそかねそれは 本所
大地しんに三日もいられ
しんハおとろへ目が 久保丁
つなミでけとうじんハしんだ
ろふといふ人の 神田
此地しんでハ
みんなかほが 青山
ふじの山が地しんでつぶれ
たといふのハほんとふかねそれハ 鉄砲洲
大地しんでハあしが
すくんでめが 丸の内
地しんのおちついたこく
げんハ大かた夜の 八ツ山
【以上の下】どをけ三十六哥仙
【哥は右上から下へ、次に左隣へ移動】
てんぢてんわう
あきれたね又
東海道ハ大
地震わがにやう
ほうハどこへにげつゝ
ぢとう天王
あるくにもて足ハ
すくむ地ハ
われるわがから
だにハあせをかく山
かきの本の人丸
足よハがたす
けてくれと
頼めども
命ほしさに
人ハかまハん
山べのあか人
どこの浦も
内より出て
にげいづるこへハ
高ねでとこしをふりつゝ
春丸太夫
おく山に道を
ふミわけにげ
いりて山がくづ
れてなくぞかなしき
中なごんやかもち
あさ草の【下の四角内に「芝居」】
芝居町から
山のしくひろきを
ミれバよるふけにけり
きせんほうし
わが家ハ下田の
おきにながれつゝ
ミな内なしで
人ハいるなり
小のゝ小町
かほのいろハ
かハりにけりな
大じしんてん
でにかほを
ながめせしまに
せミ丸
これやこのいきも
かへりもあつ
まりてしりも
しないで大かたのせめ
そう正へん正
はまつなミ
わか内こそ
ハ山の上
てをハそろへて
しハしとゝめん
さんきたかむら
かゝのはらのりし
じしんハよけれ
とも此じしん
でハきん□いりふね
中なごんあさたゞ
大地しんすミし
あとにて
なか〳〵に
人のしゝたるかすハしれまじ
【下段大きな四角内上から下へ、次に左隣へ】
平のかねもり
下田をきゆら
れにけりなおろしや
ぶねミなよひ
きミとひとのいふまで
かんけ
此たびハ大工
しやかんハかねの山
もちバのしごと
きうのまに〳〵
そせいほうし
今に又いると
おもふて人々が
したくこそして
まちゐづるかな
けん徳公
あハれともいふべき
とこハ二【三カ】嶋じく
家がつぶれて
こまるべきかな
西行ほうし
なげきつゝ神や
ほとけをいのりても
こういふときハ
きかぬものかな
しゆ徳いん
せをはやく岩で
くだけしひがき
ぶねもふこれからハ
のらんとぞおもふ
中なごんかね平
ミなは□へたをれ
いるのをなが
むれバわが
ていしをバこひしかるらん
文やのやすひで
ゆるからに秋はの
町もしをれつゝ
山も地しんと
人ハいふらん
藤原よしたか
きミがため
おしからざりし
命でも此
じしんでハ
にげにけるかな
大弐の三み
ありま山火
のミのうへハ
ひどかろふたつた
ひとりでこハいめをする
清少なごん
夜をふけて
鳥のなくまで
子ぞうさんどうぐの
ばんハきつとゆるさじ
右大じんミちつなのはゝ
なげきつゝ役者ハ
ミんなやすミゐる
いかに久しき
ものとかハしる
左京の太夫ミち政
今ハたゞをう
らいたへて八日
より一人たちを
とふすよしもかな
中なごん行平
たちいでゝにけ
ゆくとこハ山の
うへをちつくときハ
またかへりこん
三じやうのう大じん
なにしおふ
ふた子の山も
あれぬれハいしが
ころげてくる
よしもがな【次の哥の詠み人最後の行】
うミのおとたへつ
久しくなり
ぬればまた
つなミかと人ハにげけり
大なこんきんとう
さきの大僧正きゃうそん
もろともに
あハれと
おもへ大地
しんやふよりほかに
ゐるとこハなし
やうせいゐん
つりかねもうへ
よりをつる
大地しんおとぞ
ひゞきてみゝへなりぬる
藤原清すけあそん
なきながら
ていしハ
ニどの大
ししん湯□とよりも
畑がかなしい
かハらの左大じん
道なかへたをれ
ふしたる大
じしん地こそ
ひらいてわれならなくに
大江の千さと
いりぬれバひゞに
心もかなしけり
わが身ひとりの
事にハあらねど
源のむねゆき
山ざとハゆるぞ
久しくかぎり
なく人もその
身もしすとおもへバ
ミぶのたゞミね
ありがたき
つゞく天下
のおひざもと
水道のとよで江
戸ハけがなし【哥の下の四角内「上水」】
じゆん徳いん
もも引や古き
じばんでかけ
いだしあまりに
つよきじしんなりける
【上の資料】
頃は嘉永寅七年十一月
四日□五ツ半時より丸ノ内備前
様倉□間こわれるぎ□□
さくら田あいた□屋敷弐三間
すこしづゝいたむ鍋嶋さま
こしまきおちる南部さまけん
すう拾四五間長家たふれ甲
斐さまやれの瓦おちる柳沢
さまげんかんこわれる久保町
本郷六丁目□□やねの瓦おちる
伏見町□□町丸竹倉いた
む町内やかず拾弐万やねの瓦
おちる□□□田さましやう
いたむ田丁四町目五間やね瓦
おちる弐丁目常心寺やねの
瓦おちる□□た老男女人々
あはて衣□□上へ下へそうどう
半時はかり四ツ時□□しとし
づまり□々はんどうのお□□
しつまりたり
【下の資料】
口 演
御町中様益々きもを御つぶし被成はきのとく
奉存候慥に此度ぢしん大ゆり終□申家わみな
つぶしあんに仕りあぢわつなみのしほあんばい
つよくまづいをぢまんにさし上申候間御すい□
御方様道中通りいちぺんつゝ御ゆられ可被成候よふ
ひとへに奉声上候以上
一 大ぢしん大ゆりもち 一 五七雨あられおこし
一 大つなみまきせんべい 一 かしま要もち
一 下田みぢんこらくかん 一 にげごしよふかん
一 所々焼まんぢう 一 まんざいらくかん
一 壱度でこり〳〵糖 一 ぐら〳〵ぴつしやり糖
一 此外夜中□目さめし姉ませんべいぢしんるいに
是は御風味よろしく御座候
寅十一月四日 四ツ谷日でり横丁
ゆり□□申候 なまつ屋ほら右衛門
当日せけん一とふ
おどろき申候
《割書:近郷|近在》江戸大風雨出来場所分
【八行目より十九行目上に横書きで「日本橋ゟ南の方」の記述あり】
頃ハ安政三年八月廿五日の夜五半時頃ゟ大風大あめにて追々はげしく
震とうらのめのし社どうをはじめ家くら橋〳〵にいたるまでそんずること
おひたゞしくまつ南の方ハ通りすじ京ばししんばしおもてうら丁一ゑんにそんじ
芝丁ゟ東之方は汐どめわきざか様仙だひ様御やしき大そんじ御濱ごてんは
少々二而大船打上る諸々同断芝うら御やしき右同断りやうし丁芝濱辺は
大方之船数しれず打くだきうちあげる芝田通り一ゑんくつれさつまさ様
はまやしき其外諸やしき濱つき一ゑん大浪にて所かけくつれ高なは辺
まへちや屋吹とび海上へ流さるいくてのすだれ大半くつれ御だい
ばハ五ヶ所とも少々づゝのいたミ其外下丁へんハ一たいに大そんじ
又芝うら沖にかゝりいるさつま様あかゞねづくりし大せん全横はまへ
吹上る其外品川沖にかゝり候大ふね数た吹流され八口山御てん山
ハことの外にて大木を吹おり吹たおすことかづしれず品川しゅくはたごや
大半そんじ海がハは大くずれ東かいじハ門たおれへいのこらすくづる山うち
木々ハ大半吹おる此へんうミべ之方ハ大もり辺まで海上ゟ津なミのごと
く大なみをうち上け人家をながし又ハくつるゝいへおゝしまた日本ばしゟ
右之かた御ほりゟとおりかじばしすきやがし辺八くわん丁通辻ばし辺おはり丁
竹川丁辺家根一ゑん吹めくるかし通りハなをつよしあたごの下は一ゑんに
御やしき諸同打ちくづれ火の見やぐら吹おれる芝口はじゟ一たいに
大そんじ神明御社ハ少々社内ハ大しんじ芝御山内ハ御れいやつゝがなし地中
其外大そんじ大木数しれずおれ又ハ打たをす同所片門前ゟおりにて此辺一ゑん
神□前どをり両かはみしま丁角までおもてハ宇田川丁にて焼どまる又西のくぼ辺
飯くら辺赤ばねへんやしき丁家とも大半くづれ三田辺有馬様ハ大半そんじる
小山もりもと辺寺丁伊皿子だい丁二本ゑのき辺一ゑん細川様大そんじ寺丁
へんのてら〴〵御下やしき又ハ丁家とも大半くづれ此へん山はやし多くして
大木を吹おり又ハ根こぎにし其数しれず其外田地田はたにいたる迄
大そんじ南之方ハ先あらましをかきしるす
さて二本ばしゟ東の方青もの丁辺坂本丁四日市しんばとおもん
かいぞくばし牧さま御やしきことの外のそんじかやば町八丁ほりへん御くミやしき
一ゑんそんじ亀じま辺大どをりつきじうらとをり辺ことの外大そんじ木ひき丁
へんより門ぜきどをりハ大半いたミ西本くわんじ本堂ハおしつぶれしぼうけが
人あまたなり地中ハ大そんじきんぺん御やしきハ一ゑんおしつぶれあき様御やしき
大なミにて石がけくづれ御やしき内なミうちあぐるつきじ濱べとをりのこらず
うちたをれ家々くずれながさるさむさばしゟ十けん丁ミなと丁辺是又大浪
【横書きで「日本ばしゟ東の方」】
大風にて家々なやにいたる迄大浪にて石がきくづれ流れ又ハくづる
いなりばし社ハ少々此へん御やしき一たいに大そんじむかふつく田れかしま辺ハ
大なミにてうちつぶれ又ハながさるよせば石川しまハ右どうだんしん川
しんぼり酒ぐらそんじ家々大半くづれそんず川通りハなをつよし永代
はしハ大ふね流れきたり右はしぐいへうちあて中ばよりはしぐいうちおれ
中ほどくづれおうらいとめるむかふふか川さが丁辺諸蔵数しれずいた
む蛤町仲町へん大半くづれ大水にて大いたミ仮たく遊じよやハさのづち
そうくづれ大こくや大の屋久喜まんじハ大半いたミにてすむ八幡御やしろハ
つゝがなく此廿日沢の嶋弁天かいてうにてばしよのこらずうちくづれ大なミにて
行がたしれず其外社内ハ大半いたミまへほりにてけが人多し三十三間堂
九分どをりそんじ木バへんい一ゑんにざいもくをながし人家大そんじ又すさき
弁天は大そんじ其辺ゟ木バ大じんち辺一ゑん大浪にていへ〳〵をながすこと
かづしれず御やしき方くミ辺ハ右どうだん又きたの方ハてら町どをりれいがんし
まそんじ其外てら〴〵人かにいたる迄大半いたミ大出水にて家くづるゝ事一ゑんハ
ときハ町裏下町辺高ばし扇ばし通り大出水にて人家大そんじくずれ家あまた
小名川通砂むら中川へん右おなじあたけ六けんぼりへんおよび
松井町辺いたく大半
いたミみのかめやハ大くづれ立川どをり林丁ミとり丁辺同断五百らかん大いたミわりけ表辺
つか馬様其外近辺やしき一ゑん大半水にて大いたミ亀井戸柳しま辺右同断大川ばた通り
一ゑん中の郷にかめ尾丁辺ミな一ゑん向じまハ田ばた一ゑん本所ふか川ハわけてつよし
【横書きで「日本橋ゟ北の方」】
又日本ばしゟ北之方ハ本丁辺石町辺小田原町辺御ほりどをりかまくらかしどをり
一ゑん大そんじぢんばう小川町壱ゑん大小のやしき長屋御てん又ハ家のみ大半くづれ
飯田丁辺壱ゑんまた通り丁は今川ばしかじ町なべ丁内神田一ゑんやなぎ原辺其外
一ゑんに大半そんじすじかい辺正へいばし辺ともどうだん外かんださくま丁へんはら店
御なりミち御やしき方一ゑんにそんじ神田明じん社ハ少々そんじせいどうがくもん所
へんハ大そんじゆしま天じん社ハ少々からかねの鳥いおれるつまこひへん高ミゆへ大そんじ
ほんがうへん竹丁はる木丁へん一ゑんそんじかゞ様御やしきハ御物ミくつれ一ゑん大そんじ
かまごめ辺すがも白きん辺大そんじ又本町ゟてんま丁ばくろ丁辺横山丁
はま丁辺丁家御やしき方ハ大そんじ安藤様御長屋打くつれ永代はしへ
打あて候大せんほばしらハ田安様御やしきへながれつくともの方ハ安藤様御や
しきへながれ付打上る其辺両きしとも大ミづにて大そんじ両こくばしハつゝがな無
其外小屋ちや屋一ゑん大くづれ浅くさ御門外かや丁平右衛門丁辺代ちへんハミな
一ゑんに大はそん御蔵まへどをりどうだん御くらハ少々にて御馬やがし辺きし辺一ゑん
大はんいたむ駒かた辺三間町仲丁辺田原丁辺右衛門どうだん東ばし辺金竜山は
雷ぢん門仁王門つりの大でうちん行方しれず池のはたにし宮社のかねの鳥居
中ゟ打おれる御山内本堂ハつゝがなくしゆろうどうハやね打くづれ八方へとび
ちるちやミせ諸あきんどミせ小屋等までこと〴〵く大そんじ打おれ大木打おれ
根こぎあまたなり地中人家ハ大はんなり矢大江門家根そんじ馬道とをり
大はんくづれいたむ松田屋ト申仮宅惣くづれ其外中田戸田長や花川ど山の宿
仮たく遊女屋は一ゑんに大そんじ芝居丁芝居ハ三ざともやね吹
めくるちや屋一ゑん
大そんじ又ハつぶきやいまた三合田中辺鳥こへ辺大そんじはしハまつさき辺大くづれ千住
へん一ゑん大ミづにて大そんじ新吉原元ち大くづれ其上京丁ゟ出火にてやけるミのハ坂
もと金杉辺大そんじ坂本ゟ出火やける下や通りハ一ゑん御やしき一ゑん東門ぜきハ
少々寺中そんじ其外遠辺寺々大そんじ御くミやしき一ゑん山下通り一ゑん上の御山内ハ
一ゑん御れいやつゝがなく山内清水編大木打おれ其数しれず天王寺日ぐらし根ぎし辺
三かわじま辺ことさらつよく田はた大あれなり其外山々の木々あまた打おる
【これより「日本ばしゟ西の方」横書き】
又日ほんばしゟ西の方ハ丸の内ハくだばし御門内さかい様御長や百間よおしつぶれ
小がさ原様長家片かわつぶれ御さくじやしき大そんじときハばし内門なべ様のこらず
つぶれゑちぜん様太田様其外大小名様方一ゑん大そんじ辰の口諸々御やしき一ゑん
大名かうじびぜんくら様御長屋つぶれおた様同断小がさ原様つぶれ近辺御やしき
一ゑん大はんそんじかじはし内あハ様御てん銅かわらおちる長井様つぶれとのも様半
つぶれまき様おもてもんくづれ長屋一ゑん土井様どうだんひゞや御門外毛利さま
半分つぶれなべ様さつまさまなんふ様此辺大小名様方一ゑん大そんじ打くづれ亀
井様にしを様たおれ相馬様御げんくわくづれ上杉様長やゞぶれあき様
かすみがせきうら長屋かたかわくずれ其外近辺御ひゃしき一ゑん雲しう様御やしき
大そんじ三げんや小やしき一ゑん大そんじ右丸の内ハ一ゑんにさくら田御門内ゟ
馬バ先わだくら辺まで大木六十七十ほん打たおれ西の御丸下ハほつた様一ゑん
くづれあいづ様御やしきのこらず下サ様其外一ゑんなり又半蔵御門外大半
御ほり石がき諸々そんじ大木打たおすかうじ町通り一ゑん平川天じん社ハ
少々うら町通ハ大半くつれ紀州様御やしき一ゑん大そんじ赤坂御門外通り
伝馬町一ハ木辺一ゑんため池きハ津り打くづれ又ハ吹つぶれくらた様其外
御やしき方一ゑんなり氷川社ハ大そんじ今井丁谷丁辺二本榎りうどへん
人家大半そんじる火けし屋しき火のミ大そんじ又麻布辺ハ十ばんどうやしき
一本松辺大木を吹おる善ふくじ大そんじさくら田一丁古川辺大水にてくづれ
むろをしぶやへん一ゑんくづれ又小石川辺一ゑん江戸川すじ牛込辺かし
どをり一ゑん大ミづにて木ざいもくをなかす又丸山よりはぐ山御てん其外田丁
きくざか辺伝通院地内一ゑん大半そんじ根津辺其外右之近辺大木を吹
おることおびたゞし又けいせいがくぼすがも通りいたばし辺にいたるまで所々大そんじ
市ヶ谷辺ハ御やしき町家とも一ゑんなり四ッ谷御門外てんま町辺大通りうらじん道
其外御くミやしきにいたるまで大はんそんじなる二町内藤しんじゆくおいわけミち
近辺一ゑん大つぶれ大そんじ青山辺ハ六どう辺百人町其外御くミやしき一ゑんに
大そんじしぶや目ぐろ辺一ゑん山ノ手ハ木々多く大木を吹おり根こぎにしたる所おゝし
【横書きで「近国近在」】
東かいどうハ大山辺ゟふじ沢宿戸つか程ヶやかな川かわ崎辺宿々在々にいたる迄大半そんじ又大くづれ
又かいがんハかたせ江のしま辺かまくら辺うらが辺惣一ゑん大なミにて人家くづれ流す山々ハ大木を打おる
北国かいどうハ千じうさうかこしがへかすかべさつてくりはし宿々ざい〳〵にいたる迄大そんじ大出水にて人馬とも多く
けがあり中仙道ハわらび大ミやおけ川かうのすくまがへ宿道在々殊の外つよし甲州かいどうハ高井戸辺
八王子へんまで在々にいたるまでそんぼう多し東ハほり江ねこざね行とくかさいりやう二合半領辺
舟ばし辺ことの外つよく大なミきたり人家とも大半そんじ上さミちおミかわまくわ千ば濱の村辺かい
がん通り是又大なミ打来り人家を流し人馬こと〴〵くしんす其外うミ山はもちろんひつしにつくしがたし
やう〳〵明七ッ時頃二風しづまる今其こさいを書しるしゑんごくたこくの人々へしらしめんためしるすのミ
《題:《割書:遠江参河駿河甲斐|信濃伊豆相模武蔵》大地震の図【圖】》
頃は嘉永七甲寅年十一月四日朝五半時遠江
三河駿河甲斐信濃伊豆相模武蔵八ヶ国大地しんにし
て甲州は甲府迄つよく伊豆は下田七島【嶋】とも甚つよく家つぶ
れ大地山々われ大船二十五艘小船あまた行ゑしれづ白浜【濱】つな
みにて五百けん程ながす其外伊東赤沢仁田真づるふせあたみ
しゆぜん寺辺大にそんじ北条初音山にら山三子山早川ばし相
州は小田原十一万三千百廿九石大久保加賀守様同はぎのと【?】一万石
大久保長門守様御城下大にそんじ箱根山大にあれる三
島【嶋】宿家つぶれ西え二丁程東へ三四丁焼失す駿河は
沼津五百石水野出羽守様りようち大にいたみ家
焼失す又吉原田中四万石本田【「多」とあるところ】豊前守様御城下
大にやけるかんばらともにつぶれる由井宿やけるおき津
は入つなみにて大にそんじ江尻宿つぶれ府中甚つよく
家つぶれ大はん焼失まりこうつのや峠大にあれるをかべ
藤へだ島【嶋】田大にそんじ大井川古今の大水にて往来留る
遠州は金谷さがら一万石田沼玄蕃守様りよち【ママ】そんじ
日坂峠大にあれる掛川五百三千七百石太田摂津守様御城下
辺大にやける横すか三万五千石西尾隠岐守様りようち
大にそんじる袋井やける見附そんじ浜【濱】松六万石井上河内守様
御城下少々そんじる舞坂つぶれ荒井【新居】御関所入つなみに
てながさる白すか二川吉田辺迄甚つよく大いそ平つか
ふぢ沢鎌倉辺格別のいたみなく六浦■■田浦
中田大峰千田かんのん崎東西浦賀平根
山つるが崎吉井千代崎磯根匂ヶ崎■
崎網代木和田といたみ武蔵は
金沢大々そんじる戸塚程ヶ
谷かな川川崎少々いた
み品川江戸丸之内辺御
やしき少々いたみ之外桜
田南部守様御やしき
大はんそんじ松平時之介
様御屋しき伊東様其
外御屋敷少々いたみ久保町大々
そんじ其外赤坂あざぶ十ばん辺小石
川小川丁御屋敷少々いたみ新宿大そう
霜月四日朝■【「五」カ】ツ時大坂大じしん同五日ひる七ッ時あし川口
はし〴〵十ヶ所余落る人家百けん船流出る■■■
■■■きよう大せん七十小船かづしれず宮寺そんず 大
小そんじ信濃は松代十万石真田信濃守様御城下
大々そんじる松本六万石松平丹波守様御城下
やけるやくのくづれ人馬大ひに
そんじ往来とまり昼夜何度と
なくゆりやう〳〵六日
夜しつまり諸人安
堵のおもいをなす遠
国の親類へあん心を
告んが為に
こゝに
しるす
【上部上段資料】
山城国八郡
高廿三万七千石
加茂川日本第一の
名川
にして
京都北奥
山石屋より
わきい出る
小川二十川
流込下に
いたりてか
つら川落
合淀川え流出る
なり水元より
淀迄里数十三
里なり
【上部下段資料】
頃は嘉永
五子年
七月廿一日未刻頃ゟよく廿ニ日
辰之刻まて大風あめに而京
都北山ゟ伏見南都まての間
大あれ二条五条為流落川
筋へ家等も数多流失伏見継き所
に而壱丈九尺程淀堤四ヶ所八幡堤
三ヶ所切れ落廿五日朝相成通路
難相□之候廿七日朝ゆふ共往来相成
人々あんどの思ひなし
【下部資料】
山城国八郡高廿二万七千石加茂川日本第一の名川
にして京都北奥山石屋よりわきい出る小川廿八流
込下にいたりかつら川落合淀川に流出るなり
水元より淀川まて里数十三里頃は嘉永五子年
七月廿一日未刻ゟ大雨大風増さかんして三條
より四條五條の川筋流欠いたし家々にも数
多流れ六條御門跡様辺にて堀川かつら川
まて満水に而らく中の大水あふかたならす
親をすて子をうしなひあるいて家根に上り
ひさしのほりお□り置家をふせぎ廿一日辰の
刻迄弥さかんにして北山より伏見南都□間
大あれにて家流れ立木なかし□水増さかんして
壱丈五尺程淀川堤四ヶ所八幡堤三ヶ所切落□元
より神宮寺高□社□□□八幡町美豆生
津木津川まて廿五日朝に相成通路難儀や
□廿七日往来も相成平□に而人々あんと思ひ
なしにける
《題:《割書:江戸十里四方|大風出水焼失》場所附》
頃は安政三丙辰年八月廿五日夜五つ半時風雨はげしく家蔵堂社をはそんする
事おびただしく南は品川宿海がは大半そんじ折ふし海上より大なみを打あげ是が為に
流るゝ樹木おびただしく東海寺うら門海晏寺品川寺ねりべいそんじ御殿山大木倒るゝ
事数しれずにむ御臺場は恙なし夫より高なは海手出茶や海中に吹入寺院大樹往来へ
たをるゝ夫より田町本芝さつ州様御はまやしき少々そんじさつ州様御製造の大舩金杉ばしの
きわに着す又札の辻より三田麻布古川広尾辺こと〴〵くそんじまた芝浜御殿てんはつゝがなく尾州様
御蔵やしき少々そんじ同所門前より出火して表通りは宮田川町少々やけうら通りは神明まへの両かは残らず三嶋町の
かどにて焼どまる又増上寺御山内恙なく宿坊ねりべい右かは樹木所々たおれ同切通しゟ西のくぼ迄町家屋敷共大半
そんじ又あたご下通り同断桜田久保丁一円格別の事なく芝口ゟ尾張丁迄のあいだ大通りはつゝがなく両仲通りは
表うら共に所々はそんあり銀座三丁目自身番火の見やぐら半鐘つりあるまゝにて往来へおちる京橋通りは大根がしへ
薪材木おびただしく流れきたる又日本通りは今川橋迄格別の事なく東中通り所々つぶれ家多し西中通り同断また
本町伝馬町通りは格別の事なし石町鉄砲町小伝馬町馬喰丁所々はそんあり油町塩丁横山町右同断夫ゟ橘町
二丁目三丁目西がは大半潰れ米沢町久松丁此辺少々そんじはま丁は大川より水あがり安藤長門守様御やしきうちへ
茶舩一艘ながれこむ此辺一ゑん出水の為におし流され小網丁北しんぼり永代橋中程へ八百石づみの親舩かゝり是が為に
橋杭大いにそんず又南しんぼり辺北は茅場丁八丁堀辺迄所々破損あり南は霊がんじま鉄砲洲つき地小田原町へん
所々大半そんじ其うへ出水おびただしく西本願寺御本堂はじめ寺中大半つぶれ講武所あき様一つ橋様ゑつ中様
御屋敷所々破損あり〇又東の方は深川洲さき大出水八幡まへ仲丁同断遊女屋かりたく五十六七軒押ながされ
あるひは破損なしてわづかに残るは久喜万字や一軒のみ夫より六間堀辺高ばし右同断にて少き所は床うへ三尺の出水
なり又本所堅川通り林町緑丁松井町常盤丁御旅一つ目弁天御船蔵辺大出水家々の損じ大方ならず又南北わり
下水法恩寺橋出水おびただしく夫より亀井戸天神門前社内共右同断又五百羅かん辺さゝい堂大半破損なり
又本所石原番場多田薬師辺大にそんじ東橋の欄干(らんかん)中ほどそんじ又浅草雷門まへ広小路同観音地中所々
はそん同所あは島の社銅の鳥居たをれ奥山見せ物小屋樹木等こと〴〵く折れたをるゝ其うへ仁王門雷門の大提灯
とびちりてゆきがたしれず又失大し門そこ松田屋かり宅つぶれ北馬屋物丁通り大半そんじ大音寺まへよし原出火の上
所々そんじ南馬道は少々やぶの内西がは残らずつぶれ並木通りゟ浅草御見附迄表裏共につぶれ家二百二三十
けん余なり〇又北のかたは千住宿少々小塚原焼失夫より算の輪金杉根ぎし坂本東坂町東えい山下黒門
まへ茶やその外少々づゝつぶれ家あり尤御山内大樹数百本打折れ下寺坊舎のうち所々そんじ夫より不忍弁財天
居廻り茶や〴〵所々そんじ善光寺坂うえ下清水門茶や町団子坂通り所々潰れ多し同端林寺残らずつぶれ同所
幡隨院境内樹木打たふれ三浦坂下川ばた御旗本やしき両かは一軒残らずひらつぶし同所祖師堂恙なくくり本堂
丸つぶれ夫より根津惣門うちあかづ組御やしき所々そんじ潰れ家人余ほどこれあり森様内藤様くづれ宮永町門前丁
表裏家百六十間余潰れ惣門は屋根少々そんじ権現社別条なく茅町頃衛つ堂大つぶれ同所うら池の幡籠丁
うら表所々そんじ潰れ家十四五軒又無えんざか上加しか樣柳原様御長屋少々いたみからたち寺めくら御長屋少々
そんじ本郷通り壱丁目より六丁目迄表家格別の事なし裏通り御組やしき所々そんじ同丸山本妙寺辺所々潰れ
そのほか梨坂たどんざか菊坂辺少々そんじ森川宿本多様并二御組やしき追分町両かはそんじ九軒屋敷町家其外
小屋敷潰れ多し夫より片町所々そんじ樹木倒れ又竹町通り鶏声がくぼ丸山新町淨心寺辺大にそんじ同坂下拵ケ谷町
小屋敷潰れ多し夫より片町所々そんじ樹木倒れ又竹町通り鶴声がくぼ丸山新町峰心寺辺大にそんじ同坂下指ヶ谷町
小屋敷町家等潰れ多し又巣鴨酒井雅楽頭様御下屋敷土井大炊頭様御下屋敷樹木大にたをれ御篭町通り
表通りは格別の事なし裏通りは所々そんじ傳通院領少々破損夫より板橋通り庚申塚辺樹木倒れ人家破
損なし板橋宿はたごや両かは共大そんじ又大塚浪切不動辺所々そんじ松平大学頭様御屋敷大木たをれ御長屋
少々そんじ小石川一圓格別の事なしといへども所々にくづれ家あり同安藤坂辺傳通院寺中所々そんじ牛天神金杉
水道町水戸様御門通り水道橋お茶の水火消屋敷此辺所々そんじ桜の馬場前田様内田様聖堂前通り
御屋敷所々そんじ又湯島天神社内別当所潰れ其外銅鳥居同裏門鳥居倒るゝ其外芝居小屋揚弓場
茶見せ等損所多し同切通し天深寺前少々つぶれ楼梁屋敷所々そんじ又天神門前三組町御かど町御手代町
まで潰れ家所々に是助り大半は破そん妻乞坂稲荷社少々損じ嶋田様裏門つぶれ三枝梅少々はそん町家
壱間つぶれ大半破損す同坂下黒田様酒井様内藤様芦野様少々づゝ破損昌平橋通り同朋町
御臺所町神田明神石坂下表長屋所々破そん裏長屋大半つぶれ旅籠町金沢丁外神田一ゑん
所々に潰れ家ありといへとも多分の事なし明神表門通り潰れ家二三軒あり昌平橋はその夜薪材木流れ
来り水すじ止まる夫より駿河だい小川町通り両かはお屋敷大半破損土屋様十の字内藤様稲葉様
土井様戸田様本多様残らず形なく三河町表裏一えん所々破損つぶれ家あり〇御くるわ内は神田橋
酒井左衛門尉様御長屋一棟凡百間ほど潰れ小笠原左京大夫様御長屋片かは御作事定小屋つぶれときは
ばし御門内間部下総守様残らず潰れ龍の口にて御屋敷壱軒潰れ大名小路松平内藏頭様裏御門通り
織田兵部少輔様小笠原様右同断鍛治橋御門内松平阿波守様御玄関御殿潰れ銅がはら残らずおちる長井
肥前守様つぶれ松平主殿頭様御辻番より半つぶれ内御長屋両かは倒れ土井大炊頭様一長屋たをれ日比谷
御門外松平大膳大夫様御長屋半分余つぶれ阿部播磨守様通用門より左右御長屋残らず潰れ秋田様
さつ州様装束やしき右同断とらの御門内亀井様御殿御二かい半分なし西尾様表門一むねつぶれ相馬様
御長屋表門御玄関たをれ上杉様横長屋つぶれ夫より霞が関藝花様御住居少々破損赤坂御門内
松平出羽守様御長屋片かはそんじ渡辺様同断三軒家小屋敷残らずたをれ糀町平河天神うら門
町家大半つぶれ惣じて桜田御門内より馬場先和田倉迄御植込の大樹おゝよそ六十本倒るゝ又西御丸
下は池田様御長屋残らずたをれ会津様両御屋敷共つぶれ其外山の手は市ヶ谷牛込四ツ谷大久保辺町家
其外土蔵くづるゝ事数しれず又赤城明神近辺早稲田一ツ橋様御抱屋敷穴八幡まへどふり所々破損多し
夫より鮫ケ橋紀州様御やかた辺町家寺院等多く損ずすべて青山百人町通り澁谷道玄坂のあいだ
格別の事なしといへども所々に潰れ家あり凡御府内並二近在十里余方五海道一えん潰れ家破損
神社仏閣樹木宇山山泉人家の存亡場所によりて多少ありといへどもいち〳〵かぞへあぐるにいとまあらず
廣大無辺の珍事なりといへ共神国の寄珍いちぢるくよく廿六日暁六ツ半時雨やミ
狂風しずまり人々あんどの思ひをなしぬそのあらましを一帋に録して山海を
へだつ遠国の親るい縁者へ安否をしらせんが為にしるすものなり
【上の資料】
大阪大地震津浪記 難波本清板
嘉永七甲寅年十一月四日朝五ツ半刻大地震同五日七ツ半刻より夜
五ツ半時迄大地しん津波にて安治川木津川辺につなぎおき
たる所の親舩大津浪にて一同に道頓堀の川へおし入日吉ばし
汐見ばし幸橋住吉ばしを押やぶり大黒橋にてとまる川中は
大舩にて十文字たて横におし破りかさなり合候ゆへ浜川蔵
屋しき町家土蔵納屋こと〴〵く舩さきにて押やぶり小舟
茶舟等は大舩におしつぶされ道とん堀大こく橋迄元舩入こみ
候事は実に前代未もんの大さうどうに有之候
一大坂地震にてくづれ候場所は左之通せんば辺は座摩の社内鳥居
ならびに門たをれ北久太郎町丼池大くづれ塩町佐の屋ばし角
堀死人けがにん其数しれず南本願寺御堂は北西へそんじ御霊
の社井戸くづれじゆんけい町辺丼池大くづれにて出火致し程なく
しつまり長堀へん板屋はし北詰大くづれ阿波座さつま堀へん
願教寺たいめん所つぶれ永代橋京町堀へん三四軒やける天満
の社内うら門近辺池田町ひがし天満へんはくつれば所数しれ
す中のしま辺常あん橋角大にくづれ西横ほりへん新町遊女
屋の所大くづれ堀江へん四ツはし御池通り土佐様御やしきの堀
くつれあみたが池の辺大にくづるゝ安治川九條へん南は永町辺
幸町の辺栄ばしへん西づめ大くづれなんば新地しん川辺また
あんにう寺の鐘つきとうつふれ住よしの石とうろう残らすたをれる
その外末社くづるゝ上町へんのばく上本町へん玉つくり辺御祓筋
くずれ二けん茶屋へん上町清水ぶたいつふれ天王寺近へん此
外市中くづれ場所数しれす
摂州尼ケ崎の御城はそん御城下五十軒程つぶれ西ノ宮兵庫なだ
三ケ所大坂同様南海紀州熊野浦よりしま遠江なた伊豆大浦迄
凡百五里余の海がんの人家津波にて大半流失致候猶追々
諸国の場処出板仕候
【下の資料】
諸国大地震大津浪場処書上之覚
嘉永七甲寅年十一月四日五ツ時過大地震大津浪にて東海道の国々上方
すじ中仙道信州岩村田残らずつぶれ其上出火小田井宿同断松代の御
城下同在々半つぶれ人馬けが人多く同松本の御城下在々共右同断
此外少々のくつれ数しれず扨又甲府は大半つぶれ身延道中同断
同五日七ツ半時上方すし中国九州四国路大ちしん大津浪広大にして
凡其数四十六ケ国のさうどう此外少々のそんじは数しれず里数は肥前
長崎より江戸迄三百五十里又伊豆下田より九州迄大津浪の場所数しらす
先江戸は御屋敷町方近在の村々関八州共少々づゝのそんしは扨置東
海道は小田原御城下辺よりだん〳〵つよく箱根御関所大にそんじ同宿
門半つぶれ夫より伊豆みしま明神社つぶれ神前より東の方へやける其
近辺大にそんじ又石山くずれて人馬けが多し下田の湊八分通りつなみ
にて流失致候大浦白浜柳さき沼津御城下町在共大半つふれ又
うらては川つなみ原宿少々吉原宿半つぶれ出火大宮つぶれふじ川
向岩ぶち半つぶれ出火けがにん多し蒲原宿半つぶれ問屋場より上の方へやける
由井興津少々江尻宿八分通り潰れ又清水湊つぶれ出火残らず流失三保
町同断府中御城町々過半潰れ横田より制札場迄焼る阿部川立場本陣
初め六軒潰れ川津浪鞠子宿少々つぶれ岡部宿半潰れ藤枝四分通
潰れ六分やける嶋田宿少々大井川大水金谷宿半潰れ地われとろを
吹出す鈴鹿山大損し小夜中山夜なき石飴餅や不残潰れ日坂は少々
懸川御城そんじ町々潰れ出火けが人有原川合の宿潰れ袋井残らず
潰れ焼死人けが人あまた見付宿大に損同所臺の下人家不残つぶれる
天龍川近辺中いつみ御陣屋川ばた池田村不残つぶれ同相良辺大に損じ
横す賀御城町在共半つぶれ怪が人多し浜松御城大にそんじ御城下
三十軒程つぶれ舞坂宿大半流失荒井半潰れ渡船流れ御関
所潰れ門の柱斗り残る大つなみ白すか二夕川三分通り損吉田御城下大に
そんじ吉田橋そんじ岡崎御城下少々損矢作の橋東の方橋杭落込東
西地割れる鳴海宿大にそんじ申候 浪花本清板
【上段】
大地震大津浪場所書上之覚
一大坂より四国路中国筋九州の辺は四日五日ゟ八日迄五日の間日々しん
どう相やみ不申候又尾州宮宿内大にそんじ浜【濱】手廿三軒つふれ
御役所つぶれ亀崎半田大津浪津しま名古屋清須のへん
少々のそんじは数しれず伊勢桑名御城御城下共大にそんじ
長しま辺四ヶ市つぶれ家四十三軒はま手は大津浪庄野石薬
師へんは地われつぶれ家多し亀山御城そんじ町家大にくづ
るゝ神戸白子へん少々津の御城町々共大にそんじ浜【濱】手大津
浪山田の町は家蔵大にそんじ忝くも両御宮は御別条なし
田丸御城下八■【「鬼」カ】山越大にくづれ往来とまる紀州田辺御城
下へん新宮御城下辺熊野へん惣名九十九浦■【東?】江同方藤代【「藤白」】
大津浪にてゆかゟ三尺斗り汐上る同広【廣】浦七分とふり流失いたし候
又河原箕しま由良の湊流失いたし大崎有田日野加太日高
へん大にそんじ泉州岸和田大にそんじ堺の町は大坂同様に
大そんじ摂州高つき御城下辺八幡山崎辺淀の御城下伏見町々
京都洛中洛外山城大和河内少々のくづれは其数しれず
一越前福井の御城下大にそんじ同つる賀辺【邊】丹波亀山同その部辺
四国路一円【圓】阿州徳しま御城下大にそんじ其上出火五百らかん辺大に
そんじ土佐国大つなみ淡路しま大津浪丸亀御城下へん高松御
城下大にそんじ予【豫】洲大地しん摂州三田御城下辺池田伊丹播州
明石御城下大にそんじ姫ちへん赤穂へん備前田の口下村辺備中倉
鋪玉しま備後尾の道鞆福山御城下へん三原御城下へん安芸【藝】
広【廣】しま宮しま周防長門豊前小倉御城下へん鶴ざきへんつぶれ
家多し豊後玉【「国」の誤記か】府内御城下四百軒程つぶれ同別府御代官所
弐百三十四軒つぶれ同鶴崎熊本御領分大地震大つ浪日向
灘汐のさし引不時にて大海大に荒れる肥前肥後長さきつぶれ家
四百軒唐人屋敷おらんた屋敷大にそんず古今希なる事故こゝに記す
浪花本清板
【下段】
頃は嘉永七甲とら年
十一月四日朝五ツ時頃
伊豆をはしめ駿遠
相州武州甲州六ヶ国
大地しんにて甲州は
甲府辺まで伊豆は下田
近辺家つぶれ山々大地われ
人馬数多そんしる其外赤沢
仁田あたみ辺大にそんしるなり
箱根山あれる三島【嶋】は家つふれ明神
社より西へ五六軒東へ二丁余やける
駿州はぬまづ御城下ゆりつぶれやける
はらよし原かん原ともつぶれ家
多し由井宿はやけるおきつは入
津なみにて人家多くそんじる
江じり宿つよく府中御城下大に
いたむ又田中御城下大にふるひ
やける相州小田原大いそ平
つかふじ沢辺かくべつのいたみ
もなくかまくら辺武州金
さは辺大にそんじとつか程
がやかな川川崎辺江戸に
ても少々つゞ【「づゝ」の誤記と思われる】のそんじ所
あまたにて昼夜何ヶ度
となく六日夜やう〳〵ゆり
止る古今まれなる大地しん
ゆへ遠国の親るいへはやく
つけんが為こゝにしるす
【上部資料】
つら〳〵往古ゟの年歴を考ふるにかゝる大氷のふれる
ためしを聞す比は嘉永五年子六月十八日上野国前
橋は川越様御陣屋にて毎年祇園御祭礼は参
詣くんじゆなせり然るに其日八ッ時頃俄に一天かき曇風
雨はげしく雷厳しき折から大氷ふる事是又おひたゝし
其大さ五合枡のごとくにして立木をたをし或は家を破り
瓦を砕(くだ)き其有様いわんかたなく殊に祭礼の事なれは数万
の老若是をのがれんとして親をすて子をうしなひ或るは是が為に
けがするもの少からず此時御陣屋ゟ是をすくはんと御手
くばりあるといへ共中ゝ人力に及ひがたくなをも氷のふることはげしく^
して雷は所ゝにくだり向町橋林寺雷火にて類焼併十
五間町名主七右衛門類焼夫ゟ大氷大雷増ゝさかんにして
前橋領高崎領おだ御代官所都而村数七十五ヶ村に及び中
にも上泉片貝村野中村長磯村上大嶋下大嶋駒形宿
後かん村両家村ぬ手嶋村宿河内龍門村河内村善
光寺村寺賀村横手村新堀村目高村小相木むら
此村々の内にては別而樹木をたをし家蔵田畑ともに
そんずることおびたゝしく猶又なんじうなるは後かん村両家
小相木村右三ケ村にして大氷に打れ鳥類の死したる
事其数をしらずかゝる大変の中にも無なんにてすみたる
村々もあり前橋ゟ東中通り米野溝呂木辺はしるし
ばかりにて夕六ツ時氷風しづまり雷やみて諸人安堵乃
思ひをなせり
【下部資料】
前橋領高崎領其外御
代官地惣而七十五ヶ村ほど
わけて十四五ヶ村程はげ
しく人馬諸鳥共
おひたゝしく損す
雷所々におつる
氷の大さは
両家村ゟ上ケ
たるは凡五合入
枡のごとく
重弁四百九
十目ほど又
ごかん村より上
たるは三百八
十匁なりと云
小相木村は
三百八十匁
又□【尺?】而御改に
相成候処
氷の深さ
日向は一尺
五寸日かげ
は二尺五寸
有之
【上の資料 欄外に「65」と書き入れあり】
実入(みのる) 秋(あき) 豊雷(ほうらい) 白人(はくにん) 一首(いつしゆ) 上
【上段】
てんぢてんのう
秋の田のかり
ほのために
なるらいは
わがこゝろでも
ついおそれつゝ
柿本人丸
あしも
てもなり
だす音に
したらなく
なが〳〵し
よをひかり
とめなん
さる丸太夫
おくさまは
もみち
さつきをよび
あつめ
声もたて
ずにいるぞ
かなしき
あべのなか丸
あめのあし
ふりだし
みればがら〳〵と
みたけあか
ぎをいでし
らいかな
小のゝ小まち
かほのいろはあほ
ざめにけり
いたはしと
わがみに
くらべ
ながめせしまに
さんぎたかむら
くものはら
やたらにかけて
おつこちぬと
ひとにも
つげて
あとのつくろひ
やうぜい院
つくばつて
これはおちると
みなのかほ
こはさつのりて
ふりと
なりぬる
【下段】
ぢとう天のう
はだかにて
なりくる
らいにうろ
たへて
子どもをかゝへ
あたまかく山
山べのあか人
田のうろに
うちいでみれば
らいゆへに
米のたかねも
今さがり
つゝ
中なごん
やかもち
かささして
わらじの
くせに雨
やどり
ひかりをまてば
よぞふけにけり
きせんほうし
わがいへは
みなその
あたり
しかもすむ
ようおちなんだと
人はいうなり
せみ丸
このやねのいた
みも
らいの
こはれとは
しるもしらぬも
大あめの
さた
そうぜう
へんじやう
あまつかみ
くものかよひぢ
ふみはづし
おとこも
すがたしばし
ちゞまん
かはらの
さだいじん
みちなかの
ひとのゆき
きもたへ〴〵に
ひかりも
つよく
がら〳〵
なるよ
【下の資料 欄外に「66」と書き入れあり】
実入(みのる) 秋(あき) 豊雷(ほうらい) 白人(はくにん) 一首(いつしゆ) 下
【上段】
こう〳〵
てんのう
きみわるく
ねどこをいでゝ
かやをつり
わが子ども
らもなきは
やみつゝ
ありはらのなり平
ひはやふる
けしとも
しらずかみなりの
がら〳〵
なるに水
かくるとは
いせ
なにもかをみじ
かきかやを
つりまわし
あわてこの
子をすごして
いよとや
そせいほうし
ごろ〳〵といゝし
ばかりか
なかきよを
有明ごろも
おちし
らい
かな
大ゑのちさと
おちたれば
ちかきとこ
こそひゞき
けれ
わがみひとりで
きくには
あらねど
三條の右たいじん
なりだして
大あま
やみも
せぬからは
しかもふられて
くるよつでかご
源のむね行
あそん
山のてはふりぞ
さびしく
またもなる
ひかりも
つよくおちると
おもへば
【下段】
中なこん
ゆきひら
たちついつ
いなかのいへに
みをひそめ
やみしと
きかばいま
かへりこん
ふし原の
とし行
あそん
すさましぐ
ひかりも
つよくなる
らいに
ゆめのこゝちで
ひとを
よふらん
元よししんのう
やみぬれど
今また
らいの
ならふかと
みなつく〴〵と
あきれたと
おもふ
ぶんやのやすひで
なるからに
あとひきじやうご
しほ
〳〵と
むりなる
さけを
あびしといふらん
かんけ
このらいは
あさになる
までなり
やます
またひかり
しと
とこにまじ
〳〵
中なごんかね輔
みゝやはら
ひゞきならるゝ
いかづちの
いつまで
なるかはてし
なからん
じゆんとくいん
もゝとせの
ふるきに
のこる
はなしぞと
なをくもり
たるそらを
ながめる
【上部】
夫天地不時の変動は
陰陽混して雷雨と
なる地にいれは地震を
なすア丶神仏の
応護も
是を納むる
事かたし
頃は嘉永
六丑年二月
二日昼四ッ時
より夜九時
まて大地震
相州小田原
大久保加賀守様御
領分御城下万町
本町板ばしりう
しまち通り
青物町すわを
町寺町
御城角やぐら
町家とも大に
損す近村近郷
【下部】
酒匂川筋飯すみ
十文字十日市場
子安大山へん
堂龍権現山道
東海道筋小田
原つゞきはだ
山中大久保長門守様
御領分村々多く
損ず箱根湯本
七ケ所二子山辺同所
権現様御山内尤
御社は御さわりなし
同所湖水あふれ
出さいの河原辺大に
損す夫ゟ豆州海辺
山々真鶴網代伊東
西はしゆせん寺三嶋
此外所々大損する
といへどもあらましを
記し高覧その儀
のみ
【上部】
甲州身延山大地震
頃は嘉永六丑年二月二日
朝五ッ時より暁七ッ時迄
大地しんにてすでに山も
崩れんと人々大いに
おどろきふしまろび
にげさるものおゝし
町家はたをれ蔵のそんじ
かず多しふしぎや尊(とうとく)■【もヵ】
御山は御どふをはじめ
おくのいん迄何事なく人々
夜あけにいたりあり
がたやとあんどの思ひ
をせしぬ
▲こゝに下野宇都宮■【駅ヵ】
同こくげん地しんの
次第廿八丁の御城下
家くずれ石づくり
のくらあまた
そんじ人は
ぶなんなる
とかや
これによつて
諸国乃人々に
しらしめんが
ために一紙
につゝり
備ふるのみ
【下部】
鹿島大神宮御歌
ゆらぐともよもや
ぬけじの要石
かしまの神のあらんかんぎりは
相州
箱根山
小田原
御城下
大地震
之図
【右見出し】
《割書:天保攻勢|珍説増補》鯰年代雑記
【上中央部】
【白抜き文字】増長
《割書:高ぶる 火|中山の|妙法|乃代に|つれて|流布ス》
【本文はコマ79にて翻刻し、ここは貼紙のみ翻刻】
【中央貼紙】
四谷塩町三丁目続里俗北寺町
御船手大塚孫左衛門地借
小普請水野式部組
火元 服部惣次郎
【下貼紙】
内藤新宿八右衛門地借蒲焼屋源右衛門
同宿源九郎地借旅篭屋弥七
右両人火元相あらそい
当時御吟味中
頃ハ嘉永四年辛の亥四月三日昼九ッ時ごろゟ四ッ谷
塩丁よこ丁辺より出火いたし折ふし北風はげしく
同 御むろ屋ヒこ丁御やしき方々浄うん寺よこ丁
塩丁弐町目同三丁目南かハのこらずやける大木
戸田安様御下やしき柳生様御下やしき
二而内藤様御屋敷内少々やける夫より内藤
新宿下丁中丁両かハ茶や旅籠屋焼る同
横丁やける
大そうじゑんまのこる
正じゆ院おばアさん残る
同所上町やける此所の火三徳と
いふごふく屋二て止る
一口ハおし丁同おし原町よこ丁
鈴木■高久様御屋敷その外
御やしきやける岸豊次郎様
火の中二て残る正がくし願せうじ毘沙門天
焼る法念寺残るおに横丁おいわ稲荷焼る
さつ殿丁うま殿横丁太田豊次郎様長安寺
同門前丁安部様御下屋敷さゝでらやける
信の殿丁板倉様宮崎様岡部様御やしき
にて止る向がハ大番組御屋敷大番丁やける
此外御武家御やしき御組御直参之御やしき
あまた焼る青山三すじ町御組屋敷二て止る
同所六道辻飛火二て一けん焼る又一口ハ
伝馬丁三町目船坂横丁車内門横丁同
弐丁目荒木横丁焼る同所新堀江丁残るいが丁
少々やける向がハ天王横丁やける円通寺やける天
王社のこる法蔵寺よこ丁祥山寺法蔵寺南いが丁
やけるこれゟ西風二かハり麹丁十三町目同よこ丁
福寿院伊賀丁おたんす丁焼る傳馬丁一町メ
新道横堅不残やける向がハ天とくじ門前丁
替地少々焼る麹丁拾一町俗二
竹丁と云御堀端二て漸々
夜五ッ時に火鎮人々安堵の
思ひヲなし火用心こそ肝要也
天保五年
午の二月七日昼八ッ時頃ゟ西北の
風はげしく神田佐久間庁丁二丁目
喜太郎店次郎右衛門宅
より柳原土手下夫ゟ四方へひろ
かり日本はしへん八丁ほり両国
辺ゟ新大橋やけ落れいかん
しまへん佃しま其外大船やけ
明六ッ時頃潮へんにてしつまる
又同九日夕七ッ時過頃ゟ西南の
風はけしく檜物丁へんゟ西がし
へんまでやける
又同六日朝四ッ時過頃ゟ西北の
風はけしく呉服はしへんゟ
京橋辺のこらず芝口
へん潮手まてやけるま
におそるへし慎へし火
の元之大切なる事是を
見てしるへし委しくは
ゑつにて御らん可被下候其外
大はし小はしのやけし事
数しれす
類焼場大凡四里ほと
此絵図三度のやけ場所白
すじにて分る
右え付御すくい小屋
両国広こうじ
神田さくま丁元四日市
常盤はし外松屋橋
此外追々追加
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【裏表紙】
夫(それ)天地(てん ち)の変動(へん どう)は陰陽(いん よう)の病労(びょう く)にしてそのき混(こん)じ濁(にご)り
蟠(はたかま)り久しく屈(くつ)して発(はつ)する時は上りて雷雨電光(らいうてんこう)ひらめき
下りて地中大ひにうごき念魚(ねん きょ)怒(いか)りて首尾(しゅ ひ)を發せば
《割書:銘細|政板》江戸大地震出火場所附
蒼海(さうかい)もあさしとし須弥山(しゆみせん)も軽(かる)じとす御 府中(ふない)は大都(たいと)
会(かい)の繁昌地(はんち)にして諸國(しょ こく)の人民招(まね)かず群集(あつまり)是に依(より)
て遠国他郡(ゑん ごくたはう)の親類縁者(しんるいゑんしや)へ過急(くきう)の存亡(ぞんぼう)を吉(よしを)知ら為せん(しらせんかため)所述(の ふる)
頃は安政二卯年
十月二日夜四つ時
にはかにゆりいたし
其音四方になり
ひゝきおそろしき
事筆に余り老若男女
あはてうろたへにけるもならす
土藏はくすれ家はつぶれ
火事は四方へ一時にもへあかり
あはれとやいわん其有さま
めもあてられぬ次第也
其出火土蔵家数の
あらましおしるす
御大名様方土藏
十壱万三千七百三戸まへ
御旗本様方土蔵
五万八百六十九戸まへ
寺院方堂宮
五千八百廿七戸まへ
町方土蔵
三十壱万千四百三十戸まへ
同類焼の土蔵
三千七百
九十戸まへ
惣土蔵数合
〆五十八万四千六百
十九戸まへ
御公儀様より御救小屋御立
被下置候場所
巾三十六間
長七十五間
浅草廣小路
深川海辺新田
幸橋御門外
田村権右衛門様
御役所御救小屋
上野山下
御救小屋増場所
本所割下水
深川八幡地内
山の手は牛込
市ヶ谷宝羽大塚辺
○印は出火の番
付と見れし
○谷なか
此へん少々の
いたみ
○根津へん
大く
ず
れ
○三 いけのはた
かや丁へん
ゆしま
天じん
此辺少々
いたみ
いけのはた
出火
○本郷辺
此へん穴くら
くすれけがん
多し
神田明神
此へん
小々の
いくみ
○せいどう
此へんの
御やしき
多々
いたみ
小石川
牛天神
○廿七
すは丁より 御茶の水
出火 へんは少々のいたみ
○昌平ばし
【横書き】飯田丁
○廿五 小川丁
堀田様
戸田様
やける
【注記が入ります】すじかい
○神田
田丁板しんみち
へん大くずれ
一つばし
御門外
○十
○なべ丁
かぢ丁
○三川丁 新土手
はし本丁
少々のいたみ
本郷丹後守様 ○ばくろ丁
外御やしき ○あさくさ御門
やける
かまくらかし辺
少しのいたみ
○東えいざん
田村さま
御救小屋
山下
○五
上の丁へん
此へん
土蔵
のこらす
やけ
おちる
東え
い山
いたみ
なし
上のひろこうじ
片かはのこる
長者丁
六あみだ
天神のこる
松坂屋古藏の
こらずおちる
けが人多し
下谷同朋
町拝領
やしき
井上
ちくこ守
御やしき
やける
○廿六
石川様
御やしき
【横書き】○御成道
【横書き】○みのわ
みのわ金杉往来
なりがたし
新よし原
江戸丁一丁目
より出火
二丁目京丁
あけや丁
角丁
伏見丁
のこらす
火口七つ程
けが人九百人余
御高札片かはのこる
○一よし原
【横書き】坂本
○六
坂本
壱丁目
より
三丁目 けが人多し
まてやける
大そんじ
此へん少々いたみ
○東もんぜき
御堂
い
たみ
なし
うらもん
くずれ
○広徳寺
此へん
大いに
そん
じ
此へん御やき
大そんじ
けが人
なし
○四
きくやばし辺
此へん大そんじ
寺院少々いたみ
此へん御やしき大そんじ
寺いんは大方門計そんじ
けが人なし
柳のいなり
【横書き】○しんほり寺丁
るかく事
少々いたみ
すわ丁うら通より
出火駒かた少々
すは丁黒舟丁殘ず
やける
けか人
なし
みよし丁
にて
やけとまる
すは丁
くろ船丁
○廿一
此へんの御やしき
大そんじ
土藏くすれ
けか人多し
○三味せん堀
佐竹右京太夫様
土蔵大そんじ
山本丁
代地へん
少々
いたみ
御くらまへ通り
土蔵大くずれ
八まん社
成田山其外
社無事に而
いたみなし
○さくま丁
てもんやき
少々いたみ
此へんけか
人なし
和泉はし
あたらしはし
辺少々の
いたみ
こつか原上下やける
此へん人五百人余
しす
○なかだ
此へん
大そ
んじ
○せんさうじ
とうの
丸くわん西
まかる
〇浅草
廣かうじ
御救小屋
此へん
けが人
多し
〇三
【横書き】小つか原
〇二
【横書き】はしば
きんざ
やける
○一よし原
よし原
土手
大地われる
鳥尾寺のこる
〇今戸
田丁
やける
山川丁
小しん丁
〇二
【横書き】芝居丁
雪神
みく
ず
猿若丁
壱丁目
二丁目
三丁目
花川戸
山のしく
けが人多し
〇花川戸
山のしく
材木丁
木母寺
梅若様
大そんじ
土手通り
大くずれ
此のへん
少々
【横書き】〇向じま
小梅瓦丁
水戸様
御やしき
半ぶん
やける
小梅へん
〇廿四
此近辺
大くずれ
けが人
多し
此のへん
そん
じる
此のへん
なり平ばし
へん大くすれ
中の郷表丁
半丁計やける
向井様
徳山様 やける
牛の御ぜん
たび所
やける
〇廿二
【横書き】中の郷
あらい丁
松倉丁
大くずれ
けか人
多し
〇大川ばし
石原
丁半分
やける
女夫石
のこる
〇廿三
此のへん
大く
ずれ
○石原
北本所番ば丁
南ばんば丁
多田の薬師
此へん
御やしき
大くすれ
けか人多し
○わり
下すい
わり下水
近へんより
少々出火
わり下水
御救小屋
此へん
御やしき
大そん
じ
けが人
多し
【横書き】○御竹蔵
此へん御やしき方
大そんじけが人多し
四ツ谷麹町ばん町少々のいたみ
赤坂青山辺麻布十ばん辺
大いたみにてけか人なし□
銀目黒のへん少□□けかなし
すへて山の手は下丁
よりおたやかにて
しすかなるべし
東海道は川さき
金川辺大いにそんじ
上総房州は少々
江のしま浦賀
辺一□なしと云
北は日光道
川口へんは
大そんじ
中仙道は大宮
川越近へん
奥筋水海
道は大きに
つよくゆり
候よし古(い)
にしへより
めつらし
き大へん
あらま
しを
しるし
おわりぬ
○
江戸中の
死人の数
凡
六万八千余人但し武家方相不分
〇神田ばし
此近辺
御やしき少々の
いたみかてけか
人すくなし
〇ときは橋
御やしき
けが人多し
酒井雅楽頭様
両御屋鋪
森川出羽守様
〇□五
此へん
石かけ
大くずれ
御やしき
けか人多し
此へん
御やしき
大そんじ
〇一石ばし
橋大崩
此へん
大そんじ
けか人多し
〇大名小路
〇ごふく橋
〇九
松平肥後守様
松平下総守様
本多紀伊守様
此辺御やしき
数多く大そんじ
けが人しれず
す□て【すべて?】此へん御やしき
大そんじの所も有
又少しの所もあり
遠藤但馬守様
松平因幡守様
〇三十
八代ああし
定御火消屋鋪
やける
火のみのこる
けか人多し
此へん
大そん
しに
てけか
人多く
かすしれ
ず
〇かじ橋御門
松平阿波守様
松平土佐守様
松平みの守様
少々
いたみ
〇伊東修理大夫様 酒井様小笠原様
毛利大膳大夫様 上村様織田様
亀井隠岐守様 松平誠え国様
本田中務様 松平和泉守様
大そんじ
此近へん
けか人
多く
かず
しれず
〇すきやばし
けか人多し
此出火土蔵
のこらず
〇京ばし
御救小屋
【横書き】〇山下御門
此へんやしき大そんじ
〇廿九
鍋島肥前守様
薩州様御屋鋪
南部美濃守様
松平甲斐守様
○幸ばし
此へん少々
夫山門やいたみ
さくらだ
けんばう丁
○八
○ぞう上じ【増上寺】
金杉本芝
田丁たかな
は辺大そんじ
品川本宿
新宿大くすれ
大ぢわれて
すなふきでる
【横書き】○しば口
此へん大そんじ
○七しばゐ丁
神明まて大くずれ
けが人多し
ひかけ丁往来ぬの
ことし
南伝馬丁
二丁目横丁
より出火
かち丁五郎
兵へ丁たゝ
ミ丁竹丁
すゞき丁
やける
けか
人多
し
【横書き】〇こひき丁
【横書き】〇おわり丁
ときは丁
いなば丁
ぐそく丁
本材木は
柳 丁
炭丁
やける
〇しんはじ
此へん大
くずれ
けか人少し
〇しんせんざ
三しま丁柴井丁宇田川丁
神明丁やける土蔵のこらず
〇日本ばし
〇四日市
此へん少々
〇江戸ばし
万丁青物丁
近へん少しる
けか人なし
〇通丁
こふく丁大工丁すきや丁
ひ物丁へん少々のいたみ
〇ざいもく丁
上帳丁桶丁
近へん
大くずれ
けか人少々あり
すべて川すじ
此へん
少しいたみ
少しの
いたみ
〇中ばし
【横書き】〇八丁ぼり
〇かじ丁
五郎兵へ丁
〇南でま丁
此へん
かし
付
土蔵
大そんじ
かやは丁や□し
少しそんじ
れいかんじま
新川へん大くずれ
〇十三れいがんじま
大川ばた
大川ばた塩丁より
出火四日市銀丁
南しんほり少し
やけるけか人
多し
松平あはぢ守様
やける
てつぽうづ
十けん丁
〇十二
〇御浜御てん
つきじ海へ
大ぢわれて水吹
いたす
〇つきじ辺
此へん
少々
〇西御門せき
地中大崩
品川二ばん御臺場
やける沖にて
舟四そううづに
まきこまれる
三川丁へん御やしき
りようん丁少かまく
らかしへん少々
にてけか人なし
【横書き】〇かまくらがし
すべて
此へん
おたやか
けか人
なし
神田かぢ丁ぬし丁辺
し蔵家大そんじ
けか人
なし
〇今川橋
せ戸物店大そんじ
〇石丁通
〇本町通
大伝馬丁
馬喰丁
此辺少し
金座役所
三井店三谷
少しのいたみ
【横書き】〇両かへ丁
此辺
すべて
じしん
かるし
此辺へん
少し
そんじ
〇せともの丁
かるし
【横書き】〇いせ丁
此へん少しそんじ
けか人なし
〇小だはら丁
此日にさんまの
大市
【横書き】〇魚かし
横山町辺
やけんほり
たち花丁
久松丁辺
少しのいたみ
けか人なし
〇両国橋
此近へんに
大いにそんじ
たる所もあり
其中に少し
の所もあり
又一向よき
御やしきもあり
けか人も
よくあり
此近へん出火
一向なし
かし戸
土蔵大
そんじ
けか人
多し
〇新大はし
すがぬま様
御屋しき
安藤様御
やしき
大そんじ
火じ
二三す
われる
【横書き】〇さか川丁
此へん藤
家大そんじ
けか人あり
此のへん大そんじ
〇はま丁
清水様
一ツ橋様
紀州
家所大そんし
けか人なし
【横書き】〇小あみ丁
土蔵
大つふ
れ
此へんよし
永代橋十画口そんじ
小はし丁
よろいの□し
〇はこざき
〇永代ばし
本所みとり丁より出火上し丁め二丁め三丁め
角にてとまる四丁め五丁め篭丁し
もばしきわかてにてとまる
此へん
少し
【横書き】〇回向院
【横書き】〇十九本所
本所五□目渡しば
少しやける
亀井戸て□
通へん大くずれ
けか人多し
みどり丁
林丁
張倉丁
菓川丁
西丁へん
やける
〇相生丁
此へん
石かけ
くずれ
〇廿五のはし
けか人
多し
此へん土蔵
第大そんじ
けが人多く
かそくかたし
此へん大くずれ
〇十七御舟まへ辺
御矢番ま□
出火八な川丁
六けんほり
森下町内
六軒ほり
〇十八
もみ蔵
やける
のこるとき
八丁鳥はし
ときは丁辺
富川丁海へ
大工丁まて
やける
〇海辺大工丁
御救小屋
此へん大つふれすに
てん多々そんじ
そのかずしれず
家蔵大そんじ
大じわれる
寺□と□ん
やけるす
べて衞かわ
へんは大
くすれに
て人
多く
しす
〇れいかんじ
此へん
大そんんじ
けか人
多し
〇源しんじ
東堂
けが
なし
徃来屋
我の如し
【横書き】〇深川
〇木ば
【横書き】寺丁
〇廿五
救小屋
〇八まん
〇なか丁
三十三寺堂大くずれ
〇佃じま
〇廿四
□川丁より
出火御舟も但
大そんじ南は
熊井丁富よし丁
中じま丁大しま丁
北かは丁黒江丁
鱠丁一の鳥居
○さき
八まん社無付
すさき少し
いたみ
仲丁山本丁取代寺門前にてとまる
太平安心堂蔵板
十二ノ百八十第十二棚
安政二卯年ゟ
武家方并寺院
等ニ而施差出候一件
北
年番
都筑十左衛門様 仁杉八右衛門
松浦安右衛門様 荻野政七
武士家来ニ而施差出奇特之事
いたし御誉又は御褒美被下候もの
之例其御方ニ御座候哉乍御手数
御取調否被仰下度此段御頼得
貴意候以上
十一月十五日
都筑十左衛門様 仁杉八右衛門
松浦安右衛門様 荻野政七
先達而御頼得御意置候武士家来
にて施差出候奇特もの御誉又ハ御褒美
被下候例未タ御見書ハ無御座候哉
御模様致承知度乍御手数貴報
被仰知可被下候此段尚御頼得御意候以上
十一月廿一日
尚以先達而差進置候異国船一件書留
五冊之内三冊御返却有之候得共残り
弐冊は未御返却無之御見合相済候ハヽ
御返し可被下候以上
仁杉八右衛門様 都筑十左衛門
荻野 政七 様 松浦安右衛門
武士家来ニ而施差出奇特之取計いたし
御誉又は御褒美被下候もの之例有之候ハヽ
書抜可差進旨御問合之趣致承知先何は
相見不申今般之地震ニ付去月中施
差出候武士家来等有之候ニ付取計方
【4コマ目に挟まっている書状のたたまれた状態】
井戸対馬守
【5コマ目書状】
【貼紙部分のみ翻刻・本文は次の7コマ目に翻刻】
御書面之趣令承知候
則別紙書抜壱冊差進
申候
十月 太田摂津守
【6コマ目の本文】
今般之地震に付寺院社家等より
市中の者共え施行差遣
奇特の廉を以御称有之候向も
御座候由其身如法之故を以
御称の儀は相除市中の者共え
施遣候廉而已にて銀子被下
又は御誉被置候分一二例
御書抜御貰申度此段御引合仕候
卯十二月
【7コマ目の裏面】
井戸対馬守
勘弁いたし可申旨被申聞取調中ニ有之候間
調出来候ハヽ尚御打合可申 「上 」候依之此段
御報得御意置候以上
十一月廿六日
卯十一月晦日竹村慈左衛門を以上ル
同十二月朔日安藤長門守え達ス同三日挨拶下ケ札付別紙添
寺社奉行衆え談手覚
今般之地震ニ付寺院社家等ゟ市中之者共え
施行差遣奇特之「故」廉を以御称有之候「 銀子
被下又は御誉被置候 」向も御座候由其身
如法之「廉」故を以御称之義は相除市中
之者共え施遣候「故を以」廉而已ニ而御報被下亦は
御誉被置候「廉 」分「 も御座候ハヽ 」一二例御書抜御貰申度
此段御引合仕候
卯十二月
御書面之趣令承知候則別紙書抜壱冊
差進申候
十月 太田摂津守
卯十月十一日伊勢守殿え直達
今般之地震ニ付奇特之取計有之候
寺院共之儀申上候書付
太田摂津守
寺社奉行
深川
霊巌寺
浅草
幡随院
麻布谷町
湖雲寺
浅草黒船町
正覚寺
同所新寺町
宗安寺
下谷新寺町
宗源寺
浅草
大護院
右
大護院境内ニ罷在候
下総成田村
新勝寺旅宿
正福院
本所
回向院
関口
長光寺
右は今般地震ニ付奇特之もの共
内密取調候処前書霊巌寺外
九ケ寺門前之もの共又は檀家懇意之
向等え米金等救として夫々差遣
右之内回向院は一躰無檀無縁之
寺院ニ候処今般之地震ニ付相果候
もの共夥敷候処回向料等も不申請
葬遣長光寺は貧寺ニ候処平生
身持等も宜敷此度地震ニ付而は
檀家窮民共え金五拾疋宛施遣其上
死亡之もの共回向料等一切不申請葬遣
候段格別奇特之ものニ付回向院え
銀三枚長光寺え同弐枚為御褒美
被下置其余之もの共も一同御賞伺
御座候様仕度左候ハヽ右を承伝
追々奇特之もの共も出来可致哉ニ
奉存候尤申上候通被
仰出候ハヽ一同私共方え呼出相達可申候
依之別紙風聞聞書相添此段申上候
卯十月
風聞書
当月二日地震并類焼之窮民多分
御座候処深川霊巌寺儀内寺門前
町之野宿窮民并同町家主共え壱人前
金百疋宛差遣候趣ニ付凡人数取調
奉申上候
同寺門前
一 窮民人数凡百八拾人程
一 家主人数拾人
右之通施差出申候凡金高四拾七両
弐分程ニ相成申候
右は急御調ニ付凡人数金高共取調
奉申上候以上
卯十月
浅草
浄土宗
幡随院
右去ル三日朝壱人ニ付握飯三ツ梅干
相添門前并山崎町御切手町其外
親疎ニ不拘参次第ニ施差出右数は
不相知候得共多人数え遣候趣ニ御座候
同 院
右門前之もの共え壱軒別ニ玄米三升ツヽ
鳥目拾貫文相添為手当差遣申候
卯十月
貝塚青松寺末
麻布谷町続
曹洞宗
湖雲寺
右は今般之変災ニ付門前店子
四拾軒え壱軒ニ付金壱朱宛家主
九人え金弐百疋差遣申候
金弐両弐分 店子四拾軒え
但壱軒金壱朱宛
金弐分 家主九人え
但壱人え三匁三分三厘
〆金三両
増上寺末
浅草黒船町
浄土宗
榧寺
正覚寺
右住職より手当として差遣申候
右町
名主
一 金弐百疋 庄左衛門
門前家主
一 同弐百疋 儀兵衛
右門前借家人
一 白米九升 喜三郎
鳥目五百文ツヽ 同
重兵衛
同
初五郎
同
冨五郎
同
政 吉
同
喜 八
同
定次郎
同
清 助
同
玄 亀
同
銀 蔵
同
龍 斎
同
後家暮
や す
同
元 助
正覚寺墓番
非 人
京
知恩院末
浅草新寺町
浄土宗
宗安寺
右門前中え手当左之通
壱軒ニ付 類焼地借
金壱分ト 八軒え
白米五升宛
同 半潰地借
金壱分宛 八軒え
同 同店借
金弐朱ト 八軒え
白米三升宛
同 同
弐朱宛 拾五軒え
同 裏家之もの
壱朱宛 六軒
門番人
弐朱宛 抱番人
門前家主
弐分ト 太兵衛え
白米壱斗
右は昨八日宗安寺ゟ手当遣ス
下谷新寺町
浄土宗
宗源寺
右は当二日夜地震ニ付同寺門前
長屋三拾三軒え金壱分宛同家主え
金弐分宛同所番人え金弐朱都合
金八両三分弐朱為手当差遣申候
卯十月
浅草
大護院
一 金拾五両弐分
右門前中并名主家主手代共え今
九日差出申候趣ニ而人数之儀はいまた
聢と分兼候
下総国成田山
新勝寺
旅宿
大護院境内ニ罷在候 正福院
手当差出し
金拾八両三分也
右は大護院門前其外近辺
昨八日ニ差遣 のもの共え正福院より
手当遣候
金六両弐分弐朱 出入之もの共
弐拾九人え
本所
回向院
右は今般御府内大地震ニ付町々ニおゐて
押潰候もの数多有之右相果候もの
引取人無之分は其町内ゟ回向院え
相弔候得は今度相弔候分は一切回向料
不申請相葬回向いたし候趣尤右は
御奉行所えも申上置取計候而町人共
一同難有奉存罷在候
小湊誕生寺末
日蓮宗
関口
長光寺
日愈
卯四拾歳
右長光寺日愈儀は越後国頸城郡
下町村出生ニ而九歳之砌出家いたし同宗
身延山久遠寺日楹弟子罷成候処
平日身持宜敷不如法等之儀無之
去ル酉年正月中前書長光寺え住職
仕候尤同寺儀は檀家受納向等も多分
ニは無之候得共本堂其外修復等
自分入用を以普請いたし法類檀中一同
至而気請宜敷ものニ御座候殊ニ去ル
二日夜地震ニ付檀家窮民之内押潰
候上類焼并即死仕候ものえ為手当
金五拾疋ツヽ差遣其上回向料等請
不申葬式取置仕候儀有之猶又
檀家之内窮民押潰候ものも可有之
迚此節檀中え為見廻所化差遣相尋
罷在候由出家とは乍申奇特之儀ニ
有之趣近辺風聞仕候右手当
差遣候もの名前并葬式取置候
もの名前左之通
本所北割下水住居
役名不知
御家人
為見廻金五拾疋 水巻忠兵衛死
差遣回向料無之 三拾五歳
葬式取置之 同人娘
名前不知死
八歳
本所猿江町
弥兵衛店
金次郎妻
為見廻金五拾疋 き の死
差遣同断取置仕候 五拾歳位
浅草寺地中
妙徳院地借
家主不知
見廻右同断 三河屋
且初七日之節親類共ゟ 金 八死
金弐百疋回向料差出候由 四拾五六歳
同人娘
名前不知死
拾弐歳
右之通手当差遣葬式取置之
右取調此段奉申上候
卯十月
覚
書面之寺院共奇特之取計
有之候ニ付霊巌寺長光寺え
銀弐枚宛回向院え銀三枚為御褒美
被下其外之寺院は一同誉置
候様可被致候事
仁杉八右衛門様 都筑十左衛門
荻野 政七 様 松浦安右衛門
先達而中追々御打合有之候武士家
来等都而御支配違ニ而施行差出候分
取計方之義別紙之通相伺可申哉ニ御座候
尤新規之儀ニ付得と御勘考之上
御存寄聊無御覆臓御加除可被下候
依之伺書案并「尋有之候上可差出」追而可差出
案文は一綴御廻し申候以上
十二月
◯此方月番中之分而已為書上候得共
追而◯御取計振御相談相済候得は其御月番
之分を込メ「御連名ニ而」御仰上又は御達
相成候方可然哉と右書類は御連名
之仕出しニ取調候義ニ御座候以上
今般之地震ニ付武家寺院等市中之もの共え
施行差出候向之取計方之儀奉伺候書付
年番
今般之地震ニ付金銀米銭等施差出シ
奇特之取計致候町人共は先例ニ見合御伺
之上夫々御褒美銀被下置又ハ御手限
ニ而御誉被置候分も有之候処武家寺院等
ニ而施行差出奇特之取計致シ候向も有之
趣相聞候ニ付先此方御月番中当十月
中之分取調候処別紙之通ニ有之是迄
大火又は出水等之節施行差出候
ものも可有御座哉之処武家方等御称
有之候先例相見可申尤褒貶之儀は
銘々主人ニ而沙汰仕候儀勿論之儀ニは
御座候得共一家中限之儀ニは無之
市中え施候儀ニ付相称誉有之度
一躰武士家来ニ而有福ニ暮候ものも
不少右之類以前は女名前等ニ而
町地面所持罷在候処天保十二丑年
御改革之節万石以下之面々町家
作之町屋敷武備手当之ため分
限ニ応シ所持致シ候儀は不苦旨被
仰出候以来屋敷改衆え相届直名前
ニ而所持罷在右地借店借之もの共え
施差遣し候廉重モニ御座候間右被
仰出以前は女房名前其外町人
名前ニ而御称誉有之来候儀と
相聞え先例無之儀と奉存候今般
御称誉御座候ハヽ右之類相増万一
凶年饑歳之節米穀等施遣し
候様可罷成哉ニ奉存候間勘弁仕候処
武士家来ニ而其身限奇特之取計
仕候向は御役所え御呼出之上御手限
ニ而被御誉置其段可被仰上置又ハ
金高ニ寄御伺之上銀子被下置
御用達町人之内御支配違之分は
其支配え被仰達諸大名御旗本
御家人等ニ而施遣し候分は其段
被仰上置寺院近在百姓等ニ而施行
差出シ奇特之取計有之趣相聞
候分は支配々え御達相成候ハヽ
奇特之取計顕然致し弥仁恤
取行天災之節市中之窮民御救
之一助ニも可相成哉ニ奉存候可然も
思召候ハヽ被仰上案等取調入御覧
可申候依之先此段奉伺候
本文施行之儀少分之儀も被仰上
又ハ御達相成候而は混雑仕候而已
ニ付金高五拾両以上本文之通取計
百両ゟ以上は被仰上銀子被下置候
積御内規矩ニ被成置可然哉ニ奉
存候
以上
卯十二月 都筑十左衛門
松浦安右衛門
地震ニ付武士家来ニ而市中之者え
施差遣候向称誉之儀「申上候」御内意奉伺候書付
井戸対馬守
町奉行
今般之地震ニ付武士家来ニ而市中之
もの共え施差遣候者も有之趣相聞
候ニ付取調候処別紙之通御座候右は
銘々住居破損致し候中別而奇特之
筋ニ有之褒貶之儀は其主人々ニ而
沙汰仕候儀勿論ニ御座候得とも一家中
限之儀ニも無之市中之者ともえ施
差遣し候儀ニ付称遣し候ハヽ此後万一
大火其外凶年饑饉歳等之節武士
家来ニ而施差出候向相増可申哉先例ハ
無御座候得共夫々称し遣申度
武士家来ニ而相応ニ暮し候もの
以前は女名前等ニ而町地面所持罷在
候処天保十二丑年御改革之節
万石以下之面々町家作之町屋敷
武備手当之ため分限ニ応し
所持いたし候儀は不苦旨被
仰出候以来屋敷改え相届直名前
ニ而所持罷在右地借店借之者
ともへ施遣候者共重モニ有之候
以前は右名前を以称遣し候儀と
相聞候武士家来を称誉仕候例
相見へ不申儀ニ御座候
右ニ付武士家来「御用達町人共等は
私共御役所え呼出誉置可申之処
少分之施行仕候もの迄左様取計候」
「而は混雑も仕且は手数を厭ひ却而
施差扣候向出来可申哉も難計候間」
◯私共御役所へ呼出手銀ニ而
五拾両以上施差出候向は◯「留守居とも」
誉置其段申上△
「呼出奇特之趣相聞候段無急度
御沙汰之趣別紙案之通申達」△御用達
町人共は其支配々え相達武士家来ニ而金高
百両以上施行差出候ものえは
銀子「為取遣」被下候積内規矩ニ仕置
右金高以上施差出候ものは夫々取調
別段相伺候様「可仕候」仕◯依之先此段
◯寺社又は近在百姓ニ而施行差出候分は為心得寺社奉行御勘定奉行へ
相達称可仕候
「而は混雑も仕且は手数を厭ひ却而
施差扣候向出来可申哉も難計候間」
◯私共御役所へ呼出手銀ニ而
五拾両以上施差出候向は◯「留守居とも」
誉置其段申上△
「呼出奇特之趣相聞候段無急度
御沙汰之趣別紙案之通申達」△御用達
町人共は其支配々え相達武士家来ニ而金高
百両以上施行差出候ものえは
銀子「為取遣」被下候積内規矩ニ仕置
就而は別紙松平越中守家来内藤
忠次郎外 人儀は金高五拾両以上ニ
相成候間銀子被下置候見込を以
別段相伺候様「可仕候」仕◯依之先此段
◯寺社又は近在百姓ニ而施行差出候分は為心得寺社奉行御勘定奉行へ
相達称可仕候
御内慮奉伺候
卯十二月 井戸対馬守
池田播磨守
申「達」渡案
松平何之守家来
何之誰
右は今般之地震ニ付市中之もの共
困苦之次第相察米金等施遣し
奇特之儀ニ付誉置
仁恤行届候段相聴「候ニ付何之守殿え
入御聴候処奇特之段無急度可
申達旨御沙汰ニ候」
右之通申達す間主人え可申立
卯十二月
御用達町人支配向え御達案
「井戸対馬守」
御奉行
今般之地震ニ付御支配別紙名前
之もの市中之者共え施行遣シ仁恤
行届候段相聞「候ニ付何之守殿え入御聴」
儀ニ付為御心得
候処奇特之「段無急度拙者共より
各様迄可及御達旨御沙汰ニ付」此段
御達申候
卯十二月
地震ニ付諸大名御旗本御家人等ゟ市中
之もの共え施行差遣候趣申上候書付
井戸対馬守
町奉行
今般之地震ニ付諸大名御旗本御家人等
より市中之者共え施差遣候趣相聞
候ニ付取調候処別紙之通御座候施行
筋之義ニ付而は向々ゟは不申上儀と
奉存候間別紙相添此段入御聴置
申候以上
卯十二月 井戸対馬守
池田播磨守
寺社奉行衆 井戸対馬守
今般之地震ニ付寺院社家等ゟ市
中之もの共え施行差遣し奇特之
趣相聞候ニ付取調候処兼而入御聴御称
誉御座候向も有之由ニ候得共尚為
御心得別紙相添此段御達仕候
卯十二月
御勘定奉行衆
今般之地震ニ付近在百姓共ゟ市中
之者共え施行差遣し奇特之趣相聞
候ニ付取調候処別紙之通有之候依之
名前
為御心得別紙相添此段及御達候
卯十二月
弘化三午年十月十九日
阿部伊勢守殿御直御渡
覚
武家之家来御仕置申付方之儀足軽
以下都而評席砂利え差出候類中追
放以下之分御先柄又は可伺品之外ハ
向後伺ニ不及御仕置可被申付候尤武家
屋敷内ニ而博奕致し候一件并尋書ハ
取調不差出候共其主人不念之趣等
相聞候分或は品替入組候一件ニ引合
候類は是迄之通可被心得候事
但足軽以下伺ニ不及御仕置申付候
分は当日翌日之内届書差出
候様可被致候事
安永二巳年五月
武家之家来咎之事急度叱り
迄は手限申付押込以上は伺ニ相成
候儀前々例有之右之通ニ候得共
何れ元極之事可有之「旨」と相調
候処不相見候ニ付山村信濃守
方承合候処此通之書留写来候
ニ付以来為見合留置
寛政元酉年二月廿一日
牧野大隅守
都而手限吟味もの之内武家之家来
引合等ニ而呼出不念之始末有之
強而伺候程之儀ニも無之節急度
叱り叱り置候位之御咎は伺ニ不及
申渡候而も苦ケ間敷哉之事
巳五月
押切書付紛失致し不尋出武家
之家来不及御伺於評定所ニ
下ケ札 急度叱り相成候間急度叱り迄ハ
及御伺ニ申間敷と奉存候
巳五月
右は安永二巳年五月廿九日評定所
臨時寄合土屋能登守宅え持参留役
組頭江坂孫三郎え相渡評儀致し
申聞候様申達候処書面之通附
札致差越候故此書面同六月二日
同役甲斐守え相渡申聞候様申
達候処同三日存寄無之書面之通
相心得武家之家来急度叱り迄ハ
両番所共不及伺ニ申渡候積り相極ル
乍恐以書付御訴奉申上候
一 芝口弐町目月行事嘉兵衛同所三町目同兵蔵
源助町同亀次郎一同奉申上候去ル二日夜地震ニ而
居宅土蔵其外多分相損候ニ付松平陸奥守様
御屋敷ゟ私共町内右御屋敷前之ものとも并
御出入之ものえ左之通被下置候
芝口弐町目東側
一 玄米四拾八俵 四拾軒
同所三町目同
一 同 百弐拾三俵 百八軒
源助町同
一 同 百弐拾九俵 百七軒
〆三百俵
右之内御出入之もの弐十弐人え壱人前金壱宛被下置候
右之通御手当被下置候ニ付乍恐此段御訴
奉申上候以上
右之通松平陸奥守様ゟ町々え御手当被下置候
間御訴奉申上候ニ付此段御届ケ申上候以上
芝口弐町目
卯十月十六日 名主 伊助
同所三町目
名主 三郎兵衛
源助町
名主 八郎右衛門
上
屋鋪 御寄合
麹町七丁目 阿部鍵次郎様
右は当月二日夜地震ニ而居宅震潰又は
大破相成候麹町七丁目裏家難渋之もの
百拾六軒此人数四百壱人え白米壱升宛
都合四石壱升右御屋鋪ゟ施被差出并
右人数取調骨折候趣ニ而同町家主拾五人え
金弐分被差遣候間此段御届申上候以上
卯十月 麹町
名主 与兵衛
松平越中守様家来
深川清住町地主
内藤忠次郎
右は去二日夜地震ニ而潰又は怪我人死
亡人等之難渋之もの居町一流町内家主
書役番人平日出入之もの并他場所所持
地面内之ものえ壱人ニ付金弐分又は壱分ツヽ
此金百五拾両余并白米弐升或は三升ツヽ
家族之次第ニ寄遣候分四石壱斗此代金
八両都合百五拾八両余施行差遣し申候
尤其身土蔵住居共潰大破罷在候折
柄奇特之義ニ付為御届申上候以上
右町
卯十月廿四日 名主 新兵衛
地震類焼等ニ而難儀致候町方之者え施行
差出候寺院左之通
山谷東禅寺門前
当月三日朝右門前町屋 禅宗 東禅寺
弐拾軒え米弐升五合程
かゆニ焚差出候
浅草山之宿町
当月三日ゟ同十日迄近辺 浄土宗九品寺
地中住居之者え米七俵
程かゆニ焚差出候
右取調申上候以上
浅草新鳥越町
卯十月 名主 兵 蔵
書上帳之内書抜
卯十月十四日
一 柴井町月行事房吉申上候当月
二日夜地震ニ而居宅土蔵不残震
潰及出火難儀之ものえ松平
陸奥守様ゟ町内西側百三十七間え
玄米百俵外御出入之もの弐人え
金百疋ツヽ被下置候為御訴申上候由
右之房吉五人組平八名主八郎右衛門
申来ル
被聞置候
書上帳之内書抜
卯十月
一 芝口弐町目月行事嘉兵衛
同所三町目同兵蔵源助町
同亀次郎申上そろ当月二日夜
地震ニ而家作土蔵其外多
分相損候ニ付松平陸奥守様
御屋敷ゟ私共町内御屋敷前之
もの共并ニ御出入之ものえ左之通
被下置候
一玄米四拾八俵 芝口弐町目
四十軒
一同百弐拾三俵 同所三町目
百八軒
一同百弐拾九俵 源助町
百七軒
都合三百俵
外ニ
御出入之もの弐拾弐人え壱人前
金百疋ツヽ被下置候
右之通為御手当被下置候為
御訴申上候由右之嘉兵衛五人組
徳衛名主伊助煩ニ付代茂兵衛
右兵蔵五人組藤吉名主三郎衛
煩ニ付代□□右亀次郎五人組【折目で判読不可】
新六名主八郎右衛門煩ニ付代
泰助申上来候
被聞置候
書上帳之内書抜
卯十月廿七日
一、池之端七軒町外六ヶ町月行事惣
代吉五郎申上候去ル二日地震ニ而町々
潰難渋およひ候ニ付松平大蔵大大輔様ゟ
施行として同町并同所横町外五ヶ寺門前
玄米三拾石五斗五升差置難有奉
存候此段為御訴申上候由右吉五郎名主
【右側】
仁右衛門代太兵衛申来ル
被聞置
【左側】
書上帳之内書抜
卯十月廿七日
下谷茅町壱町目同町弐丁目湯嶋講
安寺門前同所称仰院門前月行事
惣代甚兵衛申上候当月二日夜地震
ニ而右町々過半震潰候上焼失仕候二付
右町々え松平大蔵大輔様ゟ施行として
玄米九拾九石九斗五升申上候由右之
甚兵衛名主左一郎煩ニ付代重兵衛
申来ル
被聞置
浅草元鳥越町続
施高 浄土宗
一 金六両壱分 御誉 寿松院
同所御蔵前
大護院境内
同 新勝寺院代
一 金八拾壱両弐分 同 正福院
施高 浅草御蔵前
一 金弐十一両弐分 新義真言宗
一 銭弐拾五貫文 御褒美銀弐枚 大護院
代金三両三分 両ニ六貫六百文
一 米弐拾五俵
此代金拾弐両弐分 同八斗かへ
〆 金三拾七両三歩
同 同所黒船町続
一 金弐両三分 浄土宗
一 銭七貫文 御誉 正覚寺
一 白米七斗 両ニ六斗四升かへ
〆 金四両三分弐朱余
施高 浅草山之宿町続
一 白米七俵 浄土宗
此代四両壱分余 御誉 九品寺
同 山谷
一 白米六斗 禅宗
此代三歩弐朱余 同 東禅寺
同 麻布谷町続
一 金三両 曹洞宗
同 湖雲寺
同 武州豊島郡原宿村
一 白米壱石八斗 禅宗
此代弐両三歩余 同 龍岩寺
施高 光川
一 金弐拾五両三分 浄土宗伝通院
一 白米八石壱斗八升 両ニ六斗四升
一 玄米拾六俵 同八斗
〆 金四十六両弐分余 御誉
施高 駒込四軒寺町
一 白米四石四斗八升程 浄土宗栄松院
一 玄米弐俵 御褒美
此金八両 銀三枚
施高 湯島
一 金拾両弐分余 禅宗
御誉 麟祥院
施高 駒込片町
一 白米弐斗 一向宗
同 一音院
同 同所富士前町
一 金三分三朱 同
同 教元寺
施高 谷中
一 白米壱石五斗程 禅宗
一 炭六俵 御誉 玉林寺
同 麹町
一 白米弐石五斗六升 天台宗
一 金三歩 龍眼寺
御賞無之
同 市谷
一 金壱両壱分 同
自証院
施高 関口目白坂
一 金壱両壱分 外ニ 日蓮宗長光寺
一 銭壱貫五百文 奇特之儀有之
銀弐枚被下置候
同 深川
一 金四十九両三分 御褒美 霊巌寺
銀三枚
施高 四ツ谷左門町続
一 銭六貫六百文 浄土宗
御誉 長安寺
施高 牛込柴寺前町続
一 金七両弐分 真言宗
御誉 無量寺
同 同所通寺町続
一 金五両 同
一 銭四貫九百七十弐文同 三光院
同 同所
一 五両三分 同
同 等覚院
同 同所築地片町
一 金三両弐分 同
同 宝蔵院
同 同所通寺町
一 金三両弐分 同
御誉 善差院
同 同所弁財天町
一 白米壱石四斗六升 曹洞宗
此金弐両壱分余 同 宗参寺
浅草
一 白米六石九斗 浄土宗
一 玄米三十俵 同 聖願寺
一 銭十五貫九百文
一 金三十壱両壱分
〆 金五十八両弐朱余
施高 浅草
一 玄米六拾俵 浄土宗
一 白米壱石 御誉 幡随院
一 銭拾貫文
〆 金六十三両三分弐朱
同 同所新寺町
一 金三両 同 禅宗宗安寺
同 同
一 白米五斗壱升 同 東国寺
同
一 金六両弐分弐朱 同 清福寺
同 浄土宗
一 金四両一分 御誉 西光寺
同 一向宗
一 金五両三分弐朱 同 等覚寺
同 禅宗
一 金弐両弐朱 同 東岳寺
銭百七十文
同 浄土宗
一 金拾七両余 同 行安寺
施高 日蓮宗
一 金拾壱両余 御誉 本蔵寺
同 同
一 手拭四十筋 同 正覚寺
代金弐分
同 同
一 同断 同 本立寺
同
無之分書上
壱番組
市中取締懸
名主共
地震ニ付寺院又は武家方より門前并
最寄町方え米銭等施行差遣候類
御内尋ニ付私共組合取調候処右様之儀
無御座候此段申上候以上
壱番組
卯十一月 市中取締掛
名主共
上
弐番組
市中取締掛
名主共
一今般地震出火ニ付御武家方并寺院ゟ
門前町屋又は隣町其外え米銭等施シ被差出
貰請候米銭町々人数且寺院之内寺社
御奉行所ゟ御褒美御賞シ等ニ相成候分取調
可申上旨御沙汰ニ付私共組合町々并最寄共取調
候得共右体御武家方并寺院ゟ施シ貰請候
町々無御座候且最寄寺院等御賞シニ相成候
義も及承不申候依之此段奉申上候以上
弐番組
卯十一月 市中取締掛
名主共
上
四番組
当十月二日夜地震後ゟ此節追之内御
武家方并寺院ゟ町方へ米銭等施差
出申談候もの有之候ハヽ人数員数高
とも取調可申上旨被仰渡候ニ付組合町々
取調候処右体之儀無御座候此段申上候以上
四番組
卯十一月 市中取締懸
名主共
上
五番組
取締懸
名主共
一地震出火ニ付寺院ゟ門前町屋并隣町其外え米銭施
又は地代等当分之内用捨致取立不申寺院有之哉并
御武家方ゟ最寄町々え米銭施差出候儀有之候ハヽ
取調可申立旨御沙汰ニ付私共組合内取調候処寺院并
御武家方ゟ施申受候もの無御座候依之此段申上候以上
五番組
卯十一月 取締懸
名主共
上
六番組
市中取締掛
名主共
一最寄御武家方并寺院ゟ施差出候ニ付貰請候もの
員数人数右施差出候段其御筋ニ而御賞伺相成候分
御尋ニ付私共組合町々取調候処御支配違拝領地主等
ニ而其地面家主店子え聊ツヽ施差出候もの地代店賃
壱両月ツヽ勘弁仕候分は有之候得共今般御調之廉々
相当仕候分は無御座候
但私共組合最寄之寺院一切無御座候
右御尋ニ付此段申上候以上
六番組
卯十一月 市中取締懸
名主共
寺院ゟ施し等受候もの無之返答
吉原町
市中取締懸
名主共
一地震出火ニ付寺院ゟ門前町屋并隣町其外え
米銭施又は地代当分之内用捨致シ取立不申
右米銭員数并門前表裏共施貰受候人数
月日外三ケ条私共組合限入念取調候所右体
寺院ゟ施し等受候もの無御座候依之奉申上候以上
吉原町
卯十一月廿七日 市中取締掛
名主共
上
三番組
取締懸り
名主共
卯十月廿三日
地震に付施し 浅草元鳥越町続
浄土宗
一 金六両壱分 寿松院
地借壱軒に付金壱分宛
但 右門前
店借壱軒に付金弐朱宛 地借 拾五軒
店借 弐拾軒
右地借店借共不残表店に
御座候
右施し差出寄持之儀入 御聴当月十六日寺社町奉行
太田摂津守様御役所ニ而御誉有之候
卯十月九日 浅草御蔵前
地震ニ付施し 新義真言宗
一 金弐拾壱両弐分 大護院
弐拾五軒之内六軒は金弐分宛 右門前
但同断拾九軒は金壱分宛 表店
出入之者は壱人ニ付金壱分宛 弐拾五軒
裏店無御座候【この行朱書】
外ニ出入致候者
五拾三軒
右大護院境内旅宿
卯十月七日 下総国成田不動別当
地震ニ付施し 新勝寺院代
一 金八拾壱両弐分 正福院
但弐ケ寺門前三十六軒え金壱分宛 右大護院門前
出入之者とも廿え壱人ニ付金弐分宛 表店
弐拾弐軒
最寄
正覚寺門前
同
拾四軒
外ニ
右正福院え出入致候者
百四拾五軒
浅草黒船町続
卯十月十二日 浄土宗
地震ニ付施し 正覚寺
一 白米七斗 右門前町屋
一 金弐両三分 表店拾四軒
一 銭七貫文 裏店無御座候
但表店壱軒白米五升 外ニ出入致候もの
銭五百文宛 七軒
出入之もの七軒之内四軒は金弐分宛
三軒は金壱分宛
右寺院ゟ施シ差出奇特之儀入御聴去月十四日寺社御奉行
太田摂津守様御役所ニ而御誉有之候
卯十月十二日
地震ニ付施し
一 白米弐拾五俵 右
銭弐拾五貫文 大護院
但御救小屋五ケ所え差出
壱ケ所え白米五俵
銭五貫文宛
右之通御小屋入之者え施差出候段入御聴寺社御奉行
太田摂津守様御役所ニ而御褒美銀弐枚被下置候
卯十月三日ゟ 浅草山ノ宿町
同十日迄地震ニ付 浄土宗
一 白米七俵 九品寺
但境内え立退罷在候者え飯ニ焚差出候
卯十月二日夜ゟ同五日迄 山谷
地震ニ付施し 禅宗
一 白米六斗 東福寺
但飯ニ焚差出候 右門前町屋
表店拾軒
裏店四軒
右寺院ゟ施差出シ奇特之儀入御聴当月十六日寺社御奉行
太田摂津守様御役所ニ而御誉有之候
浅草新鳥越町
日蓮宗
常福寺
右は先月二日夜地震ニ付檀家拾弐人変死致し候もの
葬式料不請葬遣申候此分未タ御賞伺等無御座候
同所山谷町
浄土宗
道林寺
右は先月二日夜地震ニ而境内え立退居候者え白米三斗飯ニ
焚差遣申候此分未タ御賞伺等無御座候
卯十月七日 浅草御掃除屋敷并
地震ニ付施シ 隣町共
一 金拾壱両 表店四拾八軒
但壱軒ニ付金弐朱宛 裏店五拾軒
右は浅草御掃除屋敷栄助地借住居仏光寺御門跡家来貸附所
関斎□【亥か】殿ゟ施差出申候
卯十月五日 浅草元吉町
地震ニ付施 表地借壱軒
一 白米四斗 裏地借壱軒
右は拝領地主御小人佐々木鉄之助殿ゟ施差出申候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
三番組
卯十一月 取締懸り
名主共
上
七番組
市中取締懸
名主共
地震に付施 長沢町拝領地面
十月廿二日 表七軒え七升つゝ
一白米壱石五斗九升 裏拾弐軒え五升つゝ
家主え壱斗
右は表御番医師栗崎道有様ゟ被下候
同断 同町同断
同月廿八日 表裏共拾四軒え
一金二両弐両 金弐朱つゝ
家主え金壱分
【右側】
右は御表具師伊藤彦右衛門ゟ差出候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
七番組
市中取締懸
名主共
卯十一月
【左側】
上
八番組
取締懸
名主共
卯十月廿日ゟ追々 増上寺方丈ゟ
地震に付施 出入町人共
一玄米六拾壱俵 五拾八軒
但壱軒に付同壱俵宛 潰家之者
銭六拾壱貫文 三 軒
但壱人に付銭壱貫文宛
増上寺本坊
右同断 并所化大衆方ゟ
一金三百五拾両余 同寺末寺
但壱ヶ寺金七両又五両三両宛 潰及大破候寺院え
右同断 増上寺本坊ゟ
一金七拾両余 家来其外小者迄
玄米四拾七俵
但身分ニ寄多少有之候由
増上寺勝手役所ゟ
卯十月廿二日 門前町々之内
地震ニ付施 芝三崎町
一銭百五拾七貫五百文 神田三崎町
但壱軒ニ付銭壱貫五百文宛 芝南新門前壱町目代地
同所弐町目代地
同所永井町代地
潰家之者
百五軒え
同断
芝御門前壱町目
右同断 幸橋御門外
一銭六貫文 御小屋入之者
但壱軒ニ付銭壱貫文宛 六軒え
増上寺表役所
并所化大衆方
惣門前
卯十月廿九日 芝三崎町
地震ニ付施 外拾壱ケ町
一金百廿四両三分弐朱 表裏共平均
但壱軒ニ付金弐朱宛 九百九拾九軒え
卯十月廿日 増上寺山内
地震ニ付施 徳元寮
一半紙三百状 幸橋御門外 所化徳良
御小屋入之者共え
同 深川海辺軒内
一同 六百状 右同断
同 浅草雷神門前
一同 七百状 右同断
〆半紙千六百状
此代金五両壱歩
銀五匁程
芝切通シ
一向宗 光円寺
卯十月十五日 芝光円寺門前町
地震ニ付施 表店九軒
一金壱両弐朱 右町家主
但壱軒ニ付金弐朱宛 弐人
同
一金壱分
但壱人ニ付金弐朱宛
〆金壱両壱分弐朱
同所
禅宗 青龍寺
卯十月廿六日
地震ニ付施 芝青龍寺門前町
一金壱両壱歩一朱 表店拾七軒
但壱軒ニ付金一朱宛 裏店四軒
同
一金壱歩弐朱 右町
但壱人ニ付金一朱宛 家主六人
溜池端
同 芝青龍寺門前町代地
一金壱歩三朱 表店七軒
但壱軒ニ付金一朱宛
同 右町
一金壱分弐朱 家主六人
但壱人ニ付金一朱宛
四口〆金弐両弐歩
芝神明別当
天台宗 金剛院
卯十月四日 芝神明門前之内
地震ニ付施 金剛院配当町屋敷
一金弐両弐分 表店拾軒
但壱軒ニ付金壱歩宛 裏店七軒
一金三分弐朱
但壱軒ニ付金弐朱宛
地震ニ付店賃
半月用捨分 右
一金三両弐歩 表店裏店
銭七百四拾四文 拾七軒
卯十月四日 芝神明社地
地震ニ付施 祢宜社役共
一金弐両弐分 九人
但壱人ニ付金壱歩宛
見習弐人え金弐朱宛
同 同所門前
一銭九貫文 家主書役
但壱人ニ付銭壱貫文宛 九人
同 同所社地
一金壱両 宮番門番其外共
但壱人ニ付金弐朱宛 八人
同 同所門前
一銭弐貫五百文 抱駈付人足共
但壱人ニ付銭五百文宛 五人
同 同所最寄
一金壱両壱歩 平日立入之者
但壱人ニ付金壱分宛 五人え
〆金拾壱両弐分弐朱
銭拾弐貫弐百四拾四文
右金剛院
院代善行房
卯十月四日
地震ニ付施 右金剛院別当町屋敷
一金壱両壱歩 表店拾軒
但壱軒ニ付金弐朱宛
同 右同断
一金壱歩三朱 裏店七軒
〆金壱両弐分三朱
芝神明神主
西東修理
地震ニ付地代店賃 芝神明門前之内
半月用捨之分 西東修理配当所屋敷
一金五両壱朱 表店裏店
拾七軒
卯十月五日
地震ニ付施 芝神明社地
一金弐両弐歩 祢宜社役共
但壱人ニ付金壱分宛 九人
見習弐人え金弐朱宛
同 芝神明門前
一銭八貫文 家主八人
但壱人ニ付銭壱貫文宛
一金弐朱 同門前
銭弐貫七百文 書役定番抱駈付
但書役え金弐朱定番抱え五百文 七人
駈付人足え銭四百文宛
〆金七両弐歩三朱
銭拾貫七百文
右寺院神主ゟ施差出候得共未タ御賞等之御沙汰無御座候
地震ニ付施 芝口弐町目東側
卯十月十日 表店裏店平均
一玄米四拾八俵 四拾軒
金壱両壱歩
是は右四拾軒之内御立入之者五軒
但壱人ニ付金壱分宛
同 同所三丁目東側
一玄米百弐拾三俵 表裏平均
金弐両 百廿三軒
是は前同断御立入之者八軒
但壱人ニ付金壱分宛
同 源助町東側
一玄米百弐拾九俵 表裏平均
金弐両壱歩 百廿五軒
是は前同断御立入之者九軒
但壱人ニ付金壱分宛
同 柴井町西側
一玄米百俵 表裏平均
金弐両 百三拾七軒
是は前同断御立入之者八軒
但壱人ニ付金壱分宛
右は松平陸奥守様ゟ被下候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
八番組
卯十一月 市中取締懸
名主共
上
九番組
市中取締掛
名主共
三田小山
浄土宗 龍原寺
卯十月二日夜ゟ同十四日迄
地震ニ付施し
一 粥汁 右門前町屋之もの
此米七斗程 拾四五人え焚出遣候
味噌四貫九百目程
芝田町六丁目
浄土宗 知福寺
右は卯十月二日夜地震ニ付居町之もの五拾八人程同寺
広場え立退候ニ付翌三日朝迄一汁一菜ニ而食事
為致候
土井大隅守様御家来
麻布永松町
徳兵衛地面内住居
医師倉本正将
卯十月廿五日 右
地震ニ付施し 麻布永松町
一 金拾両 表裏店共
但壱軒ニ付銀六匁ツヽ 百軒
右施差出候寺院武家方之御褒美御賞詞之
御沙汰無御座候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
九番組
卯十一月 市中取締掛
名主共
上
十九番組
番外品川兼帯
市中取締掛
名主共
貝塚青松寺末
麻布谷町続
曹洞宗 湖雲寺
卯十月二日
地震ニ付施
一 金三両
但 壱軒ニ付 同寺門前店借
金壱朱ツヽ 四十軒
壱人ニ付 同断家主
銀三匁三分三厘 九人
右湖雲寺ゟ施差出奇特之義入
御聴十一月十四日寺社 御奉行太田摂津守様
御役所ニおゐて御誉被置候旨被仰渡候
八王子山田広園寺末
武州豊島郡原宿村
禅宗 龍岩寺
卯十月九日
地震ニ付施
一 白米壱石八斗 隣町表店
但 壱軒ニ付 三十六軒
白米五升ツヽ
右龍岩寺ゟ施行差出奇特之趣入
御聴寺社 御奉行太田摂津守様御役所
御呼出御誉被置候旨被仰渡候
芝弐本榎
高野山学侶方在番
真言宗 西南院
金剛三昧院
卯十月廿五日
地震ニ付施
一白米壱石七斗
金三両弐分
壱軒ニ付 平日出入致候職人日雇之者
但 金弐朱ツヽ 弐拾八軒
同断 同断商人其外
白米壱斗ツヽ 十七軒
白銀台町
高野山行人方在番
真言宗 円満院
五大院
卯十月廿三日
地震ニ付施
一白米弐石四斗
金三両弐分
壱軒ニ付 隣町表裏平均
但 白米三斗ツヽ 八十軒
壱人ニ付 同断家主書役鳶人足
金弐朱又ハ 三十人
壱朱ツヽ
芝増上寺末
北品川
浄土宗 法禅寺
卯十月九日
地震ニ付施
一白米弐斗
外ニ金拾両程 寺付所持地面地代
壱ケ月用捨
但 壱軒ニ付 裏店
白米弐升ツヽ 十軒
三田功運寺末
南品川
禅宗 海晏寺
卯十月十四日
地震ニ付施
一白米弐石 同寺門前之内
但 人別壱人ニ付 表裏共
米五合ツヽ 五十四軒
北品川稲荷神主
小泉帯刀
卯十月九日
地震ニ付施
一白米七斗壱升
銭拾弐貫百文
壱軒ニ付 右社地門前表裏
白米壱升ツヽ 七十壱軒
但
家主壱人ニ付 同断
銭五百文ツヽ 家主十人
浅草本願寺末
北品川
一向宗 正徳寺
卯十月十四日
地震ニ付施
一 金壱両
銭拾壱貫五百文
壱軒ニ付 門前町家表裏
銭五百文ツヽ 弐拾三軒
但
家主壱人ニ付 同断
金壱分ツヽ 家主四人
南品川常行寺末
北品川
天台宗 養願寺
卯十月十五日
地震ニ付施
一金壱両壱分弐朱
外ニ金三両程 店賃半月分用捨
門前町家
但 壱軒ニ付 表裏共
金壱朱ツヽ 弐拾弐軒
相州藤沢清浄光寺末
北品川
時宗 善福寺
卯十月十一日
地震ニ付施
一白米弐斗五升
金三分三朱銭弐貫文
外ニ金三両程店賃壱ケ月用捨
潰家壱軒ニ付 同所町家之内
白米五升 潰家五軒
但 銭四百文ツヽ
外壱軒ニ付 外表店
金壱朱ツヽ 十五軒
相州鎌倉建長寺末
北品川
禅宗 清徳寺
卯十月十一日
地震ニ付施
一白米三斗三升
銭 三貫三百文
壱軒ニ付 門前町家
但 白米壱升 三十三軒
銭百文ツヽ
右ハ私共組合内最寄共取調申上候以上
十九番組
番外品川兼帯
十番組
卯十一月 市中取締掛
名主共
上
拾壱番組
市中取締掛
名主共
【貼札】
本文潰家之者共え被下候分
家内人数不拘軒別ニ銭壱貫五百文宛
被下候
増上寺方丈ゟ
同寺御門前町屋之内
地震ニ付施 神田冨山町壱丁目
卯十月廿二日 表潰家弐軒
一 銭六貫文 裏同 弐軒
但壱軒ニ付銭壱貫五百文宛
同 同町弐丁目
一 銭六拾貫文 表潰家六軒
但右同断壱貫五百文ツヽ 裏同 三十四軒
【画像重複】 増上寺方丈ゟ
同寺御門前町屋之内
地震ニ付施 神田冨山町壱丁目
卯十月廿二日 表潰家弐軒
一 銭六貫文 裏同 弐軒
但壱軒ニ付銭壱貫五百文宛
同 同町弐丁目
一 銭六拾貫文 表潰家六軒
但右同断壱貫五百文ツヽ 裏同 三十四軒
同 右町
一 銭弐貫文 怪我致候者
但壱人ニ付壱貫文ツヽ 弐人
同所永井町
同 表潰家七軒
一 銭五拾五貫五百文 裏同 三十軒
但壱軒ニ付壱貫五百文ツヽ
同 右町
一 銭六貫文 怪我致候者
但壱人ニ付壱貫文宛 六人
同寺
方丈并
所化大衆ゟ
地震ニ付施 本文表裏店之者共え被下候分
卯十月廿九日 表裏之無差別家内人数ニ
一 金六両弐朱 不拘軒別ニ金弐朱宛被下候
但壱軒ニ付金弐朱宛 【右3行は貼付】
【画像重複】
同 右町
一 銭弐貫文 怪我致候者
但壱人ニ付壱貫文ツヽ 弐人
同 同所永井町
一 銭五拾五貫五百文 表潰家七軒
但壱軒ニ付壱貫五百文ツヽ裏同 三十軒
同 右町
一 銭六貫文 怪我致候者
但壱人ニ付壱貫文宛 六人
同寺
方丈并
所化大衆ゟ
地震ニ付施 同寺御門前
卯十月廿九日 神田冨山町壱丁目
一 金六両弐朱 表裏平均
但壱軒ニ付金弐朱宛 四十九軒
同 同町弐丁目
一 金拾壱両三分弐朱 表裏平均
但右同断ニ付金弐朱宛 九十五軒
同 同所永井町
一 金七両壱分 表裏平均
但右同断金弐朱宛 五十八軒
右は増上寺ゟ被下候ニ付取調申上候以上
拾壱番組
卯十一月 市中取締掛
名主共
【白紙】
上
拾弐番組
市中取締掛
名主共
本郷
天台宗
真光寺
同門前
表店
一金壱分弐朱 弐拾軒
銭廿七〆八百六拾文
右門前町家地代十月分壱ケ月勘弁
致受取不申候尤御褒美御賞等御沙汰
無御座候
地震ニ付御施 本郷壱町目
十月下旬 表店
一 白米四斗 四軒
右同断 同所三町目
十月下旬 表店
一 白米弐斗 弐軒
地震ニ付御施 同所四丁目
十月下旬 表店
一 白米弐斗 弐軒
同所五町目
右同断 表店
十月七日 六軒
一 白米壱石壱斗 裏店
五軒
同所六町目
右同断 表店
十月七日 三軒
一 白米六斗 裏店
三軒
右同断 同所春木町弐丁目
十月下旬 表店
一 白米壱斗 壱軒
地震ニ付御施 同所元町
十月十一日 表店
一 白米六斗 六軒
右同断 同所金助町
十月下旬 表店
一 白米八斗 八軒
右同断 同所喜福寺門前
十月七日 表店
一 白米四斗 四軒
右は松平加賀守様ゟ被下候
地震ニ付御施 湯島六町目
十月廿日 表店
一 玄米六斗 弐軒
右同断 本郷真光寺門前
十月廿日 表店
一 玄米三斗五升 壱軒
右は松平大蔵太輔様ゟ被下候
右は私共組合内最寄共取調申上候已上
拾弐番組
市中取締掛
卯十一月 名主共
上
拾三番組
上野北大門町続
天台宗
卯十月五日 常楽院
地震ニ付十月分地代用捨 右常楽寺門前
一 金四両三分弐朱ト 地借
銭四〆八百五拾五文 拾弐人
同日
右同断ニ付店賃用捨 店借
一 金三両弐分 八人
銭弐百九拾文
同日 同門前
右同断并類焼ニ付 地借店借共
一 金五両弐分 弐拾壱人
但地借店借壱人ニ付金壱分ツヽ
家主壱人へ金弐分
上野屏風坂下
禅宗
卯十月三日 高岩寺
右同断ニ付施し 同門前
一 金壱両三分 表裏店平均
白米四斗四升 拾四人
但壱軒ニ付金弐朱米三升宛
家主壱人金弐朱米五升
下谷町弐丁目之内
天台宗
卯十月十日 正法院
右同断ニ付施し 同門前
一 銭拾七貫文 表裏店平均
但壱軒ニ付壱貫文ツヽ 拾七軒
同日 右正法院別当
右同断 下谷稲荷門前
一 銭五貫文 出商人
但同断 五人
下谷茅町弐丁目
浄土宗
湯島
講安寺
卯十月廿日 同門前
右同断ニ付施し 表裏店平均
一 金三両壱分 拾四軒
但壱軒ニ付金弐朱ト壱匁八厘弐毛ツヽ
家主壱人へ金壱分ツヽ
上野山内
明静院
卯十月五日 下谷坂本町壱丁目
右同断ニ付施し 五人組持店
一 金拾両 音次郎
但壱人ニ付銀百匁ツヽ 外五人
上野山内
卯十月五日 信解院
右同断ニ付施し 下谷坂本町壱丁目
一 金壱両弐分 五人組持店
玄米壱斗 音次郎
但壱人ニ付金壱分弐朱ト 外三人
米五升ツヽ
上野山内
東漸院
卯十月五日 下谷坂本町壱丁目
右同断ニ付施し 五人組持店
一 白米五俵 音次郎
但壱人ニ付壱俵ツヽ 外四人
上野山内
青龍院
卯十月六日 下谷坂本町壱丁目
右同断ニ付施し 源助店
一 金三分 清次郎
但壱人ニ付金壱分弐朱ツヽ 外壱人
上野山内
卯十月六日 宝勝院
右同断ニ付施し 下谷坂本町壱丁目
一 白米壱斗五升 源助店
金弐朱 幸助
上野山内
卯十月六日 東円院
右同断ニ付施し 下谷坂本町壱丁目
一 金壱分 源助店
幸助
上野山内
卯十月六日 凌雲院
右同断ニ付施し 下谷坂本町弐丁目
一 金弐両 家主
白米五斗 与兵衛
但壱人ニ付銀四拾匁 外弐人
白米壱斗六升六合余ツヽ
上野山内
寿昌院
普門院
福聚院
卯十月五日 僧心院
右同断ニ付施し 下谷坂本町弐丁目
一 金壱両三分 五人組持店
白米壱斗 藤八
但内金弐分ト 慈本院ゟ
白米壱斗
金壱分 普門院ゟ
金弐分 福聚院ゟ
金弐分 僧心院ゟ
池之端
禅宗
休昌院
右抱地面
下谷坂本町四丁目
卯十月廿九日 安蔵店
右同断ニ付施し 表裏店平均
一 白米弐斗五升 拾壱軒
但壱軒ニ付壱升三合六勺余ツヽ
家主へ白米壱升
下谷坂本町四丁目
天台宗
卯十月廿日 嶺照院
右同断ニ付施し 同門前
一 金弐両 表裏壱軒
白米壱斗 院内所化下男
銭四貫文 其外出入之者へ
下谷通新町続
千住小塚原町
禅宗
卯十月十二日 円通寺
右同断ニ付施し 右抱地面
一 銭壱貫九百文 下谷通新町
但壱軒ニ付銭百文ツヽ 表裏店平均
家主へ銭弐百文 拾七軒
東叡山末
湯島天神別当
喜見院留守居
得行院
卯十月九日 同門前
地震ニ付十月分地代用捨 地借
一 金拾三両弐分 弐拾六軒
同所天神下
卯十月十日 宝性院
右同断ニ付施し 同門前
一 白米九升 表店九軒
但壱軒ニ付壱斗ツヽ
上野山内
明静院
円覚院
卯十月四日ゟ同廿七日迄 東漸院
右同断ニ付施し 信解院
一 金弐両弐分 谷中町
玄米三俵壱斗八升 五人組持店
但甲乙有之候 七人
上野山内
信解院
真覚院
明静院
卯十月四日ゟ十一月廿日迄 種総院
右同断ニ付施し 根津宮永町
一 金三両弐分弐朱 家主
玄米壱俵 壱人
卯十月廿六日
地震ニ付十月分地代用捨本郷新町屋
一 金七拾三両壱分 上野御納戸附地所
銀六匁七分六厘 地借之者
【一行折目で読めず】
右は上野表并諸寺院ゟ地震ニ付施候
米銭員数書面之通ニ御座候尤寺社
御奉行所ゟ御褒美御賞し無御座候
下谷茅町壱丁目
卯十月十九日 外三ケ町
地震ニ付御施し 表裏店平均
一 玄米九拾九石九斗五升 四百拾軒
但 男女共
拾三歳以上壱人ニ付五升宛
家主壱人ニ付三斗宛
右は松平大蔵大夫様ゟ被下置候
池之端七軒町
卯十月十九日 外六ケ町
右同断ニ付御施し 表裏店平均
一 玄米三拾石五斗五升 百七拾六軒
但 男女共
拾三歳以上壱人ニ付五升ツヽ
家主壱人ニ付三斗ツヽ
右は松平大蔵太輔様ゟ被下置候
下谷茅町
一向宗 教証寺
卯十月十九日 同町
右同断ニ付御施し 本山修験本隆院
一 玄米弐石五斗 同町
但壱ケ寺へ五斗ツヽ 当山修験宝生院
同町
浄土宗 講安寺
同町
同 称仰院
〆五ケ寺
右は松平大蔵太輔様ゟ被下置候
池之端七軒町
浄土宗 心行寺
禅 宗 永昌院
同 宗 浄円寺
卯十月十九日 日蓮宗 宗賢寺
右同断ニ付御施し 同 宗 覚性寺
一 玄米六石 禅 宗 東渕寺【現存。表記は東淵寺】
但壱ケ寺五斗ツヽ 日蓮宗 大正寺
禅 宗 正慶寺
日蓮宗 妙題寺
禅 宗 慶安寺
一向宗 忠綱寺
禅 宗 休昌院
〆拾ケ寺
卯十月十四日 根津宮永町
右同断ニ付施し 神田相生町
一 玄米弐俵 家主
但壱人ニ付壱俵ツヽ 弐人
右は松平大蔵太輔様ゟ被下置候
卯十月十日 神田相生町
右同断ニ付御施し 家主
一 白米壱斗 壱人
右は松平加賀守様ゟ被下候
下谷町弐丁目
上野
御宮社家
渡辺伊織
卯十月十三日
右同断ニ付施し 同町
一 白米四斗五升 表裏店平均
但壱軒ニ付五升ツヽ 九軒
家主壱人金弐朱ト五升
上野仁王門前御家来屋敷
御霊屋御掃除頭
原田守次郎
同 大山茂十郎
同 斎藤勘四郎
卯十月十七日
右同断ニ付施し 同町
一 金弐分弐朱 表裏店平均
白米三俵 拾三軒
但甲乙有之候
上野仁王門前御家来屋敷
上野御執当中座役【「執当」は寛永寺の事務総長。「執」は異体字で扁部分がけものへん】
杉本右膳
同 須藤小膳
卯十月三日
右同断ニ付施し 同町
一 金壱両壱分 表裏店平均
但壱軒ニ付金弐朱ツヽ 拾軒
上野仁王門前御家来屋敷
上野
御宮附坊主
星野松慶
卯十月十一日
右同断ニ付施し 同町
一 金壱分 表裏店平均
白米壱俵 四軒
但壱軒ニ付金壱朱ト米壱斗ツヽ
湯島天神下同朋町
上野
御霊屋御掃除頭
浅田吾市
卯十一月十五日
右同断ニ付施し 同町
一 金弐朱 表裏店平均
但甲乙有之候 拾壱軒
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
拾三番組
市中取締掛
卯十一月 名主共
御支配違ニ而施差出候名前書上
拾四番組
小石川
浄土宗
伝通院
同門前
卯十月十五日 裏門前町
地震ニ付施し 表裏平均
一 白米九斗八升 弐拾八軒
但壱軒ニ付三升五合宛
同 同町
一 白米壱斗四升 怪我人
但壱人ニ付七升ツヽ 弐人
右同断 同所御掃除町
一 白米三石四斗三升 表裏平均
但壱軒ニ付三升五合ツヽ 九拾八軒
同 同町
一 同三斗 変死人
但壱人ニ付壱斗ツヽ 三人
右同断 同所下冨坂町東側分
一 同七斗四升 表裏平均
但壱軒ニ付弐升ツヽ 三拾七軒
右同断 同所柳町
一 白米弐石三斗八升 同
但壱軒ニ付三升五合ツヽ 六拾八軒
同 同
一 同弐斗壱升 怪我人三人
但壱人ニ付七升ツヽ
同 同町伝通院前表町
一 玄米弐俵 同所六尺町
壱俵ツヽ 自身番屋
同 同院山内
一 玄米拾壱俵 学寮
但三斗五升俵 七軒え
同 同
一 金三両三分 拾五軒え
但壱軒ニ付壱分ツヽ
同 同地中
一 金七両弐分 寺院え
但壱軒ニ付三分ツヽ
右同断 同院
一 金拾弐両 末寺
但壱軒ニ付壱両ツヽ 拾弐軒え
同 同院
一 玄米三俵 出入之もの
但三斗五升俵 三軒え
一 金弐両弐分 右同断
但壱人ニ付弐分ツヽ 四人
白米八石壱斗八升
〆玄米拾六俵
金弐拾五両三分
右寺院ゟ施し差出奇特之儀入御聴寺社御奉行
太田摂津守様御役所ゟ去月廿三日御賞有之候
小石川七軒町
真言宗
本所弥勒寺末 常泉院
右は去月二日夜地震ニ付変死致候檀家之者男女五人
無料ニ而同月五日葬遣候ニ付同月廿二日寺社御奉行
太田摂津守様御役所え被召出奇特之儀ニ付御誉被置候
旨被仰渡候
根津権現別当
神主昌泉院
卯十月十五日 伊吹左京
白米拾五俵 根津門前町
一 但三斗五升俵 表店八拾壱軒
沢庵漬七樽 裏店百五拾壱軒
右之通施差出候儀入御聴十月廿一日寺社御奉行
太田摂津守様於御役所御賞有之候
小石川円乗寺門前
天台宗
東叡山末 円乗寺
地震ニ付当十月三日ゟ五日迄 同門前
同寺境内え野宿之者え施 表店并近辺之者
一 白米壱斗五升 五拾人程
但握飯かゆ等焚差遣申候
当十月六日施 右
一 白米四斗 表店
但壱軒ニ付五升ツヽ 八軒
同
一 金壱分 右家主三人え
〆金壱分ト白米五斗五升
丸山浄心寺門前
日蓮宗
本所法恩寺末 浄心寺
当十月十一日施 同門前
一 白米壱石壱斗五升 表裏弐拾三軒
但壱軒ニ付五升ツヽ
右之通施差出候得共其御筋ゟ未タ御沙汰無御座候
駒込四軒寺町
浄土宗
京都知恩院末 栄松院
一 当十月二日夜ゟ三日之間近辺之者えかゆ焚施候高
凡白米弐石程
一 檀家之内本所深川浅草辺潰家焼失之者え
白米五升又は三升ツヽ都合四拾軒余え為見舞遣ス
但身柄之者えは弐斗又は壱斗ツヽ差遣候分も
有之候
一 駒込肴町潰家拾弐軒え白米弐升ツヽ家主
壱人え白米三升差遣申候
一 同所片町同所千駄木坂下町潰家之内三軒え
白米三升ツヽ差遣申候
一 平日出入之者三四軒え白米七升又は五升ツヽ差遣申候
一 法類武州豊島郡金杉村安楽寺へ玄米弐俵
差遣申候
右之通施差出檀家之内即死人拾七人程も
有之候処右死骸長持又は酒樽等ニ而差送候分も
其身柄ニ寄瓶等自分ニ而買入葬遣し回向料
等も施主取込中ニ付無代同様之分も有之候処
右ニ不拘懇葬遣し奇特之儀ニ付当十一月廿一日
太田摂津守様御役所え被 召出為御褒美
銀三枚頂戴仕候
駒込
天台宗
東叡山末 世尊院
卯十月廿八日 右世尊院門前
一 白米九斗五升 表裏平均九拾五軒
但壱軒ニ付壱升ツヽ
同
一 同四斗 右家主八人え
但同断ニ付五升ツヽ
一 白米壱石程
但当十月二日夜ゟ十日程之間同寺院之内畑地え
野宿致居候者えかゆ致施候高
右之通施差出候得共其御筋ゟ未タ御沙汰無御座候
湯島
禅宗
京妙心寺末 麟祥院
右麟祥院領
当十月十一日 駒込各町
一 金壱両弐分弐朱 同所千駄木町
銭五拾八貫八百文 同所千駄木坂下町
右三ケ町裏表平均百弐拾三軒え
右之通施差出候儀入御聴当十月廿一日寺社御奉行
太田摂津守様於御役所御賞有之候
駒込片町
一向宗
浅草本願寺末 一音寺
一 白米弐斗
但当十月二日夜ゟ翌三日朝迄境内野宿致候者
其外近辺之者えかゆ焚差遣申候
右之通施差出候義入御聴当十一月廿一日寺社
御奉行太田摂津守様於御役所御賞有之候
駒込冨士前町
一向宗
浅草本願寺末 教元寺
地震ニ付
当十月五日施 同町之内同寺所持地面
一 金壱分 家主壱人
同
一 金三朱 店借三人
同 平日出入之者其外え
一 金弐分 五人
〆金三分三朱
右之通施差出候得共其御筋ゟ未タ御沙汰
無御座候
谷中
禅宗
吉祥寺末 玉林寺
一 白米壱石五斗程
炭 六俵
右は壱月二日夜地震ニ付右玉林寺門前町
野宿之者え同月三日朝より同九日迄かゆ
焚施候段入御聴同月廿一日寺社御奉行
太田摂津守様於御役所御賞有之候
地震ニ付 小石川下冨坂町
卯十月廿日 拝領地面内
一 金弐分弐朱 表店四軒并
但壱人ニ付金弐朱ツヽ 番人壱人え
一 金壱両弐分 同
但壱軒ニ付金壱朱ツヽ 裏店弐拾四軒え
一 金壱両 右 家主壱人え
〆金三両弐朱
右は拝領主御鉄砲方田付主計支配御鉄砲御磨方
瀧本直次郎殿ゟ施差出申候
卯十月廿一日 丸山新町拝領地面内
一 白米四斗 表裏平均八軒へ
但壱軒ニ付五升ツヽ
一 金弐分 家守壱人番人壱人え
但壱人ニ付壱分ツヽ
〆金弐分白米四斗
右は拝領主御鉄砲口薬入指物師長岡与八郎殿ゟ
施差出申候
駒込片町
卯十月十二日 同所追分町
一 金壱両弐分 自身番屋え
右は駒込追分町続住居小普請組小笠原
順三郎様御支配森川冨之助様ゟ施差出申候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
拾四番組
市中取締掛
名主共
上
拾五番組
麹町
天台宗
東叡山末
龍眼寺
卯十月三日ゟ五日迄 同門前
地震ニ付施 家主五人
一 白米三斗 店借
但粥ニ而差出申候 五拾弐軒
十月十五日
右同断
一 白米弐石弐斗六升
但家主五人壱人ニ付壱斗ツヽ
店借五拾弐軒え三升ツヽ
抱人足壱人ニ付五升ツヽ
番人壱人え五升
同日
右同断
一 金三分
但変死人え金弐分
怪我人え金壱分
三口合白米弐石五斗六升
金三分
市谷
天台宗
東叡山末
自証院
卯十月十日 同門前
地震ニ付 家主
一 金壱両壱分 拾六人
但壱人ニ付
銀四匁六分厘八毛
此銭五百拾五文
右寺院ゟ施差出申候尤其筋ゟ御賞等
之御沙汰は無之候
関口目白坂
日蓮宗
小湊誕生寺末
十月三日ゟ同八日迄 長光寺
一 金壱両壱分
銭壱貫弐百文
但檀下之内
変死人三人え金壱分宛
怪我人四人え金弐朱宛
類焼四軒え銭三百文宛
右寺檀下変死人葬式料不受葬遣其上前書
之通檀下え手当等差出且平日寺務堅固僧
侶之致方如法其外奇特之事共入
御聴当十月十四日寺社 御奉行太田摂津守様
御役所ニ而為御褒美銀弐枚被下置候
卯十月十四日 麹町七丁目
地震ニ付施 表店
一 白米四石壱升 百拾六軒
但惣人数四百壱人え
壱人ニ付壱升ツヽ
同日 同町
右調方手当 家主
一 金弐分 拾五人
右は麹町七丁目御寄合阿部鍵次郎様ゟ被下候
卯十月五日 市谷長延寺谷町
地震ニ付施 表裏平均
一 金三両三分三朱 六拾三軒
但壱軒ニ付
金壱朱宛
同日 同所長延寺門前
同断 同断
一 金四両三分壱朱 七拾七軒
但右同断
二口合金八両三分
右は同町続表御祐筆野辺厚左衛門様地借
田安御代官磯辺勘五郎様ゟ被下候
卯十月廿四日 牛込御箪笥町
地震ニ付施 裏店
一 白米壱石 七拾五軒
但壱人ニ付五合宛
右は同町箱館奉行支配調役下役金井清三郎殿ゟ
被下候
卯十月六日 元飯田町
地震ニ付施 表裏平均
一 天城炭九拾壱俵 九拾壱軒
但壱軒ニ付壱俵ツヽ
右は同町続御小性組戸川伊豆守様御組
榊原小兵衛様ゟ被下候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
拾五番組
卯十一月 市中取締懸
名主共
上
拾六番組
深川六間堀町続
禅宗
要津寺
同門前
表店
弐拾軒
卯十月十七日 裏店
地震ニ付施し 六軒
一 玄米弐拾俵
但壱人ニ付五升宛
外ニ十月十一月弐ケ月分地代店賃
用捨致取立不申候由
右寺御支配向ゟ御褒美御賞シ等ハ無御座候由
地震ニ付御施し 本所林町四丁目
卯十月三日 裏店
一 玄米三俵 四拾軒
但壱人ニ付三升宛
右は同町春日唯次郎様ゟ被下候
同断 同出入之者
卯十月三日 三拾人
一 白米三石
但壱人ニ付壱斗宛
同重立候者
一 同四俵 四人
但壱人ニ付壱俵宛
右は林町五丁目仙石播磨守様ゟ被下候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
拾六番組
市中取締掛
卯十一月 名主共
寺院ニ而施差出候書上
拾七番組
深川
浄土宗
霊岸寺
地震ニ付
卯十月七日施シ 同地中学寮
一 金拾壱両壱分 四拾五軒
但壱軒ニ付金壱分宛
同断 同所化
一 金五両 八拾人
但壱人ニ付金壱朱宛
同断 同門前町
一 金弐両弐分 家主
但壱人ニ付金壱分宛 拾人
同
同断 表店
一 金三拾壱両 五拾五軒
但壱軒ニ付金壱分宛 裏店
六拾九軒
合金四拾九両三分
右霊岸寺ゟ施差出奇特之義入御聴寺社
御奉行安藤長門守様御役所ゟ御褒美
白銀三枚頂戴致候趣ニ御座候
深川
古義真言宗
永代寺
地震ニ付
卯十月五日施 同門前四ケ町
一 金弐両弐分 家主
但壱人ニ付凡百八拾文宛 八拾九人
右永代寺境内え地
一 白米九俵 震ニ付立退候野宿
致候者共え粥ニ仕立
差遣申候
右永代寺義は施差出候迄ニ而寺社
御奉行所ゟ御褒美御賞シ等ニ相成候義ニは無之
趣ニ御座候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
拾七番組
市中取締掛
卯十一月 名主共
御武家方施差出候書上
拾七番組
地震ニ付 深川清住町
卯十月十五日施 表裏平均
一 白米五俵 五拾弐軒
金拾六両壱分
同町続
同断 同所海辺大工町代地
一 白米六俵 表裏平均
金八両 弐拾八軒
右は松平越中守様御家来深川清住町住居
内藤忠次郎殿ゟ施差出申候
深川黒江町之内
地震ニ付 加州様御抱屋敷
卯十月廿三日施 家主并俵担
一 玄米弐拾五俵 九拾七人
右は加州様御屋敷ゟ被下候
同所冨岡町之内
地震ニ付 南部遠江守様
卯十月十八日施 御抱屋敷産物
一 玄米拾九俵 方え出入致候もの
拾七人
右は南部遠江守様御屋敷ゟ被下候
地震ニ付 同所冨川町
卯十月七日施 表裏平均
一 玄米拾俵 四拾軒
但四斗弐升入
右は土屋釆女正様御家来磯矢弧之進殿ゟ
施差出申候
和田多金七郎様拝領地
地震ニ付 松島町
卯十月十日施 表裏平均
一 銭弐拾壱貫文 四拾弐軒
但壱軒ニ付銭五百文宛
右は御拝領主和田多金七郎様ゟ被下候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
拾七番組
市中取締掛
卯十一月 名主共
上
拾八番組
本所
浄土宗
回向院
右は此度地震ニ付即死人葬式料受取不申
葬遣申候尤多人数ニ而人数相分不申候
南本所大徳院門前
地震ニ付施 古義真言
卯十月中 大徳院
一 金六両
但拝領門前地借店借四拾八軒え
平均金弐朱ツヽ施差出申候
四ノ橋通
地震ニ付施 小梅代地町
卯十月上旬 表裏平均
一 銭八貫四百文 弐拾四軒
但店借壱人銭弐百文宛 家主
家主壱人え同三百文ツヽ 壱人
同続
中之郷代地町
表裏平均
拾弐軒
家主三人
右は御先手与力御弓方沢井勝司殿ゟ施被差出候
右同断 右両町
一 銭拾弐貫四百文 表裏平均
但店借壱人え銭三百文ツヽ 三拾六軒
家主壱人え同四百文ツヽ家主四人
右は御先手与力御弓方伊藤鉄之助殿ゟ
施被差出候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
拾八番組
市中取締掛り
卯十一月 名主共
当十月中寺院并御武家方ゟ施差出候書上
弐拾番組
牛込築土前町続
天台宗
無量寺
卯十月廿七日
地震ニ付施 同門前家主
一 金弐両弐朱 拾七人
但壱人ニ付金弐朱宛
同断 表店
一 金五両壱分弐朱 四拾四軒
但壱軒ニ付金壱朱宛 裏店
四拾弐軒
同所通寺町続
天台宗
三光院
同月十九日
地震ニ付施 同門前家主
一 金五両 八人
但壱人ニ付金弐分弐朱宛
表店
同断 七軒
一 銭四貫九百七拾弐文 裏店
但壱軒ニ付銭弐百拾弐文宛 拾六軒
同町続
天台宗
等覚寺
同月十七日 同表門前
地震ニ付施 表裏店百壱軒
一 金五両 此人数
但壱人ニ付銭八拾文宛 三百九拾八人
同断 同内門前
一金三分 表店
但壱軒ニ付銭弐百七拾三文宛 拾八軒
同所築地片町続
天台宗
宝蔵院
卯十月十七日
地震ニ付施 同門前家主
一 金壱両弐分弐朱 四人
但壱月分地代金勘弁致遣ス
同断 表店
一 金壱両弐分 弐拾四軒
但壱軒ニ付金壱朱宛
同所通寺町続
天台宗
養善院
同月廿八日
地震ニ付施 同門前家主
一 金壱両壱分 五人
但壱人ニ付金壱分宛
表店
同断 拾六軒
一 金弐両壱分 裏店
但壱軒ニ付金壱朱宛 弐拾軒
同所弁財天町
曹洞宗
宗参寺
卯十月十四日 同寺領
地震ニ付施 同町
一 白米壱石四斗六升 表裏店
但壱軒ニ付白米弐升宛 七拾三軒
四谷左門町続
浄土宗
長安寺
卯十月十八日 同門前
地震ニ付施 表裏店
一 銭六貫六百文 三拾三軒
但壱軒ニ付銭弐百文宛
右七ケ寺寺院ゟ施シ差出奇特之義入
御聴寺社御奉行太田摂津守様
御役所ゟ御賞詞有之候
牛込通寺町
天台宗
正蔵院
卯十月十三日 同門前
地震ニ付施 家主
一 金七両 七人
但壱ケ月分地代金勘弁致遣ス
同断 表店
一 白米七斗 拾四軒
但壱軒ニ付白米五升宛
同所横寺町
天台宗
泉蔵院
同月十三日 同門前
地震ニ付施 家主
一 金弐両 五人
但壱月分地代金勘弁致遣ス
同所肴町続
天台宗
行元寺
同月廿三日
地震ニ付施 同門前
一 金壱両弐分 家主
但壱人ニ付金弐朱宛 拾弐人
同断 表店
一 白米弐斗九升 三軒
但壱軒ニ付白米壱升宛 裏店
弐拾六軒
同町続
天台宗
安養寺
同月廿一日
地震ニ付施 同門前
一 金壱両 家主
但壱人ニ付金壱分宛 四人
同断 表店
一 銭壱貫五百文 五軒
但壱軒ニ付銭三百文宛
同所白銀町続
天台宗
成願院
同月廿六日 同門前
地震ニ付施 表店五軒
一 銭三貫弐百文 裏店
但壱軒ニ付弐百文宛 拾壱軒
同所榎町
浄土宗
大願寺
同月廿九日
地震ニ付 同門前
一 金壱分弐朱と 家主
銭弐貫百三拾九文 弐人
但当十月分店賃半月分勘弁遣ス
同断 表店
一 金弐朱と 七軒
銭三百三拾六文
但壱軒ニ付銭百六拾四文宛弁当代として遣申候
右六ケ寺寺院ゟ施差出候得共未タ寺社
御奉行所様ゟ御賞詞之御沙汰無
御座候
牛込榎町
卯十月十四日 表店
地震ニ付施 百壱軒
一 金拾両 裏店
但壱軒ニ付金壱朱宛 五拾九軒
右は同町住居西御丸中之口番堀江新八殿ゟ
施シ差出申候
右は私共組合内最寄共取調申上候以上
弐拾番組
市中取締掛
卯十一月 名主共
上
弐拾壱番組
市中取締掛
名主
浅草
浄土宗
誓願寺
卯十月十一日 同門前
地震ニ付施 表店
一 白米壱石五斗九升 九拾六軒
銭拾五貫九百文 裏店六拾三軒
但壱軒ニ付白米壱升銭百文宛
同月同日
右同断 同寺地中
一 玄米四石五斗 拾五ケ院え
但壱ケ院え玄米三斗宛
同十月廿五日
右同断 右
一 玄米三拾俵 拾五ケ院え
金三拾壱両壱分
但壱院え玄米弐俵金三両又は金弐両宛
浅草
浄土宗
幡随院
同十月四日 同門前
右同断 表店
一 玄米七俵 四拾三軒
銭拾貫文 裏店弐拾軒
但壱軒ニ付玄米三升銭百六拾三文宛
十月二日夜地震之節粥飯ニ而施
一 白米壱石余 右表裏
六拾三軒
同十月四日
地震ニ付施 同院末寺
一 玄米三俵 拾壱ケ寺え
金弐拾五両
但銘々員数不同有之候
同
右同断 同院え
一 玄米五拾俵 出入之者共
金拾六両
但右同断
浅草新寺町
浄土宗
宗安寺
同日
右同断 同門前
一 白米九斗六升 □店【欠損】
但壱軒ニ付三升宛 弐拾弐軒
家主壱人え三斗
卯十月分店賃用捨致候分
一 銭拾三貫弐百文
浅草新寺町
禅宗
同十月九日 東国寺
地震ニ付施 同門前
一 白米五斗壱升 表店拾弐軒
但壱軒ニ付三升宛 裏店五軒
浅草新寺町
禅宗
法福寺
同十月十五日
右同断 同寺前
一 金弐両壱分弐朱 表店
但壱軒ニ付金壱朱宛 三拾七軒
家主壱人え金弐朱
同十月分地代店賃用捨致候分
一 金四両壱分ト
銭百九拾弐文
浅草新寺町
浄土宗
西光寺
同十月十五日 同門前
右同断 表店
一 金三分 拾弐軒
但壱軒ニ付金壱朱宛
家主壱人え金弐朱
同十月分地代店賃用捨致候分
一 金三両弐分ト
銀三匁七分三厘五毛
浅草
一向宗
等覚寺
同十月十五日
地震ニ付施 同門前
一 金弐分三朱 表店
但壱軒ニ付金壱朱宛 拾壱軒
家主壱人え金弐朱
同十月分地代店賃用捨致候分
一 金□両三朱ト 【欠損】
銀□匁
浅草新寺町
禅宗
東岳寺
同十月十四日
地震ニ付施 同門前
一 金壱分弐朱 表店
但壱軒ニ付金壱朱ツヽ 六軒
家主壱人え金弐朱
同十月分地代店賃用捨致候分
一 金壱両三分ト
銭百七拾八文
浅草新寺町
浄土宗
行安寺
同十月八日 同門前
地震ニ付施 表店
一 白米七斗四升 拾七軒
金八両 裏店
但地借壱軒ニ付金壱分宛 弐拾八軒
店借壱軒ニ付金弐朱宛
地借類焼之者え白米五升宛
店借類焼之者え白米三升宛
家主え金弐分ト白米壱斗
類焼之者十月十一月分地代用捨致候分
一 金八両ト
銭七百四拾四文
浅草新寺町
日蓮宗
本蔵寺
同十月□□日 同門前
地震ニ付施 表店
一 金壱両弐朱 拾六軒
但壱軒ニ付金弐朱宛 裏店
同十月十一月分地代用捨致候分 四軒
一 金九両ト
銭五貫三百五拾四文
同十月八日
一 手拭四拾筋
但隣町類焼之者弐拾人え差遣申候
浅草新寺町
日蓮宗
正覚寺
同月同日
一 手拭四拾筋
但隣町類焼之者弐拾人え差遣申候
浅草新寺町
日蓮宗
本立寺
同月同日
一 手拭四拾筋
但門前并隣町類焼之者弐拾人え差遣申候
右は寺院ゟ施差出其外奇特之儀入
御聴寺社御奉行太田摂津守様御役所ニ而御賞
有之候
浅草新堀端
禅宗
松源寺
同十月十八日 同門前
地震ニ付施 表店
一 金弐両三分弐朱 弐拾五軒
但銘々員数不同有之候 同寺
出入之者共
浅草新堀端
浄土宗
正定寺
同十月三日 同門前
右同断 □店【欠損】
一 白米四斗七升 拾四軒
金壱両弐分
但銘々員数不同有之候
浅草
時宗
日輪寺
同十月□日 同門前
右同断 表店
一 金拾八両三分弐朱 九拾三軒
但壱軒ニ付金弐朱宛 裏店
五拾八軒
浅草
浄土宗
光感寺
同十月十九日 同門前
右同断 表店
一 白米七斗弐升 弐拾壱軒
裏店
拾五軒
家主
壱人
浅草
浄土宗
清光寺
同十月十四日 同門前
右同断 表店
一 金壱両壱分弐朱 九軒
但壱軒ニ付金弐朱宛 家主
家主え金壱分宛 壱人
浅草
禅宗
大松寺
同□□□□ 同門前
右同断 表店
一 金三分弐朱 五軒
但壱軒ニ付金弐朱宛 家主
家主え金壱分 壱人
浅草新堀端
浄土宗
龍宝寺
同十月十五日 同門前
右同断 表店
一 金弐両弐朱 三拾弐軒
但壱軒ニ付金壱朱宛
家主弐人え金弐朱ツヽ
浅草新堀端
天台宗
常福寺
同十月三日 同門前
右同断 表店
一 白米三斗七升 拾軒
金弐両弐分
但白米五升金壱分宛 三軒え
金壱分宛 七軒え
白米弐升 家主え別段御召遣申候
浅草北寺町
天台宗
東光院
同□□□□日 同門前
右同断 表店
一 白米七俵弐斗七升 弐拾五軒
但壱軒ニ付四升宛 裏店五拾軒
外ニ怪我致候者三人ええ白米九升宛
浅草八軒寺町
日蓮宗
本法寺
同十月十五日
右同断 同門前
一 金弐両 表店
但壱軒ニ付金壱分宛 八軒
右は私共組合内取調申上候以上
弐拾壱番組
市中取締掛
卯十一月 名主
【白紙、付票あり】
【裏表紙 白紙】
ぢしんにてやけたる
あとは浅草に
やどをかるべき一ッ
家もなし
《題:地災撮要《割書:地震之部|》十一、十二》
《題:地災撮要《割書:地震之部|》巻之十一》
【白紙】
地災撮要 《割書:地震之部》 巻之十一
一地震の来る其初神速甚し震動更になし唯一
丈許揚りて其まゝ落されたりと覚へしか直に
家居傾へたり故に人々戸を出る間なし偶々辛
ふして戸を出たるもの却て屋瓦の為に打たれ
て創蒙りし多し且戸を出る頃は大方地震は止
みたりとそ其迅速想ふへし去年駿州にて地震
に逢へしものゝ話に地震の来るは海中にて大
濤の来るを見るか如しと云へしとそ
一地震あるや否井水皆増りて柄杓にて酌むへ
【右丁】
きほとになりて且臭氣ありて食にくし
一人家の中棚々江【「え」。助詞の「え」として仮名使用。】載せおきし什器類都て西方
なるは落たれ共東の方なるは落す地震の来る
西より東へゆれたるにやと或人語りぬ
一地割れて泥を吹きしは千住以南の事なりと
いふ
七修類槀【稾の誤記】云菽園雜志載地震極大時最多然皆夜
也予年七十吾杭地動凡三次帷一次有聲亦皆夜
時豈非地乃属陰耶
【左丁】
按志疑記誤
【右丁】
地震行 安政乙卯十月二日
不_レ遇_二大災異_一。不_レ知_二眞敬戒_一。至_二其土裂其室焚_一。満者知_レ
損怠者勵。是歳十月之初夜二更驀忽大地聲奔騰。
億萬人家如_二朽壌_一。化手一弄皆分崩。堂襟不_レ見見_二堂
背_一。斷柱為_レ薪薪逾積。警鐘連發火四起。天地在_レ鎔金
赩赫。貴官徒歩不_レ問_レ馬。脱_レ身既難况滅_レ火。餘殃及_レ池
多_二頳魚_一。残㷔入_レ殿有_二赭瓦_一。耳聞走脚偕衝撞。眼看横
屍相疂䉶。極樂國俄變_二 地獄_一。休明世即如_二乱邦_一。天漸
曙時火漸熄。四顧惨澹凝_二愁色_一。餘怒未_レ霽時一震。貴
賤席_レ 地不_二寧息_一。我覓_二吾廬_一安在哉。五畒茫茫吹_二燼灰_一。
【左丁】
辛勤卅載付_二 一炬_一。残書破硯隨_二炎埃_一。依_二 人廡下一食_二 人
食_一。竟境何曽免_二偪仄_一。平生口體頗精养。到_レ此粗惡改_二
前轍_一。我聞明曆之火人死過_二 十萬_一。又聞元禄之震大
城橋板斷。今年之災人死卄萬城崩幾䖏。大震大火
併為_二皕年間一大患_一。剰見去歳東海海翻東土裂。數
百里田半陥没。相豆駿遠参五州。民力困兮民財竭。
吁嗟乎吾儕小人何說_レ艱。但願天下之志士開_二愁顔_一。
巢由不_三曽談_二経濟_一。自有_三■【䕫】龍列_二朝班_一。聊為_二家國_一越_レ爼
告。亦如_二老人結_レ草報_一。破_レ例正要濟時方。府庫未_三必就_二
虚耗_一。君不知周幽王二年。一時大震及_二 三川_一。是陽不
【右丁】
能_レ鎭_レ陰也。伯陽之議豈不_レ然。然則天意可知耳。以_レ德
庇_レ 下固其理。大贍_二斯民_一以_レ此伏_レ罪非_レ可_レ辤。韓韶不_レ云_二
乎含_レ笑入_一レ 地矣。今在_レ位者須_レ念_レ之。姝姝小惠何足_レ施。
人配_二 天命_一則轉_レ禍而為福。得_レ非_三大災以固_二太平基_一。
枕山人題扵三枚橋炎餘地
【左丁】
地震行 齊藤拙堂
天柱折地維裂城復隍陵變谷禍發関西及関東彼
蒼者天何太酷余寓江門觀此凶歳維乙卯月孟冬
百萬人家盡傾覆祝融佐霊燄上衝屍首縦横都下
偏載鬼百者弃幽竁生無室廬死無槥一死一生誰
弔唁貴賎糧食如臨軍上下東装如赴戰艸屋布障
庇凮雨陋如陣営孰擇便不似平生■【覺覮】豪奢彫刻粉
丹飾室家衣必綾羅食甘脆珠礫金塊俗相誇本是
忘乱狃至治㴞々天下人如醉一朝驚覚䌓蕐夢不
但地裂恐天墜杞人之言或省悟何知地妖非天意
【右丁】
君不見尭水湯昇亦天殃挽回天心致休祥即今只
要補天手轉禍為福豈無方嗚呼轉禍為福豈無方
【左丁】
井元行賢乎己云/黛(マユスミ)者新吉原街佐野槌樓名娼也
初称阿兼年甫二歳別父母受他人鞠育八歳被鬻
入娼家主人甚謹既長姿色艶發使見者魂蕩神迷
安政乙卯十月二日夜二更関東地大震江戸甚矣
至宇崩壊火後發殃及他魚壓死者以万数烏官■【茸ヵ】
厰使貧民居之免飢栖宿戴恩者数千名黛聞之鬻
首飾淂三十金貿行平/鐺(ナベ)千百六十餘箇施之扵厰
内其意出扵遇幼時所離之父母且修情客之冥福
烏非要名求報所為也事聞於官に乃賜銀二枚褒
之旌之扵是黛名動東都
【右丁】
記江都地震
断吾手断吾足梁棟壓身脱不猛火炎々咫尺逼甲
苐丙舍千万間礎飛碎崩如山烈火俱焚崑岳玉鉄
椎忽破斉后環夜深悲風吹不静行人䰟怯青燐影
■【骨+夜】骼載出幾輀車街頭十日鬼氣冷君不見城中人
衆地難勝戴天履地ニ不手一朝發怒逞酷虐■【号+乕(=虎)=號】泣聞
天々亦驚叶嗟哉父表子に表母鬼哭声雜人哭声
【左丁】
地震行 釋清狂 名月性 周防人
或所著震災記曰大城譙門及櫓楼崩半藏
四谷諸門大破其他楼櫓雉堞悉剥落豪塹
石䂦崩者無慮数行又曰所在火起凡五十
八所又曰死亡者不下三十万人又曰深川
及小川坊夜既深有物啾々如泣如訴至暁
不絶人以為寃鬼哭声吉原之上多見陰燐
盖亦寃狂之氣所
結故詩亦及之
維歳安政乙卯冬十月二日夜二更武州江戸征夷
府地震延災及柳営城復千隍陵谷變梁木壊乎大
厦傾何者祝融来助虐煙㷔漲天ニ犳行君臣父子
不相救轉輾呼■【号+乕(=虎)=號】陥火阬壓死大凡三十万惨扵白起
坑降兵君不見昔時周室王綱弛蠻夷猾夏迫東京
【右丁】
天遣変災頻警戒皕𠦜二年幾変呈地震者五山崩
二聖人特茟載麟経今也四夷交侮我將軍猶未議
親征所以変災相継至山崩地震海波驚三四年間
十幾変天之警戒太分明■【亦+火=奕?】理陰陽任責者姑息和
戎飾太平堂ニ帝國征夷府甘與犬羊城下盟皇天
后土諸神祗赫斯震怒壤金城嗚呼退震災徒壓死
寧如進戦取功名縦使吾軍無大利一戦何傷卅万
生間説満城頽屋下碎首断臂乱縦横月黒天寒雨
雪夜到處啾々鬼哭聲
【左丁】
冨士降砂記
全在武江日告客云夫希有哉士峯去絶頂三千丈
林木陰欝處忽焼頺飛石砂於國郡旬餘田宅寺宇
深埋丈餘人民失居悉餓死而為荒村余同業所感
之其人也語畢涙沾巾客為謝云信希有哉士峯事
我生来好事有異必記未有如此異聞請師為我記
焉余不暇辞漫筆記云
夫雲居山乗光禅寺在于冨士之東數里之地余居
之于時宝永四年冬十有一月二十三日之暁大地
震動動揺響㔟倒門戸譬過海之舟如逢波濤之激楊
【右丁】
至辰時西南鳴動而如百千萬雷聲頃刻而黒雲覆
一天日中猶暗夜空中雨物大如蹴鞠落地破裂忽
出火㷔点灯燭見焉形如蛇骨黄色而有臭氣尚軽
或火㷔焼茅屋飛石殺人民信謂三哭壊空時到男
女老少㘴佛前髙聲唱佛名慇懃誦聖経唯要臨終
速至晡時雷声自東西至于中途鳴声甚如裂頭脳
聞之数十里之中唯如在已屋上弾指頃而亦東西
去頻雨冰石大如桃李耳之有塩味重如金鐵至二
十四之暁雨砂尚微而雷声亦微也仰天雲間初見
星光識天未落地雖然石砂埋屋棟縦使有天地人
【左丁】
民何以存生命猶欲速死至日中有微明猶月夜朦
■【月+竜=朧】男女患飢渇要井邉難得臨大河要濁水潤口唇
至二十五日雨砂尚微少而捨燭視親子面前日行
他方者来告家人云士峯火災及困危鄰郡尚在平
安土地生民聞之蘓息捨家財不顧重噐佝僂提携
而走他邦欲存生命嗚呼哀哉禽獸也被打雨石無
可飛走飢渇斃至二十六日雲間現日光雨砂如微
塵間有李實斯日始看士峯焼灰積為一山至十二
月初八日雷声盡雨砂尚止天氣如故因降釣㑒吊
兆民鑺【钁ヵ】頭■【蜀+斤=斸?】地以量深浅近村遠郷平地山澤自有
【右丁】
浅深冨麓之一村者平地一丈二尺其山岸以人力
難量余寺者去冨麓村纔【わずか】三里亦去士峯焼穴九里
石砂深厚平地三尺五寸山岸深澤及一丈二丈五
丈七丈嗚呼士峯焼頺希有哉人民辛苦又大哉余
雜話而談人草書而示公九牛之一毛也到曲暢旁
通縦使孟軻氏之好辨班固氏之採筆何盡記焉哉
嗚呼士峯火災夫大哉
維時正德二年仲春龍雲比丘関叟明山重記焉
【左丁】
大久保家記曰宝永四年丁亥十一月廿三日冨士
山天火ノ災ニ依リテ頂上ヨリ燃上リ其焼砂凡
廿里四方ヘ降散ス十二月初旬ニ及マテ降継キ
又小田原領砂降積ル見分ノ次弟《割書:中畧》
北久原村《割書:砂三|尺斗》家々軒際マテ砂溜リ此ヨリ十里
新田マテ三里ホト十里木ヨリ冨士焼出ノ所マ
テ二里ホトアリ佐野瀬木川ノ水御殿場二橋西
田中六十町ノ用水砂ニ埋リ水ナシ仁杉村《割書:砂七|尺溜》
百姓家軒マテ降積リ家ノ内一砂押込家二三軒
潰ル水土野新田《割書:砂七|尺》百姓家根斗少シ見ル須走
【右丁】
村《割書:砂一丈|溜ル》高札場砂ニテ埋マリ札覆ノ屋根斗少
シ見ル浅間御社鳥居半分過砂ニテ埋リ随身門
屋根斗少シ見一幣殿ハ砂ニテ埋リ見ヘス拜殿
ハ屋根斗少シ見ヘ御本社軒際マテ埋ル《割書:中畧》御
厨上郷ノ分砂強ク降溜ル所ハ青竹ノ葉少シモ
是レ無ク総シテ竹木莖斗ニ成リ砂多ク溜リ村
々水是ナク遠方ヨリ汲用ユ同五年正月小田原
領砂降夥シク田畑荒地トナルニ依テ願ノ如御
代官所ニ還シ替地ヲ賜フ高五萬六千三百石餘
《割書:下畧》
【左丁】
其蜩翁艸曰宝永四丁亥十一月廿日頃ヨリ江府
中天氣曇寒甚シク朦朧タリ廿三日午時分イヅ
ク共ナク震動シ雷鳴頻ニテ西ヨリ南エ墨ヲヌ
リタル如キ黒雲靉ヒキ雲間ヨリ夕陽移リテ物
スサマジキ氣色ナルガ程ナク黒雲一面ニ成リ
闇夜ノ如ク八時ヨリ鼠色ナル灰ヲ降ス江府ノ
諸人魂ヲ消シテ惑フ所ニ老人ノ曰三十八九年
以前カヤウノコトアリ是ハ定テ信州浅間ノ焼ル
灰ナラント云ヨツテ少シ心ヲ取直シケルニ段
々晩景ニ至リ夜ニ入ルニ随テ弥強ク降リシキ
【右丁】
リ後ニハ黒キ砂大夕立ノ如ク降来テ終夜震動
シ戸障子ナドモ響キ裂暗キ事昼夜ヲ分タズ物
ノ相色モ見ヱ分ネハ悉家々ニ燈ヲトボシ往来
モ絶々ニ適通行ノ人ハ此砂ニ觸レテ目クルメ
キ怪我セシモ有トカヤ諸人何ノ所以ヲ知サレ
バ是ナン世ノ滅スルニヤト女童ハ啼サケブ翌
日ニ及ヒ冨士山焼ノヨシ注進有テコソ始テ人
心地ハツキニケル砂降積ルコト凡七八寸所ニヨ
リ一尺餘モ積リシトゾ畢テ砂ヲ掃除ストイヘ
トモ板屋杯ハ七八年ノ後マテ風ノ折ニハ砂ヲ
【左丁】
吹落シ難義ナリシヨシ右ノ刻駿州冨士郡ヨリ
注進ノ趣
咋廿二日昼八時ゟ今廿三日迄之間地震間も
無く卅度程ゆり民家夥敷潰れ申候扨廿三日
昼四ッ時ゟ冨士山夥敷鳴出冨士郡一面に響渡男
女絶入仕者多候へとも死人は無御座候然處山上ゟ煙夥
く巻出し山大地共に鳴渡冨士郡中一面に煙渦
巻候故いか様之訳共不知人々十方を失ひ罷在候
昼之内は煙斗相見へ候處夜に入候はゝ一遍に火㷔に
相成候其以後いか様に成候哉不奉存候先石焼出之
【右丁】
節不取敢御注進之為罷越候故委細之儀は跡ゟ追々
可申上候
右注進ノ後弥火氣熾ニ成リ土砂石礫ヲ吹飛シ
近国廿里四方ヘ沙石ヲ降ラセ中ニモ伊豆相模
駿河ハ所ニヨリ二丈餘モ降積リ堂社民屋モ埋
レ田畑ノ荒アゲテカゾヘガタシ日ヲ経テ稍ク
焼鎭ヌ其土砂ヲ吹出セシ所穴トナリ其穴ノ口
ニ大ナル塊山ヲ生ス世俗呼デ宝永山ト號ス本
街道ヨリ眺レバ右流ノ半腹ニ彼塊出来テ瘤ノ
如シ三国無雙ノ名山ニ此時少キ瑕ノ出来シコ【ヿヵ】
【左丁】
恨ナレ
【右丁】
東京図書舘長手嶋氏ノ嘱託ニヨリ
写【冩】生に命シテ之ヲ謄写【冩】セシム時ニ
明治二十一年十一月
関【關】谷清景誌
【左丁 文字無し】
【白紙】
《題:地災撮要巻十二《割書:地震之部|》》
地震撮要 巻之拾二
岸岱(落款)(落款)
頃京師地大震而数日不止東隴庵主
人袖小記来而請余題言見其記今右
評説画挙此矣因写仁和年間之徴
以代題言聊塞其責云爾
文政十三年庚寅秋七月
卓堂岸岱
地震考
文政十三庚寅年七月二日申の時はかりに大に地 震ひ出
ておひたゝしくゆり動しけれは洛中の土蔵築地など大
にいたみ潰れし家居もあり土蔵の潰れしは数多ありて
築地高塀なとは大かた倒れ怪我せし人も数多なり昔
はありと聞けと近く都の土地にかくはけしきはなかり
ければ人々驚きおそれてみな〳〵家を走り出て大路に
敷ものしき仮の宿りを何くれといとなみ二三日かほどは家
の内に寝る人なく或は大寺の境内にうつり或は洛外の
川原へうつり西なる野辺につどひて夜をあかしける
かくて三日四日過ても猶其名残の小さき震ひ時々あ
りてはしめは昼夜に二十度も有しが次第にしつまりて
七八度ばかり三四度になる事もあり然れともけふ既に廿
日あまりを経ぬれどなほ折々すこしづゝの震ひもやま
で皆人々のまどひ恐るゝことなり世の諺に地震ははし
めきひしく大風は中程つよく雷は末ほと甚しといへる
事をもてはしめの程の大震はなきことゝさとしぬれと
なほ婦女子小児のたくひはいかゞとあんしわつらひてい
かにや〳〵と尋ねとふ人のきはなれは旧記をしるして大
震の後小震ありて止ざるためしを挙て人のこゝろをや
すくせんと左にしるし侍る
上古より地震のありし事国史に見えたる限りは類聚
国史一百七十一の巻災異の部に挙て詳なり
三代実録仁和三年秋七月二日癸酉夜地震《割書:中略|》
六日丁丑虹降_二 ̄ル東 ̄ノ宮_一 ̄ニ其尾 竟(ツク)_レ 天虹入_二内蔵寮(クラレウ)_一《割書:中略|》是
夜地震《割書:中略|》卅日辛丑 ̄ノ申時地大震動 経(ケイ)_二-歴(レキ)数刻_一 ̄ヲ震猶
不_レ止天皇出_二 ̄テ仁寿殿_一 ̄ヲ御_二紫宸殿(シシンテン)南庭(ナンテイ)_一 ̄ニ命_二 ̄シテ大蔵省(オホクラシヤウ)_一 ̄ニ立【二点脱】七
丈 ̄ノ幄(ヤク)_一 ̄ヲ為_二御在所_一 ̄ト諸司 舎屋(シヤオク)及 ̄ヒ東西京 盧舎(ロシヤ)往々 顛覆(テンフク)
圧殺(エンサツスル)者衆 ̄シ或有_二失神(コヽロマトヒ)頓(トン)死 ̄スル者_一亥 ̄ノ時亦 震三度五畿内
七道諸国同日 ̄ニ大震 官(クハン)舎(シヤ)多 損(ソンシ)海潮(カイテウ)漲_レ ̄リ陸 ̄クニ溺死(タヾヨヒ) ̄スル者不_レ
可_二勝(アゲテ)計(カゾフ)_一 《割書:中略|》八月四日乙巳地震五度是日 達(タツ)智(チ) ̄ノ門 ̄ノ
上有気如_レ ̄ニシテ煙非_レ ̄ス煙如_レ ̄ニシテ虹非_レ ̄ス虹 ̄ニ飛上 ̄テ属(ツケリ)天或人見_レ ̄テ之皆
曰是 羽(ハ)蟻(アリ)也《割書:中略|》十二日癸丑鷺一 ̄ツ集_二 ̄ル朝堂院 白虎(ヒヤクコ)
楼(ロヲ)豊(フ)楽(ラク)院 栖(セイ)霞(ア)楼 ̄ノ上_一 ̄ニ陰陽寮占 ̄テ曰当_レ ̄ヘシ慎_二 ̄ム失火之事_一 ̄ヲ十
三日甲寅地震有鷺集_二豊楽院南門 ̄ノ鵄(クツ)尾(カタ)上_一 十四日
乙卯 ̄ノ子時地震十五日丙辰未 ̄ノ時有鷺集_二豊楽殿 ̄ノ東
鵄尾 ̄ノ上_一 ̄ニ 《割書:下略|》
皇帝紀抄ト云文治元年七月九日未尅大地震洛
中洛外堂社塔廟人家大略顛倒樹木折落山川皆
変死 ̄スル者多 ̄シ其後連日不休四十余箇日人皆 為(ナシテ)_レ悩 ̄ミヲ心(コヽ)
神(ロ)如_レ ̄シ酔 ̄ルカ《割書:云々》
長明之方丈記に云元暦二年の頃大なゐふる事侍りき其
さまよの常ならす山くつれて川をしつみ海かたふきて陸
をひたせり土さけて水湧上りいはほわれて谷にまろひ
入諸て舟は【注】波にたゝよひ道ゆく駒は足の立とをまとはせ
り況や都のほとりには在々所々堂舎塔廟一として不全
《割書:中略|》かくおひたゝしくふる所也はしばしにて止にしか
其名残しはらくは絶す尋常におとろくほとの地震二
三度ふらぬ日はなし十日廿日過にしかはやう〳〵間遠にな
り或は四五度二三度もしは一日ませ二三日に一度なと
【『地震考』では「諸こく舟は」】
大かた其名残三月ばかりや侍けん云々
天文考要に云寛文壬寅五月幾内ノ地大ニ震フ
北江最甚シ余動屡発シ至_二 ̄ル於歳終_一 ̄ルマ
本朝天文志に云宝暦元年辛未二月廿九日大地
震 ̄フ諸堂舎破壊余動至_二 ̄テ六七月_一止 ̄マル
かく数々ある中にも皆はしめ大震して後小動は止さ
れともはしめのことき大震はなし我友広島氏なる人諸国に
て大地震に四たひ逢たり皆其くにゝ滞留して始末をよく
知れり小動は久しけれ共はしめ/の(如)ときは一度もなしと申
されける現在の人にて証とするに足れり
○地震之説
径世衍義孔鼂【墨誤カ】 ̄カ曰 ̄ク陽伏_二 ̄テ于陰下_一 ̄ニ見 迫(セマル)_二 ̄ヲ于陰_一 ̄ニ而不_レ能_レ ̄ハ升 ̄ルコト
以至_二 ̄ル於地震_一 ̄ニ と如_レ此陽気地中に伏して出んとす
る時陰気に抑(ナサ)へられて出る事能はず地中に激(ゲキ)
攻(コウ)して動揺するなり【注】国語の周語に伯(ハク)陽(ヤウ)父(フ)の言
なども如此古代よりみな此説をいふ
天経或門に言地は本気の渣(カ)滓(ス)聚(アツ)まつて形質(ケイシツ)を
なす元(ケン)気(キ) 旋(セン)転(テン)の中に束(ツカ)ぬ故に兀然として空に
浮んで墜(ヲチ)す四(シ)囲(ヰ)に竅有て相通ず或は蜂の巣の
ことく或は菌瓣(クサビラノスケ)のごとし水火の気其中に伏す蓋(ケタシ)
【『春秋明志録巻六』に「孔墨曰陽伏于隂下見逼于隂故不能升以至于地震」とある】
気噴盈して舒(ノヒ)んと欲してのふことを得す人身の
筋転して脈(ミヤク)揺(ウコク)かことし亦雷霆と理を同ふす北極
下の地は大寒赤道之下は偏熱にしてともに地
震少し砂土の地は気 疎にして聚まらず震少し
泥(デイ)土(ト)の地は空に気の蔵むことなし故に震少し湿【ママ】
煖之地多石の地下に空穴有て熱気吹入て冷気
のために摂(セツ)斂(レン)せられ極る則は舒(シヨ)放(ハウ)して其地を
激(ケキ)摶(ハク)すたとへは大筒石火矢などを高楼巨塔の
下に発せば其震 衝(シヨウ)を被らさること無きかことし然
れども大地通して地震する事なし震は各処各
気各動なりと唯一処の地のみなり其軽重に由
て色々の変あり地に新山有海に新島あるの類
ひ少なからす震後地下の燥気猛迫して熱火に
変して出れは則震停る也
○地震之徴
震せんとする時夜間に地に孔(アナ)数も出来て細き
壌(つちくれ)を噴出して田鼠(タネツミ) 坌(ウコモツ)ことしと是土龍などの持上
【ヲコロモチ】
る類ならん歟
又老農野に耕(タカヘ)す時に煙を生ることきを見て将
に震せんとするを知ると
又井水にはかに濁り湧も亦震の徴(シルシ)なり《割書:已上|天文考要》
又世に云伝ふは雲の近くなるは地震の徴なり
と是雲にはあらす気の上昇するにて煙のことく
雲のことく見ゆるなり
地震の和名をなゐと云和漢三才図絵にはなへ
とありなゐの仮名然るへからむ歟
季鷹翁の説になは魚にてゐはゆりの約(ツヾマ)りたる
にてなゐゆりといふ事ならむ歟魚の尾 鰭を動
かすことく動揺するを形容して名目とせるかな
ゐふるとは重言のやうなれともなゐは名目とな
れはなるへしと是をもて思へは誠に小児の俗
説なれとも大地の下に大なる鯰の居るといふ
も昔より言伝へたる俗言にや又建久九年の暦
の表紙に地震の虫とて其形を画き日本六十六
州の名を記(シルシ)したるもの有俗説なるへけれとも
既に六七百年前よりかゝる事もあれは鯰の説も
何れの書にか拠あらんか仏説には龍の所為と
もいへり古代の説は大やうかくのこときものな
るべし
○佐渡の国には今も常になゐふると言ならはせり
地震といへは通せす古言の辺鄙に残る事みるへ
し
○三代実録仁和三年地震之条に京師の人民出_二廬
舎_一 ̄ヲ居_二 ̄ル于衢-路_一 ̄ニ云々こたひの京師のありさまもか
くのことくいと珍らかなり
○地震に付て其応徴の事なとは漢書晋書の天文
志なとには其応色々記しあれとも唐書の天文
志よりは変を記して応を記さす是春秋の意に
本つくなり今太平の御代何の応か是あらむ地
震即災異にして外に応の有へきことなし人々こ
ゝろをやすんして各の務をおこたらされ
文政十三年寅七月廿一日 思斉堂主人誌
○此地震考一冊は予か師涛山先生の考る所にし
てこの頃童蒙婦女或は病者なとさま〳〵の虚説
にまとひておそれおのゝきまた今に小動も止す
此後大震やあらんと心も安からされは歴代のためし
を挙て其まとひを解きこゝろをやすんせ■(本ノマヽ)らしむ
京師は上古より大震も稀なり宝暦元年の大震
より今年まて星霜八十年を経れは知る人すく
なし此災異に係て命を損し疵をかうふる人数
多なり時の災難とはいへとも亦免かたしとも
言へからす常に地震多き国は倉庫家建も其心を
用ひ人も平日に心得たれは大震といへとも圧死す
くなし和漢の歴代に記せし地裂山崩土陷島出
涛起等は皆辺土也阿含経智度論なとさま〳〵に
説て大地皆動くやうに聞えり 左にはあらす初
めにいへる如く震は各処各気各動也予天経或
問に拠て一図をまうけて是を明す
地球之図
地球一周九万里是を唐土の一里六町として日本の
一里三十六町に算すれは一周一万五千里となるし
かる時は地心より地上まて凡二千五百里なり此図
黒点の間凡一千里なり【注】今度の地震方二百里と見る
時は僅に図する所の小円の中に当れり是を以
て震動する所の徴少なると地球の広大なる事を
思ひはかるへし
○愚按するに天地の中造化皆本末あり本とは根本に
して心なり心とは震動する所の至て猛-烈なる所をさ
す其 心より四方へ散して漸々柔緩なるを末とすしかれ
は東より揺来るに非らす西より動き来るにあらす其心
より揺初て四方に至り其限は段々微動にて畢るならん
今度震動する所京師を心として近国に亘り末は東
武南紀北越西四国中国に抵る又京師の中にても西北
の方 心なりしや其時東山にて此地震に遇し人まつ西
山何となく気立升りて忽市中土煙をたてゝ揺来り
初めて地震なる事を知れりとなり
○又地震に徴ある事現在見し所当六月廿五日日輪西
山に没する其色血のことし同七月四日月没する其色亦
同し和漢合運云寛文二年壬寅三月六日より廿日まで日
朝夕如血月亦同五月朔日大地震五条石橋落朽木谷
崩土民死至七月未止たり広嶋氏の訳に享和三年十一月
【『地震考』では「一千五百里なり」】
諸用ありて佐渡の国 小木(ヲキ)といふ湊に滞留せしに同十五
日の朝なりしか同宿の船かゝりせし船頭とともに日和を
見むとて近辺なる丘へ出しに船頭のいはく今日の天気
は誠にあやしけなり四方 濛々として雲山の腰にたれ山の
半腹より上は峰あらはれたり雨とも見へず風になるとも
覚へす我年来かくのことき天気を見すと大にあやしむ此
時広島氏考て曰是は雲のたるゝにあらす地気の上昇す
るならん予幼年のとき父に聞ける事有地気の上昇す
るは地震の徴也と暫時も猶余有へからすと急き旅宿に帰
り主に其由をつけ此地後は山前は海にして甚危し又来
るにも暫時外の地にのかれんと人をして荷物なと先へ送
しをそこ〳〵に支度して立出ぬ道の程四里計も行とおも
ひしが山中にて果して大地震せり地は浪のうつことく揺
て大木なと枝みな地を打ふしまろひなから漸くにのかれ
て去りぬ此時 小木の湊は山崩れ堂塔は倒れ潮漲て舎屋
咸(ミナ)海に入大きなる岩海より海(ママ)出たり【注】それより毎日小動し
て翌年六月に漸々止たりとなん其後同国金山にいたり
し時去る地震には定めし穴も潰れ人も損せしにやと訪ひ
しにさはなく皆いふ此地はむかしより地震は已前にしり
ぬ去る地震も三日以前に其 徴を知りて皆穴に入らす用意せし
【『地震考』では「湧出たり」】
故一人も怪我なしとなり其徴はいかにして知るやと問しに
将に地震せんとする前は穴の中地気上昇して傍なる
人もたかひに腰より上は唯濛々として見へす是を地震
の徴とすといへり按るに常に地中に入ものは地気をよく
しる鳥は空中にありてよく上昇の気をしる今度地震せ
んとする時数千の鷺一度に飛を見る又或人六月廿七日
の朝いまた日も出ぬ先に虹丑寅の間にたつを見る虹は日
にむかひてたつは常なりいつれも常にあらさるは徴とやいは
ん
○又はしめにいへる地震の和名なゐふる季鷹大人なは魚な
りといふ説によりて古図を得て茲に出す是図こよみ
の初に出して次に建久九年《割書:つちのえ|むま》の暦凡《割書:三百五|十五ヶ日》とあり余
はこれを略す伊豆の国那珂郡松崎村の寺地ふるき唐
紙の中より出る摺まきの暦なりとそ
【右丁上側】
「△いるゝとも
よもやぬけし
のかなめいし
かしまの神の
あらんかき
りは
かなめ石」
「東」
「十二月火神
とう春
よし
世の中
に分」
「 十一月
たいしやくとう
雨かせけんくわ」
【右丁題字】
「いせこよみ」
【右丁右側上から】
「 正月
火神
とう
十五日雨」
「 二月
龍神
とう上
十五日雨」
「南」
「 三月
大しやう
とう
田はた吉」
「 四月
金神
とう大
兵らん」
【右丁下側】
「五月火神
とう
十五日
雨風」
「六月
金神とう
うし
高
飛」
「西」
「 七月
龍神とう
水おゝし下
十五日ひてり」
【右丁左側下から】
「八月大神
けんわう
くわ多し」
「北」
「 九月龍
神とう大
雨をこります」
「十月火神
とううの
中よし」
【左丁】
槐記享保九年の御話に云く昔四方市といへる盲人は名
誉の調子聞にて人の吉凶悔吝を占ふに少しも違ふこと
なし応山へは御心易く毎々参りて御次に伺候せしか晩年
に及ひて申せしは由なきことを覚えて甚くやし終日人に
交はる毎に其人の吉凶みな耳にひゝきていとかしましと
申けるよし去ほとに度々の高名挙てかそへかたし此四方朝
夙に起て僕を呼ひ扨々あしき調子なり此調子にては
大方京中は滅却すへきそ急き食にても認めて我を先
嵯峨の方へ誘ひゆけと云日頃の手きはともあれは早速西
をさして嵯峨に行嵐山の麓大井源【右訂「河」】原に着て暫く休
息して云やういまた調子なほらすあないふかし大方大
火事成へし人家有所をはなれて北へ越せしにいまた
同し調子なるは此も悪所と覚ゆ愛宕には知れる坊あり
是に誘ひゆけといふいさとて又登り〳〵て其坊に着く
坊主出て何とてかく早〳〵とは登山しけるよし申せしかは
しか〳〵の事有と答ふこゝはいかにと問こゝも猶安からす
少しにても高き所へ参りたしと言其所に護摩堂あり此に
行れとありしかは此堂に入て大によろこひ扨々安堵に住
せり調子初て直りしとて唯いつまても此に居たき由申
せしか頓て地震ゆり出し夥しき事いふはかりなし《割書:世間|に云》
《割書:寅年大|地震》何とかしたりけむ彼護摩堂は架作(タナツクリ)にて頓て深谷へ
崩れ落て破損し四方市も空しくなる六十余計りにて
も有へきか此一生の終りをして人の吉凶さへ姦きほと
に知るものゝ己か終る所をしらさるのみ非す死場にて
安堵しける事こそ不審なれ吉の極る所は凶凶の極る所
は吉なれは成へし毎度無禅か物語なりと仰らる愚按に
四方市の占考著き事賞するに余り有既に天地の変異
を知りて愛宕山にのかれしとうへなるかな此山に至りて
調子直りしに其変もあんなれ共是は陰極りて陽に変
し陽極りて陰を生す楽極りて哀生すといふに同しか
らむ其頃は京師一般の大変故震気充満して歩むに道
なく逃るに所なしと言時なれは四方市も身体茲に極る
といふ処ゆゑ反て其音調の直りしも至極の事に覚へ
侍る素問五運行大論曰風勝則地動 怪異弁断曰
此説に随ふ時は地震は風気の所為也又曰地震に鯰
の説世俗に有仏説なるにや風を以て鯰としたるもの歟
魚は陰中の陽物なれは風にたとへ言るならん何れにて
も正理には遠き説なり白石の東雅に言地震をなゐふる
といふはないとは鳴なりふるとは動くなり鳴動の義なり
今俗になゐゆるともいふなりゆるも又動くなりゆるふと
いひゆるかすなといふもまた同し上古の語にゆをかして
なといふも即是なり愚案るに又なへふると北越辺土にい
へり三才図会になへと出たるは何にもとつけるにやも
しなへと言へはなへをつゝめはねとなるねは根にして地を
いふ地震にて子細なし楊子言云東斉謂_レ根曰_レ土非専
指_二桑根白皮_一又日本紀神代巻に根之国と出たる
は地をさす歟又或人云なゐゆるとはなみゆるなり
題地震考後
災異之可_レ ̄ル懼【注】 ̄ル莫_レ大_レ ̄ナルハ於_二 地震_一以雖其地 折(サケ)山陥海傾 ̄テ河
翻 ̄ルト不_上_レ ̄ヲ能_二 ̄ハ翰飛 ■(イタル)【疾ヵ】_一_レ 天 ̄ニ也然 ̄ルニ居_下 ̄ルニ夫 ̄ノ古今伝記 ̄ニ所_レ載 ̄スル及近時
邦国 更(カハルニル)有棟壊■【牆ヵ】倒傷_二-害 ̄スル人畜_一 ̄ヲ者人毎 ̄ニ邈然 ̄ト視_レ之 ̄コト徒 ̄ヲ
為一場竒譚 ̄ト及_二其実歴親履心■【駮駭ヵ】 ̄ヲ魂鎖_一 ̄ルニ而後 ̄ニ始回_二想
当時_一 ̄ヲ以知_レ ̄リ為_レ可_レ ̄ト懼已茲庚寅七月二日京地大震余
震 ̄フ于_レ ̄テ今 ̄ニ未_レ歇 ̄マ人心洶々言 ̄フ震若 ̄シ有_レ ̄ラハ甚_レ焉 ̄ヨリ将慿_レ ̄テ何 ̄ニ得_レ ̄ント免 ̄ルコトヲ
民之訛言 ̄モ亦孔 ̄タ之将 ̄ニ言 ̄フ其日時震甚 ̄シ又言 ̄フ其 ̄ノ事為_レ祟 ̄ヲ
又言 ̄フ其暴凮雨与_レ震並 ̄ニ臻 ̄ルト重 ̄ルニ以_二 ̄シ丙五棍賊之警_一 ̄ヲ人不_レ
知_レ所_二 ̄ヲ底 ̄リ止_一 ̄ル或 ̄ハ廃_レ ̄テ業 ̄ヲ舎_レ ̄キ務 ̄ヲ至_三携_レ ̄ヘ家 ̄ヲ逃_二 ̄ルヽニ震 ̄ヲ遠地_一 ̄ニ濤山先生
老 ̄テ益悃愊憫_二 ̄ミ其如_一レ ̄ヲ此為 ̄ニ録_二 ̄ヲ此言_一以 ̄テ喩_二 ̄トシ民心_一 ̄ヲ釈其惑_一 ̄ヲ故 ̄ニ
言辞不_レ飾 ̄ラ考徴 ̄モ亦不_レ務_レ ̄メ多 ̄ヲ東隴主人受而敷衍 ̄シ梓而
行_レ之 ̄ヲ請_三 ̄フ余識_二 ̄スコトヲ其由_一 ̄ヲ適 ̄ヒ有人為_レ余 ̄カ説_二其先人言_一 ̄フ云今人
家器用可_二以備_一レ ̄ヲ於_レ震者間存而 ̄ルニ人不_レ ̄ル悉_二 ̄ナニセ其用_一 ̄ヲ已蓋【注】宝
暦大震之後所_二慮而説_一 ̄スル至天明欝攸之後人不_レ知_二 震
之可_一レ懼 ̄ル今日之構造唯災 ̄ニ之 ̄レ備 ̄コト可_レ見_下非宝 親履_一 ̄ニ思
慮不_レ及与【注】_中 人心向背之速 ̄ナル如_上レ此因【注】 ̄テ並_二 ̄セ記此_一欲_下 人之觸_レ
類 ̄ニ而長_レ ̄シ之有所【二点脱ヵ】懲■【毖カ】_一 ̄スル有_上レ ̄コトヲ所【二点脱ヵ】備予_一 ̄スル
文政十三年庚寅秋八月上瀚三緘主人識
斉政館都講
【異字体(影印)ー正字体(翻刻)対応:愳ー懼、盖ー蓋、與(正字体)ー与(常用)、囙ー因】
【右丁】
小嶋氏藏板
【左丁】
愛知県ヨリ借受シテ謄写
伊豆国大島火山之記
訳安永中大島山火県令江川
上書等本末
臣江川 理所、隷豆州大島中三原山御洞方数
里、沙礫土、卉木不生処、今年、七月廿九日晡後洞中
俄出火、赤烟裊々衝天、爆声如雷、地数動、時飛妹絲
灰、長一寸至二三寸黒白色者、又交鉄液灰、本月六
日、大雨徹夜、炎気爆声稍猛、七日、特甚、地仍動、灰数
下、至十一日不止、男女、匈々廃業、島中父老間有記
天和中島火者、因例島民無男女、無穢者没海垢離、
諸村社、祈救命、島俗称山火如天和及今年者曰神
【上余白】
凡言分寸者
以曲尺為度
火、同日島長発書、十八日到府、敢以上言、安永六年【1】
丁酉、八月十九日、豆州総県令江川 誠惶誠恐
上会計総司府大衙内、 臣某奉対
下問三原山在大島正中、高十二里所、五村達山居
焉、天和中、神火時、三原巓為洞穴、今段神火亦自其
旧穴、謂之御洞、飛灰、鉄液者落二三村、蛛絲者周吾
村、多集如蛛巣、非如積雪爾、今来不来島吏、唯船長
之口拠、是以不能観縷、八月、某日臣江某
丁酉、九月十九日、臣江川某上言大島々正一人、本
月十二日出島、昨日上㟁入都、臣某間島火之状、島
正所対言如左
一三原山天和四年【2】、甲子、山巓出火、崩裂方一里有
半六十歩為洞穴、不知其深、不熸七年、至于元禄
三年庚午而熄、今年七月廿九日没、其洞穴出火
入夜炎気弥【3】天、画則唯望烟、時有濃淡、焼声已甚
地震頻、雨蛛絲灰鉄液灰、迄八月廿七八日焼声
地震皆止、灰亦不下、廿九日、北風【3】雨、洞火還熾、至
于九月六日昧爽特甚炎気益猛、爆声如雷、地比
動、八日九日大風雨、及暮風雨共止、火声両益甚、
至于十二日同状、而不飛灰、石砂乗風【3】下、此時火
【1、一七七七年】
【2、一六八四年、二月に貞享へ改元】
【3、異字体(影印)ー常用漢字(翻刻)対応、彌ー弥、凬ー風】
気弥島中、故天晴則熱猶夏之候
一神火之発也、男女駭震廃業、日久稍馴、又乏給食
是以爆声少弱、則入圃堀芋剥薩薯、随麓薪蒸、時
為鰘猟之最、然山火之響海魚遠潜、数漁不獲一
鱗
一島中無田、唯山圃耳、冬芸麦【麥】、夏■【稷ヵ】粟樹芋、既而収
粟、方今在圃者、芋与薩薯也、火勢侵土、焼石焼沙
埋塢、故茎葉焦卒而尽、楰根土中、若獲之、枯燥不
実、不得已以禦食而已、
一自八月中旬至本月中旬、不発島舟者、非拠山火
也、為無順風之故也、
一踰月無渡海之便、亦少艱食、島吏等督責島民、浜
海握栄螺操海老、為庶艱之助、
一父老等伝言、天和之火、似勝於今段之火、然無記
録可以徴之、天和之時唯書 官給之数、
一三原山高十二里許、艸木在山足、去麓稍高、則巌
砂之赭山、故火炎山岡、不焚艸木、不焼民屋、天和
之火亦然云
○戊戌、三月、某日、臣江某上言、前月十一日大島吏出
府曰、島火之状無異前報、去歳十月廿九日已来鳴
動炎勢特猛、今年正月中旬火気炎々、下旬稍属熸、
○三原之火、漸々且熸、九月八日且復烈、島吏之報前
月廿四日達之大衙、向也、火発中野沢、今也已熄、三
原之坤、山岡焼裂、火下赤沢、日夜火熾、烟気衡天、通
夜照海、爆声特甚、如大石落自千仭壑之音、地動亦
大、赤沢在差木地村埜増村之中間、広不能二丈、深
一丈有半、長至于海浜十八里所、大石崩裂従横沢
辺、艸木枯凋、野増村圃中之物皆乾死、焼石重畳、絶
二村之通、木葉成灰飛周五村、島民大驚未明集浜
浴水新社、島報復至、具沢辺延焼図、謹以上言、戊戌
十月六日臣江某
○臣江某言、本月六日上島報之後、島吏之書復来、大
島泉沢村東乙里許曰塵沢、々中出火、塵沢下流曁
海長十八里、而今延焼者延袤各六里、侵海戦潮六
十歩、広六里許、大石焼爛者磊々埋海、炎勢如迅雷、
不分画【昼誤ヵ】夜、土中咆吼之音最甚、夜裏烟光赫々、島民、
不為所為、但水浴祷社耳、具図録上、右九月廿七日
之報也、戊戌十月十三日臣江某
○臣江某言、本月六日十四日之報前已達于大府、爾
後島火土中之響啓々雷同、至于十七日夜、炎勢益
熾、響動亦強大、又廿一日々中、三原山下十八里泉
沢村中葉池釜之池燃、村民告之島吏、廿一日島吏
発書以告、戊戌十一月臣江某
○県令臣江某理所、隷豆州大島山火、丁酉七月廿九
日炎光始見、時有強弱、連綿不止、本年九月十八日
廿六日火勢藉甚、島吏之報比至、前已上達、大衙特
命差人点検、即今遣幣府之史某々等巡視島中、具
状与図呈上、概略如左
一発火処新旧凡七号、 天和四年甲子二月十六
日三原山御洞 同年三月八日御洞下寅方六
里許小釜瀧 山下海厓稍新築者、 安永六年
丁酉七月廿九日御洞 七年戊戌三月廿二日
御洞六里中野沢、広六丈、深十丈許、延焼者、 九
月十八日御洞九里赤沢、広五丈許、深十八丈延
焼者、 廿七日御洞十八里塵沢、広百八十余歩
深二丈許、
右大島三原山御洞去秋七月廿九日始発火、山中
鳴動、火気接天、天雨黒砂、灰錯、今春三月、御洞之火
発中野沢、至仲夏火勢少衰、洞上唯見黒烟島民荀安、
比及仲秋之初、入山伐木、又仲秋之末洞火復熾、九
月十八日、火発赤沢、廿六日発塵沢、今也赤塵二沢
之火猶熾、前奉大衙命、令府史問島吏、問対者如左、
一問、即今島火之状、何村最熾、 対、御洞之大、東西
半里、南北二里六十歩、其中暗黒冥々、雖島民平
常馴険者、莫能知深浅、島中尊御洞称三原大明
神、為島之宗社、天和四年甲子、洞中発火、時雖有
強弱、不熄七年、至元禄三年庚午而熸、伝在口碑、
然去歳七月廿九日洞中火発、已後亦有強弱、于
今未熄、中野沢火既熄、赤塵二沢猶炎、洞中烟気
裊々未止、不至村里■【蒙ヵ】沙灰之甚也、凡発火之所
近者、去民居九里、遠者十八里、
一問、中野沢、赤沢既発火、塵沢又炎、三火各処烈、則
非村里絶通不能相扶持乎、 対、本年三月廿二
日御洞嶺西北方焼崩、火下中沢、至泉津村東而
火画、是采薪之路也、去民家三里而遠、九月十八
日御洞西南岡焼崩、火下赤沢々在野増差木地
二村之中間、去二村六里許、沢火稍属熄、故沢下
曁海浜路既通、島中得相扶持、廿七日御洞東北
岡火下塵沢及海磯、焦石埋海、長六十歩、広六百
歩而長、高於海水五六歩、浜海烟気尚見、此地也
島背且嶮而無村居、唯有泉津村伐木一線道耳、
一問、稍遠炎気之地、有田圃之実乎、有雑艸可供糧
食者乎、猶獲海漁之利乎、采薪之業無廃乎、 対、
島中無田、唯有歳易山圃耳、島中凡五村、新島岡
田二村稍遠火道、是以芋及薩薯皆熱成、又有軟
艸可伴糧者、居常利山海之業、然発火已来、魚鼈
遠遯、漁猟之業空、唯伐山運送東都、荀以足助生
産、野増泉津差木地三村不習海利、山圃之獲亦
不及前二村、伐山之利是専自有発火之灾、圃中
芋薯僅々可数、焦石塞于、険路、伐木之業弥困、
一問、即今火熾之地蓋無人郷云、於村居遠近如何、
対、御洞発火之地、違民居近九里許、遠十八里許、
一問、地中之火若或歘然発村里不亦畏乎、抑有救
急之備乎、 対、新島岡田二村以寄腰之山為蔽、
在三原西北、不待不虞之備、野増泉津差木地三
村異于是、違御洞不太遠、然山火稍乖熄、当于此
時、移居二村、似 国家之大恵、実失居民之産業
臨急、咄々遷於新島村未為緩、若或当路火発而
絶道、以新島回船漁船遷之、亦不難、既為之備自
古称山火曰神火未曽有延焼民屋者、神之恵云、
是以皆有年寧処之意、
府史自諭島吏云、山火或迫民居、舟遷于利島
新島、《割書:是自一島異于|大島中新島村》至于豆州下田港、同州稲
取村相州三崎浦亦可、随風至于他港亦所以
不禁也、急以羽書随便報東都、若韮山府、勿令
流人出島、善為足食之計、《割書:大島至于利島四十|二里于新島六十里》
《割書:于下田一百八里許、于稲取四十八里、于三崎|一百八里、于東都二百十六里、島中新島岡田》
《割書:二村即今所在大舟五|六艘漁舟三十余艘云、》
一問、島中男女二千余口、回船僅二十艘、当有急難、
乃能得進退之便否、 対、前条既已奉対、二村有
寄腰之屏而隔山火、三村若有急、則移其民于二
村耳、或難道路之通、以猶在五六回船、伝送二村
亦不難、既与島民等計較、
一問、大島来去東都諸港便船、雖火急中得無技牾
乎、対、島船二十隻中、以運送薪材交易五穀来
往東都諸港者十五六隻、出入如織、通便何難之
有、况又常在島港者如五六隻前対、漁舟数十亦
可禦不虞之用也、
右奉大衙之命、差府史面対島吏等者、且云、島火漸
々熸、御洞烟気未捨昼夜、沢火概熄、赤沢尚見烟、而
火止村路之上、無絶通之難、塵沢延焼及海表、素無
人之郷、無通塞之論、然以沢火之余勢焦石充塞於
山谷也、泉津差木地野増三村食于伐木折薪者束
乎、新島岡田二村舟主転送以生理者失利鳥、挙島
廃漁猟之業、亦乏生之一端、然丁酉十一月至今年
五月仰県官之給、不知飢餓、皆称洪恩之厚、共同感
激之辞、島中圃実亦不至全荒、足以禦冬矣、仍具国
籍上達大衙、附呈島中戸口生理之概略、戊戌十一
月某日、臣江某 上会計総司府大衙内、大島東西
十五里、南北三十里、自東都海程二百十六里、自
相州三埼一百八里、 戸五百十八、 口
男女二千二百九十八、外流人幷孥五人、 神
廟三十七、 仏寺三、 堂四、 伐木折薪運送
東都五村之生業、 芋、薩摩薯、五村糧食、 粟、
黍、歳易山圃耕作生業少小者、 虎杖、野老、薯
蕷、藤根、阿志多馬、五村婦女春時為業、 堅魚
新島岡田二村夏漁釣之、 鰘、鰱、二村秋漁為
貢者、 海苔、波無馬、二村婦女出中磯取為糧
食之伴、
四季光景略無異于他邦、風多偏吹、
新島村岡田村島民土姓者、二村多業、不乏生産
野増村差木地村泉津村不比于前二村、多窮民
差木地泉津二村不剃髪、 島中無業
医者、 島中多鳶、烏、雀、所々見鴫、
野馬千余頭、 野牛二百余頭、 羊千余頭、
以上
北東ハ山ナリト云ヘトモ
其麓ニモ平地アリテ民
家アリ北ハ江戸ニ当リ
東ハ安房ニアタル
【右丁 文字無し】
【左丁】
鰱(レン)タカベ
本藩新軍郎平明公熙所記《割書:附録| 》
豆州郡宰江川太郎左衛門上書、言大島中火発状、
其文粗曰、其火出石焼、菜蔬死而民尚無恙予聞大
島在豆州南、如遠近大小則未有聞之、予求之所識
則坊間有蔵南海港道図而甚秘焉者、就請而竊写
之、旧図大島延袤若千里云、此百四五十年時所歩、
似与今上書之文不合、又索之於所識医師中橋中
村宗厳、言隣里之際有工平五郎大島人、頗諳大島
之風土、宜諮問、予依宗厳召之、平五郎所言同本州
之俗其名物無文字、而邦言島語相半、至若其業有
【右丁】
難暁者、不堪以辞【辤】飾之、乃以国【國】字伝【傳】其真尓【爾】、
平五郎言す【もうす】大島は臣等在所にて候臣十三の時に島より
渡り候へは、深き事は覚へす候、其後親類故旧【舊】【旧知】なと島よりわたり
次第に承り、折には嶌へも細々参り覚へ候、島の事伊豆浦
を去こと十三里と仰せ候へとも、申上候里数はむかしのこと
にて、其後広【廣】かり候哉、若は又嶋の者とも、勝手よきに随ひて、
本の里数をは申上ぬ御事にて候ひしや、其実【實】は七里わつ
かもあるよしに候、水の上の事に候えは、いつれをまことゝも
申難く候、広【廣】さのこと十里四方も候半歟にて候、是も書上は狭
き由にて候、其土地は黒 墳(ボコ)にて候、南方うちひらき、西の
【左丁】
方これに次き候、北と東は山にて候、磬を布きたることく
に候、松柏おひしけり樹木甚多く候、そのうち、杜鵑花【つつじ】多
く、四月時分は山々一面に紅になり候、見事にて候、梅桜なと
花うるはしきやうに候、されとも山にはなく候、皆人の家園
に有之候、島のなり【形状】、北東は山にて候へとも、中央の処【處】最高く
候、こゝを御原(ミハラ)と申候、御原大明神と申て、霊(アラタカ)なる神おは
しまし候、神主をは藤井采女と申候、其父をは内蔵介と申
候、江戸にては三千石以上のくらしにて候へとも、内々殷富【いんぷ=さかんで富む】に
て、万【萬】石以上の権【勢い、ちから】召し候、此人を地頭さまと申候、嶋始ま
り候時より、此島に住居せられ候人と聞へ候、御原の御神
【右丁】
にかしつき参らせ、幾世をかかさねさせ候、此島は神島
にて、此明神の御島にて候、もし島をはなれて余所へ渡
り、若はわけなふ島を出遊ひ候ものへは、かん【神】たゝりまし
〳〵て、命もつきかたく候、とふとくおそろしき神にて候、
年の六月朔日といふには島の人大方に参り候、それも七
日か程は斎【ものいみ】いたし候てまいり候もしものいみもいたさね
は、神たゝりまし〳〵て、一命をとり給ふ、あらたにおそろし
き神さまにて候藤井の君のすまわせ候囲【圍】は、ひろき事いふ
はかりなく候、庭なとは上野の御山ほとも候半歟、其奥にはか
んさまし〳〵、巓【いただき】には木もなく、はけ山にて候、きやう【仰】に高く
【左丁】
候、その中央に穴洞(アナホラ)候、からあなにて候、人間はのそき候事
ならす、もしも破り、しゐて臨之候得は、帰るほとにはたゝ
りをかうむり、いける人はすくなく候、かやうに現霊のま
しませは、島中うやまひ申さぬ事はなく候、昔は罪あ
る人をは、此島へと流され候ひしよし、今はたえて罪人ま
いることはなし、北をは岡田村と申候、東をは野増村と云候
南は新島村、西を泉津村と云、其間にさしぎし村あり
さしぎしは藤井殿の持伝【傳】へ給ひし村にて候や、
公用の御事にはあつかり申さす、残る四村は各に軒はか
り、すこしの金納あり、又村里のほとりは、川は無之候、池一
【右丁】
ツ有之候、それとも水の手都合もよろしき島にて候、
但南方は海におもてして打ひらけ、暖かに平かにて、四
時穏に、冬寒き事なく、中人よりかみの人は綿入を着候
得共、常の人はわたいれをきる人なし、民薪をきりて、江
戸へ舟まはし致候を、渡世といたし、又夏はかつほ、余【餘】は
もろあちをとり、ひものにいたし候、島中に稲田なく、わ
たものにて耕をいたし候、但浦賀の津ちかく候へは、米も
うらかにて買候江戸にて米をかふよりやすく候、御年貢
には、彼是うりたる価【價】をもて金納と定められ候得共、一
人の出す所は、至てすくなく候児孫はその年貢ある事
【左丁】
をしらす候、薪をきり是を泉津の辺【邊】へはこひて、浜【濱】に積
おきて、北風の吹ける時刻には、島中の人出て、舟に薪をつ
み入候、たれかれと申事もなく嶋中は一島一魂となり、一家
内の兄弟のことくにて、互に手間あたひなとはとらす候、そ
れも北風よはきうちの事にて候、最早風の強くならんと
おもふ前には、積む事もやめて、舟のよそほひを勤め候
北風やう〳〵つよくなれは、船たちまち磯を離れ、しはし
出たらん頃、南の風をとして、此舟直に江戸下着【げちゃく】候、何時
も江戸へおこし候舟は、この通りにて候、但南風も吹ける刻
は、舟を磯より上け、高浪を凌き候、もしいそにありて風
【右丁】
に逢ける刻は、舟岩にあたりてわるゝ故にて候、其舟を陸
に上けける頃にも、島中の人はせ参り、拱はかりの綱もて、
舟を引揚候、かはりたる事には、亀と陸に上り子を産し
申ものにて候、ちとも【少しも】岡高く上り候をおそれ候、是は陸に
子をうみ付、秋の高潮をまち候に、亀高く丘に上り候時
は、必秋のあらしつよく候故に、亀の磯近く参らさるをは、
あきの用心をいたし候、凡何そし得るところ鯵をは養(ヒモノ)【「鱶」の偏を略したものと思われる】に
いたし、常の生産となり、薪とこれとを生産とは致し候、又
夏は■(カツホ)【魚に松、鰹の別称松魚】をとり候、これは牛の角の先を切り、両方へ鳥の羽
をさし、蜻蜓【ヤンマ】のなりのことくして、かついほの潮に乗り
【左丁】
候頃、其上にてふり候時、■【魚偏に松で鰹の別称松魚】は鰯と心得、その牛角に
くひ付しを、あけさま舟の内へおとしため候、食くふ
程には、舟一杯になり候、これを押送り【「押送り船」の略称。生魚を主に塩魚・干し鰯などを魚市場に運送した快速の鮮魚船】にもいたし、又は節
にもいたし候、然れとも島中より出候舟は、唯三艘有之
候野増村と泉津村とのみにて候、其外は鰤しひ【しび(鮪)】まく
ろなと多く候へとも、捕やうを存せす、今まてとり候事
もなく候、島人は大嶋に不限亀をたへ候、大方は一間以
上の亀にて候、其捕るやうの事、籍(モリ)に六尺はかりの樫
の棒をさしこみ、空になけ、亀の甲にたち候時は、樫の
柄ぬけ候て、もりのつな残り候を曳よせ、舟にとりあけ
【右丁】
仰け入れ候、尾は見へす候うまきものにて候、人に益も候
由、島中に余【餘】の獣はなく候牛馬羊多く候、羊は享保中
御はなさせにて候、夥敷有之候、白き厘毛【りんもう=ほんの少し】まだら何にても
有之候、作物をあらし百姓ともこまり申候、牛馬の事、牛
は牛つれ、馬は馬つれ群り候、子供なと山へ参り候へは、
つれ立まいりておとし候、篠なとふりおとし候へは、皆
にけかへり候、凡牛馬をつかね【「束ね」=一つにまとめたばねる】候には、其牛馬をとらへ参
り、用につかゐ、又山へ返し候、細々人の用をつとめ候牛
馬は、間にあひ候、あしたなるは不調法にて候、人の家
にかひ候牛馬も、同しものをとらへ、屋内に繫ぐにて候
【左丁】
子を生しとも、売【賣】買に成申さす、たかひにもらいなといた
し候、価【價】はとりやりなく候、やとにつなき候とも牧にて候、
たま〳〵やとにつなき候は、主人の物すきにて候、山に居
候獣は鼷鼠(イタチ)有之候て、人を誘ひたまして、山に引つ
れ、其時は金太鼓なとうちてさかし候、鴫雉有之候
故、人々わなをかけとり候、必いたち参り人より先へぬす
み候、又鴻雁此島へまいらす、鶯なとよくさへつり候島
はたゝ男女とも身なりあしく、男やら女やら取おさめ
ぬ【整った状態にせぬ】なりにて候、島中蠶【かいこ】も出来候、みな大方は伊豆の通
りにて候、今度山焼と申は、此御原の御穴にて候、石やけ
【右丁】
火の粉になり、空を飛ひちりも候よし、此間渡海のもの申候、
安永戊戌十二月三日平明識
一はふの池は神池にて、穢す事を禁す
一島より徒り候事を改候は、流人の子孫を改られ候
一山背の在所は井戸はなく、山のしみつを用ひ候間、水
は乏しく候、
一こかひ【蚕飼ひ】を致候へとも、八丈のやうにはなく、自身の着候
まての事候、桑も沢【澤】山には植申さす候、
一嶋よりうつり江戸に居候ものゝ、島へ通ひ候者又島
より江戸通候ものも、舟中は皆養を致し、何のあた
【左丁】
ひもとり不申候
一一頃【ひところ】島御代官の様なる役人御坐候処【處】、今は又昔にか
へり、藤井殿総司にて候、下は庄屋名主はかりに候
一寺は三軒有之候、禅寺浄土寺法算寺のみに御座候、
一惣して嶋一同互にむつましく候故に、盗人なとは更
になきことに候、それ故昼夜戸さし錠まへと申も
何も無御坐候、
右譯江県【縣】尹達会【會】計総【緫】司書、附平公凞異問、甞【かつて】聞諸
人云、有加賀美某者謂丁酉七月十六日夜、大島山
火始見、其光赤而青、海上及豆州之地往々視之、見
【右丁】
山土中鉄【銕】気【氣】鬱蒸、與硫黄相戦【戰】而生火也、宝永中、大
島火発【發】、明年富士岡大炎、両沙東海諸州、鑠石雑沓
之余【餘】作瘤、是為宝永山、因是観之、亦可推知耳、忝【「桼」とあるは「忝」の誤記と思われる】曰、
明和丁亥冬、余之豆州、養疴【やまい。「痾」に同じ】熱海温泉、一日舟遊初
島々長進藤八郎兵衛指示所謂隷豆州七島、三宅
八丈二島遥不可望、乃言、客歳【昨年】三宅島神火発【發】数処【處】、
島民不寧居、六七月之交、舶海遁八丈島、其中数十
艘遇颶漂流、近繫真鶴崎余以帰途過崎也、寓目視
之、被髪【髪を結ばず振り乱している】之男女、或群或友、皆語島火之難、後三年、甲寅
七月二十八日、北海炎気【氣】直立、高数十尋、広【廣】数百歩、
【左丁】
始以日出、蹔【しばらく】炎鋒十数條衝天、碧丹色、円【圓】光乱飛條
間、酉而起、丑而散、吾人未曽有之異也、又三年、壬辰
二月廿九日至三月三日、東都大火、四十里之都大
半焦土、 両宮不罹災為幸、明年己巳八月二日初
夜西南風猛烈、邸第垣墻【えんしょう】悉倒、火起数十所、火々相
望、都外数百里之地、城屋崩、大木抜、今也大島火発【發】、
東都違島四百里、猶且日夜望余【餘】炎、時若地動数刻、
至于 東都城直宿者終夜不寝【寐】而怪之、島中之烈可
知己矣、吾藩之都狭小不能方二十里、厪【きん=小さい家】可以比大
阪之都者、今年失火数十度、亦所稀有也、於是前後
【右丁】
彼是相考、東海一帯之地、火運之動漸焉、雖然天地
造化之妙、豈人間所能知乎、窃【竊】以 国【國】家宜危懼修
政、而挙【擧】賢良方正能直言之士、以対【對】越天地不言之
戒矣、是亦聖人之教焉尓【爾】、
安永七年戊戌十二月 《割書:尾張世臣》 人見 桼
【左丁】
明治五年
上野国【國】利根郡荒山噴火一件
天明三年
信濃国【國】浅間山噴火一件
【右丁 文字無し】
【左丁】
上州利根郡東小川村地内荒山煙立候儀
ニ付申上候書付
上州利根郡東小川村地内荒山唱候者同村人家
ヨリ五里程相隔テ両野ノ国【國】境ニテ東西者野州中禅
寺同国【國】ニテハ白根山ト唱西面者則荒山ニテ郡中第
一之高山候処【䖏】当四月上旬ヨリ煙相立折々鳴動致
シ候ニ付右村ハ勿論同山ヨリ流水相成候トモ品川通リ
両縁村々者恐怖苦情相唱候趣相聞候間本月七
日捕亡手ノモノ両人取締旁為見分差遣候処【處】見分
之始末別紙書付并麁絵【繪】図面之通ニテ其中村役人
【右丁】
ヨリモ訴出候間尚相糺候処【處】従前煙相立候儀見聞不
致今般之儀モ四月八日頃ヨリ煙ノ相立候ヲ見付候儀
ニテ何月頃ヨリ右之次第ニ候哉不分明之趣申之元来同
山者焼山ニテ山六七分ヨリ上者草木共更ニ不生立麓ハ
野州中禅寺上州東小川村共温泉有之儀ニ付硫黄ノ
火気充満焼出シ土中石間ヨリ煙吹出シ候儀ト存候
間出役捕亡吏ニモ篤ト相尋候処【處】鳴動ト申程之儀ニモ
無之先ツ当【當】分之内異変等有之間敷見体ニ者候得共
是迄村老始煙相立候儀者見聞不致場所右之次
第故浅間ケ嶽天明度之変ヲ伝【傳】聞候ヨリ一同心痛罷
【左丁】
在候趣ニ御坐候依之見聞始末書訴書麁絵【繪】図【圖】面并煙
吹出シ口ヨリ持参之石相添此段申上候也
壬申六月十四日
沼田
支庁【廳】
本県【縣】
御中
上州利根郡東小川村地内荒山焼ケ候趣ニ付巡村
旁出役被仰付罷越相尋候処【處】同村ヨリ五里程東ニ当【當】
リ荒山ト申候山当四月八九日頃ヨリ焼ケ出シ候ニ付役人
【右丁】
共甚心配之余【餘】実否可相糺ト存同村百姓倉田五郎宮田
権六両人為見届差出候処【處】全ク焼ケ候模様ニ付御届
可申ト存役人共評議之内為巡村相越候ニ付訴出候間
則為見分相越可申候ニ付道案内壱人差出候様相達候
処【處】元戸長副新井伊一郎百姓代千明新平組小役八
五郎百姓倉田権六義村内一同甚タ心配仕居候間
同道罷越見届申度旨申出候間尤ニ存召連篤ト見
分仕候処【處】全ク別紙麁絵【繪】図【圖】面之通山ノ西南中腹縦横
百五拾間余【餘】之場所石間ヨリ煙リ吹出シ全ク硫黄ノ
気【氣】ニテ相焼候儀ニ有之候間右石カケ相添此段申
【左丁】
上候以上
壬申六月十日 笠原宣喜
中澤清久
旧【舊】群馬県ヨリ吏官大蔵省ヘ届写
当管下上野国【國】利根郡東小川村地内荒山西面山
腹ヨリ硫黄気【氣】燃立候趣別紙之通図【圖】面并焼場石
共相添届出候ニ付直ニ官員指遣し【「シ」とあるところ】見分為致候処【處】
右届之通相違無之ニ付此数御届仕候也
【右丁】
壬申六月 群馬県【縣】
吏官御中
大蔵省御中
【左丁 絵図面】
【右丁 文字無し】
【左丁】
天明三年浅間山大変記ぬきかき
一天明三癸卯のとし四月九日より山やけはしめそ
れより日に〳〵やすむことなく灰砂ふれり
一同年七月三日四日ことにはけしく碓氷群【郡の誤記】さか本松
井田群馬郡高崎其外信州佐久郡軽井沢【澤】武州
榛沢【澤】郡にいたるまて三拾四五里の間灰砂地をうつ
ること三四尺わけて碓氷郡さゝか方ふけ【地名と思われるが理解不能】なとは五尺
の余【餘】にもおよひ人馬の通路なりかたく大小名の往来
はみな路を甲州にとりたるほとなり
一碓氷郡の熊野の社最拾四軒信州軽井沢【澤】の駅家
【右丁】
三拾軒はかり火石ふりて焼失せり近きわたり【漠然と広い地域を指す。一帯。辺。】の
野山のさまは青き葉もなくてさなから冬のおもか
けなり
一四日の夜はけしくふきいてたり火石の烟にま
しりたるは手鞠のとふかことくにて山の上より五拾
丈あまりもふきあけて地上は砂ふること雨の如し
碓氷郡群馬馬【「郡」の誤記か】およひ武州榛沢【澤】郡児玉郡なとは
白昼も夜のことく人家は行燈を照らし旅人は提
灯をとりて往来せり
一五日の朝より関八州はまうすにおよはす信州加賀
【左丁】
能登越中出羽奥州越後まても白き毛ふれり其長三
寸五分よりなかきと壱尺もありしといふ
一七日は山なる【鳴る】ことつよく天地も振動するはかりにて
人家の戸障子まてもから〳〵ひゝきていかにもおそろ
しきありさまなり山の北かわくつれて石留まて
三度もおしいたせり鎌原郡にては先年《割書:慶安三年|の噴火な》
《割書:るへ|し》の石とまり故それより下へおしいたすことはあら
しとてたゝ火石のふることをのみ案して人々土蔵や
いわあななとへかくれゐたり
一七日のくれより黒烟おこりて近きわたりの山々
【右丁】
にたなひき火炎東西にひらめき人のかたなせるあ
やしきものゝ草津白根満坐等の山にとひわたれりな
といひて人々奇異のおもひをなし神仏【佛】に祈祷
するなといとはかなきありさまなり
一八日四時山いたくなりて大地をとゝろかし砂を
とはしなみをまきて吾妻の川通に押いたしかま
原郡より大前村を始めとしてかはつき【川沿い】の村々家
かこひ其外の数る年をへたたる老木みなおしぬけ【押抜け】
りしはらくありて泥と火とをふきいたし山の上【山の山」と書き、下の「山」を見せ消ちにして右横に「上」と列記】百
丈はかりあかりて一時はかりはすへてやみ夜のことく
【左丁】
火の光り天をつきひゝき雷のほせる【ほぜる=ほじる=穿る】か如く田はた
平坦のところたちまちにして一面の泥の海となれ
りふかきところは壱丈二尺あさきところも五尺七尺
をふりつめたりそのなかに火石ましりて焼るゝも
三十日あまりにもおよへりとそ
一吾妻川かわつきの村々おされおほれて死する人
甚夥しくところ〳〵の寺にて供養ありありけるはあ
はれなることなりけり
一川筋村々田畠人馬流死之次第
一大笹郡《割書:荒地|少々》 一大前村《割書:家百軒人三十|四人馬八疋》
【右丁】
一赤羽根村《割書:荒地|少々》 一鎌原村《割書:家悉皆流失|人四百八十四人》
一西宮村《割書:家二十一軒|人四十弐人》 一中井村《割書:家拾弐軒|人三十六人》
一芦生田村《割書:家悉皆人|弐十三人》 一羽根尾村《割書:家五十一軒|人廿人馬九疋》
一今井村《割書:荒地|少々》 一小宿村《割書:家人悉皆|女壱人残る》
一袋倉村《割書:人十|壱人》 一半手村《割書:家悉皆人|十七人》
一小笹村《割書:家悉皆人|三十三人》 一立石村《割書:家三|軒》
一河原畑村《割書:地七十三石流れ三名|残る人死者七人》 一松尾村《割書:家三|軒》
一長野原村《割書:家二百十軒|人五十五人》 坪井村《割書:地三十壱石|人八人》
一横壁村《割書:地三町三反|三畝十五歩》 一岩下村《割書:家廿九軒|人二人》
一河原湯村《割書:人十|七人》 一矢倉村《割書:家廿九軒|地百余名》 一林村《割書:家十|四軒》
【左丁】
一三島村《割書:地二百七十石家五十|七軒人十六人馬八疋》 一郷原村《割書:地二十|石余》
一横谷村《割書:地九十石余人十|一人馬廿六疋》 一原町《割書:地二百十六石余|家十六軒》
一原田村《割書:地九十石余人|七人馬四疋》 一川戸村《割書:地百十三石余|家十軒人十人》
一金井村《割書:地四畝八歩林|三反四畝十九歩》 一岩井村《割書:地八畝|人一人》
一植栗村《割書:地二|町余》 一小泉村《割書:地同|上》 一泉沢村《割書:地壱石|五斗》
一新巻村《割書:地壱町|四反余》 一奥田村 一吾町田村
一箱島村 一祖母嶌村《割書:家二十|八軒》 一中条村《割書:地二十壱|町余》
一伊勢町《割書:地廿五町家二軒|人壱人馬壱疋》 一村上村《割書:地百八十石|家十七軒》
一川島村《割書:家五十軒|人百廿人》 一小野子村《割書:家十七軒人|一人馬六匹》 一小牧村
一金井宿 一渋川宿 一中村 一南牧村《割書:人百|三人》
【右丁】
一大崎村 一半田村 一白井村 一阿久津村
一漆原村 一河原島村
荒高
一高壱萬九百八拾五石九斗七升弐合七夕《割書:吾妻郡二|十八 ̄ケ村》
一高三千五百五拾三石四斗五升五合 《割書:群馬郡|四 ̄ケ村》
此段別四百九拾四町三段弐畝拾三歩
一流死人九百三拾四人《割書:男四百四拾三人|女四百九十壱人》
一馬三百八拾五疋
一家九百三拾軒
一村々餓死人三千百五拾弐人《割書:男千七百七拾六人|女千三百七十六人》
【左丁】
一吾妻郡川付私領之村々流家二百五拾九軒
吾妻郡御領私領合千百九拾四軒流失
同 流死人千三百七拾三人
同 同馬五百七疋
異変微段之事
一同年正月頃より鶏はおとをなさす時をつくら
す
一梨の花さく
一五六月之間群馬郡上小野子本宿山吾妻郡三原
辺【邊】にて鹿なく
【右丁】
一七月三日の朝出羽奥州にて日輪二面見ゆると
いふ
一七月四日八月五日のあさ日色紅のことし
一八月奥州雹ふるも九尺または弐尺または壱尺七
寸におよへり
一九月碓氷郡のうち柿の花さく
一十月武州榛沢【澤】郡の内桑の実なる
一吾妻郡にて麦のほいつる
一十一月群馬県三倉室田中村のうち武州児玉郡渡
瀬村のうち躑躅花さく
【左丁】
飢饉の事
一同年七月中物価【價】 百文ニ付米壱升五合〇小麦
壱升八合〇大豆弐升壱合〇小豆壱升九合〇麦両
ニ付弐石三斗
同八月中 百文ニ付白米壱升〇大豆壱升四合
〇小豆壱升三合〇麦麺三百弐拾目〇麦両ニ付壱
石六斗
同九月中 百文ニ付米壱升〇小麦壱升三合〇
小豆壱升弐合〇大豆壱升三合〇麦麺三百目〇麦
両ニ壱石四斗
【右丁】
翌四年辰二月中 百文ニ付米七合〇小麦六合
五夕〇大豆七合〇小豆五合〇余【餘】米四合〇素麺弐百
目〇麦両ニ四斗八升
同三月中 百文ニ付米四合〇素麺百八拾目〇稗
八合〇粟八合〇麦両ニ四斗
如此物価貴騰するに順し于菜壱連百文といふ
にいたれりすへて関東筋はわら粉を食とし山
かたは木の根草の根をほりつくしたりといふ
一村々餓死するもの其数しれす食物つゝきかたく
葛の根。藤の根。ところ【ヤマノイモ科の蔓草】。松の木のかは。木のほや【宿木】。白牛
【左丁】
ひら。わらひの根。にれのは。そはからの粉。稗から
の粉なとを食ふにいたれり日本四拾二国【國】の飢饉な
りといふ
【右丁 文字無し】
【左丁】
第十九号
野州白根山ニ方リ振動等有之候儀御届申上
当三月十二日午後三時頃日光黒髪山続キ成其白
根山ニ方リ俄ニ砂烟ヲ瓢【「飃」は「瓢」に同じ】揚シ蒼天モ黒色ト変シ端ナク
振動相発リ其響キ軽雷ノ如クナレトモ天地ニ轟キ硫黄
ノ臭気アル灰ヲ雨下スルコト六時間ニテ人々驚愕屈在候
越其節白根山ノ景況【情況】烟花ノ如ク相見ヘ候由当【當】管下
野州都賀郡蓮花石村ヨリ届出申候猶詳細之義
ハ実地取調之上可申上候得共不取敢此段御届申上候
以上
【右丁】
栃木県七等出仕 柳川安尚
明治六年三月 栃木県参事 藤川為親
栃木県令 鍋島 幹
大蔵大輔井上馨殿
本文猶詳細ト有之候得共其後為差動揺
モ無之再申不致ニ付附箋ヲ以御断候也
【右二行の行頭を「[」で括りその上に附箋と記載】
【左丁】
乍恐以書付御届奉申上候
第二大区九小区戸長副奉申上候当三月十二日午後
三時頃より日光中宮司山続戌亥之方白根山ノ方ニ当
リ俄ニ空合砂烟リノ如ク相見へ候中大成物音天地ニ轟
キ砂子降出シ硫黄之匂ひ甚敷人々恐畏致居候処【處】同九
時頃ニ至リ漸ク右物音砂降リ共相鎮リ一同安堵ノ思ヲ
致シ候得共右白根山之方烟リ花ノ如クニ相見へ未曾有
之珍事ニ御坐候間猶実地見届之上巨細御届万申上候
得共不取敢此段御届奉申上候以上
第二大区九小区
【右丁】
都賀郡蓮花石村
右区
副戸長
明治六年三月十四日 船越言平
同
鉢石宿
戸長
後藤半四郎
栃木県令鍋島幹殿
【左丁 文字無し】
【文字無し】
【文字無し】
【裏表紙 文字無し 帝国図書館藏の押圧文字あり】
【帙入】
《割書:地震|後世》俗語之種 《割書:初編|之三》
一名本城
四季
借寝ヶ岡の図
絶景
会席の楼を
信中第一楼といふ
四季絶景仮寝ヶ岡之風流釃喜源述
春は梅か香を慕ひて初音哢鶯軒を歴廻
桃桜笑を含み海棠露を含の時に臨て青
柳糸を垂山雀瑠璃鳥も是を慕ひて緑を
添ふる呉竹常盤なる松が枝に哢毛氊ろ
なして真薦なる席を携田楽を朋とする
身のいつ鹿馬の齢たかきを雖怪月を過日
を送□【る?】事の我はしらねと柴垣の垣根の
山吹衣更て卯の花にほふ庭の面を月か雪
かと疑へは夢覚よと郭公夏来《割書:に》けりと言儘に
牡丹の薫り齅【=嗅】染て徃つ戻つ《割書:あそふ| ○ 》蝶庵の軒
端に咲つゞく紫白の藤の艶なるは詠尽せぬ
程もなく金色なす菜の花の花より田の面に
苗代の水引入れは其風景沖の浪静やか
にして早処女の菅の小笠遠近に見え遠音
に聞ゆる鄙歌を田鶴鳴わたるかと怪み名に
流れたる千曲犀川の清らかなるを船路かとそ
疑もむべなるかなむへ山の山にはあらねと仮寝
ヶ岡その鴈行還苅穂さへ貢のための朝夕に
民の竃戸は賑ふと御製まします叡覧も
おゝそれありや有明の月もくまなく初霜を
照すもよしや善光の御寺の鐘の時なく年〳〵
歳〳〵花相似歳々年々同じうして頭に雪は積
れとも暮行歳をはしらぬかほ詩仏老人の
筆すさび信中第一楼と書遺されしも
実にや此仮寝ヶ岡の様なるへし過にし頃
此辺りなる農夫畑を耕て金色なる毘沙門天
の尊像を得たり爰に本城かりねか岡は寅の
かたにあたり尊天幸ひの縁によりまた鬼門
相当の里なれは爰に一宇を建立し尊像を
奉遷るに日にまし霊験あらたなれは秘仏に
崇奉り常に前立の尊容を諸人に社は
拝せしむれ年連〳〵にしておのつから
奉納あまたありけるにや愛染菅公稲荷
の堂社勧請あり石檀下りし平地には彼の
楼におきて諸先生書画【畫】の会合を催し
常に会席を商ふにて長閑なる春の
日より冬は雪見にころぶまて四季
おり〳〵の風流を御開帳盛んのころ
ほひはさてこそは花にあらめと地震
後世噺の種実法はせずとも一ト度は
嗚呼がましくも唐箕にかゝり吹出さるゝ
ところまではと蚯蚓の歌も歌なりと恥を
もつて恥ざることのは是畢竟釃酒の喜
源にまかせたるたはむれこととみ給ひぬとて
かくなん
去程に出店梅笑堂にありて其賑ふ事お詠るに夜店の
ともし火白昼を欺き市町の老若近憐【隣?】在〳〵の
諸人は素より他国遠近の旅人長途の旅行の
労をもいとはす賑しきにうかれたち時の過るも
しらさりけり常念仏の時の鐘はやくも亥の刻を告るにそ
ありあふ者に店せをしまはせ我壱人参詣に成行けるに引も
きらさる往還の群集左りに除右に臨みて御本堂に
入けれは金銀珠玉錦帳あたりを輝し通夜するへく
充満し一口同音に称名を唱へあたかも鳥獣といへども
もうねんを捨て上品生の心を発さらんや共に合掌して
仏縁を誓ひ三礼して表向拝まて立出つるに亥の刻
少しく過れとも其賑ふ事夥しく又云語に難述しと
おもふ程もなく戌亥のかたとおほしおそろしき
ひとこゑ天地八方に響き鳴動し又非類にして
土砂を吹立白昼を欺く数万の灯火手の裏を
返すが如くあん夜に変り親に離れ子を失へ
とも是を求むる事はさておき行んとするを
刎あけ居らんとするをうちつけ歩行を運ず
して或は五間又は三間前後左右に押遺【潰?】れ
引返され幾千万の群集いつれへか散乱し
其形ち壱人として爰にあらす天地くつがへりて
世減【滅?】するの時こそ至れるならめ乃至我先にとり
ひしかれ人先にやつかみさらはれんかと我心中に
驚怖するのみにてなんらの因縁なるかそのよし
を尋ね答ふるにあたりに人なし然するう
ちも其響恐しく幾千万の雷連りて地に
落るおと怪み起上らんとすれとも立事不能行
んとすれとも足の踏処をしらす又は倒れ又は
中にはね上られ心魂苦痛やゝ暫くにして
少しは鳴動も止ぬる時は我思ふ譬此侭一命
終り一身爰に滅亡すとも妻子は纔に
山門を隔りて出店梅笑堂にありておなし
苦患に悲歎する事眼前なり譬此上急災を
受とも死場を妻子と共にして朽果なん
子として親の安否をおのれか苦痛に引替
妻として夫の行衛をしらす空鋪【むなしく】一命終り
なんかゝる奇怪の時に臨て妻子の愛憐に
迷ひ往生決定せざる事地の謗りも恥へきか
暫く煩脳【悩?】難去といへとも夫婦死後に及
て幼少の子供何を頼にか成長せん共に死せは
我らか死後香華を誰か手向ん是皆凡夫
血統の情愛におほるゝの所為にて一心決
定して一ト走りに山門の下《割書:タ》に至るに案に
たかはす闇夜に等しきその中を我を呼て
取縋る妻子をはじめ出店にありあふものとも
はいつれも無難なりけれは一ト先心を安から
しむといへとも共に安否も尋問ふ事なくたゝ
此処に死場を極めて悲歎し驚怖するのみ
なり然るに群集の人〳〵は親夫にはなれ
妻子道連《割書:ヲ》見失ひたれよかれよと思ひ〳〵に
其名を呼て尋求る声あはれにして又辺りに
響き一身の置処に吟ひ啼喚く声
心耳に通し地震なるそ狼狽なといふ
声あり徐〳〵地震なる事をしりて又なそるゝは
かゝる大変の事なれは地われて土中に埋なん
事を因て梅笑堂にありあふ板戸鋪もの
なとを取出し鋪石の傍に鋪並へ其災害を
防かんとして此時漸く神仏を祈念する
事を案し北辰霊府尊星王【尊星王=妙見菩薩】象頭山
大権現一代の守護八幡大武神妻子とも〳〵
信仰し持合せたるきれものもなけれは脇
差引抜髪【髻?】りを押切りて本願を祈あたりを
うち詠れは何鹿に出火となり盛んに燃立
方角は大門町上のかた【方】東横町中程東之門町
西側にて中程此三ヶ所を先とす火事よ〳〵と
呼騒立事夥しといへともたゝ狼狽騒しのみにて
欠【駆】付行んものもなく途方に暮るはかりなり
其ほともなく西之門町新道辺より火の手
盛んに燃立暫時に御本坊こそ危くみえにけり
諸人たゝはうせんとして気を損い魂を奪れ
神号を唱へ又称名を唱へて苦患を爰に
とゝむる時節なるかな悪風悪火なる哉火気
盛んになりて本願上人様御院内中衆妻戸を
眼たゝく間に焼失ひて二王門へ吹なくる火勢取
わけて恐しく二王尊を始め迦羅仏の尊像
毘沙門大黒の両王を焼損ひ早くも左右の
見世店へ吹懸ヶ連〳〵たる火勢増〳〵盛んなり
しかるかうちにも横山宇木相之木辺とおほしく
また東町岩石町新町辺もかくなりける也
いづれを先いづれを後とも其程をわかたす新
道口は西之門桜小路阿弥陀院何れを限り
共わかたず市町一面の火気空にうつり
倒家の下たには圧死人の啼叫声親を慕ひ
子を叫る声神仏祈念の音喧敷【やかましく】また憐れ
にして此上のなり行を悲歎する事おほかた【大方】ならす
しかするうちも地震鳴動する事夥しく呵責の
苦患も是まてとやるかたなくそ居たりける我家に
帰らんにも一面の大火何とも不能思慮爰に又
庄五郎は我家に行て安否を尋ん事を談合
す我家も何鹿火の中なるへし万に
ひとつもいまた火のかゝらすは家財はかならす
恪【きまじめに保持する】にあらす御制札と書物をは何とかして
取出し若も我家の焼失し是迚も遁れ
がたくはそのむね直に可告知また願はくは
二条殿下様御震筆の額面我ら年来の
懇願によりて実兄より贈り給はり大切の品
にして同御震筆の掛物堂上方御染筆
六歌仙の額面何れも是皆同様の品なれは
何卒して無難なる事を頼度おもふなり怪我
いたさぬよう心付必〳〵危に近よらす心えなき
事もありなは引返して行事を止るへし
我は四五年此かたの大病此ことく腹中悩乱し
心気胸痛み逆上の烈しけれは今宵の
薄命無覚束お順は母に心を添力を
あわせて煩はぬやうに乾三か成長を頼なり
また幸ひの縁もあらは女はよろつ【万】嗜み
慎む事常とすへし物いふ事あら〳〵しきは
聞苦鋪夫を天の如く心得へしかねても
いふ女に七去の難ありとか也なんと行も届かぬ
噺しに時をうつし乾三はいまた
幼少なれとも三才の魂ひ百まてとか也母を
敬ひ男子はもの読書事を第一とす
我幼少の頃親の教を背いま人前に出て
恥かはしき事の多かりけるも是後悔にして
取にたらす成長して他人の恥かしめを
うけぬやうにすへしなんと噺しするまも
数度の地震鳴動おそろしく諸人称名を
唱ひ□【㕸:啼または泣?】喚声あたりにひゝき市町はいち面
炎〳〵たる大火連〳〵たる白黒の煙か灰を
吹立火のこは空に飛廻り盛火に辺りを
見渡せばあるとあらゆる奉納物宝塔
夜燈仏菩薩立連ねたるその筋〳〵【?】
善美の粧ひ手の裏を返すが如くあるひは
倒れ或は潰れ千分のひとつも其形ちの変
ざるはなく目もあてられぬありさまなり暫ク
ありて庄五郎は息をもつがす立帰りぬ
其趣を尋ね問ふにいつれを行いつれを帰り
たるや其順路をしらす或は倒家の上を踏
あるひは潰れかゞりたる家の下をくゞり
右に吟左りに狼狽その難渋なるは申述
がたく潰れたる家毎に腰をうたれ倒
れたる家並には手足をはさみあるひは黒
髪ばかりをおさへらるといへとも逃出す事
不能助け給へ救ひ給へと啼叫声耳を
つらぬき苦痛のありさま目に遮りこけつ
まろひつ数万の人〳〵右往左往に
逃去り歴廻に火事よ〳〵といふ侭に
倒れ家潰れ家の下には圧死とともに
息ある人も絶たるも此世からなるとうくゎつ
地獄呵責の苦患も斯やらんと語るもなが
〳〵恐ろしく身の毛も弥立斗なり
火事は横町より上のかた盛りにして風
も西南とおほえ候得はよもや権堂後町の
辺は類焼は致すまじまた御制札の
事は慥なるかたに預あり候まゝ必心配
なされなと申伝へよとの事にて候書物其外
少しのものは持出し置候との事にて候なと噺し
するまもあらざるほどに西之門新道辺の
出火はやくも御本坊なる角の御蔵へ
火の掛りける事を人声騒敷呼たつるを
右に見やり左りにながむれは法然堂東之門
追〳〵上みのかたへ燃登りけるそのありさま
怖しく此所にあらん事かなはすとて出店
梅笑堂にあり候累戸棚壱つ其外かしのもの
を持出し板戸鋪物のたくひなとわけ持て
御本堂のかたわきまて逃去りぬ当所の老若
はいふに及す遠近の旅人潰家を徐〳〵逃
のひたる人〳〵はじゆばんひとつに小児を抱ひ
又は裸にて手拭なんとを前にあてまた
ある人は褌二幅斗りにてやうやく
辛き命を杖に怪我人または老人を
背負て逃去る諸人殊更哀れにして
其歎き見るに忍ひすしかるに又此所に
あらん事の危きとて我や先人にや後れしと
逃のひけれは予もまた家内を引連て御本
堂の裏なる御供所の傍まて逃去りける
爰に始て御供所の潰れたるありさまを
見るに鳥籠の如きを石臼なんと打つけて
砕たるがごとく何れを柱何れを鋪居と
材木の形をわかたず地震のおほいなるを
驚怖するのみなりかゝる所に予もまた
ます〳〵病ひ重り今にや一命絶ぬるかと
おもふ斗りかゝる災害のありともしらす薬り
とて用意もなくわづかの小堰に流るる泥
水を手に受て口中を潤し心を補ひ
気を慥にすべしとて妻子取縋りて介
抱し偏に神仏の愛愍納受をたれ給ひて
今一と度は助け救ひ給ひとて悲歎くのみなり
かゝる折しも誰いふともなく今や山門へ
火かゝり御本堂も無覚束早く此所を
逃るへしとてまたもや我先人先にとて
老たるを厭ひ幼を抱跡をも見すして
逃去りけれはかゝる病ひの重かりしも身の
置所もあらざるかと肩にすがり腰にとりつき
用水堤の東のかた青麦畑を我宿と病ひの
床には薄縁り一重逆上烈しくして足冷
ぬれは妻子うち寄すそくつろげて火
燵とし介抱なせる身のうへも次第に冷行
に夜風を看病にのみ気を奪はれ哀と
云ともたとふるにものなしかゝる折しも
称名唱へ数多の人音いかにぞと大火にてらす
木陰より次第に近くなりぬるを打
詠むれは無勿体も三国伝来の尊像の
御宝龕引続て御印文前立本尊
の御宝龕錦帳あたりを暉し幾数
しれぬ諸人は此時ならて何鹿御仏の御宝輦を
搔奉らんとて無勿体も不浄もろんせす御輿に
取付一心称名唱へ宛感涙してそ供奉し
たる真先なるは御朱印長持警固前
後を打守護厳重にこそ見にける是を
見上て数万の人〳〵すはや御堂も危
かいかなる時節の到来して今社此世の
滅するかかゝる苦患の今の世に生合たる
○宝永四年
亥八月
十三日
今之
御堂え
入仏
ましまして
より今弘化四年
にて百四十四年
にして
御立退なり
悲しさよそれにつきても仏縁こそ大事
なれと御宝龕の御跡慕ひ堀切道の右の
かた本城近き田畑にて所は素より仮寝ヶ岡
御輿安置を定め給へは幕打廻し
守護あれは前後左右に逃去し数万の
人〳〵野宿して心に称名唱へつゝ明け行
空をうち詠めあきれ果てそ居たりける
【左頁】
横澤町
方角
アラ町
新道
西之門
御本堂
方角
桜小路
立丁
阿弥陀院
長野町
西町
山門
【右上より左へ】
方角
二王門
《割書:左|右》寺中
目床店
大門町
《割書:東|西》横町
寛慶寺
方角
東之門町
常念仏堂
法然堂町
《割書:方|角》伊勢町
方角
権堂表裏田町
後町新田石堂
方角
岩石町
新町
淀ヶ橋
本城
又者借
寝ヶ岡
毘沙門
《割書:愛染|稲荷》堂
カタハ
《割書:方|角》東北
横山
相ノ木
宇木
【右下より左へ】
此辺之田
畑《割書:え》諸人
旅人等
逃去野
宿ス
ホリキリ
御朱印
御本仏
御印文
前立御
本尊之
御宝龕
守護図
【白紙】
【白紙】
【裏表紙】
夫【それ】天変大ひにして諸民 是に窮(きう)す 時も安政二《割書:乙|卯》年十月二日
夜四つ時過より大地震にはかにゆり出し江戸町ゝ破損 出火所あらはす
日本橋より▲東の方深川 佐賀丁 松賀丁 一色丁 奥川丁 小松丁
中川丁 材木丁 冨久丁 三角やゝきた町辺 万年丁 西平野丁 東
平野丁 冬木丁 亀久丁 大和丁 此辺 大半崩 夫より入舩丁 洲崎弁天
社無事 三十三間堂大半崩 八幡社無事 境内殊〃く崩 夫より木場
実のほり 西永丁 吉永丁 此辺 大半崩 扇橋より瓦焼場迄大崩 又
海辺大工丁 水場町 伊せさき丁 此辺大損じ 浄心寺本堂中門表門地
中破損 真光寺本堂地中破損 夫より出火のほりぐち佐賀丁代地 石原
代地 相川丁 熊井丁 諸町 冨吉丁 北川丁 中嶋丁通 墨江丁 出島丁 下蛤
丁 永代寺門前丁 仲丁 山本丁 此火は八幡の鳥居きはにて焼止る 又一口
御舟蔵前町 籾蔵 八名川丁 六新ぼり 南森下丁 北森下丁 猿子橋辺
井上様 やける 太田様 小笠原様 大久保様 木下様 火の見斗り残る
西町 ときは丁 皆焼て高橋きはにて止る 神明社無事 又出所は
尾上丁 元町 相生丁 松井丁 林丁 横あみ辺 亀沼丁 菊割下外 此
辺御大名 御旗本 大に震 夫より四つ目せんざいば茅場丁 栁原丁五つ目
渡場迄大半崩 又 五百らかん少〃損じ 是より出火の分 五つ目渡場きは又
六新やける 又法善寺橋きは少〃やける 亀井戸天神門前半丁程やける 小林町
半丁程焼ける 又緑丁壱丁め 二丁目 四丁目 五丁めやける 三丁□る徳右衛門丁壱
丁目 二丁め 花丁にて焼止る又壱口は中の道 周防様下やしきやける 石原丁あらゐ
町 舟夫小路迄やける 横川町 瓦町 大に損じ外の門前みめぐり此辺大半崩
先東の方は出火場破損の場 巨細にあらはす▲西の方は糀【麹の当て字?】町十数丁此辺少〃損じ
平川天神社無事 山王社無事 夫より飯田町近辺少〃損じ 牛込神楽坂 此州
門堂無事 魚丁 橦木町 御たんす町 山伏丁 赤城下心□出辺 改代町 大破損
夫より大塚 巣鴨 音羽辺 少〃損じ 又 市ヶ谷辺 少〃損じ 八幡社無事 御大名
御旗本少〃損じ 夫より四ツ谷より内藤新宿迄少〃損じ 上野万年どよく□
て水吹出る 此辺 諸御屋敷少〃損じ 夫より赤坂田町 伝馬丁 一ツ木 此辺 破損
氷川明神 蛍川いなり無事 夫より青山辺 六堂辻 百人町 此辺少〃損じ 西の
方には出火のうれいなし ▲南の方は日本橋より東橋迄 少〃損じ 出火
は南伝馬丁 二丁め 三丁目 すみ丁 材木丁 八丁目 柳一丁目 具足丁 ときは丁 いな
ば丁 南がし丁 一丁目 二丁め □□丁 五郎兵衛丁 北こんや丁 大根がし迄 やける
夫より京橋 向新橋迄 少〃損じ 新宿より合松ばし迄少〃損じ 神明寺大半
崩 神前社 増上寺本堂無事 地中少〃損じ 芝は柴井丁やける 夫より
久保丁 一口所 大破損 堂省下 御大名御旗本少〃損じ 夫より飯倉通
赤羽根迄少〃損じ 三田 辺少〃損じ 麻布 狸穴 広尾 古川 此辺ん
少〃損じ 夫より築地 御大名 御旗本 町家 大破損 本願寺本堂無事
寺中大破損 夫より築地鉄砲洲 十軒丁 やける 舟松丁 松平□□守さま様焼る
本湊丁破損 夫より異藤島十八ヶ町大半崩 主門出火の分塩丁南新
ぼり 大川ばた町迄やける 東南の方は出火少〃なり ▲北の方は千住宿は
大小崩 小塚原 不残【のこらず】やける 山谷より山岸橋迄 大破損 新吉原不残 やける也
田町一丁 二丁目 山川下 聖天横丁 芝居町 不残 やける 役者新道三丁め
東洲少〃 残る 金竜山北谷 南谷中谷寺院 不残やける 南馬道 北馬道
やける 花川戸西洲半丁ほどにて焼止る 山の宿 聖天丁 崩るのみなり 今
戸橋きは 五古新【古刹?】やける 橋場銭座やける 夫より金龍山 本堂無事 地中大
半崩 並木道大破損 駒かた 中ほどより出火にて すは丁 黒舟丁やける 西洲
正覚寺門前残る 東洲 御馬屋かしにて止る 又其口は 新寺町 亀屋橋左右へ
小半丁斗りやけ のし通は 行安寺 本直寺にて止る 東本願寺本堂 無事 地中
表門大破損 堂前 山本仁太夫様のうちやける 其外 寺院潰多〱 夫より下谷
みのわ金杉 大破損 坂本一丁目 二丁め やける 東叡山本堂 無事 省増□橋 夫より
広小路東洲中程より出火にて伊藤松坂迄やける 夫より南へうつり 御大名 御旗本
やける 上の町 長者町 中徒士町 にて焼け止る 又□□へ 茅丁 二丁目 塚いなりの
向横丁より一丁目 木戸きは迄やける 夫より根津は二丁とも大崩 谷中団子坂
辺少〃損じ 夫より龍□白山本□辺 少〃損じ 又□道院門前 此辺御大名
御旗本町 谷大小崩 夫より 御桑の外辺少〃損じ □島大神社 家□少〃
損じ 佃新 町屋 大に崩 此辺 程むろくゑて大地われる 九木橋にて
往来する 夫より妻恋坂は いなり社無事 宝蔵少〃損じ 町家少〃損じ
夫より外 神田明神社無事 御基所町 花房丁 仲丁 佐久富丁 松生丁 此辺
大に損じ 内神田源田丁より今川橋迄 今川橋より日本橋少〃損じ夫より
小網丁 十けんぼり 酒井様 紀州様 少〃損じ 松崎丁 人形丁迄も大破損
向ふて小舟丁 堀江丁 大破損 □□大破 馬丁 油丁 横山丁 □達磨かうじ【?】
馬喰丁 小伝馬丁 本石丁 本丁 此辺 大半損じん ▲東西南北をわけてあき
らかにしるす □□町々の土蔵は不残 震なり
▲丸の内御屋敷焼□の□ 西丸下は松平肥後守様 松平下総守様 内藤
紀伊守様 八代洲がしは 松平相模守様 同 御□やしき 御火消やしき 遠藤
但馬守様 ときは橋 御用門 酒井雅楽頭様 同 向屋敷 辰の口 角□川出羽守様
幸橋御用門 柳沼甲斐守様 伊東修理様 遠井様 山下御用門 鍋島肥前守様
□□く装束やしき 南部美濃守様 小川町辺 柳原式部様 戸田長門守様 松平
紀伊守様 内藤駿河守様 堀田備中守様 本多備後守様 松平駿河守様 本□
丹後守様 此辺にやしき多し 右消失し 近辺大破崩 多し 此外には下やしき
中やしき 場末にて 焼け所も□み□
一 土蔵破損数 四十壱万 千三百九十壱ヶ所 《割書:御大名御旗本|御家人□町方》無数の□
家蔵を失ひ□諸民には 御慈悲にて御救小屋 五個所へ立重
幸橋御門外 浅草広小路 上野広小路 深川海辺新田 同 神社内
地震用心の歌
ものゝ名【古今和歌集の「物名」と同じく、歌に物の名を詠み込んでいる】
魚の名十
さは(鯖)かしき(カジキ)なます(鯰)ふり(鰤)〳〵 うこい(鯉)たら(鱈)
はや(鮠)く いな(鯔)せよ ふか(養鯨)き さゝはら(鰆)
【騒がしき鯰ふりふり動いたら早くいなせよ深き笹原】
【「ふりふり」でいいのか激しく謎ですが…】
鳥の名十
何とき(鵇)も きし(雉子)か(鵞)なく 日は(鶸)う(鵜)かり(雁)すな
藪へ かけ(鶏)とひ(鳶)さき(鷺)へすすめ(雀)よ
【なんどきもきじが鳴く日はうかりすな藪へ駆け飛び先へ進めよ】
【雉子が鳴くと地震があるという俗信がある】
【鶏=かけ、にわとりの古名/鶫は「う」と読むのだろうか?一旦鵜と入れた】
虫の名十
あふ(虻)な くも(蛛)け か(蛾)あり(蟻)し てふ(蝶)きいて だに(蟎)
身に のみ(蚤)しみ(紙魚)て いとど(竈虫)か(蚊)なしき
【危なくも怪我有りしちょう聞いてだに身にのみしみていとどかなしき】
【いとど=カマドウマの古名】
草の名十
ゆり(百合)やんで つ い(藺)には よし(葭)と きく(菊)とて も(藻)
つた(蔦)な(菜)きとこに しば(芝)し ねむ(合歓)らん(蘭)
【揺り止んでついには良しと聞くとても拙き床に暫し眠らん】
【避難先の粗末な寝床か】
木の名十
つき(槻)ひ(檜)すき(杉)やむ かや(榧)と気(き)を
もみ(樅)きり(桐)ぬ まつ(松)もも(桃)ど かし(樫)
地震(ぢしん)なき(梛・なぎ)日を
【月日過ぎ止むかやと気を揉みきりぬ待つももどかし地震無き日を】
鶯宿雑記 七十九、八十
鶯宿雑記 七十九
鶯宿雑記巻七十九草稿
《割書:野垣蔵本|長題は》 此記録は承応ゟ元禄迄有日下部民の蔵書の由塙氏の
《割書:柳営私記ト| アリ》見せられしをうつし置ぬ 《割書:乗邨按に御沙汰書の抜萃可成|元来野垣氏の蔵書なり》
一承応元辰年二月紀州大風新宮の湊に懸りし大船卅七艘打割水主
等三百余人死亡紀州侯ゟ御達
〽同年九月於江戸放火之悪党浪人被召捕戸次庄左衛門 藤井又十郎
三宅平六 林太左衛門 土岐与左衛門 下人三人
右訴人城半左衛門家来刑部左衛門と申者同類之処訴人仕右之内
土岐與左衛門其説取逃御尋後切通しへ出切腹咽かき侯へ共不相
果石谷将監殿へ渡尋有之右訴人長嶋刑部左衛門御褒美として
五百石被下御直参被召出候
【朱筆】
《割書:朱書|之分|は野垣|氏原本ニテ校合直し記し置》
〽同年伊奈半左衛門殿御代官所武州金川ニて百姓菜園耕作仕小キ
壺を堀出し申処内金子百七拾両有之 公儀へ上ル
〽同年十二月二日宝樹院様御逝去《割書:将軍家御母公也|》【書込み】《割書:乗邨云 家綱公御母公也|》
一承応二年勢州桑名松平越中守殿《割書:定綱|》家督摂津守殿へ被
仰出已来桑名所替可被 仰付候由被 仰渡と云々
〽同年正月御連歌 しかと思ふ松は八千代の春の色 昌桂
国ゆたかにも霞む河山
天か下波風たゝぬ年越て 玄詳
〽同年二月巷説ニ云下野国那須と太田原との間野原に亥年何とも
なく白旗赤旗立申処赤旗は早く消申由取沙汰也
〽同年讃岐右京大夫《割書:水戸|家》様衆と本多内記殿家来と道中蒲原ニて喧
嘩有之候次第右京大夫様家来大久保甚大夫御使に罷下候道中天龍川
端にて他所之医師乗物を甚大夫乗懸馬はね破り申候右内之者共
乗懸之馬子を擲き候を内記殿肩見申候て我乗し馬方をあの如く
たゝかれ男は成申間敷と申を意趣ニ存蒲原迄付参り十文字鑓ニて
馬上ゟ突落し供の若党弐人突殺立退候処十文字の鞘を落元之
場所へ立帰鞘を取立退申を内記殿聞被申追懸甲州の入山ニて追
付大勢取こめ右京様衆上下五人打果被申候
〽同年松平下総守殿家中川手茂兵衛七百石旗奉行役其子十郎右衛門
五百石取候が其節浪人被召抱候処名を十郎右衛門と申ニ付川手十郎右衛ニ
名を改候様家老共申候十郎右衛門先祖之名ニて候間改申間敷由申候
御意ニても改事成間敷哉と申候処 御意ニても改申事成不申由申
【右頁書込み】
《割書:乗邨按に|光徳院様御代|御所替之事|を不聞如何》
《割書:乗邨按に下野那須と太田原との白赤ノ旗立たる|巷説之事今も有太田原と佐久山の西薄葉ノ原と|いへる曠野有爰ニ軍の駆引抔のさまほのかに空中に|顕るといへり所の俗は天正中に亡ひたる薄葉備中守か|霊也といふよし〽是は所謂蒲盧なりとそ|蒲盧は太戴|礼ノ注に蜃気|也と有て海市|の事也と|蒙斎先生も|申されき又或人》【大戴礼ダタイレイ 中国の経書】
【左頁書込み】
《割書:海中に立を|海市といへは|下野に有を|山市ともいふ|へきにやといへる|も面白き説也|といはれき|近頃八木沢と|いへる所に此事|を記して碑|を立たるか大に|違たる事也|とそ本文ニ|いへる巷説は|此事なるへし》
立破帰り候右之趣下総守殿被聞甚不興被致為討被申候廿六人討手
被申付䦰取ニて六人先を仕十郎右衛門宿下へ詰懸門を打候ニ付御用シ
罷越候由被申時門を開き駆入候処を四人鉄砲ニて打殺申候追々押込候
処内にも足軽拾人川手父子家来彼是十七八人何れも働相果申候討手
の方大勢死申候茂兵衛女房殊外働申候茂兵衛聟江戸屋敷奉行にて
居申候是をも討申様ニと被申付越候処屋敷へ罷出碁を打居申候処右
之儀申来候付同座之者を呼立ひそめき申候ニ付気早成男ニて不審ニ
存刀を取帰申候ニ付そこにて打はつし申長屋へ押込討可申と寄合申処へ
重て下総守殿討申間敷由申来り所払ニ成申候
〽同年六月黄檗隠元禅師来朝唐金山寺の僧也唐乱世ニ付来
朝之由長崎にて説法の書記来る林道春被仰付読之と也
〽同年癸巳閏六月廿七日晴今日巳上刻京都ゟ飛脚到来去ル廿三日午刻禁裡
清所破風より失火出来禁中御構之内御文庫御宝蔵二ノ外不残炎
滅併 仙洞新院女院御所無御恙東風烈敷風下之公卿殿上人
家屋類焼有之と云々仍 大樹尤御驚未難為御幼稚別而歎思召則
日晩乗【景?】使節青木新五兵衛被仰付新五兵衛申刻江戸発足す道中飛馬
如風晦日東使青木新五兵衛京着則両伝奏《割書:清閑寺大納言|野々宮大納言》を以今度不慮之
炎上 大樹驚思召不取敢御伺被差上旨演説并京都守護武士其
外淀城主永井信濃守高槻城主永井日向守等在国に依て京都万事
御用之趣可令沙汰之由被仰付候旨新五兵衛申渡信濃守は別而御諚之趣
有今度京都之所司代江戸ニ在之内洛中之儀并炎上ニ付而万事指引信濃
守可為下知周防守於上洛は加相談宜様指図可仕旨上意有之と云々
閏六月朔日去廿七日青木新五兵衛と一同ニ被仰付候上使吉良若狭守源義冬
今日江戸発足同七日京着翌八日参門御口上之趣今度不慮之炎上
将軍家驚思召併宮方以下ニ至迄無御恙之由大慶被思召由御修造
之事追付周防守上洛可被仰付先為御見舞目録之通御進上被成之
由両伝奏へ申入と云々
一銀御台子 一飾 《割書:風呂釜 茶碗 茶碗台 水指 水翻【こぼし】 柄杓立 蓋置|環 以上》
右何も白銀を以造之御台子御茶碗ニ菊の御紋有之
一御屏風 二双 《割書:内一双は雪州墨絵 高然暉と云 一双は古法眼扇子流し|》
一東山殿御硯箱 《割書:茨木之御硯と云 箱梨子地蒔絵|》
一御茶壷 弐 《割書:内一九重と云尊氏所持也裏ニ尊氏判有利休手跡ニて九重と押札ニ銘有| 一新渡のロスンとて 大猷院様御目利ニて御秘蔵有之呂宋と云》
一御伽羅 弐本 箱入 一貫三百目余
一黄金 百枚 一巻物百巻 《割書:内 緋縮緬五十巻| 白紗綾五十巻》
以上
一銀子百枚 長橋局 一銀子 千枚 《割書:惣女中|》
右吉良若狭守持参シテ両伝奏へ相渡
天子は仙洞ニ行幸有前々上使之刻は 御前へ被召出今度炎上故御装
束焼失ニ付而 御目見無之由御暇被仰出御対面可有之由 勅定有之
仙洞様計 御目見也
一類焼之衆 菊亭殿 中山殿 烏丸殿 施薬院
〽同年伊勢祭主佐渡へ配流右は祭主先規ゟ禁中へ相詰申所近
年不相詰伊勢ニ居住仕我意之事共有之 公儀へ被仰下御吟味之上配流也
〽同年先年酒井摂津守殿へ御預加藤肥後守殿死去ニ付検使高間
外記殿被罷越肥後守殿一子藤松殿事真田伊豆守殿【朱書込み】《割書:▲|》へ被罷越英
雄之家系断絶尤可憐也【朱書込み】《割書:▲御預之処是又曰七月死去也検使小出新八郎殿|》
〽同年八王子玉川上水始る江戸中へ水道掛申儀弐三年以来町人訴訟
申処今年願相済被仰出御金七千五百両被下之
〽同年九月琉球中山王尚質使令国頭王子来朝九月廿八日登城
同年十月御天守御普請出来御手伝本多能登守殿
御小袖二羽折 ツヽ 同家来 平塚平兵衛【平塚と印藤を結ぶ線あり】
銀卅枚 印藤弥一右衛門
【村沢から赤星迄結ぶ線あり】
御小袖二羽織 ツヽ 村沢藤右衛門 長岡団右衛門
銀廿枚 益田惣兵衛 渡部六郎兵衛
赤星兵右衛門 久代又右衛門
御普請奉行
【日下部から山本迄結ぶ線あり】
御小袖弐 宛 日下部作十郎殿
黄金三枚 駒井右京殿
山本平九郎殿
〽同年十月後光明院御追善 仙洞御製
折〳〵をおもひ出れは草も木も見るになみたのたねならぬかは
〽同年秤屋守随先年ゟ御訴訟申上坂東坂西善四郎と両人相分り秤
相用候儀相済申候
〽同年嶋田刑部殿乱心御預也是は刑部殿小十人頭。。忠次郎殿ニ振舞
有之忠次郎殿引物持出被引候時其引物を刑部殿引取忠次郎殿へ打
付脇差を抜忠次郎殿内儀を切被申候処を忠次郎殿抱留被申候忠
次郎殿内儀は刑部殿妹ニて有之由忠次郎殿仕方宜敷由沙汰也
一承応三年夜江戸中所々駆廻り人切候事有之最初日本橋壱丁目
木戸番一人為手負弐丁目ニて挑灯持之者手負一人檜物町ニて弐人内一人死
同所木戸番四人内三人死南貴船町一人死長持町河岸の番一人南鍛冶町
三人内一人死内記町弐人死左内町四人手負丸屋町一人右切手何者共不知
行方なし一刀ツヽ切捨之由也後御詮義有之相知山中半左衛門と申浪人
乱心之沙汰と云々
〽同年新御番衆指物未相極候処此度被仰出吹貫ニ成ル
〽同年紅葉山 大猷院様御仏殿造立諸大名願植木被差上右御用ニ
付松平出羽守殿領知能鉄有之ニ付仰付壱千貫目上ル松平千代熊殿
領内の緑青千斤上る
〽同年水戸侯鎌倉へ御越
〽同年紀州宰相侯養珠院殿御年忌ニ仍而甲州大野へ御越し
南龍院殿御母公去年八月廿一日御逝去
〽同年十月水戸御屋鋪前ニて歒打有之酒井雅楽頭殿家来堀越傳右
衛門兄弟討申候被討候申者は小林忠兵衛と申者之由水戸様辻番留置
酒井日向守殿ゟ御断有之御渡被成候由
【桑名と生田を結ぶ線あり】
〽同年日光御手伝奥平美作守 同家来 桑名仁左衛門
銀五十枚御帷子単物四羽織 宛 生 田 内 巧
【阪田から奥平迄結ぶ線あり】
阪田甚右衛門
銀廿枚御帷子単物三 宛 椎名平左衛門
池田茂右衛門
奥平加左衛門
〽同年/十(七歟)月十四日禁裡御疱瘡崩御
〽同年七月十五日廿日備前国松平新太郎殿御領分洪水常の水ニ三間増
本丸之内迄水入侍屋敷四百四十三軒歩行屋敷五百七十三軒足軽屋敷
四百四十三軒町屋敷四百四十三軒町方流死百六十五人牛馬弐百廿疋
〽同年八月内藤帯刀殿大坂加番被登候行列七万石於大坂五万石
《割書: | 但御番之内計》
一幕箱二 一旗箱一ツ 一旗大将一騎 一旗竿十 一旗大将一騎
一鉄砲百廿五挺《割書:廿五挺ニ一騎ツヽ|》 一弓五十張《割書:廿五張ニ一騎ツヽ|》一持筒《割書:卅挺|》一騎
一持弓《割書:廿張|》一騎 一持鎗《割書:廿本|》頭一騎 一引馬七疋 一挟箱《割書:十|》 一乗替駕籠《割書:一|挺》
一長持《割書:三|》 一蓑箱一 一長持二 一甲立 一立傘台笠一鉄砲《割書:五十挺|》
一弓弐張《割書:弐張|立》 一刀筒《割書:二|》 一従者《割書:五十人|》 一馬廻《割書:廿人程|》 一乗物一挺
一茶弁当《割書:坊主付|》 一又者同勢《割書:供鑓廿本程|但半丁程ツヽ置》 一騎馬七拾弐人《割書:同勢ゟ半町程置|て大身小身入交》
一乗物五挺《割書:内弐千石取|医師》 一小姓《割書:十一人乗懸|いつれも験?有之》 一供乗懸又供乗懸《割書:打込|》
一弐千石取之医師《割書:馬上ニて乗物かゝせ候|》
一弓五張鉄砲拾挺入交長柄一本引馬二疋弓一張《割書:二張立|》鉄砲《割書:弐挺|》刀筒
対之挟箱従者《割書:廿人|》程ニて馬上一騎乗懸《割書:五人|》小姓《割書:一人|》此侍惣押惣人数《割書:四千三百|人有之》
一明暦元年未二月 将軍家御疱瘡
〽同年九月京極安智老と飛騨守殿と出入有之井伊掃部頭殿保科
肥後守殿松平出雲守殿井上河内守殿水野出羽守殿扱有之候常々
安智老飛騨守殿間柄悪敷今度地普請地割之儀ニ付両訴出
候処右之扱ニて先ツ事静り申候
〽同年十月朝鮮人来ル朝鮮へ被遣物
太刀廿振 具足廿領 長刀廿振 屏風廿双 銀台子二飾
右十月二日江戸着同八日登城十一月朔日江戸発足江戸逗留之内日光へ
参詣宗對馬守義成宅ニ於て饗応之節朝鮮人所望ニて猿
舞都伝内か放下有之
【「同年八月」の上に朱書込み】
《割書:承応三午|八月廿九日》
明暦三年正月十八日十九日江戸大火《割書:火元|》本郷 御本丸二之丸三之丸不残
炎上御腰物大小千五十一腰焼失江戸中死亡拾万余回向院造立
此時也京橋常盤橋浅草ニて施行松浦肥前守殿石川主殿頭殿
六郷伊賀守殿被仰付右大事ニ付類焼之旗本御家人へ金子被下候割
三両《割書:十俵|》 三両弐分《割書:十五俵|》 四両《割書:廿俵|》 四両弐分《割書:廿五俵|》 《割書:此間ニ五両之|割脱スルカ乗邨按》
六両《割書:四十俵|》 六両弐分《割書:四十五俵|》 九両《割書:七十俵|》 十両《割書:八十俵|》 十壱両《割書:九十俵|》
十一両弐分《割書:九十五俵|》 十五両 《割書:百石より|百四十石迄》 廿両 《割書:百五十石ゟ|百九十石迄》 百両 《割書:千石より|千四百石迄》
百五十両 《割書:千五百石ゟ|千九百石迄》 弐百両 《割書:弐千石ゟ|弐千四百石迄》 七百廿五両 《割書:九千五百石ゟ|八千九百石迄》
右割大概如此被下候右旗本衆子息親ニ懸り一所ニ被居候衆中へ右知
行之被下金三ケ一被下候由江戸町中へ金十五万両被下候由
〽同年九月隠元禅師下向天澤寺ニ寄宿
〽同年八月三日四日西国筋摂州大風雨京都同断洛中水入
〽同年十月安藤右京亮殿死去追腹之者七百石加茂下外記《割書:五十三|》
五百石牧野主殿《割書:廿七|》 百五十石水谷勘右衛門《割書:三十|》
〽同年高力摂津守殿死去追腹之者拾三人有之
〽同年三州鳳来寺御神領御加増御寄附本知七百四拾二石余
御加増四百五十七石余
〽同年萬随長兵衛と申浪人水野十兵衛殿へ参り慮外ニ及候由切殺
被申奉行所へ被立其通ニて相済候由右は其頃六方と申て男
伊達之者所々に有之長兵衛町六方の頭取いたし候者也
〽同年大友内蔵介殿被召出鎌倉時代之家ニ候処其已後中絶微々
ニて被居候此度 女院様御取持ニて被召出候
一明暦四年戌万治元年也所替
六万石播州立野ゟ讃岐丸亀え 京極刑部殿
二万弐千石豊後府内へ豊 州之内(本ノマヽ) 松平将監殿
〽同年正月十八日巳刻ゟ午刻 【記号?有り】万宝全書
日交暈一重在耳主天下兵起非一所作乱者也【朱書込み「作乱者也」の右下に「不出」】 半年即【郎?】見ル
一万治元年芝町ニ罷在候浪人宿札ニ法釈迦武勇武芸我也天上天
下唯我独尊日本武僧山内次藤武休一楽居士宿
右は山内武休事大浪人宿札之義御詮儀有之由
〽同年八月大村因幡守殿知行所ニて吉利丹之者六百三人被召捕
於長嶋死罪外三百人村々御預ニナル
〽同年十二月五日伊勢内宮炎上末社共不残焼失
〽同年新銭出来此節水戸御領分青柳村五郎左衛門と申者似銭仕被召捕
其外町ニて八人被召捕
〽同年駿河宝䑓院御修復
一万治二年亥被 仰出 下馬ゟ内下乗迄被召連候人数之覚
一侍六人或五人或四人 一陸尺四人 一挟箱持弐人
一草履取壱人 一雨天之節傘持壱人
右之通可相通候仮令国持大名たりといへ共此書付之外多有之間
敷者也〽紀伊殿水戸殿尾張殿左馬頭殿右馬頭殿紀伊宰相
殿水戸中将殿尾張右兵衛督殿右之外腰掛へ馬不入事
〽同年八月廿九日 御本丸御移徒
〽同年ゟ猿楽配当米金納之筈 壱両ニ壱石五斗替
〽同年十二月五日来年日光御社参被仰出右被仰出候へ共御社参無之
〽同年阿蘭陀人献上物之内 一弁カラ牛弐疋《割書:車かさり共|》
一天地之図弐ツ 一紅毛釼弐振 一犀角壱本
〽同年高家中条左京亮殿登城之節草履取御法度之大さ【「さ」の右に朱書込み「な」】で付
大額ヒ寸はつれの大脇指差候ニ付御徒目付衆被咎町奉行え
渡り下馬に四日さらし申候
〽同年本多能登守家来松崎太郎左衛門六之丞暇願侯儀ニ付
預ニ成居申其後又親太郎左衛門も預ニ可被致由承り親類一所ニ
取籠能登守殿立腹有討手物頭五六人被申付候処家に火を
付妻子を刺殺切死ニ仕候討手之者共手負死人数多御座候由
太郎左衛門三百石取申由
一万治三年堀田上野【「野」の右に朱書込み「総」】介儀御暇も不申上在所へ罷越其上御不例之節訴状差上
剰訴状之内一として御取上可被遊儀無之重々不届ニ思召候急度可被仰付
候へ共加賀守御取立其上御供をも仕候忰儀ニ有之ニ付脇坂中務太輔へ御預ケ
被遊候倅加賀守孫ニて有之故一万俵被下候旨被仰渡候
佐倉城受取 朽木民部少輔殿在番被仰付候上総【「総」の右に書込み「野カ」】介当年之物
成不残息帯刀へ被下候由十月中江戸屋敷立去行方不知と沙汰
有之然ル処佐倉へ被相越家中之者屋敷ニ居被申候由乱心沙汰也
〽同年六月十八日大坂大雷御城内山里塩硝蔵へ落塩硝ニ火移多門櫓
潰岩城伊豫守殿土岐山城守殿怪我有之城州殿家来死者四五人
伊与守殿家来死者廿人あやまちの者八拾人御天守多門櫓石垣損町家
千四五軒潰死亡あやまち数多有之御番衆別条無之御城内夥敷損申候由
【右頁書込み「〽同年本多能登守」の上】
《割書:乗邨云|本多家|騒動之一件|始終巻六|十ニ記ス》
〽同年七月松平陸奥守殿家老共隠居之願申上候処病気躰ニ候へ共不作法之儀共ニ
付閉門被仰付追而一家中被仰渡隠居跡式無相違亀千代殿へ被下本知
之内三万石ツヽ伊達兵部殿田村右京殿へ被下置後見可仕旨被仰渡候
〽同年二月博奕打大将《割書:今井四郎|坂田金年【平?】》此組下同類十三人被召捕《割書:ザル八兵衛|ガラ清兵衛》
《割書:ヲカチ勘右衛門 ナミノ内久兵衛 スイシユ庄兵衛 キレ五兵衛 忠兵衛 八兵衛|ミヤウエ一郎兵衛 虎之助 ハクラン彦三郎 八郎兵衛 次兵衛 権右衛門》
今繁々【しげしげ】火事ニ付火付御詮義追々被召捕候
一寛文元年御茶水堀割神田川出来牛込御堀通路出来松平亀千代殿
御手伝御用相済右家来へ被下物 《割書:銀百枚|袷十》 《割書:家老|》片倉小十郎
《割書:銀百枚|時服六》 《割書:家老|》茂庭周防
《割書:銀卅枚|時服五》宛《割書:番頭|》後藤孫兵衛《割書:入用奉行|》造山刑部 《割書:物頭 里見忠左衛門| 只木三郎左衛門》
其外十三人御用掛り被下物同断
〽同年正月十九日禁裡炎上火元九條殿
〽同年六月四日黒船二艘阿蘭陀三百余人男女共長崎へ着岸是は平戸一官
国姓爺台湾を攻取彼地に居住紅毛人六万人計死ス残る者共日本へ逃退着船也
〽同年五月朔日【書込み「五月朔日」の右に「イ四月八日」】京都大地震近江国ニて朽木善?崩城主朽木兵部殿圧死天王寺
石ノ鳥居折る濃州高須堤崩勢州桑名天守傾く石垣所々破損大坂
尼ヶ崎佐保山膳所同断京都潰家土蔵四百軒死廿七人
〽同年五月廿一日尾州御家人星野勘左衛門卅三間堂通し矢天下一をす
〽同年七月十二日紀州之浦へ鬼界嶋の人八人小舟に乗風に吹寄らる
〽同年十二月十六日勢州津城本丸二之丸焼失
〽同年十二月廿七日越後高田大地震大手門櫓等倒家老小栗五郎左衛門萩原
隼人其外数輩死ス本二三丸潰従公儀金五万両被進家中にて百
廿人死すと云家中町家大分潰る 【松から峰迄を結ぶ線あり】
松幾代春のめくみの深みとり 昌程【䄇?】
一寛文二年寅御連歌――――三のひかりの長閑なる山
峰かすむ夕明ほの雨はれて 純海
〽同年十二月京都へ之上使上杦宮内殿女房之奉書京都ニてか道中ニてか
被取落江戸へ下着煩分ニて被罷在道中泊之人遣はし詮義被致候へ共無之付
自害被致候
〽同年安宅丸被仰付出来ニ付天地丸大龍丸ニて出御上覧被遊候
千石御加増向井将監殿水主五十人御修復奉行被下物有之
〽同年四月日光大水御目付田中三左衛門殿小屋押流三左衛門殿流死若堂六
人中間四人死没稲荷川満水町家押流百四十人計死ス
右田中三左衛門殿は京極安智老弟也
〽同年四月大御番内藤六左衛門十年已前乱心押込置候処惣領平十郎此度又
乱心仕同月十一日夜弟二人切殺門外へ駆出辻番一人切宿へ帰召仕を追廻し被
申候処親六左衛門飛出平十郎と両人切廻り召仕男二三人切親子家に火ヲ
懸六左衛門殿は自害仕平十郎は親類衆寄合鑓ニて突殺し候六左衛門殿倅二人
両宰相様へ御奉公仕候処二人共ニ気村【斑の当て字?】にて頭ゟ御奉公引せ申候
〽同年七月紀州様ゟ鶴のかはり物御指上被成候青鷺之少し大ふりニて頭両脇
之毛白き筋通り目之内赤く觜短く其外は真靏の如し稲葉美濃守殿
御覧有之あねは靏と申にて有之由被申候
〽同年歳暮献上之御小袖六郷伊賀守殿嶋津但馬守殿小出大隅守殿本多才兵衛殿
四人之衆廿二日献上之処綿薄く麁相之由ニて御小納戸衆受取不申戻申候松平
備前守殿当番ニて其段被聞被仰候は家老御城付之者及迷惑可申候間
出入之坊主衆心得にて引替差上候様御申候ニ付其分ニて相納候
一 寛文三年阿蘭陀人紅毛本草一冊献上
〽同年銀座之者五人大嶋へ流罪右は佐渡之灰吹問吹被仰付候処灰壱貫
目ゟ金子五両出申候由申上候処平野屋平右衛門と申者申出右之通ゟ金両
多く出申候由ニ付重而御目付立会ニて問吹平野屋吹上候処金目多く出候ニ
付右之者共流罪被仰付候
〽同年正月長崎大火町中奉行屋敷共不残焼失
〽同年正月廿一日新帝御移徒廿六日御譲位御受禅釼璽渡廿七日内侍所
渡御同年京都にて落首
九年迄大くらいして遊ひしか道かわろくてころひこそすれ《割書:右之意|如何》
〽同年 大樹日光御社参四月十三日江戸発輿十六日日光御着坐廿日
御仏殿御参詣廿一日日光御立廿四日御帰城也
但十七日は御桟敷へ被為入御見物三家之君御着坐也
〽同年八月大坂加番鳥居主膳殿被登いまた町家ニ被居候内手医師外科松善壽覚
と申者乱心仕主膳を切殺即死之由小姓一人家老弐人咄候者壱人手負相
果可申由様子壽覚脇差一尺三寸三分殊之外働申候
〽同年上州高崎大信寺へ寺領百石御寄附駿河様御菩提所ニ依而也
〽同年七月長崎大風町家大形潰唐船三艘損申候奉行嶋田久次郎殿也
〽同年四月蝦夷之内ウスと申所大地震山崩大山平地と成ルウスへ松前ゟ四日路有之由
一寛文四年水野十郎左衛門殿評定所へ御呼寄被仰渡候は兼而煩之由ニて奉
公不仕不行跡之段達 御耳不届ニ思召候仍而松平阿波守殿へ御預被成候由
追而切腹被仰付仰渡 十郎左衛門儀半髪ニて評定へ袴をも不着
出座之段右作法ニ被思召候依之切腹被仰付候由十郎左衛門老母并弟又八郎殿
阿波守殿へ御預ケ二歳之男子は御成敗也
〽同年五月高野山行人方聖方出入ニ付被遂御詮義静り双方へ御老中連
印下知状出行人方聖方之支配頭ニ被仰付
〽同年五月十七日筑戸明神坂下ニて歒討有之 《割書:被討候者|》沢岡藤右衛門
《割書:五十三|》
藤右衛門は以前北条出羽守殿ニ小知行取 《割書:討候者|》古沢忠次郎
《割書:廿三如|》
罷在其後浪人古沢兵左衛門は本多越中守殿ニ《割書:兵左衛門女房弟|》古沢市左衛門
《割書:五十之内|》
小知行取罷在其後牢人仕遠州山科村ニ罷在候六年已前亥三月十六日
夜藤右衛門兵左衛門方へ夜討に入兵左衛門夫婦惣領安兵衛并ニ下人二人切殺立
退申候由筑戸明神坂下ニて両方ゟ立挟み討留申引取申候処所之者出会
留申候処歒討ニて 公儀御帳ニ付申候由相断旗本衆へ立退申候
〽同年六月十九日伊勢外宮正殿千木顛倒之由奏問ニ付先ツ別殿奉移
之後令修復如先規可及沙汰之旨 叡慮之旨伝奏衆ゟ言上右達
上聴万端不為先規之通之由被仰出候
〽同年七月絹紬木綿布一反之丈尺被仰出 絹紬一反三丈四尺《割書:幅一|尺四寸》
布木綿一反三丈四尺《割書:幅一尺|三寸》右大工之曲尺之積り也【「也」の下に朱色の汚点か目印あり】
一寛文四年六月上杦播磨守殿跡式卅万石之内米沢領十五万石養子
三郎殿へ被下之減少也右三郎殿は吉良上野介殿息也
右之趣吉良若狭守殿上野介殿并 播州家老 《割書:中條越前|千坂兵部》
播州家老共へ被仰渡候 《割書:深松伊右衛門|安田兵庫》
一寛文五年奥津妙覚寺雑司ヶ谷法妙寺京極百介殿へ御預不受不施之派【不受不施派とは法華経の信者以外からは布施を受けず,与えないという日蓮宗の一派】
立候ニ付御僉儀之上御預ケ也《割書:同年十二月廿七日越後高田大地震|》【朱書き「同年十二月~高田大地震」】
〽同年正月二日三日大坂甚雷二日戌刻天守一重めへ雷落右残焼失同六日江戸注進
【「〽同年正月」の上に書込み】
《割書:乗邨云?此|雷ノコト|巻八十ニ委し》
一寛文六年土佐国幡多郡中村領七月四日十一日十五日三度大雨洪水
家二千軒 人死卅七人 牛馬五百七十九
〽同年八月朔日但馬国蛇山震動幅三間長五十六間割レ深サ不知家十九軒
潰人十人余死夜中ニて不見蛇出る歟と云
〽同年房州米良浦へ十八間棟ニ長廿八間之家柱一尺四寸角右之家流寄
損し無之流来候御勘定所へ注進有之
〽同年十二月八日大坂大火翌九日四ツ時焼鎮る《割書:火元傾城町この村也順清?| 糸屋作し■》
町家九千九百卅三軒焼失 御城代 青山因幡守殿
一寛文六年二月六日 天寿院様御逝去
〽同年山鹿甚五左衛門と云浪人聖教要録と云書を作り流布せしむ
公儀ゟ御咎有之右主浅野内匠頭へ御預ケ也
〽同年紀州領之山ニ異様之鳥出る是を捕る事難得毒餌を蒔て殺之山鳥の
胸ニ如左字府有之 揜抬揜抱 《割書:浮説歟と云|》
〽同年松前へ蝦夷人弐百人計競来松前の人備之百人計討取頭取之者一
人生捕松前人手負有之
〽同年正月十四日南都東大寺炎上二月堂内陣ゟ出火本堂焼失
一寛文七年出雲大社御造営出来
〽同年六月廿二日三州岡崎領水野監物殿領知雷七ケ所落る一所ニ落る所の
円玉イヒツ形重サ六百七十匁有
〽同年九月勢州外宮献納之太刀紛失稠敷【きびしき】御詮義有之前長官檜垣弥
大夫并研屋伊兵衛盜之伊兵衛は逐電弥大夫鳥羽之浦ニて捕之
〽同年閏二月於本所金剛大夫勧進帳興行有之諸侯衆桟敷掛り御老中御見物有之
〽同年水野信濃守殿乱心内室を切下人一人切自分も自害せらる《割書:右内室水野|監物殿息女也》
一寛文八年正月江戸大火両国橋焼落る
〽同年鎌倉鶴ヶ丘八幡宮遷宮
〽同年三月被仰出菜種之外珊瑚珠之類其生類無用之物不可渡并
絹紬錦織木綿布麻銅漆油之類不可渡之由也
一寛文九【「九」の右に朱筆「八」】年高力左近大夫殿領内家中【「中」の右に朱筆「仕置」】悪敷ニ付領知被召上松平亀千代殿へ
御預也惣領伊与守殿は酒井左衛門尉へ御預次男右衛門殿は真田伊豆守殿へ
御預也肥前嶋原領分仕置悪敷非分之役を申懸百姓令困窮之旨国
廻之衆へ所之者共浦辺之面々訴之見分も其通無紛段何も及言上候
嶋原之儀は一度亡所ニ成候を方々ゟ百姓を集メ在付候付亡父摂津守へ被仰付
公儀ゟ米金等被下之取立候所ニ候然る処痛候様ニ仕成候其上家中仕置不宜
下々を苦め其身奢之儀重々不届千万思召候依之領知被召上御預被仰付候者也
〽同年二月御改易 福冨平左衛門 日下部五郎八
右両人知行所仕置悪敷是又国廻り衆へ訴候ニ付御僉儀之上如右被仰付
〽同年【「年」の右に朱筆「八申」】八月奥平大膳大夫殿御城え石之高拾万石之内二万石被召上羽州山形え
所替被仰付候被仰渡之趣
大膳大夫儀父美作守死去之節召仕之者追腹仕殉死御禁制之儀先年被
仰出候処右之仕合不届思召急度御仕置可被仰付候へ共御代々御奉公相勤且
美作守も当御代 大猷院様御部屋住ニ御附被成候筋目旁ニ付御宥免
被成右之通被仰付候旨也
一寛文十年加々爪甲斐守殿閉門被仰付右は頃日公事等多重り候ニ付御定日之
外も諸奉行評定所へ罷出候付大儀ニ思召之由ニて上使を以御菓子被下
上使松平因幡守殿被参候何も頂戴之後公事始り二ツ過之内甲斐守
居眠被居右二ツ之公事聞不被申上使も未其席ニ被居候か?右様子見え申候
上使帰殿御礼被申上候処公事裁許之次第御尋御座候ニ付其様子申上候甲
斐守其節公事挨拶無之事御不審御尋御座候ニ付隠しかたく其趣
被申上候処御立腹被遊大岡忠四郎嶋田藤十郎を以甲斐守宅ニて被
仰渡重々不届急度可被仰付候へ共当御代取立之者御座候付御宥免閉門
被 仰付候由也
〽同年立花左近将監殿御預ケ 《割書:甲府君御家老|》 太田壱岐守
松平淡路守殿松平大膳大夫殿へ御預ケ 《割書:同 十左衛門|同 次郎大夫》
甲府殿為家老役被為附万端御為宜様 《割書:同 惣太夫|》【三つの「同」を結ぶ線あり】
守立可申様ニと御意之処其身威勢をのみ存甲府殿最早年被闌
候処我儘成仕方共不届千万被思召候死罪可被仰付候へ共甲府殿用捨御願ニ
付御預之旨於評定所被 仰渡候
〽同年十月伊勢外宮焼失〽同年十二月永井伊賀守殿京都所司代之時
なかゐいや又内膳や忍はれんうしと見し佐渡今は恋しき
〽同年紀州之船難風ニ放され南海三百里程漂流無人島ニ至る其島十七八里
廻り有之其近所六七里廻り三四里廻りの島二三十も有之草木甚茂り谷
之水流有之川流魚鳥多し獣之類は不見印ニ大木を伐て持来候椶櫚
之木の如く也紀州ゟ御達有之重而船を可被遣と有之由也
一寛文十一年三月廿八日於酒井雅楽頭殿宅野境論之公事御尋陸奥守殿
家来伊達安藝原田甲斐柴田外記太田志摩被召寄其席ニて原田
甲斐安藝を切殺し柴田蜂屋立向手負雅楽頭殿奏者番石田弥右衛門
甲斐を討留る御目付嶋田出雲守殿立合也蜂屋は案内ニ参ル留守居役也
兵部かた甲斐〳〵敷に安藝果て雅楽はや末のむつかしき哉
〽同年女院使石川壱岐守殿桑名渡之【「之」の右に朱筆「海」】節難風ニて溺死日光御法事ニ付参向也
〽同年七月廿八日琉球中山王尚貞 御代替御礼使金武王子来聘
一寛文十二年二月十九日細川越中守殿領地肥後八代雷火天守櫓焼失十五人死
〽同年保科肥後守殿死去以儒法葬送と云々《割書:乗邨按ニ保科家正之中将君以来|神道葬祭ト云々以儒葬ト云ハ誤歟》
〽同年【「同年」の右に朱筆「十一亥六月」】鼈甲御灯籠一〽一角一本〽白檀木一本 枝珊瑚珠 二
文字眼鏡《割書:大小|》二〽阿蘭陀箱一 右六色 日光山御仏殿宝蔵へ納る
〽同年七月琉球中山王代替ニ付使来聘《割書:乗邨按| 去年之処ニ御代替ニ付御礼使金武王子来聘トアリ| 若重書か爰ニハ代替とアレハ彼国代替ニヤ》
中山王使者 金武王子
献上
御太刀銀馬代 五十枚 其外土産
上官《割書:親雲土と云|侍従ニアタル》十一人小姓五人《割書:大城里子 思次郎 松兼|太郎兼 真三郎》其外楽人役人都合七十六人来ル
〽同年十一月伊勢内宮外宮公事御僉議相済神領追放《割書:外宮中西丹波|同 三日市帯刀|同 一味之者共》【「中西」から「一味」迄結ぶ線あり】
右中西丹波所持之【「之」の右に「帳」の書込み】上書ニ両太神官と有之両ノ字
後ニ書加墨色新き条無紛相見え候其上両太神宮と
称する例証不分明旁以掠 公儀義ニ付右之通被仰付候且又両宮共向後
新規之儀於申出は可為曲事由被仰渡候
〽同年小十人松風左兵衛と申仁百俵拾人扶持常々不行跡召仕一人も無之よし
不届ニ付松平甲斐守殿へ御預也
一寛文十三年御連歌―――――――《割書:松やたゝ(本ノマヽ)御代のさかりの春の色 昌陸|梅に千とせの若枝そふ春|玉の戸をみかく光の長閑にて 其阿》
〽同年【「年」の右に朱筆「十二年」】二月二日夜市谷浄瑠離坂之上戸田七之介殿組屋敷内ニて歒打有之右は
奥平大膳亮殿家来奥平源八夏目外記奥平傳蔵上下拾四五人本多半助
【書込み】
《割書:乗邨按世ニ|宇都宮歒|討といふ物は|是なり》
同與三郎弟九兵衛居宅へ押込半助九兵衛家来八人被討引取候を与三郎
同家来太郎兵衛五左衛門三人牛込土橋迄追駆其所ニて三人も討死仕候源八
方一様白羽織白鉢巻ニて松明をとほし門を打破り押込申候源八方ニも家
来一人被討申候同廿ニ日ニ右三人と家来六人井伊掃部頭殿へ罷出御詮議之義遠
方ニ罷在御尋不存早速不罷出延免仕候いか様ニも被仰付被下候様ニと申達候
由則掃部頭殿被達候処御城下ニて夥敷儀?不作法ニ被思召候急度可被仰付候へ共
掃部頭殿宅へ罷出候ニ付命御助大嶋へ流罪被仰付候旨右同家中ニて源八
親内蔵介與三郎と口論仕已及刃傷候処さへ人有之被取留宿所帰内蔵介
切腹いたし与三郎へ指候へ共與三郎切腹不致立退候ニ付源八等家中を立退右之通之由
〽同年四月三日隠元禅師遷化 公儀へ為御遺物差上る品々
一謝思偈一軸《割書:自筆|》 一五百羅漢図 王振鵬筆
〽同年【「年」の右下に朱筆「六月」】高野山火事 【朱筆 同年五月(傍点付き)】
〽同年琉球王奉使献方物是は去年琉球船を阿蘭陀の部類ヱヒトン人海賊
するによりヱヒトン人入津之時御咎過料被仰付銀三貫目 公儀へ被召上此
銀を琉球へ被下に依て也
〽同年十二月六日勢州津之城本丸二之丸焼失
一延宝元年丑五月京都大火 禁裡院中炎上
一延宝弐年寅三月十日十一日十八日十九日廿日廿一日肥前筋五畿内丹波近江播州
中国筋洪水
〽同年四月佐弁右京大夫殿城下秋田失火弐千軒余焼失
〽同年三月千住サイカ渕より百姓玉を見出取上る重サ四百廿匁有其頃三浦
の沖より海士取上候ヤギと右玉と日光 御宮へ納る
〽同年【「年」の右に朱筆「五月」】軍法者牢人《割書:篠崎新之丞|石川長兵衛》両人元堀美作守殿家来今程牢人麻布罷
在之新之丞宅ニて両人及口論長兵衛新之丞を切殺立退候処を新之丞弟子
渡部七之丞十八歳ニ成追懸長兵衛を当座に切留申候新之丞小幡勘兵衛孫
弟子軍法者にて又細工之名人武者人形二千余軍器品々随分丁寧ニ拵置申候
〽同年九【「九」の右に朱筆「八」】月長崎へ阿蘭陀船五艘唐船十九艘入津糸単物巻物菜種大分渡候
〽同年九月細川越中守殿領内肥州益城郡佛原村四方野村安永村高月村之
百姓佛原村庄兵衛と申者之方へ集り悪事を巧虚説を仕候ニ付刎首獄
門男子之分斬罪女子奴子ニ被仰付候
一延宝三年卯六月比注進八丈嶋ゟ巽之方ニ島有之人不住珍敷樹木鳥類等
有之段先年紀州之商船彼島ニ漂着仕見及告候ニ付去年五月唐船造之船
仕立彼島に渡り比日帰帆仕彼島の珍物共取帰差上申候
〽同年四月浅野又市殿へ御預ケ之処今度御免 山鹿甚五左衛門
〽同年九【「九」の右に朱筆「五」】月安藝国洪水〽同年諸国飢饉大和吉野近郷飢人壱万八千
六百人御救米被下一日《割書:男三合|女弐合》御代官所御蔵米出ル摂河両州飢人三万六百
人右同断御救米被下
〽同年十一月廿五日京都大火油小路一条下ル町ゟ出火禁裡仮御殿新院仮御殿
本院御所近衛殿八条殿其外公家衆町方共大分焼る
〽同年十二月保科肥後守殿《割書:此時筑前守也|》一會津風土記《割書:全|》一冊 一同神社志一冊
一玉講附録一冊 一二程治教録一冊一伊洛三子傳心録一冊右書物献上有之
〽同年六月二日石州津和野亀井能登守殿領分大地震本丸二丸三丸家中町
在々悉潰崩死亡甚多長州境迄八里程如右
〽同年夏秋之内備州河州泉州江州和州播州藝州之国々洪水損毛
〽同年永井伊賀守殿京所司代御免戸田山城寺殿被仰付
〽同年十二月法皇御所廣書院ゟ出火 女院御所炎上
一延宝四年辰増上寺失火本堂焼失 御霊屋無別条
〽同年九月伊勢内宮失火町中焼失
〽同年八月堀田上総介殿義先年酒井左衛門尉殿へ御預被成候処今夏松平阿波
守殿へ御預替也左衛門尉殿ニて自由他出抔有之段相聞右之通左衛門尉殿
閉門被仰付上総介殿家来男女四十八人松平隠岐守殿松平越中守殿脇坂
中務少輔殿へ被召預之
〽同年辰三月卅日越後高田城下失火士家二百四十軒町家三丁計焼失
〽同年三月上方洪水九条橋流堤切る事七千間京中水押入
〽同年五月長崎探代末次平蔵内平兵衛父子松平出羽守殿家来へ渡隠岐
国へ流罪并末子三十郎下田弥三左衛門養子此二人は大久保出羽守殿松浦肥前守殿
家来ニ渡しへ流罪家来蔭山九大夫通事下田弥三左衛門磔弥留九郎左衛門
蔭山九大夫子獄門手代吉野藤兵衛追放下田太左衛門御預平蔵子平左衛門
無科追放平蔵娘御赦免母共伯父町人久松吉兵衛引取平蔵闕所金高木
作左衛門御預ニ成ル右富貴ニて奢其上武具を唐へ渡し申候旁以御
咎右之通御仕置也
〽同年紅毛人定例献上之外馿馬二匹献之 【書込み】
〽同年六月二日石州津和野大地震家数百卅軒倒死七人怪我人卅五人《割書:乗邨按ニ去|年六月二日ニも|津和野地震|アリ重書か》
一延宝五年巳春御連歌 《割書:生そふや代々に若葉のならひ松 昌陸| 竹に治る 庭のはる風|朝鳥はおくのいわ井の声立て 昌純》
〽同年十月九日夜伊豆浦々津波高サ二丈五六尺八ケ村浪ニとられ弐百人余
死没牛馬漁具塩竈浪ニとらる奥州岩城領浦々同夜津波人馬多死ス
【「同年八月」の上に書込み】
《割書:乗邨按ニ|上野介殿|成ヘシ》
【「同年十月」の上に朱筆】
《割書:同五年巳二月十二日|南都地震|津浪在家|廿軒ナカル|按ニ南都海》
〽同年尾州知多郡其夜天気能静成処戌ノ後刻俄ニ潮高く満来寅
刻迄十四五度満干す其内夥敷満る事三度也提灯程の光り物三ツ東ゟ
北に飛落る処は山に隠れて不見地震す奇異也翌日より常の如くと云々
〽同年十二月大久保加賀守殿領分両頭之亀生なから上る一寸五分四方程有と云
一延宝六年午正月南部大膳大夫領内カトノ郡【「カトノ郡」の右に朱筆「鹿角郡ト書」】之内水沢村在家之南湯ノ山
之方元日朝夥敷鳴り地震す二日之七ツ時分秋田境焼山の近所南部領ソ
リタキと云処に新に穴出来穴広サ竪十七八間横十五間程に見ゆソリタキの
近所二ツ各へ白土を練たる様成物厚サ一尺二尺計打かけ申候是は右之穴
より吹出したるかと也水沢ゟソリタキへ一里程有之と也
〽同年天樹院殿御法事有之此節遠島之者奥平源八同傳蔵夏目外記御免
主従八人帰国 〽同年六月十五日 東福門院薨御
【朱筆】《割書:同年六月松平出羽守殿領内雲州松江失火士屋敷町家屋等大分焼失|》
一延宝七年未三月頃ゟ 大樹御不豫之御沙汰有之同年四月於二之丸稲葉
美濃守殿被仰付御茶指上候而家宝珍器数を尽し御座敷へ■【餝?】二之御丸
表御座敷水御殿御休息所書院御守殿山之御茶屋新御殿御囲数十ケ
所之御床御棚等之■【餝?】善尽し美尽さる右御■【餝?】道具之内勝而珍【珎】宝と覚る処記之
掛物福禄寿《割書:梁階筆|》香炉《割書:三島老女|》三幅対《割書:雪舟筆|》繪鑑十二景《割書:雪舟| 筆》
巻物酒呑童子《割書:古法眼筆|》硯《割書:瀧ノ硯 東山|》 二幅対猿猴《割書:宗丹筆|》繪巻物《割書:山水|仇英筆》
掛物馬乗繪《割書:土佐筆|》中繪巻物《割書:土佐筆|》掛物亀山色紙《割書:亀山行幸定家筆|かめ山の岩根をわくる大井川|雲もすむへき影そ見へける》
屏風一双山水《割書:周文筆|》一双源氏《割書:土佐筆|詞書尊朝親王筆》二枚折《割書:古法眼|》松竹一双《割書:土佐|鳥羽僧正》
片シ馬繪《割書:土佐筆|》片シ花鳥《割書:硌?書記?筆|》 《割書:被召上|》一双犬追物《割書:筆不知|》 《割書:被召上|》熊狩《割書:古法眼|》
《割書:被召上|》一双小屏風《割書:養候|》餝?之外掛物 葵之繪 《割書:舜挙|》鐘馗《割書:雪舟筆|》蒲萄《割書:日観筆|》
毘沙門《割書:雪舟筆|》鴨《割書:古法眼筆|》竹ノ繪《割書:周文筆|》鳩《割書:徽宗皇帝|》
【朱筆 前頁からの続き】
《割書:ナシ若シ|南部ノ|書損カ》
【右頁書込み】
《割書:乗邨按ニ奥州ニ|カトノ郡ナシ|水沢ハ仙臺領ノ内|南部境ニ近|キ所ニテ気仙|郡ノ内ナルヘシ|カトハ例ノ私ニ|置タル郡名|ナルヘシ》
御縁ニ籠に入 金鶏《割書:一|》かはりひよこ《割書:一|》斑(フチ)雀《割書:一|》斑替鴨《割書:一|》同鸒《割書:一|》ゑなかひしやく《割書:一|》
かはり雉子《割書:二|》ふち《割書:一|》島雉子《割書:二|》 御能過て放下御覧被遊候
一延宝八年《割書:申|》正月薩州鹿児嶋大火三千五百軒焼失
〽同年四月廿一日於御城虎屋永閑か操梵天国六段右上覧有之
〽同年水戸様御手前ニて御仕立被成候御書物御差上公卿補任闕 一冊
一代要記 拾冊 扶桑拾葉集 三十三冊
〽同年五月六日館林宰相様御養君
〽同年四月大久保加賀守殿於二之丸御茶被差上御座敷所々之■【飾?】言語不及
右之内珍器之分少々記之 大繪鑑源氏物語《割書:雅楽筆|》軸物《割書:絵土佐|詞書| 為家卿》
三幅対《割書:中神農|両草花》《割書:古法眼|》 手鑑押繪《割書:雪舟|》大繪鑑《割書:酒呑童子|雅楽筆》軸物《割書:伏見常盤|土佐筆》
手鏡百将傳《割書:狩野主膳|》東山殿面箱《割書:千寿面入|》手鑑詩《割書:朝鮮人筆|》
掛物《割書:俊成定家尭孝之像|土佐筆 兼良讃》同《割書:蘭渓自画自賛|》同《割書:高瀬寺縁起|土佐筆》同《割書:牧笛 夏珪筆|》
同《割書:踊布袋 周文筆|》 三幅対《割書:廿四孝 古法眼|》 《割書:被召上|》屏風片 老せぬ《割書:金園?筆|》
《割書:被召上|》耕作一双《割書:古法眼|》 《割書:被召上|》一双竹林七賢《割書:主馬筆|》 《割書:被召上|》一双乗馬画《割書:勝田陽渓筆》
歌仙《割書:歌 三藐院|絵 興笑》 青鸞《割書:一番|》 はくつ【川?】鳥《割書:一|》 被指上之
〽同年五月八日 将軍家薨御奉号 巌有院殿奉葬上野同十四日
上野へ被為入御法事奉行 《割書:大久保加賀守殿 板倉石見守殿|松平山城守殿 大岡五左衛門殿》
御導師毘沙門堂御門跡 〽同年八月将軍宣下也
〽同年六月廿七日《割書:御法事本堂御番|》 《割書:内藤和泉守殿|永井信濃守殿》御法事之節於増上寺
喧嘩和泉守殿永井信濃守殿を被切殺初太刀深手ニて即死遠山主殿殿
和泉守殿を被抱留其節永井伊賀守殿小サ刀を抜向ひ申さる土屋相模守殿
三浦志摩守殿押留段々被申ニ付伊賀守被承届静り被申と也和泉守殿
即日於青松寺切腹被仰付《割書:或云増上寺宿坊ニて切腹と云|》
検使渡部大隅守殿能勢惣十郎殿 《割書:丹後宮津 永井信濃守殿|志州鳥羽 内藤和泉守殿》
〽同年《割書:壬|》八月六日諸国大風雨洪水江戸大風雨 御城御破損多瓦等所々
落ル下町鉄砲洲本庄屋敷へ水押上所ニより床上六七尺本庄ニて死人も
有之と云江戸中長屋塀吹倒大分也
〽同年八月十九日 後水尾院崩御《割書:壬|》八月八日於泉涌寺御送葬十日ゟ十六日
迄御法事日光御門主様ゟ御願ニて御赦免之輩
藤堂和泉守殿御預 《割書:丹後守殿惣領|御国安堵》京極近江守殿 伊達遠江守殿御預《割書:同人子|同》寺嶋権之介殿
松平相模守殿御預《割書:同人子|同》落合杢之助殿 酒井九衛門尉殿御預 《割書:左近殿惣領|同》高力伊与守殿
被召出《割書:久野目?代市右衛門子|》新見平右衛門殿 真田伊豆守殿御預 《割書:同人子|》同右衛門殿
松平三郎殿御預《割書:三左衛門殿子|》宮崎弁之介殿 《割書:松平出羽守殿御預|隠岐嶋へ流罪御免》 飛鳥井藤若殿
其外町人百姓三拾八人御赦免有之流罪追放等也
一延宝九年《割書:酉|》五月被仰出候趣 覚
一小普請役相勤五十歳ゟ内は乗物断向後不罷成事
一当病ニて御奉公不相勤養生之内乗物断向後以誓紙可為御免事
一乍勤乗物断月切ニ誓紙可為御免事
一雖為御直参軽奉公人乗物無用たるへし無拠子細於有之は御老中并
松平稲葉守石川美作守へ申達可受差図事
一猿楽は五十已上たりといふ共可為駕籠事
一御三家方甲府殿家来乗物断は老中へ達し其上以誓紙可為御免事
一諸家中五十歳已上乗物断ハ主人ゟ状を取其身為致誓紙可為御免事
一諸家中五十歳ゟ内之者病気ニ付而断は申上間敷候併乍勤之断は老中ニ
申達可受差図於相調は主人ゟ状を取其身為致誓紙可被免事
右之外乗物之儀は不及申駕籠たりといふ共御目付衆へ申達無拠
子細有之は吟味之上可有指図者也 延宝九《割書:酉|》五月廿八日
〽同年領知被召上石川若狭守殿へ御預 子息 かゝ爪土佐守殿
松平土佐守殿へ御預 父 加々爪甲斐守殿
右は成瀬吉右衛門殿知行所野境論御吟味被遂逢候処甲斐守殿拝領地受取
之刻不念仕形土佐守殿ゟ差出候書付前後相違候甲斐守前方奉行
役をも勤訳も乍存右之段不届被思召旨也《割書:上杦弾正大弼殿へ|御預》伊奈左衛門殿
今度加々爪土佐守成瀬吉右衛門知行所野論ニ付郷村帳之儀及諍論ニ候
加々爪甲斐守領知受取之刻証文ニても可取事ニ候不念成仕形ニ被思召候
急度可被仰付候へ共御用捨被遊御預之由
〽同年船町之町人石川六大夫夫婦子三人追放両所之屋敷闕所ニ被仰付
一延宝九年《割書:酉|》改元天和元年也越後家騒動之事実家々之記可見段々
御僉儀之上六月廿一日 将軍家御直判大広間 出御御三家并諸大名
御譜代之面々諸役人伺侯 御正面御掛縁へ 小栗美作
右被召出糺明有之越後守殿御父子御預 荻田主馬
小栗美作父子切腹荻田永見其外遠島御預也 永見大蔵【小栗、荻田、永見を結ぶ線あり】
右御直判之節古来之例諸家之諍論対決御翠簾之内ニて被為
聞候へ共右之輩御縁家之輩ニ付御翠簾不被懸と云
一筆令啓上候松平越後守事仕置悪敷家中騒動之段不調法被
思召候依之其方へ御預被成候道中之儀京極備中守被仰付召連候
可存其趣候恐々謹言
六月六日 《割書:|阿部豊後守 堀田筑前守》
松平隠岐守殿 《割書:稲葉美濃守 板倉内膳正|大久保加賀守》
御嫡三河守殿は水野美作守殿へ御預奉書文言右同様略之
三河守殿は御預之処乱心被致家来三人附添之者共も乱心いたし候由
越後守殿は壱万俵三河守殿は三千俵被附候右騒動酒井雅楽頭殿
御取持之由閉門被仰付一家衆逼塞遠慮等有之右同様之儀ニ付
《割書:大御目付|》渡部大隅守殿遠島被仰付候
〽同年七月靏姫君様御納幣 〽同年十一月ゟ京都所司代稲葉丹後守殿
〽同年《割書:酉|》十二月十三日伊勢内宮炎上本社棟ゟ出火両宝殿并末社弐ケ所焼失
〽同年真田伊賀守殿御預申渡伊賀守事今度両国橋材木之儀ニ付不埒
成仕形其上日頃自分行跡不宜家来并領分仕置悪敷旨達 高聞
重々不届被思召依之領知被召上奥平小次郎へ御預之由右伊賀守御咎ニ
付真田弾正浅野内匠頭へ御預
〽同年十月浅草御蔵屋根を破り御金弐千五百八拾両盜取千六百両箱
共浅草川洲傍ニ捨置残りを盜逃去申候
一天和二年《割書:戌|》駿州今泉村五郎左衛門と云百姓至孝之旨達 高聞持来高【至孝-最上の孝行】
九拾石永代被下
〽同年信州河中嶋地侍松木■為と申者此間 御城大手へ紛入百人組
張番所へ参り某儀 権現様ゟ領知御朱印頂戴仕罷在候処領主ニ
被掠取浪々ニて罷在候老中へも度々訴候へ共御取上無之候故 御城へ参り
御勘定野田惣左衛門頼直訴可仕旨申候故御番所ニ留置百人番組ゟ御老中へ
被相達町奉行所へ遣候様ニと有之揚り屋へ被遣候然る処此の牢人兼々老
【揚り屋-未決囚を収容した牢房】
中存知之者ニて御詮議之上達 上聞候然共御城内へ罷出候儀御制法相
背候ニ付松平修理亮殿へ御預筋目有之者ニ付廿人扶持被下信州ニ
有之妻子御構無之旨被仰渡候
〽同年正月節分之夜春日社石灯籠卅六本倒ル内卅弐本御当家之
御建立也と云又元朝御供所之水鉢ニて鹿一疋御【「疋御」の右に書込み「落字か」】供調進之川水乾と云
〽同年八月八幡豊蔵坊護摩堂ゟ六日丑ノ刻出火豊蔵坊寺中不残
其外中ノ坊松ノ坊多門坊菊ノ坊類焼本社無別条
〽同年六月桑山美作守殿右は先頃上野ニて之様子不届ニ付領知被
召上牧野駿河守殿へ御預也
〽同年松平大和守殿閉門之上領知被召上豊後日向ニて七万石被下所替被仰付
右越後家中騒動取扱不宜ニ付如此松平上野介殿同様ニ付半知被召上一万石
被下
〽同年被仰出 覚
献上之呉服伊達染紋島純子繻珍可為無用向後は男向之呉服可被
右は当春?之呉服ゟ可被相改事 差上事
〽同年本多出雲守殿同越前守殿両人家中領知仕置悪敷其上国廻り
之節も仕方不届之儀有之ニ付領知被召上所替一万石宛被下候旨
〽天和元年十月当今一之宮《割書:御年|十三》小倉大納言殿息女御腹也仁和寺御弟子ニ
可被成御内意之処御出家御心ニ不叶御猶予ニ付 勅使河野宰相殿及
三度親王猶御得心無之小倉殿ニも諫言雖被申上無御合点逆鱗有
九月十二日重勅使転法輪殿甘露寺殿禁裡附武士共召具小倉殿え
参向親王可相渡旨勅定有之武士警固飛鳥井殿隠居屋敷へ親王
奉移小倉殿父子三人外公家衆四五人閉門被仰付候也
【天和元年の上に書込み】
《割書:乗邨按ニ|此条以下|天和三年|之処マテ|錯乱シテ|見ユ綴ニ|及テ錯|乱有シヲ|其侭ニ伝|写したる物|成へし》
〽同年十二月酒井日向守殿へ申渡
今度河内守逼塞有之ニ付当地へ罷越遠慮可仕哉と可相伺候処無
其儀居城ニ逼塞之段不届ニ思召候其上常々行跡不宜并家来領
知仕置不宜旨被及聞召候依之領知被召上井伊掃部頭へ御預被成候
息万千代も松平伊豆守へ御預被成候旨
〽天和二年九月十六日被仰出安宅丸御船畳み候様ニと御老中被仰渡
〽同年朝鮮三使来聘 《割書:御船奉行|》向井将監殿
《割書:正使|》尹趾老 《割書:副使|》専彦綱 《割書:従事|》朴慶俊 《割書:学士|》成琬
朝鮮王へ被遣物 一鎗《割書:百柄|》一撒金蒔絵鞍具 二十装
一金地画屏風廿双 廿双 一綵紋服《割書:五十領|》 【書込み】《割書:乗邨云書翰は雑記之内朝鮮|聘使ノ巻ニ委しケレハ省ク》
〽同年七月御尋者小山田弥市郎松平陸奥守殿領内常陸国吉浪と申所
道心者之庵へ参候を搦取候而町奉行所へ相渡同八月御仕置被仰付
獄門《割書: 小山田弥市郎| 元与力野村内蔵介》 《割書:博奕打頭天野十左衛門| 二村清左衛門》 磔 《割書:出家 玄佐|》
《割書: 三田町医師氏家宗卜|》 斬罪《割書:博奕打同類|》拾七人
右日本橋ニさらし後御仕置也 【書込み:小山田、野村、氏家を結ぶ線あり。天野、二村を結ぶ線あり。】
〽同年七月被仰出諸職人天下一之号御停止也
〽同年九月脇坂中務少輔殿息市正殿酒井靱負佐殿へ御預也右は中務
少殿息市正殿先年病気ニ付 公儀へ御断被申上次男淡路守殿を惣領ニ
願相済市正殿は其砌ゟ下屋敷へ引込被申候然る処頃日市正殿家来五六人
召連下屋敷を忍出夜中井伊掃部頭殿へ被参表門ニて案内被致掃部頭
殿へ申談義有之罷越候間相通候様ニ被申候処番人申は夜中は何方ゟ参候
ても門内へ入候儀不成家法ニて候間掃部頭へ申聞候義も不罷成候由申ニ付
左候はゝ不懸御目候共是迄用事罷越候旨相達候様ニと市正殿被申■【轎?】外ニ
罷在候へ共門内ゟ一左右も無之漸及深更候故市正殿屋敷ゟ尋人参候ては 【一左右いっそう-一報】
如何ニ候間?早々東叡山御門主様へ被相越可然と家来申ニ付護国院迄被
参存念之通御門主へ被相達委細御聞届先護国院ニ被留置中務少殿へ
御内意被仰遣候由一類中相談有之護国院へ【「へ」の右へ書込み「ハ歟」】大久保加賀守殿宿坊ニて
其上筋も有之ニ付堀田筑前守殿ゟ御内証御頼加賀守殿執持酒井靱負佐
殿へ御預被成候市正殿存念之義只今迄下屋敷ニ被罷在候処中務少殿存寄ニて
在所播州へ遣し置可申との相談相極候ニ付市正殿御母儀并息女も一人有之
播州へ被相越押込被置候ては迷惑之儀ニ存此段井伊掃部頭殿へ由緒も有之
付頼可被申と被存其趣被相達度右之通ニ付無是非御門主様へ被相
達候由中務少殿御内室も右之儀別而迷惑被致市正殿義実子と申病
身之事ニ候間下屋敷へ差置給候様ニと詫被申候へ共中務少殿承引無之左候はゝ
内室共下屋敷ニ市正殿と一所ニ引込被在候様ニと中務少殿被申達候色々挨拶
御座候へ共御内室ニ下屋敷え被押込候儀諸方外聞不宜候間此上は戻可申
其趣達而申遣里方へも内意有之ニ付離別被致去ル頃戻被申候依之市正
殿弥難義ニ被存不慮之心底差出候由取沙汰仕中務少殿内室松平周防
守殿姉女ニて御座候市正殿へ被仰渡候趣
脇坂市正義対親中務少輔不調法成仕方有之ニ付酒井靱負佐へ御預被成候旨
〽同年七月強雷江戸所々ニ落朔日也 御城塩見坂 同梅林坂 水戸様
甲府様 土井周防守殿 石川若狭守殿 松平丹後守殿 森 内記殿
本多下野守殿 松平下総守殿 戸田左門殿 大関信濃守殿 秋田信濃守殿
石川主殿頭殿《割書:下人|一人死》 本多伊与守殿 堀田下総守殿 秋田淡路守殿 杦浦内蔵頭殿
永井伊賀守殿 伊東出雲守殿 松平土佐守殿 平田伊豆守殿《割書:死人有之|》
松田六郎左衛門殿 小濱孫三郎殿 松平修理亮殿 渋江松軒殿 同朋町 龍ノ口
関 備前守殿 土屋主税殿 岡部覚左衛門 町与力屋敷 増上寺近所
神田橋番人弐人絶入 檜物町 茅場町 梅林坂多門 右之通雷落
一天和三年《割書:亥|》正月御連歌 《割書:松高く立るや天の下みとり 昌桂|鶴の声〳〵のとかなる山|春日さす海の面は雪はれて 昌純》
〽同月《割書:御貝役|》永田藤兵衛《割書:御広敷番|》【「敷」の左下に書込み「添」】辻半右衛門両人松平越前守殿
濱町屋敷前《割書:ニ|て》半右衛門御番帰りを藤兵衛待受半右衛門を切殺立退候
処を半右衛門草履取追掛ケ藤兵衛を討留申候
〽同月被仰出覚一金紗 一縫 一惣鹿子 右之品向後女之衣服
制禁之惣而珍敷織物染新き仕出し候事可為無用小袖之表
一反ニて弐百両より高直之類売買仕間敷者也 正月
覚
一祭礼法事弥軽可執行之惣而寺社山伏法衣装束万端軽可仕事
一町人舞々猿楽は縦雖為御扶持人向後刀指へからさる事
一百姓町人之衣服絹紬麻布此内を以応分限妻子共可着用事
一舞々猿楽右同断但役儀相勤候分熨斗目不苦事
一惣而下女老女布等綿可着之帯同前
右之趣以書付出仕之諸大名衆へ大目付衆被申達候
〽同年三月《割書:此両人御預之処先年御赦免当時武州ニ有之候|》《割書:高力伊豫守殿|同 右衛門殿》
親左近儀先年不届ニ付御預被仰付候へ共倅共不存事ニ付今度 春宮
中宮宣下ニ付両人被召出候旨於阿部豊後守殿宅高力左京区殿へ被仰渡候
〽同月《割書:観世新九郎|同 権九郎》右之者共甲斐庄飛騨守殿へ被召呼被仰渡追放被
仰付候御咎は三月廿ニ日於二之丸御能之節道成寺【「寺」の右下に書込み「落字カ」】九郎被仰付候其節新九郎
鼓被仰付候処終に他家之道成寺ニ仕候儀無御座候へ共此度は上意ニ御座候故
相勤申候此已後は他家之道成寺仕候ニ鼓被仰付候儀御赦免被下候様御願
申上候ニ付不届被思召右之通被仰付候
〽同年五月六日四ツ谷ニて敵打先年小山弥兵衛弟斎藤十郎兵衛と申者を栗
原庄右衛門と申者寝首を切申候兄弥兵衛数年覘今日首尾能討申候弥
兵衛も少し手負申候右栗原庄右衛門此節医師ニ成吉川玄徳と申候右之
者元内藤帯刀殿家来之由弥兵衛義杦浦内蔵允殿由緒有之常々
抱置被申候内蔵允殿願にて引取被申候
〽同年五月廿四日日光大地震十七日ゟ日々度々地震雨降大雷同廿四日別而
強地震御宝塔九輪落石垣矢来大形崩申候御堂は別条無之江戸
表も廿四日は強地震ニて御城内御楽屋廿間計崩申候今年
大猷院様御法事有之 〽同年六月嘉定惣膳数千弐百五十四膳也
〽同年正月十一日北見若狭守殿六千八百石之御加増壱万石ニ被成下
〽同年七月御条目出 〽同年三月被召出 福嶋助六
右助六殿は左衛門大夫殿弟掃部頭殿孫主膳殿息也主膳殿浪人ニて死
去其節助六殿二歳也と言 【左衛門大夫は福島正則】
一〽同年今年改元貞享元年也伊豆大嶋之山三月十六日ゟ焼出同廿七日迄
不止右焼る様山中ゟ峰に焼上る蝋之如く成焼土流て海中ニ入重りて海
上七八丁如山横四五丁或は弐三丁焼出る響雷之如く近隣之在家ニ有ル
所之鍋釜破却すと云
〽同年夏大垣之城主戸田肥後守殿怪我ニて死去涼之亭ゟ下り被申時踏は
つし堕て脇腹貫かれ死候被申と云
〽同年七月土方伊賀守殿領知《割書:御在所|岩城領》被召上榊原式部大輔殿へ御預也《割書:于時|虎之介》
八丈嶋へ遠島 《割書:伊賀守殿兄ノ子|》土方内匠 《割書:伊賀守殿弟|》林助之進
藤堂佐渡守殿へ御預 切腹 《割書:家老|》川合図書 《割書:同|》阿部長蔵
右家中仕置悪敷此度及騒動候ニ付右内匠殿川合阿部と一味ニて順々不
埒之儀有之助之進殿ニは 公儀へ右之儀訴状御差上其身は上野へ立退
被申由其起りは伊賀守殿実子無之ニ付弟助之進を家督ニも可被致所
存之処内匠殿嫡孫之義故可為家督と家来共申ニ付内匠殿江戸へ
呼下し被申候ニ付助之進殿存念ニ筋目之儀ニ候へは内匠家督尤之儀ニ候へ
共初之様子も有之儀ニ付相談も可有之事無其儀不快ニ付公儀え之訴
状被申達候品ニ付及詮義右之通之由也 有馬伊豫守殿
右領知被召上本家へ御預右は土方伊賀守殿儀ニ付林助之進殿
伊予守殿へ被参被申達候へ共然々取扱不被申親類之好みを不存仕形不埒
之至ニ付右之通被 仰付候也
〽同年八月【「月」の右に朱筆「廿八日」】殿中喧嘩 《割書:即死 堀田筑前守殿|討手 稲葉石見守殿》
〽同年日光御普請御修復御手伝出来ニ付拝領物被仰付家来被下物
有之
《割書:銀五十枚|時服五羽織》《割書:丹羽若狭守殿家来|》江口三郎右衛門 《割書:銀卅枚|時服四羽織》《割書:同上|》《割書:種橋助之進| 其外三人》
同断 《割書:真田伊豆守殿家来|》木村縫右衛門 同断 《割書:同上|》《割書:原惣兵衛 | 其外三人》
《割書:銀卅枚|時服三羽織》《割書:内藤左京亮殿家来|》井関内蔵介 《割書:銀廿枚|時服三羽織》《割書:同上|》《割書:納庄大夫 | 其外三人》
同断 《割書:津軽越中守殿家来|》津軽兵馬 同断 《割書:同上|》《割書:田村藤大夫| 其外三人》
〽同十一月十一日本庄次郎左衛門殿 詰大夫被 仰付因幡守と号ス【この一行朱筆】
〽同年松平修理大夫殿両度御詮義之上領知被召上保科肥後守殿へ御預也
御子息芲之進小三郎松平日向守殿へ御預 被仰渡
修理亮儀前々御役儀をも乍相勤計方も無之書状軽キ者方え
遣候儀不届ニ被思召候依之領知被召上御預被仰付候旨
〽同年四月五日京都大火《割書:火元山口壱岐守組与力|》日下部源右衛門
公家衆比丘尼御所与力等八拾軒大分焼る 東宮御所焼失
〽同年《割書:御小納戸|》柳沢弥太郎殿御奉公出情相勤候付御褒美銀子被下之
一貞享二年《割書:丑|》鶴姫君紀州え御婚礼二月廿ニ日御入輿《割書:御輿渡 大久保加賀守殿|御貝桶 戸田 山城守殿》
〽同年遠州秋葉山之祭と云触し大勢人数集り道中宿々送り候段不届ニ付
遠州市場村名主三人組頭百姓五人組御追放也
〽同年松平越中守殿へ御預ケ 佐平倅共 《割書:伴 孫三郎|同 平 助》【「伴」と「同」を結ぶ線あり】
父佐平不届ニ付御預被仰付候依而倅共御預也
〽同年二月十二日 新院御所奉号後西院崩御
〽同年二月十五日酉下刻大流星東ゟ西ニ渡る大サ如斗其跡中天ニ白
気之道少時見之光輝可見面落る時震動諸国見る事同時也百年
以来不聞之云々
〽同年御書院番金森帯刀殿駿府在番謀書調御僉儀之節偽之其外
不作法之儀共有之其上家来を道中ニて殺候仕形不埒侍ニ不似合儀ニ
付死罪被仰付子共三人切腹被 仰付候右之儀ニ付《割書:御書院番|》黒川
出羽守殿《割書:同|》一色吉兵衛殿《割書:同組頭|》稲葉数馬殿在番中不届者有之
処省誓紙不申上之段不届ニ付三人御預也右組中五十余閉門被仰付候
〽同年 八丈嶋遠島 品川 中性院
右悪事巧之儀有之ニ付遠島也 靏姫君様御局山崎と
申女中中性院取持候ニ付御追払山崎子山?崎大助と申者先年被召
出候処此度御扶持被召放追放也右中性院は小川坊城大納言殿弟也と云々
【「同年松平越中」の上に書込み】
《割書:乗邨按ニ|佐平不届|之条不見|不審》
〽同年鳥類貝類海老類御台所ニて遣ひ申間敷候但公家衆御御振舞之節
は格別之由被 仰出候鯉鮒《割書:不詳|》遣ひ申間敷由追而又被 仰出有之候
〽同年六月長崎へ南蛮船一艘入津御僉議之処去年勢州神社村之者
風に放され天ノ川之内へ漂着仕候付右之者共を送り届之為南蛮
人四十七人乗組来る船也と云々
〽同年森川傳右衛門養子之儀ニ付八丈嶋へ遠島実子有之処外へ
養子ニ遣し渡部安斎と申ものゝ倅を森川内記養子ニ仕兵蔵と
申候右詮議之節偽を申旁不届ニ付追放御預ニ有之也
〽同年七月国府䑓総寧寺住登 城之節中之御門迄乗物ニて
参候ニ付閉門被 仰付候也
〽同年十月より京都所司代 土屋相模守殿
一貞享三年 《割書:遠島|》高野道入 服有之 御宮献上取扱其上常々
不行跡ニ付如右倅両人松平丹波守殿へ御預
〽同年寅五月十七日紅葉山 御宮正遷宮
〽同年女衣類縫箔御停止被 仰出之
〽同年秋田信濃守殿家来只越甚大夫父子燕を吹矢ニて吹候科により
死罪ニ被行右燕吹矢を負て北見若狭守殿へ落候ニ付段々詮議ニ
成右只越甚大夫倅煩候薬ニ入候ニ付吹し由相知候ニ付死罪也若狭守
殿は元禄二年松平越中守殿へ御預也其節被 仰渡は
若狭守儀段々御取立候処近年毎度 思召に違ひ御奉公不存入様子
有之ニ付右之通りと云
一京都実相院御門跡不行跡ニ付隠居逼塞坊官両岸【「岸」の右に朱筆「宇多」】坊不届者ニて御門
跡へ悪事勧候ニ付重追放被仰付候
〽同年御側医師半井卜養三宅嶋へ流罪倅卜仙小出大隅守殿へ御預
科之品不分明と云々
〽同二年《割書:御普請奉行ゟ御持弓頭へ|》田中孫十郎殿〽同四年《割書:禁裡付ゟ|御鑓奉行へ》佐野修理大夫殿
〽同五年《割書:堺政所ゟ御持弓頭へ|》 稲葉淡路守殿
右三人御役替近年無類之義也武役 思召も有之歟と世上沙汰也
〽同年七月《割書:三万石御加増|羽州山形城地共|》松平大和守殿 五千石御加増 松平上野介殿
〽同年七月廿五日高松領強風雨潰家五千四百廿弐軒死人七拾人牛馬
三十五疋船四十七艘
〽同年近年江戸中ニて大小神祗組と名付男伊達所々徘徊妨をなし今年
御僉議悉く捕之《割書:御徒子|》手塚吉右衛門《割書:与力子|》雨宮八郎右衛門
《割書:火ノ番子|》山岡傳八《割書:御先手同心子|》野々山甚大夫《割書:御徒子|》志賀仁右衛門
右揚座敷
《割書:牢人|》大山源六 靏見平蔵 太田十左衛門 松井正順 右上り屋へ
《割書:目明|》靏見吉兵衛 《割書:甲府様衆|》杉浦太兵衛 右籠舎
右あはれ者共段々御僉議九月斬罪被 仰付候
〽同年十二月左京大夫様家来近習大村助十郎と申仁四ツ谷水野土佐守殿
屋敷前ニて御旗本美濃部源右衛門殿御箪笥奉行衆家来と途中
ニて口論様子は助十郎供先へ源右衛門殿家来立帰り候付助十郎方ゟ
声を懸候へ共立退不申又声を懸候へは立帰右之者雑言申候へ共助十郎
取合不申通候処右源右衛門家来振帰り刀抜助十郎馬上ニ罷在候を切
懸申候故助十郎馬ゟ下り則右之者を切殺申候前之町屋へ入罷在町
奉行衆ゟ検使を受左内坂之寺にて切腹仕候
〽同年子四月廿六日紀州御家中和佐大八於京都通シ矢天下一生年廿歳
惣矢数一万三千本 通り矢八千百三拾三本也
一貞享四年有馬左衛門佐殿領知騒動之事去年九月百姓千百人弓
鉄砲を所持し秋月長門守殿領分へ立退依之被遂御僉議御仕置有之
磔《割書:頭取|》百姓弐人 死罪 百姓弐人 遠島《割書:内筆取浪人|》百姓六人
追放《割書:郡代|》梶田十郎左衛門 《割書:代官|》大嶋久右衛門 右之通ニて領知召上所替也
〽同年甲府様御用人稲葉内膳父子目付役小須賀甚左衛門父子科に依て
切腹被仰付候処御達無之ニ付御家老を被呼内膳義布衣ニも仰付候
者之儀御達可有之儀候旨被申渡家老共不残遠慮可被 仰付候へ共
左候而は差支可申候間月番家老一人遠慮被 仰付候様ニと御老中被
仰渡甲府様も御差扣御伺被成候処其儀ニは及不申候由也
一貞享五年辰九月三日山王へ御参詣之節大鳥居内之町屋ニて越前国
勝山村百姓玉置又左衛門と申者 御成先ニて目安を上る元松平兵部大夫殿
新地之百姓ニて先年於越前致公事仕形不宜候ニ付所追放之者也右
目安御取上無之節之儀ニ付又左衛門并宿仕之町人牢舎被仰付候其節
山王へ御先番之御徒頭杦浦市左衛門殿遠慮組頭一人徒五人閉門被仰付候
〽同年知足院御普請御手伝相済松平若狭守殿并家来拝領物被仰付
〽同年十月所替城地被下 土屋相模守殿
〽同年四月いもりの黒焼売之儀御停止被 仰付
〽同年《割書:京都所司代|》内藤大和守殿 《割書:大坂御城代|》松平因幡守殿
〽同年 覚
一献上物領分参候ニ付毛類一年一度程も数少々可被差上候 【徳川実記第四編二百四十五頁二月廿六日に「毛類」は「鳥類」と記載】
其節いつれへも一通り可遣候献上無之時は無用之事
一いき魚之類貝類献上無用之事附仲間へも無用ニ候
右戸田山城守宅ニて被相渡候 卯二月
〽同年諸国鉄砲改被 仰付候
〽同年紀州熊野浦唐船一艘吹付十六反帆之舟ニ只三人乗居申候
殊外飢之様子ニて物をも得不申いつれも坊主也船中に仏具弓鉄砲
有之切支丹類と相見え候長崎表へ御送り有之候
〽同年《割書:御預|》那須與市殿実父津軽越中守殿へ御預領知被 召上候
津軽越中守殿増山兵部少輔殿平野丹波守殿那須与市殿何も戸田
山城守殿宅へ被召呼高木伊勢守殿松山宇左衛門殿佐藤宇右衛門殿
列座被仰渡 那須遠江守実子有之処其段存なから與市養子ニ遣候事
不届思召候依之領知被召上候越中守閉門被 仰付
兵部少輔丹波守へは右養子取持候由【書込み】《割書:本ノマヽ|》
右は遠江守殿妻腹之実子福原図書と申近年遠州殿在所へ引取
ニ差置候由右図書母日光御門主様へ訴状差上候ニ付御僉議之上右之通被仰付
〽同年松平因幡守殿養子能登守殿儀実父松平伊勢守殿ゟ能登守
殿不行跡之段被申達双方ゟ達ニて実父手前へ引取被申候
〽同年九月十七日御納戸御請所ニて御召之御服ニ血付有之御納戸衆閉
門被仰付未御免無之内十月十七日右御清所へ猫鼠をくわへ来り御座
敷所之御道具等ニも血付候故御清所を毀建直之処十一月十七日御広敷
添番金田吉大夫右之処ニて致頓死候三ヶ月十七日右之所ニて穢
有之ニ付別而御清メ有之希代之事と云
一生類御憐み之事貞享之始ゟ被 仰出有之同四年卯ニ 覚
生類憐之義最前以書付被仰出候処今度武州寺尾村同国
代場村之者病馬を捨不届之至ニ候死罪ニも可被 仰付候へ共
今度は先命を助ケ流罪被 仰付向後於相背は急度可被
仰付候御料は御代官私領は地頭ゟ前方被仰出候趣弥堅相守
候様入念可被申候付者也 卯四月
一元禄元年辰正月十一日《割書:五千石御加増|一万石ニ被成下》 本庄因幡守殿
〽同年正月本多中務大輔殿家来錦織十郎左衛門倅弥五郎を若党
山口茂右衛門と申者切殺欠落仕人形を以御尋也
〽同年四月廿一日初而御成 牧野備後守亭へ此已後折々被為 成
〽同年十一月小石川御殿 御成同晦日桂昌院様本庄因幡守亭へ被為入
〽同年十二月十二日 公方様 桂昌院様御一同牧野備後守殿へ 御成
一元禄二巳年正月廿五日知足院へ 御成
〽同年閏正月 公方様 桂昌院様牧野備後守殿亭へ 御成
〽同年二月北見若狭守殿右領知被召上松平越中守殿へ御預被 仰渡
《割書:勢州桑名へ|被参》段々取立之処近年御奉公不存入 思召に違不届之旨也
〽同年聖堂へ 御成
〽同年献上物居台箱類常々取かはし候台等上桧杉等不用新木ニて
随分麁相ニいたし候様被 仰出候
〽同年巳十月針灸異説申触御回状出る
今度針灸之儀依異説申触候被遂御詮義候処駿州ニ罷在候
田口是心と申者持伝候書物ニ相見候処所望之者有之写遣候由
自作ニ仕候はゝ急度御仕置可被 仰付候へ共右之訳相立候ニ付当人
御構無之然共向後共か様之■【珍?】敷義申触無之様可申付候若無拠
子細も候はゝ奉行役人へ申断可得差図候旨急度可申触候
〽同年土屋主税殿知行所遠州之内ニて百姓瓶を堀出し其内に金子八
拾両之金目有之 公儀へ被差上右之代り金子八十両被下之
〽同年御城北刎橋之内御金蔵へ忍入御金盜取候ニ付御僉議之処御
陸尺三人ニ相極御仕置被仰付候
〽同年八丈嶋へ遠島 中根主税殿
右遊女を払物ニいたし前代未聞之不届ニ付死罪可被 仰付候へ共以
御慈悲遠島被 仰付候養子傳三郎儀は毛利甲斐守殿へ御預被成候
右之子細は其頃付火いたし候悪党之者悪所ニ居候段訴人有之右之所ニて
召捕入牢被申付其宿屋共闕所ニ被申付候付抱置候遊女とも其所ニて
払物ニ被致候義追而相知候ニ付右之通被 仰付候沙汰也
一元禄三午年御加増上総佐貫へ所替 柳沢出羽守殿
〽同年三月加賀城下大火侍屋敷足軽共千四百軒余
町家在家共五千弐百軒余寺七ケ所 橋五十六ケ所 死六人
〽同年【「年」の右下に朱筆「七月」】日光御修復出来御遷宮右御祝儀御能同八月十二日有之
一元禄四未年聖堂湯嶋之地を転し此所ニ被移造立不日成ル《割書:元上|野》
《割書:山王社之辺|にありし也》諸子百家之書祭器諸大名ゟ献納有之
〽同年五月日蓮宗不受不施御制禁之処小湊誕生寺碑文谷法華
寺谷中感應寺悲田宗と名目を改宗旨を弘る事相聞御
僉議有之右三ケ寺住持遠島被 仰付
〽同年八月ゟ京都所司代小笠原佐渡守殿十二月ゟ同断 松平因幡守殿
〽同年 日光御宮陽明門下両所へ雷落
一元禄五申年御加増笠間城地被下本庄因幡守殿御加増 柳沢出羽守殿
〽同年 被 仰渡 松平下総守殿
今度家中騒動大勢立退候儀常々仕置悪敷故と不届ニ
思召候急度可被 仰付候へ共筋目有之者之儀ニ付白川領知被召上
高十五万石之内五万石被召上拾万石被下閉門被 仰付家来奥平金弥
黒屋数馬事家老方?仕家中騒動為仕候義不届ニ付斬罪被仰付候
上屋敷御成道ニ付被召上下屋敷ニ引越閉門可仕候宮内少輔
可為同前事
〽同年八月閉門 御免羽州山形城地被下逼塞被 仰付候
〽同年高野山聖方行人方公事訴論有之双方公事六ケ敷段々僉
議有之行人方出家今度之騒動御僉議御請不申上候分六百廿七人
薩摩五嶋其外島々え遠島被 仰付 蓮明院始御請申上候分四
百八十人御免被成登山也
〽同年 長寿之者《割書:松平大和守殿家来|》林理右衛門右 後奈良院御宇
天文十二年卯於越前福井出生元禄六酉奥州白川居住今年
江戸へ被召呼 天文十卯年より元禄六酉年迄百五十一年也
一元禄六酉年松平日向守殿城地被召上舎弟斎宮殿新規二万石被下御預也
乱心共不行跡共言実説不知
〽同年水谷出羽守殿領知被召上御預也家老水谷太郎左衛門同市兵衛
【「同年長寿」の上に書込み】
《割書:乗邨按ニ|今城南の|妙関寺ニ|アル処ノ|三五一院と|いへる墓は則|此理右衛門か古|墳成へし》
其外家中之者共水谷主水殿へ御預御僉議有之家老家来共
不残翌戌年御免被成候 【大久保から土屋迄結ぶ線あり】
一元禄七戌年四月於 御前御加増 《割書:大久保加賀守殿|阿部豊後守殿》
壱万石宛 《割書:戸田山城守殿|土屋相模守殿》
〽同年御成之節壱万石御加増 本庄因幡守殿
壱万石御加増都合三万石 松平上総介殿
〽同年新知弐百石被下 金地院 《割書:三百石御加増|都合六百石被下》 護国寺
〽同年七千石御加増被成下 秋元但馬守殿
新規寺領弐百石被下 浅草 誓願寺
〽同年五月佐竹右京大夫殿領内羽州秋田領大地震《割書:潰家三千軒|死人三百九十四人》
〽同年水戸様ニて御老中御招請之節駿河町奉行大嶋雲四郎殿被参
於御座敷乱心御老中前へ被出狂語被申候ニ付親類衆被参乗物に被入被
帰候節乗物踏破り被申候ニ付又乗物を替乗を家来一人同乗抱候
て屋敷へ帰被申候
〽同年三月江戸引回し斬罪 浪人 筑紫薗右衛門
此者去年夏頃ゟ馬の物言と申儀虚説申触し流行病除の守
薬の法組なと実なき事共流布仕候ニ付御仕置也
〽同年四月遠慮被 仰付 御目付 牧野半三郎殿
右は先日桂昌院様護国寺へ被為入候節手負之猪を人足共打殺
其後隠し埋候を堀出し無縁寺へ遣候節跡足弐本共無之ニ付
御僉議之処不念成故右之通也
〽同年織田伊豆守殿於在所家老田中九郎兵衛《割書:六百石|取》を手打ニ被致
生駒三□【左衛】門《割書:千五百|石取》を家来ニ申付討【尌?】を被申右両人子共兄弟共をも
討を被申候三郎右衛門は 公儀へ御目見之者ニ付月番老中へ被相
達其已後自分自害被致候 【宇陀崩れ】
〽同年佐竹右京大夫領内羽州秋田領野代森岡檜山駒形飛根有之
四十弐ケ村五月廿七日ゟ廿八日迄大地震四百人計死怪我人弐百人計牛馬
廿計屋敷弐千五百八軒潰其節失火焼失大分也其外居城并侍
屋敷町家等夥敷破損すと云々
〽同年生類御憐犬之子捨候儀停止被仰出并江戸ニて鞠商売御停止被仰出
〽同年片桐主膳殿組大番水野左大夫大坂在番残り番ニて大坂へ登り之
道中遠州橋本ニて駕籠建休之居申候処下人鑓持鎗ニて駕籠越に
左大夫を突殺逃申を所之者共追懸捕へ申候
〽同年武州川越へ所替松平美濃守殿 壱万石宛御加増 《割書:阿部豊後守殿|戸田山城守殿|大久保加賀守殿》
〽同年京都今宮へ神領百石御寄附御礼江戸へ下向《割書:神主|》佐々木内匠
右 桂昌院様御信心に依て也
〽同年服忌令御改被 仰出
一元禄八亥年五百俵御小姓被召出 黒田豊前守殿
〽同年壱万石御加増上州高崎へ都合五万弐千石 松平右京大夫殿
〽同年九月金銀吹改被 仰付書付之趣 覚
一金銀極印古成ニ付吹直旨被 仰出候且又近年山ゟ出候金銀も
多無之ニ付世上之金銀次第ニ減可申候間金銀位を直し世間之金
銀多く成候為此度被 仰出候事
一金銀吹直し候ニ付而は世間之人々所持之金子 公儀へ御取上被成候
にては無之候 公儀之金銀吹直させ候上ニて世間ニ可出ニ至候時
諸事可申渡事 亥 八月
覚
一此度金銀吹直被仰付吹直し候金銀段々世間ニ可相渡候間有
来之金銀と新金銀同事ニ相心得古金銀不残吹直し候迄は
新金銀と入交り遣方受取方両替共無滞用可申候上納金も
右可為同様事
一新金銀金座銀座出候【「候」の右に書込み「はゝ」】世間之古金銀と可引替候其節金銀共
員数増可相渡事
一金銀町人手前ゟ引替ニ成候間武家方共外之金子は勝手次第
町人え相対にて相渡引替可申事
右之条々国々所々ニ至迄可存其旨者也 亥 九月
但 寅三月迄ニ引替限り被 仰出候
一金銀吹直し仮金仕候はゝ可申出由御触有之候
右元字金正徳二年迄通用廿三年歟
〽同年高三万八千六百石之内八千石減少 織田壱岐守殿
父伊豆守信武義家来を手討致し其身被致自害候付家督減少被仰付候
〽同年天恩山【「天恩山」の右に朱筆「本所五ツ目」】羅漢寺建立開山銀眼和尚也
〽同年四ツ谷大木戸之先百姓地ニ犬小屋出来江戸町中之犬共移之
其主〳〵ゟ犬扶持を遣す犬小屋御手伝 松平飛騨守殿
〽同年十二月壱万石宛御加増《割書:土屋相模守殿|秋元但馬守殿》 《割書:飯山ゟ|岩槻へ》永井伊豆守殿
《割書:懸川ゟ|尼ヶ崎へ》松平遠江守殿《割書:岩付ゟ|掛川へ》小笠原山城守殿 《割書:尼ヶ崎ゟ|飯山へ》青山大膳亮殿
《割書:松山ゟ|加納へ》安藤右京亮殿 《割書:淀より|松山へ》石川石之助殿 《割書:加納ゟ|淀へ》松平丹波守殿
〽同年 申渡覚 五万石越前丸岡 本多飛騨殿
家中仕置悪敷其上家中食留申付非道成仕形ニ候依之領地被
召上松平壱岐守御預被 仰付候也 京極喜内殿へ御預
本多主計
右飛騨殿家来立退候者共 公儀ゟ御尋之処家老本多
源五左衛門本多刑部と申者六月廿七日塩留橋ゟ屋形舟ニ乗新大橋
辺ニて両人差違ひ船中ニて相果候平岩勘左衛門も御当地到着已後
公儀ゟ揚座敷へ被遣之右僉義旧冬より之儀也
右御僉儀済家老本多織部勾当一人死罪其外追放等有之 【丸岡騒動】
〽同年十二月御触 覚
小石川馬場近辺屋代越中守殿組美濃部弥兵衛門外去十八日之夜近キ頃
生候白毛之犬子弐疋捨置候今度町中の犬共御吟味之上犬小屋へ被遣
然る上は左様之儀曽而有之間敷処ニ犬捨候段不届ニ候急度詮義可致候
但組支配之面々其向々ニて致詮儀捨候者相知候様可致候後日
脇ゟ相知候はゝ可為落度者也 十二月
一元禄九子年御書院番高力伊豫守殿組大岡五郎左衛門殿伊予守宅へ
被相越討果両人即死也五郎左衛門殿養子願候事と云
〽同年十一月四日 本院崩御
〽同年六月小石川御門外に的矢を負候鴨飛来落候而有之稠敷御僉儀
御触有之
惣而生類御憐之事元禄之始よりして此節専盛也此已後段々生類
之事ニ付色々御詮義事有之也犬之事は此節未左程ニ無之候
〽同年森主殿義森伯耆守養子雖相願段々不調法之仕方ニ付
森美作守へ御預被 仰付候且又伯耆守不埒成養子願仕不届ニ
思召候依之名跡不被 仰付候右之趣美作守へ可申聞旨被仰渡候
〽同年伊達美作守殿土器町被通候節小笠原長門守殿組岡八郎
兵衛殿行懸り先供徒之者八郎兵衛を突除申候八郎兵衛殿抜被申
を大勢立懸り刀をもき取断なしニ通り被申八郎兵衛跡より
追懸被参候処門を打入レ不申候八郎兵衛は番ニ被罷出候付其段
御城へ申遣候 御城ゟ組頭大御目付御目付衆被参八郎兵衛を先屋敷へ
戻し被申候其後御吟味有之美作守殿逼塞被 仰付八郎兵衛殿理
不尽ニ供割之儀不調法ニ付逼塞也其後美作守殿本家より
申達引込被申候由
〽同年永代橋出来長百十間幅三間一尺五寸元は深川の大渡と云し也
〽同年所替《割書:備中松山へ|五千石御加増》安藤対馬守殿 《割書:上州高崎へ|》松平右京大夫殿
《割書:越前丸岡へ|五万石》有馬左衛門佐殿 《割書:下野壬生へ|五千石御加増》加藤佐渡守殿《割書:江州水口へ|一万石御加増》鳥居播磨守殿
〽同年中野ニ御犬小屋立十万坪余也《割書:御手伝|》 《割書:森 美作守殿|京極縫殿殿》
奥平熊太郎殿も被仰付候処熊太郎殿類焼ニ付 御免被成或云亀井
隠岐守殿松平源次郎殿被 仰付候由有之如何右秋ニ至出来
《割書:時服三羽織|銀三十枚》 《割書:森美作守家来| 関 式部》 《割書:時服三羽織|銀三十枚》 《割書:京極縫殿殿家来| 岡勘左衛門》
《割書: |同断銀廿枚》 《割書:同 可児文右衛門| 杦本藤之?右衛門》 《割書: |同断廿枚》 《割書: 同| 佐治與左衛門》
《割書:時服二羽織|銀 十 枚》 《割書:同 若林 平内| 熊谷杢左衛門》 《割書:時服三羽織|同 十 枚》 《割書:同 佐藤 半蔵| 中村新右衛門》
〽同年加藤大和守事病気とは乍申度々御用日ニ不参仕其上御用之儀を
与力を以取計ひ且又先規ゟ無之儀同役へも不申請与力方へ町人ゟ
音者等受用仕旁不届ニ付内藤紀伊守殿へ御預也
〽同年四ツ谷石切町ゟ出火芝海手迄焼失
〽同年紀州左京大夫殿へ青山百人町之末長谷川五兵衛殿跡屋敷地被進候
〽同年牧野備後守殿病気ニ有之 公儀御届之砌何れも被相勤候へ共
向後不及其儀候由向寄之通之?有之様御老中大目付へ被相達候
〽同年金銀吹直し御用懸被 仰付候 萩原彦次郎殿
〽同年九月知足院今度新儀一派之僧禄大僧正被 仰付護持院と
相改御加増五百石被下千五百石也
〽同年十月於京都久遠壽院御遷化此院日光御門主様御師弟ニ付
御門主様五十日之御忌服被為請候
〽七月千駄木世尊院へ寺領弐百石御寄附御袋様御菩提所ニ依而也
〽同年七月森伯耆守殿養子主殿殿国許へ被罷下御詮議両度森内記殿
并伯耆守殿家老共評定所へ罷出主殿殿儀養子願之通相済
被下筈候処病気之由ニて内記殿ゟ差下し不被申ニ付たとへ病気ニても
主殿差下し候様ニとの事ニて御呼下両度御詮議有之
《割書: |重出也》
殿本儀森伯耆守養子雖相願候段々不調法成仕方ニ付美作守へ
御預被 仰付候且又伯耆守不埒成養子願ニ付不届ニ被 思召名
跡不被 仰付候右之趣美作守へ可申聞旨
〽同年十一月伯耆守殿死去分知内ニて弐万俵美作守へ被返下名跡無之
〽同年三千石御加増一万石ニ被成下《割書:若年寄|》米倉丹後守殿
〽同年堺奉行佐久間丹後守殿御役御免此節ゟ堺支配大坂町奉行
支配伏見も同断被 仰付候
〽同年新田三万石高ニ結拾万石被成下 伊達遠江守殿
〽同年黄檗山千呆和尚登 城 御目見銀子百枚被下弟子雷聲
石門天祐牛込龍興寺同隠居雲山五人於 御前問答有之
〽同年九月強風雨之節松平安藝守殿屋敷崩落御城坊主野口元喜
岡崎順佐屋敷潰候て元喜母妻子共順佐はおしに打れ候へ共不死妻子四
人相果申候近所町人も死人怪我有之
〽同年九月五千五百俵ニ千五百石御加増地方七千石ニ被成下黒田豊前守殿
〽同年小石川御門外矢負鴨落居申ニ付御僉儀段々六ケ敷水戸様
辻番之者牢舎等有之
一元禄十年丑二月山王神主日吉大膳方へ阿部志摩守殿組大番福嶋伊織
殿被罷越大膳を打果す大膳十一ヶ所即死也伊織殿六ヶ所手負未
死大膳家来へ自分乱心致候間留メ指候様ニと被申候間右家来止メ指
候由訳は不詳と云
〽同年諸国絵図被 仰付候 〽同年酒運被仰付《割書:但正徳六丑年運上| 御免ニて已後相止| 申候》
〽同年壱万石御加増 小笠原佐渡守殿四月ゟ京都所司代松平紀伊守殿
〽同年六月所替《割書:羽州上ノ山ゟ|濃州郡上へ》金森出雲守殿《割書:十万石ニて|宇都宮へ》阿部對馬守殿
《割書:但州出石へ|》松平伊賀守殿 《割書:丹州宮津へ|》奥平熊太郎殿
〽同年諸国絵図被仰付御用懸り《割書:寺社奉行|》永井伊賀守殿
《割書:大目付|》仙石伯耆守殿《割書:町奉行|》川口摂津守殿《割書:御勘定頭|》井戸對馬守殿
〽同年四月十二日紀州様へ 御成此節内蔵頭様主税頭様御領知三万石ツヽ
被進候
〽同年六月廿日森美作守殿死去ニ付願養子式部殿在所ゟ被下候処
道中桑名ニて被致乱心依之美作国被召上森内記殿へ新規二万石
被下追而森帯刀殿寄合ニて分知五百石ニて居被申候を内記殿
嫡子ニ被 仰付候依而作州津山城受取水野美作守殿在邑ニ付以奉
書被 仰付候処病気被致候ニ付為代酒井靱負佐殿へ被 仰付候
〽同年十月十七日夜大塚町法華宗善正寺ゟ出火一里半余焼袋
二番丁ニて焼留ル侍屋敷《割書:八百廿五軒|》与力《割書:十弐軒|》同心陸尺《割書:卅八軒|》堂《割書:廿九軒|》町屋壊
〽同年十二月十二日甲府様へ 御成
〽同年御大老職被 仰付 井伊掃部頭殿
一元禄十一寅年小湊誕生寺派深川妙栄寺日泰?と云僧妙月比丘
尼と言合せ宗門紛敷儀を勧候ニ付御僉儀有牢舎仕居火事有
深川へ牢ゟ遣候処欠落仕行方不相知人形を以諸国御尋後搦捕
御仕置ニ成候此節四ツ谷法華寺谷中感應寺揚り屋へ被遣御詮
議之上脱衣縄へ懸御仕置《割書:三田|》大念寺境妙寺中道寺《割書:四ツ谷|》寂光寺右遠島也
右妙月比丘尼は蜂須賀飛騨守殿の家中之者之娘ニて其兄彼家ニ有
之仕置有之由感應寺ニて妙月色衣日ノ宗を免し申と云々
〽同年四月川村随軒と申町人還俗平大夫と名相改大坂川筋御普請
被 仰付彼地へ罷上り候此者普請方諸積り事機巧之者之由後御家人ニ
被 召出候 【書込み】《割書:乗邨云此随軒か事雑記巻 に委しく記せり|》
〽同年四月十一日 紀州侯へ 御成【この一行朱筆】
一〽同年御国絵図ニ付被 仰出 覚
一今度国絵図御改ニ付其国々絵図受取之方ゟ万事承候義
無相違様仕絵図被致候方之差図次第仕候様可被相達候
一大身小身ニよらす国郡村銘々書付一万石已上并寺社領井上大和
守一万石已下其外諸旗本之分は安藤筑後守松平美濃守
【右頁朱筆】
《割書:□年或人語て云|加?州大守ニ千代靏|の?太刀有長三尺|三?寸也是をよ?の|□の尺にあけて|の用とて神田の|兼常といふ鍛冶ニ|命せらるへしと也兼常其日の朝とく起て門外に立出るに女性一人立り上に金襴の衣を着たり兼常にむかひていふ様》
【左頁朱筆】
《割書:あなかしこ此太刀揚しむることなかれかへす〳〵此事を頼むよしをいふ兼常云太刀刀をあくる事常々多有之|何を証にしてその方宣ふ刀をしらむやと女性いふさらは是を証にし給へとて刀の白木の柄をわたすかへす〳〵|頼といふてかへり|ぬあやしと思ふ|所に昼の頃|加州大守より|召さる則参りぬ|れは太刀の寸ヲ|上んことを被|命取出し兼|常にわたさるゝを|みれは刀を入し|袋の金襴正しく|女性の上に着し|衣の紋に同し|怪しと思ひ家|に持かへりかの|柄を合せみれは|正に一具也驚きて|検使に来りし侍に|其事を語りて|堅く辞退せしかは|大守も是を聞|給ひ此事止之給ふと也|名作は銘を惜むといふ|事まことにしか也と云々》
方へ向寄次第并組付支配有之面々は其既支配ゟ書付揃て
差出候様可被相触候事
一御書物蔵ニ有之国絵図当分借渡し一覧之已後返し候様可被
申渡之事 以上 四月
【書込み】《割書:乗邨按ニ元禄十丑年か|》
〽同年七月弐朱判新ニ出来
〽同年強地震平川口梅林坂多門石垣崩
〽同年護国寺相馬弾正少弼殿護持院仙石越前守殿御普請御手伝被仰付
〽同年弐万石御加増 柳沢出羽守殿
〽同年被 仰出 覚
一逆罪之者御仕置之事 一致附火候者仕置之事
一生類ニ疵付候類歟損さし候者仕置之事
右之科人有之遂詮義一領一家中迄ニて外障無之ニ於ては向後不
及伺江戸之御仕置ニ准し自分仕置可被申付候但他所へ入組候はゝ月
番老中迄可被相伺候遠島可申付科領内ニ島於無之は永牢或
は親類縁者等ニ急度可被預置候且又生類憐之義兼々被
仰出候通弥堅相守念入可被申付者也 丑六月【書込み】《割書:寅か|》
〽同年古金新金引替之儀元禄十一寅年三月限と去年被 仰出候へとも
遠国は引替未相済候ニ付来卯三月限と追而被 仰出候
〽同年八月小笠原修理殿家中仕置悪敷候ニ付小笠原右近将監殿へ
御預也同宮内殿へ代々筋目有之ニ付領知八万石之内半知被下候旨
〽同年九月御役被召放閉門《割書:長崎奉行|》諏訪下総守殿 右長崎表ニて
抜荷物之儀御制禁之処家来支配之者共抜荷物仕不届ニ付被 仰付候
〽同年法相宗恩照と申出家京ゟ下り 後水尾院様御子之由
不憐成義を申触候ニ付石川美作守殿へ御預也右之者本寺未寺無之由
〽同年作州津山拾万石被下 松平備前守殿
〽同年三月十八日尾州侯亭へ 御成
〽同年八重姫君 水戸侯へ 御入輿
〽同年九月上野御造営根本中堂造畢
備前長光金五十枚 《割書:御手伝|》松平薩摩守殿 正宗金五十枚《割書:惣奉行| 柳沢出羽守殿》
右造畢ニ付九月三日 勅額御供養有右御祝儀六日惣出仕諸大名
登 城之処山下町ゟ出火強風ニて大火ニ成登 城相止此火上野山中へ
焼通り御本坊 厳有院様御霊屋焼失是を世に勅願火事と云伝ふ
法城寺国光代十五枚《割書:御用懸|》秋元但馬守殿 《割書:左|》弘行代十五枚《割書:御用懸|》米倉丹後守殿
【祢寢ネジメと嶋津迄結ぶ線あり】
中堂御普請御手伝ニ付 《割書:白銀五十枚|時服六》宛 《割書:薩摩守家老|同 并》《割書:祢【弥?】寝 丹波|嶋津 大蔵》
【市木と村内を結ぶ線あり】
《割書:銀廿枚|時服四》 《割書:番頭|》小江惣次郎 《割書:銀廿枚|時服三》宛《割書:用人 市木次郎左衛門| 村内原大夫》其外目付以下九人
同時上野御普請御手伝ニ付嶋津左京殿家来へ被下物
【日高から其外迄結ぶ線あり】
銀卅枚時服三《割書:家老|》神宮寺外記 《割書:銀廿枚|時服三》宛 《割書:日高 七右衛門|市木孫右衛門|其外 弐 人》
〽同年九月
厳有院様御霊屋并御本坊御普請御手伝松平安藝守殿被 仰付
〽同年《割書:信州小諸ゟ|濃州岩村へ弐万石ニて》石川能登守殿 《割書:上州大多喜ゟ|三州刈谷へ》 阿部伊豫守殿
《割書:常州下館へ後|笠間へ三千石御加増》井上大和守殿 《割書:三州苅谷ゟ大多喜へ|後鳥山へ五千石御加増》 稲垣對馬守殿
右大和守殿對馬守殿場所狭く候ニ付同日如右所替被 仰付
《割書:播州赤穂へ|三千石御加増》永井伊賀守殿《割書:勢州長嶋へ|》増山兵部少輔殿 《割書:二万石|御加増》松平美濃守殿
《割書:信州榊ゟ|奥州福嶋へ》板倉甲斐守殿
〽同年二月十一日火事麻布御殿焼失四ツ谷新宿ゟ出火大火也
〽同年四月松平美濃守殿宅より出火焼失也
一元禄十二卯年閏九月御旗本衆へ被下金銀 布衣以上御役人へ白銀被下
一《割書:三百石ゟ|四百九十石迄》 銀百枚一《割書:五百石ゟ|六百九十石迄》銀 一《割書:七百石より|九百九十石迄》 銀百六拾枚
一《割書:千石ゟ千四百|九十石迄》 同百九十枚一《割書:弐千石ゟ二千|五百九十石迄》同弐百廿枚一《割書:弐千六百石ゟ|弐千九百九十石迄》同弐百五十枚
一《割書:三千石ゟ五千|九百九十石迄》同弐百八十枚一《割書:六千石ゟ八千|九百九十石迄》同三百廿枚一《割書:九千石ゟ九千|九百九十石迄》 同三百四十枚
布袋已下御役人并御番衆へ被下
一百石 廿両 一 百五十石 二十五両 一 弐百石 三拾両 一 三百石 卅五両
一三百五十石 四十両 一 四百石 四十五両 一四百五十石 五拾両 一 五百石 六十両
一五百五十石 六十五両 一 六百石 七十両 一 七百石 七十五両 一 八百石 八十両
一九百石 九十両 一 千石 百両 一 千百石 百五両 一千弐百石 /百五両(本ノマヽ)
一千三百石 百拾両 一 千四百石 百十五両 一 千五百石 百廿両 一千六百石 百廿五両
一千七百石 百卅両 一 千八百石 百四十両 一 千九百石 百四十五両 一 弐千石 百五十両
一弐千百石 百五十五両 一弐千弐百石 百六十両 一弐千三百石 百六十五両
右之通何百石何百俵可為同前事
〽同年九月水戸様へ 御成
【「米倉」へ導く線を引いて書込み】《割書:元禄九子年三千石御加増被下壱万石被成下若年寄ト|アリ不審乗邨按》
〽同年九月《割書:六千石御加増|壱万石被成下》米倉丹後守殿 《割書:新知|壱万石被下》阿部飛騨守殿
〽同年被 仰出 与力 御徒 御徒以下 坊主衆 職人 町人 舞々 猿楽
《割書:家老|用人》之外又者 右之輩下馬ゟ内へ下駄足駄はき之儀可為無用候
一元禄十三辰年正月御連歌 《割書:松高み下にうるはし春の草 昌億|竹は直なり雪解し庭|風越ぬ笹の日影の長閑にて》
〽同年正月松平下総守殿元高ニて備後福山へ所替被 仰付ニ付
弐万石被下 松平宮内少輔殿右分知之高也
【「同年正月」の上に書込み】
《割書:乗邨按ニ元高ニて福山へ御所替と有しは是迄之高といふ事成へし|元高は十五万石|白川ニて五万石|減少十万石ニて|山形へ御所替其後御加増無し》
〽同年二月《割書:一万石|御加増》秋元但馬守殿〽同年五月《割書:新田一万五千石|被下》 《割書:伯耆守殿舎弟| 松平辰之助殿》
〽同年水戸宰相殿御知行高卅五万石ニ結被進是は大学頭様播磨守様へ
御内分弐万石ツヽ被進候分返し被下如右
〽同年尾州三友卿御逝去
〽同年十二月六日水戸黄門光圀卿御逝去奉號源義公水戸侯二世西山様《割書:とも|奉》称
〽同年三千石御加増一万石被成下 黒田豊前守殿
一元禄十四巳年三月十四日今日勅使院使公家衆 御対顔也于時於殿中
浅野内匠頭殿高家吉良上野介殿刃傷上野介殿蒙手傷御目付梶
川善兵衛殿御取留双方引分ケ内匠頭田村右京大夫殿へ御預即日
切腹被仰付候右事実諸記委相見略于此
〽同年所替《割書:高元之如く|越後高田へ》戸田能登守殿《割書:一万石|御加増》松平右京大夫殿《割書:五千石御加増|一万石被成下》本多伯耆守殿
〽同年信州善光寺如来江戸ニ来開帳
〽同年南都大仏勧化龍松院願相済百石ニ金壱分ツヽ出金之筈被 仰出候
〽同年遠島《割書:御書院番|》山岡三郎兵衛殿右酒間伊織殿急養子之願ニ付
非儀成差図仕不届ニ付右之通也
〽同年《割書:新御番|》町野酒之丞殿父へ不孝ニ付前田采女殿へ御預ケ
〽同年正月今年新田義重公五百年忌ニ付新田大光院へ白銀三百枚
被下右之御法事有之
《割書:〽同年二月六日勢州桑名城下大火城内不残焼失天守も落ル町家九百軒余侍屋敷過来?類焼|》【この一行朱筆】
〽同年深川三十三間堂類焼堂守久右衛門願出諸大名万石已上一万石ニ
金五両ツヽ出金被 仰出三拾三間堂元浅草ニ有之類焼此度
深川ニて取立申候 公儀ゟ御材木被下
一元禄十五年六月濃州岩村之城主 丹羽和泉守殿
【左頁朱筆】
《割書:乗邨云|元禄十四巳十月|摂州嶋上郡|御遵見之記|といふアリ別ニ|雑記中にうつし置》
家中仕置悪敷不届ニ思召城地被召上一万石被下居屋敷本所浅野
内匠頭殿上屋敷被下閉門仕可罷在旨於土屋相模守宅被仰渡
右家来浅井新右衛門 多湖平蔵 西尾治大夫 須賀金左衛門
右四人頭取廿五人連判致させ徒党仕段不届ニ付死罪被 仰付
遠島妻木郷右衛門外六人追放
【朱筆】《割書:頚城郡高柳ト云所ニ陣ヤ其後作州へ所替也|》
右壱万石越後頚城郡之内ニて相渡濃州岩村請取 《割書:遠山和泉守殿|堀 大和守殿》
〽同月所替《割書:奥州泉ゟ|上州安中へ》内藤山城守殿《割書:安中ゟ|泉へ》 板倉伊豫守殿
〽同年七月本多出雲守殿儀於評定所御僉議有之此節酒井左衛門尉殿へ
御預ニて浅草下屋敷ニ被居候此度水野監物殿へ御預替也出雲守殿家
来二人附添居候処此者共遠嶋左衛門尉殿へ被 仰渡
本多出雲守儀御預被差置候処出雲□【「守」を塗潰し】不届之仕形両人家来訴出候
迄不申上罷在候段不念被思召候出雲事は水野監物へ御預替被成候左衛門
尉閉門被 仰付候旨
申渡 本多出雲
最初不仁之儀共有之酒井左衛門尉殿へ御預被置候処家来非儀之召仕
様重々不届死罪可被仰付候へ共乱気之仕形ニ付水野監物へ御預急
度押込可差置旨被 仰出候
遠島 《割書:同人家来久林八大夫| 清水源左衛門》
両人義出雲御預先迄附参候上は何分ニも可相勤処奉公不罷成候由
左衛門尉家来迄訴之候段不届ニ候依之遠島申付る者也
右ニ付出羽庄内へ罷越候御目付大久保権左衛門殿天野一郎左衛門殿逼塞被仰付
〽同年八月壱万石勢州長嶋 松平佐渡守殿
【右頁書込み】
《割書:元禄十五年|正月十八日|松平越後守|光長卿|八木の札|献上》
右乱心領知被召上御息又四郎殿へ五千石次男造酒之丞へ千石被下之候
右乱心之次第佐渡守殿家来朱雀平助と申者不届有之由にて
逼塞申付被差置候処此節佐渡守殿祖父因幡守殿百年忌被相
当候ニ付家老藤田八郎右衛門と申者右平助御免之儀詫申候処佐渡守殿
以之外立腹被致平助同意之不届者之由ニて左之通切腹ニ申付候
《割書:家老|》藤田八郎右衛門同庄次郎《割書:用人|》《割書:大岡九左衛門 同 朱雀平助|同 藤四郎 同 三五郎》
右之通被申付候儀親類衆も不被存其段相聞候ニ付親類衆見舞被
申候処様子乱心之体ニ相見え候ニ付言上有之由右之者共切腹被申
付候砌迄家来共迄曽而乱心之体ニ不存心付も無之候由也
〽同九月所替遠州濱松ゟ丹波亀山へ 青木下野守殿
〽同年十二月十五日夜故浅野内匠頭殿家来四十六人《割書:但四十七人之処内一人|足軽ニて其場ゟ退を申候| と云》
家老大石内蔵助を頭として吉良上野介殿本所屋敷へ仕込両門より
討入寝所へ乱入主人之仇上野介殿を討一所ニ引取内匠頭殿菩提所
芝泉岳寺へ集り居右之趣意以書付御目付仙石伯耆守殿へ申達候
但上野介殿首間十次郎と申もの取之と云
吉良佐兵衛殿家来之内十六人死其内十一人は刀切込血付有之と云
右四十六人大名衆御預ケ 十七人細川越中守殿
拾人ツヽ毛利甲斐守殿松平隠岐守殿 水野監物殿 右之通御預
にて翌未年二月切腹被 仰付候也
右大目付衆へ参候者四十七人之内両人《割書:郡代役 吉田忠左衛門 六十三| 冨森助右衛門 三十二》
右之者共書付持参相達候由
〽同年《割書:弐万石|御加増》本庄安藝守殿 《割書:五千石御加増被下|所替城地被下》 牧野周防守殿
一元禄十六未年二月五日浅野内匠頭殿家来共四十七人御預之大名
衆ニて切腹被 仰付候 細川越中守殿へ検使《割書:荒木喜右衛門|久永内記殿》
松平隠岐守殿へ検使《割書:杉田五左衛門殿|駒木根長三郎殿》毛利甲斐守殿へ同《割書:鈴木次郎左衛門殿|斎藤治左衛門殿》
水野監物殿へ同《割書:久留十左衛門殿|赤井平右衛門殿》右同日吉良左兵衛殿へ上野殿被
討候節不届候仕方ニ付知行被召上諏訪安藝守殿へ御預也
右切腹之者共倅共《割書:内蔵介二男|》吉千代《割書:十三|》大三郎《割書:二 惣右衛門倅|》原十次郎《割書:五|》
《割書:源五右衛門惣領|》片岡新六《割書:十二 同次男|》六之助《割書:九 数右衛門倅|》不破大五郎《割書:六 久大夫次男|》間瀬定八《割書:八|》
《割書:忠右衛門二男|》吉田傳内《割書:廿五 五郎右衛門倅|》矢田作十郎《割書:九 助右衛門倅|》冨森長次郎《割書:二 岡右衛門惣領|》木村惣十郎《割書:九|》
《割書:岡右衛門二男|》木村次四郎《割書:二 勘助惣領|》中村忠三郎《割書:十五 同二男|》勘弥《割書:五 定右衛門倅|》奥田清次郎《割書:二|》
《割書:和助倅|》茅野猪之吉《割書:三 喜兵衛二男|》村松政右衛門《割書:廿三 八十右衛門二男|》岡崎藤松《割書:十 同三男|》五郎助《割書:七|》
右遠島被 申付候
〽同年正月下野結城へ五千石御加増城主被 仰付 水野隠岐守殿
〽同年五千石御加増被下城地被下沼田え 本多伯耆守殿
〽同年九月紅葉山霊芝生す於 御城御祝有之 松平美濃守殿
松平右京大夫殿若年寄衆迄御樽肴献上有之
〽同年八月御加増被下之 《割書:戸田長門守殿||小出土佐守殿|井上遠江守殿》
〽同年 甲府様へ御増地被進之
一元禄十六未年二月朝鮮国ゟ宗對馬守殿初而入国之嘉儀且又同姓刑部
大夫殿為悔?訳官両使并従者上官廿八人中官五十四人下官廿四人都合
上下百八人警固案内者對馬守殿家来二人船手二人一船乗二月五日之
朝順風ニて彼国出帆於洋中俄ニ難風ニ成對州ゟ四五里程之所漸乗
懸候へ共風波強着岸不成致溺死候訳官渡海之儀は先達而相知
兼而申付有之ニ付浦々ゟ船共差出候へ共大風波ニて船を寄申事不罷成候
惣而朝鮮船は唐共違ひ鉄釘打不申せん留計ニて日本船ゟも手弱ニ御座候
由此節警固の旧本船二艘共ニ前々ニ吹散され少々破損も致候へ共無恙六
里程脇大浦と申所へ吹付られ乗組候人数も存命仕候由朝鮮と對州
之間海上は殊外海荒く難所ニて六ケ敷渡海之由ニ候
〽同年十一月廿二日大地震 御城内外曲輪見付御門所々石垣等大破御普請
御手伝諸大名被 仰付 御城御普請御手伝申四月廿九日御礼時服三拾宛
松平大膳大夫殿 立花飛騨守殿 松平兵部大輔殿 鍋嶋摂津守殿 戸沢上総介殿
永井日向守殿 松平采女正殿 加藤遠江守殿 小出伊勢守殿 松平備中守殿
有馬摂津守殿 伊東大和守殿 稲葉能登守殿 黒田伊勢守殿 秋月長門守殿
六郷伊賀守殿 酒井靱負佐殿 戸田能登守殿 毛利周防守殿 伊達遠江守殿
水野監物殿 内藤駿河守殿 松平右衛門督殿 丹羽左京大夫殿
右自分拝領物并家来被下物例之通外ニ 時服六《割書:内一|御紋付》吉川勝之介
〽同年紀州様御屋敷御類焼左京大夫様御屋敷同断
一元禄十七申年二月四日松平越後守光長卿九十賀御刀《割書:青江吉次|》三種
二荷献上《割書:御内々ゟ御差上|》宝永四亥十一月十七日卒去九十三歳也
〽同年十月伯楽橋本権之助と申仁犬を損さし死罪ニ被行此儀ニ付御触有之
〽元禄十五年被 仰出本田畑ニ多柴紛作候儀仕間敷由相触候処追々多
柴紛作出候間来未年ゟ当年作半分作り可申候
右以後年々作り候儀減候様被 仰出有之宝永元申年も右之儀被 仰出候
〽同年十二月 甲府中納言家宣公御養君被 仰出則西御丸へ 入御
両上様と奉称 一位様 御䑓様 御簾中様諸大名献上者十二月
【右頁「御手伝諸大名」の上に朱筆】
《割書:西之丸御手伝|松平大膳大夫|毛利周防守|伊東大和守|秋月長門守|戸田能登守》
【左頁「両上様」の上に書込】
《割書:乗邨按ニ|西上様歟》
廿一日年始之通御祝儀御礼有之来酉年始ゟ 御本丸登 城之面々
西御丸へも登 城可有之也并参勤之節 西御丸へも献上物被仰出候
諸大名歳暮之御内書翌酉二日出候節 西御丸へ献上之御奉書初而出ス
〽同年壱万石宛御加増 《割書:本多伯耆守殿|秋元但馬守殿|松平右京大夫殿》五千石御加増 稲垣和泉守殿
【本多、秋元、松平を結ぶ線あり】
乗邨再按に此書は元野垣氏の蔵書也今の鉄之助ゟ四代先の
吉右衛門と云し父は濃州高須ゟ養子に来る人ニて其家元より記
念ニ送たる物と聞ぬ尾州家の御城使を勤し人にて有之故記録
せし物とそ都合十巻にありしを上の五巻《割書:則此書也|》鈴木氏に送りたる
かいかゝせしか今はなしとそ末の五巻は今野垣氏に秘蔵あり
【朱筆】
《割書:乗邨鈴木氏ニ贈ルと|いふ上の五巻は則|此書成かし本文ニ|書しか是は野垣氏ニ|伝へし五巻之内也|宝永より末は巻百|廿廿一にうつし置合せ見へし》
《題:鶯宿雑記 八十》
鶯宿雑記巻八拾草稿
結城白川系図 《割書:此書は久来石村農夫か伝来せるよし証拠と成へき|なれはうつし置常足君の許より見せられし也》
一 結城二ツに相分レ白川小峰城を築住居す太平記に結城入道道忠
伊勢阿濃津にて討死東海道にて忠翁地獄の責を請候事往来の
僧慥に見候故白川へ下り忠翁子息へ訴候故子息為菩提に遊行
派の一寺建立す是を小峰寺と云也年月を経て太閤秀吉天下を
治給ふ時自ラ関東奥州巡検被成是ゟ仙台政宗大坂へ伺公シ
白河へ立寄義親家来を以馬鷹を相添御前をは政宗を頼
登す政宗會津を奪取候事太閤大に腹立被成漸〻に退出す
依之義親の被頼たる御前の首尾も不披露仙臺に立帰る由扨太閤
巡検之砌長沼 日(イ新)国上総城内へ御休太閤御機嫌にて城内ゟ見る程【新国ニイクニ】
の処を地行すへき由被仰上総は中畠上野介督也シは反逆の一味今一
里を行過れは上野介嫡子中畠大学勢至堂馬ノ尾瀧に待伏し
て奉討ものをと思ひ太閤の御咎に御意之趣哀此事夢に成
候はすと申けれは太閤城を立給ふに城主はたわけものそふなと申され
乗物つらせ歩行立ニて通らる大学是をは不知して馬の尾瀧の茂ミ
に隠れ居て鉄砲にてから乗物を打抜太閤は勢至堂へ着給ふに柏木
隼人と云者御座候請し昼食等差上大勢の供廻りにも仕度致させ
太閤機嫌にて忝仕合共有しとそ扨太閤一天下に二人の田分ケ
有奥州迄巡検せし某と関東奥州にて吾を安穏に通せし
者と是也とて一笑被成北国へ御向被成しと也此古文に依て白川義親は
甲子へ引籠り中畠上野介は三春の田丸中務を頼ミ浪人す中畠大学は
會津の大守芦名盛隆か蒲生氏郷か《割書:此両守いつれ共|聢と不相覚》頼て浪人す頼む
処の大守軍陣発りて士卒に加はり廿八歳にて討死す此人抜群の
勇者たる由相伝ヘスカ(本ノマヽ)弟羽太兵助兵吉は年月有て仙臺へ奉仕す
其跡断絶す後家へ永楽五百文被賜候切紙若水方に相伝後まて
有之候ヘキ中畠上野介は殊外富貴成ニ付田丸是を貪り年八十有
余ニて何の働も不成を殺し財宝を奪取けると也其外白川七騎皆
一類散〻に流浪す白河七郎兵衛太田川小田川等の百姓中願を訴る
仙臺へ被召出白川弥七郎は佐竹に奉仕致すと歟聞伝ふ也扨又
関東結城は子孫無之ニ付 御当家越前の晴朝公結城の家御相
【上段書込み】
《割書:乗邨云仙|臺佐竹ニ》
《割書:白川家今ニ|勤仕古文》
《割書:書多伝来|あり》
続被遊候依之御紋も左り巴に三ツ首ヲ越前家には御一人結城を御名
乗被成候由先年松平大和守様白井権大夫を以水戸へ御家に結城
七郎殿と申有之由七郎の通り名は惣領ならては名乗かたき筈ニ候と尋
被遣候所に其御代黄門光圀公にて御返事ニ尤ニ候七郎儀父子召抱候
処藤原の嫡孫俵藤太秀郷の子孫小山氏断絶に及依之将軍
頼朝公八田武者所か娘寒河尼か腹に出生する処の男子を家督ニ
被成結城七郎と改名し百廿万石ニて小山の家へ被遣太平記時代には
三木一草と世上に呼候由《割書:三木は結城伯耆楠木一草は|頭千種中将なり》然るに俵藤太より
相伝せる渋染の系図并後醍醐天皇の倫旨新田義貞尊氏将
軍感状結城七郎老父 苟室(カウシツ)五十通次男相楽七郎右衛門四十通末子
《割書:日饒|父也》中畠七郎大夫十九通所持す依之家来七郎と相呼候其上大
和殿には結城末孫とは申せ共当時松平を被相置候へは敢て結城の穿鑿は
有之間敷歟と御返事也扨白川一家は右件之通落城しけるに三城目高
梨之城主中畠上野介か幼稚の小児を亀次郎と云四才なるを城中に
取残す三城目の百姓集り城下か釜か渕に沈んとするを中畠の家来
相楽孫右【衛門制して懐に抱き須賀川へ走り養育す加藤左馬助殿
白川被下置候砌孫右衛門亀次郎十五歳之時罷出右之次第訴けれは
永代百石の禄賜り郷士に被成候亀次郎治左衛門と改名す治左衛門か子
先は二人七郎兵衛次は甚左衛門唯今の須賀川甚蔵か祖父也《割書:結城微細|なる由緒は》
《割書:写本五六冊甚蔵か又は従弟浅川に可有之候此書は|甚左衛門作意いたし候某も少壮之砌致拝見候へ申候》治左衛門子二人とは慥ニ候へとも
外にも一両輩有之由にて系図にも女お瑠璃舘林宰相公へ奉仕すと
相見申候又下野佐野に春日岡とか申古地是は日光山の御末寺にて
【上段書込み】
《割書:乗邨按に|越前の晴朝》
《割書:公結城の家|御相続とは誤》
《割書:也晴朝の子|なきに依て》
《割書:秀康卿|結城晴朝》
《割書:の家督を|継せられし》
《割書:也|》
五拾石之御朱印有之山之三祖三海僧正は 権現神君御帰依ニ候
是亦縁有之ニ付相楽甚左衛門登山仕得尊意候 権現公ゟ拝領之
品〻拝覧仕候処乗鞍一掛賜候旨今に所持仕候事《割書:某十五六年前江戸|牛嶋妙源寺ゟ被申述》
《割書:佐野妙顕寺留守居職相勤候砌春田岡へ相尋法印へ致対談|石塔相尋候処に三海僧正の御石塔見出す也稽首仕候ヘキ》又はおるり又は吉田
小右衛門殿と申御旗本千石之禄にて御小姓組ニ候是は先年結城学
左衛門七郎父子浪人之刻御屋敷へ御引取御厄介ニ被成其後水戸へ被召
出候扨結城氏水戸へ被召出候次第は某七歳之時亡父七郎大夫三城目ニ詰人
にて居申候水戸宰相公ゟ《割書:黄門公御代之時未タ|宰相にて御座被遊候》御家中供之助三郎殿被仰付奥州
筋に多分結城の子孫可有之尋参れと有て已に中畠村両名主小
針岡崎宅にて御詮儀有之候処両庄屋則古城懸御目嫡男結城
学左衛門浪人にて六十二歳弟相楽七郎右衛門厄介にて住居仕候三男中畠
七郎大夫浪人は三城目百姓共先祖之主人故厄介ニ致し罷居候依之両庄屋助三郎殿
致誘引須賀川七郎右衛門宅へ御案内兄弟に御対面結城之系図文書逸之
御披見御飛脚被下置七郎右衛門学左衛門同道にて水戸へ罷上り候節白川は
松平下総守様御知行也此段致披露候へは七郎右衛門禄弐百石之風躰にて
止候様被仰渡候水戸にて登城光圀公御対面御城道筋へ盛砂迄仕被下
置候其上茶羽二重に舞鶴の家之定紋御付ケ御羽織七郎右衛門覚左衛門
七郎大夫三人へ被下置覚左衛門ニは苟室と法名を被下置無役にて中之
寄合ニ被成禄廿人扶持被下置子七郎を御小姓ニ被召出候卅五両ニ五人扶持
被成下候七郎は成人之後御刀番御徒頭御小姓頭御奉行御番頭まて
致昇進候初メは七郎又は大蔵又は数馬と改名す次テ高時数馬と申候
数馬か父数馬は御老中肥田和泉守殿息女おすよ殿と申一子も
出生無之妾腹に男子誕生今数馬にて有之也某か亡父七郎大夫若水
亡母は白川御城主本多下野守様御家中関次大夫女お源(ケン)傍観(ホウクハン)次大夫
子同名にて次大夫物頭迄罷進禄弐百石残る三人は早世する也七郎大夫は
本多家宇都宮御所出る之砌御暇申受江戸筋色〻奉公願候へ共不相
叶一生浪人にて後ニは須賀川へ引返し七十四才にて病死三城目済ミ江寺ニ【澄江寺のこと?】
位牌江山若水居士母は三春田川庄兵衛宅にて病死心荷【首?】傍観大姉
と申候中畠上野介殿御前へ御石塔并若水亡兄源兵衛石塔も三
城目村北面之山中ニ有之候□津?本法寺には其所他(本ノマヽ)砌若水位牌立置候
澄江寺には城主上野介殿御位牌有之候由諸書も有之候て澄江寺殿
一法善心居士と申候扨甘露慈門日饒も三城目住居之刻水戸へ向
ひ数馬召連水戸御屋敷小石川へ被召具其節谷中村瑞輪寺は
身延山の末頭にて大中院日孝上人在住是に入学致候処檀縁之内三春の
若殿秋田伊豆守様瑞輪寺へ御参詣之砌上の御茶湯山田清㐂老
御同座之時某御酌ニ罷立候処清㐂申談候趣此忰御城下橋本庄左衛門
弟之由にて御座候と申候へは伊豆守様被仰は手前は部屋住に候親類之
中松平遠江守殿可申込候侭清㐂にも内談被頼候得与被仰候故早速築
地御屋敷へ御出被仰込清㐂老も家老大久保武左衛門内証被頼早速
被召出奥小姓にて拾両に五人扶持四度の御仕着朔日十五日廿八日佳節
之料理代共に賜り候遠江殿には四品にて 権現神君之御縁有之
御譜代之座上左は遠江守殿右は松平和泉守殿御歴〻にて候御城下
信濃飯山へ供仕終年御奉公相勤候処病気ニ罷成暇取遠親類
御組之与力衆之隠居細川六郎右衛門本郷丸山隠居所へ三年厄介ニ罷成候
病気弥不快三城目へ罷帰養生相叶候処御存念之通矢吹へ罷越候
夫ゟ房州小湊へ出奔致し小湊貫主日孝上人は初谷中瑞輪寺
住職已後下総飯高檀林之能化ニ相勤候俗姓は織田信長公の浪人
之子息にて京都松葉屋長左衛門後生子ニ被改越前国日琢上人の弟子ニ
被成十六才にて京都深草瑞光寺元政上人弟子ニ被成此元政法師は井伊
掃部様御家人廿七才にて発心後武州池上貫主日峰上人之御弟子にて
宗門始而弐百五十戒之律議を建立被成和漢之才に達し文章は近
代学生之評判にも日本開闢已来文章の棟梁は菅家元享釈書
之作者ニは禅宗の虎関和尚扨元政上人に越たる文雅は無之由ニ
申伝候尤元政の文草草山集卅巻其外仏書等数十巻作被致候
廿七之出家四十六才之示寂不思議は御徳有之候日孝上人其弟子にて
水戸黄門公ゟ資縁金被下置候又仙臺御門李【閑子?】解之院家并松葉屋よりの
資縁にて出世被致房州小湊は祖師日蓮大菩薩御出生之霊地ゆへ
寺号も小湊山誕生寺と申候八年御住山六十七歳にて御示寂被成候御一
生之御作水雲集先開板之分若干巻之内二巻世に流布致し是は
詩文にて御座候釈氏蒙求或は宗祖之御書と申て銀内百四十八通之内
五大部等片仮名を漢文ニ翻訳被成置候手跡之文【義?】は一宗にて古今之
能書ニ有之候身延山へ入草被致候人に候へは一両年寿命不足にて小湊
切にて遷化被申候私十一才之年ゟ高恩言語ニ難申尽奉存候唯今明日は
相果候はゝ必御尋申候詞被成共御 次思(本ノマヽ)奉謝奉願候我等事は御遷化已後
資法日貞師へ野木伊右衛門子息頼申込候へは任其意殊更ニ伊右衛門殿より
資縁結り水戸久昌寺の檀処へ横入致し文句ノ御請(本ノマヽ)蒙【家?】候日孝在
命之内当国大瀧妙【[幺+少」は「妙」の異体字】勝寺之後住被仰付候故時之住持老極故後住免候
と申来江戸牛込幸国寺日必上人は某兄弟子故若否を申候はゝ法類
中不残勘当可申候由ニて早速致出候処に御本寺小湊前不調者事
共ニ候然は此出家奥州へ返し中〳〵此筋へは参兼へき由先日行川本迹寺へ
住職致由依之傍?津?【傍?津?「本ノマヽ」】も相□ニ罷成候扨十四年ヶ年已然大野引越名主藤平
平右衛門屋敷看経堂供庵申九年已来百姓地借地仕罷?在候然ル?処ニ
九年以前ニ身延山ゟ御院主ニ御召御飛脚御直書并ニ満山の大梁為
惣代御弟子止善院大義院両人書面支度等江戸三ヶ寺之内下谷善
立寺被仰付候由院号も甘露院ニ被成も身延之御貫首六牙院日潮
上人は京都深草元政御弟子ニて日孝師之御弟子恵明上人之御弟子ニて
仙台孝勝寺之住職被成候能登国瀧谷日好上人と身延後職し
公事三年有之内に日好遷化依之日側?と公辺ゟ被仰付候然共身延之院主
之大役は若輩ゟ存事罷在候老病難叶御辞退申上候翌年江戸深川
浄心寺へ身延山御出一千部御執行之刻致出郷千部中御随遂仕御礼
申上候従是已前に長者町宇佐美金七身延参詣之刻紫御袈
裟之白地之裏ニ上総国大野村之住甘露院日饒上人ニ紫袈裟免
許之砌与之者也年号月日身延山日朝在判を被遊被下候宇佐美金七
御礼申上帰国之節持参被致候此儀は先達申遣候へ共 応門【応門「本ノマヽ」】候由緒相認
候序ニ書進入申候御存之通某は偏ニ兼?稽之為成ル発心ニ有之処
世間出世願候事曽以不仕□ニ候小湊ニて剃髪染衣仕候節も御経一
部をさへ読覚候京都深草へ引移り死期を相待可申候願之処ニ
日孝上人未タ年も中年ニ不満殊更幼少之節ゟ 虚日【虚日「本ノマヽ」】ニ生候へは中〳〵
深草昼夜六時之勤行難相遂可有之哉世間並ニ檀林へ新来致
年四十にも及安心之上にては深原山へ隠遁(本ノマヽ)も可然とて飯高へ被遣長く
世僧ニ罷成候然共只今存出し候ニ病身にては深草勤り申事ニ無御座候日孝
師暇事日潮師仙臺孝勝寺先〻住如満師皆〻関東担林御筋
御出世僧ニ御成被成候然共某は邪心に深草へも不参出世も不仕候へとも
宗門之大綱をも及はぬ迄も致勧学延山御院職も御召紫の
袈裟并上人号迄被下置候へは半出世仕候説法も八九十年已前本
込寺に於て一千座説法之開眼法養【羪】成就仕塔婆相立申候以後読
経学文題目修行仕臨終【修?】を相侍罷在候当年巳年七拾五才老病ニ
一両日病気少し相発り文字相忘不束成事共ニ候へ共為念御得意
漸〻相認候已上寛延第四辛未霜月十一日昼四ツ過ニ書始
夜六ツ半ニ相終候定六に清書為致進上申候様ニ可仕候へ共何様にても自
筆能候半と其侭致進上し微細は相良甚蔵方へ御頼彼仁祖父常
詠翁之御書記し被置候写本御覧被成彦六へ為相写可被成候上中へ
も申進候通会律之学生書記候四家合考は殊外詮義被致候と
相見え候併中畠上野介を白川之家来と書しは恐くは誤ニ候
一 中畠知行所并家来帳之写《割書:松倉村 須乗村 新屋敷 中村 神田村 古畑村|松崎村 田新田村 明岡村 中ノ目村 堤村》
《割書:中畑村 三城村 成田村 久来久村 笠石村|矢吹村 大輪久村 踏瀬村 太田川 小田川 聢と相覚不申候》
一 侍帳は大半不忘致候三城目中畠等之百姓には大勢中畠へ家来
筋有之候以上中畠三城目へ引退し已後四万石余之分限ニ有之候由也
家老家名抔は致失念候侍は須賀川相楽孫左衛門殿家来雇【ニ付?】同心
を存し治左衛門殿相楽を被相名乗只今迄相楽名字也三城目にて
相良名乗候百姓御座候同所和泉川孫右衛門先祖は侍大将之由伊藤重五郎
先祖等勿論ニ有之候へ共覚えし【し者?】様子有之候故先様も先祖咄不仕候
先〻之庄屋七右衛門とやらん申候是も家名失念其外神田堤所〻の
侍之家名致失念候太田儀左衛門先祖勿論也白川四家之家老
芳賀船田和知班目是也先年水戸七郎大蔵と申時下野片鄙ゟ
百姓参り奉公相願侯感状壱通所持仕候 当於戦場無比類
手柄知行何程与之如件
年号月日結城大蔵大輔在判
等シ【?】て丹波守殿
結城父子是を拝見して召抱中間奉公仕其後遠江守殿へ罷在候砌
召抱市左衛門と申して召遣ひ候か様成事も有之候
一 又申入候此先祖書に付例之詩作有之候へ共便宜急ニ相成其在不忘不快
右追而可致進上候以 上総国東【夷カ】隅郡大野邑
寛延四辛未六月十一日 甘露院日饒判
〽昔建長寺の廣徳菴に自休蔵主といふ僧有奥州信夫の人也江嶋へ
百日参詣しけるに雪下相承院の白菊といふ児是も江嶋へ参詣し
けるに自休蔵主邂逅してけりいかにもして忍ひよるへき便を以ひけ
れ共絶て其返事たになし猶さま〳〵いひ聞えぬれは白菊詮方な
くて或夜訪れ出て又江嶋へ行扇に歌を書て渡守を頼み我
を尋る人あらは見せよとてかくなん
白菊と忍ふの里の人とはゝ思ひ入江の島とこたへよ
又 うきことを思ひ入江の島かけに捨る命は波の下くさ
と詠て此渕に身を投たり自休尋来て此事を聞斯思ひ続けける
懸崖嶮処捨_二生涯_一 十有余霜在_二刹那_一花実紅顔砕_二岩石_一
峨眉翠黛接_二塵沙_一衣襟只湿 ̄フ千行涙扇子空留二首 ̄ノ
歌相対無_レ言愁思切 ̄ニ暮鐘為_レ ̄ニカ誰促_二帰家_一 又歌に
しらきくの花の情の深き海にともに入江の島そ嬉しき
と詠て其侭海に沈むとなむ故に児か渕と名付と也岩の間
に白菊か石塔有右の詩歌は滑稽詩文に載たり自休か像
は法善堂に有と鎌倉志に見えたり乗邨鎌倉に遊ひし時此
児か渕にも廻りしか俎板岩掃除波も此側にて旅人鮑をとらし
めて興する処なり
一 北村先生寄合被 仰付弥栄有之事共御同悦ニ候
老公御吹挙にて諸侯方追〻御門入目出度御代ニ候しかし集し
為ニは先生隙の方よろしく候依而歌合被 命候とて
老公遣はされ候御詠
おしもあれ月もさしての磯千鳥さやかに千代の数やよまなん
十徳切御肴添て被遣候へキ此 御詠は当春向南の歌に
君か代に月もさしての浦千鳥しられぬ浪の砂かくれつゝ
といふ述懐の歌に寄せて歟と窃【竊】に恐察仕候也
向南御いらへに
君か代に今はさしての磯千鳥さやけき月の影をたのみて
右は御歌所北村季文先生《割書:北村季吟|之孫》寄合に被蒙 仰候
砌月堂よりの消息の奥に見えたれはいたつらに反古に
せんもほいなく書留畢ぬ
一 寛文五年己巳正月二日大坂雷雨後戌刻御天守の北鱐隆?ゟ雷火燃
上り焼失其節御当城 御城代 青山因幡守宗俊
御城番《割書:京橋口|》板倉内膳正重矩 《割書:玉造口|》 渡部越中守吉綱
加番 土井信濃守利直 仙石越前守政明 松平佐渡守良尚 遠藤備前守常友
大番頭松平豊前守勝茂 岡部丹波守長資
右之夜豊前守組榊原源兵衛 丹波守組竹内三郎兵衛両人御天守
燃上り候最中三重目迄上り御下知状并御馬験無事に取出し
両人共髪毛寸【才?】切と焼其侭にて江戸表御注進として早追にて罷下り
侯処直ニ 御前へ被召出御褒美にて 上意之上にて両人共御加増
拝領之由
一 寛政四子年三月九日申渡之覚
伊奈右近将監【伊奈左近将監カ】
其方儀養子半左衛門去年十一月検見先ゟ出奔之処押隠し罷在同十二
月中其方差扣被 仰付候節半左衛門義差扣之義取扱為相伺已ニ
御目通遠慮をも被 仰付候其方差扣中は半左衛門御用相勤候抔届
等差出候義共旁御後闇次第ニ候一体先頃家来共申合不届之
始末有之候も其不行届故之儀拝借上納御差延之儀ニ付ても不憚
儀等申立常〻身持不取〆りにて家来咎筋有之節取飾之儀共
相聞不届ニ候へ共家柄之訳を以聊御宥恕之品も有之候処半左衛門出
奔之儀久〻其分ニ打捨置当正月ニ至届も差出し則近親えも
初而及相談候趣ニ相聞候半左衛門養方血縁之事ニ候へは猶更厚く
取計可申処養家へ対しても不実之次第彼是重〻不届之儀ニ
付厳重御仕置も可被 仰付候へ共累代之勤功も有之義故猶も御
憐慈候以御沙汰知行は不残被召上末家伊奈平十郎惣領伊奈
小三郎へ新規ニ千石被下家相続候様被 仰付候尤小三郎は養子
之沙汰ニ無之候間其方は実家板倉周防守方ニ蟄居仕可罷
在者也
右今晩於評定所大目付松浦越前申渡町奉行池田筑後守御目付
矢部彦五郎立合
《割書:小普請組近藤左京支配|》伊奈平十郎
《割書:平十郎惣領|》同 小三郎
本家伊奈右近将監事重〻不届之次第有之候ニ付厳重之御仕置ニ
も可被 仰付候へ共御宥恕之御沙汰を以知行不残被召上実家板倉
周防守方ニ蟄居仕可罷在旨被 仰出候然共先祖已来累代之勤功
も有之故血縁の事ニ候へは小三郎へ新規千石被下彼家相続小普請入
被 仰付候然ル上は右近将監は養父子之沙汰ニは無之候間可存
其趣候且又平十郎は次男幸之助義を惣領に可仕候
右今晩於和泉守宅申渡老中弾正大弼列座大目付安藤大和守
御目付堀主馬相越
三月十日
関東御郡代兼帯被 仰付候 《割書:御勘定奉行|》久世丹後守
右於芙蓉間和泉守申渡老中弾正大弼列座
乗邨按に右伊奈右近将監様は始は至而賢才之御方ニ聞え既に
天明六丙午年秋関東洪水之節は御執斗之能を被賞候由にて
被任摂津守其後も郡中にては半左衛門様〳〵とのみ称候由にて
又半左衛門尉と成給ひしか後に右近将監に成給ひ世挙て
褒称せし御方なりしか右之如くにて後には高野山に入
給ひし由粗承りき
一 紀州羽順鹿嶋風玉三郡之内村〻へ去八月比ゟ鼠夥敷出候て田畑を損并
野山草木の根を喰荒し最初は風玉郡名母村と申処の山ゟ鼠相
見え候茅の根等を喰荒申候海ゟ上りし哉土中ゟ出候哉又は何そ化候而
鼠ニ成哉【外?】其後は相知不申候是ゟ段〻鼠夥敷罷成三百九十ケ村ニ
及申候而田畑を喰荒候ニ付追狩又は火にて鼠穴を焼或は落穴ニ
餌を付置候へ共少しならては取レ不申田へ仕懸候へは鼠も水を得候て
弱り申躰無之雪降申候はゝ鼠減可申儀可有御座候哉と見合候処
当春ニ至り候ても減不申此間人家にも鼠相見へ申夜中又は人音
の静成時分出候而田畑を喰荒申候
一 能州河内村百姓共所持之牛馬之内十疋当正月下旬ゟ背筋
平首へ疵出来斃申候厩之内鼠多く出来候故鼠付斃候やと存候
一 鼠常之鼠ゟ尾短く鼠ちいさく口ばし尖り申候色は常之通ニ
御座候又は赤き色朽葉色も御座候鼠に大小御座候右は二月十八日
申来候其後鼠増減之義は相知不申候
一 堺奉行水谷信濃守様御仕置方殊外宜御座候由誉申候堺え
御出被成候而同所之与力へ料理被下候由汁ざく〳〵焼物赤鰯香物ニ
て御座候信濃守様御出何も?へ?被仰候は今日料理進申候 上ゟも
【上段書込み】
《割書:乗邨按ニ|紀州に本》
《割書:文の郡名|なし別》
《割書:国名の書|損るにやされ》
《割書:共鹿嶋といへる|常陸の郡》
《割書:名に有のみ|羽順風玉》
《割書:といへる郡|》
《割書:名更になし|されは書損》
《割書:成へし又い|つの頃にや》
《割書:不詳|》
段〻料理被仰出候上は物入之料理可致様無之扨今日之焼物い
つれも気を付可参候此赤鰯と申物は焼にくきにて候拙者随
分念入自身焼申候第一焼様にて首落腹切申ものにて候兼〻致
工夫焼不申候へは右之通ニ候間常〻いつれも宅にてやかれ候共急用首
落不申様焼候へは一入風味も能候間左様可被相心得由被仰候由是
は兼〻与力殊外奢り候而町人共ゟ金銀を借終には返進無之
色〻悪事等間〻有之故右之通被成候風聞に御座候信濃守様
堺へ御越被成候節御供一人も不被召連住吉表迄御越辻駕籠に
御乗駕籠舁之者へ堺奉行仕置之事御聞被成候先肩の者は
今度之御奉行能捌くと風聞克候第一軽き者之為能候よし
申候へは跡肩の者申候は成程あの通ニ候へは随分能御奉行様とよばひ
候へ共尻ぬるみ候へは次第ニあしく御成候故今度の御奉行も先へ寄候而は
相知レ不申候由申候夫ゟ御屋敷御玄関へ舁寄候由駕籠かき殊外肝を
潰し候由御用人を召駕籠舁共へ鳥目壱貫文被下候由
一 当月八日新吉原三浦屋内高尾へ榊原式部大輔様御出被成候由世間
一統の評判板行にいたし江戸中売申候尤無縁坂御中屋敷へ六月六日
八ツ時吉原を出七ツ時過に入申候供之女十四人召連申候三河町有馬や
清右衛門方ゟ其節日雇人足遣申候尤右女中の焼(タキ)出しは米屋久右衛門
受取無縁坂下町屋を借焚出しいたし候由
一銀百枚 一紗綾五十巻 一縮緬五十巻
右之通式部大輔様へ献上いたし候由
一八百両高尾受出金 一四百両惣家来礼金
一千弐百両六月七日夜吉原惣女仕込料 〆弐千四百両と云〻
乗邨按に右之高尾の事より榊原侯播州姫路を被転
越後高田に得替と云〻いかゝして持伝へしや越後蒲原
郡寺社村之長《割書:大肝煎|》小菅左内か家に榊原侯の高尾に
送られしといへる硯箱有堅地の金梨地に源氏車の紋
を高蒔絵にして荵のあいしらい有予も巡村之砌左内
か家にやとりて見しか尋常のものとは見えす
一 右之条認めしより風与思ひ出せし寛延四未年之事のよし越
後高田大地震榊原侯御届の写有しを爰に記ス
私在所越後国高田四月廿五日丑刻地震ニ付城内并家中
屋敷城下町在破損之覚
一侍屋敷百五十七軒潰 一同四十四軒大破
一切米取長屋六十三軒潰 一同八軒大破 一足軽長屋六軒潰
一侍并足軽当時屋鋪無之町宅ニ差置候宅五百軒余潰
一家中死人三拾三人《割書:内男十五人|女十八人》 一町家中在共ニ怪我人多御座候
一町家弐千九百廿弐軒内《割書:弐千四百九十六軒潰|参百廿六軒破損》
一町方土蔵百九十六ヶ所内《割書:四十六ヶ所潰|百五十五ヶ所破損》
一町方死人弐百八十弐人内《割書:男百八人|女百七十四人》
一宿役馬弐疋殞 一怪我馬八疋
一町方商売酒油惣而水もの器破損失多御座候
一地震之節町方火事三ヶ所
但三町計一ヶ所片側弐町計其外家数拾軒計焼失
一神社五ヶ所社家共ニ潰 一寺家廿七軒内《割書:十三軒潰|十四軒大破》
一寺地六十九ヶ寺内《割書:三十八ヶ寺堂塔并境内大破|三十壱ヶ寺建家不残潰》 一修験者八軒潰
一寺社僧俗死人卅七人内《割書:男廿三人|女十四人》一領中山崩川欠四百七拾三ヶ所
一林三ヶ所 一用水堰堤川筋破損百六十八ヶ所
一右水難にて損失之村八ヶ村外荒川《割書:二字|不詳》壱ヶ所
一郷中潰家弐千九十九軒 但し焼損家共
一半潰家三千百六十六軒 一在中死人五百五人内《割書:男弐百四十五人|女弐百六十人》
一同生死不定之者弐百卅弐人 一同死馬八十五疋 一同在中病馬六十弐疋
一同死牛十弐疋 一同寺百ヶ寺内《割書:四十三ヶ寺潰|五十七ヶ寺半潰》
一同社廿四ヶ所内《割書:六ヶ所潰|十八ヶ所半潰》 一堂十五ヶ所内《割書:九ヶ所潰|六ヶ所半潰》
一塩屋百三軒内《割書:廿弐軒潰|八十壱軒半潰》 一郷蔵四ヶ所内《割書:弐ヶ所潰|弐ヶ所半潰》
一計蔵六ヶ所内《割書:四ヶ所潰|弐ヶ所半潰》 一樋拾ヶ所潰 一橋五十弐ヶ所潰
一高札場三ヶ所潰 一往還道筋破損五十四ヶ所
一苗代皆無十壱ヶ村 一苗代壱分通ゟ八分迄損候村方百六拾ヶ村
【「-」の右に書込み「本ノマヽ」】
但此九ヶ村之内長濱 - 馬川等虫生岩戸村と申四ヶ村は北国海
道にて四里程之間山崩往来道筋并村共ニ山之下ニ相成往来
一切相成不申候
一田畑壱分通ゟ九分通まて損候村方百七拾ヶ村
一大瀁郷用水水口通保倉川筋へ抜落大破 一堤ヶ崎溜池大破
一矢代川筋大破田畑所〻損失 一鉢崎佐渡金蔵大破
一同所御関所外往還之道山抜にて大破
一塩濱三分一通山之下ニ相成候村方壱ヶ所
一潰家半潰家共〆九千百四十八軒外長屋七十七軒半潰共
一死人共八百六十七人外ニ弐百六十弐人生死不定
一死牛馬九十九疋外ニ六十疋病馬
右之通先達而御届申上候通在所地震にて領分町在田畑苗代
損山崩用水堰道橋損并城中侍屋敷町在潰家死人
右之通ニ御座候且城内破損所多御座候別紙を以御届申上候田畑
損毛高之儀取納候上追而可申上候
五月《割書:寛延四未年也|》 榊原式部大輔
右之地震の事今の多々良?五蔵か祖父惣蔵は高田より養子に来る
人なりしか此地震之節初年にて怖しき限り覚えしと毎度
咄しを聞候事なりし立て歩行する事ならすいつれも這出たりし
との物かたり聞候事也 乗邨
一 寛文八申年二月十八日寺院へ従 公儀被 仰出
一梁行京間三間を限るへし但桁行は可為心次第
一仏檀角屋京間三間四方を限るへし
一小棟作りたるへし 一四方しころ庇京間一間半を限るへし
一壁木作より上の詰構無用たるへし
右は堂舎客殿方丈庫裡其外何にても此定より梁間広く
作るへからす若広く可作子細於有之は寺社奉行所へ申伺可任差図事
一 宝暦四戌年閏二月廿六日御用番酒井左衛門尉様御渡被成惣而
御咎被 仰付候者之一類共ゟ差扣伺差出候覚
御役被召放候者 父子兄弟祖父孫 閉門逼塞 同断
遠慮被 仰付候者 忰 押込其身計
右之通相心得此外之親類共ゟ差出候ニ不及尤養子抔ニ相成続キ
遠く侯歟又は続無之候共実書面之通之続有之候はゝ伺書可
差出事
重き御仕置等被 仰付候節は只今迄之通相心得可申候
一 御在所交代場所
《割書:城州|》淀 稲葉丹後守 《割書:丹波|》亀山 松平紀伊守 桑名 松平下総神
《割書:和州|》郡山 松平甲斐守 《割書:近州|》膳所 本多隠岐守 《割書:勢州|》亀山 石川日向守
《割書:豊後|》杵築 松平駿河守 《割書:石州|》津和野 亀井能登守 《割書:三州|》刈屋 土井山城守
《割書:同 |》府内 松平長門守 《割書:同 |》濱田 松平周防守 《割書:勢州|》神戸 本多伊豫守
《割書:摂州|》尼ヶ崎 松平遠江守 《割書:肥前|》嶋原 松平主殿頭
《割書:泉州|》岸和田 岡部美濃守 《割書:同 |》唐津 小笠原佐渡守
一八月廿八日西丸ゟ鎌倉迄遠乗被 仰付候覚 《割書:年号不知追而可考|》
一当朝明七ツ時土圭之間え揃七ツ半打候はゝ直ニ大手へ罷出御馬ニ
乗直ニ出候事
一道筋江戸ゟ左之方往来小荷駄等片寄通候間騎馬之者
江戸ゟ右之方え乗候事
一品川札之辻ゟ鎌倉迄半道ニ一ヶ所宛御馬口洗水差置人足
付置候事
一道筋橋道共ニ悪敷場所ニ其所〻ニ竹赤紙付置候間其所は地道ニ
乗候事
一横道有之処縁張いたし置所之者出し置候事
附馬之者道筋相尋候はゝ挨拶いたし候事
一戸塚宿中程ニ板橋有之候其際ゟ左へ入鎌倉道へ罷越候事
一暮六ツ時迄にニ罷帰候はゝ御馬牽御庭へ罷出候事
但暮六ツ時已後ニ罷帰候者は御馬大手にて御馬かたへ相渡
自分計御殿へ罷出候事
一鎌倉八幡下へ御口之者罷越候間右之所へ所之者四五人指出候事
御城入壱番 花山月毛 西丸御小姓夜五ツ時 水野内膳正
同 弐番 田辺星栗毛 同 三村摂津守
同 三番 入間鹿毛 同 天野阿波守
同 四番 見谷内河原毛 西丸御小納戸 飯塚主水
同 五番 三春星月毛 同 落合郷八
同 四番(本ノマヽ) 三春青星 御馬預 村松四郎兵衛
同 四番(同 ) 大河原毛 御下乗 岩波仲右衛門
四ツ時何も罷帰
一八幡拝殿ニ名前書付有之銘〻致印形罷帰申候
一罷帰 御城へ罷出候節御酒被下置候何も追〻罷出殊外
労罷越候処水野内膳正少しも労之体無之翌廿九日被為
召金三枚為御褒美被下置候
一 市川孫右衛門様御代官所信州三塚村瀬下七左衛門母行年九十二歳
一女《割書:八十歳|》二男《割書:七十七歳|》三女《割書:七十才|》四男《割書:六十九才|》五男《割書:六十七才|》六女《割書:六十三才|》七男《割書:六十一才|》
八男《割書:五十八歳|》九女《割書:五十一才|》嫡孫《割書:六十四才|》凡而孫四十七人曽孫百十九人玄孫五十七人
都合弐百拾壱人
一 原新六郎様御代官所上総国蓮沼波打際新堀村と申処へ亀子を
生む数百十五但親亀大サ七尺程右亀子を温め申哉毎夕七ツ時過
【上段書込み】
《割書:乗邨按|九十二歳ノ一女》
《割書:八十才は疑はし|書損成へし》
海ゟ上り翌朝六ツ時過迄罷在夫ゟ又親亀海中へ帰候由六十年
已前右の通子を生み候へは七年程豊年続候由只今竹虎落結ひ【竹虎落たかもがり:竹矢来】
人をよせ不申候由《割書:年月不相知|》
一 所〻七本遣之覚
鳥居四郎左衛門 大原左近右衛門 矢田作十郎 蜂屋半之丞 大久保七郎右衛門
大久保治右衛門 高木九助
右永禄三年尾州石ヶ瀬七本鑓織田家と御一戦之時
大久保新八 大久保甚四郎 大久保七郎右衛門 大久保治右衛門 阿部四郎五郎
杉浦八郎五郎 杉浦藤四郎
右天正十二年尾州蟹江七本鑓瀧川と御一戦之時
中山助六《割書:勘解由事|》朝倉藤十郎《割書:後筑後守|》戸田半平 太田善大夫
辻太郎助 鎮目市左衛門 小野次郎右衛門
右慶長五年於信州上田七本鑓真田攻之御時
津田孫三郎 織田造酒丞 下方弥三郎 岡田助右衛門 佐々隼人
佐々孫助 中野又兵衛 以上七人織田信秀之臣
右天文十六年三州小豆坂七本鑓 織田家と今川家戦之時
加藤孫六《割書:左馬助|》加藤虎之助《割書:肥後守|》福嶋市松《割書:左衛門大夫|》
糟屋助右衛門《割書:内膳正|》脇坂甚内《割書:中務|》片桐助作《割書:市正|》平野権平《割書:遠江守|》
右天正十一年江州志津ヶ嶽七本鑓秀吉柴田家戦之時以上七人秀吉臣
一 時服六ツ 脇坂中務大輔
朝鮮国御用筋并宗對馬守家政之儀心添最早不及其儀候
年来骨折今日被下之候旨老中列座出羽守申渡ス
右之通当春正月廿八日の御沙汰書に《割書:文政三|寅年也》見えたれは脇坂侯先達【文政三年は辰】
朝鮮聘使之節宗家御初年ニ付御心添被蒙 仰既文化八
未年對州へ御詰被成候へキ其後寺社御奉行御退役に付右御用
も被蒙 御免候様承候へキか全く風説にて此度 御免之儀と見えたり
一 寛保年間 有徳院様隅田川筋へ御成之節木母寺へ被為入候而
梅若の古蹟 上覧有之 還御之後梅若之実説を林大学へ
御尋有之候へ共何の明証も無御座由申上ける浅草観音別当伝法
院は古き寺なれは書置し書物も可有之哉と御尋有之けれは伝法
院ゟ書付を差上候由昔 台徳院様御治世之節迄は今の浅草御門は
いまた立不申候時今の馬喰町には浪人馬乗其外馬喰の住居にて御座候
由其馬喰の中に成平と申馬喰御座候名字は詳に知不申候由此成平
殊外大力にて自余の者七八人にて持候程の大石なとを自由に取廻候由
成平力自慢して所〻の角力と申候へは罷出相撲取申候か此頃又浅
草観音の辺に梅若と申相撲取御座候て勧進相撲の関に勝申候
由梅若は角力上手にて御座候由成平承及候処に本庄今の業平
天神の辺にて勧進角力有之梅若も出候由成平承り早速彼相撲場へ
罷越梅若を相手に相撲を望候也梅若はさして力量は無之候へ
共奇妙の上手也下手なから力強き故成平は梅若を只一つかみに
せんと待懸たり行司団扇を取直しすはや取結ふと見えしか成平
両手を伸て梅若をつかみ遥にさし上ケ土手を三偏廻り大地へ梅若
を打付けるいかゝしたりけん梅若はつつ立上り両手を開てヤアと呼ふ
成平其侭仰向に打倒されたり是は梅若は上手にて成平に投られ
し時成平か胸板を足にて蹴破りし也其時成平口惜や我等其
方に殺されし事かへす〳〵も遺恨なれ我死なは七日の内に其方
を取殺さんといひて死しけり果して梅若は成平に取殺されしよし
梅若か死骸は今の木母寺に葬り木母寺其時は道心者坊主の
庵にて有之候を段〻取広め梅若か墓有之候に付文字を片と
作りをわかちて木毎寺と名付て寺となしける由夫を今は木母寺と書
替し由扨又成平は彼角力の辺に葬けるか其後成平か霊現れ本
庄辺の町方へ祟りをなし候故所の者恐れて天神に祭けるか霊もあ
らはれす止ぬ今はいかなる事にや梅若丸とは公卿の嫡子の由申伝ふ
成平もいつしか在原中将業平朝臣の霊の様に申ならはす事
是又異説也
右の説は江戸金砂子に沾凉かいへるとも又小異也扨謡曲に作たる梅若の人
商人の手わたりて隅田川に没したりし事は全く妄言なるへけれと我白川
城東北に二里隔て泉崎といへる村の内人買惣太といへるものゝ住し跡
とて今に惣太屋敷とて人も住す荒野と成て有是彼梅若丸を
衒わかせし人商人也と此縁によて今も泉崎の里人隅田川に行は
必禍有とてゆかぬよし其里人の物かたり也泉崎の内岩崎といへる
に此惣太か末なりとて梁にあるしも見ぬものを結付てをくと聞ぬ
一 青山因幡守殿大坂御城代之時家中に石井宇右衛門といふ者は年頃五十
はかりにて物毎相心得人品いみじき振舞なれは侍輩中迄も敬ひけり
然るに西国方に赤堀源五右衛門といへる浪人廿歳余にて日来有付を
かせけ共思はしくもなかりし其知人の何氏にものし何卒其方親類の
宇右衛門を便として青山殿の御家中か又は東国辺の似合敷事も哉と頻ニ
頼けれはいざとよとて消息を添宇右衛門方へ越けり宇右衛門事の由を聞届
士は互の事なれはとかく因縁時節あらんに先忰三之丞方に休息し誰〻共
隔意あらせなとて身内同前に介抱せられけり源五右衛門居馴染家中の
若き衆中出合鑓の師と成り爰彼所もてはやされしに或時宇右衛門
密かに源五右衛門を招き某も若き時ゟ武芸にとや角と心を尽し
冥加に相叶殿にも鑓の御指南を申家中の誰彼も弟子にて有し
か其方の鑓此頃物蔭より伺ひ見しにいかにも未熟にも見え候若は功
者あるものゝ見咎んも心うけれは止給へと有しかは辞には承引して更に
止さりしを又の時士一途のかせきは障なし武芸の事は上なき物なれは
却て人の褒貶も抔と事の訳を立て異見せしに然は貴殿の御指
南に逢度とて稽古鑓を取出し所望しけれはいや無用の事也誰の負て
も品あしゝと辞しけれと達ての望にて一合せせしにヤアといふ聲の下にて
胸したゝかに突れけれは今一合せと有しを一向に押止しに気色かはつて望
しをいなみかたくて又合せしに其侭長柄を踏落されてけり源五右衛門
いか計口惜事に思ひ此意趣晴さんと隙を伺ひ有しに頓て夜戌刻
計宇右衛門城ゟ帰りし折しも春雨の雨具調へ何心なく通し処を
源五右衛門小薮の蔭より飛て出鑓の意趣覚たかとて小鑓にて胴腹
を突通せは宇右衛門刀抜しかと木履くじけて打倒れしには僕は怖敷
事に思ひ其侭宅へ駆戻りか様〳〵の事と告けれは三之丞を始家来
不残翔付漸に助けて帰りしかと大疵なれは得もたまらす次男半蔵は
五歳三男源蔵は弐才共に幼稚なれは母随分に養育せよ兄三之丞
十八歳の事なれは腕に実も入し侭父の敵を討て廟前に備へよと
いへるを最後の言として其夜終に空敷ありぬ三之丞は右之趣殿へ
言上せしめ免許状を戴き年疑若党一人召連いつく共なく出て
廿二歳の春迄東西南北の国〻山を越海を渡りて尋しかと知さりし
余りの事に思ひ源五右衛門継父赤堀遊斎といふ医者大津に在
けれは此者を討て高札を立科なき遊斎を討し者は石井三之丞也
親の敵をとらんと思はゝ美濃国何村の何氏か家に来れ赤堀源
五右衛門へ参ると書たり扨夏にも成しかは三之丞は美濃国の何氏か広
庭にて行水しけれは四五丁も続し竹薮の内ゟ源五右衛門駆出て親の
敵覚たかとて肩先ゟ切けり三之丞日頃待受し事なれは心得たり迚
腰元に持せし脇差にて抜打にしけれは源五右衛門か背と覚し処をは
払ひ切にしてけり三之丞大疵なれはたまらす即座に死しけり附添し
若党何なふ口惜事に思へ共源五右衛門行方を見失ひし事なれは
無是非本国に立帰り次男三男に事の段〻を言ふくめ両人も
漸成人して諸国を駆廻りけるか源蔵廿三才の時少し事の端を
聞し故亀山城主板倉周防守殿家中二百五十石取之旗大将下村
孫左衛門へ森平と名を改め草り取に住身を尽し骨を砕きて
仕へし故主人も無他事不便かりし同家中の誰〻にも見知られし中
にも赤堀水右衛門とて百五十石取しものゝ方に森平か家来の者を
若党奉公に住せ候間一入懇?に出入せし元禄十三年の夏の事にて
有しか孫左衛門ゟ水右衛門方へ用有て森平を遣はせしに水右衛門行水
してけり日頃憐愍をくわへし森平なれは呼よせ背を流させしに
背より腰に至り以の外の疵の跡あり森平か曰是はいか様の疵に
ておはせしとあれはされは其方は格別の者也語らん某若き時か様
〳〵の事にて石井宇右衛門といふ者を討し其忰三之丞といふ者某を
引出さん為に某か親遊斎を討けれは美濃国何某の大薮の中に
四五十日窺隠れ三之丞行水せし処を飛懸り慥に大袈裟に打
しかさすがの者なれは腰元に脇差を持せて某迯る所を払ひし其
疵也それか弟両人有しか四五才の水子の事なれは活たるも死たるも不知
たとへ活て居る共見知ざれは今更討んと思ふ事は叶はじ然共某も敵
有身なれはいか計身を大事に思ふ又殿にも此事を知給ふ故随分
かこひ給はる此事構へて人に語るなと慇に制せられ森平心の内には
是そ神仏の引合せと思へ共露も色には出さす見事に挨拶して去
ぬ爰に於て森平委細に文認め江戸に在し兄半蔵方へ言遣はし何卒
して此方城中へ来り給へと言越けれは半蔵も爰かしこ聞たて周防殿
扶持人鼓打棗八兵衛方へ吉助と名を改め有付亀山へ供して来りし
翌年三月の出代に達て暇を取森平口入にて七十石取之近習役
鈴木芝右衛門方へ奉公し是より切〻森平と水右衛門の若党と三人
出会何卒殿の江戸参勤の前に可遂本意とて内談極めけり水右衛門
か若党申せしは某親は嫡子三之丞殿に附添しかと不遂本意して空敷
国許にて身罷りし時其方は譜代の者なれは何卒して次男三男を御
見立申親兄の敵を討せ申此意趣を晴せよ我は唯此事のみ草葉の
蔭迄も思ふそ相かまへて空敷なすなと遺言して終りぬ願はくは御
両所の助太刀めさせ給へと繰返しいひしかは両人の曰いや国許に大切の
老母有急き下り此由を申通せよ万一仕損したらは両人に成かはり母
を養育致せ若背くに於ては七生迄の勘当と有けれは然は此上は
力なしさあらは此所ゟ一里計の其所は松生茂りかけあらはれかたき
事なれは某粮を持行相待ん本意の上にて先其所へ来り給へ必〻
と有けれは此事可然とて主人水右衛門方を一両日の隙を乞て出行
けり吉助は四月九日早朝に芝右衛門へ昨晩願申候通今朝五ツ時に
国方の者此駅を通りし侭しはしの暇給はれとて出しをまだ遅くも
あらじ髪月代をしてゆけといへはいつもの如く夫〻を調へ思ひし事少し
も色に出さず相勤夫ゟ堀の端松の木蔭に紺の単物に大脇差にて
忍ひ居水右衛門通りし処を遅しと待受たり森平は主人ゟ若党に
すへき由を再三いはれしかと曽て受ざりしか何と思ひけるにや此間は
忝由を申せは主人より刀給はり名を津右衛門と改此事伯父に聞せしにいか
計歓ひ重代の一腰を呉候を主人に見せけれは関和泉守の弐尺三寸の
氷の如くにて肝を冷し侍りし扨八日に水右衛門方の下女に白き下帯
二筋端縫を頼み九日の早朝主人の伽羅の油元結抔調へん迚出し
に不図水右衛門に逢候是はいつにかはり小野郎一人にて御下り心元なし
といひしかは水右衛門か云されは今朝殊外頭痛せし故五ツの番代りを
待兼同役に断をたて野郎か薬持来りしを幸に思ひ帰るとあれは
然は某按摩いたし療治参らせん抔戯れ供せしに水右衛門云其方
口入の芝右衛門家来の吉助は何共合点のゆかぬ脇さし也重て慮外
あらは打て捨んとあれは津右衛門いはく下〻誰しも同し事也只大目に
見給へといふ処へ吉助松陰より飛出て石井宇右衛門か忰半蔵也
親并兄の敵覚たかといふ侭に頭ゟ鼻の下へ半分に切て落す弟
源蔵也とて肩先ゟ大袈裟に切放す某兄弟卅三才と卅才と此
日に当て年来の素意を達せり是偏に仏神の御恵之又は亡父【素意ソイ-日ごろの願い】
亡兄の草間の念力也とて手を合せ四方を拝候扨書沖し一封を
水右衛門か袴の腰に結付兄弟諸共に足早く城外さして出けり小
野郎は是に驚き囲の堀へ落しかと漸く這上り事の始終を見
たりし早速殿へ言上し件の一封を披けは大坂已来の事段〻書尽し
自分〳〵の仮名実名は不及申刀脇差の銘迄委しく記してけり追手
には誰歟誰歟と二時計案し給ひて漸被仰出候と也誠に深き御思
慮やと皆人感しあへり両人の者は兼て言合せし松山の内に三四日
ためらひ居て往還の人の噂を聞届最早追手の気遣ひなし迚
若党を本国へ帰し両人は先日上方御帳面を消さん迚行しか坂の下駅
にて五六百石も取んと覚しき武士の下向せるを見懸少し御無心の事有
か様〳〵の旨趣にて只今立去し此間三夜まとろまず殊外労れし
侭しばし御囲い有て休ませてかしといへは侍は互の事也とて茶屋の
奥の間に半日計寝させ最早晩に及し侭誰せよとて料理進め
金拾両程取出しいかゝ敷候へ共只不自由を足給へとよあれは近ころ
御志は忘かたし此方にも貯物せし迚百両計取出し見すれは頼も敷
御仕かた也いざさらは〳〵と互に礼義を伸南北へ分れてけり扨青山
因幡守殿の御子息下野守殿は遠州濱松城に今は帰りけれは両三人
立帰りしを類少なき者共とていか計歓給ひ兄半蔵に親の本
知弐百五十石弟源蔵に新知弐百石賜り屋敷厳敷囲ひ番人夫〻に
被仰付候と也誠に未曽有の事とて伝えし人〻感せさるはなかりし
世に元禄曽我とてもてはやせしもいといみしき説也
乗邨按に此敵打は人〳〵のもてはやす石井明道士或は本文の如く
元禄曽我と表題せるものなれと是は世に流布するとは小異
有て簡易に書たるなれは爰に記し畢懸疑思ふは半蔵源蔵
の兄弟千辛万苦して敵を打其領主板倉侯へ不訴して直に
大坂の御帳面を消に忍ひて登りし板倉侯へ訴へは其功を賞
せられ青山侯へ格別の御取扱可有事也既板倉侯忍【思?】い
逃たる追手をせんさくに時刻を被移しも其功を被感候成へし
又青山侯にて兄弟に俸禄を賜ひ候【は?】よし囲を厳敷し番士
を付給ひしは疑はしされは事の実は此書にも覚未なし
一 世にいとはしきものは花に風月に雲なるへし花咲ころは山風烈しく
月すむ秋はむら雲たゝよふ習ひこそいと厭はしけれぬるとも花の
陰にやとらんとはけにさる事なるへし月待ころの夕まくれ端ゐし
て糸竹をしらへあるはふつくえにより添て今や仰きみれは
いつか雲のむら〳〵と立出るいとわりなしまして海辺に真帆を
かけ河辺に棹をさしまた山路をよち野へを分て幾里とな
くゆき〳〵てふりはへて待ゐたるか例の雲棚引わたるいと
〳〵口おし名にしおふこよひの月をあたら独やはとおもふとち
呼かはし庭の蓬軒の葛の葉うち払ひてけるか人より先に
村雨の音つるゝこそいとにくけれやかて盃なととうて
興しけるか風さへそひてはら〳〵と宿打音のすれは八月は
よしくもる共かゝる隈なきまとゐにはしかしなといふは酔し人
の強言也さいつころより松前の波響の君この都に
とゝまり給へは月あかき夜墨田河に船うかへんやつかれ
にもともにと花亭の君よりそゝのかし聞え給ふこの秋の
最中は能?にあたりぬれは十四日にと定めらるその日朝より
打くもり雨さへそほ降出ぬさらは十六日と聞え給ふける
かいかゝ事にさはる事の侍りて十七日には成にしそれさへとのゐ
にていつみ橋よりともに纜ときかたくてかの堤のあたりまて
かちにて行むと契り置つゝひつち過る頃まかてゝ急く
やゝ白髪の森近うして河つらの遠近ありやなしやと
みさくれとわかおもふ舟は見えすやかて糸竹のしらへ波にひゝき
てこきくる有大ゐ川のふることなと夢〻思ふはあらぬか汀
にうち出てまねきみれとよそには過ぬいといたく思ひわつらひ
てこゝかしこたとりありくに渚の芦かき分てつさひとり堤に
よちのほりぬこは見なれし人と思ひもあへすこゝにいませし
よとかへり見つゝたゝちに乗うつりてまつ空のよくはれて
のとやかなりしをこそりていふ殊になたら(本ノマヽ)してなる心はへを 【なだら-平らなさま】
われなからをかしきそれより水上遠く漕行てあやせの川
とあひあふあたりに棹さしとらむふしつくは隈なく見え
水上につゝくちふね【千船】か浪かとはかりおもひしに日かけやゝ
かたふきにたれは空も浪も紅ふかくて嶺は黒う顕れたり
月まつかたは水の面ひろくみきはの松もひま多く月みん
ためには心有気也人〻こなたの空のみ打まもりて待
ゐたるか初雁の鳴わたりたる心なき船人たにこは折にあひたり
となむいふ藍よりもこき空の色さへ暮はてし波のあやめ
もわかぬ折しもほのめきのほる月の影猶まとかにて
梢はなるゝころいよゝ光そひて水の面に桂の花のうち
散たるえもいはぬけしき也露江に横たはり光空に
ましはるなとをのかしゝうちすして盃をとり〳〵興しあひぬ
ひとり波響の君月うちなかめて昔おくらの湖に船出して
夜ひとよ遊ひしも幾年か経ぬらんあはれその友とちは
みな身まかりて今は茶山の翁のみ世に残るよといたく
嘆し給ひぬ折にふれて二千里外故人心といふ句を歌にわ
かちて人〳〵唐うたよむ花亭の君の子たちみたり又会津
の壺関もいませは恵連康楽ともから袖をつらねぬ 【詩人の謝恵連と謝康楽】
ひとり金谷のかすにあたらんもいとほいなくからうして 【金谷酒数】
さくり得れは里の字也けり
すみなれし人にとはゝや初雁をいつ聞そめて河面の里
折しもあれいとゝさやかに聞ゆ也月待空の初雁の声
すみた河あやせをわたり船とめてまつより出る月を見るかな
月の夜半すみた河原に船出して秋の憐の限をそしる
たのしみは極むましと碇のつな引あけてひく汐にまか
せぬ山もゆくかと松はしらすやとわらはかいひしも
おもひいてぬ ちか輔
右は月堂かこその秋隅田川に月みんとて舟逍遥せし
時のことのはとて蒙斎先生の見せ給ひしをうつし畢ぬ
此外に歌数首はへりしかうつさすやみぬ
一 寛政年間於吹上御庭相撲 上覧勝負番付此時細川侯御家
来吉田追風相撲故実之家〻依而罷出るよし
行司式守見蔵 点の懸りたるは勝也《割書:朱ノ書入ハ勝ノ相撲|手ナリ》【割書「朱ノ書~手ナリ」は朱筆】
東 桂山 尾上山 若松 森之崎 龍瀧 千歳川(コシナケ)
西 吉野山(ワタシカケ) 錦野(フミコミ) 与謝海(マキヲトシ) 岩(コシ)ケ(ナケ)崎 金碇(ヲシキリ) 荒見崎
桜野 和田川(フミコシノソク) 荒灘(ヒネリタシ)
安宅山(ヤクラヲトシ) 今出川 角森
行司木村庄太郎
清川(ヲシキリ) 鳴見川 由良戸(シタテナケ) 都山(フミキリ) 鷹ノ川
角田川 鳴澤(タシ) 立川 朝日野 上総野(モチタシ)
芝ノ森 入間野(ウキソク) 初瀬嶋 鳴戸(ウチカケ)
草(ハネ)ノ山 片男浪 御所嶋(ヲシキリ) 和哥浦
行司岩井嘉七
雲林(ヤマカツラ) 時津風(ハネ) 熊野川(ヒキヲトシツメ) 咲(ナケ)ノ(タシ)川 荒沢(ツキテ)
淀渡(ヨツテナケ) 黒雲 杜戸崎 浜風 綾川
龍ケ鼻 さゝ浪 【ヤマカツラは黒字で「雲林」のフリガナ】
香取山(カイナマハシ) 荒海(ツメ)
行司式守秀五郎
常盤川 千渡(ヲシタシ)ケ濱 諏訪(フミキリ)ノ森 楠(ヲシキリ) 杦(ツメ)ノ尾 関川(フミキリノソク)
緑川(ヲシタシ) 雪の浦 袖ノ浦 荒馬 阿曽ノ森 荒瀧
《割書:ナゲノコリ|ヲシキリ》
玉ノ井
荒熊
行司式守伊之助
伊吹山(カイナヒネリ) 鈴鹿山(ウワテナケ) 伊(ヲシ)勢(ツメ)ケ濱 蓑嶋 出水川(カケワタシナケ) 友千鳥(ツキヲトシ)
鷲ケ嶽 岩ケ関 獅子ケ洞 真靏(カイナマワシ) 戸田川 関ノ戸
行司木村庄之助
梶(ツメ)ケ濱 雷電 鷲ケ濱
出羽海 錦木(ウキソク) 宮城野(土俵ワタリツメ) 中入《割書:中入ノ間相撲人へ|赤飯下サレ候》 【割書「中入ノ間~下サレ候」は朱筆】
【「決まり手」の字は朱色。勝者は名前の右に傍線有り。対戦相手を結ぶ線有り。】
行司式守見蔵
緑山(シタテナケ) 八汐嶋 奈良山(ヒキヲトシ) 浪分(ヲシキリ) 明保野(ヲシキリ) 鷹ノ羽
荒瀬川 越柳(ツメ) いせケ濱 柳川 江刺川 金(ヒネリ)ヶ崎
名取川 讃岐川 湊川(ハネタシ) 靏ケ岡
紅葉山(ヒネリ) 三(ヲシ)保(キリ)ケ崎 須磨関 増見川(ツメ)
行司木村庄太郎
加茂川(カタスカシ) 飛鳥川 神楽岡 住ノ江 袖ヶ浦 桐(アヲリ)ケ(カケ)崎
荒鷲 八雲山(カラミナケ) 乱獅子(ウハテナケ) 外(ウチカケ)ヶ濱 高尾山(ヲシキリ) 廣田川
更科 和田ノ海 不破関 和田(タシ)ヶ崎
越(ソク)ノ(キレ)浪 秋田川(タシ) 御崎川(カイナヒネリ) 手間ケ関
行司式守秀五郎
琴浦 通り矢 宮(ツメ)ノ川 黄金山 栂ノ尾 甲(ヨツテ)斐(モチタシ)ケ関
室(ハネヲ)ケ(シキリ)関 三浦潟(ツキヲトシ) 鬼ケ嶽 山分(ヲツテナケ) 荒汐(ヒキヲトシ) 富田川
嶋(ヲシ)ヶ(キリ)崎
不破ノ関
行司岩井嘉七
虎渡 岩(ヲシ)ケ(キリ)洞 温海(アツミ)嶽 松嶋(フミコシ) 浪ノ音 浪渡(カイナマワシ)
象(ハネ)ケ鼻 立浪 神(ハネ)撫 山(カナテ) 秀ノ山 瀧(ヲシキリ)ノ音 熊ケ嶽
岩(ワタシ)ケ(カケ)根 【「アツミ」は黒字で「温海」フリガナ】
厳嶌 【「カナテ」は黒字で「神撫」のフリガナ】
行司式守伊之助
稲川 鬼勝 名草山 和(ヲシ)田(キリ)ケ原 盤井川
鳴瀧(ヲシキリ) 芦渡(カケワタシ) 越(ハネ)ノ戸 増見山 達(ヨツテ)ケ(ヒネリ)関
【朱筆】《割書:弓弦扇子三役古法之通|勝之方へ相渡ス九ツ時相|撲始り七ツ時無滞|》
行司木村正之助
九紋龍 陣幕(ノトワツメ) 小野川(キマケ) ※《割書:行司吉田追風|》
柏戸(ヨツテツメ) 雷電 谷風(キカチ) 都合八拾三番
※【「小野川と谷風」の下に導線を引き朱筆「行司吉田追風」】
【「決まり手」の字は朱色。勝者は名前の右に傍線有り。対戦相手を結ぶ線有り。】
右 上覧相撲之事寛政五癸丑の秋相撲隠雲解といへる開
板せしか世に広く売事を許さす此みちを好る人に相撲の意
味をしらしめん為に桜木に上るものなるを左に抄出し畢
本朝相撲之濫觴
日本相撲之濫觴略伝曰我国相撲之技藐 ̄ニ権_二_輿乎甚大神代_一矣
ト見ヱタリ上古神代ノ頃天 ̄ノ手力雄命岩戸ノ前ニテ其扉ヲ取テ
千里ノ表(ソト)ニ投トアリ然ハ相撲モ力ヲ以テスルニ似タル故ニ如此出
ル歟依テ神代ノ相撲サタカニ不知
朝廷相撲之始
素リ日本ハ東方之国ニシテ位陽【阳】気ナルコト万国ニ勝レリ人ノ気象モ亦
同シ則 人王五十一代推仁天皇御宇出雲国野見宿袮大和国當
麻厥速朝廷ニ召レ為_二角力(カクリヨク)_一矣コレ日本相撲ノ始也宿袮力増テ厥速ヲ
取テ引落シ腰骨ヲ踏折勝給フ依之大和国當麻ノ里ニ於テ領地
ヲ給ル永ク朝廷ニ仕ヘシム是菅原先祖ニシテ今其末流正ク有尤モ
相撲浪人之分永ク縁ニ便テ仰之角力トハ相手ヲ痛メ或ハ踏殺ス
相撲トハ別ナリ略伝ニ曰角力ハ殺手也是カ為ニ手ヲ禁シテトラス
是志賀氏ノ定ル処吉田氏ノ伝ル処是而已
最手役(ホテヤク)之始
其後専ラ相撲有ト云トモ義礼甚混雑シテ争ノ端ヲ開ク故ニ人王
四十五代聖武天皇御宇神亀三年諸国一統満作シテ相撲ノ業専
起ル則朝廷ニテモ行ルヘキ詔有テ国中ニ高札ヲ立テ力士ヲ召ル左右ニ
最手役ヲ定メラル最手トハ最(ツマヒラカ)ニ手ヲ取ノ最(サイ)上ノ最(ハシマリ)ト云心ナリ次ヲ最
手脇トモ助手(スケテ)トモ唱フ其次ヲ力士ト云合テ今是ヲ三役ト号ク略伝
曰其義礼之式勝負之決苟モ非_レ得_二其人_一不_レ可_二議定_一也又遴_二_選其
器_一得_二清林 ̄ナル者ヲ於近江 ̄ノ志賀《割書:ニ|一》挙 ̄テ以 ̄テ最手役ノ一人ト定ム相撲ノ規式礼
義亦勝負 ̄ノ判断依怙ノ無ヤウニ委ク力士皆下知ヲ受テ正シクスル
其人ヲ選テ是ニ任セラル然ル故ニ相撲人ノ内何レヲ遴選セン皆人吹挙
シテ清林ヨリ外ナシト申義也最手ノ官相撲ノ司後行事ノ始也而始テ
節会行ハル此寸【時】ヨリシテ志賀清林へ相撲ノ司ヲ被仰付相撲ノ作法
勝負ノ理皆清林ノ風儀ニ従ヒ一統正シキ也朝廷節会ノ礼東西ト云
コトナリ左右ト唱フ左方ハ元方右方ハ寄方ト見ヱタリ尤最手一人ニ限リ
天長地久ノ法横綱ノ伝一人之土俵入古ハ片屋入ト云テ土屋ニ出テ手ヲ二ツ
打ツ乾坤陰陽和順也足三ツ踏ハ天地人ノ三才智仁勇ノ三徳合テ五ツハ
木火土金水仁義礼智信ノ五常也始横綱ヲ帯シテ足踏ヲナス貪(トン)《割書:―狼|星》 巨人(キヨ)《割書:―文|星》
禄(ロク)《割書:―存|星》文(モン)《割書:―曲|星》 廉《割書:―貞|星》 武《割書:―曲|星》 破《割書:―軍|星》 《割書:是七星|ノ名ナリ》七ツ踏シメ気ヲ臍下ニ納ム則動カ
サルナリ依テ気鋭ニシテ利剱ノ如ク以テ勝負ヲナス正シク直ナル形
ヲ以テ出入ヲナスハ則内外清浄六根清浄天下泰平国土安穏五
穀成就第一ノ伝授也最手役卅歳ヲ越テ是ヲ持ツ其故ハ若キ
時ハ筋骨不定気動ク略伝ニモ廿五卅迄妻帯ヲ免サストアリ
諸数百芸トモニ心ヲ一ニシテ形鋭ト云トモ内静ナリ故ニ相撲ハ唯柔ヲ以テ
善トス剛ナルカ故ニ不_レ動柔ニ丸ク仮初ニモ怒ルコトヲ慎ム是則無我
也力アレトモ表ヘ出サス敵ノ虚見ユレトモ危ヲセス只内ヲ修テ以テ最手ノ
官ト云故ニ高位高官ノ眼前ニ出素裸ノ勝負ヲナス又内ニ一物アル
時ハ鏡ニウツシ見ルカ如ク平生稽古ノ他念ナクスル時ハ自然ト妙術出
テ内ハ流ルヽ水ノ如シ唯慎テ心ヲ磨クヘシ天下泰平ノ政ヲナス人以テ
慎マスンハ有ヘカラス節会相撲モ世〻打続キ志賀ノ家モ末流トナル
其後 淳和天皇天長年中志賀之氏族モ断絶ス
行司事之始
人王八十二代後鳥羽院御宇吉田豊後守家永志賀家ノ伝ヲ得テ
隠レナキコト世ノ聞ヱアルニ依テ朝廷ヘ召レテ相撲行事ノ司官ヲ給ル
則吉田追風寛政三《割書:辛|》亥年六月十一日 上覧ニ付追風先祖書并
右一件左ニ記ス
横綱之許 谷風《割書:ヘ|》ノ許《割書:シ|》伝授之写
免許
一横綱之事
右は谷風梶之助依相撲之位令授与畢以来片屋入之
節迄相用可申候仍如件
寛政元《割書:酉|》年十一月十九日
本朝相撲之司御行事十九代
吉田追風判
《割書:朱印|》
小野川《割書:ヘノ|》證状之写
證状
《割書:當時久留米御抱|》小野川㐂三郎
右小野川喜三郎今度相撲力士故実門弟召加候仍
證状如件
寛政元《割書:酉|》年十一月十九日
本朝相撲之司御行事十九代
吉田追風判
《割書:朱印|》
右許状證状遣シ候取沙汰有之寺社奉行牧野備前守殿御尋ニ付
細川越中守殿家来吉田善左衛門答書写
吉田追風先祖書《割書:御尋ニ付書上|》
夫相撲之起ハ天照太神ノ御時ヨリ初リ朝廷ニテハ垂仁天皇御宇ニ相撲
之節会行レ候ヘトモ未其作法端而已ニ罷成勝負ノ裁断難定 聖武
天皇神亀年中奈良ノ都ニ於テ近江国志賀之清林ト申者ヲ召レ
御行事ニ定メラレテヨリ相撲ノ式委ク相備リ子孫相続ノ処多年ノ
兵乱打続キ節会行ハレ不申候志賀之家モ自然ト断絶仕候
一後鳥羽院文治年中再ヒ相撲之節会行レヘキ処志賀之家断絶
ノ上ハ御行事可相勤者普ク御尋御坐候処私先祖吉田豊後守家永ト
申者越前国ニ罷在志賀家之故実伝来行事仕候旨達 叡聞五位ニ
叙セラレ追風ト名ヲ賜リ朝廷御相撲之司行事之家ト定置ルヘキノ
旨蒙 勅命此時 召合(メシアイ)ニ用ヒ候木釼獅子王之御団扇ヲ玉ヒ代々
相撲之節会之御式相勤申候承久之兵乱発節会モ中絶仕候
一正親町院永禄年中相撲之節会行レ候節十三代目追風罷出如
旧例相勤申候
一元亀年中二條関白清良公ヨリ日本相撲之作法二流無之トノ御事
ニテ一味清風ト申御団扇并烏帽子狩衣唐衣四幅之袴下置レ
候其後信長公秀吉公 権現様御代ニモ度〻御相撲之式相勤
申候元和五年四月十七日於紀州和哥山 東照宮御祭礼奉行朝比奈
惣左衛門殿ト申ス仁ト諸事申合勤申候依之御刀拝領仕候
一十五代目追風ニ至リ朝庭御相撲之節会モ自然ト御中絶ニ成行
申候二條殿御家ニハ相撲ニ付御懇ノ筋目御坐候ニ付他ヘ罷出申
度相願侯処願之通相叶万治元年ヨリ当家ヘ相勤申候
一元禄年中 常憲院様牧野備後守殿ヘ成セラレ候節ニ相撲
上覧有之砌彼方之御家来鈴木源右ヱ門ト申ス仁入門之御頼有之
将軍家 上覧之式一通相伝致シ品々拝領物仕候
一元祖ヨリ私迄都合十九代前文之通 禁裏其外之御方々ヨリ追〻
拝領之品今以持伝相撲故実伝授仕来申候
一当時諸国之行事并力士共ハ免許私家ヨリ代〻差出来リ申候
右之通ニ御坐候以上
寛政元《割書:酉|》年十一月 細川越中守家来
吉田善左衛門
上覧之式
寛政三《割書:辛|》亥年春相撲 《割書:勧進元|》 錣山喜平治
《割書:差副 |》 伊勢海村右衛門
右春相撲本所於回向院境内興行仕候処町奉行池田筑後守殿御差
紙ニテ勧進元差添可罷出之旨申来リ早速喜平次村右ヱ門罷出候
処相撲 上覧之御内意ニ付御書付下サレ候写
心覧
一当時参居候相撲之者ちらす間敷事
一相撲名前東西と分可書出事
一相撲式之事
右取調之糺にて廻し立派に用意致すましき事
右之趣承り何となく相撲人とも権威にほこりがさつケ間鋪
儀無之様可申付事
一前書取調之趣ハ相撲人共申合は格別猥申得間敷事
四月
同廿三日勧進元差添書付持参之処土俵絵図并相撲名前二枚
宛明廿四日可致持参旨申渡サレ翌日相撲之式并 上覧御場
所絵図両様トモ池田筑後守殿御役宅ヘ差出申候
《割書:但土俵并四本柱引幕トモ伊勢海村右ヱ門ヘ仰付ラレ請負ニ仕立上ル|》
同廿六日池田筑後守殿於御役宅喜平治村右ヱ門ヘ 上覧相撲仰付ラレ
難有旨御受仕候
六月二日場所見分有之相済同日相撲取組相撲人惣人数人別差出ス
同四日喜平治村右衛門召出サレ御書付渡ル
年寄共《割書:江|》
明五日は相撲御延引被 仰出候乍併近日之内可被 仰出間
相撲人共ちり不申候様年寄共銘〻得与可申談候御差支
不相成様可心掛候
六月五日又候喜平治村右ヱ門召出サレ於筑後守殿御役宅当十一日相撲
上覧可有之旨仰付サセラレ難有御受申上ル
先達テ池田筑後守殿弥 上覧之儀仰付ラレ候ニ付其節村右ヱ門
申上候ハ乍恐相撲之儀ハ古来 禁庭節会之祭事相勤来リ
候相撲ノ司御行事吉田追風末流吉田善左衛門ト申仁当時
細川越中守殿御家来ニテ幸此度勤番ニテ御当地ニ罷在候間
将軍様上覧之儀古来ヨリ古法モ有之儀承及候勿論私共
為ニモ司之儀ニ候故何卒右追風召出サレ 上覧ノ御式此者へ
御尋下サレ規式執行候様ニ仰付サセラレ下置レ候様仕度段色〻
御願申上候処彼是六ケシキ様ニ思召レ先〻其儀ハ其方トモ勧進
相撲其外御前相撲ノ法式ヲ以テ相勤候様ニ仰聞ラレ然トモ私トモ
身分稀ノ儀ニ御坐候故繰返シ御願申上候処其儀ニ不及打過候
然ル故ニ土俵四本柱巻絹水引迄モ御前相撲格式ニ取調候処
同月十日暮六ツ時細川越中守殿御内吉田氏ヨリ年寄行事急キ
罷越候様申来候依之早速参候処今日戸田采女正殿ヨリ追風召
出サレ 将軍上覧式古法之通罷出可相勤旨仰付サセラレ候ニ
付早速土俵築直シ尤御作事ヨリ御役人并人足大勢罷出追風
差図ヲ以テ不残仕替申候右ニ付行事相撲人礼義相心得候ヤ又ハ
无心得候ハヽ明日間ニ合候様ニ可致差図由申サレ候然トモ古ヘヨリノ
作法ノ義荒増心得罷在候由返答仕候依之明日早〻仕度場ニ
テアラマシ承リ無相違相勤申候
六月十一日暁六ツ時竹橋御門外御舂屋前ニテ惣年寄行事相撲人
不残染帷子麻上下帯刀ニテ相揃場所休息所溜ヘ入差扣罷在候
上覧土俵之故実
一四本柱ノ間三間四方柱ヨリ柱マテノ内土俵七俵ツヽ四ツ合テ数廿八
俵ハ天ノ廿八宿東西南北ニ須弥四天ヲ合セテ惣数三十六地理
法釼相撲人古三十六人ヲ司ル法ナリ
一内丸土俵数十五ハ天ノ九地ノ六東西ノ入口ハ陰陽和順ノ理也外ノ角ヲ
儒道内ノ丸ヲ仏道中ノ幣束ヲ神道コレ神儒仏ノ三ツナリ
一中央ニ幣束七本立神酒熨斗供物三方右ノ品飾リ置始司
追風罷出天長地久風雨順治ノ祭事暫ノ内アリ
一惣シテ土俵四本柱易ノ定ナリ土俵ノ内ヲ大極ト定メ左右ノ入口ヲ陰陽ト取
四本柱ハ四時五行中央ノ土ヲ加ヘ木火土金水又ハ仁義礼智信ノ五常ナリ
水引ハ黒赤黄三色ノ絹ヲ以テ北ノ柱ヨリ巻始メ北ノ柱ヘ巻納ルハ出ル
人入人ヲ清ル心ナリ北ヲ極陰ト云相撲ニコレヲ役柱ト名付俵ヲ以テ形
ヲナスハ五穀成就ノ祭事ナリ
一上覧ノ土俵ハ勧進相撲トハ相違ナレトモ易ノ一体ノ理違フコト有間敷也
右祭事済土俵ノ上ニ飾リ置品〻行事四人東西ヨリ出テ持テ入ル後
行事先ニ立テ相撲人廿人程ツヽ段〻ニ出テ礼義ヲ正シ土俵ノ上ニ平
伏ス不残揃ヒ行事相図致ス其時一統土俵入済又平伏ス一人ツヽ
囲ニ入如此シテ東西六度ニ済東西ノ関取横綱ヲ帯シテ絵図ノ通
《割書:此絵図ハ|ウツサス》土俵ニ入其後名乗言上行事東西ヨリ一人ツヽ出又相撲
合セ候行事一人土俵ノ内ニ入テ次ニ東西ヨリ相撲人出テ平伏ス言
上ノ行事土俵ヘ出テ東ノ方誰西ノ方誰ト高声ニ名乗テ入ル其
内白張着用ノ者水ト紙ヲ遣ス也相撲人土俵ヘ掛ル行事声ヲ
掛ケ中ニ立テ古法ノ如ク待(マテ)ナシニ取組行事勝相撲誰ト名乗尤
行事ハ代ル〳〵不残侍烏帽子素袍着用ス合セ行事ハ素袍ノ肩
ヲ絞リ出ル又四本柱ノ元ニ行事四人平伏シテ扣居ル是ハ勝負依怙ナ
ク見分ルコトヲ司ル右代リ〳〵行事十四人ニテ相勤申候
上覧相撲之勝負附六月十一日相撲取組
此勝負附前ニ記シタレハ爰ニ省ク【赤字】
上覧行事之式
年寄卅六人染帷子麻上下着用ニテ土俵場ヘ代《割書:リ|》々相詰行事十四人
素袍ニテ侍烏帽子木釼ヲ帯シ追風始土俵入ノ節柿色之素袍
侍烏帽子着用ニテ土俵ノ上ニ莚ヲシキ其上ニテ相撲ノ故実言上ス
後谷風小野川取組ノ節古例ニ依テ往古追風 禁裏ヨリ賜リタル紫
ノ打紐付タル獅子王ノ団扇ヲ持風折烏帽子狩衣四幅ノ袴着用
土俵ノ上草履 御免ニテ相勤候
司追風随弟二人書役土俵之際ニ扣ル
行司名前《割書:相勤候着用之装束追風ヨリ伝之|》
木村正之助 式守伊之助 式守秀五郎 岩井嘉七 《割書:木村庄太郎|式守見蔵》
名乗言上行事三人 式守留之助 式守善次郎 式守卯之助
力水役白張着用四人 式守武左衛門 式守金太郎 木村松之助 式守松五郎
錣山喜平治伊勢海村右ヱ門勧進元差添ニ付土俵ノ後ヲ警固ス
勝負附役麻上下着用四人蓑野忠七 今井源之亟 蓑野兵蔵 川喜田与五郎
上覧御掛り御役人
御老中 《割書:鳥居丹波守殿|戸田采女正殿》 御若年寄 井伊兵部少輔殿 大御目付桑原伊豫守殿
御目附 《割書:平賀式部少輔殿|中川勘三郎殿》 《割書:御徒目付|》諸田忠五郎 《割書:御小人目附|》近藤勝平
町御奉行 池田筑後守殿 《割書:御組与力|》佐野五郎右ヱ門 原 兵左衛門
同 初鹿野河内守殿 同 高橋八郎右ヱ門
上覧相済候処南御番所へ木村庄之助式守伊之助召呼レ投手ノ貌御
尋ニ付四十八手之貌認差上候ヘトモ相分ラス依之伊之助見蔵白洲ニ
於テ素裸ニ相成其形ヲ御見分ナサレ御扣ニ相成申候
右相撲一統ノ者ヘ為御褒美白銀三百枚被下置段池田筑後守殿被仰渡候
四十八手之古法
四十八手之古法ニ四手アリ頭ヲ以テスルコト反。手ヲ以テスルコト捻リ。腰ヲ以テスルコト投。
足ヲ以テスルコト掛。右四手ヨリ十二手ツヽ四十八手トナル
反 向《割書:フ|》反 居反 掛《割書:ケ|》反 寄《割書:リ|》反 伝反 撞木反 一寸反 キホウシ 枕カイナ反 鴨ノ入首 ク
シキ反 衣カツキ
捻 合掌捻 肩スカシ 外無双 内無双 突落シ 逆捻リ クシキ 引落シ 出捻
巻落 頭捻 片手ワク
投 上手投 下手投 引投 上矢倉 下矢倉 首投 カラミ投 握投 寄投
出《割書:シ|》投 手抜《割書:ノ|》腹投 八柄(カラ)投
掛(カケ) 二足掛 一本掛 内掛 外掛 手斧掛 泥障掛 呼掛 渡《割書:リ|》掛 タクリ掛
掛モタレ 水掛 伝掛
凡テ四十八手
惣シテ手ノ名ヲ記セトモ業ニシテ甚危シ尤名ハ頓智ヲ以テ呼歟業ハ気
変ノナス処意味アルコト其数ヲ不知然レトモ皆心ノ一ヨリ出ル一物動カサル故
手足能自由ヲナス業ハ必九死一生ナリ唯 忍(ヲス)トハ相撲ノ極意ニシテ忍(シノフ)ト云
字ナリ忍(シノフ)ハ一物ヲ内ニ置表ヲ和カニ出ルヲ忍(コラヘ)テ引(ヒカ)ハ忍(ヲソ)ウ突ハ忍ウ捻《割書:ラ|》ハ
忍ウタトヘ勝コト前ニアリトモ忍(ヲシ)テ勝ヲ大丈夫トス堪忍ノ忍(ニン)ノ字必 忍(ヲス)
ニアリスヘテ此意味稽古ノ妙術ヲ以テ委ク分ル是苦テ知ル知《割書:ニ|》至
テハ相撲行事ノ一事ナリ
【上段書込み】
《割書:享和二年|六月十六日》
《割書:白川御在城|ノ節於和》
《割書:党曲輪相撲|御覧ニ付》
《割書:御町奉行|両人同心廿人》
《割書:ツヽ召連|角力興行ノ》
《割書:場所左右ヘ|相詰固并》
《割書:不明御門|内和党曲》
《割書:輪ノ内外|御物頭両人》
《割書:組廿人ツヽ|召連固有》
《割書:之|但同心者》
立合之意味
相撲立合ノ意本来無一物也 事有(シウ)ハ虚也 有(ウ)ト云ハ敵ヲ知也敵ヲ
知トハ相手ノ得手勝手強弱ヲ知ト云コト是ヲ唯一ニ収メ忍(ヲシ)テ立タ
トヘハ業ハ則経外別伝也業ニテ勝コトナカレ只心ノ一手タトヘハ経文ノ
外ニ仏ニナル法ノ有カ如ク気治ラサレハ業変化シテ危シ其本乱テ末
修ラス然レハ不動トハ心動カサル也只一図ニ忍(ヲス)ト云ハ忍(コラユ)ルト云文字堪
忍ノ字ナリ必勝ント思フヘカラス負マシト心得仮初ニモ派手ナルコトハ大
虚ナリ誠ハ思ワスシテ成ト或人ノ歌ニ
何コトモタクム言ノ葉偽ソ風ト思出ニ実アルラン
七体七足ノ虚実△強弱虚実之体
強キ時ハ必ス弱シ強者必勝ニアラス弱者必負ニアラス虚ト見ヱル
時ハ必実也業スヘテ強弱虚実変化スル者也真釼ノ勝負ハ習コト不
出思フコト不成稽古ノ妙術計出ルモノ也然モ一日モ怠ナク稽古スル
時ハ妙術出テ其場ニモ至ル時ハ敵我トモニ強弱虚実能分ル也
依テ一人ノ妙術ト云人〻得手アリ又心々ナリ
強柔弱剛之体
力強シト雖モ気柔ニシテ力ヲ残ス弱ク見レトモ内大丈夫也タトヘハ相手ヲ
見立其程ニ会釈シテ譬変出ルトモ本ノ心ヲ失ス是ヲ強柔弱剛ト
云心変スルコトナカレ大関ノ気位第一是ヲ守ル
有無之体
変化スル本ヲ知テ敵ノ強弱ヲ知ル有(アル)時は無(ナキ)心 無(ナキ)時ハ有(アル)心唯己ニ勝
コトヲ不怠ノ心知ルコトヲ知ス体ニ敵カヽル時ハ無(ム)勝時ハ有(ウ)皆臍下ノ
【上段書込み】
《割書:役羽織着|立付ニて半》
《割書:棒十手持|之》
《割書:足軽ハ法被|股引着寄》
《割書:棒持之|今角力始》
《割書:御家中見|物トモニ不明》
《割書:御門出入|ナリ天保》
《割書:八酉年ノ秋|右ノ書付》
《割書:筺中ヨリ|出シヲ因ニ》
《割書:依テ此ニ|記シ置》
《割書:御覧ノ場所|等尤全盛ナル》
《割書:御事ニテ|一統見物》
《割書:被 仰付|》
《割書:相撲|取組》
《割書:水戸| 外浦》
《割書:仙臺石巻|● 石巻》
《割書:白川|● 泉瀧》
《割書:江戸| 八幡山》
《割書:越后| あつみ川》
《割書:九州|● 時ノ音》
《割書:仙臺| 立浪》
《割書:甲州|● 男山》
《割書:京| 高山》
《割書:江戸|● 稲葉山》
《割書:江戸| 松ケ根》
《割書:上総|● 上総野》
《割書:加州| 荒金》
《割書:尾州|● 花見崎》
《割書:四国|● 鈴鹿野》
《割書:武州| 鍬形》
【●は赤色。対戦相手を結ぶ線あり】
意味心ノ一手也
余力之体
力ヲ遣フ時ハ余ル不遣時ハ不足唯程ヲ知テウチバニ心得堅キ物ヲ
和カニ遣フ心力ヲ力ニ遣フ時ハ必余ル
過不及之体
譬相手我ニ劣ルトモ無理ニ勝ハ不可也気一旦ナル時ハ危ク一言憤_レ事
ノ理是以過タルハ猶不及総テ此心ヲ可知気短慮ニシテ盛ナルヲ嫌フ
九死一生之体
総テ業残ス気ナク一図ニシテ果スヘシ勝負ニ二心ヲ嫌フノ理是也又気
ニ長短アリ堪忍ハ第極意也然トモ成ト不成ニ意味アリ不成時ヲ九
死一生ト云
一体一生一之捻
一体ハ心気手足トモニ皆生ルヽ処一ツ捻リトハ業ノ名也総テ体ニ規アリ僅
縺(モツム)時ハ先ヘ不_レ搞(アタラ)亦不_レ成_レ堪真釼ノ勝負故ニ我得手出ル其得手則規
ナリ然ル故ニ得手ニ取組時ハ心気ヨク収リ手足能自由ヲナス相手必ス
其業ヲ不_レ得_レ残故ニ一体一生一ノ捻是ヲ三具足揃フト云也此道ニ入テ
十年ヨリ内規矩ニ当ル人稀也西行法師歌ニ
武士ノナラス相撲ノ夥シ明(アケ)戸ノヒサリ鴨ノ入首此心ヲ知時ハ古ノ
相撲ハ稽古ノ時モ行儀ヨク規矩ニ合又業ノサヱヨク戸ノ柱ニアタリ
ヒサルカ如シト誉シ歌ナリ
内 掃(はヽき)外掃
手ノ裏表ヲ砂ヲ掃クト云コト強弱ノ理解アルトモ何レ砂ヲ掃フ時ハ負
【上段書込み】
《割書:長崎|● 鶴?ノ里》
《割書:野州| 虎渡》
《割書:加州|● 筆ノ海》
《割書:仙台| 笆ケ嶋》
《割書:伊勢| 金花山》
《割書:白川|● 音羽山》
《割書: 泉サキノコト|》
《割書:姫路| 小塩川》
《割書:仙臺|● 伊達ケ渕》
中入
《割書:江戸|● 藤ノ戸》
《割書:同| 高嶋》
《割書:仙臺| 嵐山》
《割書:江戸| 藤川》
《割書:九州| 筑波山》
《割書:相州|● 浮島》
《割書:越後| 千年山》
《割書:江戸|● 三田森》
《割書:津軽| 鳥ノ海》
《割書:甲州|● 重石》
《割書:讃岐| 小櫻》
《割書:四国|● 四国山》
《割書:加州|● 関ケ原》
《割書:江戸| 鏡嶋》
《割書:大坂| 荒浪》
《割書:川越|● 驪》
《割書:武州| 藤嶋|仙タイ|● 鳴海潟》
《割書:武州| 尾上川》
《割書:秋田|● 常山》
【●は赤色。対戦相手を結ぶ線あり】
ナリ突手ニ似タレトモ格別ノ意味アリ
突手突膝
突手モ突膝モ体ノ虚ヨリ出ル故ニ負也稽古怠ル時ハ心気不_レ収又手
足トモニ堅クシテ自由ノ不_レ為唯気ハカリ急ク故ニ手足トモニ朽木ヲ折ニ
似タリ其業ヲ気ハ覚手足ハ覚サルナリ
浮矩高足(ウキソクタカソク)
浮足ハ必足ノ浮ニアラス心ノ浮也高足ハ過ル足(アシ)不_レ足(タラサル)脚(アシ)ノ名也タトヘハ
水ニ物ヲ浮ヘル如ク五体トモニ力ナク心ニ不及又 矩(ソク)ト云文字ニ規矩ノ乗ルト
書手足ハ心ノ眷属故ニ心ニ及サレハ形崩レテ堪ルコト不能略伝ニモ心気
必応シ理解先ニ定ムト見ヱタリ然ル故ニ行事ハ唯心ノ一手ノ出ル処
ヲ知ヘシ必非見也
忍運再入之矩(ヲシハコヒサイシユノソク)
忍(ヲス)ハ相撲ノ第一也前ニ記ス如ク善悪トモニ出ル処ヲ堪ヘ亦 忍(シノフ)トハ上ヲ柔カニス
ルノ形内ハ堪テ大丈夫 運(クハル)トハ気ヲ手足ニ通スルノ利再入ハフタヽヒ入心一
図ニシテ能堪二心ハ変スルノ元也故ニ是ヲ戒ム矩トハ非_レ足(アシニ)総テ業ニ気ノ
乗ヲ知ル故ニ矩ノ字ヲ用ユ足ハカリ浮ト云コトハ決テナキモノ也皆心ノ浮
矩(ノル)業ニ通ルコトト可知故ニ忍テ勝少シ忍ハサレハ大謀乱ルト古語ニ云如
ク業ハ則其機ノ乗処ニテ浮舟ニ棹サスカ如ク知者ノ一失愚者ノ一
得業ニテ勝コト勿レ只心ノ一手喩ヘハ古語ニ戦ヲ和セサルナラハ以テ勝
ト決スヘカラスト云リ一致スト一致セサルト也是ヲ以心ノ勝心ノ負ト云ナリ
相撲之批判
夫相撲之勝ト云コトモ負ルト云コトモ皆我ヨリ出ル総シテ人ノ虚見ヱテ
【上段書込み】
《割書:久留米| 出潮》
《割書:武州|● 久米川》
行司
《割書:江戸| 式守文七》
《割書: 木村文七|》
年寄
《割書:江戸| 久米川平蔵》
《割書:同| 友綱良助》
名乗上ケ
《割書:江戸| 源太郎》
《割書:同| 岩五郎》
《割書:●此印| 勝ナリ》
【●は赤色。対戦相手を結ぶ線あり】
我ヲ不知是全ク其業至ラサルカ故也只稽古一日モ怠ナク励ミ我身
ヲ顧テ不足ヲ尋功ヲ積テ自然ト妙術出ルハ相手ノ虚ヨリ我虚
ナルコト先ヘ知ル我ト知ル故ニ其虚ヲ直シクシテ自ラ慎ム善悪トモニ人ニ
ナシ皆我ニアリ今相撲ノ業上達スルニ従ヒ三ケ津ニ名モ轟キ高位
高官ノ眼前ニモ出ル芸也元辺鄙ヨリ出テ力量大兵ヲ頼テ此事
ニ入漸成熟スルニ至テハ泥中ノ蓮ノ如シトヤ云ヘキ然ル時ハ唯一ニ心ヲ
磨クヘシ象ト心ト釣合サレハ真釼ノ勝負ニ至リテ見ヱ透テ
恥ナリ唯腹ノ中ノ一物ヲ水晶ノ清ラカナルカ如ク磨キ佩刀スル時ハ
武士ノ行義亦器ノ一人ト呼ルヽニ至テハ下ニ仁ヲ施スノ気位ヲ守ヘキ
コト専一也偖己カ腹中ノ一物不見カ故ニ我恥辱ヲ不知真釼ノ勝負
ヲナスニ及テハ人明カニ知_レ之譬ハ我ヨリ劣ル者ト立合時ハ先ハヨク
吾ハ悪クトモ可然又手ヲ免スニモ非ス其意味ハ只其程ニ有ヘシ古人ノ云
伝ヘヲ聞ニ立合テ行事団扇ヲ引テ取組 待(マテ)ト云コトナシ是ハ延享ノ
頃八角谷風立会ノ時初テ待ト云シコトヲ聞尤陰嚢隠ト名付テ廻シ
ノ垂モ一尺モ下ケタリ今ハ少モ下ケズ如斯ナル故ニ作法乱レテ恥ヲ不知
尤安永ノ頃マテハ待(マテ)ナシニ取人モ間〻見ヱタリ懇望ノ方ハ能知処也
今ハ上手有テ名人ナシ人皆利口ニシテ一図ノ人稀也此処ハ其人ノ罪ニアラ
ス悲ヒカナ時勢ノ然ラシムル故ナリ夫勝負ノ論アル時ハ東西ノ年寄
行事三人立合テ数年ノ業ノ妙術掛分ル秤三人トモニ掛合テ毫釐
モ依怙ナク是ヲ分ル故ニ古法ニ権衝ノ決スル処必四十八手ニ出ス右四十八
手ノ内何〻ト云手ノ名ニ競テ四分六分七分三分ト相分ル也又略伝ニ
冝ナル哉実ニ昭代ノ雄観於_レ斯為盛言ハ誠ニ依怙ナク清ラカニシテ美々
鋪物故天下泰平之見物是也故ニ末繁昌也ト云ル仗也然トモ止コトヲ
不得コト有テ曲テ謟古法ヲ乱ス今改ル時ハ却テ禍トナルコトアリ悲哉
其本ヲ不弁相撲ヲ業トスル者ハ諸国ヲ周遊スレハ何国ノ者トモ師
匠或ハ朋友二交テ別テ親子ノ如クスルノ法ナリ常ニ相撲ノ古ヲ有道
ニ就テ正シ行義作法相撲ノ格式相守必下レル世ノ流俗ニ従ヒ邪路ニ
入ヘカラス今ノ有様ヲ見ルニ時勢ト云ナカラ業ハ未熟也ト云トモ大兵ニ
シテ其形ヨケレハ是ヲ関ニシ曲テ皆敬フ去ハ事ノ意味甚疎ク身ノ
程モ忘レ我意ヲ振フ略伝ニ曰力有テ法ヲ蔑ニスルハ乱ノ階也力有
テ法ニ随フハ治ノ具也夫又一ニ決_レ焉トアリ力在テト云コトハ誠ノ役取
ト云心法ヲ蔑ニスルト云ハ行事年寄ノ詞ニ洩テ不用是作法ノ乱ノ
始也又 階(ハシコ)ハ多ク登ル人有テ下知ナラサル也力在テ法ニ随フ時ハ治世ノ
ノ道具作法古来ノ如クナラン唯一筋ニ是ヲ守レト云コト也今ノ立合ノ如クナレハ
行事ノ団扇邪魔ニナル双方気改ル故ニ立処ヲ失フ其本修ラサル故ニ
手前ノ勝手ハカリヲ見テ論多シ年寄行事心腹ノ秤ニ掛(カ)ラサル故
ニ判断更ニ不決行事モ亦古法ヲ失テ曲《割書:ケ|》タルニ随フ譬ハ取者ハ
強キ時ハ見物群衆ヲナス渡世タルカ故ニ第一是ヲ善トス爰ニ於
テ法モ自ラ乱ル略伝云不_レ易_二行事官_一故ニ世〻不_レ艱(カタシト)_二相撲_一シテ行事
ヲ艱シトスル者亦良馬伯楽之喩ニ類スル而已トアリ行事官ヤスカ
ラスハ本相撲ノ司也相撲ヲ艱シトセストハ世〻関取ハ続ケトモ行事ノ
一人ハ出来ニクシ良馬伯楽ノ喩ハ古文ニ見ヱタリ千里ノ馬ハ常ニア
レトモ伯楽ハ常ニシモアラス野ニ生スル馬ヲ取テ正ク良馬ニ仕立高位
高官ノ用物トナル是伯楽ノ徳ナリ行事モ又相撲ノ規式法式又ハ
心服ノ一物 居所(イト)ヲ知テ勝負ヲ分ル故ニ伯楽ニ譬テ云ヘルナリ
投手業之理解
相手有テ立ツ其心気ハ流ルヽ水ヲ留弓ノ弦ヲ切放シタル如クニ此意味
堪忍シテ腹一図ニナル時ハ一物居所ニ有ニ依テ業鋭ニシテ白釼ヲ振フカ如ク
是皆心気修ルカ故ナリ惣テ業皆心ノナス処故ニ行事勝負ヲ見ルコト
目ニアラス心手足ニ通スルヲ知ルト云然ル故ニ形ヨリ心ノ生スル早シ故ニ
見ルハ遅ク知ルハ早シ第一ノ伝授也譬ハ体規矩ニ則(ノツトル)ト云ハ毛筋程
モ不曲人〻ノ得手有ト云トモ釣合ヨク上手ノ活シ立花ノ如ク也又
我手ヲ相手ノ脇ノ下ヘ入ルヲ差手ト云又片手ノ臂ヲ我腹ヘ付相手
ノ肘ヲソツト押へ左ヲサス時ハ左サシ右ヲスケ手ト云又足ニ差足助足
ト云惣テ差手助手トモニ腕首ヲ和ラカニ親指ト臂ニ力ヲ入ル心持也
此意味ハ数多シト云トモ皆得手ニ傾ク気筋勝負ノ理解ハ我腹ニ的
有テ取者ハ負ヲ知リ勝ヲ知ル其的ハ稽古ノ妙術故ニ稽古怠ル
時ハ的ナシ四ツ身ハ手足トモ前ニ記ス如ク也上手ノ肘ニ力ヲ入レ助足ヲ釣
込テ割付ル相手曲ツテ我ハ直故ニ手ヲ延サス廻シテ取ル是ハ名術
ニシテ意味多シ是ヲ物ニ譬テ言ンニ動テ心ヲ乱サンヨリ動カズシテ
心ヲ治ンハ何ンソヤ又行間敷事ニ臨テ行テ義ニ違ンヨリ不_レ行シテ然モ
遁ニ叶ンハ宜シカラン歟此処ニ心ヲヒソメ自ラ可_レ知亦小兵タリトモ大兵ニ
等ク唯和ク丈夫ニ見ル是ヲ塩梅ト云惣テ此意味ヲ弁ヘテ見ル
時ハ人ノ気位真釼ノ勝負故ニ明カ也業ノ形又取組ノ形縛ニ
記シテハ意味届カス書記セトモ文ヲナスコト不_レ能此所ハ皆懇望ノ
人〻自得セラルヘキ所ナリ四ツ身ニテ上手廻シヲ取テ同上手ノ足ヲ
相手ノ内股へ蹴込心ニテ下手ノ方ヘ廻テ落ス是ヲ上手矢倉ト云下
手ヨリ釣上ケ廻リナカラ合手ノ膝ヲ我上手ニテ払フ是ヲ下手矢倉
ト云上手ニテ廻シヲ取我腰ヲ少シ下ツテ我頭ニテ土ヲ払フ程腰ニ
掛テ投ル是ヲ上手投ト云下手投ハ相手ノ二ノ腕ヲ免サス腰ニ掛テ
投ル上手ヲ取テ頭ヲ上手ノ方ニ廻シ足ヲ抜テ引居ルヲ出シ投ト云
又廻シヲ取テ矢倉ノ如ク振廻スヲ八柄投ト云又相手ノ脇ヘ頭ヲ
出シ相手ノ腕ヲカツイテ下手ニテ脇廻シヲ取テアケニ倒ルヲ腕反
居テ向フヘ返ルヲ撞木反諸手ヲ差《割書:レ|》テ足ヲ掛レハ掛反又相手ノ足ヲ
膝ヨリ下ヲ我肩ニ当テアケニ倒ルヽ時ハ一寸反ツマ取ハ古人ノ伝アレトモ
今ハナシ掛ハ皆人ノ知ル処故記サス捻ハ手ニテスル業ノ名也同利害
ナル故荒マシヲ記ス業ノ形ハ書尽シ難ク前ニ記ス如ク皆気変ノ
ナス処心ノ一手ヨリ外ニナシ故ニ目ニ見ヱス口ニ説ス又人ニ教ルコト不能
稽古ノ修行苦ミ苦ンテ我ト知ル妙術ナリ
目録ニ記ス十五ケ条早年ノ頃ヨリ稽古修行ノ妙術ヲ以テ漸クニ
四十八歳ニシテ此業ニ不惑五十一歳ニシテ意味ヲ能知ト云トモ燕雀之質
短才ナルカ故ニ皆人〻へ知レ難シ然レトモ見ル処聞処知ル処一言トシテ
腹ニナキコトヲ記サス今此道ヲ去ルカ故ニ聊愚意ヲ述懇意ノ
人々へ贈ル尤千冊ヲ限リ絶板シ畢
君子ハ其業ヲ業トスルカ故ニ腹心ヲ磨ク磨ハ明鏡如台ト云リ我
多年相撲ノ道ニ入テ其業ノ腹ニ有所ヲ知ル壮年ニテ空ハ至_レ空漸
天命ヲ知ル齢ニ至リ空ハ帰_レ腹 ̄ニ我学才ニハ非レトモ儒仏神モ心ノ明鏡
曇サレハ移ルカ如クナルヘシ相撲モ阿吽ノ空ニテ勝負ノ決スル処皆心
腹ナリ 空ならて我心にも有明の月をわらひてゆひやさすらん蝸牛
乗邨云此蝸牛といへる行司木村庄之助か隠居にて根岸に
住て冝麦といへる俳諧師と知己なるよしにて俳諧も通
例よりはよくしたり雪太郎三鷺【鴼】弟子のよしにて予も
老鶯窓の會に一席膝をましへしか殊に世中の
咄を面白くせし老人にてありし老鶯窓は冝麦か
店の号也根津権現の脇三浦矦別荘の辺り也
蜀山人百首歌春
あら玉の年のはしめの福寿草禄といふ字は其中にあり
生酔の礼者を見れは大道を横筋かひに春は来にけり
見渡せは大はし霞む間部河岸【まなべがし】まつ立舟やみつのおもかち
春霞立くたひれてむさしのゝ原一はいに伸す日のあし
慈悲心も佛法僧も一声のほうほけきやうにしく物そなき
子の日する野へに小松の大臣はいまも賢者のためしにそ引
まな板の小口にはれる青紙の色も若なにおよふ物かは
おれを見て又歌を読ちらすかと梅のおも思はん事もはつかし
文好む木【「好文木」梅の異称】を右にして遣梅を左にかさす御代そかしこき
一わりを千金つゝにしめあけて六万両の春の明ほの
隅田川後のあしたも細見の山かたなりにかへる鳫金
何なりとこのめ春雨ふり袖の新造ましりの居続の客
青柳は目はな眉髪こしも有て前のなきこそ恨也けれ
ところ〳〵ふし〳〵有てなまよみの甲州糸に似たる青柳【「なまよみの 」甲斐の枕詞。】
一面の花は碁盤の上野山黒門前にかゝるしら雲
風の入すきまも見えぬ山さくら桜か山か山かさくら歟
盃もさすか女の節句とてもゝのあたりに手まつさへきる
山吹の口なしめしやもらんとておや玉の子も井手の玉川
上からも下からも又花と花合せかゝみか池の藤波
夏
杜若むかしはいせの物かたり今はめ出たくひらく三河記
春夏の近しき中は猶更に垣をせよとや咲る卯の花
この神のわけいかつちと有かたきあふひてもなを〳〵
杜鵑鳴つる跡にあきれたる後徳大寺の有明の顔
いかほとにこらへてみても杜鵑鳴ねはならぬ村雨の空
鎌倉の海より出しはつかつほみなむさしのゝはらにこそいれ
早乙女のもゝの黒きに仙人も通を失ふ気遣ひもなし
のほり竹直なる世とは上下の麻の中なる蓬にそしる
五月雨にいたゝく空の底ぬけて水たまらねは屋根ももる哉
人なみに窓の蛍は集めても尻からもゆる火はいかにせん
惟光か立なからくふそはの花いよ〳〵くろし夕顔の花
撫子の后の御名にさしありてまはしにとれる床夏の花
偽りのなき世なりせは本なりの西瓜の皮に穴は明まし
質蔵にかけし赤地の虫ほしはなかれもあへぬ紅葉也けり
去年から気をはりつめし氷室守こよひは心とけ〳〵と寝ん
心たに茅の輪のことく丸からはくゝらすとても神や守らん
秋
風鈴のりんとひゝきし秋風は萩の上葉の一文の銭
天の川なかれわたりのもろかせき牛をひこ星機を織姫
白川のお関所ならは長持の中改めてみやきのゝ萩
女郎花口も嵯峨野にたつた今僧正さんか落なさんして
花薄はうき千里のむさし野はまねかすとても民の止まる
大空にかり〳〵〳〵の声するは誰書出しや懸てきぬらん
秋はては頓て紅葉の吸物となるともしかとしらて鳴らん
しらす心誰をか恨む朝㒵はたゝるりこんのうるほへる露
斯はかりめて度見ゆる世の中をうらやましくやのそく月かけ
分厘の雲さへはれて算盤の玉の三五の十五夜月
清書も上る二度目の月影は又一段と見事也けり
大菊をめつる狂歌ははな紙のこきくを折て書もはつかし
七百の慈童もありと菊の花高野六十那智は物かは
龍田山こその枝折は林間に酒あたゝめてしれぬ紅葉は
おはしたの龍田かしりも紅葉はの薄くこく屁にさらす赤尻
秋の田のかりほの庵の歌かるた手元にありてしれぬ茸狩
帰りなんいさとて入し里の名はたゝ落栗の音にのみ聞
子を思ふ朝四暮三の猿の尻真赤に一つ残す枝柿
一つとり二つ取てはやいてくふ鶉なくなる深草の里
紅葉ちる萩や薄の本舞台まつ今日は是切の秋
冬
神〳〵の留守をあつかる月なれは馬鹿正直にしくれ降也
掃除せぬを門の落葉を踏分てこそ〳〵〳〵と誰かとはまし
世中は我より先に用のある人の足あと橋上の霜
袖の上に霜か雪かと打払ふ跡より白き冬の夜の月
雪ふれはこたつ櫓にたてこもりうつて出へき勢ひはなし
一むれの奥女中かと見るまてに木毎に花の綿ほうし雪
駒とめて袖打払ふ世話もなし坊主合羽の雪の夕くれ
よし人は犬といふとも降雪にわか跡付て出んとそ思ふ
空と海ひつたりつきの中川のはら〳〵松にたつ千鳥かな
さんすいにひよみの酉の市なからいもほり僧都なきにしもあらす
分てけふめてたかり場の物数も有とやいはふ金形尾の鷹
しろかねの台にこかねの盞の花はいはすと人やすいせん
浅草のうら白根松薮柑子たい〳〵ところ本たはら町
今更に何かおしまん神武より二千年来暮て行年
年波の今や越んと門〳〵に立し師走の末の松山
恋
千早振神も御存ない道をいつの間にかはよく教へたり
畳さんおきて松葉のかんさしはおふみ表のうらかたそうき
たゝみさん胸の思ひをいひ兼てひねりし塵や山と成らん
おさらはとそむけし貌をむき玉子きぬ〳〵糸の切にきられす
あなうなきいつくの山のいもとせはさかれて後に身をこかすとは
をやまんとすれ共雨の脚しけく又もふみこむ恋のぬかなみ【ぬかるみ?】
埋火のしたにさはらては和らかにいひよらん言のはたはこもかな
灰吹のころかりしより見そめこし心のたけもうちはたかはや
あはまくは瓜の畑に寝もしなんとりつる履の浮名たつとも
世中にたへて女のなかりせは男の心のとけからまし
雑
冨士の根の表は駿河裏は甲斐まへは北面後は西行
角田川今は吾妻の都鳥業平なとは在五中将
照月の鏡をぬいて樽まくら雪もこん〳〵花もさけ〳〵
全盛の君あれはこそ此里の花も吉原月もよしはら
千早振神代のむかし面白い事を始しわさおきのみち
日の鼠月の兎の革衣きて帰るへき山里もかな
世を捨て山に入とも味噌醤油酒の通ひちなくて叶はし
あいた口戸さゝぬ御代のめてたさをお誉申もはゝかりの関
文の月のふみもやかよふ神無月表をかへしてあそふ赤壁
住吉の新田ふえて年〳〵に跡しさりする岸の姫松
すゝめとの御宿はとこかしらね共ちよつちよつとこされさゝの相手に
あふかしい一葉にのれる蜘を見て船を作りし無分別もの
徒に過る月日も面白し花みてはかり暮されぬ世は
寝てまてとくらせと更に何事もなきこそ人の果報也けれ
世の中はさてもせわしき酒のかんちろりの袴着たりぬいたり
世の中はいつも月夜に米の飯扨又申兼のほしさ
念佛を申す心のやさしさは鬼も十八たんりん【檀林:関東十八檀林】の僧
鶴九百九十九年目亀九千九百九十九あゝ尚歯會
乗邨按此百首は後万歳集才蔵集其外の集
に見えたり是は分て秀逸を撰みたるにや蜀山人
とは蜀山兀出安房とといふ句より附?しとそ世には
四方赤良成は寝惚先生なと人のしれる所也
俗姓太田直次郎杏花園南畝といへるも
此人也
地震吉凶之弁(ぢしんきつきようのべん)
地震は豊年(はうねん)の基(もと)ひ也何無愁事秋は草木土(さうもくつち)に
もとり冬の気より土(ち)ちうに芽(め)をふくみ天のめぐみを
地にはらみ万物(ばんもつ)を生ずるところ時のふしゆんを
いかり【?】すでに発(はつ)して地しんとなる地震は
地の煩(はづら)ひゆゑ野(の)人はふ息(やま)人は天地を父母と
して万物の長 四海(しかい)みな兄弟(けいてい)也ゆゑに
老(おひ)の若(わか)きを導(みちび)き若(わか)きは老を助(たすく)ること
人りん【人倫】の常也然る処近来(ところきんらい)かろきところは
人情薄(にんじやううす)く
自他(じた)の隔(へだて)強(つよ)く美版(びはん)を
好(この)み時ならざる花を楽(たの)しみ高金(かうきん)を費(つひや)すこと天理にかなはずたとへ
地震のなんをのがるゝとも教(をしへ)に背(そむ)き一身全うらず恐れつゝしむべし
夫(それ)天は陽也上に位(くらゐ)して覆(おほ)ふこれ父の徳也
地は陰なり下に位してのする【?】母の道也然して
陰陽(いんやう)交(かう)かんして五行(ごぎやう)を生ず其気(そのき)天にかへりて四(しい)
時(じ) 行(おこなは)れ其 形(かた)ち地に布(しき)て人及び禽獣(きんじう)魚虫(ぎよちう)
草木(さうもく)を生ず故に天地を大 父母(ふぼ)と称(しやう)す
人は秀(ひい)でたる五行の気をうけて生するを以(もつ)て
万物(ばんもつ)の霊(れい)といふ也されば天地の父母に順(したが)ふ
を孝(かう)といひ日月 君后(くんかう)に従ふを忠といふ
実(まこと)に人は其 性(せい)を天地にうくるがゆゑに天地の
あひだに備(そなは)るもの人に備らずといふ事なし天 円(まろ)
きがゆゑに人の頭(かしら)丸し天に日月あつて人に両 眼(がん)
あり天に列星(れつせい)あり人に歯牙(しが)あり天に風雨(ふうう)
あり人に喜怒(きど)あり天に雷鳴(らいめい)あり人に音声(おんせい)
あり天に陰陽(いんよう)あり人に男女あり天に四時(しいじ)あり
人に四肢(しし)あり天に炎冷(えんれい)あり人に寒熱(かんねつ)有
天に昼夜(ちうや)あり人に起臥(きぐわ)あり
天に五音(ごいん)あり人に五臓(ごぞう)有天に六(りく)
律(りつ)あり人に六腑(ろつふ)あり天に十干(じつかん)あり
人に十指(じつし)あり天に十二 辰(とき)あり人に足(あし)の
十指と莖垂(きゆうすい/インフグリ)あり女は此二ツなし故に胞胎(はうたい)を
なす年十二月なれば人に十二 節(ふし)あり一年三百六
十日なれば人に三百六十の骨節(こつせつ)有或は地形成(ちかたなる)が故に人の
足形(あしかた)也地に十二 経水(けいすい)有ば人に十二経 脈(みやく)有地に高(かう)
山あり人に肩(かた)ひざあり
地に泉脈(せんみやく)有人に気血(きけつ)あり
地に草木あり人に毫毛(かうもう)
募筋(けんきん)あり
地に
▲
▼
砂石(しやせき)あり
人に骨肉(こつにく)あり
その豫(よ)【予】天地の 間(あひだ)たにあらゆる
もの人に具(そなは)らずといふものなし仏(ぶつ)
経(きやう)に説(とく)所(ところ)の須弥山(しゆみせん)といへとも皆(みな)一身(いつしん)に具(そなは)る也
既(すでに)須弥(しゆみ)の頂(いただき)に忉利天(とうりてん)ありといふも人の頂(いたゞき)の天 骨(こつ)なり
須弥(しゆみ)の圓生樹(ゑんせいしゆ)は頭(かしら)の圓(まろき)に生(しやう)する毛髪(もうはつ)也 帝釈(たいしやく)は額(ひたへ) 喜見城(きけんしやう)は
眉毛(まゆげ)也これ喜(よろこ)びの眉(まゆ)を開(ひら)くのいひ也 善法堂(ぜんほふだう)は人 皆(みな) 具足(くそく)する所の仏心也
須弥の四方に持 国(ごく)増長(そうちゃう)広目(くわうもく)多聞(たもん)の四天 居住(きよぢう)すといふものまづ広目 両眼(りやうがん)也
多聞(たもん)耳(みみ)也 増長(ぞうちやう)鼻(はな)也口は一切(いつさい)の食(よく)を以(もつ)て一身の国を持(たも)つ則(すなはち)【即ち】持国(ぢこく)也須弥の九山は肩肘胸(かたひぢむね)
腹陰膝背腰臀(はらいんひざせこししり)の九つ也八 海(かひ)は胸中(きやうちう)八識(はつしき)の湛水(たんすゐ)也四州は四肢(しし)なり又須弥の旁に
北は黄(き)にといへるは黄黒(くわうこく)の夜(よる)のいろをさとす也東は
白くといへるは東方 黎明(しのゝめ)の
しらむ色をさすなり
南は青(あを)くといへるは白日 青(せい)
天(てん)昼(ひる)の空(そら)をさす也西くれなゐは夕陽(せきやう)の
影の赤(あか)きをさす也是又此 世界(せかい)の一昼夜(いつちうや)
なり蘇命(そめい)路の山【謡羽衣・蘇命路の山】は日東山に出て西山
に入(いる) 且(まさ)にまた東へ蘇命(よみがへる)也人又東
の陽(やう)に生れて西の陰(いん)に没(ぼつ)し東へめぐりて
蘇命(よみがへる)也是を以て省刻(そうとき?)は嗚呼貴(あゝたつと)き哉(かな)人天の道を修(しゆ)し地の理に
順(したが)はずんばあるべからず 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸(キノヘキノトヒノヘヒノトツチノヘツチノトカノヘカノトミツノヘミツノト) 是天なりきのへは木(き)の兄(あに)也
東方の春に位(くらゐ)し五常(ごじやう)の仁(じん)に配(はい)す十 幹(かん)の魁(さきがけ)なるを以て甲(はじめ)とも訓(よむ)也是 春(はる)の始(はじめ)なり木と世の
はしめ【はじめ】也きのとは木の弟(をと)也東方の春に位す是此 土(と)也ひのへは火の兄(あに)也南方の夏を司(つかさど)り又五常の義に配す
又曰丙は炳也日 輪(りん)火□愁【熱?】は□の火也是を君火と云ひのと火の弟也又南方を司る又曰 丁(てい)は灯(てい)也民家日用の火也是 相火(さうくは)と云つちのへ土の兄也 央(ちうおう)に
位し四季の土用を主り五行の信に配す又曰戌は母也五こく草木を生るの母也つちのとは土の弟也又曰己【巳】は
起也一切の器物を配して人民の作(さく)用を助る也かのへは金の兄也西方の秋を司り
五行の礼に配(はい)し万物を収る方位の故に云 庚(かう)は更(かう)也 更更(あらためかへる)也万物 木(こ)の葉
生じ金の世に更(かはり)収(をさま)る也かのとは金の弟也又秋に配す又云 辛(しん)は新也
万物更新事□也みつのへは水の兄也北の方の冬を司り
五行の智に配す又云 壬(しん)は姙也万物 金(か)の世に収り木の
世に生ずみつのとは水の弟也又曰 癸(き)は揆也水は万物を
揆る【はかる】の神智は万計を揆の本也
【以下二行、割書きとふりがなと併用するか迷いましたが一旦割書きにします】
《割書:地|□》《割書:九|子》《割書:ハシメ|北》《割書:八|丑》ムスブ《割書:七|寅》ヒラク《割書:六|卯》《割書:シゲル|東》《割書:五|辰》フルウ《割書:四|巳》トドマル《割書:九|午》《割書:フタツ|南》《割書:八|未》アシワウ【あじわう?】《割書:七|申》□《割書:六|酉》《割書:シテハ|西》
《割書:五|戌》《割書:ヤブル|カヱル》《割書:四|亥》《割書:タエル|ツキル》ね【子】は根也夜九ツ夜半と云是陰の終陽の始也故に子の字(じ)了(をはる)と
一の字(はじめじ)【「一の字」ではじめじ】を合して子とす万物を生るの根也うし【丑】は極陰(ごくいん)にて陽気(ようき)をうしなふ也夜八ツ 鶏(けい)めいと云物の終也
寅(とら)は陰気陽気にとらるゝ也朝七ツ 平旦(へいたん)と云平に且てのぶるの気ありう【卯】は日をうむ也朝六ツ
夜明と云人戸をひらくの時也故に卯の字は戸の字を左右に置きたる形也たい【体、態か】は日上りたつ也
朝五ツ食時と云陽の極致也之は日の気みつ昼(ひる)四ツ禺中【禺中…昼四ツのこと】と云日禺 ̄レ_中 ̄ニ也陽気みちのぼる也午【うま】は
陽気うまるる也ひる九ツ日中と云日中天にのぼれば傾くの外なしひつじ【未】日通じ也則【即ちか】日のつじ也
ひる八ツ日昳と云さる【申】は日去也昏七ツ 晡時(ほじ)と云猿の性のさはがしきは晡まへのせはしきに発す
とり【酉】は日収る也昏六ツ入と云□【もんがまえの中に二?】の字は卯に反(はん)して戸を折あはせ横木を入たるのかたち也いぬ【戌】は陽
気いぬる也 昏(くれ)五ツ黄昏と云また戌(いぬ)は戍(やぶる)也陰気陽を戍る也草木霜にやぶれ滅(??)【?】る也ゐ【亥】は陽気
ゐかへる也夜四ツ人定と云 微陽盛陰(ひやうせいいん)□交(まじは)り人定まつて姙(はらむ)の時也草
木ゐかへりて蒔(きざし)をはらむ也 《割書:五|○》戌【戍】 ̄ヤブル ̄四 亥にて地震はつきる也九子ヨイハジメテ末廣【?】の基
相後ゟ【より・合字】地震をサシテ万歳楽と云 既(すで)に十月二日の大地しん【大地震】は辰(たつ)の日にて【地震除けのまじないことばで万歳楽万歳楽という】
夜の五ツ過四ツ前にて戌の下刻也戌亥西北に当り【當り】戌は土に主り亥は水に
司(つかさ)どる辰は東南に当り土に主どる処此葬【?】亡中ウルホイ多く其気万もつ【万物】
更らんとすれど未だ上の陽気 若(わか)く時到らずして【?】発(はつ)するを能はす其気
変(へん)じて地しん【地震】と
なる辰に振ふ□【忘?忌?】也戌はヤブル亥はタヱルノ□【誧?】にて一年の
終り一日の仕舞也一旦吹出震崩とも其翌日巳の日にて巳は
とどまる故に地震の元を失ふ也過れば子の刻(こく)に移(うつ)り子は九ツにて陰の終りやう【陽】のはじめなれば
▲
【下、鯰の口元へ】
▲
是天地
乾坤万物五
こく【五穀】を生る根也以て此処(ここ)を押【?】
ときは凶年の非にあらず豊(はう/ほう)年の□【春?】
実(げ)に作れる 御世(みよ)の祥陽たるを示(しめ)し
て人の惑をとき忌(いみ)うたがふ人なからんこと【こと・合字?】
を庶幾(こひねがふ)と云(いう)爾
是地形定るまで其気ありと
いへども再(ふたた)び大地しん【大地震】
の愁(うれ)ひなきか しかしながら
天 質(しつ)ははかり
がたし御用じん【ご用心】
肝用【肝要】なり
「禁買賣」
伏見(ふしみ)大地震(おほぢしん)桃山御殿図(もゝやまごてんのづ)
御届明治十八年十二月十五日
浅草区須賀町二番地
画工月岡米次郎
日本橋区通二丁目四番地
出版人深瀬亀次郎
賢人(けんじん)明(あきら)かならんとすれば佞人(ねいじん)之(これ)を陰(かく)す茲(こゝ)に加(か)
藤(とう)主計(かづへ)頭(のかみ)清正(きよまさ)は朝鮮(てうせん)対陣(たいぢん)の勲功(くんこう)衆(しゆう)に秀(ひい)て
抜群(はつくん)たるも小西行長(こにしゆきなが)が讒奏(ざんそう)淀君(よどきみ)が鶯舌(あうぜつ)に罹(かゝ)
り却(かへつ)て太閤(たいかう)殿下(てんか)の気色(けしき)を損(そん)じ自邸(してい)に幽(いう)
閉(へい)せらる時(とき)に伏見(ふしみ)の大地震動(だいじしんどう)し民屋(みんおく)は
更(さら)なり城中(しやうちう)の殿舎(でんしや)悉(こと〴〵)く斜(なゝめ)に傾(かたぶ)き諸人(しよにん)色(いろ)
を失(うしな)ふ折(おり)しも清(きよ)正は君前(くんぜん)を憚(はゞか)る身(み)なれど
主君(しゆくん)が御 身(み)大切(たいせつ)なりと警備(けいび)のため従兵(じうへい)を
引率(ひきつれ)走付(はせつけ)れば君(きみ)は疾(はや)桃(もゝ)山御 殿(てん)の林中(りんちう)に退(たい)
立(りう)ありて清正(きよまさ)を御らんじ其(その)誠忠(せいちう)を御 感(かん)
あり直(たゞ)に御免(おんめん)ありしといふ
應需大蘇芳年画
【タイトル】
《割書:改|正》大地震出火年代記
【枠外右側上】
安政二卯年十月二日
【本文は上下二大枠碁盤の目状構成】
【上大枠】
【第一段右より】
【第一升】
官延【黒長方形内白抜き文字】
七ヶ所へ
御
すく
ひ
小屋
たつ
日限
ながし
【第二升】
三【黒丸内白抜き文字】
日れん
上人の
ぞう
頭さむがる
【第三升】
二【黒丸内白抜き文字】
深川
神明宮
火の
中にて
のこる
【第四升】
五【黒丸内白抜き文字】
四谷
御門外
水どう
いしがき
そんじ
水あふる
【第五升】
三【黒丸内白抜き文字】
火ぶせの
あきは山
より所
なく
やける
【第六升】
五【黒丸内白抜き文字】
ゑんまの子
地ぞうのこ
といふこと
もつぱら
はやる
【第七升】
今□【黒長方形内白抜き文字】
また〳〵
しじん【ぢしん?】
ゆる
とて
のじゆく
多し
【第八升】
三【黒丸内白抜き文字】
芝神明前
いへと
家
はちあはせ
する
【第九升】
五【黒丸内白抜き文字】
小つか原の
ぢそう
べつして
あらつ
るゝ
【第十升】
五【黒丸内白抜き文字】
芝居まち
柴井てう
あと
さきに
やける
【第十一升】
家栄【黒長方形内白抜き文字】
金利
うん上
おあひ
だとなる
【第十二升】
六【黒丸内白抜き文字】
とびもの
はなし
【以下不鮮明で翻刻出来ませんでした】
【上大枠】
【第二段右より】
【第一升】
二【黒丸内白抜き文字】
日本つゝみ
大いに
われる
【第二升】
四【黒丸内白抜き文字】
十月廿日
ゑびす
こう
やすむ
【第三升】
安栄【黒長方形内白抜き文字】
諸寺にて
じしん
御き
とう
を
おこなふ
【第四升】
六【黒丸内白抜き文字】
諸方にて
あとより
けがよけ
の守を
いだす
【第五升】
官政【黒長方形内白抜き文字】
もつそうの
ごはん
町〳〵へ
くださる
【第六升】
六【黒丸内白抜き文字】
浄るりの
けいこ所
弟子
四方へ
ちらず
【第七升】
二【黒丸内白抜き文字】
土蔵の
ひゞたけ
こで
りやうぢ
いしやと
まがふ
【第八升】
分限【黒長方形内白抜き文字】
大じん
金もち公
諸人へ
せぎやう
を出す
【第九升】
伝法【黒長方形内白抜き文字】
金龍山の
五十の
とう
北の方へ
まかる
【第十升】
六【黒丸内白抜き文字】
ぶげん
ぼさつ
きん
つるし
あがる
【第十一升】
二【黒丸内白抜き文字】
立のきの
ところへ
にはかに
産屋を
つくる
【第十二升】
七【黒丸内白抜き文字】
霜月二日
酉の
まち
くまで
かつぐ
【上大枠】
【第三段右より】
【第一升】
三【黒丸内白抜き文字】
御くらまへの
□□□
には内に
清水
ふき出す
【第二升】
五【黒丸内白抜き文字】
日本ばし
の東西
つゝが
なし
【第三升】
二【黒丸内白抜き文字】
るゐしやうば
一夜の
うちに
往来へ
山いづる
【第四升】
七【黒丸内白抜き文字】
家つえを
つきて
あんま
町〳〵にて
ころぶ
【第五升】
二【黒丸内白抜き文字】
ぞうり
わらんじ
羽ねが
はへて
とぶ
【第六升】
七【黒丸内白抜き文字】
こぼれ
玄蕃
みづ
なし
そんす
【第七升】
三【黒丸内白抜き文字】
中山道
しゆく〳〵
砂わき
いた
す
【第八升】
二【黒丸内白抜き文字】
北国より
玉
八はうへ
ちる
【第九升】
二【黒丸内白抜き文字】
馬道より
□□き
うし
いくつも
見ゆる
【第十升】
後悔【黒長方形内白抜き文字】
にはかに
たこくへ
行て
つゝうちを
うらやむ
【第十一升】
三【黒丸内白抜き文字】
北こく
にて
おいらん
上人
入定
【第十二升】
八【黒丸内白抜き文字】
素人ぜへ
一ち
して
□屋
□□うちなす
【上大枠】
【第四段右より】
【第一升】
太平【黒横長長方形文字横書き白抜き】
しやうしつの
町〳〵うりたて
はやる
【第二升】
六【黒丸内白抜き文字】
番町
ぢしん
しらず
よそを見て
おどろく
【第三升】
三【黒丸内白抜き文字】
小川
水かれて
火所々
よりいづる
【第四升】
天命【黒長方形内白抜き文字】
大いなる
はりを
せおひ
いく
めいど国へ
おもむく
【第五升】
三【黒丸内白抜き文字】
谷中天王寺
の
塔九りん
おれて
おつる
【第六升】
八【黒丸内白抜き文字】
むさしのに
はなしかを
こい
しる
【第七升】
分火【黒長方形内白抜き文字】
諸所
三十三所
くわじ
ぜおん
かい長
【第八升】
三【黒丸内白抜き文字】
南のくにの
人みな
つつらを
やむ
【第九升】
三【黒丸内白抜き文字】
三丁まち
にて
がくや
ぶろ
はやる
【第十升】
二【黒丸内白抜き文字】
本所
ゑかう
ゐん
ふせなく
して
死人を
弔ふ
【第十一升】
四【黒丸内白抜き文字】
たいこ
もち
ぼた
もちに
ばける
【第十二升】
安心【黒長方形内白抜き文字】
日々ぢしんの
うわさ
きへ
て
つち□□ら
のみのこる
【上大枠】
【第五段右より】
【第一升】
二【黒丸内白抜き文字】
かしまの神
るすにて
なまつ
あはれる
【第二升】
名馬【黒長方形内白抜き文字】
人多く
白馬をのむ
黒馬
あきくさへ
すてる
【第三升】
四【黒丸内白抜き文字】
御やく
らの
屋根
いつくへか
とふ
【第四升】
二【黒丸内白抜き文字】
御めいこうの
さくら
今年
はなさかす
【第五升】
四【黒丸内白抜き文字】
二かい堂
大破
の上
ゑん上
【第六升】
九【黒丸内白抜き文字】
くらま山
くつれ
かへつち
山を
なす
【第七升】
二【黒丸内白抜き文字】
しやくとりむし
おう
らいに
すむ
【第八升】
四【黒丸内白抜き文字】
のてん山
こう
しやくし
かい長
はやる
【第九升】
四【黒丸内白抜き文字】
おどりこの
めうもく
とせうに
うばゝ
れる
【第十升】
三【黒丸内白抜き文字】
あきらと
せきやう
しろもの
をほどこす
【第十一升】
五【黒丸内白抜き文字】
江戸に
すむ
やくしや
ほつ
そく
【第十二升】
二【黒丸内白抜き文字】
万歳楽を
万々ぜいと
あら
たむ
【下大枠】
【枠外右側下】
石堂禁売
【三ブロック構成】
【右から第一ブロック】
【上下二段構成】
【上段】
【タイトル】
十二運の事
【本文】
長 ちやう すこしつゝはいつまてもゆる也
臨 りん 時にのそみ町中けん重なり
衰 すゐ 年よりは別して御年当あり
胎 たひ ほねつきへかよふ者多し
養 よう 御手あてにて命をつなぐ
絶 せつ うつはりの下になるもの多し
病 ひやう ちの道おこす人多し
暮 ぼ ほり人間(て)にあわす
死 し おびたゝしくあはれなり
沐 ぼく 翌日双方の火しつまる
帝 てい 諸寺諸山へ御祈祷はしまる
官 くわん 御すくひ御たて下されし也
【上に右横書きタイトル】
六様善悪
【本文】
丸【左半分黒】先勝日《割書:外へてゝ命あり内|にいれはつふるゝなり》
丸【内にT字形の黒】友引日《割書:かし店なくして|ともに引こす日也》
丸【右半分黒】先負日《割書:さきへ出てのき下にて|つふれ内にゐて無事也》
丸【白】大安日《割書:ちしんもしつまり|人々あんしんの日也》
丸【黒】仏滅日《割書:石金木像いつれも|たをれそんし多し》
丸【縦三分割左右黒】赤口日《割書:火事もえはしめは|三十二口あかし》
【下段】
【タイトル】
八焼神
【本文】
大 財(さい)の方《割書:此かたに人かねもちいだす|ことあやうし》
大小 君(くん)の方《割書:御やしき出入のしよく人|此かたにて三年手ふさがり》
大おんの方《割書:此かたにかけつけはたら|くべし》
さいはいの方《割書:ひきこしたるあとのいへ|つぶれる》
あいけうの方《割書:けいせいのしして人〳〵|なみだをこぼす》
さいそくの方《割書:どうぐおきすへなり|やらずらわなし》
へうばんの方《割書:諸こくより人出おひ〳〵|此かたにむかふ》
ほうひの方《割書:此かたにむかひほどこし|御ほめにあづかる》
【タイトル】
ぢしんのうた
【本文】
鍬(くは)つかひ大工
左 官(くわん)にやとひ人
むりやりならば
金(かね)としるべし
【タイトル】
玉しいをしる歌
【本文】
ひくからぬ火見ずの
山はつちさけて
四つ谷どほりは
御水どうわれ
【下大枠】
【第二ブロック】
【江戸の地図を表示】
【上に右横書きタイトル】
江戸焼失場所全図
【本文】
焼なきは神田
うちそと
日本はし
銀さに
つきちつくだ
しまなり
西のくほ三田高なはに
本芝よ山の手へんは
すへてやけなし
【下大枠】
【第三ブロック】
【タイトル】
ぢしんの年暦
【本文】
天正十七年駿遠大ちしん慶長二年京大坂大地震同十八年
諸国ぢしん寛永四年関東大ちしん寛文元年諸国大ぢしん
天和三年日光地震元禄十六年関東地しん宝永四上方筋ぢしん
文化元出羽大ちしん文政十一越後ちしん天保元京都大地しん
七月二日弘化四年信州大ちしん嘉永六年小田原大ぢしん同七年
いづ下田大津なみ安政元年諸国大ぢしん同二年江戸大地震
出火共 天正以来地震大概ヲ挙
【右側枝・下から上へ】
大震
立退て行所もな木
死亡あまたに親子のなけ木
地毒を受てはやるたんせ木
作事職人のげん木
俄かに□□ねつ木
御仁慈ありがた木
【中央の幹の部分】
頃は安政二乙卯年神無月二日夜大地震に津木
【左側枝・上から下へ】
出火
銭□□下な木
□い人にのふ□木
くづれた家はたき木
是□なくあるじも□□はたら木
梁にはさまれ身体をくじ木
□忍な□□□古今□□□木
地震(ぢしん)鞠(まり)うた
一ツとや 一ツ目二ツめ三ツめ子蔵(こぞう)ばけものが
うそでないぞや本所(ほんじやう)へいでるとさ
二ツとや 二日の夜(よる)のなきごえやたのむこゑ
こみいは【?】めおとやおやこづれなさけなや
三ツとや 三座(さんざ)芝居(しばゐ)のごひゐきもそでのつゆ
かほみせないとはくちをしやまちかねる
四ツとや よし原 女(ぢよう)郎しゆは出(で)まごつくむりもない
火(ひ)の仲(なか)の丁(てう)でつゝまれてともにしぬ
五ツとや いつかかしまのかなめ石(いし)ゆるんでか
神(かみ)なし月じやとあなどつてにくらしや
六ツとや むしやうにゆりくるそのたびにとんでいで
よくとくはなれて青(あを)いかほこはらしい
七ツとや なむあみだぶつといふ間(ま)さへあればこそ
ゆめではあらぬか死出(しで)のたびうかまれぬ
八ツとや やけてゐどこにまよふ人おほければ
おかみのおじひで小やがたつありがたや
九ツとや くやんでかへらぬ事ながら金をかけ
おくら【?】をふるつていはれますうまらない
十ツ【ヲでは】とや とうと世(せ)かいも入(いり)おふてゆづふ【融通】よく
こがねの御(み)代でまはりよくくらせます
十月廿八日極改
安政二卯年 地震 場所一覧図 合印【地図の色】
十月二日夜 大花【水色の枡形】川海
【朱色の枡形】やけば【焼けた所】
【崩壊した所】くづれ
たる所
中村丁 小塚東丁 仕金場
千住入口
弘化四丁未歳三月廿四日
越後
信濃 両国地震一条
御用番戸田山城守様え御届書写
私領分信州飯山去月廿四日亥刻頃ゟ大地震ニ而城内
住居向櫓門并囲塀等夥敷破損家中屋敷城
下町潰領分村々潰家数多右ニ付出火も有之所々
焼失仕今以相震申候趣在所役人共ゟ申越候委細
之儀は追而可申上候得共先此段御届申上候以上
四月二日 本多豊後守
私領分信州高井郡之内一昨廿四日亥刻頃ゟ地震強く陣
屋并家来居宅長屋向破損所数ケ所村々百性家
潰其外田畑地割数百ケ所ゟ砂泥吹出シ耕地え不残押入
今以折々地震仕候人馬怪我等無御座候尤善光寺参詣又ハ
出稼罷越候者共之内死失人在之哉ニ相聞え候へ共未タ取調不
行届候委細之儀は猶追々可申上候へ共先此段御届申上候以上
三月廿六日 堀 長門守
伊賀守領分信濃国去ル廿四日亥刻頃ゟ地震ニ而更級郡
之内稲荷山村々人家震潰家ゟ出火一村荒増焼失仕候
人馬継立出来兼其外小県郡之内潰家并損所人馬死失
等も有之同廿六日ニ至り候而も折々相震申候旨在所役人共ゟ
申越候委細之儀は追而可申上候右稲荷山村は助場之儀ニ
御座候間伊賀守在大坂中ニ付此段御届申上候以上
松平伊賀守家来
大島郭之丞
私在所信州松代一昨廿四日亥刻頃ゟ大地震ニ而城内住
居向櫓并囲塀等夥敷破損家中屋敷城下町領分
村々其外支配所潰家数多死失人夥敷殊ニ村方ニは
出火も在之其上山中筋山抜崩犀川え押埋水湛
追々致充満勿論流水一切無之北国往還丹波島
宿渡船場干上りニ相成此上右溢水押出シ方ニ寄如何様
之変化も難計奉存候且今以折々相震申候委細之儀ハ
追々可申上候得共先此段御届申上候以上
三月廿七日 真田信濃守
私在所越後国高田去月廿四日亥刻頃ゟ大地震ニ而城内
住居向櫓囲塀破損家中屋敷城下町領分村々潰家
損所夥敷人馬怪我等在之北陸道往還筋所々欠崩等
御座候旨在所ゟ申越候委細之儀は追而可申上候へ共先此段御届
申上候以上
四月四日 榊原式部大輔
私在所信州松本去ル廿四日夜四時頃ゟ地震強く
翌廿五日ニハ為差儀は無之間遠く相成候へ共今以相止不申候城内
無別条侍屋敷其外所々在町破損所御座候遠在之儀は未タ
相分り兼申候先此段御届申上候以上委細之儀は追而可申上候以上
三月廿□日 松平丹波守
私在所信州松代去月廿四日亥刻頃ゟ大地震之由先達而
先御届申上置候儀ニ御座候処其後今以相止兼昼夜何
ケ度と申儀無之折々相震同廿九日朝晦日夕両日ニ三度強く
震り在之手遠く村方ハ相分り兼候へ共城下町ニは猶又潰家
等も在之近辺之山上ゟ巌石夥敷崩落且兼而
申上候犀川上手ニ而堰留候場所之儀も更級郡之内
安庭村上平林村両村之辺ニ岩倉山と申高山半面両端
崩壱ケ所ハ三拾丁程壱ケ所ハ五丁程之間川中え押込其
辺押埋候村方も在之然処多分巌石之儀ニ付迚も
水勢ニ而は押切兼候様子依之次第ニ湛平水ゟ凡七八丈ニも
可及夫ニ付数ケ村水中ニ相成其辺潮水之躰ニ御座候勿論種々
手当申付候へ共大山殊ニ巌石押入候義ニ付人力ニハ何分
行届兼申候且又川中島平之者共ハ右湛水何方え一
押ニ押出シ可申哉難計と恐怖仕山之手え退去罷在丹
波島宿等も同様之儀ニ付人馬継立等も出来兼申候先此段
御届申上候委細之儀ハ追而可申上候以上
四月四日 真田信濃守
当三月廿四日昼ゟ夜快晴暖気ニ而穏之日和ニ御座候所同夜
四時頃ゟ大地震ニ而信州中条村私陣屋構練塀所々
震倒其外陣屋許近辺村々農家手弱之分ハ下家廻り
震倒厳敷震動致シ暫相立漸く相止候所夫ゟ少々宛間を
置不耐震動陣屋ゟ北之方ニ当り雷鳴之如キ音其夜明迄
之内ニ凡八拾度程震翌朝静ニ相成候へ共今以震動相止
不申候支配所水内郡村々ハ潰家怪我人死人等も多分
有之候由ニ御座候へ共未タ訴出不申追々風聞承候所同国川
中島辺ゟ善光寺夫ゟ南え当り山中と唱候一郷村近辺重キ地
震と相見え川中島辺ハ民家一村不残焼失致候村々も有之
一村三百四拾人位ゟ二三百人程も即死怪我人有之善光寺
町ハ家並不残震倒シ其上焼失大造之即死怪我人
等有之都而往還筋は善光寺供養ニ付夥敷旅人
泊り合せ居候故死人も多く有之候由山中辺は手遠く片
寄候ゆへ様子難相分候へ共犀川土手ニ而山崩有之川中
島流水更ニ無之丹波島渡船場干上りニ相成歩行渡り
致候様ニ相成候越後表之儀ハ如何御座候哉様子相分り不
申候右風聞迄之儀ニ而聢と難相分候間早速手代
差遣シ支配所潰家其外見分吟味之上外最寄之
村々損耗ヲも風聞相糺委細之儀は追而可申上候且御
領所陣屋附同国佐久郡村々之儀ヲも前同様大地震
致候へ共善光寺辺とハ里数も相隔候次第御座候当陣
屋并支配所其外最寄私領村々ヲも纔宛之破家
等有之候へ共為差儀も無之怪我人亡所無御座候先不取敢
此段御届申上候以上
三月廿五日 信州更級郡中条村
陣屋
川上金吾助
私御代官所御領所信州高井郡水内郡村々之儀当月
廿四日夜戌之刻頃ゟ亥刻頃え掛大地震有之夫ゟ不
絶震動致シ折々地震発翌廿五日卯刻頃漸相鎮
候所地所割裂泥水吹出シ潰家人牛馬死失多く
家内不残死絶候者共も有之怪我人夥敷一村皆潰
家ニ相成候村々も有之前代未聞変事之趣追々届
出候ニ付陣屋許中野村之儀は損家等有之候迄ニ而陣屋
共別条無御座候委細之儀は追而可申上候へ共先此段御届
申上候以上 信州高井郡中野陣屋
三月廿五日 御代官
高木清左衛門
私在所越後国高田去月廿四日亥刻頃ゟ大地震之儀去ル四日
御届申上候通ニ御座候処其後相止兼昼夜折々相震同廿
九日午刻頃強く震有之猶又所々大破米蔵寺社町
在共潰家破損相増候旨在所ゟ申越候委細之儀ハ追而
可申上候へ共先此段御届申上候以上
四月七日 榊原式部大輔
出雲守領分信濃国高井郡水内郡之内去月廿四日亥
刻頃ゟ大地震ニ而人家震潰人馬死亡等之趣其上篠
井川両岸抜崩水中ニ相成押埋追々地方え押上
可申哉難計同廿六日ニ至り候而も折々相震申候旨彼地役人共ゟ
申越候委細之儀は追而可申上候へ共出雲守大坂在番中ニ付
此段御届申上候以上
四月四日 堀出雲守家来
奥田為太郎
私儀為参勤去ル廿四日在所出立仕候所同廿四日夜越後国
并信濃国大地震ニ而何分通行難仕旨榊原式部大輔
役人ゟ相達申候間野生駅ニ逗留仕罷在候此段御届申上候
以上
三月廿八日 松平備後守
真田信濃守領分三月廿八日迄在方ゟ之訴
一 即死人 千九百七拾壱人
一 怪我人 六百八拾壱人
一 潰家 三千九百七拾壱軒
一 半潰家 九百七拾壱軒
一 斃馬 五拾六疋
一 一 御高札場并堂宮其外社之分村方不分明ニ付
取調相除追而取調可申上候以上
但多分口上訴ニ付都而割裂可在御座
と奉存候
一 北国往還牟礼宿外三ケ村大地震ニ付差支之趣御届
覚 私代官所
一 村高千三百六拾七石九斗三升八合 信州水内郡
家数百八拾九軒 牟礼宿
内潰家百八拾九軒皆潰
内拾軒焼失
男女八拾九人死失外ニ死馬五疋死牛弐疋
同州同郡
一 村高三百九拾八石六斗五升弐合四勺 大古間村
家数百九軒
内男女拾六人即死外ニ死馬拾三疋
一 村高千三百六拾五石八斗 同州同郡
家数弐百七拾四軒 柏原宿
内潰家百五拾四軒男女三拾七人死失
外ニ死馬拾疋
一 村高九百四拾八石弐斗三升八合 同州同郡
家数弐百三拾三軒 野尻宿
内潰家百四拾三軒男女拾七人死失外ニ死馬拾四疋
右は私御代官所信濃国水内郡北国往還牟礼宿
外三ケ宿之儀当月廿四日夜戌之中刻頃ゟ翌廿五日亥ノ
上刻頃迄前代未聞大地震ニ而書面之通家居皆潰ニ
相成牟礼宿之儀は潰家ニ相成後為出火焼失人牛馬即死
怪我人夥敷宿内及亡所候ニ付
御朱印御証文之外人馬継立出来不申候旨届出候間
早速手代為見分差遣申候委細之儀は追而可申上候へ共
先此段御届申上候以上
四月七日 高木清左衛門
御勘定所
私在所信州飯山去月廿四日亥刻頃ゟ大地震ニ而先達而
先御届申上候通ニ御座候処其後も相止兼昼夜度々
相震候趣ニ御座候所手遠之村方は相分り兼候へ共城内并
家中城下町破損所左之通御座候
本丸 二ノ丸
一 渡櫓 一ケ所潰 一 門 一ケ所半潰
一 冠木門 一ケ所潰 一 囲塀 不残倒
一 石垣崩 二ケ所 一 住居向 半潰
一 囲塀不残 倒 一 土蔵 三棟潰
一 土蔵 一棟潰 一 腰掛 一ケ所半潰
一 土蔵 一ケ所半潰 〆
一 二重櫓 一ケ所潰 大手
一 物置 一ケ所潰 一 門 但二階附 一ケ所潰
〆
大手 大手
一 門左右囲塀 倒 一 物置 一棟潰
一 番所 一ケ所潰 一 番所 但二階附 一棟半潰
一 切通石垣 崩 一 多門 一棟潰
一 土蔵 二棟潰 一 同所囲塀 倒
一 物置蔵 二ケ所潰 一 門 一ケ所潰
一 囲塀西之方 倒 一 番所 同半潰
一 板囲塀 不残倒
一 裏門 一ケ所潰
一 中門 但二階附一ケ所潰
〆
三ノ丸 帯曲輪
一 門 一ケ所潰 一 武器蔵 一棟潰
一 櫓 同半潰 一 同 同半潰
一 土蔵 一棟潰 一 番所 一ケ所潰
一 囲塀不残 倒 一 惣置 一ケ所潰
〆 一 囲塀不残 倒
西曲輪 〆
一 門 一ケ所潰
一 住居向 半潰
一 土蔵 一棟潰
西曲輪 家中侍居宅
一 稽古所 一ケ所潰 一 四拾四軒 潰
一 囲塀不残 倒 一 六軒 焼失
一 小屋 一ケ所潰 一 六軒 半潰
一 井戸上屋 同半潰れ 一 同門 拾七ケ所潰
〆 一 同 二ケ所焼失
外廻り之分 一 同 三ケ所半潰
一 稲荷本社拝殿潰 一 同 八ケ所損
一 建家 四ケ所損 一 土蔵 三棟焼失
一 番所 一ケ所潰 一 四軒 損
〆
同侍小役之者長屋 一 土蔵 二棟焼失
一 拾八棟 潰 一 同 五棟半潰
一 拾二棟 焼失 〆
一 三棟 半潰 一 厩 一ケ所半潰
一 舂屋 一ケ所潰 一 門 一ケ所半潰
一 用会所 一ケ所潰 一 内馬場 一ケ所崩
一 土蔵 一棟潰 一 作事小屋 一棟潰
一 同 一棟焼失 一 中間部屋 二棟焼失
一 但籾五百石不残焼失 一 船蔵 一棟潰
〆 〆
一 侍分并家内小役之者下々ニ至ル迄即死八拾六人男四十人
女四十六人
一 竈数五百四拾七軒焼失 一 土蔵百七拾弐棟 焼失
一 同 三百拾弐軒潰 一 同 五拾棟 潰
内七軒山崩ニ而泥冠り 一 同 上屋弐拾棟 焼失
一 庫裏七ケ所潰半潰共 一 牢屋敷 一棟潰
一 諸堂社拾七ケ所半潰焼失共 但牢人は怪我無御座候
右之外物置焼失潰家数多ニ
寺院 御座候へ共未取調出来兼申候
一 本堂六カ所焼失半潰共 一 城下町人即死三百三人
一 同 六ケ所半潰 内男百三十三人女六十五人
一 庫裏 拾ケ所半潰 外ニ穢多男一人 非人男一人
女壱人
〆
右之通御座候猶領内之儀は取調之上追而可申上候へ共先此段御届
申上候以上
四月十二日 本多豊後守
御普請役
御届 高崎兵八
西村覚内
昨廿四日夜四時頃大地震ニ而松平飛騨守殿知行所信州更級郡
高弐千九百石余之村方ニ而潰家千四百軒怪我人多人数即死六拾人程有之
私共旅宿之儀も震并小者両人無難ニ而立退伝馬御証文之儀持退候ニ付
別条無御座候誠ニ古今稀成大地震ニ而田畑共割中ニハ夥敷水吹出シ候
場所等も在之塩崎村御普請之儀堤石積等ハ荒方崩千曲川
之儀は常水ゟ弐尺増水仕候へ共此上異変無御座候ハヽ格別之出
水も有之間敷と奉存候右は塩崎村ニ不限近郷都而潰家
怪我人等も多分有之躰ニ而大地震之節四方遠近一円出火ニ而
中ニハ稲荷山宿并善光寺町之儀は今朝迄焼相見へ候へとも
昨夜ゟ只今ニ至迄昼夜何十度となく鳴震壁も落候様
震動致シ且佐井川之儀川上ニ而山崩致候趣ニ而大地震之後
今ニ至ル迄少シも通水無之ニ付一両日之内ニは何方へか大出水
可在之迚同川附ハ勿論継場之者共追々逃去候趣ニ御座候右
異変ニ付此段御届申上候以上
三月廿五日 高崎兵八
西村覚内
信州千曲川通塩崎村国役御普請見分并仕立御用中
大地震ニ付見分候趣
西村覚内
松平飛騨守殿知行所信州更級郡千曲川通塩崎村見取
御普請見分并仕立御用として同役高崎兵八一同彼地ニ
罷在候処三月廿四日夜四時頃伝承ニも無之大地震ニ而右
塩崎村高弐千八百石余之村方ニ而惣家数六百軒在之由
之処本家并土蔵物置共外共拾ひ立候棟数ニ而千百軒
凡六七分通之潰家之趣地頭役人取調申聞候怪我人之儀は
多人数ニ而即死凡六拾人程有之趣申聞候へ共私共彼地出立
迄ニ追々潰家之中ゟ掘出候死人も在之由尤旅人之儀は
人数早速相分り兼候趣ニ御座候私共旅宿も震潰漸助命仕
候へ共荷物其外家之下ニ相成翌朝夜明ニ至り掘出し候儀ニ御座候
塩崎村之儀は出火も無之家数弐三軒焼失迄ニ御座候右地震
之節は四方遠近一時之出火土煙一同ニ相成夜中何十
度となく山鳴震ひ人声夥敷岩崩落候響キ強く田畑
往還共巾弐三尺位ゟ四五尺迄竪横ニ割水吹出シ
又ハ泥等吹出候やも感する如くニ被存候儀ニ御座候大地
割候場所所々弐尺程段違ひニ相成泥土ヲ吹出し候場所
甚匂ひ悪敷硫黄之気ニも可在之哉尤水吹出候
場所匂ひも無御座候
一 去月十日ゟ善光寺開帳ニ付諸国ゟ参詣之旅人夥敷泊
候節は一軒之旅籠やニ千弐百四十人泊り在之内千弐百人
旅籠受取残り之四拾人無貨ニ而泊り候由右様郡集之
折柄大地震ニ而善光寺町荒増震潰其外出火ニ而死人
何程哉数限り無之由如来堂ニ泊り候旅人凡三拾人余是ハ無難ニ而立退
候へ共衣類其外路銀等も何れも焼失之由遠国之者抔別段
難渋ニおよひ候様子ニ御座候如来堂并山門而已相残其外ハ市中
一同焼失致候由承り申候死人等之儀は中々以難相分噂ニハ
善光寺町計ニ而弐三万人も有之由同町人別之者共廿五日
朝残り居候者漸弐三百人ならてハ無之趣噂御座候へ共是
とても逃去候ものも有之ニ付凡ニも人数ハ相分り兼候へ共
何れ大変之義ニ御座候
一 塩崎村西之方隣宿上田領稲荷山之儀も潰家之上出火ニ而
不残焼失致シ旅人其外即死人夥敷趣ニ御座候へ共是も
人数相知不申候噂ニハ弐三千人と申事ニ御座候其外とても焼失
致候宿々村々即死人多く有之候儀と申事ニ御座候
一 信州佐井川之儀廿四日夜大地震之節ハ流水留り候廿六日
昼頃私共彼地出立迄通水無之是迄丹波島宿辺ゟ
七八里行水内村辺ニ刎橋有之由右前後之辺山崩致シ
佐井川ヲふさき候由ニ而何時何方ゟ出火致候哉難計同川附
ハ勿論継場之者共追々逃去申候右ニ付往還えハ上田松代
ゟ出張致シ善光寺之方ニハ往還差留申候噂ニハ佐井川
之湛水信州松本辺潮水之躰ニ相成桔梗ケ原と申
所え水押開キ夫ゟ諏訪之潮水え入天龍川え流水
可致抔申居とり〳〵噂仕候へ共多く山崩之場所十分ニ水湛
候ハヽ押切一時之大水可仕と奉存候何れも佐井川之
為ニ又候亡所夥敷義と奉存候
一 私共彼地廿六日昼頃出立途中地割候場所漸通行仕
飛騨守殿用人も引続出立致候処塩崎村之山之手
之方ゟ夥敷人声ニ而追々寄り集り用人を取巻中ニハ親ニ
分れ妻子ニ分れ候も有之助ケ呉よ夫食ヲ与へ呉よと
泣わめき候ニ付彼地詰合代官手代等呼寄段々利解
手当之次第等申聞漸々引取申候様子ニ御座候右之
次第故中々以急速御普請仕立難行届差当り
旅宿も無御座候私共泊りも両日両夜野宿仕漸引払之儀ニ
御座候尤地頭ゟ小屋掛ケ其外手当致シ人気居合之上ハ
早速申越猶又私共罷越御普請取掛り候積ヲ以帰候儀ニ
御座候
一 此度之大地震彼地ニてハ十里四方と申居候へ共南北之巾五六里
程竪十弐三里ヲ限候様ニ而其余ハ格別之儀ハ有之間敷
哉ニ奉存候私共塩崎村ヲ出立千曲川ヲ渡り里数壱里
程ニ而松代領矢代宿え罷越候処潰家三拾軒有之趣即死人
等も拾弐三人と申事ニ而塩崎村ゟ地割も畑え少々宛軽キ様
子ニ相見へ夫ゟ三里罷越川上金吾助御代官所坂木宿辺ハ
潰家死人も無御座候へ共都而建具類ハ震損昼夜何十度となく
震動致シ一同野宿致シ居夫ゟ三里上田領え罷越候処
又一段軽く尤昼夜野宿致居候様子ニ御座候夫ゟ弐里半ニ而
小諸宿夫ゟ三里ニ而中仙道追分辺ニ至り候てハ山鳴震候程之
義ハ無之大地震も只折々少々震候迄ニ而夫ゟ碓水峠ヲ
江戸之方え越候へハ廿四日之夜余程之地震有之候而已其
後地震も無之趣ニ御座候右は御用中大変之儀
及見分候趣荒増書面之通ニ御座候委細之儀ハ追々
場所〳〵ゟ取調申上候儀と奉存候以上
四月三日 御普請役
西村覚内
信濃国高井郡水内郡地震災害一村分限帳
村高四万千弐百八拾六石六斗三升弐勺
一 家数 六千八百七十二軒
一 人別 弐万千弐百十五人
内
一 潰家 弐千百十五軒 一 郷蔵 弐十二ケ所
一 半潰家 七百八十二軒 一 潰宮寺 六十六ケ所
一 潰土蔵 三百三十一軒 一 即死人 弐百七十八人
一 潰高札 廿二ケ所 一 怪我人 千四百六十人
一 同物置 九百十四ケ所 一 即死馬 五十六疋
地震再届
去月晦日御届申上候私御代官所当分御預所信の国高井郡
水内郡村々之儀去月廿四日夜大地震異変之始末御届
申上候後震止不申今以折々震動致シ昼夜十四五度宛対シ
候儀ハ無之少々宛震ひ立尤間ニハ強キ事も有之候間村々ハ恐怖
仕跡所片附ハ勿論農業之心得も無之周章立騒罷在候間安
堵仕候様私并手附手代共廻村精々利解申聞耕作手後ニ
不相成様可致候且先月廿七日真田信濃守家来ゟ掛合越候ハ
右地震ニ而北国往還丹波島宿渡船場ゟ凡弐里半程川上
同人領分山平林村地内字虚空蔵山凡弐拾丁程之処
山抜崩犀川え押出シ埋立川中ヲ〆切候ニ付流水ヲ
止水湛当時川上平地え水開候へ共湛溜切候ハヽ自然と
押埋候〆切場所水力ニ而押崩可申其節如何之
洪水可相成哉気遣敷支配所千曲川縁村々
心得置候様申越置候儀も在之右故当時千曲川
平水ゟ七八尺減水致居右川筋村々心配致シ
山添高場え立退居悲歎罷在候切開候ハヽ如何
可在之数日湛溜候ヲ一時ニ押流候ハヽ又候水災之
異変も出来可申と殊之外人気不穏心配仕候
地震之儀は最早相止可申哉ニ奉存候依之此段
御届申上候以上
四月四日 高木清左衛門
御代官所
榊原式部大輔御預所越後国頚城郡村々去月廿四日夜大地震
ニ而潰家死人在之候段訴出候ニ付其段先御届無程申上置候
処其後も少々宛震ひ止不申候ニ付役々面々簀張
仮小屋ニ而御用弁罷在候仕合之処又々去月廿九日昼頃
大地震致シ村々潰家死人等在之并苗代田土冠りニ相成候段訴出并
御公米川下致シ今町湊裏町え入置候処皆潰御米乱俵ニ相成
候旨訴出候ニ付早速役人差出置申候廿四日ゟ廿九日迄一滴も雨降不申候所晦日明方ゟ雨強く降
其後ハ折々大風之段上郷村々氷雨降候由ニ相聞え申候委細之
儀は追而可申上候へ共猶又右之段先御届申上候以上
未四月七日 榊原式部大輔御預所役
武藤門吾
大地震之趣御救拝借之儀ニ付伺書
御代官所当分御預所
惣高五万八千三百六拾弐石九斗九升弐合弐勺
内壱万七千七拾六石弐斗九升弐合 中野村外八十一ケ村無難之分
引而
村高四万千弐百八拾六石六斗壱升弐合
内
潰家弐千九百七拾七軒 九拾壱ケ村
内七拾七軒身元ケ成之者共并無難之者
助合候村々之分除之
一 潰家弐千百六拾三軒
内拾六軒土中ニ埋相知不申候
一 半潰家七百三拾七軒
但半潰之分木品悉く砕不用立潰家同様ニ御座候
一 御高札場 潰 拾弐ケ所 一 潰土蔵三百三拾壱ケ所
一 諸堂宮寺潰六拾六ケ所 一 潰郷蔵 弐拾弐ケ所
一 潰物置九百拾四ケ所
右は当三月廿四日夜大地震ニ而私御代官所当分御預所
信の国高井郡水内郡村々災害之始末不取敢御届
申上置候早速手附手代共手配差出私儀も廻村
仕村々災害之様子見分仕候処誠ニ以絶言語寄
変之躰恐怖仕見ルニ不忍地面割裂七八寸ゟ
五六尺余数十間程宛筋立開右割目ゟ夥敷黒赤
色等之泥水吹出シ歩行相成兼候場所等多く有之
其上所々山崩土砂水押出シ大石転落田畑共変
地致シ多分之損地相見へ村々用水路所々欠落
崩及大破或ハ床違ニ相成候場所も水乗不申用水
絶々ニ相成候村々多く有之谷川等之分大石土砂押出シ
震埋所々欠落及大破水行を塞平一面ニ泥水
押落潰家之儀何れも家並平押ニ潰桁梁矧目
臍木等其外建具之類折砕家財諸道具等ハ悉
打毀銘々貯置候厨中ニは土砂利押埋り候分も
有之最初見廻り候頃ハ村々とも小名ハ勿論村役人迄
本心取失ひ更ニ跡取片附之心得も無之銘々潰家前ニ
家内一同曾而雨露之手当も不致只々途方ニ
暮レ忙然と致居私ヲ見受狼狽頻落涙止り
かたく悶絶致シ尋候答も出来兼打臥居小前老若男
女共泣叫居怪我人共ハ夥敷倒苦痛罷在有様
難申上尽不便至極歎嗟仕何れも村々同様之次第
ニ而差当り夫食之備有之者共も潰家之下ニ在之殊ニ泥
水を冠り容易ニ取出候儀出来兼小前等々ニ至り夫食
手当無之者共将又呑水ハ用水ヲ用来候処泥水交りニ
相成及飢餲候処自他村々一般最寄難助合候方も
有之間当時救方夫食之手当相成候丈ハ致遣シ候へ共百ケ村
余之儀惣躰救方迄私之自力ニ届兼身元ケ成之
者共迚も潰家災難ニ逢候事ニ而寄特ニ助合も出来
兼無拠郷蔵囲穀等ヲ以手代共手配り廻村為相凌候
陣屋最寄村々之分ハ中野村松川村寺院社内境
内え小屋掛致シ極難ヲ救遣候儀ニ有之且追々村々人
牛馬死亡怪我等相糺候処男女死失書面之通りニ而五百
七拾八人怪我人千四百六拾人右之内片輪ニ相成農業渡世
相成不申者共多有之斃牛弐疋斃馬五拾疋右之外
善光寺え参詣致シ三月廿四日夜同所ニ止宿地震ニ而
焼死候者男女弐百人余有之等之分ニ人絶ニ相成災害村
々之分人別弐歩七厘之減ニ相成支配所高五万八
千三百石余之内無難村々ニ而三分ならてハ残り不申
高七分余ハ災害之村ニ而何共歎敷義ニ御座候差向村々
用水路手入不仕候てハ呑水ニ差支且田畑用水肝
要之時節ニ付何れも不捨置取繕不申候てハ苗代ハ勿
論無難之田畑植付ニも差支候処場広大破之儀
中々以村々及同力不申火災之難とハ訳違ひ家
作田畑山林等迄覆候大災就中水内高井両郡
共大地震痛強く捨置候てハ皆無亡所ニ相成候村
々多く人命ニ拘り末々御収納御国益ヲ失ひ不容
易儀迚も御救ひ不被下置候而ハ何共可仕様無御座
且又右地震ニ而北国往還丹波島村渡船□【場か】
凡弐里半程川上真田信の守領分平林村地内字虚
空蔵山凡弐拾丁程之山抜崩犀川え押出シ埋り
川中ヲ〆切候間流水ヲ堰留水湛当時川上平地へ水
冠り候へ共湛溜切候ハヽ自然と押埋候〆切場所水力
ニ而押崩可申其時如何様之洪水ニ可相成哉気遣
敷支配所千曲川縁村々申越候ニハ信の守家来ゟ
掛合在之右故当時千曲川平水ゟ七八尺減水致居
川筋村々心配致シ山添高場え立退居切開候ハヽ
如何可在之又候水災之異変出来可申と殊之外人気
不穏心配仕候義ニ御座候間前書申上候災害難渋ニ
陥候次第得と御賢察被下相続方并自普請
之所用水路大破ニ付金弐千五百両書面之村々え
拝借被 仰付被下度左も無之候てハ迚も相続筋ハ
無之万一此上難渋ニ付且心得違之人気立候様
成候而ハ恐入深く心配仕候義ニ御座候所支配村々之者共
義昨年来同国他之支配所ニ無之
御国恩を定め増米上納相願候実心之節民共
穴敷退転為致候段歎敷奉存候
御仁恵之御沙汰ヲ以永年賦拝借被成下候様仕度
奉存候然ル上ハ右拝借金高村ニ応シ割賦貸渡
年賦返納之儀は別紙ヲ以相願候様可仕候間拝借被
仰付御下ケ金被成下候様仕度奉存候依之災害村々
一村限帳一冊相添此段奉伺候以上
未四月 高木清左衛門
一 私在所先達而先御届申上候通大地震ニ而更級郡山平
林村之内岩倉山抜崩犀川え押埋二ケ所堰
留追々数十丈湛溜候所一両日前ゟ水漏候得共
下之方堰留候場所え乗候ニ付未弐丈余も有之候処
俄ニ押破候と相見へ昨十三日夕七時過右山之方大ニ致震動
引続瀬鳴之音高く相聞へ一時激水右川筋え押
出シ忽左右之土堤押切或は乗越防方も届兼候旨
川方役人共ゟ追々致注進候所間も無之川中島数
十ケ村一円ニ水押千曲川え流込逆流既ニ居城
際迄水多く押上り暮時頃ゟ九時迄ニ千曲川常水ゟ
弐丈計相増川中島ハ勿論高井郡水内郡之内川
添村々水中ニ相成瀬筋相立候様相見候所も数ケ所在之
作物泥冠りハ勿論押掘候場所夥敷可在之候へ共
難見極夜中過ニ及候而潮水丈も相立候様子ニ候処
暁ニおよひ次第ニ引水ニ相成候兼而村方之者共水防手当
申付置候へ共俄ニ押出シ古今未曾有迅束之大水
存外之儀ニ而流家ハ勿論溺死も数多在之様子其上
多分之損耗も出来可申と心痛罷在候委細之
儀は追而取調可申上候へ共先此段御届申上候以上
四月十四日 真田信濃守
過日御届申上候私在所松代去月廿四日夜未曾有之大地
震ニ而城内櫓壱ケ所震潰其外櫓門囲塀并住居
向大破損其上所々地面震裂幅七八寸位数間筋立家
中屋敷之儀ハ南山之手え附候方ハ破損軽く御座候へ共
潰家或ハ半潰家其外一流破損所有之城下町
之儀も潰家破損所死失も有之其外領分村々
一流之儀ニ而場所ニ寄り七八寸或ハ壱尺弐尺地面震
裂数間筋立右ゟ土砂泥水焼石之類吹出シ
又ハ田畑之中地陸或ハ高く或ハ低く種々変地致シ
扨又山中筋は猶更抜覆夥敷土中ニ相成候村方も
有之其上兼々申上候通更級郡山平林村地内之高山
抜崩麓之村々ハ盤石一同犀川筋え数十丁
之間押埋り流水堰留日々水嵩相増凡拾七八丈
湛溜水上ハ六七里之間潮水之形勢ニ相成右ニ而川添
村々ハ数ケ村倒潰或ハ焼失之上数丈之水底え致
沈没居此上五七日も水湛増候ハヽ抜崩押埋之場所
水乗可申哉之旨追々注進申出候其外土尻川と申ハ
犀川ゟ小川ニ御座候へ共是又川上抜崩流水〆
切去ル十日迄湛水ニ相成居候処同日昼過崩埋之
場押切壱丈余之大水俄ニ押出来候儀暮ニおよひ
追々減水仕候尤元来犀川と落合候水筋ニ御座候処
地震以来干上り之川筋え流落候故哉川丈之
流水ニ而破損所御座候へ共先格段之地も無御座候
然処前申上候犀川上手数十日之湛水一時ニ押
出候節は川中島ハ勿論下続御料所村々如何様之
災変可有之も難計殊ニ犀川口小市村渡船場
北字真神山是又犀川中え崩落川幅多分
押埋候間此節湛溜候犀水一時ニ押出シ真神山
押崩之場え突掛候は猶更如何様之異変も生シ可申も
難計右之場差向時之手当精々普請ハ申付候得共
中々以不容易儀ニ有之且支配所之儀も多く同様之儀ニ
御座候所就中善光寺之儀は居家震潰右ニ而致出火
本堂山門之外ハ一円焼失死傷殊ニ夥敷趣ニ付
早速家来差出シ米穀人足等当座之手当申付
候儀ニ御座候一躰領分之儀は飛地無御座城続一纏ニ
御座候此度之災害遁候村方ハ無御座候所山中筋ハ
犀川水湛并道形多分抜覆往来不相成場も
多く委細取調も出来兼候へ共去ル十日迄追々相糺
候分城下町ゟ山里村ニ凡潰家半潰家共八千七百四
十七軒程死人怪我人共三千九百廿四人程斃牛馬
弐百三拾五疋程御座候右等之次第ニ而死失潰家無之村方ハ
纔之儀ニ而可在之歎息至極奉存候勿論救方手当
精々申付候へ共差向苗代時ニも罷成麦作取入等肝要之
季節ニも追々相成候処震ハ漸々軽く相成候へ共鳴動ハ今以
数十度在之百性共恐怖悲歎ニ沈ミ途ヲ失ひ忙然
と而已罷在候付役人共差出シ撫肓為致候へ共安居仕
兼加之川中島平之儀は犀川水湛ニ而流水無之
用水差支餲ニも及候仕合絶言語候次第ニ御座候乍然難
捨置儀万一心得違之人気も此節之儀ニ付気遣敷
奉存候間人心落着銘々取繕之手段救方可成丈可申
付儀ニ御座候へ共城修覆ヲ始家中城下川領方在々
一流之儀ニ而莫太ニ有之何分行届兼申候其上猶
犀川之変地も如何可相成哉心痛当惑至極奉存候
御時節柄奉恐入候へ共何分難及自力依之格別之以
御憐恕ヲ金弐万両拝借被 仰付被成下候様仕度
奉存候此段不得止事奉願上候以上
四月十二日 真田信濃守
私在所信州松代先達而先御届申上候通大地震ニ而
更級郡山平林村之内岩倉山抜崩犀川え押埋
二ケ所堰留追々数拾丈水湛溜候所一両日前ゟ漏候へ共
下之方堰留候場所え水乗候は未弐丈余も有之候所俄ニ
押破り候と相見へ昨十三日夕七時過右山ノ方大ニ致鳴
動引続瀬鳴之音高く相聞え候処一時ニ激水右
川筋え堀出シ忽左右之土堤押切或ハ乗越防方も届
兼候旨川方役人共ゟ追々致注進候所間も無之川中
島数十ケ村一円ニ水押千曲川え流込逆流致シ既ニ
居城際迄水多く押上暮時頃ゟ夜九ツ時頃迄ニ千
曲川平水ゟ弐丈計相増川中島ハ勿論高井郡
水内郡之内川添村々水中ニ相成瀬筋相立候所も数ケ所
在之作物泥冠りハ押掘候箇所夥敷可在之候得共
難見極夜半過ニ及候而漸水丈も相定候様子ニ候処
暁ニおよひ次第ニ引水ニ相成申候兼而村方之者共
水防手当申付候へ共俄ニ押出シ未曾有迅束之大水
存外之儀ニ而流家ハ勿論溺死も数多可在之哉其上
多分之損地も出来可申と心痛罷在候委細之儀ハ追而
取調可申上候へ共先此段御届申上候以上
四月十四日 真田信濃守
私在所信州松代此程先御届申上候通大地震ニ而更級郡
山平林村岩倉山抜崩犀川え押埋り堰留候場所
共十三日夕一時ニ押切右川筋え押出シ里方え之出口ゟ
左右之土堤押切乗越夫ゟ川中島一円水押来城
下ゟ壱里程上同郡横田村辺ゟ千曲川下続え一面ニ
押入候水勢強く下続ゟも追々湛来更溢水ニ相成
処致逆流居城際迄押上城内地陸ゟも水高ニ
相成候所去ル文政年中御聞置申上築立候水除土
堤ニ而相凌尤所々及大破候ニ付種々手当申付急難相
防候内致減水居故危く城内えは水入不申候得共城
下町え余程水押申候右様之次第ニ付流末川辺村々ゟ
御料所中野平辺迄致充満如湖水相見候処追々及減
水候ニ付早速見分差出候へ共大小橋々多分流失其
上水引候而も地窪之処水溜居或ハ道式押掘等ニ而
通路難相成場所在之凡之見積りも出来兼候へ共
犀川え湛場破方之儀は段々水嵩相増深サ
弐拾丈ニもおよひ少々宛水乗候ニ随ひ岩倉山麓之方追々
欠崩候而水筋相附大水乗初候と一時ニ押埋り候
巌石等押崩麓之方えも多分欠込数十日之
湛水川中島え押出候義ニ御座候右為防此度水内
郡小市村渡船場下続左右之土堤石俵等ヲ以俄ニ急難
除為築立申候然処右は川中島其外川辺御料
私領村々之為ニ付領内之人夫ハ勿論近領水冠りニも
可相成村々ゟも多人数差出精々致普請候儀ニハ御座候へ共
莫太之水勢ニ而暫時も不保押流申候且又水内郡
小市村之内字真神山先達而抜崩高サ弐十間程
横五拾間之処犀川え八拾間程押出し残り川幅僅ニ相成
其侭差置候而ハ残之水ニ而も川筋致変地候儀ニ付精々
掘取申付候へ共巌石等多行届兼候処此度激水ニ而忽ニ
押流数百十人ニ而難動程之大石ヲ川下或ハ川辺村内
耕地え押出申候其辺之水丈六丈余ニも及候ニ付川辺村々之内
更級郡四ツ屋村之儀ハ軒別八拾軒之内六七軒相残悉く致
流失跡一円之河原ニ相成右ニ准シ居家不残押流候
村方も多く在之其上山中筋水附之山多分欠崩候
ニ付大木等押出シ是が為ニ被押倒致流失候居家も
不少流家凡六百軒余其外石砂泥水入数多在之流
死人も御座候趣相聞え候へ共未タ相分り不申候且川下村々
之内ニハ地窪之耕地ハ今以壱丈程も水溜居候次第ニ付
損地等之義ハ中々凡之見極も不行届北国往還丹
波島宿并北国往還脇川田宿福島宿之三宿前条
之次第ニ而人馬継立出来兼候且又川辺村々米穀之儀は
山手村々え相移候様兼而申付置候へ共其外近辺近辺村々ハ
仮令水押来候共流失ハ致間敷と心得棚等拵候而上
置候穀物居家一同致流失候も不少右ニ付村々救方として
所々え役人差出喰物炊出シ并小屋掛手当等申付候殊ニ川中
島村々え犀川ゟ引取候用水堰三筋外ニ壱ケ所之水門跡形も
無之押埋候ニ付呑水一切無之救方喰物炊出之儀も場所
寄り弐三拾丁之遠方ゟ水運候義ニ御座候畢竟前条之
堤普請之儀も右様之儀無之様仕度急難防ニ付地震ニ而
居家震潰候村々之者共も申渡ヲ不相待日々出精築立候処
其甲斐も無之一時ニ破裂致候ニ付居家流失水冠りニ相成
候者共ハ猶更之儀一流途方ニ暮罷在日用之呑水ハ勿論
眼前之苗代水引方堰普請も早速行届申間敷必至と
差支人心不穏甚不案心奉存専ら手当方申付候へ共
城内始家中屋敷破損并城下町領分村々潰家死
失人夥敷田畑道路地裂地陸床違ひニ相成又ハ山抜
覆等之大変災ニ打続此度は大水患且今以昼夜
鳴動并震止不申何共気遣敷次第甚以心痛仕候
委細之儀は追々取調可申上候へ共猶又此段御届申上候以上
真田信濃守
奉願候覚
私儀勝手向不如意ニ御座候上近年領分違作打続別而難
渋罷在候処昨年居屋敷類焼仕以後住居向普請之儀も
差支御暇順年旁以昨夏中在所え之御暇奉願候処願之
通被 仰出候間発足用意向取掛り候折柄本所下屋敷
近年稀成出水ニ付同性内蔵頭始立退可申処上屋敷類焼
後住居向も一向無之急速立退之手当夫々申付其外
水防等之儀ニ付而も彼是莫太之臨時物入多内外殊之外
差支当惑罷在候処先達而御用番え先御届申上置候通り去月
廿四日夜地震強く陣屋并家来居宅長屋向破損所数ケ
所町方且又領分村々百性家同断別而川附村々潰家破損家
夥敷其外田畑地裂数百ケ所ゟ泥砂吹出シ又ハ地面高低出
来小川何れも川敷之方高く相成水溢耕地え押入数日
湛居候故当季作物都而水腐ニ相成殊ニ領内川添
村高之内綿内村之儀ハ犀川千曲川落合之場所ニ御座
候所川上ニ而山崩有之流水堰留日増ニ水嵩ニ相成候而湛
水堰留候哉溢水ニ相成候節は右綿村ハ勿論流末
川添村々一躰地窪之場所故押流し候哉も難計老幼ハ不
及申骨弱之者共都而救小屋取建飲食其外手当
仕右村々えは役人共差出置精々防方用意為仕罷在候処
其後今以強柔ハ御座候へ共昼夜何ケ度と無之相震并犀川
上手山崩ニ而堰留候流水日増ニ相嵩去ル十三日申ノ刻
ゟ西山辺頻ニ震動仕候間心配仕猶又家来并助勢人足
為防禦差出老幼之者共為立退等之儀為取計罷在候内
右犀川堰留候場所水勢ニ而俄ニ押切数日相湛候儀
ニ付凡弐丈余之水嵩暫時ニ押来領分川附村々兼而
手配用意仕罷在候へ共夜陰殊ニ急流故流家ハ勿論溺
死之者共も有之田畑亡所損毛等も不可少趣ニ相聞候へ共
未一円水下ニ而取調難行届尤山崩堰留候場所
二三ケ所御座候由追々押切可申哉此上如何可在之も難計
心痛罷在候右諸向手当猶予難相成去月廿四日以来引
続夥敷入用ニ而必至と差支在所表最寄一円之儀ニ而金子
調達之手段も無御座候殊ニ前書之通引続莫太之
入用相嵩困窮差湊候折柄今般前代未曾有之
天災ニ而急速国民救方手当申付候へ共前書之仕合ニ而
此上之所難行届甚心痛当惑罷在候依之奉願候も甚以
恐入奉存候へ共可相成儀ニ御座候ハヽ格別之以
御憐愍何卒金弐千両当節拝借仕度奉存候右願之通
被 仰付候ハヽ諸向急場難渋相救候は勿論数ケ村之
者共不及飢餲様手当も出来可申と難在仕合奉存候
右返上納方之儀は不容易訳柄ニ而奉願拝借金之儀ニ付
御差図次第取計返上可仕候間御慈評願之通
被 仰付被成下置候様偏ニ奉願候以上
四月七日 堀 長門守
私領分信州松代去月廿四日夜大地震以来之
次第追々御届申上候所城下ゟ乾ノ方ニ当り六七里
程隔候山中水内郡井柳村梅木村念仏寺村
上曽山村地京原村和佐尾村椿嶺村日蔭村鬼
無里村等亘り候大姥山虫倉嶽と申高山同夜震動
崩之始末近頃漸々通路出来見分為仕候処右九
ケ村之儀別而大災ニ御座候処其上ニも伊折村和佐尾
村梅木村京原村念仏寺村五ケ村は右山麓間近ニ而
念仏寺村之内平沢組臥雲組梅木村之内城ノ越組
親沢組地京原村之内藤沢組横道組伊折村之内
大田組高福村之内栗本組都合拾壱組之内
民家七拾軒人別百九拾九人馬三拾疋無跡形も
土中え押埋り右組々多分之亡所ニ相成申候且又右村々
近村内之儀は家数四拾四軒人別弐百三拾五人之内潰
家五軒相残外三拾九軒人数六拾人余馬六疋并山田中
村之儀は家数三十九軒人別拾弐人是又跡形も無之
土中え押埋り亡所ニ相成候程之儀ニ付間近村々変地
潰家死人殊之外夥敷御座候趣ニ候へ共未取調行
届不申候前条村々等ハ里地と違ひ村立耕地も山路ニ
相隔高目ニ不似合地広ニ而物毎手遠之上惣而平常
は巌石多く重候辺を一歩通同様之険岨ニ御座候処此
度大災ニ而元之道形致滅布候故当分巨細之見分ハ
行届申間敷如何ニも歎ケ敷心痛之次第ニ付最寄
災害不甚村方とも相纏メ救方夫々手当申付候
是迄も追々御届申上候へ共右大姥山虫倉嶽麓之村々
変災未曾有之次第ニ候就中甚敷候ニ付尚又
此段御届申上候委細之儀は追而可申上候以上
四月廿三日在所日限 真田信濃守
廿九日御届
私在所信州飯山三月廿四日亥刻頃ゟ大地震ニ而破損所等
先達而先御届申上候通ニ御座候処其後も相止兼連日相震
猶又損所出来城内并在町破損所取調候処左之通御座候
御届書前後せぬよふニ一弐ヲ記
一 城内中門内 一 庫裏四ケ所 潰
一 番所 一ケ所潰 一 橋 四ケ所 落
一 献上蔵 一棟潰 〆
城外在方之分
一 城下町之内 一 御高札場拾四ケ所 潰
一 竈拾七軒 潰 一 郷蔵三拾壱ケ所
一 土蔵拾九棟 潰 内拾ケ所山崩ニ而土中ニ埋
一 水車屋三ケ所 潰 九ケ所 潰
一 諸堂六ケ所 潰 五ヶ所 半潰
一 物置百九ケ所内六十九ケ所焼失 七ケ所 類焼
〆 三十五ケ所 潰 〆
一 同三ケ所 半潰 一 居宅弐千五拾六軒 潰
一 番所弐ケ所 潰 内八拾三軒山崩ニ而土中ニ埋
一 同 七百三拾軒 半潰
一 寺院拾七ケ寺 一 同 弐拾三軒 焼失
内拾弐ケ寺 潰 一 同 四拾三軒 流失
五ケ寺 半潰 一 物置千弐百四十八棟 潰
一 庫裏三拾ケ所 潰 一 水車屋三拾四ケ所
一 橋 九ケ所 落 内弐拾八ケ所潰 同四ケ所半潰
一 諸堂六拾八ケ所 同弐ケ所土中ニ埋
内壱ケ所焼失 五拾六ケ所潰
隠権堂拾壱ケ所 潰 一 社 五拾九ケ所
内五拾四ケ所潰五ケ所半潰
一 死失人千百弐拾壱人 一 牛 三疋 死失
内 四百九拾壱人 男 一 馬弐百三拾四疋死失
六百弐拾七人 女 外ニ
三 人 僧 穢多小屋内六軒潰
壱軒焼失
女 壱人 死失
一 荒地五千百六拾壱石三斗余此外変地数多在之
一 用水路水場口ゟ壱里余之難場欠落其外村々用水
所々損且往還筋二ケ所抜落并山崩川欠地割裂小
橋損立木倒数多ニ而難顕怪我人夥敷身体不具ニ
相成農業出来兼候者多分有之尤怪我人之儀も数多
故難取調儀ニ御座候
右之通御座候
五月六日 本多豊後守
私在所信州飯山去月十三日夜ゟ十四日迄定水ゟ壱丈三尺相
増川添村々田畑水押入等之儀先月中先御届申上候
通ニ御座候処猶取調候処左之通ニ御座候
一 田畑水押水冠り石砂入川成共
九百六十九石弐斗三升八合余
一 用水押荒地川欠
千百廿三石弐斗壱升九合余
一 用水路土手押切 百十三間一ケ所弐百間余一ケ所七十間余一ケ所百九十間余一ケ所
一 同水冠り 弐拾四石九斗余
右之外損所数ケ所 一 人馬怪我人無御座候
五月六日 本多豊後守
先達而御届申上候私在所信州飯山去月廿四日夜
大地震ニ而城内住居向櫓門囲塀武器
蔵番所其外数ケ所潰破損所夥敷家中屋敷
并長屋厩用会所籾蔵等大方潰所々出火城
下町ハ同様潰候上悉く焼失仕領分村々多分
潰家出火有之山崩数多ニ而泥冠りニ相成り候村々
も有之田畑多分之永荒ニ可相成就中用水
樋堰数百ケ所大破ニ相成普請仕候とも中々用
立可申哉も難計場所も多く乍併是等之儀ハ手途遠之
村々も有之故巨細之儀ハ追而可申上候且十三日夜千曲川
俄ニ出水定水ゟ壱丈三尺相増川添村々水押多分之水
損ニ可在之前書之変事ニ而死亡之者夥敷在之右ニ付
早速普請并家中扶食在町扶食領分窮民
救方等申付度奉存候処私勝手向近年打続違作損毛
多其上一昨巳年青山辺ゟ出火ニ而下屋敷不残武器
蔵等も類焼仕甚以難渋之仕合ニ御座候処前書之
次第ニ付不取敢少分之手当は申付候へ共莫太之
義ニ而中々以難及自力当惑心痛仕候依之
御時節柄奉願候も奉恐入候得共何卒格別之以
御憐愍御金壱万両拝借被 仰付被下候様仕度
此段奉願上候以上
四月廿二日 本多豊後守
四月廿八日御礼包 本多豊後守
一 領分地震ニ而居城住居向其外及大破家中在
町共悉破損ニ付拝借之儀被相頼候趣達
御聴可為難儀と被 思召依之金三千両
拝借被 仰付候返納之儀は御勘定奉行え可被談候
右於波之間山城守申渡之書付渡之老中列座
四月廿八日御礼包 真田信濃守
名代
植村駿河守
領分地震ニ而城内住居向其外及大破家中在町共
悉破損其上領内変地土水等ニ付拝借金之儀被相願候
趣達
御聴可為難儀と被 思召候依之金壱万両拝借被
仰付候返納之儀は御勘定奉行え可被談候
右おゐて波之間ニ山城守申渡之書付渡之老中列座
四月廿八日御礼包 堀 長門守
名代
伊井三郎右衛門
領分地震ニ而陣屋住居向其外破損并領内亡所
損地等不少候ニ付拝借之儀被相願候趣達
御聴可為難儀と被 思召候依之金千五百両拝借被
仰付候返納之儀は御勘定奉行え可被談候
右於波之間ニ山城守申渡之書付渡之老中列座
金弐枚 時服弐ツ宛 直井倉之助
但 金台席へ不出 松村忠四郎
越後信の国村々地震ニ付堤川除其外破損等之場所見分
仕立為御用罷越候ニ付御暇拝領物被 仰付候
老中 若年寄
右於御右筆部屋縁頬伊勢守申渡之列座無之大岡主膳正
侍座
四月七日
先達而御届申上置候私在所信州松本去ル三月廿四日
夜四ツ時頃ゟ地震強く翌廿五日ゟハ為差儀ハ無之追々
間遠ニ相成候へ共今以相止不申折々之震ニ而破損所
左之通り
一 城内要害之外所々屋根損瓦并壁落
一 侍屋鋪并土蔵所々壁落
一 城下町潰土蔵二ケ所但酒造蔵共
一 同半潰土蔵二ケ所
一 同潰物置弐ケ所
一 田畑五百七十九石余場所荒地
一 地割八拾九ケ所但此間数六千四百四十五間巾四五寸ゟ弐間迄
一 道損百三拾七ケ所但此間数三万弐千三拾三間
一 山崩大小千四百七拾七ケ所
一 同断沢水突留潰四拾壱ケ所
一 倒木大小弐万八千四百八本
一 落橋大小四拾九ケ所
一 用水路欠落七拾三ケ所但此間数九百間
一 犀川突留家居水入弐拾八軒
一 潰社 三ケ所・・・此分潰拝殿之前ニ書入ル順なり
一 在方潰家三百九拾六軒
一 同半潰家七百六拾壱軒
一 潰拝殿 四ケ所 一 同寺院三ケ所 一半潰寺院二ケ所
一 半潰社 壱ケ所 一 潰堂 八ケ所 一半潰堂 二ケ所
一 潰土蔵六拾九ケ所 但酒造蔵共
一 同半潰土蔵九拾七ケ所 但酒造蔵共
一 潰物置七拾九ケ所
一 潰御高札場一ケ所 但御高札ハ別条無御座候
一 潰郷蔵一ケ所 一 口留番所弐ケ所
一 死人男女六拾七人 一 怪我人 五人
一 斃馬 三拾四疋 但御届書順書一弐ヲ記置
右之通御座候損毛高之儀は追而可申上候此段御届申上候以上
五月七日 松平丹波守
拙者領分越後国長岡去月十四日信濃川急満水ニ而常水ゟ
壱丈余相増地窪之田畑水冠り場所左之通り
一 壱万百三十七石 古志郡之内
一 四千五百四石 三島郡之内
都合壱万四千六百四十壱石
一 堤切樋橋其外所々破損
右之通御座候堤切樋橋其外損所等之儀ハ追而取調可申達候城内始家中
無別条人馬怪我無御座候損毛高之儀は収納之上可申達候以上
五月九日 牧野備前守
一 私領分越後国頚城郡今町去月廿九日夜出火左之通焼失仕候
一 高札場 一ケ所但高札取除不仕候
一 郷蔵 五ケ所但収納米壱万千六百三十三俵
一 家数 九百六十七軒 一 土蔵三十ケ所 一 寺 三軒
右之通人馬怪我無御座候此段御届申上候以上
五月十四日 榊原式部大輔
私支配所信濃国水内郡善光寺荒安村并更級郡八幡
村当三月廿四日夜亥刻過大地震ニ而寺領社領堂領
居家在町共大破其上出火ニ而焼失并死人等左之通り
御朱印地
善光寺領
一 如来堂内陣造作大破
一 山門経蔵小破
一 如来供所并供水潰
一 境内宮一ケ所 社壱ケ所
一 仁王門并境内社弐ケ所焼失
一 本願上人住居向其外不残焼失
一 大勧進万喜堂護摩堂聖天堂内仏堂客殿
座鋪居間向大破
一 同台所向并土蔵六ケ所物見裏門潰
一 同土蔵壱ケ所
一 寺中四拾六坊焼失
一 本願上人并大勧進家来居家拾軒潰内八軒焼失
一 寺領之内寺弐ケ寺焼失
一 同壱ケ寺座敷勝手向焼失
一 同庵三ケ所焼失
一 同社弐ケ所潰内壱ケ所焼失
一 同毘沙門堂并供所潰
但境内末社弐ケ所潰同水茶や弐軒潰内壱軒焼失
一 民家三拾五軒潰
一 寺中并本願上人大勧進家来之内百三十八人
内僧拾五人男五十四人女六十九人
一 町家弐千三百五拾軒潰
内弐千百九十四軒焼失
一 町家死失人千三百拾九人
内男六百廿四人女六百九十五人
一 旅人死失凡千弐拾九人
但寺中并宿方止宿右之外
一 怪我人多分在之候へ共家業差支候程之者は無御座候
一 旅籠や家内不残死失之者も有之止宿旅人生死不相分候
一 穢多非人小屋三十五軒焼失
御朱印地
荒安村
飯縄神領
一 社務仁科甚十郎門口玄関潰 一 同居家半潰
一 同土蔵一棟半潰 一同民家四軒潰 一同三軒半潰
一 同物置壱棟潰 一山崩六ケ所 一百性圧死三人男一人
女二人
一 田畑地割床違ニ相成候場所数十ケ所一同怪我人三人男二人
女一人
以上 御朱印地
八幡村
八幡神領
一 如法堂潰 一別当神宮寺半潰
一 同庫裏半潰 一神主松田左膳居家半潰
一 同門口長屋物置潰 一社僧庫裏一棟潰
一 同本堂弐棟庫裏三棟半潰
一 社家居家三軒半潰 一同土蔵物置五棟潰
一 民家四拾軒潰 一同拾八軒半潰
一 同土蔵物置四拾六棟潰 一同五棟半潰
一 圧死拾七人 一怪我人拾八人
内男九人女八人 内拾壱人女七人
右之通御座候此段御届申上候以上
五月十日在所日限 真田信濃守
同十六日御届
私領分信州更級郡鹿谷村并日名村分地松平
丹波守領分境高地川と申山沢当三月廿四日夜大
地震後度々強く震有之追々山抜崩右沢山
湛留候処当時之水面ゟ高五間程敷五拾間余押埋右川
下四丁程隔日名村之内祖室組分地字伝行山
并沢向西山手丹波守領分左六村分地一同抜崩
右沢敷弐丁程高六間程押埋候ニ付掘割方申付
度之処山奥嶮岨之道路抜覆数ケ所在之漸一歩
通りニ而罷越候次第殊ニ巌石掘埋候儀ニ在之不行届
右押埋場所致破壊一時ニ押出候節は犀川え流出
山中筋川添村々ハ勿論川中島辺之儀は此程御届申上候通り
川除古堤不残押流候儀ニ有之候へ共尚又如何様之水
災ニ及可申哉難計心痛仕候此上之手当精々申付置候
且又右鹿谷村分地字柳窪組之耕地崩出右
谷川湛留尤細流ニ候へ共数十日を経右場所押破候は
是又不容易不容易災害ニ可在之之旨訴出候ニ付早速見分
差出申候猶委細之儀は追而可申上候得共先此段御届
可申上候以上
五月朔日在所日限 真田信濃守
同七日ニ御届
私在所越後国頚城郡高田去々月廿四日同廿九日大地震之
節破損所左之通
一 本丸住居向門囲塀所々損橋大破
一 二丸三丸諸所門囲塀橋腰掛大破
一 大手門橋右手土手三拾間余左手土手廿間余大裂
一 城内外往来道所々裂割
一 時番所壱ケ所大破 一足軽番所三ケ所破損
一 御囲米蔵 破損 一稽古場 破損
一 侍屋鋪七拾九軒大破 一切米取長屋拾八軒大破
一 足軽長屋廿八軒破損 一御預所役所 破損
一 牢屋 大破 一 木戸壱ケ所 大破
一 関川御関所 破損 一 御金蔵二ケ所 破損
一 高札場三十一ケ所破損 一 町在潰家四百七十七軒
一 土蔵潰十九ケ所 一 今町陣屋収納米蔵大破
一 同大破弐百四十四ケ所 一 郷蔵潰五ケ所
一 郷蔵大破拾ケ所 一 修検潰一ケ所
一 往来橋破損三ケ所 一 苗代泥冠り四百五拾四ケ所
一 関川矢代川通石枠石積崩三拾五ケ所
一 山抜崩弐十四ケ所 一 水除土手用水口筋破損
一 関枠水門樋類破損六十六ケ所
一 死失五人 一 怪我廿八人
一 死馬二疋
右は先達而御届申上候地震ニ付城内外領分町在
破損所左之通御座候損毛高之儀は収納之上可申上候此段
御届申上候以上
五月廿八日 榊原式部大輔
私領分信濃国高井郡之内当月廿四日地震強く陣屋許
家来居宅長屋向破損所数ケ所村々百性家潰其外
田畑地割数ケ所ゟ泥砂吹出シ耕地え押入其後近領ニ而山
抜崩犀川押埋湛留候水追々数十丈湛居候処
去月十三日夕俄ニ右場所又々欠崩一時ニ漲出領分
川附村々ハ勿論近村迄も一円ニ水押冠り申候兼而防方
手当夫々申付置候へ共夜中別而水勢強く流家溺死
も在之次第は先頃追々先御届申上候通御座候其後
引水ニ相成候へ共田畑亡所永荒ニも可相成場所等夥敷
儀ニ而未巨細取調行届不申候殊ニ水冠り之村々
衣類家財等大半流失兼而貯置候穀類等も水腐
又ハ流失仕差向夫食ニも差支及飢餲ニも哉は不
慮之災難ニて困窮ニ相廻り自然と人気も不穏精々
救方手当等も申付日々焚出し等迄追之稿草苗代之儀も
外村々え世話申付候間田畑追々起返仕方出来立之模様
凡ニも見届候迄居掛世話仕度奉存候然所私義今年参勤
順年ニ付当春御差図被成下候通当六月中参府可仕処前
書之通窮民救方手当取締等も参府仕家来共計
ニ而ハ行届申間敷哉と心配至極仕候依之可相成儀ニ御座候
ハヽ格別之御用捨当秋中迄参府御猶予被成下候様
仕度勝手ケ間敷儀奉願度段奉恐入候へ共右之通御許容
被成下候へは救助之筋も行届可申候ニ付不苦儀ニ御座候ハヽ
願之通被 仰付被下置候様仕度奉願上候以上
五月三日 堀 長門守
在所之御暇願五月廿三日深尾小源太持参
私領分信州飯山当三月廿四日夜大地震ニ而城内住居向櫓門
石垣其外数ケ所潰破損且家中并城下丁領内一流
潰出火山崩田畑荒所其上去月十三日夜千曲川俄ニ
出水ニ而多分之水損ニ御座候趣ハ先達而追々御届申上候
通ニ御座候就而ハ城内外郷中都而普請手当等在所詰役
人共え申付遣候処早速夫々え為差図候趣ニハ御座候へ共何分
此度之変事ハ一流多分之死失怪我人馬数多ニ而普請
農業之精力届兼領内必至と窮迫之趣ニ而在所役人共
何も当惑之趣申越甚以心痛仕候依之在所へ罷越自身
差図ヲも仕候者普請并村々救方手段も可在御座且は
一流農事精力ヲ尽候様ニも相成可申候間来ル六月御暇
可被下時節ニハ御座候へ共何卒此節在所へ御暇被下候様仕度
此段奉願上候以上
五月廿三日 本多豊後守
但六月朔日御暇被仰出同三日在所へ出立
四月十八日 上野執当
真覚院
一 御祈祷料
銀百枚
右当年も季候不宜其上信濃越後国
地震ニ付世上安全御祈祷修業之儀被
仰入依之被遣之旨於洞目之間伊勢守殿以御書付
被 仰渡候
右ハ御廻状留ニ有之
信濃守儀参勤時節之儀奉伺候処当六月中参府可
仕旨被 仰出難有仕合奉存候然処追々御届申上候通り
去月廿四日夜未曾有之大地震ニ而城内始家中城下町共
破損所并潰家等夥敷有之別而領分村々之儀ニ付潰家
死失人等夥敷其上田畑道路地面震裂土砂泥水等
吹出シ殊ニ山中筋ハ山抜崩覆等ニ而一村人畜共地
中え押埋候村々も不少就中更級郡山平林村
之内山抜崩犀川押埋水流堰留数日相湛
水嵩弐拾丈余ニ及候間川辺村々水中ニ相成
申候尤巌石ニ而数十町之間堰留候儀ニ而水勢
ニ而ハ難押切様子ニ相聞候処去十三日夕存外一時ニ押破り
巌石一同数十丈之水押出シ流末川中島平一円
致充満人家ハ猶更田畑共押流或ハ押堀或ハ河原ニ
相成其外近辺村々并下続川添村方流失又ハ
泥水押入候も夥敷且又数十日水中ニ相成居山中
村々之儀も水ハ引候得共居家田畑共不残押流其上
川辺通欠崩之場所数丁在之重々之災害ニ而
親族ヲ失居家家財耕作諸道具剰田畑迄も
致亡失悲歎途方ニ暮罷在領民共幾千万共
難申差向夫食ニ差支住居ニ迷ひ農業之心得
等ハ毛頭無之為躰ニ付所々え致手分役人共差出炊出又ハ
小屋掛等之手当申付飢餲并雨露之凌専為取
計候へ共右ハ全時々救方而已之儀ニ而此上仮成ニも居家
取繕ひ耕作諸道具等取整田畑開発道路普請
等為致候ニは不容易儀乍去暫時も難捨置何様ニも
早速取復方手段可仕儀ニ候得共領内一躰之儀ニ而容易ニ
行届兼殊ニ追々田方仕付専之時節ニ候へ共右之次第ニ而
中々耕作ニ取掛候始末ニ至兼候へ共収納は勿論銘々
夫食之目当無之自然と人気ニ拘り候間如何様之心得
違異変等可生も難計彼是深心痛仕候此上精々救方并
田畑開発手段可申付候へ共家来而已任置候而は領民共
気向ニも拘取復方果敢取申間敷右ニ付而ハ領内
村々少シも取復人気穏ニ相成耕作営候形勢ニ至
候迄ハ在所ニ罷在救方手当筋は勿論人心引立候
様幾重ニも相励且は取締方等万端差図仕度奉
存候依之可相成儀ニ御座候ハヽ格別之以
御仁恵当秋中迄参府御用捨被成下候様仕度段
表立願書差出候而も苦ケ間敷哉此段各々様迄御
内慮相聞候様申付越候以上
四月十六日 真田信の守家来
津田 転
御附札
表立願書月番え差出候様可仕事
信濃国大地震潰家并流失家御届書
一 総家数弐千三拾五軒之内 信州杭瀬下村
潰家并流失家五百四拾九軒 外廿六ケ村
外ニ
土蔵四拾三ケ所 物置百八拾六ケ所
高札場貯穀別条無御座候
一 総家数百廿五軒之内 更級郡
潰家弐軒 杭瀬下村
一 総家数九拾弐軒之内 同郡
潰家六軒 新田村
一 総家数三百壱軒之内 同郡
潰家三軒 下戸倉村
一 総家数弐拾軒之内 同郡
潰家五軒 今里村
一 総家数百拾六軒之内 水内郡
潰家九拾三軒 上駒形村
一 総家数五拾九軒之内 同郡
潰家伍拾八軒 今箱村
一 総家数七拾四軒之内 同郡
潰家壱軒 千田原村
一 総家数五拾壱軒之内 同郡
潰家七軒 荒木村
一 総家数九拾弐軒之内 同郡
潰家八拾四軒 黒川村
東組
一 総家数四拾九軒之内 同郡
潰家三拾九軒 新井村
一 総家数四拾弐軒之内 同郡
潰家三拾弐軒 中宿村
一 総家数百拾五軒之内 同郡
潰家百拾壱軒 富竹橋
一 総家数五拾壱軒之内 同郡
潰家四軒 上 町
一 総家数弐拾六軒之内 同郡
潰家四軒 津野村
新領
一 総家数八拾壱軒之内 同郡
潰家拾七軒 六地蔵町
一 総家数三拾七軒之内 同郡
潰家四軒 栗田町
一 総家数九拾九軒之内 同郡
流失家弐軒 有倉村
一 総家数百三拾九軒之内 高井郡
潰家壱軒 柏尾村
一 総家数三拾七軒之内 同郡
潰家六軒 小見村
一 総家数百八軒之内 同郡
潰家五軒 平林村
一 総家数五拾七軒之内 同郡
潰家壱軒 神戸村
一 総家数四拾八軒之内 同郡
潰家壱軒 坪内村
一 総家数七拾軒之内 同郡
潰家弐軒 中 村
一 総家数五拾七軒之内 同郡
潰家弐軒 関沢村
一 総家数拾弐軒之内 同郡
流失家弐軒 笹沢村
一 総家数拾四軒之内 同郡
潰家壱軒 重地原村
右は追々御届申上候通信濃国大地震ニ而私御代官所
埴科郡杭瀬下村外弐拾六ケ村潰家并流失家有
之由訴出候間手代差出シ見分吟味仕候処去月廿四日
夜四時頃稀成大地震ニ而銘々居宅立去可申と
一同騒立候得共如何ニも強キ地震ニ而歩行難相
成格別ニ死人怪我人等も夥敷有之候次第ニ而其外
溜池堤由り崩シ洪水いたし又ハ山抜在之泥砂
押出し書面之家数一時ニ潰家并流失家等ニ
相成候儀ニ而右は全く天災難遁悲歎罷在候
義ニ而申立候趣相違無御座候間早速小屋掛致シ
農業取掛候様申渡候尤右之外破損家も
夥敷在之其上死失男女百八十九人馬弐疋牛三疋
其外怪我人御座候間右取調之儀は牧野大和守え
御届差出し候依之御届申上候以上
未四月廿一日 御代官
川上金吾助
信州村々大地震潰家之者救方之儀取計候趣申上候
書付
追々御届申上置候信州大地震ニ而私御代官所同国埴科
郡杭瀬下村外弐拾六ケ村潰家ニ相成候者之内身元
ケ成之者も早速小屋掛致シ銘々潰家取除夫食
取出シ農業致候得共困窮ニ而漸営罷在候者又ハ
極窮ニ而其日ヲも送り兼候程之者共ハ中々小屋掛
手段も無之夫食ニ差支一家之内当人共右潰家ニ而
及死失老人幼少之子供而已相残候者共も在之
親類身寄之者も同様成り行極難ニ陥り候者ハ無
余儀村方え引取手当致罷在候得共皆無同様之
村方ハ右手当も不行届拝借物等相願候村々
有之旨手代共廻村先ゟ申越候間夫々糺之上貯
穀之内ヲ以男ハ籾四合女并六十才以上十五才以下
之者共へハ同弐合宛日数弐十日又ハ三十日を限り
貸渡方当時取計中ニ御座候間追而石数御届申上候様
可仕其外小屋掛手当無之者共へハ私役所附永続
備金貧民備金等之分ヲ以夫々手当取計為相凌
罷在候尤溜池堤切所山抜泥水押出シ等ニ而田畑
損地ニ相成候村々ハ起返し方精々申諭候様
可仕候得共大造之入用相掛り難及自力又ハ
家作入用等ニ至ル迄差支難儀致候貧村ハ一村
相凌方ニ拘り候間右等之分ハ追々取調相伺候様
可仕候得共先前書急難為相凌候取計方之儀
一通り御届申置候以上
未四月 川上金吾助
右之通御座候但松代公皆調御届書ハ未タ
出不申候
未六月
此頃の落首
扨々変たよいろ信濃開帳評判三評判
地震ゆる〳〵鯰て動きましよ
扨も信濃善光寺て浅間も和田まて
ゆすられた薮に這ふ〳〵とてつる変
飛脚てサアきなせ
飯山をだいなしにして本多事
どふしんせうとにけつころんつ
人多くよせて地獄へ落にけり
しぬも信のゝ弥陀の開帳
舌をぬくほとの閻魔の目の玉も
人にぬかれる本多間違
此頃ハ閻魔もうそをつくかして
目玉ぬかれてなんと正塚
正塚の婆アさん返歌
抜れても眼の玉なれハ大事ない
舌てないたけまた下の事
□□
□
かなめ石 上下
中欠本
【文字は無し】
艱難目異誌上書目録
序(じよ)
一 地震(ぢしん)ゆりいだしの事
ニ 京中のまち町家 損(そん)ぜし事
三 下御灵(しもごりやう)【「灵」は「霊」の略字として用いられる。】にて子どもの死(し)せし事
四 室町(むろまち)にて女房の死(し)せし事
五 大 佛殿(ぶつでん)修造(しゆざう)并日用のものうろたへし事
六 耳塚(みゝづか)の事并五条の石橋(いしばし)落たる事
七 清水の石塔(せきたう)并 祇園(ぎをん)の石の鳥居(とりゐ)倒(たをるゝ)事
八 八坂(やさか)の塔修造并 塔(たう)のうへにあがりし人の事
九 方々小屋がけ付 門柱(かとばしら)に哥を張(はり)ける事
【右丁】
十 光り物のとびたる事
【左丁】
春すぎ夏も来てやう〳〵なかはに成ゆけは
藤(ふじ)山吹に咲つゝく垣(かき)ねの卯の花やまとなでし
こへもさながらにしきをしけるごとくなるに
千えう【千葉】万えう【万葉】梨月(りげつ)名月(めいげつ)などいへる五月(さつき)つゝじ
もしな〳〵にほころびいで山ほとゝぎすは聲を
はかりに鳴わたり田子の早苗(さなえ)は時過るとてさし
いそぐ早乚女(さをとめ)の田うたのこゑ〴〵井手(ゐて)のかはづも
おもしろがりてとびあがるも心ありげ也
一 地震ゆりいだしの事
今年(ことし)は寛文第二みづのえ寅のとし去年(こぞ)にも
似(に)ず我(が)も耗(へげ)【「我が剥(へ)げる」で「それまでの態度や意欲などを失う」意。折れる。】やみければ民のかまどもにぎはひ
【右丁】
何となく世もゆるやかに侍べりける所に
五月朔日巳のこくばかりに空かきくもり塵(ちり)【一般的に「ちり」は「塵」の字を用いるが原本に表記されている文字は無い故「塵」をあてた】灰(はい)
の立おほひたるやうにみえて雨げの空にも
あらず夕立のけしきにもあらずいかさま【いかにも】
聞をよぶ龍(たつ)のあがるといふものかそれかあらぬか
雲(くも)か煙(けふり)かとあやしむところにうしとらのかた
より何とはしらずどう〳〵と鳴(なり)ひゞきてゆり
いだす上下地しんとはおもひもよらさりけるが
しきりにゆらめきけれは諸人こゝろづきて
初めのほどは世なをし〳〵といひけれとも大 家(け)小(せう)
家(け)めき〳〵としてうごきふるふ事おびたゝし
【左丁】
かりければすはや【すわや=「すは」に助詞「や」が付いてできたもの。急の出来事に驚いたときなどに発する語。】世がめつして【滅して】只今沼の海に
なるぞやといふほどこそありけれ京中の諸人
うへをしたにもてかへし大 道(だう)をさしてにげ出る
生れてよりこのかた日のめもみぬほどのやごと
なき【「やんごとない」の「ん」の無表記から出来た語=身分が高い、恐れ多い。】女房達(にようばうたち)もをびときひろげさばきがみ【「捌髪」=ざんばら髪】
はだしつかもぎそて【意味不明】恥(はぢ)をわすれてかけいで
にげいでおめきさけぶ【大声を出して叫ぶ】事いふはかりなし【「言うばかりなし=言葉では言い尽くせない程である。】ある
人この中にもかくぞいひける
わが廬(いほ)の竹のたる木もふるなやに
ゆがまばやがて世なをし〳〵
二 京中の町家(まちや)損(そん)ぜし事
【右丁】
家居(いえゐ)つき〴〵しく【「つぎつぎし(次次し)=次から次へと」だと文意があわない。「つきづきし(付き付きし)」=ふさわしい・調和がとれている。」の方が文意に叶っていると思われるので、筆者が濁点の位置を、繰り返し記号の所と間違えて付けたものと思われる。】つくりみがゝれしかた〴〵
堂舎(だうしや)【大小の家々】仏(ぶつ)かく【仏閣】社頭(しやとう)にいたるまてあるひは棟木(むなぎ)
くじけ【折れたり曲がったりする。】梁(うつばり)【家屋や橋などの骨組みの一つ。柱と柱の上に渡し、棟の重みを支えるもの。】ぬけて瓦(かはら)おち垂木(たるき)【屋根面を形成するために棟から桁へ渡す長い木材。】おれ【折れ】さしもの【「指物」=家具や器具】
砕(くだけ)て軒(のき)かたふきあるひは鴫居(しきゐ)【本来は「敷居」とあるところ。「筆者は「敷」を「鴫」と書き誤ったか、次の「鴨居」の「鴨」に対して同じ鳥の名の「鴫」の字を用いてシャレたのかも。】鴨居(かもゐ)はゆがみ
すじり【「捩じり」=ねじれ】さしこめたる【中に閉じ込めている】戸障子(としやうじ)どもをひらかん
とするにつまりてあかずこれに心をとられ
て気(き)をうしなひ又はにげんとするに地かたふ
き【傾き】足(あし)よろめきてうちたをれふしまろぶ【臥し転ぶ=身を投げ出してあちこちにころぶ。】
かたはらには家くづれておちかゝるさしもの
なげし鴨居(かもゐ)にかうべを打わられたをるゝ
小壁(こかべ)【戸窓の上下にある壁。】に腰(こし)のほねをうちをられ二 階(かい)より高□【「い」か?】
【左丁】
ものはおちかゝる棟木(むなぎ)に髪(かみ)のもとゞり【髪を頭の上に集めてたばねたところ】をはさ
まれたもと【袂】をはさみとめられみづからかたな
わきざしにて切(きり)はなちにげおりてはう〳〵
いのちをたすかり又は大 木(ぼく)にうちひしかれ
てひらめ【「平め・平目」?】になりて死(し)するもあり疵(きず)をかうふり【「こうぶり」=被り、蒙り】
て吟(によひ)【「によび」=うんうんうなる。うめく。】ふし【伏し或は臥し】今をかぎりのものもありをよそ
京中のさうどう【騒動】前代未聞(ぜんだいみもん)の事共なり
ある人これにおどろきて腰(こし)【偏のにくづきがのぎ偏になっているのは誤り】をぬかして尻井(しりゐ)【「尻居」とあるところ。…尻もち】に
どうど【でんと】ふしてかくぞよみける
ふる【振る】なえ【「なゐ」とあるところ。土地、地盤の意。「なゐふり」で「地震」の意。後に「なゐ」だけで地震をいうようになった。ここでは後に出る語の関係で「なえ」といっているのであろう。】にあやかりけり【地震と同じように動揺していた】な手も足も
なえになえ【「なゐに萎え」と「萎えに萎え(萎えを強調)」を掛けている。】つゝたゝれこそせね【立つことさえ出来ない】
【左丁 左端】
地震ゆりいたし
【右丁】
三 下御灵(しもごりやう)にて子どもの死せし事
五月朔日は祈祷(きたう)の日なりとて諸社(しよしや)に御神楽(かぐら)御湯(みゆ)【巫女(みこ)が神前で熱湯に笹の葉をひたしてそれを身に振りかけて祈ること。】
などまいらする事いにしへよりこのかたこれあり
下御灵(しもごりやう)そも【そもそも】御湯(みゆ)まいらせ貴賤(きせん)老若(らうにやく)つどひ
あつまりておがみ奉るその時しも地しんおび
たゝしくゆりいでしかば諸人きもをけし【「肝を消す」=心の落ち着きを失う。非常にびっくりすること。】拝殿(はいでん)
にのぼり居(ゐ)たるはくづれおち地下なるものは
はしりいでんとすこみあひもみあふてなきさ
けびよばひ【「呼ばい」=何度も呼ぶ。】どよむ【あたりを揺り動かすように鳴る】その中に年のこのころ七八 歳(さい)
にもやなるへきとみゆ【見ゆ】かおのこ子【「おのこご」=男子子】二人にげいづべ
き方角(はうがく)をうしなひ心きえ【心消え=正気を失い】たましゐ【思慮分別】うろたへて
【左丁】
せんかたなくおそれもだえ石燈籠(いしとうろう)にいたきつきし
所にやがてかのいしどうろうゆりかたふきて折
たをれしかば二人の子どもはこれにうちひしかれ
かうべより手あしにいたるまでつゞく所なく
きれ〴〵になりて死(しに)けるこそかなしけれ是は
そも【そもそも。それにしても。】いか成【いかなる】人の子ともなるらんと諸人おそろしき
申にもあはれにおもひていひのゝしる【口々に言い立てる】しばらく
ありて子どものおやはしりきたりそのかほ
かたちはひしけて【「ひしげて」=おし砕かれて、ひしゃげて。】見えねども血(ち)に染かへりし
きる物はまがふ所なくそなりければ母も気を
うしなひ父も聲をあげて只なきになきけれ
【右丁】
ともかひなしさても爰かよ〳〵【「かよう斯様」に同じ。「かよう」を重ねて内容を複雑にあらわすもの。これこのとおり。】にてちぎれたる
かばね【死骸】をとりあつめ洟【なみだ】とともに俵(たはら)にいれ人してもたせて家ぢに立まる【「立ち回る」に同じ】ふたりのおやの心の内
おもひはかるべしその身さきの世のむくひとは
いひながらやまいにふして死(しに)もせばせめては
思ひもうすかるべきにやこれはおもひもかけ
ざりしいじ【?】けなき【ひどく恐れちぢこまっている】さいごのありさま余所(よそ)の
たもともぬれ侍べり後(のち)に聞ければ御灵(ごりやう)ちか
きあたりのものにて一人は琴屋(ことや)一人は鞠(まり)やの
子にて侍へりしけがれたる火をくひて親(おや)にも
しらせずこの御やしろにまつり御湯(みゆ)まいらする
【左丁】
をおがまむとせしが神の御とがめにてかゝる
事にあひ侍べりけるなとかや【などかや=何故であろうか】あまりにみる
め【見る目=見た様子】のふびん【不憫=かわいそうなこと】さるや【そうであるから】とふらひ【「とぶらひ」=「とむらひ」の古形。…死者の霊を慰め冥福を祈る。法要をする。】ける僧(そう)かくぞよみ
てたむけ【手向け】ゝる
とてもはや
うちひしかれて死するかし【「かし」は強く相手に念を押す意の助詞。】
いしどうろうを五輪【「五輪卒都婆」の略。卒塔婆の一つ。平安中期ごろ密教で創始された塔形で、石などで五つの部分につくったもの】ともみよ
【左丁 左端】
下ごりやう
【右丁】
四 室町(むろまち)にて女房の死せし事
二条むろ町」に百足(むかで)屋のなにがしとかや聞えし
人の女房は今年わづかに十七歳むかへとりていく
ほどもなくたゞならぬ方にて侍りしが朔日の
地しんさしも【これ程にも】おびたゝしかりければ家のうちにも
たまりえず【留まることができず】おち【「おじ」=叔父、伯父】の人かひぞへ【介添え】小女四人つれて
うらなる空地(くうぢ)にいでんとす そのあひだに
土蔵(どざう)のありけるが俄にくづれかゝり瓦(かはら)にて
かうべをくだきおちかさなる壁(かべ)にひしけ【ひしげ=おし砕かれる】うづ
まれ【埋められ】四人一所に死(しに)けるこそ一 業(ごう)所感(しよかん)【前世での行為がその結果としてもたらすもの】とはいひ
ながらかなしかるべきありさまなり家のうちの
【左丁】
上下もだえこがれ【「悶え焦がれ」=じっとしていられない程激しく思い詰める】山のごとくにおちかさなりし
土(つち)をかきのけむなしきかばね【屍】をほりいだすい
まだ息(いき)のかよへるものもありしかどもとかく【あれこれ】
するうちにはや事きれはてけり女房はあえな
く打ひしかれ腹(はら)はわきよりさけて内なる子は
いまだ五月(いつゝき)ばかりなるがはらわたにまとはれ血に
まみれてなだれ出けるを見るこそかなしけれ
おやしうとめさしつどひ【詰めかけ】てこれは〳〵といへども
かひなし只なくよりほかの事なくいかにとも【どうにも。何とも】
思ひわけたる【物事に対して適正な理解や判断をしている。分別している】ことなければ内のものどもとかく
はからひて寺(てら)にをくり一 聚(じゆ)【一つの村里】の塚(つか)の主(ぬし)となし
【右丁】
けりかの女房にかはりて
大なえ【大地震】にくづれておつる棟(むな)がはら
土(つち)ぞつもりて墳(つか)となりける
五 大 佛殿(ぶつでん)修造(しゆざう)并 日用(ひよう)のものうろたへし事
これをはじめとして京中にありとあらゆる
土蔵(どざう)どもあるひはひらに【平に=容易に】くづれあるひはかはら
おち壁(かべ)われてゆがみかたふかず【かたぶかず(傾かず)】といふことなし
家々の棟木(むなぎ)さし物はほぞおれてぬけかゝり
軒(のき)かたふき束柱(つかばしら)くじけゆがみ棚(たな)にあげをきし
道具(だうぐ)ども家ごと一 同(どう)におちくづれ女房子どもは
いよ〳〵おそれまどひ啼(なき)さけぶ聲に瓦くはえて
【左丁】
目(め)をまはし気(き)をとりうしなふものもおほかり
けりむかし文徳(もんどく)天 皇(わう)の御宇 斎衡(さいけう)二年五月五日
の大地しんに南都(なんと)東大寺(とうだいじ)大 佛(ぶつ)の頭(みくし)【「みぐし」=頭の敬称】をゆりお
とせしと記録(きろく)にしるせりこのたびの地しんには
京都の大佛は修造(しゆざう)のため頭(みくし)はすでにとり
おろし奉りぬ日ごとに手傳(てつだひ)日用(ひよう)【日雇い】をいれてきん金(こん)
銅(どう)十六丈の仏像(ぶつざう)をげ【「氣」は仮名「け」の字母なので、普通に読めば「げん(験)」=ききめ、効果。】んおうかるとこをもつてかちくだきうちこはすくはん〳〵といふ其ひゞき
四王(しわう)【四天王の略】忉利(たうり)【忉利天のこと】の雲のうへまでも聞え水輪(すいりん)【大地の下にあって世界を支えているという四個の大輪の一つ】坤軸(こんぢく)【「坤」は地の意。大地の中心を貫いて大地を支えていると想像された軸。地軸。】の下(した)
までもこたへぬらんと物すごくおぼゆるところに
俄におびたゝしき大なえゆりいだして大 佛殿(ぶつでん)
【右丁】
ゆるぎはためきければ日用(ひよう)どもは地しんとは思ひ
もよらずうちくだく仏(ほとけ)の罰(ばち)あたりてたゞいま
無間(むけん)地ごく【後世は「むげんじごく」とも。八熱地獄の第八番目、最下底の地獄】におつるとこゝろえ【「江」あるいは「へ」」とあるところ】百人ばかりの日用(ひよう)
のものども一 同(どう)に聲をあげ手をすりて南無(なむ)
釋迦如来(しやかによらい)かやうにうちこはし奉る事われらが
こころよりおこる所にはさふらはず日用(ひよう)つかさ【司…役人】に
やとはれて下知(げぢ)【下知=命令。いいつけ。】によりて打くだき奉る我らに
科(とが)はなきものをゆるさせ給【『くずし字用例辞典』には「給」の項に記載がありますが「たま」の合字にも見えます】へ〳〵とわびことす
る奉行(ぶぎやう)の者(もの)どもはいかにこれは地しんなるぞや
日用のものどもさはぐな〳〵といへども耳(みみ)にも
聞きいれずして仏の肩(かた)にのぼり御手のうへに
【左丁】
あかりて居たる日用どもおつるともなくとぶ
ともなくやう〳〵にげおりてこそ初めて地しん
なりとはおほえけれある日用(ひよう)のものかくぞつぶ
やきける
ゆるからにほとけの罰とおもひきや
なゆ【「なゐ(地震)」のこと。】としりせばおもざらましを
【右丁 右端】
大ふ門
【左丁】
六 耳塚(みゝつか)の事并五 條(でう)の石橋(いしばし)落(おち)たる事
大 佛殿(ぶつでん)の門前(もんぜん)みなみのかたに耳塚とてこれ
ありむかした太閤秀吉公(たいかうひでよしこう)朝鮮征伐(てうせんせいばつ)の時 異国(いこく)の
軍兵ともおほく日本(にほん)の手に打とりその首(くび)を
日本にわたして太閤の実検(じつけん)にそなへんとする
に首数(くびかず)おひたゝしかりければ只 耳(みゝ)ばかりを切(きり)て
樽(たる)につめてわたしたり太閤(たいかう)実検(じつけん)し給ひて
のちこれ無縁(むえん)のものにして亡郷(ばうきやう)の鬼(き)となり
ぬらん敵(てき)ながらもふびんなりとて塚(つか)につきこめ
そのうへに五 輪(りん)を立て永代(えいたい)のしるしとし給ふ
はぬる【その年がはねての意か】慶長(けいちやう)十九年十月廿五日まことに夥(おびたゝ)しき
地しんなりけるにも子細(しさい)なかりけるをこのたびの
大なゆ【「大なゐ」=大地震のこと】にふりくづされ 塚(つか)はくづれ五 輪(りん)はたをれ
て其あとは深(ふか)きあなとなり侍へりけるとそ
ゆゝしけれ【いまいましい】ある人 穴(あな)の中へよみいれけり
耳塚(みゝづか)のおほくの耳(みゝ)よことゝはん
かゝる地しんを聞やつたへし
あなの底よりひゞき出ける音に返哥とおほしくて
もろこしもゆりやしぬらん大なゆに
今こそ耳(みゝ)のあなはあきけれ
【左丁 右端】
みゝつか
【右丁】
五条の石ばしもこのころはわたしおほせて假令(たとひ)
つか成事ありとも当来(たうらい)弥勒(みろく)出世(しゆつせ)の時代(じだい)【未来に出現するという弥勒菩薩が衆生を救うために仮にこの世にあらわれる時代】までも
ことゆへあらじ【無事である。別条がない。】とおもひけるに橋(はし)げた橋(はし)板(いた)蘭干(らんかん)まで廿 余間(よけん)おちたりけりこの時わたりかゝりし
人ありけるが一人は橋げたの石(いし)にうたれくだけ
ちりて死(しに)たりいま一人は西六条花や町のもの
とかや橋板のおつるにのりて下におちつきや
がて絶(たえ)いりしがひざのあたりすこし打やぶれ
たるばかりにてやう〳〵よみがへり夢のこゝち
してはう〳〵家にかへりぬ運(うん)のつよきものに
こそとてみづから大に【おおいに】よろこびいはゐごとしけ
【左丁】
るもことはり也 荷(に)おひたる馬ども橋づめに
おほくつどひあつたりけるがおほくの馬ども
一 同(どう)におそれてはねあがり立あがりて一あし
もゆかずひけどもうてどもすゝまざりけるは
橋のおつべき事をしりけるかと諸人 是(これ)を
あやしみけり
いときどく【「奇特」古くは「きどく」という。不思議なほめるべきさま】の事にこそ
【右丁 左端】
五條のはし
【左丁】
七 清水(きよみつ)の石塔(せきたう)并 祇園(ぎをん)の石(いし)の鳥居(とりゐ)倒(たをるゝ)事
清水の石(いし)の塔(たう)は上二 重(ぢう)をゆりおとす瀧(たき)まうでの
もの其外さんけいのともがらきもをけし【「肝を潰す」に同じ。非常に驚く。】色を
うしなひあまの命【天から授かりものの命】をたすかりよみがへりたる
心地して下向(げかう)の道【社寺に参拝して帰る道】のおそろしさいふはかりなし
祇園(ぎをん)の南門(なんもん)に立ゝれし石の鳥居は津(つ)の国
天王寺(てんわうじ)の鳥居になぞらへ笠木(かさぎ)たかくそびえ
二(ふた)ばしらふとしく【宮殿などの柱をしっかりと揺るがないように地に打ち込む。壮大に造営することにいう。】立ならび額(がく)はこれ青蓮院(しやうれんゐん)の
御 門跡(もんぜき)あそはされ給ひ筆画(ひつくはく)ゆたかにめでたく【すぐれていて】
おはせし【「ある」「いる」の尊敬語】をたちまちにゆりくづされ立(たつ)や鳥居(とりゐ)
のふたばしら地をひゞかしてどうど【どうっと】たをれ段々(きだ〳〵)
【右丁】
にうちをれて額(がく)もおなじくくだけたり八坂(やさか)
の茶(ちや)屋のは鳥居のたをるゝ音にいよ〳〵肝(きも)を
けしさればこそ地の底(そこ)がぬけて泥(どろ)の海になる
ぞやとて建仁寺(けんにんじ)のうしろなる野原(のばら)をくだりに
かけ出たりおやは子をすて兄(あに)はおとゝ【「おとうと」の変化した語。男女にかかわらず年下のこと。】をわすれ
あるひはわが妻(つま)の女房【女性。婦人】かとおもひて人とめ女の
手をひきてにげいであるひはわが子とおもひて
茶(ちや)つぼをいだきてはしりいでふみたをされ
うちまろび【転び】夢ぢをたどる心地して目くらみ
たましゐきえてをこがましき【馬鹿げていてみっともない】ありさまども
なり茶やにあそび居(お)るわかきものどもはあわて
【左丁】
ふためきあみ笠(かさ)を手にもち草履 席駄【せった(雪駄)】かた〳〵し【「かたがたし」=一対のものの、片方。ここでは草履と雪駄の片方づつという意】
はきわきざしをとりわすれみだれ足(あし)になりて
かけいづるも何もその中に井づつ屋のなにがし
とかや年のころは八十四五なるおとこはう〳〵にぐる
を見てある人かくよみてわらひけり
としたけてまだ生(いく)べしとおもいきや
いのちなりけり茶屋のながにげ
【左丁 左端】
ぎおん
【右丁】
八 八坂(やさか)の塔(たう)修造(しゆざう)并 塔(たう)の上(うえ)にあかりし人の事
八坂の塔(たう)はいにしへ後鳥羽院(ごとばのゐん)いまだいとけなく【こどもらしくあどけなく】
おはしましけるが御時に御くちすさひ【「くちずさび」=「くちずさみ」…なんとなく物を言う。】に東寺(とうじ)の塔(たう)と
八坂の塔(たう)とくらべてみれば八坂(やさか)の塔(たう)はまだうゝい〳〵
やとおほせられしとかや右衛門の局(つぼね)が日記(につき)には
しるしをきけりある時この塔(たう)のゆがみたりしを
浄蔵貴所(じやうざうきそ)といへる聖(ひじり)いのりなをされけりそれ
よりこのかたはふたゝび浄蔵貴所(じやうざうきそ)も世に出給はね
はこの塔(たう)ゆがみてもいのりなをす人もなかりしに
よき事を案(あん)じいだしゆがみたるううしろのかた
に池(いけ)をほりぬればをのづからなをるゆがみの
【左丁】
なをりぬればその池をうづむ【埋める】とかや しかるにこの
ころ八坂(やさか)の塔(たう)のうへそこねて【そこなわれる。壊れる。】まもり侍へるとて
修理(しゆり)に及び一紙半銭【紙一枚と銭半銭の意から、ごくわづかのもののたとえ。多く仏家で寄進の額のわずかなことをいう場合に用いる。】をいはず十方だんな【「十方旦那」=諸所方々の檀家】の
心ざしをもとむ 世のわかきものども奉加(ほうが)【他の人々に加わって(神仏に)寄付すること。】にいりて
その塔(たう)のうへにのぼりて結縁(けちえん)する事侍へり
五月朔日けふしもあまたこの塔にのほりつゝ
四方(よも)のけしきを見わたして何心もなかりし【何の考え、配慮もない】所に
にはかに大なゐふり出して塔(たう)のゆすること事いふ
はかりなく路盤(ろばん)へき〳〵として寶鐸(ほうちやく)【「ほうたく」に同じ。寺院の堂塔の四隅の軒などに吊るして飾りとする大きな鈴。】りん〳〵
とひゞきけるを只わかきものどもしたにありて
うへなるものをおびやかさんとて塔(たう)をゆすると
心持て【自発的に】うへなるものども聲(こえ)をそろへていかにかく
わろき事なせそ【なぜ(何故)ぞ】さなきだに【それでなくても】あやうくおほゆる
にこれいか成事ぞ 只をけや〳〵【やめてやめて】といふほとこは【形容詞「こわい(こはい」の語幹)。恐ろしいこと。】
ありけれ塔(たう)のしたを見おろせば女おとこ子ども
まであはてふためきて家のうちよりはしり
出つゝ此 塔(たう)も只今地にたをるゝぞやといふ聲の
かすかに聞えしにぞ地しんなりとこころづき【気が付き】て
おりくだらんとするに手ふるひあしなえ塔(たう)はかた
ふき【傾き】うなたれ【うなだれ=前に傾き】めき〳〵といふ四方(よも)の空(そら)色はくろ
けふりのことくに侍べりしがとかくしてやう〳〵
ゆりやみしかば何とぞしてにげおりばや【逃げ下りたい】とおもふ
【左丁】
一 念(ねん)ばかりに【ひたすら一心に】塔(たう)のしたにはおりくだりけれども気を
とりうしなひ目をまはし人心地もなく籠(かご)にのり
つえにすがり家〳〵に立かへりても今に心地
わづらひておきふし【起き臥し…日常の生活】なやむものもあり ある人此
塔(たう)に結縁(けちえん)すとて数珠(ずゞ)つまくり【爪繰る=指先で次々にたぐる。】てのほりけるが
ゆられておりくだりつゝかくなん
椎柴(しゐしば)のこりはて【懲り果てる=すっかり懲りる】にけり後生(ごしやう)だて【ことさらに来世を信仰する心のあついさまを示すこと】
いまは八坂(やさか)のたう【塔】とげもなし
【右丁 右端】
やさかのとう
【左丁】
九 方々(はう〴〵)小屋(こや)がけ付 門(かど)柱(はしら)に哥を張(はり)ける事
をよそこの時にあたつて洛中(らくちう)はし〴〵には
家もたをれ人も疵(きず)をかうふり【こうぶり(蒙り)=受け】土蔵(どざう)のくづれ
たる事 京都に二百 余庫(よこ)なり打ころされ
ける人四十余人とかやそのほか諸寺(しよじ)諸社(しよしや)の石(いし)
どうろう築地(つゐぢ)五 輪(りん)石塔(せきたう)あるひは軒かたふきあ
るひは棟(むな)がはらくづれおち寺〳〵のつり鐘(かね)共は
橦木(しもく)【「しゅもく(撞木)」の変化した語。鉦叩(かねたたき)又は釣鐘をつく棒。】うごきふらめきてみな一同にはやがねをつきけるこそいとゞきもつぶれおどろきけれ
生(むま)れてよりこのかたかゝるおびたゝしき大なゆ【大なゐ】
はおぼしたる【お思いになった】事もなしなどいふうちに又ゆり出し
【右丁】
時をうつさず間(ま)をもあらせず常(ひた)ものに【いちずに。普通は「直物」と書く。】ゆりける
ほどに五月朔日 昼(ひる)のうちに五十六度その夜に
いりて四十七度にをよへりゆり初めほどにこそ
なけれかくゆるからにいか成大ゆりになりてか
家くづれてうちひしかれなんいにしへ慶長(けいちやう)の
大地しんそも大地がさけて泥(どろ)わきあがりなを
そのいにしへは火がもえいでゝ人おほく死せしと
いふこのたびのだい大地震も後(のち)にはいか成ことかあらん
と手をにぎりあしをそらになし おきてもね
ても居(お)ること かなはず立 ても居(ゐ)てもたまられず【黙られず】
ゆりいだすたびごとに家々に時の聲をつくり
【左丁】
いとけなき【あどけない】子どもはなきさけぶ何とはしらす地
の底(そこ)はどう〳〵と鳴(なり)はためきて京中さはぎ立
たるどよみ【音・聲が鳴り響くこと。】に物音も聞えずとかく町屋の家
ともは残らずゆりくづすべし命こそ大事なれ
とて貴賤(きせん)上下の人〳〵あるひは寺〳〵の堂(たう)の前(まへ)
墓原(はかはら)あるひはまち町(まち)の廣(ひろ)み【広い場所】四辻(よつつじ)のあひだに下(した)には
戸板(といた)をしき竹のはしらを縄(なは)がらみにし上には
渋紙(しぶかみ)雨葛帔(あまかつは)をひきはり【引き張り】京の諸寺 社(やしろ)にも居(ゐ)あ
まり【たくさんいて、その場所に入りきれない】北には北野(きたの)内野(うちの)むらさき野れん臺野(だいの)【(蓮台に乗って浄土へ行く野)の意から、墓地。火葬場。地名となっている所が多い。特に京都の船岡山の西麓の地が有名。】ふな
岡山のほとり西のかたは紙屋(かみや)川をくだりに西院(さいゐん)
山のうち朱雀(しゆしやく)の土手(どて)のうち南(みなみ)は山崎(やまざき)かいたう【街道】九
【右丁】
条おもて東のかたは賀茂(かも)川のほとりひがし河原(はら)を
くたりに塩がま【塩竈】七條川原にいたるまですきまも
なく小屋がけ【仮小屋を造ること】してあつまりきたる老少男女(らうせうなんによ)いく
千万といふ事をしらず小屋がけのためそとて
下部(しもべ)共のもちはこぶ道具(だうぐ)とも西よりひかしへ北
よりみなみへにげまとふ人にもみあひこみあひ
あるひはのり物にてゆく人も又ゆりいたして
間(ま)もなき地しんにおのこどもきもをけし足(あし)なえ
てはのり物をどうど打おとしあるひは屏風(びやうぶ)障(しやう)
子(じ)をになひかたげ【肩に担いで運び】てゆくものもうちたをれては
やふりそこなふ【破り損なう=こわしてだめにする】むかしの事はしらすこのたびの
【左丁】
地(じ)しんに貴賤(きせん)上下あわてたるありさまたとへんかたなし【程度がはなはだしく、言い表しようがない。】ある姫御前(ひめごぜん)のよみける
わくらはに【「わくらばに(邂逅に)=たまたまうまく巡り合わせるさま。偶然に。】とふ人あらは小屋(こや)のうちに
ひとをたれ【垂れ=教え戒める】つゝわぶ【心細く思う】とこたへよ
かくて朔日の夕暮がたに成けれども初めほど
こそなけれ間(ま)もなくゆりてしかも雨さへふり出
つゝかみなりさはぎにうちそえこの行(ゆく)すえの
世の中は何となもはつべき事ぞやとおや子(こ)兄
弟たがひに手をとりひたいをあはせいとけな
き成ばいだきかゝへてうずくまり居(ゐ)たるうへに
小屋(こや)のうへもり【漏り】下ぬれていとゝ物わひしさかぎりなし
【右丁】
何ものゝ仕(し)いだしけん禁中(きんちう)よりいだされて此
哥(うた)を札(ふた)にかきて家々の門(かど)ばしらにをしぬれ【「押し塗る」(「おし」は接頭語。)塗るを強めていう。】ば
大なゐふりやむとて
棟(むね)は八門(やつかど)は九戸(こゝのつと)はひとつ
身はいざなぎの内にこそすめ
諸人うつしつたへて札(ふだ)にかき家々の門(かど)ばしらに
をしけれども地しんはやます夜中(やちう)に四十七度
までゆり侍へりたかき【身分の高い人】もいやしきもきのふの
昼(ひる)よりこのかたは物もくはず湯水(ゆみづ)をだにこゝろのまゝには え【副詞。ここでは打消しの語に続くから、「よう」、「とても」の意】のまで【飲まないで】あれや〳〵とばかりにてふり
いだすたびごとにむねをひやし【おそれや危険を感じてぞっとする。戦慄(せんりつ)する。】手をにきり
【左丁】
桃尻(もゝしり)【「ももじり」=尻をもじもじさせ、落ち着かないこと。】になりておそれまどふこの哥はむかし慶長(けいちやう)
の地しんに其時の人となへ侍へりしとふるき人は
かたられ侍へり夜あけても猶ゆりやまずある
人京の町家のくづれかゝるを見てこのうたを
翻案(ほんあん)【前人が作っておいた趣意を言い換え作りかえること。】してかくぞよみける
むねはわれかと【かど=門】はくづれて戸はゆがみ
身は小屋(こや)がけのうちにこそすめ
すべて哥のこゝろいかなる事ともしりがたし
いつやらん【いつであったか】疫疠(えきれい ) 【 疠は癘の異体字。「病ダレ+万」。普通は「疫癘」と書く。…悪性の流行病。疫病】のはやりしころ京中家々に
花かごやといへる哥をかきて門々(かど〳〵)にはりける
事の侍べり万葉の哥に
【右丁】
白 雲の峯(みね)こぐ舟のやくしでら
あはぢの嶋にからすき【唐鋤=農具の一種。柄(え)が曲がっていて刃が広く、牛馬に引かせて田畑を耕すのに用いる。】のへら【唐鋤の先の方の上に突起した部分。掘り起こした土をかきわけて砕くのに用いる。】
といへるこそわけ【意味、内容】の聞えがたき【理解しがたい】證哥(せうか) 【証拠となる歌】なれといへ
りこの哥のたくひにや世の愚俗(ぐぞく)【愚かな世俗の人々】ども物のまじ
なひに哥をとなふる事ありその哥どもは大(おほ)
かたはわけもなき片言(かたこと) 【不完全、不正確な言葉。よく通じない言葉。】おほし【多し】これも人の気(き)を
転(てん)じてゆるやかになす事あり腫物(はれもの)瘧(おこり) 【間欠熱の一種。悪寒、発熱が隔日または毎日時を定めておこる病気。】魚(うを)の鯁(ほね)
山椒(さんせう)にむせたるなどみなよくなれるためし
すくなからず諸人せめておそろしさのむねやすめ
にうつしつたへて門にそをしけるもをろかなが
らもことはり【道理】也
【左丁 右端】
ぢしんゆりしつみ
こやかけへおはこふてい
【右丁】
十 光(ひか)り物のとびたる事
五月二日になりてもいよ〳〵なゐはゆりにゆりて
大病(びやう)をうけて久しくわづらふものちかきころ産(さん)
後(ご)の女房などは気(き)をとりあげ【気を引き機嫌を取る】こゝろをうしなふて
むなしくなるもの洛中(らくちう)に数をしらず町屋
の家々をあけて小屋こもりせし間(ま)をうかゞひ
盗(ぬす)人いり来(き)て物をとりにげはしるのがすまし【すまじ=してはいけない】
とて追(をつ)かけうちふせふみたをしさう〴〵しさは
かぎりもなしその日もくれて三日になれどもいまだ
ゆりやまずかゝる所に西山のかたよりひかり物
とび出てひえのやま【比叡山】の峯をさしてゆく事さしも【そんなにも】
【左丁】
はやからすその大さ貝桶ほどにてあかき事火
のごとししづかにとびて山にかくれたり諸人
このよしを見ていかさま【どう見ても】只事にあらず世の中
めつして【滅して】人だね【人種…人類】あるまじなどいひのゝしる大
津(つ)三井寺のあたりにて諸人の見たるもた只 同(おな)じ
やうに侍べりし京の寺町三条のわたりより
みなみをさして火の玉のとびけるもそのかた
ちは瓢(ひさご)のごとく尻(しり)ほそく色あをくとびゆくあと
より火の□ (こ)【火偏に更:𪸫(U+2AE2B)】のごとく火のちりけるこれぞ天火(てんひ)
といふものなる此うへに京中大 火事(くはじ)ゆきて
一面に焼(やけ)ほろぶべしといひいだしけるほどに
【右丁】
身上(しんしやう)よろしき人は土蔵(どざう)を立(たて)て財寶(ざいほう)を入(いる)ればたとひ
家こそ焼(やく)るとも財寶(ざいほう)道具(だうぐ)はことゆへ【さしさわり】あるまじと日比(ひごろ)
は頼み思ひけるに洛中(らくちう)の蔵(くら)共は大方(かた)くづれたをれ
其ほかは戸前(とまへ)傾(かたふ)き軒ゆがみ壁(かべ)われはなれ土(つち)こほ
れ落(おち)たれば火事ありとても入(いれ)置(をく)べきやうもなく
資財(しざい)雑具(ざうぐ)を人家(じんか)をはなれし寺々(てら〳〵)社々(やしろ〳〵)に運(はこび)あづく
る有さま東西南北(とうざいなんぼく)せき合た【混み合った】か【が】せめてあづくる
所縁(しよえん) 【ゆかり】なきものは肩(かた)にになひ背(せなか)に負(をふ)て小屋がけ
の中にはこびいれてつみをき【積み置き】けるも夥(おびたゝ)し
みだりがはしき【取り乱しているさま】洛中(らくちう)のさうどう地しんにとりま
ぜて一かたならぬさはさはぎなり
【左丁】
可名覚為誌下書目録
一 地しん前例(せんれい)付 地しん子細(しさい)の事
二 諸社の神託(しんたく)の事
三 妻夫(めをと)いさかひして道心(だうしん)おとしける事
四 なゆといふ事 付 東坡詩(とうはのし)の事
【左丁】
可名覚為誌下巻
一 地震(ぢしん)前例(せんれい)付 地しん子細の事
ちはやふる神代(かみよ)のいにしへはしらず人王【にんのう=人皇…神代に対して人代となってからの天皇。神武天皇以下歴代の天皇をいう。】の世に
いたりて記録(きろく)にあらはすところ地しんの事すで
に人王第廿代 允恭(いんげう)天皇五年ひのえ辰(たつ)七月十四日
はじめてなゐのふりけりとはしるしたれ第三十四代推古天皇七年つちのとのひつじ四月二十七日大
なゐふりて人の家居(いえゐ)おほくたをれ四方の山々
おびたゝしくくづれしかば神をまつりてしづ
められしとなり第四十代天武天皇十三年きの
え申(さる)十月十四日には前代未聞(ぜんだいみもん)の大地しんにて人民
【右丁】
おほく死せしと也第四十二代 文武(もんむ)天皇 慶雲(けいうん)四年
ひのとのひつじ六月廿三日第四十五代 聖武(しやうむ)天皇
天平六年きのえ戌(いぬ)四月第五十五代 文徳(もんどく)天皇
斎衡(さいかう)ニねんきのとの亥(ゐ)五月五日に大地しんして
東(とう)大寺大佛の頭(みくし)おち給へりそれより以後(いご)にも
大なゐふりしかども鴨長明(かものちやうめい)が方丈記(はうぢやうのき)にこの時の
事をかきのせしはさこそ大なゐにて侍へりけめ
まことに筆勢(ひつせい)おびたゝしくしるせり次の年
ひのえ子(ね)三月にもゆりけり第五十八代 光孝(くわうくう)天皇
仁和(にんわ)三年ひのとのひつじ七月晦日大なゐふりて
海水(かいすい)みなぎり沸(わき)て陸(くが)をひたしおぼれ死する人
【左丁】
数しらず山くづれて谷(たに)をうづみ山家(やまが)の人おほく
うづもれその外 禁中(きんちう)をはじめ民の家々やぶれ
くづれたり第六十一代 朱雀院(しゆしやくゐん)承平(せうへい)四年きの
え午(むま)五月廿七日おなしき七年ひのとの酉(とり)四月十五日
第六十四代 円融院(ゑんゆうゐん)貞元(ていげん)二年ひのえ子(ね)六月十
八日には未曾有(みぞうう)の大なゐ一日一夜のあひた小止(をやみ)【こやみ】も
なく常(いた)【ここでは「常」を用いているが、普通は「甚」・「痛」の字を当てている。程度の甚だしいさま。激しくひどいこと。】ゆりにゆりてゆりやまず人家(じんか)くづれて
人民おほく損(そん)じ地は裂(さけ)われて泥(どろ)わきあがれり
第六十九代 後朱雀院(ごしゆしやくゐん)長久二年かのとの巳(み)四月
二日大地しんして法成寺(ほうじやうじ)の塔(たう)をゆりたをしぬ
第八十二代 後鳥羽(ごとばの)院 文治(ぶんぢ)元年七月九日第八十八
【右丁】
代 後深草(ごふかくさの)院 正嘉(しやうか)二年ひのとの巳(み)二月二十三日第九
十一代 伏見(ふしみの)院 永仁(えいにん)元ねん四月に大地しんゆりて日
をかさねてやまず鎌倉(かまくら)中にうちこはされうづ
みころされしもの一萬余人に及べり第九十九代
後光厳(ごくわうごん)院 延文(えんぶん)五年かのえ子(ね)に大地しんありと太
平記(へいき)におびたゝしくかきしるせり第百一代 後小(ごこ)
松(まつの)院 應永(おうえい)九年みづのえむま春は彗星(はゝきぼし)なかれ
夏(なつ)は大に旱(ひでり)して野(の)に青草(あをくさ)なく井の水は涸(かれ)
秋は洪水(こうずい)大風冬にいたりて大地しんあり同(おなじき)
十三年ひのえいぬ春は天下大に【大いに】飢饉(ききん)して道の
ほとりはいふにをよばす家のうちにもうえ
【左丁】
死(し)するもの数しらず秋にいたりては洪水(こうずい)大風
冬になりて十一月朔日大地しんありおなしき
十四年ひのとの亥(ゐ)正月五日おびたゝしき大なゐふ
りぬ 第百三代 後花園(ごはなぞのゝ)院 文安(ぶんあん)五年つちのとのたつ
洪水(こうずい)地しんえきれい【疫癘】飢饉(ききん)うちつゞきたり次の年
寶徳(ほうとく)元年つちのとの巳(み)四月より日をかさねて大なゐふりて人民おほく死すおなしき御宇(ぎよう)康正(かうしやう)
元年きのとの亥(ゐ)十二月晦日の夜大地しん第百
四代 後土御門(ごつちみかとの)院 文正(ぶんしやう)元年ひのえいぬ十二月廿九日
おなしき御宇 明應(めいおう)三年 甲(きのえ)とら五月七日同き
七年つちのえむま六月十一日には諸国をしなへて
【右丁】
大 地震(ぢしん)して海邊(うみべ)山がた人民おほく死せしと也
第百五代 後柏原(ごかしはばらの)院永正七年かのえ午(むま)八月七日同
九年みつのえ申(さる)六月十日 第百七代 正親町(おほきまちの)院
天正十二年きのえ申十一月廿九日より大地しん
して次のとしの正月すゑつがた【末つ方=末のころ】までゆりけり
第百八代 後陽成(ごやうぜい)院 慶(けい)長元年ひのえ申(さる)同七
月十二日より大なゐふり初(そめ)て月をこゆれども
その名ごり【余震】ゆりやまずこれよりこのかたの事は
今 古(ふる)き人はおぼえ侍べり第百九代 太上皇帝
万々歳の正統(しやうとう) 慶長(けいちやう)十九年きのえ寅(とら)十月廿五日大
地しんありとをよそ記録(きろく)にしるすところ古しへも
【左丁】
さこそありけめ 第百十二代 今上萬々歳 統御(とうぎよ)【全部をすべ治める】
の時にあたつて寛文(くはんぶん)二年 壬寅(みつのえとら)五月朔日より大地
しんしそめて【しはじめて】日ごとにゆる事あるひは五七度
あるひはニ三度日をかさね月をこゆれともその
名ごりいまたやまず年闌(としたけ)たる【歳をとっている】人はおほえたる
ためしもあらめわかきともがらはこのたび初
て逢たか事にてはありことさら女房子共など
はおそれまどふもことはり也もろこし【「唐土」=中国の異名】にも上
代の事はさしていふにも及ばず大元(たいげん)の世宗(せいそう)
皇帝(くはうてい) 至元(しげん)廿七年八月に大地しんして民屋(みんおく)
おほくくづれたをれてをされ死するもの
【右丁 頭部朱書きの部分】
畠山政長記
永正七年八月七日
ノ夜大地震夥
シクシテ國々堂社
佛閣顚倒シ天王
寺ノ石華表モ
倒レケリ其地震
七十余日不_レ止シテ剰
八月廿七日廿八日
両日ノ間ニ近【「今切れの渡し」は遠江國、浜名湖南部に架けられた渡しのこと。「遠」とあるべき。筆者の書き誤りか。】江國ヘ
大波夥シク来陸
地忽海ト成今ノ
今切ノ渡ト申ハ
是也
【右丁】
七千人なり成宗(せいそう)皇帝 大 徳(とく)七年八月おなしき十 年(ねん)
八月に大地しんして後宮(こうきう)の女房大臣以下 死(し)する
もの五千余人なり順宗(じゆんそう)皇帝の時 元統(げんとう)二年八月
に地しんあり大明(たいみん)の世にいたりて孝宗敬(かうそうけい)皇帝
弘始(こうし)十四年正月朔日大地しんして人民おほく死(し)
すといへり異國本朝(いこくほんてう)ためしなきにはあらねと
たま〳〵かゝる事に逢ぬればむかしはためしも
なきやうに上下おとろきさはぐもまたことはり
ならずや佛経【佛教】のこゝろによらば地しんに四 種(しゆ)あり
ととかれたりこれも一 往(わう)の説(せつ)なるへしこの世界(せかへ)【「い」とあろところが「へ」に見えますので「へ」としました。】の下(した)
は風輪(ふうりん)【この世界を支えるという三輪または四輪の一つ。水輪の下に位置するもの。】にてその中に水を盛(もり)たり水輪(すいりん)【大地の下にあって世界を支えているという三輪または四輪の一つ。世界地層の下底。「金輪」と「風輪」の間にある。】の上(うへ)すでに
【左丁】
凝(こり)かたまりて金輪際(こんりんざい)【「金輪」は風輪、水輪の上にあるもの。この上に九山、八海、須弥四州があるという。「金輪際」は水輪と接するところ。】となりそのうへに土輪(どりん)ありて
人間(にんげん)のすみかなり風輪(ふうりん)わづかにうごけば水輪に
ひゞき金輪際(こんりんざい)より土輪(とりん)につたへて大地はうごくと
いへり易道(えきたう)【「えきどう」古くは「えきとう」=易、占いについての学問、技術。】のこゝろは陰気(いんき)上(かみ)におほひ陽気(やうき)下(しも)に
伏(ふく)してのぼらんとするに陰気(いんき)にをさへられて
ゆりうごく時にあたつて地しんとなれりゆる所
とゆらざる所のある事は水脈(すいみやく)のすぢによれ
り人の病(やまひ)にとりては関格(くわんかく)【陰陽が共に盛んで相営むことが出来ないため起こる病気。】の証(しやう)と名づくへしといへり
みなこれ陽分(やうぶん)の爲(わざ)にして□【ふりがなが「くつろぎ」とあるが、該当する文字は「閒」と「寛」だけ(『大漢和辞典)』)ここに用いられている文字を知らず。】ある所より起(おこ)れり
上(かみ)にある時に聲あるを雷(かみなり)と名づけ聲なきを
電(いなびかり)といふ下にありてうごく時に地しんと名づくと
【右丁】
さま〳〵いへともこれをとゞむる手だてはなし
二 諸社(しよしや)の神託(しんたく)の事
このたひの大地しんに貴賤(きせん)上下おどろき
さはぎ此ゆくすゑには又いか成事か出きたらん【やってくるであろうか】
ずらん【来ないだろうか】とやすきこゝろもなし京都はいふに
をよばずいなか田舎(ゐなか)邊土(へんど)【都から遠く離れた土地】の村里 在郷(ざいがう)かたの秀倉(ほこら)【小さなやしろ。振り仮名は「ほこら」だが文字は「ほこら」の古い語である「ほくら」を表わしている。】
小宮までも俄に神前の草をむしり灯(とう)
明(みやう)をかゝげ幣帛(へいはく) 御供(ごくう)をそなへ散米(ざんまい)【「さんまい」=神事を行う時、神饌として、あるいは邪気を払い清めるために神前にまき散らす米。】 御酒(みき)を
たてまつり猶そのうへに湯(ゆ)をまいらせさまつく
に追従(ついせう)【へつらうこと】いたしこのなゆやめ給へといのるほどに
神この御たくせん日比(ひごろ)の述懐(しゆつくわい)を報せらるゝこそ
【左丁】
まが〳〵し【不吉である。忌々しい。】けれ大津の四の宮はかたしけなく
も延喜(えんぎ)第四の御子(みこ) 蝉(せみ)丸にておはしますとかや
宮もわらや【藁屋=藁葺きの家。粗末な家の例えにも言う。】もはてしなけれはとて逢坂の
関のほとりに引こもりこれやこのゆくもかへ
るもといへる名哥を詠し給ひけると也のちに
神といはひたてまつりて四の宮と申して
れいけんあらたにおはしますとてあがめまつる
事今にたえずこのたび大津わたりは又
ことさらにつよき大なゆふりて人の家におひ
たゝしく損(そん)じければこれ思事にあらずとて
産土所(うぶすなどころ)のものどもあつまりて湯(ゆ)をまいらせ神(しん)
【右丁】
慮(りよ)【「神慮」=神のみこころ】をすゞしめ【心を静めさせて慰める】奉る五月四日の事なるに諸人(しよにん)
市のごとくあつまりまうで【詣で】おかみ奉らんとす
すでに湯(ゆ)はたぎりて玉のわきあがる事三
尺ばかり宜祢(きね)【「ねぎ(禰宜)」の語の他「きね」があり別の意。神に仕える人。神楽を奏し、祝詞をあげて神意をうかがい、それを人々に伝える神と人間とのなかだちをする人。神官、巫女(みこ)いずれにもいう。】がつゞみのこゑたかく松かせ【松風】にひゞ
くふえのねに禾(くわ)【「くわし」の意味を持つ字に「委」があるのでこの字のことか。意味は、すみずみまで行届いている。】し銅拍子(とびやうし)【「どびょうし」とも。小型の銅鈸(どうばち)。おもに古代芸能、民俗芸能で用いられる。】をならし調子(?)を
そろへて相待ところに年のころ五十(いそぢ)にあま
る古神子(ふるみこ)の頬車骨(ほうぼね)あれて色くろきが白髪(しらが)
まじりの鬘(かづら)をゆりさげ白きうちかけしてねり
いで鈴(すゞ)ふりあげ拍子(ひやうし)とりて一舞(ひとまひ)かなてたる
ありさま しみやかに【「しめやかに」に同じ=しっとりと落ち着いて、もの静かなさま。しとやかなさま。】いとたうとかりけれは諸人
随喜(ずいき)の洟【なみだ】 【「随喜の涙=心からありがたく思って流す涙。またうれしくて流す涙】をながすかくて舞(まひ)おさめつゝ御幣(ごへい)を
【左丁】
とり湯釜(ゆがま)のほとりにさしかゝりしばし祈念(きねん)して
湯(ゆ)をかきまはし御 幣(へい)の柄(え)を引あげたれば湯玉(ゆだま)と
びあがりて沸(わき)かへるいきをひすさまじかりける
所に神子(みこ)すでにうちかけをぬぎすて策(さく)【占いに用いる具。筮竹(ぜいちく)】の青(あを)
柴の束(たばね)たるを両の手にとりもち鼓(つゞみ)の拍子(ひやうし)に
あはせてニ(ふた)あび三あびあびければあつまりける
諸人 感(かん)をもよをし前なる人は手をにぎり後(うしろ)なる
ものはあしをつまだてをの〳〵片津(かたづ)【固唾=事の成り行きを心配して緊張する時などに、口中にたまるつば。】をのみて見け
るほどに策柴(さくば)につきてとびちる湯(ゆ)のしづくに
たへがたくあつかり【熱がり】ければこれにかゝらじと もや
〳〵する所に俄に又大なゐふり出たり諸人
【右丁】
きもをけし立さはぎみたれ【乱れ】あひふみたをし
をしあひいとけなき子どもはこゑ〳〵になき
さけぶしばらくありてゆりしづまりぬ御湯(みゆ)
まいらせし願人(ぐはんにん)をはじめ又神前に立かへりて
みればかの神子殿(みこどの)は人よりさきににげて拝(はい)
殿(でん)のかたはらなる松の木のうへにかけのほり色
をうしなひけるありさまおそれまとひたる
体(てい)なりしがゆりしづまりければ又をりくだり
祢宜(ねぎ)どもをまねき太鼓(たいこ)をうたせ笛(ふえ)をふかせ
てしばらく湯(ゆ)をあびけるが御たくせん【神のお告げ】こそ
ありけれ
【左丁 左端】
大津しの宮にてゆを
まいらするてい
【右丁】
その御たくせんのこと柴にいはくいかに願人(ぐはんにん)よく
只今 湯(ゆ)をくれて三 熱(ねつ)のくるしみ【三つの激しい苦しみ。➊熱風や熱砂でやかれる事。❷悪風が吹き起って居所や衣飾などを失う事。❸金翅鳥(こんじちょう)に子を食われる事の三つ】のたすかり
たるこそうれしけれ大なゆがゆりておそろし
さに丸(まる)【「まろ」の変化した語。室町時代から見られる。人名、特に幼名(牛若丸、蝉丸)に用いたり、下層の者に用いたり、船の名に用いたりされているが室町中期ころから天皇またはこれに準ずる人が用いた。ここではご託宣をおろす神自身の自称として用いられている。「まろ」の意。】にいのりをかくるよな丸もきづかひ【「き」の字の一画目がうすく「さ」にみえているのでは】を
するぞ只今もゆりたる地しんに丸もおそろし
くて松の木へとびあがりたり氏子(うぢこ)どもの強(こわ)
がるは道理(だうり)かな さりながら丸が心をすいりやうせよ
氏子(うぢこ)どもを随分(ずいぶん)まもらうとはおもへどもなゆのゆる
たびに丸がむねがをどりてまもりつめて居(ゐ)られ
ぬぞ只その身〳〵によく〳〵用心をせよやとて
神はあがらせ給ひけり
【左丁】
近江路はことに大なゐふりければこゝにもかし
こにも小宮 小社(こやしろ)まで在所(ざいしよ)〳〵より湯(ゆ)をまいらせ
ていのりをかくるに社(やしろ)は替り在所はちがへども
神子(みこ)は四の宮の神子只一人なりこゝかしこへやと
はれて御たくせんをおろし奉るに大かたおなし
事なり大津かいだう山科(やましな)わたり【「あたり」の意】諸羽(もろはの)大明神
に湯(ゆ)をまいらせしに四の宮の神子(みこ)をやとひて
御たくせんおろし奉るすでに湯(ゆ)をあびをはりて
やがて御たくせんありいかに【相手に呼びかける言葉。これこれ。】氏子(うぢこ)どもよくきけ
この年月日ごろは丸をあるものかともおもえず社(しや)
壇(だん)も拝殿(はいでん)もこをれ【こわれ】かたふき邊には草のみ生茂(おひしげ)りヘごk
【右丁】
まことにさびしさいふ【「債負」か】はかりなし【計り知れない】 まうでくる人もな
くとうみやうをかゝくることもなしいはんや神楽(かぐら)な
どはまつりの日より外にはきかず御供(ごくう)もその
日のまゝにてそなふることなしあまりのさびし
さには鳥井【鳥居】のもとに立きて往来(わうらい)の様 人をみて
こゝろをなぐさむばかり也日ころかけたる絵馬(ゑむま)
どもは雨露にさらされ絵(ゑ)のぐはげてのるべき
やうもなしいづかたに何事のあればとてかけいづ
へきたより【力になってくれるもの】をうしなひれき〳〵の神たちに
あなづられ【「あなどられ」の古形。馬鹿にされ。】をとしめらるゝ【さげすまれる】はみな氏子(うぢこ)どもの所為(しわざ)
ぞかしかやうの折から述懐(しゆつくわい)をせずは今より後も
【左丁】
丸をすてもの【捨て物=無用のもの】にすべし【するに違いない】それに只今めづらしき
湯(ゆ)をくれてしばらく三 熱(ねつ)のくるしみをたすかり
こゝろもすゞやかにおぼしたりこのほとの地しん
がおそろしさに俄にをかぬものを着るやうに
丸が所へ来りてたのみをかくるかや地しんのゆる
たひに社(やしろ)も拝殿(はいでん)もくづれさうにてきづかひ【きがかり】なれば
これをくづされては重ねて【再び】立てくるゝもの【建てて呉れる者】はあ
るまじいかにもしてくづさじと用心にひましが
なければ湯をくれたるはうれしけれどもをなゆの
事は丸がちからわざにならぬぞ只用心をよくせよ
とて神はあがり給ひぬ氏子(うぢこ)どもは用心をせよとの
【右丁】
御たくせんなり用心をせずは罰(ばち)あたるべし御たくせんにしたがひていざや用心して神の心をいさめ【「いさめる(勇める・慰める)」=力づける。慰め和らげる。】よと
て竹のはしら薦(こも)ぶきの小屋をかまへてうつり
すみけるありさま俄に乞食(こつじき)のあつまりたるに
たがはず見ぐるしき事共也
西ノ京 紙屋(かみや)川のほとり橘地(きちぢ)の天皇に湯(ゆ)を
まいらせしかば御たくせんの事おはしましけり
いかに氏子(うぢこ)どもかくあはたゝしき中に湯(ゆ)をくれて
身のくるしみをやすむるのみならず心のすゞやかに
なりたるこそうれしけれさればこのほどの大
なゐに氏子どものきもをつぶすらんとやすき
【左丁】
こゝろもなく大 社(しや)の神々 達(たち)に尋ねまいらせしが
むかしもかやうにゆりそめては久しくゆりたる
ためしありさりながら別条(べちでう)あるまじとはおもへ
どもそれもしらずと報せられし也 氏子どもよ
只用心せよ用心といふは別の事にはあらず軒(のき)
ぐち【「軒口」=軒の先端。屋根の端。】は襲(をそひ)の石【屋根の上に置いて屋根板の押さえにする石】がおつるものぞや小家ならば築張(つゐはり)【「ついはり」と振り仮名があるので「突い張り」のことと思われる。「つい」は「つき」の変化した語。…ものをつっぱるために立てる柱や棒。つっかい。】
をせよ地が裂(さけ)さうならば戸板(といた)をしくべし戸障(としやう)
子(じ)をさしこめてはかたふきてはあかぬものぞ夜る
も昼(ひる)もあけはなしにせよおさなき子どもはおび
えて驚風(きやうふう)【漢方医学で、幼児のひきつけを起こす病気をいう。】がおこるものぞ虫薬(むしぐすり)をのませてすかし【なだめ】
なぐさめよ家がくづれさうならばはやくにげ出よ
【右丁】
瓦(かはら)ぶきの家又は土蔵(どざう)の戸前(とまへ)などは心をつけて
機(き)をゆるすな火の用心をよくせよかやうの時は
うろたへて火事(くはじ)ゆくものなり丸【神の自称。「まろ」に同じ】がをしへに
したがはゝあやまちはあるまじきぞよくまもらん
とはおもへどもあまたの氏子(うぢこ)なれば見はづす事
もあるへし見わするゝ事もおほかるへしと御たく
せんしみやかに【しめやかに」に同じ。】諸人こゝろをすまし耳をかたふ
けてうけたまはる所に又おびたゝしくどう〴〵
とゆりいでしかぞ神子殿(みこどの)は色をうしなひて
やしろのうへにかけのぼり神はあがらせ給ひけり
あらたにたしか成御たくせんかなとて氏子共は【「ハ」字があったような。】
【左丁】
手をあはせておかみたてまつるもいとたうとし
又かやうの事は御たくせんまてもなしいかなる
ものも心持たる事也さるめつらしからぬ御たく
せんかなとつぶやきわらふ人もありけりその外
京 田舎(ゐなか)なゐのふりける所には俄にそこ〳〵の
神前をきよめいのりをかけて御たくせんをお
ろし奉る事さま〳〵なり
三 妻夫(めをと)いさかひして道心(だうしん)【道徳の心】おとしける事
そのころ都のうちに俄へん【「変」=異常な事態、事件。】おこして浮世をめ
ぐる痴者(しれもの)【愚か者。怪しい者】ありみづから新房(あたらしばう)とかや名をつきて
かた【手形】のごとく機(き)まゝなるだうけもの【道化者=おどけた人。】なり五月四日は
【右丁】
大事の日にてなゐふりつゝ大地がさけて泥(どろ)の
海になるかしからずは火の雨がふりて一めんに
やけほろぶるかいかさま【きっと】世の中 滅(めつ)すべき境目(さかひめ)也
といひはやらかす京中の貴賤(きせん)上下聞つたへ
血の洟を流しておそれかなしむもあり又いかなる
事にもさやうにはあるましきぞやといふものも有
けりある町人の身上(しんしやう)もまづしからずともかうもして
すみけるもの此沙汰【情報】をきくにおそろしさ かぎり
なく手ふるひ足わなゝき目くらみむねおどりて
うつゝ心【うつろな心】になりしかとも男たらんもの色にいたし【い出し】
ておそれまどはゞ人のためわらはれんも口おしく
【左丁】
おもいてさらぬやうにてふけり居(を)る今やゆり
いでて泥(どろ)の海になるらん火の雨ふるべきかと
おもひける所に案(あん)のごとく未(ひつじ)のこくはかりに北
のかたよりどう〳〵となりひゞきしきりに大なゐ
ゆりいでければすはや今こそ草木(さうもく)国土(こくど)人(ひと)も
鳥もけだものもみな一同に成佛する也もしや
のがるゝ事もあり あしにまかせてにげてみよや
とて妻(つま)の女房が手をひつたてみなみをさして
かけゆきつゝ七条川原に出たりかくてゆりやみ
ければしばらく心をしづめてつら〳〵見れば
手をひきてうちつれにげたるは妻の女房には
【右丁】
あらでさしもなき熊野(くまの) 比丘尼(びくに)の地しんにおそれ
てにげこみたるを是非(ぜひ)なく手を引てし七条川
原までにげきたりぬくちおしき事かなさ
こそ人のわらひ種(ぐさ)になるへしとおもひつゞけて我
ながらをかしく日くれかたに家にかへりしかば妻の
女房大に腹(はら)をたて日ごろそなたの思ひ給ひける
しるしには我をば打すてゝ癩尼(かつたいあま)が手をひきて
にげ出給ふはらたちさようの焼尼(やけあま)【「焼け」は他の語につけて用いて、それをののしる意を添える。】と来世(らいせ)までも
そひ給へ我には隙をあけて入婿(いりむこ)なれば出ていねと
てふりくすべ【腹を立ててふくれ】ければおとこのいふやう人たがへと
かふにはためしなき事 かわ【川】ごぜ【瞽女=盲目の女性】かとおもひてとり
【左丁】
ちがへたりそれをふかく腹立(はらたつ)は悋姫(りんき)なりわかよむ
哥をきかしませとて
なゆよりもつまにふらるゝくるしさ□【「に」か】
きげんなをしといふは世なをし
といへば女房いよ〳〵腹(はら)をたて何の哥どころぞ
聞たうもなし今はこれまでなりその尼(あま)が所へ
ゆかしませとてつきいだす けしかる【「怪しかる」=異様である。得たいが知れない。】地しんの
うめきにとりさふる人もなし男ちからなく出る
とて門柱(かどばしら)かきつけゝる
でていなば心かろしといひやせん
このいさかひを人はしらねば
【右丁】
洟【なみだ】とゝもに追出され今は世にすむべき甲斐(かひ)はなし
俄に髪(かみ)をそりてこゝろもおとしぬ青道心(あをだうしん)【「青」は未熟の意。「青道心」=にわか道心。】をお
こしこゝかしこしれる人のもとにたちよりてき
のふけふとするほどに水無月 文月(ふづき)はすくれども
なゆの名ごりはいまだやまずそのあひたに国々
所々をめぐりてこのたびのなゆにてくずれそん
せしありさまこまかに見聞しつゝかたり侍へりし
こそたしかなれ
【左丁 右端】
ふうふいさかひして
りへつのところ
【右丁】
四 なゆといふ事 付 東坡(とうは)の詩(し)の事
ある人尋ねけるは地しんをなゆといひならはし
又はなゐともいふいづれか本(ほん)ぞと問(とひ)ければ新房(あたらしばう)
う【?】かり出てこたへけるはやいゆゑよは五 音(いん)の横(わう)
相通(さうつう)なればいづれもおなじこゝろ成へしどう〳〵と
鳴(なり)て地のゆるといふ義(ぎ)也 鳴(なり)ゆるゆへになゆといふ
又家も草木もなびきてゆる故になゆと名づく
なゆのふるといふもおなじくうごく義也地しんの
するも月によりて吉凶(きつけう)あり東坡詩集(とうばのししう)にみえ
たりとてある人かたられしとてうつしもちたり
これ見給へとてよむをきけば
【左丁】
民褱(たみをとらへて)春(はるは)火(ひ)大旱至(おほいにひでりいたる) 二五八 は龍高(りうたかき)賤死(いやしきしす)
六九一は金穀米(きんこくべい) 登(えのぼる) 七と十二は帝(てい) 兵乱(ひやうらん) 起(おこる)
このたびの地しんは五こくゆたかに民さかゆべき
しるし也いにしへ聖王(せいわう)の御世(みよ)とてももろこし
わが朝(てう)のあひだ天地 陰陽(いんやう)五 行(ぎやう)の灾変(さいへん)【天災と地変。天変地異。】なきにし
もあらず今もいてかくのことしさのみにあやし
むへきことにあらずいはんや四海【ここでは「くにじゅう(国中)」の意】たいらかにおさ
まりたる世の中何かこれほどの事にゆくすゑ
までのさとしとしてけしかる【「怪しかる」=異様である。得たいが知れない。】事といふべきや
俗説(ぞくせつ)に五 帝(てい) 龍王(りうわう)この世界(せかい)をたもち龍王(りうわう)いかる
時は大地ふるふ鹿島(かしまの)明神かの五 帝龍(ていりう)をしたがへ
【右丁】
尾首(おかしら)を一所にくゞめて【屈めて=かがませて】鹿目(かなめ)の石(いし)をうちをか【「打ち置く」…「うち」は接頭語。ある位置にひょいと据える。】せ
給ふゆへにいかばかりゆるとても人間世界(にんげんせかい)は
めつする事なしとてむかしの人の哥に
ゆるぐともよもやぬけじのかなめいし
かしまの神のあらんかぎりは
この俗哥(ぞくか)によりて地しんの記(き)をしるしつゝ名
づけて要石(かなめいし)といふならし
【左丁】
蜀山目録ニ
かなめ石 三巻 寛文大地震
トアリ
本書、中巻 欠ナリ
帝国図書館蔵
地震後(ぢしんご)野宿(のじゆく) の 圖(づ)
【天井代わりの襖に書かれた台詞】
「子ぞうにそろばん
をおしへているとアノ
さわぎさ
二月天災(にかちていさい)の 後(ご) 《割書:こ|び》
《割書:もの|くた》
地震がいつて
荷賃(にちん)が一朱 《割書:火事|用心》
《割書:の|ため》
ひにちてん 《割書:だから|しかた》
たくの事 《割書:か|ねへ》
主人が 《割書:むらやの|うちへ》
野ぢん 《割書:こし|たい》
○【半分黒塗りつぶし。同じ記号で会話の続きを示す】
【衝立代わりの襖に書かれた台詞】
○【半分黒塗りつぶし】いやもう
そろ晩(ばん)の事を
おもひだしても
ぞつとする
明神【屋号の提灯】
鹿嶋
【通路部に書かれた台詞】
「ぢしんの晩(ばん)
にはやねがなかつたから
なんぼ天地しんどうでも
我衣手は▲
▲露(つゆ)に
ぬれつゝには
おそれ
たよ〇●
大當【屋号提灯】
○●「もうから
かこいができ
りやア
野(の)でん
あんばいよしさ
瓢箪屋【屋号提灯】
【画面右下仮葺きの戸板に書かれた台詞】
「それでも
あめがふらな 「なにさ ひとあめ
いでしあは くるとじしんが
せでたよ おさまるといふから
ばら〳〵とむらさめ
ぐらいはしてもいゝ
のさ
太田【をゝた】どうくわんが
そこのところをよんで
おいた
ゆるがずはぬれまじ
ものを大ぢしんの
跡(あと)より張(は)れる
のぢん
の
むら
さめ
と
【障子板内の歌詞】
〽地
しんの
さわぎて
いまだにど
きやうがおち
つかねへから一ぱい
のみてへものだ ナニ
かんをすることがで
きねへとそのちや
がまへつゝこみねへ
なんだちろりも
見(み)へ
ねへと
ヱヽまゝよ▼▲
▼▲ひやでやらうせ
野ぢんのちやまがは
ちろりなくなり
とは此事だ
ろふ
要屋【屋号提灯】
【画面下半分記事】
安政二卯年十月二日夜□ ツ時(どき) 大地(だいち) 大(おほ)い□に
震(ふる)ひ山(やま)くづれ川うづみ家(いへ)を潰(つぶ)し府□□を
倒(たほ)し渚(なぎさ)こぐ舟(ふね)は波にたゞよひ道(みち) 行(ゆく)□ (ま)の
足(あし)の立所(たてど)を知(し)らずそのうへに猛火(くわじ) 八方(はつほう)
より燃出(もゑいで) 怪家(けが) 人 死(し)人おびたゞしく 猶(なほ)しば〳〵
ゆりかへしの来るに 人々恐れおのゝきて
常(つね)には鎖(とざ)しにとざしする家 居(ゐ)もくらくもの
捨(すて) 置(おい)て葛籠(つゞら)を背負(せおひ) 出(だ)す五右衛門あれば
釜(かま)をかたぐる嶋屋の番頭 女房(にようぼ)が
ござは夜たか場めき下女(おさん)が手箱(てばこ)に烏(からす)
なき悪(わる)いといふては 駈(かけ)いだしよいといふては
迯(にげ)はしり其処(そこ)の廣場 彼処(かしこ)の空地(くうち)へ
戸(と)を敷(しき)畳(たゝ)みを置(おき)ならべ 木(こ)の下陰(したかげ)の
花(はな)ならで星(ほし)をあるじのやどりには
茅(かや)の屋根だにあらざれば竹のはしらも
風流(いき)ならず建(たて)まはしたる場屏風には
いさゝか閨(ねや)のさまあれど箪笥(たんす)の環(くわん)の
なる度(たび)にスハといひて驚(おどろ)くは彼(か)の新婚(しんこん)の
昼間(ひるま)に似(に)ず然(さ)れば常には夜更
ては蕎麦(そば)うる人の風鈴かむれゐる
犬(いぬ)の鳴音(なくね)より外(ほか)にはたえて物もなき
町家(まちや)はづれの賑(にぎは)ひて昼(ひる)より明(あか)き
挑灯(てうちん)に火の用心(ようじん)をよぶ聲(こゑ)と拍子(ひやうし)
木(ぎ)の音(おと)かしましく市(し)ちうはかへつて寂(ひつ)
莫(そり)かんと人(ひと)はありとも思へぬ有(あり)様
実(じつ)に前(せん) 代未聞にて後(のち)の
はなしの種なりかし
【表紙 題箋の文字無し】
【左丁】
《割書:地震|後世》俗語之種《割書:後編|之二》
【両丁 文字無し】
【右丁】
おのれか身を
落葉して
袖に時雨の
おもひ
かな
粟生庵
【左丁】
ある眀
友の集
りて後
殺風景の
噺に善光寺は
三國傳来の尊像
人崇めて佛都と
いふか中にも
常念佛の
【右丁】
親疎廻りて六萬五千日の數を積る此春
おそろしき大災諸人命を失ふ就中
一山世尊院の本尊釋迦牟尼如来佛身
紫逢【「紫袍」の意か】にして爾も北越今町の續善光寺濱
出現にましまして殊に霊験あらたなり
前立本尊日本廻國の刻此釋尊の
御輿は渡船の邊りに至りて重く来給ふ事
只事ならすと固く御本院御内佛にま
します釈尊代りて御廻國なりし
とかや然るに今大災發して一山焼亡の
【左丁】
時勿躰【もったい】なくも佛尊少しくとらけ【くどらけ…くどれる(崩れる)の意。】流れり
其外秘作の佛菩薩一時の灰となり
給ふ事佛法襄ひたりといふ答て云惑ふへ
からす佛力とろけ給ひ焼亡した給ふ事こそ
正法に不思議なきしるしなれいつの頃にありけるや
御江戸神田明神の神職恐多くも寺社
御奉行所に願書を奉る其子細は神前に
おゐて湯の花の祈祷勤行仕度の
旨を申上るに聞召【きこしめし】をさせられて湯の花の祈
念【「湯の花」は湯の沸騰時に上がる泡。神社で巫女や神職が湯の泡を笹の葉につけて参詣人にかけ浄めたり、神託を仰いだりする。】如斯の利益ありやと【「り」は筆の勢いで巻き上がったか】御尋のありけれは
【右丁】
慎て左右を不顧別して
變りたる利生【仏・菩薩が与える利益】は
承り傳へす昔し
よりして
是を執
行よし
を言上す則
御許容
をそ仰出
され
【左丁】
けるとかや程経て後山王の神職是も湯の
花の願書を捧奉る時の 御奉行所
被為 聞召て時に利益の有無 御尋の
ありける處に両手を胸に當慎て其利益の
廣太無邊【普通は「廣大無邊」とあるところ。広々として果てしがない】なる事をさはやかに言上す
是 御免なくして空敷下りぬといひ
傳ふ爰をもつて正法にふしきなき事社
尊ふとけれ眞實生き如来と穪すへきは
當歳より二三才の小児をいふへし
己か心の信實をうつす時は鰯の頭よりも
【右丁】
光明を放つなるへしと物知り顔の
論語しらすにしはしは憂を凌ける爰に
ふしきとするは斯天変の後御本佛をはし
め奉に前立本尊御印文【ごいんもん=まじない。またお守り札や護符。】堀切道の
《割書:従御本堂丑寅ニ當リ|畑之中ニ御假小屋建ル》かたはらに三月廿五日より
四月十六日まて安置奉る《割書:其畫圖ヲ不出ハ此|所ニ其印ヲ可為残》
《割書:依テ後代尚|不盡ナルヘシ》所に遠近諸國参詣の旅人引も
きらす爰に群集す此道すからにさま〳〵の
見世店を仮にまうけ利潤たるも多かり
けるとかや案にたかはぬ繁昌は實に難有御佛なり
【左丁】
御寶物 御類焼 本願上人様
御回向中霊寶拝見有之は悉取揃ひてそ有□【「け」か】る
理然るを大地震發するや否即時に御院内
類焼したるなれは焼亡の有無はしらすといへとも
可察旧地霊場幾莫の寶物ならん可哀可恪【つつしむ】
二王門 炎上
二王尊
高野山木喰【もくじき】上人の寄附にして其作稀也
木喰上人の書翰
【右丁】
二王尊寄附の砌妻戸の内甚玅坊へ是を添て送らるゝ此
書簡表装して什物とす是皆大火のために灰と成とかや
大黒毘沙門両天
其作はしらされとも伽羅像にして爾も古物
なり是一時の灰となる
閻魔王像
法然堂町の閻魔堂にあり○【?】世に此像を祭り正十六日老
若男女群集する事其類ひ鄙山里といへとも数多し
今此王像の妙作なる事は其類にあらす是則小野の篁
の作なりといひ傳ふ是亦可恪灰となりぬ
【左丁】
法然上人の像
同所正信坊に有り上人自作にして爰に残さる
依て此町を法然堂町といふ
笹の葉の名号
此一軸は中衆の一老堂照坊にあり親鸞上人此坊に
逗留して百日々参の満願に笹の葉の形に六字の
名号染筆し給ひて爰に残さる所の寶物也
釋迦如来
衆徒之内釈迦堂の本尊世尊院にあり 越後國の
濱邊今町の西にあたる所の海中出現の佛
尊しかも紫金【「しきん」=赤銅(しゃくどう)の異称。金を三~六パーセント含む銅合金。これに銀を一パーセント程度加えたものにもいう。わが国で古くから工芸品、銅像などに用いられた。】なり因縁によりていまもなを
【左丁 左下部】
北越今町之
街并善光寺
濱一見之畧
圖《割書:己レ十歳ナリシ夏祖|父ニ連ラレテ此濱ニ》
《割書:至リ一見シタル空覚ヲ以|爰ニ圖ヲ出スナレハ其違》
《割書:ウ事【「叓」は「事」の古字】】ヲ免シ給ヘ
善光寺濱といひ亦善光寺村ゟして善光寺へ
塩を進献する事今も猶中絶する事なしとかや
大日如来
大日堂衆徒常智院の本尊
聖徳太子四天王
太子堂衆徒福生院の本尊
曼陀羅
曼陀羅堂衆徒尊勝院の什物日本に二幅な【り】
といふ當摩の曼陀羅は蓮の糸をもつて中
将姫これを織今此曼陀羅は兆典子の真画を
以て結構するとかや
薬師如来
薬師堂衆徒最勝院の本尊播州須摩の
浦海中出現にして佛尊石像なりといへ
とも其名作世に類なし疑ふらくは日の本の
作に有へからすと云云
【右丁】
播州須磨之浦海中
ヨリ石像之薬師如
来出現之大畧圖
○《割書:此國ニ未タ行テ見ス|唯其趣ヲ畫ニ》
《割書:出スナレハ其建|ハル㕝【「事」の古字】ヲ不可咎の
【右丁】
是等の頽ひは今思ひ出つる儘にて其事を
不詳も爰に加へて足を恪むといへとも其外
一山《割書:光明院 世尊院 寶勝院 圓乗院 常徳院 薬王院 最勝院|徳壽院 本覚院 良性院 威徳院 常住院 蓮花院 尊勝院》
《割書:教授院 吉祥院 福王院 寶林院 ○ 堂照坊 堂明坊 兄部坊|常智院 長養院 玉照院 以上廿一坊 白蓮坊 正智坊 渕之坊》
《割書:常圓坊 行蓮坊 向佛坊 鏡善坊 野村坊 ○ 玄證坊 善行坊|信行坊 浄願坊 徳行坊 随行坊 以上十五坊 壽量坊 林泉坊》
《割書:穪名坊 甚明坊 正定坊 蓮池坊|常行坊 遍照坊 以上十坊》 衆徒中衆妻戸一時に
焼亡したれは名たゝる所の霊佛重寶の
類ひ灰となる事数多なるへし可哀
歎くへし尚尋ねて四五の巻に委鋪【くわしく】
出すへし
【左丁】
左に出す図は去る天保十四辛卯孟春【陰暦一月】九日より
如月の初つ頃まて酉戌の方ゟ辰巳の方に向ひ旗
雲【細長い旗のようになびく雲】の如き氣を発すといへとも日輪の光に押へられて
其形をわかたす見る人も又稀なりきさらき
始め二日の暮頃よりして其氣を發す故に
諸人是を見て奇異の思ひをなす日々刻限
少し宛【ずつ】遅く地より一覧する所の其幅凡六尺其丈
極りなくして辰巳に向ひ行事【行く事】数十里行先
明かならす次第に薄くなりて弥生十三夜ころに
至りて自然と其形を失ふ其あり様圖の如し
【左丁】
○弘化丁未卯月の
二十八日暁天晴渡り終日
風なし日の出ゟして日輪
紅の如くにして常より光
りも薄し斯大災
のうへなれは諸人
驚怖して禮神す
翌る日【あくるひ】に至りて亦
常の如し
【右丁】
爰に不思議とするは此信濃國の所謂山國なる事
遠く境を隔【へだて】る人なりとも是をしらさるはなし
されは大地震の大災はありとも山國にして
洪水の難の斯大變なりとは惑ひうたかひのある
も理なり今おもふ時は犀川筋に連なる所の
村々民百姓にありとも年経て後子々孫々の
世に至りなは昔し大地震發し此大河洪水
し其時に此邊りまて満水流失の難ありし
とかや我々祖父母長命にしてその患をしられ
たりなとゝいひ傳ふかのみにて尚年を累【かさね】し後に
【左丁】
至りては昔の人の言なといゝなるへし譬ひいかなる
大変なりとも幾数十丈の水の嵩りてや高き
此處において水災の患あるへしや疑はしき事に
そありけるなと怪みいい言傳ふへし今丁
未三月は四日の夜亥の刻陰陽昇降の變
化をもつて即時に此大河をとめて一滴の水
を漏らさすして四月十三日午の刻を過共日を
積る事既に二十日といへとも眼たゝく【まばたきをする】間も湛る【たたえる】に
ひまなし大河を爰に止むる事幾許そその
無量なる事後世猶おそる【「ろ」に見えるが「る」とあるところ】へし既に
【右丁】
二十日およひて漸々茫々たる事湖水にして
諸人眼を驚かす計りなり其広き事山中と
いへとも亦たくひなくして村数殊に夥しけれは
爰に略すといへとも信濃国絵図明細村名帳を所持
してあれは是を見て其広き事を知るへし斯
水災の大難を受け家蔵満面の水に漂ひ
水屑に沉【「沈」の俗字】み耕地を押流し山抜崩れて土中
に埋み譬は念佛寺村臥雲院の如き山抜おし
出して一寺土中に埋みなから火事となり日を
追ひて掘出して見るに其侭炭灰といなり【居成り】ぬ
【左丁】
亦下祖山村白心庵の如き岩石抜崩れて地中に
埋むといへとも住僧【その寺院に居住する僧】是素より一宇【一棟の建物】何れに埋み
しや其形の有處をしるす吉村の裏山抜け崩れ
泥水いつし【「いづし」=どこ。】よりか山の如く吹出し一村の民家
悉く地中に埋み二十日三十日の至程隔りて
尚追々に人民牛馬を掘出したるなととほゝこの
類ひ多しといへとも爰に省略す《割書:其詳カ成事ヲ尋|得ニ爰ニ書加フル事》
《割書:ヲ思所ニ脳【「悩」とあるところ】ミテ不任心ニ有ケル所ニ幸ヒ成ケルハ地震ノ絵|図出板アリ是ヲ調得テ一見スルニ予カ如キ無学ノ作ス所ニ》
《割書:非ス折節眼病ニ痛ク脳【「悩」とあるところ】ミテ有ケレハ此絵図ニチカラヲ得テ幸|ヒニ水災ノ図画ヲ爰ニ省略ス我劣リテ其文「昌+心」【「姦」の古字「早+心」の譌字】也ト言トモ此》
《割書:絵図計ヲ以後世ニ伝フル時ハ悲歎之情合薄キ事モアランカ因テ|絵図ト此書ト□【文意からひねりだすと「共」か】ニセハ是後代之伝ニ可成欤然ニヲキテハ爰ニ筆ヲ》
【右丁】
《割書:止テ短カク小児ノ見安キニス其詳ナル子細ヲ爰ニ加ル|時ハ文面長キニ至リテ見安カラス依テ子細ヲ次ニ譲ル也》尚後編四
五の巻に出す處を見て知るへし
爰に又川中嶋をはしめとし川辺に連らる【「な」とあるところだが、「な」と読むには無理がある。】る
所の民百姓は最寄の山〳〵に小屋かけて仮居し
今にや水の押来り我家の流失する事そと
願はぬ事を待わひつゝも日を重ねうきかんなん【憂き艱難】に
身をやつし哀み患ふる事既に二十日のけふ
に至り山鳴響き渡り天地くつかへるかと恪む所に
湛場はからすも破却して洪水押出すと聞
伝ふる程もなし申の刻頃小市に押出す其有様
【左丁】
山亦山を重ねし如し只何となく真黒し水
煙りともいふへきかあたりに散り乱れて晻【あん=くらい。雲霧が立ち込める。の意】夜
の如し其強勢をこわ〳〵なから見てあるに丹波
嶋まて《割書:小市ヨリ|一里川下モ》山の如くの大浪三ツにして押行けるとかや
其程もなく北は小市村を一ト被りにして此村
の民家耕地等悉押流し久保寺村九反村
荒木村等の耕地湖水の如し其水勢荒木村
吹上の間を瀬筋に押行市村新田川合村の
作場【さくば=耕作地。田畑。】を押荒し犀川と煤花川と是皆合せて
一面の満水となり南は小松原村四ツ屋村
【右丁】
辺【邊=あたり】の堤を押破りて此二タ村流失夥敷川中嶋
一円【圓】数多の村々不残水中に浮むか如く眼たゝ
く【「めたたく(眼叩く)」=まばたきをする】間に満面の嵩水湖水の如く太【大とあるところ】海に似たり
其有様を見るに諸人只ばうぜんとして驚もせ
す恐れもせす夢ともなくうつゝともなく我
身を捻りて痛さを知りいまた合は有けるかと
怪まぬものなかりけるとかや家蔵の流れ行
事嵐に吹散る秋の木の葉の流るゝかことく
其数幾千万【萬】といふ事をしらす△【?】まかなくに
何を種とて浮草の浪のうね〳〵生茂る夫には
【左丁】
あらねと有とあらゆる家財の品々或は浮み或
は沈【沉】み千鳥の浪を通ふにひとしかりし爰に又
目もあてられす恐しけなるは高瀬荒浪にして
黒く濁れる水の面を親をいだき子を抱て
流れ行屋根にすがり付き呼とも【よべども】叫へとも
助け救ふ事不能【あたわず】然るか中にも流れ行
なからにして火事となり屋根の上にて
狼狽【うろたえる】出し狂気【氣】の如し歎きかなしみ経廻り〳〵
なき叫べと見渡せし漫々たる大海の如し
川風烈しくして火を防事あたはす終に【ついに】
【右丁】
犀川之水一時ニ押破リ
土砂磐石樹木民家ト
共ニ押出シ水煙リ之有様
川中嶋小松原岡田山辺【邊】ニ見ル
丹波嶋駅【驛】
【右丁】
犀川水
一時ニ押
出シ三災
之苔【苦とあるところ】難ニ
爰ニ命ヲ
失フ図【圖】
真気【氣】長画
【右丁】
はかなく成ける者其数幾多か知らねとも沖の
江の浪に魚【漁とあるところ】火を見るか如くそこかしこに
見ゆる事譬ふるにものなく是そ地水火の
三災一時の火難は譬如何なる前業【前世の業因。これによって現世の禍福が定まるとされる。】
なりともあるにもあられぬ事なりけれは
勧【観とあるところ】念せよ後世此書を見る人黄金珠玉は
只一世の財宝【寶】栄花栄耀は更非仏【佛】道
の資【たすけ】に可恐未来世の助成なる事を深く
嗜み行ふ事社【こそ】肝要なれ
【左丁】
五月十六日暁六ツ時御供揃ふ五ツ時御行列
堀切道御仮【假】小屋ヨリ万【萬】善堂御仮【假】堂へ
御引移り諸人夥鋪群集して敬拝す
《割書:御山内小屋|店行司》 海老屋庄兵衛(袴羽織着用) 《割書:同心 同心|同心 同心》 《割書:菱の紋高張上下着用御披官| 高張〃 御披官|〃 御披官》 《割書:御披官》
【「高張」=高張持のこと。高張提灯を持ち運ぶ役の人。「披官」は「被官」とあるところ。地頭や地主に隷属する百姓。】
《割書:仲間|門》 御朱印 《割書:仲間 上下着御披官|門 〃 御披官》 上田丹下(麻上下着用) 《割書:若党|門》
《割書:鑓持|草履取》 久保田(麻上下着用)内記 《割書:若党 鑓持 色衣三ツ緒五條尊勝院 若党|若党 草履取 〃 良性院 門》
【右丁】
△ 瀉水出家(黒衣三ツ緒五條) △ 香(上門)燻 出家 【五条=五条の袈裟のこと。五条の布を縫い合わせて作った袈裟。】
《割書: |上下着用》 《割書: |上下着用》
《割書: 侍| 侍》 御別当【當】《割書: 御近習|〃 御近習》
《割書:色衣三ツ緒五条| 》
手燭 衆倦【意味不明】 《割書:黒衣三ツ緒小五条| フク面ニテ》
△△
手燭 衆倦【意味不明】 右に同
御本仏【佛】
御宝【寶】龕【ごほうがん=宝物をいれる厨子】 天蓋【てんがい=仏像・導師・棺などにさしかけてつるす、きぬがさ】
御輿舁【みこしかつぎ】ハ一山僧衆○
【左丁】
何れも黒衣三ツ緒小五條
輪けさ【輪袈裟=僧のつける略式の袈裟。幅六㎝くらいの綾布を輪形に作り、首から胸にかけて前にたらす。】も有之但し不残
フク面にて此御輿は今
新に山に来也
御院代
法成院 若党【黨】
《割書:色衣三ツ緒五條| 》
南勝(御手伝御下向)院 若党【黨】
《割書:日光山| 》
《割書: |黒衣小五条》
《割書:侍|侍》 御宝(前立御本尊)【寶】龕 《割書:出家|出家》
御輿舁白鳥【丁?】着用
【右丁】
御(御印文)宝【寶】龕
出家
出家
御輿舁
白鳥
出家
出家
今(麻上下)井忠兵衛
若党【黨】
弐人
鑓持
草履取
【左丁】
中野(麻上下)冶【図中の注記には「治」とある】兵衛
若党【黨】
弐人
鑓持
草履取
山際(麻上下)又兵衛
若党【黨】
弐人
鑓持
草履取
【右丁】
町年寄弐人上下着 《割書:八町|庄屋》上下 御医【醫】者共
惣供廻り 以上
【左丁】
丁未神無月十八日四ツ時御出輿
萬善堂御仮【假】屋ヨリ
如来御遷座
之図【圖】
参詣群集
右同日日の出結講【「構」とあるところ。】ニテ快晴四ツ時
頃ヨリ少々曇ルト可知○日記ヨリ出之
【右丁】
当【當】日諸方ゟ奉納物夥鋪亦参詣の諸人
群集なす事百有余歳の齢を経ぬる老人
も覚て是程の賑鋪事未た見聞する事
なしといへり斯大災の後斯なりけるは実【實】に
莫太【「大」とあるところ。】の霊場可仰尊むへし
御行列の次第遠く拝するに左之如し
先箱 高張《割書:白鳥着| 》 披官 同 同 同 上下着用
先箱 高張《割書:同 》 披官 同 同 同 同断
洒水《割書:黒衣三ツ|緒小五條》 尊勝院 手香炉《割書:黒衣三ツ|緒小五條》 感徳院
【左丁】
披官 御近習《割書:装束着用| 》 同
大佛頂院(御別当)権僧正山海
披官 御近習《割書:同断 | 》 同 《割書:紫衣五條| 》
御近習《割書:同断| 》 同《割書:同| 》
爪折傘《割書:御草履取|御杖》 僧 《割書:黒衣三ツ緒|小五條》
御近習《割書:同断| 》 同《割書:同| 》
【「爪折傘」=「つまおりがさ(端折傘)=傘の骨の端を中へ折り曲げた長柄の持傘。公家の参内をはじめ外出の際に、袋に納めて傘持ちの従者に持たせるのを例とした。】
手燭僧 《割書:黒衣三ツ緒|小五条》
但シフク面ニテ 御本佛御輿(衆徒中着衣三ツ緒小五条)
手燭僧 《割書:同断 | 》 《割書:但シ何レモフク面ニテ| 》
法成院(御院代)
天僧《割書:僧|僧》 何れも上同 色衣五條 御印文御輿
南勝院(日光山) 《割書:白鳥着用| 》
僧 赤衣五條 《割書:御輿台|同》 着用 立傘 着用
【右丁】
跡箱 侍 同 上下着用
上田丹下(麻上下着用)《割書:若党 鑓持|同 草履取》
跡箱 侍 同 同断
久保田(麻上下着用)内記 《割書:若党 鑓持|同 草履取》 今井忠兵(麻上下着用)衛《割書:上同 上同|上同 上同》
中野冶(麻上下着用)兵衛 《割書:上同 上同|上同 上同》 上下着用
十月十八日午の刻御遷座相済御法事
御開帳諸人押合へし合【おしあいへしあい】参詣する事
古今未曾有の群集なりけり
【左丁】
犀川の平水【へいすい=河川などの平常時の水かさ。】と村山村の
高低を見競図【圖】略
此図【圖】を爰に出すは去ル夏の頃此邑
なる荒神堂に参詣するに堂の裏成
少しく高き處に二丈有余の松の立木有
此先にちりあくたの夥敷かゝりてあり
けるゆゑに是を怪みて問ける處に満水
の節し【せつじ(節次)=おりおり。たびたび。】水の番に斯なりけるといふまごふ
【文字記入無し】
【右丁】
方もなき有様目を懸たし舌を巻けるか儘に
印つけて置たれは此所迄高水したる事を
後世につ伝【傳】へん事を欲する儘に爰にしるしぬ
折しも夏の事なりけれは
早乙女もみな休らふや子安堂
心して束ねよ雨の早苗とり
庵冷し苗代時【なわしろどき=苗代に水を引いて種もみを蒔くのに適した時節。】の嚢を着て
右 井蛙
【左丁】
大地震発するに此方今洪水の大難に至るまての
手続を此處迄順にせんか為に巨細の事共を省略し
亦己の身の上の事のみをしるせしに似たれ共一国【國】の
変なれは広太【「大」とあるところ。】にして眼前に其子細綴る事不能【あたわず】
因て後巻の報を左に記事す
後編三の巻には
地水火三災の町在山里村名人民牛馬死ての数
耕地荒等都ての変災諸方御領分御取調
有之し事共を巨細にしるす
諸方 御領主様方御 仁徳御救てありかたき
事ともを記事す
【右丁】
後編四の巻 雑記の部
大地震より此方洪水におよひ猶聞伝【傳】ふる
所の変災跡事【あとごと=先例】等追々に書かへて
紙数を増す
後編五の巻には
おのれ不肖たりといへとも時に当【當】りて勤役【きんやく=役を勤めること。】
してあれは御用にかゝわる所の書類
御訴御届け等の事とも又は寄持の事
ともをしるして子孫にのこす
後編六の巻には
【左丁】
善光寺御山内の故事市中の旧例
御堂御普請の巨細近隣世々の
跡事【よよのあとごと=代々しるされた先例。】を集めて写す
後編七の巻には
信濃国【國】絵【繪】図をもつて町々在々山里村
名分郷高附家数人別等を記す是大金
広【廣】太【「大」とあるところ。】にしてわか愚昧の集る處にあらすと
いへとも少しく其種をもとめてあれは集て
成就なせしめ子孫等譲る
事を欲す
【右丁】
尚残る所は地震書類入の袋
丁未より戊申至る所の記録帳
地震大絵【繪】洪水絵【繪】図
是等の品〳〵子孫に至
もてちらす事なか□【り?】し
【左丁】
こゝろあらて
何かは
折らむ
姫百合の花の
しつくに
袖ぬらし
つゝ
幸 一并題
【文字の記入は無し】
【文字の記入は無し】
【右丁】
《割書:地震|後世》俗語之種
【表紙タイトル】
《割書:天女|龍女》娜二代鉢木《割書:自一|至五》
【右上ラベル上から】207
1739
【右頁下】25・12・20
【左頁 右上ラベル】207 1739
【タイトル札】
《題:《割書:新|板》《割書:天女(てんによ)|龍女(りうによ)》 娜二代鉢木(まひひめにたいはちのき)《割書:自一|至五》》
【下段に丸に三つ鱗紋有り】
【左頁 タイトル札二枚】
【右上段】《割書:新|板》
【右中段】《割書:天女(てんによ)|龍女(りうによ)》娜二代鉢木(まひひめにたいはちのき)二
【右下段 丸に三つ鱗紋有り】
【左上段】《割書:新|板》
【左中段】《割書:天女(てんによ)|龍女(りうによ)》娜二代鉢木(まひひめにたいはちのき)三
【左下段 丸に三つ鱗紋有り】
【タイトル札四枚 右から】
【一枚目上段】《割書:新|板》
【一枚目中段】《割書:天女(てんによ)|龍女(りうによ)》娜二代鉢木(まひひめにたいはちのき)二
【一枚目下段 丸に三つ鱗紋有り】
【二枚目上段】《割書:新|板》
【二枚目中段】《割書:天女(てんによ)|龍女(りうによ)》娜二代鉢木(まひひめにたいはちのき)三
【二枚目下段 丸に三つ鱗紋有り】
【三枚目上段】《割書:新|板》
【三枚目中段】《割書:天女(てんによ)|龍女(りうによ)》娜二代鉢木(まひひめにたいはちのき)四
【三枚目下段 丸に三つ鱗紋有り】
【四枚目上段】《割書:新|板》
【四枚目中段】《割書:天女(てんによ)|龍女(りうによ)》娜二代鉢木(まひひめにたいはちのき)五
【四枚目下段 丸に三つ鱗紋有り】
【左頁 枠外左】安政三年開刊 全五冊
【左頁 枠外上 丸に三つ鱗紋有り】207-1739
【左頁 本文の重なって天狗と見える朱印、帝国図書館朱印、購買日付朱印有り】
【左頁 本文】
いで其時のはちの木はとは 謡曲(いようきよく)又は 両(りやう)竹の□
だんに見へてみる人の 知(し)る 処(ことろ)なりしかりといへ共□
渡(わた)りといふ 名所(めいしよ)についていさゝかおもしろき□
ありつれて 同郡(どうくん) 伊香保(いかほ)の 名湯(めいたう)は 婦(ふ)□
相湯(さうたう)なる事 神(しん)のごとしとて 諸国(しよこく)より女□
爰(こゝ)に 往来(わうらい)する事 女護嶋(によごのしま)ともいふべ□
ことさら此山上に 野(の)ばたの 富士山(ふじさん)といふ□
彼是(かれこれ)の 来由(らいゆ)をかいつまみ今やうにあやなし
語(ぎよ)【綺語〔ぎぎよ〕だとすると読み・意味通りますが?】のそらごとをまじゑて 児女(じじよ)のなぐ□
めで度春の月日 なす
【右頁 上文】
かうづけ【上野】の国ぐんま【群馬】こほりにその
むかし長の井しなのゝ介といふものゝ
ふ【武士】有そのつまあけぼの【曙】ゝかたゆさん
のかへるさにとね川のほとりにやす
らいしば〳〵【しばし?】てまくらにゆめ見
けるすいかん【水干】ゑぼし【烏帽子】きたる男
きたり手をひいて水中に
入と見てゆめさめたり其
こくげんとね川の水さか
まき【逆巻き】すさまし【凄まじ】かりけり
【右頁 下文】
これは〳〵とね川がてんやわや
とき
たは此
まへさる
が
また
のきれ
た時かくの
とをり
であつ
た
【左頁 上文】
それよりくわい人【懐妊】して
月日かさなり玉のやう
なる女子をうむなをばかとり
ひめとぞつけらる此ひめ三才の時
はゝはむなしくなる
【左頁 中段中央文】
みづからしばし
まとろむ内
こはい
ゆめをみた
わいの
【左頁 中段左文】
やれ〳〵おく様が
うなされあそばした
そうな御くすりでもあがり【絵を挟んで】ませぬか
【左頁 左端の女の下】
申〳〵〳〵
おく様
【三行目は上からの続き】
【右頁 右上文】
しかるに此ひめ年たち
うつくしき事たとへんかたなし
され共いか成事にやよな
〳〵くろかみさか立て
さう〳〵となる父しなのゝ
介もこれに
あぐみ給うそれ
ゆへ十七のあき迄
ゑんぐみ
なし
【右頁 右下文】
さて〳〵むすめかよな〳〵
のありさまがてんのいか
ぬ此しうちは此まへ
市むらがさでせん【市村がさ(座)でせん(先代)】
菊のぜうが【(瀬川)菊之丞が】女
なるかみときたは【女鳴神ときたは】
はていぶかしやなあ
【右頁 左端中】
又おこり
なされたかこれは〳〵
【左頁 上中】
同こくみどりごほり【緑郡】きべ【木部】村に木部しん
くらんど【新藏人】ゝいふもののふ文武にたつし
ことに大りき也しなのゝ介きゝ及び
むすめが事をあからさまに
はなしてむこにとる
【左頁 右下】
みふしやう【身不肖】なるやつかれ【僕】を人とおぼし
めしむこになされんとは
かたじけ
ないしか
らば御
そく女
を申うけ
ませふ
【左頁 左中】
これは〳〵われらみに
とつてまんぞくいわひに
わざとあかを
だしませう
【右頁 上段】
ころは北でう【北条】八代めさだ時【貞時】のかまくらをおさ
め給ふ御せんぞさいみやうじ【最明寺】時よりしよ
こくあんぎやまし〳〵かうづけの国【上野の国】
さのゝわたりにてゆきをしのがせ
給ふ御かんなんのゑぞうをもつ
てしよこくのさむらいにしきもくを
おゝせわたさるそのゝちさのゝわたりは
木部しんくらんど
りやうしければ
わけてそのへんの
たみの心をとは
らる
しんくらんど
ちく一に申上らる
【右頁 下段】
いかに
くらんど
そちが
りやう
ぶんさのゝわたりはさいみやう
じ殿のこせきなればその
あとのはちの木をまもる
ものをつけおきそまつにいた
すべからずおつてけんぶんに
たれぞつかわさん其ぶん心へ候へ
【左頁 下段】
かしこまりましたそのさの村と申
所はわたり七八丁長さ一里
ばかりの
村
で
ござり
ます
いさゝかぜつけい
のながれも
ござります
【左頁 上段】
此ゑぞうをはつち
ほうず【鉢坊主】 かと思ふた
御ゆる
されい〳〵
【右頁 上】
するが【駿河】国うど【有渡】のはま
みほの松ばらといふはたぐひまれなる
せつけい【絶景】也そのむかし天人こゝにあまくだり
し事羽衣のうたひにくわし又その
ころ天女此所へまいさがりむかしのあと
をしたいおもしろきあまりにはごろもを
松にかけおきこゝかしこほかうする
【右頁 下】
のふおとめ女
まことに此所は
みづからやそなた
の心をなぐさむ
にはよい所はや日も山のは
にかたむくてんじやう【=天上へ戻る】
しませふ
【左頁 おとめ女上】
此所のぎよふ【漁夫】よも作松にかゝれる
羽衣を見つけよろこびとりてかへる
やれ〳〵よい物がほして有
此羽衣をまぶな【本物の】
金もちに見
せたら
いつかど【一角=相当】 に
ならふしめた物だ
しかし此羽衣なく
ては天女も
てん
じやう
はならずにてん上
見る【昇天する?】であらう
【左頁 男右】
かあいのものや
とは市川はく
ゑん【白猿】が
【左頁 男左】
おさだ
まりかい
【右頁 上】
かゝる所のふじ山のかたより除複【徐福】
せん人【仙人】まいさがり此衣を
ふたゝび【再び】とりゑん事たや
すくはならず一たびげかい【下界】の
ましわりしててだてを
めぐらしとりかへすべし
がてんか〳〵と
おしへ給ふぞ
ありがたき
【右頁 下】
天女はとりひめさらばてん
じやうせんとはごろもを
【女絵挟んで続く】
たづぬるになしつれたるおとめも同じ
羽衣なくしては天にのぼる事かなはず
りうていこがれ【流涕焦がれ】ける
【左頁 右側】
木部新くらんど【蔵人】かまくら【鎌倉】のついでにきよ見がせき【清見ケ関】一けんせんとこゝにきたり
所のぎよふ【漁夫】にとうち【当地】のめいしよ【名所】をといはごろもをもとめて上しう【上州】へかへる
さて〳〵めづらしい物を
かいたる事かなわがいへ【我が家】
のたから【宝】にせん
それあの
ものに金
をあたへよ
さても〳〵あや
かりものだ
【左頁 下中央】
御ほうびとして金十両いたゞきこれがほん
のありがた山ぶきのせにかげの
かゝれるほど
ほしい
【右頁 上】
木部のつまかとりひ
めようがんひれい【容顔美麗】
なればおつと
の心にもかな
いむつ
まじくかりしがある時
けはい【化粧】するとてかゞみにうつるかほ【顔】を見て
おどろきしが心かう
なるくらんど【蔵人】なれ
ばそのぶんにしてうち
すぎぬ
【右頁 下】
みづからがじやしんといふ事はわが
つまにはごぞんじあるまいずい
ぶん松もとや【松本屋】のいわとかう【岩戸香】でよそ
ほひませふ
【左頁 右中】
新くらんどかいな【腕】にいたみあり
とて同国いかほ【伊香保】のゆに入給ふ
ゆぬし【湯主】金太夫此所の
めいしよ物がたり
する
【左頁 右下】
いかにこくれ【木暮?】
うぢ【氏】此
所には
よもの
たきすい【四方の滝水(酒屋四方の銘酒)】
はないか
【左頁 中央下】
イヤ〳〵此所によもの
あか【四方の赤=四方の滝水】はござりませぬしなのゝみりん
ゑちごのしほなをし
【左男の左上】
だいはか
り【大量り?】の御なぐ
さみめう日【明日】は
きあげどう
でてうちを
上ませふ
【左男の左下】
やす
めり
さると
ちとおしやみせんでもあそばしませふ
【右頁 右】
じよふく【徐福】仙人の御しめしにてそこともなしにはとりひめ
かうづけの国へまいりくらがの【倉加野】しゆく【宿】にとゞまりやどの
ていしゆ【亭主】と身のうへのそうだんする
こなさまは女まいのめい人【名人】とあれば
よい所がござる川む
かいの
きべ
どのへ
さづけましよ
さき様はわしが
よくくるめて
おきました
【右頁 中下】
こちらの女中はさの村【佐野村】
のよの兵衛のほしがる二人
ながらわしがのみこみ山【呑込山】
きづかいさしやんな
【右頁 左端】
とかくよろしうおたのみ申上やんす
【左頁 右下】
かうづけのくに【上野の国】ぐんまごほり【群馬郡】わだの庄
さの村はそのむかし此所に源左え門
つねよ【佐野源左衛門常世】すみて梅さくら松の
はちの木【鉢の木】をもちたる此や【家】
にさいみやうじ【最明寺】御とまり
ませしゆへかまくら【鎌倉】より
おゝせをかうむり今にその
あとのこれりていしゆ【亭主】よの兵へむさ
い【無妻】に
て
子も
なけれ
ば此ごろ
くらがの【倉加野】
よりめし
かゝへし女を
むすめに
してな【名】 をば
おさのと
いふ
【左頁 中央上】
なにもゑん
づくそちは
おれが子
にしてむす子
をとらふぞ
【左頁 中央下】
それは
うれしう
ござんす
【右頁 右上】
しうと【舅】しなのゝ介くらんど【蔵人】のかたへまねかれとう
りう【逗留】の内ねこや【根小屋?】の山にあがりさのゝ
わたりを見はらし酒もりせし
所にくらくらがの【倉加野】ゝきも入
まいこを
め見へ【目見得】に
つかわす
さいはいなりとて
羽とりひめに一かなで
まわする
【右頁 左上】
されば〳〵
あの身で
よしはら
たんぜんがみたい
ぢはわれらがまにあはせ
ましよこれ〳〵仁介そちは
やつこになれいやはやどうも〳〵
【右頁 右下】
てん【?】とあふぎ【扇?】の
てといひきりかへし
などそのまゝの
ろかう【路考】がふりと
きている
【左頁 上】
羽とりひめ
羽衣をとりかへさん
ためてだて【手立て】のほうこう【奉公】人に
やつし来るのぞみにまかせ
まふ【舞ふ】たりそのまひのさままことに
序(しよ)三帖 破(は)六 帖(しやう)あはせてくほん【九品】
のまい手にがつしやうのひじ【美事?】
ありけんぶつもんぼうのがく【見仏聞法の楽(らく)?】を
まいければくらんど【蔵人】もとより
まいにたんれんほとんどかんに
たへて【感に堪えて】そう〳〵羽とりひめを
めしかゝへる
【左頁 左男上】
あとでしのぶうりが
見たいどうも〳〵
【左頁 右下】
いよ〳〵〳〵扨【?】やは
ないかよいといひますぞだんながほめた
此女中われらもちつくりほめことば
【右頁 上】
羽とりひめ天人なれば
そのうつくしき事たと
ゆるに物なしくらんど【蔵人】
ちやうあい【寵愛】のあま
りひめ
が
心を
さつして物が
たりするほん
さいかとりひめ
もたゞ人なく
ざれば此ごろきたる
女は天人とさとり
いよ〳〵事をはからひ
ためし見るある時まこと
をあかし羽衣をかへし給は
れといふくらんど【蔵人】ひめを下かい【下界】
にとゞめ度思ひ羽衣はさる方
にしちに入たり千両の金なふて
はとりかへしがたしとそらこと【空言】をいふ
これより羽とりひめ金のくめん【工面】をぞ
心がけける
【右頁 下】
みづからおなさけをうけまして御う
れしうござれどながく此どには
とゞまりがたしどうぞ羽ごろもを
かへしてわたくしをてんじやう【天上】なさせ下さり
ませふ
そのうつ
くしい【美しい】そ
なたを
やつて
たまる
ものか
羽衣は
金千両
なければとりかへされぬまづじせつ【時節】を
まちやれさ
【左頁】
いつも羽とりひめがかんざし【簪】を
かざし天にむかつてものいへば雨ふり
五しきのくもうかむ事を見とゞけある
時かとりひめかのかんざしをもつてはとり
ひめがすることくせしに雨ふりくも
うかむさてはいよ〳〵天女
なる事をさとりしる
われも天人にひとしく
ひとたびてん上【天上】ののぞみある物を心ば【?】なんぞ
羽とりひめにおとらんやわらこゝちよいあまぐも
しやなあ
【右頁 上】
みやこ北しら川【北白川】にさいぢはれつぐといふふゑ【笛】
のめい人あり此人げんそう【(玄宗)】のやうりうてき【楊柳笛?】
のごとくおんりつ【音律】にたつしければはれつぐが
ふゑふけばかならづ柳のはおつる事きめう
なりはれつぐがふへ【笛】のしはん【師範】ばいり【?】うけん
其ほうしよ国【諸国】しゆ行【修行】してまいれ
とてつかはしける
【右頁 右下】
そなたもぶじでやがておかへりやれ
【右頁 左下】
しからばせん
せいふゑしゆ
行にあんぎや【行脚】仕ましよ
せつかく御けんしやうに御入
おさらば〳〵
【左頁 上】
ふじおかきぬやば左衛門
いつのころ
ゟさのを
思ひそめ
さま〴〵
くどくさの
はとり
ひめの金さいかくのため金十両
むしんいひかける
わしはちとつまらぬ
事があつて金がたんと
入やんすとうぶん十
両かしてくれな
【左頁 下】
きさま【?】の事なら
金はおろか命
でもあけまき【揚巻】
の介六【助六】と
きている
此□□に
おれとめう
ぎへ□よ
ばつ
しやい
【右頁 上】
かとりひめはとりひめ
にすこしもりんきせず【悋気せず】
なにとぞしてはとりが
つうりき【通力】を見ならひ
一度てんじやう【天上】せんと
思ふ
【右頁 中央】
ほんにふしぎなゑんでそなた
のおじゆつてこちの人の御きに入
わしもうれしいわいの
【右頁 右下】
おく様のありがたい御ことばにあづ
かりほんに御はもじ【御は文字=恥ずかし】うござり
ますわたくしがみやづかへさぞ
おはらがたちませふ
【右頁 下】
なんの〳〵
ちとあり
やすでも
ひきや
【左頁 右上】
上しう大ない【?】といふ
所より来るたばこや
ひな蔵といふいろ男
やまなにたばこのかり有て
さん〴〵たゝかるさのひな蔵に
ほれて金十両すまし
いたはる
【左頁 中央】
こいつはふとい【太い】あん
ほんたんめだどうぼ
ねをふみおるぞ
【左頁 右下】
これ〳〵吉どのなぜひな
蔵殿をたゝくのじや
【左頁 左下】
此あんほんたんと
いふ事は
上しうがはじ
まりそこで
こいつをあんほん
たんとふみのめす
のだ
【右頁 下】
たんな
ちと
御酒上り
ませ
かまくらよりさぎ坂藤内【?】左衛門といふ
さふらひつねよ【常世】がこせき見んため
上しうにくだりちゝぶ上しうのさかい
おな【?】しのちややにやすみそのほかたび人
あまたやすみめいしよ物がたりをして□きつい
でなればとさの村へ立よる
これ〳〵ちや屋のかゝさの村へはまたいくらほど有
これから四里といひます
そのむかしさのゝ源左衛門といふ人のこせきは
こゝらかきゝたい
あいそれはこれから四里ばかりひがしで
ござりますあすの事となされ
【左頁 下】
やれ〳〵今からはおゆげない
けさよりいのはたごやでくつたまゝおなかゞ
さみしいこゝらにぶつかけは
ないかよものあかはおり
ないか
【左頁 上】
よものあかゝ
あをかそんな
事はしるむさぬ
どうゆきはむかいにござる
【右頁 上】
さの村源左衛門がこせきをまもる
よの兵へむかしにかわりしんだいよ
ろしくくらす藤内左衛門
此所へ来りとうりうし
てさま〴〵ちそうに
なるさいみやう
し【最明寺】殿のしぶん【時分】
にははちの木
き□くべしあわのめしをまいら
せしがそれにひきかへなつの
事なればかやの木をたき
山川のちんぶつにて
もてなす
さて〳〵つねよが時とはち
がいきついちそうで
おじやる
【女中のお盆 右】
おかへなされ
ませ
【右頁 下】
とてもの事に
め□やすでしん
□うじやうしが
きゝたい
おれも
かみ
すきでも
うたおふ
【左頁 上】
こゝははたごやではないがだんなが
心ざしでたゞとめまするおまへは
何御しやうばいだへ
はとりひめも折ふし此所へ来るふえふき
はれつぐも
行く連れ
此家に
とまる
【左頁 中段】
これ〳〵女中
こゝが源左衛門□
やしきか
どうそ
こよい
とめて
下されはた
ごは百卅二文
だしませふ
【左頁 左下】
おれは
ふえを
ふき申そのだいにすみだ川をのまさつしやい
【右頁 右】
みな月のなかばあつさもいやましよるのねのこくばかりに
はれつぐ一間を出てふゑをふくにふしぎやさばかりのしよ
き【暑気】たちまちれいき【冷気】となり
雹ふりてには【庭】
におけるはち
の木につもる其うへ
天におんがくのこへ
きとおる
【右頁 左】
此おとにはとりひめさのひめめさまし心おもしろく
なりて両人まひをかなでゑてんらくけいしやうういの
きよくをあやなす藤内左衛門みな〳〵ふしぎのありさま
かなとめけ【?】れずも見る
【左頁 右】
あらおもしろのふゑのね【笛の音】やあれ〳〵天におんがく
がきこへますこれにつけてもはやく羽衣を
とりゑて天上がしたひ事じや
【左頁 左】
□□□いかぬあいつらは菊の丞がもちづきと
いふ身であぢを
ゆるのめす【?】いよ〳〵
よいといひます
とくとくと見とゞ
けてかまくらへちう
しん申そふ
【右頁 中心】
さのはひたすら
金くめん
せんと
かなた
こなた
あるきけるが
あるときとちうにて
五すい【五衰】三ねつ【三熱】の
くるしみにてのなか
にふしたりかゝる所へ
ば左衛門きかゝりすがり
しみ〴〵くどかんと
するにゑなかぬ
かほつして【?】
よりつけ【?】れず
かたぬきたる
ていを見ればわきのしたにはね三まいある
ば左衛門はら立まぎれに此はねをぬいてすてる
【右頁 男図右】
ふさ〳〵しい此はね
ひつこぬくべい
いま〳〵しい
【右頁 左下】
はねぬきしゆへ
さのてん人の
つうりき
うせけるとぞ
【左頁 上】
さの村にてはれつぐはとりが
まいを見てさてはたゞ人なら
ぬをさとり□□□□□□
くらんどのかたへ
入こみさま〴〵
くどくはとり□□
心ざしうれし
けれど羽衣
てに入ん事を
【図の下へ続く】
思ひ
へん
じも
せず
【左頁 下右】
御心ざしhはうれ
しけれど此
こひは思ひ
切給へ
【左頁 下左】
かづならぬ身の
やつかれしばしの
おなさけはどうで
ござります
御かほ□□あひま
せぬどうよくな【?】
御こくあかな【?】
【右頁 右から】
ひな蔵おさの中むつまじくかいらう【偕老】のかたらひ年月を
こしてふかくなりけふしも山なの八まんにて出あひ
たがいに
きせう【起請】とり
かあしたわむ
れける
わしももふ此ことく月ごろに□
ましたかならずみらいまでも
めうと【夫婦】じやぞへ
そなたより
ほかにかあいひもの
はないふたりかふした所が
ほんの水ももらさぬ中といふ物
じや
【左頁 右から】
その□かい出しに□□□□
ば左衛門金十両たゞとりにあひ
て一どもまくらかはさず
心ながにくときけるが
おさのがひな
蔵とのあん
ばいを見つけがうはら【業腹】
やき
もち
のね
と
きて
ふく
れかえる
これはけちいま
〳〵しい事
だ
どうりで今までおれをあんほんのおや玉に
しおつた二人ながらいむさしにふつちめよふ
【右頁】
さのゝ舟ばしといふはさの川をへだ
てし舟のおさかな山のいわをほり
ぬき大づなをとをしこれをさの
村のいわにつなきてつのわなを
とをしこづなを舟のる人其つな
をたぐれば舟うごきてむかふへ
ひとりわたる也是を舟ばし
といふ又此所にてい【はヵ】かの明夜【神ヵ】
かりうの■【宮ヵ】つねよがやしき
あとさま〳〵めい所有ちか松
がさくせしさいめうじの道
行のもんくにさのゝてたち
さかなにてといふ■■【古哥ヵ】の
あともあり事しけ
ければはぶくなり
【左頁 上】
うまい〳〵づばとまい
つたいわひにすこと
おごつてまんぐあん
じとでよふ
此ついでにひな
そう【雛蔵】めもしめよふ
あいつをしめるはかなつりて
たなごをひしやぐより
こゝろやすい
【左頁 下】
是より十八丁あなたに山もとの里といふは今の山名
の事也さのゝわたしより山さへ十八丁ありそのころひな藏
山名へきたりとうりうせりおさのまいに〳〵ひなそう
がもとへかよふば左衛門にくき■【予ヵ】に思ひ川のなかば
にやいばをうゑおきあるよいつものごとくさのがわた
る所をふねをくつがへしてくつすおさの川へはなり
つらぬかれむなしくなるぞあ
【右頁 上】
はれつぐくらんどのさむらいきね八に金をあたへはとりひめ
が事をきくきね八うれしさのあまり大せつの事をかたる
羽衣の事はこれより
八里東の山上の
はたのいけの
へんに松の
木あり
此下に
羽衣を
うづめおくと
かたる
まことや天人の羽衣を
もつ人はくわんげんのめうを
ゑるときくよい事をきゝ
ましたほうびに又金二両
はづみます此金で中三で
もかはつしやい
【右頁 下】
是はだん〳〵と
うまい事だ
まちつと何ぞ
おぼへたらまだ
金にならふもの
ざんねんや
〳〵
【左頁 上】
さの村与の平むすめがしがいをみて
なげくしかるにさのがしがいこしより
上は人にてこしより下はとり也
藤内左衛門
はとりひめ
さのが
まいの
ていかれ
これふしぎ
なる
事□□かなと
せんぎする
たわけめら
だまりおろ
【左頁 下】
これはおらが村の
大さわぎしたが
此おさの
がしかい
はよい見
せ物た
はい
〳〵
【右頁 左上】
これによって
はとりひめ
此所にいる事
かなわずま又は
はれつぐがことば
のはしに羽衣の
ありかをさとりくらんどゝ打つれ
出て行かとり両人のおち行
事きね八がわざ也とせめといければくるしさのあまりのばたのかたへといふ
【右頁 中央】
かとりひめいかゝ
の事にや此ほと
にはかにりんき
しつとの心つよく
はとり姫をおい出す
【右頁 右端中段】
やれ〳〵おそろしい
けんまくじや
【右頁 右端下】
のばたのいけへいかれました
御めん〳〵
【左頁 右上】
ひな蔵はとりひめの事きづ
かわしく□□所をば左衛門まち
うけ両人つかみあふ
【左頁 右下】
ちからはなけれどおのれにまけるものかあゝいた〳〵
かすやらうめ□□あすぞかくごひろげた
【左頁 左上】
かとり□の
此ごろの
ていでは
みづ
からを
ころそうと
なされ
ましよぞへ
【左頁 左中】
それじや
によつてつれて
立のく
のじや
【右頁 上】
しんくらんど羽衣ひめのばたへ
来りかとりをあざむかんと
両人小そでを柳のゑたにかけ
大小はき物など池のはたにさし
おきいかほのぬまへ身をなげし
ていに
もて
なす
かとりもうつ
くしけれどそなた
に
は
かへ
ぬ
なんとこれでは
二人いけへ身をなげ
たとみへよふがや
【右頁 下】
なる
ほど
これはよい思ひつきでござんす
【左頁 上坊主横】
あゝ
ゑい〳〵ゑ
【左頁 右中段】
かとりひめ
あとより
おつかけ
来りたび
人に物とふ
のふ申三十ばかり
の男と廿二三の女
はでななりして此
へんへはまいらぬか
おしへてたべ
その男はさむらいで
三升といふ身で
ござらう女は又
三いふがわりざかり
といふべたつた今かるまで見ました
【右頁 上】
かとりいかほのぬまへたづね来りあたりを見れば
木のゑだに両人の小そでかけ大小をそばに
すてすてはき物あるを見てさては両人ふう
ふのちぎりあさからず此いけへみを
なけし物□らんと思ひならく
のそこ迄もさまたげ
せんとたちまち大じや
となりいけへとび
入ければ
【右頁 左下】
天ち
しん
どう【天地振動】大かせ【大風】大あめ【大雨】
おひたゝしく【夥しく】すさ
まし【凄まじ】けりしこと共也
いとじさへ此所は雨
の大といやいかづち
のこんけんほか
にでだななし
【左頁 上右】
古哥にいわく
雨ぐものたつといふなや
上野にありといふなる
なるうみがだけ
といふ哥の心も此ぬま
の事なりとね川
のへんより此山まで
六里ありその山の上
に此いかほのぬま有
山がり【山狩】木こりおそれて
にけ行
【左頁 上左】
やれ〳〵おつ
かない
此しう
ちは
入あい
さくら【入相桜】の
□だん
めときたさてもすさまじいつらだもさ
【右頁上】
ひなぞうは
はとりひめのあとを
したい此のばたに来る
ば左衛門ちからつよければついに
ひなぞうをくゝしあげ松の木に
くりつけ切ころさんとする
なむさん
おれほを
ばあ左衛門に
しおつた
くもにも
入ちつ
へん
たんない
〳〵
【右頁下】
くちおしいおさのもうはいやおのれにころされたやがて
思ひしらせん
うぬめよくさのともつれておれを
あん
ほん
に
ひ
ろい
あんならぬ
つじ切に
たこなむ【?】
ねんぶつそ
〳〵
【左頁上】
かゝる
所にさのが一ねん
しらさぎと成
とひきたり
ひな
そうが
いましめをくい切
せなにのせはうち【羽打】
してとびさる
ば左衛門あんほんと
たゝずむ所へ水さわの山
あいよりおゝかみ来たり
ほへかゝりついにくひころされし
天運のほどぞこゝち
よし
【左頁下】
あゝいたい
ほんのいた
事たほねは
おのこしあゝ
くるしい
なむ
あみだ〳〵
【右頁上】
じよふく仙人【徐福仙人】にふじ
さんに天くたり
きんくは女をい
ざないとそつ
のないゐん
へつれ行
給ふ
はとりひめ
新てんとかとりひめの死
さまおそろしき事に思ひかたへに
しのぶ折からふゑのはれつぐ此所へ
来りき弥八がおしへにまかせかの所
をほりうがち羽衣をとりあくる所をはとり
ひめゑたりやとよろこび身にまといたちまち
天女のかたちをけんし【顕し】こくうにまい上る
【右頁下】
はれつぐ
ぶがくの一くはん【舞楽の一巻】
をさづかり悦ぶ
【左頁上】
ぜんざい〳〵われはこれとそつのくはん女きんくは女なり
あやまつて羽衣をうしなひ下かいのまじはりをせし所に
今はからずもはれつぐがためにはごろもをゑたり
そのあたひとしてなんぢがのぞむばんしうらくの一くはんを
あたへる
【左頁下】
まつた新てんとは十かいの
すまいあいれんのよしみ
などはおしけれど羽衣をゑてはへんしも下かいに【片時もカ】
おる事かたしなごり
おしやさらば〳〵と
とくどゑんまんの
たからをふらしくらんど
にあたへ五しき
の
くもまに
入給ふ
【右頁上】
さそ〳〵
おもしろい
ほうびをは
くはつと
とらせい
いよ〳〵
かきつの
しよさ事
おかがく
【右頁下】
かくてはれつぐふゑはもとよりの
めい人まい【舞】はきんくは【錦華】女より一くはんを
さづかりじよ三じやう
は六じやうてに
うつしやう
のひじけんぶつもんぼう【秘事見仏聞法】の
がくをたんれんしてかまくら
にまいり
さだ時の御まへに
めされ万事うまく
のぶぎよいを
そうして
ぎよかんに入
御ほうびをすこだま【しこたま】
いたゞきし事ひとへに
てん女の御かげなり
【左頁上】
此まいが
すんたらがし
屋へ入て
はん
つはの
みそづで
たきすい
なんとよい
思ひつきか
こちとはせいざ
よりとらやのあり
ころがよかんべい
【左頁下 此の部分はどの様に翻刻すべきでしょう?】
大坂天王寺にまい年二 月には おしやうはいのふぐ
ありそれは石のぶたい これはたく みのうへたとへ
ていはゞおとり子 やらひろ けつが上この
道成寺のしよ
さを見る
ことく
いよ〳〵
できます
し
【右頁上】
鳥居清満画
【図中央佐野の邸跡前に立札】
佐野源左衛門屋敷
中仙道から直川より壹里半にさの村源左衛門つね
世がやしきのあと今にありめくり六七けんも
あらんその中につねよがうぶすな八まんとて
石のほこらあり其うらに□もんじゆ
ゐんとあり 雪のたんをたつ候人は此所御通り
のせつ立よつて見たまへ
〳〵
【右頁下】
南無 つねよ大明神様
はちの木をたゞ今けい
こさい中でこざります
おもしろくかたります
やうにまもらせ給へ
〳〵
【左頁 左肩に図書館シール】
207 1739
【左頁上に図書館シール】
207 1739
【裏表紙】
国立国会図書館 娜二代鉢木 5巻 207-1739
【文字無し】
【右丁 文字無し】
【左丁】
《割書:地震|後世》俗語之種 《割書:初編|之二
【文字無し】
【右丁】
立春
天の恵地の恵のめくみかも
しつかふせやに春の来る盤
幸一昇画
【左丁】
徐く目出度年を超若水汲る音には
常盤なる松の聲を添鉢植なる梅か香
福壽草も共にうち揃ひたる此春を
迎はつ日の出青畳を照し御慶目出度
数〳〵の数の子なりと間似合に松竹梅
を熨斗包み屠蘓を寿盃に浪〳〵と
浪のり船の音もよき初鶯や初若菜
七草薺【なずな】うちはやし長閑【のどか】なる日もけふと
過あすと過行光陰に関をとじむる人の
【右丁】
なけれはいつしか桜桃の花柳も糸を
春風に彌生の節句も過行【すぎゆく】まゝに去年
の秋より待わひし御回向初日も近【「進」にも見えますが七行目に同じ字が出てきて「近」と読むほうが適していますので、ここでも「近」としました。】寄けれは
たかひに用意取紛れ軒を並へて家毎に
立連【たちつら】ねたるちやうちんには紅をもつて立春
と卍の紋を一様にし近をみれは形を分ち
遠きを見渡せは紅白の色をわかたすして
杏の林【「杏」は旅館などで婦人のこと、花柳界で情婦のことをいう。ここでは「婦人、女性」でいいのでは。「林」は比喩的に、物事の多く集まっているところの意。】しに入か如く暫く歩行【歩き行き】て横丁
路次を左りに見右に詠【ながめ】れは是もまた一
やうにして秋はまた跡と紅葉の錦を
【左丁】
かさるはかりなり町〳〵の寄附奉納の幡は
猩々緋【「猩猩緋」=「あざやかな深紅色。またその色に染めた舶来の毛織物。」】緋の羅脊板をもつてし五色の吹抜は絹木
綿を以てし棹のうへには金銀の玉または日月の形を
粧ひ夕陽赫〳〵【かくかく…日照りのさま。】たる時は綺羅星の如く玉を欺
幡吹流しは風に靡き空によこたはり幟に
風をしとむ声旅籠屋に旅人を止るこゑ
いつれをか聞わかたん 二天門【仁王門】より鋪石【しきいし】四丁
を歩行て御本堂なり左右に見世店
幾数十軒を並へ小間物善光寺みやけを商ひ
或は水くわし【水菓子】干菓子のたくひ御影
【右丁】
御開帳
盛んに
して
御山内
繁昌
の図
奥褰錦帳開寶龕拜尊容
【右丁】
絵図面流行うた亦御休處の床机に腰を
もたれて旅客を呼込むたをやめ【「手弱女」=か弱い女。やさしい女。】は年も二八の
そはよりも細きこしにやまゝゆ【山眉=山の稜線のような美しい眉】入たる紫【女をいう。】御納戸
縮緬【お納戸色(鼠色がかった藍色)の縮緬】の紐つけたるまへかけをしめて酒喰を
商ふ或はすし或るはてんふら蒸菓子等の
屋臺店はぶら灯ちんまた風りんの青色【音色と有るところでしょうがどう見ても「青」に見えます】と
共にすゝやかなる声して客の足を留めあらゆる
しる〳〵【(「動詞「知る」を重ねてできた語で「知る」という動作の反復、継続を表わす。)知りつつ。知りながら。】四丁有合【あり合わせ】の鋪石左右二行に軒を
並へ一山衆徒の門前には破風屋根付つけたる
臺ちやうちん一様に建並へ小御堂には施主有
【左丁】
しな〳〵掛ならへ燈明を輝す床見世の
裏通りには曲馬軽業芝居をはしめ思ひ〳〵
の見世物の小屋数二十有余建連ね表に掛
たる名代看板は浮世繪の上手を以て彩
色に筆を労し大入ひいきのふるちやう
ちんは火除の下に数多く提【さげ】見物は木戸
口をおし合い笛太鼓の音耳をつら抜【この字本来は手偏だが、原典はサンズイ或は言偏に見える。】
三味線の音色よく口上立はとうけ【「どうけ(道化)=人を笑わせるようなおどけた言語、動作。】をまし
えてやたらにしやへり見物の笑ふ声
あたりに響 居合抜はほんとしたる客の顔色を
【右丁】
見つめて黒痣を抜 鍮石【「ちゅうじゃく(ちゅうしゃく)とも。」真鍮(しんちゅう)の異称。】磨き 銀なかしあるひは
口中一切の薬歯磨き四文銭を噛碎て
利口ものゝ氣を奪ひ七色とうからしは
冷茶に口中を潤し声の嗄る【かれる】もいとはす
一味〳〵に功能をしやへくり熊のあふら
即妙膏吉井の火打は摺あはせて
火口にうつし賣ト者【ばいぼくしゃ】はまの卦にあた□【「り」】
を捕へててたらめをいひ三國一の甘酒山
川白酒のたくひなし簾の茶店は流行の
こけ茶深川鼠声花ならす野暮ならす
【左丁】
雪輪乱菊桜草しやれたる模様を一ト
幅に二つ三つ宛染抜て何れも新竒妙
案を工風【くふう】し鐘楼の傍松原のかなた
こなたに囲を構へ其振ふ事たとふるに
類なく拙き筆にはなか〳〵に千分の一にも
およばさるなり其外俄に寄附奉納の其
品〳〵近在近郷より劣らじものをと席
をあらそひ江戸京大坂千人講中あるひは
念佛御花講中奉納物善美を
盡すばかりなり處狭しと建並へ日も
【右丁】
西山に傾きて入相耳をつらぬけはあると
あらゆる数萬の品〳〵或は蝋燭或はかん
てらに光りをうつし夜店の賑わい殊更
に覗からくり冨小屋のあかりは素より参詣の
群集の人〳〵ちやうちんてらし炎ふは
空にうつり輝き白畫といへとも清明なら
すんは却て是を欺へし行かふ諸人
耳目を驚し西に走り東に歩行南
北だにもさだかならさる其賑ひたとふるに
ものなし
【左丁】
旧例として三月九日申の上刻御本坊
表御門より出輿ありて
御本堂まて前立尊像の御寶龕
御印文の御宝龕錦帳あたりを
輝し行列美し鋪して御ねり
あり警固の僧衆諸役人左右前
後を打守り相図の鐘を打なら
せは一山の衆徒山内の際まていで
迎ひ供奉 尊敬して御本堂に
遷し奉る 花供物 備物をはしめ
【左丁】
生花造華香蝋を奉捧餝付け【かざりつけ】の
次第善なり美なり翌十日には
御別当權僧正様中輿にて御ねりあり
是則 日光御門主様より御拝領にて
金銀の金物を輝し竒麗といふもまた
愚なり
爰に舌代【しただい=口上】していはくかゝる不思議なる
時節になからひ【血縁。親類】居てなとか【などか=何故か】子孫の歴
に書遺しなん事を欲すといへとも
前にも述るか如し生得【生まれつき】物に銀
【右丁】
して筆に愚なり口にありても
其由を遂る事不能筆をして
硯をかきまはす事の数刻に及ふといへ
とも習はぬ経の読は社さりとて浮世
におよひなは噺伝もさだかならしと
徐【「徐」は「おもむろに。遅い。」の意。「除」とあるところか】く思案一決して小児だましの
徳文句此處まては不埒たら〳〵
俗語しける所に一子【自分の子供のひとり】乾三 臂【ひ=ひじ。うで。】の元に
来りて御回向盛にして賑はしく
また初の十日御ねりあり其行列の
【右丁】
次第を
噺しに
せよと
いふさた
かならすも
そのあら
ましを
はな
し
せし
に
幼年
【左丁】
にして
其由を
不弁【わきまえず】
あまりに
うるさく
問ふ
ゆゑに
不得
止事
して
【右丁】
不詳と
いへとも
空覚【そらおぼえ=確かでない記憶】
の
あら
まし
を
もつて
是を
【左丁】
うつす
実に
諺に
噺を
繪に
書
なる
へし
しかるにまた
此双紙の
中に
【右丁】
綴入れよと
いふこれ□□【「もま」と思われる。】た
子孫におよひて
春の日の長く
秋の夜の深に
およひて砂糖
豆の喰尽し
祖父はゝあの
昔し噺の
【左丁】
数にも入へきや
はなしを
繪なるた
はむれ
書其繪爰【ここ】に
綴入たれは
あまりに厚き
顔の皮とおつしやる
かたも
あるへけれと
【右丁】
是皆子孫の愛情に
おほるゝところの
原皮【「腹皮」=腹部の皮。か】と覧人【覧(みる)ひと】
笑ひを
とめ
たまへ
【左丁】
幸一【人名=作者】爰にまた子孫に語る事ありわ□【「れ」か】
幼年のひより今此御開帳まて其数覚て
四度におよへりその度毎に町〳〵の
奉納寄附のしな〳〵ある事先例たりと
いへとも家毎に建連ね【つらね】たる高張ちやうちん
なりしも敢て一やうといふにもあらさりしを
近来取分て何品によらす憍慢におし移
花車風流を専要とする事言語に
絶たり今此大災を受財寶損亡多し
【右丁】
といへとも就中難得秘書書画の類
小道具古代の名器微塵灰となりて一朝
一夕に山をなす事可恪亦驚怖すへし
爰にまた市街年中行事神社
佛閣縁日祭禮賑ふ事の数多しと
いへとも就中六月十三四の両日先規の例
として市町を東西に分ち祇園會祭禮
狂言屋臺鉾とねりもの燈籠に至る迄焼け
損ふ事の多けれは我子様におきておや
此有様を見る事不可有また西町横町に
【左丁】
おきては其市神の祭り夜見世の市の
賑ふ事是もまたしかなれは猶隙も
ありなは後編まてに図画を出して子
孫慰に遺すへし如斯驕奢に長し
榮花歓楽の満足なる事幼君小児と
いへとも皆是を常とすおもふに六萬五千日
を積り御回向また前立本尊御開帳の
ありしもさそ繁華艶ことなるへし
有来りし茶屋旅籠屋更なり新に
地面を廣くし家作を補理【しつらえ=設備する。つくろう。「補理」は当て字。】軒を並て
【右丁】
利潤をあらそひ我人に劣らしと心魂を碎き
内職出店新案を懲す【こらす】事不少予【自称の代名詞。「余」に同じ。】も又
運拙くして家禄不如意なり人皆内職
工風を専らとす然るを奈何【なんぞ】空鋪【むなしく】光陰を
送るへきや御回向そとて遠来の客人
また物入も多し平日質素を守ると
いふとも斯たまさかの賑ひ家内のものも
参詣を心にまかせ料理屋の軒によりて
酒給茶漬をも驕りまたは芝居軽業
見世ものなとの心の見物させはやそれに
【左丁】
つき是につけては時花【じか=その時にもてはやされたもの。はやり。】の着もの何やかや
親の苦労も余所事にして艶なる事を
好とする事他を見てうらやみ願ふは禁め【とどめ】
あきといへとも皆是情愛におほるゝの所爲
不得止事幸ひ爰に思ひ付きの事の
ありしは善光寺は古今無雙の霊地に
して日にまし年にまして参詣の旅人
も群集すといへとも是社善光寺参詣の
みやけ【土産】といふ其品なし同花當餅に
同縁ある事を工風し菓子を製し
【右丁】
又御開帳の事なれは子供のもて遊ひに
小幟をこしらひ其料尤安くして遠国迠も
持易有増工風はありぬれとも場處も
程能形も望ある事なれはこれも又
容易依て我實家なる久保田社へ参詣を
遂しに素ゟ【より】血縁はまた格別ともに心を
配りて御本坊へ御内願のいたせしおとも
四門の尊号は是則 勅額の写しにして
尤重すへき事にして容易なりからし
さりとて他の願になくご容易も
【左丁】
あるへきなれとも御役人方の御存意も如何哉
就ては御本坊より御内々仰入られも下さる
へくや内実御許容の趣もあれはなり乍去【さりながら】
表向は地方の掛りなる中野姓へ願出差
出すへしとありけれは
乍恐以書付奉願上候
今般御回向に付御境内之内駒帰橋近邊
御拝借地仕出店商賣支度奉願上候格別之
御慈悲を以右願之通御聞済被成下置□【この「・」は不明】度
偏【ひとえに】奉願上候以上
【梅笑堂出店の図】
【右丁】
勅額之寫新製御免菓子之圖白フチ字共ニ紅亦ハ地
浅黄字白等也大キサ如圖厚サ五ト【分】包紙色紫以翁之句
月影や四門
四州に唯ひとつ
亦紅摺ニシテ
善光寺みやけとイウ
小札ヲ銀ノ帯ニハサミ
外ニ新製まさこ
【右丁 中央囲みの中】
東《割書:定額山|善光寺》 西《割書:不捨山|浄土寺》
南《割書:南命山|無量壽寺 》 北《割書:北空山|雲上寺》
大サ【「草」の意?】色共ニ如圖袋人【「入」とあるところ。】也但シ袋ノ模様人【「入」とあるところ。】者
小幟等残リ有ヲ以テ可知價百文ニ附四包也
【左丁】
弘化四未年三月 権堂村願人 庄五郎印
杉沢町親類差添 弥助印
中野治兵衛様
形の如く願書を差出し滞るかたもなく整けれ
共東都注文の品々間にあはつ爰に三月十五日
は例にして式日なり誠に亦御回向の事
なれは賑しき事見たるよりもなほたしか
なり因ては十四日の夜夫〳〵の品々取揃
十五日暁天を持て目出度店を開へしとて
其用意をそ【ぞ】したりける御境内廣しといへとも
【右丁】
處狭しと小屋掛並へあるとあらゆる品々持
出し賑ふ事限りなしといへとも爰に稀成
店錺り【かざり】ゆゑ評判もよく又繁昌し我
内の者も歓て此上仕入も間に合なは
御山内宿坊かた旅籠屋なとへも願を入れ
座敷に通りて旅人に進めなは是そもつ
たいなくも御當山 勅額の写にして
お國元への御土産なり是は御當山御開帳
につき遠國よりの御参詣御子孫方への御
土産なり手軽にして実に御参詣の印なり
【左丁】
と口演まても評義を極め笑ひに朝夕取紛れ
手足を痛く労しけり
爰に亦子孫にかたる予か常に閑居の一ト間
あり是をも造作お仕替て座鋪に補理【しつらえ(設え)】
ん事を思ひて地袋附の床の間と持佛安置の一ト間
を普請しおりしも弥生の廿四日は幸ひの
吉辰【きつしん=良い日。吉日。】なれはとて襖張付け腰張も急きし
まゝに徐に此日を遷坐も間にあいて古佛
壇より移し上拝禮をそしたりけりまた新
座鋪の祝にとて床の間に題 寄松祝
【右丁】
御染筆は綾小路宰相有長卿 拝見
しつゝも取紛れ夕飯さへもおそくなり暮六ツ
過し【すぎし】比おひに【ころおい=ころあい】に漸く膳に居並ぬ折しも家内を
はしめとし《割書:此時善左エ門三十四才妻イト二十九才娘ジユン十六才|悴乾三九才松代中町住人菓子職人長吉同長》
《割書:兵衛大工大吉荘五郎女房タマ此両人は|出店梅笑堂ニアリテ三度ノ喰事可知持出ノ運》とも〳〵に膳に居りて
箸を取ぬ此時予たわむれて言ける事また
参詣に行んとして不進すくみてまた行事を
とゝめ留守居もなくして氣を急出店梅
笑堂に至りて災難に出逢死をのかるゝ事
神佛の加護なるか凡人なれはまよふといへとも
【左丁】
亦ふしきなり予戯れていひけるは今の地震
をしりたるやと家内のものに問けれはありあふ
人〳〵顔見合しらさるよしを答けるゆゑ斯
常に稀なる地震のほどをしらぬとは
あきれ果てたる事なりというて皆〳〵笑ひ
になりぬ疑ふらくは是前表なるか
また諺にいふ虫のしらせたるにや去程に
夜喰をも給終りぬれは留守居をたのみて
打連立て参詣し賑はしきを見ばやとて
子供をはしめ打歓したくそこ〳〵取急
【右丁】
留守居のものも兎に角に漸く店五郎母
《割書:於ムメ乾三|トリアケバ也》菓子の職人ひとりを残し待んと
しては進得す何やら心にかゝりてはそこ〳〵
にして家をいてぬ実に凡人なれは此大災
ある事を可知や打連立て出店なる
梅笑堂にそ至りける
【文字無し】
【裏表紙にて文字無し】
【タイトル】
二日はなし
地震亭念魚
町々亭炎上
【タイトル左脇】
●将棋ずき
●吉原やけ
●太神宮神馬
【本文三段構成】
【第一段】
●此あいだのぢしんずきにしやうぎの
すきな人がふとゆきあいまして
〽トキニかく兵へさんさてこの間は
けしからぬ事でしかし御ぶぢて
おめでとうござります
〽イヤこれはばん吉さん御けがも
なくてしかしカク飛車(ひしや)〳〵と
しやうぎだをしはどうでごぜへ升
〽コレハ〳〵此そうどうの中で
すきな道(みち)とてしやうぎでしやれるトハ
ありがてへもしこれじやア会所(くわいしよ)も
おあいだゝねま事に王将(わうしやう)でごぜへ升
〽なるほど往生(わうじやう)のしやれかへおもしれへ△【△:右半分が中黒】
【第二段】
△【△:右半分が中黒】それはそふとこのあいださる
ものしりにきゝましたが
このくらいなさわぎは
桂馬(けい)禾車(きやう)いらいないと
ゆうことで厶り升
〽イヤそのかわりによのなかゞ
ゆりなほつて金銀(きんぎん)のゆう
づうがよくなります
ときに妙(めう)ななりでどこへいきなさる
〽ナニサさるおやしきへ歩(ぶ)に
やとわれてまいり升
〽ソレじやア金(きん)になり升しふ
●ときによしわらの
五丁町は大へんなさわぎだね
〽さようサあすこはつぶれた上に
やけだからいゝぶんはねへ
〽わしはあのばん五十けんにあすんで
いやしたがおそろしいしんどうサ
〽モシよしわらがしんどうなら
むかふのくらのふるつた
くらゐはアリヤアかむろて
ごぜへやせう
【第三段】
●トキニこんど
いせの太神宮(だいじんぐう)様の
しん馬(め)の毛(け)がのくら
ずなくなつたそふだが
此あいだゑどのぢしんに
太神宮(だいしんぐう)様がその馬(うま)に
のつてきてたいそふ
人をたすけた
そうだが
たすかつたものは
袂(たもと)にその神馬(じんめ)の毛(け)が
一本づゝあつたそふだ
〽おや〳〵そふかへわたしのおとつさんは
このぢうのぢしんでつぶされて
しんでおてらへほふむつて
しまつたがもしやそのとき
きてゐたきものゝたもとに
神馬(じんめ)の毛(け)がありやア
しないかときものゝ袂(たもと)を
たづねてみておや〳〵
あらそわれないものだ
毛(け)があつたよ
〽ドレみせなコリヤア
神馬(じんめ)の毛(け)じやアねへ
〽それじやアなんだへ
〽コレカこりやア鯰(なまづ)のひげだ
【中央】
江戸《割書:大地震|当座》見立三人生酔
【右上段】
●役者
■茶屋
▲金主
●店子
■地主
▲家主
●骨継
■蘭医
▲本道
【右中段】
●材木屋
■米屋
▲薪屋
●焼場方角
■貸本屋
▲にしき絵
●荒物屋
■せとものや
▲小間物や
●濁酒屋
■会席料理
▲うなきや
【右下段】
●わらんじ
■せつた
▲下駄
●四文や
■おてゞこ
▲豆蔵
●大福餅
■上菓子
▲まんぢう
●わらひ上戸
■なき上戸
▲はらたち上戸
【左上段】
●神道
■武家
▲寺院
●古着屋
■質店
▲置主
●女郎
■内証
▲芸者
【左中段】
●直し釘
■水屋
▲紙くづ買
●出入の者
■奉公人
▲旦那
●時計師
■唐物屋
▲縫箔屋
●飛脚
■多づかひ
▲諸芸人
【左下段】
●ぜけん
■引手茶や
▲かこや
●大工手間
■座形
▲かし夜里
●漉かへし
■奉書
▲西の内
此外東西あまた二
御座候へ共荒増と記
地災撮要 地震之部 三、四
地震撮要巻三地震之部
弘化四年三月廿四日
信州大地震御届及ひ諸記
弘化四年正月十七日
丹後国変地御届
其他諸国異変届類
地災撮要 地震之部 巻之三
地震撮要三 地震之部
大地震御書上下按
信州大地震記
長野県ヨリ借受シテ謄写ス
それ天の蘖はなを避へしといはすや地妖も亦し
からん然るに弘化四丁未年三月廿四日夜四ッころより
信州越後大地震して就中善光寺のあたり厳敷
堂塔末社寺院その外人家夥敷出火に焼亡し山
崩て洪水しおしにうたれ火にやかれ水に溺れ
人馬等の損亡挙て数ふへからず東ハ丹波島川中嶋
松代屋代戸倉坂木上田のあたり殊に強く街道巖
石等ゆり出し大地も裂て通路難し殊に当年善
光寺開帳ありて遠近の男女群集し旅籠屋泊り
心安からぬ程之人数なるに旅家一時に倒れ潰れ
忽火燃上り不残焼失怪我人夥敷其騒動絶言語さり
なから善光寺本堂別条なき故堂内通夜の者壱人の怪
我もなく越後上州も震動より出火大川出水水火の
責といふへし真田城下町之大地さけ家数百七十八
軒潰れ人数六十人程行衛不知飯山城下も大山崩
れ落たり尾州人善光寺参詣同夜泊り合せし者帰
国之者もありて咄區々也府下の死亡人廿六人と
かや古来未曽有の大変なり
四月三日御届
私御代官所当分御預所信濃国高井戸水内郡村
々之儀当月廿四日夜戌中刻比上州江かけ大地
震発翌廿五日卯之中刻漸相鎮候処地所割裂泥
水吹出し潰家人牛馬死失多く家内不残死絶候
者も有之怪我人ハ夥敷一村皆潰家ニ相成候村
も有之前代未聞之変事之趣追々届出候ニ付不取
敢手代共差出し申候且陣屋許中野村之儀者損
家等有之候迄ニ而陣屋も別条無御座候委細之
儀ハ追而可申上候得共先此段御届申上候以上
未三月 高木清左衛門
四月三日御届
私在所信州松代一昨廿四日亥刻より大地震に
て城内住居向櫓并囲塀等夥敷破損家中屋敷城
下町領分村々其外支配所潰家数多く死失人夥
敷殊に村方ニ出火も有之其上山中筋山抜崩犀
川江押埋水湛追々及充満勿論水一切無之北国往
還丹波島宿渡船場干上りニ相成此上右溢水押
出し方ニ寄如何様之変水も難計奉存候只今以
折々相震申候委細之儀ハ追而可申上候得共先此段御
届申上候
三月廿六日
真田信濃守
当月廿四日昼夜快晴暖気ニ而至極穏之日ニ御座
候処同夜四時比大地震ニ而信州中之条村私陣屋
構塀所々ゆり倒し其外陣屋之近辺農家手弱之
分と下家通りゆり倒し夥敷震動いたし暫相立
漸相止ミ候処夫より少々宛之間を置不絶震動
陣屋ヨリ北之方ニ当り雷鳴之如キ響有之夜明
迄之内ニ者凡八拾度余之地震翌朝少静ニ相成
候得共今以震動相止不申支配所水内郡村々之内
二者潰家怪我死人等も有之候由御座候得共未訴出
不申追々風聞之趣承り候処同国川中島辺ゟ善
光寺夫より南江当り山中と唱候一郷村辺重二地震と
相見川中島辺ハ民家一村不残又ハ過半ゆり倒し其
上出火二而不残焼失いたし候村々も有之一村三四
拾人位より二三百人程も即死怪我人有之善光寺
町々家並大体残らず揺倒し其上焼失大造之即
死怪我人有之すべて往還筋ハ此節善光寺供養
ニ付夥敷旅人泊り合せそれ故死人も多分御座候由山
中辺ハ手遠二寄右様子難分候得共犀川上手ニて山崩
有之川中留り切流水更ニ無之丹波島渡船場さし上り
歩行渡り致し候由ニ御座候越後表之儀者如何御座候
哉様子相分不申右者風聞迄之儀ニ而聢と難相分候
間早速手代差出支配所潰家其外見分吟味之上最寄
村々損亡をも相糺委細之儀を追而可申上候且御預り
陣屋附同国佐久郡村々之儀も前同時大地震致し候
得共善光寺辺よりハ里数も隔り候次第二相劣り候哉
陣屋并支配所其外最寄私領村々共纔宛之破損家
等有之候趣候得共為差儀者無御座怪我人死亡等無
御座候先不取敢此段御届申上候
三月廿五日
川上金吾助
私領分信濃国高井郡之内一昨廿四日亥刻比ゟ
地震強陣屋并家中居宅長屋向破損所数ヶ所村々
百性家潰其節地破数百ケ所砂泥吹出し領地不残押
入今以折々地震仕候領分領分おゐて人馬怪我無御
座候尤善光寺へ参詣又ハ出稼二相越候者共之内死失
人も有之哉ニ相聞候得共未取調不行届候委細之儀者
猶追々可申上候得共先者此段御届申上候
三月廿六日 堀 長門守
信州善光寺ゟ江戸青山善光寺江文通
急飛脚致啓上候廿四日夜四ッ時此表大地震宿内出火
一時二而 御霊屋向御殿向御宝蔵惣而震潰し何れ
も不残焼失仕候乍恐 御本堂山内経蔵ハ相残
り申候御寺内不残潰町家旅人とも死人数難斗家
来之内蓮等順道須田昌作并孫二人西川婦〃即死
私共方ハ子供并家来共即死私共者漸命助り申候
二
迄にて着之儘二御座候御殿向震潰し中より一時二火廻
り候間御什物御宝蔵ハ不及申諸書物帳面類持出し候
間も無之悉く焼失仕候乍恐
御霊屋御安置 御尊牌ハ辛して持出し無恙御守護
申上候間御安心可被下候今以鎮火不仕一同愁傷斗二御
座候未死亡人其外騒動之儀慥成儀者相分り不申候間
猶飛脚之者ゟ委細御聞可被下候早々以上
三月廿七日 蟻川茂太夫
山形又市
嶋 領助殿
吉田兵左衛門殿
伊賀守領分信濃国去廿四日亥之刻比より地震ニ而
更級郡之内稲荷村人家震潰右潰家より出火一村荒
増焼失仕人馬継立出来兼候小県郡之内共潰家并損
所人馬死失等も有之同廿六日至り候而も折々相震申候
と在所役人共ゟ申越候委細之儀ハ追而可申上候得共
右稲荷山村は宿場之儀ニ御座候間伊賀守大坂中二
付此段御届申上候
未四月朔日 松平伊賀守家来
大島邦之丞
私在所信州飯山去月廿四日亥刻より大地震にて城内住
居向櫓門并囲塀夥敷破損家中屋敷城下領分村々潰
家数多死失怪我人等夥敷右ニ付出火有之所々焼失仕今
以折々相震ひ申候趣在所役人共ゟ申越候委細之儀者
追而可申上候得共先此段御届申上候已上
四月二日 本田豊後守
私御代官所当分御預り所越後国頸城郡村上去月
廿四日夜四ッ時より地震強く度々震返し等有之川浦
村陣屋本陣長屋向柱くじけ壁等落損所夥敷同村
并最寄村々多分潰家等出来即死人怪我人等も有之由遠
方村々ハ未届出不申候得共同様之趣相聞候間委細之儀ハ
猶追而可申上候得共先此段御届申上候
未四月二日 小笠原信助
私在所越後国高田去月廿四日亥刻ゟ大地震二而
城内住居向門櫓塀破損家中屋敷城下領分村々
潰家破損所夥敷人馬怪我有之北陸道往還筋所
々欠崩等御座候旨在所二而申越候委細ハ追而可申上候
得共先此段御届申上候以上
四月三十日 榊原式部大輔
私在所信州松代去月廿四日亥刻より大地震之儀先達
而御届申上置候通御座候処其後今以相止兼昼夜何ケ度
と申儀無之折々相震同廿九日朝晦日夕両度ニ三度
強く震有之手遠之村方ハ相分り兼候得共城下町ニハ猶
又潰家等も有之近辺山上ゟ巌石夥敷崩落且兼而
申上置候犀川上手ニ而堰留候場之儀者更級郡之内
安庭村山手林村両村之辺ニ岩倉山と申高山半両端抜
崩壱ケ所ハ三十丁程壱ケ所ハ五町程之間川中江押入其
辺押埋候村方も有之候然ル処多巌石之儀ニ付迚も水勢
ニ而押切兼候様子河之次第ニ湛平水より凡七八丈にも
可及就夫数ケ村水中に相成其辺潮水之躰ニ御座候勿論
種々手当申付候得共大山殊ニ巌石押入候儀ニ付人力ニ
ハ何分届兼可申哉且又川中島郷中之者共ハ右湛水
何方へ一時二押出シ可申哉難計と恐怖仕山之手江立退罷
在丹波島宿等も同様之儀にて人馬継立等出来兼申候
猶種々手当申付置候得共先此段御届申上委細之儀者
追而可申上候
未四月五日 真田信濃守
榊原式部大輔御預所越後国頚城郡村々去月廿四
日夜大地震にて潰家死人等有之候段訴出候付其段
先御届申上置候処日々少々も震止不申候二付役所外面
者簀之仮小屋にて御用弁罷在候仕合二候処又々去月
廿九日昼頃大地震致し殊二潰家死人等有之并苗代水
冠ニ相成候段訴出并御廻米乱俵二相成候旨訴出候処廿
四日ゟ廿九日迄雨降不申候処晦日明方ゟ雨降其外ハ
折々大風吹上右村々雪相降候由相聞候委細之儀者追
而可申上候得共尚又右之段先御届申上候以上
榊原式部大輔家来
武藤門吾
信州千曲川通塩崎村国役御普請見分并仕立御用
中大地震及見分候趣荒増申上候書付
松平飛騨守殿知行信州更級郡千曲川通塩崎村国
役普請見分并仕立御用として同役高崎善八一同彼
地ニ罷在候趣去月廿四日夜四時頃聞伝にも無之大
地震ニ而塩崎村高弐千九百石余之村方にて惣家数
六百軒余有之候由にて御座候本家物置雑家潰家其外
等地頭役人より取調差出候処棟数二而四百軒歩通二而
六七歩通潰家怪我人凡六十人有之趣申聞候得共私
共彼地出立迄追々潰家之中より出火有之候死人多分
有之尤旅人之儀者死人数急速二難相分趣二候
私共旅宿も震潰漸助命ハ仕候得ども荷物外潰家
下ニ相成翌朝ニ至り掘出し候儀ニ御座候塩崎村之儀
者出火も弐三軒焼失而巳二御座候右地震之節は四方
遠近一時二出火焼立夜中何十ヶ度と無之山鳴震
ひ人声夥敷岩石崩石崩れ落候音絶間なく田畑
往還共巾弐三尺四五寸位まて竪横ニ割裂水吹出し
又ハ泥土等吹出し共二滅スがごとく被存候儀ニ御
座候右地割場所弐尺位ツゝ段違ひニ相成泥水吹出候
場所匂ひ甚以悪敷硫黄之気味有之尤水吹出し候
場所ハ匂ひ無之候三月十日より善光寺開帳にて諸国ゟ
参詣之旅人夥敷一軒之旅籠屋ニ千人二及び泊り居
候由二候処右群集の折柄大地震善光寺門前町荒増
震潰候上出火二相成死人何程と申数限り無之由
如来堂ニ篭候旅人凡三千人余も可有之無難に立退
候得共衣類其外旅金等何れも焼失遠国之者等別而
及難渋ニ候様子ニ御座候本堂山門而已相残其外町中
共一同無残焼失いたし候由死人之義中々以難相
分噂ニハ善光寺町計にて即死人凡弐万九百人余も可
有之由同所町並旅人等廿五日朝残り候者漸弐三百人
ならてハ無之趣噂二御座候其外逃去候者も有之候得共
何レ二も大変之儀ニ御座候塩崎村西之方隣宿上田領
稲荷山宿之儀ハ震潰候上出火にて不残焼失致し旅
人其外即死人夥敷趣ニ御座候得共是も人数いまだ不
相分噂ニハ即死人三千人程と申もの御座候其外潰
焼失致し候宿村々自然即死多有之哉之由二御座候
信州犀川之儀廿四日夜地震之節より流水留り廿六日
昼比より私共彼地出立之節一切流水無之丹波島宿辺ゟ
川上七八里行美濃路橋とて刎橋有之由右前後之辺山崩
致し犀川を塞候由にて何村何方より出水致し候哉
も難計同所川附ハ勿論低場之村々ハ追々逃去申候右ニ
付往還江ハ上田松代等より役人出張差留申候噂ニ者
犀川之湛水信州松本辺潮水の如く相成桔梗ケ原江水
押開き諏訪之潮水江入天龍川江流可致ととり〳〵噂仕
候得共多分山崩之場所十分ニ水湛候上押切一時二大出水
可致と被存候儀二御座候何れとも犀川之為に又々流水亡所
等夥敷義と奉存候私共地震二付廿六日昼後より彼地出立
途中地割候場所漸通行仕飛騨守殿用人も引続出立致
候処塩崎村山手之方より夥敷人声にて追々寄集り右用
人を取巻中にも親ニ別れ候者妻子ニ分れ候者も有之助ケ呉候
様申聞又ハ夫食与へ呉候様泣わめき候二付彼地詰合代官其
外手代共呼寄段々理解手当方等之次第等申聞漸引取様子
ニ御座候右之次第二付中々以急速御普請出来難行届差当旅
宿無之私共両日両夜とも野宿仕漸彼地引払候儀二御座候
尤地頭ゟ小屋掛手当致し遣人気居候様可申越候猶又私
共罷越普請取懸候積りを以中帰仕候儀ニ御座候此度之大
地震彼地ゟハ十里四方ト申候得共極強き所ハ南北五六里
竪ハ十二三里も御座候様子之由其余ハ格別之事も有間敷
と奉存候私共塩崎村出立千曲川を渡壱里にて松代領矢
代宿江罷越候処潰家数も少く三軒程も有之候趣即死人
も十二三人と申而已塩崎村辺より地割も細く軽き方ニ相
見へ夫より三里罷越川上金吾助御代官所坂木宿辺者
潰家死人等も無御座候得共壁建具等は震り損し昼夜
何十度ともなく震動致し候二付一同野宿致し居候
それより三里上田町江罷越候処また一段軽く尤昼夜野宿
居致し候候様子ニ御座候夫より二里半小諸町夫ゟ三里にて
追分宿ニ至りてハ山鳴候程之儀ハ無御座候地震後ハ只折
々少々ツゝ震り候迄にて夫より碓水峠を江戸之方江打越候
得者廿四日夜余程之地震有之而已其後ハ地震無之趣ニ御座
候右者御用中大変之儀及見分候様子荒増書面之通ニ御座候
委細之儀ハ追々二其場所ゟ取調申上候儀と奉存候以上
弘化四未年四月三日 御普請役見習
西村覚内
信州高井水内郡村々地震之儀二付再応御届処
去月晦日御届申上候私御代官所当分御預り所信濃国高
井水内郡村々之儀去月廿四日夜之大地震異変之始末
御届申上候以後震止不申今以震動ハ致し昼夜十四五度少
しの間宛震立尤間々者強き事も有之候間村々恐怖致し
跡の取所片付ハ勿論農業之心付も無之周章立騒罷在候間堵
仕候様私并手附手代共村々廻村精々利害申聞耕作手後レ
不罷成様為致候且去月廿七日真田信濃守家来ゟ掛合
越候ハ右地震にて北国往還丹波島村渡船場より凡二里
半程川上同人領分平林村地内字虚空蔵山凡二十町程之
処山抜崩レ当時川上平地江水開き居候得共湛溜切候と
自然と押埋切場所水力にて押崩し可申候其節如何様之
洪水二可相成哉気遣敷支配所千曲川縁村々心得置候様申
越候儀二有之右故当時千曲川平水ゟ七八尺減水いたし
居川筋切開候ハゝ如何可有之と村々心配致し山添高場江
立退居悲歎罷在候湛満を一時二押流切開候ハヽ又候
水災二異変又出来可申と殊之外人気不穏心配仕候地震之
儀は最早相止可申と奉存候依之此段御届申上候以上
四月四日 高木清左衛門
御勘定所
信濃国高井水内郡地震災害一村限相糺
村高四万千弐百八十六石壱升弐勺
家数六千八百七十弐軒 九十一ヶ村
人数弐万九千弐百十五人
一潰家弐千百十五軒
内十三軒焼失
十六軒土中埋
一半潰家七百八十二軒 一御高札場十二ヶ所
一潰郷蔵二十二ヶ所 一潰堂宮寺六十六ヶ所
一潰土蔵三百三十一ヶ所 一同物置九百十四ヶ所
一即死人五百七十八人 一怪我人千四百六十人
一即死馬百五十六疋 一即死牛弐疋
右者去月廿四日大地震にて私御代官所当分御預所信濃
国高井水内郡村々災害之始末不取敢御届置早速手附手
代共手配差出私儀も廻村仕村々災害之様子見分仕候処
誠二以絶言語候奇変之躰恐怖仕見るに不忍地面割裂
七八寸より五六寸余数十間程も筋立開き右割目より夥
敷黒赤色之泥水吹出し歩行も相成兼候場所多有之其上
所々に山崩土砂雪水押出し大石転ひ落田畑共悉く変地
致し多分之損地相見村々要水路ハ所々欠落及大破或ハ
床違に相成場所も有之水乗不申用水絶ニ相成場所
多有之谷川等之分大石土砂押出し震埋所々欠落及大
破水行を塞平面ニ溢出し泥水押流且潰家之儀何れも
家並平押ニ潰桁梁矧目臍木等其外建具類打砕家財
諸道具悉皆打毀銘々貯置候雑穀之類之俵物押崩散乱
致し吹出し候泥水を冠り中二ハ土砂二押埋候分も有之最
初見廻り候頃ハ村々とも小前ハ勿論村役人とも迄本心を取
失ひ更ニ跡片付之心得も無之銘々潰家前ニ家内一同雨
露之手当無之日々途方ニ暮忙然と致居私を見居狼狽頻
二落涙難止悶絶致し尋候答も更二出来兼打伏居小前老若
男女共泣叫ひ居右怪我人共夥敷倒苦痛罷在候様子難
尽申上不便至極嗟歎仕り何れ之村々も同様之次第にて
差当り夫食之備有之者共も潰家下ニ有之泥水を冠り容易に
取出候儀出来兼小前未々ニ至り夫食手当無之者共ハ猶更
呑水用水を用来候処泥水交ニ相成及飢餲候処自然ト村々
一般之奇難助合候方無之候間当日救方夫食手当相成丈ハ
致し遣候得共百ケ村余之義中々惣躰遠方にて私之自力
ニ届兼身元可也之者迚も潰家災難ニ逢候事にて奇特之
取斗筋も出来兼無拠郷蔵囲穀等を以手代共手配廻村為
相凌罷在候陣屋最寄り村々之分ハ中野村松川村寺院社地
境内江小屋掛致し極難之者共救遣し候義ニ有之且追々
村々二牛馬死失怪我等相糺候処書面之通にて右之外善光寺
参詣致し三月廿四日夜同所ニ止宿地震にて焼失候者と
も男女弐百人余有之多分之人絶ニ而相成災害村々之
分人別弐歩七厘之減ニ相成支配所五万八千三百石余之内
無難之村右高三分内ならてハ残り不申高七分余之災
害村々ニ而何共歎敷義ニ御座候差向村々用水路手入不仕候
而ハ呑水ニ差支且田方用水肝要之時節にて何れにも難
捨置取繕ひ不申候てハ苗方ハ勿論無難之田畑植付方ニ
も差支申所場広大破之義中々以自力及不申火災之難
とも違ひ家居田畑山林等迄覆候大災就中水内高井
両郡ハ大地震痛強捨置候而者皆潰亡所ニ相成候村々数多
之人命二拘り候末々御収納御国益を失ひ不容易義辺も御
救不被下候而者何とも可仕様無御座候以上
未四月 高木清左衛門
私在所信州松代先達而先御届申上候通大地震にて更
級郡山平村林村之内岩倉山抜崩犀川江押埋弐ケ所堰
留追々数十丈水溜候得共堰留候場所江水乗り未弐尺余
も有処俄ニ押破候と相見昨十二日夕七時比右山之方大ニ
鳴動致し引続瀬鳴音高く相聞候処一時二激水右川筋
江押出し忽左右之堤押切或ハ乗越防方も届兼候と川方
役人共より追々注進致し候処間も無之川中島数十ケ村
一円ニ水押入千曲川江流込逆流致し既ニ居城際迄水多
く押上暮時比より夜九ッ時迄千曲川平水ゟ弐丈計相増川
中島ハ勿論高井郡水内村々内川添村々水中ニ相成瀬筋
相立候様二相見候処も数ヶ所有之作物泥冠り勿論押埋候
ヶ所夥敷可有之難見極夜半過ニ及ひ漸水丈も相定候
様子ニ候処暁ニおよひ次第ニ引水ニ相成申候兼而村方之
者共水防手当申付置候得共俄二押出し未曾有迅速之大水
存之外之儀にて流家ハ勿論溺死も数多有之哉其上多少
之損耗も出来可申と心配罷在候委細之儀ハ追而取調可申上
候得共先此段御届申上候以上
四月十四日 真田信濃守
私在所信州飯山去月廿四日大地震にて先達而申上置候
処其後も相止兼昼夜度々相震候手遠之村々ハいまた
相分兼候得共城内并家中城下町損所左之通
一本丸渡櫓 一ケ所潰 一冠木門 壱ヶ所
一石垣崩 弐ヶ所 一囲塀 不残倒
一土蔵 壱棟潰 一土蔵 一棟半潰
一弐重櫓 壱ヶ所潰 一物置 壱ヶ所潰
一二丸門 壱ヶ所半潰 一囲塀 不残潰
一住居向 半潰 一帯曲輪武器蔵 壱ヶ所潰
一武器蔵 壱棟半潰 一番所 壱ヶ所潰
一物置 壱ヶ所損 一囲塀 西ノ方倒
東ノ方
三之丸
一門 壱ヶ所潰 一櫓 壱ヶ所潰
一土蔵 壱棟潰 一囲塀不残倒
西曲輪
一門壱ヶ所左右損 一住居向 半潰
一土蔵壱棟半潰 一稽古所壱ヶ所損
一囲塀壱ヶ所潰 一小屋壱ヶ所潰
一井戸上屋半潰
大手
一門壱ヶ所潰但二階門一同所左右囲塀 倒
一番所壱ヶ所損 一切通石垣崩
一土蔵二棟潰 一物置蔵弐棟潰
一囲塀西ノ方不残倒 一中門壱ヶ所潰但二階門
一板塀壱ヶ所倒
一裏門壱ヶ所潰但二階門一物置壱ヶ所潰
一番所壱ヶ所潰 一多門壱ヶ所潰
一同所囲塀倒 一門 壱ヶ所潰
外廻り
一稲荷本社拝殿共潰 一建家四ヶ所潰
一番所壱ヶ所潰 一家中侍居宅四十四軒潰
一家中侍居宅六軒焼失一同同断 損
同内
一同門十七ヶ所潰 弐ケ所焼 三ヶ所半潰八ヶ所損
一土蔵三棟焼二棟潰五棟半潰
一番所三ヶ所焼壱ヶ所潰同半潰同様
一舂屋壱ヶ所潰 一用会所壱ヶ所潰
一土蔵一棟潰一棟焼但囲籾五百石焼
一門壱ヶ所半潰 一長屋一棟潰
一物置二所潰 一厩一所半潰
一献上蔵壱棟半潰 一内馬場一棟半潰
一作事小屋壱ヶ所半潰 一中間部屋一棟焼
一船蔵壱棟半潰 一其外六十六ヶ所潰焼失有之
一侍分并家内小役之者下々迄即死八十六人
内四十人男四十六女
一城下町御高札場壱ヶ所焼失但御高札焼不申候
一番所壱ヶ所焼失同潰
一竈五百四十七軒焼失 一土蔵壱棟籾千石とも焼失
一同三百十二棟潰内壱棟山崩泥冠
一土蔵百七十壱棟焼失 一同五十棟潰
一牢屋一棟焼失 牢之者怪我無之
一土蔵上屋斗弐拾棟焼失一寺院堂六ヶ所焼失
一同三ヶ所半潰 一庫裏十一ヶ所焼失
一同七ヶ所潰半潰共 一諸堂十七ヶ所焼失
一馬八疋 非人壱人
一城下町人即死三百弐人 穢多男壱人女弐人
内百三十三人男
百六十五人女
右之通御座候猶領内之儀ハ取調之上追而可申上候得共先
此段御届申上候
四月十三日 本多豊後守
大地震二付難相救拝借之儀奉伺候書付
御代官所当分御預り所
一惣高五万八千三百六十弐石九斗九升四合五勺
内高壱万七千七十六石弐斗九升弐合 御預所
一村高四万千弐百八十六石六斗壱升弐合
潰家弐千九百七十七軒
内
七拾七軒身元可成之者共并無難之者助合ヵ有之分
除之
御代官所当分御預り所信州水内郡九十壱ヶ村
一潰家弐千九百軒
内
拾六軒土中埋相知不申分
一同弐千百六十三軒
一半潰家七百三十七軒
但半潰之分木品悉く折砕不用立潰家同様
外
一潰高札場 十二ケ所 一潰郷蔵 二十二ケ所
一潰堂宮寺潰六十六ケ所 一潰土蔵三百三十壱ケ所
一潰物置九百拾四ケ所
右者当三月廿四日夜大地震にて私御代官所当分御預
り所信濃国髙井郡水内郡村々
以下前文記載ノ高木
清左衛門届書同文二付中略就
中水内高井両郡とも大地震痛強捨置候而者皆潰亡所ニ
相成候村々多人命ニ拘り末々御収納御国益を失ひ不
容易儀迚も御救不被下置候而者何共可仕様無御座候且
右大地震にて北国往還丹波島村渡船場凡弐里半程
川上真田信濃守領分平林村地内虚空蔵山凡二十町
之所山崩犀川江押出し埋立川中ヲ〆切候間流水を堰
留水湛当時川上村々水開候得共湛溜切候ハヽ自然と押埋候〆切場所水力ニ而押崩し可申其節如何様之洪水ニ可相
成哉気遣敷支配所千曲川縁村々為心得申越候由信濃守
家来ゟ懸合有之右故当時千曲川平水より七八尺減水
致し居川筋村々致心配山添高場立退切開候ハヽ如何
可有之存数日之湛水を一時二押流し候ハゝ又候水災之
異変出来可申と殊之外人気不穏心配仕候儀ニ御座候前
書申上候災害難渋之次第篤と御賢察被下置相続方
并自普請所用水路大破ニ付金弐千五百両右之村々江
拝借被 仰付被下度左にて無之候ては迚も相続筋
ハ無之万一此上難渋二迫り心得違之人気立候様相成候而者
恐入深心配仕候義ニ御座候支配所村々之者共儀昨年来
同国他之支配ニ無之御国恩を崇め増米上納相願実心之民
共穴敷退転為致候段歎敷奉存候御仁恵之御沙汰ヲ以
永賦拝借被成下候様仕度奉存候然上者右拝借金高
村々に応し割賦借し渡年賦返納之儀者別紙を以追
而為相伺候様可仕候間早速伺之通拝借被 仰付御下ケ
金被成下候様仕度奉存候依之災害村々一村限帳面壱冊
相添此段奉伺候以上
弘化四未四月 高木清左衛門
私領分信州水内郡当月十三日亥刻過千曲川俄二
出水仕翌十四日六時頃定水ゟ一丈三尺相増川添
村々田畑水押入昼後ゟ追々落水二相成申候尤城内并
家中向江ハ水入不申候得共人馬怪我田畑損亡村方破
損等之儀者いまた相知不申委細之義ハ追而可申上
候得共大地震後猶又右様之出水故不取敢先此段
御届申上候
四月廿日 本多豊後守
千曲川大洪水二付御届申上候当月四日夜再御届申上
置候三月廿四日夜大地震にて犀川上真田信濃守領
分平林村地内字虚空蔵山山抜崩犀川江御師出し
川中を埋立流水を塞候付其節ゟ当月十三日まて
日数廿日之間川上村々江水開湛罷在候処兼而心得
方申渡置処高木清左衛門支配所信州高井郡立
ヶ花村渡船場守同日夜五ッ時注進申出候ハ千曲
川筋俄二出水水先ト相見候処暫時二相嵩驚入申候
右ハ犀川押埋候場所切破候儀二も可有之哉と申立候
付不取敢清左衛門手代夫々手配川通村々救手当水防
として差出候間も無之陣屋許近辺村々迄同水湛入家
居水下二相成中野村之儀ハ地高之場所二付別条無御
座候追々人牛馬とも逃参り候儀二有之且千曲川之儀
ハ同夜九ッ時頃迄凡弐丈八尺之水丈二相成川筋ハ惣
越内郷村々共田畑ハ勿論家居水冠夜中之儀水先̪碇と
難見定翌十四日暁六時凡壱丈余にて暫時間水嵩之
重畳二可有之昨夜中ゟ家居諸道具材木等夥敷流
込候木品并藁屋根上二取付縋居候人民とも流れ参候者
夥敷有之候付死失怪我人等多可有之前代未聞之大洪
水然処同日朝五ッ時頃川表引口二相見内水も少々
可引落様子二有之此上増減之儀如何可有之哉水災之
趣最寄村々も追々届出候付支配川附并内郷村々とも惣体
にして多分之義可有御座候委細之義ハ追而可申上清左衛門
義此節水内郡赤沼村辺災害村々廻村中之処川筋ハ
勿論往還共水下二相成通路難相成留主中之儀二付
先不取敢此段留主之者御届申上候以上
高木清左衛門手代
小林甚左衛門
伊賀守領分信濃国去月廿四日夜地震之儀先達而先
御届申上置候儀二御座候処其節犀川上手にて大大山抜
崩川筋押埋候二付追々数十丈之水湛居候処去十三
日夕七ッ時頃一時二押破川中嶋一円二水押入更科郡
之内今里村中氷鉋村ハ田畑并民家押流或ハ泥水民家
江押入候得共囲籾用立申間敷其外村々人家押流し
候程二無御座候得共田畑一円二水冠申候翌十四日暁二至
り追々水引二相成候得共俄之大水故人馬溺死も可有之
其上多分亡所損地等も出来可申と在所役人共より申
越候委細之儀ハ追而可申上候得共先此段御届申上候
四月廿三日 松平伊賀守家来
片岡朔之助
私在所信州松代此程先御届申上候通大地震にて更級
郡山手村之内岩倉山抜崩犀川江押埋堰留候場所去
十三日夕一時ニ押切右川筋江押出し里方江ハ水口ゟ
左右之土堤押切乗越夫ゟ川中島一円二水押来城下
より一里程上同郡横田村辺より千曲川下続江一面ニ押
入候水勢甚強下筋ゟも追々湛来更二益水ニ相成専
致逆流居城際迄押入城外地陸よりも水高ニ相成候処
去ル文政年中御聞二達申上築候所水除土堤にて相凌
尤所々及大破候付種々手当急難相防候内減水致し候
故城内江ハ水入不申候得共城下町江ハ余程水入申候
右様之次第ニ付流末川辺村々も御領所中野村辺迄
致充満湖水之如ク相見候処追々及減水早速見分差
出候得共大小之橋々多分流失其上水引候而も地窪候処
水溜居或ハ道或者押掘等にて通路難相成場所有之
凡之見積も出来兼候得共犀川湛場破方之儀者段々水
嵩相増深サ弐丈余にも及ひ少々ツゝ水乗候ニ随ひ岩倉山
麓方追々欠崩麓之方ゟ多分欠込数十日湛水川中島江押
出候儀ニ御座候右為防此度水内郡小市村渡船場下続
左右之堤之石俵等ヲ以俄ニ急難除為築上申候然処右者川
中島其外川辺御料私領村々之為ニ付領内之人夫ハ勿論
近領水冠ニ可相成村々より多人数差出精々致普請候儀
ニ御座候得共広太之水勢にて暫時も不保不残押流し
申候且又水内郡小市村之字真神山先達而抜崩高サ弐拾間
程横十間程之所犀川江八十間程押出し残川幅僅ニ相
成其侭差置候而者聊之水ニ而も川筋致変地候儀ニ付精々
掘立申付候得とも巌石等多行届兼候処此度之洪水にて
忽ニ押流し数百人にて難動程之大石ヲ川下或ハ川辺村
々耕地等江押出し其辺之水丈六丈余ニも及ひ候ニ付
川辺村々之内更級郡四ツ谷村之儀者暫時八拾軒余之所
内六七軒相残悉く流失致し一円之河原ニ相成右ニ付
家居不残押流候村方も有之其上山中筋水付之山多
分欠崩候付大木等流出是が為に押倒され致流失不
少流凡六百軒余其外石砂泥水入数多有之流死人も有之
趣相聞候得共いまた相分不申候且川下村々之内ニハ地窪之
耕地ハ今以壱丈程も水溜居候次第にて損地等之儀ハ中
々凡之見極も不行届北国往還丹波嶋宿辺ゟ千曲
川犀川落合之辺ハ一円乱瀬二相成丹波嶋宿并北国
脇往還川田宿福島宿之三宿前条之次第ニ而人馬継立出来
兼候且又川辺之村々米穀之儀者山手村々江相退移候様
兼而申付置候得共其外近辺近辺村々仮令水押来候とも流失
者致間敷と心得棚相拵候而上置候穀物家居一同流失致
し候も不少右ニ付村々為救方所々江役人差出食物炊出
し并小屋掛等手当等申付候殊ニ川中島村々江犀川より
引取候用水之堰三筋外ニ壱ケ所之水門跡形も無之押埋
候付呑水一切無之救方喰物炊出し候儀も場所二より
三拾町程之遠方より水運ひ候儀ニ御座候畢竟前条之堤普
請之儀も右様之儀無之様二仕度急難之防ニ付地震に
て家居震潰候村々之者迄申渡を不相待日々出精築
立候其甲斐も無之一時ニ破損致候付家居流失水冠り等二
相成候者共ハ猶更之儀にて一統途方ニ暮罷在候日用之
呑水ハ勿論眼前之苗代水引方堰普請も早速行届申間
敷必至之差支人心不穏甚不案心奉存候専手当方申付候
得共城内始メ家中屋敷破損并城下領分村々潰家死失
人夥敷田畑道路地裂床違ひ相成又ハ山抜覆等之大
変災に打続此度之大水之患且今以鳴動震止不申何
共気遣敷次第甚以心痛仕候委細之儀者追々調可申上候
得共猶此段先御届申上候
四月廿三日 真田信濃守
一左之通被仰渡 御勘定 直井倉之助
金弐枚 同 松村忠四郎
時服弐ツッ
越後国信濃国村々地震二付堤川際其外とも
破損之場所見分仕立為御用罷越候二付被下之
右伊賀守申渡之候
四月廿三日
本多豊後守
領分地震ニ付居城住居向其外共及大破家中
在町共悉破損ニ付拝借之儀被相願候趣達
御聴可為難儀と被 思召候依之金三千両拝借
被 仰付
右山城守申渡之
名代植村駿河守
領分地震二付城内住居向其外及大破家中在
町共悉く破損其上領内変地出水等二付拝借
之義被相願候趣達 御聴可為難儀と被
思召依之金壱万両拝借被 仰付
四月廿八日
堀長門守
名代伊丹三郎右衛門
領分地震二付陣屋住居向其外共及大破并領
内亡所損所等不少候付拝借之儀被相願候趣達
御聴 可為難儀と被 思召候依之金子五百両拝借
被 仰付之
四月廿八日
右山城守申渡之
三月廿四日夜丹波川上八九里程二而山崩致し丹波
川筋流水一切途切乾居候此川上水湛凡八九丈之
高水四月朔日二ハ又々大地震有之所々山々崩此時溢
高十一丈余二相成近辺昼夜高山之住居致し川下筋
善光寺往還筋皆々その在々高山二為登昼夜野臥致
し居候処四月十一日十二日頃より丹波川筋へ水少々ツ丶流
れ出し候故領主支配方江相届川上切所も有之哉と夫々
指図被下置御役人村役銘々人夫召連其支配所水流道
造候処十三日申刻川上切一時二流増来り人夫諸役人
弐丈三丈之高山へ登り候処流水高サ凡四五丈二相成一時
二押来り右高山二住居致し居候村々男女并役二役々出勤之
役人其外歩役二至ル迄不残一時二流れ死人夥敷候追々
取調可申上候以上
四月廿五日 川上金吾助
先達而御届申上置候私在所信州松本去ル三月廿四日
夜四ツ時頃より地震強翌廿五日為差儀も無之追々間
遠二者相成候得共今以相止不折々震にて破損左之通
一城内要害之外所々屋根損瓦并壁落
一侍屋敷并土蔵所々壁潰
一城下町潰土蔵弐ヶ所
但酒造蔵共
一城下半潰土蔵弐ヶ所
一同潰物置弐ヶ所
一田畑高五百七拾九石余之場所荒地
一地割此間数六千四百四十五間巾四五寸ゟ二間迄
一道損百三拾七ヶ所 此間数三万弐百三十三間
一山崩大小千四百七拾七ヶ所
一同断二而沢水突留湛四十壱ヶ所
一橋落大小四十九ヶ所
一倒木大小弐万八千四百八本
一用水路欠落七十三ヶ所 此間数九百間
一犀川突留家居水入廿八軒
一在方潰家三百九十六軒
一同半潰家七百六十一ヶ所
一同潰社三ヶ所
一同社半潰壱ヶ所
一同半潰拝殿四ヶ所
一同潰寺院三ヶ所
一同半潰寺院弐ヶ所
一同潰堂八ヶ所
一同半潰堂弐ヶ所
一同半潰土蔵九十七ヶ所
但酒造蔵共
一同潰物置七十四ヶ所
一同潰郷蔵壱ヶ所
一同潰御高札場弐ヶ所
但御高札別条無御座候
一同潰番所弐ヶ所
一死人男女六拾七人
一怪我人五人
一斃馬三拾四疋
右之通り御座候損毛高之儀者追而可申上候此段御届
申上候
五月七日 松平丹守丹波守
上野執当
真覚院
当年ハ季候ふ不足其上越後国信濃国地震二付此上
安全御祈祷御執行之儀被 仰入候依之為御祈祷
料白銀百枚被遣候
日光御門跡江可被申上候
右山城守申渡之
四月十九日
此廿四日尾州も震動ありといへとも通例の事なり
四月十日大風あり暁七ッ時より朝巳刻頃まてのことなり
所々破損少ならす御れとミつからなせるわさわ
ひならねハ
世にすめハ天のさかにもあふ風の
手すさみいとゝ草屋にそみる
興をしも山浅海深からぬ 御名国に生れあひ
たれはにそあれとありかたし
信濃国大地震記
信州十郡 佐久 伊那 高井 埴科 小県
水内 筑摩 更科 諏訪 安曇
そも天地不時の変動なり陰陽の戦なり天に有
てハ雷雨となり地に蟄してハ地震を明す神仏の
應護にもこれをよく禦くことかたくこゝに弘化四
未季三月廿四日夜亥の刻より信州水内郡の辺より
忽然と大地震して山崩し水をふき家倒れ火
出て焔火紅蓮のことく人馬の損失夥し他所遠国
の縁者ハ安否を尋ね死亡を見て嘆き憐むこと普通なら
すされは今地名を悉く挙け遠近に達し且は後代
の伝語になして人の後覚にもならんかと筆に
誌すこととハ天災を免れし冥加悉くよろこひにこそ
抑此地震先の善光寺の御寺のほとりことに甚しそれ
地しんといふより夥敷震動し大山を崩し深河を埋
め土中より火焔のこときもの吹出し御殿宝蔵寺中町
屋ハいふに及はす倒れ潰れあるひハ地にめりこみあ
るひハ大磐石にうたれ僧俗男女老少の死上ヶかぞふ
べからず地火一時に八方へちり住居のこらす焼亡し
廿七日までの辛苦筆紙に尽しかたし是より北のかた
大峯黒姫山戸隠山上松北郷しんかうじ福岡上野
西条吉村田子平手宝飯まち北平落影小高大高
柏原塩尻百川せき川の御関所辺より越後高田御城下
辺二十四日よりゆりはじめ廿九日午の刻ころ別して
強く震り土蔵寺社人家を倒し大山崩して田はた
埋川あふれ大水にて押流し死人怪我人夥し就
中長沢村と申小村にて死失の者六七十人あり皆
土に埋り手足のミ見へりこれハ同寺より東の方ハこんとう
岩間の御所中の御所あらき此辺より百余村殊にき
びしく姥捨山の今更に親も子を捨子ハ親を尋ね
なから大地に落入火焔に眼くらみ地は裂て泥を吹
出し山ハ崩て川を埋平地となり逃迷ふ人々夜
中の黒煙に方角を失ひ谷に落川に溺れ木石に打れ
水火に悩ミ牛馬の損しも夥し右木嶋大塚馬嶋
こしまた水沢西尾寺田中辺ゟクニナシ郡に至り
松代の御城下辺厳敷く度々震動し廿九日の朝より
晦日の夕かた迄強く震ひ山々巌石を崩し安庭村
山平村の間岩倉山といふ高山半面両端崩し一方ハ
四拾丁一方ハ九十町ほと犀川の上へ押入其辺りの
村々埋り洪水溢れ七八丈も高く数ヶ村湖水のことく
漲り平村かけ村赤柴関屋西条関屋川上下と倉中
條横尾今井鼠宿上下の塩尻村辺強くチイサカタ郡
秋和生塚上田御城下西の方ハ新町かみこ嶋下小嶋此
辺山鳴地中之雷のことく此あたりの者共生たるこ
ゝちなく前田手塚山田別所米沢沓掛なら本一の
沢等凡百四十三ヶ村程善光寺より南の方北原藤枝雨
の宮小嶋社向八幡志川山田新山此辺山つつき筑摩
郡二至りほう福寺七ならし花ぬた洞村岡田村松
岡ありかねくみより松本様御城下近辺百弐ヶ村震
強く家居多く倒ス庄内田貫橋むくま新町あら
井田下新上新下三溝より飛驒越中境松本より西
の方アズミ郡宮淵右飼小梅渡シ中曽根ふミ入寺
熊くら成金町織りやから町轟村下上堀金村小田
井中塚上下鳥羽住吉長尾柏原七日市まて此辺狐
嶋池田町堀之内曽根原宮本草尾船場村度々震かへ
し強く更科郡の内小嶋橋本大原和田下市場軽井沢
吉原竹房今泉水あんばこ小松原く同寺中野うろ
町人家損亡多く善光寺より北の方水内郡小伏上し
ろ浅野大倉かに沢今井花沢三ツ股塚村義右衛門駒立
戸塚小泉とがり大つぼ曽根土橋北条小坂井わらひ野
源沢昼夜山鳴り震動中にも飯山御城下きびしく大
水押出し人馬多死す善光寺より東の方髙井郡の
分中島こう巣か米野さかい井沢八幡矢部高なし辺
佐久郡ハ小諸御城下西ハたきハら市町市町奈良村四ッ谷
間瀬追分かり宿沓掛赤沢軽井沢井沢峠町矢崎山朝
熊山上砂口まて諏訪郡ハ高嶋の御せうより大和高木
此辺少しく此内八重原大日向細谷川平林布引此辺少
し強善光寺辺ハ廿五日朝少し静り松代越後路ハ
廿五六廿九日晦日別して強く昼夜震御代官様御地
頭より格別の御手配にて水火を防き御憐愍にて
米銭御手当ありかたき事申も中々愚なり
夫大地震を聞伝ふ所往古ハ不可知中古文禄四年豊臣秀
吉公の時代伏見大地震京大仏殿を倒す慶長
十八年冬京都大地震寛永十年小田原大地震箱根山
崩る寛文二年京大地震寛政四年江戸大地震七日七夜
文政十一年霜月越後国大地震天保元年京都大地震
天保元年京都大地震凡百日程旅人皆自国へ帰る如
此ためしありともいへとも今信州の地震ハ希代の珍事
なり人馬の死亡挙げてかそへかたし理数凡三十里四方
程に及ふ干時善光寺如来御開帳にて諸国より参
詣の者数万人この大変にあひ身体茲に迫り本堂
にかけ入御仏にすかり一心祈念の者七百八十人怪我なく本
堂山門経堂泰然として別状なし仰くへし尊ふへしそ
も人皇三十代欽明天皇十三年三国伝来閻浮檀金の尊像にて
百済国より日本に渡り時の大臣守屋物部氏異端の教神
明の御心に憚りて難波の池に捨させ畢其後信濃国の住
人本田善光池の辺りを通り行に池の中より金色の光りを
放ち自然と御声有て善光くと呼給ふ驚て池の中を
探索るに如来の尊像を得て負ひ奉り故郷信濃伊奈郡
ざこうじ村に至り臼の上に安置す然るに霊教に依て
水内郡今の地に移し給ふ御堂ハ三十六代皇極の女帝
勅願なり慶長二年七月十八日太閤秀吉公の命に依
て如来を京都大仏殿に移されしに仏意に応さす
れはしばしば御崇めて還住の御告あるに任せ同年八
月信濃国に帰らせ給ふ是普く人の知る所にて日本三
如来の第一なりされハは此度もかゝる異変の折からも御
堂恙なく籠れる衆生の命全く存在せし事末世の
いまに於て猶利験いちりしくいよいよ信心偈仰
し奉るへきことにこそ
年代記條出シ如左
白鳳十三甲申年十月十四日大地震
天平六甲戌四月 大地震
同 十七乙酉年 諸国大地震
天長四丁未年 同
仁寿元辛未八月天鳴地震山崩
齊衡二乙居亥年同大仏首落
元慶二戌戊年関東 地震
仁和元乙己然 同星落如雨
承平四甲午五月 大地震
同 七丁酉四月十七日同
天慶元戌戊年夏大雪地震経日不止
治安二壬戌年 同
長久二辛己然 大地震
長承二癸丑 同
建保元甲戌年 同京焼
延応元己亥年鎌倉大雷大風雨大地震
正嘉元丁己年 鎌倉大地震山崩
永仁元癸己年鎌倉大地震
延文五癸子年 諸国大地震正平十五年也
文正元酉戌十二月大地震
宝徳元己巳年 大地震度々
慶長十八年癸丑八年冬地震
天正十三乙酉十一月同
寛永四丁卯正月東国大地震 秋八月洪水
寛永二乙丑二月奥州山鳴動
寛文五乙巳年大阪雷地震
同十癸酉年 小田原大地震五條橋落
天和三癸亥年日光大地震
寛文二壬寅年 大地震
天明二壬寅七月江戸同洪水
元禄十六癸未十二月廿二日関東同廿九日大火
文政十二丁丑年京同及百日 天保ト改元
追加
明和三戌年二月廿六日津軽出羽守殿領分地震二付
破損所等左之通御老中方へ被申達候由
一城内櫓破損五ヶ所内七ヶ所破損堀柵所々倒
一城内住居所々破損
一潰堂二十七ヶ所寺三十三ヶ所
一侍屋敷町在共潰家六千九百四十軒
一潰土蔵并焼失土蔵共二百六十七
一侍屋敷町在共焼失家弐百五十二軒
一潰死 千二十七人
一焼死 三百八人
一怪我人百五十二人
一斃馬 四百四十七疋
右之外水門土手川除水除破損所多有之候
二月十日
右之通之由二御座候
名古屋話談
大阪心斎橋の辺に河内屋某といふ書林有り此者三人連
にて江戸へ商なから信州善光寺へ参詣せんとて三月
廿四日稲荷山といふ宿にいたり旅宿せし処夜四ッ頃
既に一睡とおほふ程に大に音してすさましく地
震する故こハとて起出んとし同勢の者を呼ふに壱人
ハ返詞したり扨たてさま横様さぐる手にあたるを
よく〳〵思へは家ハ既に倒れたるなり周章やう〳〵
匍出壁の崩れたる所をその土を腹の下へかきやり〳〵
外面に出たりこれハ大なる音に驚き家の倒れたるは覚
みる也此人は二階に在りしよし先にはひ出たるは河内屋
にて跡より続て壱人の連もはひ出たるに今壱人の者出て
ぬ故破れたる穴よりまたさくりたるに人は求得す手当
る所の荷物を取出したる向の処より壱人の男襦袢一枚
にて出来たり誰そと声を掛れは三州の人なり是ハ九人
の同勢の処私壱人のかれ出たるよしを云さらハ諸共に
此所を立のかんとそれより打つれて三人となり其夜
ハ近辺の山とやらんまで明せしとなり猶暁になるを
待て其処を立出名古屋を通り日ふち玉屋町近江屋
と云に宿せしなり其時彼地の様体を物語せしとて御城
下にて信州変異の知れたる初発にてありけれ此物語り
により図を板行し売ありく
此河内屋某ハ壱人の連ハ失ひすれとも幸に荷を得たる
故衣類路銀の類に手支せす三河の者にも衣類を与
へ路ハ廻れとも一所に名古屋へかゝりいく路用ハ参らへし
とて当所へ伝ひ来れり三河者多くの同勢を失ひつれ
はしはしの休息をも急せて急きにいそき国許へ帰りし
なり
右宿近江屋の咄
一此変事無キ前善光寺開帳の建札故なくして倒れ
故にまた起し建たるに其夜亦倒れぬ人々不審した
るよし
右ハ此事の已前信州松本の藩士当国古渡東輪寺へ
来りし事あり其時の物語のよし
一この折ふし片髪こげて襦袢のやらの物を着し押切の街
を通行せしをある人の故を尋しかハ信州にて大難に遭
ひ同行をも失ひ身もかゝる体なるよし云落涙せしと
なり
一門前町にて波嘉といふ人戌亥屋某銘々弐三人連にて
参詣し此変にあふたれとも辛して免かれ帰る
一新川七本松の者町家相応身柄の人の宰領に頼まれ参り
たる処荷物路銀不残焼失主人初数人を松本に留
置夜を日に継て馳せかへり路用なんと調へ直に取て返し
向ひに走りよし由
一長者町医師村頼立斎彼夜にあひ身ハのかれたるをハ
当地にてハ死亡せしといひしか無恙よし音信あり
一上原の人ありて話に其日地震ハあれとも知らざる者
も有りとぞ
一駿河町の辺脇部広吉か母同勢三四人にて参詣し廿四日
夜彼地江着く同伴の人ハ本堂に過夜せしに広吉母と
宿坊に泊り既に床に臥したる頃大地なり動かしこは
地震よとおもふや否はや家居倒れたりつれとも怪我
ハせさりしかども驚き周章只くらき所をさぐりまはし
からうして少々破れたる所より先首はかりハ出されと
も体の出兼たるを兎角して這ひ出たはハ屋根の上なりく
らさハ暗し婦人のことなり踏もならわぬ萱屋の上を伏
して横につたいたる程に瓦の端の処に至りたれハ材
木を積たる所あり是へ乗移りて漸々と地へ下り立た
り供の男も同しく継て出たるか屈竟にて瓦の上をは
しるにさら〳〵と瓦の落る音して辷り落たり男しまふ
たりといふ声に怪我せしならんと母はおもひしに
溝の中へか落チあやまちせす助りけるとそ母は本堂
まて程ある道をころび倒れてたとるに敷石の所に人
多くころひたふれ気絶の者と見しも本堂に至り付
ハ燈明なんところ〳〵と足ふミもならぬ程となり内陣
に至るに人少し古来より二基を常燈明とす一基ハは
や消失て小暗く心細きに地震ハ猶ゆりやます其内に
人も数しひなり法師ありてあちこち立ふるまふハ本
尊を出し奉ると見えて御戸帳ひら〳〵とせしやかて
法師大音声にてもはやこゝは危なし出よ〳〵といふ初ハこゝ
にしつかりして出なと云し
に皆はら〳〵と走り東門を出て畑有る芝原
に止り佇む此所人少シ哀れなるかな中にハ襦袢一枚或は
赤裸の者も有てふへ〳〵と居り泣叫ふ声のミおたゝし
浅ましなといふもおろかなり此処にて夜を明し畑をつた
ひ堤を行に地さ裂壱尺程つゝ口あきたる所数ヶ所有りこれにも
膽を冷し又焼死の人の臭気いぶせく寺より一里はかりの
程ハ人々逃よ〳〵また地震のせんするそと呼はり〳〵気を
もみ走るなんとまた大方ならすと広吉母帰りて
物語なり
御城下より善光寺参詣死失の者耳に入候分
上宿江川端 江川端
一米屋孫助妻 一すしや忠助妻
上宿ドロ丁 新長屋
一鍵屋弥一夫婦 一大平屋家内
袋丁伏見丁東江入 桜丁桑名町東へ入
一畳屋仙蔵妻 一米屋甚助
玉屋町 片端坂下
一吾妻屋清助男 一三河屋八左衛門
頃ハ弘化四年未三月廿四日夜四ッ時頃関八州を始其外
近国地震する事しハらくの間成しか中にも信州水
内郡善光寺近辺ハ甚しく震ひて三十六坊山門仁王
門通中見せ地内こと〳〵くゆり倒し人々大地の底へ落
たりとおもふ折から忽ち山門前中店ヨり燃上り黒煙
り天を焦し寺中一面火焔となる折ふし開帳のことなれ
は諸国の男女参詣の人夥しく皆一心に如来の御名
を唱けれハ不思議なるかなさしもの大火に本堂へ移る
ぞして篭りし人々ハ恙なく夜もほの〳〵とあ明にける
これそ仏の御利益ならんと感しけるされとも地震
ハ強くして町ハ竹井小路ごんどう丁田丁がんせき
町横沢町西町たか町桜小路畑中町西横町下西門
物ミ町旅籠町のこらすゆり倒し火ハ益々熾にな
り人々逃場を失ひ男女泣叫ふ形勢誠に八方地獄の
ことくにて目もあてられぬ次第なり爰に不思議のこと
なるハ宿屋平左衛門所に泊りし客六百十八人有此内
三百九十八人ハ本堂にて助り又本堂へ篭りに行と
したくをなし店先まて立出たる処四十九人これハ
大坂のものなりまた七十四人ハ江戸本町大伝馬町中橋
まき丁の人々なり此人々ハ地震に驚きて逃先も不勝
手なれは本堂を目当にかけ付し故五百二十一人ハ恙
なし此外男女の損せしこといくはくといふ数を知らす
江戸品川宿の者九人死す扨又信州北の方ハ吉田宿
いなつの村山口東条あら町宿徳間村新光寺神山中
宿高さこむれ宿小ふるま大ふるま黒姫山南の方ハ
石むろむら問御所中御所あら木村わだがさま松岡新
田上高田権とう町柏原此辺大地さけて人馬牛多
く損し夫ゟ髙井郡東の方小伏宿より須坂城下
近辺まで大地裂け土中より水を吹出し人々にけさま
よふて人多く死すまた更科郡松代城下近辺七
十余ヶ村また追分軽井沢沓掛上州口まで山々
震動し又諏訪郡高嶋村城下辺西の方百四十ヶ村また
佐久郡あずし郡北の方百三十余村家蔵多く損し又
丹波川近辺の山崩川へ押込水溢れてこれか為に男女の
死し事数をしらす誠に前未聞のことなりける
男女合弐万千余人 牛馬千三百五十程
土蔵三千戸程 神社仏閣九百余
信州追分宿
丸屋与六
松代十万石真田信濃守 上田五万三千石松平伊賀守
松本六万石松平丹波守 高遠三万三千石内藤駿河守
高嶋二万石諏訪稲葉守 小諸一万五千石牧野遠江由
飯山三万石本多豊後守 岩村田一万五千石内藤豊後守
飯田一万石堀兵庫頭 須坂一万五千石堀長門守
第一番
一飯山様善光寺ヨリ七里北之方御高三万三千石也
御城下大地震二テ不残潰凡家数千軒程焼失
残人四十人善光寺五里ほと西山中新町と申所
松代様の御領分凡家数五百軒焼失残人廿六人
同所地震にて震潰其上焼失又水中并穢多村八
十六軒之家数残ル者六人なり并近辺村数三十
六ヶ村水難死人数不知犀川山崩にて松平様御
領分凡廿六ヶ村も水中山中ゟ右之御高十万石
余り流申候
第二番
一須坂様壱万石之御城下潰御城内共不残焼払
第三番
一善光寺町家数三千軒焼失旅人所々之者死人凡
壱万三千人程焼失其余数不知
第四番
一稲荷山凡家数五百軒残者八十六人旅人六百人
程死す所々死人数不知
第五番
一松代様御城下并御城内共あら〳〵潰其後四月三
日残家三十六軒有之所相潰申候中山八宿加賀様
善光寺廿三日御泊り越後高田今町大地震二候得共
少々潰家有之由又候廿九日二相成申候高田御城下大
地震なり不残潰今町同所不残潰跡焼失同所海
なし山津波にて数軒江入人々死る
届ヶ所無分
四月朔日まて震動未止之不申候右之外大風三度
四月六日村方之分
一死人千九百七十二人 一怪我人六百八十壱人
一斃馬五十六疋 一半潰家千七十三軒
一潰家四千九百七十壱軒 一御高札場并堂社其外倉之
類村方申立不分明二付調之候
同
又々今般四月十三日七ッ時大変之次第御注進申上候
先便申上之候通丹波川歩行渡二御座候処追々少々ッゝ水
口明船壱艘にて相渡候処しハらく安心仕山崩二候故
容易二水多分不参哉大丈夫二御座候処当月十日前代
未聞の大風雨にて大木吹折殊之外大荒二御座候引続
雨天二而河水日々相増丹波河上小市笹原山崩にて松
本辺まて十里餘も湖水二相成大海も及はぬ姿二相成一
同難渋日々水嵩当惑致諸社祈祷神仏之加護を祈候
処当国一ノ宮諏訪大明神之神主を松代真田様江御頼
御祈念候処十三日二ハ川明可申哉御神慮申上
候七ッ時より夜五ッ時まて二湖水一円二水引以前之平水
二相成誠二神徳之験如何斗難有神之加護一入申
触候右水口山崩落彼川中嶋へ落込候処丹波川江ハ中
々水納り不申平一面之川と相成川巾凡三四里斗にて
水押流し善光寺川中嶋平一面満水にて家不残流死
人之数不知先達而地震之節之死人よりも十倍二も及可
申哉大変二御座候夫より平一面水二相成飯山御城内江
押入越後境より三口二水入小倉十日町辺平一面大満
水長岡并新潟表江水入大満水莫大之事中々筆二ハ書
写かたく次第二御座候此度信濃国之大変誠二咄より大
成事二御座候右申上候十里之間湖水にて村々水底に
相成数百余ヶ村二御座候然ㇽ二廿四日五ッ半時頃より当十
三日七ッ時まて十九日之間信濃川之水溜り大海之如く
御座候処三日の間二不残水引候故其音雷ゟ大二天地も一同
二相成事かと被存候丹波嶋辺川中嶋善光寺辺松代中
野須坂飯山御城下辺平一面大海二相成家々不残流死
人数不知神武此方珍敷事二付其外善光寺并北国筋往
来人死人数不知夥敷天災二御座候此度之水難信濃国の
山方にて場広き所二御座候得者廿万石余之田地潰申候
中々難書記荒々申上候
犀川通之内安庭村と申処江西山抜川江押出シ候処
壱里余有之大川を押切留今以水何方江も抜出不申由
安庭村より川上も巾壱里ほ程川上四里計水湛急二湖水
出来村々之人多分山々二逃上候処人家も水中之藻屑
と相成候由丹波嶋歩行渡近辺苗代出来不申候其上何
時抜出シ候義難斗流末村々十方二暮居候由前代未聞之
珍事二候
牧之島田ノ口石川三村ハ無水損外村々ハ不残水底
二成ル
弘化四年未正月十七日昼ノ内二丹後国竹野郡キツ
谷と申所へ如図山出来候由キツ谷ト申所ハ宮津ヨリ
七里有之由
此図ハキツ谷近辺之者年久敷京都奉候致シ居
当春故郷江帰り候得共又頃日京都江罷登候間其
者江委敷相尋ね直々書記シ置
京都より丹後迄三拾六里之由
丹後国俵野村外三ヶ村変地先御届
合田畑反別壱町五反三畝余
内 田反別壱町余地高二相成
田畑反別五反三畝余砂入
右者私御代官所丹州竹野郡俵野村外三ヶ村海岸附
入村々二御座候処当正月十五日夜ヨリ同十六日之内田反
別壱町余高八尺又ハ壱丈位用水川敷一同俄二地高
二相成并田畑反別五反三畝余ハ砂入欠崩損地出来候
段届出申候委細之儀ハ追而可申上候得共先此段御
届申上候
未二月 岡崎兼三郎
拙者領分丹後国竹野郡木津新田
田反別八反九畝七歩 和田上野分
田反別五反弐畝二十四歩 中館分
右ハ海岸附入込村二御座候処当正月十二日夜俄
二砂山窪ミ田方変地前書面両村田反割四反弐
分凡壱尺位より壱丈位迄地高二相成高拾七石九斗
七升弐合荒地出来候段在所家来共より申越候付
此段御届申上候以上
四月廿五日 松平伯耆守
一上杉達書
弾正大弼領内羽州米沢村山上村通町と申所より
去十五日申之刻より出火城下町ハ延焼同夜子刻鎮
火仕候右焼失之覚
一弐百弐軒 諸士屋敷 一五軒 寺院
一三百三十四軒 町屋敷 一同断 修験
一五十八軒 右名主 一百九十棟土蔵
一弐百二十二軒 物置小屋 一四ヶ所 堂社
之通御座候城内二三丸別状無御座候焼失人并死
牛馬無御座候此段御届申上候以上
三月廿九日 上杉弾正大弼家来
安藤常五郎
一酒井左衛門尉ゟ達書
私領分羽州庄内田川郡飽海郡之内先月五日
より同六日迄雨降雪解川々出水常水ゟ九尺余水
増にて田畑水押入并破損所之覚
一侍屋敷水押入十五軒
一徒已下家水押入百五十六軒
一諸役所水押入弐ヶ所 一稽古所水押入壱ヶ所
一土蔵水押入弐ヶ所 一町内木戸番水押入壱ヶ所
一両城下町家水押入百廿九軒一同 痛所壱ヶ所
一小屋水押入二十七 一修験水押入 壱宇
一民家水押入百三十三軒 一郷蔵水押入 壱
一水除土手崩六十七ヶ所
一川行欠崩并〆共百八十八ヶ所
一用水堰砂埋二十三ヶ所 一大小橋痛拾壱ヶ所
一街道痛弐拾五ヶ所 一同流失五ヶ所
一高九拾四石余 田畑川欠并土砂埋
内九十石九斗四合弐夕 田方
三石三斗六升三合七夕 畑方
右之通御座候御米置場御高札場并鶴ケ丘亀崎両社
別条無御座候人牛馬怪我無之候此段御届申上候以上
四月三日 酒井左衛門尉
一戸田采女正ゟ達書
私在所美濃国大垣領当月八日ゟ雨天之処就中同十
日卯刻ゟ近年稀成強二相成同日午之刻風相鎮申
候右二付城中之儀ハ為差儀も無御座候へとも所同破損出来并町在方等も多分御座候且又大風雨二付川々早急
満水仕堤所々難所出来数ヶ所切入候趣相聞申候尤此節
苗代時節二御座候処差支候村方も多春作も各別相痛候由
御座候手遠之村方ハ様子も未相分勿論堤除石籠刎籠
破損所其外怪我死人牛馬損之事相知不申候段在所家
来共ゟ申越候委細之義ハ追而可申上候得共先此段御届
申上候以上
四月廿七日 戸田采女正
一永井肥前守達書
私領分濃州厚見郡加納去ル十日暁六時ヨリ風雨強
追々烈敷辰刻頃弥大風相成巳下刻相鎮申候城内外
町在共所々破損潰家倒木等左之通
一城内櫓多門破損壱ヶ所 一 足軽長屋潰三棟
一同高塀倒并大破弐百八十一ヶ所一往還並木松倒五本
一同倒木二十一本 一町在潰家百三十七軒
一同半潰家五十八軒 一侍屋敷潰家二軒
一物置潰五十軒 一半潰壱軒
一神社潰弐ヶ所 一大破数ヶ所
一鐘楼門潰一ヶ所 一鐘楼堂潰二ヶ所
一明松院潰壱ヶ所 一長屋潰壱ヶ所
一非人小屋潰三軒 一同潰壱ヶ所
一稲荷社潰壱ヶ所 一稽古所潰壱ヶ所
右之外高札無別条人馬怪我無御座候此段御届申上候
以上
四月廿二日 永井肥前守
一稲葉丹後守ゟ達書
私領分城州淀去月九日夜ゟ風雨強翌十日川々出水
仕同夜ゟ少々ツゝ引水二相成申候水高并堤所々破所
之覚
木津川水高凡壱丈壱尺六寸 内常水三尺
増水八尺六寸
宇治川水高凡壱丈壱尺三寸 同二尺
同九尺三寸
桂川水高 凡壱丈弐尺
一大橋小橋別条無御座候
一城内二ノ丸マテ水押入申候
一家中屋敷并長屋町家共地低之処床上江水押揚ヶ
申候
城州久世郡之内
国役堤崩十ヶ所 役堤欠所弐ヶ所
同郡之内伏見往還 同郡之内
国役堤崩四ヶ所 一国役水刎崩壱ヶ所
城州久世郡之内 城州畷喜郡之内
一堤崩壱ヶ所 一溜池堤欠壱ヶ所
同郡之内 同郡之内
一水刎蛇籠拾壱ヶ所流失 一水刎蛇籠七ヶ所流失
江州伊香郡之内 江州浅井郡之内
一堤切壱ヶ所 一水門壱ヶ所
同 泉州郡之内
堤切壱ヶ所 一堤欠所壱ヶ所
攝州河州之儀ハ別条無御座候且又田畑損毛之儀ハ追
而収納之上御届可申上候
一怪我人并牛馬流失等無御座候以上
右之段先御届申上候以上
五月十一日 稲葉丹後守
跋
兼穂録二曰俗間に丙午の年を忌ムハ容斎随筆に
丙午丁未之歳中国遭扨輙チ有変故非禍生於内則
夷狭外二侮ㇽト又丙丁亀鑑二此類多ク挙タリ
見るまゝに爰にこれを写して子孫に残ス
政丈
右一冊花井氏之本を借りて写し終る
嘉永六癸丑年九月七日正午 三園
手島館長ノ嘱託二依り写生二命シテ
謄写セシム干時明治二十一年三月
関谷清景
地震撮要巻四 噴火之部
浅間岳焼
天明信上変畧記
地災撮要 噴火之部 巻之四
浅間岳焼
天明信上変畧記
長野県ヨリ借受シテ謄写ス
天明信州上州変畧記
浅間嶽古代大焼ノ事
同天明大焼ノ事
北上州泥押ノ事
江戸表へ所々ヨリ訴之事
穀物高直ノ事
騒動ノ事
所々堅メノ事
并静謐ノ事
田畑凶作ノ事
川上筋飢饉ノ事
浅間山古代大焼ノ事
信濃国佐久郡浅間ヶ嶽ハ北国十州ノ中頭碩二
シテ高キ事富士二ツキ常二峯二火アリテ燃出
ルト言事ヲシラス佐久郡ナカハ山ノ半腹二ア
り鶏山老人鄙問答二曰此山スへテ硫黄ノ気ア
リ濁川ノ源血ノ池三ッ有皆地溲ノコリタル二シ
テカキサカセハ血ノコトシ山ノ腰温泉多シ湯
ノ平毒水弥陀ヶ嶽ノ湯和久菱野ノ湯山ノ湯ミ
ナ此嵩ノ気ナリ湯和久二向ヒタル大囘二ヤチ
マクソトイフ土春二ナリテ火ヲ附ルハ燃ルト
ソ皆コレ硫黄ノ̪シカラシムル所ナリ続日本記
二越後国ヨリ燃ル土ヲ献ストイフ此類二アリ
ト和漢三才図絵二曰地ヨリ火ヲ生ルモノ多ク
陰気ヨリ起ㇽシカレトモ信濃ノ浅間ヶ嶽肥前
ノ温泉嶽常二火有テ燃大焼ノ時ハ麓二焼石ヲ
フラス是ヲ以見レハ陰火二アラス是陰中ノ陽
火トシテ可ナラシカトイヘリカゝル高山ニハ
神ヲ祭ㇽ事和漢トモ二同シ富士山ハ祭ㇽ所ノ
浅間ノ社ハ木ノ花開耶媛ノ命ナリ伊勢ノアサ
マハ朝熊ト書虚空蔵ヲ安置ス此浅間山ハ神ハ
煩着塵命ナリト云普堅寺ノ説ナリ四月八日諸
人登山ス上方大焼有シ事未二ツマヒラカナラス
日本記二天武天皇白鳳十四年「天明三年迄千百四年」三月
信濃国牌灰零草木皆枯トアリ案スルニ浅間嶽此
時大焼有シ灰ナルへシ歌二此山ノ煙リヲ詠せ
シ濫觴ハ古今集二 雲ハレヌ浅間ノ山ノ浅マ
ㇱヤ人ノ心ヲ見テコソヤマメトアルカ最初ナ
リソノ後在原ノ業平東二クタリテ 信濃ナル
浅間カタケ二立煙リ遠近人ノ見ヤハトカメン
ト読シハ武蔵ノ国ニテ眺望ナルヨシ其外煙り
ヲヨメル歌トモ多シトイヘトモ大焼ノ事未見
不当 人皇百六代後奈良院ノ御宇大永七年丁
亥四月大焼有シトソ亭録四年辛卯
天明三年迄二百五十二年
年十一月廿二日大雪ニテ降リ積ル事六尺又ハ
七尺程ノ所モアリ廿三日四日晴天ニテ又廿五
日ヨリ廿七日迄時々フリケルシカルニ廿日浅
間山大二焼出シ大石小石麓二里程ノウチ雨ノ
フル如ク中二モ大原ト言所へ七百程ノ岩石フ
リケリ是ヲ七ヒラ石ト名ッヶ今二有リ灰砂ノ
フル事三十里二及ヘリトソ無間ヵ谷トイへル
ハ浅間山引廻シ巌石峩々トシテ恐シキ石ナリ
前掛山トイフハ焼山ヲ隠シテ佐久郡二向フ鬼
ノ牙山黒生山間谷二右ノ大雪降り積シ所二焼
石ノホノフニテ一時二消へタリ又廿七日七ッ
時ヨリ大雨トナリ廿九日迄昼夜ノ分チナク降
リタレハ山々ノ焼石谷々へ押出シ麓ノ村々多
ク跡形ナク流レシトソ其後街道不通路二成シ
ヲ其時ノ領主近郷へ申付小石トモ片ヨセ四年
ノ間ニテ街道普請成就セリ今二至リテ山ノ半
服街道筋皆焼石ノミナリ是降タル二ハアラス
其時押出シ石ナリ
一慶長元丙申年七月八日大焼石近国へ降人死
一正保二年乙酉正月廿六非日大焼
一慶安元戌子年閏正月廿六日大焼辰刻
一同二己丑年七月十日大焼
一承応元壬辰年三月四日大焼
一明暦三丁酉年十月廿日大焼
一万治二己亥六月五日卯刻大焼山鳴大響
一寛文元辛丑年三月五日卯刻大焼同八月廿八
日大焼
一宝永元甲申正月朔日大焼
一同五戌子十一月十八日夜大焼関東砂降ㇽ
一正徳元辛卯二月廿六日朝四ッ半時大焼ニテ
震動半時程灰フル事一寸ホト
一享保三戊戌九月三日大焼
一同六年辛丑五月八日大焼
一同八年癸卯正月一日七月廿日大焼何事ナシ
一同十四年己酉十月焼灰降ル但初雪ノ如鳴動
ハ山モ崩ルゝゴトシ
一同十八年丑六月廿日夜焼大鳴麓ミナ火トナル
天明大焼ノ事
浅間ヶ嶽常二煙立時ハ大焼マレナリトソ煙リ
止ル事久シケレハ硫黄ノ気ツモル故二ヤ大焼
有其煙ル所ヲ釜トイフ廻り一里中窪シテ皆硫
黄ナリシカルニ五年以前少々ノ焼ニテ右ノ釜
埋り平地ト成り煙タへテ立事ナカリシカ天明
三癸卯春ヨリ段々煙り立ノホリ東西南北ノ風
二不構常二卯辰ノ方ナヒク煙り先西へ行トキ
ハ変アリト民家言伝へタリ時二春中煙り先キ
西へ行事度々有変アラント皆人ノイヘル二タ
カハス七月六日ヨリ八日ノ大焼前代未聞ノ事
ナリ先五月廿六日巳ノ下刻ヨリ焼出シ大地轟
キ煙立登ル事数百丈幅二三拾門程二見へ雲ノ
峯ヲ積カ如ククリ綿ヲ累ルコトシ六月十八日
夜大焼同廿九日晴テ午ノ刻ヨリ大焼轟五月廿
六日ヨリ騒シ七月一日晴四ッ時曇り小雨降り未
ノ中刻ヨリ焼出シ申ノ刻甚シク大焼去月廿九
日ヨリ甚強シ暮合ヨリ焼シツマル同二日午中
刻ヨリ焼出シ朔日ヨリ弱シ又未ノ刻ヨリ大焼
トナル時日ヨリ強シ戌ノ刻甚強ク寅ノ刻鳴止
同五日晴天午ノ刻少々焼出シ夜二入強ク遠近
雷ノコトク同六日未ノ刻ヨリ焼出シ酉ノ刻ヨ
リ猶強ク黒煙烈々トシテ大地震動シテ百万ノ
雷ノコトク山ノ麓まで火ニテ包カコトシ煙中
ヨリ稲妻ノコトク光り八方へ飛烟卯辰ノ方へ
数十里二ナヒキ其恐敷有様譬ヲ取ㇽ二物ナシ
夜更猶ㇵケシク十里四方家々戸障子ハツルゝ
計二振へケル内ヨリヲモシヲカケ又クサヒヲ
打ケレ共フルへ不止板屋根ノ石コロヒ落小児
明スモノ多ケル峠ヨリ高崎辺ハ雷電スサマシ
ク雨泥マシリ車軸ヲ流シテ降り七日二至りテ
カクノ如ナレハ追分小田井ノ宿二又日蔭通リ
村々ハ岩村田へ逃行其外親類最寄ノ方へ家内
引連レ逃出ス中ニモ軽井沢へハ七日夕方焼石
降来りケレハ大二驚キ騒キ出シ戸板ヲカツキ
桶摺鉢ヲ頭二イタゝキ又ハ夜着蒲団ヲカムリ
男女ノヘタテナク親ヲ見失ヒ子ヲシラス我先
ニト高坂新田志賀村ノ方へ志シテ逃走ル桶ノ
底へ石落カゝリ底ヌケテ額二底ヲモウケシ者
六七人挑灯トモコト〳〵ク降り石ノタメニ打落
サレクラサハクラシ後ハコハク谷共知ス峯共
不辨水二スカリ石二ツマツキ三里余りノ山越
跣足ニテ命カラ〳〵逃延タリ降るル石ハ尺程二
テ皆赤ク焼通り落ル時砕ケテ火二ナル軽井沢
西ノ端茅屋根二燃付南側家数五十六軒焼失セ
り去共誰一人モ防ハナク春ノ焼野二コトナラ
ス其後漸十三日ノ頃家々二立帰ル十里四方村
々農人ハ野二耕ヲ止メ煙ノミ詠ケル煙ノ中ヨ
リ西ノ方へ大石落ル事飛鳥ノコトシ無間ヵ谷
埋リテ山トナル前掛山ヨリ其髙シ煙ハミナ卯
辰ノ方へカタムキシ故信濃ハ石砂降リシ事沓
掛ノ東離山ノ半ヲ限り東へ降申ノ刻平尾辺ヨ
リ平賀大日向ノ方スヘテ山様通り少々降ル沓
掛ノ東ノ川湯川ト唱此川小キ焼石流レテ水ヲ
顕サス色白クシテ怪キ事毛ノ如シ水ハ砂ニテ
色黒ク年ヲ越テモスマス軽井沢へ石砂積ル事
四尺余碓井峠杓子町五尺余り軒下二届ク権現
宮無難山中茶屋東ノ端西ノ端一軒宛潰羽根石
埋り平地トナル砂五六尺坂本宿四尺ノ余家潰
ル妙義山一尺四寸程横川一尺五寸松井田二尺
ノ余板鼻ヨリ高崎辺一尺余リ是ヨリ東ハ砂計
ナリ右二準シ江戸一寸程フル利根川筋栗橋幸
手ノ辺二寸余常陸下総銚子ノ辺少々降シトナ
リ浅間山ヨリ凡七十里程有り榛名山社ノ辺二
大成池アリ池水干アカリ三分斗二成鳥居ノ裏
石砂フラス是権現ノ神力ト人皆是ヲ仰キケリ
砂降シ場所上野并武州七日八日八ッ時ヨリ黒
闇ト成雷電稲妻震動シテ万事ワカラス家々二
燈ヲ点シ提燈ニテ往来ス八日明方少シ明ルク
シテ又五ッ時ヨリ暗ト成軽井沢ヨリ中山道桶
川辺マデ道筋田畑一面ノ平地トナリ草木不残
埋立木ハ葉ナク竹ハ雪折ノ如ク皆枯テ青葉ナ
シ只兀トシテ雪ノ朝ノコトシ猿丈鹿ノ類焼石
二ウタレ死スル者多ク川へ流レ出ルカ体中二
毛ナシタマ〳〵生残リシ諸獣并諸鳥二至ル迄餌
ナクシテ終二飢死ス猫鶏ノ外生タル者ナシカ
クテ響ノ音関東ハイフ二不及尾張迄江伊勢播
磨高砂辺迄モ震動セシトソ八日二至り鳴動ヤ
マサレハ諸人安堵ノ思ヒモナク諸ノ神社仏閣
ニハ祈祷丹情ヲ提挺テケリ
碓氷峠往来馬駕籠ノ通路八日ヨリ相止熊谷宿
佐渡ノ御金荷物逼留三国通り金井佐渡へノ囚
人篭三十高崎へ帰り元町逼留其外所々御大名
逼留アリ
御普請役 町田 長三郎 萩野 文吾
石野義右衛門 吉川佐七郎
御代官 遠藤兵右衛門 早川富三郎
右御倹分有之又
御勘定吟味役 根岸九郎左衛門
田口五郎左衛門
右八月下旬ヨリ段々御倹分有之街道御普請被
仰付
御倹分後九月下旬ヨリ峠并両宿石砂ノ切割普
請等霜月朔日頃成就ス然共軽井沢坂本松井田
二馬無之往来御用継送り歩ニテ背負越賃銭ハ
相場ナリ
平尾村ヨリ右ノ者十人組ニテ八月朔日浅間山
へ登り帰宅ノ咄前掛山南北西不残ワレテ数不
知其巾五六寸大成所ハ一尺二寸計ワレ所二ヨ
り煙出二釜山ハ前掛山ヨリ殊ノ外高クナリ八
重八角二破タリ巣鷹山ハ浅間山ヨリ直二下二
見ル此林千年ノ大木殊ノ外ノ名木有トイフ山
二入テモ木立ニテ夜ノ如ク方角ヲシラス深山
成カ右ノ焼石落懸リシト見へ八月一日頃イマ
タ煙り立登り不残焼失シテ皆炭ノコトシ真黒
二見ヘタリ釜余程焼崩レタルナリ釜ノ様子ハ
西ニモ破有東ニモワレアリ殊ノ外麓澤迄破レ
通リシト見ユ釜ノ深キ事不知煙釜ノ口一杯二
立中不見釜ノ北ノ方破口ヲ見ㇽ五大程有其底
不知右十人組八月一日四ッ時釜ノフチ二登ル
恐敷事イフ斗ナシ漸ク山ヲ下り麓二休ミ見ㇽ
二九ッ時焼強ク煙立登レりアヤウキ事直二顔
ヲ見合シケル
江戸御預り所御取箇御組頭金井安太郎殿
エ御届書
一五月中ヨリ信州浅間山折々大焼去月廿九日
ヨリ当月朔日二日鳴動強く別テ五日ヨリ八日
迄大焼鳴動強シ御預所信州佐久郡村々へ少々
宛砂降ㇽ趣浅間山近辺村々住居モ難成程故何
レモ家財片付立退候趣二思へ語罷在候体故田
畑手入モ自然ト怠り之趣二御座候追テ出来方
モ障り可申候哉ト奉存候趣信州役人共申越候
依之一通申上置候以上
松平若狭守内
志賀又右衛門
卯七月
御勘定所
北上州泥押ノ事
浅間山北ノ方鎌原村ノ南二梛ノ御林ト名附テ
二里余ノ大林アリ大木ハ五抱廻り丈ハ十二三
丈余モ有経往古斧ヲ不入然ル二此林吾妻郡ノ
者願上年譜二伐り出ス積りニテ諸国ヨリ杣ヲ
呼寄小屋〳〵数ヶ所二シツラヒ御證文頂戴二罷
出ㇽ跡二テ七月八日ノ朝五ッ時右ノ林焼立泥
湧出シ大木根抜二押出ス泥ト共二流出シ鎌原
七ケ村へ押イタス高サ何丈ト言事ヲシラス巾
二里程ナリ夫ヨリ長ノ原辺ハ四里程二見へ山
川人家一面ノ泥トナル鎌原ハ人数六百七十人
余ノ村ナリシカ残ル人拾九人其余ハ皆流セリ
同シ麓成シカ共山陽田代大笹ハ難ナシ夫ヨリ
北上州吾妻郡四十二村押流サレ古木山川跡形
モナク曠々タル石原ト成鎌原村ノ跡ヨリ南ミ
小山ノ如キ大石押出シアリ其外五十間二十間
程ノ石ハ数多ナリ遥二北へ下り行谷村トイへ
ル所ノ鎮守ノ森二七抱廻りノ樫逆様二立根ヲ
其儘上二シテ有如此ノ変ナレハ人馬ノ流死数
不知杢ノ御関所ヲ押抜利根川へ押出シ五領ノ
御関所ヲ押埋爰二利根七分川ト言ハ平塚前へ
流出ㇽ三分川ト云ハ五領并新河岸尻へ落ル川
ナリ然ル所大木大石ニテ右七分川ヲ築留サシ
モ名高キ坂東太郎ト呼大川忽二岡ト成平塚ノ
三里上ヨリ川通り下々ニテ鯉鮒ウナキ其外色
々ノ魚ヲ拾ヒ取泥ハ三分川へ押出シ三反村へ
突掛村ヲ押埋土蔵ハ穴蔵ノ如くクニ成家ノ二
階へ平地ヨリ出入ス前栽門口ヨリ馬流込人ハ
台所二押埋ラㇽ二階へ登り助ル者モ十二三日
ノ間食二飢水二渇シ詮方ナク着物ヲ泥二浸シ
絞りテ漉シ手二掬シテ啜之泥水ハ登りへ押上
八丁川岸村并天神村ヲ越へ藤木村ノ辺迄三十
町余五尺八尺弐間余ノ大石ヲ押上廿四廿五日
ノ余此焼石泥中ニテ煮へカヘリ泥水逆マキ煙
立登ル藤木ノ下ヨリ烏川ノ水ヲ突留平押二八
町河岸南通り本庄宿ノ北盆後迄流水田畑損毛
夥シ新河岸八町河岸マへ流死人馬泥上二累々
タリ仍テ近郷ノ寺々ニテ施餓鬼法事有テ大卒
都婆ヲ所々二立夫ヨリ大川ヲ押キリ熊谷ノ裏
メヌ間ノ聖天へ押ヌケ川下関宿へ流ルゝ人馬
何程トイフ事ヲシラス前橋御城外ノ堀利根川
押出シニテ埋シ故堀サラへ被仰付堀シ人六十
四人寺院へ被仰付土葬ヲ致ス犬馬ノ死不知倉
ヶ野近辺村々泥押ノ内馬一疋泥二埋漸平首ミ
へ生有シ故其馬ヲ堀出シ石砂堀之所南凌鐐銀
五片堀出シ其外斗橋三ッ四ッ堀出セリ
所々ヨリ江戸表へ訴ノ事
安中城主板倉伊勢守殿ヨリ七月十五日江戸へ
御届
先達テ御届申上候信州浅間山大焼私在所へ焼
石砂降り其後泥交り雨降田畑痛ノ趣
一高一万八千百廿四石六斗五升五夕
内一万五千四百三拾一石四斗八升五夕碓井
郡之内四拾五ヶ村右ノ場所へ焼砂七八寸ヨ
四五尺積り申候二千六百九十三石壱斗
一坂本宿百姓家住居相成不申候モ有之小屋掛
当時住居仕候
一百姓潰家二十一軒但シ往還筋裏家共二半潰
四軒社人半潰三軒
一御関所城内高札等別条無御座候
右之通二御座候碓氷峠ノ儀通路無御座候二付
委細相分兼候間追々可申上候群馬郡村々ハ総
体ヨリ降砂等薄方二御座候右ノ次第家来共ヨ
リ申越候間此段御届申上候以上
七月十五日 板倉伊勢守
御代官遠藤兵衛門江戸屋敷へ宿継ニテ
御届書ノ写
一先月未方ヨリ信州浅間山震動仕焼砂降候儀
ケハシク御座候所去五日夜中厚サ五寸程フリ
申候別テ六日夜六ッ時ヨリ夥敷降出シ夜中雷
電大鳴翌七日昼モ如暗夜ニテフリ通り其夜大
降ニテ八日昼四ッ時迄降り申候砂二寸七分余
リ一坪一石五斗三升余ヨリ御座候但シ一升ノ
砂四百三十匁御座候田畑へフリ候砂五六寸依
之作物埋り申候然共右ノ間雨ハ少モ降不申候
八日八ッ時利根川石泥ノ水大石欠ナカラ然相
流レ川中一面二然陸二押上申依之当宿五料宿
ノ間矢川通路相止り日光往来相止申候三国通
り同様ニテ通路相止ミ申候何分乍恐以宿継御
訴申上候以上
七月九日 玉村宿問屋三郎治
年寄庄右衛門
乍恐以宿継申上候
一日光道中幸手宿問屋年寄共申上候当宿ヨリ八
丁東ノ方ニテ惣権現堂川但シ利根川ノ内二御
座候昨夜中今九日九ッ時迄家道具五六寸角ノ
立柱四五尺丸ノ角小木敷居鴨居戸板等其外臼
杵重箱飯鉢ノ類川一杯ニテ通舟成り兼申候夥
敷流申候干川御座候所黄黒ノ泥水三四尺相増
男女出家溺死シハ是迄五六拾人馬ハ疋縁ヲ流
申候河中ノ儀ハ何程流レ候哉相知レ不申候爰
二破鞍二上州群馬郡川中村ト書付有之候間右
権現堂川岸へ掛ヶ上州藤木河岸ト申所ニテ舟
ノ者承り候得ハ川島村ト申ハ伊香保湯ヨリ二
里程有之候由申聞候右泥水故カ鯉鮒ウナキ類
水二浮上り川岸へ寄り夥敷手取仕候右ハ先達
テ御触モ御座候二付変異ノ儀故乍恐以宿継奉
申上候
日光道中幸手宿
七月九日 問屋 文右エ門
年寄 仁右エ門
鎌原村ノ内生残リシ者共男女九十人ハ恙ナシ
トイへトモスヘキヤウナク方々へ散乱セシヲ
八月未ニ呼集メ草ノ家ヲ一軒広ク作り此内二
カタマリ居テ夫々ノ稼業情出シ露命ヲツナキ
シ所御公儀ヨリ金二百両下シ置レ何卒取続キ
在所開発致得ヘキヨシ仰渡サレケレハ先ハ渇
泉水ヲ得テ蘇りシ心地シテ悦ヒラㇽ事限りナ
シ扨カゝルワヒ住居二大勢集り居ケレ共夫ヲ
失ヒ妻ヲ流シテ夫婦揃フハ廿人程ナリカクテ
未々便りナク思ヒ老若二カキラス相応二取組
夫婦モ定メナスへシトテ年取シ者共妹ト成親
分ト成九月廿日大吉日トテ惣婚礼ヲソ致シケ
ル誠二浮世ハ如夢トハ言ナカラ白日二柴田変
シテ泥ノ海ト成事希代珍事ナリ八日午ノ刻ヨ
リ鳴少々シツマリケレハ煙りハヤマス翌暁二
至リテ音漸シツマリ煙リモ次第〳〵二ヲタヤカ
二シテ諸人安堵ノ思ヒヲナス然レ共煙り毎日
立登ル事年越テモヤマス
穀物高直ノ事
浅間山大焼ヨリ煙り八方二充塞晴天ヲノツカ
ラ春ノ霞ノ如ク山々二タナヒキ上州辺葉ノ落
シ桃桜又ハ藤ナト二花咲乱レ葉二椹ヲ生シ春
ノ景色ヲナス是何テカゝル大変ノウへ陽気ノ
不順ヲ見ㇽ事又イカナル変事ナリ出来ナント
諸人安キ思ヒナカリケリ信州ニモ桑ノメヲ生
シ桃ナト花咲シ所有シトソ扨八月中曇りカチ
二シテ田畑共二若カヘリ実ノㇽヘクモアラス
見へケレハ行未イカゝアラント先所〳〵二テタ
ツナヲ摘又小豆ノ葉大角豆ノ葉ヲトリ山附ノ
村々葛ノ根蕨ノ根草薢等毎日堀テ冬ノ粮ノ心
アテトソナシ二ケル穀物ハ次第〳〵二直引上候
大概左二シルス寅ノ極月ヨリ卯ノ春迄ノ直段
金壱両二付
一上米壱石四斗五升 一餅米壱石三斗八升
一大麦弐石九斗五升 一小麦壱石三斗五升
一大豆壱石六斗七升 一小豆壱石四斗七升
一蕎麦弐石二斗五升 一稗弐石九斗五升
一黍壱石七斗五升 一塩壱升弐拾四文
銭両替寅ノ秋迄六貫七百五拾文十月頃ヨリ六
貫二成卯ノ八月惣穀物段々引上ノ直段
一古米六斗五升 一新米七斗八升
一餅米六斗 一大麦壱石二斗
一小麦九斗 一小豆九斗五升
一大豆壱石 一蕎麦壱石
一稗三石 一塩壱升六十四文
銭両替五貫弐百文
騒動ノ事
右ノ直段ナレ共惣穀払底ナリ佐久郡小県辺迄
モ毎年早稲ハ彼岸ヨリ苅取飯米二ナス所御検
見不相済内破鎌入ナラス大小共二難儀二及フ
上州ヘモ八月ヨリ米出来スシテ難儀二及フヨ
シ日蔭通り高持共ハ尚々食事二ツマリ諸方何
トナク騒カシキ子細ハ右ノ穀直段一石又ハ九
斗ノ時分ヨリ諸方ニテ多ク買置ノ者之アルヨ
シ風聞致シケレハ諸所困窮場所イサヤ買置ノ
衆中へ無心イタシ来年迄借受ン又ハ押寄打潰
サンナトゝノ風聞マチ〳〵二聞へケリ拾芥抄二
第一地動部二曰天文禄二曰地以秋動有音起兵
天地瑞祥志二曰七月地動不過百日有兵今ヤカ
ゝル昇平ノ時二至り寛仁ノ御恵ミ四海二カゝ
キ四夷八荒波シツカナル御代二アマへテワツ
カニ一年田畑実ノりアシキ二付自然ト高直ノ
穀物買置故トテ辺鄙木訥ノ窮民ツイニ騒動ヲ
ソ起シケル
九月廿九日ノ夜ヨリ上州騒動起り打潰セシ村
々大目付久松筑前守御知行所
西上州磯部村
深藤大助
酒屋質屋穀屋家財商物不残焼払
同晦日昼
板倉伊勢守御領分
五領村酒屋 伝兵衛
新堀村塩屋 嘉 七
穀 商 人 孫 助
右三軒打潰
板倉伊勢守御城下安中宿
駒 屋 市左衛門
酒 屋 勝右衛門
米 屋 儀 助
丸 屋 助 六
右四件打潰
御代官遠藤兵右衛門支配所板鼻宿
穀 屋 儀右衛門
酒 屋 五兵衛
右弐軒打潰
同御支配所 下磯部村
甚左衛門
弟 京四郎
弟 吉三郎
右三軒家財不残焼払
高崎ニテ藤井豊岡辺者頭中出張ノ廻ケレハ騒
動不入ナリ
妙儀町質屋利助 宮崎町酒屋仙蔵右二軒打潰
下野国佐野天明町穀屋忠兵衛アフラヤ右二軒
打潰同国板木町御代官沼重右衛門支配所
内蔵松 吉兵衛 平兵衛 由右衛門 四郎右衛門
甚右衛門 安太郎 喜右衛門 緑節 参悦
弥右衛門
右二十軒打潰ス
松平大和守御領 前橋ニテ八軒 駒形酒屋壱
一軒 右九軒打潰
足利領ニテ 五ヶ所 打潰ス
奥州仙台御用達大録人 二ヶ所 打潰ス
結城領ニテ十月下旬騒動ス未委細不知
十二月武州秩父ニテ 酒屋十二軒打潰ス
十二月二日板倉伊勢守御領分坂本宿ニテ中馬
宿二軒穀屋二軒少々宛打潰ス
同日信州佐久郡御代官遠藤兵右衛門支配所中
山道沓掛宿蔦屋元右衛門ヲ潰シ夫ヨリ日暮テ
内藤志摩守領分屋敷元岩村田宿へ打出布袋屋
武左衛門籐兵衛修験年行事法花堂へ懸リ居宅
打潰是ハ買置ノ沙汰ハナケレ共金銀多ク商人
モ貸穀物買セツランノ恨ナル由扨賊徒ノ有様
ハ己ヵ顔ヲ煤二移シツゞレノ者トモ斧カケヤ
ヲタツサへ引サキ紙ノ纏ヲ真先二押立頭取ト
ヲホシキモノサイハイ振テ下知シ家財不残打
潰ス其外角兵衛清内以上五軒打潰シ太鼓ヲ打
ホラ貝吹立時ノコエヲ相図二潰シ掛リ鐘ヲ相
図二引時ハ跡勢先手ト成り其所ノ者二纏ヲ持
セ案内サセソレヨリ遠藤兵右衛門支配所志賀
村へ掛リ平右衛吉兵衛大次郎ヲ潰シシノゝメ
ノ頃内山へ出次郎右衛門文蔵万吉家内残ル所
ナク打潰ス夫ヨリ平賀へ出シ頃ハ三日五ッ時
ナリ質屋宇右衛門平三郎三軒潰シ内藤志摩守
領分下中編へ打出種月院ト言禅寺へカゝり本
堂クリ不残其外喜惣治伝八三ヶ所潰シ野沢へ
出ル先達テ原村池田屋政二郎方へ使ヲ立俵粮
タキ出シ致スヘシトノ事ニテ鍋釜多ク集メ米
廿俵タキタシ大勢込入是ヲ喰ライ夫ヨリ隅屋
甚右衛門ヲ散々二打潰シ土蔵茶俵マテヲ取出
シテ宿中へマキチラシ藤屋庄兵衛和泉屋弥左
衛門ヲ潰シ魚梁場七左衛門へ掛り皆々衣類不
見へセンキシケル所二金台寺ノ土蔵二有ト聞
皆々押カケ中成葛籠ヲ二三十引出シ衣類コト
〳〵ク引サキ甚右衛門へカゝリ酒屋ニテ酒コト
〳〵ク庭へ出シ大桶二タゝヘテ呑スレハテンテ
ン二檜圴茶碗ヲ持己カ腹ヘソ汲込ケリ然ル二
此節酒造禁制穀買込ノ沙汰モ無事成ハ子細ナ
ク立退キ夫ヨリ三塚へ押カゝル是ハ松平石見
守領分穀中関八右衛門加兵衛二軒潰シ勘三郎
酒屋ニテ酒シタゝカ呑戸障子少々痛付ル是両
所ノ酒二大弱ノ者多ク出来タル故ナリ是ヨリ
乱暴イヤマシニ又乱レ衣類ハイ取狼藉ス夫ヨ
リ遠藤兵衛門支配所上桜井へ押出シ貝原ヲ潰
シ中桜井ニテ次郎兵衛定右衛門潰シ夫ヨリ三
日ノ暮方二下県へ押掛善兵衛へ掛り金銀衣類ヲ
乱取シ家財ヲ庭二ハコヒ焼払フ惣吉ヲ潰シ平
吉ヲ潰シ火ヲ掛焼払フ類焼二軒夫ヨリ牧野遠
江守領分御馬寄へ懸り穀問屋義右衛門富右衛
門二軒潰シ原新田中原ニテ常右衛門源四郎ヲ
潰シ火ヲ懸ヶ上原千弥ヲ潰シ暁方八幡へ出仙
右衛門七郎兵衛宇右衛門七郎兵衛四軒潰シ塩
名田ニテ兵狼タキ出シスル事五軒ナリ是ヲ喰
ラヒテ柏木村へカゝリ穀商人喜太夫新五郎二
軒潰シ又四郎方ニテ米九俵タキ出シス然ル二
小諸ニテハ穀屋モ六七軒ナル二押寄ヤ打潰ス
トノ事故城下ノ町ヘサハㇽナラハカラメへシ
若シ城ヘ手サス者アラハ飛道具ニテ打取へシ
トテ石火矢大筒ノ用意アリ近郷十七ヶ村ヨリ
歩兵百人余呼寄セ諸方ノ木戸ヲ固メラㇽ然ル
二悪党トモハウメキサケンデ押寄ケルカ町口
へ入得スシテタメラフ所二折節寺院二三ヶ寺
通リカゝリ此度穀直段高直二付其元方騒動二」
及フ事是非ナキ次第ナリ小諸町穀屋共エモ相
談モ有之寺院取モチ何レ二モ致ヘキ間城下ノ
義ハサハキナク通ルへシ若差サハリ有ニヲ井
テハ城内ヨリ飛道具ニテサゝヘ有ヘキトノ間
右ノ旨ヒタスラ二イヒケレハ一揆共承引シ纏
ヲ横フセ我々共穀物高直二付難儀故カクノ仕
合穀直段御下ヶ被下ハ隠密二通ルマテナリト
言ケレハ其旨夫々ノ役人中ヘ申通シ其儘二テ
通リケリ既二其日ハ十月四日七ッ時ヨリ引サ
キノ纏真先二八九本ヲレ立暮方二不残小諸ヲ
過二ケリ扨夫ヨリモ悪党ハ布ノ下二テ文右衛
門ヲ潰シ小県ヘト押ヨスル先同勢ヲ二タ手二
分ヶ一手ハ街道筋ヲ押寄二ノ手者在郷道ヲ通
り村々へ懸り先方ヘノ加勢二家一軒ヨリ一人
ツゝ出ヨサモ無レハ火ヲ掛ㇽト口々二訇りヶ
レハ是非ナク是二同シ引連ラレテ行ナカラ道
ニテ隠レ忍ヒ帰ルモアリ又大勢二取マカレウ
カ〳〵ト行モ有朴屋ニテ幸三郎ヲ潰シ夫ヨリ上
道通リノ先手ハ松平市正御地行所御張付所左
衛門ヲ潰シ土蔵酒屋二至ル迄不残火ヲカケサ
ン〳〵二焼失二夫ヨリ右役所元禰津ヘ掛り質屋
久左衛門ヲ潰シ東上田村ニテ丈右衛門ヲ潰シ
夫ヨリ松平伊賀守領分田中宿庄屋長五郎ヲ潰
シ海善寺村清三郎ヲ潰シ仙石治左衛門知行所
小井田村庄屋宋右衛門ヲ潰シ赤坂村酒屋市郎
右衛門ハ先手ノ者トモヘ金百両出シ詫ケレハ
相違ナク立退シ所ヘ二ノ手ノ大勢ニテ打潰ス
夫ヨリ上田領真田村金次郎へカゝル是モ先手
へ金百五拾両出シ難ナク引ケレ共跡勢押カケ
来りケレハ先ノ次第ヲノへワヒケレ共聞入ス
散々二焼払フ外二類焼一軒九右衛門ト云者ナ
リ夫ヨリ横尾村酒屋文七方へカゝ是モ先手へ
金百両出シワヒケレハ心得静二通リヌケシ跡
ヨリ大勢押カゝり会釈モナクサン〳〵二焼払フ
類焼三軒宇右衛門清右衛門篠右衛門米豆小豆
大麦小麦稗等まで一ッ二切入レ大勢ノ悪党共
時ノ声ヲ上ケテ踏合セケリ
佐久郡潰村数十六ヶ村価数四十八軒
内一軒山伏一軒寺四十四軒打潰四軒焼払二
軒類焼
小県郡村数十ヶ村家十四軒
内七軒打潰七軒焼払内四軒類焼
両郡合村数二十六ヶ村家数六十二軒 少々宛ハ数不知
諸所固メノ事
斯テ佐久郡二ハ彼行所〳〵内談ヲ以悪党又モヤ来
ルナランハ其所二テ狼火ヲアケ早鐘ヲツクヘシ
ト相図ヲ定メ纏ヲ立昼夜其村々ヲソカタメケ
ルカ五日ノ昼何国ノ者ヤラン臼田へ通り懸り
上州南牧ヨリ騒動起り余地峠ヲコへヲシ付是
へ参ルヘシト云ケレハスハヤ爰ソトハヤク雄
ノ若者共稲荷山二テノロシヲアケ鐘太鼓ヲ打
ナラセハ近郷大沢本所町取手湯原小田切不残
橋場へ集り今ヤヲソシト待掛レハ元ヨリ妄説
ナレハ何ノ沙汰モナク遠見トシテ二三人遣シ
誠二来ルナラハ又々相図致スヘシトテ七ッ時
皆々村々へ帰へりケリ松本二テモ平賀ヨリ右
ノ次第言上アル固トシテ者頭駒井彦左衛門板
橋東藤御鉄砲方沢柳友三郎其外同心五十二人
都合百二人米三十六俵武具ノ類不残小荷駄四
十疋二テ平賀御役所ヲカタメラレ其外御支配
ヲ見回り致サレケリ諏訪二テハ和田峠ヲ固ラ
レ松本二テハ保福寺塩尻両峠ヲ固メ諸方ノ騒
ヲタヤカナラサレハ平賀固メノ一頭ハ先松本
へ立帰ラル小県郡依田ノ庄ハ五日暮方二千曲
川布ノ下ノ橋ヲ中ノ間引落シ繰舟ノ縄切落シ
石井河原猫ケ瀬ト云所ヲ固メ廻状届次第追々
六日ノ朝五ッ時迄二十三ヶ村ノ役人ヲ先立川
東ハ石井河原河西ノ村々ハ茂沢河原浅瀬二ヶ
所ヲ固メ悪党河ヲ渡サハ打留ヘシト此旨河向
村々へ書付ヲ以テ申遣ス凡人数四千六百人程
川岸二相詰防ク依田川手へ騒動不入六日ノ朝
四ッ時村々退散ス
静謐ノ事
爰二往古村上義清ノ楯篭リシ砥石ノ城跡ノ麓
ノ村二伊勢山ト云所有此村ノ名主庄右衛門上
田へ願ケルハ右ノ悪党共押付う上田へ入ルト
ノ風聞二候間イソキ搦トラセラレ御尤二テソ
レカシカゝ川二テ防可申間早々御出待候ト云
捨近郷ノ百姓迄サソヒ川久保ノ橋結萱ヲ積上
ケ寄セ来ラハ火ヲ懸ント鎮り返ツテ待掛タリ
徒党ノ者共カクトハシラス上田ノ方へ通ラン
ト太鼓ヲ打チホラフキ立ウメキサケンテ寄セ
来ルヲ見テ相図ノ狼火ヲ上ル一揆ノ者共事共
セス橋ヲ渡りカゝル所ヲ彼庄右衛門真先二ス
ゝンテ先ノ纏ヲ切落ス続テ来ル纏クルミ切付
レハ真サカサマ二落タりケル都合悪党十一人
切伏防キケル伊勢山村へ騒動不入其後当座ノ
御褒美トシテ米二十俵被下苗字帯刀御免ト成
上田二テハ町奉行白瀬四郎左衛門城下ヲ固メ
上田ヨリ一里東加賀川橋ト云フ所へ物頭木村
官治横田地喜内菅谷八郎右三人諸士七十人足
軽百五十人長岡ト云所ヨリ大屋村二王河原辺
二テ十月五日ノ夜九ツ時ヨリ生捕〳〵ルサシモ
悪党周章途二マヨヒ爰ノ藪カケカシコノ木陰
へ逃忍フトイへトモ小諸上田両手二テ小諸四
十人上田ノ手へ四十二人被搦捕六日朝四ツ時
ノ騒動落着致シケリ其後吟味ノ上言釈相立シ
者ハ早速ユウメン有其外家財衣類等懐中セシ
者共ハ即座二牢へソ入ラレケル斯テ江戸表ヨ
リ御町奉行牧野大隅守曲淵甲斐守両組合二テ
六十人程信州上州野州騒動ノ者共搦取ルヘシ
迚信州上牧野ノ方御組四人曲淵ノ方三人右七
人佐久郡追分宿若林次郎左衛門林屋平右衛門
二ヶ所二会所立諸方二テ搦取ラレシ者共平賀
ノ牢二余リ脇ノ家二置ク召捕人十八ナリ支配
へ仰渡サレ村々順番二テ一日一夜替二テ番二
出ケリ其外岩村田カ口ノ牢二充満セリ是モ其
後吟味ノ上サシ人ナト二テ召捕ラレ咎ナキ者
ハユルサレケリ小諸江御預ケトナル者召捕人
廿七人十月十七日右同新衆へ引渡ス十九日追
分へ出立アリ坂本迄所諸方二テ搦取ラレ十月
廿一日松井田ヲ三十七人引連高崎へ御預ケト
成信州ハ竹不自由ノ故松井田安中へ云付ラレ
丸籠夥敷出来江戸表二テ御吟味有り国々騒動
シツマリケリ
田畑凶作ノ事
扨上州高崎ヨリ軽井沢迄ハ浅間焼砂降りテ作
一切皆無ナリ佐久郡ノ内八月ヨリ天気快晴ア
ラサレハ馬流ヨリ両相木川上筋作物一切実ノ
ラス高野町ヨリ下十分ノ出来二テ五分ノ所キ
ハメテ能キ分ナリ中二モ三分又ハ皆無ノ所ノ
ミ多カリケル上田松代善光寺須坂松本越後迄
モ不作ノ場所ノミナリ是二依テ村々一統倹約
ノ儀申渡酒売場一切禁製二致シ其外煙草ナト
禁セシ所モ有年暮二餅ヲツカス年始ノ礼迄相
止ノ所モ有程ナレハ街二ウタウタフイロ〳〵音
曲タヘテ寂々零々ノ景色トソ成二ケリ去年美
濃尾張凶作二シテ道中騒敷様子ナレハ信濃関
東筋伊勢参宮ノ者ナカリケルシカルニ卯ノ秋
満作ナル事近年二無シ中二モ近江ナトハ十二
分ノ出来ナリトソ然共高直成事諸国一統ナレ
ハ商人職人ノ類多ク困窮二ソ及ケリ木曽ノ内
奈良井萩原ハ家数九百軒ホト二テ平生重箱膳
ノ類器物ヲ拵渡世トシテ農業ヲ致スハ百軒程
ナリ残ハ百軒右ノ器物モ世間凶作ナレハ一向
ヲ売穀物高直ナレハ取続ヘキヤウ無之所二尾
州侯ヨリ御救トシテ一人二付米一合ツゝ毎日
粥トナシテ五合ノ入物二是ヲハカリ施シ給ヒ
ケル賄入用金五両宛ト危機聞へシ
川上筋飢饉ノ事
斯テ其年モ暮二及ヒ明レハ天明四年辰ノ正月
アラ玉ノ春ヲ目出度ムカへケレ共穀物ハ猶々
直段上リケレハ河上筋難儀二ヲヨヒケリ
辰ノ春穀物ノ直段金壱両二付
一米四斗四升 一大豆六斗五升
一大麦六斗 一小豆五斗八升 一円無之
一小麦 百文二付三升一コヌカ百文二付四升
一馬ノ薭金十両二三十弐俵
一干菜百文二付二連
一小豆ノ葉一俵ト三百文如此一円ナシ
如斯直段故河上筋并発地梨沢面替ノ辺一向取
続ヘキヤウナキ家ヲ捨テ立退者多シトソ藁餅
ノ事小諸御影皆々領分支配ノ村々へ触渡サレ
ケル其仕方先ワラヲ程ヨク水二ツケアクヲ出
シ能々砂ヲサリ洗ラヒ落シ穂ヲ切根本ノ方ヨ
リ細二刻ミ夫ヲムシテ干立煎碓ニテ挽キ細二
シテフルへ粉一升ノ中へ米ノ粉二合程入テ似
合餅ノ様二シムシ又ハ煮テ塩カ味噌ヲ入テ喰
右米ノ粉モ無ハ葛ノ粉ワラヒノ粉小豆交ニテ
モヨシ入方辺此餅ヲ拵食セシ故海尻辺ヨリ藁
ノ類ツキタリ是二依テ馬ノ食物ナク松葉ヲ馬
二喰セシトソ平賀ヨリ御拝借冬中ヨリ四度下
サルトイへトモ高直ノ穀物ナレハ浮世ナリカ
タク相木河上ヨリハ種々ノ売物拵ヘ我モ〳〵ト
里へ下ル事櫛ノ歯ヲ引カコトシ先マナ板下駄
麺類板同ノシ板糸ワク機織ノ道具鎌マサカリ
ノ柄鍋フタカト石フクチ等其外様々ノ物毎日
一群二五六人程来り雑穀二カへ露命ヲツナク
便トセリ若売サル時ハ遠方迄行キ日ヲ経て帰
シハ家内ハ鍋ヲ洗ヒテ涙トゝモ二帰りヲマツ
哀ナリシ次第ナリ右ノ者共二食ヲ施スハ中小
田切村助右衛門大四郎茂左衛門野沢村甚右衛
門茂太夫三塚勘三郎ナトゝ聞へシゝカリトイ
へトモ未ニハ誰モ買者ナク難儀ニテ詮方ナク
袋ヲ持チ飢人二ヲタスケト家々ヲ乞アルク事
毎日幾人トイフ事ヲ不知是二依テ御影ニテ御
支配ヘ用金八百両言付ラレ日蔭通リヘ遣サレ
シヨシ平賀ニテモ八百両無尽発起ノ旨仰出サ
レ河上筋スクヒノ手当モナシ又松本御払米イ
ッモ諏訪ヨリ甲州ノ方ヘ出シヲ佐久郡御払二
願フへシトテ臼田村善三郎大日向村七之丞平
賀村金兵衛正月十七日頃松本へ参り何卒米二
千俵程佐久郡被下候様ニト願シカ穀止ニテ出
ヘキ様ナクヤウ〳〵ノ様子御ナケキ申上ラレシ
カハ六百俵出ㇽハツ二ナリ後ノ正月二至りテ
帰ㇽ武石峠ハイマタ雪ニテ人馬往来ナラサレ
ハ保福寺峠ヲ廻り上田へ出平賀へ来ル
甲州ハ一両二付二斗七升是ハ甲金ニテ文金十
両二甲金七両弐朱ノ場所ナリ信州ヨリ少々直
段下直故信州へ入ケレ共甲州御代官中井清太
夫ノ指図ニテ穀止トナリ其後背負荷ニテ少々
宛来ル
信濃国佐久郡大井庄長倉里
御影新田一ツ家
文政三年辰正月写之 柏木政之助
上塚原村
弘化戊申年正月八日写之 池田安右衛門良臣
手嶋館長ノ嘱託二依り写生二命シテ
謄写セシム干時明治廿一年三月
関谷清景
嘉永四至安政二
三橋小破御修復書留上
【白紙】
十四ノ二百七十九第十四棚
嘉永四亥年ゟ
安政二卯年迄
三橋小破御修復書留
但御奉行御掛り替
地震潰橋番屋
【□番所の黒判】
【白紙】
嘉永四亥年十一月
永代橋
大川橋 損所御修復書留
賄留
嘉永四亥年十一月朔日与三郎持参
祐右衛門を以上る同十日承付いたし十二日友左衛門
持参祐右衛門を以返上 【以上3行朱筆追記】
永代橋外一橋小破御修復之儀奉伺候書付
書面伺之通伝吉え受負可申付旨
被仰渡奉承知候
亥十一月十日 本所見廻
永代橋之儀は七ケ年以前巳年大川橋は
十ケ年以前寅年中懸替御修復御座候処此節
橋杭并桶ケ輪根包板朽腐巻鉄物
切放れ流失等仕敷板組目高欄廻り等
損所出来仕候ニ付見分之上省略仕右
御修復御入用積霊岸島川口町家持伝吉え
申付候処左之通申立候
永代橋杭埋木桶ケ輪巻鉄物
御修復御入用
一金三拾壱両三分銀七分四厘
大川橋杭埋木桶ケ輪巻鉄物
高欄廻り敷板等同断
一金拾九両壱分銀拾壱匁壱分壱厘
右之通御座候尤此上引方無御座候旨申立
前之御修復御入用とも見合取調候処不相当
之儀も無御座候間前書金高を以伝吉え
受負可被仰付候哉依之別紙仕様内訳帳
弐冊相添此段奉伺候
本文御入用之儀は三橋御修復御入用
目当高之内ゟ御渡方相成候儀ニ御座候【以上2行朱記】
以上
亥十月 中村八郎左衛門
加藤又左衛門 【両名は与力】
申上付【朱記】
書面御入用不相当之儀も相見不申
候間本所見廻伺之通被仰渡可
然哉奉存候
亥十一月 年番
承り付【朱記】
書面伺之通伝吉え受負可申付旨
被仰渡奉承知候
亥十一月十日
十一月十日別紙伺書承り付て御下け之節添而御下け【朱記】
永代橋外一橋小破御入用出方之儀取調申上候書付
館市右衛門【町年寄】
本所方奉伺候永代橋杭埋木
桶ケ輪巻鉄物共御修復御入用
一金三拾壱両三分銀七分四厘
大川橋同断共高欄廻り敷板等御入用
一金拾九両壱分銀拾壱匁壱分壱厘
右御入用出方三橋御修復御入用目当高之
内ゟ御渡方相成私共方差支無御座候尤
御入用高積り合之儀は年番方え御尋
御座候様仕度奉存候依之御渡被成書類
返上此段申上候以上
亥十一月 館市右衛門
永代橋損所御繕御修復仕様御入用内訳帳
亥十月
永代橋杭根包板并巻鉄物
損所御繕御修復仕様
一杭五拾弐本根包
内
西ゟ
三側目 中杭巻鉄物弐枚巻直し
四側目 南北耳中杭共巻鉄物六枚
巻直し北中杭根包板八枚仕足
五側目 北中杭根包板六枚取替巻鉄物
三枚巻直し
六側目 南北耳中杭巻鉄物四枚巻直し
七側目 南北耳杭根包板六枚取替巻
鉄物弐枚南中杭巻鉄物弐枚
八側目 南北耳杭根包板四枚取替巻
鉄物三枚南中杭巻鉄物弐枚
巻直し
九側目 北耳杭根包板四枚南中杭根包
板八枚取替巻鉄物五枚巻直し
拾側目 南耳杭根包板八枚南中杭
根包板八枚取替巻鉄物五枚
巻直し
拾壱側目 南耳杭根包板八枚取替巻鉄物
五枚巻直し
拾弐側目 南耳中杭巻鉄物四枚巻直し
拾九側目 南中杭巻鉄物壱枚巻直し
廿側目 南中杭根包板八枚北中杭根包板
八枚取替巻鉄物六枚巻直し
廿壱側目 南中杭根包板八枚取替巻鉄物
五枚巻直し
廿弐側目 北耳杭根包板包直し巻鉄物
弐枚巻直し南中杭巻鉄物壱枚
巻直し
廿三側目 北耳杭南中杭巻鉄物弐枚巻
直し
廿四側目 南北中杭巻鉄物三枚巻直し
廿五側目 南耳杭根包板弐枚北耳杭
根包板八枚取替巻鉄物三枚
巻直し
廿六側目 北耳杭根包板八枚取替巻鉄もの
四枚巻直し
廿七側目 南耳杭根包板八枚取替巻鉄もの
三枚巻直し
廿八側目 北耳杭巻鉄物壱枚巻直し
〆
右杭根包板朽損し候分杉長八尺巾五寸
厚弐寸五分新木仕足長五寸貝折釘壱本
鉄目拾五目付板壱枚え八本ツヽ打付巻鉄物
七拾四枚内廿九枚新規仕足長六尺弐寸巾
弐寸厚弐分壱枚鉄目壱貫四百八拾八目付古
四拾五枚は焼直相用長三寸平鋲百本鉄目
四百目付壱枚え廿六本ツヽ打付壱ケ所え弐タ所
巻堅メ其外釘抜出候ケ所打堅メ可申
一杭埋木弐本
内西ゟ
廿弐側目 北耳杭埋木長八尺巾五寸
廿八側目 北耳杭同断長四尺巾弐尺
〆
右杭打朽腐応し彫取槻長四尺ゟ八尺迄
巾三寸厚壱寸五分ゟ弐寸迄杭木え馴染能
埋込板壱枚え大五寸釘拾五本ツヽ打付可申
右御入用内訳
一松板四拾枚 長八尺 巾五寸 厚弐寸五分 杭根包板
代銀弐百廿匁 但壱枚銀弐匁
一槻板拾四枚 長弐間 巾三寸 厚壱寸五分ゟ弐寸迄 杭埋木
代銀三拾六匁四分 但壱枚銀弐匁六分
一桧廿本 長弐間 巾壱寸五分ゟ四寸迄 厚弐寸 敷板埋木
代銀三拾三匁 但壱本弐匁六分五厘
材木
〆銀弐百八拾九匁四分
一長五寸貝折釘八百八拾本
代銀百三拾弐匁 但百本銀拾五匁
是は杭包板壱枚八本打百拾枚分
一長三寸貝折釘百四拾本
代銀七匁 但百本銀五匁
是は杭埋木板壱枚え拾本宛拾四枚分
一大五寸釘四百五拾本
代銀九匁九分
是は敷板埋木板壱枚え拾五本宛打三拾枚分
一巻鉄物廿九枚 長六尺弐寸 巾弐寸 厚弐分 鉄穴廿六
代銀六百壱匁七分五厘 但壱枚銀廿匁七分五厘
一古巻物四拾五枚焼直し
代銀百九拾八匁四分五厘 但壱枚銀四匁四分壱厘
一長三寸平鋲千九百廿四本
代銀百匁弐分四厘 但百本銀五匁弐分壱厘
是は巻鉄物壱枚廿六本打七拾四枚分
釘物釘【鉄物と釘】
〆銀壱貫四拾九匁三分四厘
一大工七拾五人
代銀三百七拾五匁 但壱人銀五匁
内
六拾三人 杭根包板取付巻鉄物仕付方共
四 人 杭埋木壱本弐人懸り弐本分
八 人 敷板埋木八拾ケ所分
〆
一鳶人足四拾四人
代銀百三拾弐匁 但壱人銀三匁
内
四拾人 杭根包板取付巻鉄物仕付方手伝
四 人 杭埋木手伝足代仕付方
一足場船丸太縄諸道具損料物并運送
賃共
代銀六拾匁
諸方
〆銀五百六拾七匁
三口
〆銀壱貫九百五匁七分四厘
此金三拾壱両三分銀七分四厘
右之通御入用積り立奉差上候若相違之儀も
御座候ハヽ仕直差上可奉候以上
霊岸島川口町
家持
亥十月 伝 吉印
大川橋損所御繕御修復仕様御入用内訳帳
亥十月
大川橋杭埋木并巻鉄物高欄敷板共
損所御繕御修復仕様
一杭四本根巻鉄物
内西ゟ
四側目 北中杭巻鉄物下壱枚新規仕足
八側目 南中杭同断下壱枚有来巻直し
十五側目 南耳杭同断下壱枚同断
十八側目 南耳杭同断下壱枚同断
〆
右巻鉄物壱枚新規長六尺弐寸巾弐寸厚弐分
鉄目壱貫四百八拾八目付外三枚は古鉄物取揚ケ
有之候分焼直相用長三寸平鋲百本鉄目
四百目付壱枚え廿六本宛打堅メ可申
一杭弐本埋木
内西ゟ
拾弐側目 北耳杭埋木長九尺巾五尺
拾八側目 北耳杭同断長六尺巾弐尺
〆
右杭朽腐ニ応し彫取槻長六尺ゟ九尺迄
巾三寸厚壱寸五分ゟ弐寸迄杭木え馴染能埋
込長三寸貝折釘壱本鉄目五目付板壱枚え
八寸間ニ打付可申
一高欄頬柄四十ケ所 但《割書:南側廿壱所|北側拾九所》
右頬柄杉長四尺大サ四寸角長四寸貝折
釘壱本鉄目拾目付壱ケ所え四本宛打付
同請板同木長五尺巾七寸厚三寸長六寸
貝折釘壱本鉄目廿目付壱ケ所え四本宛打
付可申
一敷板埋木三百ケ所程
右は朽腐ニ応し彫取桧長三尺ゟ八尺迄
鋪板え馴染能埋込大五寸釘板壱枚え拾
五本宛打堅メ可申
右御入用内訳
一槻拾五枚 長弐間 《割書:巾三寸|厚壱寸五分ゟ弐寸迄》 杭埋木
代銀三拾九匁 但壱枚銀弐匁六分
一杉板四拾枚 長五尺 《割書:巾七寸|厚三寸》 頬柄受板
代銀百六拾匁 但壱枚銀四匁
一同四拾本 長四尺 四寸角 同柄木
代銀五拾三匁弐分 但壱本拾壱匁三分三厘
一桧百五拾本 長弐間 《割書:巾壱寸五分ゟ四寸迄|厚弐寸》 鋪板埋木
代銀弐百四拾七匁五分 但壱本銀壱匁六分五厘
材木
〆銀四百九拾九匁七分
一長六寸貝折釘百六拾本
代銀三拾弐匁 但百本銀弐拾匁
是は頬柄受板壱本四本打四拾本分
一長四寸欠折釘百六拾本
代銀拾六匁 但百本銀拾匁
是は頬柄受板壱本四本打四拾本分
一長三寸貝折釘百五拾本
代銀七匁五分 但百本銀五匁
是は杭埋木板壱枚拾本打拾五枚分
一大五寸釘弐千弐百五拾本
代銀四拾五匁五分 但百本銀弐匁五分
是は敷板埋木板壱枚拾五本打百五拾枚分
一巻鉄物壱枚 長六尺弐寸 《割書:巾弐寸|厚弐分》 鋲穴廿六
代銀弐拾匁七分六厘
一古巻鉄物三枚焼直し
代銀拾三匁弐分三厘
一長三寸平鋲百四本
代銀五匁四分弐厘 但百本銀五匁弐分壱厘
是は巻鉄物壱枚廿六本打四枚分
釘鉄物
〆銀百四拾四匁四分壱厘
一大工六拾九人
代銀三百四拾五匁 但壱人銀五匁
内
四 人 杭埋木壱本弐人懸り弐本分
弐 人 巻鉄物打付方
十八人 頬柄仕付方四十ケ所分
四十五人 敷板埋木三百ケ所分
〆
一鳶人足四拾四人
代銀百三拾弐匁 但壱人銀三匁
内
四 人 杭埋木足代仕付方
拾三人 頬柄四十ケ所手伝方
弐 人 巻鉄物四枚打付方手伝
廿五人 敷板埋木三百ケ所分
〆
一通船丸太縄諸道具損料物并運送賃共
代銀四拾七匁
諸方
〆銀五百弐拾弐匁
三口
〆銀壱貫百六拾六匁壱分壱厘
此金拾九両壱分銀拾壱匁壱分壱厘
右之通御入用積り立奉差上候若相違之義も
御座候ハヽ仕直可奉差上候以上
霊岸島川口町
家持
亥十月 伝 吉印
永代橋外一橋小破御修復并道造等出来仕候儀
申上候書付
御届 本所見廻
永代橋大川橋小破御修復并道造等両度伺之通
被仰渡候間先月十四日ゟ取懸り昨 日迄ニ出来
仕候間私共立合見分仕候処仕様帳之通無相違
出来仕候依之出来形帳弐冊相添此段
申上候以上
十二月 日 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
その四半帳【朱記】
永代橋小破御修復出来形帳
亥十二月
一永代橋 長田舎間百拾間
巾同三間壱尺五寸
杭三拾側 但杭数百拾四本
右橋杭之間五拾弐本根包板杉新木仕付
巻鉄物新規廿九枚焼直し四拾五枚仕付平鋲打堅メ
杭弐本朽腐之所槻新木埋矧付貝折釘打堅メ
敷板朽腐之ケ所桧新木埋込大五寸釘打付
橋番屋屋根板塀高札場矢来台行灯共脇
并東西往還道造百六拾五坪余掘起し足土「致」【見え消し】
敷平均突堅メ都而元形之通仕付
右之通御座候以上
亥十二月
大川橋小破御修復出来形帳
亥十二月
一大川橋 《割書:長田舎間八拾三間|巾同三間壱尺五寸》
杭廿三側 但杭数八拾六本
右橋杭之間四本根包板杉新木仕付巻鉄物
新規壱枚焼直し三枚仕付平鋲打堅メ杭弐本
朽腐之所槻新木埋込高欄頬柄四十箇所
杉新木ニ而仕付何レも貝折釘打堅メ敷板朽腐之
箇所桧新木埋込大五寸釘打堅メ橋番屋屋根
取繕并東西橋台道造廿四坪掘起し足土鋪
平均突堅メ都而元形之通仕付
右之通御座候以上
亥十二月
永代橋外一橋小破御修復并道造等御入用
御下ケ之儀申上候書付
町年寄え御断 本所見廻
永代橋小破御修復并道造其外取繕
両度分御入用
一金四拾三両銀八分四厘
大川橋同断
一金弐拾弐両銀壱匁六分壱厘
右は先達而両度伺之上霊岸島川口町
家持伝吉え御修復受負申付此節出来仕候間
右御入用同人え相渡候様町年寄え被仰渡
可被下候以上
十二月 日 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
嘉永四亥年十二月
左衛門尉殿御懸り
《割書:永代橋|大川橋》小破御修復書留
亥十二月四日森本与三郎持参高林忠太夫を以上ル
同九日承り付可致旨御下ケニ付翌十日彦五郎持参御返上
【右二行は朱記】
永代橋外一橋橋台并助成地往還道造
高札場其外御取繕之儀奉伺候書付
書面伺之通伝吉え受負可申旨
被仰渡奉承知候
亥十二月九日 本所見廻
永代橋東西助成地往還地底之上不陸相成
水仕不宜大川橋東西橋台之儀も同様ニ而
往来人難渋致候間道造御座候様仕度且橋
番屋塀庇廻り并橋中番屋高札場等
損所出来ニ付御取繕之儀右橋番人并掛り
名主共ゟ相願候付見分仕候処申立候通無相違
候付省略仕右御修復御入用積霊岸島
川口町家持伝吉え申付候処左之通申立候
永代橋助成地往還道造其外御入用
一金拾壱両壱分銀壱分
大川橋橋台道造其外御入用
一金弐両弐分銀五匁五分
右之通ニ而此上減方無御座旨申立前々御入用ニ
見合取調候処不相当之儀も相見え不申候間
前書金高ニ而伝吉え受負可被仰付候哉別
紙仕様内訳帳弐冊相添此段奉伺候
本文御入用之儀は三橋目当高之内ゟ御出方
相成申候【この2行は朱記】
以上
亥十二月 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
ヒレ付【朱記】
書面永代橋外一橋橋台其外御修復
御入用高取調候処不相当之儀相見不申
候間一応町年寄え御下ケ之上本所
見廻伺之通被仰渡可然哉ニ奉存候
亥十二月 年番
永代橋外一橋道造其外御取繕御入用出方之儀申上候
書付
館 市右衛門
本所方奉伺候
永代橋助成地往還道造其外御入用
一金拾壱両壱分銀壱分
大川橋橋台道造其外御入用
一金弐両弐分銀五匁五分
右御入用三橋目当高之内ゟ御出方相成差支
無御座候間本所方伺之通可被仰付候哉則御渡
被成候伺書御入用内訳書弐冊返上仕此段
申上候以上 館 市右衛門
亥十二月
大川橋東西橋台道造并橋番屋御繕御修復
仕様御入用内訳帳
亥十一月
大川橋東西橋台地形道造仕様
東西
一橋台 《割書:長三間|巾四間》 但拾弐坪宛 弐ケ所
右地形惣体堀起し足土三坪餡ニ入掘起土
衣ニ懸ケ突堅メ砂利五合敷平均可申
右御入用内訳
一人足廿人
代銀六拾匁 但壱人銀三匁
一足し土三坪
代銀三拾匁 但壱坪銀拾匁
〆銀百廿七匁五分
此金弐両七匁五分
東之方
一橋番屋柿庇 《割書:長弐間|巾三尺》 壱ケ所
右庇朽腐候ニ付杉枌板ニ而壱寸弐分足ニ
葺直し板手間共
代銀拾三匁
一橋中番屋 《割書:長六尺|横三尺》 棟高六尺五寸 壱ケ所
右番屋屋根葺替杉板十枚巾壱尺厚四分
板壱枚並へ目板は棟木共打付其外惣体釘〆
直し取繕可申
右御入用内訳
一杉板十枚 長六尺 《割書:巾壱尺|厚四分》 橋中番屋屋根板
代銀六匁 但壱枚銀六分
一同壱本 長六尺 弐寸角 同 上棟木
代銀壱匁五分
一大工壱人
代銀五匁
一釘一式
代銀弐匁五分
〆銀拾五匁
右三口合
金弐両弐分銀五匁五分
右之通御入用積り立奉差上候若相違之儀も
御座候ハヽ仕直可奉差上候以上
霊岸島川口町
家持
亥十一月 伝吉印
永代橋東西地形道造り并橋番屋其外御繕
御修復仕様御入用内訳帳
亥十一月
永代橋東西御高札場駒寄并橋中番屋
板塀共御繕御修復仕様
東西
一御高札場駒寄 《割書:長五尺弐寸|横三尺五寸》 高サ三尺 弐ケ所
右土台朽腐候ニ付竪土台桧四本長六尺
中五寸厚四寸五分横土台同木四本長三尺
五寸巾厚同断如元堀葦ニ仕込建子根懸
三寸切下ケ居堅メ串受木同木弐本長
六尺巾五寸厚弐寸五分元形之通打付可申
一橋中番屋 大サ《割書:長六尺|横三尺》 棟高サ六尺五寸 壱ケ所
右番屋屋根葺替杉板十枚巾壱尺厚四分
壱枚並へ目板上棟木共打付其外惣体釘〆
直し取繕可申
西之方
一台行灯 大サ《割書:弐尺四方|高火袋共五尺》 壱ケ所
右台大破ニ付框木松弐寸長弐間大サ弐寸角
元形之通組建杉四分板打付行灯釘〆直し
惣体渋墨塗致可申
一橋番屋板塀折廻し 《割書:表延四間半|高サ六尺》 壱ケ所
右板塀惣体朽損し候ニ付土台栗三本長
弐間同木壱本長壱間大サ四寸角柱杉弐本
長弐間同木壱本長壱間大サ四寸角通し貫
弐タ所雨押共杉長弐間大貫拾挺中窓壱間ニ
三尺之打付格子杉長弐間小割十本板塀
松板三拾五枚長六尺巾九寸厚六分都而元形
之通り丈夫ニ仕付渋墨塗致可申
右御入用内訳
一桧四本 長六尺 巾五寸 御高札場駒寄
厚四寸五分 竪土台
代銀弐拾匁 但壱本銀五匁
一同四本 長三尺五寸 巾厚同断 同 横土台
代銀拾匁 但壱本銀弐匁五分
一同弐挺 長六尺 巾五寸 同
厚弐寸五分 串受木
代銀五匁 但壱挺銀弐匁五分
一杉板十枚 長六尺 巾壱尺 橋中番屋
厚四分 屋根板
代銀六匁 但壱枚銀六分
一杉壱挺 長六尺 弐寸角 同 上棟木
代銀壱匁五分
一松弐本 長弐間 大サ弐寸角 行灯台框
代銀壱匁六分 但壱本銀八分
一松板五枚 長六尺 巾壱尺 同所え打
厚四分
代銀三匁 但壱枚銀六分
一栗三本半 長弐間 大サ四寸角 板塀土台
代銀拾七匁五分 但壱本銀五匁
一杉弐本半 長弐間 大サ四寸角 同 柱
代銀七匁 但壱本銀弐匁八分
一同大貫十挺 長弐間 同通し貫
雨押
代銀拾五匁 但壱挺銀壱匁五分
一杉小割十本 長弐間 同窓格子
代銀七匁 但壱本銀七分
一松六分板三拾五枚 巾九寸 板塀
代銀廿八匁 但壱枚銀八分
一釘一式
代銀七匁五分
一大工拾弐人
代銀六拾匁 但壱人銀五匁
一人足四人
代銀拾弐匁 但壱人銀三匁
一渋墨塗一式
代銀三匁
〆銀弐百四匁壱分
此金三両壱分銀九匁壱分
同所東西地形道造り仕様
東之方
一道造四拾六坪余 佐賀町往還地境迄長七間
但弐尺懸り足土坪 横橋際ニ而四間
拾五坪三合三勺 佐賀町之方ニ而拾間折廻り
西之方
一同断百拾九坪 橋際ゟ西之方え長三十四間
但壱尺懸り足土坪 巾同所ニ而四間西之方ニ而
拾九坪八合三勺 三間
坪合百六拾五坪余
足土坪合三拾五坪壱合六勺
右地形惣体堀起し足土東西橋際ニ揚ケ
有之候深川筋川浚土凡十九坪程持込敷
平均不足之分十六坪壱合六勺は川縁土
刎揚ケ水絞り餡ニ突込掘起し土衣ニ懸ケ
敷平均突堅メ可申
右御入用内訳ケ
一人足百廿五人
代銀三百七拾五匁 但壱人銀三匁
一足し土十六坪壱合六勺堀方
人足三十弐人
代銀九拾六匁 但壱人銀同断
〆銀四百七拾壱匁
此金七両三分銀六匁
右弐口合
金拾壱両壱分銀壱分
右之通御入用積立奉差上候若相違之儀も
御座候ハヽ仕直し可奉差上候以上
霊岸島川口町
家持
亥十一月 伝 吉印
乍恐以書付奉願上候
永代橋定番人利助伊之助奉申上候当御橋際
御高札場其外損所左之通御修復奉願上候
一御橋東西御高札場 弐ケ所
此御高札場駒寄土台共朽損申候
一東御橋番屋大川岸板塀
此板塀大川岸之方長三間壱尺後口之方
長五尺并前之方三尺引戸共朽損申候
一西御橋番屋出行灯
此出行灯台廻り朽損申候
一御橋上箱番屋
此箱番屋家根廻り并柱木朽損申候
右之通御座候間損所御修復被成下置候様奉願上候
以上
永代橋定番人
嘉永四亥年十一月廿五日 利 助
伊之助
本所 右橋懸り 理平次
御掛 様 名主 市郎次
乍恐以書付奉願上候
一永代橋定番人利助伊之助奉申上候当御橋東
西広小路往還不陸之場所有之往来之者
難渋仕候間別紙絵図面之場所道造
御修復被成下置候様奉願上候以上
永代橋定番人
嘉永四亥年十一月廿五日 利 助
伊之助
右橋懸り
名主
理平次
市郎次
本所
御掛り様
亥十二月十五日森本与三郎持参
浅野従兵衛を以上ル
【右2行は朱記】
永代橋外一橋小破御修復并道造出来仕候儀
申上候書付
御届 本所見廻
永代橋大川橋小破御修復并道造等両度
伺之通被仰渡候間先月十四日ゟ取懸り昨
十四日迄ニ出来仕候間私共立合見分仕候処
仕様帳之通無相違出来仕候依之出来形帳
弐冊相添此段申上候以上
十二月十五日 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
永代橋小破御修復出来形帳
亥十二月
一永代橋 長田舎間百拾間
巾同三間壱尺五寸
杭三拾側 但杭数百拾四本
右橋杭之内五拾弐本根包板杉新木仕付
巻鉄物新規廿九枚焼直し四拾五枚仕付平鋲打
堅メ杭弐本朽腐之所槻新木埋木矧付貝
折釘打堅メ敷板朽腐之ケ所桧新木埋込大五寸
釘打付橋番屋屋根板塀并高札場ノ矢来
台行灯共取繕并東西往還道造百六拾五坪余
掘起し足土敷平均突堅メ都而元形之通仕付
右之通御座候以上
亥十二月
大川橋小破御修復出来形帳
亥十二月
一大川橋 長田舎間八拾三間
巾三間壱尺五寸
杭廿三側 但杭数八拾六本
右橋杭之内四本根包板杉新木仕付巻
鉄物新規壱枚焼直し三枚仕付平鋲打堅
杭弐本朽腐之所槻新木埋込高欄頬柄
四拾ケ所杉新木ニ而仕付何レも貝折釘
打堅敷板朽腐之ケ所桧新木埋込
大五寸釘打付橋番屋屋根取繕并東西
橋台道造廿四坪掘起し足土敷平均
突堅メ都而元形之通仕付
右之通御座候以上
亥十二月
亥十二月十五日森本与三郎持参浅野従兵衛
を以上ル同廿日御金相渡ル
【右2行は朱記】
永代橋外一橋小破御修復并
道造等御入用御下ケ之儀申上候書付
町年寄え御断 本所見廻
永代橋小破御修復并道造
其外取繕両度分御入用
一金四拾三両銀八分四厘
大川橋
一金弐拾弐両銀壱匁六分壱厘
右は先達而両度伺之上霊岸島
川口町家持伝吉え御修復受負
申付此節出来仕候間右御入用同人え
相渡候様町年寄え被仰渡可被
下候以上
十二月十五日 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
即日願之通申付ル【朱記】
乍恐以書付奉願上候
一永代橋定番人利助伊之助奉申上候当
御橋東西広小路往還不陸之場所
道造御修復被成下置難有奉存候然ル処
東西広小路商床前不陸之場所
別紙絵図面之通出商人共入用を以
道造仕度何卒御聞済被成下置候様
乍恐此段奉願上候以上
嘉永四亥年十二月十八日
永代橋定番人
利 助
同 伊之助
右橋掛り
深川熊井町
名主 理平次
本所 同所材木町
御掛り様 同 市郎次
乍恐以書付御訴奉申上候
一永代橋定番人利助伊之助奉申上候当御橋
東西広小路往還不陸之場所道造御修復
被成下置難有奉存候然ル処東西広小路
商床前不陸之場所出商人共入用を以道
造仕度段当月十八日奉願上候得は御見分
之上願之通被 仰付難有仕合奉存候
然ル処右道造皆出来仕候ニ付乍恐此段
御訴奉申上候以上
永代橋定番人
嘉永四亥年十二月廿二日 利 助
同 伊之助
右橋掛り
深川熊井町
名主理平次
本所 同所材木町
御掛り様 市郎次
嘉永五子年四月九日
伊勢守殿え御直上ル同十二日御同人御書取添長谷川又三郎を以御下ケ承り付致候
【右2行は伊勢守殿以外朱記】
両御役所掛り分之儀奉伺候書付
書面伺之通可心得旨
被仰渡奉承知候
子四月十二日 井戸対馬守
元遠山左衛門尉御役所取扱
一御肴青物
一三 橋 江戸向本所深川橋々【江戸以下朱記】
一油
一御鷹餌鳥
一市中取締并諸色調掛
一諸問屋組合再興掛り【この行朱記】
対馬守御役所取扱
一米
一蔵宿
一酒
一江戸向本所深川橋々 三橋【2文字のみ朱記】
一市中取締并諸色調掛り
一諸問屋組合再興掛り【この行朱記】
右は去ル寅年正月遠山左衛門尉鳥井甲斐え
御書付を以被仰渡尚又同年五月七日市中
取締諸色調之儀甲斐重モ掛り之処
左衛門尉打混同様相勤候様被仰渡其
以来追々先役共被仰付候節申合是迄
之通据置候旨申上置候然ル処永代橋
新大橋大川橋三橋之義は前之私御役所
取扱ニ而江戸向本所深川橋々は従来
元遠山左衛門尉御役所取扱ニ御座候間
今般旧復仕候得は弁利も宜御座候ニ付
朱書之通引替取扱候様可仕候哉且又
諸問屋組合再興之儀南北御役所え
引分ケ取調候旨去亥三月申上置引分ケ
相調罷在候間右慮書え朱書之通認入候
積り池田播磨守申合候様可仕候哉此段
奉伺候以上
子四月 井戸対馬守
子四月十二日伊勢守殿御書取長谷川又三郎を以御渡し
【右1行朱記】
書面伺之通可被心得候事
嘉永六丑年ヨリ
三橋夜番人増御手当願之義
取調候書面
北方掛
嘉永六年
丑三月十六日持田太郎助持参竹村慈左衛門を以上ル
同九月十三日同人持参松本直衛を以上ル此書面都筑
十左衛門え御下ケ同十月朔日竹村慈左衛門ヲ以伺之通可申
付候様持田太郎助え御渡【以上朱記】
永代橋外弐橋助成地橋番人其外之者共
夜番相勤候ニ付御入用増願之儀奉伺候書付
本所見廻
一去子年正月中火之元守方之儀市中
町々え厳重之被仰渡有之永代橋
外弐橋助成地内之儀も毎年十月ゟ
三月迄橋番人并同所え出商人共申合
両人宛橋番所え相詰夜番仕候得共厳重
被仰渡候後は小半時相廻り候ニ付半夜代り
合不仕候而は難行届右之内病気差合
等ニ而自然人少之節抔夜番も引続相勤候
義ニ付夜番中増御手当被下置候様別紙
之通願出候ニ付勘弁仕取調候処是迄三橋
御入用定式臨時共去子年は閏月御座候「間」而
見合ニ難相成去々亥年壱ケ年御入用
三橋ニ而弐百九拾両三分銭五百拾三文相掛
子年以前迚も守方等閑之儀は不申聞候
得共是迄之姿ニ而は不行届候間夜番中御
入用四拾六両三分銭五百文相増候旨申立候間
相糺候処諸雑費等相掛り候ニは無相違左
候ハヽ壱ケ年弐口合金三百三拾七両弐分
弐朱銭弐百拾三文相成御入用増ニは候得共
市中町々ニ而も町入用相増旁三橋之儀も
無余儀相聞別段御入用増相願候儀ニ付
御聞済も無御座候而は自然手当向不
行届守方相弛ミ候而は御趣意ニも相振
厚御世話も御座候折柄ニも御座候間右
願之通被仰渡候ハヽ当十月ゟ来三月迄
六ケ月分之御入用年々御渡し御座候様
仕度奉存候依之別紙願書并書付とも
弐通相添此段奉伺候
但本文御入用出方之儀は町年寄方
に而取扱候三橋目当地代金之内ゟ被下
置候儀ニ御座候間年番并町年寄え被
仰渡候様奉存候【以上4行は朱記】
以上
丑三月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
年番鰭付【朱記】
書面永代橋外弐橋助成地内火之元守方毎年
十月より三月迄橋番人并同所出商人共申合両人ツヽ
橋番所え相詰夜番致候得共火之元厳重被仰出候
後は小半時廻りいたし病気差合等之節は来
番引続相勤候ニ付夜番中六ケ月分増
御手当御入用金四拾六両三分銭五百文相増候旨
橋番人掛り名主共申立願之通被仰渡候得は
当十月ゟ来三月迄六ケ月分御入用年々御渡
御座候様仕度旨本所見廻申上候趣無余義筋
に付増御入用御渡尤年々九月本所見廻より
相伺橋番人掛名主共え火之元守方夜中
小半時廻等厳重ニ相勤候様右見廻ゟ申渡候ハヽ
毎年際立流弊不仕可然哉ニ奉存候
丑九月 年 番
谷村源左衛門
都筑十左衛門
【名前は朱記】
町年寄鰭付【朱記】
書面永代橋外弐橋助成地火之元厳重
守方被仰渡候ニ付夜番増御手当御入用之儀
橋番人并掛り名主共願之趣本所見廻り申上候通
御聞済相成候ハヽ三橋目当高并同所助成地
地代金之内ゟ相渡可申候尤渡方之儀ハ当
十月ゟ十二月迄三ケ月は当年番ゟ相渡正月ゟ
三月十月ゟ十二月迄六ケ月分明年ニ相渡候様
可仕奉存候
丑九月 館市右衛門
喜多村彦右衛門
樽藤左衛門
【右は江戸町年寄三家】
ヒレ付
書面伺之通夜番増御手当御入用
被下置尤年々九月伺候上厳重ニ
火之元守方流弊不仕様橋番人
掛り名主共え可申渡旨被仰渡奉承知候
丑十月朔日 本所見廻
乍恐以書付奉申上候
一 三橋定番人共掛り名主共奉申上候右御橋東西助成地
夜番之儀は是迄毎年十月ゟ三月迄一夜両人宛西之方
番屋え相詰夜番仕候処去子年正月中ゟ町々火之元守
方厳重御触ニ付助成地之儀も水溜桶も手当仕夜番等
橋附之者ともは勿論勤方も精々申合相勤候処一体
助成地出商人共は町々ニ住居致候ニ付住所町並之番役
相勤候ニ付御橋附之一方番役難相勤者共ニ御座候ニ付番人
出商人申合一夜弐人ツヽ相詰候得共小半時廻り等厳重ニ
相勤候ニ付半夜代り合も不仕候而は難行届候処番人共
儀は橋御用等有之候節は勿論病気差合等ニ而自然
人少ニも至候得ハ自ラ夜番勤方も引続相勤候様ニも罷成
候儀ニ付別段夜番中増御手当被下置候様奉願上候
并夜番入用も去亥年迄之取賄方ニ而は行届兼候間
別紙之通毎年十月ゟ三月迄御橋入用御下ケ被下置候様
御慈悲奉願上候以上
永代橋定番人
嘉永六丑年正月 利 助
伊之助
右橋掛り
深川熊井町
名主 理平次
同所材木町
同 市郎次
新大橋定番人
善四郎
右橋掛り
深川海辺大工町
名主 八左衛門
同所平野町
同 甚四郎
大川橋定番人
五郎右衛門
右橋掛り
浅草西仲町
名主 吉左衛門
同所山之宿町
同 三郎左衛門
本所
御掛り様
永代橋夜番入用
壱ケ月増
一 炭六俵 壱俵ニ付
此代銭弐貫四百文 銭四百文
同増
一 蝋燭六拾挺 百文ニ付
此代銭七百四拾八文 八挺物
同
一 増御手当 一夜壱人ニ付
此銭九貫文 銭百四拾八文
同増
一 粥代銭四貫五百文 壱夜
銭百四拾八文
〆銭拾六貫六百四拾八文
此金弐両弐分銭六百四拾八文 但金壱両ニ付
銭六貫四百文替
右之通御座候以上
丑正月 永代橋
定番人共
掛り
名主共
新大橋夜番入用
壱ケ月増
一 炭六俵 壱俵ニ付
此代銭弐貫四百文 銭四百文
同増
一 蝋燭六拾挺 百文ニ付
此代銭七百四拾八文 八挺物
同
一 増御手当 壱夜壱人ニ付
此銭九貫文 銭百四拾八文
同増
一 粥代銭四貫五百文 壱夜
銭百四拾八文
〆銭拾六貫六百四拾八文
此金弐両弐分銭六百四拾八文 但金壱両ニ付
銭六貫四百文替
右之通御座候以上
丑正月 新大橋
定番人共
掛り
名主共
大川橋夜番入用
壱ケ月増
一 炭六俵 壱俵ニ付
此代銭弐貫四百文 銭四百文
同増
一 蝋燭六拾挺 百文ニ付
此代銭七百四拾八文 八挺物
同
一 増御手当 壱夜壱人ニ付
此銭九貫文 銭百四拾八文
同増
一 粥代銭四貫五百文 壱夜
銭百四拾八文
〆銭拾六貫六百四拾八文
此金弐両弐分銭六百四拾八文 但金壱両ニ付
銭六貫四百文替
右之通御座候以上
丑正月 大川橋
定番人共
掛り
名主共
三橋壱ケ年御入用高并今般奉願候夜番入用六ケ月分
〆高御尋ニ付左ニ申上候
夜番入用
当丑十月ゟ三月迄六ケ月分増
一 金拾五両弐分銭七百文 永代橋
末記 下ケ札【画像73】
去々亥年壱ケ年 【以下6行朱記】
定式臨時御入用高
一 金百四両三分銭弐百三拾六文
墨書朱書
弐口
合金百弐拾両壱分弐朱銭百三拾六文
夜番入用
当丑十月ゟ三月迄六ケ月分増
一 金拾五両弐分銭七百文 新大橋
去々亥年壱ケ年 【以下6行朱記】
定式臨時御入用高
一 金八拾弐両銭百八拾三文
墨書朱書
弐口
合金九拾七両弐分弐朱銭八拾三文
夜番入用
当丑十月ゟ三月迄六ケ月分増
一 金拾五両弐分銭七百文 大川橋
去々亥年壱ケ年 【以下6行朱記】
定式臨時御入用高
一 金百四両銭八拾六文
墨書朱書
弐口
合金百拾九両弐分銭七百八拾六文
右御尋ニ付取調申上候以上
嘉永六丑年正月 永代橋定番人
利 助
伊之助
右橋掛り
深川熊井町
名主 理平次
同所材木町
同 市郎次
新大橋定番人
善四郎
右橋掛り
深川海辺大工町
名主 八左衛門
同所平野町
同 甚四郎
大川橋定番人
五郎右衛門
右橋掛り
浅草西仲町
名主 吉左衛門
同所山之宿町
同 三郎左衛門
本所
御掛り様
下ケ札
本文御入用高之内臨時之儀ハ三橋共其時々
増減有之見居相成兼候ニ付去子年は閏
月御座候間本文之通去々亥年壱ケ
年分を以申上候儀ニ御坐候
嘉永六丑年十月両御役所え差出ス【この行朱記】
対馬守殿御懸
永代橋外二橋助成地内夜番増御手当
御入用之儀申上候書付
御届 本所見廻
去子正月中火之元守方厳重被仰
出候ニ付永代橋外二橋助成地内之義も
橋番人出商人共申合橋番所え相詰夜番
仕差合等ニ而人少之節も夜番引続相勤候
儀ニ付夜番中増御手当御入用三橋ニ而
十月ゟ三月迄六ケ月平均四拾六両三分
銭五百文相懸り候間御下ケ金被成下候様
願出候ニ付取調候処諸雑費等相懸り候段は
無相違相聞候間対馬守殿え相伺候処増
御手当之儀は願之通被下置尤火之元守方
流弊不致様毎年九月ニ至相伺可申旨
被仰渡候間右橋番人并掛名主共一同
昨日鯨船鞘番所え呼出私共立合願通
申渡候依之此段申上置候以上
丑十月 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
嘉永七寅年九月廿九日北御役所ゟ被遣之
ヒレ付いたし十月八日返上【以上2行朱記】
書面永代橋外弐橋助成地内
火之元守り方之儀ニ付本所見廻
申上候夜番増御手当都而昨年之通
被仰渡可然と奉存候
寅九月 年番
【右3行目の都而は朱記挿入】
永代橋外弐橋助成地橋番人其外之もの共
夜番相勤候ニ付御入用御下ケ之儀申上候書付
町年寄え御断 本所見廻り
○町年寄ヒレ付末ニ記ス【朱記】
永代橋外弐橋助成地橋番人并同所出商人共夜番相勤候ニ付
御入用増之儀去丑年三月中伺之通被 仰渡御下ケ被下置候間
当年も十月ゟ来三月迄六ケ月分之御入用昨年之通御下ケ
被下置候様仕度旨右橋番人懸り名主共別紙之通願出候ニ付右
御入用月々相渡し候様町年寄え被仰渡御座候様仕度奉存候依之
別紙願書壱通相添此段申上候以上
寅九月
加藤又左衛門
中村八郎左衛門
書面昨年之通相心得三橋目当高并同所
助成地地代金之内を以冬春三ケ月宛年跨
私共昨年取扱番ゟ相渡候様可仕候
寅十月 館市右衛門
喜多村彦右衛門
樽藤左衛門
安政二卯年九月北御役所え差出ス
九月廿九日持田太郎介持参竹村慈左衛門ヲ以上ル
【右2行朱記】
永代橋外弐橋助成地橋番人其外之もの共
夜番相勤候ニ付御入用御下ケ之儀申上候書付
町年寄え御断 本所見廻
永代橋外弐橋助成地橋番人并同所出商
人共夜番相勤候ニ付御入用増之儀去ル丑年
三月中伺之通被 仰渡御下ケ被下置候間
当年も十月ゟ来三月迄六ケ月分之御入
用昨年之通御下ケ被下置候様仕度旨右橋
番人掛り名主共別紙之通願出候ニ付右御入用
月々相渡し候様町年寄え被仰渡御座候様
仕度奉存候依之別紙願書壱通相添此段
申上候以上
卯九月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
乍恐以書付奉願上候
一三橋定番人共掛り名主共奉申上候例年之通来ル
十月朔日ゟ市中厳重番被仰出候上ハ右御橋夜番
之儀も同様相勤候ニ付去十月中御聞済被成下置候
通夜番中炭蝋燭粥代并番人共増御手当共
壱ケ月一橋ニ付銭拾六貫六百四拾八文ツヽ三橋分
合壱ケ月銭四拾九貫九百四拾八文当十月より
来三月迄月々御下ケ被成下置候様一同奉願上候以上
永代橋定番人
安政二卯年九月 利 助
伊之助
右橋懸
深川材木町
名主 市郎次
同所熊井町
同 理平次
新大橋定番人
善四郎
右橋懸
深川海辺大工町
名主 八左衛門
同所平野町
同 甚四郎
大川橋定番人
五郎右衛門
右橋懸
浅草西仲町
名主 吉左衛門
同所山之宿町
同三郎右衛門幼年ニ付
後見 兵蔵
本所
御掛様
子正月十二日
伊勢守殿え御直上ル同十四日伺之通可取計旨御直
御書取御渡同十六日承付いたし荒井甚之丞ヲ以返上
【右3行朱記】
火之元守方之儀ニ付奉伺候書付
書面伺之通取計可申旨
被仰渡奉承知候 井戸対馬守
子正月十四日 町奉行
火之元之儀是迄度々被 仰出近頃別而
厳敷申渡候次第も有之候処旱打続
候故歟度々火事沙汰も有之春先は
別而大火等も有之事故此上市中
末々迄厳重火之元心付候様可申渡
尤申渡而已ニ而は徒法ニ相成候間町内
昼夜共相互ニ心付廻り等四月頃迄は
是迄ゟ一際厳重ニ可取計左候得は
自然町入用も相掛り候儀ニ候得共
是等は脇前之小事出火有之銘々
焼失いたし候得は大ナル災害ニ而其処を
市中末々迄能々心得軽キもの共心得
違無之様名主共は勿論町役人共えも
厚説得いたし此後火事沙汰無数
相成候様世話可致旨御書取を以被仰渡候
此儀火之元之儀ニ付而は前々ゟ厳重之
触申渡も有之冬春之内は別而
守方之儀申渡置其上御沙汰有之候
節は猶更厳敷申付候儀ニ而一体
去ル丑年并午年両度大火之
如キは天災とも可申哉ニ候得共
実は一夫一婦之過失ゟ生し候儀ニ而
精密ニ入念候得は先は火災は無之
筋ニ候得共御府内之土地四方平遠之
場所故風当強ク殊ニ人家建続
立錐之地も無之処諸国之人民
輻湊【輳】いたし銘々渡世之営ミ繁ク
混雑いたし候ゟ出火いたし候儀ニ而享保
年中ニも厚ク御世話有之風烈ニ付
土砂吹散シ商ものをも仕舞候程を
曲尺合ニ仕風番之ものを定出火を
心付或は他出を禁候趣相触候書留
有之文政十三寅年火之元守り方
掟書相渡大風之節は月番之
奉行所より相触次第風止候迄は
諸職諸商売共相休他出不致様
相触置候得共風烈と申境目心得方
一定不仕候而は区々相成候間私とも
月番之御役所え小口年番名主共
呼出守り方之儀申渡右之もの共ゟ
為触継候処手広之市中急速ニは
難行届其上程経候ニ随ひ自然
心得方相弛ミ候場合ニも成行候儀ニ
有之今般御沙汰之通一ト通之触
申渡等仕候迄之儀は其当座而已ニ而
徒法ニ相成御世話之詮も無之候間
此上取締方之儀厚勘弁評議仕
候処風無之節も今度米沢町
出火之如く焼募候儀も有之候得共
右は乾き軽キ折柄建込之場所
水之手弁利不宜故之儀ニ而仮令
何程焼広がり候迚弐三町ニは過キ
不申候処可恐は烈風之砌ニ付
右守り方之儀以来市中店々之もの
五人三人程ツヽ組合相立冬春之際
右組合相互ニ心付烈風吹出候得は
奉行所より日本橋を境南之方は
通壱丁目北之方は室町壱丁目
自然番屋え組同心差遣火之元
守り方心付之拍子木を為打追々
打継
御城を隔候町又は武家屋敷
寺院等を打越候場所は打継候
末之町より申通右同様仕候ハヽ
暫時ニ御府内市中は不残行届
可申右拍子木を承り候得は名主は
自身番屋え相詰世話いたし家主共は
無間断相廻り右組合相立候店々
五人組之ものも相互ニ火所等得と
相改若等閑之ものも有之候ハヽ
其段早速奉行所え申立候様
申渡且又私共組廻り之もの共
無油断相廻り町役人共精不精之
様子為見届守り方厳重ニ
行届候町ニは褒美為取遣等閑
之ものは急度及沙汰候様仕候ハヽ
行届可申哉ニ付文政度町触之
文段差略いたし掟書えケ条追加仕
別紙之通町々え相触名主共えも
心得方説得可仕と奉存候依之
右町触申諭書案并去ル寅年之
町触掟書写とも相添此段奉伺候
以上
子正月 遠山左衛門尉
井戸対馬守
町触案
火之元之儀は大切之事ニ付古来ゟ
追々町触申渡も有之平日迚も格別ニ
心付候は勿論別而大風之節は猶更
厳重ニ可心付筋緊要之儀ニ付月番之
奉行所より相触次第風相止候迄は
諸職諸商売共相休他出不致
最早他行いたし候ものは早々立帰り
火之元之一途を相守火之番行事
共え家主共壱両人加り町抱人足
召連たへす町内を相廻り火之元
触歩行名主は支配町々を見廻り
心付候様可致尤右触出シ無之候とも
風烈ニ而空之色変り候程之儀ニ候ハヽ
一同右同様相心得可且出火之節
之心得并火之元心得方之儀は条目
書付を以触示シ候間木戸番屋表
店は家毎裏家之分は路次口え
張置精々厚相心得無油断相守り
可申旨文政十三寅年触置候処
程経候ニ付心得方相弛ミ等閑之
町々も有之哉ニ相聞不埒之至ニ候
尤大風之節は月番之奉行所より
触出し候とはいへとも市中場広之
儀町役人共心得方ニ寄自然触次
遅延いたし急速ニは難行届哉ニ付
自今以後風烈之節は南は通壱町目
北は室町壱町目自身番屋え奉行
所ゟ役人差遣シ火之元心付之
拍子木を為打候間隣町最寄町々共
追々打継麹町赤坂市ケ谷辺其外
武家屋敷寺院等を隔候町々は
打継候末之町ゟ申通シ右同様
相図を以為知合右為知之拍子木を
承候ハヽ前書触面之通相心得厳重ニ
火之元相守可申候是迄之火之番
行事之外借家店借之ものとも
五人三人ツヽ組合を極組合内相互ニ
心付相少しも油断いたす間敷候
依之去ル寅年之条目え追加いたし
猶又触示シ候間無違失厳重に
心付候様可致此以後若申渡を等閑ニ
相心得大風又は風烈抔之節右
等閑より事起り出火いたし候ハヽ其
始末ニ寄火元当人は厳科ニ行ひ
町役人共迄も重ク咎可申付候
右之通町中不漏様可相触もの也
子正月
火之元之掟
一火之元麁末ニいたし候ものは早速地立
店立可申付事
一風烈之節は町々ニ而御用之外は堅ク
他出不致火之元而已相守屋根上
庇したみ等え水うち有合之桶
其外え水を汲溜置へき事
但屋根上之防之為メ梯子并
水籠水鉄砲等用意いたし置可申候
一平日も竈はいふに不及二階物置等も
惣而目遠き場所はたへす見廻り
夜中はねふし候節家内を改消炭
其外をとくと見届可申事
一湯屋を始おふ火を焚候渡世は猶更
建具屋舂米屋はかんな屑わら
灰等并わら商売之ものは其品別而
可心付事
一ぶら挑灯と唱候品ゟ度々出火いたし
候儀有之候間用ひ候度毎入念しめし
可申事
一普請小屋は昼夜無油断見廻り
其外河岸地物置等は別而心付
可申事
一手あやまちいたし火もへ立候ハヽ
畳ニ而おふひ消可申尤声を立
近所えしらせ可申事
一出火有之候ハヽ屋根上其外飛火
之防第一ニ可致以来遠方ゟ之
出火ニ而飛火いたし夫ゟ焼つのり候ハヽ
火元と同罪たるへき事
一出火いたし屋根上えもへ抜ケ又は飛火
ニ而もへ立候節近所之もの共早速
打消候ハヽ其町内隣町ゟ其もの共え
格別之褒美可遣事
但右出銀手当は地主共并表店之
もの共申合常々積置可申候尤次第ニ
寄月番之番所え訴出可申時宜ニ
寄褒美も為取可申候
一火之番行事は町内を度々見廻り
可申事
一風烈之節は名主も支配内見廻り
火之元怠さる様可申付事
一平日水溜桶用意いたし水かわか
さる様たへす汲入置可申事
一名主共組合之内弐三人宛申合常々
支配内火之元等互ニ心付軒近キ
所え火所を拵其外火之元不用心ニ
相見候所は名主共見廻り直させ
可申事
追加
一風烈之節無拠儀ニ而他行等いたし候節ハ
家主え相届可申独身之ものは
【以上3行朱記】
家主ゟ火之元改を受候而可罷出候
一裏家店借之もの共は勿論表店
住居之ものも相加り五人三人ツヽ組合を
立置組合内相互ニ火之元心付合
可申候【以上5行朱記】
右之条々急度可相守相背候ハヽ
罪科たるへきもの也
子正月
嘉永五子年正月十四日
伊勢守殿御直御渡【以上2行朱記】
伺之通可被取計候事
町々名主共え可申諭覚
市中取締掛
世話掛
名主共
火之元之儀は前々御触有之世上
普ク心得居候儀ニは候得共下賎之もの
程守り方疎カ故時々出火等も有之
殊更烈風之折柄出火いたし候得は消防
之術無之忽大火ニ及候段は眼前
人々心得居候儀ニ而右は天災抔と申
候得共実は一夫之過失ゟ生し候儀ニ付
烈風之節は町方之もの商売相休
火之元之一途を相守り候様ニ無之候而は
迚も難行届右は難儀之様には
候得共万一大火等ニ相成候得は銘々
家財を焼失ふのみならす甚敷は
焼死人等も有之仕儀ニも及ひ或は
産業を失ひ零落離散いたし候類も
不少諸人之難儀ニ至り候段は尤
可憐事ニ候夫而已ならす総而山林ニ
生し候材木并造出し候器財諸品共
其限有之処度々之出火ニ焼失いたし
終ニは品払底ニ相成国中之費何程歟
難計其外諸色高直ニ相成候基
不容易事ニ候依之此度猶又厚ク
御世話有之町々え触渡ス間文政十三
寅年申渡置候掟書之趣厚相守
可申旨得と可申諭候
一借家店借之もの共五人三人ツヽ
組合相定置組合内火之元相互ニ
心付合可申候
一是迄風烈之節は月番之奉行所ゟ
小口年番名主呼出シ惣町中え
為相触候処場広之市中急速
触継難行届及遅引候趣ニ相聞候間
自今南之方は通壱町目北之方は
室町壱町目自身番屋え役人差遣
火之元守り方通達之拍子木を
為打可申候間隣町最寄町々共
追々打継山之手又は武家屋敷
寺院等ニ而隔候場所は打継候
末之町ゟ申通右同様相図を以
為知合早速御府内不残行届
候様取計右拍子木承り次第
触面之通支配場町々相廻家主共
当番之人数を増繁々店々相廻り
風相止候迄は御用之外は其方共も
自身番屋え相詰居候程ニ相心得
世話可致候
一奉行所ゟ役人相廻し町役人とも
守り方精不精之様子見届善悪共
夫々沙汰可及候条兼而其段可相心得候
右之通相成候得は自然町入用も
相増地主共迷惑之姿ニ心得とも
万一其身類焼は勿論所持地面等
焼失之難儀を存候得は聊之費用を
可厭筋は有之間敷殊ニ冬春之内
日々風烈と申儀も無之候間其方共ゟ
能々可申諭候
一総而触申渡之趣其当座限ニ相成
候と後々迄行届候とは悉町役人共
心得方之厚薄ニより可申儀之処
一旦申渡印形等取置候得は役前
済候様ニ心得候故自然弛ミ勝ニ相成候
下賎之もの程心得方薄キものニ付
朝暮ニ無怠慢親之子ニ教る様ニ
申聞候はねは不行届事ニ付其辺之
儀真実ニ可申諭候
一文政度申渡置候掟書は張出し置候
儀は勿論度々店々之ものえ為読聞
候様可致候
右之通申聞置間火之元之儀は其方共
勤労第一と相心得能々申合精々
行届候様厚世話いたし可申候
右之趣惣町々名主并月行事持之
分は組合之ものゟ不洩様可申通事
子正月
【白紙】
【白紙】
【白紙 文書ラベルあり】
【裏表紙 白紙】
地災撮要 《割書:地震之部|》五六
地災撮要巻五《割書:地震之部|》
地災撮要 《割書:地震之部|》 巻之五
地災撮要 地震之部 巻之五
京師大地例 《割書:小地震及諸国|地震除之》
推古天皇七年
日本書紀 推古天皇
七年夏四月乙未朔辛酉地動舎屋悉破則令
四方俾祭地震神
天武天皇十三年
○日本書紀 天武天皇
十三年冬十月壬辰逮千人定大地震挙国男
女叫唱不知東西則山崩河涌諸国郡官舎及
百姓倉屋寺塔神社破壊之類不可勝数由是
人民及六畜多死傷之《割書:下略|》
天平六年
〇続日本紀 聖武天皇
天平六年夏四月戊戌地大震壊天下百姓廬
舎圧死者多山崩河壅地往々折裂不可勝数
癸卯遣使畿内七道諸国検看破地震神社
戊申詔曰今月七日地震殊常恐動山陵宜遣
諸王真人副土師宿祢一人検看諱所八処及
有功王之墓又詔曰地震之災恐由政事有闕
凡厥庶寮勉理職事自今以後若不改励随其
状跡必将貶黜焉
九月壬午地大震
同十七年
○続日本紀 聖武天皇
天平十七年夏四月甲寅是日通夜地震三日
三夜《割書:下略|》
五月戊午地震 已【己】未地震令京師諸寺限
一七日転読最勝王経 庚申地震 甲子地
震乙丑地震於大安薬師 元興 興福四寺
限三七日令読大集経 丙寅地震 丁卯地
震 癸酉地震 乙亥地震 是月地震異常
往々折裂水泉涌出
延暦十六年
○類聚国史 《割書:災異部|》
桓武天皇延暦十六年八月丁卯地震暴風左
右坊門及百姓屋舎例仆者多
天長四年
○類聚国史 《割書:災異部|》
淳和天皇 天長四年秋七月辛未地大震多
頽舎屋一日之大震一度小動七八度癸酉地
動不止 亥刻地大震毎地震皆有声 甲戌
震動 乙亥地震二度 戊寅地大震二度
庚辰地震 辛巳地震 癸未卯刻地震午四
刻地震夜半地亦震 甲申戌刻地震 丙戌
地大震 戊子地震 己丑地震午刻亦大動
未刻又動
謹按此後八月九月十月十一月十二月連
連有地震今略之
十二月辛丑地震屈請清行僧百口於大極殿
転読大般若経三箇日爲停地震
同五年
○類聚国史 《割書:災異部|》
淳和天皇天長五年六月丁巳地震 己未地
震 辛未雷鳴雨降山崩水溢 《割書:此條帝王部|》
己卯地大震 七月壬子詔曰云々頃者坤徳
僣叙山崩地震妖不自作咎寔由人疑是八政
或乖一物失所歟静言厥過責在朕躬夤畏天
威無忘鑑■【注】其天下狴犴有寃滞者有司覆審
情状令得申理又収葬道殣掩骼埋胔班白不
提指事使人老丁之傜永従寛免八十已上及
鰥寡孤独不能自存者節級賜物早以須示咸
使聞知矣
八月甲子右大臣従二位兼行皇大子傅藤原
【注:NDLの類聚国史では「寐」】
朝臣緒嗣等言云々臣等伏見去月廿九日明
詔坤徳𠍴【愆】叙山崩地震引咎聖躬寄嘖睿慮臣
等恐伏愧慙如寘炎炭夫譴謫之来或縁股肱
灾害之興未必元首是以貪擾生蝗嘖非漢主
専擅震地罪帰宋臣臣等翼亮未効天工永曠
不曽涓塵於和爕詎可髣髴於平均遂使臣下
之過翻為君主之労方知鏗鏘栄章為焦心之
佩槐棘垂陰非涼身之地不任屏営慊懇之至
奉表以聞
斉衡三年
○文徳実録斉衡三年三月是月地数震京師及
城南或屋舎毀壊或仏塔倚傾夏四月癸酉朔
地震 甲戌地震
貞観十年
○三代実録 清和天皇
貞観十年秋七月八日己亥地震動内外垣屋
往々頽破 九日庚子地震 十日癸卯地震
謹按此後至十二月連々有地震今略之
同十三年
○類聚国史 《割書:災異部|》
清和天皇貞観十三年十一月廿二日甲午雷
地震 廿九日辛丑晦地震大祓於建礼門前
同十四年
○類聚国史 《割書:災異部|》
清和天皇貞観十四年九月戊辰朔地震丗日
丁酉地震大祓於建礼門前
同十七年
○類聚国史 《割書:災異部|》
清和天皇貞観十七年二月十二日丙寅地震
十八日壬申地震 廿九日癸未晦地震大祓
於建礼門前
元慶四年
○三代実録 陽成天皇
元慶四年十二月六日乙酉子時地大震動自
夜迄且十六度震大極殿西北隅竪壇長石八
間破裂宮城垣墻京師廬舎頽損者往々甚多
矣 七日丙戌陰陽寮奏言地震之徴合慎兵
賊飢疫是夜自戌至子地亦震動 八日丁亥
自辰至丑其間地四震 九日戊子夜地震二
度
謹按此後連々有地震今略
同五年
○類聚国史 《割書:災異部|》
陽成天皇元慶五年正月六日乙卯酉時地震
十日庚申地震 十二日辛酉地震 十四日
癸亥地震 十六日乙丑地震
二月三日辛巳地震是日建礼門修大祓
仁和三年
○三代実録 光孝天皇
仁和三年秋七月二日癸酉夜地震六日丁丑
是夜地震 丗日辛丑申時地大震動経歴数
剋震猶不止天皇出仁寿殿御紫震【宸】殿南庭命
大蔵省立七丈帳二為御在所諸司舎屋及東
西京廬舎往々顛覆圧殺者衆或有失神頓死
者亥時亦震三度五畿内七道諸国同日大震
官舎多損《割書:下略之|》
八月壬寅朔昼夜地震二度 二日癸卯地震
三度 四日乙巳地震五度
五日丙午昼地震五度夜大震京師人民出自
盧舎居于衢路 六日丁未《割書:停|》釈奠之礼去月三
十日木工寮将領秦千本撿校修造院驚恐地
震失神而死供祭所司触此穢也
謹按此後連々有地震今略之
十八日己未延宿徳名僧百口於紫宸大極両
殿転読大般若経限三箇日禳灾異祈年穀也
承平五年
○日本紀略 朱雀院
承平五年四月廿五日己卯地大震
同八年 為天慶元
○日本紀略 朱雀院
天慶元年四月十五日壬辰地大震京中墻垣
悉破壊内膳司顛倒圧死者四人陰陽寮占申
東西有乱事
廿二日丁酉停賀茂祭依内膳司人死穢也廿
九日丙午昼有動音度々不止自去十五日至
今日十五ヶ日間地震不休
五月廿二日戊辰改元天慶元年依厄運地震
革命之慎也 廿六日壬申地震 六月三日
戊寅地大震
十月九日奉幣於宇佐八幡宮祈消地震之灾
又香権【椎】大宮司賜爵 廿一日庚午地頻震
天暦三年
○日本紀略 村上天皇
天暦三年正月廿六日参籠神祗官可祈申天
変地震兵革疫癘年穀之由召仰祭主大中臣
頼基
天徳二年
○日本紀略 村上天皇
天徳二年九月十一日戊午伊勢例幣也
天皇幸八省院宣命有辞別天変地震物恠等
事
応和四年 為康保元
○村上御記 応和四年七月十日令延光朝臣
仰左大臣云可令作改年号詔書其事趣朕以
不徳又臨天下而今歳天変地震灾変相頻施
徳政改年号以攘灾弥即可載大赦天下《割書:中略|》
又数術家申依詩説今年当革令之由《割書:中略|》今
只略可挙事者
○行類抄 地震改元例
康保
天禄四年 為天延元
○日本紀略 円融院
天延元年八月廿七日辰刻地大震
十二月二十日今日改元天延依天変地震也
有赦令免調庸考人賜穀
天延四年 為貞元元
○日本紀略 円融院
貞元元年六月十八日癸丑申刻地大震其響
如雷宮城諸司多以破壊顛倒西京舎屋其数
甚多其中八省豊楽院東寺西寺極楽寺清水
寺円宗寺等顛倒地震之甚未曽有矣 今日
【朱書】《割書:「南庭立幄為| 御所 」》
寄御輿於南庭立幄為御所中宮庁前同以立
【朱書】「中宮庁同」
帳今日清水寺地震之間緇素圧死之者其数
五千 十九日甲寅地震十四度左衛門陣後
庁堀河院廊舎閑院西対屋民部省舎三宇顛
倒 二十日乙卯地震十一度
謹按此後廿一日廿二日廿三日廿六日廿
九日卅日七月十一日十二日等地震各有
度数今不煩注之
【朱書】「改元」
七月十三日戊寅詔書改元延四年為貞元元
年依灾幷地震也有赦令
謹按此後十四日十八日二十日廿一日廿
三日等地震有度数
九月廿三日丙戌地大震其響如雷
【朱書】《割書:「奉神宝便| 被祈申 」》
十月十一日甲辰被奉神宝於社藩御時仍願
也天変地震事同被祈申也
○扶桑略記 円融天皇
天延(貞元元)四年丙子六月十八日申時有大地震内
裏築垣頽天下舎屋京洛築垣皆以頽落主上
為遷幸堀河 太政(兼通公)大臣家立数百工部令修理
間四面築垣忽倒打殺工卅余人堀出十八人
又御読経請僧童子等被圧殺祟福寺法華寺
南方頽入谷時守堂僧千聖同入谷死鐘堂顛
倒弥勒堂上岸崩落居堂上一大石落打損乾
角《割書:中略|》
其後一両日間頻震不止
貞元二年
○日本紀略 円融院
貞元二年二月九日庚子巳時大地震
十五日丙午奉幣帛於六社 《割書:伊石賀松平|稲奉》
永延三年 為永祚元
○元秘別録
永延三年八月八日改元《割書:為永祚|》
依彗星地震
○行類抄 地震改 正(元)例
永祚
長徳二年
○日本紀略 一条院
長徳二年六月廿六日乙未大震
長保六年 為寛弘元
○行類抄 地震改元例
寛弘
○皇年代記 一条院
寛弘 《割書:元年甲辰七月二十日改元|天変地震》
長和四年
○日本紀略 三条院
長和四年十一月六日壬子地大震
長暦四年 為長久元
○扶桑略記 後朱雀天皇
長暦(長久元)四年庚辰九月八日寅時大地震
○春気長暦四《割書:長久|元》年十月廿九日辛亥今夜丑
時許地大震良久不休止屋舎動揺燈火消滅
了予成人之後未有如此之震動心神失度不
知所為一時許乃休止尤可怖畏事也乍驚欲
参内之処風病発動仍不能参入也
十一月一日早且参内依去夜地震事也
主上出御仰云今夜震動総無此北殿屋震動【摠=總=総】
【朱書】「天文前奏」
疑欲顛倒怖畏無極仍出寝所殆及戸外是心
神迷乱之故也前日天文奏云及冬有地震歟
其事果然《割書:中略|》
抑又此地震後不経幾程東一品宮北屋有火
火焰及数尺宮人即撲滅畢云々又前夜同宮
西屋付火即撲滅了連夜有此事希有之事也
《割書:中略|》
【朱書】「御祈」
又自内有召参内仰云地震事尤可恐也可有
御祈歟《割書:中略|》
此由可示関白者即参被殿《割書:中略|》
於高倉殿伝申仰旨被奏云地震事尤可恐思
食事也天文奏令明進之歟就彼奏文可有御
祈也放火事非常之甚更不可申尽《割書:中略|》
先例有神社御祈等歟過旬間可被行也
【朱書】「天文後奏」
三日甲寅蔵人弁経成昨夜談云進天文奏其
御慎不軽仍可有御祈也地震御祭等云々
十日辛酉今日改元定之由云々《割書:中略|》
【朱書】《割書:「依連年災| 改元 」》
詔書之趣云長暦以後連年有凶災天下不穏
仍施徳於天下宜改元号者又軽犯者等依例
可原免者
康平元年
○伊勢公卿勅使雑例
【朱書】「恩赦」
康平元年十一月廿八日乙未
参議藤経季
宣命 天変 地震 大内記正家草
康平四年
○扶桑略記 後冷泉天皇
康平四年五月六日丑時地震群鳥驚鳴七日
巳刻地震 八日有恩赦依地震也
康平八年
○伊勢公卿敇使雑例
康平八年四月十四日 卯
参議右大弁源隆俊
宣命 三合天変地震御薬明年以後御慎
大内記成季
同 八年 為治暦元
○扶桑略記 後冷泉天皇
康平(治暦元)八年三月廿四日戌刻地震
五月七日丙寅地大震
延久二年
○扶桑略記 後三条天皇
延久二年十月二十日半夜地震動洛中家々
築垣往々頽落東大寺鐘震零諸国寺塔間以
壊損焉 廿三日時々又震
延久六年
○伊勢公卿勅使雑例
延久六年六月廿八日甲午
参議左弁兼皇太后宮大夫勘ヶ由長宮源
経信
宣命 《割書:三合陽九|天変地震》左中弁定政草
神筆 《割書:御草| 》
承保二年
○伊勢公卿勅使雑例
承保二年三月八日庚子有行幸
別当権中納言兼右衛間督藤原実季
宣命天変地震御慎 大内記成季
寛治五年
○扶桑略記 堀河天皇
寛治五年八月七日癸亥申刻有大地震法成
寺五大堂軍荼利《割書:丈|六》被震倒九重塔流星■【裗ヵ】震
傾金堂中尊宝幢瓔珞切落堂中尊薬師堂七
仏光円堂宝形常行堂壁幷裳層等皆以震損
又大和国金峰山金剛蔵王宝殿皆為地震破
損古今未聞云々
同六年
○扶桑略記 堀河天皇
寛治六年壬申十一月十日己丑戌刻地大震
動群犬駭吠
同七年
○扶桑略記 堀河天皇
寛治七年癸酉二月十四日辛酉未刻地大震
動屋内道俗皆怖下庭
嘉保二年
○伊勢公卿勅使雑例
嘉保二年十月十八日庚辰
権大納言兼右近大将源雅実
宣命 御薬平喩事御慎天変地震宸筆
嘉保三年 為永長元
○中右記永長元《割書:嘉保|三》年十一月廿四日辰時許
地大震巳及一時門々戸々欲及頽壊古今未
有如此比乍驚馳参内于時
【朱書】「御舟」
主上渡御西釣殿《割書:件渡殿臨|前池》欲乗御前池舟之
【朱書】《割書:「中宮御手| 車 」》
間也御手車寄中宮御方禁中騒動須臾人々
参集両殿下左府令参給予依仰相其大夫史
【朱書】「大内巡検」
祐俊宿祢外記通景向大内巡見破損先入従
郁芳門見神祗官已無損所次見応天門東西
楼次行向大極殿西楼頗西ニ傾又大極殿柱
所々寄東一二寸許簷瓦落懸頗以有恐其外
従本破損之外無大破壊次見中院神嘉殿次
遣官掌𠮷行令巡検官外記庁無捐破損者則
備参以此旨申両殿下了地大雖震動殿門無
破壊人々為奇了未時許人々退出入夜頗又
地震誠為大恠
裏書
東寺塔九輪落法成寺東西塔立成金
物落損法勝寺御仏等光多損凡所々
塔多損云々
廿七日小地震従一日後此両三日時々小地
震廿八日権大納言家忠卿参杖座定申臨時
百座仁王会僧名日時《割書:来月十五日|云々地震》御祈也令
蔵人弁書日時
【朱書】「御卜」
廿九日江中納言被参杖座有軒廊御卜《割書:中略|》
外宮心御柱之事次又一日地震御卜同被行
便江中納言 奉行
【朱書】「廿二社奉幣」
十二月五日辛酉有臨時廿二社奉幣上卿中
宮大夫《割書:中略| 》是地震御祈云々
七日亥時許地震頗大震《割書:近日毎日毎夜|有小地震》裏書
【朱書】「改元」
九日依天変地震可有改元仰両文章博士可
撰申年号字由蔵人弁時範宜下左大臣《割書:下略| 》
十五日今日於大極殿有臨時百座仁王会是
【朱書】「御祈」
地震御祈也上卿権大納言家忠卿《割書:下略| 》
【朱書】「御祈」
今日又於東大寺有千僧御続経《割書:中略| 》是又地
震御祈《割書:中略| 》
従今日於七大寺以十口僧限七ヶ日被転読最
勝王経行事右少史俊忠是地震御祈也於延
暦寺従今日五箇日間毎日以六十口僧侶転
読大般若経《割書:地震御祈也| 》今日又於円城寺被
【朱書】「御祈」
脩百座仁王講《割書:地震御祈也| 》
十七日《割書:改元| 》以蔵弁時範被下年號勘文《割書:注略| 》
永長被撰上也《割書:是江中納言被勘申|後漢書文云々》則敇許《割書:内| 》
《割書:々被大赦歟| 》是依天延例可行者彼時有天変
地震也
二十日早旦地震
○百練抄 堀河天皇
永長元年十一月廿四日地震古今無比人皆
叫喚 主上御々船
永長二年 為承徳元
○中右記 永長二年七月六日申時許地大震
去夜半許地震
八月六日夜半許地震
八日今日卯時許小地震去今年天変地震頻
示其変尤有恐歟
十一月廿一日改元云々承徳
○元秘別録
永長二年十一月廿一日改元承徳
依天変地震洪水大風等災
承徳三年 為康和元
○史官記 承徳三《割書:康和|元》年正月廿四日卯時大
地震前太相国以下多以参内《割書:商陽院| 》今日被
立伊勢公卿敇使《割書:権大納言|俊明》仍行幸八省今朝
地震事被載 宣命 辞別
○伊勢公卿 敇使雑例
承徳三年正月廿四日/关(マヽ)【注】卯 行幸
権大納言民部卿大皇大后宮太夫源俊明宣
命 《割書:臨時御祈| 》 辞別 《割書:今日卯刻地震事|》
○行類抄 地震 改元例
康和
○皇年代記 堀河院
康和 元年八月廿八日改元
地震疾疫
康和五年
○百練抄 堀河天皇
康和五年四月廿二日大地震廿四日同震五
月一日又震人怖畏太
天永二年
○中右記 天永二年三月廿七日今夜半大地
震廿八日申時小地震
長承四年 為保延元
○中右記 長承四《割書:保延元| 》年三月十八日《割書:辛卯|夏節》
《割書:分| 》此暁地大震廿二日外記太夫師長来知天
【朱書】「論」
文者也問一日地震事申云地ハ陰也后宮大
渡之慎也
【关は癸の異体字である。但し、承徳三年正月廿四日の正しい十二支十干は丁卯である。】
保延三年
○百練抄 崇徳院
保延三年七月十五日大地震近代無比類十
六日度々又震
康治二年
○伊勢公卿 敇使雑例
康治二年十二月九日
権中納言皇太后権大夫侍従藤成通 宣
命 《割書:天変地震|甲子》 大内記長光
神筆
久寿二年
○台記 久寿二年八月五日康【ママ】辰巳時大震入
夜復震
長寛二年
○一代要記 二条天皇
長寛二年二月廿六日大地震
仁安三年
○人車記 仁安三年十二月廿九日《割書:神宮火災|御卜幷公》
《割書:卿敇使定及進発| 》
御卜之間地震已非大地殿舎動於上下驚奇
卜筮畢官寮退去《割書:中略| 》
又軒廊御卜形二通《割書:官寮| 》副神宮奉解下上卿
仰云令載宣命辞別ヨ又仰去地震事驚思召
同可令載宣命《割書:大外記|頼業申》承徳三年公卿敇使進
発朝地震即被載宣命辞別今日又有此事可
被辞別申歟即下官申殿下仍被仰也次上卿
召左中弁俊経被仰宣命事下給御卜形被仰
地震事等《割書:中略| 》
宣命文略之辞別今日仰官寮天令卜火災事
《割書:留| 》間《割書:尓| 》厚地大震テ畏途弥深《割書:久| 》之田載之
○同四年正月八日 《割書:伊勢太神宮御仮殿間|可被奉公卿敇使𠮷凶》
間事御卜之便被卜地震事
今日左大臣参内 奉仰 被行軒廊御卜《割書:中|略》
神祗官
卜𠮷凶事
問去年十二月廿九日申時地震者是依何咎
祟所致哉
推之坤方神社加祟之等可有公家御慎天下
下口舌兵革動揺事歟
仁安四年正月八日神祗官人連署《割書:今略|之》
陰陽寮
右去年十二月廿九日申時也大震𠮷凶去年
十二月廿九日丙辰時加申従魁臨丙為用将
朱雀中大𠮷将大陰終太一撰天空哉遇従革
推之依理運所致之上非慎御薬事従震巽方
奏口舌兵革事歟期震日以後卅五日内及来
三月四月八月節中並壬癸日也何以言之用
起自刑神是主理運又太歳上為天運白即是
主御薬事又用廿日上見令神将帯朱雀卦過
従革是以主口舌兵革之故也兼被祈請主期
殊慎御咎自銷乎
仁安四年正月八日 陰陽寮連署略之
二十日参石清水宮可被行臨時御袖神楽可
奉行之故也神宮火事御卜公家御慎之由官寮
卜申之上此間天変地震司天進奏旁怖畏思
食依其御祈別参向可令奉仕之由熊野御進発
以前奉院宣《割書:下略| 》
廿六日被発遣伊勢公卿敇使此事去年秋以
後有御願予被仰別当之間十二月廿一日有
神宮火事 弥 叡念相重為被申其事急速
被進発也《割書:中略| 》
天皇《割書:我| 》詔旨《割書:止 | 》、、、、
去年十二月廿一日太神宮火災《割書:乃| 》事《割書:乎| 》聞食
《割書:弖| 》驚給《割書:弖| 》惶懼寔深《割書:久 | 》、、、、
辞別《割書:弖| 》申賜《割書:波|久》司天所奏《割書:呂|》変異旁繁《割書:支| 》上《割書:尓| 》
、、、、、
何況去年十二月廿九日《割書:尓|》地儀大震之《割書:弖| 》驚
処殊甚之此《割書:乎| 》令卜筮《割書:留|尓》巽坤方《割書:乃| 》神社成祟
《割書:利止| 》申《割書:世利| 》巽方《割書:波| 》則《割書:知| 》太神宮相当《割書:利| 》給《割書:倍|利》
何咎祟《割書:奈良|牟止》惶《割書:利| 》御坐《割書:須古|止》尤功《割書:奈利| 》天降《割書:多|末》
《割書:倍利| 》深誓《割書:乎| 》不誤之天朕縦不肖《割書:奈利|止茂》必乗冥
助給《割書:辺| 》
恐《割書:美| 》恐《割書:美|毛》申賜《割書:波久|止》申
仁安四年正月廿六日
承安四年
○伊勢公卿敇使雑例
承安四年十一月十一日《割書:甲子| 》
権大納言藤実国 神筆 永範卿
宣命 今年御慎事天変地震事
治承元年 安元三
○玉葉治承元《割書:安元|三》年十月廿七日癸巳丑刻許
大地震保延以往無如此之地震云々東大寺
大鐘被振落了又同大仏螺髪少々落了云々
○百練抄 高倉天皇
治承元年十月廿七日丑刻大地震
東大寺 言上地震之間大仏螺髪二口落観
音前又頂上螺髪抜上又大鐘釣切落大地又
印蔵丑寅角頽落是依敏覚之逆罪有恠異者
○顕広王記安元三年十一月廿四日 九社奉
幣也自神祗官進発上卿実定卿弁権右中弁
親宗朝臣是則去地震成祟之方神社也伊勢使
兼康也中臣永親忌部友平卜部兼貞八幡権
中納言雅頼卿賀茂頼定卿松尾貞清卿平野
右大弁長方云々
同 三年
○玉葉治承三年十一月七日辛酉亥刻大地震
無比類
○百練抄 高倉天皇 治承三年十一月七日
戌刻大地震
寿永二年
○玉葉 寿永二年十月十四日乙巳辰刻大地
震十二月廿二日壬午今夜子刻大地震近代
必有験可恐云々
○百練抄 安徳天皇寿永二年十月十四日大
地震
元暦二年 為文治元
○玉葉 元暦二《割書:文治|元》年六月二十日今夜子刻
大地震不異治承之例可恐々々
七月九日庚午刻大地震古来往々有大地動
事未聞損亡人家之例依 漸(本ノマヽ)不騒之間舎屋忽
【朱書】「乗車」
欲壊崩仍余女房等ヲ今乗車大将同之引立
庭中余独候仏前舎屋等雖不伏地悉傾危或
棟折或壁壊於築地一本如不残如伝聞者京
中之人家多以顛倒又白川辺御願寺或有顛
倒之所或築地破壊法勝寺九重塔心柱雖不
倒瓦以下皆震剥如無成云々大地所々破烈
水出如涌云々又聞天台山中堂燈承仕法師
取之不令消云々但於堂舎廻廊者多以破損
其外所々堂場悉破壊顛倒云々余家前進使
《割書:馬助|国行》於院八条院等申事由依所労不能参入
【朱書】《割書:「法皇御坐樹| 下 」》
也法皇降庭上御坐樹下云々者女院又乗車
【朱書】「女院乗車」
令立庭給云々院御所破損殊甚大略寝殿傾
危不可為御所々間御北対云々凡往古来今
異城他卿総以来有如此事末代之至天地之
悪若棄国家事炳焉者歟法皇御参籠今熊野
【朱書】「奏案」
而依恐此事被出御云々今日広基《割書:天文|博士》持来
地震之奏案
大喪 天子凶
七月動 百日内兵乱
上旬動 害諸大臣云々
或又女王慎 旱魃等
猶未来之徴者次事也見当時天下損亡了凡
不能左右云々 主上渡御池中島云々其後
【朱書】《割書:「南庭立幄| 為御在所」》
又南庭打幄為御在所云々内裏西透廊顛倒
云々
十一月壬辰及晩頭弁光雅送札於季長朝臣
【朱書】《割書:「院宣外| 記勘文」》
問地震間事 院宣也 今日書写外記勘文
文間反深夜以明日申也
十二日癸巳昨已昨日光雅書札
地震事
外記勘文如此今度大動先規少彙旁驚
叡慮者也毎事何様可被計行哉委可被
注申候
皇居事
当時御所西廊已顛倒四壁殆無実須遷
御大内歟而日華門弓場殿同顛倒云々
彼是何様可致進退哉誠難治事候同相
計可被申候也
両条事内々
院御気色如此仍言上如件光雅恐惶謹
言
七月十一日 右大弁光雅
進上大宮亮殿
請文状云
地震事
御祈事具見外記勘文其中抽要須就時
議可有御沙汰且又随御卜趣可被許行
歟
抑追討之後国土窮困地震之間舎屋顛
倒云彼云是人力労疲御祈用金定多煩
費歟預廻秘計被休民局也先成民而後
致力於神民和而神降福之故也
代々例有改元事尤可被遵行歟兼又任
天平例差遣官使可被検知神社仏寺及
山陵等之破損頽壊之事
皇居事
当時御所於外郭無跡者誠一争為皇居
哉遷幸大内不可及異議縦雖有一両顛
倒之内廊不可似四壁無実之離宮之故
也大内閑院名有修造者御忌方事可有
尋沙汰歟不限大将軍王相公家之壁八
難御忌之処禁忌之方非一仍驚達主者
也
右両条短慮之趣言上如此
抑於天地之災実者以武略不可鎮之以威勢
不可服之非仏神之利益者豈分之所覃哉今
度大震即悟人心也震動忽急梁棟欲頽之時
万端之計略忘胸間三宝之冥助仰心底不遑
于廻智力無由於仮人功誠知払妖之源所帰
在宜象々之加護偏仰徳化天道福善禍■【淫ヵ】之
【朱書】「意見」
故也其徳化之間趣所尋意見之最要者開心
服状則宜使公卿已下諸道博士堪事之輩討
事之由可被下宣旨也上䟽深秘敢莫外聞具
陳所必不可諂諛之間殊可被仰下歟就彼上
奏之趣可被議定政道之要也此議若誤者天
変地妖継踵不絶逆乱騒動挙足可待歟但徳
政之条【見消ち「之」】条若不可議者意見又無其益歟微
臣只思国家之乱亡已忘激功之招恐者也謹抽
鄭壊上聞如件
七月十二日 兼実
十三日甲子今日泰茂来示地震事咎微不空
乎 上皇摂政等填【慎ヵ】云々
法勝寺阿弥陀堂顛倒不可思議事歟十五日丙
申諺云今日又可有大地震云々然而余不信
受
【朱書】「僧説」
廿七日戊申仏厳被来談夢想事依天下政違
乱天神地祗成祟有此地震之由也
今日地中雖鳴不及震至昨日連日不困或両
三度或四五度又其大小不同連々不断也
廿八日今日又地震
八月十二日壬戌申刻大地震雖不及初度大
【朱書】「改元」
動又騒人意少々有顛倒事等十四日此日改
【朱書】「赦」
元暦二年為文治元年有赦令事 《割書:中略|》 依
地震所被行也
○百練抄 後鳥羽院
文治元年七月九日庚寅午時大震其声如雷
震動之間已送時剋其後連々不絶宮城瓦垣
幷京中民屋或破損或顛倒一所而不全就中
大内日華門閑院西辺廊顛倒法勝寺阿弥陀
【朱書】《割書:「南庭儲幄| 為御所 」》
堂顛倒九重塔破損三面築垣皆以頽壊南庭
儲幄為御所自今日三ヶ日啒三口僧於御殿
【朱書】「御祈」
有大般若御読経依此御祈也 十日被行軒
【朱書】「御卜」
廊御卜依地震也
【朱書】「御祈」
十八日被定地震御祈山陵使幷諸社諸寺御
【朱書】「御祭」
読経日時僧名等入夜有地震御祭去九日以
【朱書】「山陵使」
後連日地震無不動之時 廿二日被立山陵
使
八月四日北野祭被付社家地震穢気之間諸
司不供奉也 七日釈尊延引依世間穢也自
【朱書】「九社奉幣」
去月九日連日地震于今不絶 十三日被立
【朱書】「改元」
九社奉幣使依地震御祈也 十四日有改元
依地震也
文治三年
○玉葉文治三年十月十二日今日巳刻大地震
雖不及去年七月震其外ハ第一之大動也天
変頻呈其上有此震恐而猶可恐司天輩広基
泰茂等来臨各以恐々
建暦三年 為建保元
○行類抄 地震改元例
建保
○皇年代記 順徳院
建保《割書:元年十二月六日改元|天変地震御慎》
貞応三年 為元仁元
○百練抄 後堀河院 元仁元年五月八日寅
刻大地震卯時又震動
○皇年代記 後堀河院
【朱書】「改元」
元仁《割書:元年甲申十月廿日改元|依天変地震》
天福二年 為文暦元
○百練抄 四条院 文暦元年九月十六日壬子
【朱書】「占文」
寅刻大地震万人驚遽占文不軽兵革大喪云々
○一代要記 四条院
【朱書】「改元」
文暦元年甲午十一月五日改元依天変地震
也
文暦二年 為嘉視【ママ】元
○編年記 嘉禎元年九月朔日地大震
○一代要記 四条院
【朱書】「改元」
嘉禎元年乙未九月十九日改元依天変地震
也
嘉禎三年
○百練抄 四条院 嘉禎三年六月一日庚辰
卯刻大地震万人驚恐之元暦以後無如此事
延応二年 為仁治元
○元秘別録 延応二年七月十六日改元仁治
【朱書】「改元」
依天変地震
○行類抄 地震改元例
仁治
寛仁三年
○平戸記 寛元三年五月廿五日今日巳刻地
震
廿七日庚申午一点又地震
廿八日辛酉今日巳刻許又地震
六月八日辛未今朝又地震連綿不絶可恐可恐
七月廿六日戊午今夜丑刻大地震予本白驚眠
動揺絶常篇驚走出立庭上此後就寝之者等
多以破損昨日加修理蓬門西傾釘尻等離分
車宿屋東傾但寝殿者己余良久動揺漸休此
後帰入寝所受生已後此程事不覚悟今年天変
恠異地震又連々今已如此尤可怖畏々々
廿七日己未中宮大夫送消息維範朝臣家氏
朝臣《割書:父子|》地震事奏案草注送之其後注左
【朱書】「奏案」
謹奏
今日廿六日戊午夜丑時大地震《割書:月在栖宿|五曜直日》
謹按天文録云 春秋 日地動揺臣下謀
上京房妖占曰地以秋動有音兵起又曰地
動朝廷有乱臣天地瑞祥志云漢武帝後元
々年七月地震明年四月帝悪内経云七月
地動百日有兵王民雑交異占云孟月地動
有水風兵事伝曰臣専政地震
天地災記云地震不出一年国有大喪 又
曰近臣去宮室有驚又曰女宮有喪 天鏡
経云地動天子慎之宿曜経曰土曜直日地
動世界不安威重人死
右件地震 占謹以申聞謹奏
寛元三年七月廿八日
従四位上行天文博士安倍朝臣家氏
正四位上行大膳太夫安倍朝臣維範
此奏文明日可奏歟注其日
京都所々又破損云々万人驚騒之外無他之
由注送之
廿八日庚申後聞去夜子刻許又地震云々人
々就寝多不知之歟
廿九日辛酉 地震事於殿下在清朝臣語云治
承三年地震龍神動也今度又龍神動也被彼治
承時故泰親朝臣馳参後白河院注奏之近習若
年輩咲之泰親朝臣奏聞之詞未乾大事出来今
度已為已為彼動返々有怖畏之由語之可恐々々
○百練抄 後嵯峨院
寛元三年五月廿六日庚申巳刻殊地震七月
廿七日戊午今夜丑刻大地震
同四年
○百練抄 後嵯峨院 寛元四年十二月五日庚寅大地震
文永五年
○𠮷続記 文永五年五月四日参内辰刻大地震権
【朱書】「内々御卜」
天文博士泰盛内々依召参仕頭中将奉行云
々相具 衍(本ノマヽ)行参於便宜所被尋地震御卜趣頭中
将奉仰尋之其趣凶也殊公家御慎諸凶事可
【朱書】「御祭」
競起之由見之云々内々可有御祈御祭何可
宜哉之由被尋天胄地府祭可宜之由令申予
可令申沙汰之由有仰即問答泰盛朝臣可択
申日次之由仰之明後日六日可宜之由申之
可進支度之由仰之《割書:中略|》
大地震御慎之 田見 占文 殊可抽丹誠
【朱書】「御祈」
之由仰定済僧正
謹按此時依他事於禁中有御修法定済
僧正修之
六日参内今日天胄地府御祭也敇使蔵人邦
広持向御撫物一日御祭也《割書:下略|》
正応六年 為永仁元
○行類抄 地震改元例
永仁
○皇年代記 伏見院
永仁《割書:元年癸巳八月五日改元|災旱天変地震》
正安四年
○実躬卿記【注】 正安四年五月五日今日午刻有
地震 其動尤甚申刻又動
嘉元三年
○一代要記 後二条天皇
嘉元三年三月九日大地震
正和六年 為文保元
○一代要記 花園天皇
文保元年丁巳正月三日地大震東寺塔九輪
動傾之
【朱書】「改元」
○皇年代記 花園院 文保《割書:元年丁巳三月|三日改元》
大地震
貞和五年
○後愚昧記 康安元《割書:延文|六》年六月廿二日去貞
和五年六月地震《割書:不及今|度儀》彼年故直義卿與師
【鎌倉期の公家・三条実躬の日記、徳治二(一三〇七)年から元亨元(一三二一)年までを収録、(全十一巻)】
直合戦出来畢
観応元年 貞和六
○祗園執行日記観応元年五月廿三日大地震
○青蓮院宮 古記 観応元年七月卅日為地
【朱書】《割書:「七仏薬師| 御祈 」》
震御祈於仙洞《割書:持明院殿| 》被始修七仏薬師法
○康富記 文安六年四月十三日外記《割書:大地震|勘文》
観応元年五月廿三日大地震廿四日大風六
月廿一日師泰発向西国為退治右兵衛佐殿
《割書:直冬| 》廿二日大地震廿七日宝篋院殿幷師直
発向美濃七月三十日被行七仏薬師法《割書:依地|震也》
八月廿四日被始十社御読経地震御祈也十
月廿七日左兵衛督入道《割書:直義| 》逐電廿八日等
持院殿已下御発向西国
延文元年 文和五
○園太暦 延文元年七月三日丑刻地震
十六日泰尚朝臣注申先日地震趣事地震の
【朱書】「占文」
占文日ゆるにかきをきて候を御つかひ候
はていまゝて打をきて候おそれ入て候ち
かくは首程の大動候候はす候返候以外存
候其後も小動は大略毎日と候へとも占文
は大概おなし事にて候其外変異も候はゝ
すしおとろき入て候《割書:下略| 》
十八日
恐鬱之間畏承し地動連続恐怖無極々𠮷動
も不如不動之由今申候歟変異又重承し《割書:下|略》
同 三年
○園太暦延文三年九月四日今暁卯刻許地大
震近来無比類之由諸人称之
庚【ママ】安元年 延文六
○後愚昧記 康安元《割書:延文|六》年六月廿二日庚子
酉刻地大震近来更無如此之事消肝畢
廿二日辛丑卯刻地又大震如昨夕連日大動
先代未聞事也可恐之相尋大膳大夫安信親
宜朝臣之処占文進之両日共龍神所動云々
【朱書】「占文」
占文之面事ニ不軽可恐々々近日武家重人
等各不和云々天下重事出来之兆歟去貞和
五年六月地震《割書:不及|今度》儀彼年故直義卿與師直
合戦出来乎今度又定如然事出来如歟可恐
々々廿三日壬寅今日又度々地動不及昨日
一昨日両度
廿四日癸卯今暁寅刻《割書:卯歟| 》又大地震直実/澄(消?)
魂早如此連日大地震其例何年哉又正和以
後有如此事哉日々有動之時及密奏哉之由相
尋親宜朝臣之処返事云正和六年正月三日
大地震其外小動度々其時モ龍神水神所動
也件年伏見院崩御也其外如此大小動連続事
無先例云々今暁モ水神動也超返正和畢去
廿一廿両日為同事之間別而不及占文云々
正和ニハ四日六日なとも小動也大動ハ二
ヶ度也今度ハ大動五ヶ度小動不及勝計云
々又連続之時不及密奏云々《割書:下略| 》
廿五日甲辰今日又地震及度々
廿六日乙巳今日又地震 廿七日丙午今日
又地震
七月四日癸丑申刻地又大振如此大動去月
廿一日夕廿四日又今日也及数日之条可謂
希有事歟
八日丁巳地小動九日戊午卯刻地又大震十一
月十四日辛酉酉終大地震後日尋大膳大夫
【朱書】「占」
親宜朝臣之処月行畢宿天子𠮷大臣受福又
十一月動ハ百日内兵乱云々
○康富記 文安六年四月十二日外記大地震
勘例
康安元年六月廿一日大地震廿五日天王寺
金堂為地震顛倒九月八日尊星王法十四日
熾盛光法被修也《割書:共地震|御祈也》廿三日宝篋院殿令
引籠今熊野給《割書:清氏没落| 》主上同行彼社廿
四日還幸
康安二年 為貞治元
○康富記文安六年四月十三日外記大地震勘
例
貞治元年五月十七日酉半大地震経時刻甚
鳴動如去年大地震及数日者也十八日地震
数度二十日不動歟至廿三日六月四日於内
裏被行五壇法地震御祈也
応安二年
○後愚昧記 応安二年七月廿七日今夜丑刻
【朱書】「勘文」
許有大地震親宜朝臣勘文後日見之今日星
宿也金翅鳥動也所詮兵革又臣下謀上国主
失地等也
永和二年
○康富記 文安六年四月十三日外記大地震
勘例
永和二年四月廿五日大地震六月廿一日自
今日副官等日参本官依天変地動御祈也
明徳二年
○明徳記《割書:上| 》抑十月十五日午ノ刻ニ大地振 ■(オ)【劫誤ヵ】
ヒタヽシクシテ路次往反ノ輩モ歩事ヲヱ
ス家内安座ノ人々モ肝魂モ消計也爰ニ陰
陽頭土御門ノ三位有世卿御所ヘ馳参テ申
ケルコソ怖シケレ今日ノ地振ハ金翅鳥動
ニシテ填之以外也天文道ノ差ス処ハ世ニ
逆臣出テ国務ヲ望ニ依テ七十五日ノ内ノ
大兵乱タルヘシ但一日ノ内ノ落居ナルヘ
シ一旦ハ御難儀有ト云トモ始終ハ御𠮷事
トソ勘申ケル
応永卅二年
○薩戒記応永卅二年十一月五日庚子天晴巳
終許大地震三動暫々一度小動又一度小動
凡終日鳴動未後雨入夜甚後申始刻左頭中
将隆夏朝臣来示曰自院以女房奉書被仰遣
曰自来九日三ヶ夜可被行内侍所臨時御神
楽可申沙汰者云々《割書:中略| 》
於院土御門三位有盛卿談曰今日地震水神
動也天子慎幷兵革不出年云々者又曰所々
築垣等崩了我不見及也近来無如此大動云
々
永享五年
○南朝紀伝永享五年五月十一日午刻大地震
秋九月十六日子刻又大地震夜中三十余度
其後二十日余地震不止
嘉𠮷二年
○南朝紀伝 嘉𠮷二年春正月廿一日大地震
同 三年
○康富記 嘉𠮷三年六月廿七日今暁有月行
之変矣熒惑大白填星三合近月之行度見于
東方云々強不及勘文沙汰歟 自是日於禁
【朱書】「勘文」
裏被始行御修法是去二十日大地震賀安両
家之勘文御慎之由申之間為被是旁御祈祷
被行之蔵人権右中弁俊秀奉行之
文安元年 嘉𠮷四
○康富記 文安元年四月廿七日今夜亥刻大
地震
【朱書】「例幣辞別」
九月十一日例幣也甲子幷地震世上浮説等
事被戴辞別仍有陣上卿徳大寺中納言公有
卿参着伏座職事左中弁俊秀進■【軾ヵ】下辞別折
紙仰宜命事《割書:中略| 》
折紙也
甲子之厄其慎不軽之処地動之災其地是重
之由司天奏言満衢浮説雖致小心於翼々益
仰大神之明々兵革長治邪僻之族帰政化玉
体弥穏象庶之民歌仁風宜令戴宣命辞別矣
謹按此年六月廿三日彗星出現其御祈
仏家之諸法繁多又陰陽家祭賀安両家
各修之七月廿二日祈年穀奉幣宣命辞
別被戴甲子及三合彗星等事八月十九
日 内侍所臨時御神楽被行之為甲子
三合之御祈之由戴之然而地震之事一
茂不戴之疑比例幣之辞別非為四月廿
七日地震焉八月以後又有地震歟以他
記可考之
同 六年 為宝徳元
○南朝記伝 宝徳元年夏四月十二日より大
地震
○皇年代記 後花園院
【朱書】「改元」
宝徳《割書:元年己巳七月廿八日改元|水害地震疫病飢饉》
文安六年 為宝徳元
○康富記文安六年四月《割書:目録三| 》十日夜十二日朝大
地震事《割書:処々破損事|付勘例事》
十三日今日猶連々地震
有官外記勘例注各年下仍略荷于此
十四日去十日以来連日地動不休嵯峨釈迦
幷五大尊顛倒事自室町殿被遣御使被検知
云々斉藤新左衛門尉歟神泉苑築地東寺築
地等破損事被遣両奉行 《割書:矢野長門入道|誉田入道》
被検知云々皆依地震儀也
十五日今日又度々地震
目録
十七日地震御祈祷事
同
廿七日伊勢一社奉幣《割書:地震御祈祷事| 》
享徳三年
○南朝記伝 享徳三年十二月十日大地震
康正元年 享徳四年
○南朝記伝 康正元年十二月晦日夜大地震
明応三年
○和長卿記 明応三年五月七日午刻許有大
地震勘見之《割書:弘斐大論| 》今日氐宿也如彼論則
張氐室日即婁胄廿六宿日地震者若崩是火
神動也無両江河枯渇年不宜天子大臣受殃
云々及夜時々猶震動尤有恐懼歟陰陽勘文
可尋記
八日丙申今日時々猶地震但少而止凡今日
之地震者尤𠮷也必角房女虚井觜計畢此九
宿帝釈動也天下安穏富饒風雨須時節百穀
成就天子大臣受福百姓有嘉大𠮷也云々今
日動者当房猶但若是為昨日之余気者難称
𠮷歟更為今日之 今(本ノマヽ)者尤𠮷也宿懼道勘文可
尋記之後聞連日地震𠮷七日余気云々
同 七年
○和長卿記明応七年八月廿五日辰刻有大地
震予生前無如此之儀諸人恐怖古文又以外
也水神動云々
九月二日乙未至今夜《割書:七日|歟》地震連続畢
永正七年
○拾芥記 永正七年八月七日夜寅刻大地震
天王寺廿一社悉顛倒云々可謂仏法破滅之
時者乎
天正十三年
○梵舜記 天正十三年十一月廿九日夜半時
分ニ大地震良久シ明日マテ如此也近国之
浦浜々屋皆波ニ溢レテ数多死人也其後日
々動事十二日之間也晦日同大地震当東如
雷鳴響也是夜半時分也
十二月一日大地震二日大地震三日地至至
十日連日地震
【朱書】《割書:「神道大護摩| 執行 」》
十一日本所猶禁中神道大護摩執行也二夜
三日御祈祷也施物卅六石渡ル也
文禄五年 為慶長元
○梵舜記 文禄五年閏七月十二日大地震子
刻動数万人死京中寺々所々崩倒也第一伏
見城下已下顛倒了大仏築地本尊烈破了北
野経堂東寺金堂已下倒云々
十三日内府家康為見舞予伏見ヘ罷越路次
町屋悉破倒了於路次モ数度地震動了
十四日地震五六度夜五六度モ動也
至廿九日連々有地震
十七日清水外廊地震故顛倒了
寛文二年
○皇年代記 首書寛文二年五月一日巳刻大
地震有声築地土蔵顛倒昼夜動揺不休今日
以後及数日其余震逾年
○同異本云
主上暫御仮殿《割書:依大地|震》五社《割書:伊勢石清水賀茂|春日日吉》
幷延暦寺《割書:薬師法| 》東寺《割書:不動御|修法》等有御祈
五月七日大樹命大沢兵部太輔使上京同十
六日京着十八日参 内伺 御気色
同 三年
○皇年代記 首書 寛文二年十二月六日戊【ママ】
刻地震所々築地等顛倒
宝永四年
○宝永四年記十月四日未刻大地震其後少動
震大坂大破損大塩指人三万余死前代未聞
也諸国地震紀州土佐等大破人多死云々
寛延四年 為宝暦元
○皇年代記首書 寛延四年二月廿九日未刻
許大地震京中所々損壊
宝暦 《割書:元年辛未十月廿七|日改元地震》
管見之分集録之脱漏之分追可書加之 令勘
進殿下者延暦遷都以来注之
光 棣
附考
諸国地震 朝廷被行賑恤以下事例
天平十六年
○続日本紀 聖武天皇 天平十六年五月庚
戌肥後国雷雨地震八代天草葦北三郡官舎
幷田二百九十余町民家四百七十余区人千
五百余口被水漂没山崩二百八十余所圧死
人卅余人並加賑恤
天平宝字六年
○続日本紀 廃帝 天平宝字六年五月丁亥
美濃飛騨信濃等国地震賜被損者穀家二斛
弘仁九年
○類聚国史 《割書:災異部 祈祷部|政理部》
嵯峨天皇弘仁九年七月相模武蔵下総常陸
上野下野等国地震山崩谷埋数里圧死百姓
不可勝計
八月庚午遣使諸国巡省地震其損害甚者加
賑恤詔曰朕以虚昧欽若宝図撫育之誠無忘
武歩王風猶鬱帝戴未熙咎懲之臻此為特甚
如聞上野国等境地震為災水潦相仍人者凋
損雖云天道高遠不可得言固応政術有虧致
茲霊譴自貽民瘼職朕之由薄徳厚顔愧于天
下静言厥咎実所興嘆豈有民危而君独安子
憂而父不念者也所以殊降使者就加存慰其
有因震潦居業蕩然者使等與所在官司同斟
量免今年租調幷不論民夷以正税賑恤助修
屋宇使免飢露圧没之徒速為斂葬務尽寛恵
之旨副朕迺腃【道誤ヵ】之心
九月辛卯詔曰云々比者地震害及黎元吉凶
由人殃不自作或恐漁汗乖越方失甿心降茲
厚譴以驚勗與畏天之威不遑寧処決之亀筮
時行告咎昔天平年亦有斯変因以疫癘宇内
凋傷前事不忘取鑑不遠縦百姓困孰與為君
竊惟仏旨沖奥大悲為先理武無微而不矜無
遠而不済又祓除疾病抑有前典宜令天下諸
国設斉屈僧於金光明寺転読金剛般若波羅
密経五日兼遣修禊法除去不祥云々
天長七年
○類聚国史 《割書:災異部|》
淳和天皇天長七年正月癸卯出羽国駅伝奏
云鎮秋田城国司正六位上行介藤原朝臣行
則今月三日酉時牒称今日辰刻大地震動響
如雷霆登時城郭官舎幷四天王寺丈六仏像四
王堂舎等皆悉顛倒城内屋仆撃死百姓十五
人支体折損之類一百余人也歴代以来未曽
有聞地之割砕或処卅許丈或処廿許丈無処
不辟又城辺大河云秋田河其水涸尽流細如
溝是河底辟分水漏通海歟吏民騒動未熟尋
見添河覇別両岸各崩塞其水汎溢《割書:中略|》
准令馳駅 言上但損物色目細録進上四月
戊辰詔曰云々如聞出羽国地震為災山河致
変城宇頽毀人物損傷百姓無辜奄遭非命誠
以政道有虧降斯霊譴朕之寡徳慙千天下静
念厥咎甚倍納隉夫漢朝山崩拠修徳以攘災
周郊地震感善言而■【統誤ヵ】患然則剋己済民之道
何能不帥古哉所以特降使臣就加存撫其百
姓居業震陥者使等與所在官吏議量盶当年
租調幷不論民夷開倉廩賑助修屋宇勿使失
職圧亡之倫早従葬埋務施寛恩【一字消し】式称朕意
五月己卯百屈僧於大極殿転読大般若経一
七日為除地震及疫病癘之災也
承和八年
○続日本後紀 承和八年二月甲寅信濃国言
地震其声如雷一夜間凡九十四度墻屋倒頽
公私共損
七月己巳朔癸酉 詔曰云々如聞伊豆国地
震為変里落不完人物損傷或被圧没霊譴不
霊必応粃政膽言往躅内媿于懐伝不云乎人
惟国本本固国寧朕之中襟諒功字育故令殊発
中便就加慰撫其人居散逸生業陥失者使等
與所在国吏斟量除当年租調幷開倉賑救助
修屋宇淪亡之徒務従葬埋天化之所被無隔
華夷恵之攸覃必該中外宜不論民夷普施優
恤詳暢寛弘之愛副朕推溝之懐
嘉祥三年
○文徳実録 嘉祥三年十月庚申出羽国上言
地大震裂山谷易処圧死者衆
十一月丙申 詔曰云々出羽州壊偏応銅龍之
撼辺府黎甿空被梟禽之害邑居震蕩蹈厚戴而
【右丁】
不安城柵傾頽想艱虞而益恐咸湏子視或至
於死傷独【獨】作母臨何懈於極救宜馳星使就展
恩光其被災尤甚不能自存使国【國】商量蠲免租
調并不問民狄開倉廩貸振《割書:恤歟》其生業莫使
重困崩墻毀屋之下所有残屍露骸官為収埋
務申優恤鹿俾委凍者知狭纊之温阻飢者得
廩穿之飽
貞観十一年
〇【やや大きな赤丸】三代実【實】録 清和天皇 貞観十一年五月廿
六日癸未陸奥国【國】地大震動流光如昼【晝】隠映頃
【左丁】
之人民叫呼伏不能起或屋倒圧【壓】死或地裂埋
殪馬牛駭奔或相昇踏城郭倉庫門櫓墻壁頽
落顛覆不知其数海口哮吼声【聲】以雷霆驚涛【濤】涌
潮泝洄漲長忽至城下去海数十百里浩々不弁
其涯涘原野道路総為滄溟乗船不遑登山難
及溺死者千計資産苗稼殆無子遣焉
七月七日癸亥地震
九月七日辛酉 以従五位上行左衛門権佐
兼因幡権介紀朝臣春枝為検【撿】陸奥国【國】地震使
判官一人主典一人
【右丁】
廿五日己卯地震
十月十三日丁酉 詔曰云々如聞陸奥国【國】境
地震尤甚或海水暴溢而為患或城宇頽圧【壓】而
致殃百姓何辜惟斯禍毒憮然愧懼責深在予
今遣使者就布恩煦使與国【國】司不論民夷勤自
臨撫既死者尽【盡】加収殯其存者詳崇振恤其被
害大甚者勿輸租調鰥寡孤窮不能自立者在
所斟量厚宜支済務尽【盡】矜恤之旨俾若朕親覿
焉
廿三日丁未敕曰云々如聞肥後国【國】迅両成暴
【左丁】
坎結為災曰園以之淹傷里落由其蕩尽【盡】夫一
物失所思功納隍千里分憂寄帰【「皈」は「帰」に同じ】牧宰疑是皇
猷猶鬱更化乖宜方失毘心致此変異歟昔周
郊偃苗感罪已而弭患漢朝壊室拠【據】脩■【徳ヵ】以禳
災前事不忘取鋻在此宜施以■【徳ヵ】政救彼凋残
令太宰府其被災害尤甚者以遠年稲穀四千
斛周給之勉加存恤勿令失職又壊垣毀屋之
下所有残屍乱骸 旱(早歟)【注】加収埋不合曝露
十二月十四日丁酉遣使者於伊勢太神宮奉
幣告文曰
【注 コマ60に同じ文章があり、「旱」でも「早」でもなく、「官」になっている】
【右丁】
天皇《割書:我》詔旨《割書:中略》
去六月以来大宰府度々言上《割書:須良|久》新羅賊舟
二艘筑前国【國】那珂郡《割書:乃》荒津《割書:尓》到来《割書:天中略》
又肥後国【國】《割書:尓》地震風水《割書:乃》災【「灾」は「災」に同じ】有《割書:天》舎宅悉倒【仆】顛
《割書:利》人民多流亡《割書:多利》如此之災比古来未聞《割書:止》
故老《割書:毛》申《割書:止》言上《割書:多利》然間《割書:尓》陸奥国【國】又異常
《割書:奈留》地震之災言上《割書:多利》自余【餘】国【國】々《割書:毛》又頗有
件災《割書:止》言上《割書:多利》 中略
国【國】家《割書:乃》大禍百姓《割書:乃》深憂《割書:止毛》可在《割書:良牟|乎波》皆悉
未然之外《割書:尓》払【拂】却銷滅之賜《割書:天》天下无躁驚《割書:天》
【左丁】
国【國】内平安《割書:尓》鎮護《割書:利》救助賜《割書:比》皇御孫命《割書:乃》御
体【躰】《割書:乎》常磐堅磐《割書:尓》與天地日月共《割書:尓》夜護
昼【晝】護《割書:尓》護幸《割書:倍》矜奉給《割書:倍|止》恐美恐《割書:美|毛》申賜《割書:久止》
申
十七日 庚子去夏新羅海賊掠奪貢錦又有
大鳥集大宰府庁【廰】事并門楼【樓】兵庫上神祇官陰
陽寮言当【當】有隣境兵冦肥後国【國】風水陸奥国【國】地
震損傷廨舎没溺黎元是日 敕命五畿【「幾」は誤記】七道
諸国班幣境内諸神予【豫】防後害
廿五日戊申敕令五畿【「幾」は誤記】七道諸国限以三日転【轉】
【右丁】
読【讀】金剛般若経謝地震風水之災【「灾」は「災」に同じ】圧【壓】 隣
兵窺隙
之冦焉
二十九日壬子遣使者於石清水神社奉幣告文
曰云々
謹按新羅賊船事大鳥怪【「恠」は「怪」の俗字】事肥後国【國】地震風
水災事陸奥国【國】地震災事自余【餘】国【國】頗有件災
事等被祈申其文全同去十四日被奉
伊勢太神宮告文仍今略之
同十二年二月十五日丁酉敕遣従五位下行
主殿権助大中臣朝臣国【國】雄奉幣八幡大菩薩
【左丁】
宮及香椎廟【かしいびょう。「庿」は「廟」の古字】宗像大神甘南神告文曰云々
謹按去年六月以来新羅賊船事大鳥怪事
肥後国【國】地震風水災事陸奥国【國】地震災事自
余【餘】国【國】頗有件災事等被祈申其文同上仍今
略之但甘南備神不破申地震事
元禄十六年
元禄十六年記 十一月廿ニ日江府大地震
云々
十二月九日於内侍被行臨時御神楽依江府
【右丁】
大地震火災等也云々
十七年
二月八日関東使横瀬駿河守参 内依関東
地震 内侍所御祈御礼也
三月十三日改元為宝【寶】永元年依東国【國】地震也
漏脱之分可書加者 光 棣
【左丁】
頃京沙地大震而数ヨ不山東瀧菴【「葊」は「菴」の古字】主人袖小記来
而請《割書:余》題言見其記今古評説惣挙此矣因写【寫】仁和
年間々徴以代題言聊寒其責云尓
文政十三年庚寅秋七月
卓堂 岸岱
【右丁 文字無し】
【左丁】
地震考
文政十三庚寅年七月二日申の時はかりに大に
地震ひ出ておひたゝしくゆり動しけれは洛中
の土蔵築地なと大にいたみ潰れし家居もあり
土蔵の潰れしは数多ありて築地高塀なとは大
かた倒れ怪我せし人も数多なりむかしはあり
と聞けと近く都の土地にかくはけしきはなか
りけれは人々驚きおそれてみな〳〵家を走り出
て大路に敷ものしき仮の宿りを何くれといと
【注:この六十五コマから始まる「地震考」の冒頭部は同「地災撮要巻十一~十二(地震の部)コマ二十二~二十三に記載の文と殆ど同じ】
【右丁】
なみ二三日かほとは家の内に寐る人なく或は大
寺の境内にうつりあるひは洛外の河原へ移り
西なる野辺【邊】につとひて夜をあかしけれかくて
三日四日過ても猶其名残の小さき震ひ時々あ
りありてはしめは昼【晝】夜に二十度も有しか次第
にしつまりて七八度はかり三四度になる事も
あり然れともけふ既に廿日あまりを経ぬれと
なほ折々すこしつゝの震ひもやまて皆人々のま
とひ恐るゝことなり世の諺に地震ははしめきひ
しく大風は中程つよく雷は末ほと甚しとい
【左丁】
へる事をもてはしめの程の大震はなきことくさ
としぬれとなほ婦女子小児のたくひはいかゝ
と安心しわつらひていかにや〳〵と尋とふ人の
さはなれは旧【舊】記をしるして大震の後小震あり
て止さるためしを挙て人のこころをやすくせ
んとしるし侍る
上古より地震のありし事国【國】史に見えたる限り
は類聚国【國】史一百七十一の巻災【原文は誤記と思われる】異の部に挙て詳
なり
三代実【實】録仁和三年秋七月二日癸酉夜地震《割書:中略》
【右丁】
六日丁丑虹降_二東宮 ̄ニ_一其尾 竟(ツク)_レ 天虹入_二内藏寮 ̄ニ_一《割書:中略》是
夜地震《割書:中略》丗日辛丑 ̄ノ申時地大 ̄ニ振動 ̄ス経_二歴数尅 ̄ヲ_一震
震猶不_レ止天皇出 ̄テ_二仁【「仕」は誤記】寿殿 ̄ニ_一御 ̄ス_二紫宸殿南庭 ̄ニ_一命 ̄シテ_二大藏省 ̄ニ_一
立_二 七丈 ̄ノ幄(アク)二 ̄ヲ_一為 ̄ス_二御在所 ̄ト_一諸司舎屋及 ̄ヒ東西 ̄ノ京盧舎往
々顛覆圧【壓】煞【「煞(サツ)」は「殺」に同じ。原文の字は「煞」の略字カ】者衆 ̄シ或有_二失神(ココロマトイ)頓死 ̄スル 者_一亥 ̄ノ時亦震 ̄フコト三度
五畿内七道諸国【國】同-日 ̄ニ大震官舎多 ̄ク損 ̄シ海潮漲_レ陸 ̄ヲ溺
死者不_レ可_二勝 ̄テ計_一《割書:中略》八月四日乙巳地震五度是 ̄ノ日
達智門 ̄ノ上 ̄ニ有_レ気如_レ ̄ニシテ煙非 ̄ス_レ煙 ̄ニ如_レ ̄ニシテ虹 ̄ニ【「ノ」の誤記カ】非_レ虹 ̄ニ飛上 ̄テ属_レ 天或人
見 ̄テ_レ之皆日是羽蟻也《割書:中略》十二日癸丑鷺二集_二朝堂
院白虎楼【樓】豊楽院栖霞楼【樓】上 ̄ニ_一陰陽寮占 ̄ニ日当【當】_レ慎 ̄ム_二失火
【左丁】
之事 ̄ヲ_一 十三日甲寅地震有_レ鷺集 ̄ル_二豊楽院南門 ̄ノ鵄尾上【一点脱】
十四日乙卯子時地震十五日丙辰未時有鷺集 ̄ル_二豊
楽殿 ̄ノ東鵄尾 ̄ノ上 ̄ニ_一《割書:下略》
皇帝紀抄に【ママ】云文治元年七月九日未尅大地震洛
中洛外堂社塔廟人家大略顛倒樹木折落山川皆変【變】
死者多其後連日不_レ休 ̄ニ四十余【餘】箇日人皆為_レ悩心神
如 ̄シ_レ酔 ̄ガ云々
長明之方丈記に云元暦二年の頃大なゐふる事
侍りき其さまよの常ならす山くつれて川をう
つみ海かたふきて陸をひ【「つ」を見せけちにして右に「ひ」を傍記】たせり土さけて水涌
【右丁】
上りいはほわれて谷にまろひ入諸こく舟は波に
たゝよひ道ゆく駒は足の立と【立ち処】をまとはせり況や
都のほとりには在々所々堂舎塔廟一として不全
《割書:中略》かくおひたゝしくふることはしはしにて止
にしか其名残しはらくは絶す尋常におとろく
ほとの地震二三十度ふらぬ日はなし十日廿日過
にしかはやう〳〵間遠になりて或は四五度二
三度もしは一日ませ【一日まぜ=一日おき】二三日に一度なと大かた
其名残三月はかりや侍けん云々
天文考要に云寛文壬寅五月畿-内 ̄ノ地大 ̄ニ震 ̄フ北江最
【左丁】
甚 ̄シ余【餘】動屡発【發】至 ̄ル_二於歳終 ̄ルニ_一
本朝天文志に云宝暦元年辛未二月廿九日大地
震諸堂舎破壊余【餘】動至 ̄テ_二 六七月止 ̄ニマル_一
かく数々ある中にも皆はしめ大震して後小動
は止 ̄マ されともはしめのごとき大震はなし我友広【廣】
島氏なる人諸国にて大地震に四たひ逢たり皆
其くにゝ滞留して始末をよく知れり小動は久し
けれともはしめのごときは一度もなしと申されき
是現在の人にて證とするに足れり
〇【大きな赤丸】地震の説
【右丁】
径世衍義 孔鼂【墨誤ヵ】 ̄カ曰 ̄ク陽伏 ̄テ_二千【原典は「于」】陰下 ̄ニ_一見_レ迫 ̄ヲ_二于陰 ̄ニ_一而不_レ能 ̄ハ
升【「昇」の略字。】 ̄ルコト以 ̄ニ至 ̄シ_二於地動 ̄ニ_一と如此湯気地中に伏して出んと
する時陰気に抑へられて出る事能はず地中に
激攻して動揺するなり国語【書名】の周語【『国語』の篇名】に伯湯父の言
なとも如此古代よりみな此説をいふ
天径或問に云地は本卜気【氣】の渣滓まつて形質を
なす元気【氣】旋転【轉】の中に束ぬ故に兀然として空に
浮んて墜す四囲【圍】に竅【あな】有て相通す或は蜂の窠の
ことく或は菌?弁【辨】のことく水火の気【氣】其中に伏す蓋【盖は俗字】
気【氣】噴盈して舒【のべ】んと欲してのふることを得す人
【左丁】
身の筋転【轉】して脈【脉は俗字】揺かことく亦雷霆と理を同ふ
す北極下の地は大寒赤道之下は偏熱にしてともに
地震少し砂土の地は気【氣】疏にして聚まらす震少し
泥土之地は空く気【氣】の藏むことなし故に震少し温
煖の地多石の地下に空穴有て熱気【氣】吹入て冷気【氣】の
為に摂斂【歛は別字。誤用】せられ極る則は舒放して其地を激搏
すたとへは大筒石火矢なとを高楼巨塔の下に発せ
は其震衝を被らさること無きかことし然れとも
大地通して地震する事なし震は各処【處】各気【氣】各動
なりと唯一処【處】の地のみなり其軽重に由て色々
【右丁】
の変あり地に新山有海に新島あるの類ひなから
す震後地下の燥気【氣】猛迫して熱火に変して出れ
は則震停るなり
〇【大きな赤丸】地震の徴
震せんとする時夜間に地に孔数々出来て細き
壌を噴出して田鼠【野鼠の異名】坊ことしと是土龍【どりゅう=もぐらの異名】なとの持
上るの類ならんか【「歟」を仮名とみなしました】
又老農野に耕す時に煙を生することきを見て
将に震せんとするを知ると
又井水にはかに濁り湧くも亦震の徴なり《割書:已上|天天考要》
【左丁】
又世に言伝【傳】ふは雲の近くなるは地震の徴なり
と是雲にはあらす気【氣】の上昇するにて煙のごと
く雲のことく見ゆるなり
地震の和名をなゐと云和漢三才図絵【繪】にはなへ
とありなゐの仮【假】名然るへからむか
季鷹翁の説になは魚にてゐはゆりの約【つずま】りたる
にてなゆりといふ事ならむか魚の尾鰭を動か
すごとく動揺するを形容して名目とせるかな
ゐふるとは重言のやうなれともなゐは名目となれ
はなるへしと是をもて思へは誠に小児の俗説な
【右丁】
れとも大地の下に大なる鯰の居るといふも昔より
言伝【傳】へする俗言にや又建久九年の暦の表紙に
地震の虫とて其形を画き日本六十六州の名を記
したるもの有俗説なるへけれとも既に六七百年
前よりかゝる事もあれは鯰の説も何れの書にか
拠【據】あらんか仏説には龍の所為ともいへり古代
の説は大やうかくのこときものなるへし
〇【大きな赤丸】佐渡の国には今も常になゐふると言ならはせ
り地震といへは通せす古言の辺鄙に残る事
し【「之」】るへし
【左丁】
〇【大きな赤丸】三代実録仁和三年地震之條に京師の人民出
庵【廬】舎居_二 ̄ル于衢 ̄マ路【返り点「一」脱】云々こたひの京師のありさまも
かくのことくいと珎【「珍」に同じ】らかなり
〇【大きな赤丸】地震に付て其応【應】徴の事なとは漢書晋書の天
文志なとには其応【應】色々記しあれとも唐書の天
文志よりは変を記して応【應】を記さす是春秋の意
に本づくなり今太平の御代何か応【應】か是あらむ
地震即災異にして外に応【應】の有るへきことなし人
々こころをやすんして各の務をおこたらされ
【右丁】
文政十三年
寅七月廿一日 思齊堂主人誌
此地震考一冊は予か師涛【濤】山先生の考る所にし
てこの頃童蒙婦女或は病者なとさま〳〵の虚説
にまとひおすれおのゝきまた今に小動も止す
此後大震やあらむと心も安からされは暦代の
ためしを挙て其まよひを解きこゝろをやすん
【左丁】
せんとす京師は上古より大震も稀なり宝暦元
年の大震より今年まて星霜八十年を経れは知
る人すくなし此災異に係て命を損し疵をか
うふる人数多なり時の災難とはいへとも亦免【まぬがれ】か
たしとも言へからす常に地震多き国は倉庫家建
も其こゝろを用ひ人も平日に心得たれは大震と
いへとも圧【壓】死すくなく和漢の暦代に記せし地裂
山崩土陥島出涛【濤】起等は皆辺【邉】土なり阿含短智慶
論なとさま〳〵に説て大地皆動くやうに聞えり
さにはあらす發初めにいつる如く震は各処【處】各動也
【右丁】
予天経或問に據て一図をまうけて是を明す
【左丁】
地球一周九万【萬】里是をとう唐土の一里六町として日
本の一里三十六町に算すれは一周一万【萬】五千里
となるしかる時は地心より地上まて凡二千五
里なり此図黒点【點】の間凡一千五百里なり今度の
地震方二百里と見る時は僅に図する所の小
円【圓】の中に当【當】れり是を以て振動する所の微少な
ると地球の広【廣】大なる事を思ひはかるへし
〇【大きな赤丸】愚按するに天地の中造化皆本末あり本とは
根本にして心(シン)なり心とは振動する所の至て猛烈
なる所をさす其 心(シン)より四方へ散して漸く柔緩(ユルク)
なるを末とす然れは東より【「季」とあるが「李」の誤記と思われる】揺来るにあらす西
より動き来るにあらす其心より揺初て四方に至
り其限は段々微動にて畢るならん今度震動す
る所京師を心として近国【國】に亘(ワタ)【「亙」の俗字】り末は東武南紀
北越西四国【國】中国【國】に抵【いた】る又京師の中にても西北
の方心なりしや其時東山にて此地震に遇し人
まづ西山何となく気【氣】立昇りて忽市中土烟を立
て揺来り初めて地震なる事を知れりとなり
〇【大きな赤丸】又地震に徴有る事現在見し所当【當】六月廿五日
【左丁】
日輪西山に没する其色血のことし同七月四日
月没する其色亦同し和漢合運云寛文二年【秊】壬寅
三月六日より廿日まて日朝夕如血月亦同五月
朔日大地震五條石橋落朽木各崩土民死至_二テ七月_一
末止出たり広【廣】島氏の譚に享和三年十一月諸用あ
りて佐渡の国【國】小木といふ湊に滞留せしに同十五
日の朝なりしか同宿の船かゝりせし船頭とゝもに
日和を見むとて近辺【邉】なる丘へ出しに船頭のいは
く今日の天気【氣】は誠にあやしけなり【「季」とあるが「李」の誤記と思われる】四方濛々とし
て雲山の腰にたれ山の半腹より上は峯あらは
【右丁】
れたり雨とも見へす風になるとも覚へす我年来か
くのことき天気【氣】を見すと大にあやしむ此時広【廣】島氏
考て曰是は雲のたるゝにあらす地気【氣】の上昇する
ならん予幼年のとき父に聞ける事有地気【氣】の上昇
するは地震の徴なりと暫時も猶予【豫】有へからすと
急に旅宿に帰り主に其由をつげ此地後は山前は
海にして甚危し又来るとも暫時外の地にのか
れんと人をして荷物なと先へ送らせそこ〳〵に
仕度して立出ぬ道の程四里計も行とおもひしが
山中にて果して大地震せり地は浪のうつことく揺
【左丁】
て大木なと枝みな地を打ふしまろひなから漸
々のかれて去りぬ此時小木の湊は山崩れ堂塔は倒
れ潮漲て舎屋咸海に入大きなる岩海より涌出
たりそれより毎日に小動して翌年六月に漸々止
たりとなん其後同国【國】金山にいたりし時去る地震
には定めし穴も潰れ人も損せしにやと訪ひしにさ
はなく皆いふ此地はむかしより地震は已前にしり
ぬ去る地震も三日以前に其しるしを知りて皆穴に
入らす用意せし故一人も怪我なしとなり其徴はい
かにして知るやと問しに将に地震せんとする前は穴
【右丁】
の中地気【氣】上昇して傍なる人もたかひに腰より上
は唯濛々として見えす是を地震の徴とすといへり
按るに常に地中に入ものは地気【氣】をよくしる鳥は空
中にありてよく上昇の気【氣】をしる今度地震せんとす
る時数千の鷺一度に飛を見る又或人六月廿七日
の朝いまた日も出ぬ先に虹丑寅の間にたつを見
る虹は日にむかひてたつは常なりいつれも常にあ
らされは徴とやいはん
〇【大きな赤丸】又はしめにいへる地震の和名なゐふる季【「李」とあるは誤記】鷹大
人なは魚なりといふ話によりて古図【圖】を得て茲に出す
【左丁】
是図【圖】こよみの初に出して次に建久九年《割書:つちのへ|むま》
の暦凡《割書:三百五|十五ケ日》とありよ余【餘】はこれを略す伊豆の図【圖】那
珂郡松崎村の寺院ふるき唐紙の中より出る摺
まき【版ですった本、版本】の暦なりとぞ
【右丁】
槐記【江戸中期の随筆】享保九年の御話に云く昔四方市といへる
盲人は名誉の調子聞にて人の吉凶悔吝を占ふ
に少しも違ふことなし応【應】山へは御心やすく毎々参
りて御次に伺候せしか晩年に及ひて申せしは
由なきことを覚えて甚くやし終日人に交はる毎
に其人の吉凶みな耳にひゞきていとかしまし
と申けるよし去ほとに度々の高名挙てかそへ
かたく此四方市朝夙に起て僕を呼ひ扨々あ
しき調子なり此調子にては大方京中は減却す
へきそ急き食にても認めて我を先嵯峨の方へ
【左丁】
誘ひゆけと言日頃の手きはともあれは早速西
をさして嵯峨に行嵐山の麓大井源【「河」カ 注】原に着て暫
く休息して云やういまた調子なほらすあない
ぶかし大方大火事なるへしと人家有所をはな
れて北へ越せしにいまだ同し調子なるなるは
此も悪所と覚ゆ愛宕には知れる場あり是に誘
ひゆけといふいさとて又登りかくて其坊に着
く坊主出てかく早くは登山しけるよと申せし
かはしか〳〵の事ありと答ふこゝはいかにと問
こゝも猶あからす少しにても高き所へ参りたし
【注 文字は「源」だが「地災撮要11-12」コマ33~34にかけて同じ文章が記載されそこでは「源」の右横に「河カ」訂記されている】
【右丁】
と言其所護摩堂あり此に行れよとありしかは
此堂に入て大によろこび扨々安堵に住せり調
子初て直りしとて唯いつまても此に居たきよ
し申せしか頓て地震ゆり出し夥しき事いふは
かりなし《割書:世間に云う寅|年大地震》何とかしたりけむ彼護摩堂
は架作【たなつくり 注①】にて頓て深谷へ崩れ落て破損し四方市
も空くなる六十余りにても有べきか此一生の
終りをして人の吉凶さへ姦き同とに知るもの
ゝ己か終る所をしらさるのみに非す死傷にて
安堵しけるこそ不審なれ吉の極る所は凶凶の
【左丁】
極る所は吉なれはなるべし毎度無禅か物語な
りと仰らる愚按るに四方市の著き事賞するに
余り有既に天地の変異を知りて愛宕山にのかれし
とうへ【うべ】なるかな此山に至りて調子直りしに其変も【字母「茂」と思われる。注 ②】
あんなれとも是は陰極りて陽に変し陽極りて
陰を生す楽極りて哀生すといふに同しからむ
其頃は京師一般の大変故震気【氣】充満して歩むに
道なく逃るに所なしと云時なれは四方市も身
体【體】茲に極るといふ処【處】ゆゑ反て其音調の直りし
も至極の事に覚へ侍る
【注① 「地災撮要巻11-12のコマ34に「架作」の右に「タナツクリ」と振り仮名あり】
【注② 「地災撮要巻11-12のコマ34にも同じ文が記載され、そこには「も」とあるによって「も」とします。】
【右丁】
素問五運行大論 ̄ニ曰風勝 ̄スハ則地動 ̄ク 怪異弁【辨】断 ̄ニ曰
此説に随ふ時は地震は風気【氣】の所為也又曰地震
に鯰の説世俗に有る説なるや風を以て鯰とし
たるものか魚は陰中の陽物なれは風にたとへ
言るならん何れにても正理には遠き説なり白石
の東雅に云地震をなゐふるといふはなゐとは鳴な
りふるゝとは動くなり鳴動の義なり今俗にない
ゆるともいふなりゆるも又動くなりゆるふと
いひゆるかすなといふも又同し上古の語にゆ
【左丁】
をかしてなどいふも即是なり愚按るに又なへふ
ると北越辺土にいへり三才図会【會】になへと出たる
は何にもとつけるにやもしなへと言へはなへをつゞめ
はねとなるねは根にして地をいふ地震にて子細
なく揚子方言云東齊謂_レ根曰 ̄ク_レ土非_三専指_二桑根白波_一
又日本紀神代巻に根之国【國】と出たるは地をさ
すか 又或人云なゐゆるとはなみゆるなりな
みのうへ如くゆるをいふ矣
洛東 東瀧葊【「菴」の古字】主人誌
【右丁】
題地震考後
災異之可_レ ̄キ懼 ̄ル莫_レ ̄シ大_レ ̄ナルハ於_二 地震_一以_下雖_二其地 折(サケ)山陥 ̄リ海傾 ̄キ河
翻_一 ̄ルト不_上_レ ̄ヲ能_二翰飛 ̄シ戻(イタル)_一_レ 天 ̄ニ也然 ̄ルニ若_下 ̄キモ夫 ̄ノ 古今伝 ̄ニ記 ̄ニ所_レ載 ̄スル及近時
邦国 更(カハルニ?ル)有棟壊 ̄レ牆倒 ̄レ傷_二-害人畜_一 ̄ヲ者人毎邈然 ̄ト視_レ之 ̄テ従
為_二 一場奇譚_一 ̄ト及_二其実歴親履心駭 ̄キ魂銷_一 ̄ルニ而後 ̄ニ始 ̄テ回_二想 ̄シ
当時_一 ̄ヲ以知_レ為_レ可懼己茲庚寅 ̄ノ七月二日京地大震 ̄ス余
震于_レ ̄ニ今未_レ歇 ̄マ人心洶々言 ̄フ震若 ̄シ有_レ ̄ラハ甚_レ ̄キ焉 ̄ヨリ将 ̄タ憑_レ ̄テ何 ̄ニ得_レ ̄ント兌 ̄ルヲ
民之訛言 ̄モ亦孔之将 ̄ノ言 ̄フ某日時震甚 ̄シ又言 ̄フ某 ̄ノ事為_レ崇 ̄ヲ又
言 ̄フ某 ̄ノ日暴風雨与_レ震並 ̄ヒ臻 ̄ルト重 ̄ルニ以_二 ̄シ丙王棍賊之警_一 ̄ヲ人不_レ
知_レ所_二 ̄ヲ底止_一或 ̄ハ廃_レ ̄テ業 ̄ヲ舎_レ ̄キ務 ̄ヲ至_三携_レ ̄ヘ家逃_二 ̄ルヽニ震 ̄ヲ遠地_一 ̄ニ崎山先生
【左丁】
老 ̄テ益 ̄セ悃幅憫_二 ̄ミ其如_レ ̄ヲ此 ̄ノ為 ̄ニ録_二 ̄メ此言_一 ̄ヲ以 ̄テ喩_二 ̄トシ民心_一釈_二 ̄ントス其惑_一 ̄ヲ故 ̄ニ
言辞不_レ飭 ̄ヲ考徴 ̄モ亦不_レ務_レ ̄メ多 ̄ヲ東瀧主人受而衍 ̄シ梓而行_レ ̄フ
之清余 ̄ニ識_二 ̄スコトヲ其由_一 ̄ヲ適有_三 人為_レ ̄ニ余 ̄カ説_二 ̄ク其先人々言_一 ̄ヲ云必_二 ̄キ某 ̄ノ
什器_二 ̄ノ今人不_レ悉(ツマヒラカ)_二其用_一注々 ̄ニ以為_二不便_一 ̄ト不_レ知方_二 ̄リ其大震_一 ̄ニ
掩_レヒ此 ̄ヲ庇_レ ̄スレハ身雖_二棟壊牆 倒_一 ̄ルト保_二 ̄ス其無_一_レ ̄ヲ恙又如_下 ̄キモ今灯架 ̄ニ没_中 ̄ル承_二 ̄ル
蝋炬_一者_上 ̄ヲ亦皆震之備 ̄ニ蓋宝暦大震之余所_二慮 ̄リ而設_一 ̄タリ至_二
天明欝攸之後_一 人不_レ知_二震之可_レ ̄ヲ懼_一 ̄ル今日構造唯災 ̄ニ之 ̄レ
備 ̄フ可_レ見_下非_二 ̄レハ実歴親履_一 ̄ニ思慮不_レ及亦人心向背之速 ̄ナルコト如_上_レ ̄ヲ
此 ̄ノ因 ̄テ並記_レ ̄シ此 ̄ニ欲_下 人之触_レ ̄レ類 ̄ニ而長_レ ̄シ之 ̄ヲ毎 ̄ニ有_レ所_二懲毖_一 ̄スル 有_上 ̄ンコトヲ所_二
備預_一
【右丁】
文政十三年庚寅秋八月上澣
三緘主人識
手嶋舘長ノ嘱托ニ依リ写【寫】生ニ命シテ
之ヲ謄写【寫】セシム于時明治廿一年九月
関【關】谷清景誌
【左丁 文字無し】
【左右頁 文字無し】
【右丁 文字無し 但し左右紙面に「東京図書館藏」の押圧文字が散らしてある】
【左丁】
地災撮要巻六《割書:地震之部》
【左右頁 文字無し】
【右丁 文字無し】
【左丁】
地災撮要 《割書:地震之部》 巻之六
【右丁 文字無し】
【左丁】
松代藩支配及飯山中野中之条御支配所高井更
級水内埴科郡弘化四丁未年三月廿四日
夜地震大略
時ニ弘化三丙午年冬暖ニシテ春草花ヲ萌ス同
四丁未仲春仲夏ノ如シ就中十五日盛夏ノ如シ
同十七日季秋ノ如ク同十八日八十八夜霜降テ
桑花枯ルコト甚シ山中ニ及テハ山中池中ニ薄氷
ヲ閉ツ或ハ桃花汔ント開カントシテ霜氷ニ傷
ラルヽ仲春雷発【發】声【聲】其気【氣】候変【變】換偏ニ如_二浮雲_一月令
曰季春行_二夏令_一民多_二疾疫_一時雨不降山陵不収行_二 ̄ハ秋
【右丁】
令_一 天沈陰揺雨蚤 ̄ク降 ̄ル兵革並起行_二 ̄ハ冬令_一寒気時ニ発
シ草木皆粛 ̄ル国有_二 ̄リ大恐_一運気論ニ曰丙午丁辛ハ不
知也茲ニ今年丁未季春癸卯日亥時大地動テ一
挙民屋寺院堂塔神社仏閣悉ク転倒圧死傷失ア
リ山川差別無ク裂通泥水涌出シ泉池流ヲ塞キ
下ル岳ニ騰リ丹波嶌川上山平林ノ郷中岩倉山崩
レ数十丈山ト山トヲ挟ミ経十四五町緯ハ一町
余大川ヲ寄塞シ故ニ下流忽ニ竭キ上ハ湛水潮
ノ如シ人屋ハ水面ニ漂フコト二十日孟夏中ノ三
日申時湛水塞所溢レ高岸暫時ニ崩レ漲水天ヲ
【左丁】
滔シ更級水内高井埴科四郡人民牛馬盧舎流凶
勝テ計ヘ難シ善光寺ヨリ北国道筋淘潰村々横
山皆潰相ノ木村潰ノ上焼失押鐘村吉田村ヲ
始トシテ越後ノ国関川迄就中吉村ハ山抜ケ家
人共土中ニ埋マル高井郡飯山ノ城郭転倒シテ
地ノ高低ヲ成スコト壱丈余都テ市中壱丈余一面
ニ浮上リ家屋悉ク焼失素来此地窪ニシテ時々
水損ノ地ト雖モ高丘ヲ為ス水災前代未曽有自
是越後谷通行所々転倒ス如之洪水田畑ヲ損ス新
潟ニ至テ凡六十里也
【右丁】
三月廿四日ノ夜大地震ヨリ犀川日々減水丹波
島船渡シ一箇所ト成傍ノ裾華一河常ニ此川ニ
落テ是亦日々減水諸川漸々減水終ニ丹波島ノ
渉場歩行ス故ニ川中島邑々恐怖周章シテ東南ハ
妻女山有明山ノ麓海津城南凡河東ノ山麓膝ヲ
容ル所無ク小屋ヲ営ミ彼ノ処ニ退テ出水ヲ待
然ル所三月廿八日暁七《割書:ツ》時裾華川ノ上鬼無里村
ノ内川浦ノ塞所湛水即時押切レ犀川ニ出ルト雖
モ別テ異ナルコト無シ此川上山中地京原村藤沢
組梅本村城ノ越大田組居折村荒井村皆潰レ念
【左丁】
仏寺村臥雲院転倒シテ谷ニ落ツ焼失ノ上土中
ニ埋マル丹波島船渉川上更級水内両境赤岩岩
倉山数十丈深谷ヲ埋且安庭村二ヶ所抜出シ同
流塞コト数日水湛故新町穂刈牧ノ島ヲ始メ数十
ケ村水中ニ溺ル民家漣ニ漂フ深谷ニ至テ蕩々
タル水面八九里ニ及フ従海津公検査有テ溺村
ノ窮民ヲ賑給ス尚又川中島村々ニ令シテ石俵
ヲ以テ土堤ヲ新築シテ急災ヲ除カシム民家銘
々最寄ヲ以テ西ハ小松原山岡田山東ハ西條山
保科山有明山又ハ野中ニ仮屋ヲ営ミ老ヲ先テ
【右丁】
妻子ヲ連レ一村毎二人三人番人ヲ残シ米穀味
噌家財ヲ運ヒ筏組ミ舟ヲ設テ不意ヲ待ツ将又
小市村渉場水絶テ洪水ノ刻激水ニ於テハ村々
水害ヲ懼レ依テ海津公数千ノ人民ヲ集メ石俵
ヲ以テ堤ヲ四ツ屋村ノ末迄三重築立水防甚厳
重尚又火術ニ令シテ水湛ノ山上ヨリ烽火ヲ揚
ク可キ用意ヲ成シ山村ニ伝授シ即時ニ里村知
ラシム合図ヲ以テ毎村残居ノ番人且往復旅人
迄西山ニ可_二 ̄ク駈走_一様定置海津公ヨリ助船ヲ数十
艘修造最寄ノ村々ヘ之ヲ繋キ尚又各所ニ大釜
【左丁】
ヲ据ヱ糧食ヲ焚出被レ変災ノ諸民ニ充ツ手配
確守溢水ヲ待ト雖モ十有余日事無ク故ニ中々
急崩押出有可カラス漸々順水ニ流出ス可キ由
各村々ヘ申達ス依之村々立戻リ耕業営ム者往
々有之所四月十三日夕陽西ニ傾クニ及ンテ俄
ニ大山ノ崩ルカ如ク数十丈ノ大水小市口ニ溢
出其水声近隣ニ振動魁テ小市村ヲ流溺及小松
原中島四ツ谷村々大木小木悉ク流失氷鉇村半
流同村一重山唯念寺源海上人入定真像流水ニ依
テ仏場ニ出現丹波島僥倖ニシテ二十軒余流ル
【右丁】
ヽノミ南ノ方御幣川村ヲ限リ村々水中に滔々
タリ小森村流失真島村流失千曲川ニ押込水寺
尾ニ揚リ松代ニ至ル然ル処先年ノ高堤水ヲ除
ク故ニ松代ニ入ラス川東高井郡木島平西ハ水
内郡ヲ経テ越後ノ国新潟迄凡六十余里流失水
内郡善光寺如来開帳三月十日ヨリ因之諸国参
詣ノ老若群集ス二十四日最中成レハ山内市中
夜陰ニ至テ萬灯白昼ノ如ク亥ノ刻ニ至テ俄ニ
大地震大雷ニ齊ク寺院商屋淘潰シ暗夜トナリ
幾時ナラス数ヶ所ヨリ火出大火トナリ毎家泣
【左丁】
キ叫フ声天地ニ響キ無難ニシテ遯レ出ル者モ
亦父母妻子兄弟ヲ助ケント欲シテ火ヲ消ス者
無ク稀ニ田野ニ遯レ出ルト雖唯忙然トシテ近
郷ヨリ親戚駆ケ就キ潰家ノ下ニ声有穿チ出シ
相援ケ火ヲ防クト雖モ人力ニ及ス余煙四方ニ
満チ押風烈ク危ト雖モ僥倖本堂無難本願寺ノ
境内諸堂不残焼失衆従【「徒」の誤記か】二十一院中衆十五坊妻
戸十五坊不残焼失仁王門御堂前商店茶店筵張
見世物小屋類三丁余焼失別当大勧進将ニ潰ン
トス経藏鐘楼萬善堂無難町家焼失分大門町上
【右丁】
下長野町西町上下西ノ門上下阿弥陀院町立町
御門前長屋桜小路荒町新町伊勢町横山小路岩
石町東西横町岩石小路新小路鐘楼小路東町上
下下堀小路広小路花屋小路後町上下権堂町并
裏茶屋町河原崎横大門片端二日二夜二焼失変
災遯ルヽ者田野ニ臥シ雨露ヲ被リ如来ハ艮ノ
方堀切ト云野中ニ遷シ山内圧死僧八人市中圧
死二千余人同日更級郡稲荷山宿淘潰不残焼亡
松代肴町木町中町往々商屋転倒更級郡八幡村
森下ヨリ鷺ノ森迄町并民屋転潰八幡宮社内供
【左丁】
養塔崩末社無事偖又遠郷近里破壊寺塔多ク神
社少シト雖各村ノ人民周章トシテ街ニ出来ハ
田畑ノ内ニ茅屋ヲ結ヒ居ヲ為シ細木ヲ以テ宇
ト為シ筵ヲ張リ笘ヲ以テ上ヲ覆ヒ以テ壁ト成
シ然ト雖モ未心易カラス家屋倉廩ノ淘潰ヲ恐
テ家居忘レ狼狽数日ニ及フ依之テ伊勢両皇太
神諏訪両大神八幡大神燈明ヲ捧ケ災除ヲ祈ル
且ハ伊勢諏訪両宮ヘ産子惣代ヲ以テ変災穣除
郷中安全ヲ祈ル領主真田公桜ノ馬場仮屋ヲ構
ヘ諸役員居ト為シ領内ノ貧民ヲ賑給ス当二十
【右丁】
五日以降震発漸々静動不定廿九日鶏明柏王山
崩ル音磊々同日同時坂木村葛尾山崩尚家屋大
破厇【「宅」に通ず】家等ハ転潰月ヲ越テ不止
四月廿二日七《割書:ツ》時大ニ地震人心不安八幡大神ヘ
燈明捧ケ無事ヲ祈ル同夜水内郡山平林震動シ
テ犀河ヲ塞ク同月廿八日終日赫々亦雲気ヲ帯
フ日ノ色赤キコト紅ノ如シ五月六日ノ四《割書:ツ》時大震
リ七日明方大震リ二十一日ノ夜迄一夜三度四
度宛大震廿六日夜丑寅両時大震尚数月ヲ越テ
不止八月廿二日夜両度大震リ田疇ニ出ヲ【「テ」の誤記か】夜ヲ
【左丁】
明ス十月二十二日大震リ十一月十五日冬至ノ
夜ニ至テ大震季春ノ初発ニ齊シ十二月三日夜
大震冬至ノ夜齊シク年内不止大震
【右丁 文字無し】
【左丁】
弘化丁未季春地震甚淘ノ長歌并短歌
【朱書きで】長歌短歌原ノマヽ
天迺屋明言
八隅知吾大君能高敷為秋津島根爾国者霜多誰
有囦々尓流累々須衛裳濁南伎水上尓有婆高山【「山高」では】
美清伎湍音耳常盤尓枕尓巻婆語継立嗣尓裳山
国者地震者淘苔国土能崩流累事者無起物等ヽ女
気玖宿奴流春能夜の梅も桜裳散敷有春過下乃
四日能夜能月待詫流宵能登尓国内悉鳴登余美【とよみ=ひびき】
其時刻尓鳴音者魄乃八種迺霹靂乃落掛流如益
人能胸尓も応【應】時自久尓淘来地震尓掻算布湯津
【このコマの本文は殆ど漢字で表記されていますが、冒頭に有りますように長歌と短歌を万葉仮名風に表記したものです。】
「やすみしし わが大君の たかしかす あきつしまねに くにはしも・・・」
【右丁】
村今者秋乃野遠風迺速午尓臥流如雪乃旭尓消
流如淘潰家尓在合次春人艸者悉尓柱尓打麗壁
遠負棟木尓圧【壓】礼【禮】材木の間尓左右手両足遠掻挟
美得遯兼有在中尓火能禍津日【八十禍津日神のこと】能荒備来有灯【燈】者
美々尓立籠者手著乎白粉土人艸者火中【「事」を見せケチにして右横に「中」と傍記】尓在有
至極命置気【氣】理岩常登堅久凝多流荒壌乃地者八
咫尓裂通湧出斯多流壁煮者田西尓溢麗畑尓満
近翁往か希八街尓流麗広【廣】古理遥々尓避志麓山
離山遠金木楚裳人能家裳木立能儘尓淘落期続【續】
久賀中尓角障径岩倉山乎犀川乃千尋の庭尓淘
【左丁】
崩斯白木綿花迺速河乎塞賀随意尓滴毛漏左邪
離【さやり】勢婆名尓負志厥湖水乃浦佐夫登見麻我布左
右手尓多々倍多麗古尓名世余【餘】理虫喰流久米路
迺橋裳岩崩■【濡ヵ】惶伎崩尓漂弊婆淘潰麗斯家々者
都羅良尓浮累離云?伝【傳】日遠算乍夜々遠【ここに注記を書きます】籠目遠裳
越有郭久鳥一声【聲】和多里二声【聲】止当聞却流須三票
迺中乃三日乃日夕月能疾山能端尓望美多流彼
者誰時【かわたれどき】耳塞留斯沙土毛左邪麗毛岩我根毛登美
尓崩麗弖綿津見乃霊技神乃御功尓塔満瑗【玉の名】持有
帰【?】蒼海遠満多斯る我如高々登河中島鳴渡理満
【右丁】
往水乃先々尓在村里者■乃爪伊昼【晝】真手尓谷潜
乃左豆流極美種々乃宝乎駕籠志置倉乃其八十倉
毛時の間尓水中尓失都予【豫】米兼弖知釼日中余理
立走理行益人者心裳空耳天蔵や雁尓不有尓行
脳千曲能川尓腰奈都美【こしなずむ=腰の動きが妨げられて、進むことが困難である。行き悩む。】得遯我帝尓後麗耳不春
人艸者鴨目物水尓漂比溺乍黄家路耳至麗是や
比千年の苔上津代遠思慮波不能上古尓斯御代
従樛【槻のこと】木乃弥継今尓天之下知召代の五十余【餘】離八
次の皇国【國】史尓其記左礼志地震乃凶今見能世尓
玉櫛笥再淘離■【農か】備由技久尓奈禮杼毛八間邪流
【左丁】
乎此信濃路乃民草賀諸共尓祈真心乎憐美座間
安羅気【氣】久信比加斯麻世玖尓都知迺神
短哥
雪母恐技地震尓天地登共尓轟玖益人能胸
左由理河泊地震能崩尓潦【にわたずみ=ここでは「流」にかかる枕詞】流累々水乎咸日留米斯
弘化四とせのやよひ未の四日の夜地震せし
ことをよめる長歌
埴科の里人
平 学【學】
【右丁】
真薦刈る科野の国【國】の真中はし広【廣】くまひろに打
わたすさとなみしきて丈夫のつくれる国【國】のみ
たからはみのりしなひてをとめらかり荒都【?】
ををる【「生おる」枝がしなうほど茂る】わるも曲■くて栄えやす囦【「国」か】のやすくて
冨るそか中にいかなる神のみあらひか八十禍津
日【「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」のこと。記紀に見える神。邪悪、禍害の根源の神。「は」とあるは「津」の崩し字の誤記と思われる。】のまかこと【まがこと=凶事】かみそら長閑【のどか】に桜花咲の盛【さかり】の三
月なる下の四日の日ぬは玉の夜もまたふくぬ
宵の戸に天の原なる鳴る神の音もとゝろろにかし
こくもより来る地震はあしひきの【「山」「峰(を)などにかかる枕詞】山をも崩し
しき(た)へ【「た」の脱落。家に掛かる枕詞】のいへをもたふしあらかねの【「つち」にかかる枕詞】つちはみ
【左丁】
つわきます人【益人=数が益して栄える人民百姓】は棟柱に押打たれ火の可?具つち
のあらひ来てもゆる火中に玉の緒の命そえて
そ伊弉冉【「冊」は誤記】の神のしらせる根の国【「囦は「国」とは別字だが、文意から「国」とす】に消えて往きぬ
れいにしへのふりにしよりためしなき地震に
しるれば岩かねの山も動きて崖崩れ千尋百尋
かきりなき深谷のそこをたきち【たぎち(激ち)=水がわきかえり、さか巻き流れる】ゆく犀の大川
せきとめてたゝへる水は石花のあふみの海の
こゝにしも出てる如き水の面に久米路の橋も漂
ひて比ふく風に水上へ流れゆきぬわ卯の花の
垣根もたわに咲月の頃は半の三日の夕日のて
【右丁】
たちせきめめし岩ねにつれて稲筵川中嶋へ打
しほのみちくまはして打わたす村里人の玉の
緒は水ほと共にはかなくもきえてうせぬれも
ヽチ【ももち=数の多いこと】たる家居にこめし程々の宝【寶】の限り時の間
に流れゆきぬれそこをしもおもへはくるしいにし
への小松の天皇大御代にいこくより見地震
の禍か千年に近き今の世にめくり来にけむ国【國】
地をゆすりとよもす【「響もす」=あたり一面に響き渡らせる】禍つ日【「る」とあるが、「日」の誤記と思われる】の神【まがつひの神=禍害・凶事などをひき起こす神】のあらひ【荒び】をあ
し原の国作ります大己貴神【おおなむちのみこと】の草の御稜威【「みいつ」。「み」は接頭語。「いつ(厳)を敬っていう語。御威光。 】も
てまつこと直す神直昆【かんなおび】直昆神【なおびの神=穢をはらう霊神。】のみたまのも
【左丁】
てあを人草【青人草=庶民。民。】を春野辺のやすきにまもにさきは
へて【幸があるようにして】浦安田のやすくても鎮めたまへや直し
たまへや
返哥
国【國】ゆする不畏地震を神直昆直昆の神のとく
直してよ
斯【かく=このように】のれは【述べれば】直昆の神の守らひ【見守り続ける】にいかなる地震も
やまさしめやは
【右丁】
弘化四丁未年三月廿四日夜四ツ時大地震松代
藩支配水内高井埴科更級四郡ヨリ潰家焼失流
失等并死傷怪我人詳細調書大略
松代藩支配の分
一死人弐千八百六人 一怪我人九百廿五人
一潰家三千六百十五軒一半潰弐千四百九十三軒
一斃馬弐百十四疋
右之外堂宮并社倉藏物置等不分明ニ付追テ取
調書上可致候
右四月十六日書上
【左丁】
松代御城下町方届書
一潰家百三十弐軒 一半潰百拾弐軒
一死人六人
善光寺御領所田町組
一潰屋五十壱軒 一借家潰八十弐軒
死人十六人 一焼残土藏四ヶ所
権堂
一潰屋不相分 一死人七十六人
西町組
一潰家不相分 一死人三百弐拾人
【右丁】
寺領ノ分
一死人千三百人 但旅人不相分
善光寺町
一死人弐千四百八十六人内旅人千弐拾九人
一出家十五人
四月十三日水災届書調
一村数三十一ケ村 一家流失六百二十七軒
一千八百軒石砂泥入 一流死人十壱人
前ニ手配行届候故哉死人少方ニ御座候
右四月十七日ノ届書
【左丁】
一崩レ落候土手長サ二十町余高サ凡十五丈余【餘】
潦水【ろうすい=雨によって増水した水。大水。】ノ場所長サ七里余リ水内村ヨリ上ハ松本
領会【會】村迄拾壱里余【餘】 四十五町ノ所モ有
一湛水ニ相成候村数三拾壱ケ村
一大溜リ水 山平林村 岩野組 向水内村
花倉村 一小溜リ水 安庭村 永井村
右小溜リ土手長拾五町程池ノ長弐十五町程
大溜リ小溜共水八分程押払【拂】候ヘトモ残リ弐分
程潮水ノ棟ニ相成当【當】時水中ニ有之村々
一上條村 一新町村 一穂刈村 三ケ村也
【右丁】
一山中新町家数千軒ト申所潰焼流失死人 百
人翌廿五日迄追々水湛揚夫ヨリ上十六ケ村水
中水内村久米路橋ノ辺【邉】水ノ深サ凡百丈余【餘】橋既
ニ浮上リ壹里半程登リ穂刈村ニ繋置四月十三
日犀川湛水抜崩流失村方左ニ
一下大岡村十二軒流失一同組安井村四軒流失
一同組川瀬村四十軒流失一和田村不残流失橋
木組不残流失一千原組不残流失一同本郷村不
残流失一本原本郷半流失
右之辺【邉】続【續】今以水潦リニ相成居申候
【左丁】
一下市場村不残流失一里穂刈村土藏五棟計リ
相見エ其外流失
一新町土藏百棟計相見其外水中程ヨリ下今以
水中
一竹房村平村大凡流失
一上条村雲相寺安養寺町組不残流失
一水内村無昇台【臺】組平水組不残流失
一吉原村橋場組不残流失
一三水村本郷五十軒計流失
一氷熊村平村五軒流失
【右丁】
是迄水湛山続【續】ノ分
一安庭村壹軒親木組不残流失
一永井村弓組船場組不残流失
一笹平村水主穢多不残流失
一瀬脇村本郷不残流失同伊森組壹軒残其外不
残流失
一下宮野村保玉組不残流失并荒神堂迄流失四
月十三日抜崩レ真神峠押崎常水ヨリ水ノ高サ
拾六丈
右松代領分届書松本御領分潰家死人流失等員
【左丁】
数不知
善光寺本願寺役人大勧進役人ヨリ松代奉行所
ヘ届書
一善光寺各町十三ケ所分出火
一本堂 内棟造作等大破
一山門 経藏 鐘楼【樓】 右三ヶ所無事
一如来御供水御供所御年宮秋葉山宮右四ヶ所潰
一仁王門境内 熊野 諏訪 焼失
大勧進方
一万【萬】善堂 護摩堂 聖天堂 内仏【佛】殿 座敷向
【右丁】
五ヶ所大破
一台【臺】所向土藏六ケ所 物見裏門皆潰
一土藏壹ケ所焼失
本願寺方
一本堂伽藍不残焼失
一寺中四十六坊不残焼失
一本願寺役人三軒大勧進役人五軒焼失大勧進
役人二軒潰
一寺領ノ内浄土宗寛慶寺同宗康楽【樂】寺不残焼失
一浄土宗西法寺本堂無難庫裏潰
【左丁】
一聖絵【繪】庵寛喜庵虎石庵焼失
一武井社焼失 一溜福社潰
一本願寺上人大勧進家来并門前其外八町之内
弐千百九十四軒焼失
一寺領ノ内箱清水村平柴村潰家三十五軒
一大勧進家来之内死人九十弐人
一本願寺家来ノ内四十六人死失
一町家千貮百七十五人死失
一寺中宿屋止宿旅人千弐拾九人
一寺領ノ内穢多非人八十五軒焼失
【右丁】
一死牛馬一切無御座候
右ハ三月廿四日夜地震ニテ堂社町家潰家死失
人員家数共取調此他怪我人疵少々有之候得ト
モ家業差支ノ儀ニ無御座此段御届如斯ニ御座
候以上
弘化四未年四月 山植亦兵衛
今井磯右エ門
岡島荘藏殿
竹村金吾殿
山寺源太夫殿
【左丁】
磯田音門殿
中野御代官青木清左エ門様御支配所
一村高四萬弐千八拾弐石七斗壹升三合
高井郡九拾壱ケ村
一潰家弐千三百五軒内十三軒焼失土中ニ埋
一半潰九百六十軒余【餘】
一御高札拾弐ケ所転【轉】潰
一潰藏三百七十八ケ所一潰物置千弐百三十二軒
一死人六百弐人外ニ弐百八人善光寺ニテ死失
一怪我人千四百七人 一死馬五十八疋
【右丁】
一死牛弐疋
中野条御代官川上金吾助様御支配所弐十四ケ村
弐千三十五軒ノ所
一潰家五百四十九軒 一死人百八十八人
一潰藏四十壹ケ所 一潰物置百八十六ケ所
飯山御城下肴町ト申所七八軒無難四ケ寺無難
其他御家中不残潰れ
一死人五百四人
上田御領分
一更級郡稲荷山河原新田拾三軒無難其外不残
【左丁】
潰焼四ヶ所ヨリ出火
一死人三百六十人是ハ町内人員 旅人不相分
一塧崎村大凡潰家篠井村七十軒潰家
一死人十二人 一浄土真宗康楽【樂】寺潰
一小縣郡塧尻村岩端石崩荷物等凡壹町同郡下
野条拾軒潰家同保屋村弐軒潰
一御平川村潰家五十軒死人四人
一矢代村七軒死人十三人
一千本柳村潰家二軒土藏二ヶ所潰半潰四軒死人
壹人善光寺ニテ
【右丁】
一高井郡潰寺三十七ヶ寺
一水内郡同五十八ヶ寺
一《割書:安曇|更級》二郡同四十八ヶ寺
〆百四十三ヶ寺此他曹洞宗大破
一善光寺ヨリ関川迄不残潰同所ヨリ飯山迄不
残淘潰四月十三日岩倉塞所破レ川中鳥【島の誤記か】満水越
後国【國】迄田畑家藏流亡勝テ難算前未曾有天変也
【左丁】
信州善光寺大地震焼失水押ノ次第
弘化四丁未年三月廿四日当【當】山如来開帳中バノ
事ユヘ山内并市中一統賑ヒ夜分ハ万灯【燈】白日ノ
如ク繁昌ノ所同夜亥ノ刻俄ニ大地震大雷ノ如
ク寺院并市中一度ニ淘潰シ闇夜トナリ程ナク
数ヶ所ヨリ出火大火トナリ家毎ニ泣サケフ声【聲】
天地ニヒヽキ無難ニテ逃出タル者ハ父母妻子
兄弟ヲ助ントカンクヲナシ火ヲ消サントスル
モノモ無之銘々野田ヘ逃出唯忙然タル有様ナ
リ近郷村々ヨリ親類縁者ヘ欠付潰家ノ下ニ
【右丁】
テイマタ声【聲】アルヲ掘出シ相助又火ヲ防カント
ナセ共中々力ニ及ス火勢マス〳〵盛ンニシテ風
ハ未申ノ方ヨリ吹立如来御本堂既ニアヤウク
見ヘ候処御屋根上三門ノ屋根上数多ノ人影ア
ラハレ八方ヘ欠廻リ飛火ヲ防候地震ニモユリ
潰レス焼失モ無之夜明テ御屋根ヲ見アクレハ
数多人壱人モ不見誠ニフシキナル事ニ候松代
様ヨリ御防人数多勢ヘ御召連御出役有之候六
川御陣中ヨリモ左ノ通リ下後町火元ハ消口ニ
相成候同夜命助リ候モノハ不残野中ニ伏雨露
【左丁】
ニアタリ地震ハ止ミ不申火気【氣】ハハケシク二日
二夜焼誠ニナンキ歎敷事言語ニ絶ヘ候
一御山内ハ大本願上人様御境内諸堂不残衆徒
二十一院中衆十五防妻戸十防不残焼ニ王門御
堂庭小間物店茶屋ムシロ張ノ見勢物小屋類三
丁世余不残焼失別当【當】大勧進様半潰レニテ残ル経
藏鐘楼【樓】堂万【萬】善堂無ナン御本堂ヘ毎夜通夜ノ旅
人数百人コモリ候処日夜別テ多クコモリ候処
壱人モ怪我モ無之無難ニテ出ル難有事ニ候
一御寺領町家焼失ノ分大門町上下長野町西町
【右丁】
上下西ノ門上下阿【「何」は「阿」の誤記】弥陀院立町御門前御長屋桜【櫻】
小路アラ町新町伊勢町横山小路岩石町東西横
町岩石小路武井東町上下広【廣】小路花屋小路新小
路鐘鋳【鑄】小路七ツ釜渡町上下権堂町并裡茶屋町外
ニ河原崎横大門片翼ハ非人共ナリ当【當】時御如来
様御仮【假】家丑寅ノ方堀切ト申野中ニ有之別当【當】大勧
進三寺中并掛リノ御役人守護有之無滞御開帳
相済【濟】申候
一山内圧【壓】死人住僧八人《割書:衆徒ニテ三人|中衆ニテ五人》
一市中圧【壓】死人弐千人余
【左丁】
一善光寺ヨリ北国【國】道筋地震淘潰レ候所々横山
不残潰レ相之木村潰レノ上数十軒焼失押鐘村
吉田村大半潰レ越後国【國】関川宿マテ宿々村々潰
レ但シ善光寺ヨリ関川迄道法十里程ノ間ニ候
此道筋ノ内吉村ト申処近辺ノ山抜家人共土中
ニ埋リ越後高田半潰レ今町ハ三月廿四日ヨリ
四度ノ地震不残潰レノ上同月廿九日大風大火
ニテ不残焼失ニ候
一善光寺ヨリ飯山ヘ八里有之候此海道三才村
石村残ノ村半潰レ村々ノ内大水ニテ田畑水損
【右丁】
多ク有之飯山様御城不残潰レ平一面ニ地所壱
丈余高ヒクニ相成市中一面ニ高ク浮上リ不残
潰レ其上出火ニテ残リナク焼ケ飯山地クホニ
テ折々水損有之処ニ候得共今度ハ平地一面ニ
高ク相成候故水難ハ無之候得共死人数多有之
候同所ヨリ越後国【國】谷通リ所々潰レ多ク満水ニ
テ田畑水損新潟マテ数ケ村有之凡道法六十里
ノ間大荒ト申事ニ候
一三月廿四日夜大地震犀川日々ニ減水丹波島
舟渡一ヶ所ニナリ候此川上ハ裾花川ト申ヨリ
【左丁】
流出候処流水是又日々ニ減水追々【「日」とあるは「々」の誤記と思われる】水絶ヘ丹波
川水絶ヘ歩行ニテ往来イタシ候処川中シマ始
村々騒立銘々最寄ノ山林ヘ小屋ヲ掛ケ其処ヘ
退キ出水ヲ相待候処三月廿八日暁七時ニ裾花
川上鬼無里村ノ内川浦ト申処廿四日ヨリ地震
ニテ山崩水タヽえ【「エ」の誤記】候場所押切一時ニ流水増テ
出候得共格別ノ大水ニテモ無之村々安堵イタ
シ候此川上山中地京原村ト申処藤沢【澤】組拾八軒
家数有之候残家四軒人数八十四人死梅木村城腰
ト申処四間皆潰人数廿八人死此処一人モ不残
【右丁】
大内組九間有之候処一間モ無之人数五十三人
死外職人多死村中只壹人残リ居折村アラ井組
家数十三間有之人数五拾七人有之候処壱人モ
不残念仏【佛】寺村臥雲院是ハ御領分内々マレ(ナ)【「ナ」の脱落か】ル大
寺ナリ谷ヘ落出焼ノ上土中埋此村近辺【邉】ハ皆潰ノ
上土中埋右之通ノ所山中ニ数多有之候得共小
細ニハ相分リ不申候
犀川満水ノ事
丹波シマ舟渡シ川上更級郡水内郡両境水内橋
ノ近辺者岩村ト申処山抜数十丈ノ深谷ヲ押埋
【左丁】
又其外安庭村トア村ニテ二ヶ所山抜谷ヲ埋急流
ヲ関留数日水湛ルユヘ新町村穂苅村牧ノ島村
ハシメ数十ヶ村山中ニ埋民家ウカミ谷奥ク深
ク水湛凡八九里ニ及御領分ヨリ御出役御手当【當】
有之扨川中島村々ヘ厳重御下知有之急災除以
石俵大土手ヲシツライ御用意有之候民家銘々
以最寄西ハ小松原山岡田山東ハ西條山保科山
野中ヘ小屋ヲ掛ケ老ヲ先ヘ立妻子ヲ連米穀味
噌等ヲハコヒ村々両三人ツヽ番人ヲ残シイカ
タ等組置右騒ニテ宿々繾立モ差支矢代宿越後
【右丁】
国【國】関川宿迄御武家御荷物ハシメ人足持ニテ川
東通リ往来有之候扨又犀川里ヘ出口小市村舟
渡有之処水絶ヘ川中ニ小山出来出水ノ節ハツ
キカケ其節村々難渋ニ付数千人ノ人足罷出石
俵ニテ大土手三重ニ築立水除有之候尚又火術
方仰セラレ水湛ノ上山上ヨリノロ煙ヲアケ山
々ニテ是をウケ即座ヘサト方村々ヘ知ラセ合
図村々ニ残リ居候番人共其外通リ掛リ人旅人
等山ノ手逃候様ト合図有之候又松代様ヨリ御
助舟渡十艘御用意ニテ最寄村々ヘ御門【「御門」の左に「本ノマヽ」と傍記あり】ナキ有
【左丁】
之数千人ノ人足ヘ食事其外厚キ御仁慈ノ御手
配難有御事ニ候扨数十日相立候テモ出水無之
故中々急ニハ出申間敷大山深谷ヲ埋メ候間一
度ニ押切候事ハ有マシト順水ニ逐ニ出可申杯
申触【觸】村々ヘ立戻耕作ニ取掛リ候者モ有之候処
四月十三日夕七時俄ニ小市口ヘ大山ノ崩ルヽ
如ク数十丈ノ大水湛レ出水声【聲】三四里ノ間震動
イタシ真先ニ小市村一トマクリ村家土藏酒藏
等数十間流失小松原村中志満村四ツ屋村近辺ノ
大木迄流氷施村半流同村一重山唯念寺此時源
【右丁】
海上人入定直縁出現シ給也丹波島宿廿軒余流
南之方御幣川限リ村々平一面水中ニ相成小森
村流失真島村流失イタシ千曲川ヘ押入寺尾村
ヘ水アカリ松代ヘツキカケ候所御城裏ニ先年
新規ニ御築立被置候テ土手ニテ水ヲ除候故松
代ヘ水入不申夫ヨリ川東高井郡木島平西ハ水
内郡越後国【國】新潟迄凡六十里余ノ間川辺村々水
損ニテ老父母多ク死候
松代様御触【觸】之写【寫】
大地震後引続【續】大水難ニ及候場所ニヨリ多少ハ
【左丁】
有之候得共彼是御領内一統ノ変災横死三千人
ニ及潰家壱万軒余怪我人夥敷有之何共歎敷次
第言語ニ絶候依之当【當】座ノ御手充筋ノ儀勿論往
々取続【續】ノ儀迄厚ク御憐【「隣」とあるは誤記】愍可被成下候アリカタ
キ御趣意ノ程銘々相弁心得違無之安堵罷在如
何様ニモ相励ミ可申候若当【當】座ノ御手充筋行届
兼候村々ハ可願出村役人共等閑ニ罷在難渋人
別ノ内万一離散致シ候様ノ事有之候テハ無念
ノ事ニ候難渋人別ノ者共モ村役人等閑ニテ格
別ノ難渋ニ通リ候次第申立モ不致猥ニ離散等
【右丁】
致シ候テハ不相済【濟】事ニ候右体ノ者有之ハ厳重
ニ咎可申付候重々変災軽【輕】キ村方又人別ノ内冥
加ノ程ヲ存付御救方献【獻】上物致シ或ハ融通方専
ラ心掛合カ絶行等致シ候者モ相聞ヘ奇特至極
ノ事ニ候逐テ褒美可被成下尚又此上ハ銘々相
励ミ致出精候ハヽ一段ノ事ニ候村役人承リ届
右奇特ノ者名前訳【譯】柄可書上之候且多ノ村々ニ
付若御救方ニ洩候モノ有之候テハ御趣意ニハ
相洩候間村役人共能々相心得弥【彌】深切ニ取扱小
前末々迄不洩様ニ可相触【觸】モノ也
【左丁】
四月十八日
去月大地震以来満水等非常変災一統難渋ノ時
ニテ小屋掛ヘ其外作事多ノ儀ニ付大工職人等
幾重ニモ致出精可相励候萬一心得違ニテ作料
日雇是迄定ノ外余分受取候テハ不相済【濟】事ニ候
其旨急度相守心得違無之候実【實】意ニカセキ可致
旨諸職人有之村々役人ヨリ申通シ銘々其段可
心得モノ也
四月廿日
松代様御領内御調方写【寫】
【右丁】
一御領内損高 三万弐千八百五拾石余
内《割書:田方壱万八拾五石余|畑方弐万弐千七百二十石余》
一民家潰 七千六百七拾軒余
四拾九軒 焼失
弐百軒 焼失ノ上湛水ニ入
内六百軒 湛水ニテ浮出
三百軒 山抜土中ヘ埋
六千五百弐拾軒 潰
一圧【壓】死人弐千七百七拾人余 治定難申立
社家 壱人 僧 拾人
【左丁】
内男千弐百弐拾人余
女千五百四拾人余
但三百五拾人程山抜土中ヘ埋 死体【體】不相知申
一圧【壓】死穢多八拾人 内七拾人右同断
一斃馬高弐百六十七疋 内六疋右同断
御領内両変【變】災村々銘々ヘ為御手充御金子白米
被下置候御仁慈ノ程恐入誠ニ難有御事ニ候
【右丁 文字無し】
【左丁】
弘化四《割書:未》三月廿四日
大地震御書上下案
右ハ度々写【寫】候ハヽ文字ニ書違
有之候モ難計存候
【右丁 文字無し】
【左丁】
弘化四《割書:未》三月廿四日之夜大地震ニ付同夜九《割書:ツ》時
之御訴之下案
則十八時御飛脚両人
私在所信州松代一昨廿四日亥之刻頃ヨリ大地
震ニテ城内住向櫓并囲【圍】塀等夥敷破損家中屋敷
城下町領分村々其外支配所潰家数多死失人夥
敷殊ニ村方ニハ出火モ有之其上山中筋山抜崩
犀川エ押埋水湛追々致亡満勿論水一切無之北
国【國】往来丹波嶋宿渡船場干上リニ罷成此上右溢
水押出シ方ニ寄リ如何様之変地モ難計奉存候
【右丁】
只今以折々相震申候委細之儀ハ追テ可申上候
得共先此段御届申上候以上
三月廿六日 御 名
第二番御届
私在所信州松代先月廿四日夜大地震之次第同
廿六日先御届申上候以来打続【續】地震鳴動昼【晝】夜止
兼殊ニ同廿九日之地震強猶又破損夥敷有之初
度犀川筋山中更級郡山平林村之内虚空蔵山崩
落麓之村方三組共土砂磐石一同川筋エ十町余
押埋流水湛留平常ヨリ水嵩拾六七丈相増候得
【左丁】
共猶二三丈モ水増候上ニテハ流付申間敷依之
右川上村方ハ倒潰或ハ出火焼失之上数丈ニ沈【沉は俗字】
ミ水底致沈没耕地居家一時之流亡ハ勿論往々
潮水ニモ可相成形勢ニテ人民昼【晝】夜相歎候ニ付
地方役人共差出巡撫為致候得共安居ニ至リ兼
誠以歎敷右水下ニモ二ケ所河筋エ抜崩押埋候
場所有之且水内郡五十里村之内一ノ瀬組山抜
崩土尻川ト申谷川ヲ押埋是又流水湛留右村方
モ水中ニ沈没之程難計且犀川筋川床土堤高低
如何ニモ相狂其上今以流付不申候故川中島壹
【右丁】
円苗代水ハ勿論天水一切無之仍之早速多人数
ヲ以専普請致候得共如何ニモ大場之儀ニ付行
届兼心痛之処此上前上場留一旦ニ破壊及候ハ
ヽ如何可致変地哉難計其外山里村ノ山崩地裂
夥敷村々圧【壓】死人ノ者掘出候間モ無之出火焼失
致候モ有之損地ノ儀ハ未調方モ不行届先月廿
四日夜以来家中在町例潰欹斜ノ居家壹萬軒ニ近
死人弐千八百八十九人同穢多七拾弐人怪我人
千三拾五人牛馬斃モ多有之此節専為取調候儀
ニ付猶増減ハ可有御座候且支配所モ右同様ノ
【左丁】
処【處】就中善光寺ノ儀ハ震潰諸所ヨリ出火致シ本
堂山門外一円【圓】ニ焼失死傷殊ニ夥敷候ニ付家来
差出米穀人足等当【當】座ノ手充申付候前條ノ次第
御座候間追テ細々ノ調ハ早速行届兼候間再度
先此段御届申上候
四月朔日
私在所信州松代先廿六日先御届申上候通大地
震ニテ山平林村ノ内虚空蔵山抜崩犀川筋堰留
一ノ湛溜一両日前ヨリ涌安庭村二ノ湛溜水乗
候ニハ未二丈余モ有之処俄ニ湛溜押破候ト相見
【右丁】
ヘ昨十三日夕方七時過右山ノ方大ニ鳴動致シ
引続【續】瀬鳴音高ク相聞ヘ不審ニ存居候内激水一
時ニ犀川ヘ押出シ忽北ノ方小市村前エ堤押切
南ノ方小松原土堤乗越防方モ届兼候テ川方役
人共ヨリ追々注進致候処間モ無之川中島一円【圓】
ニ水押出シ千曲川エ流込且又川下落合ノ方其
外ヨリモ居城際迄水多ク差上暮合ヨリ夜半前
迄ニ千曲川平水ヨリ弐丈計相増川中島ハ勿論
川東川北一円【圓】水中ニ相成瀬筋相立候様数ケ所
相見エ俵物泥冠ハ勿論押堀候ケ所夥敷可有之
【左丁】
候得共難見極及夜半過候テ漸水丈モ定候様ニ
相成及暁ニ次第ニ引水ニ相見申候兼テ村方ノ者
共水防手充申付置候得共日積以前俄ノ変地ニ候
間有迹速人水患ニ付流家ハ勿論溺死モ数多可
有之哉心痛仕候湛場破方見分早速差出候得共
城下ヨリ余程隔候儀ニ付未引取不申候猶委細
ノ儀ハ水引次第取調可申上候得共先此段御届
申上候
四月十四日
第三
【右丁】
私在所松代当【當】十四日先御届申上候通居城際迄
水逼付候次第ハ犀川押出シ口小松原村下続【續】土
堤乗越夫ヨリ川中嶋一円【圓】水押来ル千曲川水上
城下ヨリ壱里程隔シ横田村辺【邉】ヨリ下続【續】総【摠】テ突
入候水勢甚強ク下筋ヨリモ追々湛来リ交溢水
ニ相成次第ニ送流イタシ城内地陸ヨリモ水丈
高相成候処去文政年中御聞置申上築立候水除
土堤ニテ相防候処及大破候得共稠敷急難除申
付其内致減水候故危相凌城下町続【續】エモ上下ヨ
リ差上候程ノ儀ニ付流末ノ儀モ川東川北并中
【左丁】
野平辺【邉】迄致亡満潮水ト相見候処次第ニ及減水
候ニ付早速見分差出候得共大小橋々多分流失
其上水引候テモ地震ノ度溜道式押堀通路難相
成場所破方ノ儀ハ段々水嵩相増深サ二十丈ニ
モ及少々ツヽ乗候ニ随ヒ岩倉山麓ノ方追々欠
崩候テ水筋相付大水乗初候テ一時ニ巌石押崩
候由ニテ岩倉山麓ノ方エモ多分欠込数日湛溜
候大水川中島中嶋ヘ押出シ兼テ右為防此度俄ニ築
立候小市村渡舟場続【續】両岸ノ土堤石俵等ノ儀ハ
川中島川東川北御料私領村々ノ急難除ノ儀ニ
【右丁】
付領内ノ人力を相盡并近領ノ水冠ニモ可相成
村々ヨリモ多人数差出精々普請致候儀ニ御座
候処此度洪大ノ水勢ニハ万分ノ一ノ防ニモ不
相成暫時ニ押流兼テ御届申上候犀川筋押埋候
湛三ケ所ノ内小市村渡船場北ノ方真神山抜崩
候儀ハ高サ弐拾間程南北八拾間程東西五拾間
程川式エ押出シ残川幅ハ纔七間程相成其侭差
置候テハ聊ノ水ニテモ切込儀ニ付可成丈堀取
申付候得共中々人力ノ可及之処此度ノ水ニテ忽
ニ押流百数十人ニテ動候程ノ大石ヲ川下或ハ
【左丁】
河辺【邉】村内耕地等迄押出シ小市村突出候辺【邉】ハ水
丈六丈余ニモ及候次第川辺【邉】村ノ内ニモ就中四
ツ谷村ノ儀ハ軒別八十軒余之内六七拾軒相残
悉流失致跡一円【圓】ニ河原ニ相成其地村ハ地震ニ
テ倒潰ノ居家不残押流其上山中筋水冠候村々
流失ノ居家水面ニ浮居候ニ付為繋留置候処湛
溜ノ大水一時ニ押払【拂】候ニ付何レモ縄切其外山
中筋両岸ノ山等多分欠落候付大木等モ一度ニ
流出シ水押下シ居家エ突掛是カ為ニ押倒流失
致候モ夥敷流死八人程流家六百弐拾七軒程其
【右丁】
余石砂泥水入数多有之川下村々ノ内高井郡小
沼村等昨十八日ニ相成漸々居住向ハ水引ニ相
成候得共地窪ノ耕地ハ猶壹丈モ水溜居候次第
ニテ損地等ノ儀ハ中々凡ノ見極モ不行届丹波
島宿辺【邉】ヨリ千曲川犀川落合ノ辺【邉】ハ一円【圓】ノ乱瀬
ト相成丹波島川田福島三宿前條ノ次第且又村
方米穀ノ儀ハ川手村ノ外仮【假】合水上候テモ流失
ハ致間敷ト心得棚等拵テ上置候穀物居家一同
流失致候モ不少村々改方ノ儀ハ所々エ役人差
出食物賄出所ニハ小屋ヲ掛手充専申候尤前條
【左丁】
ノ通大石土砂押出シ候ニ付川中島用水三堰并
小山堰共水門揚口跡形モ無之押埋呑水無之救
方食物焼出候ニモ場所ニ寄二三十町ノ近方ヨ
リ水相運候次第候得共村々人別ノ儀ハ大地震
ニテ居家倒潰候者迄モ急難除普請ノ儀ハ申渡
ヲ不相待日々出精築立候土堤一時ニ水溢参破壊
致シ居家流失水冠等ト相成一統余【途の略か誤記と思われる】方ニ暮候為
体ニ付日用ノ呑水眼前ノ苗代水引方堰普請モ
早速行届申間鋪誠以差支人心不穏甚不安心奉
存候専手充方申付罷在候得共兼先御届申上候
【右丁】
大地震ニテ城内初家中屋敷城下町領分村々
潰家数多死失夥敷田畑通路等迄地裂床違山
々抜崩大変実【實】ニ打続【續】此度ノ大水先月廿四日
以来今以昼【晝】夜震止不申何共気【氣】遣鋪次第甚以
心痛仕候猶委細ノ儀ハ追々取調可申上候得
共再度先御届申上候以上
四月十八日 御 名
第四番之御届
先達先御届申上候通私在所信州松代去月廿四
日大地震以来度々ノ振動ニテ城内并家中屋敷
【左丁】
町在ノ村々人馬死傷居家倒潰大破田畑損失其
上山崩ニテ犀川水湛水入ニ相成候村々流家并
田畑損失ノ
覚
一御城内潰倒大破ノ分略之
一家中潰三十八軒
内侍八軒足軽仲間十七軒
一圧【壓】死人三拾五人内《割書:男十三人|女二十二人》
一怪我人弐拾七人内《割書:男十三人|女十四人》
一高三万弐千八百五石余新田
【右丁】
内壱萬八拾五石余田方
弐萬弐千七百弐拾石畑方
村数百五拾一ケ村
一民家潰七千六百七拾弐軒
内
四十九軒 焼失
弐百軒 《割書:焼失之上|湛水ニ入》
六百軒 湛水ニテ浮出ス
三百軒 山抜土中埋
六千五百十壱軒 潰
【左丁】
一圧【壓】死人弐千七百七拾五軒
内
社家 壱人
僧 拾人
男 千弐百弐拾弐人
女 千五百四拾弐人
内 三百四拾六人
山抜土中埋死
一穢多圧【壓】人七拾八人
内
【右丁】
六拾七人 山抜土中埋
一斃牛馬 弐百六拾七疋
内
六疋 山抜土中埋
右之趣御届申上候
四月十八日
三月廿四日夜地震ニ付
御領分郡分
埴科郡
一圧【壓】死弐拾八人内 《割書:男拾人|女拾八人》
【左丁】
高井郡
一同三拾三人内 《割書:男拾壱人|女弐拾弐人》
更科郡
一同六百三拾四人内 《割書:男三百拾三人|女三百弐拾壱人》
水内郡
一圧【壓】死千八百六十四人内《割書:男八百九拾六人|女九百八拾五人》【合計と内訳計が合わない。合計が十七人少ない】
〆弐千五百五十九人内 《割書:男千弐百三拾人|女千三百弐拾九人》
【女の内訳総計と各々の計が十七人合わない】
【右丁】
僧 八人
神主 壱人
町々外
一圧【壓】死三拾五人内 《割書:男拾三人|女弐拾弐人》
總〆弐千五百九拾四人
内
《割書:男千弐百四拾三人|女千三百五拾壹人》
同四月十三日夕水押
一流死人弐拾壱人内 《割書:男六人|女拾五人》
三口〆弐千六百拾五人
【左丁】
町々外潰半潰之分
一居屋潰 百三拾弐軒
一同半潰 百五軒
一土藏潰 三拾九棟
一同半潰 四拾七棟
一物置ノ潰 四拾壱棟
一同半潰 三拾四棟
一酒造藏潰 貮棟
一同半潰 壱棟
一怪我人弐拾七人内 《割書:男拾三人|女拾四人》
【右丁】
同断八幡神領
一居家潰 四拾軒
一同半潰 拾八軒
一即死人 拾七人
一怪我人 拾八人
其外別当【當】神主下社儀トモ潰破損多シ
善光寺人別御書上
一即死人拾四人 衆徒
一同三拾貮人 中衆
一同壱人 妻戸
【左丁】
一同四拾四人 大勧進家来
〆九拾弐人【合計数があわない】
一即死弐百七拾九人 大門町
一同貮拾九人 上後町
一同九拾三人 東町
一同八十貮人 新町
一同百拾三人 横沢【澤】町
一同五人 七瀬村
一同百四拾人 桜【櫻】小路
一同貮百拾五人 西町
【右丁】
一同貮百六人 横町
一同八拾八人 岩石町
一同七人 平柴村
一同拾五人 箱清水村
〆千弐百七拾五人【合計数あわない】
一即死千貮百九人
右ハ寺中并宿坊止宿旅人合貮千三百四人
右之外家内不残死失ノ者有之候ニ付止宿旅人
生死不相分
同断新安社領
【左丁】
一軒別拾四軒ノ内
一潰家 四軒 一半潰 三軒
一即死 貮人 一怪我人 三人
御近領飯山同断ニ付
一侍徒士并小役人下々迄
即死八拾六人内 《割書:男四拾人|女四拾六人》
一城下町人
即死三百三人内 《割書:男百三拾八人|女百六拾五人》
内
非人 壱人 穢多 三人
【右丁】
〆三百八拾九人
本新田
一高四石八升五合 但水丈五六尺程
一同籾貮斗五升
本田
一高三石壹斗六升 但水丈右同断
竹生村
一高貮拾四石五斗余 《割書:但川辺嵩水深貮丈五尺|川貮丈六尺》
一籾三斗
新町村
本田屋敷共
一高四拾石四斗七升余 《割書:但水深五六尺ヨリ|壱丈八九尺迄》
上條村
【左丁す】
本新田屋敷共
一高貮拾石三斗 《割書:但水深五六尺ヨリ|二丈壹尺迄》
水内村
安用組
一高拾壹石 但深壱丈八尺程
右村弥【彌】太郎瀧辺【邉】ニテ水深四丈貮尺橋下辺ニテ
六丈壹尺程
同村
平組
本田屋敷共
一高九拾九石 《割書:但水深三丈ヨリ|五丈迄》
《割書:河急ニテ五丈四川式|六丈四尺》
【右丁】
三水今泉村
本田新田屋敷共
一高六拾石五斗九升 《割書:但水深壱丈ヨリ五丈|程川式七丈五尺》
氷熊村
本田
一高五石四斗 但水深五六尺程
山平林村
一高六石壹斗九升 《割書:但水深五尺ヨリ|壹丈程》
土尻川水湛村々
長井村
一高壹石三斗貮升 《割書:冥加場|但水深壱丈八尺》
一籾三斗六升
【左丁】
念仏【佛】寺村
本田
一高拾弐石五斗
五十里村
本田屋敷共
一高拾六石貮斗七升
右之通今般見分出役被 仰付明細相改候処両
川当【當】節水入ノ場左ニ申上候次第御座候以上
【右丁】
手嶋舘長ノ嘱托ニ依リ写【冩】生ニ命シテ
之ヲ謄写【冩】セシム于時明治二十一年九
月
関【關】谷清景誌
【左丁 文字無し】
【両丁文字無し】
【両丁文字無し】
【裏表紙にて文字無し】
「帝国図書館藏」の押し文字あり
地震(ぢしん)けん
「扨(さて)もこんどの大ぢしん家(いへ)はぐはら〳〵
大へんな人はあはてゝどつちの方へ
参(まい)りましよ 合 土蔵(どぞう)と瓦(かわら)でつぶされ
て親父(おやぢ)に子供(こども)がしかられてやつとはい
〳〵にけ出してこつちの方へサアきなせへ
「火事(くわじ)は所々(しよ〳〵)へもゑあがりにげる人こそ身
ひよこ〳〵またぐら〳〵どつちの方へ参(まい)り
ましよ 合 やつたらむしやうとかけあるき
ぢ様(さま)がば様の手を引(ひい)てはいる内こそ
あらばこそお舟(ふね)へサアきなせへ
「扨もふり出す大雨(おおあめ)にらいはごろ
〳〵いなびかりみなびしよぬれ
野宿(のしゆく)はできません 合 大へん〳〵
大さはぎ大工さんは手間(ま)を上(あげ)てしから
れたこれから段々(だん〳〵)世(よ)が直(なを)り金(かね)設(まふけ)てサアきなせへ
健齋叢書巻ノ十三抜書 京都地震 全
【表紙裏、中表紙表】
【印刷なし】
健齋叢書巻ノ十三抜書 京都地震 全
【表紙題箋に同じ】
【右頁:中表紙裏は印刷なし】
【一丁表】
健齋叢書巻ノ十三抜書
京都地震
文政十三庚寅年七月二日
二啓申上候
一當表義去二日昼七時何のけしきも無御座候処
大地震有之一統驚き居候処引續ゆり直しと
か申らん難尽厳敷地震にて実以家潰れ此侭死る
事哉とおもひ候者斗にて生ている心持なく誠に〳〵
何れも青き顔にて候乍併御店之義は壱人も怪我人は
無御座候家蔵共無御別条全神仏の御蔭と一統
大悦ひ仕居候此段御安心被遊可被下候世間は蔵なと
夥敷潰れ壁の落たるは数不知 四角(よすみ)より中迄見透
申候其外中損じは大体家並の事也端々にては
家なとも潰れ候事夥敷事なり京中に少も損不申
所と申は一家も無之候誠にビツクリ【本文ママ】の即死致候しやう
家蔵なとの下に成死し其外鳥居又は石灯籠石碑
なとの下に成即死致し候もの沢山有之怪我人難
尽筆夥敷事也身持女なと 拍子に出産致しもの
やら病人なとは日に當り死するもの夥敷事尤
時喜(じき)柄にて湯へ入居候処誠に夥敷男女ども丸のはだか
にて門江出し者なとも有之又飯椀はしなと持
其儘門へ出し者やら時刻からにて誠にいろ〳〵其後
小サなるゆりハ時々に在之所同夜四時誠に強きゆり
有之驚心痛而己二候乍去弐度メの様二は無之候今に
至り小サ成ゆり半時〳〵位に有之候年代記に八十年
前調度ヶ様之事相記し有之候御店義も二日夜ハ只々
壱人寝候者無之漸々夜八ッ半時頃に子供斗ハ臥申候
最早角前位より年行候者ハ何れも青き顔にて夜を
明し申候三日朝より町真中へ畳なとを敷き出入候者
八九文有之之尤昼夜共右之仕合誠に非人同様之訳なり
二日朝比より大地震の跡ハ火事ジヤ〃と申て銘々其
用意を仕二條河原近在江引越候もの数多雷か大雨
にても有之候て夫にて心納り候へ共其後雨者誠に
しるし斗四日夜七時に降り申候今朝ゟ先少し世間
納り候得共所によりてハ道具なと迄今に至り近在な
どへはこび居申候誠に夜ハ夜露に打れ昼ハ照付ら
れ今に折々ゆりハ有之カ火事之所沙汰仕実に心落付
兼世間一体困り入居候御店義ハ三日夜より通例に寝
り申候一夜も門二ハ寝不申候間丈夫に候へ共世間にハ
病人多出来困り入居申候何卒ゆりも早く相止無別条
納り候様而己祈居候京中に石燈籠石砕鳥居其侭有
之所壱分通迄も無御座候半潰たる蔵なとも折々のゆり
に追々かたむき出しにハ窮誠に青き顔の家多御座候
京都并丹波の亀山大荒に御座候大津伏見なとも家蔵
なと潰れ候処有之様子なれとも格別の事ハ無之噺也
東ハ江州北ハ若狭西ハ丹後南ハ大坂夫より内の荒に
御座候大坂なとハ誠に聊の地震に御座候中々筆にも
任ぬ訳御座候右二付大工手伝左官手間代凡日々拾
匁位夫二ても中々容易に手廻り不申候御店義ハ格別
之損事無之候先ハ荒増右之段申上度誠に取紛前後
大乱筆真平御用捨願上候早々以上
七月五日 同 次兵衛
市郎兵衛
吉右衛門様
白木屋 清 蔵 様
庄 七 様
尚々乍失敬此状御一統様入御覧乍恐左之処江御遣し被
遊可被下候様偏二奉願候委細高橋長左衛門様御存候間右
御方様へ御達し可被下候
江戸青山若松町 黒田仁右衛門様へ御遣し可被下候
別紙を以申上候然ハ当月二日夕七時京都 伏見大 津
辺大地震引続一昨十四日迄日々昼夜震動いたし候
てハ地震致し貴賤上下一向安き心も無之何れ大雨にて
も無之内ハ相止申間敷と風聞に御座候而誠に京洛中洛外
とも目も当られぬ事ともに御座候
一御所内も殊外大破外廻り御築地ハ不残倒れ二条御
城御堀石垣崩れ拾間余之場所共に堀へ打込両御番所の
御小屋不残相潰れ御番頭も野宿同様且御番衆御小屋
七十軒余震潰し中二二条御城内外の破損斗にて
も容易不成事二候大手御門も震倒し石垣崩通路難
成程に有之大手先大地十尺余巾壱尺余割泥を吹出し
其外神社仏閣洛外囲土塀之分不残打倒し洛中
洛外土蔵一ヶ所も無難之分ハ無之寺社の内にハ仏光寺
門跡ハ丸々打倒し中々筆紙二難尽事に御座候洛中
洛外上下男女とも夥敷怪我人即死も有之翌三日
より六日迄上下居宅住居不相成不残往来又ハ空
地へ野宿致し三日之間ハ昼夜の差別なく泣悲其声
野山に響き候次第猶又右之通二付井水不残泥に相成
川水も同様にて残暑強折から呑水に差支上下共大
難渋飯焚二も竈不残打砕用立不申候いつ方も土間
を堀候て焚候次第御座候追々白米も尽町家なとハ玄米
炊て給続き申候右之虚に乗し盗賊徘徊致し
其上昼夜火の元相改候得共とう〳〵出火時々出来致し
中々寺社の破損其外巨細にハ書取かたく御座候
一土御門家日々吉凶奏聞有之当月二日ハいつれ天災
有之由多分地震二決可申由御申上有之二日早朝より
御参内有之地震二相違無之由被達 奏聞候二付
御所内二も夫々御用意も有之候由依て怪我人等も
壱人も無御座候両 御所二も御庭江御立退被遊
万端相整候二付土御門家大評判有之且諸司代
二者地震前刻より御参 内地震始り候と両御附町
奉行衆二も御参 内同夜明七時御引取之由御座候
一此度当地の大破不用易御入用に可有之何レ二も御老
中方御上京も可有之なとと風聞御座候へ共一昨日迄も
地震相止不申当時所々御祈祷被 仰出土御門家
伊勢春日の神主御所江被 召出日々御祈祷有之
事二御座候
一宇治川通堤ハ不残打割一向堤の形も所二寄てハ
無之場所も出来此上大雨出水二ても有之候へハ是又
大変と何とも心配仕事二御座候
右之外余分畧申候京都より来候事
土御門より牧野伊勢守殿嫡子佐渡守殿へ消息之間
七月二日申刻大地震」
御所様方御殿御築地等大破損無之難有事二候
御築地棟瓦大半落候二ハ破損も有之候
二条御城矢倉少々損し高塀大半破落候よし
大仏之釣鐘落候よし石垣大石所々ゆるきぬけ
出し候よし
但し御城已下仏声風説不慥候尤御城伊豫様御
在藩中ならハ大御心配今年の変事ハ御安心と存候
其外之寺社破損推而知るへし但運次第軽く響候
所も多有之よし
御所之内摂家方宮方公家衆屋鋪大破損ハ無之
候築地の崩所々小屋之破損も大方同様二候町家通
筋大家ハゆかミ候程二て大破損無之小家ハ所々潰
れ候所多土蔵ハ大半破損多候
一此方屋鋪西表門側築地壁無難東南北三方築
地壁大半破壊
玄関響強あたり内玄関ハ小屋二て屋根落候土蔵
宝屋未蔵少々のあたり
奥蔵二ヶ所壱ヶ所ハ少々のあたり一ヶ所ハあたり但奥
二ヶ所の蔵先月より根張致し垣根大丈夫壁落候
はかりいつれ修覆場所其以前にて仕合二御座候
北の隠居小屋ゆへ少々あたり候
用心の為尤無人ゆへ南本宅之方二集相凌申候
近々修覆地震も治り候ハゝ可帰と存候何れも一統
無恙相凌候て無驚動気丈二罷在候御安慮可給候
全以運よく候事大慶存候
一家親類衆屋鋪少々の違ハ有之候得共大底同様二
大破損ハなく候
庭入道様も無御障候土御門殿倉橋殿岩倉殿姉小
路殿いつれも家内無障気丈二て候破損ハ相応一統
之事二御座候
町家土蔵にうたれ河辺小屋潰れ怪我人多候よし
運次第たすかり候ものも在何分大変御推察可被成候
一大坂ハ軽く候よし二日申刻京と同時よほとの地震夜中二
三度小地震にて相止候て破損の事ハ一切無之由大安心
被成候様と存候
京都厳敷事案し候て岩右衛門孫岩之助三十余之男
登し申候
一昔宝暦元年也
寛延四年二月廿九日未刻
京都大地震
翌日三月朔日二日迄ハ震動有之候様二伝承候
至干今年ハ十年二成今度ハ其度より甚厳敷と存候
先最初の震動甚厳敷家も打砕き候様度々響大
ゆりの間暫驚てんたは粉なら三ふく程のあきれ
ゐ申候大ゆりすミ小ゆり度々庭へ出集相凌候暮頃迄
ハ大ノ次ノ大ゆり三四度も夜中ハ次ノ大ゆり二三度
中くらゐのハ五六度小ゆりハ数しれす但次第に軽
く間遠に相成候
庭の東ついち崩隣家竹藪へ通ひ自由ゆへ又ギチ
キチ鳴候ハゝ藪へ折候心持折ずに相滴候
三日朝より間遠にハ候得共中くらゐ強の四五度小ゆり
十四五度もゆり候最早なれ候て三日は本宅へ集り
強くなり候ハゝ藪へ行積り に及ハす夜も小ゆり
度々なから夜中頃ゟ座敷にて休息いたし四日ハ又
軽ゆり間遠なから中ゆりも有不安心にて候五日六日
も同し通六日は大かた静り候様二存候へ共静らす七
日は大方静り候やうにて二三度ほとゆり夜中も
明かた小ゆり強また一二度にて今日八日朝よりゆり
申さすよろしきこと存候処午ノ刻頃中ゆり小ゆり度々
さて〳〵〳〵果しなき事夫より只今此文かき候うち申刻
頃迄ハゆり不申候得共此間より納らぬ次第なれは小ゆ
りハ今一両日もゆり候事さて〳〵安心成かたく存候
併大ゆりハ初之一度にて候半候よもや大ゆりハなしと
存候て先安し不申候其チへも追々聞へさそ〳〵御案と
存候間明九日にハたより八日切二て出し候様二申付候
まゝ大無事御案心可被成候此通御両親へ御申入御入候
藤太夫始梅も猶もさそ〳〵心配と存候宜御申伝頼入候
又々能々納り候ハゝ早々文にて知らせ候事と存候以上
七月八日申刻認メ申候 松陰
佐渡丸とのへ
地理三
信刕地震之圖
【表紙右上ラベル】849 特別 55
【ラベル下】帙入
【左頁上 角朱印】帝国
図書
館藏
《割書:地震|後世》俗語之種《割書:初篇|之五》
【左頁下 丸朱印中心】帝図
【左頁下 丸朱印】昭和十七 十二・二十六・購入・
【左頁 図枠外朱印】特別 849 55
【図右上 枠内】廿四日大災之夜ヨリ
廿八日迄御本堂ヨリ
戌亥ノ方ニ当リ毎
夜天燈ヲ拝ス図
爰に善左衛門家内かり宿の有さまを記して
其悲歎を子孫の禁めにかたる廿五日朝
五っ時過しころ善左衛門は病気のうへに
斯大災に悩み足腰ふるひ起居不自由な
れは人に背負れ漸くにして権堂東たん
ほに仮居しつ世穂なる時は何事によらす
手伝来る人も心の儘なれともかゝるに災害の
時なれは誰ありてか手伝すへきは素より
音信する人もなく数千度すれあひて右に
往左りに還るといへとも面を見合せて泪の
袖をしほるのみにて悲歎やるかたなし爰に
妻子は気力をはけみて少しの家財を持
運ふといへとも女性幼少の事なれは手足を労
するに甲斐なくしかする中に東町より権堂に
続きて火は炎〳〵と燃くたるゆゑに此處に
ありけくは事の危しとて人々に連やさき
人におくれしと荷物を運ふゆゑにまた〳〵
此處を逃たる頃しも誰いふとなく地震にて
山抜崩れ犀川の流れを止めて一滴の水
なく往来船を待すして自由に歩行す又
煤花川もしかりなりといふ此由聞人壱人として
実否をしらすといへとも大河のなかれ何ゆへに
留る事あらんや爰に出いて虚として
侮とらす実としておそれす其噂区〳〵なり
爰にいかなる天変不思議なるか山中虚空
藏山又岩倉山ともいふ此大山左右に抜
崩れて犀川におし埋みかゝる大河を止る
事《割書:犀川筋又山中方川中嶋川北東|水災等之事ハ都而後編ニ委舗》おそろし
なと言あひけれはいかなる天変不思義そと
聞も語るもなか〳〵に身体ふるひ身うちも
しふるゝ斗り也漸く一命助りて又今爰に
左程の大河を押出しなはたてもたま
らす水災のいかなるわさをなすへしと
途方にくるゝはかりなり爰に善左衛門
家内のものは暮あひ頃より漸くに小屋掛け
の用意はなせしかとも五月の節句の飾の
鑓の棒二本天井椽三本のほか竹のをれ
たにあらされは薪を以て杭とはなせど是を
ひとつ打込むものもあらされはありあふ
小石を取上けて漸くにうちこみて
破れ障子から紙の離れした椽を柱とすれ
共結ひ付くへき縄たになけれは手拭なんと
引さきて是を結ひ襖障子を囲にし
屋根の用意は更になく命をまとに
持ち出せし一品二品の家財をは小屋の中の
せまけれはとてかたはらに積重ねこのうへ
如何なる変化のあるにもせよ飯の用意は
鳥用【急用?】なれとて小屋の外面に穴を掘り是に
漸く釜を懸け米さへろく〳〵洗ひも
せす火を焚つけて其儘と倒れてねむる
千辛万苦疲るゝ事社ことわりなれ
取分歎の多かりけるはことし纔に
九っなる乾三は出店梅笑堂にありし
時昼の遊ひにうち草臥れかへる
繁花の賑はしきもねむたきまゝにわか
家に帰らん事を頻りに言けるを店を
取かたつける其ひまは待て居よと里【?】
徐くにたまして爰に置【過?】けれとも素より
年も行かされは戸棚に寄添居ねむり
しを間もなく掛る大変にて気根を痛
めしのみならす其夜も都合五度ひ迄
逃たる度毎包を抱ひ親の病気をいた
わりては心を労し地震鳴動する度こと
如何はせんと立つ居つ少しの間さへね
むりもせす御輿安置のかたはらなる麦田
の中に野宿して漸し爰に帰りても
我家に入事能はすして今日も終日
荷物を背負風呂敷包を抱ひては逃
さる事都合六度喰事【喰う事】は素より平日の
菓子菓【くだもの?】も給すして漸く爰を仮居と
定めしかとも今にも水の押来らは荷物は
其儘置捨て逃のひ行ん心の用意
守護の箱とらうそく【蝋燭】とありあはせたる
当百銭是なる三品は其方に預ける程に
譬此上へ異変起り逃去る事のあるときは
いかなるかたへ逃行ともなくてかなはぬ品
なりとて言聞かせられ合点して風呂鋪
包をかたかけに背負しまゝに草履をは
紐にて聢とくゝりつけ其儘小屋の囲に
寄添居ねむりしてそ居たりける漸く
年は九つのくわんぜなき【頑是無き】身の此あり
さま不便なる事何にとてたとへんやう
もあらされとも懸る天変不思義なる時に
臨てせんかたなくこゝろよわくは其時に
狼狽て社【こそ】害あらめと其儘に寐らんとすれ
と風は増〳〵強く火勢はいとゝあらけ立
火の子は空によこたはり十丁有余の其
先にて吹まくり〳〵屋根の瓦の落る
音竹ははしけて其響き耳をつら
ぬき魂を飛はし雨はしきりに吹かけ
吹つけ恐ろしさくるしさなかくあけて
数へかたし漸くめしも出来ぬれは
何はそこやらかしこやら前代未聞のあり
さまなれは手当り次第取集め飯をよそ
ひて置ならへ菜は漸く生味噌も箸には
あらてかんさし【簪】やよふし【楊子】をもつてつき
まわし口のはたまてよす【寄す】れとも心根痛く
脳乱し気疲れ身体よわりしのみか
こぬかも離れぬふすふれ【焦げ】飯し一ト箸た
にも咽にとほらすすゝめすかしてやう
やうにちいさなものに半盞をうのみに
してそ【強調】其儘に又倒れ伏す悲歎の
泪たおりしも風のはけしくなりさつと
降来る夜るの雨厭ひ凌くに便りなく
元より屋根なき小屋なれは皆〳〵立いで
襖板戸を並ふれとすきま〳〵を吹込雨
さし傘かさしてうつくまり徐く膝
腰かゝめつ【屈めつ】のはしつ【伸ばしつ】唯此うへの成行こそ
いかなる事になるらめと地震鳴動す度
毎地にひれ臥して一心称名居眠る間
さへなきうちに東雲いつしか晴わたり
廿六日の晴天西山の峰を照したまふとおもふ
ほともなく誰いふともなくそれ水の
押来るそといふ儘に素より拾ひし
命なれは人気の騒立実にもつとも早ひや
うし木【拍子木】しきりにうては水よ〳〵とうっつたひ
さわき人をつきぬけ払ひぬけ小児を
抱ひ老人を背負逃さる人々眼たゝく
間【瞬く間】に本城はせ越高土手辺少しも小高き
ところには人をもつて山をなし狂気の
【左頁 左端四行】
偽言ヲ信
水災ヲ恐レ
群人高堤ニ
逃去ル図
如く驚怖して纔に五尺の身のうへを
置き處さへなき有様薄氷を踏み舟を渡る
心地にて地獄の苦痛も斯こそと拙筆
には尽し難し徐く騒動も落付ぬれは
それ〳〵おのれか小屋に帰り朝の喰事の
用意をなせとも水も不自由に桶さへろく〳〵
そろうてあらされは手水たらへに水を入薬程の
青菜むしり取洗ひし心地に不浄をまきらし【紛らし】
落し味噌にて是を煮焚し漸く半盞【「盞」は小さな杯の意。杯に半分。】一さん【盞】
をむね撫さすりて喰事をしまへ小屋掛なほす
用意に懸り縄に杭よと心を配れど市町は
一円焼失ひ徐く残る新田石堂《割書:焼失又焼残リタル|所ハ前ノ図ヲ以可知》
是も家々倒れ潰れ殊更大火の類焼を恐
れ皆逃けさりて壱人たに家にある者ある
されは買求置へきやうもなく漸々手寄【たより】を
頼合ひ縄網て小屋掛のもやうにこそは掛り
けれ爰にまた山中にては山抜崩れし
その場所の数多ありて土砂磐石樹木
と共に川中におし埋是かために家藏を
押倒し人及ひ牛馬夥しく命を失ひ
田畑を損ふ事前代未聞の大変ありそも〳〵
犀川のあら浪をは一心称名を嘯へて渡船する事
遠国を備る人といへとも誰か此大河を知さるもの
あらんや然るに上流にて水湛て渡船の場所一滴の
水なし若上流の此水息【?】を一時に破りて押出し
なはいかなる災害の発すへきや人心ひとつとして
穏かならす闇夜に路頭を踏迷ひ大海の浪に
漂よふか如し掛る壇場【陰陽?】の変化なれは不時に大
風を起し又雲雨を発す地は一剋に六七度震ひ
焼亡水災を莫太【大の誤記?】にす地水火風空をもつて
五躰をたもち地水火風空をもつて五
躰を脳まし臥しては五尺の身を置と
いへとも立時は纔に壱尺の地を踏む
事かたし一身の置處なく二十七
八日に及ても幾千万の死躰こゝかし
こに倒れ或は三尺または五七人
頭を並て伏しまつひ乳より上へを
焼失ひ足腰を焼損ひ死人山をなすと
いへとも是を取かたつくる人力もなく見渡
せは茫々たる焼け跡に燃残りたる死骸
味噌漬物雑穀の匂ひ鼻をうかちわる
くさき事昼夜言語に絶ておやむ【小止む】事なし
貴賤男女の差別なく裙【尻?】をまくり小屋の
辺りに大小便を心にまかせ年盛なりと
いへとも髪を撫揚け歯を染る事
更になく帯〆なをしちりを払ふの
心も聊なく夕へにはさうり【草履】に紐つけわらし
をはきて臥し朝たにはひしやく【柄杓】よりに
に水【?】をうけて顔を流しそこかしこに穴
を掘て薪木を入鍋にて飯を炊きやく
わん【薬缶】にて汁を煮其日〳〵の成行こそ実に
あさましきあり様なれかゝる歎きの
多かりしもきのふ【昨日】に過きけふ【今日】となる事
矢よりもはやしとかや思ひもよらぬ大災も
はやくも廿五日廿六日と過行けとも准あり
てか小屋掛とてのふ者もなく見知りも
せさるわらしこと女童はも打交はりて
笘を編み絶なふ事も自然とおほえ【覚え】昼は
終日うろ〳〵となれぬ事とて小屋掛を
かうもしたなら都合もよしやあらにせはやと
心を配り梅花の薫りうせはてゝあらひし
髪を乱せし如く日毎に磨く粧ひさへ白
きにあらて焼跡の妙やほこりに穢れ果男
女の差別も更にわからす昼の疲れも此上の
水災いかよと安すからす草履に紐つけわらしを
不離うつくまりては夜を明かし夢うつゝにも
水の音耳そばたてて是を聞けは幾千萬の
変死の人々さぞや苦痛に絶果なん
此上如何なり行者と時の鐘さへあらされは
寂滅為楽生滅も実に生滅のあしきなく
更行夜半に聞ゆるものは秋にあらねと
夜嵐の音のみすき間に吹込みて焼残り
たる犬の遠ほえ囲のすき間見渡せは霏り
ふらりと小屋〳〵のあかりも自然とひにつれ
淋しさこわさを語りあひ隣家は素より
裏家もなく表も離れし田甫中爰に
一ト小屋かしこに一ト小屋思ひ〳〵に逃去りて
仮居定めし事なれは明け行空を待わひ
て東雲告る鶏の啼を待つゝ哀をは
爰にとゞめて居たりける
爰に又感涙の袖を絞りし一義あり其有様を
記るすに幾千萬の横死壱人として苦痛せざる
ものなし其苦痛さこそとおし量りて
見る時はたれか愁歎の涙を催ささるへき
然れともかゝる災害を身に受ていまた
風雨を凌くへき小屋さへあらされは
おのれか心に唱ふる念仏たに心苦のために
打捨置ぬるもまた理りなり爰におなし
さとに住める栄屋平吾といふ人何かの足し
にもせよとて金子百疋を見舞として心にかけ
られ又英屋新之助といふ人よりも百疋を送り
見舞くれられけり我思ふに此大災を身に
うけてもはや五六日を過すといへとも雨
風を凌くの便もなく又市町の焼失ひける
有様をおもひまたは家倒れ潰れたる
事とも横死人の苦痛おもひあはすれは
愁歎やるかたなし其うへにも昼夜幾度と
なく地を震ひ不時に大風を起し雨を催し
雲起る事一つ〳〵身にこたふる事常に
変れり掛る不安心にひとつは苦患に
命を失ひし幾群の亡霊此ちにさまよひ
愁歎山より高く海より深きがいたす所ならん共【其?】
迷ふも又理りなり是によりてかの見舞の
懇志【こんし】黙【もだ】しかたく請取たりし金子弐百疋を
種として霊魂菩提のため仏事
供養せは餓に発する所の悪風鳴動も
やみて安心なる事もやと思ふもまた
下俗凡夫のあさましき考ひ他の
災ひも多かるへきか我れ煩に脳み
心痛より発する處の愚痴にまかせ
思ひ当るこそ幸ひなれ横死の人々一【ひと】七日も
ちかけれはとて懇志なる助右衛門竹【艸?】理といふ
人を頼みておなしさとなる普済寺
巨竹和尚に参りて逮夜進善のため
大施餓鬼を乞頼ふに早速に承引し給ひ
けれとも掛る変災にて法衣をはしめ
仏具たに揃ふ事なしいかにも用意を
整ひて回向すへしかゝる変死におゐて
はやく行ふ處もつとも功徳挌外なり
布施物はあらすとも是畢竟僧分の願ふ所也
さりなから功徳にもなる事なれは香の物
斗りにて苦しからす遠方よりも和尚たち
参るへくあひた一飯供養給はるへしとて
いと懇ろに伝へ聞かせられけれは暫時も急きて
仏事執【書かれているのは左半分がケモノ扁の異体字】行せす【は?】やと思ふほとにその
用意にかゝるといへとも仏具をはしめ
膳椀たるもある事なし一汁一菜と
いへとも何とて買もとむへき家もなく漸く
便りを得て野菜乾物を調度して
明け行翌をそ待にける四月朔日の
東天晴渡り向暑堪がたく小屋は素より
せまけれは野中に畳を鋪並屋仏
前に香花を備ひ何ひとつ取揃ふ事も
なく最【書かれているのは日がウ冠の異体字】早和尚の来り給ふへしとて
出迎ひけるに案に相違し法衣といひ
また供廻り美〳〵敷なか柄をさし
かさらせ随ふ僧衆七八人引連何れも
一寺の和尚と見ゆれと導師の跡に随ふと
見へたり来臨し給ひて麤茶和菓子を進め
参らせ夫より直に施餓鬼修行始りける處に
彼の圧死したる親族種々さま〳〵の品を
携ひ来りて回向を頼むにまた広田屋
仁兵衛といふ人来りて手伝し戒名俗名を
書留めて仏前に差出し回向をそ乞ける
是等の事共後に見聞する時は他の誹謗も
尤多かるへし乍去幾千萬の諸人横死
苦痛の難堪事魂は此土を去りぬといへとも
死骸はいまた街にさらして満々たれはおの
れか心にて己か心を惑はすなるか施餓鬼
中はに至る頃まて晴渡りて向暑なりしを戌
亥の方より黒雲大風暫時に起りさつと下時匂
大風と共に吹まくり仏前に飾り有處の香花
其余のしな〳〵【品々】壇上より吹落しけれは取て
揚くれは又吹落すそれを揚ふれは
吹落し〳〵つかみさらはんありさま
にて諸人の親族は尚更に有合ふ人々
地に座して感涙に袖を絞りつゝ愁歎を
してそ拝しける程なく勤行済けれは実に
誠とかきけす如くに晴渡りぬ時にして
小時雨土風雲を起し時至りて雲散し
快晴になりたるにもあらん事を揚々しく
爰に記せしなと見る人の心により
ては笑ふ事もあらんなれと時に臨みて
心気に通する處の感涙実に幾千萬の
人々圧死のかはねを爰に止むる事恐る
へし憐むへし
【左頁の左上ラベル】849
特別
55
【裏表紙 文字無し】
【タイトル】
地震冥途ノ図
【右上段】
□んづけは
しゆんに
して
いそぐな〳〵
又けがをするぞ
やれ〳〵
いそかしい
事だ
のふ
【中段右】
じぞうさんの
子にしておくれ
【中段左】
ノレ
ゑんま
の子
地ぞうの子
【下段右より】
いまに
なをる
すこしの
しんばう
た
おどり
でん五
スチヤ
ラカ
ポク
〳〵
で
ござり
ます
おりや
〳〵〳〵
土方の子
たのみ
ます
おんま
の子
【上段】
大地震
火事
略図
御救小屋場所
幸橋御門外
浅草広小路
深川海辺新田
同 永代寺境内
上野御山下火除地
東叡山宮様ゟ
御山下右同断
十一月二日焼死人のため
諸宗十三ケ寺へ施餓
鬼被 仰付修行被致候
御屋鋪 弐万四千六百四十軒
町数 五千三百七拾余町也
寺院 一万六千二ケ寺
土蔵焼失之分
六千八百戸前
崩候分
七億【拾の誤り】二万六千三十八也
男女生死人之分
十万九千七百余人也
【下段】
乾坤和順せざるときは陰地中 ̄ニ満て一時に発す是地上に地震といひ海上に津浪といふ山中に発する時は洞のぬけたるなど
皆風雨不順の為す所にして恐るべきの大事なり于茲安政二年乙卯冬十月二日夜四ツ時過るころ関東の国々は
地震のととかさることなく一時に舎坊を崩し人命を絶こと風前のともしびの如し其中に先御府内焼亡 ̄ノ地ハ千住小塚原
不残焼け千住宿は大半崩れ山谷橋はのこらす崩れ今戸橋きは数十軒やける新吉原は五丁共不残焼死人おひたゞしく
田丁壱丁目弐丁目山川町浅草竹門北馬道聖天横町芝居町三町北谷中谷の寺院南馬道ゟ花川戸半町程やける山の宿町
聖天町は崩る浅草寺は無事にて雷門の雷神ゆるぎ出す広小路並木辺残らす崩れ駒形町中頃ゟ出火諏訪町黒船町御馬や
河岸 ̄ニ てやけどまる御蔵前茅町辺富坂町森下辺大破東門跡恙なし菊屋橋きは新寺町新堀共少しやける大音寺ゟ
三の輪金杉辺崩れ坂本は三丁目やける山崎町東坂広徳寺前通 ̄リ 崩多シ又は山本仁太夫矢来内死人多し家不残崩る其外寺院は
大破損亡おびたゞし○谷中三崎千駄木駒込は崩少し根津門前は大半崩池の端茅町弐丁目境いなり向よりやけ同壱丁目不残
木戸際にて留る切通 ̄シ 坂下大崩仲町は片側丁崩多く両かは丁すくなし御すきや町は大崩広小路東がは中程ゟ伊東松坂屋角迄
上野町ゟ長者町辺やける御徒町近辺ゟ三味せん堀七まがりは大名方組屋敷共崩るといへとも多分のことなし御成通ゟ明神下
破れ多く外神田町家の分崩少し湯嶋天神は崩少し門前町崩多く妻恋町少しも不崩稲荷の社無事也本郷台破
少し筋違御門ゟ日本橋通 ̄リ 左右神田東西共崩多し小川町本郷様松平紀伊守様板倉様戸田様やける榊原様外かは
焼神田橋内酒井雅楽頭様同御向やしき龍之口角森川出羽守様又一 ̄ト 口ハ八代洲河岸遠藤但馬守様因州様御火消屋敷
等なり和田倉御門内は松平肥後守様松平下総守様やける近所崩れ其外丸の内御大名方所々崩多し鍋嶋様御上屋敷
不残やける山下御門内阿部様のこらす大崩となり夫ゟ幸橋内松平甲斐守様伊東様亀井様共やける薩州様装束屋敷崩る
霞関ハ諸家様大半くづれ黒田様御物見のこる永田町三間家かうじ町辺ハ崩少し四ッ谷市ヶ谷牛込小日向小石川番町辺
何れも損亡おほし赤坂青山麻布渋谷白銀品川高輪台町共崩少し赤羽根三田飯倉西ノ久保は崩多シ増上寺無事
○北本所ハ中の郷松平周防守様やける此辺大崩 ̄ニ て所々ゟ出火あり同所番場丁弁天小路辺やける其外寺院損亡多シ法恩寺橋
町家やける亀戸町二ヶ所やける又竪川通 ̄リ は相生町緑町三ッめ花町迄やける又御船蔵前町ゟ黒八名川町六間堀森下町高橋にて
留る又一 ̄ト 口は深川相川町ゟ黒江町大嶋町はまぐり町永代寺門前町八幡宮鳥居きはにて止る又乙女橋向角大川端少しやける
本所深川おしなへて地震つよく損亡おびたゝし○日本橋ゟ南東西中通 ̄リ 河岸通 ̄リ 共大崩にて南伝馬町弐丁目三丁目左右川岸
京橋川通 ̄リ 迄やける銀座町三十間堀尾張町辺少したるみ新橋向築地木挽町桜田久保町あたご下崩れ多シ芝口通 ̄リ 少し
露月丁崩れ柴井町やける神明町三嶋町大崩怪我人多シ神明宮恙なし浜手御屋敷残す【残らすの誤りか】いたむ中門前片門前浜松町金杉本
芝辺崩少し田町大木戸品川宿格別の崩なし翌三日ゟ七日迄明日すこしづゝふるひけれ共別にさはることなく追々静謐におよひ下々へは
御救を被下置御救小屋三ヶ所へ御立被下御仁徳の御国恩を拝謝し奉らん人こそなかりけれあらありがたき
事共なり 但 ̄シ 出火のせつわ三十二口なれともやけるところは図のことし 火の用心〳〵
地災撮要 《割書:地震之部|》 十
地災撮要巻十上《割書:地震之部|》
地災撮要 《割書:地震之部|》 巻之十《割書:上|》
武江震災記略巻之四
以下九條は渡辺/魯(ロ)/庵(アン)めしい【「召しの」では】筆記を借りてその儘にうつ
せしなり
○高砂町に木匠吉五郎と云ふものあり今年三ツになれる男子あ
りけるか此程かしらにかさ【瘡=できもの、はれもの】いてきてなやめりしかはかの母年頃念
しける下総国成田の山なる不動尊を祈りてかしこより出し護符
もて其かさをなでゝをりけるに彼児のいへらくこよひ大なるないゆ
りて此家潰れぬへけれはとく逃給へと吉五郎是を聞つけさる怪
しき事いはすととくいねよかしといへと強に再三度この事をいふ
にそあやしく思ひて聊心を用いてやり戸なとくつろけいねふり
けるに頓而【やがて】《割書:なゐ|地震》ゆりいてゝ家はこほれにけれともかくのかれ出てう
からやからいさゝかあやまちもなかりけるとそ
○笠間のとのゝみうち人某の子十はかりなるか太き柱に左のかゐな
を敷れたりしに傍なる人にいふやう我か腰なる/脇(ハキ)差をとりて
給はれといふいかにするそと問へは腕を切て逃んと云に聞人
幼き者なれと倭魂のたけきをめてゝあまた打より柱を取のけ助つ
となん
○吉原角町に浜の一トいふ目しひ人の富たるありうたい/女(メ)をやし
なひ置て世を渡りけりなゐの揺出るやいなや妻はかとの外へに
け出ぬかのうたひ女のうちに安といへる十六才なるか浜の一の手
をとりて先外の方へ出しやりやかておのれは跡に残り居て先祖の
位牌貸出したるこかねの券と納戸に収ありしこがね抔取持ちて
立出る程に火燃出て近つきぬされとあるしの妻の行ゑ【「へ」とあるところ】覚束
なしと道の畔を見れは隣の塗こめ崩れ落たる土の下に屍あり
けれは引出んとするに後迄火もえきて袖もこけなんはかりに
なりぬれはなく〳〵立のきてあるしの行ゑ【「へ」とあるところ】をもとめえて持出
たりしものとも残るところなく渡しけるとそ
○下谷金杉町に匠の棟梁何かしといへるは梁落かゝりて足を敷れ
けれは弟子を呼てのこきりといふ物にて引切らんとするに火
燃出ちかつきしかは梁を切らんよりはとく足を斬れといふにそ
せんすへなくて膝の下をのこきりして引きりしかは這出つゝあた
りに落ちりたる木のはしを杖にしつゝいとすくよかにのかれ
去りしとなむ
○伝馬町なる紙の問丸のをとな何かしくるはなる岡本屋といへ
るに遊ひ新造とて十五才斗りなる遊ひめをあけて閨に入
りぬ寒しとて仮着なとしてうちくつろきともねせるに頓て
なゐゆり出て二階とゝもに落くつれたりしにかの女抱き付て離
れさりけれは其侭にいさなひてからふして大門を出て堤迄のか
れ行てさま〳〵にいひこしらへて立別れ足を空になしつゝ主の
家に帰りきて見れは其騒大方ならす常に居なれつる帳場とい
ふに直り居てとやかくとおこなひゐるを人々の見て忍ひに笑
ふはら立ツゝいたくしかりてふと我身をかへり見れはさしもむく
つけき身に緋縮緬といふものゝ振袖のいとうるはしき小袖をまと
ひたれはさらにをもなくて納戸のかたへ逃入り酔ふたりとて打
臥しぬとか
○浜町なる何かし殿の御うち人家あるしはいぬる年みまかりて妻
と娘ふたりありしに少しき扶持米といふ物給りて姉娘に聟と
りて家をつぐへき由うち〳〵の信事ありけれはむこか手尋るに妹娘
生れつきて《割書:おし|唖》なりけれはそをいみてか聟になる人もなかりけるを
こたひのなひに家こほれてかのおしの娘崩れたる壁土の下になりた
りさては死けるなるへしあはれとは思へとかくまとし【まどし=貧し】き家にかたは者
あれはこそ来ん人もなかりしをこたひ死しけるははからぬ幸になん
なといひてひつきしたゝめめ【「め」の重複か】て葬のしたくしてさて其土をとり
のけんとせしに土の底よりうこめき出て身振ひし土を払ひけれは
髪は白く顔ハ黒くうつくまりゐて手して腹をあまたゝひたゝき又
口をしは〳〵指さして飢たるよしを示しけるにそ人々あきれてい
つれも物をえいはすしはしもろともにおしになんなりけるとそ
○深川六間堀の町に屋守新蔵といふ者妻ありて子五人そありける
なゐに家倒れしかは危き中を子供はみな引出つるに妻は強く
物にしかれて出し兼るを火さへ燃出しかは妻のいふ様我命は
迚も逃れかたく強て助んとし給はゝ子供ら迄失ふへしとくにけ
給へといふことはりなれはのかれんとせしを五人の子供口を揃へて
いふやう母を見殺しにせんよりは倶に死んことまさらめされはいか
にもして引出してんと言さらは信心もて神仏をいのるより外あ
るへからすともにまころ【「まごころ」とすれば、「こ(ゝ)の脱落】もて祈るへしといへは信心とはいかなる事そと
いふされは信心とは神仏を一ト筋に願ふ事そ教ふれはこゝろえ
つとて十四才をかしらとして五人の子供ら神仏おほち【おおぢ=祖父】おほは【おおば=祖母】の
法名を覚えゐてこれを唱へつゝ母の手と袖と帯とを小腕して
とり烟をしのひて引出せるにいとかろらかに助け出けるとかや
○近江国ハ幡といふ所の人いはけなき頃よりして仏の道に志し
深く常に経陀羅尼なと/誦(ズ)しけれは親とも出家させて比叡の山
に登しゝに功つもりて天台の律師に迄なりて横川の延命院に住
しを猶世をいとひて先つ年山科のほとりに退き住けりこの八月故
郷近江の八幡なる俗縁の方へ文の便りに言ひおこせけるやうは九月
の廿八日近江国なゐつよくゆるへし又十月二日には武蔵の国なゐ
ゆるへしとりわきて江戸のわたり強くゆりぬへけれはその由江戸の
ゆかりへもいひ知らしてよとねもころにいひおこせけるされとま
ことゝもなしかたけれは等閑に打過しに九月廿八日近江国なゐい
たくゆりしかは扨は誠なりけりと思へと江戸へいひゆかんもはるかなる
道の程にてはた日数せまりぬされはとていひやらてをかんも律師
の志をもとかんと思ひわつらひて其あすの日人をたてゝ十月
七日のひ江戸石町なる某の許へ其文もてこしとなんこのこと金
吹町なる播磨屋新右衛門に召仕ハるゝ幸助といふものゝ物語なり
○此程おほやけよりの仰事にて町のことゝる人々本町なる亀の尾
といふ茶亭に出はりて市人の頭たちしを呼つとへひか心得す
ましき由いひさとす事なん候ける桶町に住る某も二日の宵より
参りたりしに寒しとて酒あたゝめさせて独していやのみに飲
て人心地もなきまてゑひたりけれはかゝるもの此むしろにつらなら
んはえうなきのみかはあやまちもいてきぬへしとて此家の者も女
に手をとらして送りかへしつるに道すからあらぬ事ともいひ
のゝしりこうじはてさすかのみならすあなかちにかへれ〳〵と幾
度もおし戻すにそすべなくて少しはなれてよろめくを見つつ跡
より行けはとかくしておのか家のはゐりのみちによろめきいるよ
とみるうちになゐゆり出てあたりの家ともこすれつかの女も
道なかにまろひ倒れ夢の心地してたちかへりて見れは本町な
る主の家も倒れそこなひて入るへくもあらねはあひ知れる人のも
とに立のきぬさて桶町なる某の家はたふれさりしかは主はいかにし
つらんと亀の尾に来て尋にたゝさはきにく【「く」に見えるが文意からくりかえし記号とも思われる】ていらへする人たになけ
れはそここゝゆかりの方尋てわぶれと行へ知れさりけり七日のひ家
のはいりに落つもりたるぬりこめの土の山の如くなるを人あまた
して鋤鍬もてほらせて見るにこのそこのうこめくをあやしとみ
れは頓て白きかゐなむく〳〵と出たり人々驚きてしはしたゆた
ひしを少々年老たるかあとてためらふそ鍬は置て手して土をわ
けよとく〳〵とおきてけるにやかて堀出したるを見れは家あるしに
そありけるなゐのゆりしもしらす土にうつもれしもしらす少々冷か
なるに目を覚し見れは土の中にありさては我身は死て葬られたる
にこそあらめかくよみかへりし上はいかにもしてはひ出んとさま
〳〵にしけれともかなはす身は労れて呼さけへとも声さへかれて
すへなさに思ふやうはとてもいくへきいのちならすさらは尊き法
師のすといふなる入定とやらんをせんと思ひて念仏のみ唱へて
【右丁】
ゐたりしかはなか〳〵に心やすかりしとそかたりけるこはぬりこめの
腰巻といふ物たり右よりおち重りて庇のやうになれるうちに埋れ
てありしなりとそ
十月二日の夜いみしきなゐのゆりけれは
かくはかりしつけきみよをまかつひ【禍つひ:禍害・凶事などを引き起こす神】のいかにあらふる神無
月はしめのふつかよひのまになゐいやふるひ久堅のあめも
とゝろきあらかねの【「土」のかかる枕詞】土さへさけてむさしなる江戸のちまたに
たちならふ玉のうてな【高殿(たかどの)】もしつかやもたゝときのまにこほれ
つゝはしらもくたけうつはり【梁のこと】もおちてうたるゝそのなかをか
らくもいてゝぬは玉【夜、闇、黒みかかる枕詞】のやみちにまとひゆきなやむ身はつかれ
【左丁】
つゝあしてさへきつゝきなからかけはしの【「危い」にかかる枕詞】あやふきいの
ちなからへてたとる〳〵も若草のつまこをたつねよひかはす
声さへかれてかれをはなまねくかひなく玉のをのたえに
し人のかす〳〵をなけきもあへすあからひく火のわさはひの
いてきつゝもえひろこれはあちむらの【「さわぐ、通ふ」にかかる枕詞】立さわきつゝよゝとな
く花の姿のをとめ子をさそふあらしの風はやみあしたの露
ときえゆきしこけるから【やせこけた体】なるいろ見てはたへぬ哀れをし
のひつゝしはしかりねの草まくらうき世の夢もいまかさむら
ん
なゐのゆる宿にともしゝともし火のほかけよりまつ心きえにき
【左丁】
右魯庵ぬしのすさひなり魯庵は高砂町先の坊正渡辺庄右衛門
隠居の号なり
△以下十三條は花街の名主竹島仁左衛門殿譚なり
〇娼家岡本屋長次郎は近世廓内の冨家なり地震の時あるし長次
郎一旦逃出しか父《割書:隠居》の安否未届ずしてはあらしとて其時隣
家より火燃近きけれは赤裸になりて家の奥に入しか間もなく猛
火一時に燃移りて其身夫婦《割書:父》息子夫婦皆この災に罹りて合家
同時に失ぬと憐へし悲むへし
〇同稲本屋のあるし基を囲て居たりしか家潰れ側に居たり
【左丁】
し此家の妻と封巾簡【「幇間(たいこもち)」のことと思われる。】長作この下に成りしか長作片眼少し
飛出しを押へて命恙なかりしかと逃出んよすがなし漸 棰(タルキ)の
折れたるか手に障りしを得て屋根を穿ちて二人ともにのかれ出
たり其余【餘】は皆亡ひ失たりとそ
〇同三浦屋吉右衛門は穴蔵に入て助らんとてあるし夫婦娼妓と
倶に台【臺】所の穴蔵に入りしが程なく家潰れ其身には当【當】らさり
けれと思はさりきあたりより火出て程なく此家にも火移りて後烟
にむせびて残らす死り
〇同谷本屋のあるし《割書:深川よりうつり|し見せなり》財布に金の入しを携へたる侭に焼
死す此家の遊女壱人二階ゟ下る時階子踊りしかは誤て穴蔵の
【右丁】
中へ落入たり上らんとするにはや家潰れかゝり然るに此家の引窓
幸にして穴蔵の上になりたり再上らんとするに火焼移りしかはし
はらく地に臥てあつさをこらゆる事数刻なりしか下の方なれは強
く煙【烟】も入らさりしにや引窓よりは息も通ひて鎮火の後火中を遁れ
出て命助りたり
〇同上総屋何がし抱声妓いはといへるは地震に怖れて一旦大路へ逃
出けるか徒跣(ハダシ)にて歩行かたしとて履物《割書:駒下駄か|さうりか》を取に戻りし時庇の
崩るゝにあひて即死す
〇同中万字屋弥兵衛か家の奴隷大酒を好み常に酔ふて役にたゝぬ
男あり暇をやらんと思ひしに此夜も例の如く大酒に沈醉して
【左丁】
地震も知らす寝【寐】たりしが揺り止て後目さめてあたりを看るにあ
るし始め遊女其余【餘】客にいたる迄壱人も居らすあたりの騒しきにて
火事ありとは知りつ然れとも地震ありしを知らされは何としてかくは
うろたへて家財をは残し置き其侭には逃退けんと怪しく思ひなから
在合ふ所の銅壷釜の類より手許の器に至に迄手にあふ丈は穴蔵へ収
め置土等かたの如くなしつゝやかてこゝを立退く迚在り合ふ酒を残ら
すも惜しとしたゝかに吞て主の居る所へ尋ね行て此由を語りけるさ
れは此家のみ庖厨の器を残し得たりとて酒のむ男の功を賞し暇や
る事は止たりとそ
〇殊にあはれに聞えしは九郎介稲荷の別当修験某の娘十三才はかり
【右丁】
なるか同し社の側なる潰家の間に成りいかにしてか其足を石に挟れ
て逃る事あたはすかの父なる者も《割書:別当の|事なり》こゝにありて助やらんとし
て色々に骨折しかいかにすれ共愜はす近隣の者も来り援んとせ
しかともせんすへなし其時火災熾になりて別当か着たる衣に燃付
しかは汝を助んとすれは父もろともに終るへしなき命そとあきらめ
くれよといひつゝ濡たる菰をまとふて神体を出し奉り携へて逃れ
のきしとなん親子の情いかにありけん
〇娼家平野屋の庖人何がし潰家の梁に足を挟れ命ありなから逃る
事ならす傍輩二人助んとして色々にせしがかなはす次第に火盛に
燃近つきけれは今は是迄也汝を助んとしてかゝづらひ居らは我々も倶
【左丁】
に死すへしされは迚も存命叶ひかたしとあきらめて念仏【佛】申て
往生せよとなく〳〵云さとし二人ともに此場を去りしか次第に焼
募りて此火土蔵へ入しかやかて此壁一度に落ると等しく其勢に彼
男の圧【壓】に成たる梁を刎上しかは幸に身体逃る事を得て足を
引すり這出しかの傍輩の居るところへ尋行しかはすは亡霊こそ
来れとて一座恐れおのゝきしとなむ
〇海老屋 在(本ノマヽ)屋大黒屋等は家潰れすして焼たりされは怪我人な
しとそ
〇花街の坊正竹島氏の家は此夜息子何かし近隣の児輩を招て
影絵の戯をなして居たりしか俄に振動しけれはあるしは駭て
【右丁】
裏の方へ逃出し妻は末の男子を連て玄関の前へ走り出しか倒
家の圧【壓】に打れて即死すあるしは是を知らす然るに母は家の下
になりたれは屋の棟を穿ちて助出さんとせしに塗家といふ物に
して瓦の下に土を重る事厚く其下に厚き板を打其次に天井
板ありて容易に毀つ事かたし人手をかりて漸くにして鋸もて
垂木(タルキ)を切りて助出せり宵より来り居し近隣の幼きものは此
時残らす助りたり下男は土蔵の壁の落重りたるに埋れて首計
をあらはし身体働かれすこれも漸くにして土を除て助出しつ
手代房吉といへるも家の下より助出せり《割書:是は物のひまより手許出|したるか此上を人の渡り》
《割書:て逃けしまゝ男女といはす声を懸裾をとらへて|引けるか皆かなくりて逃退しとなり》然れ共妻と末子はい
【左丁】
つこへ趣しや知れされと此家の下にありてはや死しけるか若命
のありもやすると焼来る迄声の限り呼はる事数刻に及けれと
答なし次第に烈火近つきて彳【たたず】む事ならされは他人の進るに任せて
止む事を得すしてこゝを去りしかもし菩提所大恩寺へ立退し事も
やとかしこに至りて尋ねんとせしにはや此寺も潰れて住持も圧【壓】にう
たれて寂せしと聞り廓中を退し時家々の下に男女の声ありて助
てくれは焼死るはあつやたえかたやと口々に号【號】叫ふするを聞につけ
むねつぶるゝ計なりしが妻子の安否も聞かぬ内はこころならすしかも
衆人の難を一人して救ふへき根もあらされは聞捨にして逃退し
より火鎮りて後妻子の屍を繹(タヅネ)【「譯」とあるは誤記】出して愁傷落涙停かたかりしとなん
【右丁】
竹島氏の心中いかにありけむ
此家に弆蔵せる天海僧正御哥短冊一軸の箱に入りし侭溝の中へ落て
流けるを翌日見出し取上て全かりし由
世の中はあられはあるにまかせつゝ心にいたく物な思ひそ《割書:天海と|あるよし》
〇玉楼の宝とせし菅家御真筆の弥陀経焼失のよし歎くへし 定家
卿の色紙も又亡ひたりとそ其余【餘】廓中に名筆名画珍宝等数を尽し
て亡ひたる由なり
〇応【應】挙か筆夜の桜の画幅娼家の珍蔵なりしか焼たるよし
〇花明園西村氏も名器の釜三タ【さんせき➝注】法帖其余【餘】先代 藐(ミヤク)庵ぬし書画をこ
のみしか古筆数多蔵弆【ぞうきょ=書画などをおさめたくわえること】せしを残らす失れし由也光琳の筆 三平二満(オカメ)
【左丁】
抱へ上人の吉原十二月画賛巻物等も焼たり
【注 『新古今集』所収の「秋の夕暮れ」を結びの句とした三首の和歌のこと。それぞれ寂蓮・西行・定家の歌。「法帖」とは、先人の筆跡または碑文などを習字の手本や観賞用に模写、臨写したものをいう】
〇娼家何某吉原堤の裂けたる間へ落たり自 ̄ラ上る事ならす大音に叫
ひてわれ三百両の金を持たり助て呉たらん人には半を頒ち与へんと
いひけれは或者助けよて首にかけたる財布を奪ひ取り突放していつ
ちへか逃去しとなり
〇吉原の人神田辺の人の話を聞しに或る所に狐付あり九月下旬口走
て来月二日には大地震あるへしと語りけるとこれを聞る人々さして
心にもとめさりしに果して此地震有其後来る九日にはふたゝひ大
地震あるへしと云しとかたり先の言葉符合せしかは吉原の人々俄にい
ひのゝしり広【廣】地へ資財を運ひ畳を敷高張の挑灯を燈しつゝ待居たり
【右丁】
しにこの日何事なくして過しぬ
以上竹島氏譚なり
〇 以下十二条【條】ともに花街の談にして衆人より聞く所なり
〇銀座人辻伝【傳】右衛門青楼【せいろう:遊女のいるところ】に遊ひ酒に酔ふて臥たりしか地震の時二階
傾きて溝の上へ倒れかゝりしに目覚て見れは畳の上なから屋根なく
星のきらめくを見る幸にして遊女とゝもに命全き事得たり《割書:雲隺堂話》
〇画人鈴木其一の男守一青楼岡本屋のあるしと懇意にて二日の夜もかし
こにおもむき対【對】話してありける時俄に地震ひ家潰れかゝり逃れ出へき間
もなく二階へ登らんとするに階子踊りて登られす間もなく潰れて欄間(ランマ)と天
【左丁】
井との間になりて恙なし狼狽忙迫して在り合ふ燭台【臺】を以て穿んとす
れとも脇はさる【挟る】もむへなり家内の男女圧【壓】にうたれしもあるへし又屋根
の下に成りて出る事ならすわか如きものもありてこゝかしこにて苦痛に迫る【左横に「”」を付記し右横に「り」と記載す】
叫ひしか次第に声よはり程過て後声止たるは各死したりと覚えて更に
心細くいかにもして遁れ出んともかけともせんすへなし其内火気移
りて障子の倒れかゝりたるかた明るくなりけるを見て透間ある方を
知り匍匐(ハラバヒ)して逃れ出たり夫より家に帰りしに下谷坂本なる《割書:町家にて|土人森川》
《割書:やしきと|いふ所なり》父の家も潰れ其一か孫娘も《割書:山本素堂|の妻なり》泊り合して潰れ死したり
とそ 《割書:勝田三左衛門殿話》
〇京町弐丁目張金屋《割書:娼家|なり》か妻は夫より遥に年長したるが彼女つく〳〵考
【右丁】
ふるに年 闌(タケ)たる女稚き夫に添ひたるは老て後棄【「弃」は「棄」の古字】らるゝならひなれ
は我姪何かしをして配偶を譲らはやと夫にも進め他所に在りしを
呼迎へて次配(ノチソヒ)としおのれはかの姪か母と称して此家に仝処【處】してあ
りしか地震の時家潰れて圧【壓】に打れ死したりかの姪一旦逃出して
後再ひこれか行ゑを繹ねし時家の妓女各梁間に敷れ号【號】叫ふし
て家 刀自(トジ)【いえとじ=一家の主婦】助け給へといふ彼女いふ我壱人の力にて助け得さする事
かたしされと見殺しにして逃るにあらす此場に於て倶に死る程
に我を冤む事なく念仏【佛】申て往生せよといひ捨てこゝかしこ潰
家の内を尋めくり母の在所に尋当りしかはや圧【壓】にうたれて事切れ
たり彼女落涙に迫りしか間もあらせす猛火熾に燃来りしかはあたり
【左丁】
の人此体を見てとく逃去れよといへともきかす何思ひけん炎の中
に飛入かの屍に取付てともに焼死たりしを火鎮りて後見出したり
衆其義気【氣】【ぎきー正義を守る意気】を感してあはれむと
張金やの妻なるものゝ記をよみて感涙袷に伝【傳】ふ墳に剣
をかけしもろこし人と日をおなしうすへけれとて
後の名は玉とそてらめよしや身は
かわらとゝもにくたけゆくとも 桂花園
〇娼家堺屋七郎兵衛は冨有の家なり近頃家を養子に譲りて今戸
の別業に栖遅(セイチ)【「栖遅」の左横に「スミ」と傍記】【ゆっくりした人生をおくること】してありける一中節の浄瑠璃をよく語り号を三卜(サンボク)と
いふこの家潰れて巨材其身を打しか身首を異にすと《割書:或云首は次の間|にありしとなり》
【右丁】
右楓園話
〇浅草山の宿町に柏屋そよとて船宿をもて活業とせる強欲の寡婦あり
二日の夜吉原町なる娼家兄庄助《割書:小格子》といへる者方泊り合し家潰れて
空く成れり 右村田平右衛門殿話
〇吉原町産屋長島屋某頗る冨り田町なる妾宅へ趣き地震にあひ
て逃出たりしか家に帰らす其後尋れ共知れす田町の往還にて両
側の家潰れし時これにふれかつ大にあひて亡ひたるなるへしと又
吉原町なる清元岩戸太夫も田町なる知る人の所へ趣き地震におとろ
き己か家へとて帰りけるか道にてうせしにや其行方を知らすとなん
右本所菊川町角茶店の婦人話
【左丁】
〇同小格子娼家井箇屋某は地震のとき懾怖して庭へかけ出し
梅の木に取すがりてありし内家潰れ妻子抱の遊女其外合家皆
失ぬと 同人話
〇池の端仲町日野屋忠蔵《割書:小間物器物を|商ふ冨家也》も此日花街に行て帰らす
右久保啓蔵殿話
〇京橋辺の家主三人近きあたりの人死して野辺送りのかへさ【帰り】青楼
に登りしか家傾しかは一人先に飛下らんとしけるか二階なれは高き
心にて飛下りしかいつしか根太落下りしかは向ふの方へ飛過隣家
の傾たるに頭を打当て悩めり跡の二人是を知り足を延したるに漸
く地に付たれは飛はすして逃れたりかゝる折には狼狽するもの
【右丁】
にこそ 文鳳堂話
〇両国橋東詰に香具芝居【こうぐしばい】といへるもの常にありこれに出る俳優を
雇ひ吉はら水道尻【江戸の元吉原および、新吉原遊郭内にあった郭内の上水道の終点周辺の名。】の寄せ場に於て夜毎に芝居興行せんとて
十月二日を初日と定めしかは彼俳優音曲者其余【餘】劇場に携【つらな】り
しもの大勢かしこに趣しか障る事ありて此夜興行ならすしかる
に京町弐丁目娼家武蔵屋某この役者の内贔屓の者有りしかは残
らすおのが家にいざなひ酒飯を饗してありしころ震出して家
潰れあるじを始 幾世(イクヨ)《割書:女形也》梅蔵《割書:立役也》といふもの亡ひたりこの梅蔵
は深川六間堀に住けるかかの家も潰れて妻と子供弐人同時に死亡せ
しと聞り 向両国【國】垢離場茶店話
【左丁】
〇京町二丁目丸亀屋も潰たり此時泊り合したる商家ありしはからす天井
板の上に成て頭上に蜘の巣の纏ひしよりしか心付力を極屋根裏を
穿ちて漸くに這出おのが家迄走り帰れり同道せる京師【けいし=京都】の客も倶に這
出たりしかいまた火の焼来る迄は間遠也とてふたゝひ此穴ゟ這入おのれ
か衣類羽織懐中の品々抔【など】取出し帯をしめかへ又連れなる男の着替
等迄残りなく尋出して携帰りさすかに上方者落付たるはからひなりと
噂しぬ 浅草法善寺話
〇江戸町壱丁目家持娼家佐野槌屋せい後見源右衛門か抱の遊女 黛(マユズミ)《割書:十八才|かね》
十一月廿五日廿六日の両日に五箇所御救小屋に在りし貧困のものへ焼
物の鍋《割書:行平なへと|いふ物なり》大小取交千百六十を施す《割書:価金三十円|の余なり》幼稚(エウチ)の頃親に
【右丁】
別れ安否もさたかならねは過去現世利益の為とてこの施を行ひ
けるよし十二月廿五日官府に召れて御褒美あり銀弐枚を給れりし
かりしより瓢客【花柳界に遊ぶ男の客】の輳【訓は「あつまる」だが、送り仮名から「かよふ」とよませるのでは】ふ事日夜に絶すと
〇凡此編に載る所各其実を繹問ひて誌せしといへとも悤劇【恖も劇も忙しいの意】中
の筆録にして聞ひかめ【聞き間違い】たる事なしといふへからすされと多端にし
てふたゝひ問ひあきらむ【明きらむ=事情をハッキリさせる】へきよすがもあらされはさてやみぬ
前に挙家所各姓名を載たりされは必しも他の披閲をゆるす
へからす
【左丁】
〇以下八條塗師耕雲の筆記也《割書:安田東亭老より借得たる|をいさゝか文を改め写せり》
〇浅草田町編笠茶屋松屋新兵衛か養女ひさは客を送りて吉原江戸
町弐丁目の娼家にありしか地震に駭(オトロ)き辛ふして逃【「迯」は俗字】出家の近処【處】に
至りし時一円【圓】に炎となりて立寄る事叶はされと義理ある両親な
れは殊に其まゝにさし置逃【迯」】んやうなし倶に死んと覚悟して火中
を恐れす入りて見るに我家傾たれと未火移らすよつて父新兵衛
を助け出しやり又母かつを抱き助けて出る頃ははや火移りたれは
ひさは西部【腰部のことか】手足焼たゞれたれと命を全ふし三人ともに助りぬと
〇浅草砂利場に住る盲人松和《割書:按摩|とり》は地震に家潰れ其下になり
十月廿七日にいたり潰家を片付んとせし時家の下にて人声幽に聞え
【右丁】
けれは各あやしみて堀出し見れは松和也驚て様子を尋るに息ある
のみにして声細りて更に聞へす水を与へ療治をくわへ次第に快気【氣】
して命全き事を得たり
〇亀戸町鳶の又吉は自身番屋《割書:世俗坊間の邏所を自身番屋と云当月朔日ゟ|町々夜番始りて非常を守る故こゝに在し也》
にありて地震に驚き家に戻りしに妻たけは幼稚の男子三次郎を抱
きて大路に彳【たたずみ】居たりし故母のぶの安否を聞に分らすよつて又吉一
人家に欠入りし頃はあたりより火起りたゝちに家に焼うつりて母子
二人共に焼死たり翌日焼跡を見しに又吉の屍と母の屍と畳を隔て
在りしはまさしく畳にて火を除け母を援んとせしなるへしとて
人々感涙を催せしとそ
【左丁】
〇深川森下町神明宮の表門前町に住る鍛冶の伝【傳】蔵は年老たる
ものにてありしか他所に趣き帰路に望て地震にあひはしり帰りし
か其家潰れし下より妻とみ子いよの声にて援けくれよと呼はる
により材木を穿ちて妻とみ《割書:老女|也》をは助け出しぬ娘いよをも助ん
とせしか背に柱の倒れたるが圧【壓】となりて苦しみ居たりしかは鋸
を捜出してかの柱を切れは柱たわみて重さ増り一層の苦痛をま
しけるうちあたりの火熾になりて焼近つきぬかくては助りかたき
を知りわらはの命もはや援り難し両親にはこのまゝをきて速
に立退給へとすゝむれと立もさらすして泣居たるうちはや此家
に火移りしかはせんすへなくて逃【迯】のきし由
【右丁】
〇深川伊勢崎町に住る船大工上総屋五郎兵衛は地震の時其子庄太郎
善次郎を連れて先へ出しか妻かくは実子つやといへる幼を措(サシオ)き先妻
のうめる盲女まさは義理ある子なれはとて先へ抱へて戸口迄出しやり
夫より家に入て実子つやを助んとする内火炎に迫りて母子《割書:つやを抱て|死したり》
ともに焼死たりあたりの人其義烈【忠義・正義の心が強くはげしいこと】を感すと
〇同町なる家守常吉は自身番屋にあり地震に驚家へ戻りしにはや
潰れて妻たよは下に囲れたれは屋根を穿て助んとせしうち隣家ゟ
火起りて燃上りしかはつまはいよ〳〵苦しく泣声を出して助けよと
いふ常吉云汝を助んとすれは家財残らす焼て阿(ア)すより乞食すへし
なき命そとあきらめよと云てなさけなくもかれを措てもてる調度
【左丁】
を運出んとすれとかなはす妻は焼死し家財は残らす灰燼(クワイジン)となんぬ
当百【注①】といへる銭八貫五百文真鍮銭【注②】十五貫文ありしを助出さんとして夫
さへ焼たりあくる朝焼たる銭と鍋釜の類を拾【「捨」に見えるが「拾」の誤記】ひ集めしをもいつしか
賊に奪れたり常吉は夫より狂を発しあらぬ事いひて焼はらを
さまよひあるきけるよしそれか娘壱人ありてせきといふこの夜は
しるへ【しるべ=知り合い。縁のある人】の方に泊り合して恙なかりしとそ
【注① 「当百銭(とうひゃくせん)の略。天保六年(一八三五)から発行された百文通用の長円形銭貨。裏面に「百文に相当する」という意味で「当百」の文字が鋳出されている。天保通宝銭。】
【注② 江戸時代、明和五年(一七六八)から発行された寛永通宝四文銭のこと。黄銅貨で、一文銭とは形と色が異なり区別されているが、俗には「四文銭」とも「真鍮銭」とも呼ばれた。】
〇深川辺【邊】或諸侯の臣竹村新之助は下屋鋪に住しけるが地震に屋
敷内より出火せし故主家より預りの鉄炮合薬の入りし大なる器
等海辺まて持運ひ大方に助たり故に己が家をは棄【「弃」は「棄」の古字】置て家財はのこ
らす焼失たり翌日の朝上屋敷より重役の臣火元吟味の為こゝに来
【右丁】
りしかは新之助前の顛末を告て後に私事御覧の通り箸一本も残ら
す焼失しまゝ此より御披露【ご報告】願たてまつると云けるに重役のもの云士た
るもの箸一本も持出さぬとは余【餘】りに狼狽たる仕方上へ達しかたしと云
けれは新之助面色かはり主君の要物を持退て己か財を焼たるをな
んそうろたへものとせくる【責める】ゝや左いふ貴殿こそ委曲下ものを聞すして
人を批判する事うろたへものよといひて更に屈せす重役の士も
ことはりとは思ひつれとその過言に憤りそのあらそひ果しなかり
し由其後いかゝありしや聞かずとなむ《割書:これらは無用の談なれと|見るかまゝにしるしつ》
〇深川永代寺門前踊の師中村登茂次は同長屋より出火せし時速に
その家主を誘引火元を見せ後我家に入て母を助出し弟子の方へ
【左丁】
逃【迯は俗字】退たり依て後日火元争ひの難を遁れたり女子には落付たるはか
らひとてこのあたりには噂せりとなん
〇以下三十八條は何人の撰にや知らす武家の輩難に罹られし
事ともを載たる実記と見ゆ《割書:但文は原本の侭改むる事なし俳画|堂文鳳堂又雲鶴堂より借得し写本》
《割書:をもて|うつせり》
〇小石川冨坂町高七百石役西丸御留守居堀美作守殿所用有之一族戸崎
町松平内記殿方へ参り用事済て帰路右地震来る故美濃守殿駕
籠の中より声を懸安全の地へ急くへしといふに陸尺【六尺のこと。貴人の駕籠を担ぐ人足。「六」と「陸」は音が通じることから文字を代用した】も心得て急かむ
とすれ共動揺強き故駈る事能はす其間に柳町常州屋といふ質
【右丁】
屋の家土蔵とも一時に崩れたふれて美濃守殿駕は微塵に潰れ主
従とも十八人即死内僅に五人助命して屋敷へ馳帰りしとなり《割書:柳町|より》
《割書:屋敷まて壱|町余なり》 《割書:一説濃州大怪我|なれと相凌助命トモ云》
〇又火事場見廻役高五千石屋鋪小石川御門前土井主計殿方に
其夜来客あり亥刻に及ひ退散後当主小便に行んとす又家士侍
女等は酒器を片付んと立廻り居る内一時に震動して屋敷中残
りなく揺潰しけるか用人森田源兵衛なる者主人の安危量りかたく
奥の方へ馳行所に玄関南の方へ倒れ落て即死す其子源太郎此
体を見るより大に駭きなから進み行て家根瓦材木を取除六人
を引出しけれとも主計殿其ほか男女とも即死ありそれより中間
【左丁】
を励まし潰所より救ひ出しけれとも主従都合十七人即死あり
九人は大怪我なり其中三人は明の朝死せし由
〇寄合高三千五百石牛込揚場久世政吉殿表長屋を残し屋鋪中
惣崩当主居間に在て書を続【續】居られけるか一室の内あつとさけふ声
聞えけるより駈行見れははや妻女の居間は悉く潰れ梁落て妻女は
腹を打破られたるか此節臨月にして男子疵口より出けれ共即死す
それより屋敷を改させけるに六人即死怪我人十一人あり扨又五日
の夜予か友生田金吾用事有之右屋敷の前を夜子刻頃通りしか
門前に子を抱きたる女の立居たるか其容躰あやしけなりし故同所
の居酒屋内田にて右の話をせしに亭主答ていふ夫は幽霊にして
【右丁】
見たるもの多し三日の夜より出るよしかたりけるとなり
〇御使番高千石小川町猿楽町大久保八郎左衛門殿十月二日用事有
之丸の内へ参られ同夜戌刻帰宅夫より酒を呑たるに右大地震に
て屋鋪中崩れ当主即死家士九人死す同所池田氏より出火にて
この家も類焼し家来共大に周章【うろたえさわぐ】し主人の死骸を引出し持
出る間にはや火の粉雨の如く家財一品も出さす丸焼に成りしとな
むこの時に大久保彦左衛門殿自筆の一軸焼失せりと承りぬ誠に
惜むへし
〇役寄合高千五百石同所伏屋七之助殿此夜賀儀【祝の儀式】有之家士等に酒
を呑せ其身も砕て打臥したる処【處】俄の震動にて屋敷潰れ当主家
【左丁】
士共八人即死屋敷は残りなく焼失せり
〇役寄合高三千三百石同所佐藤重之丞殿今日組頭用事 ̄ニ付彼方へ参
られ帰宅有之坐敷へ入上下を脱んとする時地震にて屋敷崩れ落主
従三人即死表長屋三人女部屋侍部屋にて六人即死中間部屋
より出火にて残らす焼亡ひたり
〇当時御老中十月五日迄平勤十一万石西丸下堀田備中守殿小川町
在住の節地震にて屋敷悉く潰れ御当主崩れ家の中(下)【「中」の左肩に「”」を付けている】にあ【「な」の上に「あ」を書いたのか、「あ」の上に「な」を書いたのか判別し難い】らる其
陸尺伝蔵平右衛門といふ者両人駈来り家根瓦を取り除き漸く救
ひ出したり又侯僅に足を痛られけれと其侭登城有之尤此夜は
御用召御内意故奥表は御用召物調にて灯火炭火等も沢【澤】山に有之故
【右丁】
直に出火し御留守中不残焼失す事鎮りて後右陸尺伝【傳】蔵平右衛門
は二百石つゝ下され無役の者に被召出しとなり
〇小川町定火消組屋敷当時御頭無之手明組也右組同心鳶人足共丗八
人即死怪我人百余【餘】人其上屋敷不残類焼也
〇小普請支配高千九百石小石【左側に「”」を付している】川町一橋通り大久保筑前守殿今日縁談
之儀 ̄ニ付早川清吾殿入来談合済【濟】て次の間へ送り出る時子息主馬殿
栄之丞殿も倶に送り出奥へ入らんとする折柄一時に揺潰れ父子三
人即死家来男女九人即死又右早川氏は一町余【餘】行て小川町所々の
出火に帰路を塞れ御堀端より牛込へ帰られしと也
〇中奥御小姓高三百俵右同所大久保淡路守殿は家来島田喜内といふ
【左丁】
者孝行成る者にてありしか養父老病 ̄ニ付金三両を与へ養父方へ暇
を遣し病気【氣】を陏(ヰノマヽ)【注】し扨其後に三人は其身坐敷へ入時地震にて屋敷不
残潰れ当主即死家士男女十一人即死其時右喜内は途中ゟ馳帰り主人
の安否を伺んとするに右騒乱の中故漸主人の居所を掘出しけるとかはや
死して在しされとも近火なれは主人の死骸を抱へ市ヶ谷迄退き又
取てかへし再度屋敷へ来り所々火を消したりとなり其労苦察
すへし
【注 「陏」を「隋」の意で用いているが「陏」は別字。「隋」の略字とも譌字ともいわれる「随」の誤記と思われる。】
〇御側役高四千五百三十石小川町一ツ橋通り石河美濃守殿家士に鈴木
新兵衛同忰新六両人地震を恐れす主人の居間へ駈付る迚玄関にて
押潰され即死其外家中三人外に男女五人死す同所小山氏ゟ出火
【左丁】
にて屋敷不残類焼然るに当家焼迹より金銀の具多く灰の中ゟ搔
出したるを見て悪徒とも仮屋へ火を懸是を盗んとせり用人塚田
石田等堅く守りて一物をも失さりしとなり
〇小石川御門内《割書:伊予|今治》高三万五千石松平駿河守殿には今日五人の来客
ありて有馬日向侯池田右京侯残り酒宴有之戌刻帰宅当主一人謡
を唄居られし処地震にて屋敷潰れ家士戸塚助太夫小泉三郎右衛門
駈つき主人を救出すに茶の間より出火し家中不残焼失即死共士分
廿八人足軽中間五十余【餘】人と云々
〇一ツ橋外寺社奉行高五万石松平豊前守殿御玄関奥へ懸りて潰るとい
へとも当主には無異なり家中中間合て九十六人女二十七人乗馬十一匹
【左丁】
斃【たおれ】怪我人百余【餘】人自火【じか=自分の家から出した火事】なり
〇小石川御門内高十二万石松平讃岐守殿当主無異家来三十三人傍女
廿九人即死怪我人百五十余【餘】人夜中にて三日の間野宿してありし
となん
〇大手前高十五万石酒井雅楽頭殿は潰間もなく奥台【臺】子間ゟ出火し
て土蔵迄残りなく焼失家来即死八十四人奥侍女百六十三人死す怪
我人数を知らす
〇御先年御鉄炮頭小川町猿楽町高五百石小笠原平兵衛殿御誂大筒之
事 ̄ニ付杉屋錦之丞殿入来注文書相渡帰宅同時地震にて玄関へ
駈出ると客の間ゟ一同に潰れて即死あり半井氏より出火して残
【右丁】
らす類焼家士十一人外に男女二十七人即死す御預り御馬弐疋を失へ
り
〇小石川水戸殿大破損若年寄某并軍学師戸田忠太夫家老藤田誠之
進其外家士百五十三人侍女四十九人即死せり怪我人の数知るへからす
〇御歯医【醫】師小川町一ツ橋通高弐百石佐藤道安殿は其日小石川辺御
籏本へ参られ帰宅間もなく地震用人部屋ゟ出火して潰れ家に移
り当主及妻子九人用人斉【齋】川某とも皆潰焼失【「失」の左側に「”」を記し、右横に「死」と記す】幸に遁るゝものは中
間三人のみとかや依之去る丑年子細有之家出せし子息道祐家に帰
りて跡相続【續】す右の家にて上下十七人焼死同四日一時に葬送を
いとなむ
【左丁】
〇小普請高弐千五百石小川町田沼市左衛門殿夫婦寝入候処地震に駭
き起出んとする時住居悉く潰れ夫婦共即死家士男女二十五人死屋敷
残らす焼たり
〇役小普請高百五十俵同所福山某此夜妾岩女と一室に在り其妻は子
息十蔵と別室に候居たるか地震の節寝入て知らす【「す」の左横に「”」を記し、右横に「れ」と記載】さるにや各其侭
潰死ける中間下女四人即死其上類焼なり其中にて用人畑某は不思儀
に命助かりしとなり
〇大番組頭高弐百五十石小日向和田勝太郎殿地震に駭き起出んとせ
られしに梁落背に負懸り右の腕打折けるか剛気【氣】の人にて漸梁其
外刎返し危難を脱れたれ共今に其疵痛てたえかたき由聞たり
【右丁】
〇大番組頭小日向斉【齋】藤三太夫殿の子息三十郎殿事小川町辺見廻居
けるところ井上氏土蔵焼残有之候間彳【たたずみ】居る内右焼残り土蔵三十
郎殿の頭上へ落即死供いたし候待住田万蔵も打伏られけれ共幸に
死を遁れ主人の死骸を負て帰れり
〇役小十人高弐百俵小川町斉【齋】藤正作殿用事有之小石川水戸殿百軒長
屋前立慶橋東方熊谷冨次郎殿へ参り居地震に逢【「遁」に見えるが文意から「逢」と思われる】其家にて即死す
《割書:此近辺七軒揺潰|半町計焼失せり》
〇寄合高七千七百十六石小日向蒔田左衛門殿は所用有之本郷へ出駕【注】也然
るに地震に驚帰宅致されしか屋敷不残潰れ表長屋のみ残り有之故
供廻之者に差図して奥住居を掘穿見るに妻女潰家の下に成腹中
【注 しゅつが=貴人が駕籠、車などで出かけること。また貴人を敬ってその外出をいう語。おでまし。】
【左丁】
折【「打」の誤記か】破れて目も当られぬ容躰なりしとなん
〇寄合医師小川町高五百石塙宗悦殿牛込辺御旗本より急病人有之
迎来 ̄ニ付出駕之後地震故引帰し給ふにはや住居は残らす潰れ近辺
四方より出火故家族を救ひ出す間もなく子息宗伯殿の死骸を掘
出せしのみにて皆焼失に及ひける家士弐人女三人即死のよし
〇御腰物奉行根津御取給高百五十石森伝【傳】右衛門殿御用に付て本阿
弥家へ使者を遣んと家士に命し居られし間地震にて奥の間潰れ
当主并家士宮崎平造即死玄関脇潰れて家士五人即死しける
其外は無事にてありし
〇御書院番組小川町遠藤六右衛門殿二日夜屋敷内自身に見廻居ら
【右丁】
れし内地震に奥殿崩れ頭上へ被り六箇所大疵を蒙りけれ共直に
遁れ出家来を励まし諸品を取出させ其家類焼すといへ共諸記
録等迄失はすと也《割書:是平生の心かけ能き|人と思はれたり》
〇小普請小川町室賀録五郎殿は住居長屋物置迄一宇も不残潰たり
然れ共家中馬犬猫に至る迄死たる者無之由是も又一ツの不思儀也
〇大御番高三十五石大岡兵五郎殿十月朔日夜自分居間へ小蟹二十計
り出たるが蜘也と思ひて追出せしに又翌日二日の夜も再ひ出る故
侍女に燭を照させ見るに蟹なる故捕へんとするに何方へか逃し
か其後地震にて即死其外三人を失ひし由迹にて考ふるに全
く前兆なるへしとそ
【左丁】
〇役 小川町 冨永吉太郎殿用事 ̄ニ付同所伏屋新助殿方へ
参り相談中右地震故大に駭き早々立帰る然るに糟屋周防守殿姉
はや女は右吉太郎殿養母にて其娘やの女といふを連て庭へ逃たるが
南の方より奥住居倒れ東方ゟ土蔵倒れ右母子共其処に打敷れた
り当主驚き土瓦を取除見れは母子共手を取抱合て死居られたり翌
三日の夜より隠火【注】二ツ燃へ深夜に及ひては亡霊形を顕はしけるよし
風聞あり
【注 「陰火」のこと。夜間山野や墓地などで幽霊、妖怪などが出るとき燃えて浮遊するといわれる不気味な火。】
〇御目付千弐百石本所五ツ目鈴木四郎左衛門殿書物調もの有之一室
に在りしか地震にて玄関より客間迄潰たる故子息四郎次殿を以
用人を呼しむるに帰り来らすさる故自身も又出懸る処土蔵の壁
【右丁】
落用人即死四郎次殿は途中客間の梁の下に即死外に用人伊東
源兵衛并家士男女五人死《割書:屋鋪は残り|焼失なし》
〇大番組頭小石川諏訪町高五百石柳沢【「澤」 左横に「”」を付記し右側に「瀬」と記載】正左衛門殿二日夜寝所にて夫
婦共即死家来清水平五郎主人の安否を伺んとて部屋より駈来る
に中の間にて足を打敷六寸計り延し即死なし外に四人男女即
死せしとなり
〇本所五ツ目柳原式部大輔殿下屋敷にては地震の後施行有し由を
承りたるとて五十余【餘】人程徒党【黨】いたし参ける故大沢【澤】某外六人立出左
様之儀無之由相断るといへ共不聞入終に彼七人を打倒し米倉へ行
米六十俵余【餘】奪ひ取行ゑ】【「へ」とあるところ】も不知失けるとなり依之以後門内へ鉄炮
【左丁】
を飾り厳重に成し後は右乱妨之者も不来と也
〇御留守居本所一ツ目高五千石関播磨守殿二日夜家士弓の稽古を見
居たる処地震にて北方土蔵揺崩て即死家士二人然る処近辺火災故
用人某漸主人の骸を掘出し立退けるか幸にして火災はのかれたり
十一人の怪我人ありけるとぞ
〇大番頭本所三ツ目逸見甲斐守殿今辰年御番 ̄ニ付誂物有之具足
師明珍某其外用談相済【濟】各帰宅後其身体【「休」の誤記か】足せんとする時地震故
庭中へ走出る途中西の方土蔵倒れ落て即死奥住居西方長屋一
棟潰れ七人即死十九人怪我人なり
〇本所菊川町高弐千五百石野一色外記殿娘八尾女といへるは今年
【右丁】
十八才当世の佳人にして又能書なるか此夜一室の内にて梁に敷れ即死
ありしとなり
〇西丸下御厩御頭諏訪部氏は地震之節一ト先庭へ立出しが風と心付
何やら大切なる物取落したる様子にて住居を見返るにいまた潰ざ
る故立戻居間へ這入らるゝと其侭家倒て即死の由其外組下に
も両三人即死ありしとなん
〇丸の内或侯の藩中二日の夜泊番を同役に頼けるか地震出火に逢
て頼れし同役は焼死し頼みし人の命は恙なしよつて其番を頼ま
れて死せし人の妻愁歎の余【餘】彼助命したる同役の宅へ来り繰
返し恨みをのへて涕泣しける故頼みたる人ももて余【餘】しけるか風
【左丁】
と取昇し【とりのぼし=分別を失わせる】様子にて扨々是非もなき次第也其申訳【譯】致さんといふ
より早く脇差を抜切腹して果けると也其時に恨を云ひたる妻
女も驚き本心に立帰り申分なき次第とて又其刃物を取て自身
咽を貫きて果けると也一人のみか三人迄其事に付て落命せしも
宿業のいたす処にやと皆人舌を巻て驚きしとなり
以上
〇高貴の御家かの事は憚りあれは深くもたとらすいさゝか聞る
侭一二をしるす
〇内藤紀伊守殿地震直に御登城第一番之由袴なく火事羽織のみ
【右丁】
にて召具せられし御供の人壱人もなし見附に於て同心一人停申
せしかは御姓名を名乗らせられて通り給ひ御番所に於て与力某着
替の袴を借りられて登営【とえい=幕府の役所・本城などに参上すること】ありしとかや後にかの同心を騒劇の中勤
整懈【おこた】らぬよしにて御賞美ありけるとかや
〇会【會】津侯地震の時辛ふして助り給ひ即時御登城あり時侍弐人
一人は縄の帯へ大小を帯し壱人は袴を着すして大小を帯しける
よし向屋敷の方は壱人も残る処なく亡失ぬるよし
或侯震後登城す侍弐人随ふ一人は縄帯に大小を帯一人は
寝【寐】まき衣のまゝ刀を帯して云々
是を松平肥後守殿とあやまてり侯此時在国【國】なり十月四日夜
半に江戸の注進到る内室并姉姫おてる殿御安泰云々
〇土州の奥方立退きせらるゝ時家来白刃【ぬきみ】を振る
〇御成道石川侯御内室も此難にて即逝ありし由なり
〇森川侯此頃御遠行ありて尊骸いまた御在所へ趣かす棺郭に収
て屋敷の内に在りし時なれは一家狼狽大方ならさりし由公用人何
某はかいまきといふ夜着一ツを着し入口に倒れたりしか其首ちきれ
て見えす一家中死亡五十人に及ふと云
〇柳沢【澤】侯金蔵まて焼れたり依て万【萬】事御手支【おてづかえ=手もとがさしつかえること。金銭に窮すること】之由酒井侯には水船へ
金子をおさめ置れし故金銀不焼といふ
〇水府侯御館破損多く家臣の長屋も三十八棟潰れたりといふ寵臣
【右丁】
戸田忠太夫藤田誠之進《割書:先名寅之助と云一人は家老壱人は若年寄を勤海|防の事をも命せられて御愛臣にて誠忠の二字を》
《割書:名頭に冠|し給へり》両士とも即死ありし由なり
〇松平豊前守殿御家中即死六十五人内男三十人女三十五人怪我廿一
人内男十五人女六人斃馬十壱疋御住居長屋土蔵残らす潰れその
上類焼あり《割書:本所南割下水巣鴨御駕町|芝田町五丁目等御屋敷も大破也》右御届書に載りし員数の
よしなり
〇下谷御徒町なる《割書:東|側》御先手美濃部八蔵殿卒去ありて明日葬式を
営んとせし夜《割書:二日|也》この地震あり其家ひたつぶれと成り其上火起り
若殿壱人辛ふして逃れ出たり其余【餘】は皆横死【おうし=災難などで天命をまっとうしないで死ぬこと】なり
〇冨坂下小笠原信濃守殿は御住居其外惣体に潰たりこの時庭中へ
【左丁】
逃のひ給ひしか奥方も続【續】ひて逃出給へり余【餘】りの周章【あわてふためくこと】故脇刀さ
へ措れし由申されけれはさらは取て参らすへしとて奥方壱人
元の坐敷へ戻られし時御殿潰れて圧【壓】に打れて失給ひぬるよし
沢田平八殿談
〇小川町松平駿河守殿中間部屋に九月下旬之由来りて泊り居り
し弥助といへる中間あり諢名(アタナ)を閻魔といふ厥【その】容貌によりてし
かよへり若き頃より諸侯の轎【かご】を担【擔】て六尺とよへる傭夫にてありし
か声よくして見附の御門を通る時掛声のうるはしきよしにて
世に賞せられける由諸家を渡り来りて人も知りたる男なりしか
晩年に及ひて奉公なりかたく固(モト)より磊落(ライラク)にて一身を保つ事
【右丁】
なりかたく食客【いそうろう】となりて彼方此方を徘徊しけるかこの頃此部
屋に来り居て二日の夜は賭博(トバク)に打負け赤裸に成りて臥居た
りし時地震に驚き屋敷の中をさまよひはからす庭中に逃出る
時御息壱岐守殿壱人如何してかこの所へ走出られしかとも更に隷(レイ)
する【付きしたがう】者なし誰かあると呼給ひしに壱人も参らすかの赤裸の中間う
づくまり居けるを見附けられ近くへ呼寄られ我はからすも足の裏
へ疵を得て痛強く行歩愜【かな】ひかたし汝我を負て立退けとのた
まふ然れ共尚赤裸なるよしを申すさらはとて自 ̄ラ着給ふ処の外(ハ)
套(ヲリ)を脱て与へられしか則これを着て背負まゐらせしか案内
は知らす仰をうけて無常門より逃れなんとし給ふにはやこの
【左丁】
所迄火になりしか辛ふして貫(クワン)の木を外し桔(ハネ)橋を架(ワタシ)て再負ふ
て恙なく下屋敷へ送りまゐらせける其功により御褒美あり金三十両
を当座に給ひ侍分に御取立あり生涯無役にて扶持し給ひける
ははからさるの僥倖【思いがけぬさいわい】といふへし加藤岩十郎殿記録中
建保二年職人哥合 博奕打
おほつかな誰に打入て月影の雲の衣をぬれて見ゆらん
〇御祐筆立田岩太郎殿は東京也留守中子息六助殿地震の時二
階より下んとせらるゝ時家傾しはつみに柱の間に御足を挟【けもの偏に見えるが手偏の誤記】れ
苦痛にたえかねいかんともする事かなはす家来を呼かけて汝
【右丁】
の帯せる脇差を得させよ速に切腹すへしといはれしかは彼者
是を停め中間を呼来り二人辛ふして材木を取除き助し出し
たりとなん《割書:古沢故十郎殿話》
〇仙台【臺】侯の御屋敷へ奥州塩竃明神の御告ありて地震を知る此
前方より藩中の士其心構へをなし野宿の者多かりし故に怪我人
少しされと不信の輩もありしにや上屋敷に六人深川のやしきに
廿人程即死もありしとかや《割書:深川元儁子話》
翌年の頃より芝の中屋鋪遥拝の社へ毎月十日諸人の参詣を
免さる
〇深川猿江土井大炊頭殿御下屋敷女御隠居御住宅潰れ庭上へ逃れ
【左丁】
出給ひし由召仕はるゝ女中の内逃後れて怪我なしたるあり部屋に
在し女壱人梁落て鎹(カスガヒ)襟より咽へ通り即死す無程長屋焼たり
文鳳堂話
〇地震の後堀田備中守殿御老中仰蒙られ其跡小川町焼跡御屋
敷の地は松平伊賀守殿森川万【萬】亀之丞殿御屋敷に成る
〇松平陸奥守殿稀なる地震に付取あへす上納米の事相願はれ
壱万俵を納給ひし由
日光御門跡《割書:銀百枚》増上寺方丈《割書:銀百枚》此度の地震其後も振動
有之に付御祈祷料とし被遣候由
【右丁】
〇此度の地震其辺際未詳ならす【左横に「”」を付記し、右横に「ね」と記載】と大略聞く所は東海道は神奈
川宿程ヶ谷宿所に崩れ多く本牧金沢【澤】鎌倉江の島浦賀辺まて中
山道は上州高崎を限り此街道は地より砂湧出清水あふるゝ所
諸所にあり蕨宿より大宮の間さはり多し
甲州街道八王子限り街道させる【さほどの】事なし日光街道は宇都宮限
り街道崩有之分は草加なり 水戸街道は土浦辺を限り街道崩
所々に見ゆる下総筋は逆井近辺【邊】震ひ強く行徳船橋辺同
所葛西領二合半領は崩諸所也又松戸市川柴又辺も崩多し
と聞ゆる其外在郷市中とも見積之所高台【臺】之地は格別之事な
【左丁】
く低き地には多分いたみつよき方に見へける由其外上総房州伊豆
の国々にも所々より痛み甚しきもこれあるよしなり
此夜諸国近郷の旅宿江戸に於て此鍋【「禍」の誤記と思われる】に罹り亡ひ失たるもの数
多ありしとそ花街に於ては別てさる輩多かりしなるへし家族の
歎思ひやられて哀【あわれ】なり
【右丁】
〇震災に罹りし貧民へ金銀米銭等を施しける者名前左の如し
△弐百拾三両弐歩弐朱白米七石弐斗深川佐賀町家持小左衛門勢州住宅
支配人正兵衛△百七拾四両弐歩深川北川町家持喜左衛門△百三十二両一
歩弐朱深川佐賀町家持勇次郎△七十一両二歩芝二本榎広【廣】岳院門前家
持藤兵衛△三拾壱両三歩深川佐賀町家持清兵衛阿州住宅店支配人
忠兵衛△三十五両弐歩同町家持安兵衛阿州住宅 ̄ニ付店支配人忠助△五
百四十七両三歩壱朱同木場町家持和介△三十壱両三歩上柳原町家持
九兵衛阿州住宅店支配人吉兵衛△三十二両《割書:二月三日粥ざう|すゐ等施す》深川東
永代町家持七右衛門△三十四両同久永町弐丁目家持又右衛門△弐百
三十六両白米三石同島崎町家持徳九郎△百四十七両三歩同木場町
【左丁】
家持善左衛門九十四両弐歩同町平三郎地借次郎兵衛△弐百弐両駒込追分
町家持長右衛門△百十二両佐内町家持鶴松後見吉右衛門△九十一両弐歩弐
朱余【餘】浅草田原町二丁目家持喜三郎△三十八両川瀬石町家持はま後見
久右衛門△三十両壱歩新右衛門町家持惣吉△六十六両三歩佐内町兵助地借
甚兵衛△百七十二両三歩深川仲川町家持伝【傳】右衛門△百八拾五両壱歩本所
徳右衛門町二丁目家持兵四郎△百五十四両弐歩南茅場町家持永岡儀兵衛
△百四十二両深川茂森町家持七左衛門△百廿二両三歩神田佐久間町壱丁目家
持与兵衛△宅前河岸へ小屋を立粥飯等与へ其外白米金子等合百十四両弐歩
弐朱余【餘】深川冨久町家持与右衛門勢州住宅 ̄ニ付支配人庄兵衛△十九両壱
歩神田堅大工町家持忠左衛門△十九両三朱通二丁目庄二郎地借武兵衛
【右丁】
△十九両二朱深川佐賀町惣喜【左横に「”」を付記し右横に「七」と記載】地借作兵衛勢州住宅店支配人平三郎△
白米十石九斗四升市ヶ谷本村町家持庄次郎△十六両壱歩三朱余【餘】牛込
三光院門前甚兵衛地借久右衛門△十五両弐歩弐朱深川木場町専蔵地借太兵
衛△十五両二朱同人地借三郎平△十三両壱歩弐朱麻布市兵衛町家持長
之助△七十一両弐歩元大坂町由兵衛地借五郎兵衛△六十一両壱歩三朱本所
緑【「縁」に見えるが「緑」の誤記】町五丁目金七地借忠左衛門△六十六両壱歩弐朱北新堀家持庄左エ門
△六拾六両一歩神田久右衛門町一丁目蔵地家持半平△五十六両壱歩芝口
弐丁目家持治兵衛治兵衛【重複】△五十六両三歩三朱芝中門前三丁目家持栄次郎
△五十四両深川吉永町家持太右衛門△五拾四両弐歩品川町裏河岸八十兵衛地
借卯兵衛△三十弐両三歩弐朱南茅場町家持惣兵衛△三十二両三歩弐朱
【左丁】
神田松永町松五郎地借十右衛門野崎住宅 ̄ニ付店支配人直次郎△十七両
弐歩神田松永町家持久左衛門△十六両三歩深川木場町家持庄兵衛紀州
住宅 ̄ニ付支配人善二郎△十六両同所西永町家持三九郎紀州住宅 ̄ニ付支配人
定吉△十三両弐歩日比谷町家持兼三郎△十三両余【餘】神明町家持勘右衛門
△十弐両三歩三朱南槙町源太地借忠兵衛△十二両三歩深川材木町半四郎地
借三右衛門△十弐両弐歩小石川祥雲寺門前家主喜助△十一両三歩三田同朋町
三郎右衛門地借弥七△十両三歩赤坂谷町壱丁目伊兵衛地借嘉兵衛△十両弐
歩深川東永代町家持栄蔵△十両壱歩壱朱山谷浅草町家持勘右衛門△十両
弐朱赤坂一ツ木町家持吉兵衛△弐百七両弐朱施し所持地面三ヶ所地代一ヶ月
用捨万【萬】町家持熊五郎△百五十両余【餘】浅草西仲町家持安右衛門△飯粥焚
【右丁】
出し代金百二十九両深川上大島町家持弥兵衛△百二十七両三歩其外食物
施麹町四丁目家持又左衛門△回向院外四ヶ寺へ変死供養料三十五両其外
施共合百五両弐歩所持地面上り高一ケ月用捨室町弐丁目家持九兵衛△廿五両
中の郷竹町長右衛門地借金蔵△七十五両四日市組塩町【左横に「”」を付記し右横に「干」(于と見えるが干の誤記と思われる)と記載】肴問屋青物町徳二
郎地借清二郎外七人御救入用へ差加へ金上納願△百五十両通油町半兵衛
地借吉郎兵衛外廿五人御救入用差加へ金上納願△米金銭合九十八両壱歩
弐朱余【餘】深川三好町家持徳右衛門△八十四両南八丁堀五丁目代地家持文蔵
△米金合六十六両弐朱堀江町三丁目勇七地借伊助△六十二両一朱余【餘】兼房
町家持幸右衛門△五十七両三歩弐朱南茅場町源三郎地借石橋弥兵衛
尾州住宅 ̄ニ付店支配人亀七△五十六両桜田太左衛門町家持十兵衛△四十四両
【左丁】
弐歩弐朱小伝【傳】馬町二丁目家持七兵衛△四十四両壱歩余【餘】谷中天王寺門前浅草山川町
友七店喜三郎兄辰五郎△玄米代四十一両深川平野町家持次郎右衛門△三十七両
三歩余【餘】芝口壱丁目西側家持弥兵衛△三十七両二朱余【餘】北新堀町家持松之助
△三十七両壱歩弐朱神田小泉町惣助地借安右衛門△三十六両壱歩弐朱小伝【傳】馬町
二丁目家持平六△三十一両三歩余【餘】浅草龍宝寺門前三吉地借文六△三百五十八両
弐歩弐朱余【餘】金吹町家持中井新右衛門△七百二十八両二貫文長谷川町家持村越
庄左衛門忰万之助△二十四両六匁浅草田原町壱丁目五郎兵衛店惣五郎△廿一
両一貫文同町家持治右衛門△五両弐歩弐朱百六十二貫文小石川伝【傳】通院前
表町家持与【與】七△二十四両六匁七百文つゝ本両替町家持田中金六同小左衛門
同町市左衛門京都住宅 ̄ニ付店支配人喜兵衛△百十一両壱歩六貫七百文
【右丁】
同町家持田中浅之助△四十四両弐歩六匁七百文同町家持伊左衛門△六十一両
壱歩弐百八十九貫呉服町家持吉之助△百二十一両壱歩弐朱七匁余【餘】深川万年
町壱丁目家持橋本清左衛門△百両弐歩弐朱南槙町西会【會】所家持庄助△二十
八両壱歩弐朱廿八匁六十貫六百文南槙町三次郎店忠蔵△三十六両弐百四十弐
貫文外に十九貫三歩六匁呉服町家持治右衛門△五十両壱歩東湊町壱丁目
家持太郎兵衛△四十六両并店賃勘弁同町同源蔵△十一両壱歩北鞘町家持
はや△四両弐朱八十五貫七百文市谷田町壱丁目家持庄右衛門△十七両二歩市
谷八幡町卯兵衛地借清三郎京都住宅 ̄ニ付店預り人市右衛門△十両弐歩同
所家持利兵衛△十両弐歩弐朱市谷七軒町家持はる後見善五郎△十三
両弐歩弐朱青物町五人組持地借徳兵衛△十八貫【左横に「”」を付記し右横に「両」を記載】弐歩八百文元鮫ケ【仮名の「か」と記しているが固有名詞であるので「ケ」とした。】橋八軒
【左丁】
町家持源兵衛△十五両壱歩弐朱弐貫文霊巖島町八兵衛地借藤兵衛△十六
両壱歩弐匁余【餘】浅草真砂町喜太郎地借藤次郎△十一両同田原町二丁目五人組
持地借甚三郎△十三両三歩七匁浅草大護院門前平八地借弥太郎△百十二両
中ノ郷五之橋家持伝【傳】右衛門△三十四両中ノ郷横川町家持長八△三十二両三歩弐
朱同所御用屋敷地守三左衛門△二十四両壱歩弐朱余【餘】桜田備前町家持武兵衛
△二十両弐歩芝口壱丁目金兵衛地借半兵衛△二十三両弐歩弐朱南茅場町家
持利右衛門摂州住宅 ̄ニ付店支配人悦蔵△二十五両壱朱同町家持太郎兵衛
△二十一両壱歩三朱同町家持竹川彦太郎勢州住宅 ̄ニ付店支配人忠兵衛
△廿一両壱歩三朱同町家持藤右衛門勢州住宅 ̄ニ付店支配人嘉七△白米
味噌代二十一両三歩神田佐久間町弐丁目家持又四郎△二十両弐歩神田紺
【右丁】
屋町壱丁目治助地借伊兵衛△二十一両壱歩深川木場町家持庄兵衛紀州
住宅 ̄ニ付店支配人庄三郎△二十一両壱歩深川木場町家持庄兵衛紀州住
宅 ̄ニ付店支配人庄三郎【前項の文と重複】△二十四両壱歩三朱深川万年町壱丁目家持さく夫
伝【傳】五郎△廿両深川相川町家主幸四郎△五十二両三歩三朱余【餘】露月町家持
徳兵衛同又左衛門△二十両三歩余【餘】小松町家持茂右衛門△二十両弐歩青物町
六右衛門地借久兵衛△二十一両三歩余【餘】神田松永町定七地借又吉△三百九十
二両三歩余【餘】本石町四丁目家持三郎右衛門勢州住宅 ̄ニ付店預り人新蔵
△五十六両三歩同町同三郎兵衛京都住宅 ̄ニ付店預り人新兵衛△三十四両
弐歩二朱余【餘】明石町家持善兵衛△五十八両壱歩霊巖町八郎兵衛地借弥
兵衛紀州住宅 ̄ニ付店預り人忠兵衛△二十七両六匁浅草大護院門前平八
【左丁】
地借茂右衛門△十両壱歩弐朱余【餘】牛込肴町家持清兵衛△六十両余【餘】深川
三十三間堂吉蔵地借庄七△五十三両弐歩元大坂町家主治兵衛△三十三両三歩弐
朱新和泉町両側又兵衛地借孫左衛門紀州住宅 ̄ニ付店支配人晋兵衛△
五十両弐歩神田仲町栄次郎地借惣右衛門△弐百十二両壱歩余【餘】通旅籠町茂兵衛
地借正右衛門京都住宅 ̄ニ付店預り人安五郎△三十両弐歩弐朱通壱丁目新道
儀三郎地借泰蔵△五十両弐朱堀江町壱丁目家持吉兵衛△三十八両弐歩駒込片
町家持次郎兵衛△廿八両壱歩同町同半兵衛△七十三両壱歩余【餘】本材木町壱
丁目利兵衛地借三郎兵衛△三十両三歩余【餘】本郷菊坂町三次郎地借正兵衛
△三十四両弐歩弐朱余【餘】本芝入横町家持久米二郎△四十両弐歩弐朱余【餘】本所柳原
町三丁目家持甚右衛門△丗七両余【餘】同五丁目同忠兵衛△弐百三十五両弐歩浅草御蔵
【右丁】
前片町家持七郎兵衛△百十二両壱歩一朱三貫五百文同所茅町二丁目家持清
兵衛△百五十三両三歩余【餘】本所緑町四丁目家主清左衛門△百八十五両三歩余【餘】
南新堀弐丁目家持市右衛門△七十二両三歩十四匁同二丁目家持半兵衛△四十
六両弐歩同町同徳兵衛△廿五両三歩弐朱同町儀兵衛地借安兵衛△四十七両
三歩檜物町清次郎地借三四郎大坂住宅 ̄ニ付店預り人正三郎△五十五両壱匁
余【餘】芝口新町忠右衛門地借喜兵衛△三十三両三歩弐朱余【餘】柏木淀橋町家持
吉兵衛△百十二両浅草瓦町家持四郎左衛門△四十八両三歩同町同八郎右衛門
△八十両弐歩弐朱浅草天王寺家持源兵衛△二十一両壱歩余【餘】南新堀壱丁目家
持甚太郎阿州住宅 ̄ニ付店預り人半兵衛△八十七両三匁深川北松代町三丁目
家持九右衛門京都住宅 ̄ニ付店預り人弥七△三十七両弐朱橘町四丁目家持
【左丁】
昌三郎△十五両壱歩深川三十三間堂町吉蔵地借千蔵△十二両弐歩弐朱同人地
借卯兵衛△十一両三歩三朱神田佐久間町壱丁目家持八五郎△十七番【左横に「”」を付記し、右横に「両」を記載】三歩堀江
町二丁目佐兵衛地借又兵衛△十六両三歩五匁深川海辺大工町家持弥兵衛△十
一両三歩弐朱南槙町平助地借太郎兵衛△六百八十一両壱歩余【餘】新右衛門家
持川村伝【傳】左衛門△三百八十八両弐朱霊巖島銀町二丁目家持鹿島利右衛門△
六十三両上野元黒門町家持忠蔵△三十一両壱歩弐朱同町家持吉兵衛△三十
両弐歩余【餘】同町家持ます△廿両三歩神田久右衛門町壱丁目蔵地家持清兵衛
△二十両同所壱丁目代地家持八郎兵衛△四百三十九両霊巖島四日市町家持
鹿島清兵衛△八十七両弐歩同所浜【濱】町文右衛門地借千助△四十六両壱朱三匁
余【餘】深川永代寺門前家持宗之助△四十三両三歩同海辺大工町家持茂兵衛△
【右丁】
七十六両三歩弐朱十匁同六間堀町家持佐平次△四十五両三歩弐朱十壱貫八百
文余【餘】同東町吉兵衛地借儀三郎紀州住宅 ̄ニ付店預り人平兵衛△十七両
三歩本所玉川屋鋪吉右衛門地借勘右衛門△十六両弐歩余【餘】新両替町壱丁
目喜兵衛地借惣兵衛△十五両壱歩余【餘】神田久右衛門町二丁目代地玉二郎地借
松亀一△十一両三歩三朱余竹川町家持利兵衛△十一両余同所同嘉兵衛
△十両壱朱神田久右衛門町二丁目蔵地吉右衛門地借勇次郎△百七十四両本八町
堀弐丁目家持庄三郎阿州住宅 ̄ニ付店支配人武兵衛△粥焚出し米代共百六十
八両余【餘】浅草福井町二丁目重蔵地借稲垣市兵衛△百十四両三歩同壱丁目清兵
衛地借治兵衛△九十四両本湊町家持角兵衛紀州住宅 ̄ニ付店支配人長
七△七十六両壱朱同町家持源兵衛△七十二両弐歩弐朱三十間堀四丁目家持
【左丁】
九兵衛△五十三両浅草福冨町壱丁目九平次地借三郎兵衛△五十九両弐歩
弐朱本郷二丁目家持多兵衛△白米其外金子共合五十壱両弐歩壱朱本所松
井町弐丁目五人組持店喜太郎△四十八両三歩三十間堀七丁目家持久兵衛△四十
弐両壱歩弐朱本湊町家持久兵衛後見嘉兵衛△四十弐両三歩堀江町壱丁目
家主与兵衛△三十九両木挽町五丁目上納地勘五郎地借徳三郎△三十六両
三朱余【餘】山城町家持伊兵衛△三十一両壱朱佃島家持文五郎△廿一両壱歩壱
朱元数寄屋町弐丁目長助地借卯兵衛△二十五両壱朱本湊町家持いく
後見長左衛門△二十七両三歩壱朱余【餘】本所松井町弐丁目伝【傳】兵衛地借勘
右衛門△二十三両三歩弐朱本所玉川屋敷喜三郎地借清三郎△廿五両四ッ谷
塩町弐丁目家持藤四郎△五十四両弐歩弐朱余【餘】新吉原京町壱丁目家持遊女屋
【右丁】
長兵衛後見四郎兵衛△三十八両弐朱浅草三島門前弥兵衛地借六右衛門△米
其外共三十七両壹歩余【餘】上野町壹丁目喜兵衛地借十郎兵衛△二十三両余【餘】浅
草田原町壱丁目家主専太郎△二十壱両弐朱同所家持安之助△弐百卅七両
壱歩三朱余【餘】深川島田町家持清左衛門△五十一両壹歩同町善八地借清吉
△二十三両壱歩余【餘】同所家持いよ後見清次郎△二十三両壱歩【餘】 同町善八
地借源蔵△五十三両弐歩弐【右横に「三」と傍記】朱并十三ケ所店賃用捨浅草南馬道町伊三郎地
借次郎右衛門△六十一両三歩壹朱神田松坂町小三郎地借佐兵衛△四十八両三歩弐
朱余【餘】浅草元鳥越町吉二郎地借伊右衛門△廿二両三歩三朱庄蔵地借善兵衛
此外御救小屋入之ものへ施行【せぎょう=ほどこしおこなうこと】之もの官府へ御召出御褒美を給はりしもの十三
人御賞誉ありしもの八十余【餘】人姓名こゝに略す
【左丁】
〇今度地震のさまを誌したる破窓の記といへる写本一巻文鳳堂の
あるじ貸与へられしを見たり《割書:美濃紙五十枚半丁|に九行細注等なし》見聞に及ひし事委し
く書綴りこれと自己の迷惑せる事をのべたる事のみ多くして援引(エンイン)
すへきけ件もあらされは抄録せす作者一亭《割書:西河岸|辺の住》序文頭書者西河岸
辺の古書舗不立亭 覚(サムル)又無物といへる人なり《割書:深川西永代町栖原|三九郎の家守のよし》
〇地震預防説一巻刊行奉台命【目上の人の命令の敬語】宇田川興齊訳【譯】述せるよしなり
大槻磐渓の序文あり
〇大地震暦年考小本一巻山崎美成編
〇或人云今度の地震火災より震災の後の事迄持野氏の筆にて
委曲【くわしくこまかなこと】にゑかゞ【ママ】れし画軸あるよし
【右丁】
大地震暦年考《割書:小本》一冊梓行山崎北峯輯 榑正町【くれまさちょう】石坂甚十郎板
地震略説 菱洲山人編
西洋の窮理の説に大地の震動するは其源は地下にある火坑は
全地救【球の誤記】の中にあまたありて吾邦の中に其源二ツあり一ツは中州
《割書:駿遠甲|信豆相》一ツは蝦夷の地にありて其火脈【脉は俗字】遠く異邦迄もかよひ
火坑の形状はたとへは埋み火の如く自然に地気【氣】を蒸あげて万
物是か為に生育す此故に先地震始て発【發】する時煙気【氣】地上に蒸
騰して暫時のうちに空中を掩ひ星宿光輝を失ふを以て験と
すその今まのあたり見聞し常に形容をみる者は信州肥州薩州
日州豆州等の山々其外尚多し火脈の流通せさるは魯西亜国【國】の東
【左丁】
南の地亜米利加国の北の地方に多かりこれらの地は荒漠て【あれはて】草
木すら生育せす火気【氣】の流通せる地方は殊に膏腴にして万物肥
綣すこれ造物者の奇巧なるかなしかれどもかくの如き広【廣】大利用
をなす者は害を生するも又極て大なり地震津浪のるい是なり前
に云る火坑全地に圧【壓】仰【おしつけ】られ至て至静なるもわつかに空気【氣】の
通へる事あれは焔気【氣】これか為に発【發】動し大地を震動す甚
し
きに至りては山岳【嶽】をも震ひ崩し砂石を噴起し民家を敗り
衆人害を蒙り山河凌谷所をかへるにいたる遠くは意太利亜
国【國】の一都会地下に埋没て人民草木畜類悉く尽たり近時
吾邦の越後信濃畿内紀伊伊賀伊豆駿河なとの地震津
【右丁】
浪ある是也火脈は一條より幾條にもなり故に隣国に相接の
地損害多かりこれは火気【氣】に当るとはからさるによれり神社仏【佛】
閣の破損少きは礎の距度棟梁の高低尋常の家造に異なる故
也洪波もまた火気【氣】の海底に噴起りて海潮これか為に勃蕩
するにて地震することに洪浪かならす起るといふ理ありといふにはあ
らすたゞ火気【氣】の海中に起るとおこらさるによれりあるひは地震の為
に山脈を毀ち地下を通ふ水源を沃き川谷を注るに起る又洪浪の
類は山谷の狭隘き地は害多く平坦に開豁たる地は害少なかるへし
その理いかにといふにせまき地は水勢吹あかりやすく平坦の地も障
るものなきか故に水勢すみやかに衰へる也大概かくのごとし
【左丁】
同書 北峯説
凡地震する時は天気【氣】甚暖にして星の光殊に大く昴参の小星
の如くにして光も又鮮明にかそふへし鳶舞鴉鳴き大虚の中か
ならす先相感して然る也按るに地中は竅【あな】ありて蜂の巣の如くに
て水潜り陽気【氣】常に出入し其陰陽相和し宜きを得るを常とす
若陽気【氣】渋滞して出る事を得すして年月を積りて地脹れ水
縮る故に井の水涸時気【氣】暖也たとへは餐餅を炙るに火の為に膨起
るが如しその震はんとする頃は天近く星近く見る物は地升【昇】か天
降るにはあらす雨のふらんとする前山の近くみゆると同じ理
也既に伏陽発【發】出する時はこれか為に地震動す故に其始震
【右丁】
ふ事はけしく後次第に緩繫【?】也此時海潮の怒浪大に湧き上り泝
起る是いはゆる津浪也その脹れる所の地潰沈すれはなりゆ故に洋
中は波静にして海浜【濱】にのみこれあり扨地震して後幾月もす
こしづゝ震ふものは伏火のいまた出つくさざる也その甚しき者に至
りては山のやけ出る事あり古昔貞観五年大地震ありて翌年冨
士山焼たりちかく宝永四年の時も又しかり
東京図書館長手島氏ノ属託ニ依リ写【寫】生ニ命
シ之ヲ謄写セシム于時明治二十一年十二月
関谷清景誌
【左丁 文字無し】
【両面文字無し】
《題:地震撮要巻十下《割書:地震之部|》》
【白紙】
《題:地震撮要《割書:地震之部|》巻之十《割書:下》》
【右丁 文字無し】
【左丁】
【「東京図書館藏」の角印・その下部に外円に「購求・明治二一・一二・一八・」内円に「図」とある丸印】
武江震災記略巻之五
〇安政三年辰の春の頃安政見聞誌と題して去年の地震の聞書
へ彩色摺の画を加へたる刊本三巻あり故人 渓斉(ケイサイ)【齊】英泉か弟子英寿といへ
るものゝ編なるよし指画は彼英寿芳綱国【國】周貞秀等か画るものなり其
内に載たる話柄【わへい=話のたね】虚実は知らされとこゝに抄録す
△ある人大震の後度々の動揺大小を量りて毬円【圓】に作りしめし其有
やう通俗に倣【「傚」は俗字】ひて日の出日の没を以て昼夜とす即白毬は昼黒毬は夜と知る
へし勝且初震の毬は殊に大きく書へきを紙上の所見あしけれはこゝに略す
【丸の大きさを大・中・小として記す。「トキ」は合字】
十月二日●【徳大】《割書:四|時》●【大】《割書:四|過》●
【小】《割書:九|半》●【小】《割書:八|トキ(合字)》●【小】《割書:八|半》●【小】《割書:七|トキ》●【中】《割書:七|過》●【小】《割書:同》●【中】《割書:七|半》●【小】《割書:同》三日〇【大】《割書:九|トキ》〇【小】《割書:七|トキ》●【小】《割書:五|トキ》●【小】《割書:四|トキ》
●【小】《割書:八|トキ》四日〇【小】《割書:八|半》〇【極小】《割書:七|過》●【小】《割書:九|半》●【極小】《割書:九半|過》五日〇【大】《割書:六|トキ》●【小】《割書:六|トキ》●【極小】《割書:九|トキ》●【極小】《割書:九|半》●【極小】《割書:八|過》●【小】《割書:七|トキ》●【中】《割書:七|過》六日〇【中】《割書:六|トキ》
【右丁】
【丸の大きさを大・中・小として記す。「トキ」は合字】
〇【小】《割書:四|トキ》〇【小】《割書:七|トキ》●【中】《割書:九|トキ》●【極小】《割書:八|トキ》●【極小】《割書:七|トキ》七日〇【小】《割書:四|トキ》〇【極小】《割書:七|トキ》●【大】《割書:六|過》●【小】《割書:五|過》●【極小】《割書:九|過》八日〇【小】《割書:七|半》●【小】《割書:六|過》●【小】《割書:九|半》●【極小】《割書:七|過》九日
〇【中】《割書:五|トキ》●【中】《割書:四|過》●【小】《割書:七|過》十日〇【大】《割書:六|過》●【小】《割書:六|過》十一日〇【中】《割書:八|トキ》●【小】《割書:四|過》●【小】《割書:九|半》十二日〇【小】《割書:八|半》十三日〇【中】《割書:五半|過》●【小】《割書:四|過》
十四日〇【中】《割書:四|過》●【小】《割書:五|半》●【中】《割書:七|トキ》十五日〇【大】《割書:七|過》●【中】《割書:七|トキ》十六日〇【中】《割書:六|トキ》〇【小】《割書:八|過》●【小】《割書:四|トキ》十七日〇【中】《割書:八|半》●【小】《割書:四|過》●【中】《割書:八|トキ》
十八日●【小】《割書:九|過》今夜雷雨十九日●【小】《割書:六|過》●【極小】《割書:四|トキ》廿日●【小】《割書:八半|トキ》廿一日〇【中】《割書:六|トキ》〇【極小】《割書:五|トキ》廿二日〇【小】《割書:五|半》
廿三日無廿四日●【小】《割書:五|過》廿五日〇【小】《割書:七|過》廿六日〇【中】《割書:七|過》●【小】《割書:八|過》廿七日〇【小】《割書:九|過》廿八日●【小】《割書:四|トキ》廿九日
《割書:晦日なり》●【小】《割書:九|トキ》十月総計八十度《割書:昼廿八度|夜五十二度》也以下略之
△本所永倉町篠崎某なる人遊漁を好十月二日の夜ずゝこ【ずずご(数珠子)=ミミズを糸で縦向きに貫いて輪のようにたばねた、鰻釣りの餌】といへるもの
にて鰻を取んとて河筋所々をあさるにしきりに鯰騒き鰻一ツも得す只
鯰三尾を得て倩(つら〳〵)思ふ様鯰の騒く時は必す地震為といふに心付て漁
を止帰宅して庭上に筵を敷家財道具を出して異変の備をなせり其
【左丁】
妻はいぶかしみ竊に是を笑ふしかるに其夜右地震なり住居は悉【「患」に見えるが「悉」の誤記と思われる】く潰
けれ共諸器物は更に損せす同夜近辺の人是も漁に行鯰の騒たる
を見なから帰宅をせす又獲物も少き上家居ゟ家財道具は残なく揺
崩し深く悔たりしと云々
△中の郷弁天小路八百屋新助地震にて半町余【餘】潰し内にて三人の子を
漸救出しけれ共妻やすは梁の下に閉込られ自由ならす狂気の如くなり
て板材木土瓦を刎除救んとするうち同所薪屋ゟ出火して火勢強く炎
は雨の如し妻か云様妾を助んとして時移らは御身を始三人の子迄危し妾
覚悟也然れ共火を見て死ん事甚心苦しと云新助心得古半天を頭に覆(カケ)置
泪と倶に示して云やう天災なから非業の死をなさせん事最かなし三人
【右丁】
の子は我よく養育すれは必心に懸へからすこれより割下水なる牧野氏を頼
へし御経をもよみて成仏【佛】せよと云捨て立退けり其夜子下刻牧野氏方へ尋来
る者あり髪は残りなく焼落頭面より半身黒く薫りて焼爛たるさまは幽霊
なるへしと新助委細を問ふに火は段々燃来る梁の半迄焼し故押付たる
所軽く成漸火中を遁たりと語りぬ
△深川冨士見橋に二の組鳶人足善五郎と云者あり右地震にて其家潰
れしが妻子は援出しける幸に怪我なし然るに隣家に物音高く聞しか
は鳶口を携急駈行見るに小笠原左京殿下屋敷の玄関を残し舘中残
なく崩潰る其中に泣喚声しきりに聞へしかは力に任大木板瓦等を刎除
侍女九人を救出し猶又散乱の中ゟ女十二人を出しけるが老女の云様早
【左丁】
く妙月院殿《割書:城主の|御母公也》を助くれよと云ふに善五郎心得て急に潰屋の中
へ潜入漸尼公を尋求助け出し侍女にかしづかせ玄関に安座し参(マヰラ)せ夫
ゟ茶の間其外三所【神社にまつられている三柱の神。とくに八幡宮の応神天皇・神功皇后・比売神(ひめがみ)の三神をいうことが多い】の火を消又十一人を救出す此中五人即死也此時御上
屋敷ゟ早馬到来し恙なきを賀し奉るに善五郎に救れたるよし御物語
ありしかは同五日御上屋敷へ召れ当坐の御褒美金百両永代十五人扶持にて
作事方頭取扱被仰付ける云々
△江戸の糀室は穴室にし凡幅一間半長さ十間計なり四方竹垣の如くし
て土の間へ藁を詰又天井は横に丸太を渡し筵を敷其上に土を置なり
扨又入口の儀は先に画たるか如し尓に【しかるに】今度之地震の如きは平地さへ響
割る震動なる故土中深く掘込たるもの何そ安躰なるへきされは揺
【右丁】
崩たる中に其最荒ものわづかにこゝにあくる 本郷新町屋に九軒
潰れ其中三河屋彦兵衛同長七等住居室の中へ落込む同所よこね坂七軒
潰同春木町弐丁目四軒同三丁目壱軒同五丁目壱軒同六丁目弐軒同丸山菊
坂四軒其中伊勢屋次郎兵衛家居落込同元町五軒湯嶋天神門前四軒
同植木町壱軒同三組町三軒同六丁目二軒《割書:裏店》同 鎹(カスガヒ)町一軒同たる
ま横町二軒神田明神社内二軒右の分町々相糺夫々名前分明なれと
もよき事ならざる故わざと略して記す《割書:又新町屋三河屋彦兵衛といへる|味噌やの妻とよ当才の男子に小》
《割書:用をさせんとして糀室へ落入|て死すたる話ありこゝに略す》
△根津七軒町に屑買にて平吉といふ者あり妻かつ娘はると云は今年
十七才にて養女也妹くらは十六才実子也右はるは心はべ【「心はべ」の語は見られず。濁点を打つ位置を間違えたのでは。「心ばへ」と思われる。】より見めもよく
【左丁】
孝心深けれ共夫婦とも邪見にして我子の愚なるを知らす爰に夫婦
密談の事何にして聞けん家主治兵衛ゟ両人を呼寄せ右はる女は孝
心深く尚又義理ある子なり其妹くらは実子なれは売【賣】る共故障なし前
金を受取たる由なり我方より返し断をいひ遣すへしといふにせん
方なく腹たゝしきまゝ金五両を姉はるに持せやりける此時地震にて
平吉か家は一番に潰れ親子三人とも崩家の下に成隣家の火災にて
みな焼死したり姉はるは家主の方に在て安全なり是常に継子を悪
み剰【あまつさえ】遊女に売【賣】んとせし不実を諸天の戒【「戎」は誤記】給ふ所なり恐へし慎へし
△池の端松平出雲守殿地震火災に付茅町弐丁目より根津七軒町
まて壱軒に白米三斗金壱両つゝ御施行あり云々
【右丁】
△牛込白銀町浅野勇次といふ人吉原大黒屋の喜瀬川になしみ通ひ
ける其夜は日頃信心せる善国【國】寺の毘沙門天へ詣て帰る途中壱人の旅
僧に逢ふ善国【國】寺は何方なると尋る故云々の所なりと教へける此僧示て
云足下今革命の相あり惣て陰に帰して最不祥也然れ共足下は神仏【佛】
を尊み給ふ故是を参らせん若止事を得す他行【たぎょう=その場を離れて余所へいくこと】する共深更【深夜】に及はす
帰宅すへし泊る事は弥わろしといふに一礼【禮】を演【のべ】て帰宅しけるか其夜も
又喜瀬川かかたへ趣酒宴して亥刻にも成しかは不斗彼僧の云し事を
思ひ出し暇を告て立出馬道迄来る所右地震にて大に駭しか吉原
の方を見るに暫の間に所々に火災起り崩落物音すさましき故急に取て
返し大黒屋へ駈付右きせ川外五人を救出したり此夜泊りたらは非業
【左丁】
に死すへきに不思議に命を脱れたるは偏に信心の徳成へし
△駒込白山下質屋某の丁稚十月二日黄昏に二階の板戸を鎖(とざし)せん
とて上りたるに暫有て梯子を下なから打つぶやくやう今宵定めて
地震有て強かるへしと独【獨】言しけるを番頭聞不祥の事とて叱りける
か果して其夜此禍に家倉を破損し家内辛ふして身を脱れ恙
なかりしかはかの丁稚か云たる事を思ひ出して主人へ告け訝(イフカ)しく
思ひて丁稚へ尋ねけるに私の父は信州の者にて常に語るには善光寺開
帳の時地震ありたる日の夕方に西方に白雲霞の如く棚引又東の方に
藷(ツクネイモ)の如き雲出たり其夜彼国【國】の大地震也又暫有て元の如き雲東西に
出たり是必揺返しならんと彼雲を見たるともからには家財を広【廣】原に運
【右丁】
ひ身を竹林にひそめ居るに果して其夜も又大地震ありしとかたりた
るを覚へ候て忘れさりしを以て思はす申たるなりとかたりぬ
△仙台【臺】侯今度地震に付隣国【國】の諸侯へ御見舞松板数千枚被進候
よし此御入用御手元御納戸金にて出候由其外御門前四ヶ町之者共焼
失其外住居揺潰必至之難渋たるへきとて即日御取調有之御国米五斗
二升入壱俵つゝ軒別に御恵み成し下され又町役人番人并鳶人足等へ
金弐歩つゝ添て下さる云々
△馬場先御門番丹羽長門守殿藩中山口秀平番所の揺崩し時右の
腕を敷き火災に迫り子息をして腕を斬らしめたる談あり略之
△地震十四五日前下谷辺の冨家へ奉公に出し女或夜亡父を爰に見る
【左丁】
父示して云様此所に居る事なかれと斯爰見る事両夜なる故
奉公の暇母の方へ参りて其趣を告く母是をゆるさす叱りて帰しける
か翌日大地震にて衣類手道具不残焼却したれと幸にして怪我
なかりしとなん
以上見聞誌の抄録也是に繾て安政見聞録といへる刻本も出
たり《割書:絵入彩色|摺三冊》銀街晁善漁父編服部氏蔵樟とあり辰初秋発行
《割書:|月本云》
〇右見聞志【「誌」の意】にあらはせる地震毬図おのれか思ふ跡に違へり依て左 ̄ニ
一図をあらはせり尚他人の刪補を俟つ《割書:十一月以来は漏たるもの多く|外出の時地震にあひ帰宅の》
《割書:後の記しもらし或は深夜|寝入て知らさる少震も有へし》
【左丁】
【丸の大きさを特大・大・中・小で注記する】
十二月二日●【特大】《割書:四|時》●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●●●●●●【特大の大きな地震の後の33回は全部小】《割書:明|かた》三日《割書:未詳》〇〇〇〇〇〇〇●●●●●●●【14回とも小】四日〇〇〇〇〇●
●●●●【10回とも小】五日〇〇〇〇〇〇〇〇●●●●●●【14回とも小】六日〇〇〇●●●【6回とも小】七日〇〇〇
〇〇〇【6回小】●【大】《割書:暮|六》●●【上2回小】八日〇〇●●●【5回とも小】九日〇〇●●【4回とも小】十日〇●●●●●【6回とも小】《割書:夜中|五度程》十
一日〇●●【3回とも小】《割書:夜|雨》十二日〇【中】《割書:八時|過》十三日〇【小】《割書:五半》●【小】十四日《割書:夜中|ゟ雨》〇●●【3回とも小】十五日〇●【2回小】
十六日〇〇〇〇●●【6回とも小】十七日〇〇●●【4回小】十八日●【小】《割書:雷雨》十九日〇●【2回小】●【極小】廿日〇【小】
《割書:昼|時》●【小】二十一日〇〇【2回小】廿二日〇〇【2回小】廿三日〇〇【2回小】廿四日〇●【2回小】廿五日〇●【2回小】廿六日
〇●【2回小】廿七日〇【小】廿八日●【小】廿九日●【小】十一月朔日〇【中】《割書:昼|時》三日●【小】《割書:九半|時》十日〇【小】《割書:四》
十一日●【小】十二日〇【小】《割書:五ツ時|前》●【小】十四日〇【小】《割書:八》十五日〇【中】《割書:六半|過》〇【小】《割書:五》十七日●●【上二つ小】●【極小】十九日
●●●●【4回小】廿五日〇【小】《割書:昼時》晦日●●【小】《割書:深夜》十二月朔日●【小】四日●【小】《割書:四時》十五日●【小】
【左丁】
二十九日●【小】《割書:深夜》辰正月三日〇〇【小】《割書:夕方|二度》八日〇【小】《割書:五半》九日〇【小】《割書:昼》十二日●【小】《割書:深夜》十七
日●【小】《割書:暁》廿五日●【小】《割書:宵》二月五日〇【小】《割書:八》十二日〇【小】《割書:早朝》三月十四日●【小】《割書:暁》廿八日〇【小】
《割書:夕七》廿九日●【小】《割書:夜五前》四月八日●【小】《割書:夜五》十一日●【小】《割書:暁六前》廿六日〇【中】《割書:夕七》五月七日●【小】
《割書:暮時》●【小】廿三日《割書:明方》〇【小】《割書:九半》六月十日●【小】《割書:暁》十八日〇【小】《割書:朝》七月廿六日〇《割書:朝》廿七日
●【小】《割書:深夜》廿八日●【極小】《割書:子刻》八月六日●【小】《割書:暁》十六日●【小】《割書:子刻》廿七日●【小】《割書:深夜》九月十日●【小】
《割書:暮過》十月朔日〇【小】《割書:朝四》二日●【極小】《割書:亥刻過》七日●【小】《割書:朝五》用水こぼるゝ此後も折々
ありしかと略す
【右丁】
こたひの地震の及へるはし〳〵迄はいまた聞も定めす大江戸
のうちたに余所はいかならむいさしらすたゝまのあたりいみ
しう恐ろしともあさましとも覚えたる葛飾のかたほとり石
はらのわたりの有さまを聊かいしるす俳諧の長歌并反哥五
首
やすらけくまつりこつてふ名にし負う年の二とせ神無月二日の
宵【或は「雪」か】の長閑にて人静まれと灯火を猶も排けて又机によりそふ
なへにゆくりなく物ふりいてゝなゐふるをそよや【そうだよ】といひもやらぬ間
に鳴かみのこと轟なて壁もつい地も壁こめも土に瓦に木葉なす
山おろしして家ことにつかれ柱も砕くれはうつ梁落てあとさけ
【左丁】
ふ数多の人のひと声にあはれをこめてはかなくも親よ妻子と
よひまよふみせのましら夜の靄腹たゆるおもひかな夜はうは玉
の【「闇、夜、黒、」等にかかる枕詞】闇のうちに遠近となく煙たち焰もえきておのがじゝ【おのがじし=めいめい、それぞれ】広【廣】こり【ひろごり=広がる】行
は昼のこと風の火花は散かへ【散り交へ】と誰かは防く人あらむ行先遠く野火
なして末はおのれと消めり知る人逢へはもろともに命しなぬをか
ことに【愚痴のように】そ慰さめあへす外はなし新島もり【新島守=新しい流人に見立てている】にあらなくにはふれ【放れ=放ち捨てられる、落ちぶれる】にし身
は宿もなく蜑【あま(海人)】のうらみよなゐにつれ高汐のほる磯ならては乾く
よりとも白浪のかゝる紛れに時を得て焼のこりたる庫のうちなか
は摧れし家のあたり立ふるまふてうせぬらん小やみもやらす
なゐふれは庭の西に古木もて造れる小屋に暫しとて心休めとほ
【右丁】
しもの這入りてみなは萩か枝をしからむ【しがらむ=からみつける】赫やかるもかく伏猪の床
に夜もすからいもねられぬ【眠ることも出来ない】をしくれさへ漏にいとなく羽ぬけ鳥
さゆる夜風にいとゝしく【一層ひどく】晨をまちてねにそなかれける
反哥
なゐは猶あきつ島根宇ゆりすゑつ【揺り動かして動かない位置にとどめる。】幾万【萬】代も宇こかさるへく
崩れたる家ゐとやけて辛うしてのこりしものは盗まれにけり
小屋にこそなゐはふるともあからめ【目をそらし】時雨のふりてもるそわひしき
家のみか胸もつふれてさき草のみつ葉よつはのことのはもなし
白浪の過にし浜【濱】の夜守りはやけ野のはらの火危ふの声【聲】
堂閑 丹波のあし
信節 乱筆
【左丁】
震後口号【號】
治平三百長驕奢 一震倒摧千万【萬】家
気化感衰天地人 人生得失後何噌
右筠居【注①】喜多村うしのすさひなり友人石塚豊芥子蔵莽の草【艸】
を暮せり
むさし野のうこきの雉子【注②】地震ふりて啼か妻子の行ゑ【「へ」とあるところ】しらすか
東夷庵
天の下うらあかれとこと更に国【國】つみ神やゆりかためけむ
文雄
【注① 右頁最終行の「信節」は喜多村信節(のぶよ)のこと。江戸後期の国学者・考証学者。筠庭、筠居、等と号す。】
【注② 「うこき」は「うこぎ」では。古く中国から渡来して人家に栽培され時に野生化している。多くは生垣に用い若葉は食用、根の皮は滋養強壮剤として用いる。「雉子」は古くは多く「きぎし」➝「きぎす」と呼ばれていた。】
○元禄癸未より㠯降(コノカタ)轂下(コクカ)の尊卑久しく地震の甚しきにあはさ
れは常に鬱攸(クワジ)禍を懼れて地震を怖るゝの心薄し《割書:元禄の地震は|白石翁か折焼》
《割書:柴の記正宝事禄和漢合運武江年表に綱要を誌したれと委しからす|其余たま〳〵物に誌るを見れは消日の話柄に備ふるのみ恐れ思ふ人無し| 》より
て倉廩(サウリン)をたのみとし己か家は更なり隣家といへとも此もの多を以
鎮火の綱要とし舗倉或は入口に倉庫を営む事市井殊に多し
宮府よりも延焼の患を避んが為近頃坊間に徇(フレ)られて板葺を以
土蔵塗家に造り改むへきよし厥(ソノ)沙汰ありけるか今度地震の時
舗倉(ミセクラ)は更なり入口に在るものは逃る時 埴土頽(カベツチクヅ)れ堕(オチ)身体を傷損
し或一命をうしなひ剰(アマツサヘ)禍 合壁(カツヘキ)に及ぼすに至るしかりしより諸人
只顧(ヒタスラ)に板葺の矮屋(ヒラヤ)を好(ヨミ)して瓦葺を嫌ひ土蔵造りを悪むこれも
【右丁】
又臆病に出て偏顧とやいはむ然れとも寐所の側と入口の倉庫は
なくてありなん《割書:或云土蔵の前はいか程に狭き所にても住所寐所等よりは|一間斗明て建つへき由古人の話なりとこれは地震の》
《割書:時鉢巻鬼瓦の類落る時屋上を破りて落入る事ある故それを厭ひ亦一ツ|には火負の時用心土の置場抔少しく間を置て持運の自在ならしめんとの》
《割書:事な|り》
〇 嚮(サキ)に弘化丁未の春信州地震の旹(トキ)【時の古字】巨万(コマン)の人民命を失ひ家産を
傾け近くは去歳冬豆州下田港地震の後高潮の危難ありてとも
に命を亡し或は困苦に迫りしもまのあたり見るにあらす適(タマ〳〵)人の
噂あるひは紙上によりて其顛末を想像し一時戦慄するのみ
に過ず実に今度の凶変貴人公子ども避る事あたはす神宇梵
刹もともに此厄に罹りて漏るゝ事なきは歎くにも猶余【餘】りありとや
【左丁】
いわむ《割書:其地震負二禍をうくる事の薄きも神を動し胸を焼き病痾に|かゝりてなやめる輩も多しときけり鴨の長明か方丈記に元暦二年大》
《割書:地震の事を記したれと其辺際と強弱は知らされと死亡の人数いかてか今日|の如くならん歴代の史籍にもいまたかゝる事を見す実に恐ろしきは地》
《割書:震なる|へし》凡池魚の禍に遭【遇】たる輩あやしの仮【假】屋を営み始て移り
住たる折からはたゝ屋根あり戸障子あるをもて雨露を凌(シノギ)て足
れりと思へと其后漸々に普請成就して旬日【じゅんじつ=十日ばかり】を歴るまゝに宝を
費し好事を究(キハメ)造作に花員を好むの心出来て始の窮厄は更に
忘れ果たるに肖(ニ)たり奢侈に馴るは人情といへともいとも浅まし心
ある人はならふて察せすんはあらし
事たれは足るにまかせて事たらす足らす事たる身こそ安けれ
東山吉宗卿
【右丁】
近き頃の地震物に見えたるを一二左に諸す
明和八年辛卯五月二日六月二日大地震
天明二年壬寅七月十四日夜九時十五日朝大地震此間度々あり
《割書:諸人戸外へ出る|大山小田原尤強し》
同三年癸卯二月二日大地震
寛政二年庚戌十一月廿七日大地震
同六年甲寅十一月三日子刻大地震
享和三年癸亥三月四日暮六ツ時過大地震
文化九年壬申十一月四日昼八時同品川神奈川潰家怪我人多
かりし由也
【左丁】
天保八年丁酉十二月九日夕八ツ時過
同九年戊戌八月廿五日大風雨地震
同十四年癸卯二月九日巳下刻用水桶の水こほるゝ程也
弘化四年丁未三月廿四日夜四ツ時江戸は僅に揺る信州大地震也
嘉永六年癸丑二月二日巳下刻地震三度小田原大地震
安政元年甲寅十一月四日辰半刻翌五日深夜迄数度諸国【國】大地
震
【画面右下】
四ツ時大に震ひし後少々の地震
有更に止事なく故に家の傾か
ぬ輩迄各心あからす夜の明る迄
寝る人なし冬の夜なから殊に
長く覚えたり
大手前辰ノ口等の火
尤熾也次第に焼広
こり【ひろごる】て又数ヶ所の火重
りて一ツの火の根に見え
たり
安政乙卯霜月三月一校畢
文久辛酉猟月浄昼成
斎藤月岑幸成輯
○近頃の地震ものに見えたるを左にしるす
△明和八年辛卯五月二日大地震 △天明二年壬寅七月十四日夜
九時十五日朝大地震此間度々有《割書:諸人戸外へ出る|大山小田原尤強し》 △同三年癸卯二
月二日大地震 △寛政二年庚戌十一月廿七日大地震 △同六年甲寅十一
月三日子刻大地震△享和三年癸亥三月四日暮六時過大地震 △文化
九年壬申十一月四日昼八時同品川神奈川潰家怪我人多かりし由なり
△天保八年丁酉十二月九日夕八時過△同九年戊戌八月廿五日大風雨地震
△同十四年癸卯二月九日巳下刻用水桶の水こほるゝ程なり
△弘化四年丁未三月廿四日夜四時江戸は纔に揺る信州大地震也別録あり
△嘉永六年癸丑二月二日巳下刻地震三度小田原大地震
△安政元年甲寅十一月四日辰半刻翌五日深夜迄数度大地震別録
にあり 右何れも少々の地震にして元禄の地震に亜くへきにあらす
△安政二卯年十月二日是は本文に誌せる所の地震なり
安政三年丙辰八月二十五日
風雨の記
附録
【右丁 文字無し】
【左丁】
去歳十月二日の大地震は一命を亡し或は活業を失ひし輩数
ふるに遑あらす世に怖しき事に思ひしか今茲安政三年丙辰
の八月廿五日稀世の大風雨ありて家を倒し高潮海辺に漲り
て家を溺らし人命を傷【そこな】へり其顛末大略を左に挙く
〇八月廿三日微雨廿四日廿五日続【續】て微雨降日暮次第に降りしきり
南大風戊【戌】の七八点【點】より殊に甚く成り暁丑刻過て追々に鎮り此
始の程雷鳴あり雷は程なく納りこれと風雨の間地震ありし由
大風に家屋動揺するに紛れて知らさるものもありしなり翌
廿六日朝より霽【はれ】に属す
人家所々潰たるもの数ふへからす去々寅十二月去卯三月二度の大火
【右丁】
に罹りし場所家作あらたなるも潰れ去冬地震にいたみしは更也
微塵に砕たるも一町に何所といふを知らす去年地震に山の手の
武家は大方安泰也今度江戸中一円【圓】大破にて潰さも【確かに、まったく】杮葺は残ら
す吹散らし瓦葺は重みにて曲り棟瓦を損したり天井板落散た
る多し板塀無事なるは稀なり海岸の山手の崖等は殊に甚し
海辺は大小の船岸に打上石垣を損し人家を毀すもの数多あ
り
所々喬木折根ゟ抜て倒れたるも多し草類一夜の雨に打れて
枯たるか多く蔓物も多く痛めり
第一に恐怖せし亦前代聞も及さるは西本願寺の御堂なりさしもの
【左丁】
大厦なれと潰れて微塵に砕たり中門惣門其他諸堂は痛みし
もあれと潰たるはこれなし此堂内へ入て風雨を避んとせしもの
ありしか動揺に懼れてのかれ出しかは各恙なかりしとそ
寒さ橋《割書:本名|明石橋》東の橋台【臺】崩る北東に在りし茶亭《割書:平(ヒラ)家|なり》 礎石(イシズヘ)而巳【のみ】
残り跡方なし此辺【邊】都て【すべて】船松町上柳原町本郷町十軒町南飯
田町南小田原町等海岸洪水溢濫して人家を溺し或は潰逆浪
にさそはれて海底へ沈しものもあり資財雑具の見るか内に流
失たる由本湊町河岸小橋落る
十軒町続【續】松平淡路守殿去冬震の災後漸普請成就し引移ら
れし間もなく一円に潰たり門跡の後都て築地霊巖島其外浜【濱】辺
【右丁】
茶船の類陸へ押上て大路に横たはれるもの多くあり船頭水主の溺
たる何百人といふ事を知らす浜【濱】御庭高潮にて築山崩大木根よ
り倒れ損せし所甚多し
芸【藝】州侯御屋敷海手石垣大破及ひ土手流失たり
佃島石川島海潮漲りて人家を損す
薩州侯御屋敷大破 高輪町屋所々損海岸の葭簀張茶店物置
等は悉く潰れたり会津侯御藩三抱計りの杉の木折れる戸沢【澤】
侯火の見ならひに番人何方へか飛て行方を知らす
増上寺山内喬木折同下部屋潰下僕十七八人即死すといふ
薩州侯御船大元丸檣【ほばしら】折る又君沢【澤】形【注】二艘芝金杉浜【濱】へ吹寄たり
【左丁】
汀を掘り人部【にんぶ=人夫】数多を以て引出さる其費数千金に及ふと云々真田
侯陣屋大破及ひ土手流損す
芝新網町名主大場惣十郎支配の者へ用談の中東ゟ壹尺五寸斗もや
あらむと思ふ火の玉の上るを見る夫より大風吹出たる由也又浅草
辺にて踊りの師何某《割書:女|也》秘蔵の盆花を取入んとして物干に上り火の光
を見て恐怖せりされと響はなかりしとそ
品川東海寺惣門倒れたり
鮫洲料理屋河崎屋の楼【樓】を海に流し表の住居も危く覚えし
かは止事なく雨に濡て大路にいたりしに海中より度々火光登
しと見たり宛も白昼の如く須臾にして亦闇夜となれり其外猟
【注 きみざわがた…江戸時代寛政三年(一八五六)ロシア使節プチャーチン一行が日本人大工を雇って建造した帆船と同型の船に対する日本名。伊豆君沢郡戸田村で造られたところからの呼称。】
【右丁】
師町品川辺大破 御殿山下一向宗正徳寺本堂潰る
新大橋安藤長門守殿御屋鋪内へ船押上り候由又大船永代橋に
突当りて東の方七軒目二間程崩堕る《割書:深川娼家の仮宅に遊ひ|し輩後朝を候て未明に》
《割書:駕に乗り或は洪水を恐れて橋向へ急渡らんとせしもの|此橋の切たるを知らすして落入流されたる者多しとそ》又西よりの
方凹に成り廿六日より往来を停む
深川海岸南を受たれは家々吹潰し海へ流れ高潮にて海中へ巻込
家財を失ひし者数ふへからす洲崎吉祥寺境内首丈水に渡りて
歩行ならす
霊巖寺は地蔵堂寮共大半潰たり
深川娼家の仮宅大破多く佐野槌屋の暖簾を借りて深川へ仮宅
【左丁】
を出したる家惣潰れなりこの余【餘】七八軒潰たるよし其後更に
不蕃昌【不繁昌に同じ意】なり
永代寺境内に八月九日より江の島奥院弁財天の開帳あり始より参
詣稀にてありしか此嵐にあふて仮屋潰れ御 厨子(ヅシ)も損し境内
に遷座あり境内見せ物の仮屋吹潰たり
深川蔵々水に浸り米之俵通り濡穀物其外廃多し木場は材木
を流し失ふ
深川新地松平下総守殿門の屋根飛て其侭熊井町へ落る
同所高橋大破 猿江土井侯下藩床上水壱尺市店床上水弐尺位
江戸の冨商宝貨を深川の倉庫に収置しもの多く水にひたる
【右丁】
本所辺の出水これに亜く家作地震に痛し上此大風雨に遇て大破
に及へり御船蔵潰御船大破に及へり《割書:麟。鳳。難波丸破損|焔硝蔵破損》
細川玄蕃頭【げんばのかみ】殿割下水【注①】の下屋敷惣潰れ 亀戸藤の花七月初旬
に咲たり五分一(ゴンフヂ)の桜花五月に咲く本所霊山寺本堂大厦潰る
牛御前別当《割書:サイシヤウ》寺潰る源森橋畔薬店の前榎の老樹根ゟ抜て
倒れたり吾妻橋勾欄【橋の欄干のこと】西へ寄廿間程《割書:南の|側》吹落したり
橋場金座吹所【ふきしょ=金属貨幣などの鋳造場】潰る
今戸橋畔貨食舗金波楼庄吉か家去年地震に家潰其家より
災ありて烏有【注②】となりしか今茲七月の頃漸に普請にかたり建たる侭
此風雨に吹倒したり
【左丁】
猿若町に片足なき鶴一羽落る官府に訟る【うったえる】途中にて死したる由
御蔵前花徳院焔魔堂潰御首は恙なしとそ
浅草寺西宮稲荷銅鳥居折るゝ鐘楼去年の地震に大破に及しかこの
度屋根を吹崩して軒より上跡方なし輪蔵【「転輪蔵(てんりんぞう)」の略。経藏中に設けて、経典を収納するための回転式の書棚】普請延引して成就な
かりしか大破及り随身門外松田屋といへる娼家の仮宅惣潰怪我人
有りし由
奥山活人形の看せ物仮屋潰れたり《割書:二度目出来たる活人形也一ツ家の姥|忠臣蔵の夜討鏡山の狂言人形なと》
《割書:ありし|時なり》
砂村辺落合村辺人家多く流れ行徳洪水によりて人家流るゝ事凡
二分通り也とそ大路に死人横たはれる由中山の辺溺死人多く流寄
【注①東京都墨田区本所にあった掘割。またその沿岸一帯の地の呼称。沿岸に津軽屋敷や直参の邸宅があった。】
【注②烏有(うゆう)=「烏(いずくんぞ)有らんや」の意。何もないこと。皆無。】
【右丁】
たる由
堀江猫実海嘯【かいしょう=津波】人家流失多しと三崎辺も同しと云
御城内格別痛なし御門々地震御修復出来上らぬ前に大破損あり
半蔵御門御修復中大破渡り櫓ねぢれて落る此御門内大木松多く
折れる 御城内御普請小屋皆倒損す 鍛冶橋外常盤橋外番所
潰れる
廿六日朝紅葉山樹上より烏五十羽程落て死せり
飯田町続【續】蕃書調所潰九段坂下竹元 殿大破
小川町武家方地震の時残りしも此度吹倒たる分多し
半蔵御門内隅の番所潰所有之添番壱人中間弐人即死ス
【左丁】
一石橋畔柳根より抜る 御肴役所潰人足壱人即死《割書:床見せ是か為|に潰れる》
神田明神神主芝崎氏仮玄関破損所多し額堂瓦落樹木折る
湯嶋天満宮銅鳥居神楽堂倒る 東叡山大木数本折れる
下谷金杉村潰家より出火 浅草日輪寺内同出火
吉原京町壱丁目幇簡【「間」とあるところ】某か家潰れて出火し二棟焼る
今夜雨中潰家より出火起りて類焼数件に曁せるもの芝片門前壱丁目
に吉兵衛か店をかりて版木を彫て業とせる源兵衛か宅潰しより出火して
神明町三島町宇田川町《割書:何れも|西手也》に及へり火元のあるしは辛うして遯れ
つ妻子《割書:子供三人有|合四人死》は潰家の下になりて亡たるよしかなしむへし
市谷尾州侯藩内出火あり此外少しの出火は所々にありし由なり
【右丁】
青山紀州侯御屋敷長屋半潰
大窪村鬼王権現遥拝社境内大木杉倒長十五間程
大窪辺百姓家多く潰萱家にして屋根形は其侭に残り柱倒て潰れた
り《割書:人々其下に住せ|り苫船の如し》
本郷附木店御持組屋敷三人即死あり《割書:御弓町住居御鉄炮師冨岡佐平次|細工場弐間半に三間之屋根揺とも》
《割書:に飛て跡|方なし》
牛込棚下酒井侯屋敷喬木八十本余【餘】り折れ倒る
千駄木紫泉亭三階造の家作地震にのかれ此度は柱折れて傾き
たり 青山松平隠岐守殿屋敷惣潰れ也
廿六日商家皆廃務也貨食舗茶店家作無事なるも各商を休む
【左丁】
変死人の野辺送り街に多し
彼岸中なれと六阿弥陀其外霊場諸人更になし《割書:廿五日は彼岸の|中日にて有し》
市中 蓋匠(ヤネヤ)壱人も見る事なし作事諸職人傭貨を貪る者多く次
弟に召捕られて禁獄せらる《割書:市中杮葺の損したるは|杉皮板屋根苫ふきなり》木買も又預買等の
事御詮議あり 魚類菜菰価【價】悉貴し
〇七月頃東方に光強き星逐夜五時頃より現たり
柳原柳風雨後新芽をふきて春柳の如く 楓葉しぼみて看楓の
輩なし菊花も又同し十月所々かへり花【花を咲かせる時期が過ぎたのちに、ふたたび時節はずれに花をつけること】あり
江川太郎左衛門殿御屋敷当時新銭座【江戸時代、銭を鋳造、発行した役所】なり海岸大風雨にて家屋動揺
して危ふけれは調煉の御見分所床高く其上近頃の造営にて家も丈夫
【右丁】
なりとて家臣倶々かしこに入ておはしける家臣は皆々雨戸を押へて風を
凌てありしに力及はす戸を吹放たれて彳【たたずみ】かたく外へ出んとすれは逆
浪漲りていかん共する事ならす程なく海水店の上のほりしかは此所
に続【續】たる長屋の二階に居られしに弥動揺烈しく既に覆らんと
せし頃不思議に君沢形の御船吹寄しは二階よりたゝちに此御船へ
うつりし後かの船芝浦へ吹寄たり夫より辛して陸に登りのかれ給ひ
し由なり
伊豆の辺押送り船【櫓を押して航行する船。特に、江戸近海から漁獲物を江戸に急送する舟をいった。】一艘十六人乗りてありしか本牧の塙(ハナ)にて覆り
たりこの内十八才になれる男此浪に漂ひ三番の御台【臺】場へ打上られ石
垣土手を越て其中へ落たりしか身体恙なくこれか兄なるものは芝
【左丁】
の浜【濱】へ打上られ兄弟ともに存命也残れる十四人は行方知れす
と聞えし
深川洲崎料理茶屋海岸にあるもの殊に困苦甚し逆浪に坐
敷を取られ海中へ流れ失しか家族物置にひそまり居たりしに
肩のあたり迄水にひたりしかは今は早命の限りと思ひあき
らめ弥陀の称号してありしか此物置傾く迄にて流れす終に
一命を拾ひたりむさしやといへるは家作あたらしき故か左迄に
及はさりしよしなり
本所番場町家主新八自身番屋にありて此動揺に居る事な
らす外面へ駆出しか歩行ならす木戸柱にすかりて漸此難をま
【右丁】
ぬかれしか家に帰りて見るに悉く潰て妻は既に死りとそ
築地稲葉侯下屋鋪即死七人と云医【醫】師平野仁庵殿かのやしきに
在りしか其身母は助り妻は倒れたる家に押流れ水に溺れて死する
を見なから助る事あたはす娘は悪水を吞て重体にわつらひし
よし
小日向新屋鋪の辺なる何某近き頃深川 碗倉(ワグラ)といへる所に居を
しつらへて住けるに此夜家潰かつ洪水あふれてけれはおのれは首
に衣服を結付辛う【「ら」に見えるが「う」の誤記と思われる】して水を渡り漸遁退けれと妻は水に流さる
ゝを助る事あたはすして行方を知らす漸小日向なる の住
居に来りて尋れは是も風にて潰れしと云ふ
【左丁】
相州江の島猟師町のもの悉く無事也其故は此日夕方ゟ近海の波
間に火之光有りてかゝやきけるを人々見て怪しみ是は夕陽の波間
にかゝやにやといひて止ぬ其夜に至りて海面に夥しく火の燃るを
見たり是唯事にあらすとて各山々へ資財を背負ふて逃のひける
か其跡に洪波溢濫(カウハエキラン)して猟師町残らす海中へ溺れけるとそ此頃
江の島の御神深川において啓龕(カイチヤウ)ありし頃なれは岩本院の僧
此事を語りけるとそ
小石川なる何某漁猟を好けるか此日も品川の沖に網(アミ)せんとて
昼下りより支度して出けるに南の方一円【圓】に赤くなりたるを看て
変事あらん事を語り急に船を漕戻しける時はや元船【もとぶね=伝馬船など付属の小舟に対してそれを持つ大船をいう】の輩も
【右丁】
是を量り知りたるにや綱を新に取かへ碇を卸し其騒動大方
ならす【一通りではない】是を見て弥急きて己か家に帰りけるか其夜此大風ありし
かは一命を拾ひしと喜ひぬ
江戸より関宿へ往来の高瀬船夥しく破損し荷主の損失大方な
らすとて発狂しけるもありしとそ
江戸より箱根へ往来の御用船あたみに造らせられしか当秋始て二
艘とも諸御役人の荷物等あまた積て船出しけるに此夜一艘は行
ゑ【「へ」とあるところ】知れす一艘は帆柱折れ船破損し辛う【「ら」とあるが「う」の誤記と思われる】して南部の海辺に着し
日数歴て江戸へ告越したり
江戸より関宿へ往来の高瀬船夥しく破損し荷主の損失大方なら
【左丁】
すとて発狂しけるもありしとそ
【この二行の文は5~6行目の文と重複】
深川伊奈某屋敷の窓より飛物入たり是を看て主人の痛ひつかれしとそ
番町の辺なる横田某屋敷戸障子吹損し一家【右横に「臺」と傍記。左横に「”」あり】の火炎飛入たり主人こ
れを追ふかけ【「け」の左横に「”」あり】とゝまらすとかくするうちに外の方へ飛去ぬ此家の主人
三日目にいたりて故なく卒去ありいかなる気【氣】にふれたるにや
巣鴨なる藤堂侯下屋鋪に住ける家士何某住居大方吹潰し漸
一ト間の残りし内に家内ひそみ居たるに構へ内の樅樹(モミノ木)二抱もや
あらんかいくつとなく吹折るゝ時闇夜なれと樅の木の辺に薄明る
くなりて樹の形見えたりとそ
砂村人家屋根斗流れ上に男女十一人乗たり大島の方へ流たるよし声
【右丁】
を上けて助くれよとさけひしか各家にかゝはりて助る事あたはすとそ
然れとも此輩は助るゝなるへしと
遠州今切辺も大風あり此日昼四時頃より西北の風秋葉山の方より
吹おろし夜五時頃迄あれたりとそ江戸は夜五時頃ゟ巽風強くし
て明七時に静まりぬ
【左丁】
大風雨 ̄ニ付貧銭のものへ金銭等施したるもの官府へ召出され御
褒美あり其名前左に録す
△三十九両三歩弐朱余【餘】芝二本榎広【廣】岳院門前家持藤兵衛△四十一両
弐歩弐朱外 ̄ニ所持地面上りて用捨白金台【臺】町四丁目家持すゝ後見増屋
△三両小石川大塚上町家持市右衛門△廿九貫八百文同所坂下町家持治
兵衛△十両檜物町忠七地借庄蔵△五両同町清次郎地借医師養明
△八十九両麹町四丁目家持又左衛門△三両二歩余【餘】音羽町壹丁目家主七五郎
△百六十二両弐歩弐朱三十三貫五百文駒込追分町家持長右衛門△八十一両三
朱深川木場町家持和助△六十三両三歩一朱八貫二百文深川宮川町定吉
地借徳蔵△五十七両弐歩深川木場町平兵衛地借次郎兵衛△廿五両弐歩
【右丁】
同町専蔵地借太兵衛△廿両浅草山の宿町家持惣次郎△七十両壹歩深川木
場町家持善右衛門△十七両弐歩三朱同町家持三郎兵衛△九両壱歩二朱同町家持
庄【或は「店」か。後出に店支配人庄三郎とあるによって庄定か。】定紀州住居 ̄ニ付店支配人庄三郎△九両弐朱同所家持善次郎△九十八両
三歩七百文深川六間堀町清右衛門地借佐平次△五十八両三歩弐朱深川扇
橋町家持嘉兵衛江州住宅付店支配人忠兵衛△三十三両三分青山若松町
半七地借仁右衛門△八両壱歩弐朱桜木町家持やす後見多助△七両弐貫
弐百文同所家持甚助△四両三歩弐朱余【餘】同町家主政右衛門△三両五百文音
羽町八丁目家主卯之助△弐歩弐朱八貫弐百文余【餘】同所九丁目家主重太郎
△銭十四貫四百文余【餘】 彦三郎△十二両壱歩五百文深川万年町一丁
目家持さく夫伝【傳】五郎△二十四両壱歩壱貫百文深川万年町壹丁町目家
【左丁】
持橋本清左衛門△廿両三朱南八丁堀壱丁目新八地借長兵衛
△中の郷五の橋町家持竹木炭薪問屋伝【傳】右衛門は大風雨後必用之材木
多く仕入利潤に抱らす安直に売出しけるまゝ官府に召出され御褒
美を給りたり其余【餘】本材木町六丁目材木仲買商売【賣】平八善助同人召
仕徳二郎本所相生町五丁目弥次平も材木安直 ̄ニ売【賣】出ける侭御賞美あり
八月廿五日嵐の時潰家并に怪我人員数呈状に載たる所左の如し
これは即座の撰にして詳細ならす此余【餘】尚有るへし
壱番組町々 潰家《割書:三十九棟|八十六軒》 半潰 《割書:壱棟|十五軒》 怪我人男三人 即死 無之
弐番組町々 同 《割書:二十八棟|四十二軒》 同 《割書:五棟|五十五軒》 同 男一人 同 《割書:男三人|女二人》
【右丁】
三番組町々 潰家 弐百八十九棟 半潰 十九棟 怪我人 十二人《割書:男九人|女三人》 即死 《割書:男二人|女二人》
四番組町々 同 三十一棟 同 五棟 同 無之 同 無之
五番組町々 同 《割書:廿八棟|百三十軒》 同 《割書:十壹棟|四十九軒》 同 《割書:男二人|女一人》 同 無之
六番組町々 同 《割書:五十棟|弐十軒》 同 《割書:十棟|三軒》 同 《割書:男六人|女五人》
同 無之
七番組町々 同 《割書:百十九棟|弐百十一軒》 同 七十七軒 同 《割書:男三人|女弐人》 同 《割書:男六人|女六人》
八番組町々 同 《割書:六十棟|六十五軒》 同 《割書:廿六棟|廿六軒》 同 無之 同 《割書:男二人|女四人》
九番組町々 同 八百十四軒 同 千十二軒 同 《割書:男九人|女七人》 同 無之
十番組町々 同 弐百三棟 同 百十三棟 同 《割書:男一人|女一人》 同 無之
十一番組町々 同 《割書:廿六棟|百廿五軒》 同 《割書:六棟|四十八軒》 同 《割書:男一人|女一人》 同 《割書:男三人|女二人》
十二番組町々 同 六十七棟 同 五十八棟 同 《割書:男三人|女五人》 同 《割書:男壹人|女弐人》
【左丁】
十三番組町々 同 六百九十九棟 同 三百七十四棟 同 《割書:男六人|女四人》 同 《割書:男四人|女三人》
十四番組町々 同 三百三十一棟 同 弐百三棟 同 無之 同 無之
十五番組町々 同 三百壱棟 同 百三十七棟 同 《割書:男三人|女五人》 同 《割書:男壱人|女三人》
十六番組町々 同 百八十七棟 同 百六十五棟 同 女壱人 同 無之
十七番組町々 同 千四百五軒 同 八百五十二軒 同 《割書:男十一人|女八人》 同 《割書:男六人|女七人》
十八番組町々 同 弐百五十三棟 同 十六棟 同 無之 同 無之
十九番組町々 同 四十三棟 同 四十一棟 同 同 同 同
廿番組町々 同 百八十四棟 同 九十六棟 同 無之 同 男壱人
廿一番組町々 同 四十棟 同 十一軒 同 無之 同 無之
番外品川町々 同 廿九棟 同 廿四棟 同 無之 同 無之
【右丁】
同 新吉原町 潰家 五千五軒 半潰 三十軒 怪我人即死無之
惣高
潰家《割書:三千六棟|弐千九百五十七軒》【割書の行頭を円弧で結ぶ】
半潰《割書:千弐百弐俵【ママ】|弐千百四十五軒》【同右】
怪我【家】人 九十九人 内 《割書:男五十九人|女四十人》
即死人 六十(イ六十一人)人 内 《割書:男廿九人|女三十二人》
近国【國】近在の安否委しきを知らすといへ共東海道筋は神奈川程ヶ谷
藤沢大山の辺より江の島 鎌倉(カマクラ)浦賀の辺人家崩れ洪波溢鑑す北
は草加越ケ谷幸手栗橋蕨大みや桶川鴻の巣熊谷辺甲州海道は高
【左丁】
井戸八王子辺にいたり東は堀江猫ざね行徳二合半領船橋辺ことに強
く上総道馬加、千葉浜【濱】の村辺海岸通り高瀬にて人家を流し溺死怪
我【家】人牛馬を失たる数を知らすとそ
【次の一行文字を四角く囲んでいる】
〇町会所に於て海岸付町々風波の患に遭【遇】しものへ御救米賑給あり
〇此度の大風雨の事を誌し粉色摺のさしゑを加へ安政風聞誌と
題したる板本三巻ありその外坊間【世間】に鬻く【ひさぐ】風様場所付なと号する
板本多し
〇卯辰両年の震災風雨に貴賤の屋屋【?】を破壊し財宝を失ひまして
【右丁】
市人は家産を傾けて困苦に迫りしこと多かりしか僅の間にして轂下【天子のお膝元。みやこ。】の蕃
昌【繁昌に同じ】以前に復し次第に家居の造作成就せしかは貴賤其程につけて業を
励み歳時之営み花月の遊賞昔にかはらす三座の劇場も普請成て
櫓を上娼家の僑居(カリタク)もかへつて賑ひを増し程なく旧里に新宅を建
排年【意味不明】に立戻りぬ今茲丁巳の春は大坂の早竹虎吉か軽業両国橋畔に看
場をひらき男女老稚こゝに輻輳し四月より総州柴山なる那羅延密迹
の二王尊回向院にて啓鑰(カイチヨウ)【注】あり緇素(シソ)の謁詞常に陪し境内錐を立るの所
なし十月は湯嶋聖廟の祭礼【禮】二十年目にて邌物(ネリモノ)を出して遠近の見物
こゝに群集し亜人は肇て江戸城に聘す厥日の見物麻布ゟ飯田町迄の
間大路に駢闐し面ヲ以牆とす其他の繁昌筆端に尽すへからす四民
【左丁】
安逸の思ひをなす事実に昇平の光化【「光華」のことか】にして申も中々おろかなるへし
丁巳仲冬 翟巣再誌
【注 原文の文字は「啓」の異体字。「チヨウ」の振り仮名のある字は金偏の「鑰(音ヤク、かけがね、鍵の意)」と思われる。鍵をひらくの意で「開帳(カイチヨウ)と振ったのであろう。】
東京図書館長手嶋氏ノ嘱託ニ依リ写生
ニ命シテ謄写セシム于時明治廿一年十
一月
関谷清景誌
【白紙】
【管理ラベル一枚】
【裏表紙】
【題】
地震(ぢしん) 雷(かみなり) 過事(くわじ) 親父(おやぢ)
【右下】
おや
ぢか
いふ
〽こいつらはわるくふざけるやつらた
どんなことをするかしれねへから
回禄《割書:火の|神也》 加茂大明神《割書:かみ|なり》 鹿島
《割書:地を|守る神》 此御神に願つてかみしづかに
してもらはざア
いく
めへ
【上】
■火の神
●かみ
なり
▲なまづ
の神 也
■〽ナント雷(かみなり)さんおめへは久(ひさ)しく音(おと)がしねへぜへよくおと
なしくしているぜ ●〽ナアニ私(わつち)もしかたなしさ ▲〽ナゼ
●〽ソレ四年いぜん八月四日に大ふざけをしてツイ
おつこちやた其時たいこは打折(ぶちおつ)てしまふ其上
こしぼねを強(ひどく)打(ぶつ)て天竺(てんぢく)へ返(かへ)る
こともできず今に
迷(まこつい)ているから
天竺浪人(てんぢくろうにん)だ
なまづさん
おめへは時々(とき〳〵)
やけになるが
此間なざア ユサ〳〵ドロ〳〵と
直(すぐ)に四藤(しふち)【?】が花盛(はなざかり)でアワヤどふいふもんだ
▲〽ナアニ私(わつち)は水の中のもので火はしらねへハナ
●〽そんならあの大ふざけはどふいふもんだネヘ
大やけに成たもとはおめへから起(おこつ)たことだせ
▲〽アリヤ春夏(はるなつ)の季(き)に曲(くるひ)が有て陰物(いんもつ)【?】の気(き)が
和順(わじゆん)せずソレ私(わつち)が世界(せかい)で面白(おもしろ)く成からツイ曲(くる)ひ
出す所が少(ちつと)で済時(すむとき)もあり又大ふざけをやる時も
有てソコハきまりなしさ ■〽そんなら四季(しき)の気違(きちがへ)から
おこる所だかららんしんにでも成てなかまぢうがおどり
ひつくりかへりなぞをするのかへ ▲〽サアそこは自身(じしん)に考(かんかへ)ても分(わから)らねへ
生捕(いけどり)ました三(さん)度の大地震(ぢしん)
だいく
「ヱヽモシだんなこのて□□のわるひ
ところはとくといひきけやして
とも〴〵おわびをいたしやしやうから
まアともかくもわつちらにおあづけ
なすつてくださいやしじつのことわつちら
はじめでしやらうまで日壱分とつて
すきな□□をたらふくけづりやすのも
このしゆ□のおかげでごぜへやすから
みにかへてもこのおわびをいたさにや
なりやせんのヲかしら
とびの者
「そうさ〳〵おめへのいふとをり
こんなことでもなくつ
ちやアあのつのつらア
見にゆくこともでき
やせんモシ〳〵
こらア一ばん
わつちらが
つらアたてゝくだ
せへましな
たくわん
「あのしやうの申
ます□をりかへの
うれひをよろこぶ
のではございませんが
こんなことでもなけ
りやアはなのしたが
ひあがりますのヲ
やね屋さんおめへなん
ぞねそふじゃアねへか
やね屋
「ほんとうに□
つくろひしごと
ぐれいしてゐた
日にやアすきな
と□の水がのめや
せんこちとらが
ためにやア
いはぐいの
ちのおや
どうぜんで
ござり
ます
どうぞ△
△かんべんして
やつてください
まし
や師
「へエ〳〵わたくし
なんぞもぢしんさまの
おかけで五ほんや六本のお
あしはあさのうちにもとり升
からぢしん□えのこめ
やのかりも五つき
たまつたたな
ちんもすつ
はりすまし
ました
そこらこゝ
らもおかんがへ
なすつて
とりかこんど
ところはお見
のがしくだされ
まして
なら□
ことな
かり
なく
なつた
じふん
おつか
まへくだ
さいまし
またぜに
もかりけが
できます
からトてまへ
がつてをな□
たてゝ だ
※わびことを
するに□【つ?】し□【ま?】の
かみもこゝろにおか
しくわらひをふくみ
けるがわざとこえ【ゑ?】をあららげ
「イヽヤならぬかゝるつみ
あるやつをゆるしおき
なば日本六十余州の
なまづどもよきことに
こゝろへまた〳〵かやうに
しよ人ンにうなんぎをさせ
市中(しちう)を大 家(か)破(ば)やきになさんも
はかられねばいごの見せしめに
なべやきのけいにおこなふべしと
さらにきゝいれねはざればせんせんかた
なくみな〳〵ためいきをつきながら
「ゆりせまアとうせう汁
【番付題箋部】
南門
常盤町 家寄 濵ノ上焼失 三□□ 岸邊所通損
常盤橋御門内 辰ノ口焼失 春かし 土蔵□兵衛門
東ばし
常盤町 近邊 崩なし焼失 同 練塀破損
新古焼失之部【東】
焼 三度
芝居
去年は □□三町
□ 二度
□ 本堂
□ つゝがなし □□□□町
焼 美舟丁 □□諏訪町
三舟丁近
□□ 八新百丁 菊□□□町
崩 どうまへ
崩 そんじ 堀田原辺
崩 同 新橋七曲り
崩 同 泉□□□
立家
崩 つぶれ 本所辺
のじゆく
ぬれ事
崩 いたみ 柳嶋押上
焼失 せ□うく 荒井町梵天□場
崩 そんじ 南北□下水辺
焼崩 両かは 慈恩寺□□
同 天じんばし 旁戸天神前
同 三丁や蔵 □前□丁一二四丁目
同 とび火 同□左衛門町
崩 つぶれ 同□□茅場丁
崩 《割書:つぶれ|多し》尾上町川連
生捕(いけどり)ました三(さん)度の大地震(じしん)
だいく
「ヱヽもしだんなこのてへく【大工?】のわるひ
ところはとくといひきけやして
とも〴〵おわびをいたしやしやうから
まアともかくもわつちらにおあづけ
なすつてくださいやしじつのことわつちら
はじめでしやらうまで日壱分とつて
すきなすゐをたらふくけづりやすのも
呑
このしゆうのおかげでごぜへやすから
みにかへてもとのかわびをいたさにや
なりやせんのヲかしら
とびの者
「そうさ〳〵おめへのいふとをり
とんなことでもなくつ
ちやアあいつのつらア
見にゆくこともでぎ
やせんモシ〳〵
こりア一ばん
わつちらが
つらアたてゝくだ
せへましな
左くわん
「あのしゆうの申
ますとをり人の
うれひをよろこぶ
のではございませんが
こんなことでもなけ
りや□はなのしたが
ひあがりますのを
やね屋さんおまへなん
ぞもそふじやアねへか
やね屋
「ほんとうにさ
つくろひしごと
ぐれいしてゐた
日にやアすきな
こめの水がのめや
せんこちとらが
ためにやア
いはゞいの
ちのおや
どうぜんで
ござり
ます
どう
どうぞ△
【図中看板】
なまづ
かば焼
江戸屋
△かんべんして
やつてださい
まし
や師
「へヱ〳〵わたくし
なんぞもぢしんさまの
おかけで五ほんや六本のお
あしはあさのうちにもとり升
からぢしんまへのこめ
やのかりも五つき
たまつたな
ちんもすつ
はりすまし
ました
そこらこゝ
らもおかんがへ
なすつて
とうかこんどの
ところはお見
のがくこださい
まし
て
ならふ
ことなら
こり
なく
なつた
じふん
おつか
まへくだ
さいまし
またぜに
もうげが
できます
からトてまへ
がつてをなら
だ□てゝビた
〳〵※
※わびことを
するにかしまの
かみもこゝろにおか
しくわらひをふくみ
けるがわざとこゑをあららげ
「イヽヤならぬかゝるつみ
あるやつをゆるしおき
なば日本六十餘州の
なまづどもよきことに
こゝろへまた〳〵かやうに
しよ人んにうなんぎをさせ
市中(しちう)を大 家破(かば)やきになさんも
はかられねばいごの見せしめに
なべやきのけいにおこなふべしと
さらにきゝいれねはざればせんかた
なくみな〳〵たにいきをつきなり
「ユリせまアとろせう汁
し【く?】らひやした
【表紙】
「【題簽】
『地震一件』」
【白紙】
【内表紙】
「安政二卯年
【別筆付札】
『十五ノ十第一棚』
地震一件
十月
【別筆、見消】
『甲七 雑件留三十五冊ノ内』」
【白紙】
【朱印】
「東京府図書館」
「旧幕引継書」
世話懸
市中取締り諸色懸
非常取締懸
名主共
今夜地震後出火ニ付市中
火之元別て入念焼残候場所
水溜桶其外消防之手当等
厳重ニ相心得候様可致候
一右ニ付ては諸色直段職人手間
賃等引上候ては諸人難儀之筋ニ付
都て実直ニ相心得候様可被致候若
相背候ものも於有之は厳敷可及
沙汰候条其段精〻可申付猶追〻
可触示候得共先其方共ゟ一同え不洩様
早〻可申通候
十月二日
┌──────────────────
│[伊㔟守【老中阿部正弘】殿
│地震ニ付摧【くだく】ニ被打相果候もの死骸
│取計方之儀ニ付御内意奉伺候書付
│ 井戸対馬守【井戸覚弘、北町奉行】
│ 町奉行
└──────────────────
今般地震ニ付市中町人共住居向震潰
摧ニ被打相果候者幷潰家ゟ及出火焼死
候もの数多有之趣ニ相聞申候右体変死
之類訴有候得は双方年寄同心共為検使
差遣一通相尋候上紛敷儀無之候得は死
骸片付申付候仕来ニて目上之もの致変死
候節は目下之もの共吟味之上不念之廉有之
候得は咎申付候仕来ニ御座候今般之儀は未
曽有之天変多人数難渋罷有候折柄ニ付
組合名主立合死骸見分之上可訴出候旨
申渡目上之もの変死ニて訴出検使
可請旨此度限り別紙之通可申渡哉奉存候
依之申渡案相添此段御内意奉伺候可然思召
候ハヽ早〻御下知御座候様仕度奉存候以上
十月四日 井戸対馬守
池田播磨守【頼方、南町奉行】
申渡し
南北
小口年番
名主共
今般地震ニ付市中潰家多く摧ニ被打
相果又は潰家ゟ及出火焼死致し候
ものも数多有之趣ニ相聞候天変難渋之
折柄に付此度限組合名主立合死骸見
分之上可訴出候糺之上子細無之候ハヽ直ニ
死骸片付可申付候尤目上之者ニ候歟【か】子細
有之分は訴出検使可受候
但此申渡以前訴出候分は検使可
差遣候
右之通月行事持寺社門前共不洩様
早〻可申通尤未曽有之天変出格之
取計ニ付平常之儀ニ不混様可心得候
[寺社奉行衆 《割書:井戸対馬守|池田播磨守》
今般地震ニ付市中町人共住居向震
潰難渋之折柄ニ付摧ニ被打相果候もの
等死骸見分之儀一時出格之取計振
別紙之通伊勢守殿江相伺候処伺之
通被仰渡候右は寺院江も差響候儀
ニ付別紙写し相添此段御達仕候
卯十月 後 池田播磨守
前 井戸対馬守
【付札】
「播磨守殿御扣【=控】」
┌──────
│[伊㔟守殿
│地震ニ付牢屋敷仮板囲之義ニ付申上候書付
│ [ 井戸対馬守
│ 町奉行
└──────
昨夜地震ニて牢屋敷数ケ所震ひ崩候内
急速難捨置場所外囲ひ四方煉塀幷
埋門続左右煉塀震ひ崩候ニ付
仮板囲出来候様仕度旨組牢屋見廻
囚獄ゟ申聞候御取締ニ拘り片時も難
捨置場所ニ付早〻補理【しつらえ】可申旨申渡候
御入用之義は追て取調可申上候依之
申上置候以上
十月三日 井戸対馬守
池田播磨守
┌─
│[御勘定奉行衆 町奉行
└─
地震ニ付
牢屋敷震ひ崩候場所仮板囲
之義難捨置場所ニ付別紙之通
伊㔟守殿え申上候依之右写相添致
御達候
十月
┌──────────────────
【下札】
「播磨守殿御 扣【=控】 」
│地震後出火ニ付市中取締之義儀申上候書付
│ 井戸対馬守
│ 池田播磨守
└──────────────────
昨夜地震後所〻出火ニ付市中火之元取締
之儀別て入念諸色直段職人手間賃等
不引上哉不取敢名主共え申渡組のもの共
繁〻見廻諸事厳重ニ心付候様申渡候
此段申上置候以上
十月三日 井戸対馬守
池田播磨守
【朱筆】
「卯十月四日」
┌────────────────────────
│[大和守殿《割書:【朱筆】「乍御直上ル即日伺之通御書取添早川庄次郎| を以御渡」》
│ 地震ニ付摧ニ被打相果候もの死骸
│ 取計方之儀ニ付御内慮奉伺候書付
│ 書面見込之通可取計旨 [井戸対馬守
│ 被仰渡奉承知候 町奉行
│ 卯十月四日
└────────────────────────
【大和守=老中久世広周】【早川庄次郎=奥右筆】
【朱筆】
「卯十月四日大和守殿、早川庄次郎を以御渡」
┌────────────────────────
│ 覚
└────────────────────────
見込之通可被取計候事
【朱書】
「卯九【ママ】月三日、対馬守殿ゟ差越当番」
┌──────────────────────
│ 御城
│ 井戸対馬守殿 東条平左衛門
└──────────────────────
別紙書付大和守殿御達ニ付
差遣申候以上
十月三日 東条平左衛門
井戸対馬守様
池田播磨守様
┌──────────────────────
│町奉行え
│ 覚
└──────────────────────
昨二日夜地震にて居屋敷
其外ゟ出火致し候面〻差扣【=控】之儀
相伺候ニ類焼当主と申聞候とも
非常変災之儀ニ付不及差控旨
相達候筈ニ候間可被得其意候事
十月三日
【朱書】
「卯十月四日受取写本紙向方え 当番え」
┌──────────────────────
││久世大和守殿御渡候御書付写
│└─────────────────────
│ ┌─
│ │町奉行衆
│ │御勘定奉行衆
│ └─
│ 大目付え
└──────────────────────
昨夜亥下刻地震ニて居屋敷表座敷
其外大破ニ付対客登 城前差支候間
修復出来迄は対客等無之候此段向〻え
可被達置事
十月三日
年番
卯十月四日受取写本紙向方え 当番え
┌──────────────────────
│阿部伊㔟守殿御渡候御書付写
│ 大目付え
└──────────────────────
此度地震ニ付 御城内御破損所も
数ケ所有之候処世上一般材木其外支も
可有と被 思召候ニ付御締場 所【衍字、見消の朱筆】
所之外其儘被差置候旨被 仰出候
間銘之屋敷も其心得を以全く入用之
ケ所而已格別手軽ニ普請致し候様
可被心得候
十月三日
【朱筆】
「卯十月四日写向方ゟ差越ス《割書:当番|吟味方》え」
┌──────────────────────
│ [町奉行衆 寄場奉行
└──────────────────────
地震ニ付役所向破損仕候間御修復
出来候迄御引渡之者見合御座候様
仕度此段御達仕候以上
十月四日 安藤伝蔵
【付札】
「播磨守殿御控」
申渡
市中取締掛
名主共
今度新吉原町類焼致し候ニ
付ては立退候遊女共所〻江散在
致し居不取締之儀有之候てハ風俗ニも
拘り以之外之事ニ付聊不取締之
儀無之様町役人共厚心付候様可致
旨其方共ゟ早〻可申通候
右申渡趣証文申付ル
卯十月三日
【朱筆】「卯十月五日写向方ゟ差越 当番え」
┌──────────────────────
│阿部伊㔟守殿御渡候御書付写
│ ┌─
│ │町奉行衆
│ │御勘定奉行衆
│ └─
│ 大目付え
└──────────────────────
此度地震幷大火ニ付
諸向難渋之儀とも被
思召候ニ付当年中月次
御礼不被存
請其指出申祝儀も不被
仰出候間一統不及出仕候事
右之通向〻江早〻可被
相触候
十月四日
一当月二日夜地震ニて浅草溜門幷諸番屋
倒外囲柵矢来少〻損大溜二三之溜
女溜は家根瓦落本家傾候得共
軽罪者御預被 仰付候共差支無
御座候依之奉申上候以上
卯 車
十月五日 善七
以上写
【朱筆】 「年番
卯十月 当番 え
吟味方」
┌──────────────────────
│久世大和守殿御渡候御書付写三通
│ 大目付
└──────────────────────
此度地震ニ付
公儀え附候御礼事等当分之内
両月番え計可被相越候
但両御勝手え計相越候廉も
両月番え可被相越候
右之趣向〻え可被達候
十月
┌──────────────────────
│大目付え
└──────────────────────
今度地震ニて家作等皆潰
又は半潰之面〻ハ類焼ニて休候
日数之半減休可申候事
但諸向一般之事ニ付引続
相休候ては御用向御差支ニも
可相成候間申合割合相休候様
可致候事
右之通向〻え可被相触候
十月
┌──────────────────────
│大目付え
└──────────────────────
伊㔟守
紀伊守【老中内藤信親】
此度地震ニて伊㔟守ハ居屋敷
潰候ニ付本郷丸山下屋敷紀伊守ハ
居屋敷焼失ニ付永田馬場
屋敷何れも当分住宅候
尤見廻等之儀は断ニ候
右之通寄〻可被達候
十月
【朱筆】「卯十月七日 当番え」
┌──────────────────────
│井戸対馬守殿 当番
│池田播磨守殿 御目付中
└──────────────────────
越中守【若年寄本多忠徳】殿 赤坂今井谷
但馬守【若年寄遠藤胤統】殿 牛込若宮町
右京亮【若年寄酒井忠毘】殿 《割書:牛込末寺町酒井修理大夫|下屋敷之内》
【忠毘=ただます、毘は田と比を左右並べにした同字で表記される】
右屋敷〳〵え被引移程遠ニ付対客
登 城前諸御礼廻勤御断ニて候
一安芸守【若年寄本庄道貫】殿右京亮殿居屋敷大破
ニ付御用之外対客登 城前廻勤等
御断ニて候
但安芸守殿ニは右修復中南側
門ゟ内玄関ニて致取次候
右之趣為御心得申達候已上
当番
十月六日 御目付中
井戸対馬守殿
池田播磨守殿
【朱筆】 「年番
卯十月七日 当番 え
吟味方」
┌──────────────────────
│阿部伊勢守殿御渡候御書付写
│ ┌─
│ │町奉行衆
│ │御勘定奉行衆
│ └─
│ 大目付え
└──────────────────────
今度地震ニて居宅皆潰
又は及類焼候向可為難儀ニ被
思召当時御事多ニハ候得共格別之
訳を以万石以下之面〻地方取共
左之通拝借被 仰付候請取方
之儀は御勘定奉行可被談候
《割書:九千石ゟ|五千石迄》 金弐百両
《割書:四千石ゟ|三千石迄》 同百五拾両
《割書:弐千石ゟ|千石迄》 同百両
《割書:九百石ゟ|七百石迄》 同五拾両
《割書:六百石ゟ|三百石迄》 同三拾両
弐百石 同弐拾両
百石 同拾両
但百俵も同断余も准之
右之通類焼之向え拝借被
仰付候
《割書:九千石ゟ|五千石迄》 金百四拾両
《割書:四千石ゟ|三千石迄》 同百両
《割書:弐千石ゟ|千石迄》 同七拾両
《割書:九百石ゟ|七百石迄》 同三拾五両
《割書:六百石ゟ|三百石迄》 同弐拾両
弐百石 同拾四両
百石 同八両
但百俵も同断余も准之
右之通居宅皆潰家之面〻え
拝借被 仰付候
但半潰之分えも右之半減拝借
被 仰付候
一御足高御足扶持共拝借被
仰付候事
一御役料は相除候事
一御扶持方拾人扶持取五拾俵之
積りたるへき事
一高ニ附候御扶持方ハ相除候事
一返納之儀は来ル巳年ゟ十ケ年賦
たるへき事
今度地震ニて御家人末〻軽き
もの共居宅皆潰又は及類焼
可為難儀候間格別之訳を以小給
之もの末〻ニ至迄為御救左ノ通
御金被下候受取方之儀は御勘定
奉行可被談候
《割書:九拾俵ゟ|五拾俵迄》 金七両
《割書:四拾俵ゟ|三拾俵迄》 同五両
《割書:弐拾俵ゟ|拾五俵迄》 同三両
拾五俵以下 同弐両
右は類焼の者共え被下候
《割書:九拾俵ゟ|五拾俵迄》 金五両
《割書:四拾俵ゟ|三拾俵迄》 同四両
《割書:弐拾俵ゟ|拾五俵迄》 同弐両弐分
拾五俵以下 同壱両弐分
右は皆潰家の者共え被下候
但半潰之分えハ右之半減被下候
右之通万石以下之面〻え可被
相触候
十月
【朱筆】「卯十月八日写、向方ゟ差越ス 当番え」
┌──────────────────
│久世大和守殿御達之覚
│ 大目付え達之覚
└──────────────────
今度地震出火ニ付来ル十四日
増上寺
文昭院【6代将軍家宣】様 御霊前
御参詣御道筋等御差支も可有之候付
御沙汰止被 仰出候事
十月七日
右之趣御道筋之向〻えも無急度
可被達置候事
【付札】「播磨守殿へ返却もの」
【左丁この付札以外の翻刻は次コマ】
【下げ札】「拙者儀何之存寄
無之候
井戸対馬守」
【朱筆】「卯十月七日大和守殿へ早川庄次郎を以上
伺之通ニ仕様翌八日承付致椎原
彦太郎を以返上」
┌────────────────────────
│咎手鎖押込等日数ニ不拘差免之儀奉伺候書付
│ 《割書:書面伺之通取計可申旨 |被 仰渡奉承知候》 井戸対馬守
│ 池田播磨守
└────────────────────────
咎手鎖押込申付置候もの幷吟味中手鎖預
申付置候もの日数ニ不拘稀成天災ニ付差免
吟味中手鎖預のもの共は市中穏ニも相成
候得は其儘難差置分は猶又申付候様可仕哉ニ
奉存候此段奉伺候以上
十月六日 井戸対馬守
池田播磨守
┌─
│市中普請之儀ニ付町触奉伺候書付
│ 書面伺之通取計 [井戸対馬守
│ 可申旨被仰渡奉承知候 町奉行
└─
此度地震ニ付
御城内御破損所も数ケ所有之候処世上一般
材木其外差支も可有之被
思召候ニ付御諦場所之外其儘【侭】被差置
候旨被 仰出候間市中之儀猶更相慎
可申は勿論之筋ニ付、右御書付え末文
書載別紙之通町触可仕候哉此段奉伺候
以上
卯十月 井戸対馬守
池田播磨守
伊㔟守殿阿久沢丑之助を以御渡
┌──────────────────
│
│ 覚
└──────────────────
伺之通り可被取計候事
┌──────────────────
│伊㔟守殿御直御渡
│ [三奉行え
│ 覚
└──────────────────
此度地震ニ付、公事裁許
上聴之儀暫く御延引被
仰出候事
十月
【朱筆】「卯十月九日写両本紙向方え 《割書:当番|市中》え」
┌────────────────────────
│【朱筆】「伊㔟守殿 東条平左衛門を以渡」
│ [町奉行え
│ 覚
└────────────────────────
此度地震出火ニ付材木板類其外諸色等
何品ニ不寄高直之趣諸職人人足等ニ
至迄手間賃等格別引上ケ候哉ニ相聞候
此節之儀故諸色等払底ニハ可有之候へ共
無謂格別高直ニ売買致し候段不届
之事ニ候此段早〻町中え可被申渡候若
此後右様之儀有之候ハヽ少も無用捨
早〻召捕厳重ニ可被申付候事
【朱筆】「卯十月十日写向方ゟ差越ス 当番え」
┌────────────────────────
│阿部伊勢守殿御渡之御書付也
│ ┌─
│ │町奉行衆
│ │御勘定奉行衆
│ └─
│ 大目付え
└────────────────────────
今度地震ニて居屋鋪皆潰
半潰幷類焼之面〻
思召を以兼て致拝借有之分
年賦上納之儀年延ニ
被成下候間当暮ハ上納ニ
不及候条其向〻え寄〻
可被達候
十月
【朱筆】「卯十月十一日写向方ゟ差越ス 当番え」
┌────────────────────────
│ 井戸対馬守殿 当番
│ 池田播磨守殿 御目付中
└────────────────────────
地震損御用ニ付西丸下小屋場内え
湯小屋取建候間煙立可申候依之
為御心得申置候以上
当番
十月十一日 御目付中
井戸対馬守殿
池田播磨守殿
【朱筆】「卯十月九日差越翌十日及挨拶」
┌────────────────────────
【付札】「播磨守殿え返却もの」
│ ┌─
│ │町奉行衆え
│ │御引合書
│ └─
└────────────────────────
昨九日坂井右近申上候押込幷手鎖申付候もの
地震ニ付取計方之儀相伺候書面一座え評議ニ
御下被成候処右書面之趣ニては貴様方御懸りニて
咎手鎖押込被申付置候ものは日数ニ不拘御吟味中
手鎖預之ものえも一同御差免被成御積御伺済有之
由ニ付右御伺済之趣承知いたし度候事
御書面拙者共掛咎手鎖押込幷吟味中手鎖預とも
日数ニ不拘御差免尤吟味中之もの市中穏ニ相成其儘難捨置
分ハ追て猶又申付候積去ル七日大和守殿え伺之上夫〻差免
之義申渡候此段及御挨拶候
十月十日 井戸対馬守
池田播磨守
【朱筆】「卯十月十日、伊㔟守殿御直渡」
┌────────────────────────
│
│ 海防掛
│ 御目付
└────────────────────────
天災後小民共 活計【たつき=たずき=生活の手段】ヲ取失ひ飢渇ニ及候もの多分ニ可
有之候処御賑救も限有之候事故右窮民有り付之
為焼土持運ひ別紙之箇所え持参候ものは一荷ニ付
銭何程ツヽ被遣候積ニ被仰出候ハヽ何れも右之生業を
得飢渇之急を免れて御仁恤之御所置ニ可相成成哉ト
奉存候右片付相済候ハヽ其上場所〻ニより越中島地先埋立
所迄為運候積りニて取調申上候右被仰出候ハヽ別紙之通
諸向え御達ニ相成可然哉ト奉存候
但右被仰出候ハヽ別段御救小屋御取建ニ不及怪我人
病人而已被差置候御場所御出来相成可然哉ト奉存候
十月 海防掛
御目付
┌────────────────────────
│
│
│
└────────────────────────
諸向え
御触案
此度窮民有り付の為左之箇所え市中焼土取片付
被仰付候間屋敷〳〵ニては右之人足相雇度向は何方
会所え可被申出候
水道橋外 一橋外 常盤橋外より
数寄屋橋御門外迄
右之河岸通り
幸橋外原 伊賀原 浅草蔵前
深川越中島地先 深川霊岸寺浄土寺地内
┌──────────────────────────────
│[伊㔟守殿
│ 窮民共御救之ため焼土持運等之儀ニ付 松平河内守【近直、勘定奉行】
│ 評議仕候趣申上候書付 水野筑後守【忠徳、同】
│ 塚越藤助【勘定吟味役】
│ 村垣与三郎【同】
│ 【メンバーは52コマ参照】 勝田次郎【同】
│ 【肩書はwikiによる】 中村為弥【同】
│ 設楽八三郎【同】
└────────────────────────
天災後窮民共有付之ため焼土持運別紙之ケ所え持参候
ものえ一荷ニ付銭何程ツヽ被遣候積り被仰出候ハヽ何れも右之
生業を得飢渇之急を免レ候御仁恤之御所置可相成哉
右片付相済候ハヽ其上場所〻ゟ越中島地先埋立所え
為運候積ニて取調御救小屋御取立等之儀共海防掛御目付
評儀仕申上候趣調候処焼土取片付場所無之候ては差支
之儀ニ付別紙之趣可然哉ニ候得共一荷ニ付銭何程と相定候
儀、其場所〻え焼土持ち運ひ方遠近ニ寄賃銭多少も有之
多人数壱人毎賃銭相当に割渡可申と之儀は一通り
尤ニ候得共右賃銭
公儀御出方可相成筋ニ無之銘〻差出可申儀ニ存候へは紙上ニ
おゐては相当ニ候へ共家宅寸地も無建並有之事故
焼失之上は銘〻持分之焼土等難相分候間出金之割合
仕法も難出来殊ニ是迄市中類焼之節は焼土
自他之無差別往来之道敷え持出右え片付方は
町〻地主小間割出金ニて差出候儀ニ有之武家迚も
銘〻取片付候は素ゟの儀殊ニ窮民御救筋之
儀は野宿等いたし候もの共其外共差向町
会所ゟ握飯被下其上御救小屋御取建被仰付
小屋入其外之もの共えも夫〻猶米銭被下候儀ニて
御救筋之儀は相立有之其上追〻市中普請等
取掛候得は潤助ニも相成可申旁書面之趣は不被及
御沙汰方奉存候尤焼土捨場所之儀は可然筋ニ候へ共
御場所差支之程も難計候間町奉行御普請
奉行えも所ニ付尋御座候方哉ト奉存候依之別紙
之通返上仕此段申上候以上
卯十月
【朱筆】「卯十月十日伊勢守殿御直御渡」
┌────────────────────────
│[町奉行え
│ 御勘定奉行え 海防掛
│ 口達案 御目付
└────────────────────────
御勘定奉行え
御達案
毎〻火災等之節材木石其外諸色直上ケ等不相成旨
厳敷申渡候得共兎角商買利潤ニ耽り機に
乗シ高価ニ売上ケ或は 〆買〆売り【しめかいしめうり】等種〻悪弊も
不少諸向及難渋候ニ付此度諸国元方え御用
材木石等御買上ケ被 仰出 為替【かわせ】御用達共之中え
差向出金被仰付御府内え積送り候上 廉平【れんぺい】之
直段ヲ以御払被仰出候積りニ付早〻其筋之者
諸国え差出シ御買上ケ積送等之儀無差支様
可被取計候尤右ニ付出役先諸民を煩シ候義
無之様厳敷支配向之者え可被申渡候
十月
┌──────────────────────────────
│[伊㔟守【老中・福山藩主 阿部正弘】殿
│ 松平河内守【近直、勘定奉行】
│ 水野筑後守【忠徳、同】
│ 材木其外諸色之儀ニ付評議仕申上候書付
│ 塚越藤助【勘定吟味役】
│ 村垣与三郎【同】
│ 【メンバーは48コマ参照】 勝田次郎【同】
│ 【肩書はwikiによる】 中村為弥【同】
│ 設楽八三郎【同】
└─────────────────────────────
毎〻火災之節材木石類其外諸色直上ケ等不相成旨
厳敷申渡有之候得とも兎角商売利潤ニ耽り
〆買〆売等種〻悪弊も不少諸向及難渋候ニ付
此度諸色元方え御用材木石等御買上ケ被仰出為替
御用達共之中ゟ出金為致御府内え積送り廉平之
直段を以御払被仰出候様其筋之もの諸国え差出
御買上ケ積送等無差支様取計候ハヽ可然と海防懸
御目御達案取調候趣評儀仕候処武家市中ニて
遣方之木材等莫太之事ニ可有之然ルを為替
御用達共え出金申渡候ても銘〻分限其限りも
可有之儀ニて出金迚も行届不申義且又御役人
其筋え出役被仰付候ても諸国数ケ山の義中〻以
容易之人数ニては買集不行届其上御用材
相成候得ハ彼是手重ニ不弁之義而已可申立は
必定之義ニ而畢【異体字「己十」】竟問屋等迄引合致し彼是之
手数も不相掛融通も宜右を以励合遠山ゟも
伐出候故莫太之材木都下ニ集り候義ニて於【「方」は消してあけてある。次が「公儀」で平出になる】
公儀御買上仕候と之儀は迚も出来不仕却て世上之
差支を生し可申以之外之義ニ有之右体非常之
節諸色高直ニ不相成様度〻御触も有之候得共
内実 矢張【やはり】〆売〆買等取計候段全奸商共之仕業
ニて勿論山方之ものニも其弊無之とも疑申通例之
御触れ而已ニては中〻行届申間敷候間今般之義ハ問
屋共山方買入方幷売捌方吟味致し候程ニも
町奉行ニて誠実ニ世話致し直上ケ等致し候
もの共は速ニ召捕候様其段急度町奉行え
御沙汰御座候方可然奉存候依之別紙
返上仕此段申上候以上
卯
十月
┌────────────────────────
│[伊㔟守殿
│海防懸御目付申上候
│ 窮民共御救助之儀付勘弁仕申上候書付
│ [井戸対馬守
│ 御奉
└────────────────────────
大災後窮民共有付之ため焼土持運別紙之ケ所え
持来り候者え壱荷ニ付銭何程ツヽ被遣候積被 仰出候ハヽ
何レも今日之生業を得飢渇乃急を免レ候御仁恤之御所
置ニ相成候右片付相済候ハヽ其上場所〻ゟ越中島地先え
埋立所え為運候積ニて取調御救小屋御取建儀等海防
掛り御目付申上候趣御勘定奉行同吟味役評議仕申上候御書付
共御下被成勘弁仕可申上旨被仰渡候ニ付取調候処市中御救
筋之儀ハ兼て申上置候通不取敢御会所ゟ握飯焚出日〻
市中 拝廻【徘徊】之救民【窮民】共え相渡其上御救小屋取建野宿之
もの共右小屋入申付尤小屋ニ罷在りても隣合ものハ日〻
渡世へ罷出身上有付之覚悟致し候儀ニて御目付申上候通賃銭
而已相渡候仕付ニては差向住居ニ差支取続方無之畢竟御救
小屋ハ野宿之もの差置候趣意ニ有之其余御勘定奉行
同吟味役評議いたし申上候通事実差支之意味合も
御座候間難被及御沙汰方と奉存候依之別紙書付弐通
返上仕此段申上候以上
卯十月 井戸対馬守
池田播磨守
┌────────────────────────
│[伊㔟守殿
│ 海防懸り御目付申上候
│ 材木石等御買上ケ之儀ニ付勘弁仕申上候書付
│ 井戸対馬守
│ 町奉行
└────────────────────────
毎〻火災等之節材木石其外諸色直上ケ等不相成
旨厳敷申渡候得共兎角商売利潤ニ耽り〆買【しめかい】
〆売等種〻悪弊不少諸向及難渋候ニ付此度諸国
元方え御用材木石等御買上ケ被 仰出為替御用達共え出金
被 仰付御府内え積送り候上廉平之直段を以御払被仰出候積
ニて其筋のもの諸国え差出御買上ケ積送等之儀無差支
様取計尤右ニ付出役人諸民煩候儀無之様厳敷支配向之
ものえ申渡候ハヽ可宣旨海防掛御目付取調差上候御勘
定奉行え御達案幷同奉行吟味役評議仕申上候書付御下ケ
勘弁仕可申上旨被仰渡候ニ付取調候処此度之地震出火ニ付
材木其外諸色直段引上不申潤沢致候様夫〻厳敷申渡
置候段入御聴置候儀ニて組〻もの共えも不正之高売等相
聞候ハヽ召捕候様兼て申渡置候間此上〆買〆売等致候もの
有之候得は吟味之上仕置申付候心得ニ御座候国〻諸山
御用材伐出之儀御買上被仰出候得は市中材木問屋共ゟ山方
え入相対買ハ勿論前金貸渡置候分迄積出及迄差響キ
候儀ニ有之候間此度稀成天災ニて武家町中在方等都て
遣用の材木類莫大之儀付御買上ケ材木伐出運送其外手
間取候ては世上一統差支相成却て可及難儀筋ニ有之其上御勘
定奉行吟味役評議之趣も同様之見込ニて且為替御用達
共出金之廉其外共行届申間敷と有之候上は右問屋共え山方
仕入等実直之取引いたし候様申渡諸国元方えも其段触等
精〻世話仕候ハヽ追〻諸品入津潤沢可仕と奉存候諸国の材
木元方え御触之儀共兼て取調置此節被仰出有之可然
機会ニ付別段相伺候儀ニ御座候
一石之儀は当時市中有品払底之様ニ相聞右は材木
類と違差向入用之品ニも無之候間地面方其外手間取
候ても格別差支不相成且石一方ニては手数も相減シ
可申哉ニ付今一応御勘定奉行え御尋御座候方奉存候
依之別紙二通返上仕此段申上候以上
卯 井戸対馬守
十月 池田播磨守
【付札】「播磨守殿御扣【控】」
┌────────────────────────
│[伊勢守殿
│ 地震ニ付
│ 牢屋之内差向御修復之儀申上候書付
│ [井戸対馬守
│ 町奉行
└────────────────────────
地震ニ付牢屋数ケ所之損所夫〻手当
いたし置候処尚追〻ニ揺れ曲り候場所
有之賄所之儀は日〻大火焚候場所
ニて此上傾キ震れ崩候儀等有之候ては
囚人共飯米焚出候場所ニ差支候ニ付外
損所は尚取調可申上候得共差向賄所
而已御作事方見分之上御修復御座
候様仕度別紙絵図面相添此段申上候
以上
卯十月
┌──────────────────
│
│ [御作事奉行衆 井戸対馬守
└──────────────────
地震ニ付牢屋損所之内差向賄所
御修復之儀別紙之通伊勢守殿え
申上候依之為御承知此段及御達候
卯十月
【左丁は次コマで翻刻】
【右丁は前コマで翻刻】
【朱筆】「卯十月十二日写当番ゟ差越ス」
【ヒレ朱筆】「年番
当番え」
┌────────────────────────
│
│[町奉行衆 松平河内守【近直、勘定奉行】
│ 水野筑後守【忠徳、同】
└────────────────────────
今度地震ニて居宅皆潰又は
及類焼候向万石以下之面〻
地方取共拝借幷被下金被 仰出候ニ付
各様幷支配向之内類焼潰家之
分も候ハヽ姓名高附其外宿所拝領
屋鋪御役屋敷住居借地同居
部屋住等之訳且皆潰幷不残
類焼ハ勿論住居向門長屋向等ニて
建坪六分以上類焼又は潰家
相成候歟【か】同断六分以下類焼潰家
相成候歟住居向傾仮すまいも難
成程及大破候歟之訳共委細
御取調半紙帳ニ御認早〻御勘定所え
御差出有之候尤病死家替願中
之分且又御咎等之儀有之慎罷在
候分も有之候ハヽ其段御申聞有之候様
存候此段及御達候
卯十月
【朱筆】「安政二卯年十月六日申渡写」
申渡
乍恐以書付奉願上候
一今般 御府内大地震ニ付於町〻ニ押潰候者数多有之趣
承知仕歎ケ敷奉存候依之右死去之者引取人無之分は
其町〻ゟ愚院え相送り候ハヽ懇ニ相葬文化三寅年三月焼亡
溺死之通永世回向仕度奉存候尤古来ゟ町〻行倒死
骸等相送候節は為回向料幷諸入用其町内ゟ鳥目
壱貫文宛差越請納仕回向等仕候得共此度之儀は町〻
一統押潰死去同仕候儀故聊たり共入用相掛候ては迷惑
ニも可有之と奉存候間今般相葬候分は一切回向料不
申請相葬回向仕度奉存候ニ付以
御威光夫〻え被 仰付被下置候様奉願上候此段格別之
以 思召願之通被 仰付被下置候様奉願候以上
卯 本所
十月六日 回向院
右之通回向院相歎願之通相済候間町中不洩様早〻
可申継候
右御奉行所依御差図申渡
卯
十月
右之通被仰渡奉畏候為御請御帳ニ印形仕置候以上
南北小口年番
平松町
名主 弥左衛門印
小網町
名主 伊十郎印
神田多町
同 権左衛門印
【朱筆】
「卯十月十四日写向方ゟ差越ス 当番え
市中」
┌────────────────────────
│阿部伊勢守殿御渡御書付写
│
│ 大目付え
└────────────────────────
此度江戸表地震出火ニ付材木
其外之諸色商人共ゟ在方え注文
申遣候ハヽ元直段成丈下直ニ
売出運賃等決て引上ケ申間敷候
若無謂高直ニ致候者於有之ハ
可為曲事者也
右之趣御料は御代官私領は領主
地頭ゟ不洩様可被相触候
右之通可被相触候
卯十月
【朱筆】 「年番
卯十月十四日写向方ゟ差越ス 当番え
市中」
┌────────────────────────
│阿部伊勢守殿御渡御書付写
│
│ 大目付え
└────────────────────────
此度地震幷類焼等致し候万石
以上之面〻居屋敷普請等銘〻之
家格ニ不拘御曲輪外ハ勿論御曲輪
内たり共家作之儀精〻手軽ニ普請
可被致候門抔【など】も是迄長屋門等之
場所は冠木門ニ致し長屋向
其外越瓦幷瓦葺ニも不及当分
之内は板屋根等ニて差置如何様麁末ニ
候共聊不苦候候万石以下之面〻ニも
右ニ准しケ成雨露を凌候迄ニ
可成丈手軽ニ普請可被致置候
右之通向〻え早〻可被相触候
十月
【朱筆】 「年番
卯十月十四日写向方ゟ差越ス 当番え
市中」
┌──────────────────
│ [町奉行え
│ 覚
└──────────────────
今度地震出火ニ付銘〻家作
類焼潰等ニて及難儀候向も
不少候ニ付
公儀ニおいても夫〻拝借幷被下
金等も有之諸拝借金之儀も
年延等被 仰出候間町人共貸金
等之儀も都て融通能様厚
勘弁致し取計候様其方共より
無急度夫〻え申諭置候様可被致
候事
┌───────────────
【朱筆】 │ 卯十月十四日
「卯十月十四日写向方ゟ差越ス」│ 一覧仕候井戸対馬守
┌─────────────────────【朱筆】「年番
│ 当番え
│ 市中」
│上野山王下火除地え小屋場取建候儀申上候書付
│ 御届 太田摂津守【資功、寺社奉行】
└──────────────────────────────
此度地震幷出火ニ付御門前御領分ニ罷
在候者之内ニは住所可便方無之昼夜
路頭ニ迷ひ飢渇ニ堪兼候者有之趣
御門主【寛永寺輪王寺宮】御方達御聴不便之至ニ被思召候
依之為御救山王下火除地え小屋場
如何様ニも急速取立右体之者願出
次第可差置旨被 仰出候間右場所え小屋
場取立申候依之此段御届申上候以上
十月八日 信解院【寛永寺役僧】
住心院【同】
【朱筆】
「卯十月十五日写向方ゟ差越ス 当番え」
┌──────────────────
│久世大和守殿御渡御覚書写
│
│ 覚
└──────────────────
地震ニ付住居潰れ或焼失之老中
初御諸家ゟ為見廻音物差贈候向も
有之候得共緒家迚も同様災厄ニ
逢莫大之入費可有之候事ニ付此度ハ
為見舞老中初諸役人等え音物差越
候儀聊たり共一切無之様諸家之
面〻も無急度及噯候様達候事
【朱筆】「卯十月十五日写向方ゟ差越 当番え」
┌────────────────────────
│
│ 町奉行え
└────────────────────────
此度地震ニ付屋敷之外構等も
多分破損致し手薄之儀ニ付
当分之内組合之屋敷〳〵申合
家来二三人ツヽ屋敷之外昼夜ニ
不限懇ニ可被相廻候尤怪敷者
見出候ハヽ捕之届ニ不及町奉行え
可被相渡候勿論捕違候分は
不苦候
右之趣向〻え可被相触候
十月
右之通相触候間可被得
其意候
【朱筆】「卯十月廿日写向方ゟ差越ス 当番え」
┌──────────────────
│阿部伊勢守殿御渡候御書付写
│
│ 大目付え
└──────────────────
馬喰町御貸附金口入可致旨を以
如何之所行ニおよひ候者有之候ニ付
毎〻相触候趣も有之候処今以其弊
不相止哉ニて此度地震ニ付御貸附金
貸出し有之候間口入可致抔申唱候者も
有之由元来役所ニおゐて口入等
を以取扱候事は毛頭無之事ニ候
畢竟は謝礼等貪り候巧と相聞
不埒之至ニ候依ては自今世話致抔
申候族も候ハヽ姓名住宅等承糺
早〻奉行所え可申出候時宜次第其
者を畄置届出候共勝手次第
取計可然尤家来えも右様
之儀無之様精〻申含可被置候
右之趣向〻え可被相触候
十月
【朱筆】 「 年番
卯十月廿二日写留本紙向方え 当番え」
┌──────────────────
│阿部伊勢守殿御渡候御書付写
│ ┌─
│ │町奉行衆
│ │御勘定奉行衆
│ └─
│ 大目付え
└──────────────────
此度之地震幷出火に付ては銘〻家作之
都合も可有之候間屋敷相対替致し
たく面〻は年限不相立内ニても願
差出不苦候事
右之通寄〻可被達候
十月
【左丁の翻刻は次コマ】
【右丁の翻刻は前コマ】
【付札・朱筆】 「年番
卯十月廿二日写向方ゟ差越ス 当番え」
┌────────────────────────
│
│ 町奉行え
└────────────────────────
天台宗
東叡山学頭
凌雲院前大僧正
浄土宗
本所
回向院
古義真言宗
芝二本榎
高野学侶方在番
西南院
同宗
麻布白金台町
同行人方在番
円満院
新義真言宗
浅草
大護院
済家【=臨済】宗
品川
東海寺
曹洞宗
貝塚
青松寺
黄檗宗
本所
羅漢寺
日蓮宗
一致派
下谷
宗延寺
同宗
勝劣派
浅草
慶印寺
西本願寺掛所
築地輪番
与楽寺
東本願寺掛所
浅草輪番
遠慶寺
時宗
浅草
日輪寺院代
洞雲院
此度地震ニて世上死亡之人民
不少趣被聞召天災とハ申なから
不便之儀被
思召候依は死亡之もの之ため
思召を以右於寺院来月二日施餓鬼
修行被 仰付候間得其意
可被申渡候
右之通寺社奉行え相達候間
市中えも為心得可被達置候
┌──────────────────
│
│ 町触案
│
└──────────────────
此度地震ニ付
御城内御破損所も数ケ所有之候処
世上一般材木其他差支も可有之被
思召候ニ付御締場所之外其儘被差置候
旨被 仰出候間銘〻屋敷も其心得
を以全く入用之ケ所而已格別手軽ニ
普請致候様可被心得候
右之通武家方え御書付出候間町方之
儀は破損所之分猶更手軽ニ及繕全類焼
致候場所も普請差急申間敷候見苦敷
分は不苦候
御成之御道筋町方も同様ニ可相心得候
右之通町中不洩様可触知者也
十月
播磨守殿御扣
┌──────────────────
│
│市中普請之儀ニ付町触奉伺候書付
│ [井戸対馬守
│ 町奉行
└──────────────────
此度地震ニ付
御城内御破損所も数ケ所有之候処世上
一般材木其外差支も可有旨被
思召候ニ付御締之場之外其儘ニ被差置候旨
被 仰出候間市中之儀猶更相慎可
申は勿論之筋ニ付右御書付え末文書載
別紙之通町触仕候哉此段奉伺候以上
卯十月 井戸対馬守
池田播磨守
【朱筆】「卯十月廿日伊勢守殿御直御渡」
┌──────────────────
【付札】「播磨守殿御扣」
│
│ 覚
└──────────────────
見込之通可被取計候事
【朱筆】「十月廿日伊勢守殿え御直上ル即日御書取添御渡」
┌────────────────────────
│
│町方金銀融通之儀ニ付申諭方御内慮奉伺候書付
│ 書面見込之通可取計旨
│ 被仰渡奉承知候 井戸対馬守
│ 卯十月廿日 池田播磨守
└────────────────────────
【朱書】
「卯十月十一日伊勢守殿え上ル同日東条平左衛門を以御渡
承付いたし翌十二日同人を以返上」
┌──────────────────
│[伊勢守殿
│ 諸色潤沢方之儀ニ付奉伺候書付
│ 書面伺之通可取計旨 [井戸対馬守
│ 被仰渡奉承知候 町奉行
│ 卯十月十一日
└──────────────────
【朱書】
卯十月十一日伊勢守殿東条平左衛門を以御渡
┌────────────
│
│
│ 覚
└────────────
伺之通可被取計候事
┌────────────
│
│ 町触
│
└────────────
此度地震出火ニ付諸色直段幷職人
手間賃等引上申間敷旨去ル二日申渡
置候通堅相守板材木類ヲ始日用之品
潤沢方之儀厚心掛可申候尤商人共ゟ
在方え注文申遣候ハヽ元直段成丈
下直ニ売出運賃等決て引上申間敷旨
在〻えも御触出候間仕入方等出精致し
世上差支無之様可致若不正之取計
致し候もの於有之ハ吟味之上急度
咎可申付候此旨町中不洩様早〻可
触知もの也
卯十月
┌────────────────────────
│ 上
│ 池田播磨守
└────────────────────────
一昨廿六日幸橋御門外深川海辺新田
深川永代寺境内御救小屋見廻り候処
相替儀無御座候人数高左之通
幸橋御門外
一人数三百九拾壱人但壱人ニ付三合ツヽ
此握飯壱石壱斗七升三合
深川海辺新田
一同六百三十五人 但右同断
同 壱石九斗五合
同永代寺境内
一同三百九十九人 但右同断
同 壱石壱斗九升七合
右之通御座候此段申上置候以上
卯十月廿八日 池田播磨守
【朱書】
「卯十一月朔日受取写向方 当番え
町年寄」
┌──────────────────
│阿部伊勢守殿御渡候御書付写
│ ┌─
│ │町奉行衆
│ │御勘定奉行衆
│ └─
│ 大目付え
└──────────────────
此度地震ニ付御役宅向潰又は破損
及ひ建直ニ候分追〻御普請御修復
可被
仰付候儀ニ候得共当時早〻御用達
多之折柄建物間数等実〻無拠
ケ所之外は可成丈坪数減候様勘弁致
御作事奉行小普請奉行え申談候様
可被致候且手限ニて御普請御修復
取調相伺候向も坪減勘弁致し
可被申聞候
右之通可被相触候
十月
【朱書】「卯十月十二日」
┌────────────────────────
│[伊勢守殿【朱書】「東条平左衛門を以上ル」
│ 地震ニ付穢多頭弾左衛門幷手下之もの共へ
│ 救ひ方之儀ニ付奉伺候書付
│ [井戸対馬守
│ 町奉行
└────────────────────────
承り付案
書面伺之趣は難被及御沙汰旨
被仰渡奉承知候
卯十一月朔日
【朱書】「卯十一月朔日御同人常阿弥を以下ケ」
┌──────────────────────────────
│
│
│ 覚
└──────────────────────────────
伺之趣は難被及御沙汰候事
【朱書】「卯十一月朔日写向方え 当番
町会所」
┌──────────────────────────────
│【朱書】「伊勢守殿常阿弥ヲ以御渡御書付写し」
│ 町奉行え
└──────────────────────────────
増上寺御別当
金弐百五拾両 八ケ院
右は此度地震ニ付御救小屋ニ罷在候
窮民え願之通施行被 仰付候旨
相達候間寺社奉行可被談候
【左丁は次コマで翻刻】
【右丁の翻刻は前コマに】
【朱書】「卯十一月四日受取写向方え」
【下札朱書】「年番
当番
町年寄え」
┌────────────────────────
│阿部伊勢守殿御渡之御書付写三通
│御覚書写壱通
│ ┌
│ │町奉行衆
│ │御勘定奉行衆
│ └
│ 大目付え
└────────────────────────
此度地震ニて類焼幷潰家等相成候面〻
屋敷内空地等無之立退方差支候向も
有之哉ニ相聞候普請之儀ニ付ては先達て
相触候趣も有之候間可成丈建坪取縮
空地出来非常之節怪我等無之
立退相成候様可被心掛候
右之通可被相触候
十一月
┌──────────────────
│
│ 大目付え
└──────────────────
今度地震ニて居宅総潰又は及
類焼候面〻幷半潰之分とも拝借
金被 仰付御家人末〻軽きものえは
為御救同断御金被下候旨先達て被
仰出候処半潰迠ニ無之候ても居宅
惣体大破およひ候向ハ是又可為
難儀と被 思召格別之訳ヲ以右之
分えも高並半減之拝借被
仰付御救金被下候ものえは同様
半減之御金被下候其他先達て被
仰出候通り相心得委細之趣は御勘定
奉行可被談候
右之通万石以下之免面〻え可被
相触候
十一月
┌───────────────
│
│ 大目付え
└───────────────
東海道筋川〻御普請之儀堤切所
崩所等難捨置場所ハ格別其外
可成丈省略可有之事ニ候間此度之
御普請所えこもり候場所之外ハた
とひ於場所願出候共不取上筈ニ候
条決て願出間敷候御普請所之儀ハ
懸り役人差図次第諸事無差支
正路ニ御普請相仕立外請負人等
へ相渡申間敷候且御普請中竹
木其外御普請之諸色無謂
高直ニ致間敷候
右之趣御料ハ御代官私領ハ領主
地頭より村〻え不洩様可被申渡候
右之通東海道筋村〻之内領分知行
有之面〻え可被相触候
十一月
┌──────────────────
│
│ 覚
└──────────────────
今度地震ニ付類焼幷皆潰半潰
之面〻え拝借金被 仰付御家人末〻
之者えハ御救金被下候処猶又格別の訳
を以住居向惣体及大破候向えも高並
半減之拝借幷被下金被 仰付候右
等之取調方に付ては不平有之間敷
とも難申候間銘〻は勿論組支配
之ものニ至迄入念取調可申旨向〻え
無急度可被達置候事
【朱書】
「卯十一月五日
┌──────────────────
│ 伊勢守殿常阿弥ヲ以御渡」
│
│ 町奉行え
└──────────────────
近頃兎角浮説を先見越之事抔
相唱中ニは不容易儀抔も有之哉
ニて以之外之事ニ候此度地震ニ付
ては尚又其虚ニ乗し種〻之儀を申
ふらし候者も不少依ては衆人
疑惑を生し金銀取引迄えも差
響不融通之由於
公儀御救助筋等厚御配慮も為
在候折柄別て正実ニ可心掛処却て
人心を狂惑為致候始末ハ重〻不
埒之至ニ候以後右様之儀聞ゆるに
おゐてハ糺之上厳重之沙汰可及
条聊心得違無之様可致候
右之趣町中え可被相触候
十一月
【朱書】「卯十一月四日申渡写」
申渡
一遊女共衣類目立候品は一切着せ申間敷候
一遊女禿共仮宅家前たり共往来えは一切不差出
外向猥ニ徘徊為致間敷候
但家内たり共二階幷窓等え並居候様成儀往来
之者見物致し候迚足を留候様成儀為致間敷候
一音曲等仰山成儀致間敷候
一廓内と違外町〻え差置候内は別て不依何事万端
大造ニ無之様相心得渡世可致候
右之通町御奉行所依御指図申渡候間当時外
場所立退罷在候遊女屋共早〻仮宅御聞済場所え
可引越候
卯十一月
右之通被仰渡奉畏候為御請御帳ニ印形仕置候以上
新吉原町
遊女屋共惣代
安政二卯年十一月四日 山三郎 印
六兵衛 印
宗兵衛 印
清 蔵 印
弥兵衛 印
豊次郎 印
徳 蔵 印
源 助 印
右町〻
名主 佐兵衛 印
同 仁左衛門印
同 甚四郎 印
同 庄兵衛 印
申渡
今四日於北御役所被仰渡候浅草東仲町外弐拾三ケ所
遊女屋共仮宅渡世日数五百日 御免被 仰付依之仮宅
場所町〻取締方之儀前〻之通相心得且又川筋町〻は
勿論
御成御見通場所之儀は是迄之振合を以厳重相守
可申候
右は町御奉行所依御指図申渡間其旨可存
卯十一月
右之通被仰渡奉畏候為御請御帳ニ印形仕置候以上
新吉原町
遊女屋惣代
安政二卯年十一月四日 山三郎 印
六兵衛 印
宗兵衛 印
清 蔵 印
源兵衛 印
豊次郎 印
徳 蔵 印
源 助 印
右町〻
名主 佐兵衛 印
同 仁左衛門印
同 甚四郎 印
同 庄兵衛 印
浅草東仲町
月行事 紋兵衛 印
名主 喜平次 印
同所西仲町
月行事 清 助 印
名主 吉左衛門
煩ニ付
代 兵 助 印
同所花川戸町
月行事 儀右衛門印
同所山之宿町
月行事 常次郎 印
名主三郎左衛門後見
兵 蔵 印
同所聖天町
月行事 平兵衛 印
同所金龍山下瓦町
月行事 助 七 印
名主 作左衛門印
同所今戸町
月行事 扇 吉 印
名主市郎左衛門後見
順九郎
煩ニ付
代 清 七 印
浅草山谷町
月行事 文 七 印
名主 兵 蔵 印
同所馬道町
月行事 幸 八 印
同所田町壱丁目
月行事 安兵衛 印
同所同町弐丁目
月行事 右同人 印
名主 五郎左衛門印
右組合世話掛
浅草平右衛門町
名主 平右衛門
煩ニ付倅新九郎 印
同所茅町
名主 源兵衛 印
深川永代寺門前町
月行事 次兵衛 印
同所山本町
月行事 吉右衛門印
名主 伊右衛門印
同門前仲町
月行事 太 七 印
同所東仲町
月行事 安五郎 印
名主 伝左衛門
煩ニ付倅伝 次 印
深川松村町
月行事 栄次郎 印
名主無之組合
同所黒江町
名主 助之丞 印
同所常盤町弐丁目
月行事 五郎兵衛印
名主 八左衛門印
同所八幡旅所同所続
御船蔵前町
月行事 直 蔵 印
名主 忠右衛門
煩ニ付倅虎次郎 印
右組合世話掛
深川中島町
名主 久右衛門印
深川佃町
月行事 半兵衛 印
名主 幸右衛門印
右組合世話掛
霊厳島浜町
名主 太一郎 印【
本所八郎兵衛屋敷
月行事 清次郎 印
同所松井町壱丁目
月行事 利兵衛 印
名主 六右衛門印
同所入江町
月行事 庄太郎 印
同所陸尺屋敷
月行事 幸 七 印
同所時之鐘屋敷
月行事 善太郎 印
名主 助左衛門印
同所長岡町壱丁目
月行事 半次郎 印
名主 一郎助 印
右組合世話掛
本所茅場町
名主 助左衛門印
同所林町
名主 六右衛門印
右之通被仰渡候ニ付仮宅中取締諸事心付可申旨
被仰渡奉畏候以上
定世話掛
堀江町名主
熊井理左衛門印
長谷川町同
鈴木市郎右衛門印
申渡
此度新吉原町類焼ニ付願之上仮宅渡世日数五百日
御免被 仰付候依之仮宅場所町〻心得違ニて無故
格外之地代店賃取不申実意を以借貸可候致
一仮宅中自ら多人数も入込可申間火之元は勿論諸事
取締心付候様可致候
卯十一月
右之通被仰渡奉畏候為御請御帳ニ印形仕置候以上
浅草東仲町
安政二卯年十一月四日 月行事 紋兵衛 印
名主 喜平次 印
同所西仲町
月行事 清 助 印
名主 吉左衛門
煩ニ付
代 兵 助 印
同所花川戸町
月行事 儀右衛門印
同所山之宿町
月行事 常次郎 印
名主三郎左衛門後見
兵 蔵 印
同所聖天町
月行事 平兵衛 印
同所金龍山下瓦町
月行事 助 七 印
名主 作左衛門印
同所今戸町
月行事 扇 吉 印
名主市郎左衛門後見
順九郎
煩ニ付
代 清 七 印 浅草山谷町
月行事 文 七 印
名主 兵 蔵 印
浅草馬道町
月行事 幸 八 印
同所田町壱丁目
月行事 安兵衛 印
同所同町弐丁目
月行事 右同人 印
名主 五郎左衛門印
右組合世話掛
浅草平右衛門町
名主 平右衛門
煩ニ付倅新九郎 印
同所茅町
名主 弥兵衛 印
深川永代寺門前町
月行事 次兵衛 印
同所山本町
月行事 吉右衛門印
名主 伊右衛門印
同門前仲町
月行事 太 七 印
同所東仲町
月行事 安五郎 印
名主 伝左衛門
煩ニ付倅伝 次 印
深川松村町
月行事 栄次郎 印
名主無之組合
同所黒江町
名主 助之丞 印
同所常盤町弐丁目
月行事 五郎兵衛印
名主 八左衛門印
同所八幡旅所同所続
御船蔵前町
月行事 直 蔵 印
名主 忠右衛門
煩ニ付倅虎次郎 印
右組合世話掛
深川中島町
名主 久右衛門印
深川佃町
月行事 半兵衛 印
名主 幸右衛門印
右組合世話掛
霊厳島浜町
名主 太一郎 印 本所八郎兵衛屋敷
月行事 清次郎 印
同所松井町壱丁目
月行事 利兵衛 印
名主 六右衛門印
本所入江町
月行事 庄太郎 印
同所陸尺屋敷
月行事 幸 七 印
同所時之鐘屋敷
月行事 善太郎 印
名主 助左衛門印
同所長岡町壱丁目
月行事 半次郎 印
名主 一郎助 印
右組合世話掛
本所茅場町
名主 助左衛門印
本所林町
名主 六右衛門 新吉原町
名主 佐兵衛 印
同 仁左衛門印
同 甚四郎 印
同 庄兵衛 印
右之通被仰渡候ニ付仮宅中取締諸事心付可申旨
被仰渡奉畏候以上
定世話掛
堀江町名主
熊井理左衛門印
長谷川町同
鈴木市郎右衛門印
┌──────────────────
│
│ 覚
└──────────────────
覚
一金弐百五拾両
右之金子御別当八ケ院より
五ケ所御救小屋入窮民え御施行
金請取申候早〻差遣可申候以上
池田播磨守内
卯十一月二日 坂本折右衛門印
宝松院御手代り
泰成殿
申合
今度地震ニて評定所破損ケ所有之御普
請出来迄式日立合不仕段申上候付ては
差日公事追〻着いたし候もの共ハ宅ニ
おゐて吟味もの差支無之分は銘〻手
限ニて吟味いたし宅も破損ニて其儀難成ハ
一ト先帰村申渡追て差紙ヲ以呼出し
帳外え差出可申候事
一手鎖押込等申付置候ものハ差免
候積町奉行伺相済候上は在方之者
迚も同様之儀ニ付咎手鎖幷逼塞押
込等は日数ニ不拘差免尤吟味中手
鎖之分は懸り見込ヲ以手放害不相成
分ハ一ト先差免可申事
但在方もの逼塞押込等申付
帰村之上為慎置候分も差免候
積夫〻支配御代官領主地頭え可達
尤寺社奉行御勘定奉行より其段
口上ニて申上参候積り
【白紙】
【青スタンプ張紙】
┌─────┐
│6│ │8│
│0│ │7│
│8│ │ │
└─────┘
【白紙】
【張り紙】
┌─────┐
│6│ │8│
│0│ │7│
│8│ │ │
└─────┘
【裏表紙、文字なし】
地震よけの
歌
水かみの
つげに
いのちを
たすかりて
六分のうちに
入るぞうれしき
【帙入】
《割書:地震|後世》 俗語之種 《割書:初編|之四》
幸一此書を成すといへとも諺に貧の隙なし
とかや其隙を覘て破壁のもとに筆を採とも
窮する時は必心魂逼り世事に脳【悩カ】み清貧かな
らす盛貧にして一行も是を並る事あたはす
臂を曲膝を痛く折りて首を長く低れ
涎千尋を流し穢たる袖を濁れる涙に雪き
後悔多日におよふといへとも風流の道ひとつを
しらす物書事はよかれあしかれ鐚の出入や売(本ノマヽ)取
書其日〳〵の恥のかき捨絵の事はかりは
道理なれ其道理こそ何ゆゑなれは習はぬ事の
出来ぬは道理と無理こじつけの道理なれは
小児たましの上絵書一枚二枚はかくして
おいても三まい四枚の数重り終に顕れ面目を
灰にまふりし折こそあれある人来りて嘲笑ひ
いよ〳〵此書の成就せは編笠かふり街に彳【彳たた-ずむ】
此度信州大地震世に珍らしき次第なり
紙代纔に十六銅とおためこかしの誉言葉
此時こそは玉の汗後悔恥辱は海より深く山ゟ
高き父母の恩【思?】沢紙価纔に十六穴と丈の
極りし豆蔵文句口惜き事かきりなし
今社【こそ】胸を痛くして責て何かなひとくせ
あらはよもや斯まて嘲りを受けとるへきを不知は
しらさるとせよとの教を最初から斯まて卑
下して置たる事をと既に空鋪秘しておきぬ
又ある人来りけり大災につけいろ〳〵と苦患の
噺数刻およひぬ此時風としておのれか存意を
語りあひこの事後世に及なはかゝる怪談を
しるへからす噺伝もさたかならすや子孫の慰に
斯社したりと噺に乗して開けれはこの
人利を解て言けるは嘲笑したるはいつれのひと
にありけるや其由しらされとも後世に及て此事
を伝聞ともいかてか是程の大変とおもふへき
信濃一国の大災といへとも其災害の多少により
差別あり災難の薄きところは此中において
たに心配格外薄し一時といへとも眼たくまに
我千万の人〳〵一命を失ひ助け給へ救ひ
給へといふ程もなく火かゝり共に死せんといふを
われは迚も遁れかたし共に命を失ひ
誰ありてか香花を手向一遍の念仏回向
すへき早く迯去りもふすへしと長き別れは
またゝくうち骸を街にさらせとも誰あり
てか是をとむらふものもなく一枚紙の裏表かへ
すか如くの苦痛のありさま悲歎の程は今更に
語るもなか〳〵怖鋪身うちもしふるゝ計なり
亦山中にては山崩れかゝる大河の流末を
湛其外大災怪談は中〳〵あけて数へかたし
いかてか代〳〵を累し後斯ばかりとは
おもふへき他人に譲る存意になく全く
子孫に伝ふる実録いつれへか恥へき何れへか
汗顔すへき此上願くは子孫打寄折に
ふれ時にふれ幼少女童にも読安きやう
いかやうなりとも仮名をもつけおきて慰
ばかりを当にもせすわんばくなりし小児には
異見の種になる事もあるへきや譬他人の
誹謗はあるとも廿四日の夜のありさま此
世からなる地獄の苦痛絵に書残さは是も
又いろはもしらぬ小児まて物になそらひ
事によそひ威しすかしの種にもある
べしと進めに応して徐くにいろはも
しらぬ片言ましり仮名もわからぬかな
づけに地水火の三災を又〳〵爰に書
載たれは覧人もありなは仮名違ひ
画図の拙事を赦し給へ
三月廿四日の夜地震火災の
危難数万の人〻群死苦痛の
全図并善光寺市町之焼跡廿
六七日頃見ル図
山中虚
空蔵山
抜崩
犀川之
大川ヲ
止メ
溜水ニ
民家
浮
沈流
失之
大略
下之巻
ニ委鋪
ス
かゝる前代未聞なる時節なれともいつしか
東雲紅にして暁天にたなひき皐〳〵たる
樹木の蔭を照し天晴明にして普く
国土を照し給ふといへとも陰陽昇降
の遅速より発して雷となり地震となるとかや
かゝる変化の時節なれは雲煙りの如く
なるもの何となく虚におほふたかり天に
昼夜なしといへとも世上皆朧夜の如く人心
安からされは誰ありてか夜中の欝気を忘る
へきや夕には花の林に遊ふか如く歓楽を
恣にし数万のともし火白昼を欺き群交
所せましと市中に衆?満し毒龍鬼神と
いへともなとか笑を含さらんや満足栄花を
眼たゝくまにくつかへし或は倒れ或は
潰れ夫妻兄弟父母子孫圧死するあり
焼死あり枕を並へ数万の人〳〵夢中の
夢のはかなき最期拙き筆にはしるし
かたし中には五十里百里を隔て十人連立
二十人うち連立て参詣し我等一人残りし
とてさだめて指折日をかそへ国にて親
族待居給ひけふや帰る翌や機嫌よく
帰るへしと親を待子を待事我か身の
うへに引くらべさこそとおもひあはするを
今われ一人助かりしとて何面目に帰
国して斯とて是を告知らすへき去迚
我身覚語【悟ノ誤字カ】を極め今爰に自害せは
誰ありてか国にしらすへきとて身を
なけふして心苦の歎きいふも語るもまる
はだか徐く助り危を遁れいでたる事
なれは路用はもとより旅の空今より
此身を如何はせんと狼狽歎く人〳〵の
数をも知らぬ遠国他国さこそとおもひ
あはすれは拙き筆には記しかたし
爰に幸一か幸ひなるは出店なる梅笑堂
にて売上銭のありけれは杖柱とも持
出し貯置し事なれとも今更是を何
にかせん纔なれとも草鞋の料にもなし
給んと差出しても受とらす昨夜よりして
段〳〵お世話になりたるうへいつれの方か
見知なけれはお返しまをすに便りもなし
女わらはの恥かしく襦袢ひとつかひいきの
沙汰下帯さへなき此姿を嗜しらぬ女ゆゑ
かゝる始末と笑ひ給ふも理りなれと宿屋も
旅人の多けれは居風呂とてもはかとらす
旅行の労れ其侭にうちふしたるを
此騒動または翌日のつかれを案し起出て
湯に入りたるを其侭に打潰れて途方を
失ひ漸くたすかり遁れいてかゝる姿の
恥かしさと打伏歎く計りなりかゝる未
聞の大災を受る時節にいたりてはやるも
返すも心底なり実に誠欲を離れし
正銘正法世に他人なきしんじつ是実に
願はしき次第なり斯てもはてしなけれは
とて泣〳〵別れ西に行東に行けと国に
帰りて親たちに何とて言訳すへしとて
又行兼て地にひれふし今宵の泊りは
いかゝせん明日の道連いかゞはせんと無回?斗
身を案しつゞ狼狽歎き別れける
○案するに如斯大に震ふとき
中に釣提あるもの社【こそ】
心安きはあらさあるへきを
善光寺御堂左右に有ける
大鐘を震ひ落したる事を
後にも猶驚怖すへしかゝる
重きものゝさかさまに
ならすんは落つ事は有
へからすと其大なるを爰にしるす
去程に幸一か家より迎ひの者の来り
けれは世俗の諺に地獄にて仏に逢たる
心地して様子を尋ね問けれはいまた
権堂へは火はかゝらすすこしもはやく
帰り給ひくはしきほとは道すからに語り
まをすへしと進めにやうやくちからを
得さらばとて起上りても夜前より一命
危き煩ひに身体更に自由ならすこゝろは
急けとも足腰たゝす肩にすがり腰をいたか
れ神輿あるかたを三礼し打連立て
漸〳〵に我宿さして行んとすれとも
市街は一円火の中ゆゑ本城より南の
細道通りけるに此辺はまた恐しく地
われて高低の夥敷裂たる端は三尺四尺
長短何れとも二十間三十間よりすへなきは
なく大なるは壱丁有余是を見るより尚
更に所謂薄氷を踏か如くいまた地震
は数をもしれす幾度となく鳴動すれは
若哉此うへ大にして地割れ土中に
埋れせばいかにやせんと安からす身の
毛もいやたつ計なり徐くかた端なる
中程に下りて左右を見渡せは倒れたる
家よりは死骸を抱ひいで怪我人を背負
家財取出し運もあり大なる潰れ家は
なか〳〵に堀出す間もあらすして泣
叫声聞ながらもはや炎たる火をかむり
黒雲の如き烟りうづを巻て取かすみ
修羅とうくわつの苦患といへ地獄の【とうくわつ等活地獄。八大地獄の第一】
呵責といふとても是にはよもやまさる
ましと見聞も中〳〵恐しくふるひ〳〵
て漸〳〵に淀ケ橋より細道つたひて
はせ越へ出て夫よりかんねいかはの端を
歩行て?裏田町なる畔を踏み普済寺脇道に
至りてみれは是なる客殿をはしめとし軒並
揃うて倒れてあり驚怖しなから漸〳〵に
権堂たんほにいたりて見れは野宿のあり
さま家財取出し囲となし残りし家
財こはれ戸や破れ障子を持運ひ畳よ桶よ
戸棚よと老若男女入交り上よ下へと散乱し
火災を遁るゝ辛苦の騒動驚き歎く計り也
善左ヱ門家内本城より権堂田甫
に帰る路すから廿五日昼巳の尅頃
岩石街裏通りの炎〻たる焼
亡を見る図略
是を見るより善左衛門家内のものも漸〳〵に
心を慥にもち直し人は皆〳〵斯社【こそ】あるになとか
其侭焼捨なん一品なりとも出すへしとて
我家の際まて行ては見れとも塀は倒れて
道をとち隣家は潰れて路次をふさき近
寄事も容易(本ノ)【「マヽ」ガ脱字。「本ノマヽ」】或は震ひあるひは鳴動
千辛万苦の思ひにて漸〳〵一品二品を手に
携て逃出し一丁有余も隔りし青麦菜
種の田畑さへ諸人の騒動厭ひもなく踏あらし
ては仮居をまうけかゝる急難変災なれは小屋
かけすへき用意は更なり屏風格子戸襖
障子有合ふものにて囲しのみ屋根も同しく
手当り次第命から〳〵持出せし荷物は其
侭積置て畳板戸を雨覆ひ日除ケ成る時節に
到りては欲は素ゟ始末も出来す此上如何なり
ゆくものと狂気の如く狼狽けり然るに午の刻
過にこしろより権堂後町へ一やうに火移り
盛んに然【燃ノ誤字カ】立明行寺大門先まて焼下る事
眼たゝく間にして左右へ吹かけ又下た町へ
焼下るといへとも逃たりし諸人は壱丁余有も離れし
田畑の中に小屋掛し荷物を持運ひ或は
怪我人あるひは煩ひを介抱し小児老人を
いたはりたゝ〳〵狼狽さまよふのみには
今社【こそ】我家に火の懸るなれ其次社【こそ】我家なれ
といふのみにて焼失する事を壱人として
驚くありさまもなくさなから是を
防とゝむるの咄しもなく煙火の中の家の
むねをこゝよかしこと指さしつゝ狂気の
如くまた気抜の如くなれるもことわりなり昨
夜亥の刻掛る変災の大なるは前代未聞の
事共にて手足を労し身魂を悩まし千辛
万苦のみならす精魂を痛ましめ心を砕し事
実に尤父母妻子には夢うつゝの如くにして
長く別れ死骸たに其あるところをしらす
して火宅の苦患を受るもの其数幾千万と
いへとも是を問ひ音信するものもなく一日
一夜潰れ家の下にあり気力を痛め
漸〳〵に堀出されて一命助り始て是を見るに
夥敷怪我あるといへとも医療の便も更に
なく身体紅に染り背負はれて野中に
介抱をうくるといへとも風を受日を受痛
強けれは親族の輩是に気をうばはれ
夜を日に続て千辛万苦たま〳〵夜喰の
残りたるを持出したる人もありて爰に
進めかしこに貰ひ得て手に取れとも
一ト箸たにも咽どに通せす口中にうる
ほひなく胸痛み疲れては水を呑よわりては
水を呑一昼夜を過せし今の時に到りては
大人小児の無差別目ぶち黒みたゞれ
ほうへたこけ衰ひ色青しといへとも青きに
あらす諺にいふ土け色とやらにして乱れたる
髪には土砂のほこりを頂き陰陽順逆の
所為にや朝頃よりむし暑くして頭重く
身持尤悪くして働きて疲るゝ事倍を
増し誰ありてか身の落着をしるものなし
未の刻より申の刻比まてに隣家まて
焼失して向ふ側に火移り下も町に
もい上り善左衛門家居向はのこりけるを
いかなる悪風悪火なるか昨夜よりして
其さまを見るに風は北へ吹まくりて
火は南にもえ行適残りたる家あり
ても迫り返りては焼失し風替りては
残りたるを焼亡し戌の刻比に到りて
俄に風替り未申の方より丑寅のかたへ
向ひて大風烈しく暫時に善左衛門か家に
火を吹かくる事夥敷火煙り霞のことく
空によこたはり三輪宇木之辺まて火の
粉恐しく連なり始終火中にありて
一段の類焼は遁るといへとも俄に風替りて
不残り家を失ひけり折しも一天曇り
風雨はけしく田畑に小屋懸ケしたる者多
しといへとも誰ありてか風雨の凌を整ふものも
なく家潰れさるものは戸棚箪子なとを
囲にして其うへに障子唐紙抔を并らへ
のせて日覆にし倒れたる家には戸棚
箪笥も打砕て囲ふへき品もなくこわれ
たる障子をれたる襖をからけつけてたはね
藁をうちかけしのみなりいつれの小屋も
斯なれはおのれか小屋より一足踏出しては
おのれか小屋に帰る事を見失ひ取散し
たる荷物を持運ふにもさまよふのみなれは
ありあわせたるてうちんを竹丸太の
先に結付て小屋の前に立潰れ倒れて
てうちんたにあらぬものは小風呂鋪手拭
なんとを杖ほうきの先に結付て小屋の
屋根にさして是を目当に持運ひかゝる
おりしも風雨ます〳〵夥しけれは
囲はあれとも風を除けす屋根はあれとも
雨を凌かす東より南をなかむれは広
〳〵たる田畑闇夜に形ちをわかたすして
沖の江の浪に漂よふ苫舟の焼火を見るか
如く物淋しく又哀れにして霏りほらりと
そこかしこに見ゆるのみしつまりかへつて
ありけるいかなる心地と我身におしあて
物すこく胸中に懲へ北より西を詠れは
拾丁有余一円の盛火空にうつり味噌
□硫黄金なものゝ火は青黄赤白黒と
いへとも其色また恐しく焔硝に火
移り辺りなる潰れ家を刎とはし其響き
雷公の落るか如く宇宙は闇夜にして
猛火の勢を降下る陰雨にとぢおさへらるゝの
心地おのつから五躰に微へ実に地水火風
空の苦患眼前の地獄おそろし
かりし事とも也
かゝる天変不思儀なる災害なれはその広太
なる事拙耳目には及ひかたくはた愚
毫に尽かたし日を追て見聞する事を
後編まてに記すといへとも九牛か一毛にして
万分のひとつも微力におよはす
抑廿四日亥の刻災害発してよりこのかた
己か身のうへのみ記せしは他の成行を
不知るに等しく事実詳かならさる
に似たりといへとも是畢竟広大なれは也
同おのれか身のうへの憂艱難の手続を
もつて実録とす他の苦患も斯なれは
推量りて後にも猶恐怖すへし哀
無情なる事を思ひて
三災変死諸群霊魂有無両縁菩提并
牛馬有非常草木鳥獣虫類変災菩提
の至法界平等利益子〻孫〻に到るとも
追善を施すへし教に陰悪は鼾の如し
陰徳は耳の鳴か如しと云〻
爰に善光寺市町焼跡の図を出す事手続の
前後感あるへし翌戊申の年を過すといへとも
恐へしかなしむはいまた図の如くかたつきたる
にはあらねと其有増を記し置事なくは後代の
子孫俗語の種に便薄からんか依て前後を不論
心に浮むのむねを綴入るもの也
【後筆書入分は後回し、本文のみ翻刻】
鴬宿雑記百九十九草稿
越後国大地震一件【文政三条地震】
越後国古志郡蒲原郡村〻地震ニて建家震潰
即死怪我人等之義ニ付御届書
村高壱万五千弐百五十八石九斗八升弐合六勺七才
村数五拾五ケ村 家数弐千百三軒之内
一潰家千三軒 内寺四ケ寺 社家一軒
一半潰家六百三拾四件 内寺十弐ケ寺 外ニ家四百八十弐軒症小破
一潰高札場弐ケ所 一潰郷蔵四ケ所
一同社弐ケ所 一同湯小屋壱ケ所
一即死人百九人《割書:男三拾八人|女七十壱人》
【後筆書入分】
本文越後大地震ノ一件写し置し後又北国の風俗口説とて風俗ニてか様之事等有之節ハ誠ノ戯ニ作リ児女子ノ唄コトノヨシ
是ハ其国風ニて是等ノ戯を以て此風俗ヲ御【ぎょす】其時々諸役人之風儀等迄天人を以いはしむるの【右に「の」と追記】諺を捨領分ノ方知尋拠て
賞罰ヲ行ハルヽコトトシテ今ニ上杦家此遺風アリテ善政ノ行ハルヽコトトヨテ越後口説トモ上杦口説トモ云コトト依テ見捨ニセンモ
惜ケレハ爰ニウツス置畢ぬ 越後口説今世ニ瞽女口説トテ江戸辺マテ門ニ立テ三弦ヲ以テ勧進スルハ是ナリ
天地開けてふしぎをいはゝ近江水海スルカノ冨士ハたんた一夜ニ出来たと聞たそれハ見もせぬむかしの事よ爰にふしきは越
後ノ地震いふもかたるも身の毛かよだつ頃文政十一年の時ハ霜月半の二日朝の後五ツとおぼしき頃にとんとゆりくる地震のさハきたはこ
一ふく落さぬうちに上ハ長岡新潟かけて中に三条今町見付つふす跡から一時のけふり夫に続てよ板やつはめ在の村々其数しれす
潰す屋しきは幾千万そさすや梁柱や桁に背骨かたこし頭をうたれ目鼻口より血を吐なからのかれ出んと狂気のことく
もかきくるしミつい果絶【絶果か】る手負死人ハ書尽されす数も限りもあら情なや親は子をすて子は親をすてあかぬ夫婦の中をも
いはす捨て逃出す其行先は炎をもえたつ大地かわれて砂を吹出し水もミ上て行にゆかれす彳む【たたずむ】内に風ハ烈しくうしろをミれハ
火のこ吹立火炎をかふりあつやせつなやくるしやこわや中にあはれは手足を挟ミにくをひしげれ骨打砕き泣つ叫つ助て呉
とよべと招とのかるゝ人も命大事と見向もやらす覚悟〳〵と呼ハりなから西よ東よ北南よと思ひ〳〵に逃行声は実や喚叫【叫喚か】大叫
喚の責も是にハよもおとらしよ見るも中々骨身に通る今ハ此の世かめつしてしまひみろく出世の世と成やらん又は奈落へ沈も
するかいふもおろかやかたるも涙急に祈祷の湯の花抔とせつな念仏となへて見ても何のしるしもあらおそろしや昼夜うごきハ少しも
やます凡七十余日【右に追記】か間きもゝ心もとふなる事と親子兄弟皃【かお】見合て共に溜息突いる斗御大名にハ村上しはた其外に御料御陣屋
旗本衆も思ひ〳〵に御手当あれと時か時とて空打くもり雪ハちら〳〵寒さハ増る外にいられす涙の中に一家親類寄集りて
大工いらすの掘立小屋につゝれかぶりて凌とすれとふゞき立込目も合されす殊にことしハ大悪作て米ハ高直諸色ハ高く
夫に前代未聞の変事是をつら〳〵考見るに士農工商儒仏も神も道をハすれて利欲に迷ひ上下ハかたぬ奢をきはめ
武家ハ武を捨十呂盤【そろばん】枕夫に習ふて地下役人も下をしへたけ己をおこり昔違作の年からあれハ葛を堀たり砂【磯】菜をひろい
夫て己か命をつなき収納作德立しと聞に今の百性ハ夫とハ違ひ少し違作の年からにても検見願ひの拝借なとゝ
上へ御苦労かけたる下たハ有の無のと親方マヘハ無勘定にて内證ておごり米の黒いハ大損なとゝみそハ三年たゝねハ
喰ぬ在郷村にも髪【髪結】風呂屋煮うり小見せの床前見ミれハ笛や三味せん大鼓をかざり紋日もの日の其時〳〵ハ若いもの
共寄あつまりておとりけいこの地芝居なとゝつかひちらして出所にこまり一ツ袷に縄をハかけてつゐにしまいハ
他国へ走るなこや水呑奉公人も羽おり傘たび塗下駄に下女や子共も盆正月ハいつちわるいかちりめん帯て銀のかんさし
鼈甲の櫛よ開帳参りの風俗見れハ旦那様より御供か
りつハそれハまだしも大工の風義結城わた入はかたの帯に紺の股引白たびはいて朝ハおそふて休か長い作料まさねハ行
ことならぬ酒ハ一日二度出せ抔と天を恐れぬ我儘斗
日雇まて道理をわすれ
普請家作のはやるに任せ
出入旦那も御無沙汰斗下々ハ十日も先からたのミやつと一日顔出すさへもきけんとらねハ日中ハあそぶ夫に准して町家のふしん
互に美々敷せり合故か
二重たる木に銅巻て家ハのしふき柱のたけハ丁度むかしの二本の長さ樫木すくめの造作見るに御殿まがいか拝殿か地下の家
作とみられぬ仕懸前を通るも肩
身かすほるされと心ハけものおとるいかな困究【窮】の年からにても収納屋賃の用捨もあらす少しさがると店追立て田をハ
上ケよと小前を責
て慈悲の心はけし
つふほともないハことわり浮世の道理深く考へしらさる世故そ世間豪家の家風を見るに古い持家ハ勘弁有て俄分
限ハ萬事かひとひわるひ
心ハ見習やすく
裏屋店かりぼてふり
まても米か
安いとけんし
き高く在郷ものをハ足下に見なし五十まうけりや口米あるといふにいはれぬ荒言はいて義太夫めりやす冨本なとゝ
一寸しやれにも
江戸まえはかり夫ハさて置此近年の儒者の風俗つく〳〵見るに黒羽織に大小帯し詩だの文たの講尺抔と鼻の高いハ天狗
もはたし銭の
ないのハ乞食におとる昼夜大酒乞食におとる【以上十文字写し誤りカ】昼夜大酒どうらくつくし己斗か弟子共迄も金をつかふか風流人よ道を守か
俗物なとゝ冥利知
すの銭金蒔
て書物よミ〳〵
身上潰す分て近年寺衆の風儀聖祖禅寺と勿体らしく赤衣ハ白粉くさく光るおけさハさし身のかほり尼の三衣ハ
子持の匂ひ朝の勤ハお小僧斗宵の勤ハ鐘打斗
昼夜こめぐり慰斗祖師や御上の信を背き酒と
賭て寺役を
わすれ居間の柱の
状さしミれハさまハ丸さま御存ゟとへたてのかいたるかな文斗門徒寺衆ハ利欲に迷ひ勧化一座にほふしやハ四五度
【本文】
一怪我人弐百卅九人内《割書:男百廿五人|女百十四人》
一馬拾三疋即死
松平越中守【桑名藩主】御預所越後国古志郡福道村【現長岡市】外壱ケ村
蒲原郡花見村【現燕市】外五十三ケ村当月【文政11年11月=1828年】十二日辰上刻大地震
ニて家作震潰即死幷怪我人等有之趣訴出候ニ付不取
敢為検使役人共罷出見分仕候処死失怪我人書面之通ニ
有之猶其節之時宜相尋候へハ折柄御年貢米選立最
中ニ付当十二日朝も疾起何れも朝飯後夫〻農事ニ取懸
罷在曇空ニて静成天気ニ御座候処辰之上刻乾之方ニ
当り大炮撃放候如き鳴音両度響候故如何成義ニ有之哉
不審ニ存罷在候内無間も家居震立候間一同打驚肝
を冷し親を懐き小児を抱ひ別間ニ罷在候兄弟姉妹等を呼立
一同逃出可申と存候内忽地裂熱き泥を吹出し柱梁等は
不及申家道具打砕ケひしと相潰皆人夢中の如く前後
を忘し家下ニ罷成居候処稀ニ残り候家のもの共外より
声を懸候ニ付漸正気付家下ニ罷在候旨答ニ応し家根を
取退助出呉候得は祖父母親兄弟等見不申外へ逃出候儀も
有之哉又ハ家下ニ相成居候哉と驚歎仕潰家内相尋見候
処梁下又ハ軒下ニ相果候為体天災とハ乍申誠ニ非命之次
第と相歎罷在候且又場所ニ寄建家有之候ても土台之
儘五寸或ハ壱尺余も前へ押し出し後へ引下げ地面高低出来候
程捻割枘折悉皆手入不仕候ては住居難成体相見申候前
【後筆書入分】
祖師の法事や自坊の法事畳屋根造作普請嫁をしつける継目をすると後生ハ此次先其事ニ旦那をせめて身勝手斗
奢り相談官金さべり法事仕廻の咄を聞ハ
此度法事ハ時節かわるい参詣不足祖師
の法事を商ひらしく人目恥すに咄を
めさる後生しらすの邪見なものと金を
上れは信心しやとて住寺御寮のあしらへ
ちこう何ぼ信
心りやうげ【了解】の
人も金を上ね
ハ外道じや抔と
葬礼おさへる宗判
せぬと上を恐れぬ
法外はかり寺か寺
とて同行衆もお講
参の咄を聞ハ
舅小姑ハ嫁聟そしり
嫁や息子ハ舅の
讒訴そして近年
安じんまへもいたこ
長哥新内なとゝ
ませて語らにや
参りかないとねても
起ても慾心斗
仏任せのぢいばゞ
達もどれか誠か
迷へははれぬ後生
大事ハ頼まず方
と進めなからも旦
那をよせて金の
無心ハお頼方よ
口へ出すハ自力
のたのミ口へ出さねハ
かいげに背くお寄合【御寄講】
たの相続なとゝ
しりもせぬ事う
かめたやうにおのも【己も】
わからぬ後生を
もだき果ハ互に
いさかへはかりりやう
と遣ひと名目付る
空か証か死ねハしれぬ
わけて詰らぬ法花
のをしへ蓮花往
生てしくしりなから
いまた迷ひの目か
さめぬやら他宗
そしりて我宗自
慢余りおしへか
御大事故に広き
浮世を小狭くくらす
仏嫌ひな神道者も
和学神学六根
清浄払ひ玉へと
家財をはらへ清め
給へと身上を
あらひ口の不浄ハ
けかれたものを
呑ず喰ずハ言訳
たてと胸と心ハ
只もろ〳〵の欲と悪との不浄てそまる祢宜の社家しやの神主なとゝ神のみすへと身ハ高ふれと冨をするやらあやつり
【本文】
書之通古今未曾有之災事ニ御座候へ共此最寄一統之儀
ニて助合之儀も出来兼候体ニ御座候尤即死人ハ改之上葬
方手当申付怪我人共之儀者夫〻治療差加方申付且夫
喰日数を以手限ニ手当取計遣申候平年当国之儀は
此節深雪ニ御座候へ共当時雪無之追〻仮小屋等補理【しつらえ】
雨露之凌【しのぎ】方致手当候旨彼地ゟ申越候依て此段御届申上候
以上 十一月
帳面 古志蒲原両郡村〻地震潰家即死怪我人改帳
上書 子十一月
高九百五十五石六斗九升五合
家数百十七軒 蒲原郡
一潰家三軒 半潰廿軒 外九十四軒小破 矢作村【現弥彦村】
高九十七石弐升五合 家数九軒
一潰家壱軒 半潰七軒 外壱軒小破 田中新田【燕市】
高弐百弐石三斗八升六合 家数廿軒
一半潰五軒 外十五軒小破 庚塚新田【吉田町】
高六十七石三斗 家数八軒
一半潰弐軒 外六軒小破 平岡新田【燕市】
高四百五十三石六斗九升七合 家数四十八軒
一潰家三十九軒 半潰五軒内寺一軒 花見村【燕市】
即死人八人 怪我四人 外家四軒小破
高廿二石六斗三升四合
一潰家壱軒 外なし 与五左衛門新田【燕市】
高八百九十弐石弐斗四升四合 家数百十六軒
一潰家五十九軒 半潰廿八軒内寺弐軒 塚野目村【三条市】
即死人三人 怪我六人 外三十六軒小破
高四十石四斗三升弐合 家数三軒
一半潰壱軒 外弐軒小破 古料 塚野目村【三条市】
高百六十弐石八斗四升弐合 家数十八軒
一潰家十三軒 半潰五軒 怪我三人 鶴田村【三条市】
馬死壱疋 外家なし皆潰 【「鶴」は異体字「靏」】
高弐百六石四斗四升四合 家数廿八軒
一潰家廿弐軒 半潰六軒 即死四人怪我三人《割書:外家なし|皆潰》鶴田新田村【三条市】
【後筆書入分】
かふき山師集めて山事斗祈祷神楽も銭かきめる夫か神慮に叶ふかしらんわけてにくいハ医者衆てごさる隣村へも
馬駕籠もだき
しれぬ病を呑込
皃に少し様体わる
いとミれハ人に譲
りておのれハはつし
匕の伝より口先
上手しろ人【素人】たまし
の手柄を咄し本二
ゑうりやく【要略】傷寒
論は若ひ時分二
習た斗たまに取
出しふく【復】してミても
闇のからすでわから
ぬゆへにきかす
さハらぬ薬の数を
たんと呑せて
衣服をかさり
礼の多少て病気
を遣ひ病家見廻
もうけむけ【有卦無卦】たてゝ
裏屋せとやハ
十日に一度
金に成のハ毎日
四五度されハ
医師衆の
掟といふハ銭や
金には拘ハるましく
人を救ふか
をしへのもとゝ
道のいましめ
守らぬわけハ
欲か深うて文
盲故に按摩
取迄夫見習
て近イ頃まて
上ミ下もんて
廿八文か通例成
にいつの頃にかいつく
の町も頓て八文
増したるかハり力
いらすに手拍
子斗少し長い
と仲間かにくむ
又ハ婚姻法事
の席へゆすり
かましく大勢
つめて祝儀
供養の多
少のねたり
ならぬ在家ハ
手余る噂去ハ
一々さかしてミれハ
士農工商儒
仏も神もくとく
詞に違ひハあ
らし天のいましめ今より
さとり忠と孝との二の道を己々か職分守り上を敬ひ下憐て常にけん約慈悲心深くおこる心を慎むむらハかゝる
【本文】
高八十弐石六斗弐合 家数十六軒 【↓三条市】
一潰家七軒 半潰五軒外四軒小破 即死壱人 白山新田
高百廿五石五斗弐升 家数廿弐軒 【↓三条市】
一潰家十六軒 半潰六軒外家なし皆潰 須戸新田
高四百三十弐石壱斗八升五合余 家数四十三軒
一潰家六軒内社家壱軒 半潰四軒外卅三軒小破 東保内村
即死弐人 同馬壱疋 怪我弐人 【三条市】
高四百三十八石七斗壱升六合余 家数四十八軒
一潰家十四軒 半潰四軒内寺一軒 西保内村
怪我弐人 外三拾壱軒小破 【三条市】
高六百四十五石五升三合 家数七十軒
一潰家六十八軒 半潰三軒内寺壱軒《割書:外家なし|皆潰》 中野中村
即死九人 怪我廿九人 即死馬五疋 【中之島町】
高五百七十六石弐斗五升壱合 家数七十壱軒
一潰家六十八軒 半潰三軒内寺壱軒《割書:内寺壱軒|外三軒小破》 中野東村
即死五人 怪我九人 即死馬壱疋 【中之島町】
高壱石三斗六升 家三軒 【↓中之島町】
一潰家弐軒 外壱軒小破 怪我壱人 栗林村
高四十四石弐斗五升弐合 家数十弐軒 【↓中之島町】
一潰家六軒 半潰六軒即死壱人怪我弐人《割書:外家なし|皆潰》 亀ケ谷新田
高廿三石壱斗七升壱合 家数十弐軒 【↓見附市】
一潰家七軒 半潰弐軒外三軒小破即死壱人怪我八人 三林村
高五十七石三斗八合 家数廿軒 【↓見附市】
一潰家十一軒 半潰八軒外壱軒小破怪我七人 小川新田
高四百十弐石七升三合 家数五十弐軒 【↓三条市】
一潰家八軒 半潰卅弐軒外拾二軒小破怪我三人 吉田村
高百八十七石四斗七升七合 家数四十七軒 【↓三条市】
一半潰家九軒 高札場潰外卅八軒小破怪我壱人 長嶺村
高五十壱石九斗四升弐合 家数六軒 【↓古料?三条市】
一潰家壱軒 半潰五軒外家なし 怪我弐人 吉田村
高六百四十七石七斗壱升弐合三勺七才家数八十九軒【↓中之島町】
一潰家八十壱軒《割書:内寺壱軒|社家壱軒》 半潰五軒外五軒小破 中野西村
社弐ケ所 即死七人同馬三疋 怪我三十六人
高百四十五石五斗七升弐合 家数廿五軒 【↓三条市】
一半潰六軒内寺一軒同湯小屋壱ケ所外廿軒小破 如法寺村
高弐百十四石三斗四升七合 家数三十六軒 【↓栄町】
一潰家廿壱軒内寺一軒 半潰十八軒内寺弐軒 矢田村
即死四人怪我五人外家なし皆潰
【後筆書入分】
かゝる困究有
まへものを神
も仏も天道様
も恵ミ給ひ
て只世の中ハ
来世末代波風
たゝす四海
泰平諸色も
安く米も下直二
五穀もミのり
地震所の町在
共に子孫栄
行末繁昌の
もとひ成へき
例しをあけて
かゝる此身も
つミふかき地震
つふれの掘立
小屋にしハし困
りて世の人々
の穴と癖と
を書し印置
筆の命も
やれおそろしや
やんれ〳〵
喜二叟按るに
右のくどきハ
取にたらざる
戯れなれとも
凶災によつて
所の難別又
ハ善悪に付
人々の邪横
の事を書たれ
ハいかにも江戸
抔からも天下の
さハりと成へき
事なとハ風説
のことより其
筋のせんさく
をする事と
是越後【口の右に追記】口説と
言て善悪
のせんさくを
是より顕ると
いへることむへ也
高弐百六十弐石九斗壱升 家数四十三軒 【↓三条市】
一潰家廿弐軒 半潰廿一軒即死五人怪我七人《割書:外家なし|皆潰》 袋村
高千三十七石六斗四升六合 家数百廿一軒 【↓栄町】
一潰家八十九軒同郷蔵壱ケ所 半潰卅三軒《割書:内寺|壱軒》 北潟村
即死六人 怪我十三人 即死馬一疋外家なし皆潰
高廿五石壱斗四升六合 家数十七軒 【↓栄町】
一潰家六軒 半潰十壱軒 怪我五人《割書:外家なし|皆潰》 鬼木村
高七百七石壱升四合 家数四十四軒 【↓栄町】
一潰家四十四軒 即死十弐人怪我十三人《割書:外家なし|皆潰》 貝喰新田
高五百四十三石弐斗五升四合 家数九十八軒 【↓栄町】
一潰家六十一軒 半潰卅七軒即死八人怪我十八人《割書: |皆潰》 吉野屋村
高三百四十四石四斗三升八合 家数五十軒 【↓三条市】
一潰家廿九軒 半潰廿壱軒即死五人怪我弐人《割書: |皆潰》 東鱈田村
高百五十六石壱斗七升四合 家数廿壱軒 【↓三条市】
一潰家十八軒 半潰弐軒外壱軒小破 西鱈田村
高弐百廿六石八斗九合 家数三十軒 【↓栄町】
一潰家十壱軒 半潰十九軒即死壱人《割書:外家なし|皆潰》 小古瀬村
高九十弐石七斗七升七合 家数廿五軒 【↓栄町】
一潰家九軒 半潰拾四軒外二軒小破即死弐人 同新田
高百十壱石壱斗五升五合 家数三十壱軒 【↓栄町】
一潰家十五軒 半潰十四軒外弐軒小破 中興野新田
高百十壱石八斗七合 家数廿軒 【↓栄町】
一潰家六軒 半潰十四軒即死弐人怪我弐人《割書:外家なし|皆潰》 千把野新田
高百八十壱石九斗八升八合 家数五十四軒 【↓栄町】
一潰家廿五軒 半潰廿九軒即死壱人外家なし皆潰 善久寺新田
高九十九石四斗壱升五合 家数廿八軒 【↓栄町】
一潰家十九軒 半潰十三軒外四軒小破即死壱人 渡前新田
高百廿六石三斗七升三合 家数卅八軒 【↓栄町】
一潰家廿三軒 半潰十五軒即死弐人怪我弐人《割書:外家なし|皆潰》 中曽根新田
高百八石壱合 家数十九軒 【↓栄町】
一潰家八軒 半潰十壱軒外家なし皆潰 岩淵村
高百八十八石四斗三升九合 家数廿軒 【↓栄町】
一潰家十六軒 半潰四軒即死三人怪我八人《割書:外家無シ|皆潰》 戸口村
高四百廿四【?】石五斗四升五合 家数三十九軒 【↓栄町】
一潰家卅四軒同郷蔵壱ケ所 半潰五軒《割書:即死五人|怪我九人》皆潰茅原村
高三百三十四石弐斗五升三合 家数七十五軒 【↓栄町】
一潰家廿壱軒 半潰卅四軒《割書:内寺 外|壱軒 十八軒小破》即死壱人怪我七人 大面町
高九十六石弐斗四升 家数十四軒 【↓栄町】
一半潰五軒外九軒小破 高安寺村
高百十石弐斗五升 家数十五軒 【↓栄町】
一高札場壱ケ所潰 半潰八軒外五軒小破内寺壱軒 小滝村
高廿五石九斗八升 家数五軒 【↓見附市】
一潰家弐軒 半潰三軒外家なし皆潰 黒坂村
高四十九石壱斗壱升六合 家数七軒 【下鳥新田?↓見附市】
一潰家五軒 半潰弐軒 怪我五人外家なし皆潰 下鳥新村
高六百十一石四斗壱升九合 家数七十五軒 【↓見附市】
一潰家五十六軒 半潰廿軒《割書:内寺|壱軒》即死七人同馬壱疋怪我廿人皆潰 片桐村
高百廿九石八斗弐升八合 家数十四軒 【↓栄町】
一潰家三軒 半潰六軒 外壱軒小破 小谷内村
高五十七石三斗四升九合 家数十軒 【↓見附市】
一潰家三軒 半潰六軒 外壱軒小破 田ノ尻村
高七十壱石八斗六升 家数十八軒 【↓栄町】
一潰家弐軒 半潰六軒 外拾軒小破 前谷内村
高千六十四石三斗六升七合 家数百十五軒 【↓栄町】
一潰家十三軒郷蔵壱ケ所潰 半潰四十五軒 帯織村
即死弐人怪我弐人外五十七軒小破
高六百五十四石六斗八升四合 家数百弐軒 【↓長岡市】
一潰家十四軒同郷蔵壱ケ所 半潰卅壱軒 古志郡福道村
即死壱人 怪我弐人 外五十八軒小破内寺壱軒
高百十五石三斗七升六合 家十九軒 【↓長岡市】
一潰家三軒 半潰六軒 外十軒小破 南新保村
右寄高壱万五千弐百五十八石九斗八升弐合余
家数弐千百三軒之内 《割書:古志|蒲原》両郡五拾五ケ村
潰家千三軒《割書:内寺四軒| 》
半潰家六百卅四軒《割書:内寺十四軒| 》外家四百八十弐軒小破
潰高札場弐ケ所 同郷蔵四ケ所 同社弐ケ所
即死百九人内《割書:男卅八人|女七十壱人》怪我弐百卅八人内《割書:男廿弐人|女百十四人》潰湯小屋一軒
右御届下之由右之通ニ付御本領同様御手切日数廿日之
内男五合女三合即死壱人ニ付鳥目五百文ツヽ被下置候よし
御本領潰家即死怪我人 蒲原郡
一潰家五十七軒半潰三軒即死十七人怪我十壱人同馬弐疋 道金村【燕市】
一潰家七十七軒半潰六拾五軒即死十一人怪我拾人 小池村【燕市】
一潰家三十六軒半潰卅九軒即死一人馬壱疋 横田村【分水町】
是より三島郡分【?】
一半潰七軒 砂子塚村【蒲原郡、現分水町】 一潰家三軒半潰六軒 野中才村【分水町】
一潰家二軒外小破数軒 五千石村【分水町】一潰家三軒半潰四軒《割書:小破|数軒》大川津村【大河津村、現寺泊町】
一潰家二軒半潰廿三軒 町軽井村【寺泊町】 一潰家壱軒山崩小破数軒 北野村【長岡市】
一山崩潰家壱軒《割書:小破|数軒》有信村【寺泊町】 一同上 田頭村【寺泊町】
一潰家壱軒半潰十五軒 刈羽郡之内長鳥村【柏崎市】
〆潰家百八十七軒半潰家百六十壱軒死人廿九人《割書:十人男|十八人女》【割書3行目】壱人僧
怪我人廿壱人 死馬四疋 山崩潰【痛ヵ】家三軒 堤破損六ケ所
右之通ニ付日数廿日之内男五合女三合死人一人ニ付五百文ツヽ被下置候由
御他領之分右【有ヵ】増 出雲崎御支配
一鬼木村【栄町】尾崎村【十日町市】皆潰 泉村同 芹山村【栄町】川西村【出雲崎町】加茂新田【加茂市】
一与板御領 与板御城下《割書:三分二潰|即死三十人余》野本村皆潰 平井村皆潰
中田村【与板町】中村【長岡市】槙野村【槙原村?】藤川村【三島町】中条村【三島町】王野村 皆潰
一長岡領 瓜生村【三島町】皆潰 下川根村【下河根川村?】中野村【吉田町】法華堂村【法花堂村、吉田町】
吉田町【吉田町】粟生津村【吉田町】高木村【吉田町】
一村上領 杉山村 杉名村【燕市】杉柳村【燕市】杉野新田 会【?】関村
太田村【吉田町】《割書:家四百軒之処|三分二潰》留木須村 井戸枚村【井土巻村?燕市】 地蔵堂町【分水町】 中嶋村【分水町】
熊ノ森村【分水町】 三条町《割書:凡家数三千軒程之処家六七十軒斗残り即死|七八百人余ニ有之趣怪我人不知数》
三条は市日ニて人立も多く店先に銭をつきなから相果又ハ
五ツ頃之事ニ付爐【いろり】の端ニ茶碗或ハ土瓶薬灌抔持なから即
死之分も有之痘瘡流行ニてある家ニて痘瘡子を中に
取囲ミ家内六人不残輪に成相果候よし右大地震ニて潰家
大造成事ニ付八方ゟ出火ニて中ニハ烟【けむり】ニ迷ひ煙死之分も有之
東本願寺へ懸所ニてハ願事参詣之者百人余も有候【之ヵ】処五十程は
即死寺中寺子共四五十人も即死又寺中の娘入口ニ倒居候て
助呉候様さけび候ニ付通懸りの者弐人ニて色々致候へ共不出候
ニ付右娘何卒殺し呉候様さけび候へ共刃物ハ無之色々と致候内
はや本家ゟ出火ニて出候事不相成たぶさを取出候処首引
ぬき候よし即死之分八百人余怪我数不知と申事ニ御座候
一新発田領 今井村 岡野村 丸山 中条村【中ノ島町】《割書:皆潰| 》中野新田【新津市】
下間村 西野村 島田村 今町《割書:皆潰| 》谷木村
一脇野町御支配 脇野町【長岡市】《割書:三分二潰| 》 新保村
一上野山領 上除 下除【長岡市】
一高崎領 抄木村【杣木村?燕市】 炭片村【灰方村?燕市】 大曲村【燕市】 一ノ木戸【燕市】《割書:皆潰| 》
一村松領 見付町【見附市】
右は三条辺最寄料〻にて外数百村有之候へ共未相知候
《割書:中野潟左衛門へ|清水源太夫ゟ》文通写
且又貴国之大変荒増申上候十一月十二日辰上刻大地震
町方初刈羽郡中不残大地割屋根石落二階落戸障
子柱折土台離【放ヵ】レ土蔵壁落北条ゟ塚野山への【之】馬
留顔出候由御陣屋内外共無別条越後一国之騒ニ御座候
得共御本領村々潰家死人格別之事ニも無之御無難同
様恐悦之事ニ御座候町方初刈羽郡中氏神へ祭礼いたし
祝いたし候 地震調出役《割書:御預所|蒲原郡》手塚甚大夫志田素蔵島潟許六
御本領《割書:刈羽郡| 》清水源大夫《割書:魚沼郡| 》竹内佐市《割書:三島郡| 》添田諸兵衛《割書:蒲原|郡 》《割書:斎藤伝兵衛|山崎差兵衛》
【上部追記】
乗邨云
北条より
塚野山ハ
魚沼郡
長岡小
千谷等の
海道也
右之通罷出候処十九日迄ニ追〻引取候調書上通り別紙上候間
御覧可被下候依之御本領御預所共ニ潰もの之家内日数廿日
之内男五合女三合ツヽ即死人壱人ニ五百文ツヽ御役所ゟ被下
置扨諸家様之騒出雲崎御支配長岡与板高崎新発
田村上池ノ端水原御支配椎谷脇ノ町御支配右之通ニ御座候
中にも高崎様村上様大分之御損毛ニ御座候由三条町人ハ哀
成事ニ御座候諸帳面等始着類諸道具等不残焼失誠ニ立
之儘【侭】ニて町中小路〳〵之死人ハ親子兄弟相分り不申未片付之
手当も無之小家懸之補理【しつらえ】も可致様なく鍋一ツ無之候へハ
食物拵手段無之右往左往にて生米を給【たべ】候由是ニハ役
所ニても御困之由三条町を中にして八里四方の内大地震余
【右丁頭注】「乗邨云/高崎は/上州高崎/領にて一ノ/木戸ニ陣/屋アリ/三条町ハ/村上領也」
は格別之事も無之候併何れも山之辺筋堤用水川大変ニ痛候
八里四方在〻町〻潰家即死人惣員数相知不申候追〻可申上候
多くハ 公儀御勘定方御見分御座候哉と風聞いたし候十二日ゟ
未タ少〻ツヽ之地震昼夜幾度と申事なく震申候前代
未聞之大変ニ御座候申上度事山〻ニ御座候へ共明日郷蔵所へ出
役あり取込大乱筆御高免可被下候下略
十一月廿一日 得左衛門様 源大夫
右本文之内有之別紙は前ニ有之と同事其内
一ノ木戸 右町御陣屋始皆潰死人余程之由未タ不数知
燕 町 右町皆潰死人三百人程
今 町 右町皆潰其上焼失 見付町 右町同上
脇野町 右町三分二潰 《割書:与板町|地蔵堂町》 同上
右大地震後越後ゟ参候ものゝ咄せしハ中〳〵右書面なとの様成事
にてハ無之所により地割之処へ家めり込候なとも有之一ノ木戸御陣
屋なとはハ年貢取立算入御役人不残出役之処俄家潰ニて御役人
始内実ハ即死も多有之由潰家ゟ之出火ハ村毎之様ニ有之
実ニ路頭ニ迷ひ往来之人ニ物を乞もの数不知中にハ富豪
と申位のもの共右之体ニ相成候もの有之由一国といへ共頚城
岩船両郡はさしたる地震ニも無之尤尋常の地震よりハ
強く有之候へ共家破損等も無之由左の絵図に有之朱点
之内通のミ誠ニ大地震にて人命ハ勿論家屋諸財之痛
捨たること事幾〳〵といふ数も不知よし希代の大変事也
別啓《割書:是越後長岡より一身田山内へ之文通之由坊官 長岡少進(服部逸八事)ゟ|石州殿へ参り小拙えも為見候様被申越候趣ニて石州殿ゟ被仰下【候ヵ】也》
其御地は昨年已来御別条も無之候哉委敷承度所希御座候
風聞ニて承候へ共【はヵ】九州辺幷三州辺等は余程変事有之候由随て
当越後国別て当長岡ゟ与板城下夫ゟ連〻下筋凡七八
里之間之場所旧冬十一月十二日辰ノ正上刻未曽有之大地震
ニて右七八里之間地所纔【わずか】弾指之間【だんしのあいだ=ごく短時間】ニ大地震動いたし所〻
之往来道筋によらす幅一尺位ゟ五六尺余ツヽ大地裂割候
其場所より赤き小砂又浅黄薄青色等之小砂或ハ泥土抔
地上へ二三尺ゟ五六尺又ハ八九尺一丈計も吹上ケ徃〻家〻の
井等ハ井底ゟ小砂泥土抔吹出し纔弾指之間に井の水
一滴も無之様ニ砂石等ニて埋り当日ゟ後十四五日又ハ所ニより廿日
位も其余爾今朝夕之呑水ニ困り居り候寒中殊ニ寒中井堀
直候仕合ニ也【てヵ】一同大困り之事ニ御座候田所なとハ元より低候故
水湛居候処傾【場ヵ】所ニより俄ニ高田と成り畑なとハ急ニ凹之様ニ低く
相成候処も致出来又ハ所ニより大地大ニ裂割長さ五七町も
其余も川筋之如く相成山崩等ハ申迄も無之長岡より追〻下
筋程夥敷地震ニて町〻在〻所ハ家立寺社所によらす又ハ潰
のミ又ハ潰之上出火ニて剰【あまつさえ】数百人潰家之出口を失ひ無是非
焼死之【候ヵ】族有之一昼夜之間ハ所〻方〻ニて火事有之誰有て
火を取鎮呉候族も無之戸〻之面〻只一同泣叫声のミ
天に響き誠ニ大乱世却来【きゃくらい】時至候と生居候人〻ハ肝を冷し恐惶
いたし候仕合ニ御座候扨又命を拾候族無難とハ乍申毎家ニ
柱之一二三本位又鴨居敷居等迦落町家ハ屋根石等ハ一ツも不残
実に雨を散〻降候如くに落屋根板皆〻振落候【しヵ】当夜に
至り少し雪降候処誰ニも致安眠候場所も無之且又辰上刻
程之大地震ニてハ無之候へ共当日ゟ五七日之内ハ地震の気更に
相止不申甚心遣ひ之事共故町屋始在方之家〻ニてハ夜ニ入
懸り候へハ誰一人とて家内ニ眠候族無之皆〻損候残之戸板
抔町中へ持出地上へ敷其上ニて夜を明し候仕合毎夜心を安シ
寝る族一人も無之有様ニ御座候拙寺抔ハ町家ゟ少しハ家作も
丈夫ニ有之候故夜分迚も表庭抔へは出不申家内不危場
所見立皆〻打寄相眠申候へ共塔中【たっちゅう】三ケ寺之族ハ五六日之間
ハ町家同様表庭ニ菰等之類相敷其上ニて雨雪降候節ハ
雨具等相用終夜を相送り候次第ニ御座候当城下ハ外ゟハ
少し軽き方ニて潰家等ハ聊【いささか】之事ニ御座候戸障子板戸等過半
用立不申様相摧【くだけ】候迄ニ御座候拙寺本堂抔漸一昨年立候処
屋根小破尤地形ハ余程裂割候右堂内之柱根ゆるミ随て
敷居抔用立兼候処も有之候へ共是等ハ中〳〵他之様子に対
てハ九牛の一毛申出も恥敷位之次第ニ御座候勝手住居向きハ壁
落申候柱等も少しハ傾き軒廻り附庇の辺ハ過半崩潰候へ共是
又他ニ比し申候へハ申迄も無之辱敷事ニ御座候土蔵ハ余程大損ニ候へ共
公儀へ書上候外ニて達し候迄も無之御座候も末寺ニ候中村慶
覚寺ハ本堂ハ大破ニ御座候勝手住居向ハ半潰ニて常時住居も
難自由之仕合ニ御座候故当城主ゟ御手当として御米頂戴百性【ママ】
家夫〻相潰之類又怪我人死人等〻は皆〻応分ニ御手当被下事ニて
一同難有奉存候右大変ゟ五三日之間ハ所〻方〻ニて無常之烟立上り
不尚も其砌【みぎり】纔【わずか】一日之内ニ母子両人ツヽ両所ニて両度致引導申候其
外其外【ママ】一人死之者ハ御門徒之内ニも六七人も御座候所〻村〻過半
潰即死多御座候所実ニ火葬所ハ毎日〳〵烟之絶間無御座夫ニ
寒初の窮【究ヵ】民別て村中過半余相潰候中にて相死候事故死骸
を沐浴致候処も行立不申剰【あまつさえ】棺等へも不入裸身ニて其儘【侭】筵【むしろ】
菰【こも】等に相纏申候て葬所へ相送申候此等の体故親類縁者迚
も近隣之族迚も誰一人野辺の送りいたし呉進【遣ヵ】し候人も無之只〻
施主家〻【之・のヵ】族と導師の者のミニて致送葬候有様ニ御座候葬
所へ至り見候へハ最早先ニ烟と立上り候死人数多有之一軒之家
にて二三人又四五人も致即死候誠ニ以目も当られ不申体筆談ニて
申上候も涙ニ咽候位ニ御座候然ル処当長岡町ハ先〻少しハ近在下
筋よりハ軽き方ニて拙山内一人も怪我いたし候族も無之只〻是
のミ難有大慶仕居候当所ゟ近在夫ゟ下筋ニ至り候程大変
ニて村〻里〻一軒も不残相潰又ハ消失等数多有之其辺ニて稀ニ
一命を免れ候族とても家財夜【?】具迄潰消【焼ヵ】失之之事故其砌ハ
食事等御【心ヵ】懸ニても一切無之皆〻五七日の間ハ餓果居命計之
有様実ニ餓飢道之苦痛も不外様子ニて実〻ニ恐しき事共ニて
御座候大変より十日計も相過漸地震之気味も失候半と少し
計安堵の意地ニ相成居候処如何様大地之気相成候哉其後夜と
なく昼となく或ハ一日ニ一度又ハ夜中ニ両度位計ツヽ当正月廿日
時分迄時〻地震之気有之候故人〻大ニ心遣致し居漸正月
下旬ゟ当月今日迄是と申震動も無之罷在候へハ何レ是ゟ
追〻地気相定已前之地気ニ相直り可申哉と喜居申候右様
大変有之時ハ雪降不申物と誰申共なく流言いたし候事
故皆〻只夫のミ飲居候処去十一月末ゟ時〻少〻ツヽ降候へ共散積ル
と申処へも多不参申罷在候処十二月下旬ニ至り廿六七日頃ゟ当正月
下旬頃迄手始共無之始終降積以之外大深雪と相成又〻家
潰候哉と一同心痛いたし候へ共先ニ正月来ゟ少しハ降も薄り【らヵ】き哉【此ヵ】
二三日は日輪の光も明かに拝し申悦入居申候上越後高田辺ハ当年
ハ大雪ニて昼夜埋ニて暮し居り候由ニ御座候へ共是ハ全体故大雪之処ニ
御座候去冬之地震ハ此辺ハ至極珍キ事ニ御座候初【旧ヵ】冬十一月十二日之大地
震は信州松本辺洗馬本山之辺ニても少し心計の気御座候由時刻
も同時也江戸表も同時ニ少し気味有之奥州二本松会津等ニても
地震之由ニ及承候乍去何レも当国ニハ及不申至て軽き事之風聞ニ
御座候種〻余事等是ニ付有之候へ共迚も筆力ニ及兼荒増御
話申上候間貴代御両所様始何方へも御同意ニ御吹聴可被下候尤左
之通之書上は当所ニて【重ヵ】役方ゟ借写し候【御ヵ?】供ニ入御覧候
私領分越後国長岡古志郡三島郡蒲原郡之内去月
十二日辰ノ上刻大地震ニて城内切破損幷領内潰家田畑破損
山崩死人怪我等之覚
本丸
一住居向大破 一三階櫓大破地形割レ 壱ケ所
一櫓大破地形割《割書:内壱ケ所地形割崩傾| 》 三ケ所
一多門大破 弐ケ所 一門大破 壱ケ所
一冠木門大破《割書:内壱ケ所石垣崩傾| 》弐ケ所 一塀倒《割書:卅七間| 》 一同大破百弐【二ヵ】間
一橋破損 壱ケ所 一橋詰石垣崩 壱ケ所
二ノ丸一櫓大破地形割傾 弐ケ所 一塀倒 七十四間
一塀破損 百卅九間 一門大破石垣崩 壱ケ所
三ノ丸一櫓大破地形割傾 壱ケ所 一同大破石垣崩 壱ケ所
一塀倒 九十間同大破二百八十七【五ヵ?】間 一土蔵大破 三戸前
東曲輪 一鎮守社破損 壱ケ所 一塀倒 廿一間同破損百廿六間
一冠木門大破石垣崩 壱ケ所 一柵大破 四十弐間
南曲輪 一門大破石垣崩傾壱ケ所 一塀大破 百八十間
一柵大破 拾八軒 一囲籾蔵破損 一棟
西曲輪 一御詰籾蔵破損 二棟 一門大破石垣崩袖塀傾三ケ所
一塀倒 百間同大破四百四十六間 一厩破損 一棟
外曲輪 一冠木門破損 五ケ所 一門大破石垣崩袖塀倒 壱ケ所
一塀倒 九十三間 一石垣崩五十七間 一柵倒廿弐間
一城内役所破損 五ケ所 一城内所〻地割《割書:但幅七八寸ゟ二三寸迄| 》
一城内住居破損 壱ケ所 一城外役所破損 三ケ所
一囲籾蔵潰 壱棟 一家中潰家 廿七軒
一家中大破家 百廿軒 同潰土蔵二戸前 同大破土蔵十六戸前
一足軽中間潰家百六十三軒 一同大破家 三十六軒
一社大破 三十四ケ所 一鳥居大破廿八ケ所《割書:内壱ケ所倒| 》
一潰社家 三軒 一大破社家三軒 一潰寺卅三ケ寺《割書:内壱ケ寺|焼失 》
一大破寺 四十三ケ寺 一城下町潰家十五軒 一同大破家四十四軒
一同大破土蔵 三百八十戸前 一蔵所大破 七ケ所
一番所大破 三ケ所 内潰米蔵 拾棟
一高札場大破 六ケ所 《割書:米蔵大破|潰役所》 《割書:八棟|二ケ所》
一同【郷ヵ】中潰家三千四百五十弐軒 《割書:内八軒|焼失 》 《割書:役所大破 二ケ所|潰蔵牢 二ケ所》
一同大破家四千四百三十九軒 同【門ヵ】大破 三ケ所
一同潰長屋 五棟 同潰土蔵 廿戸前 同大破土蔵十八戸前
一同大破新蔵 四十五戸前 一田畑荒所九百五十五町七反歩余
一道筋大破 二千七百卅三間余 一囲堤大破壱万四千二百九十六間
一樋水道大破 廿ケ所 一用水江埋壱万五千九十九間
一用水溜池大破 四十三ケ所 一山崩 六百六十五ケ所
一倒木 千八百四十六本 一落橋 五十五ケ所
一橋大破 七十壱ケ所 一信濃川岸港【隄?】崩八百十三間
一死人四百四十弐人内《割書:男百九十八人|女二百三十九人》【ママ】一怪我人 五百五十弐人
一斃馬 拾六疋 一怪我馬 四疋
右之通ニ御座候此外地裂砂埋山崩等ニて所〻変地仕収納不
相成場所も有之候へ共損毛高之儀は未相知不申間追〻可
申上候此段御届申上候以上 十二月
右は当城主ゟ 公儀へ御達書之写ニ御座候此外ニ与板城下
脇野町等始三条辺面立之場所等之大変極荒増之処写取
左ニ申上候与板城下町之分のミ左之通ニ御座候
一寺社大破 十一ケ所 一潰家二百六拾三軒《割書:内八十八軒焼失二ケ所ゟ出火| 》
一半潰家 八十六軒 一大破家 三百軒 一怪我人二百八十人
一死人 卅四人《割書:此外ニ与板領内所〻変易候へ共具ニハ承不申候故|不触其意候》
三条町
一潰家 千六百軒《割書:内千四百軒余焼失六ケ所ゟ出火此内一ケ所ハ当町に東|本願寺掛所御座候其本堂ゟ出火但本堂潰大地裂》
《割書:割其所より火気湧上り堂内ニ出し置候火鉢抔之火と相戦【?】申し本堂ハ|不申及惣して宝物類不残類焼参詣之人も何程死候哉不相知折節》
《割書:塔中之寺院ニてハ晨鐘之勤行最中にて別て参詣之仁多く有之候処寺|僧はしめ皆〻不残潰候上焼死申候其数等ハ他所之人も有之候事ゆへ》
《割書:しかと相知不申候| 》
一半潰家三拾軒《割書:当所ハ町家千七百軒|位之処ニて御座候》 一怪我人三百五十六人
一死人 三百八十五人《割書:右は当所之人数ニ御座候此外他所ゟ来懸り居候人〻何程|焼死候哉死人山之如くニてしかと相知不申候》
見付《割書:当国村松城主之領分ニて在町ニハ御座候へ共家数五百軒余|住候処ニて相応ニ賑申候場所ニ御座候》
一潰家 五百軒《割書:内二百軒余焼失|六ケ所より出火》 一半潰家 三十一軒
一怪我人 六十人 一死人 百拾弐人《割書:此内多分家潰出家ニて焼死之もの共|有之よし ↑ママ》
中之島《割書:当国新発田城主領内在郷町ニ御座候| 》
一潰家 百九十軒 一半潰家廿軒 一怪我人 数千 一死人 卅三人
今町《割書:右同断家数四百軒余之在町ニ御座候| 》
一潰家 三百軒余《割書:内百六間焼失| 》 一半潰家十三軒死人十三人怪我数不知
脇野町《割書:御料所ニて当時桑名侯御借支配ニ御座候| 》
一潰家八十六軒 一半潰家大破共四百軒 一怪我人五人 一死人五人
加茂町《割書:新発田領在町ニ御座候| 》
一潰家 十七軒 一怪我人 十人余
大西《割書:右同断 乗邨按に大西ハ御料所也新発田領と書しハ誤り尤以| 前ハ新発田領ニて有之候 》
一潰家 十七軒 一半潰家十一軒 一怪我人四人 一死人壱人
右之通旧冬十二月朔日聞合候分著損如斯御座候此外ニ寺社等
之潰等も何程有之哉風便ニは右体相潰又ハ焼失等ニて死人
怪我人等数多御座候由申候此外に在郷家之儀何ケ村相潰相果
候哉惣して八里四方の大変ニ御座候故夫〻聞合ニ及受【急?】申候右之外
所〻之領分も入交り罷在候へ共迚も筆勢ニ尽兼候極荒増し
処右ニて其余之処ハ御推量可被下候已上 丑二月十三日
右之書ハ越国御来寺より当山へ参り余り仰山之儀ニ付一寸
借受早〻入御覧ニ急書故御推覧覚之扣【ひかえ】抔御見せ可被
下候恩遠にへも奉願上候以上
右文中九州辺幷参州辺等余程之天変有之由及承と有之は
左之書面共之事也聞及候斗を爰に贅す
松平肥前守様ゟ御届有之旨為御知之写しの由
一御高札場潰十四ケ所
一御居城向都而及大破幷外構倒五ケ所御役所潰拾三ケ所
一御番所潰拾三ケ所 一同半潰九ケ所
一田畑七千七拾壱町五反余水下 一同八千三百七十丁【右に追記】九段余潮下
一同三千七百六十五町四反余砂入 一川土居切所壱万六千九百九十三間
一同半崩弐万弐千六百四十間 一汐土居切所壱万弐千二百五十弐間
一同半崩五百廿八間 一道崩三千百五十間
一石搦崩壱万四千弐百十八間 一山崩八千三百拾八ケ所
一井堰崩弐千七百十三間 一樋崩千七拾弐ケ所
一橋落弐千五百壱ケ所 一地籠崩壱万弐千三百丗間
一堤崩弐千八百六十四間 一潰家三万五千三百六十四軒
一同半潰弐千五十七軒 一潰土蔵三百五十三軒
一籾米潰蔵三十四軒 一流家千五百拾弐軒
一鳥居倒千六百弐拾壱 一破船弐千八百三十弐艘
一流失船八百十三艘 一焼失家千六百四十七軒
一倒木数不知 一怪我人壱万千三百七十三人
一横死七千九百壱人 一溺死弐千弐百六十六人
一焼死百十五人 一怪我牛馬千弐百八十七疋
一斃牛馬八百五十三疋
右之通松平肥前守様御国五月以来八月九日十日大風雨
にて津波等古来不致見聞嵐之由御届有之為御知
之書付之写し也河村氏へ江戸より来候由借用うつし置
文政十一子年八月九日子ノ刻ゟ亥ノ刻迄尤巽之方ゟ吹出し候
筑後久留米御領内御役所書上申候通
一家吹倒壱万五千九百廿七軒 一家半崩四千六百廿五軒
一出火城下ゟ在中迄千廿五軒但津波家流《割書:若津町|新地/榎津町》【上記実際は三行】六百廿七軒
一死人千九拾六人 一怪我人四万人
一牛馬死五千廿疋
御国中御領内
肥後壱番 筑後弐番 筑前三番 肥前四番
豊前五番 豊後六番 日向大風 九州大荒
筑前出火 城下五ケ所 家吹倒弐万五千軒 死人弐千五百人
八月廿四日朝寅時ゟ卯時迄在内ニて高塩【潮】津波筑前
博多福岡大津波家土蔵入船湊懸り損候事数不知
濱辺船流レ行方不相知事ニ候
右は子十月六日大坂親類ゟ菰野屋清六方へ来状之趣但
田作四分畑作三分と申来ル《割書:鶯宿云此書面不分明なれ共本書之儘|うつし置》
唐津小笠原様藩中桑原左平次方ゟ渡部氏へ
到来之内
一去ル九日夜半頃ゟ大風雨ニて拙宅塀共破損致し候御城内外
損所多く在中潰家五百軒余に御座候田方も余程あたり
米弐万余も御損毛可有御座候様子彼是風損多く当
勤柄ニては別而致心配候米直段三斗俵ニて弐貫弐三百文
位ニ相成候此上引上可申と奉存候同国之内佐賀領なと別而
大風死失人数多候由長崎も大風人死多く肥後様御用
船破損三十六七人長崎間【巾の狭い湾】之内ニて死失当年入津候紅毛
船長崎間之内稲佐と申所へ吹付られ船底迄見候之よし
右之船は平日本ノマヽ【右に四字追記】沢山這入候中〳〵【々】船拵底之様子なと見候事
ハ不相成候所此度は船横ニ成り初而底迄見候趣承申候
大風之次第中々難尽筆紙荒増のミ早々申上候以上
子ノ八月廿三日認
豊前小倉大風之噺
一文政十一子年八月九日夕方ゟ雨風強く東南風之処同夜寅ノ
下刻頃南風ニ相成夫ゟ至而列【烈カ】敷雨中ニ大ニ光西空中を
飛廻り小倉御城高塀大かた堀内へ打倒し近年御普請
有之候高矢倉馬返しニ相成外側は勿論御本丸共大破
損御城並木松悉く倒木枝折ニ相成枝折之分杭を
立たる如くニ相見へ候御城内御家中屋敷微塵に吹飛し
跡方不相見分凡四百軒余倒家八分通右倒家ゟ出火
所々燃上り鎮守石灯籠迄風ニて転候由猶又海中之儀
は大小之船碇綱一同ニ打切大浪ニ連レ陸地へ打上其辺之
人家も共ニ打砕凡船数三百余艘其外沖手之方なる船
其上ニ打重り共々微塵ニ相成候由人命之儀ハ数多之失ニ
及候趣人数不相分翌日江戸表へ早追御飛脚差出可有
之処近辺とても同様ニて船壱艘も無之俄ニ造作被仰付
漸早飛脚御差立ニ相成候由町家之義は瓦屋根之分無
難之趣勿論御城之儀は海辺へ築出し有之ニ付格別烈く
相当り候由承り申候翌十日午刻より町家之者火消組之
もの大勢入込殿様御通り筋御役所向道筋等取片付申候
先月十二日頃米直段壱升二百文之由ニて十日巳刻風和候よし
右は小倉御家中細野角左衛門と申仁昨朔日上下四人引戸
駕籠一挺鑓挟箱為持候て本町松本屋杢兵衛方泊ニて
承り申候小倉表を出立は先月十三日之由
一芸州広嶋辺同月同夜風雨ニて家中町家之儀板屋
藁屋之分不残破損併為差荒所も出来不申候よし
右は芸州様御飛脚より承知仕候由松本屋杢兵衛書付に見へ申候
一豊後杵築松平河内守様昨廿七日御止宿之処御同勢之
内ニて西国筋風雨損候所之儀承合申候処八月八日御国
許より御乗船九日御城下近辺ニ日和御見合候処同日夕方
より大風雨十日之朝風和【サンズイ有】候ニ付御出帆有之守江湊と申
所ニて順風御待合漸十六日同所御出帆廿一日大坂表へ御
着船御坐候よし
一七月二日大風雨ニて右御領分三万石余之処壱万石程田畑
水損猶又当八月九日夕かた大風雨ニて残り之分過数損
失いたし候様ニ被申候尤此段大坂表ニて御聞合候由猶又
中国路播州辺迄同様ニ荒所出来候由被申聞候
一中国筋海上ニて大船小船数艘破船いたし船人往来之旅
人類数多溺死いたし候由船中ニて被及聞候由
一所々湊ニて潰家及見殊ニ播州明石領分之湊にてニて芝居
小屋倒居候を及見被申候由
右之通承り申候尤御国元より乗船候儀ニて陸路之儀ハ慥ニ
存不被申候由被申聞候筑州様御飛脚ニ承候処長門下の
関湊ニて大船四十艘余も破船いたし人数百人程溺死
いたし候由小倉之儀及御聞有之候へ共委しくハ御咄無御座候
豊後杵築御領分七月風雨前は米一升五十弐文位之所
次第ニ相場上り御出立前にハ八拾文位ニ相成候由被申候
右之通承合申候ニ付此段奉申上候已上
文政十戊子年八月廿七日 問屋
中国路風損 以下△印迄大塚與六郎より見せ候書付也
一小倉様御国八月九日夕ゟ辰巳之風強く子刻前東風ニ吹
替り爆風次第ニ烈敷寅刻ゟ南風と相成厳敷事空
中ニ火の玉飛めくり御城高塀堀へ向ケ吹落候御高櫓
馬かへしニ成其外土蔵大損し瓦等吹上御城内松杦之類
倒木多く漸無事成ハ枝悉く折誠ニ杭を立るかことく
大破損場所多く御家中方数百軒程微塵ニ空へ吹天む
ら〳〵と飛めくる方半時斗卯刻ニ至り漸吹鎮り凡一時斗之
処歩行も難成子供老年之者即死多し町家板屋藁屋之
類は吹取餘は無別条湊ニもやい候大舟小舟悉く陸へ吹
付大破ニ打上り候ニ付綱なと押切猶々沖之方之舟共陸へ向
弥上ニ押重り微塵ニ相成候付陸ニ有之候人家数百軒同断
微塵ニ相成申候即死之類多く前代未聞之大風也小倉大守
公より江戸表へ御注進可有之処大小之舟悉く打砕御間ニ
合不申依之急ニ船造作被仰付右之船ニて御飛脚大坂へ渡
海有之候由同日長州下之関之湊大破損もやい候大船
悉く陸へ押付微塵ニ相成船頭遊女なと凡千人余も溺
死人家夥敷崩申候芸州様御国為差事なし木の
実類木の葉等悉く吹取候よし因州様御国無事
越前様大風破損中国筋破損多西国筋さしたる事なし
同廿四日西国筋風損
一長崎ニ掛り居候唐船三艘大津波ニて陸へ押上壱艘ハ山之
手へ波ニて巻上ケ巌ニて真中をつらぬき居候よし寺
院一里斗野間へ其儘もて行候由出嶋砂糖唐物
囲ひ土蔵悉く沖へ高波ニてもて行此外肥前佐賀
薩州大破損多し西国以之外風損有之由前文九日
大風中国筋ゟ西国へ向ケ何れと申事なく大津波来る
抔申出候俄ニ山へかけ上り候事度々人気立大騒動のよし
東国筋洪水
一六月晦日ゟ大風雨候処岡崎矢作橋上手堤百間斗
朔日卯刻押切人家六七十軒人数四五十人流失矢作
橋三十間程落申候
一安部川晦日大洪水ニてみろくと申候処人家多く流失往来へ
水上り府中宿大洪水先年薩州様御普請有之候場
所切込町中不残安部川ケ【々?】中多く人家流失
一大井川壱升七合目之大洪水金谷宿水上り八軒家出口
堤三ヶ所切込川越候共家数四五十軒流失村々大破損
何れにや山崩半途に止り居候よし
一澳津【興津?】宿沖の方高波打上り家宅捨置一同山へ逃登り
之由海辺続き村方同様併無別条東海道筋土橋板
橋悉く落幷松木倒多し吉田大橋斗無別条
天竜川東之方堤押切見附宿西中泉池田村へ向ケ
平一面ニ海のことく人家多く流失大破損切所多く往来
万能村より南之方笹原と申所へ舟ニて森下村へ向ケ乗
廻し小川伝へ池田村へ凡一里半程船路通行
乗邨之【云?】前ノ△印より是迄大塚與六郎より見せ候書付也
此後江戸往来及見聞候ものゝ噺を聞に中々此書
付なとよりハ大造の天変に聞之候予か桑名へ引越
之節未八月十七日江戸を立候か高輪あたりより大風雨
にて道中大難義なから其日ハ戸塚まて着たりしか其夜
甚之大風雨ニて宿中潰家抔も有之駅亭のものも
深く案し《割書:かまくらや|安行ゟ》立退呉之様ニ申しけるかかゝる風雨立退
とていつ方へ立退くやと尋けれハ土蔵之内へ入呉候様よ
もや土蔵ハ潰申間敷抔いふ内極先庭より見上る処に
鎮守の禿倉或ハ数寄屋抔ありしが極先へ吹落候其外
大木の椎の木なと吹折て予が宿したりし座敷の軒へ
かゝるなといかにも危き事なれハ家内も着替なとし予も
踏込着用立退可申段ニ成風も和らきし故立退もせさ
りしか翌朝は往来松並木数十本吹倒候前後へ往
来成立無拠滞留せしか戸塚ゟ藤沢まて二里の間
に弐百十本吹倒候御届せしと語りしか是は枝折レ甚し事
と見候予か数へ見候に吹倒候大松四十六本二里之間に
見へ候か大造成る松故人馬共に往来ならす漸二日めニ人足
のミ通るやうに成し馬駕籠は横道へ入漸藤沢へ出たり
しか馬入川酒匂川洪水ニて藤沢大磯も滞留やう〳〵
江戸を立九日目に小田原へ着たり其筋荒も大荒ニて
箱根山中ゟ伊豆へかけ夥敷人家潰道損候も有之
道中筋橋々ハ多分落たりしか今度の荒ハ駿州ゟ
三州まてハ又其時之荒よりハ甚しかりしと見ゆ間もなく
かゝる荒にて人家田畑の損失思ひやらるゝ事也
一文政十二年丑三月廿一日江戸大火之次第方角場所付
合印 御上屋敷□ 御中屋敷△ 飛火〇
土蔵之数凡八百二三十ケ所橋之数凡八十五ケ所程
御救小屋常盤橋外ニ一ケ所神田橋御門外弐ケ所
数寄屋橋御門外壱ケ所幸橋御門外壱ケ所八丁堀二ケ所
見て猶咄ニ聞さへさも恐きハ去三月廿一日朝四ツ半頃より西北
之風烈しく空一面物すこき折から外神田橋辺ゟ出火和泉
橋落土手下佐野様富田様細川様九軒町大和町豊嶋町
久右衛門町白川町橋本町岩井町松枝町馬喰町塩町横山
町吉川町米沢町同朋町柳橋両国辺不残橘町久松町辺
矢の倉山伏井戸濱町△小笠原様松平伯耆守様佐竹様
水野様幷御旗本様方不残外〇お玉か池小柳町平永町紺や
町地く本之マヽ【四字右に追記】岩元町冨山町一橋様□此通御旗本様方町家不残
小伝馬町牢御屋敷大伝馬町通り旅籠町大丸焼油町大門
通人形町通り長谷川町此辺不残〇と【右に追記】堀留堀江町小舟町小
網町通新材木町杦森稲荷乗物町冨沢町高砂町難波
町住吉町堺町中村座吹や町市村座人形芝居共葭町
泉町甚左衛門町銀座松嶋町△水野壱岐守様松平越前守様室
賀様戸田様近藤様牧野様本多肥後守様□酒井伊賀守様
横山様△酒井様横瀬様安藤様□戸田様松越中様とう
かん堀行徳河岸永久橋焼落△土井様松平伊豆守様久
世大和守様箱崎町北新堀御舟手御組屋敷此時永代橋危し
湊橋乙女橋落る大川橋濱町白銀町新川橋河岸川口町
此時風弥強く霊岸嶋一面ニ火さかんにて逃場ニ迷ひ難
儀なる事言語ニ述かたし誠ニ哀也同刻越前様御中屋敷
御舟手組御屋敷焼稲荷橋落鉄砲洲稲荷社より河岸通
本湊町△松平阿波守様□細川様松平内匠様同前舟松町
十軒町明石町向佃嶋不残幷大船五六艘小船数数しれす
〇東北風強く西神田須田町新石町鍋町鍛治町松田町
白壁町鎌倉川岸豊嶋屋迄焼龍閑橋松町冨永町【永冨町】
主水河岸今川橋白銀町向旗社十軒店石町本町瀬戸物
町本舟町安針町小田原町駿河町越後屋店不残宝町金
吹町両替町金座さや町釘店日本橋江戸橋焼落四日市
土手藏西河岸青物町萬町呉服町平松町音羽町通町
白木屋焼本材木町新橋此辺不残中はし南伝馬町大工町
桶町五郎兵衛町鍛冶町よしき町ときハ町柳町具足町
金六町竹町此辺不残京橋四方店白魚屋敷三十間堀
太刀【右に追記】売町弓町観世新道西紺屋町肴町弥左衛門町数寄屋
河岸京橋より通ハ銀座町尾張町布衣屋恵比須や不残
焼竹川町出雲町金春屋敷新橋ニて留る〇鍋町瀧山町
宗十郎町山王町さへき町かゝ町八けん【見?】町九や町此町家山下町
より土橋町迄西側残る□海賊橋落□牧野様九鬼様
小濱様坂本町かやは町薬師堂八丁堀□松平越中守様
幷御組屋敷不残焼北嶋町亀嶋町日比谷町同河岸古
着店幸町岡崎町松屋町松屋橋弾正様本八丁ほり
不残南八丁堀土佐様藏屋敷□本多下総守様
松平右近
将監様井伊掃部様中川修理大夫様□松平遠江守様小笠
原様△奥平様脇坂様築地柳原同朋町小田原町本
郷町寒橋△堀田様松平安芸様一橋様越中様南八
丁堀様□伊達紀伊守様新庄様松村町木挽町荒居
きの国橋紀州様御藏屋敷△松平周防様板倉様能登様
曲渕様狩野様□諏訪様△大久保様□柳生様仙石様
△本多様△溝口様田沼様□奥平大膳大夫様垣留芝口
西側通町家脇坂中務大輔様御用【?】屋敷ニて留ル又築地
△松平土佐様松下様松平飛騨様桑山様青山様稲葉様
本多弾正様秋田様木下様亀井様畠山様△朽木様
西尾様津田様戸川様□永井様三浦様△松平内藏様
此辺御旗本様方不残西本願寺御坊地中不残焼向築地
阿部様村垣様□稲葉様二軒共尾州様御藏屋敷ニて留ル
扨去ル廿一日朝巳之刻ゟ出火翌廿ニ日巳ノ刻迄焼殊ニ風烈く
人々東西南北を取失ひ親を捨子ニ放レ哀成事筆紙
に尽くしかたし末代之咄の種しるすもの也
町数凡千弐百町程死人凡一万余人之よし
一右の火事さまを北村季文様御よミなされ候よし
吹風の上にこかるゝおもひやなひくけふりの末の里人
一此度大火之書上候由只今披見仕候ニ付御咄之種ニ懸
御目申候
【本文上部の注記三行】
乗邨按ニ
是ハ芝牛町より
出候火事也
〇文化三寅年三月四日大火《割書:長サ弐リ半|幅 七丁》
此坪数弐百廿六万八千坪
〇文政十二丑年三月廿一日大火《割書:長サ壱里|巾 廿町》
此坪数弐百五十九万弐千坪
差引三拾弐万四千坪多し
一大名屋敷四十七ケ所 一御目見以上屋敷弐万丗八軒
一御家人 五万六十八軒 一表裡町人十七万七十五軒
一神主 三十九軒 一寺 三ヶ所
一土蔵焼失町方斗千三百廿九ケ所但武家屋敷除
一旅宿 三百五十弐軒 一橋数四十九ケ所
一町数惣〆三百九十弐町 一辻書所廿五ケ所
一非人小屋千七百十九軒
一焼死人引取無之候分九百余人 但武家屋敷除
右は此度御町奉行所御改書上之由水死人不数知
此書付ハ河村氏へ江戸より来りうつし置
右の大火災之事ハ誠烈敷事之由中々書付抔ニて見候様
なることにてハ無之既此度右大火災に逢し人々桑名へ引越
にて聞伝る咄しより事の大こと之成ハ此火災にや随分手当
宜しき土蔵まても武家町家共にあまた落たりとそ既
御屋敷にても八丁堀築地両御屋敷内ニて土蔵七八ケ所も
落殊更に御武器蔵辺且御小納戸蔵等も落御長器【?】之類も
多分御焼失候由 守国院様御高名ニて御集め被遊し御
道具類も多分焼候と承りいたましさの甚しき也御家中も
八分通りハ丸焼にて少しも残りしハ稀のよし当御屋敷は享
保のはしめ御類焼有之より是まて御火災無之他よりも此方
様ハ焼ぬもの様に申ならハし既火事の時ハ御屋敷前へ
道具をはこひ置すなりしにいかなる時か来りけん四御屋敷
共におなし春の内に焼侍るハ誠に時節到来共いふへしや
され共かゝることハ外御屋敷にハ毎度聞しことなれハ我御屋敷
のミとハ思はましけれとも 守国院様御病気御大患
中といひ無是非次第也 御惣容様あたこ下隠州様
御屋敷へ御立退夫より隠州様三田御屋敷御借受
若殿様にハ薩州様高輪御屋敷御借受にて御夫婦様
共に入しをられしか九月丗日にハ又三田へ入しをられしとそ
一旦ハ御家中家内四家内も五家内も相宿にて実に詞
にも述かたき艱難にて有之ともよく〳〵の事にや三田
御屋敷へ
少将様初て被為入御屋敷御廻之節
男子七ツ八ツ位迄御長屋へ罷【?】出居候よし
御意之御趣意
一統さも〳〵難渋ニ候半色々配慮もいたし候へ共大勢之事
故存候様にも不行届家内共ハ別而難渋致し候半
何分ニも辛抱致し呉候様頼候病人共手当も申
付候得共是以思ふ様ニも不行届其内ニは追々普請
も出来候へは又本之様ニ入て可遣随分辛抱いたし呉候
様頼候疾ニも見廻遣し度存候へ共御看病中故延引
いたし候漸今日参り見廻事ニ候 四月十四日
右之通冥加恐しき難有 御意之趣にて子共へハ夫々
御菓子なと下し置れ候由会津様綱坂屋敷松平紀伊
守様三田御屋敷御借用最初ハ真田様御屋敷御借用にて
御家中夫々分数住居之処又候赤坂辺ゟ出火ニて真田様
溜池御屋敷も御焼失右御屋敷へ参候分ハ二度之類焼
にて八丁堀築地にて焼残り候分を又焼候ものも有之
誠ニ時節到来とハいへとも無是非次第也四御屋敷御焼失
といふハ【右に追記】当丑二月十六日大塚御屋敷も御焼失ニて有之其火
事ハ左之通のよし飛脚屋ゟ注進書
丑二月十六日申ノ中刻頃関口台町豆腐屋ゟ出火折ふし
大南西風ニて同所松平大炊頭様御屋敷不残焼失夫ゟ
音羽町三丁目台へ飛火有之音羽町五丁めゟ一丁目迄不残
両側護国寺門前通青柳町東西不残焼失夫ゟ大塚
坂本町両側同所波功不動寺通玄院同仲町本伝寺横
本伝寺焼失 御当家大塚御屋敷幷松平大学頭様御下
屋敷池田甲斐守様御屋敷夫ゟ安藤対馬守御中屋敷夫ゟ
氷川台巣鴨火番町武家御屋敷町屋共此辺不残同所
稲荷横町大原町同所稲荷前通り永岸寺稲荷社共
不残焼失夫よりすかも御かこ町通り松平加賀守様御中
屋敷前通り大久保加賀守様加納大和守様御屋敷駒木根様
御屋敷藤堂和泉守様御下屋敷西福寺向寺町通り焼失
夫ゟ西ケ原六あミた無量院同所御用屋敷宮下当村
廿軒斗焼失平塚明神飛田村百姓家焼失凡一り半程
焼同夜子ノ刻頃火鎮り候事のよし去子年ハいか成ル悪年
に歟西国筋をはしめ東国北国大風津波大地震等にて
国々損地夥敷事のよし然るに尾勢辺ハ餘国にかハり
作物も豊饒ニ聞へ候当春四御屋敷共御焼失ハ御領地の
津波大破損にハ引くらへてハまだしもよろしかるへきにや去今の
天災いつ方も逃れさることゝいふへし
植木うへやうの伝
木を切るに多きなる根ハ切ても害なし細根ハ少しにても切へ
からす根のまハり太とく広く堀へし小根をきらせじとなり
尤根髭を切る勿れ凡木を堀にも奴僕に任すへからす
自見て教へし然らされハ根を多く切ゆへ木いたむ植る時ハ
土をつく事実ならずして枯やすし根盤の土なきハたとへ
ハ其形蜘蛛の足のことし其下必虚也植る時に根の下に
棒にて土を能入へししからされハ根の下空虚にして土なしいまた
植さる前に堀たる処に水を多くそゝきて土を潤して実
にすへし根の先のさかる様に植へしあがるはあし也【?】只根の性に
従ふへし植終りて土を半くたしまハりを能つきかためて
後又土を置へし必す根盤の宿土をつく事勿れ踏ことなかれ
植て後水をそゝくへし初めより水植にするもよし植おはりて
まハりに竹木を深くたて縄にて結付へし風に動かしむへから
す長き木ハ二三所結付へし風にうこかされハ大木も付安し
風にうこけハ小木も枯安し又枝葉の多きをいむ枝葉
少なけれハ養ふ所多からすして根の生気達しやすく且又
風にうこかす根きれて梢高き木ハ梢を悉く切捨へし
惜へからす大木を植るにハ其根盤を大にし其枝梢を尽
く去て植へしつき安し植て後二三日に一度水をそゝくへし
半月にしてやむ春植たる木ハ当年の夏覆をししば〳〵
水をそゝぐへし然らされハ枯安し花ある時に木を移し栽
る事なかれ枯やすし
一父曰凡果木を栽るにハ先九月中の後樹のまハりを堀て
縄を以てまハりをからけ堀たる跡にハ肥土を入水をそゝくへし
次の年正二月移し栽へし植る処広く深くほりよき頃にたゝ
しくうへ土を半入る時棒を以て土をかたくすへし上に和ら
か成土を加へ地面より二三寸高くすへし土を木の根に
甚高く置へからす雨ふらさる時ハ毎朝水をそゝき半
月にてやむ又曰凡菓樹を移すには穴を広く深く堀先
乾糞と土とを水にとゝのへてうゆ次日又土を根に覆へし
若根に宿土なきをハ深泥の中にうへて引あけて能ころに
栽れハ其根のひて付やすし必又ニ三日の後に水をそゝ
くへし木を動かすことなかれ
一凡諸木を栽るに下弦の後上弦の前よし《割書:下弦ハ廿二三日なり|上弦ハ七八日なり》
地気【右に追記】ハ月に隨盛也潮を見て知へし気盛なる時木の生気
全く枝葉にありかるかゆへに移せハ其性をやふるつく時は
其気を失ふ凡そ樹を植るに根盤の土多く付たるか花よし
土をおひすして根のあらハれたるハ堀て其根に風日のあたら
さるやうにしてはやく植へし付安し若風日あたり堀て久く
置根かは付はハ生かたし又其地にあらすして是を栽れハ生せ
すといへり凡樹を栽るに其土地に宜しきと不宣とを詳
にすへし此土地によろしからさる木を栽れハ長茂せす長して
花咲ず実のらず実あれ共早く落山中ハ柿栗柚梅
林檎等によろし橘柑よろしからす海辺及砂地にハ蜜かん
金柑梨花柚等よろし柿栗柚なと不宜山によ
ろしき物ハ砂地によろしからす砂地によろしき物は山中によ
ろしからす松梅ハいつくの地にもよろし橘の類及蘇鉄ハ
寒国に宜しからすして暖国によろし信濃にハ茶なく
竹なし北国にも茶なし竹ハ有といへ共甚だ少したち花
くねんほの類北国になし是寒国によろしからされハなり
【右行上部に以下六行の注記あり】
乗邨按二
北国に茶
なしといへとも
越後にハ
こと〳〵く茶を産すしかもその国の水によくあへり出羽にハ今に茶なしと聞侍り
春夏植る木は根少し切たりといへ共其根早く生し安し発生の
気盛なる故也秋冬栽る木ハ陽気少なき故きれたり所
の根生せす枯安し常に葉ある冬木ハ夏うゆるもよし南
より北に移せハ多くハかる移して後猟月根のかたハらの
土を去麦ハらを厚く覆ひて火をつけてわらを焼本
のことく土を厚く加ふへし移して三年も過すして実なる
若年々此法を用れハ南北ことならすたとへハ人の身に灸す
るかことし又木をわかちうゆるに八九月の間本根のそばか
二三年に成新木あるを其根の土をかきのけ竹刀二て
其本根につゝきたる根を切へし鉄刀を用へからす又其
根の髭を損ふへからす肥土黄土に移し植へし又曰木を
分ち植るにハ樹木の根に小珠を生するを本根につゝき
たる所を切たちて其儘置へし先堀移すへからす次年に移
し栽へし活安し盆に花草をうゆるに下の穴を広く
穿つへし狭けれハ水湿留まりて花草栄へす或は枯
安し蘭ハことに湿を恐る底に小石或ハ河ノ砂を入へし
水湿もれ安し草花の根を分ち栽るにも正月よし
たゝ牡丹芍薬のミ秋うゆへし凡草花の白きと赤とハ
一所に栽まじゆへからす別所に植へし一所にまじへ植れは
白きハ必枯るゝ也蓮杜若あやめ けい(本ノマゝ)なとの紅白ある
花ミなしかり
一石灰にて小池を作る法庭中水なき所に小蓮池を
作るにハ唐臼土《割書:能干て細かにふるひて一斗是稲の籾をする臼に用る|ねば土なりぎち土ともいふ》
石灰《割書:若所によりて石灰なくんハ蛤粉もよしふるいて一斗但石灰尤よし|蛤粉ハはまくりのからをやきたる也かきからも用るなり》
白砂《割書:こまかなるをふるひて三升或ハ|水にて洗ひこして用ゆ》塩弐升右四種一に合せよくま
ぜてふるひ合せ大桶の内に入湯をかけてこね少しやハらか
成程にして間二日程をきて少しヅヽ臼に入能つき交和合
さすへし其こねかげんハうとんの粉をこぬるかことくこねてよし
但こねて三日の後ぬるへし即時にぬれハ和合せすして破れ
安し故に初めハ和らかにこねて三日の後しめりあひて右の加
減に成かよし先池をほりてまハりと底とを能たゝきかため
其上を赤土にてぬる赤土ハ性ねバりを用ゆ赤土も細か
に砕き水少しくわへてかたく和すへししるけれハ干破てあし也
赤土も水をかけて俄にぬるハあし也水に和して後二三日も
よくしめり合て後ぬるへしよきころにこねて池の内二寸
斗しきまハし又能たゝき付て其上を右の石灰を合せたる
土を以てぬる其厚さ一寸以上よし薄けれハ損し安し蓮
池ハ深さ二尺余杜若くわいを植るにハ一尺二三寸二てよし
或は泥の上に水を深くたくハへて魚を養ふにハ二尺五
六寸よし既に石灰にてぬりて鏝を不用上に日覆して
置其即日か翌日か少しかたまりたる時水を池に十分に満
るほと入置五六日過て水を去り新水を入又十日程過
て後水を替新水を入凡三度水をかへ塩気尽る時水ヲ
去泥を入て蓮杜若あやめ葛賊なとを植水を入或は
魚を放へし池のめくりにハ石を置て石灰を石にぬりかけ
てよし北ふさかり南に向へる所よしはけしき寒風にあたれ
は石灰崩れ安し
一樹木の種を植るによく熟して実の入たるを用へし垣の下の
陽に向へる段なる処に深く広く穴を堀牛馬の糞と
土と等分に合せ穴の底に平に敷実のとかりを上にして
うへ又右の糞土を以て上を覆ふへし一切草木の種子よく
実のいり能熟したるを取てふくべ或ハ瓶に入て高き所に
懸置へし凡草木菜蔬皆種をまく時に及て遅からし
むることなかれ又甚早きもあし也種を蒔処ハ高きかよし種
をまく時ハ必空晴たる時よし雨中宜しからす三五日の後雨
をうるをよしとす種まきて後日照れハ生せすしきりに水をそゝく
へし種子をうゆるハいまた植さる前に地を堀返熟耕し
うねおもてを平直にして塊を細かに砕き慢種するには
糞を慢散して乾し粗其上を浅く耕すか如くにして
種をうふ漫種せすして溝種するにハすちを浅くほりて
其溝に糞を敷然して後植てよしいつれも種に糞土
をませてうゆ或物によりて其上に少土をおほふへし種を
まきて生しかたき物は盆に細土を入て植へし土を多くお
ほふへからす生長して後移し栽へし実の細かなる物ハ土を少し
もおほふへからす種をまく所のまハりに草木なきかよし
一挾枝とり木の法樹さし木をするにハ正月の末尤よし二月も又
可也物によりて萌芽の遅く出る木ハ三月もよしめたちの前
よし先肥土を和らかに細がにして畦をなすへし或ハ田土赤土
のねはきハ尤よし凡こえてねはき土の少湿有所よし小石
と土くれをさるへし水をかけて地をさため木の芽初て生せん
とする時梢の肥てうるハしき小枝を長さ一尺余に切て本
末を馬の耳のことく片そきにそきて先別の小枝をもつて
土をさす事さゝんとする枝の半分過さして其跡にさすへし
其後土を置まハりをかたくつくへし毎穴相去事一尺
はかり上に棚をかけこもをおきて日を覆へし又折塩【樹陰?】にも
さすへし日にあたるをいむさして後四五日に一度必ず水を注くへし
一月の後はまれに水をそゝくも害なし冬ハ霜覆をすへし
長するを待て移し栽へし又二月の雨降とき萬の木の枝
をさせは生す又二月上旬に諸の菓木等の枝を芋か
大根蕪にさして地に埋めハ生す子をうふるにまされり
一樹の枝をさす法枝のもとを馬耳のことくそきて白斂
の末と黒土とをすり合せそきたる処にぬりてさすへし
先下に石を敷其上に土を置さして後まハりを土二て
つき立へし必活く凡そさし木ハふか深く土中に入へし土より
上の枝長けれハ生しかたし土より上を短くすへし枝葉多
けれハあし也樹枝をさすに枝のきハにこぶのことくなる所あり
其所を用てきりてさせは其こふより根出て必活く梅【桜?】
にことに多しかやうにすれハ梅もさしてよく活く
一さし木の土拵やう赤土黒土沙焼酒の粕右等分に和
合し水にてこねて是にさし三四日に一度水をそゝくへし
早く根生す又木をさすに三月上旬菓木の直成よき枝
手の大指の大さの如く成を長さ五寸斗に切て芋頭に
さして土にうゆ或ハ大きなる蕪の根にさすもよし又春花
半開く時枝を切て大根にさして土を花盆の内にみてゝ是
をうへ時々水を澆花過れハ別根生す
一壓條ハ本樹の下枝の土に近きを半分切て引たわめ木
風釣子をかけ置其枝の高下に随て肥土をよせ其枝
上にも土を五指のふかさほとかけ枝の本の半分にハ土を
かけ末のかた半分にハ土をかけすしてあらはし置へし肥水を
時々其枝の土に澆くへし梅雨の時枝葉茂りて其枝に
も根必す生す次年春葉はしめて萌とき本根に連
なる処を切て九月中の後移栽へし
一又春分已後木をつぐへからす夏至已後木を栽へからす
又正月上旬梅桃杏梨李棗栗柿楊梅をつぐ
べし二月上旬橙蜜柑柑柚を接へし金橘尤遅き
かよし今案するに木をつぐに時節是を守るへし凡木
をつくにハ花の前と芽の前をよしとす木を接に生意【=生気】
既に動きていまたかたち出さる時先たゝす後れすして
つき安し老木大なるハ高く切て接へし小きハひきく
継へしつがんとする時つぎほを口中にふくミあたゝめて
生気を助くへし
一接木の臺高きハつきほ長く切て其本をさし木のことく土に
さして末をつくへし
一或人曰木を継に成程臺をひきく切てつき客木の隠
るゝほと土に埋てよし
一桑の木に揚梅をつけハ不酸又桑に梅を接は酢から
すくわに梨をつけハ甘美なり
一胡桃͡の枝を楊の臺につけハつき安くはやく実のる
春の社日にくた物の木の下をつきかたむれハ実なりて
落す又みのらざるもかやうにすれハみのる
一花の多からんことを求めは十一二正月の間そのきのねに肥
土を三寸か五寸か培ふへし睦月ハ土かふへからす
一凡そ草木に虫の付たるにハうなぎの煮汁を澆くへし又よし
ミ桑といふ木の葉をせんしてそゝくへし又黄樹下に蚓穴
あらハあひるの糞或ハ灰水をそゝくへし
一樹の虫を殺すには硫黄を能細末して河泥少し斗和して
虫の穴をあまねくふさくべし又硫黄雄黄を用て烟と
なして是をふすへてよし或桐油の紙を用いて火に燃し
て是をふすふへし木に其虫を生するハなまくさき
魚の洗汁を根にそゝぎ或ハかいこの糞を根に
埋むへし或ハいりこを木の枝にかくれハ虫死す
一桃の臺に杏をつけハ実をむすふ事紅にして大なり
この木命長し桃にハ似す
一春の中節ある枝を打て肥土にさせハつく又実をまくへし
はやく長して花咲実のる
一滓水をそゝけは来春花盛也高き梢にハ多くハ実
のらす花さかず枝をたハめ石を多くくゝり付て枝
ひきくなれハ実のる下枝を切へからす尺にして花咲さ
るハ切て継へし
一又曰牡丹を継法芍薬の根肥大にして蘿蔔のことく成
によき杜木の枝に芽の有をとりて三四寸に切けつり
てのミのかたちの如くにして芍薬の根の口をわりひらき
さしはさみ肥たる泥土を以てきひしく培ふ事一二寸成へし
則つく又法ひとへのほたんの根上二寸斗枝にうへより切よき小
刀にて半分そきさりよきほたんの若き枝にめたち出
へき所三五あるを一枝是又半分をそき去右の臺と
一に結合せ麻にてかたくからけ泥を以て麻の上をぬり外
にハ瓦を二たて合せかこミ其内に土をうつミ来年に至り
て瓦をさりこもを以てつゝむへし是牡丹をつぐ法也
又牡丹冬ハ菰を以ておほふへし冬至の前後生乳粉と
硫黄とを末にし根を堀ひらきてまハりに置へし来春
花盛也栽る時ハ白斂の末を土にませてよし虫くはず
虫くひたる穴にハ硫黄の末を椙の木を釘のことく削てさし
置へし虫死す穴ある所より折て虫を取へし地肥たる所
ならハ糞を置へからす又油かす抔置へからす麝香桐油漆気
なとを嫌ふ根のまハりに草あることをいむ又まはりを踏へからす
又つぐにハ八月社日後重陽の前よし植るにハふる土を
さりあたらしき細土を用ゆ一枝より数花生するハ小を
えらひてさり只一二花をとゝむ花落てはやかて其茎を
切去て子をむすばしむる事勿れ老安きをおそる
ひとへの牡丹の臺に千葉の牡丹を継へし又曰根下白斂
の末をつけて虫を去虫穴の中に硫黄を入れハ虫を
殺すいかのこふを其葉にはさみ必枯る竹木を植る
にハいつれも古土を付てよし只牡丹ハ古土をとゝむへから
す秋冬の間肥土を用ひて根のまハりの宿土にかへて
【参考:洛陽牡丹記】
よし如斯すれハ来春花多くして盛也芍薬も同し
一牡丹の実を植る法先五六月の間兼て日かけの肥たる地
を拵へ置七月已後能牡丹の実熟してからのさけんと
する時取て地に早くまくしけく蒔へし実を取て日
をへたて蒔へからす実かはきて黒く成たるを蒔ハ百
一も生せす蒔て後時々水をそゝくへし糞をいむ
又和俗の説に九月に地上に牡丹子を二つならへ置其
上にかはらけを一つ覆へしいくらもか様にすへし来春
白根出芽生する時かはらけを去へし十に八九ハ必す
生す又七月初の頃実の熟したる時取即直に蒔へし
一粒ツヽならへて其上に大きなる蛤のからをおほひ置二月
の中頃はまくりのからを去へし蚫のからもよし春つほミの
付たる時始より目きゝして十の内三四ハ花開かさるあり
夫をはやくつミ去へし残れる花の勢力をうはハすして
よし芍薬もおなし牡丹の莟多く付たる時其中の
かしけたるを去るにハつほミの上の方を半切去へし
つほミを全く切へからす精気のほらす大網とす其
うち品色多くして数百種あり
一つゝしのさし様林下の木のはのくさりたる処の肥土を取て細末
しふるひにてふるひつゝしの枝を三四寸程にきりて右の
土にさすへししば〳〵水をそゝぐべし日覆し或ハ日影に
さす必活く又田土を用て日かけにさすも可也五月雨の
中に日影にさすへし八月に日かけにさせハ必活く来春芽
を生す又新芽の長してのひたる時よし
又当年の新枝を短く切てさすへし節気の遅速に依
て五月の半或は下旬六月上旬なるへしふる枝あし也
一白芨紫と白と一所に植れハ白ハ枯るゝ別所に植へし
秋の頃分ち植へし小便をそゝくへし陰地を嫌はす
樹下にもよし一所に多く植てよし
一石竹去年うへし古根よりする生するハ三四月に花開き古根
三年に至れハ栄えす多くハ枯る年々蒔てよし種を
まくにハ二三月の頃和らか成地に砂に寄てうすく蒔
へし苗茂くハはぶき去へし肥の上にまけハ生す唯
やはらか成熟土に蒔へし後に移し植へし春種を蒔ハその
年に花ひらく但し春蒔ハ苗生して多く蠹食す
六月の末七八月に蒔ハ蠹なき故長し安しそれは来年
三四月に花ひらく凡石竹ハ実のりて後茎のいまた枯
さる時に刈されハ其根かれす若茎枯ハ根も又多くは
かるゝ故に早く刈へし刈て後苗生せは十二月の頃又刈
去へし来春の苗盛也毎年必根を分て改うゆへし茂
生す春より毎月まけハ秋の末まて花たへすこやしハ
泥水小便なとよろし春苗長してみたれやすし籬を
ゆひてはやく扶立てすへし遅けれハ茎花乱雑なり
盆にうふるもよし
一芍薬を植るにハ八月に根をおこし土をさり竹刀二てわり
細根をやふる事なかれよくありつきて後人糞を澆
ハ来春花盛也三年に一度分つへし又十一ニ月に鶏
糞に土を加て培へし花のとき筿竹を立て扶くへし
傾き倒るゝか為也雨ふらハ簾を以て覆へし花速かに
落す花落て後茎を切去て元気を根にかへらしむへし
一芍薬春は糞を置へからす又霜ふらんとする前にて糞
にひたりたるわらを上にかくれハ霜に痛ます茎多きハ
痩たる故也肥れハ茎少し茎多きハはやく切去て減
すへし花多し又花繁くハつミ去へし不然ハ花よからす
花下の小枝を多くつミ去へし精力を分つへからす花
落て後細刀にて茎を切へし如此すれハ根に精気早く
収まりて来年栄へ花さく花過て茎をねちてまけ
置へし芍薬ハ甚湿をいむ又鉄をいむ茎を切には
鉄を用へからす根まハりを掘に鍬の根に当たらさるかよし
一石楠花肥る事を好む糞を澆へし実を結ハざる
にハ木の股或ハ根に石を置へしさす法直なる枝指
の大さの如くを長一尺斗に切下二寸をやき穴をふ
かくつきてさすへし枝の頭を二寸程出してさして後
水を澆へし
一百合二月にうゆ蒜を種【植カ】ることくすへし鶏糞宜し
居家必用云うゆる時行をなしならへうふへし糞を
置水を澆へし五寸に一科後にしげくハ別畦に移し
うふへし乾かハ水をそゝく三年の後大さ盞のことし年々
つゐてをなしてうふへし絶しむへからす毎_レ坑ふかさ五六寸子
を取てうふるもよし四辺の草をさるへし或ハ三年に一度
堀出し所を替てよし緋百合なと年々土を替て改植へし
然らされハきゆるひゆりの種をまく法地をかたくして其上に
実をしき上に土をおほふへからす土をおほへハ生せす風の吹
散さんことを恐れハ上にわらをおほふへし凡此類の実
をうゆる法皆是におなし
一前に秋羅嵯峨の仙翁寺ゟ出たる故に名くといふ秋
花咲がんひよりまされり此品類も又近年多し世人
賞す毎年土をかへて改植へし然らすハ栄へす消安し日影を
好ミ糞を恐る肥土にて塩水を澆くへし鶏糞にて
こやすへし又樹下に植てよろし小便をそゝくへし
一秋海棠子をうへて糞をかくれハ当年に花咲宿根ゟ
生するハ茎大也うゆるに毎本折さる事一尺斗成へし
又陰所によろし一たひ日をミれハ色則変す
一鶏頭華小枝をつミ去て木すえの一花を残すへし
秋後花漸大也冬に至るまて久に耐る物なり
一菊にハ六月前に糞を置へからす六月に一度根廻りを
堀て雨の前に糞を置へし七月に一度雨の前に
糞を置へし雨のまえに前に置ハ根によくしミ通る糞を
置て日にあたれハ根かたまりていたむ其茎長く共其心
を折へからす脇枝ハ長くてもしんとするに悪し又長き
を嫌ひて茎を折もありからの菊をうふる法凡菊を
うゆるに六事あり一にハ貯_レ土 ̄ヲ肥土をえらひ冬至の後
糞をかけこほりて乾くを待て其土の 浮鬆(ウキヤハラカ)成ものを
とりて場地におき再糞をかけ乾きて後室中に
おさめ置春分の後出して日にさらし数度かへし其虫
蟻と草の稉を去若さらすハむしてくさり紅虫きり
むし蚯蚓なと生して菊の害をなす也土を清く
しておさめ置て菊をうへて後此土を用へし菊を植て
三日已上の雨にあいて土かたく根あらハれハ此土を以て
根を覆ふへし如此すれハ旱をふせき雨の潤ひをおさめ
て其根くさらすニにハ留_レ種 ̄ヲ冬の初めに菊の茎をさり
其幹を五六寸留置猟月にこき糞をそゝく事
数度如此すれハ煖にして氷らす為て菊の本を壮にす
へし寒をふせき為て潤沢にして枯燥にいたらす三にハ
分_レ秧 ̄ヲ春分の後菊苗を分る時根に髭多くして
土中の茎黄白色なるを用髭少くして白きを用へから
す新にすきたる鬆地にうゆへし太肥によろしからす
天気くもりたる日菊を分植へし晴天の日分つへからす
根乾きて活かたしうゆる地ハ其宿土をこと〳〵く去るへし
然らされハ虫の害ありうへて後菰を以て日覆にすへし
日にあつる事なかれ毎朝水をかけ晩にもそゝくへし曇
たる日ハ水を澆くへからす苗の心はへ出たる時日覆を去へし
先半糞の水又肥水を用ひて澆_レ之葉の上に糞を
澆らへからすあと井戸の水をましゆへからす井水ニても河水
にても純水を用へし四にハ登_レ盆 ̄ニ立夏の時分苗五
六寸許なる時盆に上すへし其前数日水を澆くへからす
則苗堅老にして在 ̄テ_レ盆 ̄ニ可_二以耐_一_レ日根土を必広大に掘へ
し猟【臘?】前こしらへたる糞土を培へし陰晴を見て水を
澆くに増減すへし葉生して後肥水を澆くへし久雨には
猟土を以てうるおすへし植やう浅けれハ日にいたむ深けれハ
水にいたむ凡そ菊の根上にうきやすし故に常に土を覆へし
五にハ理緝菊一尺斗成とき長をしめんと思ハヽ脇枝
を去へし短からしめんと思ハヽ其正枝を去へし花の枝ハ
其大小を見て残すへし大者ハ四五蘂次ハ七八又其次は
十餘小者ハ廿余蘂寒菊ハ一もとにして千花あり去へから
す六にハ護養菊やう〳〵長する時竹を立てゆひ付風ニ
揺さしむへからす菊のかたハしに蟻多くハどふかめのからをそば
に置ハ蟻必其鼇甲に集るを他所に移すへし夏至
の前後菊虎とて黒色なる虫晴暖成時飛出て
苗を損ふ出る時を待て除くへし菊すいの傷りし処
手にて少しつゝ打て其毒を去へし秋後に又虫生す多く
しけりやすき新菊を廻りに植へし凡菊ハ香ある故に
蟻上て糞をして虫を生す虫長し蟻食へハ菊長せす
此虫白虱のことししゆろ箒を作りて取へし蟻糞の跡
に青色にて菊の葉の色のことく成虫あり葉の底上ニ
生す半月ハ上にあり半月ハ下にあり又きくを植るには
去年のふる土をいむ若旧地に植ハ上土三寸を去て他土ヲ
置へし菊根ハ土皮にはひこりて深く入らす故に土をふ
かくほりやハらかにする事悪しふかく堀て土やはらかなれハ
水をたもたすして枯れやすし又糞気も底へもれてあし也【?】
只地上より三寸の間を和かにして植へし凡花草ハ皆湿を
嫌ふこと更菊ほたん甚し又春苗尺斗の時其顛を
つミ去数日にして両枝分れ土又つミさることに又出来る
秋に至て一本より出る枝甚多し人力【?】つとめ土又膏沃
花又落て変す三月菊苗を分ち植んとする地の旧土
を四五寸除て正月より乾し置たる新土を旧土より少し高く
置て苗を植日おほひをし苗もし早く長せハ一度つミ
折猶長し過ハふたゝひつミ折若苗甚かしけハ白水と
小便と等分にませたる水をかくるかじけさるにハ不用
秋の節に入て白水小便等分の水を二三日ことにしは〳〵
澆き他の糞を不用つほミ付て後ハ小便を減し米泔
二分小便一分を合す不然ハ根より生する子苗いたむ
花のひらく時まて右の水を用れハ花の勢盛也また
菊を植るにハ黒土よし田土 河(本ノ)つ(マヽ)土をましへよく日にほし
細かに打くたき末してよしかねてより糞を小便にて和
し薄くして別の土にかけ其上にふるむしろをおほひ
くさらかして後日にほしこまかにくたき梅雨の後少
しツヽ菊の根に置へし五月より八九月のころ迄二三
度右の土を置へし多きハあし也【?】五月より前に糞を置
ハいたむ根むしと節虫とを去へし節虫の去やう
虫あり所の茎を半削去て竹をわり少にして茎の
うちにある虫を殺すへし削りたる処はやがていゑしゝ
出来るもの也但し枝をそたつるハ根のかたに近き所
よりはやくそたつへし梢の方にて枝多く付てハ茎の
精気よはくして花よからす精気盛なるハ五枚まてハよし
一松雨を見かけてうゆへし雨前に栽れハ活やすし春分の前
秋分の後土をおひ雨に先たつてうゆれハ多くハ活く
盆松を養ふ法春めたちを折る時節ハ松の芽出る時
みとりの本一分程おき折てつむへし後に生する芽を
そだつへし夏のはげしきひにあつへからへからす秋の頃葉のひ
たるハ葉をつミさるへし冬寒き時ハ毎日少し水を
かくるされとも雪雨降ときハ土のしめりある故二日三日
にも水を澆くへし春夏ハ四日五日にそゝく餘り水
過れハいたむ少ツヽ澆くへし葉に青く小さき虫付やす
し心かけて是を取へししけれる松の下成木ハいたむ
一枸杞からやまと二種ありからをよしとすうへて籬とす
其実秋冬にいたりて紅にして愛すへし薬となして
精気を補ひ目を明らかにす其葉茹となして
味よしほしても食す又わかき時よりあふりて茶と
すへし正月に枝をきりて日あてにさすへしにらをかる
かことく時々かりて取へし葉に虫多し時々是を
取去へし其根の皮を地骨皮といふ
右植木栽やうの伝書ハ静軒子秘め置れしか予か
草木の花を愛せハとて見せられしかハ頓にうつして
かへし奉る文政十二己丑年十月廿日 鶯宿
【シール番号】
238 577 1
【表題】
鶯宿雑記
【鶯宿雑記. 巻199-200」の「コマ55~82(2行目迄)」翻刻は不要ではないかと考えました】
【なぜならこの部分は、「群書類従」にあるためです。(群書類従は全巻過去に活字化されているそうです)】
【限られたリソースを、翻刻済みのものに割くのはもったいないと思いました】
【詳しくは以下のとおりです】
【「鶯宿雑記. 巻199-200」の「コマ55~79右」は】
【https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559229】
【の「コマ128~160左」に相当】
【同「コマ79左~82(2行目迄)」は】
【https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559231】
【の「コマ50左~53右(最終行迄)」に相当】
【以上私が調べた限りですので、外にも重複する部分があるのかもしれません】
【活字になったもの自体は未確認です】
【追記:活字になったものはこちらで確認できました】
【https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879799】
【前者は「コマ205」、後者は「コマ257」です】
【右記門田さまの注記がありますが、内容と共に文字を判読する練習にもなりますので敢えて翻刻します。ご教示いただいた資料は自身の難読箇所の参考にさせていただきます。実際には違いが散見されます。】
鶯宿雑記巻二百草稿
中原高忠軍尋陣聞書目録《割書:群書類従四百十九武家部|廿ノ内二見之たり》
一出陣時祝次第同可酌事 一軍陣にて弓可持次第事
一軍陣にて乗替之馬に鞍置てひかせへき事
一菖蒲革前緒後緒の事 一をひ征矢之事
一軍陣の鞭乃事 一旗の事《割書:同幡竿の事同幡袋事|同幡さすへき次第之事》
一日本にて弓のおこりの事 一御たらしといふ事
一弦の【右に追記】事弦巻の事 一弓の鳥打の事
一矢ほろの事 一扇の事
一具足の毛の事 一産引目可射事
一夜引目可射次第事 一鳴弦事
一公方様御首途事 一矢たはねの事
一頭を鞍のとつ付に付事 一同頭可懸御目事
軍陣聞書
出陣幷帰陣時祝者次第酌以下事
【上図】
七も 五も
かちくり よろこふ
五も 三も 前
出陣之時 へいかう 三
打あはひ《割書:五本も|三本も》
【下図】
蚫《割書:五本も|三本も》 五も
よろこふ
三も
帰陣之時 へいかう 前
七も
かちくり
五も
一肴をハかんなかけの上にめゝか つ(くか)【注記】におしきにすゆる也へいかうハめゝ
かくに折敷にハはすへぬ也其外三種をハ折敷に居へき也三度呑
くふ也出る時ハ先一番に蚫の広き方の先より中程迄口を付て尾の
方ゟ広き方へ少くひて酒を呑へし其次二献めにかち栗を一ツ
喰て酒を呑へき也其次三献めにこふの両方のはしを切のけて
中を喰て酒を可呑也毎度軍配の的ハ蚫かち栗こふ此三色
たるへき也我家にして軍配を祝ふにハしゆてんの九間にて南向
て祝也家の造り様によりて南へ向難くハ東へも向へき也
東南ハ陽の方也其謂也
一酌すへき様の事一人してすへし初献ハそひ〳〵はひと三度入てさて
二献のハそひと一度入て左へまハりてくわへて又そひはひと二度
入也三献めハそひそひはひと三度入る也以上九度也盃を人
にのませぬ也祝ひてやかて肴をくつしてあけへし酌ハ諸膝を
立てつくはひてすへしくわへる時も其外仮初にも後へしさる間敷
也そひと入ハ酒をそと入也是ハ鼠の尾の心也はひと入ハ酒を
多く永く入る也是ハ馬の尾のこゝろ也陰陽の儀なり
一軍はいに不限兵具ふせひの事さたする時ハ東南可然也西北
ハ不可然陰の方なる謂也何時にても軍配の盃を人に呑
せぬ事也只我獨祝也呑はてハ後は肴を惣をひとつにく
つして人の見知ぬ様にする事也はしをハ置ぬ也盃はへいかう
ならてハすましき也但時としてなくハ何をもする也こふ五きれの
時ハ一チ下にニツつゝ重てならへて其中の上に可置也三の時ハ二ツ
ならへて其中の上に可置也かち栗蚫例式の如くたるへし打蚫ハ
出陣の時ハ細き尾の方をくいての右へ成へき也広きかしらの
方に口を付そめて尾の細き方より広き方へ喰ふ也末広く成心也如
此祝をして出る共しち有て心に懸る事あらハ祝なをすへし軍
はいをハ具足をきても着さる時も又旅へ立時も祝ふ也
一帰陣して祝の時ハ初献にかち栗を喰て酒を呑也ニ献めに
蚫の広き方の先をちと切て折敷に置てその切目より細き尾
の方をくひて酒を飲也三献めにハこふの両方の端を切のけ〳〵
中をくひて酒を可呑也蚫のくひやうハ出陣と帰陣と替也
一蚫と栗とハ出陣帰陣と置様かハる也蚫ハ出る時ハ左也こふハ毎度
置處替ましき也
一蚫五本の時ハこふ五きれ勝栗七ツたるへし蚫五本ハ御本意を被達と【「と」不要カ】
と云心也又蚫三本の時ハこふ三かち栗五たるへし御所様御祝にハ
蚫二本也日本を打蚫といふこと心也又大将の御肴一人はかりならて
ハか様にハ有間敷也何時も蚫昆布かち栗三色たるへき也但
時として肴なき時ハかうのものからしかつをなとをも出す也肴
三色の一色二色なき時ハ此色々ませてもくむ也俄事にて
此色々なき時ハ此内一色にてもする也
一大将ハ三の盃を初献に一ツニ献めに一ツ三献めに一ツ以上三なから呑へき也
一大将出陣の時ハ九間にて祝也出陣の時ハ中門の妻戸をしゆてんの
九間のあはひに本妻戸有也このあはひの妻戸をとをりて中
門の妻戸を出へし中門のさいの内にてもあれ又しゆてんと
中門のあはひの妻戸にてもあれ両所の内いつれにてもさいのうちに
包丁刀をはを外へ先を左へ成て置て先左のあしにてさい友に
刀を越てさて右の足を越へしさて刀を人に取せて其儘可出成又帰
陣之時ハ刀の先さいよりそとへ置て先左の足にてさいともに刀を
越てさて右の足をこし内へ入て刀を人にとらせへし出陣帰陣の時
ハ車よせの妻戸へ出入【或本では可出入】也さる間しゆてんと中門のあはひに妻
戸一ツありあひた妻戸二ツを出入する也
一小具足出立の時より征矢可負也昔は靭なかりし間今人の
常に靭付る如くやををひたる也但今は素袍小袴の時ハおふましき也
一矢をおふ事ハ太刀をはきて後におふ也
一軍陣に出さまに弓を可持事弦を下へなして左の手にひつ
さけて可持立て物言時ハ弦を先へなして弓杖をつきて物を
言也弓杖のつき様左にても右にてもつくへし又人に立あふて物
をいふ時ハ諸手にて弓杖をつきて弦を外へなして言へく弓の取様
右の手ハ上左の手ニて下を持へし又畏て物をいふ時ハ数塚につく
はいたる時の如く弓を持へし弓のうらはす人に向る事ある間敷
也弓を人にあてぬ様に可持也馬上ニて弓を持様の事犬笠掛
射時の如く可持但弦を内へなして持事もあり是ハはや合
戦にも及ふ時の儀也
一大将に物申さむ時ハ弓の弦内へなして外【右に追記】竹を下へ成て弓を伏て畏
て可申弓を持て 時ハ左の手ニて提て弦を下へ成て持てよるへき也
一征矢おひてよき程にてハ弓を人にも持せ又よせかけ置こと有間敷
也自然陣やの内二ても持なから可座也弓物にもあたらハ側に立て
可置さ様の時ハ外にて人に持せもすへき也我座する側二ても
【下記一行抜けカ。群書類従より補記:あれ下に横にふせて置事あるましきなり】
一出さまに弦打をする也南の方二ても東の方ニても向て一ツ打へし人打と
いふ儀也一打ニて弦に手を懸る也一打に打納る心也
一馬の嘶事厩又は引出て乗ぬ已前に嘶事吉也はや鐙に足を懸て
嘶こと凶也其時ハ弓を脇はさみて上帯をも結直し腹帯をも〆直す也
一鼻をひ馬の身ふるひする事落馬いつれも凶也上帯をも
しめなをし腹帯をもしめ直すへし
一軍陣へ出る時三ツ忘れよといふ事の第一家を忘れ妻子を忘るゝ事
第二合戦場にて命を忘るゝ事第三打勝て忠節を忘る事肝要儀也
一軍陣へ出立時は乗替の馬に鞍置て引するにハ鞍覆をすへき
也鞍覆ハ鹿の皮敷皮をする事軍陣に不限本儀也鞍覆
ハ鹿皮本也女鹿の皮ハ略儀也鞍覆するにハ白毛先へなるなり
鞍の前輪の方へ白毛なすへし出陣の時如此可有也又帰陣の時ハ如
例式白毛左へなすへし手縄にて鞍覆をからむへしからミ様の
事手縄をニツに取て鞍の前輪の右の塩手に尻かへしかくる
如くからミてつほの方を塩手の右の方へちと出して置てさて左
のしほてを通してさて後ろの右の塩手をとをし前輪の右へ出
る手縄のつほへ入てほとき安きやうにとむる也
一しやうふ革の事よこ菖蒲といふハ駒のもんにましりたるをいふ也
是を前緒と云也敷皮のへりをさす時ハくしかミより左へ成
方を前緒にてさす也又たて菖蒲と云ハしやうふ斗有を云也
是を後緒と云也敷皮のへりをさす時ハくしかミより右へなる
方をうしろ緒にてさす也是ハさうなく人無故知事也
一おひ征矢の事十六矢廿五矢是を用也但昔ハ六々丗六も箙に指
たる也征矢の拵様上帯の引様の事家々によりて替る也
一高忠家に代々相伝の上帯の引やう別たる秘説也不及注置
矢ハ十六矢ニても廿五矢にニても其身の儘たるへし其外箙のおもて
にぬためのかふらや一手さす也人の物きたる如く雁股を打
ちかひてさすへしかふらの拵様前紙に注し置也自小笠原
殿口伝申かふら同からのこしらへ様おなし事也
一十六矢ハ九曜の星と七星をかたとる也以上十六也
一征矢をおひてハ必鞭をさし添へし鞭の拵やうの事二尺八寸也熊
柳を可用熊柳をハ勝弦と云也神功皇后異国退治の御時
勝弦を鞭に拵てさゝるへしとて諸神さゝれたり夫より今に
用来る事也勝弦とハ秘事たるによりて人しらす熊柳と申来る
也二尺八寸ハ廿八宿也とつか六寸にとふをつかふ也六寸のうち五分
先を残して穴を明緒を通して鞭むすひに腕の入ほとに結
ふなり緒の革は二尺八寸ハ手にて取へし
一具足のかさしるしをハ具足きてハやかてとく也
一旗の拵様の事長さ一丈二尺本也たかはかりの定白き布二の
を縫合せてすへき也布のはたはり一尺二寸本也幡三分一すそ
をハ縫ましき也是を幡の足といふ也ぬひはつに西に黒革
にて菊とちを付る也大小不定ほころはさしか為也義家
貞任と御合戦の時前九年後三年十二月三日也然に其幡
すそ破れはつれたる間後三年にハすそ二尺切結へりさる間
一丈に成りたりその已後ハ一丈にもせられたり又すゝしのきぬにて
もせられたる也きぬハ唐きぬを可用也
一幡に紋をかくにハ三ツに折て上の一の内に折めのきハへさけてすミ
にて書て其上に漆を薄くひく也其上にハ八幡大菩薩氏神其外
信仰の佛神を勧請申也手付さをハ勝軍木を削て黒革ニて
縫くゝミて手をつくる也但勝軍木はかりハ弱き間いかにも性の
よき竹を削そへて黒革に縫くゝむへし又黒かねを薄く打も
そゆる也折さしか為也手とハ幡の上に付る緒をいふ也手をも黒
革を左縄に索て付る也手の長さいか程とハ不定也竿に付て
能程にすへし手付竿とハ幡の上に横様に革にてぬひくゝむを手
一侍大将なとさす幡半幡共云也又射手幡共云也布二の也
長サハ六尺也是も三ツに折て上一の内に折めのきハへさけて紋を書
へし是も紋の上に佛神を勧請申也此時ハ幡竿の長さ一丈
二尺にもする也吉日吉時を撰ミ東南陽の方へ向てすへき也
一幡をしたつる時ハ同日仕立る也裁【建の誤カ】時ハ柳のかき板に幡の布を
置て其上に張弓を置弓を左へ弦を右になしてうら筈を
先へなして置て腰刀ニて弓と弦とのあはひよりさきへ成て建る也
たつ時ハ九字の文摩利支天の眞言を唱へし印あり
一幡の縫様の事初きたるやうに左を前へ打ちかへて幡の上より下へ縫
也先一通り先へ縫へし針をかへして跡へ縫はぬ事也先へ縫て能
留て置へし又已前の如く上より下へ又一通り二通りならへて縫也
幡の下へ成方を幡の足と云也陽の方へ向て馬の年の男糸をも
えり縫もする也本命星破軍星謂也
一幡篙の事根ほり竹を可用惣の長さ一丈六尺根ほりの名をハのそく
節ハてう也切勝々々とかそふる也篙の一二の節【よの誤カ。節の意味と読んだのかも】を一とをして
上より手一束ハ置て穴を明て其穴へ黒革をくけて二に取て
つほの方三ふせを計穴へ可出そのつほをハ花くりと云也花
くりに幡を付る也幡付の緒共云也つほの残の革にて一上の
節の切目にとうほう結をして置也とうほう前に可向又さ
ほのすゑ一尺二寸斗黒革にてくゝむ事有畧儀也
一幡付の緒を通す穴より竹のよの中へ五大尊の種字と摩
利支天の眞言を■【かさ】て納る也かへて
一出陣の時幡を出す時はしゆてんの九間ニて大将幡指に渡す也幡
さし受取て中門の妻戸としゆてんとの間の妻戸を通りて中門の
妻戸を通り庭へ出へし同幡さほ中門の妻戸より先を物に
あてぬ様に持て先幡竿の先の方より可出也受取て中間に
可渡やかて合戦も有つへくハ吉方へ向て幡を袋より取出し
篙幡に可付つくる時印真言有へし
一幡袋の事錦たるへし絹ニても布ニても裏をうつへし色ハ何色も不
苦幡のゆる〳〵と入やうに可拵本末もなく縫て両の端をくミ
ニてゆひ脇に懸さすへし又陣屋ニてハ敵陣に向て懸て可置也
篙をハ幡さしの中間に可持也さほ持たる中間ハ幡指より先へ可行也
一自然陣中へ我信仰の仏神ゟ巻数抔来らハ幡竿に結付て可持也合戦の時も如行也
一幡指幡をさす時ハ左の手ニて指也馬上ニて幡を可納時是唐笠のえ
立の如くに拵る也いため革ニても牛の角ニても竹ニてもすへき也
鞍の前わの左の塩手に可付也
一幡竿に幡を付て已後幡指の馬なと通りえさる堀川有て跡へ帰
まいる事あらハかち人に幡をさゝせて直に通して先ニて受取て
可指但難所にてかち人も通りえさる処ニては不及力事也
一幡差たる時風強く吹て幡を吹ちきりつへき時ハ幡の足を幡竿
に取添て可指也跡の方へ幡の足吹かくる時はハ風吹共竿に不取添して可指也
一大将と幡さしと相生を可用也
一幡さしの出立ハ其大将と相生の色
一野具足を着へし馬の毛おなし相生を可用
一幡指ハ幡さゝぬ時ハ弓をハ持ぬ也矢斗ぬきて持也弓を下人に持する也
一入乱たる合戦の時敵味方見分さる時ハ依其時宜幡斗ひつときて
相引へ押入て戦ふ也合戦の時宜によるへき也
一合戦の 遇(過か)て我宿所へ帰て其日より三日幡を付なから置也
たとへ我在所ならす何方に有共うち帰りたる在所に三日付なから
置へし但三日め悪日ならは二日めも又三日より以後成共吉日を以て
幡を可納也
右連々相伝之分悉委注置訖於幡儀者秘説不可過之
聊不可有外見者也 寛正二年四月日
【頁上方の注記六行】
乗頓云此条
之処ニ一又
中原忠高
軍陣聞書
トアリ疑ウハ
原本二冊ナルカ
一又【?】弓の弭虵の頭に似たり是を恐れ思召今のはすに造りなされたり虵
の舌に表すへしとて筈をなかく出して弦を懸けられたるにより
今の世迄も如斯也黒き虵を表するによりて弓ハ黒木を本とす
る也其後とうをつかふる虵の色々に表する也かふら藤ハ虵の形
也末筈本筈ハ虵の頭也口の色ハ赤きとて朱をさすへき事
本儀也故豊後守高長 普(義教)広院殿山門御退治の時興雲
寺殿御供申出陣いたす時重藤の弓を持末筈本筈に朱をさし
持たる也知ぬ人ハ不審する也小笠原備前守持長法名浄元帰陣
の時見物有て御褒美有たる也其時高長おひたる矢切符廿五矢也
一一ふくらといふ事ハ弓一張のこと也二ふくらといふハ二張の事也
一弓を御たらしといふ事ハ只の人の弓ハ申ましき也公方様の御弓をハ
可申也御矢をハ御てうとゝ可申也是も公方様の御矢ならてハ申間しき也
一とうハ白き本也ぬりこめ藤といふハ重藤の上を赤漆にてぬりたる
をいふ也惣して漆にて藤の上をぬる事略儀也
一武田小笠原両家に限りて弓の拵やう替也
一しきの弓の弦ハ巻弦也ぬりやう巻弦とハ常の弦の上をゝにて太
刀の柄巻如くちかひて巻をせき弦といふ也又一方へ能巻事も有
夫を巻弦と云也それは略儀也巻弦をハ先能々射ならして後巻て塗也
一弦巻ハえひらの脇皮に付て刀の鞘へ引通して矢をおふ也弦巻の
付やう口伝有大小ハ好によるへき也中の丸さハ刀の鞘へくつ〳〵と通る
程に拵へき也弦巻をはむかしハわらすへにてもしたる也近年
つゝらにてするを被用也何にてするか本とハ不定也
一弓の鳥打といふ事子細有なゝし鳥を打殺したるたると也なゝし鳥とハ
雉子のおん鳥の事也
一矢ほろの事十六矢ハ二はたはり也廿矢廿五矢にハ二はたはりに
わりのを可入打たれハ一尺二寸也たかはかりの定めうつたれ一尺
二寸の分をハぬうましき也但わりのゝ分をハかた〳〵へ縫付へし
すそのくゝりの分斗也矢にかゝる分の長さ打たれをのけ
て矢つかの長さにする也矢にあてかいて拵へし但廿矢廿五矢
の時ハ矢のはつの方広く有間みしかくつまりて見ゆ也
少しハ長くして矢にかゝりてゆる〳〵と見よき程にすへし打たれ
の分をハくミにて女結ひに結て五分斗かしらのきハにて
引しめしめてさす一の矢にからミてとむへしうち打たれのきははかりをハ
黒革と赤革と合せて赤革を下に重る女結にして切也
又我家の紋を付る時ハ打たれにても羽の通りにても可付又引両
と紋と二色付る時ハ紋をハ打たれに付てひきりやうをハ羽の
とをりに付へし又無文にもすへし色不定也
一弓袋矢ほろ其外何にても軍はい方の物仕立るに先ツさ
きへ刀をやりて建なりかき板にハ柳を可用陽の木成故也
一万の革のさきをハとんほうかしらにする也とんほうハ先へ
行て跡へかへらぬ物也それによりたる儀也
一具足きて可持扇の事面ハ地を紅に日を円く地にはゝかる
程に可出日の大小不定金箔也裡ハ地を青く月を円く
可出大小不定月ハ白はく也地ハ空色也月の方の地にハ星を
出すへし星の数七又十二也星ハ白箔也星の大小不定円く小さく
月の両方に可出七ツの時ハ扇夜遣ふ時さきへ三ツ身よりに四ツ成
やうに可付又十二の時ハ一方に六一方に六以上十二也星の置処不定
見斗ひて置へし面ハ昼の容也裏はよるの体也骨ハ黒骨也
数ハ十二ねこまさしほ手たるたるへし例式の扇よりハまひろかるへし広き
不定要をハかねにても革にてもする也何れニても此二色の内を
可用但かねハよかるへしかねニてするハかた〳〵にかしらをしてしんを
通してかた〳〵に座を円くしてとおりたるしんの先を返して抜
ぬやうにする也扇の長さ一尺二寸金の定たるへし
一扇のねこまにすかすもんの事謂尋申処昔より如斯しき
たる也何の謂とハ無存知と被仰也
一具足の上に扇さす時ハ相引にさすへし昼ハ日の方を面へ成
てさす也夜ハ月の方面へなしてさす也
一扇の遣い様の事昼ハ日の方を面へなして骨を六ツ開きて六を
畳ミてつかふへし夜ハ月の方を面へなして骨を六ひらきて六
をハたゝミてつかふへし勝いくさ軍して後ハ皆広けてつかふへし
一悪日に合戦する時ハ昼ハ月の方を面へなしてつかふへし夜ハ日
の方を面へなしてつかふへし
一鉢巻の事布たるへし色ハ白を本とする也広さ長さ不定也但赤黒もする也
一具足の毛の色の事白糸本也其謂ハ白糸根本の色也こと色
ハ色々に白糸を染たる色也白糸ハ人のいろはぬ様本の色成
によりて白糸を本とする也又白色ハ陽也
一黒糸黒革おとし賞玩の色也是もかちんといふ色成に依て別而用之也は
一御きせなかと申事御所様の御具足ならてハ申間敷也公方
様の御小袖是御きせなかの本也此御きせなか毛ハ糸也此色卯
花おとしと申也卯花威ハかつ色の事也かつ色とハ白糸の事
なり色糸にていろへたる也
一鳴弦する時弓ハぬり弓也同弦もぬり弦也
一産の時の引目可射次第同様引目等の事弓ハ塗弓たる
へし同弦もぬり弦なり
一矢ハ白篦に鶴の羽を付る也はぎやうハ白きえり糸にてもはく
へしかハはきも不苦但略儀也糸のえりやう秘事也筈巻と
かみはきを左えりの糸にてはくへしもとはきハ右えりの糸にて
はく也箭をハ三ツ拵へし二ツハ用意の為也三ツの内二ツをハ外
面の羽を付へし一ツハ内向の羽を可付射る時ハ外向の矢にて可射
也引目ハ犬射引目赤漆にぬるへしひしきめ有へかたす
一射手の出立の事白き小袖に白きうら打の直垂也ゆかけハ例
式の革の指懸たるへし右斗にさすへしえほしかけをすへし
一射やうの事産所の家をたきて畏て例式直垂の紐を
納てひとり弓の足ふミをしてかたぬきて紐袖をおさめて
可射也但北の方へハ射ぬ事なり也し白へりの畳の裏を西へなして
人二人に両方の端をとらへさせて裏を射也一ツ射てかたを入
て畏て射たる矢を取よせて又其箭にて立てかたぬきて
可射さてかたを入て畏て二射たるよりも少あはひを置て又一
可射女子ならは二ツの儘ニて射ましき也矢ハ内矢にて射へし度毎に
かたを入て畏也矢取ハ殿原たるへしすあふき也畳ハ産所に
敷たる白へりの畳一てうこひ出て可射也秘説也
一射様ハさし矢に可射打上てハ弓を引へからすこふし落させしか為なり
弓かへし弓たをしすへからす惣して産所の引目にかきらす引目
射時打上弓返し弓たをし弓有へからす
一弓立と畳立たるあひの事弓杖五杖斗也
一矢取は前に座すへし前より射手の後をとをりて可出
一夜引目の事おの子の時ハ夜引目の数三ツ少あひを置て二射て
又少あひを置て三可射三二三なり以上八なり宵夜中暁三
度可射也女の時ハ二三二と以上七よひ暁二度七ツゝ可射但
男子の時ハ宵に三夜中に三暁三も射也女子の時ハ宵に二
夜中三暁二以上七を一夜に射也是ハ略儀也
一鳴弦の事男子の時ハ引目の数の如く三二三と以上八也宵夜中
暁三度する也度毎に八ツヽ弦を打也女子の時ハ宵暁二度
也これも夜引目の数の如く二三二以上七打也宵暁二度七ツヽ
弦打をする也男女共に弦打てやかて手をそゆる也度毎に
納る弦打也但是も引目射如く男子の時ハ宵に三夜中に二
暁三以上八なり女子の時宵に二夜中に三暁に二以上七弦
打をする也是ハ略儀也
一生る子の湯あふる時鳴弦とて弦打をする事秘説也三々三一
十度打也是も一打て少あひを置て打々する也度毎に
十度なから手をそゆる也男女にかハりハなき也諸事祝の時
又ハ祈禱の時弦打如此十度打也
一八幡殿義家鳴弦する事三ケ度也と申ハ弓の握を取て一度打
て少間を置て又一度打又少し間を置て一度已上三度打
給ふ也初め一度ハ弦に手を不添して三度めの時に手を添
給ふ是を鳴弦する事三度也と申来る也魔縁のもの
邪気退治なとの時儀也
一魔縁化生のものなと有て夜引目むねこしの引目なと射時ハ
畏て立時ハ右の足より踏出て三足踏て可射射果てハ例
式中に立時の足踏の如たるへし秘説也聊爾に伝事なかれ
一狐狸其外魔縁の者なと射時ハ右の足を前へ一足踏出して
射也急成時ハ足踏の不可及沙汰矢ハとかり矢にて可射也
鷹の羽山鳥の尾ニて矧たる矢にて右の足を踏出して魔縁の
ものを射るにしりそかすといふ事なし大成秘説也
一出陣其外何事ニてもあれ座して居たる人立時ハ左の足を踏立る
也又立て射たる人歩ひ出る時も左の足よりあゆひ出る也常
に座敷に居たる時も左の膝を上に成て居て左の足より
踏て立なり祝言の時用足なり
一公方様御出一番の御盃ハ勢州へ給二度目御幡指三度め御甲の役者被給也
一具足を人の前へかきて出る時ハ前ハ下手跡ハ上手也かきてかへる時
も具足もまはるへからすむすふとてわろき事也
一矢たはねの革の事黒革本也革の広さ五分也金の定め長
さ不定矢に依るへし三巻まきて面にひほ結ふ如くゆふへし革の
先とんほうかしらに切也矢たはねの高さの事根のさしきハより
上へ一尺二寸置て矢配りの上をゆふと日本紀にあれ共それハあまりに
高くて八寸の方すはりて悪き也吉程に見斗ひてゆふへし
板め革にて矢配をして其上を結へしえひらしこ何にも
一番にさす矢一ツを黒皮を細く裁ていかにもよく引て箙に可結付
結やう女結ひ也付事肝要也事外成秘説也
一頭を鞍のとつ付に付る事大将の首をハ左に付る也葉武者の
頭をハ右に付る也たふさをちかへて其たふさにとつ付の緒を
通して可付法師の首をハ口の内よりとつ付の緒を腮へ通して
可付頭ハ四より多くハ付られぬ也とつ付の緒の長さ一尺二寸本也
一軍陣にて頭を懸御目時ハへりぬりをきて鉢巻きをして鎧
きたる時ハ脇楯をして太刀佩て矢負て可懸御目事本儀也
略儀ニて懸御目時に具足にへりぬりきて太刀斗はいて懸御目也
一頭を合戦場にて懸御目時もへりぬりをきへき事本也なき
に至てハ結かミにても懸御目也合戦の庭にて俄に懸御目
時ハ頭すゆる䑓の不及沙汰右の手にて髻をさけて頭の切口
に鼻紙抔ほとに帋を畳てあてゝ左の手にて切口を抱て
懸御目て左へまハりてたつ也
一入道の頭をハ左右の手に持て大指にて左右の耳を抱て残の
指にて切口を持て懸御目也
一頭を懸御目已前にすなかちとてすな取て少頭へまきかけて可
懸御目砂のなき在所にてハ土にてもする也是ハましなひ也
一公方様の御敵をもする程の人の大将の頭を懸御目時ハ裡打
の直垂にゑほしかけをして懸御目也頭をハ䑓にすへへきなり䑓ハ
檜の板の厚四五分広さ六寸よほう斗にすへし足ハさんあしニて
打足の高さ一寸斗頭を可持やうハ大指にて耳を抱へ惣の
指にて䑓を持御前にて両の膝を立畏て䑓にすへなから
地に置て扨髻を右の手にて取てひつさけて左の手を頭の
切口にあてゝ公方様の御顔をきと見申て頭の少し左の方を
懸御目て如元䑓に置て扨如已前左右の手にて䑓と共に
頭を持て左へまハりて可立也法師頭をも䑓と共に土に
置て左右の手にて頭の切口へ四の指を入て左右の大指にて
耳を抱て懸御目て如元䑓に置て左へまハりて可立也如此有
事なれ共御前にて首をとかく拵事不可然とて前に記する
如く䑓に居て御前へ持て参て畏て䑓なから中に持て其儘
懸御目て左へまハりて立也頭をハ真向にハ御目にかけぬ事也
右のかたの顔を被御覧様に懸御目也
一去嘉吉之年赤松大膳大夫満祐法師頭慶雲院殿様御
実検の時ハ伊勢守殿宿所西向にて御実検有其時当方
侍所也多賀出雲入道所司代職相抱時出雲入道子左近
将監に令指南懸御目也其時の懸御目様うら打の直垂
にえゑほしかけして股立を取て以前に注す如く䑓にすへて持
御前へ参りて頭を其儘中に持右の方を卒度懸御目左へ
廻りて立也頭を臺に置時より直にをかて右の方を御覧
せらるゝ如く臺の上に少しすちかへて置也
一頭のかしら結ひやうの事昔ハ常のゆひ処より高くゆひて手一束程
に髪を巻あけてひつさけて持やすき様に結也但それは髻を
取てひつさけて懸御目間取能ためにたかくゆひあけたる也
一夜引目可射事祈祷の時の夜引目用心の時の夜引目ハ三々三
と是を用已上九也引目を三ツ持て可射例式の如くつくはひ
て紐をおさめて足ふミをひとり弓の足踏をしてはたぬきて
袖をおさめて三ツ射て間を少おき置て又三可射如此三々三以上九
射也引目ハ犬射引目たるへしひしきめのなき引目にて射也
一むねこしの引目の事引目を三ツ持て三ツ可射也北へ不可射同日
東南へ引目を向たらハ能るへし西へ向て射も不苦病者抔の祈祷に
射にハ主の居たる家の棟を横さまに可射越引目ハ犬射引目たるへし
射様ハ三の引目を二をハ側に置て一ツを弓に取添てつくはひて
紐を納て独弓の足踏をしてかたぬきて袖を納めて可射引
目の落所ハ屋根又ハいつくへ落たり共不苦其人の棟を射
こすへし足踏はたけて射時前の左の足上て矢はなして後
足をしかと土へふミ付へし是ハ棟越の引目射時はかりに
限りたる事也異秘説也
一はなす弦打納る弦打とて二色在納る弦打とは常にする如く
弦打をしてやかて弦に手をかくる事を納る弦打といふ也
惣して弦打を何度もせよ後にしはつる時のをハ納る弦打と
いふ也又放す弦打とハ弦打をして手をかけすして其儘置ことを云也
一用心の時の弦打ハ四二三也先四打て少しあはひを置て二三打
也四二三已上九也何とも九ツヽ打也弦打の度ことに弦に手をかく
る也二打少しあひを置
一愁の時の弦打ハ三々三一以上十度也是も三ツつゝけて打て少し
間を置て打也愁にハ弦打て度こと三の内初二ハ手をそへぬ
也三度めをハ手をそゆる也十度めのをも手をそゆる也愁とハ
邪気退治なとの時の事也十度めの弦打をは納る弦打也
一 右此一帖豊後守高忠連々記置以證本令書寫者也
永正八年六月日 小八木若狭守忠勝判
築城記 同上
用害之事
山城ノ事可然相見也然共水無之ハ無栓候間努々水ノ手
遠くハ不可拵又水の有山をも
尾ツヽキを堀切水ノ近所の大木 カフキノ
ヲ切て其後水の留事有之 表 木戸ナリ
能々水を試て山を可拵也
人足等無体にして聊爾に取
懸り不可然返々出水の事肝要二候条可有分別末代人数の
命を延す事ハ山城の徳と申也城守も天下の覚を蒙也
日夜辛労を積て可拵事肝心也
一堀の高さ五尺二寸計サマノ長さ三尺二寸斗サマノ口の広さぬ
りたて七寸斗サマのカトを能おろして矢の出よき様に可拵也
一サマノ数は一町の西に三十ト申四町に百廿斗可然と也然共数之事
様体に依へし矢出て敵いたむへき処を見斗ひて多も可切也又
身とをりのさまなとゝ云て昔ハきらす候事候然共不入サマ
をハさまふたをしてふさく事なれハサマ多して不苦口伝多之
一矢蔵は堀のムねよりも二尺高く揚る也弓一張タツ程可然矢
蔵数多候事ハ可然候大にあけ【?】へからす小矢倉ハ七尺四寸斗可然候也
一矢クラノサマハ三尺斗口六寸斗サマの下八寸はかりたるへし
一弓かくしハ三尺はかり莚なと可然候口伝アリ
一木戸ハ柱間七尺柱ハいか程も太くて可然候寸法ハ不可有之候也
一木戸ハ凡如此一カイ有木ヲ十六角斗に削り候くわんの木
をして内よりさす横ニ木ヲ渡也シヲリ内へ明る也
片開きハ左へヒラク也
【図の説明】
ぬきと云也 木戸柱ナリ
是ハカフキニ 下ノ横木ヲハ
アラス 車ツキト云也
【本文】
一ノロシハ篝ヲ焼如く木をつミて置也用ノ時火を付ル狼ノ
糞ヲくふる也狼烟けふり上へ能立のほる也
一カヽリ焼ハ干タル木を長くつミ風面より火を付る也又生木をハ
多く積て消さる様に焼也何も木多くつミ火フトク強く見候様ニ焼也
一平城ハ始て拵候時先縄打をする也必土居出来て内狭く成候
土居の広さなと能分別して縄打にて広くもせはくも成也
地わりとハ云へからす縄うちといふへき也
一追手の口ハ土橋可然也自然板はしなとハ火を付る事有也
切て出てよき方を土橋にする也
一カラメ手の口かけ橋も不苦但様体によるへし
一木戸柱の口ノ広さ九尺はかり長ハ土の上一丈はかり一方に一本
両方ニ二本也柱ハ面を広四角に作りて可立地へハいか程も
深く入て能也クヽリ木戸ハ右ノ方に有へし
一木戸ハ内へ入てカマへ候也土居二ても石くらにても塀にても透の
なきやうに立る也
一城の戸口をハ内の見えぬ様に右カマヘにひつゝめて外より内の見
えさる様に拵也又城のトヨリ内ノ少広く成様に可心得也
一城の木戸ト家の間ハ鑓を二タン三タン斗にツクル様ニ可心得也
一追手へ大手共敵ツク時ハ搦手より切て出る様ニ可拵也
一大手の口にサシ出候て半町はかりに内に塀四五間斗付外ニ
カヽリを焼也是をタヽラ塀と云也又出はりの塀共云也
此うちにカヽリ焼者居也
一城ノ戸ヲ内二間斗塀付る事アリ是を構塀と云也不入事か
一城ノ内も見えす又土居も高く家も見えさるを黒構と云也
一城ノ口より家も見え又土居もサクをフリ内の見ゆるをハ透構と云也
一サクノ木ノ長さ土ヨリ上六尺余たるへし凡一間の内に五本斗
可立但木ノ大小ニヨリ心得有へし人ノクヾラザル程に立へし横フ
チハ内ニアツヘシフチ四有へし下ノフチ膝のとをりにゆふへき也
縄の結めハ外に有様にゆふへし又外に横フチを結もあり
但それハやかて塀を可付心得也サクも塀の如く所々うちへ折
てゆふかツヨク能也又塀にするサクハ縄ゆいめ内に有へし
又山城の時ハ塀ひきく有へし
一モガリ竹ハ枝をソキてもくましき也又處々木の柱を立る也
一土居にさかもかりをゆふくゐをうち横木をゆひそれへ折かけ
ゆふ也又陸地にゆふハ竹の先を腰のとをりにあるほとに
本をひきくくゐをうちよこ木をゆふ也
一塀サクノ木モカリ何もすみをまハしてゆふ也角より敵ツクに
より如斯云々口伝アリ
一城との上を武者のかけ通る様に橋を広く強くかけて面ニ
板を打矢サマヲ切又足ダサマヲ切ヘシ足ダサマトハ板にサ
マヲキ切テ其サマフタニとつての様にして足にて開キ入ヲ云也
一ハシリ矢クラハ常の矢蔵の如くこしらへ塀の中に広くあけ
てサマをあまた切てはしり廻りているを云也
一ダシ矢蔵カキ矢クラと云ハかきてありく也出矢蔵も此心得あり
一セイロウヲ上ルハ先スソ斗に柱をふんはらせツヨク立也一重
あくるハサマを下にて切て面の方を先トク上ヘキ也一重の時も
上へあけかさぬる様に柱の心えをしてあくる也又夜中にあく
るか能也敵へ近くあくる時如此昼ハ敵見すかし矢を射あ
けにくき也面に矢をふせく用意をしてあくる也此時の
たてこしらへやう可有之
一ヒラ城の塀ハ高さ六尺二寸サマのたけ三尺五寸はかりたるへし
一折塀ハ二間すくに付て一間可折之折目にサマ一ツ切て両方
にサマ二ツ有へし
一塀ノ刀竹二とをりに内に可有之
一弓カクシハ三尺ハかりに可有之いなはき莚先ハ可然候
一矢クラハ塀の上二尺余サマ面の方二ツ可然サマの戸ハ
前へ引ヒラキ候シトミの如く外へをし出も有之所によるへし
一矢蔵ハ塀より二尺斗内へ入て明る事也是ハかいたてに
射付候矢をかき落へいの内にて取へき為也又塀に
かゝハり候はて可然候
一やくら板をハに横に敷也スノコも横竹也たつハすへりてわろき也
一城戸ノわきに
自然よこさまを
切候はゝ内の左に可
有候大事のサマにて候
一二在之又よこさまを
切處に横板を打て
其より鑓を出也
一土居ノ塀ヨリ内ハ武者走ト
云也外ハ犬走りと云塀
ノ縄打の時犬ハシリ一尺五寸
をきて可然候武者ハシリ
ハ三間はかり可然候
一城の外に木ヲ
植ましき也土ゐの
内の方に木を植て
可然也
一山城ニハタツ堀
可然候
一平城ハ城ノ
ウシロニ勢
タマリ有様ニ
可拵なり
【図の説明】
横サマ長さ二尺三寸斗
広さ七寸斗
【本文】
右此一巻者朝倉殿家中窪田三郎兵衛尉無隠依為射
手従朝倉殿窪田方ニ被相伝之然於若州武田殿ニ窪
田長門守と申人体有之三郎兵衛尉親類也然間相伝
之条種々令懇望写之者也可秘々々如件
于時永禄八十月廿七 河村入道 誓真 花押
見聞諸家紋《割書:群書類従ノ四百廿四武家部ノ廿五ノ内ニ見エタリ紋ヲ尽|寫サンモ煩也シケハ巻頭【?】ノ二三ノ譜委キ計ヲウツス》
二引両
源姓八幡太郎童名不動丸或源太
従四位下陸奥守号金伽羅殿鎮守府
将軍後冷泉院依勅父頼義隨兵
奥州之安陪貞任誅其弟宗任為降人
攻戦間九ケ年其後藤武衡家衡與
攻戦時三ケ年康平治暦其間十二年也
合戦討勝首級得一万五千余天喜中
上洛為褒美依勅命五七桐紋免許故當家御紋五
七桐ニ引両云々桐者根本安家之紋也八幡殿貞任御退
治以後御上洛之時依被望申下賜此桐紋云々
一姓
吉良 義氏之次男義継号東條三男長氏号西條
渋河 泰氏之次男義顕之孫
石橋 泰氏之嫡流自五世孫和義号石橋
以上三家号下馬衆
斯波 泰氏之孫家氏次男宗家号斯波
細川 義実次男義季号細川
畠山 義兼嫡子義純号畠山義兼者義清弟也
以上三管領也
上野 泰氏四男義有号上野
一色 泰氏五男宮内卿法印公深一色之祖也
山名 重国嫡男重村号山名
新田 重国次男義俊大嶋鳥山祖也三男義兼号新田
大館 義兼四世孫基氏弟家氏号大館
仁木 義実嫡子実国号仁木
今川 吉良西条長氏次男国氏号今川
桃井 義兼三男義胤号桃井此義兼者非新田義
兼矢田判官義清之舎弟也
吉見 義朝五男範頼子法師範円吉見祖
桔梗但幕者無紋水色
土岐
頼光四世孫国房之末国房者頼政之
叔父也 童名文殊丸正四位下摂津守
鎮守府将軍
土岐市本出于源姓故其為紋者一変白色及以為水
色昔時唯用焉是又所以貴其先也後也有野戦
時取桔梗花挿于其冑以大得利矣因為之例遂
置之水色之中以為之定紋然不記其年月又其不
知何人始為之也源頼光為紋末裔用之故不得
堅取其説暫依其所聞以書寫而已
松皮菱
武田
頼義男新羅三郎義光之末孫従四位下
伊予守鎮守府将軍童名千手丸
永承五年後冷泉院依勅奥州安倍ノ
頼時 ̄ヲ攻是時詣住吉社祈平復夷賊
于時有神託賜旗一流鎧一領昔神功
皇后征三韓用 ̄ヒシ也神功皇后鎧脇楯者
住吉之御子香良大明神之鎧袖也此裙
之紋割菱也三韓皈【帰】国後鎮坐於攝津
国住吉以奉納于宝殿矣今依霊神之
感応于源頼義賜之可謂希代世頼義三男新羅
三郎義光雖為季子依父鍾愛伝之即旗楯無
是也旗者白知地無紋鎧有松皮菱故義光末裔当家
爲紋
【注記:二行に亘るが、割書とせず記述する】乗頓云是ヨリ下ハ是迄ノ如譜不委紋ノ下ニ其家々有ノミ乍去古キヲ知ル
ニハ能証本ナレトモ【𪜈:合字】紋ヲウツスコト【ヿ:合字】ノ六ケシケレハ爰ニ筆ヲ閣ク遺【?】念不少
並合記【下に注書】乗頓按頭書誤写多キ様【?】読カタキ処多シ其侭ウツシ置
応永四丁丑年世良田大炊助政義《割書:弥三郎|満義子》桃井右京亮宗綱
《割書:実三州額田郡吉良弥三郎有信|子也母桃井駿河守義繁女》ト相議シテ妙法院宗良親王ノ御子
兵部卿尹良ヲ上野国ニ迎奉ル此尹良親王ハ遠江国井伊谷ノ
館ニテ誕生アリ御母ハ井伊谷ノ井伊助道通政女也其先延元々丙
子年《割書:吉野年号也建|武三年ニ当ル》尹良ノ御父宗良親王ヲ井伊道政主君ト
崇奉リ遠州ニ迎へ旗ヲ上テ京都ノ将軍《割書:足利|尊氏》ト相戦フ折
節尹良ハ大和国吉野ニ御座シテ【乄:合字】御元服ノ后正二位中納言一品
征夷大将軍右大将兵部卿親王ニ成セ玉フ元中三年《割書:吉野年号|也至徳三》
《割書:年ニ|当ル》丙寅八月八日源姓ヲ受サセ玉フ然ルヲ新田世良田桃井等其
外遠江参河ノ宮方与力ノ者相議シテ【乄:合字】桃井和泉守貞職《割書:桃井伊豆|守定綱》
《割書:ニ男|ナリ》ヲ以テ吉野ヨリ上野国ヘ移シ奉ル吉野ヨリ供奉ノ武士
大橋修理大夫定元岡本左近将監高家山川民部少輔重祐
恒川左京大夫信矩 吉野ヨリ供奉公家之庶流
堀田尾張守正重平野主水正業忠服部伊賀守宗純
鈴木右京亮重政真野式部少輔道資光賀大膳亮為長
河村相模守秀清 前四人ヲ新田家ノ四家伝也又後ノ七人
ヲ公家七名字ト号ス合テ十一家ト称セリ或吉野十一尚黒トモ【𪜈:合字】唱フ
故ニ宮方ノ武士トモ【𪜈:合字】申也何レモ二心ナク尹良君ヲ守護シ奉ル井伊
谷ノ井伊助秋葉ノ天野民部少輔遠幹ヲ初其外西遠江ノ兵
【四行目からの上方の追記】
李花集曰延元四年春
住居遠州井伊谷城
庸按ニ実
此時也又第
ニ巻中曰
宗良親王
在遠州而
丹氏相叛
於爰平【?】
参州重春
請奉移
参州足助
御王嗟而
不従乃躬
移駿州
丹土狩野介
貞長入江
蒲原【右に追記】無二服
従而無餘
残力遂遁
信州入御大
河原郡高
坂宗復又
考南朝記
事興国二
年辛巳
北朝暦応
四年頃事欲
暮頃丹右祖
軍有啓王事
事間潜適
越中国名黒
之許而逢勅
使来朝上吉
野庸謂此
後■【上部に「本ノマヽ」と注記あり】還大
河原知者
記事曰
正平廿四年
己酉北朝
応安二年
三月十一日
北帝第二
代後村上帝崩
トモ【𪜈:合字】旅行ヲ守リテ冨士谷ノ宇津野ニ移シ田貫次郎カ館ニ入
奉ル此田貫次郎ト申者ハ元来冨士浅間ノ神主也神職ヲ嫡
子左京亮ニ譲リ宇津野ニ閑居ス次郎カ女ハ新田義助ノ妾也
其好ミニヨリ宮ヲ受取奉ル井伊助ハ親王ヲ字津野ニ入奉リテ
兵トモ【𪜈:合字】ヲハ残テ其身ハ国ニ皈ル冨士十二郷ノ者ハ新田義助ノ厚恩
ヲ受シ者共也其中ニ鈴木越後后守正茂同左京亮正武井出
弾正忠正房下方三郎宇津越中守ヲ始我劣シト尹良ヲ响応シ奉ル
同五戌寅年ノ春宇津野ヲ出御アリ上野国ニ至リ玉ハントシ玉フ処ニ
鎌倉ノ兵トモ【𪜈:合字】宮ヲ襲奉ル十二郷ノ兵共柏坂ニテ防戦フ尹良ハ
越后守カ館丸山ニ入セ玉フ寸桃井和泉守ヲ四家七党守護
シ奉ル敵数日館ヲ囲ミ攻ルト云トモ【𪜈:合字】宮方四方ヨリ起リ出テ鈴木
二加勢ノ兵多カリシ故和泉守丸山ヲ出テ鎌倉ノ大将上杉三郎
重方嶋崎大炊助カ陣ニ掛テ主従百五キ上杉カ備タル真中ヘ
切テ掛ル上杉カ兵五千余キ桃井ニ追立ラレ上杉カ郎等長野安
房守討レシカハ兵トモ【𪜈:合字】我ヲ失ヒ戦労シテ引退ク和泉守追討
テ行処ヲ嶋崎ハ踏止リテ桃井カ追行其跡ヲ取切ント備ヲ右ニ
ナス桃井是ヲ見テ我勢ヲ二手ニ成シテ【乄:合字】一手ハ島崎カ三百キニ指向ケ
タル勢ヲ以テ上杉ヲ追フ処ニ大橋岡本堀田天野等都合三百余
キ島崎ニ向テ戦ナル島崎モ前后ヲ取巻シナハ悪カリナント思
テ勢ヲ段々ニ引テ一騎モ討レス山浪迄引ニケル上杉ハ二百余キ打
レテ其夜ハ上ノ一色ニ陣スルトカヤ桃井モ勢ヲ引テ皈ケリ其寸ニ
井出弾正正忠鈴木越后守ニ申ケルハ新田ノ一族ノ御働不珎候ヘ
【本文上方・行間への追記】
宇良親王自信州上吉野吊先帝上風一首於今上帰大河原其後有夏四月二日之記然則王以三月中下旬自
信往自芳
皈也又日其
年王拠大河
原城高坂
高宗木曽
上杦等奉
従十月至
下旬ゟ【?】関
東軍戦
時信州大
雪寒気
甚■両
軍発兵
東還帰
東王復上
芳都
庸
以此後
王還信
州知者
文中三年
甲寅北朝
応安七
年記曰冬宗良親王自大河原上芳都乙卯天授元年丙辰七年丁巳三年猶在芳都冬下旬信州
於長谷寺薙【雉ヵ】供天授六年庚申夏後信州右祖軍皆叛但有高坂不改初心王大去信州屛居河州山田
已上
然ニ兵家
茶話第三
引信州宮
記曰其後
亦復下于
遠州終
薨キ井伊
谷王齢七
十三方広
寺無文和
尚《割書:王|弟》為送
葬佛事
号冷湛
寺殿是
王也
或説曰元
中二年八月
十日王薨
当北朝至
徳二年乙丑
已上
又引天野
信景説曰後醍醐天皇元子一品将軍宗良親王於遠州井伊谷薨号冷湛寺殿是取載旧記也 龍譚寺與
トモ【𪜈:合字】今日ノ御合戦ハ某ヲ始十二郷ノ兵トモ【𪜈:合字】皆目ヲ驚シ候ト申ス
鈴木カ曰老テハ何コト【ヿ:合字】ヲ申トモ【𪜈:合字】御免ヲ蒙ンカ大事ノ前ノ小事ニテ
候君ノ御供大事ノ前ニテ候ヘハ必ス道スカラ御合戦ニ危キ
御働ハ御無用ト社存候ヘ今日ノ御合戦モ長追ニテ候ト云
貞職カ曰鈴木殿ノ仰肝ニ入候君ノ御供申テハ合戦ハ無益
ニテ候ヘトモ【𪜈:合字】鎌倉ノ者トモ【𪜈:合字】桃井カ供奉ニテ候ニ何ノ沙汰ナシニ
過ケルナト申サンモ無念ニ存シ其上逃ルカ面白サニ追申候ト
笑ナカラニ語ケル鈴木モ路次ノ警固ニ宇津野越中守下
方三郎鈴木左京亮高橋太郎此四人ニ二百八十キヲ差副テ
送奉ル尹良ハ丸山ヨリ甲斐国ニ入セ玉ヘハ武田左馬助信長我
館ニ請シ奉リ数日御滞留アリ同八月十三日ニ上野国寺尾ノ
城ニ移リ御坐ス新田世良田其外ノ一族等皆寺尾ノ城ニ馳集ル
同十九年壬辰四月廿日上杉入道憲定兵ヲ上野国寺尾ニ発シ
世良田太郎左衛門尉政親ヲ攻ケル寸政親防戦コト【ヿ:合字】数日ニ及ヒ疵
ヲ蒙リ今日ハ如何ニ思フトモ【𪜈:合字】叶フマシトテ長楽寺ニ入終ニ自害ス
法名俊山ト号ス次郎三郎親氏勇力ヲ励シ敵陣ヲ切抜ニ后
新田ニ赴ク同六月七日木賀彦六左エ門尉入道秀澄カ兵廿五キ
ヲ農人ニ出立セ新田相模守義則カ底倉ニ蟄居セシヲ夜
ニ紛レ彦六カ兵トモ【𪜈:合字】新田カ家ヲ取巻鬨ヲトツト揚ケレハ義則進
ミ出テ戦シカ戦ヒ疲レテ終ニ討死ス
同廿三年丙申八月十九日名月ニ事寄テ上杉入道禅秀鎌倉ノ
新御堂満隆ヘ往テ謀反ヲ進メ回文ヲ以テ武蔵上野下野ヘ
【本文上方・行間への追記】
冷湛寺佞音相近疑黙宗以冷湛寺号改其文字者歟寺僧今不知宗良野之故而徒詣井伊氏之事
而己其龍
泰寺之旧
称俗取記
伝実冷
湛寺歟
【十五行目より本文上方への追記】
義則若依
南朝記事
作義陸《割書:義治|ノ男》
又曰命満足【兼の誤りカ。足利満兼】
安藤隼人
底倉湯
所討之若
依右今治
乱記巻
第五葉
新田義則
被討之條
下曰応安
元年自六
月上旬新
田武蔵守
義宗
左エ門
佐義治
於越後
上野信濃
所夫界号三国其■接城ゟ鎌倉衆戦而彼【?】板城義宗戦死義治斬死脱敵地適羽州隠三嶋競而不知必居
触ニケル新田世良田千葉岩松小田等ノ一族時ヲ待ケル兵トモ【𪜈:合字】思
々ニ旗ヲ上ル桃井宗綱禅秀ニ加リ鎌倉ヲ攻江戸近江守ヲ
国清寺ニ於テ討捕ル宗綱頓テ近江守カ首ヲ武州荏原
郡矢口村ノ川端ニ梟シテ【乄:合字】高札を立ツ
今度攻相州鎌倉於国清寺討捕江戸近江守奉為新田
義興主仍如行
応永廿三年丙申十月十日 桃井左京亮宗綱
トソ書ニケル近江守ハ義興ヲ矢口ノ渡ニテ船ノ中ナルノミヲ抜テ
河水ニ溺シ殺シケル江戸遠江カ子ナリ
同廿四年丁酉正月十日満隆持仲ノ親族上杉禅秀カ家来百
七十人戦ヒ破レテ悉ク自害ス
同五月十三日岩松治部大輔武州入間川ニテ中村弥五郎時貞ニ生捕レ
誅セラル桃井宗綱ハ薙髪シテ【乄:合字】下野入道宗徹ト号ス
同卅年癸卯小栗孫次郎満重鎌倉ヲ背キ下総国ニ下リ
結城ニ楯コモル下野入道幷ニ宇津宮左エ門尉持綱真壁新七
郎茂成佐々木隠岐守入道等小栗ニ一味シテ【乄:合字】合戦ス桃井ハ八月
十三日下野国落合ニコソ皈リケレ
同卅一甲辰年 新田小三郎義一世良田大炊助政義同修理亮親秀
同万徳丸政親 桃井入道宗徹 大江田安房守
羽河安芸守景庸 羽河安房守景国
宇都宮之一類
大岡次郎重宗 宇津越中守道次 大庭雅助景平
【本文上方・行間への追記】
其処又有一族有新田相模守義則旱躬耕耘或曰受庄宮等価䕴于木状于肩而臝為有膐力
則不甚
労其匿
于相州底
倉庄有
古河彦六
朝秋入道
聞之応永
十二年三月
十七日夜襲
義則其日鎌
倉右馬允
辛崎八郎従
為斬伏三人傷于
六人而彦六命奴僕
放火彼家彦六
取右三人
看送于
鎌倉云也
元帥左典
厩
満重
賞彦六
賜底倉
【本文二十四行目上方からの注記】
政義庸考
永亨七年乙卯
三月朔忠矢浪
合
政親庸考政義
次男復檎又逃為僧
示寂上州万徳寺
宗徹応永廿一
年八月望戦死于大河原
熊谷小三郎直郷 児玉庄左エ門尉定政 酒井與四郎忠則
鈴木三郎兵エ政長 天野民部少輔遠幹 天野対馬守遠貞
十田弾正忠宗忠 大草三郎左エ門尉信長 布施孫三郎重政
千村対馬守家通 石黒越中守 上野主水正
山内太郎左エ門 土肥助次郎 小山五郎左エ門尉
等幷ニ四家七党已下ノ兵トモ【𪜈:合字】尹良ヲ供奉シ上野国ヲ出御有テ
同四月七日信濃国諏訪ノ住人千野六郎頼憲カ嶋崎ノ城ニ入
御坐ス又同国ノ住人小笠原七郎政秀木曽カ郎等二千久四
郎祐矯幷高坂渋谷カ一族等千野カ城ニ来テ尹良君ヲ慰
メ奉リ旅行御疲シヲ休メ奉ル寸ニ世良田桃井其外十一党ノ者
重テ相議シ尹良ノ御子良王君ヲハ一先島崎ヨリ下野国落
合ノ城ニ皈シ奉ル四家七名字幷桃井貞職世良田政親熊谷弥次
郎同弥三郎桃井左京亮宇佐美左エ門尉某開田上野天野
土肥上田小山等御供ニテ七月十八日ニ落合ニ皈城アリ尹良ハ千
野カ城ヲ八月十日ニ御立有テ三河国ニ赴キ給シト有シ𣆅【日扁に乏:「時」の異体字】ニ
左迂の身にし有なハ住も果むとまり定めぬ憂旅の空
ト書セ玉ヒテ千野伊豆守ニ給リケル後ノ世迄千野カ家ノ重宝
ト成トカヤ偖尹良ハ三河ニ渡御アリ吉良ノ西郷弾正左エ門尉正庸
其外挑井義繁カ厚恩セシ者多カリシカハ此者トモ【𪜈:合字】ヲ御頼アリ而
後上野ニテハ時ヲ待新田世良田ノ一族ヲ催シ再ヒ旗ヲアケ落合
ニ御坐ス良王ト牒シ合宮方ノ残兵ヲ集以テ合戦可然ト相談
一決シテ【乄:合字】嶋崎ノ城ヲ出御アリ三河国ヘ赴キ玉フ寸三州ヨリ御迎トシテ【乄:合字】
【本文上部の注記】
定政庸考
後為僧最
後改奥平監物
久世土屋等多ク参リケル同十三日飯田ヲ立セ玉フ処ニ杖突峠ニ
テ賊卒道ヲ塞テ財宝ニ心ヲカケ奪取ント馳集リ此ノ山彼
ノ谷ヨリ矢ヲ放ツ小笠原千久カ兵トモ【𪜈:合字】防戦テ賊ヲ征ス同十五
日飯田ヨリ三河国ニ向フ大野邑ヨリ雨夥ク降テ道路大河
ノ如シ未刻ヨリ風雨猶烈ク十方暗夜ニ等シ時ニ野武士トモ【𪜈:合字】
又俄ニ起テ駒場小次郎飯田太郎ト名乗テ尹良君ヲ襲奉
ル下野入道宗徹世良田次郎義秋羽河安芸守景庸同
安房守景国一宮伊与守酒井七郎貞忠同六郎貞信熊
谷弥三郎直近大庭治部大輔景景郷本多武蔵守忠弘以下
防キ戦ヒ賊ヲ討トモ【𪜈:合字】切トモ【𪜈:合字】賊ハ元来案内ヲ能知タリ彼ニ集リ爰
ヨリ駈出テ水陸ヲ走リ畦岸ニ聚テ散々ニ矢ヲ放ツ味方
天難逃レ難ク襄運是ニ極テ大井田一井ノ賊ノ為ニ襲ハレサセ玉
フ下野入道幷政満ハ小山ノ麓ノ在家ニ主君子尹良ノ御輿
ヲ舁入サセ御自害ヲ勧奉ル宮ハ残ル人々ヲ召日頃懇ニ忠義
ヲ致セシ者トモ【𪜈:合字】後ノ世迄不可有御忘トテ甲斐〳〵布モ御生害
有ケレハ入道ヲ始メ主従廿五人思々ニ自殺シ家ニ火ヲ掛悉
ク燋爛セシコソ悲シケレ政満ハ御遺言ヲ守リ此難ヲ免レテ
上野国ヘソ帰リケル時ハ応永卅一年八月十五日所ハ信州大河原也
宮ノ御腹ヲ召レシ処ヲ所ノ人ハ宮ノ原ト云【ト云:合字】也又其寸討死セシ
人々ノ死骸ヲ埋テ一堆ノ塚トナシ是ヲ千人塚ト云【ト云:合字】也石塔ハ則
信州並合ノ聖光寺ニアリ此時ノ合戦ニ討死セシ人々ノ法名
大龍寺殿一品尹良親王尊儀《割書:是後醍醐天皇ノ御孫|ナリ》
大円院長譽宗徹大居士 桃井宗綱入道宗徹
知真院浄譽義親大居士 羽河安芸守景庸
依正院義伝道伴大居士 世良田三郎義秋
良王君伝
御父ハ兵部卿尹良親王御母儀ハ世良田左馬助政義ノ女也応永
廿ニ乙未年於上野国寺尾城誕生アリ正長元戌申年四月寺
尾ノ城ヨリ下野国三河村落合城ニ入セ玉フ《割書:此寸良王|十四才》永亨五癸
丑年野州ヲ出テ信州ニ赴玉フ寸十九歳笛吹峠ニテ上杉
カ兵トモ【𪜈:合字】駈来テ戦フ此寸良王君ハ木戸河内守カ城へ入玉フ同年
五月十二日木戸カ城ヲ辞シテ【乄:合字】木曽カ所領金子ノ館ニ移玉フ
千久五郎金子ヨリ我館へ迎ヒ奉ル同年ノ冬世良田政義
桃井伊豆守貞綱等良王君ヲ尾張国海東郡津島ニ移
奉リ可然トテ四家七名字其外ノ兵共ニ触テケリ
同七年乙卯十二月朔日三河国ヲ打越ントテ並合ト云処ニ至リ玉フ
然ル処に先年一宮伊予守ニ討レシ飯田太郎カ一族宗綱ニ
討レシ 駒塚(本ノマヽ)小次郎カ弟某其外彼是【等カ】カ親族トモ【𪜈:合字】宮方ハ親
兄ノ敵ナレハ此所ヲハ通スマシ討取テ彼孝養ニセヨヤトテ大
勢是ニ馳集リ良王ヲ取囲ントスル処ニ桃井貞綱世良田政
親児玉貞広已下並合ノ森ノ陰ヨリ討掛リ賊徒百卅余人
ヲ討取ル同日酉ノ刻ヨリ亥ノ刻マテ防キ戦フ其間ニ良王ヲ
ハ十一党宇都宮宇佐美天野上田久世土屋佐浪等合ノ山迄
退奉ル貞綱貞広ヲ始メ野田彦次郎加治監物已下十一騎
【本文上部四行目よりの注記】
庸考良王
九歳喪
父乃是
応永卅一
年甲辰
ナリ
【本文上部十七行目よりの注記】
庸考尹良
王薨大河
原応永卅
一年甲辰
八月十五日
永亨七年
乙卯十二月一日
浪合事
自応永甲
辰第十一
行後ナリ
討死ス同三日桃井満昌合ノ山ニテ童トモ【𪜈:合字】ニ向テ汝等ハ何レノ里
ノ者ソ昨日並合ノ合戦ノ紛レ【?異本では「終り」】ノ様子ハ聞スヤト問ハ童トモ【𪜈:合字】七八
人ノ内一人答テ云我等ハ並合近キ村ノ者ニテ候昨日並合ノ
町口家ニ大勢ノ武士押入テ腹切テ候ヨシ又大将モ御腹メ
サレ候由承候ト申ス満昌又問テ云其腹切タル者トモノ【𪜈:合字】死骸ハ
如何ト童答テ云腹切寸家ニ火ヲ放テ候シカ折節風烈ク
吹テ並合ノ町悉ク消失ス何者カハ不知一文字ノ笠印一番
ノ笠印竪木瓜ノ紋付タル兵トモ【𪜈:合字】今暁焼跡ヲ捜シ鎧太刀
抔ノ焼タルヲ拾ヒ候ヲ見テ通リ侍リシカ偖哀ナルコト【ヿ:合字】トモ【𪜈:合字】ニテ候ト
語ル満昌之ヲ聞テ良王君ニ告テ申セハ頓テ大橋修理太
夫定元ヲ召テ満昌ニ差添ラレテ平谷ヨリ並合ニ遣シ討死
ノ者トモ【𪜈:合字】吊ハシム一文字ノ笠印ハ世良田一番ハ山川木瓜ハ堀田也何
レモ満昌定元ニ逢テ共ニ涙ヲ流シケリ偖世良田政義ハ辞
世ノ和歌有テ或家ノ蔀ニ書置コソハカナケレ斯テ定元ハ討
死セシ人々ノ焼骸ヲ採集テ並合ノ西ノ方ニアル寺ノ僧ヲ
頼ミ葬事ヲ営ミ満昌ハ野武士等カ首ヲ梟シ同日ノ暮
程ニ連テ平谷ノ陣所ニ社ハ帰リケル良王君政義カ残セシ
辞世ノ和歌ヲ御記有テ御袖ヲウルホシ玉フ其 ニ(本ノマヽ)
おもひきや幾瀬の淀をしのきゝて此なみ合に沈へしとは
此後ハ御供ノ士卒皆此ニ跼シ彼ニ蹐リ天地モ広カラヌ
心地シテ【乄:合字】同五日三河国鳴瀬村ニ至リ又里人疑テ入サレハ満
昌カ祖父所領ナル板井ノ郷ニ行テ正行寺ヲ頼ム《割書:或説ニ|作手ノ》
《割書:正行寺村ニ入御ト云々|然ハ板井郷ニハアラス》正行寺ハ満昌カ親戚下妻カ知人ナレハ良
王此処ニ四五日御滞留有テ尾州津島《割書:海東|郡》ノ大橋定省
カ奴野ノ城ニ入玉フ
同廿九日《割書:永亨七年|十二月》良王君尾州津島ニ入御四家七名家宇
佐美開田野々村宇都宮等十五人御供ス時ニ糧絶タリ一会
村ヨリ米五十石余ヲ献ス其米ヲ十五人ヘ分チ玉フ
同八年丙辰正月二日ヨリ亦復糧絶ス時ニ日置村ヨリ米廿石
余ヲ進ス其ヲモ前ノ如ク分チ給フ其ヨリ十五家ニテ毎年正月
二日ニハ必米ヲ舂コト【ヿ:合字】アリ蓋是ヨリ始レリ津島ニテ年始ノ嘉例
トスルコト【ヿ:合字】不然ヤ偖良王君尾州ニ隠レ玉ヒテ后ハ宮方ノ武士諸
国ニ蟄居ス其大概左ノ如シ
桃井大膳亮満昌 《割書:住三州吉良之大河内○大河内坂本之祖也|称三州桃井是ナリ》
大庭雅楽助景平 《割書:住三州額田郡深溝〇稲吉之祖》
熊谷小三郎直郷 《割書:住三州高力村世ニ称三州熊谷是ナリ》
児玉庄左エ門尉貞政 《割書:住三州奥平世称奥平祖》
酒井與四郎忠則 《割書:住三州鳴瀬後蟄居於大濱之下宮》
成瀬七郎忠房 《割書:居正行寺村》同太郎左エ門忠親
《割書:此三人兄弟也乃是新田一族大館苗裔大館太郎兵衛|親氏之男ナリ》
大岡忠次郎重宗 《割書:住三州渥美郡大草村是大江田苗裔也》
鈴木三郎兵エ尉政長 《割書:住三州碧海郡矢矧村》
大草三郎左エ衛門尉信長《割書:信州小笠原七郎政季弟八郎政億[後豊後守]之子|遠州有玉居住高村善八郎政親ノ弟ナリ》
天野民部少輔遠幹 《割書:住遠州秋葉城乃是対馬遠定ノ父也永亨七|年十二月遠幹持秋葉山獲兎就于冨樫介贈于三》
《割書:州元政親是ナリ》
【本文上部拾十四行目よりの注記】
庸考後為
僧最後改
大河内式部
少輔
【本文上部二十四行目よりの注記】
庸考兵家茶
話第四巻載
天野信景説曰天野下野守景隆
布施孫三郎重政 《割書:小笠原郎等也始従信州供奉良王君赴|于三州後住野呂村》
宇津十郎忠照 《割書:住三州前木其旧駿州冨士郡人宇津越中守|次男〇桐山〇和田〇大久保之祖》
宇都宮甚四郎忠成 《割書:住三州大久保村》
熊谷越中守直房 《割書:住江州伊吹山麓塩津為雨森之一族世ニ|称江州熊谷是ナリ》
土肥助次郎氏平 《割書:住尾州愛智郡北一色村土井三郎左エ門尉友平|之男ナリ》
長谷川大炊助重行 《割書:住尾春日井郡如意村石黒越中守重之[越中]|[州名子貴船山城主ナリ]之子也》
矢田彦七郎之泰 《割書:住尾州春日井郡矢田村堀田之一類也》
此外諸氏所々潜居者猶多不逞尽記
永亨七年十二月二日吊戦死者法号如左
貞綱院義切鉄柱居士 桃井貞綱
天光院真誉紅月居士 世良田政義
右良王君在津嶋奴野城吊先年戦死者之故令霊其時之号也
供奉良王之僧
蓮台寺弘阿 相州《割書:高坐郡|藤沢村》藤沢山浄光寺《割書:正中元年始|建第一代一》
《割書:遍上|人》遊行之徒第供奉良王住津島建蓮台寺
自吉野供奉尹良親王僧明星院実相院宝寿院
観音院此四院主君祈願師子良王于吉野于上毛于津
嶋所従于津島建四院乃為天王之社僧
尹良親王《割書:一品征夷大将軍》祠廟幷法号
応永卅一年八月十五日於信州大河原薨諡大龍寺殿《割書:大龍|寺所》
《割書:在与在津島同事乃是|尹良親王之廟所》又祭子津嶋境内新宮是也《割書:津島在|于尾州》
《割書:海東郡門真庄也又作亦在門真庄|葉栗郡未知其地何是》永亨八年六月十五日十一
【本文上部の注記】
奉崇良王令■【㫖(旨)に⻏カ】安芸守景則対馬守遠貞後移三州額田郡中山庄遠貞以来居宿戸村
岩戸村正蔵
寺天野院
天野孫右エ門
正家建為
寿正上人《割書:正|家》
《割書:ノ|弟》始祖有天
岩戸三蓋松
天野氏幕
紋筒松樹
也寺西手丁
可有天野
宅
△兵家茶話
曰差載
長㟢人
説曰長
谷川大炊
助重行本氏
石黒応永卅年
隠于尾州山田
郡神戸今
春日井郡
■走村【碵走村カ。一方で「兵家茶話」この箇所には「春日井郡妙意村」と、「兵家茶話抜書」には「春日井郡山田庄妙意村」となっている】是也
此越中王党有忠信濃王利仁将軍之裔
越中国貴船山
城石黒氏母所
可也宮崎氏
同宗氏族也
党者建祠廟所祭也
良王祠廟法号幷略履歴政親満昌貞政捉取々事
明応元年三月五日七十八歳薨諡瑞泉寺殿三年甲寅
三月五日建居祠致祭於天王境内又諡御前大明神先是
永亨【享カ】七年十二月廿九日良王入御津島天王神主之家七名字
者奏神楽令曰自今以徃以為嘉例八年丙辰正月朔進
雑煮於良王時毎魚肉以伊勢蛤以羹其食半白米其
菜ハ尾張菜菔【=大根】ノ輪截鱠小鰯乾タルニ菜菔ノ削リヲ入タ
ル也此年ヨリ御流労ナシ其年二月十一日奉公方家命平賀
加賀守広利三千ノ兵ヲ率シ京都ヨリ来テ三遠ノ間ニ於テ
新田ノ餘族ヲ捜シ求ケル寸ニ故右京亮政義次男万徳丸
政親称蔵人三州松平村ニ隠レ居タルヲ生捕梅原肥前守ニ
預ケ桃井満昌ヲ正行寺ニテ捉ヘ沢田八郎カ《割書:居江州|志賀》預テ遂ニ
京都ニヒキ井【ヰカ】室町ノ獄舎ニ入ケルカ五月三日ニハ三条河原ニ於
テ誅セラルヘキニ定リシヲ広利情有モノニテ其頃遊行上人ノ在
京ナルヲ幸ト思ヒ彼道場ニ徃テ密ニ面謁シケルハ上人ノ御了
簡ニテ何卒彼三人ノ命ヲ助ケ玉ハリ候ヘト頼ケレハ上人モ哀
ナルコト【ヿ:合字】ニ思ヒ則領掌シテ【乄:合字】弘阿弥ヲ以テ将軍《割書:義教》ヘ被申上ハ
三州ニテ召捕レ候三人ノ者近日御刑罰可有由承ス就夫
申上候古例ニハ同氏朝敵ノ首ヲハ朱塗ニシテ【乄:合字】梟スルトカヤ昔
頼朝卿ノ弟其外同志ノ者ノ首ヲ藤沢ニ梟セラレシ寸
モ朱塗ニセント伝承リ候ヘハ今度モ如右例セサセ玉ヒテ
【本文上部の注記(系図は文字のみ記述)】
拠兵家茶
話講異
宇良親王
興良親王
無品号
遠江守
尹良親王
宇都峯王
賜源姓
源
良王
大納言
神主【「兵家茶話抜書」では神王(ミワキミ)と記す】
後称大橋
和泉守
信重母ハ
大橋修理
亮貞之女
良新
津島祠戢固■【以上三字?「兵家茶話」は「津島社務/称氷室」のみ記す】地称氷室〇庸按新疑親字又考無子而卒王種於是二十絶焉
可然ト有ケレハ将軍聞召尤也其上朱ニテ塗ハ早ク腐マシ
トテ広利ヲ召テ彼三人ノ首ヲ刎テ朱塗ニシテ【乄:合字】獄門ニ掛ヘシ
ト被命広利承リ軈テ三人ヲ集愁囚ヨリ出シ己カ宿所ニ
迎ヘ賀茂静原ノ梅谷修理亮カ家ニ潜シ置獄舎ノ内
ニテ彼三人ノ年来二似タル罪人三人ヲ誅シテ【乄:合字】其首ヲ朱ニテ塗
梟木ニコソ掛タリケレ其后彼三人ハ遊行ノ弟子トナリ剃髪シ
従ヒテ回国ニ出ケルカ将軍《割書:義教》赤松満祐カ為ニ弑セラレ玉ヒ
テ後ハ世間モ広クナリテ三州ニ帰リ大河内ニ住シ満昌ハ大
カワ河内式部少輔ニ改メ貞政モ三州作手ニ住シ奥平監物ト
改メ政親計ハ改テ阿弥陀仏ト号シテ【乄:合字】上州ノ満徳寺ニ入
テ行ヒスマシテ【乄:合字】居タリシカ後文正元年丙戌示寂スト云
洞院大納言付松平 泰親(冨永御所)之事
永亨【享カ】十一年己未洞院大納言実熈卿《割書:後称東山左府叙従一位|康正三年【以下割書】[此年九月十八日有改/元為長祐元年]》
《割書:法名元鏡博学|宏才ノ人ナリ》三州ニ流サレテ大河内ニ居住シ玉フカ嘉吉三年
癸亥帰洛有テ後内大臣ニ任セラル其帰洛ノ寸松平太郎
左エ門泰親ハ冨祐ナル者ニテ金銀ヲ借シテ【乄:合字】帰洛ヲ賑シテ【乄:合字】実
熈ニ相従フ京都ニ上ル故ハ如何ントナレハ泰親カ女ハ実熈ノ妾
ナリ一人ノ男子ヲ生テ冨永五郎実興ト称ス世ニ富永御所ト
云《割書:三州加|茂郡》是三州山本尾崎山崎ノ祖ナリ
津島祠祭礼由来之事
尾州津島天王祠祭礼ノ儀式ハ船十一艘ヲ飾テ十一党ノ者
各其家ノ紋ヲ付タル幕ヲソレ〳〵ノ舟ニ張ナリ此舟祭ノ始ル
コト【ヿ:合字】ハ同国佐屋村ニ台尻大隅守ト云【ト云:合字】剛ノ者アリ良王ノ讎敵也
天王ノ神託ニ依テ大隅守ヲ討ヘキ計策有テ斯ハスルナリ
偖十一党ノ者ハ台尻カ船一艘ニ己カ族ヲ悉ク乗テ天王ノ
祭礼ヲ観ニ来ルト聞テ十艘ハ津島ニヲキ大隅舟ヲ盪
出スヘシト互ニ相図ヲ定メ閣テ津島ニアル十艘ノ舟ヲ推出シ
大隅守カ船ニ漕ヨセテ彼船ノ前后ヨリ取巻討取ヘシト相
議シ大隅守カ舟津島ノ方ニ漕来ルヲ伺フニ大隅ハ此謀
ヲ不知一族悉ク一艘ニ乗来ル折コソヨシト十一艘取巻テ
鬨ヲ上テ大隅カ舟ヲ忽ニ水中ニ撃沈ム其一族トモ【𪜈:合字】或ハ討レ
或ハ溺レ不残爰ニテ亡ホサルトナリ宇佐美宇津宮開田
野々村ハ態ト陸ニ扣居テ水ヲ游キ上ラントスルヲ討取其
例ニ固テ佐津田野ノ四家ハ末代迄モ出サスナリ大矢部主税助
ハ大隅カ一味ノ者成シカ良王ニ内通シ大隅カ船ノ幕ヲ取テ
船中ノ能見ユルヤウニ致セリ是故ニ大矢部ハ命ヲ助ルノミ
ナラス将賞ヲ授ラレテ天王拝殿ノ番ニ加ラル偖又十一党其
外一味ノ人々神託ニ依テ大隅ヲ容易討亡シタリト喜勇
ムコト【ヿ:合字】ヲ祭ノ囃子詞ニシタル故ニ後世迄モ此祭ノ寸ハ吉例
トシテ【乄:合字】今日ノ如ク囃スヘシトノ命ヲ仰クヘシトカヤ又大隅ヲ討シ
八十四夜也又十一党ノ乗タル船ニハ一類一党ノ者ノ外固ク
禁メテ乗セス若他家ヲ乗ル寸ハ四家七名字ノ者装束
ヲ麁ニシテ【乄:合字】乗スル也是ヲ主達衆ト号ク又良王自ラ神家
ヲ継テ天王境内ニマシ〳〵四家ハ奴野ノ城ニ居テ詞殿ヲ
守護ス七名字ハ毎晨祠殿ニ出仕シテ【乄:合字】社僧ノ徃古
ヨリ執行シ来ル処ノ神事祭典ハ酒掃以下無怠慢可相
勤ノ下知ヲスル役人トナリ佐津田野ハ津島五ケ村ノ町人
百姓其外他国参詣ノ武士ヲ改ル役人ナリ
津嶋天王略伝
牛頭天王ハ欽明天皇御宇海東郡中島ニ光現セリ見
レハ柳竹ニ白幣アリ神託曰我ハ素盞烏尊也此所産
ヲシメテ日本惣鎮守ト成ヘシトノ御告ニ依テ祠ヲ建テ
崇メ来ル始現テ柳竹鎮座シ玉フ故柳竹ヲ守トハ号ス
ルナラン其始天暦二年《割書:村上天皇|御宇》勅使至建祠《割書:或説曰中島郡|王ノ村太神宮》
《割書:同体|云々》今柏森ノ地也トモ【𪜈:合字】建德《割書:南朝後村|上年号》元年《割書:当北朝|応安二年》正月
廿五日授正一位号日本惣社弘和《割書:南朝|年号》元年辛酉《割書:当北朝永|徳元年》
冬後亀山帝《割書:南|朝》ノ勅令ヲ方奉テ大橋三河守定有
造営今祠境也正平《割書:南朝|年号》元年丙戌《割書:北当朝貞|和二年》七月十三日
佐太彦祠《割書:今弥五|郎殿ト云》幷武内大臣祠《割書:共平定経祠相合シテ【乄:合字】二坐𦒳【「老」の異体字】|也定経ハ地三神者也》
堀田弥五郎正泰《割書:後叙従五位下|任左エ門佐》奉旨崇祭世以願主称
呼之弥五郎殿其本祠牛頭天八王子一王子之謂尾州
津島三祠
奴野城之事
正慶元年壬申大橋三河守定高始テ築其前ハ城ナシ此城
尾州海東郡門真庄ニアリ此庄ハ曩祖大橋肥後入道
平貞能ニ平家没後頼朝卿ヨリ隠退ノ耒【?】地トシテ【乄:合字】永代賜
ル所ナリ定省カ時ニ良王ヲ津島ニ隠スト云トモ【𪜈:合字】京都ヨリ何ノ
子細モ無リシトソ偖肥後守貞能ハ文治ノ頃ヨリ津島居住
ス其子貞経ハ肥後ニ住セリ貞経カ子大橋貞広三州
額田郡ニ来テ住ス故ニ其所ヲ大橋ト号ス《割書:大河内中根大橋|此三村ハ北隣ナリ》
尹良親王ノ御女桜姫君ト申ハ大橋定有ニ嫁シ数多ニ
男子ヲ生メリ修理亮定元三河守信吉等也是ヨリ先平
家没落ノ後曩祖貞能肥後国大橋ト云処ニ蟄居シ
其後宇津宮ニ仕テ野州ニ赴キ出家ス又三州ニ移リテ
モ其所ヲ大橋ト云【ト云:合字】尾州熱田ニ潜居スル寸ニ農家ノ女二人
ヲ妾トシ各二女ヲ生ム斯テ頼朝卿貞能ヲ尋求シムルニ
尾州原大夫亮春カ扶助スル由聞エケレハ梶原源太景
季ニ命シテ【乄:合字】原カ居城ヲ攻シム貞能自ラ景季カ陣ニ行テ
捕レシ故ニ景季鎌倉ニ将ヰ帰リ比企谷ノ土ノ罕ニ入タリ
然ル処ニ貞能カ妻肥後州ニテ生シ長男一妙丸《割書:後改|貞経》
ヲ知ン為鎌倉ニ下リ鶴岡八幡宮ニ毎日毎夜詣テ高
声ニ法華経ヲ読誦シ父カコト【ヿ:合字】ヲ祈ルコト【ヿ:合字】数月ニ及ヒヌ彼カ
容色 直人(タヽウト)トハ見ヘス皆人 奇異(アヤシメリ)頼朝卿ノ御台所聞食
テ卿ヘ斯ト語リ玉ヘハ即召テ其意赴ヲ問ハシメラル彼泣々
父カコト【ヿ:合字】ヲ申セシカハ卿哀ニ思召テ貞能カ命ヲ助ケ安堵ノ下
文ヲ賜リテ九州ニ帰サル是大友ノ始祖也貞能カ子大橋太郎
貞経カ後裔世々尾三ニ住ス貞能尾州ニテ得タリシ四女《割書:二人ノ|妾各》
《割書:生二女同|月同日》ヲ頼朝卿鎌倉ヘ召一人ヲハ三浦佐原太郎平景連
【本文二十一行目上部からの注記】
或曰源一
法師貞
能カ家ヲ
ツク
ニ嫁サシメ《割書:真野五郎|胤連ノ母》一人ハ佐々木三郎兵エ尉盛綱《割書:法名|西念》ニ嫁サ
シム《割書:小三郎盛|季ノ母也》一人ハ芸州二住スル羽山宗春ニ賜ハル一人ハ
大友四郎大夫経家ニ与ヘラル《割書:豊前守|能直ノ母也》彼四女ノ生レシ里ヲ末
代迄ノ験トテ四女子村ト号ク四女子ノ母ヲハ神ニ崇テ祠
アリ人誤テ頼朝ノ祠ト呼ハ可笑
長亨【「享」の誤】二年戊申九月十九日
天文二年癸巳三月五日所写不許他見
享保九年甲辰閏四月廿五日所写近江源氏苗裔《割書:谷口酉四郎重堅》
享保十七年壬子閏五月二日武州豊島郡牛込神楽坂松源寺第七
世第五与庸【唐?】同禅余閣筆於修史亭下
寛政元年己酉七月念五日於武州和田倉写芙園【?】主人
同年十一月十五日於武州愛宕下写之寺島重寛
文政十二年己丑七月廿七日桑名文庫中ヨリ拝借於梅軒写畢
木崎原合戦記序
かゝる目出度御代なれは国々所々に至るまて千代の春千歳の
秋と楽む也皆是君の恵みの深き故そと弥仰き奉る
思ひゝの殿作り甍をならへ軒をつらねていろめくは高殿
楼閣をかまへつゝ朝日の光月の影うつる光のかゝやくは事も
愚に思はれて庭には金銀の砂を敷四方の囲も夥しく
不老門を出入人の皆袖をつらねて色めくは是や名にあふ
華衣着てみぬ人の心やなとふりてん【刀利天】喜見城の都もかくや
あらんとかほと治る御代なれは雨風まても枝をならさしと
いへは又人として君か代を萬代まていのらんはなかりけり
《割書:乗頓按此序巻中の趣意にかゝる事なし文も又拙なけれは後人の|書添たることのにやしらす》
木崎原合戦事
一倩世間の現相を観するに積善の家には余慶有積悪の
家には余殃有尤可慎は此道也爰に大隅薩摩日向三ケ
国の大守島津修理大夫義久公とも申奉るは忝も清和天皇の
御苗裔鎌倉の征夷大将軍源頼朝公御子左衛門尉忠久
公より十七代の嫡孫也文武二道の名将にて上を敬ひ下を
撫仁義正しくましませは靡ぬ草木はなかりけり御舎弟兵庫頭
忠平左衛門尉歳久中務大輔家久迚何も文武の名将たり
家の子郎等にいたる迄誠に忠勤を励ませは古今稀なる御果
報也近国のもの迄も羨さらんは無りけり是は扨置是に大
職冠鎌足の御末伊豆国の住人伊東入道寂心の末孫に
伊東左原大夫義祐とて弓取一人おはします日向国 都(ト)ノ郡に住給ふ
其心飽まて不敵にして仁義の道を学はす下を憐む心なく我
心に任せてふるまへは恐れんものともなかりけりされは古への詞に
も君臣を見る事手足の如くする時は臣君を見る事
腹心のことくす又曰義に隨ふ時は聖也君に隨ふ時は賢也
然るに義祐道にたかひし有様を譜代よしみの家臣共諫言
するといへ共曽て用る事もなく却て疎み遠さかる心の内等
も浅間しけれ大欲心の余りにや大隅薩摩に発向し我三ケ国
の主と成り子孫の栄花に盛へんと明暮方便をめくらし給
へと飯野の城には兵庫頭智仁勇の三徳を兼備堅く
警固をし給へは小勢にては中々叶へき様はなかりけりさらは求
摩の相良に加勢を請んと家の子に伊東加賀守祐安を近
付事の子細を言含め相良か方へと遣しける求摩にもなれは此由
斯と申ける相良頓て対面し必加勢申さんと左も御早く
返答し先首途に祝んと酒を様々に進め金作の太刀を
一振加賀守にそ引たりける祐安悦喜限りなく約束かたく相
極日向をさしてそ帰ける義祐大に悦て家の子郎等相集め
評定取々也爰に野尻の城主福永丹波守祐朝といふ者有
仁義を守勇士にて少しも憚る処なく進出て申けるは誠に
愚案をめくらし候に嶋津殿と申奉るは忝も清和天皇の御
末多田満仲より以来弓箭の家に誉を取政道かしこくまし
ませは御家の家臣に至迄数代好身を不忘皆忠勤を
励し心を変さる者とては稀にも不聞処也大敵の強敵也御当家
の兵共と申は譜代の士少して皆方々の仮武者也誠に相良の
何某は人かはしらぬ心の表裏人と承る無二の味方と云かたし
小勢を以て強敵の国に働給はん事蟷螂の斧を以て立車
に向うの譬也事新敷申事には候へ共御先祖祐高公は嶋
津の豊久を御聟に取給ひ其御威光を以日向土党を
討平けか様に栄花に盛り給ふ是偏に島津殿の御恩
也恩を得て恩を知んは木石にも相同しさそ佛神三宝
もにくしと思しめさるへし我々共か所存の処は島津殿の御旗
下に成給て九州不残嶋津殿の御手に入へき御計策を
被成先陣の御働忠義を尽させ給ひなは二ケ国も三ケ国も
嶋津殿より賜らせ給ふへし左有時は御家長久御子孫繁昌たる
へき事何の疑か候へき是福永か道に当り謀と存也先此
度の御合戦思召留り給へひらに〳〵と申ける義祐元より無道
の佞人以の外腹を立今に勤ん福永か賢人たてのおかしさよ
理非はともあれ角もあれ求摩に約束する上は用意せよや
者共とあはてふためき勢揃伊東加賀守同名所次郎大将
にて七百余キを相添て先陣に差遣し我身も弐千余人
を引具し二陣に頒て出給ふ天理に背き此度の合戦危
しといはん者こそなしとにもかくにも義祐の心の内おろか成共
申斗は無りけり
一去間飯野に御座す兵庫頭忠平は智恵第一の人なれは兼
てより伊東方に忍を入置給う故早彼事を聞召方々の味方〳〵
に飛脚を越て告給ふ菱刈表の兵共は勇進て人数を揃
爰かしこに手配し今や〳〵と待掛る忠平も川上三河守忠朝
上原長門守を初究竟の兵共三千余人相勝り木崎原の
関所に伏伊東勢を菱刈表に遣り過し跡を取切悉く
打亡さんと巧れけり是は不知伊東勢賀藤【加久藤・覚頭】迄発向す願ふ
所の幸と菱刈表の兵共五十騎百騎爰の峯かしこの谷の
つまり〳〵に馳せ集り時の声を造り懸弓鉄炮を放懸喚き
叫て責戦ふ伊東勢は小勢にて求摩の加勢を待れしか相
良何とか思ひけん一騎も勢を出さねは前後の敵に取囲れ
十方に暮ておはします爰に義祐の郎等に柚木埼丹後守政
家と云文武二道の侍有黒糸威の鎧きて卅六さしたる大中黒
の征矢を負三人張の塗こめ藤の弓持て鹿毛成駒に乗
たるか進み出て申けるは人の心と川の瀬は一夜に替る習也
覚悟の前にて候へ共可驚事にてなしかゝる時に命をおしみ
生んとすれは必す死す思切て一方打破り通るへしと諸軍勢
に下知をなし小林さして引て行破れ軍の習にて我先にと
足を乱して逃けれは跡より敵は群りて時の声を作り懸
しけくしたふて追懸る丹後守は是を見て斯ては不可叶某一人
踏止りて防矢を射て落し申さんと後陣遥に引下り彼政家
と申は近国に隠なき強弓の精兵矢継早の手利也大音上て
呼はるは爰に扣しは丹後守と言者也日頃音にも聞つらん
今近付て我をしれ矢先に敵は嫌ふましと指取引取射る程に死生
は不知廿八人射伏たり此勢ひに恐れをなし追て懸りし諸軍勢
しとろに成て勇えす漸引て行程に木崎原にも成ぬれは
忠平の御手一度に鬨を上にける伊藤【「東」の誤カ】勢は是を見て爰を
破られては叶ましとや思ひけん面もふらす責戦ふ未時を移
さんに川上三河守同助七大将にて物に馴たる究竟の兵を
五百余人引分とある木影に馳廻り義祐の旗本へ真しく
らに馳入縦横無尽に切て廻れは思寄さる伊東勢四方へばつと
散にける屋形の兵共勝に乗て前後ゟ引包み追伏〳〵打
捨る伊東に名有侍五百余人時刻を不移討れけり其外
恥をしらぬ雑兵共爰彼に追詰られ討るゝ者は数しらす
かゝる処に伊藤【「東」の誤りカ】祐安大勢に押立られ心ならす五町斗落たりしか
とある高みに懸上り臆病至極の奴原共何方迄逃るそと
味方の勢を励ましかへせ〳〵と呼りけれ共引立たる勢の癖なれ
は耳にも更に不聞入我先と引て行祐安心に思ふ様賤しくも
伊藤【「東」の誤カ】殿ゟ先陣の大将給り一軍も利を得す何の面目有
てか人々に対面せんいさ討死と思ひ切駒の手綱を引かへし
大音上て名乗様是は伊東の家の子に加賀守祐安といふ
者也軍の恩を報せん為討死するそ我とおもはん者あらは
懸れ〳〵と呼はりける爰に渋谷上総介国重此言葉を聞付あら
やさしくも帰させ給ふ物哉是は克【=重責を担う?】北原か郎等渋谷上総介迚音に
聞せ給ふらん参候と云侭に何れも馬より飛て下り打物抜て
戦ける国重か郎等主を打せしと弓手馬手ゟつつと寄むすと
組て上を下へとかへしける祐安元より大力二人の者をかひつかんて
かしこへ投捨国重と組て取て押へ首を掻んとする処を国重か
弟軍八国猶落重て柄も挙も通れ〳〵と三刀指て弱る
処をはねかへし終に首を打落ししすましたりといふ儘に勝鬨
とつと上陣所をさしてそ引にける此人々の手柄のほと天
晴味方の勢ひやと皆々打寄て盛しけり
一去間加賀守か郎等一人討洩され新次郎に近付てか様〳〵と告け
れは新次郎是を聞て扨は祐安討死とや両大将の者共か一人
残り古郷に帰り詮もなし附隨ふ者共一人も不残落行て
義祐の御先途を見継へし暇取する是迄と取てかへし大勢
の中に割て入面も不振戦しか余多の敵を伐落し我身も
数か所の疵を蒙りけれは是迄と思ひ切馬ゟ下に飛て
下り自害せんとする処に敵の兵透間もなく馳来る心得
たりといふ儘に真先に進む兵の諸脚薙て切伏せ二
番に続く兵と引組て刺違て共に空敷成にけり爰に柚
木崎丹後守は一人跡へ踏止り大音上て呼りける是は義祐の
郎等に柚木崎丹後守政家と申者也忠平の御内に名
ある侍しはし申入度子細有是へ〳〵と招きける勝に乗る
雑兵共耳にも更に不聞入我討取んとひしめきける丹後
守は是を見て理非をもしらぬ奴原哉そこ立退という儘
に遮る敵を弓手馬手に切て捨て忠平の旗本に真一文字
に駈来り忠平其由御覧して是は名有侍と聞子細を聞と宣へは
旗本の兵共丹後守を中に取込丹後守馬ゟ飛て下り打物
からりと捨いかにかた〳〵聞給へ我等か主の義祐は嶋津殿の御
恩を蒙り栄花に盛し人なれ共逆心を企天命に背申候故
此度の合戦悉く敗軍し家の滅亡不遠嶋津殿の御家に
降参申度は候へ共賢臣二君に不仕といふ本文の詞に恥只今討
死仕幼少の一子候を忠平様に奉り哀高きも賤も子を
思ふ道に迷事押はかり給へし此事申さんか為に是迄参候也
今は思ふ処なし首をめされ候へと甲を脱て彼所へ捨もんじん【(問訊=合掌低頭)】
してこそ【強調】居たりける忠平此由聞召哀成事共哉一子の事は
扨置汝も降参仕れひらに〳〵と宣へは丹後此由承りこは
難有御意哉左あらは暇を申して腰の刀を引抜て咽のくさりを
掻放し朝の露と消にけり此上は力なしと首を打落す御
大将を初として見る人聞人おしなへて袖を濡さん者はなし
か様に皆打死仕あなたこなたの時刻を延る其隙を大将
義祐は乕【虎=異体字】口の難を遁れ都の郡に落らるゝ忠平此よし
御覧して勝に乗て長追は悪かるへし先引取やもの共と下知を
し成て引給ふ去程に兵庫頭忠平は伊東勢に討勝飯野の城
に引かへし定て義祐今度の恥を清めん為二度討て懸るへし
油断するなと宣ひて遠見を出し忍を入御用心は隙もなし
川上上原を初として家老の面々申様臆病神の付たる伊東
勢何ほとの事か仕出へし此勢ひに境目を打越御働候はゝ
手に立ものは候ましと勇進て申ける忠平此由聞召此義尤乍去
困犬虎を喰究鼠却て猫を嚙と云事あり伊東も名に
有兵也侮ては悪かるへし縦亡といふ共味方大勢討るへし時
節を待と宣ひて境目堅く相守月日を送せ給ひけり
是は扨置伊藤【「東」の誤カ】義祐は木崎原の合戦に家子郎等不残
打せつゝ今一度境目を打越あまたの城を攻落し会稽
の恥を雪んと種々の智略をめくらせ共味方の臆病神
に迷はされ妻子を隠し色めきて落支度をそしたりける
野尻の城主福永丹波守は此由を熟しと見て伊東殿
御家滅亡すへき時節此節也度々諫言しけれ共禁言耳
に逆ふ習にて義祐大に腹を立物毎つらく振舞三年か
間無対面福永心に思ふ様我苟しも人界に生を受君臣
の義を違へす君を諌る甲斐もなし却て不興を蒙る事
無念至極に思へ共是も先世の事なれは悔も更 不残/(本ノマヽ)【四字右に注記】伝へ
聞は伊東殿は未先非を悔給はす今一度境目を打越
発向せんと企有よしを聞御家の滅亡不遠君辱しめらるゝ
時は臣死すといふ事あり家臣として今一度諌さらんも恥
辱の至成へしと一通の諌言状を認め態と名字は書さり
けり夜半に紛れて伊東殿の館へ忍行門前に立置宿
所をさしてそ帰けるとにもかくにも此福永の所存のほと
天晴なる勇士やと誉んものこそなかりけり
一去間夜もほの〳〵と明けれは番の者共是を見て伊東殿に
参らす義祐披て熟々見て是は定て福永か仕業也と覚たり去は
社とよ福永は決定逆心と覚たり我三ケ国を打平け栄花に
盛んと思ひ立合戦に種々の手便【?】をめくらし押留んとの心中は
返す〳〵も気遣也定て義久方へも内通したるへし時刻不移
討て捨よと下知をなす稲津左衛門川崎民部を大将にて
究竟の兵五百余人差遣す爰に内山の城主野村備中守
重綱と云は福永か為には少し親類なれは中々心を置恨られ
ては叶まし大将に頼んと此由斯と触けれは畏 り隠【住ヵ】/(本ノマヽ)【四字右に注記】城し五常
の道をむねとして仮にも非義を不行主君の悪逆有時は
己か身の上をも不顧諌をなす忠人也然るに依て三年か程
不興蒙り閉門す今更か様に誅伐を蒙る是偏に唐の
比干か諌に相同し伊東か家の滅亡疑なし殊に義祐の御子
義益は義久向退治の御立願の其為に岩崎の稲荷の宮
に籠せ給ふか神も非礼を受給はす社頭にて頓死して失
給ふ是一ツの瑞相也然時は此度の御合戦千に一ツも勝利を
得給ふ事あらし諸軍もいかて勇むへき皆敵に降参せんは
必定也我々とても未頼むへき身にはあらす此事福永に告
知せ落さはやと思ひつゝ文こま〳〵と書認福永へそ送ける
我身居館に引籠り世間の様を聞居たり福永熟々と
見て覚て拵たる事なれは驚くへき事にてなし討手向ん
其先に妻や子共を刺殺し腹切んと思ひしか待しはし我心
今日此頃と申は親は子をたはかれは子は又親に楯を突欲心
深き世中に野村とても頼れす渠か館へ打越直に対面し心の
内を興/(本ノマヽ)【四字右に注記】して知り身の行衛を究んと郎等に早瀬兵部左衛門
恒高とて大剛の兵を近付か様〳〵の次第にて野村か館に打
越か自然の事の有ならは妻子を害し焼払跡を清め
て得さすへし今生の対面是迄と鬼も欺く福永か泪と
共に立出る早瀬も涙をおし留御心易思召某斯て有上は
千騎万騎と思召縦寄来る者迚も軍は花を散すへし浮世の
名残是迄と門の戸をさし固め残し兵相添寄来る敵を今
や〳〵と待居たり是は扨置討手の大将稲津川崎野村か館
へ使を立時刻移りて叶まし早打立給へと申ける野村此由
を聞よりも俄に急病に犯され前後不覚候へは中々叶まし
福永分際思ふに左こそ有へし時刻相延しても何程の事か仕出す
へきと大様に返答す稲津川崎是を聞頓て心得たり福永は
親類の事なれは同意すると覚たり二心有奴原を一刻も助け
置方々引合募りてはことの大事たるへし先んする時は人をせいす
とは此時成へし早打立や者共と取ものも取あへす野尻の城に
押寄二重三重におつ取巻鬨の声上にけり鬨静れは恒
高矢倉に馳上り何者なれは狼藉や名のれ聞んと申ける
寄手の方より声々に福永叛反隠なし無用の事をいはん
より腹を切とそ申ける恒高から〳〵と打笑我等か館の福永
は旁か知る如く仁義を守る勇士にて伊東の御家に二人共
なき忠臣也逆心なとゝいふ事は不思寄次第也おゝやかて心
得たり飯野にまします兵庫頭忠平は智恵深き人なれは先福
永を退治して其後伊東殿御家を安々と亡さんする其為の
謀と覚たり敵の謀を不知して亡給はん義祐の御運の程こそ
然し【=なるほどそうだ】けれ危しや世中後先立人間の老少不定さためなけれは
こそ誠なれ何事も徒事に方々よみし物と思ひなは念仏
申てたひ給へ恒高か手并【手並の意?】の程今日あらはして見せ申さん
と弓鉄砲を放かけ少時ときを移しける表に進む兵百
人余り射しらまされて少し色めく処に一度にとつと切て出
火花を散し戦ける実も寄手は大勢にて荒手を入かへ
責けれは城の兵共残少なく討れける恒高此由見るよりも今
は防に叶ましと城の中につつと入嫡子兵太経房を近付
は物を能聞や世の有様能見るに伊東の御家終に滅亡被成
へし嶋津殿御家は末盛へき御仕置鏡に懸て覚たり
福永殿御家此節滅せん事無念さに御台若君の
御供し薩摩方へ降参し主君の御跡滅却せんやうに方々
落よと言けれは恒房【前コマでは経房】聞てこは仰共覚えぬ物かな福永
殿も内山に御越有定て切腹可被成主君と親を見捨
つゝ敵の方へ降参せは屍の上の恥也共に打死究んと落る
気色は無りけり恒高大に腹を立こは心得ぬ所存哉汝か
名利を思ふて主君の御家断絶せん事不忠の至是也其上
親の命を背ん事不忠の科を如何せんとかく利口をいはぬ
より急け〳〵と左もあらけなく申ける恒房泪をおさへ此上は
力なし契朽せす候はゝ後の世も廻り合可申と泪と共に御台若
君の御供し忍ひて城を落行恒高今はかく【斯く=これまで】と思ひ是迄
と残たる兵共を近付いかに旁最後の合戦未練すな
敵味方に笑はるゝなとて城中に火を懸天か霞と煙立る
本より恒高大力四尺斗の大太刀抜て真向に差かさし
門外に走出大音上て名乗福永か郎等早瀬兵部恒高
とて大剛一の兵也我と思はん者あらは早打捕て高名せよ
そこを引なといふ儘に大勢に割て入西から東北南蜘手
かくなは十文字八ツ華形といふ儘にさん〳〵に薙伏る実も敵は
堪兼風に木のはの散ことく村々ばつと逃にける爰に寄手の
方より村山源次奥野々藤太とて日頃手柄を顕し荒言吐たる
兵有目と目をきつと見合こは無念の次第かな恒高壱人に切立
られ足をためす見くるしや鬼神にてもあらはあれ余すな
といふ儘に二人の者共真しくらに打てかゝるを恒高きつと見
て大勢の其中に方々の残り留るは類ひ少き兵哉いさや
勝負を決せんと二人を左右に相受て追つ巻つ戦けるか奥
野々藤太太刀を打折て怪む処をつと入て真向二ツ割に
そしたりける源次透さす丁度と打ひらりと逃【迦ヵ=外】しそふなく諸
膝なひて切落されかしこへとうと倒れける二人か首を打落し
太刀の先に貫き軍はかくこそする物よ掛れ〳〵と呼はりける
左右な近付そ遠矢にそ射たりける恒高も心は猛く勇め共
其身鉄石にあらされは数ケ所の疵を蒙りて遁んもの故に腹
一文字にかき切て朝の露と消にけるかの恒高か手柄のほと皆
感せぬものは無りけり
一去間野村備中守重綱は忍の者共都の郡に附置ける無程
馳来り稲津川崎大将にて福永館へ大勢取掛し由申
ける野村聞てとやせん角やあらましと案し煩居たりしか只
世の行末を見る時は今日は人の身の上明日は我か身の上そかし
迚も死すへき露の身を義理を守福永と共に腹をかき切
て死出の山路を諸共に手に手を取て打越て立反【たちかえる】も難面【つれなく】も
物語して慰んと我と思はんものあらは供して来れと云儘に
立出んとしたりしか実誠忘れたり妻や子共を残し置人手
に掛んも無念也差殺さんと思ひつゝ常の所に立帰り女
房を近付てか様の次第にて福永館へ打越る是を最期と
思ふ也我等討れて有ならは敵是へ乱入浮めを見せんは必定也
如何せんと泪に咽ひたり女房聞て是は夢かや現かやと少時
消入泣給ふやう〳〵心を取直しこは浅間敷次第也弓矢の
家に生るゝ者か様の事有へきとは覚て覚悟もしたる事なれ
は先ツみつからを御害し二人の若共御手に掛させ給へかし死
出の山三途の川を御心安く越給へと潔くは言けれとも
花の様成若共を只今殺さん恩愛の別れ羈強くして
倒れふして我身の上はしらすしてなふ何方に行給ふそや母をも
我をも連させ給はんはてはやらじと泣さけふ袂にすがり留れ
はさしも猛き重綱も心も乱肝消てあゝ口惜や我日ころ
余多の敵に掛合度々高名はしけれ共四方も晴て覚るにかゝる
哀は身に染て骨髄に通り刀及ぬ次第也夫仏経にも恩
愛の妻子は三界の枷と御戒め今身の上に知られたりと
思へ共更に罪なくそゞろに泪を流しける斯て不可叶と眼
を開き牙をかくし刺殺さんとする処に老母走来り浅ま
しやと取付て絶焦れて泣給ふ先母上をや殺し申さむ
如何せんと思ひつゝ前後左右も弁へす心体爰に極つて
そゝろに時刻も移しける乳房の母を情なく我手に掛
て殺しなは左こそ仏神三宝もにくしと思しめさるへしと
左あらぬ体にもてなして家に伝はる郎等に竹部与市
を近付か様〳〵の次第也母や妻子を汝か手に掛害しつゝ
跡を隠して得さすへし萬事頼むと言置て把る袂引分
馬牽寄て打乗て跡をも不見して馳て行与市御
諚承りつく〳〵物を案するに野村の家を此時に絶し
給はん事共を御先祖に対しても不孝の至りと存る也
未幼少の人々にて御恥辱共不覚共誰かは謗り可申
落はやと老母をはしめ親子の人々相具して行方不知
成にける扨も野村か館へと急ける道にて行逢互に馬
より下り野村始終を言語り泣より外の事はなし野村
申ける様只爰許にて闇々と腹切んもいひかひなし討手
の勢を待かけ手柄のほとを尽して戦か又都の郡一行
討死するか如何あらんと言けれは福永つく〳〵と思案して
討手の勢と申すも昨日けふ肩をならへて膝を組し傍輩也
争ふへき恨なし主君伊東殿へは恨は数々多けれ共君々
たらすといへ共臣以臣たらすは不可有と聞時は弓を引も
仇言也死を一挙に定は安し謀を萬代に残すは怪し
先かたはらに忍ひつゝ世の有様を伺ふへし先此方へと申
けれは野村聞て命惜に似たれともいはれを聞は理り也
去なから此姿にては叶まし出家を遂んと言けれは福永
か譜代の郎等に渋谷権之尾【?】とて大剛の者有けるか進
出て申けるはこは浅間しき御事かないかに命おしきとて
出家に成法や有某一人有うちは千騎万騎と思し召
是より紙屋の里に無二の知人候へは彼方へ落させ給ひつゝ
時節を待せ給へとて紙屋の方へそ急ける此事隠あらされは
忠平頓て聞し召願所の幸と大勢を催し境目を打
越てこゝやかしこへ火の手をあけ敵の陣所を焼払ひ
今は本望遂たりと御悦はかきりなく屋形をさして
帰陣有こそめてたけれ
乗邨云原本誤写多し其儘うつし置もの也
842
141
弘化四丁未年
大地震
847
141
弘化四丁未年
大地震
并山崩大火水押
人死田畑水損 有増記
信州善光寺大地震焼失水押之次第
弘化四丁未年三月廿四日当山如来開帳中ばの事
ゆへ山内并市中一流振ひ夜分ハ万燈白日の如く
繁昌之所同夜亥ノ刻俄に大地震大雷の如く
寺院并市中一度ニ揺潰し闇夜となり程なく数ケ
所より出火大火となり家毎ニ泣さげぶこゑ天地に
ひゞき無難にて逃出たる者は父母妻子兄弟を
助んと艱苦をなし火を消さんとするものも無之
銘〻野田へ逃出唯忙然たる有様也近郷村〻ゟ親類
縁者へ欠付潰れ家の下ニていまだこゑのあるを掘出し
相助又火を防がんとなせ共中〻力に及ず火勢ます〳〵
盛んにして風は未申の方より吹立如来御本堂 既(すで)に
あやうく見へ候所御屋根上三門之屋根上数多の人影顕(あらはれ)
八方へ欠廻り飛火を防候地震ニもゆり潰れす焼失も
無之夜明テ御屋根を見あぐれば数多人壱人も不見
誠にふしぎなる事ニ候松代様より御防人数多勢イ
御召連御出役有之候六川御陣中よりも左之通り下後丁
火先は消口ニ相成候同夜命助り候ものは不残野中に伏雨
露にあたり地震は止ミ不申火気ははけしく二日二夜焼
誠に難義歎敷事言語に絶へ候
一御山内は大本願上人様御境内諸堂不残衆従弐十壱院
中衆十五坊妻戸十坊不残焼二王門御堂庭小間物店
茶屋むしろ張の見せ物小屋類三丁余不残焼失別
当大勧進様半潰れニ而残る経蔵鐘楼堂万善堂
無難御本堂え毎夜通夜の旅人数百人こもり候所同夜は
別而多くこもり候處壱人も怪我も無之無難ニて出る難
有事ニ 候
一御寺領町家消失の分大門町上下長野町西町上下
西之門上下阿弥陀町立町御門前御長家桜小路あら町
新町いせ町横山小路岩石町東西横丁岩石小路武井
東町上下広小路花屋小路新小じ鐘鋳小じ七ツ釜
後丁上中権堂町并裏茶屋町外ニ河原崎横大門
片羽 当時御如来様御仮家丑寅の方堀切
と申野中に有之別当大勧進三寺中并掛りの御役人
守護有之無滞御開帳相済申候
一山内圧死人住僧八人 《割書:衆従ニ而三人|中衆ニ而五人》
一市中圧死人弐千人余
一善光寺ゟ北国道筋地震揺潰れ候所〻横山不残潰れ
相之木村潰れ之上数十軒焼失押鐘村吉田村大半潰
越後国関川宿迄宿〻潰れ但し善光寺ゟ関川迄
道法十里程の間ニ候此通筋之内吉村と申所近辺の山抜
家人共土中ニ 埋候越後高田半潰れ今町は三月廿四日より
四度之地震不残潰れ之上同月廿九日大風大火ニ而不残焼失ニ候
一善光寺より飯山へ八里有之候此海道三才村石村浅の村
半潰れ村〻ノ内大水ニて田畑水損多く有之飯山様
御城不残潰れ平一面ニ地所壱丈余高ひくに相成市中
一面に高く浮あがり不残潰れ其上出合ニて残りなく焼ケ
飯山地くぼニ而折〻水損有之候所ニ候得共今度ハ平地一面ニ
高く相成候故水難は無之候得共死人数多有之外同所
ゟ越後国谷通り所〻潰れ多く満水ニ而田畠水損新
潟迄数ケ村有之凡道法六十里之間大荒と申事ニ候
一三月廿四日夜大地震犀川日〻に減水丹波しま舟渡
壱ケ所ニなり候此川上は裾花川と申より流出候處流水
是又日〻に減水追々水施へ丹波川水施へ歩行ニ而往来
いたし候所川中しまはじめ村〻騒立銘〻最寄の山林へ
小屋を掛其所へ退き出水を相待候所三月廿八日暁七ツ時ニ
裾花川上鬼無里村之内皮浦と申所廿四日地震ニ而山崩水
たゝめ候場所押切一時に流水増て出候得共格別之大水
ニても無之村〻安堵いたし候此川上山中地京原村と申所
藤沢組拾八軒家数有之候残家四間人数八十四人死梅木
村城腰と申所四間皆潰人数廿八人死此所一人も不残大田組
九間有之候所一間も無之人数五十三人死外識人多死村中
只一人残居折村あら井ぐミ家数十三間有之人数五十七人
有之候所一人も不残念仏寺村臥雲院是は御領分内之
まれなる大寺也谷へ落チ出焼の上土中埋此村近
辺は皆潰の上土中埋左之通之所山中ニ数多有之候得共
小雨ニは相別り不申候
犀川潜水之事
丹波嶋船渡シ川上更級郡水内郡両境水内橋之近
辺赤岩村と申所山抜数十丈之深谷を押埋又其外安庭
村と申村ニ而二ケ所山抜谷を埋急流を関留数日水湛るゆへ
新町村穂苅村牧之嶋村始メ数十ケ村水中ニ埋民家うかミ
谷奥く深く水湛凡八九里ニ及御領主ゟ御出役御手当有
之偖川中嶋村之厳重御下知有之急災除以石俵大土手ヲ
しつらい御用意有之候民家銘〻以最寄西は小松原山岡田
山東は西条山保科山野中へ小屋を掛老を先へ立妻子を連
米穀味噌等をはこび村〻ニ両三人ツヽ番人を残しいかだ等組置
右騒ニ而宿之継立も差支矢代宿越後国関川宿迄御武
家御荷物始人足持ニて川東通り往来有之候扨又犀川里へ
出口小市村船渡有之処水施へ川中ニ小山出来出水之節はつき
かけ其節村〻難渋ニ付数千人の人足罷出石俵ニて大土手
三重ニ筑立水除有之候尚又火術方仰せられ水湛之山上
ゟのろ煙をあげ山〻ニて是ヲうけ即座へさと方村〻え知候
以合図村〻ニ残り居候番人共其外通り掛り之旅人等山の手
逃候様と合図有之候又松代様より御助船数十艘御用意ニて
最寄村〻へ御つなぎ有之且又数ケ所ニ大釜を御立被成日〻
御焚(たき)出し有之数千人ノ人足え食事御手当其外厚き
御仁慈之御手配難有御事ニ候偖数十日相立候而も出水無之故
中〻急ニは出申間じく大山深谷を埋め候間一度ニ押切候事は有
まじと順水ニ追〻出可申抔と申触村〻え立戻り耕作ニ取懸り
候者も有之候所四月十三日夕七ツ時俄に小市口へ大山ノ崩るゝ如く
数十丈の大水溢れ出水声三四りの間震動いたし真先ニ小市
村一とまくり村家土蔵酒屋等数十間流失小松原村中しま村
四ツ屋村近辺の大木迄流氷施村半流同村一重山唯念寺
此時源海上人入定直縁出現し給ふ也丹波嶋宿廿軒余
流南之方御弊川限り村〻平一面水中ニ 相成小森村流失
真島村流失いたし千曲川え押入寺尾村え水あがり松代へつき
かけ候所御城裏ニ先年新規ニ御筑立被置候高土手ニ而水を
除候故松代え水入不申夫より川東高井郡木嶋平西は水内
郡越後国新潟迄凡六十里余之間川辺村〻水損ニ而も老
父母多く死候
松代様御触之写
大地震後引続大水難ニ及候所場所ニより多少は有之候得共
彼是御領内一統之変災横死三千人ニ及潰家壱万軒余
怪我人夥敷有之何共歎敷次第言語ニ銘へ候依之当座之
御手充筋之義勿論往〻取続之義迄厚く御憐愍可被成下候
難有御趣意之程銘〻相弁心得違無之安堵罷在如何様ニも相
励ミ可申候若当座之御手当筋行届兼候村〻は願出村役
人共等閑ニ 罷在難渋人別之内万一離散致シ候様の事有之候
而は無念之事ニ候難渋人別之者共も村役人等閑ニて格別之
難渋ニせまり候次第申立も不致猥ニ 離散等致し候ては不相済事
ニ候右躰のもの有之ば厳重ニ咎可申付候重〻変災軽き村方又
人別之内関か之程を存付御 救(スクイ)方へ献上物致し或は融通(ヨウツウ)方
専ら心掛合力施行等致し候者も相聞へ奇特至極之事ニ候
追而褒美可被成下猶又此上は銘〻相励ミ致出精候はゝ一段
之事ニ候村役人承り届右奇特之者名前訳柄可書上之候
只多之村〻ニ付若御救片ニ洩候もの有之候ては御趣意ニは
相洩候間村役人共能〻相心得弥深切ニ 取扱小前末〻迄不洩様ニ
可相触もの也
四月十八日
再御触之写
去月大地震集已来満水等非常変災一統難渋之時節二て
小屋掛其外作事多之義二付大工職人等幾重二も致出精
可相励候万一心得違二而作料日雇是迄定之外余分受
取二てハ不相済事二候其旨急度相守心得違無之様
実意二かせぎ可致旨諸職人有之村々役人より申通し
銘々其の段可心得もの也
四月廿日
松代様御領内御調方写
一御領内損高 三万二千八百五十石余
内 田方壱万八十五石余
畑方弐万二千七百二十石余
一民家潰 七千六百七拾軒余
四十九軒 焼失
弐壱百軒 焼失之上湛水二入
内 六百軒 湛水二而浮出
三百軒 山抜土中江埋
六千五百二十軒 潰
一圧死人弐千七百七拾人余 治定難申立
社家壱人 僧十人
内 男千二百二十人余女千五百四十人余
但三百五十人程山抜土中へ埋死骸相知不申
一圧死人穢多八拾人 内七十人右同断
一弊牛馬二百六十七疋 内六疋右同断
御領内両変災村々銘々へ御手充御金子白米
被下置候 御仁恵之程恐入誠二難有御事二候
一圧死人弐千七百七拾人余 治定難申立
社家壱人 僧十人
内 男千二百二十人余女千五百四十人余
但三百五十人程山抜土中へ埋死骸相知不申
一圧死人穢多八拾人 内七十人右同断
一弊牛馬二百六十七疋 内六疋右同断
御領内両変災村々銘々へ御手充御金子白米
被下置候 御仁恵之程恐入誠二難有御事二候
【上右】
かしまさま
「くに〴〵の地しんどもの見せしめに
まづ江戸のぢしんめを
てひどくうち
のめししよにんの
あだをてきめんに
とるがよか
ろう
【上中】
神
「ハイ〳〵かしこまり
ましたこのあたまに
さしたるかなめ石を
さん〴〵にうちこみ
そのうへでせびらきに【背開きにして蒲焼きにする】
してなまづの大かばやきを
こしらへしよにんへ
ほどこし
ませう
【大きい鯰の絵の上】
江戸の
ぢしん
【江戸の地震の鯰の上】
江戸
「アヽいたや〳〵
このうへの
おねがいには
いのちばかりを
おたすけくだされ
そのかはりには
いまよりして
なまづの
けんくわや【喧嘩や】
じやりの
うへゝでます
ことは
いたしません
【上左】
くわん八しう【関八州】
「わたくしは
どのくにゝも
あしをとめませぬ
くわんとうすぢをのたくり
あるきましたが
これからはきつと
つゝしみます
【その下の画面左端の鯰の上】
くわんとうの
ぢしん
【関東の地震から右へ】
大坂の
ぢしん
甲しうの
地しん
ゑちごの
ぢしん
小田原の
ぢしん
信州のぢしん
【下右端から】
しんしう【信州】
「わたくしのつみをゆるして
くださるならば信しうも
かまどもなつちも
いらねへ
小田はら
「どうぞとがのせんぎは
をだはらになればいゝが
ゑちご
「わたくしはゑつちうゑちごの【越中越後の】
ぢしんゆへかくべゑのやうに【角兵衛獅子のように】
さかさになつておわびを
まうします
【閻魔様の下】
甲しう
「わたくしはかうしうの
うまれゆへ
ぶどうのやうな
ひやあせを
ながしておそれ
いります
大さか
「大阪をゆり
いだしてならの
はたごや
みわのちや屋【茶屋】
まですこしは
いたませましたること
いつわり
なく
まうしあげ
ます
かしま
〽地しんのに
大火事の角力
この後行司かしまが
預り申め下【め:免】
十月二日の取組
大ゆれ〳〵
大はんせう〳〵〳〵〳〵
かみなり
〽こりやじしんにや
かなうまい
見物
〽やい
じしんめ
引分てしまへ〳〵
〃
〽出火(かじ)しつこめ
いゝかげんにしろ〳〵
金持
おやぢ
〽たがいに
つかれた
ようす
よく引分
にせねば
おれがこまる
職人
〽じしんまけるな
かじもまけるな
安政二年
十月二日 地震出火後日角力
大まうけの方
大関 ざいもく 材木問屋
関脇 存命 諸方仮宅
小結 あら物 笘縄菰筵
前頭 どかた 土方請負
同 御救 貧家潤沢
同 延金 証文寄月
同 かりだて 板葺平屋
同 名ぐら 骨継療治 【名倉家は著名な骨継ぎ】
同 つぶし 古銅古鉄
同 つみふね 運送通船
同 めんるゐ 古着綿類
同 手がる 立場居酒
同 ふる木 湯屋焚木
差添 大儲 家作職人
大おあいだの方 【おあいだ:不用になること】
大関 しばゐ 三町休座
関脇 焼死 花街煙中
小結 小間物 鼈甲蒔画
前頭 ぜいたく 贅沢諸品
同 施し 持丸長者
同 官金 日為高利
同 ほんだて 本建造作
同 御無用 御免勧化
同 上品 象眼銀錺
同 ふね 家根猪牙 【猪牙:小型の舟】
同 にしき 京機織物
同 本しき 会席料理
同 こつぱ 唐木細工
勧進元 大休 遊芸諸流
【下段中央・大きな文字】
打身
骨継
療治所
【右上】
六ちそうの内
「わたしどものなかまは
ふだんでさへむじんのまじなひ
だのなんのといふて宝珠をそく【削ぐ】やら
はなを
そぐ
やら
ひどいめに
あはせ
るのに
こんだの
ぢしんは一トおもひに
たゝきおとされ六人
いつしよにふつかりあひ
てんでにけがをいたしました
わたしらが仲間は三べんづゝなでられても
六人だから十八へんなでなけりやアはらは
たゝねへけれど
こんどは一べんで
はらがたち升【ます】
【中】
ぬれほとけ
「くわんおん
せいしと
ならんで
ゐても一人りは
けがもいたしませんにわたしばかり
ひつくりかへりぼんぶ【凡夫】の目には
さぞいくぢのない
やうに思ひませう
ねへ
【左上】
五重の塔
「とうで
ごぜへすト
すましてゐる所を
たしぬけにゆりたをすとは
ぢしんもあんまりむごいやつだ
こつちもぬんと
むかつて
くりヤア
一ぶでも
あとへはひかねへ
つもりだがたしぬけ
ゆゑ九りんがまかつたのだ
「おれがおとうとは谷中の
天王寺アリヤアぽつきりおれたから
まがつたよりやアよつほど見いゝ
【左下】
雷門
「イテ〳〵これさ
しづかにもんで
くだせへおめへ
むすこがある
ならむすこに
たのまうこんどは
じしんにこんな
めにあつたから
おやしやア
きみか
わりい
【右下・骨継ぎの男】
「ぜんてへおまへがたはそれ〴〵のしよくにんの所へ
いきなすつたらよかつたろうに かみなり「そうサ
大こ【太鼓】やくもはふしやへやりやしたわしやア
よしに
しやした
かはゝ【骨と皮の関係かも?】
大きらい
でごぜへ
やす
ぢしんにてやけたる
あとは浅草に
やどをかるべき一つ
家もなし
《題:《割書:安政二年|十月二日》地震出火後日角力》
【枠内上段】
●大 まうけの方
《題:大関《割書:ざいもく|》材木問屋》
《題:関脇《割書:存命 |》諸法仮宅》
《題:小結《割書:あら物 |》苫縄菰莚》
《題:前頭《割書:どかた |》土方請負》
《題:同 《割書:御救 |》貧家潤沢》
《題:同 《割書:延金 |》證文寄月》
《題:同 《割書:かりだて|》板葦平屋》
《題:同 《割書:名ぐら |》骨継療治》
《題:同 《割書:つぶし |》古銅古鐵》
《題:同 《割書:つみふね|》運送通舩》
《題:同 《割書:めんるゐ|》古着綿類》
《題:同 《割書:手がる |》立場居酒》
《題:同 《割書:ふる木 |》湯屋焚木》
《題:差添《割書:大衞 |》家作職人》
【枠内上段】
▲大 おあいだの方
《題:大関《割書:しばゐ |》三町休座》
《題:関脇《割書:焼死 |》花街煙中》
《題:小結《割書:小間物 |》鼈甲蒔画》
《題:前頭《割書:ぜひたく|》贅沢諸品》
《題:同 《割書:施し |》持丸長者》
《題:同 《割書:官金 |》日為高利》
《題:同 《割書:ほんだて|》本建造作》
《題:同 《割書:御無用 |》御免勧化》
《題:同 《割書:上品 |》象眼銀錺》
《題:同 《割書:ふね |》家根猪牙》
《題:同 《割書:にしき |》京機織物》
《題:同 《割書:本しき |》会席料理》
《題:同 《割書:こつは |》唐木細工》
《題:勧進元《割書:大休|》遊芸諸流》
「わたしどものなかまは
ふだんでさへむじんのまじなひ
だのなんのといふて宝珠をかくやら
はなを
そぐ
やら
六ちそうの内
ひど
いめに
あはせ
るのに
こんどの
ぢしんは一トおのひに
たくさおとされ六人
いつしかにふつかりあひ
てんでにけがをいたしました
わたしらが仲間は三べんづゝなでられても
六人だから十八へんなでなけりやアはらは
たりねへけれど
こんどは一ぺんで
はらがたち升
ぬれほとけ
「くわんおん
せいしと
ならんで
ゐても一人りは
けがもいたしませんにわたしばかり
ひかくるかへりぼんぶの目には
さぞいくぢのない
やうに思ひませう
ねへ
雷門
《題:打身》
《題:骨継》
《題:療治所》
「とうで
ごぜへすと
すましてゐる所を
たしめけにゆりたをすとは
ぢしんもあんまりむごいやつだ
こつちもめんと
むかつて
くりやア
一ぶでも
あとへはひかねへ
つもりだがたゝめい【?】
ゆゑ九りんがまかつたのだ
五重の塔
【左端中】
「おれがおとうとは谷中の
天王寺アリヤアすつきりおれたから
まがつたよりやアよつほど見て
おまけにせいのたかいので見たら■【し?】ねへのサ
【右下】
「ぜんてへおまへがたはそれ〴〵のはよくにんの所へ
いきなすつたらよかつたらうに かみなり「そうさ
大とやくもはふしやへやりやしたわしやア
よしに
しやした
かはゝ
大きらい
でごぜへ
やす
【左下】
「イテ〳〵これさ
しづかにもんで
くだせへ おめへ
むすこがある
ならむすこに
たのまうこんどは
じしんにこんな
めにあつたから
おやしやア
きみか
わりい
佐竹家□本【?】
従江戸奥州津軽迄之道筋之絵図
佐竹家□本【?】
従江戸奥州津軽迄之道筋之絵図
江戸より奥州津軽迄道筋之図
江戸より奥州津軽迄道筋之図
江戸より奥州津軽迄道筋之図
ソウセンジ【総泉寺】
二里
モクボジ【木母寺】
センジュ
下ヤカイドウ
ミト海道
二里八丁
ミト海道
二里八丁
ソウカ
二里
コシカヱ【越ヶ谷】
三里
三里
カスカベ
一里半
セキヤト海道【関宿道】
スギト
一里半
イワツキ海道
一里半
イワツキ海道
サッテ
二里三丁
クリハシ
ボウ川【房川の渡し】
ナカ田
ボウ川【房川の渡し】
ナカ田
一里半
コガ
廿六丁
ノゲ
一リ廿七丁
ノゲ
一リ廿七丁
マヽ田
一里六丁
小山
一リ半
日光海道
シンデン
アミダダウ
廿九丁
【上段】
シンデン
廿九丁
カナ井
一リ半
イシハシ
一里半五丁
スヽメノ宮
【下段】
日光海道
アミダダウ
ミルメ
キヽメ
マヘデン
コトシマ
ツクハ
天チン
三シヤ
カシマ
ムロノ八嶋【室の八嶋】
イセ
フシ
ベンザイ天
ビバ嶋
日光
ヲクノ院
一里半五丁
スヽメノ宮
二リ一丁
ウツノ宮
ミウ神【明神】
二里半
二里半
白サワ
キヌ川
一里半
アタコ
アタコ
ウジエ
二里
キツレ川
キツレ川
三里
サク山
一里半
一里半
大田ハラ
三里
ナスノダケ
ナベカケ
三里
ナスノダケ
ナベカケ
セツシヤウ石【殺生石】
コイボリ
アシノマテ三里
アシノマテ三里
アシノ
遊行柳
クワンヲン
サカイノ明神
三リ十丁
クワンヲン
サカイノ明神
三リ十丁
ムカシノニシヨノセキ【二所ノ関】
セキ山
白サカ
一里半
カハゴガハラ【革籠ヶ原】
吉次兄弟
白川
吉次兄弟
白川
アイツ海道
一里半
小田川
八丁
ヂザウ【地蔵】
大田川
一里
大アゴ
二十六丁
大アゴ
二十六丁
ヤブキ
一里
キウラ石
半里
カサ石
半里
カサ石
ミヤギノヽハラ
一里半
スカ川
カマタリノ明神
シヤカトウ川
イハセノモリ
アフクマ川
二リ半
サヽ川
アフクマ川
二リ半
サヽ川
半リ
ヒデノ山
九丁
小アラタ
十五丁
コホリ山
十五丁
コホリ山
三春
廿三丁
ヒハダ
アサカノヌマ【安積沼】
一里
アサカ山
山ノ井
ウネメツカ【采女塚】
アサカ山
山ノ井
ウネメツカ【采女塚】
タカクラ
一リ十町
モト宮
一リ
スギ田
一リ半
白マユミ【白真弓】
クロツカ【黒塚】
二本松
テラ
テラ
チカノシ水【?】
一リ半
クワンヲン
二本柳
八チヤウノメ【八丁目】
八チヤウノメ【八丁目】
ヨネサワ海道
ワカ宮
一リ半
シ水マチ
行人
コクウザウ
コクウザウ
アヅマガダケ【吾妻連峰】
ダウマンツカ【道満塚】
フクシマ
十アラヒノ渡リ【?】
モヂズリ石【文知摺石】
クワンヲン
アブクマ川
ハクロ【羽黒】
十テンノ桜【?】
ツキノブ【佐藤継信】
タヽノブ【佐藤忠信】
丸山
カサカケノ松
サタウガ城【佐藤氏居城の大鳥城】
一リ廿八丁
セノ上
セノ上
一リ拾丁
コホリ【桑折】
【上ルート・奥州街道】
リヤウ山【霊山】
一リ半
フヂタ
一リ半
【下ルート・羽州街道】
コシカケ松【義経の腰掛松】
ヲイカケ松【笈掛松】
大キトノホリ【大木戸の堀】
アツカシ山【阿津賀志山】
一リ半
小サカ
【上ルート・奥州街道】
一リ半
カイダ
半リ
コスガウ【越河】
一リ半
サトウキヤタイ
ツマノエイトウ【佐藤兄弟妻の影堂】【田村神社甲冑堂】
【下ルート・羽州街道】
小サカ
行人
一リ半
トザハ
【上ルート・奥州街道】
一リ半
サトウキヤタイ
ツマノエイトウ【佐藤兄弟妻の影堂】【田村神社甲冑堂】
才川
一リ半
白石
二里
【下ルート・羽州街道】
トザハ
廿三丁
本トサハ
一リ
行人
ザイモクイワ
【上ルート・奥州街道・笹谷街道】
二里
カツタノ宮
センタイ海道
明神
ジヤワウ川【蔵王川? 現在の松川】
一リ廿三丁
ナガノ
一リ
【下ルート・羽州街道】
ザイモクイワ
ワタラセ
ケイセイモリ【傾城森】
山伏モリ
二リ
セキ
一リ六丁
ナメズ
【上ルート・笹谷街道】
一リ
サルハナ【猿鼻】
一リ
川サキ
一リ八丁
【下ルート・羽州街道】
ナメズ
一リ十一丁
トウゲタ
一リ六丁
ユノハラ
【上ルート・笹谷街道】
川サキ
一リ八丁
ノヂヤウ【野上・のじょう】
バン所
二リ十丁
サヽヤ
クワンヲン
ジヤワウダケ【蔵王嶽】
【下ルート・羽州街道】
ユノハラ
フドウ
チヤ屋
三リ十六丁
チヤ屋
ナラゲ
【上ルート・笹谷街道】
クワンヲン
ジヤワウダケ【蔵王嶽】
セキネ
三リ
ヤケ山
【下ルート・羽州街道】
ナラゲ
二リ
上ノ山
一リ半
【上ルート・笹谷街道】
ヤケ山
アコヤノ松【阿古耶の松】
チトセ山
バンシヤウジ【萬松寺】
二リ
【下ルート・羽州街道】
一リ半
松ハラ
一リ半
【上下ルート合流後】
山ガタ
リヤウジヨノ宮【鳥海月山両所宮】
ナガマチ
リヤウジヨノ宮【鳥海月山両所宮】
ナガマチ
三リ半
山デラ
ミタレ川【乱川】【注:現代の地図では「立谷川」】
天ドウ
ヲサナギガモリ【若木山?】
二リ半
【注:現代の地図では天童・六田間を流れる川が「乱川」】
六田
ヲサナギガモリ【若木山?】
二リ半
六田
一リ
タテヲカ
一リ
イヽダ
半リ
イヽダ
半リ
トチウダ【土生田】
モカミ川
大シタ【大石田】
一リ
ヲバナザハ
ヲバナザハ
アシザハ【芦沢】
二リ
ナギザハ【名木沢】
サバネ山【猿羽根山】
ナギザハ【名木沢】
サバネ山【猿羽根山】
ヤクシ
ヲイワタリ【笈渡】
スミゾメノ桜
一リ半
フナガタ
三里
フナガタ
三里
八幡
トリゴヘ
シンジヤウ
シンジヤウ
四里
カネ山
ナカダ
三里
ノゾキ【及位】
ドク水【?】
三里
ヲガチトウゲ【雄勝峠】
バン所
バン所
上インナイ
アタゴ
テラ
下インナイ
テラ
下インナイ
テラ
ヲモノ川
小町屋シキ
小野
ボタン
四里
ス川【須川】
セキ口
ユザハ
ユトノ山【湯殿山】
月山
アミダガハラ【弥陀ヶ原】
ハクロ山【羽黒山】
ツルガヲカ
【上ルート・羽州街道】
ユザハ
イワサキ
五リ半
ヨコテ
【下ルート・羽州浜街道】
ハクロ山【羽黒山】
ツルガヲカ
アカ川【赤川】
ミナト
サカタ
六里
ソテノハマ【袖浦?】
フクラ
一リ
【上ルート・羽州街道】
ヨコテ
二リ
鳥海山
カネザハ
八幡
弥三郎ツカ
一リ半
【下ルート・羽州浜街道】
フクラ
一リ
メガ【女鹿】
一リ半
大シドウ
コサ川【小砂川】
二リ弐丁
【上ルート・羽州街道】
一リ半
六ガウ【六郷】
二リ
大マガリ
ハナタテ【花館】
玉川
一リ半
ジングウジ
【下ルート・羽州浜街道】
コサ川【小砂川】
二リ弐丁
ウヤムヤノセキ【有耶無耶の関】
シホコシ【汐越】
カンマンジ【蚶満寺】
キサカタ
一リ半
コノウラ【金浦】
クワンヲン
【上ルート・羽州街道】
ハナタテ【花館】
玉川
一リ半
ジングウジ
ヤクシ
三里
カリハノ【刈和野】
クワンヲン
ヨト川【淀川】
二リ半
サカイ
【中ルート・刈和野から分岐する亀田街道】
キタノメ【北野目】
三リ二丁卅間
カヤガサワ【萱ケ沢】
二リ
【下ルート・羽州浜街道】
コノウラ【金浦】
クワンヲン
一リ十七丁
セリタ【芹田】
半リ【?】
ヒラサワ
ヒラ
四リ
本ジヤウ【本荘】
石ノワキ【石脇】
【上ルート・羽州街道】
クワンヲン
ヨト川【淀川】
二リ半
サカイ
ワダノ町【和田】
三里
トシマ【豊島】
【中ルート・亀田街道】
カヤガサワ【萱ケ沢】
二リ
アラサワ【新沢?】
八幡
クニミタウゲ【駒泣峠?】
二リ半
カメ田
アタゴ
リウモンジ【龍門寺】
【下ルート・羽州浜街道】
本ジヤウ【本荘】
石ノワキ【石脇】
シン山ゴンゲン
二リ一丁
ヲヤ川【親川】
一リ十二丁
松ガサキ【松ヶ崎】
イセ
八幡
一リ十八町
道川
【上ルート・羽州街道】
三リ
ウシ嶋
秋田
天トクジ【天徳寺】
【中央右】
カメ田
アタゴ
リウモンジ【龍門寺】
【下ルート・羽州浜街道】
八幡
一リ十八町
道川
二リ二丁ヨ
ナガハマ【長浜】
十八丁ヨ
カツラネ【桂根】
山王
モヽサダ【百三段】
海
天トクジ【天徳寺】
海
サン王
コシワウ【古四王神社】
ミナト【土崎湊】
大クボ【大久保】
アブ川【虻川】
大川
【ミナトから下へ分岐する男鹿街道】
天神
天ワウ【天王】
フナゴシ【船越】
小バマ【小浜】
本山
シン山【真山】
イノムラ
カウジヤクガイワヤ【孔雀ヶ窟】
カウモリガイワヤ【蝙蝠ヶ窟】
トガノマ【戸賀】
キタノウラ【北浦】
クロサキ【黒崎】
小カノ嶋【男鹿半島】
アブ川【虻川】
大川
カド【鹿渡】
モリヲカ【森岡】
ナンブ海道
ノシロ
【右下・男鹿半島】
フナゴシ【船越】
小バマ【小浜】
本山
シン山【真山】
イノムラ
カウジヤクガイワヤ【孔雀ヶ窟】
カウモリガイワヤ【蝙蝠ヶ窟】
トガノマ【戸賀】
キタノウラ【北浦】
クロサキ【黒崎】
小カノ嶋【男鹿半島】
ナンブ海道
ノシロ
コマカダケ【秋田駒ヶ岳】
モリヨシカタケ【森吉山】
八モリ【八森】
イハタテ【岩舘】
ハン所
バン所
大マコシ【大間越】
バン所
大マコシ【大間越】
イハサキ
ヤクシ
フカウラ
アヂガサハ
サイシヤウジ【最勝院?】
ヒロサキ
ツガル
チヤウシヤウジ【長勝寺】
大エンジ【大円寺】
百タクジ【百沢寺】
ヒロサキ
ツガル
チヤウシヤウジ【長勝寺】
大エンジ【大円寺】
百タクジ【百沢寺】
イハキ山
フヂサキ
ナミヲカ
イハキ山
フヂサキ
ナミヲカ
チヤ屋
シンジヤウ【新城】
ナミヲカ
チヤ屋
シンジヤウ【新城】
アヲモリ
ソトノハマ
ウトウノイケ【善知鳥の池】
アヲモリ
ソトノハマ
ウトウノイケ【善知鳥の池】
ナンブ海道
十リノワタリ【十里の渡り】
タナブサキ【田名部】
八里ノ渡
マツマエ
ナンブ海道
十リノワタリ【十里の渡り】
タナブサキ【田名部】
八里ノ渡
マツマエ
吉原 地震焼亡之図
【左端・黒地に白文字】
火の用心
【見出し上段題目】
《割書:関|東》大地震末代鑑
【見出し中段】
御救小屋場所
一 幸橋御門外 一上野広小路
一 浅草広小路 一深川八幡境内
一 深川海辺新田
東叡山御門主様より 御すくひ小屋
上野御山下火除地
【見出し下段】
一 土蔵数 五十三万八百五十余損
一 死 人 二十二万九千余人
一 怪家人 数しれず
此度死亡之者の為に
御上様より所々の寺々へ被 仰付 十一月
二日 大施餓鬼有之誠に 難有ことゞも也
【上段文枕?】
天 災(さい)地 凶(けう)は命(めい)なり時なり重病(おもきやまひ)は名 医(い)これを救ひ
国の労(わづらひ)は名君是を納め給ふ 江湖(せじやう)は西翁(さいおう)が馬の
如く倖甚(さいはひ)も幸ひならず 禍(わざはひ)も又禍ならず 乾坤(けんこん)一
変(へん)する時は昌平 豊饒(ぶによう)をなすとかや
【上段本文】
頃は安政二卯十月二日 夜四つ時俄に大ぢしんゆり出し北
の方千住宿大半ゆり崩し小づか原遊女やのこらず焼る
新よし原ぢしんよし原はちしんの上江戸丁又は角丁あげや
まちへん処々よりもへ出し五丁残らず焼大門外五十けん西
がはのこる田中は大半くずれ三谷【山谷】通りは申すに及はす田丁山
川丁たけもんやける北馬道とりてうへんより出火して芝居まち
三丁とも南馬道をかけて残らずやけせうでん丁山のしゆく
は出火のうれひなくはな川戸【(花川戸)】はんぶん焼きんりう山くわん
世音御堂ぢないともつゝがなし夫よりなみ木まちどほり
くづれ駒かたとうがらし横てうより出火してやなかしみづ
いなり門前てう代地おなじく八けん丁すこしやける 駒かた東
がははつふじといふれうりや【(料理屋)】よりすは丁くろ舩てうみよし丁
御うまやばしにてとまるかや寺門前は残る也こまかたのうち百
助よこ丁北のかたこまかた堂より上は両かはのこる夫より三げん
丁へんは少々又もり下へん大半いたみ東本ぐわん寺御堂
つゝがなく南東御門つぶれきくやばしの角より出火てら丁
しんぼりばた焼る又ひと口は堂前やけ此へん寺まちやとも
大ひにつぶれとぶたなへん少々夫より下谷とうめう寺店
少々又くわう【広】徳寺通りたぶんの事なく其余よこ立十もんじ
うら表ともくづれたるばしよいさゝかなるは筆紙につくし
がたし又みのわ通り新丁へんは大ひにいたみ金すぎは少〻
坂本へんは大ひにくづれ同所二丁め三丁めやける御切て
丁同山下通りは諸々くづれ御具そく丁山ざき丁へん大ひ
にくづれ又せんたん木谷中だんご坂下ばんずうゐんうら
門通り大つぶれやぶ下の通り谷へくづれ落て往らい二尺
ほどのはゞになる善くわう寺ざか上少〻根づは二丁とも
つふれ中ほどにて二三げんのこるむえん坂下松平ひんごの
守様やける夫より下谷かや丁二丁めさかいいなり向ふより
出火して同一丁め木戸ぎはまでやける同二丁めいなりのかは
少やける 池のはたなか丁のきはとまる仲丁うら通りくづれ
表とほりは多ぶんの事なしゆしま天じん下このへんの小や
しき大ひにくつれ又天まん宮社はいでんのはふ【破風】おち石がき
くづるゝ門前てう黒門丁三くミ丁此へんしょ〳〵そんじ霊
うん【雲】寺門ぜんまち屋かうしむろわれおち丸木ばしをかけ
てわうらいす又しん丁屋はたけよこ手坂へん少〻つまごひ
坂上丁は少〻いなりの本しやつゝがなくはう【宝】蔵少々いたむ
又本門どほりはふだのつぢまで少〻くづれ菊ざかへん少〻
下は田まちへん大つぶれかはかつ前御屋しき傳づうゐんうら
門前やなき丁こと〴〵くつぶれる御そうしまちとさきまち
人家大はんつぶれる白山近へん少〻その下れんげ寺ざか
下さすが谷丁このへんつぶれ夫より片丁通りにて両かは
屋敷大はんそんじ又伝通ゐん表門どほり少〻又あん
どうざかよりすは丁大くづれりうけいばし【隆慶橋】ぎは野本【「中」カ】飯
づかくまゐ【「熊谷」カ】荒かはまでやける又本郷竹丁へん丁家せう〳〵
小やしき大半つぶれおちやの水へん少〻せいどうは多ぶん
の事なし是より御かち町通り多ぶんの事なく中お
かちまち通りかたかは【片側】やける同しよひろこうじ北大もん丁
おもてどほり井口より上の元くろもん丁北大もんてう上
の町一丁め二丁め下谷どうばう町上のしんくろ門てう
上のこけらいやしきひがし同朋まち井上ちくごの守様東
北のもん少〻やけるはいれう屋敷くるま坂町大門町〻長
じや町一丁め 二丁め下谷丁二丁めだいち是よりおかち
まち通り三まいばし横丁は鈴木石川さかまき七十二
ふくゐ山崎さまとうやける三まいばし角なかおかちまち
通り中根さま半焼大■【沼?】大つか山木清■九■へ大田いぬ
つか様までやける成田ほり江 田むら飯はらとるがはすぎ
山真下つだ平野大岩様小十人組がしら杉江山もと
様やける赤井山田畠武五郎戸谷ふぢ川岡むら様
やける伊とう様火のなかにて半ぶんのこる太田杉田前
田ふぢやす清水そうま様やける 三谷御花御やう
屋敷御門のこる舩ばし谷むらわたなべついとみづ川嶋
出■ち村田様やける加納様半ぶんやけ廣せ様にて
とまるこの所東がは美のべかつら山大久保様三けん焼る
又まりしてん横丁は桃井左近もり本大八木ゐのうへ
ひろを吉川たか木はせ川松本手じま様はうき様内
もち月しんの助様やける上の丁のよこ丁にてふくろ丁
は城戸けんもつ石井 吉むら光 門東■助 高田吉
むら中むら木平さまやける 又青石横丁のかど 高安
山本さかへ 重藤 宮川 小ぐら もゝのゐ 太田様やける 又
同所二丁めの横丁 市田 さか本 山本 飯田 坂田 いへ
き 木むら様までやける 同所一丁め よこ丁 亀山 秋山
佐とう かはら若みや 吉田様やける 長者丁どほり
有田さかきばら 小ミね小ぐら とうわうじ 清ろく仏とう三
■ よし田 わき 谷内田 いなむら くろだ 佐藤 いち田様
やける 梶山 手じま 吉川 ふぢゐ三ら郎 三田むら 湯川
田口 高井 すゞ木 いとう 田中 相ざは たはら田 竹の内
様やける 安昌 高木様のこる 山口様 つぢ本様焼る
しん屋敷 南西 すみ 久保田 菅井 飯ぐら様焼る
■けにてとまる 又御なり屋 石川様 くろ田様やけ この
へん 小屋敷 大はんつぶれ 伊賀さまやけて 神田昌平
ばし通り たてべ様 円藤様 おもてなが屋 くづれ どろ
ばう町 御だいところ町 金沢丁へん 大はんいたみ夫より▲【本文中段へ】
【本文中段】
▲【上段最後部より続きを示す合印】
外神田しやうへい橋へん少〃くずれ 神田明神の社つつがなく
又 はなぶさ町なか丁一丁め二丁め このへん御成かい道町家東西
からどほりまでも大はんくづれる あいおい町は少〃夫より
藤堂様おもて門通り 少〃 又あたらし橋通りは多ぶんの
となく さみせんぼり 佐竹様 御長屋むきいたむ 立ばな
様 おなし しんとりこゑ天もん原へんはさしたるそんじなく おん
くら 前通り 茅丁より浅くさ見つけ迄 是又多ぶんの事
なし 浅草御門内 西両国は広こうぢへん 柳原通り 久右
衛門丁としま丁べんけい橋 此へんも至てかろし又お玉が池
こん屋丁三丁めかど大ひにくづれる 夫より市橋様御門
せん【前】多ぶんの事なし 是より いぜんるゐしやう【類焼】 せしばしよは
ふしん 新きに付 いたみすくなし もちろん 平永丁は大ひ
にくづれ もみ蔵少〃そんず 夫より 八つちが原【八つ千川原?】するが台
へんはたいしたる事なく 神田すだ丁通り 今川ばしまで
かぢ丁 二丁めへん そんじ多く その余は多分の事なし 西神
田一ゑん 少〃又 かまくらがしへんもおなし 小川丁は すぢか
ひより水道ばしへん通りの内 稲葉ながとの守様 此へんは
少〃そんじ 土屋采め正様 此へんも又同し 戸田武治郎
様やけ 表ながやばかり のこる 内藤するがの守様焼けて表
もん 長屋のこる 堀田備中守様こと〴くやけ むかふがはにて 半
井出雲守様一けんやける 溝口八十五郎様 佐倉今之助
様 伏屋様 大久保様 柘植様 やけるのみ おりべ様 荒川
様 曽我様 近藤様 青木様 本多様 新見様 迄焼る
夫より 河内様 小林様 佐藤様 やける 又神保小ぢは火消
御役屋敷やける 夫より さかき原様 はんぶんやけてうら門より
むかふのかは 本多豊後守様 はんぶんやける 戸田かゞの守様
やけて西みなみの角少〃のこる 夫よりわし【鷲】の巣淡路守様焼
る 長谷川 荒井様 二けんながらおもてまはり残る 山本様
にて焼とまる 又一口は きじ橋どほり 小川丁 本郷丹後守
様やけ 又ひとくちは 一ツ橋通り 松平豊前守様やけてつ
み宗悦様やける 又一ト口は わたなべ三之助様 御てんやける
又一口は 一色丹後守様やけて 同 一色邦之助様 奥少〃
やける小石川御もん内松平駿河守様 同 御組やしき
かとう大はら わたなべ 冬木様やける 本間平兵衛
様やける 大森勇三郎様やける 本目様中でう【中将】りう
つき様 山本様やけて 高井様 やけ黒川様 半やけ
にてとまる 又 此近へんやけのこりたる所はあらましくづれ
つぶるゝ 夫より小いし御門うちの所は少〃そんじ 飯田丁
このへん破そんすくなく 夫より山の手うら表ばん丁辺
一ゑん多分のそんじなく かうし丁 大通り 少〃いたみ 平川
天じん中ろつゝがなく 又 山王の御宮も無事なり 夫より黒谷
御門外 所々につぶれ家又は大は【破】の家あり 又これよりさき
ないとうしん宿まで多ぶんのいたみなしといへども玉がは
じやうすゐの大どひ【樋】やぶれ水あふれいでゝふしんちう 往
らいとまる 又さめが橋こんだ原へん大ひにそんじ 紀しう
様御屋しき西通り夫より 六道のつぢ 多ぶんの事なく
又 赤坂御門外は はそん所ことの外多く 青山善光寺通り
大ひにそんじ 所ざは 目黒の近村 さしだる事なし 又牛込御門外
どん〳〵橋へん 御屋敷そんじ多く かぐら坂より市ヶや御門そと
迄の丁なみ少〃づゝのそんじ有といへといへども かくべつの事なし 古川
丁かいたい丁 このへん大ひにそんじ 潰れいえ多し 又あかぎ
つくど小日向おとは目白臺 此へんすべてたいしたるいたみ
なし 又馬場さき御門外 おん火消やしきやけて火の見やぐら
のこる遠藤たじまの守様やける 松平因幡守様はんやけ
数寄屋河岸御門うち永井遠江守様やける夫よりひゞや御
門御ばん所焼ける 松平土佐守様いたみ少〳〵土井大炊頭様大
ひに破そんす 同御門外福嶋様やける 毛利様うら門内少〃
やける 有馬様 南部みのゝ守様やける むかふは薩し
うさま しやうぞくやしき 表なか屋少〃やける 松平
甲斐守様 伊藤修理大夫様やける 亀井様中長
屋やけこゝにてとまる 鷲の口は大手先酒井雅楽頭
様上中屋敷ともやける 森川出羽守様やける 和田
ぐら御門うちは御ばん所やけて松平肥後守様むかふ
御屋敷ともやける松平下総守やけるこのへんおもて長
屋どざうとも所々はそんす又友国横山丁大でん附ま
丁 ほん丁 石丁 しろかね丁 小伝馬丁 かめゐ丁 附木店
へん少々つぶれ 又両がへ丁 するが丁 せともの丁 むろ町
伊勢丁 小田はら丁 ほか 江丁 にあみ丁このへん少々
いたむ是より大門通り とみざは丁 町たかさご丁 このへん大
ひにつぶれる又濱丁へんは御屋しき所〃くづれ又へつい
河岸どほり松しま丁大ひにつぶれるそれより栄きう
橋ぎは酒井さま大ひにそんじ箱ざき一丁め二丁め大
はんつぶれる霊がん橋 南しんぼり二丁め 大はんくづれ
又 大川ばし 湊町 かたかはやける 北しんぼり一丁ほどやける
みなみ新ぼり半てうばかりやける 松平越前守様
きはにてやけとまる 夫より霊がん橋中残りの町数は■【下段に続く合印】
【本文下段】
■【中段最後部より続きを示す合印】
少々のそんじ茅場町八丁ぼりこのへん少々のそんじなり
てつはうづ【鉄砲洲】は松平淡路守様やけて前町二丁ほど焼
るそれより築地へんは大小名表なが屋ねりべい所々
はそんす又日本ばしより中橋へん一ゑんそんじるといへ
ども多分の事なし又みなみ伝馬町二丁目へんより
出火して三丁目まで焼西は南鍛治町みなみ大工てう
五郎兵衛町やけたみ町は火の中にて少々のこり大こん
河岸までやける東は具足町やなぎ町因幡町鈴木
町常盤町松川町片かはやけて廿洲常にて火先わまる
又原はしむかふは弓町所々そんず銀座より新橋へん
まで少々そんず三十間ぼりよりおなじくしん橋へんまで
少々のそんじなり又弓町より北紺屋丁へんまで所々そん
じる又すきや河岸より山下御門どほり山しろやしき
橋へんせう〳〵そんじる又幸橋御門外一ゑん多ぶんの事
なしそれよりあたご下通り此辺んせう〳〵又西のくぼ
飯ぐら片町かはらけ町所々またくづれそんじる又築地一ゑん少々
そんじるもちろん丁屋敷とも土蔵ねりべいは事〳〵く
大破なり西本願寺地ちう少々そんじ本堂つつがなし
芝口へん少々そんじ柴井丁のこらずやけて神田前三橋
丁へん大ひにふるひそんず神田の社はつつケなし浜松町
は多分の事なく御浜ごてんつつがなく本芝へんせう〳〵
そんじる又吾妻橋むかふは松平周防守様やける新井丁
へん事〴〵くつぶれたほれる又だるま横丁より松くら丁
へんまで丁屋小屋しきとも大ひにそんじるそれより 小
梅むらそんじ又出火あり又石原べんてん小路出火あり
此へんすべて大は須押上の辺り業平橋へん大そん柳しま
妙見堂つゝがなく前町天神橋までの間べたつぶれ亀いど
天まん宮社つゝがなく門前町大破の上前後二ヶ所に出火
あり五百らかん寺大破す又はうおん寺橋むかふ少々焼る又吉
田町よし岡町長岡丁南わり下道へん丁やしきとも大ひ
にそんじ津がるさま近へん潰れ家多く又お竹くらうら
どほりわり下水へん小屋敷大ひにはそんすまた東
両国ゑかうゐん前町一ツめのへんそんじ多一ツめ橋石がき
くづれ落て往らい渡しになる弁天の宮地内こと〴〵く大
破おなしくうら丁一けんも立家なくこと〴〵くつぶれたほるゝ
又たて川通りは林丁一丁めより五丁めまでの間所々潰れ
みどり丁一丁めより二丁めまでやけて三丁めのこり又四丁五丁目やける花丁少々のこる又一くちは徳右衛門丁一丁め二
丁目までやけこゝにてとまる柳はらより四ツめ迄の通り 少々
潰ぶれる又■【所ヵ】めの通りお舩ぐら前丁より出火して西光寺
残り大久保様屋敷少々のこる又聖天宮大仏殿■壱
歯神の社やけて御舩蔵御ばん所焼る又長屋様より
大日堂管の井上牧野様やける木下図書様火の見斗り
のこる林様やける又もみぐら半■【分ヵ】程やける又一口は六けんぼり
町大日横丁八名川丁北六けんぼりやけて夫より南ろく
けんぼりやける神明の宮くらどほりより北の方のこる同門
前丁焼て又一口は中森下より南もり下丁元丁に笠
原様少々焼て又一口はみなみ六けんぼり猪子様へんより出
火して井上様せう〳〵やけそれより常磐丁一丁め二丁め
太田備中守様御屋敷少々焼て此口とまるもみぐらの脇
元丁一丁のうちにて潰れのこる家三げん又田安様御門
おへりにては家一けんのこる其先高橋へん一ゑん大ひにつぶ
れ西丁東丁事〳〵くくづれる猿江うら丁三丁ばかりの場
所にて三げんのこるあふぎ橋とほり土井大炊頭様やける夫
より小名木ざいへん大ひにそんしる浄心寺地ちう大そんほん
堂つゝがなく霊がん寺地ちう事〳〵く潰れ本堂はつゝがなし
又海辺大由丁へん所々潰れ清住丁のこらずつぶれる又併せ
袴丁一丁め二丁めやける西平野丁富久丁二南屋敷この
へんこと〴〵く潰れくづれる夫よりゑんま堂橋つなうち場
辺は少々のはそん又佐賀丁のゐまはり大ひにつぶれ桐川丁
より出火して熊井丁諸丁中しま丁大島丁まで焼て此
口こゝにてとまる又冨やけのこりよし丁どほり小川丁八まん橋のきは火の
なかにて二三げんやけのこりはまぐり丁少々残り黒江丁ゟ
西念寺やける永代寺門前山本丁西横丁又一口は蛤丁
金子よこ丁■【俗ヵ】になか丁といふ松平出羽守様やけるそれ
よりかたくり橋のきはにて二三間のこりこゝにてやけどまる
八まん宮本社つゝがなし此火三口一所にてやける又一口は
北本所代地やけ又一口は黒江丁一丁四方ばかりやける
御府内凡四里四方丁数八百八丁の所新地代地門前
町等を加へ三千八百十八ヶ丁也はじめ出火すること三十八ヶ所
近きは焼つゞき一ト口となり亦は早く打消すも有て
中はに至り二十七ヶ所となり後二十三ヶ所となるこの火
追々に焼おさまり翌三日全く鎮火す地震すんで後
みづから八方を駈めぐり見るがまに〳〵筆をとりて
是を巨細に事あらはすもの也
地震用心の歌
ものゝ名
魚の名十
さハ(鯖) かしき(カジキ) なます(鯰) ふり(鰤)〳〵う こひ(鯉) たら(鱈)
はや(鮠)く いな(鯔)せよ ふか(養鯨)き さゝはら(鰆)
鳥の名十
何 とき(鵇)も きし(雉子) か(鵞)なく 日ハ(鶸) う(鵜) かり(雁)すな
藪へ かけ(鶏) とひ(鳶) さき(鷺)へ すゝめ(雀)よ
虫の名十
あふ(虻)な くも(蛛)け か(蛾) あり(蟻)し てふ(蝶)きいて だに【虫偏+苗?】
身に のみ(蚤) しみ(紙虫)て いとゞ(竈虫) か(蚊)なしき
草の名十
ゆり(百合)やんでつ い(藺)にハ よし(葭)と きく(菊)とて も(藻)
つた(蔦) な(菜)きとこに しば(芝)し ねむ(合歓) らん(蘭)
木の名十
つき(槻) ひ(檜) すき(杉)やむ かや(榧)と気を
もみ(樅) きり(桐)ぬ まつ(松) もも(桃)ど かし(樫)
地震(ぢしん) なき(梛)日を
【表紙題箋】
地災撮要《割書:地震之部》 七ー九
【表紙の押し出し文字】
帝国図書館藏
【右丁 文字無し】
【左丁】
地災撮要巻七《割書:地震之部》
【右丁 文字無し】
【左丁】
地災撮要 《割書:地震之部》 巻之七
【右丁 文字無し】
【左丁】
武江震祭災記略 一
【朱角印】
東京図書館藏
【朱丸印】
明治二一・一二・一八・購求
【右丁 文字無し】
【左丁】
玖耳豆佳美知與廼伊
波保毛由理須敝天有
吾嘉奴民容能多免̪肆
丹曽比久 中院通茂卿
【これは万葉仮名といって、漢字の全角(楷書または行書)を用いて書き表した仮名文です。訓みは「くにつかみちよのいはほもゆりすへてうごかぬみよのためしにそひく」】
大変を泰平にいはひ
世なをして
家もゆつたり
国もゆつたり
故人季鷹
安政二年乙卯十月丁亥二日壬辰 十月元宿
早旦下総国成田山にて見し人の話に日輪紫色しかも濃く
して宛【あたか】もきゑんじもて色どりたる様に見え人々怪しみ思ひ
しに同夜此大地震あり《割書:成田の辺は江戸よりは地震少しよはし石燈篭|の類は覆りたるよし是は故人雪旦子門人旦齋》
《割書:話ける由雪|堤子談也》
地震の少々前に洋の方に四斗樽といふものゝ大さ成光り物ありて
左右え分る一ッハ房総の方へ趣き一ッは江戸の方へ趣くと見えしか
間もなく大地震ありしとなん《割書:品川沖の御台場にて怪しみ一|大炮を放ちけるよしなり》
地震の前宮戸川御厩河岸の船頭舟にありしか巽の方より大風の
吹起るか如き音聞えてやかて両岸の家震動しける此時同し方
より一円の鳥雲《割書:大サ九尺余り|に見し由》虚空を渡りしか福山侯御下屋鋪の表
門に当ると見えしかたゝちに其門倒れたり玄雲船頭か頭上を過り
駒形より浅草寺のあたりと思しき方へ飛去りたりとそ《割書:此船頭家に|帰りしにはや》
《割書:家潰れ二人の子を|失ひたりし由也》
又柳島の鰻かきも天神橋の畔にて此鳥雲の鳴渡りしを看
たり懼しと覚へて小舟の中へうつぶしに成し時其舟覆りしに
およぎて陸へ上りし時はや家々潰たりとそ
此日旦より細雨あり程なく止終日曇れり夜は村雲ありて微風
なり《割書:亥子の間より|風ふく》故に数箇所より火出たれと飛火は尠し暁方に
至り少しく風出たり大川は甚静なれと汐ハ常よりも早かりし
由也《割書:今年六月より七月に至り炎旱旬を渋【渉?】り透【邌?】庶雨を思ふ事頻なりしか|八月干いたりては屡雨ふり気候別にかはりし事を覚えす》
〇二日夜亥の一点《割書:或二点|とも》大地俄に震出し家は犇々と鳴響き逆浪
に船のたゞよふ如く即時に家屋倉廩(カヲクサウリン)を覆し間もなく頽(クヅレ)たる
家々より火起りて同時に焼上リたり号哭(ガウコク)の声閭閻にみちて恐し
ともいはん方なし其内最初にに燃立たるは吉原町なるへし
《割書:吉原町の事|未に誌す》此夜民家町家ともに自己の家にかゝつらひて火消
の人部馳集る事なく水を灌(ソヽキ)火を滅(ケ)すへきもの更にこれ
なし
〇御城内石垣多門等所々崩御番所傾大手御門西御丸二重御櫓損
し桔梗御門等大破両御丸御殿は都て無別条外廻石垣見付壁等
も皆崩れたり下勘定所潰竹櫓御多門崩辰の口御畳蔵潰る
見附の内半蔵御門四谷御門石垣殊に崩多く《割書:十月四日夜大手内腰掛|先日潰れし所より出火》
《割書:直チ|鎮る》
〇御曲輪の内 甍(イラカ)を並へし諸侯の藩邸一揺に崩れ傾き直(タゞチ)に所々
より火起り巨材瓦屋の焼 頽(クヅ)るゝ音天地を響し再震動(フタゝヒシンドウ)の声を聞
く暁方に至りて灰燼(クワイジン)となれる家数宇左に畧を挙く
酒井雅楽頭殿《割書:上中屋敷とも焼|上屋敷表門残る》森川出羽守殿松平内蔵頭殿
右大厦潰れ焼亡阿部伊勢守殿大方潰《割書:類焼|なし》林大学頭殿潰れ
八代洲河岸定火消御役屋鋪《割書:半焼半崩櫓は屋根計り|落ち下は其侭残れり》西御丸下は松平
肥後守殿《割書:上屋敷中|屋敷とも》松平玄蕃頭殿《割書:少々|焼込》和田倉御門内御番所共焼松平
下総守殿内藤紀伊守殿松平相模守殿《割書:表御門南|長屋残》同添屋敷松平
右京亮殿永井遠江守殿日比谷御門内御番所焼亡《割書:松平土佐守殿中|屋敷少々焼》土井
大炊頭殿潰れ本多中務大輔殿焼亡増山河内守殿潰れ遠藤但馬
守殿【屋?】辺半焼松平時之助殿柳沢伊東修理太夫殿薩州侯装束屋舗
鍋島肥後守殿 松平(毛利)大膳大夫殿焼込松平肥前守殿南部美濃守殿
有馬佐渡守殿北条美濃守殿《割書:長屋|向キ》等各焼亡亀井隠岐守殿長屋計
少々焼込丹羽長門守殿少々焼込
大名小路は或は焼或は潰れ都て全き所なし《割書:大方焼出たるハ類火|にあらす潰れたる家々》
《割書:より燃上り|たるよし也》
神田橋の内より常盤橋呉服橋鍛冶橋内等の筋は格別の損所
見えす
○小川町一円に潰家多し左に焼亡の家々のみを誌す但し此辺の
出火は外より見渡したるさへ三所程なれは幾所と燃立たるか
知るへからす大厦(タイカ)高楼 片時(ヘンシ)の間に烏有(ウウ)となりぬ
小川町焼亡の家々左の如し《割書:此外に地借の輩|数多あるべし》
本郷丹後守殿添屋敷《割書:小普請組|小笠原弥八郎組》北村季之殿《割書:小普請組|小笠原順三郎組》御
医師峯岸禧庵殿御番医師塙宋悦殿《割書:御書院版|酒井肥前守組》大岡誠【鉞?】二郎殿
内藤駿河守殿《割書:火出る|表側残る》《割書:御書院番|酒井肥前守組》三宅勝太郎殿《割書:小普請組|》間下(マシモ)
助次郎殿奥御医師佐藤道安殿《割書:御小姓組|秋山主殿頭組》河内勇三郎殿奥御小
姓新見内匠頭殿《割書:両番之内|池田甲斐守組》曽我又左衛門殿御側衆石河美濃守殿
《割書:少し焼|》御使番大久保八郎左衛門殿寄合佐藤金之丞殿中井出雲守殿
高家中條兵庫殿松平駿河守殿《割書:少し斗|焼込》《割書:御書院番|大岡豊後守組》本馬平兵衛殿御
書院番頭津田美濃守殿《割書:半は|焼る》中奥御番一色次郎殿 長谷川民之助殿
田安御用人高井八十之丞殿《割書:火出る|》御使番新庄寿三郎殿《割書:小普請組|大久保筑前守組》山本幸
之丞殿《割書:御書院番|花房志摩守組》鷲巣淡路守殿本多豊後守殿《割書:半分焼|》高家戸田日向
守殿戸田大炊頭殿《割書:表長屋|残る》榊原式部大輔殿《割書:半焼表門表長屋|共焼のこる》寺社御奉行松
平豊前守殿《割書:定火消|屋敷》米津小太夫殿《割書:向側組やしき潰家の方より|火出る怪我人殊に多し》御側衆岡部
因幡守殿《割書:両番之内|戸川播磨守組》荒井仙之助殿《割書:小普請セ話取扱|奥田主馬組》寺島池二郎殿《割書:御留守居支|配御広敷番》
《割書:頭|》 余吾(ヨゴ)金八郎殿《割書:新御番|松平信濃守組》町田孫四郎殿御使番本多丹下殿《割書:小普|請組》
《割書:小笠原弥三郎組|》近藤小六殿《割書:御小姓組|久永石見守組》荒井常次郎殿《割書:御小姓組|徳永伊豫守組》 神(ジン)織
部殿《割書:小普請組|大島丹後守組》柘植三四郎殿《割書:御小姓組|酒井備中守組》伏屋七之助殿中奥御番溝
口八十五郎殿堀田備中守殿高家土岐出羽守殿《割書:小普請組|大島丹後守組》本目久之丞殿
御賄頭山本新十郎殿寄合大森雄三郎殿渡辺卯兵衛殿
其餘焼すして潰れたる家多し焼亡の家と合すれは小川町のみ
にて凡弐百宇に餘るへし《割書:凡小石川御門内より原の御厩手前蜷川家後|ろの方迄なり魚板(マナイタ)橋手前の方は火なし岩城》
《割書:侯の辺も|残れり》
大久保筑前守殿屋敷殊に甚しく惣て潰れたり《割書:小川町辺即死怪我|人ある人ありや知る》
《割書:へからす小川町火消屋敷の火之見櫓は火中にして残る駿河台火消屋敷|の火之見も別条なし長屋ハ損したりこの夜は常の火事にかはりて見物》
《割書:人其外無用の往来人はなけれと所々より出火して逃道を失ひ或は大路|に横たたり【「たはり」の誤り】潰家に爪突過ち等なす人数かたし此辺の輩は漸に僅の財を》
《割書:背に負ひ或ひは主君にかしづき老たるを援け幼きをいたはりて護持陰院の跡|明地へ逃退たり各こゝに野宿して老たるは仏を念し誦経称名唱題して夜を》
《割書:明すもあり又は家族を失ひて歎きさけふ|もありて其夜の苦しみ筆端に尽しかたくとぞ》
御廊内其外所々武家方構内又は道路に崩れる家焼残りたる
材木をもて假の小屋を営み幕を引めくらし野宿する輩多かりし
《割書:此間は貴人も麁菜粥飯を|めされしなり》
南北両町奉行所無別条《割書:北御奉行所は表|長屋のみ潰る》
新し橋外町会所無事なり籾蔵は何れも大破に及へり《割書:葛西小|菅村籾》
《割書:蔵尤破損|つよし》
水道橋際三崎稲荷社拝殿無事本社土蔵壁落金比羅権現社
潰る
〇小石川隆慶橋手前江戸川続清水様御用人野中鉄太郎殿屋鋪
潰家出火して家数五軒にて凡四十間計り焼亡牛込御門の外
大地割たる所々あり江戸川通往還の河岸行に随ひ中程割る
又石切橋へ寄りし方は河岸付の方半分程段違ひに成りて弐尺位
下るそなれ番所後の方《割書:石河原|の北》武家地壱町斗又牛天神下武家地
等潰る牛天神社無恙
〇水府様御館大破長屋三十余棟潰御殿御玄関は瓦落たる迄に
て潰れす
〇伝通院無別条裏門潰山内学寮の長屋門二箇所寺中の門二箇
所潰れたり
〇小石川柳町戸塚【「塚」の右横に「崎」の字を添え書き】町辺潰家多く俗に川勝前と称る所の武家地家
作大方潰る
〇冨坂下小笠原信濃守殿松平丹後守殿二家共に御住居向其外と
も都て潰る
〇牛込南蔵院前大路二筋の割れ出る《割書:同寺銅鳥|居砕る》大塚護持院護
国寺大破なし雑司谷鬼子母神堂高田八幡宮別条なし此辺大
破に及へる所少し改代町の辺潰家多し
〇巣鴨土井大炊頭殿下屋鋪より出火して少々焼る是は地震の少
し前に燃立ちて無程地震あり間も無く消たり故に絵図の内
へ加らす
〇駒込の辺は都て地震弱しされと駒込染井の植木屋ハ石燈籠
植木鉢を損ふ事あまたなりし
〇駒込片町養昌寺其余二箇寺程潰たり
〇根津権現の後より千駄木へ通ふ崖道の内団子坂へ近き所道幅
七分通り谷へ崩れ墜往来纔に四五尺計に成る同所花園紫泉亭《割書:宇|》
《割書:|平次》の庭中崖に造りし茶亭平家の方は谷へ頽れ落三階の家は
却て崩るゝ事なし
同所坂下町惣潰《割書:怪我人多し即死|五人計といふ》妙林寺大破に及ふ
駒込光源寺大観音臺元より大破に及たりしか倒れす壁土落
たるのみなり
同寺の向側に太田摂津守殿下屋敷の内に《割書:山の中に|在る由》在りし九尺
に壱丈の焔硝蔵二戸いかにしてか破壊に及ひ梁桁柱礎石中に収
し合薬家厥外飛散て一物もなし《割書:是ハ石と石すれあひて火を|生しやけたるかと云云》根津権
現社無別条《割書:惣門町の中に在るもの瓦のみ落て恙なし|境内弁才天社のみ潰れたり》三崎法住寺《割書:世俗|新幡》
《割書:随院と|いふ》本堂無事玄関庫裏等傾く表門番所潰れて五人死す
同所大圓寺元瘡寺稲荷社拝殿のみ潰る同所大聖院聖天宮
拝殿のみ潰る吉祥院小破谷中の町家古けれと大方小破なり
谷中天王寺毘沙門堂無事五層の塔婆九輪計り折れて大地へ
落たり
〇根津より下谷茅町の通り殊に震動甚く人家潰れたる事軒
毎に洩るものなし厥上七軒町より出火して松平備後守殿下屋
敷松平出雲守殿下屋敷等類焼す亦 些阻(スコシヘダゝ)りて茅町弐丁目境稲
荷の辺より《割書:此いなり社は|危くして残る》同町弐丁目迄焼亡す《割書:茅町壱丁目より|火出たるよし也》心行寺
永昌寺浄円寺宗源寺等各潰れる右寺院門前の町屋も各潰れた
り茅町富士浅間社潰れる称仰(シヨウカウ)院残る教燈寺際にて火鎮る榊
原侯中屋鋪長屋焼込此間死亡のもの多くしてはかるへからす
《割書:根津門前に駒込片町酒店高崎屋長左衛門か別荘ありしが潰れて其|妻死すその外同人所持の地面長屋或は諸所出店等皆つふれたり》
○下谷御数寄屋町殊に甚く都て家潰れたり仲町の辺もともに
強く近頃焼けて新らしき家なから大破多く随て怪我人
多し《割書:錦袋円の舗土蔵近頃あらたに建て|いまた上ぬりの前なりしか無事なり》
○上野町壱丁目裏森川久右衛門殿組御歩士組屋敷と町屋境より
出火して跡へ同弐丁目広小路常楽院《割書:六あみた五番目也本堂僧坊やけ|る坂本に当る残れりと記せるは誤也》
并同寺門前町屋北大門町上野御家来屋敷新黒門町元黒門町下谷同
朋町南大門町等広小路東側一円に焼る長者町続車坂町代地下
谷町弐丁目代地長者町弐丁目同壱丁目《割書:壱丁目は|少々残る》井上筑後守殿長屋
徳大寺《割書:当寺摩利支天堂近頃修復なりて|頗壮麗なりしか惜むへし焼たり》一乗院其外長者町続
武家地中御徒士町西側焼る又同町《割書:中御かち|町》東側御先手美濃部
八蔵殿宅よりも出火して弐軒焼たり此辺は明方に火鎮る佐竹
立花両侯の人数と所のもの集りて防留たり
呉服店松坂屋《割書:井藤|》は土蔵残らす焼失ふ《割書:其跡空地と成り夫より板|囲して当分町会所御救の》
《割書:焚出し|所に成る》
〇下谷坂本は家毎に潰て同三丁目より出火し弐丁目残らす壱丁
目《割書:三分の一|焼る》迄焼坂本村へ焼込《割書:坂本通り左右の寺院大方残るに源寺|其外潰れたるも有松下亭といへる近き》
《割書:頃出来し蕎麦屋|は残りたり》
小野照崎(オノテルサキ)明神は拝殿潰れれる【ママ】下谷山崎町の辺古き造作なり
しか潰家尤多し
〇三枚橋向の池之端料理屋松坂屋源七奥の方損す同蓬莱屋大
に傾き損す蕎麦屋無極庵表二階潰る《割書:此家より少しく火出たれと|即時に消し留たり》
料理屋河内屋半は潰れたり山下料理屋浜田屋潰る《割書:近頃流行せる|五條天神社手》
《割書:前の鴈鍋といへる貨食店(リヤウリヤ)幸にして無事也地震後外の食店多くなりは|ひを休みたれは此家弥繁昌せり再聞辰正月廿三日の頃この家の妻あらた》
《割書:に建し坐敷へ渡したる板の上より庭に落たりしが手に持たる皿|三ッに割れて其尖りたる所咽をつらぬき即死せりとそ》
〇東叡山諸堂無別条宿坊少しの損所あり大仏は御首落る《割書:螺髪(ラホツ)の|所損堂》
《割書:前の石燈篭石地蔵|皆倒れ損んす》不忍弁才天社別条なし石橋崩れ石燈篭碑碣
に倒る銅鳥居無事聖天宮潰新建の一切経堂傾く境内廻りに
在る田楽茶や惣潰《割書:潰家とゝもに池中へ落入たりしか浅き所故かへつて怪我|なし境内料理屋春になり取払石橋の通りへ移り池の》
《割書:中へ張出|して建る》〇下谷車坂町裏通潰家あり
〇下谷稲荷社無別條門倒れ石鳥居笠石落る
〇寺町成就院百観音拝殿はかり潰る〇 乞胸(コブムネ)仁太夫構内大破
〇上野御成道武家方殊に潰れ多し小笠原 守殿中屋敷大破黒
田豊前守殿半分焼亡酒井安芸守殿堀丹波守殿石川主殿頭殿《割書:少し|焼》
惣潰焼亡 大関信濃守殿松平伊賀守殿中屋敷大破建部内匠頭
殿長屋潰板倉摂津守殿内藤豊後守殿等潰多く其外天神下通小役
人寒士の弊屋潰れたるか多し各 露眠(ノジユク)の困苦おもひやるへし
〇御成道東裏手永富町代地松下町代地山本町代地等の家々夥しく
潰れたり
〇本郷新町屋の辺潰家多し糀室所々崩れ落死人あり《割書:又一老夫穴へ落|入て怪我なし》
〇神田明神社は本社拝殿楼門天王三社其外神主の宅に至る迄大方
別条なし石鳥居表と裏門に在る物二ッともにゆかみし迄にて損しな
し未社のうち末広稲荷社《割書:拝殿は|残る》土蔵潰れ猿田彦明神拝殿塩土
神社潰れたり
〇湯島天満宮御拝の柱と前の屋根崩落本社全く石鳥居笠石落る
崖の水茶屋講釈場等覆る石垣損す笹縁稲荷社潰る同所
坂の下聖天宮弁才天堂《割書:柳井堂|》無別条《割書:料理茶屋松金屋古き|家なれと無事なり》法真寺
鐘楼崩喜福寺門潰る本郷の辺都而地震よはく大破なし外
神田の町々大抵無事也
〇聖堂無別条塀崩る学門所は大破及ひ逼留の輩止宿なりかたく
各家々へ帰る
〇本町石町日本橋向の辺より大伝馬町小伝馬町馬喰町の辺去冬
と当春の災に罹りて家作あらたなる故させる痛なし土蔵の壁
は皆震ひ落この内富沢町辺は少しく強しと聞ぬ一石橋台小損
往来止む
小網町伊勢町本船町小舟町堀江町茅場町新川新堀等の如き河
岸地等土蔵を以て垣となせるも悉く壁堕て下地の竹をあらは
せり《割書:箱崎橋少々|損る》
〇内神田町々西の方は一円去冬の火災に遭家作新しき故潰家
少し土蔵壁落たるは外にからす平永町の辺《割書:普請|古し》は潰家甚多し
《割書:所により強きと弱き格別の相違ありおのれか家はさせる痛なしこれは|板葺に瓦を上させる故と且造作の新しきと近辺地震のよはきなり揺止》
《割書:て後も行燈の火消すしてあり土蔵の|かべは外に同しく震落したり》
〇町の火之見櫓土中を堀て立たるもの何れも恙なし
〇吉原町は地震一度に大 厦(カ)覆(クツカヘ)り壓(ヲシ)に打れて死る者算ふへからす
間もなく京町弐丁目江戸町壱丁目より出火し其余潰れし家々より
次第に火起りて一廓残らす焼亡しけれは焼死するものも又
枚挙に遑あらすとそ大門の外五十軒道は北側計り焼残り
たり日本堤少し割れる《割書:此里は弘化二年の冬やけて翌年|普請成就し今年迄十年に成る》
五日の呈状死亡六百人とありしは此地の人別によりて大畧しか
るのみ客の人数其外諸方より入込しを加へなは千人にして
猶足らすと聞り《割書:海老や玉屋大墨屋は潰れすして焼たり故に怪我|人少し其外潰れすして焼たる家々は怪我人なし》
廓中土蔵焼失百八十八戸残れるもの僅に四戸の吉原後非人頭
善七構内焼失す《割書:所謂浅草溜なり罪人其外|焼死怪我人等多かりしとそ》
《割書:抑此夜都下の急変いつれも同し轍しなれとわきて花街の騒劇|いふへくもあらすいまた夜更るとにもあらされは毎家酒宴に長し哥舞》
《割書:吹弾の最中俄に家鳴り震動して立地に崩れけりうつばりくぢけ|柱折れ其物音は雷よりもすさましく魂中天に飛んで二階を下んとす》
れは胡梯踊りて下る事ならす狼狽してまろひ落れは巨材其上に
堕重り壓になりて五体をひしぎ或は棟梁の間に挟れて自在を得す
號へども援る人なく呼とも尚答ふるものなし瞬目(シユンモク)の頃潰たる家々より
火燃起りて焔勢其身に迫る適迯れ出たるも途方を失ひ烟にむせび
て道路に倒れ息絶るもあり家傾し迄にて顛倒に及はさるは僅に四 肢(シ)
を全ふして脱るもあれと資財雑具は皆悉く灰烬となしつ固より利にわ【「は」の誤記と思われる】
しる廓のならひなれば財宝に心奪れ強て運ひ出んとしては亦猛火に
閉られて命を傷も多し此火五街に延漫し娼廓悉く焼けて阿房一
片の烟と立登りぬ凡今夜此里に遊ひし騒人【さわぎびと=遊里や芝居小屋などに出入りしてにぎやかに遊び騒ぐ人】飄客【ひょうかく=花柳界に遊ぶ男の客。芸者買いをする男】この妖孼(ワザハヒ)に罹りて
或は横死し或は重き疵をかふむる匍匐【ほふく=腹ばいになって進むこと】して堤にさまよひたま〳〵無難
にして落のひたるも刀を措き衣服を失ひあらぬさまして其侭家に帰り
かたく辛ふして知者の家にいたれはこゝも潰れてやすらふ事さへなりか
たくと忍ひてかへりしもありとか聞りまして廓の人々此夜の窮厄金銀財
宝【「室」に見えるが、「宝」の誤記と思われる】数を尽して失ぬる事いくばくにかありけん痛むへく歎くへく何そ
毛頴をもて委曲に演る事を得んや
〇仝時浅草寺地中北谷より出火又田町壱丁目と仝弐丁目よりも火
起りて聖天町少々同横町山の宿町《割書:山の宿は西ノ裏|手計り少々焼たり》金竜山下瓦町谷
中天王寺門前山川町《割書:斎藤門前|常音門前》猿若町三丁目弐丁目壱丁目《割書:三座|芝居》
《割書:并茶屋哥舞妓役者等の宅焼る但し壱丁目入口之所は残る森田勘弥尾上|梅幸坂東彦三郎同竹三郎市村羽左衛門中村福助故人秀佳の忰坂東吉弥》
《割書:片岡我童等か家々又茶屋二三軒|其外商家共幸にして焼残れり》去年十一月五日夜聖天町ゟ出火して
猿若町三丁花川戸町山の宿町等長六町巾平均にして壱丁十間の焼
亡なり僅に普請なりてゟ十ヶ月に足らす再やけたり北馬道町
南馬道花川戸町《割書:西側計り|やける》等類焼に及へり田町は両側の潰家且
火災にて死亡人甚多し《割書:此へ辺所々ゟ燃出たるよしなり|田町は往来人の死亡も多し》
〇花川戸町河岸の角六地蔵尊の石燈篭は希世の古物也少しも
傾く事なく全し大川橋傍橋番所潰れたり
〇真土山聖天宮無別条《割書:地震の時いつしか扉開けたり此扉十八重なりしか悉|く明きたり常は秘仏にして更に明る事なし此夜》
《割書:に限り堂守迄始て拝たる由或人語れり表門前木鳥居笠木落石鳥居|は表門の方坂の中途に在るもの全く裏門の方石坂の中途に在るは倒れたり》
《割書:額堂の前なるも損したり末社手の屋潰れ|戸田茂睡か詠哥の碑倒し迄にて缺けず》別当本龍院は坐敷向残
り庫裏の方并練塀等崩れたり
○西方寺大破《割書:道哲|》今戸橋畔料理茶屋玉屋庄吉《割書:金波|楼》が家一
円潰れ同家より出火して北隣へ移り廿間斗焼る同後料理
茶屋大黒屋《割書:大七|と云》類焼せり
○橋場町金坐下吹所より出火十五間計焼料理屋川口は残る
《割書:此辺潰|家多し》柳屋潰る《割書:当時|休中》
○総泉寺本堂全く観音堂潰る玉姫稲荷社拝殿潰石鳥居井笠
落砕る
〇真崎稲荷社は全く石鳥居二笠石落損同神明鹿嶋香取社未
社不残無恙《割書:石の大鳥居|二ッとも全し》〇峉東禅寺潰れ六地蔵尊の一軀恙なし
正法院毘沙門堂潰る道林寺潰る
〇新鳥越辺潰家多く山谷浅草町は残らす潰一軒も残る事なし
死亡人多し《割書:此辺に夜々大小児集りて潰家の間に設|けて百万遍ノ念仏を唱ふあはれ成る事也》
〇山谷寺町は浄生院本堂ヒシヤツ堂安盛寺本堂妙見堂東方廿
三番地蔵の寺瑞泉寺常福寺円常寺源寿院理昌院易行院
等其余潰家多し念仏院本堂残り本松寺残る自運霊神社残
る玉蓮院同隣正徳院本堂残る
〇浅草寺本堂無恙《割書:西ノ方屋根|少し痛む》本尊奥山の花屋鋪御立退仁王門
風雷神門共に無事也本坊玄関表坐鋪等全し奥向潰れる《割書:別当|代并》
《割書:小姓一人潰|死といふ》境内潰れたる堂社は太神宮拝殿《割書:日音|院》金毘羅権現
社観智院内松寿院松の尾宮おたふく弁天堂出世不動堂金
蔵院西宮稲荷社《割書:以上南谷|西側》准泥観音堂智光院秋葉権現社正
福院妙見宮寿命院出世大黒社老女弁天堂時の鐘は無事なり
《割書:以上南|谷東側》熊野権現銭塚地蔵堂韋駄天社熊野稲荷社拝殿《割書:銅の|鳥居》
《割書:二ッとも|に全し》荒沢堂御供所手水屋等也《割書:老女弁天前濡仏の|一軀あ右【「右(う)」或は「衣(え)」に見えるが、どちらにせよ誤用で「あふのけ=あおのけ=あおむけ」の意】のけに成》
寺門町屋も破損多し梅園院物見潰る五層の塔婆九輪のみ
西の方へ曲る夫より下は別条なし《割書:奥山揚弓場活人形の看せ|物の小屋花屋敷の坐敷等皆》
《割書:類焼人の仮|宅となれり》九輪上より六ッ目迄曲る但シコノ九輪地震ノ前より
も曲りて見へたれは折れしもむべ也此塔元禄十六年の地震に
も九輪の落たる事ものに見えたり
一の権現形松院妙音院の辺少し焼残る勝蔵院の辺残る
寺中類焼の分左の如し各門前町家裏長屋等悉く焼たり
田町続北谷両側
西側 吉祥院 徳応院 延命院 誠心院 無動院
愛染堂 庚申堂 文筥地蔵堂 大師堂 不動堂
教善院
猿デラ
東側 遍照院 善龍院 泉陵院 泉蔵院 修善院
馬頭観音 弁才天宮 百漢音 御霊宮 富士別当
妙徳院
寅薬師堂
中谷 医王院 金剛院 覚善院 法善院
薬師堂 廿三夜 霊府宮 曼荼羅堂
同向 自性院 寿徳院 等也 《割書:砂利場富士の社は本社土蔵残り拝殿|并に門前の町屋共焼たり》
修読地蔵堂 庚申堂
〇駒形町西側より出火駒形堂残り少し傾く諏訪町黒船町三好
町迄焼亡す駒形町火元は小綱【「網」の誤記】町豊田ノ出店ニテ茶屋ナリ《割書:何れも両|側共河岸》
《割書:迄焼る此辺は三日昼|四ッ時頃火鎮る》榧寺(カヤデラ)《割書:正覚|寺》門前迄焼て寺は残る御蔵前八幡宮
閻魔堂《割書:婆王尊も|無別条》天王社何れも無別條浅草御蔵大破
〇東本願寺御堂無別条《割書:巽の隅屋根少し崩れ|後の方少しツゝ損る》表門無事左右の裏
門倒れたり寺中副地の寺院とも潰たるは八͡箇寺也其外損じ多
し報恩寺鐘楼潰る
〇門跡前菊屋橋西角行安寺門前《割書:駒形町川増といへる貨|食店の出見せゟ出火す》より出火同
寺残り門前町屋壱丁程焼亡又同所向側正行寺本堂并門前町
屋本立寺門前町屋等焼亡堂前龍光寺門前八軒寺下玉宗寺
よりも出火本智院聖天宮類焼此辺《割書:古き家作|多し》潰家多し《割書:堀田原加|藤遠江》
《割書:守殿下屋|敷惣潰》新堀端氷見寺石の門倒れる日輪寺の方丈門前町潰
大破天嶽院本堂并田圃慶印寺本堂其外潰幸龍寺本堂少し
傾方丈潰万隆寺知光院等潰る田圃六郷筑前守殿御殿向其外共
潰表長屋は残る龍泉寺西徳寺太子堂全く鐘楼潰る正証寺
大恩寺《割書:住職|潰死》等潰る中田圃鷲明神社潰る《割書:俗云酉の|まち》石鳥居は無事
なり龍泉寺町料理茶屋 駐春(チユウシユン)亭《割書:田川|屋》大破新鳥越同八百善《割書:八百や|善次郎》
小破 浅芽原(アサヂガハラ)《割書:渡辺九兵衛|享保中立》石地蔵尊全し小柄原刑罪場石巨像地蔵
尊は全し
〇小塚原町より出火して旅舎残らす《割書:橋場の諸商|人は残る》箕の輪町迄焼込
千住宿破損多し三 昧(マイ)の寺院恙なし箕輪町真正寺秋葉権現
社潰る
〇 三圍(ミメクリ)稲荷社潰境内末社額堂手水屋其外残らす潰れたり土手
際石大鳥居倒れ砕る長命寺潰牛御前本社は全く《割書:少しは|傾く》額堂等
其外潰石鳥居門前なるは少しゆかみ中なるは崩る近頃いとなみし
別当の二階坐敷潰弘福寺は本堂鐘楼残り其外方丈庫裏共潰る
牛御前なる料理茶屋平岩潰る《割書:二階|屋也》寺多蓮花寺太師堂大破請地
村秋葉権現社は無事別当満願寺《割書:普請尤|古し》小梅常泉寺本堂全し木母
寺は
隅田川堤所々裂る本所牛島の辺所々大地割れ赤き泥の水を吹
出したり
〇本所の地は殊に震動甚しく家々両側より道路へ倒れかゝりて往来
なりかたく壓にうたれて死るもの或は焼死するもの幾百人なるも知
らす戸方顛倒の響耳に満て門延焼の元目に遮り号哭の声巷
囂しく叫喚大--蓮大--の苦みもかくと覚へて恐ろししか
りし野宿の族風雨に犯され其困迫目も当られぬさまなりとそ
其内焼失たるは
本所縁町《割書:火|元》壱丁目《割書:火|元》弐丁目間も阻て同四丁目《割書:火|元》五丁目同所《割書:火|元》花
町同町続御書院番組上村靭負本所徳右衛門町壱丁目《割書:火|元》弐丁目《割書:火|元》
亀戸町《割書:半|丁》小梅瓦町《割書:料理茶屋小倉庵より火出て|近隣類焼におよべり》南本所《割書:火|元》荒井町北
本所荒井町《割書:火|元》五の橋町南本所《割書:火|元》出村町同所《割書:火|元》瓦町同所番場
町中の郷竹町同町続武士地松平周防守殿《割書:火|元》下屋敷《割書:成龍寺|前なり》北本
所芽場町同《割書:火|元》石原町其外新町組屋敷武家地も潰焼失等あり
中の郷如意輪寺太子堂潰る延命寺本堂潰る中郷元町ハ軒町潰
家甚多し石原碩雲寺本堂其外潰る去年十二月見せ開せし中の郷
在五庵と号せし料理茶屋二階家潰る《割書:瀧の仕掛も|空しくなれり》
〇押上春慶寺普賢堂大破最教寺潰る柳島法性寺妙見堂無別条
近頃建改る額堂潰たり門前橋本といへる料理茶春年新に建替
たる二階坐鋪潰れて十間川へ落る
〇萩寺龍眼寺本堂僧坊潰今年新建の太子堂拝殿潰る同所光
蔵寺長寿寺本堂潰る官医阿部長徳院殿潰る
〇亀戸天満宮無別条石鳥居二ッ損したり末社金山彦明神社頓
宮神社信宥霊社等潰別当所大鳥居氏潰れたり
〇普門院大破《割書:門番人の家潰|三人死す》梅屋鋪《割書:清光庵潰|》料理茶屋巴屋潰画人
是国家小破男国真家潰る時の鐘屋敷楼無事《割書:俗に鐘撞堂|といふ》霊山寺
法恩寺寺中潰本堂無別條其余の寺院或は傾或は潰る本仏寺
諸堂僧坊共悉く潰れたり
〇本所五ッ目五百羅漢堂正西本堂大破左右羅漢堂は潰る天王殿
潰る惣門并三師堂《割書:世にさゝゑ|堂といふ》破壊に及ひ居たれと幸に潰れず
寺ふりて雨のもり屋となりにけり
ほとけのあたをいかてふせかん 夢想国師
〇御竹蔵前武家大潰其外此辺武家町とも潰れ家多し
〇本所回向院《割書:此春正月下旬焼て|未普請ならす仮建なり》鐘楼潰れ六字名号の碑《割書:各一丈|余なり》
皆倒る《割書:地蔵堂潰れ石仏恙なし|境内水茶屋潰れる》〇尾上町川端料理屋中村屋平
吉二階家潰る《割書:此夜踊の集会にて|人多集り即死多し》仝所同商売柏屋喜八二階家半
分の余潰る《割書:この二軒は数人の集会を催す家にて風流の家造にあらす柱|尺角にて一間毎に立たり然れとも造作古くして脆し故に柱》
《割書:梁桁の類み|な折れたり》
〇高野山旅宿大徳院大破 〇一ッ目橋小損往来少しの間停る
《割書:回向院後土蔵佐渡|守殿よりも出火あり》
〇一ッ目弁財天社拝殿潰《割書:本社土蔵|壁落》境内金毘羅権現拝殿
潰石鳥居銅鳥居惣門潰れ岩屋は崩れず《割書:当時玉川|検技持也》〇御船蔵
前町よ出火此辺町屋一円潰て火起る武家地類焼多し即死
怪我人数ふへからす西光寺と初音稲荷社《割書:拝殿石の鳥居|二ッの内一ッ砕る》の辺
残り歯神(ハガミノ)社南都東大寺勧進所慈雲院中央寺大日堂《割書:遠|州》
《割書:秋葉山の旅宿橋場に在し遥拝の社の|を合して近年壮麗の堂を営みたり》深川八幡宮御旅所《割書:拝殿潰|木鳥居》
《割書:は火中にして|残れり》此辺一円に焼たりこのあたりより六間堀の火と
一ッになりたり夫より井上図書殿牧野鉄二郎殿木下図書
之助殿迄焼込木下氏火之見斗残る此辺焼失の外潰家多し
又武家地小役人の宅多く焼たり大橋東詰町会所建添地
籾蔵大破少し焼込たり
〇両国橋は春中より御普請にて未出来上らす十一月に至りて落成す
〇柳橋《割書:料理|茶屋》梅川忠兵衛宅二階共無事也其余この辺当春災後の造
作故大破の家なし
〇深川の地も本所と等しく震ふ事甚しく潰家多し随ひて出火
も多し《割書:深川の内火元十|二ヶ所といふ》焼亡の町々は《割書:左の町名深川の二字を|冠る故に一々深川と不記》
熊井町《割書:火|元》相川町中島町蛤町《割書:火|元》黒江町《割書:火|元》大島町永代寺門前町仲町
《割書:火元二|ヶ所》同山本町《割書:火|元》同仲町《割書:火|元》伊勢崎町《割書:火|元》伊勢崎町続久世大和守殿中屋敷
潰れ斗同続松平美濃守殿下屋敷焼込亀久町《割書:火|元》冨吉町三間町
西町諸町元町常盤町壱丁目弐丁目六間堀町《割書:火元|二ヶ所》八名川町森下町《割書:火|元》
《割書:二ヶ所半焼|半潰残》森下町つゝき小笠原佐渡守殿下屋敷辺半焼六間堀
続井上河内守殿太田備中守殿御下屋敷相川町御船手久保勘次郎
組水主同心組屋敷焼込同所続小部式部殿下屋敷焼失其余組
屋敷小役人寒士の弟宅等潰家より出火亦類焼多し黒江町西
念寺冨吉町正源寺焼亡六間堀神明宮火中にして本社拝殿とも
恙なし《割書:一鳥居焼|二鳥居残》
〇永代寺八幡宮無別条《割書:本社修復|去年成就》別当永代寺大凡潰る《割書:普請尤|古し》境
内には額堂《割書:京の南岳源巌か僕ノ幹信市人の跨をくゝるの図は幸に|破損せすして本坊に収るより其余はよしと見る額もなかりし》弁才
天社鐘楼太子堂宿祢社手水屋等潰たり六地蔵の一軀《割書:地蔵坊【土偏には見えないが他の所で「地蔵坊」の語が出てくるので「坊」で良いかと思います】|建立》
恙なし一の鳥居《割書:等|也》焼る門前石の鳥居左柱全く右の方折れる門
内鳥居笠落て缺る《割書:釈迦の嶽丈くらべの碑|は無事なり》金毘羅権現社聖天
宮は拝殿計潰る毘沙門堂潰る
〇三十三間堂三分の二潰る《割書:三十三間堂京間二間を柱の間として三十三間な|れは合て六十六間縁側を入七十間也此内南の方七》
《割書:間余にて十五六|間計残其余傾候》
〇洲崎弁天社無事境内料理茶屋内潰損たるあり
東仲町料理茶屋 平清(ヒラセイ)惣潰《割書:普請|古し》松本は小破也此辺潰家あり
〇寺町は玄信寺海蔵寺堂潰る浄心寺は中門潰れ微塵(ミチン)に成
る門前に在し一丈余の題目の碑石三段に砕る寺町通り都て
寺院町屋ともに大破に及へり霊厳寺本堂中門無事惣門
倒れ寺中潰多し江戸六地蔵の一軀全く《割書:地蔵坊|建立》本哲寺は観
音堂と寺中潰る法乗院不動尊拝殿潰れ弥勒寺は全し
法禅寺潰雲光院本堂は先達て焼寺中潰れたり
○深川猿江土井大炊頭殿御下屋鋪より出火類焼なし《割書:猿江|町中》
《割書:潰死三十|六人と云也》
○猿江の辺寺院町家其外潰損多し重願寺本堂無事鐘楼玄
関方丈大に傾く摩利支天少破泉養寺本堂鐘楼潰
○深川本所と等しく地震強き事甚しきか中にも相川町の
通りは揺出すと等しく両側の家狭き小路へ倒れ懸りそれ
か下になりて動く事ならさるもの各声を上けて叫へ共更
に助る人なく其間に火燃立たれは適身体自在なるも逃道
を失ひて供に焼亡たるも残からすと聞えし《割書:此内辛ふして一命援|りしもあれと家財を》
《割書:持運ひしもの|一人もなしとそ》
〇霊巖島塩町潰家より同所四日市町同銀町弐丁目大川端町
等焼亡す長き町余巾平均五十間程也《割書:此辺暁方の火事にて地震ゟ|少し時刻移りたれは人々集り》
《割書:て水を運ひけれと潰家の上にて足並自在|ならさるかゆへ滅事を得すして類火数軒に及へりとそ》霊巖島八丁堀の辺は都て
地震弱し潰家尠し依て怪我人も少し佃島も又同し《割書:坂本佃島猟師|町焼るとあるは誤》
《割書:なり此所|火事無之》稲荷橋いなり社無別条
〇萱場町薬師無事山王御旅所遥拝二社之内一宇大破天満宮潰る
〇浜町水野出羽守殿中屋敷長屋内焼失長五十二間余也《割書:此辺武家方大破|潰家多し》
〇蛎売町続銀座役所大破銀坐人の家多し潰れ怪我人多し《割書:家作|古き》
《割書:故な|り》大坂町続同新屋敷にも潰家あり怪我人多し松島町潰家
多し怪我人多し
〇鉄炮州松平淡路守殿より出火十軒町少し焼込長壱丁半余巾平
均四十間程也
〇南鍛冶町壱丁目より出火同弐丁目狩野探原屋鋪五郎兵衛町畳町
北組瓦町白魚屋敷《割書:西ノ方|》南伝馬町二丁目《割書:過半|焼込》同町三丁目南大工町《割書:半|丁》
《割書:焼|込》松川町壱丁目鈴木町因幡町常盤町具足町柳町本材木町
炭町六丁目《割書:少し|焼込》同町七丁目八丁目以上二十箇町也長五町巾平均弐丁
余焼亡す三日の朝五ッ時頃火鎮れり《割書:この町々土蔵の焼たる殊に多し|何れも壁落たるか故扉を墁(ヌ)り牅(マト)》
《割書:を塞くに及はす資貨を他所へ運んとして灰燼となせる|も多かりしされと避追に残りし蔵もこれあり》
【右丁】
〇兼房町の巽の自身番屋潰れたるゟ出火して隣なる松平兵部
殿御屋敷へ少し焼込みたり兼房町は大方潰れて怪我人多し伏
見町久保町善右衛門町等都て【すべて】此辺【邊】地震強し《割書:此辺は去年十一月の|地震にも強く兼房町》
《割書:には其時も土蔵の壁落たるもありし也今年も又外より強し是等の輩脊属【「戚族=みうち」のことか】|に別れ涕泣悲哀し或はなきからを携へて本郷代地のうしろなる馬場に》
《割書:集り夜すからなき|あかしたるとなん》
〇伏見町料理茶屋清水楼惣潰れ《割書:亭主|即死》尾張町瀧山町加賀町
山王町の辺穏にして潰家少しよつて怪我人なし
〇愛宕山権現社仮建にて山上恙なし山下石鳥居表門恙なし
此辺武家も破損少し
〇西本願寺御堂無別条寺中大破あれと潰れたるはなし鼓楼かしく傾
【左丁】
き惣会【會】所《割書:九間|四方》傾き外廻の練塀【瓦と練った土とで築き上げ、上に瓦を葺いた塀】皆崩れたり
〇柴井町木戸際より出火して一町焼亡す会【會】津侯御中やしき大
破に及べり有馬侯薄?長屋潰る怪我人多かりしとぞ
〇宇田川町三島町神明町等の西裏日蔭町の辺大破潰家甚多し
神明宮無別条《割書:末社皆恙なし|境内町屋無事也》西久保より三田の辺穏也瓦落た
る家も稀なり 〇増上寺御成門辺寮二宇潰し由芙蓉側弁
才天の廻石の玉垣崩れ鳥居燈籠不残倒れる
〇三田台【臺】町薬王寺祖師堂崩る土蔵也増上寺諸堂宇無別條損
所なし高輪南北町屋所々潰家あり東禅寺惣門潰る薩州侯
御物見長谷土蔵等潰る太子堂稲荷社庚申堂潰る石の門少し
【右丁】
崩る
〇品川宿駅舎聊傾るもありしか潰家なし怪我人も又これなし
妙国【國】寺題目碑折れる伊皿子薬師堂潰る
〇品川沖二番の御台【臺】場建物潰れて土中へ埋込出火あり会【會】津侯
の士此所にありて即死するもの凡十六人援りしもの海を渉り辛
ふして逃のひしよし幸にして合薬【ごうやく=火薬】には火気移らすして止ぬ
此内の火四日程燃て臭気甚しかりしとぞ其余【餘】の御台【臺】場も
石垣損し多し
〇永田馬場山王御社無別条石鳥居《割書:一の鳥|居なり》倒れ石は砕けず
赤坂氷川明神社無別條
【左丁】
〇四谷は見附大破御門外町屋《割書:御堀端|而已也》破損あれと其余【餘】は大方
穏なり麹町市ヶ谷の辺も又然り九段坂上番町辺穏にて潰家
なし内藤新宿無別条都而【すべて】湯嶋麹町駒込牛込小石川四谷赤
坂市ヶ谷麻布等之辺高き所は動揺少しされは潰れ家も尠し
凡山の麓川沿添の地は別て【別して=ことに、特に】強しと見ゆ
右に誌るは親戚知己の安否を繹(タヅ)ねて履歴せる所々親
しく看(ミ)かつそのわたり人にも問ひて記しつけぬる也其余【餘】は
踵をめぐらすに遑【いとま】なければやみつ
鶴岡放生会【會】職人寄合壁塗
ふるさとの壁のくつれの月影はぬる夜なくてそみかへかりける
【右丁】
建保二年職人寄合同
しのべとも下地よはなる古壁のたゝこほれなる我泪【「涙」の異体字】かな
〇江戸中倉庫の壁落ざるは稀なり大抵壁落右にふれて死せる者
夥しく火事ある所の土蔵はたま〳〵壁落すして全しと見ゆる
ものは窓牖【そうゆう=まど。(「窓」も「牖」も「まど」の意)】を塞たれと透間より火気通りて大概焼亡ひたり武
家寺院の土蔵全きはなし神社の石鳥居石燈篭寺院の石仏【佛】
宝篋(ハウキヤウ)塔碑檀石の類或倒れ或は砕けたり
〇市店の内本家全ふして庇のみ離れ大路へ頽落たるが多し《割書:逃|出》
《割書:る時頭上ゟ落来て|怪我をせしものあり》
〇此夜揺却しを怖れ貴人は庭中に席を設けてこゝに夜を明し
【左丁】
給ひ雇人は家潰又は傾きて住居ならさる故大路に畳を敷て野
宿する者巷々に滿つ翌日よりは引続戸障子畳等にて囲ひ仮そ
めの小屋をしつらへてこゝに住居する者多し又傾たる家は丸太を
以て扣とし往来の道に横たへ土蔵の壁土瓦等を積て自在に
通行なりかたし《割書:是は中分の所のさまなり本所深川の地は両側ゟ大路へ|倒れかゝりし家あり又潰れて道路へ落重れるあり行人》
《割書:は漸々に屋根の上を|這ひて歩行しなり》【「中分」=半分に分けること】 《割書:往来に水トンといふものを售ふもの多し温|飩の粉を汁に入たり一杯八文或は十二文位》
〇諸侯の妻室男女共此禍に罹【「羅」に見える】られし俦もあまたありとそ附ては重
代【祖先から代々伝わること】の名器刀剣甲冑書画茶器の類冨家の珍蔵せるもの寺院神社の
交割(シウモツ)等世に稀なる財宝此 旹(トキ)【「時」の異体字】に当りて一片の烟となりし事歎息
すへし《割書:寺院の本尊は|大方恙しと聞けり》火災に遭たる所の質屋は悉く倉庫を焼た
【右丁】
り其余【餘】商物を焼却して活業に離れたる輩数多ありとぞ
〇二日夜より地震 屡(しば〳〵)ありて止事なし《割書:其夜より翌朝かけて三十余|度迄は覚しか其後は事に紛》
《割書:れて覚|えす》七日暮時と十二日夕八時頃揺しは其内少強し《割書:翌正月にな|りても折に》
《割書:少しの地|震あり》此節鶏宵啼多し又鳥も啼事繁し《割書:八日の夜浅草の鶏|又鳥山内の梢に宿》
《割書:り夜中啼く事|常にかはり数声也》
〇町会【會】所より市中積金を以町々野宿の賎民へ頒ち握飯三日
より十九日迄運送して与へらる又五箇所の御救小屋を建てこ
ゝに憩しめ貧乏の輩を賑給(シンキフ)【施しあたえる】あり《割書:十月五日より追々小屋入始る》掛り名
主五十三人を命せらる五箇所の御小屋左の如し
△幸橋御門外御普請方持火際用地△浅草東仲町広【廣】小路《割書:田楽茶屋|の向側なり》
【左丁】
△竹垣三右衛門殿御代官所葛飾郡海辺【邊】新田百姓松五郎所持地
面《割書:深川高橋の東なり一町|に一町弐間の所なり》△上野山下火除明地《割書:啓運寺の旧地にして|こゝに在し名水を初》
《割書:に■【穿ヵ】ちて再|用ふる由なり》△深川永代寺境内《割書:本社前|東の方》等なり御小屋入のものへ施し
として冨屋の俦【ともがら】ゟ金銭或は菜蔬【野菜】の類を送る事例の如く夥し
《割書:十二月六日ゟ追々元住居に帰らしめ御小屋追々|取払永代寺一ヶ所を残し辰正月廿五日引払》町会【會】所より日々配り飯焚
出し所は△上野大門町《割書:家持呉服屋松坂屋新兵衛尾崎住居|に付舗支配人幸兵衛類焼跡の宅地也》
△牛込神楽坂穴八幡御旅所内△柴神明宮境内△深川永代寺
合四箇所也
〇上野御門主様よりも山下へ《割書:山王下へ寄りたる方にて|町会所掛り御小屋に隣る》御救小屋を建
給ふ是は御領分の貧民賑給の為とす
【右丁】
又町会【會】所に於テ市中の積金【積み貯えた金銭】を以て江戸中貧賎の町人へ御救米を
わかちたまら【ママ】る十一月十五日に始り十二月廿四日に終る《割書:男六十才ゟ十五才迄白米|五升ツヽ六十一才以上十四》
《割書:才以下のものと女へは三升ツヽなり江戸中|惣人数三十八万千弐百余人と云々》
焼くと見ておもひの門は出しかと
煙たえては住かたもなし 勢中
十二月廿日雪降りて尺に滿つ此日南品川の町々日割に当りて町会【會】
所ゟ御救を取【被?】下たり暁八時より人数を揃へて柳原向へ出黄昏に
及んて各人数に応【應】して白米を頒ち与へられしかは米苞を脊負
て秉燭【へいしょく=灯火を手に持つ】の頃家々へ帰りける其途中の話に云先には地震にてからき
め見つ再ひかゝる難儀にも遇ける事よといへり其辞昇平【世が平和なこと】の御恩沢【澤】を
【左丁】
弁【わきま】へさるに似たれと時にとりては左もありと見ゆげに暫時酒を以
衣とすともさめての後是途の苦しみいかはかりにやあらん
嚮【さき】に信州地震の時貧民は措(オ)き有徝【徳?】なるも俄に在【財?】を失ひ糠糧
に尽(ツキ)て路頭に飢死したる由なれは轂下【こっか=天子のおひざもと。みやこ】の輩は貧賎といへとも厚
き 御仁恵【いつくしみめぐむ。また、あわれみ】にあひてさせる【さほどの】窮迫なし寔【まこと】にこれ治化【ちか=民を治めて善に導くこと】の隆【ゆたか、さかん】なる
仰尊むへし江戸中の豪商所持地面地借店借の者或は近隣の乏
人へ米銭金銀等を施し与ふか者多し各官府へ召れて御褒美あり
又深川の辺には仮【假】屋を建てこゝに憩しめ日々扶食を与へて養育
せるものも多くありし也
〇近在にて殊に甚しかりしは亀有にて凡三万石の潰なる由田畑の
【右丁】
内小山の如き物一時に出来側に大なる浪の如きものを生じたり
人家各潰怪我人多しとそ
〇新宿中川屋敷屋といへる旅舎も潰れて旅各【旅客のことか】倶に死したり
とそ平井燈明時山門傾き鳥居倒る徳願寺損多しははた大
石燈篭倒る
〇逆井の辺にて土中裂け七石余【餘】の麦土中へ落入て出る事あらす
〇深川にて米蔵へ押入数の米苞を奪取し盗賊北町奉行所に九人
追々に召捕わる《割書:無宿にもあらて店持の|溢れものゝよしなり》
〇千住其余【餘】三昧【さんまい=死者を火葬したり、埋葬したりする場所】の寺院死骸山の如く荼毘の事届かす多分は断
りに及ひしかは止事を得すして家族しるへのものこれを焼く
【左丁】
〇死人を寺院へ措て逃るものあり寺院にても拠なかりし是を葬る
頑?て戒《割書:号|名》は亡者の来らぬ先に男女の戒号を拵へ置き来るに随ひて
順々に渡しける所もありし由なり
〇丸の内武家方には雑人【ぞうにん=社会的身分の低い者】の死骸 斃馬(ヘイバ)等等車に積出す事夥く夫
々寺院へ送しるゝ《割書:或諸侯には一夜に十二車の屍を送られし日もあり|けるとかや其余の家々も又右の類なり》
〇本所回向院より此度の横死人取置の事回向料布施物等を
受すして取扱ひ永世供養いたし度旨官府へ願出しにより市
中に其旨を徇【ふ】れらるよつて当寺へ療蔵する【「療蔵」という語は見当たらず。「いやし、くら(暮)する意か】もの幾百人といふ
事を知らす 〇去る子年より火の用心の為天水桶に四斗樽を
用ひ家々の前へいくらとなく並へ置しか今度の凶変に野辺送り
【右丁】
の棺桶出来あへぬによりて天水桶を用ひて寺院へ送れるか多し
四斗樽にあらすして人樽なりと云々
回向院霊巖寺と小石川上水端法花宗長光寺この度横死の
もの弔【「吊」は「弔」の俗字】ひ方取扱ひ宜しき由にて寺社御奉行所ゟ御賞美ありける
よし也
〇此度の地震大方南は小田原辺を限とし北は信州辺東は房総
に及へり
高遠の御城下も同刻に道路等損しけるといふ越後新潟御奉行組同
心北山惣右衛門殿ゟの文通に二日夜四ツ時彼地にも少し地震あり長く
ゆりたるよし申越れたり
【左丁】
〇吉原町娼家馬喰町の旅舎をかりてこゝに寓し窃【竊】ふ【意味、訓み不明。「窺う」の誤りか】客を迎ふる
よし赤坂麻布谷中根津其外へ立退しも又しかり
〇市中の変死最初の呈状に載せたる人数高左の通りなり《割書:是は無事と|覚へす全の》
《割書:人数は一陪になりても|是らさるへし》
町家の分変死 三千八百九十三人 内《割書:男千六百十六人|女二千二百七十九人》
【変死数と男女別内訳合計が合わず(変死数が二人少ない)】
同 潰家 壱万四千三百四十六軒 千七百廿四棟
同 潰庫 千四百四戸
〇町会【會】所より繹ふ【「ふ」は「に(尓)の誤記と思われる。「尋ねに付」の意】付ふたゝひ書上し高左の如ししかれ共此後日数を
経て潰家の下を穿ち或は溝中より屍の形【あらわ】れたるもあり怪我人のう
ち親戚の家に趣て療養して居たりしもあれはこの外に洩たるも
【右丁】
の余【餘】多あるへし江戸町中変死怪我人高《割書:吉原町は前にもいふ如く他所|より入込たる人数多しこの限に》
《割書:あらすこゝに出たるは人別に|よりて記したる所とぞ》
壱番組 変死九十六人 《割書:男四十七人|女四十九人》 怪我廿四人 《割書:男十一人|女十三人》
弐番組 変死八十六人 《割書:男三十一人|女五十五人》 怪我七十五人 《割書:男四十四人|女三十一人》
三番組 変死五百七十八人《割書:男二百六十九人|女二百九十七人》怪我弐百七十一人《割書:男百五十二人|女百十九人》
【三番組の変死数と男女の内訳数の計が合わない(変死数が十二人多い)】
四番組 変死十七人 《割書:男八人|女九人》 怪我五人 《割書:男三人|女二人》
五番組 変死廿九人 《割書:男十二人|女十七人》 怪我廿九人 《割書:男十六人|女十三人》
六番組 変死五人 《割書:男四人|女壱人》 怪我十九人 《割書:男十一人|女八人》
七番組 変死六十五人 《割書:男廿一人|女四十四人》 怪我八十七人 《割書:男五十一人|女三十六人》
八番組 変死八十一人 《割書:男三十五人|女四十六人》 怪我四十一人 《割書:男廿人|女二十一人》
【左丁】
九番組 変死十八人 《割書:男六人|女十二人》 怪我八人 《割書:男五人|女三人》
十番組 変死十人 《割書:男六人|女四人》 怪我廿一人 《割書:男九人|女十二人》
十一番組 変死七十五人 《割書:男廿九人|女四十六人》 怪我六十五人 《割書:男三十八人|女廿七人》
十二番組 変死廿四人 《割書:男九人|女五人》 怪我廿一人 《割書:男九人|女八人》
【十二番組の変死、怪我人数共、男女内訳の計が合わない(変死数十人多く、怪我数四人多い)】
十三番組 変死三百六十六人《割書:男百五十二人|女二百十四人》 怪我百九十九人 《割書:男百廿一人|女七十八人》
十四番組 変死三十人 《割書:男十六人|女十四人》 怪我四十五人 《割書:男廿三人|女廿二人》
十五番組 変死六十三人 《割書:男廿七人|女三十七人》 怪我九十六人 《割書:男五十三人|女四十三人》
【十五番組の変死数と男女の内訳計が合わない(変死数一人少ない)】
十六番組 変死三百八十四人《割書:男百六十四人|女二百廿人》 怪我三百九十二人 《割書:男二百三十九人|女百五十三人》
十七番組 変死千百八十三人《割書:男五百十九人|女六百六十七人》 怪我八百廿人 《割書:男四百六十一人|女三百五十九人》
【十七番組の変死数が、男女内訳計と合わない(変死数が三人少ない)】
十八番組 変死四百七十四人《割書:男二百十人|女二百六十四人》 怪我五百八人 《割書:男弐百六十八人|女弐百四十人》
【右丁】
十九番組 変死怪我人ともに無し
廿番組 変死五人 《割書:男三人|女二人》 怪我十人 《割書:男六人|女四人》
廿一番組 変死六十五人 《割書:男廿八人|女三十七人》 怪我十一人 《割書:男六人|女五人》
番外品川 変死六人 《割書:男二人|女四人》 怪我十二人 《割書:男六人|女六人》
番外吉原町 変死六百三十人《割書:男百三人|女五百廿七人》怪我調届かす 《割書:詒【?】調怪我人|廿七人》
合 変死四千弐百九十三人《割書:男千七百人|女弐千五百八十一人》 《割書:内男女不分明者十二人| 是は浅草田町往還潰家下焼跡ゟ出る》
怪我弐千七百五十九人 《割書:男千五百五十六人|女千弐百三人》
【合計数合わない】
〇寺社御奉行所にて十月三日より晦日迄江戸中死亡のもの寺院
に取置せし所の人数訂されし時寺院より呈状の趣を以て量ら
れしとそ或人ゟ見せられしは
【左丁】
武家方 《割書:男千二百丗二人|女八百九十九人》 浪人 《割書:男壱人|女二人》
僧 十八人 尼 壱人
神職 《割書:男壱人|家族女壱人》 山伏家 女壱人
町家 《割書:男千七百九十人|女二千五百七十九人》 百姓 《割書:男三十九人|女六十六人》
寺侍 弐人 寺院僕 六人
願人坊主《割書:壱人|同族女壱人》 寺院女 壱人
非人 《割書:男五人|女五人》
〆六千六百四十一人 内 《割書:男三千八十五人|女三千五百五十六人》
【左頁の合計は六千六百五十一人となる。非人の十人が数に入っていないと思われる】
十一月以来の分未訂正ならさるよし
凡四百廿七人内《割書:男二百九人|女二百十八人》 十一月十八日迄惣人数七千六十八人内《割書:男三千二百九十四人|女三千七百七十四人》
【右丁】
〇焼亡之場所江戸中武家寺院市中を合て凡長弐里十九町の余【餘】幅
平均にして弐町余【餘】りと聞えたり其最寄分の間数左の如し
一大手御門前西丸下八代洲河岸日比谷幸橋御門内迄焼失凡
長十三町余【餘】幅平均三町程
一南大工町より燃立京橋辺【邊】一円【圓】焼失す 凡長五町余【餘】幅平均
弐丁程
一築地松平淡路守殿屋敷ゟ燃立十軒町焼失 凡長壱町半【「町」の右下に挿入】余【餘】幅平
均四十間程
一柴井町木戸際より燃立同町而已焼失 凡長壱丁四十間余【餘】幅平均丗八間程
一霊巖島塩町より燃立同浜【濱】町四日市北新堀 凡長壱町余【餘】幅平均五
【左丁】
十間程大川端町等焼失
一浅草駒形町より燃立同諏訪町外五ヶ町焼失 凡長四町余【餘】幅平均
三十間程
一浅草行安寺門前より燃立同龍光寺門前より燃立同玉宗寺より
燃立 凡長卅六間余【餘】幅平均三十間程
一浅草寺地中ゟ燃立田町花川戸町猿若町焼失 凡長八町幅平均
弐町半程
一新吉原町不残五十間道非人頭善七構内焼失 凡長三町余【餘】幅平均
弐町二十間程
一上野町壱丁目武家境ゟ燃立下谷広【廣】小路東ノ方一円【圓】焼 凡
長六町半余【餘】
【右丁】
幅平均壱町十間程
一下谷茅町弐丁目ゟ燃立最寄武家焼失池の端七軒町ゟ燃立 凡長弐
町半余【餘】幅平均四十五間程
一千住小塚原町より燃立下谷三輪町飛火焼失 凡長壱丁半余【餘】
幅平均五十間程
一橋場金坐下吹所ゟ燃立并今戸町庄吉方よ《割書:り同断|最寄焼失》 凡長壱丁廿間余【餘】
幅平均二十間程
一小川町辺燃立不知一円【圓】水道橋内迄焼失 凡長六町半余【餘】幅平
均弐町程
一浜【濱】町水野出羽守殿中屋鋪長屋内焼失 凡長五十二間余【餘】幅
【左丁】
平均四間程
一小石川隆慶橋辺武家方焼失 凡長四十二間余【餘】幅平均十間程
一永代橋向南之方深川永代寺門前仲町辺一円【圓】焼失 凡長十町余【餘】幅平
均三町程
一深川伊勢崎町亀久町辺焼失 凡長三丁余【餘】幅平均三十間程
一新大橋向御船蔵前六間堀森下町辺焼失 凡長七町余【餘】幅平均
弐丁半程
一本所縁町ゟ堅川通り中ノ郷五ノ橋町辺焼失 凡長六町幅平均三
十間程
一南本所石原町法恩寺橋辺亀戸町焼失 凡長壱丁廿間余【餘】幅平均
【右丁】
十二間程
一南本所荒井町北本所番場町焼失 凡長三町余【餘】幅平均廿五間程
一中ノ郷成就寺門前小梅町元瓦町辺焼失 凡長五十間幅平均八間程
〇十月十四日火元の町々北町 御奉行所へ御召出天災の事に付御咎之
儀に及れさる旨令せらる《割書:町方の火元三十箇所也武家を合すれは|六十余所にもこれあるへきよし也》
〇地震は甚しといへとも囚獄の辺火災これなき故石出氏より開放
の事なし《割書:牢内ゟは声ノ限り叫ひて|明けよ〳〵といひけるよし》是は市中の輩はからさるの幸
なり浅草溜は地震火災一度になりて即死する者あり又辛ふして
逃延しもありしが巷に徘徊して鑑行に及ひけるより佃島の続【續】
なる人足寄場も邏卒【らそつ=みまわりの兵卒】これをはかり固く鎖して出す事無かりし
【左丁】
由堅きはからひにこそ
〇地震の後江戸中絃哥鼓吹の声更にこれなし《割書:二月下旬にいたり|些し絃哥の声あり》
菊紅葉看の沙汰更になし殊に楓は此頃盛に染たりしか騒人【詩人】
墨客といへとも遊観の暇なし
〇料理茶屋大破に及ひ其上米客連あらされは各商ひを休む居酒
屋茶漬屋の類 糲品(レイヒン)【粗末なもの】を售ひて価【價】の賎しきは返て商ひの殖(フヘ)たるものまゝあり《割書:魚類価賎し是貨食舗の業を休みたるが多く貴人の家々|にさへ索るゝ事の尠きか故にして魚猟の幸あるにはあらすこ》
《割書:の当坐本所辺菜蔬の価甚貴く大根壱本六十文或は|七十文位也此節本所深川の辺には食店更になし》
〇玄猪の牡丹餅【陰暦の十月の亥の日、亥の刻に新穀でついた餅を食べてその年の収穫を祝う】拵る家稀也
〇幸にして米穀豊饒也故に世の中格別の息劇(サハギ)これなし
【右丁】
〇玉川上水四ツ谷大樋潰れ下町々甚不便利なり程なく修理を
加へられたり
〇所々法花宗寺院の会【會】式多くは諸人少しされと堀の内村妙法寺
は十三日に参詣人多かりし由是は信仰の俦【ともがら】怪我なかりし報(カヘリ)賽(マウシ)【神仏へお礼参りをすること】
として詣しなるへし池上の本門寺も仝に参詣群をなしける
よし十一月二日浅草田甫祭思ひの外に群詣せり
〇地震の時深川新地松平下総守殿長屋傾三日夕方一時に潰れ又
箱崎酒井侯の長屋傾たりしか二三日過俄に潰れたり其旨【「音」には見えないが、文意からは「音」が適当。】川へ
響てすさまじかりし由又十八日芝会【會】津侯の中屋鋪長屋三棟倒る
其音夥し近きあたりへ響たるよし
【左丁】
〇板材木の価【價】作事【家などを作ること】職人傭夫の賃銭甚貴し次第に厳重の御沙汰
あり○材木は拂底にして近き山林より枝葉付たる儘の杉の木抔【など】付
出て售ふ武家町共大方潰たる家は仮につくろひし迄にて霜月にいた
りて新たに建る家は稀々にて焼たる所と潰たる所はあやう【「危う(ふ)カ】の小屋
を営みて住せり屋根板貴して藁葺の家多し
鳥さへも飛立かねる雪の間になど丸太には羽根のはえけむ
貧窮問屋「世の中をうしとはさしも【そんな風にも】思へとも飛立ちかねつ鳥にしあらねは
鐘ならてうそをつけど木たくみ【木で物を作る職人】は《割書:ね|直》【「ね」の右横にも「音」を並べ書き】によりてこそ《割書:こん|鐘音》【「こん」の右横に「来」を並べ書き】といふなる
〇活業【生活してゆくための商売。職業】を失へるもの絃哥【弦楽器をひいて歌うこと】之家俳優の輩軍書読【讀】笑話(ハナシカ)家等也哥連
【右丁】
俳茶香書画等の風流をもて世を渡る人も近年武芸【藝】の盛な
るより世にすさめ【すさむ=慰み興ずる。もてあそぶ】られしも此頃にいたりては更に活計【生計】を失へり
芸茶園(ウエキヤ)暫業を休
〇十月十八日深夜八時頃雷鳴少し有同夜大雨降野宿の輩甚苦し
めり然るに同夜中俄に海嘯(ツナミ)の患あるへしといふ夭言街にいひ
ふらし京橋の辺より八町堀深川辺【邊】のもの資財を荷ひ巷に
逃惑ひしものあり《割書:是は盗賊の云ふらしける言なるよし品川の辺にて|も御殿山へ財を運ひて逃のひしものありて甚騒動し》
《割書:ける|とぞ》
蝉丸はとてもかくてもすくし【すぐし=くらし】けん藁屋に雨のもるそわひしき 新梧選
風あらき山田の庵のこも簾時雨をかけてもる木葉哉 前太政大臣
【左丁】
〇地震潰家焼失場所付并絵【繪】図等七日の頃より街に鬻【ひさ】き絵草紙
屋にて商ふ物数百種狂画【滑稽を主とした絵。ざれ絵】狂文【滑稽な文章。江戸中期以後、狂歌に対して起こったもので、諧謔(かいぎゃく=冗談、おどけ、しゃれ)、風刺を主としたもの】小哥【時代により意味と曲風が違う。江戸時代は俗謡小曲の総称。上方では「小歌」江戸では「小唄」と書くことが多かった】にと作りて商ふ《割書:浪花の人話に|去年彼地地震》
《割書:高潮の時端切らすと云紙横に四切のものへ地震潰家高潮の患に逢ひ|し所々を書付し摺物を価八文位に商ひしを官府より止められたる後再》
《割書:板する事なし今年江戸へ来るこの地震にあひしか二日三日過るまゝに|次第に樟にえりて街に售ふもの幾百種ならん十月の末求歩行しに》
《割書:代金弐歩弐朱の品々を求めしか霜月にいたり日々新板の数多あるを見|て江戸の広大なるを駭【おどろき】しといへり又十二月の始代金弐両余りの絵類を》
《割書:調へし人ありしか未足らすとぞ十二月初旬売買を停られたり|△遠国他郷の旅客購ひ得て各苞苴【ほうしょ=贈答品】としけるが》
〇災に罹し所々瓦礫焦土の中へまはらに仮屋を営みて住る輩雨の
夜などは更るに随いて自ら物 凄(スコ)し寂寥たる中多くの人声 幽(カスカ)聞ゆる
様に覚ゆるよし臆病のいたす所々
【右丁】
〇法花宗坂本入谷感応【應】寺本堂のみ終に残り其余【餘】不残潰れたれ
と住持【じゅうじ=一寺の主僧】所化【しょけ=僧侶の弟子】奴隷【下男】にいたる迄重き怪我なし門番の家潰れてともに怪
我なし当寺の檀越【だんおち=施主、檀那】八十三軒在りしを家毎に見舞に行しに八十三軒
残らす存命にて家族に至る迄怪我なし吉原の娼家大墨屋金
兵衛も檀家なりしか家潰れすして火事の時無事に立退たれ
は是も又怪我なし当寺にては地震後葬式を執行ひし事なきよし
珍らしき事といへり又或人云市ヶ谷長延寺にも旦家【檀家】数軒ありしか
更に死亡人無しといへり未虚実を訂さす下谷一乗院も葬式なし
〇国【國】家よりの御沙汰として此度の禍に罹りて亡ひ失たる迷魂【迷って浮かばれない亡者の魂】得脱【生死の迷いを脱してさとりを得ること】
の為施餓鬼修行の事を命せられ左の寺院に於て十一月二日に修行
【左丁】
あり《割書:此寺院毎に銀十五枚つゝ|外に十枚つゝを賜りし由》
△天台東叡山学頭【学道(寺院で学問を専らにする僧侶)の頭領の意。諸大寺、諸社の学事を統轄するもの】陵雲院前大僧正△浄土本所回向院△真言
《割書:古義》二本榎高野學侶派在番西南院 同宗白金台【臺】町行人方在番
円満院△真言《割書:新義》浅草大護院△禅宗《割書:臨済派》品川東海寺△同宗
《割書:曹洞派》貝塚青松寺△同宗《割書:黄檗派》本所羅漢寺△日蓮宗《割書:一致派》下谷
宗延寺△同宗《割書:勝劣派》浅草慶印寺《割書:本堂【「所」を見せ消ちにして「堂」を脇書き】潰寺中の少し|残りし所にて修行》△一向宗西本願寺
掛所【かけしょ=真宗(一向宗)の寺院で、地方に設けられた別院。後には別院の資格のない支院を呼ぶようになった】築地輪番与楽寺△同宗東本願寺掛所浅草輪番遠慶寺
△時宗浅草日輪寺院代【いんだい=院家の寺格をもつ寺の住持の職務代行者】洞雲院等也 此日何れも緇素(シソ)【僧侶と俗人】群参し通
夜して誦称名【仏菩薩の名をとなえること】せしも多かりし此余【餘】諸寺院銘々に横死の【思いがけない死】の儔【ともがら】供養
の法筵【仏法を説くための集会の場所】を設く浅草寺は二日三日法恩寺八日谷中法住寺は十二月朔
【右丁】
日より三日まて修行せり
十一月六日は亡人五七日か逮夜とて仮家にて念仏【佛】称題なとするもあはれなり
〇十一月十四日冬至大神楽来らす十五日嬰児着袴置髪の祝ひも世間
を憚り生土神社へ参詣するものなし地震に怪我なかりし町々
は産土社に於て神楽を奏するも多し神田の社別して多く日々
興行あり
〇娼家ノ仮【假】宅翌年安政三丙辰八月廿五日ノ大風雨に遇ひて大破に
及び家潰れ生【?】たるモアリ深川ナルハ殊に甚しく其上永代橋損
したれは往来不自由にて弥不繁昌なり
〇青楼【遊女のいる所。妓楼】の仮【假】宅は廿日に始て願出たり其町々左の如し《割書:但し五百日の間|御免なり》
【左丁】
金龍山下下【「下」の字一字余計】瓦町【町の正式名称は「浅草金龍山下瓦町」】 仝【「仝」とは「浅草」のこと。この行以下同じ】今戸町 仝山谷町 仝馬道町 仝田町壱丁目
同弐丁目 浅草東仲町 同西仲町 仝花川戸町 仝山之宿町
仝聖天町 深川永代寺門前町 仝仲町 仝東仲町 仝山本町
本所八郎兵衛屋鋪 仝松井町壱丁目 仝入江町 仝長岡町一丁目
深川佃町 仝常盤町壱丁目 仝松村町 仝御船蔵前町
本所六【「陸」とあるところ。「六」に「リク、ロク」の音が有るので代用。】尺屋敷 仝時の鐘屋敷 以上廿四箇所なり
右之分十一月四日に御免ありて十二月より春へかけ追々に商売【賣】を始
む左の誌る町々は仝時に願出たれと叶はず
根津門前町 同宮永町 谷中茶屋町 同惣持院門前 赤坂田町五丁目
麻布今井土町 仝宮村町 市谷谷町 鮫河橋谷町 音羽町七丁目
【右丁】
仝八丁目 仝九丁目 桜木町
又廿五日再度願出し町々は浅草材木町 山谷浅草町 新鳥越町
芝田町等なりしかこれも願ひかなはす
茶屋にこの仮宅は浅草河岸のなだれ【山や川岸などの傾斜面、傾斜地
に造りかけて夏の夜は燈火の
光り水面に映し一入の壮観なりしか弘化の時には御成の時川中より
見え其外取しまり宜しからすとて止給ひ娼家の二階すら水面の見
えさるやうに作りしかこの度は昔の如くなたれの河辺へ作り営み度
よし願ひ申けるが改て御下知に及れすおのがまゝ次第に作りたり
〇十月廿三日暁七時神田佐柄木町通西御書院番川崎辰之助殿ゟ
出火類焼なし
【左丁】
〇十一月廿四日暮時過紅葉山御構内詰所焼亡十二月二日切支丹坂出火
〇十二月七日夕七時ゟ雪降出し些く積る小屋掛野宿の者苦しめり
《割書:場末に限らす未|野宿の者多し》
〇同九日子刻八丁堀水谷町壱丁目よ【「り」が脱落カ】出火長壱丁十間幅平均五十間と云々
〇同十七日十八日浅草市参詣甚多し《割書:両日駒形川ますと雁なべの見せ|商ひて弐百七十両余と云々》
〇同廿日大雪降る積り尺に滿つ神田の市詣人少し
〇管見【狭い見識】をもておしきはむる【「推し究める」=調査する】人常にいひけるは江戸は大なる地震
なし其故は追年堀抜井所々にあり又神田多摩川の両上水地下
に樋ありて地気自ら漏る故なりと語りけるかこのたひの大地震に
口をつくみたり
【右丁】
〇地震は始強く後弱し雪は始弱し後強し風は始弱し中強
く末又弱しとなん
〇衆人の説に此度の地震東西に揺る事強く故に南北へ長き家
は潰傾きたるか多くとうざ東西へ長きは損害少しといふ依て考るに
凡此説のごとしと思はる
〇此頃地震の圧勝(マジナヒ)とて口号(クチスサメ)る哥未其出所を知らす
水上のつけに命を助りて六部のうちに入るそうれしき
棟八ツ門が九ツ戸がひとつ身はいさなぎの内にこそ入れ
【左丁】
〇地震 《割書:公事伝》 地動 和名 奈為(ナイ) さいたつま
〇火事 火災 《割書:災は火事と云震災といふは地震と火事との事なれと|災の字禍の字等しく用ひ来れるか故震災といふ》
失火 《割書:過ちの火と言|合類節用云浄名惶ノ出》
火難 《割書:炎上は延焼の仮字にやと無仏斎貞澣いへり|延焼ノ字唐央正伝に有》
祝融 《割書:名は初午高帝ノ玄孫 顓頊(センキヨク)高陽年辛年の時の火正たり|回禄祝融子の子ト云也》
【「辛」=高陽の次の帝、高辛のこと】
【「火正」=古の官名。火星を祭り、火政を行うことを掌る】
【「回禄」=火の神。転じて火災、火事のこと。】
丙丁童子【火事、火災の異称】
舞馬【「舞馬(ブバ)之災=火災をいう】
池魚 《割書:風俗通曰城門失火禍及池中魚按百家書宋城門|失火自汲池中水以沃之魚悉露見但就把也》
鬱収 《割書:哀公三年ノ左伝ニ濟 ̄ニ濡_二 ̄メ 帷幕_一 ̄ヲ鬱収 ̄ニ従之|杜註 ̄ニ ーーハ火気也濡_二物於水_一 ̄ニ 出用為 濟》
【右丁】
手島舘長ノ嘱託ニ由リ写生ニ命シテ之
ヲ謄写セシム于時明治二十一年十一月
関谷清景誌
【左丁 文字無し】
【両頁 文字無し】
【右丁 文字無し】
【左丁】
地災撮要巻八 《割書:地震之部》
【右丁 文字無し】
【左丁】
地災撮要 《割書:地震之部》 巻之八
【朱の角印】
東京図書館藏
【右丁 文字無し】
【左丁】
武江震災記略 二巻
【右丁 文字無し】
【左丁】
安政二卯年十月二日夜四ツ時頃地震後出火見分絵図
浅草ゟ新吉原三ノ輪町飛地坂本辺
下谷広小路小川町小日向并霊巖島辺
御月番井戸対馬守様
吉沢保兵衛
絵図役
平松喜太夫
拾弐枚合凡 《割書:長壱里弐丁四拾間余|幅平均壱丁四拾七間程》
月番喜多村彦右衛門手代
小松均十郎
樽藤左衛門手代
平館喜惣次
【朱の角印】
東京図書館藏
【朱の丸印】
明治二一・一二・一八・購求
【右丁】
《割書:絵図仕立|認物》 石島海蔵
同断【同様】
御曲輪内ゟ外桜田辺鍛冶橋御門外ゟ柴井町辺迄
御月番同
笹本郡次
絵図役 松田孫七
四枚合凡 《割書:長弐十壱町十間余|幅平均弐町弐十四間余》
月番喜多村手代
福田喜右衛門
館同
加山半蔵
【左丁】
地割同
田村善蔵
同断
本所深川辺
御月番同
高木文左衛門
絵図役 飯尾藤十郎
七拾合凡 《割書:長三拾壱町十間余|幅平均壱町四十三間程》
月番喜多村手代外持場へ出
舘手代
太田条助
樽同
関平藏
【右丁】
地割
中野喜兵衛
絵図弐拾三枚
合高凡 長弐里十九町余
幅平均弐町程
外に本町四丁目 新材木町 兼房町
大川橋向辻番所 合四箇所
右は小火にて十間以下に付除之
十月四日ゟ三手分見分出役同八日ゟ追々朱引絵図仕立
方同十三日迄に出来十四日御進達之分御扣【ひかえ】共御番所え上ル
【左丁】
目録 一二を付るものは原本に此事なしといへとも展覧便ならし
むる為に記ス
壹 大手御門前西丸下八代洲河岸日比谷御門幸橋御門内辺
焼失之図【この二行、行頭を線で弧に結ぶ】
弐 小川町辺燃立不知一圓水道橋内迄焼失之図
三 小石川隆慶橋辺武家方焼失之図
四 上野町壱丁目武家境ゟ燃立下谷広小路東之方一円長者
町辺并武家方焼失之図【この二行、行頭を線で弧に結ぶ】
五 下谷茅町弐丁目より燃立最寄武家方焼失并に池之端七軒
町ゟ燃立候場所之図
六 下谷坂本町三丁目ゟ燃立仝町壱丁目迄焼失之図
【右丁】
七 千住小塚原町ゟ燃立下谷三ノ輪町飛地焼失之図
八 浅草行安寺門前町屋ゟ燃立同所龍光寺門前町より燃立仝
所玉宗寺より燃立候場所之図
【この二行、行頭を線で弧に結ぶ】
九 浅草駒形町ゟ燃立仝所諏訪町五箇町焼失之図
十 新吉原町不残五十軒道片側非人頭善七構内焼失浅
草地中ゟ燃立田町山川町花川戸町猿若町等焼失之
図原本繾紙にて一枚
十一 橋場金座下吹所ゟ燃立今戸町庄八ゟ同所最寄焼失
之図
十二 南本所荒井町北本所番場町辺焼失之図
【左丁】
十三 中之郷松平周防守下屋敷焼失図 原本二図を一枚に図す
南本所元瓦町小梅瓦町焼失之図
【この二行、行頭を線で弧に結ぶ】
十四 南本所石原町法恩寺橋辺亀戸町等焼失之図
十五 本所縁町ゟ堅川通中之郷五之橋町辺焼失之図
十六 永代橋向南之方深川永代寺門前仲町辺一円【圓】焼失の図
十七 深川伊勢崎町亀久町辺焼失之図
十八 新大橋向御船蔵前町六間堀町森下町辺焼失之図
十九 浜町水野出羽守殿中屋敷長屋焼失之図
二十 霊巖島塩町ゟ燃立仝所浜町四日市町北新堀大川端町等
焼失之図
【この二行、行頭を線で弧に結ぶ】
【右丁】
二十一 築地松平淡路守殿屋敷ゟ燃立十軒町焼失之図
二十二 南大工町ゟ燃立京橋北之方町屋一円焼失之図 原本繾紙一枚
二十三 柴井町木戸際ゟ燃立同町而已【のみ】一円焼失之図
以上
其二
其三
弐
小川町辺
其二
三
小石川辺
四
下谷辺
五
下谷茅町同七軒町辺
其二
六
下谷
坂本
辺
七
箕ノ輪辺
八
菊屋橋辺
九
浅草駒形町辺
浅草花川戸辺猿若町新吉原共
花川戸猿若町辺
凡長八町余 幅平均弐町半程
吉原町
凡長三町余 幅平均弐町廿間程
此図原本継紙ニ而一ツニ認メ有之候処小紙へ写候間合■【墨消】印ニ而
吉原計リ引分写し置候事
十之内
吉原町図
十之内
浅草花川戸辺猿若町
前の
続
十一
今戸橋場辺
十二
南北本所番場町荒井町辺
十三
中の郷辺
小梅瓦町辺
十四
南本所石原町ゟ
亀戸辺
其二
十五
本所竪川辺
其二
十六
永代橋向南之方永代寺門前町辺
其二
十七
深川伊勢崎町ゟ
亀久町辺
十八
新大橋向六間堀町御船蔵
森下町辺
十九
浜
町
辺
二十
霊厳島辺
二十一
鉄砲洲辺
鍛冶橋御門外
中橋辺
二十二
其二
二十三
柴井町辺
【右丁】
手嶋館長ノ嘱託ニ依リ写生ニ命シテ
之ヲ謄写セシム于時明治廿一年十月
関谷清景誌
【左丁 文字無し】
【文字無し】
【右丁文字無し】
【左丁 題箋】
地災撮要巻九 《割書:地震之部》
【文字無し】
【朱の角印】
東京図書館藏
地災撮要 《割書:地震之部》 巻之九
【右丁文字無し】
【左丁 朱の角印】
東京図書館藏
【左丁 右下朱の丸印】
明治二一・一二・一八・購求
【丸印の中央】
図
【本文】
武江震災記略巻之三
是より以下轂下【「コクカ」=天子のおひざもと】の衆人地震に遇ふて非命に終り亦
は重き疵をかうむり或は危難を遁れて命を全ふせし
談其余【餘】何くれとなく聞る事とも又は友人の記録を渉
猟【獵】して片言隻辞をいとはす書付たるがやかて弐百弐十
有余【餘】條にみてりそれか中に忠あり孝あり貞あり信あり
て憐むへく歎すへきあり不仁不義の族ありて憎むへき
ものも尠【すくな】からす善悪淑慝須臾の間にあらはれて勧懲の一端
ともなすへし此他同轍の談枚挙に遑あらされは贅せす尚
珍らしき譚に至ては聞に随て採摭すへし
【右丁】
〇地震の数日以前浅草御蔵前福本といへる茶店にて轎夫【キョウフ=駕籠かき】か
息杖を立たる僅かの凹より水湧出る《割書:此茶屋は近頃迄喜八団子の庭にし|て堀井戸の在しを此所取拂になり》
《割書:し時埋立し|所也といふ》諸人奇として見物す所にて思ふに是前兆なるへし
とこれは九月廿一日の事なりと又神田平永町北側籾蔵の前にも
地震少し前町屋の路次口の外より水湧出たり人々不思議の事
に思ひしとそ都て諸方とも井の水増たるよしなり
市谷柳町 俳画堂加藤岩十郎殿話
〇牛込川田〃窪菜種店万【萬】屋某か裏に榎の古樹あり枝葉繁茂し
けるか七八月の頃より数万の雀群り来りて囀り戯るゝ事日毎に
かはらすしかるに地震の前よりはいつとなく減して一羽といへと
【左丁】
も来らすなりぬと是は前兆とも定りたけれと此頃の一奇事なれ
はとてかたられしまゝ誌しぬ《割書:閑田辨筆には其説を挙たる|ありといふものゝ属か尚考ふへし》
本所御台所町 深川元儁子話称潜蔵
〇地震の前兆甚些し聊事替りしは彼岸桜梨子桃梅返り咲
あり亀戸には緋桃の返り咲有△九月末下総我孫子の辺に鶏小?
にとまらす梁の上にとまれり△十月朔日昼向島辺烏啼事夥し
夜にいたり狐群りなく△地震の二日前本所御台所町深川元儁
子の家に箱に入置し小亀残らす死す又宅の辺鳶烏群り啼く
事甚しかりしと△十月朔日下総相馬郡立崎羽中の辺に山
うがち地中より出て動く事ならす
【右丁】
△向島に狐付あり檻(ヲリ)へ入置しに大地震あるへき間檻より出
して呉よといひける
△大窪の辺御家人何某庭中より蚯引【「蚯蚓」=みみず、とあるところ】の夥しく出るを看て
是地震の兆也とて九月末より庭中に野宿す近隣の輩是
を識りしか果して地震し家潰れたれと合家怪我なかり
しとそ
この余【餘】元儁子の談あり未に二三条をしるす
加賀町 田中平四郎殿話
〇二日昼深川辺にて堀抜井を掘らんとしけるに地の底鳴りて
仕来ならす老練の職人なりしかかゝる事は是迄聞も及はぬ
【左丁】
よし云て其日は仕事を止て帰りしとそ
〇山王町なる髪結何某外に十九人相知れる朋をかたらひ【誘い】二日の夕
海上へ漁猟に出たりしか地震の前東北の方へ時に明るう成り各
着たる衣服の染色模様まで鮮(アサヤカ)に見分る程なりしか頓て海底よ
り鳴渡りて船底へ砂利を打当るやうに聞えて恐ろしかりしが又一
団の火炎空中を鳴渡りしに弥怖ろしくなりて船を陸へ附しには
や地震の後にて始に着替の衣類所持の調度なと預けたりし永代
橋際の茶店も潰たれはその中を穿ちて品々を取出し危くして
家に帰りしとそ
新右衛門町 文鳳堂山城屋忠兵衛話
【右丁】
〇二日夜行徳の辺には地上より火燃出たり近くへよりて見れは見へ
す又さきの方に火の燃るを看るのみ《割書:芝森本元町の坊正鈴木与右衛門|もこの夜途中にて土中より火》
《割書:の燃るを見|たりとそ》
〇亜墨利加へ渡りし中濱万次郎は本所江川侯の屋敷内に住た
りしか家潰れかゝり自ら天井を突破りて夫婦とも無事なり
俳画堂記録申 加藤岩十郎殿
〇二日夜地震の時牛込山伏町の辺【邊】にて看し人の噂艮の方に当り
畳二乗 二帖計りと見る火気空中に上たりとそ又この時妻木氏某《割書:何れ|の人》
《割書:か不|詳》厠へ趣れしに牖(マド)の障子のあかきに駭(オトロキ)て明【「開」とあるところ】けて見るに南の
方にてしかも程近きあたりに太さ俗にいふ中竹の位にて数丈
【左丁】
の火気赤く見え鍋つるの如く曲りて折れたるを看たり是
や世にいふ火柱といふ物ならんと思ひ怪しみし折から俄に震出
したるとなん
浅草平右衛門町 村田平右衛門殿話
〇上野御宮の社家にて御連哥師金子主馬《割書:名ハ貞起》隠居して浅草
橋場に栖(スメ)り九月晦日の頃の連哥に「命の際の秋の暮方」とありし
か二日の地震に家潰れて其身并に孫と下女三人終れり
神田小柳町 岡村庄兵衛殿話
〇深川六間堀町家主何某《割書:三谷三九郎|所持地面》俳諧を好て静雨と号しける
か地震の前日或宗匠のもとにて
【右丁】
枯果て一 ̄ト ふく有つく柳かな 静雨
けふもくたらぬ冬の川ふね 宗匠
此翌日地震に家潰れ其身死し息子は危くして残る彼句は前
兆になれるかと云々
向両国垢離場の茶店話并に
浅草寺地中氷月亭にて或踊子の話
〇本所尾上町中村屋平吉か家には此夜踊子の名弘会あり催主は
猿若町なる俳優某の娘にて芸【藝】名岩井梅次とよひ十七才にな
りける由地震の前には事はてゝ世話人打寄て集金を算【かぞ】へて居
たりし時俄に震出せ【小さく送る】しかは集金凡五十余【餘】両ありしをかぞへもはてす
其母に与へしうちはや二階造の大厦【大きな家】潰れ会【會】主の梅次其外夫人幼子
【左丁】
合て十九人程死したり《割書:踊り子の内大伝馬町砂糖屋の娘もよ同妹こよといへる|も即死したり本所花町のかめといへる女と坂東みつよ》
《割書:の弟子何かしは早く逃て助りたり中村屋のあるし夫婦召仕|は門前なる大野屋と云鰻屋に在りて無事なり》彼母は悲歎の
余【餘】り逃れ出たれと夢路をたとる心地して家に帰りしにはやおのれ
か家も焼け集めたる金は途中に失ひ僅に金三歩を携へし計りとそ
俳優中村鶴蔵もこの席に列なり潰家の内に在りしか危き命をよふ
して逃のひしとぞ《割書:狂句「打どめはは階子の踊る中むらや」打留は芝居の太鼓|にあらす三十三所順礼の札打納るの諺なれと俗按によりこゝに》
《割書:は太鼓の打|どめを用ゆ》
深川 高部久右衛門殿話
〇此夜深川蛤町《割書:永代寺向の裏通にて寄せ場と唱へ|て落し話なとの人集する家なり》にも踊師匠の名弘会【會】
あり男女凡百四五十人集り居たり踊の最中に揺出して即時に家潰れ
【右丁】
たり師匠は《割書:女|ニ》何の踊子出立しにや白無垢の小袖を着たる儘圧【壓】にうたれ
て即死す一座の老稚【「ロウチ」=老人と子供】即死怪我人数ふへからす僅に活残たるも疵を
かうむれり踊子は面に紅粉を粧ひ鬘(カツラ)を被りをどりの衣裳を着たるま
ゝ人に脊負れ逃出たるもあり其負たる人も又疵を受たりしもの也《割書:是は|踊の》
《割書:最中にて尾上町の中村屋の方よりも怪我人多く騒動甚しかりし由なり或云此|時の踊は関の戸なり桜の精に出立しか白き衣服なり是は助り黒主に出立たる》
《割書:か死し|たりと》
芝 田中権左衛門殿話
〇北品川宿弐丁目要助か地を借りて旅籠屋をなりはいとせる倉田屋
なかといふもの娘つね《割書:十五|才》地震の後家内南品川海徳寺の境内に
立退てありしに十月八日の夜夢中に白髪の老翁顕れ来る十一
【左丁】
日は水火の戦ありて安からぬ日なり此品を携へをらは其禍を免
るへしと示すと覚えて目覚たりしに八九分もやあらん大さの
滅金【めっき】の様なる羽扇の形したる物を手に持たりと依之云の噂宿
内にひろまり此日をあやふみて騒劇甚しかりしかは其地御代
官無藤嘉兵衛殿へ訴申せしかこの日更に何事なくして返たり
《割書:是虚夢か又は他人を欺んとて作り設しそらことか此後無藤氏の役所|へ召れ猥褻の流言をなして衆人の恐懼を生せし事安からぬ事とて》
《割書:いたく叱しこら|されしとぞ》
浦口清左衛門殿話
〇北條侯《割書:丸の|内》の家士何某此夜妻をめとり媒人其外も来り酒宴
に及ひしとき家潰夫婦《割書:舅姑はありや|なしや不知》其外一席皆失ぬと《割書:こゝに|雇はれ》
【右丁】
《割書:し料理人はかりは逃|出して命全しとそ》
鑓屋町料理屋津の国屋話
〇松平時之助殿御家中にも此夜妻を迎へたる士ありて酒宴の時
地震ありて家潰れ夫婦媒人夫の妹其余【餘】十余【餘】人終りけるとそ
〇堀江六軒町乾物問屋東国屋弥七母に孝ありし人とそ地震の時
母をいさなひて逃出しか一足早くして頭上より瓦落下り灸所
に当りて即死す母は面部へ重き疵をから【ママ】むりたれと治療を加へて
助かる事を得たり
〇三谷三九郎か妻深川の別荘にて潰死〇弁慶橋内田のあるじ
【左丁】
即死す〇播磨屋新右衛門か妻幼稚の次男下女三人合六人深川木
場の別荘に行て潰死
亀戸 勝田次郎殿話
〇亀戸町に亀田宗軒といへる庸医(ヤスヰ)あり其妻懐妊して臨月にて
ありしかそ夜台【臺】に臨し時《割書:地震か先にて驚て|虫気付しなるへし》【「虫気付く」=産気付く】俄に震出しけれは
其夫妻を脊負ふて逃んとすれ共うみかゝりし身にておはるゝ事
陿(カナ)はす兎角の間に近隣に火起り次第に火近つきぬ妻か云迚も逃延
ん事かなひかたしされは八才の男子を連れ家をすてて逃退ゐへと云
夫涕泣に迫りて途方にくれししはし蹰躇(チウチヨ)してありけるか強ちに妻の促(ウナガ)
すにより止事を得すして彼男子の手を曳なく〳〵落のびてあたり
【右丁】
近き巷に彳(タヽスミ)てたゞ一心に神仏【佛】を祈り我家の焼落るを俟【まち】居たりしに
隣家なる某こゝに来り汝か妻は火中を出て用心桶の水を飲み居れり
疾く行て助てよといふされとも偽なりとて肯【うべな】はす然らは己連来
りて得さすへし迚程なく妻を脊負来れり驚てこれを見るに面部
こゝかしこやけたゞれ身内も聊疵を受たれと命恙なかりし小児は産落
したれとせんすへなくて火中に残して逃れ出たるよしなり其後治
療をくわへて活延る事を得たりとなむ
御賄六尺 無藤助太郎殿話
〇小日向水道町桔梗屋といへる油屋の娘下女とゝもに土蔵の壁落し
時土の下に成りたり三尺程の下を掘て娘は助り下女は死す此家より
【左丁】
あたりの貧人へ米三升ツヽ施せしとそ
新乗物町 福島三郎右衛門殿話
〇銀座人受払【拂】役泉谷七郎兵衛か妻娘乳母三人同し枕に潰家の下に
成りたる娘のみ中に寐てありしが助り左右の二人圧【壓】にうたれて死す
本郷 冨岡佐太郎殿話
〇銀座人松村太右衛門家潰妻小児一人下女二人合せて四人即死す当
主并に息子と六才の男子家の下に成しか隣家安藤侯の家来泣声
を聞付来りて助たり
金座 長井帰朴子話《割書:称権之助》
〇金座人山本新次郎去年冬災後浅草大恩寺前に住す地震の日新
【右丁】
次郎は泊番にて金座の役所にあり留守中住宅潰れ家婦懐妊し
てありしか娘と倶に死す老母は引窓より助出したり外に娘一人持
前侯へ奉公してありけるか是も御屋敷の潰れし時圧【壓】に打れて死す又
此娘に介副とて出せ【小さく添え書き】し召仕の女もこの節倶に死りあるし是を聞しはら
く狂を発【發】しけるか如くにてありけるとそ
三筋町 金子信助殿話
〇本所松倉町住御賄六尺岡田庄八家潰れ其身妻子共三人死して
残れるは舎弟と惣領の男子弐人なり
麻布龕前房谷 浦野六左衛門殿話
〇同所三笠町住御賄方秋元幸太郎家潰れ母と男子を失れし由
【左丁】
霊巖島 清水太一郎殿話
〇 豊海(トミヨ)橋《割書:土俗誤ておとめ橋と|いふ永代橋の西なり》【「土俗(どぞく)=その土地の習慣】の側土蔵《割書:河岸付の|くらなり》の壁崩れし間に男女の死
体【體】あり是は俗言にヒツパリと呼へる賎妓にて客とゝもに土に打れて死し
たるにてありし女は本所某の町の者なる由たしかに知れて尸【しかばね】をは送り
かへしたり男は何れの者か知れさりしとなり
神田松永町 片岡仁左衛門殿話
〇小梅瓦町何がしの家潰れしか妻は漸くにして先へ這出あたりの人
を頼み他人とゝもに屋上を穿ちて其内よりあるじを助け出したり小
児は土中に入て人に踏る中屡【しばしば】なれと恙なし
深川 相川新兵衛殿話
【右丁】
〇深川相川町吉川といへる足袋屋の妻行ゑ【ゆくへ(行方)の「へ」の子音の変化をそのままに仮名に書いたもの】知れさりしか十月下旬に
至り土中ゟ尸【しかばね】を掘出したり手足焼爛たり其余【餘】旬日【じゅんじつ=十日間(ほど)】を経て土中ゟ
尸を掘出したるは数多あり
△又余【餘】人の話にて聞り浅草田町の大路土中ゟ盲者壱人掘出して蘇(ソ)
生(セイ)す下旬の事なり又同町にて十一月中旬事也 門(カド)つけと唱へて街
に浄瑠璃を語りて銭を乞し男の死体【體】を掘出す五体離れ〳〵に
成り側に三味線のこわれたるもありしなり
熊井理左衛門殿話
〇深川清住町河岸に沽券地【江戸時代、永代売買の券状を授受することを公許された土地であるところから町屋敷のこと】の余【餘】りにて纔【わずか】計りの家作地ありこゝに
「エサ鉄と渾名(アダナ)せる男近き頃より鰻の蒲焼を售(アキナ)ひ肇(ハジメ)けるか《割書:此家大川|へ張出し》
【左丁】
《割書:て建|たり》家を川中へ揺り倒し臥たりし家族大方川中へ落入しかは溺死
しけん行方を知らす《割書:あるしの弟と下女はいかゝ|してか助りたるよし也》
佐柄木忠蔵殿話
〇洲崎茶亭の僕【しもべ】己か主家の潰るゝに驚き欠出し【「駆出し」とあるところ】か向の家へかけ入
彼家潰れて死す
市谷柳町続【續】 加藤岩十郎殿記録中
〇牛込岩戸町弐丁目続【續】宝泉禅寺に相州関本道了権現遥拝の詞
あり深川なる酒舗に仕ふる男《割書:番頭|の由》兼て当社を信仰なし月に怠らす
詣祈りし地震の時辛ふして主人の家を遁出し家潰て主人夫婦
其下に敷れたり彼男立帰りて助んとせしかとも梁の下に来り微力を以援
【右丁】
ん事かたし此時一心に当社を祈念し仰願はくは主人の命救せ給へ
若助る事の協【かな】はすは我が命をも俱に断給ひと誓ひつゝ再力を極めか
の巨材を動かせしに力に応【ます】して安〳〵と取のけて終に主人を助
得たりとそ
雲鶴堂普勝伊周殿話
〇小網町弐丁目歯磨の老舗伊勢や吉左衛門か娘 雪(ユキ)十才去年霜月地
震の時泰然として更に逃出すへきけはいなし鎮りて後其故を問へは
壁【「譬え」の誤りカ】逃走りたりとも命なくは物にふれても死すへしかく在ても命あ
らは援(タスカ)るへし老かゝまりてなからへあらんよりは稚くして死した
らはあはれと見る人もありなんと答へけるを其親もいまはしく思
【左丁】
ひこゝろにかけしが此度の地震にも又更に駭く【おどろく】様なく家に坐し
居たりしか庫の壁落るに打れて死ぬ
〇《割書:此段語りし|人を忘たり》小網町辺の商家何某権門何某の藩士弐人計りを伴ふ
て劇場へ趣きしが事果て帰らんとする頃酒興に乗して頻に花街に
趣ん事を促すこの時彼士の誘引来りし鉄炮洲の辺に住ける踊の師
《割書:女也其名|詳ならす》彼士の妻に頼【たのま】れあすこそはさりかたき主用のおはすなれはい
かに沈酔【酔いつぶれること】に及るゝ共是非にすゝめて伴ひ帰りこよと契りし事のあ
なれはとて強に帰らん事を進むしかれ共猶止るへき景かせあらされ
は涕を流して停【とどめ】しにかく迄とゝむる上は今日はかへりてあすこそ行
かめと是より船を雇ふてこれに乗し宮戸川に棹さし家路に趣し
【右丁】
に小網町近くなりし頃陸の方頻に騒しく家鳴り震動し諸人の
噢ふ声を聞《割書:此時川中は浪も|立す静かなりし由》扨は地震にこそあるへけれとて驚なから
陸へ上りたる頃は家々も傾き土蔵の壁堕て諸方に火事起りしかは更
に恐怖を増し各家に戻りしかは此輩の家は皆無事にてありけれ
は各喜ひあへしか夜明て花街の変を聞くや戦慄し踊の師か帰洛
を催せし功をもて命なからへけるとあつくねきらひけるとか
島崎清左衛門殿話
〇桜田久保町なる花屋某か家潰れ其妻梁の下に成て死たりしを揺
止て後に尸【しかばね】を出したり二才の小児を懐【いだ】き片臂を地につき片臂を
強くはりて其うちに小児をかばひたり故に小児は恙なくてありける
【左丁】
かゝる急変にあひしかも子を厭(イト)ふ志の切なるいとあはれなる事なりし
西河岸町 千柄清右衛門殿話
〇葦の屋検校薬研堀続【續】の武士地に住す博覧宏才にして皇国【國】の
学によし哥をもよみ針術の高手にして当【まさに】道家のうちには人もゆ
るしたるひとなり《割書:しなどの風其余の|著書多しとぞ》二日の夜冨深町なる柳屋長
右衛門より《割書:能の装束を貸して|活業とせる冨商也》療治を乞うて轎【かご】をもたらして迎へしか
は則行て長右衛門か息子の妻か療治にかゝりて居たりし時震出し
けれは検校かの婦をいさなひて逃出んとしけるか頓に【とみに=急に】家潰れてとも
に即死す惜ひ哉この葦の屋は近き頃官医となれり普通の瞽者の
如く高利の金を貸して足(ソク)【金銭のこと】を貪るの如きにはあらすされは家冨るにあ
【右丁】
らされと弟子を恵む事深切なりしとそ
楓園相模屋善四郎話《割書:久保啓蔵殿|話》
〇池之端料理屋松坂屋源七下谷御数寄屋町なる声妓【せいぎ=うたひめ、芸者】それかしか家に
遊ひて酒のみ戯れ居たりし時震出し家潰れて材木の下になり挟れて
出る事ならす息子と其近隣の人駈付けて鋸にて木を伐(キリ)助け出し
たり此家の母と声妓二人は即死せる由《割書:再聞即死せし芸者の|おとくおいまの両人なり》
《割書:池の端茶亭あけぼの話|根津山内茶屋の老夫話》
〇下谷御数寄屋町なる声【聲】妓雛吉といへるは地震に家を失ひはたたつき
なき【たづきなし=生活の手立てがない】まゝに次の日より広【廣】小路に出ておでん《割書:豆腐の|田楽也》燗酒といふ物を售【あきな】
ふ其さま面に紅粉を施し縮緬の衣類同じ半天を着し手巾(テノゴヒ)《割書:ソロバン|シボリ》
【左丁】
を被りみづから商ふ其様の異なる故往来の人立止り賎夫傭夫等一碗
を求め余【餘】計の価【價】をさしをきて惜ます尠しく貨殖【財産を増やすこと】を得たりしか後声
妓のなかまにいやしめられ坐敷へ出る事を止たりこれらは益なきすさひ
なれと毫の序にしるしつ
浅草カヤ町 濱 弥兵衛殿話
〇浅草寺別当代は壮年にて当八月当【當】時に住す奥坐鋪に在りて潰
れし時小性と倶に寂せりとぞ
〇今戸橋畔金波楼玉屋庄吉か家は養父庄八の時七八年前古き家
を根継普請したるにて地震の時揺崩したるもむべなり此時料理人壹
人湯に入りて《割書:客を入る|湯なり》居たりしか潰家の下に成りて死す其上此家の勝
【右丁】
手許より火起り後炎にて災近隣に及せり《割書:先代庄八の実子当庄吉か先妻|秋の第三弦弾清元権平田町数》
《割書:の内とよへる新道に住居たりしか其妻と男子|妻の母三人共に家潰て死す権平は存命なり》
三河町四丁目裏町 清元佐登美太夫話
〇醤油御用達石渡庄助若年の頃酒色に沈り【ふけり】終に家産を破り浄瑠
璃語となり清元慶寿【壽】太夫といふ又国芳に浮世絵【繪】を学ひて哥川芳勝
と云山の宿《割書:藪の|うち》九品寺の側に住しが家潰れて死す妻は残れり替りた
る話にもあらねと知る人故こゝに記す
加藤岩十郎殿話
〇本所石原外手町続【續】 寺の所化【しょけ=僧侶の弟子】弱年なりしか僧律【僧の守るべき戒律】を犯し師の
勘当を受て後皈【帰の異体字】俗して浅草堀田原の辺なる俗縁の方に食客たりしか
【左丁】
地震に彼寺潰れ住職も計さる禍に罹り寂を示しける後住たるへきもの
なかりしかは彼の所化何某は一旦の過あり共幼稚より当寺に在りて生長
したれは彼こそ勝るへしとて檀越【だんおつ=施主、檀那】より本寺へ乞て後住たらしめたり
加え先住の遺金八百両を其儘譲受たりとぞ
猿若町三丁目 近江屋ふぢ事栄吉話
〇猿若町俳優の輩其余【餘】この三町怪我少し去冬焼て普請新らしく
して潰家尠きか故しかりしなるへし芝居三座も潰れすして焼たる
由也《割書:三座の跡梁はかり|焼のこりてありし》
〇猿若町二丁目 鱗(ウロコ)といへる酒屋のあるし并に召仕死したり外に怪我人
は無之よしなり
【右丁】
田原町 荒川謙吾殿話
〇浅草寺の大工棟梁鈴木橘麿浅草田原町に住す地震の時土蔵潰れ
奥座敷に寐たりし娵【よめ】と十三才七才の子供三人死す
文鳳堂山城屋忠兵衛話
〇浅草駒形町川岸川増といへる料理屋《割書:麁糲の調理なれと価【價】の|賎しきをもて行はる》【麁糲(それい)=玄米】は地震
の時も未残りし客ありしか召仕の者入口の戸をしめたり是に客の
食料【食費】を与へすして去らん事を恐れてしかせるなりと然るに家頽
て多くの怪我人ありしとなん《割書:此家よりも火起り|たる由噂せり》
根岸 勝田三左衛門殿話
〇三日の朝山谷浅草町に鶴一羽死して落たるを見出て御鳥見
【左丁】
方へ届しかは即時見分ありて引取られし由これは地震に駭て飛出
て斃【たおれ】たる物なるへし
村田平右衛門殿話
〇浅草平右衛門町河岸に若よしや権七のといふ船宿の家潰れたり是
は俗諺に太神楽と称へて二階と下との柱を継たる家にてありし
か下の方は全く二階のみ潰れ屋根は其侭落下りて常ざまの平家と
成たり人々竒【「奇」の俗字】とす
〇御蔵前の札差坂倉屋林右衛門隠居して本所御船藏前町に住居し
て在けるか其家潰れて妻子死す
神田平永町 久保啓蔵殿話
【右丁】
〇下谷御数竒屋町に住る瞽者何かし療治に行し先の家崩れ辛ふして
壁を破りて家に走帰りしに己か家《割書:裏|屋》も又潰れたり妻子其下に在りて噢ふ【「のどよふ」=弱弱しい聲を立てる】を
直に踊入て材木を刎【はね】のけ助出し一同山下の御救小屋へ入強勇の働とて
人皆駭く
三河町四丁目 近江屋伊兵衛話
〇下谷北大門町広【廣】小路合羽屋長右衛門宅潰れ丁稚二人大なる箱火鉢
の際にくゞまり居て其上に根太かけといふ物倒れかゝりこれは彼火鉢
に受たる故二人ともに恙なし《割書:此たぐひあ|またあり》【原文は「たくび」とあるが、濁点を打つ位置の誤り】
数寄屋町 山田屋八右衛門話
〇幇簡鯉升《割書:始は咄|家なり》花街に住ますして浅草寺の地中借家して栖けるか
【左丁】
地震の夜廓にありて横死【おうし=思いがけない死】す常に小(チイ)さき葛籠(ツヾラ)一ツをさして母に示して若【もし】
留守中火事あらは雑具は弃【すてる。「棄」の古字】るとも此一品を携出さは活計【かつけい=生計】を失ふに至ら
しといひけるか地震のとき其教に随ひ此物一ツを持出たり彼か落命の由を
聞悲歎の中葛籠を開くに中に金七十五両を収たり是を取出して財布の侭
朝夕腰間に纏ふて仮初【かりそめ】にも側に措【お】く事なく其娵【よめ】《割書:鯉升|の妻》何かし云御身
年老てかゝる物を携へて日毎に路頭を行返置給はゝ人目にもかゝり不慮
の禍を引出さんも量りかたし他行の時は必すわらはに預て給へしかな
し給はゝ家に居てもしはらくも身を放たすして守るへしといふけにも
とて望の如く彼婦に預けて他へ趣しに姑の留守に金五両と一通を
残し七十両を携へつゝ亡命せり彼五両は幼き娘の養育の料にとて残し
【右丁】
つるよし書載せたり衆人その隠慝を憎む事甚しとそ
〇小梅瓦町なる料理茶や小倉庵はやり出しける頃の料理人に篤実の
者あり此者の骨折より商売【賣】取続【續】追年【ついねん=年を追って】蕃昌に及けれは親戚の列になして
あしらひ向側に塩干肴の肆を開きて住しめける由地震の時小倉庵潰
たれと資財は大方に取出して舟に積乗せて持出しけるか此家より火出た
りかの塩物屋も潰れて屋根に敝れ出る事ならす助けくれよと号【號=さけ】ひし
を小倉庵はおのれか家の事にかゝつらひて助け得さする事なかりし
ゆゑ彼家あるじ妻子召仕ともに四人没す世間不仁を悪むと
勝田次郎助殿話
〇寺島村蓮花寺本堂地震にて大破に及たれと世の常にかはり楹【はしら】の
【左丁】
類その侭にありて屋根計りいさりたりよりて堂守其余【餘】怪家【怪我とあるところ】なかりし
勝田三左衛門殿話
〇俳優岩井久米三郎か弟子何某か妻懐妊して臨月也しか浅草田圃
六郷侯の門前迄落のひし時俄に虫気付【産気づく】たり六郷家藩中の人憐
みて盈を貸与へこゝにて生しめたり安〳〵と産落したれと産湯等
の設けあるへきやうもあらす衣類一ツを脱て赤子を拭ひ自らかき
抱て去しとそ
近隣の噂聞くに随ひ其実を糺して左に記す
〇神田岩本町向武士地に住る橋本検校家潰れ身は平家に居て無事なり
しかど家内六人死す〇神田冨山町壱丁目小谷検校家は災後の仮建
【右丁】
成しか土蔵潰れて幼稚の娘一人死〇神田冨山町坊正飯塚市蔵
か家は土蔵のみ覆り隣家紺屋町二丁目代地家主平吉か家に倒れ
かゝり彼家潰れて其夫婦即死す《割書:この時夫婦いさかひ|したる時のよし》居合したる近隣
の女子はとく逃のびて全し〇神田鍛冶町壱丁目家主位牌屋兵助
見せ土蔵崩たり老たる父は二階に寐て無難也下に臥たりし兵助
の母と娘一人召仕壱人厄介【江戸時代、家長の傍系親族の、扶養されている者をいう】二人都合五人死す《割書:各々壁に|埋りたる也》〇十月末
のころ神田鍛冶町の街を通りてあらぬ事を詈りて狂ひ行婦人あ
りこれは地震の時家族に後れて狂を発したるものなるへし此属
猶多かりしとそ
〇神田九軒町代地に忠蔵とて少の金を貸し其足を得て暮す者あり
【左丁】
当月中災に罹りて家を失ひ庫の内に住けるか地震の時家内七
人は庫の下に臥して女弐人は二階に臥したりしか此庫潰れて
後土中より掘出して更に恙なし《割書:材木は左右の礎に支へたれは|身の内へ当らさりしとなり》
〇外神田なる永冨町三丁目代地料理人何某世渡の事にて近在へ
雇れ出たる跡にて其母と娘留守してありしか地震の時母はかけ
出し《割書:表店|なり》しか此時家潰れ圧【壓】に打れて即死す娘《割書:十三才》逃後れ
て家の内になりしか梁間にはさまれて恙なくて出たり
〇小柳町の坊正岡村氏土蔵に在りて地震の時階子踊りて常ざま
に下りる事能はされは二段目の頃より飛下りしかさせる怪我なし
おのれか土蔵の階子も思ひ之外な所へ刎飛したり
【右丁】
〇神田明神の御 告(ツケ)ありしといふ事専ら人口に鱠(クワイ)【鱠=膾 どちらも「なます」の意】炙(シヤ)す地震火事
の時神田はやかぬ〳〵といふて通りしものあり其余【餘】色々の噂あれ
と後日にしるし加へし
〇薬研堀埋立地住外科名倉弥次兵衛か許へ療治を乞に来る
怪我人始の程は一日に四百人或は五百人門前釣台【臺】【つりだい=物品を載せてかついで運ぶ道具】と駕籠との
市をなせり其余【餘】外科の家々功【「巧」とあるところ】拙を撰ます皆療治を受るもの日
毎に多かりし
加藤岩十郎殿筆記中
〇赤城下に住る常盤津続【續】瀬太夫といふ浄瑠璃語同し辺成宮
太夫といへる者と倶に客に伴れて花街に趣けりしかるに其席
【左丁】
につらなる事何となくたへかたけれは強(アナガチ)に席を辞して家に帰
らんとして大門を出る頃俄に揺り出しけれは急て家に帰りて
無事也其席にありし人々は皆潰れて死しけるとそ《割書:是は久喜万|字屋の息子》
《割書:勘当のゆりし喜びにとて今夜|酒宴を催しける時の事なりともいふ》
〇牛込築土酒店三河屋某か娘弐人あり二日の夜見世の方にて召
仕の者にや将棋【「棊」は「棋」に同じ】をさして居るを見てありしか最早亥の刻にも
なりしかは将棋を見すして疾くいねよと母なるものに叱られ
て其侭臥戸に入けるか程なく地震し土蔵鉢巻【土蔵の軒下で横に一段厚く細長く土を塗ったところ】といふ物落て屋
上を破り二人か上へ落かゝりて即死す
〇市ヶ谷の定火消屋敷同心三津間氏なる者《割書:十八|九才》地震の日火見の当番
【右丁】
にて同僚三人にて結たるか地震に恐怖して二人はうろたへ下り
たり三津間氏は残り止り火事毎に太鼓を打て方角ヲ呼たり依て
是を賞【ほめ】られ是迄見習勤なりしかあらたに同心に召出され驚きて下
りたるものは御叱り有てしはらく禁固せられけるとそ
〇小川町雉子橋通何某殿長屋を借りて住る水戸山野辺家浪人某
は不断酒ヲ好みしか此時も夫婦とも酔臥したり妻ふと目覚たる
に何やらん床の上重く世間の騒きに怪しく思ひ手をのはして夜
着の上をさくるに此家の天井葭簀【よしず。蔶は竹冠の誤り】にてありしか頭上に覆拭り
たり夫を起しけれは此時覚て考居たるに近隣の人弥【いよいよ】立さわ
きける侭地震なるやと心付天井ヲ破り家根より這出て夫婦
【左丁】
共更に怪我なし
〇川田窪の人小川町何某殿屋敷にて碁を囲みて居たる時家潰て
梁の下に成たりされと物に支へられて存命や然るに其屋鋪の家
来二三人にて梁をかゝけんとするに力及はす往来の者壱人頼み
て上んとすれと叶はす隣家より出火して次第に̪熾(ヤケ)近付に各
当惑し子火近付ぬといふ潰家の下なる男いふ迚【とて】も死へき命な
らは火にあふられんよりは一と思に殺しくれよと頼けれは各是非
なき次第なりさらは叶はぬ迄も今少し掘て見よとて人々脇差
ヲ秡【「抜」の意】屋根の上より穿ちけるに下なる者の手足に当たるをきらひ【はばかること】
なく穿ち白刃の先数ヶ所当りけれと辛ふして助出たりとなむ
【右丁】
内海甚右衛門殿話
〇谷中三崎法住寺《割書:新幡随院|といふ》門番の家《割書:南の方の|表門なり》潰れ門番人は馳出
て即死する族四人は寐入たる侭に死したり是は速に馳付て助る
人あらは四人の内助る事もあるへかりけれと此辺本坊を離るゝ事
遠し門前に武家地もありしかと各惧【おそれ】り且己か家にかゝつらひて
助る人もなかりしなるへし
三河町三丁目
家主伝右衛門話
〇橋本町附木【つけぎ】店に住し者本所辺に素人浄瑠璃の寄せ場とい
へるに大景物といふ物を出す由にて其催主をたのまれ件の器物
類を買調へて荷ひ行ける同道六人ありともに此道に携れる
【左丁】
人なるへし明日こそ初日の興行すへしとてかたらひ居ける
時揺出しけれは逃出して広【廣】場へ出けるか更に足の止るへきにあ
らねは七人手をくみてあなたへまろひこなたへこけ揺止て後に
家に帰らむとせし頃道すから崩たる家の下より男女の泣声にて
助けくれよと叫ふを聞て心苦しく思ひけれと己ともが妻子の安
否も聞かされは心ならす聞流し漸く家路を求て帰りしとなむ
通新石町新八話
〇かゝる怱(サウ)【怱は悤の俗字】劇(ゲキ)【せわしく、忙しいこと】の中にも黠智(カウチ)【悪知恵】の者あり神田仲町壱丁目漆屋惣右衛門
といふもの地震の朝ふと心付俄に催して多くの樽を用意し雇夫
十七八人を連れて本所なる御漆蔵へ趣しにかの地には官吏漆樽の
【右丁】
覆り破壊に及ひ地上に流れたるに驚きたる折なれは惣右衛門
官吏に対して云此漆この侭にして時刻を移しなは地中に流入
て徒に弃【すてる。「棄」の古字】るより他なしよりて人夫を促して多くの樽を買調へ
て参れるまゝ泥上に交らぬ所を取りて樽へ収むへしと云官吏
其速に心付且急卒を(に)馳参りしを喜ひ地上を離れし所を残らす
かの樽の中へすくひ入しめ後又云こゝに泥土にまみれしものは不浄
にして且上品の御用に立かたし此分は骨折の料にゐらん事を乞し
に迎に望に任せられしかは外の樽へ入船に積む事三艘の余【餘】は
家に帰り製し改て二百余【餘】両の所得付たりよって近隣の貧人へ
施を行へしと云
【左丁】
中村善左衛門殿話
〇本郷新町屋 骨董舗(フルダウクヤ)の妻小児を抱き小便をさせて居たりし時地
震ひ出し縁【原文は「椽」だが、糸偏の誤り】側より庭へまろひ堕たりしに豈はからんやこの所
麹室の上にて土裂頽れたる穴へ落入直に打重り母子とも助る事
ならす
飯塚市蔵殿話
〇同町なる木匠金七といふもの地震に懼怖【くふ=恐れる】し妻とゝもに大路へ走
り出たりしかこれも麹室の裂たる所へ落入たゝちに土覆ひ重りて
死したり
〇御茶の水定火消【じょうびけし=江戸市中の消防のことをつかさどった、幕府直属の火消隊】屋鋪の火の見番人地震の時下る事ならす戦慓【すばやく】
【右丁】
してかしこに在りしか傍輩【仲間】あかし跡よりとり来りて先にとりし
ものに向ひて云我は孤独【獨】の身也死すとも心残る事なし汝は妻あり
子あり必彼に心引るへしたゝちに下りて安否を問ふへしと云け
れは其厚意を謝してこれに替れりそれより後夜明迄数度大
小の地震ありけるか臆する事なく次第に所々より出火ありしを
其方角違ふ事なく太鼓を打当たりよつて其信義と勇気を感
して褒賞ありしとそ
岡村庄兵衛殿話【先に左側に「加藤岩十郎殿記事中」と記載せるを線引きして消している】
〇小川町定火消屋敷《割書:当時は火|消御免》同心某は潰家の下に成たり息子二人材木
をかゝけて助けんとして骨折けるか屋敷の内より火出て次第に近づき
【左丁】
けん弟が鬢髪に燃付しかば父か云今は我運命も尽果たり強ちに我
を援んとして汝等か身を誤らんは無益の事也必しも父を捨てとく落
のびよといふ兄弟いかんともする事【「叓」は「事」の古字】ならす途方に暮て彳【たたずみ】しを促すに
よりなく〳〵火炎を避て此あたりたちもとをりし内次第に焼募て
はかなくなりぬと此組屋敷与力天野丈右衛門夫婦子供即死し老
母一人残る都而【すべて】此組屋敷にて死亡凡五十人に余【餘】れりといふ
田上定五郎殿話
〇福山侯にみやつかへしける少女の内町人某か娘二日の昼兼て
好る所の振袖の衣類を調へその親自身に携へ参りて与へけれ
は彼喜ひておさめつ扨其夜の地震にあひて逃出る事ならす
【右丁】
高き所より飛けるか材木にふれて両眼飛出て死しけるとそ
翌日其親此事をきゝてたへ入る計り歎しとなむ
雲隺堂主人話
〇尾張町に小間物の類を武家へ商ふてなりはいとせる蓬莱半
二郎といへる者あり地震の時土蔵潰れたるが息子半次【ママ】郎とて十八
才になれる者壁の下になりたるが如何してかいさゝかのくつろきあ
りて少く息は通ふ様なれと身体働く事ならす日頃信する不動
尊を一心に念して仰願くは我一命を助けしめ給へ命助らは速
に剃髪し三十に余【餘】る迄は妻を倶せじと誓ひしか程へて近隣の
者集ひて土を分けて漸くに援出して息才也しかは神威を尊み父
【左丁】
母にも其事を告て互に喜ひあひしか速に剃髪すへきの誓を忘
れて其侭にありしに俄に狂を発したり母驚ひて【「驚きて」或は「驚いて」とあるところ】ふたゝひ不動尊を祈
り強にとらへて頭を剃りしかは翌日より正気になりたりとそ
《割書: |佐平次養子》
《割書:御鉄炮師》 冨岡佐太郎殿話
〇品川二番の御台【臺】場にて活残りし人の話に此時地震とは思ひよ
らす亜墨利加の賊不意に大炮を発つて襲ひ来りしと思ひ急遽
周章【しゅうしょう=うろたえさわぐ】して海中へ飛ひ入り溺たる儔【ともがら】もありし由なり
久保啓蔵殿話
〇西の久保某侯の臣娘を本所辺なる商家へ嫁せしめたりしか夫并舅
ともに大酒を酔ふ度毎に人といさかひ夫も妻へ対【對】し色々の難題を
【右丁】
いひかけはては打擲【ちょうちゃく=人をぶつ、なぐる】に及ふ事数度也姑も又 跋扈(パハコ)【思うままにのさばること】にして住うかり
しかは窃【竊】に実家へ逃て帰らんとしけるを見咎られて厳しく折檻に
あひ夫より後は替る〳〵守り居て聊のひまなしやゝ日数暦【かぞえ】て少し
く怠あるを看て日たへる頃逃れ出たり追手もや来るへし迚こ小舟を
かりて漸くに里方に帰り夫より他家に忍ひ隠れて居り里方にて
も心待して昼夜安き心なかりしか如何してか来らすしかるに一両日
を過て地震ありその嫁したる家潰れて挙家【きょか=一家全体】死したる由聞えしか
は一家こぞりて悦ひける由是は普通の人情是非なけれと其妻も又
倶に地震大明神鯰大権現といひて喜ひあひけるはいと悪むへく
こそ
【左丁】
深川潜蔵殿話
〇本所松坂町二丁目の内土俗【どぞく=その土地の風俗習慣】上野屋敷《割書:吉良上野殿屋鋪跡也|又誤て師直やしきとも云》と唱ふる長
屋潰れ同時に二十七人即死せり
堀内霊堂殿話
〇本所御船蔵前町酒屋某家潰れ直に焼て七人程死す《割書:家内残る|ものなし》
此あたりは此外にも一家皆忘ひ【「亡び」の誤りカ】失たるかありし由なり此町は二ヶ所
程火出たるか故己〳〵か家にかゝつらひて他人を助るの暇なし都て【すべて】
家潰れし上に火起りたる所は怪我人多し
長岡町茶店婦人話
〇或武家の家の家来三人本所長岡町菓屋といへる貨食舗の二階に酒呑
【右丁】
み居たりしに地震の時家内の者皆逃出し二階の三人は酩酊の侭
前後を知らす程なく家潰れしかは助てくれよといふ声をきゝて近隣
の者打寄り漸二人をは助け出しけるか壱人は死しけるとそ
深川元儁子話
〇深川常盤町に貨物両替をなりはひとせる大黒屋某近き頃より蕃昌
して呉服類の店をしつらへ十月二日見世開をなし代物【商品】多く仕込たり
しか此夜震災の殃【わざわい】にかゝりて家蔵并に商売【賣】の品物まて残らす焼失
たり
〇杉田成郷といへる人山伏井戸に栖り蔵板【=蔵版=書物の版木や紙型を所蔵してること。またそれで刷った本。】の書類を售【あきな】ひて世を送
る人なりしか地震の少し前下谷へ移り板木家財残らす焼て一物
【左丁】
も残る所なしと
〇馬喰町旅舎何某か家に鹿島の御師某泊り居たり時地震ありしか彼
中風といふ病にて歩行なりかたし家内皆走り出けれとも止事なく
て布団の上に坐したりしか頓て揺止て恙なしいかゝいひふらしけむ
さすかに鹿島の御師なれは彼神の守らせ給ふて事なかりしといふ
噂一般になりて頻に神符を乞しかは「ゆるくともよもやぬけしの
要石云々の哥を書て与へしかは求る人次第に増りけるとそしかるにこ
れにつかはるゝ手代某此夜花街に趣きて酒に酔地震の時潰家にあ
りて如何してか溝の中へまろひ落幸にして四肢を全ふして帰りし
かは是を神の守らせ給ふ所とて弥【いよいよ】信を増けるとそ
【右丁】
〇本所緑町坊正関岡平内《割書:七十余(餘)にして|身体不随》地震間もなく家潰て下に成
速に焼て死たり此家に在りし恵心僧都作弥陀仏【佛】像福冨の草紙原本
等も焼たりと聞ゆ
〇深川元町同佐藤忠右衛門家潰れて梁に打れ土中に埋る其子虎
次郎他に行て地震に驚き家に帰り潰家の下を捜り土中を穿
て辛ふして僕とともに引出しけるか死人の如し在合ふ戸板に乗
せて海辺新田なる年寄与右衛門か許へいさなひて介抱す其時子供
をも助け出したり其妻と末子一人門の倒るゝにあひて即死せ
り其後火に逢ひ鎮りて後あやしの小屋をしつらへてこゝに住し
父をはしるへ【しるべ=知り合い】の方にあつけて療治を加へしに些【すこ】しく快気に趣ける
【左丁】
より虎次郎は劇職【忙しい職務】の暇陰霽【いんせい=くもりと晴れ】を厭はす日々遠きより怠らす
通ひて療養其外厚く心を用ひていたはりしかは官府に召れ
て御褒美あり銀子をも賜りたり
〇深川黒江町の坊正【ボウセイ…「坊」はまちの一区域をいい坊正或は坊長というは街の長のこと。】 齋藤助之丞其家潰れ妻は懐胎して臨月
にてありしか圧【壓】に打れて即死す母も倶に打れて三日程煩
らひて死す
〇深川平野町坊正平野甚四郎か手代三人とも家潰るゝにあひて
即死したり
〇本郷四丁目の坊正塚谷又右衛門地震の時寐て知らす家族に強く
揺り起されて漸く目覚てあたりを見るに家傾き壁破れたるを
【右丁】
もて地震ありし事を知るしかれとも白石か折焼【焚の誤りカ】柴の記に載
たりし元禄の地震よりはよはくそあるへしといひなからふたゝひ
寐たりしか揺却【ゆりかえ】しのありし時地震〳〵といふて起しけれは自身
〳〵と聞ちかへ何用かは知らねと代にては済【濟】まぬかといふて又臥た
り《割書:廉士にして常に畸行ある人也|然れ共此談些しく又飾あるへし》【「廉士」=いさぎよい人。「畸行」=変な行い】
〇下谷茅町坊正清水佐平次家潰母と姉を失ふ此辺一円【圓】に崩れて焼たり
〇本所林町坊正大高六右衛門家潰れたり則其身も潰家より逃出又
母子をも助け出せり此時近辺火になりて危かりしか火災はのかれ
ぬ其家潰れたれと二階より下の柱は折れ二階は屋根あるまゝに
地上に落てさなから始より作りし平家に似たりよつて此二階を
【左丁】
仮の寓居とす世間此類もありとそ
高部久右衛門殿話
〇深川 椀蔵(ワグラ)に住し呉服師槙田某二日の夜同僚《割書:御用達|仲間也》の寄
合にとて出て家にあらさりしか地震の時驚て僕をして先
へ走らしけるかはや家潰たり家族皆家の下に籠りて出る事
ならす僕一人していかんともする事ならす隣家なる医師某
か弟子を頼み又其家の婢(ハシタメ)使先より帰り来りけるまゝ三人し
て倒たる家の梁桁の類をかゝげて主人の妻子其余【餘】を助ん
としける其下に手代某の声ありて幼き息子は己が抱きまらせ【「まゐらせ」の転】た
り早く巨材を除きて助候へと呼はりけれは心得つと答へて力に任
【右丁】
して押上んとする頃火盛に燃募り《割書:其家より|出し由也》其身に迫りしかは手を
離して川へ飛入て逃去しが其間に一家の男女并に親族の方より
逼るに来りし少女二人都合十四人同時に亡ひ失けるとそ無慙にも
猶余【餘】りあり
此余【餘】同轍の談甚多し彼は速に走りて後に家潰て其【行の少し右に小さく書き足した感じ】身助り是
は狼狽して逃出たるゆへ庇崩れ瓦壁土等落て頭上に当り即
死し或は逃後れて家に在り圧【壓】にうたれんとして物に遮ら
れ無難なるあり逃足速くして重き疵をかうむるあり皆毛髪
をいるゝの間にして死生存亡を異にす此節本所深川の辺巻【「巷」の誤りカ】
に怪我人多し
【左丁】
鑓屋町津の国【國】や話
〇芝の日蔭町に轎(カゴ)を雇ふてこれにのり通りかゝりしもの狭き
小路の家倒るゝにあひて轎夫【きょうふ=かごかき】もともに死したりと《割書:此説未虚実|を知らす》
益田弥兵衛殿話
〇桜田伏見町料理茶屋清水楼は去年家を修復し平家の方はあ
らたに建添【建て加える】たることありし由也然るに家覆り平家の新らしき
方更に潰れ此所に居たりし亭主一人即死す
三河屋利助話
〇猿江東町に本両替町箱根屋の別荘あり庭に在し高一丈余【餘】
の小山地中へ凹み入たり
【右丁】
明田藤右衛門殿話
〇上杉侯の臣《割書:留守|居》栃【杤:栃の異体字】山某の婢出入せる表具師某通せり地
震の時彼婢表具屋に対【對】して助け呉れよと云此男勝手もと
の格子を破り女を助け先へ出しやりおのれも続【續】て逃出ん
とせし時家潰れて即死す
水道橋外茶店老夫話
〇日本橋の畔に住る人地震の時小川町を通りかゝりしに籏
本某の家中長屋潰れたる中に女の声して助けくれよと
いふ止事を得すしてこゝにいたり壁を穿て手をとりて引出
さんとしたるに両足はさまりて出す色々としけれと愜(カナ)はす
【左丁】
其内火炎̪熾【さかん】に起り己か身に迫らんとすよつてなく〳〵其い
だける小児を受取主人と夫の姓名を問ひ聞て家に帰り火鎮
りて後小児をいたきて送りかへしけるとなん
古沢【澤】故十郎殿話
〇八代洲河岸定火消屋敷火之見屋根計ふるひ落たり時火之
見番二人もまろび落て存命す一人は腰を打一人は怪我な
し太鼓も無事なり
文鳳堂話
〇亜墨利加へ渡りし中浜【濱】万【萬】次郎【ジョン万次郎】は本所江川侯の屋敷内に住
たりしか家潰れけり自ら天井を突破りて夫婦とも無事なり
【右丁】
小田屋八右衛門話
〇或武家方の中間部屋潰たり数寄屋町辺より日毎に此屋敷へ
售【あきな】ひ物を運ふ丁稚あり此時も居合して潰家の下に成しか辛ふして
のかれ出たり此時中間壱人材木に圧【壓】れて出る事ならす外に人
もなかりしかはかの丁稚安〳〵と是を上けて助たり彼丁稚か
微力に愜【かな】ふへき材木なれはさしもの巨材にはあらさるへけれと
大の男といへとも手足自在を獲【え】されは這出る事【「叓」は「事」の古字】さへ叶はぬもの
と見えたり其後かの丁稚を命の親とて厚く謝し鳥目【ちょうもく=銭また一般に金銭の異称。江戸時代までの銭貨は円形方孔のもので、鳥の目に似ているところからの名称。】二百孔【二百文のこと。百文の銭を紐に通したもの二本】を
与へたり傍輩の親にしては謝儀【謝礼】甚薄し今少し収たれよ【「れ」の右下に小さく記す】といふよ
つて丁稚尚二百孔を乞しかは望のまゝに与へたるよし四百孔の
【左丁】
銭を以命買得たりとて笑ひぬ
長岡町茶店婦人話
〇本所南割下水典薬頭今大路右近殿地震に家悉く潰れ主人
内室娘并家来皆死したり残りしは少年の息子と若党【黨】壱人の
みと云々
〇町方同心《割書:南御組》岡本角助《割書:三十|余才》十年程以前御前手の組へ入本郷の
辺に住す御馬預り諏訪部紋九郎殿と懇意にて二日の夜も其家に
趣き対【對】話してありし時潰れて主君とゝもに即死したりと聞り《割書:御息|女女》
《割書:中中間外に壱人合六人程巨材|にひしかれたりし由なり》
【右丁】
〇四谷の辺に住る信州辺の産何かしは地震の時たゝちに大路へ
走り出たりしか在り合し斧を持て欠【「駆」とあるところ】出しかいかなる故か深川の
ほとりに行こゝかしこあるきしに家潰れて其下に泣きさけひけ
るものあり相応【應】の冨家と見へけれは我この斧を以て汝を助得さ
すへし汝所得の金あらは五十両を得さすへしといふかの者答て望
の通り与ふへき間速に助くれよといひけれはたゝちに斧をもて
材木を薙て助得させたり則約束の通り財布を探出して与【與】へ
しを持帰り改しに内に七十金あり廿両余【餘】計なりとて翌日かへし
与へしとそ又このあたりに嗚呼(オコ)【原文の「嗚」の字、旁が「鳥」になっているのは誤り】の者ありこの噂を聞て翌日金儲け
すへしとてそここゝ尋あるき幼子の泣く声聞て潰家の下より
【左丁】
助け出由しかしるへ【しるべ=知り合い】の人も居らす事問ふへき方もあらされはせんす
へなくて其日は家に抱きかへり次の日行て父母を尋しに皆死失たりと
聞て拠【よんどころ】なく昼夜幼子類もりして過しけるとそ
〇下谷紅葉番所の際に住る浪人桜任蔵いかなる故にや去る方より
水府【水戸蕃の別名】侯の臣藤田誠之進へ送るへき金子を預りしか地震の時藤田
氏一家亡ひぬと聞て贈るへき方なく近隣の貧人へ頒ち与へたり此
よし御舘へ聞えて尚金子と米穀をさへ賜りしかは再貧人へ恵むへ
きよし願ひけるとそ
〇越中侯の臣内藤忠二郎家冨たり町方住居を願て深川清住町
万年橋の側に居せり壮麗たる家作りなれと此辺【邉】振動烈しくし
【右丁】
て壁土震ひ落家顛倒したり其家の娘并に或御籏本某より貰受
たる養女とゝもに土に埋れ材木に挟れて出る事ならす常に出入
せる大工鳶のものかけ付来りしかは大鋸をもて巨財【「材」の誤りカ】を引切て家の
娘は漸くに援出したり養女は壁土に埋れ泣居たりしか家の娘を助
るに暇とりて後になりたれはかの土次第に重り息を止め終に空しく
成しとぞ
堀内雪堂殿話
〇本所御船蔵前町酒屋某家潰れ直に焼て七人程死す《割書:家内残る|者なく》此
あたりは此外にも一家皆亡失たるかありし由なりこの町は二箇所程
火出たるか故己〳〵か家にかゝつらひて他人を助るの暇なし都て【すべて】家
【左丁】
潰れし上に火の起たる所は怪我人多し
【この話はコマ117にも出ていて話者が堀内「雪堂」でなく「霊堂」となっている】
本所長岡町茶店婦人話
〇本所南割水典薬頭今大路右近殿地震に家悉く潰れ主人内室娘
并家来皆死したり残りし者少年の息子と若党【黨】壱人のみと
【この話コマ123左頁に出ている話と重複】
浅草書替町 森川甚右衛門殿話
〇浅草瓦町瀬戸物屋の裏に錫の器を製する職人何某の家に食
客【いそうろう】となりて居たりし母子は信州某の郡某の村の者也しか弘化以
来彼地度々の地震ありしに恐怖して娘を連て江戸へ来りこの
家を便【「頼」とあるところ】りて宿しけるか二日の夜柴の辺しるへの方へ娘《割書:十六|才》をつれ行
て泊りけるか此夜地震にて其家潰れ娘は材木の間に挟れて逃る事な
【右丁】
らす其内あたりより火起り起りたれと微力の輩いかんともする事ならすし
かるに彼娘迚も助命なくかたき【困難】をかこち【恨み歎き】早く立逃給へといふうち次
第に火熾【さかん】になりたりしか又云親の逃行さまと火勢を見ん事心くる
しけれは面を覆ふて給はれといふまゝ着たる衣類を脱て打かふせ止
事を得す立退しか思そのやるかたなさ母は狂気のことくにて焼鎮
る迄この所を去らす守り居りしと思ふに信州の地震をいとひ江戸に下
り又其地を去て一夜こゝにと泊りしこの禍にあひしも宿業のいたす所か
〇浅草三間町のあたりにもやあるらん裏屋を借りて住けるもの常に浅
草寺なる観世音を信仰しける居宅にも同寺の守札【原文の字は「礼」】を箱に入て柱に
かけ置しか此夜家潰れ巨材落懸りし時あるしのいね【横になって眠る】たるかたはら
【左丁】
に彼札箱も落たりしか堅さま【「方様」カ。その方向、その向き。】になりて材木をさゝへしかは不思議
に命助りしはまたく【まったく=確かに】観世音の利益なるへしといひあへりとそ
〇同し辺なる木匠何某朋友にいさなわれて此夜花街に遊ひしか
地震に家潰れし時辛うしてともに助りたれと忙【「茫」の誤りカ】然として坐した
るまゝ人事を知らす朋友手を引て破壊の材木を溝に架【かけわた】して
渡りつゝともなひ帰りしかそれより後は放心して家職の事もう
ちわすれ痴々獃々【痴も獃(ガイ)もともに「おろか」の意】としてする事なく世渡りのたつき【たづき=手がかり、手段】を失ひけるよし
かゝるたくひも又あるへしとそ
宮薗栄吉話
〇本所辺の人三人連立て九月晦日の頃谷中の辺へ所用ありて趣きける
【右丁】
かへるさ【帰り道】上野の山を通て清水のあたりなる茶店にやすらひ紅葉を看
て
極楽に似たる上野のもみち見は右も左も/くわう(香泉)【「くわう」の左にも「黄泉」の記載あり】せんの客
かく口すさみけるか十月二日の地震に家潰れ三人ともにあへなく
亡ひけるとか 此談虚実イカヾアラム
浅草奥山料理茶や 新昇亭五郎兵衛話
〇二日の夜は所々に婚姻ありけるよしその内浅草田町なる武蔵野
といへる貨食舗の娘 は容貌端正の聞へあり山王神田祭礼の時
邌子【れいし=練り行く子】にも出て人にも知られたりしか檜物町なる江戸第一の料理や
島村某《割書:即席の調理にあらす兼日より|約し置て調ふ家なり》の息子ゟ所望し衣粧調度の料に
【左丁】
とて百金を贈り婚儀を取結ひこの夜呼迎へて漸盃の濟ける時俄
に揺出しけるまゝ合家【ごうか=家中】大路へ逃退ける男は麻上下女はかゐとり【打掛小袖】の侭にて
野宿しけるか幸にこの家は潰れず田町なる里方の家は娘の駕を出しやり
て後雑煮餅をふるまはんとて調理なかはなりし頃揺出しけれは居合
せし親戚知己一家の男女も皆大路へ退出つゝ怪我もなかりしかと家は頓【とみ】
に潰たり竃のもちにうつふしに成て助りしもの一人あり右の五郎兵衛も新
門の辰五郎《割書:奥山に茶店をひらけり人の|知りたる侠客なり》と倶に此席に排り居て幸にのかれ出
しか田町の通り一円【圓】に潰大路は潰家に塞り其上火起りしかは家の下にな
りて男女の泣さけふを聞助たくは思ひ【「へ」とあるところ】とも其身すらあゆむ事なりかた
かりけれは辛ふして潰家の上を這ふておのが家へ帰り着ぬるよしなり
【右丁】
かゝる話はいくらもありて無益の談なれと新昇亭か度々はなしける
まゝこゝにかへぬ
楓園相模屋善四郎話
〇牛込神楽坂下牡丹屋敷角瀬戸物屋何某方位に委しき人を
よひて宅相を鑒【鑑】定せしめて家を営みしか此地震にあひて家
藏破失し其身家族とも失ひしとそ
〇受地村植木屋平作は頗冨家也盗賊を恐れて入口は更なり居間
のあたり其外栓をはめて堅くさし容易に戸扉の明【「開」とあるところ】かぬ様にしつ
らへ置たりしか地震の夜家居動揺する故弥〆り【いよいよしまり】かたくなりて俄に
明【「開」とあるところ】る事ならす其内家作潰れて即死せる由
【左丁】
〇南鞘町大工棟梁何某石をたゝみし庫を持しか地しんの時
上の石は【「わ」の誤り】づかに壱枚落ちたりしかあるしの脊にあたりて即
死せり
〇熊野牛王所覚泉院は下谷御数寄屋町に住す地震に家悉く
潰れてあるじ夫婦養母小児二人下女壱人合六人家の下に成り
苦しみしか家婢かね《割書:上総の国|天羽郡産》といふておのれも差鴨居といふも
のに挟れしを強に引抜て這出し主人を呼ふにかれ〳〵【「カレガレ」=絶え絶え】 に答
ふるを聞て悲歎にたえす瓦屋根のぢといふ物のおそ【うすいところ】取除た
れと微力の及ふべきにあらすされは泣声発して主人の命助け
くれよと呼はりあるき近隣の輩を頼み辛ふして材木をかゝけ
【右丁】
衣服を脱せて援け出したりあるじは重き疵をかふむり其外
も各疵をかうむりたれとも皆存命なり其餘は家に仕へて誠忠
の事とも公儀へ聞えしかは十二月下旬官府へ召れてかねへは褒
美あり銀子十五枚賜りたり
〇右之縁者新黒門町角小倉蕎麦之あるじ喜兵衛といへるも土蔵
の鬼瓦頭上に落ちて即死せりと聞ゆ
田中平四郎殿話
日々窪なる毛利侯の茶道古川唯信諸技にわたりて多能の人
なり主君の寵を得たりしか同僚の偏執により住うかりし【住みづらい】 かは致
仕【「チシ」=官職を辞する】して後 是空(セクウ)と号し品川東海寺 の境内に寓し又市中にも住居
【左丁】
しけるか此頃浅草寺奥山人麿祠の傍に在りける故人西村藐庵
か三回の祥忌なれは柯茶糲飯(カサレイハン)をもて知る人を饗するよ し聞つ
此日誘引人ありしかと大風扇しかは行すして止ぬこの人売茶翁
高遊外の昔に慣ひてまこと一服一銭を肇むへきの催もある由
聞り
〇十一月両国橋あらたに掛替の御普請成就す同廿三日より貴賤の往
来を免さる此日 官府よりの御沙汰として長寿の者をして渡り
始をなさしめらる南萱場町家持酒屋小西惣兵衛か父母此撰に
あつかり其身妻并息子惣兵衛夫婦孫三蔵夫婦三夫婦渡り初を
なす都下の衆人東西の崕に駢闐して是を見物す《割書:小西惣右衛門| 八十四 妻》
【右丁】
六十八 男 惣兵衛 四十五 妻 四十五 孫
三 蔵 二十六 妻 二十三
〇立州桑田氏地震前知の記とて一葉を贈られ厥記に云《割書:ナチユルレーキ|テドキリフト 此》
《割書:書中に|見えたり》磁石は地震を前知するの一法となる紀元千八百五十三年の史に
此法を記載せり疾風大雨の如きは晴雨儀を以て前知する事を得る
といへとも地震を知るに至るは今日に至る迄いまた世に明なる事な
し「ラツチメントン《割書:人|名》フランス国の使として共和国アンケントンテンス《割書:地|名》に
至りし時パリース《割書:フランス大|都府の名》の学校ヨリ地震を知るの発明の一法を伝送
せしなり其法は鉄の小片を磁石に附着せしむる物にして他物を
用ふるにあらす地震前には磁石鉄に親和するの力暫時の間消滅
【左丁】
す故に附着せる鉄心落つ是を地震の前兆とす〇ラツケメントンロアン
ケンテン《割書:地|名》の術と學とに精進せる主将アレキユイパ《割書:地|名》に多年寓居あり
し間磁石に其切のある事を屡試験し是を確定せりアレキユイパは
地震極て多き地なれと此一大発明「パリース」学校を待て始て世に
知れりと思ふ事なかれ「アレキテリテート」と「マクネチニミユス」との新知
の理既に時なるに因て学問の道に於ても微々の論なきにあらす
而して「ヱレキ」の力は地震に固より障碍を受る事其既に世に知る所
なり〇鉄の小片《割書:釘の|類》を磁石に付ケ家の垣に下けて其下に皿にても
何にても音のする器を置之地震には磁石の鉄を吸う力暫時の間消滅
する故鉄必落て器にあたりて音あるを地震の前兆として早く逃
【右丁】
れ避くへしと云々
此桑田氏は深川海邊大工町に住して種痘を弘めたる人なり地震
に家潰れ三才の娘を失へり
〇田中氏の話に去年十一月四日地震の日相州鎌倉の人武州六浦の杉田
へ處用ありて趣く時金沢能見堂のこなた関といへる所を通し時樹
木の梢より韓【「幹」に同じ】の間へかけ俄に動揺しける地上はさしもの事にあら
さりしか程なく大風の扇来る如き物音ありて鳥雲頭上に敝ひかゝり
けれは心もとなくあゆみつゝ頓て此所を過行しかはあはてゝこの
所を過山を下りてあるか方へいたりし頃はや家々顛倒したるにさ
て大地震ありし事を知りたりとなむされは大地震の時は地下のみ
【左丁】
にあらす地上にて怪異ある事と見えたり
【右丁】
東京図書館長手島氏ノ属託ニ依リ写生ニ命シ
之ヲ謄写セシム于時明治廿一年十二月
関 谷 清 景 誌
【左丁 文字無し】
【白紙】
【裏表紙】
【表紙】
【ラベル(横書き三段)】 831 15
【綴り紐部分最下段】 六
【書名】
朝暾集 六
【朝暾:朝日のこと】
【右丁】
【スタンプ(横書き三段)】 大正 4.2.16 購求
【左丁】
【右端】
江戸来状地震之年
【左端【表題)】
ふしの被風【?】
朝暾誌 地震(ナエ) 朱角印【駿城市■】下
安政二乙卯十月二日地震 【(朱角印)】貴志文庫
駿府え之書状
当月二日夜五半時過ゟ広大の地震して強く震り
江戸町々大半震潰レ【し?】四ツ時少々静かに相成間も無之三
十六ケ所ゟ致出火追々火続々相成近くは丸の内大手
先酒井雅樂頭様御屋敷ゟ出火小川町ゟ出火京橋
大根河岸出火竹河岸南伝馬町二丁目迄不残類失
霊厳嶋ゟ出火大川端通不残出火致し本所深川辺
不残出火いたし千住小塚原ゟ出火不残類失新吉原
町四方ゟ出火浅草田町辺出火不残類焼猿若町
一二三丁目馬道辺聖天町山の宿花川戸橋場
辺より出火 京橋銀座丁出火此内にて地震に震潰
出火故死人吉原町にて凡客女郎共三千七百人之余
【(上部朱角印)】
帝国図書館蔵
与【と】沙汰御座候向島小梅本所業平橋辺九分通死人
小塚原にては九分通死人本所深川死人何程と申数
不分大名御旗本之内にて不残死去之者七分通物持は
土蔵震潰たるうへに当表江戸中一円之大変四
里四方之間寺々葬式之死人軽き寺には十七八人多
き寺にては五十人六十人に及候由其外焼場死人積置
番付にて火葬致し新吉原にては火葬之手当も分ケ
難く一所に四十人三十人宛死人を積上【文意的には「積み上げ」でしょうが「三=み」に見えます】焼残し木ヲ以
十ケ所弐拾か所死人を自身火葬に致候よし小塚原
にては死人車に積上【「三=み」左隣の「上」と書き風が違っていると思います。】何方共なく寺へ運ひ候由山の
手四ツ谷辺水道湧上り大【土】穴明き其穴へ落入死人数
不知候由江戸町々近在震不潰所も無く誠に修羅の
街与存候 親は子を尋子は親を尋る主は家来を
尋さわき眼も当られぬこと【?】【「様々」にも見えます。】紙筆に難尽御殿
向十八九迄は潰れ御堀石垣諸方崩見附震潰候
所も有之中々愚拙共近所外なみゟ少し軽く御座候
場所本鯉丁室町本小田原町瀬戸物町惣者町
斗り御座候尤土蔵は一ケ所も安泰之所無御座候家々は皆
ひつみ候得共多分之いたみには御座なく死人は当町内
分は壱人も無之隣丁は五人七人宛死人御座候皆土蔵
潰て打れ死候由御座候誠前代未聞之事奉存候唯今
迄野宿いたし居候家々に居候もの壱人も無之次第みな
わらんしをはき逃支度而已いたし居候此混雑中
故下略 安神丁遠州屋新七
但幾日出し候も無之名宛も無之府の町人
方え差越候文通之御座候なり
十月十三日 江戸来状
当表九月二日之夜亥下刻大地震にて御屋敷御住居
向潰は不仕候得共不残大破に相成候乍併世間ゟ小日向近
辺は真に軽き方にて丸潰之所は先少々に御座候乍去大半
半潰同様に御座候
龍慶橋向清水御用人野中鉄太郎様より潰候上出
火にて両人程即死其外潰焼失四五間も御座候其外
諏訪町辺は殊之外潰死人怪我人男女数不知
御勘定奉行水野筑後守様当時石河土佐守様御跡え
御出被成候之處不残潰候て大前従太夫殿少々怪我いたし
四五日野宿いたし居候処御屋敷明き居候住居拝借仕て当分
奉願六日引移り居候間宜敷御仰上被下候様奉願上候
番町麹町辺は格別強無御座候よし四ツ谷御門は崩候よしに御座候
水道吹出候よし青山赤坂辺左而已強無御座候由愛宕下辺
格別強く無之よし乍去土蔵は江戸中不残震崩候由に御座候
大手御門前酒井雅楽頭様潰焼失大手前之角辻番人
不残即死之由森川出羽守様潰焼失其外近辺潰あるいは
焼失男女即死怪我人数不知
辰之口阿部伊勢守様不残潰斗り数寄屋河岸之辺不残
潰候由日比谷御門内本多中務少輔様ゟ潰之上出火にて夫々其外
近辺潰焼失之由山下御門内にて鎮火の由
和田倉御門内松平肥後守様両屋敷潰出火男女即死七分御座候
由其外怪我人数不知夫ゟ松平伊賀守様潰焼失其外近
所不残潰焼失之由男女即死怪我人数不知
小川町辺小出信濃守様丸潰本郷丹後守様潰其上出火女中
二三十人即死与申事夫ゟ火消屋敷十ノ字内藤様迄不残潰
焼失北之方ゟは水道橋土手迄潰焼失怪我人即死数不知
本郷辺格別強く無御座候由
下谷上野町ゟ長者町迄不残潰焼失坂本辺不残潰
焼失之由男女即死怪我人数不知
浅草随身門前ゟ潰出火にて夫ゟ芝居町不残花川戸不残
並木諏訪町御馬屋河岸迄不残潰焼失即死怪我人男女数
不知北は馬屋ゟ吉原迄不残潰焼失尤吉原町 遊女七分
即死之由其外客男女死怪我人数不知
両国向一ツ目辺ゟ三ツ目迄不残潰焼失之由本所深川は其内
にも別て地震強く候由男女死怪我人数不知
未た聢と相分不申候得共先荒増申上候天災とは申なから
扨此度之大変之事に御座候今九日迄飛脚京屋相休候間
今日急使之分差立候由に付早々為御知申上度奉存候右次第故差立
兼候宜被仰上可被下候様奉願候追々申上度早々如此御座候以上
十月九日出ス 菊地平右衛門
若尾藤兵衛様
留守宅破損申越候書付
長屋所々壁ふるい三四寸程かたむき瓦落門 貫(カン)おれ戸障
子動き不申候得共手入仕候は宜哉与存候
玄関も前同様戸不残おれ大破相成候是迚も手入候ハヽ宜敷と奉存候
使者の間も前同様にて壁ふるいかはら少々おち三四寸もひつみ是も
又手入にて宜と奉存候
二階は思ひ之外に御座候壁ふるい余程まかり瓦不残ふるい根太落
候処御座候唐紙一折腰障子おれ是も手入仕候ハヽ住居
出来候様【趣か】と奉存候
二階次之間少々ひつみ壁余ほと大破是又手入不申候にて(には)【(見せ消?)】住居出来兼
茶之間つゝき一棟大破にて所々根太落壁ふるい土台石より七寸程も
西之方えはつれ茶之間も余程まかり申候是は手入もむたと奉存候
私住居かへいつれも不残屋根瓦落東之方え少しまかり其外少破
是も手入仕候ハヽ住居相成可申候
土蔵二ケ所とも大破相成北之土蔵瓦壁不残落申候西の
蔵は余程倒掛申候
西之土蔵は屋根瓦半分おち壁不残ふるい東より余程倒
申候
怪我人即死焼失死人幾萬人と申事と承り申候潰家半潰是又
数しれす所々ゟ出火之内番町浅草本所深川小川町上野
龍慶橋向より右之町々出火致驚入申候
私儀萬場え八時頃ゟ罷出候処丸之内所々ゟ出火にて参中ひしと
差支死はくれに相相番と両人に相成下水の水呑候て相凌
息を休め四方火につゝまれ帰る道も無く馬場先御門外【え心カ?】懸参り候処
御門冠木崩れ落壱人往来余程の混雑にて夫ゟ直様に登
城仕夜明行退出いたし候
内藤紀伊守殿には地震に付庭え被出不残潰家に相成家来をたつね
いかれ候処壱人参り候ニ付御同人はねまきのまゝ大小も無之幸家来
大小火事羽織心得にて麻上下を持参大小も持退右に付直に
家来の大小を借り着用侍壱人召連登城被致誠に感心
の趣と奉存候家内之者壱人も不残潰家の下に可有之もうち捨置
被出候右に付多人怪我も有之候との風説に御座候
私頭横田筑後守家潰家屋に相成怪我いたし候半の風説有之候
其外相番共うちにも怪我いたし候者も四五人は御座候よしに候
大番頭逸【逸見】甲斐守父子共潰死之由御役人其外怪我人多候之由
是又風聞仕候
此節蝋燭殊の外払底に相成申候
地震に付潰家類焼之者は諸拝借当年は返納不及其上
御手当高割被下候趣御座候追て可申上候
親類共ゟ手紙【(見出し)】
此は一昨二日夜四ツ時頃俄に大地震にて丸ノ内小川町本所辺は火事
に相成誠に言語ニ難尽程に御座候其御地は如何御座候哉御左右相伺
申上度候下略
十月四日 柳原鐘次郎
貴志孫右衛門【孫太郎?】様
御留守宅は格別の御損とも無御座候皆々様にも御無難に被為入奉祝候
手前方一統無事に御座候間御休意思召被下候丸之内ゟ深川
浅草本所辺は七八分潰れ申候由に御座候番町四ツ谷市ケ谷辺
牛込は格別損しも御座候私方根太少々曲り壁落候斗りに御座候
土蔵之分は一円に損し申候猶委細は追々可申上候以上
実状申越候【(見出し)】
九月廿六七日頃少々震候得共いつもの事と存居候同廿八日
暮六時頃震余程之事に御座候
十月七日夜六時又々余程震出し驚き申候
自分留守宅門前死人釣台【吊台】え乗せ六七人宛かつき通行致し候
よし申越候
貴志様之追家鋪潰はいたし不申大破被成候由
土蔵は壁落大破被成候
加藤源太郎浅布【麻布】笄橋に住居是又おなし
長谷川季太郎本所役宅是又おなし
佐野作五郎小川町是又同様に候
十月九日藤兵衛江戸え着立申候潰崩の様子見届等相蒐て
知立【達?】為致申候
書状之節出火略図差越候間相添置申候
朝暾云【(見出し)】
前云江戸絵図のことにつきても死生怪我したるもの〳〵
あまたあるなかにてかく出火いたし候所々をいろわけにして
絵図となせるを九日のたよりに駿府にて見る所にさす
かに江戸のひろき事を察しかつは利にはしりて一日も
早く板行してうりなんとせるものあること便利なることとも
なりおなしう潰れ又は崩て住居もなりかたきほとに至りても
類火の為に焼さるものはいか様にも凌き出来候事ともなるへし
昨年四日【?】の府中の震はなか〳〵畑に作れる大根かふら
の外は豆腐さへ無くほと〳〵こまり候事成りおなし地震に
に逢なから土地の広きと狭きとにてかく違ひのある
ことなりきしかし道も狭く家居立並たる所々なれは死人怪我人
の多きは江戸の前戸 駿府は市宿とも家並少ししかし
地震に替れる所になけれは田舎は夫レ成りに人も損したりける也
予の留守宅は幸に潰もせす怪我は申まても無くいつれも
無事成りは神仏の恵なるへし
廻状写【(見出し)】
此は鉄砲洲築地飯田町長門守屋舗去ル二日夜地震にて台所
女部屋長屋相潰尤玄関表座敷住居向其外大破土蔵三ケ所長屋二
棟半潰罷成表門別条無御座家来下々迄怪我人等無御座候猶
巨細之儀は長門守承知之上可申上候得共先御届之儀一昨四日之御詰
堀織部正様御頼申上候処下略
小笠原長門守家来
此は小川町広小路豊前守居屋敷地震にて住居其外門長屋
等震潰申候尤巨細之儀は追て取調豊前守承知之上御届可申上候得共
先御届去四日御詰番堀織部正様御頼申上候下略
土岐豊前守
神田橋御門内晴光院様御住居地震に付御類焼に付御本丸え
御逗留之由大目付跡部甲斐守相達
伊勢守殿御宅震潰に付御用番代大和守殿被成御心得候由同人申達候
伊勢守殿妾昨夜死去之処出生有之候に付遠慮登城無之由御目付
津田半三郎奉申聞候厄日御免登城有之候
阿部伊勢守殿御渡御書付
昨夜亥下刻地震にて居屋敷表座敷其外大破に付対客
登城前差支候間修復出来迄は対客等無之候此段向々え可被達候事
大目付え
此度地震に付 御城内御破所も数ケ所有之候処世上一般材木其外差支
も可有之与 思召候に付御締場所之外其儘被差置候旨被
仰出候間銘々屋敷も其心得を以全く入用之ケ所而已格別手軽に
普請致候様可被心得候
十月三日 大目付御目付え
此度地震幷大火に付諸向難渋之儀にも被 思召候に付当年
中月並御礼不被為 請玄猪御祝儀も不被 仰出候間一統不及
出仕候事
右の通向【(「面」見消し)】々え早々可被相触候
大和守殿御渡御書付
此度地震に付
公儀え附候御礼事等当分之内両月番え可被相越候
但御勝手え斗相越候廉も両月番え可相越候
右之趣向々え可被達候
十月
此度地震に付伊勢守は居屋敷潰候付本郷丸山屋敷紀伊守は居屋敷
焼失に付永田馬場屋敷何れも当分住宅候尤見舞等之儀断に候
十月
今度地震に付家作等皆潰又は半潰之面々は類焼にて休候日数之半
減休可申候事
但諸向一般之事に付引続相休候ては御用向御差支
にも可相成候間申合割合相休候様可致候事
右之通向々え可被相触候
十月
本多越中守殿屋敷大破に付御用番鳥居丹波守殿被成御心得
候
十月七日 日光御宮御祈祷料【(見消し)】金五枚
御祈祷料銀弐百枚 御使大沢右京太夫
日光御門跡
久野山 御祈祷料銀三拾枚
御祈祷料銀百枚 上使安藤長門守
増上寺方丈
右此度稀成地震其後も度々地震致し近来諸国も
度々地震有之候に付ては此上世上安全之御祈祷御執行之儀
被仰遣之
同日伊勢守殿御渡御書付之写
今度地震にて居宅皆潰又は及類焼候向可為難儀与被
思召当時之御事多には候得とも格別之訳を以万石以下之面々え地方
取共左之通り拝借被仰付候請取方之儀は御勘定奉行可被請候
九千石ゟ五千石迄 金弐百両
四千石ゟ三千石迄 金百五拾両
弐千石ゟ千石迄 金百両
九百石ゟ七百石迄 〃五拾両
六百石ゟ三百石迄 〃三拾両
弐百石 〃弐拾両
百石 〃拾両
但百俵も同断餘も准之
右之通類焼之向え拝借被 仰付之
九千石ゟ五千石迄 金百四拾両
四千石ゟ三千石迄 〃百両
弐千石ゟ千石迄 〃七拾両
九百石ゟ七百石迄 〃三拾五両
六百石ゟ三百石迄 〃弐拾両
弐百石 〃拾四両
百石 〃八両
但百俵も同断餘も准之
右之通居宅皆潰家之面々拝借被仰付之【(見消し)】
但半潰之分えは右之半減拝借被仰付之
御足高御足扶持共拝借被仰付候事
御役料は相除き候事
御扶持方拾人扶持取五拾俵積たるへき事
高に付候御扶持方は相除候事
返納之儀は来ル巳年より十ケ年賦たるへき事
今度地震にて御家人末々軽き者共居宅皆潰又は及類
焼可為難儀候間格別之訳を以小給は夫々に至迄為御救
左之通御金被下候請取方之儀は御勘定奉行可被請候
九拾俵ゟ五拾俵迄 〃金七両
四拾俵ゟ三拾俵迄 〃五両
弐拾俵ゟ拾五俵迄 〃三両
拾五俵以下 〃弐両
右は類焼之者共え被下候
九拾俵ゟ五拾俵迄 金五両
四拾俵ゟ三拾俵迄 〃四両
弐拾俵ゟ拾五俵迄 〃弐両弐分
拾五俵以下 〃壱両弐分
右は皆潰家之者え被下候
但半潰之者えは右之半減被下之
右之通可被相触候
十月
江戸ゟ十二三日の頃駿府え帰り候人の噺承り候儘にしるしおく
井伊掃部頭裏長屋松平安芸守屋敷松平甲斐守屋敷共
表門之方格別損しも相見へ不申霞ケ関上裏長屋潰崩れ
西御丸二重橋南御橋一つ崩落御馬屋諏訪部鎌五郎御預所不残
潰桜田御門外大手崩れ松木たをれ申候惣躰御堀水たヽき石
所々崩落申候濱丁辺潰強山伏井戸辺同断本所
菊川町辺同断上野御山内宿坊いつれも大破車坂辺も同様
本郷附木棚辺同様麹町番町大破迄にて潰所も無之候哉
之震と相見へ申候牛込御納戸町辺同断牛込御門外潰多々有之
同御門之処潰家多市ケ谷辺潰多西の窪辺同断にて
候かな川生麦辺潰多と申儀見参り候よしに候
家来藤沢宿ゟ之書状写
道中無別条十一日九時過藤沢宿着仕候処江戸表の様子一昨日
ゟ所々承り候処何分聢与不相分候処当宿昼支度之節荒増
相分り候間旅中ゟ為御安心一寸奉申上候先に御留守宅御別条
無之風聞承り候間此段奉申上候今晩神な川宿止宿明十二日
着可仕候間可奉申上候此段申上可然被仰上可被下候御壹人初にて御心
配与奉察候 私儀も可成丈早く可申上与旅中取急き候得共
短日何分捗取不申延引仕候猶着之上追々可申上候以上
十一月十一日昼九時認る
今朝上本陳に酒匂川近辺にて出逢候間■■も
可申上候以上
小川町 日光奉行相初候三好阿波守屋敷長屋弐間奥向共
潰候奥方子供潰家の下に成候よし娘壱人死去外男壱人死去のよしの
はなしにて候
同所広小路御使番松平弾正住居潰家内にて壱人助り候風聞
有之候同所日向半兵衛隠居壱人相果候段風聞有之候
本所御留守居関播摩【(磨)】守住居皆潰にて死去之由風聞有之候
町方者は五万人も死候よしの風聞有之候
小川町御用掛本郷丹後守嫡子中奥御小性本郷石見守死去之風聞有之候
中奥御小性斎藤内藏頭長屋一棟潰れ怪我は無之由風聞有之候
新(アタラシ)橋内北條美濃守長屋潰類焼いたし候知らせ有之候
江戸大地震場所附 壱枚摺
夫江戸大地震と聞より国々の親兄弟のなけきかな
しみいかはかりそや是一刻もはやくあんとさせんかため
くはしく記す頃は安政二卯年十月二日夜の四時より
ゆり出し家藏潰れ死人けかにん数多く其上出火なり
十弐三ケ所より一同にもへ上り大火となり先新吉原五十町
遊女屋其外焼る死にんけかにんおびたゝしく田町へん
一ゑん馬みち山の宿花川戸火さきはけしく大にやける忝
もくわんおんさま御堂仁王門雷門少もさわりなく矢大神
門のかは残る寺中はのこらすつふれこまかたすは町黒
舟町やける八幡町角て留る又一口は芝居町役者新道片かは
のこる又一口は神田はし内酒井雅楽頭様森川大名小路遠藤但馬
守様火消屋しき因州様東北やしきやける表門ゟ御殿向のこり小笠
原様少々やける永井飛騨守様本多中務大輔様やける土井
様半やけ松平右京亮様少々和田倉御門之内会津様松平
下総守様内藤紀伊守様馬場先御門之内番所やける外桜
田御門外山下御門なへし嶋様伊東様柳沢様やける薩州様
長州様三草丹羽様やける一橋通りきしはしとふり小川丁
猿楽町辺大小名つふれ家多し其上出火にて堀田備中様
松平豊前守様十の字内藤様やける戸田様少しやける
此辺御旗本様かた数多やける日本橋通南のかた
京橋たゝみ町五郎兵衛町竹【(「市」見消し)】丁河岸このへん土蔵焼る本芝
宇田川町東かは迄又一口は本所表町少し三丁目はみとり町
のこらす壱丁目より二丁目やける同四丁目ゟ四丁目橋きはまて
やける深川仲丁通り大橋向八名川丁六軒堀一ゑんやける
森下町ときは町のこらすやける仙台様御門迄はこと〳〵くやける
又一口は下谷茅丁坂本三丁目やける同広小路上野町
大門長者丁やけるかち町近へんねりへいこうしなか出火は
三日の朝しつまり諸人案とのおもひをなし目出度し【使】〳〵
江戸地震之事は世俗に云屋敷市中共に堀井戸多くある
につきて地気もるゝ故に強き處はなくと申習して我も
さる事もあるへしと斗思し文化度に水溜或は泉水の
水のあふれし程に震し事はしかと覚はるさりなから家居
のかたむき崩れるほとのことにもなかりしに此度は江戸近
くに至るまて震一時に潰崩なとする大地震にそありける其
元禄十六年十一月廿二日丑刻江戸大地震 御城内外石垣多崩
武家町家共破損相州小田原は余国よりも強民【見消し】家破倒
箱根山崩道路を塞同時所々出火人多死海濱え遁候者は
津浪て死とあり明和八年五月二日江戸地震同六月二日
江戸大地震としるしあれは気の為に動する事なれは何そ
井戸等の論にあるへからす元禄元ゟ安政二に至て百七十年明
和元【(「九」見消し)】年同九十七年になるなり
小川町松平右近
家来之書状【(二行見出し)】
当十三日七つ時小日向御屋敷ゟ御届被下候御手紙拝見仕候
然は当月二日夜四時稀成大地震にて三つ斗震候て
長屋向平潰に相成申候私儀宵ゟ小児与寐入申候故
私安次郎お富儀三人は出候事不叶潰下に相成漸々
掘出され申候先三人共怪我無之併私は少々打身致候得共
格別之儀には無之母子供両人聊怪我無之壱番に母欠出し
二番に歳【幾?】太郎三番におよしかけ出候残り三人は潰下に
相成所々ゟ出火にて漸々三番原迄女子供立退申候私義は
屋敷取締跡ゟ原迄立退漸々七時火留り屋敷え立
帰夫ゟ皆も帰宿いたし候
地震ましない怪我除の哥
【(枠囲み内)】
棟は八 ■【(竹冠に斬)】 水神の教に命
もんは九つ たすかりて六分
戸は一つ身は ■ の内に入るそ嬉
いさなきの 己 しき
いかりこそあれ
右の通御認被成て片ひざ折に細くむすひまけの中へ御
はさみ被成候
【(略図への説明)】
神織部様 荒川常次郎様 曽我五左衛門様 近藤様
潰焼る 潰焼る 潰焼る 潰焼る
一つ橋通り往来
石河美濃守様 渡辺孝太郎様 松平 八木多三郎様
惣潰にて 三分潰 惣潰類焼 御屋敷
奥向 無難【?】 無之 半潰
類焼 類焼
無之
小石川牛天神下田渕
左門用人ゟ之書状【(二行見出し)】
此度地震本所深川皆潰小川町凡皆潰其上類焼
丸の内辺潰焼失 御城大破下谷金杦辺皆潰吉原
皆焼凡江戸此度之出火四十五ケ所ゟ出火致死人凡十
五六万人与申事に御座候先取いそき如此御座候以上
追添 小川町中山氏無事にて御一同立退申候乍去六人之内惣
輔との御二男娘之子三人潰下に相成候得共更に怪我も無之
大慶存候御家中【(見消し)】奥にては五人即死怪我も有之候
よし然に殿様少々御怪我被成候由其由にて御家内六人
共無事誠に難有事に御座候 其上近辺皆焼失致候得共
左近様には類焼無之潰のみ凶変之内目出度事に御座候
牛込御門内尾嶋友右衛門ゟ文通有之住居向格別之倒れも
無之中には一寸位もひつみ候よし怪我も無之趣申越候土蔵
は何分火事用心に相成不申と申越候
上野広小路角【南?】伊藤松坂屋と申御呉服渡世致し候者大
家にて見世土蔵作にいたし右見世締二重附置候処地
震にて震潰普請も手厚之上締宜敷故壱人も
出る事不叶男女共捍【(一画不足・注)】に打れ居候内隣之家ゟ出
火いたし家内不残百弐十人死に申候由風聞御座候
吉原にて家名不知家潰候て穴藏之内に這入候処出火
にて蒸焼に家内男女共不残死候よし松坂屋幷穴蔵
え這入候此弐軒は江戸中にて一二の様に風聞致候趣のよし
伊勢守殿御渡御書付
今度地震に付居屋敷皆潰半潰幷類焼之面々
思召を以兼て諸拝借有之候分年賦上納之儀年延に
被仰下候間当季は上納不及候条其向々え寄々可被達候
増上寺 御霊屋向御破損所出来候に付此節ゟ諸向参【見消し】詣
不被成候段向々え達之事
十月十日
小日向馬場近所大久保重五郎長屋潰中の橋南森川久右衛門
住居二階潰申候同川向斎藤伊予守長屋潰其外も有之へく候
得共承り候迄ヲ【?】認
小普請支配諏訪若狭守同大久保筑前守大嶋丹波守同断
【(注:「捍」は「扞」の異体字で「説文解字注」では「榰柱」と解している。なおこの字を「押」と読む人もあり。)】
死去候趣に風聞有之候
十月十四日伊勢守殿御渡候書付
此度地震幷類焼等致し候万石以上之面々居屋敷普請等銘々家
格に不拘御曲輪内【(「内」に○の囲い有)】外は勿論御曲輪内たりとも家作之儀
精々手軽に普請可被致候門抔も是迄長屋門之場所は冠木門と致し
長屋向其外腰瓦幷瓦葺にも不及当分の内は板屋根等にて差
置如何様廉未にても聊不苦候万石以下之面々も右に准しケ成雨露
凌候迄に可成丈手軽に普請可被致候
右の通り早々向々え可被相触候
本多越中守殿御渡御書付
今度江戸表地震出火に付材木其外之諸色商人共ゟ在方え注
文申候はゝ元直段成丈下直に売出運賃等決て引上申間敷候若
無謂高直に致し候者於有之は可為曲事もの也
右之通御料は御代官私領領主地頭【「所」見消し】ゟ不洩可被相触候
然は津久戸明神下大隅守居屋敷去る二日夜地震にて長屋石垣四間余震り
崩北之方え相曲り其外玄関表座敷住居向に至迄及大破土蔵三ケ所共
震崩破損所多に御座候 大久保大隅守家来
然は深川森下町六間堀屋敷去る二日夜地震にて内長屋二棟厩壱棟奥向臺
所女子部屋其外稲荷社壱ケ所土蔵壱ケ所相潰表門内附門番所表玄関座敷
住居向内長屋弐棟其外半潰且地続拝領下屋敷南本所六間堀森下町住居向幷
表門半潰同断門番所潰罷成候 大久保豊後守家来
然は本所緑町四丁目拝領屋敷住居向不残土蔵一ケ所長屋壱棟二日之夜地震
潰申候 山本小膳家来
小川町稲荷小路居屋敷去る二日夜地震にて住居向表長屋門共に震潰申候
久須美佐渡守家来
然は丹波守居屋敷牛込逢坂上去る二日夜地震其後追々地震にて表門幷長屋
二棟家根瓦過半震落石垣二ケ所震崩玄関東之方え相曲り表座敷住居向
に至迄及大破土蔵二つ半潰外に三ケ所震潰殊之外破損多に御座候
山口丹波守家来
地震に付住居潰或焼失之老中初諸家ゟ為見舞音物差贈【(「越」見消し)】候向も
有之候得共諸家迚も同様災厄に逢莫太之入費可有之事に付此度は
為見舞老中始役人等え音物差越候儀聊たりとも一切無之様諸家
之面々え無急度及噂候様達之候事御目付大久保左近将監ゟ相達申候
久世大和守殿御渡御書付大目付え
此度地震に付屋敷之外構等も多分被損致し手薄之儀に付
当分之内組合之屋敷被申合家来二三人宛屋敷之外昼夜に
不限繁々可被相廻候尤怪敷もの見出候はゝ捕之届に不及町奉行
え可被相渡候勿論捕違候分は不苦候
右之趣【(見消し)】向々え可被相触候
去月二日江戸表地震に付破損附左之通り
外桜田新し橋内居屋舗 表門大破裏門大破住居向不残
大破但奥向半潰長屋二棟潰焼失長屋四棟半潰土蔵六ケ所
大破即死人弐拾壱人内男拾五人女六人馬壱匹怪我人五人
麻布三軒家下屋舗表門破損住居向破損長屋破損土蔵
六ケ所大破右之通御用番之御老中方え御届申上候に付此段以使者
申入候 十一月朔日 一加番 北條美濃守
安政二卯年十月二日夜四時大地震の後出火所々に有之候江戸四里
四方の御屋敷寺院町屋土蔵等大破致候事算へるにいとまあらす
依之遠国の縁者へ告【見消し】達するに筆紙に尽し兼候得は潰家出火
等残る所なく相記し候間よく〳〵御らん被下洩る分は追加に出候
〇【丸囲い】此印之分出火御見合可被下候
一【丸囲い】新吉原ゟ田町芝居町辺 二【丸囲い】東本願寺前きくや橋へん
三【丸囲い】下谷七けん町ゟかや丁へん 四【丸囲い】同坂本一丁目ゟ三丁目へん
五【丸囲い】上野丁黒門丁長者町へん 六【丸囲い】芝柴井丁辺 七【丸囲い】さくら田兼房丁
辺 八【丸囲い】幸橋御門内辺 九【丸囲い】和田くら御門辺 十【丸囲い】一ツ橋御門外辺 十一【丸囲い】
京橋竹町辺 十二【丸囲い】鉄砲洲権げん丁辺 十三【丸囲い】霊厳嶋大川ばた町辺
十四【丸囲い】深川相川町ゟ永代寺門前辺 十五【【丸囲い】同所黒江町辺 十六【丸囲い】本所石原
丁へん 十七【丸囲い】深川御舟蔵前丁ゟ高ばし辺 十八【【丸囲い】同所徳右衛門丁辺 十九【【丸囲い】本
所みとり丁ゟ撞【「鐘」と誤記】木ばし辺 廿【丸囲い】同所五ノ橋丁辺 廿一【丸囲い】【記述なし】 廿二【丸囲い】本所中ノ郷
表町辺 廿三【丸囲い】同所小梅瓦町辺 廿四【丸囲い】小川丁辺 廿五【【丸囲い】小石川牛天神下すは丁
廿六 廿七 廿八【以上三数字各丸囲い】【記述なし】
一【丸囲い】新吉原江戸一丁目二丁目京町一丁目二丁目角丁壱丁目二丁目揚
屋町伏見丁惣して中の丁より四方郭中残る所なく類焼にて大門外
御高札幷同しかはの分残り右かは残すやける日本堤にて往来の地
さけたり郭中において土蔵一ケ所も残りなくゆり潰し其上に火事
なるゆへけが人死亡の者かそへ尽しがたし夫より田丁にて出火して同所
壱丁目二丁目袖すりいなり土手下あみかさ茶屋北の方少し残り候へ共
大形潰れ家とも相成申候申候同所西の方谷中にて天王寺川前二ケ丁山
川丁馬頭くわんおん西方寺と二ケ寺残る 〇【丸印】同所南の方馬道とふりより
北しん丁へやけ込扁照院其向ふ猿若丁三丁目かはらさき二丁目市村
同壱丁目中むら右三座の前後かくや役者しん道共やける但し三丁目森
田かん弥宅より北の方のこる夫より薮の内はゆり潰火災等にて残る所
少し同所東の方山の宿九品寺より向かはのこり南へ花川戸戸沢長屋七分
やけて【見消し】止同所馬道西かはの分吉祥院徳応院延命院誠心院
無動院経敎善院北馬道迄同所南馬道は廻り角迄やける同所馬道
東かはの分青竜院【「寺」見消し】泉凌院泉藏院修善院妙徳院医王院まん
たら堂金剛院覚善院法善院妙音院顕松院右の分に
いろは長家多くあり皆やける同所一の権現やけ候同所慈性いんにて焼
止る浅草寺境内の分奥山の諸宮等何れも破損いたし同寺内にて正智いん
長寿院勝蔵院寿命いん正福いん知光いん同く梅ゑんいん実松いん松寿いん
金蔵いん観知いん日しゆいん此分裏にいろは長家ありいつれも大破也観音本
堂山門撞楼隋身門雷神門三社念仏堂此分無事也五重の塔くりん少し曲る東
はし川付の方にては北方山谷堀迄焼残候へ共潰家宿多く右の内まつち山無
事也同山谷はしより北の方今戸橋きは半丁斗やける同所銭座前後は焼失潰
家等甚多し同所ゑた丁のこる同所扁【遍】照寺のならひ徳泉寺より真崎いなり迄
大破の家多く川口と柳屋と云れうりやは無事也同所山谷丁浅草丁同くつゝき
中村丁小塚原丁千住宿大橋迄大破の家多し又千住にて焼失在之此分追加に出す
へし 二【丸囲い】浅草本願寺の分本堂無異寺中教覚寺専勝寺玉泉寺證願寺
円照寺法ゆう寺雲【「雲」と字右に追記】行寺来応寺光円寺其外大破損同所誓願寺門前丁潰家
尤多し日輪寺門前其外此辺潰家最多惣崩にて町々分かたく候菊屋ばし
向行安寺門前丁半町やける同所西方向かば新堀はた迄二丁余やける同あへ川丁
近辺潰家多しこま形丁左りは初冨士と申れうりや手前角より両かは
不残やける此へん土蔵一ケ所も残所なしすは丁両かはやける黒舟丁同断同所しつくひ
や土蔵のこり同右角米問屋半のこる三好丁川岸の方のこる同所の南御馬屋河
岸にて止る藏前通り無異 三【丸囲い】下谷七軒丁より焼同所南方備後出雲両家
大破同所大正寺光生寺心行寺迄同向出雲守上屋しき半焼但し七軒丁向かはにて
霊雲寺下屋しきゟ南方町家休昌寺忠綱寺小宮【小宮山カ】川保朝比奈其となり妙顕寺
正慶寺東渕寺やける喜連川半やける同所南の方かや丁二丁目其【見消し】向称仰寺講安寺
同東方教證寺やけ此所にて止るかや丁一丁目中ほとより二丁目の分也 四【丸囲い】下谷
坂本一丁目より三丁目迄不残やける同所北の方金杦みのわ根岸御行松辺潰家
甚多し同南東之方東えゐ山下車坂はんすい院門前丁御切手丁山さき丁此辺屋
敷寺院共大破多 五【丸囲い】上野広小路六あみたのこり同上野丁一丁目不残やける
二丁目過半やける徳大寺一乗院同所南方北大門丁黒門丁同北大門丁下谷同朋丁
二丁目三丁目上の黒門丁同家来やしき同朋丁拝領屋しき井上筑後守御長家も【裳】ん
とも潰る石川とのもの様【頭の書違い?】様南方少やける黒田豊前守様表長屋やける此所にて止
同所大関信濃守様無事下谷長者丁一丁め二丁め同二丁め代地同二丁目残地上野
南大門丁下谷車坂丁同家来屋敷中御徒士【右に追記】高野と申家ゟ南え六丁斗やける
同所西の方へ廻り辻元医師やける同五六軒やける同所西北の方湯島本郷
加州様備後守様少々破損夫ゟ駒込白山すかも迄破損在之小石川御門内讃岐守
様するか様同御門外水戸様青山様丹後様小笠原様豊後守様此辺大破牛
込にて赤城下改代丁小日向水道丁古川丁近辺潰家甚多し音羽より目白台
そうしかや東方大つか此へん大破無之候市谷御門外尾張様小破損かくら町飯
田丁はん丁四ツ谷新宿此辺淀はし辺大破赤坂御門外紀州様小破損同てんま
丁さめかばし桐はたけ笄はしゟ赤羽根川筋迄大はたん目黒ひろを白銀代
丁高輪品川同北方札の辻此辺四方少々破損にて委は後篇に出す 六【丸囲い】芝
柴井丁両かは共やける宇田川丁三島丁神明丁此分潰家多土蔵残所なし
同神明無事同増上寺地中北方の分少破寺内少々破損在之同所ゟ南方
金杦の札の辻迄格別大破無之同北方にて 七【丸囲い】桜田兼房丁自身番より
同所南松平兵部表長屋迄やけ同西方伏見丁かち丁くほ丁太左衛門丁びぜん
丁いなは丁いつみ丁善右衛門丁此辺潰家尤多し同西南方あたこ丁西のくほ
いゝくら麻布市兵へ丁六本木辺迄大破無之半蔵御門外御大名方諸屋敷
町々共少々破損同南之方外さくら田赤坂御門内三べさが山王社無事かすみか
関虎の御門新しはし迄少破損 八【丸囲い】東之方幸橋御門内松平甲斐守様伊東修
理太夫様やける南部美濃守様やける薩州装束屋敷南方少やける山
下御門内ひゝや御門外少破損 九【丸囲い】和田倉御門内大番所同所松平肥後守様中
屋しき共やける同所腰掛やける同南松平下総守様やけるすき屋橋より
呉服はし内大名小路前御大名少々破多し辰の口向森川出羽守様酒井雅楽頭中屋敷
同上屋しきやけるときは橋ゟきしはし御門内少破損田安様清水様無事
十【丸囲い】一橋御門外ごじいんの原松平ふせん守様本郷丹後守様共やける其外小屋敷五六
軒やける小石川御門内よりするか台小川丁筋違御門迄少々破損外神【見消し】田さみせん
ほり七曲泉はし新しはし浅草御門柳はし少々破損同所北方御藏前ゟ御馬や
かし迄無事筋違御門内すだ町ゟ今川はし日本ばし迄家藏の破損多く火災無し
日本橋ゟ中はし迄家藏大破 十一【丸囲い】中橋南てん馬丁二丁目強南かち丁より狩野
しん道五郎兵衛町畳町北こんや町白魚屋しき同東方鈴木町いなは町ときは丁太田屋敷
柳丁くそく丁炭町本材木町八丁目河岸迄やける土蔵此間に少のこる京橋ゟ新橋
迄御屋敷町家町共大破築地小田原丁南飯田丁元柳原丁此辺大破潰家藏尤多し
西本願寺本堂無事寺中数軒大破此へん御屋敷大破土蔵潰家多し 十二【丸囲い】鉄砲洲十間丁
松平淡路守様やける明石丁潰家多し舟松丁細川能登守様無事其外大破多し
佃辺大破損本八丁ほりより北方大通り八丁堀組やしき又かや丁薬師堂無事四方町家
所々大破潰家破損等多し 十三【丸囲い】霊厳島塩丁四日市白銀丁大川はた丁南新堀
川岸やける松平越前守様中やしき残る其余皆戸丁長さき丁大破同所北の方しんほり
久世様伊豆守様土井さま少々破損田安様無事其外大破行徳岸小あみ丁とう【「ん」見消し】
かんぼり酒井様本田様林様紀州様三川様井上河内守様【右追記】堀いつもの守様此へんの屋敷
幷に銀座甚左衛門丁より人形丁通はたこ丁通迄大破損同向にて小舟丁堀江丁本舟
丁せと物丁此辺不残大破北方大川はたにて安藤様新庄様菅沼様大破同表通り
秋元様牧野遠江守様永井肥前守様此四方大川はたより横山丁迄大破日本橋北本丁
今川はし迄大破十けん店東方石丁通大てん馬丁小傳馬丁はたご丁油丁はくろ丁横山丁
両国ひろ小路柳原の土手迄大破同所郡代屋敷としま丁細川玄蕃様弁慶橋
お玉ケ池市はし下総さま小柳丁もみくら【籾蔵】すた丁の通り大はそん土蔵多く大破同
所西方すしかい御門にて青山下野守様酒井様土井のと様松平左衛門様稲葉丹後
様土屋うね正様戸田竹次郎様内藤駿河守様堀田ひつ中守様伊東若狭守様柳原
式部様本多いよの守様本多豊前守様御勘定奉行三川丁迄此四方御屋敷丁家共
大破悉記かたし 十四【丸囲い】永代はしわたり相川丁御舟藏御船手組破損同所木戸きは
三軒斗のこる南方熊井丁やける正願寺やけるとみよし丁諸丁中島町北川丁黒江丁
右かは半丁残東つゝき蛤丁大島丁西念寺やける一の鳥居永代寺門前山本丁仲丁
右かは永代寺表門角にて焼止る同左かは半丁手前にて止る八幡宮無事右の鳥居二ケ所
大破社内諸社多く破損同門前丁潰家多し三十三間堂大破木場何れも大破同東
入舟丁潰家多しすさき弁天社内無事但し茶屋等破損材木置場大破同南西方
防州様越中様榊原様瑞雲寺は少破損此辺火災はなし 十五【丸囲い】同黒江丁代地凡一丁
四方やける 十六【丸囲い】同本所石原代地より平野丁代地一丁斗やける此辺潰家多同所東方
六万坪ゟ毛利新田砂村猶此東方四方共大破潰家数しれす同寺町通諸家書院
大破損浄心寺本堂大破寺内三ケ寺幷中門表門手水舎共潰同表御題目石倒れる
同霊かん寺表門倒本堂寺内共大破同所本願寺大破損夫より正覚寺橋通り
万年丁一色丁三角此所納屋藏町家諸寺院多く潰永代橋左の方さが丁万
年はし霊雲いん海辺大工丁いせ崎丁木場此へん潰家多し平の丁東西■■様【立花様?】
大破同西の方奥川丁円速寺万徳院大はそん南方小名木川筋猿江辺此所の
四方大破いふ斗なし 十七【丸囲い】大橋をわたし右へ深川元町松平遠江守様下屋しきさるこ橋迄
悉潰る同大はしゟ左方木下図書潰西方安多気【安宅】御舟藏無事同所一つ目弁天大はそん
同所八幡旅所再幸寺【西光寺】初音稲荷此へん多く崩同所御舟藏前丁ゟ出火同所大仏殿
役所はかみ権現秋葉宿寺【秋葉権現の宿舎】此南方小やしき多く破損の後やける同所東方六軒堀
あべ川屋より半丁北にて出火南森下飛火此へん大崩焼地在之八名川丁此六間堀丁同通りもみ
くら少しやける同所神【右に追記】明門前丁本社残此辺一面やける井上河内守様やけるときは丁より焼出し
小笠原様少やける太田様表長屋少やける高はしきはにて止る此四方焼残る町々御屋敷潰
家甚多し弥勒寺表門潰同所要浅【律の誤記カ】寺慶長寺【長桂寺カ】共大破いよばし通東方 十八【丸囲い】徳左衛門丁
二丁目三丁目迄やける近辺何れも大崩れ 十九【丸囲い】両国橋右方一のはし石垣崩同元丁回向
院鐘楼潰同所本多内藏助大破相生丁一丁めより五丁め迄大崩同みとり丁一丁め【見消し】二丁め
迄やける三丁目角にて止る同四丁め五丁め花丁しゆ木ばし際迄やける津軽様大破
同北方柳原丁五丁かやば丁四丁亀戸天神旅所本所瓦町松代丁四丁目中の郷五橋丁
迄悉大崩土蔵残所無し 廿【丸囲い】本所五ツ目渡場際十軒斗やける亀井戸天神ふもん院
光明寺萩寺光藏寺長寿寺阿部長徳寺亀井戸丁柳嶋丁法性寺妙見宮常照寺
押上村最教寺大雲寺徳生寺【徳性寺カ】永泉寺【栄泉寺カ】全性院春慶寺法恩寺橋通霊山寺本法寺
大法寺真成寺【真盛寺カ】南本所出村丁北割下水南割下水此へん小やしき多潰土蔵数ケ所崩
大川通藤堂和泉守様やしき同所津軽様やしき大破損松前伊豆守様御竹蔵
無事駒止石の通り松浦壱岐守様同所御大名下屋しき最上様石原丁町碩雲寺
御舟改【見消し】役所御馬屋河岸通り迄大破土蔵残る所なし 廿一【丸囲い】本所石原丁半丁
やける同所向井将監様徳山様斗【右に追記】御前旅所石原町御【新?】組あらい丁松倉丁此分大崩 廿二【丸囲い】
同所中の郷表町半丁斗やける北東所番場丁南本所青物丁原庭丁多田薬師
女夫石此辺悉潰残る所少し同所なり平橋南蔵院延命寺北条新蔵様此辺
船屋しき同断吾妻はし渡り細川のと守様松平越前守様御下屋敷竹腰兵部様瓦丁瓦やき
釜等迄潰此外大破土蔵多く崩し悉算かたし 廿三【丸囲い】同小梅村瓦丁小天房と云料
理屋やける近辺類焼同所水戸殿下やしき同所日蓮宗常泉寺門前吾妻森外の方
三巡稲荷牛御前長命寺すみ田川堤さけ割地中ゟ泥を吹出すおひたゝし同所さ
くらもち其外所々潰家甚多し同黄檗宗牛頭山弘ふく寺寺地内悉潰すは明神
白ひけ明神梅屋敷宝泉寺木母寺梅若塚等大破堤内茶屋潰家多く同鐘
か渕水神森大破夫ゟ東之方すみ田村寺嶋若宮村引船通客神大明神
木下川浄光寺薬師同南舟ほり葛西柴又かめあり二合半領此外村々大破
中川御番所向共大崩 廿四【丸囲い】小川丁堀田様戸田様高家戸田様小やしき少々やける
近辺大破損 廿五【丸囲い】小石川牛天神下すは丁すわ明神大破同所半丁斗やける同
江戸【右に追記】川筋潰家多【見消し】し
御老中方屋舗潰之分堀田備中守殿麻布笄橋屋舗え阿部
伊勢守殿本郷丸山屋敷え若年寄衆遠藤但馬守殿牛込若草居屋敷え
酒井右京亮殿牛込矢来下谷屋敷え当分之内住居に御座候地震当日
右四人之人たちは登城の節乗物着服は平服馬乗はかまこんたひ
かさ前後に待【侍の誤りカ】両人是も同様乗物御附壱人
伊【見消し】勢守殿登城退出之節市中乗物御見分之趣町奉行の市中■
ひ廻り之儀は風聞にも承り不申候
地震之節即死人風聞承り込候本郷丹後守逸見甲斐守
大久保筑前守所右之外御役人承り不申候
松平下総守家中侍分の者即死百二拾人是は井狩先生
より承り候此井狩は下総守藩中に候
浦賀奉行土岐豊前守家中男女十二人即死し相番小出修理
親類之よし右同人より参り候て承り申候
相番卯之助と申者の親即死いたし候風聞承り申候
同堀田内蔵助と申者の娘孫両人即【見消し】死
日向半兵衛内にてはむすめ両人老母壱人あね壱人都合四人の即
死之事
松平肥後守死人を上屋敷より下屋敷車にてをくる
堀田備中守殿も同様之儀与承り及申候
本所は大半潰家長谷川季太郎存居候者斗二十五六人も死人
有之候様申聞候風聞
風聞にて吉原にて腰物【「大小」見消し】三車程もやけ出る「ゲール」鉄砲十二挺
焼居候よし風聞に候
吉原の岡本屋と申す遊女屋家内不残死にあとたち不申
其訳と申は一体遊女屋の儀は金千両に相成候はゝしようば
いかへ致候御法の処此度穴蔵より二千両の金子出候故それ
きりと申事に御座候風聞に候
御旗本のうちに怪我人多と申事吉原にて死候者は多■■
跡式之処立不申哉之風聞有之候
阿部伊勢守殿御渡御書付
馬喰町御貸附金口入可致旨を以如何之所行におよひ候者有
之候に付毎々相触候趣も候処今以其弊不相止哉にて此度地震に付
御貸附金貸出し有之候間口入可致抔申唱候者も有之由元来役所
におゐて口入等を以取扱候事は毛頭無之事に候畢竟謝礼等貪り
候巧与相聞不埒之至に候依ては自今世話可致抔申候族も候はゝ
姓名住宅等承り記【糺?】早々奉行所え可申出時宜次第取計可然尤家来
えも左様【「右之様」見消し】之儀無之様精々申含可被置候
右之趣向々え可被相触候
十月
伊勢守殿御渡大目付え
此度之地震幷出火に付ては銘々家作之都合も可有之候間屋敷
相対替いたし度面々は年限不相立内にても願差出不苦候事
右之通寄々可被達候
十月
伊勢守殿御渡大目付え
今度地震に付ては居屋敷皆潰幷類焼之面々思召を以
兼て諸拝借有之候分年賦上納之儀年延に被成下候間当季
は上納に不及候条其向々え寄々可被達候
十月
本多中務大輔
居屋敷地震にて潰其上類焼等にて作事等打続朝鮮
人来聘御用も相勤難儀可致旨被思召依之別段之訳
を以金三千両拝借被仰付之【「候」見消し】
同文言 松平豊前守
安藤長門守
屋敷地震にて潰破損多趣可致難儀旨被思召拝借金
之儀は難被及御沙汰候得共別段之訳を以金弐千両拝借被
仰付之 右於芙蓉之間老中列座備前守申渡之
稲葉長門守
領分地震にて居城二之丸住居向櫓多門其外大破に付可為
難儀与被思召当時御事多には候得共出格之訳を以て金
三千両拝借被仰付之 右芙蓉之間前同断同人申渡之
十月廿九日
阿部伊勢守殿御渡御書付
此度地震に付御役宅向潰又は破損におよひ建直候分追々御普
請御修復可被仰付候儀も候得共当事品々御用途多之折柄
建物等実々無拠ケ所之外は可成丈坪数減し候様勘弁
致御作事奉行御普請奉行え申談候様可被致候且手切【手限=自分の判断】にて
御普請御修復取調相伺候向も坪数減勘弁いたし可被申
聞候 右の趣相触らるへく候
此度地震にて類焼幷潰家等相成候面々屋敷内空【見消し】地等
無之立退方差支候向々有之哉に相聞候普請之儀に付ては先
達て相触候趣も有之候間可成丈建坪取縮空地出来非常
之節怪我相無立退相成候之様可被心掛候
右之通可被相触候
十一月
此度地震に付居宅皆潰又は及類焼候面々幷半潰に候分共
拝借金被仰付御家人末々軽きものえは為御救同断御金
被下候旨先達て被仰出候処半潰迄に無之候ても居宅惣体及大破
候向は是又可為難儀と被思召格別之訳を以右之分えは半減
之拝借金被仰付御【右に追記】救金被下候ものえは同様半減之御金被下
之其外先達て被仰出候通相心得委細之儀は御勘定奉行
え可被談候 右之通万石以下之面々え【右に追記】可被相触候
今度地震に付類焼幷皆潰半潰之面々え拝借金被
仰付御家人末々之者えは御救金被下候處猶又格別之
訳を以住居向惣【見消し】体及大破候向えは高並半減之拝借幷被下
金被仰付候右末々者取調方に付ては不平有之間敷候以上
難申候間銘々は勿論組支配之ものに至迄入念取調可申
旨向々え無急【見消し】度可被達置候事
十一月
十一月十九日留守宅ゟ此度地震に付弥三郎頭ゟ之達に付堀田彦三郎
留守宅え罷越候に付横田筑後守え差出候書面差越申候
去る九日相番堀田彦三郎と申者地震破損所見分に参り候右此度
又々御書付出半潰迄に無之とも大破住居難成分えは半潰之半減御拝
借被仰付候被仰出に付相番一統見分致候様頭筑後守申付候事右に付
頭迄為心得書付差出候左之通
此度地震に付門長屋玄関住居向潰家は無之破損仕候場所は
御座候得共仮養仕兼候程之儀には無御座候間右取繕住居仕罷在候
此段申上候以上
十一月十一日 貴志弥三郎
右之通候尤相番申合にて住居難相成候分は大破の名目仮養出来候分
は破損之名目と極め候趣申聞候間大破之処破損とかへ差出申候右之段
承知可被成候 十一月十五日
此度地震にて【「付」見消し】類焼幷潰家等相成候面々屋敷内空【見消し】地等無之立退方
差支候向も有之哉に相聞候普請之儀に付ては先達て相触候趣も有之候間
可成丈建坪取締空き地非常之節怪我等無之立退相成候様可心掛候
右之通可被相触候 十一月
十一月七日伊勢守殿御渡大目付え
此度地震にて所々出火いたし類焼之もの金銀具消失致候向も有之
哉之処毎々相触候通妄に売買不相成筋に付金具之分は金座銀之分は
銀【右上に追記】座え差出候得は品位相改相当に御買上相成候間焼金銀具取持之向は民
家幷寺院市中之無差別金銀両座え可差出候
右之趣可被相触候 十一月
地震を心察致候咄し
私蘭学の相門に橋本了三郎と申人御座候其者儀去る二日の
地震を二日の朝に知り申候私儀二日の夜宵蘭学の稽古に参り
候処其者にも出合申候處三日には下曽根金三郎大森にて打前仕候に付
俄に相弟子共申合見物に参り候約束仕候に付稽古も早仕舞仕深
尾と申人と六時頃に帰宅仕候右橋本了三郎幷南條と申人与
跡へ残稽古致居然る処何ををもひ出候や二階の雨戸をあけ空を
なかめやかて師匠木村海蔵え向ひ申候には今日は大地震も
早ここには居られ不申と申早々支度【「仕度」見消し】いたし暇乞を致し帰り申候あ
とにては海蔵はしめ何をつまらぬ事を申か大わら笑【「ゐ」見消し】致右
了三郎帰宅にて直様に父のところえ参り今日は大じゝん御座候間
御用心遊し候様を演説父も一向取用不申何を空言を述るなと
申て取用不申了三郎叔母は二階住居致し居候事故又候
御はの処え参り地震有之候間用心之事申聞候叔母の云に能
こそ地震有之候事を知らせたと申乍去未た若年にて左様の
こと申出し地震震不申節は空言申分も無之震候はゝ宜けれ
と右等事無之時は甚人口にうたはれ宜かるまし候間此後は
一せつ他人え対左様の言出なは慎み候様与しかり候間了三郎
いたし方なく部屋え参りふせり候与存し候得共兎角に気に掛り
またまた雨戸を明空を見遣り弥々気をもみ又々父のところえ参
再応いさめ候に付父も不得止事家内のものを引つれにはえ出候
と少し立て地震故壱人も家内うちにて地震にあい不申右木村
海蔵と申人は当時松波忠之丞抱え候蘭学師匠御座候海蔵儀
忠之丞の方え参り申候には橋本了三郎はしばり可糺者に候与
申故忠之丞もおとろき何故の事哉と承り海蔵申候は二日の宵に
稽古に御出被成候処二階の雨戸をあけ空を見弥々大地震とて早々
支度被成御帰候全魔法にても遣ひ候事と申忠之丞も驚き
候事に御座候其後私事度々橋本に面会仕候間承り何を以地震
を察し候哉と申候へは了三郎申には大地震有之候前には星の
光を失ふと申儀承及候二日の宵には空何と無くもふ〳〵として
雲霧てもなく星の正体たしかに見へ光り無之右にて大じゝんの事
をしり候と私え申聞此段珍しき事候へは心得にも相成候間申上候年
齢私と同年位之人に御座候
私儀も仕合仕候いつも蘭学稽古に参り候とも夜分四ツ半頃帰【?】帰
致し候二日には如何いたし候哉不我知早く帰宅仕稽古致は
二階にて損居間地震半潰に相成例の通り稽古致居候はゝ怪我等
いたし候事と被存候
其外に地震を知り候人弐人御座候風聴承り込申候是は全
風聞故何とも申かたく候其壱人とは青山辺の武士にて大き成
石を細引にてつり二日の七ツ頃に相成候与石の何となく動出し
候様に相成是も地震を前に知り震不申うちは人も取用不申
と申事に候
また壱人は鞘師にて壱と間え入候て鞘を塗り居たり候之処
どことなく震動いたし候様子鞘ゟ響き候に付地震と知りたるよし
右いつれも地震と考候事て感心発明之儀に御座候
吉原焼失に付仮宅
本所 深川 浅草 赤坂 右四ケ所地震焼失に付吉原仮宅
に伺相済候段申来候
駿河台中川飛騨守ゟ之文通下略住居潰家内一同厩前え出凌居
出馬の砌着替も右場所にて漸着替仕登城仕候処小川迄罷出候処往
来え表長屋潰出し中々馬ては歩も相成不申かちに成て登城致候
小川丁本所深川辺甚強く松平豊州方即死六十七八馬十六疋林■
には上下にて十三四人一色も馬子供皆潰之由御役人之内即死は逸
見大久保筑前守【「大筑」見消し】位之事御座候御修復所申尽かね候ケ所多今度之懸り
は品々意味有之候容易之訳に無之たゝすへきいきのみに御座候下略
阿部伊勢守殿被成御渡候御書付 大目付え
此度地震に付居屋敷皆潰半潰幷類焼之面々諸
拝借年延に被成下候旨被仰出候処馬喰町幷御代官取扱
遠国奉行取調御貸附金借請候分年延等之儀は御勘定
奉行え承合候様可致旨寄々達置候様可被致候
十一月
右拝借金之者格別之訳御礼に不及段大目付土岐丹波守
被相達候
阿部伊勢守殿御渡御書付写し 大目付え
近年外夷度々渡来に付ては守衛之ため御府内人別
多に相成おのつから失費も相増候段々無拠筋に候然る処
今般の天災に付ては莫大之入費も相増窮迫滔り尚更可為
難儀殊に此度不慮之死亡又は怪我人等も不少哉に相聞
何共歎敷次第候畢竟夫等も中相【古?】に見合候得は追々御府
内人数多に相成候事に付諸家屋敷にても家作等建詰
之様に相成候故猶更非常之災害遁兼候者も夥敷儀に
有之一体近年諸藩困窮之上右様之儀相成り殊に
外夷着湊候折【右に追記】柄当節之処にては御府内老幼之男女子人
別減少有之度に付万石以上隠居幷厄介之男女子等在所
勝手にも可被仰出之処先つ此節は不被為【見消し】御沙汰候に付向後
家作は勿論年中之暮方等迄も銘々家々仕来に不拘万端
手軽に取賄聊外見を不厭質素省略を相用可被申候
尤右の趣等閑に相心得候向有之候はゝ急度御沙汰可被及候
事 但本文之通相達候に付ては隠居幷厄介之男女
子等在所え遣置度向は夫々相伺候様可被致候事
万石以上家来之儀前文人別減少之御趣意を以追々定
府相減候様可被致候尤領分の遠近其家々之都合も可有之
事故銘々勝手次第之事には候得共可成丈御趣意相立
候様可被心得候事
右之通寄々【見消し】可被達候
久世大和守殿御渡御書付
地震火災混雑之折柄当年は歳暮之為祝儀
老中若年寄中え被相越候に不及候間万石以上之面々は廿
八日前勝手次第見合月番之老中宅え使者可被差越候
来春之儀は年礼として老中若年寄中え可被相越候に
不及月番之老中若年寄衆可被相越候尤元日ゟ七日迄之内
に不限緩々と可被参候遅成候分は不苦候
但寺社之分幷町人諸職人等も可為同前候
供廻り之儀は大勢は無用候表向四品以上之面々装束惜【供カ】召
連不申其外之者共は猶更省略可被召連候
右之通可被相触候
十二月
十一月十三日 御【ケ?】条に
時服二つ 増上寺方丈
此度地震に付下々救【見消し】之ため差出金致度候段【修正】寄特之事に被思召依之
被下之右於御白書院縁頬老中列座大和守申渡之
十二月十二日 御勘定奉行 松平河内守
御作事奉行 遠山隼人正
中川飛騨守
御普請奉行 阿部対馬守
伊澤美作守
小普請奉行 江原下【「隼」見消し】総守
大沢豊後守
御目付 鵜殿民部少輔
御勘定吟味役 塚越藤助
地震に付
御城内外所々御修復御用被仰付候
御勘定奉行 水野筑後守
小普請奉行 大沢豊後守
御目付 岩瀬修理
御勘定吟味役 勝田次郎
右同断に付上野
御宮 御霊屋 御廟所向其外損所御修覆御用被仰付候
右同席列座同前同人申渡若年中【「衆」見消し】侍座
土岐豊前守申上候趣駿府宝台院見せ候【?】間【見勢ノ間?】写置
此度之大災前代未聞之儀両
大城御別条無御【見消し】座候得共余程之御破損に相成候趣誠以奉
恐入候江戸表斗も七八分通潰与相成死亡之者も数万人之由に相聞絶
言語大変に御座候諸国【重複】国共年々歳々之凶変相続無上之人心
如何成行可申哉甚心痛仕候然ては不束之愚存奉恐入候得共不
顧前後申上候今般【見消し。左に再見消し】被仰出候諸寺院梵鐘御引上大小銃に
御鋳換之御尤之事には奉存候得共梵鐘之儀は天下泰平
国家安全武運長久之為相祈候之法器に御座候先暫御沙汰
止之旨被仰出候ては如何可有御座候哉一旦叡慮にて被
仰出候儀に付容【見消し】易に御沙汰止にも被仰出兼候儀与は奉存候得共
今度之天災実未曽有之事に御座候間梵鐘之儀御沙汰止
にも不相成其儘御引上に相成候は此上猶又如何成天変地妖出来
可致哉与心配仕候此度之死亡人明暦之焼死人より十陪之趣に相
聞候明暦之焼死【「亡」見消し。「之焼(死)亡」を四角囲い】度は無縁寺御建立格別に佛事年忌之供
養等被仰付 御仁恵之段只今以世人難有狩り候事也
【左丁上部朱書き】
一旦叡慮にて被仰出候
儀に付容易に御沙汰
止にも被仰出兼候儀
与は奉存候得共今度
之天災実未曽有之事
御座候間梵鐘之儀御
沙汰止にも不相成其儘
御引上に相成候は此上
如何成天変地妖出来
可致哉等と申文言は
天下諸方を知さると
いふへし只此一年斗
は勤て諸国に聞なは
天下之乱をも引出さん
とこそ存する也其念
は秘して書せすと存候
此度は殊更数万人之死亡品川御台場詰之怪我人抔は
目も当られぬ次第に相聞申候中々以銘々埋葬其外法事等伺心
底兼犬馬同様に【「之」見消し】成行何共不便至極に奉存候中には一家悉
死失向も有之趣故何卒明暦度之御振合を以諸人供養之儀
増上寺始え被仰付候様仕度奉存候且又御祈願【見消し】所向へは此上
国家安穏之御祈祷抽丹誠候様被仰付可然与奉存候昨年
諸国凶変之砌も申上候処出家同様之建白与被思召候哉にて奉
恐入候得共天変地妖之儀は神佛之加護にて免れ候事共古
代ゟ例も不少事に御座候右之外可申上儀御座候得共素ゟ固陋
之愚意御取用に可相成儀にも無御座候間別段不申上候前文之次第
其儘に被差置候は神佛之忿怒死亡之者怨念にて自然此上
国家之大乱引出可申哉与甚心痛仕候に付此段申上候已上
十月 土岐豊前守
安政二乙卯年十月十九日阿部伊勢守殿え差出之写
安三正十九日 江戸ゟ礒野文鼎と申医駿府え参り候付
江都之地震之儀種々咄しいたし候うちに彼か持居候百
味覃笥の引出しきしみてあき不申釘貫を以引出
さんとするに摘み【見消し。ニ文字左に印点】の鉄物貫ケ候ても引出しは出不申
駒込辺に住ける某申医師もおなし事にてケ様
磁気満ち候季候いつれ当寒中且春に至りて病人
多くあるへしと咄し合しか地震にて怪我人等も
多く薬調合も繁多になりて右百味覃笥引出し
のいつれも滞りなくいつれも出ること前に釘貫を用
引出さんとせし引出し何のさはりも無く出る様に
なりたること奇といふへき前に誤候星の光を失ふと
いふも水気と見へ申候此引出しも水気にてこのふえ
たるならん
小日向茗荷谷え参り候道にて服部坂上のリヤウコウ寺【龍興寺】
と云住主【二字見消し】は老僧七十余なり右和尚前に地震を知りて
弟子僧に申付て庭前え仮に居所を取建候様と申付
に弟子とも院主は年とりてとほけたり此寒にに
庭えすゝみ台様の取建の内に居る事なり候ものには
あらす言語同断の事をいふ出したるものかなとつふや
きなから師僧の云にまかせて縄からけに居所をしつ
らへたり師僧悦ひて十月二日のうちに其所に引込て
いたりけるか案の如く地震にて弟子共はほう〳〵に立ち
出て震止て後院主は如何せしやと仮小屋え行て
見れ快寐の体にて大いひきして臥いたり弟子
僧とも誠におとろきて其よしを問しに地震ある
ことを知りてかくなせりといゝしとなり
______________________
一 大満月無篇 安政山 一
一【梵字】 奉轉読大般若地震平安祈祈処 一
一 小盡月用篇 丙辰年 一
一______________________一
女奉公人の咄し
江戸近郷また余程掛離里数も有之候場所ゟ江戸表
にしるへ有るものは奉公に出し置たるに地震にて死
亦は怪我等いたし親兄弟共に案し候て尋ね来り
ても類焼之場所なとにてはつゝか無きやまた死失いたし候や
尋ぬるにいつ方え参候哉なとゝ迷ひ歩行ても所を定めす
全死したるに極ても其なきからの黒焼と成りて是を證
にいたしへくこともわからすあわれなる事共成りけり右なとの
噺を承り候て江戸奉公に出すことは見合たるかたいま迄
勤居ものも暇を取て在方え引込候よしなり天災にて
迚ものかれぬことならは親子兄弟共におなしくいか様にも成へし
なと他え出し置てかくの如くなるは残念なりとての事と
承りぬ尤なることなりけり
小石川龍慶橋清水御用人相勤野中鉄太郎と云人有
大地震之節は当番にて留守には惣領某嬬【?】姉下女
家来なとも壱人有小者は弐人もありしや夫迄委細には
聞もはへらす次男九歳次女七歳に相成候よし家潰
て其内に在て早く出しくれ候へと【「早」以下右に追記】兄姉の名を両人共に【右追記】呼家来下女の名を
呼けれとも如何致候哉誰有て答るものも無く夫ゟ隣家の
平日知り居る名を戸【声】を限に呼たれとも是以誰有て聞
付助出さんと申人もなく其内に出火いたし追々火も廻り来て
両人共に南無阿弥陀佛と同音に申迚ものかれぬ事と
兄弟共に火中の炭【45コマによれば「灰」の意か】と成候事承り誠に涙に呉れたる事とも
なりき大人ならはいか様に致し候ても被出可申候九歳七歳の
児のいさゝの所なりとても押やふり候事もならす其通り潰
家の内にいきなから火災死失せしこといか成因縁か知らす扨
にくむへきは家内に人無きこと申にもあらす出火いたし候こと
なれは取残なとをのれのものを取出さんとはかりに心を
もちゐしと風聞にそあり誠に頼みなしきは人心なり
けり只々利に迷ひ人よくます〳〵強くなり行主人
え仕に徳は知らすとも是はおかし是はかなしきと申程
のことは誰いつも心得いることなるに誠に鬼ともいふへき
は是なとなり眼前のよくに迷ひ後年はいか成る
へきや悪むへし〳〵しかし他言はつゝしむきなり
大久保与三郎御使番也【已上四字右に追記】ゟ文通上略旧冬は珎鋪御褒美御座候
新吉原角町をのつちや内舞鶴与申遊女地震に付【以上四字右に追記】御すくひ
小屋え金三十五両手当遣し候由によつて北の御番所
井戸対馬守也呼出右舞鶴え銀二枚被下候此せつ
おひたゞしく客有之おふはやりと申事私存候は
右婦人へ面会のため相越候処両三日前に御をかけ候はゝ
ねは座鋪え出兼候由むなしく帰り候由申聞候是も
珍敷事に御座候
おなしく私最寄中奥御番青山監物与申者旧冬之
地震にて皆潰にに付勤続も相なりかたき処土蔵の
縁の下ゟ古金二千七両掘り出し候由承り及申候尤も先
祖ゟ子孫【以上二字右に追記】相伝譲りしため差置旨之書付かめに入有之
由に御座候誠に地震にて幸を得扨も世間に有之いろ
〳〵のこと有之候ものに御座候
品川御台場会津城主松平肥後守【以上五字右に追記】御預にて防禦の為家来百餘人居申候処【以上「にて」より朱書きで右に追記】地震に付小屋内
ゟ一端
不残出中に【二字朱で見消し】刀を小屋の内に置候て【朱で見消し】出候者拾四五人立帰
再【朱で右に追記】小屋之内に入候処小屋かたむきたり其内【以上「小屋かたむき」より朱書きで右に追記】出火にて何分出る事不能窓ゟ国許えの
品々申し残たる事共遺言等いたし刺(セツ)腹又は差(さし)【ルビ朱書】違ひ
壱人も不残【朱で見消し】皆々其通に【朱で右に追記】相果其内火追々に盛りになり
ていつれも【二文字朱で見消し】火炎【二文字左に朱で見消し】の中にはゐと【「灰(カイ)と」を朱で見消し】成りたるよし誠に武士
のほまれともいふへきなり【以上六文字朱で左に追記】なりしかしおしむき者共なりき事
あるには一方の働武名未世に止むへきに地震の為
かくなりし事おしむきに餘りあり地震にて死失
の者多けれともかくなるは外に聞も及はす右小屋は
如何の造りなりとも必死の場合【「所」見消し】に至りなとのかれいてん【二字左に朱で見消し】
にと申たれは去る年にて候小屋の作方は柱はいけ込にて
ことの外大造成木にてひしと貫を通し屋根は簾朶
をふき土を六尺積たることなれは中々やふれ不申との
ことなり聞しまゝにこゝにしるしおくなり
御老中内藤紀伊守殿には潰所破風ゟ出て坂下御門内なる【「御内」を朱で見消し】
御先手【右に追記】方番所にて着衣借用【右に追記】被致登城のよしに寺社奉行【以上四字右に追記】松平豊
前守斗は家内安否も不聞直に登城尤地震直に
出火にて屋敷不残焼失登城後家内安否家来
申来候よし小石川御門外御勘定奉行御役宅水野筑後守
玄関屋鋪石の間ゟ火を生し候よし尤さあるへき歟
げきとう【以上四字朱で見消し】することなれ火を生すも【朱で見消し】尤なり【二字朱で追記】昼なれは見
留候ものもあるましきに夜のことあかりなとは絶て無
きことなれは玄関前えのかれいてたるものゝ見しよし
なり亦地震と存すると直に数ケ所一同に焼出したる
こと誠に不審なり並之火事のことは立家にてたとへ
ていはゝよき程に真木を立掛けて火を付におなし
潰家は屋根瓦と友に火をおほふことなれは火気
しはらく火勢を進【四字朱で見消し】むることあたわさる【五字朱で見消し】利なるに
如何の窮理や有る火【朱で見消し】勢を塞きて火のきゆるこ【右に追記】と
まゝあり前云 揺働(ヨウトウ)の気にて火気益四方え通する
こともやあるならん不審西洋理学者に問度【四字朱で見消し】ことなれ
御馬預り【三字朱で見消し】諏訪部八十郎西丸下【右に追記】御厩潰れ候節娘を抱のかれ出ん
として夫なりに打潰されたりとのことなりあはれむへし
身一つならはいて有けん親子の情愛思ひやられたること
なり仏説に云【「説の」を見消し朱で三字追記】前世の【朱で右に追記】因縁といふことゝ所思ひ出されし也【朱で下に追記】
普請も近頃出来【二字朱で見消し】たるよしに候得共二階の下住居に成
したり【二字朱で見消し】心得へきことなりき瓦屋根かつは二階下なと
は地震の心掛有たきこと也【「心付へきよしに候」を見消し朱で十一字追記】板屋根の所は多分はつゝかなしとそ
人【見消し】命にかへかたきことなれ普請は【「普請の仕方は」を見消し朱で三字追記】手軽に致し候へきか
辰三月
堀田備中守殿御渡御書付写 大目付御目付え
去年地震以後
公儀にて御礼事等之節当分之内両月番え斗被相越候様
相達置候所最早前々之通老中若年寄中可被相越候尤
引移不相済分は不及其儀候
但両御勝手掛り斗相越候廉備中守伊勢守本多
越中守遠藤但馬守え相越候廉月番之若年寄え可
被相越候
右之通向々え可相達候
白紙
【左丁】
【シール(横三段)】 831 特別 15
裏表紙
地震太平記
鹿嶋(かしま)大明神(だいみやうしん)ちちうの鯰(なまづ)
どもをめしとらへいかれる御こゑをふりたてゝ
託せんしてのたまはく〽われ大やしろへほつそく
なししばらくくうしやとなせしるすちう
かなめ石がゆだんをみすまし去る十月二日
夜四ツどき人のねいきをうかゞつてせじやうを
さはがせばんもつをそんずることきつくわいしごく
すでに先ねんも上方すぢをはじめとして
しよこくをらんばうなしあまつさへ海ちうの
つなみ共を手びきいたしよういならざる
そうどうをくはだてぢう〳〵のふらち
すでにそのみぎりこと〴〵くかりつくすべきを
かくべつのじんしんをもつてそのまゝに見
のがしおきしをよきことにしておひ〳〵ぞうちやう
まことにこくかのばんちんたる大江戸を
さはがすことごんごだうだんほねをぬきくしに
さしてかばやきとなし又はつゝぎりにきり
きざんですつほんにとなすともあき
たらぬふるまひもはやゆるしがたし
かの白鳳のむかしよりせじやうにあたなす
なまづ共ひとり〳〵にはくじやういたせと
ねめつけ給へばあまたのなまづひげを
たれひれをふせはいつくばつてゐたり
しが年いとおいたるぶちなまづおそる〳〵
ぬたり出し〽おそれながら申上ます
なかまどもとしよりはみなおひ〳〵におち
うをとなりましたればふるいところはそんじ
ませねど元禄十五年の大ぢしんはかくまうす
わたくしめでございますヲヽそれよ思ひいだすも
なみだのたねあかふのさむらひ大石はじめ四十
七きのめん〳〵がしゆびよくかたきをうちおほせ
やれうれしやと思ふまもなくみな一どうに
せつふくときいておどろきとびあがるひやうしに
大地へあたまをぶつゝけこうくわいひげをかむ
ともせんなし又宝ゑいの四ツの年上方すぢを
さはがせましたはすなはちあれなるばゝアめと
きいて女のふるなまづ〽ハイ〳〵わたくしはどうも
ねつししやうでおはもじながらせんじゆくわんのん
さまがたかつてなりませんからひれでぼり〳〵かきどうふ【牡蠣豆腐?】
いちがふやつたいきほひにひぢのさきがちよいと
さはつておきのどくさまなせとものやさんなんぞに
大そうごそんをかけましたそうでございますと
いふとき又もうしろからまかりいでたる
ひやくしやうなまづ〽わしらア
ハア文化元年に出羽の
くにサアゆたぶり申たもので
ござりまうすあにも
ハアこのせかいさアたい
していしゆいこんのうさし
はさんだちうこんでは
おざりましないが
おぢよろなまづめが
あにはアぬらくらと
いやらしいみぶりのウしまへ
すのではねつけてやります
べゑと思つたのが一生のあや
まりねからげへなことをしでかし
まうしたわるくはおもはつしやれ
ますなといふうしろより又ひとり
同九年にくわんとうをといふをかきのけ
文政の十一年に越ごの国三でうたかたいづもざき
しばた五万石はあらそとまゝよと大あらしに
あらましたはわかげのいたりまつひらとつくばる
かたへにゐるなまづ〽ハイわつちやア天保元年
京とをゆたぶりやしたのらなまでごぜへやす
そりやアはゞかりな申ぶんモシおめへさんのめへで
ごぜへすけれどなんのかんのつたつてわけへごぜへ
せんそういつちやアごてへさうをまきあげるやうで
おかしくごぜやせんがながやのなまづのとむれへに
いきやしてかはなみのもゝひきをへゑてぶつつはつて
ゐやしたのであんよがひびてきがきれてきやしたから
こつてへられなくなつてびつぽういすりをはしめやした▲
▲ところが京とはらんちきさはぎ
わつちやアまうしわけがねへから
すぐにひげをきつてばうず
になりかなめいしさんに
まうしわけをしやした
といふことばさへをはら
ぬににようばうめきたる
おしやべりが〽アノわちきやア
弘化四年に信しうの
ぜんくわうじさまをぐら
つかせたなまづくはづの
びんばうざかなせんたくの
のりさへかはれずじぶんの
からだのねばりをとり
きものにつけるもけんやくと
はりとあんまでやう〳〵とそのひをおくる
そのなかにうちのをとこのあく
しやうな人をなまづもほとが
あるかばやきもちといはれる
かとさかれるやうなこのむねを
こらへてゐればよそほかの
女と一ツなべやきにだかれて
ころりとさんしよいり
うまにななかを見
るにつけわたしやこれ
まですつぽんにと
だしぬかれたがくやし
さにていしゆのむな
ぐらつらまへてゆす
ぶつたのが身の
あやまりおはら
もたとうがことわざ
のかんにんしなのゝぜん
くわうじとにげ
こむあとからうちかけのこづま
とるてもしどけなくおいらんなまづ
たちいでゝ〽ぬしにはおはつうで
ありんすわちきは嘉永六年
にさうしうの小田はらとやらを
ちつとのことのかんしやくからゆす
ぶりまうしいんしたがあとでおもへば
わるうおつしたきいておくんなんし
そのわけはかうでありんすわちきの
きやくじんが大くちの
ひげ山さんのとこへ☒【鼓のような記号】
☒いかしつて
しよかいなじみも
ようおいすがマア
はらがたつぢやア
ありんせんかトいひつゝたばこすひつけて
モシ一ぷくおあんなしとかしまのかみへだそうとするを
みるよりあとからこれ〳〵としかれば〽ヲホゝゝ
おやくにんさまでありんしたつけはから
しうおつすヨウ引又ひきつづいて●
●いでくるものども〽はい〳〵まうし上ます
わたくしら大ぜいはさくねん上方すぢを
おどろかせ申たものせう〳〵こゝろうれ
しいふじゆんのおてんきがございましたゆへ
そのこ□□【自信はありませんが、「ゝよ」と読み、「こゝよ」では。】にじやうじちやばんきやう
げんをとりたてこれにおりますわかい
ものがごん八わたくしが長べゑのやくうしろに
ひかえました大ぜいがくもすけやはりうしろは
はこね八りはうまでもこすがの出でござい
ますせりふはすこしもぢりましてきじも
なかずはうたれめへにゑきないことをいたして
ござるなどゝいふところをつぢのなまづは
くはれめへにゑきないむだをいたして
ござるなどゝかきかへましたがこゝのたてが
大さはぎになりましてくもすけうみの
なかへぶちこむひゞきがあふれてまい
つてつなみとなりまことにおそれいりました
さてまたこのたびのぢしんどもみなもつて
かみ〴〵さまのおるすをつけこむのかなめ石
とのがいたこと【「いたこ」では】がよひのゆだんを見すますの
とまうすわけではございません
みなもつてほんのそのざのやりそこ
ないいらいはきつとつゝしんでびん
ばうゆすりもいたしませんまたこの
たび人さまにおなげきやごそん
まうをかけすまないことのみでござい
ますからそのかはりこれからはこつかあん
のんごゝくじやうじゆうお金のたんと
まうかるやうにいのり上ますこと一どう
へいふくなしければかしまのかみもせんかた
なくみなそれ〳〵より一札をとりそのうへ
ならずかなめ石のまもりをげんぢうに
まうしつけ給へばもはやこのうへきづかひなしと
おの〳〵あんどしたりけり
【表紙】
「【後筆】
『十二ノ五十六第四棚』
従嘉永四亥年【1851年】
至万延元申年【1860年】
七十冊物類集四十三
北
年番方」
【朱丸印】「東京府図書館」【朱角印】「旧幕引継書」
牢屋敷御普請御修復地震ニ付骨折候
掛与力同心其外御褒美
【朱書】
「嘉永五子年【1852年】八月廿七日竹村慈左衛門を以
御渡同九月六日ヒレ付渡し同人を以返上」 ┌ ヒレ
┌────────────────────────
│ 牢屋敷風破所出来仕候儀申上候書付
│ 加藤橘三郎
│ [年番え御断 安藤源之進
│ 石出帯刀
└────────────────────────
当月十七日伺相済候牢屋敷風損所昨日迄ニて
不残皆出来仕候ニ付私共見分仕候処仕様注文
之通無相違出来仕候間右代金八両壱分四匁
相渡候様年番え被仰渡御座候様仕度奉存候
依之申上候以上
八月廿七日 加藤橘三郎
安藤源之進
石出帯 刀
ヒレ
書面風損所御修復代金八両壱分
銀四匁両御役所二ツ割を以牢屋見廻え
相渡可申旨被仰渡奉承知候
子九月 年番
仁杉八右衛門様 都筑十左衛門
荻野政七様 松浦安右衛門
牢屋御修復之儀同所見廻りより
別紙之通【以上4文字見消】申立候ニ付取調候処不相当
之儀も相見へ不申候ニ付御存寄も無之候ハヽ別紙ヒレ付
差出可申と存候無御腹 臓(ママ)御加除之上
別紙は御返却可被下候已上
十一月廿日
都筑十左衛門様 仁杉八右衛門
松浦安右衛門様 荻野政七
牢屋敷御修復之義同所見廻ゟ
申立候ニ付被成御取調候処不相当
之儀も相見不申候ニ付存寄も無之
候ハヽ御別紙之通鰭【ひれ】付御差出可
被成と御相談之趣致承知候書類
一覧致し候処拙者共何之存寄も無御座候
依之御別紙返却右御報得御意候
以上
十一月廿日
【朱書】
「嘉永七寅年十一月四日直渡ヲ以御渡」
┌──────────────────
│ 牢屋敷損所之儀申上候書付
│ 谷村官太郎
│ 安藤源之進
│ 石出帯 刀
└──────────────────
牢屋敷所之損所見分仕候処左之通御座候
一本牢西之方屋根南側棟下瓦下り申候
一惣体煉塀屋根瓦所〻損申候
一御役所向其外屋根瓦所〻損申候
一惣体煉塀内之方幷裏門両袖煉塀共
漆喰落所〻損申候
一揚げ座敷裏之方揚裏弐ケ所棰形【たるきがた】練なまこ
瓦等漆喰落損申候
一百姓牢北側揚裏落損幷同所構塗塀
漆喰落申候
一米蔵腰巻損申候
一表門番所塗棰形漆喰落申候
右之通損所有候ニ付御修復御座候様仕度
奉存候尤右直段積り申付候処都合金拾壱両
弐分六匁相懸り候旨仕手之物申之候間再応
引ケ方申付候処此上引ケ方無御座候旨申立候
則別紙積書相添此段申上候右直段ニて
御修復可被仰付哉奉伺候以上
寅十一月 谷村官太郎
安藤源之進
石出帯 刀
書面牢屋御修復御入用取調候処不
相当之儀も無御座候間伺之通被仰付
可然哉ニ奉存候右代金両御役所
二ツ割ヲ以相渡候様可仕と奉存候
寅十一月 年番
書面牢屋御修復御入用金拾壱両
弐分銀六匁両御役所二ツ割ヲ以相渡
可申旨被仰渡奉承知候
寅十二月 年番
惣体煉塀内之方並ニ裏門両袖煉塀
揚座敷裏之方揚裏弐ケ所棰形【たるきがた】腰通
なまこ瓦等百姓牢北側揚裏同所
構塗り塀御米蔵腰巻同平御繕の
仕様帳
覚
一惣体煉塀内之方裏門両袖煉塀とも
漆喰落所〻中塗り損し候処は荒木田土
ニて穴埋仕中附致し悪敷所ハ漆食剥落し
惣体見苦敷所ハ白漆喰ニて上塗り共〻凡六拾五間程
一揚座敷裏之方揚裏弐ケ所棰形大損し
相成下附藁苆【わらすさ】漆喰ニて中附荒木田土中塗り白漆喰
上塗り仕候 腰海(生)鼠瓦等漆喰損し分所〻繕候
一百姓牢北側揚裏大損しニ相成候処下附は
藁苆【わらすさ】漆喰中附ニ荒木田土中塗り上塗り白漆喰ニて
仕候
一同所構塗り塀漆喰腰通之所之漆喰損し
之分剥落申荒木田土ニて穴埋致し中附仕り
中塗り仕候白漆喰ニて上塗り仕候
一御米土蔵平壁損申候分施繕申腰巻損し候分
中塗り共鼠漆喰ニて上塗り仕候其外所〻
塀腰通り損し申候分中塗り荒木田土上塗り白漆食
仕候
一表御門脇番所家根破れ漆喰損し候分
上塗り仕候左官手間土浚手間手伝手間其外
荒木田土砂藁苆漆喰白漆喰鼠漆喰とも
飯米まて一式御受負入念奉出来候
外ニ右牢家根押瓦面も損し候間凡三十五間程
藁土込白漆喰ニて上押仕候
此金八両三分
右之通ニ御座候以上
神田元乗物町東代地
十月廿三日 家主長平店
左官清三郎㊞
役人衆中様
覚
一牢御屋敷御牢御家根南側之棟
下三尺拾五間通り葺直シ仕候但シ
軒下新キニ壱枚通たし入仕候外ニ
損し候所繕仕候
煉塀御屋根損し候場所繕仕候舂屋
屋根棟下弐間半新キニ壱枚通り
たシ入仕候
御屋敷内御屋根所〻損し候所
繕仕候われ瓦取替仕候たシ瓦
土手間料共瓦方一式
代金弐両三分銀六匁
右之通念入御請負仕候
寅十月 紺屋町家主太助店
瓦師 勝右衛門印
牢御屋敷御役所
御役人衆中様
【朱書】「南御持」請取申金銀之事 【朱書】「此書面寅十一月四日
鎰役彦根金蔵え
指出ス」
金拾七両弐分銀六匁六分
右は東弐間牢其外御修復御代金御渡
被成慥奉請取候仍如件
小伝馬上町
享和二戌年五月 久兵衛店
巳之助印
原兵左衛門殿
山崎助左衛門殿
三好助右衛門殿
高橋八郎右衛門殿
【朱書】「北御持」
牢屋敷惣箱下水御修復申上代金
一金五拾九両弐分
右は文化十二亥年三月申上
【朱書】「□□□」【「北御持」カ】
請取申金銀之事
一金拾弐両弐分銀拾弐匁五分
右は牢屋敷石大竈壇 筑(ママ)直御修復御代金
被成御渡慥ニ奉受取候仍如件
西河岸町太兵衛店
文化十三子年五月 石屋
惣七印
都筑兵右衛門殿
松浦弥二郎殿
小原惣右衛門殿
由比弥八郎殿
仁杉八右衛門様 都筑十左衛門
荻野政七様 松浦安右衛門
牢屋御修復場所出来ニ付 ニ付【以上2文字見消】代金
受取候儀同所見廻ゟ申立候書面
被相下候ニ付別紙之通ヒレ付にて差出
申候二ツ割之儀は応追て可申進候
別紙は
御尤ニ付御留置可被成候
十二月七日
都筑十左衛門様 仁杉八右衛門
松浦安右衛門様 荻野政七
牢屋御修復場所出来ニ付代金
受取之儀同所見廻ゟ申立候書面
御渡相成ニ付別紙之通鰭付御差
出相成且二ツ割之義は追て被御申越
下趣致承知候別紙は任被留置申候
右為御報如斯御座候以上
十二月八日
【朱書】「寅十二月七日弥市ヲ以御渡即刻ヒレ付御下同人を以返上」
┌────────────────────────
│牢屋敷損所出来仕候義申上候書付
│ [年番え御断 牢屋見廻り
└────────────────────────
当十一月廿五日伺相済候牢屋敷内
損所昨日迄不残皆出来仕候ニ付私共
見分仕候処注文之通無相違出来
仕候間右御代金拾壱両弐分銀
六匁相渡候様年番え被仰渡
御座候様仕度奉存候依之申
上候以上
十二月八日 谷村官太郎
中村又蔵
都筑十左衛門様 仁杉八右衛門
松浦安右衛門様 荻野政七
牢屋鋪損所御修復之儀同所見廻
申立候書面被相渡候間別紙案之通
鰭付差出可申と存候御存寄御加除被下度
書類写相添為御相談得御意候以上
二月六日
追て別紙写御覧御返却有之候様致度
存候以上
仁杉八右衛門様 都筑十左衛門
荻野政七様 松浦安右衛門
牢屋敷損所御修復之儀申立候ニ付
鰭付共案文御取調御相談之趣聊存寄
無御座候依之別紙書類返却此段
御報得御意候已上
二月七日
追て人足改下役疵見分人足賃二ツ割
之儀被仰越致承知候
┌──────────
│ヒレ付末ニ有之
【朱書】「卯二月六日折右衛門ヲ以御渡」┌──────────
│ 同断
┌──────────────────────────────
│【朱書】「安政二卯年二月七日相談通り松本直兵衛を以御渡
│ 即日ヒレ付致し同人を以返上」
│ 牢屋敷損所之儀申上候書付
│ 安藤源之進
│ 谷村官太郎
└──────────────────────────────
一本牢西之方屋根軒瓦下り軒先漆喰
瓦共落申候
一米蔵戸前下り立合悪敷相成申候
一牢屋敷構煉塀南之方崩落屋根瓦共
落損申候
右之通損所有之候ニ付御修復御座候様
仕度奉存候尤右直段積申付候処都合金
四両壱分ト銀五匁相掛候棟仕手のもの共
申之候間再応引ケ方申付候処此上引ケ
方無御座候旨申之候即別紙積書相添
此段申上候且右直段ニて御修復可被仰付
哉奉伺候以上
卯二月 安藤源之進
谷村官太郎
【朱書】「鰭付案」
書面牢屋鋪損所御修復御入用
之儀取調候処不相当之儀も無御座
候間牢屋見廻伺之通御修復被
仰付可然哉ニ奉存候右御入用
金銀は先例之通両御役所二ツ割
を以相渡候様可仕候
卯二月 年番
ヒレ付
書面牢屋敷損所御修復御入用之儀
南年番取調申上候通被仰渡可然哉ニ
奉存候 北
卯二月 年番
覚
一牢御屋敷内牢御屋根軒通拾壱間
瓦四五枚通葺直シ仕候
小伝馬町通り御練塀四尺程有来り
通ニ付直シ仕同所御練塀屋根繕
仕候右之瓦大釘釘鋼共瓦方一式
代金三両ト銀五匁
右之通念入御請負仕候
紺屋町
家主太助店
瓦師 勝蔵
牢御屋敷御役所
御役人衆中様
覚
一大牢前揚裏面損シ場所凡拾一間程
穴埋致シ藁苆【わらすさ】漆喰ニて下附仕塗
白漆喰ニて仕候
一御米土蔵戸前口立合は悪敷所
削落シ砂摺【すなずり】荒木田漉土ニて仕中
塗致シ上塗白漆喰ニて仕候
右之ケ所左官方諸袋物揚裏足
場共一式御受負仕候
代金壱両壱分也
神田元乗物町東代地
家主長平店
左官
清太郎印
安政二年二月二日
御役人衆中様
都筑十左衛門様 仁杉八右衛門
松浦安右衛門様 荻野政七
牢屋敷損所御修復御入用金銀
別紙請取書写之通今日牢屋
見廻え相渡申候右弐ツ割
之儀は追て可申進此段得
御意候以上
三月廿八日
追て別紙写御留置可被成候以上
請取申金銀之事
一金四両壱分ト
銀五匁
右は牢屋敷内損所御修復出来ニ付
右御代金被成御渡慥ニ請取申候
仍如件
安政二卯年三月 安藤源之進
仁杉八右衛門殿
荻野政七殿
都筑十左衛門殿
松浦安右衛門殿様
【朱書】「安政二卯年十月三日」
┌────────────────────────
│[伊勢守殿【朱書】「え御右筆を以上ル」
│ 地震ニ付牢屋敷仮板囲之儀ニ付申上候書付
│ [井戸対馬守
│ 町奉行
└────────────────────────
昨夜地震ニて牢屋敷数ケ所震ひ崩候
内急速難捨置場所外囲四方煉塀
幷埋門続左右煉塀震ひ崩候ニ付仮板囲
出来候様仕度旨組牢屋見廻囚獄ゟ申
聞候御取締ニ拘り片時も難捨置場所
早〻補理【しつらえ】可申旨申渡候御入用之儀は
追て取調可申上候依之申上置候以上
十月三日 井戸対馬守【町奉行】
池田播磨守【町奉行】
【朱書】「安政二卯年十月十一日於 御殿池田播磨守え打合之上
存寄無之旨ニ付阿部伊勢守【老中】殿え小野田三郎右衛門ヲ以上ル差急
候儀ニ付播磨守え相談ニ不相廻候間写差遣ス」
┌──────────────────────────────
│[伊勢守殿
│ 地震ニ付
│ 牢屋之内差向御修復之儀申上候書付
│ [井戸対馬守
│ 町奉行
└──────────────────────────────
地震ニ付牢屋敷数ケ所之損所夫〻手伝
いたし置候処尚追〻ニ揺レ曲り候場所有之
賄所之儀は日〻大火焚候場所ニて此上
傾キ震れ崩候儀等有之候ては囚人とも
飯米焚出候場所ニ差支候ニ付外損所は尚
取調可申上候得共差向賄所而已御作事方
見分之上御修復御座候様仕度別紙絵
図面相添此段申上候以上
卯十月
【朱書】「同日遠山隼人正え達ス」
┌──────────────────
│
│ [御作事奉行衆 井戸対馬守
└──────────────────
地震ニ付牢屋敷損所之内差向賄所
御修復之儀別紙之通伊㔟守殿へ申上候
依之為御承知此段及御達候
卯十月
【朱書】「卯十月十一日差出ス」
┌────────────────────────
│牢屋敷御普請幷御修復之義申上候書付
│ 谷村官太郎
│ 安藤源之進
└────────────────────────
去ル二日夜地震ニ而牢屋敷所〻揺崩
損所御普請幷御修復左之通
一牢屋敷外廻り下水石垣損候惣体煉塀
揺崩土台石控塀忍返し崩損申候
一本牢百姓牢埋門揺り崩申候
一本牢前改番所揺潰申候
一引合之者腰掛所揺潰申候
一御様場【おためしば】揺潰申候
一賄所惣体強く揺レ傾キ壁崩家根瓦共 ┏下
損申候 ┃ケ
一裏門内埋門揺レ曲り損申候 ┗札
一表門揺レ曲り家根瓦落同所御番所
所〻損申候
一裏門曲り損申候
一本牢幷当番所共惣体震ひ曲り
土台石崩レ所〻損し家根瓦下り西之
方南側瓦不残崩落損申候
一揚座敷幷当番所共惣体揺曲り庇
落家根瓦共所〻損申候
一百姓牢幷当番所共惣体揺曲所〻損申候
一同所改番所壁落家根瓦共所〻損申候
一御役所向玄関穿鑿所【せんさくじょ=白洲】物書所薬調合所
同煎所同心詰所所〻雪隠共揺レ損候
家根壁瓦壊レ落申候
一張番所揺レ曲レ壁落家根瓦損申候
一拷問蔵損申候
一帳面蔵米蔵共揺レ曲り土瓦震ひ
落損申候
一賄役詰所所〻損申候
一米 舂【つき】所検使場駕籠置場揺レ曲り損申候
一本牢東西竹塀損申候
一惣体板塀所〻倒損申候
一役人長屋惣体揺れ曲り壁落家根瓦共
所〻損申候
一牢屋敷表裏辻番所幷木戸弐ケ所共
揺損し雪隠潰申候
右之通御普請幷損所御修復早〻被仰付下様
仕度奉存候依之申上候已上
卯十月 谷村官太郎
安藤源之進
下ケ札
本文賄所之儀大火焚候場所ニて
片時も難捨置候由之間早〻御修復
相成候様仕度段去ル八日別廉ニ申上奉候
【朱書】「安政二卯年十月十四日阿部伊勢守殿え宮重久右衛門ヲ以申上ル」
┌──────────────────────────────
│[伊勢守殿
│ 地震ニ付牢屋敷損所御普請御修復之儀申上候書付
│ [井戸対馬守
│ 町奉行
└──────────────────────────────
去ル二日夜地震ニ付牢屋損所之内差向
難捨置場所而已御修復之儀申上置候処尚又
取調 候処【以上2文字見消】ケ処別紙ケ所書之通損所御座候ニ付
外場所とも違損所有之候ては御取締ニも拘候間早速御修復
御座候様仕度候間御作事奉行え被仰渡候様
仕度別紙損所箇所書相添此段申上候已上
卯十月 井戸対馬守
池田播磨守
┌──────────────────
│ 地震ニ付牢屋損所ケ所書
└──────────────────
一牢屋外廻り下水石垣損し惣体煉塀
揺崩土台石控塀忍び返し崩損申候
一本牢百姓牢埋門揺り崩申候
一本牢前改番所揺潰申候
一引合之者腰掛所揺潰申候
一御様場【おためしば】揺潰申候
一賄所惣体強く揺レ傾キ壁崩家根瓦共 ┏下
損申候 ┃ケ
┗札
一裏門内埋門揺レ曲り損申候
一表門揺レ曲り家根瓦落同断御番所
所〻損申候
一裏門曲り損申候
一本牢屋当番所共惣体震ひ曲り
土台石崩レ所〻損し家根瓦下り西
之方南側不残崩落損申候
一揚座敷幷当番所共惣体揺曲り庇
落家根瓦共所〻損申候
一百姓牢幷当番所共惣体揺曲所〻
損申候
一同所改番所壁落家根瓦共所〻損申候
一御役所向玄関穿鑿所物書所薬
調合所同煎所同心詰所所〻雪隠共
揺レ損し家根壁瓦壊落申候
一張番所揺レ曲レ壁落家根瓦損申候
一拷問蔵損申候
一帳面蔵米蔵共揺レ曲り土瓦震ひ
落損申候
一賄役詰所所〻損申候
一米 舂【つき】所検使場駕籠置場揺レ曲り
損申候
一本牢東西竹塀損申候
一惣体板塀所〻倒損申候
一役人長屋惣体揺れ曲り壁落家根瓦共
所〻損申候
一牢屋表裏辻番所幷木戸弐ケ所共
揺損し雪隠潰申候
右之通御座候以上
井戸対馬守
卯十月 池田播磨守
本文賄所之儀は片時も難捨置候間
別段御修復之儀申上置候
┌──────────────────
│
│ [御作事奉行衆 井戸対馬守
└──────────────────
地震ニ付牢屋損所惣体御修復
之儀今日伊勢守殿え申上候間此段
為御承知及御達候
卯十月十四日
【朱書】「卯十月十三日弥市ヲ以呈覧」
播磨守殿 井戸対馬守
地震ニ付牢屋損所御修復之儀見廻りゟ
申立候ニ付別紙之通り御普請御修復之儀
可申上と存候依之及御相談候
卯十月
【朱書】「 卯十一月六日竹村慈左衛門ヲ以御渡」
┌────────────────────────
│
│ [町奉行衆 遠山隼人正【作事奉行】
└────────────────────────
牢屋敷地震損箇所之御修復被
仰出候場所取掛候節其御方ニて
御取建有之候外構仮板囲之儀
煉塀出来寄迄之内其儘【侭】御差置
有之候ても御差支無之候哉左候へは
別段当方ニて取建不申御入用
之儀も仮板囲之分相除キ申上候
積り且煉塀出来之上御達次第
御取払御座候様致度存候尤御修
復中風損其外等之節手入
幷差支候ケ所取建直等当方
ニて可為致候右御差支無之候哉
此段及御掛合候
卯十一月
下ケ札
御書面牢屋外構仮板囲之儀
煉塀出来迄其儘可被差置
尤御修復中風損其外ノ手入
之場所有之取建直等之儀ハ
其御方ニて御取計可被成趣
承知致し差支之儀無之候間
皆出来之節尚御達有之候様
存候依之及御挨拶候
卯十一月 井戸対馬守
【朱書】
「安政二卯年十月廿日来ニ付牢屋見廻り囚獄え相達し候処
差支無之旨返書来ニ付即日御作事奉行衆え返書
指遣ス尤用部屋取計候上鈴木弥市を以御渡」
┌────────────────────────
│
│井戸対馬守様 遠山隼人正
│
└────────────────────────
以 手紙得御意候然は牢屋敷
地震損ケ所之内賄所御修復之儀
被御申上候書面伊勢守殿御下ケ被成
候ニ付場所之様子明後廿二日九ツ時過
支配向見分為致候ても御差支有之
間敷哉若又御差支之筋有之候ハヽ
外日限之儀御報ニ御申越可被成候且
雨天は日送之積り有之候此段得
御意候以上
十月廿日
【朱書】「卯十月廿三日鈴木弥市ヲ以御渡」
┌────────────────────────
│ 牢屋敷地震跡御普請幷御修復所
│ 見分之儀申上候書付 谷村官太郎
│ 安藤源之進
│ 石出帯 刀
└────────────────────────
御大工頭
松島重左衛門
御作事下奉行勤方
尾牛藤右衛門
御被官助
山田寅重郎
仮役
黒子栄工郎
勘定役出役
唐沢摩三吉
小役
坂川寛之丞
手代
高橋吉之進
定普請同心出役
横川直右衛門
大棟梁見習
平内泰次郎
大工棟梁
浜松彦八郎
右之通今日牢屋敷え罷越私共
立合御普請幷御修復所見分
有之候依之申上候以上
十月廿二日 谷村官太郎
安藤源之進
石出帯 刀
【朱書】「安政二卯年十月廿六日竹村慈左衛門を以御渡」
┌────────────────────────
│
│ 牢屋敷煉塀築足御修復之義申上候書付
│ 牢屋見廻
└────────────────────────
牢屋敷煉塀之儀三方町家度〻之
類焼ニて往来え焼土敷平均追〻地高ニ
相成牢庭幷死刑場共〻見越候様相成
御取締ニも拘り候ニ付去ル嘉永三戌年【1850年】
築足御修復之儀申上候処裏門通り
四拾七間余南之方町家境弐拾壱
間煉塀幷石垣共〻弐尺余築足御修
復近来仕候然処此度地震ニて惣体
煉塀揺崩し候ニ付御修復之儀申上置
候処表門通り之方は馬上ニて通行致
候もの共牢庭 鞘【さや】内迄も見越候儀
ニて御取締ニも拘り候義ニ付此度御修
復 序【ついで】先年築足相残候分表門
通り弐拾壱間余北土手通り三拾九間
之処戌年御修復相成候裏門通り
同様煉塀石垣共弐尺余築足御修復
御座候様仕度奉存候申上候通り御修
復出来相成候得は御取締向は勿論
非常之節消防手当ニも相成候儀ニ
御座候尤此節柄御入用相増候儀申上
候も恐入候得共今般有形之通御修復
御届候ては追て築足御修復之儀申
上候期も無御座候ニ付何卒此度御修
復序之儀ニも御座候間可相成は申上候
通り御修復御座候様仕度奉存候
依之申上候以上
卯
十月日 谷村官太郎
安藤源之進
┌────────────────────────
│
│ 牢屋敷煉塀築足御修復之儀再応申上候書付
│ 牢屋見廻り
└────────────────────────
牢屋敷外構惣煉塀築足御修復之儀先達て
取調申上候処伊勢守被成御下ケ築足御修復
之儀難被及御沙汰段被仰渡奉承知候右を再応
御修復之儀申上候も恐入候得共先達て奉申上候
通り牢屋敷近辺近来度〻之類焼ニて其節之
焼土等往来え敷均【なら】し地行仕候故別て東側町家
之方以前ニ見競候得は三尺余も地高ニ相成死刑
場牢屋をも見越候様成行馬上ニて通行致し
候ものハ鞘【さや】内迄も見込候儀往来繁キ場所甚
不要害之儀取締向ニも拘り此以後町家類焼
有之候得は猶〻往還地高ニ相成弥牢屋死刑
場を見越候様成行要害第一之場所此儘【侭】
被差置候ては自然不取締之儀出来可仕も
難計且非常之節消防之一助ニも相成候儀
ニ付裏門通東側ゟ南之方町家境格別之
間数ニも無御座候間此度百姓牢御修復之序
右之場所 而已【のみ】煉塀弐尺通築足御修復
御座候様仕度奉存候依之絵図【圖】面相添此段
申上候以上
【朱書】「嘉永三年」 加藤橘三郎
戌七月 安藤源之進
【朱書】「此申上書面七月□□□□□□□□【とじ込み部分になってしまい見えない】」
┌───
│ 黒子宗三郎様 加藤橘三郎
│ 吉本惣左衛門様 安藤源之進
└───
以手紙得貴意候然は郎屋敷煉塀築足
御修復之儀先達て奉行ゟ申立候通り此度御下知
有之候ニ付ては右場所板囲其外共御取調出来
仕候ハヽ仕様帳早〻御廻し御座候様仕度候此段
御懸合仕候以上
【朱書】「右同年」
十月朔日
┌─
│遠山左衛門尉様【町奉行】
│ 井戸対馬守様 田村伊予守【顕彰、作事奉行】
└─
以手紙得御意候然は牢屋敷構煉塀築足
御修復之儀被御申上候書面先達て伊勢守殿
御下ケ被成候ニ付場所篤と見分為致候処煉塀
弐尺高ニ築足候ニは煉塀石垣共敷巾無之ニ付
石垣上え石ニて築足候積り仕様取極支配向ゟ
御支配向え懸合候処存寄無之旨申聞候ニ付
両三日中之内進達可致と存候右ニて御存寄
無之候哉承知致し度否御報被仰聞候様
致度此段得御意度如斯御座候以上
【朱書】「右同年」
十月十五日
【朱書】「右別紙御作事奉行衆ゟ申来候ニ付為心得御用部屋相廻し」
一嘉永三戌年十一月廿五日ゟ煉塀築足え
取掛り候積り御作事方ゟ加藤橘三郎殿え
談有之候旨被申聞候
【朱書】
「卯十一月十六日松本直衛を以上る
翌十七日伊勢守殿え恩田友之助を以上る
┌───────────────────────────
│ 同十二月十六日御同人同人を以御下ケ
│ 承付いたし同十九日返上」
│[伊勢守殿
│ 牢屋敷外構煉塀築足御修復
│ 之儀申上候書付
│ 書面煉塀築足御修復之義御作事 [井戸対馬守
│ 奉行承付之通ニ御渡候段奉承知候 町奉行
│ 卯十二月十六日
└───────────────────────────
牢屋敷外構煉塀之儀三方町家
度〻之類焼ニて往来え焼土瓦敷
平均追〻地高ニ相成牢庭幷死刑
場共見越候様相成不要害ニて取
締ニも拘り候ニ付去ル嘉永三戌年【1850年】中
築足御修復之儀申上候処裏門
通四拾七間余南之方町家境弐
拾壱間煉塀石垣共弐尺余築足
御修復出来仕候其節町家之方
以 後普請修復之節【以上7文字見消】来類焼之節者勿論惣体【以上10文字追加】地高ニ不致
候様最寄町役人共え申渡置候然ル
処此度之地震ニて牢其外所〻
損所出来外構煉塀之儀は惣
体震崩候ニ付右箇所之御修復
之儀申上候作事奉行え御修復被
仰付候処表門通之方は町家往
来共是迄之地高ニ付馬乗ニて
通行致候ものは牢 通【以上1文字見消】屋【1文字追加】鞘内迄も
見越要害は勿論取締ニも拘り
候間此度崩れ候煉塀惣体御修
復ニ付ては先年築足相残候分
表門通 弐拾壱間余【以上5文字見消】幷【1文字追加】北之方土手
通り 三拾九間之所【以上6文字見消】之方共【3文字追加】裏門通り同様 所【1文字見消】石【1文字追加】
垣共弐尺余築足御修復御座候得
は取締向向も宜火事之節防方手
当にも相成候儀に付築足御修復
御座候様仕度此段御作事奉行え
被仰渡可被下候以上
卯十一月 井戸対馬守
池田播磨守
【朱書】
「安政二卯十一月十八日差越同月廿日挨拶下ケ札付返却」
┌────────────────────
│
│ [町奉行衆 遠山隼人正
└────────────────────
牢屋敷地震損ケ処之御修復御用ニ付
同所脇土手下え別紙絵図面朱引之通
下拵小屋場竹矢来取建候ても御差支
之儀無之候哉否御下ケ札ニて早〻御挨拶
有之候様致度此段及御掛合候
卯十一月
御書面之趣差支之義無之候
尤前〻之振合ヲ以取計可申候
依之及御挨拶候
卯十一月 井戸対馬守
【絵図面】
【絵図面】
【朱書】 ┌──────────
「安政二卯年十二月九日恩田友三郎ヲ以 │ 卯十二月九日
御下ケ翌十日返上」 │ 井戸対馬守承之
┌──────────────────────────────
│ [備前守殿
│ 牢屋敷地震損所ケ所〻御修復御用小屋場
│ 地所請取之義申上候書付
│ 町奉行え御断 遠山隼人正
└──────────────────────────────
牢屋敷地震損ケ所〻御修復御用ニ付同所
構外土手下ニて 下拵【したごしらえ】小屋場竹矢来地所
別紙絵図面朱引之通請取申致奉存候
此段奉行え被仰渡可被下候以上
卯十二月
【朱書】「同日牢小屋え為持遣ス」
┌─────────────────────
│
│ [遠山隼人正殿 井戸対馬守
└─────────────────────
牢屋敷脇土手下
小屋場地所
壱ケ所
右は牢屋敷地震損ケ所御修復御用ニ付
書面之地所拙者共組与力幷支配向之
もの立合御引取可申候間明十日四時晴雨
とも右場所え御支配向御差出可被成候
十二月九日
【朱書】「同十日」
┌──────────────────
│ 石出帯刀え
│ 牢屋見廻
│ 町年寄え
│ 【朱書】「舘【奈良屋】市右衛門」
│ 地割え
└──────────────────
牢屋敷脇土手下
小屋場地所
壱ケ所
右は牢屋敷地震損ケ所御修復御用
ニ付書面之地所御作事奉行え引渡
候間今日四時晴雨共右場所え罷出
例之通り地面改可被引渡候
可被引渡候
可引渡候
十二月十日 可引渡候
谷村官太郎様 都筑十左衛門
松浦安右衛門
以手紙得御意候然は別紙之通
御作事奉行衆より御掛合有之候ニ付
下ケ札案之通御挨拶御座候間為御心得
写御達申候右可得御意如此御座候已上
十一月九日
┌──────────────────
│
│ [町奉行衆 遠山隼人正
└──────────────────
牢屋鋪地震損ケ所〻御修復御用
同所構外土手下え下拵小屋場地所
今日受取次第直ニ竹矢来取建取掛
申候此段御達申候
十二月十日
┌──────────────────
│
│ [町奉行衆 遠山隼人正
└──────────────────
牢屋敷地震損ケ所御修復御用
同所構外土手下御下拵小小屋場致
出来候間今十一日ゟ取扱役人相詰
下拵取掛り泊も為致候ニ付此段御達
申候
十二月十一日
【朱書】
「安政二卯年十二月廿二日伊勢守殿胆回猪飼源太郎ヲ以御下ケ」
┌────────────────────────
│
│ [町奉行え
│ 覚
└────────────────────────
牢屋敷地震損ケ所之御修復ニ付
其方組之者立合之心得ヲ以先例
よりハ人数少ニ取調可被相伺候事
【朱書】「安政三辰年二月十九日」
┌────────────────────────
│
│ 牢屋敷御修復ニ付立合組之者之儀ニ付奉伺候書付
│ 書面伺之通可申渡旨
│ 被仰渡奉承知候 井戸対馬守
│ 辰二月十九日 池田播磨守
└────────────────────────
牢屋敷地震損ケ所之御修復ニ付私共
組之もの立合之心得を以先例ゟハ人数
少ニ取調可相伺旨御書付を以被仰渡候此儀
前〻ゟ両組牢屋見廻与力壱人ツヽ同同心壱人
宛囚獄石出帯刀組牢屋同心 鎰役【かぎやく】両人
都合六人御修復之度毎立合之儀被仰渡
名前人数申上候然ル処此度は地震ニて
御修復箇所も多一体之取締向きも為相心得附
切相勤候儀ニ付人数等は差詰ニて此上
減方無御座候間右之通被仰付候様仕度
此段奉伺候以上
卯十二月 井戸対馬守
池田播磨守
【朱書】「安政三辰年二月十九日備中守【老中堀田正篤=正睦】殿恩田友之助を以御渡」
┌──────────────────
│
│ 覚
└──────────────────
伺之通可被申渡候事
【朱書】「安政三辰年二月於内座被仰渡之」
┌──────────────────
│
│
│ 牢屋見廻え
└──────────────────
谷村官太郎
安藤源之進
右ハ此度牢屋鋪地震ニて損ケ所御修復
立合入念可被相勤候尤下役同心壱人ツヽ
申付候間其旨可被相心得候
辰二月
【朱書】「安政三辰年二月廿八日丹阿弥を以上ル同三月十九日御覚書
御添斎藤三弥を以御下ケ承付致し同廿日返上
御覚書幷承付写向方え遣ス」
【付札の記号】
「備中守殿
牢屋敷御修復ニ付立合罷出候与力同心
御扶持方之儀申上候書付
書面与力え拾人扶持ツヽ同心幷牢屋同心
鎰役え弐人扶持ツヽ御用中勤日数を以 井戸対馬守
平扶持之積御扶持方被下置候旨被仰渡
奉承知候
辰三月十九日 池田播磨守」
此度牢屋鋪地震ニて損ケ所之御修復為
立合指出候与力弐人同心弐人幷牢屋同心
鎰役弐人日〻附切相勤候ニ付何卒御扶持方
被下置候様奉願候
【朱書】
「嘉永三戌年牢屋鋪内百姓牢幷番所向
其外御修復之節相掛ケ候与力弐人え拾人扶持
宛同心弐人幷牢屋同心鎰役弐人え弐人扶持
宛平扶持之積勤日数を以扶持方
被下置候」
以上
辰二月 井戸対馬守
池田播磨守
│
│ 覚
└──────────────────
書面与力え拾人扶持宛同心幷牢屋
同心鎰役え弐人扶持宛御用中勤日数
を以平扶持之積御扶持方被下候事
┌────────────────────────
│
│ 牢屋敷仮板囲建直之儀ニ付申上候書付
│
│ 牢屋見廻
└────────────────────────
牢屋敷煉塀築足御修復ニ付石切場土
台場等隔狭ニて差支候間別紙絵図面之通
板囲建直申度旨御作事方申聞候
有形ニて右場所え取掛相成候得は牢後え
職人共立入不取締之儀ニ付煉塀内え御仮
板囲等出来不申候ては相成不申候処夫ニては
別段御作事方御入用も相掛候趣ニ付
旁差支無之旨挨拶仕候依之絵図面
相添此段申上置候以上
辰二月 谷村官太郎
安藤源之進
【朱書】「安政三辰年四月廿七日竹村慈左衛門【97コマ参照】を以御渡」牢
┌────────────────────────
│
│ 牢屋敷南之方仮板囲取払候儀ニ付
│ 申上候書付 谷村官太郎
│ 安藤源之進
│ 石出帯 刀
└────────────────────────
牢屋敷南側町家境之方煉塀忍返し共
御修復出来仕候ニ付仮板囲取払右丸太
板共取片付積置申候依之御届申上候以上
四月廿七日 谷村官太郎
安藤源之進
石出帯 刀
申渡
牢屋敷裏門通東側ゟ南之方町屋類焼之度ニ
追〻往来地高ニ相成御構内見越候様相成候間
以来類焼之節は不及申惣体町屋之方地高ニ不
相成様相心得可申候
右之通被仰渡奉畏候御構外往来町屋共惣体
地高ニ不相成様心付可申段是又被仰渡奉畏候
為御請御帳ニ印形仕置候以上
小伝馬町壱丁目
嘉永三戌年十月二日 月行事 幸次郎印
同弐丁目
月行事 庄 助印
小伝馬上町
月行事 新 七印
名主亥一郎
後見 喜四郎印
大伝馬塩町
月行事 源 蔵印
名 主 勘解由印
鉄炮町
月行事 千 助印
名主久右衛門
煩ニ付代常 助印
右組合世話掛
大伝馬町
名主 勘解由印
同
村松町
同 源 六印
同
新葺屋町
同 定次郎印
申渡
牢屋敷裏門通東側ゟ南之方町屋
類焼之度〻 追〻往来地高ニ相成
御構内見越候様相成候間以来類焼
之節は不及申惣体町屋之方地
高ニ不相成様相心得可申候
右之通被仰渡奉畏候御構外往来
町屋共惣体地高ニ不相成候様心付可申
段是又被仰渡奉畏候為御請御帳ニ
印形仕置候以上
小伝馬町壱丁目
月行事
嘉永三戌年十月二日 幸次郎印
同弐丁目
月行事
庄 助印
小伝馬上町
月行事
新 七印
名主亥一郎
後見喜四郎印
大伝馬塩町
月行事
源 蔵印
名主 勘解由印
鉄炮町
月行事
与 助印
名主 久右衛門
煩ニ付代
常 助印
右組合世話掛
大伝馬町
名主
勘解由印
同村松町
同 源 六印
同
新葺屋町
同 定次郎印
【朱書】「辰七月廿七日 弥市【以上2文字見消】直衛【以上2文字追加】ヲ以御渡」
┌────────────────────────
│
│ 牢屋敷囲堀之儀ニ付申上候書付
│ 谷村官太郎
│ 安藤源之進
│ 石出帯 刀
└────────────────────────
牢屋鋪外廻り囲堀之儀此節浚方ニ
取掛候処泥中ニて石垣強損有之候様子ニ
御座候間先規有形之通築直御修復
御座候様仕度且往来之方ゟ土落込
土留石垣之詮も無御座候間御修復
序堀巾弐尺程も堀(ママ)広ケ土落込
不申候様築足ニ相成候様仕度左候へは
徃〻御取締且は非常消防之手当
ニも相成候儀ニ御坐候間此段申上候
尤此節柄御入用相掛候段申上候も
恐入候得共何分難捨置儀ニも御座
候間此度御修復序申上候通り出来
候様仕度奉存候依之絵図面相添此段申上候以上
辰七月 谷村官太郎
安藤源之進
石出帯 刀
┌──────────────────
│
│ ┌─
│ │町方掛
│ │ 御目付中 井戸対馬守
│ └─
└──────────────────
牢屋敷地震ニて損ケ所之御修復之儀
御作事方ニて追〻御修復取掛申候
此段御達申候
卯十二月
┌──────────────────
│
│【記入なし】
│
└──────────────────
此度牢屋敷地震ニて損ケ所之御修復
ニ付町方掛支配向立合之心得を以
見廻候様但馬守【若年寄遠藤胤統】殿被仰渡候依之
申達候以上
二月 大久保右近将監【忠寛、一翁、目付】
鈴木四郎左衛門【目付】
【朱書】「辰八月廿日」
┌────────────────────────
│ [備中守殿【朱書】「え恩田友之助を以上ル」
│ 牢屋仮板囲取払ニ付木品之儀申上候書付
│ 井戸対馬守
└────────────────────────
牢屋御修復追〻出来寄候間去卯
十月地震ニて外構崩候節取締
之ため取建候仮板囲取払候処
場所柄え相用候木品ニ付外ニ用方も
無御座候間御役所仮牢向幷両溜
之もの差置候場所等御修復足木ニ
遣方仕難用立分は入札払可
申付候此段申上置候
【朱書】
「牢屋御修復等之節古木類を都て
取捨候仕来ニ候得共此度之仮板
囲は構外え相用候分而已遣替
候積本文之通申上候」
以上
辰八月 井戸対馬守
┌─
│ 牢屋板囲之儀ニ付申上候書付
│ 書面伺之通取計可申旨
│ 被仰渡奉承知候
│ 辰六月廿一日 年番
└─
去卯十月二日夜地震ニて牢屋損所出来御取締
之御場所ニ付被仰上御役所ニて板囲いたし置候処
板囲之内弐十間程差崩候場所有之候ニ付
御役所御修復之内仮牢え御遣廻しニ可致と下役
差遣見分為致候処干割等有之御遣方ニは
相成兼候趣申聞候ニ付右は御払ニ申付此後
取払之分は尚見分為仕宜分御遣方之儀申上候様
可仕と奉存候依之此段 申上置候【以上4文字見消】奉存候【以上3文字朱で書き直し】已上
辰六月
牢屋敷構仮板囲取払候木品□□□□【綴じ目にかかり見えず】書
一杉丸太 弐百六拾三本
建地丸太布丸太扣丸太共
一貫長弐間 九拾八把
但壱把五挺詰合四百九拾挺
一同長壱間 七 把
但右同断合三拾五挺
一同長三尺 拾壱把
但拾挺詰合百拾挺
一松板 弐千弐百三拾五枚
一同長三尺 拾 五枚
凡百弐拾間程
右之通御座候以上
八月五日
【朱書】
「辰八月八日竹村慈左衛門【83コマ参照】を以上る」
┌────────────────────────
│
│ 【貼り紙】「牢屋仮板囲取払候木品之儀申上候書付」
│ 井戸対馬守
└────────────────────────
牢屋御修復追〻出来寄候間去卯
十月地震ニて外構崩候節取締之為
取建候仮板囲取払候処場所柄へ相用
候木品ニ付外ニ用ひ方も無御坐候間
此度【以上2文字貼り紙で抹消】御役所仮牢向幷両溜のもの
差置候場所等御修復足木ニ遣方
仕申 尤【以上1文字見消】猶用立分ハ入札払可申付候此段申上置候
【5行目は全文貼り紙の上に書き直されている】
【朱書】
「牢屋御修復等之節古木類は
都て取捨候仕来ニ候得共此度之仮
板囲ハ構外下相用候分而已 遣かへ【以上3文字見消】
遣替可申【以上4文字見消】遣替候様本文之通申上候
候場所足木ニ相用可申哉と奉存候【以上1行見消】」
以上
辰八月
取建候仮板囲取払候処場所柄へ相用
候木品ニ付外ニ用ひ方も無御坐候間
此度【以上2文字紙張で抹消】御役所仮牢向幷両溜のもの
差置候場所等御修復足木ニ遣方
可仕奉存候此段申上置候
【前コマと同じものだが5行目のみ貼り紙がまくられて書き直す前の文章になっている】
朱書
「牢屋御修復等之節古木類は
都て取捨候仕来ニ候得共此度之仮
板囲ハ構外下相用候分而已 遣かへ【以上3文字見消】
遣替可申【以上4文字見消】遣替候様本文之通申上候
候場所足木ニ相用可申哉と奉存候【以上1行見消】」
以上
辰八月
牢屋板囲入札開仕候ニ付奉伺書付
年番
牢屋板囲申上置候通取払候分最寄町触聞昨廿八日
入札被仕候処左之通御座候
落札 神田松下町三町目
一金七両銀五匁 次三郎店
定 七
弐番札 岡崎町
一金六両三分弐朱銀五匁 徳右衛門店
吉五郎
三番札 小日向松ケ町【松ケ枝町カ】
一金六両三分弐朱 鉄五郎
銀四匁
∘尚増金之儀申付候処板丸太とも干割損強候間此上増方無御座候旨申立候間
右之通御座候間∘落札金高ニて御払可申付候哉
依之入札三枚相添此段奉伺候已上
六月二十九日 都筑十左衛門
松浦安右衛門
【朱書】「辰八月五日」
┌──────────────────────────────
│ [備中守殿【朱書】「え御右筆ヲ以上ル」
│ 牢屋敷囲堀之儀ニ付茂上候書付
│ 書面之趣は難被及御沙汰損り候ケ所は
│ 元形之通手軽ニ取繕候様可致旨被仰渡奉承知候 井戸対馬守
│ 辰八月廿四日 町奉行
└──────────────────────────────
牢屋敷御修復之儀先達て申上追〻
出来ニ付外廻囲堀之儀此節浚方
取掛候処石垣強損有之堀幅五尺
五寸有形之通築直し御修復之儀
可申上候処年来相立損り候処共
有之埋りも強く不要害ニも御座候間
此度御修復序堀幅弐三尺程も
堀広ケ往来之方ゟ土落不申
候様石垣築足御修復御座候様仕度
右之通相成候へは御取締は勿論
非常消防之手当ニも相成候旨
組牢屋見廻与力囚獄石出帯刀
申聞候尤此節柄御入用も相掛り
候儀ニは候得共構堀狭く要害
ニて兼〻掛念ニ存何分難捨置
儀ニも御座候間此度御修復序
前分之通相成候様仕度此段御作
事奉行え被仰渡可被下候別紙
絵図面壱枚相添依之申上候已上
辰八月 井戸対馬守
池田播磨守
【朱書】
「辰八月廿四日備中守殿恩田友之助ヲ以御下ケ承付いたし
同廿六日返上尤御作事奉行承付未無之間
御覚書共御返上之旨弥市ヲ以被仰渡」
│
│ 覚
└──────────────────
書面之趣は難被及御沙汰損り
候ケ所は元形之通手軽ニ取繕候様
可被致候事
【朱書】「安政三辰年八月十一日竹村慈左衛門を以御渡」
┌────────────────────────
│ 牢屋敷向惣体御修復 出来栄【できばえ】
│ 為見分罷越候儀申上候書付
│ 谷村官太郎
│ 御届 安藤源之進
│ 石出帯 刀
└────────────────────────
御勘定組頭
小高登一郎
御勘定
菅浪辰之助
御普請役見習
田中鍬蔵
御徒目付
黒田節兵衛
御小人目付
田中岩太郎
伊藤幸太郎
御勘定
斎藤 六蔵
御大工頭
松島重左衛門
御作事下奉行勤方
尾本藤右衛門
御徒目付
永井 脇蔵
御被官介
山田寅重郎
仮役
兼子栄太郎
御普請役
武笠 鍵蔵
同代り
伊藤 一蔵
勘定役出役
唐沢摩三吉
小役見習
斎藤右金吾
手代
高橋吉之進
御小人目付
網野八兵衛
定普請同心
長尾佐十郎
中村左右輔
平井幾太郎
同出役
横井直右衛門
大棟梁見習
平内泰治郎
大工棟梁
浜松彦八郎
庄司金 作
右之通今日牢屋敷向惣体御修復
出来栄為見分罷越候間私共立合
無滞相済申候依之申上候以上
八月十一日 谷村官太郎
安藤源之進
石出帯刀
【朱書】「安政三辰年十一月廿五日飯田養助を以御渡」
┌────────────────────────
│
│ [町奉行衆 遠山隼人正
└────────────────────────
牢屋鋪囲堀御取繕之儀相伺置候処
伺之通御下知有之候間場所為取懸
可申処時節不宜候ニ付来正月
中旬ゟ為取掛候ても御差支之儀
無之候哉此段及御掛合候
辰十一月
付│未□取【綴じ目で読めず】
┌──────────────────────────────
│[備中守殿【朱書】「柳沢勉次郎を以御渡之旨原弥太郎を以御渡」
│ 牢屋敷構煉塀同下石垣共崩所御修復
│ 御入用之儀ニ付申上候書付
│ 中川飛騨守
└──────────────────────────────
牢屋敷構煉塀同下石垣共当【安政4年】閏
五月十八日強雨之節損所出来
居候付同所囲堀石垣築直御入用
ニては出来不申候之間猶見分
之上取調可相伺旨申上置然ル処
崩所御修復之儀猶又町奉行
申上候書面御下ケ被成御作事方
見分之上此節柄之儀ニ付
仕様省略厚勘弁致し御入用ニ
少〻取調可相伺旨被仰渡候ニ付
右之趣を以支配向幷職分之者え
も申渡篤と見分為仕候之処
地所惣体砂交り地山不宜崩
所続長七間余煉塀石垣共
落込大引ケ八間程は煉塀割
損石垣孕【はらみ】出其儘御取繕ニは
難相成候ニ付築直之積り其余
之煉塀石垣共差向危ケ所も
相見不申候得共囲塀之方数
ケ所落崩も有之序積方
手当等仕差置候得共一体
砂地之事故雨天等之節損増
之程も難計候ニ付石垣築直幷堀
浚方も甚心配仕候旨申聞候附而は
御修復中も無 掛念【けねん】取懸罷成此上
損不増様御保方専一手重ニ無之
厚勘弁之上御手軽ニ工夫可仕旨
申渡候処煉塀下石垣際え山留
請杭打込抜難志付候えは御不丈
夫も無之哉之旨差向御修復中
取懸候ニも掛念も薄ク尤御修復
出来候共其儘埋込差置候得は徃〻
地山押ニも罷成一段御保方宜候旨
申立候ニ付則書面之趣ニ仕様為取極
一式棟梁え渡切之積申渡御入用
精〻引ケ方為仕候処銀六貫八百拾五匁
【朱書注釈】「金〆百拾三両弐分五匁」
米二石四斗九升相掛申候尤外場所共
違ひ此上之省略方無御座手詰ニ
為取調候御蔵替板其外別紙
御断差上申候早〻相渡候様御材木石
奉行え被仰渡可被下候且前申上候通
不宜地所ニ付夫〻請方仕為置候上は
掛念之儀も無御座哉ニ奉存候得共
強雨等之節万一急破致間敷とは
難申候間此段兼て申上置候締之
場所柄ニ付手操次第取掛候様為仕
候間急速御下知御座候様仕度則仕様
帳内訳帳相添相伺申候以上
巳七月
ヒレ付
┌ 書面御入用銀六貫八百拾五匁米弐石四斗九升ヲ以
│ 伺之通御修復之積尤牢屋敷構堀ゟ今川橋
│ 川筋下水落口浚方行届不申候ニ付下水不押埋
│ 様精〻心付候様可仕旨且又右下水町方持之分も
│ 御座候ニ付町奉行えも御達御座候段被仰渡奉承知候
└ 巳九月四日 中川飛騨守【普請奉行】
ヒ┌巳九月廿四日
レ└一覧仕候 跡部甲斐守【北町奉行】
┌──────────────────────────
│
│ [町奉行衆 岩瀬肥後守【作事奉行、前外国奉行】
└──────────────────────────
牢屋敷内東西牢揚屋揚座
敷百姓牢其外共御修復中
同所構外土手ニて小屋場地所
御掛屋ニて請取置候処焼失ニ付
返地御断返御達可申処引続
御普請仕越差掛之儀申上候ニ付
右御用之方え猶相用候ても
御差支無之候ハヽ申上置候様ニ
有之候此段及御掛合候
午【安政5年】十二月
御書面小屋持地所御用相成
候ても差支之儀無之候依之
及御挨拶候
午十二月 石谷因幡守【北町奉行】
【朱書】「午十二月廿五日久保田増也ヲ以御渡」
┌────────────────────────
│[備後守殿
│ 牢屋鋪内東西牢揚屋揚座鋪幷百姓牢其外共
│ 御修復御用御材木揚場心附之義ニ付申上候書付
│ 町奉行え御断 岩瀬肥後守
└────────────────────────
当午七月九日申上置候
牢屋鋪内東西牢揚屋揚座鋪幷百姓牢
其外共御修復御用龍閑橋通御堀端え
御材木揚場取建差置候ニ付町方ゟ心附且
竹矢来廻え商物幷辻駕籠等差置申間敷旨
町奉行ゟ相触候様御断申上置候処猶又牢
屋鋪御普請仕越取掛候ニ付御材木其外
諸色揚場ニ相用候間御断申上候此段町奉行え
被仰渡可被下候以上
午十二月
┌────────────────────────
│ [紀伊守【老中内藤信親、越後村上藩主】殿
│ 牢屋鋪内東西牢揚屋揚座鋪幷百姓牢其外共
│ 御修復御用御材木揚場心附之義ニ付申上候書付
│ 《割書:町奉行|御普請奉行》え御断 岩瀬肥後守
└────────────────────────
当午七月九日申上置候
牢屋鋪内東西牢揚屋揚座鋪幷百姓牢
其外共御修復御用ニ付龍閑橋通御堀端ニて
御材木揚場取建差置候処御修復所幷
小屋場共焼失ニ付揚場之義も取払可申
筈ニ候得共仮牢其外仮物取建中諸色
揚場ニ其儘相用置候間右御用相済次第
御断返可申上積申上置尚又牢屋舗
御普請仕越取掛候ニ付御材木其外諸色
揚場ニ相用候間町奉行御普請奉行え被仰
渡可被下候御用相済取払次第御断返
可申上候以上
午十二月
《割書:【朱書】|【前行はとじこまれ読めず】》 《割書:┌──────────────|│書面町奉行組之物立合候様》
《割書:「之旨内蔵之進を以御渡写留御向方御月番|に付南え御廻有之候様内蔵進え達ス」》《割書:│可致旨被仰渡奉承知候|│ 未三月十六日 岩瀬肥後守》
┌───────────────────────
│ [備後守殿
│
│ 牢屋舗焼失跡御普請ニ付町奉行組之者
│ 立合之儀申上候書付
│ 岩瀬肥後守
└───────────────────────
牢屋舗焼失跡御普請御締場所之儀ニ
御座候之間御普請中町奉行組之もの
立合被仰渡候之様仕度奉存候依之
申上候以上
【朱書】
「但前〻ゟ牢屋敷御普請御勘定方御目付方
立合無之町奉行組之者立合被仰渡候」
未二月
【朱書】
「未十二月四日播磨守【池田頼方、南町奉行】殿ゟ相談来ル同日挨拶」
┌────────────────────────
│ [【記号の下に記載なし】
│ 牢屋敷焼失跡新規御普請立合
│ 罷出候与力同心共え御褒美之儀奉願候書付
│ 池田播磨守
│ 石谷因幡守
└────────────────────────
池田播磨守組与力
牢屋見廻
徳岡政左衛門
石谷因幡守組与力
牢屋見廻
後藤斧治郎
右両組同心
弐 人
牢屋同心鎰【かぎ】役
弐 人
右は此度牢屋敷焼失跡新規御普
請御作事方え被仰付候ニ付立合
罷出御普請中附切相勤出 情【ママ】仕候間
可相成儀ニ御座候ハヽ相応之御褒美
被下置候様奉願候以上
未十二月 池田播磨守
石谷因幡守
┌────────────────────────
│
│ 例書 池田播磨守
│ 石谷因幡守
└────────────────────────
榊原主計頭組与力
米倉作次郎
銀三枚ツヽ 筒井紀伊守組与力
本多弥太夫
両組同心
同弐枚ツヽ 弐人
牢屋同心鎰役
同壱枚ツヽ 弐人
右は文政十二丑年四月牢屋敷焼失跡
新規御普請立合相勤候ニ付被下之候
未十二月
【朱書】「未十一月廿二日再内蔵進を以御渡」
┌───────────────────
│
│ 下役幷鎰役共え御褒美之儀申上候書付
│ 牢屋見廻
└───────────────────
金田惣太夫
上野源之丞
鎰役
田村金太郎
大川藤 三
右は牢屋舗焼失跡新規御普請
御作事方え被仰付私共下役幷
鎰役共付切立合相勤候様被仰渡
日〻早朝ゟ暮時迄詰切格別
出 情【ママ】骨折相勤候儀ニ付相応之
御褒美被下置候様仕度於私共
奉願候
【朱書】
「天保五午年牢屋敷焼失跡新規
御普請御作事方え被仰付候節
【朱書続】
「立合相勤候下役共え銀弐枚ツヽ
鎰役共え銀壱枚ツヽ被下置候」
以上
右之通播磨守殿え申上候依之申上候以上
未十一月 後藤斧次郎
徳岡政左衛門
【朱書】
「安政三辰年八月十六日堀田備中守殿え恩田友之助を以上ル
同四巳年三月廿三日御同人同人を以御書取添御渡承付 ┌───────
致し御同人え同人を以返上」 │承ヒレ付朱有之
┌────────────────────────────────────
│ [備中守殿
│ 組与力同心 幷【以上1文字朱筆で見消】囚獄幷組同心共御褒美之儀奉願候書付
│ [井戸対馬守
│ 町奉行
└────────────────────────────────────
【付札】
「拙者儀何之存寄 井戸対馬守組与力
無御座候 谷村官太郎
辰八月 播磨守」 同組同心
【126コマの左上付札をはがして再撮影したもの。付札の下側は白紙で、126コマに加えて新たに見えた文字はないので翻刻は省略】
三人
池田播磨守組与力
安藤源之進
同組同心
三人
囚獄
石出帯 刀
同人組同心
鎰役
三人
同見習
弐人
同
平同心
四拾壱人
右は去卯年十月二日夜地震ニ付
早速牢屋敷え罷出候処外構煉
塀不残震崩牢内も損所出来
改番所其外潰候ケ所も有之候ニ付
取締方等申渡候得共差向御手薄
之儀ニ御座候間一同為詰切内外
見廻は勿論都て火急之御用向
為取扱当番所詰切人数相増両
辻番所えも昼夜両人ツヽ為相詰候
故聊不取締之儀も無御座数日
之間休息之無間合格別出精
相勤候ニ付以来励之ため可相成
候儀ニ御座候ハヽ相応之御褒美被下
置候様仕度於私共厚奉願候
【朱書】
「去ル弘化三午年正月中牢屋敷
近火之節消防方骨折候ニ付阿部
伊勢守【老中】殿依御指図組与力弐人石出
帯刀同人悴介之進え銀弐枚ツヽ
組同心六人幷帯刀組同心鎰役四人え
為御褒美銀壱枚ツヽ御役所金を以
被下置候例ニ見合勘弁仕候処本文
両組与力両人石出帯刀え銀弐枚ツヽ
両組同心六人牢屋同心之内鎰役三人
同見習弐人え銀壱枚ツヽ右ニ差続
【朱書の続き】
骨折相勤候付平同心四十壱人え
金百疋ツヽ御役所金之内を以被下
置候様仕度奉願候」
以上
辰
八月 井戸対馬守
池田播磨守
【朱書】「承付鰭付」
書面両役与力石出帯刀え銀弐枚宛
同心幷鎰役同見習え銀壱枚宛
平同心え金百疋宛御役所金之
内を以御褒美被下置候様取計可申旨
被仰渡奉承知候
巳 跡部甲斐守
三月廿三日 池田播磨守
【朱書】
「巳三月廿三日備中守殿恩田友之助ヲ以御渡」
│
│ 覚
└──────────────────
両組与力石出帯刀え銀弐枚ツヽ同心
幷鎰役同見習え銀壱枚ツヽ平同心え
金百疋ツヽ御役所金之内を以御褒美
被下候様可被取計候事
【朱書】
「安政三辰年七月廿七日鈴木弥市ヲ以御渡」
┌────────────────────────
│
│ 下役幷囚獄組同心御褒美之儀奉願候書付
│ 牢屋見廻
└────────────────────────
下役
田中茂十郎
田中金左衛門
葛岡郡蔵
志村茂七郎
平松兵治郎
村井伝次郎
鎰役
田村金太郎
増鎰役
大川 藤三
石川市郎兵衛
同見習
彦根金蔵
同見習並 ┌下ケ札
木村一之助└
物書役
安藤秀太郎
外 四拾人
右は去卯年十月二日夜大地震ニ付
私共幷帯刀早速牢屋敷え罷出候処
外構煉塀不残震崩牢内も損所
出来改番所其外潰候ケ所も有之候ニ付
取締方等申渡差向御手薄之儀ニ御座
候間一同為詰切下役鎰役共は内外
見廻は勿論都て火急之御用向為取扱
外同心共も右ニ差続当番所詰切
人数相増両辻番所えも昼夜両人ツヽ
為相詰候故聊不取締之儀も無御座
数日之間休息之無間合格別出精
相勤候ニ付以来励之ため可相成儀ニ
御座候ハヽ相応之御褒美被下置候様
仕度於私共厚奉願候
【朱書】
「去ル弘化三午年正月中牢屋敷
近火之節消防方骨折候ニ付
阿部伊勢守【老中】殿依御指図下役幷
鎰役共え為御褒美白銀壱枚ツヽ
被下置候此度は数日詰切出精相勤
候義ニ付御品宜御沙汰御座候様奉願候」
以上
辰七月 谷村官太郎
安藤源之進
下ケ札
┌本文木村一之助儀は鎰役見習ニ付
└平同心之内へ組入申候
【朱書】
「安政三辰年七月廿八日慈左衛門を以御渡」
┌────────────────────────
│
│ 私組同心共御褒美之儀奉願候書付
│ 石出帯刀
└────────────────────────
鎰役
田村金太郎
出川藤三
石川市郎兵衛
彦根金蔵
木村一之助
物書役
安藤秀太郎
外四拾人
右ハ去卯十月二日夜大地震ニ付私早速牢庭え
罷出候処外構煉塀不残震崩牢内も
損所出来改番所其外潰候ケ所も有之
候ニ付取締方等申渡差向御手薄之儀ニ
御坐候間一同為詰切鎰役共は内外見見廻ハ
勿論都て火急之御用向為取締扱外同心
ともモ右ニ差続当番所詰切人数相増シ
両辻番所えも壱夜両人ツヽ為相詰候故聊
不取締之儀無御坐数日之間休息之無
間合格別出精相勤候ニ付以来励之ため
可相成儀ニ御坐候 間【ママ】牢屋見廻申上候通
相応之御褒美被下置候様仕度此段
厚奉願候
【朱書】
「去ル弘化三午年正月中牢屋敷近火之節
消防方骨折候ニ付阿部伊勢守殿
依御差図鎰役共え為御褒美白銀
壱枚ツヽ被下置候此度は数日之間詰
切出精相勤候儀ニ付御品宜御沙汰
御坐候様奉願候」
以上
辰七月 石出帯刀
荻野政七様 都筑十左衛門
由比義三郎様 松浦安右衛門
去卯十月二日夜地震ニ付引続骨折候
牢屋見廻下役幷囚獄組同心御褒美
之儀申立候書面被相下勘弁いたし
可申聞旨被申渡候間別紙之通御当名
御伺案取調上見廻申立之書面写相添
及御相談候御存寄無御腹 臓【ママ】被仰下度
依之得御意候已上
八月三日
都築十左衛門様 荻野政七
松浦安右衛門様 由比義三郎
御手紙致拝見候然は去ル卯年
十月二日夜地震之節牢屋敷ニて
骨折候見廻下役幷鎰役其外
御褒美之儀申上候書面御渡し
之由ニて御当名被仰上案御取調
御廻し被成致一覧候処存寄無之候
則御案紙返却此段貴報
得貴意候以上
八月四日
┌──────────────────
│ 谷村官太郎様 都筑十左衛門
│ 安藤源之進様 松浦安右衛門
│ 石出帯刀 様
└──────────────────
以手紙得御意候然は去十月二日夜
地震之節骨折候見廻り下役其外
御褒美之儀被仰立候内鎰役名前
五人御書出有之候得共毎暮御褒美
請帳其外共是迄鎰役四人之
振合ニ付今般御褒美之儀も四人
之積鎰役見習之儀は日ら同心之内え
込メ御進達案取調申候右ニて御差支は
有之間敷哉此段及御掛合候以上
八月六日
【朱書】「安政三辰年八月七日」
┌──────────────────
│ 都筑十左衛門様 谷村官太郎
│ 松浦安右衛門様 安藤源之進
│ 石出帯 刀
└──────────────────
御手紙致拝見候然は去十月
二日夜地震之節骨折候見廻り
下役其外御褒美之儀申上候内
鎰役名前五人書上候処毎暮
御褒美請帳其外共是迄鎰役
四人之振合ニ付今般御褒美之儀は
四人之積鎰役見習之儀は平同心之
内え込メ御進達案御取調ニ付右ニて
差支は有之間鋪哉之旨被仰越
致承知候右は差支之儀無之候
右御報如此御座候以上
八月六日
荻野政七様 都築十左衛門
由比義三郎様 松浦安右衛門
先達て及御相談候去卯十月二日夜
地震之節骨折候牢屋見廻り其外
御褒美 之義【以上2文字見消】御進達案之内鎰役
同心四人之積取調候処嘉永二酉年
九月其御方御取扱ニて鎰役六人え
御褒美被下置候旨別紙之通り
見廻り与力より申聞候ニ付其節之
振合ニ見合当時見習鎰役共に
五人有之候間御進達案引直し
可申と存候然ル処右酉年中之
書類相見不申候間御認込之儘
借用致し度尤下案取直し之上
猶可及御相談候右御頼旁得御意候
以上
八月九日
都築十左衛門様 荻野政七
松浦安右衛門様 由比義三郎
御手紙拝見いたし候然ハ先達て相詰
御座候去卯十月二日地震之節骨折候
牢屋見廻其外御褒美御進達案之内
鎰役御褒美之義先例御見合人数
御引直し可被成ニ付去ル酉年神田
松枝町出火之節書留帳可差遣旨
承知いたし則右帳面壱冊小札付
差遣此段為御替得御意候以上
八月九日
荻野政七様 都築十左衛門
由比義三郎様 松浦安右衛門
去十月二日夜地震之節骨折候
牢屋見廻り其外御褒美御進達案
之内鎰役同心四人之処五人之積先達て
及御相談候通御進達案別紙之通
引直し差出可申存候間及御相談候
御存寄も無御座候ハヽ其御頭様え対馬守ゟ
別段御相談ニ御廻し不申候間宜被
仰上御取計可被下候右御相談旁
此段得御意度如斯御座候已上
八月十二日
追て本文御存寄無之候ハヽ別紙は写ニ付御留置
可被成候且先達て借用致し候御留記は返却
致し候間御落手可被下候以上
都築十左衛門様 荻野政七
松浦安右衛門様 由比義三郎
御紙面致拝見候然は去十月二日夜
地震之節骨折候牢屋見廻其外
御褒美御進達案之内鎰役同心
四人之処五人之積先達て御相談有之
候通御引直御廻有之一覧いたし候処
存寄無御座候頭え申聞候処存寄無之旨
申聞候間御頭様ゟ別段御相談廻しニは
及ひ不申候別紙は任仰留置申候且
先達て差し上置候書留御見合後御返
却有之候様可被下候右為御報如斯
御座候以上
八月十三日
【朱書】
「巳三月廿六日於内座申渡」
┌─────────────
│
│
│ 牢屋見廻
│ 石出帯刀え
└─────────────
谷村官太郎
安藤源之進
石出帯刀
右は去〻卯年十月二日夜
地震之節早速牢屋敷え
罷出候処外構煉塀其外
震崩候ニ付内外見廻り引続
数日之間取締向等厚心付
出精骨折相勤候ニ付為御褒美
銀弐枚宛被下之
右之通堀田備中守殿被
仰渡之
巳三月
【朱書】
「巳三月廿六日於調之間申渡」
┌──────────────────────────
│
│
│ 同心六人え
└──────────────────────────
田中金左衛門
葛岡郡蔵
元牢屋敷見廻り下役
田中茂十郎
志村茂七郎
平松兵次郎
村井伝太夫
右は去〻卯年十月二日夜
地震之節詰合之外は
早速牢屋敷え罷出候処
外構煉塀其外震崩候ニ付
内外見廻り引続数日之間
取締等心付出精相勤候ニ付
為御褒美銀壱枚ツヽ被下之
右之通堀田備中守殿被
仰渡之
巳三月
【朱書】
「巳三月廿六日於調之間申渡」
┌────────────────────────
│【朱書】
│ 「△末ニ朱書有之
│ 申渡」
│ 【黒字を朱筆で囲み見消】
│ 「牢屋見廻え」
└────────────────────────
囚獄
石出帯刀組同心
鎰役
田村金太郎
大川藤三
石川市郎右衛門
同見習
彦根金蔵
木村一之助
右は去〻卯年十月二日夜
地震之節詰合之外は
早速牢屋敷え罷出候処
外構煉塀其外震崩候ニ付
内外見廻り引続数日之間
取締等心付出精相勤候ニ付
為御褒美銀壱枚ツヽ被下之
右之通堀田備中守殿被
仰渡 候間其段可被申渡候【以上9文字黒字を朱筆で囲み見消】之【以上1文字朱書で追加】
巳三月
【朱書】
「巳三月廿六日於調之間申渡」
┌────────────────────────
│【朱書】
│「△末ニ朱書有之
│ 申渡」
│ 【黒字を朱筆で囲み見消】
│ 「牢屋見廻え」
└────────────────────────
囚獄
石出帯刀組同心
安藤秀太郎
斎藤右五郎
佐〻木亀之助
大井喜三郎
木村与一郎
高木三之助
甲斐重左衛門
折原栄之丞
永田政吉
中安勇蔵
宮内源次郎
河東村庄五郎
中安藤蔵
石居小一郎
高野米助
三上啓三郎
広住来助
岡本嘉之吉
細田万ノ助
甲斐捨蔵
大川次平
高松銀三郎
安藤徳次郎
佐〻木金次郎
石川賢次郎
遣田貞助
渡辺恒次郎
橋本直吉
高井善十郎
建部重次郎
宮内亀太郎
木村作十郎
林 国三郎
林 忠 蔵
沢田孫蔵
石崎啓十郎
河原林彦太郎
三上皆次郎
永田健蔵
中安文次郎
河原林甚五郎
右は去〻卯年十月二日夜地震之節
詰合之外は早速牢屋敷え罷出
候処外構煉塀其外震崩候ニ付
内外見廻り引続数日之間一同詰切
出精相勤候ニ付出格之訳を以為
御褒美金百疋ツヽ被下之
右之通堀田備中守殿被 仰渡 候間其段可被申渡候【以上9文字黒字を朱筆で囲み見消】之【以上1文字朱書で追加】
巳三月
【朱書】
「△印二廉
一囚獄組同心共御褒美之儀は牢屋見廻ゟ
書付を以相渡候先例ニ候処右は震災之
節格別出精相勤候儀ニ付別段之訳を以
於調之間並ニ申渡候尤以来之例ニは 不
相成趣年番与力石出帯刀にも相達候事」
【朱書】
「安政四巳年三月廿八日」
┌────────────────────────
│ 備中守殿【朱で追加】「え御右筆
│ 組与力同心幷牢屋同心え御褒美被下候段
│ 申渡候儀申上候書付
│ 跡部甲斐守
│ 池田播磨守
└────────────────────────
跡部甲斐守組与力
┌ 谷村官太郎
銀弐枚宛 池田播磨守組与力」
│
│ 安藤源之進
└
右両組同心
同壱枚ツヽ 弐 人
牢屋同心鎰役
金弐百疋宛 弐 人
右は牢屋敷御普請御修復御用立合
相勤骨折候ニ付被下候段御来所
之通申渡頂戴為仕候処一同難有
仕合奉存候旨申聞候依之申上候
以上
巳三月 跡部甲斐守
池田播磨守
【朱書】 ┌───────
「例書 │ ヒレ付
酉九月九日樋口九一郎ヲ以上ル」 │ 末ニ有之
┌────────────────────────
│ [備前守【老中牧野忠雅】殿
│ 牢屋敷近火之節骨折候組与力其外
│ 御褒美之儀申上候書付
│ [遠山左衛門尉
│ 町奉行
└────────────────────────
遠山左衛門尉組与力
安藤源之進
井戸対馬守組与力
藤田六郎右衛門
遠山左衛門尉組同心
三 人
井戸対馬守組同心
弐 人
石出帯刀組同心
六 人
右之もの共儀去月廿五日暁神田
松枝町ゟ出火之節牢屋敷え一同
早速相詰囚人手当等夫〻手配仕
候処牢屋敷風下ニて火元間近之
儀ニて追〻焼広り裏門前通町
屋所〻え火移り辻番所等類焼
之砌は東大牢弐間牢共火
気強吹掛既火移可申程之場
合相成候処追〻欠付候非人足共
差配いたし為相防候内牢屋敷
三方町屋一時ニ焼募猛火熾相成
土塀忍返え火移揚 屋【以上1文字見消】座敷
幷百姓牢 御様場【おためしば】賄所共至て
火近風下ニて火之粉夥敷吹入
候付揚座敷もの幷病人囚人共
夫〻手当致し対馬守御役所え
為立退精〻相働消留組与力
差 配【以上1文字見消】図を受同心共は自身之
働は勿論其外駆付候非人共え
差配いたし格別骨折候付牢屋
敷別条無御座惣体囚人共も
切放ニも不相成全消防行届候
儀ニ は【以上1文字見消】御座候付例も御座候間相応
之御褒美被下置候様於私共も
奉願候
【朱書】
「弘化二巳年三月廿七日 富松町【ママ】ゟ
出火之節牢屋敷は至て火近
殊ニ風烈ニて所〻え火移候処消防
差配仕骨折候与力弐人石出
帯刀堂悴弁之進え銀弐枚ツヽ
【朱書の続】
同心え同壱枚ツヽ為御褒美先格
之通御役所金を以被下置候
但石出帯刀儀押込中ニ付御褒美ハ不
申上候」
以上
遠山左衛門尉
井戸対馬守
ヒレ付
書面申上候通与力え銀弐枚も
同心幷石出帯刀組同心え同壱枚
も為御褒美先格之通役所
金を以被下 置【以上1文字見消】候旨被仰渡奉承知候
九月廿二日 遠山左衛門尉
井戸対馬守
【朱書】
「例書
嘉永二酉年九月廿三日」
┌──────────────────────────────
│
│ 申渡
│
└──────────────────────────────
安藤源之進
藤田六郎右衛門
去月廿五日暁神田松枝町ゟ出火牢屋敷
近火之節早速相詰消防指図骨折
候付為御褒美銀弐枚ツヽ被下之
右は牧野備前守殿被仰渡之
酉九月
┌──────────────────────────────
│
│ 申渡
│
└──────────────────────────────
志村茂七郎
小川六郎兵衛
平松兵次郎
田中茂十郎
吉野勝十郎
去月廿五日暁神田松枝町ゟ出火牢屋敷
近火之節早速相詰銘〻自身之働は
勿論消防指図骨折候付為御褒美
銀壱枚ツヽ被下之
右は牧野備前守殿被仰渡之
酉九月
┌──────────────────────────────
│
│ 申渡
│
└──────────────────────────────
囚獄
石出帯刀組同心
鎰役
佐々木順次
石居喜兵衛
増鎰役
彦根国次郎
大川金之助
鎰役見習
田村金太郎
同並
石川市郎兵衛
右同文
【朱書】
「嘉永二酉年九月廿三日」
┌──────────────────────────────
│
│ 申渡
│
└──────────────────────────────
囚獄
石出帯刀組同心
鎰役
佐々木順次
石居喜兵衛
増鎰役
彦根国次郎
大川金之助
鎰役見習
田村金太郎
同並
石川市郎兵衛
去月廿五日暁神田松枝町ゟ出火牢屋敷
近火之節早速相詰銘〻自身之働は勿論
消防指図骨折候ニ付為御褒美銀壱枚ツヽ
被下之
右は松平和泉守【乗全、老中】殿被仰渡之
酉九月
【朱書】
「安政四巳三月廿九日原弥太郎ヲ以御渡 同【ママ】三日ヒレ付
いたし同人ヲ以上ル同四月五日向年番再ヒレニて播磨守殿え
御返却之旨原弥太郎ヲ以御渡即日返上」
┌───────────────────────────
│ ヒレ付
│ 牢屋敷辻番人幷下男御褒美之儀奉伺候書付
│ 書面伺之通取計可申旨 谷村官太郎
│ 被仰渡奉承知候 安藤源之進
│ 四月五日 石出帯 刀
└───────────────────────────
牢屋敷
辻番人
弐 人
下男部屋頭
弐 人
同役割
弐 人
平下男
弐拾三人
右は去〻卯年十月地震之節牢屋敷
外構煉塀震崩牢内も損所出来
差向御手薄之儀ニ付取締方等申渡
候処厚申合数日昼夜骨折候ニ付
為御褒美当巳年糠明俵払代
之内ヲ以辻番人幷部屋頭役割
六人え銭五百文宛平下男廿三人え
銭四百文宛差遣申度此段奉伺候
【朱書】
「去辰年八月大風雨之節骨折候養生所
看病中間拾三人ニ為御褒美銭七貫文
被下置候」
以上
巳三月 谷村官太郎
安藤源之進
石出帯刀
書面牢屋敷辻番人其外御褒美
之儀取調候処朱書ニ申上候例ニ
巳見合不相当之儀も無御座候間糠
明俵払代之内を以被下置候様
牢屋見廻りえ被仰渡可然哉ニ奉存候
巳四月 年番
書面御褒美之儀北年番被調
申上候通被下置可然哉奉存候
巳四月 南年番
┌──────────────────
│ 都筑十左衛門様 谷村官太郎
│ 松浦安右衛門様 安藤源之進
│ 石出帯 刀
└──────────────────
└────┘
以手紙得御意候然は去十月二日夜
地震之節骨折候下役其外御褒美
申上候内鎰役名前五人申上候処
毎暮御褒美請帳其外共是迄
鎰役四人之振合ニ付今般御褒美之義ハ
四人之積鎰役見習は平同心之内え
込御進達案御取調ニ付右ニて差支ハ
無之哉之旨過日御問合ニ付差支無之
段及御挨拶置候然ル処鎰役六人え
被仰上之上御褒美被下候先例見
出候間右之趣ニて宜御取計被下候様
いたし度別段相添此段得御意候
以上
八月八日
過日此度は鎰役六人之内壱人病気
ニ付御暇相成候ニ付五人申上候儀ニ
御座候以上
【裏表紙 白紙】
禁裏御所御用日記一三一
【白紙】
三七六
文政十三庚寅歳 十二月十日改元 天保依大地震也
公私日記
七月二日大地震
武錫
【白紙】
【白紙】
【白紙】
文政十三庚辰年
正月小
元日辛卯晴
一今暁家内ニ而雑煮神供仏供其余万
端如例
一出門卯刻年頭御礼諸々回勤
一例刻御所へ参同列一統奥へ御礼申上
畢而退出
一御茶碗百箱入
右両御所御膳番并同列組合両
御所え献上
一当家へ年礼入来数多有之今日ゟ
連日ニ付書記略之
一百々御所へ御礼参上奥面会御口祝
給之
二日壬辰晴
一今朝出門卯刻過年始礼諸々回勤
一所司代年始御礼巳刻出門施薬院へ被立
寄参
内申半刻表ゟ伺公間へ被通万端相済
退出申半刻
一姫宮被称女二の宮被仰出
一今日当番也
一夜分家内盃事積居等相催ス下々
えも祝酒如例
三日癸巳晴
一家内雑煮一如元日 但昨春二日ニ申付候得共御
当年如元今日申付候事
一今日惣詰出勤御口祝被下於奥口雉子焼
被下
一竹御所年祝御礼罷出御口祝給之
一洛東諸向回礼吉田田中牧等へ罷出候
四日甲午晴
一仙洞様御幸被為有
一御礼
金山寺味噌 安禅寺
右如例到来追而挨拶銀壱封遣ス
一扇子一箱二本入 輪蔵院へ
右如例持参申置
一上辺諸々回礼
一午後聖女廟え拝参右席上乗坊へ年礼
罷越御酒出ル夫ゟ玉鳳坊へ参申置
次西京へ罷越順路土山右将監方へ罷越
年始酒有之帰宅酉刻
一小佐治光文被来年祝酒出之畢而我
家へ被帰于時戌刻也
五日乙未晴
一早朝回勤
一今日沢村氏代番出勤千秋万歳ニ付
申刻過退出
一青銅百疋ツヽ
右献上御返し御所仙洞様ゟ給之
但元二日上様御徳日ニ付昨夜被下也
一御居り之御献奥より被下
一小豆 八瀬村
一辛皮 木の村
右如例到来是は家付之事也
一山科鐙之進被来夕方被帰余今晩
錦小路殿へ参ル
六日丙申晴
一今日当番出勤
七日丁酉晴
一白馬節会被行如例
一今日加番ニ付例刻出勤節会修候後
退出戌刻
一今朝家内七種粥如例
一知行所年礼如例
一御礼
茶碗
右如例到来
但尚僧如例年礼可上京之処此頃依
所労不参
八日戊戌雨
一大和万歳参り舞菱葩二枚ツヽ如例
遣祝酒出ス
一同家武寿被誘引見秋院第へ罷越ス
年始祝出ル夕方帰宅
九日己亥晴
一泉涌寺御陵え拝参下京回礼
十日庚子晴
一今日当番出勤
一午後上加茂へ年礼罷越上辺残礼相廻
一上乗坊午前為年始被来昼飯并
御酒出ス帰宅申刻過也
十一日辛丑晴
一今日当番出勤 但東辻代也
一節分ニ付家内祝儀如例年男旧■番
久治郎へ頼右ニ付祝儀青銅拾疋遣ス
一当番ニ付申刻過内侍所へ相廻ル於
彼所御酒吸物三種肴等出ル相済
退出酉刻過
右ニ付御初穂青銅十疋
内侍え献備御こま頂戴之事
まめ
十二日壬寅曇
一輪蔵院へ墓参年礼銀弐匁五分遣ス
一重民部宅へ罷越ス帰宅亥刻也
十三日癸卯晴
一午後土佐光文高へ罷越ス年始祝出ル入夜
帰ル
一町口弾正忠被来対談而帰宅亥刻
十四日甲辰晴
一家内注連飾歳徳宝来等撤却也
一御番出勤御附衆引取後退出
一出門申刻沢村出雲守同伴詣清水寺
帰宅戌刻
十五日乙巳晴
一今朝赤小豆粥如例
一渡辺美作守方へ年礼罷越ス
十六日丙午晴
一本清寺え墓参銀三匁為年礼遣ス
十七日丁未晴
一西条柿 施薬院ゟ
右如例到来
一来廿五日巳刻女二宮御参内被仰出
十八日戊申晴
一辰刻過出門当番出勤今日三毬打相済
之後退出
十九日己酉晴
一舞御覧ニ付辰刻前着熨斗目出勤
相済退出酉一刻也
一御料理御祝酒御鶴配等被下如例
一鶴包丁大隅少監物相勤
一所司代松平防州為鶴包丁舞楽拝見辰
一刻頃参上自御玄関被通伺公間暫時
休息御始以前伝奏衆御同伴於表
包丁拝見畢之後被帰於伺公間使更
又表え被通表口より伝奏衆御同伴ニ而堂上ニ而
舞楽拝見再伺公間へ被帰御料理給之
午後着狩衣ニ被改回廊ニ拝見有之
其座次所司代御附町奉行院附取次御賄頭
勘使中詰等一列座之
舞楽中程退出
一浦崎殿被来一両日留主之由也
廿日庚戌晴
一当家今日節ニ付心祝相催光文辰夏
等被来
廿一日
一町口へ会始之由ニ付被招夕方罷越ス
廿二日壬子晴
一今日当番出勤
一錦小路家へ未後罷越入夜帰ル御酒出ル
廿三日癸丑晴
一明後廿五日
宮様御上りニ付御祝酒被下候旨ニ付熨斗目
着用巳刻出勤候様当番ゟ申来
一東使戸田土佐守参内云々 但御降誕御祝
御礼歟
廿四日甲寅晴
一輪蔵院え拝参
廿五日乙卯晴
一宮御方御忌明御内一統え御祝酒被下候ニ付
熨斗目着用巳刻出勤御祝於
詰所口間御酒吸物被下之
一右恐悦御参内後同列一緒ニ御慶
申上ル
廿六日丙辰雨
一御供
飴 中東豊後守
右如例到来
一今日当番之処東辻返代ニ付不参
一春祝会相催町口弾正忠沢村出雲守等
被来酒肴菓子茶等出ス尤清夜也
一小佐治光文入来直ニ被引取
廿七日丁巳晴
一東使御暇也
一上皇御幸被為有
一同家武行年始盃事致度噂有之夕方
罷越ス
廿八日戊午晴
一鳥山為代出勤着麻上下依所司代参上也
一所司代松平伯耆守殿へ為
宮様御上り恐悦参上各麻上下着用未一刻
於伺公之間伝奏衆御出会恐悦被申上
其後奥御面会有之畢菓酒給之
退出未二刻前
一土佐光文入来対談有之帰宅亥刻
一孝子敬子等小佐治ゟ被招参ル寅刻過
帰ル
廿九日己未晴
一当番之処出仕不及昨日詰所ゟ噂有之
一白餠十 西池修理ゟ
右松子一周忌志之餅一昨日到来ニ付是ゟ
彼波十為供相送
一渡辺作州為年始入来尤年始酒出之
申半刻頃帰宅
二月小朔日庚申晴
一今日当番出勤
一 井上右兵衛志
藤林帯刀
一右宮御方非常附被 仰付
一久我家へ当日御祝詞参殿
一高橋若狭守亨江次第会被相催付
罷越ス 但自今晩一巻始ル
二日辛酉晴
一今朝吉田并御霊社え参詣
一関東宮原弾正大弼参内
三日壬戌晴
四日癸亥雨
一沢村氏番代出勤
一東使御暇也
一小佐治光文男初官位祝酒催被招夕方罷越ス
五日甲子晴
一今日当番出勤
一明石侍従官銭半成百八拾文被下
一吉祥院え拝参年礼也
六日乙丑晴
一今晩於安禅寺江次第会ニ付罷越ス
一梅園前参議殿男侍従殿御次男碒丸殿御連
竹内由右衛門案内ニ而御光来御知人相成
何か用母へ御頼之由
七日丙寅晴
一土佐光文入来少時而被帰
八日丁卯晴
一早朝行以文亭
九日戊辰晴
一御番出勤
一女御御方え献上御配り御内え銀弐拾枚被下
割銀四匁余落手
十日己巳晴
一鎮守稲荷社え初午ニ付小豆飯菜之からしあへ
備事如例
十一日庚午晴
十二日辛未晴
十三日壬申晴
一出門辰二刻過当番出勤
一小佐治光文被来
十四日癸酉曇
十五日甲戌晴
一伝奏衆今朝関東へ御出立之由
十六日乙亥晴
一施薬院へ罷越ス
一入夜安禅寺山田阿波助江次第会
ニ付出座畢帰ル
十七日丙子晴
一当番出勤
十八日丁丑晴
一早朝錦所方錺鈔会ニ付罷越ス
一未中刻町口へ参対談畢之後帰ル未刻過
十九日戊寅晴大雪凡七寸余積
一梅園前参議殿御次男碒丸殿義此度母里元へ
渡辺美作守男ニ被遣度兼而母へ御頼と有之候処
互御掛合等相済縁辺御沈定ニ付今日吉辰ニ付
結納之由右ニ付渡辺作州被参
廿日己卯雨
一虫鹿番代出勤
一久我村清次郎罷登久我菜よろしき
旨申出候ニ付右出勤序ニ付清次郎召連
参休息所ニ暫待せ置当番勢多
豊前守殿を以明後朝献上仕度相伺
候処伺之通明後朝献上被仰出
其旨清次郎へ申付ル
二十一日庚辰雲
一今日当番出勤
一御降誕之餅被下
二十二日辛巳晴
一久我菜 五把
右今日初而献上
同 三把
右長橋殿進上
右例之通仕立予持参詰所常番え頼小四方
乗詰所当番虫鹿東市正を以献上《割書:三方は御賄|ニ而借用》
長橋殿へ平折敷ニ舞手札差置会所向
為持遣《割書:平折敷|賄ニ而借》 二度目明後廿六日献上之儀
相伺相済
一大石少監物舅死去ニ付定式仮十日
之旨右ニ付見舞罷越ス
一出門未刻町口亭へ参ル及申中刻帰ル
廿三日壬午晴
廿四日癸未晴
廿五日甲申晴
一今日当番出勤之処虫鹿返番不参
一酉下刻出火北野下ノ森芝居隣ト云無程
鎮火先是町口へ参ル
廿六日乙酉晴
一今日御所御楽始也
一久我菜 三把
右献上二度目也
同 二把
右長橋殿へ進上
右初度之振合ニ而差出右壬日は勢多豊州
誘引ニ而御末を以上ル三度目明廿七日献上之儀
相伺伺之通相済
廿七日丙戌雨
一久我菜 二把
右三度目今日献上尤明日之振合ニ而出ス
一同 二把 施薬院え
右如例遣ス
一同 一把 お阿茶へ
右如例相送ル
一右献上相済候ニ付例送ニ而少々ツヽ相送ル
一午後町口弾正忠宅へ罷越夕方帰宅
廿八日丁亥雨
廿九日戊子晴
一今日当番出勤
三月大己丑朔雨
一久我家へ当日御祝詞参殿
一洞中御雇沢村交替也山口被帰
一町口え未刻罷越ス
二日庚寅晴
一上皇御幸也
三日辛卯晴
一当日御礼出窺諸向へも回礼之事
四日壬辰晴
一当番出勤
五日癸巳雨
一渡辺作州午後被来申刻過帰宅
六日甲午雨
一於安禅寺錦所江次第会暮頃ゟ参ル
関東え下向 相願
一施薬院家督済御礼先例も有之願之通御
聞済昨冬風聴有之此頃出立之由ニ付暇乞
被来
七日乙未晴
一輪蔵院え母墓参
八日丙申晴
一今日当番出勤
一小菊七折
こんふ
右施薬院関東え下向出立暇乞罷越為
牋別指送ル
九日丁酉晴
十日戊戌雨
十一日己亥晴
一予難病有之岡本丹後介え診察相頼
一安禅寺会罷越江次第第二巻始ル
十二日庚子晴
一当番出勤
十三日辛丑雨
十四日壬寅雨
一松尾御□ニ付敬子渡辺へ行
十五日癸卯晴
十六日甲辰晴
一今日当番出勤
一入夜安禅寺へ参ル依有江次第会也
十七日乙巳曇
一未後小佐治方へ罷越暮後帰宅
十八日丙午
一申刻過行十沢村《割書:昨日被招|候也》有雅談而
夜食【重ねて一文字】茶菓等出《割書:器物甚|清雅》及二更帰家
十九日丁未晴
一出門午刻沢村同道志賀越唐崎辺え遊
覧酉下刻帰宅
廿日戊申晴
一当番出勤
廿一日己酉晴
一西七条松尾神事能見物家内渡辺へ罷越ス
亥刻帰宅 但今年開舞基之由
廿二日庚戌晴
一於沢村方江次第会催有之町口同道罷越ス
夕方帰ル
廿三日辛亥晴
廿四日壬子晴
一今日当番出勤
一小御所御庭御橋為見分町奉行早朝
参上有之
一梅園殿御縁法之儀ニ付一両度も御光来
有之御祝旁今日参上御面会有之
御酒出ル
一町口第へ罷越ス夕方帰宅
廿五日癸丑晴
一未刻出門町口沢村同伴白川桜遊見
且名越池地蔵え参ル夫ゟ東え下り
三井寺え参詣大津え廻り亥刻家え帰ル
廿六日甲寅晴
一入夜於安禅寺山田以文会ニ付出座相済帰ル
廿七日乙卯晴
廿八日丙辰晴
一御内々囃能御覧ニ付今日当番寅刻
過出勤御能相済退出
一仙洞御幸被為有
一道成寺有之野村三次郎相勤
廿九日丁巳晴
一 渡辺査権助
右小御所前庭御橋渡り初被 仰付
晦日戊午雨
復三月小一日己未雨
一入夜於安禅寺江次第会罷越ス
二日庚申晴
一御扶持米 壱石九斗三升六合
右相渡り小佐治へ一緒ニ請取遣ス
但内五斗恭心院扶持方遣ス
三日辛酉雨
一沢村返代出勤ニ付今日辻番代之儀
不参
一今晩子刻東本願寺《割書:作事|仮屋》炎上寅刻
凡一町余り也
一施薬院関東え無滞着府之旨申来
四日壬戌曇
一土佐光文方え未後罷越薄茶菓子出ル
一浦崎被来翌日被帰
五日癸亥晴
一寛平法皇九百御忌ニ付於
仁和寺御室敕会被行云々
一渡辺査権助番入祝酒振舞度噂有之
未後罷越ス
六日甲子晴
一今日当番出勤
一貞室院殿恭心院殿等本清寺拝参
一安禅寺会ニ付暮過頃罷越ス
七日乙丑晴
一渡辺作州午後入来申半刻被帰
八日丙寅曇
一沢村方へ今夕罷越ス
一お頼殿被来小田貞照ゟ暫時預ケ度
頼来
九日丁卯曇午後雨
十日戊辰晴
一今日当番出勤
一於亭江次第会催町口沢村等へ被来
畢而帰宅申半刻
一施薬院へ留主中見舞罷越ス
十一日己巳晴
一安禅寺会夜分参ル
十二日庚午晴
一菜漬 西池修理より
右到来
一出門午半刻町口是久沢村寿栄同道
詣清水寺酉下刻帰宅
十三日辛未晴
一渡辺美作守妻光柴被来土産之品持参
一種田因幡守お八重入来
十四日壬申曇
一今日当番出勤
一修学院え御幸来十五日卯刻若雨天候ハヽ
翌十六日之旨被 仰出
十五日癸酉雨
十六日甲戌晴
一仙洞修学院え御幸被為有御幸卯半刻
還幸丑半刻
一同家武寿方へ罷越ス
十七日乙亥晴
一貞室院殿渡辺へ御出也
一沢村寿栄未刻頃入来申刻過被帰
十八日丙子晴
一今日当番出勤
一長門侍従本成官銭三百七拾四文被下
十九日丁丑雨
一貞幹先生卅三回祭奠ニ付行智福院
《割書:以文被招|ヨリテ也》同意座相揃無程貞幹墓前え
参り以文祭文被読高橋宗芳より
饗物被供次楽五曲相供終り而西之
拾三同木井筒楼飲食出ル亥刻
家帰
廿日戊寅晴
廿一日己卯雨
一今日当番出勤 宸は沢村代也
一御菓子《割書:かすてら|あるへゐ糖》
右為久菜御返し被下之後日
出勤前御末をして御礼申上ル
一うど 施薬院ゟ
右如例到来
廿二日庚辰曇
一今日当番之処鳥山相頼不参
一菜漬 岡本甲斐介ゟ
右如例到来去十七日到来付落
廿三日辛巳曇
一貞室院殿敬子召連小佐治家内同伴
御室八十八所見物御出也
一江次第会相催是久寿栄等被来湯漬
出ス亥刻各被帰自今日第二巻始五枚
半読聞ル 酉刻
廿四日壬午晴
一佐々木御番代出勤
一臨期被為有舞楽 仍之各御麻上下
一仙洞御所御幸ニ付退出亥刻前
廿五日癸未晴
一沢村雲州方へ参少時而我家へ帰ル
一高屋修理進御暇願舅へ家督願書出ル
廿六日甲申晴
一所司代松平伯耆守殿不時為伺 御機嫌
参上
一今日当番出勤
廿七日乙酉晴
一はま焼壱 梅園殿ゟ
右母え年寄文ニ而到来
廿八日丙戌晴
一施薬院義去十五日登城御目見無滞
被仰付候旨風聴関東ゟ申来
廿九日丁亥晴
一渡辺美作守入来申刻過被帰
四月大戊子朔晴 朝曇
一院中御雇小口ニ付右今日より出勤
一高橋若狭守宅へ罷越ス
二日己丑晴
一錦小路殿午後被来雑談而及申刻
被帰
三日庚寅晴
一今日当番出勤
一明四日通明院卅三回忌ニ付
銀弐匁
香奠
鳥目百銅
茶料
銀三匁
布施
壱升
斎米
右之通差遣ス無程御神事合付入
仏事修行有之候様申遣且山脇ゟ
墓参も可有之哉ニ付心得申達ス
一白餠十三 山脇道作え
右同断ニ付志相贈ル為備まつ風
二十枚到来
四日辛卯晴
一山田阿波介一両日前吉田へ引越之由承
及已来其方へ参ル
五日壬辰晴
一今日より吉田え罷越ス
六日癸巳曇
一今日当番出勤
一明七日八幡え参詣積ニ付遠方故小佐治え
噂置
七日甲午曇 巳刻頃雨
一出門卯二刻過石清水八幡宮え参詣
御初穂青銅十疋供
八日乙未晴
一午後沢村え罷越雑談畢之後帰宅
于時申刻過
九日丙申晴
一渡辺ゟ神事之由ニ而鮎母へ向到来
一たけのこ 七ほん 調子武礼ゟ
右如例到来
十日丁酉晴
一予御番也依之出勤
一今日松尾祭ニ付弘子敬子召連渡辺え被
参手土産御持参
十一日戊戌晴
一金壱朱山田阿波介貞幹先生祭料
割合遣ス
十二日己亥曇
十三日庚子曇
一今日当番出勤
十四日辛丑晴
十五日壬寅晴
一御降誕ニ付御進献為御配頂戴《割書:人別銀|七匁余》
大石ゟ為持参
十六日癸卯雨
一高屋内舎人家督御丈番被 仰付
十七日甲辰雨
一今日当番巳刻出勤午後退出
一小佐治光文かも祭参役ニ付鞍入用ニ付
借用被来
十八日乙巳晴 数分雨
一加茂祭参役ニ付衣体之儀少々尋置
度儀有之入夜山田え罷越ス
十九日丙午曇
一同家武行被来当日之儀対談有之
二十日丁未曇
一今日当番出勤浮田え相頼不参
一来廿二日加も祭参勤ニ付其段今日詰所へ
届置
但此頃洞中御雇ニ付右御所へ被雇同様
之事
廿一日戊申晴
一小佐治光文町口是久参勤ニ付為歓両家へ
参ル
廿二日己酉晴
一加茂祭参役ニ付寅半刻ゟ出門無滞
相勤戌刻帰宅本職記委細相認仍而
略之
廿三日庚戌晴
一加も祭参勤歓見舞之所へ挨拶参ル
廿四日辛亥晴
一今日参番出勤午後退出
一茶 二袋 水口左将監ゟ
右一昨日初参無滞相済挨拶持参
廿五日壬子晴 申刻頃ゟ曇
一自今日入梅 八せんのはじめ
廿六日癸丑晴
廿七日甲寅曇
一今日参番出勤
一藤木左馬允御膳番加勢被仰付
廿八日乙卯曇 午後ゟ晴
一同列無人ニ付為加番出勤
一百々御所え敬子上ル御土産御菓子
上ル
廿九日丙辰晴
一孝子先頃ゟ所労未同様ニ付平臥藤木伊勢守
診察相頼
一小佐治光文被参未二刻対談小時被帰
晦日丁巳曇小雨
一去月三井寺え参詣棹六十一銅 右両寺え参詣割合
長楽寺え参詣棹四百六十銅
今日町口え出ス
五月小戊午朔晴
一先月洞中御雇衆今日交代御届出頭
跡加勢虫鹿兵庫允相詰候事
一久我家へ当日御礼参殿
二日己未晴
一御番詰改今日当番出勤已来四番ツヽ相
詰候事
一女御准后宣下 来廿二日
御日限御治定被仰出候事
三日庚申曇
一粽代柏餅申付如例夫々え為給候事
四日辛酉晴
一菖蒲葺如例
一伊勢公卿 勅使 発遣也
丈 葉室左大弁殿
上卿 九条右府公尚忠殿之由
一禁中今日廃務仏事之鏡停止云々
五日壬戌晴
一粽 五把
右久我家ゟ如例給候旨諸大夫ゟ来書ニ而到来
御礼参上
一当日御礼諸々回勤
一惣□例刻出勤退出例刻八ツ時頃也
夕方町口第え罷越ス主人中門より案内出居参ル
対談而酉刻家帰従是前□□老尼方え
罷越ス
一家内祝義如例
六日癸亥晴
一今日当番振替不参
七日甲子雨
一今日当番出勤 但昨日より振替也
一夕方小佐治へ罷越于時申半刻対談有之相済帰
宅酉刻過
八日乙丑雨
九日丙寅雨
一渡辺美作守申刻前入来
十日丁卯晴
一今日小番出勤御附衆退出後引取
十一日戊辰晴
一昨夕予所労終日平臥清水矢柄え診察
相頼薬申請
十二日己巳晴
一綾小路通室町東入町古書画展観有
之見物罷越ス
十三日庚午曇
一今年曾祖父宗具院殿五十回候処正忌
月は暑之時分候ニ付今月十六日法事
引上ケ修行積ニ付依之今日光文予為
代参詣
香典銀三匁
右持参花等被相備え尤当日午刻前ゟ入参
有之候様光文ゟ被申付
但予参向可致筈候処前日記之通所労ニ付
遠方故無余儀今日光文え代参相頼尤後ハ
拝参之積り
一梅園前参議殿御次男 碒(イシ)丸縁談治定
明朝渡辺被越之由ニ付依之今日は渡辺え
貞室院殿被罷越右ニ付
寿老人掛物 一箱 台乗
右母ゟ碒丸え牋別為祝儀被相運
一肴一折料南鐐壱片
右当家ゟ祝義一緒ニ相送り候事
十四日辛未曇
一今日当番之処不□ニ付大石信守へ番代
相頼候事
一沢村出雲守未刻後被参対談有之畢而
申刻前帰宅
十五日壬申晴
一母夜前深更帰宅
一今日巳刻頃光文入来
十六日癸酉晴
一来七月十六日宗具院殿五十回相当今月
引上今日法事執行依之
布施銀壱両 本清寺
同 銀三匁 輪蔵院
代僧
右之通相招非時料理一汁五菜
菓子五種台引取肴吸物重肴
ひたし物家内上分一汁三菜菓子
下分一汁二菜菓子等也尤外ニ
来客無之小佐治光文来□□は
非時重之中ニ而為持出シ其余
森辰夏種田八重子泰心院等之輩
所労ニ付別段不招非時重之中為
持送ル家内同様非時一汁三菜菓子等也
一自分所労ニ付光文沢直之介両人
早朝為扶持入来
一先例は於寺門法事三ケ寺僧相招法
花経誦候得共或住僧差支之方も有
之既洞之処本清寺壱人読誦之儀も
有之時節柄省略中故此度は其儀
無之事静ニ相催候事
一癸勢子ゟ香典銀三匁霊前へ可相備旨ニ而
到来
一饅頭十 小佐治光文ゟ
一落雁 森辰夏より
右為備到来
十七日甲戌晴
十八日乙亥曇
一予此間ゟ所労同様ニ付今日当番出勤ノ処
沢村へ頼不参
十九日丙子晴
廿日丁丑晴
廿一日戊寅曇 夕方雨
一梅園殿より母御招依之貞室院殿被参夕方
御帰り也
但渡辺美作守今日梅家え初而被参候由
此方向辰刻出門被参着被改夫より被
行向今日梅家御祝儀有之右ニ付母も参り
候様兼而御噂有之母巳刻被参御祝
至而饗応之由
一明廿二日ハ女御様 准后宣下麻上下着
用例刻可致出勤候旨当番ゟ申来
廿二日己卯晴
一今日女御 准后宣下也
一所労ニ付今日御番大石へ相頼候事
廿三日庚辰雨
一小佐治光文沢村寿栄等入来
一今日所司代参上ニ付予加番小口候得共所労ニ付
藤林忠利次小口ニ付振替頼不参
廿四日辛巳曇
廿五日壬午雨
一予為代参久治郎聖廟え遣ス如例御初穂相備候事
廿六日癸未晴
一今日当番之処辻順近番代相頼不参
一母七条□辺え被参一夜かけ之由依之孝子敬子
等従之
一山科院之処未後被参申半刻頃被帰候事
廿七日甲申曇
一施薬院義去十五日登城相済去十八日
発駕来二日上京之旨関東より
申来
廿八日乙酉晴
一院皇女倫宮御不例云々
但内々去廿六日夜御逝去之由
廿九日丙戌曇 少々雨 雷
一倫宮御方御違例之処不被為叶御
養生昨廿八日戌半刻逝去ニ付従今三ケ日
廃朝
洞中三ケ日被止物音候旨被仰出
一倫宮御方昨廿八日逝去之旨為心得当
番より申来
一右ニ付為伺両御所へ罷出尤着麻上下也
一考御所持君臣客伝 殿下 御入用ニ付種田ゟ有
噂也今日種田え向為持遣ス
六月小朔日丁亥曇《割書:午後|雨》雷《割書:今晩丑八刻|入土用》
一廃朝中ニ付当日年賀無之
一今日当番出勤着用如例麻上下也
一所司代松平伯耆守廃朝 御機嫌為
伺参上有之
一同断ニ付町奉行《割書:松平勢州|小田切土州》為伺御機嫌参上
一今日土用入ニ付■■■■■出ル
二日戊子晴
一今朝施薬院無滞京着云々
三日己丑晴
一色半切百枚
一多葉こ入壱 施薬院ゟ
一宇智和二本
右江戸ゟ昨日無滞被帰候ニ付為土産到来
四日庚寅晴
一今日出勤沢村返代也
一暑中見舞少々相廻ル
一梅園殿え縁結為御歓参上一緒ニ暑中相尋
五日辛卯晴
一今日御番出勤田中振替不参
一起早朝暑中伺并尋問諸々回勤
一良粽 三把 宗岡式部丞ゟ
右不相替書中為尋到来
但宗岡当家由緒可有之者也
六日壬辰晴
一御扶持方今日相渡り請之
七日己巳晴
一今日当番出勤去五日振替也
一上辺田中吉田等え暑中参ル《割書:未刻出門|申半刻帰宅》
八日庚午晴
一今日終日在宅用向一切無之
九日辛未晴
一今日当番御附衆早参仍之卯半刻出勤
十日壬申晴
一施薬院関東より無滞着府之旨風聴入来
十一日癸酉晴
一夕方清水寺へ沢村同道参ル
十二日甲戌晴
十三日乙亥曇
一内侍所仮殿木造始依之当番ニ付着麻上下
卯刻前出勤相済退出 午刻過
一所司代参上尤伝奏衆御出会有之其後
御祝赤飯《割書:御酒吸物|台肴》等給之無程伝奏衆御誘引
表え被参
一御附衆以下御庭廻有之御輿宿後《割書:東土|北西》拝見
一右ニ付御祝於詰所口ノ間被下赤飯御酒吸物台肴
給之 但今日詰合事也
十四日丙子曇
一予此頃所労ニ付岡本丹後介え診察薬申請
十五日丁丑晴 夕雨
十六日戊寅曇
十七日己卯曇
一今日当番出勤嘉祥米如例給之《割書:但代物|百拾三穴也》
十八日庚辰晴
十九日辛巳晴
一錦小路家へ罷出昼後帰宅
二十日壬午晴
一入夜《割書:錦小路殿|沢村》等被来雅談而各被帰于時子刻過
廿一日癸未晴
一今日当番出勤御附衆退出後引取
一勢多判官第へ罷越ス酉刻帰宅夫より安禅寺
会出座戌刻過終帰ル
廿二日甲申晴
一沢村出雲守第へ罷越ス
廿三日乙酉晴
一徳岡大膳亮去月十一日夜死去ニ付引籠中為尋
今日徳岡近藤渡辺等ハ罷越ス
廿四日丙戌晴
一今日当番出勤 但虫鹿兵庫允振替被頼
今日出勤也
廿五日丁亥晴
一今日当番之処虫鹿返代出勤ニ付不参
一今日諸々虫払依之為順覧沢村寿栄同道卯刻過出宅
罷越ス
一順路序ニ付吉祥院え墓参花相備候事
廿六日戊子晴
一素麺少々 宗岡え
右暑中見舞到来ニ付為返シ相送
一倫宮今晩御入棺之由寺町歓喜寺え御葬送也
御法号
普明浄院宮
右之通の称候旨被仰出候事
廿七日己丑晴
一今日田中番代相頼ニ付出勤
廿八日庚寅晴
一久我家え当日御祝伺参殿
一勢多豊前守第へ午後罷越清談而夕方帰ル
一今日ゟ東三田木切通シ下ル丁古門養硯と申者
按腹療治始先一廻り療治之積り
廿九日辛卯晴
一水無月団子為致神供仏供如例
一久我村清次郎盆前墓参日限伺罷出て
認申付
買物料 礼方百六拾銅 但五拾之処拾文
を来増
右相渡一人目御墓所丈調候様申付蝋燭
二挺事付遣来三日墓参候段万端如例
催□候様申付
七月大朔日壬辰晴
一当月院御雇沢村右衛門尉相詰鳥山氏交代也
二日癸巳晴 申刻頃地震不止
後日至
一輪蔵院盆前墓参予参詣
水向料 銀壱両
包銭 弐拾銅 宿坊雇人遣分
同 弐拾銅 惣墓守へ
右持参白餅百 壱文故五ツ計り土器ニ
盛相備花七把五文ツヽ茶湯台壱文ツヽ共御門
前ニ而相調土器《割書:小弐拾枚|大 拾枚》持参大之分
水向料用於墓前誦経水塔婆建立也
但餠惣数百相調惣墓ニも二揃相備
土器大土器不用意ニ付期時圻小土杯拾枚
大土器十枚為代
今日知凛正忌ニ付
斎米 壱升
右之通持参
今月十六日宗具院五十回正当ニ付
香典銀弐匁
右持参相備別段供養可致候様申付
一来ル十六日宗具院殿五十回正当ニ付法事
相営候依之白餅一重十五施薬院同十一種田
大舎人頭方え進志相送今日使遣し返書
施薬院計りゟ到来
一沢村栄寿兼而噂有之 餛飩(コントン)作り振舞度
被招依之未刻頃罷越薄巻物類被出ニ付彼是雑談致居候処及
申上刻大地震其後打続小動不止候ニ付
当家其外所々損候ニ付急々家内罷帰候処
当屋敷中并武錫家屋敷と土蔵并土□【土偏のみ塀ヵ】
之類大ニ破損或顛倒 御所ニも大損之由変
災ゟ免之御機嫌為伺
両御所罷出尤麻上下着用出仕尤久我家も
参上伺申上置罷帰候処今ニ無隙引続度々
響動有之右之類数度と言事を
不知
一右ニ付主上并上皇并大宮准后「御方」并方々
【挿入】雖然御内々事也不可為口外云々
御方迄庭中へ御帳被設出御之由○■■方宮方
堂上方御屋敷洛中洛外下々外は伏見
辺迄家蔵多倒れ之由且死人怪我
人多之遣来此夜京中不残避家
大路え出野宿同様之事且武錫家内も
隣家重家川辺え右家内一緒ニ敷物を設
一宿いたし候事
一子刻半頃渡辺作州為見舞入来之事
三日甲午晴 地震折々
一今日も不絶鳴動有之如昨夜何れも野宿
尤京中同様之由ニ付大路薮ニ而通夜之事
一右ニ付見舞入来数多名前略之
但地震考ルニ宝暦年中大地震有之
此方巳年事跂近例不珍事云々
四日乙未雨 微雨
一今日も昼夜共如時日少々は鳴動之類
相止一時之間ニ壱両度小地震尤今
夜京中并家内大路宿之事
一今日御番出勤御附衆退出後引取
一大宮様御機嫌伺参上退出掛少々見舞
入来之所々挨拶参ル
五日丙申晴 雷鳴
一今日も昼夜折々動有之未刻計ニ東北黒
雲発り小半時計雷鳴乍併風計吹雨は
不降候事其後又候地震鳴動如元
六日丁酉晴
一今日も如前日折々小震但日々
一山脇道作町口是久等為見舞入来候事
七日戊「酉」戌晴 昼夜折々鳴動有之
一当日御礼諸向回勤
一御所御礼之儀都而如例
一星祭并家内祝儀都而如例
八日己「戌」亥晴
一今日も同断追々動相止乍併響強ク候事今
寅刻弐三度余程強云々
一今日当番出勤御附衆被引取候上退出
九日庚子晴 折鳴動
一亥半刻過鞍馬口非小屋失火ニ付依之出勤
御附衆両人も出仕有之子刻過鎮火
一寅刻中立売通室町西え入原在中裏
失火云々
一六道参りまきわさ米調候事
十日辛丑晴 折々軽動有之
【朱記挿入】去三日地震ニ付延引今日
一○本清寺え中元墓参可致候処予所労ニ付
其儀不能依之為名代山科鐙之進
頼遣ス
水向下料 銀弐両
包銭 弐拾銅三包 蝋燭二挺
拾弐銅二包 但右は去一日
清次郎事付
右例之通為持遣ス於墓前備経有之
認出候也花は兼而備有之
但去三日清次郎為届伺登石塔
祖考并大考御墓其まゝ其余
前君御墓些破損候由申居候得共
今日直建候由併古キ石塔一ツわれ
候事也
徳岡跡役
一大石少監物御膳番役今日被 仰付水口
左将監洞中附被仰付候事也
右両家歓後日参り候積り
一御酒壱樽三斤 寄子中
右中元為祝儀如例到来
一未半刻頃新烏丸上切通し下ル袋図子
下北面速水之裏手道早速鎮火
依之渡辺岡田虫鹿等え見舞罷越ス
一再申半刻過頃新烏丸上切通し下ル
丁失火之由依之 虫鹿渡辺等へ見舞
使遣候事
十一日壬寅晴 小地震両三度夕方雨
一今日も小地震時々寅刻鳴動有之
一金壱歩弐朱 遠藤敬蔵
南鐐壱片 三谷斎宮
右土居地借之地子半季分
来右半割金百疋町口へ遣ス
十二日癸卯雨 小地震両三度云々午後晴
又未刻ゟ度々
一今日当番出勤
一地震見舞挨拶廻少々罷越ス
十三日甲辰晴 小地震
一今暁下立売堀川出火或北野七本松失火云々
一素麺六十把 寄子仕丁中
右中元祝儀如例持参
一銀壱両 鈴木主水
一南鐐壱片 重 民部
一銀壱両 小谷東馬
一同三匁 羽倉紀伊守
右借地料半季分如例来
一中元祝儀遣ス
金五百疋 清水矢柄
右常礼
金百疋 山田阿波介
同百疋 沢直之介
南鐐壱片 岡本丹後介
金壱朱 倉橋殿へ
銀壱両 久次郎
銭弐百文ツヽ 下女下男へ
右之通也
一召仕ともへ給銀相渡ス
一長素麺 廿五把 渡辺供承え
右平生□□世話相成候ニ付中元祝儀
□□相送ル
一今夕聖霊棚相催候事
十四日己巳晴 朝雨 小動
一聖霊会如例右ニ付輪蔵院棚経ニ入来ぼた
餠出シ布施銀弐匁引之
一今日辻順近為代出仕御燈籠ニ付麻上下着
用 相済退出申二刻也
一蓮飯一折并刺鯖一 久我殿ゟ
右為中元御祝儀如例給之旨諸大夫より
奉書ニ而到来出勤中返書不致退出掛
御礼参殿
一大石信守転役ニ付今日御番詰総已来三番へ
相詰候事
十五日丙午晴 朝雨 小地震
一当日御礼少々罷出ル
一聖霊会今夕ニ而撤却也
一御番結改雖今日当番暫時外御番相詰候ニ付今日
は不参
十六日丁未曇 午後雨
一曾祖考依御忌日詣輪蔵院霊位尤焼香
但今日尤久我へも参詣可致候処先頃ゟ所労今ニ
使保難致其儀不能依之家内代参可
致候処地震已来何れも少々不快ニ付不
其儀叶其余代も出難候ニ付無用儀参
詣之儀無之右ニ付予輪蔵院参詣之事
一法事引上去月催置今日は参詣計り也
一今日当番之処田中氏番代不参之事
一聖霊送り火如例
一山々点火有之
昨日□□
一陽【湯か】波二十 施薬院ゟ
右曾祖考可相供候旨到来
但山椒如例到来
十七日戊申雨 地震微動 折々
一田中返代出勤御附衆退出後引取
一大石少監物転役歓罷越候事
一依雨中昨夕大文字延引今夕天火有之
十八日己酉雨 少々風小動二三度
小雷
一御霊神幸ニ付如例如例小豆飯為致候事
一小佐治光文妻安産女子出生母子共気丈之
旨為知来依之為歓見舞罷越候事
一午前町口第へ参ル暫時対談而家へ帰ル
十九日甲戌曇 微震折々或時々雨
小雷
一今日も度々小地震戌刻前鳴動中震
一荒海め 二袋 種田大舎人頭
右年回追志遣候ニ付返し到来
二十日乙亥雨 震雷折々日々
一今日当番出頭
一大石少監物転役祝義同列組合相贈番頭
取計也但如例目録計り也今日贈答相済候事也
廿一日丙子曇 折々微雨或雷鳴小動時々
未後晴
一渡辺珍信所労依之来ル廿日ゟ如元御番へ
相詰候様当番ゟ達来
廿二日丁丑晴 微震
一早朝光文第え参ル入夜丹家罷越尤清談及
三更家帰
二十三日戊寅曇微震
一当番也依之例刻出仕午後退出
一当屋敷地蔵祭如例落雁ほうつき等相備御酒
一斤切手如近例水口へ相贈ル
廿四日己卯天晴 微震
一御無人ニ付加番小口ニ付出勤
一輪蔵院え拝掃 祖母清光院正忌云々尤花供
香典略之
但就地震不残御石塔転倒或損候ニ付宿院ゟ直シ
申付候雇出依之右為料孔方三百穴今日任
序下遣シ尤請書取之
一渡辺内監頭弟死去定式仮服被受
尤滋岡同断珍信叔父ニ付二十日仮
ニ付此頃称所労引籠ニ付右為見舞罷越ス
廿五日庚辰天晴小地震折々
一午後明法判官第へ参ル尤清談戌刻過
帰宅 但中家云々
廿六日辛巳曇
一関東姫君 和(カツ)姫殿去廿四日死去ニ付依之《割書:□□殿|御取計□》
洞中大宮三ケ日被 止
物音候旨被仰出尤停止従昨日七ケ日
之旨普請は不苦候旨也
但和姫殿毛利式部大輔妻之由云々御歳
十八才之由
廿七日壬午曇 微震
一今日当番出勤
廿八日癸未雨 微震
二十九日甲申曇
一今暁雷鳴強至甚雨也
一■■■
■■■■ 八瀬村ゟ
■
右当家八朔祝儀持参如例
晦日乙酉晴
八月大朔日丙戌曇 地震
一当日御礼御所々々え参上其外回勤
如例
一今日当番出勤御祝詞言上所司代参上ニ付
退出酉刻前也
一御茶碗百箱入
右両御所え御膳番同役組合 献上
如例 仙洞様ゟ御返し青銅百疋
給之 但上様御徳日ニ付二日被下
候事也
一八朔柿 きの村ゟ
右如例持参
一関東ゟ御馬献上如例云々
但御使新庄主殿頭相勤候也
一家内祝儀如例尤神饌仏供如毎年
召仕ものへ祝酒為給
二日丁亥晴 微震
一東辻愛涛代勤
一献上物御返し今日給之《割書:青銅百疋ツヽ|ナリ》
一将軍様ゟ献上御馬御附梶野土佐守
拝領也
三日戊子晴 入夜微震
一徳岡近藤両家不幸中見舞割合
孔方三拾二銅差出ス
四日己丑晴
右将監兼
一 渡辺図書権助
右去廿八日兼任宣下ニ付歓罷越ス
但御内おゐても平日兼官祝之事
五日庚寅晴
一今日御番之処東辻返代ニ付不参
一御霊御旅中母子供召連御参詣
尤御初穂被供之
六日辛卯晴 微震
七日壬辰曇 小地震
八日癸巳雨 小雨地震《割書:二三四|或暮後ニ鳴動》
一虫鹿代出勤
一徳岡大炊権助今般家督相続被 仰付
但風聴礼被参候事也
一御霊神幸中依之詣両御霊供
初穂其外如毎歳云々
九日甲午晴
一今日虫鹿返代出勤ニ付不参《割書:御番昨日と|振合也》
十日乙未雨 微震
一夕方沢村へ罷越ス戌刻帰宅
十一日丙申晴 微震
一今日少々尤祝有之両三輩入来有之
十二日丁酉晴 震
一森辰夏放生会御使ニ付狩衣借用之旨噂
九日之
一午後辻大蔵丞所労見舞罷越候事也
十三日戊戌晴 震
一今日御番之処所労ニ付小野氏益へ相頼
不参
一放生会従今晩御神事十六日朝迄
十四日己亥晴 地震
十五日庚子曇 夕雨 震
一今日田中氏番代出勤
十六日辛丑雨 地震
一町口弾正忠入来対談夕方被帰
一母 敬子召連下鴨へ参詣
十七日壬寅晴 震
一今日御番出勤御附衆退出後引取
十八日癸卯晴 小震
一成田秀作義久々病気之処不養生相叶
死去ニ被致候旨山科土佐介より今朝為
知来申参右ニ付定式仮服相請混穢不致
候ニ付内々叔父ニ付従今日称所労引籠
候事
一今日御霊祭候得共家内平日之通也
一同家武寿へ予所労引籠之旨申遣本職
評用之節其序可相頼之旨頼遣
十九日甲辰晴 震
一成田秀作方へ罷越ス
二十日乙巳晴 地震
一成田秀作殿今辰刻真如堂吉祥院へ
葬送ニ付見送罷越ス快場申置
廿一日丙午晴
一白餅十一
右清俊院十七回忌ニ付為志母へ向到来
是ゟハゆは為備相送ル
廿二日丁未晴
廿三日戊申晴
廿四日己酉晴
廿五日庚戌晴
廿六日辛亥晴 微雨
廿七日壬子晴
廿八日癸丑晴
廿九日甲寅晴
三十日乙卯晴
一今晩ゟ勢州例幣御神事也
九月小朔日丙辰天晴
二日丁巳天晴 震
一輪蔵院え参詣 祖考霊位
一芳顔被恵ニ付斎米壱升持参尤写
有之
一真如堂吉祥院へ墓参
三日戊午天曇 地震
一今日祖考正祭候得共予所労参詣無念尤
森辰夏恭心院等は参詣之事
四日己未曇
一栗 八瀬村ゟ
如例年持参
一御扶持壱石九斗八升
右相渡り小佐治へ相頼一緒ニ請取
但右之中五斗恭心院扶持遣ス
五日庚申晴
六日辛酉曇
七日壬戌曇
八日癸亥晴
一今日忌明候得共御神事ニ付不罷出
九日甲子晴
十日乙丑晴 夕雨
十一日丙寅雨
十二日丁卯晴
十三日戊辰晴
一所労快気ニ付今日ハ出勤也但実は忌明
一施薬院へ不沙汰罷越ス夫ゟ所方見舞
方へ少々参ル
十四日己巳曇 午後微雨
一錦小路亭へ罷越ス
十五日庚午雨
一此度親友田中芳揃国元へ罷越今夕出立
ニ付暇乞罷越ス就右牋別 玄猪 梅かゝ
小菊 十折 等相送ル
一今日御番出勤之処鳥山相頼不参
十六日辛未晴
十七日壬申晴
十八日癸酉晴
十九日甲戌晴
一当番出勤
一詣清水寺
廿日乙亥晴
廿一日丙子曇
廿二日丁丑晴
一今日鳥山吉貫返代出頭
廿三日戊寅曇
一内侍所仮殿引渡ニ付所司代参上
依之今日当番服□麻上下着卯半
刻出勤相済退出申刻過
廿四日己卯晴
一今日近藤代出勤
廿五日庚辰晴
一こんふ 一袋 村雲右近府生ゟ
右故将監七回忌之旨ニ付到来右返し
是ゟは陽波十相送ル
廿六日辛巳曇
一同家武寿方へ久々不沙汰ニ付罷越今日
晴明祭ニ付小豆餅出ル
廿七日壬午晴
一本職御用為之早朝右大将殿参ル
一今日小番出勤御附衆退出後罷帰ル
二十八日癸未晴
一内侍所仮殿渡御日時定陣儀御神事也
一今日御神事同列中重腹輩并参役人体
為之勤番無人ニ付依之予小口今日
加番之処自分少シ差支之ニ付虫鹿
次小口ニ付振替不参
但来月十六日渡御御沙汰之由也
一妹女お敬義吉田社公文所鈴鹿神祇権少輔
十六才
兼河内守男周防守当寅年 妻ニ申請
二十六
度旨岩佐政之進を以噂民部ゟ
先頃光文申込有之処光文承知ニ而
貞室院殿へ申聞尤何れも申聞有之
本人も承知ニ而此間申合更ニ下鴨へ参り
候約束ニ而面会も相済其後弥相談
致度旨ニ付此方ゟ敬子親類書
当家家内人数書衣類諸道具書付等
認遣シ先方ゟも周防守親類書家内人数書
等差遣ス惣而光文せわ也相互ニ書付を以
委細相談相極候由今日日柄能結納也
尤一件書付別ニ有之
一今日吉辰ニ付結納也
なゝこ地 一反
帯 地 二筋
末 広 鈴鹿周防守ゟ
鯣 弐連
平 樽 一荷
右使者林松之助持参五種之肴ひたし物
吸物蛤□ニ而祝酒出し今日家来代
吉川善十郎相頼差出ス直答下部弐人へ
祝酒為給祝儀使者へ白銀壱両下部へ
青銅弐拾疋ツヽ遣ス
但尤家来代吉川善十郎着麻上下也
一おと勢末女頼子義 元来風邪ニ而不
当春ゟ逗留
勝候処当廿日ゟ疫病之様子ニ而
廿六日晩ゟ至而不相勝医師は近辺
清水矢柄診察相頼候処此度之処は
至而不勝候儀断申も無之今一人何れ
も診察可相頼旨被申聞候ニ付尤お
と勢へ申遣来廿六日ゟ近藤元之と申
人被参診察候処矢柄同言之間ニ而
薬申請候廿七日ニも同様之旨彼是
養生致候得共不相叶今日酉刻前
死去
一右ニ付お願及太切候旨おと勢殿速刻為
知来又貞室院殿ゟ被達急ニ御下り
ニ付輿物人足弐人申付件片岡佐右衛門
挑灯持壱人相添遣候事
廿九日甲申晴 夕雨
一右死去ニ付自分義内爰姉ニ付定式
仮服相受候ニ付差向仮服不相届
今日ゟおと勢殿同様称所労引籠
候積即申届候
一吉祥院今朝鐙之進罷越委細掛合
有之候事
一於頼義今日酉刻真如堂吉祥院え為養
生遣ス下部弐人侍壱人差添遣ス
其以前入用物為持遣ス尤鐙之進
予付添見立行向於寺門入棺
勿論仮位牌香炉テニホ等用意
回向有之於龕前堂葬送之仏事
修行衆僧四人導師也仏事相済
墓所へ埋葬鐙之助葬主代予
焼香万端相済候上罷帰ル
一法号智明院周室妙鏡大師と書付
尤墓前ニ小塔婆ヲ建花等設有之
十月大
朔日乙酉晴
一今日真如堂え吉祥院拝掃鐙之進と
参候事
二日丙戌晴
一御内ニ而宗門改書如例相認一統一緒
相揃御膳番ゟ詰所迄差出置
一今日吉祥院拝参 武錫ゟ香典銀壱匁余相備
宿坊回向有之水塔婆建之尤花
相供ル序ニ保寿院故法眼元棟墓へ
花相備置
三日丁亥晴
四日戊子曇
一沢村出雲守尋合入来暫時対面申刻
被帰
五日己丑晴 時雨
一久我本清寺え家内一統参詣
祥忌香典 銀三匁
右持参宿坊誦経尤花を相備ル
但尤着麻上下也
一地震後参詣之処破損久源院之
御墓之由□考修理申付ル
六日庚寅曇
一文景院殿正忌ニ付今日輪蔵院へ参ル
但着同断
一皇子御降誕益
御機嫌克被為成候旨被仰出候様
為心得当番ゟ申来
七日辛卯晴
一白井村石倉村蔵付如例
一町口是久被参対面相済申半刻帰宅
八日壬辰晴
九日癸巳晴
十日甲午晴
一今日おと勢殿被上供物申付ル
十一日乙未晴
一自分所労ニ付武寿を以新嘗祭参勤
交名奉行職事へ出ス
十二日丙申雨
十三日丁酉晴
一会式如例
十四日戊戌曇
十五日己亥晴
一餅 白赤
右例之通玄猪為御祝儀給之旨
奉書ニ而諸大夫春日讃岐守ゟ到来
此節儀返書不致武寿を以御礼
申上置
十六日庚子晴
一今晩内侍所仮殿へ渡御也
十七日辛丑晴
十八日壬寅晴
一世続甲斐守病気之処一昨日卒去之旨
為知参申来
一世続甲州今晩酉刻寺町今出川上丁
本満寺へ葬送ニ付為見立名代使
遣ス名札事付帳場申置
一今晩ゟ御神事也 内侍所仮殿渡御
臨時神楽也
十九日癸卯晴
一今日家内清火
二十日甲辰晴
一内侍所仮殿渡御ニ付臨時神楽也
二十一日乙巳曇 晩雨
一昨日忌明之処御神事ニ付今日出勤
尤所労快気御届振合出頭
一所労見舞向々挨拶相廻ル
二十二日丙午晴
一今日当番ニ付出勤内侍所本殿御引渡
ニ付服沙麻上下着用相済退出酉刻也
一新誕若宮奉称三宮云々
一猪子御玄猪両御所共被下落手
但中亥子依御神事不賜之仙洞様
計被下
二十三日丁未晴
一世続え引籠見舞罷越ス
二十四日戊申晴
一井上右兵衛尉番代出頭
二十五日己酉晴
二十六日庚戌晴
一今日御番之処井上返代出勤ニ付不参
廿七日辛亥晴
一第三猪子ニ付出勤御玄猪被下
一
廿八日壬子晴
廿九日癸丑晴
一吉祥院墓参
卅日甲寅晴
一今日当番之処田中返番相頼不参
一今晩より御神事也
十一月大朔日乙卯晴
一院中当月御雇順番小口ニ付今日ゟ彼御所
え出頭
一大経師新暦如例到来
一久我家へ当日御礼参上
二日丙辰晴
三日丁巳晴
一今日当番出勤尤従今日彼御所へ出勤
四日戊午晴
五日己未晴
一今日真如堂吉祥院へ墓参
保寿院故法眼元凍正忌ニ付
香典銀二匁
右之通持参也
六日庚申晴 戌刻地震
一今戌刻地震甚敷依之為伺院中へ
参ル
七日辛酉曇 微雨
一今日当番出勤
一東土川村蔵付如例 今日定日也
八日壬戌曇
一せんまい 三袋 世続左兵衛尉へ
右不幸中為見舞相送ル
九日癸亥曇 午後晴
十日甲子晴
一今日当番出勤
一扇子 一箱五十入 輪蔵院
右入院之旨為届入来持参
十一日乙丑曇
十二日丙寅晴
一こん婦 二十本
一御酒 一樽 百々御所奥ゟ
右御普請御上棟相済候為御祝母へ向老尼文ニ而被下
十三日丁卯晴
一新嘗祭也被為在出御候也
十四日戊辰晴
一今日御番出勤
十五日己巳晴
一今日百々御所へ御上棟歓御礼参上
一御番代出勤 但沢田代也
一□ 御所地震破損ニ付御修理之処
御出来ニ付為見分御附衆被相廻ニ付
御庭廻有之予相廻候事
十六日庚午晴
十七日辛未晴
一今日当番出勤
一詣 清水寺
十八日壬申晴
一南大路縫殿允御番代出頭
十九日癸酉晴
一今日加茂臨時祭也
使鷲尾左中将藤原隆敬朝臣
二十日甲戌晴
二十一日乙亥晴
一今日御番ニ付出勤
廿二日丙子晴 朝小雪
一今晩酉刻頃失火又寅刻過失火云々
廿三日丁丑曇 未刻入寒 夕方初雪
一早朝山田会罷越ス
廿四日戊寅雪
一今日出勤当番也
一せんまい 一袋 山田備後守ゟ
右善知院当年十三回忌ニ付引上法事
来二十五日相催候旨ニ付為志到来且
非時招度之段此間申来依之此方ゟも
香典銀壱両陽波二十為備相送り
自分は不参断申遣ス
廿五日己卯晴
廿六日庚辰晴
一今晩安禅寺二十六夜待ニ付
高橋若狭守ゟ兼而噂有之戌刻頃沢村
同道罷越ス帰宅寅刻
一寅刻頃新町今出川辺失火也
廿七日辛巳雪
廿八日壬午曇
一今日当番出勤
一寒中伺廻り少シ相廻ル
廿九日癸未晴
一寒中伺尋合終日相廻ル
晦日甲申雪
一今晩ゟ内侍所臨時御神楽御神事
十二月大朔日乙酉曇
一去月洞中御雇ニ付今日交代ニ付為雇
出勤之処御神事中ニ付当番へ以書面
入礼相頼置
二日丙戌晴
一今日御番之処沢村へ振替相頼不参
一内侍所臨時御神楽也
三日丁亥晴
一輪蔵院へ墓参
斎米壱升 明田口鷲斎正忌
ニ付
銀壱寿 当僧入院ニ付遣ス
但三匁也
右之通持参也
四日戊子晴
五日己丑晴
六日庚寅晴
一当番ニ付出勤
一院経師新暦差出引取
三日付落
一御扶持米壱石九斗
但内壱石餅米也
右相渡り請取小佐治相頼一緒印形為持
遣ス
但内五斗恭心院方へ扶持方遣ス
七日辛卯晴
一鶏卵 十五 宗岡式部丞
右寒中為見舞到来ニ付是ゟ今日
為返礼 相送ル
八日壬辰晴
一武錫当年中六年ニ而加級年限ニ付小折紙相認
今日向々相伺委細府随身帳認有之
仍而筈之
九日癸巳晴
一今日沢村右衛門権尉御番代出勤
一本清寺へ歳末代参山本源之助相頼差遣ス
仏供料
米壱石 代銀七拾八匁
右来卯年中斎米也相渡尤通持参
請取書取之外供物持参無之花計り相備置
十日甲午晴 朝薄雪
一当番出勤着熨斗目御改元也
一大地震ニ付改元定仗儀有之上ハ二条左大臣斉信公
一右ニ付御庭廻り有之着狩衣
但御式申刻前御始り宣陽殿西壇上着坐
一所司代松平伯耆守殿如先例参上着用狩衣ニ而
伺公間へ被参尤伝奏衆御面会也其後
茶酒吸物等被下御庭へ拝見被相廻
一改元号被為天保
十一日乙未晴 朝雪
一獄舎行向光文奉仕今晩罷越惣応せわ致ス
十二日丙申晴
一予加級年限ニ付正六位下小折紙相伺置候旨
詰所噂□也 但去九日相届置付落也
十三日丁酉晴
一今日当番出勤□之代也
十四日戊戌晴
一当番出勤
十五日己亥晴
十六日庚子曇
十七日辛丑晴
十八日壬寅晴
一今日当番之処少シ不快ニ付田中へ相頼不参
一酒一樽三升 寄子預り中
右如例歳末祝儀到来
一町口弾正忠ゟ此頃按腹名人摂州ゟ上京ニ付
出八年療治試候者ニ付若好ミ候ハヽ一辺へ
療治候心付申来候予一両日前ゟ例持病ニ而
団り着候ニ付幸儀ニ付先今日ゟ療治一廻致試候積り
此療治人上田敬安と申者至而名人之由也
後日按腹代七匁遣ス
十九日癸卯晴 夜分雨
一家内掃除為致候事
一串柿 一連 八瀬村ゟ
右歳末祝儀持参
二十日甲辰曇
一武錫義昨夜加級正六位下勅許ニ付右
御礼 御所 仙洞様 以表使申上
大宮様 准后様は詰所返り申置也
其余委細本職記録認有之
何分略之
右兵衛志申替
一 井上右衛門権大尉
右申替 加級 宣下也
廿一日乙巳晴
一洞裏関東御進献御茶口切也依之予小口御雇ニ付
午刻着熨斗目麻上下出勤尤所司代
参上有之相済退出
一今日常御殿御煤払也御雇出勤
ニ付別段不罷出
一家内餅舂也鏡餅如例下々え為給
候事
廿二日丙午晴
一今日当番出勤
廿三日丁未晴
一節分ニ付家内祝儀如例年男久次郎へ
相頼依之鳥目百銅祝儀遣ス扇子一箱
近頃略之
一右ニ付御初穂青銅拾疋
内侍所献供御供米豆等頂戴之事
廿四日戊申晴
一為歳末輪蔵院吉祥院等え参詣
一金山寺味噌 一曲 中東豊前守
右如例持参
一妹敬子義吉田公文所
鈴鹿周防守え縁辺決定之処
世話人不行当ニ而少シ相違之儀出来
ニ付依之受引結納品々先日せわ人
方迄為返置候処此頃鈴鹿□へ過却之
旨せわ人岩佐政之進罷来申聞
尤右返却品々請取書持参也
二十五日己酉晴
一今日知行所勘定如例
一御新献御茶口切也 予今日加番ニ付
出勤之処所労ニ付近藤相頼不参
一今日正六位下 口宣案令下之頭弁隆光
呈高へ参ル委細本職帳相認
二十六日庚戌晴
一今日当番出勤 御番備一□持参也
一牛蒡 一把 本清寺ゟ
右如例持参
一酒 一樽二升 寄子仕丁
廿七日辛亥晴
一門松今日相建候事
一いわし百 寄子
預り
仕丁
右歳末祝儀返し如例遣之
一歳末祝儀相送如左
一金百疋 山田阿波介へ
一金三朱 清水矢柄
一 沢直之介
一金壱朱ツヽ 片岡佐右衛門
吉川善十郎
山内弥五郎
同
一銀三両 久治郎
一鳥目弐百銅ツヽ 召仕女
男え
右之通追々遣ス
一召仕ともへ給銀相渡ス
一かや 木の村ゟ
右如例持参
廿八日壬子晴 夕方地震
一鏡餅 一重 久我殿ゟ
右如例可被下之旨諸大夫辻出羽守ゟ
申参御礼参ル
一今日田中代出勤
二十九日癸丑晴
一今日除服家内火相改候事
一南鐐壱片 重民部
一銀 壱両 鈴木主水
一同 壱両 小谷東馬
一銀三匁 羽倉紀伊守
右先日ゟ追々来ル半季分到来
一金壱歩弐朱 三文字屋与兵衛
南鐐壱片 三谷斎宮
右御土居地貸遣候地子半季分到来
落手右半割百疋町口へ遣ス
晦日甲寅晴
一今朝依服明御霊え参詣
一当番出勤御番備ニ付着麻上下也
一年始用追々出来候事
一歳末盃事如例致ス召仕ともへ御酒
出ル
【白紙】
【白紙】
【白紙 左肩に管理ラベル】
【裏表紙】
鶯宿雑記 《割書:二百/四(六)十三|二百/四(六)十四》【二ヶ所の「四」を見せ消ち「六」に】
《題:鶯宿雑記 二百六十三》
鶯宿雑記巻二百六十三
木瓜考 新井筑後守源君美著
木瓜和名鈔《割書:源順|ノ作》日本瓜に雅注云木瓜一名楙《割書:和名本草|木瓜毛介》
其実如に瓜也
多識編《割書:林道春撰|シト云フ》木瓜和名毛介又云保計《割書:異名|》楙
貝原篤信《割書:筑前|ノ人》曰木瓜カラボケ一名楙
稲若水《割書:加賀|ノ人》曰木瓜今云カラボケ
舜水朱魯璵《割書:大明ノ人本朝ニ来レリ|水戸西山公ノ師ナリ》曰木瓜マルメロ有大小
不同又有長而頭尖者
異朝ノ木瓜ノ注ニ同シケレハ本朝ノ昔ハ真木瓜ヲ以テモケ
ト云シナルベシサレド今ノ俗 樝子(サシ)ト云物ヲ呼テボケト云フ
若シ此ナラハシ昔ヨリノコトナランニハ順朝臣ノ云シ所モ樝子ヲ
モテモケト云シモ知レズ又今俗ニ木瓜ヲ以テカラボケト云
ハ世子樝子ヲモテボケトイヘバソレニ分ツヘキ爲ニ斯ハ云ヘルナル
ヘシ《割書:モケト云ハ即木瓜ノ二字呉音ヲ以テヨビシナリ其后俗ニボケト云シ|モ木ノ字ヲ漢音ニ呼カヘテ瓜ノ字ヲハアリシマヽニ呉音ヲ用シ物ナリ》
《割書:ソレヲ又医家ニモツクワト云ハ二字又呉漢ノ音ヲ交ヘヨビシナリモツク|ワノ和名ヲモケトモボケトモ云トノミ心ヱンハヨカラズ》
サレド今カラボケト云物ハ異朝ニ所謂木瓜ノ大ナル物ニテ有
也本草衍義ニ大木瓜ト云ハ是ナルヘシ近キ比ホヒ大明ノ人朱
魯璵ニ木瓜ノコトヲ問シニ今俗ニマルメロト云物ヲ指テ木瓜
也トハ云キ《割書:マルメロト云ハ番語ニテアル也此物昔ヨリ我国ニ有シヲ|番人ノ見テオノカ国ニテ呼処ヲモテカク呼シニヤ又番》
《割書:人ノ持来リシヨリ此国ニハ有モノニヤ|未タツマヒラカナラス》此人格物ノ君子ニテ大明ノ
代ノ末ノ乱ヲ避テ番国ニ遁レ其後我朝ニ来リ止マレリ
サレバ独異朝ノコトニ委キノミニアラズ番国ノコトヲモ能シレル
人也其説アヤマルヘカラス且ハ今異朝ノ諸書ヲ考ルニマル
メロト云物ハ彼国ノ書ニ見ヘシ木瓜ノ注ニ違フ処ナシサラ
バ我朝ノ諸儒マルメロノ外ニカラボケト云物ヲモテ真木瓜
トノミ思ヘルハ誤ナルヘシ今試ニ異朝ノ書ニ見ヘシ木瓜ノ
注ヲ此ニ記シテ委ク弁ス
図経本草曰木瓜木状如柰《割書:マルメロノ木ノ状世ニ云リンゴニ同シ|リンゴト云モノハ柰ノ一類ニテアル也》
春末開花深紅色《割書:マルメロノ花ヒトヘニシテ梨子ノ如ニテ|少ク紅ナルコト海棠ニマサレリ》其実大
者如瓜《割書:マルメロノ実ノ形少ク細長ク頭ニ鼻|アリテ瓜ノゴトシ是イハユル大木瓜ナリ》小者如拳《割書:マル|メロ》
《割書:ノ実小キナルハニギリ拳|ホド有也是所謂小木瓜也》上黄似著粉《割書:マルメロノ実色黄ニシテ|粉ノフキシ如クニ有モノ也》
実成則鏃紙花 粘(ツク)於上《割書:マルメロノ実始テ成シ寸【時】ニ瓜ノ如クニ|花ツキノ処ニ花ノ萼ト云モノ五弁》
《割書:弁ニ花ノ蘃ソノ侭ニ|粘テアルモノナリ》夜露日烘漸変於紅花色《割書:マルメロノ実ハ|後ニハカクノ如シ》
看_二 ̄レバ蒂間_一 ̄ヲ別有蒂重如 ̄レ乳者《割書:マルメロノ蒂ツキノ所此ノゴトシ|図ニ見ヱタリソノ蒂此ノ如ク》
《割書:ナラヌヲ|ト云ナリ》樝子
大観本草曰始実成則 ■_二【漢字「糸偏に族」フリガナ「ツナヒテ」】紙花_一 ̄ヲ薄(ヲホフ)_二其上_一 ̄ヲ夜露日㬧
《割書:镞■【糸偏に族】字誤■【糸偏に族】以長縄繋牛馬也薄広被也異本■【糸偏に族】作鏃誤写耳○薄|其上三字一本作作粘於上亦通○木瓜ノ実ノ未タ熟セサル寸【時】纸ニテ花》
《割書:形ヲ作リ実ヲオヽヒカブセクヽリ置ハ実熟スル寸其花形ノアト紅色ニ変シ生ノ|コトシト云》
雷公炮炙論曰真木瓜皮薄色赤黄香而甘酸不渋《割書:マル|メロ》
《割書:ノ形色気味|カクノゴトシ》其向裏子頭尖一面方《割書:マルメロノ核ノ形スナハチ|カクノコトシ》
本草網目曰木瓜葉光而厚《割書:マルメロノ葉リンゴノ如|クニテ厚キモノナリ》其実如
小瓜而有鼻《割書:鼻トハ瓜ノ花オチノ処ヲ云ナリ マルメロノ実大キニ|成テ此ノコトシサレバ瓜ト云名ハアルナリ》
マルメロノ図 【マルメロノ図】鏃紙花 重蒂如乳 鼻
右諸説ノ如ナレハ木瓜ハ舜水ノ云シ如クマルメロナルコト疑ヘカラス
此物ノ類殊ニ多シサレバ異朝ニモマルメロヲバスベテ木瓜トモ真木
瓜トモ云ヒ其大ナル物ヲ大木瓜ト云フ是木瓜ノ極テ大ナルニテ其
性尤薬ニスルニ堪タリト見ヘタリ《割書:コノ大木瓜|即今云フカラボケ也》其外ニ榠樝
樝子山樝子蔓子土伏子ナト云モノ皆〻木瓜ノ類ニテアルナリ
樝子 和名鈔ニ此物ヲ載セス
多識編曰和名今按古保計 異名木桃 和円子
貝原篤信曰樝子ボケ 稲若水曰木桃ボケ
右説諸ヲ併セ考ルニ樝子ハ今俗ニボケト云物也篤信若水
等ノ説モ今ノ俗ノ呼フ処ニ従ヘル也多識編ニコボケト云シハ
本草綱目ノ説ニ樝子ハ木瓜ヨリ小シキナル物也ト云ニヨリテ名
付シナルヘシ某按スルニ今世ニボケト云物異朝ノ諸書ニ見ヘ
シ樝子ノ注ニ能叶ヘリ篤信若水等ノ説拠有ト云ヘシ又一
種草間ニ紅白花ヲ開テ其実木瓜ノ小キナル酸ク渋レル
者ヲ俗ニシドメトモボケトモ又ハクサボケトモ云也此物ハ即樝子
木ノ年毎ニ草トトモニ刈レテ其木長スルコト叶ハデ草間ニテ
花ヲ開キ実ヲ結フ者也トモ云フ但ボケト云物ハ其実多カラ
ズシトメト云物ノ実ヲ結フコト尤多シサレバモト是一類ニシテ
別種ナルニヤ或人シドメト云物ハ欄地錦ト云モノ也ト云ヘトモ心
得ラレス常熟県志ノ中草木ノ條ニ欄地錦ハ花 絳色(あかいろ)【左ルビ 「ホケ色トモヨム」】朶如_二海
裳_一 四時皆有_レ花独盛_二 於春_一ト見ヘタリ其木ノ朶海裳ノ如ク
トアランニハ木(コ)高キ者也今ノシドメノ如クニハアラズ且ハ又花ノ
事ノミ見ヘテ実ヲ結ト云コトハミヘス思フニシトメト云物ハ雷
公炮炙論ニ見ヘシ木瓜ノ類ニ蔓子土伏子ナド云物ト覚ヘ
侍リ今試ニ樝子蔓子等ノコト異朝ノ書ニ見ヘシ処ヲ此ニ注ス
本草綱目曰樝子乃木瓜之酸渋者《割書:今世ニボケト云モノ木ノ|高サ六七尺其花紅白ニシ》
《割書:テ其実木瓜ニ似テ小ク其味|酸クシブルモノナリ》
炮炙論木瓜條曰有蔓子絶小味絶濇不堪用有土伏子
味絶苦濇不堪《割書:按スルニ蔓子トイヘハ其性ヨク蔓リテ子ヲムスブ物ニヤ|土伏子トイヘハ土ニフシテ子ヲムスブ者ニヤ何レモ木瓜》
《割書:ノ類ニシテ其実甚小シキニシテ其味酸ク濇リテ用ルニ堪サル者ナリサラバ|今云フシドメト云者ニヨク叶ヒ侍ル歟》
榠樝 和名鈔ニ此物ヲ載セス
多識編曰和名今按加羅保計 異名木李 木梨
蛮樝 瘙樝
貝原篤信曰榠樝クハリン 稲若水曰榠樝クハリン
右諸説ヲ併セ考ルニ多識編ニカラボケト呼コト然ルヘカラズ《割書:篤信|若水》
《割書:共ニモツクワヲカラボケ|ト云シハ左モアルヘシ》篤信若水共ニクハリント云ヒシハ今ノ俗ニ
呼処ノマヽニ呼シ者也サレド今世ニクワリント云者二種アリ
一種ハ諸ノ本草ニ見ヘシ榠樝ノ如ニシテ其実梨子ノ如ク其
味酸ク渋レリサレハ木梨ナト云異名モ有シナルヘシ《割書:某昔此|種ヲ求》
《割書:得テ植タリ其木葉トモニリンコノ如シ程ナク|火ニ焼失シカハ花実ヲマサシクハ見ズ》一種ハ又木ダチ葉ノ
形トモニ梨ノ如クニシテ其木皮ニ白点アリテ劈テ見ルニ木理
少ク赤ク其花海棠ニ似テ其艶ナルコトハ猶甚シ其実リンゴ
ニ似テ大サ拳ノ如シ漿多ク味長ク香キコト皆々梨子ヨリモ
マサレリ是ラ二種ノ中篤信若水何レヲ以テカ榠樝トハサシ名
付ケン榠樝一ツニ木梨ト云ヒ又其気味酸平也ト本草綱
目ニ見ヘタレハ篤信若水カサシ名付シ処梨子ノ如ニシテ其味
酸キ者ヲイヘルナルヘシ今一種リンゴニ似タル物ハ開宝本草本
草綱目通雅等ニ見ヘシ菴羅果ニテソ有ヘキ今試ニ異朝ノ
書ニ見ヘシ榠樝菴羅果ノ注ヲ下ニ注ス
図経本草曰榠樝但比木瓜大而黄色弁之惟在蒂間
別有重蒂如乳者為木瓜《割書:木瓜ノ下ニ|詳ニ見ユ》無此則榠樝也《割書:重|蒂》
《割書:アルヲ木瓜トシ重蒂ナキヲ榠樝ト云是ヲ見テ二ツノ物ヲ弁フヘシトナリ|サレハ此モノハ木瓜ノ類ナルコトハ一定ナリ》
開宝本草曰菴羅果若林檎而極大《割書:一種クワリント云物|リンコノゴトシ》
大明一統志曰菴羅果俗名香蓋《割書:香トイヘハ香アル也一種|クハリント云物ハ殊ニ香ハシ》
乃果中極品《割書:一種クハリント云モノ其|味殊ニ美ナルモノナリ》種出西域亦柰類也
《割書:一種クワリント云物ハジメ番人ノ吾国ニ伝ヘシニヤ若左アランニハ西域ヨリ|出シ種ナルヘシ》
榲桲 倭名鈔ニ此物ヲ載セス
多識編曰和名或云利牟幾牟一云今南蛮未留米留是也
貝原篤信曰榲桲マルメル 稲若水曰榲桲マルメラ
右諸説悉ニアヤマレルニ似タリ多識編ニハリンキントモ又ハマル
メルトモ記セリ一定ノ説ニアラス是未タ此物ヲ詳ニセサル証也
篤信若水共ニマルメロト云シモ心得ラレス《割書:リンキンハ沙果ト云モノ|也下ニ詳ニ見ユマルメル》 【「沙果」にフリガナ有り「サクワ」】
《割書:ハ木瓜ノ|番名也》又今世ニリンキント云物ヲ指テ榲桲トナス是多識編
ノ訛ヲ伝ヘタル也此訛リハ異朝ニモ似タルコト侍リ李珣カ南海
薬録ニ関中謂林檎為榲桲ト云シヲ本草綱目ニハ述往記
ヲ引テ林檎佳美榲桲微大而状醜有毛トアレハ林檎榲桲
蓋相似而二物ナル由ヲ弁シタリサレハ榲桲ハ林檎ヨリ大ニシテ
毛アル者也今世ニ云リンキント云モノハリンゴヨリ猶少シキニ
シテ然モ毛モナシ榲桲ノリンキンニ非サルコト尤明ニ侍ルニヤ
異朝ニモ榲桲ト云モノハ圠土ニハアレト江南ニハ甚稀也ト見ヘシ
サレハ李時珍モ未タ榲桲ヲハ見サリシ様ニ本草綱目ニハ記セ
リサレバ我国ニモ此物ハアラザルモ知ルヘカラス
右諸家ノ説ヲ併セ考テ自(ミ)ノ浅陋ナルヲ省ズミダリニ是ラノ物ヲ弁
ジ決センニハ マルメロト云物ハ木瓜(モククワ)也 カラボケト云物ハ 大木瓜(タイモククワ)也
朱舜水ノ説ニモ木瓜ニ大アリテ同シカラズ由見ヘタリ本草
衍義ニモ木瓜ノ條ニ西洛ノ大木瓜ト云物ヲ出シテ此物ハ薬
ニ入レルニ甚功アリト記セリ今我国ニテモ此物ヲ以テ薬トシ
テ甚功アリトイヘリカラボケト云物木瓜ノ大ナル物ニテ即番
名ハマルメロト云物ノ大ナルナリ
ボケト云物ハ樝子也 シドメ《割書:クサボケ|ボケ》ト云物ハ蔓子土伏子
ノ類ナリ クワリント云物ハ榠樝也 又一種クワリント云
テリンゴノ類ニテ菴羅果ト云モノニ似タリ
此外ニ山樝子ト云物アリ是三四十年前ニ生ジ得シヨリ始テ
吾国ニモ出来リ此物樝子ニ対シテ山樝子トイヘハ是モ亦木瓜ノ
類也只榲桲ト云モノハ我国ニアリヤナシヤ未タサダカナラス
林檎倭名鈔曰林檎本草曰林檎与李相似而小者也
多識編曰和名利牟古宇 俗云利牟古異名来禽文林
即果 貝原篤信曰林檎 リンゴ
稲若水曰林檎リンコ 舜水朱魯璵曰花紅リンゴ
右本朝諸家ノ説ヲ考ルニ我朝ノ昔リウゴウト云シ物今ハ
リンゴト云也《割書:リウコウ即林檎二字ヲ音ヲ以テ和名トハセルナリ此例尤秘訳|ニテアルナリ芭蕉ヲバセヲト云ヒ紫苑ヲシヲニト云モ同シ例也》
《割書:リンゴト云モ即林檎|二字ノ音ヲモテ呼シナリ》古ニリウゴウト云ヒ今ハリンゴト云モノ共ニ林
檎二字ノ音ナレハリウゴウ リンゴ リンキン其名異ナルニ似タ
レトモ同ク一物ニテ《割書:木瓜ヲモケトモボケトモモツクワトモ|イヘドモモト是一物ナルガコトシ》舜水ノ所謂花紅
モ亦林檎ノ一名ナレハ皆是異ナル物ニハアラズ然ニ近世リン
ゴノ外ニ俗ニリンキソント云モノ出来シヨリ夫ヲワカチシルス
ベキ為ニ多識ニヨリテ榲桲ノ字ヲ以テリンキントナス
尤訛レリトソ云ヘキ是リンキント云物ノコトヲ詳ニセサルニヨリテ
ナルベシリンキンノコト下ニシ注シヌ
リンキン 倭名鈔ニ此物ヲ載セス 多識編ニ此物ヲ出サズ
榲桲ノ下ニ或ハ利牟幾牟トシルセリ
貝原篤信曰柰リン【「ン」白く塗潰し抹消】キン 㮏同シ
稲若水曰リンキンハ海裳ノ実 即 海裳梨也
舜水朱魯璵曰沙果ハリンキン
右諸説ヲ考ルニ倭名鈔ニリンキンノコト見ヘサルハ順朝臣ノ比
ホヒニハ此物只リウゴウノ類ニ混シテ別チ名付ルニ及バサリシ
ナルヘシ多識編ニ此物ヲ出サヾルハ本草綱目ニ此物ヲ載ザル
カ故ナルヘシ篤信カ柰ヲサシテリキント云シコト似タルコトハ似タリ《割書:リキン|リンキ》
《割書:ニ相同シ委ク|下ニ見ユ》若水カ海裳ノ実ヲリンキント云シハ誤レルナルヘシ《割書:海裳|ノ実》
《割書:トリンキント同シカラサル|コトハ弁スルニ及ハス》舜水朱氏ハ異朝ノ人ニテ我国ニ来リ留リ我
国ノ物ヲ見テリンゴ リンキンノ二種ヲワカチ云シ処ナレハ疑フヘカ
ラス但舜水ノ所謂花紅沙果イツレモ諸ノ本草ニハ見ヘス世
ノ人専ニ李時珍カ 本草綱目ヲノミ拠トシテカヽル物ノ名状ヲワ
キマフルコトナルニ花紅沙果ノ名其中ニ見ヘサレハ疑フ処モアリナン
サラバ花紅沙果ノ名異朝ノ書ニ出シ物一ツ二ツ引出シテ其疑ヲ
定ムヘシ余庭璧カ事物異名ト云物ニ花紅ハ林檎トモ来禽トモ
云ヨシ見ヘタリ《割書:舜水ノ云シ如ク花紅即我朝ノ|リンゴタルコト疑フヘカラス》又方以智カ通雅ト云者
ニ日給ハ沙果也味甘シト見ヘタリサラハ沙果ハ日給ノ一名タリ日給
ト云物王義之カ帖ニ見ヘタレト其形ハサタカナラスシカハアレト其帖ニ
来禽日給トナラヘ云タレハ林檎ノ類トハ見ヘシ李時珍カ本
草綱目ニ柰ノ條下ワツカニ日給ノコトヲシルシテ王羲之カ云シ
所ハ柰ヲ指テ日給トスルニ似タリトシルセリサラバ時珍モ林檎
ノ類トハ思ヘルナリ《割書:通雅ニ林檎ハ柰|ノ一種トモイヘリ》サレド時珍モ未タ日給ヲ能
シラサルニ似タリ《割書:篤信カ柰ヲリキント注セシハ時珍カ此説ニヨレルニヤ拠ナシ|トモ云ヘカラスサレト時珍カ説モ日給スナハチ柰也トハイハス》
《割書:又食性本草ニ柰ニ三種アリ大ニシテ長キモノヲ柰トス円ナル物ヲ林檎トス|コレラハ夏熟スルモノナリ小キナルモノヲ梣トス秋熟ス一名ヲ楸子ト云由見ヘタ》
《割書:レハ柰ハハリンゴヨリ大クシテ長キ者ナリ今世ニリンキント云モノリンゴヨリハ|猶小シキニシテ円カナレハ柰ヲサシテリンキント云ンモオボツカナシ只舜水ノ説ノ如ク》
《割書:ニ沙果一ニ日給ト云モノヲリンキント心得ンニハシカザルヘシ|》
シカシ只舜水ノワカチ云シ侭ニ花紅一名林檎ト云物ヲリンゴト
シ沙果一名日給ト云者ヲリンキント心得ンニハ《割書:又按スルニ今世ニリン|キント云モノリンゴニ似》
《割書:テ小シク秋ニ至テ熟スル者ナレハ食性本草ニ見ヘシ梣一名楸子ト云モノニ似タリ|サレトモ舜水ノ説ニ沙果又梣ト云由モ見ヘサレハ覚束ナシヨク知レル人ニ尋ヌヘキ》
《割書:モノ|歟》右諸説ヲ併セ考テミダリニ是ヲ弁シ決(サタ)メンニハ
リンゴ花紅一ニ林檎ト云モノ也此物本朝異国トモニ果ノ佳美
ナル物トセリ
リンキン沙果一ニ日給ト云モノ也此物異朝ニハ昔ヨリ果ノ佳美
ナル物トセシカド我国ニハ昔ヨリ林檎ノ中ニ混シテ別チイハザリ
シヲ近キ代ニ及テワカチ名付シモノナリ
此外ニ 柰 和名ヲハカラナシト云未タ其物ヲ見ズコノ物シモ
素柰丹柰白柰朱柰緑柰紫柰冬柰ナド云テ其類多シ
文林果 コレハ林檎ノ異名ノ由本草綱目潜確類書等ニ見
ヘタレド山東通志ニ文林果ハ林檎ノ如シトシルシタレハ林檎ニハ
《割書:アラサルナリ|》
頻婆 本草綱目ニ柰ノ一名ヲ頻婆ト云由ミヘタレト通雅
ニハ其説訛レリ柰ニハアラス別カク云果アル由ヲ詳ニ弁シタリ
菴羅果 通雅ニ林檎ヨリモ大キナル由ミヘタレハ林檎ノ如クニシ
テ大キナル物ナリ《割書:クワリンノ下ニ|詳ニセリ》
甘棠 通雅ニ棠ハ即海紅榲桲ノ類ト見ヘタリ海紅ハ即
海棠ナリコレラ又同シ類ノ物ナルヘシ
右リンゴリンキンノ外ニ又同シ類ノ物イクラモアリ今世ニアル
リンゴノ中ニ赤キアリ紫ナルアリ白キアリ青キアリ大キナルアリ
小シキナルアリソレラ皆リンゴナルニヤ又其中ニ柰文林果頻婆
甘棠ノ類ノ物アレド我国ノ人悉ニ弁ヘルニ及ハス皆〻リンゴ
トハ云ニヤ其事昔リンキン《割書:ヲモ|》リウゴウトノミ云シ如クナルモ
知ルヘカラススベテ草木禽魚ノ類書ニ注セル所ノミヲ見レハ彼是モ
皆似タルヤウニ覚レトマサシク其物ヲミレハ違フ処アルコト世ノ
常ナリマシテヤ天下ノ書ヲ悉ク見ルコトアタハズシテ僅ニ一部
二部ノ書ヲ見テ其初ヲ弁ヘ定ンコト尤難キコトナリサレハ此ニ注
セシ所ミツカラ其説ヲ得タリトスルニハ非ス先異朝ノ人ノ口ツ
カラ云ヒ名付シ所ヲ拠トシテ諸家ノ説ノ違フ処アルヲ弁
スルノミ世更ニ私ノ意見ヲ立ルニハアラス 木瓜考終
筝銘《割書:并|》序 黒田豊州侯
君子曰、礼楽可_二 斯須 ̄モ去身_一 又曰楽者通_二 倫理_一 者也、又曰移
_レ風 易_レ俗、天下皆寧、今人或知_二 ̄テ礼能脩_一レ身、未_レ知_二 楽能養_一
_レ性也、夫楽者音之所_二 由 ̄テ出_一 也、金石絲竹者楽之器也、清
濁倡和者楽之情也舞踏周旋者楽之容也、皆本_二 ̄ツク於人
心_一 ̄ニ矣然 ̄シテ心之為_レ物、其体 ̄ハ性其用ハ情、仁義礼智謂_二之 ̄ヲ天性_一、喜怒
哀楽謂_二之人情_一、惰慢邪僻謂_二之情欲_一、但其源深 ̄シテ而流 ̄レ反 ̄テ
入_レ邪 ̄ニ、是以失_二 天性_一、而堕_二 禽獣_一 ̄ニ可_二勝歎_一 哉人之為_二 邪僻_一 ̄ヲ也、
以_二 其性情悖逆 ̄シテ而好悪偏頗_一 也已(ノミ)、然楽能令_下二 ̄ム性 ̄ト与_一レ 情、融和 ̄シテ
而無_中 悖逆_上、是所__下 以養_二 夫 ̄ノ天性_一、正_二 人心_一、而平__中 均好悪_上 ̄ヲ也、故先王
制_レ楽非_三 以極_二 ̄ント耳目之欲_一 ̄ヲ、将_下 ̄ニ以教_中 ̄ント民 ̄ヲ平_二 ̄ニシテ好 悪_上 ̄ヲ、而反_中 人性之正_上
也、且又消__二 融 ̄シ学癖_一 ̄ヲ、渾__二 化査 滓_二 ̄ヲ【
返リ点「一」カ】所謂学癖 ̄トハ者、不_二 ̄ル自知_一 之執
僻也、査滓 ̄トハ者不_二 自尽_一 之偏質也非_二 ̄ンバ天律_一 ̄ニ何以 ̄テカ消__二 融之_一 ̄ヲ乎、
非_二 ̄ンハ 理調_一 ̄ニ何以渾__二 化 ̄ンヤ之_一乎、儻 ̄シ其音節不_レ ̄ハ伝則不_レ可_三 奈__二 何之_一 ̄ヲ、
今幸 ̄ニ伝_二 其曲_一 存_二 ̄ス其器_一 ̄ヲ、是 本邦之美談也、余非_二 君子_一 ̄ニ、
何 ̄ソ知_二 ̄ン音節_一 ̄ヲ、然思在_二 ̄コト于此_一 ̄ニ亦已 ̄ニ尚矣一日徂徠翁来謁 ̄シテ談及_二 音
律_一 曰書店 ̄ニ 有_二 古筝_一 背壊 ̄シ足落 ̄ツ不_レ可_二挙用_一、然其奇甚 ̄シ也、
希 ̄クハ或電覧 ̄センカ乎、他日請 ̄テ観_レ之実 ̄ニ希代之故物也、回雲魚眼之
理文蓋垂_二 ̄ントス千歳_一 ̄ニ、距_二 ̄テ龍角_一 ̄ヲ一許尺方_二 ̄テ雁-柱斗-爲之際_一 ̄ニ有_二大 ̄ナル
割痕_一、甚以奇也、在-右裛-廁、彫-_二 鏤金銀_一 ̄ヲ、鎪容_二 ̄ル紅葉流水之
華絵_一 ̄ヲ麗偉 ̄ニシテ又古 ̄タリ矣筝腹題_二 ̄シテ山下水 ̄ノ三字_一 ̄ヲ其下両行書_二葦
曳之和歌一什并貫之之名_一 ̄ヲ於_レ是知 ̄ル為_二 ̄ルコト山_下_水_一 也然 ̄トモ又来_レ【「来」の右側に書込み 「未カ」】知_二
落筆謂_一レ誰 ̄ト、推 ̄シテ云疑 ̄クハ是前 ̄ノ伏見親王真蹟 ̄カト乎、乃得 ̄テ而蔵_レ之
壬辰春令_二 楽師辻近家 ̄ヲシテ齎_二 ̄テ洛下_一 命_二 ̄シテ名工_一 ̄ニ更 ̄ニ治_レ之、唯筝-
身裛-廁如_レ旧其他龍-角、龍-池、龍-舌、天-座、陰-穴、等蠱腐 ̄シテ
而_レ不_レ可用者 ̄ハ悉皆剜__二 去之_一 ̄ヲ、新 ̄ニ鑠_二 金銀_一 刻_二 ̄テ犀象_一 以巧 ̄ニ脩__二 為 ̄ス
之_一 ̄ヲ、聞 ̄ク当時以_二 蜀錦_一為_レ嚢為_二 点賈_一 ̄ノ所_二裁取_一 可_レ惜矣今亦新 ̄ニ
製_二 ̄シテ錦袋_一 ̄ヲ収_レ之、是非_レ欲_レ専_二 ̄ニセント美 ̄ヲ於外_一 ̄ニ、欲_三 頗 ̄ル使_レ ̄ト協_二 故飾_一 ̄ニ也、新
声玅絶、不_レ可_二 勝言_一 矣楽官皆曰津軽外侯有_二 古筝_一 謂_二
小町 ̄カ筝_一比_二 ̄ルニ之他筝_一 ̄ニ殊 ̄ニ勝 ̄タリ而 ̄モ又不_レ可_レ及_二 山下水_一 ̄ニ矣伝聞此 ̄レ昔
紀貫之 ̄カ筝也葦曳 ̄ノ之什 ̄ハ乃題_二 ̄スル此筝_一 ̄ニ和歌 ̄ナリト也、未_レ知_二其真_一 ̄ヲ
矣、又謂 東福門院入-内之時華東編 ̄ク覔_二 ̄ヲ名筝_一 ̄ヲ、而得_レ之
門院鼓_二 之九重之上_一 ̄ニ其声憀-亮、遥 ̄ニ達_二 山埜_一 ̄ニ令_二 鬼神 ̄ヲシテ泣_一
後来 伏見内親王為_二 ̄テ 厳有公 ̄ノ妃_一 ̄ト輦輿将_レ赴_二 ̄ント于東都_一 ̄ニ
門院之賜_二 之妃君_一 ̄ニ曰爲_レメニ君 ̄カ餞_レ ̄ス之慎 ̄テ可_レ愛_レ之
薨去 ̄ノ後不_レ ̄ト知_二 其所在_一 ̄ヲ云或時法印河野松庵曰吾外姑語 ̄テ
曰所謂山_下_水 ̄ハ 先夫人高厳院之重器也是 ̄レ伝 ̄テ為_二 貫之
筝_一 ̄ト甚愛_レ之老嫗陪侍 ̄シテ而毎 ̄ニ聴_レ之筝形在_レ目 ̄ニ本出_レ自_二
東福門院_一 先夫人薨後不_レ知_二 其所在_一 也華飾銘詠
備 ̄ニ如_二 老嫗之言_一 ̄ノ可_二以為_一レ証矣、一日前 ̄ノ天台座主准后公-
弁法親王謁_二 ̄シテ羽林吉保_一 ̄ニ曰頃日在西都之際、風聞
高厳院入輿之時従_二 東福門院_一賜_二名筝_一号_二 ̄ス山下
水_一 ̄ト今尚在 ̄リ乎、吉保答言 ̄ス未_レ聞_二 其名_一豈有_二 ̄ヲヤ其器_一及_レ閲_二
于宝庫_一 ̄ヲ果無 ̄シ矣是又不_レ違_二老嫗之言_一 ̄ニ老嫗者誰 ̄ヲカ云フ
高厳院ノ侍女名 ̄ハ由良其後給__二 仕明信院_一 ̄ニ而号_二廣瀬_一 ̄ト
明信院逝去之後竟 ̄ニ為_レ尼号_二智光院_一 ̄ト矣聊今記_二 ̄シテ来
歴_一 ̄ヲ不_レ択_二瑣屑_一 ̄ヲ欲_二 其覈_一 也云銘曰
滄海 ̄ノ貝玉 峻嶽梧桐 夔襄薦_レ ̄シテ法 般石擅_レ ̄ニス工 ̄ヲ
【書込み】
《割書:宗夙?考|後撰集》【夙は因?】
《割書:巻第四夏|歌》
《割書:夏夜ふかやふか|ことひくをきゝて》【深養父】
《割書:みしか夜の更行まゝに高砂の峰の松風ふくかとそきく 藤原兼輔朝臣 |》
【書込み】
《割書:おなし心を貫之 あし曳の山下水はゆきかよひことのねにさへなかるへらなり|》
《割書:其夜貫之|所持ノ筝ヲ》
《割書:深養父カヒキ|タルコトニヤ》
《割書:兼輔朝臣ハ|時ノ貴人ナリ》
《割書:彼亭ニテノコト|ニヤカタ〳〵貫之》
《割書:カ筝ト云コト覚|束ナシ》
千歳神秀 一成調崇 ̄シ 綿蛮樹鳥 啾喞叢虫
幽鬼共 ̄ニ泣 嫠婦更恫 ̄ム 乱有_二余響_一 音入_二 無究_一 【嫠婦リフ 寡婦】
延統梁上 潜鳴澗中 高山森簫 流水玲瓏
大配六礼 此宣八風 性情倫理 倶与和融
正徳三年癸巳五月望日 中大夫丹直邦謹識
埴生涼風抄記 《割書:田中ノ家後著 山崎ノ柴(フ?シ?)足校|》
或年三伏のあつさ甚しく流るゝ汗漿をなすしかるに多藝山の峰俄に
かきくもり音すさましく夕立けるか頓て家俊か住里近く聞ゆる雨の
あしに先たち一人の男ぬれしものをと息もつきあへす軒端に彳【たたずみ】ける
か茶一ツたびてんやと内に入をみれは其形腲胺と肥ふとり色黒き
山伏のことき人也大袖の帷子を着し早縄とおほしきを腰にし銅
【書込み】
《割書:頭当すへて|片カナ成ハ》
《割書:柴足か注|す処と云〻》
《割書:多藝山ハ|今の多度》
《割書:山也|》
作りの刀を■たへ折ふし雨も止さりける程に台所にあかり爰かしこの物語
なとしける《割書:中略|》彼男曰養老の滝は是より程近く候へは定てかしこの縁
起なと御存有へし承度といふにも家歳覚えたる通を語ける抑養老
の滝は人皇廿二代雄略帝の御宇かしこに源丞内といふ民有しか老
たる母をもたりける母常に酒をこのめり家貧しく朝四暮三の例も
幽也けれと母に孝をなし夙に起て山に入薪をとりて市に鬻く価
酒に代て母を養ふ源丞内一時所の役儀によりて上京す家を出
る時其妻に云ていはく吾に代りて孝を尽せと妻諾して留寺の
うち仮にも疎かにせさりける一夕夢みらく一人の老翁告て云山の
奥に滝有又出る泉もあり是老母にあたふ仙湯也是を飲まは
身わかやき千年を経んと也翌日柴をおひ山を出るに巌の下
【書込み】
《割書:乗邨云養老|ノコトハ飛騨高山》
《割書:田中大秀か著|せる養老美》
《割書:泉弁といへるもの|にくはし大夫?沢氏》
《割書:瑛斎子にあり追而|うつさ■■哉》
より流るゝ水最潔し瓢に入て家にかへり姑に与ふるに曰美味に
して酒よりも増れりと夫より日〻に汲てあたへ己も飲けりかくしつゝ
年をへて源丞内帰国し母と妻とを見て驚きなとてかく見
まかふ計若やき給ふやといひけれは有のまゝにかたるを聞て打悦ひ
此水を呑よはひ久しくたもちて皆共に仙境に趣しと也此事天
聴に達し勅使を立玉ひ泉を菊水と号給ひけると也源丞内
か子孫も其親〻に孝行厚かりけるか是も或夜の夢に七旬【七十歳】はかりの
老翁告て云大木の梢に鷲の巣あり其中に宝あり是を汝に
与ふ我は白山権現也といふとみて覚ぬ木に登りみるに告のことく
卵十二を得て後鷲かの梢に来りて又北に飛越て行に赤坂の
大岩に羽を休め文珠(モムズ)といふ処に至て鷲かいふ白山の使也と則
夫より白山に参りけるに夢見し翁顕れま見えて曰永く養老に跡た
れんと心さしあらん輩は養老に来るへしとの玉ひ告玉ふ古郷にかへり卵
をみれは金銀と成てとれとも〳〵尽さりけり則一宇建立して時の天子
に奏聞しける先例に任せ勅使御下向あり老を養し事共思し召合
され養老寺と名付其歳の号も養老と改めさせ給ひける地名を
鷲巣といふ鷲本の栖にかへりし故郡の名とす菊水は高き方に
流れ滝は近く流止りて川下なし皆是不思議のあらはれ也山下《割書:鷲|巣》
に白山権現を勧請し奉り境内の不動寺は当国/生津(ナマツ)といふ処
より鯰に乗て来現よしまをし故鯰を食せし者参詣を免され
す利生あらたにして諸願成就せすといふ事なしと云〻重明他事
なく聞居たるか絶倒して笑て曰今汝かいふ所皆童蒙女児の
語論するにたらす我その実話を語ん為来れり抑人皇四十四代
元正天皇霊亀二年丁巳かしこに樵夫あり薪を売て父を養ふに
父酒を嗜む常に一ツの瓢を腰にして酒を沽て父にあたへ柴を山
にとるに滑石を踏て足を失して顛【たおれ】る乃酒の香あり出る処の水
を試に飲に則酒也瓢に貯て父に餽【おく】る後に国人奏聞す勅有
て其滝を養老と名付天子行幸霊亀を改元して年号を養
老といふと古今著聞及十訓抄にも見えたり雄略帝の頃其事
有事曽て旧記実録には見えす又本巣郡にあらす万葉集に云
美濃国多藝のかり宮にて大伴東人のよめる歌一種〽昔より人
人のいひくる老人の若ゆてふ水そ名におふ滝(タギ)の瀬 同集におなし詞書
にて大伴家持〽田跡(タド)川の滝の清みか昔よりみやづかへけんたぎのゝ
のうへに 顕朝家の千首に権少僧都其覚〽三野のゝたぎのゝ上に宮ゐ
せし跡に流れて滝そ残れる 是らの歌をもて本巣の郡にあらさる事
を知へし其のみにあらす続日本記にも当耆(タギノ)郡 当伎(タギ)ノ郡なと書り又羪
老元年九月同二年二月行幸の事も載す勅使の事はいつれの書にも
見あたらず思ふに元正帝を混雑して樵夫を源丞内と名付元来
此国に本巣ノ郡あり所の名を鷲巣といふなどにもどつきて附会
するのみ養老の謡にも其誤をしらす本巣郡といひ雄略天皇といふ
併縁起謡何れか先に作り誤りけん凡謡曲は物を和らけはかなき事を
作なせる物成に文盲成ものはひたすら信する也縁起には母といひ古
書には父といふ謡には父母と有か様の相違は少しも苦しからすたゝ本巣
鷲白山なと附会するのみ《割書:中略|》又菊水の高きに流るゝといふ事其理り
【右頁書込み】
《割書:謡ニ曰|山路の労にや》
《割書:此水をむすひ|てのめは労も》
《割書:助りと作れり|是■■ものは》
《割書:取にたらねと|是らは又甘》
《割書:んしとす|》
《割書:万|一 首(クサ)と有》
《割書:種いかゝや|可考》
《割書:此歌万に|いにしへゆと》【「万」は「万葉集」】
《割書:有|》
【左頁の書込み】
《割書:源義人云|もとすの郡》
《割書:は前にいふ|藍染川》
《割書:の辺りなる|本洲の事》
《割書:ならん芦|のすも又》
《割書:ゆかり有て|聞ゆ》
《割書:宇佐宮の|神高津師》
《割書:いはく| きく水は水を匊するといふ事也此水至て清く六月の暑日に野老樵夫のきくて呑勿論也菊にあらす》
なし火はかはけるにつき水はひきゝに流るゝ事常の理也菊水の流を
川原より見れはいか様にも高きに流るゝか如く是はかしこのみに限らす
いつこにも山里の掛樋は皆かくのことし滝の流も河原皆石なか故
水は下へぬけ行也一条関白兼良公の藤川の記に江州醒ヶ井に流るゝよし
見えたり又歌もあり〽わかえつゝ見るよしもかな滝の水老を養ふ名に流
れなばといへり爰に雨も止けれは重明もかへりけり
鍛冶譜曰濃州多藝郡志津ノ鍛冶志津三郎兼氏後来_二 相州_一 爲_二 正
宗弟子_一能_二 薙刀_一 称_レ世 ̄ニ号_二 志津 象(かた)_一 云〻誠や三郎か砥石と
言伝て善教寺といふ寺の境内にあり《割書:下略|》
三野の中道《割書:付|》飯の木氏神の事関ヶ原より牧田沢田なとの道をみの中
道といふとかや好忠家集に〽東路のみのゝ中道絶しよりわか身に秋の
来るとしりにき そのむかしは養老の梺大河にして伊勢尾張へ船路成
しも年をへてうもりしにや今はやう〳〵源氏橋(ケジハシ)《割書:飯木よ り養老へ|行右小キ板橋也》の辺り
流もかすか也相伝ふ勢至といふ在所はむかし船の問丸ありし所也と
家俊或歳残暑の比の夕暮れげし橋に涼む青衣着たる老人白衣
着たると二人来たり家俊に告て曰汝おもはく源氏橋と名付しは何
故や覧と我〳〵語りて聞すへし二条院御宇平治元年己卯左馬頭
源義朝合戦に打負給ひ都より尾張路さして落行玉ふに此所迄
従へ玉ふ人〳〵も此彼に残し鷹栖玄光《割書:平治物語云青墓宿大炊ノ長カ弟実|名真遠云〻猶委彼書ヲ見ルヘシ》
法師一人くし給ひて此川より船にめされける其時甲を掛し松老
木と成て今も神明の境内に在白旗一流此地に残させ給ひしを
土人祭りて神と崇む高木氏《割書:飯木の|氏也》か屋敷に宝永年中まて小祠
【右頁書込み】
《割書:志津ハ|タギノ郡》
《割書:戸田侯領|○眉尖刀》
《割書:ナキナタノ|正字》
【左頁書込み】
《割書:此大河と云は|藍染川の》
《割書:事也いよ|〳〵しりぬ》
《割書:たぎ野に|川の横た》
《割書:はりし| ことを》
《割書:委は予か別|記にあり》
《割書:此川といふは|アイソメ川の》
《割書:事也|神明は飯木》
《割書:村東に有|此地とさしゝは》
《割書:家俊か里ニて|飯木村也|》
在しか頽廃して今はなしされは源氏の大将船にめされし所なれは橋の名と
する也抑去年よりことしきのふよりけふ世衰て人の情も只歎かしきは是也
物の滅ふ事此川水のあ【浅】せ旗の社のみにあらす神道衰て両部習合し
仏道衰て僧尼を軽んし夫婦の道衰て誠少く凡五常の道
おとろえて浅ましき哉近年此辺りの閭里年頭の賀をたにやめて互に
往来もなし《割書:中略|》いでや享保の比榛の木の産土神八幡大神神躰なきを
かなしみ丸毛氏《割書:はりの木村の|農夫》神体を設く自余の百姓は皆いふ昔より神躰
なし今改め設て益なしと終に神躰を捨て元の如し《割書:中略|》上古の如く
明鏡を懸て神霊に表すへし二人の翁詞を揃へよしなし言に時移
れりいさ帰らんと家俊とはくめなれぬ人の物語掌をさすかことしいかなる
人にまします答て云甲掛の松の情白旗の神は我也とて告給ふ
関の藤川関ヶ原の西近江国坂田郡藤川駅の方より流たるよし也古今集
大歌所御歌〽みのゝ国関の藤川絶すして君に仕へん万代まてに
旁注に是は元慶の御へのみのゝ歌とあり私に云此歌を本歌にして
世〻の好士はよめる也風雅集続古今集続拾遺集新後撰続後
拾遺続千載新千載等に載る処あまた也定家卿藤川百首といふも
此藤川を巻頭にせさせ玉ふ故しかいふ也又藤川の記といへる書は文明
五年一条禅閤御所一見せさせ給ふ時の道の記なり
今須《割書:不破郡|》此山の神やいますの手向せん紅葉の幣はとりあへすとも《割書:是は藤川の|記にあり》
山中西鶯滝黒地橋〽ほとゝきすおのか五月の山中におほつかなくも音を
しのふ哉云〻往来の南道の下に当耆(タギ)あり鶯瀧といふ夏きては
鳴音をきかぬ鶯の瀧の南や流あふらん黒地川といふあり川の幅狭
【右頁書込み】
《割書:凡多藝郡一郡|いとよき事》
《割書:しれる里たに|礼賀朔日一日》
《割書:に限る事|あり世の》
《割書:ならはし|あきまし〳〵》
【左頁書込み】
《割書: 京極黄門|藤川百首ニ》
《割書:関路早春|たのめこし》
《割書:関の藤川春きてもふかき霞に》
《割書:したむせひつゝ》
《割書:文明は百四代|土御門年号也》
《割書:一条禅閣は|兼良公也》
《割書:号後成恩寺|》
けれと深きよし〽白浪は岸の岩根にかゝれとも黒ぢの橋の名こそかは
らね《割書:右おの〳〵|藤川記ニ有》此所に一ツの墓あり相伝ふ常盤の前は源義朝の
妾にて義経の母なりしか義朝叛死の後平清盛入道の妾となれり
牛若鞍馬を忍ひ出て奥州に下る故に清盛入道是を憤り
常盤を追捉しかは頼むへき方なくして牛若をしたひ奥州に下るとて
此あたりにて盗賊に殺されしと言伝へ山中ときはといふ此事いつれの文に
も見えす平治物語に常盤清盛に思はれて姫一人設たりしかすさめ
られて後は一条大蔵卿長成の北の方に成て子共あまた出来たりと有
盛衰記に長成の子常盤腹に侍従義成とて在しか判官義経
頼朝と中違て西国に落ける時義成も跡につきて打立しか大物の浦
にてちり〳〵に成 和泉国に落かゝる事あり是をもて思ふに常盤か後に
長成か妻になれることをしらさるもの《割書:中略|》常盤か墓といふなるへし
青墓はたる井赤坂の間にあふはかといふあり〽一夜見し人の情に立かへる心ぞ
やとるあをはかの里或人云此歌大僧正慈円の詠也と六百番歌合に
信定の歌と有可尋之藤川の記に〽契あれは此里人に逢墓の
はかなからすは又も来てみむ云〻所民相伝ふむかし此所繁花の地た
りし時長何かしといふもの美女を抱置旅人を宿らしむを業とす
小栗判官兼氏横山か女照手姫と密通しけるか横山是を憎み毒
酒をすゝめて兼氏を殺し照手を追捉青墓の長照手を買取色
を商はんと欲すれ共亡夫に道をたてゝ請がはず水を汲《割書:其水とて今も|往来南に在》
飯を炊きなと身を謙りてをれり後兼氏蘇生して此所に
来り姫を伴ひ本国に帰ると云照手姫を後に神と崇む結の
【右頁書込み】
《割書:柴足考ニ|此山中村の》
《割書:古墓は往古|常盤駿河守》
《割書:今津辻堂|にて切腹之》
《割書:事太平記|に見ゆ里俗》
《割書:の説論するに|たらすといへ共》
《割書:聊迷を|解のみ》
【左頁書込み】
《割書:兼氏ト云者は|蒲冠者範》 【「ト云」合略仮名】【「蒲冠者」は源範頼】
《割書:頼ノ旗下ニ属|シテ遠州ノ》
《割書:国主タリ|今天龍川ノ|西笠居近江》
《割書:石原村ニ小|栗玄節》
《割書:及近江ニ同|性殆多シ》
神是也といふ是等の事聞もうとましき亡説也《割書:乗邨云以下鎌倉大双紙|を引て小栗か事を書り》
《割書:既に此雑記之中にしるしたる事なれは|爰に筆をとゝむ》
結之神安八郡西結村に在所祭勘可尋之俗説に照姫を祭るといふ
拾遺和歌集に読人しらす〽君みれは結ふの神そうらめしき難面人【つれなきひと】を
何つくりけん今按に拾遺集は拾芥抄《割書:上之巻|未》云長徳の比大納言公任
卿の撰也或は花山院法皇御自撰云〻袋双紙に云花山院勅撰
云〻長徳は則華山天皇《割書:人王六|十二代》の年号也今延享迄七百五十四年也
其比既に結神の歌あり何そ照手を祭るならむや世にかゝる類ひ
多し養老寺に小野篁作の天神とてあり或物云篁は文
徳帝の仁寿二壬申年薨云〻菅相丞は仁明帝《割書:人王五十|四代》の承和
十二乙丑年に生れ玉ひ醍醐帝《割書:人王|六十代》の延喜三癸亥年薨し玉ふ篁
薨して後五十二年をへて菅公《割書:天満神|》薨す其後卅八年過菅公右
近の馬場に天神と現し玉ふ元享釈書曰篁又不測人也身列_二
朝班_一遊_二琰宮_一云〻懸案ニ養老寺の所持の天神も十王の類ならん歟
長良川○鵜飼○江口《割書:各方縣郡|》藤川ノ記曰江口《割書:長良川の|末也》に出て鵜飼を見る
六艘の船に篝火をさして上る又一艘をまうけそれに乗て見物す
鵜の魚をとる姿鵜飼の手縄を扱ふ体なとはしめて見侍れは
言のはにも述かたく哀とも覚え又興を催すもの也〽鵜飼人
くるや手縄の短夜もむすほゝれなむ空はあけしを 鵜飼舟夜
を契れは是も又いゑは江口の遊也けり或人曰当国に住人養老
瀧不破の月長良のうかひは見つへき事也他の国にて人の問たるに
しらぬも愛?なく覚るかし鵜飼は十二羽の島津鳥【鵜】に鮎の魚を
【書込み】
《割書:戸田侯|領林筋》
《割書:ナリ|》
《割書:北野天満宮也|世に七代天》
《割書:神と此菅|原天神と》
《割書:誤事多し|》
《割書:文徳天皇は|五十五代帝》
《割書:仁寿二年此年菅原道実公八歳なり|》
《割書:長良川は|古へなから江川》
《割書:なり流江川|か又長柄川》
《割書:とも書は|ナガエ川か》
《割書:〇宗祇法師か|歌に》
《割書:〽面白うさらし|さはくる鵜縄》
《割書:かな|渡辺狂か》
《割書:〽鵜の罪も|忘れん雪の》
《割書:長良川|》
とらしむ也十二の手縄みたれぬやうに扱ひ水上にうかひたる鵜を引
あげ魚を吐せ又水に入るいとふいそかはしく見ゆる所作也云〻
やつかれふと思へらく是をみて目を悦はしむるこそうたてお
もふ心地すれ仏の教五戒を保つに殺生を?第一にいましめ玉ふ
されは甲州山梨郡生津川の漁父か霊魂日蓮に逢て云殺
生の罪によりて地獄に落て苦患を受る事久し罪障を懺
悔し回向を願はん為来れりとて告ぬ上人法華経の要文を石
に書写し彼川にしづめ生津に鵜飼山遠妙寺を建立せらる
稲葉山《割書:厚見郡岐阜山也尾州清洲ノ城主居城を稲葉山に築く是時より岐阜といふ|》
古今集離別の巻頭在原行平朝臣〽立わかれいなはの山の峰に生ふる
松としきかは今かへりこむ俗説に此歌は行平卿須磨の浦に流され玉ひ
松風村雨といふ姉妹の蜑乙女と契り其後勅免帰洛の時二人の海士の
為によめるといふ配流の事は古今巻十八源氏須磨の巻等に見えたり
松風村雨か事はいつれにも不見行平家集此歌の詞書に因幡寺
なりしか任はてゝ都に登りけるに思ふ人によみ遣はすと有されは北村
季吟か百人一首の拾穂抄に云因幡山《割書:因幡国|》稲葉山《割書:美濃国|》両説
あり御抄ニ云因幡国可然也定家卿勘物に云斉衡二年正月
四位因幡守云〻此歌を本歌にして後代美のゝ稲葉山を読たる
例多しといへり或人曰八雲御抄範兼抄に美濃と有清輔卿の抄ニは
因州云〻拾遺愚草に〽昨日かも秋の田の面に露置しいなはの山も
松のしらゆき続拾遺集雑〽かひなしやいなはの山の松とても又かへり
こんむかしならねは此外世〻の撰集に載る処数をしらす岐阜は
【右頁書込み】
《割書:日蓮は|後堀川院》
《割書:貞応元年|二月十六日於》
《割書:房州生ル|生津川(ナマツカハ)一説》
《割書:生沢川(キサハカハ)又いく|さわ川ニても有》
《割書:へし可考|乗邨按ニ》
《割書: 生沢(イサハ)川也今| 甲州に生沢(イサハ)と云》
《割書: 処ニ御陣ヤあり| といふ今も鵜》
《割書: を遣ふと也|》
《割書:清州城主は|織田》
《割書:内大臣平|信長公也》
【左頁書込み】
《割書:続拾遺歌は|為氏卿歌也》
敗子多く繁昌の地也鍛冶あまたあり能小刀利刀を作る打物の
銘に金華山麓長良川辺岐阜住藤原何〻と切ル是を長銘と
称して世俗良とす金華山の事藤川の記に有〽峰に生る松とは
しるやいなは山こかね花咲御代の栄を云〻
席田《割書:郡ノ名也|》 伊津貫川(イツヌキカハ)むかし此辺定家卿の管内のよし言伝ふ
其拠をしらす新拾遺源師光〽席田に千とせをかねて住鶴も
君か齢にしかしとそ思ふ新勅撰〽むしろ田に群ゐる鶴の千代も皆
君かよはひにしかしとそ思ふ藤川の記〽幾とせ限らぬ御代はむしろ田の
鶴の齢にしかしとそ思ふ席田といふにたよりて皆しかしと詠り
伊津貫川金葉集藤原道経〽君か代はいく万代かかさぬへき
いつぬき川の鶴の毛衣その外諸勅撰等に多く歌あり
山石田の小野 各務郡岩田村也或云今は野はなく薄有芥見村の近所
云〻千載集藤原伊家〽今はしも穂に出ぬらん東路の岩田の小野の
しのゝをすゝき続後拾遺〽けふみれは岩田のをのゝ真葛原うら枯わたる
秋風そ吹是も稲葉山を論せしことく山城国に同名あり千載集
顕季〽きゝすなく石(イハ)田の小野のつほ菫しめさす計成にけるかな続千
載集に為嗣〽うつり行柞の紅葉人とはゝいかに岩田のをのゝ秋風
なとよめるは城州なり凡同し名の名所国〻に多し玉川といふ所《割書:下略|》
日高杣《割書:在所未考|》風雅集に藤原光俊〽世を照す日高の杣の宮木
守しげきめくみに今や逢らし
月吉の里或曰土岐郡細久手の南也此里より三日月形の白き石
出ると夫木集茂明〽くもりなき豊の明に空はれてひかりをそふる
【右頁書込み】
《割書:濃陽|伝記云》
《割書:文珠城は中|納言定家卿》
《割書:旧館地船木|山と云後》
《割書:小笠原七郎|泰縄住》
《割書:城は祐向山|ト云長井》
《割書:勘九郎|住スト云〻》
【左頁書込み】
《割書:戸田侯|領ニ林筋》
《割書:アリ其内|ニ小野村アリ》
《割書:モシ爰ニア|ラサルニヤ》
月吉の里
土岐の郡 夫木集重之 旅人の侘敷ものは草枕雪降ときの郡成けり
尾総橋《割書:方縣郡雄総村也或曰長良川にむかし有し橋也と云〻良川の所に記?すへかりし|を前後し侍る》
名歌集衣笠内大臣〽かりそめに見しはかりなるはし鷹のをぶさの
橋を恋やわたらん 藤川の記〽七夕のあふせは遠き鵲のをぶさの
橋をまつやわたらむ
母山《割書:卜部兼邦神道ノ百首に喪山とかけり本居宣長か神代正語も喪山と書り藤川の記には母|山の心によめり柴足不審》
或曰武儀郡大矢田村の山也と藤川の記に〽はゝ木〻の梢ありとも
見えなくに誰か母山と名付そめけん
寝覚里 《割書:或云赤坂の北市橋なといふ辺に片山村といふあり此片山村をいふと尾張の|宮駅の浜鳥居の東にも有》
夫木集伊勢大輔〽風の音におとろかれてや吾妹子かね覚の里
に衣打らん 藤川の記〽時鳥ねさめの里にやとらすはいかてか聞人よいの一声
往来松《割書:厚見郡加納城の西に在|》松平丹波守光永加納城に在し時往来の
松と名付らる其後山城国淀の城に移られて後陪従の人の歌に
〽明暮になかめし松を古郷の人のゆきしのたよりにそきく
霊元法皇御所叡覧に逢し名木となる
八十一隣他 《割書:或云可児郡久〻利也御嵩宿の南行幸の時鯉おわし池の旧跡也|》
或曰景行天皇《割書:人王|十二代》四年二月行幸十一月還幸と日本記に有と云〻夫
木集よみ人しらす〽いとねたしくゝりの宮の池にすむこひゆへ人に欺れ
ぬる同く集に光頼〽たのめたゝくゝりの池に住ときく恋こそ道の
しるべとはなれ
埜上の里 《割書:不破郡関ケ原ノ東|》或曰天武天皇《割書:人王|四十代》元年六月行幸九月還
【右頁「寝覚里」の上に書込み】
《割書:古今六帖ニ|あつまちの》
《割書:ねさめの里ははつ秋の|》
【左頁書込み、右頁の続き】
《割書:長き夜ひとり明す我かも 是は躬恒か歌也|》
【左頁「八十一隣他」の上に書込み】
《割書:古書|詠他と》
《割書:書也|》
行云〻藤川記云むかし浄見原天皇みのゝ野上に行宮を立られし事は
日本記抔に記しはへれとも遠き事なれは宮の旧跡なと慥に知る
人はかたかるへし 今は草刈童の朝夕道と成たるを見侍りて
〽あけまきは野上の草をかり宮の跡ともいはず分つゝそ行風雅集
〽霞たつ野上の方に行しかは鶯鳴ぬ春に成らし六百番歌合に
〽一夜かす野上の里の草枕むすひ捨たる露のちきりを此外古歌
かそふへからすむかしは此所に遊女傀儡なといふものゝ有しとかやされは
野上の古歌おの〳〵うかれ女をよめり俗説に昔此所に花子といふ
遊女有しに吉田少将といふ人此宿に旅寝して契を深し都に
のほらはむかへん事を約し扇を取かはしかへしか花子は明暮あこ
かれつゝ世のわざもなさてなん有ける主の長是をうとみ追出してけり
少将程なく東より上り尋られしに追出したれは力なく都にのほらる
花子はもし空行月のめくりあふえにしもやと洛中を狂ひありきし
に少将物詣のかへるさにめくりあふきのかたみを出し互に袖をし
ほるなる末の松山波越さぬ深き契をこめられしと也或云此事
非也吉田といふ称号に少将といふ官はなき事也今の勧修寺万里
小路なとも昔は吉田と云つる事あれども両家共に名家なれは
中将少将にはならすして侍従より弁官にいたる今の吉田は卜部氏
にて猶しも中少将にはならす八省をかくる羽林家の人ならでは
少将に任せさる也云〻
南宮○仲山○御山華表に題して曰正一位仲山金山彦太神云〻
日本記神代巻所謂伊弉冉尊将生火神悶熱懊悩而
【右頁書込み】
《割書:霞たつの歌は|よみ人しらす》
《割書:一夜かすの歌|定家卿也》
《割書:拾遺愚草には|人の契をと》
《割書:あり|》
《割書:○花子は班女|といふものゝ》
《割書:誤か将班女|か花子といふ》
《割書:女かしらす近|年桜井》
《割書:庄右衛門か曰|我家は班女》
《割書:か末也と云〻再按ニ芲【花】子は実名也班女は狂女ニナリシ寸【時】唐ノタメシヲ引テ班女ト人云シコト謡ニアリ|》
【左頁書込み】
《割書:乗邨按ニ|華表額ハ》
《割書:正一位勲二|等金山彦》
《割書:太神トアリ|》
吐即化為神号_二之 ̄ヲ金山彦_一云〻或曰初不破郡府中村に祭り
奉る後郡の南仲山に移し奉る故南宮と申奉る一条禅閤
歌〽名も高き南の宮のちかひとて山のひかしの道ぞたゝしき又曰
玉椿の神木あり新拾遺集に行能〽美の山のしら玉椿いつよりか
豊の明にあひ初けんみぬのお山みぬの中山なとも此南宮山より
西関ヶ原まて山続きをいふ古歌あまたあり就中新古今集
伊勢〽思ひ出やみのゝ御山のひとつ松ちきりし事はいつもわすれす
続古今定家〽色かはるみのゝ中山秋越て又遠さかる相坂の
関 藤川の記に云此山に天人影向あるによりて人来(ヒトク)の松とも
名付侍るとかや〽まれにきてみのゝお山のまつのうき嬉しき身に
も天の羽衣云〻
伊吹ノ明神 《割書:不破郡伊吹村鎮座野上より北へ入程近きよし|》藤川記〽又来んといふ
きの山の神ならはさしも契りしことなわすれそ
洲俣川 《割書:安八郡墨俣也|》同記〽鳰鳥のすのまた川に月沈は顕風わたる
波のした道
舟木山 《割書:多岐郡多度山の梺白石の里にあり今の養老寺の北なる舟圖【器?】山は此舟木|山のあやまりならん》
後拾遺集右大弁通俊〽いかなれは船木の山の紅葉はの秋は
過れとこかれさるらん《割書:藍染川に浮へる舟木の山なれはならし|》
宇留間 《割書:各務郡志美?間鵜沼なとも書よし里俗の訛言に笑に絶たり|》同集源
重行〽東路にこゝをうるまといふ事は往かふ人のあれは也けり
尾墳邑 《割書:多藝郡今大塚と云此辺いにしへ塚のみ多かる所謂篠塚福束なと
或云徹書記の配所也と東福寺の書記ノ僧正徹は歌人なりし
【右頁書込み】
《割書:北美濃ニ北|山アリヨリテ》
《割書:此山モ南山ト|云ケン委クハ》
《割書:南山宮ノ略|カ北山ハ中郷》
《割書:村三倉村ノ|辺ナリ共ニ》
《割書:西山筋也|戸田侯領》
《割書:西山筋ニ川|合村寺本》
《割書:村ノアタリ|ニ中山村アリ》
《割書:是等ニヤ|》
《割書:ウキスカヘリニ曰|前?大僧正》
《割書:旭海|まつぞまつ》
《割書:みのゝ御山の|若かへね》
【左頁書込み】
《割書:ふし足按に|此文和歌》
《割書:の奇事を書て|》
とかや或時【寸】落_二桐新月_一といふ題にて〽ちらせ猶見ぬもろこしの
鳥もゐす桐の葉わくる秋の三日月 此歌によりて多藝郡大塚
にさすらへせらるとそ〽中〳〵になき玉ならは古郷へ帰らん物をけふの夕
暮 此歌によりて召かへさるといへり
美濃の枕詞聞書全集三《割書:ニ|》曰万葉十三長歌ニ云もゝくきねみのゝ
国の高北のくゝりの宮にとよめり百茎根三野とは案に是は百
くきのみのといふへきかこゝめといふ草のくきをとりて残か蓑に
作る也ねとのと五音かよひたれはもゝくきねといふなるへし百
茎の蓑也もゝは多かる数也くゝりの宮万葉には八十一隣宮
とかけり彼集の文字遣ひの習也日本記には泳宮(クヽリノミヤ)と書り
景行天皇此宮に行幸し給ふ由有又万葉集十三にもゝさゝの
みのゝ大宮と読る歌もありさゝめといふへきを文字のあまれはもゝ
さゝのといへる成へし大君とは人の名也私云もゝさゝのみはさゝの
実(ミ)とつゝけたるか篠(サヽ)には実のなる故也笹の多き事をは此集に
道のべのゆさゝか上になとよめるゆさゝは五百篠といふ也さらば
百篠(モヽサヽ)ともよむへし云〻愚按に藤川記に〽あまころもみのゝ中山
越行は梺にみゆる笠縫の里云〻 雨衣蓑(アマコロモミノ)とつゝけよめり
十八郡拾芥抄ニ云美濃《割書:上|近》十八郡○ 多藝(タギ)〇 石津(イシツ)〇 大野(オホノ)〇 太樔(モトス)○ 席(ムシロ)
田(タ)○ 方縣(カタカタ)○ 池田(イケタ)○ 厚見(アツミ)○ 各務(カヽミ)○ 山縣(ヤマカタ)○ 武義(ムギ)○ 郡上(クンミヤウ)○ 不破(フハ)《割書:府|》
○ 安八(アハ)○ 加茂(カモ)○ 可児(カコ)○ 土岐(トキ)○ 恵奈(エナ)《割書:田万五千|三百四丁》云〻本の侭うつしたる
所かくのことし仮名又しかり安八にアハとつけたり常にいふアンハチは
耳にたてり太樔(モトス)不審本の字を誤なるへし
【右頁書込み】
《割書:詠歌奇談抄と号て|一書あり》
《割書:それに此弁|此歌あり》
《割書:しかしなから|大塚の事》
《割書:みえす猶|可考》
《割書:聞書全集は|細川玄旨》
《割書:随筆也|再按に》
《割書:百茎根は|三埜といふ》
《割書:枕詞也百|さゝといふ時》
《割書:は実といひ|かけたる也》
【左頁書込み】
《割書:百茎根は|もゝくきの根》
《割書:のある野といふ|事也三野》
《割書:といふ事は青|野 多藝野》
《割書:各務野也|しからは玄旨》
《割書:法印の説も|よろしからす》
《割書:おしはかりの|説とおほし》
《割書:可児ノ仮|字カコ》
《割書:と書りカニな|らんか考へし》
《割書:前にいふ三野|の弁もし》
《割書:大野 普?野|多岐野にや》
美濃上品庭訓往来に美濃の上品尾張八丈なと書り或人云是は布也
みのゝ国芥河といふ所より内裡へ参る布主上おはします欄干の
幕布九尋有といへり九布進(クフシン)といふ物かたりに委云〻可尋之
垂井《割書:不破郡古書足井とかけり|》南宮鳥居の辺に潔き水あり詞花
集に藤原隆経〽むかし見し足井の水はかはらねと移れる影そ
年を経にけり 二条関白良基公の小島のすさみに此歌は隆経
美濃の国司に下りてよめる云〻北側に頓宮(カリミヤ)の跡あり小嶋のす
さひに云後光厳院文和二年八月小嶋より垂井の頓宮へ皇
居を移したる時九月十日の比大風吹て垂井の頓宮より民安寺
へしはらくの内みゆきの事を截玉へり
小嶋《割書:池田郡|》後光厳院文和二年行幸小嶋のすさみといへる書は二條
関白良基公文和の比美濃路参らせ給ふ道の記とかや彼に〽横雲
のなみこす峰もほの〳〵とやがて小島の陰そ明ゆく〽思ひきや思
ひもよらぬかりねかな稲葉の月を庭にみんとは藤川記に〽あし垣
のまちかき跡を尋ても小島の里にみゆきやはせぬ
民安寺《割書:不破郡|》或人曰垂井の北に旧跡あり此道を土人呼て行幸
道といふ云〻藤川記云文和の比後光厳院南軍におそはれま
し〳〵て小嶋へ行幸ありしつゐでに垂井民安寺にもわたらせ
給ひけるとなんかり宮の礎なと今にあり其時植させ給へる松
の老木となるを見侍りて〽世におもふ君かみかけにたくふらし
民安かれと植し若まつ
谷汲千載和歌集釈教の部に大僧正覚應三十三所の観音
【右頁書込み】
《割書:此芥川|といふ所》
《割書:尋へし|》
《割書:因ニ云|勢州鈴鹿郡鈴鹿山》
《割書:片山神社は|延喜式内也》
《割書:其所ニ頓宮|殿アリ是》
《割書:清見原親|王ノ古跡殿》
《割書:ナリ然ハ天|皇ノ御寝》
《割書:殿ヲ頓宮|ト云カ行宮》
《割書:ハ今ノカリヤノ|如キモノニヤ》
《割書:是ヲカリミヤトモ|ヨメルハ》
《割書:能叶ヘリ|》
拝み奉らんとて所〻参り侍りける時みのゝ谷汲にて油の出るをみて
読侍りける〽世を照す仏のしるし有けれはまた灯もきえぬ也けり
赤坂 柴足考 夫木集〽外山なる花はさなから赤坂の名をあらはして咲つゝし《割書:哉|為相》
或云秋の寝覚といへる書に入つゝし紅葉玉篠月など読る云〻
藤川記に〽たゝかひの昔のにはもに はとう(本ノまゝ)の赤坂越て思ひ出つゝ
杭瀬川不破安八二郡の境赤坂の東に流るゝ川也昔は赤坂村の辺
より赤坂東の川へ流るといへり藤川の記に杭瀬川といふ所を舟ニて
渡りて〽わたし守ゆきゝに守る杭瀬川月の兔もよるやまつらん
美江寺観音本樔郡美江寺の宿の観音也或人曰後永禄の
頃より岐阜に安置す云〻藤川記に〽頼まふな仏は人二美江寺の
とばりを垂れぬ誓おもへは
笠縫の里 《割書:安八郡|》十六夜日記に云関よりかきくらしつる雨しくれに
過て降くらせは道もいとあしくて心の外に笠縫のむまやといふ所に
とゞまる〽旅人の蓑打はらふ夕暮の雨に宿かる笠縫の里
青野か原《割書:不破郡|》為尹歌〽伊吹山さしも待(本ノまゝ)へる郭公青野か原をやすく
過ぬる藤川記〽分行は四方の草木の色も猶青野か原に夏
の一ころ(本ノまゝ)俗に伝ふむかし熊坂の長範といふ盗賊此辺を徘佪せ
しと長範か物見の松とて今もあり或曰物見の松は本名シデ
懸の松といふよし則古歌もあり是かの南宮に詣る人幣かけ
て通る故名とす
三津屋《割書:安八郡俗三津屋の北方と云|》或曰土御門宮内卿天和の頃北方慈渓
寺密雲和尚へ立寄て〽契あれは爰もみつ屋の月影に忍《割書:とも| なき》
《割書:昔わたりは|》
【右頁書込み】
《割書:赤坂は|不破》
《割書:池田両郡に|かゝる処也》
【左頁書込み】
《割書:いさよひのにきは永仁六年阿仏鎌倉迄の道の記也阿仏始は安嘉門院四条と云後に定家の息為家卿の室と也|為世卿》
《割書:を産り|戸田侯領》
《割書:赤坂筋也|》
三輪清輔帒草紙云《割書:大原野御歌〽明のいたるおりをしらぬも哀也つとめて|も見よくるゝ日やなき是コモリタル修行者詠之》
〽食とするこのはゝ風にちりはてぬ露の命を何にかけまし此歌
は御返答也又云此歌は美濃国山形郡三輪ノ社ノ神歌《割書:云〻|》
和射見(ワサミ) 《割書:或曰不破郡車返しの坂の|南に鴫沢と云田ノ辺なり》或物云万葉第二柿本人丸長歌詞
書そともの国万木たてるふは山こえてこまつるぎわさみか原の
かり宮にやすもりましてとつゝけよめりわさみか原はみのゝ国に有
こま釼は高麗釼也是は釼にはさひといふものゝ出る故にてわさみ
か原とはさびといふ心にてつゝけたるか日本記の歌に〽八雲たついづも
たけるかはけるたちつゝらさわまきさひなしにあわれひとみと同
韻【韵】の字なれはさびさみ同し義か或人の説にはこま人の釼には鍔
なとはなくて輪を懸たりわといふ詞つゝけんとてかくいへるかと云〻
又万葉十一に〽わきも子か笠のかりてのわさみのに我は入ぬと妹につ
けこそ 此歌笠の借手のとは笠に緒を付る処にはちいさき輪
を作りてそれより緒を付る也其輪を笠のかりてといふ也仍笠
のかりてのわさみのとはつゝけたると云〻堀川百首公実卿〽真
菅よき笠のかりてのわさみのを打きてのみや過わたるへき 藤
川記〽明くれはしけきうきみのわさみ野に猶分迷ふ夏草の
露或云天武帝行幸の事日本紀に有と又云持統天皇《割書:人王四|十一代》
大宝《割書:四十二代文武|天皇ノ年号》二年《割書:壬|刁》十一月行幸参河国行幸の時美濃にかり
宮を立られ五日ほとませし
不破の月見十五日彼人〳〵に誘なはれ不破にいたるまづ関ヶ原にそ
着にける爰も古き名ところにや遠近抄歌に〽鶯の鳴つる
【左頁書込み】
《割書:吾妹子の歌|人丸歌也》
《割書:藤川記の記の|歌は》
《割書:しけきうき|みのわざみ》
《割書:のと続られ|たり然は》
《割書:わざみ共|いふへきや》
聲にしきられて行もやられぬ関ヶ原哉関の藤川あとを越る
折ふし一人の老人にあふ老人いふ人〻は月見の客と見えたり我
則かしこに住ゐたるもの也我茅屋にして今夜の月は見給ひ
なんといふにそ皆悦ひ老人の家にいたる其洒掃も清廉
にして風色尤濃か也其側に小洞あり世に月見の社と称す
藤川記云関屋の中にちいさきほこらの有を里人にたつね
侍りけれは是なん浄見原の天皇をいはひ奉るといふまことや彼
御世にいくさを防んとて立られしことなれと今は関のやうにも
あらぬを見侍りて〽清見原遠き守の名をとめて関のかた
めはさもあらはあれとよめるも是也とかややゝ黄昏時にもなれ
は近里遠村の人此の木陰かしこの畠なと草を席とし酒
のみ今様聲おかしくうたひ月峰にさしのほれは群客手をたゝき
声をあげ興に入るをと梺をとゝろかし峰にこたまして喧し亭
主老人かいふ聞玉へ人〳〵はる〳〵きぬる本意を失ふもの哉抑月
見はむかしを忍ひ故人を友とし詩作歌うたひ情を正しうして翫
のわざなるを世にあふれて皆人の心得たるを見聞に不破の
月は東嶺に出るの時恰も玉を台に居たるかことし又他所にかゝる
気色もなし其むかし始て見たる人こそゆかしけれなとおほめけり
誠に笑へきの甚しき也対雨応月の類兼好か月は隈なきをのみ
見る物かはといへりしこそ猶哀に情ふかけれ関屋抔も又しかり
荒はてゝ今は見処なしなといへるは頑愚野叟の人也将軍
義教永享の頃冨士見に下向の時俄に関屋をふきかへけれは
【左頁書込み】
《割書:永享後花|園院年号也》
《割書:此紀行は永享四年の秋也義教は足利将軍也権大僧都尭孝か御供にて道の記を書し也|》
〽葺かへて月こそもらね板ひさしとく住あらせ不破の関守続後
拾遺に藤原行朝〽こととはん不破の関守なそもかく見るたひ毎に
あれ増からん新後撰信実〽秋風に不破の関屋のあれまくも
おしからぬまて月そもり来るなと聞えたり歌人の情誠に浅からぬ
事ならすや愚夫愚婦はせむるにたらす今の人反歌の一首をも
つらね此頃の俳人すら是を察せぬにやともにたゝ名月の台
にすはりたるをのみ歓ふ夫不破は天武天皇吉野より伊勢を
経て美濃に入給?ひ不破の関を塞き給ひしは大友皇子を
亡し給ん為也尓【示?】来古跡となり故人にも知られて万葉に不破
山とよひ三代集八代集十三代集其外浜の真砂の撰集に
其名高し愚俗は其わきまへもなくひたすら満月の峰のわかれ
をたのしむのみいと口おし心あらむ人は春は花の由きゝ夏は郭公のよす
か秋は菊もみちの■■月は更也冬の雪霜に付ても翫ふへき事
也されは後鳥羽院の御集に〽不破の山風もたまらぬ関の屋をもる
とはなしに咲る華かな夫木集仲正〽見るほとに人とまりけりいはで
たゝ華に任せよ不破の関守同し集に光俊〽山陰の不破の
関守とはすとも心と名のる郭公哉同集隆信〽不破の山紅葉散
かふ梢よりあらしをこさぬ関守もかな後堀川百首仲実〽東路の
不破の関屋の鈴虫を駅にふると思ひけるかなむかしの人はから華
も紅葉も読玉へりしかりとて月を捨よとにはあらす月はいふにや
およふ中にも今夜の良夜とする事は和漢相同し下略
【右頁書込み】
《割書:拾芥抄|日本三関》
《割書: 鈴鹿| 不破》
《割書: 逢坂|》
【左頁書込み】
《割書:乗邨云是まて埴生涼風のぬき書也是は延享四年の著述なり以下は|後篇の抄書也是山崎柴足か記にて文化丙寅源忠玉といへるか序あり》
冨士見柳○菅瀬川○華なし山私に云或俗書を見るに西行法師
の歌と称して此三ヶ所をしるす所謂不二見柳は安八郡青柳庄
《割書:巨鹿城西株瀬川南|若森ノ里ノ隣》享保の初の頃大木あり西行法師爰に来り稲
葉山をみのゝ富士とて読る〽ほの〳〵と目路も忘れて青柳の
村にかゝれる不二のしら雪 くだせ川大野郡長瀬村にあり西行
法師〽苔よりも流れて出る管瀬川つくもにかゝるはへの数〳〵
華なし山は恵那郡東村の山大井宿の近所也此辺に西行の
築れたる経墳過去帳なと残れり〽花なしの嵩に住ける鶯の
おのれとなきて春をしらすななど書り然れとも其拠をしらす
可尋之因にいふ往来の松も予一時往来の松の詠といへる書を
見るに序云濃州加納 ̄ニ有_二 一株老松樹_一身大 ̄サ四囲余腰高
五尺計 ̄ニ而三ツ ̄ニ分 ̄レ東西南亭々 ̄トシテ従耳_二_立 ̄コト地上_一可七八丈也元禄六癸酉
年三四月ノ頃前城主松平丹州剌史藤原朝臣光永遊歓 ̄ノ
之日名_二往来松_一尓後武者小路参議右近衛権中将藤原
朝臣有_レ ̄テ勅旅_二野之下州日光山_一之時始 ̄テ有_レ詠六條参議
右近衛権中将源朝臣 ̄モ亦有_二和歌_一有_二森氏某者_一予未_レ面
然 ̄ニ使_二水田長隣_一需_二詩歌_一於《割書:予|》辞 ̄ニ不免因 ̄テ漫 ̄ニ賦之与之
冷泉正二位中納言藤原為経卿
蒼垂_二 三面_一旧髯叟幾歳盤回秋復春想像濃州加納
地送_二_迎日〻往来人_一 武者小路従二位中納言藤原実蔭卿
あかす見し唯かよひ路の松ひとりわきて往来の名をとゝめけん
如此巻頭にしるし此外詩七篇和歌百六十首を撰へり則
【右頁書込み】
《割書:桃の屋三千足か云ふし見柳は林とふ?村の中にありと聞り此ふみの説いふかし予答て曰村の名におゐて西行|法師か》
《割書:歌よみしと|聞けり| 正説云〻》
《割書:長瀬村|戸田侯領》
《割書:長瀬筋アリ|谷汲辺也》
《割書:大井宿とは|根尾外山筋》
《割書:大井村アリ|若是等ニヤ》
《割書:然は戸田侯|領也 越卒(ヲツソ)》
《割書:門脇(モンワキ)ノ隣|村か》
《割書:柴足ノ|馬鹿者》
《割書: 何ソ誣ルコトノ甚シキヤ大井宿は東山駅路花ナシ山今現然タリ|》
森七左衛門《割書:加納|住人》永孝仮字序有て跋は洛の不遠済長隣書る也
篠塚の里《割書:いにしへしぬつかの宿といふ駅の跡也今は笹塚といふ|篠文字の訛也》
多藝郡田跡山の下に篠塚といふ里ありいにしへ石津郡
當藝の庄内也今は多藝郡といふ里の名もかはりて高田と云
新六帖に逍遥院〽神もさそふりくる雨はしの塚の駅の鈴の
小夜深き声周礼曰囯野の路十里に一廬【庐】あり廬【庐】に飲食あり
三十里に宿あり宿に駅亭有とそ馬に鈴をつくるを駅路
の鈴といふむかし毎年貢物を馬にて運ひ蔵め奉る時又は
公卿国〻の任有て守護に下り給ふ時此鈴を付たる馬は夜
も関の戸を明て通しけると也日本記孝徳天皇御宇大化二
年に関宿を定め駅馬伝馬に鈴の契(シルシ)を付る事あり又続日本
記及ひ延喜式江家次第令義解等には粗見えたり
土岐のおどろといふ言田跡山の奥に時の里あり此里人のいふ言葉
大にいにしへぶりに叶へり恐しといふをおとろしといへり俊成卿の歌に
〽春日野のおとろの下のうもれ水末たに神のしるしあらはせ宗
長聞書に云 棘路(オトロ)とは公卿の事也とありしかれはおとろしとは歴
かたき路をいふと見えたりかく辺土には古風のおさ〳〵残有ものそかし
東三野の古語木曽の御坂の此方に落合といふ宿ありそこの土人
柴を負ふて焚物(タクモノ)めせといふて売歩行也隣国なから信濃
の国は焚(タキ)物といへり西美濃も所〻たき物といふ人有てにをは
とゝのはすたきものは香(タキモノ)の事にまきらはし柴はたくものといふ
へく伽羅はたきものといひたきもの也
【右頁書込み】
《割書:按に|高田より北|橋詰村と云|里あり蓑|を作りて|業ひとす|其里に篠|墳大明神|といふ社有|彼百しぬの|みのといふ|枕詞もかゝる|所より|起れるにや》
【左頁書込み】
《割書:清女【清少納言】か曰|かきくらし|雨ふりて|神もおとろ|〳〵しう|なりけれはと|あり是らを|おもへはいと|古きより|ありとみゆ》
當耆(タギ)の七坊の跡或云堂の原の等乃寺(トウナイシ)津屋の慈眼寺栢尾山
観音寺 椿井山(ツハイサン)㔟至寺威徳山龍泉寺也是に乙坂山天
喜寺栗原山清水寺を合せて七ケ寺と云紀州に甲(カウ)坂有
いつくにも甲乙の坂あり中むかしの唐書のわたり来るより以来の
名也
沢田○駒野○桜井○津屋○沢田の里は石津郡に有頓阿法師か歌に
〽月やとる沢田の面にふす鴫の氷よりたつ明かたの空〽長閑さや
沢田に登るさゞれ蟹 読人しらす〽さはにあるうちは名たゝぬ
あやめかな加賀の尼千代女か歌也名産柿他村沢田柿と称
駒野支考か句に〽麦蒔や駒野の里の馬番共かき
桜井〽きさらきと春さりくなる名そしるき花咲匂ふ桜井の里
右田中道丸津屋はいにしへ問屋の跡にて今の質屋の類ひ也
表佐里(ヲサノサト)○真桑ノ氏神今の業平川より東を本津村とす川より
西はいにしへ藍染川の流ありて里にはあらし宗祇か千句に名高し
遠佐(ヲサ)と書りいつれも世にいふ万葉仮名也正字は尾吉(ヲサ)ならん吉(エ)
をサとよむは古例也不破郡にあり又桑村といふ処あり桑瓜(マクハフリ)
を大江戸に奉る則名産也此里の神社は物ノ部大明神也里
人は皆守屋を姓とす然共不知拠可考正いか成守屋のゆかりにや
醸家(サカヤ)の標杉吾国人酒を造るに必松尾の明神を祭るいと〳〵いぶかし
此事を余国の人に尋るに邂逅にかゝる類ひも有ける由語伝んぬ
浅間敷祭ならすや抑酒は神代に初りていつれの御神と定かたし
古事記の中にも山岐大蛇を亡し給ふ時はしめて酒の事あれは
【右頁書込み】
《割書:天喜寺は|今一ノ瀬|の里にあり|慈眼寺清水|寺もやらあり|其外は皆|廃寺也|龍泉寺抔も|龍泉廃寺|村と書へし》
《割書:是より以下|は頭書|なり》
【左頁書込み】
《割書:表佐|一名|千句之里と云|宗祇ノ千句|ヨリ名付ルカ|俳師■狂か|句ニ|はせを忌や|千句の里の|名も千句》
《割書:松尾明神は|大山咋神也》
素盞烏尊に起れるにや松尾の神を祭る謂なし又酒を三輪
といふいにしへ言あれは杉の葉を軒に建るや可尋之稲葉山の
梺岐阜てふ街によき酒あり其外栗笠の瀧津瀬篠塚
の養老酒皆〻甘き泉也されは酒を好むものは李白を愛し
て床ニ掛置《割書:中略|》下野国二荒山の北十里あまり過て山中村と云
所あり奥羽への往還路也家数百三十もあらん五穀実のらず
漸栗稗のみ岩間に植て是を食事とす四季山野に狩して
獣禽をとりて食む常に濁り酒を飲事也此所の土人は牛頭
天王を奉(マツ)る也酒を醸る家並なれはかく有へき筈也《割書:下略|》
當藝ノ行宮の古跡養老の瀧の谷に隣て天神山ありこは天神の
祠ます有也其社内に岩間をそゝく清水のいと清き流あり
菊水といふほとりに菊の千種もなし土人伝へて美泉とし又漢国
のためしを引て菊の水とさへいひはやしぬ誤まれることの甚しとや
いはん世〻の歌書正史に見えす正しく是は仮みやの跡ならむ
其故は万葉集の歌にも多藝野ゝ上に宮ゐせし趣あり
且清水あり抑旧都の跡を尋るに必水をみるへき事なれは
此行宮もなとかよき水をいにしへ用ひ給はてや有へき御饌
に備へ給ふか上田跡山の水は老を養ふゑにしもあれはなど
宣ひて菊の水とめて給ひしやとまれかくまれ多藝のかり宮
ゐの御跡は此天神の森の中也国〳〵の行宮の跡に十か
九ツ其所の人崇めまつりて斧鍬なとの■【昔?】なけれは後世諸
神を勧請して終に其御神の御社の森のやうになれる
【右頁書込み】
《割書:按ニ烏尊手奈津足奈津智ニ|命シテ酒ヲ|造ラシムト|アレハイヨ〳〵|此命ニ起レ|リヤ故ニ酒|ヲカミスル|ト云モ神ノ|スルコトナレハ|ナリ》
醸《割書:訓|カミス》
《割書:又| カモス》
事見あたり聞あたりてかなしく思ひし事度〻也きしかあれ共
田圃の中の一木にのみわつかに其名残れるよりはるかに
まさりて覚ゆるそかし
百八里の古語?堤は謹也洪水をつゝしむの術也其堤を築?て
中に百八里あり里人夜なべに集ひて粟なとを碓に粉
なす細かにして食の足とする也其時歌をうたひしらべを
つれて小夜更るまてめくらし少女に少男の入ましりて添歌
などして楽しむ後隣なる家に行て右の咄して遊ふ事とせり
相互にいふこよひ夕まくれより入かはりてよみ歌一くさり返し
歌二くさりはかり長歌みしか歌取まぜて夫地も動くへしと
うたひつる事の嬉しさよととり〳〵笑を催しぬと語あふよし
此里人の咄しけり此一くさ二くさといふは古しへ一首(ヒトクサ)二 首(クサ)にて里文字は
例の休字ならん玉あられ集に一 歌(ウタ)二 歌(ウタ)とかけるは片歌一家(カタウタノイヘ)
万葉家(ヤマトウタノイヘ)などにとらす去なから本居の翁かいふめること一歌とふ
事も其ゆえよしなきにあらす後にみん人其よきかたをとりてよ
遊婦毛濃神 北美濃の根尾といふ所に宮代有祭神稲荷
大明神土人社の前に拝みて二道の事を決して瑞あり
といへり按に拾芥抄云 夕食歌(ユフケウタ)と書て〽ふけとさやゆふけ
の神に物とへは道行人ようら正(マサ)にせよつげの櫛を持て女
三人辻に立むかひ午の年の女午の日占ふ事也右の歌を三
反吟しその辻に洗米をまき櫛の歯をならす事三度
後より来る人を内人(ウチト)とて答ふるものに定ぬ我か向より来る
【左頁書込み】
《割書:宮代と云は|御屋城也》
《割書:故国ノ司|ヲ何〻ノ》
《割書:守ト云|其守ノ居》
《割書:ヲ城ト云也|百磯城ト》
《割書:云モ皇|御神ノ》
《割書:在所ナリ| 米ヲ打巻ト云コトハ洗米ノ義ナリ 打巻故ナリ》
人の詞を聞て吉凶を考る事也大かた往来の人の咄を聞て
我考かたき事に准らへ吉か凶かと知事也今時是をは
ぶきて一人外へ出て歌を三反吟して左右の来る人の噺を
聞あしよしを占ふに病人の善悪まち人其外何にても我
心に■はしき事を占ふに百にひとつもあはずといふ事
なしもし是らのあやまりにや
蜂屋柿凡柿の名所多けれとも蜂屋の里を日本のかゝらすへし
乾柿也平生に用る法あり 集觧云用_二 ̄テ乾柿_一 ̄ヲ割開 ̄テ去_レ核
薄伝_二白塩_一又合_二柿之両片_一縛定蔵_二壺中_一経_レ年不_レ枯
不_レ炷不_レ腐此 ̄モ亦不時之珎宝也《割書:下略|》串柿は霜(シモ)柿といふ他
国に串柿と称するものは違へり抑串柿は安藝国西条
を第一としつれ共尾濃の産に次也といふ事は世〻の学生の
しるし置て今更改めいふに及はす然共此糸【紫?】潤就【然?】■肉
のことく白霜重〻たるものは美のゝ国にも蜂屋の里の乾
柿也付いふ大酒を好もの乾柿を両片となし臍をふさぎ
帯をしめて飲時は連日倒るゝ事なし又云血痢久しく病
時なし柿一ツ艾葉一匁水煎にし服すれは痊又云湯やけ
渋柿の生汁しきりに濡れはしるしあり覚置へし
熟瓜真桑村にありいにしへ保曽知と云近世武蔵の河越に移
し栽て能産摂れて国を覆ふ是を真桑瓜と称す
鳴子府中の産次也洛の東寺にも作れり然共武蔵の
産にはしかす三野の産たにしかされはまして他国の及ものかは
【右頁書込み】
《割書:伊勢国関亀山ノ間ニ野尻村ト云アリ延喜式云布気神社是ナリ夕食ノ略カ|天照太神
《割書:五十鈴川|遷幸ノ》
《割書:寸【時】行宮ノ|古迹今ハ》
《割書:皇館太|神宮ト称ス》
《割書:例祭六月|二十一日也ト》
《割書: ソ|》
其色数品あり黄色青緑黄斑緑斑也黄青白の三路有
緑紅黄の三瓤あり其子必黄白色にて殻かたし美き物
は其色緑黄相ましはり青路緑瓤也是を上品とす時は
夏土用より七月の末にいたるまて吉とす此時を過る時は味悪
くして毒あり酒塩麝香の三ツの物よく瓜と化ス水腫【「水腫」の左横に「若付ノ水腫」の書込み有り】
の病を治すに利あり此事省く也医者に遇ふて聞へし
酒を觧し暑を消し水気を逐ふ事医書に見ゆ
牛蒡(ウマヽフキ)大榑(オホクレ)村より出甘美也和名ニ云悪実一名牛蒡岐太
岐須ともいふよし記せり主治数〻あり中にも中風諸瘡を
治すをつかさとす洛の鞍馬八幡の村里武蔵の忍郷岩築
の里其外国〳〵にあれともみのゝ牛蒡を第一とせんいかにと
なれは其價いと貴とし他国にかゝるものをいまた聞かす
乗邨云此埴生涼風は受かたき事もいと多く侍れと美濃
に遊ひて勝地を探らん一端ともなるへきをぬき〳〵うつしはへる
又新撰美濃九景集といへるものゝ和歌を埴生涼
風の表紙の裡に見えたれは爰にうつしぬ
笠縫暮雨 安嘉門院四条【阿仏尼】
旅人のみの打はらふ夕くれの雨に宿かる笠縫の里
和錆夏屮【草】 後成恩寺入道前関白太政大臣【一条兼良】
あけくらすしげきうきみのわざみのに猶分迷ふ夏草の露
不破秋月 信実朝臣【藤原信実】
秋風に不破の関屋のあれまくもおしからぬまて月を洩くる
【右頁書込み】
《割書:渡辺支考|か句に》
《割書:初瓜や東海|道を》
《割書: 一かしり|》
《割書:アヤタリカ| 京日記云》
《割書: 鞍馬寺ニて| 牛房をたうべ》
《割書: けるに殊に| めてたきもの》
《割書: なれは又のとし| も給はれなといひて〽能ころに告よくらまのうまふゝき》
【「たうぶ」は「食ふ」の謙譲語、丁寧語】
【左頁書込み】
《割書: 有琴?か随分記に大榑村の牛房うる人に價を尋けれはいと貴きよしいひけれはかはずにもとすとて》
《割書: 〽売すとも手綱| はゆる?せうまふゝき》
寝覚擣衣 伊勢大輔
風の音におとろかれてや吾妹子か寝覚の里に衣うつらん
藤川春靄 権中納言定家
たのめこし関の藤川春きてもふかき霞に下むせひつゝ
青野郭公 藤原為尹朝臣
伊吹山さしも待へるほとゝきす青野か原をやすく過ぬる
赤坂躑躅 大納言為相
外山なる花はさなから赤坂の名をあらはして咲つゝし哉
養老飛泉 大伴東人
いにしへゆ人のいひ来る老ひとのわかゆてふ水そ名におふ瀧の瀬
岩田尾花 藤原伊家朝臣
今はしも移?に出ぬらん東路の岩田のをのゝしのゝをすゝき
又 江口鵜飼 後成恩寺入道前関白太政大臣
うかひ舟夜をちきれは是も又いへは江口の遊ひ也けり
月吉冬月 茂明朝臣
くもりなき豊のあかりに空はれて光をそふる月よしの里
稲葉松雪 権中納言定家
きのふかも稲の田面に露置し稲葉の山も松のしら雪
方山(ヒトノヤマ)駒鈴 衣笠内大臣
旅人の山路へわふる夕旁?にうまやの鈴の音ひゝく也
粟手杜蝉 康光朝臣
侘はつる身はうつせみのおのれのみあはての森に音をや鳴らん
管瀬漁鮠 西行法師
苔よりも流れて出るくた瀬川つくもにかゝるはへの数〳〵
小嶋横雲 二条摂政前太政大臣
横雲の波こす峰もほの〳〵とやかて小嶋の陰そ明行
垂井清水 藤原隆経朝臣
むかしみしたる井の水はかはらねとうつれる影そ年を経にける
逢墓妓長 大僧正慈円
一夜見し人の情に立かへる心そやとるあふはかのさと
又 稲葉秋月 二条摂政前太政大臣
思ひきやおもひもよらぬかりね哉稲葉の月を庭にみんとは
粟殿夕照 藤原隆経朝臣
日くらしの鳴なる声に東路の粟手の杜も夕はへにけり
三江晩鐘 土御門宮内卿
美江寺の入相告るかねの音にねくらあらそう鷺の一むら
不破晴嵐 藤原隆信朝臣
不破の山もみち散かふ梢よりあらしをこさぬ関守も哉
篠【筿】束夜雨 内大臣実隆
神もさそ降くる雨はしの束のうやまの鈴のさよ深き声
席田群霍 大宰大弐重家
むしろ田のむれゐる靏の千代もみな君か齢にしかしとそおもふ
土岐暮雪 源重之
旅人のわひしきものは草枕雪ふるときの氷也けり
黒地白浪 後成恩寺入道前関白太政大臣
しら浪は岸の岩根にかゝれとも黒路のはしの名こそかはらね
株瀬皈【帰】帆 八条智仁親王
真帆引て杭瀬をかへる川舟は伊吹の神のちから也けり
一照源精舎の山にある金龍桜といへるは我 祖公摂州古曽部金龍寺
の桜の実植給ふけるか今に栄へけるよし是は所謂古曽部入道か
入相の鐘に花や散らんと読ける桜なるよし御復領の後は
分て人〳〵賞美し春は花見のむしろを開きて
祖公の御みやひを称し奉りぬ一とせ此桜の詩歌をめし給ふける
を巻百十一に記し古曽部より来る法輪寺の書牘を百六十五に
記したれは此巻と合せ見へし詩文の前に漏たるを此に記しぬ
照源寺観桜記 《割書:片山鉄之進|》片山成器
桑名自為侯国己非一姓賢明相承治教相踵二百有餘年于
茲矣治法之存徳澤之遺宜無君無之也而民間移風禮俗
致美以至堤防灌漑興利除害之事語之則惟称我一法
公林丘草木奥曠異常之観訪其古則亦惟称我一法公中
間移封越奥曠其教化者百有餘年民以其久遠而不少
渝如照源寺金龍櫻是其一也及 今公再撫臨経国
之太率由莫遺雖遊観之末亦考之往日而有是遊命諸臣
賦詩相和亦如故事可謂 尊祖敬畏不徒然昔者
周国召公聴訴甘棠之下公去之■【後?】民指其樹而歌詠夫一
聴訟之平政之小者也焉淂民心思慕之深如是顧其所以
【左頁書込み】
《割書:百十一之巻ニ|記セル金龍》
《割書:櫻御遊覧|之記と合セ》
《割書:見ヘシ|》
致之者有素也 一法公偶聞金龍寺櫻為佳品而移之
亦一時遊息之事非歴世之所稀也而民愛延于今如是
者何蓋存心設施之間卓越歴世而人所不及知者有以致
之不止土人之所傳蹤迹之所遺若不然當其時使民有生
養之少不便疾苦之猶可訟豈能楽 公楽而不衰
有如此哉而 公亦未必有暇餘之及此也夫就其
跡而原其所以為迹修其故事而念其所以為故事則
公之所以甞得之民者亦可以得之于今日也文政乙酉暮春
丁亥暮春照源寺観金龍櫻ニ實為我
先君一法公所手植矣 《割書:小野軍九郎|》小野 端
春光深占翠屏隈櫻花競叢?壓崔嵬中有一株最清絶云是
先公手自栽満斛蠙珠真如綴微風弄去畑【「禾」の下に「田」、秞?】薫徹莫道軽
脆難久支飛時不辨霞邪雪惟昔 先公清暇叩仙區為
設綺席招碩儒 君唱臣和若泉湧一時文章何煥?乎
爾来空托山寺内尚禁剪伐表遺愛物換?星移幾艶陽
可惜尤物久恬退 今公承 恩復旧封庶政一新尤重農
時ニ小隊出近郭省耕兼上小野峯况又右文尚経藝陪従
諸臣各済ニ詠歌自有金石音文雅徃ニ追前世烏乎臣甞
在江城天涯吟思恨清明今日東方光風裡繁陰始観金龍
俯仰中情遏?不得休■【怪?】徘徊到昏黒君不見種徳別有培養
深支子葉孫日蕃殖
同前 《割書:駒井多忠|》駒井 倫
小野之山照源寺後園有櫻品出類是為金龍有美名曽
経移来栽此地此地風景無塵氛濃艶開花春十分色
帯彩霞迷人眼香散光風満院薫昔者 先公垂殊
賞政餘従 駕屡来徃當日麗藻今尚存 高雅誰亦
不欽仰於戯 先公 功徳世所崇土民到今慕遺風
不翦不拝?已百歳斯櫻真与?甘棠之愛長如許想見
恩膏?淪肺腑追念?徃事一愾然况亦 先公墳墓土
今公一旦復旧城便訪古蹤不堪情願更百度縄
祖武培羪不伹一樹櫻
同前 《割書:成合繁三郎|》成合量洪
憶昔 先公臨照為君師? 仁恩民化不自知即【郎?】今遺愛
孤櫻在邨翁称賛久不衰原是金龍出類品一旦遠自
千里移ニ来金龍無類色山色寂寥鳥声悲禅関關
春深紫煙骨真箇名花世所稀一路光風千萬朶
軽粧艶態富品題 先公曽愛此風景五馬幾年駐
翠微功名垂跡長不滅【冫に威】?欽慕何讓硯山碑 今公開
宴花方盛満筵?臣僚詠雍熈徃者勤ニ培養厚櫻花
萬世益蕃滋
観櫻詩巻序 《割書:南合龍吉|》南合 琦
《割書:臣琦|》甞読書盤庚竊怪去害就利人情 /人情
(所楽)【「人情」見せ消ち】以所楽
施之民ニ従之如水之流尚何壅塞不通之有盤庚
以河决之害民庶之戚将遷?于殷而民尚不悦其告
喩丁寧反復至如此又何難耶豈人情好逸悪勞苟
安旧土以為自便歟抑将遷都事大雖以盤庚之賢亦
難輙為之歟且其遷也人懐旧土之念未見新居之楽故
復更開喩慰安備到豈不亦労耶癸未年我
公復封于桑名群士太夫皆欣ニ然扶老挈幼千里
就途争先恐後既而皆安其土有其居而此土人亦安
新政上下帖然矣不知国之大小不同故労逸之勢亦
有然歟同復其故也何難易之不等耶 夫殷自湯
七傳到仲丁子弟争立天下大乱諸矦不朝人民下
叛湯政教徳澤喪殄無遺盤庚雖賢嗣【刪?】立未久人
心未服猝為斯挙故民或以為好事擾民如我
公則不然 先君鎮国公撫兹土恩威並行信結民
民之所以愛戴思慕者歴百有餘年而不衰中間雖
在他【它】州 賢明君相継出以至 老公大張
其紀綱益明其政教 今公亦克奉持不墜紹述
有序其徳澤化信之及民非殷衰弱不振之比也宜
哉盤庚之所以難且労者我 公一旦挙而輙為
之也且夫 公之始入郡田夫野老紛闐?街巷焚
香迎拝観 徳容威儀輿馬騶従之盛驚呼喧
歓相共賀其得賢太守而 公之所以治民者期
月間小大悉挙於是優遊豫楽興民共之而亦必有儒
学臣陪遊従容相共歌頌 徳澤播揚盛意以告
我民是亦盤庚之所不有也若茲巻是也後之為君臣
者能得 公之紹述 先烈當遷徙之際事修
政閑従容豫楽與民共之如此而知其所當勤矣《割書:臣|》請
謹書之以告後之為君臣者
乗邨按に筑前の貝原篤信か花譜に摂津国金龍寺
に真桜とて十余株の桜花あり花は八重にて其葩ラ
殊に細しと見えたり今小野山照源寺の裡に金龍桜と
て有は花一重にてしかも葩丸きかた也されは
祖公の植給へるといふ桜花と異也され共照源寺に代〻言伝ふ
る処なれは疑へきにあらす殊に桜花の上の方にはいにしへの御
茶亭の遺跡もあれは猶更也もしくは実植なれは花の変り
たるにや
謹同諸臣陪遊照源寺観金龍桜之作應 教
《割書:松平信濃殿|》松平定緝
開落百年山寺陲寂寥林径有誰知還看 高駕尋芳日正是名花生
色時素艶一株何恨少春風毎歳不愆期慶安唱和今相似観賞賜
杯帰去遲【遅】
同前《割書:題言各異今略焉|》 大塚 桂
鴬声何睍睆春色満林邱息 駕松門静傳杯竹院幽名花遺愛
在麗藻旧題留盛事今猶昔承 恩感 遠猷
同前 《割書:片山鉄之進|》片山成器
朱旄棨戟郭西山竹塢松門仙佛寰 遊宴後?人〻共楽焦勞為政〻
多閑名花品貴径 清賞 華藻調高絶仰攀餘韻流風堪匹配
載毫不■馬兼班
同前 《割書:成田藤右衛門|》成田行明
慕古紺園設玉牀金樽緑酒白櫻傍昔年豈識今年賞今日還為昔
日香遶朶幽禽鳴不去憇陰遺老愛偏長此花何啻能因詠輝
映渓山雲錦章
同前 《割書:鈴田勇蔵|》鈴田有常
古寺名花發行春 五馬臨孤根托霊境高幹出幽映日錦雲乱飄風
香雪深遺篇留盛跡欽慕比棠陰
同前 《割書:井上鉄蔵|》井上景文
駘湯春風野寺邉慶安光景尚依然芬芳不断金龍種唱和長留
雕玉編共沐 遺恩旧彊土又追 嘉躅好?林泉無情亦喜迎 車
馬繋蕚今朝分外妍
同前 《割書:廣田小次郎|》廣田憲章
満眼菜畦金色匀嫩櫻迎 駕上嶙峋淡籹絶俗時衝雨■【「女偏に高」嬌?】態
空山獨倣春百歳遥追 高會跡即今正属艶陽辰陪遊
已識承恩渥綺席典興蘭詩思新
同前 《割書:加治啓次郎|》加治胤禎
山櫻一樹發山隈維昔 先君与衆栽仁風恵雨陽和遍數朶
如今依旧開
同前 《割書:南条半平|》南条宗經
老櫻春正發蘭若欽遺風樹古花依旧年遐人不同清姿偏
似雪榾拙宛如弓長甘棠相傳村墅翁
同前 《割書:青木一郎太夫|》 青木重威
誰狩桜樹植禅房桜樹不言花自香豈識当年 藩祖意
至今歳〻仰余光
了以碑石 《割書:閣ノ前左リ側ニアリ序銘林道春|撰スル所ナリ》
吉田了以碑銘
古曰【「曰」の右横に「云」】舟楫之利以済不通嘗聞其語矣今有其人
也了以叟其人歟了以姓源氏其先佐〻木支族
号吉田者宇多帝之後也云爾世住江州五代祖
徳春来城州嵯峨因家焉其所居乃角倉
地也洛四隅各有官倉在西曰角蔵語在沙門石
夢窓天龍寺図記中徳春子宗林宗林子宗忠
皆潤屋也而仕室町将軍 家宗忠子宗桂薙髪
遊天龍蘭若甞学医術一旦従僧良策彦遒洖【溟?】
渤赴大明明人或称宗桂号意菴蓋取諸医者
意也之義還于本邦其業益進娶中邨氏以天文二
十三年甲寅其月某日生了以諱光好小字與七
没改名了以性嗜工役嘗雖志筮仕而未肯事信長
秀吉矣及于
前大相国源君之治世也而初出奉拝謁焉慶長
九年甲辰了以住【往?】作州和計河見舼船以為凡
百川皆可以通船乃帰嵯峨沂大井川至丹
波保津見其路自謂雖多湍石而可行舟翌年
乙巳遣其子玄之于東武以請之 台命 謂自古
所未通舟今欲通開是二州之幸也宜早為之丙
午春三月了以初浚大井川其所有大石以轆
轤索牽之石在水中構浮楼以鉄棒鋭頭長三
尺周三尺柄長二丈許繋縄使数十余人挽扛而径
投下之石悉砕散石出水面則烈火焼砕焉河広而
浅者挟其河深其水又所有瀑者鑿其上与下流
準平之逮秋八月役功成先是編筏纔流而已於
是自丹波世喜邑到嵯峨舟初通五穀塩鉄材
石等多載漕民淂其利因造宅河辺居焉玄之
嗣焉子厳昭受伝之玄之能書且問儒風於惺窩
先生有年矣一旦招先生遡遊于河上寄石激湍
甚多請先生多改旧号其白浪揚如散花者号浪
花隈《割書:旧名|大瀬》其斉泪環石者号観瀾盤陀有石相距
可二十丈猿抱子飛起其間者号叫猿峡《割書:旧名|猿飛》東
有山巌高嶮有捷鶻之危巣者号鷹巣石壁
計絶皃如万巻堆者号群書厳《割書:旧名|出谷》此処有石
似門広五丈高百余尺者号石門関有湍急流船
行如飛号鳥船灘《割書:旧名|鵜川》灘隣於水尾世伝
清和帝嘗来観魚于此焉岸有山岩高可五十丈
其下水平衡如水載山取山下出泉蒙之義号曰
蒙山皆有倭歌在其家集惺窩所遊観止此焉
復有石方三丈許其面如鏡聳於水崖号鏡石
又有浮田神祠世伝邃古之世丹波国皆湖也其
水赤故曰丹波大山咋神穿浮田決其湖於是丹
波水枯為土乃建洞而祭之以鋤為神之主此神即
是松尾大神也下此則愛宕亀山在左嵐山柱右
其勝区不可抆数十二年春了以奉
鈞命通舼於富士川自駿州岩渕挽舟到甲
府山峡洞民未嘗見有舟皆驚曰非魚而走水
恠哉恠哉与胡人不知舟何以異哉此川最嶮甚
於嵯峨然漕舼通行州民大悦十三年又
命了以試自信州諏訪到遠州掛塚可通舟天
龍河否了以雖即漕蘯然無処用故至今舟少
方是之時営大仏殿于洛東大木巨材甚労挽牽
了以請循河而運之乃聴於是自伏見里浮之河
泝而拏焉了以見伏見地卑於大仏殿基可
六丈即壊其高為是於卑処若河曲処置轆
轤引起復浮水水平如地先是呼許呼邪者
五丁憂了以請行舟鴨河乃聴之因自伏見河漕
舼遡上流達二條至今有数百艘遂構家河傍使
玄之㞐之玄之男玄徳嗣焉十九年冨士河壅嶮舟
不能行
鉤命召了以有病玄之伐【一字訂正「伐」の右横に「代」】行治水又能通舟三月
始役七月成之聞了以病急告仮玄之未入洛先
二日了以歿実慶長十九年秋七月十二日也時六
十一歳此年夏営大悲閣于嵐山山高二十丈計壁
立谷深右有瀑布前有亀山而直視洛中河水流
於亀嵐之際舟舼之来去居然可見矣其疾病時
謂曰須作我肖像置閣側捲巨綱為坐犂為杖
而建【䢖】石誌玄之等従其遺教玄之録其事以寄余
請之記件件如右昔白圭之治水以隣国為壑張
湯漕褒錊嶮巇不能通今了以䟽大井河瀹
鴨水決冨士川凡其所排通釃開則舟能行不臭
其載人皆利之与白圭張湯所為大異矣所謂舟
楫之利以済不通者不在茲乎宜哉垂裕後昆
余与玄之執交久矣故応其請書焉且旌之以銘
其詞曰
排巨川兮舟楫通浮鴨水兮梁如虹矧復
鑿冨士河兮有成功慕其錫玄圭兮笑彼
化黄熊嵐山之上兮名不朽而無窮
寛永六年冬十一月日
一去月廿五日町年寄格杦本茂十郎事北之御番所榊原主計頭様へ
御呼出之所不快ニて名代差出申候処段〻御咎筋被仰渡名字
帯刀町年寄格御取揚と被仰渡縁先より突落され候由廿六日
夜八ツ時右居宅日本橋西河岸不残囲籠ニ相成廿八九日比ゟ
【書込み】
《割書:一此度江戸表町年寄| 樽や杦本散〻之| 談判落書左之通| 御一笑〳〵| 此度西御丸御蔭ニ付| 町中一統ゟ御酒| 十樽鯛十折| 献上之目録》
【朱書込み】
《割書:西河岸会所|たゝ三橋|杦本こはしてもらい鯛〇京都を夜通にかへり樽肥田を返して仕廻鯛〇近年出世いたし樽町年寄》
右居宅不残取毀ニ相成十組問屋へ被下ニ相成候茂十郎は急而
三田の豊田より養子いたし夜〻三田へ道具等運ひ侯由其
身は下屋敷ニ慎居候趣右ニ付町家ニては目出度〳〵と申候て
歓ニ歩行酒肴を買候而祝ひ候由且又御沙汰御坐候而伊勢町
トタン会所王子会所新宿会所なかいもゆり?し会所三橋へ
会所不残取払ニ相成ル三橋も 公儀普請ニ相成候由風聞ニ御座候
及御聞ニも御座候哉杦本は元来甲州の土民ニて十八才ニて母之金子
を壱?歩盜取江戸へ出日本橋飛脚宿大坂屋茂兵衛と申者
かたへ致奉公遂ニ主人ニ相成三橋之渡銭を止メ海舟之運上
を取前受?侯諸会所を立 上之御益を立【取?】并地代等夥敷私
欲を働御役人様方を味方ニ引付取入り候間誰有て咎之人
なく遂ニ町年寄格ニ相成申候当時五十才位之男之由近来之奢
夥敷事之由全く今度は榊原様之御年ゟ御吟味有之候由尤
追而御礼有之由被仰渡候由榊原様御取計ニて成程と存候事は
去〻月筋違御門外大災候節町火消共喧嘩いたし候て人死
も有之候処近頃之流行之通御町へ金子を遣ひ内済取計ニ懸り
し処榊原様決而御承引不被成幾重ニも御大法通ニ裁断
致し遣す間申出口と被仰渡候由表向御取計ニては下手人島流
等ニて大迷惑ニ付町役人幾重ニも内済相願侯処今以御承引
不被成候由且又御沙汰ニ此後迚も出火之節等存分ニ致喧嘩
候様尤其節〻大法通り裁許いたし遣すと御意被成候処
流石鬼之如き悪党共も御一言ニ大ニ弱り申候由是迄御勘
【右頁朱筆】
《割書: 引せてもらい鯛〇半分かこへも馬鹿げ樽御【〇?】仕法往してもらい鯛〇町人一統こまり樽御冥加やめてもらい鯛|〇籾蔵御預被成| たる大【石?】橋たゝん| てもらい鯛|〇仁義の道を弁へ樽| 老中出して貰鯛| 一説ニ| 此老中は隠居| を出してもらひ鯛|〽西丸御普請被成| 樽| 費を下へ| もらい| 鯛| 国替被 仰付樽| 松前戻して納鯛| 米安むたいカ| いつまてむだな御| 御はり紙なま中| のひて物おもひ| たとへくはずに| 勤るとても誠| と諸色の不釣| 合アヽなんとせし至■とても金かさす上てはさはくか■生さはさりなからくれる色なき御風情やかてかすとて》
【左頁朱筆】
《割書: たますぞへ悪キ肥田ても死ねかしく|》
《割書: 外ノ事なから| 此度阿蘭陀より象献上仕度長崎迄入舟いたし候処 公義より御断ニて御受不被成候ニ付| ヲイランダ共ゟ| 新象をわたしけれはかく申侍る| 応永は初会享| 保は裏なれと| 三会目にはあけ| ぬ新象》
《割書: 樽屋杦本ノ歌| 米安に植?樽ものは二つあり からいうき世にとんだ用金| 楠のむかし抱しな?き男 なかを■は今の杦本| 切割之肥田の| 工ミ【匠】にまさりたる金出す智恵か■まり杦本| 愚老中馬鹿| 年よりと肥田いふも分ニ過たる御用金より| 肥田るくもないか| うへにも金好み樽ことしらて腹に杦本|真田様御家来| 直な世に肥田の工かまかりかね無理に取たる杉のまかりき| 金銀を残らす| 王にとられけり飛車角行成て町はふけいき或人此内ニ香車なき■と人の尋けれは香車(ヤリ)は杦本樽やを突鑓と言へける》
【肥田る-ひだるし】
定奉行御勝手懸り御病被成候処御願被成公事懸り御勤被成候
御内入夥敷違候由御勘定吟味ゟ御出身被成候よし
右文政二卯七月七日江戸来状之写
一先月十二日上方南都濃江尾遠勢伊賀大地震昼九ツ時ゟ
八ツ半迄夥敷人死候由ニ御座候大方家は傾顛候由別而勢州は
強く?有之候由桑名城多門櫓不残破損奈良春日石燈
籠不残倒申候由加茂川猿沢洪水右国〻田地は皆無と申位
之由上方近来如此大地震を覚不申候と申事ニ御座候
右上ニ同じ江戸来状之写
一桑名御城下路程 川口ゟ片町迄 南北弐百九十三間
京町 東西百八間 吉津屋町 南北百九十八間
【「新町」と「同御門外」を結ぶ線有り】
七ツ屋 東西八十三間 新町ゟ七曲御門迄南北弐百八十六間
瓦師口迄 東西九十間 同御門外ゟ鍋屋町《割書:枳?垣|迄》東西百五間
矢田町行当迄東西弐百七十三間 福江町 南北百十五間
京町御門 三間 吉津屋御門 三間 七ツ屋橋 四間
惣計千五百六十壱間
両萱町 南北弐百卅八間 紺屋町入江町 南北百三十八間
舩馬町 東西百七十三間 本町春日前迄南北百七十間
宮通春日門正面迄南北百十六間 職人町 南北九十六間
油町 南北九十間 横町《割書:南魚町ゟ|片町迄》南北八十七間
北魚町 南北五十五間 宮町風呂町 南北百間
小網町通横郡?辻迄南北百五間 横郡?辻ゟ魚町南之端迄《割書:南北百|七十五間》
殿町《割書:田町之辻ゟ|土手岸迄》東西六十八間 浄土寺屋敷東町 南北六十九間
三崎通 東西百七十間 三崎御門外ゟ照源寺迄 五百九十間
同所ゟ大市丸東端迄弐百五十三間 同所ゟ堤原西ノ端迄 弐百十三間
今一色中町東西九十壱間 同寺町 南北百六十八間
寺町南之端ゟ瓦師口迄南北五百十弐間
春日社地 東西六十間余 南北廿五間余
矢田町より八幡社迄 南北百四十六間
文政三年執徐夏五 桑■【名?】魯鎬菴 撰
一文化十二乙亥年 東照宮様二百回御神忌於日光山勅会也其節
近衛様五月末頃東都を御出立御坐候へき其節
御台様より御名残ニ
かへり行君か都の空迄も見送る月はうらやまれぬる と詠し給
ひし由世間にもてはやせしを歌に記す
一文政七申八月十九日 大守様御舟ニて町屋川外海辺へ被為
入之御詠のよし
大君の恵の海に舟■てなお幾秋も長く栄ん
一大雅堂年歯五十にして賀の祝をしたり其時掌指に墨
をぬりて紙に押其上へ
年問はゝ片一方の手は明ケの春 右の句を書たるとそ
一八天宮は聖天摩利丈夫弁才天毘沙門天第六天之類八ツ
を合て八天宮と云と長円寺魯鎬の見せたる其説ニ異也
龍宝山妙見寺奉納 高林坊 風眼坊 栄意坊
智天坊 太郎坊 大乱坊 修徳坊 金毘羅坊 秋葉坊
右八天宮ノ別名なりとも
右杦本茂十郎か事ゟ是迄は翠樹録《割書:青木一郎大夫|筆記也》に見えたり
《題:鶯宿雑記 二百六十四》
鶯宿雑記巻二百六十四草稿
宇佐問答上 熊沢了海
和歌のとしはかりにてよし有けなる武士の宇佐の御社に詣ける
か何事もあらは手柄をして高名人に越むと思へるけしき也
爰に齢五十余に見えたる社家一人忽然として来れり武士
に向て云けるは心つくしに何を祈給ふそ今は神も此地にはおは
しまさぬ也それをいかにと申に日本は天神七代地神五代より
人皇万〻歳に至る迄天の神の皇胤たかはせ給ふましき国
なりもろこし人も古は君子国と名付たり大明の外に文字の
通ふ国は日本三韓琉球の三国のみ也其中にも日本を勝レ
たりとす文字の通する人には神あり通せぬ国には神なし絵に
かき木に作りたるをも御覧せよ生身の人をも見給へ北狄天
竺南蛮の人には神なし自然の天応也文の字をふみと
よむは中のくを略していへりふくむの儀也文字には天地万
物の理をふくむ也此故に其国土の神は霊に人は通なる
所には文字通ひ神不霊に人不通なる所には通はす通す
るを人といひふさがるを禽獣といふ北狄南蛮天竺も
人の形有故に大かたは人の心も有やうなれ共実はふさかる所
有て禽獣に近し爰を以て神もなく文字も通はす日本は
東夷の小国なれ共神国とて国土霊に人心通なりもし貢
物さゝけは文字を習し恩もあれは君師の理にて大明にこ
そつかふまつるへき也それたに武国にて恐るへき所なけれは
遠路といひ独立して有しに神もなく文字もなき畜生国
の被官とならんとは思はさりき其時武士仰きて見けるに只
人ならぬ御気色なれはひさまついて答て申さくいにしへむくり【むくり-蒙古のこと。】
度〻取かけ侍れとも終に勝ことをえす当社八幡宮の御在
位の御時は三韓迄も随ひ奉り王仁を召て五経をよませ中
国の道まても知し召たりとこそ承り侍れ畜生国のつかはれ
人と成たるためしを聞侍らす心えかたくおはします社家のいふむ
かし物語にいひし謀におとされ侍り世の中のつもり能ものゝいふ
日本の国を四ツに分て其一を天竺へ年貢に出すと四分か一は
十二三ヶ国也其積は日本国中の寺領并に寺地寺山は諸旦
那ゟ取入物を合ていふ也社領といへ共仏者かもれは寺領也
物語には廿余国といへり是は又つもり委し未来を知事たか
はす天下の山林川沢の仏者の為に荒るゝ物を合て廿余
国につもりたり或は新地或は替地抔とて寺地とするを見
れは百姓の命をつなき妻子を養ふ上田畠をとられ屋
敷を追立られ潰して大寺あまた建剰門前とて町家を作り
人に貸寺領の上の知行とす其理屈を聞は上へ年貢を
召上られぬ程にいひ或は寺より年貢を出すといふ其年
貢といふは昔より百姓の有にはあらす年貢をさゝけて其跡にて
こそ妻子を養ひ其身の世はたる家督とはする也如此毎
年〳〵諸国に於て民の家督をとられて流浪する者いか
程といふ事をしらす今時は武士の人〻は百姓をは薪木程にも
思給はす只草やうはら【「いばら」に同じ】の如く思ひぬ民も又上を見る事あた
敵のことし極寒も時有て勢衰へ極暑も時過て涼しく成
ぬ武士の勢おとろへなは百姓の鍬 かきろ(本ノマヽ)にあたり妻子を
とらはれん事をしらす僧は衆生済度の役たる身にて済度
をこそさせすともかく万民を流浪させすせめて人の屋
敷田畠をよきて野山を望めかし民の懸りなるはかゝれ
共仏者の罪たる事を弁へすして上を恨る計也夫王代
にも武家の世にも廿余国の蔵入といふ事はなかりしに天下
主の畿内の地の四倍を天竺へとられては国の衰微の速か成
事尤也武士のいふ天竺へ別に出すにては侍らす日本の内生
たるものゝ用と成侍り其上ありきて見申に大名小名の屋
作町人百姓の家屋敷こそ大分にて侍れ仏者の堂寺は多し
といへ共間〻の物にて侍るに仏者のみ山林を尽すとは心得
かたく侍り社家云貴殿は武士なれは定て様?〻?の具足なと
鉄砲にて打給へし一銭ためしに薬一銭入て通らぬに二分
かさめは通る物にて侍り鹿鳥をも打て見給へ二分のかさみ
にては玉の飛強み格別成へし今天下の在家の多きは
元より日本に生付て有へき物なれば数より外の物ならす夫
たになす事なくして食する物多きは国の衰微成に仏
者はなす事なくして食するのみならす日本の国を五十も百
も合せたる程なる大国にて山林限りもなき土地にて作り
出したる堂塔伽藍を其侭にて日本の小国に移ししかも
数沢山に建ならへ跡から修理建立絶間なくする事なれは治世
五六十年共有ては其間には天下の衰微して天災地夭も至し
て不叶事也今人家に十人を養ふ者あらむ衣服飲食も
十人の数にやころにあてかひ置れんに臨時に二人をかさみて
其家に養はせは其家内の者皆かしけて衣服飲食不
足ならむ三人をかさまは其家程なくやふれなんたとへかさま
すして十人のみ成とも其内一人成共衣服飲食奢たる者
あり百石取の家へ千石取の子を養ひたるやうならばその
家三年共立へからす貴殿は武士なれは軍法知給はむ上兵
は敵を以敵を打也今南蛮天竺の仏者は日本を以て
日本を打也衰乱の費にのりては切支丹かむくりかに終に
全くとらるへし今肥前肥後は大国也此両国の所務全く南
蛮天竺に与ふるとも日本の衰微にあらし毎年五百人千人ツヽ
つかはれ人をわたす共人もたえし君子は少なき事をは憂すして
均しからさる事を憂るなれは少〻は九州を損乏しても跡を能
ひとしくせは大なる害ならし今日本を以て日本を討る〻の費
は九州をとられたるには劣れり今の日本の出家の多きたとへ
戒をたもち無道ならす草庵を結て奢らす共なす事なく
て食する者なれは十口の産ある家の十人を養ふ者に二人の
外人をかさむか如く成へし況や空〻として夥敷堂寺を多
くたて天下の山林を削る事なれは奢たる客三人をかさみたる
か如し一銭ためしの皮に五分を加えてぬくか如ししかのみならす
山あれ川埋れて旱には用水貧しく大雨には洪水の損毛あれは
いまた委しく積らは仏者の日本国を打取事いくらと【も?】いふ果し
は有まし廿二三ケ国はなとやうにも毎年とらるゝにて有へし
今時新地の寺御法度と有事は少は上にも御心付たるとは見
え侍れ共寺と名付す在家の様にたてゝ坊主の住は苦しから
すとて四五年も住侍れは頓て実の寺に建直しぬ能つて
ひき持ぬれは百姓の命を養ふ上田畠にても昔の寺の跡と
名付ていつくのやらん古き寺号をいひて大寺多く取たて
侍り又本寺へ届て許さるれは不苦とて新寺いか程も田舎
〳〵に出来ぬ其上に唐僧の弟子といへは今まての大寺を
人に譲り新に大寺を取立侍り是は又御法度の外にて侍
るやらん幾百寺といふ数をしらす昔は山寺ならては無りしに法然
親鸞日蓮の三宗出来てより女人成仏の為とて町在家
に軒をならへて寺を建まとへる者はいふに不及迷はぬ者をも
後生願はぬ者は悪人也切支丹也といひおどして老若男女
をまねきよせ其いふ所は皆己か不作法の言訳と銭と りく(本ノマヽ)し
となり其次に人を悪道に落し入ぬ少も世中あしくに成侍らは
此無道の出家を誰か養侍らんや後生のおとしも用にたゝし
堂寺は一度焼れたらは建事あらし限なき盗賊にて有へし一
宗〳〵の坊主国主も出来なんか仏者の奢の世を亡さん事
天下の奢を相手にしてかた〳〵は持侍るへし坊主〳〵と合戦して
互に亡ひ侍らむか乗ずれは除ふは天地の理也仏者の算
乗し極侍れは程なく除られんとすゝむ燈火消んとて光増如く
算をせめあくると見えたり其除ひさまに天下の乱て万人の
上か下となり苦むへきか不便也只此侭に能法を立て仏
者も迷惑せす地道に除ひ度事也武士の云然は拙者等
か命の内に何事そ出来侍らむか内〻妻子の足弱を
山中に片付置一人身に成て心の侭に働き名を後世に
あくる程の高名いたし度思ひ侍りて年月当社に頭をかた
ふけ申也社家云いや〳〵夫は昔の事にてあり今は山中の頼み
なき世にて侍る自然の事あらは武士の分は妻子共になき
ものと思はれよもし生ても生がひなきはつかしめのみあらむ
と思ひ給へ昔は天下の山〻如斯荒さりし故に木曽路なと
通りしに日のめ見えぬ所侍りし吉野熊野抔大なる深林にて
ありき然るに近年五六十年此かた天下兵乱なく静成
時運にあたりて文武の教なけれは国郡の主も人に君たるの道
をしらす栄花の奢を事とせり其上に仏者の奢を極め
無道至極して天下の山林を伐あらしたれは郡国のあさ山は
忽尽て吉野熊野木曽土佐等の深山より日本国の材木
を出す事なれは山を田畠と心得て材木に依て露命を
つなくもの幾千万といふ数をしらす世中騒しくならは此杣
によりたる者共木を伐て米にかへんとするも誰か求む筏
にて下すとも乱取にこそはとらめ其上軍国の費扶持方
に迷惑して前後を忘すへけれは家居の奢も誰かせむ堂
寺をも誰か修理せん此多くの者共の山林を田畠と心得たるは
元より田地はなし忽飢に及ふ事なれは是非なく一揆を起して
賊と成へし昔の安かりし深山は今はかへりて難儀成へし妻
子の置処には思ひもよらぬ昔楠なとは百姓に情をかけ置
て上に思ひ付たる故に天下を敵に引受たれ共自分の妻子
より家中の諸士の足弱まても深山に隠し置何の気遣ひ
もなく百姓等に養はれ一人身に成て一人当千の働もしたり
大軍よすれは深山に入かへれは又出て敵をも思ふさまになや
ましたれ今百姓と地頭とは仇敵より深き恨あり何事そ
あれかな恨を報せんとこそ待らめ不仁無道の奢の報ひ
とは言なから情なく哀成事たゝかたき恥を見んこそいた
ましけれ武士云先に神も此地におはしまさぬと承りたる事
はいか成故にておはしますそ 社家云畜生国の教をうけ
迷へるもの多きに又いよ〳〵畜生なる南仏にとられんとする
也釈迦の生国は西といへ共南天竺にて南蛮と相通せり
幻術は南蛮より作出し仏心の法は釈迦よりいへり釈迦は
妖術を習て仏法を弘め南蛮は釈迦の仏心の伝をかり
て妖術をかされり吉利支丹と釈迦の法とは不二の二不
一の一也只立法のたかひ有のみ也物には先はしりといふ事
ありふき草生せんとては蕗薹出るかことし日本も南仏に
とられんとて先西仏にとられぬ其前表には日本は神国
なるに神社よりはしめて十か九は仏者のもの成ぬ空海
といふもの出て西仏の味方と成り神を尊ふ様にもてなしてかしや借
て表屋をとりぬさびたる神はしらす少しにても知行有宮社に
は社僧のおらぬは少なし伊勢には社僧といふ者なけれは出家の
富なる者共引こみて神領をかひ取多くは坊主の知行と
なりぬ其上に上人と名乗する比丘尼ゐて御師の旦那
も頓て奪ひとらんとす御師も文盲第一の者共多ければ
己か元をは失て坊主の偽を信し天照太神の御本地はおあ
みたにて御座有抔といふ皆〻後生を願ひ太神よりも仏
を尊へり坊主の法に習て只物をほしかり貪るのみ也昔
よりの大禁成に銀を取ては仏者をも神前に参らせぬ此
穢に依て太神宮も此地を去給ひぬ其しるしには先年
火災の為に古き神木多くやかれ五十鈴川の流もそれ共見え
すまた洪水に埋れて霊地もかはりぬ内裏には仏者の賎しき
者を召て高坐に上せ天子の御座よりも内侍所の唐
櫃よりも高くあげ給へは神国の威光はなきかごとし此故に
昔度〻の兵乱急成火難にたに全かりし文武礼楽の
霊器一時に亡たり吉田は日本の神道の本なるに近き
後には人焼所をなし昼夜穢の烟をあげ悪臭神
社にみてり風に依て禁中にも来て内侍所穢せとも
仏者の勢ひ強きに憚るか迷ふて心も付ぬか誰咎る者
もなし抑当社は人皇十六代の王にておはします仏法は人皇卅
代に当て渡り侍れは夢にも知しめさぬものを男山へ非礼の
勧請をなすのみならす菩薩号を付ていかめしとおもへり天竺の
畜生国にては鳥なき里の蝙蝠にて釈迦を世になき者に
尊信する也其私に立たる学習の心の位の空名なれは仏
如来といふ共うるさかるへきに菩薩といふて尊ふと思へる
こそはかなけれ銅の焼たる火焔の上には坐し給ふ共穢れ
たるものゝ所には居給はしの御誓ひも有今の社僧の非礼
の穢にはいかてか八幡宮はおはしますへきや 武士云或云上に
悪なくおはしませは是ほど末に成ても御代はいまた続き
給んか尊氏も十二代はつゝき給ひし程に御当家も十二代は
御つゝき可被成と申侍り社家云よき事にも名代といふ者
ありあしき事にも亦同し今時大に不仁無道にして悪
をする者共を立おかれ候へは上になしとても人をして悪を
なさしめ給へは天命如何はかりかたし柿の虫喰たるはいまた
残る柿は青けれ共赤く成ぬ本をそこなふ物有故也今時
不仁無道の者大名と成て大悪をなすはいまたし熟柿の
虫也多の人を何共思しめさて不仁者に任せ置給ふ事
はみつからむこからても不仁也又代のつゝくにも続き様あれは
頼みにならす悪人の恣に悪をするは天下の主の威の分
れんはし也威わかれては全く令し給ふ事ならぬやうに
成もの也其悪をするといふもつよみの悪にはあらす十人か九
人はよはみの悪也目下なる者をせこめて取計也其本は
奢と不作法より起れり天下の本を崩す大悪人あれ共
いふ者なし多は世はかく(本ノマヽ)のことき者と迷ふてしらぬ共見えたり大名中
名の若手をは何の役にも立ぬものにしたて侍り扨国民は
恨をふくみ仇敵の思ひをなしぬ民背て一揆をおこしたらは
家中の武士は皆独夫と成へし其故は召仕ふものは皆〻百姓の
子也弟也一人も不残はつしなむ五人召使ものは五人の敵十人
召使ものは十人の敵ならむ只に独夫と成のみならす其主人
を殺し其妻子を奪ひ其諸道具を取て城に籠らん武
具城米も皆一揆の用たらむ他国より抱たる者は猶以て
他国にかへりなむ扨日蓮宗本願寺宗の坊主を信する事
主親の如くなれはかゝる時節には坊主の国郡と成所も多かるへし
猫や犬のいさかひより国天下の乱るゝためしも有それも如此くつ
ろきたつて催し有ての事也其ほどけさまは思ひよらぬ事より
初るもの也諸大名の作法の乱よりほぐれんか坊主の奢より
発らんか飢饉の盗賊より乱れんか乱るへき端はいくつも有
大に能はならす共大名中名の乱行を止給はんは源をふさ
く計にて先とゝむへし飢饉の手当は法有事也坊主の
乱を鎮め給はんの御仕置を可被成は今也如此ならは頓て
日本半分は出家と成へし然は天下主の侭にも天下は成まし昔
の山法師の如く帝王の命にも随はす難儀被成し様に成
へし叡山を打破り少くし給ひしは信長公のあやまち
の高名也日本の為にはよき事を被成たり此善行一にて
信長の子孫は小身に成ても続き侍らん山法師は鬼と申候へ共
鬼にはあらて仏菩薩也いかんとなれは仏の法に大に背て無道の
奢を極めぬれは真の仏法よりいはゝ内魔の仏敵也其上
鬼に亡ほさるゝ仏法ならはしられたり仏の力今少したらて高野
を潰されさりし也此後高野を潰すほとの器量の人有
ましけれは見て来たる程の天下をとる人高野の仕置にあぐ
まれ侍らん一所にても天下取の命を軽んする者あり上より
も手をおいて令し給ふ事自由ならねは夫より天下の威
は分れそむる物也昔は王者の威も山法師を自由に得
なされすしてその弱み天下の者内兜を見て乱そめたり後には
方〳〵に我侭をいふ坊主有へし天下も亡ひ坊主も亡ひんとて
思ひよらぬ災出来なん方〻この要害の地坊主共方へ多
公儀よりの下知もならて天下の威わかれ夫に付武士も出仕
せぬ者出来天下は位つめに成へし位つめとは上より其分
にして置給はゝ下からも催して上を亡すほとの事もせし
上からは猶以制し給ふ事も成まし然は年〻に天下主は
威落て名計に成へしせめて今か大事の御仕置の時節
なれ共御心付奉らす今十年廿年の間には何共成申まし
今切利支丹を怖き様に思へ共本願寺宗か日蓮宗を
切支丹の様に天下の害に成へき処を御存知被成て御法
度に被成たらは今切支丹にかはり侍るまし少よきものゝ分
は禅宗より愚か成ものは皆二宗より破り侍り頓て天下は
此三宗に片寄侍らん武士云人焼所の穢の事を我等も
心付て神道者に尋て侍れは神道には心の穢を忌也死火【死火シカ-仏語。死を、すべてを焼き尽くす火にたとえた語。】
服なといふ事は心に愁の有は心よる所有故に其よる心
をいまむか為也事物の香の穢は忌ずと申され侍り社家云
それは仏者に落入たる神道者のへか言にて侍り心の外
の穢を忌すは五辛を何として忌侍る哉神前に沈香を【五辛ゴシン-仏語。 五種の辛味や臭みのある野菜。】
炷【たき】て不浄を去とは何として申や風は天地の祓とは何とて
いふや神道に念のつく所をはらふて清むる事もあり
事物の不浄をすいて清むる事も有重服深厚たり【重服ジュウブク-重い喪。父母の喪。】
共慈悲の室には赴くへしと御座候事は仁愛の心には
穢もなしと也不仁無道の者には潔斎も亦なかるへし
只に心とのみいひて物の穢を忌さるにはあらす道理に違ふ
穢とすれは人死しては土に帰する道理の常也焼は理に
あらす彼と言是と云穢の甚しき物也天神人神一体の理
を知へし悪臭をかく時は我神先穢れぬ況や霊神をや
五辛を食する時は我神先清浄ならす況や迷神をや
然共神につかふまつらさる日は生を養の理有て食すれは
しはしは堪忍する也武士云当 将軍様は武家初りて
の名君にておはしまし候何に御すき被成候と有御沙汰もなく
一として悪き御作法無御座候御老中も御ゑこひいきなく
人柄次第に御あけ被成跡目もよく御立被成候へは牢人の
迷惑もかさなり侍らす是程結構成御政道は四五百年
此かた無御座候と申候然るに天災地妖止ことなく天下危
き様に申候は如何成事にて御座候哉社家云如仰にて御座候へ共
あまりに結構過て大本のみたるゝ処有ことを御存知不被成故候
いらぬ事とも思召過たる事と思召されなから御改被成には手間
入むつかしく候其侭つけやうに昔の例に任せて御やり被成候
事は穏に安く御座候へは也よき様に被成候爰を以過たる者
は弥過入らぬものは弥多成候百姓をしほりて取国郡を
亡所となすの悪人は御存知被成なから夫は世中のなみなれは
其分にても不苦今まても続きたれと被思召且は知音
近付の筋なれはむこくもありかたく以一日〳〵と御見のかし置
被成候へは苦からぬ事と思ひて此無道天下の常に成侍り
今は何とも御改可被成様もなき様ニ御座候其上上〻ふにて
下〻の事委不被知召候故也民はあまたの称也其上貴賤
を養ふの本也天命のかゝる処也天下の本といひ大勢と
いひ民の苦しみ歎事世はしまりて此かた今の時程甚し
きはあらし此故に天命改まらんとすれ共 公方様并御老
中に御心と被成候剛悪おはしまさぬ故に御改被成なば御代万〻
歳続かせらるへきとの御さとしに天災地妖たえぬにて御座候
よからせんとの天道の告と可被思召候其上大名等【小?】名并に
武士たる人の心根日〻にあしく成事崩るゝか如し今程
人心の悪敷成事は日本初りて有へからす天地は人を以て主
とし給へは人心如斯乱ては代の危事近きにあり武士云
多年の天道の御さとしにも驚給はて乱世とならは諸大
名の中よりや起り侍らん社家云いや〳〵思ひもよらぬ事我身の
あつ火をはらふへき程の者たになし大なる望をかけん事は
沙汰にも不及気違はしらぬ事也只乱世の端と成へき第一
の目当は飢饉也昔もきゝんは有つると覚えるへけれ共其時
は天下のかたらて有余有し也今は天下の根くつろきゆ
るきて有余なし遊民の多く成事年〻に数万人也みな
飢饉の盗賊成へし農に利なく且からき事地獄の作り
ことの如し此故に農人に成事をいとひて様〳〵の遊民と成ぬ
夫をはしらて百姓くつろきて奉公人なしといへり猶又奉公
人の少き謂を語りて聞せ侍らん田地を抱へたる百姓を
奉公に出せは田畠の作ならぬ故にいつれの国郡も高をかゝへ
たる百姓をは出さぬ様にする也それにたに少し百姓をつ
かへば農を妨作あしゝ是にて民間に人の少き事を知り
給へ百姓たに多けれは奉公人は有もの也農人は雨露霜
雪にあたりて身をからし悪食を食して腹中をからし出
ては田畠を打入ては縄をなひ俵を作り菰をあみ稲を
こなし屋を繕ひ公役をつとめ寒きひたるきを堪る
もの也其上質朴にして世間をしらぬは奉公人と成ても大
方の艱難をいとはす此故に民たに多けれは奉公人はあれ共
近年は民次第に少く成たる也其故は百姓の中より一旦は
奉公人に出れ共五六年も世間をみれは世間のあしき習を
見取てのうらくの願生し出家を羨み士乞食せ【を?】ぬ【好?】み
て毎年千人万人もぬけ行也初は出家諸乞食を好まぬ者
も武士たる人〻生なから栄耀に驕りて下〻の難儀を知
らねは春夏の永き日遠路の供使共いはす二合半の食
のみあたへ朝は出立にとく食し晩は暮に及事もあり本な
らは三度も食すへき供使にも二度食ししかも腹には満
ずして時ならぬ事のみありいまた不仁なる家に下〻の食
には悪米をかはせ又は京升より少しきを用なとす爰
を以て思はぬ煩人多したへかたさには酒を買もちゐをかふ
て食すれは取切米は□【呉?】類酒食にもたらす近年世間の驕
弥増に成りしかのみならすならし免(メン)なとにて物成もあし
けれは下〻に切米多くやるへき様もなけれは次第〳〵に落
行ぬ江州のものゝ物語に在〻にて百姓奉公人四斗俵三石
とりぬ銀にしては今は百三四十目也農人は悪食にても食
多く用されは働ならす此故にひたるき事なし衣服はな【ひだるし-ひもじい】
らひにていらす然は取者は皆有余となりぬ是を以て妻
子を養ひ未進に出しぬ江戸へ給人の方へ奉公にゆけば
小者は銀百目余ならては呉られす往来の路銀江戸にて
の着類酒食のかつえに用ひぬれは有余の事はおきて身
一人にたらす早其年に江戸にて借銀出来れは在所へ上るへき
様もなしわなにかゝりたるやうにて五年も六年もくらし艱難
へて借銀をすまし親兄弟のみつきを得て乞食と
成て漸く古郷にかへりぬ宿へのつゝけの沙汰にも不及扨
おそろしき気遣なる奉公のみしてひたるく寒き目にのみ逢
生れもつかぬ病を設けぬ如此なれは何に依て奉公に出へき
様なし吉利支【子?】丹御法度ニ付珠数ことの外はやれは是を挽
ても一日に銀五分のまうけ有江州にて中間小者の給分せ
めて百五十匁たびてよと乞たれはたとへは今迄千人出たる
奉公人は千五百人は出へし其上に道具持馬取なとには百
七八十目もやらば弐千人も出へし切米たに高くは今の一倍
には成侍るへし百五六十目は昔の能徒若堂の給分なれ共
其時と今とは米の代違たり在〻ゟの奉公人は米を以て
極めとす今の百六七十目は米三石也昔の百六七十目は
米六石也若堂は弐三両小者は一両弐三歩取たる事も米
を以積れは今よりは多し諸色の買物も今の半分也き
今も米積にして若党六石小者三石四石ならは奉公人
何程も有へし主人の出す処も昔と替なし然共世上驕りて
入用多く或は家に依て物成もへり行は昔の恪好に切米
遣し置事のならぬも理也又奉公人の切米少くて遣
用たらねは珠数をひき色〳〵の商ひ乞食勧進して奉公
に出ぬも理也民間のくつろきて奉公人なきもの不審は
尤なれ共委しく故を聞はくつろきたるにはあらて世中の風
俗ゆへ成こと明か也又江戸奉公人の物語を聞侍り霜月
極月の寒夜にも昼の八ツ時に腹にもたまらぬ食くひ
たる侭にて夜の五ツ時四ツ時迄門に立ば腹中はすき身は
冷わたり手足は覚なし扨も〳〵因果なる生かひ哉と思ふに九ツ
時迄も夜咄あれは唯半夜の内に老も来歟と覚かへす〳〵も
もつけなる有様かなかへりなば明日は頭を剃はちをひらかん菰
かふり成共せむと思ひ夫より一里二里有所供してかへりとかくし
ていねぬれは八ツ時にも成り鳥の声も聞ゆされ共粥の一口も
あつき湯にても飲めといふものもなし凍を暖めよとてたはこ
の火入に成共火出す者もなし腹中のひたるさ極り身凍へ其
侭にて打ころひねぬれ共夜の衾や布子の綿あつきも有
かなしにて声も得たてず臥ぬれ共草臥【くたびれ】ても目もあはす漸
つかれてまとろみぬれは宿にてこたつにあたり夜食喰て艱難
もしらぬおとな共か昼いね宵いね迄すれは奉公人か朝寝する
もの歟とておひおこさる寝てねられぬ侭にも扨も〳〵何たる物
の報ひにて同し人とてなからかゝる身とは成たるそ只死したるか増也
たふれはたふるゝまていかていの乞食成共せんとふつ〳〵倦し果れと
食をくへとてよべは餲えたる侭に食する黒米飯塩汁は甘露
のことし少し身もあたゝまりては夜中の道心も少しは忘其上二月
二日もこねばさも急に思切かたくて一日〳〵と送る也うん【倦】じ〳〵
て二月二日もくれはときくひ経にてもよみいろはの字もつゝけん
と思ふものは心も起らぬ道心おこし出家して身を隠すも
あり口のきゝたる者共は山伏かさう【ら?】すは飴売人形まわし如此の
者諸乞食と成て散〻に成もありよはく成ものゝ病付何事も
不調法成は誠の菰かふりと成もあり能〻無病なる者か何に
成へき覚悟もなき者ならては奉公人と成てはおらす少しもやるかた思
ひつけたる者は毎年〳〵遊民と成て出る事千万人といふ数を知
らす未是ほとも武士の人をつかひて通るはふしき也世中此
侭ならは弥奉公人は少なかるへしかの飢饉年の餲て死する侭
にいか程にて成共奉公したかりたる事なと覚たる人〳〵の其如く
奉公人なきは百姓有付たると思はるゝも有へけれと左様に世中に
飢饉続きては天下は治るものにておはしまさんか武士云飢饉に
金は食とならす米の沢山に成へき様はいかゝ御座候はんや社家
云或曰江戸京大坂大津所〻の御蔵米の虫にならぬ御政道は
かりにて天下の米は余程沢山に可成候御覧せられぬ故にて
こそ御座候へ御米之虫に成て捨る事扶持方取なと諸人の
迷惑に及候事言語に及かたし少しにても手筋能かたより御取
候には能米を渡しさもなきには皆虫半分の米を渡し侍り
是程米の高直成に大工職人抔受取て米壱俵を三匁や
七匁に売たる者あり勿体なき事にて侍り武士云その
虫にならぬ様は大分の御米なれは成かたく侍らんか社家云
いかにも安き事にて御座候蔵数多く御建可被成計にて候
昔の如く籾にて御納被成候はゝ今の様に米一石に付銀十五匁
蔵によりて廿匁のわり米は入申間敷候籾弐石を米壱石にして
何の吟味もなく来とひとしく御納めさせ被成候は百姓の悦申はかり
成へし扨扶持方取にも其通に御渡し被成其人〳〵に唐(タウ)臼用
意可仕候足軽体の者は五人あひに臼一ツヽも持侍らんか一石
の籾を能干て入候へは半分迄はへらぬ物に候六七斗には成り
候間其余にて妻子もゆる〳〵と養ひ侍らんか然は天下の百
姓は悦ひ扶持方取は思ひよらぬ加増取たる心地せん大成御仁政
と成可申候しかのみならす毎年百万石も二百万石もすたる物か
捨らて御冥加能おはしまさんたとへ米納に被成共籾ほとに能こ
そは有ましけれ被成様にて多の捨りは有間鋪候土地により明
年六月の土用をこさぬ米もあり三年置ても少しもへらぬ
米も有その性の能米をは別に御蔵に詰置三年限にく
るり〳〵とまはり出し明年の土用を越さぬ米をは仏米か
扨は夏より内にいたし切様にか其米計籾にて納るかいか様
にも有へき事也今は能米を持行ても受とらねは蔵奉行と
相とりの町人に渡しぬ町人其上米を取て高く売下米を買
て御蔵に詰ぬ掛り物多くも賄賂【まひなひ】次第なれは御米の善悪に
はよらず無理非道の懸り物多く取のみならす天の生物を空
しくすて虫になしてやせ奉公人諸職人を迷惑させ侍り是
一色にても上の御冥加のへる事にて御座候たとへ籾納に被成共
蔵奉行の被仰付様明らかに定り不申候はゝ下にての盜は止申間
敷候同しくは蔵奉行と代官と一人にて兼たき物也代官を京
伏見脇〻に置んよりは何方ニても御蔵の在所に今の御蔵奉行
衆の居所に置て在〻所〻の米は庄屋納なれは庄屋共の
吟味を遂一俵〳〵毎日納る時に俵に名書して入置則其
庄屋共上乗にて御蔵へ入あなたこなた手代一へん見廻り代官も
折〻は見て様子を考いつれの御蔵はいつれの村里の米と土地より
出る米の性にしたかひて裁判し扶持方抔に渡す時其土地の
米は米ニても格別あしき様子あらは其欠米【かんまい】は本主に出さす
る様にあらは懸り物も御蔵米の色〻の盜も有へき様なし
定りて渡二条の御番衆への御加増米大津の御蔵にて何れ
の村の納いつれの御蔵の米也大坂の御番衆へは大坂の御蔵にて何
れの村の納めいつれの御蔵の米と名付出其買人をは人〻より
御聞立可被成候米の相場たに定り候はゝ其御蔵へ納めたる庄屋
〳〵方より買手へ渡し銀を取て売主へ渡し可申候然は米の
よしあしは上様にも又拝領の人も構なき事ニて候若不沙汰なる
俵あらは米の買手と庄屋と吟味して其名の書付を以て欠
を立させ可申迄也夫こそ百姓と町人との挨拶次第にて何の
そこなひもなき事也又売米の吟味強くする事は一石ニ付て
銀一二匁も高く売人との事也然共左様の欲深き者は必す
売時分をぬかす物也昔我知音の武士知行の米納大かた
にして吟味せす米も俵も人よりあしかりし然共一年中の売
米のつはめは人とかはらす能すれば人より高く売たる事
ありき其故は米のさかりしたる時は何程吟味よき米俵にて
も高くかはす米のあかり立て人のほしかる時は米の吟味は
俵のよしあしにも構はす買手多き物也知音の武士はいつニても
米のあかりて人のほしかるときには其侭売〻せし故也かの欲深
きものゝ百姓を迷惑させ米縄俵強く吟味する者はあがれは
いまた上らんとて待ほどに頓て下りくれは後〻は無是非下りの内にもう
れは右の通也武士云諸侯の国〻にても籾納よく侍らんか社家云
籾納の仕様成へし御蔵なみならは非道成へし御蔵米ニては一石に
十五匁廿匁の懸り物あれは籾ニて納め一斗多く入てもいまだ三
四斗も百姓の得分ある国〻ニてはかゝり物有ましけれは其上に籾の
増あらは高めの上の高めとならむのぎ【芒】をゝき籾とのぎの
なき籾にても殊外の違ひ有可被成とだに被思召候はゝいか様にも
可成事也大坂御蔵奉行かはり力者に御切米被下て能様に
は聞え侍れ共下〻の盜の本ほとにはなきと申計にて百姓のかゝり
物の費迷惑はさのみかはりなき様子也如此にては盜も頓て
本の如く成侍らん又或云天下の奢故諸士の用不足にて
年〻に高免に成ぬれは百姓も地の物計作ては年貢まとふ
故にたはこを作て高く売年貢の足とす此たはこに
ふさがる地計も日本国中を合せて近江程なる大国二三ヶ
国は空しからむ夫にかゝりて過る物は皆遊民也たばこの道具
費る竹木銅鉄焼物其外挙てかそへかたしたばこ刻に成て
世をわたる者計も三万余人有へしと也たはこを作らぬ様に
夫にかゝりたる者共もいたまぬ様に五六年程に御やめ被成たら
は此一色にても日本の国広く成り諸人ゆる〳〵と可仕候此の御仕
置計にても奉公人は多也侍らん其被成様は長〳〵しけれは略しぬ
或云木具御法度といへは木具を漆にて一扁塗只一度な
らては遣はず末は漆の分またかさみぬ木具等にへぎつ
かふには節なしの結構成桧にて有日本国中の木具へきたい
等の費も夥しき事也其上かりそめなる物をも結構成台に
のせ箱に入ぬ此等の費も夥しき事也上より被下小袖を
初て昔の様に広蓋なとにすへとり広けす共一ツに積
重ね目録にて実ある様に被成日本国中其風にうつし軽
薄をやめて実立侍らは天下の費やむのみならす風俗
見事に可成候或云今米の高直成は天下に銀の多く成
たると申説あり尤半分は夫ニても可有候へ共第一は作り出す
もの少く遊ひて食する者多き故也身過の坊主山伏等
を御法度に被成或は奉公人或は人少き国郡の百姓等に被成
候はゝ奉公人は満〻て多かるへし故なき比丘尼を御法度
に被成候はゝ女奉公人除る程有へし徒に米を費すのみならす
国郡の妨をなす事挙てかそへかたし或云近年米の酒に
潰るゝ事夥し先年酒半分作り候へとの御法度故酒の代
を高く仕候へとの儀にて酒は例年より多く作り直は高し
酒屋たるもの大に富に成たり酒に利多くと見えてとかく言
まわしてう儀して多作りぬ来年の米は高く安くと極月中
の米を中分してそれに二割の利を懸積て夫より高く
売せぬ様に被成候はゝをのつから酒の数もへり行可申候武
士云平家は奈良の伽藍を焼て其報に亡ひ信長は叡
山を潰し高野をも潰さんとし給ひし処に調伏の法を行ひ
たれば七日にあたる日明智に殺され給ひし如此なれは仏法の
しるしあらたなる事歟と存候社家云愚痴の坊主のいふ事をのみ
世中に聞ふれ侍れは本の正理を不知也平家は清盛の悪逆
無道積り一家の奢長して天罰を以亡ひたり奈良三井寺
等の坊主の出家の道をは失て武勇を事とし戦を好み
侍る故に宮にも頼れ給へり其道にあらぬ振舞に依て是も
罰にて焼れたり然共平家は我身の罪をかへりみるへき所に
さはなくて奈良三井の坊主の罪のみ咎しは愚痴之至也天
道に省きたる罪有ことはいはで寺を焼たる故と計いへは識者
の耳には心得ず又信長の明智に殺され給ひし事は其身武
勇の達者のみにて文道を知給はす取立の心安き者なれは
とて城主にもなし給ふ者に人前にて恥かしめをあたへ其後
家康公御馳走の亭主被仰付夥しき振舞の用意をさせ
其最中に備中高松の後詰被仰付しかはとかく使はるゝは身の
難ほと有まじきと思ひて恥かしめのすゝぎがてら謀反したる
也明智に有ては重〻罪なれ共信長公も亦罪あり叡山高
野の事なし共必此の災有へし信長公のとかく長久成間敷
凶徳をはいはで叡山高野の故といふは愚か也又信長を鬼と
いふは猶はかなし鬼に亡さるゝ仏法ならは衆生を救はんと
いふも非之今の加賀殿の先祖は北国にて叡山高野にも劣
らぬ大寺を合戦して悉く打亡し悪僧共の首多く切懸
られぬしかれ共其身に悪逆なかりしかは却て三ケ国の主と
なりぬ是をは伽藍を亡したる利生といはんか利生にも非す
只有へき道也平家も奢と無道となくは宮も御謀叛あらじ
しからは奈良も焼れし信長も其身仁義おはせましかは明智か
難もあらじ天下は程なく手に入へし叡山は奢に依て自
滅すへし武士云世間の人の申伝には唐僧の来りたる後に飢
饉か兵乱か有之候昔よりの前表一度もはつれなく候又大仏
建立も日本の不吉と申侍り拙者の存候は唐僧の来は日本
の仏法佛も正しく成へき程に能事也大仏も昔より有来の
物にて侍りぬ此二色にて世中の凶事とは道理の聞えぬ事
にて御座候社家云唐僧を招き大仏を建立被成事は
今はしらず古へは愚痴か無分別かの間より出たる事にて
侍り聖武帝の大仏建給ひしは愚か也秀吉の今の京
に立られしは無分別也軍法の方【才?】はかたの如く利たる人成しか治国
に成てはさん〳〵悪しきのみ也百里の島ならては狐住ず千里の
里ならては虎おらす然は物毎国相応身代相応の道理也
前にも人の申せし事を引侍る様に日本を百も五十も合せ
たる大国ニて山林果しなき処にて作出せし堂塔伽藍を
日本の小国にうつし剰大仏迄作り侍る事は重〻の驕天道
に背くの国也此背きたる処より建る大仏なれは不吉の前
表たる俗説尤ニて候其上唐僧の来る事は費の上の費也
又何としても日本の案内も能聞ゆれはむくりか昔より心懸
る処の□共味方共成へしかゝる害のみ有て益なき物を呼
寄日本の諸人を弥迷はせ唐僧の流とて又一流出来方
〻に夥敷寺をたて扨隠元頭巾たにかふれはいつ方にも馳走し
宿かし侍れは何共しれぬ牢人すつはまじりに幾千人と云
数もしらぬ程集りをれりむさと出家するなとの御書出は
御座候へ共其地結句出家する者弥沢山なり若急度御法
度もあらはむつかしからん今の内に出家し楽せんと思ふ成へし
本寺よりの許し抔とて新寺の多事挙てかそへかたし遊民大
に多なるは飢饉の相也きゝんゆかは此遊民盗賊の巣也
しかれは唐僧の来たるは飢饉乱世の前表ならすや只唐僧
と大仏とは凶事と計聞ては道理分明ならね共其然る
故を聞は尤なる儀なり故をたに御改被成候はゝ唐僧大
仏の夭怪はおのつから消行侍らん
宇佐問答下
武士云今迄我等共の何事そあれかな手柄をしたきと願ひ
申て当社に頭を傾け侍りし事は仰を承て倩思ひ候へは
ひか事にて神の受給ふへき道理にあらさるは儀さとり侍りき
然は御当家御長久にて世中静ならんこそ願はしき事ニて
御座候引かへて又天下静謐の祈を致し度候但公方の御
扶持も受申さぬものゝ願には過たる儀にてや侍らん社家云
さし出て人にも語らはこそ其位にあらさる罪もおはしまさめ
御扶持受侍らぬ者とても皆公方の御恩にて太平の御代に
住ものなれは上の御長久を心に願ひ神に祈申さん事は何か苦
しく侍るへき又さし出かましく御忠節たてに善を告申さん事
ことあしからめ名を隠し筋目に依て人しれす善をすゝめ奉らんは
世にすむ御恩を報するの道理にもおはしまさんか堯舜の君は
草刈のいふ事にても道理に叶ひたる事は聞し召て天下の政に
施こさせ給ひし也孔子の聖人なるもわらわへの小歌迄取
用ひ給ひしときく爰を以堯舜孔子は弥聖人の名高し
後の世の小知のものゝ人に教へられまし智もなき様になとゝ
憚りて人の善をとらさるは終に其国亡ひて愚痴不徳の悪
名を流しぬ唐日本共に此鑑明らかなれは誰か堯舜孔
子を背いて愚痴に随ふものあらんや今の君臣は堯舜に習
はせ給ひて能下〻の風説まても聞しめされ候へ共申上る儀の可に
あたる事稀なれは君臣の御心明らかにおはしましてえらはせ
給ふへき忠節も有かたし儒者抔いふ者は時処位の至善を
しらて唐流を其侭に述いへは今の時に合ず日本の所に
応せす此国の人の位にあたらす何を以聞し召入給はんや日
本の上代は無為の化行はれて政刑の見るへきなし只神を祭る
の礼に孝を尽し給ひて篤恭【とっきょう】にして天下平也神道者は
其祭記の跡のみ見て其故をしらす公家は王道衰たる時より
の事を記し闇主の例のみ引人情に遠き事南蛮人に国
政を論せしむるかことし仏者は身過の謀後生の迷ひのみ
にて天下存亡の機のみにかゝる事は夢にもしらす其外の貴
賎老若の天下の政道を悔み我知顔のものゝ言はしろき
いのこを世になきものとし古きはうきをたからとしたるたく
ひにて井の内の蛙の大海を不知かことし君臣共に耳を傾けて
聞しめせ共訳もなき事共のみなれはあき玉ひてとはんともお
ほさぬと見え侍り天下にある物は皆 公方様の物にておは
しませは天下の人も 公方様の人也何そ天下の人の知のみ
公方様の知にあらさらんや申上る者も 公方様の人也えら
はせ給ふ御知も 公方様の御知也申所は天下の人にあれ共
えらはせ玉ふ所は君と老臣とにあり上の知明らかならて其
万言の中の善をえらひ出させ玉ふへきか武士云今の時に
当ていかなる事か平治の功に当り可申哉上にも御取用可被成
候や社家云下の情を申上る者なけれは委しく知しめさぬ也
申上たらは必おとろき玉ひ御用可被成実事あり語て聞せ
侍らん昔唐土にて都を立ん処を見廻りしに一人の大臣は海川の
通路よき地を見たてぬ一人の大臣は海川の通路なきにもあらす
又自由にはなき地を見立ぬ諸人みな此通路よき地に
同心す一人の云不然自由なる地に都を立て城を立れば
商人次第に富て士大夫次第に貧しく成者也士大夫貧しく
なれは民国窮する者也民国窮して農に利なけれは遊民
次第に多く成もの也遊民多くなれは奉公人少なきもの也
商人の手に天下の財宝集る時は諸色の売買物高直
に成もの也売物高直なれは諸侯大夫士の大身小身共に財
用たらす財用たらされは民にむさほる故に民国窮す民
苦んて農作利なく商人の手まわし自由なれは田畠を捨
て商人に付ん事を願へり町人の富るはのふらくを事とすれは天下
の風俗みたれて遊民多し一度遊民と成たる者は心それて人事
をいとひ奉公せんことを願はす此故に禄を受る人は大身小身
共に日〻にすり切町人は日〻に富て富諸侯の上に出るといへり
日本にても神武皇帝の都を難波の津に建給て大和の国中の
通路あつて自由ならぬ地に定給ひし事は深慮おはしまし
たるなるへし又日本の中昔七堂伽藍を建し時智者あり
なけきいふ千里四方つゝかぬ国には虎すます百里四方なき国
には狐をらす仏法の大仏伽藍は天竺中国の大国にて作出
したる物也それたに聖人は たかき(、、、)屋(、)ゑかけるかき(、、、、、)は亡国の
の相也と仰られたり況や日本の国を幾つも合せたる程成
大国にて作り出したる伽藍を日本の小国に其侭作る事は日本
衰微の妖怪也其上大成ものはかさをとり威をとる物なれは
七堂伽藍の大なるを以て神社の日本の国土に叶たる製を
おしけさん事目前に見えたり仏者は神国を仏国に奪はん
の謀ニても有へし此国に住なから他国に同心する事は君
をなみし父をなみする也程なく日本は天竺の被官と成へし
今又法然日蓮等の門徒出来て女人成仏の宗旨なれは
とて在家町家に近付て寺を作る事初まりける時知る者
あり悔ていふ是より仏法の戒律捨れ出家たる者妻子を
持淫乱をなし鳥魚の肉を食し酒を飲口論争盜の事
をもなすへし然は出家は能身過に成て世中坊主みち〳〵て
沢山にならん無道にして奢極まらは仏法終に亡ひなん其亡ひさまに
は坊主の国郡をあらそひ天下を望むの悪行もおこりなんと誠
に山海万里をへたてたれ共其事のたかはさる事符節を合
たるか如し武士云然は今の山城の京に都遷し有し事は
王道衰微の始にてやおはします社家云二三里近く淀の大河
をかゝえ淀は難波の津に通し淀へは桂川かも川の通ひよく又
東には三里隔てゝ水海より通路自由也如斯にて京都に
住人日〻に驕り商人日〻に富て物高直に成り東西南北
より上洛の物財用多遣ひ費して民国窮し都をもの
うき事に思へは時節をえて上洛せさる者あり遂に王道の
衰し処也武士云鎌倉江戸の地も同し事にておはしますや
社家云鎌倉は土地も狭し且いにしへは大廻りの舟なと自由せて
関東ニてはあり物毎倹約朴素成し武士の五畿内住ゐは
弥奢長して天下久しく有かたけれは倹約を以て長久を
なさんか為に鎌倉江戸の住ゐはし給はし也然るに四十年卅年
此かた天下の財用の権柄【けんぺい】いつとなく商人の手にうつりぬ此故ニ
商人天下の事をのみ込大腹中【だいふくちゅう】に成て大廻りの船なと次第に
乗得て自由をなせば川迄もなく江戸の城下に間近く海
舟着て諸国の物を居なから出しぬれは初は沢山ニて下直
にも有物毎自由さに人も多く入込ぬ夫より次第に奢
て手広く用つけたるに物の優は一倍二倍三倍に成り物
により十倍もすれ共其用を止へき事もならす人の用は
水木を第一とするに山林次第に尽ぬれは材木薪は大に高直
になりぬ大身小身共に武士は皆〻すり切はてゝ難義の余り
に取へき処なけれは百姓をしほり取より外の事なし薪には手
くろもなけれ共本荒たるか故に高直也其外の物は多くは
商人の手くろを以て高直也世中からきたとへにはあき物の
三倍するかことしと云伝へたり今は物によりて三倍なといふ
事なし昔通路自由成所に都をたて城を立れは商人富
て士貧しく成といへるは自然の勢ひ也今は是より甚しき事也
近年は天下の金銀財用の権柄はすきと町人の手にくたり
ていか様に取まはさんも侭成事也此初めは受取普請うけ
商ひ入札しめ売かい込といふ事より初りたり天下の諸物
はいか様にすれはいか様に成如此なれは如此まはるといふ事町人共
掌の中に知て武士は曽て不案内也禁中并宮社の御
作事奉行として歴〻を被仰付候へ共其大まはし小くはり材
木を出し人を遣ふ処も曽て御合点なけれは町人共に入札
にて受取に被仰付武士は町人にまはされて奉行と云たる名は
かり也堤川除此御普請といへ共町人の入札受取なれは山河
の地理を知玉ふへき様もなし天下半分は町人の仕置と申
も理り也宮社なとの作事はきり〳〵と果の行ぬも能候へは
入札受取なしに武士の奉行の言付にてそろ〳〵可被仰付儀也
堤川除他【池?】是普請は尚以武士の功者に成様に御仕立可
被成事也下知すへき武士か町人に下知せらるゝ様にて済ぬ事也
しかのみならす今は天下の大名小名共に町人の為の百姓也といへり
それをいかにといへは着類肴其外の諸色大名小名のいらで
不叶物を三倍五倍高直にして思ふ侭に利をとりぬ米も
随分高直に成ぬれ共他の物の高直成に合すれは米は
いち下直也十五年廿年跡の一倍にならてはならすたとへ只今
六十目の米か五十目四十五両に成時も商物は少しも下らす
結句あかる事は有今の勢ニては米は何程下りたり共商物
の下る事はあるまし然は世中よくて米さかりなは武士と民
とは弥困窮すへしいまた近年大に不作もせす又能年もなし
米五十目六十目の間に有故にかたきぬよきともつゝく也
しかれは物毎高直なれは大身小身共に武士次第にすり切
はてゝ詮方なけれは百姓をしほり取より外の事はなし百姓も
かし【悴】けて取へき処なけれは又借銀をして其利にとられぬと
にもかくにも武士の米穀金銀は畢竟皆町人の物と也ぬ扨その
商人は思ふ侭の奢を極めゑよう【栄耀】を尽し不作法を事とし
天下の風俗をみたりぬ国所よく物成浮所務【ふしょむ】多き大名中
名は是を羨みて国持の作法も忘はて武道の心懸も失
て乱行遊楽を事とせりえようの奢にはいか程有ても
あまりなしかへりて借銀多出来るもあり国処よからぬもわ
かき大名中名はなるならぬの計方なく乱行遊楽を事と
すれは民に取事法なし爰におため【御為】者といふ者も有其上欲
深く無功なる者の取ことのみ知たる者を代官役?にすれは田畑
に物の有無の計方もせめとりぬ五穀を作り出して天下の貴賎の
養ぬる民をはかへりて大罪人の如くあいしらひぬ国命は民に
あり民命は食にありとこそ聞に我を養ふ者を苦しめ
其民の命とする食を奪取は此天罰はきゝんゟ乱世と成
へきかく民を苦しむる処の畢竟は町人の手くろの謀悪より
発る也商物の利は弐割を以至極とす二わり取てはいか様に
も世わたらるゝ物成にえようの驕に遣ひ合せんとすれは三
割ニても不足爰を以或は五割或は一倍十倍の利を取
んとすれは手くろに成ぬ此故に天罰にてその商人も程
なく損亡したふれぬ或は博奕わる狂ひに破るゝも有又其
奢乱行を利として富に成ものありめくり〳〵て財用の権は
商人の手を放れす武士云近年は大火事にて公儀の金銀多
世中に出候へは金銀沢山にてやすく成たると申説も御座候はゝ
如何社家云此儀もなきにはあらす然共其出たる程はやかてなく
なり侍らん其故は唐僧わたりて大勢の弟子の朝夕の菓
子等まて異国より取よせ何のかのとて金銀は異国へわたし
ぬ日本よりわたる金銀は朽ぬ物にて彼国の用を足す彼
国より来る物は食費し朽失ぬる計にてとゝまりて用を
なすへき物なしかへりて日本の衰微と成事のみ也又薬を
金銀ニて買ても半分より多く虫になし捨て皆売たる
よりは利を取分別のみすれ異国へ渡す金銀は三分
にて二は只とらするがことし糸巻物も買込しめ置て
半分は蔵の底の置古しとなして天下の用をなさす皆出したる
より利分多謀のみにすれは是も異国より来る物半分
すたりて其金銀は只やるに同しかく成行は日本の金銀は頓
て少く成へし又銀の安く成たるといふ理屈も世中とかくつゝく
間こそあらめ近年の内に一年不作せは米不足して一石
銀百目も其上もすへし其時は銀の安く成たるといふことはり
は役に立へからす金銀は食とならし扨又日本の内をめくるとは
言なから海川より上る魚を舟十艘あれは八九艘は打こみ
塩にし或はくさらかし一二艘を江戸へつけて其内を店に
かくし大名中名の買物使をきり〳〵まはせなくて不叶振
舞音信なれは言懸次第にかはせ十艘なから江戸へ付たる
利よりは一艘ニて十倍もとりかへしぬ甲州の葡萄を所にて
買切馬百駄あれは廿駄程江戸へつけ八十駄は深谷へすて
ぬ百駄なから付たるよりは三はい五倍の利をとりぬ其代の
銀こそめくりて日本にもあらめかくて物を空しくなし武士を
迷惑させ民を困窮せしむる事は其罪死にも入られし
魚とぶどうの二色にて万の物は知り玉へか様の者共か邪智
深くて色〳〵に手をまわし物もいひそふなる方へは前おきを
すれはかゝる悪逆も上へ達せず畢竟上の御冥加のへり御
運の縮る事こそ歎かしけれ武士云仰を承候へは商人の如
此天下の利をあらし米穀金銀財用の権をうはひ取たる
事はもろこしにも日本にも此時より甚しき事はあらし然共
仏氏の堂塔伽藍を以て日本を衰微せしむるの害とはいつれニて
侍らん社家云商人の害も本は仏氏より出て又仏氏を助
る事甚し仏氏の害も天地ひらけて此かた唐にも日本に
も此時より大成はなし夫をいかにと申に昔は天下のものゝ信
に任せて上より一同に仏氏に帰し給ひし被仰付はなかりし也
夫故に仏者もおのつからたしなみ有き其侭ニて置なは今
時分は旦那寺を持ぬもの天下半分は有へし坊主も今の
半分寺も半分ならては有ましけれは天災地妖の禍も
如此有へからす商人の民と武士とを迷惑さする事も如此急
ならし近年は切支丹の御法度故に人の信もなき仏法又
再興していやともいはせす天下おしなへて旦那を付玉へは坊主共
は戒律のたしなみも入らす学問も勤めす只切支丹にかゝりて心や
すく世を渡り魚肉女色酒まても自由成事在家に超
たり教へすして其侭置は誰も恥の心のなきものはなし悪人
といはれて安んする者はなし然るに今の人の師となる坊主
共かへりて欲心深く無作法悪逆なれは中〳〵に打破りて
各我等如きの凡夫は慈悲善行をなして戒律堅固にて
仏に成事はならぬ故にあみた仏の憐給ひて只一念南
無阿みた仏とだに唱れは其侭すくひ取給ふ頼もしく思
ひ給へ憖【なまじひ】に智恵をおこして善をつみ律をたもたんと
思ふは難行也地獄の業也といふ又日蓮坊主は法華は
大乗妙典【法華経】也慈悲善行戒律抔をなして成仏するといふ
事は小乗注の旨也かへりて地獄に落る也只一声ニても妙法蓮
華経と唱る時は主親を殺したる虐人にても成仏疑なしと
いふ浄土宗日蓮宗仇敵の如く争へ共坊主の不埒儀
無道なると旦那を悪道にすゝめ入との実は割符を合
たるかごとし旦那共も慈悲をすれは物も入けんどん【慳貪】なるは勝
手にもよし善人と成はむつかしく不善人を安んするは心安
し幸に人の師となる坊主のゆるす事也欲悪なから
仏と成といへは恥とも思はす今は万人に一人慈悲善行なく
ては成仏かたしといふ出家あれは気違ひの様にいひて其
寺へはゆかず禅宗は悟たにすれは何をしても不苦といひ
謡ふも舞も法の声といひて歴〻の大名中名に不作法
の許しを出す也たゝに気随不行義なるは方人なけれは禅宗
に依て気侭を遂る也本は坊主よりいひ出して今は在家
の大小貴賎共に好事なれは弥此流蔓【はびこ】れり坊主に
定たる物をやり不時の勧進にも出すかことは門役と成ぬれは
武士なとのさのみ仏法信せぬ者もぜひなく出し大名は尚以
大名役に出しぬ又女房方の勧めによりて後生の為とて
大分の金銀を出すも多し町人なとは元来利にのみさとく
て義理をしらす愚痴の至極したる者なれは兄弟親はしめ
として少の金銀を出し相助ことはせね共若後生といふ
者有もやせん此世はかりの宿也此沢山なる金銀をい
つの用に立へきと思へは堂寺の為に出す事はさのみ惜まず
誰か何方の塔を立たり堂を建立したるといはるゝ外聞も交り
ぬれは近年町人の手に金銀は集る事也町人の堂寺を大に
する事挙て数へかたし何共ならぬ賎男賎女迄も身を放
して成共仏に供養するものと聞ならへは少しツヽといへ共
天下を取集れは限りもなき事也公義にも本の天下の衰
微を知しめさねは後世の謗と成へき事は夢にも御存【「知」脱字?】なく
申上る者もなけれは少しの外聞を被思召て昔より有来たる
事也とて大伽藍大寺共絶す御建立也宮社御建立
と申せ共本社よりは脇に付たる堂塔の入用多し多くは
神社も社僧にとられて社人は彼官百姓となりぬ天下の
名山林も十にして八は仏者の物となりぬしかのみならす町
家在家にひしと入込たる寺〻幾万億といふ数をしらす
此寺〻に遣はるゝ材木の費天下の山林を荒す事幾万
億といふ数をしらす十年此かた山のつき川の浅く成たる事
ひた〳〵と目に見えたり是より後久しく世中続きかたかるへし
山林川沢開闢より此かたの大あれにて天下の乱世も亦久しく
大ならんす此故に同声相応し同気相求るの理にて町人
の財用の権を取て武士を衰微させ民を困窮せしめ遊
民多く生して仏氏勝方ます〳〵沢山に成也燈火消んとて
光ますことく仏氏無道にして奢を極めされは尽んとするの
勢也天地の造化も春夏秋冬土用の五行一かけは乾坤
やむへし人の五臓一かけは人死すへし日本の国山つき川変せは
天下乱るへし今山林つき川埋れたるは五行の一ツかけたるか如しす
きと尽てかはるといふ道理はなし十か八尽て九に至らんとする
時天下乱るへし九に至るの数は今よりあまり久しからし此本
は仏氏の罪なり今其割符を合せ助と成て成就する者
は町人也町人の財用の権を取は世の尽なんとする妖怪と知
へし武士云近年の内に天下の変あらんと承候へは二三年の
内も難計候只今天下に何にても気遣成事は見え不申候
仰られ候如く飢饉のゆかん事二三年の間も難計候
公方様に山川をも昔にかへさんと思召出家にも得道の法
をあたへて出家と成もの皆昔の如く真実道心のもの計
ならは日本国中に一年に五人とは有かたく侍らん今は一年に
少くて十万廿万ツヽは出家可仕候へは此かさみなくは卅年之内
には大方昔のよき仏法にかへり可申候町在郷の寺は皆なく
なり侍らん山寺とても日本の土地に合せて国の衰微とならぬ
様に草庵を結ふ様ならは七堂伽藍堂塔の如き事は
有へからす然は仏法有共世のまとひ国の害とは成へからす
町人の我侭を御やめ可被成事は御心たに付せられたらは一年
の内にはやむへし武士の国所能人か天下の奢を長する事は
いか様にもやみ可申候然共如此荒たる山林は十年廿年ニては中〻
育申間敷候五六年此かた乱世の下地を催し山川如此極りたる
事なれは近年の内の飢饉は何共防かれ申間敷候善者
あれとも如何共する事なきの時節にて侍らんか社家云上に
実に政を以天命の運気をかへし天下万世の為に太平の謀を
被成んとたに被思召候はゝ二三年の内至るへき飢饉を救はん事は
安き事也先天下の酒屋の酒作る事を一年ひしと御留被成
候はゝ一年のきゝんは救はるへし扨諸大名を半年代り三番
に被成半年は常の休み半年は臨時の休み也其臨時の
休みの余米をきゝん米として天下の為に除置扨又江戸
参勤のみやけ五節句の入用を米にして除置皆籾にし
て天下の用粟?とし蔵入多大名は其外には手柄次第に御
奉公に除置被申様ならは十年の内にはいか様の凶年飢饉
あり共何の気遣も有へからす武士云酒をひしと御留被成候は
武士の払米の行処有間敷米俄に安くならは先日承候如く
武士と民と弥困窮可仕候米遣被成候はゝ其米はやくたい【益体】も
なく落散て飢饉の用に立へからす其上諸人酒に迷惑可
仕候先年の如く半分とか三分一とか御法出申は能可有御座候哉
社家云天下の広き家毎に人〻穿鑿はならぬものにて
御座候先年半分と被仰出候へは結句例年ゟ多く作り申候
いつも千石作り候者は二千石作候か当年は御法度故千石ニ
仕候と申候半分の御法度にて酒高直に成を知ては千石
作る者は三千石作候へ共当年は千五百石作候とて五百石
かさみたるも有其時間に百人に一人恐れて半分作りたる
者は後悔仕候厳敷御留不成候ては急成きゝんの用には
立かたし又払米の事はいか様にも被成様有事也とかく二三
年の内にもきゝんゆかは天下は大事と有道理をたに知し召れ
候へは天下の亡ひには何もかへられぬ事故少〻の事は御堪忍
被成又大なる謀も出申儀也近年大に酒を作るは津の
国也それに次ては京成へし津の国山城の酒米の分は皆
公儀へ御買可被成候国〻ニては城米城銀といふもの有軍
国には米大に高き物なれは米ニて詰置ては千貫目は弐千
貫目にも成事也其城銀を出して酒米を買ても家中
の売米は済へし家中の売米十万石あらは五万石城銀
にて買五万石あまらは其分は所ニて米遣ひにしても用たる
へし又売米皆〻酒屋も買ましけれは京大坂のもろ
〳〵の津へも飯米に引寺〻へも多引ゆくべし公儀の御
銀不足ならは持過たる町人共の銀を御かり分に被成御買上
させ又大名の大金持あれは御かり被成米代に御はたさせ可被成
事も成事也天下の金銀は皆上の金銀なれはいかほとニても
御事かくる事有へからす天下長久ニてこそ町人の金銀も金
銀ニて有ものなれ世乱れては彼等か金銀は皆盗賊の物と
なり剰金故に命を失ふへし天下長久の為に上へさし上
置は何時も手前落ぶれたる時は知行のことく可被下也
能蔵に入置たるかことし一年の酒米なと売前の手支【てづかえ】に
ならぬ様に御かはせ可被成事は何より安き事成へし又酒は昔
のことく士以上の人酒屋のかい酒を呑ぬ様に手前の入用
ほとは手作にいたし候はゝ人の養生の為にもよかるへし在〻
にても昔は祭か何そ見かけて濁酒を作て人にも振舞たる
時の如くに成へし今は天下に酒屋多く出来酒みち〳〵て
沢山なれは濁り酒に不及かへば沢山成故に在〻にても酒を
多く飲人にもいや共に振舞也博奕にも酒自由成故に
一入多し出家も売酒自由なる故に飲酒戒を破て大上戸
多し金銀は自由也酒を費す事町在郷の及ことにあらす
昔の様に武士と町人の富なる者には自分の入用は手作と
なり百姓は濁酒を作りなば酒米は今の十分一も費ゆへ
からず出家も作法正しく成て悪僧はへり行よき出家
のみあらん町人の手くろやんて物安く天下の奢やんて用
たらは民にとる事も多くいらじ米満〻て多くは天下の
居なからの売買は皆米遣ひと成へし旅立ものゝ金銀少し持行
へきのみ也武士云近年の間に飢饉ゆかん事は右の御法ニて
救はれ可申候へ共山の如此荒たるはニ三十年の間には中〳〵
目に見ゆる程はえ申間敷候川〻も砂石のとまり候程には
二三十年の内には成申間敷候坊主の堂塔こそ止申候共
此天下の大勢の者の用る程は跡からはゆる事あらし然は
十年にて極まる物廿年に延可申迄の事ならむか社家云
如此ニて候へ共天下の山林十か八尽候へは十年か廿年の間にかゝ
りて世乱可申積也今から政を以此乗する算をおさへ
よきに置たて被成候へははや只今より天運かはり申候往と来る
との違ひ也今の如くニて乗しゆかは今よりして十年の山の
あれは今より前卅年に当るへし其後乱世と成なは卅年治世十年
に当るへし又九に至て変しても乱世卅年程の残りの算あり
今政を以てなをれは六十年のもとりあり其内廿年は生する
よりもきる算多かるへし又廿年は切よりも生する算多かるへし
六十年には山〻三分二茂るへし九十年には大かた昔にかへるへし
本の草木のからみつよくなれは川〻次第に深く成也君
子は業をはしめ統をたれてつかしむへき事をする也武家
初まりての賢代日本の中興と成へけれは名を後世に上給ひ
て目出度ためし成へし 武士云かく天下の貴賎の普く用る
材木薪をたゝ坊主のみ山林を尽すとは申かたからん歟
社家云大樹大名大臣士庶の五等の人倫は天下に有へき
事に用る程は切ても〳〵跡から育つことはり也夫たに山川の奉行
の才知あたらて裁判あしけれは山荒川浅く成もの也其上に
仏氏の害を加ゆれは百年ニて荒るゝ物は五十年ニて荒る也
有へき人の可有事に用る処を除て日本の土地に過て切取
所をいへは十にして七は仏氏の尽す処也之は世中驕てかさり
を事とし木具台箱等に費し大名中名の作事すきをし
町人の富て貧なるものゝ家を買取打崩してかし屋を立
自分の家居を大にし天下にせんし茶次第に多く成たる
なとにて尽す也仏氏の害を除かて他のしまり計ニては
砂にて渕を埋るたとへのことし仏氏の奢無道の費除かれ
なは其上には少くして苦しからぬ茶園を除て畠とし
天下の煎茶の少く成て高直に成様にせは薪のゝびと成へし
音信物に箱台等の入らぬ様に昔の風にかへりなは材木のゝ
ひと成へし江戸地酒となり大廻りの酒やみなは酒樽の費なか
るへし大名中名のえよう【栄耀】にいりもせぬ作事をする事やみ
なは是もよほどの助かりと成へしか様の少しツヽの事いか程も
有へし武士云富人のかしやなくは店借の迷惑すへき歟
社家云昔より有へき程有たるはよし廿年以来の増は夥しき
事也居り処有故に在〻の業ひは艱難也先町へ出て日雇
を取色〻の稼をすれは農を放るゝものも弥多し寺〻沢山
に出来る故におり処あり養て有故に坊主の年〻に多く成
ることし皆遊民をおひき出す者也武士云天下の山林の費
十にて七ツ坊主にかゝり候事はいかなる積にて侍るや社家云
町人の積り能ものゝ積と申侍り京都の洛中洛外ニて一年
の寺の作事の入用の大小遠近をならして六十年以来に毎
年に銀五千貫目ツヽ入と也秀吉大仏を建られしより此かた
大方卅万貫目也扨は国〻の寺の作事入用皆〻銀高にては
見えね共諸旦那共の竹木諸色にて害をする也寺領の山林
を伐て立る迄かけて銀高に直しならしみれは大国小国遠
近おしこめて内ばをとりて六十年此かた毎年銀七万貫目
宛は入と也六十年には四百廿万貫目のよし此銀は半分にも
せよ天下をめくりて有ものなれは不苦其銀高の材木の毎
年切とらるゝ事はいか成山林ニても続くへき様なし 武士云
出家と成ておるか俗と成ておるかの違ひニてこそ候へ皆世中
に住へきものゝ風雨を防く家なれは皆〻費共申かたからん
か 社家云出家と成ものは皆わつか成ものゝ事なれは其侭
おけは田畠をかへし塩いはしを売小者若党奉公する者
共也公家の子ならは社家儒者共成へし武家の子ならは
小姓共成へしたとへ家を持とても其家内の人数やうやく
住ほとの事也然るに坊主の堂塔寺は木像一ツ置とては
空〻としたる大なる堂を作り塔をたて庫理客殿方丈
なとゝておひたゝしき物を作りならへ皆無用の費言語に
延かたし此坊主共を其生付の器量ほとに還俗させ恰
好に屋を作りとらせなは其寺の作事の十分か一も入へからす
其余を以天下の士農工商の風雨をもふせきかぬる家職
をもとゝのへゑる者共の破損料を遣さは只一年の寺の
作事料の金銀材木ニても天下に普く行わたるへし日本
は能〻の上国也山林も谷崩も思ひの外深けれはこそ是
ほとの大きなる取くつし様ニても五六十年をへて漸く人の
目にも見ゆる様に成たる也 武士云今賢君出させ給はゝ
出家は御たやし可被成候か 社家云何事も人力を以なすは正道
にあらす悪をかくして善をあくるは悪を退る也寛仁の心也如此
弘こりて沢山なる仏者の中には何共他の事には片付のならぬ
もあり又俄に大勢の者を可被成様もなし先天下の害と成ル
大なる費のみをやめて自然の勢に任せ釈迦達磨の再生して
仏法を建立せらるゝ共是より能は成ましきといふ程に仏法の真実
を大にとりたて給ん也昔より真実の道心の出家は堂塔大寺を
おらんことを願はす上人長老といはるゝ出世を好ます世中の害と
なる事は皆世間僧のしわさ也世間僧といふものは仏法を商ひに
する也無欲無我にし忍辱慈悲の僧の戒定恵の三学を具足
して真如仏性の月をみんと思ふ者はいにしへより蓬の戸ほそに
こもり柴の垣に世を遁れたるとこそ聞釈迦を初めとして乞食
して露の命をつなきあまりあれは非人に与へて明日の貯なかりし也
出家と成からは初学のしほち【新発意】にても肉食せす酒を飲ず男女
の道をたち五辛を食せす怒腹立て人と争はす財物を
貯へす是等の事一ツも犯すものは出家にあらす僧正の下知
として一日も出家させておかすたとへ天竺唐土ニてはいか様にも
あれかし日本にては堂塔寺の製は国の衰微にして万民苦
しみなる事必定ならは慈悲の心ある仏いかて是非これをな
さんといはんや草庵を結て山中に籠り行ひすましており学
問を勤めて人の迷ひをとき慳貪を和らけあらそふて人道
を破らす神道をうはいとらすは幸に司徒殺【教?】官のたくい
にもあらん欲心と我侭【慢?】とたにならは談合つくにても事ゆく
へし許由堯舜に背き楚狂【楚の狂接與】孔子を非とし巌子陵
光武に従わされ共欲なく我なきか故に何の害もなし武士云
山沢の奉行の裁判はいかゝ仕候や社家云いにしへは天子は天下の
名山大川を祭り給ひ諸侯は其国にある山川を祭給ひき
故いかんとなれは山沢気を通して流泉を出し欲雲雨を起して
風雨をなす者は山川の神也五日に一度風吹されは草木に虫
付病生す十日に一度雨降されは草木菜穀の養全からす*
山は草木を生し菜種諸賃【貨?】を出し流水を出して田地を
養ひ不通をわたす此故に山川を天下の本とす本の恩
を報する道理にて是を祭る也若年旱する時は人事
の神道に不叶処あらんことを考へ悔さとりて其あやまちを
神に告て雨を祈又長雨する時は人のうらみ有か民の困
窮するか人気の天に感する者あらんことをはかり其非を改
めて晴を祈る如此世に重んする山川なれは其神徳をま
して損せさらんとす此故に流泉の出る源の山の木を伐らす
川流の海に達するまての流の左右の木を伐らす神気は
木ある時は壮ん也木なき時は衰る物成故に泉源の山を伐
さるは雲雨を起し水を生するの神気を養ふ也海に
至るまての流川の左右の木を伐さるものは山の木なき時は
大雨の度〻毎に山崩砂土落入て川浅くなれり川浅くなれ
は旱には用水とほしく大雨には人家に洪水の憂あり田
畠を損ふか故也又山林に依て焼物をやくことをかんかふいか
なる深き山も久しく陶作の者おれは焼からす物也此故に
天下の用を達すへき程に山の荒さる様に或は材木を伐
出す処にて木の枝を谷に捨腐かすものあれは其枝木の
すたりを以焼物やかする法もあり焼ものは価高直にて
不苦ならて叶はさるゝにはあらす古へは瓢を二ツにしても湯水を
飲たり又木椀とて用ひたり焼物沢山なれは一通持ものも三
通五通も持り大事にせすしてわりくたきもする也如此物は
あれば有次第なくても世中のたゝぬといふ事もなし天下の
山川の害にならぬほとにして可也又塩浜をなす事処有
程有塩浜は山林を尽す物なれは天下の用を達すすき
ほとの処をえらひ程をえらふもの也いにしへは干魚といふ事は
多し塩魚は少なかりし近年は塩沢山なる故に塩魚多し人
も塩多く食すれは脾胃を破り虫を生す少用る【か?】物なれは
高直にて不苦其上近年塩浜むかしに三倍して塩かへりて
昔よりも高直也山次第に尽て薪不自由なるか故也雨年
には塩かつてやけぬ物也塩浜多くても用にたゝす雨年には旱
年の五分一も塩は出ね共世中はとかく続く也塩故に人民
の迷惑するといふ事はなし其上物には分数有物なれは大水
ことに塩浜の堤を破り塩のやかれぬ事多し塩焼も迷惑に
及ぬ陶作塩浜等は山沢の奉行の司とりて諸侯の国〻といへ
共国主の心侭にせす況や山川の理に於てをや武士云次第
に人多く成侍れは新田は起して能御座候哉社家云上より考
有て起し給ひ人を上のさうさにて入給ふは能道理もあり下ゟ
望てひらくは大に天下の害と成也故いかんとなれは其新田を
望て何もなきあらたなる処へ行ものは富なる者ならては
入事をえす其富なる者はいつ方にゐても身を過かねぬ者
なれは救にもならす只さへ屋の多過たるに本の屋は人にあたへ
て新田にあらたに屋沢山に作ならへ作人をかゝえこやしを
買こみぬ只さへ作人の奉公人に不足成に富人にかきとられ
只さへこやし不自由成に富人に買取られぬれは昔の土地は
いとゝ不出来に成り本百姓はかしけぬ今は山野あれて下木下
草とてこやしの為に切入へき様もなし牛飼葉さへ有かね釜焚さへ
不自由成事也いとゝさへ屋根ふくかや不自由にて迷惑するに茅
野を新田にとられ抔すれは富人は弥富て奢を極め山野を
あらし貧人は弥貧に成行也かくの如くなれは今の新田開きは
天下の衰微とはなれ共国家の益にあらす君子は上へとりあくるを
以益とす武士云上より被仰付て新田の能道理有ことはいかゝ
社家云遊民の御かたつけなく新田を開きてすましめ給はゝ
古地あれにもならす本百姓の迷惑にも至らす山野もあれぬ
被成様おはしまさん御心たにあらは事はいか様にも調ゆき侍らん
武士云仏氏の害は山林を荒すのみニて御座候はんや社家
云いまた是より甚しき事あり天地万物は人を以尊しとす人
は心を以尊しとす此故に聖人の政は人心を正くするを以て
先とす人心正しき時は天地の気順にして国治天下平
也心くらく道邪にして生んよりは死せるを増れりとす然るに
今時仏氏の教ほと人心をくらまし政道をあしくする者はなし唐
にても如此なりて頓て仏道衰微したり今日本も仏法の亡ひ近き
にあり天下の政道多くは仏法に同心なれは仏法の亡ひさまに
天下も又乱れなん事のみ歎侍り国家の政教の本たる人心をは
諸宗を分ちて仏者に預け給ひ人心の崩るゝか如く悪く也
行をも知しめさす此故に天に変あり地に災ありてさとし
給ふ事たへす仏法の亡ひんとする前表を少しかたりて聞せ
可申今時勝れて仏信心の人を見給へ大身小身貴賎
男女に至るまて悪人ニてなきはなし其仏を作り堂塔寺を
たて僧に物を多くやる処より見て仏に迷ひたる者は信心
あつき人也後世願とて誉れ共其者の平生の実みれは百姓
をしほり取水籠に入木馬にのせ妻子をうらせ重代の田畠
を放させ病者なる者は病つき或は死す百姓の泣の涙を
あつめて仏に供し後生に助からんといふ其外下人に情なく
あたり親類の零落をもすくはず人の目をくらまし人を苦
しめて大利をとり一銭の事にも恥をすて義をかくといへとも
後生の為には多くの金銀をおします長崎にて異国人に
なけ金をするの利心におなじうばかゝの貧しく賎しき者迄
も後生を願はゝ心ねしけたるとしれといへり或大名の民
の困窮艱難を不便なる事といはれけれは天下に弐三人と
いはるゝ和尚の言分には彼等過去の宿因にて今生に苦
しめり強く苦しむほと因果をはたて【「て」衍字?】して来世に能所へ
生るゝ也然るに今彼等を不便かり苦身を助け給ふは
因果をはたさせぬれは却て不慈悲也と夫より其大名民あ
たり強く万民乞食の如く成たり又夫より先に天下に一二人
にいはるゝ和尚旦那の馳走おひたゝしく受たる事数十年也其
旦那世にかくれなき悪地頭にて知行大かた亡所と成り民の
妻子歎にしつめり其領内に久しゐて能知なから一言の
いさめもいはすかへりて其泣の泪をあつめたる者大分受たり
人は仏のことくいへとも信せられぬ事といひけるも此因果
の道理にてやいさめさりし此和尚仏なれは涙をあつめもらひ
えようにつかひ費して困民を成仏やさせたる其外題目
たにいへは成仏する念仏たに申せは極楽に往生するといへる
は仏法の中にても昔は邪法也とて叡山より法然も日蓮
も流罪に行ひたれ共邪法時をえて世に大に弘まりたれは
誰ふせく者もなし 武士云かく極悪の仏氏何として天罰
をも蒙らて久しく繁昌いたし侍るや 社家云運気否塞
の時にあたりて人多き時は天に勝の運にあふたり其上善も
少し残りて悪なる者には天罰も早くあたりて人にも咎め
らるゝ者也善少しもなく一向に悪なる者には天罰も遅く
人も咎めぬもの也善は虚也故にうては響きあり悪はみてり
故に打ても響きなきかことし今仏氏は極悪人也千人に一人
仏の法を致しておる者に尋給へおなし坊主なれ共今の出家
は盗賊とならてはいはれすといへり語るに口も穢るゝ子共(本ノマヽ)それ
は其たゝしき証拠委しき事はさし置ぬ 武士の云罪ある坊
主追放の事も多く侍れは此分はへりに成り可申候哉 社家云
下の情を上に知しめされぬ故也追放の度毎に寺も増出家
も多なり侍り追放の跡の寺へは其侭住寺すはり其追出され
たる坊主は他所行て又寺取立侍り新寺御法度と御座候
へても坊主日〻に多く成り申は居るへき処なけれはとくいひ廻
して新寺を作り侍り寺と名付すして在家作にし仮屋
の様にしておりニ三年すくれは本寺に成し候坊主には方人
多くか様の仕来りの事沢山なれは誰咎る者もなし追放
可被成なとの者ならは即座にて還俗させ度事ニて御座
候左もなくはあしく共其侭めし置れたるか世中の為にはましニて
可有御座候不受不施は なけけ(本ノマヽ)【「はなそけ」名大皇学館本】門徒なと申者は町屋作にして
かし屋をたて裏屋に引こもりて寺を作り魚を食し
女を持一入心安きすきはひ【生業】にて居こと也女房一人持たる坊
主をは俗人かとて笑となり寺に置事御法度とあれは
預ものいくらも用意し同宿共は茶屋の遊女にかゝり居る也
是程身の過かたき世なれ共坊主にたになれは心安く過る
のみならず何たる不作法をせんもまゝ也たとへは一所に百軒
有寺にて出家らしき者は一人有か無かなれは無行儀の
者はかり一所に寄合憚る処なきのみならす其手引其処
用意し置は誰に忍へき事もなし在家は左右の気遣も
有てけには心の侭ならす出家は左右共に同類なれは何の
気遣ひもなし出家共の如此悪行有とはいへ共誰と名の
しるゝ事はなし大勢にて忍ひやすきか故也是にましたる盗
賊や有へき只今にも飢饉とか何そ申さは乱逆の起る処
にして天下の凶事の相成へし武士云切支丹の御穿鑿は仏法を除て
可被成様はなき事ニて御座候哉 社家云何の訳もしらぬ坊主共か
此者切支丹ニて無御座候代〻我等旦那ニて候若いか様の事御座候
共愚僧罷出急度埒明可申者也と一筆出し候へは相済申也
切支丹の出たる所ニていつれか愚僧か罷出て埒明たる事有
や受に立たるとて坊主の迷惑したる事もなし行衛もしらぬ
者ニても銀次第にて請に立事也天下の広き何として
左様に本〻のせんさく成へきや国所にて寺請ありて相済
とも旅すれは其先ニても寺請とらねは置ず旦那も坊主
も知へき様なし切支丹にいつれか旦那寺持ざるもの有や
仏法故に顕はれたる事もなし能切支丹もしれ可申御
せんさく有仏法の構なしに寺は持へく共持ましき共心次第にし
て村里にては庄屋肝煎に急度吟味可仕候連〻油断仕間
敷段被仰付候はゝ何より能知可申候大方うさん成者ありても
愚僧か受に立受取てゆるす事なれは在家ゟ其上をもとく
へき様もなし日本の国を衰微せしめ乱世をまねく仏法を
弥助けまし給へは切支丹は手をもよこさす仏法に先
はしりさせて日本を以日本をうつ也 武士云先日承候
京都ニて一年の寺の作事料銀五千貫との積の事本
願寺宗に語候へはいや〳〵それはあしき積ニて候本願寺
一寺の作事にたに三万貫目は入侍りたゝ一にても六七年
の入用は持侍り中〳〵一年五千貫目等といふ事は有間敷〳〵
と是は仏法の繁昌を悦ひて申侍り 社家云いかにも左
やうにて有へく候へとも我等なと申事は仏をにくみていふ様に
人きゝ侍れは少にても過をいへは人信せさる故に仏氏
の罪のほとよりは内ばをとりて申なり
此書は熊沢了海の所著也友人目黒生より
借而写之畢
天明戊申九月写之 南合義之
右宇佐問答は南合義之立教館へ上られし本とて
拝借の本の内に見えたり了海の見識を見るに便あれは
天保改元極月廿五六七八日のすさみうつしぬ 鶯宿
■■■■■■■■■■■圖【信濃國六郡大地震滿水之圖ヵ】
■■■■■■■■■■■圖【信濃國六郡大地震滿水之圖ヵ】
【白紙】
弘化四丁未年三月廿四日亥刻大地震
城下町在山里共即時二潰レ所々出火山々抜崩レ
河々数ヶ所留リ中岩倉虚空蔵三崩レ犀川へ
抜落廿日ノ間水留川上湖ノ如ク然ル処四月十三日
申ノ刻一度二抜出シ川下民家流レ共御成不思議ト有ル処
其往古天長四丁未七月ヨリ十月迄震動凡千二十一年二
其後仁和三丁未七月六日ヨリ地震有数日不正 ナル
其時六郡大山崩レ河々暫ク留流土地洗ミ男女
牛馬数多失是九百六十年ナリ文化丁未年二
至ル事世ノ極ノ覚雑然ト当今希成多過如斯次第也
【横上】
摂津国兵庫津細見図
【右上】
福原の荘兵庫の津
西浦道の駅路にて
大坂入船の要津なり
武庫港和田の泊りと
いふ諸国の商船こゝ
に泊りて風波を
うかゝひ諸品交易
す城や海陸都会
の地なり
【右下】
《割書:兵|庫》村上荘七郎工
【左下】
椢堂
/愛(あた)
/宕(ご)
/山(さん)
/畧(りやく)
/図(づ)
抑/當山(とうざん)は城州【山城国の別称城州「じょうしゅう」だと思いますがどう見ても城の振り仮名が「すき」に見える】/葛野郡(かどのこふり)の/西北(さひぼく)にして嵯峩一之鳥居(さかいちのとりゐ)より
/本社(ほんしや)まで/険路(けんろ)五十町なり/試(こころみ)の/坂(さか)より/清瀧川(きよたきがは)にかゝる/橋(はし)を
/渡猿橋(とえんけう)と名づく/樒(しきみ)が/原(はら)は北の/山際(やまぎわ)にして/南星峯(なんせひほう)は/乾(いぬゐ)の/方(かた)の
/嶺(みね)をいえり/火燧権現(ひうちごんげん)は十七町目にあり
/御本社大権現(ごほんしやだいごんげん)は
/本朝最初(ほんてうさひしよ)の/軍神帝都(ぐんじんていと)
/守護(しゆご)の/崇廟列国(そうひやうれつこく)■■【仕火に見えますけど振り仮名が…】
■の/神社(じんしや)■■
/光仁天皇天應(くわにんてんわうてんこう)元年
/慶俊僧(けいしゆんさう)都【読み】
/勅(ちよく)を奉(はふし)て/勧請(くわんぜう)なし
たてまつる/所(ところ)なり
/山(やま)は/王城(わうじょう)の/乾(いぬゐ)に
/聳(そびへ)て/白雲(はくうん)/腰(こし)を
めぐり
/本殿末社(ほんでんまつしや)は/巽(たつみ)に
むかひて/朝日(あさひ)に/對(たい)し
/平安(へいあん)の/萬戸(ばんと)を
/照覧(しやうらん)し
/神威(しんゐ)の
/日(ひ)の/本(もと)
/大小(だいせう)の/国界(こくかい)【界の異体字だそうです】
に/輝(かゝやき)て
/一切(いつさい)の/群類(ぐんるい)を
【左上】
/愛宕山大権現御託宣(あたごさんだひごんげんごたくせん)
/衆生常(しゆじやうつね)に/世界(せかい)の/火(ひ)を/穢(けが)く/己一人(おのれいちにん)の
/思(おも)いを/莟(ふく)み/天(てん)に/逆(さか)らひ/地(ち)に/背(そむ)くものは
/我常(われつね)に/火乱神(くわらんじん)を/遣(つかへ)し/其(その)/不浄(ふじやう)を/焼亡(やきほろぼ)す
/上豊(かみゆたか)に/下苦(しもくるし)むときは/殿舎(どんしゃ)に/火雨(ひのあめ)を/降(ふら)して/上(かみ)の
/財(ざひ)を/最(さん)じて/苦(くるし)むものに/与(あた)ゆ/我常(われつね)に/王法(わうとふ)を
/守(まも)り/國家(こくか)の/安全(あんせん)を護(まも)るが/故(ゆゑ)に/邪見(じやけん)の
ものゝ/家(いへ)を/焼亡(やきほろぼ)す/心(こころ)に/満(みつ)るをお■ふ/事(こと)なかれ
/天(てん)は/盈(みつる)【最後のルビがなんだか】を/欫(か)きわれは人の/奢(おごり)をかく
【右下】
/因(ちなみ)に/云(いふ)/世(よ)の/人(ひと)/神風(かみかぜ)の■■■の
/宮居(みやゐ)を/拝(ぬかん)【読み方】きたてまつり■向【「て」からは殆ど自信がない】■■
かならず當ひの/権現(ごんげん)に/詣(まう)ずる事は
その/由縁(ゆゑ)あり
/勢廟(いせ)は/日(ひ)の/御神(をんかみ)にして/日(ひ)の/本(もと)也
當山は/火(ひ)の/御神(をんかみ)にして/火(ひ)の/元(もと)也
/日(ひ)と/火(ひ)は/是(これ)/同性同体(どうせうどうたひ)
なるより/参宮(さんぐう)の/輩(ともがら)
/天照(あまてら)す/日(ひ)の/明(あき)らけき
/御恵(をんめぐ)みを/惶(かこ)み/敬(うやま)ひて
/我胸(わかむね)の■の/悪(きたな)く/穢(けがれ)たるを
すゝくに/帰(かへ)るを當山に
/登(のぼ)りて/深(ふか)く/権現(ごんげん)の/加(か)
/護(ご)を/祈(いの)り/日(ひ)々【振り仮名が「ごく」に見えますが】/用(もち)ふる火の
/冥加(みやうか)を/恐(おそ)れ■みて/少(すこ)しの
火だも/疎(おろそか)にせず/己(おの)がしな
/火(ひ)を/清(きよ)めて/永(なが)く/保(たも)ち/守(まも)る
べきと■■詣(まう)する■■■
■るべし
《割書:讃|岐》象頭山祭礼頭入之図
抑金毘羅大権現ハ日本一社の尊社也
れいげんいちしるき事諸人の知るところ
なり則むかしよりの定めにて毎年
頭人といふものを二人ツゝ立て前年
十月十二日より火をあらためけがれ
をいミしやうじんけつさいこふげん
ぢうつゝしミ翌年十月の御神
事をつとむるなり
十月ハ当山第一の会式にて十日
十一日御神事也今日御神こしを
ふふり奉る事余の神とかハり
御たまうつしといふ事もなく
神こし堂よりかき出せしまゝ
くわんおんどうを三めぐりする
是をぎやうどうめぐりといふ
夫よりくわんおんどうに
神こしをすく神役にあたりし
両頭人とうや僧三宝へき等にて
ぜんにすハるの式有てのち
其せんぐをこと〳〵く
堂のゑんよりにハへなげすて
はしハ前のハす池へすつるこれ
御神事のおはりなり
此夜ハ一人も登山せすすてはしせし
せんぐはしもmなしはしハ
其夜にお召はし
守護神のはこひ給ふはしくらち
よりもれい年の通り
御はしはこびも有し事の
つげ来るなり往古よりの
御神伝二て毎年かくにことし
真に有かたき御神事なり
祭礼日
八月三十日 口あげ神事
九月 朔日 地鎮の神事
同 八日 瀬川神事
同 九日 ほこたて神事
同 十日 とまり初神事
十月 朔日 小神事
同 六日 さし合神事
同 十日 正神事
同 十一日 同此日御神輿土
猶くハしきハ金比羅山口勝図会二出《割書:近|刻》
爰に遠国の人々大祭礼の節に
参会する事稀也依て其大略を
図し梓に書して普く口の
君子の袖衿に伝ふ
丸亀板元
嶺松堂
地震(ぢしん)のすちやらか
おくれて出(で)られぬ 蔵(くら)の中(なか)
あちこち見つけて 藪(やぶ)の中
うちからころげて 大道(だいど)中
はだかでにげ出す 風呂(ふろ)の中
店(たな)ばんはたらく けむの中
女郎(ぢよらう)はおはぐろ どぶの中
雨(あめ)ふり野(の)じんは とばの中
まがりヲ直(なほ)して 内(うち)の中
すちやらかぽく〳〵
万歳らく
ぐら〳〵
【帙入】
《割書:地震|後世》 俗語之種 《割書:後編|之一
《割書:弘化四年|丁未奇談》
芝苅童薪背負山賎あるは蔦の細
道に牛馬をひきさかしき山畑を耕
す農夫も其地により其家業によれ
り朝には嘶く馬に驚て草鞋を
はき腰には破籠手には鎌を携ひ
夕には青葉の透間にみゆる我やとの
燈火をもれいつる月かと怪み立帰り芝
の垣根の卯の花を雪かと見まかふ
比おひ庭を家なる手穢も住めは
偕老同穴の都もおなしこちの人
二人か中の楽をいたき抱ひて
枕もち寝にもゆかはや
夏木立と隣向ふも
はゝからす口号みつゝ有ける里も
多からんかし
説に曰今年丁未弥生の下旬山稼
して有けるに暴に大風起りて山野に
響事夥しといへとも心もつかすあり
ける所暫くありて亦もや暴風発し
て其鳴音辺りに徹ゆる事数度
なりしかはあれと有合所の樹木枝葉
少しも不動尚心を留めて勘考するに
己れか額にかゝりし鬢の髪䄌れし
衣の袖たにも乍去動く形もなけれは
眉を顰め奇異の思ひをなして
凡人なれは其日をそ送りける爰に二十
四日の夜大地震を発して斯大災を
受る事の恐ろしさよといへり其程を
手寄もとめて問ひけるに善光寺
を中はに取らは酉戌亥の方に当
る所の山野取わけて夥しといふ
疑ふらくは大地震発する所の気地
中に満〳〵てもれたるにも有けるや大
災の後改暦戊申の春を迎ふと
いへとも松城より辰巳にかけ戸倉坂
木辺の山続に至り何所とも無く山
野に徹へ鳴音ある事是亦陰陽
遅速の所為に寄る斯前代未
聞の大地震を発する程の順逆に
随ひて地中にいまた不順の気満々て
発せさるの後悔なりといへとも無学な
れは其詳なる事をしらす
戊申晩春折節眼病に脳むと既に半月眼鏡の他力を
借りて記るすものは彼の地震商人豊田□店の主と
いへともなれぬ業とて番頭まかせの
釃 の 喜 源 書
水内の曲橋の事
千曲犀川の大河はいふもさらなり裾花川の流いつれ
劣らぬ荒浪に取囲みたる中の里を更級郡といふ
世に川中嶋と唱ふるも理りなり千曲犀の両川
いつれ劣らぬ大河といへとも犀川の流は又比類な
き洪流にして凄じ【次】き客をなす事言舌に
絶たり其渡し船を止むる時は仁義礼智
信もすたれり其由いかん音信の道も絶るを
いふ爰をもつて尊敬し歓ひ喜へ【歓天喜地?】きは
水内の曲橋なり又久米路の橋ともいひて
流れは犀川の水上みにして西より東に橋を
渡る事五丈有余夫より南へ向ひ大橋を
行事十丈有余にして橋と水とのあへま
十五丈余あるとかや高き橋よりみなきる
瀬音に□たてゝ聞浪のうね〳〵に深?き
青渕たちし恐ろしけたとへんかたもなし
樹木枝葉岩のはさまに生茂り四季折〳〵
の美花咲連木実枝に盛んなりといへ
とも欲して指さす事能わす是を以て
思ふ時は其昔猿の梢を携ひ藤かつらを以
是を渡し初けるゆゑに白猿橋共言といへとも
拾遺集埋れ木は中むしはむといふめれは久米路の橋は心してゆけ
よみ人しらすとあるを此橋の歌【顕?】なりともいへり
可悟【悋?】可憐大地震発して彼の岩倉山抜崩れ
犀川の大河を止む既に翌月六かに及ひて
湛ひし水の嵩りし事此橋より猶高さ
数十丈増れり爰におきていかなる名橋たり共
保つへきにあらされは橋梁浮出し湖水に等しく
充満たる水の面を流れ廻り〳〵て穂刈村之
辺りに至れりとそ其地を踏されはしらねとも此の橋場ゟ
穂刈村は川辺を上みに行事一里に近しとそ猶水かさ増る事
数日におよひ四月十三日湛場損して崩れ流れ此橋の流れ
行先を知る者なし後に高井郡なる川辺の畑に経り
三尺長サ拾丈余の材木漂着したりけるは是其橋梁ならん
拾丈余の材木滞る間もなく爰に漂着せし洪水の
おそろしさよ其外数百村の家蔵を押流し或は
損ひ田畑を荒し一切万物水屑に沈み三災変化の
事ともなはす流に譲りし所を見よ可恐〳〵
曰《割書:大橋長サ拾丈五尺広サ一丈四尺東西ニ行袖橋五丈四尺|欄基之高サ三尺橋ヨリ水迄低事三十六尋有余ト云》
新地獄の戯言
後世不尽なれは覧る事も又不尽にして
面白からす若変化して止みぬれは是も又
珍事にして後世俗語の種にならん事もと
欲するか侭に
我は愚にしてしらねとも久老御師の考にて
善光寺より子丑にあたりて薬山ありその
薬師仏の石像は少彦名命なる事疑ひなし
とそ《割書:又老神主は世ノ人知所之博学ニシテ我先々代幸直之|友人ニ而薬山ノ考ハ坊刻ノ文苑玉露ト云書ニミイタリトソ》
宝永四年善光寺御堂再建の後残りし
所の材木をもつて棟梁なりし木村万兵衛と
言もの《割書:善光寺御堂再建之|棟梁伊勢国白子之住人也》心を砕て珍寄
妙業【案?】なる所の薬師堂を造立す四方に聞え
てぶらん堂と言毎年四月八日を祭りて
遠近の諸人群衆す
岩上に立る処のツカ木一本を元として次第に組上
たる御堂なれは人多くありて四方に軽重
なき時は必不動動きても亦数年来の今に
至りて狂ひ損ふ事なし世に珍らしき
御堂なりけるを大地震発して土砂磐石
と共に抜崩れて数十丈の岩間なる長原道を
閉塞きぬ惜むへし〳〵おもふにこの御堂
再建の工匠あるへからすしかるをこれなる
山の辺り地中いかんが狂ひけるや半丁
はかりの間に地中より火を吹出す一ト処には
居風呂桶を置て吹出す火をもつて湯を沸し
一ト処には鍋薬罐抔釣かけて物煮る事を
なす尚二か所には唯何となく六七尺の
間にほふ?〳〵と燃立たり其大いなるは
その侭に湯も忽ち熱青葉も即座に
しほるゝところをもつて知るへし人
いひて新地獄といふ見物の人〻引も
きらす爰に群衆する事 追日猶増れり
因ておのが家内小児なとも行て見度
事を言合けり爰に可笑は地獄に
行度しといふ也地獄にゆきたしとは
口合の悪けれ外になどか言はもある
へしといひとも亦しても〳〵も地獄に行
度しとそいひける途中に出て人に問ふ
われら衆生は地獄に行く者にさふらふ
道踏迷ひ難義せりをしへ給へといふ答て曰
此先に川あり行先に巌石抜崩れて
さもおそろしけなる山あり是を越えて行に
一ツの家あり其前を通りていくへし
しかる処に向ふより女子一人来れり道連れ
なりし小児と言争ひやしたりけん泣顔してそ
ありける是なん泣〳〵ひとりゆくと答へよなと
いふへき歟鶴沢の橋を渡るとて
六道を二ツにわれは三途川
一途にねがふ後生安楽
折しも藤の花の見事なりけれは
松か枝に葉をのす首の長けれは
うへ鶴沢の藤浪の花
抜崩れし嶮岨なるは所謂針の山にも
ひとしければ
焼薬鑵あたまのねがひ今そたる
この世からなる針の山みち
浅川の流れに渕ありけれは
欲【歎?】ならは浅瀬〳〵と渡るへし
深き迷ひは後悔の渕
ひとつ 家の前には折しも此家の内義と
おほしく谷川の流れに小児の衣を洗ひてそ
ありける其さま山家育ちの髪をも結す
ありけれは今にもかのうばにわれら
か衣も取らるへしなといへあひけり
世のうさに迷ふおのれはしらねとも
夏来にけりと蝉の初聲
地震にてなせし地獄の道にさへ
行悩みてはなほおそるへし
是皆歌に非らす狂歌にあらす俳諧にあらす
何なる事と問はるゝ時は猿面かむる猿の人
真似素より無学愚痴なるは前〳〵もつて
誤り入てあれは深き歎きはあらんとも元より
しらぬ事ながら退屈なりし いたつら書
覧給ふ人〻不可 笑(本ノマヽ)
地の大に震ふ事を考ふるの伝
爰に水内郡山中梅木村の分村に城の越といふ
処あり民の竃戸讒に四五軒あり此辺
なる山のあはひに深き沢あり其低き事
一丈有余にしてそこに四方九尺はかりなる
大石あり然るを廿四日の夜大地震発して
此石動き出し高き城の越に登りて
彼の民屋なる廻門を打破り表にまろひ出
前なる処の少しく小高き麦畑に至りて
爰に止まる然れとも家族一人たにも
怪我ある事なし抑〳〵一丈有余低き
沢の中より動き出し
高き麦畑に登りし怖しさよ
夫には引替て怪我無事社【こそ】
不思義なれ是全神仏
扶護なるへしとて
止まる所に七五三引張
りて尊敬するとかや
豊田酒店の貧主釃の喜源しるす
大地震発して朝日山崩れ落る所の多か
中に巌のわれたるあわひより出たるものあり
物になそらへは黒羅紗に織入れたる毛に
類ひせし品なり長サ二三寸にして細き事に小
児の髪毛の如し手障りの和らかなるは真綿に
等しく毛黒く赤みも少し有りて何の薫り
もなく艶悉くありて其美なる事また
稀なり其生物を求得て地震一類?の
袋に入置なれは渡【後?】世まても捨へからす
物知りたる人に尋て其名を知へし
掛る未曾有の変災なれは人心一日も
安からすきのふと過きけふと過きゆく光陰矢ゟも
早しといへとも何ひとつ取留まりたる事もなく
昼のつかれにはやくも臥 して其苦心を
補はん事をおもふといへとも入あひ過る
頃よりは夜の淋しさを案事 煩ひ
深夜におよふときは狼の夜毎とに来りて
死骸の匂ひを慕ひ焼跡に歩行くのよし
誰ありて通路するものもなく此上の火害
盗難を恐れて小屋毎にひやうしきうち
ちやうちんを照らして小屋の外面を見廻り又
狼の難を恐れ鉄砲を放し苦患忘るゝ隙
なく早くも東雲告る鳥の声のみ待わひ帯
紐解きて安心に眠る事にはいつなる事と
譬仮宅小屋掛けなりとも又もや町並に家の
建連なる事もあるへきか御回向なりとて
遠国を隔てゝ参詣の旅人幾千人市町に命を
失ひぬれは此上誰ありてか遠国を隔てゝ参詣す
へきともおもはれす人気の騒たつ事も日を経ば
落附くへし落付く時はかならすしも
ひそまりかへりて雨降る日晴たる夜るはもの
淋しく猥りに出あるきする事有へからす
たゞ此上の成行を悲歎する事安からす自滅の心地
実に誠誰ありてか苦患をまぬかるへしや
幸一此書をなす事前 にもしるせるか
如く年月を経て誰か此変災を覚え
居て其詳なる事を語るへき只子孫打寄
咄し伝への種にもなさん事をほ?りす我は
素ゟ書も不読絵の事抔は尚更に
人形の首たに書たる事なし只是程の
大災を子孫に伝へんの本意なれは
始めて絵の真似したるそのつたなき
筆の運ひや絵の具の事文章とても
左の如く行届かされは長〳〵しく
本末たにもつゝまらす因ておもひ出せる
大概を左に記し後の慰に残すなれは
善不善を見ゆるし給へ退屈なすへき
長文句をも能こそ書れと一笑して
他人の誹をなし給ふ事なかれ
爰に亦川中嶋の噺しを聞に何れも田舎の
村〻なれは町家と違ひ凡の家には五ツ時を過にし
頃は打臥てありける所に大地震発し大に破損
夥敷皆〳〵打驚庭に出て騒動なす時に
小堰小川等に一切水なし定て地震にて震ひ
こわせしものにやと其評義連〳〵也然る処に
犀川の瀬音もなしされど此騒動に取紛て知ら
さりけるを誰聞留めけるにや瀬鳴の音の絶てなき
事をいふ又恐怖して皆〳〵ひそまつて聢と是
を案するに極めて瀬音のなきに評決しいかにせん
此大河荒瀬の水の止まることはよもあらし
しかりといへとも瀬音なく小川の流れ一切絶たり
何にもせよと不審晴やらす思案決せす生る
心地も無ほとなり亥の刻過にし頃月しろに
能〻すかして見るに案にたかはす犀川の
流れ一切絶たれは此大河何れへか廻りて押
出すらんなととやかくいへとも夜中の事なれは其
よし見定めかたし何にもせよ高きかたに逃
去るの外に思慮なし早〻立退て急災
遁るべしと言へも果すわれや先人にや
後れしものをと狂気の如く狼狽騒く事
尤なりし次第爰におゐて大切なる我か家の
跡戸をひとつ引寄る者もなく打寄〳〵評義の
場所より跡振返り見る者なく小松原岡田
の山にそ逃のひける折しも鳴動止まされは
地にひれ臥して天を拝し一心不乱に念仏
唱ひ明け行空をそ待わひけるか此大河を
止むるともいかてか一夜を保つへき今にも
水の押来らは家居土蔵は言も更なりいか
なる大難を発すへしとみぢんもこゝろ
やすからすあきれ果てそ居たりけるいつしか
夜もほの〳〵と明け行侭に少しは心に喜ひて
己れか村〻打見やれは地震の大破は見
ゆれともいまた水災はあらされは少しは
安堵なすといへとも次第に明け行程社【こそ】何れ
打詠れは是いかに朝夕目馴てさへおそろしき
あら浪の大河干揚り一滴の水ある事なし
わつかの少堰に塵芥のとまり夕立の強く
降たるさへ水かさ増りて路次を損ひ道行
き脳む事さへもありけるをかゝる大河の
何ゆゑにいかなれは止まりぬるやまたは
地割れて流水の世界の底に落入ぬるか
実否をしらされは恐怖する事なほ増りて
たゝ〳〵あきれはてたるより外に思案はな
かりけり折しも時の移りけれとも人と成
たるは苦心に腹のへりたるも打忘れたれ
とも幼少の者は其弁ひなくものほしけなる
有さまなり子を見る事親にしかづ爰に
おいておもひ〳〵に談交して老人
女小児をは此所に残し置壮年にして
足の慥成者をのみ村〻に行かしめ
外に大切の品もあれとも貯置金銭と
めしと味噌との此三品を第一として
持出さんとすいかなるかたに水の廻り押
来りなん事をおもふか侭に跡をも見す
してゆくとはいへとも処に寄ては五丁
十丁亦は半道一里を隔漸〳〵わか家に
行ては見れとも斯なる三品を携ひては又
逃帰る小高き山〳〵苦痛の歎き実にもつとも
廿四日の夜大災発して危き命を遁れ我
家も見すして狼狽逃去り狂気の如く心を
苦しめ善光寺市町炎〻たる大火を眼前に
見やり嫁を案し聟を思ひ親を案し子孫
思ふ事縁組計のゆかりにあらすといへとも今にも水の
押来りなん事をおもふ時は狼狽て必害あり
やるかたなく心を痛め未申にあたりては三里を
離れす稲荷山の一円の大火眼前に見え地は
幾度となく震ひ亦鳴動し足の元よりくゆるか
如く水絶にし大河をひかへ我か住む処は水にまかせて
最早なきものに思ひ斯の如く大難を身に引受て
其成行を知らさる時はいかなる大胆不敵の者といひ
禅定悟りをひらくといへともなんそ驚怖
せさるへきやきのふと過けふとくらして
昼夜をわかたす今にも水の押来りなん
事を恐れ川中島の村〻はいふも更なり
川辺に連らなる村〻は壱人として家に
あらす居宅は猶更土蔵に至るまて
明け渡してそ置にけるいよ〳〵やうすも
わかりけるは岩倉山を始とし数ヶ所の
岩山抜崩れ水上を押埋めたれは譬ひ
いかなる変化あり共容易く是を押破らん事の
有へからすと定りけれは爰におゐて漸〻に
西は岡田小松原北ははなかみ小市山南は
清野西条山東は鳥打山続最寄〳〵に仮
小屋掛家財の品〳〵遠方なれはあるひは
運ひ亦は残し雑穀俵物積重ね〆りを
つけて東西南北夫〳〵におのれか小屋に
逃去りてけふや我家の押流れ翌日や
流失しぬるかと少しも安堵なかりけるは
実に恐ろしき事ともなり 日夜心を苦
むる事終に二十有余日の日を重ね語事も聞もおそ
ろしく古今未曾有の大変也
爰に亦山中新町にては二十四日の夜の大災にて
家蔵物置夥敷震ひ潰し人〻何事の所為
なるか其よしたに知らさる者多く或は圧死
或は怪我人も多かりけるに眼たゝく間に出
火となりぬれは狼狽歎く程もなく岩倉山の
大山崩れ水増逆流れし家蔵浮み出し
彼の岩倉山崩れて水のたゝひたる所に流れ行て
幾数しらぬ家蔵家財其夜の中央に度〻迫りして
ありけれとも暫時に湖水にもひとしき程の形を
来ておそろしけれは誰ありてか船もて是を返し
得ん事もなりかたく掛る大河を止めぬる事
二十有余の日を重ねたれは水かさ増る事
言語に述かたく是かために人民牛馬焼亡水
死の差別もわからす死骸爰にあらされは
血流の悲歎亦格外なり辺りの山〳〵に逃
去り野宿すれとも大河の湛水日夜に満〳〵
次第に広こりたれは一時〳〵に高き方に逃
去り苦痛する事数日なり前代未聞の大災を
後にも猶可察恐るへし是三災一時の
大難也
下賎の我〻は唯おのれが身の成行を案事
妻子の愛情を恣にするのみにて譬はいか
なる焼亡あり流失の大難を受くとも是一家
滅亡の小事にして取るにたらす恐おほくも一国一城の
御主の 殿様におはしましては重き御家臣
の面〻をはしめ軽き民百姓の身のうへまて
其大難を不便に被為 思召広太無量の
御仁徳御配 意有らせられ給ふ事の
多かりけるは物しらぬわれ〳〵まても聖賢の
昔はしらす今の 御代のありかたき事を
尊敬し落涙に袖を絞りぬ
爰に二十四日の夜大災発し 御城廓
御殿向を始め大小破損夥鋪 御家中町家
震ひ潰し町人圧死も多く有ける所に其夜より
町御奉行《割書:御預所御奉行兼寺内多宮御側衆頭取兼ナ|ルヲ以テ三奉行上席ト云御屋鋪田町但シ諏方宮ノ裏》
《割書:ニ当ル御同役ハ金児丈助午年迄|御預所御奉行兼帯 御屋鋪芝町》御両士御出銀【張?】ありて自ら
潰家を踏み倒れ家をくゝり廻りて火災を制し
圧死怪我人を悉く御穿鑿ありて堀出し給ひ
人命を助け赦ひ昼夜暫時も御休足だに
ある事なく 御城下町を 御見分あり其夜
よりして当座を凌くべしとて幼少老衰の
無差別壱人別にそ白米を被下置近在近郷にて
少しも災害の薄き処へ人歩【にんぷ】被 仰付御焚出を
もつて御賄被成下置万端難キ有 御意之程冥加
至極言語に絶たる事ともなりと
山中岩倉山抜崩れし場所へは郡御奉行
《割書:磯田音門未年迄御預所|町御奉行兼帯御屋鋪殿町》
諸役人を引連れて御出張あり彼の湛し水の
面に浮み度〻廻りして有ける家を助んか為に
自ら船に進み変化にして俄に湖水をなせし処の
危も忠と仁とに船乗寄せ漂〻たる家蔵を繋き
留め〳〵岩のはさまに生茂る大木に繋き留させ
人民の歎きをなくさめらる附随ふ人〻を始メ
民百姓歓ひ仰といへとも四月十三日一段の急波に
縄悉く切れて流失するとかや
犀川筋小市渡船場の少しく上ニ而岩石抜崩
川中に押出し又地中より泥砂を吹出し
川中に小山をなす小市渡船場の川筋譬は
銚子の口の如し大山にはあらねとも左右山〻
連なり川幅尤せまし此処に至りて北は
小市村久保寺村善光寺に見通し南は小松原村
岡田村より次第〳〵に広く見通し東は川中嶋
松代 川東 川北一面平地なり銚子口に至りて
水勢ばつと開く時は大難の尤痛眼前たり
爰に防き助んかために 御 家老
御 出陣ありて急難除け土堤御普請
ある是則乱国に城廓を築に等しく今にも
水の押来たらんかと幾千万の敵を防に似たりと
いふもおろかなり小松原太神宮《割書:太田大明神トモ崇メ|棟札慶長年間ト言》
の辺りに假屋を補理【しつら】ひ幕うち廻し紅白の
吹抜風に霏?き金紋猩々緋の馬印あ
たりを輝かし鑓三ツ道具を餝並へ鉦
大皷をもつて人歩を操出しまたは
休息を触らるる事厳重なりといへとも権を以て
下賎をあなとり威をもつて人歩を苦め給ふ
あらす掛る大災を身に受け親族変死も多き
がうへに幾千万騎の大敵に向ふか如く大難を
眼前に引受人力衰ふる時は必狼狽必心魂を
脳乱する事下賎の身の常なれは斯はでやか
なるをもつて人民の耳目を驚かしめ人情盛
んにして心能立働く時は必疲るゝ事も薄く
御普請成就に至りしうへは上下安穂【「穏」の誤字?】なる
事を被為 思召るゝゆゑ斯社【こそ】と愚昧のわれ〳〵迄も
聞伝ふる事のありかたく数千の人歩へ日〳〵
御焚出しを御賄ひなし下し置れ御手充の
広太なりけるとかや然るを四月十三日七ツ時
頃洪水大山の崩るゝか如く押出可恪?【つつしむ】
暫時に此堤打破れ其外数ヶ所切れ破れ
川中嶋満面の洪水とはなりぬ
前にも記せし如く川中辺を始め川辺に連なる村〻
其数多しといへとも今にも水の押来りなん事を恐れて
家に有もの壱人もなく御用にて往来し又は村〻ゟ
御訴等の事にて往還する人の外通路も一切絶たり
いつれの家を覗て見ても其形壱人もある事なけれは
往還ふ人〻は白昼といへとも物すごく水災を案事
煩ひ足に任せて欠歩行けるとなん然るに急災除
けの御普請場所あまたなりけれは村〻に人歩を被
仰付るゝといへとも飯焚汁煮処もあらされは
○松代 大守様
御仁徳御救として
御用御焚出会所
三箇所ニ成所謂小
松原川田八幡ケ原
等なり数日の
間民百姓とも
御救を戴急迫の
飢を凌おのれか
仮小屋ニ歓帰
図今爰ニ図を
出す所は是
則川中嶌古戦
場に名高八幡ケ原
の社地なり村〳〵
多しといへとも十
分の一を顕す
見る人残筆
をそしる
事なかれ
川田村《割書:御出張御役人ニは|》八幡原《割書:御出張御役人ニは|》小松原《割書:御出張御役人ニは|》
此三ヶ所に 御救御焚出しの仮会所
俄に出来幕打張鑓三ツ道具を立並へ大釜数多
居へ並へ幼少老衰の無差別壱人ニ付三ツ宛大握り
飯をそ被下置日〻三度宛にして三ヶ所の
御焚出し白米の俵数積る事
なりけるとかや莫太の御救冥加至極
難有後にも猶 御仁恵の程尊敬すへし
爰に亦善光寺は別して大災のよし被為
聞召斯大災の中といへとも翌五日の朝四ツ時頃
御役人 御出張あり松代 御領分にして
善光寺近隣なる所の村〻へ被 仰付当年
御収納物の義此節善光寺へ差出すへき旨
被 仰付是をもつてまづ当座の御救御手
充なし下し置るゝ事御意配らせられ給はる
事社冥加至極難有事ともなりけれ尚其年
の秋頃より御拝借金善光寺よりの御願に
よりて御許容あり市町の家〻願出る
者共へは御貸附金をそ成し給ひける
御領分村〻多しといへとも地水火の三災を
まぬかれす或は山抜崩れ民家を押埋田畑を
損ふ事あけて数へかたし御掛りの御役人方
御出張ありて夫〳〵御取調御手当のあり
ける事おほけれはなか〳〵筆紙に尽し
かたし尚追〻聞伝ふる事とも後編迄に
書入て渡世に伝ふへし
山抜犀川の大河を止むる事前代未聞の
大災とはいひなから 御城向も大破の夥鋪殊
更数日におよふといへとも地震鳴動止まさり
けれは恐れ多くも
殿様御儀御城内桜の馬場に
御出張ましまして数日の間
御意を配らせられ給ふ爰において重き
御家臣を始め惣して御役掛りの面〳〵
桜の馬場左右に軒を連ねて仮役所を
補理ひ是上の急変如何なれはとて万端
此処において御用弁【用事を済ますこと。】
御主君の守護厳重なりけるとそ重き御方
〳〵より下部に至る迄不残御焚出しを
もつて御賄被成下置事とそ古今未曾有の
御物入中〻言語に絶たりける
斯の如く大河一滴の水をもらさす止まる事
既に廿日におよひぬれは此上の大難を被為
思召事社【こそ】理なれ因て西条村開善寺へ《割書:御祈願所|》
御立退の御用意ありけるとかや 《割書:御用意而已ニテ|御立退ハ未有》
乍去 御城より彼の岩倉山抜崩し場所
まては二里に近き事なけれは譬急破の
変化ありとも御注進も不行届かつは人民流
失をも遁るへきためにとて御相図ののろし
をそおほせつけられける
四月十三日昼八ツ時頃既に湛場はからすも急破に及ひ
大河を止むる事二十日にして増りし水幅端所に寄ては
二里三里亦は四五里に近く川上より湛場迄は十里
にあまりしとそ然るを暫時に急破して押出す事
所謂大山の崩るゝか如く侍て聞に水の押来る
とおもふ者壱人もなく浪にあらす瀬にあらす
其高き事十丈有余にして只真ツ黒く山の如く
雲の如し左右の山〳〵谷間岩名【石?】に打当りあた
りはじけ鳴動非類にして幾千万の雷連なりて
落るか如く水煙り虚空にはしけ登り人皆魂を
湛場急損之
見分両士注
進之略図
飛はし仰天するのみなりとかや理りなるへし
此時の鳴動四五里の間に響き渡りし事
是眼前たり爰におゐて被 仰付るゝ所の御相図
辺りに響き雲をつらぬきて大空にはつと
開く此時 御主君の一大事を存る旨の
御家臣 御立退の 御用意言上す暫時
忽然としておわしまし
御意ありけるは領分の百姓町人は如何し
たるそと 御尋ありけるとそ並居る
御家臣の方〻頭を地に下けて
御 人徳を奉仰しとそ実に下賎の者
ともふ【に?】おゐておや後世に及ふとも
君父の恩沢を亡失せは必 天道の責あらん
おそるへし
爰に賢く勇と仁懇【慈?】を兼たるは高井郡
六川よりの御出張也 《割書:越後国椎谷之御領主|堀出雲守様六川者是則出張》
《割書:陣屋ニシテ時也|御代官寺嶋善兵衛》 二十四日の夜大災発し犀川の
大河を止むる事安否もいまたさたかなら
さる処に廿五日の朝はやくも問御所村に出張有て
村の長たる者に仰せて人夫を集め出させ
自ら頭を取りて類焼を防き既に炎〳〵と
燃来る処に出向ひ東には中澤堰有西には
大丈夫の蔵あり是究竟の場所なれは
此処におゐて防止むる事なくは類焼を遁る
へからすとて自ら下知して欠廻り〳〵中澤
堰の端なる所の家の柱を切倒し西側は是
松代御領西後町なれとも是迚も居合せたる
者に下知を伝へて終に此処に至りて焼亡の
患をそ防止められける可 敬此勇なくは
人心痛く労るゝがうへに斯なれは防事能わす
して此うへの大災にも可 及也一両日過にし
後押潰したる家へは普請金御手当をそ
被下けるとなん引続て其災難を取調
左之通り被下ける
一《割書:壱軒前|》 金七両弐歩宛 悉潰れたる家へ被下
一《割書:同断|》 金五両宛 半潰之者え被下
一《割書:壱人ニ付|》金壱両宛 圧死人有之者え為回向料金被下
其外難渋之者へ金百疋以上金壱両まて被下候由
此上差支の者は可申出旨被 仰渡同村穀屋新兵衛
儀身元且は心掛もよろしく候につき当分の
間百文につき白米壱升売可心掛旨仰
付けられ此大変にて市町焼失ひ日〻飯米
に狼狽たる事貴賎おしなへて困意なり
しを全此売捌によりて満足したる事
仁とや 言へし 慈悲とや 言へし
後代に至とも其賢と恩沢を貴み
敬へし
尚其余の恵恩を尋て後巻に出すへし
中之條 中野 御支配所 松本 上田
同御分家 椎谷 飯山 善光寺 右
御領分 御救御手当の広太にして
冥加至極難有 松本 上田 御 領主様
におゐて往来の旅人へ御救の難有事とも
御代官様方 御領主様方 御意痛させ
給ふ事とも前後軽重あるをもつて
後巻に譲るにはかつてあらされとも此
書を記るす事の大概は二十四日大災を
発するより四月十三日犀川洪水まての
手続を順にせんか為なり其由いかんとなれは
身不肖にして地震後世俗語の種と題す
唯子孫のために譲る事を元とす依て
他見を深く恥るものなり子孫寄集りて
見安き事を欲するか侭に水災まての
拙き画図を爰に順にす乍去隠れたる
より顕るゝはなしといふ事むへなる哉
若子孫後年におよひて来客の歴に備
へん事もいかゝなれとはおもひなからもまた
不肖にして其由詳に遂る事不能されは
後代に至る時は必 御領主様方の
御仁徳を尊敬するの基也よつて得と伝へ
聞て莫太冥加なる子細を全して後編
に出すの心願なり 御仁徳の凡は今
爰に伝聞たりといへとも尚尋求て後巻
に詳にするなれは後代に其前 未を
論する事なかれ
表紙 貼付け題箋
「麗斎叢書 二十」
内表紙 貼付け題箋
「壬戌記之外五集
乙卯危言
讒訴辨
東海貝譚
東都地震の記
水府斎【ママ】昭公
不可和十ヶ條」
朱丸印「麗」「斎」
近年外国より種々難題之申立有之様
相窺且内地不慮之変も出来仕内外共
御煩慮御時節柄哉と奉恐察候勿論
廟堂之御籌略外向より可窺計様も無之
御歴々之御評議御違策可有之とは不
考彼是以事ケ間敷申立候ては越俎之
御譴責奉恐入候得共当時勢
皇国之御栄辱ニ相拘候義も可有之哉と
奉考候ては区々之鄙表日夜難忘不得止
無根之世論えも心を留迂僻之議論兼々
相含居候ニ付不顧憚御内之申立見候右
世上之議論を取御政体えも相抱候義
申立候而者猶更恐懼之至御座候得共右鄙
誠之処被聞召分不悪御取計被成下候様
奉願候右申立度旨趣者先年以来度ゝ
申上候通待夷之御良策者
公武御一和
叡慮御遵奉ニ基き可申と数年相含候
鄙見ニ御座候過る午年以来
公武之御間御議論齟齬之儀有之様ニ
於世上奉窺計種ゝ雑説紛興仕段々
御手煩をも差起し余程御配慮ニも相成候
哉ニ奉窺候竊ニ右等之所由を愚案仕
見候処先年外国え和交御差許條約
御取替し相成候儀者元より無御拠御場合
有之候而之儀ニ候得共癸丑甲寅以来奮
激之人氣一且屈挫仕偸安之人情一日之
無事を貪り終ニ一統退縮之世風ニ罷成
御国躰更張之期無之様相成可申哉と氣
節を負ひ慨志を抱き候者外夷之威力ニ
圧れ安を偸み戦を忌む偽情より今以相成
候儀と存詰猥 公儀之御所置を如何敷
批判仕 叡慮之旨は鎖国之御舊規を
御確守被遊候様相唱へ破約戦争之説を
主張仕壮年血氣之ものへ憤言激行
をも醸成し且又彼我之形勢を相考へ
彼之功利技術を味ひ候者は開国之説を
主張仕猥彼を誇耀し我か固有之
正氣を折き商賣貪墨之風ニ染漬候
議論紛々両端ニ分れ一旦ニ攻撃之形を
成し人心恟々大崩瓦解之勢とも可申
哉天下之勢合へは強し離れは弱し
此支離解散之人心を以て一旦有事
時黙夷強虜ニ御當り被成候儀何とも御氣
遣之儀と奉存候然ニ右鎖国開国と申候は
待夷之御大躰ニ而関係重く候得共其根
本より観候得者是等者枝葉之説共可申
公武之御議論草野之可窺知事ニは
無之候得共斯〱枝葉之是非を以御違却
之儀出来仕候筋は有之間敷歟と奉考候
其故者能可守して是を攻め能攻むべく
して守之候者兵家之常典鎖すこと
能はされば開くべからず不能開ハ鎖す
へからず 御国躰不相立彼か凌辱
軽悔を請候而者鎖も真の鎖ニあらず開も
真の開ニ無之然れハ開鎖之實者
御国躰之上ニ有之べし
御国躰相立候得者開鎖和戦者時之宜ニ
随ひ守株膠柱之儀者全く有之間敷
然ニ又 御国躰被相立候基本と申候得者
大論大義を明ニし天下之議論純一
人心和協之御所置ニ有之哉右物議
紛々相起候本意を熟考仕候而も
公武之御間純然御合躰ニ而
御国躰相立候外有之間敷種ゝ之雑説
御手煩をも差起候者其未聊ニ可有御座候
に付其源を塞き其流を治被成候て
御鎮定強て御手間被為取候義ハ有之
間敷候往昔草昧之世と違ひ當
御治世以来厚御世話を以文教大ニ開け
論理世ニ明かにし
君親を可崇事者三尺之童子も口二
藉し候処二相成候付是迄迚も聊無御疎候
事には候得共天下之大経を被為立候儀者
御厚重ニ被為立度候事ニ付此時勢二當り
候而者今一際 天朝御崇奉之御取扱
振世上ニ相顕れ候ハゝ天下之人心感服仕
右物議御鎮静容易ニ相整
御国躰之基本も相立可申哉右基本被
相立候上者是迄開港和親被差許候者
乍恐未枝葉之御所置二も可有之哉二付
速二開国之御大規模を被相立
御国躰儼然ト相立候段御国論被相
定度候事二奉存候左候而御手を可被下
処者武備益御張興二而航海之術廣く
御開き人々心譫を練り知識を発明する
是二向ひ諸蕃之情実熟知之上者彼か
畏るゝに足らさる処をも知り我恃むべき
良策も相立可申右者此非常之時に
當つて中興之御大業を被為立度御事
には候得共人心之折合方深く御案被為
在候由過ル巳年御沙汰之趣も有之制度
御改め航海之術御開等之儀者疾御評
決可被為在今更當否利害等不能申上
儀ニ可有之其後追々御沙汰之趣を奉
窺候而も乍憚御趣意筋奉深察候然
処今以 御国内一統耳目一新仕候様
御沙汰振も無之候者何とか御深謀被
為在候事ニ可有御座其段者可奉窺筋二
無之候得共宇内之形勢者年序を追而
相開候付今日之如く御国論変革之
機會二臨候も自然之勢二可在之若舊習二
泥ミ漸々時勢二押移され無拠御変革相
成候而者 御手後ニ相成候而已ならず却而人
心之折合方えも相拘可申哉と深奉恐入候儀ニ付
右御国論速二御決定と相成候様相願候儀ニ
御座候右之通 御合躰之御取扱顕然と
相成天下之人心奉感服
御国躰儼然之御国論被相立候ハゝ定而
叡感も可被為在元より開鎖之躰え御泥ミ
被為在候義者有之間敷候付何卒
叡慮より被為起右御国是之旨
勅諚を以被 仰出右を御遵奉被遊
台命を以て列藩え御沙汰相成候ハゝ條理判
然人心弥感服仕退縮之氣一旦進張二
相改り偸安陋習も奮発仕
神州億兆之人心一和一團之正氣と相成
前後種々之物議も氷解仕毫も内顧之
御患無之 御国威凛然五大州え相振候
御大業も成就可仕哉と迂僻之私見二御座候
右者始より御廟議之上ニ出為に大海之
消滴とも相成度心懸候も無之候得共数代
無限 御寵命を奉戴御恩沢身ニ
溢れ居候付兼々報効之心得二罷在不図
時勢二盛発仕不顧僣妄申立候者只々
食芹之味進献仕見度區々之鄙誠不悪
御亮察被成下不都合之儀も御座候ハゝ
御聞捨被成下度重畳奉願候以上
十二月 松平大膳大夫
戌正月毛利より細川其外江申入候趣意書
先年以来
公武之御間御趣意齟齬之趣も有之哉二
於世上窺斗議論紛興人心解散其釁
隙二乗し外夷覬覦を生し不測之変
出来も難計且士気漸々退縮之趣き
御国威不相立様にも相成哉と不堪杞憂
過ル午年後両度 公武御一和
叡慮御遵奉二而待夷之御所置被為在
度旨 幕府得江及建策候然ル処其後も
外夷之猖獗日々ニ甚敷内地不慮之
変も度々出来時勢切迫二相成終ニ者
天下之御大患にも可相成哉と存付徒に
傍観仕候而者奉對
天朝 幕府年来之志も不相立先祖
以来之遺教にも不相叶儀と日夜煩言
致し時勢熟考候処右物議紛興鎖国を
固守し或者開国を主張し人心煽動餘
程御手煩ニ相成候得共其帰趣者
御国躰難相立儀を慨歎仕候外有之
間敷 御国躰儼然と相立候得者開鎖
者時之宜ニ随ひ御所置相成候而可然右
御国躰是迄無御麁略御事ニ者候得共今
一際 天朝御崇奉之御筋相立條理
判然 御合躰之御取扱振世上え顕然と
相成年来之人心之疑惑一旦氷釋海内
之議論純一一致之義勇を以干城敵愾
之路にニ相當り候ハゝ 御国威漂然と相立
其上ニ而開国之御大規模被為建武備を
御張興ニ而航海之術廣く御開彼か巣
巣穴を探り控制之御籌略被為在度
との主意去夏家来之者を以閣老え
及演達候処去冬参府初而閣老え為
對客罷越候節最前之建議尤之儀ニ付
追而及相談候義も可有之段久世大和守
安藤對馬守挨拶有之追而大和守より
達し有之極月八日右趣意委細
書面相認差出候処
公方様 御聴ニ達し此往取扱をも
被 仰付度御内慮之段旧臘晦日大和守より
家来之者召呼演達有之候処右者不
容易事柄ニ付熟考之上御請可申
上候間暫之内御猶豫之儀申入置候右ニ付
而者御高論も可有之無御腹臓御教諭
被下度致御願候以上
正月
毛利侯建白之旨者兼々申立も有之
候処去ル五日登 城ニ而久世侯え面會
申述候趣其大意者兼々
徳川家之御為存意建白仕度段々申
立置候処余之義にも無之追々天下之
形勢変革仕今日之如く相成候上者是非
大御英断無之候而者相成申間敷一躰
先年井伊掃部頭殿御在職之節者井伊殿
了簡より萬事御暴政之筋ニ而已成来候処
井伊殿退役後者安藤殿専権ニ而却而
【朱筆頭書 下ケ札暴政と申文字ニ者無之よし】
井伊殿在職之有様より甚敷御暴政ニ
相成天下中人心盡く
【朱筆頭書 鍋嶋家と名指不申よし】
徳川家を離れ居既鍋嶋様内願
之趣ニ而隠居被 仰付候処右者
徳川家之御暴政最早迚も不可救事と
存内実者専ら一国富強之目論ニ有之
其外大藩共各一国々々を専ニ守候て
勢皆 幕府之御仕向不宜処より斯者
相成 徳川家之御為誠ニ苦心之至ニ
御座候処夫者扠置
和宮様 御下向之儀者 御下向ニさへ被為
成候ハゝ 将軍家直様 御上洛と申事ニ
まて各方御調印も有之誓をも御立
被成候程ニ者無之候哉然ル処其後之御様子を
拝見いたし候処二而者 御上洛処ニ而者無之
如何にも 京師を御踏付被遊候譯ニ而
萬事 天朝を欺き被遊候御軽蔑
最も甚敷と申此節
京師ニおゐてハ 天子盡く
逆鱗宮堂上之方一同憤激一方ならず
只今ニ 徳川家も如何様に可相成可
申上者 京師之御模様と申下ハ人心
之背叛と申実ニ危急累卵之
御場合ニ御座候大御英断不被為在候而者
相成間敷旨縷々談論有之候処久世侯
愕然之様子ニ而其御英断者如何之儀ニ候哉と
承り候処毛利侯黙して久世侯之顔を
睨ミ稍久敷答も無之候処再三承り候ニ付
左様迄ニ御聞被成度候ハゝ存意之事も
御英断ニ相成候事と相見候間可申述候
今日之処ニ而者御懿親と申人財と申
是非越前守御大老ニ御引上ケ一橋殿
をも御補佐ニ御用被遊折々御登
城ニ而御政事御相談も有之其外川路
佐々木之如き正議を以て被廃黙候もの
幷有志之者不残御役方え御用ひ被遊
往々此迄之政治復古之御手段之外者
有之間敷旨申述候処其勢ひ如何にも
おそろしく久世侯誠ニ愕然ニ而答ニ者
誠御申聞之趣御尤至極ニ御座候間何分
尽力可仕乍然私一人え御申聞ニ而者指支
候間同列一同え御申聞被下候様ニとの事ニ而
内藤本多等一同列席之上前文之意味
又ハ縷々申述候処何れも驚入候様子ニ而更ニ
無言ニ而有之候ニ付毛利侯盡く憤激之
有様御答も無之を見れは愚意之趣御決
断にも相成さる事と相見候哉と被申候処一同ニ
決而左様之譯ニ者無之微力ニ而何共不案心ニ
存候旨答ニ及ひ候得者毛利侯重而弥
幕府ニおゐて紀綱御一新之勢も無之
京師えは御申譯も不被遊人心を御慰撫之
御手段も無之候ハゝ最早此上者
天子を挟て四方え号令仕候外者無之
此儀者薩肥等申合候事も御座候間弥御決
断も無之候ハゝ右様仕候心得ニ御座候左様相成
候節者流石丸而御負申心得にも無之候間
聢と御了簡被成候様ニとの事ニ而閣老一同
其雄威ニ恐れ早々申合可申旨答二付
毛利侯被申候者 京師之模様御疑惑
被成候ハゝ家来ニ長井雅楽と申もの有之
此もの義能心得居候間是へ御尋可被成旨
申述退散致候由依而閣老一同皆顔色を
変し早速長井を呼出し一々承候処
成程毛利侯之被申述候よりも大変なる
有様ニ而一層苦心も相増し何事やらん
十二日ニ 幕府おゐて長井
京師江発足いたし候趣
下ケ札ハ皆長州へ問合候処ニ而何れも虚誕之
説に者無之趣ニ而候
【貼付題箋】
乙卯危言
近世西夷砲銃《割書:大筒を砲と云|小筒を銃と云》の術次第ニ闢て其上
西洋諸国屢戦争の事在を以実験する事
数回故ニ其術日々ニ精密ニ至り且陣練隊
伍も全備する由遠く我国ニ聞傳へ其慮ニよ
りて其法を盛ニ世ニ行るゝ事とハなりぬ
砲銃ハ元来西南夷より傳来する所に
して其頃 本朝戦国故其術俄ニ盛ニ
なり利器とはなりし也和銃とて明人も
其頃は恐入し也元和以来昇平の
御代と成て実地ニ用る事ハ寛永耶蘇
の賊寛政文化の頃松前の辺嶋《割書:シヤナ幷|カラフト》
魯西亜の騒櫌また近時大坂の悪徒一条の外
〈割書:大筒を砲と云|小筒を銃と云〉
〈割書:シヤナ幷|カラフト〉
実地の打放せし事なし近来者 雷火(ドントセ) 燧石(ヒウチ)
等弁利の打方追々行れ甚有益の法
次第ニ盛ニ成へし尤工夫練磨なしたき
事なり陣法戦略の如きは決て夷邦を
学ふべからず 皇国の神器を以て彼か
備を打破るへき術を構へ究操練なす
事急務也何程習練工夫なす共砲銃
の術大船の運用ハ彼に及さる也彼是
数百年精熟なし又夷邦ハ生質も異也
都て西洋人者機工の技ニ長ずるハ素より
自然ニ得たる所也我国の人膽氣強にして
勇武勝れたるも又自然也然るに日本戦国ニハ
武勇の人多しといへとも三百年に近き泰
平故中々以元亀天正頃の如き勇者ハ是なし
皆々柔弱のもの斗故迚も古代の如き先輩
血戦なす者なし恠弱の者多分也殊に
夷邦ハ砲銃斗を以て専らとなし五六
拾間の場合にて勝敗を決する戦略故此
方ニ而も彼か法を用ひ強弱を持合せ西洋
風の備立ニあらされハ彼と戦闘ハなし難しと云
其言理有ニ似たりといへ共其一を知て其
二をしらざる論と云へし真ニ兵機を知る者
の論ニあらず本邦風土の美五穀の豊
穣すへて外国ニすくれたる事ハ元より論なし
其土に生ける人故膽氣強く事に莅て
死を懼れさるの気質あるも自然備り
たるなりたとへは鄙賤なる日雇体のもの
些の賃銭ニて雇ハれ供ニ立程の者ニ而
只一日の主人なれ共若道路二而辱ニあひ
他人ニ打擲事もされなは其者をハ赦す
まし其節ニ至りてハ死生の分別もなく
我一分の相手となすニ至る是自然風土に
勇気を備へたれは也方今曻平なれば
安逸怠惰に流れ身體して柔弱なれとも
天性固有の勇氣決て亡ふへきの理なし
其勇氣を引立士氣を震起せは戦国
の士に劣るまし百人の中膽力勇壮
成もの十人是有其士を挙け用る時は
残り九十人の勇氣ハ引立へし勇壮成もの稀
なりと云て怯者同様ニ取扱なハ邂逅有
志の士は望を喪ひ中ニ死に至るとも怯弱
成ものと列はなすましと云族も有ぬ
へし日本魂有士の志を抽き持前ニ備り
たる勇気を撓ませ西夷の陣隊を学ハ
何事そや知己而知彼百戦而危からずと
兵書ニも有之とも己を知り彼を知るは
何の為そや敵の備立を知り是を破る
へき手段をなす事也敵の陣法を学ひ
敵と同し様成方略をなすニハ非さる也彼は
其法を精熟し屡実地ニ越たる兵と同
法にて不鍛錬成兵卒と戦闘して勝
へしや勝ましきや三才の幼児といへ共
勝敗の形ち分明なり彼か長する所へ我
短なる者して闘ハ乍チ一敗地ニ塗候へし
論するに足らさる也前にも言如く砲銃
の製造ハ日々ニ精密ニならハ此方ニても
其上にも益工夫新製して実用ニ備べし
陣練戦略ニおゐては決て彼を学へからず
西夷の銃隊を破へき陣法奇正変化
研究練熟なす事當時の急務也古法ニ
拘はらず我か長る処を以て彼か短なる
所を攻るの工夫あるへし兵法の活機を
知るものを撰ミ用へし
余近頃西洋学をなす有名の者余が
【頭書 大艦ニ乗大砲」を打其国乃」長する処】
近親の内ニ有之故其者に尋して西洋
諸国も戦争の事絶さる故近来又々
戦格一変なし長柄鎗手を募り馬
上の馬上の長槍にて銃隊を突崩し
【頭書 野戦夜討戦ニ」短兵接戦者」我か長する処】
騎馬て蹂躙するの法盛ニ相成し由なり
元ハトルコ人此法ニて亜墨利加人を破り
しゟ始申と也當今流行の西洋銃
陣は五六十年も前の方の由也苦心
して出来上り銃隊又夷絨の短兵ニ出
【頭書 都て弓銃を」長兵と云鎗」長刀を短兵と」いふ】
合突破らるへし其節に至り俄ニ持前の
短兵を用んとする共数年ケヘル斗 揑(コネ)廻したる
弱兵我国持前の刀の抜身も知らず槍ハ右を
前にするやら左を前になすやら知らさる者
狼狽廻るへしと思はるゝ也
一耶蘇宗門の禁は寛永以後別して厳禁候而
百姓町人も寺證文と云事有武家ニ而も同様ニ而
吉利支丹證文とて年々組支配江印紙を
差出す事定例と也街市にも吉利支丹の
訴人あらハ 上ゟ御褒美下さるへき由記し
有は人々しる事也邪宗門禁せられしは
何故そと云に彼の宗門ニて其宗旨の為に
死れは直ニ天堂江生るゝとの教なれハ死を
懼れす君父をも顧す一圖に宗門を尊信
する法故に既寛永には天草の一乱をも
生せし也當今西洋の法術を信する者若
其節を論破するものあれは真ニ激怒して
父兄朋友の差別なく其不平の思ひを
なし終には我祖宗以来国恩ニ浴し妻子
眷属を撫育せし廣太の御仁徳を忘れ
皇国の制度を誹謗し日本小国故規模
狭小にして西洋大国の体を知りぬ也と
漫りに教言する輩有全く
御禁制の邪宗門ニ引入られたる也凡て
物は好む所より入易きもの也日本曻
平にて上下奢侈安逸ニ耽りたまに
才力有も皆奸智姦才にして天命を
知す己か身力を尽さす懐手をして事を
成んと云様成悪怜悧ニなりし処へ付込ミ
先第一ニ蘭法の治療医師ニ傳へ蘭法の
治療流行する彼か妖教を廣むる手段也
蘭医にも稀には学問有も有れとも多
分ハ無学文盲ニても横文字譯書の假名
附にても讀薬名もしれぬ新薬凡宰領の
物ニても呑せ元より漢法の医者とハ論
議も致さす素人には猶更法意をも云す病
人の生死ハ元より医の工拙ニよらず只早く
癒へき症も手間取位の事なれは幸に
生利ある病人の一両人も治療なす時ハ誰々ハ
名人也と世人評判すれは衆皆雷同して
俄ニ高名ニ相成薬は名もしらぬ物を飲せ
薬代は人の知たる人参桂枝大黄等の
價ゟ多分貪取故に蘭法の医師ハ大
方ハ富をなせり最初ニ医術ニ而深く信
をとらせ又日本人漸々奸曲弁佞ニなり
戦闘己か身を全くなして敵を破る
仕方有へしと思ふ拙陋臆病なる心を
【頭書 火輪船」風車】
見込第二は砲術を強大無量無邊の
機工を教へ道具達斗をなす様ニ誑んと
する計策也此方ニてハ持前の血戦刀闘
は浮雲し同くは寐て居る敵を退る
仕方有んと工夫なす族は別て深く
信仰して種々の器械を製造なす事とは
なりし也大砲何程用意なす共人力に
非されば用をなさず人を撰す器械の
みを恃一朝の事あらハ重大の砲銃悉く
夷賊の物とならん大船も同様なり数万の金
銀を費し賊の援をなす事慨嘆するに
堪たり前条にも記せし通火器の機工
大船の乗方ハ幾十年工夫習学なすとも
異邦に及へからず兵法にも致_レ 人而不_レ致_二
於人_一 ̄ト 云り當今の有様事々物々人に
致さるゝの極ニして実ハ彼か奴隷と成
しも同し挙動也扠西洋流と唱へ是亦
調練ケヘル備へなりて横行に云廻る輩実ハ
三匁玉の鉄砲をも玉込ニてハ打掛し事
無き人八九分成へし是迄火縄筒にて
打覚し人々ハ西洋流の雷火燧石を用る共
元より丹練せし事故一廉用をなすへし
然るに玉込の五度か七度も致せしものも
小手袖こはぜかけ【小鉤掛】の服を着しケヘル筒を
肩にさへすれば武術ものと唱へ自分ニも
是ニて事足りと思へる人百が中八九分
なり其中には用立や用立間敷やと思ふ
人も有べし流行故立身発達の為ニも
成べしと欲心にて為者も有へし又ハ一向
無分別にて能事也と思へる愚人も有べし
愚にあらされハ必奸賊也外夷ハ銃隊ニ用る
兵は玉数二万餘打放し力量も衆に勝れたる
者を精選して戦士ニ育る由也當今形斗
の西洋流の臆病武士何程集るとも国家の
御警衛には成へからず是も彼か法術にて
一度心を狐惑する時ハ終身迷覚さる也邪宗
門とて別段の奇術有ニ非す万一夷賊と争
戦ニ相成共勝敗ハ兵の常なれは我敗する事
有は西洋流をなす者敵の勇を称し味方の
軍心を乱す者あらん大乱ニ及ひなハ彼か手
引をなし我ニ叛く徒有ましとは云難し
此言不可違余今追々老境ニ至れり後年思ひ
當るへし當路の大臣早く活眼を開き後患
有ん事を見抜西夷の妖教を禁し
皇国の神武を主張し
天照太神 東照大権現の御遺訓ニ従ひ
給ハん事を訴願す人誰か死せさる道を守り
國事ニ死す豈快事ならずや夷狄の媿態を
学ひ拙策狼狽し同く死て祖先を戮
辱す何の面目か祖宗ニ地下に見へんや此段
を書せんとする慷慨嘆嘆筆するに堪
さるなり
実用を専ニなし虚飾を禁せらるゝの令
下れり至當の事と云へし然共凡て
事には本末あり自国の実用を尽して
其上ニて他に有用の事あらハ試用べし
抑本邦弓を武器の最上となし次に
剱鉾等の兵器を重んせん事を人々知れる
處也然るに弓ハ的前の吟味斗剱鎗も形
の花美を称し何れも華法を崇ひ我
國の武術実用へも全からず我国ニ而一度も
試ミ用し事なき剱付筒を持狐に化されたる
様をなし実用なりと思へるハ何等の
盲昧そや弓も當世の射法を革ため貫
革を第一となし鎗刀も長短軽重の
度を極め試合の達者を専らとなし柔
相撲を以て身躰を堅剛ニなし御狩山
猟にて手足を損し馬も牧士の風に
達者斗を心掛ケ銃砲も是迄用来りし
法を丹練なし餘力あらハ西洋新製の
器をも用ひなば本末兼備るとも云へき也
自国の実用全からず夷賊の真似ニ心
術を奪ハる狐狸に魅せられしと同様也
一去丑年亜米利加船浦賀江乗入し節打
拂ハさるハ遺憾也去なから其頃浦賀御番
所には六貫目玉の筒二挺同玉も五ツ六ツ
合薬も少し斗有しと也其上押送り船
ニ艘ならでハ是なしと云成程打破る事
ならさるも尤也扠其後横濱ニて應接の時
し組て突殺さゝる事実に千載の遺
憾也其策をもなさんと云し人も有と聞
たり不勇不決断にて大切の機會を失ひ
此節に至り迂遠成西洋流だの足並が揃
ひしのと夢中の詭言也此程ハ大砲も数
千挺出来兵器大方備わり器械ハ其頃と
は百陪せり然共人心次第ニ怠弛し西
洋風は漸々に傳深し此後六七年も
過なバ大半ハ夷人同様に成べし此節を
限り断然として洋学を禁遇し一決
して夷賊を打破るへき御計議有べし
一同夷を討の誠心感通せば神威も加
ハるべし案外夷賊を万里の外ニ退け後
患なかるべし此儘ニて益洋学盛ニならバ
一両年の内には必水災ニて凶荒有べし
内憂も起るべし天変地妖屢至りてより
心附給ふべし有難き御教也此度の
地震火災人の何と心得しや今にも夷賊
打入事あらバ此通也此中ゟ大砲小銃の
飛来るべし此御撤戒を何とも思ハす天変ハ
古今例有事なりと年代記を目當となし
我所置する処天地鬼神の心ニ叶ふや否
と心得へし當路の大臣達心を謙虚に
なし天下英雄の士に向ひ謀り己を捨て
天下を唯持せん事をなすへきなり
一西洋の学ハ人を撰んて学ハしむべし
和漢の書を讀人倫の大道を心得たる者に
命し洋学をなさしむべし彼か国風
を知り我益となすへし然るに大学の素
読も出来ず刀の柄の持方もしらぬ人々西洋
の書を讀宇宙の間に是程尊き教ハなし
と思ふ也中には武術は痛し学問は猶更
六ケ敷て出来す西洋流ハ骨折れす知れる人
稀なれは是にて己か拙劣を掩ふの道具
となす者往々是あり洋学は儒官の内ニ而
学はせミたりに横文字の書を所持する
事を禁し西洋法を軍事に用るべか
らすと云令下りなば天災も消滅し
年々豊熟して
御代萬々世天地と共に無彊なるへし
一諸国寺院の梵鐘を大砲ニ鑄換る事時務
を知れる良策に似たれとも甚敷大害あり
京都より何ケ度仰越るゝとも御辞退有度
事ならずや只今始りたる事にもあらざる
夷國の防禦に大砲不足を云事
征夷大将軍の乍恐御恥なり其上大砲の数
斗多くとも用度を省き麁末の造法に
ては発砲の時破烈すへし大砲の数多か
らすとも鑄造精密ニて練熟の士を用ひて
打放させん事を要とす数萬の大砲有ても
製法も堅牢ならず不練之兵卒蝟集して
火薬を取扱ひ一旦過失あらハ我軍士を
損すへし且又寺院の鐘古物を除候共何れも
人民の力を合せて造出せし物なれハ万民の
思ひの凝結するもの也御国の為と思ふべし
とは尤のよふにも聞ゆれ共百姓耕作して
武士を養ひ武士ハ倹素を守り兵器を備へ
乱を鎮むる事當然也飲食と婦女子の
為に器械をも備へす事有時に下民共の
些力の銭を集め寄進せし古物を鋳潰す
事言語に絶たる事ならずや昔大佛の鐘を
板倉伊豫守重宗か令して銭に鋳直せしニ
数萬の老若男女か見物して扠も勿体なき
事哉と一同に佛名を唱へければ鋳爐(タヽラ)にて
骨折しても鐘は鎔(トケ)さりしとて其時重宗
鐘に小便を仕かけ見せければ衆人鐘の方を
ば忘れ重宗の所業を悪ミ一念重宗ニ移り
しかば鐘は一時に湯に成しと也重宗の
活機実に感服するニ堪へたり又近頃有高
貴の人領内の寺院の梵鐘佛像迄も鋳潰し
大砲に造られし事あり佛に淫するの流
弊を一洗し僧侶の悪風を矯直す良方
大英雄の所業と云へき也人の善行ニ倣ふハ
美事なれとも時勢をしらされば行ハれず
第一十四五年も以前ハ夷船の風聞も有し
かとも世間にてハ一向心も附さる程の事なり
此時には目覚る厳厲なる政も民心の怠りを
革むる良方也當今ニてハ表向には
上を恐れもすれは邊境民心穏ならす其民
心動揺する処 上にてハ由緒ある古物時の
鐘は除くへしなと細かなる触は下へハ届か
ぬもの也頑愚なるもの共旦那寺の本尊迄も
打碎かるへしと思うふハ必定なり
領主地頭も自身領分知行所へ行事もあらす
家来手代等ニても遣ハすか又ハ寺社奉行の
云渡ニて僧を呼出すか地頭より名主庄屋
を呼出し鐘の員数ニ而も改るより外すべき
事なし其時ハ百姓は元より寺僧も鐘の
数を少く云立相應の賄ニ而も贈りなば
家来手代共の多くの中ニハ手の内ニ而差
繰いか様にも増減なるへきなり民心動揺し
罪人も夥しく出来なすへき事眼前也
一方人之外夷四方ニ充満し毫末の隙あらば
打入へきと窺窬なす時也此節は民心を鎮
静し士を養ひ急々應するの策を第一と
なすへき時也去なから寺院ニより鐘を献す
へしと願出るは格別の事京都ゟ仰出され
しとて其儘触出すハ武将の位に然さる也
時所位ともに取亡ひ人の真似さへすれハ良
事と思へるハ何事成哉天下を以て己か任
となす人共故萬事決断なし去とて只も
居られず国家の大事を捨措にし人の議論を
恐れ是ニては當分人も合意すへきと法
令数々ニ相成百事人の害を防く手段斗二而
一分の決断一ツもなく其中には何れとか成へ
しと始終人斗當てニなし所謂町内送と
云もの有て我門前ニさへ送り出せは先ニ而者
何様ニ成とも構はぬと云風ニ而人々日々白眼
合て月日を送る日月流るヽか如く五年十年
は暫時に過へし此姿ニ而何程まつ共良分別
の出へきやうなし日本国中一人も残らず
今度の地震に壓し殺され候と思ひ疑心を
生せす西洋流を止め日本風むやミ軍をなす
べし思ひの外生地を得る事有べき也
大船乗出すや否破船せり釣船之往来なす
場所ニても如此し其学習なす処
祖宗の神慮に叶わぬ證し現然たり其学
ふ処天心に叛ける事かくのことし
一西夷の陣隊其餘奇技淫工を発禁すべし
砲銃の製造は元異国の器械なれば是而
已ハ廃すへからず弁利の法ハ採用ゆべし是
前書に云る事也乍去當世上下一統異教
に昏迷して是非西洋風にあらざれハ成難しと
云は都て日本に用ひ来りし兵器を銷し
武士も両刀を帯する事を止メ弓鎗の武器
も打折仕舞西洋銃一挺と定むへし実地ニ
臨ミてハ精心純一ならされハ勝を得べからず故ニ
余ハ用ひ来りし武術も多藝を欲せす一術
精練せん事を要とすへしと謂たる也西洋
人は剱刀ハ鈍し持前の膽力ハ弱し多端ニ而ハ
人々疑心有て死地ニ入難しと思量し
長短の火器斗し定めしハ国風の人情を察
知せし教法と云へし日本ニ而ハ武術の数多く
していつれも泰平に相成席上の工夫ニ出来
せし術多し近来別して多藝の者と称
美なす風故人々一術も多く学習する事と
【頭書 戚継光ハ」明末の人」なり】
成し也無_二精藝_一膽不_レ大戚継光も云しなり然るに
月ニ六斎の稽古三年五年出精せしとて精練
すへき理なし不精練の術ハ死地ニ至れは
惑心生し十分の働きならさるもの也當世
遷遠の極メハ植溜ニて稽古ある体配の弓也
古代禮射の遺法成べけれは稽古人も外藝
術よりも出精せざれは片肌脱て立派に的前
は射られさる也騎射も同様ニて実地の用ニは
立間敷也騎戦の稽古も別に仕方何ほとも
有へき也正月の御弓場始にも拝領物等にも
多分の事也是等の事も御止メニて正月も
大砲ニ而も打初に
御覧あり大名の戦鎗二本道具三本道具
のと云て無用の槍を飾とする外飾尤なる
物なり神代よりの兵器残らず焼潰し西洋
斗ニ定るならハ四五年のうちには可成用立程
の備も立へき也前書ニも記せし通り是迄
の姿ニてハ幾十年学習なすとも西夷に
及ふへからず大艦も又同様にて是も勝手
次第萬国江交易 御免とならハ一昨年刑
せられし加賀の銭屋如き豪富の族諸国
に澤山有へき故資財に不吝造作し親船
水主の頭立たるものに金銀を多く与へ用ひ
なば利欲の為に身命を忘るヽ程の無道
人故世界中乗廻すやうニ三四年の内には
相成へし其替りには耶蘇宗門行る
へし異国人も日本橋迄も乗入へきなり
都て天地の間両全の理なし彼を得る
には是を捨さる事能ハす我身命を捨す
敵に勝へき事を欲するは決して成さる
事なり一人の勝負ニてさへ我身を捨て
向ハざれば勝を得ず大勝負も同様なり
我銃砲の及ふ場合ならバ敵よりも同断也
其節は銃砲共工拙によるへし長兵斗を
恃み我打放する処敵ニ及はず我玉當らす
敵の玉は當る彼ハ其技に精熟し我は
多技に遅て学ふ処専ならず彼と同し
器械を用ひ彼と同し陣隊を用ゆ皆長す
る処彼にあり故に當今の勢ニて武術の
門を分ち一技を専らに習ハす事急務也
一弓に長せるものを撰ミ戦射を習ハせ他の
術を学に及ハず
一銃砲に得しものを集め和流西洋両よふに
好に随て習ハす
一剱を学ふものハ剱法斗を習ハす
一柔相撲又同様
一長刀棒皆同し
一馬術も達者を専らとすべし工拙は兎も
角も戦場迄ハ騎乗する丈の事ハ人々習ふ
へし馬上格別達者のものを集め銃隊
を蹂躙さすべし
一剱は人々帯する事故工拙ニよらず心得有べし
一鎗を学ふへしと思ふものハ鎗斗を習ハす
一生質多病ニて武術一事も習事能ハさる
ものハ筆道を習ハすへし
一学問ハ人倫の道四書小学ニて足べし
義理の要を知り身ニ行ひ心ニ翫味すべし
如此士を教育すべし怠惰を戒め出精
のものならハ褒詞あるへし褒美を遣し
品を給らねハ忝思わさるの風にならざる
よふに節義を重し利を軽く思ふ様に
士気を引立へし上の大利を欲せざる
時は下の節義も速ニ立へし上次第ニ而
廉恥の風にうつる事手を返するか如し
又有司の人も武術の中一藝ハ是非共
自身稽古すべし主将といへ共名将ハ自身
士卒と労を共にす老中衆ニても官職
の高下ある迄にて人臣に相違なけれバ
銃砲ニても鎗にても手を下して稽古す
へし御旗本御家人御勝手方役人迄も同様也
此法ニて四五年も御世話あらハ御膝元に
勇壮の健士夥しく出来して外藩の諸侯
達に勝る事万々成へし膽力壮勇の士数
萬是あらハ西洋人のことき劣弱成工夫の
陣隊にあらすとも本邦持前の先登勇
戦何そ難からんや何れにも二心を去ら
されば事は成就せす二ツなから全く
する事ハ天地の間に決して有へきの理なし
一大艦乗かた其餘軍備迄も蘭人に向学ハせ
らるの命を蒙りて出帆せし人々皆乳香
児の寄合ニて何を成就すへきや最初ゟ
弟子入をするには一向の素人に仰付らる
へし間違多き銘々の存寄ニて組立し
西洋学ニては却而私意有之習ひ得かた
かるへし諸藝とも悪き僻最初ニ覚へ
たる事ハ始終の邪魔ニ成事人々の知る
事也西洋流も一様ならず誰々ハかやう
彼等ニてハ此様ニとて皆自分〳〵の見識
にて門戸を立人を誹り我を誇其黨
を集め習練なすを感心なす輩の心中
更に別ち難し各区々の仕法ならは
其人々の工夫と見へたり笑べし不残
武邊ニくらき輩也其各を指ハ天下へ
の恐れあり素人の見斗ニて組立たる
兵法を衆人に教へ益有へしや実に
浅間敷事ならすや大艦乗方其外とも
西洋の法を知るへしハ佐賀侯抔江命
せらるへし長崎ハ近し其人膽智ハ備
ハりたれハ 御国躰をも失はせられす異
邦の風をも早く察せらるべし定めて
外藩の諸侯へ聞へてハ 御体裁も宜し
からず位の小量なる御評議成へし日本
国の人ならハ穢多非人ニ而も挙け用ゆ
へし国中ニて 将軍の代の替るハ珎敷
からず異国の辱しめに遇しハ開闢以
来初てなり弘安の頃ハ壱岐對馬の二嶋ハ
異人に攻取られし也然るに少しも疑心
を生せす終に打破りし也一度も兵を交
し事もなし蘭学者恐赫のをとし【「とし」右旁に「本ノマヽ」】らくらい
挙国戦栗して腰抜たり末世とは云なから
餘り卑劣なる事ならすや外藩の諸侯の手
前を恥る也と云事を止メされハ四海一家
とは云へからず体裁にのミ苦むハ愚朦の
極メと云へし万事諺に云負をしみに
いふ事をやめさへすれは武備に充実す
へし下向を恥ち同し了簡の者斗の評
議俗に云小田原評定と云もの也北条氏政
関八州を領して武道の心掛真ならず関左
の大軍ハ有なから上杉謙信か八千の小勢
にて城下迄攻入られしかとも評定決せず
小田原の城蓮池門も打破られしなり
一御国の為と云事人々云へとも御国の
大切君を大事とは夷人の奴僕に成
ても国中の人も損せす君の御命全
く自身にも壽命の盡る迄ハ甘き物を
食ひ居らんと思へるが御国の為成や
又ハ日本国をハ少しも異国のもの共に
穢させすたとへ人種ハ盡るとも異人の
侮りを受さるが御国の為成や我等は
文盲にて分ち難し諸葛武侯が蜀の
軍民の罪弊せるに拘ハらず度ゝ兵を
出して魏を討しを後世賞美せり夷
狄にも例の有事にて命さへ生れは
御国の為とは何ら合点ゆかさるなり
今の有様にてハいや〳〵なからざん切天窓
に小はぜかけニされそふな氣色也大英勇
大無道の振舞なから此方ゟ夷人の形に
相成り交易を諸国へ云掛て有用の
物を決して遣さす十分に権威を取り
西洋諸州と一統すへし左もなくばこハ〳〵
真似をして丸て奪われ夷人の奴僕と成
麦餅の二ツ三ツも貰ひ露命を繋くへし嘆息々々
「貼付題箋」
讒訴辨 全
斬姧【奸】趣意書
逆徒の訴状を検するニ心ハ叛奸之逆賊ニして口には
佞曲の弁舌を振ひ恣ニ妄言を咄て自ら報国忠直の
義士と称し世間を誑惑すといへ共闇の聲ニ應し影の
形に随ふが如し物然として掩ふへからず人皆盲聾
にあらされバいかでか終ニ其奸悪の謀略を弁得ざる
事あらん然といへ共今億兆の士民外夷拒絶冀
望難止此情ニ基是を名として奸舌を振ふ事
如斯実ニ時勢可歎之佞辨也是故ニ今是を弁
して其奸悪を露す事如左
申年三月赤心報国之輩御大老井伊掃部頭殿を
斬殺ニ及候事毛頭奉對 幕府候而異心を挟候儀ニ
無之掃部頭殿在執政以来自己之権威而已を振ひ
奉蔑如 天朝只管戎狄を恐怖いたし候心情より
慷慨忠直之義士を悪ミ一己之威力を示さんが
為ニ専ら奸謀を相廻し候體実ニ 神州之罪人ニ
御座候故右等の臣奸を倒候ハヽ自然
幕府ニおゐて御悔心も被為出来向後者
天朝を尊ミ戎狄を悪ミ国家之安危人心之向
背ニ 御心を被為附候事可有之と存込身命を
抛斬殺候処其後一向御悔心之御模様も相見不申弥御暴
政の筋而已成行候事 幕府之御役人一同之罪ニ者
候得共畢竟者御老中安藤對馬守殿第一之罪魁と
可申候
天下之御政務既 幕府江御委任之上者即
天朝之政府也是を不恐軽蔑しなり
上を凌くの暴言不敬如此自ら論外逆賊之身を以
赤心報国之輩と称するハ何事ぞや是二而も世間の人
を己か奸地【智】より誘引 上を窺之叛心顕然たる事
猶追々可弁之候〇天朝を蔑如し奉るといふハ其発端
より逆賊常ニ唱へて公武の御間を妨んとし己か叛逆
之徒を国忠といひて世間を欺く為之妄言にして
素々関東御政執方ニおゐて 天朝を蔑如し奉り候事者
曽て無之既去ル午年以来逆徒より虚妄の讒
言を以て 天朝を欺き 宸襟を悩め奉り候事
件者挙てかぞへかたき数ケ条之中ニ一二を以示し候ハヽ
去午年の春堀田備中守殿上京の砌逆徒より
鷹司大閤殿を以奏し候文言ニ関東の役人共者悉く
夷狄ニ属夷人と謀りて 天位を奪之企有之候間
早く年長賢明之一橋ニ 綸旨を被下柔弱暗愚之
當 将軍を退け不申候而者 天壌無窮之
神州茂眼前夷狄之封爵を請候様可相成候間一橋殿
西丸江相備候迄者関東之奏上決而御許容無之様
にと種々虚妄之讒言を構へて致言上候より
天朝にも御驚ニ而 主上御立退之御用意迄被為
在候程之事ニ至り其節備中守殿ニ附添罷登候両人
川路左衛門尉岩瀬肥後守左衛門尉者粟田宮ニ詣ける関東
ニ者承久之例を以 主上を遠き嶋江
遷幸之企有之候得共我等段々相諫め置候何分一橋殿
将軍家御家続不相成候而者国家之大事難斗抔一時之
計略被申上候ゟ 朝庭【ママ】の御騒と相成其後も毎々此妄
言を以 至尊を欺奉り 宸襟を悩め奉り候事
律条ニ依而糺し候ハヽ万死にも余りある大罪ニ候得共三公
方を始め高位高官之御方々多く逆徒之虚言ニ被
欺一旦御同意被成候上者重科ニ不忍翌未年二至
罪状之実事を不被挙事軽く御仕置相成候も全
公邊ニおゐて 天朝を御尊崇之故ニ候然るを逆賊共
自ら虚妄之偽言を以 天朝を欺奉り
宸襟を悩め奉り候者 天朝をも蔑如し奉り堂上
方を誑惑被致候所業ニ有之候を
幕府執政方之所持之如く唱候者天地掛隔之相違
言語道断之申条ニ候其上北条足利之逆政を引又
外夷親睦之讒言者去ル巳年以前ニ打出候事ニ而
京都江申上候者翌午年二月の事ニ候へ者掃部頭殿
御大老職仰蒙られ候而後同六月頃ゟ其妄言を以唱所々
悪行者皆御大老之斗の如く讒し候而世間を欺候を以
相考候へ者内実其人も指んニ而無之全樞要之御役人之
名を出して 公邊を讒する明證也然者御大老
御老中方江も乱妨致候事をも内実者
公邊之威を挫く為之悪行ニ而叛心顕然なる物ニ候
之処 幕府江對し奉り異心を挟候義ニ者無之と者
余り之虚言ニ候其異心之次第者追々可弁候〇只
管戎狄を致恐怖候心情より慷慨忠直之義士を
悪ミ云々忠直之義士と者己が悪逆之徒をさして
いふが忠といひ義と称するハ善ニ随ひ悪を懲しむる
名義ニ候得者自ら暴逆国賊之所業をして身命を
抛候とて 公江對し忠義之士抔と可申立道理無之况
虚妄之偽言を以世間を欺なから直と唱ふるハ所謂
杓子之意規ニ而実ニ世間を盲聾ニしたる妄言也
既神奈川條約調印之事も京都江者御大老の
所業の如くニ申立候得共自ら其欺候事を存居候而信州
松本権頭茂左衛門之弟山本貞一郎と申もの其頃江戸
住居ニ而和歌を業として罷在候其者隠謀之徒ニ与し
去ル午年六月頃より京都江登り専ら周旋致堂上
方を欺き 幕府を讒し候折柄同八月木屋町
の旅亭ニ而病死いたし候其者之所持致居之品々之中ニ
自筆の手帳有之筆記致し候者多く江戸表出立
之砌逆徒と申合之約条之留記ニして其中にも
神奈川条約之事実者掃部頭殿不承知之処堀田
備中守殿松平伊賀守殿両人岩瀬肥後守井上信濃守を
遣し調印為致候へ共京都江者掃部頭殿久世大和守殿之
心ニ而調印いたし候と可申上事と申ケ条も有之其外
暴悪之所業を巧候ケ条斗多く相見候此手帳を御覧
候而より三条前内府殿始彼者ニ欺かれ候事を竊ニ
被成御後悔其後者奸謀之御評席ニ而も左右之
大臣方を御諫被成候事度々有之鵜飼父子か書
状中にも三条前内府殿ニ者近頃正理而已被申立
非常之方ニ者入込不被申右府公も内間ゟ被倒候事も
可有之と御心配被為在候由有之候其手帳幷鵜飼父子
が書状者今も其儘御役方之手ニ有之候扠三条前
内府殿ニ者是非を悔粗御改心之思召ニ者被為在候得共
同年八月八日正直にも無之 勅諚を出され剰
其 勅諚を幸吉如き軽きものニ御渡し竊に
水戸家江御届候連判ニ加り候事
天朝之御大則を破り御法を犯し候罪状難遁迚終ニ
入道被成鷹司殿父子近衛殿被成入道ニ而此一条
ニ付而也惣而奸賊共正路之論をば非常之妨と者
是を悪ミ己か悪謀之徒をバ忠直節義なとヽ
口には唱候へ共自ら欺候偽言者飽迄承知之上之
事ニ可有之候得者其異心推て知るべき事ニ候
抑外夷浦賀江入津以来午年三月迄阿部伊勢
守殿掘田備中守殿執政七八ケ年之間執政方之御所
置者存不申候へ共其節外国方之掛御役人方ニ者岩瀬
肥後守永井玄番頭等専ら外夷と実ニ親睦被致候
方ニ有之事者世間にも能知る処ニ候然るに逆徒
此人々之外夷親睦の事をば仮にも不唱却而
己が内間之謀反をしたるニあらすや然者今御役
方の上を讒するに表は外夷御取扱ニ託し候得共
内実者己か悪謀の妨となる真実忠直正路之
御役人を悪ミ候て終ニ乱妨ニ及候事掩ふべくもあ
らぬ證跡有事ニ候既午年四月より掃部頭殿執政
之後者専ら夷狄之風俗ニ押移り候事を禁し
講武所御創立之砌も
今さらにこと国ふりをならハめや爰に傳ハる武士の道
と詠哥【吟?】ありて西洋風を禁られ候事ハ世間ニ知る処ニ候
然者其頃外夷拒絶の思召有之種々肝膽を碎
かれ候へ共差懸り内間ニ如此之姧賊共隙を伺候折
柄ニは外国江迄者手を下され候場ニ至り不申夫故御条
約相濟候而後者交易通商之事も御改革ニ不被
及空く時日を被移候事ハ京都ニても御承知被為
在候事ニ候左候得者外夷拒絶之道開ケ不申事者
皆悪謀共所持【為?】ニよりて之事ニて追々物資沸騰
下民之困苦ニ相成候も悪謀之なしたる同様執政方
之心ニてハ無之候〇専ら姧謀を相廻し候體実ニ
神州之罪人ニ御座候故云々とは逆徒自分之事ニ而
候を執政方の上として申唱候者表裏黒白之
違ひニ候○弥御暴政之筋而已ニ成行云々抑暴と
唱候者何等之御政事を指て申候事ニ候哉是等者
己の逆徒ニ 公邊を疎ませ術斗之妄言にして
可論迄も無之事ニ候去ル午年間部下総守殿御上京
有之悪謀共之逆 奏を一々御申解候而漸讒
奏之妄言相顕れ初而御氷解 公武益御一和之
勅諚下り候其節も下総守殿を御暴政と唱世間を
為騒候事件不少其節京都ニてハ小林民部少輔を始
鵜飼父子等夫々御召捕ニ相成御仕置被 仰付候事も
専ら暴政と唱候へ共彼者共之姧謀者筆帋ニ尽し難く
不容易事件而已若干之中ニ其一ニを挙て申さハ
同年九月十九日鵜飼吉左衛門同幸吉御召捕ニ相成同
人ゟ水府老職安嶋帯刀等江遣し候書状飛脚之者ゟ
御取上ニ相成候其書状二天下江
綸旨を下し候事何分只今之如き治世ニ而者難取
計候間江戸表二而大老ニ一発致し切込候ハヽ其騒動ニ
乗し早速 綸旨を下し候様可致旨鷹司右府殿
被仰候由小林民部少輔取次ニ而申出候由鵜飼父子ゟ
天狗連之者共江通達いたし又西郷吉兵衛と蜜談
之事を書取中ニ者西国之同志三ケ国より軍船を
大坂兵庫伏見等江差登せ下総守殿之旅館妙
満寺を踏潰し其勢ひニ東北之同志打合彦根城
を乗取抔之暴略も有之又吉田寅次郎大楽
源太郎京都ニ而者梁川星厳頼三樹八郎梅田
源次郎等発頭ニ而徳川之家格を御取上ケ當
大樹公をば當分諸侯ニ封し甲府江移し奉り
江戸城を請取候謀叛之訴状を上ケ候此書者薄
様七拾弐枚細字ニ相認只今も有之候又清水成
就院月照勢州久居之竹内近江等江者
将軍家と関白殿大老其外悪謀之妨と相成候樞
要之御役方を呪詛いたし候事共露顕ニ及ひ證跡も有
之候事故御仕置ニ相成候得共格別之 御宥恕ニ而
御親族之御方其張本たるニより罪状数等を
減し軽科ニ相成候安嶋帯刀御吟味之後被預候方ニ而
申候者ケ様之蜜計悉く露顕候事
公邊之御行届恐入候趣を申而舌を巻候事も
有之由然ルに自分之謀悪を掩ひ都而寛仁大
度之御仕置を暴政抔と唱候事悪謀共天誅
難遁之一端ニ候
對馬守殿井伊家執政之時ゟ同腹ニ而暴政之手傳を被致
掃部頭殿死去候後も絶而撫悔之心無之而已ならす其姧
謀危計者掃部頭殿にも起過し候程之事件多く有之
兼而酒井若狭守殿江申合堂上方ニ正義之御方有之候へ者
種々無失之罪を羅して 天朝をも同腹之小人而已ニ
致さん事迄相謀り万一尽忠報国之者烈敷手ニ余り候
族有之候節者夷狄之力を借り可押取との心底顕然
にて誠ニ 神州之賊とも可申方ニ候故此儘ニ打過
候而者奉悩 叡慮候事ハ不及申於
幕府も御失体之御政治而已ニ成行千古迄も汚
名を被為 請候様ニ相成候事鏡ニかけて見るがことく
不容易御儀と奉存候
對馬守殿井伊家執政之時ゟ同腹ニて御暴政之手傳を
被致云々 公邊江奉仕国忠之御方井伊家同腹者
勿論之義ニて何ぞ對馬守殿ニ限らん○其姧謀危計者掃
部頭殿ニも起過し候而對馬守殿壱人ニ而御執政被成候事者無之
然者此御方を而已姧謀危計と唱候ハヽ此御方若年寄
御勤殿【仕?】中ゟ水戸家御取締を仰蒙られ屢小石川江も御越ニ而
御家来内之悪謀を諫め 公儀御親族之御家柄ニ疵付
不申様御深切之御心添被成候事を却而遺恨ニ報候暴
言ニ有之既一昨年張訴いたし候事も有之候得共今度
之乱妨も其意趣を以致候事と存候人も可有之候得共此書
付之趣意を以相考候へ者中々左様之小事ニ無之表者
外夷之御所置ニ託し候へ共内実者執政方之中を己が
奸謀之妨と相成方を害し自儘ニ悪行を働可申之所
為ニ有之候事者正月十五日京都ニおゐても所々張訴投書等
いたし種々之悪斗を廻らし人気を為騒候由同日上方
にても右様之振舞いたし候ハヽ一昨年三月之時の如く
兼而此乱妨之事申合何歟奸謀之手術有之候事
顕然たりといへ共奉仕之御役人ニ真実忠直誠義之御方
對馬守殿壱人にも不限多分有之候へ者悪謀江荷膽も被成
間敷左候へ者此後も執政方江者何とか虚妄之悪名を
負せ追々乱妨可致事か実ニ鏡かけて見るが如くニ候
○堂上方ニ正義之御方有之候へ者無罪之罪名を羅る云々
堂上方ニも正義之御方多分有之候事者勿論ニ候得共
大方一旦者悪謀の讒口ニ被欺彼是不穏候事件も相聞
候得共事実分明ニ相成候上正義之御方ニ者一旦被欺候事を
御後悔被成候中ニ近衛左府殿鷹司大閤殿同右府殿
三条前内府殿等者悪謀の讒口を倍し過雅【稚?】ニ虚妄之
事共を奏 聞せられ既 公武之御間確執之端を醸
され外ニも種々之子細有之候事実分明之後者
主上を被欺候罪難遁候迚各恐入隠遁被成候迄ニて
関東より別段御沙汰ニ不被及候者 天朝尊崇之故や
然者彼三公方罪名を負せ奉り候も皆悪謀奸舌之所
為ニして 天朝江對し奉り候而も重罪ニ候〇萬一尽忠
報国之志烈敷手ニ余り候族有之候節者夷狄之力
を借可取押との心底顕然云々御憐愍之御趣意を以
悪謀共を以厳科ニ不被所誅罪も御寛仁二して執政之
御方水戸家江迄被参種々御教訓有之候へ共却而柔弱
之御振舞と侮り候逆意此条ニて明白ニ候抑
天道ニ背き候悪謀共僅之逆徒を誅し候ハん事如何斗
之儀ニ有之何之為ニ夷狄之力を借なん
公邊を侮り候慢意可憎も余りある事ニ候
其上當時之御模様之如く因脩姑息之御政事ニ而一年
送りニ被為過候ハヽ近年之内 天下者夷狄乱臣之物ニ相成
候事必然之勢ひニ御座候故旁以片時も寝食を安し難く
右者全對馬守殿奸斗邪謀を専ら被致候処ゟ差起候儀ニ付
臣子之至情難黙止此度微臣共申合對馬守殿を及斬殺候
因脩姑息之御政事ニ者如此之乱臣逆徒之御誅戮之事ニ
して正路有志之大実ニ寝食を安し難く存候得共
日月照臨之限り者 天道之むかざる之謂れ明らかにし
て逆賊者追々自滅可致候得共 天下も夷狄ハ勿論
乱臣共の物と可相成氣遣ひ者無之候
對馬守殿之罪状者一々枚挙ニ不堪候得共今者一端を挙て
申候得者此度 皇妹御縁組之儀も表向者
天朝より被下置候様ニ取繕ひ 公武御合体之姿を示し候へ共
実者奸謀威力を以奉豪奪候も同様之筋ニ御座候故
此後必定 皇妹を樞機して外夷交易 御免之
勅諚を強而申下し候手段ニ可有之其儀若も不相叶候節者
竊ニ 天子之御譲位を奉醸候心底ニ而既和学者江申付
廃帝之古例を被為調候始末実ニ 将軍を不義ニ引入
萬世之後迄も悪逆之 御名を流し候様取計候所業ニ而
北条足利ニも超ん謀逆者我々共切歯痛憤之至可申様も無之候
凡是迄之妄言者 幕府にして実事と存候人有之間敷
事者奸謀之徒も能々合点致居なから唯上方筋を
始め遠隔之地ニ相聞候而被欺候人も有之候ハヽ往々
公武之間を妨叛逆之一助とも可相成欤之謀斗ニ有
之此度も京都江者専ら周旋致候程之事ニ候処今此
ケ条ニ至候而者忽狂乱発表之證を顕し候方今之事件
難欺之妄誕ニ心付不申候か又者暴慢之乱心より若も
己か叛逆之賊を仕遂候ハヽ其節 天下之人を可欺
為ニ兼而申置候事か兎にも角にも今度之
御縁組者 皇妹を豪奪し奉るとも同様とハ侍君
無人之讒口更ニ可申様も無之素ゟ此 御縁組之事
對馬守殿が分而御取扱被成候儀ニ無之事ハ 天下之諸人
能存居候事ニ候得共對馬守殿ハ申も即御執政方御一統
之上之御事詰る処者
公方様御上を悪様ニ申成し諸人ニ疎ませ
公儀江叛かしめん之底意二て其叛逆之悪謀ハ明らか
成ものニ候○皇妹を樞機して外夷交易 御免之
勅諚を強而申下し候手段云々とハ何事ぞや既
皇妹を豪奪し奉りと申ハ全 幕府者
天朝之為ニ賊にと申事ニ而此暴言之趣ニ而者其
皇妹を樞機いたし候迚 御免之 勅諚下り候道理者
有之間敷又強而 勅諚を申下し候と申もの即暴
政といわんか為之前言ニ候へ者 皇妹樞機抔之妄言
にも及間敷惣テ此件ニ至り忽ち天罰を蒙り心狂
乱いたし候も可有之候〇其義若哉不相叶候節者竊
天子之御譲位を奉醸候心底云々既
皇妹を樞機せすば 勅諚を下し難趣ニ乍申今
天子之 御譲位をさへ私ニ醸候抔ハ俗ニ所謂尻口之合
ぬ申条ニあらづや前にも申通り 幕府二て
廃帝之古例を御調北条足利之例を引候と申偽者
去ル午年之二月副使之讒言ゟ出たる妄言にして
其節之執政方ハ夢にも御存無之事ニ候へ者况其後
之執政方も存可有様も無之候凡如此妄誕之虚言を
構へて 幕府を朝敵之如く無実之罪名を負せ
なから佞舌を以て忽ち 幕府を不義ニ引入
萬世之後迄も悪逆之 御名を流し候叛逆人己の
外ニ有之様申唱候而いかなる悪人を可欺之巧言二候か
扠又外夷取扱之義者對馬守殿弥増慇懃丁寧を加へ何事も
彼等か申処ニ随ひ日本周海之測量之儀迄差許し
皇国之形勢委敷彼等ニ相教近頃者品川之御殿山を不残
彼等ニ貸遣し江戸第一之要地を外夷共ニ渡し候類者彼等を
導ニし我国を取らしめ候も同前之義ニ有之其上外夷應
接之後を毎々差向ひ二て密談数刻ニ及ひ骨肉同様ニ親
睦いたし候旨国中之忠義勇憤之者をば却而仇敵之
如く忌嫌ひ候段国賊と申も餘りある事ニ御座候故
廟堂之御政務者委敷窺知るべきニあらずといへ共大躰
當時之形勢を以推察いたし候へ者あたらずといへ共不遠
之道理二て今奸賊共對馬守殿を讒し候奸心より
侫舌ニ任せ余り妄言を咄候故却而自分虚妄之
偽言を顕し候事件不少候発端より外夷を拒む之御心
強應接之度毎ニ彼か申条を抽れ候事ハ承り及ひ
候得共今更慇懃丁寧之御あしらい可有様無之事ハ逆
徒も心ニ者能承知候事ニ可有之を口には如此妄言を咄事
めつらしからず候○日本周海之測量を差許され品川
御殿山を貸遣され候共無拠評義之上之御計ひにて
對馬守殿壱人之思召ニ可有之様ニ者無之其上周海測量
及御貸地等之事も夷人之申条強而挫き難候て御許
容相成候も内間ニ如此奸賊共隙を伺ひ居候折柄戦争
之端を開候而者天下之一大事ニ可及事を御心配
之様ニ可有之候左候へ者外夷之應接厳ならざるもと者
根元者皆逆徒之所為ニ有之候○彼等を導我国を取
らしめ候も同前之義とは決而悪謀之奸舌より出候妄
言ニして論すべき迄も無之事ニ候〇外夷應接
之後毎々差向ひ密談数刻ニ及ひ候事共彼を親
睦被致候て之故ニ而無之應接に難差許之事件を猶
又委敷解示され候事などは可有之も難斗候〇国
中之忠義勇憤之者とは己か逆徒を指ていう欤
然者其逆徒を国家の仇敵と忌嫌ひ候事何ぞ
對馬守殿御壱人ニ限らん逆徒を忌嫌ひ候者真実之
国忠なるをや
對馬守殿長く執政被致候ハヽ終ニ者 天朝を廃し
幕府を倒し自ら封爵を外夷ニ請候様相成候義明白
之事ニ而言語道断不届之所業と可申既先達而シイ
ボルトと申醜夷ニ對し日本之政務ニ携呉候様相頼候
風聞も有之候間對馬守殿存入様ニ而者数年を出すして
我国 神聖之道を廃し耶蘇之邪教を奉候て
君臣父子之大倫を忘れ利欲専らの筋而已ニ落入
外夷同様禽獣之群ニ相成候者疑なし微臣共痛哭
流涕大息之余り無余義奸邪之小人を令斬殺候上ハ
奉安 天朝 幕府下者国中之万民共夷狄と
成果候処之禍を防候義ニ御座候毛頭奉對
公邊異心を放候義ニ者無之候間伏而願候ハ此後之處
井伊安藤二奸之遺轍を御改革被遊外夷共を攘逐
して 叡慮を慰めたまひ万民之困窮を被遊御救候而
東照宮以来之御主意ニ御基き真実ニ征夷
大将軍之御職任被遊御勤候様仕度候
天朝を廃し候とは前件ニ委敷弁候通己か逆徒
之讒口より出候事ニ而執政方之内左様之異心有之御方ハ
決而無之御事と幾度申出候而 幕府を讒し候ぞ○
幕府を倒すとハかくいふ逆徒之主類ニ而執政方御上ニ者
無之候○自ら封爵を外夷ニ請候様相成云々外夷者
勿論逆徒之封爵を請候も忠士之道ニ無之故御制度者
不相替厳重ニ而逆徒本意不遂候ハヽ天下之幸福
にて候〇シイボルトに對し日本之政務ニ携呉候様相頼候
風聞云々とは跡形もなく余り之妄言ニ候
本朝之執政何故醜夷ニ国政を頼候ハん妄言にも
程にてあれ今逆徒讒口ニ奢り如斯
皇国萬代之恥辱と成べき偽言を咄候事実ニ
神州之大罪無申計候〇神聖之道を廃し君臣
父子之大倫を忘れ也利欲専らの筋而已ニ落入外
夷同様禽獣之群ニ相成候とハ逆徒自分之所業之
事ニ候を近年有徳之民家ニ而者強盗を恣ニし
暴悪を自儘ニ行ひ候而諸人を苦しめ
天朝 幕府を腦奉り萬人を傷ひ候事枚挙ニ
不堪此逆徒之亡ひ候期至らずバいつか
叡慮を慰め奉り萬民の困苦を救し候時あらん早く
逆徒を誅戮し 東照宮以来之御主意を建真実ニ
征夷 大将軍之 御職任を被遊御勤候様仕度事ハ彼か
言を不待所祈ニ而候
若も只今之侭ニ而弊政御改革無之候ハヽ天下之大小名
各 幕府を見放し候而自分々々之国而已相固候
様ニ成行候者必定之事ニ御座候外夷之御扱さへ
御手ニ余り候折柄右様ニ相成候ハヽ如何御処置被遊候哉當時
日本中之人心市童老卒迄夷狄を悪ミ不申者一人も
無之候間萬人夷狄誅戮を名といたし旗を揚ル大名
有之候ハヽ天下者大半其方ニ心靡候事疑無之実以
危急之御時節と奉存候
此条ニ至逆徒弥己か奸謀を顕し候其子細者今弊政
御改革と申者前ニ井伊安藤二奸之逆轍を御改革
云々申たる同し事ニして其主意者自分共之申条ニ
随ひ被成外夷打拂と申を只今之御役方ニ而者とても
成就不仕候間午年以来御咎被 仰付候方被乞再勤被
仰付其方ニも天下之御政事御任せニ相成扠ケ様ニ申上候
天狗連共を始め諸国同意之者共を集め存分ニ仕度との
事ニ有之然れ共天下之御政事此逆徒之趣意ニ随て
御改革可相成様無之事ハ逆徒自分も能承知ニ可有之
然ルを如是成さる時者天下之大小名各
幕府を見放し己か叛逆ニ与し候様可相成と天下之
人ニ勧度存候下心を流石ニさも難申処より自分々々之
国而已固候様成行候抔申教候言中ニ忽隠謀之底意
相顕候へ共如何程勧め候迚誰人か累代高恩を蒙り候
公邊を見放し逆徒ニ与し候人是あらんや○外夷之御扱
さへ御手ニ余りける者午年之秋柔弱無道之徳川之家
格を取上云々申処之意氣ニして
幕府を侮り衰弱と致即天下之大小名ニ叛かし
めんと相謀り候下巧ニ候○當時日本国中之人心
市童老卒迄も夷狄を悪ミ不申者壱人も無之
云々とは逆徒之言をまたす誰欤是を思ハさらん
况執政方ニて不思召事あらんや然ルを此又勢に
市童老卒迄も悪ミ候夷狄を
公邊之御役人方のミ世間之人氣ニ反し候と候て諸人ニ
幕府を背かしめんと巧たる其底意推て知るへし
○夷狄誅戮を名として簱を揚候大名有之候ハヽ
天下者大事其方ニ心靡き候事疑なしとは
逆徒自分夷狄打拂を名として簱を揚んの隠謀
をはるかに唱へてあらハすものや然共逆徒己か奸謀
之妨に不相成候人をバ真実外夷と親睦いたし候ても
其人の事をば更ニ不唱己か悪謀之妨となる御方々
をば外夷嫌ひと知り候ても強て虚名を負ハせ候て
悪ミ候を以て相考候へ者夷狄打拂と申ハ名目斗ニ而
別ニ隠謀之次第ある事ハ申まても無之顕然たる事ニ候
皇国之俗ハ君臣上下之大義を弁し忠烈節義之
道を守り候風聞ニ御座候故 幕府之御所置段々
天朝之 叡慮にも相反候処を見請候ハヽ忠臣義士之
輩壱人も 幕府之御為ニ身命を抛候もの有之間敷
幕府之孤立之勢ひニ相成果可被遊候夫故此度之御悔
心之有無者 幕府之 御興廃ニ御係り候事ニ御座候故
何卒此義御勘考被遊傲慢無禮之外夷を疎外候て
神州之 御国躰も 幕府之御威光も相立大小之
士民迄も一心合体仕候而 尊王攘夷之大典を正し
君臣上下之徑を分明ニまし〳〵天下を死生俱ニ致し
候様御所置希度是則臣等身命を投奸邪を殺戮し
幕府悪政之諸有司ニ懇願愁訴する処之微心ニ御座候
誠惶謹言 豊原邦之助
かそいろの育てし身をも君の為捨るハ代々の恵ミと思へハ 平親忠
皇国の俗ハ実ニ君臣上下之大義を弁し忠烈節義之
道を守り候風習ニて今此逆徒の如く君臣上下之大義を
忘れ忠烈節義之道ニ反して専ら虚偽妄誕之讒言を
構へ第一 天朝を欺奉り数百年之
御恩澤を忘却いたし候而已ならず却て恩を仇に
報して 公儀を讒し執政方へハ乱妨を働候始末ハ
皆外国之俗ニして 皇国之人臣ニ者曽てあるへき所
業ニあらず〇幕府之御所置段々
天朝之 叡慮ニ反し候御所置ハ曽て無之候事を
此段抔ハ別而奸侫之妄言を以
幕府を朝敵之如く申唱諸人を欺く讒口ニして
可申様も無之叛心を顕す一端や○忠臣義士之輩
壱人も 幕府之御為ニ身命を投候もの有之間敷と申
而已者 幕府之御為ニ身命を投候様ニ申偽候得とも
露斗も 幕府之御恩を存候ものたとひ私之恨ミ
有之候迚いかでかケ程之虚妄を構へて讒し候事
あらん天地ニ置処もなき身を以己か逆賊之偽【?】中ニ
のミ忠烈節義なとヽ申唱候共誰か其奸悪を弁へ
あらん○幕府者孤立之勢ひとて逆賊者望む処ニして
其余ニあるべき事ニあらず〇此処御悔心之有無者
幕府之 御興廃ニ係り候而者己か奸謀之君を出し
不相成候時者天下を奪取可申との暴言也○傲慢無
禮之外夷共を疎外せん事ハ願ふ処ニ候へ共差掛り
此傲慢無禮之逆徒を先疎外して
神州之 御国躰も 幕府之 御威光も相立
大小之士民迄も一心合体仕 尊王之大典を正し
君臣上下之徑を分明ニまし〳〵度ハ申迄も無之
外夷疎外ハ其後之事ニ候〇歌ニ君のためとあるは
逆徒己か尊仕する処之君をさすなるべし其君の
志を継候而 公儀を讒し執政之御方々に乱妨
いたし叛逆を謀候而身命を捨ルを忠義と心得
候得共実は其君の為にも忠ならず却而悪名を
相増し終には其君の大事を醸し候大不忠の振
舞ニ候とや
文久二年壬戌孟夏中旬借写すものや
(朱角印「麗斎」)
(貼付け題箋)
「東海貝譚 上下」
貝の噺上の巻 朱印「麗」朱印「斎」
四つの海もしつけき真中へ聲高砂と大
勢の智仁武勇の三徳を国にはらんで
築立の御台場とて厳重の御威勢
異国へ吹なびく風を嘯く寅の年
春日かゝやく差潮の中に栖し貝類は
蜊蛤に猿頬汐吹貝こそうちつれて
そこかしこ這出す遥の渚に汐吹かあ
ハれ無常のこへをしてコウ蛤さん是ハ
とふ云事であろふ此海をアノよふニ深く
埋て我等か居所もなく親貝子貝傍輩
おもひ〳〵に数の行末迄も便りなくアノ人聲
のおそろしき御前様訳を御存じかへと云に
蛤ふり返り此海へあの様な山を築たのハ
大変じやどふ云訳と思内此間岳【おか】を住
居せし小雀か仲間へ飛入して岳の様子
を聞て海を埋るは御臺場とて去年
の夏ハ異国から船の来るので御要害
御大名の大騒で御金が入ると云手前ハ
今迄いつくに居たと聞たれハ私ハ暫く
勧学殿の簾に住居いたし御影ニて
聞覚たる蒙求や史記に左傳其外も
読書ハ大概覚込て夫から上野浅草
山の御堂に堀の内の祖師か八戒
八葉の妙法蓮華経の題目をも聞覚
たることありまた神道をも心掛神田
山王芝神明其外社内拝殿の住居
に飽て御座敷御家形の御座敷御縁
の先へもひよろり〳〵と御長屋迄も飛
めぐり市中残らず裏表住居の商人
は欲の引ぱるつらの皮諸色を高く
金銀の借貸までも不実意を見るも
中〳〵氣の毒故広野へ行ハ流行の
西洋流の砲術大筒の音人こへに廣ひ
世界にちいさひ身の過き処さへなき故に
姿をかへて海中へ飛込んて見れば
爰も俄ニ埋られたる有為転変の有
さまを聞に付ても御臺場の模様を
誰ぞに聞たいと厳重なる事に岩の
螺の貝か居るを見付て猿頬こえを
かけコヽワ螺さんどふじや我等は居所を
埋られて爰までよろ〳〵迯て来た
螺貝夫りやとふした事であろふ猿頬
どふしたとはなさけなひ御存ないかへ
ソレ唄にもやもめの烏の月影にうかれ
来る身のかなしさは今ハ我身に引替て
甲斐なき此からだねぐらに迷ふて居る
わいのふ蜊猿頬時に螺さん品川の海を
埋めますハ何事で御座り升螺貝アノ海
を埋るは御臺場とて去年の異国船
か浦賀の港内へ俄ニ乗込て夫から
始て御要害の御臺場去年六月は
陸の方の大騒てまた今年ハ異船の
来るのさ夫て此御臺場を作りしは
深ひ御計策でも有かしらん我等には
頓と一切分らぬ夫人ハ萬物の霊とて天公
を尊ふ事は孔子の家語にも謂し三百
六十の内長者と云て智恵才覚あり賢ひ
ものハないと云か此海中へ庭の居石を
見るやうに御要害の御臺場をこしらへて大
そふな御金を入れて萬一異国船か来て
軍を仕懸たらバ打拂ふための御要害じや
そふなりやアちと不運ものじや都而か様の
所へ御備の陣取をするは死地といふて
軍立の備には余り好まぬ陣取じや其
譯は此御臺場へ味方から自由二續て
勢のうしろ備と云ものかなく異国の奴原
を一番に打拂ふて仕舞ならよけれとも
異国の船の来るといふハ春か夏かの間
であろふ軍法にも春は東を討取らず
夏は南を征さずと新田義貞ハ北国を
征さんと終に討死し唐土漢の高祖は
冬北国の匈奴といふ夷を責めて都而
利を失ひ大ニ敗北して夷ともに侮られ所々
大ニ悩まされて難義をする是らハ畢
竟天の時を考へすして敗北せしなり
此御臺場も夫々同し春秋ハ多く東風
南風か吹ものじや其時ハ南に向ひ大筒
や石火や鉄砲を打懸る時は忽に煙り
か味方へなびき味かたの矢先ミへかね
又敵ゟ打懸る大筒ハ皆〳〵ミかたへ来るで
あろふ味方ハ其時図【?】を放して萬一打損
したらバ味方皆死てあろふ其後詰の
御備建御手配も有であろふか昔の大将
方は好まぬ死地の陣取じや夫には能味
方の計策か有事であろふに蛤貝
螺貝のいふ通り去年異国の船か来た
時は世上大さハきて有た乗込て来た
異国の舶へわずか四艘の船て其上軍
を氣【率?】てもなく只軍船に乗て来て
居る斗日本て見た事ハない蒸気船か
死地へ四艘の船を乗入れて中〳〵手
出しをする氣遣ひハない陸の御大名の
大騒きハ何事てあろふ余り周章て
異国の奴原にちと氣の毒なさても
見よ四艘の艦へ五百人も乗ても高が
弐千人てあろふ日本の拾万石位の大名が
御二方も向ふたらバ一捻りニ捻り潰して
仕舞てあろふ夫々異国の艦か場がハ
るいと艦を少し動したらバ岳の方では
びつくり仰天町半鐘を打といふ事を諸
向へ觸出したと云事じゃ一向わけが
分らぬ螺さんなせ半鐘を打と云事じや
惣体軍の時ハ町半鐘を打と云法か有か
え螺貝ヲゝヨ乱たる時は鉞を用ひず釼
戟を以て切り鎮め世を治め又能世の治り
し時は楽を以て民の心を和めて其
楽器の五ツを作りて第一ニ演【?】と云五笛
を作りて是ハ北なり水の音にして五音
には羽と云唇の音と此聲ニ深く思ふと
いふて思ふ事を司とりて又南を信と云
に造り火のこゑニて陽氣よく養ふ木
とす歓ひ慕ふ事を司る萬物を和せ
しむ音拜【聲?】じや敢【鼓?】ハ東ニ属す東ハ日の
出る地秋氣発生する方角故蝶【ママ】蝀【螮蝀=虹】東に
ある時は指さす事なし蝶蝀は西に属して
萬物盡殺と陰聲ニして都而別断と
いふて強さをたつ時に取てハ秋の事
陰鬱の氣たる故ニ太鼓又震雷といふて
軍の時敵に責進而太鼓打て掛りまた
味方ニ引揚る時には鐘を鳴らして味方
の氣を鎮て引上る既ニ火事てさえ
出太鼓引鎮り鐘といふて打へし其陰
聲の半鐘を打て夫々の詰め所〳〵へ
集りしと云事てハあろふが昔の大将
方に左様な逆な事ハきらひて既順成
時分萬物を育て不順なる時ハ萬物を
弊す迄軍ハ惣して順を以て逆を打
を打といふて兎角天理ニ逆らハぬ様に
するものじや螺さん御前ハ軍にきつい
功者たかとふ云事と知て居なさるへ
螺かい我等は先祖神代の時ゟ軍と
いふハ一番がけじや其訳といふハヲイラノ聲ハ
十二律の外で秋氣りん〳〵とする処
螺貝こえを発る時ハ山々谷々も鳴響
猪猿狼其外の猛獣迄も大きに恐れ
をなす故に軍掟は一番貝には兵粮を
遣ひ二番貝には具足を着て身を堅
め三番貝には皆持場〳〵の詰所へ出て
大将の下知を待数万騎の中でも貝
にて皆備を立る事神代より源平の
戦ひ應仁の乱又は新田足利楠夫
より武田信玄上杉謙信今川義元
織田信長の軍建陣取の模様も能々見
覚て居るに軍といふものハ大事の物
で軍師名臣ならでハならぬものじや
唐にてハ譬下賤の農夫たり共軍学ニ
達し智有ものを撰て軍師大将
に命して合戦をする故に周の武王
は太公望をかゝへ呉王は孫子を軍
師にし漢の高祖は張良韓信を抱
蜀の玄徳は臥龍山へ雪中に三度
足を歩んて諸葛孔明を頼て軍師
とし是等は皆下々より軍学に達し
たる者を用ひ国家を治めて萬代に
名を残す吾国は高位高禄の人下に
寄事を恥とする国風故に農夫野夫
にも軍学に達したる智あるものをい
つれなりとも是等を用る事をせず頗る
御用に立ものも埋れ木となるたとへハ信玄
公にて名将有し山本勘助を見出し
軍師として侍七拾五人を預け又秀
吉公は下々の内より勇士ニ成べき
ものを撰ミて古今ニあらはしたる加藤
福島蜂須賀を初として末代ニ名を
揚たる勇士数多あり此度ハ日本の内
合戦とハ違ひて勝手しらぬ異国の奴原
の合戦をするは中々高位高官の人を
大将としてハとふあろふか異国の者は
砲術ニ妙を得たるといふ処萬の戦ひは
船手の合戦故ニ味かたも兼て其氣を
抜く方便なくてハならぬものじやが有
なら聞かしておくれ
上の巻終
同下の巻
汐吹がコウ螺さん其氣を抜くといふは
とふする事じや螺貝其氣をぬくとは
軍事に臨て兼て氣変にありまづ
敵方も砲術の妙を得味方是と難義
の時は船手の戦ひ故ニ燒艦の用意して
六拾石位の船を百艘程こしらへ置又
押送りの船位の小舟を百艘用意して
燒艦には燒草を積置是ニ熖硝に
油を流置て先安房の方又ハ伊豆の
方浦賀上総江戸の方も四方八方手
配して萬一見分なく陣取法制を言其
法建の根元ハ東西南北の四隅是有
合せて五法と云て五人定め五人を一位
と云是備立の元也十五を一隊と云て
人数五拾人也何万人ニ成とも是ゟ段々
組立る故に曲と云共皆籠る也法制とハ
籏印馬印笠印袖印鐘太鼓進退の
相図也又官道とは小頭籏奉行鉄砲
頭弓大将長柄頭目付使番其外の
役は官道也至【主】用とハ兵粮小荷駄
金銀米穀城取陣取いろ〳〵の用具ニ
至り軍師の外を勤る役也誠に軍と
いふものハ大名衆でも極て難義の事二而
第一金銀を多く費し兵粮米を潰し
其上家来を討死させたり万苦の上
下手をすると我国を敵に奪われ
先祖代々の家名を潰し妻子も道
路に迷ハし故に治国に乱を忘れす
下を愛し家来を憐ミ家事倹約を
元として武藝に儘すといへり兵書
にも兵は国の大事死生存亡の道
察せずんバあるべからずと是を使とする
には五事を以てすると有れハ譬へバ
機の糸のことく竪糸三百六拾筋かよふハ
暦然と法を立て横糸ハ右よ左よと
すれ共竪糸の延ちゝミなく動かぬ様に
軍法を立る事じや右軍法を立るに
はよき大将や名臣かなくてハ中々出来
かたき事也其国に名士有る時ハ敵
国ゟ是をおかす事ならぬものじや譬へハ
山に猛獣ある時は其山へ■【操ヵ採木カ】業又ハ
樵夫もいらぬもので国によい軍法名士が
なくてハなら【ぬ脱ヵ】ものじや智者あれハ戦ひ
強く小人の武勇壮健とは違ひて
軍は六ケ敷物入用の事ハ国用意足を
足事をよくする役人を用ひて軍事を
調国用を足の時は思ふ儘に備建
人を遣ふ事の出来る故に漢の高祖
は世を治て後蕭荷を第一の官禄
に高く報したるハ蕭荷は合戦に構ハす
国用を専らにして高祖ニ思ふまヽに
働せたる故四百余州手に入て治たる
は全く蕭荷の働なる故じやと賞
したり御大名方ても軍事ハ第一の肝
要じや勝手かわるければ軍事の調ハ
ぬものじや第一萬卒をあかなれむるも
出来す香餌の下には掛巣多く集る
重恩の下には勇士出来る士を軽くするも
賞の軽重ニ有と高名手柄も其時に
随ひ思ひ恩賞なくてハ皆動かすと調
練元ゟ第一の事なれば又国用を足すに
理ある故に役人を撰ミて内の事を足すも
一ツの軍法なりしかし余り噺に氣を
奪われ口から出ほふだいの事云ニ定めて
螺を吹といふて有ふ此噺ハ海の事ゆへニ
皆〳〵聞流しにして水にして貰ふ事
時に何合戦の時に風の模様ニよりて
風上より火をかけ敵を燒討にする
工夫か第一じや其火を懸るも時に取日
に取あり時取あり共天の燥なりといふ
日取とハ天の二十八宿の中箕宿壁【宿】翼
宿幹【ママ、軫】宿の四星の配當の日取を用ひ都而
晝の吹出す風ハ久しく吹夜の風ハ早く
止むと心得敵艦の風上より燒討を仕
懸る時は此火に夷賊の心を奪われ
自然燒討の方か空虚ニ成其図を
見込て味方より大筒小筒を船の水
際を眼當に打立すきまなく打すゝめ
其虚をねらひて兼て用意の押送り
船に水主拾人に若手血気の勇士弐拾
人程にて乗込せ得もの長柄槍長刀
熊手打鍵【鎌ヵ】の長道具に鉄砲をうち
かけて程よく飛込無二無三に血気
盛んの人透を伺ひ切倒す工夫をなし
一艘の船を乗り取時は惣軍勝事に
なるもの也かよふな事ハ皆大将の心中に
有事故ニ都而大将は始斗をいふ
事を第一にして五事七斗と云兵書
の意を知らねバ中々数多の人を
指揮して合戦ハ出来ぬものじやとそ
蛤貝の其始斗といふ事ハとふ云事じや
螺貝始斗とハ先合戦の始ると敵味
方の目算する事敵の人数と味方の
人数と見くらべる敵の大将の器量を
計敵味方の剛臆をくらべ又戦陣
の藝術砲術の目算を考へ夫を五事と
いふて一番に道二番に天三番に地
四番に将五番に法と此五ツの事を
大将の胸にたヽんで諸事を指揮
するものじや先第一大将はハ萬卒の心
を一致にさせて死生を同ふする事掛
るも引も死するも生するも上たる人を
見捨ぬ様にする事上たる人も下々
の事を能思ひ遣りて仁恵を以て上下
合調して萬卒互に救ひ助て心を
剛なるやうにするを道と云其備ハさるを
以て敵と戦ふニハ甚危し道ハ暫くも
放るへからず離るへきハ道にあらず戦をして
勝べき道の見へさるを以て戦ひ万卒
のなき趣向の道のミへぬを以て軍立
をするを危し此図を能々勘察して
軍備を致事又弐番に天といふ事ハ天の
時なり昔も今も行の軍行ハ一ケ年
十二月の運ひ一ケ月三十日の運ひ一日十
二時の運ひ天は故より今に至る迄日夜
朝暮怠らず運ひ行故ニ惣して皆陰陽
とは日取時取方角の吉凶十二支
五運七曜九曜繰り方雲煙氣の見様○【朱】
【頭書 朱丸 五行相尅」を都而天の」時は春夏(朱三角)」秋冬日夜(朱三角)】
飢饉豊年日照洪水大風雨雪雷の
事潮の満干の類皆天の時也大風吹時ハ
風上より火をかけ敵を燒討し大雪の
時は日月をうしろにし釼戟を以て
敵をふせき其外天の時に臨て千変
万化の計略有三番目に地と云ハ遠
近廣狭とあつて所はゆるやかにして
難所は歩行立よろし狭地とせまき
所は小勢にてよろしく死地とハ味方
引く事ならぬ地ハ皆死地とするを云また
生地と云ハ味方守りよろしき天地の理の
理はいろ〳〵有又四番二将といふハ中〳〵
紙筆にハ申難き事なれ共将ハ智
なると有と中〳〵智恵斗にもあらず
又利口発明斗にもあらず学問の廣き
にもあらず弓馬槍剣長刀の奥儀を極
めたるにもあらず又語道ニ発して三世に
通達したるにもあらず只能々人情に
通し抜通りたる主の下たるもの敵と
なり味方となりてさま〳〵の人心をよく
知り意味深長の情合に通したる
大将の事也又五番に法といふ事ハ
孫子の兵書にある如く治は曲制官
道主用なり先怒制とは軍の備時
じやモウ汐かさして来る深ひ処へ往て
又別の咄しを仕様猿頬汐吹蛤初め
蜊も友につれ立てそろ〳〵と這出しぬ
巻の下終
【左丁奥 貼付け題箋】
東都地震の記 朱丸印「麗斎」
東都地震の事を記す
山謁【竭ヵ】川尽るはな【し脱ヵ】と昔しよりいひつたへたれと
ニ【こ?】はかヽるへき理を挙つらへるあたし事
よと年頭おもひすてたりしかことし乙の
卯の神無月二日の夜亥の刻はかりに吾妻
の都にて西北とおほしきかたよりいといたふ
地震して千住ハ家居半くつれ小塚原ハ
くつれたる上にところ〳〵火出吉原は兼て
役【設?】置たりし用心粉【橋?】てふもの或ハ落あるは
動かさりし上に時のまにやけいてける
ほとに大川より外はのかるへき道なけれハ
死うせたるものいと多し
三浦屋とか云にはふたヽひ震ひいてん
事のミおもひくして燒出る事はかさりし
にや穴蔵てふものゝ中にひそミ居家の
内なこりなく蒸ころされたり姿海老屋とか
いへるは主しひとりのこしてミな死失岡本
とかいへるは主をはしめ遊ひめまて四十人
あまりやけうせぬおのれも角町といへる街
の家主金右衛門と云ものと同しちまたの
安次郎といへるものと元学の師をともに
してけれハ四日の日そかかりにやとりせし
大音寺前とかいへる処を訪たりしに金右衛門ハ
ひとりのまな娘をうしなひ安次郎ハ母弟を
はしめとして抱置たりし遊女八人まてうし
なひしとなん此廓より
公けへは六百三十人の外ハ死失せしもの
ありしとなと訴奉つれと三日のあしたゟ
七日の夕まて葬ふとてものせし屍ハ今
この里の寺ひと所にて千二百人あまり
ありしときけハ街にてこの里の死失
たるもの六千人にあまりけるしなと傳るも
誠ならんかし金右衛門安次郎なと訪たる折
しも帰路にこのさとよきりしか得ならぬ
臭の鼻を襲て堪へくもあらさりしに
やけたる屍をこもむしろに包五六十人も
おなし車につミかさね寺々へはこひ行様
哀なんと云はかりなし
吉原より東南のかたハ山谷橋場大かたは
くつれ今戸よりも火出て田町一丁二丁より
竹川通南北馬道聖天横丁三芝居北谷
中花川戸山の宿なと大かたハやけ失たり
よの常の災には燒たるあともぬりこめ立連
なり街の如なるハ此都のさまなれと此度は
ぬりこめの土ゆりおとされし上に火かヽりつ
れは浅草寺より北の方ハ只ひとめの燒
すなとなりはて又浅草寺より南のかたは
廣小路並木家居ミなくつれ駒形より火
いてゝ三軒町諏訪町黒船町御厩川岸迄
やけうせ西のかたハ菊屋はしのほとりより
火出て新寺町新堀なとニまち三まち燒
うせたり
諏訪丁壱丁にて四十七人死うせ茅町三丁
にて百十八人しにうせぬとそのほとりに
住る理兵衛と云ものゝかたりてき駒形ゟ
御厩かしまて残りたるぬりこめ三ツの外
あらさるよし
是より西のかたは外神田下谷根津金杉
箕輪大音寺前なときたのかた程はけしく
て山崎町車坂廣徳寺前池のかた天神
坂下明神下仲町谷中くつれたる家居も
なく坂下より二まち三まち茅町より切通し
廣小路より裏御徒丁長者町
御成道の邊りまておなしさまに焰となり
石川井上大関黒田小笠原堀内藤なとの
国つ守燒されハ崩る
堀の御家にてハしにらせたるもの百人に
あまりて奥かたも湯嶋天神のうらさかに
かヽり本郷へ退玉ハんとせしか石段くつれ
のほりかたかりしほとに取てかへし神田
明神の前まてのかれ玉ひしか駕籠の
中にて俄に失玉ひしと其邊に住居する
吉五郎といふものかたりて其後庄内の
御内人黒川一郎と云もの其御内の人より
聞しとてかたりけるか其折しも奥方ハ
ミこもりて八月になんなり玉ひしよし
あハれにもまたいたハしけれ
根津下谷より西のかた本郷にてハ加賀の
御家のミすこしハくつれつれとまるては
けしくもあらさりしにや大塚の西なる鬼子
母神のほとりのミ三丁四丁やけうせ壊たる
家居いと少なし小石川水戸の御家に
のミしにうせたるもの百三十人あまりにて
御家の北なる小笠原とかいへるは君も内君も
棟木にて押潰されうせぬるよし誠にや
水戸の御家にてハ前の中納言の君の
ふかくたのミ覚されし藤田虎之輔戸田
銀次郎も死失ぬ虎之輔ハはしめ難なく
のかれ出しかと老たる母刀自のあとに残り
しをおもひいて引かえし救出さんとして
軒の下に失果つと其国の人より聞ぬ此
国の儒者なる會津恒三の教子にて長
門の人に赤川淡水といへるものありしか
其物かたりに虎之輔の母ハいと雄々しき
老女にて我子なから日頃ハ物の用にも
立へきものよなとたのもしくおもひつるに
其甲斐もあらて深くたのまれ奉りし
君をおき翌をもしらぬ老の身のため
あたら命を棟のもとに捨たりし不覚さ
よとむつかりしよりこの母ありて此子とや
かゝる事をやなとゝ諸ともに語り合たりし
小石川より南のかたニてハ小川町ハ西俎板橋
より東猿楽町まてなこりなくやけうせ国つ
守の邸くつれたるハ青山土井酒井松平
讃州淀稲葉土屋伊東小出なとの御家々
にして松平駿州堀田備州松平豊州板倉
榊原内藤なとなこりなく燒失たり
讃州の御家に徒士の士廿人あまりも同し
長屋に住居せる中に其頃初のほりの若
ものありしをもろ人の日頃打より噺せしか
二日の夜ハいといたふさるかたく酒のミにまか
らんとかのわかもの只ひとりのこしおき
吉原に行たりしかは残りなく死失るとなん
豊州ハ僅五萬石の御家なるに馬十六疋人百
七十二人しにうせぬ 公へは七十六人と訴
奉りしと其国の人荻野錦橘かたりぬ
其他族もとの人々には佐藤千根野本郷
金澤酒井本間半井なとミな燒失せ
土岐といへるハ火をまのかれたりに十七人
死失しと其家の士森田市左衛門より聞ぬ
燒ぬ御家さらんかヽりせはまして燒たる
御方ゝの御家をやいつれの御家にかありけん
あるしの殿ハ先のかれいて玉ひしかと内君
より男子四人瓦の下にうつもれ玉ひしかハ
引返し下部とも諸共に力の限りはたら
きて二人ハ援出し玉ひし其間に下ゟ
火ほとはしりいて父上ハいつこ母上ハいかに
し玉へしあらあつやとおめきさけふ聲し
つるを救もあへす燒りしなひ玉ひしとかや
その父君の御心の内いかなりけんよそに聞
たに涙せきあへぬものを
小川町より東のかたハ駿河臺のミさるとも
なかりしか内神田柳原ハ殊にはけしくて
公の穀番【蕃?】ふるぬりこめ六十間あまりくつれ
落ちたふかるハなし
おのれかやとりとしつる街のミにて廿四人
死失けるか中に稲本といへる家とめる
盲の其身いちとのあやまちもなかれと妻
娘をはしめとして七人まてうしなひしも有
又十七になんなりつる娘と七と三との男子
ミたり失てものくるほしくなりつる母も有
この同し長屋におのれか垢付たる衣そ
そきなとする女ありしかきて語つるに
其夜夫ハ遠き方へとて出たりしかハ十ニ
なりぬる娘といさうとさしていねハやなと
いひもあへぬにうつはりの下に押潰され息
も突あへぬほとなりしかハ心のそこにおの
れおさなかりし時御寺の聖の十二萬歳を
一劫とか云て此世の那【ママ】落の底とかいへるに
しつむものよなとの玉ひしを聞つるか
いま其時に逢たるなめれは吾夫のミか
天か下ニ生のこる人のあるましきよと思
ゐたりしにはるかなるかたに夫の聲して
娘の名吾名を呼ハせ玉ふにうれしやいき
ておハしけんされとあまりにはるけきかたを
のミたつね玉ふことのいふかしさよと思ひニ
たれは聲さへ得いてさりしに娘ハもの云
ことのおのれほとにかたくハあらさりけん爰に
そと聲かるゝ計こたえしかハ俄に多く
の人のこゑ立騒くさまして此火きやしなハ
救出さんするほとに心強く思ひてよと云聲
の猶はるかなる方にのミ聞へしか出てゝ見
れは隣なる家より火いてたりしを瓦
の下にうつもれゐしかハなとかたりける
か実にさなりけんと人〳〵と語合たりし
御城の内にてハ紅葉山にすへ奉りし世々の
御霊屋ハ更なりむかしよりおさめおかせられつる
くさ〳〵の御寶こむるぬりこめをはしめとして
櫓石垣まて数を尽して崩れ落内腰
かけよりも火出てたり
其夜 将軍家も御小性【ママ】只ひとり召具し
玉ひ御玄関まていてられし折しも内藤
紀州のミ御供も具し玉ハす装たになく
してかけつけ玉ひ當直し居つる徒士
のやから廿人あまりと守護し奉り楓山まて
退せ玉ひしに百人番所もくつれおち
黒鍬てふもの九十七人しにうせつるよし
又見附ニての石垣ハわれさるところもなく
護持院原の石垣なと堀の中にしき
ならせしめてくつれ落つるよし
御城より東丸の内は酒井雅楽上中両屋敷
小笠原右京森川羽州會津上中の邸とも
火消屋敷因州遠藤但州松平総州本多
中務増山弾正なとミな燒うせて越州大岡
秋元池田永井松倉戸田松平伊賀阿部
勢州内藤紀州の御家なとなこりなく壊れたり
酒井の御家は五十八人死失内藤の御家は
廿八人死失て森川の御家ハ君の此日より
二三日前にかくれさせ玉ひけれハ柩のまゝに
また葬リ玉ハさるを得出し奉らでやき
失なひ玉ひつるに奥方も棟のもとに
うせ玉ひて若君ひとり庭の井にひそミ玉ひ
火をまのかれ玉へしとなん會津の御家ニ而ハ
所〳〵にあなる御やしき迄数ふれば七百六十人
失ひ玉ひしとかや五日の事なりし田町に
すめるもの来て昨日會津の御家よりとて
車十輌馬四疋長持四棹もて失し人の
なきからを高縄【ママ】の寺に運ひ行しなと
かたるもの有しかこの御家なる姫君の
かしつきなりし翁とかや其夜ハおのれか
長屋にありけるにこよなき地震ゆへ御館に
はせ参りしにはやなこりなく崩れ落姫君の
御行ゑも分らさりしかはくつれる家の棟に
立またかり腹切て失せけるとかやけなけ
にもまたいたわし阿部の御家ニ而ハ君の
公のことおハして表に居玉ひしまに奥は
くつれ落いとおしミ玉ひし側女を初め
女房達十一人侍廿人あまりうしなひ玉ひ
て奥方も梁にしかれ玉ひしかとも年頃
召仕玉ひし女房の内に甲斐〳〵しき
ものありておのか身をもて梁をさゝへ
あけ左右の手をつよくつき立息絶なから
奥方を覆ひ奉りちとも倒れさりし程に
左の御腕を柱にしかれ玉ひしかと御身ハ
恙なくおわしましつるよし後かの女房を
棺に入侍るに惣身の力を腕に盡したり
けらしいかに撓めてもたハまさりしとなむ
いまの世にはいとめつらしけれ増山の殿も瓦
のしたに敷れ救ひいたされ玉ひしか士より
上のもの二十人あまりも失ひし林家にて
すら十六人しにらせたりと其教子ゟ聞ぬ
外桜田は鍋しま毛利北条伊東柳澤我
御家をはしめとして薩州の装束やしきは
ミな燒うせ上杉板倉小笠原石川三浦真田
小鍋嶋阿部播州水野出羽大岡朽木抔なこ
りなく壊たり
亀井の御家は死うせしもの十一人と其
家の侍堀確三よりきヽぬこの確三と昌
平坂なるもの学所にありつる鍋嶋家の御内
人何某とかいへるは其親しきものヽ病ミと
らんと朔日の朝其御やしきニ帰りしかあくる
夜梁にしかれ立出べくもあらねは聲
をかけ人をよへるに火出来て救へき
すべなければ人々のいまはおもひきれよと
云すてゝ泣々も立去しか火しつまりて見
れは太刀をにぎり死しゐたりしにそ
扠は腹や切てけんなと云ものゝありしと
同し人のかたりても此御家にのミ死失せた
るもの三十五人とそか御内人木原善四郎
より聞ぬまたいつれの御家にやありけん士共
廿五人二日の暮過る頃国より爰に来りし
か生たるもの只ひとりの外はあらて毛利
の御家にては君のあすハやしきにつかせ
られんと武蔵の藤澤にやとらせられ御先
の人々の御門まて来し折しもかの禍して
鍋嶋の御家より火移しかは其さわき
いはんかたなかりしに死うせたるものも
三十二人侍ると其御内人小倉健作語りぬ
柳澤の御家は定府てふもの多き御なら
ハしなりけれハ女童のミなりつるに門々ミな
かたふき貫ぬきうこかさるより長屋の
窓をぬけ出て屏を躍越辛くして
のかれいてしものヽ外ハミな炎に立ま
かれ死失てけるにこの御家に京橋の邊り
とかや鳶頭てふいやしきものゝまなむすめ
を宮仕に出しつる男ありしかこの夜いかにも
して娘をたすけ出さハやと屏のくつれ
より入て見るに奥のかたハはや焰立散て
ける程に表のかた迄ものくるほしきまて
尋ねさまよひしにいやしからぬわかものゝ
にけもやらで御玄関に立居しを見人
の親の心は誰も〳〵同しからまし今に
なんするところにいわけなくにけもやらぬ
哀れさよ行ゑなき娘尋るよりは
とかの若ものを脊に負て帰りきしか
ひと目ふた目ハものにまきれて誰も問さり
しに娘もさたかにやけうせしなと聞え
けれはこのわかき人も親君の尋まとハ
せ玉ハめと其名問てけれとふかく包て
何ともいハさりしをかにかくせめてけれは
我は松平何某よとの玉ひしほどに扠ハ
と打驚きいそき御やしきに送り参ら
せしよしこのをのこなかりせハいかでか
助かり玉ハんといと哀れなりしなとかたる
ものありき我 御家ニては
君も梁に壓倒され玉ひしかと
御座のかたハらにすへ玉ひたりし文箱の
上に棟木落てければ筐ハくたけつれと
ふミにて支たりし程に御身は恙なく
まし〳〵けれと御内人ハ三十八人失ひ玉ひ
ぬこの夜麻布の里なる御下やしきに
退かせ玉ふにともし火たに持せ玉ねと御馬
にめされたれはかゝる中にもやんことなき
御方とはしらさりしかと會津の御家ニ而ハ
馬三十六疋失ひ玉ひしかは御のきにも
こよなくあやしかりしよし又北条の御家とか
きゝし若君其夜妻迎玉ふことのありしかハ
媒の君をはしめとしてよめ君まてあへなく
しにうせ玉ひしなとかたるものもありき誠なら
ましかはいと浅ましき事ニなん
日本橋通りははしより南のかたほといよ〳〵はけ
しくて南伝馬町鍛冶丁五郎兵衛町を始として
東西の川岸より京はしまてやけうせ芝井丁
もまたやけたり其中にいと哀れなりしは
さきつとし品川洋に夷ふせく料として
新たに築玉ひてける砲臺の中に會
津の御家にて請玉ハり玉ひしてころハ土の
そこ割やしけんと思ふ斗ニ鳴はためき厳
しく立つらねつる小屋倒るヽまておしかたふき
戸も窓もひらかねはとやせましからやせましと
ためかつしまに下より焰ほとはしり出し程に
とても死んするいのちなれハと指違ふるも
あり腹切るもあり総て十八人しにうせ幸
に火薬に火はうつらさりしかと御やしき
ものまて数を尽して死うせたりしよし
黒川一郎の父は酒井家の物主にて其
夜うけ玉ハりつる砲臺にありしか會津
の御家にてうけ玉ハれるところと隣けれハ
救ひ玉へてよと人のきくにより船出し
つれと数ある臺場のその中に會津の
御家のハ初て築立る処なれハ小屋の上も
一尺の板もてふきそが上に石炭もて六寸
斗にてぬりかため其上を二重ぬりにこめ
たるなれハ戸も窓も打やふるへくもなくて
中なる人々のあらあつやさらハ腹切んなと云
こゑの外に聞へけれと助くへきすへもあら
さるしまに炎立藪しほとにもし火薬に
火うつらハひとりもいきのこるものハあらしと
船漕かへしけるか今宵ハ常に替りて
潮ミな乾き辛くしておのか持場迄帰しか
津波やこんと夜ひとよ安き心もあらさりし
とものかたりしとて一郎のおのれに語り
候き又芝の神明前に岡田屋とて今
昔しの文ひさく家ありしかそがぬりこめの
土屏たりしに日数へて其土とり拂ハせしに
駕籠にのり男の童獨具したる商人の駕籠
舁もろ共にうせゐしかこのものいつこの
人とも分たさりけり其妻や子のなけき
おもひやられて哀れなりとかたるものも
ありきまた日本はしの四日市なる商人の
ぬりこめの際にいやしけなる男女ふたり埋れ
ゐしものありしを辻君にやと云あへり
其他隅田川よりにしハ乙めはしの邊りより
大川はしまてやけうせ水野秋元安藤
なとくつれたるもあり燒たるもあり
水野の御家にては死うせたるもの三十九人と
其御内人照嶋春丈よりきヽぬ
墨田川より東のかたは先深川ハ永代橋
の邊り僅に残して相川町黒江町大嶋町
蛤町仲町八幡門前町皆やけうせ真田水野
安藝阿波土井一橋なとあるハやけあるハ崩れ
本所よりハ総て六所より燒出たり先竪川
通りハ相生町二丁め緑町花丁まて十一丁燒失
荒川本多中山鈴木浅倉松平今井中川
奥津稲葉山本近藤津輕なとの御家のこり
少に焰となりぬ是を一処としいま一処ハ御船
蔵前よりやけ出て柳川町六間堀瀧川町
高橋まてやけ西条小幡本多松浦松平遠州
井上河州吉田摂州小笠原佐州等やけされは
くつる今一処ハ中の郷より出て荒井町番
場町弁天小路まてやけうせ松平防州
松浦壱州向井将監松平左衛門なと皆やけたり
亀井戸よりも二ヶ処やけ出小梅も引船の邊
まてやけうせぬ此六処に深川を添て死失
せたるもの四萬七千人なりしよし
深川仲町にかなものあきのふ家ありしか七人
八人の家の内のこりなく燒うせてければ三日
四日のほとは其なきから堀出すものもなかりしと
直野長三郎のかたりてけるか本所ニ而ハ津輕
の御家にのミ死うせるもの七十八人ありしとそ
小梅に名たゝる小倉屋といへる餅ひさく家
のほとりのミにて百人あまりも死うせつと
其邊りのものきて物かたりぬ
此夜の地震北は草賀越ヶ谷南は神奈川
川さき東は牛宿松戸行徳船橋まて
甚しく五十子臺まち芝駿河臺浅草上野
吉原堤本所小梅松戸神奈川なと三四尺
ほとも地割向しまの邊りハ一丈あまりさけ
砂と泥とを吹出せしところありなと云ものも
ありき合せて指折搂れハ其はけしき処
は十里あまりにて火は三十あまり二処より
いてたれと風烈しからぬをもて燒たる処ハ多くも
あらねと街のかす五千七百あまり宮居寺は
凡六千二百余り塗籠の数十一萬四千五百余り
国つ守の御やしき四百あまり御旗本の方々より
輕きものまて其家居十八萬五千八百あまりある
は崩れ或はやけうせて死うせたるもの
十壱萬八千六百人あやまちせしもの三十二萬六
十人あまりと公けヘ訴出しかともあるハ外つ
国よりのほり来しものあるはいつこのものとも
さためぬものゝ死失たるなと数ひなハ二十萬にも
あまりぬべしいまにして其夜のさまおもひ出るに
老たるを呼おさなきをたつね神を念し佛を
唱るハさてしもいはすむな木におしたほされ瓦に
しかれうめきくるしむ其上に炎にまかれ
烟りにむせひいとくるしけになき叫ふ聲身
にしミて哀れともいたましとも得いふへくも
あらぬに吉原の里に名たヽる遊め某よとて
紅井の打かけ着て白き脛の処〳〵より血流るヽ
をすあしにて泣まとへるそれの処の殿よとて
太刀も佩玉ハて鞍も置ぬ馬に尾筒立髪
所々やけのこりたるに打またかり玉ひたる
ふとくたくましけなるおのこの柱のもとに
打しかれ目のたま飛出死失たるあてやかなる
女房のをさな子の手をにきりもろ共に瓦の許に
打たほされ歯を喰しはり息絶たる見るに
つけ聞に付あさましからぬはなしかたに
夜ひとよ夢の中にゆめ見る心地して大路に
立あかしけるに燃のこりたる炎の中より所々
青き火もえ上りなまくさき臭の鼻を襲も
いと心うくて早明よかしと念しつるに明るに
随ひ大路を見渡せは夕へあやまちせし
ものを戸板にかきのせ肩にかけいたハり
行人の路もさりあへず或ハ腕ぬけ足を
れたるあるは頭打割れ腰たヽさる其浅
ましさいはんかたなきにやけたる屍を菰む
しろにおし包ミ車につミしハさてしも
いはず酒砂糖なと入るへき樽を柩の替りに
し猶たるへくもあらて街に水たくわひあ
りし桶ぬすミ行もありそもたらぬにか
あらんなきからのミ埋帰るもあり夕へ廓をの
かれ出しうかれめと覚しくて髪もおとろに
面も得あらハて紅ゐの湯具したるさすかに
日頃浅からずちきりおきし男にや手を引
合てたと〳〵しけに路行もあり又ひとや
をのかれいてし罪人にやさかやきの跡長く
のひ色青さめたる男のいきもたゆけに
行もありこのひよりして後は日毎に
五度六たひ地震せさることもあらねば
人の心もさはかしくて今宵ハ津波こそ
来るへけれ翌はさきに増たる地震こそ
あらめと云のゝしりかたふきたる家おさむる
ものもなく大路に戸障子かけ渡し其中に
起臥しつるほとなれは家を失ひやしきを
やかれたる人々のミをよすへき処迚もなく
おのかしゝつゝめるもの背負て東西に行迷ひ
住家たつねるさまもいと哀なりかゝる時にも
公にてハ人の心うしなハしとや幸橋御門外
浅草廣小路深川海邊大工町三ところに
御救ひ小屋てふものかけ渡し又代官伊奈
半左衛門をして米六七合の詰飯ひとつを日毎ニ
まつしきものに人のかすほと玉ハりて御旗本
の人々には身のほとにより崩れたる程に
より黄金若干つゝ玉ハりまた商人ハ更
なり萬の匠にも物のあたひ増まして掟し
玉ひけれとも匠共ハ四寸にもたらぬ丸木二
もともてき傾たる処支えなとしつるのミにて
黄金ひとひら玉ハれよと云のゝしり米商
ものもなく酒ひさく家もなく草鞋の直鐚
弐百文と云ほとになりしかはいのちにも
かへしといとおしミたる妻子ハうしなひ
ぬいける甲斐なき世に存生て何かせんと
うちかこちあからさまにものうハひとらハれ
ぬるもの日々してなきはなし
かゝる時なん人の心のよしあしもおのつから
いちしるしくてふたむね並ひたる蠟燭商ふ
家のひとりハくつれひとりハ残りしか残り
つる家にて蠟燭ミな施せしもあり十もと
はかり束ねたる葱を鐚三百文なりとて
街のものに打ころされし商人もあり草
鞋粥薬施こす家もすくなからて吉原
の里なる佐野槌といへる家の黛とか云
遊めハ救ひ小屋なる人々に土もて造れる
鍋ひとつ宛施し仙臺の御家ニてハ其屋
敷のほとりなるものに米ひと俵宛下し
玉ハりまし川瀬新石町の川邨とか云る
冨る家ニても其ほとりの賤しきものに精米
二斗宛ほとこし我しれる村上寛斎と
いへるくすし二日の夜其身もうつはりに
おしたほされしか板しきうち放し辛く
してのかれいて又内に入草鞋取出ておのか
家の燒るもかえり見ず疵薬施し歩行
たるなとなさけ深きふるまひなるに深川
の蛤丁とかや罪ありて佐渡に流されたり
しをひそかにのかれいて来りすミしもの
ありて迚もなき身とおもひけん妻子うし
なひ家居やかれつるものとも六七十人さ
そひうこかし松平総州の御家なる
蔵やしきに押入蔵守る士足輕ともうち
倒し千石余りの米ぬすミ取しか此頃
大方は捕ハれしと云ものありき五日の
しのゝめに品川の州崎にて津波々々と
呼るものありしかはすはハやとて我も〳〵と
山邊にのかれゆきしかハかの津波と呼
わりしおのこの心静かに人の家に押入
物奪ひ船にて去つるもありしとかや沖に
おろせし米船も三処よところ火かけられたり
白刃もておひやかされ黄金奪ハれしものも
少からさりしよし
剰へ今年春の半にかたしけなくも
天朝より寺々の鐘鉄砲に鑄改め夷防く
用にせよと詔玉ひしをとかたして長月の
盡る日 将軍より寺々へ下知し玉ひしか
幾日もあらてかゝる災ひありしほとに法師
とものところ得顔に佛のもの奪玉ハんと
せしゆへなと云もて行愚かなる下さまの
公の政うらミ奉るも少なからねは彼昔人の
云の葉むなしからましかハといとおそろしう
おもふものから半はかたむきたる旅のやとりに
くつれたる壁のそこより筆硯取出てと
もし火のもとにしるし侍るになん
このとし神無月十日あまり二日の
夜吾妻なる於玉か池のやとりにしるす
なへふりし其夜より十日を経たり
陸奥岩手の里なる江幡通高
左丁奥 書下題箋
「水府齊昭公不可和十ヶ條」
昨八日三ヶ状書江注致候様御申聞も有之故拙考
拙文且急き昨晩腐眼ニ而認候故御見せ申候
尤清書之間も無之下書之儘ニ而候得者追而御返し
可給く御存意も候ハヽ承度猶又両城全意【雨城金言?】之
事も昨日申掛候処今日御用透にも候ハヽ御一同江
御逢申御了簡振承度存候以上
十日 前中納言
福山殿
御許ヘ
海防愚存
一和戦之二文字御決意 廟算一定始終御動無之義
第一之急務与被存候事
一本文和戦之利害戦を主といたし候へ者天下之
士気引立仮令一旦敗を取候共遂ニ者夷賊を
追退ケ可申和を主与いたし候へ者當座之平穏ニ
服し候而者天下之人氣大ニゆるミ後ニ者滅亡ニも
至候義漢土歴史之上ニ明證有之古今識【試?】者之
確論有之候得者委細ニ申ニ不及候得共今試ニ
其大略を論候に和すべからざる筋合十ケ条有
之候扠 神国之幅員廣大ならす候へ共外夷ニ
ては畢竟往古神功皇后三韓御征伐中古
弘仁【ママ】之蒙古御退治近古文禄之朝鮮征伐
慶長寛永之切支丹御禁絶等其明断御威武
海外ニ振居候故ニ有之候然ニ此度渡来之アメ
リカ夷御制禁を心得なから浦賀江乗入和睦
合圖之白籏差出し押而願書を奉り剰内海江
乗込空砲打鳴し吾儘之測量迄いたし其
驕傲無禮之始末言語同断二而実ニ開闢以来
之国恥とも可申と城下之盟者国之恥と承候処
右之通御制禁を犯し 大城程近之内海江乗込我
をおびやかし我を要し候夷賊を御退治無之
のミならず萬一願之趣 御聞濟ニ相成候様二而ハ
乍憚 御国体ニおゐて相濟申間敷決而
不可和之一ケ条ニ候
一切支丹宗之義者 御當家御法度之第一ニ相成居
国々末々迄も高札建置候処夫ニ而さへ文政年中
於大坂右宗門之族内之相弘候者有之御仕置ニ
相成邪教の毒夢ニ御油断不相成候况アメリカ
新ニ御近付相成候ハヽ何程御制禁有之候而も自
然右宗門再起之勢必然之義乍憚
租宗之神霊江被為對御申譯無之是決而不可和之
二ケ条ニ候
一我金銀銅鉄等有用之品を以て彼か羅紗硝子等
無用之物ニ換候義大害有之小益無之候間和蘭陀
之交易さへ御停止ニ而も可然時勢ニ候都而和蘭陀の外ニ
又々無用之交易御開き相成候ハヽ
神国之大害此上者有間敷是決而不可和之
三ケ条ニ候
一ヲロシヤアンゲリヤ等先年ゟ交易を望候へ共
御許容無之処アメリカ国へ御許容被遊萬一ヲロ
シヤ等ゟ願書差出候へ者何を以て御断可被遊候哉
是決而不可和之四ケ条ニ候
一夷国人ハ外ニ悪心無之交易さへ御許容有之候へ者
何等之次第無之候旨世俗二而唱候へ共初者先交
易を以固を求め遂には邪教を弘め又者種々之
難題を申懸候義彼等か国風ニ有之遠くハ
寛永以前邪宗門之患近くハ清朝鴉片之
乱前車之覆轍ニ候是決而不可和之五ケ条ニ候
一萬国之形勢往古と相違いたし候処我
神国而已鎖国之趣意を守り大海ニ孤立致候義
始終無覚束候間矢張外国へ往来廣く交易之
道を通し候方可然との説蘭学者風抔竊ニ唱
候哉ニ候得者 神国之民心固結武備充是中古
以前之国風にも回復いたし外国迄押渡し恩威
を弘め候事も相成可申候へ共當時太平惰弱の
風俗外国ゟ僅ニ数艘之軍艦渡来二而さへ人心
恐怖いたし彼ニ要せられ候而交易相始候様二而ハ
外国へ渡り遠略を施し候事などは一々席上の
空論ニ候是決而不可和之六ケ条ニ候
一浦賀彦根若松等へ守衛被 仰付此度抔ハ会津
家来共炎天を犯し七八十里の遠路日夜廉直ニ
駈付候由其外内海警固連々人数繰出し候向も
相聞奇特之事ニ候夷賊内海へ乗入我儘ニ測量
等致し候而も打拂之義不相成諸国之士民空敷
奔命ニのミ疲候様ニ而者人々解体之勢可有之
是決而不可和之七ケ条ニ候
一長崎海防黒田鍋嶋へ被 仰付候義清国和蘭江
御手當のミには無之惣而外夷の御手當ニ可有之処
浦賀近邊ニ而外夷の願書御受取ニ相成候様子ニ而ハ
間道の往来御許し右両家無用之御関所番被
仰付置候姿ニ相當両家之氣請如何可有之哉
是決而不可和之八ケ条ニ候
一此度夷賊之振舞眼前一見致候者ハ匹夫ニ而も心
外ニ存斯迄無禮之夷御打拂も不被遊候而ハ御臺
場御備ハ何之御入用ニ可有之哉と内々相歎候者も
有之由実地ニ而夷賊驕傲之振舞を見候而ハ如何様
右様ニ被存候筈小民なからもさすが
御國恩ニ沐浴いたし居候様と実者頼母敷事ニ候
無智の匹夫さへ左様ニ相歎候に打拂之義御決定ニ
不相成余り寛宥仁柔之御所置而已ニ而ハ御懐合
不方故奸民共御威光を不恐異心を生し候も
難斗是決而不可和之九ケ条ニ候
一夷賊打拂之義ハ 祖宗之御細注殊ニ文政度
重而被 仰出候義ニ候へ者御懐合固より戦之方ニ
御決定ニ相成候而も何を申も太平打続武備
備り兼候故容易ニ夷賊之氣を傲候其禍難測
其節ニ至不得已和議御取結ニ相成候様ニ而ハ益
御威光を損し候故先々當節は枉而御忍夷賊之
氣を御なやし被差置其内専全備御世話被為
在追而御手當等全備之上弥旧法之通厳重可被
仰出と申も尤之論ニ候へ共當時妄居姑息之
人情朝暮御励し被成候而さへ必至之人氣ニ相成兼候
况 上ゟ武事を御示し被成候ハヽ幾年を歴候
而も諸家之武備相整候義何共無覚束既寛
政度夷騒動御城備御世話有之候得共御行届ニ
不相成又々去ル寅年打拂御宥豫被
仰出畢竟先外夷之氣を御寬め其内武物
御整之御趣意と相見候へ共十二ケ年之間諸家の
武備格別ニ行届候共不被存此度夷賊渡来
にて一統狼狽いたし夷船滞留中少々本氣ニ
相成候ものも有之候へ共退帆ニ付平日之通心得候様被
仰出候へ者一統又々無事ニ安心いたし俄ニ取集候武器も
直様散失可致風情譬ハ縁の下ニ火の廻り居候而も
不心付火防の手當を忘れ居候も同様の姿実ニ
浅間敷士風ニ候 廟堂ニ而も聊も和義御含
有之候へ者日々御觸相成候にも人氣引立不申従而
臺物其外の手當も皆文具ニ而軍用ニ適し申
間敷今日にも愈打拂之方へ御決着ニ相成候へ共
天下之士氣十倍いたし武備令せすして相整候義
影響より早く可有之左候而社征夷の御大任二も
被為代諸国一統武家の名目にも相當可致候是
決而不可和之十ケ条ニ候尤肝要之急務ニ候扠和
戦之利害右ニ而粗相盡し候へ共是又知れば
易く是を行バ難く衰弱の世は兎角和議ニ泥
防戦を好不申戦を主とし候者ハ事を好乱を
楽候様讒言いたし甚敷ニ至り候而ハ戦を主とし候
ものを罰し候而敵方ニ申分ケいたし和議を取結ひ
遂ニ滅亡を招候義笑止千萬ニ候
神国勇武之俗一旦 廟議御一決之上ハ左様
臆病之少人ハ有之間敷候へ共忠言逆耳良
薬苦口姑息苟且ハ人情ニ溺れ易く候故
兼而御用心有之一旦御決定之上ハ始終御動
無之義海防第一義と存候 廟議戦之一字ニ
御決着ニ相成候上者国持大名津々浦々迄大
号令被 仰出武家ハ勿論百姓町人迄覚悟
相極 神国惣躰之心力一致為致候義可為
肝要事
本文号令之義其筋二而調候へ者如才有之間敷候
得共多端ニ相成候而者 御趣意貫不申候間簡
易明之愚夫愚婦迄も憤激ニ不堪必至と
覚悟ニ相成候御仕向も有之度候奢移【侈】遊惰を
禁し質素倹約を勤候類當節之急務勿論ニ
候へ共萬一交易御許し人氣相ゆるミ候而ハ日々
倹約等の御觸有之候迄も自然奢移ニ趣可申
打拂之御議定ニ相成候へ者一統之人氣締り
質素倹約ハ勿論万事古の武士風ニ立帰り
乍憚享保以来御美事ニ而御中興此上有間敷
奉存候事
一八日にも御話申候如く太平打續候へ者當世姿ニ
ては戦者難く和ハ易く候へ者戦御決ニ相成
天下一統戦を覚悟いたし候上ニ而和ニ相成候へハ
夫程の事ハ無く和を主と遊し萬々一戦ニ
相成候節者當時の有様ニ而者如何共被遊様
無之候へ者去ル八日御話申候者海防懸り計りに
極密ニ被成於 公邊も此度者実ニ御打拂之
思召ニ而号令被出度臍の下ニ和の事有之
候へ者自然と他へ洩聞候故拙策御用に
相成候事二も候はヽ和の字ハ封し候而海防掛而已
の預りニいたし度事ニ候右故本文ニ和の事一切
不認候
一槍剣手詰の勝負 神国之所長ニ候間御籏本
御家人ハ勿論諸家一統試合実用之鎗剱悉
練歴いたし候処有之度事本文鎗剱之儀ハ
神国之長技たる事不及申近来試合之槍
剣ニ至てハ其妙極り然れ共蘭学者風抔
説被行外夷戦艦銃礮の堅利なるに忘れ
所詮外夷には勝事あたわざる様ニのミ思ふ
もの無之にあらず是其一を知て其二を知らず
と云へし戦艦銃礮ハ手詰の勝負ニ便なら
ず仮令彼の夷人一旦ハ邊海の地を侵と
いへとも上陸せざれ者其欲を逞する事を
得ず我壮勇の士卒を撰槍剣の隊を備へ
機に臨ミ変に應し我長技を以て我短所
横合ゟ突て出或は敵の後より切て廻り
雷光石火の如く血戦せば彼夷賊原を鏖ニ
せん事掌の中ニ有へし去ば
神国の武士ならんもの第一ニ槍剣の技錬磨せす
んハ有へからず然るに諸家には今以て弊を守り
或ハ花法を守り試合を専らニせず或ハ試合も
また新弊を生し勝負の分合のミ争ひ
真剱二而なしかたき業を講する族も有之
是等ハ精々御世話有之諸家一統戦実用の
槍剣を講し道具の軽重長短等真剱に
基き粗あらまほしき事ニ候本文たとへば
彼か船ニ乗入對談いたし候様ニ欺行なし
船将を突殺し又上板の上ニ居て打寄
出る処を長刀太刀等ニ而切殺し帆縄を打
拂等せんニ左右前後何程之火銃を仕かけ
置其内へ向て打事ハ不叶上板の上ニ居る
人者内ゟ見へざれば炮ニ而打事不相成僅の
人数ニ而大艦中の人ハ退治すべし
一當秋出帆之蘭人江命之軍艦蒸気船幷
船大工按針役等惣而用前丈取揃ひ尚又大小
銃炮近来新工夫之処も有之候ハヽ是又取揃
国許江相帰り次第不時ニ積立献上仕候様に
御沙汰有之度事
一本文之義外国ゟ献上為致候而ハ御外見如
何と申説も超【ママ、起ヵ】り可申候得共外国之所長を
取て御用ひ被成候ハヽ都而 神国之廣大な
る処ニ有之既五経博士を始種々之職人共
追々三韓ゟ献上為致候義古史ニ的例有之
聊苦からず義と存候一体夷賊ハ新工夫に
長し扠右細工を見る処ニ而製造致候事ハ
神国之所長ニ候間蒸気船なとも追々彼より
勝れし製造も出来可申第一委細ニ其製
明らめ候へ者彼を打破候心得にも相成一挙両
得共可申候扠和蘭之交易一廉御益と及承候処
軍艦等相済候而者御益も容易ならず其年々
御益無之都而莫太之御損と相成候間有
司之過憂も可有之候へ共蘭船之御益年々
之通相作り候而も別之軍艦等相製被成候ハヽ
莫太之御入用ニ可有之候間和蘭交易之利
を軍 ニ御廻し被成候御見透しニ候ハヽ御損
失との次第ハ有之間敷候扠
公邊御初大名へも分限ニ應し員数を限り
大艦済ニ相成西国大名等海路ニ而浦賀江
参勤いたし候ハヽ莫太之失費を省き候
のミならず右艦羽根田本牧邊内海へ掛置
非常之節ハ直ニ防戦ニ相用ひ候ハヽ此度之
如く夷賊容易ニ乗込候様之事も有之間敷
於 公邊ニも京大坂遠国筋往来を始め
御米之運漕等右大艦を御用ひと成候ハヽ永世
之益と存候海防要務戦艦大銃を主と
し候事近来誰も能申候へ共此方之職人江
申付無益之年月を費し候ゟ献上を命し
候方簡便ニ而実用ニ適可申存候扠和蘭陀
より献上ニ相成上ニ而船材等取集候而者御手
後れニ相成候間此節ゟ 公邊ニおゐても御用
のミにニ限らず大名江も心懸させ候ハヽ手繰
宜敷可有之材木之大小長短銅鉄之多
少等ハ當時入津いたし候蘭人江御聞被成候ハヽ
大概ハ相分り可申候銃礮之技近来追々ニ
相開候へ共未外夷之精妙ニ難及候間
公邊御初諸家ニ而も精々研究いたし可申
成銃数を増火薬弾丸等存分備置度事
一本文銃礮者防守第一之利器ニ而彼専ら是
を以て我を刧時者我亦是を以て彼ニ應
せずん者有べからず兵銃と違ひ火憤はいまた
盛ニ被行ず内太平ニ相成候故貫目以上之
大銃ニ全く其上伝来之器ハ車架銃車銃
等全備せざるもの多く従而発砲之術も
実用ニ不適もの多く候間諸家皆実用之
器用を製て実之技を講し一発鏖賊之
妙を心懸高銃も皆雷粉燧火を用ひ候様ニ
有之度近来銅材次第ニ減し候寺之鐘を
潰し候迄には至り不申候共せめて火鉢燭
臺等無用之銅器も潰し右品々銅ニて
製し候義以来制禁ニ相成尚又蘭人江御渡の
銅も御差略被成候ハヽ銅材格別之不足有
之間敷抑剱槍と違ひ銃礮のミ有之候間
玉薬無之候而者其詮無之候間佃島之揚火ハ
勿論総而花火之類一圓ニ制禁し玉ひ尚又
諸国被為命造焔硝存分にニ制造有之度七ケ
年之病に三ケ年之艾を求るか如く一日後
れ候へハ一日之不手當ニ相成候間何分速ニ御沙
汰あらまほしく候
一御料私領海岸要害之場所江屯戌を設け漁師
等ニ取交士兵相備度事
一本文海岸場所何之地も油断不相成候処夷
船渡来之時ニ城下等ゟ人数差出候而者機會に
後れ平日人数差出置候へ者自然ニ手當差
略いたし候様ニ成行候間土地之猟師等を組訳
いたし外ニ人を撰頭奉行様之ものを見立
郷士等身を持ち候ものを隊士とし機を見合せ簡
便ニ調錬いたし萬一之節ハ軍功ニ寄格々の
恩賞可有之旨平生厚く申含置候ハヽ
筋骨丈夫ニ殊に海上鍛錬之者其道天晴
の働いたし候ものも可有之城下陣屋等ゟ人数
差出候迄ニ一支ニ相成べく候尤要害之濱ニハ
右の外城下遊卒之内ゟ人撰屯戌を設け平
日共文武之修行等迄も為致事有時ハ右士卒
を指揮して火炮幷槍剣等ニ夷賊退治致候
仕方も可有之候扨屯戌之制度士兵之組立を始め
或ハ夫役を免しける其国風家風土俗ニ據一
概ニ論しかたしといへ共詰る処者実用を主と
し永續之手當あらまほしく候
裏表紙
【タイトル】見立大地震角力取くみ
【上段 取り組み】
大地震
驚キ
八方従
火ヲ出シ
一面
黒煙り
逃道
困野
五丁町
人の山
土蔵かへ
皆振イ
往来
家根山
焼瓦
灰の山
縄張
板がこゐ
建家
根じれの
【下段 取り組み】
八ッか張
杉丸太
松板
高根山
諸職人
勢
諸芸人
難渋
三芝居
二度焼
御救古家
焚出シ
大□【「結」にノイズが入ったのでは?「おむすび頂き」なら意味が通りそうですが】
頂キ
善人者
施し
寺院方
大施がき
【安政大地震絵 寄別2-9-1-13 00-056】
【国立国会図書館】
出雲紀行 《割書: 出雲国地震記| 》 二十
【左丁】
出雲国【國】地震記 完
【左丁 朱書き】
上へ差出したる下書
【本文】
地震記
【角朱印】
帝国図書館蔵
此分は書捨候ものにて如何に奉存候へ共
御閑日之御笑草にも相成候はゝと奉存候て
差出候且又先達而も奉申上候通
年始会之度は大不気分中倅
よみ聞せ候を面倒まきれによし
よしと申て格別加筆にも思慮にも
わたらす為書候惰成短冊に御坐候間
此段言上被成置度奉願候会以後
遠立候者ゟ送り越候分大分到来
仕候へともいまた嶋根大原辺ゟ二三十
人も差出候筈に付先差出候いつれも初心
もの斗りに御坐候へは不差出方可然哉とも
奉存候事
出雲大社の神崇とさへいへはいつも地震也けり
むかし年号は空に覚さりしか為泰若かりし時に
大社の御宝物なる琵琶を
朝廷にめされけるを嶋弾正重老守護仕奉りて京都に
参のほりて奉りしに今年は押詰たるほとに春になりて
御そなはすへれは守護人は先国に帰るへしとありし時
関白殿へ重老奉りし哥
よつの緒の音もそはんとや花鳥の春をまててふ勅は有けん
と詠て奉りしに堂上方聞継言継して出雲には恐しき
哥人ありとのたまひしとそ其比に承り候扨其琵琶
御留になりし事
大神の御心に叶ひ給はさりしか其節京都の大地震
今更いはすともよく世の人のしれるかことく也けりされは
その琵琶に御修復加へられて黄金や何やものさはに
添給ひて返し納め玉ひし其御礼代に両国造殿ゟ
吾師学のなりし中村文大夫守臣大人に命くたりて玉造の花仙山
より玉堀出さしめ給ひて奉られし時其玉にそへて
奉られし守臣大人の歌
出雲の神宝の中に紫藤もて造れりし琵琶ちふ物
の有けるを
朝廷にめさけ玉ひて看そなはして其琵琶に修理加へて
黄金やなにや物さはにそへ玉ひて返し玉ひけるその
よろこひに奉る物を求めて奉れとおふせかゝふりし
時よめる
大君のみことかしこみかへりことまをしきこえむゐや
しろと国の宝をみつかひにさゝけまたさす物しろを
まき出さねと掛巻は綾に畏し大殿よ命くたれは
おほけなき我身の幸と梓弓いそしみ立て石上古き
例しを思ひいてゝ玉造らしし玉の祖の神の命の
幸のしつまりましし里ぬちに花仙と名に
おへる山に生たる石社は国の宝と石こりか子にはあらねと
石屯を宇陀のうかちか手力を心あはせてもろ人に
忌鉏もたせすきかへし忌鍬とらせ打かへしはふり
とりいて奉るそも〳〵是の里の名はあやにたふとし
みそらゆく羽明玉の命そや造り玉ひし其玉を日の
大神にまつらしし其玉造り名におひて天津日続の
大饗へとよのあかりの神賀の吉言奏しに大神の
御手代として代々たえす御賀の玉を奉りつかへ
まつりし古事は谷の埋木春の日の光を見すて
彼方の古川水の音たえてふりにしかともこち〳〵の
ふる河岸の若暦木わかゝへり来て年波も今日の生日
に立かへりめさけたまひし神宝返し玉へるゐやしろと
伊豆の御宝添玉ひしかのみならす尊しや神の宝と
ひたふるにいつきまつれと大言そはれりしかは昔より
たふとかりける御宝の今はたさらに御光も照るか
如くみやつこも百の祝部も自然ぬかつきまつり風の
音の遠の朝廷をはろ〳〵と御祖の神の天翔り
国形見にと国翔りかけり見めくり此山の石とり出て
天の下くしはきませる皇孫のいかしの御代を常御代
の手長の御代と神ほさきほさき造れる美ほき玉
忌部の里に忌籠り鏡の浦の清まはり遠騰美の水に
ふりすゝき捧けまたしし古へのあとを思ひて荒玉の
光りこもれる荒石を忌鉏持てはふりとり千曳の
石とたなすえに引すえ見れは朝日なす赫き渡る
赤玉のあからひまして御命は玉の緒なかく大君のみこ
とのまにま神宝いつきまつろひ大神にこひのみまして
大御代をいかしの御代と言寿ひほかひもとほし
かへりことまをしまさねと掛巻はかしこかれともこと
ほきて御賀の玉の石たてまつる
出雲の神門臣守臣
是はそのむかし守臣大人に乞て書貰ひしを写せるなりけり
其時の地震の事は此大人はた重老大人又其節医学
修業すとて彼地にありて其事にあへる安井司民坂本功
なとよりもかたり聞せたりしにはしめ空中にて恐しき音して
より大地振出て洛中洛外の家人害はれし事きくも
恐しき事なりけり扨かの神宝なる琵琶を写したる
摺物ありて懸物なとにせるを見しに守臣大人の讃あり
その哥
そこたから御宝主の大神のみたまそはりし神たからかも
「其」此後安政二年卯冬十一月の地震は為泰神門郡に
ますとて
出雲郡千家村迄至れるに俄に目くるめきて足たゝす
持病起れりやと思ふ程にそあれ大地大波の打かことく
に見えて片辺なる長雲寺の松三百年にも及へく思は
れける老木ほつえ寺の屋根につくかと思ふはかりゆる
まてこの寺をはしめ家毎にものゝ落る音ころひたを
るゝ音おひたゝしき事になん又左右のあけ田の水
うねことに打越てゆるけりやゝをさまり方になれ
るころ空中にて震動鳴動せり神立村にいた
れるまて猶やます此夜爰にとゝまれるに此あたりの
百姓とも皆家を明て出雲川の川堤の上にて夜明せし
とそ宿の主いへらく大きにゆるきなは起すへし心落
ゐてい「ぬへし」ね玉へといへは其口にまかせて打臥ぬ夜中
幾度となくゆるきける度毎に家刀自らは懸出た
りしとなんおのれは終日の歩行にくたひれてよく
寝て翌日のあした思ふに松江はいかはかりの事ならん
それ聞すして行へきにあらすとて神立を出てだん原
といふ所まて帰りしに出西より庄原へ川違ありし
新川の南堤二三町はかりの所しつみけるを向より来れ
る人に尋ねけれは昨日の地震に如斯しつめり恐しき
地震なりしといへり扨松江を出くる人あらは
尋まほしく思へとも西より東にとをるはありなから東より
西へ来れる人更になかりけりやう〳〵完路の中山まて
帰り来れるに向より旅人来れるほとに問尋ぬるに
松江さのみかはる事不承といへるに少し落ゐたりさて
ひた急にいそきて夕つ方家に帰り来れるにかたみに
無事をよろこへり為泰はよそにありて家の事を
おもひ家人は為泰か地さけて落入ともせさりしやと
思ひしもことわり也けり此時に
あらかねの地や此頃動なき御代にかはりてゆるへそめけん
とよめりしと紀伊木の国長沢伴雄方へ言遣しけれは
かなたはこなたに増りてふるへるよしいひて其時に
震さやく竹の下ふしよもすから身さへ家さへふるひのみして
とはよめりと言おこせたりき扨此地震は東国ことに
強くふるひしと見へて翌三年辰春二月松江を
出て武蔵国本牧へ行し時乗坂の松原ころひかへりし
を見て驚きつゝ行道すから殊に駿河路の駅々
大かたに砕け潰れたる跡広野とあれはてゝ目もあて
られぬありさまなりけり又沼津城の石垣崩れたる
を見府中殊にあれにけるを見或は其時の事とも
聞にあはれ至極の事になん今年本牧陣にあり
しを秋八月二十五日夜四つ時ゟ暁七つ時まての大風に
本牧の陣屋あまた建並へたるか一棟も残らすたふれ
潰れ八王子の山鼻二つ吹とはし牛込浦横二十間計
長さ百二十間はかりの浜建家ともになくなれり
又其夜強雨ふれりと思ひしは一ノ谷より三ノ谷まての
高岸大浪打越て三町計り隔たれる陣屋にうち
こめる也けり海面火の玉飛行せりとのみ見しを
後おもへはうしほの飛散し也けり如斯てやう〳〵
風をさまれる暁ころ江戸鎌倉の方にあたりて
大に火の手見ゆ此時為泰は病床にありしを人に
助けられてたふれかゝりし陣屋をからうしてのかれ出て
山にのほらんとする時三度まて吹たをされぬやう〳〵
這のほりて木かやに取つき居てあはれ風の為に命せ
ん事本意なしと心中に杵築大神守らせ給へと
いのる外なかりしにみな人も十死を極めしと見へて
或は南無阿弥陀仏或は南無妙法蓮華経なと
はゝかる所もなく大声あけて唱ふる事かしましき
はかりなりき此外声立さるも各おのか向々信心の
神仏いのれりとは見ゆれともそは耳に聞さりけり
扨夜明て見るに陣地建物吹飛し踏所もなかりけり
黒田千三郎病を問来けれは夫に負れて陣屋を出て
東鳥井と門名称するものゝ家に病を養ひつゝきくに
箱根山の大杉古木八重十文字に折たふれて通路と
まれりといふをはしめ諸国の変事種々の人に
あけてかそへかたし去年は前代未聞の大ちしん
ことしは古来聞も不及大風心もとなきよのなり
ゆきなりといはさるものもなかりけりことしの
大震に十八年のむかしをおもひ出て空に覚え
たる事かくのことし
今年明治五年壬申春二月六日夕七つ半時ころの
大地震家に居かねて誰言合すとなく家人不残後の
畑中に飛出て見るに藁ふきの大家根は初にゆらき
付おろしの瓦屋根は東にゆるき今やころふと守り
居けるに終に事なかりしを悦たて家に帰り見しに
棖押の上に懸たる鉄砲落て茶箱損し柱付の塀放れ
たり位之事なりき扨近隣の事聞に笠原氏にては
塀打たふれて箪笥三棹塀の下にたふれころひて
上なる引出しに入たる瀬戸物微塵に砕けしを
笊に幾杯とか捨たりとなん又黒田氏には縮棚より
落て五つ計り割たりとそ此夜僕和太郎丈に出て
かへりて申様北堀市中のものみな家を明けて堀は
たに屏風立めくらし其上渋紙もて屋根として
夜明すへしといひ合りとそ
七日入江真幸地震見舞に参りて外中原には門たふれ
塀覆ころひたるを見末次社の宝燈寺町辺の石塔みな
ころへりといふけふも幾たひとなく震ふるふ
八日朝ゆるき強かりしほとに老母我居間口迄参給ひて扨々
世の中余りどうよく成事になりて万民の苦しみ爰にてさへ
ケ様之事定て江戸は思ひやられぬ殿様いかゝ御凌遊はす事やと
そのたまへる為泰もそも此度の始より心付て十八年以前
の事思はれぬと答はへりきけふも幾度となくなゐふる
九日夜明ころと昼と夕方となゐふる
十日朝飯後地震ふる今日終日曇天夜又ふる扨和太郎
朝丈に出て帰りて言やう五人とか打首有といふ
今日杵築ゟ人参りて彼地の地震はしめて委敷聞り
官三郎より遣したる書状左之通
余寒退兼候処被御揃益御機嫌能可被為御座奉賀候
随而私方無異罷在候御安意可被下候然は先達て北嶋殿
御火災御見舞之品三度便りに御送り被下慥に献上仕置候
【頭註朱記】
是書終たる後石見国多田清興金子秋俊亮孝父三人より地震一件申越したる書面を是に可書加なり
扨又当月六日夕七つ半時頃に大地震に杵築町中
百七十軒計りころひ申候大中小損は無残所御坐候
私宅は上々首尾にて御座候へとも本家は土蔵計り
残り其外不残砕潰れ申候人命は無事に御坐候
四つ角の菓子屋娘は家之下に成死申候大鳥居抑
左近はころひたる家中ゟ火出丸焼其外郷中には川が
山と成山が川となり一飛には六ケ処程之大われ所々
有之候石州なとは十六人家内家も人もいつ方へいかゝ成候か
なく成候所有之よし彼方より知らせ来り候且又此間
出雲郡冨村之もの来り相咄候には千家村冨村之両村
半分辻どろ海に相成候由是のみならす同郡潰家
或は地しつみ田より潮吹出し候或は鉄砂等吹出し候由
抜の橋より大鳥居近く迄五軒十軒つゝの地大われ
出来又五寸六寸計つゝ地高低出来申候北嶋殿は御焼
失後佐原須賀夫宅御住居に相成候処迚も御住居不相
成元屋敷辺へ御住居替に相成候別火屋敷は門
を始建物一ケ所も残所なく砕潰れ申候前代未聞之大変に
御坐候本家には兄弟とも留守に付阿州へ懇飛脚
立候に付其御地之事気遣為留立寄候事に御坐候
格別之御損所は無御坐候処極古家之事定而損候
儀と奉存候右御左右申上度如此御坐候敬白
二月十日
十日会一香道生豊年吉雄敬典被地震の哥詠今日
もなゐふる
十一日早朝なゐふる朝飯後の分大分ふるひて隣の家内
はな懸出る
十二日今日はしめて地震ふらすと思ひしに夜ふるへり
と翌朝人々いふ石州にては津波にて人家あまたそこ
なへりといふ長門萩城落たりといふ
十三日ゟ十七日まての事付落せり
十八日実母の五十回忌法事執行すとて六十
二年むかし二月朔日産舎に入て七日にやう〳〵
うましし事なとおもひ出られてよみて霊棚に
そなへ奉れる
御産屋に七日七夜をいたましてうませけれこそ見はかくてあれ
又為泰の産れし時酒の栄菜に 鰤子(ワカナ)の吸物いたせる
を大国養保か賀言を聞給ひて祖父正平翁歓給ひて
末に名をあくるふもとの若なかやと祝吟し玉ひし
ことをおもひて
五十年のむかしのわかな六十経て思ひつめりと君にしらすや
扨此法事にあはんとて夕つ方出雲郡神立村なる
柳楽庄右衛門来りて六日の地震に土蔵の片塀落て
冨村の荒神松ほつえ北になひきて生たるか南になひ
きて深くしつめりといふ又田の底より鉄砂塩気なと
吹出してあれたる事官三郎の書状に書るかことしまた
日暮て後飯石郡三刀屋なる川津源兵衛きたりて
今朝支度して出へしと思ふ時地震大きにふるひて
家内とも出る事なかれととゝめけるほとに一度見合たり
しかと今日参らすてかなはさる事故遅く宿出候
程に夜にいれり六日以後今日まて一日もなゐふらさる
日なしとそいへる又神門郡大津なる葛西益兵衛も
宿遅出たりとて夜に入て来りて地震のはなし
せるか大かた源兵衛かいへるに違ふ事なし
二十日学業の為に巡国せる陸奥国弘前の士族佐々木
貞輔清方来れり是はをとつ日来りし時に哥人かと
問しに儒学にて高名家尋廻れるものなから松江にて
其名しられさるほとに来れりといふさらは今日は法事せる
ほとに今日明日の所にて挑文の師内村友輔永泉寺天鱗
なと問行へしとて名前住所書等調へ聞かゝせてあたへ
けれは一日為泰か物語も聞まほしと望めれは二十日来よと
言しほとに来れるもの也けり貞輔は今年二十一歳にて
をとつ年の秋津軽を出て駿河国静岡中学校の
教師中村敬介方の塾にありしかと去年教師敬介
東京にめされて出しより学友は人手をわかちて諸国
めくりありきて西京にて出会東京にものすへき契り
なりけりとそさて此人今月六日周防の山口を出て
石見の津和野に着宿入せる否大震ふるひける程に
二階より飛下りしに其家はいふに不及あたり
なへて砕け潰れたりとなん其夜野宿して七日
浜田にて野宿し八日何とかいへる所にて野宿せりとなん
石州路三日いつ方もかくのことくにて十方にくれ
けりとそ扨出雲路はいかにと尋ぬるに山陰道は
なへてかはる事なしといへれは今はすへなし安芸路ゟ
西京にと志して石見の何とか言へる所より備後を
さして何とかいへる所に行着て漸宿入せるに
そこに松江より出て行とまれる旅人に相宿りして
こなたの事聞しに松江に潰れたる家は一軒もなし
といへるほとにさらはとて又此方に向赤名と三刀屋
と二宿を経てきたれりといへりさて一首をと
望めれはよみて遣しける
国の名のみちは弘前奥深く尋ね学ひて世には立なん
めくり得て陸の奥にはとくかへれ西の都に足とゝむとも
まさきくて見青森に帰りぬと出るへき風の便りをそまつ
かくて我国の岩木山の哥一首を今望たれは
大舟の津かろのふしも時しくに雪は降けり山とこそいへ
扨又一首をとて出せるを見るに
奉訪千竹園先生
奥水雪山路万程春鶯声表詩君情
羨翁風詠歌中画千歳色塞千竹名
東奥菊城生拝草
【白紙 左端上に管理ラベル】
【白紙 左端上に管理ラベル】
【裏表紙】
【文書ラベルあり】
嘉永四至安政二
三橋小破御修復書留下
【白紙 下辺に30.2.22】
【白紙】
【白紙】
以書付申上候
大川橋
定番人
五郎右衛門
添番人
半次郎
下番人
伝 吉
右五郎右衛門は御橋西番屋続え自分入用家作ニ
住居仕半次郎は右番屋ニ相詰罷在伝吉は
御橋東番屋続ニ而五郎右衛門同様住居罷在候処
当月二日夜地震之節東西番屋并自分家作
とも不残潰レ家ニ相成諸道具等ハ大半打崩シ
難義罷在其上半次郎義ハ西番屋震潰レ
候砌逃後レ屋根下ニ罷成死失仕相残り候
妻子共一同格別難渋仕罷在候間何卒以
御慈悲右三人え御手当被成下置候様奉願上候
以上
大川橋懸り
浅草山之宿町
名主三郎左衛門
安政二卯年十月 後見 兵蔵
同所西仲町
名主 吉左衛門
町年寄衆
御役所
右之通り御橋番人共え御手当被下置候様町年寄
樽藤左衛門方え申立候間此段御届申上候
右橋懸り
名主共
御届
永代橋
定番人共
掛り
名主共
永代橋助成地商床之内東広小路利助治兵衛
両人持商床弐ケ所当月二日地震之節震潰候ニ付
利助商床御地代壱ケ月三百文治兵衛同五百文弐口合
八百文此分当十月分ゟ同十二月分迄三ケ月御地代上納
御免之儀町年寄三橋御入用掛りえ願書差出申候依之
此段為御届申上候以上
卯十月廿日 永代橋
定番人共
掛り
名主共
以書付奉申上候
一大川橋助成地受負人安次郎奉申上候右御橋付東西助成地之内
本所側北之方ニ有之候間口拾五間奥行弐間半瓦葺
家作壱ケ所同所南之方間口弐間四尺奥行四間
五寸瓦葺家作壱ケ所同続間口九尺奥行壱間
髪結床壱ケ所并浅草側北之方ニ有之候間口弐間
奥行四間半瓦葺水茶屋壱ケ所同続間口弐間
奥行九尺髪結床壱ケ所同続物置壱ケ所都合
六ケ所共当月二日夜地震之節潰家ニ相成同所
南之方髪結床壱ケ所而已相残り候得共是以曲ミ
損シ渡世も不相成程之大破ニ而必至と難渋仕
御地代上納方甚タ当惑至極仕候間家作普請取調
中何卒以
御慈悲壱ケ月上納高金四両ト銭四百九拾五文不残
当卯十月ゟ来ル十二月迄三ケ月之間上納御免被成下置
候様何分御聞済奉願上候以上
卯十月廿八日来ル【この行朱記】
加藤又左衛門様 樽藤左衛門
中村八郎左衛門様
地震ニ而三橋附番屋震潰并変死人
御手当之儀懸り名主共申立候ニ付別紙
之通可申上と奉存候間御相談仕候
御存寄も御座候ハヽ無御腹蔵御申
被越候様致度候依之此段得御意候
以上
十月廿八日
大川橋助成地
安政二卯年十月 受負人
安次郎
右橋懸り
浅草西仲町
名主 吉左衛門
同所山之宿町
名主三郎左衛門
後見 兵蔵
町年寄衆
御役所
右之通り東西助成地之内潰家之分御地代上納
御免被成下置候様町年寄樽藤左衛門方え願差出候間
此段御届申上候以上
卯十月 右橋懸り
名主共
地震ニ而三橋附番屋震潰候ニ付番人共并
変死番人え御手当之儀申上候書付
樽藤左衛門
町年寄
永代橋定番人
利 助
同 伊之助
新大橋定番人
善四郎
同 添番人
文 七
同 書役
直 蔵
大川橋定番人
五郎右衛門
同 下番人
伝 吉
右之者共当月二日夜地震之節御橋防方ニ取掛
罷在御橋番屋震潰自分諸道具等破損仕必
至と難渋仕罷在候ニ付何卒御慈悲を以
御手当被成下置候様仕度段奉願候旨右
橋々掛り名主共申立之候
【以下朱記】
地震ニ而橋番屋震潰候節番人え御手当被下置候
例相見え不申候ニ付類焼之節御手当被下置候
先例天保五午年二月七日神田佐久間町ゟ出火
之節永代橋定番人伊之助添番人市助新大橋
添番人与市同下番人文六右橋々消防に
打懸り罷在諸道具焼失仕候ニ付御手当被成下候様
取調申上候処壱人え金弐両宛三橋御入用金之内
を以相渡可申旨同年十二月廿一日柳原主計頭殿被
仰渡候【以上朱記】
大川橋添番人
半次郎
右之者当月二日夜地震之節御橋西番屋ニ詰合
罷在候処同所震潰候砌逃後レ屋根下ニ罷成死失仕
諸道具等破損いたし相残候妻子共必至と難渋仕罷在
候間何卒御慈悲を以御手当被成下置候様御橋掛り名主共
申立之候
【以下朱記】
橋之番人変死仕御手当被下置候例相見不申橋
御普請之節人足共之内水死仕御手当被下置候
先例天保五午年五月中新大橋焼失後焼切候
根杭之内通船差障相成候杭木之分抜上候節
誤水死仕候深川六間堀町甚兵衛店音五郎方ニ
居候鹿蔵之ため同人宿音五郎え御手当可被下
置旨御組本所方ゟ申上候処鳥目拾五貫文可
被下候段同月中柳原主計頭殿本所方え被
仰渡三橋御入用金之内ゟ差出方仕候
【以上朱記】
右之通御座候地震ニ而震潰候と焼失之節とは
事柄差別も可有之候へ共此度之地震之儀一時ニ震潰候
儀ニ而諸道具等持退候間も無御座悉微塵ニ仕必至と
難渋仕候段相違無御座候哉ニ奉存候間可相成は類焼之
節之先例之通利助外六人は壱人え御手当金弐両宛
可被下置候哉且変死半次郎御手当之儀前書先例
音五郎方ニ居候鹿蔵は其日雇之人足之儀ニ候而
此度死失仕候橋番人とは身分も差別有之
殊ニ妻子等も跡々え残居追而番人替等も願上
申儀ニ付旁御憐愍之御沙汰を以相応之御手
当も可被下置候哉尤右弐廉共御差図次第
先例之通三橋御入用金之内を以相渡候様可仕候
依之此段奉伺候以上
館 市右衛門
卯十月 喜多村彦右衛門
樽 藤左衛門
樽藤左衛門様 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
御手紙致拝見候然は三橋附番屋
地震ニ而ゆり潰并変死人等御手当
之儀ニ付御相談之趣致承知候
右之内
半次郎御手当高え可見合的例
無御坐候乍然出火場ニ而焼死致し候
頭取え鳥目廿貫文被下候度々之先例も
御坐候間品は違候得共右をも御認入ニ而
御伺有之候而は如何可有之哉其余
何之存寄無之候別紙返却此段
及御挨拶候以上
十一月朔日
乍恐以書付奉申上候
一大川橋定番人五郎右衛門奉申上候御橋添番人半次郎義
先月二日地震之節御橋西番屋震潰候砌死失
仕候ニ付跡添番人早速見立可奉願上処此節柄
差当り相応之者無御座然ル処死失半次郎
暮方老母并妻子共厄介四人ニ而是迄添番人
御給分而已ニ而扶助罷在死失仕候上ハ外ニ助成も
無之相残り候家内一同可及飢難渋罷在候間
何卒以 御慈悲半次郎死失跡妻え
聟養子早々取極候迄同人従弟之続合徳次郎と
申者当分代り勤為致御橋御用向御差支無之様
私心添為相勤可申間格別之以
御憐愍跡添番人見立候迄当分之内代り勤
御聞済被成下置候様偏ニ奉願上候以上
大川橋
安政二卯年十一月二日 定番人
五郎右衛門
右五郎右衛門申立候通り相違無御座跡添番人私共
見立御伺可申上間当分之内死失半次郎代り勤
之義徳次郎え為相勤度私共供々御聞済奉
願上候以上
右橋懸り
名主共
嘉永七寅年三月
永代橋外弐橋并大川橋
高札場損所御修復書留
井戸対馬守殿御掛り【この行朱記】
四月十一日ゟ御修復取懸候
寅三月廿四日岡田源兵衛持参鈴木弥市を以上ル同四月朔日
伺之通被仰渡候付承り付致し返上【以上2行朱記】
永代橋外二橋并高札駒寄損所御修復之義奉伺候書付
書面伺之通伝吉え受負
可申付旨被仰渡奉承知候
寅三月廿四日 本所見廻
永代橋
新大橋
大川橋
右三橋之内永代橋之義は拾ケ年以前巳年
掛直御修復其後度々小破御修復御座候へ共
右橋は海近ニ而風雨之節は吹当強別而
折損殊ニ汐合烈敷場所故自然杭根
掘レ候哉西ゟ十七八側目ゟ廿二三側目迄之
内梁桁共居下り一時御修復ニ而は多分
御入用相懸り候間差向疑念仕候ケ所而已見分
取調候処居下り候拾九側目北耳杭廿三側目
南耳杭根包板取付際深く朽込候間右
弐本共杉丸太ニ而添杭打建其外朽腐之ケ所
埋木致し杭根包板巻鉄物切放流失之分
新規仕付且新大橋之義は六ケ年以前酉年中
掛直御座候処橋杭根包板巻鉄物朽切レ候分
仕足大川橋之義は十三ケ年以前寅年懸直
御座候処杭根包板巻鉄物同断仕足高欄
動キ候場所頬柄仕付地覆包板敷板埋木等
仕付并同前西之方高札駒寄根懸り朽腐
に付切縮メ土台新木取替東之方高札
駒寄取繕右孰レも実ニ難差置橋保チ
方ニも相拘り候間可成丈省略取調右御修復
御入用積り霊岸島川口町家持伝吉え申付
候処左之通申立候
永代橋御修復御入用
一金四拾両銀拾弐匁五分四厘
新大橋同断
一金五両三分銀八匁八分
大川橋同断
一金九両弐分銀八匁三分弐厘
同所東西駒寄同断
一金三分銀壱匁五分
四口
合金五拾六両弐分銀壱匁壱分七厘
右之通相懸り此上引方無御座候旨申立候間
先帳御入用ニ見競取調候処不相当之廉も
相見え不申候間右以金高伝吉え御修復受
負可被仰付候哉依之別紙内訳帳相添
此段奉伺候
【以下朱記】
本文御入用之儀は町年寄方ニ而取扱候
三橋小破御修復御入用目当高之内を以
御渡方ニ相成候間年番并町年寄え御下ケ
御座候様仕度奉存候【以上朱記】
以上
寅三月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
永代橋外二橋并高札駒寄損所御修復仕様御入用内訳帳
寅
三月
永代橋損所御修復仕様御入用内訳帳
一添杭弐本
内西ゟ 拾九側目北耳杭 居下り
廿三側目南耳杭 朽腐
〆
右杭弐本添杭杉丸太長五丈ゟ五丈五尺迄
末口七寸五分土俵仕懸ケ覆込又は胴突致し
梁下端え仕込本杭え抱合巻鉄物長九尺
巾弐寸厚弐分壱枚鉄目弐貫百六拾目付二タ所
巻長三寸平鋲百本鉄目六百五拾目付壱枚え
廿本宛打付平鎹長壱尺爪弐寸五分壱挺
鉄目百五拾目付添杭壱本え四挺懸堅メ可申
一杭埋木三本
内西ゟ 六側目南耳杭
八側目北耳杭
廿三側目南耳杭
〆
右杭朽腐応し彫取槻長弐間巾三寸厚壱寸五分ゟ
弐寸迄杭木え馴染能埋込長三寸欠折釘板
壱枚え十本宛打付可申
一杭廿六本根包
内西ゟ 弐側目 南耳杭巻鉄物壱枚
三側目 中杭根包板八枚巻鉄物弐枚
五側目 南北耳杭南中杭根包板十八枚
六側目 南中杭北耳杭根包板十枚巻鉄物
弐枚
十一側目 南耳杭北中杭根包板十枚巻鉄物
弐枚
十弐側目 南耳杭巻鉄物壱枚北耳杭根包板
五枚巻鉄物壱枚北中杭巻鉄物壱枚
十三側目 南耳杭根包板九枚巻鉄物壱枚
十四側目 南耳杭巻鉄物壱枚
十六側目 南耳杭根包板八枚巻鉄物
壱枚
十七側目 南北耳杭巻鉄物弐枚
十八側目 南耳杭巻鉄物壱枚
十九側目 南中杭根包板八枚巻鉄物壱枚
廿三側目 南北耳杭根包板十六枚巻鉄物壱枚
廿五側目 南北耳杭根包板十六枚巻鉄物弐枚
廿七側目 南北耳杭根包板十六枚巻鉄物弐枚
廿八側目 北耳杭根包板四枚巻鉄物壱枚
〆
右根包板朽腐候分杉長八尺巾五寸厚
弐寸五分新木仕足長五寸欠折釘壱本鉄目
拾五目付板壱枚え八本宛打付巻鉄物廿五枚
新規仕足長六尺弐寸巾弐寸厚弐分鋲穴廿六
壱枚鉄目壱貫四百八拾八目付長三寸平鋲百本
鉄目四百目付壱枚え廿六本ツヽ打付其外釘
抜出候所打堅メ可申
一西ゟ十八側目廿三側目筋違貫三挺
槻長壱丈巾八寸厚弐寸梁下端耳杭ゟ
水貫え切合長五寸欠折釘壱本鉄目十五目を
五本宛打堅メ可申
右御入用内訳
一杉丸太弐本 長五丈ゟ 末口七寸五分 添杭
五丈五尺迄
代銀弐百四拾六匁 但壱本銀百廿三匁
一杉板百廿八枚 長八尺 巾五寸 杭根包板
厚弐寸五分
代銀弐百五拾六匁 但壱枚銀弐匁
一槻廿弐枚 長弐間 巾三寸 杭埋木
厚壱寸五分ゟ弐寸迄
代銀五拾七匁弐分 但壱枚銀弐匁六分
一同三挺 長壱丈 巾八寸 筋違貫
厚弐寸
代銀三拾六匁 但壱挺銀拾弐匁
材木
〆銀五百九拾五匁弐分
一添杭巻鉄物四枚 長九尺 巾弐寸
厚弐分
鋲穴廿六
代銀百廿匁六分 但壱枚銀三拾匁壱分五厘
一杭根巻鉄物廿五枚長六尺弐寸巾弐寸
厚弐分
鋲穴廿六
代銀五百拾八匁七分五厘 但壱枚銀廿匁七分五厘
一平鎹八挺 長壱尺 爪弐寸五分
代銀拾弐匁 但壱挺銀壱匁五分
是は添杭壱本四挺え懸ル弐本分
一長三寸平鋲七百八拾本
代銀四拾匁六分四厘 但百本銀五匁弐分壱厘
内
八本 添杭巻鉄物壱枚廿本打四枚分
六百五拾本 杭根包巻鉄物壱枚廿六本打廿五枚分
五拾本 同断抜出候箇所え打足
〆
一長三寸欠折釘弐百廿本
代銀拾壱匁 但百本銀五匁
是は杭埋木板壱本え拾本打百廿枚分
一長五寸欠折釘千三拾九本
代銀百五拾九匁八分五厘 但百本銀拾五匁
内
千廿四本 杭根包板壱枚え八本打百廿八枚分
拾五本 筋違貫壱挺え五本打三挺分
〆
釘鎹鉄物
〆銀八百五拾八匁八分四厘
一大工七拾八人
内
四人 添杭仕付方壱本弐人懸り弐本分
六拾五人 杭根包板巻鉄物仕付方壱本弐人半懸り
廿六本分
六人 杭埋木壱本弐人懸り三本分
三人 筋違貫打付方三挺分
〆
一鳶人足百五拾九人半
代銀四百七拾八匁五分
内
八拾人 添杭震込方壱本四拾人懸り弐本分
三拾九人 杭根包板巻鉄物仕付方手伝壱本
四人半 杭埋木壱本壱人半懸り三本分
壱人半 筋違貫打付方手伝
三拾四人半 舟足代懸ケ方
〆
一足代船丸太縄諸道具損料物并運送賃共
一式
代銀九拾匁
諸方
〆銀九百五拾八匁五分
三口合銀弐貫四百拾弐匁五分四厘
此金四拾両銀拾弐匁五分四厘
新大橋損所御修復仕様御入用内訳
一杭拾弐本根包
内西ゟ
五側目 南中杭巻鉄物壱枚
八側目 南耳杭同断壱枚
拾側目 同杭同断壱枚
拾壱側目 北耳杭同断壱枚
拾三側目 南耳杭同断壱枚
拾五側目 北耳杭同断壱枚
拾七側目 同杭同断壱枚
拾九側目 南耳杭同断壱枚
廿側目 南中杭同断壱枚根包板四枚
廿弐側目 同杭巻鉄物壱枚
廿三側目 南耳杭同断壱枚
廿四側目 中杭同断壱枚
〆
右杭根包板朽損候分杉長八寸巾五寸
厚弐寸五分新木仕足長五寸貝折釘壱本
鉄目拾五目付板壱枚え八本宛打付巻
鉄物拾三枚新規仕足長六尺弐寸巾
弐寸厚弐分鋲穴廿六壱枚鉄目壱貫
四百八拾八目付長三寸平鋲百本鉄目
四百目付壱枚え廿六本宛打付其外
釘抜出候ケ所打堅メ可申
右御入用内訳
一杉板四枚 長八尺 巾五寸 杭根包板
厚弐寸五分
代銀八匁 但壱枚銀弐匁
一杭根巻鉄物拾三枚長六尺弐寸巾弐寸
厚弐分
鋲穴廿六
代銀弐百六拾九匁七分五厘 但壱枚銀廿匁七分五厘
一長三寸平鋲四百八本
代銀弐拾壱匁弐分六厘 但百本銀五匁弐分壱厘
内
三百三拾八本 杭根巻鉄物壱枚廿六本打拾三枚分
七拾本 同断抜出候箇所え打足
〆
一長五寸貝折釘三拾弐本
代銀四匁八分
是は杭根包板壱枚え八本打四枚分
一大工五人
代銀廿五匁 但壱人銀五匁
一手伝人足五人
代銀拾五匁 但壱人銀三匁
一通ひ舟縄諸道具損料物并運送賃共
一式
代銀拾匁
〆銀三百五拾三匁八分壱厘
此金五両三分銀八匁八分壱厘
大川橋損所御修復并高札駒寄仕様
御入用内訳
一杭八本根包
内西ゟ
四側目 南中杭巻鉄物壱枚
八側目 同断壱枚
九側目 北耳杭同断壱枚根包板拾弐枚
十側目 南中杭巻鉄物壱枚
拾四側目 北耳杭根包板三枚巻鉄物壱枚
廿側目 南北耳杭巻鉄物弐枚
廿壱側目 南耳杭巻鉄物壱枚
〆
右杭根包板朽腐之分杉長八尺巾五寸
厚弐寸五分之新木仕足長五寸貝折釘壱本
鉄目拾五目付板壱枚え八本宛打付巻
鉄物八枚新規仕足長六尺弐寸巾弐寸
厚弐分鋲穴廿六壱枚鉄目壱貫四百
八拾八目付長三寸平鋲百本鉄目
四百目付壱枚え廿六本宛打付其外
鋲抜出候所打堅可申
一高欄北側頬柄拾ケ所
右請板杉長五尺巾七寸厚三寸長六寸
貝折釘壱本鉄目廿目付板壱枚え四本宛
敷板え丈夫ニ打付頬短同木長七尺五寸
大サ四寸角長四寸貝打釘壱本鉄目拾目付
壱ケ所え四本宛打堅メ其外有来り
頬柄釘〆致し増釘等打堅可申
一高欄地覆包板南側弐ケ所
右朽腐之所桧長壱丈弐尺巾壱尺
厚壱寸ゟ壱寸五分迄大五寸釘ニ而打付
可申
一東西北側男柱扣木
右扣木杉長七尺大サ四寸角埋込根堅メ
いたし小口添付貝折釘長六寸壱本鉄目
弐拾目付弐本宛打堅可申
一南側足駄木弐ケ所
右は桧長三尺巾七寸厚三寸貝折釘
長五寸壱本鉄目拾五目付壱枚え四本ツヽ
打付可申
一鋪板埋木凡七拾ケ所
右朽腐ニ応し桧板ニ而馴染能埋込
大五寸釘ニ而打付可申
右御入用内訳
一杉板拾五枚 長八尺 巾五寸 杭根包板
厚弐寸五分
代銀三拾匁 但壱枚銀弐匁
一同板拾枚 長五尺 巾七寸 頬短受板
厚三寸
代銀四拾匁 但壱枚銀四匁
一同木拾本 長四尺五寸 四寸角 同短木
代銀拾三匁 但壱本銀壱匁三分
一同木四本 長七尺 四寸角 男柱扣木
代銀拾匁 但壱本銀弐匁五分
一桧板弐枚 長弐間 巾壱尺 地覆包板
厚壱寸ゟ壱寸五分迄
代銀拾四匁 但壱枚銀七匁
一同板弐枚 長三尺 巾七寸 足駄木
厚三寸
代銀五匁六分 但壱枚銀弐匁八分
一同板三拾五枚 長弐間 巾壱寸五分ゟ 敷板埋木
四寸迄
厚弐寸
代銀五拾七匁七分五厘 但壱枚銀壱匁六分五厘
材木
〆銀百七拾匁三分五厘
一杭根巻鉄物八枚 長六尺弐寸 巾弐寸厚弐分
鋲穴廿六
代銀百六拾六匁 但壱枚銀廿匁七分五厘
一長三寸平鋲弐百六拾本
代銀拾三匁五分五厘 但百本銀五匁弐分壱厘
是は巻鉄物八枚え打付増鋲共
一長四寸貝折釘四拾五本
代銀四匁五分 但百本銀拾匁
是は短木拾本分同増釘共
一長五寸貝折釘百廿八本
代銀拾九匁弐分 但百本銀拾五匁
内
百廿本 根包板拾五枚分
八本 足駄木弐枚分
〆
一長六寸貝折釘四拾八本
代銀九匁六分
内
四拾本 受板拾枚分
八本 男柱扣木四本分
〆
一大五寸釘五百六拾五本
代銀拾四匁壱分弐厘 但百本銀弐匁五分
内
四拾本 高欄地覆壱枚え廿本打弐枚分
五百廿五本 敷板埋木板壱枚え拾五本打ち
三拾五枚分
〆
釘鉄物
〆銀弐百弐拾六匁九分七厘
一大工弐拾三人
代銀百拾五匁 但壱人銀五匁
内
四人 杭根包板巻鉄物仕付方
五人 高欄頬柄仕付方
四人 同男柱扣木地覆包板足駄木仕付方
拾人 敷板埋木七拾ケ所分
〆
一鳶人足拾七人
代銀五拾壱匁 但壱人銀三匁
内
四人 杭根包板巻鉄物仕付方手伝
四人 高欄頬柄仕付方手伝
四人 男柱扣木地覆包板足駄木仕付方手伝
五人 敷板埋木仕付方手伝
〆
一通ひ舟縄諸道具損料物并運送賃共
一式
代銀拾五匁
諸方
〆銀百八拾壱匁
合銀五百七拾八匁三分弐厘
為金九両弐分銀八匁三分弐厘
一東西高札駒寄 御修復一式
代銀四拾六匁五分
惣金五拾六両弐分
銀壱匁壱分七厘
右之通御入用積り立奉差上候若
相違之儀も御座候ハヽ仕直可奉差上候以上
寅三月 霊岸島川口町
家持
伝 吉印
町年寄ゟ差上候書面【この行朱記】
永代橋外二橋御修復御入用出方之儀取調申上候書付
館 市右衛門
本所方奉伺候
永代橋添杭弐本其外朽腐之ケ所
埋木致杭根包板巻鉄物共御入用
一金四拾両
銀拾弐匁五分四厘
新大橋根包板巻鉄もの
朽切候分仕足御入用
一金五両三分
銀八匁八分壱厘
大川橋杭根包板巻鉄物同断仕足
高欄頬柄仕付地覆包板敷板埋
木等仕付御入用
一金九両弐分
銀八匁三分弐厘
同所東西高札駒寄御修復御入用
一金三分
銀壱匁五分
四口合
金五拾六両弐分
銀壱匁壱分七厘
右御入用出方之儀当寅年分三橋御入用
目当高之内ゟ御渡相成私共方差支無
御座候尤積高之儀は猶年番え御尋
被成下候様仕度奉存候依之御渡被成伺書并
内訳帳返上仕此段申上候以上
寅四月 館市右衛門
寅四月十一日村田升兵衛持参【この行朱記】
永代橋外弐橋高札場損所御修復
取懸之儀申上候書付
本所見廻
永代橋外弐橋并大川橋高札場損所
御修復之儀伺之通被仰渡候間右御修復
今日ゟ取掛り申候此段申上候以上
四月十一日 加藤又左衛門
中村八郎右衛門
【以下朱記】
寅六月十七日北番所へ岡田源兵衛持参内訳帳相添用人
竹村慈左衛門を以上ル
伺之通伝吉へ御修復可申付旨被仰渡候間承付いたし
七月二日岡田源兵衛持参用人鈴木弥市を以上ル
【以上朱記】
永代橋外壱橋増御修復之儀奉伺候書付
書面伺之通伝吉え御修復
可申付旨被仰渡奉承知候
寅六月廿六日
之通被仰渡候【見消し横へ朱記】
先達而伺「相済候」永代橋外弐橋損所
御修復当四月十一日ゟ永代橋え取懸り候然ル処
右橋は惣体朽腐仕候得共連々御修復之
積ニ而無余儀ケ所而已取調御修復奉伺候儀
に付其後両三度之風雨ニ而波強く打当
桶ケ輪巻鉄物朽腐之分押流し多分
不足ニ相成并筋違貫壱挺流失仕候且
新大橋之方前書風雨之折柄損所出来
仕いつれも難差置候間損所之分
御入用積受負人伝吉え申付候処左之通
申立候
永代橋増御修復御入用
一金拾弐両壱分銀三匁九厘
新大橋同断
一金三両弐分銀八匁六厘
二口金拾五両三分銀拾壱匁壱分五厘
右之通相懸り候趣申立候間元積直段ニ
引当取調候処相違無御座候間以右金高
同人え御修復受負可被 仰付候哉依之
別紙内訳帳相添此段奉伺候
本文御入用之義ハ町年寄取扱候三橋小破御入用
目当高之内ゟ御渡方相成候間年番并町年寄え
御下ケ御座候様仕度奉存候【以上3行朱記】
以上
寅六月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
寅七月二日伺言上承付いたし此内訳帳共用人鈴木弥市を以
返上【2行朱記】
永代橋
新大橋 増御修復仕様御入用内訳帳
寅六月
永代橋損所増御修復仕様御入用内訳
一杭弐拾六本根包
内西ゟ
弐側目 南耳杭根包板八枚
三側目 同中杭根包板四枚巻鉄物壱枚
四側目 南耳杭巻鉄物壱枚
五側目 同中杭北耳杭同中杭根包板
拾七枚巻鉄物三枚
六側目 同耳杭北中杭根包板八枚
拾三側目 同耳杭根包板五枚
拾四側目 北耳杭同中杭巻鉄物弐枚
拾五側目 南北耳杭根包板拾五枚巻鉄物弐枚
拾六側目 南北耳杭根包板弐枚
拾八側目 北中杭南中杭巻鉄物弐枚
廿壱側目 南耳杭根包板壱枚
廿弐側目 南耳杭巻鉄物壱枚
廿四側目 同杭根包板拾弐枚
廿五側目 北中杭巻鉄物壱枚
廿七側目 南北耳杭中杭根包板五枚
巻鉄物弐枚
廿八側目 南北耳杭根包板五枚巻鉄物壱枚
〆
右杭根包板朽腐流失之分杉長八尺巾
五寸厚弐寸五分新木仕足長五寸貝折釘
壱本鉄目拾五目付板壱枚え八「枚」本宛打付
拾六【朱記】
巻鉄物「廿五」枚新規仕足長六尺弐寸巾
弐寸厚弐分鋲穴廿六壱枚鉄目壱貫四百
八拾八目付長三寸平鋲百本鉄目四百目付
壱枚え廿六本ツヽ打付其外釘抜候ケ所
打堅メ可申
一西ゟ廿三側目筋違貫壱挺
右は槻長壱丈巾八寸厚弐寸梁下端耳杭ゟ
水貫え切合長五寸貝折釘壱本鉄目拾五目
付五本打堅メ可申
右御入用内訳
一槻壱挺 長壱尺 巾八寸 筋違貫
厚弐寸
代銀拾弐匁
一杉板八拾弐枚 長八尺 巾五寸 杭根包板
厚弐寸五分
代銀百六拾四匁 但壱枚銀弐匁
一杭根巻鉄物拾六枚 長六尺弐寸 巾弐寸 厚弐分
鋲穴廿六
代銀三百三拾弐匁 但壱枚銀廿匁七分五厘
一長三寸平鋲四百五拾本
代銀弐拾「弐匁五分」但百本銀五匁弐分「五」厘
三匁四分四り 壱
是は巻鉄物え打増鋲共 【右金額訂正朱記】
一長五寸貝折釘六百六拾壱本
代銀九拾九匁壱分五厘 但百本銀拾五匁
是は桶ケ輪八拾弐枚筋違貫壱挺分打
一長三寸貝折釘弐百五拾本
代銀拾弐匁五分 但百本銀五匁
是は有来巻鉄物上下留釘ニ打
一大工拾弐人半
代銀六拾弐匁五分 但壱人銀五匁
一人足七人半
代銀弐拾弐匁五分 但壱人銀三匁
一足代船丸太縄諸道具損料物并運送賃
一式
代銀拾匁
「但大工掛り人足掛り并損料物運送賃之儀ハ御修復中ニ付
打混し候間割合減仕候」【以上朱記見消し】
合
銀七百三拾八匁九厘
為金拾弐両壱分銀三匁九厘
新大橋損所増御修復仕様御入用内訳
一杭九本根包
内西ゟ
弐側目 南耳杭根包板六枚
四側目 南北耳杭根包板拾五枚
五側目 北耳杭根包板三枚
六側目 同杭根包板五枚
拾弐側目 南耳杭根包板弐枚
拾三側目 同杭根包板四枚
拾四側目 同杭根包板四枚
廿壱側目 同杭根包板四枚
〆
右杭有来巻鉄物取放根包板杉長八尺巾
五寸厚弐寸五分新木仕付長五寸貝折釘
壱本鉄目拾五目付板壱枚え八本ツヽ打付
古巻鉄物仕付長三寸平鋲百本鉄目四百目
ツヽ【見消しへ朱記添え】
付壱枚え廿六本「打拾四枚」打付可申
一西ゟ拾五側目筋違貫壱挺
右仕様永代橋之方同断
右御入用内訳
一槻壱挺 長壱丈 巾八寸 筋違貫
厚弐寸
代銀拾弐匁
一杉板四拾三枚 長八尺 巾五寸 杭根包板
厚弐寸五分
代銀八拾六匁 但壱枚銀弐匁
一長三寸平鋲三百六拾四本
代銀拾八匁九分六厘 但百本銀五匁弐分壱厘
是は古巻鉄物え打
一長三寸貝折釘百五拾本
代銀七匁五分 但百本銀五匁
是は巻鉄物上下留釘ニ打
一長五寸貝折釘三百四拾四本
代銀五拾壱匁六分 但百本銀五匁
一大工六人
代銀三拾匁 但壱人銀五匁
一人足四人
代銀拾弐匁 但壱人銀三匁
【抹消された朱記1行あり】
合銀弐百拾八匁六厘
為金三両弐分銀八匁六厘
二口合
金拾五両三分
銀拾壱匁壱分五厘
右之通御入用積り立奉差上候若相違之
儀も御座候ハヽ仕直可奉差上候以上
寅六月 霊岸島川口町
家持
伝 吉
町年寄ゟ差出候書付【朱記】
永代橋外壱橋増御修復御入用出方之儀
取調申上候書付
館市右衛門
本所方奉伺候
先達而伺済永代橋外弐橋御修復差掛り候処
其後風雨ニ而損所永代橋増御入用
一金拾弐両壱分銀三匁九厘
新大橋同断
一金三両弐歩銀八匁六厘
弐口金拾五両三歩銀拾壱匁壱分五厘
右御入用出方之儀当寅年分三橋御入用目当
高之内ゟ御渡相成私共方差支無御座候尤積高
之儀は猶年番方へ御尋被成下候様仕度奉存候
依之御渡被成候伺書并内訳帳返上仕此段
申上候以上
寅六月 館市右衛門
寅七月二日岡田源兵衛持参用人鈴木弥市差上ル
同 五日館市右衛門方へ相越代金受取相済候旨伝吉ゟ差出候
【右2行朱記】
永代橋外弐橋損所御修復
御入用御下ケ金之儀申上候書付
町年寄え御断 本所見廻
永代橋御修復御入用
一金四拾両銀拾弐匁五分四厘
同増御修復御入用
一金拾弐両壱分銀三匁九厘
新大橋御修復御入用
一金五両三歩銀八匁八分
同増御修復御入用
一金三両弐歩銀八匁六厘
大川橋御修復御入用
一金九両弐歩銀八匁三分弐厘
高札【朱記挿入】
同所東西駒寄同断
一金三歩銀壱匁五分
壱【朱記】
合金七拾弐両壱分弐朱銀四匁五分「弐」厘
右三橋御修復出来仕候ニ付前書之御入用金銀
受負人霊岸島川口町家持伝吉え相渡候様
町年寄え被仰渡可被下候以上
寅七月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
右同断【朱記】
永代橋外弐橋損所御修復ニ付
筆墨紙其外御入用之儀申上候書付
町年寄え御断 本所見廻
一金壱両壱歩銀五匁
右は永代橋外弐橋損所御修復ニ付当四月中
目論見之節通ひ船水縄其外御修復中
場所ニ而遣候筆墨紙等御入用書面之通
相掛り候間三橋目当高之内ゟ相渡候様
被仰渡可被下候 町年寄え
但去丑年中三橋御修復之節三橋
目当高之内ゟ御渡相成町年寄方ゟ受取申候
【右2行朱記】
以上
寅七月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
寅七月五日館市右衛門方へ岡田源兵衛罷越受取来ル
又左衛門殿え差出ス
同人ゟ道役へ相渡ス
【以上3行朱記】
請取申金銀之事
一金壱両壱歩銀五匁
右は永代橋外弐橋損所御修復ニ付当
四月中目論見之節通ひ船水縄其外
御修復中
場所ニ而遣候筆墨紙等御入用書面之通
三橋御入用目当高之内ゟ請取申候仍如件
嘉永七寅年七月 加藤又左衛門印
館市右衛門殿
本紙美濃紙【朱記】
安政二卯年六月七日承り付候儀用人ヲ以
岡田源兵衛え御渡則承ニ付返上【朱記】
ヒレ付
永代橋外二橋橋台道造之儀奉伺候書付
書面伺之通伝吉え受負
可申旨被仰渡奉承知候
卯六月七日 本所見廻
永代橋新大橋東西并大川橋西之方
橋台助成地往還不便相成水吐も不宜
往来人難渋致候間道造御座候様仕度旨
右橋番人并掛り名主共ゟ願出候付見分
仕候処申立候通無相違不陸ニ付道造御入用
省略之義勘弁仕候処此節類焼場ニ而
取捨候焼土を為持込候得は保テ方も
宜且足シ土代格別下直ニ付右仕様を以
霊岸島川口町家持伝吉え積り方申付候処
左之通御座候
永代橋東西助成地往還道造御入用
一金三両三分銀三匁
新大橋同断
一金三両三分銀三匁
大川橋西之方同断
一金壱両弐分銀拾匁五分
三口合
金九両壱分銀壱匁五分
右之通ニ而此上減方無御坐候旨申立候間
前々御入用ニ見合取調候処不相当之義も
相見え不申候間前書金高ニ而伝吉え
受負可被仰付候哉依之別紙仕様内訳帳
相添此段奉伺候
本文御入用之義は町年寄方ニ而取扱候
三橋目当高之内ゟ御出方相成候間年番
町年寄え御下ケ御座候様仕度奉存候
【右3行朱記】
以上
卯九月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
日之内
鰭付之侭御下ケニ付写返上【2行朱記】
ヒレ付
大川橋「損所」小破御修復出来仕候ニ付御入用金
御下ケ之義申上候書付
年番
町年寄へ御断 本所見廻
去月廿七日浅草筋へ
御成大川橋 渡御ニ相成候御沙汰ニ付
御前日見廻り損所等見分仕候処敷板之内朽
腐相見候間埋木矧木等仕付高欄廻り釘〆
直し之義差掛り候義に付霊岸島川口町
家持伝吉へ申付右御修復出来仕候尤御入用金
壱両銀三匁五分相掛り申候依之仕様「帳」内訳
帳相添此段申上候「以上」
本文御入用之義ハ町年寄方ニ而取扱候
三橋目当高之内ゟ御出方相成申候間
右伝吉へ相渡候様年番町年寄へ被
仰渡可被下候 【以上4行朱記】
以上
卯五月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
大川橋小破取繕伺出申候ヒレ付【朱記】
書面御修復代金之儀は町年寄
取扱候御手当地代之内を以相渡
候様町年寄え被仰渡可然哉ニ
奉存候
卯六月 年番
書面大川橋小破御修復御入用
金壱両銀三匁五分受負人霊岸島
川口町家持伝吉え相渡申候
卯六月七日 樽藤左衛門
ヒレ付【朱記】
書面永代橋外弐橋橋台道造
御入用高取調候処不相当之儀相見え
不申候間一応町年寄え御下ケ之上
本所見廻り伺之通被仰渡可然哉ニ
奉存候
卯
六月 年番
書面永代橋外二橋橋台道造
出来之上猶又被仰渡次第三橋
御入用目当高之内を以払方可仕候
卯
六月七日 樽藤左衛門
安政二卯年八月八日加藤又左衛門持参竹村慈左衛門を以上ル
【右の行朱記】
永代橋外二橋橋台道造出来仕候ニ付
御入用金御下ケ之儀申上候書付
年番
町年寄え御断 本所見廻
永代橋東西助成地往還道造御入用
一金三両三分銀三匁
新大橋同断
一金三両三分銀三匁
大川橋西之方同断
一金壱両弐分銀拾匁五分
三口合
金九両壱分銀壱匁五分
右は先達而伺之上霊岸島川口町家持
伝吉え受負申付此節出来仕候ニ付私共
見分仕候処「仕様」仕様帳之通無相違出来
仕候間右御入用同人え相渡候様町年寄え
被仰渡可被下候以上 年番
卯
八月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
大川橋敷板高欄取繕仕様御入用内訳帳
卯
五月
一大川橋 損所御繕
右仕様敷板矧目朽腐之箇所惣体埋木矧木等
仕付長三寸貝折釘ニ而打付并東西男柱根震キ
候所杉丸太ニ而扣杭仕付高欄頬柄惣体釘〆直し
可申
右御入用内訳
一桧脊板八枚 長弐間半 巾七八寸 敷板埋木
厚壱寸五分
代金弐分銀六匁 但壱枚銀四匁五分
一杉丸太三本 長八尺 末口四寸 男柱扣木
代銀九匁 但壱本銀三匁
一長三寸欠折釘六拾五本
代銀三匁五分
一大五寸釘弐百五拾本
代銀五匁
一大工弐人
代銀拾匁 但壱人銀五匁
〆金壱両銀三匁五分
右之通積り立奉差上候以上
卯 霊岸島川口町
五月 家持
伝 吉
永代橋外二橋橋台道造仕様御入用内訳帳
卯
五月
永代橋東西御橋台地形
一西之方 桂石ゟ長五間 此坪弐拾坪
巾 四間
一東之方 同断 同 弐拾坪
合四拾坪
右仕様御橋台地形不陸ニ付土掘起シ焼場土
六坪足し土致高下無之様敷平均堀起シ土衣ニ
懸ケ入念突堅メ砂利壱坪敷平均可申
右御入用内訳
一人足三拾五人
代銀百五匁 但壱人銀三匁
一砂利壱坪
代銀七拾五匁
一類焼場土持込船賃拾弐艘 但壱艘五合積
代銀四拾八匁 但壱艘銀四匁
〆銀弐百弐拾八匁
此金三両三分銀三匁
新大橋東西御橋台地形
一西之方 桂石ゟ長五間 此坪弐拾坪
巾 四間
一東之方 同断 同 弐拾坪
合四拾坪
右仕様前同断
右御入用内訳
一人足三拾五人
代銀百五匁 但壱人銀三匁
一砂利壱坪
代銀七拾五匁
一類焼場土持込船賃拾弐艘 但壱艘五合積
代銀四拾八匁 但壱艘銀四匁
〆銀弐百弐拾八匁
此金三両三分銀三匁
大川橋御橋台地形
一西之方 長五間
道巾三間
此平坪拾五坪
右仕様前同断砂利半坪敷平均可申
右御入用内訳
一人足拾三人
代銀三拾九匁 但壱人銀三匁
一砂利五合
代銀三拾七匁五分 但壱坪銀七拾五匁
一類焼場土持込船賃六艘 但壱艘五合積
代銀弐拾四匁 但壱艘銀四匁
〆銀百匁五分
此金壱両弐分銀拾匁五分
三口
〆金九両壱分
銀壱匁五分
右之通積り立奉差上候以上
卯 霊岸島川口町
五月 家持
伝 吉
卯九月六日御番所へ岡村源兵衛持参用人竹村慈左衛門を以上ル
同九日伺之通被仰渡候間承り付之上同十一日返上【2行朱記】
永代橋際駒寄外二橋台行灯其外
御繕之義奉伺候書付
年番
町年寄え御断 承り付末ニ有【6文字朱記】
本所見廻
当七月中大風雨之節【朱記】
永代橋西之方助成地御船手方地境之
駒寄矢来并新大橋橋番屋ニ
有来候台行灯弐ツ其外「小」破損仕候間【4文字朱記】
御繕之義見分取調候処何レも大破ニ付
難差置候間可成丈ケ古木相用全
不足之分新木仕足都而御不益之義
無之様御入用積り方霊岸島川口町
家持伝吉え申付候処
永代橋西之方駒寄矢来并
同所東之方桟橋取繕御入用
一金三両三分銀三匁五分
新大橋西之方橋番屋板塀并
同所台行灯取繕御入用
一金壱両壱分銀拾三匁
大川橋橋番屋台行灯
取繕御入用
一金壱両銀拾三匁五分
三口合
金六両弐分
右之通ニ而此上減方無御座候旨申立候間
前之御入用ニ見合取調候処不相当之廉も
相見え不申候間前書金高ニ而伝吉え受負
可被仰付候哉依之別紙仕様内訳帳
相添此段奉伺候
一本文御入用之義は町年寄方ニ而取扱候
三橋目当高之内ゟ御出方相成候間
年番町年寄え御下ケ御座候様仕度
奉存候【以上4行朱記】
以上
卯
九月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
年番ヒレ付【左の文の上に朱記横書】
書面永代橋際駒寄外二橋台行灯
其外御繕御入用高取調候処不相当之義
相見え不申候間一応町年寄え御下ケ之上
本所見廻伺之通被仰渡可然哉ニ奉存候
卯九月 年 番
町年寄ヒレ付【左の文の上に朱記横書】
書面永代橋際駒寄外二橋台行灯
其外出来之上尚又被仰渡次第三橋御入用
目当高之内を以払方可仕候
卯九月九日 樽藤左衛門
承り付【朱記】
書面之通被仰渡奉承知候
卯九月九日
安政二卯年十二月十九日村田太郎助持参同人を以
上ル【以上2行朱記】
永代橋外二橋桟橋并台行灯御修復御入用
御下ケ之儀申上候書付
町年寄え御断 本所見廻
一金三両三分銀三匁五分
是は永代橋西之方駒寄矢来并
同所東之方桟橋取繕御入用
一金壱両壱分銀拾三匁
是は新大橋「橋」番屋台行灯其外
取繕候御入用
一金壱両銀拾三両五分
是は大川橋同断取繕候御入用
三口合
金六両弐分
右は先達而伺之上取懸候処此節追々
出来仕候間見分仕候処仕様帳之通
無相違出来仕候依之書面之御入用
受負人霊岸島川口町家持伝吉え
相渡候様町年寄え被仰渡可被下候
本文御入用之儀ハ町年寄方ニ而取扱候
三橋小破御修復目当高之内ゟ御出方
相成申候【以上3行朱記】
以上
卯十二月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
永代橋東之方橋番所際桟橋
同西之方橋台駒寄共御繕
新大橋西之方橋番所際板塀 仕様御入用内訳帳
御繕台行灯新規
大川橋台行灯新規
「鞘蔵御役所桟橋御繕」
卯
八月
永代橋東之方橋番所際
一桟橋 長延七間余
巾三尺 壱ケ所
高サ三尺
右仕様惣体朽腐候ニ付杭梁木板共新木仕足
長四寸貝折釘ニ而丈夫ニ打付都而元形之通り入
念仕付可申
右御入用
一舟板三枚 長壱丈三尺 巾壱尺 桟橋板
厚弐寸
代銀弐拾壱匁 但壱枚銀七匁
一桧六本 長壱丈 三寸五分角 同杭梁切遣
代銀拾八匁 但壱本銀三匁
一長四寸貝折釘八拾本
代銀八匁 但百本銀拾匁
一大工弐人
代銀拾匁 但壱人銀五匁
一手伝人足弐人
代銀六匁 但壱人銀三匁
一運送賃一式
代銀三匁五分
〆銀六拾六匁五分
為金壱両銀六匁五分
同西之方
一駒寄矢来 長五間半 壱ケ所
高三尺
但扣木三尺間建ニシテ
右仕様土台朽損シ候ニ付桧新木長壱丈壱尺五寸
削り立四本角小返り付通し貫同木長弐間巾
三寸厚八分建子有来り相用根切下ケ仕付都而
元形之通丈夫ニ致可申
右御入用内訳
一桧三本 長壱丈壱尺寸 削り立四寸角 駒寄土台
小返り付
代銀四拾五匁 但壱本銀拾五匁
一同四挺 長弐間 同 幅三寸 同通し貫
厚八分 扣木貫共
代銀四匁 但壱挺銀壱匁
一同拾五本 長六尺 同 三寸角 扣木猿頭共
代銀五拾弐匁五分 但壱本銀三匁五分
一大工拾弐人
代銀四拾八匁 但壱人銀四匁
一手伝人足三人
代銀九匁 但壱人銀三匁
一運送賃一式
代銀三匁五分
〆銀百六拾弐匁
為金弐両弐分銀拾弐匁
新大橋西之方
一橋番所際板塀 壱ケ所
右仕様朽腐候ニ付杉四分板ニ而取繕其外釘
〆等致木口釘大工共諸一式
右御入用内訳
一杉「四分」板七枚 長六尺 幅九寸 塀板繕
厚四分
代銀四匁九分 但壱枚銀七分
一釘一式
代銀壱匁六分
一大工壱人
代銀四匁
一手伝人足壱人
代銀三匁
一運送賃
代銀壱匁
〆銀拾四匁五分
新大橋大川橋西之方番屋
一台行灯 弐尺四方 新規
高火袋共五尺 弐ツ
右仕様朽腐候付框木松弐寸角ニ而組建中桟
杉小割ニ而仕付家根側板共杉四分板打立元形
之通渋墨塗致可申
右御入用内訳
一杉四分板弐拾四枚 長六尺 巾九寸 台行灯家
根側板其外
代銀拾六匁八分 但壱枚銀七分
一松八本 長弐間 弐寸角 同框木遣
代銀八匁 但壱本銀壱匁
一杉六本 長弐間 壱寸角 同中桟
代銀四匁弐分 但壱本銀七分
一火袋新規弐ツ
代銀弐拾九匁 但壱ツ銀拾四匁五分
一釘一式
代銀七匁五分
一大工拾八人
代銀七拾弐匁 但壱人銀四匁
一渋墨塗運送賃一式
代銀九匁五分
〆銀百四拾七匁
為金弐両壱分銀拾弐匁
惣〆銀三百九拾匁
為金六両弐分
右之通御入用積り立奉差上候以上
卯 霊岸島川口町
八月 家持
伝 吉印【印形】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙 左肩に管理番号ラベル】
【裏表紙】
【表紙 題箋】
安政大地震絵【繪】 《割書:九十六枚|二十九枚》【「九十六枚」に打消し線】
【資料整理ラベル】
ぬ ̄ニ
25 ̄イ
【白紙】
雨(あめ)には
困(こま)り〼【ます(三枡紋)】
【右記の下側】
野(の)じゆく【野宿…雨に困り、も、外寝にもつながる】
《題:しばらくのそとね》
市中三疊
自作
東医(とうい)
南蛮骨(なんばんほね)
接外料(つぎぐわいりやう)日々(ひゞ)發(はつ)
行(かう)地震(ぢしん)出火(しゆつくわ)の
その間(あいだ)にけが
をなさゞ
るもの
あらん
や
数(かず)
限(かぎ)り
なき
仲(なか)の
丁先(ちやうまづ)
吉原(よしはら)が
随市川(ずいいちかは)つぶ
れし家(いへ)の荒(あら)
事(ごと)に忽火事(たちまちくはじ)に
大太刀(おほだち)は強(つよ)くあたりし
地(ぢ)しんの筋隈(すぢぐま)日本堤(にほんづゝみ)の
われさきと転(ころ)びつ起(おき)つかけ
ゑぼしきやつ〳〵と騒(さは)ぐ猿若(さるわか)町
芝居(しばゐ)の焼(やけ)も去年(こぞ)と二度(にど)重(かさ)ね鶴菱(つるびし)
又(また)灰(はい)を柿(かき)の素抱(すほう)は何(いづ)れも様(さま)なんと
早(はや)ひじや厶【御座】りませぬか実(じつ)に今度(こんど)の大(たい)
変(へん)は噓(うそ)じや厶らぬ本所深川咄(ほんじやうふかかははなし)は築地(つきぢ)芝(しば)
山(やま)の手(て)丸(まる)の内(うち)から小川町(をがはまち)見渡(みわた)す焼場(やけば)の赤(あか)ッつら
太刀(たち)下(した)ならぬ梁下(はりした)に再(ふたゝ)び鋪(しか)れぬ其為(そのため)に罷(まか)り出(いで)たる某(それがし)□【ハ(は)か】〇
【右下側から】
〇/鹿島太神宮(かしまだいじんぐう)の
御内(みうち)にて磐石(ばんじやく)
太郎/礎(いしずへ)けふ
手始(てはじ)めに
鯰(なまづ)をば
要石(かなめいし)に
て押(おさ)へし上は
五重(ごぢう)の
塔(とう)の九(く)
輪(りん)はお
ろか一厘(いちりん)◎
【左下側から】
◎
たり共
動(うご)かさ
ぬ誰(たれ)
だと思(おもふ)
アヽつがも
内證(ないしょ)の
立退(たちのき)藝(げい)
者(しや)の燗酒(かんざけ)
焼(やけ)たつぶれ
た其中(そのなか)で
色(いろ)の世(せ)かいの繋(はん)
昌(じやう)は動(うご)かぬ御代(みよ)の
御恵(おんめぐみ)ありが太鼓(たいこ)に鉦(かね)
の音(をと)絶(たへ)ぬ二日の大せが
きホゝつらなつて坊主(ぼうず)
地震(じしん)一口(ひとくち)はなし
かしまのかみ
江戸のおゝ
ししんにて
みまはりに
まいられける
とちうにて
なにかあや
しきぬら
くらものに
てあいけれは
〽(かしま)くせものまて
◯こなたはそれと
みるよりもひつくり
せしかよわみを
みせしとせゝら
わらいなにか
とうしたと
〽(かしま)そのおちつき
かほかふさ〳〵しい
いつたいわれはとこへ
ゆくのたトいわれて
ししんはさしつまり
〽(ししん)アヽラさんねんやくやしやナ
こんとゝいふ今度は
しんしうをふるつても大江戸へ出て
かみなしつきをさいわいにいちはん
おゝあてにあてよふとおもつたに
おやふんにみつかつてはもうかなわぬ
さあこれからはしみ【に?】ものくるひたとへ
このみはなへやきになりおゝくの人に
くわるゝともいてこふんをまたすししんに【この前後意味不明】
ァ□□□くそことうせ〽(かしま)なにをこしやくな【?】▲
▲ぬらくらものこのかしまの
かみのめにいつては江戸はもち
ろんしよこくまてゆるかぬ
みよ さわかすたいさいそこ【御代(を)騒がす大災?】
いつすんもうこくまいそ
《題:《割書:/諸客(おきゃく)ハ/八百万神(はつひやくばんじん)の/大一座(おおいちざ)|/馳走(ちくそう)ハ/鹿嶋(ていしゆ)が/地震(ぢしん)の/手料理(てれうり)》/鯰(なまづ)能かば焼(やき)大(おゝ)ばん振(ぶる)舞(まひ)》
鹿島(かしま)大/明神(みやうじん)出雲(いづも)の大社(おゝやしろ)に
出りて諸々(もろ〳〵)の神達(かみたち)とともに
氏子(うぢこ)の者(もの)の縁結(えんむすび)をして
居(い)給ひしに本国(ほんごく)より早飛脚(はやびきゃく)を
もつて府内(えど)の大変(たいへん)を告(つげ)とし
たるにぞ取(とる)ものもとりあへず神(じん)
通(つう)をもつて数百里(すひやくり)の道(みち)をその
夜(よ)のうちにとつてかへしすぐさま
かの大鯰(おゝなまづ)をとつておさへ江戸(いど)の見せ
しか【以後(いご)の見せしめ】なればきびしき/刑(けいばつ)■(ばつ)【労カ】におこなはんと
せらるゝところへ日本六十余州大小(につほんろくしふよしうたいしよう)の/弁(じん)
/祇(ぎ)【振り仮名に「じんぎ」とあるので「神祇」としか思われないのですが…】も/縁(えん)むすびはそこ〳〵にとりしまひ
おの〳〵うちそろひて鹿(か)しまへと舞(まひ)ふ
きたまひしがこのていを見てかしまの
かみのはたらきをかんじまたなまつの
いと強大(ぎやうだい)なるにおどろきしさり【「退り」=しりぞく】
た【「け」か】んしゐ入念ゑも【このあたりよく分からない】しばしやま
ざりけりあるじの明神はゑんろ
の所さつそくにお見まひくだ
されしだんありがたくぞんずると
いち〳〵にれいをのべさて諸神
たちへなにがな【何か】ちそうせんと
おもはれしがめゝにはちのゝ【「あゝにはかの」では?】
きやくらい【客来】といひことに八百萬
の大きやくなればつらはせんと
ゑびすこんひらの二神へだんかう
せられしになにかにといはふより
この大なまづをかばやきにして
ふるまひなばよきもてなし
ならんといふにげにも【その通りだ】とお
もひにはへにそのかうゐ【行為】を
なしてづから大なまづを
さきてかばやきになし
八百萬神たち
をもてなし
給ひしは神武
いらいはなし
にもきかざる
うそ八百を
おみきの
あまりに
よふて
のぶる
【図中文字】
西宮ゑび寿
さぬきこんぴら
鹿島大明神
〽しらみじやアあるめへし
よくつぶしだりやひたり
したなまづちうにん
からぶつちめろ〳〵
〽るすをつけこみ
ふらちのはたらき
いごのみせしめ
かくごしろ
〽《割書:アイ|タヽヽヽ》もふ
こんだから
うごき升
めへから
アレサおち
つひて
とつくり
はけを
きいて
下せへ
これさ〳〵
アイタヽヽ
なまづたぶ〳〵〳〵
〽うらめしひ
なまつどの
ドロン〳〵
【中段右】
〽マア〳〵そんなにしねエでも
はつちがいふことがあるから
きいてくだせへ これさ〳〵
【上段左】
ゆるぐとも
よし
ひめ
なほす
要石
末広
〳〵と
あふぐ
御代とぞ
【右下】
「しよくにん
でへなんぞ
おもしろいことを
くれ〳〵〳〵
【図のほぼ中程】
「せゝ
この〳〵□
かいて
くん
ねへ
【右文の下】
「ちと
きが
おもくて
やれねへ
し
【右文の下】
ウか
「のじ
どうやらな
ふきさま
でも
あめさへ
もら
ねば
よい
とひ
な
【左の下側】
「なんぞ
おやんな
はいな
【左文の下側】
「大工さん
おめへが一ばん
ゑらからう
なんぞ
くりだし
ねへナ
【右上】
子朋 なまづ
〽おにいがかたきだにげるな〳〵 せうたん【小胆】で
なまづ子 いさいられ【咎められ】てはかなはぬ
〽もうこないなら かんにん〳〵
かんにん〳〵
なまづの
をくびに
〽なに
かばやき
こいつわ
たまらぬ
にげろ〳〵
【中央左より】
国侍〽くやどもか合かた【相方】迄も かしま
にぬ 〽まい年の
びんた 事ゆへいづもへ
ぶちはな 旅立に一日出て
すぞ このしまつ先■【「だ」か】
なまづ つてこと信州 ̄ト いゝ
〽かん 大坂 ̄ト いゝ手まへ
にん〳〵 迄がこのしまつ
のみすきとはいわせ
ぬぞこのはきつと
つゝしめ〳〵
女ら
〽ヲヤ
のめ〳〵【おめおめ】とよく
ぶらつきにきや
がつた
をもいれぶち
くらしていやりよ
ふざけたやろう
だ
【看板】
名ぶつ
なまづかばやき
大入叶
あたりや
大平安心之為
去ル元禄十六年十一月廿ニ日夜宵ゟ
電【いなずま】強く八ツ時より地鳴事雷の如し大地俄 ̄ニ
ふるゐ出し家 ̄ニは小船之大波 ̄ニ うこくか
ことく地二三寸あるいは四五寸さけたる
所あり正保【四角の中に「正保」】四年慶安三【四角の中に「慶安三」】寛文二【四角の中に「寛文二」】
宝永三【四角の中に「宝永三」】天明二【四角の中に「天明二」】右江戸大地震
弘化四年三月廿四日信州大地震江戸モ
此夜少々地しんあり今年三月八日ゟ
善光寺開帳諸国ゟ参けい有然るに
浅間山 ̄ノ けむり常より減(へ)たるを
あやしみゐたる處に
三月廿四日 ̄ノ夜四時
俄 ̄ニ地ふるい出し
立所に人家を
たをし死する者
数しれず丹波川
水をし出し左右
湖の如し
安政二卯年
十月二日
江戸大地震夜夜四ツ時ゟ地ふるい
出し土蔵かたふき人家くづるゝ
事おひたゝしく老若男女おしに
こたれて【「こだれて」=倒れかかって】死する者数をしらず此時
震【?】初新吉原ゟ出火初り程なく所ヽより
出火ありすへて火口三十八口たちまち
大火と成翌三日午 ̄ノ刻頃よふやく火
しづまる是か為 ̄ニ死する者又おびたゞし
翌日 ̄ニ成といへ共又ことやゆりかへしあらんかと
人々所々へかり小屋をしつらい夜をあかす事
七八日之間也其後雨ふり地震よふ
やくしつまり人々あんとの
思ひをる頃始て事は
実 ̄ニ前代未聞也
■抬■■【■の文字、『大漢和辞典』にも見当たらず】
此守を懐中
すればけがなし
家内取もはるべし
【紙面右下】
〽はりといきじがさとのならいだと申ンすが
はりをしよつたのはこんどう初てゞおざりいス
〽はたヤア
うなぎは
好だか
なまづ
を見ると
身ぶるいが
出るよ其だ
ろよ地しんを
いこせるかもしれねへ
おあいだ【御間=相手にされないこと】な
やつだねへ
〽其方共
此度我等が
里よふ分【「妖氛(えうふん)=わざわいをおよぼす気」か】をさわがせ
あまつさへ人民をそんぜし事
其つみかろからす右の
とがによつて
かばやきにもおこのふ可也
しかしじゝんの
かばやきには
かみ
なり
の
香の物
でも付
づは成
まいか
〽いやはや一とおそれ
入ました此度私共
のふらち申分はム【ござ】り
ませんほいと申せば
じゝんの
仕出した
事ゆへ致
方かム【ござ】りません
【上段】
大都会不尽(おほつゑふし)
《割書:二上リ|〽》
大なまづゆ ̄ウ らく世間(せけん)は
大そう火事をけし御すくひは
おたきだしにけ出す
おやこは無事(ふじ)のさた
大どうのつゝはり丸太(まるた)
あんまこ詠んで
仰(げう)てんし
わらじの直(ね)を
上 ̄ケて御ふれに
番太(ばんた)【「番太郎」の略】もぞつとして
かべふるひじやうだん所で
ござりませんやつとの
おもひでつぶれて
弁当(へんとう) 家根(やね)のうへ
【下段】
なき上戸
ゑんまの子
はらたち
上戸
ちしん
の子
わらひ上戸
地蔵の子
みな〳〵
〽︎このように大地しんがゆりますはこれも
天さいとあきらめてわおりますれど
あきらめられぬはわれ〳〵しようばい
まこと〳〵ひまになりてこまります
とうかあなたさまの
おひよりでわたくし
どものせわしく
なりますようにおねがい申します
なむ天道さま
とみな〳〵
一どうに
ねがひける
天道
〽︎これ〳〵みなにそのように
地しんお【なカ】あんじるな
たとへこうじひまで
あろうともくよ〳〵
するなよこれを
みよこのようにくわを
てにもちさかんの
てつだいにさいでれば
しごとはつゞくしかねには
なるしくよ〳〵せづに
はやこれおもち
よわたりな【お】せよと
しめし給ふ
みな〳〵
〽︎申しかしまさまあなた
さま【「さま」の合字】 が御ぞんじでは
ございませんか
このようにゆらせ
て下さりますとは
まこと〳〵きこへません
地しんもせけん一とう
でぜひもございません
があなたにわ【ママ】
かなめいし
といふ大丈ぶ
な石がなんの
ためでございます
このようにゆりる
くらいならなぜ
要石でありますよ
そのようないし
ならいりませんから
ぶん■たおして
しまうがいゝと
みな〳〵一どうに
かしまさまを
くどきけるこそ
どうりなり
神主
〽︎これ〳〵みな〳〵のいふ所
しごくどうりにはあれ
どもそのよふにはら立で
下されては
われ〳〵が
間事〳〵大ごまりに
ぞんつるこれといふも
天さいのなす所とあきら
めて下さりませ又そのように
大せつなる石お【ママ】こはされては
手前どもがしよくぶんが上る
ゆへにどうかひらにごめん下さり
ますと神主まことに迷惑そうに
わひにける
【このテキストは、わ•は、を•お などの混同があり、又仮名遣いも現代風で驚きました。例、「やう」(正)を「よう」と記す】
【ナマズと雷の取組表 「天下泰平」の軍配を持つ行司の横に「かしま」の短冊 】
火出山
鯰ケ淵
要石
鹿嶋灘
崩藏
壁の山
御用小屋
焚出し
金竜山
塔ケ先
花廓
三ツ櫓
飯の峰
外ケ内
古木山
甲張
【上段】
十月の二日は
玉【至?】て吉日にて
二十八宿の虚蓿(きよしゆく)に
あたり 時は亥の刻
なれば
仏説(ぶつせつ)には
此日(このひ)この時(とき)の
地震(ぢしん)を
帝釈動(たいしやくのゆり)と
申して
そのしるし
大吉なりと
ふるき書(ふみ)に
ありしとかや
なまづめを
はなしうなぎの
ぬら蔵をゆり
くずしたる
金(かね)の
口(くち)
あけ
【中段以下の会話文】
〽︎よいやら
サアノ
ヤア
引
〽︎ヤイ〳〵なまづまけて
くれるな たのむぞ〳〵
〽︎だがもちつと
やんはりやんなせへ
またうごくと
こまりやす ̄ゼ
〽︎かしまさま
こゝは一ばんふつて
やつてくだせえまし
〽︎いや〳〵おれがいづもへ
いつてきやうとおもつて
そこへでると
このしまつ
いごの
みせしめ
かんねん
しろ
ウン〳〵〳〵
〽︎まんざい
らく〳〵
おかしなかほたねへ
【最下段】
〽︎ゑんやらヤア
〽︎ハヽア引
〽︎ゑんまの子の
ヤア引
〽︎ドツコイ
そううまくは
いきやせん
わしも
ぬらくらしねへ
やうにやけばで
はいをつけ
てきたは
〽︎ヤア
ゑんまの
子があの
なかへまちつて
ゐやがる
ヤへ
はやしことば
〽︎そこで樋口(ひぐち)かまいります
かみなりさんがたびへにげ
あとでしあんのごゐんきよに【「ヲ」に見えますが】
けんのうた
〽︎酒のきげんか
ちどりあしかみなり
あきれてみひよこ〳〵
それぐら〴〵とんで
出(で)てまいりましやう
なんじやかはやがね火事(くはじ)が
あるぢしんがじいさまに
しかられてさるははい死(し)ぬ
とんだこつたなふ
夫(それ)乾坤(あめつち)の開(ひら)けてより
地(ち)を動(うご)かす挙(あげ)て数(かぞ)へがたし
ト年代記で見たばかり
何(なん)にも知(し)らぬ夢助(ゆめすけ)も
今度はほんに目が
さめて見廻す
四方(しはう)は火災(くわさい)の中(なか)
命(いのち)あやふく
たすかりて
又かへり見る
▲△
▲△世(よ)の中(なか)は
大きな焼(やけ)より公(おほやけ)の
御手当(おてあて)あつき御国恩(ごこくおん)
うすき袋(ふく)を持丸長者(もちまるちやうじや)米(よね)の
俵(たはら)のかず〳〵は施行(せきやう)の高(たか)の
八千 余(よ)町 豊(ゆたか)に見ゆる
張出(はりだ)しも黄金(こかね)の花を
さかする如く実に
ありかたき御代や
見よ〳〵
大黒(だいこく)の
つち
動(うご)かして
市中(いちなか)に
宝(たから)の
山を積(つみ)ぞ
めでたき
紀の長丸
〽モウ
うごかぬから
はなして
くだせへ
ヤレ
万ざい
らく
〳〵
〽これは〳〵
大そうまくぜ
こういふあんばい
ならことし
一ぱいでも
がまんが
できます
〽ぢしんも
よつぼと
いゝものだ
よの中の
うるほひに
なるくふ
うか
しら
〽もつと
ふれ〳〵
〽これは
ひろう
にも
ほねが
おれ
ます
〽こちら
へもたん
と〳〵【虫損】
【四角い縁取りの中に】
恵比寿天(ゑびすてん) 申訳(もふしわけ)【譯】之記(のき)
我等諸神に留守居をあづかり罷居候ところ
あまりよきたいをつりしゆへ一 盃(はい)をすごし
たいすい ̄ニ 【大酔】および候あいだをつけこみたちまち
かなめいしをはねかへし大江戸へまかりいで
藏(くら)のこしまき【土蔵の外壁の下部の特に土を厚く塗りまわしてある部分】をうちくづしはちまき【土蔵の軒下で、横に一段厚く細長く土を塗ったところ】を
はづし諸家(しよけ)をつぶし死亡(しぼう)人すくなからず
出火(しゆつくわ)いたさせはなはだぼうじやくふじんの
しよぎやういたし候ゆへさつそくとりおさへ
ぎんみ仕候ところ一とうのなまづは身ぶるひして
大 ̄ニ おそれ一言(いちごん)のこたへもなくこのときかしらだち
たるとみゆるものつゝしんで申かよふ
〽おそれながら仰のおもむきかしこまり候也此たび大へんの
ことは一とふり御きゝ遊されく下さるべし此義は申上ずとも御存の
義にしてはるなつあきふゆのうちにあついじふんにさむい日あり
さむいときにあたゝかなる日ありかくのごとくきこうのくるひ
有てかんだんの順なるとしは少く候今年最ふじゆんなから
ごゝくのよくみのり候は八百万神の御守遊され候
御力による所也さて天地にかんだんの順のさだまり
ありてはるなつと其きのじかうことの外くるひ候ゆへ
わたくしともくにのすまひにては以の外おもしろき
じせつになりたりとわきまへなきものどもちん
しんのごとくくるひまはり候ゆへわたくしども
いろ〳〵せいとう【制統】をいたせどもみゝにもかけず
らんぼうにくるひさはぎ候よりつひに思ひよら
ざる日本へひゞき御しはいの内なる
ところをそんじ
候だんいかなる
つみにおこなわるともいはい【違背】
これなく候也され共わけて
御ねがひにはわたくしども
のこりなく御うりつくし候とも
そんじたるいへくらのたつにもあらねば
まつ【まづ=とりあえず】しばらくのいのちを御あづけ
下されこれより日本のとちをまもり
いかなるじかうちかひにてもこの
たびのごときことはもうとう仕らず
天下たいへいごこくほうねんを
君が代をまもり奉り候べしと
一とうにねがひけるゆへわたくし
より御わび申上候ところさつそく
御きゝすみ下されまことに
もつてありがたく候
きやうこう【向後】十月のため
よつて苦難(くなん)のことし
自身(じしん) 除之守(よけのまもり)
東方 西方 南方 北方
■ ■ ■ ■【梵字と思われる文字が四文字】
右四方へはるべし
■【梵字と思われる文字】《割書:家の中なる|てん上にはる》又守に入置てもよし
大平の
御恩沢【澤】に
高き
まくらの
ふし戸を
やぶり
し
地震(なへ)は
いつしか
しづまりてまた
やごとなき【「やんごとなき」の「ん」の脱落。時代的にはこの形で通用。】
御恵に
つきせぬ
御代のかづ〳〵を
さゝれいしの
みうたに
ならひて
君が代は
千千に
八千代に
かなめいしの
いはほは
ぬけじ
よし
ゆるぐとも
ぢしんにてやけたる
あとは浅草に
やどをかるべき一つ
家もなし
【上段】
こゝに安政二年
十月二日の夜
大地震(おほぢしん)ゆりて
家(いへ)たをれ
藏(くら)くづるゝこと
おびたゞしく
猶(なほ) 死亡(しぼう)の人(ひと) 多(おほ)かる
中(なか)にけがもなく
あやうき命(いのち)を
たすかりたる
人々(ひと〴〵)は伊勢(いせ)
太神宮(だいじんぐう)の
御たすけ也
その故(ゆゑ)は
彼時(かのとき)御馬
御府内(こふない)を
はせめぐり
信心(しん〴〵)の輩(ともがら)を
すくひ玉ふにや
たすかりし人々(ひと〳〵)の衣類(いるゐ)の袂(たもと)に
神馬(じんめ)の毛入(けいり)てある
といふをきゝてその人々
あらため見るにはたして
馬(うま)の毛(け)出(いづ)る也 是(これ)こそ
大御神(おほんかみ)の守(まも)らしむる所なりと云ふ
【右下】
〽□□うまがでゝはおれ
たちはかなわねへはやく
にげだせ〳〵
【中央下】
〽アヽいてへ〳〵もふ〳〵
でませんごめん〳〵
〽どうもふだんからぬらりくなりとしてみたくても
ねへやつだとおもつたがこんなことをするやつとは
おもはなんだいま八百万(やをよろづ)【萬】の神〳〵はみな
いづもへたゝれてわれひとり留守居(るすゐ)を
すれとわがいちぶんでころすもならず
ともかくもいけどりにしていづも
おもてへさしのぼせとがのほとを
さたむへし
どつこい
にけるな大
なまづたいとは
ちがつてとりにくひ
なんぼ神でも五尺
の身で大地のそこ
にわだかまるこいつを
だいていづもまでゆくには
ゆかれすかつぐもならず
なまづなまなか【なまじっか】とらへた
うへはにがしてるすい【「ゐ」とあるところ】がすみは
せぬアヽいゝところへきたうなぎや
はやくこいつをつかまへていづものやしろへ
やつてくれ《割書:うなきや|》〽どうして〳〵
このやうなおほきななまづを
神の手や人手でもつては
まいられぬ
〽ハテそれはこまつた
ものだアヽいゝことを
かんがへた人手では
やれぬなら〽どうして
やりましやう
〽はやくむまにに
してやるがいゝわさ
《題:地震《割書:ぢ|しん》雷《割書:かみ|なり》》
《題:/過事(くはじ)/親父(おやぢ)》
【表題の下】
おや
ぢか
いふ
〽こいつらはわるくふざけるやつらた
どんなことをするかしれねへから
回禄《割書:火の|神也》加茂大明神《割書:かみ|なり》鹿島
《割書:地を|守る神》此御神に願ツてかみしばりに
してもらはざア
いく
めへ
【表題左へ】
◎火の印
●かみ
なり
▲なまづ
の印也
◎
〽ナント/雷(かみなり)さんおめへは/久(ひさ)しく/音(おと)がしね【字母は「年」】へぜへよくおと
なしくしているぜ●〽ナアニ/私(わつち)もしかたなしさ▲〽ナゼ
●〽ソレ四年いぜん八月四日に大ふざけをしてツイ
おつこちやした其時たいこは/打折(ぶちおつ)てしまふ其上
こしぼねを/強打(ひどくぶつ)て/天竺(てんぢく)へ/返(けへ)る
こともできず今に
/迷(まこつい)ているから
/天竺(てんぢく)/浪人(ろうにん)だ
なまづさん
おめへは/時(とき〳〵) 〻
やけになるが
此間なざア ユサ〳〵ドロ〳〵と
/直(すぐ)に/四方(しほう)が/花盛(はなざかり)だアリヤどふいふもんだ
▲
〽ナアニ/私(わつち)は水の中のもので火はしらねへはナ
●
〽そんならアノ大ふざけはどふいふもんだねへ
大やけに成たもとはおめへから/起(おこつ)たことだせ
▲
〽アリヤ/春夏(はるなつ)の/季(き)に/曲(くるひ)が有て/陰陽(いんやう)の/気(き)が
/和順(わじゆん)せずソレ/私(わつち)が/世界(せけへ)で/面白(おもしろ)く成からツイ/曲(くる)ひ
出す所が/少(ちつと)で/濟時(すむとき)もあり又大ふざけをやる時も
有てソコはきまりなしさ◎〽そんなら/四季(しき)の/気違(きちごへ)から
おこる所だかららんしんにでも成てなかまぢうがおどり
ひつくりかへりなぞをするのかへ▲〽サアそこは/自身(じしん)に/考(かんかへ)ても/分(わから)ら((ママ))ねへ
金持を
ゆすりに
きたか
大地しん
なまつ
戯
【右上】
安政二年十月二日の夜
大地震おびたゞしく家くづれ
人おゝく死す内に
あやうき命をたすかりし人ハ
伊勢太神宮そのほか神〻
信心のともからハ
神馬御府内を
はせめぐり
【上辺中央】
人/袂(たもと)に
此毛出る也
/是(これ)神の
守ら
しむる也
ありがたや〳〵
【上辺左端】
神馬にのられてハ
もちやげる事も
いすぶる事も
でじきねへ〳〵
【右端下側】
「これごらんハたしのたもとにも
こんな毛があるよ
ふしきたねへ
【右端下】
「これは〳〵〳〵
めうだ〳〵〳〵
【右分の左】
「おやふしぎだねへ
わたしもみよや
【右分の左】
「こいつハめうだ〳〵〳〵
まことにふしぎだ
/夫乾坤(それあめつち)の/開(ひら)けてより
/地(ち)を/動(うご)かす/挙(あげ)て/数(かぞ)へがたし
ト年代記で見たばかり
/何(なん)にも知(し)らぬ/夢助(ゆめすけ)も
今度ハほんに目が
さめて見廻す
/四方(しはう)ハ/火災(くわさい)の/中(なか)
/命(いのち)あやふく
たすかりて
又かへり見る
▲△
▲△
/世(よ)の/中(なか)は
大きな/焼(やけ)より/公(おほやけ)の
/御手当(おてあて)あつき/御国恩(ごこくおん)
うすき/袋(ふく)を/持丸長者米(もちまるちやうじやよね)の
/俵(たわら)のかず〳〵ハ/施行(せきやう)の/高(たか)の
八千/余(よ)町/豊(ゆたか)に見ゆる
/張出(はりだ)しも/黄金(こかね)の花を
さかする如く実に
ありかたき御代や
見よ〳〵
/大黒(だいこく)の
つち
/動(うご)かして
/市中(いちなか)に
/宝(たから)の
山を/積(つみ)ぞ
めでたき
紀の長丸
【下辺右側】
「モウ
うごかぬから
はなして
くだせへ
ヤレ
万ざい
らく〳〵
【下辺左側】
「これハ〳〵
大そうまくぜ
こういふあんばい
ならことし
一ぱいでも
がまんが
できます
【右文書の上側】
「ぢしんも
よつぼと
いゝものだ
よの中の
うるほひに
なるくふ
うか
しら
【左端中央】
「こちら
へもたん
と〳〵
【左端下辺】
「これは
ひろう
にも
ほねが
おれ
ます
鯰舞し
の酒落
まはし
たる
その
天罰の
むくひ
来て
こよひも
女郎に
延されに
けり
外山人しるす
【本文は次28ページで翻刻しました】
【左側の下札を翻刻します】
【表札】
《割書:うち身|くじき》りやうじ所
ゑんま堂
【表札の右下から】
当分之内ほどこし致しんじ候
えんま
「いそくな〳〵おれか子になつてきたものよくせづにおくものかあをあかの
鬼どもやくすりをつけて早くまいてやれいたかろうかわいそうに〳〵
しやうつか
「地蔵さんのおいかりもゑんまさんのおなげきもおれが引合にだされて
てつだうのもあのなまづゆへださてにくいやつだナしなれぬことハたいぎた〳〵
地蔵
「おれがまもる此地めんを度〻うごかされてハおしやかのまへゑすまぬ地蔵の
かほも三度だそかしまとのへはなしてきたかくごしろふといやつだ
《題:地震冥途ノ圖》
【右上】
ばんづけハ
しゆんに
して
いそぐな〳〵
又けがを
するぞ
やれ〳〵
いとしい
事だ
のふ
【中央上側】
じぞうさんの
子にして
おくれ
【左中央】
ノ【ソ?】レ
えんま
の子
地ぞう
の子
【右隅側】
いまに
なをる
すこしの
しんぼう
だ
【下辺中程から左に】
こどう
せんに
スチヤ
ラカ
ポク〳〵
で
ござり
ます
こりや〳〵〳〵
土方
の子
たのみ
ます
おんま
の子
/地震方々人迯状(ぢしんほう〴〵にんにけじやう)之事
一/此(この)ゆり/苦労(くらう)と申/者(もの)生得(せうとく)/信濃国(しなのゝくに)/生須(なまづ)の/莊(しやう)
/搖初村(ゆりそめむら)/出生(しゆつしやう)にてふ/慥(たしか)なるふら附者に付荒魔ども
/失人(うせにん)に/相立(あいたち)/異変沙汰(いへんさた)へ/諸々(しよ〳〵)/方々(ほう〴〵)にゆり出し
申候処めつほう也/火災(くわさい)の/義(ぎ)ハ當卯十月二日夜より
/翌(よく)三日午の下刻迄と/相定(あいさだめ)困窮(こんきう)人の/義(ぎ)ハ/難渋無住(なんじうむぢう)と
相きハめ只今御ほどこしとしてさつま芋三俵はしたにてたべ
申候御救之義ハ七ヶ所へ御/建(たて)じま /御恵(おんめぐみ)に/逢目嶋(あ?めじま)
可被下候事
一鹿島様/御法度(ごはつと)の/義(ぎ)ハ申に不及お/家(いへ)の/八方(はつぽう)相/傾(かたむか)せ申間鋪候
/若(もし)此者お/台所(だいどころ)の女中方の/寝息(ねいき)を/考(かんが)へ/内證(ないしやう)の/地震(ぢしん)致候歟
又ハゆり/逃(にげ)壁落(かべおち)致候ハヽ/急度(きつと)したるかふばりの丸太を
以て早速らちあけ可申候
一/愁患(しうせう)の義ハ/一連(いちれん)たく/宗(しう)にて/寺(てら)は/夜中(よなか)ゆりあけ坂
/道性寺(どうしやうじ)市中(しちう)まつぱたか/騷動院(そうどういん)大火(たいくわ)に/紛(まぎ)れ御座
なく候御/發動(はつどう)のゆりしたん/宗(しう)にてハこれなく候
/若(もし)物音(ものをと)がたつきひめわひより/瓦(かはら)をふらし候義ハ
無之万一ゆりかへし等致候ハヽ/我等(われら)早速(さつそく)まがり出/要石(かなめいし)を
/以(もつ)てぎうと/押(をさ)へ/付(つけ)/野田(のでん)へ/宿労(しゆくらう)さしかけ申間敷候/地震(ぢしん)の
たびゆつてむざんの如し
/造作(そうさく)ざん年
/鹿島(かしま)の/神無(かみな)月二日
/半性大地割下(はんてうだいちわりげ)水
家なしまご右エ門店
つぶれやお土蔵
どさくさほんくらないけんのん橋
みじめや難十郎店
お小屋太助
/世並直四郎(よなみなほしろう)様
【この一ページは単独で掲示されています。】
《題:/生捕(いけどり)ました/三(さん)度の/大地震(じしん)》
だいく
「ヱヽモシだんなこのてへくのわるひ
ところはとくといひきけやして
とも〴〵おわびをいたしやしやうから
まアともかくもわつちらにおあづけ
なすつてくださいやしじつのことわつちら
はじめでしやらうまで日壱分とつて
すきなすゐをたらふくけづりやすのも
このしゆうのおかげでごぜへやすから
みにかへてもとのおわびをいたさにや
なりやせんのヲかしら
とびの者
「そうさ〳〵おめへのいふとをり
こんなことでもなくつ
ちやアあいつのつらア
見にゆくこともでぎ
やせんモシ〳〵
こりア一ばん
わつちらが
つらアたてゝくだ
せへましな
左くわん
「あのしゆうの申
ますとをり人の
うれひをよろこぶ
のではございませんが
こんなことでもなけ
りやア【「ナ」では?】はなのしたが
ひあがりますのヲ
やね屋さんおまへなん
ぞもそふじやアねへか
やね屋
「ほんとうにさ
つくろひしごと
ぐれいしてゐた
日にやアすきな
こめの水がのめや
せんこちとらが
ためにやア
いはばいの
ちのおや
どうぜんで
ござり
ます
どうぞ△
【下側中程】
△かんべんして
やつてださい
まし
や師
「へヱ〳〵わたくし
なんぞもぢしんさまの
おかけで五ほんや六本のお
あしはあさのうちにもとり升
からぢしんまへのこめ
やのかりも五つき
たまつたたな
ちんもすつ
はりすまし
ました
そこらこゝ
らもおかんがへ
なすつて
とうかこんど(の)
ところはお見
のがください
まし
て
ならふ
ことな(ら)
たり
なく
なつた
じふん
おつか
まへくだ
さいまし
またぜに
もうげが
できます
からトてまへ
がつてをなら
だ□てゝビた
〳〵※
※わびことを
するにかしまの
かみもこゝろにおか
しくわらひをふくみ
けるがわざとこゑをあららげ
「イヽヤならぬかゝるつみ
あるやつをゆるしおき
なば日本六十餘州の
なまづどもよきことに
こゝろへまた〳〵かやうに
しよ人にふかなんぎをさせ
/市中(しちう)を大 /家破(かば)やきになさんも
はかられねばいごの見せしめに
なべやきのけいにおこなふべしと
さらにきゝいれゐ【「給」では】はざればせんかた
なくみな〳〵ためいきをつきなが(ら)
「ユリせれアとろせう汁
し【く?】らひやした
八幡宮
我等も
遠方
注進
ニ付今帰り
これは
大へん〳〵
太神宮
江戸にてなまづ
どもうちより
さはき候よし鹿嶋
明神通りかけ
ちうしん
いたすゆへ
そふ〳〵【早々】欠附【「駆けつけ」の当て字】
諸人をたすけの
手当なきまゝ我
馬の毛を一本つゝあたへ候しづかに立のけ〳〵
鹿島大明神
是は大へん〳〵外の国とちかひ當所ニて
なまづともかやうのそうだふいたす事
我等留主中と
あなどり候だん
不届
至極
一人
□も
その
まゝに
致かたし諸人
もはや我帰る上は
あんど致けかせぬ
やうしづまれ〳〵
【上方左へ】
かしまさま
くに〴〵の地しんどもの見せしめに
まづ江戸のぢしんめを
てひどく打ち
のめししよにんの
あだをてきめんに
とるかよか
ろう
神
「ハイ〳〵かしこまり
ましたこのあたまに
さしたるかなめ石を
さん〴〵にうちこみ
そのうへでせびらきに
してなまづの大かばやきを
こしらへしよにんへ
ほどこし
ませう
江戸
「アヽいたや〳〵
このうへの
おねがいには
いのちはかりを
おたすけくだされ
そのかはりには
いまよりして
なまずの
けんくわや
じやりの
うへゝでます
ことは
いたしません
くわん八しう
「わたくしは
どのくにゝも
あしをとめませぬ
くわんとうすぢをのたくり
あるきましたが
これからはきつと
つゝしみます
【下方 右側】
しんしう
「わたくしのつみをゆるして
くださるならば信しうも
かまどもなつち【なづち】も
いらねへ
小田はら
「どうぞとがのせんぎは
をだはらになればいゝが
ゑちご
「わたくしはゑつちりゑちごの
ぢしんゆへかくべゑのやうに
さかさになつておわびを
まうします
甲しう
「わたくしはかうしうの
うまれゆへ
ぶどうのやうな
ひやあせを
ながしておそれ
いります
大さか
「大坂をゆり
いだしてならの
はたごや
みわのちや屋
まですこしは
いたませましたること
いつわり
なく
まうしあげ
ます
【この頁文字無し】
【この頁文字無し】
【裏表紙にて文字無し】
火出ノ山
鯰ヶ淵
要石
鹿嶋灘
崩藏
壁の山
御用小屋
焚出し
金竜山
塔ヶ先
花廓
三ツ櫓
飯の峰
外ヶ内
古木山
甲張
地震(ぢしん)のすちやらか
おくれて出(で)られぬ 蔵(くら)の中(なか)
あちこち見つけて 藪(やぶ)の中
うちからころげて 大道(だいど)中
はだかてにげ出す 風呂(ふろ)の中
店(たな)ばんはたらく けむの中
女郎(じようろ)はおはぐろ とぶの中
雨(あめ)ふり野(の)じんは とばの中
まがりヲ直(なほ)して 内(うち)の中
すちやらかぽく〳〵
万歳らく
ぐら〳〵
地震風火水災綴 二 止
【白紙】
【白紙】
【上段】
再々改【朱印】 帝国図書館【朱印】
安政二卯十月二日
御江戸大地震大破
并 出火類焼場等書上之写
要石堂施板
年代記祓書【朱書き】
地震之部加之【朱書き】
【下段】
安政二乙卯十月
《割書:関東|五街道》江戸大地震出火場所
東都 瓢鯰堂蔵
【下段 右端丸印】
明治二五・九・二〇・購求
【印中央】
図
【上右ページ】
安政二卯年十月二日亥ノ刻頃東南之方より大地震ゆりおし江戸四里四方大破に
成諸〻より出火もへ出し怪我人死亡人筆紙に尽しがたし然る処其夜町御会所より窮
民え御救飯被下置候に付存命之者はうへ不申候事誠以泰平之御仁恵難有事也
猶亦窮民無住に相成候者御救小屋御建被下日に三度之喰物被下候場所左に印
幸橋御門外 浅草雷門前 深川海辺新田
《割書:新吉原町|山谷田町辺》新吉原江戸一丁目二丁目京丁一丁目二丁目角丁壱丁目二丁目揚屋丁伏見丁
惣じて仲の丁より四方郭中残る所なく類焼にて大門外御高札幷に同じかはの分
残り右かは残らずやける日本堤にて往来の地さけたり郭中におひて土蔵一ケ所も
残りなくゆり潰し其上に火事なるゆへけが人死亡の者かぞへ尽しがたし夫
より田丁にて出火して同所壱丁目袖すりいなり土手下あみがさ茶や北の方
少し残り候へ共大形つぶれ家と相也申候同所西の方谷中にて天王寺門前二ケ所
【上左ページ】
山川丁馬頭くわんおん西方寺■■■■寺はのこる▲同所南方馬道どふりより小しん町
やけ込編照見其向ふ猿若丁三丁目かはらさき二丁目市村内壱丁目中むら右三座
乃前後がくや役者しん道共やける但し三丁目森田かん弥宅より北の方のこる夫より
藪の内ゆりつふれ火災等にて残る所少し同所東の方山の宿九品寺より四
かはのこる南へ花川戸丁戸沢長家七分やけて止り同所馬屋西がはの分▲吉祥
院徳應院延命いん誠心いん無動院教善いん北馬道迄同所南馬屋は廻り角迄
やける▲同所馬道東かはの分青龍院泉凌いん泉藏いん修谷院妙徳院医王いん
まんだら堂金別いん覚善院法善いん妙音院形松院右の分にいろは長家多
くあり分やける同所一の権現やける同所慈性いんにて焼止る▲浅草寺境内の
分奥山の諸宮等あれも破損いたし同寺内にて正智いん長寿いん勝蔵いん
寿命いん正福いん智光いん同く梅覺いん実相いん松寄いん金蔵いん観知いん
【下側資料】
天災(てんさい)地凶(ちきやう)は凡/人力(じんりき)の智(しる)る
をもつてはかるべからず
人命(じんめい)生死(せうし)は草根木(さうこんぼく)
波(ひ)の及(およ)ぶところに
あらずころは安政二
乙卯十月二日夜四ツ時
過より大地震ゆり出し家
蔵つぶれ死人けが人数多く其上
出火にて廿三ヶ所壱度にもへ上り
大火となり先日光道中はちあ
粟橋幸手杉戸粉譬大沢
【図中地名】
千住
よし原 木母寺
芝居町
牛の御前
聖天社
【上の資料】
日音いん此分裏にいろは長家ありいつれも大破也▲観音本堂山門鐘楼
随守門雷神門三社念仏堂此分無事也五重の塔くりん少し曲る東橋
川付の方にては北方山谷ほり迄焼残り候へ共潰家最多し右の内待ち山
無事也▲同所山谷はしより北の方今戸はしきは半丁斗やける同所銭ざ前
後は焼失潰家等甚多し▲同所ゑた丁のこる▲同所遍照寺のならび総泉寺より
其崎いなり迄大破の家多く川口と柳屋と云れうりやは無事也同所山谷丁
浅草丁同くつゝき中村丁小塚原丁千住宿大橋迄大破の家多し又千住にて
焼失在て此分追加に出すべし
浅草辺【白抜】浅草本願寺の分本堂無異寺中教覚寺鳥勝寺玉泉寺證
願寺圓照寺法ゆう寺雲妙寺来應寺光圓寺其外大破損同所誓願
寺門前丁潰家多し日輪寺門前其外此辺潰家多く総崩にて町〻
分りがたし候菊屋ばし向行安寺門前丁半丁やける同所西向がは新堀端迄
一丁余やける同あへ川丁近辺潰家多し▲こま形丁左りがは初富丁下申料
りや手前角より両かは不残やける此へん土蔵一ケ所も残所なしすは丁両側
やける黒舟丁同断同所しつくひや土蔵のこり同所角米問屋半のこる三好
丁川岸の方のこる同所南御馬屋河岸にて止る蔵前通り無異
下谷辺【白抜】下谷七軒丁よりやけ同所南方備後出雲両家大破同所大正寺
光生寺心行寺迄同向出雲様上やき半焼但し十軒丁向かはまで旲雲寺
下やしきより南方町家休昌寺忠網寺小妻川保朝比奈其となり妙願寺正
慶寺東淵寺やける喜連川半やける同所南方かや丁二丁目其向称仰寺幸安
寺東方教證寺やけ此所にて止るかや丁一丁目中ほとより二丁目の分也下谷
坂本一丁目より三丁目迄不残やける同所日北方金杉みのわ根岸御り松辺潰
【下の資料】
越ケ谷竹の塚草加梅田村千
住宿五四三二壱丁目かもん當大崩
小塚原等はぢしんの上出火
にてのこらず焼る浅草町三谷
町新鳥越三二壱丁目又は新町
みのは町壱二丁目坂本三二
壱丁目大音寺前大崩新吉
原江戸丁壱丁目より出火にて
揚屋町京町壱二丁目
角丁江戸丁二丁目伏見
丁焼る死人三千七百人
けが人数知れず田町
壱丁二丁目舟つ廿馬道
南馬道さるわか町壱丁目
弐丁目三丁目焼る役者新
道残る野て町かわらまち
山の宿花川戸半分残る矢
大臣門前焼る観世音
二王門つゝがなく地内大半崩
並木町少ゝ駒形通りすは丁
黒船丁は八幡丁中程にて止る
通はたご町森下丁片町
【図中の地名】
浅草観音
聖天丁
あずまのもり
御門跡
駒形堂
いづくかん
あづまばし
あたらし橋
たゝのやくし
御蔵前
やなぎはら
龜戸天神
浅草御門
あきはしらひげ
【上文章】
家甚多し同南東方東えい山下車坂はんすう院門前丁御切手丁山さき丁此
辺ゆらき寺院は大破多し上野広小路六あみだのこり同上野丁一丁目不残やける
二丁目過草やける徳大寺一乘いん同所南方北大門丁下谷同朋丁一丁目二丁目上野黒門町
同御家来やしき同朋丁拝領やしき井上ちくご守様長家御てん共潰る石川とのも様
南方□やける黒田豊前守様表長家やけ此所にて止る同所大関信濃守樣無事下
谷長■【者】町一丁目二丁目同二丁目代地同二丁目残地上野南大門丁下谷車坂丁同家来
やき■御徒士丁高野と申家より南え六丁斗やける同所西方へ廻り辻元と云医師
やけ同向五六軒やける同所西北方湯しま本郷加州様備後守様少〻破損夫より
駒込■【白ヵ】山すかも辺迄破損在之▲小石川御門内さぬき様するが様同御門外水戸様青山様
丹後樣小笠原様豊後様大破牛込にて赤城下坂代丁小日向水道丁古川丁近辺潰家甚
多し音羽より目白臺ぞうしかや東方大つか此へん大破無之候候▲市ヶ谷御門外
尾州様小破損かうし丁飯田丁ばん丁四ツ谷新宿此辺淀はし辺大破▲赤坂御門外
紀州様小破損同てんま丁さめがはし相はたけ寺ばしより赤ばね川筋迄大はそん目
黒ひろを白かね代丁高輪品川同北方札の辻此辺四方少々破損にて委くは後篇に出之
芝辺【白抜き】柴井町両かは共やける宇田川丁三島丁神明丁此分潰家多土蔵残所なし
同神明無事同増上寺地中北方の分少破損土の内少々破損在之▲同所より南方金
杉札の辻迄格別大破無之同北方にて桜田兼房丁自身番より同所南松平兵部
表長屋迄やけ同西方伏見丁かぢ丁くぼ丁太左右衛門丁びぜん丁いなば丁いづみ丁善右衛門
丁此辺潰家尤多し▲同西南方あたこ下西のくほいゝくら麻布市兵へ丁六本木
辺大破無之
《割書:永田町|外桜田》辺【白抜き】半蔵御門外御大名方諸屋敷町家共少〻破損▲南方外さくら田赤坂
御門内三べざか山王社無事かすみが関虎の門新しはし迄少破損東方幸橋御門
【下文章】
又は田原町三丁目より廣徳寺
門前寺地町家ちに損する
下谷藤堂立花其外御
大名旗本御屋敷不残崩
上野町長者町壱丁目
二丁目三丁目魚居七軒丁
伊藤松坂屋裏通りより
出火にて和泉橋通まで
もへ出る夫より中町うら
通り崩表通りあら
まし残る廣小路井の口
の側焼る下谷茅丁一丁目
二丁目迄焼る根津は二丁
とも大小損じ死人四百人
けが人数しれず家二けん
程残る無縁坂上は
松平備後守様御屋
敷焼る千駄木団子坂
此辺あまた崩谷中
善光寺坂上少〻残る也
向【白】山駒込板ばし
けいせいが□つ保は大崩
【図中地名】
石はら
やなぎばし
大仏寺丁
杉の森
しいのき
小田原丁
めかやばし
本所
駒止いし
江戸ばし
両国ばし
五百らかん
永久橋
みなとばし
回向院
乙女橋
【上文】
内松平甲斐守様伊藤修理大夫様やける南部美濃守様やける薩州せうぞく
やしき南方少やける▲山下御門内ひゞや御門外少破損
丸の内辺【白抜き】和田倉御門内大番所松平肥後守様中やしき共やける同所腰掛やける同
南松平下総守様やける▲すきやばしゟ呉服ばし内大名小路前後御大名少〻破
多し▲辰の口向森川出羽守様酒井うたの頭様中やしき同上やしきやける▲常盤
ばしきじ橋御門内少破損▲田安様清水様無事《割書:遠藤但馬守|本多中務大輔》やける
小川町辺【白抜き】一橋御門外ごぢいんの原松平豐前守様本郷丹後守様共にやける其外小
やしき五六軒やける小石川御門内よりするが台小川丁筋違い御門迄少〻破損▲外神田
さみせんごり七曲泉ばし新し橋浅草御門柳橋少〻破損同所北方御蔵前より
御馬やがし迄無事▲すじかい御門内すだ丁ゟ今川橋日本橋迄家蔵の破損多
く火災無之
日本橋辺【白抜き】日本橋より中橋まで家蔵大破▲中橋南てんま丁二丁目横南かぢ丁より狩
野しん道五郎兵衛丁畳丁北こんや丁白魚やしき同東方鈴木丁いなば丁ときわ丁
太田やしき柳丁ぐそく丁炭丁本材木丁八丁目河岸迄やける土蔵此間に少残る
京橋辺【白抜き】京ばしより新橋迄御屋敷町家共大破▲築地小田原丁南飯田丁元
柳原丁此辺大破潰家尤多し▲西本願寺本堂無事寺中数軒大破此辺
御やしき大破土蔵潰多し▲鉄砲洲十間丁松平淡路守様やける明石丁潰家
甚多し舟松丁細川能登守様無事其外大破多し▲佃島大破損▲本八丁堀ゟ
北方大通り八丁堀組やしき又かやは丁薬師堂無事四方町家所〻大破潰家破損等多し
霊岸嶋辺【白抜き】霊岸嶋蛤丁四日市丁白銀丁大川ばた丁南しんぼり川岸限やける松平
越前守様中やしき残る其余みなと丁長さき丁大破▲同所北の方北しん堀久世様
伊豆様土井様小〻破損田安様無事其外大破▲行徳がし小あみ丁どうかん
【下分】
夫より本郷通り損じ本郷
より出火にて湯島切通し
まで焼けるか州様御一手にて
消口取湯島天神少しいたみ
門前両側町家土蔵総いたみ
同三組町中程二軒たおれ其
外畑しんまち家灵雲寺ねり
べいつぶれ門前大半崩れ
妻乞坂稲荷社少ゝ損じ
同坂上町屋崩同坂下は
酒井溝口建部内藤さま
皆〻表長家崩る
夫ゟ浅草茅町両側から
損じ浅草見附石垣飛出る
馬喰丁横山丁大伝馬丁小伝馬丁
大門通り人形丁此辺
少ゝいたみ夫より東橋
向松平隠岐守様御屋敷
潰れ焼る本所石原町
外手町同片町大崩其
上出火にて南割下水
中程にて止る又壱口
【図中地名】
弁てん
深川六軒地
八まん
すさき
深川
【上文】
ぼり酒井様本田様林様紀州様三河様井上河内様堀出雲守様此へんのやしき
并二銀座甚左衛門丁より人形丁通はたご丁通迄大破そん同向にて小舟丁堀江丁
本舟丁せと物丁此辺ふ残大破▲北方大川ばたにて安藤様新庄様菅沼様大破
同裏通り秋本様牧野様遠江守様永井肥前守様此四方大川ばたゟ横山丁迄大破
今川橋辺【白抜き文字】日本橋北本丁今川ばし迄大破十けん店東方石丁通大てんま丁小てん
ま丁はたご丁油丁ばくろふ丁横山丁両国ひろ小路柳原の土手迄大破▲同所郡
代やしきとしま丁細川玄蕃頭様弁慶ばしお玉ケ池市橋下総様小柳丁もみぐら
すた丁の通り迄大破損土蔵多く大破▲同所西方すじかい御門内にて青山下野
守様酒井様土井能登守様松平左衛門様稲葉丹後守様土屋うねめ様戸田
竹次郎様内藤駿河守様堀田備中守様伊東若狭守様柳原式部本多伊予守
様本多豊前守様御勘定奉行三河丁迄此四方御やしき町家共大破悉記がたし
深川辺【白抜き文字】永代橋わたり相川丁御舟蔵御舟手組はそん同所木戸きは二軒斗のこり南
方熊井丁やける正源寺やけるとみよし丁諸方中島丁北川丁黒江丁右かは半丁残東つゞき蛤
丁大島丁西念寺やける一の鳥居永代寺門前山本丁仲丁右かは永代寺表門角にて焼止る同
元かは半丁手前にて止る八幡宮無事右の鳥居二カ所大破社内多くはそん同門前丁潰
家多し三十三間堂大破木場何れも大破同東入舟丁潰家多しすさき弁天
社内無事但し茶屋等破損木〻所一場大破同南西方阿州様越中様榊原様端雲
寺は少破そん此辺火災はなし同所黒江丁さか丁代地凡一丁四方やける同所本所石原
丁代地より平の丁添地一丁斗やける此辺潰家多し同所東方六万坪ゟ毛利新田
砂村猶此東方がく四方共大破潰家数しれず▲同寺町通り諸家寺院大破損
浄心寺本堂大破寺内三ヶ寺并中門表門手水舎共潰同表口題目石倒れる
同霊かん寺表門倒本堂寺内共大破同所本誓寺大破損夫より正覚寺橋通り
【下文】
御船蔵前大口横丁より
出火にて深川六軒
堀神明門前ときは丁
此辺大崩の上焼る神
明様つゝがなく同珍
動寺地中潰薬師
堂つつがなく相生丁
松坂丁此辺大半崩
緑丁ゟ出火にて壱二三
目四丁目しもくばし
橋きはまで焼る夫より
小梅通り引船辺まで
焼る深川は相川丁より
冨吉丁宝町蛤丁北川
丁熊井丁外記殿丁出島
丁黒江丁中丁永
代寺門前残らず焼る
八幡石鳥居二つお
れる本社つゝがなく
地内総崩三十三間
堂大半崩洲崎木場辺
大崩又佐賀丁一色丁油
【図中地名】
王子こんけん
上野東叡山
谷中くりんのうし
板ばし
下谷いけのはた
本郷
神田明神
一ヶ谷
せいどう
昌平橋
小川町
すじかへ
【上部文】
万年丁一色丁三角此所納屋蔵町家諸寺焼多く潰▲永代橋左の方さか丁万年
ばし異雲いん海辺大工丁いせ崎丁木場此へん潰家多し平の丁東西立花樣大破
同西方魚川丁円速寺万徳院大破損▲南方小名木川筋猿江辺此所の四方大破いふ
斗まかし▲大橋をわたり右へ深川元町松平遠江守様下やしきさるこ橋迄悉潰る同
大橋より尤方木下図書潰西方安多気御舟蔵無事同所一つ目弁天大破損同所八まん
旅所同所再幸寺初音いなり此辺多く崩同所御船蔵前丁より出火同所大仏殿後所
はがみこんけん秋葉宿寺此南方小やしき多く破損の後やける同所東方六間堀あべ川屋
より半丁北にて出火南森下所飛火此辺大崩焼地在こた▲八名川丁北六間堀丁同通り
もみぐら少やける同所神明門前丁御社残り此辺一面やけるいのうえ井上河内守様やける常盤丁よりやけ出し
小笠原さまやける太田様表長家少やける高橋きはにて止る此四方やけ残町〻御屋敷潰家尤多弥勒
寺表門潰同所要津寺慶長寺【長桂寺】共大破いよ橋通り東方徳右え門丁二丁目三丁目までやける近へん何れも大崩
本府辺【白抜き】両国はし右方一のはし石垣崩同元丁回向院鐘楼堂潰同所本多
内蔵介大破相生丁一丁目より五丁目辺大崩道みどり丁一丁目二丁目までやける三丁目角にて
止る同四丁目五丁目花丁しゆ木橋際迄やける津軽様大破同北方柳原丁五丁かやば丁
四丁亀戸天神旅宿本所尾丁松代丁四丁目中ノ郷五橋丁辺悉大崩土蔵残ふなし
▲本所五つ目渡場十軒斗やけて消事▲亀戸天神ふもん院光明寺萩寺光蔵寺
長寿寺あ部長徳寺亀戸丁柳島丁法性寺妙見宮常照寺押上村最教寺大雲寺
性生寺永泉寺全性寺春慶寺法恩寺橋通り霊山寺本法寺大法寺生つ盛寺
南本所出村丁北割下水南割下水此へん小やしき多潰土蔵数カ所崩▲大川通藤堂
和泉寺様中やしき同所津軽様蔵屋敷大破松前伊豆守様御竹蔵無事駒止石の通り
松浦壱岐守様同所御大名下屋敷最上様石原町碩雲寺御舟段後所御高屋河岸上り辺迄
大破土蔵残る処なし▲本所石原丁半丁やける同所向井物盤様徳山様牛御前旅所石原町
【下部文】
ぼり三角屋敷富久町
松平和泉守様御屋敷総崩
寺町通り少し損じ平野丁
大和丁此辺ふ残人数六十
人ほどつぶれ夫より北新ぼり
箱崎霊岸島一えん大崩
大川畑焼る夫より小網丁三丁其
大崩川岸通り蔵ふ残崩
小舟町堀匁石町壱二三四
此辺少しいたみ夫より内神田
今川橋より須田町迄大半崩
筋違御門つゝがなく昌平橋
つゝがなく昌平橋通り籏籠丁
金沢丁御台所町御同朋町
大半崩明神社つゝが
なく夫より東叡山地中
大半崩本堂つゝがなく
夫よりせいどう御茶の水
少し損じ夫より小川町は
本郷丹後守様松平紀伊
守様榊原式部大輔様
板倉様戸田様此
【図中地名】
飯田町
今川橋
御城
日本橋
南伝馬丁
京ばし
八丁ぼり
かやば丁やくし
【上文】
御組あらい丁松倉丁此分大崩▲同所中の口表丁半丁斗やける北本所番場丁南本所番場
丁原庭丁糸田茶師女夫石此辺悉 残る所少し同所本なり平橋南蔵随延命寺北条新蔵様此辺
組やしき同断吾妻橋渡り細川能登守様松平越前守様下竹腰兵部様丹膳兵あ様下尾丁元やき釜座まで潰此外
大被土蔵多く崩れ悉筭がたし▲同小梅村尾町小ぐら庵と伝れう也やける近辺類焼同所水戸殿下
屋敷同所日蓮宗常泉寺門前吾妻或西方三園りいなり牛御前長命寺すみだ川堤さけ割地中泥
を吹出す事おびただし同所桜もち其外所〻潰家甚多し同黄蘂家牛頭山弘ぶく寺地内悉潰すは明神
白ひげ明神梅やしき宝泉寺木母寺梅若塚等大被院内茶屋潰家多く同かねヶ淵水神の或大破夫より東方こくら
村寺崎村若宮村引舟通客神大明神木下川浄光寺薬師門南舟堀葛西柴又かめあり二拿飯此外村〻大破中川した両所前向共大崩
残分
〇小川町堀田様戸田様高家戸田様小やしき少〻やける近辺大破
〇小石川牛天神下すは丁すは明神大破同所半丁斗やける同江戸川筋潰家多し
一御屋敷潰焼共二万四千二百六十三軒一町数三千七百八十七丁死人二十一万七千三百八十余人
一寺院一万六千三百五十二ケ寺
【上左ページ四角升毎、上から下へ】
白鳳五 土佐国田地
五十余石たちまち
海となる
千百八十年
同六 伊豆国に
大嶋できる
千百九年
同十一 風なくして
神社仏閣崩
千百七十四年
同十二 天下大じしん
人馬多く死す
千百七十三年
慶雲四 六月天下
大地震
千百五十七年
天平六 四月天下
大ぢしん
千百五十一年
同十七 天下大ぢしん
月をこへてやまず
千百四十年
勝宝五 摂州
大つなみ
千百三十四年
延暦十八 ふじ山やける
其音如雷
千八十八年
天長四 諸国
大ぢしん
千六十一年
貞観六 五月ふじ山
やけて三十里程
千二十年 人家崩
同十一 奥州
大ぢしん
千十五年
元慶二 関東
大ぢしん
千十一年
仁和元 大ぢしん大露
星下る事
千十一年 雨のごとし
延喜十一 正月
大地震
九百七十四年
承平二 九月廿七より
大ぢしん
九百五十四年
同五 諸国
大ぢしん
九百五十一年
天慶元 四月十五より
廿七日まで
九百三十七年 大ぢしん
長久二 大地震
八百三十九年
同三 大ぢしん
法成寺塔たをるゝ
八百三十八年
寛治 諸国
大ぢしん
七百九十三年
同六 諸国
大つなみ
七百八十七年
健保元 和田かつせん
大ぢしん
六百七十七年
正嘉元 大ぢしん
みぶ寺やける
六百二十二年
乾元 大嵐
大つなみ
五百七十七年
元弘 大ぢしん
五百二十一年
延文五 大ぢしん
四百九十七年
天授三 諸国
山〻崩る
四百八十二年
慶永十三 大ぢしん
四百五十一年
文安五 大ぢしん
四百九年
宝徳 度〻
大ぢしん
四百八年
文明七 津の国
大つなみ
三百八十三年
【下文】
辺ふ残やける又牛の一
より小石川龍雲院
門前不残崩当丁より
飯田町迄大小崩
又御城外は西御丸下
牧野備後守様
本庄安芸守様
本多越中守様酒井
右京様此辺御屋敷おゝ
損じ松平下総守様
焼る松平肥後守様同
向屋敷残る松平伊賀守様内藤紀
伊守様松平玄蕃守様少〻損じ又
八代渕河岸松平相模守様大半崩
御長家焼る火消屋敷遠藤但馬守
様不残焼る鍛治橋御門内松平三
河守様鳥居丹後守様松平和泉
守様松平能登守様少〻損じ長腹
橋内取野周防守様松平丹後守様久
世大和守様松平備前守様細川様
松平伊豆守様秋元但馬守様てん
そう御屋敷皆〻少〻損じ大名に語
【図中地名】
山王
しんばし
愛宕山
青山
芝神明
増上寺
つきじ
金杉ばし
三田
田町
せんがくじ
【上右ページ四角升毎、上から下へ】
明慶三 大ぢしん
三百六十三年
永正七 遠州別る
大ぢしん
三百四十六年
天正十七 駿遠
大ぢしん
二百六十六年
慶長二 京大坂
大ぢしん
二百五十九年
同十八 諸国
大ぢしん
二百四十三年
寛永四 正月関東
大ぢしん
二百二十九年
寛文元 諸国
大ぢしん
百九十五年
天和三 日光山
大ぢしん
百七十三年
元禄十五 宝永山出げん
関東大ぢしん
百五十三年
宝永四 十月五近畿内
大ぢしん
百十九年
文化元 六月四日より
五十二年 七日まで
出羽大ぢしん
同九 関東
大ぢしん
四十四年
天保元 七月二日
京都
二十六年 大ぢしん
弘化四 善光寺開帳
九年 信州大地震
嘉永六 相州小田原
三年 大ぢしん
同七 豆州下田
大つなみ
右二相印年代は年号始より今安政二年迄天下大地震之年数早けり也
前出に相落し候分左に相印申候
一かう三町紀州様表長屋尾州様西長屋霞ケ関黒田様北角長屋潰
四谷新道南半丁程同所大通り玉川御上水万年樋大崩れ往還一丈余
又は二丈余とく穴明き同所数万とく人部にて三日とく間に相直り候永田町
山王うら門前土井様岡部様表長屋相つぶれ申候
一御救小屋深川八幡境内一下谷山下明地一上野宮様より同所山下
【上左ページ】
一此度大地震之節死亡人諸寺本山にて取調之写
一天台宗 弐万千五百余人
一浄土宗 三万五千七百余人
一古儀真言宗 一万九千五百余人
一新儀真言宗 壱万七千六百余人
一禅臨済宗 一万九千五百余人
一〻曹洞宗 七千六百余人
【下ページ】
阿部伊勢守様松平内蔵頭様
松平和泉守様織田蔵少輔
様皆〻少し損じ日比谷御門内
土井大炊頭様本多中勢様松平
右京様永井遠江守様皆〻
少し損じ阿州様土州
様大半崩松平吉殿様
少し損じ常盤橋御門は
松平越前守様夏目左近将監様□□様
太田様小笠原様神田
橋内酒井左衛門様一ツ橋様皆〻少し
損じ山下御門内松平肥前守様阿
部播磨守様松平大膳大夫様皆〻
大半損じ桜田御門外上杉様板倉様
大久保駿河守様石川日向守様西尾隠岐守様
相馬大膳喜皆〻少し損じ阿部稲葉守様
水野出羽守様小笠原佐渡守様北条美津十様
松平伯耆守様三浦志摩守様皆〻少しそんじ
寢ケ関安芸様黒田様少し損じ永田馬場
山王辺少し損じ幸橋御門内松平時之助様
薩摩装束屋敷鍋島加賀守様皆〻少し
【図中地名】
六かく
品川
川さき
【上側文】
一黄檗宗 七千五百余人
一日蓮宗 九千八百余人
一同勝劣派 五千七百余人
一西本願寺 三万三千九百余人
一東本願寺 三万七千八百余人
一時宗 三千七百余人
〆 廿壱万九千九百よ余人
【下側文】
損じ有馬備後守様丹波長門守様皆〻少し損じあたらしはし
亀井隠岐守様真田信濃守様皆〻少し損じ堂宿下辺御大名
御旗本皆〻大半損じ久保町辺大崩又山の手は麻布十番まミ
穴辺大に崩四ツ谷御門外塩丁より麹町平川天神此辺不残崩夫ゟ
赤坂辺少し損じ青山辺少し損じ又壱ケ所八十軒店より日本橋辺は
室町三丁とも大半崩西川岸より呉服丁近辺東の方は四日市万丁
魚がし住よし丁がし又大通りは南鍛冶丁より出火にて南てん馬丁二丁
目同三丁目南大工丁畳丁五郎兵衛丁具足町ときは丁いなば丁や
なぎ丁鈴木町すみ丁材木丁八丁め大根がし此こんや丁まで焼る
夫より京橋向より芝新橋まで大半崩芝口ハ柴升丁不残やける
又宇田川丁又神明前大崩神明様少し損じまた金杉より
芝橋迄大半崩夫より高輪十八丁不残大地壱尺ほどわれたり
深川格別の事なしといへども諸〻いたみさみづ大蔵へんまで少〻
損じ芝裏辺りは仙台様脇坂あわぢ守様清浜御殿少し損じ
赤羽根より飯倉へん三田辺り迄大半崩夫より築地御大名御旗
本町家大半崩西本願寺少し損じ八丁ぼり辺茅場丁少〻
損じ南八丁ぼり鉄砲洲大半崩佃島少〻損じ又東海道
川崎少〻損じ神奈川宿は大に震程ヶ谷戸つか藤沢平つか大
磯小田原まで格別の事なし又仲仙道は板橋わらび浦和上尾大
宮まで大にふるひ下総口は行徳船橋辺はわけて大にくづれ
青梅道中は半能所さわ秩父大みや辺までふるひ
【上側】
一 黄檗宗 七千五百余人
一 日蓮宗 九千八百余人
一 同勝劣派 五千七百余人
一 西本願寺 三万三千九百余人
一 東本願寺 三万七千八百余人
一 時宗 三千七百余人
〆 廿壱万九千九百余人
【下側】
加々る凶変は古今稀にして死亡おびただしくおそるべし〳〵
大地震大火にては遠国他邦の親類へ告知らせん為に委
敷調集なす也
一 町数 五千七百八十丁余崩
一 御屋敷 四千百廿戸五軒損
一 寺院堂社 壱万二千百廿ヶ所
一 土蔵数 七百五十八万六千四百三十二ヶ所
一 死人数 十二万七千五百余
加く家やしきを失ひたる軽き者はそれ〳〵御手當御救
米取下置四民安堵に帰し御紅徳あふぎ奉るは実
に難有次第なり
【白紙】
方角場所附 橋の数六十五六ケ所
土蔵の数二千三百二十四五
合印 ■御上屋敷
▲御中屋敷
●御旗本様
御救小屋
一 土橋久保丁原 一ヶ所
一 すきやがし 〃
一 ときはばし 〃
一 かまくらがし 〃
一 すぢかひ外 〃
一 四日市 〃
一 つきぢ御門跡前 〃
一 北八丁堀松や丁 二ヶ所
一 両国ひろ小路 一ヶ所
都合十ヶ所
夫人として孝なきは
人にあらず江戸大火
と聞ては国々親兄弟
のなげきはいかばかり
ぞや是一時も早く
あんぴをつげしらせ
あんどさせべき事
第一也扨も文政十二
丑のとし三月廿一日の
朝四ッ半時頃より西北
の風はげしくそら
一めんに物すこき折
から外神田へんより
出火していつみばし
焼おち土手下
■細川様びくに丁
としま丁久右衛門丁江川丁亀井丁鉄炮丁
【上段】
小伝馬上町丸太かし内神田辺不残かまくら横町やまと町
■■■町わら店久右衛門町代地附木町冨松町柳原不残小柳町九軒町松木丁
■■地元せはぐはんしまへおたまがいけ籠閑丁け■■丁
こいづみ丁松枝丁御屋敷は佐野様冨田様市橋様細川様
その外御やしきかす〳〵富重丁久右衛門丁江川丁元岩井丁
佐柄木丁代地御藏地きし丁まふ丁白かべ丁上下黒もん丁
みしま丁すだ丁東かは通新し丁片かはなく下かはかじ丁
こんや丁べんけいはし一口はかまくらかし永富丁本しろかね丁
かわや丁ぬし丁川合新石丁大伝馬上丁さい木かし橋本丁
ばくろう丁通四不丁よこ山丁のこらず両国ひろかうじ
まで一口は本丁石丁がし大伝馬丁小伝馬丁通はたご丁
あぶら丁たちはな丁冨ざは丁久松丁村松丁田ところ丁
ほり留ほりへ丁元のりもの丁はせ川丁なには丁たかさご丁
すみよし丁しんいづみ丁人形丁さかい丁芝居友ふきや丁
芝居とも人形芝居二ヵ所大坂丁へついかし松しま丁
よし丁てりふり丁小舟丁のこらず一口は両かへ丁するが丁
室丁せともの丁いせ丁本舟丁長はま丁按じん丁小田原丁
北さや丁品川丁御うらかしくき店日本はし屋け落る
江戸橋同所西かし四日市本材木丁万丁あおもの丁
ごふく丁言照丁佐門丁ひもの丁松かは丁くれ正丁鈴木丁
いなは丁をくさは丁ぐそく丁柳丁一口は上下まきてう
おが丁中はし通四丁南伝馬丁のこらずたゝみ丁五郎兵衛町
西こんや丁八丁ぼりのこらず御屋敷は九鬼さま越中守様
【下段】
牧野様小順様しん川しんちり良うらかやば丁ほ箱さき
れいがんじまかめ嶋つくだしま御やしきは越前様御中屋敷
又一口は京橋こんや丁銀座丁四丁尾はり丁竹川丁いづ
も丁金六丁白魚やしき三十間ほりのこらずしん肴丁
弓丁弥左衛門丁やりや丁すきや丁南なべ丁さい木丁
かゞ丁八官丁丸屋丁瀧山丁宗十丁山王丁守一丁内山丁
土はしやけとまる芝口一丁め片かは南八丁ほり残らす
御屋しき本だ様だて様新庄様冨よし丁大くら丁
松村丁木びき丁芝居とうり板倉様御やしきかのふ様
曲渕様大久保様周防様すわう様柳生様せんこく姫
本多様田ぬま様亀井様宮ばら様溝口様おくたいら様
しほとめはしやける脇坂様御長屋少してつぼうづは
いなり切之丁々のこらす御やしきは阿波様中川様細川様
長門様筑しはかもん様左近様小笠原様いしかわ様
堀田様さかきばら様西尾様とを〳〵み様宮川少輔様
上さ様備ぜん様まつ下様青山様木下様大嶋將畠山様
升田様くろ木様伊とう様戸川様いなば様庄田様村垣様
西本願寺淨山様なんぶ様いなば様越中様一ばし様
堀田様あき様御蔵やしき尾はり様御くら屋しきにて
とまるこの外御屋しき数多一口は濱丁伯耆守様やしき
水野様小笠はら様佐竹様松の様水の様ぎんさ
□安■様水戸様■様御蔵屋敷にて止る
焼失したことばくたい也依之有かたくも
御公儀様ゟ御救の小屋を御立被下きかつにも及はす雨露にも打れす
上にめい〳〵御鳥目を下されし事実にとうとく有かたき
御仁政のほど申もおそれ多き事ながら万民よろこびかぎりなし
文政十二丑の年三月廿一日
朝四ツ時頃より外神田
佐久間町弐丁目/材木(ざいもく)小屋
より出火し折しも/北風(きたかぜ)はげしく
柳原土手下へ/飛(とび)火なし
御もみぐら一ヵ所/焼落(やけおち)夫より
火の手一面につよく小伝馬町
/牢屋(らうや)大門通りへ焼出大丸/呉服店(ごふくだな)
その外/大商人(おほあきんど)の/家々(いへ〳〵)土蔵又
/近辺(きんへん)を焼はらひふきや町
堺町かぶき人形/芝居(しばゐ)とも/焼失(しやうしつ)す
東は御/郡代(ぐんだい)屋敷辺馬喰町
横山町/橘(たちばな)町辺又柳橋両国
/広小路辺(ひろかうぢ)/辺(へん)焼ひろがり/矢(や)の/倉(くら)
御大名方御屋しき濱町永久
橋永代橋きはまで焼はらひ/箱崎(はこざき)
新川新堀/霊岸嶋(れいがんじま)へうつり越前様
御屋敷を初め町家/残(のこ)りなく焼
/佃(つくだ)嶋へ飛火して嶋の内こと〴〵く焼づくしぬ
又/筋違(すぢかひ)より須田町辺三河町辺鍋町鍛冶町
/立閑(りうかん)橋辺今川橋辺/銀(しろかね)町石町本町辺/駿河(するが)町
越後や両店を初め室町辺の大商人/軒(のき)をならべて焼うせ
小田原町せともの町伊勢町辺日本橋江戸ばし四日市
■【あ】らめ【荒和布】橋小船町てりふり【照降】町小あみ町辺本ざいもく町通り
海ぞく橋かやば町辺より北八丁堀南八丁堀/鉄(てつ)ほうづ辺
つき地/門跡(もんぜき)寺中残さずその外大小名御やしき一つ橋様
■■【尾張】様御■■■【蔵やし】き等/数(かす)かぎりなく/焼失(せうしつ)し又木ひき町辺は
■■■【紀州様】御蔵屋しきを■■■【初めそ】の余の御屋しき
河■■【原崎】かふき芝居町家残らず焼うせて
奥平様御屋しきまで焼 又日本橋を/焼落(やきおと)し
通■【り】町中橋ひろ小路京橋を焼落し銀座町三十間堀
尾張町竹川町新橋より/汐留脇坂(しほどめわきさか)様御屋しき少々焼失す
又一石橋川岸呉服町檜物町をけ町びくに橋弓町辺
すきやかし南なべ町辺土橋のきはまで焼く/終(つひ)に夜の
七ツ半頃やうやくにて火しづまりぬ。さればこの日は北風
殊にはげしくしてあるひは西を/吹(ふき)まく又は/東風(こち)を吹まはし
すなを/飛(とば)しちりを/巻(まき)あげ風にしたかひいとすさまじく
ほのほはしん〳〵ともえあがりてあたかも天をこがすごとく
東西南北のちまた〳〵に/老若(らうにやく)男女は/持出(もちいだ)せし
/道具(どうぐ)/衣類(いるい)をうち/捨(すて)〳〵/右往左往(うわうざわう)に/散乱(さんらん)して
/親(おや)は子を捨子は親にわかれ/夫婦(ふうふ)はなれ〴〵に
なりて道具につまつきこけまろび
踏殺(ふみころ)され焼ころされ/泣(なき)さけぶこゑ天
地にふるひて/喚叫地獄(けうくわんぢごく)【「叫喚」カ】に/異(こと)ならず目も
あてられぬありさまにてあはれといふも
おろか也/諸侯(しよかう)を初め町々のさしもに/造(つく)り
立たる土蔵の/焼落(やけおち)しこと/数多(かすおほ)くて
かぞへあぐるにいとまあらず/且(かつ)三/座(ざ)のかぶき
芝居皆一同に/焼亡(せうばう)せしこと/古今(こゝん)/未曾有(みぞう)と
/謂(いひ)つべしかゝりしゆゑ火しづまりて後/焼残(やけのこ)りし町々の/明家(あきは)は
一/時(じ)に/借り(かり)つくし/家(いへ)をもとむる/方便(てだて)なく/野宿(のしやく)するものおびたゝしく
/困窮(こんきう)たとへがたければ/恐(おそ)れ/多(おほ)くも /官府(おかみ)より御/憐愍(れんみん)を/垂(たれ)させ給ひ
たゞちに所々の/原中(はらなか)へ御/救小屋(すくひこや)を/建(たて)させられ/道路(どうろ)にをる者をこゝに/住(すま)はせ
それのみならず/朝夕(あさゆふ)の/食物(しよくもつ)までを/恵(めぐ)ませ給ひ/諸(しよ)人の/難義(なんぎ)を
すくはせ給ふ /君恩(くんおん)の/尊(たふと)き事/仰(あほ)ぎても/猶(なほ)/仰(あほ)ぎつべく/前代(ぜんだい)
/未聞(みもん)乃/㕝(こと)なりけり
【右下】
御救小屋場所
筋違橋御門外 一ヶ所
江戸橋広小路 同
幸橋御門外 同
数寄屋橋御門外 同
神田橋御門外 同
常盤橋御門外 同
松屋橋川岸 同
築地門跡前 同
【左下】
合印
▬ 御上屋敷
▲ 御中屋敷
● 御下屋敷
御府内町人衆自分地面斗り被施候衆は数多右畧之
未聞有徳志施集め書記尚又追々
【表題の下】
頃ハ天保四巳のとし仲秋八朔風雨はけしくして田畑をくづし
出来物少く諸人心安からす然るに乍恐
御公儀様より御れんミんを以江戸中の町衆江御すくひとして両度迄
莫大なる御米をヒ下置難有こと奉申上も恐あり依は諸民喜事
かぎりなし誠に御府内の町人衆家持地主有徳なる面々大平の
御代の御仁徳をしたひ自分地面又ハ出入等の者へ夫々に金銀
米銭をほどこし中にも自分の居所にかゝわらずに其近へん
隣町まで志を施したる人々計を一紙に集め書記尚又追々
ほどこしたる面々せんさくいたしあとより書加へ可申候餘り目出度
事ゆゑ梓に綴り四方諸君の高覧に備ふのミ
【四段の内の一段目】
巳八月十二日出火
深川堀川丁■佐賀丁迄
一軒前
一《割書:米壱俵|さつまいも壱俵》ツゞ 幸崎屋
一引割五升ツゞ 同上下佐が丁壱人前
灵岩嶋丁八ヶ丁一人前
一金二朱ツゞ 廉嶋や清兵衛
同七ヶ丁へ一人前
一金壱分ツゞ 伊坂市右衛門
大川ばた一人前
一金壱朱ツゞ 《割書:井上|村沢》
同■ノはし内一軒前
小西弥兵衛
加せや利兵衛
一金壱分ツゞ 大和や又右衛門
千代倉
中沢や
同みなと丁一丁目二丁目一軒前
一白米壱斗ツゞ 《割書:伊勢太|桐源ならや》
同 同断
一麦引割五升ツゞ 炭や重兵衛
八丁ほり永嶋上下一軒前
一同壱斗ツゞ 松や庄助
同
一銭壱貫文各々 近江や茂兵衛
同
一二朱ツゞ 吉田や久兵衛
同
一二朱ツゞ 明石や市郎兵衛
同
一銭五百文ツゞ 小上馬
同
一銭五百文ツゞ 万や清吉
同
一米五升ツゞ 美のや冨蔵
□山ばかりにて
同丁内名前人江
一銭壱貫文ツゞ かやば丁
同家内の者へ地主方
一五百文ツゞ 寄合
本八丁ほり二丁目丁内
一米■■ ツゞ 大坂や
材木丁四丁目■■■
一みそ壱貫メツゞ 近江や伊右衛門
深川大塚丁一軒前
一金壱分ツゞ 水田太郎五郎
□堀町八丁ほり出嶋丁
亀島丁まで
一金二朱ツゞ 石橋米店
深川小川町四丁四方へ一人前
一銭五百文ツゞ 近江喜平次
但シ一人前七百文ツゞ
一金二朱ツゞ 清水や清兵衛
同
一金二朱ツゞ 同徳左衛門
同■■丁一けん前
一銭壱貫文ツゞ 内藤氏
同丁内へ ■■どうばし
一金二朱ツゞ 水戸屋
同■丁万年丁
一《割書:米五升|麦割五升》ツゞ おうミや清右衛門
■■ 上下八丁へ一人前
一米弐升ツゞ とうのや儀兵衛
本所相生丁二丁め一軒前
一米壱斗ツゞ しほ原
同 さのや
一麦五升ツゞ 松 利兵衛
同一丁め一人前
《割書:一男三百文ツゞ二一女弐百文ツゞ》溜り屋
小あミ丁二丁め一軒前
一金壱分ツゞ 久住五郎左衛門
同
一金壱分ツゞ □浅や与右衛門
せともの丁一軒前いせや
《割書:一金壱分| そうめん十巴》ツゞ「イ 伊兵衛
大伝馬丁三丁め裏通一軒前
一《割書:米壱俵|金壱分ツゞ》ツゞ 大丸屋
外神田平川丁代地一人前
一銭二百文ツゝ 嶋野や平六
同佐久間丁二丁め丁内
一金一朱ツゞ 伏見屋
同
一銭七百文ツゞ 伏見や五郎八
神田門久右衛門丁蔵地
丁内一軒前
《割書:一米三升|一銭二百文》ツゞ綿野政吉
同
一《割書:米三升|割五升》ツゞ 横田又三郎
同
一米三升ツゞ 笠倉弥七
一一《割書:金壱朱|銭三百文》ツゞ伊沓や九右衛門
同
一同断 峯村金次郎
北新ほり丁川へ
銭七〆五百文 秋田●わく寺へ
一出入人へ 松本●長兵衛
四〆文ツゞ同や四けんゟ 岡村坊主方
【四段の内の二段目】
本郷四丁め一人前
一銭三百文ツゞ 万屋彦次郎
同
一銭二百文ツゞ くすり 笹や【眼の絵あり】
同六丁め丸山辺まで
一米壱斗ツゞ 小島平兵衛
ゆしま三組丁 一軒まへ
《割書:一米三升|一味噌五百目》ツゞ 伊沓や利八
東北大徳寺門前一軒前
一銭壱貫文ツゞ いせや次兵衛
同元町同前
一金壱朱ツゝ さのや庄八
同みとり丁二丁め同断
一金二朱ツゞ 大和や忠兵衛
鉄炮洲本湊丁一人前
一銭三百文ッゝ 拪原学兵衛
同
一二百文ッゝ いせや久兵衛
西こんや丁一軒前
一金二朱ッゝ 伏見や甚右衛門
三十けんほり五丁め内
一金二分ッゝ 鳥羽や清右衛門
同八丁め
一同断 冨田や六兵衛
芝金橋
一銭五百文ッゝ 松や源三郎
同田丁うらよこ丁一軒前
一銭五百文ッゝ 丸や吉兵衛
同
一金壱朱ッゝ 宮岡けんぎやう
赤坂表伝馬丁一丁め一軒前
一米三升ッゝ 児玉や
かうじ丁平川二丁め
いせや
一《割書:米壱斗ッゝ|外子共一朱ッゝ》 重兵衛
同
一同断 坂東や重兵衛
同三丁め
一米壱斗ッゝ いせや次兵衛
同四丁め
一同断 越前や又左衛門
同五丁め
一金壱分ッゝ 升屋
同
一大豆三升ッゝ 堺や七兵衛
同七丁め
一〇■迄以下畧ス
一銭二百文ッゝ 片桐氏
同八丁め
一金二朱ッゝ 秩父や孫七
渋谷しん宿仲丁丁内中
一二朱ッゝ と倉や
同十丁め
一白米五升ッゝ 分銅
飯田丁一円
一金二朱ッゝ 万六
市ヶ谷御門外
一金壱朱ッゝ 本笹や
同組一人前
一銭三百文ッゝ 分銅
市ヶ谷上田丁一丁め
一銭五百文ッゝ 角いせや
同左内坂一ゑん
一銭三百文ッゝ きゝやうや
市ヶ谷外
一同断 浜松や庄太夫
同八まん丁
一金二朱ッゝ 大和や平八
市ヶ谷
一甚壱分ッゝ 越前や吉兵衛
牛込わかミや
一銭三百文ッゝ つちや清五郎
同
一金壱朱ッゝ 飯田や庄五郎
小日向水道丁一ゑん
一米壱斗ッゝ 山崎や半兵衛
市ヶ谷柳下
一米五升ッゝ 大坂や
浅草花川戸丁
一米壱斗ッゝ 松や四郎兵衛
同北馬道
一金壱分ッゝ 佐の倉
同南馬道
一金二朱ッゝ 大三ッ 酒や
御蔵前森田丁
一米一斗五升ッゝ いせや嘉右衛門
本八丁ほり二丁め
一銭九百八十文ッゝ 酒店松屋
浅草新新ほり
一金二朱ツゞ 寿松院
同材木丁
一銭五百文ッゝ 越後や甚兵衛
同すわ丁
一米壱斗ッゝ いつミや
同下はたこ丁
一米壱俵ッゝ いせや四郎兵衛
【四段の内の三段目】
浅草堀田原中丁内
一御すくひ米頂戴 かぢ川
一の義弁当を出ス 宗兵衛
同
一銭五百文ッゝ 池田や市兵衛
同かわら丁
一金二朱ッゝ 峯村
同
一米七升ツゝ 堀口
同
一金壱分ツゝ いせや四郎兵衛
同
一《割書:男米五升|女米三升》ツゝ 《割書:児玉や|いづゝや》
一同断 《割書:松坂や市右衛門|坂倉清兵衛》
元はたご丁
一米壱斗ツゝ 坂倉や喜右衛門
新右衛門丁近へん一人前
一金二朱ツゝ 川村伝左衛門
南こんや丁
一《割書:金二朱|米一斗五升》ツゝ いせや半兵衛
御くら前片丁
一白米一斗ツゝ いせや幾次郎
同
一同断 坂倉や七郎兵衛
浅草平右衛門丁一人前
いせや次助
一《割書:米三升|割二升》ツゝ いせや三郎右衛門
松本平八
同森田丁
米一斗五升
銭二百文ツゝ
一御すくひ米 坂倉次兵衛
頂戴のせつ
弁当并
くわ〳〵代
麻布
一《割書:廿丁壱メ目|銭二百文》ツゝ いせや与右衛門
通四丁
め
一金二朱ツゝ 大文字や
深川中木バ
一《割書:米三升|銭五百文》ツゝ 大坂や半兵衛
同下木バ
一《割書:米三升|銭二百文》ツゝ 天満や庄兵衛
同近辺不残
一金二分ツゝ 鳥羽や材木店
同
一《割書:勤壱分|米五升》ツゝ かしま
同よし永丁
一《割書:米五升|わり五升》ツゝ 田中や半兵衛
同
一銭壱目文ツゝ 万や利助
丁佐賀丁
一《割書:米五升|銭二百文》ツゝ 小川
同丁角
一米五升ツゝ いせや
小石川春日丁
一金壱分ツゝ 三河や六右衛門
同下ゑさし丁五ヶ丁へ
一銭五百文ツゝ 川越や太郎兵衛
同丁内へ
一金壱朱ツゝ さのや半兵衛
小日向三げん家丁六ヶ丁へ
一米五升ツゝ いせや長兵衛
本郷新丁家中へ
一《割書:麦三斗|みそ五百目》ツゝ 伊沓や新六
牛込七けん寺丁
一金壱分ツゝ 京や九郎兵衛
芝西応寺丁丁内東がハ斗
一金二朱ツゝ 松や三四郎
浜はし内一人前成子丁迄
一金二朱ツゝ 三河や吉兵衛
同成子丁迄
一《割書:米壱斗七升|わり壱斗五升》ツゝ 《割書:大和や作右衛門|かめや伊右衛門》
中の村中一けん前へ
一金弐分ツゝ 中のや次郎兵衛
同 中のや出ミせ
一金壱分ツゝ 八兵衛
同
一金二朱ツゝ 浅田や甚右衛門
角はづ村
一金壱分ツゝ 家主中
浜はし丁成子丁迄
一金二朱ツゝ 大和や伝四郎
浅草しんほり丁内へ
一銭壱貫文ツゝ 坂倉や文六
両かへ丁柄丁へ
一金壱分ツゝ 下村
ほりどめ丁内へ
一金壱分ツゝ いぬゐ本店
下谷五条天神角山下惣
大道あきんどへ
一三百文ツゝ ちやわんばちや
神田佐久間丁内へ
一金 辻や又四郎
田所丁内へ
一金壱分ツゝ 井つや善次郎
小石川柳丁三ヶ所へ
一銭五百文ツゝ いせや庄左衛門
深川永代橋丁内へ
一金二朱ツゝ 筑摩みそや
【四段の内の四段目】
浅草■屋丁元■代地
軒別施行 朝田氏
百五十六軒 松屋佐吉
一銭百五十六貫文 大口や弥右衛門
壱けん 山田や金右衛門
壱貫文ツゞ 淺田や市左衛門
本両替丁丁内中
伊達武兵衛
一金三分ツゞ 田中金右衛門
下村山しろ
日のや市右衛門
中橋大鋸丁丁内
一金壱分ツゞ 木谷実母散
本八丁ほり四丁目■通り迄
大川や六兵衛
山川加兵衛
いせや■兵衛
一米五升ツゞ 日高や伊兵衛
■や 重二郎
■賀 善兵衛
大工源二郎
京ばし水谷丁中へ
一麦一斗ツゞ 廉嶋■太郎
■■
一金弐分ツゞ 松坂や信兵衛
同はたこ丁
一米壱斗ツゞ 伊勢や四郎兵衛
同
一同断 いせや市兵衛
横山丁丁内へ
一銭壱貫文ツゞ かつさや■助
上の下谷丁丁内へ
一金二朱ツゞ 伊勢や甚兵衛
根岸
家主江 泉川氏
一金壱分ツゞ 勝田氏
■■■
五百文ツゞ 本■氏
しんばし
■■へ
一壱貫文ツゞ 和泉や三郎兵衛
■ ■
■ ■
一米代
壱貫五百文ツゞ いせや四郎次郎
正平橋■
一■ ■ 内田清左衛門
亀井■
一銭五百文ツゞ ■■新十郎
松■幸右衛門
■ ■
一金二朱ツゞ 小西弥兵衛
同丁内■■へ
一金五百文ツゞ ■ ■兵衛
桜田■左衛門丁内
一金壱分ツゞ 三文字や
同丁内
一同断 松や重兵衛
山城かし丁内
一同断 津の国や伊兵衛
青山若松丁■丁へ
一金二朱ツゝ 黒田仁右衛門
同■大工丁六ヶ丁へ
一同断 いせや与兵衛
本所松坂丁丁内へ
一《割書:男三百文|女弐壱百文》ツゞ □や弥兵衛
同
一同断 松嶋茂兵衛
同同小名木川八ヶ丁へ
一銭壱貫文ツゞ 福嶋弥兵衛
元田■丁内へ
一《割書:表へ金壱朱|裏へ三百文》ツゞ 村いせや左吉
するか丁四丁共へ
一金二分ツゞ 三 越後や
せともの丁六ヶ丁へ二どめ
一《割書:金壱分|するめ一わ》ツゞ イ いせや
麻布市兵衛丁内一人前
一銭五百文ツゞ 小牧長之助
同所壱人前
一同断 西口弥兵衛
同所
一《割書:麦三升五合|あらめ五月原》ツゝ 八百金
あさぶ宮下丁丁内へ
一金一朱ツゝ 三河や喜兵衛
品川新しく不残
一金一分ツゞ 坂 いづや
白金丁内へ
一米八升ツゞ 永峯氏
浅くさ三間丁
一《割書:しち置人へ|壱貫文ツゞ》 松や市郎右衛門
四ツ谷しほ丁内へ
一銭五百文ツゞ さつ
青山
一米壱斗ツゞ 善光寺
二とめ福井丁堀田原
一かミこぶとん一枚ツゞ坂倉次兵衛
下谷広小じ丁内へ
一《割書:■■油一樽|銭五百文》ツゞ 丸一 酒店
同壱人前
一銭三百文ツゞ 和人参■ ■
本所きく川丁
一銭壱貫文ツゞ ■ ■ ■
【全体はコマ19にて翻刻済】
【二段目中程の貼紙に隠れていた二行をここに記入】
同七丁め
一 金二朱ツヽ 伊勢八 【←貼紙に隠れていた】
同御医師 【←貼紙に隠れていた】
一 銭二百文ツヽ 片桐氏
【上段】
頃は嘉永七とらの十一月
五日六ツ半時よりしはい丁
へんよりしうかいたし山之し
く六けん丁花川戸町木戸
ぎはより七八けんやける三ツ
又より聖天町丸やける
と手のちてつやける山谷の
はしとまる聖天よこ丁
より竹門百かんのう地内
かいん寺丸やけたぬきな
かや焼るでんりういんめう
とく寺やふの内丸やける
本所水戸さま上しんじ
小梅おぐらあんにてとま
る松倉町とひしにてやける
七ツ半時しつまり人々あ
んとのおもへおふし
【下段】
嘉永七寅年四月六日京都出火の事
禁裏御所の北方大宮御所の下官より出火致午の
上刻より辰巳風つよく内裏に火うつり諸御てん内侍所
紫宸殿等一時にもへ立此火御公家衆の御館にかゝり
北方は今出川通迄二条様残近衛様表門へ火うつり候■【処?】
薩州御手勢にて宜防候ゆへ御殿のこる依之北方は今出川
通東は仙洞御所寺町より西千本通迄此町数廿六丁
御公家衆方《割書:数多きゆへ|しるしがたし》御花畠閑院宮椹木丁通り九亀
御やしき類焼今日諸御大名方御手勢を以火を消候へども
火勢強く水戸様仙台其外備前様淀稲葉様丹羽
左京様其外御大名やしき廿六軒類焼此日御火消相働
候へ共何分大火にて六日の一夜焼通し二条御城所司代
御やしき向迄焼其中には堀川通姫路御やしきの北にて火
止り翌七日に猶西方へ火うつり此間の武家方あまた類
焼右六日より七日の未刻に火しづまり申候家数一万三
千五百軒類焼前代未聞の大火にてあらましを書印申候
【上段】
頃は嘉永六年丑十二月十四日夜は八ツ半時過音羽
丁四丁め上より出火して折しも北風はげしく
三丁目尻火にてやけ五丁目六丁目七丁目は南角
うら長家少々のこり八丁目八まん様のこる九丁
目うら通り御武家かたのこらずさくら木目白
坂少々関口水道丁南は水奉やとなり五ばん
組消留松け枝丁西古川丁東ふる川丁西角九
十五三番組消止東南九十番組西南之の五六
ばん組消止めかいたい丁
角壱ばん南組中組北
組消止片かは之処壱三
五六ばん組消止る此辺御
御ぶけかた少々やけるつき
じ片町不残ぶけ方少し三五
六ばん組消止赤城坂下
馬場先片町五軒町
にて朝五つ半時頃
やう〳〵にして
火慎り
諸人
あんど
のをなし思ひ
をなし
にける火の用心〳〵
【下段】
頃は嘉永五年十二月
五日四つ時東ぼり久宝寺丁神明社残る
おつて丁じゆらく丁南
谷丁ふぢのもり丁
いずみ丁濱より出火
して折しも西風はげ
しくはしづめ丁内
ときは丁のう人丁一丁目二丁目三丁目四丁目
壱丁目二丁目三丁目やけ四丁目は北かは少しのこる
やり屋丁とくい丁少しのこる御定書やしきぼこる御城代
御やしき少し残る其外御やしき三ヶ所上本丁にて翌六日
七ツ時過やう〳〵にして火しづまり諸人あんどの思ひをなしる
【地名其の他】
焼失
町数
二十五丁亘
目白ふどう
おとは丁三 四 五 六 七 八 九
さくら木丁
ゑんとくじ
ゑかんじ
せきぐち 丁
水道丁 丁
ふる川丁
そうでんじ
てうしゆじ
でん久じ
でん中じ
かいたい丁
つきじ片丁
江戸川
やしき 同
はぐ
あかぎ明神
【下段地名其の他】
町数
三十五丁
家数
三百九十軒
蔵数
三十一落る
上本丁 二丁め 同 やしき
御定番やしき 御城代やしき やしき
谷丁三丁目
すぐや丁
土谷丁
南谷丁
ふくい丁 同
やりや丁
ときは丁二丁目
友かへ二丁目
のう人丁二丁目
南のう人丁
ふちのもり丁
おつて丁
じゆらく丁
おはらい すし
ほ神や 丁すし
三丁目 四丁目 いずみ丁 同久宝寺丁 明神
まつや丁すじ
はしつ先丁 のう人ばし 久宝寺ばし 東堀
本丁ばし
大坂焼場所
比【頃】は天保六未の十月廿日子の刻より八百屋町
安堂寺町筋少々北え入中ほとより出火西北かぜ
つよく安堂寺町壱丁目弐丁目迄不残順慶町
壱丁目弐丁目南側不残壱丁目筋不残
しほ町壱丁目迄北側不残長ほり迄焼祓【抜?】
安綿橋未吉橋安堂寺橋三はし供焼落
それより川向すみよし町不残具足町のこらす
神嵜町中ほとまで高原ろう屋敷辺四方
南かわら屋町中坂からほり辺ろう屋しきは
不難安堂寺橘筋するが町尾張町播磨町
内安土寺町坂田町不残桜町北側のこらず
玉木町凡東西拾五六町斗南北六七町
焼落□廿一日七ツ半時までしめすこの外
とび火少々つゝは所々之有と申事
此事見聞するにつけ大切のうへにも
心つけ火の元第一の事
凡 土蔵百七八拾ケ所
家数弐万五六百
御府内町人衆自分地面斗り被施候衆数多故略之
未聞有徳志施集
比ハ天保七申七月十八日ハ朔風雨はけ
しく田畑をくずし出来物少く諸人心やす
からす然るに恐ながら
御公儀様ゟ御れんミんを以て江戸中の町家へ
御救としてはくたいなる御米銭を□□難有と
奉申上も恐あり依之諸民喜ぶ事限なし次時に
御府内の町人衆家持地主有徳なる面々
太平の御代の御仁徳をしたひ自分地面またハ
出入等のものへ夫々に金銀米銭を施し中にも
自分の居所にかゝハらずその近辺濱丁まで□を
施したる人々ばかりを一紙に集めて記猶又追々
施したる面々せんさくいたしわ■ふり書加へ可申候あまり
目出度事ゆへ梓に上して四方諸君の高覧に備ふのミ
【上三段の内の一段目】
七月廿日浅草花川戸山谷駒形辺迄
一円
一蕎麦壱斗ツゝ
并
一《割書:壱人前百文|子供五十文》ツゝ 松屋四郎兵衛
数多の非人江切手を以施ス
深川堀川丁十四ヶ丁外三組
壱人前
一金壱朱ツゝ 幸崎屋
但シ六十以上人金三朱ツゝ
同町内一軒前
一金弐朱ツゝ 林金三郎
同断弐人前
一金壱朱ツゝ 米屋勇三郎
同北川丁外四丁四方壱人前
五百文ツゝ
一壱人もの 近江屋喜平次
七百文ツゝ
同富久丁
一金壱分ツゝ 湯浅や予右衛門
同佐賀丁六ヶ町へ
一金一分ツゝ 久住五左衛門
同一色町
一金弐朱ツゝ 川越や太郎兵へ
同さか丁
一金壱分ツゝ 古川半兵へ
同
一金壱分ツゝ 山口や喜八
同富田丁
一金二朱ツゝ 柄原三九郎
【上三段の内の二段目】
浅草さんや丁外丁内共
一《割書:大にぎりめし三|にしめ百銭壱》 朝田氏
せともの丁八丁へ壱人前
一金壱朱ツゝ 「イいや屋伊兵へ
同御蔵前壱人前
一米三升ツゝ 小玉屋権左衛門
同
一同断 井筒や八郎右衛門
同
一白米五升ツゝ 峯村角次郎
同壱人前
一六分ツゝ 伊沓や次郎左衛門
同片町壱けん前
一《割書:白白五升代|百銭十二》 同安右衛門
同
一同壱斗 同幾次郎
同
一《割書:同八升|三百文》ツゞ 伊せや嘉右衛門
同
一壱斗ツゝ 坂倉七郎兵衛
同
一壱斗五升ツゝ 坂倉治兵衛
同
一白壱斗ツゝ 伊沓や四郎兵へ
同
一白壱斗ツゝ 同四郎次郎
【上三段の内の三段目】
浅草御蔵前
一白米五升ッゝ 伊沓や喜十郎
目ぐろたいこばし近所
一《割書:銭五百文ッゝ|家内者二百文ッゝ》 大こくや
駒込追分
一白米壱斗ッゝ 高崎や
浅草元鳥こへ
《割書:銭四百文|白米三升》ツゞ 坂倉や源太郎
同片町代地
一白米壱斗ツゞ 坂倉や太兵衛
天川原
一同三升ツゝ 坂倉や作兵衛
芝赤羽根丁
一銭壱〆文ツゞ 三河や
駒込竹丁
一白米八升ツゞ 米や
浅草御蔵前
一百銭三枚ツゞ 伊沓や安右衛門
本所入江丁長倉町江
一銭壱〆文ツゞ 松葉や惣吉
本材木丁四ヶ丁へ
一味噌二貫メツゞ 近江や伊右衛門
室丁八ヶ丁へ
一金壱朱ツゞ 名前不知
【右下三段の内の一段目】
中新ほり町内一軒まへ
秋田寅之助
一銭六メ文ツゞ 渡辺熊次郎
外町塩渡世 長崎や松之助
出入の者へ三メ文ツゞ 松本重次郎
同居之者へハ 徳嶋や市郎兵へ
金壱分ツゞ かだや彦兵衛
四ッ谷仲丁一人前
一金壱朱ツゞ 尾張や茂左衛門
本所入江町 三丁江
一銭壱メ文ツゞ まつばや
浅くさ堀田原
一《割書:白米一斗ツゞ|出入とうやうへ白米一俵ツゞ》 池田屋
浅草馬道町内りん丁へ
一金弐朱ツゞ 太酒店
出入の州へ白米一俵ツゞ 地面内へ 壱分ツゞ
赤坂田丁五丁目 孫衛門店
一金三十両 亀治郎殿
但二百四十軒へ いよ
【右下三段の内の二段目】
飯倉町二丁目
町内へ
壱軒前 堺屋
一銭五百文 新兵衛
そうめん百把
同町
町内江
壱軒前 伊世屋
一銭五百文 卯兵衛
そうめん百把
同町
町内江
壱軒前 万屋
一銭五百文 小兵衛
そうめん百把
同町
町内江
壱軒前 伊世屋
一銭五百文 金三郎
そうめん百把
和泉はし通平川町代地
町内江 かうのや
壱人前 平六
一銭二百五十文ツゞ
神田小柳町
小柳町分不残 伊せや
一銭五百文ツゞ 新兵衛
浅草すわ町かし
壱軒前
一銭壱メ文ツゞ いづミや
りん丁 甚右衛門
白米五升ツゞ
【右下三段の内の三段目】
赤坂表伝馬丁一丁目一人前へ
一銭六百文ツゞ 本堂や弥太夫
同田町五丁目 惣兵衛店
一金弐両三分二朱 質屋幸七
但拾九軒へ
飯倉片町江 ならや七兵衛
三河や平八
久保田や惣兵衛
物屋与七
□木や平助
ほうや徳兵衛
一金壱分ツゝ 三河や藤兵衛
今井や八郎兵衛
万や久四郎
小西久兵衛
三河や善三郎
あふミや新八
井田や嘉兵衛
秣や清兵衛
【左下二段の内の一段目】
浅草下平右衛門町 松本
一 白米弐斗ツゝ 山彦
りん町へ かさいや
同森田町代地りん一へ
一 白米壱斗ツゝ 十一屋
同鳥越中江 米や
一銭五百文ツゝ 大和屋
同右代地名前人江
一白米壱斗ツゝ いせや
同子供壱人前へ 七兵衛
一 白米五升ツゝ 笠倉や喜右衛門
丁谷五條天神前角
向出商人中江
一銭弐百文ツゝ 瀬戸物屋
外神田仲町りん丁へ
一白米一斗 銭五百文 しちや平の屋
【左下二段の内の二段目】
深川ゑんまどうばし
一金弐朱ツゝ 水戸屋
同北六ヶ町壱人前へ万年丁
一《割書:米五升銭百文ツゝ たくミや|むぎ二升但三表くミ共 清右衛門 》
かうじ町四丁目へ 米や
一銭弐百文ツゝ 藤助
同三丁四丁目へ あい屋
一金壱朱ツゝ 米店
深川海辺大工丁 近江屋
壱金弐朱ツゝ 酒店
浅草第六天奥江町代地
一 白米壱斗ツゝ 坂倉屋
りん町江同断七升ツゝ太郎兵衛
浅草ふくい丁へ
一百銭二枚ツゝ い世宗
頃は安政
二年三月卯の夜九つ時
ごろ小網丁
一丁目へんより
出火して堀江丁
二丁め三丁め焼る
小松丁二丁目三丁め
焼る一丁め少〳〵
残る堀留二丁め少〳〵
焼るほ堀江六軒丁よし丁
ふきや丁堺丁新材木
東屋新通新のり物丁
すぎのもり焼る元大坂丁材木
丁少〳〵残る住吉丁半分新和泉丁
長谷川丁田所丁大丸新道通油丁
うら通元濱丁新大坂丁弥兵衛丁
富沢丁高砂丁焼る浪花丁は
半ふん焼る久松丁少〳〵焼る橘丁三丁
残久若松丁村松丁多分焼る
馬喰丁一丁目
北がは残り四丁め迄焼る
通りしほ丁横山丁三丁米沢丁一二焼る
三丁めやげん堀少〳〵ツゝ残る吉川丁同朋丁より
【右下へ】
■御見附平右衛門丁大六てん大
■地中代地焼る瓦町かや丁片がは
残り明る二日九つ時松平伊賀守
様御屋しきにて焼とまる人々
よし〳〵 あんどの
思ひなしと筆に
つばめて遠路の見
せつになし
【図中地名等 左側から】
堀留丁 小ふな丁 二丁め
同丁 ほりえ丁 二丁め
ざい木 やしき しんのりもの丁 あし
人形通り
大丸 田所丁 はせ川丁 長谷川丁 住吉丁
通油丁 元□丁 新大坂丁 弥兵エ丁 富沢丁 高砂丁 難波丁 丁 かし
馬 二 三 四丁め
しお丁 横山一 二 三丁め
たちばな丁一 二三
一二 三 むらまつ丁
やしき
米沢丁一 二
ひろこじ
吉川丁 柳原同朋丁 □丁
りようこく
平右エ門丁
平右 平右えもん 平右えもん ろく門丁 代地 かや丁 瓦丁 代地
天王丁 上御ち
松平伊賀守様
【上】
安政元甲寅十二月廿八日夜五つ時頃神田連雀町より
出火して折ふし西北風烈しく須田町一丁目二丁目は東側残
る又通新石町鍋町鍛冶町二丁元乗物町夫より西神田分は
今川橋西横町主水河岸新革屋町川合新石町竪大工町
田町一丁目二丁目上白壁町横大工町新白銀町蠟燭町関口町皆
川町一丁目二丁目三丁目永富町一丁目二丁目三丁目并ニ板新道下駄
新道鎌倉町松下町河岸通り残らず三河町一丁目二丁目三丁目
四丁目角少〻残る同新道通り一丁目二丁目西側少々残る小川町
神田橋通り松平勘介様御屋敷裏通り少々焼る同四軒丁
浅野一角様御屋敷裏通り焼る神田橋御門外御勘定
御奉行本田加賀守様御役屋敷少々焼る同本田豊前
守様少々焼る此辺御旗本四五軒焼る夫より尻火は雉子丁
西北の角は少し残る同川崎様御屋敷少々焼る又須田町二
丁目木戸際少々残る夫より火先は本白銀一丁目より四丁目迄
焼る本石丁一丁目より四丁目まで焼る同所の角から残る又鉄
砲丁から焼本丁一丁目南側残る同河岸通り常盤橋御
門前焼る同本町二丁目三丁目角より横町残る十軒店岩付
町室町一丁目より三丁目まで焼る日本橋のきわにてやけ止る
夫より一口は針店品川町北鞘町同河岸炭薪納家一軒
火の中にて残る本両替町駿河町本革屋町金吹町まで
【下】
焼る夫より河岸通りは一石橋にて焼止る今一口は東神田小柳
町一丁目二丁目三丁目少〻残る平永町通り横丁角少々残る又
馬の鞍横丁より黒門町岸町三嶋町松田町紺屋丁代地下
白壁町藤十郎新道不動新道富山町一丁目二丁目永井丁
お玉が池道有屋敷紺屋町一丁目より三丁目迄焼る佐柄本丁
代地残る本白銀町会所屋敷中程残る大伝馬塩町角焼
残る鉄砲町横町少〻焼る地蔵橋丸太河岸角焼る又
一口は火先は瀬戸物町北側小田原町へまがる両門残る夫より
小田原町残らず焼る安針町魚がし残らず焼るたゞしのた平
む□の納屋二軒残る又本舩丁江戸橋の十四五軒をり
まがりに残る伊せ町木戸ぎわ少〻焼る夫より河岸通りは
残る翌日朝五つ半時ごろに漸〻火しづまり人々安堵の
思ひをなしぬ依て一紙にあらわして遠国のたよりとす
〇新土手通紺屋三丁目河岸角店火消にて防候町に付
九軒町河岸店中 堀江町店中 永富町代地店中
原若と者中 小網町店中
岩井まち上納地店中 小伝馬店中
元岩井町同店中 鉄砲町店中
小船町道有屋敷二町 浅草田原町若衆中
亀井町店中 松下町若衆中
〇
右之店火消中一同
あみ合ニ而見事に
消口を取御感に
預り候よし
以上
頃は安政元寅十二月廿ハ日夜五つ時神田
多町辺より出火して西北の
風にて同町壱二丁目
上白かべ町佐柄木町
おもて通り角
五番組くや
けふこえ
ましゑ
手掛百三
十六人
なら
び
六番
なむう
ゐのお 八百
八十九人消口れん
じやく丁東南角
同五番六番消す
新白銀丁雉子丁
西北角同五番組
六番組消すすだ丁
二丁目きた角
八番ほわかた九百
九十六人消口東がは
残る通り新石丁
なべ丁鍛冶丁壱
弐丁目のりもの丁ぬし丁
横大工町たて大工町川合新石丁
永富丁壱二三四丁目みな川町壱二
三丁目関口町ろうそく町新かわや町四軒やしき三川町
壱二三四丁目角六番なむうゐのお八百八十九人也
卯の正月十五日改
再三吟調
明細也
「本所深川十六組」千二百四十四人同新道角「六番なむうゐのお」
八百八十九人「九番れそつね」五百八十六人同三丁目新道同両組
消しとめる本多加賀守様本多豊前守様東おもて長屋
十人定御火消にて御ふせぎ松下町鎌くら町鎌くらがし
通り不残やけるとしまや見せのこるもんとかし【主水河岸】通りりうかん
町りうかんばし半焼今川ばし残る中のはし焼落る
四けん丁神田ばし通り松平勘助様御やしきうら通り
少々やける浅野一角様うら通り少々東神田小柳同
壱弐三丁目角「十番とちりぬるを」九百三十壱人けし口
松田丁代地くろ門丁松田丁三しま丁下白かべ丁永井丁
平永丁三ヶ所「九番れそつね」五百八十六人「十番とちりぬるを」
九百三十壱人冨山町北角同「九番十番」消ス岸丁こんや丁二丁
目代地元のりもの丁代地元のり物丁福田やしき平吉やしき
兵ごやしきこんや丁壱弐三丁目東がわ少々残る消口ハ元くろ
井丁小舟丁小網丁ほり江丁小でん馬丁亀井丁右六ヶ町
若衆にて消ス又北風二かハり本銀丁壱弐三四丁目迄ろうやしき
残る本石丁壱弐三丁目かねつき堂焼ける同四丁目角「本所深川
十六組」千弐百四十四人大伝馬丁若衆消口岩付丁十軒店金吹丁
金座おもて通り残る同川岸通り「二番ろせもめす百千」千三百
七十五人消口同弐丁目三丁目横丁木戸ぎわ「一番のよはに万」弐
千六百四十六人伊勢町若衆消口同四丁目北がわ少々焼る室丁
壱弐三丁目越後屋見せ焼落る本かわや町するが丁本両がへ丁
北さや丁品川町釘店ひと口ハうきよ小路せともの丁南かハ
少々残る「五番六番本所深川組」にて消スいせ丁がし少々焼る
本小田原丁壱丁目弐丁目ながはま丁あんじん丁本ふな丁がし
折まがり家数十四五軒残る「一番いよはに万」弐千六百四十六人
「二番ろせもめす百千」千三百七十五人「三番あさきゆてみ本」
七百七人「五番くやけふこ江ましゑ」千弐百三十六人消ス同丁
北角半やけ「一番いよはに万」弐千六百四十六人「八番ほちかた」
九百九十六人「本所深川十六組」千弐百四十四人消口火ハやう〳〵
明ケ六ツ半時日本橋魚川岸にて焼留り人々あんどの思
をなしけり
土蔵三十六とまへ穴蔵四十三ヶ所落る
町数百五十六丁三十六丁壱里にて四里十二丁
長
【上の資料】
恵志の上手御作
南無大火大事安全明王
ほうぼうくわじの
うれひをのかしたまふ
今日不吹誰誥合
春風春水一時来
おんそろそろ
ふいたりやそわか
御供物 のし水引に及ばず清らかなる
正のものを正で御備可被成候
大矢山 月行寺
【下の資料】
拍子木(ひやうしき)は
第(だい)一丁目
日本橋(にほんばし)
三番(さんば)さう〳〵
夜(よ)ばんまくあき 黒牡丹
悪(あく)はらひ
〇アヽヲうるさゐな〳〵まいばん夜(よ)づめの
ごたゐぎに火(ひ)の用心(ようじん)とまわりませうたみのかまども
にぎわひの。 南北(なんぼく)むろ町日本ばし。わが火の元を大切(たいせつ)とそろ〳〵
はじまる火事なし月。 恵方(ゑほう)のかたからふくの神(かみ)。しげ〳〵
まわる時津風(ときつかせ)。だんなお門をながむれば。 三国一夜(さんこくいちや)のその内に。 天水(てんすい)
桶(をけ)のふじの山。おにわにつるべ勝手(かつて)には。かめにも水をくみためて
万事(ばんじ)にこゝろをおきごたつ。 火鉢(ひばち)のすみから炭(すみ)べやの。かんな
くづまで気(き)をつけ木。スハ火打箱(ひうちばこ)といふ時は。さつそくけしずみ
火 消(けし)つぼ。《割書:アリヤ | リヤン》龍(りう)こし龍吐水(りうどすゐ)。そこがかんじん金棒(かなぼう)の。 鹿(か)
島(しま)にあらぬかなめ石。 自身番(じしんばん)にはちうやのばん。げんばにみづを
組合(くみあい)の。月日の行事(きやうじ)おこたらず。よまわりきびしきじせつが□【ら?】
あやしき外道(げとう)がしのびより。くせことなさんとするところ。
此 番人(ばんにん)がかゐつかんで。西の海とは思へども。火の元きびしき□
なれば。 天水桶(てんすいおけ)へざぶり〳〵
〇ねづばんのごたゐぎ。おやくかわり□□□□□
頃は安政五年二月十日より夜
西北風はげしき朝から五時
日本橋小田原丁辺ゟ出火して
同壱丁目二丁め安じん丁長濱
町いせ丁せとも瀬戸物丁片かはやけ
むろ丁壱丁め弐丁目片かは少々残る
魚がしゟ四日市へとひ火土手
かつらい組いなり焼けしおほ物店
不残万町青物丁香物
丁木京店幸松丁左
内丁しんば魚かし
小松丁式部小路此辺
不残海ぞくばしおちる
川瀬石丁南油丁新右衛門丁
かいれ正町片かは本材木丁
四丁目中ほど迄焼坂本丁
うゑ木店此辺不残かやば丁
薬師表からかやば丁不残
千川屋敷代官屋敷九鬼様
細川様越中様のこる与力丁
はのこる北嶋丁竹嶋丁亀崎丁
地蔵ばし辺一めん加ち丁七けん丁
よこぼり水谷丁こんや丁金六丁
与作やしき霊かん嶋とび火川口
丁冨嶋丁長崎丁三丁共々白
かね丁四丁共不残南新川焼
北新川のこる越前様中少々やけ
東塩丁ゟ御船手やき海手迄
又一と口は八丁堀大通り岡崎丁
やねや丁松や丁いそべ大神宮焼おち高なは代地不残
本八丁堀から表五丁共不残中のはしおちる南八丁堀三丁めゟ
五丁め迄西尾おき守様堀田土佐守様半やけあは様
中屋敷鉄ほうづいなりのこる本みなと丁小ばしおちる
【右下から】
船松丁壱丁目二丁目細川のとの守様
松平あいづの守様にて留る十けん丁中程
二而焼留るつく田嶋へとび火して焼
よく十一日五半時火しづまり人々
あんどのおもひを
なす
【図中地名】
佃島
鉄砲洲
本湊町 同 一丁目 二丁目
細川能登守
舩松丁一丁目 同一丁目
松平阿波守 中
松平遠江守
小笠原備後守
中川修理大夫
松平内匠頭
堀田土佐守
西尾隠岐守 下
井伊
堀
本多長門守
南八丁堀一 同二丁 同三丁目 同五丁目
同一丁目
中の橋 稲衛橋
弾正橋 松幡橋 越中橋 中の橋 海賊橋かいそく橋
本八丁堀 一丁目 同二丁目 同三丁目 同四丁目 同五丁目
松屋町
玉子屋新道ヵ
岡崎丁 上大通リ
近江屋新道
与力丁
長沢町 幸町 日比谷町
永島丁 北こんや丁 金六町
松平越中守 町御組
水谷丁二丁目 与作屋敷 町
神田新銀丁代地 神田松下丁一代地 同代地 塗師丁代地
細川越中守 中 九鬼式部少輔
神保小路 しんほうこううし きたしま丁
亀島町
南 茅場町 千川屋鋪 千川屋敷
分薬師堂
坂本町 一丁目 同 二丁目
かみくらち 小網町
牧野河内守
同七丁
目
南塗師丁 同六 丁目
南鞘町 同五丁目
正木丁
大鋸町
〇俗きり川岸下出
同
三郎兵衛請負地
下槙丁 同丁
福島丁 同四丁目
樽正町 箱屋丁
新右エ門町 同
川瀬石丁 南油丁 小松丁
平松丁
左内町 音羽町 書物町
◯きはら店とり
同三丁目 同二丁目 一丁目 本材木丁
魚筋道
かしち くらち やしきみち くらやしき 二三丁目
万町 元四日市丁 土手くら
魚が
小田原一 二
せともの丁
むろ一
通一丁目 通二丁目
新高橋 亀島橋 霊岸橋
同一丁目 同二丁目 同丁 御舩手組
松平越前守 丁
東湊町一丁目 川口町 銀四丁目
富島町二丁目
長崎丁一丁目 同一丁目 同二丁目
霊岸島町 銀町一丁目 銀町三丁目 銀町四丁目
南新川 北新川
一の橋
南新堀一丁目
【築地八町堀日本橋南絵図】
【枠内】
□元四季太夫 □元常太夫 三 □元一途
□元太イ兵衛 火の元硫黄太夫 火の元安次
□元水勇喜太夫 火の元者名太夫 ツ 火の元専一
□元志津カ太夫 火の元消寿太夫 火の元順次
火の元長夜太夫 □ □元千歳
□元居□□太夫
正シ木所
竈本平吉
大屋次橋角
【本文】
老まち
老まち
〽抑(そも〳〵)町のきびしき事(こと)万国(はんこく)にすぐれしう
はつとうのおもむき千ねんの御(ご)しゆ意(い)を増(まし)
て古今(ここん)の触(ふれ)をなすあま国(くに)かい帳(てう)ありし時(とき)
天(てん)俄(にはか)にかきくもり大風(おゝかせ)しきりにふきしかば
みんな風(かせ)をふせがんと小町(こまち)の大屋(おゝや)よりたかり
この町(まち)たちまち大切(たいせつ)となり水(みづ)をくみまき
ちらして小(こ)まど障子(しやうじ)をふさぎてそのかぜ
を防(ふせ)がさせしかばみんな大義といふ事(こと)を仰(おふせ)
くだし給いてより町を大義(たいぎ)と申(もふ)すとかやかよふ
にめでたき町(まち)まちて飯食(めしくう)ひまもゆだん
なくきのふもけふもせい出(だ)して火事(くわじ)をふせぎ
の金棒(かなほう)割竹(わりたけ)のおともたへせぬきん銀(ぎん)しゆ玉(ぎよく)
どう〳〵どつと町 中(じう)へ御(ご)ほうび下(くだ)さる御代こそめでたけれ
【上の資料】
世なか 吉原せけん
〽火の元きひしき 火の用心
地主はめいわく 家主ぐる〳〵
名ぬしで サアキ なせ
かなぼうじやら〳〵
□と〳〵〆こで 木戸〳〵あいこで
拍子木かち〳〵 四月はおしまい
らく寝で さアきなせ
【下の資料】
嘉永五年みつのえの正月十五日ヨリ勤暦凡百五日
大せつ明の方 此方にあたり ゆだんすべからず
大そうねの方 ばんちう四月まで ふさがり
大せい廻り方 此方にむかひて しつ礼をせず
とき〳〵 うち
火の用心 あけの方之廻り 金棒
万よし むまい
たいていあさ方 此ときにあた ひざがわりよし
へうし木触方 此音にて大火をたかず 但まぎらはしき音求ず
いへぬし心得方 ぢぬし方にむかひて はんてん代等とらず
たなばん夜明方 舟こぎはじめ わろし
てうないおや方 此方にたのみばん 万よし
卯 ら〳〵ろじ 六ツ限り
辰 あとへ すけばん
巳 まいものだす より早く みやくをとり
乙 通一丁目
午 く□ふ 御ほうび
未 ウ当分 火事さた なし
申 若町拍子木 早仕舞
酉 こむものは 龍こしや
戌 もねら れず
亥 せいのよい 店火けし
癸 室町一
子 ること 堅無用
丑 みつに たき出し
寅 れるものは 昼夜番せん
臨時奉公 春は小間 夏はよし
秋はばん 冬はいや
正月 ヨリ町役人用 大
二月 町入用小間高廣 大
壬【閏?】月 モ恐れる小間勘 小
三月 詰番眠ツ 大
四月 番御免仕 大
五月 小間割りばん 小
六月 テモホヤウシヤ 小
七月 水桶クサレシ 大
八月 サゾ用水デ数多かりや 小
九月 カニ家主よし 大
十月 ヨリ番屋はん 小
十一月 店番人兼 大
十二月 弥水ノ手けん 小
【上の資料】
火之元之掟
一 火の元そまつに致し候者は早速地立店立可申付事
一 風烈(ふうれつ)の節は町々にて御用の外は□【堅?】く他出不致火の元のみ相守屋根の上
庇(ひさし)したの【したみ?下見板のことでは?】所え水打在合の桶其外へ水を汲溜(くみため)置べき事
但家根上防のためはしご幷水かご水鉄砲など用意いたし置可申候
一 平日も竈(かまど)はいふに不及二階物置等惣て目遠き場所は不絶(たへず)見廻り夜中 寝(ね)
臥(ふし)候節は家内を改 消炭(けしすみ)其外もとくと見届け可申事
一 湯屋を始大火を焚(たき)候渡世は猶更 建具(たてぐ)屋 舂米(つきこめ)屋はかんな屑(くづ)わら灰
等幷わら商売の者は其品別て可心付事
一 ぶら提灯(ちようちん)と唱(となへ)候品より度々出火致候処も有之間用ひ候 度毎(たびごと)入念しめし可申事
一 普請(ふしん)小屋は昼夜 油断(ゆだん)なく見廻り其外河岸地物置等は別て
心付可申事
一 手あやまち致し火もへ立候はゝ畳(たゝみ)にて覆(おほ)ひ消(けし)可申尤声を立近所えしらせ可申事
一 出火有之候はゞ屋根の上其外飛火の防(ふせぎ)方可為致以来遠方よりの
出火にて飛火致し夫より焼 募(つの)り候はゝ火元与 同罪(どうざい)たるべき事
一 出火致し屋根の上へもへぬけ又は飛火にてももへ立候節近所の者
共早速打消候はゝ其町内隣町より其者へ格別の褒美(ほうび)可遣事
但右□□手当は地主共幷表店の者共申合せ常々 積(つみ)置可申候尤次第
□寄月番の番所え訴(うつたへ)出可申 時宜(しぎ)に寄褒美もとらせ可申候
一 火の番行事は町内を度々見廻り可申事
一 風烈の節は名主も支配内を見廻り火の元 不怠様(おこたらざるやう)可申付事
一 平日水溜桶用意致水 乾(かは)かさる様不絶汲入置可申事
一 名主は組合の内弐三人つゝ常々支配内火の元等互に心付 軒(のき)
近き所へ火所をこしらへ其外火の元不用心に相見へ候所は名主
共見廻り直させ可申事
【下の段は続きか】
追加
一 風烈の節無拠□に付他行等致候節は家主え相届可申 独身(どくしん)の
者其家主より火の元改を受候て可罷出候
一 裏家店借の者共は勿論表店住居の者も相加り五人三人つゝ組合を立
置組合の内相互に火の元心付合可申事
右の條々急度可相守相背候は罪科たるべきもの也
子正月
【下の資料・コマ48と同じか】
改政 御町法火之元念代記 不許売買
古今大火年数略
○明暦三本妙寺 百九十六年
○明和九行人坂 八十一年
○文化三高輪 四十六年
○文政十二佐久間町 二十四年
○天保五同二丁目 十九年
○弘化三丸山 七年
○嘉永三麹町 三年
場群星めくりやうの事
大風のせつは
通壱丁目
よりうちは
じめ室町
より打出し
東西南北
にふれると
しるべし
拍子 木性
用心 火性
戸前 土性
入用 金性
龍越 水性
[政治] 十月一日 書写山の 文段上人 火の元いんの げんぢうとなる
(二) 冬より 春に いたつて 鈴むしなく
[厳重] 大通室町 御所に し【ゑ?】んせきたつ
(二) 拍子木の あいづ はじまる
[用心] 一夜のうちに 八百八丁へ 四斗たる の山を生うず
(二) 用水あふれ □て 往来 うみの ごとし
[風列] 木ぼりの龍 口より 水をふく
(二) 店はん国 より みずてつほう わたる
(三) せんとう 水ふねを すてゝ ゆどの山に御幸
[定番] 生得大酒 大ヤ山 日行じ にてかい帳
(二) 水ばんといふ 札のきに あらはるゝ
(三) やもりと 松むし つながり いづる
[安心] 四月一日ちうやの ばんひけ て大風の ふきたる跡のことし
(二) 人々あんとして さけのむ 如来あんちす
(全) 四海太平 にして 諸人万歳 をうたふ
人間一大事火之元大せつに守本尊
ざいかたには 丑 ねづみあなの
子 へんぴあん音 寅 古土(こと)蔵ぼさつ
火事ざたなし つくろひ肝心
かなまじりの控は 辰 町入用は
卯 文字ぼさつ 巳 分限ぼさつ
わかりのよい 地主方の
きびしき 未 おこたりなく
午 政事ぼさつ 申 毎日如来
おかみの おふれを守る
用水道ぐの 戌 火のばんもかねる
酉 不同明王 亥 橋番大ほさつ
かざりつけは かみゆひどこは
○自しん番のうた ○かましいを知る哥
くはやもりちうやのばんに ふくからに水ととそうの
六ツ〆り拍子木なれば つちこねて地ぬし金□ぞ
かぜとしるべし 御入ようあれ
【上の資料】
新板改正 太平武官
【上段】
町平家 本国武蔵
清和火用心姓
大食冠釜元之後
胤火用心四郎触
次之嫡男龍越次
郎水張之十三代
玄蕃頭汲為卿之
長男
桶次(ヲケツグ) 玄蕃頭
桶増(ヲケマス) 入道龍吐斎 女子番野守之進室
桶盛(ヲケモリ) 大炊頭
桶(ヲケ)置 女子引摺竹之丞室
桶数(ヲケカヅ) 長門守
桶重(ヲケシゲ) 安芸守 女子樽野黒太夫室
桶高(ヲケタカク)
三十郎丸
【中段】
□かじなし御門外
粥少将
町平安気守触吉
嘉永五子年 家徳
御内室室町殿詰元卿御娘
進上 家毎に札一枚つゝ 十月一日 御着
拝領 昼夜の御菓子 四月一日 御暇
参府御暇之節上使番太郎
二本共本みがき 押
金棒先に並 駕
御嫡 町平安藤九【黒ベタ文字なし】
御内室拍子木合図打次之御娘
鉄うるしかけ 太刀打銅巻 押
つるべの ぶら〳〵 駕
時 寒中池田炭桜炭粥之一ト鍋
献 堅餅盆盛落雁干菓子一ト袋
上 地主代金店々菓子料金一包
纏 【纏の陀志】水 【法被の背中】太平
【下段】
御苦労
室町詰右衛門
▲通町詰太郎
▲家守五九郎
店野番左衛門
番野助之進
店番増太夫
▲草臥太郎左衛門
火用心
▲天水桶之進
▲龍野越次郎
▲水野 幟
金棒鉄之進
▲松出林右衛門
▲割太竹太夫
▲桶野水右衛門
時廻隼人
火事野内記
▲日比野厳重介
番野長門
時廻安芸
側用心
火伏大炭
御町役
▲自身番太夫
▲金野入ル兵衛
【左端】
妙政事派 万年山 太平寺
高拾万八百八町余江土一円制之 道法《割書:江戸ヨリ四方|八百里余》
明暦三酉年正月江戸大火以来百七年目ニ当リ明和
九辰年二月十九日目黒行人坂ヨリ大火又三十年其
後文化三寅年三月四日高輪ヨリ大火又二十四年後
文政十二丑年三月廿一日佐久間町ヨリ出火又六年大【「天」カ】
保五午年同所ヨリ出火又十三年目弘化三午年本
郷丸山ヨリ大火当時嘉永五子年安気守触吉以後
代々禁之
中屋敷 〇うら路次番丁 〇あさゆ定番
【下の資料】
安全 ふれ出し 一町拾弐時
安居 火のみちの薬 昼夜たへまなく用
抑此薬の公能は火の道第一の手当にして無人に用て
其しるし有事諸人知る所也依て去る文政年中
世上へ弘むるといへ共年来故意候に付自然と一統に
相馳之候間此度政法致又々善く知らしむ此薬は
用心水を益土蔵を補ひ火を守る良才なれは
余り強く用ゆる所は下もの痛と成事あり
程よく用る時は至て安全ならしむ常に手当心
肝要也心遣候時は其憂なし人々御用候はゝ此
頃の穏かなるを知り給ふべし
公能
一 別て建込候場所は銘々に心付てよし
一 平常防ぎ道具貯置てよし
一 夜る寝られさるには寝すの番してよし
一 家の焼るのには多く水を用ひてよし
一 強き風の節は度々触出しを用てよし
一 裏(うら)々迄も互に情々気を付てよし
禁物
湯屋鍛冶屋建具屋藁屋屑屋塵芥
惣して大火を焚又は火はやきもの悪し
其外紛敷拍子木を忌む
元祖改法 日野本養甚
町会所 水埜澤山
取次処 江戸町々 番屋厳重郎
江戸 御火事政治所 自身番町
龍越屋
玄(ケン)蕃大掾
口上
江戸御町中様毎日〳〵御機嫌よく
昼夜無成御草臥珎しからしと奉存候
随而此度別政事工風仕小金餅は
施行糖夜商人は困窮糖仕立念
入わき□ゐ奉□【察?】上候間先〳〵かな棒
しやら〳〵□御内町之程奉希候
竜こしや岩おこし 金持屋うかん
階子屋らくかん 地主なんちう
夜商人困窮糖 夏をまつ風
げんば水餅 子供のらくかん
右之外家主昼夜詰室町詰日本橋詰
御座候間御禁物之節御不用可被下候
鳶□評かん 浪花焼
右二品なから御評判被下候
月日
当日麁粥奉差上候
そうそうの薬 安心湯
此役方は用町の時大きなる桶に沢山水を
くみわり升の油とかなぼうを一挺にても
弐挺にてもませ昼夜たへまなく引ずる時は
大丈夫にて少しも手あやまちなし別て七ツより
六ツ頃迄肝要なれは随分気を付べし
若し恐風にてきゝつけるには早々拍子木の音
を用ゆべしたちまち木戸をひらきてはつ
きりとす亦目をさますには右のごとくして
なんぞくわすべし寄【奇】妙也世に火事きとふ【加持祈祷】
まじないなどする人あれども至てあしく
右の法に限る也是迄ためすになん人に
一日も其患おし□つてこの此度諸人の為
世上へ伝むるもの也
御政役所 御番居
右御役所町中え 町野玄重
子の正月八日より世役に差出す
【上段】
/地震(ぢしん)共江申/渡(わたし)之事
一/鯰(なまづ)仲間之義はぬま
川なぞにて/渡世(とせい)
いたすべくのところ
ちかころみだりに
相なりもくらとう
やうに地の下に入
地しんとなづけ大ぜい
より合家くらをうごかし
さま〴〵なるはたらきを
いたし候段相きこへ候へども少し
の事ゆへすておき候所八ケ年いぜん
しんしう大地震又嘉永六年
小田原の地しん/其(その)/後(ご)七年六月十四日
/勢(せい)/州(しう)大地震どゞゆらせ候ゆへあみをもつて
たづね候おり石がきの間にかくれまたはぬまにもくり
すがたをかくし候事も相きこへ候ゆへひやうたんの助に
申付候へどもふゆきは人々ゆさんにいかぬからいらぬと
ゆうてしまいをき候をつけこも又霜月四日大地しん
にて所々より出火いたし其うへつなみをいらせ家
を流し舩をこわし人々をこはがらせ其うへおのれ
ばかり五日も地震をゆらせたのしみふうふの地
しんをやすませ候義はなはだもつてふらちのいたり
この後地しんゆらせ候へばひやうたんにてとりおさへ
うなぎやにおゐてかばやきに/可致(いたしへく)者や
ぐら〳〵元年
/眩暈(けんのん)の十一月 地/震(しん)取/押(おさへ)所
/鯰(なまづ)仲間之者申
【下段】
地震仲間之者共奉申上候
一/私共(わたしども)之/儀(ぎ)は川ぬまなぞにて/渡(と)せいいたす
べくのよしは御尤しごくと候へ共きん年は
ひやうたんやすきゆへとしより小どもに
いたるまでまよけとなづけねつけに
御さげなされ候ゆへわけて仲間共
ひやうたんにおそれうく事かなはず
夫ゆへ石がきや/沼(ぬま)に/姿(すがた)をかくし候
内にこいふなにゑをくはれ候ゆへ
仲間の者共かつめいに及び候ゆへこけ
ゑさみゝづをさがしゑじきに/致(いた)さんと
ぞんじ地の下へもぐり候もひもじきゆへの
でき心に候又御ふうふの地しんをやすませ
候義/恐入奉(おそれいりたてまつ)り候なにとぞ花見其ほか
御ゆさんのせつ
ひやうたんを御もちなされ
候事又辻々にてひやうたん安うりの
義を御さし/留(とめ)下され候へば仲間の
者共いつとうに申合水にておんびんに
とせいいたし候みやうがのためなまづの
ひげ五万四本地震力こぶ三千びやう
毎年ちたいなくさし上奉り候間右之段
御きゝとゞけなされ下され候へば/誠(まこと)以
ありがたく/仕合(しあわせ)に/奉存(ぞんじたてまつり)候以上
ぐら〳〵元年 地震仲間 四ツ谷けんのんじ門前
/眩暈(けんのん)の十一月 惣代 いくたひやゆりの助
幼少二付 あさからどゞ入横町
代判 ふる〳〵や伊弥右え門
/要(かなめ)/石(いし)/之(の)/進(しん)様
申
【下の資料】
ぢしんほう〴〵ゆり状の事
一此ゆり助と申者生国かしま要郡ゆるき村にて慥成ぐら付者に付らい共
請人に相立いへんえいたぶりほう〴〵えゆり出し申候所ぢしん也年季の義は
去る京信州より八年めに相当り御きう近国として越後三州慥に
おとろき申候御しきせの義は夏はかた〳〵しま
ふるへ者一枚冬はみぢんつなみぬのこ一枚
下さるべく候事
一上方筋五畿内五ヶ国の義は不及申に
およばず四国九州まで相ゆる
がせ申候若此者夜中おさん殿
のねまへはいこみないしゆうのぢ
しんいたし候か又は御大せつなる土
蔵をこわしゆりにげかべおち致し候はゞ
急度したる左官(さくわん)をもつて早速(さつそく)埒明(らちあけ)可申候事
一宗旨の義は豆州さふどうはにて寺は
下田千軒町みなこけ横町くら〳〵さん
つぶれんじなむさんぼふつなみとまぎれ無御
なく候五八そうのなんせんとては無之若此
ぢしんの義に付諸々にてゆり出し候者無之万一ゆり
かへし等致候はゞ我等ぢしんにまかり出かなめ石を以
ぎうとおしつけきでんえ駿州も御くらふ相かけ申
間敷候五七留一たんゆつて九は病の如し
しんどう元年 いなかけんのんじ門前
なまづ十一月 請人 家内つぶれ兵へ店
もへ出しや火事兵衛
あさからゆり通し
にげ出し横丁
人主 ひゞきや大地郎店
ぶる〳〵やこわ右衛門
大坂町屋敷大つなみ打寄場
橋〳〵屋おち右衛門様
茅場町 茶師 九鬼さま様此へん北八丁堀不残松平越中守様辺
浦□□□嶋御組屋敷本八丁堀五丁目までいなり橋□□□□
南八丁堀二丁目ゟ松平右近様井伊様中川様阿波様松平遠江様少し
南八丁堀五丁目近中の橋落本湊町舩松丁十軒丁まで留る此へん細川様
松平長門様七数馬□六がんじま川口町東みなと丁ゟ御船手にて留る出也
たやく辺残り南新ぼり三丁目おとや橋前で永代にて留る霊岸じま
へん御屋敷□越前様久世様松平いづ様土井様戸田様此へん不残箱
崎不残大舩田五四又□焼失のぶんまさぬに書屋〳〵こたじされども
夜に入り風しづまり世の別に火しづまれりども焼死人も□諸屋
□ホもそくばせ残り大火と云ともも 大江戸大都會の難儀
御代前れば□進□すにとうたがゐふるへ〳〵されどもこんさう
の人にわ是をうれゐ□□□たゝし供諸人ともに□□□を
もなり漢ゆふえし
御救小屋《割書:両国|江戸橋》
【下段】
頃は天保五年七月十日の夜八つ半時ごろ大坂堂嶋渡辺
橋筋永来町ゟ出火折節西南風はげしく堂島辺凡十丁斗
曽根崎ばし同村長数寺露天神藤井寺法清寺寒山寺
本傳寺正泉寺日通寺妙香院法住寺法輪寺竜湖寺西
福寺大林寺幡竜寺幸松寺令雲院夕願寺小野ゝ領川崎
領福村北本幡町小宿町辺不残凡三十町程夫より
南本場町南冨丁辺いせ丁沼田寺丁ばし成正寺
妙福寺蓮興寺智源寺有高丁小森丁わたや丁
女夫丁池田丁不残長柄辺迄凡家数弐万げん
ほにで土蔵数凡百廿戸前焼失町数合〆横廿町
竪四十町余やける漸十二日の朝五つ時火惜りけり
右類焼に付難渋の者沢山と
出来申候に付御救として
御上様ゟ道頓堀角の
芝居中のしばい其外所々
芝居へ御いれの成下候
段厚御惠をたれ給ふ
事 難有次第なり
此事を見聞するにつけ
大切のうへ子も心づけ
べきは火の元第一の事
なり
【赤文字追記】
町御奉行御月井戸対馬守様
【本文】
嘉永四□【亥】年十二月十三日夜九ツ過小てんま丁
【ゟ失を赤で消し横に黒で追記】善蔵店源助宅ゟ出
二丁目南かはゟ失火致同所にて東は大川通迄
西は小てんま一丁目中ほと迄北がは皆のこる
それより南の方てんま丁新道にて東は大川通
西は大でんまよこ丁迄またおおてんま三丁目(大)【大に○】のこり
向かはやける同所南かは四五軒やけ西へひやうたん
しん道迄夫より大丸しん道にて東は大川通
西は大てんまよこ丁迄田所丁にて東は大川通
西はひやうたんしん道迄其中にてさとう越後や
残る同所地じり少火うつり又えちこやの向は残る
同所の地しりより新道迄やける右の通類焼
いたし同十四日朝五ツ時前□【刻?】に火しずまり申候
【黒文字で追記】
但火元源助召仕幸次郎と申拾八才□成候もの焼死
頃は安政
二年卯
三月朔日
朝五ツ半時頃より
大南の風吹いだし
石砂をとばし一天
くもりたるごとく
大やうの光り
かはりじつに大へん
を引出しやせんと
おもふやうなりその夜九ツ半
時過ほり江丁四丁目中ほどゟ出火
して折ふし富士南風はげしく小網丁
しあんばしぎわ四五軒中ほど二軒はじ
一軒一番二番所店中にて消口同丁番屋うし
【あと一行だけコマ42に続いている分】
ろ店残る八番消口同丁一丁目横丁二番▲
▲深川ぐみ消口甚左衛門丁焼ほり江六軒丁
少々のこりをやじばし半やけてりふり
丁新道通りに小ぶな丁三丁目自
身番八ばんくみ消口二丁目北がは
角一けん三ばん六ばん所店中消
口同中ほど三ばん五ばん消口同
一丁目おもて側残る新道五番
六ばん消口ほり江丁一丁目半
やけ同二丁目半焼三丁目新
ざい木丁少々のこる杉の森いな
りほり留二丁目角一ばん
ぐみ消口田所丁はたご丁
大丸残る同しんみち
はん焼元はま丁
通り油丁東がは
中ほど一けん
八ばんぐみ
消口通り塩丁
馬くろ丁一丁
目にし側
残る
【下段】
▲
東側半焼同二丁目半焼三丁目四丁目郡代屋しき残るつば店浅
くさ御門に多門焼御はしは残る又一口は横山丁一二三丁目一口はよし丁元大
坂丁西側半焼金吹銀座役所残る住吉丁西側五軒本所
深川ぐみ消口東側角一県焼なには丁へつついがし中程二番三番
本所深川くみ消口其外折まがり残る一口はふきや丁さかい丁
がくや新道元大坂丁代地新のり物丁南ざいもく丁人形丁通り
三光新道新いづみ丁げんや店高砂丁長谷川丁とみ沢丁弥兵
衛丁新大坂丁橘町一二三丁目村松丁東側折まがり少々若
松丁へ焼こむ句【家紋?】としより雷宅一軒残る細井百助様林越
するがの守様横山同朋丁米沢丁一丁目半焼二丁目のこる両国廣
小路自身番かみゆひ床番屋床見せ残る吉川丁柳原同朋丁
西側二けん東がは角大きゆうといふ居酒やふへの中にて残る本所深川
ぐみ消口夫ゟ柳ばし句平右衛門丁東がは折まがり残る句角一軒本所
深川ぐみ消口御蔵前片町代地夷田丁はたご丁一丁目同二丁目
代地一口は第六天門前丁平右衛門町しのづかいなり焼第六天社焼
かや丁一丁目見付橋ぎわ折まはし少々残るかや丁一丁目代地同
二丁目天王丁代地尾丁つゞき横丁同尾丁東側二軒左近
将監樣酒井左衛門尉二番ぐみ本所深川消口□丁瓦丁物側
残る松平伊賀守様御やしき焼る御門は藤堂様立花様下総様
酒井様町人足八ばんぐみ消口御出ける所焼本多中務大輔様
御中やしき少々のこる是にて二日四つはん時ごろ
ゆう〳〵火しづまりひと〴〵あんどのおもひと
なしにける
▲土蔵三十九とま也▲あな蔵四十八▲町数百六十
二け町道のり三十六丁一りにして凡四りと十八焼也
【地図中の地名等】
どうじゆうばし 荒布ばし
堀留丁 同丁
小舟丁 同二 同三 小網一
堀江町 同二 同三 同四
大伝馬丁 同二
新材木丁 南材木丁 新乗物丁 同 岩代丁 新材木丁 元大坂丁代地 葭屋町 堺町 堀江六軒丁 ◯よし丁 元大坂丁 銀座 甚左衛門丁 酒井様 小網丁二
通旅籠丁 通油丁
田所丁 長谷川丁 同 新いつみ丁 住吉丁 同
元濱丁 新大坂丁 弥兵エ丁 富沢丁 高砂丁 難波丁 同 やしき
馬喰丁 同二 同三 同四
通塩丁 横山丁一 同二 同三
馬場 郡代屋敷
橘町一 同 二丁目 村松丁 久松丁 やしき
同二三丁目 横山 同三 同朋丁 村松丁 やしき 若松丁
村越隠岐守 細井百助 やしき
米沢丁一 名倉 同二 やげんぼり
柳原同朋丁 吉川丁 同 広小路
浅草御門 柳橋 両国橋
茅丁一 第六天門前 同 平右衛門丁
同二 同一丁目代地 森田丁代地 片丁代地 平右衛門丁 片町
同二 天王丁代地 旅籠丁一丁目代地 片丁代地 代地一
瓦丁 同 旅籠丁一丁目 代地
御書替役所 本多中務大輔様 松平伊賀守様
【右の資料】
爰に安政二正月廿九日夜四ッ半時頃本所
大川端より出火して折しも北風はげ
しく松前伊豆守様御屋敷不残
焼失し夫より横網丁通りへいで
藤堂様御やしき北表長屋少々
やけ小泉丁町家不残やけ
回向院うら門へうつり本堂
おち角力小やのこる小泉丁
東之方は梅若猿田様小林
友意高橋貞伯様表門
のこる消口は本所深川
一番八番にて消す又一ト口は三宅
対馬守様へ飛火して御やしき不残
やけ此火先小泉丁までやけぬけ
津田様御やしき少々芳山格斎石川
周蔵百倉元昇芥川俊清様と
焼はらひ深川潜蔵様御宅にてやけ
留る此所二番組津軽様御人数にて
消すしり火にて蜂屋主殿様へう
つり表門のこる牧の剛太郎様表門
少々やけ岡本様御やしきのこらず
やきはらひ火はよふ〳〵明ケ六ツ時頃
しづまり人々あんどのおもひをなすなり
回向院建立ありて百九十九年目にて類焼也
【左の資料】
恵志廼上手御作
南無大火大事安全妙王
ほうほうかじの
うれゐをのがし給ふ
今日不吹誰誥合
春風□【柏+子:拍子の意?】木一時来
おんそろそろ
ふいたりやそわか
御供物 のし水引におよばず只清らかに
正のものを正で御備可被成候
用水
大矢山日行寺
大黒のつち
うごかして世の
中に宝の山を
積かけねける
ゆら〳〵/臺問答(ゆたりもんとう)
【一段目】
おなじ
ゆかに
ゆられながら
ぢしん
はんとハこれいかに
〇
のじゆくをしても
いへぬしといふが
ごとし
よし原を
やけ原とはハこれ
いかに
〇
ミんなやけても
七けんだの五けんだのと
いふがごとし
ぢしんのときでもかミ
なりもんとハこれいかに
〇
きなくさ
くも
ないに
にほう
もんと
いふが
ことし
ぢしんやけで
まるはだかに
なつたうへ
こしのたれられぬ
人をたちのまんま
とハこれいかに
〇
はたらいてたすかつた人を
おおぼねをりといふかごとし
人のおうく
とふるところを
馬ミちとハ
これいかに
〇
せうぎにも
あらぬにこまかたと
いふがごごとし
【二段目】
こんどのことで
むしんの文
をよこして
ちしんに
いつたとハ
これいかに
〇
やけもせぬお客
をあつくなつてくるといふかごとし
おゝきな
いへを
御小やとハ
これいかに
〇
ちひさな
うちでも
大やさんと
いふがことし
ひもとでも
なくて
ぢしんやけとハ
これいかに
〇
大われを
しても
小われたと
いふがごとし
あをものでも
ないに大ゆり〳〵
とハこれいかに
〇
さかなにも
かじきの
あるがごとし
どろミづが
わきだしても
上水とハこれ
いかに
〇
すなをふき
だしてもおちや
の水へんと
いふがことし
ざいもくや
げんきんに
かねをとつて
/河岸(かし)で
うるとハ
これいかに
〇
わがたてたるいへを
かりたとと
いふがことし
【三段目】
しんだ人も
ないのに小つが
はらとハ
これいかに
〇
くわじが
なくても
ほやくと
いふがごとし
ひやざけを
のんでやけ
ざけとハ
これいかに
〇
地しんの
いらぬまへ
からのミつぶれ
るがごとし
いたミも
せぬに
くづればし
とはこれいかに
〇
やけもせぬ
のに
かぢばしといふかごとし
地がさけも
せぬ所を
わり/下水(けすい)とハ
これいかに
〇
大はそん
しても
とく右衛門丁と
いふがことし
大ぜいのたをれ
ものを
しにんとハ
これいかに
〇
/数(す)千人の
御火けしを
御にんずといふがことし
【四段目】
つちいちりも
せぬにとろ
ぼふとハ
これ
いかに
〇
やけバの
てつだいにもあらで
ごまのはいといふがごとし
火をふせぐ
ための
くらを
ぢしんに
つちを
おとすとハ
これいかに
〇
いきている人でも
ぼんくらといふかごとし
いがまぬ
いへを
三かくとハ
これ
いかに
〇
地しんまへに
井戸がにごりても
きよすミ丁といふがことし
りつばにそうぞく
するかねもちのいへを
ずふね家とハ
これいかに
〇
こわれた
土蔵でも
おかめだんごで
いゝくらといふがことし
ゆがミもせぬに
すじかいとハ
これいかに
〇
たをれぬ所も
よこ丁と
いふが
ごとし
一出火口数 三十弐ヶ所
一焼場丁数 四百三十八ヶ所
一破損丁数 弐千〇百ヶ所余
小いたミの丁数所々数しれず
一大崩土蔵数 七万五千八百余
小いたミ土蔵数五万〇九百余
一けが人の数 十六万五千三百人余
一新吉原けが人 弐千九百人余
一/外科医(げかいしや)へ通ふけが人四万0百人余
御救小屋場
浅草かミ鳴門外
幸橋御門外
上野広小路
深川八幡社内
同海辺新田
本所割下水
東ゑい山御支配之分
上野御山下
【上段】
ころは嘉永七寅年十一月
四日朝四ツ時大地震
山の手下町本所深川朝浅
くさ千住品川辺近郷近在
武州ちゝふ辺中にも桜田南
部さま甲斐様丸の内御やしき
久保町飯倉十番芝新錢
座会津様小網町日本橋
辺小川町いなり小じ辺
のやしき此辺ふるい水道はし
小石川辺本郷にて物屋むろ落
けが人あり小名木川迄石かけ
くづれ堀江ねこさね辺つよく
こしいん原大名三間ふるい まれ
なる次第なり諸君の高らんに
そなえるもの也
【上段】
/万歳樂(まんざいらく)の
津ら称
/東西南北(とうざいなんぼく)/四夷八画取(しゐはつくかとり)
/天地乾坤(てんちけんこん)の/其間(そのあいだ)に
/何(いづ)れの/土地(とち)も/動(ゆら)ざらんや
/遠(とふ)のらん国へ/便(たより)にさけ/近(ちか)くは
ゆつて/眼(め)に/泪神無月(なみだかみなしづき)と/□(さいは)ひに
/家(いえ)/落(らく)/堂社(どうしや)をゆりこわし/大地(だいち)が
/裂(さけ)て/此世(このよ)から/奈落(ならく)へ/沈(しづ)むゆびさや
ゝつのん/野宿(のじやく)する/身(み)の/苦(く)/病(やまひ)
五こが/雨降(あめふり)かゝる/涙(なみだ)/砲(ふりがな)/硯(すゞり)の水ぐすに□に
/地震(ぢしん)の/歌(うた)をしかべと/柿(かき)の/素(す)
/袍(すう)や/大太刀(おふだち)を/仮(かり)の/衣物(いしやう)の/成田屋(なりたや)
もどき/法(まつり)/出(いで)たる/其(それがし)は/鹿嶋(かしま)/要(かなめ)石の助
/石□(いしず)といふ神/豊(とみう)/南(なん)/膽(ぐら)/歌(ふた)/臺(いふ)へはい
に/尾鰭(をひれ)はべするのらくら/者(もの)/鯰(なまづ)/坊主(ぼうづ)は
/吉例(きちれい)の/顔見世(かほみせ)/近(ちか)き
十月二日/□(のふ)/是(これ)のらは/般若(ばんじやく)と/踏(ふみ)
/堅(かた)めたるあはふ/皇国(みくに)ゆるがぬ/御代(みよ)の
/万歳楽(まんざいらく)/此(この)/後(のち)さまたげひろざない/筋(すじ)
/骨(ほね)/抜(ぬき)の/蒲焼(かばやき)となして/凡夫(ぼんぶ)/口(くち)ほにり/込(こむ)と等々
納てもふす
安政二卯歳十月日
御府内大地
震施名前附
御救場所
深川海辺新田
同八幡社内
幸橋御門外
上野広小路 御用
浅草雷門前
【一段目】
一金弐百拾■両二分■
白米七石五斗外金一分
丁内へ御褒美銀七枚
外二二枚被下置
深川佐賀丁
久住五左衛門勢州
住宅二月支配人
正兵衛
一金百七十四両ヨ外二
金一分ツゝ丁内江
御褒美銀七枚被下置
深川佐賀丁
近江屋喜右衛門
一金七十一両ヨ外二手拭
五十反丁内りん丁江
御褒美銀三枚七枚被下置
笠二本■ 広岳院
門前衆坊
藤兵衛
一金二拾一両二分外二
白米四十五石三斗
丁内りん丁江
御褒美銀五枚被下置
深川佐賀丁
衆坊勇三郎
一金五十五両銭弐〆
五十八文丁内外
隣丁江
御褒美銀銀二枚被下置
深川北新堀
家持冨之助
一金三十五両三分丁内
出入之もの百七十四人江
御褒美銀二枚被下置
深川佐賀丁
家持清兵衛丹州
住宅二付支配人
忠兵衛
一白米八升ツゞ一人前
居廻り丁々江
浅草三筋丁
関氏
【二段目】
一金三十五両二分丁内
出入之もの百七十五人江
御褒美銀銀二枚被下置
深川佐賀丁
家持安兵衛
阿州住宅二付
支配人
忠助
一金三十二両三分丁内
出入之もの江百八十人
御褒美銀二枚被下置
上野原丁
家持次兵衛阿州
住宅二付支配人
吉兵衛
一米三斗五升一けん前
にしがハ丁江
一同五斗二升一軒前
■■丁江
芝口
御屋敷
一金一分ツゝ出入船頭江
外七日間味噌少々
ツゝ諸人に出ス
深川佐賀丁
■くま
一毎日味噌しる四斗
樽二三荷つゝ
御戸屋江
浅草駒形
内田
一金二朱ツゝ雷神門
御すくい小屋江
一人前ツゝ
浅草仲丁
酒井屋
一二」朱ツゝ御戸屋
一人前ツゝ
浅草仲丁
三喜
【三段目】
一金一分ト玄米一斗ツゝ
但し一軒前二
深川佐賀丁
川村
一金二朱ツゝ
一円一軒前二
新右衛門丁
本惣
一白米五升ツゝ
一人前居廻り丁へ
廿七ヶ丁江
同
川村伝右衛門
一白米五升ツゝ
一人まへ居廻り丁へ
同
南かやば丁
永岡伝兵衛
一金一分ツゝ
れいがん嶋十八ヶ丁江
灵岸嶋
廉じま
十八ヶ丁一人前
一歩熊井一斗五升ツゝ
外二五日の間たき
出し
南新堀
伊坂
一人前
一白米五斗ツゝ
一■■
日本橋万丁
谷口熊五郎
【三段目】
一銭三百文ツゝ
一人前御小屋江
日本橋青物丁
さぬきや久兵衛
一金一分ツゝ
一軒前居廻り丁々
江
神田土手下
紺屋丁某
一軒前二
一金一朱ツゝ
丁内其外へ江
深川佐賀丁
みやもと
一軒前二
一金一分ツゝ
丁内其外江
深川佐賀丁
山屋喜兵衛
一軒前二
一金一朱ツゝ
丁内其外江
深川佐賀丁
池北屋
一軒前二
一金一分ツゝ
丁内其外江
深川佐賀丁
八木勇
一金一分ト
銭二貫
深川佐賀丁
相川丁某
【五段目】
一金一分ツゝ
丁内江
一金二朱ツゝ
寺丁三丁江
深川木場
万和
一白米五升ツゝ
丁内其外江
同北新堀
後藤氏
一金一朱銭百文ツゝ
丁内其外江
同
北むら
一金一朱ト同百文ツゝ
丁内其外江
同
長崎屋
一金一朱ト白米一升
丁内其外江
灵岸しま
丸屋
一金二朱ツゝ丁内江
一金一朱ツゝ芝井丁江
芝露月丁
きね屋
一金二朱ツゝ丁内
一金一朱ツゝ芝井丁江
同
さかい屋
一雷門御すくい小や入の
人々に焚さかやき
施し
馬道かミゆひ
平五郎
【図中の地名等】
二軒茶や
まちや
東
本町はし
の人はし
東あり
安堂寺はし
御番所
東御堂
よこほり
店
いなり
火元 馬喰町
【上の資料・コマ33下資料とほぼ同じ】
改政 御町法火之元念代記 不許売買
古今大火年数略
○明暦三本妙寺 百九十六年
○明和九行人坂 八十一年
○文化三高輪 四十六年
○文政十二佐久間町 二十四年
○天保五同一丁目 十九年
○弘化三丸山 七年
○嘉永三麹町 三年
場群星めくりやうの事
大風のせつは
通壱丁目
よりうちは
じめ室町
よつ打出し
東西南北
にふれると
しるへし
人間一大事火之元大せつに守本尊
ざいかたには 丑 ねづみあなの
子 へんぴあん音 寅 古土(こと)蔵ぼさつ
火事さたなし つくろひ肝心
かなまじりの扣は 辰 町入用は
卯 文字ぼさつ 巳 分限ぼさつ
わかりのよい 地主方の
きびしき 未 おこたりなく
午 政事ぼさつ 申 毎日如来
おかみの おふれを守る
用水道ぐの 戌 火のばんもかねる
酉 不同明王 亥 橋番大ほさつ
かざりつけは かみゆひどこは
○自しん番のうた ○かましいを知る哥
くはやもりちうやのばんに ふくからに水ととそうの
六ツ□り拍子木なれは つちこねて地ぬし□とぞ
かぜとしるべし 御入ようあれ
【上の資料の下段・マスを縦に読む】
拍子 木性
[政治] 十月一日 書写山の 文段上人 火の元いんの げんぢうとなる
(二) 冬より 春に いたつて 鈴むしなく
[厳重] 大通室町 御所に しんせきたつ
用心 火性
(二) 拍子木の あいづ はじまる
[用心] 一夜のうちに 八百八丁へ 四斗たる の山を生うず
(二) 用水あふれ 出て 往来 うみの ことし
戸前 土性
[風列] 木ぼりの龍 口より 水をふく
(二) 店はん国 より みずてつほう わたる
(三) せんとう 水ふねを すてゝ ゆどの山に御幸
入用 金性
[定番] 生得大酒 大ヤ山 日行じ にてかい帳
(二) 水ばんといふ 札のきに あらはるゝ
(三) やもりと 松むし つながり いづる
龍越 水性
[安心] 四月一日ちうやの ばんひけ て大風の ふきたる跡のことし
(二) 人々あんとして さけのむ 如来あんちす
(全) 四海太平 にして 諸人万歳 をうたふ
【上の資料・挿絵内】
日本橋前後合図
火事なきは あけくれ かまど きを
つけて 火はちに こたつ ちうや 見まはれ
【下の資料】
除火災之法
三日朝四ツ半時より九ツ半時
まての内上吉
当十一月 四日昼九ツ半時より八ツ半時
迄の内大吉
右二日の内に辰の方より清浄の
水を汲置六日の晩(ばん)四ツ半時より
九ツ半迄の内居宅の辰の方より
龍虎車(りうこし)の類にて汲置候水を
屋根へ打初夫より諸建物へ
不残打可申候事是八門 遁甲(とんこう)
の秘要(ひよう)にして右の方角時刻
無相違致し候へば其屋根一代の
うち火災決而無之事に候
火の元の儀は大切の事に付古来より追々町 触(ふれ)申渡も有之
平日迚も格別に心付候は勿論別て大風の節は猶更 厳重(げんぢう)に
可心付儀 緊要(きんやう)の義に付月番の奉行所より相触次第風
相止候迄其 諸職(しよしよく)諸売買相休他出不致 最早(もはや)他行致候はゝ
早々立帰り火の元を一 途(づ)に相守火の番行事共え家主共
壱両人加り町 抱(かゝへ)人足召連 不絶(たへず)町内を見廻り心付候様可
致尤右触出し無之候共 風烈(ふうれつ)には空(そら)の色変(いろかはり)候程の儀に候はゝ
一同右同様相心得可申且出火之節の心得并火の元心得方
の儀は條目書附を以触出し候間木戸番屋表店は家毎裏
家の分は路次口(ろじくち)へ張置(はりおき)精々厚(せい〴〵あつく)相心得 無油断(ゆだんなく)相守可申旨
文政十三寅年触置候処 程経(ほどへ)候に付心得方相 弛(ゆる)み等閑(なほざり)の町も有
之哉に相聞不埒の至に候尤大風の節月番の奉行所より触出し候
とはいへ共市中 広場(ひろば)の儀町役人共心得方に寄 自然(しぜん)程経遅引(ちいん)
致し急速(きうそく)ニ甚難行届哉に付自今以後風烈の節南は通壱
町目北は室町壱町目自身番まで奉行所より役人差出火の元心付
の拍子木(ひやうしぎ)を為打候間隣町 最寄(もより)の町々共追々打 続(つゞ)き麹
町赤坂市ケ谷辺其外武家屋敷 寺院(じいん)等をへだて候町々は打継
末々の町より申通し候様相 図(づ)を以為知合右為知之拍子木を承(うけたまは)り候
はゝ前書触面の通相心得厳重に火の元相守可申候是迄の火の
番行事の外 借家(しやくや)店借(たなかり)の者共五人三人つゝ組合を極(きは)め組合の
内相互に心付相少しも油断致間敷候依之去る寅年の條目へ
追加(ついが)致猶又触 示(しめし)候間 無違失(いしつなく)厳重に心付候様可致此以後申
渡しを等閑に相心得大風又は風烈なとの節右等閑より
事 起(おこ)り出火いたし候はゝ其 始末(しまつ)に寄火元当人は罪科(ざいくは)に行(おこな)ひ町
役人共迄も重咎(おもきとがに)可申付候
右之通従町 御奉行所被 仰渡候間町中不残様入念早々可相触候
嘉永五子年正月
爰二百九十九年明暦三年正月十八日十九日のことなるが本郷丸山本妙寺ゟ出火して
をりしも西北の風つよく湯しま浅くさ馬道小石川三ヶ所ゟ同時二もへあがり大火と相なり
四ッ谷かうじ丁あざふ下丁共二十三日二なります〳〵風はげしく火につゝまれけむりにまかれ
死するものかずしれず十八日十九日とやけ市中二ハのこる/家(いへ)すくなく四り四方/野(の)はらと
なり江戸はじめての大火なれば人々あハてまどひ老若男女上下のしゃべつなくこんざつして
ふミころされやけしにめもあてられぬありさまなりかゝる大火のことゆへ/諸(しよ)御大名様御しろへ
つめられける此時松平/陸奥(むつ)守様ハ江戸四方の入口品川口へハ人数千人き馬廿人四谷口へ人数
五百人き馬廿人/板橋(いたばし)口へ人数五百人き馬十人千/住(じう)口へハ右同断をの〳〵はた馬印かつちうをちや
くしえものをたづさへかためられたりかゝる大火に十万八千人焼死たる其なきがらすて所なく
/本所牛島新(ほんしようししましん)でんのぬまへうづめ/其上(そのうへ)へ/一宇(いちう)ざうりにして/諸宗山回向院無縁寺(しよしざんゑかうゐんむえんじ)とハなづけられ
たりのちに/芝増(しばぞう)上寺のばつとなり/豊国山(はうこくざん)回向院/無量寺(むりやうじ)と/改号(かいごう)せられしと也/元禄(げんろく)六年
十万八千人焼死人のためしなのゝ国/善光寺如来(ぜんくわうじによらい)日/数(かず)六十日/本堂(ほんどう)におゐてくやうあり
これ/開帳(かいちやう)のはじめ也「万治元」日本ばしかゝる同二年両ごくばしかゝる/安永(あんえい)元二月
廿九日大南の風つよく目/黒行(ぐろぎぎうやう)人坂ゟ出火してその火八方へ/吹(ふき)ちり大火となり/千住(せんじゆ)かもん
/宿(しゆく)まで焼よく/日(じつ)西北にて/浅(あさ)くさへかへりし時馬道へんの焼るころ/観(くわん)をん/堂(だう)へハ火のこも
きたらずさバかりの大火をのがれしこと/実(じつ)にきなることにハあらざるや明暦三正月十八日
十九日馬道ゟ出火しずい/神門(じんもん)の焼たる時あめふりくわんをん堂へつ/条(でう)なしといへり又
浅くさ道ゟ/堺(さかい)町松しま丁廿九日に焼のこりたるば所焼かへりたるもめづらしき大火なり
焼死人/多(おゝ)き中にも/芝(しば)西の/久保神谷(くぼかミや)丁のものなるよし年のころ廿七八とおぼしき女/当(たう)
才と三四才の子両のわきの下へかゝへ天徳寺のはか所の地上をほり子供もおのれも
そのあなへかほをおし入しにいたりしる人これを見つけそのおハとにしらせ引取はうむる
女ながらもかくごよくしにてもかほやけたゞれなるものなりといふことしれずかほ
さへ焼ずバ/犬(いぬ)じににもなるまじと/早速(さそく)の/工夫地上(くふうちじやう)をほりかほを/土(つち)にうづめたるハ
げにあハれなることなりやけし人八千五百人ハ八十四年「天和二同三元禄」
「十六」極月廿九日「享保二」正月廿一日同九年三月芝口御門焼る「延享三」
二月晦日「宝暦十」二月六日「安永元」二月廿九日「天明六」正月「寛政四」
七月廿一日/麻布(あさぶ)かうがいばしゟ小石川に十人町まで六十四年同六年正月
十日市ヶ谷ゟ芝増上寺黒門まで六十二年「文化三」三月四日高なわゟ
あさくさしんぼりまでやけ死人五百三十人五十年「文政十二」三月二十七年
「天保五」二月七日九月十日廿二年「弘化三」正月廿四日青山ゟ高なハ迄焼死
人三百八十四人十年「安政元」十二月廿八日神田多町辺ゟ出火して日本橋迄焼
【上の資料】
夫人として
孝なきは人に
あらず江戸
出火ときかは
遠国他国の
親兄弟いか斗あんし
たらんやはやくもその
親たちにしらせてあんしん
させへきこと也頃は嘉永五
子年正月四日朝五ツ半
ころより両国米沢丁
辺より出火致し同新道
両かは同うら通りやけん
堀此所三番組消夫より
よこ道丁三丁め南かは
同新道表通り角二番
組けしとめはくろ町
四丁目やける此所火松平
丹波守様御組御□□
此時よう〳〵火
しつまり人〳〵
安堵思をなせしは
其□□夕七ツ
半時なり
【下の資料】
頃は嘉永五年□【十一?】月
十九日夜九ツ時丼いけ
すじ南久宝寺町
三丁目より出火して
折しも西風はげ
しく心さい橋筋へ
やけ出せんだんの木
すし久太郎町金や
丁中ばしすじ
なにはばし筋堺
すばかぢやばし
すじ夫より久宝
寺ばしわきにて
翌廿日九ツ時やう
〳〵にして鎮火い
たし諸人あんど
の思ひをなすなり
尤東西ともに
本願寺はやけ
のこるなり
【下の資料・左下欄外】
平野町筋淀屋橋西へ入 金井屋安兵衛板
【上の資料】
大坂上町出火 頃は十一月廿九日未之下刻西北
角より西風強く船越町出火致し骨屋町北革
屋町つり
がね町南
かわやけ
る南にて
平の町筋
北かわ焼
同様亥之
刻しづま
り人とあん
とのおもへ□
なし
【地図は南が上になっている】
【下の資料】
口上
町々御機嫌克 昼夜(ちうや)無御 草臥(くたびれ)被成御廻り提(てう)
灯(ちん)に奉存候随而私義此度別 製司(せいじ)工風仕小金餅
は施行糖(せぎやうとう)龍(りう)こしやお釜(かま)おこし鳶(とび)のらくがん
仕込入念精々相廻り申候間 金棒(かなぼう)じやら〳〵敷
御風町の程奉希上候以上
【お品書き札風】
龍こしやお釜おこし 《割書:目ざ|まし》鉄棒おこし
鳶のらくがん 水の手店子もち
入用かさくみもち 地主なんじう
金持あんしん落雁 割竹甘処とう
夏をまつ風 見張恵の月
右之外番屋御進物もの風烈御火なし家主居り詰両町橋詰等
御座候間御用被仰付可被下候
御製司 太平糖 浪華やき
右之品別而御評判高く御座候
【のれん】極製 夜中ひるこ
諸町通一丁目角
江戸 御火事製司所 風烈堂
水越播磨大掾
十月一日似世びらき当日より麁粥さし上申候
【上文】
頃は天保九年戌四月十七日南風はげしく
日本橋本舟町ゟ出火して此辺一面より
伊勢町二軒残るむ室町三町安針丁小田原丁
瀬戸物町両替町さや町釘店ゟ駿河町
ふな丁雉子町新白銀町此辺一面なり
《割書:本町四丁め角|泊り【四角】丸十》《割書:石町四丁め|泊り》《割書:本白銀丁|四丁め泊り》《割書:そ川すじ|本ぬり物丁》
《割書:かぢ町|丁め二丁め》《割書:鍋町西河|泊り》《割書:紺屋町二丁め|泊り中の橋落る》白壁町
《割書:まん中残る|【四角】一番組》松田町冨山町一丁め泊り
《割書:小柳町中程|泊り【四角】八ばん組》《割書:西神田| 長冨町四丁大工町一丁》
《割書:深川町三丁|りうかん丁》《割書:たて|大工町》鎗■町《割書:三川町四丁|酒井《割書:様にて|事》泊り》
《割書:川井新石町|四丁》新川屋町本ぬりもの町
柄木町《割書:丹波清兵衛様|津田様半分泊る》連雀町山本様泊り
《割書:四軒町|近藤城部様にて泊り》《割書:小川町|土岐様水野様》
【下文】
小川町
《割書:本田伊予守様|泊り》山田作兵衞様本多ぶ前守様
土屋兵部様五嶋様平岡様松平留吉様
大沢様遠藤対馬守様石川様御馬屋半分残る
金森山城守様《割書:いかふり|前田様》白須様高木様
にな川様北村様本所様わしのす様新庄様
倉橋様長谷川様戸田長門守様榊原様
戸田加々守様大岡弥衛門さま前田采女様
内藤大和守様大久保小八郎様《割書:〇火けし| 〇火のミのこる》
山本様板倉伊予守様松平い前守様より
本郷丹後守様半分筑後守様
にて泊る
同日
市ヶ谷柳町ゟ出火
入口
□光寺 横手 久貝因幡守様にて泊り申候
町家不残浄栄寺 長厳寺光徳寺
如都左つ様《割書:髪結どこから|のこり 【四角】六ばん組》柳町より
尾張様と山□屋敷□□□□なり
夫人として孝なきは人にあらず江戸大火
と聞ては国々親兄弟のなけきいか斗り
ぞや͡是一時も早く安否をつげしらせあん
とさせへき事第一なり頃は天保十四年
十二月廿七日夜八ツ時頃西北の風はげしく
かぢばし辺より出火いたし五郎兵へ丁たゝみ丁たちうり
弓丁新肴丁弥左衛門丁こんや丁不残すきや丁
山下丁南なへ丁瀧山丁森山丁惣十郎丁内山丁
山王丁さへぎ丁かゞ丁八官丁より合丁山城丁
つくば丁佐兵へ丁丸や丁土橋にて留る又一口は竹丁
すみ丁ぐそく丁金六丁水谷丁南八丁堀あさり
かしにて留飛火木挽丁松村丁堀田様
新庄様伊達様 様半分板倉様半分
焼る一口は京橋銀座不残尾張丁竹川丁いづ
も丁新橋にて焼留る尻火にて南かぢ丁片
かは南伝馬丁鈴木丁いなば丁ときは丁柳丁にて留る
【上段】
夫人として考なきは人にあらず江戸大火
と聞くは国々親兄弟のなけきいか計り
そや是一時も早く安否をつげしらせあん
と■せへき事第一なり
頃は弘化二年巳正月十四日ひる九つ半
時頃西北風はけしく青山三すじ辺丁ゟ
出火して五十人丁御手大工丁ごんた原
青山御やしき六道の御組やしき
御はた本様多やけ夫より宮様御門
向御組やしき是ゟ麻布露土丁
谷出羽守様鍋嶋津守様此辺のこらづ
麻布百姓丁桜田丁新丁二本提い
もあらい坂日けくぼ小笠【小笠原?】様色利【毛利?】様
此辺のこらず夫より六本木京極様
【下段】
戸川様戸田様長坂下丁家残ら
づ麻布十番三田新ぼりわたより
松平中つの【中務少輔?】様ほしな様織田様
津嶋様松平加賀守様下やしき
黒田様半やけ留是より三田
三丁目のこらづ夫より三田みろく
田丁二丁目留一口は古川ゟ台丁細川
越中守様中やしきいさゝこ台丁
白根台丁夫よりしりび三田丁
三丁目ゟ九丁目まで夫より車丁
二本板高なわ台丁泉角寺【泉岳寺?】門前
高なは通りさつま様にてとまり
己正月廿四日北風はけしく空ゆく雲の
あし早く地ハいさごを中天にふき上ヶあいろも
わからぬ折からひる九ッ半時ころあを山六どう
へんゟ出火いたし高なハ迄やける横得五丁又十二三丁
あるいハ三十丁たて一り半ほど此やけハらにさんきうの
人々御たすけの御小屋をかけ日どう々に
食じを下しをかれ候儀
ありかたきこと
申上るも
をそれあり
【上段文】
頃は弘化二年巳の三月七日明七ツ半時
すぎころより西北の大ならい風はけしき
おりから神田柳原土手下へんんより出火
してあわておどろき老若男女荷物諸
道具等持出し左右にみち〳〵さんらんしてそ
れよりとみまつ丁久右衛門丁代地豊嶋丁一丁目
二丁目三丁目は少々のこり大和丁代地佐久間丁四
丁目代地少々白川丁元岩井丁橋本丁四丁
附木丁馬喰町馬場町二丁目壱丁目横山丁
壱丁目中より片かわしほ丁片かわ又西は岩元丁
大和丁同宇屋敷九けん丁又は小伝馬丁三丁
同上八丁亀井丁一口は鉄ほう丁大伝馬丁壱丁
目新道より二丁目通はたご丁大丸屋大店
やける同新道あふら丁元濱丁新道少々
田所杉の森稲荷新材木丁長谷川丁三光
新道風かわり此所にて留る人々あんと思ひをなす事しかり
【下段地名等】
焼原方角附
柳原どて
豊嶋丁通り
江川町通り
としま町 二 三
とお橋丁
九けん丁
大和丁
元岩
橋本丁 同二
久右衛門丁通 馬々
かし
上は丁 てやしき 同 うら
かめい丁
おすは しん道
付木店 うら
しんみち
鉄ほう丁
小伝馬 同二 同三
馬喰丁 同二
大しん道 同二 同三 あふらみちしん丁
大伝丁一 二 はたご丁 道あふら丁 しほ丁 横山一
人形丁道
ほりどめ二 しんみち
新材木丁
のりもの丁
田所丁
いずみ丁
長谷川丁
三にはしん道
【上段】
おりから青山鼠穴より出火して権田原六道のづち三筋町こ〃
か町御組やき南かはのこるおすきや丁くり原様五十人町不残
おそうじ町おかじ町川村様富まつ丁よこ山様下やしきおかた様
御手大工丁青山下野守様中やき半分ほとかり丁通り組やしき六間
丁庄田様朝ひな様一尾様朝川様大膳様組やき井上様山名様
浅井元東様なべしま様うしろ通りあざぶりう土町へ飛火して
こうせん寺此のかたかわいもあらゐ坂上の御組やしき九分通やける
教前寺門前丁六本木通り日かくぼ町毛利様京極様戸川様戸田様
小笠原様加見様長堀大木市左衛門様松平傳一郎様長坂町谷町
やふ下町のしば十ばん町引紙丁まきがし向通り小山黒田様半分芝南
新門前代地自しんばんにて此所焼とまる又一口はあさぶりうど谷町京雲寺御
組屋敷百姓町桜田町稲荷宮明谷寺法雲寺車称寺其外町々
正光院一本松辺秋月様なんぶ様とう山様木下様むかふ町堀田様ほしな様
天光寺あら木様土屋様善福寺門前町そうしき町此辺御屋敷不残焼
仙台坂町残古川通り青木様古川町大俵様直井様木村様田嶋町かし□
魚らん下町通り同まへ通り大信寺三田小山台丁いさらご台町細川様
南おもて残るまへ町通りおゝた原臺町二本ゑの木町とくほ寺幸□□寺此外
寺々多く焼失井伊様大和様有馬様大久保様さる町大崎か藤様にてとまる
又一口は三田小山おゝ塚島津御門のこるまなべばしやける土屋様やける寺町半分
ひじり坂三田二丁目止る通新町同明丁札之田町二丁目より九丁目まで
■■れ松平あは様細川様松平左衛門久るしま様七軒一口伊四子ゟ白銀通り
清正公やける高野寺にて留る牛町ゟせんかく寺大ほとけのこる高輪
さつま様手前にて留る夜四つ半時頃火しつまり人々あんとの思ひ
なしけるところ よく廿五日昼頃又〻鼠兄穴稲荷前御組少々焼る
【全く自信無し】
【下段】
頃は弘化二巳の三月廿六日明け七ツ半時西北風はげしく神田としま町辺ゟ
出火一ニ三丁目冨松丁江川丁橋本丁四ケ町ばくろ丁壱二三丁目よこ丁表がは
【白抜】南組五くみ 人足四百七十人 【白抜】中組六くみ十番六くみ 一手二成二十ニ組弐千四百四人夫より横山丁通り
しほ丁片かは 【白抜】北組五くみ 三百五十九人ぐん代やしき残る 【白抜】十番六くみ 八番六くみ 九百十九人としま丁一丁め
これゟ大和丁代地弁けい橋元岩井丁 【白抜】五番九くみ 六番六組 合十五組かゝる新土手下岩本丁
とんや丁三丁目 【白抜】よ組 七百廿人是ゟ北風つよく元柳原丁中ほど 【白抜】八番四くみ 九番四くみ 合て千
五百五十五人亀井丁附木店ゟとび火して通油丁はたご丁大丸焼る同新道田所丁人
形丁長谷川丁 【白抜】一番五くみ 人足二千二百四十六人片かは 【白抜】中組六くみ北組五くみ 六百十一人又一口は元濱丁
角 【白抜】十番六くみ 九百三十人新和泉丁新道三光いなり焼る中ほど 【白抜】三番五くみ 四百二十九人
人形丁新道角 【白抜】け組 百十一人一口は小でんま上町小でんま丁らうやしきは火の中とて残る
大門通り大でんま丁二丁目まで大でんま塩丁中ほど 【白抜】五番九くみ 千九百七十人鉄ほう丁
おもて通り 【白抜】二番七くみ 千三百七十二人これゟ風はげしく大でんま丁新道
より焼出す 【白抜】一番五くみ二番七くみ三番五くみ 一手に三千八百九人ほりどめ丁
西角 【白抜】三番七くみ 千百七十一人 【白抜】五番九くみ 千二百五十七人これより新ざい木丁
新のりもの丁庄助やしき杉のもりいなりやける新ざいもく丁中ほど
【白抜】二番七くみ 千三百七十二人かかるひる四ツ半時火しづまりぬ
壱人前に白米三升銭二百文つゝ下さるゝ
御小屋
芝赤羽根河岸通り
五つ棟
間口六軒
奥行五十四間類焼人数
正月廿四日類焼人数
《割書:男|女》六万四千三百八十五人
御すくひ《割書:米 三升|銭百文つゝ》
米高 三斗俵に直し
六千四百三十八俵壱斗五升
錢壱両二六〆五百文
金に
〆千九百七十一両
壱〆五百文
【高札】
覺
/類焼(るいしやう)にて/窮民(きうみん)
御/小屋(こや)/入(いり)/相(あい)/願(ねがい)候/者(もの)は
/居町(ゐまち)/町(ちやう)/役人(やくにん)江/届(とどけ)二
およばず/直(じき)に/当所(とうしよ)江
/願出(ながひいづ)べきもの也
/但(ただし)
/御小屋(おんこや)/入(いり)/之(の)/者(もの)/日(ひく)々
/御賄(おんまかない)被/下(くだされ)可/稼方(かせぎべくかた)は
/勝手次第(かつてしだい)/当人(とうにん)江ハ
/元手(もとで)/錢(せん)被/下(くたされ)候事
【上の資料】
頃は安政五午年二月十日夜五ッ時過日本
はしあんしん丁辺より出火して折しも西北
風はげしく本小田原丁一二丁めせと物丁
かたかはいせ丁かし半分むろ町一二丁め□
東かは少しのこる本ふな丁納や共一【ゑん】
日本ばし江戸ばしのこる
通り一丁目木戸きは少々のこる
万丁青もの丁音は丁さるい
丁小まつ丁平まつ丁川せ
石丁南油丁のこらす新右【衛】
門丁少々のこる榑正丁
少しのこりかいそく橋
やけ落る牧の
さまのこる坂本
丁うらおもて
かやば丁代
官やしき▲
▼八丁ほり
九きさま
細川さま
越中さま
のこる神田
代地半分
やける地
そうばし
へん一ゑん
中与力丁は
のこるかめ嶋
【以降次ページコマ60へ続くか】
【下の資料】
頃は安政五年二月十日夜
五ッ時ころより日本ばし
あんじん丁へんより出火いたし
おりしも西北風はげしく
いせ丁ながはま丁小田原丁
せともの丁南かはやけとまり
むろ町壱丁目二丁目東かは
やける夫より本舟丁より南の方は
四日市町北かは六七けんのこる
江戸はしくらやしきのこらずやける
おきないなり社やける青物丁
よろづ丁小松丁おとわ丁南油丁
左内丁新右衛門丁本材木丁壱丁目より
【以降次ページコマ60へ続くか】
【上の資料・前ページコマ59から続きか】
のこらずれい
がんしま丁川
口丁ながさき丁
しろかね丁三丁
東みなと丁
上下のこらず
ゑちせんさま残る
しん川南がは少々
やける又一口は岡さき丁磯辺
大じん宮さま高輪代ち
本八丁ぼり一ゑん中
のはしおちる南八丁
ほり二丁目少々三五丁
め堀さまかもんさまのこる
あはさまのこらず堀田さま
半やけてつぽうずいなり
のこる本みなと丁ふな
まつ丁細川さま十けん丁
少し飛火にて佃じま半分
やけ翌十一日昼四ツ半時やう〳〵
火しづまり人々あんとなす遠
こくのしんるいへはやくしらせてあんと
なさしむることかんようなれば其便りをこゝにあらわす也
【下の資料・前ページコマ59から続きか】
四丁目迄しんさかなばのこらずくれまさ丁にて
とまる又一口は坂本丁かいそくばしやけおちる
牧【「野」抜】様は無事かやば丁うらおもてのこらすやくし
堂山王御やしろ地内のこらず代官やしきのこらず
九鬼様細川様のこる松平越中守様半やけ
北しま丁かじ丁地蔵はしへん火の見やぐらのこる
大通りへん御組やしき亀島丁日比谷丁かし与作
やしき本八丁ぼりへん亀島はしのこるれいがんじま
川口丁長さき丁みなと丁ゑちぜんぼり南新川
霊岸島丁てつぽうずいなりやしろのこるみなと
丁へん十けん丁細川様御やしき松平阿波守様御やしき
此へんのこらず南八丁ぼりへん夫よりつくだしまへうつり
住吉社りうし丁のこらず石川島のこる翌四ツとき
よふ〳〵火しづまり人々あんどのおもひをなす
遠国の人々に早くし□□□□□□彫(ほり)おこすなり
頃ハ弘化三丙午
正月十五日八ッ
時頃本郷丸山
辺ゟ出火致シ
菊坂辺阿部様
下屋敷本郷通り
加賀様少々焼湯嶋六ヶ
町御茶水聖堂焼ル神田
明神残ル外神田旅籠町
仲町辺佐久間町一丁目にて
留ル昌平橋焼落駿河台へ
飛火致シ御籏本様多ク焼ル
筋違門伊賀様土井様左衛門
尉様小川町稲葉様神田橋
通本多豊前守様其外御籏
本様多ク焼ル内神田三河町辺
大工町辺多町辺須田町通り
本神田小柳町白かべ町お玉ヶ
池此辺不残新石町なべ町かぢ町紺屋町
新土手下のり物町今川橋通り本銀町通り
本石町通り小伝馬町壱丁目二而留ル牢屋敷
残ル本町通り大伝馬町弐丁目二而留ル宝町通り
日本橋焼落瀬戸物町駿河町両かへ町品川
町魚かし此辺平一面二なり江戸橋荒布橋焼
おち小舟町丁堀留堀江丁親父橋焼おちふき
や丁よし丁大坂丁辺とうかん堀安藤様下やしき
尾張様蔵屋敷小網丁通り箱崎土井様久世
様伊豆様北新ぼりみなと橋焼おち御舟手
組屋敷二而留ル南北新川はま丁大川ばた辺
其外れいがん嶋十八ヶ丁焼ル越前様むかひ
将監様組屋敷二而留ル高橋亀嶋橋やけ
おちかやば丁薬師八丁ぼり残らず九鬼様
越中様細川様下やしき焼海賊橋しんば橋松屋橋弾正ばし
中の橋いなり橋ミな焼おちる本八丁堀通り南八丁堀通り本多様
堀くら様かもん様下やしき遠江様少々阿波様下やしき鉄炮洲稲荷焼
湊丁船松丁十けん丁細川のとの守様松平長門守様二而留ㇽ佃嶋へ飛火して焼ㇽ
又一口ハ四日市青物丁辺左内丁小松丁しんば肴かし通リ本材木丁八丁目迄
日本橋通りハ壱丁目ゟ南伝寺丁三丁目まで八丁両かわ焼両中通りハ
両河岸よりたゝみ丁迄東がわ焼ㇽ西がわ残ㇽ京橋きわまでやける
よく十六日九ッ時すミ丁竹丁がしにてやう〳〵しづまり人々あんどの思ひをなす
【右下】
御大名様上中下御屋敷数三十五ヶ所
御旗本御屋敷九十軒余
町数三百六十ヶ町余
橋数弐十所
本郷丸山より鉄炮洲迄
道法凡壱里十六丁余
神田佐久間町
江戸橋四日市
八丁堀松屋丁
右三ヶ所江窮■御
救小屋取立候■類
焼困窮成者ハ勝
手次第御小屋入
可願出もの也
正月十七日
16
【上段】
京都出火ほ方角附
比ハ弘化三午年閏五月十九日夜酉ノ刻比
大北風はげしくあるゐハ東風を吹まぜ
そら一面にかきくもりすなをまきあけ
つちけむりを吹たて何となくものすごきおり
からばんま半しやう時の声人馬の足おとをび
たゝしくこハ何事やらんと人々おとろきたち出
見れバ寺町道りにしきこうじへんより出火
して風はげしけれハたちまち大火となり
あたかも天をこがすがごとく老若男女
親にわかれ子にわかれ諸道具等をもち出シ
四方にみち〳〵さんらんすさてそれより
ぎおんたび両町此へん不残西ハ寺町より
東がわまで焼比ハ錦こうじ両かわともやけ南
ハ四条道りあやのこうじ両かわ不残焼同二十日
午ノ刻烏丸にてやけとまることしかり
【下段】
夫人として孝なきハ人にあらす大坂大火
聞て親兄弟なけきあんつる事いか斗一時も早
くしらせんかため頃ハ弘化三丙午ノ年十一月二日子ノ
中刻ゟ西南風はけしく高砂廉橋辺ゟ出火
して仙波辺安土丁順慶町久太郎町
久宝寺町南本丁又一口ハ北ハ出納天満前
よりてん神裏門通り迄岩井町此内少々焼
残る南錦嶋広小路辺まで夫ゟいよ〳〵風
はけしく一口ハ堂嶋永木町松山船大工町
曽根崎まて焼る南新町車屋町かめ山丁
谷丁石丁京はし焼残る天満焼落る也
名メ丁残焼る久宝丁橋未吉橋焼落る也
材木丁和泉丁今橋辺あハじ丁道じ丁
此辺のこらす焼るなにハはしにてとまる
西本願寺とものこる也翌三日丑刻にてしつまる
よく〳〵人々安諸の思ひなしにけり是を
きくにつけ火之用心第一大切二いたすへき事
独案内(ひとりあんない)
仁義礼智忠信孝挺悌の八ッ者
しばしもわするへからずわけて孝行ハ
善道のつかさ也夫人として孝なきハ人に
あらず江戸おもて出火ときゝくに〳〵
在々親兄弟へさつそくつげしらせべき
を第一也時に嘉永二酉八月廿四日夜
九時内神田弁けいばしゟ出火して同所
よこ通のこらず松しだ丁小いずミ丁
久右衛門丁四丁目代地やまと丁岩井丁
上納地やける北がハのこる也同所どういふ
やしきかど此辺所々一番二ばん五ばん八番
消留元柳原十六丁目十番組消留元岩
井丁かめい丁北側のこる南方五番ふか川組二て
けし留小でんま丁一丁目二丁目三丁目木戸際二而
一番六番消留油丁通り東がハのこる西がハ一ばん
五番□組二て消留はたご丁西がハやける東がハ大丸のこる
□□番消ほり留焼田所丁西がハ焼東がハのこる六番
本所組二而新大坂丁東側弥兵衛丁住よし丁のこる大さか丁にしがハ
やける銀座のこるやしき前通一番二番八番組二て消留夫より
甚左衛門丁両かハやける牧野河内守様御中やしきけし留小網丁
壱丁目よこ丁きど際二番組けし留貝じやくし店迄焼也又一口ハ
らうやしきのこるうら門通やくし堂まへ小傳馬丁中程一番組
二番組九番組消留大でんま丁二丁目木戸ぎハ一番二番二而消留また
一口者人形丁通り杉のもり新道同所いなりの社やける乗物丁
新材木丁はせ川丁西かハやける木戸際こま組消留る三ばん
じう番九番消留三ばんなりのこる庄助やしきさかい丁
ふね丁ミよし丁やけるいなりしるこのこるがく道新ちやける
ふきや丁川岸通り一ばん組二番ぐミ二て消とめるおやぢばし
へんのこる廿四日の夜ゟ廿五日の五ッ半すぎまで凡六時の
間に百万の屋舎まで火灰と成り七珍万宝一へんの
烟
煙と変ずるなれともおそるへきハ火也またなくて
かなハざる物なれバ朝夕心がけ氣を付べしいさゝかのことより
大火事となる心ゆだんすべからず火の用心
火の用心
【上段】
頃は嘉永三戌二月五日ひる四つとき糀町五丁目辺より
出火いたし折しも西風はげしくして呉服店岩城升屋
焼る通は壱丁目迄両かは不残山本町壱弐三隼町一二
平川町壱二三天神焼る貝坂此へん不残明石様三宅
様京極様御中やしき奥田様浅倉様御火消屋敷
赤松様深津様池田様石丸与田様田村様渡辺様
柴田様竹之内様日下様横山様石川様奥山様大村
様勝田様細川備前守様御中屋しき鳥居
様半分焼る有馬丹波守様御中屋しき
松平備前守様御上屋しき九鬼様永井
遠江守様御中屋敷本多豊後守様永
田様大久保様安芸様御中やしき後藤様
松平大膳之輔様岡野様夏目様三浦様
壱
【下段】
井伊かもんの頭様御上屋しき黒田美濃守様
松平伯耆守様御上やしき内藤能登守様
焼る是よりとび火して虎の御門そと御勘定
久須美さどの守様京極様御上やしき【太鼓か小槌の図】いなば
様木の下様さがら様高野様冨永様此へん
小屋敷方のこらす浜のさま久寿木【朽木】周防守さま
青山下野守様御下やしき半分西之久保しん
下谷町天徳寺門前町天徳寺にて焼どまる
又一口は桜田備ぜん町泉町毛利様一柳さま
井上河内守様堀田様大久保様阿部様御中
屋しき田村佐京大夫様秋田様加藤様
ひぢかた様よねきづ越中守様御中やしき
木下様毛利様御上屋敷大嶋様仙台様
弐
【上段】
御中屋敷松平佐京様井上様戸田様松平
丹羽守様御上屋敷土岐様牧野様あたご山
表門通り不残片桐様松平おきの守様御上屋
敷池田様赤木様藤かりゑ【藤掛?】様本多様倉橋
様柳生様御上屋敷植村様御上屋敷仙台様
御中屋敷有馬光丸様稲葉様三谷様是より
芝宇田川町焼出し柴井町しり火にて
少々焼る新銭坐神尾内記様森越中守様
御上屋敷関但馬守様御上屋敷新網町のこらず
大久保加賀守様御上屋敷また一口は三嶋町神明町
神明宮焼る大門中門前濱松町一二三四金杉
壱二三四不残田町にて夜の四ツ半時やう〳〵火
しづまり諸人あんどのおもひをなす也
三
【下段】
焼場方角
嘉永三戌年二月廿一日夜
七ツ時芝森元町ゟ出火
致し折しも南風烈敷
此辺御組屋敷町家横
立一めんに相成飯倉通り
焼おし熊野ごんけん
社やけるそれゟ
辻迄焼け也
御大名様御人足ニ而
消留ル
いろは組町火消
はたらきけし
留ル也
【図中表記 左上から】
黒きは残る
白きは焼ル
ヤシキ
御組ヤシキ
戸沢様御屋敷
三番組消口 ヤシキ
村井 沢尾
町家
森元町 ヤシキ
五番組消口
ふる川
三番組消口
しんこういん
赤ばね
赤羽根橋
黒門
六丁目
五丁目
四丁目
三丁目
二丁目
一丁目
小出権之助様
町家
二番組消口
ぜんてうじ
一番組かさ消口
二番組
五番組
三番組
消口
松平には守消口
るり光寺
増上寺御山内
竹仲
熊野権現
町家焼け
四ツすじ
御山内
六番組火消
十番組消口
八番組消口
九ばん組消口
五ばんくみ
六ばん組
飯倉町
西久保通
【上段】
京都焼場方角附 条六角通宝町西入町 吉田屋官兵衛板
比ハ嘉永三戌の年四月十六日ひる九ッとき京都万寿寺通ふや町
西へ入町南がハ四軒目より出火にて新はし西南の風はげしくて
松原通へ焼ぬけ火二口になり東高せ川をこへかも川源限西の方ハ
柳馬場の裏とふりを高辻通ハ西にてとミの小路地じん迄仏光寺
通にてハ柳馬場裏通東がハ迄綾小路通にてハ富田小路西へ入町
北がハ五けん目迄
北の方ぎおん御たびの
南の方より五条大はし
手まへ迄西ハ柳馬場
東ハいつれも賀茂川
まで類焼寺町通にて名高き
寺院あまた
類焼市中
御やしき神社
多く焼同日
夜五ッ半時
やう〳〵火しづ
まり諸人
安堵の思ひ
をなす誠二
京都にてハ
めづらしき
大火なり
京都へ縁
ある人の
たよりにも
ならんと
其あら
ましを
しるす
【下段】
頃は嘉永三年五月八日暮六時過
本四日市丁中ほどゟ出火して東風
はげしく荷いなり社やける
御納屋役所残る本材木丁
壱丁目青物店角一番四番組
中組三四六七十十六組にて消留ㇽ
此辺しり火つよく四日市通り
中ほどへやけぬけ此所十番組
中組北組五六八九十十一十三十四十六
組にて消留同所上丁迄やける
此処酒井左衛門尉様御人数二番
十番組中組八組十六組にて消留
萬丁角五番六番消留ㇽ南がハ
中ほと迄やける通壱丁目横丁
木わら店秋元但馬守様御人数
六番組消留ㇽ赤羽丁木戸ぎハ
迄やける佐内丁両かハ十番組
北組一二三四五六十一十二組にて消
留ㇽ川瀬石丁新道木戸きハ迄
平松丁木戸際酒井左衛門尉様御人数
中組五組八組消留ㇽをきな小路やける
南油丁木戸際酒井左衛門尉様秋元
但馬守様御人数二番六番組消留ㇽ
新右衛門町中ほと両かハ酒井左衛門尉様
間部下総守様秋元但馬守様五番
五七八九十十六中組消留やう〳〵にして
火しづまり夜もほの〳〵と明たり
諸人あんとの思ひをなしにける
されバかゝる一小紙なれども遠国に
縁ある人々のたよりにもなり
ぬべきとづふさに書あらハす
ことしかり 丁数一丁巾にて凡二十丁余
「焼場方角附」 《割書:頃ハ嘉永四年亥の四月三日空一めん二もの|すごきおりから四ッ谷ひしや横丁へんより》
出火致し□雲寺横丁西かハ□善寺并寺々ハのこる東かハ御やしき様
方残らすやける舟板横町車内門よこ丁あらき横丁此へん
御やしきやける/忍(おし)町伝馬町三丁残らず焼ㇽ同一丁目玉ずしやの
うしろの方ハ松平肥後守様成瀬隼人正様松平
摂津守様御人数二而消止ㇽ新堀江丁大工甚助方ハ
松平摂津守様人数消止ㇽ北伊賀丁
御仮やよこ丁せり長根きぬ文ハへひ少々
やける北の方ハ両かハ残る福寿院よこ丁ふくしゆ
いんハ本堂ハ残る寺内少々やける秋葉様ハ
のこるおたんす町ハ
おもてうら中たんす
丁角太田孝庵様
半やけ因幡屋ハ本 大横丁通り
所深川消止ㇽ西の方ハ 七軒町二て止る
うら長家八けん程残 塩丁にてさつま
うらおたんす丁奥村 あ部さま本所深川
静吾様ハ一番組消了覚寺やける
やぐら二而消同北がハのこるこの所ハ一番組二番組本所深川二て
消留る麹町十二丁メ角ハ二番三ばん本所深川消なり四ッ谷御門水ゟ
竹丁傳馬丁一丁メ焼向ノ方西久保天徳寺門前替地木戸きハ一ばん二番消也
仲居町ハ残るいし和田様ゟ山口久庵様迄此へん御やしき様不残やけ麹町十三丁メ
新一丁メ西念寺よこ丁ハ「打こし長三郎様二て留さいねん寺を初寺三ヶ寺残る天王横丁
南いが丁焼本福院ハ三番組消口愛染院ハ本堂残る夫ゟ新屋敷
伊出様半焼岡部様下 辺見様ハ十番組消也
やしき不残焼南寺丁本 圓通寺やける祥山寺
正寺其外御やしき様やける 法蔵寺はのこるおし原
法恩寺二而留うら表さつ よこ丁山形様残る
ま丁組やしき御憲いなり
やける安養寺門前岡部様
やける永井様ハ三むね程
やける北山様ハ残ㇽ夫より
西ノ方諸星様御門ハ三番
組消坂本勝之進様やける近藤様ハ残ㇽ大番町組やしき四けん残
塩町三丁メハんとんいせや三番組けし留大木戸よこ丁小なわ様御門残る
多安様下やしき残る柳生さま下やしき少々焼同丁五番組三ヶ所消ス
六番組お組ハ一口消又一口ハ内藤新宿へ飛火二て下町さかみやつの国
いせや辰巳や同仲町台倉玉やまつや武蔵やいづや辰尾やおか田や
福嶋焼る大宗寺円摩様并本堂ハのこる辰岡や
三河や二而焼とまる此所ゟ成子人足并五ヶ所二て消有馬備前守
さま下やしき残る伊澤様御門斗やける同うら通り玉川御上水之橋
やけるて向新やしき小川銀次郎様初西ノ方ハけんやける森熊二郎様
二て留東の方辻番所内藤駿河守様下やしき七分通焼表御門と
【下側】
火の見ハ六ばん
組消留北がハ
丁や十けん程
残る玉川御上
水改場残る
又一口はさめかばし
仲丁龍王寺江飛火
二て夜六ッ半頃塩
丁一丁メ川岸二て
とまる人々
あんどの
おもひを
なしぬ
安政二卯の十月
二日夜四つ時
有此大変
《題:/万歳楽鯰大危事(まんざいらくねんだいきじ)》
【右上からマス単位で下方向に】
【一列目】
【白抜き文字】/天災(てんさい)
天の木
十月朔日あけの
みやうぜう
ひかり月の
こどし二日の
そら米のごとし
【白抜】二
地の木
二日の夜江戸中
たちまち地
ごくとなる
人くち〴〵に
えんまもると唱ふ
【〇】三
前後をミづ
ちり〳〵ばら〳〵に
にげてつまを
よび子をよぶ
こゑきやう
くわんぢごくの如し
【〇】四
井の水
ゐどがはよりふき
こぼれ或は
ひしやくにて
くめる此ゆへに
火事すくなし
【〇】五
雨の水
八日の夜小雨
ふる是より
むしろるい
ねだんあがる
【二列目】
【白抜】六
へい木
十一日のぢしん
よほどつよし
へいきのへいざへ
もん小家を
にげいださず
【白抜】七
たき火
十四日の夜大に
さむふして
野宿の人
ぢしんより猶
つよくふるふ
【白抜】八
海の水
十八日大風海
大にあれて
らいのごとし
諸人ふたゝび
きもをひやす
【枠】町家
ふしぎの水
九月廿一日蔵前
茶や福本
のにかへ清水
わき出る是ぢしん
のぜんひやうならん
【〇】二
苦しき木
牛のごとき
ねぼう
おほく
はりをしよつて
死す
【三列目】
【白抜】三
火のそばの水
まち〳〵珍ぢんを
はつてぢしん
をまりゆるぐ
たび〳〵おどろく
嘉夜打の入たる如し
【白抜】四
つゐへの金
両国中村のさゝ
ゐに少きを
きたるほね
ぬきどぜう
おほし
【〇】五
なみだの水
山善坂本へんゟ
死人を車に
つみてゑかう
ゐんへおくる
【白抜】六
あやしき土
芝うだかは町に
どぞうさかさ
なりてたつ
土すこしも
くづれず
【〇】七
ひつぎ
てんこおけそう
めんばは四斗
だるのるい
かんをけと
なる
【四列目】
【白抜】八
かなづちの金
ゐんきよふるくぎを
なをして手の
さきしだいに
たことなる
【白抜】九
ほねつぎ
なかばしやげんぼり
千住等
何百番と
ばんづけをよんで
りやうぢする
【〇】十
名をうる木
はなしかしんせうを
ふるつて
なぐらのりやう
ぢ人へべんそうを
ほどこす
【〇】十一
まるたの木
つゝかいぼうの
つよき事
むさしぼう
のごとし
【〇】十二
はんぶんあん土
にかいほどよく
たふれて
ひらやとなる
人々あめつゆを
しのぐ
【五列目】
【白抜】十二
のこらずやく火
おふりでにげだしてる
むすこ手ぬ
ぐゐをもらふて
ゑつちうにする
【白抜】十四
つんだるよぎ
人をまもりて
はりなげし
のようとんをする
【〇】十五
どろ水
すいどう
くずれて
諸人
さながら
ふなのごとし
【〇】十六
どぞうの土
どぞうはちよき
なおとして
主人の
づつうをます
【〇】十七
わきの下の水
ぢしんのたび〳〵
ひやあせ
ながれ出て
たきのごとし
【六列目】
【白抜】十八
はんしやうの金
ぢしんの夜じしん
ばんにて出を
うけざるはじ
しんのばんのみ
をして人のばんを
せさるにや
【白抜】十九
命めうがの土
芝金すぎにて
十四方の姫
五十七才の
老母白大一疋
ほり出す七日の事也
【〇】廿
こゑをたて金
浅草北じんまちにて
化物女のかほを
つかみ子共を
二人しめころす
【〇】廿一
せかちかず
よくどしき
ゆうれい
本所ふか川
にてとらはるゝ
【枠】商人
はん木
/野子(やし)といふもの
堀より出て
さきをあら
そふてうれひを
しよくす
【七列目】
【白抜】二
あこぎ
ざいもくや
はないきあら
くして手おい
じくの
ごとし
【白抜】三
するどき金
丸太はねがはへて
とびこばいた
ふかぬうちと
小ばんと
なる
【〇】四
ふとゞ木
はこん一本六十四文
わらじ一足壱せん
どぞうひとつ
七両にてたゝみかけ
ひろへまはさるゝ
【〇】五
かりふ木
こやをふくわら
米より
たかし
【枠】職人
目から出る火
大工かなづち
一丁にて
八てんぐ
はたらく
【七列目】
【白抜】二
やねの土の土
せ度めんぼく
なげて
出入場を
見まふ
【白抜】三
ちからづくの金
このせつ車力の
ながすあせ
ひとつぶ五匁
ほどに
あたる
【〇】四
ぶらさがる金
ひようとり
はねをひろ
げてやけ
はらを
なける
【〇】五
むかふ水
にわかじよくにん
にた山より
出てよくの
のを
ふる
【〇】六
たてよこの木
□からす先より
くろくなる
はたらく事
はやぶさのごとし
【八列目】
【枠白抜】猿若
市川の水
ひやうたたんころげて
なまづ
たね
かへる
【白抜】二
わらじの土
りくわんやげがねを
つんで大ざかへ
かへる
【〇】三
あのよの一本木
こくらくより
江戸ばしへ
三井だるの
見まいものあり
【〇】四
れいこんの火
ばんどうがはの
水をもつて
勘弥の
胸をまもる
【〇】五
まつくろな木
やけあとにたけ
十二けん
ばかりの
大半
のこる
【九列目】
【白抜】六
ぎんがみの金
すのこの目
おちて
ならくへ
めりこむ
【白抜】七
ゑんぎだなの金
かみだなの
ふくすけ
おのれと
なりうごく
【〇】八
たびかせぎ
富士のすねを
かじり《割書:甲ふ|すんぷ》きんのしやち
ほこをなめる
【〇】九
おろしまの土
あらき地のだいこ
をはりの
みやしげへ
たねまきにゆく
【〇】十
ひやうし木
きやうげんがた
麦太郎と
改名する
【十列目】
【枠白抜】吉原
はやき火
その夜出火
よしはらを
第一番
とする
【白抜】二
迷の火
大門おのつから
しまりて
にげ出る事
あたはず
【〇】三
おそろしき火
五丁まちへんじて
あび
ぢごくと
なる
【〇】四
身のけの
よだつ火
十丈斗の
ひばしらたつ
その火勢
うらたんぼの人
をまきたふす
【〇】五
日本堤の土
うちかけの
おいらん
はじめて
わらじを
はく
【十一列目】
【白抜】六
田のあぜの土
百千のかぶろ
わらを
かぶつて
こゞへふす
【白抜】七
ねんり木
彦太郎のおぐらぎ
客人こん
げんのかごと
よつて
部屋つぶれず
【〇】八
をことぎ
さのづちの後家
よくはたらきて
ゆうじよと
きんす諸道具
までやかず
【〇】九
不覚の井水
みうらのていしも
ゐどへはいる
女房ぎりを
たてゝ子と共に
やけ死す
【白抜】十
しらねの火
おかもとの主従
三十六人
やけ死す
じよろう
三人のこる
【十二列目】
【白抜】十一
土手の土
日本つゝみ大に
口をあいて
人をのむ
事両三人
【白抜】十二
ごろつ木
女郎をおくり
きたれば
おへやしして
とうわく
する
【白抜】十三
うしみつの金
もうじやの
なきこゑ
五丁町二みつ
男女の死亡
凡千五百人
【白抜】十四
にぎは火
小ごうしのしよ
らうねづ
やならへんの
狐穴にひそんで
なじみをたらす
【白抜】十五
はづない金
かりたくいまだ
さだまらず
ゆうじよほそ
おびにてぢま
いをかせぐ
【十三列目】
【白抜】十六
口かせぎ
たいこもち
へんじて
つちもちと
なる
【白抜枠】神社
護国土
かみ〴〵三日の
あさ
いずもの国江
おんたち
【白抜】二
おまくじの木
かしまさま
しばし
うたゝね
し玉ふ
【白抜】三
ごまの火
ふとうそんを
しんずるもの
さらにけがなし
うごか
ざる理なり
【白抜】四
ふしんの材木
しばしんめいの
ごぞうゑい
しばらく
ゑんいんか
【十四列目】
【白抜枠】仏閣
しかばの土
ゑかうゐん
らいじんかい
ちやう有て
のちぢしん
のもうじや山をなす
【白抜】二
いかりの金
あさ草かみなり
もんの雷神
たいこを
おとす
【白抜】三
九りんの金
五重のとう
すこしも
ゆるがず
きんりうの角
四へまがる
【白抜】四
あまどりおちの
くわんおんの 水
ゆかしたに
あたまの黒き
鼠すをくふ
【白抜】五
にぎはし木
こんきうにん
おく山に来りて
だいぞうの
ふくちうに
やどる
【十五列目】
【白抜】伝
こまる火
もんぜんのしやくや
しきみくさき
水をのみ
せきとうをへり
ついとする
【白抜】七
もふからぬ金
てら〴〵のたう
れいたゞ
うめる
ばかり
【白抜】八
ふしぎ
神仏霊あり
堂みや
九分は
つぶれず
【白抜】九
同木
けがなき人は
たもとに
かならず毛あり
死したる
ものにはなし
【十六列目】
【白抜】恩仁
ありがた木
深川上野浅草
幸橋御門前
おすくひ
小屋できる
【白抜】二
同木
国恩をおりふて
施行する
人〻へ
ほうびをたまはる
【白抜】三
太平の土
恩人こゝろを
正ふなほりて
戸ざらぬ
御代となる
【白抜】清
歎はつた木
その夜は歎に
はなつてといへ共
日々野じんの
入用打すけ氏万
歳來をなて方々とする
十月
廿六日改
餘はにへんに
しるす
【下部右側干支順に】
【〇】子
大こん一本六十四文
さりどうをくわねやう
きをつけてくふべし
【〇】丑
松のせい
れいうしと
なりて
さるわか
まちの
そらよりおちる
【〇】寅
此とら
ぢしんを
おそれてたか
やぶににげ入る
【〇】卯
あらあやしや
此けものみゝを
ながふするは
やしの
ま正し
すや
あらん
【〇】辰
果り
ものゝ
こりてう
水をまかずに
金でもチリとまきな
せへ
【〇】巳
みまちして
べんてんを
いのるかねもち
橋たにくかんの
さくりやうに
あをたい
しやうを
つかふ
【〇】午
□す
らい米の
もちたこび実に
ふほねに
をれ
まへ
【〇】未
枋て人の
もりたうを
のこざと
くらふ
【〇】申
ぢしんの年之
大さかにて
さる木よか
おつる
【〇】酉
これに是
てんちかい
びやくの
ごとく
ふたゝび
大地を
ふみ
なとす
べし
【〇】戌
芝金杉
ぢしんの夜
より五日目
壱への老
母壱への
むすめ
と此白
杓を
土中より
出る実に
此物人馬にちかし
【図中地名等、右より】
せんじ
今戸
ねづ
芝居丁
上の
吉原
しやたばん
牛の御前
神田
京ばし
本所
ゆしま
しんばし
石はら
あたご
両国
しいのき
おはま
芝
大はし
六けん
深川
永代
かなめ石
両眼日月
【マス別に上段右から】
【上段右一】
《題:《割書:安政二|大地震》出火類焼場所附》
御用
町会所
幸橋御門外
御救小屋場所 浅草広小路
深川海辺新田
【上段右二】
太平の御恩沢に枕高く治世の御国恩に万歳を謡ふ
人〻心を労する事 當さに震動の如し去ぬる十月二日
の夜四つすぐる比地ふるひ家つふるゝことおびたゞしく其中に
当地は新吉原を始諸処にて三十二所□立先/御廓内(まるのうち)は
和田倉馬場先の間松平肥後守様松平下総守様より
内藤紀伊守様右三軒御類焼其外御やしき不残崩れ
つよく夫ゟ八代洲川岸は松平相模守様御添屋敷やける御上屋敷
定御火けし屋敷大半やける火の見のこる遠藤但馬守様やける夫より
大名小路諸家様並ひ崩るゝ事おびたゞしく又大手先之方は
酒井雅楽頭様やける表御門残る同御向屋敷やける
籠の口角森川出羽守様やける其余小川町辺焼失之
分は松平紀伊守様内藤駿河守様本郷丹後守様戸田
武次郎様榊原式部大輔様御やしきやける稲葉様
土屋様青山様近辺御屋敷のこらずそんじ多し
【上段右三】
又一と口は外桜田上杉様毛利様崩つよく鍋嶋肥前守様
崩る上やける山下御門内阿部播磨守樣少しも残りなく崩る
土手鍋嶋様薩州様御装束屋敷崩れ外がは少しやける
幸橋内柳沢甲斐守様伊東修理様やける亀井様少し焼る
南部美の守様有馬備後守様丹羽わかさの守様崩つよくやける
霞が関通は芸州様黒田様表側崩る向がは御大名のこらず
ゆり崩る所多し井伊かもんの頭様より永田丁の方崩るといへ共少し
山王御社無事かうじ丁通り三軒屋辺少し崩赤坂町々大崩れ四つ谷は
通り少し寺院横丁〳〵はいたみ多し青山麻布少し西久保はたるみて
飯倉赤羽根つよく三田は少し品川高輪田丁本芝金杉は崩少し
増上寺は恙なし芝神明町三嶋丁は大崩れ濱手御やしきも崩多し
芝神明御宮少しもさはりなし柴井町一丁やける夫より仙台様脇坂様は
少し芝口通りは崩少なし桜田久保丁辺大半崩あたご下御やしき
崩多く切通辺無事也四谷通り麹丁は上水樋そんじて見ずあふるゝ
【上段右四】
日本橋ゟ南は右中通新場辺崩少く左中通呉服橋かし一円そんじ少し
中橋辺より崩多く南伝馬町二丁め三丁目東西材木町かし
かぢ橋川岸通り迄の町家のこりなくやける京橋向すきやかしゟ
土橋辺新ばし又は尾張丁木挽町三十間堀築地此辺崩多し
なれとも外々ゟ少なし又八丁堀鉄砲洲は崩少し所々崩る内舩松丁
松平淡路守様やけるいなり社無事也霊岸嶋は湊町少し長崎町
亀嶋橋辺崩がなし大川端丁少しやける新川筋両側共崩多し
箱崎ゟ栄久橋はま町御やしき大半崩れ小網町通り大崩れ
甚左衛門町かきから町松嶋丁辺人形丁通り所々崩る大伝馬丁
辺ゟ馬喰丁辺両国辺損じ少なし本町辺神田東西共崩おびたゞしく
室町せと物丁辺本小田原丁釘店魚河岸はそんじすくなし
するが丁三井無事也常磐橋御門内ゟすきや橋御門内まて
土手通り御大名方御番所共大半くづるゝ尤土蔵の壁
おちざる所無之町々の中にも稀にのこる所有之候へども千が一なり
【下段右一】
扨又爰に新吉原は地震はげしく家〳〵倒るゝことおびたゝしく
江戸町壱丁目ゟ出火いたし一時にもえ立又壱口は角町辺ゟ
火出きて五丁共一烟となり身をそこなふ者かぎりしられず尤
五十間道片側のこる大音寺前つふれ多く田中浅草丁は少し
崩れ小塚原丁は家毎つふれやける真崎橋場はつふれ多く
橋ば銭座やける今戸町は橋きはゟ十間程やける山谷通り
新鳥越はこと〴〵くつぶれ崩る所多し此辺寺院のこらず大破也
夫ゟ田町二丁め山川町竹門北谷の寺院北馬道聖天横丁
芝居町南馬道中谷の寺院等不残つふれの上やける此火
花川戸片かは中頃にて留尤崩多く山の宿聖天町瓦町は
崩るゝのみ金龍山は観世音無事也南谷地内崩すくなし
広小路ゟ仲丁三間丁田原丁は半崩並木駒かたは崩多く駒形
中頃ゟ出火して諏方町黒船丁三好丁御馬やがしにて留八幡社無事也
御蔵前は崩多く茅町福井丁三代地共崩つよく浅くさ御蔵恙なし
【下段右二】
又一と口は東門跡前菊屋橋向新堀少しやける同うら手堂前山本仁大夫
構内不残つぶれやける死人多し此辺寺院崩多く夫ゟ下谷坂本
弐丁目三丁めやける三のわ金杉辺崩れ多し根岸入谷崩少なし
谷中辺所々崩れ根津大崩千駄木駒込共所々崩る本郷は
格別の事なかりしが麹室つふれたる所多し湯島天神は無事にて
門前町大半よろし切通しは両かは共大崩れ仲町は片かは町の分
大いにそんじ御すきやまち不残つぶれ下谷茅町弐丁目境いなりゟ
壱丁めの方木戸際迄池之端通りやける出雲様榊原様さはりなし
夫ゟ上野広小路は崩る家多き中に東かは中頃ゟ出火して御成道
御屋敷迄やける裏手上野丁ゟ長者町辺中御徒町迄やける其余
おかち丁通りそんじ多し三味せん堀七まがり近辺御大名方何れも崩多し
佐久間町辺少し崩れ新し橋向豐嶋丁江川丁橋本丁辺崩少し
尤柳原通りいたみつよく蔵おちることおびたゞし又明神下通御成道は
筋違辺崩れつよくそんじ多かり類焼せさる所とて一円やけるが如
【下段右三】
本所は東橋きは御やしき松平周防守様御下やしきやける此辺
中の郷竹町元町やぶの内辺いづれもつよくゆれくつるゝ所多し
番場町くずれ荒井町やける弁天小路辺やける石原丁外手丁崩
多く北割下水横川通り吉岡丁辺不残くずるゝ法恩寺橋向
町家少しやける此辺つふれ多く柳島町天神はし迄崩多し
亀戸町前後二ヵ所やける此辺崩中へん也是ゟ亀沢丁ゟ
津軽様御やしき南割下水御武家方共大半崩れ
両国向一つ目相生丁二丁めゟ二つ目緑町三つ目花町までやける
向は林丁菊川丁四ツ目猿江扇橋辺一円崩れ多し
又一と口は深川御船蔵前町ゟ八名川町六間ほり町
森下町ときわ町高橋までやける大橋向尤崩多し
高橋向は寺町通少よろし横一とくちは皆大くづれにて伊せ崎丁
清住丁辺やける又一と口は相川町熊井丁黒江丁大嶋丁蛤丁
永代寺門前八幡鳥居きはにて留る富が岡御宮恙なし
【下段右四】
東海道は小田原辺迄中山道は上州高崎辺迄水戸道中は土浦迄
日光道中は古河辺まで甲州街道は郡内八王子辺まで青梅道は
飯能所沢辺まで下総は松戸流山辺行徳船橋辺上総の国は一円
つよくふるひ候よし猶又房州所々豆州等もいたみ甚しと聞及ふ
又二日夜四つ過ゟ出火諸方夜明方しづまる芝居丁の火四つ頃
花川戸にて止るそれより毎日少しつゝの地震ゆりて焼失のもの
家つふれ候もの皆野宿をなし諸方共おたやかならず爰に
上様ゟ 御手当を被下置御救ひ掴飯又は御小屋三ヶ所へ
御建被下置候に付万人うゑをしのぎ住居をもとめて
御恵みの広大を拝謝奉り太平の御恩徳を称ぜん
ものこそなかりけれ
国々御知ら御文音之為能々/実事(しつじ)を
/訂正(たヾ)しそのあらましを記し畢ぬ
【上段】
御ごた〳〵との御文みるのもいやに
おはしま候なれどはいしほゝ
せんしはにくふぞ〳〵はたくさらと
御ゆらせみなしおそれ入江可に候まゝ
もふしばしんに御ゆらせは永代よし
/岡丁(おか)になつれ度おたひの人の
/其(その)/癖(くせ)にわる/鯰(なまづ)るく/弁天(べてん)して/発余(しよくわい)を
/晩(ばん)から/安宅(あたけ)だしお屋しきさんの
やぐら/下鐘(したかね)つき/堂宮破(どうみやこわ)しなり
/多(おゝ)くの人中はぢもせずゆすり
がたりれ/性悪(しやうわる)を/聞(きい)てとむねを/佃(つくだ)丁
どこの二/階(かい)へゆるふとゝもじやまの
/宿(すゆく)にされなんすわづかばかりの/花(はな)
川戸まけばぢまんしで/世直(よなを)しと
下付合がよいいゆへに/焚付(たきつけ)られて
/燃(もへ)あがり/焼(やけ)ぼつくらひにて
御かはひら成々ても/神々(かみ〳〵)/様(さま)や
/聖天(せうでん)町田丁にごぞる/法印(ほういん)さん
お/守(まもり)お/札(ふだ)でばちを/的(あて)ふうじこめ
なゝまゝ/要(かなめ)さんの下に/尾鰭(をひれ)を/縮(ちゞめ)
/堅(かたく)しんぼうなそれくどふも〳〵此すへ共
かならずいゆらそなきやう神かけ
ねんじほゝこれでいよ〳〵
めじるしと
畷しき 万代屋内
なまさんへ ゆたか
おとゝひござれ
【下段】
ばた〳〵文して申上ほゝすぎし
二日の/初会(しよくわい)よりゆり〳〵と御めに
たり家蔵こはし幾地のうへ
はなしわたしが田町以/打(うち)あかし
/衣紋(ゑもん)づゝものほれこんで/旦那(だんな)の
手まへやかみぬのするを付こみ
ぐら〳〵と十月一はいかよひつめ
まいらせ候へどもおまいは/狐(きつね)に
■■で/逃(にげ)かくれたり/野宿(のじゆく)をなつれ
大道中へ/伏(ふし)み丁どつちの/角(すみ)たづね
ても/私(わたし)がゆると逃るのは/鯰(なまづ)るい身の
勝らぐらと御そげすみもあらん
なれど/水道尻(すいどうじり)をあび候江戸つ丁には明く
候へ共かしまでは名を/揚屋(あげや)丁きのふ
京町さと明れて地もぐりぶしの婦るひ
/声(こへ)をだいほゝへばかた以石/坂蔵(がきくら)の
/壁鬼(かべおに)のやうなる/尾(かはら)まで/蔵(おつこち)に/成(なり)候まし
御まへへつなれなき御事ばかり/烏(からす)の
仲の丁はあれどわするゝ/隙(ひま)はこざなく候ゆへ
火事きやうに/燃立(もへたつ)おもひけしな候まゝ
/土蔵(どぞ)〳〵こしまき迄御/取崩(とりくづ)し成/色(いろ)よ記
御兵事ねかひひゝなまづはぐわら〳〵
ゆり度あかし
けふし
お記のどかくへくまいる
奈海そり
【上の資料】
焼た
なまづて
職人は 【看板】
めしを 江戸前
くひ なまづ大かばやき
口上
町々 御火元(ごひげん)よくやかせられめいわく
至極(しごく)にそんじ奉候いたがつて打身(うちみ)せ
崩(くづれ)候に付 大道(だいどう)にて商内(あきない)相はじめ候
お間だ御 瓦(かはら)せなく御用心之程
一と夜(よ)に〳〵寝(ね)ないあげ奉候
一 うなんぎ家破やき
一 骨継(ほねつぎ)どぞう
一 なまづ日本 煮(に)
諸方たて大工町
十月二日ゆり出し ふなやど
当日よけい ひま蔵
火事あり申候
【下の資料】
持丸の
はらに
たもたず
はきいだし
ひんのやまひは
これで
直る世(よ)
がまんして
たんと
おはき
あゝ
くる
しい〳〵
此
へとは
犬に
くわれ
ては
大
へん
古今(ここん) 大地震散(おふぢしんさん) 所々(しよ〳〵)え出火(しゆつくわ)いたし候
稀成(まれなる) 其数(そのかず)三十二口
一地震の儀は先年信州越後にて大ひにふるい猶又駿州下田沼津をはぢめ東海道はもちろん
京大坂をふるひちらし今度御当地にて神々様のお留守をつけこみ安政二年十月二日の夜四ツの
鐘ともろともに近郷近在一円にゆりちらし北は千住小塚原新吉原田町花川戸山の宿から聖天町さる若町
馬道やけ観音さんは御無事なり地内はみんなひたくづれ並木諏訪丁駒形やけ田原町に三間町御蔵前にかはら丁かや丁
見付のうちは馬くろ町横山町大伝馬町両国へん爰らは少しのいたみなり本所は石原豊川通り相生丁に
みどり町林町深川は高橋のきわ又は□前【八幡前?】から蛤町相川町やけ下谷は坂本金橋やけ上野広こうじ□
□かはやけ伊藤松坂やけどまり池の端は仲町かや町むゑん坂くづれ松平びんご様やけ千駄木たんご坂谷中は善光寺坂
少しにて根津丸山けいせいがくぼは大□にくづす本郷湯嶋新町家此へんはかうじのむろくづれる外神田金沢町はたこ町筋違
内神田はすだ町なべ町かゞ町へん凡百三十六町ほどくづれ十軒店より日本ばし魚がし四日市通丁筋いたむ南てんま町へんより
出火なし南かじ町具足町五郎兵衛町へんやけ京橋向ふは少しのいたみ芝口柴井町宇田川町やけ神明前より本芝金杉
田町三田赤ばね高なわ十八町大地われる品川大もりへんは大きし麻布四ツ谷赤坂かうじ町へんいたむ事おびたゝし
とらの御門霞が関幸橋松平かひ苫大くづれさくら田へん八代すがし□□のおやき火消やしきやけ和田ぐら内は松平下総様
会津さまやける神田ばし内酒井様雅楽森川様やけ小川町は本□丹後様戸田様板くら様やける小石川伝通いん此へん
大きくお茶の水飯田町番町井込へん皆そんじ御□内凡五千七百余町の内出火の町数なり寺院のいたみは三万九千と
六百余□るふ土蔵は其数凡五億八万九千七百八十六ヶ所其外近郷近在まで家をたをし蔵をくずす事前代
未聞なり是をおそれざるもの一人もなし
○当時用ひのよき方
一じひ深きものよし
一お寺方はよし
一こけら屋根かやぶきはよし
一ひら家はよし
一材木屋あら物屋はよし
一土方人足車力はよし
一第一は大工諸職人もよし
一安うりの居酒やよし
一屋たい見世は何にてもよし
一ほねつぎはよし
一干ものめざしの類一切よし
一一ぜんめしはきはめてよし
一ふるかねふるたび是らもよし
一山くじらなどはよし
○おあいだといふものは
一土蔵はふるひてわろし
一二かい家屋屋根はあぶなし
一船宿などはわろし
一袋ものや小間物やは当分用なし
一直の高ひ魚はわろし
一ちりめんびろふどしゆすの類わろし
一三味せんやは時にあはず
一客が来てもちそふ【馳走】をせぬがよし
一のらくらものおたいこいしやなど用ひぬがよし
一唐物やぜいたくや上ぐわしや【上菓子屋】は甚わろし
一太夫三味せん□役者惣て遊芸を好むものわろし
一みやうもんの諸講中くわんけ事わろし
一かこひもの女かみゆいわろし
一高利かしはわろし
此用ひよふは慈悲(じひ)を第一とすべし其 妙(めやう)なる事は
たちまち天へ通(つふ)じ御 褒美(ほうび)に預(あづか)る こと神明(しんめい) の照(てら)すがごとし
江戸十里四方
元発所(もとおこるところ) 地(ち)の下(した)淘上(ゆりあげ)
【上段枠】
《題:本国信濃》
大勧進/尼共(アマタチ)公之/悪念(アクネン)
/起多罰高(オコツタバチダカ)十六代の/損(ソン)
/御経(ヲキヨウ)本夫/読益(ヨシマス)嫡男
/火事原生延(クワジハライキノビ)《割書:震動信濃守|従四位上中将》
/溜息(タメイキ) 《割書:出羽守|従四位侍従》
女子 堀内蔵頭/片息(カタイキ)室
/揺益(ユレマス) 《割書:信濃守|四品》
/餓益(ウエマス) 能登守
真田弾正大炊/立退(タキノキ)養子
女子 松平丹波守/先好(マヅヨシ)室
/夜昼(ヨルヒル) 《割書:信濃守|従四位侍従》
女子 榊原式部大輔/片向(カタムキ)室
三人 《割書:本田豊後守将氏室|松平日向守/事無(コトナシ)室》
【中段目上 瓢箪等の絵】
【中段目下】
○上青山善光寺 大手より 三九丁
大揺間 《割書:天保十一 五月 家督|従四位侍従 弘化四未三月任》
震動信濃守夜昼
陣
御内室本堂内蔵正其侭娘
献上《割書:御影十枚|洗米二十包》《割書:巳卯巳|未酉亥》《割書:三|月》三途
拝領《割書:初尾百疋|護摩廿抱》《割書:子寅辰|午申亥》《割書:三|月》御暇
三途御暇の節 上使御構中
【図一】《割書:金御損|御金箔》
【図二】
二本ともふじやの毛 《割書:押春日色|もん白》
中洗白
【図三】 駕同歌
【図四】 地ゆれ
かぢの光にならふ もん火
御
編
御内室
【下段】
餓田主計
何分頼母
宇留妙安房
浦見死後
仕合台岐
足尾織部
年寄
驚 逸太
古江 夜中
迎光 内臓次
怪我 内記
寝耳 水之悪
軒木 楽右衛門
息成 五根太
疵口 住右衛門
堀出 骨右エ門
御城丈
何分參右衛門
焼多 女房
尾志井 新蔵
【中段下段の通し文字。左下部】
時献上《割書:正月|三日》御香炉壺《割書:端|午》経御帷子御単物《割書:重|陽》白御
小袖《割書:威|葛》同斯
《割書:二|月》彼岸団子《割書:三月|下旬》大鯰《割書:四|月》甘茶《割書:六|月》蓮飯《割書:七|月》精霊牛馬の瓜茄子
《割書:九|月》更科蕎麦《割書:十|月》小枕餅《割書:寒|中》納豆
纏 【纏図】 【半天?】 中六道之辻《割書:下三途川向|下さいのかはら》
当惑 乞食山 導正寺
三条万石居城越後に/屓倶(まけず)郡/響多(ひゞきだ)《割書:うそより|八百里》
開帳廿年より代々領也
《題:地震用心の歌》
ものゝ名
魚の名十
/さは(鯖)/かじき(カジキ)/なます(鯰)/ふり(鰤)〳〵/う/こひ(鯉)/たら(鱈)
/はや(鮠)くい/はせ(鯔)よ/ふかき(養鯨)/さら(鰆)はくら
鳥の名十
何/とき(鴇)も/きじ(雉子)/か(鵞)なく/日(鶸)は/う(鵜)/かり(雁)すな
藪へ/かけ(鶏)/とひ(鳶)/さき(鷺)は/すゝめ(雀)よ
虫の名十
/あふ(虻)な/くも(蛛)け/か(蛾)/あり(蟻)し/てふ(蝶)きて/だに(蟎)
身に/のみ(蚤)/しみ(紙虫)て/いとら(竈虫)/か(蛾)なしき
草の名十
/ゆり(百合)やんで/つい(繭)には/よし(葭)と/きく(菊)とて/も(も)藻
/つた(蔦)/な(菜)きとこに/しば(芝)し/ねむ(合歓)/らん(蘭)
木の名十
/つき(槻)/ひ(檜)/すき(杉)やむ/かや(榧)と/き(気)を
/さか(椗)み/きり(桐)ぬ/まつ(松)/も(桃)もど/かし(樫)
/地震(じしん)/な(椰)日を
【上の資料】
新 流
大評判鯰の軽口
板 行
【上下上下と右から左へ読む】
【資料通りの改行はせず一行にまとめた】
おおきなものだねへ △こんどのちしん
たいそふにおだしだねへ △ほどこし
こんなにしりまでぬらしたよ △つなみでにげた人
あれそんなにいぢつちやアいやだよ △こわれかゝつたいへ
おつ【゜】こちになつ【゜】たよ △土手(どて)のいしがき
まだぬいちやアいやだよ △はやじまいの湯(ゆ)や
こんやはよつ【゜】ひておしよ △ねずのばん
そんなにやけになつ【゜】ちやアいけないよ △三芝居
らくでいゝけれどふところざみしいよ △おいらん
大そうはないきがあらいねへ △大工しやかん
ぢしんにおにげかへ △かみなりさま
だん〳〵よくなるよ △のなか
【下の資料】
ほかの人におせちやアいやだよ △でいりのしよく人
【促音で発音する大きい文字の「つ」に「゜」がついているようだが、翻刻文には注記で入力】
【右枠外上部】当時もちいる物
大関 穴蔵 前頭 金物屋 同 こてりやらじ
関脇 こらぶき 同 みく引 同 一せんめし
小結 ひら家 同 白半天 同 三尺帯
前頭 杉丸太 同 わらじ 同 茶わん酒
前頭 ひやめし草履 同 ひもの 同 火事羽をり
前頭 車力 同 さしっこの長半天 同 大ふくもち
前頭 荒おや 同 たき火 同 諸色銀金買
同 屋台見世の立食 同 板がこひ
同 すきくわ 同 木ひろい
行 土方人足 差 材木屋 勧 諸職人
時世時節 進
司 歌舞伎役者 添 唐物屋 元 惣芸人
【左枠外上部】当時をあいだな物
大関 土蔵 前頭 三味線屋 同 おたつこいしや
関脇 尾屋根 同 ぱつち 同 会席料理
小結 二階家 同 羽をり 同 ごろうの帯
前頭 檜の木角 同 下駄 同 茶の湯
前頭 せつた 同 上々を 同 宿々棧の羽をり
前頭 船やど 同 よそやきの着物 同 上くわし
前頭 小馬物屋 同 こたつ 同 かし本屋
同 お客の御馳走 同 かこひもの
同 はりしごと 同 紙くずひろい
新 流
《題:大評判鯰の軽口》
板 行
【上段左方向に】
大き
な
もの だねへ
△
こんどの
ちしん
こん
なに
しり
まで
ぬら
したよ
△
つなみで
にげた
人
おつ
こちに
なつたよ
△
土手の
いしがき
こんやは
よつ
ひて
おしよ
△ねずの
ばん
らくで
いらけれど
ふところ
ざみしいよ
△おいらん
ぢしんにおにげ
△
かみなりさま
【下段左方向に】
たい
そふに
おだしだねへ
△
ほどこし
あれ
そんなに
いぢつ
ちやあ
いやだよ
△こわれかゝいたいへ
まだぬい
ちやあ
いやだよ
△
はや
じまいの
/湯(ゆ)や
おんなに
やけに
なつ
ちゆあ
いけないよ
△三芝居
大そう
はな
いき
が
あらいねへ
△
大工しやかん
だん〳〵
よく
なるよ
△
よのなか
這追地震
「/魔(マ)が/飛とび吉原とゞろけ共江戸減ず
誰もまどうやさま〳〵の地々めり〳〵と
只ゆれて其物おとぞあわれなり
塔にお堂にせめてしばしハ地二留レ
見かへれバ山の木かげににげつ隠れつ
【下段】
人〳〵の姿かなしく泣く子達「こゞろ
づくしのな此夜の憂おへいつか世界も
尽るやと心一ツにさわぐやらうしや
世の中「樑にはさまれ桁にふし
ヲいてくア痛てのあなたへゆらりこ
なたへぐらりゆらりぐらり〳〵〳〵と這ま
どにひッしきくじきのちん〳〵の足拍子ハ
それで誰〳〵も心乱れて立もとならず
叫ぶ人の夫二ハ内義もしら波のこくら二
逃るがお徳也「町の惣ゆれに家根〳〵
を見わたせバ折しも東風のいとも
するどく吹まとふぐわら〳〵どつと
二
【上段】
どれもゆれいかハおちもこそすれ一ト
しほ/扨(さても)もおそろしや又ハ/程過(ほどすぎ)ずこくら
に/移(うつ)る火の/早(はや)さ「ゆだん/借家(しやくや)ハあッ
ちへなこッちへなあちへこちへすじり
もじりてめり込ム近所の/奥蔵(おくぐら)の
かぎに/路次(ろじ)といふものハ誰もしる物
をむごやの何事ぞ内も/傾(かた)ぶくぼろへ
/壁(かべ)のつらや/恨(うら)めし/焼(やけ)るにやまさる見るも
/魂消(たまげ)る/朝(あさ)ぼけ「一ト/夜(よ)しのげバわが/身(ミ)ハ/死(し)なじ
たおれひずミし家の内死人/重(かさ)なる其むさ
さめれそれハ〳〵へまこと見るやつらや
思ひ/廻(まハ)せバむざん也/野陣(のじん)に/只(たゝ)ぬれ/寝(ね)の
【下段】
/毒実(どくげ)に/早急(さつきう)のありさまハミやう火の花
ふり/楼廓金庫(ろうかくきんこ)もゆうべの/くも(くも)と/消(き)うせて
もくぜんの/不足(ふそく)あまた也「せわなく/焼(やか)せ
たまへや/焼亡(しようぼう)の/時節(じせつ)も/今吹(いまふく)ほどに
よも/消(き)へじ「/丑寅辺(うしとらへん)の/婦廓(ふかく)もミぢん
/初会(しよかい)の/花(はな)の/座二階(ざにかい)ミし〳〵大へん
/異変(いへん)の/地(ぢ)しん/頭土手(かしらどて)内/田町(たまち)や/惣(そう)
/田圃(たんぼ)〳〵/広原(くわうげんの)/土(つち)ミな/割(わ)レて/穴(あな)に
/砂(すな)あぶれ/道(ミち)に/石(いし)まろびげにも/上(うへ)なき
/国土(こくど)の/災(わざ)わひ/嘆(なげ)かぬ人こそなき時なれ
やまんざい/楽(らく)とぞゆり/納(おさめ)め〳〵/治世(じせ)の
/座(ざ)にこそなほりけれ
【上段】
町数凡千五百丁程△橋数六拾所余
方角場所附 土蔵の数凡二千三百二十四五
大舟凡■五十そう其外小舟数多
合印
▮ 御上屋敷
▲ 御中屋敷
● 御旗本様
御救小屋
一土橋久保丁置
一ヵ所
一すきやがし
同
一ときはばし
々
一かまくらがし
々
一すぢかひ外
々
一四日市
々
一つきぢ
二ヵ所
一北八丁堀松や丁
々
一両国広小路
一ヵ所
都合十一ヵ所
夫人として考なきは人に
あらず江戸大火と聞
てハ国々親兄弟のなげき
いか斗ぞや是一時も早く
安否をつげ知らせあんど
させべき事第一也さても
文政十二丑のとし三月廿一日の
朝四つ半時比ゟ西北の風
【下段】
夫人として考なきは人にあらず江戸大火
と聞ては国々親兄弟のなけきいか斗か
ぞや是一時も早く安否をつげしらせあん
どさせへき事第一なり頃は天保十四年
十二月廿七も夜八つ時頃西北の風はげしく
かぢばし辺ゟ出火いたし五らう兵エ丁たくみ丁たちうり
弓丁新肴丁弥左衛門丁こんや丁不残すきや丁
山下丁南なへ丁滝山丁守山丁惣まき丁内山丁
山王丁さへぎ丁かゞ丁八官丁より合丁山城丁
つくば丁左兵へ丁丸や丁土橋にて留る又一口は升丁
すみ丁ぐそく丁金六丁水谷丁南八丁堀あたり
かしにて留飛火木挽丁松村丁堀田様
新庄様伊達様 様半分板倉様半分
焼る一口は京橋銀座不残尾張丁竹川丁いづ
も丁新橋にて焼留る尻火にて南かぢ丁片
かは南伝馬丁鈴木丁いなば丁ときは丁柳丁にて留る
【図中地名其の他】
外神田 いつみはし 新し橋 浅くさ御門 柳ばし
両国橋
元柳はし
大橋同
永代橋
筋違御門 もくらつら 此所先御屋敷残る やなぎはし
すだ丁 今川はし
神田橋御門 ときははし御門 龍かんばし 鎌くらかし
白かね丁 石丁 本丁
ごふくはし御門 一之はしのこる残る
日本はし 江戸ばし あらめばし 芝 居 ふきや丁 さかい丁 永久はし 旲らん橋
かぢはし御門 此所草穴や一けん残る 通り丁 申橋 しんば
かいぞくはし 中のはし 越中はし みなとはし 松やはし 八丁堀中のはし
しん川 亀崎はし れいがんじま みなみ丁
びくに橋残る すきやばし 京ばし通 銀ざ丁
山下御門 土はし
新橋 □坂様此までやけ止る
つきぢ 西本願寺御門跡 河原さき芝居 こひき丁
汐留橋 五丁目 四丁目 きのくにばし 半くさはし いなりはし 稲荷
佃嶋
【上段】
ころは天保五年午の二月七日ひる八つ時西北の風はげしく破煙を吹
立或は東風を吹廻し破石を飛す事おびたゞしすでに外神田佐久間町三丁
目へんゟ出火してあだかも天をこがすにひ斗されば焼失のあらましを左二
虫づゝり畢先外神田佐久間丁外通り内神田柳原床見世不残佐野様冨田
様細川様富松町豊嶋丁郡代屋舗残り大和丁江川丁橋本丁馬喰丁横山町西国広
小路西がわゟ南は本柳橋津軽様小笠原様佐竹様濱丁へん此屋敷不残大橋落ル
馬喰丁ゟ内は小伝馬丁大伝馬町通旅籠丁大丸呉服店油丁芝居一軒■屋丁芝居
■町大坂丁小網丁永代橋迄領国ゟ南はやげん堀元矢の倉村松町久松丁■■町へ
一つはがし松嶋丁へん不残行徳がし濱丁へん御屋舗ぶん松平■様溝口様堀田様二て
外所々御屋舗様酒井様菅沼様牧野様残る又土手ゟ稽ん丁松下町松坂丁市橋様お玉
か池小柳丁へん紺屋丁本白銀丁本石丁本町宝町通東かはゟ本舩丁小田丁伊勢丁
小舩丁堀江丁へん江戸橋ゟ南は四日市青物丁万丁箔屋丁新右衛門丁平松
丁佐ない小松丁所芝丁さや丁大鋸丁立ぬゟ南は伝馬町壱丁目■二て留る
本材木町五丁目辺海賊橋落る牧数様少々残る表かやば丁通り坂本丁へん
【下段】
下
又候同月九日七半時頃より日本橋檜物丁辺ゟ出火
致し元大工丁呉服丁通四丁目ゟ西がしまて焼失す同十日
八つ時ゟ龍ノ口近所ゟ出火致し松平伯耆守様同丹後守様
同上総介様御中屋舗同和泉守様同のと守様京極大膳さま
林肥後守様松平越後守様かじ橋御門焼落松平土佐守様
阿波様南御番所すきやばし御門焼落かじ橋外五郎兵衛丁へ
とび火南大工町おけ丁南さや丁上搷町東は通一丁目東かは少
残それより南伝馬丁一丁目元材木丁六丁目八丁目たん正ばし中橋
京ばし焼落弓丁新肴丁弥左門丁西紺屋丁すきや丁なべ丁
佐柄木丁かゞ丁八官丁東がわゟ宗十郎丁山王丁銀座一丁目ゟ尾張丁
竹川丁いづも丁三十間堀不残芝口一丁目二丁目片かは脇坂さまとまる
南八丁堀一丁目本多様だてさま紀州さま板倉さま京極さま其外
御やしきこびき丁一丁目ゟ六丁目すは様周防さま柳生さま加納さま
奥平さまつきじ尾張様御くらやしきいなば様大嶋さま西本願寺
松平宮内様同土佐様同上総之介さま其外御やしき南小田原丁南
飯田丁堀田さまにて夜九つ時とまる同十一日午のこくとび坂辺ゟ出火
水戸様御やしき御門御殿残ル夫ゟ小川町辺とひ火いたし御
やしき片るい焼七つ時焼治る諸人るい焼にて難儀に及び
御上様ゟ御救小屋御建被置下御仁徳の御代南有々
【右ページ一段目】
《題:新吉原仮宅の圖》
▬ 大まがき大見せ
▲◑半まがきまがり
◑ 惣半まがき
〇浅草の部
花川戸町分
◑ 平野屋亀五郎 《割書:江戸丁|二丁目》
▲◑ 鶴泉屋清蔵 同
◑ 大口屋そめ 同二丁目
◑ 大口屋正次郎 すみ丁
◑ 金屋長蔵 《割書:江戸丁|二丁目》
▲◑ 中万字や弥兵衛 すみ丁
◑ 橋本屋らく 同
▲◑ 岡本屋長兵衛 《割書:京町|一丁目》
▲◑ 平和泉や平左衛門 《割書:江戸丁|一丁目》
山の宿町分
▬ 角玉屋山三郎 《割書:江戸丁|一丁目》
▲◑ 佐野槌屋勢ゐ 同二丁め
▲◑ 角海老や吉蔵 《割書:京町|一丁め》
◑ 金山屋のぶ 同
◑ 丸屋熊蔵 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 角蔦や万次郎 《割書:京町|一丁め》
◑ 政田屋勝次郎 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 丸亀屋さよ 《割書:江戸丁|一丁目》
◑ 間久里屋くま 《割書:京町|二丁め》
猿若町入口
会書四郎兵衞
山の宿の川岸
けんばん 大黒屋庄六
聖天町角
▲◑ 尾張屋彦太郎 《割書:江戸丁|一丁目》
【右ページ二段目】
浅草田町分
▲◑ 松葉や知賀蔵 《割書:京町|二丁目》
◑ 尾張屋常次郎 《割書:江戸丁|かし》
◑ 邑田ゑび屋弥七 同一丁目
◑ 大和屋石之助 《割書:京町|二丁目》
◑ 桜屋源次郎 《割書:江戸丁|一丁め》
◑ 稲毛屋みち 《割書:京町|二丁め》
◑ 中大黒や云助 すみ丁
◑ 大黒屋云蔵 同
◑ 万国屋政次郎 《割書:京町|二丁目》
〇局見せ 世つぎ長家
◑ 辰巳屋太兵衞 ふしみ丁
◑ 三河屋源兵衞 同
〇局見せ 稲荷長家
〇本所の部
一つ目分
◑ 大野屋民増 《割書:江戸丁|かし》
◑ 亀沢屋こと 《割書:京町|一丁目》
◑ 大黒屋金兵衛 《割書:江戸丁|一丁め》
同所八幡地内の分
◑ 江戸屋亀五郎 《割書:京町|二丁め》
◑ 舛屋【以下黒塗り】
◑ 小玉屋藤次郎 すみ丁
弁天門前分
【右ページ三段目】
〇深川の部
一の鳥居つゞき櫓下分
◑ 山田屋孫兵衛 《割書:江戸丁|一丁目》
◑ 新金本屋すて 《割書:あげや町|かし》
◑ 岡本屋勝次郎 すみ丁
◑ 鈴木屋仁助 《割書:京町|二丁め》
◑ すはうや治兵衛 《割書:江戸丁|かし》
◑ 伊勢屋ます すみ丁
◑ 近江屋由五郎 《割書:京町|二丁目》
◑ さかひや七郎兵衛 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 亀屋直次郎 《割書:京町|一丁め》
◑ 多仲屋吉兵衛 《割書:あげや町|かし》
◑ 大黒屋ひさ 《割書:すみ丁|かし》
◑ 金沢屋庄助 《割書:京町|二丁め》
◑ 湊屋きく 《割書:京町|一丁め》
▲◑ 倉田屋きよ すみ丁
◑ 新さがみやたか 《割書:京町|二丁め》
◑ 山本屋喜三郎 《割書:江戸丁|一丁め》
◑ 岩本屋弥助 同
◑ 出雲屋ふじ 《割書:京町|二丁め》
◑ 大黒屋たき 《割書:江戸丁|二丁目》
▲◑ 稲本屋庄三郎 同
◑ 津国屋半三郎 すみ丁
◑ □屋徳太郎 《割書:あげや町|かし》
◑ いせ本やりう すみ丁
仲町通りの分
◑ 美濃屋岩蔵 《割書:京町|二丁め》
◑ 福住屋伊三郎 すみ丁
▲◑ 三浦屋吉右衛門 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 中むら屋あさ 《割書:あげや町|かし》
◑ 山本屋半兵衛 《割書:江戸丁|かし》
▲◑ 若松屋勘兵衛 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 大野屋民蔵 《割書:江戸丁|かし》
【右ページ四段目】
仲町東横丁分
◑ 江川屋久兵衛 《割書:京町|二丁め》
◑ 玉屋つね ふしみ丁
◑ 稲屋佐七 すみ丁
◑ 佐野倉や権三郎 同
◑ 丁子や庄次郎 同
◑ 金沢屋久助 ふしみ丁
◑ 稲本屋長蔵 すみ丁
〇局見せ松葉長家
◑ 津国屋さく 《割書:京町|二丁目》
◑ 城木屋すじ すみ丁
◑ 萬年屋藤八 《割書:京町|二丁め》
◑ 新谷本や官七 同
◑ 三春屋永蔵 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 大黒屋平之助 すみ丁
〇局見せ世継長家
同西横丁分
◑ 山城屋弥市 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 大野屋【黒塗】 すみ丁
◑ 山田屋平吉 ふしみ丁
◑ 大黒屋金蔵 《割書:江戸丁|二丁目》
◑ 村田屋松五郎 すみ丁
横やぐら通り
◑ 加嶋屋平兵衛 《割書:すみ丁|かし》
◑ さがみや八百吉
◑ 三河屋かね 《割書:江戸丁|二丁目》
◑ 越前屋六右衛門 すみ丁
◑ 玉屋直次郎 《割書:京町|一丁目》
◑ 叶屋与兵衛 すみ丁
◑ わし尾や新吉 《割書:京町|二丁め》
◑ 政木屋久次郎 同
◑ 鶴屋安兵衛 同
◑ 東屋甚蔵 すみ丁
【左ページ一段目】
まつち山うら
▲◑ 甲子楼大黒屋文四郎 《割書:江戸丁|一丁目》
北しん町
◑ 東屋さだ 《割書:京町|一丁め》
山谷橋向山谷町分
◑ 江戸屋幸助 《割書:あけや町|かし》
▲◑ 姿海老や久兵衛 《割書:京町|一丁目》
◑ 巴屋七右衛門 《割書:あけや町|かし》
◑ 巴屋徳次郎 ふしみ丁
◑ 大杉屋長蔵 同
あげや町
七軒
鳥越町分
◑ 近江屋長兵衛 《割書:あけや町|かし》
◑ 升屋とよ 《割書:江戸丁|二丁目》
◑ 東国屋 しも 同かし
◑ 鶴吉や倉次郎 《割書:江戸丁|かし》
◑ 亀沢屋こと 《割書:京町|一丁め》
◑ 上総屋源助 同
山谷浅草町分
◑ 木村屋常次郎 《割書:京町|一丁め》
◑ 小林屋吉三郎 《割書:すみ丁|かし》
◑ 遠州屋兼五郎
◑ 伊勢屋ため すみ丁
◑ 海老屋久次郎 同かし
◑ 坂本屋清助 同
馬道通り山川町分
◑ 天満屋きく 《割書:京町|一丁め》
◑ 福本屋こう 同
◑ 松喜や治兵衛 《割書:あけや|町》
◑ 尾張屋八五郎
◑ 成田屋みの 《割書:京町|一丁め》
◑ 下野屋しち
【左ページ二段目】
◑ 近江屋清次郎
◑ 玉屋喜せ 《割書:江戸丁|かし》
松井町分
▲◑ 岡田屋宗兵衛 《割書:江戸丁|二丁目》
◑ 松葉屋桂次郎 ふしみ丁
◑ 藤本屋ます 《割書:京町|二丁め》
◑ 金子いせや六蔵 《割書:江戸丁|一丁め》
◑ 若狭屋豊次郎 すみ丁
◑ 茂吉万字屋てう 同
◑ 越中屋常吉 《割書:あげや町|かし》
入江町分
◑ 小武蔵や文五郎 《割書:すみ丁|かし》
◑ 亀松屋庄助 《割書:江戸丁|かし》
◑ 林屋善右衛門 ふしみ丁
◑ 平野屋宇右衛門 同
◑ 千歳はる 《割書:江戸丁|かし》
◑ 山本屋半三郎 《割書:京町|一丁め》
〇局見せ稲荷長家
割下水通り鐘つき堂下四軒
◑ 桑名屋松五郎 ふしみ丁
◑ 松村屋庄兵衛
◑ 三河屋こう
◑ まきや安五郎 《割書:すみ丁|かし》
◑ 長谷川や庄之助
◑ しげ松清助 すみ丁
◑ 平松屋ゑい同
◑ 津多屋半兵衛 同かし
常盤町分
◑ 大黒屋栄次郎 《割書:京町|二丁め》
◑ 杵屋清吉 同
◑ 住吉屋すみ すみ丁
◑ 梅本屋佐吉 同
◑ 川口屋まつ 《割書:京町|二丁め》
【左ページ三段目】
▲◑ さがみや市郎長衞 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 江川屋久兵衛 《割書:京町|二丁め》
同裏川岸分
◑ 山口屋藤次郎 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 豊倉屋治兵衛 《割書:京町|二丁め》
◑ 中嶋屋吉蔵 すみ丁
◑ 若竹屋ふぢ 《割書:京町|二丁め》
八幡前分
◑ 大つちや惣次郎 同
◑ 池田屋たけ 《割書:あげや町|かし》
◑ 宝来屋平五郎 《割書:京町|二丁め》
◑ 鶴本屋きく すみ丁
◑ 尾張屋又十郎 《割書:京町|一丁め》
◑ 金田屋万次郎 同二丁め
土橋角
▲◑ 久喜万字や藤吉 《割書:江戸丁|二丁め》
御料理《割書:平清|口山》
佃新地分
◑ 三河屋新三郎 すみ丁
◑ 山屋いま 《割書:京町|一丁め》
◑ 武蔵屋金三郎 同
◑ 三喜屋しげ 同
江戸町川岸
小見世数軒
【左ページ四段目】
網打場
三日月長家
〇局見世 世つぎ長家 あり
三つ井長家
大うらの通り
〇局見世世つぎ長家
◑ 小紅屋仙太郎 《割書:江戸丁|二丁め》
◑ 大川屋源三郎 ふしみ丁
◑ 木村屋新吉 《割書:あげや町|かし》
◑ ゑびすや伊助 すみ丁
◑ 丁子屋はつ 《割書:京町|二丁め》
◑ 新わしをやゑつ 同一丁め
◑ 枡屋種次郎 《割書:あげや町|かし》
男芸者之部
都民中 萩江里八
岸沢松蔵 都六二
清元秀太夫 冨本松太夫
萩江幸三 萩江藤三郎
松山宮子 冨本新次
竹藤次 鳥羽屋小三次
林家鯉昇 各見崎徳三郎
宇治新口 十寸見和洲
清元政次 萩江露助
都文中 西川林蔵
常盤津静太夫 冨本仲太夫
田子七平 萩江千代作
菅野松次 清元巴満太夫
清元民太夫 鶴沢圭蔵
清元栄五郎
世話人 《割書:平野屋伝七|岸沢造酒蔵》
同添役 《割書:萩江佐吉|中村南甫》
同添役並 常盤津文禄
不許売買
〇ころは安政二年三月朔日
南風ことの外はげしくこじやりを
とばすほどの悪風(あくふう)にてひと〳〵きゐの
思ひをなし日のいりよりおひ〳〵にしづまりおゝいに
あんしんいたし候ところそのよ八つ時ごろよりまた〳〵
みなみ風/強(つよく)小あみ丁堀江丁辺より出火いたしその
くわせいはやきこといだてんのごとくそれより
ほり江丁小舟丁三丁め照ふり丁ほりどめすぎのもり
堀江六けん丁よし丁じん左衛門丁大坂丁ふきや丁
さかい丁新ざいもく丁/乗(のり)もの丁はせ川丁
とみざわ丁しん大坂丁田所丁人ぎやう丁
どうりのこらずすみよし丁高砂丁
いずみ丁なにわ丁夫より矢の
くらへんむらまつ丁たち
はな丁しほ丁よこ山丁四丁
やげんぼりよねざは丁どう
ぼう丁よこ山どうぼう丁
よし川丁ばくろ丁四丁
浅くさ御門焼落
それより
下平右衛門ちょうおゝ
だいちへんのこらず
かや丁二丁かわら丁
/片側(かたかわ)迄よく日
二日/昼(ひる)八ツ時過にて
やけどまる
焼落土蔵凡数六十八所
町数凡八拾三ケ町程也
【図中地名等左上から右下方向】
江戸橋
小あみ丁一丁め
同三丁め
同二丁め
小舟丁一丁め
同三
同二
ほりへ丁
大でんま丁
ほりどめ
しんざひもく
ふきや丁
よし丁
じん左エ門丁
やしき
二
同
はたご丁
のりもの丁
さかい丁
元大坂丁
ぎんざ
油丁
田所丁
はや川丁
いづみ丁
すみよし丁
やしき
人形丁通り
同
大坂丁
とみ沢丁
たかさご丁
なんは丁
同
ばくろ丁
同
同二
同
同三
同
同四
さちなだな
通塩丁
同
よこ山一
よこ山□□
な丁
くちば
久松丁
□□くら
同二
同
ばん□
同三
とうばし丁
よね沢丁
あさくさ御門
やなぎばし
寺川丁
代ち
両国
下平右衛門丁
かや丁一
同二
瓦丁
第六天
大代地
上平右衛門丁
福井丁
天王丁
同
やしき
代地
御くらまえ通り
東
西
南
北ゝ
巳正月廿四日北風はけしく空ゆく雲の
あし早く地はいさごを中天にふき上けあいろも
わからぬ□からひる九つ半時ころあ□山六どう
へんゟ出火いたし高なは迄やける横四五丁ま又十ニ三丁
あるいは三十丁たて一り半ほど此やけはrやけはらにこんきうの
人〻御たsたすけの御小屋をかけ日〻に
食じを下しをかれ候儀
ありかたきこと
申上るも
をそれあり
御救小屋
場所附
赤羽根橋
中橋迄三
ヶ所□但し
《題:関東大地震《割書:并|》出火》
夫人として考なきは人にあらず江戸大地
しん大火と聞ては遠国之親兄弟諸親類の
嘆き悲み何斗りぞやこれ一時もはやく人々の
安危存亡をしらしむる一助たらんかと巨
細にしるす二頃は安政二年卯十月二日夜四つ
すき西御丸下牧野備後守様本庄安芸守様
本多越中守様酒井右京様此辺之御屋
敷少々損じ松平下総守様焼る松平肥後守
様同向やしきやける松平伊賀守様内藤紀伊守様
松平玄蕃頭様少々損じ也八代すがしは松平相模
守様同添やしき火消やしき遠藤但馬守様
不残やける鍛治橋御門うち松平三河守様
鳥居丹波守様松平和泉守様松平能登
守様少々損しごふくばし内水野周防守様
松平丹後守様久世大和守様備前様少々
細川越中守様松平伊豆守様秋元
但馬守様てんそう御屋敷少々いたみなり
大名小路は阿部伊勢守様松平内蔵頭様
松平和泉守様織田兵部少輔様御やしき
少々つゝの損しなり日比谷御門内土井
大炊頭本多中務様松平右京様
長井遠江守様少々そんじ松平阿波守様
松平土佐守様牧野備後守様松平主殿頭様少々損じ
常盤ばし内松平越前守様夏目左近将監様
間部様太田様小笠原様酒井左衛門様一ツ橋様少々也
山下御門内松平肥前守様阿部播磨守様松平大膳
太夫様御やしき損じる外桜田ハ上杉弾正大弼様板倉
周防守様大岡越前守様大久保駿河守様石川近江
守様西尾隠岐守様相馬大膳亮様少々損し阿部因幡
守様水野出羽守様小笠原佐渡守様北条美濃守様
松平伯耆守様三浦志摩守様少々そんじ霞ヶ
関長田馬場山王辺少々いたみ幸橋御門内松平
時之助様薩摩将束やしき鍋島加賀守様少々
有馬備後守様丹羽長門守様少々あたらし橋内
亀井隠岐守様真田信濃守様少々のそんじ
愛宕下辺は増上寺芝三田辺田丁高輪品川
此へん少々是より南之万は川崎宿大あらひ
宿中少々やける神奈川宿少々損しなり
一新吉原五丁町大ひ二崩れ京町より出火
にてくるは内不残焼る又一口は小塚原やける也
千住宿少々いたみ其外田まち辺聖天丁芝居
町三丁やける役者しん道かた側のこる浅草観音
境内は少々の損じ駒形丁すは丁黒舟丁焼
並木通門跡前此辺そんし少くあべ川町少々
やけるしんほりばたほつた原辺御蔵前
どふり茅丁少々いたみ又一口は下谷辺
上野町壱丁め辺より広小路半かはどふり
長者町石川主殿様黒田様井上様小笠
原様やける千だん木だんご坂此辺少々谷中
根津少々の損し本郷辺は湯しま少々焼る
菊坂駒込辺白山板はし少々いたみ扨又
筋かへうち神田須田丁辺今川はし通少々損じ
十軒店むろまち日本はしとふり少々のそんじ
南伝馬丁二丁目三丁目南鍛冶丁五郎兵へ丁大工
丁具足丁畳丁柳丁ときは丁鈴木丁しら魚
やしき大根がし竹がし辺迄横立十文じ焼るなり
本八丁ほり鉄ほうづ築地へん少々のいたみ
つくだ島少しやける八丁ぼりへんはかく別のことなし
灵かんじま南しんほり大川ばた少しやける
永代ばし少々そんじ深川あい川丁富吉丁
中しま丁北がは丁大しま丁はまぐり丁くろ井丁
さいねん寺やぐら下永代寺門前やける八幡宮
本社別条なく寺内少々損じ三十三軒堂
少々いたみ高はしときは丁八名川丁六けんほり
大はしきは迄くづれ本所たて川通石原林丁
津軽様御中やしきみとり丁のこらすやけるなり
西の方小川町へんより出火にて飯田町近へん迄
やける小石川辺は松平讃岐守様少々崩れ岩城
雅五郎様御やしき崩れ其外大小名少々損じ
四ツ谷赤坂かうじ町辺青やまあざぶ辺少々そんじ
前代聞未の大ぢしん然れ共御城内無別条なし
御江戸五里四方の損し大方ならす漸々三日夜しづまる
諸人安堵のおもひとなしぬ目出度し〳〵
一御公儀様より御憐愍以て
貧民野宿之者へ御救ため
幸橋御門外深川海辺大
工丁浅草広小路右三ヶ所
九軒に七十一軒之御小屋を健【建】
御上様
御仁恵御徳沢餘慶
奉仰実に難有事共也
一江戸町数五千七百廿三丁右は土蔵〆
十一万三千二百八十余神社仏閣損棄
【図中文】
動に
なき
御代乃
栄を増神へ
かけてそいのる
伊勢のかみ垣
下谷
広小ぢ
出火
大半
崩
本郷
竹丁
御が
をふり
少々
つゝ六
所の
出火
あべ川丁
少々
出火
すは丁
出火
このへん
少し
そん
じる
家ら
少し
そん
しる
このへん
出火
【枠外】
慶長以来
【番付中軸から翻刻】
/聖代要廼盤壽惠(ゆるがぬみよかなめのいしずゑ)
當 五街道筋
安政二乙卯 差 《割書:元|禄》京都大雷 勧 愛宕神社
十月二日夜 江戸大地震大火 《割書:嘉|永》江戸大雷 進
四ツ時半より 添 《割書:万|治》大坂大雷 要 鹿嶋太神宮
司 近在近郷
【右一段目】
大火方
大関 《割書:明暦三|》 丸山本妙寺出火
関脇 《割書:明和九|》 目黒行人坂出火
小結 《割書:文化三|》 高輪牛町出火
前頭 《割書:文政十二|》 和泉橋際出火
前頭 《割書:天保五二|》 佐久間町二丁目出火
前頭 《割書:弘化四|》 本郷丸山出火
前頭 《割書:嘉永三|》 麹町より出火
前頭 《割書:弘化三|》 青山より出火
【右二段目】
前頭 《割書:享和九|》 江戸大火
前頭 《割書:寛政四|》 糀町出火
前頭 《割書:寛文元|》 京都大火
前頭 《割書:享保九|》 大坂大火
前頭 《割書:安永元|》 江戸大火
前頭 《割書:天明八|》 京都大火
前頭 《割書:安永七|》 江戸大火
前頭 《割書:天和元|》 江戸大火
前頭 《割書:寛政五|》 根津出火
前頭 《割書:羡應|》 京都大火
前頭 《割書:廿和六|》 京都大火
前頭 《割書:安政元|》 神田出火
【右三段目】
同 《割書:寛文元|》 京都大火
同 《割書:享保九|》 江戸大火
同 《割書:安永元|》 江戸大火
同 《割書:天保五|》 江戸大火
同 《割書:天保二|》 江戸大火
同 《割書:安政元|》 江戸大火
同 《割書:寛文四|》 江戸大火
同 《割書:安政元|》 中山道筋大火
同 《割書:同|》 東海道筋大火
同 《割書:同|》 宇都宮大火
同 《割書:同|》 大坂大火
同 《割書:寛政|》 南都大火
同 《割書:同|》 中国大火
【右四段目】
洪水部
大関 《割書:延宝四|》 諸国大洪水
関脇 《割書:宝永三|》 中国大洪水
小結 《割書:文政五|》 関東大洪水
前頭 《割書:享保二|》 長崎大洪水
前頭 《割書:享和二|》 関東大洪水
前頭 《割書:弘化四|》 関東大洪水
前頭 《割書:宝暦七|》 関東大洪水
前頭 《割書:寛保元|》 関東大洪水
前頭 《割書:享保十三|》 関東大洪水
前頭 《割書:寛延二|》 江戸大洪水
前頭 《割書:天和三|》 江戸大洪水
前頭 《割書:文化五|》 関東大洪水
【左一段目】
地震方
大関 《割書:文政十一|》 越後大地震
関脇 《割書:弘化四|》 信濃大地震
小結 《割書:元禄十六|》 関八州大地震
前頭 《割書:嘉永元|》 小田原大地震
前頭 《割書:寛永四二|》 関東大地震
前頭 《割書:寛政十|》 小田原大地震
前頭 《割書:天明二|》 関東大地震
前頭 《割書:安政元|》 大坂大地震
【左二段目】
前頭 《割書:天和三|》 日光大地震
前頭 《割書:寛政十|》 京師大地震
前頭 《割書:文化九|》 関東大地震
前頭 《割書:安政元|》 摂州大地震
前頭 《割書:同年|》 駿河大地震
前頭 《割書:同年|》 遠州大地震
前頭 《割書:同年|》 甲斐大地震
前頭 《割書:安政元|》 信州大地震
前頭 《割書:同年|》 三河大地震
前頭 《割書:同年|》 紀州大地震
前頭 《割書:同年|》 土佐大地震
前頭 《割書:同年|》 播州大地震
【左三段目】
同 《割書:安政二|》 行徳大地震
同 《割書:同|》 舩橋大地震
同 《割書:同|》 神奈川大地震
同 《割書:安政元|》 阿波大地震
同 《割書:同|》 伊予大地震
同 《割書:安政二|》 中山道筋地震
同 《割書:同|》 東海道筋地震
同 《割書:同|》 水街道大地震
同 《割書:同|》 日光道中地震
同 《割書:同|》 下総大地震
同 《割書:同|》 上総大地震
同 《割書:同|》 青梅道大地震
同 《割書:同|》 秩父大地震
【左四段目】
津浪部
大関 《割書:文化元|》 奥州大津浪
関脇 《割書:同|》 出羽大津浪
小結 《割書:寛保|》 松前大津浪
前頭 《割書:安政元|》 豆州大津浪
前頭 《割書:同|》 駿州大津浪
前頭 《割書:同|》 摂州大津浪
前頭 《割書:同|》 紀州大津浪
前頭 《割書:同|》 土州大津浪
前頭 《割書:同|》 播州大津浪
前頭 《割書:同|》 阿州大津浪
前頭 《割書:同|》 泉州大津浪
前頭 《割書:同|》 勢州大津浪
【枠外左下】
禁買 不箭堂蔵板
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【裏表紙】
《割書:安政二年|十月二日夜》大地震鯰問答
なまづ
〽ヤアあめりかのへげたれめ此日本をばかにして二三ねん
あとからおしをつよくもきやアがるうぬらがくるので江戸の
まちがそう〴〵しいやくにもたゝねへかうゑきなんぞ
とりかへべいはよしてくれ江戸中あるくあめうりで
たくさんだ用ハねへからはやくしりにほをかけて
かぢをなをしてさつさと立され〳〵
アメリカ
〽なにをこしやくななまづぼうずてまへ
たちのしるところでねへおらが国ハ
おじひな国でしよく人でもかりうどでも
なんでもじひをするものハけふまで野山を
はたらひてもあすハ見だされ王となる
それゆへ諸ゝのくに〴〵からしたつてくるので
がつしゆこくといふ国だアところがこまつた事ニハ
人がふへてもくふものがねへから日本へ米や大こん
にハとりをもらひに来てもくれゆふがすけねへそれ
ゆへたび〳〵うるさくゆつてくるハヘ
なまづ
〽だまれペロリなんぼうぬが口がしこくじひの国だと
いつたとてくらいものがなけれバびんぼうこくにちがひねへ
あめりかに神や仏があるならバ五こくもたくさんでき
そふなものねへとぬかすうへからハまいにち〳〵のくひ
ものを海(かい)ぞくなしてとつたにちがはぬこれをおもへバ
わが国の神〳〵さまがあつまつてしなどの風をふき
おこしうぬらがふねをはじめおろしやをうみへ
しづめしもたしか去年の土月神ハひれのをうけ
たまはずたハことつゝなき〳〵みゝハもたねへ〳〵
アメリカ
〽おかしくも頭をこしらへていふなまづおのれ平日人間ニ
ひやうたんでおさへられながら去ねん霜月四日のひ
御田ぬまづをうごかしてわれ〳〵をおひかへさん
とすされどもうごかぬあめりかだましゐ
なまづ
〽ヱ〳〵やかましい毛(け)とうじんたちさらずバ
どろのなかへうづめてくれん
アメリカ
〽うづめるならうづめてみよおれもけんづき
でつぽうだぞ
左官
〽アヽ両ほうともにしづまれ〳〵とふからん
ものハひゞきのおと〻もおきゝなせへ
ちかくハよつてめにもみますの古蔵の
やぶれすみからすみまであらうちを
たのむ〳〵とたのまれておちたるかべも
のしつける小手のきいたる江戸ッ子と
みなさん方のおほめにあづかるもこんどの
じしんのさはぎからこれをおもへバありがてへ
まづ〳〵〳〵御両所ともいざこざなしにくびつひき
アヽみたくでもねへおよしなせへ
【表紙】
【ラベル】
┌─────┐
│8│ │ │
│0│ │1│
│8│ │ │
└─────┘
【題簽】
┌───────────┐
│ 三十三間堂地震風損 │
└───────────┘
【白紙】
【白紙】
【白紙】
三拾三間堂仮拝殿新規建仕様帳
辰
二月
三拾三間堂仮拝殿仕様
一仮拝殿《割書:梁間弐間半 |桁行三間》壱棟
《割書:軒高壱丈三尺| 》
但切妻作向拝霧除庇付出巾六尺
右仕様土台栗新木長弐間四寸角柱松長壱丈四尺
削り立三寸五分角貫桁 短【つか】木共松丸太長三間半
末口三寸五分通し貫松大貫家根杮葺壱寸弐分
足新規葺立根太大引松丸太長弐間半末口四寸
根太木同木長九尺巾壱寸八分厚壱寸五分一垂木
同木ニ〆仕付床カ松六分板廻り羽目松四分板天井
廻縁松竿縁松小割天井板松四分板ニて張立
上り段松壱寸板 霧除庇【きりよけびさし、29コマ絵図参照】杮葺ニ致外廻り蔀【しとみ】板
惣体松四分板ニて仕付押縁松三寸貫丈夫ニ打付可申
一仮拝殿地所《割書:長六間|巾四間半》 壱ケ所
《割書:高弐尺| 》
右仕様堂地内ニ有之候土ニて弐尺通り土盛上ケ敷
平均亀甲胴付ニて突堅メ可申
一仮拝殿外廻り丸太矢来《割書:長延弐拾壱間|高 六尺》
内
仮拝殿前之方は同木ニて削り立両開キ
駒寄框【かまち】組ニ〆立合
右仕様松丸太長八尺末口弐寸ゟ弐寸五分迄壱間ニ五本立
貫弐タ通り柱中貫ニて丈夫ニ差通し根入丈夫ニ
埋込土際通松六分板三枚通打付可申
右材木釘銯【かすがい】大工鳶人足家根方其外諸色
運送賃共一式請切之積御入用積立可申事
辰
二月
三拾三間堂仮御拝殿新規相建候御入用内訳帳
辰
二月
三拾三間堂仮御拝殿新規建御入用内訳
一栗 五本半 長弐間 四寸角 土 台
代銀六拾六匁 《割書:但壱本| 銀拾弐匁》
一松 拾本 長壱丈四尺《割書:削り立|三寸五分角》 柱木庇柱共
代銀百匁 《割書:但壱本| 銀拾匁》
一松丸太 弐本 長弐間半 末口四寸 梁 木
代銀拾九匁 《割書:但壱本| 銀九匁五分》
一松六本 長弐間 四寸角 桁
代銀六拾匁 《割書:但壱本| 銀拾匁》
一松丸太五本 長三間半 末口三寸五分 貫桁短【つか】木
代銀弐拾五匁 《割書:但壱本| 銀五匁》
一松大貫三拾挺 長弐間 《割書:巾四寸|厚八分 》 《割書:通し貫|広木敷》
代銀六拾匁 《割書:但壱挺| 銀弐匁》
一同小貫八拾挺 長弐間 《割書:巾弐寸|厚四分 》 小貫小舞貫遣
代銀三拾弐匁 《割書:但壱挺| 銀四分》
一松五拾五本 長九尺 《割書:巾壱寸八分|厚壱寸五分》 舞木根太
代銀七拾壱匁五分 《割書:但壱本| 銀壱匁三分》
一松丸太弐本 長弐間半 末口四寸 大 引
代銀拾八匁 《割書:但壱本| 銀九匁》
一松四分板百三拾六枚 長六尺 巾壱尺 羽目板
代銀弐百四匁 《割書:但壱枚| 銀壱匁五分》
一蔀【しとみ】板押縁共拾五坪
代銀百八拾匁 《割書:但壱坪| 銀拾弐匁》
一天井板七坪半諸一式
代銀百五拾匁 《割書:但壱坪| 銀弐拾匁》
一内陣框【かまち】木鴨居羽目板共一式
代銀六拾匁
一格子戸弐枚 巾三尺戸
代銀四拾匁 《割書:但壱枚| 銀弐拾弐匁》
一松六分板百弐拾三枚 長六尺 巾九寸 《割書:床カ板幷丸太|矢床根通り遣》
代銀百八拾四匁五分 《割書:但壱枚| 銀一匁五分》
一釘鉜【おおくぎ】坪共一式
代銀九拾八匁
一土台下石面ラ壱尺丸石拾弐
代銀拾八匁 《割書:但壱ツ| 銀壱匁五分》
一杮葺一式釘共拾坪五合
代銀弐百九拾四匁 《割書:但壱寸弐分足|壱坪》
《割書:銀弐拾八匁| 》
一地形土持込人足八拾人
代銀弐百八拾三匁五分 《割書:但壱人|銀三匁五分》
《割書:是は長六間巾四間半此坪廿七坪高サ弐尺敷平均【しきならし】| 》
一松丸太九拾九本 長八尺 《割書:末口弐寸ゟ|弐寸五分迄》 《割書:矢来長延|弐拾間之分》
代銀百九拾八匁 《割書:但壱本|銀弐匁》
一松中貫弐拾挺 長弐間 《割書:巾三寸|厚五分》 通し貫
代銀三拾匁 《割書:但壱挺|銀壱匁五分》
一扉格子弐枚 《割書:長六尺|巾三尺》
代銀五拾匁 《割書:但壱枚|銀弐拾五匁》
一大工百六拾人
代銀八百匁 《割書:但壱人|銀五匁》
一人足七拾五人
代銀弐百六拾弐匁五分 《割書:但壱人|銀三匁五分》
一炭茶其外諸雑用
代銀三拾匁
一運送賃一式
代銀九拾匁
惣〆銀三貫四百弐拾四匁
為金五拾七両
銀拾四匁
右之通御入用積り立奉差上候以上
霊岸島川口町
辰二月 家持
伝 吉
三拾三間堂取片付仕分摒方共御入用内訳帳
辰
二月
三拾三間堂取片付仕合方御入用内訳
一大工百四人
代銀五百弐拾匁 《割書:但壱人| 銀五匁》
是は御堂古木仕分方之分
一鳶人足千百七拾人
代銀四貫九拾五匁 《割書:但壱人| 銀三匁五分》
是は御堂惣体三百九拾坪余取片付口〻仕分振方
其外跡掃除共壱坪三人懸り
内
一百三拾人 瓦卸し方幷仕分共
一弐百九拾人 小屋道具取崩し仕分方
一三百九拾人 柱廻り側板縁側取片付方
一三百六拾人 振方其外跡掃除共
〆
一炭茶其外諸雑用
代銀三拾五匁
一足代丸太諸色縄其外共一式損料
代銀九百匁
〆銀五貫五百五拾匁
為金九拾弐両弐分
右之通御入用積り立奉差上候以上
辰
二月
霊岸島川口町
家持
伝 吉
【朱書】「安政三辰年三月廿五日
対馬守殿於御白洲被仰渡」 【朱書】「加藤又左衛門
持田太郎助
申渡 道役
家城善兵衛」
三十三間堂取崩
受負人伝吉
外壱人
霊岸島川口町
家持
伝 吉
其方儀深川三十三間堂取崩一式入用
金九拾弐両弐分仮拝殿新規取建
入用金五拾七両銀四匁ニて受負申付候間
先達て相渡置仕様帳之通入念出来
可致
同町
家主
源五郎
其方証人之儀ニ付請負人え申渡之通
無相違出来候様可為致
右之通申渡候間其旨可致
辰 右
三月 五人組
名主
【朱書】「同文壱」
右之通被仰渡難有奉畏候依而如件
右
安政三辰年三月廿五日 伝 吉印
源五郎印
五人組
与兵衛印
名主将七煩ニ付代
金之助印
【朱書】
「安政三辰年四月五日持田太郎助持参竹村慈左衛門ヲ以
出」
┌──────
│ 永代橋御修復幷三十三間堂仮拝殿
│ 其外取掛り之儀申上候書付
│ 御届 本所見廻
└──────
永代橋損所御修復幷深川三十三間堂
仮拝殿取建堂取崩し方共先達て
受負人伝吉え被仰渡相済候ニ付
昨四日ゟ両場所共為取懸申候尤私共幷
下役道役日〻召出可申候且仮拝殿之義は
西向ニ 補理【しつらえ】候積り申上置候処右ニては
往来狭く堂取崩し方幷追而建直し
之節等大材其外取扱方差支候間
南向ニ振替取建候積り受負人伝吉え
申渡候依之申上候以上
四月五日 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【朱書】
「辰四月五日森本与三郎持参富田小源太を以上ル」
┌─
│三十三間堂仮拝殿御普請取懸候儀申上候書付
│ 御届 本所見廻
└─
深川三十三間堂去卯十月中地震ニて潰れ候ニ付
堂地内え仮拝殿補理幷追而堂建直し候迄
破損之木品取片付之義対馬守殿え伺之上
昨四日ゟ取懸申候依之申上候以上
四月五日 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
【三十三間堂絵図面】
【三十三間堂絵図面続】
【朱書】
「安政二辰年四月十六日高木万右衛門持参南方
同日大竹銀蔵持参坂本折右衛門え差出ス」
┌──────
│【朱書】
│ 「対馬守殿御懸り」
│ 三十三間堂仮拝殿出来仕候儀申上候書付
│ 御届 本所見廻
└──────
深川三十三間堂仮拝殿当月四日ゟ取掛候処
昨十五日迄ニて出来仕候間見分仕候処仕様
【朱書】《割書:「〇是ゟ〇迄除く|【次コマについての注釈】 」》
帳之通無相違出来仕候然ル処 仕様増ニは【以上5文字見消】
同所は一体風雨荒き場所ニ候処堂取払候へは
猶更広場ニ相成候儀ニ付為保仮拝殿内え
筋違貫弐ケ所志付屋根廻りえ竹押縁為打付候間
仕様増入用金壱両壱分相懸り申候右御下ケ金之
銀拾弐匁
儀は別段 可【以上1文字見消】申上候様可仕候且
【朱書】「〇」御神像は昨夜仮拝殿え遷座仕候其節
永代寺ゟ代僧罷越法楽等相済申候【朱書】《割書:「〇是ゟ〇迄|除く」》
依之別紙出来形帳相添【朱書】「〇」此段申上候以上
四月十六日 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【朱書】「南方〇印之内認除く出来形帳ハ不差出候」
三十三間堂
仮拝殿出来形帳
辰
四月
三十三間堂仮拝殿出来形
一仮拝殿 《割書:梁間弐間半|桁行三間》 壱棟
《割書:軒高壱丈三尺切妻造| 》
但《割書:向拝霧除庇|外廻り柵矢来 》 《割書:長 弐間半【以上3文字見消】九尺|土中六尺》
《割書:長延廿壱間|高六尺》
右拝殿地形土弐尺通盛上ケ亀甲胴付ニて
突堅柱下長三尺松丸太打込丸石居付
土台栗角根太掛ケ大引根太板垂木
天井廻り縁竿縁内陣框【かまち】木鴨居とも
何レも松丸太又は角物挽割相用い柱通
貫広小舞小舞貫天井蔀【しとみ】板共杉
内陣上り段入口上り段とも杉【杦】板割四分板等ニて仕付
向拝入口格子戸弐枚建付西之方え向無双
窓一ケ所仕付屋根杮葺竹押縁打堅メ
妻之方品板棟木共杉【杦】外廻り矢来入口
扉付右品板棟木羽目通東之方幷
外廻り矢来共惣体渋墨塗其外は
砥之粉塗ニ〆入念仕立羽目内廻りえ
筋違貫弐ケ所打堅メ
右之通御座候
辰
四月
【仮拝殿絵図面】
一屋根棟木両業垂木形同品板堂外廻り
惣体砥之粉塗矢来板渋墨塗幷
棟木品板垂木形同様渋墨塗
【朱書】
「此分仕様帳ニ無之候へ共見羽不宜候ニ付無代ニて
請負人志付候此後拝殿取建候節も仕様え書入
可有之事」
┌────────────────────────
│三十三間堂仮拝殿其外入用御下ケ之儀申上候書付
│ 《割書:年番|町年寄》え御断 本所見廻
└────────────────────────
一金五拾七両銀四匁
是は三十三間堂仮拝殿新規取建候
入用高
一金壱両壱分銀拾弐匁
是は大風其外為保テ仮拝殿内え筋
違貫二ケ所屋根廻り竹押縁打付候
仕様増入用高
一金九拾弐両弐分
是は堂取崩し方幷拼分ケ雨覆等
志付候入用
三口合
金百五拾壱両銀壱匁
右は深川三十三間堂仮拝殿新規取建幷堂
取崩木品仕分ケ方共出来仕候間右入用
請負人霊岸島川口町家持伝吉え相渡候様
年番幷町年寄え被仰渡可被下候以上
辰 加藤又左衛門
七月 中村八郎左衛門
ヒレ付末ニ有
【朱書】「安政三辰年六月廿三日持田太郎兵衛持参竹村慈左衛門を以
上ル」
┌────────────────────────
│三十三間堂取崩拼【編集履歴にこの字の注記】分ケ方出来仕候儀申上候書付
│ 【朱書】「承り付末ニ有」 本所見廻
└────────────────────────
深川三十三間堂地震損ニ付取崩之儀伺之通
被仰渡候間当四月中ゟ取懸り此節迄ニ不残
取崩見分仕候処近日遣替ニ可相成木品は
別冊之通拼分致し古板ニて仮雨覆志付置
全折損不用之分は纒置申候へ共近〻朽腐
∘最寄
可仕候間 町【以上1文字見消】∘触之上入札御払可被被仰付候哉此段
奉伺候
【朱書】
「∘伺之通被仰渡候ハヽ」
「右∘古木御払代金は年番方え預ケ置追て仮拝殿
小破修復等之節申上御遣払ニ相成候様可仕候」
以上 加藤又左衛門
辰六月 中村八郎左衛門
┌───────────────
│【朱書】「承り付」
│書面伺之通取計可申旨被仰渡
│奉承知候
│ 辰
│ 七月九日
└───────────────
┌───────────────
│【朱書】「ヒレ付」
│書面三十三間堂取崩候木品之内堂
│建立之節難用立三十併は此節
│入札払之儀都て本所見廻伺之通
│被仰渡可然哉ニ奉存候
│
│ 辰
│ 七月 年番
└──────────────────
三拾三間堂取崩木品拼分覚之帳
辰
六月
三拾三間堂取崩木品拼分之覚
一槻杉百四拾弐本 長弐丈 八寸角 柱
内七拾三本 木怔宜敷分
一榧杉六拾八挺 長《割書:壱丈弐尺ゟ|九尺 迄》 《割書:巾壱尺|厚八寸》 差物
内三拾七挺 木怔宜敷分
一松五拾挺 長壱丈 《割書:巾壱尺弐寸|厚六寸》 天棒
内拾八挺 木怔宜敷分
一榧七拾八本 長壱丈弐尺 壱尺角 地廻り桁
内廿六本 木怔宜敷分
一松丸太弐拾五本 長《割書:五間ゟ|弐間迄》 末口壱尺弐寸 敷梁
内拾弐本 木怔宜敷分
一松丸太百六十四本 長弐丈六尺 末口九寸 小屋梁
内五拾四本 木怔宜敷分
一松杉千四百四拾本 長弐間 四寸角 化粧垂木
内三百四拾本 木怔宜敷分
一松丸太九拾九本 長弐間半末口八寸 《割書:二重小屋
|梁木》
内拾八挺 木怔宜敷分
一榧杉九百本 長弐間 六寸角 母屋桁
内百七拾本 木怔宜敷分
一榧杉百九本 長弐間 七寸角 《割書:二重小屋|梁挟木》
内拾九挺 木怔宜敷分
一松四挺 長三丈五尺 《割書:巾弐尺|厚七寸》 隅木
是は御遣替物
一松杉千六百四拾枚 長八尺五寸 巾《割書:七寸ゟ|九寸迄》 縁板
《割書:厚三寸五分| 》
内弐百九拾枚 木怔宜敷分
一杉千六百本 長《割書:七尺ゟ |弐尺迄》 五寸角 束木
内四百五拾本 木怔宜敷分
一榧松八拾挺 長弐間 《割書:巾七寸 |厚五寸》 頭貫
内三拾挺 木怔宜敷分
一杉七拾弐本 長弐丈 八寸角 間柱
内四拾五本 木怔宜敷分
一松丸太百八拾五本 長《割書:四間ゟ |五間迄》 末口七寸 葉根木
内百本 木怔宜敷分
一杉三拾六挺 長四間半 末口七寸 筋違貫
内廿五挺 木怔宜敷分
一松丸太七拾本 長《割書:弐間半ゟ|四間迄》 末口七寸 《割書:地小屋|梁挟》
内拾四本 木怔宜敷分
一榧六拾挺 長四間 《割書:巾六寸 |厚壱寸五分》 通し貫
内三拾弐挺 木怔宜敷分
一栂三十本 同断 土台
右之通木品取調此段奉申上候以上
辰 請負人
六月 伝吉
【朱書】
「凡之御払木三十三拼」
町触案
深川三十三間堂取崩候ニ付古木之内
御払ニ相成候間望之もの来ル 日
四時右場所え罷出見分之上入札可
致候尤雨天日送之積相心得可申候
辰七月
古木御払
入札人心得書
一深川三十三間堂取崩し候ニ付古木之内
不用之分御払相成候間右場所ニ有之候
古木壱番ゟ三拾三番迄番数相認メ印
札付置間一塀【拼カ】毎ニ代金積り致し
合金高認メ可申尤入札人町銘名
前委敷相認メ印形致し封候上是
又名前認メ差出可申事
一入札金高突合候もの有之候節差列
順先名之者落札之事
辰
八月
【朱書】
「安政三辰年八月八日持田太郎助持参竹村慈左衛門を以
差出候処即日承付候様被仰渡候間承付致し持田太郎助持参
同人を以返上」
┌──────────────────
│三十三間堂古木御払之儀奉伺候書付
│ 書面伺之通落札人え御払
│ 可申付旨被仰渡奉承知候
│ 辰八月八日 本所見廻
└──────────────────
深川三十三間堂取崩古木之内折損シ
不用之分入札御払之儀先達て相伺候処
伺之通被仰渡候間最寄町触之上
昨七日望のもの共え木品見分為致塀【拼カ】毎ニ
入札申付候処落札合金金高三拾両壱分
銀三匁四分ニて深川富吉町利助店彦八
外七人え落札仕候右直段を以御払
可被 仰付候哉此段奉伺候
【朱書】
「本文伺之通被仰渡候ハヽ代金上納為致
私共ゟ年番え相預ケ置可申候」
以上
八月八日 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【付札の記号】
「三十三間堂古木御払代金相納候義申上候書付
本所見廻」
一金三拾両壱分
銀三匁四分
右は深川三十三間堂古木御払之義伺之通
被仰渡候ニ付昨九日落札人共呼出木品相渡候間
書面之金銀年番え相預ケ申候依之手形写
相添此段申上候以上
八月十日 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
古木八塀【拼カ】之代 深川富吉町
一金七両三分 利助店
銀壱匁七分 彦 八
同断 同所永代寺門前仲町
一金七両弐分 米吉店
銀五匁五分 惣兵衛
同弐塀【拼カ】之代 神田黒門町
一金五両弐分 清蔵店
銀五匁四分 喜兵衛
同三塀【拼カ】之代 神田紺屋町壱丁目
一金壱両弐分 彦太郎店
銀壱匁九分 松五郎
同五塀之代 南本所元町
一金弐両三分弐朱 藤次郎店
銀三匁三分 伊 助
同四塀之代 同所石原町
一金弐両三分 金兵衛店
銀弐匁四分 栄 吉
同弐塀之代 松屋町
一金三分弐朱 市右衛門店
銀六匁四分 半兵衛
同壱塀之代 岡崎町
一金壱両 喜三郎店
銀六匁八分 吉五郎
合金三拾両壱分
銀三匁四分
右は深川三十三間同古木御払ニ付
一統入札仕候処私共落札相成候間
書面之金銀上納仕木品不残御渡被成下
慥奉請取候仍如件
安政三辰年八月九日 右
彦 八㊞
惣兵衛㊞
喜兵衛㊞
松五郎㊞
伊 助
代半兵衛㊞
栄 吉
代吉五郎㊞
半兵衛㊞
吉五郎㊞
古木御払代金直段慮書
十七両 十八両
八拾五匁九分 四十壱匁九分
廿一両 廿九両
六拾五匁九分 四十壱匁九分
八両 九両
五十壱匁弐分 三十五匁九分
十四両 十五両
六拾五匁九分 六拾六匁九分
深川永代寺門前仲町
米吉店
惣兵衛
弐両
六拾六匁八分 岡崎町
徳右衛門店
吉五郎
〆
壱両 十弐両
廿匁弐分 廿五匁壱分
三両 三十壱両
廿五匁五分 五十弐匁五分
三十弐両
五拾弐匁五分 南本所元町
〆 藤次郎店
伊助
四両
三十七匁五分 松屋町
七両 市右衛門店
廿壱匁四分 半兵衛
〆
五両 六両
三十壱匁弐分 拾五匁五分
十三両
四十五匁弐分 神田紺屋町
〆 彦太郎店
松五郎
十両 十九両
三十八匁九分 廿三匁九分
廿両
四十八匁八分 南本所石原町
三十両 金兵衛店
五十五匁弐分 栄 吉
拾壱両
百廿七匁九分 神田黒門町
十六両 清蔵店
弐百七匁五分 喜兵衛
〆
廿弐両 廿三両
三十弐匁四分 八匁八分
廿四両 廿五両
四十四匁五分 六十九匁八分
廿六両 廿七【「両」脱カ】
六十七匁九分 七十五匁弐分
廿八両 三十三両
七拾六匁九分 五十壱匁弐分
深川富吉町
利助店
彦八
〆
右之通御座候
辰八月
【朱書】
「安政三辰年十月五日村田喜惣次持参竹村慈左衛門を以上ル
同八日又左衛門ゟ伝吉え書面之通申渡ス」
┌───
│三十三間堂古木取片付之儀申上候書付
│ 本所見廻
└───
深川三十三間堂取崩し候古木地所内ニ
積置候処当八月廿五日夜大風雨高汐ニて
九塀【拼カ】程流出シ雨覆吹落し候間取片付
仮雨覆志付候入用大工人足釘縄共
一式代金弐両三分銀九匁相懸り可申旨
霊岸島川口町家持伝吉申立候間取調
候処不相当之廉も相見え不申候間
右直段ニて同人え申付候右入用下ケ之義は追て可申上候依之内訳帳
相添此段申上置候以上
辰十月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
三拾三間堂古木取片付塀【拼カ】方共御入用内訳帳
辰
十月
三拾三間堂古木取片付方御入用内訳
一大工五人
代銀弐拾五匁分 但《割書:壱人|銀五匁分》
是は雨覆仕付方
一人足三拾弐人
代銀百拾弐匁分 但《割書:壱人|銀三匁五分》
内
拾四人 古木取片付塀【拼カ】方
拾八人 雨覆仕付方
〆
一釘一式
代銀弐拾五匁
一縄一式
代銀拾弐匁
〆銀百七拾四匁
此金弐両三分銀九匁
右之通御入用積り立奉差上候以上
霊岸島川口町
辰 家持
十月 伝 吉
【朱書】
「安政三辰年十月廿二日持田太郎助持参廿八日受取」
┌──────────────────
│深川三十三間堂古木取片付候人足賃幷
│茶炭代其外入用御下ケ之儀申上候書付
│ 年番え御断 本所見廻
└──────────────────
一金四両壱分
内
金弐両三分銀九匁
是は堂取崩追て用尽可相成古木仮
雨覆仕付置候処当八月廿五日風雨ニて
欠崩候間為取片付候人足賃縄其外
之代
金壱両壱分銀六匁
是は仮拝殿新規取建幷震潰候
木品取片付中仕様目論見於場所
用候筆墨紙水縄蠟燭其外
之代
右は先達而申上置為取懸候処此節迄ニ出来仕候間
書面之金銀相渡候様年番え被仰渡
可被下候
【朱書】
「右入用出方之儀は取崩候古木売
払代金先達て年番え預ケ置候
内ゟ出方相成申候」
以上
辰 加藤又左衛門
十月 中村八郎左衛門
┌───────────────
│ 上
└───────────────
一札之事
一昨廿六日当 御堂地内え紙屑拾ひ
体之者立入御目ニ留り候段奉恐入候
右は勝手不存者ふと立入候哉とも
乍恐奉存候以来右様之者立入候儀は
勿論御普請中之儀は諸事心付
可申旨被 仰渡奉畏候依之乍恐
一札奉差上候仍て如件
安政三辰年四月廿七日 善三郎印
一札之事
一昨廿六日当 御堂地内え紙屑拾ひ
体之者立入御目ニ留り候段奉恐入候右は
勝手不存者ふと立入候哉とも乍恐奉存候
以来右様之者立入候儀は勿論御普請中
之儀は諸事心付可申旨被 仰渡
奉畏候依之乍恐一札奉差上候仍て如件
安政三辰年四月廿七日 善三郎㊞
【朱書】
「安政五午年四月朔日」 ┌【朱書】「鰭付承付末ニ記」
┌─────────────────────
│ 深川三十三間堂普請目論見入用
│ 御下ケ之儀申上候書付
│ 年番え御断 本所見廻
└─────────────────────
一金五両三分銀六匁八分
右は深川三十三間堂去ル卯年地震
之節震潰候付取片付置候処
建直普請之儀仕様絵図目論見
取調中大工人足賃水縄通船筆
墨紙蠟燭其外共書面之通
懸払候間右入用御下ケ御座候様
年番え被仰渡可被下候依之申上候
【朱書】
「右入用出方之儀は先達て古木相払
候節年番方え預ケ置候金 之内ゟ【以上3文字見消】三十両
壱分之内金四両壱分は去〻辰年
古木仮雨覆其外入用ニ御下ケ相成
残る金弐拾六両之内ゟ此度出方ニ
相成申候」
以上
加藤又左衛門
午 下村弥助
四月 佐野十郎左衛門
【朱書】
「午四月四日年番方ゟ受取尤本文は高之端銀
書落ニ付認入弥助小印致し候事」
一金五両三分銀六匁八分
是は三十三間堂普請目論見諸入用
此度受取高
外ニ
金四両壱分 《割書:去〻辰年十月廿八日|受取》
是は古木仮雨覆其外入用
右は深川三十三間堂古木御払代金
三拾両壱分《割書: 小印|銀三匁四分》去〻辰年
八月中預ケ置候金子之内ゟ受取候処
仍如件 佐野十郎左衛門
安政五午年四月四日 下村弥助 印
加藤又左衛門 印
高橋吉右衛門殿
秋山久蔵 殿
松浦安右衛門殿
┌──────────────────
│ 一覧仕候
│ 午四月四日 本所見廻
└──────────────────
│ 書面御入用金五両三分銀六匁八分
│ 本所見回え相渡可申旨被仰渡奉承知候
│ 午四月二日 年番
【朱書】
「右絵図面写」
【右丁は絵図面】
覚
一三十三間堂
御絵図面被仰付候ニ付建地割
御絵図面ヲ引分ケ候賃銀大工
手間ニ見積り飯米代共三十工人
此代百八拾匁
【朱書】
「此絵図面折本ニ〆弐冊別ニ有之」
絵筆墨入用
此代四拾五匁
二口〆弐百廿五匁
此金三両三分
右之通諸入用相懸り候ニ付奉申上候
午 八丁堀亀島町
三月 大工 喜兵衛
御掛り
御役人衆中様
【左丁に折畳まれた絵図面】
【開かれた絵図面】
覚
㊞
一金百疋
右は深川三十三間堂建直
御普請御目論見ニ付船賃
其外書面之通御渡被下慥
㊞
受取申候以上
霊岸島川口町
午 家持
五月 伝吉㊞
覚
㊞【印字「本所\経定\□□」】
一金壱分 三十三間堂絵図
銀三匁 裏打裏紙之代
四枚分
一銀壱匁 上包之紙代
㊞【同】
右之通慥ニ受取申候以上
午 表具師
五月二日 定七㊞【同】
覚
一金弐両
右は深川三十三間堂御普請
に付仕様絵図等取調候ニ付
右入用トして書面之金子
被下置難有慥奉受取候以上
安政五午年
五月七日 亀島町
藤兵衛地借
喜兵衛㊞
安政二卯年七月廿七日大風雨ニ付
深川三十三間堂風損ニ付仮
拝殿取建候大工人足高幷場所
日記
北方掛
八月五日晴 持田太郎助
一人足 六人 奥村友左衛門
道役
清水八郎兵衛
屋根吹崩レ候場所取片付方
六日小雨
一家根方 五人
朝雨天ニ付人足出兼候間家根方之者
差出し家根板仕分ケ為致候事
八月七日晴 加藤又左衛門
一家根方五人 岡田源兵衛
一人足拾三人 大竹銀蔵
一大工弐人 道役
家城善兵衛
堂屋根其外損所材木類取片付方幷
家根板仕分ケ方
八月八日
一雨天ニ付休
一堂家根風損ニ付修復出来迄之内堂内え
御神像仮向拝取繕之儀伺書天保七
申年四月申中入仏供養之義申上書写嘉永
二酉年七月中寺社奉行松平肥後守殿ゟ遠山
左衛門尉殿え掛合写共加藤又左衛門持参竹村
慈左衛門を以上ル
一家根方五人 一手伝三人
一雨天ニ付人足共ハ差出し不申候旨
請負人申立候
八月九日晴 持田太郎助
一見廻り候処相替義無之候
一屋根方六人大工弐人人足 三【以上1文字見消】拾三人
一堂家根其外損所材木類取片付方
家根取捌方致候
八月十日
一見廻り候処相替義無之候 大竹銀蔵
一大工弐人家根方五人人足拾人
一右同断取片付方致ス
一明日対馬守殿多分当場所見廻り可有之旨
左官幷人足出方之者えも為心得申渡置候
同十一日 晴 加藤又左衛門
岡田源兵衛
一大工三人 森本与三郎
一家根方六人 道役
一人足十人 家城善兵衛
一為御預御役所へ罷出相伺候処本日対馬守殿
評定所式日宜敷相済御帰宅之上両国橋御修復所
御見分夫ゟ三間堂損所御見分御出被成候旨被仰渡候間
直ニ当所へ罷出手配致し夫〻相達八ツ時分
当所御出損所御見分相済道菅宅御小休
裏門ゟ御退坐在之趣
一
一深川永代寺門前名主伊七郎得左衛門熊井町
理平次相川町新兵衛罷出候事
八月十二日 見廻り
村田喜平次
一家根方三人大工弐人人足五人
同十三日 見廻り
【朱書】 奥村富左衛門
「八月五日ゟ十二日迄は大工人足
家根方共入仕事ニ付見倒し致候
大工十壱人 人足六十人 家根方三十三人
〆 右之通り別段入用書請負人ゟ差出し候
八月十四日
両国ゟ見廻
持田太郎介
一大工弐人
一仮向拝下拵致候
八月十九日降り
岡田源兵衛
大竹銀蔵
一昨十八日加藤又左衛門村田喜惣次北御役所え
罷出伝吉呼出仮向拝許仕様帳之通り請負人
被仰付候旨御頭被仰渡相済
一大工五人 一人足弐人
一仮向拝入口扉戸板仕損之処昼之内明払ニ相成
無用心之趣道菅申立候間小窓之内外格子取外シ
仮覆居鴨居取付為相用候積伝吉道菅へ
申渡置候
八月廿日雨 持田太郎助
奥村友左衛門
一大工四人 人足壱人
一向拝羽目取付方
一向拝左右開き口之儀上総戸左用候仕様之処
是迄元向拝ニ建有候三尺ツヽ之前良戸有之候間
右を相用ひ候方手丈夫之上見体もよろしく
被存候間屋敷幷職方へ申付取付方之仕形
工夫申付置候
八月廿一日晴
一大工三人 村田喜惣次
一人足壱人 道役 森本与三郎
清水八郎兵衛
一向拝表入口戸取付方幷同所下柱包方
同所畳拾弐畳幷薄へり拾壱枚
請負人伝吉方ゟ持込候
八月廿二日曇 加藤又左衛門
一大工三人 岡田源兵衛
一人足壱人 大竹銀蔵
一畳敷合寄セ板仕付 道役
入口戸〆り其外掃除も致ス 家城善兵衛
一御神像仮向拝堂内え普請本日皆来相成候間
出来形見分いたし候処仕様帳之通出来奉存間
右御届北御御役所へ翌廿三日加藤又左衛門持参
用人竹村慈左衛門を以上ル出来栄御見分之義相伺候処
別段御出無之旨被仰渡候間右之趣堂守鹿塩道菅へ
相達候処来ル廿八日
御厨子 仮向拝へ御移申上候旨届出候事
一三間堂風損修復伺幷仕様内訳帳相添
八月廿六日北年番所へ加藤又左衛門持参
対馬守殿へ用人竹村慈左衛門を以上ル
九月十六日晴
岡田源兵衛
一人足六人 大竹銀蔵
道役 清水八郎兵衛
一三十三間堂風損修復伺之通伝吉へ請負
可申付旨被仰渡候ニ付当付十二日北於御役所
対馬守殿伝吉へ被仰渡本日ゟ修復取懸旨
右御届善兵衛岡田源兵衛持参竹村慈左衛門ヲ以上ル
南御役所大竹銀蔵持参
一足代取建方いたし候
九月十七日 晴
一大工六人 持田太郎助
奥村友左衛門
道役
家城善兵衛
一足代取建方
一仕様帳下代与兵衛え写ニ貸遣ス
返却次第内訳帳貸遣候積り
一鹿塩道菅ゟ可差出証文え印形も摺込ニ
いたし置 但修復伝吉え申渡之義
九月十八日快晴 加藤又左衛門
村田喜惣次
一人足拾三人 森本与三郎
道役
清水八郎兵衛
一足代取建方 一下代与兵衛出ル
一下代与兵衛昨日 下ケ遣候仕様帳返上致
尚又内訳帳下ケ遣し候事
卯九月十九日 晴
岡田源兵衛
大竹銀蔵
道役
家城善兵衛
一人足五人 一大工拾弐人
一下代与兵衛出ル
一足代取建方材木木取方手伝人足共
九月廿日
中村八郎左衛門
持田太郎助
奥村友左衛門
道役
一人足三人 家城善兵衛
一大工三人
一下代与兵衛出ル
一足代仕付方材木類水揚
九月廿一日 村田喜惣次
一大工八人 森本与三郎
一人足五人 道役
清水八郎兵衛
一箱棟仕付方小屋道具下拵
一下代与兵衛出ル
一御用箱机ニ付御用中物詰替明箱は
道菅方差返申候事
九月廿二日晴 岡田源兵衛
一大工九人 大竹銀蔵
一人足七人
一箱棟仕付方小屋道具下拵
一下代与兵衛出ル
九月廿三日晴
加藤又左衛門
持田太郎介
森本与三郎
一大工拾四人人足七人
一前同断箱棟仕付方小屋道具下拵
九月廿四日晴
中村八郎左衛門
奥村友左衛門
一大工八人 村田喜惣次
一人足六人 道役
一箱棟仕付方小屋道具下拵 家城善兵衛
九月廿五日 晴
一大工九人 岡田源兵衛
一人足七人 大竹銀蔵
一箱棟仕付方小屋道具下拵
九月廿六日
一雨天ニ付休日
九月廿七日快晴
村田喜惣次
一大工拾三人 一家根八人 森本与三郎
一人足九人
一下代与兵衛出ル
一大棟外家根仕付方幷土居崩手伝
人足共
九月廿八日晴
中村八郎左衛門
一大工拾壱人 岡田源兵衛
一人足八人 大竹銀蔵
一家根職九人 道役
一下代与兵衛出ル 清水八郎兵衛
棟廻り仕付方幷西側家根下地仕付方
同廿九日晴
持田太郎助
一大工拾人 奥村友左衛門
一人足八人 道役
一家根方拾人 家城善兵衛
一瓦師弐人
一屋根箱棟仕付方野地下拵
一向拝上土居葺不残出来
一古瓦磨方
九月晦日晴
村田喜惣次
一大工九人 森本与三郎
一人足七人
一家根方拾弐人
一瓦師三人 但古瓦磨方
右は下家根下地仕付幷葺方手伝
人足瓦師共
十月朔日 晴
一大工拾人 加藤又左衛門
一人足七人 岡田源兵衛
一家根方九人 大竹銀蔵
一瓦師拾七人
右は表通棟下瓦葺立幷西側家根
葺立下地仕付とも
一下代与兵衛出ル
【白紙】
【白紙】
【図書館ラベル】
┌─────┐
│8│ │ │
│0│ │1│
│8│ │ │
└─────┘
【白紙】
【白紙】
【裏表紙、文字なし】
国芳国貞錦絵
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【上の端が切れていて多分一文字分読めない】
□【婦?】人諸礼鍳□内 婚礼
□【夫?】婚礼は礼の元娶に
□ならず□をもつて
□と唐土の聖は説かれ
□も吸物の蛤が屏風の
□に押てある
□形になる事は月令
□□さらに見えず
□【縁?】をさだんの
□【日?】を撰びおくる
(印) 一勇斎国芳画 [上金]
【上の端が切れていて多分一文字分読めない】
(印) 朝桜楼国芳画 [上金]
□荷物に番組を
□め又祝言の
吉日は式
□献の
三番叟
□筥ならぬ
貝桶に
□人の
□謡ひ
□【あ?】れば
□やしは
□待女臈
□婦御のシテが
□□に左あらば鈴と
□ふごとく姑も鍵をや
【上の端が少し切れている】
□ゐらせんたえず
とうたり
家の悦び実にこれ
子孫の種蒔とも
いふべし
帽子着た
すがたや
雪の
白牡丹
一勇斎国芳画
(印) [上金]
柳下亭種員記(印)
【白紙】
【白紙】
《題:出雲の大社》
黄幡
八百万神
どふけ
あそび
【図中文字を翻刻】
やつかの
つるき
りうしん
かかつ
千
へうびし
金神
けんむ
きヲん
ひよし
【図中文字翻刻】
とそしん
こはけ
うすめ
あそ
わたつみ
千
はるひ
□そのかみ
以戌
児 田 う さんめん
知 田地が 飛かく ひかは たかし きぶ子
ぶんろく たなが しこ
聖 千両
美 有
ひん 之
嘉
久
与
古
ここ志
茶情
長塔狂玉
【文字無し】
【文字無し】
【右丁 右上】
七五三祝ひの図
【右丁 右下】
国貞改二代
豊国画
【左丁 右下】
国貞改二代
豊国画
【中頁 右下】
国貞改二代
豊国画
【右下】
国貞改二代
一陽齊豊国画
【文字無し】
【文字無し】
【右丁 右上】
大
社
ゑん
む
すび
【右丁 中程】
〽おれもまいとし
てうつけをしたが
こんな事はない
ばか〳〵しい
【右丁 中段左】
〽これ〳〵おのれ
こんなじやう
だんもほどが
あるおのれ
みろやい
【右丁 中段やや下】
〽こうむすひちがつて
いまことにこまるよ
こりやひとしあん
しにやならぬ
【右丁 下段】
こう〳〵〳〵
どういふもんだ
しほがまもこれ
ではこまるだ
ろう
一魁齊
芳年筆
〽まア〳〵〳〵
おたがひに
しづかに〳〵〳〵
〽なアに
おれがしたが
どうした
してわるけれは
とうともしろ
【左上部】
〽こんな事ぐらい
をおこられて
たまるものか
いま〳〵しい
べらぼうづらめ
【下段】
〽おれも
まことに
こんなに
こまつた
事はない
〽こんだはまちかはぬ
ようにきを
つけよふ
【文字無し】
【文字無し】
《割書:風|流》生人形
一寿齊
国貞画
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【裏表紙】
【帙入】
《割書:地震|後世》俗語之種 《割書:初編|之一》
伝聞地震は陰陽の昇降浮沈の遅速に
より発行して雷となり地震となる
とかや春夏秋冬に臨て浮沈前後の
差別巡還ありといへとも予春寒退兼
て悪風を起し立夏より夏至に及す
のころ冷気にして地を震秋暑難去
して邪気を発し立冬より冬至に及
すのころ暖気にして地震ふ事其例少
からす茲皆陰陽不順なる自然と不正の
病苦も流行し草木にあたるとかや水
火の勢大空にすれあひて雷となり百里
に響といへとも障なきをもつて不動地中
は是障多かゆゑに大地を動すといへり
茲皆陰陽五行五性の変化より発行
する処なりとかや
今爰に弘化四年丁未歳次清明の下旬
二十四日の夜亥の初尅天災不思議なる
大地震を発し信濃の一国を大に
破損す就中水内高井埴科更科
筑摩の五郡地水火の三災をもつて
人民牛馬およひ山野田畑を損事前
代未聞にして言語に絶たり此変化
たる事を奈何其予愚毫を止めて子
孫累世のなくさみに書残事を思慮なす
といへとも幼時不勤学老後雖恨悔尚所
益有ことなしとかや我今紙を撫筆
をねふりて先後の有増を案すといへとも
何から先も不能思案こつては尚更混
雑不埒親の教訓を午の耳悔んて還
らぬ無学愚知述懐なとゝは金輪際
俗物プウヽヽ俗語なりと笑ふ子孫も
あるならは草葉の蔭にて歓へし彼を
思ひ是を厭ひ徐く思案も一決し銕釘
元祖の手跡ても瓢単鯰の文章ても書
遺さへあるならは後世まても尽せすと
おそまき思案の後悔は茲畢竟幼
時不勤学の由縁なるへしこの書は
おろか書類をはいらさるものと麁抹【そまつ】
にし襖下張屑紙に用ゆる事は
必しも嗜慎給へかし俗語のくせに長
文句と誹謗もおつはり春の夜の笑の
種ともなれかしと子を覧事親に
しかす可悋後悔なるは唯家に記録
なきことをのみ
于時弘化丁未の夏麦園に仮居の
折節徒然のあまり閑窓の下に
塵を払十六夜の月の照りを行
灯の影に写したはむれ書して
子孫のなくさみに遺す事しかり
粟生菴清陰
其本末白地而美言除只
恣後世之伝訛言誤頗雖
多不患他見之嘲而子孫
之憍情愛兼可恥我拙歟
因後世俗語之種表者也
人王三十代欽明十三年壬申十月十三日
自百済国聖明王貢献仏経之云
善光寺如来自百済渡来之図
【善光寺如来自百済渡来之図】
人王三十一代敏達二年如来自難波之
堀江出現同十四年守屋大臣再如来ヲ
難波之堀江ニ沈メ及仏閣経巻破却ス自
欽明十三年五十四年ヲ過如来難波
之堀江ヨリ出現
倭漢三才図会巻之第六十八
信濃国善光寺 在水内郡芋井郷寺領
千石 欽明天皇十三年本尊如来自百済
渡来而未倍推古天皇十年草創建寺於伊
奈郡麻続之里宇沼村而後皇極天皇元年
依勅伊水内郡建立本願主名本多善光因
以爲寺号慶長二年七月秀吉公以本尊奉
入於洛之大仏殿然仏不悦而有奇崇故同
八月復奉還焉 幸一謹写
自丹波駅河原長し所謂
吹上荒木中御所石堂善光
寺まて一里の間家続る書
犀川渡船の略図
三船をもつて旅行を渡すと
いへとも紙中挟【狭】けれは縮て其
略図を出すのみなり
【犀川渡船の略図】
従石堂田甫
善光寺市街
見上ル之
略図
小人閑居して不善をなす幸一幼少にして
父母の恩愛を恣にし不孝にして教訓を
等閑にす今爰に後悔朝夕たりといへとも恩罪
身にまとひて人前に無学の恥辱をさらす可
憐可怖罪過消滅懴悔のため己か病根を爰に
於いて子孫に語る養父病に臥し給ひて終に遠行
の旅路におもむき給ふといへとも若年にして
看病の怠る事を覚実母此世を去給ふといへとも
是また左の如し年経て後不行跡にして
江府にありし実父の病ひ便りなき国に旅立し給ふ
その日をもしらす父母居す時は遠遊せす是聖賢
の教を守らさるの後悔也自らなせる禍ひ難
遁不順にして恥辱を抱て再国に帰り養母
の腹立給ふを慰の詫を乞願ふといへとも是を心
よしとし給ふ事なし数日仮居して妻子と
共に憂辛苦をするといへとも困窮爰に止りて
朝夕患多し折しも夏の日の夕立篠をつく
か如し雷鳴耳をつらぬき電光目に遮に
おそろしといふも尋常なり此時己驚怖
して是を思ふに酉夢打其父天雷裂其
身斑婦罵其母霊蛇吸其命指をおりて
罪を数るに三枝反甫の礼をもしらす己か如き
不孝なるものならて誰か現罪を蒙らさる
へき今にも一身撮み裂るへしと苦患堪か
たく狂気の如くして有けるかしはらくして雨晴
電光止ぬ爰において懺悔して己か不孝にし
て父母の遠行を残り多しとせす養家
を継て不行跡の科あり今我路途に迷ふ
とて身儘にして再家に帰らん事を欲す養
母憤りて免し給ハす是畢竟己か身を
恨むるより他事なし妻子なくは剃髪して
菩提心を発し若不幸におちいるへき若気
もあらは此一条を談合もせはやと心痛
しきりにして是を悲む痛ましきかなそれ
より此かた風雨を怖れ物に驚く事骨髄
に染込て遁るゝ事を得す是則己か病根
にして驚痛の恥を発し療養を加ふと
いへとも治しかたく脳める事中に語るも恥
へき事なりけり爰に己か娘順は養母の
愛憐を蒙りて成長したりけるものなれは
祖母と孫との愛情の橋かけ初て終に詫を
そ免し給ふる是を思ふ時は我子を愛
其孫を恵む事の情合子を見る事親に
しかす有かたしといふもまたおろかなるへし
程経て養母も重き病に臥して終に遠に
赴給ふ此時始て看病をもし野辺の送り
をも勤めけれはおのれなからに勧念して
そ勘考しける心には墨染の袖に世のうさ
をおほふといへとも煩脳すてかたく妻子の行先
に迷を尚不顧罪を重ぬる事こそおそろ
しけれ養母のはかなく成給ふ看病の外
孝に似寄たるさまもなけれは自ら改めて名
乗を幸一とす此うへの未熟を世の人にひろめ
未熟を不患して罪を滅し是を子孫の幸
ひにす一ツは万物のはしめなれは幸一
過て改るにはゝかる事なかれ左に記す大災の
書も後悔にして其子細愚なり半はまて
綴りて是を見るに書写したる己にさへ可
笑み拙き事こそ多かりけれ尚閑をね
らひて書損を改め清書する事を欲すれ
とも病苦に逼れは其足事全からすや
紙数の散失なはん事歎か儘に先是を
仮にとしてそ置ものや若行届かすして
清書を遂す此儘子孫に送らはその拙事を
必誹謗ある事なかれまた己か無学病
根の罪過を懴悔消滅のため爰に書加へ
たれは子孫に至り後悔の二字を深慎み
取返しかたき事を可怖実に前車の
見覆後車の為誡事を伝ふる而已
粟生庵主
善左衛門
幸一 【花押】
幸一折節し眼病に痛く
悩めるまゝに忰貞助に筆を譲
りぬ文字仮名違も多かるへけれと
いまた若輩なれはなりと教
学覧を仰奉願のみ
爰に善光寺如来の伝書に似寄又
当所の繁花を記せし事不屑にして物
知めかし亦此書を遠国他人に送るにも
非さる事を徒に紙数を費し愚毫を
さらすに等し子孫累世に及ひて是を
見ん時は奈何嘲笑すへきもなからんや
愚おもふに満れは闕るのならひといへとも
遠境隔る所の通客は山国を侮り物言こと
鳥獣にひとしく人間に四足なき事を怪む
爰に今此小冊を残して諺に驕平家の
久からさる事を子孫に語り伝て聞天明
の頃始て当処へ雪駄二足を商人の
持来る事を是を求得て試見ん事を
評議区々なりとかや纔に六七拾年余
の今に至りては天鵞絨の二重紐も昔の
事におもひやはた黒桟留皮をこのみ
我幼年文化の頃は適々来駕の客を
饗応すといへとも内津のさゝ波一森なんとの
煎茶を極最とす讒に二十有余の年間の
今に至りては都の辰巳しかそすむ世を宇治
山の撰葉も差別を論して是を常とす
如斯驕奢に押移る事天の悪もまた恐
怖すへし人間生死を案する時は流行
栄花を深くつゝしみ四海皆是兄弟たる
事を勤てもつて長子孫を連続すへし
今天より大災を受て暫時に繁花を昔
にかへらしむかゝる盛衰を眼前に見る
事を思ひ徒に筆を採て気欝を
紙上にさらして累代のなくさみに残す
のみなり因て覧人笑を免し給へかし
抑当国善光寺三尊弥陀如来の来由は遍く
世の信仰にしる所にして霊験殊にいちしるし
三国伝来の伝書より人皇三十代の帝
欽明天皇の御宇にはしめて日の本に渡らせ給ひ
三十六代の帝 孝極天皇蘇生ましますの
縁に寄昔時本多善光へ勅命あり諏方の国へ
供奉して安置まします今呼て伊奈郡座光寺
是なり天平三壬寅年諏訪の国を信濃の国に
あらため同国芋井の郷に遷し奉る此時高
島の郡諏訪明神の神職奈何の縁に寄てか
本多善光と倶に供奉し一山のうちいまの
中州に血脈を止めて連続すと云々今もなほ
御仏御超歳の御宮なりとて恐多くも
公義御普請の一宇において師走二ノ申の日の
夜尤秘密にして行之此夜にあたりて市町の
人家はいふもさらなり鳥獣たにも小声一言を
慎すんは必神の崇ありとてひそまりかへつて
恐怖す御超歳の首尾能済たる事を大鐘四方に
響の時を待て参詣群集たる事其例し
今もなほ昔に変る事なし是全神職
血統の修行に寄なるへし尤秘密なれは其
予詳なる事をしらす今の御堂より乾にあたり
箱清水村あり四方は芋井の郷にして一邑の
地中を深田の郷といふ村入のかたはらに十人河原
あり其昔如来誦経の料として深田の郷において
二百石を十二院へ給ふなほその頃は江拾三井
寺の末院たりといふ是なん一山のうち衆徒
なりとかや数百年の星霜を経て十二院は
名のみ残る是を誤て当所の人今呼て十人河原
といふとかや一山四門に勅額あり東門を定額山
善光寺西門を不捨山浄土寺南門を南命山
無量寿寺北門を北空山雲上寺
月かけや四門四州にたゝひとつ はせを翁
既に定額山善光寺は東門にて御堂も東向
なりしを数度焼失あり就中寛永十有
九年壬午五月九日の出火にて町〳〵およひ
御堂類焼す其頃大勧進御方本領上人御方
争論の事ありて仮御堂を御両寺の間に
建といへとも入仏再達の金も延引におよひ
尊像を焼跡に安置奉りぬ慶安三庚寅年
出入相□七ヶ年過寛文六丙午年四月十五日
御堂へ遷し奉り元禄元年始て如来
堂建替の願ありて諸国に勧化あり元禄
十二戊寅年【*】唯今の場所へ地祭りありて
普請はしまる同十四庚辰【*】年七月廿一日
下堀小路より出火南風烈敷御堂も財【材】木も
類焼す固落【?】再国〳〵勸化これあり同十
六癸未年より普請はしまる此時御両院
より熟願ありて松代御城主様より普請
支配として諸役人を給ふ惣奉行山田□を
始として上下の人数百二十五人御配役の次第は
別錄に委鋪して爰に略す元禄十六年末の
八月年号改元あつて宝永四年亥迄五ヶ年を
経て建立あり□善光寺御堂は大
伽藍にして遍久世の人の知る所なりと
いへとも纔に五ヶ年の建立全成就なる事
尊敬すべしそのあらましを爰に記すに
御本堂《割書:桁行二十九間三尺一寸五分|梁行十三間七寸五分》高さ石居より箱棟迄九丈
【*:年と干支が合っていない】
坪数三百八拾七坪三合 余者別記委鋪して爰に略す
柱立宝永三戌年四月十六日 上棟同亥年七月朔日
入仏同八月十三日 供養同八月十五日
其余者別録に委鋪して爰に略す
是今の御堂にて諸国より参詣夥しく前代
未聞の群集にて善光寺の街はいふも更なり
近辺まても旅宿するもの多し通夜する者は
御庭に充満する事言語に難述しと云々昔時
欽明天皇の御代年号たに不定其昔日の本に
渡らせ給ひしより今弘化四年丁未まて年数百年の
大なるは普く世の人の知る処なりかゝる
旧地の霊場なれは年増日にまして繁昌し
諸国よりの奉納寄附のし□ふ〳〵善美を巻し
参詣の諸人は百里お遠しとせす老若男女は
王還の足労を不厭して爰に群集すまた
北国往来にして旅人多し御領は入交る
といへとも世俗に善光寺平と唱ふるまての見渡し
丑寅より未申へ里数十余里東西五六里にして
悉平地なり□山国なれとも遠近山中に
村々多しいつれも市町nに弁利ありて炭薪
麻木綿雑穀を夥敷商ふ北海へ纔十五
六里を経て朝夕に生魚を得流水にすめる
ものは名たかき千曲犀の両川より手をうつて
走り井の本に呼田畑ともにニタ毛を耕作
するの徳あり其外山海の魚鳥四季の野菜
もやし青物のたくひは呼声終らせるうちに鍋に
入り三ッ子といへとも料理を味ひて生死の蒲
焼を知る形の大なるを重しとし小魚の軽を好とす
就中化物織ものやくひ諸国の新製新
形をこのみ実に諺に京に鄙ありといひつへし
しかるか中にも当所はいふも更なり東南西北の
駅路近辺まても利潤格外にして参詣群集なるは
一山の中に常念仏堂あり七八ヶ年の程を
経て五万乃至六万の日数を積りて惣回向
ありまた血縁のため前立本尊御開帳にり
尤累代の例によりて三月十日より四月三十日まて
日数五十日の間其賑しき事山国辺□にはまた
珍らしといへとも世に仏都と唱ふるをもつて
疑心を発すへからす凡累例の式作法をはしめ
此前年十月十夜に
あたりて三都
を始当山二
天門前へ
立る事常例たりとかや
然るを今弘
化四未年御
回向につき午 年九月十日建札ありし事奈何の
由縁なるか其詳なる事をしらす此時御別当大勧進
《割書:大仏頂院権僧正|山海御代也》松代大守様元来の御懇意たる
に寄時候御伺として御登城あり御懇の
御もてなし厚善美の御土産物まて
給はりて首尾全にして御帰山奈りといふ
此とき誰いふともなく此事を虚説して曰
十月十夜におよひて札を建事常例たり然るを
奈何三十日をなく届もなくして建札あるの
よし同薩諸色買置を催しまた直上をた
くむ人□騒立事三【五?】ヶ月とて可満を四ヶ月の
ふ離通たりとて此旨御尋のありしゆゑ御記
【立て札横】
此札之書方者多分粗□【米に吾:齟齬?】可有之
唯其大卒を以図に出す而也覧人
不可違事謗
【立て札】
信州善光寺如来
常念仏六万五千日回向
来未年三月十日より四月晦日迄本堂に
おゐて前立本尊開帳御印文頂戴毎
朝四ッ時法事修行有之もの也
として御登城ありけれとも御許容なし
因兹御回向は空しくなりしといふ此時予も
松城にありしか御城下町は更なり御家中に
おいてたふ其取沙汰専らなり予も心を痛
帰る路すからも其説よち〳〵なり帰りても
なは是を同ふに最早建札は引ぬる事を
取沙汰する事多かりけり其虚説にして
所にたらすといへとも爰に三月二十四日既に
御回向盛にして諸国参詣の旅人幾千人と
なく一時に命を爰に群死は疑ふらくはかゝる
大災の前表にもありけるにや
○弘化三年午の十月朔日終日悦晴にして二日
雨降る三日天気にして四日終日雪降五日
終日雪降り午の半刻より雪大いにして
寒気尤厳なり酉の初刻雷鳴夥しく
雨戸障子の内まて其光りすさましく
心耳を驚す事尋常なり奈何大寒雪
中においてかゝる変事有事実に陰陽
昇降の遅速によるなるへきや予日記に
しるし置たるをかゝる大地の震ふ事をおもひ
あたりし侭に爰にしるすもまた可愚なる哉
町々の奉納かざりつけの次第繁花の家並に
至り凡略図を紙数の中に愚毫をさらし置ぬ
そのあらましをいはは先名たかき犀川の渡船
あり水の満微に随つて二船三船をもつて
縄をたくりて旅行を渡す其水上は木曽川
にして山国谷間を流れいてて平地に至れは
河原のほと尤長し浪あらくして瀬早し伏て
渡船を縄こしにす遠近の通舟茂た乗る
商人も船頭の様を便りにあら浪を上
下しをやけき月は浪のうね〳〵に光りを
うつし初秋告る雁行かふ鴨いつれかあ
はれならさらん千曲犀一川になりて北海に
流れ名物の川鮭此辺に漁り一瓢を□の
るもまた面白く夜行には吹上の石燈籠
を見当に旅の労れをわすれはやくも善光寺
にいたりぬるかと宿入馬の鈴の音色も面にく
馬士うたにつれて
荒木村をすくれは中の御所むらあり昔時
征夷大将軍頼朝公建久年中善光寺
参詣の刻仮御所に定め給ひしゆゑに
字とせり爰に大将軍守仏髪の馬
頭観世音政子御前の守仏正観音
弘法大師御作地蔵尊安置の御堂あり
これより三丁程歩行て石堂村あり
かるかや親子地蔵尊の古跡石堂丸の
因縁によりて字を石堂村といふとかや是より
御本堂まて左右に家を建つらねて
【道標】
荒木村
従是北西 御代官 川上金吾助支配所
【道標左】
中之条御在陣と可知
諸商人おもひ〳〵に見せ店をまうけて
家業怠る事なし都て町〳〵の
有増を図画の大略をもつてす先程に
近来取にけて繁花賑ふにしたかひ一より
十□【百?】千に至るまて一ッとして不足する
事をきかす説前にも記せり如く善
光寺如来御回向とて来年の事をいへは
鬼の□【笑?】ふ今年より
我人におとらしと精を磨き魂【䰟】を碎て
利潤の大なる事を工風し新製妙
案なる事を催す其外旅籠屋茶
店に至り煤を払ひ行燈を張かへて
年のあくるをまつ或は芝居或は軽
業曲馬をはしめ遠近にあるとあらゆる
評判記を尋もとめ給金雑費の多
少をろんせす工風をこらす事
尋常なり
最明寺殿教訓の章の
うちに冨貴貧賤も過去のやく
そくなりとをとわて見れは
直に願ふへき富きもあらす
いとふへき貧賤もあらす
秋の夜のせやけき月は
冨の家もわか草の戸も
かりてさりけり
幸一
【白紙】
【裏表紙】
諸国へ無事を知さんが為もより分くはしくしるす
御江戸 禁売《題:大地震出火巨細記》関八州 坐石堂壽鐫
【上段枠上】
御府内地震出火共焼崩土蔵数は
御大小名様方土蔵分は
六十七万五千三百六十九戸前也
御小屋敷方は
二十九万八千六百三十八也
御武家方は
十七万二千九百四十七也
寺院蔵崩焼分は
三千六百五十六也
町方土蔵は
四十二万九千〇七十五也
惣〆高 八百万九千七百八十五也
但し蔵数あまた有之
候へ共不崩古蔵之分
此中に入らず
《題:御用》 町会所
【上段枠下】
御救小屋五ヶ所
幸橋御門外火除地
浅草雷門外広小路
深川海辺新田
同永代寺八幡境内
上野御山下原
東叡山宮様より
御山下江立
右共
二ヶ所
【下段枠】
第五《割書:〇日本橋より南 品川宿まで|〇芝西みゝほ飯倉三田辺迄》
日本橋南壱丁目より四丁目まで左右中通り共
所〻にて古蔵崩る所多し人家はさのみにあらず
白木屋黒江屋などいたまず 西川岸呉服丁
がし新場通り共にいたみ少し 南伝馬丁より
東西共崩つよく かち橋外南柑屋丁五郎
兵衞丁南かぢ丁南大工丁やける 疊丁は火の中にて
少しのこる大根がしまばやける東は具足町柳丁
炭丁因幡丁鈴木丁常磐丁松川町片側にて
やけとまる通りは弐丁め三丁め京橋きはにて焼止る
▲京橋向は銀座三十間堀弓丁弥左エ門丁辺
木挽丁辺汐留浜御殿つきぢ一円芝口より
源助丁限 東は仙臺様西は久保丁限り
此内誠におだやかにて崩る所まれ也
尤土蔵いたみ候所は諸〻に相見へ申候
此うち数寄屋がし辺少しいたむ八官丁土橋
辺いたみ少し▲露月丁よりうら通り共いたみ
つよく柴井町壱丁やける夫三島丁神明丁
大いにつばれ芝神明社恙なし 増上寺御山内
御別条なくあたご下通り西之久保は少し崩る
飯倉四ツ辻辺いたみつよく赤初根すこしいたむ三田
本芝田丁は無事也高輪辺品川迄格別のことなし
臺丁は聖坂辺まで少し崩所有但土蔵いたむ所多し
【上段枠右】
于時安政二乙卯年十月二日夜四ツ半時地震
発し一時に発動して関東一円損亡夥敷く
人民肝を消て大路に轉ふ天救を請て漸に命を
保もの官府の仁恵を乞て始て人心に帰す
第一《割書:〇和田倉内〇大名小路|〇大手前〇日比谷内》
先震動焼亡の所は和田倉内馬場先内
〇【家紋】会津二十三万石 松平肥後守様やける〇武州忍十万石 松平下総守様焼る
夫より〇越後村上五万九千石 内藤紀伊守様やける此辺西丸下御屋
しき桜田内共崩れ多く損じ広大なり
▲龍の口北之角〇下サ【(総)】生実三万石 森川出羽守様やける
夫よりうた様御向屋敷やける〇姫路十五万石 酒井雅楽
頭様やける但表御門残る此辺神田橋ぎは
左衞門殿様小笠原右京大夫様松平越前守様
道三橋辺御やしきすべて崩おびたゞしく是より
向川岸は細川越中守様別条なく秋元但馬守様
此辺御やしき少 ■ツヽくづれ多し松平丹波守様
水野壱岐守松平越後守様何れも少ツヽくずるゝ
大名小路は両側共崩所〻也西側角〇近州三上 一万二千石 遠藤
但馬守様うしろ定火消御やしき共やける
〇因州鳥取 三十二万五千石 松平相模守様やけ御長家少しのこる
日比谷御門内〇三州岡崎五万石 本田中務大輔様やける
〇摂州高槻三万六千石 永井遠江守様やける 此辺いたみつよく
すきやばし通りかち橋通り共損亡おびたゞし
【上段枠左】
第弐 《割書:〇外桜田辺 〇かうかじ丁 〇番町|〇幸橋内 〇四谷赤坂 〇青山辺》
外桜田は芸州様御屋敷別条なく黒田様御屋敷は
角矢倉之御物見残り表御門きはまで御長家くづるゝ
此辺諸家様崩多く南は溜池へん西は赤坂
御門山王永田丁辺諸〻崩る猶又新シ橋内東角
〇石州鹿足四万三千石 亀井隠岐守様御屋敷内にて長家一ト棟焼る
それより〇日向おび五万千八十石余 伊東修理大夫様やける〇和州郡山十五万千二百八十石松平時之助
様やけ又向がはゝ〇奥州もり岡十一万石 南部美濃守様〇薩州様
御装束屋敷表側やける其外有馬様丹羽様
に【「北」カ】条様大岡様水野様鍋嶋様等いづれも崩
多し上杉様少し崩る〇長州様うら御門内
少しやける〇肥前佐賀三十五万七千石に 松平肥前守様崩候上やける夫ゟ
山下御門内は 手通りふ残中でも阿部播磨守
様大崩れ又井伊かもん頭様より三軒家辺
平川丁崩少なく麹町通所〳〵崩あり
谷町隼人山本町少しいたむ四ツ谷御門内は
尾州様紀州様共其外御やしき崩少し番丁崩なし
是より四ツ谷傳馬町通市谷は高地宜しく
鮫がばし丁縁ひくき場所いたみつよし當所は
上水万年樋そんじ水あふれ諸人難義す
新宿成子大久保辺千駄ヶ谷別してさわりなし
青山赤坂は所〻そんじ多く分けて田町傳馬丁辺
崩れ多く麻布龍土日かくほ辺すべて崩少なし
【下段枠右】
第六《割書:〇上野広小路〇坂本金杉辺|〇根津池之端〇御成道山下辺》
東叡山御山内は御別条なく宿院諸所いたむ
池の端茅町弐丁目より出火境稲荷より上は
七軒丁根津辺迄崩多く候へ共類焼なし
茅町は壱丁め木戸際ニて焼とまる山側少しのこる
出雲様榊原様無事也切通し下町家大崩なり
天神下通り崩つよく御すきや丁皆崩るゝ仲丁は
片側崩多く両かは丁は少し 広小路山下辺崩多し
廣小路東側中程より出火上野元黒門町北大門丁
上野丁一丁目二丁目下谷同朋丁新黒門町上野
御家来屋敷向側〇下総一万石 井上筑後守様 東北の
角少しやける車坂丁大門丁長者丁壱丁め二丁め
下谷町二丁目代地是より中御徒士町通へやけの也
長者丁向片側御屋敷上野丁うら中おかち丁
一円御武家地やける山下通御かち丁は和泉橋
通り迄所〻崩るゝ妻恋下建部様内藤様
表長家崩るゝ下谷大名小路は〇いせ亀山六万石 石川主殿頭
様〇房州勝山二万石 酒井安芸守様二軒やける▲夫より下谷坂本は
二丁目三丁目やけて金杉三之輪は崩多し大音寺前
根岸共少しふるひ谷中は多分の事なし又車坂下
山崎丁辺広徳寺前辺少し崩るゝ三味せんほりより
七曲辺大名方塀土蔵大半崩るゝ尤外神田
境は格前のことなく久右え門丁餌鳥屋敷辺少し崩る
【下段枠左】
第七 《割書:〇浅草辺一圓|下谷境迄》
北は千住宿崩多く小塚原丁のこらずやける
山谷通新鳥越は寺院共大崩れに新吉原
江戸丁より出火五丁不残やける又浅草田町二丁目め
山川丁竹門馬道町寺院不残聖天横丁より
芝居丁やける東かはにて森田勘弥羽左エ門
福助しうか竹三茶すゝ【菊次郎?】などの家のこる聖天丁
山の宿はやけず九品寺より西側花川戸□□ほど
入やけとまる是より金龍山観世音恙なく地内
崩れ多し並木田原丁多分也駒形崩多く中頃より
出火して諏訪丁黒船丁三好丁御うまやがしにてとまる
夫より御蔵前浅草見附迄と所〻崩多く鳥越新堀
寺丁所〻崩る茶屋橋きは新寺丁角より
出火して両側小半丁やけこみ本立寺行安寺
正行寺三門前やけるこの裏てこうむね仁太【?】夫の
こやうち潰の上やける□前辺所〻崩る猶又
八軒寺丁四軒寺丁の寺院大半潰る東門跡は
本堂恙なし地中大破也西東の門倒るゝ也
森下三間町堀田原辺所〻崩れ潰共多し
小勝【?】丁御組下長屋潰る福富丁富坂丁
は潰れ多く又誓願寺店日輪寺店辺崩
所〻也浅草溜少し崩る観世音五十の塔
九りん小の方まがる雷神門の雷神損じ落
【上段枠右】
第三《割書:〇小川町筋ゝ 駿河台|〇小石川御門内 飯田丁》
神田橋外はいたみうすく小川丁通りへ入崩多く
水道橋通り稲葉長門守様土屋采女正様此辺
そんじ多く〇【家紋】野州足利一万千石 戸田大炊頭様表長家計焼る
〇信州高遠三万三千石 内藤駿河守様やけ表門長家のこるそれより
向角田中様のこる〇下総佐倉十一万石 堀田備中守様大いにやける
半井出雲守様やける溝口八十五郎佐藤金之丞
伏屋大久保柘植様やける依田様一軒のこる
神(かん)織部様荒川曽我近藤青木本多新見様
までやける夫より河内小林佐藤様やける又裏神保
小路は間下長坂寺嶋荒井様迄やける一ツ橋通りは
明楽(アケラ)雨森大岡様のこる表神保小路は定火消
御屋敷やける又〇ゑちごたか田十五万石 榊原式部大輔様半分やける
裏御門より向〇すん州田中四万石 本多豊後守様半分焼る戸田
加賀守様やける西南の角少しのこる 鷲巣淡路守様
やけて長谷川荒井二軒共表がは残る山本様少しとて
やけ留る又一ト口は雉子橋通り小川丁本郷丹後守様
やける一ツ橋通りは〇丹波かめ山 五万石 松平豊前守様やける塙(はなは)宗悦
様やける又渡辺様一色様やける又小石川御内は
〇いよ今治二万五千石 松平駿河守様此辺小やしき五六軒やける本間
様半やけにてとまる此辺すべて潰れ多し小石川御門より
西の方少しそんじするが台無事也飯田町辺俎ばし辺
少しいたみ番丁は多分のことなし牛込は改代町大崩也
【上段枠左】
第四《割書:〇日本橋より北〇神田辺〇外神田|〇両国辺柳原〇濱丁辺〇本郷辺》
日本橋北室丁小田原丁魚かし辺は格別のことなし
釘店より一石橋辺本丁がし通少しいたみするが丁
三井見せ無事也尤何方も土蔵は皆ふるひ
申候本町通りつよく大傳馬丁崩多し堀留
小舟丁堀江丁も土蔵不残ふるふ小網丁大崩れなり
富沢丁人形丁通り芳丁辺崩多くかきがら丁より大橋辺
大いにふるふ濱丁〇すん州沼づ五万石 水野出羽守様御中屋敷やける
此辺ゟ矢の倉いたみ両国辺馬喰丁は格別のいたみなし
豊嶋丁辺ゆるやかにて東神田は小柳丁平永丁お玉が池
辺大いに崩れ筋違より日本橋通り丁〻崩多し又
西神田蔵のみ崩家は格別のことなし鎌くらかし辺
三河丁辺少し崩るゝ今川橋川岸通いたむ處
多し柳原通り土手下辺崩所〻也尤去年
類焼場所はさしかけ仮屋等多分にて崩少し
猶又新しき普請の家にも建方あしきは
損亡多く土蔵ふるひ候事おびたゞしく
▲新シ橋外佐久間町辺崩少し御成道通り又
金沢丁はたご丁明神下辺すべて崩多く昌平ばし
外少し崩れゆしま一丁めよりお茶の水本郷辺まで
崩少なし尤本郷は麹室崩る所あり菊坂下田町は
大いに崩るゝ傘谷は下町そんじ切通上は少しにて
湯島天神門前崩所〻也三組丁崩恋妻稲荷無事也
【下段枠右】
第八 本所一圓 東両国辺
本所一ツ目相生町松坂丁辺崩多く二ツ目緑町より
出火壱丁目弐丁目やける三丁めのこり四丁目五丁め三ツ目
花町少しやけ是にて留る又向川岸徳右衛門町壱丁め
二丁目やける三丁目はのこる夫より柳原茅場丁辺四ツ目
辺余程いたむ鐘の下長崎丁辺南割下水辺津軽樣辺
亀沢町小泉丁横網丁回向院前皆所〻崩る御竹蔵
辺大川端御屋敷多分の事なし法恩寺橋きは町家少し
やける此辺少し崩多く亀戸町天神橋向二ケ所焼る
柳島押上辺所〻いたみつよく小梅瓦丁辺中の郷
松倉丁辺北割下水辺崩多し荒井丁ぬけ弁天
牛御前おかりや辺やける石原番場共大いに崩れ
潰家多し多田の藥師別当所潰る所本所之
寺院町家共つぶれ多し太子堂潰る東橋向
松平周防様下屋敷壱軒やける竹町大根がしより
まくら橋辺いたみ少し三園の土長の手大いにわれる
向島は少しツヽ所〻いたむ
附 今戸橋場
橋場真先崩多く銭座やける今戸は
橋際より家十軒斗やける此辺崩おほし
【下段枠左】
第九《割書:〇御船蔵前 高橋筋 佃島まやかし丁|霊岸島 永代橋》
御船蔵前町より八名川丁六間堀神明門前南森下
常磐丁〇小笠原佐渡守様下やしき〇太田摂津守様中
屋敷にて焼留る此辺都て崩多し又扇橋より北源川西丁半丁余やける
小名木川通上下共崩多し又清住丁大崩れいせ崎丁やける寺丁通
少しにて三角富久丁潰る和倉本所代地やける又一ト口は永代より入口
松川丁熊井丁諸丁北川町黒江丁大島丁中島丁はまぐり丁永代寺
門前山本丁仲丁右何れ潰候上焼失す八幡宮御別条なく三十
三間堂木場辺少しツヽ崩所〻也▲大橋ぎは御籾蔵少しやける深川元丁
大崩也大はし向間部がし稲荷(とうか)堀(ほり)箱さき北新川共崩多し
霊岸島塩丁片側やける南新堀半丁程やける大川端町はま丁やける
都合二丁余也越前様きはにて焼留る霊岸島多分崩所多し
鉄砲洲は〇松平淡路守様やける其外御やしき潰れ多く前町
二丁程やける都而もえ立時は三十余ケ所相見へ候得共五ヶ所三ヶ所ツヽ一所
になり廿七八か所に相成申候是に書加へさる所土蔵のみ崩候分は町名を
しるさす誠に広大なる事筆紙につくしかたく候間実事のみを記ス
●御府内四里四方は往古八百余丁なりしが今新地代地門前を加へて
五千七百七十余丁也但し里数にして百五十九り六十二町なり
其外東海道筋は戸塚限り神奈川崩多く本枚金沢浦賀辺迄
●中山道は高崎辺かぎり蕨より大宮宿迄崩所〻也●日光道宇都宮限
街道筋いたみつよく●水戸街道は松戸牛久土浦迄●甲州道は八王子
限り葛西二合半はゆれつよく行徳船橋辺甚しくゆすると也あくれば
翌三日朝五ツ半過諸方共しづまり人〻安堵のおもひをなしぬ
【枠外】
地震除 宮様之御歌 むねは八ツもんは九ツ戸【はひとつ】身はいさなきの神の子にこそ
これを家にはりおけば
ぢしんにう□はなく
《題:地震災書留》
【白紙】
【付箋】十五ノ九第一棚
安政二卯年
地震災書留
但本所深川御用屋敷
地代免除調
【印】鞘番所
【白紙】
【丸印】
【印】旧幕引継書
【朱書】本所深川御用屋敷場所并
【朱書】地坪等取調可申旨ニ付地守共ゟ
本所深川御用屋敷場所
坪数絵図
【朱書】銘 〻為書出相改候上加藤又左衛門江道役ゟ
【朱書】差出ス
安政六年
未三月
南本所元町
【朱書】表坪九分五厘五毛
【朱書】裏坪四分 惣坪三百四十壱坪
・百廿壱坪
・弐百廿坪
【朱書】南隣表坪弐匁五分
【朱書】 裏坪壱匁
地守 平三郎
本所尾上町
・八拾六坪四合
【朱書】表坪壱匁壱分【(見消ち)九分五厘五毛】
【朱書】裏坪五分五厘【(見消ち)四分】
北隣表坪弐匁八分
裏坪壱匁四分
地守 喜八
本所小泉町
地守
庄助
本所亀沢町
●千弐百三拾坪
表坪 壱匁壱分四厘
裏坪 五分七厘
【朱書】壱ヶ年仕切上納高
【朱書】金九拾壱【「弐」消】両弐分
【朱書】 銀拾匁五分
【朱書】是は天保十四卯年中ゟ
【朱書】道役方ニ而引受上納仕候
四十九坪三合余
表裏共同断
地守
伝右衛門
三蔵
竹太郎
本所林町横町
●御用屋敷
●九十八坪
表坪四分
裏坪弐分五厘
地守
清七
本所吉岡町壱丁目
●百廿坪
表坪三分
裏坪壱分八厘
【朱書】北東共隣【「地面」見消ち】《割書:表坪五分|裏坪三分》
地守
弁八郎
本所吉岡町弐丁目
表坪五分
裏坪三分五厘
●九百四拾四坪
【朱書】東隣《割書:表坪七分七厘六毛|裏坪弐分八厘八毛》
【朱書】六
地守
定七
本所
吉田町
●七拾坪余【朱書】《割書:表坪五分弐厘五毛|裏坪弐分五厘》
【朱書】東隣《割書:表坪七分七厘六毛|裏坪弐分八厘八毛》
地守
粂吉
本所新坂町
●四百拾坪
表坪四分九厘
裏坪三分壱厘
【朱書】南隣《割書:表坪八分|裏坪無御座》
地守
清吉
中之郷横川町
●弐百拾弐坪六合余
表坪八厘
裏坪四厘三毛
【朱書】南隣《割書:表坪弐分九厘|裏坪壱分五厘》
地守
三左衛門
本所出村町
●百廿八坪
表坪三分
裏坪無之
●弐百六拾坪
表坪三分
裏坪弐分壱厘
東隣
表坪八分
裏坪五分
横川
地守
佐五兵衛
深川森下町
●拾壱坪
表坪壱匁九分弐厘
裏坪無之
北隣表坪壱匁五分弐厘
裏坪無之
地守英蔵跡
当時五人組持
深川常盤町
●九坪余
惣表坪四分五厘九毛
西隣《割書:表坪壱匁壱分|裏坪五分》
町内預ケ
五人組持
深川
万年町三丁目
●五拾三坪三合《割書:表坪壱匁弐分|裏坪八分》
惣表坪四分五厘九毛
北隣 表裏地代同断
地守
嘉兵衛
深川伊勢崎町
●三拾四坪余
表坪三分四厘
裏坪壱分五厘
●五拾三坪余
河岸地壱ヶ年金壱両三分
銀弐匁壱分三厘六毛
東隣《割書:表坪壱匁|裏坪五分》
地守
嘉兵衛
深川元加賀町
●弐千七百四拾九坪六合五勺
表裏共平均六厘六毛
北隣《割書:表坪五分|裏坪弐分五厘》
壱ヶ年
金弐両上納
地守
吉兵衛
小石川金杉水道町
●三百三拾六坪七合余
表坪九分五厘
裏坪四分弐厘七毛五才
【右丁】
【朱書】東隣《割書:表坪壱匁弐分|裏坪六分》
地守
甚蔵
【左丁】
浅草山谷町
【右丁】
地守
当時五人組持
【左丁】
本所松倉町
【右丁】
新畑受負人
七兵衛
次右衛門
【左丁】
本所松倉町
【右丁】
同
七兵衛
次右衛門
【左丁】
本所松倉町
【朱書】御年貢金
【朱書】壱ヶ年
【朱書】 金三分 上納
【朱書】外ニ板拾五ヶ所自分
【朱書】入用ニ而修復仕候
同
七兵衛
次右衛門
寛政三亥年
三月之古帳面
地代
表壱坪ニ付銭百拾弐紋文
裏壱坪ニ付同八拾四文
但し銭相場
金壱両ニ付
五貫弐百文位ゟ
安直与申
六貫文位迄
当時表坪
地代銀壱匁ゟ
同壱壱匁壱分五厘位迄
右之通御座候以上
福田屋
寅七月 宗五郎
泉屋
文蔵
対馬守殿御懸り
地震ニ而御用屋敷家作潰候
箇所并地代免除取調候書類
安政二卯年十月
鞘番所留
【表書】
本所附御用屋敷内家作
震潰候義取調申上候書付
御届 本所道役
【本文】
本所附御用屋敷内建物今般之
地震ニ付押潰レ候箇所見分之上
取調候処別冊之通地守共申立候
地代納方之儀は追而取調
相伺候様可仕候依之申上候以上
卯十一月 家城善兵衛
清水八郎兵衛
本所附御用屋敷拾九ヶ所地震ニ而家作
震潰候箇所并怪我人有無御尋ニ付
奉申上候書付
本所新坂町
外拾八ヶ所
卯十月 御用屋鋪
地守共
一当月二日夜地震ニ而御用屋敷内家作
震潰候箇所并怪我人有無取調左ニ
奉申上候
本所新坂町
御用屋敷地守
清吉
一家作 六棟
但貸長屋并壱軒住居共建込
内
三棟 震潰
三棟 過半押曲住居相成不申候
一怪我人無御座候
〆
同所吉田町
同 粂吉
一家作 三棟
但右同断
内
弐棟 震潰申候
壱棟 過半押曲前同断
一即死弐人内《割書:男壱人|女壱人》
外ニ三人怪我仕候
〆
同所吉岡町弐丁目
同 定七
一家作 拾五棟
但右同断
内 九棟 震潰申候
六棟 過半押曲前同断
一即死女壱人
外ニ三人怪我仕候
〆
同所出村町
同 佐五兵衛
一家作九棟
但右同断
内 弐棟 震潰申候
七棟 過半押曲前同断
一怪我人等無御座候
〆
同所吉岡町
同 弁次郎
一家作五棟
但右同断
内 三棟 震潰申候
弐棟 過半押曲前同断
一即死弐人内《割書:男壱人|女壱人》
外ニ弐人怪我仕候
〆
同所林町横町
同 清次郎
一家作六棟
但右同断
内 三棟 震潰申候
三棟 押曲前同断
一怪我人等無御座候
〆
同所亀沢町
同 伝右衛門
三蔵
竹太郎
一家作五拾弐棟
但右同断
内 拾三棟 震潰申候
三拾九弐棟 過半押曲前同断
一即死六人内《割書:男三人|女三人》
外ニ拾人怪我仕候
〆
同所小泉町
同 庄助
一家作弐拾九棟
但右同断
内 四棟 震潰申候
廿五棟 過半押曲前同断
一即死女三人
外ニ三人怪我仕候
〆
南本所元町
同 平三郎
一家作拾壱棟
但右同断
内 四棟 震潰申候
七棟 過半押曲前同断
一怪我人等無御座候
〆
浅草山谷町
同五人組
栄蔵
一家作拾棟
但右同断
内 五棟 震潰申候
五棟 過半押曲前同断
一即死女壱人
外ニ六人怪我仕候
深川森下町
同 英蔵
一家作壱棟震潰候上
焼失仕候
一怪我人等無御座候
〆
同所常盤町壱丁目
月行事
万蔵
一家作弐棟震潰候上焼失仕候
一怪我人等無御座候
〆
本所尾上町
地守
喜八
一家作壱棟過半押曲申候
一怪我人等無御座候
〆
同所横川町
同 三左衛門
一家作壱棟過半押曲申候
一怪我人等無御座候
〆
同所松倉町新畑地
七兵衛
次右衛門
一家作弐棟押曲申候
一怪我人等無御座候
〆
深川万年町三丁目
地守
嘉兵衛
一家作壱棟過半押曲申候
一怪我人等無御座候
〆
小石川金杉水道町
同 甚蔵
一家作拾壱棟少し押曲申候
一怪我人等無御座候
〆
深川元加賀町
同 吉兵衛
一庭地ニ貸置
家作無御座候
〆 同所伊勢崎町
同 嘉兵衛
一家作震潰類焼仕候
一怪我人等無御座候
〆
右之通御座候尤土蔵之儀は不残大破仕候以上
安政二卯年十月 右 清吉 【印】
粂吉 【印】
定七 【印】
佐五兵衛 【印】
弁次郎 【印】
清次郎 【印】
伝右衛門 【印】
三蔵 【印】
竹太郎 【印】
庄助 【印】
平三郎 【印】
栄蔵 【印】
英蔵 【印】
万蔵 【印】
喜八 【印】
三左衛門 【印】
七兵衛 【印】
次右衛門 【印】
嘉兵衛 【印】
甚蔵 【印】
吉兵衛 【印】
嘉兵衛 【印】
【朱書】願書
乍恐以書付奉願上候
一当十月二日夜地震ニ而私共御地守仕候
御用屋敷内家作押潰候上類焼仕又は
皆潰半潰等に而住居人共悉難渋
至極仕候間可相成候義に御座候はゝ御地代
御宥免被成下置候様一同偏奉願上候
以上
深川伊勢崎町
御用屋鋪地守
嘉兵衛(印)
安政二年卯年十一月 同所森下町
同
英 蔵(印)
同所常盤町壱丁目
同
万 蔵(印)
浅草山谷町
同
栄 蔵(印)
本所吉岡町弐丁目
同
定 七(印)
同町壱丁目
同
弁次郎(印)
同所新坂町
清 吉(印)
同所吉田町
粂 吉(印)
同所林町横町
清次郎(印)
同所小泉町
庄 助(印)
同所亀沢町
伝右衛門(印)
三 蔵(印)
竹太郎(印)
南本所元町
平三郎(印)
本所尾上町(印)
喜 八(印)
【朱書】安政二う年十二月十四日持田 三(ママ)郎助持参竹村慈左衛門を
┌──────────────────────────
│【朱書】「同十九日承り付返上 ヒレ付 以上ル
│ 末ニ有」
│ 本所附御用屋敷地代御免除之儀
│ 地守共願出候義申上候書付
│【朱書】「承リ付末に有」
│ 本所道役
└──────────────────────────
本所附御用屋敷拾九ヶ所之内拾三ヶ所は
当十月二日夜地震ニ而家作震潰又は
焼失致候ニ付地代上納御免被仰付度
地守共願出候間場所見分取調候処是迄
出火出水等に而地代壱ヶ月御免被 仰付候
例は御座候得共此度は稀成義に而いつれも
大破に罷越銘々住居は勿論渡世も
暫く相休難渋罷在候段は相違無
御座候間焼失之分三ヶ月皆潰之分は
弐ヶ月半潰之分は壱ヶ月地代御免除
被仰付候様奉存候依之申上候【朱消】以上
【朱書】一本文御用屋敷絵図面為差出巨細
【朱書】 取調猶可申上候
以上
卯
十二月 家城善兵衛
清水八郎兵衛
【朱書】「安政二卯年十二月十二日八郎左衛門え相談廻しニ遣候処存知寄
無之ニ付大竹銀蔵ヲ以返却致す」
┌────────────────────
│
│本所附御用屋敷之儀ニ付奉伺候書付
│
│ 本所見廻
└────────────────────
此度地震ニ付本所附御用屋敷家作
皆潰半潰又は焼失致し候場所地代
免除之儀地守共願出候趣本所道役
申立候間取調候処右御用屋敷之内に是迄
数月地代免除被 仰付例無御座候間
年番方え問合候処御役所附永久町屋敷【(注)】
之内焼失は三ヶ月皆潰之分は弐ヶ月
半潰等に而住居人共一旦離散致候程之
大破之分は壱ヶ月地代免除被 仰付候
趣に付本所附御用屋敷之義も右同様
免除可被 仰付候哉依之道役共差出候
書付相添此段奉伺候
【朱書】一本文御用屋敷地代免除伺之通被
【朱書】 仰付候得は当年上納候証文え右之廉
【(注)「永久町屋敷」は「永久(武家屋敷地区)」の「町人屋敷」の意か。】
【朱書】腹書■【認カ】入可申奉存候
以上
卯十二月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【左丁上朱書】承り付
【付札の記号】
書面伺之通地代
免除被仰渡付承知候
卯十二月十九日
【左丁下朱書】ヒレ付
【付札の記号】
書面本所附御用屋敷
地代免除之義本所見廻
取調申上候通被仰渡可然哉ニ
奉存候
卯十二月 年番
【左丁下朱書】同
【付札の記号】
書面本所附御用屋敷地代
免除之儀北年番申上候通
被仰渡可然哉奉存候
卯十二月 南年番
【朱書】手形
深川伊勢崎町
御用屋敷地守
嘉兵衛
同所森下町
同
栄 蔵【(注)】
同所常盤町
同
万 蔵
【(注)第三八コマ、第四四コマには英蔵の名がある。】
右御地代上納之儀は当十月二日夜
地震ニ付家作震潰候上類焼仕候ニ付
十月ゟ十二月迄三ヶ月分上納御宥免被
成下置難有仕合奉存候依如件
右
安政二卯年十二月 嘉兵衛(印)
栄 蔵(印)
万 蔵(印)
【朱書】「手形」
浅草山谷町
御用屋敷地守
月行事
栄 蔵
本所新坂町
同 地守
清 吉
同所吉田町
同
粂 吉
同所吉岡町弐丁目
同
定 七
同所吉岡町
同
弁次郎
同所林町横町
同
清 七【(注)】
同所小泉町
同
庄 助
同所尾上町
同
喜 八
【(注)本冊子の第十一コマに清七の名の記載があり、第四五、五六コマに清次郎の名の記載がある。】
同所亀沢町
同
伝右衛門
三 蔵
竹太郎
南本所元町
同
平三郎
当十月二日夜地震ニ付御地所家作
皆潰又は半潰罷成候ニ付御地代上納之義
格別之以思召御宥免被成下置候様奉
願上候処皆潰之場所は弐ヶ月分半潰ニ而
住居も難相成一旦離散仕候程之
大破候場所は壱ヶ月分御地代
御免除被仰付難有仕合奉存候早速
拝借之者共え申渡候様可仕候為後日
依如件
右
安政二卯年十二月 栄 蔵(印)
清 吉(印)
粂 吉(印)
定 七(印)
弁次郎(印)
清次郎(印)
庄 助(印)
嘉 八(印)
伝右衛門(印)
三 蔵 (印)
竹太郎 (印)
平三郎 (印)
差上申御請書之事
一去卯年十月二日地震付私共地代上納之儀
半潰之分壱ヶ月皆潰之分二ヶ月御宥免ニ
相成難有仕合ニ奉存候依之御請書奉差上候以上
南本所元町
御用屋鋪地借
安政三辰年正月 弥太郎(印)
菊 松(印)
新太郎(印)
弥三郎(印)
五太夫(印)
藤五郎(印)
権次郎(印)
金兵衛(印)
庄太郎(印)
ち せ(印)
地守
平三郎(印)
家城善兵衛様
清水八郎兵衛様【(注)】
【(注)家城善兵衛・清水八郎兵衛は第三十一コマに前出。】
拝借地御書上
深川元加賀町
御用地御地守
拝借人 吉兵衛
一深川元加賀町北側
表間口七拾五間弐尺
裏巾 右同断
東西裏行三拾六間三尺
此坪弐千七百四拾九坪六合五勺
壱ヶ年
一金弐両也 冥加金上納
壱ヶ年
一金三拾三両ト 町入用公役銀
銀拾弐匁七分五リ 家守給分
但シ七歩積金は
無御座候
右御地所之儀は葭沼竹藪等ニ而建物無之高汐之節は
汐押入坪割等ニ而貸附可申場所ニは無御座候古来ゟ拝借之
由緒ヲ以冥加金町入用等差出シ候迄ニ而外ニ上リ高助成
等一切無御座候以上
右之通相違無御座候以上
安政三辰年
十二月 深川元加賀町
御用地
御地守
拝借人 吉兵衛(印)
乍恐以書付奉申上候
一本所小泉町御用屋敷自身番屋
去卯正月中類焼仕候ニ付自身番屋
普請御入用以小間割合金九両ト
四匁五分
奉願上御聞済相成毎月御上納内ニ而
月 〻御下ヶ被成下置候所当辰八月御上納ニて
不残相済皆慥ニ奉受取難有仕合
奉存候依之此段奉申上候
以上
安政三辰 本所小泉町
八月三日 御用屋敷
地守 庄 助(印)
【朱書】
「安政四巳年
正月十五日於
鞘番所申渡し」
小石川金杉水道町
御用屋敷地守
甚 蔵
浅草山谷町
同 月行事
本所小泉町
同
庄 助
南本所元町
同
平三郎
本所尾上町
同
喜 八
同所林町横町
同
清 七
同所亀沢町
同
伝右衛門
外弐人
同所吉岡町壱丁目
同
弁次郎
同所同町弐丁目
同
定 七
同所吉田町
同
粂 吉
同所新坂町
同
清 吉
同所横川町
同
三左衛門
同所出村町
同
佐五兵衛
同所常盤町壱丁目
同月行事
常 彦
同所万年町
嘉兵衛
同所元加賀町
同
吉兵衛
同所伊勢崎町
同
嘉兵衛
同所森下町
同
栄 蔵
本所松倉町
七兵衛
次右衛門
其方共儀鯨船鞘番所近辺出火之
節欠附御用書物類持退方相心得
可申旨去天保十三寅年申渡置候処今般
川辺壱番組古問屋共問屋名目
願之通被仰渡候而欠附之義も其者え
申付候ニ付以来出火等之節駆附ニ不及
仍而其旨可存
但相渡置御月【?】挑灯之義は早々相納
可申候事
巳
正月
【(注)「欠附」は「駆着け」の意で、近世村方文書にも散見される。】
小石川金杉水道町
御用屋敷
地守
甚蔵
安政四巳年分納高
一金弐拾五両弐分
銭三百三拾三文
同五午年分
一金弐拾三両三分
銭七百廿六文
安政六未年分
一金弐拾三両弐朱
銭弐百文
万延元申年分
一金弐拾六両
銭八拾八文
文久元酉年分
一金弐拾壱両
銭弐百五拾六文
五ヶ年合
金百拾九両弐分壱朱
銭三百五拾八文
此銀三匁三分
壱ヶ年平均
金弐拾三両三分弐朱
銀弐匁九分壱厘
【五年間の金の合計は百十九両一分二朱である、銭・約一千二百文を金三朱に振り替えたカ】
右之通御座候以上
戌
正月
【朱書】
「安政二卯年十月十二日本所深川二通ニ致し両国橋小屋場ゟ
林町名主六右衛門方え為持遣ス」
┌─────────────────────
│
│ 達書 本所方
│
└─────────────────────
此度地震ニ付潰場所損所又は
【朱書「幷修復之」】
焼失場所共都合次第普請【朱消「取掛候」】儀
【付箋】
「《割書:地震|大火ニ付》達書」
【本文は次のコマで翻刻】
願ニ不及取懸出来之上相届可申
尤有形ニ相違致し候建方又は大変を
幸ニ不埒成取計致し候分は出来見分
之節即時為取崩候ニ付急度相心得
建方其外共銘々支配限リニ而見届取計
可申右ニ付是迄願書差出有之候分も
同様ニ心得取懸リ惣而有形ニ相違不致様
相心得可申勿論掛リ一同申合時々見廻
候ニ付右之段不洩様早々可申通候事
但シ月行事持之場所早〻可申通候事
卯
十月 本所方
十七番組
十六番組
十八番組
名主え
他
【朱書】「卯十月三日夜小西喜左衛門ヲ以達ス」
┌────────────────────
│
│ 達書 本所方
│
└────────────────────
昨夜地震出火等ニ而本所深川内御入用
橋々損所出来候ハゝ町内ニ而仮養ひ致し
其段早々可申立候事
十月三日 本所方
十六番組
十七番組
十八番組
名主え
【朱書】「両国人足ニ為持罷■【内カ】え遣ス」
┌────────────────
│
│野口藤三郎様 中村八郎左衛門
│保田左七郎様 加藤又左衛門
│
└────────────────
以手紙致啓上候然は昨夜地震ニ付
竪川一之橋北橋台柱石際崩込候付
町内え仮養ひ申付差向往来差支無之候
尤外橋々之儀も尚取調之上得御意候様
【(注)尾張屋本所絵図には隅田川左岸に支流竪川と一ツ目橋の名がある。】
可致候以上
十月三日
【朱書】「十月四日大竹銀蔵持参坂本折右衛門ヲ以上ル」【注】
┌──────────────────────
│
│ 本所竪川一之橋損所出来候付申上候書付
│
│ 御届 本所見廻
└──────────────────────
昨夜地震ニ付竪川一之橋北橋台柱石際
崩込候付早速町内え仮養ひ差向往来
無御座候外橋々之儀も尚取調之上可申上候
以上
十月三日
中村八郎左衛門
加藤又左衛門
【朱書】「右同断」
┌──────────────────────
│
│ 鯨船鞘蔵幷鞘番所損候儀申上候書付
│
│ 御届 本所見廻
└──────────────────────
【(注)第七八コマの朱書に坂本折右衛門の名がある。】
昨夜地震ニ付本所一ツ目鯨船鞘蔵鞘
番所共潰れ幷番人居小屋も損所出来仕候
尚取調可申上候以上
十月三日
中村八郎左衛門
加藤又左衛門
【朱書】「清左衛門代善八え為持遣ス」
┌──────────────────
│
│ 野口藤三郎様 中村八郎左衛門
│ 保田左七郎様 加藤又左衛門
│
└──────────────────
以手紙致啓上候然は本所竪川一ノ橋
北橋台柱石際崩込候ニ付町内え
仮養ひ申付候得共追々石垣鏡通リ
崩落桁尻下り往来危く相成候間
今日ゟ橋〆切町内え申付渡船ニ而往来
為致候早々御繕ひ有之候様致し度存候
尤差懸リ候儀ニ付前以御廻し不仕御断
差出申候依之別紙相添此段得御意候
以上
十月五日
尚々此程別而往来多御座候間渡船
弐艘申付候以上
【朱書】「大竹銀蔵持参冨田小源太ヲ以上ル」
┌──────────────────
│
│ 竪川壱之橋〆切渡船ニ而往来
│ 為仕候儀申上候書付
│
│ 御届 本所見廻
└──────────────────
本所竪川
壱之橋
右橋一昨日夜地震ニ而北橋台際柱石
崩込候間町内え仮養申付往来差支
無御座候旨申上置候処追々石垣崩落
桁尻下リ往来危相見候間往来人を
計リ為相通明日ゟ橋〆切町内え申付
渡船ニ而往来為仕候間御断向被仰上
御座候様仕度尤差懸候儀ニ付御御廻し案
不差上私共ゟ御勘定方え写相達し申候
此段申上候以上
十月五日 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
【朱書】「十月十一日大竹銀蔵持参坂本折右衛門ヲ以上ル」
┌─────────────────────
│
│ 永代橋懸名主当分代申渡候儀申上候書付
│
│ 御届 本所見廻
└─────────────────────
永代橋懸リ深川材木町名主市郎次儀先達而
中ゟ重病ニ而引込罷在并相懸リ同所熊井町
名主理平次儀は【者】地震之節怪我仕■附
御用向差支候間対馬守殿え【江】伺之上同所相川町
名主新兵衛え【江】当分之内右橋懸申渡候依之
申上置候以上
卯十月 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
┌────────────────────
| 【朱書き】
| 卯十月六日大竹銀蔵持参富田小源太を以上る
|
| 竪川一之橋外壱橋御修復取懸候儀
| 申上候書付
| 御届 本所見廻
└────────────────────
本所竪川壱之橋北橋台崩れ落并亀戸
天神橋西橋台石垣も崩所出来柱石
下り候付明日ゟ御修復取懸申候右之外本所
深川御入用橋々少々ツヽ之損所出来候得共
何れも聊ニ而往来差支相成不申候此段申上
置候以上
九月六日 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
┌
│ 伊勢守殿【朱書】大和守殿え【江】常阿弥を以上ル
│
│ 橋御修復出来仕候儀申上候書付
│ 御届 池田播磨守
└ 村垣与三郎
本所竪川
壱之橋
右橋当月二日夜地震ニ而橋台損所
出来仕候ニ付橋〆切渡船ニ而往来為仕候旨
去ル五日申上置候処右損所仮養ひ御修復
出来仕候間昨八日ゟ渡船相止橋往来為仕
馬駕籠共相通申候尤橋台御修復之儀は【者】
追而取調相伺候様可仕候此段申上候以上
十月九日 両 名
御用番
【朱書】大和守殿常阿弥を以て上ル
橋往来之儀申上候書付
御目付え【江】御断 両 名
本所竪川
壱之橋
右橋当月二日夜地震ニ而橋台損所出来
仕候ニ付橋〆切渡船ニ而往来為仕候旨去ル五日
申上置候処右損所仮養ひ御修復出来
仕候ニ付昨八日ゟ渡船相止橋往来為仕馬駕籠
共相通申候此段御目付え【江】被仰渡可被下候以上
十月九日 両名
[御側衆 三悦を以上ル【朱書】
右同文言之内馬駕籠共相通申候此段申上候
以上 けし
十月九日 両名【みせけち】
[御目付中松平久之丞え【江 朱書】
両名
右同文言之内馬駕籠共相通候段今日
【ママ】殿え【江】御届申上候段申達候
十月九日
[御朋頭中 常阿弥え【江 朱書】 両名
[御奥肝煎 三悦え【江 朱書】
右同文言之内馬駕籠共相通候事
十月九日
卯十月五日持出し
[伊勢守殿
橋往来人留之儀申上候書付
御届 池田播磨守
村垣与三郎
本所竪川
壱之橋
右橋去ル二日夜地震ニ而橋台柱石崩込
候ニ付仮養ひ申付候得共追々石垣崩落
往来危く御坐候間御修復仕候迄今日ゟ橋〆切
渡船ニ而往来為仕候付馬駕籠共難通
御座候此段申上候以上
十月五日 両名
御用書
[伊勢守殿
橋往来人留之儀申上候書付
御目付え【江】御断 池田播磨守
村垣与三郎
本所堅川
壱之橋
右橋去ル二日夜地震ニ而橋台石垣崩込
往来危く御座
候付御修復仕候迄橋〆切渡船ニ而往来
為仕候此段御目付え【江】被仰渡可被下候以上
十月五日 両名
[御側衆
【貼紙で取り消し】
両名
右同文言之内渡船ニ而往来為仕候以上
十月五日
[御目付中 両名
右同文言之内渡船ニ而往来為致候段
今日伊勢守殿え【江】御届申上候此段申達候
十月五日
[御同朋頭中 両名
御奥肝煎
右同文言之内渡船ニ而往来為致候事
十月五日
[伊勢守殿
橋御修復出来仕候儀申上候書付
御届 池田播磨守
村垣与三郎
本所竪川
壱之橋
右橋当月二日夜地震ニ而橋台損所仕候ニ付橋〆切
渡船ニ而往来為仕候旨去ル五日申上置候処右損所
昨
仮養出来候間明【みせけち】八日ゟ渡船相止往来為仕馬駕籠共
相通申候尤橋台御修復之[ ]追而取調相伺
候趣可仕候此段申上候以上
十月九日 両名
御用書
[
橋往来之儀申上候書付
御目付え【江】御断 両名
本所竪川
壱之橋
右橋当月二日夜地震ニ而損所出来候ニ付橋〆切
渡船ニ而往来為仕候旨去ル五日申上置候処右損所
昨八
仮養出来仕候ニ付明九【みせけち】日ゟ渡船相止往来為仕
馬駕籠共相通申候此段御目付え【江】被仰渡可被下候以上
十月九日
[御目付中 両名
右同文言之内馬駕籠共相通候段今日ゟ【みせけち】 殿え【江】
御届申上候此段申達候
十月九日 両名
[御同朋頭中
[御奥肝煎 両名
右同文言之内馬駕籠共相通し候事
十月九日
中村八郎左衛門様
徳岡政左衛門様 渡辺三十郎
加藤又左衛門様 野口藤三郎
中村又蔵様
以手紙致啓上候然者江戸向本所
深川橋々之内今般焼失焼損并
地震損等ニ而御届等出し可相成□
御見届之上御取調被懸候様致し度候
尤右御届等之儀は【者】是迄再々御相談
済之通急速御取計有之候儀とは【与者】
存候得共此度村垣ゟ改而と可然
談し有之候間此段御通達申候右之段
可得御意如斯御座候
十月四日
猶以右御届之儀申上後御調落
等之儀有之候而は【者】不宜敷右等之儀も
宜御打合申候様と可被申聞候以上
【右丁白紙・左丁は次のコマで翻刻】
以手紙得御意候然は【者】
去月十日申渡河岸地
建物之義当月廿日限
取調可差出処建物
之内手入又は【者】損所
之儘差置候分も多く
間数取調方行届兼
候ニ付来二月廿日迄
猶予之義掛リ名主共ゟ
相願候ニ付両御頭御相
談済■【今カ】日願之通リ
申渡受証文え【江】末文
取置申候此段御達し
申候様被仰渡候以上
十二月廿二日
一昨二日夜四時頃地震強出火場所
一深川八名川町同所六間堀町同所神明門前
同所森下町同所南六間堀町同所御船蔵
前町同所北森下町焼失仕候
但長幅間数之儀は【者】懸隔候場所ニ而聢と【与】
相分リ不申候
一本所緑町壱町目弐町目三丁目四丁目五丁目
同所花町同所徳右衛門町壱丁目二丁目菊川町
壱丁目二丁目三丁目四丁目焼失仕候
長凡六百間程
幅平均廿間余
一中之郷竹町続竹腰兵部少輔【注】下屋敷焼
失仕候
長凡五十間程
幅平均廿間程
一小梅瓦町南本所元瓦町本所松倉町
焼失仕候
長凡百三十八間程
幅平均廿七間余
一北本所番場町南本所番場町南本所
石原町焼失仕候
長凡百八十間程
幅平均三十間余
一亀戸町柳島出村町中之郷代地町南本所
出村町中之郷竹町続松平周防守下屋敷
同所瓦町続松平越中守下屋敷前辻番
所焼失仕候
但長幅間数之儀は【者】懸隔候所ニ而聢と【与】
相分リ不申候
一深川佐賀町同所奥川町同所黒江町同所
小川町同所中嶋町同所永代寺門前仲町
【竹腰正富(ウィキペディア)】
同所永代寺門前町焼失仕候
長幅間数之儀は【者】掛懸リ候場所ニ付聢と【与】
相分リ不申候
一浅草行安寺門前同所本立寺門前同所
正行寺門前同所竜■【光ヵ】寺門前同所八間寺町
続本智院同所玉宗寺焼失仕候
長凡六十五間程
幅平均廿七間余
一下谷坂本町壱町目二丁目三丁目焼失仕候
長凡二丁半程
幅平均壱丁余
一下谷寺町壱丁目二丁目同所続称住院
門前焼失池之端七軒町同所続榊原式部大輔
中屋しき被焼込申候
長凡四丁程
幅平均三十間余
一下谷常楽院門前上野町二丁目壱丁目上野
北大門町同所元黒門町下谷同明町同所長者丁
壱丁目二丁目続武家方小役人上野新
黒門町下谷町二丁目代地下谷車坂町上の
南大門丁焼失井上筑後守屋敷幷
御徒組やしきえ焼込
但長幅之儀は【者】懸隔候場所ニ而聢と【与】相分不申
一水道橋内武家方ゟ堀備中守御側本郷
丹後守殿寺社奉行松平豊前守殿柳原
式部大輔内藤駿河守戸田大炊頭戸田
加賀守屋敷焼失本多豊後守屋敷え【江】焼込
長凡五丁程
幅平均二丁余
一小日向龍慶橋続清水用人野中鉄太郎
小普請飯塚監物御材木石奉行牧民助
大御番熊谷留次郎奥御右筆荒川
荒三郎屋敷焼失仕候
長凡四十五間程
幅平均廿間余
一新材木町彦兵衛地借喜兵衛後見徳兵衛
居宅ゟ出火長凡四間幅三間焼失仕候
一本町四丁目家主次三郎居宅ゟ出火凡
八間程幅平均六間余焼失仕候
一南大工町松川町本材木町七丁目因幡町
柳町鈴木町南伝馬三丁目常磐町
具足町炭町畳町五郎兵衛町狩野
探印【「信」の誤記ヵ】屋敷北紺屋町白魚屋敷焼失仕候
長凡四十【間脱ヵ】半余
幅平均三丁■【「目」衍字ヵ】程
一霊岸島塩町同所四日市町北新堀
大川端町同所銀町二丁目焼失仕候
長凡壱丁程
幅平均壱丁余
一十軒町同所続松平淡路守屋敷焼失仕候
長凡弐丁程
幅平均三十間余
一荒井町南側町屋不残兼房町自身
番屋松平市正中屋敷共焼失仕候
長凡九十間余
幅平均四十間程
一晴光院様御住居幷酒井雅楽頭森川
出羽守殿松平紀伊守内藤紀伊守殿
松平下総守火消致松平采女御役屋敷
遠藤但馬守殿松平相模守本多中務大輔
永井遠江守屋敷焼失幷焼込申候
長凡四町拾間余
幅平均壱丁廿間程
一新吉原町江戸町壱丁目弐丁目同所揚屋町
同所角町同所京町壱丁目弐丁目同所
五十間道浅草田町壱丁目弐丁目同所橋場町
金座下吹所同所今戸町谷中天王寺門前
浅草山川町同所聖天町同横町猿若町
壱丁目弐丁目三丁目同所常■【音ヵ】寺門前同所
■■【斉厳ヵ】寺門前浅草寺代中里俗北谷東谷と【与】
唱候場所焼失浅草北馬町同所南馬屋町
同所新町花川戸町同所山之宿町同所
駒形町同所八軒町清水橋荷屋敷同所
諏訪町同所黒船町同所三好町焼失仕候
長凡十五丁余
幅平均七丁半程
一惣町火消人足共消防仕候
但定火消武士方人数幷店火消共
消防仕候
【右丁】
一両山幷浜御庭牢屋敷焼失無御座候
一両御奉行御出馬有之
一山下御門内松平肥前守南部美濃守伊東
修理大夫松平時之助屋敷焼失松平
大膳大夫丹羽若狭守北条美濃守松平
薩摩守中屋敷亀井隠岐守屋敷焼込
申候
長凡三丁半余
幅平均弐丁半余
右之通御御座候依之申上候以上
十月四日
【左丁】
上
乍恐以書付奉申上候
一深川今川町家主勇助奉申上候小網町壱丁目家持米問屋
勝次郎儀兼而私地面貸蔵え【江】米荷物積入候処去ル二日夜
地震ニ而貸蔵不残及破損候然ル処此節勝次郎仕入米荷物
入津仕候得共蔵入仕兼渡世差支難渋仕候間右土蔵出来候迄
私地先河岸地面内幅三間長拾五間程之場所え【江】仮ニ米積置
四方板囲ひ板羽重子ニ而雨覆仕度尤右修復出来次第早速
取払候様可仕候間此節柄難渋仕候ニ付何卒御聞済被成
下置候様此段奉願上候以上
深川今川町
安政二卯年十月廿一日 家主 勇 助
五人組 清左衛門
名主 市 郎 次
本所
御掛り様
上
永代橋掛リ
名主共
【本文は次コマに、付箋は次々コマに翻刻】
以書付申上候
永代橋定番人
利 助
同
伊之助
右利助は【者】東広小路伊之助は【者】西広小路御入用番屋ニ住居
罷在候処当月二日夜地震之節両人共御橋防方ニ取掛リ罷在
伊之助住居御橋番屋は【者】震潰利助住居御橋番屋は【者】及
大破両人持商床も震潰又は【者】大破等ニ而自分諸道具等破
【付箋】
去ル午年大火之節定番人伊之助添番人
吉右衛門両人類焼仕候ニ付私共ゟ奉願候処壱人
ニ付金弐両ツゝ御手当被下置候
損仕格別難儀仕罷在候間何卒格別之以
御慈悲両人共御手当之儀奉願上候以上
永代橋掛リ
深川熊井町
安政二卯年十月 名主 理平治
同所材木町
同 市郎次
同当分掛リ
同所相川町
同 新兵衛
町年寄衆
御役所
別紙之通町年寄三橋御入用掛リえ【江】願書差出申候依之
此段申上候以上
卯十月十六日 永代橋掛リ
名主共
上
以書付申上候
大川橋
定番人
五郎右衛門
添番人
半次郎
下番人
伝 吉
右五郎右衛門は【者】御橋西番屋続え【江】自分入用家作ニ
住居仕半次郎は【者】右番屋ニ相詰罷在伝吉は【者】
御橋東番屋続ニ而五郎右衛門同様住居罷在候処
当月二日夜地震之節東西番屋并自分家作
とも不残潰レ家ニ相成諸道具等ハ大半打崩シ
難義罷在其上半次郎義ハ西番屋震潰レ
候砌逃後レ屋根下ニ罷成死失仕相残り候妻
子共一同格別難渋仕罷在候間何卒以
御慈悲右三人江御手当被成下置候様奉願上候
以上
大川橋懸り
浅草山之宿町
安政ニ卯年十月 名主三郎左衛門
後見 兵蔵
同所西仲町
名主 吉左衛門
町年寄衆
御役所
右之通り御橋番人共え【江】御手当被下置候様町年寄
樽【樽屋】藤左衛門方え【江】申立候間此段御届申上候
右橋懸り
名主共
乍恐以書付御訴奉申上候
一中之郷竹町金兵衛地借船渡請負人
次郎左衛門奉申上候当月二日夜大地震ニ而
竹町之方船頭居小屋并浅草材木町
之方御高札場震り潰レ申候
依之此段御訴奉申上候以上
中之郷竹町
金兵衛地借
安政二卯年十月七日 船渡請負人
次郎左衛門
本所
御掛り様
以書付申上候
新大橋定番人
善四郎
同東添番人
文 七
右御橋書役
直 蔵
右之もの共儀去二日夜地震ニ付銘々
居宅押潰レ難儀至極仕候間何卒以
御慈悲右三人え【江】御手当被成下置候様
奉願上候已上
大橋懸り
深川海辺大工町
名主 八左衛門
町年寄衆 同所平野町
御役所 同 甚四郎
右之通樽藤左衛門方え【江】願書差出候間
為御届此段申上候以上
右橋掛り
名主共
本所
御掛り様
乍恐以書付奉願上候
一 深川三拾三間堂守鹿塩道菅奉申上候右御堂
当月七月中大風ニ而損所出来仕候ニ付御修復奉願候処
御普請中同十月二日夜地震ニ而家根一躰ニ崩落
向拝并射所其外共動潰堂一躰ニ大曲出来仕
御神像之儀は【者】無御別条堂守方え【江】御守申上私
庭内清精之場所え【江】急雨等御凌迄板囲
雨除仕候得共文政度之通
御堂地内え【江】御仮殿補理御安置奉申上度
并本堂崩所木品散乱致居候ニ付取片付仕度候
右両様共願之通被仰付被下置候様此段奉
願上候以上
安政二卯年十一月 鹿塩道菅
本所
御掛り様
北品川宿弐町内
要助地借
旅籠屋
倉田屋
なか娘
つね
卯十五六才
右は【者】南品川海徳寺境内ニ立退
去ル八日夜夢中ニ白髪之老人
相見へ来ル十一日ニは【者】火水之戦ひニ而
殊之外六ケ敷候間心付可申旨めつ
きの様なる羽うちわをあたへ
此品所持致候へは【者】怪我無之旨
申聞夢覚候処つね手ニ振り
罷在候由右之趣御代官斎藤市兵衛
御代官所訴出候
卯十月二日夜出火
日本橋ゟ南之方
凡長廿壱町十間余
巾平均二丁廿四間程
同北之方
凡長壱里二丁四十間余
巾平均壱丁四十七間余
本所深川
凡長三十壱町十間余
巾平均壱町四十三間程
南北并本所深川合
凡長二里十九町余
巾平均二町程
坪数ニ致し候へは【者】六十二万六千坪
地震ニ而市中変死之もの
三千八百九十五人 内 男子千六百十六人
女二千百十九人
外ニ重怪我人千九百廿人
潰家
壱万四千三百四十六軒
千七百廿四棟
潰土蔵
千四百四十ケ所
右之外
吉原町変死六百八十五人
十月廿八日伊勢守殿
大目付え【江】
御目付
此度地震ニ付御役宅向潰又は【者】破損ニ及ひ建直シ
候分追々御普請御修復可被仰付候儀ニは【者】候得共
当時品々御用途多之折柄建物間数等実々
無拠ケ所之外は【者】可成丈坪数減し候様致勘弁
御作事奉行小普請奉行え【江】申談候様可被致候且
手限ニ而御普請御修復取調相伺候向も坪減
致勘弁可被申聞候
右之通可被相触候
十月
十一月朔日伊勢守殿
大目付え【江】
御目付
此度地震ニ而類焼又は【者】潰家等相成候面々屋敷内
空地等無之立退方差支候向も有之候哉二相聞候
普請之儀ニ付而は【者】先達而相触候趣も有之候間
可成丈建坪取縮空地出来非常之節怪我
無之立退相成候趣可被心掛候
右之通可被相触候
十一月
同日御同人
大目付え【江】
御目付
東海道筋川々御普請之儀堤切所崩所等
難捨置場所は【者】格別其外可成丈省略可
可【衍】有之事ニ候間此度之御普請所え【江】こもり候
場所之外は【者】たとひ場所ニおゐて願出候共不取上
筈ニ候条決而願出間敷候御普請所之儀は【者】掛り
役人差図次第諸事無差支正路ニ御普請
相仕立外受負人等江相渡申間敷候且御普請中
竹木其外御普請之諸色無謂高直ニ致間敷候
右之趣御料は【者】御代官私領は【者】領主地頭ゟ村々え【江】不洩様
可被申渡候
右之通東海道筋村々之内領分知行有之面々え【江】
可被相触候
十一月
十一月朔日大和守殿
大目付え【江】
御目付
覚
火事装束之儀ニ付此度被 仰出候趣も有之候得共
老中若年寄中錣陣笠之儀は【者】御役ニ付為目印
相用候ニ付是迄之通ニ而居置候事
但寺社奉行相用候錣附陣笠之儀も御役ニ付
着用致し候儀ニ付是迄之居置候事
十一月
卯十月廿ニ日
伊勢守殿御渡
町奉行え【江】
天台宗
東叡山学頭
凌雲院前大僧正
浄土宗
本所
回向院
古義真言宗
高野山学侶方在番
西南院
同宗
麻布白金台町
同行人方在番
円満院
新義真言宗
浅草
大護院
済家宗
品川
東海寺
漕【曹】洞宗
貝塚
青松寺
黄檗宗
本所
羅漢寺
日蓮宗
一致派
下谷
宗延寺
同宗
勝芬派
浅草
慶印寺
西本願寺掛所
築地輪番
与楽寺
東本願寺掛所
浅草輪番
遠慶寺
時宗
浅草
日■【みせけち】
輪寺院代
洞雲院
此度地震ニ而世上死亡之人民不少趣被聞召
天災とは【与者】申なから不便之儀も
思召候依之死亡之者之ため
思召を以右於寺院来月二日施餓鬼修行
被仰付候間得其意可被申渡候
右之通寺社奉行え【江】相達候間市中え【江】も
為心得可被達置候
乍恐以書付申上候
一永代橋掛名主理平治奉申上候此度地震
ニ付御橋御用等御座候処相懸同所材木町
名主市郎次義先達而中ゟ病気ニ而重
躰ニ御座候橋番人共儀も怪我致私
壱人ニ而万一御用の差支相成候而は恐入
候間此段申上候以上
永代橋掛
安政二卯年十月 名主 理平治
本所
御掛様
永代橋掛名主当分代り之儀奉伺候書付
本所見廻
深川相川町
名主
新兵衛
右之もの儀永代橋掛り名主深川材木町名主市郎次
同所熊井町名主理平次病気其上橋番人共儀も
病気又は【者】怪我致
罷在此節御用向御差支之程も難計候間掛り名主共
病気全快迄右新兵衛儀は【者】最寄之儀
御用弁都合も宜敷御座候間当分之内橋御用向
為相心得可申と【与】奉存候依之掛り名主ゟ差出候
書面相添此段奉伺候以上
十月 加
中
去ル二日夜地震ニ付当御橋損所左ニ申上候
一東西袖柱震倒申候
一同断柱石震崩申候
一東御橋番屋并添番人文七住居家作共
不残震潰れ申候
一 西御橋番屋所々損所出来候得共震
潰れハ不仕候尤同所柱建瓦庇ハ震潰れ
申候同続添番人清三郎住居家作是又
所々損シ所出来候得共震潰れハ不仕候
右之通ニ御座候御橋附番人共怪我致候
もの無御座深川最寄出火有之候得共当
御橋別条無御座候為御届此段奉申上
候以上
新大橋
卯十月 定番人
善四郎
右橋掛り
名主共
御届
一西ゟ壱側目大銯取放し申候
一同弐側目中杭同所北耳杭共弐本根巻中ニ而
震レ折相見え【江】申候
一同弐拾弐側目中杭右同断
一同弐拾三側目杭三本共右同断
〆
右之場所地震ニ而大破仕当時御保方
難計奉存候此段奉申上候以上
大川橋
卯 定番人
十月六日 五郎右衛門
右橋懸リ
名主共
乍恐以書付御訴奉申上候
一深川三十三間堂守鹿塩道菅奉申上候御堂
御普請中之処当月二日夜四ツ時頃地震ニ而堂一躰ニ
崩所出来仕候得共
御神像之義は【者】無御別条堂守方被御守奉申上候
依之此段御訴奉申上候以上
安政二卯年十月 古堂守
鹿塩道菅
本所
御掛リ様
以書付奉申上候
一大川橋助成地請負人安次郎奉申上候右御橋付東西
助成地之内本所側北之方ニ有之候間口拾五間
奥行弐間半瓦葺家作壱ヶ所同所南之方間口
弐間四尺奥行四間五寸瓦葺家作壱ヶ所同続
間口九尺奥行壱間髪結床壱ヶ所幷浅草側
北之方ニ有之候間口弐間奥行四間半瓦葺
水茶屋壱ヶ所同続間口弐間奥行九尺
髪結床壱ヶ所同続物置壱ヶ所都合六ヶ所共
当月二日夜地震之節潰家ニ相成同所南之方
髪結床壱ヶ所而已相残リ候得共是以曲ミ損シ
渡世も不相成程之大破ニ而必至と【与】難渋仕御地代
上納方甚タ当惑至極仕候間家作普請取調中
何卒以
御慈悲壱ヶ月上納高金四両ト銭四百九拾五文
不残当卯十月ゟ来ル十二月迄三ヶ月之間上納
御免被成下置候様何分御聞済奉願上候以上
大川橋助成地
請負人
安政二卯年十月 安 次 郎
右橋懸リ
浅草山之宿町
名主三郎左衛門
後見 兵 蔵
同所西仲町
名主 吉左衛門
右之通リ東西助成地之内潰家之分御地代上納御免
被成下置候様町年寄樽藤左衛門方え【江】願差出候間此段
御届申上候以上
卯十月 右橋懸リ
名主共
以書付奉申上候
一大川橋助成地請負人安次郎奉申上候右御橋付東西
助成地之内本所側北之方ニ有之候間口拾五間奥行
弐間半瓦葺家作壱ヶ所同所南之方間口弐間四尺
奥行四間五寸瓦葺家作壱ヶ所同続間口九尺
奥行壱間髪結床壱ヶ所幷浅草側北之方ニ有之候
間口弐間奥行四間半瓦葺水茶屋壱ヶ所同続
間口弐間奥行九尺髪結床壱ヶ所同続物置壱ヶ所
都合六ヶ所共当月二日夜地震之節潰家ニ相成同所
南之方髪結床壱ヶ所而已相残リ候得共是以曲ミ
損シ渡世も不相成程之大破ニ而必至と【与】難渋仕
御地代上納方甚タ当惑至極仕候間家作普請
取調中何卒以
御慈悲壱ヶ月上納高金四両ト銭四百九拾五文不残
当卯十月ゟ来ル十二月迄三ヶ月之間上納御免被成下置候様
何分御聞済奉願上候以上
大川橋助成地
受負人
安政二卯年十月 安 次 郎
右橋懸リ
浅草山之宿町
名主三郎左衛門
後見 兵 蔵
同所西仲町
名主 吉左衛門
右之通り東西助成地之内潰家之分御地代上納御免
被成下置候様町年寄樽藤左衛門方え【江】願差出候間此段
御届申上候以上
卯十月 右橋懸リ
名主共
┌───────────────
|
|
| 対馬守殿 池田播磨守
└───────────────
河岸地土蔵納屋等普請模様替等
之儀是迄之振合を以見分之もの差遣候而は【者】
市中今般之地震火事に付手数相掛
難儀可致候間右は【者】変災に付死亡之者
検使不遣組合名主共立合見分之上片
付申ニ付候ニ見合簡易之取計致遣可
【朱書】「差別」
申尤検使とも【朱消「次達」】有之候間別段申上候ニも
不及手限ニは【者】可申渡哉と【与】存候依之町
年寄共存寄をも相尋御相談およひ候
卯十一月
【朱書】「挨拶下ヶ札」
御書面御相談之趣承知いたし候
模様替ニ無之先規有形之通リ
に候上は【者】拙者儀何之存寄無之候
別紙申渡案返却此段御挨拶
およひ候
卯
十一月 井戸対馬守
【朱書】「ヒレ付」
河岸地土蔵外廻リ又は【者】壁瓦等損候分
是迄月番町年寄え【江】相届与申廉是迄
仕来ニ振レ候儀無御座候御案文之通リ被
仰渡差支相見え【江】不申候以上
卯十一月 町年寄
┌────
|
| 樽藤左衛門様 《割書:東條八太夫|中村次郎八》
└────
別紙取調書之趣各様御存寄有無
早々御尋申候様被仰渡候差掛候義ニ付
対馬守殿被御相談案相添御達およひ候
右名主共え【江】申渡文中河岸地土蔵外廻リ
壁瓦等相損候分月番町年寄え【江】相届
と【与】申廉是迄仕来ニ振レ候儀は無之候哉
別紙之趣ニ而御差支有之間鋪哉御
勘弁被御申上候様存候依之別紙書類
相添此段申進候已上
十一月
卯十一月十日
申渡
河岸附町々
名主共
河岸地土蔵外廻リ又は【者】壁瓦等
損候分は【者】是迄月番町年寄共え【江】
相届修復いたし河岸地土蔵
納屋等先規有形之通建直幷
石垣堰板修復之節は【者】月十日之
番所え【江】願出最初幷出来栄見分
之もの差遣来候処今般地震
火事ニ付是迄之振合ニ而は【者】
市中之もの共手数相懸難儀
たるへく候条此度限出格之訳ヲ以
是迄有来間数丈尺之通相建候
分は【者】組合名主共立合見分之上
当人共ゟ証文取之普請為
致可申尤組々数多之儀可
有之ニ付間数丈尺等相糺当人
名前幷町役人共連印いたし
組合限帳面ニいたし当十二月
廿日限可申立候尤新規土蔵
造立且有来分ニ而も模様替
之分は【者】仕来之通訴出見分受
候積可致候
右之趣月行事持寺社門前共
早々不洩様可申通候
武江年表【1】 十三冊の内
元禄十六年十一月廿二日【2】
一宵より電強く夜八時地鳴る事雷の
如し大地しん戸障子たふれ家は小船の
より
大浪に動か如く地二三寸【見消「はかり」】所により
五六尺程割れ砂をもみ上あるひは水を
吹出したる所もあり石垣壊れ家蔵
つふれ穴蔵ゆり上死人夥しく泣さけふ
つしく
声ちまたにかまひしく又所々こほちたる
【1、斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌(ウィキペディア)。国立国会図書館デジタルコレクション『武江年間:8巻[3]』の第二四コマ参照】
【2、元禄地震、一七〇三年(太陰暦)十一月二十三日午前二時頃(ウィキペディア)】
家より失火あり八時過津浪ありて
房総人馬多く死す由川一はい差引
四度あり此時より数度地震あり相州
小田原は分ておひたゝしく死亡の者
二千三百人小田原より品川迄壱万五千人
房州十万人江戸三万七千余人《割書:内廿九日火災の|時両国橋にて》
《割書:死るもの千七百三十九人と|いへり》なりし由ものにしるせり
此時深川卅三間堂覆る廿四日夜より
雨ふり明方に及てゆり止む其後十二日迄
ふるふ事しは〳〵也
国つ神千代の岩をもゆりすゑて
うこかぬ御代のためし○にそ引
中院通茂卿【注】
十一月廿九日夜大風本郷追分より出火して谷中迄
焼又小石川より出火して北風に成上のゆしま
天神聖堂筋違橋向柳原浅草茅町南は
神田より伝馬町小泉町堀留小網町本所へ飛
回向院の辺深川永代橋迄両国橋西の方半分
【中院通茂は江戸時代の公卿・歌人、一七一〇年享年八〇歳(ウィキペディア)】
焼落明る五時しつまる是を世に地しん
火事といふ
┌─────────────────
水谷甚右衛門
中村八郎左衛門様 冨田小源太
坂本折右衛門
└─────────────────
河岸地建物之儀ニ付昨日別紙請証文之通
市中取締懸リゟ申渡候様被申渡候付
本所深川之儀も同様被御申渡候様被申候
此段可得御意如斯御座候以上
三月廿八日
河岸地町々
名主共
河岸地土蔵ノ外廻又は【者】壁瓦等損候分是迄は月
番町年寄共え【江】相届修復致し河岸地土蔵
納屋等先規有形之通建直し幷石垣堰板
修復之節は【者】月番之番所え【江】願出最初幷
出来栄見分之もの差遣来候処去卯年十月
地震火事ニ付是迄之振合ニ而は【者】市中之もの共
手数相掛難儀たるへく候条此度限出格
之訳を以是迄有来間数丈尺之通相建
候分は【者】組合名主共立合見分之上当人共証文
取之普請為致可申尤組々数多之儀可有之ニ付
間数丈尺等相糺当人名前幷町役人共連印
致し組合限リ帳面ニ致し同十二月廿日限可申立置
同年十一月十日申渡置其後日延相願承置
候処河岸地建物損ヶ所有来之通建直し
修復致し候分組々帳面ニ致し当人町役人共
連印損ヶ所間数丈尺此度書上候趣聞置候
【右丁のみ】
尤損ヶ所之内未タ修復中之分も有之候間
右は【者】出来形組合限見分之上追而申立候様
可致候右之通申渡候上は【者】此上別紙ヶ所書ニ
相洩候土蔵其外建物石垣堰板等修復
致し候節は【者】有形間数丈尺ニ而も願出見分請修
復取懸出来形も訴出見分受可申都而前之
【状物】
一昨二日夜大地震ニ而当御橋上は
別条無御座候得共両御橋台柱石
崩レ込東西之南北袖柱弐本
倒レ其外少々ツヽ損所は相見え【江】申候
東西助成地之義は御橋番屋弐軒
本所側長屋不残浅草側水茶や
壱ヶ所震レ潰レ申候右之外別条
無御座候此段奉申上候以上
大川橋
卯 定番人
十月四日 五郎右衛門
右橋懸リ
名主共
【左丁】
仕来之通可相心得置一統え【江】申達候様可致候
右之通被仰渡奉畏候為後日仍如件
河岸地町々
名主惣代
辰 堀江町名主
三月廿六日 熊井理左衛門
煩ニ付代兼
新革屋町 同
定次郎印
大伝馬町同
勘解由印
西河岸町同
清右衛門代兼
本材木町同
新 助印
霊岸嶋浜町同
太一郎代兼
南八丁堀町同
清左衛門印
以書付奉申上候
一本所竪川一之御橋北之方橋板三尺通
損候ニ付右町内ゟ背板を以往来之者
相通候様仕置候此段申上候以上
本所緑町
安政二卯年 名主平内
十月三日 孫 鋼次郎
本所御掛リ様
┌─────────────────────
│
│ 河岸地建物見分之儀ニ付申上候書付
│
│ 本所見廻
└─────────────────────
今般地震出火ニ付河岸地建物等損し又は【者】焼失
之分出格之訳を以此度限リ有形建直し候分は【者】
組合名主共立合見分之上当人共ゟ証文取普請
為致右間数丈尺等相糺当人幷町役人共連印
組合限帳面ニ致し当月廿日限リ可申立旨
河岸附町々名主共え【江】被仰渡候就而は【者】本所
深川之分は【者】私共方え【江】為書出尤跡々願所不混様
追々普請修復出来之節ニ至今般之書上面え【江】
【墨消】「○本所深川之儀を先格之通」
引合申○連々相改候様可仕候右は市中取締懸え【江】も
打合此段申上置候以上
卯十二月 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
町々之内河岸地え【江】建物奉願上自用相用来候分右建物有形
修復模様替新規建之節夫々前々ゟ之御願振御座候処当月十月二日
地震出火ニ而右建物一■ニ震損又は【者】焼失致候分銘々御訴御願立
仕候而は【者】多端之義ニ而下々難渋可仕と【与】厚御仁恵を以名主共支配限
河岸地間数ケ所組合名主立合取調当月廿日限り可申上旨被仰渡
一同難有仕合奉存候然ル処右建物之内損所之分漸補之手入又は【者】
損所之侭差置候分も多乍恐間数取調方も行届兼候ニ付奉恐入候
御義ニ御座候得共右取調申上候義来二月廿日迄御慈悲御猶予
奉願上候以上
河岸附町〻
安政二卯年十二月十九日 名主共
前書之通
播磨寺様御番所江申上候処昨廿二日御聞済相成候旨被仰渡候間
本所深川之義も同様来ル二月廿日迄御猶予被成下置候様奉願上候以上
《割書:本所|深川》
卯十二月 河岸附町〻
名主共
御奉行様
上
拾七番組
名主久右衛門支配
深川中嶋町
同所北川町
同 九左衛門支配
深川富吉町
同 理平次支配
深川諸町
同所佐賀町代地
同 助之丞支配
深川黒江町
同町代地
同所大嶋町代地
右町〻河岸建物去卯十月二日夜地震之節潰
又は類焼致候処銘〻名主共手元書留焼失仕候
間去ル天保十三寅年中河岸建物御調之節書上候
絵図面何卒御下被成下置候様奉願上候以上
辰二月 右
名主共
建物之部
何町
間口何間奥行何間 家主誰地先
何岸地之内 河岸地
一間口何間奥行何間土蔵請石面ゟ桁上端迄
何丈何尺
間口之方出巾何尺棟高サ何尺 塗屋庇歟
同河岸之方前同断 板庇歟
土蔵壱ヶ所
一間口何間奥行何間土蔵下端ゟ桁上端迄
何尺
間口之方出巾何尺棟高サ何尺板庇
同河岸之方何〻
納屋歟
細工小屋歟
物置歟
壱ヶ所
一間口―
―
― 壱ヶ所
何町
間口何間奥行何間 家主誰地先
何河岸地之内 河岸地
一間口―
―
―
―
右は去卯年十月二日地震ニ付河岸地建物潰又は
損分有形間数丈尺無相違建直并修復仕度奉願上候
建直修復出来之節は御訴可申上候以上
何町
家主
安政三辰年月 誰印
ー《割書:下|ケ|札》
ー
ー
五人組ー
《割書:壱町之内不残河岸地之分は|五人組加印不及候事》
何町家主
誰印
誰印
五人組誰印
前書之通私共立合有形間数高丈尺等取調場
所見届候処相違無御座候此段奉申上候以上
右町
名主 誰印
何町
《割書:組合|名主》 誰印
右雛形之通半紙竪帳弐タ通御認メ来ル十八日一組分
世話掛御同役江御取集亀之尾江御持寄可被成候尤右は
南
御番所御掛候得共北 御番所ゟ御上廻ニ相成候分
下廻りニ被仰付候哉御沙汰次第不手支ため弐タ通御持
参可被成候此段御達申候以上
但拾六番組拾七番組拾八番組之儀は此振合を以
本所御見廻り様方江御上ケ可被成候十八日御持参候は
不及申候
定
二月十一日 世話掛
【朱書】卯四月二日森本与三郎富田小源太を以上ル
【表書】
河岸地建物之儀ニ付申上候書付
御届 本所見廻
河岸地建物之儀ニ付市中取締懸ゟ
申渡候受証文御渡被成候付本所深川
名主共江は於鯨船鞘番所私共ゟ同様
申渡候依之別紙書類返上此段申上候以上
辰四月 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
【朱書】卯三月廿八日大竹銀蔵持参富田小源太ヲ以上ル
【表書】
鯨船鞘番所庇付足候御入用御下ケ金之儀
申上候書付
町年寄 本所見廻
本所一ツ目鯨船鞘番所去卯十月中地震之節
震潰候付梁間弐間桁行三間半之仮番所補理
置候処入口之方風雨之節降込強く并勝手之方
手狭ニ而差支候間前通り江三坪半之柱建庇
西之方江弐坪之下屋何れも古木を以取申付候
右御入用金五両壱分銀十四匁七分相懸り候間
【「去卯年」貼紙】
浅草元吉町地代金之内ゟ霊岸嶋川口町家持
伝吉江相渡候様町年寄江被仰渡可被下候以上
辰三月 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
【朱書】辰三月廿八日播磨守富田小源太以御渡
【表書】
鯨船鞘番所庇付足候御入用御下ケ金之儀申上候書付
町年寄江御断 本所見廻
本所一ツ目鯨船鞘番所去卯十月中地震之節震
潰候ニ付梁間弐間桁行三間半之仮番所補理置候処
入口之方風雨之節降込強く并勝手之方手狭ニ而
差支候間前通り江三坪半之柱建庇西之方江弐坪
之下屋何れも古木を以右取付申候右御入用金五両
壱分銀拾四匁七分相掛り候間浅草元吉町地代
金之内ゟ霊岸島川口町家持伝吉江相渡候様町
年寄江被仰渡可被下候以上
辰三月 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
舘市右衛門
本所方御断申上候
一本所一ツ目鯨船鞘番所去卯十月中地震後
仮番所手狭ニ付古木を以取付候下屋御入用
金五両壱分銀拾四匁七分渡方浅草元吉町
地代金之儀去卯十月同所地震大破ニ付上納金
減少相願先達而申上当時御調中ニ付当辰年分
地代納方未取極不申候依之右金子之儀去卯
年分同所地代金之内ゟ相渡去卯年分払方清帳
之内江組入候得は差支候儀無御座候間右之通取計
可申候哉尤一応本所方江も懸合候処同方ニおゐて差障
候儀内無之旨申聞候依之一ト先別紙御断書相添此段奉伺候
以上
辰三月
上
拾七番組
河岸付町 〻
名主共
河岸地町 〻
名主
河岸地土蔵外廻り又は壁瓦等損候分は是迄月番町
年寄共江相届修復致河岸地土蔵納屋等先規
有形之通建直并石垣せき板修復之節は月番之
番所江願出最初并出来栄見分之もの差出来候処
今般地震火事ニ付是迄之振合ニ而は市中之もの共
手数相懸難儀可為条此度限出格之訳を以是迄
有来間数丈尺之通相建候分は組合名主共立会見
分之上当人共ゟ証文取之普請為致可申尤組 〻数
多之儀ニ付間数丈尺等相糺当人名前并町役人共連
印致組合限帳面ニいたし当十二月廿日限可申立候尤
新規土蔵造立有来候分ニ而も模様替之分は
仕来之通訴出見分請候様可致候
右之通月行事持寺社門前共早 〻不洩様可
申通候
右之通被仰渡奉畏候仍如件
堀江町名主
安政二卯年十二月十日 熊井理左衛門
外七拾人
右之通南
御白洲ニおゐて被仰渡候間為御届此段申上候以上
拾七番組
河岸付町 〻
卯十一月 名主共
【白紙】
【管理ラベル「806・・78」】
【白紙】
【白紙】
【管理ラベル「806・・78」】
【背表紙・白紙】
地震方々人迯状之事(ぢしんほうぼうにんにげじやう)
一 此(この)ゆり苦労(くらう)と申 者生得信濃国生須(ものせうとくしなののくになまづ)の荘(しやう)
揺初村出生(ゆりそめむらしゆしやう)にてふ造(たしか)なるふら附者に付荒魔ども
失人(うせにん)に相立(あいたち)異変(いへん)沙汰(さた)人 諸々(しよ々)方々(ほう々)にゆり出し
申候処めいほう也 火災(くわさい)の義は當卯十月ニ日夜ゟ
翌(よく)三日午の下刻迄と相定(あいさだめ)困窮(こんきう)人の義(ぎ)は難渋無住(なんじうむぢう)と
相きはめ只今御ほどこしとしてさつま芋三俵はしたにてたべ
申候御救の義は七ヶ所へ御 建(たて)じま 御恵(おんめぐみ)に逢目嶋【?】
可被下候事
一 鹿島様 御法度(ごはつと)の義は申に不及お家(いへ)の八方(はつぽう)相 傾(かたむか)せ申間鋪候
若(もし)此者お台所(だいどころ)の女中方の寝息(ねいき)を考へ内證(ないしやう)の地震(ぢしん)致候歟
又はゆり迯壁落(にげかべおち)致候はゝ急度(きつと)したるかふばりの丸太を
以て早速らちあけ可申候
一 愁患(しうせう)の義は一連(いちれん)たゝ 宗(しう)にて寺(てら)は夜中(よなか)ゆりあけ坂
道性寺市中(どうしゆうじしちう)まつばたか騒動院大火(そうどういんたいくわ)に紛れ御座
なく候御 発動(はつどう)のゆりしたん宗にてはこれなく候
若(もし)物音(ものおと)がたつきひめわひより瓦(かはら)をふらし候義は
無之万一ゆりかへし等致候はゝ 我等(われら)早速(さつそく)まがり出 要石(かなめいし)を
以てぎうと押(おさ)へ付(つけ)野田(のでん)へ宿労(しゆくらう)さしかけ申間敷候 地震(ぢしん)の
たびゆつてむざんの如し
半性大地割下(はんてうだいちわりげ)水
造作(そうさく)ざん年 家なしまご右衛門店
鹿嶋(かしま)の 神無(かみな)月ニ日 つぶれやお出【土?】蔵
どさくさほんつらないけんのん橋
みじめや難十郎店
世並直四郎(よなみなほしらう)様 お小屋太助
地震(ぢしん)吉凶之辯(きつきようのべん)
地震は豊年(はうねん)の基(もと)ひ也何無愁事秋は草木土(さうもくつち)に
もとり冬の気より土(ち)ちうに芽(め)をふくみ天のめぐみを
地にはらみ万物(ばんもつ)を生ずるところ時のふしゆんを
いかりすでに發(はつ)して地しんとなる地震は
地の煩(わつら)ひゆゑ野(の)人は不 息(やま)人は天地を父母と
して万物の長 四海(しかい)みな兄弟(けいてい)也ゆゑに
老(おひ)の若(わか)きを導(みちび)き若(わか)きは老を助(たすく)ること
人りんの常也然る処(ところ) 近来(きんらい)かろきところは
人情薄(にんじやううす)く
自他(じた)の隔強(へだてつよ)く美飯(びはん)を
好(この)み時ならざる花を楽(たの)しみ高金(かうきん)を費(つひや)すこと天理にかなはずたとへ
地震のなんをのがるゝとも教(をしへ)に背(そむ)き身全からず恐れつゝしむべし
夫(それ)天は陽也上に位(くらゐ)して覆(おほ)ふこれ父の徳也
地は陰なり下に位してのする【しきのばす】母の道也然して
陰陽(いんやう)交(かう)かんして五行(ごぎやう)を生ず其気(そのき)天にかへりて四(しい)
時行(じおこなは)れ其 形(かた)ち地に布(しひ)て人及び禽獣魚虫(きんじうぎよちう)
草木(さうもく)を生ず故に天地を大 父母(ふぼ)と称(しやう)す
人は秀(ひい)でたる五行の気をうけて生するを以(もつ)て
万物(ばんもつ)の霊(れい)といふ也されば天地の父母に順(したが)ふ
を孝(かう)といひ日月 君侯(くんかう)に従ふを忠といふ
実(まこと)に人は其 性(せい)を天地にうくるがゆゑに天地の
あひだに備(そなは)るもの人に備らずといふ事なし天 圓(まろ)
きがゆゑに人の頭(かしら)丸し天に日月あつて人に両 眼(がん)
あり天に列星(れつせい)【つらなる星】あり人に歯牙(しが)あり天に風雨(ふうう)
あり人に喜怒(きど)あり天に雷鳴(らいめい)あり人に音声(おんせい)
あり天に陰陽(いんやう)あり人に男女あり天に四時(しいじ)あり
人に四肢(しし)あり天に炎冷(えんれい)あり人に寒熱(かんねつ)有
天に昼夜(ちうや)あり人に起臥(きぐわ)あり
天に五音(ごいん)あり人に五臓(ごぞう)有天に六(りく)
律(りつ)あり人に六腑(ろつふ)あり天に十干(じつかん)有
人に十指(じつし)あり天に十二 辰(とき)あり人に足(あし)の
十指と莖垂(きやうすい)【左側にも「インフグリ」とフリガナ】あり女は此二ツなし故に胞胎(はうたい)を
なす年十二月なれば人に十二 節(ふし)あり一年三百六
十日なれば人に三百六十の骨節(こつせつ)有或は地形成(ちかたなる)が故に人の
足形(あしかた)也地に十二経水(けいすい)有ば人に十二脛 脈(みやく)有地に高(かう)
山あり人に肩(かた)ひざあり
地に泉脈(せんみやく)【左側に振っている】あり人に気血(きけつ)あり
地に草木有人に毫毛(かうもう)
■(けん)筋(きん)あり
地に▲
▲砂石(しやせき)あり
人に骨肉(こつにく)あり
その餘(よ)天地の間(あひだ)た【振り仮名とダブっている】にあらゆる
もの人に具(そなは)らずといふものなし仏(ぶつ)【佛】
経(きやう)に説所(とくところ)の須弥山(しゆみせん)といへとも皆一身(みないつしん)に具(そなは)る也
既(すで)に須弥(しゆみ)の頂(いたゞき)に忉利天(とうりてん)ありといふも人の頂(いたゞき)の天 骨(こつ)なり
須弥(しゆみ)の圓生樹(ゑんせいしゆ)は頭(かしら)の圓(まろき)に生(しやう)する毛髪(もうはつ)也 帝釈(たいしやく)は額(ひたへ)喜見域(きけんしやう)は
眉毛(まゆげ)也これ喜(よろこ)びの眉(まゆ)を開(ひら)くのいひ也 善法堂(ぜんほふだう)は人 皆具足(みなくそく)する所の仏心也
須弥の四方に持 國増長広目多聞(ごくそうちやうくわうもくたもん)の四天 居住(きよぢう)すといふものまづ広【廣】目 両眼(りやうがん)也
多聞耳(たもんみゝ)也 増長鼻(ぞうちやうはな)也口は一切(いつさい)の食(しよく)を以(もつ)て一身の国を持(たも)つ則(すなはち)持国(ぢこく)也須弥の九山は肩肘胸(かたひぢむね)
腹陰膝背腰臀(はらいんひざせこししり)の九ツ也八 海(かい)は胸中(きやうちう)八識(はつしき)の湛水(たんすゐ)也四 州(はう)【「しう」とある所ですが「はう」に見える】は四肢(しし)なり又須弥の哥に
北は黄にといへるは黄黒(くわうこく)の夜(よる)のいろをさとす也東は
白くといへるは東方 黎明(しのゝめ)の
しらむ色をさすなり
南は青(あお)くといへるは白日 青(せい)
天昼(てんひる)の空(そら)をさす也西くれなゐは夕陽(せきやう)の
影(かげ)の赤(あか)きをさす也是又此 世界(せかい)の一昼夜(いつちうや)
なり蘇命(そめい) 路の山は日東山に出て西山
に入(いり)旦(あした)にまた東へ蘇命(よみがへる)也人又東
の陽(やう)に生れて西の陰(いん)に没(ぼつ)し東へめぐりて
蘇命(よみかへる)也是を以て省刻(みるとき)は嗚呼(あゝ)貴(たつと)き哉(かな)人天の道を修(しゆ)し地の理に
順(したが)はずんばあるべからず甲乙(キノヘキノト)丙丁(ヒノヘヒノト)戊己(ツチノヘツチノト)庚辛(カノヘカノト)壬癸(ミツノへミツノト)是天なりきのへは木の兄(あに)也
東方の春に位(くらゐ)し五常(ごじやう)の仁(じん)に配(はい)す十 幹(かん)【十干に同じ】の魁(さきがけ)なるを以て甲(はじめ)とも訓(よむ)也是 春(はる)の始(はじめ)なり木と世の
はしめ也きのとは木の弟(をと)也東方の春に位す是此 土(と)也ひのへは火の兄(あに)也南方の夏を司(つかさど)り五常の義に配す
又曰丙は炳也日 輪(りん)炎熱等の火也是を君火と云ひのと火の弟也又南方を司る又日 丁(てい)は灯(てい)也民家日用の火也是 相火(さうくわ)と云土のへ土の兄也央(ちうはう)に
位し四季の土用を主り五常の信に配す又曰戊は母也五こく草木を生るの母也つちのとは土の弟也又曰巳は
起也一切の器物を起して人民の作(さく)用を助る也かのへは金の兄也西方の秋を司り
五常の礼に配し万物を収る方位也故に云 庚(かう)は更(かう)也 更更(あらためかへる)也万物木(こ)の世に
生じ金の世に更(かわり)【送り仮名の重複】り収(をさま)る也かのとは金の弟也又秋に配す又云辛は新也
万物更新なる也みつのへは水の兄也北の方の冬を司り
五常の智に配す又云 壬(しん)は拰也万物 金(か)の世に収り木の
世に生ずみつのとは水の弟也又曰く癸(き)は揆也水は万物を
揆るの始智は万計を揆の本也【各干支に振られた右横の番号は各々の前に記す】
《割書:地|也》九 子《割書:ハシメ|北》 八 丑《割書:ムスブ|》七 寅《割書:ヒラク|》六 卯《割書:シゲル|東》 五 辰《割書:フルウ|》 四 巳《割書:トヾマル》 九 午《割書:フタツ|南》八 未《割書:アラソウ|》七 申《割書:ミ|》 六 酉《割書:シテハ|西》
五 戌《割書:ヤブル|カエル》 四 亥《割書:タエル|ツキル》ねは根也夜九ツ夜半と云是陰の終場の始也故に子の字(じ)了(おわる)と
一(はじめ)の字(じ)を合して子とす万物を生るの根也うしは極陰(ごくいん)にして陽気(ようき)をうしなふ也夜八ツ鶏(けい)めいと云物の終也
寅(とら)は陰気陽気にとらるゝ也朝七ツ平旦と云平に旦てのぼるの気ありうは日をうむ也朝六ツ
夜明と云人戸をひらくの時也故に卯の字は戸の字を左右に開きたる形也たつは日上りたつ也
朝五ツ食時と云陽の極致也みは日の気みつ昼(ひる)四ツ禺中と云日禺_レ 中 ̄ニ也陽気みちのぼる也午は
陽気うまるゝ也ひる九ツ日中と云日中天にのほれば傾くの外なしひつじ日通じ也 則日のつじ也
ひる八ツ日昳と云さるは日去也昏七ツ晡時(ほじ)と云 猿(さる)の性のさはがしきは晡まへのせわしきに発す
とりは日収る也昏六ツ日入と云酉の字は卯に反(はし)【ママ】して戸を打あはせ横木を入たるのかたち也いぬは陽
気いぬる也 昏(くれ)五ツ黄昏と云また戌(いぬ)は戌(やぶる)也陰気陽を戌る也草木霜にやぶれ滅(ほろ)る也ゐは陽気
ゐかへる也夜四ツ人定と云 微陽盛陰(ひやうせいゐん)と交(まじは)り人定まつて妊(はらむ)の時也草
木ゐかへりて蒔(つきたし)をはらむ也《割書:五|◯》戌 ヤブル 《割書:四|》亥にて地震はヲキル也 《割書:九|》子 ヨイハジメテ末広の春
祈■ゟ地震をサシテ万歳楽ト云 既(すで)に十月二日の大地しんは辰(たつ)の日にて
夜の五ツ過四ツ前にて戌の下刻也戌亥西北に当り戌は土に主り亥は水ニ
司(つかさ)どる辰は東南に当り土に主どる処此節云中ウルホイ多く其気万もつ
更らんとすれど未だ上の陽気 若(わか)く時至らずして発(はつ)すること能はず其気
変じて地しんと
なる辰に振ふ意也戌はヤブル亥はタヘルノ■にして一年の
終り一日の仕舞也一旦吹出震崩とも其翌日巳の日にて巳は
とゞまる故に地震の元を失ふ也過れば子の刻(こく)に 移(うつ)り子は九ツにして陰の終りやうのはじめなれば▲
▲是天地
乾坤万物五
こくを生る根也 以て此処(こゝ)を押
ときは凶年の兆しにあらず 豊(はう)年の■
実(げ)に作れる 御世(みよ)の祥瑞たるを示(しめ)し
て人の惑をとき忌(いみ)うたがふ人なからんこと
を庶幾(こひねがふ)と云爾(しか)
尤地形定るまで其気ありと
いへども再(ふたゝ)び大地しん
の愁ひなきかしかしながら
天 質(しつ)ははかり
がたし御用じん
肝用なり
【左下に囲文字】
禁買売
【江戸大地震之絵図 寄別2-9ー1ー13 02ー013】
地震(ぢしん)けん
「 扨(さて)もこんどの大ぢしん 家(いへ)はぐはら〳〵
大へんな人はあはてゝどつちの方へ
参(まい)りましよ 合 土蔵(どぞう)と 瓦(かわら)でつぶされ
て 親父(おやぢ)に 子供(こども)がしかられてやつとはい
〳〵にけ出してこつちの方へ サア きなせへ
「 火事(くわじ)は所々(しよ〳〵)へもゑあがりにげる人こそ身
ひよこ〳〵またぐら〳〵どつちの方へ 参(まい)り
ましよ 合 やつたらむしやうとかけあるき
ぢ様がば様の手を 引(ひい)てはいる内こそ
あらばこそお 舟(ふね)へ サア きなせへ
「扨もふり出す 大雨(おゝあめ)にらいはじろ
〳〵いなびかりみなびしよぬれ
野宿(のじゆく)はできません 合 大へん〳〵
大さはぎ大工さんは手 間(ま)を 上(あげ)てしから
れたこれから 段々(だん〳〵) 世(よ)が 直(なを)り 金(かね) 設(まふけ)て サア きなせへ
【国立国会図書館】
地震( しん)鞠(まり)うた
一ツとや 一ツ目二ツめ三ツめ子蔵(こぞう)ばけものが
うそでないぞや本所(ほんじやう)へいでるとさ
二ツとや 二日の夜(よる)のなきごゑやたのむこゑ
ミヽいはめをとやおやこづれなさけなや
三ツとや 三座(さんさ) 芝居(しばゐ)のごひゐきもそでのつゆ
かほみせないとはくちをしやまちかねる
四つとや よし原 女(ぢよう)郎しゆは 出(で)まごつくむりもない
火(ひ)の仲(なか) の丁(てう)でつゝまれてともにしぬ
五ツとや いつかかしまのかなめ石(いし)ゆるんでか
神(かみ)なし月じやとあなどつてにくらしや
六ツとや むしやうにゆりくるそのたびにとんでいで
よくとくはなれて青(あを)いかほこはらしい
七ツとや なむあみだぶつといふ間(ま)さへあればこそ
ゆめではあらぬか死出(しで)のたびうかまれぬ
八ツとや やけてゐどこにまよふ人おほければ
おかみのおじひで小やがたつありがたや
九ツとや くやんでかへらぬ事ながら金をかけ
おくらをふるつていはれますうまらない
十ツ【ヲでは】とや とうと世(せ)かいも入(いり)おふてゆづふよく
〔こがねの御代(みよ)でまはりよくくらせます〕【文字切れをしている二十二行目は他資料より追記】
弘化三年信州大地震記 合本全
弘化四丁未年
信州大地震之記 合冊 川北文庫
それ天の蘖はなを避へしといはすや地妖も亦
しからん然に弘化四丁未年三月廿四日夜四ッ比より
信州越後大地震して就中善光寺のあたり厳敷
堂塔末社寺院その外人家夥敷出火に焼亡し
山崩て洪水しおしにうたれ火にやかれ水に溺れ
人馬等の損亡挙て数ふへからず東ハ丹波島川中島
松代屋代戸倉坂木上田のあたり殊に強く街道
巖石等ゆり出し大地も裂て通路難し殊に当年
善光寺開帳ありて遠近の男女群集し旅籠屋
泊心安からぬほとの人数なかに旅家一時に倒れ懸れ
忽火燃上り不残焼失怪我人夥敷其騒動
絶言語さりなから善光寺本堂別条なき故堂内
通夜の者壱人の怪我もなく越後上州も震動に
出火大川出水水火の責といふへし真田城下町之
大地さけ家数百七十八軒潰れ人数六十人ほと行衛不知
飯山城下も大山くつれ落たり尾州より善光寺参詣
同夜泊り合せし者帰国之者もありて咄區々也府もの
死亡人廿六人とかや古来未曽有の大変也
四月三日御届
私御代官所当分御預所信濃国高井郡水内郡
村々之儀当月廿四日夜戌中刻比亥上刻頃江かけ
大地震発翌廿五日卯之中刻漸相鎮候処地所
割裂泥水吹出し潰家人牛馬死失多く家内
不残死絶候者も有之怪我人ハ夥敷一村皆潰家ニ
相成候村々も有之前代未聞之変事之趣追々
届出候ニ付不取敢手代共差出申候且陣屋許
中野村之儀ハ損家等有之候迄ニ而陣屋も別条
無御座候委細之儀ハ追而可申上候得共先此段
御届申上候已上
未三月 高木清左衛門
四月三日御届
私在所信州松代一昨廿四日亥刻比より大地震
にて城内住居向櫓并囲塀等夥敷破失家中
屋敷城下町領分村々其外支配所潰家数多く
死失人夥敷殊ニ村方ニ出火も有之其上山中筋
山抜崩犀川江押埋水湛追々及充満勿論流水
一切無之北国往還丹波島宿渡船場干上りニ相成
此上右溢水押出し方ニ寄如何様之変水も難計奉存候
只今以折々相震申候委細之儀ハ追而可申上候得共
先此段御届申上候
三月廿六日
真田信濃守
当月廿四日昼夜快晴暖気ニ而至極穏之日ニ御座候処
同夜四時比大地震ニ而信州中之条村私陣屋構練塀
所々ゆり倒し其外陣屋之近辺農家手弱之分之
下家廻りゆり倒し夥敷震動いたし暫相立漸相止ミ
候処夫より少々宛之間を置不絶震動陣屋ゟ
北之方ニ当り雷鳴之如キ響き有之夜明迄之内ニハ凡
八拾度余之地震翌朝少静ニ相成候得共今以震動
相止不申支配所水内郡村々之内二ハ潰家怪我死人等も
有之候由ニ御座候得共未訴出不申追々風聞之趣承り
候処同国川中島辺ゟ善光寺夫より南江当り
山中と唱候一郷村辺重二地震と相見川中島辺ハ民
家一村不残又は過半ゆり倒し其上出火二而不残焼失
いたし候村々も有之一村三四拾人位ゟ二三百人程も
即死怪我人有之善光寺町々家並大体残らず
揺倒し其上焼失大造之即死怪我人有之すべて
往還筋ハ此善光寺供養ニ付夥敷旅人泊り合せ
それ故死人も多分御座候由山中辺ハ手遠二片寄
右様子難分候得共犀川上手ニ而山崩有之川中留り切
流水更ニ無之丹波島渡船場さし上り歩行渡り致候由ニ
御座候越後表之儀ハ如何御座候哉様子相分不申右者
風聞迄之儀ニ而聢と難相分候間早速手代差出
支配所潰家其外見分吟味之上最寄村々損耗
をも相糺委細之儀は追而可申上候且御預り陣屋附
同国佐久郡村々之儀も前同時大地震致候得共
善光寺辺よりハ里数も隔り候次第二相劣り候哉陣
屋并支配所其外最寄私領村々共纔宛之破損
家等有之候趣候得共為差儀者無御座怪我人亡所等
無御座候先不取敢此段御届申上候
三月廿五日
川上金吾助
私領分信濃国高井郡之内一昨廿四日亥刻比ゟ
地震強陣屋并家中居宅長屋向破損所数
数ヶ所村々百性家潰其節地破数百ケ所砂泥吹出シ耕地不残
押入今以折々地震仕候領分おゐて人馬怪我無御座候尤善
光寺へ参詣又ハ出稼二相越候者共之内死失人も有之哉ニ
相聞候得共未取調不行届候委細之儀ハ猶追而可申上候得共
先此段御届申上候
三月廿六日 堀 長門守
信州善光寺ゟ江戸青山善光寺江文通
急飛脚致啓上候廿四日夜四ッ時此表大地震宿内
出火一時二而御霊屋向御殿向御宝蔵忽ち震潰し
何も無残焼失仕候乍恐 御本堂山内経蔵ハ相残り申候
御寺内不残潰町家旅人とも死人数難斗家来之内
蓮等順道須田昌作并孫弐人西川夫婦即死私共方ハ
子供并家来共即死私共ハ漸命助り申候迄二而着之儘二御座候
御殿向震潰し中ゟ一時二火廻り候間御什物御宝蔵ハ不及
申諸書物諸帳面類持出し候間も無之悉く焼失仕候乍恐
御霊屋御安置 御尊牌ハ辛して持出し無恙御守護
申上候間御安心可被下候今以鎮火不仕一同愁傷斗二御座候
未死亡人其外騒動之儀慥成儀者相分り不申候間猶飛脚
之者ゟ委細御聞可被下候早々已上
三月廿七日 蟻川茂太夫
山形又市
嶋餘助殿
吉田兵左衛門殿
伊賀守領分信濃国去廿四日亥之刻比より
地震ニ而更級郡之内稲荷村人家震潰右潰家
より出火一村荒増焼失仕人馬継立出来兼小県
郡之内共潰家并損所人馬死失等も有之同廿六日
至り候而も折々相震申候と在所役人共ゟ申越候委細之儀ハ
追而可申上候得共右稲荷山村は宿場之儀ニ御座候間
伊賀守在大坂中ニ付此段御届申上候
未四月朔日 松平伊賀守家来
大島邦之丞
私在所信州飯山去月廿四日亥刻ゟ大地震ニ而城内
住居向櫓門并囲塀夥敷破損家中屋敷城下領分
村々潰家数多死失怪我人等夥敷右ニ付出火有之
所々焼失仕今以折々相震ひ申候趣在所役人共ゟ申越候
委細之儀ハ追而可申上候得共先此段御届申上候已上
四月二日 本田豊後守
私御代官所当分御預り所越後国頸城郡村上
去月廿四日夜四ッ時ゟ地震強く度々震返し等有之
川浦村陣屋本陣屋長屋向柱くじけ壁等落損所
夥敷同村并最寄村々多分潰家等出其上即死人怪我
人等も有之由遠方村々ハ未届出不申候得共同様之趣
相聞候間委細之儀ハ猶追而可申候得共先此段御届申上候
未四月二日 小笠原信助
私在所越後国高田去月廿四日亥刻ゟ大地震二而
城内住居向門櫓塀破損家中屋敷城下領分村々
潰家破損所夥敷人馬怪我有之北陸道往還筋
所々欠崩等御座候旨在所ゟ申越候委細ハ追而可申上候
得共先此段御届申上候已上
申上候以上
四月廿日 榊原式部大輔
私在所信州松代去月廿四日亥刻ゟ大地震之儀
先達而御届申上置候通ニ御座候処其後今以相止兼昼夜何ケ度と
申儀無之折々相震同廿九日朝晦日夕両度ニ三度
強キ震有之手遠之村方ハ相分り兼候得共城下町ニハ
猶又潰家等も在之近辺山上ゟ巌石夥敷崩落
且兼而申上置候犀川上手ニ而堰留候場之儀ハ更級
郡之内安庭村山手林村両村之辺ニ岩倉山と申高山
半両端抜崩壱ケ所ハ三十丁程壱ケ所ハ五町程
之間川中江押入其辺押埋候村方も有之候然処
多巌石之儀ニ付迚も水勢ニ而押切兼候様子之次第ニ
湛平水より凡七八丈ニも可及就夫数ケ村水中に
相成其辺潮水之躰ニ御座候勿論種々手当申付候へ共
大山殊ニ巌石押入候儀ニ付人力ニハ何分届兼可申哉
且又川中島郷中之者共ハ右湛水何方江一時に
押出可申哉難計と恐怖仕山之手江立退罷在丹波
島宿等も同様之儀ニ而人馬継立等出来兼申候猶益々
手当申付置候へとも先此段御届申上候委細之儀追而
可申上候
未四月五日 真田信濃守
榊原式部大輔御預所越後国頚城郡村々去月廿四日
夜大地震ニ而潰家死人等有之候段訴出候付其段先御届申上置候処
日々少々宛震止不申候付役所外面々簀之仮小屋ニ而御
用弁罷在候仕合二候処又々去月廿九日昼比大地震致し殊潰
家死人等有之并苗代田水冠ニ相成候段訴出并御廻米川下いたし
郷米浜町蔵江入置候処皆潰御米乱俵ニ相成候旨訴出候処
廿四日ゟ廿九日迄雨降不申候処
晦日明方ゟ雨降其外ハ折々大風吹上右村々雪相降候由
ニ相聞候委細之儀ハ追而可申上候得共尚又右之段先御届
申上候已上
未四月 榊原式部大輔家来
武藤門吾
信州千曲川通塩崎村国役御普請見分并仕立御用中
大地震及見分候趣荒増申上候書付
松平飛騨守殿知行信州更級郡千曲川通塩崎村国役
普請見分并仕立御用として同役高崎善八一同彼地ニ
罷在候趣去月廿四日夜四時比聞伝ニも無之大地震ニ而
塩崎村高弐千九百石余之村方にて惣家数六百軒余棟
有之候由二御座候本家物置新家借家其外潰家等地改役人ゟ
取調差出候処
数二而四百軒歩通二而六七歩通潰家怪我人凡六十人有之趣
申聞候へ共私共彼地出立迄追々潰家之中ゟ出火有之候
死人多分有之尤旅人之儀ハ死人数急速二難相分
趣二候趣ニ御座候私共旅宿も震潰漸助命ハ仕候得共荷物外
潰家下ニ相成翌朝ニ至り掘出し候儀ニ御座候塩崎村之儀者
出火も弐三軒焼失而巳二御座候右地震之節は四方遠近一時二
出火焼立夜中何十ヶ度と無之山鳴震キ人声夥敷岩石
崩れ落候音絶間なく田畑往還共巾弐三尺四五寸位まて
竪横ニ割裂水吹出し又ハ泥土等吹出し共二滅スがごとく
被存候儀ニ御座候右地割場所所々弐尺位ツゝ段違ひニ相成泥水吹出
候場所匂ひ甚以悪敷硫黄之気味有尤水吹出候場所
ハ匂ひ無之候三月十日ゟ善光寺開帳ニ而諸国ゟ参詣之旅人
夥敷一軒之旅籠屋ニ千人二及び候泊り居候由二候処右群集の折
柄大地震善光寺門前町荒増震潰候上出火二相成死人何程と申
数限り無之由如来堂ニ篭候旅人凡三十人余も可有之無難に
立退候へども衣類其外旅金等何れも焼失遠国之者
別而及難渋ニ及候様子ニ御座候本堂山門而已相残其外町中共
一同無残焼失いたし候由死人之義中々以難相分噂ニハ善
光寺町計ニ而即死人凡弐万九百人余も有之由同所町置
旅人等廿五日朝残り候者漸弐三百人ならてハ無之趣噂二御座候
其外逃去候者も有之候得とも何れ二も大変之儀ニ御座候塩崎村
西之方隣宿上田領稲荷山宿之儀ハ震潰候上出火ニ而
不残焼失いたし旅人其外即死人夥敷趣ニ御座候へ共是も
人数いまだ不相分噂ニハ即死人三千人程と申もの御座候其外
潰焼失いたし候宿村々自然即死人多有之哉之由二御座候
信州犀川之儀廿四日夜地震之節ゟ流水留り廿六日
昼比ゟ私共彼地出立之節一切流水無之丹波島宿辺ゟ
川上七八里行美濃路橋にて刎橋有之由右前後之辺
山崩いたし犀川を塞候由ニ而何村何方ゟ出水いたし候哉も
難計同所川附ハ勿論低場之村々ハ追々逃去申候右ニ付
往還江ハ上田松代等江役人出張差留申候噂ニハ犀川之
湛水信州松本辺潮水ノ如ク相成桔梗ケ原江水押開キ諏訪之
潮水江入天龍川江流可致ととり〳〵噂仕候へとも多分
山崩之場所十分ニ水湛候上押切一時二大出水可致と被存候
儀二御座候何れ二も犀川之為ニ又々流水亡所等夥敷義と
奉存候私共地震二付廿六日昼後ゟ彼地出立途中
地割候場所漸通行仕飛騨守殿用人も引続出立致候処
塩崎村山手之方ゟ夥敷人声ニ而追々寄集り右用人を取巻
中ニハ親ニ別れし者妻子ニ分レ候者も有之助ケ呉様申聞又ハ
夫食与へくれ候様泣わめき候付彼地詰合代官其外手代共
呼寄段々利解手当方之次第等申聞漸引取申候様子ニ御座候
右之次第二付中々以急速御普請出来難行届差当
旅宿無之私共両日両夜とも野宿仕漸彼地引払候
儀二御座候尤地頭ゟ小屋掛手当いたし遣人気居り候趣可
申残候様二又私共罷越普請取懸り候積ヲ以中帰仕候儀ニ
御座候此度之大地震彼地ゟハ十里四方と申居候得とも極強キ所ハ
南北五六里竪ハ十二三里も御座候様子其余ハ格別之事も
有間敷と奉存候私共塩崎村出立千曲川ヲ渡壱里ニ而
松代領矢代宿江罷越候処潰家数も少く三軒程も有之候趣
即死人も十弐三人と申而已塩崎村辺ゟ地割も細く軽キ様方ニ
相見夫ゟ三里罷越川上金吾助御代官所坂木宿辺ハ潰家死
人等も無御座候得共都而建具等は震り損し昼夜何十度ともなく
震動いたし候二付一同野宿いたし居候それより三里上田町江罷越
候処又一段軽く尤昼夜野宿いたし候候様子ニ御座候夫ゟ弐里半小
諸町夫ゟ三里ニ而追分宿辺ニ至り候てハ山鳴候ほとの義ハ無御座大
地震は只折々少々ツゝ震り候迄ニ而夫ゟ碓水峠ヲ江戸之方
江打越候得ハ廿四日夜余程之地震有之而已其後ハ地震無之趣ニ御座候
右ハ御用中大変之儀及見分候様子荒増書面之通ニ御座候委
細之儀ハ追々場所ゟ取調申上候儀と奉存候已上
弘化四未年四月三日 御普請役見習
西村覚内
信州高井水内郡村々地震之儀二付再応御届
去月晦日御届申上候私御代官所当分御預所信濃国
高井水内郡村々之儀去月廿四日夜之大地震異変之
始末御届申上候以後震止不申今以震動いたし昼夜
十四五度少しの間ツゝ震立尤間々ハ強キ事も有之候間村々ハ恐
怖致し跡所片付ハ勿論農業之心付も無之周章
立騒罷在候間安堵仕候様私并手附手代共村々廻村
精々利害申聞耕作手後ニ不罷成様可致候且去月廿七日
真田信濃守家来ゟ懸合越候ハ右地震にて北国
往還丹波島宿渡船場ゟ凡弐里半程川上同人領分
平林村地内字虚空蔵山凡弐拾町程之処山抜崩レ
当時川上平地江水開異候得共湛溜切候と自然と押
埋切場所水力ニ而押崩レ可申候其節如何様之洪水可相成
哉気遣敷支配所千曲川縁村々心得置候様申越候
儀二有之右故当時千曲川平水ゟ七八尺減水いたし居
川筋切開候ハゝ如何可有之村々心配致シ山添高場江立退居
悲歎罷在候湛溜を一時二押流切開候ハヽ又候水災二異変又出来
可申と殊之外人気不穏心配仕候地震之儀は最早相止可申と
奉存候依之此段御届申上候已上
四月四日 高木清左衛門
御勘定所
信濃国高井水内郡地震災害一村限調尻
村高四万千弐百八拾六石壱升弐勺
家数六千八百七拾弐軒 九拾壱ヶ村
人数弐万九千弐百十五人
一潰家弐千百拾五軒 内十三軒焼失
十六軒土中埋
一半潰家七百八拾弐軒 一御高札場拾弐ヶ所
一潰郷蔵弐拾弐ヶ所 一潰堂宮寺六拾六ヶ所
一潰土蔵三百三拾壱ヶ所 一同物置九百拾四ヶ所
一即死人五百七拾八人 一怪我人千四百六十人
一即死馬百五拾六疋 一即死牛弐疋
右は去月廿四日大地震ニ而私御代官所当分御預所信濃
国高井水内郡村々災害之始末不取敢御届置早速手附
手代共手配差出私儀も廻村仕村々災害之様子見分
仕候処誠以絶言語候寄変之躰恐怖仕見ルニ不忍地面
割裂七八寸ゟ五六寸余数十間程も筋立開キ右割目ゟ
夥敷黒赤色之泥水吹出し歩行も相成兼候場所多有之
其上所々二山崩土砂悪水押水し大石転ひ落田畑共
悉く変地いたし多分之損地相見村々要水路者所々
欠落及大破或ハ床違ニ相成場所も有之水乗
不申用水絶ニ相成場所多有之谷川等之分大石土砂押出シ
震埋所々欠落及大破水行を塞平一面ニ溢出シ泥水押流
且潰家之儀何れも家並平押ニ潰桁梁矧目臍木等其
外建具類打砕家財諸道具悉打毀銘々貯置候雑穀之
類之俵物押崩散乱いたし吹出し候泥水を冠り中二ハ土砂二押
埋候分も有之最初見廻り候頃ハ村々とも小前ハ勿論村役
人共迄本心を取失ひ更ニ後取片付之心得も無之銘々潰家
前ニ家内一同雨露之手当無之只々途方ニ暮忙然と致居私を
見居狼狽頻落涙難止悶絶いたし尋候答も更二出来兼
打伏居小前老若男女共泣叫ひ居右怪我人共夥敷
倒苦痛罷在候有様難尽申上尽不便至極嗟歎仕り
何れ之村々も同様之次第ニ而差当り夫食之備有之者共も
潰家之下ニ有之泥水を冠り容易ニ取出候儀出来兼小前等々ニ
至り夫食手当無之者共ハ猶又呑水ハ用水を用来候処泥水
交ニ相成及飢餲候処自然村々一般之奇難助合候方無之
候間当日救方夫食手当相成丈ハ致し遣候得とも百ケ村
余之
儀惣躰救方迄私之自力ニ届兼身元可也之者迚も
潰家災難ニ逢候事ニ而奇特之取斗も出来兼無拠郷
蔵囲穀等を以手代共手配廻村為相凌罷在候陣屋挹寄村
々之分ハ中野村松川村寺院社内境内江小屋掛いたし極難
之者共救遣し候儀ニ有之且追々村々二牛馬死失怪
我等相糺候処書面之通ニ而右之外善光寺参詣
いたし三月廿四日夜同所ニ止宿地震ニ而焼失候者とも
男女弐百人余有之多分之人絶ニ而相成災害村々之分
人別弐歩七厘之減ニ相成支配所高五万八千三百石余之内
無難之村右高三分内ならてハ残り不申高七分余之災
害村々ニ而何共歎敷儀ニ御座候差向村々用水
路手入不仕候てハ呑水ニ差支且田畑用水肝要之時節
ニ而何れも難捨置取繕ひ不申候てハ苗方ハ勿論無難之
田畑植付方ニも差支申処場広大破之儀中々以自力
及不申火災之難と違ひ家居田畑山林等迄覆候
大災就中水内高井両郡ハ大地震痛強
捨置候而は皆潰亡所ニ相成候村々数多人命拘り末々
御収納御国益ヲ失ひ不容易儀迚も御救ひ不被下候
而は何とも可仕様無御座候已上
未四月 高木清左衛門
私在所信州松代先達而先御届申上候通大地震ニ而更
級郡山平村林村之内岩倉山抜崩犀川江押埋弐ケ所堰
留追々数十丈水溜候得共堰留候場所江水乗未弐丈余も
有候処俄ニ押破候と相見昨十三日夕七ツ時比右山之方大ニ
鳴動いたし引続瀬鳴之音高く相聞候所一時二激水右
川筋江押出し忽左右之堤押切或ハ乗越防方も
届兼候旨川方役人共ゟ追々注進いたし候処間も無之川中
島数十ケ村一円ニ水押入千曲川江流込逆流いたし既ニ
居城際迄水多く押上暮時比ゟ夜九ッ時迄千曲川平水ゟ
弐丈計相増川中島ハ勿論高井郡水内村之内川
添村々水中ニ相成瀬筋相立候様二相見候処も数所有之作
物泥冠り勿論押埋候ヶ所夥敷可有之難見極夜半過ニ
及ひ漸水丈も相定候様子ニ候処暁ニ及ひ次第ニ引水ニ相成
申候兼而村方之者共水防手当申付置候得共俄押出し
未曾有迅束之大水存之外之儀ニ而流家ハ勿論溺死も
数多有之哉其上多分之損耗も出来いたし心配罷在候
委細之儀ハ追而取調可申上候得共先此段御届申上候以上
四月十四日 真田信濃守
私在所信州飯山去月廿四日大地震ニ而先達而申上置
候処其後も相止兼昼夜度々相震候手遠之村々
いまた相分り兼候得共城内并家中城下町損所左之通
一本丸渡櫓 一ケ所潰 一冠門 壱ヶ所潰
一石垣崩 弐ヶ所 一囲塀 不残倒
一土蔵 潰 一土蔵 半潰
一二重櫓 壱ヶ所潰 一物置 壱ヶ所潰
一二ノ丸門 壱ヶ所半潰 一囲塀 不残潰
一 住居向 半潰 一土蔵 三棟潰
一腰掛 壱ヶ所潰 一帯曲輪武器蔵 壱ヶ所潰
一武器蔵 壱棟半潰 一番所 壱ヶ所潰
一物置 壱ヶ所損 一囲塀 西ノ方 倒
東ノ方
三之丸
一門 壱ヶ所潰 一櫓 壱ヶ所潰
一土蔵 一棟潰 一囲塀不残倒
西曲輪
一門壱ヶ所左右損 一住居向 半潰
一土蔵壱棟半潰れ 一稽古所壱ヶ所損
一囲塀壱ヶ所潰 一小屋壱ヶ所潰 一井戸上屋半潰
大手
一門壱ヶ所潰但二階門一同所左右囲塀 倒
一番所壱ヶ所損 一切通石垣崩
一土蔵弐棟潰 一物置蔵弐棟潰
一囲塀西ノ方不残倒 一中門壱ヶ所潰但二階門
一板塀壱ヶ所倒 一裏門壱ヶ所潰但二階門
一物置壱ヶ所潰 一番所壱ヶ所潰
一多門壱ヶ所潰 一同所囲塀壱ヶ所潰
外廻り
一稲荷本社拝殿共潰 一建家四ヶ所潰
一番所壱ヶ所潰 一家中侍居宅四拾四軒潰
一家中侍居宅六軒焼失一同同断 損
同内 同断半潰
一同門十七ヶ所潰 弐ケ所焼 三ヶ所半潰
一土蔵三棟焼二棟潰五棟半潰
同損
一番所三ヶ所焼一所潰同半潰
一舂屋一ヶ所潰 一用会所 同断
一土蔵一棟潰一棟焼但囲籾五百石焼
一門壱ヶ所半潰
一長屋一棟潰 一物置二所潰 一厩一所半潰
一献上蔵一棟半潰 一内馬場一棟半潰
一作事小屋一所半潰 一中間部屋二棟焼
一船蔵一棟半潰 一其外六拾ヶ所潰焼失在之
一侍分并家内小役之者下々迄即死八拾六人内四拾人男
四十六女
一城下町御高札場壱ヶ所焼失但御高札焼不申候
一番所一ヶ所焼失同潰一竈五百四十七軒焼失
一土蔵壱棟籾千石とも焼失
一同三百十二棟潰内一棟山崩泥冠
一土蔵百七十壱棟焼失一同五十棟潰
一牢屋一棟焼失牢之者怪我無之
一土蔵上屋斗弐拾棟焼失
一寺院堂六十ヶ所焼失一同三ヶ所半潰
一庫裏十一ヶ所焼失 一同七ヶ所潰半潰トモ
一諸堂拾七ヶ所焼失 一馬八疋 非人一人
一城下町人即死三百弐人 穢多男壱人女弐人
内百三十三人男百六十五人女
右之通御座候猶領内之儀ハ取調之上追而可申上候得共
先此段御届申上候
四月十三日 本多豊後守
大地震二付難相救拝借之儀ニ付奉伺候書付
御代官所当分御預所
一惣高五万八千三百六拾弐石九斗九升弐合五勺
内高壱万七千七十六石弐斗九升弐合 御預所
一村高四万千弐百八拾六石六斗壱升弐合
潰家弐千九百七十七軒
内七十七軒身元可成之者共并無難之者助合候村々分除之
御代官所当分御預所信州水内郡九十一ヶ村
一潰家弐千九百軒 内十六軒土中埋相知不申分
一同弐千百六十三軒
一半潰家七百三十七軒
但半潰之分木品悉く打砕不用立潰家同様
外
一潰高札場 拾弐ケ所 一潰郷蔵 弐拾弐ケ所
一潰堂宮寺潰六十六ケ所 一潰土蔵三百三十壱ケ所
一潰物置九百拾四ケ所
右者当三月廿四日夜大地震二而私御代官所当分御預り所
信濃国髙井郡水内郡村々災害之始末不取敢御届申上
早速手附手代共手配差出私儀も廻村仕村々災害之
様子見分仕候処誠ニ以絶言語奇変之躰恐怖仕
不忍見地面割裂七八寸ゟ五六寸余数十間ほとッゝ筋立
開割目ゟ夥敷赤色等之泥水吹出し歩行相成兼候場所
多く有之其上所々山崩土砂押出し大石転落田畑とも悉変地
いたし多分之損地相見村々用水路所々欠落崩及大破或ハ床
違ニ相成候場所も有之水乗不申用水路二相成候村々多分有之
谷川等之分大石土砂押出し震埋所々欠落及大破水行を
塞平一面ニ溢出し泥水押出し且潰家之儀何れも家並平押ニ
潰桁梁矧目臍木等其外建具之類打砕家財諸道具等ハ
悉ク打毀銘々貯置候雑穀之類ハ俵物押崩散乱いたし
候泥水を冠り中二ハ土砂二押埋候分も有之最初見廻り候頃ハ
村々小前ハ勿論村役人共迄本心取失ひ更ニ跡片付等之心得も
無之銘々潰家之前ニ家内一同雨露之手当も無之日々途方ニ暮忙
然といたし居私を見居狼狽頻二落涙止かたく悶絶いたし
尋候答も出来兼打伏居小前老若男女共泣叫び居怪我
人夥敷倒居苦痛罷在有様難尽申上不便至極歎嗟
仕候何れ之村々も同様之次第ニ而差当夫食備有之者も潰家
下ニ有之殊ニ泥水冠り容易取出候儀出来兼小前未々
ニ至夫食手当無之者共ハ猶更呑水ハ用水ヲ用ひ
来候処泥水交りニ相成飢餲二およひ候処自然村々
一般之奇難助合之分も有之候間当時夫食之手当相成
丈ハ致遣候得共百ケ村余之儀故中々惣躰遠方
まで私之自力ニ届兼身元相応之者共迚も潰家災難ニ
かゝり候事ニ奇特之取斗有之も出来兼無拠郷蔵囲穀
を以手代共支配廻村為相凌罷在陣屋最寄村々
之分ハ中野村松川村寺院社内境内二小屋掛致シ
極難之者共救ひ遣候儀ニ有之且村々人牛馬死亡怪我等
相糺候処男女死失書面之通りニ而五百八拾人怪我人千四百
六拾人右之内片輪ニ相成農業渡世も相成不申者共多
有之斃牛弐疋斃馬百五拾疋右之外善光寺へ参詣
いたし三月廿四日夜同所止宿地震ニ而焼失候者男女
弐百余人有之多之分之人絶ニ相成災害村々之分人別
弐歩七厘之減ニ相成支配所高五万八千三百石余之内無難
之村々三分ならてハ残り不申高七分余ハ災害村々ニ而
何共歎敷義ニ御座候差当村々用水路手当不致候
てハ呑水ニ差支且田畑用水肝要之時節ニ付何れ二も難捨
置取繕ひ不申候てハ苗間ハ勿論無難之田畑植付ニも
差支候処場広大破之儀中々以及自力二およひ不申火災
之難とも訳違ひ家作田畑山林等迄覆候大災就中水内
高井両郡共大地震痛強捨置候てハ皆潰亡所ニ相成候
村々多人命ニ拘り末々御収納御国益を失ひ不容易儀迚も
御救不被下置候而は何共可仕様無御座候且右地震ニ而北国往還
丹波島村渡船場凡弐里半程川上真田信濃守領分平林
村地内虚空蔵山凡弐拾丁之所山崩犀川江押出し埋立
川中ヲ〆切候間流水ヲ堰留水湛当時川上村々水開候へ共
湛溜切候ハヽ自然と押埋候〆切場所水力ニ而押崩し可申
其節如何様之洪水ニ可相成哉気遣敷支配所千曲川
縁村々為心得申越候由信濃守家来ゟ懸合有之右故当時
千曲川平水ゟ七八尺減水いたし居川筋村々致心配山添高場
立退切開候ハヽ如何可有之数日之泥水を一時二押流し候ハゝ
又候水災之異変出来可申と殊外人気不穏心配仕候
儀ニ御座候前書申上候災害難渋之次第とくと御賢察
被下置相続方并自普請之所用水路大破ニ付金弐千五百
書面之村々江拝借被仰付被下度左二而無之候てハ迚も相続
筋ハ無之万一此上難渋迫り且心得違之人気立候様成候而ハ
恐入深心配仕候義ニ御座候支配所村々之者共儀昨年来
同国他之支配所ニ無之御国恩を定め増米上納相願候実心之民共
穴敷退転為致候段歎敷奉存候御仁恵之御沙汰ヲ以永
年賦拝借被成下候様仕度奉存候然上ハ右拝借金高村々ニ応
し割賦貸渡年賦返納之儀ハ別紙を以追而為相伺候様可
仕候間早速伺之通拝借被仰付御下ケ金被成下候様仕度奉存候
依之災害村々一村限帳面壱冊相添此段奉伺候以上
弘化四未四月 高木清左衛門
私領分信州水内郡当月十三日亥刻千曲川俄二出水仕翌十
四日六時比定水ゟ一丈三尺相増川添村々田畑水押入昼後ゟ追々
落水二相成申候尤城内并家中向江ハ水入不申候得共人馬怪我
田畑損亡村方破損等之儀ハいまた相知不申委細之儀ハ
追而可申上候得共大地震後猶又右様之出水故不取敢先此段
御届申上候い已上
四月廿日 本多豊後守
千曲川大洪水二付御届申上候当月四日夜再御届申上置候
三月廿四日夜大地震二而犀川上真田信濃守領分平林村
地内字虚空蔵山山抜崩犀川江御師出し川中を埋立流水
を塞候付其節ゟ当月十三日迄日数廿日之間川上村々江水開湛
罷在候処兼而心得方申渡置処高木清左衛門支配所信州
高井郡立ヶ花村渡船場守同日夜五ッ時比注進申出候は
千曲川筋俄で出水水先ト相見候処暫時二相嵩驚入申候右ハ
犀川押埋候場所切破候儀二も可有之哉と申立候付不取敢
清左衛門手代夫々手配川通り村々救手当水防として差出し
間も無之陣屋許近辺村々迄内水湛入家居水下二相成中野
村之儀ハ地高之場所二付別条無御座候追々人牛馬とも逃
参り候儀二有之且千曲川之儀ハ同夜九ッ時頃迄凡弐丈八
尺之水丈二相成川筋ハ惣越内郷村々共田畑ハ勿論家居
水冠り夜中之儀水先̪碇と難見定翌十四日暁六ッ時凡三
丈余二而始居り候間水嵩之重畳二可有之昨夜中ゟ家居諸道
具材木等夥敷流込候木品并藁屋根に取付縋居候人民
とも流れ参候者夥敷有之候付死失怪我人等多可有之前代
未聞之大洪水然処同日朝五ッ時比川表引口二相見内水も少々
可引落様子二有之此上増減之儀如何可有之哉水災之趣最寄
村々も追々届出候付支配川附并内郷村々とも惣体申立
多分之儀可有御座候委細之儀ハ追而可申上清左衛門儀此節
水内郡赤沼村辺災害村々廻村中之処川筋ハ勿論
往還共水下候相成通路難相成留主中之儀二付先不取
敢此段留主之者御届奉申上候已上
高木清左衛門手代
小林甚左衛門
伊賀守領分信濃国去月廿四日夜地震之儀先達而先
御届申上置候儀二御座候処其節犀川上手灵山抜崩川筋
押埋候二付追々数十丈之水湛居候処去十三日夕七ッ時比一
時二押破川中嶋一円二水押入更科郡之内今里村中氷鉋
村ハ田畑并民家押流或ハ泥水民家二押入候得者囲籾用立
申間敷其外村々人家押流候程二無御座候へ共田畑一円二水冠申候
翌十四日暁二至り追々引水二相成候得とも俄之大水故人馬
溺死も可有御座候其上多分亡所損地等も出来可申旨在
所役人共ゟ申越候委細之儀ハ追而可申上候先此段御届申上候
四月廿三日 松平伊賀守家来
片岡朔之助
私在所信州松代此程先御届申上候通大地震ニ而更級郡
山平林村之内岩倉山抜崩犀川江押埋堰留候場所去十三日
夕一時ニ押切右川筋江押出し里方江ハ水口ゟ左右之土堤
押切乗越夫ゟ川中島一円水押来城下ゟ一里程上
同郡横田村辺ゟ千曲川下続江一面ニ甚押入候水勢強
下筋ゟも追々湛来更二溢水ニ相成処致逆流居城際
迄押入城外地陸ゟも水高ニ相成候処去ル文政年中
御聞二達申上築候所水除土堤ニ而相凌尤所々及大
破候付種々手当急難相防候内減水いたし候故城内江ハ
水入不申候得共城下町江ハ余程水入申候右様之次第ニ付
流末川辺村々ゟ御領所中野村辺迄致充満湖水ノ
如く相見候処追々及減水早速見分差出候得共大小之
橋々多分流失其上水引候而も地窪候処水溜居或ハ
道或ハ押掘等ニ而通路難相成場所有之凡之
見積りも出来兼候得共犀川湛場破方之儀ハ段々水嵩
相増深サ弐丈ニも及ひ少々ツッ水乗候ニ随ひ岩倉山麓之方
追々欠崩麓之方江も多分欠込数十日湛水川中島へ
押出候儀ニ御座候右為防此度水内郡小市村渡船場
下続左右之堤之石俵等以俄ニ急難除為築立申候
然処右者川中島其外川辺御料私領村々之為ニ付
領内之人夫ハ勿論近領水冠ニ可相成村々ゟも多人数
差出精々致普請候儀ニ御座候得とも広太之水勢ニ而
暫時も不保不残押流申候且又水内郡小市村之字
真神山先達而抜崩高サ弐拾間程横拾間之所犀川江
八十間程押出し残川幅僅ニ相成其侭差置候而は聊之
水ニ而も川筋致変地候儀ニ付精々掘立申付候得とも
巌石等多行届兼候処此度之洪水ニ而忽ニ押流
数百人ニ而難動程之大石ヲ川下或ハ川辺村々耕地等江
押出し其辺之水丈六丈余ニも及候ニ付川辺村々之内更級郡
四ツ谷村之儀ハ軒別八拾軒之処内六七軒相残悉く流失
いたし跡一円之河原ニ相成右ニ付家居不残押流候村方も有之
其上山中筋水付之山多分欠崩候ニ付大木等押出是が為ニ
押倒され致流失不少流凡六百軒余其外石砂泥水入数多有之
流死人も有之趣相聞候得共いまた相分不申候且川下村々之内
ニハ地窪之耕地ハ今以壱丈程も水溜居候次第ニ而損地等
之儀ハ中々凡之見極も不行届北国往還丹波嶋宿辺ゟ
千曲川犀川落合之辺ハ一円乱瀬二相成丹波嶋宿
并北国脇往還川田宿福島宿之三宿前条之次第ニ而
人馬継立出来兼候且又川辺之村々米穀之儀は山手
村々江相退転候様兼而申付置候得共其外近辺村々
仮令水押来候とも流失ハ致間敷と心得棚相拵候而
上置候穀物家居一同流失いたし候も不少右ニ付村々
好救方所々江役人差出食物炊出し并小屋掛等手当
等申付候殊ニ川中島村々江犀川より引取候用水之
堰三筋外ニ一ケ所之水門跡形も無之押埋候付呑水
一切無之救方喰物炊出候儀も場所二より三拾町程之遠方
ゟ水運候儀ニ御座候畢竟前条之堤普請之儀も右様之儀無之
様二仕度急難之防ニ付地震ニ而家居震潰候村々之者迄
も申渡を不相待日々出精築立其甲斐も無之一時ニ破損
致候付家居流失水冠り等二相成候者共ハ猶更之儀二而一統
途方ニ暮罷在候日用之呑水ハ勿論眼前之苗代水引方
堰普請も早速行届申間敷必至之差支人心不穏
甚不案心奉存候専手当方申付候得とも城内初家中
屋敷破損并城下領分村々潰家死失人夥敷田畑道路
地裂床違ひニ相成又ハ山抜覆等之大変災ニ打続此度之
大水之患且今以鳴動震止不申何共気遣敷次第甚
以心痛仕候委細之儀ハ追々取調可申上候得共猶々此段
先御届申上候
四月廿三日 真田信濃守
一左之通被仰渡 御勘定 直井倉之助
金弐枚 同 松村忠四郎
時服弐 ツッ
越後国信濃国村々地震二付堤川附其外とも
破損之場所見分仕立及御用罷越候付被下之候
右伊賀守申渡之候
四月廿三日
本多豊後守
領分地震ニ付居城住居向其外共及大破家
中在町共悉破損ニ付拝借之儀被相願候趣達
御聴可為難儀と被 思召候依之金三千両拝借
被 仰付候
右山城守申渡之候
真田信濃守
名代植村駿河守
領分地震二付城内住居向其外及大破家中在町
共悉く破損其上領内変地出水等二付拝借之義
被相願候趣達 御聴可為難儀と被 思召候依之金
壱万両拝借被 仰付之
四月廿八日
堀長門守
名代伊丹三郎右衛門
領分地震二付陣屋住居向其外共及大破并領
内亡所損所等不少候付拝借之儀被相願候趣
達 御聴可為難儀と被 思召候依之金子五百両
拝借被 仰付
四月廿八日
右山城守申渡之
三月廿四日夜丹波川上八九里程二而山崩いたし丹波
川筋流水一切途切乾居候此川上水湛凡八九丈
之高水四月朔日二ハ又々大地震有之折々山々崩
此時溢高十一丈余二相成近辺昼夜高山之住居致
川下筋善光寺往還筋皆々その在々高山ヲ為登
昼夜野臥いたし居候処四月十一日十二日比ゟ丹波川筋へ
水少々ツ丶流レ出候故瀬立之支配方江水出川上切所も
有之哉と夫々指図二下置御役人村役銘々人夫召連
其支配所水流道造候処十三日申刻川上切一時二流
増来り人夫諸役人弐丈三丈之高山へ登り候処流水
高サ凡四五丈二相成一時二押来り右高山二住居致居候
村々男女并 役二出勤之役人其外歩役二至迄不残
一時二流レ死人夥敷候追々取調可申上候善已上
四月廿五日 川上金吾助
先達而御届申上置候私在所信州松本去ル三月廿四日夜
四ツ時比ゟ地震強翌廿五日為差儀も無之追々間遠二ハ
相成候得とも今以相止不折々震候而破損左之通
一城内要害之外所々屋根損瓦并壁落
一侍屋敷并土蔵所々壁潰一城下町潰土蔵弐ヶ所但酒造蔵共
一城下半潰土蔵弐ヶ所 一同潰物置弐ヶ所
一田畑高五百七拾九石余之場所荒地
一地割此間数六千四百四十五間巾四五寸ゟ二尺迄
一道損百三十七ヶ所 此間数三万弐百三十三間
一山崩大小千四百七十七ヶ所
一同断二而沢水突留湛四十一ヶ所
一橋落大小十九ヶ所
一倒木大小二万八千四百八本
一用水路欠落七十三ヶ所 此間数九百間
一犀川突留家居水入廿九軒
一在方潰家三百九十六軒 一同半潰家七百六十壱ヶ所
一同潰社三ヶ所 一同社半潰壱ヶ所
一同半潰拝殿四ヶ所 一同潰寺院三ヶ所
一同半潰寺院弐ヶ所 一同潰堂八ヶ所
一同半潰堂弐ヶ所 一同半潰土蔵九十七ヶ所但酒造蔵共
一同潰物置七十四ヶ所 一同潰郷蔵壱ヶ所
一同潰御高札場弐ヶ所但御高札別条無御座候
一死人男女六十七人 一同潰番所弐ヶ所
一怪我人五人
一斃馬三十四疋
右之通り御座候損毛高之儀ハ追而可申上候此段御届申候
五月七日 松平丹守丹波守
上野執当
真覚院
当年ハ季候不足其上越後国信濃国地
震二付此上安全御祈祷御執行之儀被
仰入候仍之為御祈祷料白銀百枚被遣候
日光御門跡江可被申上候
右山城守申渡候
四月十九日
此廿四日尾州も震動ありといへとも通例の事也
四月十日大風あり暁七ッ時より朝巳刻刻比まての
ことなり所々破損少ならす御れとミつからなせる
わさわひならねハ
世にすめハ天のさかにもあふ風の
手すさみいとゝ草屋にそみる
興せしも山浅海深からぬ
たれはにそあれと有かたし
花井氏惣助と称ス
右一冊花井氏之書を以て写ス
信濃国大地震記
信州十郡 佐久 伊那 高井 埴科 小県
水内 筑摩 更科 諏訪 安曇
そも天地不時の変動也陰陽の戦なり天に有てハ雷雨と成
地に蟄してハ地震をなす神仏の應護にもこれをよく
禦く事かたしこゝに弘化四未年三月廿四日夜亥の刻より
信州水内郡の辺より忽然と大地震して山崩し水を
ふき家れ火出て焔大紅蓮のことく人馬の損失夥し
他所遠国の縁者安否を尋ね死亡を見て嘆き憐む事
普通ならすされは今地名を悉く挙遠近に達し且は
後代の伝語になして人の後覚にもならんかと筆に誌す
ことハ天災を免れし冥加恐悦にこそ抑此地震先善光の
御寺の辺殊二甚しそれ地しんといふより夥敷震動し
大山をくずし深川を埋め土中より火焔のことき物吹出し
御殿宝蔵寺中町屋ハいふに及ハす倒れ潰れ或ハ地にめり込或ハ大磐石にうたれ僧俗男女老少の死あげかぞふべからず
地火一時に八方へちり住居不残焼亡し廿七日迄の辛苦
筆紙に尽しかたし是より北ノ方大峯黒ひめ山戸隠山
上松北郷しんかうじ福岡上野西条吉村田子平手宝飯戸玉
北草落影小高大高柏原塩尻白川せき川の御関所辺
より越後高田御城下辺二十四日よりゆりはじめ廿九日
午の刻比烈しく強く震り土蔵寺社人家を倒し大山崩して
田畑を埋川あふれ大水出て押流し死人怪我人夥し
就中長沢村と申小村にて死失の者六七十人有り皆土に埋
り手足のミ見へたりこれハ善光寺より二三日速く震動に
及へり同寺より東の方ハこんとう岩間の御所中の御所あらき
此辺より百余村殊にきびしく姥捨山の今更に親に子を捨子ハ
親を尋なから大地に落入火焔に眼くらミ地ハ裂て泥を吹出し
山はくずれれて川を埋平地となり逃迷ふ人々夜中の果
煙に方角を失ひ谷に落川に溺れ木石に打れ水火に悩ミ
牛馬の損しも夥し右木嶋大塚馬嶋こしまた水沢曲尾寺田
中辺ゟクニシナ郡に至り松代の御城辺厳く度々震動し
廿九日の朝ゟ晦日の夕方迄強く震ひ巌石を崩し安
庭村山平村の間岩倉山と云高山半分両端崩一方ハ四十丁町
一方ハ九十町ほと犀川の上へ押入其辺りの村々埋り洪水溢れ
七八丈も高く数ヶ村湖水のことく漲り平村かけ村赤柴関屋西条
関屋川上下と倉中條横尾今井鼠宿上下の塩尻村辺
強くチイサカタ郡秋和生塚上田御城下西の方ハ新町かみこ嶋
下小嶋此辺山鳴地中之雷の如此あたりの者共生たる心地なく前
田手塚山田別所米沢沓掛なら本一の沢等凡百四十三ヶ村程
善光寺より南の方北原藤枝しの宮小嶋社向八幡志川山田
龍山此辺山つつき筑摩郡に至りほう福寺七ならし花ぬた
洞村岡田村松岡ありかねくみゟ松本様御城下近辺百弐ヶ村程
震強く家居悉く倒れ庄内田貫橋むくま新町なら井田
下軒上軒下三溝ゟ飛驒越中境松本ゟ西の方アズミ郡みや宮ふり
左飼小梅渡シ中曽根ふミ入寺所熊くら成金町織りやから町轟
村下上堀金村小田井中堀上下鳥羽住吉長尾柏原七日市迄
此辺狐鳴池田町堀之内曽根原宮本草尾船場村度々
震かへし強く更科郡の内小嶋橋本大原和田下市場
軽井沢吉原竹房今泉水あんばこ小松原く同寺中野
うろ町人家損亡多く善光寺より北の方水内郡小伏上しろ
浅野大倉かに沢今井花沢三ツ又堺村義右衛門駒立戸塚
小泉とがり大つぼ曽根土橋北条小坂井わらひ野沢昼夜
山鳴震動中にも飯山御城下きびしく大水押出し人馬多死
善光寺ゟ東の方髙井郡の分中島こう巣か米野さかい
井沢八幡矢部高なし辺佐久郡ハ小諸御城下西ハたきハら
市町本町奈良村四ッ谷間瀬追分かり宿右宿沓掛赤沢
軽井沢井沢峠町矢崎山朝熊山上砂口辺スワ郡ハ高嶋
の御せうゟ大和高木此辺少しく此内八重原大日向細谷原林
布引此辺少し強善光寺辺ハ廿五日朝少し静り松代越後終日
廿五六廿九日晦日別して強昼夜震御代官様御地頭ゟ格別
の御手配りにて水火を防き御憐愍にて米銭御手当ありかたき
事申も中々安心なり
夫大地震を聞伝ふ所往古ハ不可知中古文禄四年豊臣秀吉
公の時代伏見大地震京大仏殿を倒す慶長十八年冬京都
大地震寛永十年小田原大地震箱根山崩る寛文二年
京大地震寛政四年江戸大地震七日七夜文政十年霜月
越後国大地震天保元年京都大地震凡百日ほと旅人皆
自国へ帰る如此ためしありといへとも今信州の地震ハ希代の珍
事也人馬の死亡挙げてかそへかたし理数凡三十里四方ほとに及ふ漢字干
時善光寺如来御開帳にて諸国より参詣もの数万人この
大変にあひ身体茲に迫り本堂にかけ入御仏にすかり一心祈念
なし仰くへし尊ふへしそも人皇三十代欽明天皇十三年
三国伝来閻浮檀金の尊像にて百済国より日本に渡時の大
臣守屋物部うし異端の処神明の御心に憚りて難波の池に
捨させ畢其後信濃国の住人本田善光池の辺を通り行に池の中
ゟ金色の光を放ち自然と御声て善光くと呼給ふ驚て
池中を探索るに如来の尊像を得て負ひ奉故郷信濃伊
奈郡ざこうじ村に至り臼の上に安置す然るに霊教によつて水
内郡今の地に移り給ふ御当代ハ三十六代皇極の女帝勅願なり
慶長二年七月十八日太閤秀吉の命に依て如来を京都大
仏殿に移されしに仏意に応さすれハしばしば御崇敬
て還住の御告あるに任せ同年八月信濃国に帰らせ給ふ
是普く人の知る所にて日本三如来の第一也御れハ此度
もかゝる異変の折からも御堂恙なく籠れる衆生の命
全く存在せし事末世の今に於て猶利験いたりて
いよいよ信心偈仰し奉るへきことにこそ
年代記條出シ如左
白鳳十三甲申年十月十四日大地震
天平六甲戌四月 同 十七乙酉年 諸国大地震
天長四丁未年 同 仁寿元辛未八月天鳴地震山崩
齊衡二乙居亥年同大仏首落 元慶二戌戊年関東 地震
仁和元乙己然 同星落如雨 承平四甲午五月 大地震
同 七丁酉四月十七日同
天慶元戌戊年夏大雪地震 治安二壬戌年 同
経日不止
長久二辛己然 大地震 長承二癸丑 同
建保元甲戌年 同京焼 延応元己亥年鎌倉大雷大風
雨大地震
正嘉元丁己然 鎌倉大地震 永仁元癸己年鎌倉大地震
山崩
延文五癸子年 諸国大地震 文正元酉戌十二月大地震
正平十五年也
宝徳元己巳年 大地震度々 慶長十癸丑八年 地震
天正十三乙酉十一月同 寛永四丁卯正月東国大地震
秋八月洪水
寛永二乙丑二月奥州山鳴動 寛文五乙巳年大阪雷地震
同十癸酉年 小田原大地震 天和三癸亥年日光大地震
五條橋落
寛文二壬寅年 大地震 天明二壬寅七月江戸同洪水
元禄十六癸未十二月廿二日関東同 文政十二丁 廿九日大火 丑年京同及百日
追加
明和三戌年二月廿六日
津軽出羽守殿領分地
震二付破損所等左之通
御老中方へ被申達候由
一城内櫓破損五ヶ所
内七ヶ所破損堀柵所々倒
一城内住居所々倒
一潰堂二十七ヶ所寺三十三ヶ所
一侍屋敷町在共潰家六千九百四十軒
一潰土蔵并焼失土蔵共二百六十七
一侍屋敷町在共焼失家弐百五十二軒
一潰死 千二十七人
一焼死 三百八人
一怪我人百五十二人
一斃馬 四百四十七疋
右之外水門土手川除水除破損所多有之候
二月十日
右之通之由二御座候
名古屋話談
大阪心斎橋の辺に河内屋某といふ書林有り此者三人連レにて
江戸へ商なから信州善光寺へ参詣せんとて三月廿四日稲荷山と
いふ宿にいたり旅宿せし処夜四ッ時比既に一睡とおほふほとに
大に音してすさましう地震する故こハとて起出んとし
同勢のものを呼ふに壱人ハ返詞したり扨たてさま横様さぐる
手にあたるをよく〳〵思へハ家ハ既に倒れたる也周章やう〳〵
匍出壁のくつれたる所をその土を腹の下へかきやり〳〵外面へ
出たりこれハ大なる音に驚き家の倒れたるハ覚つる也
此人は二階に在しよし先へはひ出たるハ河内屋にて跡より続
て壱人の連レもはひ出たるに今一人の者出こぬ故破れた家
穴より又さくりたるに人ハ求得ず当る所の荷物を取出し
たり向ふの処より一人の男襦袢一枚にて出来たり誰そと
声懸れハ三州の人なりこれハ九人の同勢の処私一人のかれ
出たるよしを云みらハ諸共此所を立のかんとそれより
打つれて三人となり其夜ハ近辺の山とやらんにて明せし
となり扨暁になるを待て其処を立出名古屋を通り日名之
玉屋町近江屋と云に宿せし也其時彼地の様体を物語
せしとそ 御城下にて信州変異の知れたる初発には
ありけれこの物語により絵図を板行し売りありく
此河内屋某ハ一人の連ハ失ひつれとも幸に荷物を得たる故
衣服路銀の類ひに手支せず三河の者にも衣服を与へ路ハ
廻れとも一所に名古屋へかゝり給へ路用ハ参りすへし
とて当所へ悦ひ来れり三河の者多くの同勢を失
けれハしはしの休息をも急せて急きにいそき国許
へ帰りしなり 右者近江屋の咄
此変事無キ前善光寺開帳のた建札故なくして倒ル故に
又起し建たるにその夜亦倒れぬ人々不審したるよし
右ハこ此事の已前信州松本の藩士当国古儀東輪寺へ来
りしことあり其時の物語のよし
一この折ふし片髪こげて襦袢のやらの物を着し押切の街
を通行せしを或ハその故を尋しかハ信州にて大難に遭ひ
同行をも失ひ身もかかる体なるよしいひ落涙せしと也
一門前町にて波嘉といふ人戌亥屋某銘々弐三人連にて
参詣し此変にあふたれとも辛して免かれ帰る
一新川七本松の者町家相応身柄の人の宰領に頼まれ
参りたる処荷物路銀不残焼失主人初頼人を松本て
留め置夜を日に継て馳かへり路用なんと調へ直に取て
かえし向ひに走りし由
一長者町皆御村頼立斎彼夜にあひ身ハのかれたるをハ
当地にてハ死亡せしといひしか無恙よし音信あり
一上京の人ありて話に其日地震ハあれとも知らざる者も有とぞ
一駿河町の辺脇部広吉か母同勢三四人にて参詣し廿四日
夜彼地へ着く同伴の人は本堂に過夜せしに広吉母と
宿坊に泊り既に床に臥したる比大地鳴動しこハ地震と
思ふや否はや家居倒れりつれとも怪我ハせさりしかど
驚き周章たゝくらき所をさぐりまはしからうして木の
破れたる所より先首はかりハ出されとも体の出兼たるを兎
角して這ひ出たれハ屋根の上也くらさハ暗し婦人のこと也
踏も習ハぬ萱屋のうへを伏して横につたいたる程に瓦の端
の処に至りたれハ材木を結たる所あり是へ乗移りてやうやう
と地へ下り立たり供の男も同しく続て出たるか屈竟にて
瓦の上を走るにざくざくと瓦の落る音して辷り落たり男
ふたりといふ声に怪我せしならんと母は思ひしに溝の中へか落
あやまちせす助りけるとそ母ハ本堂迄ほどある道をころび
倒れてたどるに敷石の所に人多くころびたふれ気絶の者
と見しも本堂に至りつけハ燈明なんどころ〳〵と足ふミもなら
ぬほどなり内陣に着に人少し古来より二基を常燈明とす
一基ハはや消失て小暗く心細きに地震ハ猶ゆりやまず
其内に人も救そひけり法師ありてあちこち立ふるまふは
本堂を出しきると見つて御戸帳ひらくとせしやかて法師
大音声にてもはやこゝハ危し出よ〳〵といふ初ハこゝにしつかりして出なと云
に皆はら〳〵と走り東門を出て畑ある芝原に止りけり此所人少シ
あハれなるかな中にハ襦袢一枚或ハ赤裸の者も有之て
ふるへ〳〵居り泣叫ふ声のミおひたゝし銭出しなといふも
おろかなり此所にて夜を明し畑をつたひ堤を行に地さ裂
壱尺程つゝ口あきたる所数ヶ所有これにも膽をひやし
又焼死の人の臭気いぶせく寺より一里はかりのほどハ
人々逃よ〳〵また地震のせんするそと呼ハり〳〵気を
もみ走るなんと大方ならすと広吉母帰りて物語也
御城下より善光寺参詣死失の者耳に入候分
上宿江川端 江川端
一米屋孫助妻 一すや忠助妻
上宿ドロ丁 新長屋
一鍵屋弥一夫婦 一大平屋家内
袋丁伏見丁東へ入 横丁桑名町東へ入
一畳屋仙蔵妻 一米屋甚助
玉屋町 片端坂下
一吾妻屋清助男 一三河屋八左衛門
長下町
一
頃ハ弘化四年未三月廿四日夜四ッ時比関八州を始其外近国
地震することしハらくの間成しか中にも信州水内郡善光寺
近辺ハ甚しく震ひて三十六坊山門仁王門通中見せ地内
こと〳〵くゆり倒し人々大地の底へ落たりといふなから忽山門前中店より燃上り黒煙り天を焦し寺中一面火焔と
なる折ふし開帳のことなれハ諸国の男女参詣の人夥しく
皆一心に如来の御名を唱けれハ不思議なる哉さしもの大火
に本堂へ移るぞして篭りし人々ハ恙なく夜もほの〳〵と明に
けるこれそ仏の御利益ならんと感しけるされとも地震ハ
強くして町ハ竹井小路ごんどう丁田丁がんせき丁横沢丁
西丁たか丁桜小路畑中丁西横丁下西川西丁はたこや丁
残らすゆり倒し火ハます〳〵熾ゆなり人々逃場を失ひ
男女の泣叫ふ形勢殊に八方地獄のことくにて目もあてられぬ
次第也爰に不思議のこと成ハ宿屋平左衛門所に泊りし客六百
十八人有此内三百九十八人ハ本堂にて助り又本堂へ篭りに行
としたくをなし店先迄立出たる処四十九人これハ大坂の者
又七十四人ハ江戸本町大伝馬町中 まき丁の人々也此人々ハ
地震に驚きて逃先も不勝手なれハ本堂を目当にかけ付
し故五百廿壱人ハ恙なし此外男女の損せしこといくはく
といふ数を知らす江戸品川宿の者九人死す扨又信州北の
方ハ吉田宿いなつの村山口東条あら丁宿徳間村新光寺神山中
宿高さこむれ宿小ふるま大ふるま黒ひめ山南の方ハ石むろむら
問御所中御所あら木村わだぐさま松岡しん田上高田権とう町
柏原此辺迄大地さけて人馬牛多く損し夫ゟ髙井郡東の方
小伏宿より須坂城下近辺まで大地裂け土中ゟ水を吹出し人々にけさまよふて人多く死す又更科郡松代城下近辺七十余ヶ村
又追分軽井沢沓掛上州口まで山々震動し又諏訪郡高嶋城
下辺西の方百四十ヶ村又佐久郡あず郡北の方百三十余村家蔵
多く損し又丹波嶋川近辺山くつれ川へ押込水溢れ
てこれか為に男女の死し事数をしらす誠前未聞の事也ける
男女合弐万千余人 牛馬千三百五十程
土蔵三千戸程 神社仏閣九百余
信州追分宿
丸屋与六
松代十万石真田信濃守 上田五万三千石松平伊賀守
松本六万石松平丹波守 高遠三万三千石内藤駿河守
高嶋二万石諏訪稲葉守 小諸一万五千石牧野遠江由
飯山三万石本多豊後守 岩村田一万五千石内藤豊後守
飯田一万石堀兵庫頭 須坂一万五千石堀長門守
第壱番
一飯山様善光寺ゟ七里北御高三万三千石也御城下大地震二テ
不残潰凡仮家数千軒程焼失残人四十人善光寺五里ほと
西山中新丁と申所松代様の御領分凡家数五百軒残人廿五人
同所地震二而震潰其上焼失又水中并殊多村八拾五軒
之家数残ル者六人也并近辺村数三拾六ヶ村水難死人
数不知犀川山崩にて松本様御領分凡廿六ヶ村も水中
山中ゟ右之御高拾万石余り流申候
第二番
一須坂様壱万石之御城下潰御城内共不残焼払
第三番
一善光寺町家数三千軒焼失旅人所之者死人凡壱万三千人
ほと焼失其余数不知
第四番
一稲荷山凡家数五百軒残者八十六人旅人六百人程死す所々
死人数不知
第五番
一松代様御城下并御城内共あら〳〵潰其後四月三日残家迄
十六軒有之所相潰申候中山八宿加賀様善光寺廿三日
御泊り越後高田今町大地震二候得とも少々潰家有之由又候
廿九日二相成申候高田御城下大地震也不残潰今町
同所不残潰跡焼失同所海なし山津波にて数軒江入
人々死る
届ヶ所無分
四月朔日迄震動未止之不申候右之外大風三度
四月六日村方之分
一死人千九百七拾二人 一怪我人六百八十壱人
一斃馬五十六疋 一半潰家千七十三軒
一潰家四千九百七十壱軒
一御高札場并堂社其外 倉之類村方申立不分明二付
調之候
同
又々今般四月十三日七ッ時大変之次第御注進申上候先便
申上候通丹波川歩行渡二御座候処追々少々宛水口明船
壱艘二而相渡候処しハらく安心仕山崩二候故容易二水多分
不参哉大丈夫二御座候処当月十日前代未聞の大風雨二而
大木吹折殊之外大荒二御座候引続雨天二而河水日々相増
丹波川上小市笹平山崩二而松本辺迄十里餘者
湖水二相成大海も及ハぬ姿二相成一同難渋日々水嵩当惑
致諸社祈祷神仏之加護を祈候処当国一之宮諏訪大明神
之神主を松代真田様へ御頼御祈念候処十三日二ハ川明可申
哉御神免二付十三日七ッ時ゟ
一円二水引以前之平水二相成誠二神徳之験如何斗
難有明神之加護一入申触候右水口山崩落彼川中嶋へ
落込候処丹波川江ハ中々水納不申平一面之川と相成川
巾凡三四里斗にて水押流し善光寺川中嶋平一面水二而
家不残流死人之数不知先達而地震之節之死人よりも
十倍二も及可申哉大変二御座候夫ゟ平一面水二相成飯山
御城内江押入越後境より 之口二水入小倉十日町辺平
一面大満水長岡并新潟表江水入大満水莫大之事中々筆
二は難書写次第二御座候此処信濃国之大変誠二咄ゟ大成事
二御座候右申上候十里之間湖水二而村々水底二相成数百余ヶ
村二御座候然ㇽ二廿四日五ッ半時比ゟ当十三日七ッ時迄十九日之
間信濃川之水溜り大海之如く御座候処三日の間二不残水引候
故ノチ二音雷ゟ大二地も一同二相成事かと被存候丹波嶋辺
川中嶋善光寺辺松代中野須坂飯山御城下辺平一
面大海二相成家々不残流死人数不知神武此方珍敷
善光須坂
事二而其外善光寺并北国筋往来人死人数不知夥敷
天災二御座候此度之水難信濃国之山方二而場広キ所二
御座候得共廿万枚余之田地潰申候中々難書記荒々
申上候
久米路之橋
此川上田中新町三百八十三軒不残潰レ其上山倉未
鎮火無之内水押入廿九日ニハ水平地ゟ二丈余死失極て多し
大地震之上出火善光寺本堂大門宿坊三ヶ所残り其外
町家不残焼失死人八分通り
犀川辺之内安庭村と申処江西山抜川江押出シ候処
壱里余有之大川を押切留今以水何方江も抜出不申由
安庭村より川上も巾壱里程川上四里計水湛急二湖水
出来村々之人多分山々二逃上候処人家も水中之
藻屑と相成候由丹波嶋歩行渡近辺苗代出来不申候
其上何時抜出候義難斗流末村々十方二暮居候由
前代未聞之珍事二候
牧之島田ノ口石川三村ハ無水損外村々ハ不残水
底二成ル
弘化四年未正月十七日昼ノ内二丹後国竹之郡キツ谷と申所へ
如図山出来候由キツ谷ト申所ハ宮津ヨリ七里有之由
此図ハキツ谷近辺之者年久敷京都奉公いたし居
当春故郷江帰り候へ共又比日京都江罷登り候間其者
へ委敷相尋直々書記し置 京ゟ丹後迄三拾六里之由
丹波国俵野村外三ヶ村変地先御届
合田畑割壱町五反三畝余
内田反割壱町余地変相成
田畑五反三部余砂入
右者私御代官所丹州竹野郡俵野村外三ヶ村海岸附
入込村々二御座候処当正月十五日夜ゟ同十六日之内田
反割壱町余高八尺又ハ壱丈位用水川敷一同俄二
地高二相成并田畑反別五反三畝余ハ砂入欠崩損地
出来候段届出申候委細之儀ハ追而可申上候得共先此
段御届申上候
未二月 岡崎兼三郎
拙者領分丹後国竹野郡木津荘内
田反割八反九畝七歩 和田上野分
田反割五反弐畝弐拾四歩 中館分
右ハ海岸附入込村二御座候処当正月十二日夜俄二砂山
窪ミ田方変地前書面両村田反割四反弐分凡壱尺
位ゟ壱丈位迄地高に相成高拾七石九斗七升弐合荒
地出来候段在所家来ゟ申越候付此段御届申上候已上
四月廿五日 松平伯耆守
一上杉達書
弾正大弼領内羽州米沢村山上村通り町と申所ゟ
去十五日申之中刻ゟ出火城下町ハ延焼同夜子刻漸
鎮火仕候右焼失之覚
一弐百弐軒 諸士屋敷 一五軒 寺院
一三百三拾四軒 町屋敷 一同断 修験
一五十八軒 右名主 一百九十棟土蔵
一弐百弐拾弐軒 物置小屋 一四ヶ所 堂社
右之通御座候城内二三ノ丸別条無御座候焼失人并
死失馬無御座候此段御届申上候已上
三月廿九日 上杉弾正大弼家来
安藤常五郎
一酒井左衛門尉ゟ達書
私領分羽州庄内田川郡飽海郡之内先月五日より
同廿迄雨降雪解川々出水常水ゟ九尺余水増二而
田畑水押入并破損所之覚
一侍屋敷水押入十五軒 一徒士下家水押入百五拾六軒
一諸役所水押入弐ヶ所 一稽古所水押入壱ヶ所
一土蔵水押入弐ヶ所 一町内木戸番水押入壱ヶ所
一両城下町家水押入百廿九軒一同 痛所壱ヶ所
一小屋水押入二十七 一修験水押入 壱宇
一民家水押入百三十三軒 一郷蔵水押入 壱
一水除土手崩六十七ヶ所 一川行欠崩并〆共百八拾八ヶ所
一用水堰砂埋弐拾三ヶ所 一大小橋痛十壱ヶ所
一街道痛弐拾五ヶ所 一同流失五ヶ所
一高九拾四石余 田畑川欠并土砂埋
内九十石九斗四合弐夕 田方
三石三斗六升三合七夕 畑方
右之通御座候御米置場御馬札場并鶴ケ丘亀崎
両 別条無御座候人牛馬怪我無之候此段御届申上候已上
四月三日 酒井左衛門尉
一戸田采女正ゟ達書
私在所美濃国大垣領当月八日ゟ雨天之処就中
同十日卯刻ゟ近年稀成強風重成同日午之刻
風相鎮り申候右二付城中之儀ハ為差儀も無御座候へとも
所同破損出来并町在方等も多分御座候且又
おお風雨二付川々早急満水仕堤所々難所出来数ヶ
所切入候趣相聞申候尤此節苗代時節二御座候処
差支候村方も多麦作も格別相痛候由御座候手遠
之村方ハ様子も未相分勿論堤 除石籠刎籠破
損所其外怪我死人牛馬損之事相知不申候段在所
家来共ゟ申越候委細之義ハ追而可申上候得共先此段
御届申上候已上
四月廿廿七日 戸田采女正
一永井肥前守達書
私領分濃州石見郡加納去十日暁六時より
風雨強追々烈敷辰刻比弥大風相成巳下刻相
鎮申候城内外町在共所々破損潰家倒木等左之通
一城内櫓多門破損壱ヶ所 一 足軽(ッゝキ)長屋潰三棟
一同高塀倒并大破弐百八十一ヶ所一往還並木松倒五本
一同倒木弐拾壱本 一町在潰家百三拾七軒
一同半潰家五十八軒 一侍屋敷潰家弐軒
一物置潰五十軒 一半潰壱軒
一神社潰弐ヶ所 一大破数ヶ所
一鐘楼門潰壱ヶ所 一鐘楼堂潰弐ヶ所
一明松院潰壱ヶ所 一長屋潰壱ヶ所
一非人小屋潰三軒 一同潰壱ヶ所
一稲荷社潰壱ヶ所
一稽古所潰壱ヶ所下 へツゝキ
右之外高札場無別条人馬怪我無御座候此段御届申上候
已上
四月廿二日 永井肥前守
一稲葉丹後守ゟ達書
私領分城州淀去月九日夜ゟ風雨強翌十日川々出水
仕同夜ゟ少々ツゝ引水二相成申候水高并堤所々破損之覚
木津川水高凡壱丈壱尺六寸 内常水三尺
増水八尺六寸
宇治川水高凡壱丈一尺三寸 内常水弐尺
増水九尺三寸
桂川水嵩 凡壱丈弐尺
一大橋小橋別条無御座候
一城内二ノ丸門内にて水押入申候
一家中屋敷并長屋町家居地低之処床上江水押揚申候
城州久世郡之内
一国役堤欠所十ヶ所
城州紀伊郡之内
一国役堤欠所弐ヶ所
同郡之内伏見街道
一国役堤崩四ヶ所
同郡之内
一国役水羽根刎崩三ヶ所
城州久世郡之内
一堤崩壱ヶ所
城州畷喜郡之内
一溜池堤欠所一ヶ所
同郡之内
一水刎蛇篭拾壱ヶ所流失
泉州日根郡之内
一水刎蛇籠七ヶ所流失
江州伊香郡之内
一堤切壱ヶ所
江州浅井郡之内 同
一水門壱ヶ所 一堤切壱ヶ所
泉州泉郡之内
一堤欠所壱ヶ所
一播州阿州之儀者別条無御座候且又田畑損毛之儀者
追而収納之上御届可申上候
一怪我人并牛馬流失等無御座候
右之段先御届申上候已上
五月十一日 稲葉丹後守
跋
兼穂録二曰俗間に丙午の年を忌ムハ容斎随筆に
丙午丁未之歳中国遭扨輙チ有変故非禍生於
内則夷独外二侮ㇽと又丙丁亀鑑に此類多ク挙タリ
見るまゝに爰にこれを写して子孫に残ス
政丈
右一冊花井氏之書を借りて写し終る
嘉永六癸丑年九月七日正午 三園
地震(ぢしん)方々(ほう〴〵)人迯状(にんにけじやう)之事
一 此(この)ゆり苦労(くらう)と申 者(もの)生得(せうとく)信濃国(しなのゝくに)生須(なまりづ)の荘(しやう)
揺初村(ゆりそめむら)出生(しゆつしやう)にてふ慥(たしか)なるふら附者ニ付荒魔ども
失人(うせにん)に相立(あいたち)異変(いへん)沙汰(さた)人 諸々(しょ〳〵)方々(ほう〴〵)にゆり出し
申候処めつほう之 火災(くわさい)の義(ぎ)は當卯十月二日夜ゟ
翌(よく)三日午の下刻迄と相定(あいさだめ)困窮(こんきう)人の義(ぎ)は難渋(なんじう)無住(むぢう)と
相きはめ只今御ほどこしとしてさつま芋三俵はしたにてたべ
申候御救之義は七ヶ所へ御 建(たて)じま 御恵(おんめぐみ)に逢(あふ)目嶋(めじま)
可被下候事
一 鹿島様 御法度(ごはつと)の義(ぎ)は申に不及お家(いへ)の八方(はつぽう)相傾(かたむか)せ申間鋪候
若(もし)此者お臺所(だいどころ)の女中方の寝息(ねいき)を考(かんが)へ内證(ないしやう)の地震(ぢしん)致候歟
又はゆり逃(にげ)壁落(かべおち)致候はゝ急度(きつと)したるかふばりの丸太を
以て早速らちあけ可申候
一 愁患(しうせう)の義は一蓮(いちれん)たく宗(しう)にて寺(てら)は夜中(よなか)ゆりあけ坂
道性寺(どうしやうじ)市中(しちう)まつぱたか騒動院(そうどういん)大火(たいくわ)に紛(まぎ)れ御座
なく候御 發動(はつどう)のゆりしたん 宗(しう)にてはこれなく候
若(もし)物音(ものをと)がたつきひめわひより瓦(かはら)をふらし候義は
無之万一ゆりかへし等致候はゝ我等(われら)早速(さつそく)まがり出 要石(かなめいし)を
以(もつ)てぎうと押(をさ)へ付(つけ)野田(のでん)へ宿労(しゆくらう)さしかけ申間敷候 地震(ぢしん)の
たびゆつてむざんの如し
半性(はんてう)大地(だいち)割(わり)下(げ)水
造作(そうさく)ざん年 家なしまご右衛門店
鹿嶋(かしま)の神無(かみな)月二日 つぶれやお土蔵
どさくさほんくらないけんのん橋
みじめや難十郎店
世並(よなみ)直(なほ)四郎(しらう)様 お小屋太助
《題:地災撮要巻一《割書: 噴火山 地震之部|》》
《題:地災撮要巻一《割書:噴火山 地震之部|》》
《題:地災撮要《割書:噴火山、地震ノ部|》巻ノ一》
地災撮要巻之一 噴火山、地震ノ部
信州浅間山焼聞書 天明三年
記信州地震 弘化四年
大地震大略 嘉永七年
丁未雑集抜書 弘化四年
地震説
此書ハ司法省ヨリ借受シテ謄写スル所ナリ
信州浅間山焼聞書
伊奈半左衛門申聞ル日光道中幸手宿問屋年寄
申立候者当五日夜七時頃ヨリ明方迄砂ノ 二
相見候物厚サ五厘程降宿内ハ多野辺ハ少々相
見此儀ハ風順二御座候哉耕作ノ障ニハ相成不
申由
一翌六日朝柳沢信濃守飛脚之者罷通工二付越
後奥州辺ハ様子承知仕候所越後国蒲原郡ハ先
月廿八日晝時ヨリ砂降別而奥州白川辺ハ晝夜
降候而厚サ壱弐寸二積候由申候段右宿之者申
出候由二御座候
一平岡彦兵衛支配所信州浅間山辺者村々先月
未砂降凡弐三寸程積候由併右山焼之儀未浅間
山共難相聞旨彼地ヨリ申越候段申聞候様猶又
山焼之所相分候ハゝ申上候様可仕候依之申上
候
卯七月
原田清右衛門御代官所上州群馬郡
高六百石余 川嶋村江戸ヨリ三十一里
高八百石余 北牧村江戸ヨリ三十七里
右二ヶ村吾妻川通二有之去ㇽ九日四ッ時山津波二
テ泥岩火石等夥敷押出川嶋村ヨリ木工御関所
北牧村家居田畑共不残流失右山ノ手少シ家居
相残候迄流死人数相知不申存命之者有之間敷
ト推察仕斗ニテ万一農業罷出歟又秣刈二罷出
候物ハ残可申哉相知不申相残罷在候テモ当時
及渇命可申候ヨリ外無之旨注進申出候
卯七月
久松筑前守知行所ヨリ訴出書付
乍恐以書付奉願候
一私共村之儀信州上州焼浅間山ヨリ十三里之
道法二御座候所当春中ヨリ度々焼出灰砂是迄降
候得共差而差支ニモ無御座然ル所当七月五日
之夜ヨリ焼音夥敷風両一向無御座候得共鳴動夥
敷大山モ崩レ候程ノ響虚空鳴渡八日夜明六時
二相成候得共晝夜無差別八日朝迄灰砂降候所
四ッ時頃ニモ有之候哉焼石如雨降来震動整不申
八ッ時過二至泥雨二相成其匂ヒ以之外悪敷食事
モ仕兼候程之儀二御座候灰砂利壱尺余降積八
日夕方至漸雷電止申候中里村之儀ハ同断之内
三里程山遠御座候付降積候所五六寸程御座候
右之通百ヶ年余モヶ様之大変無御座候田畑共
無差別退転同前之趣十方二暮罷在候立木竹藪
不及申野山青キ物一向無御座候当分馬ノ飼料
二差支甚難儀至極之儀二相成其上田畑灰砂片
付候テモ近年ノ間合候趣ニハ不奉存候甚歎敷
奉存候八日晝迄ハ家出仕候儀難相成御願申上
候儀モ難仕面々家内寄合経文読観念仕罷在候
仕合御座候何卒早々御見分可成下露命取続想
百姓一同農業渡世相成候様数重ニモ奉願上候
已上
御知行所上野国
碓井郡下磯部村
名主 甚三郎 印
組頭 助左衛門印
百姓代又兵衛 印
同国同郡上磯部村
名主 茂右衛門印
組頭 市兵衛 印
百姓代左 仲 印
同国群馬郡中里村
名主 小右衛門印
組頭 常右衛門印
百姓代源 六印
下磯部村
須藤伝左衛門様
田村卯右衛門様
私御代官所上州吾妻郡群馬郡村々山津波之趣
先達而御届申上候処右追々訴出候者当月八日
四ッ時信州浅間山抜ヶ山津浪ニテ泥水大岩五六丈
程高ク如黒雲二相見エ右之内二大烟相立熱湯
之如クニテ夥敷押出浅間山近辺者吾妻川通村
村流死人数不相知家居田畑モ流失仕候旨右之
内ニテ村中不浅人別家居共流失仕候モ有之段
近村ヨリ訴出申候若農業他処エ者相残申候哉難
計由申候段相残罷在候迚及渇命候ヨリ外無之旨
右体之儀故道端等通路無之巨細之儀相分訴出
申候依之早速手代差遣見分為仕委細追而可申
上候得共先右之段御届申上候左右之趣御取箇
方エモ御届申上候
卯七月 原田清右衛門
御勘定所
乍恐以宿次奉申上候
一日光道中幸手宿問屋年寄共奉申上候当宿ヨリ
八丁東ノ方字権現堂但中利根川内昨夜ヨリ今九
二御座候
日晝八ッ時頃迄家倉破六寸角之立柱四五尺丸
之梁木鴨居戸板貫桁竹屋根ヲ葺候時ノ麦藁
其外臼杵重箱桶鉢家具ノ類コマ〳〵二砕四五
尺丸之生木松杉五六尺ヨリ壱丈位迄折皮モム
ヶ未本共 如ク相成川中六七十間之川一パ
ヒニテ通船モ難相成程夥敷流申候此間十日
余一向雨降不申干川御座候処黒キ黄ノ泥水
急二三四尺相増申候男女出家溺死人是迄十
三四人馬壱疋川縁リ流申候川中之儀ハ何程
流申候哉相知不申候右二付乗船仕見候処破
鞍二上州群馬郡川島村二書付有之候二付右
権現堂之河岸エカゝリ上州藤木河岸申前二
テ船ノ者エ承り候得ハ湯治場伊香保ヨリ廿里
程奥之由無急度申聞候右泥水故歟鯉鱠鱣之
類浮上リ川岸寄夥敷手取二相成申候
右ハ先達テ御触モ御座候二付異変之儀故乍恐
以宿次奉申上候
伊奈半左衛門御代官所
日光道中
卯七月 問屋 文左衛門
年寄 仁右衛門
両御奉行所
乍恐以宿次御訴申上候事
一先月未片ヨリ信州浅間山震動仕焼砂降り候儀
数度二御座候処去五日夜中厚サ五分程降申
候別テ同六日夜四ツ時夥敷降り出申候夜中雷
電大鳴翌七日晝モ響如夜二テ降通シ其夜弥
降ツヨク同八日晝八ツ時迄降り候処砂暑弐寸
七分余壱坪斗立候処壱石五斗三升御座候但
壱坪ノ砂重サ四百三拾目田畑五六寸依之作
物一同砂埋申候然処右之間雨少モ降不申候
九日八ツ時利根川石泥水流大石二火乍燃相流
川中一面烟立陸押不申候依之当五科宿矢川
通路整日光往来整申候三宿通リ同様二テ通
路整申候間乍恐以宿次御訴申上候
日光御例幣使道
那須郡玉村宿群馬郡
問屋年寄
卯七月 市郎次
庄右衛門
道中両 御奉行所様
口上
中山道
信州佐久郡
井沢宿
右宿之儀浅間山麓二テ御座候処去ル月廿九日ヨリ
浅間山焼震動雷電夥敷家動強百姓共立退候様
当月七日夜四時頃ヨリ大石夥敷降り掛年寄又ハ
ト申者之屋根エ右之火玉落掛退時燃上リ夫ヨリ
四五ヶ所程一円燃立市宿不残焼候趣御座候名主
六右衛門ト申者父子水帳其外御用書物取出身
命限り相働外エ取出シ候処彼者共竹笠并蓑エ
両度大石落候折倒起上り逃去候由六右衛門娘
孫下女両人何方エ参リ候哉夜中ノ儀ニテ不相
知定テ被打相果候ト存候ノ旨六右衛門申聞候
右之外怪我人死失人之程難計御座候
中仙道信州佐久郡
沓懸宿
追分宿
右二ヶ宿浅間山麓ニテ前書之通軽井沢宿同様之
大変相聞候得共宿中不浅何方エ逃去候哉彼地
陣屋エ一向否不申出様子相知不申候且手代ト
モ罷越見分等仕候儀相成不申候
中仙道碓井郡
板 鼻 宿
右宿ヨリ訴出候ニハ六月廿八日当五日浅間山
焼出シ厚サ霜程降候処当七月六日暮六ッ時ヨリ
八日未刻迄晝夜共震動電雷仕無絶石砂降七
日午刻ヨリ申刻過迄二時半程如響夜提灯行燈
ニテ漸用事事相達申候石砂厚壱尺四五寸モ
有之弱家之分御伝馬役相勤候者弐軒其外裏
家之小家数多取押田畑作物ハ不及申青草無
之差当馬飼料無之甚難儀仕候由訴出候
右者私御代官所中仙道信州四ッ宿此度浅間山不
残砂降就中信州三宿之儀 転同様相成候趣御
座候得共今以焼鎮り不申彼地罷在候手代共罷
越候儀相成不申候間追テ委細相糺可申上候得
共先右之段御届申上候
卯七月 遠藤兵右衛門
一御小納戸伊丹雅楽之助知行所信州佐久郡今
限村ヨリ追分之方エ一里余横幅廿八町余之所
七月四日朝五時頃雷ノ響候ハゝ地面崩落入
申候其跡ヨリ烟立夥敷石砂泥燃出近村々驚
去申候作物等不残
高合千六百四拾石余 原田清右衛門
上州群馬郡
南牧村川島村ニテ
男千二百七拾人
女千二百拾人
牛馬百拾疋
右之通死
家数三百六拾軒
上州相生村善右衛門方ヨリ江戸通二丁目白木
嘉兵衛
屋出見セ店ニテ白木屋庄右衛門方書状到
来写左之通
一当七月二日夜五時頃信州浅間山鳴出砂少々
降候同六日夜六時頃ヨリ又々砂降天赤黒朧月
夜ノ͡コトク東西ヲタヤカナラス同七日右同
儀四時頃泥降鳴音雷ヨリ少々軽ク戸障子少々
動如ク御座候
一当所高崎エ十里伊勢崎エ五里前橋エ七里御
座候右三ヶ所私掛取二罷越候同八日朝罷出見
候処同日八ッ時頃前橋川筋通懸り候処凡家数
八拾軒計流来候利根川水六合斗御座候処半
時斗之間水ノ高サ二丈斗二相成其節人数千
百人斗流来其中二未死不申者共タスケ呉候
様声々二ヲメキ候得共中々可致様無之気之
毒ナカラ仕居候内七時大石小石燃ナカラ流
来候事夥敷只火事ナト見候様御座候大石ハ
ホノフ上り小石烟斗ニテ流来右大石水中二
シッミ候得ハ其所湯玉上り同九日朝五時芝
宿ト申所二一丈斗押出所二ヨリ五六尺斗所
モ御座候右泥之内死人数不知有之泥之上二
浮居候死人体ハクツレ右焼コケ候様御座候
女多十歳斗ノ子供モ相見申中二命助リ候者
六人ノ内女四人男二人此者二承候得ハ前橋
上十里斗ニテ弓之村ト申所者又白井村名主
之妻之由申聞候
一同日夜子之刻頃何カ弐拾間斗ノモノ利根川
ノ水分ヶ候テ通リ候物其音スサマシク響二
テ其形見エ不申同丑刻右同様ノ物又タ通リ
申候前橋伊勢崎之者水防凡人数二百人参出
候処壱人モ帰り不申未大石モ火ノゴトシ伊
勢崎砂六尺四方壱斗余有之
一浅間山登麓ヌケ候トモ又ハ草津之イホフ山
ヌケ候共伊香保之湯崩レ候共申候得共是ハ
雑説ニテ見届不申故未相分不申候前代未聞
儀御座候殊ノ外取急候間見届候処十分一斗
リ相記御覧入候
七月十日夜出ス同十四日到着之由
私御代官所上州邑楽郡赤岩村利根河附御座候
処訴出候ハ当月八日晝八時頃人家之崩レ相見
エ材木并小道具類川中一盃二流来川丈何間程
有之候哉前後限相知不申候川水湯之如クニテ
魚類泥溺候哉両岸流寄申候翌九日ニハ利根川
大方埋り候テ登下り船居付人足相雇相働候テ
モ中々動不申右泥中焼石軽濱石夥敷流来平生
水丈壱尺程有之候処泥八尺程余当時水丈弐尺
程二相成崩家ノ古材木等泥ノ上流止り利根河
押埋り申訴二罷出候村役人小船ニテ漸渡船仕
候得ハ跡渡船整候旨訴出申候依之注進之趣御
届申上候
卯七月
一昨十一日夕方昨十二日晝九時頃マテ利根川
人家ノ道具コマ〳〵二相成流候由
一死馬凡拾二三疋 一人ノ死体二百人程
一死牛二疋 一鯉鮒其外川魚数多
一川水去ㇽ九日朝ヨリ赤泥水ニテ御座候処スゝ
イロ二相成申候
右之趣葛西金町村名主ヨリ十三日夕訴出申候
七月十三日
信州浅間山先月下旬ヨリ焼出候趣当月朔日別
テ砂強伊勢守在所上州安中エ折々焼砂降り候
処同五日夕ヨリ其鳴音強焼砂石交夥敷降り積
リ如闇夜相成其後泥交り雨降田畑悉ク埋皆無
之趣御座候碓井郡群馬郡ノ内村々并中山道往
懸之由坂本宿辺流所焼砂正石四五尺程積り百
姓家大概家根打抜潰家等も有之御関所并城内
高札場所等別条無御座候碓氷峠之儀通路無御
座候未相分り不申候将又下総国匝瑳郡香取郡
海上群ノ内村々去月十四日夜中ヨリ同十八日
夜迄晝夜大風雨ニテ耕地壱丈余洪水ニテ稲草
本ノマゝ田畑モ立枯二相成其上当月六日ヨリ
同七日迄折々細成砂降候処同八日夜中ヨリ別
テ強同九日二至り依所凡三四寸積り候テ立直
モ可申稲草又々甚押シ候様二御座候左損毛之
儀追テ御届可申上候
七月廿日 板倉伊勢守
土井大炊頭殿御届
私在所総州古川領分去ㇽ五日子刻ヨリ同八日申
刻頃迄晝夜焼砂降田畑委細冠山林共凡二寸余
砂積り城下ハ同六日晩ヨリ砂降同八日雨交降
候処八分程降積り申候且利根川通川筋同九日
辰刻ヨリ酉刻頃迄同十一日巳刻頃ヨリ酉刻頃
迄両日川上ヨリ人馬潰屋其外家材本等余斗流
候得共房川渡通船差障無御座候最定水ヨリ五
尺余相増候得共早速引水二相成城内別条無御
座候人怪我無御座候由在所ヨリ申越候間此段
御届申上候以上
七月十二日
芝口薬種屋七郎兵衛ヨリ上州高崎町人
高橋権左衛門方飛脚遣候処如此申来候
当年浅間山春ノ内ヨリ度々焼先月坪井辺石沙
交り降田作岡作共皆無之由助右衛門方ヨリ申
来候此方ハ灰ガ降候得共作物二障候程事モ無
御座候処今月五日四ッ時ヨリ右山大焼ニテ此許
家鳴震動候ハゝ沙余程降其夜中天気二成六日
暮方ヨリ又々沙降候処夜中九時ヨリ以之外霜
一面二曇雲ノ気色赤醜敷気色家鳴震動沙如雨
降雷ノ強事言語二絶余醜敷家内我等部屋二取
篭り念仏観音経一心二唱漸夜明見候得者砂二
寸程降候最鞠場へ敷候砂位荒キ砂二御座候又
其夜九ッ時ヨリ震不絶鳴其醜敷事筆ニモ及不申
候夜明テモ整不申雲ハ墨ノ如ク底赤怖敷気色
ニテ漸四半時頃ヨリ震ハ止候得共砂ハ降積り
候ハゝ又九時過震強ク表ヲ通ル人モ無之戸障
子建暮申候食事モ間々ヲ見合給申候六日ノ晝
八ッ時頃ヨリ真ノ闇二相成表ハ提灯ナシデハ歩
行モ不成日暮歟ト存家来へ行燈燈候様申付候
得ハ時過テソロ〳〵明ク又其夜モ前夜ノ如ク言
語同断今度程醜敷目二逢候殊無御座候家内壱
人モ寝ㇽ者無御座候夜二入雲一面赤ク鳴渡り
戸障子モ外レ候程雷イクツトモ数不知家モ潰
レ候ント気モ魂モ消ル斗二暮候九時過ヨリ風
東二成砂モ降止候ユヘ砂払卸候処東風ニテ雨
降候得ハ掃キタル物泥タラケ二相成申候今晩
ハ雷モハレ候ユヘ生タル心地二相成申候砂降
候処五六寸依之田作岡作一向皆無ト相見申候
右之通之場所安中領高崎領七日市小幡下仁田
在々藤岡八幡山本庄伊勢崎右之通其向々ハ何
所迄歟相知不申又伊香保渋川大久保辺利根川
向前橋ヨリ壱里半程下迄ハ降不申作物モ無難
二御座候安中高崎七日市小幡伊勢崎夥敷砂降
申候間本之皆無当年ハ無是非候得共跡々田砂
居堀除二開発同様二テ此後役ニモ立不申候御
領主様ニモ大変未々我等共モ身上破滅之仕合
年寄候テ筒様ノウキ目二逢候事身ヲ悔申候右
為御知申度斗二候
一当月五日浅間山焼ニテ砂降候六日朝相止候
所夕方ヨリ又降候ハ焼石ト相成七日晝八ッ時
頃ヨリ闇二相成提灯ニテ往来致シ候程之儀
二御座候暮頃ヨリ別テ震動強ク雷モ殊ノ外
烈敷生タル心ハ無之漸ク夜ヲ明シ八日朝五
時頃雷モ止申候降モ少々二相成震動ハ晝頃
迄少シイタシ藤岡辺ハ六七日モ降り軽井沢
宿沓掛宿抔ハ茶碗ヨリ大井成石四五尺モ降
申候東ハ御池辺迄西ハ追分宿下仁田辺南ハ
花石八幡山 降フセ申候小川辺ハ一寸
斗モ降り申候由北東ノ降強北ノ方ハ利根川
辺ニテ利根川出水故川向之儀ハ未相知不申
候同八日利根川出水之儀ハ万座山ト申草津
入湯ノ元ニテ浅間山ヨリ二里程モ隔候得共
同山続ニテ御座候右万座山崩レ泥水ワキ立
押出シ左之通村々流申候人死モ夥敷ト申殊
ノ外硫黄澤山成山ニテクワツ石抔大キ成流
出焼失ノ村モ御座候浅間山モ同日之儀二候
得ハ南山ヨリ降候事共風聞致シ未タ利根川
辺泥ニテ一向通路モム御座候得ハ̪碇ト致候
事モ相知不申候得共高崎御屋敷へ申上ノ由
承知候間猶右有増写掛御目申候
大笹村 泥入 神原村 泥入
坪井村 不残流 中原村 同
川原畑村 泥入 川原湯村 泥入
三嶋村 同 岩下村 <割書:半分流|半分泥入>
岩井村 泥入 原町村 <割書:半分流|半分泥入>
上栗村 泥入 神戸村 <割書:半分流|半分泥入>
小泉村 同 伊勢町村 同
青山村 同 村上村 同
小野子村 同 箱島村 同
ウハ島村 同 川島村 同
木エ村 <割書:家数弐百軒斗故人|拾四人残外ハ不残死>
是ヨリ <割書:利根川|三国川>落合ト成
中村 不残流 半田村 <割書:半分流|半分泥入>
浅草村 泥入 川原村 同
渋川村 同 下新田村 同
萩原村 同 横手村 同
中島村 泥入 向福嶋村 御関所流外泥入
下ノ宮村 泥入 上ノ宮村 同
箱石村 実改御関所流 坂井村 泥入
斎田村 同 五料村 御関所半分流 半分泥入
川合河岸村泥入 芝町 同
向八町河岸村同 三反河岸 同
右之外三軒流村々ハ数不知凡村数五十二三軒
坪井村ヨリ三反迄二十四里程未以中瀬渡場迄
ハ利根川通一向二通路無御座候由碇致候事モ
相知不申候出水ノ場所ハ勿論砂降候所モ田畑
一向用立不申候尚秋作ハ皆無ト奉存候跡々モ
砂取ノケ不申候ハ用立申間敷候偖々難渋御察
可被下候以上
七月十一日出 諸星七左衛門
近江屋三左衛門殿江
阿州飛脚物語
七月二日信州下諏訪之跡ニ止宿仕候処殊ノ外
地鳴申候処相聞エ候二付尋候処浅間山去月廿
九日ヨリ焼申候由翌三日和田峠ヨリ見及候内
黒雲之様相見望月峠ニテ相尋候処今日ハ先鎮
リ候分御座候ト申聞候内又々殊ノ外山動夫ヨ
リ相鎮り其日ハ三度焼申候翌四日追分端茶屋
之亭主申ニハ私儀七十才余ニ相成候得共此度
程之儀ハ覚へ不申由咄申候廿九日ヨリ朔日二
日迄之内家震動仕家内へモ黒雲之様二巻上家
内ノ者モ立退候程之儀御座候得共追分沓掛等
ノ宿ヘハ聊モ石砂降不申趣二御座候両宿ハ氏
子ノ事二候故昔ヨリ石砂モ降不申由彼老人物
語仕候夫ヨリ井沢本陣へ罷越承候処二日之夜
ハ少々石降申候浅間山ヨリ焼出シ候山上夥敷
荒振候小間井岩村迄人馬等余程損シ申候趣御
座候右同日ヨリ碓氷峠へ差掛信州大笹村之者
ト道連仕山焼之儀委敷相尋候所彼者申候ハ右
大笹村近村四五ヶ村之間石斗り四五寸モ降池
ノ魚抔モ不残アカリ浅間山北手ノ方ヘハ小山
一ツ吹出シ余程大成山ノ由噺シ申候是ハ中仙
道筋ヘハ相見へ不申候右大笹村ノ咄ニハ朔日
二日迄ノ儀承申候同五日本庄驛止宿仕候処四
ツ時頃ヨリ震動仕砂五分程明方迄降申浅間山
ヨリ本庄迄之間道法廿四五里モ御座候翌六日
晝八ッ時頃ヨリ又々山震動仕空一面二曇り上
ケ尾驛止宿仕候処夫ヨリ今朝戸田川迄罷越候
内始終砂降り通シ板橋本郷辺迄モ少々ツゝ降
申候其外相替儀無御座候
江川太郎左衛門御代官所
八丈島続
青ケ嶋
当卯二月廿四日俄二北大風大雨雷光震動夥
敷至ル神子溜リト船寄ト申前大崩赤砂屡々
吹上所二ヨリ二三尺或ハ三四尺降積り同日
暮方止
一同三月廿九日之夜丑ノ刻斗りヨリ大地震八
度同寅ノ刻二池澤ト申所二大穴出来焼石吹
出シ雲上二砕ケ嶋中へ焼石降雨ノコトク人
家焼付神主名主初百姓家三十間程焼失同小
屋共二六間都合六十壱軒竹木不残焼失男女
岩ノ陰洞之内二隠或ハ鍋スリ鉢ナト冠リ凌
男十一人女三人行衛不知嶋ノ内不残野牛飼
牛トモ死体四十五疋其外ハ一向相見へ不申
候
記信州地震
禍災之変莫惨干地震矣凶荒雖危豫備可以済之
疾病錐厲医薬可以療之火災則防而滅焉水患則
導而治焉独至地震忽然颷発比屋傾倒不可逃避
甚則山崩海翻水陸変遷係其地方者併人畜死亡
幾盡矣豈可不恐而畏哉弘化四年三月廿四日信
州地大震天駭地山崩川溢地坼砂噴五郡
安曇群更科郡埴科郡水内郡高井郡
数百里之地振最壬岡論城郭宮室山
陵藪沢凡存孚地上者靡不悉被其害地脈所接延
及北越高田治下猶輿信之五郡同加之以火災重
之以水患死亡不可勝算蓋近古已来所未有也適
属善光寺啓龕蚩々之民自遠而来雲聚煙簇闐噎
街衢家倒大発得生還者百無一二積尸為丘煤黒
不能辨認人子以為父認人父以為子収糜爛之余
以帰葬者亦不尠矣有参州士二人詣仏者寝逆旅
樓上驚震動而覚々而見星意棟折屋壊急呼其友
欲與俱下楼振々顛仆狼狽失度友曰楼既倒矣何
可之為於是乎始知其躬在干地上也辛苦遁去登
猿嶺則炎燄燭天哭声振山野二人相見而暿之祝
其無恙云此雖一事亦可以類知矣岩倉山枕千犀
川而高山崩壓川々上更突出二山 真神
一高三里 一高壱里
山亦崩埋没其下流河水為之不流注洋渺漫潴為
巨浸日又一日平地水高数丈而未知其所決也土
人遁逃四散入山林以避焉至四月十三日而决抜
大木転巨石雷蕩雲奔不可防遏衛川中島及松代
城下城内僅以免村落数十民家数千盡為所流蕩
嗟呼此変也地震水火一時併臻信人之不幸何至
此乎蓋地震由千伏陽々気伏干地底磅礴欝積極
而発焉在天為雷霆在地為震動無足怪者西洋之
説曰地震多在千山国而又善発千火山近傍蓋地
底有伏道與火山相通硫黄硝石凝結既久一有陽
気透入其間則炘灼燃烘一時勃発夫浅間山為信
之巨嶽天明中山巓火発炎燄熾盛雨砂土数州赤
地百里人畜倶死距今六十余年顧複有伏道貫通
干地底硫黄硝石與伏陽相感薫灼激発以成斯災
耶天明則発之乎地上今日則発之乎地下其事雖
異其理則同併記以為戒且質諸有識者焉
聞信州大地震陷裂噴出砂土往々有硫黄気
蒸々薫人是亦可以為験與附記
大地震大畧
一当月十三日晝九ッ時頃夕八ッ時頃余程之地
震有之夜二入八ッ時頃大雷大雨引続地震不
止同十五日暁八ッ時過頃大地震二テ引キ切
ラス震朝六ッ時過余程之震有之五ッ時ヨリ
少々間遠二相成候得共時々震ヒ止不申其後
碇ト相鎮リ不申候就テハ右荒増左之通
一桂 皇居御庭御狭二付御仮家御建出来候
迄 主上 准后御方 敏宮御方等近衛殿へ
御立退被為遊其内 御居所御補理出来二付
晝四ッ半時過 主上 桂皇居江還行 准后
御方二者晝九ッ時過頃還行被為遊候
一二條ヨリ上北ノ方ハ軽ク下辺南東之方強キ
様子二相聞震候
二條ヨリ三條迄之間加茂川河原二十ヶ所
程幕打廻シ立退場有之
一塀倒レ土蔵損シ家潰シ等所々二有之中京辺
都テ石燈籠等ノ類倒レ候由
一市中往来二敷物ヲ敷夜ヲ明シ別テ祇園町通
リ両側ヨリ数多出居り余人往来モ成兼候程
二相見へ候
一祇園社地ニテ凡石燈籠二十一斗倒レ右之玉
垣二ヶ所程崩レ安井境内ニテ石燈籠三木清
水ハ軽ク只一本六波羅密寺ニテ三本倒レ申
候
一五條坂日蓮宗常行寺表門往還へ倒レ暫時往
来不相成候処早速表門損材木等取片付往来
付申候
一二條御城内破損相分り兼候得共格別之儀ハ
有之間敷候
一膳所ヨリ人数足軽中間等凡五十人斗祇園裏
屋敷十五日朝到着之処膳所城内其外破損所
多怪我人等モ有之由此節当所固メ中二付増
人数罷越候事之由
一大津別テ強ク潰屋多ク出来死人怪我人多有
之由
一伏見モ余程強キ由委細ハ未タ分り兼申候
右ハ差当り私見分之処凡如此御座候
六月十五日未申刻
尚以只今地震相止不申候
猶以伊勢近江美濃飛騨尾張山城河内伊賀大
和等之国々大小者可有之候得共各地地震強
キ様子相聞申候
乍恐以書付奉申上候
一当月十四日夜丑下刻頃江州路伊勢路四日市
宿辺ヨリ水口宿辺其外近辺大地震之様最四
日市水口辺ハ建家土蔵相潰レ怪我人モ有之
翌十五日酉ノ刻未タ相止不申候由右両宿ヨ
リハ不申越候得共東海道宮宿ヨリ為知申越
候間不取敢此段奉申上候巨細相知候ハゝ尚
又可奉申上候以上
定飛脚問屋
年行事
呉服町利右衛門地借
嘉永七寅年六月十九日 江戸店 利三郎
支配人 浅 七
右ハ池田播州届出候ヨリ 池田ハ当時町奉行ナリ
六月廿日和泉守殿ヨリ
領分勢州亀山去十五日暁丑刻過ヨリ地震強城
内住居向櫓多門并惣堀石垣等損所数ヶ所壁落
崩地面響破士屋敷町屋領分村々破損所潰家人
馬怪我等之儀ハ未折々震動有之候故取調行届
兼候様在所表ヨリ申越候先此段御届申上候以
上
六月十九日 石川主殿頭
在所美濃国大垣去十五日丑上刻甚敷地震ニテ
城中表門一ヶ所石垣数ヶ所崩其外城中屋敷士
民家屋は損所出来且村々之内山崩地割郷中潰
家怪我人牛馬等碇ト相分不申旨在所表ヨリ申
越候委細之儀ハ追テ御届可申上候先此段御届
申上候以上
六月廿日 戸田采女正
在所伊勢国三重郡菰野去十五日丑下刻大地震
ニテ陣屋并家中領内潰家損所怪我人等御座候
趣委細之儀ハ追テ御届可申上候以上
六月廿日 土方備中守
私在所勢州桑名郡長崎并新田共去十五日丑刻
過大地震ニテ城内住居向櫓多門并惣堀石垣等
損所有之其外士屋敷町家等損所有之且又領分
総堤引割引下ヶノ場所御座候由最人馬怪我無
御座候趣在所表ヨリ震越候委細之儀ハ追テ可
申上候得共先此段御届申上候以上
六月廿一日 増山河内守
六月十三日越前国福井城下大火八分通焼失ト
云
十三日晝九ッ時頃夕八ッ時頃相応之地震夜二
入八ッ時頃大雷大雨加茂川辺出水大納涼場取
払ニテ大混雑翌朝ハ早速水引落昨日祇園帰社
ト納涼大雨之処八ッ時頃大地震ユヘ市中大騒
動二條通寺町ヨリ上ノ方往来淋敷商売休モ同
様所々破損多何分上京辺甚淋敷夕八ッ半時又
々雷鳴雨気立申候
一宇治御茶壺御用十七日京都発足廿八日江戸
着候趣気候不宜候間延引モ難計
寅六月廿一日申未
今晩丑刻全地震強其後度々動揺有之候二付庭
上二御仮屋ヲ被補理候間暫ク近衛殿御亭へ被
為 渡 御座所出来之上地動モ先鎮候間巳半
刻過如元桂 皇居江 還御被為 在益御機嫌
能被為 成候 准后御方 敏宮御方ニモ御同
様御座候 新待聖門院御方御在所御庭向甚御
狭少二付正親町家江被為 渡候此段可得貴意
如此御座候以上
六月十五日 長谷川肥前守
在所和州郡山去ㇽ十五日暁丑刻過ヨリ甚敷地
震ニテ城内住居向并所々櫓多門等大破家中屋
敷町方領分村々潰家怪我死人牛馬損毛等有之
候假申越候委細之儀ハ追テ可申上候得共先此
段御届申上候以上
六月廿三日 松平時之助
領分伊賀伊勢山城大和去ル十三日午刻頃ヨリ
余程之地震度々有之同十五日丑刻過大地震ニ
テ城内ヲ始侍屋敷其外崩損潰屋死失怪我人等
夥敷有之翌夕二至リ鳴動相止不申候旨伊賀山
城大和之儀ハ別テ厳敷大災水難等有之候趣申
越候猶委細の儀ハ追テ可申上候得共先此段御
届申達候以上
六月廿三日 藤堂和泉守
六月廿日夜六ッ半時頃到着
今暁丑刻前当地地震強其後モ度々動揺有之候
付 禁裏 御所方桂 皇居御庭上二仮屋ヲ被
構候其内暫時近衛殿亭江被為 渉 御座所御
出来之上地震モ先鎮り候間巳半刻過 還御被
為在最 御機嫌被為 替候御儀無御座候 新
待聖門院二ハ御在所御庭向御狭少二付正親町
家江被為渡候旨伝奏衆被申聞候最桂 皇居御
庭向御狭少二付模様二寄又候近衛殿江被為渡
候モ可有之旨関白殿内命有之候由是又両卿被
申聞候右ハ当時仮 皇居之儀二付此段申達候
以上
一近年二ハ無之地震二有之候得共 御所向并
二條御城内外御別条無御座候右二付御機嫌之
儀拙者儀此節混穢中二付以使者可相伺哉之
段御付之者ヲ以承合候処不及其儀旨伝奏衆
被申聞候由御附之者申聞候間此段モ申達候
以上
六月十五日
甲寅六月廿二日発大坂 御城内ヨリ之
書状同七月二日夕着書状
一去ㇽ十四日夜八ッ時過当表大地震二御座候
御本丸三重之御櫓十ヶ所皆壁ヲ落シ損シ桜
御門御石垣ハ大イタミ桝形内大石開キ申候
二重之御櫓三十御座候是モ皆ナ壁落損シ私
小屋ハ二重之御櫓脇ニテ上ヨリ恐ロシク壁
落参り誠二々々大ケンノンカラキ命ヲ助り
申候
一右之大地震夜分二御座候ユヘ誠二々々シマ
ツアシク棚ヨリイロ〳〵皿小バチノルヒヲチ
棚板ハ皆ハツレイロ〳〵損シ物有之夜分之事
故アンドフユリタヲシ闇夜二相成ヨウ〳〵
ト納戸エ参り挑灯ヲ取候処何分ニモ足ノフ
ミコタへ更二ナクヨク〳〵ト家来共提灯へ火
ヲ付テ候処直二コロヒ其脇二鉄炮ノエんシ
ヨウ五仃斗り有之候処江提灯ヲ持チコロビ
提灯ハヤケ候得共エンシヨウ江ハ火ウツリ
不申誠二不思議ノ事天ノ御助ヶ命ヒロヒ致
シ申候小屋ノ戸ヲ明ヶ候処一向二ニヅミ明
キ不申ヨウ〳〵コヂハナシ縁先へ出候処足フ
ミ止り不申一間斗庭先へホウリ出サレ申候
其内追々シヅマリ申候翌十五日朝又々大二
震ヒ震候処最初ヨリハ弱キ方夫ヨリ晝夜度
々ユリ申候十六日十七日十八日十九日廿日
廿一日同様晝夜共度々震ヒ申候二付夜分ロク
〳〵寝候事モ出来不申夜中戸モ明ヶ置用心致
シ申候昨廿一日夕ヨリ追々遠ク相成申候シ
カシ止ミ切ハ不仕候
一大坂近辺いが伊賀大地震藤堂城大クズレ町在
人家大破損人多ク死シ郡山松平甲斐守城下
同様城中大破シ町家在方共大損シ奈良大地
震其上雷火ニテ町家大焼ヶ人多ク死ス東海
道筋宿々在々同様大損シ中ニモ東海道四日
市宿ハ火事二相成人多ク死シ候由
一右十四日夜大地震二付 御本丸へ 御城代
御上り有之 御場内破損奉行御先立致シ右
二付諸向一同登城仕候最御城代始メ一同火
事羽織着用ニテ御座候
一当地右様大変二候得共 御城外町家抔ハ余
りイタミ不申候最町人共ハ十六日夕迄御城
外馬場之原ト申処へ数万ノ人ニケ集り居申
甲誠二大変中々巨細ニハ書取難ク私事モ兎
角勝不申候得共此節御破損場所改掛り被申
付日々押テ出勤大繁勤シカシ上下一同怪我
モ無御座候間必ス〳〵御心配被下間敷候大繁
用アラ〳〵申上候宜敷御読ワケ下サレ度候早
々メテタクカシク
六月廿二日
《割書:大御番近藤岩見守|組松平氏》 勘十郎
御姉様
尚々右破損所掛リハ様子二寄八月交代之
節跡へ居残り二相成可申哉モ難斗抔申候
若シ左様二相成候テハ大不都合二御座候
何卒故ナク八月交代帰府仕度奉存候以上
六月廿三日夕発同断前書状同様
七月二日着書抜
一先便申上候此度諸国之大地震誠二珍事二御
座候当表 御城内諸所御櫓御石垣并御小屋
等イタミ損シ多分有之町家モ損シ候処余程
御座候得共死人怪我人等ハ無御座候
一余り珍敷地震二御座候マゝ当地町方ニテ風
聞書売候ヲ一枚求メ取上申候夫々へ御見せ
被成下度願上候
一奈良ハ大坂ヨリ八里御座候大坂ヨリ奈良へ
参り候人帰り申聞候ニハ噂ヨリハヲソロシ
キ事ニテ大仏モタヲレ日春之社燈籠ミナク
ツレ申候由二御座候
一大坂モイマタ晝夜少々ツゝユリ申候此上大
地震無之様心配人々用心仕居候事二御座候
一御場内破損所此節破損奉行立合取調日々大
繁盛早々申上候云云
六月廿三日夕 勘十郎
御姉様
甲寅六月
大坂市中ニテ出版売弘メ候聞書写
諸国大地震并出火聞書
京大坂堺河内紀州播州丹波丹後其外国々少々
宛ノ不同ハアレトモ大イテイ同時同格ノ大地
震誠二稀ナル珍事也十六日暮方マデニ七十三
度震申候
奈良
六月十四日夜八ッ時ヨリユリ始明六ッ時迄少
々ツゝフルヒ十五日朝五ツ時ヨリ大地震ニテ
町家一軒モ無事ナルハナク勿論一人モ家内二
居ㇽ事ナラス皆々野又ハ興福寺其外広キ明地
ナトニテ夜ヲアカシ大道往来之者一人モナク
皆内ヲシメ寄セ何レ二居候共不毎分夜々々野
宿ニテ目モ当ラレヌ次第ナリ南方清水通り不
残家崩レ木辻四ッ辻ヨリ西十軒斗り崩レ鳴川
町ニテ二分通り残リ北ノ方西手具通りニテ三
分残り北半田町手具通り南北大崩レ川久保町
大クズレ家二軒残ル中ノ方細川町北向町北風
呂辻子町右三町三条通りヨリ北ハ少々クツレ
都テ奈良中ノ大ソンジ前代未聞ノ大変ナリ
死人凡二百五十人 小児五十人
怪我人不知数
古市木津モ家四五軒残ル
十六日暮方迄ニ七十三度ノ大地震ナリ
伊賀
上野十四日夜九時大地震ユリ始メおん御城大
手御門大ニ損シ市中ハ凡六分通り崩レ四分通
りハ菱ニナリ猶又鍵ノ辻ヨリ出火ニテ黒門町
迄焼失ニ及フ夫ヨリ嶋ノ原トイフ所ヨリ大川
原トイフ所迄螺ノ為ニ一面ノ泥海ノ如ク其混
乱筆ニ尽シ難シ十六日暮方迄ニ七十五度ノ地
震ナリ
郡山并大和
六月十四日夜九ッ時ヨリ少々ユリ始メ八ッ時
二大地震榊町壱丁目より同四丁目迄家数凡三
十八九軒崩レ其外市中凡三分通り家クヅレ其
外奈良同様ナリ
死人凡百三十人 小児十七八人
怪我人多シ誠二アワレ至極ナリ是モ十
六日暮方迄ニ七十三度ユル
一南大和ヨリ出シ同時怪我人少々死人少シ家
少々ソンシ崩レルホトノ事モナシ
江州
六月十四日夜九ッ時ヨリ少々ユリ始メ七ッ時
ヨリ大地震ニテ三井寺下ヨリ尾花川ト申処迄家
数百軒余崩レ其外膳所ノ城少々損シ土山抔ハ
四五軒ツヽ七八ヶ所崩レ此内ノ人六分通りヲ
シニウタレ四分ハ助ル又石山ハ別シテ大ヒナ
ル岩ナト崩シ落シ殊ニ大損シ其外御城下在町
大損シ是モ十六日暮方迄大小トモ六十八度ユ
レル
勢州四日市
六月十四日夜四ッ時ユリ始メ六ッ時より大地
震ニ成家数三百軒余崩レ晝五ツ時ヨリ出火ニ
テ家数四百軒余焼失
死人凡百四五十人 不知人弐百人余
其外勢州尾州其辺ノ国々大ニ損シ申候
越前福井
六月十三日五ッ時ヨリ塩町カジヤ町ヨリ出火
東西南北トモ不残焼失其朝大風ニテ九十九橋
ヨリ二百町斗り寺院百ヶ所両本願寺共焼失近
在凡十ヶ所焼失其外四ツ時ニ鎮り申候
又十四日夜八ッ時ヨリ大地震田地ナトモ泥海
ト成り所々家崩レ死人凡四五十人誠ニ〳〵其混
乱筆ニツクシ難シ十六日暮方迄ニ大小六十八
度ユル
一和州奈良廿一日夜五ツ時ヨリ又々大地ユリ
出シ西方寺本堂クツレ候得トモ死人ナク又
神主家数高平築山ミナ〳〵クツレ都テ奈良中
ハ先ノ地震二残りタル所コト〳〵ク崩今ハ住
家ラシキ所一軒モナシ
一郡山岡町菊屋ト申宿ニテ泊り人廿五人死ス
門外五丁目花屋ト申宿ニテ四十三人死郡山
町中廿三日マテ死人改三百八十人家数六百
三十軒土蔵百八十ヶ所寺四ヶ寺
一古市地震ニテ大水出御屋敷ヲ始メ町家不残
流シ木津近辺モ笠置山クヅレ岩ナト落是モ
大水ト成ミナ〳〵ナガル
一江州大津近辺石場船番所等湖水へタヲレ込
横死三人信楽辺其外江州一国ニテ家数八百
三十軒土蔵百七ヶ所死四百七十人最モ怪我
人多シ
死人改 伊賀上野九千百八十人 奈良凡五百三十人
勢州四日凡七五〇人 和州郡山凡四百五十人
地震ユリノ寸法
奈良伊賀上野一尺八寸郡山伊勢四日市一尺五寸
河川九寸和州古市木津辺一尺五寸江州辺一尺一寸
越前福井一尺京五寸大坂堺紀州丹波丹後播州
凡三寸ユリ
前代未聞ノ事也
右此度地震ハ奈良伊賀上野郡山勢州四日市和
州古市南山城木津江州信楽ぜゝ御城下石山辺三
井寺右ノ国々ハ今二於テ折々少々宛ユリモ御
座候得共先ツヲサマリ申候土山水口石部庄野
石薬師亀山三州岡崎尾州越前福井河内其外国
々先納り此度ノフシキハ奈良二月堂観音堂境
内ニテハ地シンナシ大仏ソンシナシ春日社石
燈籠ハコケ候得共社二於テハ損ナシ尾州熱田
ノ宮二テハ十三日ノ夜ユメノツケ御座候テ夫ヨリ
熱田近辺ハ御宮へ集りカゝり火ヲタキ待い居候処
十四日ノ夜大地震二御座候得共熱田宮境内ハ地
震ナシ夫ユヘ地内へ近辺ノ人々皆々群集イタ
シ候事間違無御座候神徳有カタキ事広大無ヘ
ンナリ此外フシキモ御座候得共畧之
丁未雑集抜書
弘化四未年三月廿四日夜五半時頃信濃国大地
震ニテ善光寺境内其外新町ヨリ渡町大門町西
町権藤町岩石桜小路西門町東門左右此辺々町
堂不残潰レ申候右地震ヨリ所々火事出来大火
二成焼失人馬怪我人夥敷最善光寺本堂斗り大
官人屋敷不残潰シ又ハ焼失善光寺辺郷村小柴
見村ヨリ久保寺町小市村渡シ場辺石山崩レ二
テ川中凡幅百間程之処七分通り埋り申候処二
大地割此辺々郷村大木ハ地上二漸々二三尺位
モ出相見へ小木之分ハ跡方モ無之土中二相成
真田信濃守城下町々馬喰町ヨリ荒芝辺凡八丁
程之処家数百四五拾軒崩レ凡人数五六十人斗
行衛死体不知鍛冶町鏡屋町田町袋町松山町新
町柴町裏表大官町丸ノ内武士屋敷不残潰レ申
候松平伊賀守領分岩岡辺崩レ往来絶犀川所々
石土押流シ川之瀬山ノ如クニ埋り所々水押出
シ申候本多豊後守領分飯山城内城下大方潰レ
申候怪我人数不知ト云大地震ハ場所凡拾二三
里四方ト云廿四日夜五半時頃ヨリ翌廿五日朝
四ツ時過迄ユレ其後数度ゆユレ候ヨシ
未三月晦日御勘定奉行ヨリ備前守殿へ御
届ノ写
私御代官所当分御預所信濃国高井郡水内郡村
々之儀当月廿四日夜戌之中刻頃ヨリ亥ノ上刻
へ掛大地震二有之夫ヨリ不絶震動致シ折々地
震発翌廿五日卯ノ中刻漸相鎮候処地所裂割泥
水吹出シ潰家人馬牛死失多家内不残死絶候者
モ有之怪我人ハ夥敷一村皆潰家ニ相成候村々
モ有之前代未聞変事之趣二追々届出候ニ付不
取敢手代共差出申候且陣屋許中野村之儀ハ損
家等有之候迄ニテ陣屋トモ別条無御座候委細
之儀ハ追テ可申上候得共先此段御届申上候以上
未三月 高木清左衛門
右之通御代官高木清左衛門相届申候依之此段
申上候以上
未三月
未四月御代官川上金吾助届
当月廿四日昼夜快晴暖気ニテ至極穏之日ニ御
座候処同夜四ツ時頃大地震ニテ信州中之条村
私陣屋構練塀所々ユリ倒シ其外陣屋元近辺村
々農家手弱之分ハ下家廻りユリ倒シ夥敷震動
致シ暫ク相立漸相止候処夫ヨリ少々ツゞ之間
ヲ置不絶震動陣屋ヨリ北之方ニ当雷鳴之如キ
響有之夜明ヶ迄之内ニハ凡八十度余之地震翌
朝少々静ニ相成候得共今以震動相止不申支配
所水内郡村々之内二ハ潰家怪我死人等モ有之
候由二御座候得共未訴出不申追々風聞之趣承
り候処同国川中島辺ヨリ善光寺夫ヨリ南へ当
り山中ト唱候一郷辺重二大地震ト相見へ候川
中島辺ハ民家不残又ハ過半ユリ倒シ其上出火
二テ不残焼失致シ候村々モ有之一村三四十人
位ヨリ二三百人程モ即死怪我人有之善光寺町
ハ家並大体不残ユリ倒シ其上焼失大造之即死
怪我人等有之都テ往還筋ハ此節善光寺供養二
付夥敷旅人泊り合せ夫故死人モ多分御座候由
山中辺ハ手遠片寄右様子難相分候得共犀川上
手ニテ山崩有之川中留切流水更ニ無之丹波島
渡船場干上り歩行渡致シ候由ニ御座候越後表
之儀者如何御座候哉様子相分リ不申右者風聞
迄之儀ニテ未聢ト難相分候間早速手代差出支
配所潰家其外見分吟味之上外最寄村々損毛ヲ
モ風聞相糺委細之儀ハ追而可申上候且御預陣
屋附同国佐久郡村々之儀モ右同時大地震致シ
候得共善光寺辺と者里数モ隔候次第二付相劣
候哉陣屋并支配所其外最寄私領村々共纔宛之
破損家等有之趣候得共サシタル儀モ無之怪我
人死亡等無御座候先不取敢此段御届申上候以上
三月廿五日
川上金吾助
地震年表
一慶長元年七月廿四日京大震閏七月十二日京又
震同二年三月朔浅間山焼
一寛永十年癸酉正月二日関東大地震
一同年五月五日越後村上大地震
一慶安三年丑六月廿日江戸大地震子ノ下刻
一元禄十年丑十月十二日江戸地震鳴動午ノ下刻
一同十六年未十一月廿二十二日大地震御城廻大破
夜丑中刻
一寛延四未年四月廿五日越後高田大地震
一文化元子年四月十日ヨリ十五日迄甚上総国
望阿郡久留里ナリ
一文化元子年六月四日羽州庄内田川郡飽海郡
七日迄大震
一文政四年子十一月十二日辰刻越後長岡大地
震
一文政十三年寅七月二日七時過京都大地震
一本化四年丁未三月廿四日亥刻信州飯山善光
寺松代上田大地震
越後高田藩士書簡丁未四月朔写
一筆啓上仕候然ハ今廿四日亥刻地震往昔此表
大地震承伝候而己其後今度之格成儀不承候川
原町通リ大手迄之道三四寸七八寸位モ割水或
ハ砂吹出候御城内大手御橋臺分二強ク割柳橋
ト本城御橋間迄モ所々同様狐門之方ハ割候所
モ余り不見当候御城張付等大概切裂候壁モ少
々落候ヶ所モ御座候ホゾ抜出ノヶ所モ相見候
得共御普請大丈夫故外二差タル破損所モ無御
座候面々屋敷〃〃不残大破住居不相成向モ多
ク御座候由小子宅抔モ戸障子外レ候分ハ無難
ニテ立居候分ハ不残破損住向モ東西南北五六
寸位ツゝ不残曲り茶ノ間ト玄関ハ土台一間余
モ表江開候間根太一体二落候哉恐敷事二御座
候乍去宵之内ニテ怪我等ハ先無御座候二相聞
候且失火之儀モ無之先ハ一統之仕合御座候八
ッ時前迄モ不絶少々ツゝ震候間安心不出来表
住居モ何二侍居候御地江誰カ被仰付参候趣二
承候間表住居ニテ一筆相認候両歟風二変ラザ
ル内ハ油断不相成快晴候テ寒位之嵐二御座候
得ハ中々変之気色ハ無御座候当惑物二御座候
猶後便可得御意早々如斯御座候以上
三月廿五日暁八時認
丁未三月晦日松代藩人ヨリ之来書之内
上畧
然ハ別紙之趣信濃守ヨリ申越御咄二申上候
様申来候二付此段奉申上候以上
三月晦日
去ㇽ廿四日夜四ッ時前大黒天ノ絵認大抵出来
候テ未タ筆持居候処大地震ユリ出シ側ノアマ
り構不申候間其侭ニテ筆持居候処急二強ク相
成り内縁外障子共一同二倒レ候間其侭縁頬へ
出候処女中九十郎其外近習之者迄モ変事二付
錠口ヨリ参り奥之庭ヨリ表庭へ出畳敷カセ其
上二居候内二家老三奉行抔モ参り其処ニテ逢
候処へ寺田多宮モ出候二伜多門フセリ候上江
住居候処潰レ梁ノ下タ二相成瓦ヲハ子漸〃二
出シ候処少之怪我ニテ格別之事モ無之久保九
十郎伜極人モ少怪我致シ恩田頼母ノ伜モハリ
ノ下ヨリ引出シ候由其外家中一同無難町方二
テモ中町辺大方潰レ死人モ十八人程怪我人ハ
数不知其後モユリ通シ申候乍然初ノ程之事二
ハ無之候得共何分ニモう内二ハ入り兼皆庭二
今朝迄暮シ申候領分之事ハ未通路留り候処多
ク知レ兼候カ小松原村矢代宿ナト潰家多ク候
由善光寺モ大門町辺石堂ト申所ヨリ出火是モ
ユリ潰シ候ヨリノ出火其外諸所ヨリ出火今朝
二至り候テモイマタ火消不申只今八ッ時前二
候得共未焼ヶ居候由本堂山門ハ残り其外諸堂
社大勧進モ皆焼失開帳ニテ旅人殊ノ外多御座
候処大カタ死タトノ様子犀川モ何方ニテ山崩
シ候哉水参り不申足ノクロブシ上位ニテ渉り
候由只今二水出可申ト一統二恐レ其ノ近辺ノ
モノハ山江登り候由常ノ地震ト違ヒ時々山二
テ音致し大鉄炮ヲ発シ候様之音致候ト夫ヨリ
地震致シ候間若ヤ浅間ノ焼候二ハ無之哉ト存
候カイマタ知レ不申今日モマタ庭江出居申候
稲荷山モ皆焼候由当地ハ仕合二出火無之先ハ
少シク安心致シ候其地如何ト御安事候カ江戸
迄ノ地震トモ不被存候此方何レモ無難城内格
別之破損モ無之候間御安心可被下候上田辺ハ
如何カ不知飯山モ出火之由風説申候何事モ未
曾有之大地震初メテ逢申候今日ハ夢ノ様ニテ
居申候乍去不快モ無之必御安事被下間敷候其
地之事御安事申候下畧
三月廿五日昼後
猶々此上地震モ追々遠ク相成事ト存候京都
ノ地震ノ事ナト承居候間七日位ハかゝり可
申カモハヤ一統二用心申候間未々迄モ無難
ト存候快晴ニテ先仕合雨ニテハ一統難渋ノ
事ニテ候如此認候内二大地震一ユリ致シ候
ケシカラヌ事ト存候
四月三日松代藩ヨリ之書状
今以其後松城ノ便無御座犀川落着相知兼心
痛罷在候何卒能方へ流付候様仕度奉存候
四月七日或人ヨリ
松代家ニテ救方苦心被致焚出シ等厚ク世話
有之候由
甲府ヨリ之書状写
当三月善光寺開帳 甲府四十里 松本迄二日半路
善光寺惣門前ヨリ向之方ダラ〳〵下リニテ左
右共町家酒屋多此町余程長キヨシ買〆家ナ
トモ有之ト歟
三月廿四日子之刻頃ヨリ大地震右両頬町家一
度二倒其内八ヶ所ヨリ出火凡二万人程モ死亡
之由
一江戸ヨリ紅屋并下男一人召連商旁参詣二参
候処右之仕合灯ハ消上ヨリ天井ハ落探り〳〵
少明居候処ヲ漸々這出外江先出候処女一人
素裸ニテ立居是ハ風呂二入居候処逃出候
右ノ宿屋家内十人斗ハ可有之客六七十人
ニテ助り候モノ右ノ二人斗扨右紅屋下男
幸二胴巻二貯有之裸ニテ逃出古着一ッ調
甲府柳町ト申処二泊<割書:直二一御城下>委細物語り甲
府ヨリ咄承候
一甲府町家ヨリモ参候モノ三人有之今以不帰
候由其外猶可有之候
一同勤番之隠居二人参候是又今以帰不申風説
一越後ハ右二増候由山砕モ有之出水之由是ハ風
説ニテ然ルヤ否ヤ見及候モノニ不承候右ア
ラマシ申上候
四月八日着
未三月 四月朔日御用番戸田山城守様江左ノ
通御届被有之
私在所信州松代一昨廿四日亥刻頃ヨリ大地震
ニテ城内住居向櫓并囲等夥敷破損家中屋敷城
下町領分村々其外支配所潰家数多死失人夥敷
殊二村方二テハ出火モ有之其上山中筋山抜崩
犀川江押埋水湛追々致充満勿論流水一切無之
北国往還丹波島宿渡船場干上り二相成此上右
溢水押出シ方二寄如何様之変地モ難斗奉存候
且今以折々相震申候委細之義ハ追テ可申上候
得共先此段御届申上候以上
三月廿六日 真田信濃守
四月二日御届
私御代官所当分御預所越後国頸城郡村々去月
廿四日夜四ッ時頃ヨリ地震強度々ユリ返シ等
有之川浦村陣屋本陣長屋向柱クジケ壁等落損
シ所夥敷同村并最寄村々多分潰家等出来即死
人怪我人等モ有之由遠方村々ハ未届出不申候
得共同様之趣二相聞候間委細之儀ハ猶追テ可
申上候得共先此段御届申上候以上
未四月 小笠原信助
右之通御代官小笠原信助相届申候依之申上候
以上
未四月
四月七日
御勘定
金弐枚 直井倉之助
時服弐 宛 松村忠四郎
越後国信濃国村々地震二付泥水堤川除其外
破損之場所仕立見分為御用相勤候
右於御右筆部屋縁頬伊勢守申渡候土屋主膳正
侍座
三月廿四日夜九ッ時頃ヨリ大地震ニテ信州善
光寺本堂山門斗相残リ大勧進初坊中并町家不
残打壊シ其上出火二相成焼失善光寺町之内藤
屋平五郎ト申旅人宿二止宿罷成候旅人共凡六
百人余之内五百人程即死致シ同州稲荷山宿右
同様ニテ是又六百人余即死同州須坂飯山松城
右三城并城下共相崩同州水内郡山谷崩犀川山
津浪ニテ岩石押出シ渡船場平地同様二相成所
々弐尺程溝同様相成泥水吹出シ筑摩郡之分水
払底相成候由
右之通及承候間不取敢申上候以上
三月晦日
松平伊賀守様ヨリ御届
伊賀守領分信濃国去月廿四日亥刻頃ヨリ地震
ニテ更科郡之内稲荷山村上人家震潰右潰屋ヨ
リ出火一村荒増焼失仕人馬死亡等モ有之同廿
六日に至候テモ折々相震候旨在所役人共ヨリ
申越候委細之儀ハ追テ可申上候得共右稲荷山
村ハ宿坊之儀ニモ候間伊賀守在坂中二付先ッ
御届奉申上候以上
松平伊賀守家来
四月朔日 大島郡之助
松平丹波守様御届
一私在所信濃国松本去廿四日夜四ッ時頃ヨリ
地震強翌廿五日ヨリハ為指儀ハ無之間遠ク
相成候得共今以相止不申城内無別条侍屋敷
其外所々在町破損所御座候遠在之儀ハ未相
分兼候得共先此段御届申上候委細之儀ハ追
テ可申上候以上
三月廿六日 松平丹波守
真田候御家来ヨリ借受写
一去月廿八日迄在方ヨリ訴左之通
一死人千九百七十一にん 怪我人六百八十一人
一潰家三千九百七拾壱軒 御城下訴無之
一斃馬五十六疋 半潰家七拾壱軒
御高札場并堂宮其外社倉之郡村方申立不分
明二付取調除追テ取調可有之候且多分口上
訴ニテ都て増減可有御座候
右信濃守様御在所ヨリ荒増之旨申来候事最御
届ニテ未タ相成不申候
松代藩士書状三月晦日朝着
廿四日夜四ツ時火急之地震其内強ク相成遂二
如此大地震二逢候事無之故今二鎮り可申ト存
居候処誠二大事二相成迚モユリ潰シ可申ト覚
悟致シ家内丈諸共漸逃出シ候処先少々ハ弱メ
二相成先ハ潰レ不申二相済申候ユリ候内ハ唯
々ヒシ〳〵ト斗申音二テ外之事ハ一向二耳二入
不申偖落付候テ段々相改候処所々大破損先土
蔵二ヶ所共中ハ無難二候得共壁ハ一切用二立
不申庄屋モ皆壁等ハ用立不申長屋モ余程曲リ
去年建候塀ハ皆潰レ玄関ハ余程曲リ申候追々
ハ不残手入無之候テハ迚モ住居成申間敷候ザ
ット二十四両ハ手入二掛り可申候誠二ツマラ
ヌ災難二御座候乍去武器初道具ハ一切二損シ
無之先大悦致候其跡モ今日廿六日昼時迄モ一
向二止ス昼夜共雷ノコトク鳴候テハユリ申候
右故家二居候事惣テ不相成皆広庭裏等江野陣
ヲ張申候昨夜モ的場二止宿雨ハフリ誠二〳〵乞
食之体二テ御座候今日頃ハ諸方二テ仮小屋之
取拵二テ大騒二御座候第一之土蔵用立不申候
事故大切之品ハ皆庭又ハ裏江出シ置申候幕打
廻シ鎗長刀鉄炮等ヲ立置候事故陣屋ノ如クニ
相見江夜ハ高張ヲ燈シイカニモカマヒスシキ
殊二御座候迚モ今夜モ鎮り申間敷ト存候乍去
神仏共二惣テ損シ等無之大悦致候墓ハ一本ナ
シニタフレ申候何方之墓所モ一本モ立居候墓
ハ無之候日夜 御朱印ヲ首二懸夜中モ見回り
致候事二御座候先ハ手前之方ハ荒々如此二御
座候
御城ハ先格段之損モ無之恐悦奉存候 御上二
モ御奥之御庭得御立退被遊所役人其外へ桜之
馬場ニテ御賄等被下候事ニテ御座候地震之方
ハ右様二候得共犀川へ山中辺ヨリ一里斗之間
水ヲセキ留廿四日之夜ヨリ今日迄犀川江一水
モ水不参右二タゝエ水田野口押出シ又松本之
方ハ是モ右様二水湛へ満水之由コレハヲ之村
へ押出シ候由ニテ犀川千曲川両川只今ニモ強
水ト相成可申トテ 御上ニテモ開谷寺エ御立
退之御用意御供ハ皆揃居候事ニテ是又大騒キ
二御座候其外川中島寺尾赤坂岩野東福寺辺等
川辺之村々ハ御降流シ有之立退候様有之皆米
鍋等ヲ荷ヒ候テ皆神山虫歌山関屋川土手サイ
如山等皆江逃参申候紺屋町辺モ追々立退候ト
申事ニテ御座候是又右之中之一之変事二御座
候
廿四日夜四時之大地震ニテ所々ユリ潰シ候処
荒須イセ町八田之角店ヲ潰シ八田之庄屋八口
其外店々一切二用立不申住居成不申小市ミノ
屋増田店潰レ申候右ヨリ下江至り何軒ト申事
モ無之潰レ中町ハ上中町二立家三軒切皆潰レ
下中町七分通り潰レ西年寺真勝寺本堂潰レ長
国寺ハ潰レハ不致候得共本堂諸堂共二一切二
用立不申方丈 御位牌ヲ守護シ 御朱印ヲ以
テ明徳寺江立退申候偖カジ町潰家モ多ク有之
候忠次郎方ニテハ忠次郎夫婦二女子一人三人
一時二死去候由町内ニテ死人三拾四人程ト承
り申候是ハ即死之分其後何人死候哉未承り不
申梅寿院モ一番二潰レ女房即死二御座候偖又
村々二テハ潰家死人是又数不知右潰レ家ヨリ
出火にて十二三ヶ所出火ニテ中ニモ善光寺稲
荷山大火ニテ御座候善光寺ハ廿四日夜四ッ時
ヨリ廿六日暁未鎮リ不申善光寺ハ如来堂残り
候事ニテ跡大テイ焼申候本願寺大勧進焼失二
テ御使者等被下稲荷山モ昨夜迄焼申候両所共
人多ク死候様二承り申候〇柳沢一郎方<割書:西三中|平林村>
<割書:住|居>モ地震ニテ潰レ即二出火ト相成候間子供両
認老人一人即死ノ由気ノ毒二御座候其外ハ家
注ニテモ半潰レノモノ多御座候岩崎ニテモ半
潰レ迚モ用ニハ立不申候由時ノ鐘モ昨夜ヨリ
大英寺ニテ撞申候火ノ見鐘ツキ堂共大曲リ用
立不申候由〇内々ニテカジ町イセ町木長大英
寺墓所一見致候処唯々膽ヲ潰シ候事二テ小市
須田ガ潰家ノ家根ノ上ヲ通り候テノ往来二御
座候実二咄ヨリハ大変二御座候家中町家共一
人モ宅二居候モノ無之夜分ハ裏ノ方殊ノ外賑
々敷御座候高張ヲ押立候テ夜廻り等致シ候事
故夜ハ惣テ子ムリ候事無之候町家ハ人々二筵
ヲ敷行燈ヲ出シ扣居申候通町之夜店ヨリモ賑
々敷御座候其内ニハ地震ユリ来り候故高声二
テ万歳楽ト唱候事故唯々気モ失ヒ候程ノ事二
御座候定テ此跡ハ又々大雨可有之ト存候今日
モ模様致居申候此上二大出水ト相成候ハゝ如
何可有之哉甚以心配成物二御座候佐平治源左
衛門モ宅ユリ潰シ申候中々依手充等モ致兼候
事偖々コマリ入候事二御座候〇牧野氏モ宅并
土蔵大損ニテ御座候一町二テハ一番ノ損二御
座候関口氏之庄屋等ハ一向二損シ不申候偖々
スメヌモノニ御座候丈夫ノ処程損シ強ク御座
候先々荒増申入候早々其表ノ様子承り申度如
何ト案シ申候
三月廿六日附
四月四日付松代藩書状四月九日到着
此度当地以外ノ大地震先便誰迄早卒二申遣
候次第日増二大変ノ沙汰ノミ有之差向犀川
筋山抜ニテ大水ヲ留候事故大騒仕罷在候近
辺町共二十五以上六十以下ハ軒別二出候テ
防候儀如何此上落付可申哉此次第二寄テハ
跡々何ト相成候事哉地震ハトモ角済候跡々
之処只々気遣敷川中島ノ者ハ只今二山々へ
登り居候程ノ儀イツ片付可申カ追々稲作仕
付ノ時分定水一向二留り居候次第故皆々此
段ヲ憂候テ罷在候偖又右次第二付誰儀立帰
被 仰付帰宅ノ様子モ見届偖又領内之荒ヲ
モ一見仕先々宅之儀ハ勿論知行所等モ先々
死失等モ少ク先々大悦仕候中畧今朝ハ未明二
川留ノ場所一見仕候テ委敷帰府之上申上度
申罷出候右故帰府之御請モ認兼私ヨリ御請
申上置度之旨申聞置未明二出立仕候右之御
請乍恐家内一同難有仕合之段申聞候只今以
地震モ落付兼其上水留モイカニモ片付不申
故昼夜共諸人聊モ安堵之場合無御座候至テ」
闇候儀二御座候先ハ御請迄云云
四月四日昼時認
尚々段々承り候処実二咄二不相成不相成ト
申ハ山中方二御座候何レモ事ヨリハ咄之方
大変成物二御座候処此度ハ事之方大事二御
座候念仏寺村ト申候所臥雲院ト申寺御座候
本堂拾八間四面庫裏モ右二準シ山中ニハ珍
敷大地殊二寺モ宜寺ニテ此度巡見有之エハ
上々止宿ト歟相成寺二テ<割書:七不思議有之寺二|テ随分名髙キ寺二>
<割書:御座|候>地震ユリ出シ候ト即二本堂次第二地中江
ユリ込候故皆々逃出シ候処見候内二土中へ埋
り即二山抜右之堂庫裏共二何方エ参り候哉跡
片モ無之相成候由其外泥立ノ明照寺椿峯村高
楽寺抔モ右同様二土中江埋り候由百姓モ右様
二相成候分何軒モ有之候得共中々咄取ニモ及
兼認ニハ尚更相成兼候次第イカナル変事二御
座候哉此外山抜之様子等イカニモスメ不申候
抜方イカニモ天変ハ手ヲハナレ候事迚モ詳二
ハ不相成候得トモ余り成変事二御座候乍去家
注一人モ死失無御座候ハ実二幸二御座候既二
巡見前故竹内初諸役人皆見分二参り居候処二
テ大荒皆々漸逃帰り申候又此上之幸ト申ハ上
ニテ今頃ハ松代発足ト申日合之処右之大難ヲ
逃レ候ハ是亦第一之幸ト奉存候先々差急キ早
々申上候以上
四月四日附松代藩士書状 同十日朝到来
廿四日後モ最初之程ニハ無之幸得共強震モ
度々有之民屋等潰候儀モ有之昨今少々ツゝハ
薄ク相成候得共兎角未止乍去廿五日庭前江
苫屋根堀建仮住居補理起居被致候儀二テ都
テ別条ハ無之甚壮健ニテ被在之候間決テ御懸
念被成下間敷候最城内塀倒ハ場所モ有之住
居向震潰候程ニハ無之候得共多分之損ニ相
成候領内死失訴昨三日迄之凡調入御覧震候
別紙ニテ御承知可被成下候下畧
四月四日
別紙ヲ以震上候此表之様子荒増申上候猶其
余之儀ハ石川新八今タ出立帰座仕候間右之
者江御尋御承知可被成下候偖々委細二申上
度奉存候得共混雑其上取調方未̪聢不相分儀
二御座候此段申上候以上
四月五日
別紙
四月三日分
村々訴凡調申上 郡方
四月三日
一死人 七十八人
一怪我人 二十六人
但村方申立不分明二付追テ
再調之節相増可申哉奉存候
一幣馬三十一疋
一潰家二百十八軒
内十二軒潰之焼失
五十軒同 水入
一半潰家二百七十二軒
一御高札場并堂宮社倉蔵
土蔵物置類村方申立不
分明二付相除追而取調
可申上候
但多分口上申立二付都テ
増減可有御座奉存候
右之通村々訴取調如此御座候
先此段申上候以上
四月四日
或候文通之内
上畧
地震後人々漸ク安心ノ場二有之候得共イマ
タ地震止ミ兼申候イツレ二一ヶ月も歴不申
候テハ鎮定仕カ子可申ヤト被考候如何ニモ
領分変地犀川水山崩二テ五里外二湛へ其内
ニハ流レモ付可申候其節ノ防ナト種々ノ儀
共二有之候飯山カ第一͡コトニ火災ニテ城下
町大カタ焼払候町ニテ八百人ノ死失戸ト申
事家来為見二遣シ候処一里前ヨリ悪キ匂ヒ
ニテ鼻ヲ覆ヒテ見聞候処諸士以上六七十人
死失ト申事善光寺モ開帳カタ〳〵余程之事二
可有之幣邑中昨今迄訴出候分二千七百余人
<割書:タカタ二千八百|四人トナリ候>猶可有之哉嘆息之至二御座候犀川
湛水内ノ橋モ橋上二丈程遂二流失致シ以後
水中にニテ此道ハ絶可申事ト存申候下畧
四月四日
四月二日上州宝田宿 村名主重兵衛ヨリ届
当廿四日四ッ時頃地震初り信州善光寺之町
家不残倒レ焼失致シ当年ハ如来開帳之事故
諸国之人々群集致シ寺々町家江止宿致シ候
旅人并所之者多分死シフジ屋平左衛門ト申
宿屋二テハ其夜四百人余リモ泊り同行ヲ捨
親ヲ捨子ヲ捨路用金銀荷物ヲ捨ヨウ〳〵逃
出候者纔二二十人斗之由残り候者皆死シ候
由死人何万人ト申数不知大地へドロフキ出
シ丹波島藤川ノ渡シ大川水一水モ流不申水
留り川上地ヒゞキ致シ物スコク今二モ水来
り候ハゝ此辺一円水海ト成抔ト申喰物ヲ持
高山或ハ東西江逃走り此辺一人モ居候者ナ
シ如何成事二テ水留り候哉今二一切相分り
不申候是等神変不思議之事二御座候其外川
中島稲荷山篠ノ井追分不残家ツブレ須坂飯
山御城下不残焼失致シ候由松代御城損シ桜
之馬場ト申所江御立退被遊御城下不残家倒
レ其外七八里ノ間ハ在二不残家損シ死ル者
数不知其余ハ如何二相成候哉追分宿二ヲイ
テ新関同様ニテ往来ノ通行留メ一切通御座
ナク候故イマタ後々儀相分り不申候此儀ハ
当方松平左兵衛督様御領分名主蔵之助儀其
夜善光最正院ト申寺二止宿致シヨロ〳〵逃出
シ一命助り廿七日罷帰り咄承り荒増奉申上
候
一其外越後国高田今町是等ハ浪アレ候テ人家
倒レ人損シ候由風聞二御座候未タ通工無御
座候故実説相分不申候兎角未タ私共辺迄昼
夜二五六度ツゝユレ安心不仕候儀二御座候
三月廿九日
諏訪表ニテ近郡二差出候聞当之内抜書<割書:諸方ヨリ一御届其外>
<割書:同様ノ事一ハ省ク>
松本聞当書之内
一御領主様御玄関ニテ床机二御懸り被成御立
退二無御座候
一御城内御櫓高壁落申候
一御家中屋敷両三軒板敷天井等落候由其外壁
等損ハ所々二御座候潰家無御座候
一町家二テハ中町二土蔵潰一ヶ所有之其外家
居梁鴨居等差口離レ候故小屋住居致居候其
外土蔵建家壁損多分有之潰家無御座出火等
モ無御座候
一御城下并近村人馬怪我等無御座候八里程西
押野村ニテ地ワレ三軒ユリ込家根斗相見エ
申候
一松代様御領分犀川下新町ト申所上ニテ岩山
一里程崩レ水百六拾丈程湛エ此上百間程モ
湛候得ハ松本之湛可申哉最田々口吉原辺土
山二候得ハ多クハ此辺落口二可相成ト申噂
二御座候
一松本様御領分井出川上之上田之中所々泡吹
立竹筒等サシ呼火サシ候得ハ火燃上り申候
松代聞当書之内
一廿五日川中島犀川往還ヨリ四里程上虚
山崩一向水不参二付御見分トシテ御家老様
郡奉行様始諸役人足軽衆迄百人程御詰二候
ヨシ
三ッ水村 水内村 新町村 上條村 穂刈村
竹房村 川口村
右七ヶ村水中二相成候テ不相分候
一右御役人小市村二御詰日々五六千人程ツゝ
人足御遣被成候
一川中島犀川筋村々四拾ヶ村松代入口赤坂山
ト申所江小屋ヲ掛家内不残引越居御領主様
御赦被下候
一川中島筋二十二ヶ村稲荷山宿上名高山ト申
所へ引越居是又御赦被下候
一湛居候水稲荷山宿南二当り大沢有之右へ抜
候ハゝ上田様一万石松代様七万石之分流失
可致ト一同案シ候事
地震説
〇地震ハ其震動スル処広狭定りナク通例雷ノ如
キ轟声ヲ帯ヒ或ハ水火烈風ヲ吐発ス
〇大地ノ震動ト火山ノ吐火トハ其原因共二一二
シテ即チ硫黄硝石ナリ此二品ヲ夥ク含有スル
土地ハ必ス地震多シ蓋シ硫黄ノ気蒸発シ地中
ノ洞坑ヲ経過シテ竟二其穹蓋状ノ処二固有ス
ル事猶烟孔二煤ノ付着スルカ如シ是二於テ其
穹蓋状ノ処ヨリ発生セル天造ノ硝石其蒸気ト
混和シテ一種ノ燃気アル片塊ヲナスナリ此片
塊より火ヲ発スㇽ所由シアリ即チ火石ノ気蒸
発シテ自ラ焔ヲ発ス一ナリ地中ノ蒸気泡醸シ
テ其熱度恰モ火焔二類ス二ナリ土中ノ石流水
二洗浣セラレテ其処ヲ棄テ落下シテ他石ヲ撃
チ焱ヲ発シテ近傍ノ燃気アル片塊ヲ焼ク三ナ
り此一事起発スルトキハ恰モ火薬二点火スルカ
如ク燃火スル片塊急烈二飛散シテ地中ヲ鳴動
シ地面ヲ上揚シ其気ノ全ク排泄スルマテハ不
測ノ災害二致スナリ
〇火山ハ即チ地火ヲ排泄スルノ口ナリ故二地中
洞穴ノ火気各其通路ヲ経テ自由二其口二至り
是ヨリ漏洩スル片ハ大地震蕩スルノ患ナシ然
トキ火気ノ通路断絶スルカ或ハ狭小ナルトキハ火
気其処二欝滞シ強キ其通路ヲ開キ或ハ之ヲ潤
大二シテ火山ノ口ヨリ脱セントス是ハ於テ大
地震動シ火焔疾烈二発出スルナリ
火気暴二発出セントシテ大地ヲ震動スル者ハ
其震動遠境二達セス唯数里ノ外二達スルコト猶
火薬庫ノ焚焼砕飛スルニ於ルカ如シ此ヲ例へ
ル二「アトナ」山<割書:思斎里亜|島ノ火山>ヨリ箔吐火スルトキ 思斎里(シゝり)
亜(ア)<割書:地中海|ノ大嶋>全島震フト雖トモ三 四百時行程<割書:餡|>按二一時行程
<割書:ハ我半時行程二シテ一里半許二当ㇽ故二三四| 百時行程ハ四百五十里許ヨリ六百里許ノ間ヲ>
云ノ遠キ二達セス又「へシユヒウス」山<割書:意太里 亜|ノ「ナーブ>
<割書:ルス」国|二在り>二火気欝伏スルトキ其山側 及ヒ「ナープル
ス」<割書:意太里亜|ノ国名>ハ震フト雖トモ「アル ベン」山<割書:仏郎察独|乙都意太>
<割書:里亜三大国|ノ間二在り>仏郎察(フランス) 其地遠隔ノ地ハサルカ如シ
〇地震遠境絶域二達シテ毫モ吐火ヲ視サル者ア
リ之ヲ例スルニ当テ 英吉利(イキリス)仏郎察(フランス)和蘭 独乙都(ドイツ)
翁加利亜ノ諸国一斎二震ヒシカ如シ此ノ如キ
者ハ多クハ南北ヲ径行シテ東西ヲ歴過セス千
七百五十五年<割書:宝暦|五年>第十一月一日「リツサホン」<割書:波爾|杜厇>
<割書:弄ノ|都>ヲ荒蕪スル者ハ北ヨリシテ南スルコト英吉
利ノ里数ニテ二千五百里<割書:按二我千二|百五十里許>ナリト云
其始メハ臥児狼徳(クㇽーランド)二起り南シテ「チリニテ」「ヘル
ロ」<割書:共二思可斎亜|二属スル小島>等ノ諸島 思可斎亜(シコーシア)ノ西方亜諸島
英吉利ノ南西及ヒ意而蘭土(イ―ㇽラント)ヲ歴過シ進ンテ波
爾杜瓦爾(ポㇽトカㇽ)全国 伊斯把儞亜(イスハ二ア)ノ一端ヲ震ヒ亜仏利
加二至テ震動殊二甚シク仏沙馬邏可(ヘスマロツユ)<割書:共二巴爾|巴里亜ノ>
<割書:同|畧>ヲ径テ終二大南海二入レり
〇震動ノ度一国ノ内二於テ強弱アルハ其地火山
二遠近スルニ因ㇽ
〇千六百九十三年<割書:元禄|六年> 思斎里亜(シゝリア)ノ「カタ子ア」府大
二震フ其震動思斎里亜全島二達スルノミナラ
ス尚且ツ「ナーフルス」 <割書:意太里亜|ノ国名>「マルタ」<割書:地中海|ノ島>二
及ヘリ「カタ子ア」ノ近傍ハ人皆眩暈匍匐スㇽ
二身体ノ動揺スルコト尚大浪ノ進退スルカ如ク
地面入裂シテ水柱送出シ山嶽崩壊シテ岩倉降
下シ海上震動怒号シ「アトナ」山<割書:思斎亜|ノ火山>火焔ヲ
雨フラシ其鳴動恰モ雷霆ノ如ク五十四ノ府材
盡ク崩倒壊破シ思斎里亜全島ノ死人六万員其
中「カタ子ア」府ノ人民一万八千員二及ヘリ
〇千七百四十六年<割書:延宝|三年> 孛露(べりユー)<割書:南亜墨利|加ノ大国>ノ「リマ」府「カ
ラヲ」府大二震フ「カラヲ」ノ宮殿屋宅ハ城楼ヲ
除クノ外盡ク海中二没シ士民皆溺ㇽ澳港二泊
スル二十五隻ノ大船其四隻ハ一時行程<割書:我一里|半許>
ヲ隔ツル陸地二投擲セラレ其余ハ盡ク大浪ノ
中二没セリ「リマ」府ハ頗ㇽ巨大ナリト雖モ屋宅
ノ崩倒せサル者唯二十七戸死傷枚挙二遑アラ
ス中二就テ僧尼多士トス是レ寺院ノ製造廊
大高隆ナル二因ㇽ者ナリ但シし震動ノ時間ノ纔
二十五分時<割書:按二一日ヲ千四百四十分トナスノ|十五分時即チ一日九十六刻ノ一刻>
<割書:二当|ㇽ>二過キスト云
〇千七百五十五年<割書:宝暦|五年>波爾杜儞ラ首トシテ其
隣国大二震フ是レ火気ノ発生スル処深ク地下
二在りシ故ナラン「オホルト」<割書:波爾瓦|儞ノ府名>ノ家屋皆
崩倒シテ其声雷ノ如ク河水彼此二移動スルコト
六丈許柵外二在りシ二大船海水ノ為二柵及ヒ
陸地ヲ越ヘテ遥二川中二当擲セラレタリ「マチ
りット」「セヒレㇽ」「カヂキス」<割書:以上共二伊斯|把你亜ノ府名>モ又災害
ヲ受ㇽコト此ノ如シ「カヂキス」府二テハ波濤高サ
六七尺二シテ府ノ西方二在ㇽ岩石ト城外ノ土
塁トニ衝当シ遂二土塁ヲ越ヘテ市中二激流ス
ㇽコト四町許是カ為二人民多ク溺レ「りッサボン」<割書:波|儞>
<割書:杜瓦甫|ノ都>ニテハ初次ノ震動ハ唯八分時<割書:我半|刻余>二過
キスト雖トモ華麗廊大加本ノ火ノ大第宅街屋皆崩
倒シ手瓦石ノ下二そう葬ラㇽゝ者五万人余二及へ
り其後十五分時<割書:我一|刻>許二シテ震動複々発シ其
激烈ンナルコト初メニ劣ラス地面大二破裂シテ街
市地中二埋没シ其破裂ノ処ヨリ火水或ハ煙ヲ
吐出シ河水ハ直正二上下スルコト一二尺「ターダ」
<割書:波爾吐瓦|儞ノ河名>河辺ノ大船其水ノ低昴ノ為二沈没シ
或ハ河岸屋宅ノ崩倒二誘ハレテ相共二水中二
入セリ此外波爾吐瓦儞ノ国中皆此禍災ヲ蒙ラ
サルハナシ「ハレイヱン」府ニテハ大山破壊シテ
岩石転下シ「ハロ」府ニテハ瓦石ノ下ニ死スル者
三千人余二及ヒ「マルラガ」「ポルトステマリヤ」「シ
ントユサル」ノ諸府ハ其屋宅過半破損ス此震動」
ハ伊斯把儞亜(イスハ二ア)波爾吐瓦儞(ホルトガル)ノ南岸ヨリ起り海中
二入テ亜仏利加(アフリカ)二至り「アルギノル」<割書:巴尓巴里|亜ノ国名>ノ
都府澳港 巴儞巴里亜(バルバリヤ)海岸ノ諸府ヲ過半破壊セ
リ
〇ペテルスビコルグ<割書:魯西亜|ノ都>ノ学校ノ長「ロモノソム」
<割書:人|名>ハ千七百五十八年<割書:宝暦|八年>二地震二因テ金類生
産スルノ理ヲ示ス其言二曰地か二ハ硫黄ノ気
充満シテ甚大ノ熱度ヲ醸シ遂二焔ヲ発シテ火
山ヲ成スコトハ其証亮然タリ其地中ノ火気一タ
ヒ開塞シテ其通路ヲ失フトキハ火気増進スㇽ二
随ヒ其弾カ猛烈ニシテ竟二地震ヲ起発シ其震
動二因て地中二許多ノ洞穴ヲ造り其洞穴ノ中
二於テ草木ノ塩気ト土類ト混和シ火二遭テ其
質忽チ金類二変シ胳平板ノ二状ヲナスナリト
〇認巧ヲ以テ地震ヲ造為スル法鉄屑硫黄各二十
斤ヲ取り少許ノ水ヲ注入シテ堅キ蒸餅母ノ椆
二練り地下ニ三尺ノ処二埋メ六七時<割書:我三時ヨ|り三時半>
<割書:二至|ㇽ>ヲ径レハ其地面震動破裂シ黒煙猛火ヲ発
生ス<割書:按二此説含密開宗二載|ㇽ人為地震ノ説二同シ>
〇抻與図識補二曰大火脈其根ヲ加模沙都加二
発シ「キュㇽリセ」諸島ヲ径テ 本邦二至り非利皮
那諸島ヲ貫通メ遂二新和蘭二至りテ止ム又小
火脈其源ハ 大日本中州ヨリ発シ瑪利亜那諸
嶋ヲ径テ震為匿亜ノ東岸二達シ遂二新則蘭土
二向テ走ㇽ
〇同書二曰地震ノ発スㇽヤ或ハ山国二発スルコト
アリト雖モ多クハ火山ノ近傍諸州二在り其起
源ノ理会ヲ詳二セシコト甚多難シ然共窮理家ノ
説二曰地震ノ発スルハ先ッ地下ノ伏道<割書:即チ|大脈>二
アル水素欝伏ノ熱灼ノ気ヲ生スルヲ以テ常二
火気ヲ得テ発燄セントス此時二丁テ大気透入
スルトキは直チ二炎燄トナル然レトモ其上二大地
アルヲ以テ其抗力ヲ逞スルコト能ハス是ヲ以テ
遂二其近地二地震ヲ発ス但其火脈ヲ大小大気
ノ多少トニ従テ震揺ノ軽重アリ又或ハ其大道
海底二通スルトキハ大二海嘯ヲ発スルコトアリ一
説二曰伏道中二天然二硝石硫黄炭等ノ気ヲ生シ
欝伏燃灼スル所へ清気透入スレハ即チ一種ノ
欝声ヲ発しシ大二栃ヲ震揺スト云
【表紙】
【ラベル】
┌─────┐
│8│ │ │
│0│ │1│
│8│ │ │
└─────┘
【題簽】
┌───────────┐
│ 三十三間堂地震風損 │
└───────────┘
【白紙】
【内表紙】
「【貼り紙、異筆】『十五ノ十七 第二棚』
【ラベル】
┌─────┐
│8│ │ │
│0│ │1│
安政二卯年ゟ │8│ │ │
同五午年迄 └─────┘
三十三間堂地震風損
㊞【印面「鞘番所」】」
【白紙】
【朱丸印】「東京府図書館」【朱角印】「旧幕引継書」
安政二卯年ゟ
同午年ニ至ル
三十三間堂地震風損一件
【朱書】
「安政二卯年七月廿九日太郎助持参竹村慈左衛門ヲ以上ル」
┌────
│
│ 三十三間堂損所出来仕候義申上候書付
│ 御届 本所見廻
└────
昨廿七日之大風雨ニ而深川三十三間堂
向拝廻り其外損所出来
御神像之儀者堂守宅へ持退候段
鹿塩道菅届出候間罷越見分仕候処
堂内陣之邊ゟ左右江凡三十間余
箱棟吹落シ幷西側家根棟際ゟ
軒先迄平瓦野地母屋共吹落シ 候【以上1文字見消】
屋根【以上2文字見消】内陣【以上2文字追加】天井廻り其外共破損母屋とも【以上4文字見消】仕候尤惣体【以上5文字追加】
曲ミ等者出来不申右損所之外南北
拾四五間宛者無難ニ御座候間右場所
之内見積り
御神像仮ニ遷し申度且吹崩し候
屋根廻り之内未タ落懸り候瓦木品等
有之危く候間早々取片付方仕度旨
道菅申立候右者差懸候義ニ付
片付人足手當方之儀者直ニ申付置候
尤仮向拝取繕方并家根廻り雨除
仮養ひ入用等之儀者取調尚相伺候様
可仕候依之申上候以上
七月廿九日 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
乍恐以書付御訴奉申上候
深川三拾三間堂守鹿塩道菅奉申上候昨廿六日
夜辰巳ゟ大風雨ニ而罷在處本明六ツ時右御堂之
内陣上箱棟ゟ左右南北凡長三拾六間程箱棟ゟ
平瓦一体野地迄不残吹落尤御神像之義は
御別条無御座堂守方江御守奉申上候且左右観世音
之義は殊之外損候得共取集是又堂守方え
御守申上候依之此段御訴奉申上候以上
安政二卯年七月廿七日 右堂守
鹿塩 道菅
本所
御掛り様
【朱書】
「卯八月朔日持田太郎助持参竹村慈左衛門上候処右
書面之趣宜候旨同人ヲ以被仰聞候」
┌──
│ 深川三十三間堂起立之外取調申上候書付
│ 本所見廻
└──
深川三十三間堂ニ安置有之候
御神像取扱方之義堂守鹿塩道菅え
相尋候処別紙之通申立候付右堂
起立書共相添此段申上候以上
八月朔日 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
乍恐以書付奉申上候
一 深川三十三間堂守鹿塩道菅奉申上候右御堂
建直し又者御修復之砌御安置有之候
御神像ヲ仮御拝殿江御守奉申上候時ニ
寺社奉行所江御訴致候哉且
御神像ヲ奉扱候手続御尋ニ付奉申上候
廿三ヶ年以前天保四巳年八月朔日大風雨ニ而
御堂長三拾間程吹崩候ニ付早速堂守方ゟ
一同欠附
御神像ヲ者堂守方江御守奉申上御別条
無之段榊原主計頭様御勤役中御訴奉申上
其後仮御拝殿御普請同所江御遷奉申上
其後本堂御普請出来申上御遷座共
堂守方ニ而奉扱右之段も堂守方ゟ町
御奉行所江御訴奉申上候迄之義ニ而寺社
御奉行所江者何事ニ不限古来ゟ御訴仕候
義無御座候文政十一子年三月中堂御普請出来
之砌私ゟ芝増上寺江御法楽之義相願為名代
深川雲光院罷越御法楽相勤其後堂御普
請等之節前書同様之手続ニ而御法楽相勤申候
且毎年四月御祭礼之節増上寺為名代深川
永代寺住持又ハ名代等罷越御法楽相勤候義ニ御座候
右御法楽之砌寺社御奉行所御届有無之義同寺ゟ
承り合候處是迄御届等致候義無御座候旨右役者
功徳院申聞候右御尋ニ付此段奉申上候以上
卯八月朔日 右堂守
鹿塩 道菅
本所
御掛り様
乍恐以書付奉申上候
一 深川三拾三間堂守鹿塩道菅奉申上候先年
御開扉之義に付御月番南御奉行所え御訴致候段
御尋に付奉申上候
一 嘉永六丑年三月四日殿御方様歟御参詣之趣には
御座候得共永代寺ゟ私え沙汰無之代僧罷越壱人に而
御関【「開」カ】扉致候段先例に御座なく候に付同寺え掛合
候得共行届不申候に付無餘義御訴奉申上候得者直様
東條八太郎様御掛りに而御調御座候然る処御町
名主熊井理左衛門江取扱被 仰付双方熟談之上以来
御開扉之節者双方立合之上御開扉可致様取極
右御調之廉御下ヶ奉願上候右御尋に付此段奉申上候以上
右堂守
卯八月朔日 鹿塩道菅
深川三十三間堂起立書写
卯
七月
深川三拾三間堂起立由緒書
三拾三間堂起立由緒書
一元来三十三間堂之儀は寛永十九
午年於浅草 天海大僧正様被遊
【右】
御発起松平伊賀守様御吹挙に而同年
十一月廿三日従
御公儀様堂屋敷地面私先祖久右衛門并
新両替町弓師備後と申者拝領
取建被 仰付 天海大僧正様
御当家様御武運御長久諸武家
【左】
弓矢之道退転無之様厚思召を以
諸家勧金仕候而三十三間堂造立仕候様
先祖久右衛門并備後え被 仰付御堂
御造立之上は射芸道場之鎮守と
可奉 仰且
御神像之御武徳を為奉
【右】
輝弓矢之神に 南光坊様御寄附
被遊候 僧正様仰には御仏門に候而
観音台御寄附被遊候而と被仰御金五百両
先祖久右衛門え頂戴被 仰付末代迄も
退転無之様にと蒙仰候段先祖ゟ
代々申伝候尤先祖ゟ私に至七代
【左】
相続仕候
御神像 御影 御甲冑被為
着マンチラ【満智羅】御陣羽織を被為 召
御弓矢御携白馬被為 乗候
御冑御胸金葵御紋 御羽織にも
同御紋散し 御服御後ろ共に五つ
【右】
被為 付候右
御神像三十三間堂え奉 安置代々
御守仕候備後儀も諸御武家様方
勧金取集に付不埒有之候間同廿一【日(見せ消ち)】
申年御訴訟申上候処同年十一月二日
先祖久右衛門并備後一同 御評定所え
【左】
被 召出松平伊賀守様松平出雲守様
安藤右京進様朝倉石見守様御列座
に而堂屋敷共永代久右衛門え拝領被
仰付候間難有堂守仕候様被 仰渡
備後義は追放被 仰付候其節
先祖久右衛門え 御老中様方重き
御意共有之為冥加其節ゟ
御老中様方若御年寄様方え
些少之品差上年始年暮暑寒之
御礼只今に至相勤申候右堂年数
相立及大破候間明暦元未年神尾
備前守様石谷将監様え御堂御修復
向御願申上候処御国持御大名様方并
万石以上之御譜代様方え勧金仕
御修復仕候様被 仰付従
御公儀様御書付可被下置旨被
仰渡候処同三酉年大火事に付御大名様方
勧金之儀難申立差扣候処同十一月
【右】
四日御評定所え被 召出其侭打捨
可被遊 御置御堂には無之段被仰渡
為御修復銀子百貫目拝領被 仰付
阿部豊後守様松平出雲守様神尾
備前守様石谷将監様御立合に而
御書付頂戴仕候而御修復出来仕候
【左】
一寛文十戌年六月二日御修復之節渡辺
大隅守様え御願申上候処段々御吟味之上
同年八月廿一日御評定所え被 召出久世
大和守様御掛りに而為御修復料金千両
御公儀様ゟ被下置候間難有頂戴仕候様
被仰渡候
【右項】
右之通御座候
三十三間堂守
鹿塩道菅
本所
御掛り様
【左項】
【朱書】
「 嘉永七酉年七月中寺社奉行与■■掛合書■■■
卯八月八日〇天保【六年未年五月廿九日柳原主計頭殿ゟ堂建継修復 見せ消ち】
【加賀守殿へ■■■伺書并同 見せ消ち】七申年四月十六日入仏供養養之義申
上其写相添加藤又左衛門殿持参竹村慈左衛門を以上ル
同八月十四日伺之通伝吉へ受負可申付旨被仰渡候間承付返し同十六日
又左衛門持参竹村慈左衛門を以返上」 鰭付 年寄
町年寄
末ニ認
三十三間堂【風損に付 見せ消ち】仮向拝取繕
入用之儀奉伺候書付
書面伺之通伝吉え仮向拝受負
可申付旨被仰渡奉承知候
卯八月十四日 本所見廻
深川三十三間堂風損に付別紙絵図面之
場所え仮向拝取繕之儀霊岸嶋川口町
【右】
家持伝吉え入用積り方申付候処一式
金拾五両【四両三分 見せ消ち】銀六匁【銀四匁 見せ消ち】相懸り候旨仕様内訳帳
差出不相当之義も相見【聞 見せ消ち】不申候間同人え
受負可被 仰付候哉依之別紙并絵
図面相添此段奉伺候
本文入用出方之儀先年堂守
【左】
鹿塩道菅先代之もの修復料として
御貸付相頼町年寄取扱候利金溜り
之内ゟ御渡相成申候且風損に而落
散候木品其外取片付之儀は去る【昨 見せ消ち】五日ゟ
取懸り申候尤堂修復之儀は入用
取調出来次第相伺可申候得共差向
【右項】
本文之廉早々御下知御座候様仕度
奉存候
以上
八月八【六 見せ消ち】日
加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【左項】
鰭付【相済 横に付記】卯八月十日に而候
書面御入用之儀追而御沙汰次第
相渡可申候
卯八月 喜多村彦左衛門
書面三拾三間堂仮向拝差繕之儀
本所見廻伺之通被仰付可然哉に
奉存候
卯八月 年番
三拾三間堂御仮殿仕様帳
卯
八月
三十三間堂御仮殿仕様
一御仮殿 壱ヶ所
但堂書南之方ゟ二部屋目之間に仕付
前之方左右入口弐枚開
右仕様柱杉長弐間太三寸五分角壱間間之建羽目
板杉四分板巾壱尺羽重ね打致天井板廻り同板
に而竿縁杉小割に而仕付廻り縁松弐寸角に而打付
御上段之間床か板杉壱寸板に而丈夫に張立縁側
前之方上り段其外場所に相掛り候を相用御厨子
根太板三寸五分角仕付板割に而張立羽目左右
入口三尺弐ヶ所附向拝前之方琉球畳拾弐
畳高麗縁付にして新規并拾壱枚薄縁共同表
同縁に而敷詰尤別紙絵図面之通り麁末之
儀無之様仕立可申事
但御用済之上木品其外惣躰請負人方え
引取候積り
卯
八月
三拾三間堂御仮殿御入用内訳帳
卯
八月
三十三間堂御仮殿御入用内訳
一 杉拾五本 長弐間 大サ三寸五分角 御仮殿羽目柱
代銀六拾匁 但壱本 銀四匁
一 杉四分板弐百九拾六枚 長六尺 巾壱尺 羽目板并天井板
開戸
代銀弐百三拾六匁八分 但壱枚 銀八分
一 同七拾本 長弐間 壱寸角 天井竿縁并釣
木其外
【右項】
代銀五拾弐匁五分 但壱本
銀七分五厘
一 松拾本 長弐間 弐寸角 同廻り縁其外
代銀六匁 但壱本
銀六分
一 杉六拾六枚 長弐間 巾三寸 羽目通し貫
厚五分 其外
代銀弐拾六匁四分 但壱枚
銀四分
一 杉弐本 長壱丈四尺 三寸五分角 開戸弐枚框木
【左項】
代銀九匁 但壱本
銀四匁五分
一 同九枚 長弐間 巾九寸 御上段之間床
厚壱寸 部板其外
代銀三拾壱匁五分 但壱枚
銀三匁五分
一 地剥戸弐枚
代銀拾壱匁 但壱枚
銀五匁五分
材木
〆銀四百三拾三匁弐分
【右項】
一 琉球畳高麗縁付拾弐畳
代銀壱百八匁 但壱畳
銀九匁
一 琉球表同縁に而薄縁拾壱枚
代銀五拾弐匁八分 但壱枚
銀四匁八分
一 釘銯品々并■坪【註】共一式
代銀九十九拾三匁
【左項】
一 大工六拾五人
代銀弐百六拾匁 但壱人
銀四匁
一 鳶人足拾八人
代銀五拾四匁 但壱人
銀三匁
一 運送賃一式
代銀参拾匁
【註 肘坪または肘壺は寺社金物の蝶番のこと。ここでは肘に金扁が付けられている。】
諸方
〆銀五百九拾七匁八分
弐口〆銀壱貫三拾壱匁
此金拾七両銀拾壱匁
内 金弐両銀拾匁
是は御用済之上木口其外引取直段御座候
差引〆金壱五両銀壱匁
右之通御入用積り立奉差上候若相違之儀も
御座候はゝ仕直可奉差上候以上
卯八月
霊岸嶋川口帳町
家持
伝吉
安政二卯年八月十八日 霊岸嶋川口町
対馬守殿於御日例 家持
被仰渡 伝吉
其方儀深川三十三間堂仮向拝
取繕入用金拾五両銀壱匁にて
受負申付候間仕様帳之通無相違
【右項】
入念早々取繕【修復 見せ消ち】可致
右
右之通申渡候間其旨可致 五人組
名 主
卯八月
手形本文略之
右之通被仰渡奉畏候依如件
安政二卯年八月十八日 右 伝 吉 印
五人組与兵衛 印
名主将七煩に付代
金之助 印
【左項】
卯八月廿三日御役所へ加藤又左衛門持参用人竹村慈左衛門を以上る
三十三間堂仮向拝取繕出来仕候儀申上候書付
御届 本所見廻
深川三十三間堂風破に付堂内え仮向拝
取繕之儀当月十九日ゟ取懸り昨【仝見せ消ち】日迄に
出来仕候間私共見分仕候処仕様帳之通
【右項】
無相違出来仕候依之申上候以上
八月廿三日 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【左項】
安政二卯年八月廿六日御役所へ加藤又左衛門持参内訳帳相添
対馬守殿へ用人竹村慈左衛門差上る
九月朔日喜多村彦右衛門ゟ伝吉呼出し加入用下渡候
三十三間堂損所取片付候入用御下ケ之儀申上候書付
年番
町年寄え御断 本所見廻
一金七両壱分銀三匁五分
右は深川三十三間堂先月廿七日
大風雨に而屋根其外損所出来仕候に付
大工人足屋根方等手配仕吹散候木品
為撰分追而可用立分取片付申付候
入用別紙内訳帳之通相懸り候に付
書面之金銀霊岸嶋川口町家持伝吉え
相渡候様年寄町年寄え被仰渡可
被下候依之申上候以上
卯八月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
卯八月廿六日入用下ケ申可添上候
三十三間堂古木仕訳方御入用内訳帳
卯
八月
三拾三間堂古木仕分方御入用内訳
一 大工拾壱人
代銀四拾四匁 但壱人銀四匁
一 家根方三拾三人
代銀弐百拾四匁五分 但壱人銀六匁五分
一 鳶人足六拾人
【右項】
代銀百八拾匁 但壱人銀参匁
銀四百三拾八匁五分
此金七両壱分銀三匁五分
右之通御入用相懸り候間此段奉申上候以上
八月十七日 霊岸嶋川口町
家持
伝吉
【左項】
拙者儀何之存寄無御座候
卯八月 播磨守
対馬守殿え返却もの
深川三十三間堂風破修復之儀奉伺候書付
右修復仕様内訳帳并絵図
卯
八月 本所見廻
安政二卯年八月廿六日御役所へ加藤又左衛門持参仕様内訳帳相添
対馬守殿へ用人竹村慈左衛門差上る 書面三十三間風破修復
之義本所見廻伺之通被仰渡
可然哉奉存候
卯九月 年番
播磨守殿え御相談被為【被入?】
深川三十三間堂風破修復之儀奉伺候書付
書面伺之通伝吉え修復受負
可申付旨被仰渡奉承知候
卯九月九日 本所見廻
深川三十三間堂当七月廿七日大風雨に而
屋根廻り其外破損仕候間御見分御座候処
【右項】
右修復之義堂守鹿塩道菅願出候間
巨細に見分取調候処堂向拝ゟ右左え
凡四拾間程屋根箱棟西之方え吹倒れ
母屋桁垂木軒先平瓦迄落散
内陣天井板羽目其外破損に付右
修復之儀可成丈ヶ古木屋根板共
【左項】
相用全不足之分仕足都而不益之儀
無之様省略吟味仕諸入用積方之儀
霊岸嶋川口町家持伝吉え申付候処
一式入用金四百八拾両銀九分
相懸り候旨別紙内訳帳差出候間引方
之義再応相糺候処精々減方仕積り
立候義に而此上引方無御座候旨申立
前々入用に見合取調候処不相当之
廉も相見え不申候間右直段を以
伝吉え受負可被 仰付候哉依之
仕様内訳帳并絵図相添此段奉伺候
一 本文堂破損之場所修復取懸り迄
雨除之義取調可相伺処母屋桁等も
無之且は場広之儀故何様手軽に
取付候而も余程之入用相懸り二重之
失費不益と奉存候間別段雨除等
仕付不申候右に付此上【挿入 雨天等に而】雨漏【に而に○印で見え消ち】内廻り
朽腐出来候得は修復手重に相成
【右項】
其侭難差置候間早々御下知御座候様仕度
奉存候
一右入用出方之儀は先年堂守鹿塩道菅
先代之もの小破修復料として御貸附相願
町年寄方に而取扱候利金溜り之内より
御渡相成申候
以上 加藤又左衛門
卯八月 中村八郎左衛門
【左項】
卯八月廿六日伺書添上ル
三拾三間堂屋根其外損所修復仕様帳
卯八月
三拾三間堂家根其外損所修復仕様
一 三拾三間堂
行桁柱中墨田舎間六拾四間五尺三寸九分
梁間四間弐尺
棟高さ三丈八尺
堂間数三拾五間
内
中間三間は壱丈弐尺五寸七分宛
左右三拾弐間は壱丈九寸九分宛
【右項】
右仕様向拝家根後西側四拾間余風破に付
茅負木松新木長弐間大さ六寸角に而五分通り
仕足裏甲板用木長弐間巾壱尺弐寸厚三寸に弐寸
七分通り新木軒先裏板巾壱尺松四分板打立
野垂木松長弐間大さ弐寸五分角八分通新木取替
小舞貫新木杉長弐間三寸貫に而八分通り打立
【左項】
化粧垂木松長弐間大さ五寸角に而三分通り仕付
母屋桁栂新木長弐間大さ六寸角四分通り仕足
押縁松長弐間巾四寸厚八分惣⁀躰新木軒先
通り高下直し家根土居葺四百五坪之内古家根
板六拾坪相用其餘新板に而壱寸四分足に葺立
瓦桟松長弐間大さ弐寸角新木打付家根瓦九分
【右項】
通新規仕足丈夫に葺立其外棟際両妻
破風下軒先家根共損之所取繕家根漆喰
弐遍通丈夫塗立可申候
一 向拝之間天井板惣躰杉四分板長六尺巾壱尺
廻縁樅長弐間巾三寸厚二寸竿縁同木長弐間
厚壱寸五分巾弐寸壱尺間に打付都而元形之通り
【左項】
入念丈夫に張立可申候
一 御神前内其外共惣体壁損候に付荒壁中
塗上塗白土共元形之通り入念塗立可申候
一 大棟挟柱帯折損候に付新木杉長弐間大さ四寸
角に而仕足其外有来り木品相用側板杉長弐間
巾九寸厚壱寸板に而五分通新木取替其外杉大貫
【右項】
に而取繕都而元形之通り仕付尤惣体棟通り
高下直致可申候
一 堂西側中程軒先化粧垂木四拾本銅板
五分通り取れ損候分新規銅板壱枚百目付に而丈夫に
張立其外増鋲打堅め可申候
一 家根小屋廻り梁間柄え挟候筋違貫杉丸太
【左項】
長三間末口三寸弐ツ割〆長五寸欠折釘に而入念
丈夫に相付可申候
一 堂其外損之所有之候はゝ惣体釘〆取繕都而
元形之通り赤渋塗致可申候
一 表門 大さ 横壱丈壱尺 壱ケ所
高さ壱丈五尺
【右項】
右仕様惣体朽腐候に付柱弐本栂新木削り立
長壱丈五尺見附壱尺壱寸厚九寸附間草同木長
壱丈壱尺巾四寸厚三寸五分地覆同木長壱丈壱寸
巾五寸五分厚四寸五分扣柱栗長壱丈五尺削り立
七寸五分角扣貫栂長壱間巾七寸厚弐寸五分両扉
同木竪框長壱丈壱尺削り立巾五寸厚三寸五分
【左項】
横框同木長五尺巾厚同断扉板杉赤身長弐間
巾四寸厚八分惣体新木打付其外は有来相用
渋墨塗致柱下地形仕直都而元形之通り入念
丈夫に仕付敷石損之所取繕致可申候
右材木釘銯大工鳶人足家根方并左官瓦方
手伝人足其外諸色足代竹木運送賃下代
小遣人足茶炭共一式請切之積り【御に○印で見え消ち】入用
積り立可申候但御急に付晴天六十日限り
仕立可申候事
卯
八月
三拾三間堂家根其外損所御修復御入用内訳帳
卯
八月
三拾三間堂家根其外損所御修復御入用内訳
一 杉拾本 長弐間 六寸角 茅負木板
代銀百四拾四匁 但壱本に付
銀拾四匁四分
一 同拾四枚 長同断 巾壱尺弐寸 裏甲板
厚三寸に弐寸
代銀百六拾八匁 但壱枚に付
銀拾弐匁
一 同板七百三拾枚 長六尺 巾壱尺 軒先裏板
厚四分 向拝天井板
其外取繕遣
【右項】
但壱枚
代銀五百八拾四匁 銀八分
一 松四百八拾本長弐間 弐寸五分角 野地垂木
但壱本
代銀五百七拾六匁 銀壱匁弐分
一 同六拾本 長弐間 五寸角 化粧垂木
但壱本
代銀七百五拾匁 銀拾弐匁五分
一 杉千九百弐拾挺 長同断 三寸貫 小舞貫
其外に遣
【左項】
代銀五百七拾六匁 但壱挺
銀三分
一 同六拾挺 長同断 巾四寸 同家根押縁
厚八分 其外に遣
但壱挺
代銀七拾弐匁 銀壱匁弐分
一 松弐拾本 長同断 弐寸角 瓦桟其外遣
但壱本
代銀拾弐匁 銀六分
一 杉四拾本 長同断 四寸角 大棟梜柱遣
【右項】
但壱本
代銀百八拾匁 銀四匁五分
一 杉八拾枚 長弐間 巾九寸
厚壱寸 大棟側板
但壱枚
代銀弐百八拾匁 銀三匁五分
一 樅五拾弐本 長同断 巾弐寸
厚壱寸五分 向拝天井竿
縁に遣
但壱本
代銀百四匁 銀弐匁
一 同九本 長同断 巾三寸
厚二寸 同廻り縁
【左項】
但壱本
代銀弐拾七匁 銀三匁
一 栂四拾本 長同断 六寸角 母屋桁遣
但壱本
代銀六百匁 銀拾五匁
一 杉丸太三拾三本 長三間 表三寸 小屋廻り梁間
但壱本 柄挟候筋違遣
代銀百六拾五匁 銀五匁
削立
一 梅弐本 長弐間半 巾壱尺壱寸
厚九寸 表門柱遣
但壱本
代銀弐百弐拾匁 銀壱百拾匁
削り立
一 栂壱本 長壱丈壱尺 巾四寸
厚三寸五分 表門附間■
代銀拾三匁
一 栗弐本 長弐間半 同 七寸五分角 同扣柱
但壱本
代銀百参拾匁 銀六拾五匁
一 栂壱本 長壱丈壱尺 同 巾五寸五分 同地覆
厚四寸五分
一 同四挺 長六尺 同 巾七寸 同扣貫
厚弐寸弐分
但壱本
代銀弐拾四匁 銀六匁
一 同四本 長壱尺壱寸 同 巾五寸 同竪框
厚三寸 分
但壱本
代銀四拾八匁 銀拾弐匁
一 同拾四本 長五尺 同 右同断 同横框
但壱本
代銀七拾匁 銀五匁
【右項】
削立赤身
一 杉弐拾枚 長弐間 幅四寸 表門扉板
厚八分
但壱枚
代銀三拾匁 銀壱匁五分
材木
一銀四貫七百八拾五匁九分
一 土居萱新規三百四拾五坪 但壱寸四分足萱立
但壱坪
代銀三貫四百五拾匁 銀拾匁
【左項】
一 同古杉萱六拾坪手間飾糸【?】釘共一式
但壱坪
代銀弐百拾匁 銀三匁五分
一 桟瓦唐草瓦其外平瓦共新規九通仕立三万筆弐百五拾枚
但平物壱枚
代銀五貫四百三拾七匁五分 銀壱分五厘
一 瓦下幷胴壁足し土八拾八艘【?】
但壱艘
代銀七百四匁 銀八匁
【右項】
一 砂一式
代銀八拾匁
一 瓦師弐百六拾三人
但壱人
代銀壱貫五拾弐匁 銀四匁
一 同手元手伝弐百六拾三人
但壱人
代銀七百八拾九匁 銀三匁
【左項】
一 同平人足四百六拾九人
但壱人
代銀壱〆四百七匁 銀三匁
一 屋根幷胴壁漆喰百拾樽
但壱樽
代銀壱〆三百弐拾匁 銀拾弐匁
一 左官三百六拾五人
但壱人
代銀壱貫四百六拾匁 銀四匁
【右項】
一 左官手伝人足三百五拾人
但壱人
代銀三貫五拾匁 銀三匁
一 大工五百九拾八人
但壱人
代銀弐貫三百九拾弐匁 銀四匁
一 鳶人足六百拾人
但壱人
代銀壱貫八百三拾匁 銀三匁
【左項】
一 銅板六拾枚化粧垂木張立其外取繕分
但壱枚百匁付
代銀弐百拾匁 銀三匁五分
一 同八分足平鉄七百七拾本
但百本
代銀五匁四分 銀七分五厘【ママ】
一 同銅張立方職拾人
但壱人
代銀五拾匁 銀五匁
【右項】
一 赤墨渋塗一式
代銀百八拾匁
一 釘銯品々一式
代銀壱貫五拾匁
一 足代丸太諸道具縄其外損料物一式
代銀七百六拾八匁
【左項】
一 諸材木其外運送賃
代銀百七拾五匁
一 下代遣人足炭茶代共一式
代銀三百九拾五匁
諸高
〆銀弐拾四貫拾四匁九分
弐口合
〆銀弐拾八貫八百匁八分
為金四百八拾両ト
銀八分
右之通り御入用積立奉差上候若相違之義も
御座候はゝ仕置可奉差上候以上
霊岸嶋川口町
家持
卯八月 伝吉
霊岸島川口町
家持
伝 吉
一其方儀深川三拾三間堂風損修復
一式入用金四百八十両銀八分為受負
申付【見消・候】る間先達而相渡置仕様帳之通
入念晴天日数六十日限修復可致
【右項】
同町
家主
証人 源五郎
一其方証人之儀に付三十三間堂風損修復
受負人え申渡す通無相違出来候様
可為致
右
五人組
名 主
【左項】
右之通申渡【見消・候】す間其旨可存
右申渡趣証文申付る
卯九月
【朱書】「証文同文書に付略之」
右之通被仰渡難有奉畏候以上
右
九月十一日 伝 吉印
【右項】
源五郎印
五人組
喜兵衛同
名 主
将 七同
【左項】
深川三十三間堂
堂守
鹿塩道菅
深川三十三間堂風損修復入用 一式
金四百八十両銀八分為霊岸島川口町
家持伝吉に受負申付候間仕様帳之通無相違
麁末之義無之様入念可心付
右之通被仰渡奉畏候為後日仍如件
【右項】
安政二卯年九月 鹿塩道菅(印)
【左項】
乍恐以書付奉申上候
一 深川三拾三間堂守鹿塩道菅奉申上候今般御堂
内え仮 御拝殿御出来に相成御見分被成
下置難有仕合奉存候然処 御厨子御損し之義は
来る廿八日御日柄度御敷奉存候間先例之通矢検
見之者一同羽織袴着用に而御取扱奉申上候間依之
此段御届ケ奉申上候以上
右堂守
安政二卯年八月廿五日 鹿塩道菅
本所
御掛り様
【朱書】
「九月六日岡田源兵衛持参慈左衛門を以上ル」
三十三間堂仮向拝江
御神像御移申候儀申上候書付
御届 本所見廻
深川三十三間堂風損ニ付修復出来候迄
堂無難之場所江
仮向拝【見消「取繕」】補理
御神像御移相済【見消ち「申」】永代寺役僧罷越
法楽修行仕候依之申上候以上
九月六日 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【朱書】
「卯九月十三日対馬守殿両国橋御修復□□」
以書付奉申上候
一三拾三間堂お修復来ル十六日ゟ取掛り
仕度奉存候間此段御聞済之程
偏に奉願上候以上
請負人
九月十三日 伝吉 印
御掛り様
【朱書】「卯九月十六日岡田源兵衛持参竹村慈左衛門ヲ以上ル」
┌────
│
│ 深川三十三間堂修復取懸之儀申上候書付
│ 本所見廻
└────
深川三十三間堂風損修復伺之通被仰渡候間
今日ゟ修復取懸申候此段申上候以上
九月十六日 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【朱書】「卯九月十六日大竹銀蔵持参」
┌────
│対馬守殿御懸り
│ 三十三間堂損所修復取懸り之儀申上候書付
│ 御届 本所見廻
└────
深川三十三間堂屋根廻り其外先達而
風損に付修復之儀取調対馬守殿え
相伺候処一式入用金四百八拾両銀八分を以
【右項】
霊岸嶋川口町家持伝吉え受負被
仰付今日ゟ修復取懸り申候依之申上候
以上
九月十六日 中村八郎左衛門
加藤又左衛門
【左項】
┌────
│
│ 三十三間堂修復入用御下ヶ之儀取調申上候書付
│ 《割書:年 番|町年寄》え御断 本所見廻
└────
深川三十三間堂風破に而屋根箱棟
其外吹倒れ候付右修復之義伺申上
当九月十六日ゟ取懸り屋根廻り其外
【右項】
過半出来寄候処【見消ち・去ル】十月二日夜地震に而
東之方え惣体押曲み是迄仕付候箇
所は勿論瓦一円落崩大破に付元
形之通取建候には不残取崩し候上に而折
損し候木品仕足候ゟ外致し方無之左候
而は多分之入用も相懸り利金溜り之
【左項】
目当に而は迚も行足申間鋪候間当分
其儘に差置追而御伺之上一旦取崩し候
方と奉存候尚取調相伺候様可仕候就而は
是迄取懸り候材木鉄物諸方人足共
賃銀取調候処元受負高金四百八拾両
銀八分之内金弐百四両弐分銀九匁
【右項】
相懸り候旨別紙内訳帳差出候間
取調吟味仕候処無相違相聞候間右
入用は受負人伝吉え御下ヶ御座候様仕度
奉存候此段年番幷町年寄え被仰渡
可被下候依之【見消ち・受負人差出候】内訳帳相添
此段申上候【見消ち・以上】
【左項】
【朱書】
「右入用出方之儀は先年堂守鹿塩
道菅先代之もの小破修復料トして
御貸附相願町年寄方に而取扱候
利金溜り之内ゟ御渡下成申候」
以上
卯
十二月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
深川三十三間堂損所御修復取掛候
十月朔日迄持込候材木鉄物諸方共
相掛り候御入用内訳調帳
一 三拾三間堂風破に付屋根廻り其外御修復当
九月十六日ゟ取掛り過半出来仕候処【見消ち・去ル】十月二日夜
地震に而惣体押曲み候に付是迄相掛り候材木
釘銯大工其外御入用高取調左之通御座候
右御入用内訳
材木一式御入用高
一 銀四貫七百八拾五匁九分
【右項】
内
銀三貫弐百七拾四匁 持込候分
釘銯鉄物類一式同断
一 銀壱貫五拾匁
内
銀九百弐拾八匁五分 同断
家根方一式同断
一 銀三貫四百五拾匁
内
銀弐貫九百五拾匁
是は土居葺三百四拾五坪之内
弐百九拾五坪出来仕候分
【左項】
瓦一式同断
一 銀五貫四百三拾七匁五分
内
銀壱貫三百五拾匁
是は瓦平物三万六千弐百五拾枚之内
九【朱消・百、朱書・千】枚持込候分
瓦下足土同断
一 銀七百四匁
内
銀百六拾匁 持込候分
瓦師弐百六拾三人同断
一 銀壱貫五拾弐匁
【右項】
内
銀四百七拾六匁
是は瓦師百拾九人
相掛り候分
同手伝人足弐百六拾三人同断
一 銀七百八拾九匁
内
銀四百七十匁
是は人足百五拾八人
相掛り候分
大工五百九拾八人同断
一 銀弐貫三百九拾弐匁
【左項】
内
銀九百九拾弐匁
是は弐百四拾八人
相掛り候分
人足六百拾人同断
一 銀壱貫八百三拾匁
内
銀八百拾六匁五分
是は人足弐百七拾弐人
相掛り候分
足代丸太其外一式損料物同断
一 銀七百六拾八匁
【右項】
内
銀五百八拾匁 遣払候分
諸材木其外運送賃同断
一 銀百七拾五匁
内
銀百弐拾匁 同断
下代小使人足炭草等代同断
一 銀三百九拾五匁
内
銀百五拾八匁
【左項】
外に
屋根古板葺六十坪手間賃
瓦師人足幷砂一式漆喰類
左官手間同手伝銅類張立方
同鉄職人手間澁墨塗等
十口御入用
〆銀五貫九百七拾弐匁四分
此金九拾九両弐分銀弐匁四分
此分未取懸り不申候に付内訳相除申候
【右項】
御受負高金四百八拾両銀八匁之内
金是迄相懸り候分
銀拾弐貫弐百七拾九匁
此金弐百四両弐分銀九匁
右之通御入用内訳取調奉差上候以上
霊岸嶋川口町
家持
請負人 伝吉
同町
家主
相仕証人 源五郎
【左項】
【朱書】
「安政二卯年十二月十九日持田太郎助持参
を以上ル」
┌────
│
│ 三十三間堂修復中筆墨紙其外入用御下ヶ之儀
│ 《割書:年 番|町年寄》え御断 本所見廻
└────
一金壱両三分銀四匁壱分
右は深川三十三間堂風損に付修復
目論見中ゟ場所おひて用候筆墨紙
【右項】
水縄蝋燭代等書面之通相渡候様年番幷
町年寄え被仰渡可被下候【朱消「以上」】
【朱書】
「本文出方之儀は町年寄方に而取扱候
小破修復料利金溜り之内ゟ出方
相成申候」
以上
卯 加藤又左衛門
十二月 中村八郎左衛門
【左項】
┌────────────────────────
│
│ 三十三間堂修復に付下役道役御手当之儀奉願候書付
│ 本所見廻
└────────────────────────
深川三十三間堂修復に付下役道役申合日々
場所え罷越差配仕両国橋御修復所
御用をも兼早出居残り等仕其上此節堅川
【右項】
定浚も取掛り候間夫々手分ヶ仕一同格別
骨折相勤候に付可相成候儀に御座候ハヽ
相応之御手当被下置候様仕度此段奉願候
【朱書】
「一嘉永元申年幷去寅年右堂修復之節
日々場所え罷出相勤候下役壱人え御手当幷
人足賃を籠メ一ヶ月銀十弐匁宛道役壱人え
御手当一ヶ月金弐朱つゝ其度々被下置候」
以上
卯 加藤又左衛門
月 中村八郎左衛門
【左項】
┌────
│
│ 三十三間堂仮向拝入用御下ヶ之儀申上候書付
│ 《割書:年 番|町年寄》え御断 本所見廻
└────
一金拾五両銀壱匁
右は深川三十三間堂仮向拝取繕之儀
去八月中伺之上為取懸其頃出来
【右項】
仕候処地震に付惣体押崩候へ共仕様帳
之通無相違出来仕候儀に付右入用受負人
伝吉え御下ヶ御座候様仕度奉存候此段
年番幷町年寄え被仰渡可被下候依之
申上候以上
辰正月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【左項】
┌────────────────────
│
│ 深川三十三間堂之儀奉伺候書付
│ 井戸対馬守
│ 町 奉 行
└────────────────────
深川三十三間堂去秋風雨之節屋根
箱棟其外共風破に付右修復之儀
堂守鹿塩道菅ゟ願出候間繕修復
為取懸屋根其外過半出来寄候処
地震に付向拝左右は震潰れ其外共東之方江
惣体押曲み瓦一円落崩大破に付元
形之通取建候には不残取崩し候上ニ而折
損し候木品其外共新規仕足候ゟ仕様
相成候間地所内え
無御座左候而は多分入用も相懸り小破
修復料御貸附利金溜に而は入用引足
不申候間先例之通 公儀ゟ銀子被下置
其余諸家勧金普請与も奉存候へとも
○□□【急速ヵ】建直し【之ヵ】手順にも至り申間敷哉ニ付
此節柄之義○【見消ち「ニ付」△】押崩候木品は為取仰【片ヵ】付
追而可用立木品は仮雨覆仕付置全く
不用之分売払
御神像之儀は右地所内江仮拝殿補
理置堂建直し普請之儀は追而
相伺候様可仕候哉此段奉伺候
【朱書】
「一右堂小破修復入用出方之儀は先年
堂守鹿塩道菅先代之もの所持金
三千両差出し御貸附相願右利金溜り
之内ニ而取賄候此度震崩候木品取
仰付【片付ヵ】并仮 拝殿取建候入用共右之内ゟ
出方に相成申候
一文政十亥年中堂建直し入用金
三千七百五拾両之内 公儀ゟ銀子」
【右項】
【朱書】
「百枚被下置其余は諸大名高割
勧金先例之通取計出来申候」
以上
辰正月 井戸対馬守
池田播磨守
【左項】
【朱書】
「 二月○
安政三辰年○六日高木万右衛門持参竹村慈左衛門を以て
出処■■【行ヵ】に付鈴木弥市を以頼出」
┌────
│
│深川三拾三間堂儀奉伺候書付
│ 本所見廻
│【朱消五字】
└────
深川三拾三間堂去卯七月中風損に付
修復中猶又地震に而惣体大破相成
【右項】
最早修復に而は難相保候間一旦取崩
右木品は為仰付可用立分は相撰
仮雨覆仕付置
御神像之儀は右地所内え仮拝殿
補理奉遷置堂建直し普請之義は
取調追而相伺候様可仕候全不用之
【左項】
木品は売払右代金は跡取仰付幷
仮拝殿補理候入用え遣払若不足之義は
小破修復料御貸附利金溜之内に而
取賄可申哉巨細之儀は尚可申上と此段
奉伺候
【朱書】
「一 右堂小破修復入用出方之儀は」
【朱書】
「 先年堂守鹿塩道菅先代之もの
所持金三千両差出し御貸附相願
右利金溜之内に而取賄候
一 文政十亥年中堂建直し入用金三千
七百五拾両之内
公儀ゟ銀百枚被下置其余は諸大名
高割勧金を以先例之通取計
出来申候」
以上
辰二月 加藤又左衛門
中村八郎左衛門
【朱書】
「安政三辰二月朔日持田太郎助持参竹村慈左衛門ヲ以遣ス」
播磨守殿え御相談もの
【朱書】
「同月五日」
┌────────────────────────
│備中守殿【朱書】「え恩田友之助を以上ル」
│深川三拾三間堂大破に付取崩候儀申上候書付
│ 井戸対馬守
│ 町 奉 行
└────────────────────────
深川三拾三間堂去卯七月中風雨之節
家根箱棟其外共風破に付右修復之
【右項】
儀堂守鹿塩道菅ゟ願出候間堂内
損所無之処え御仮殿補理
御神像奉遷繕ひ修復為取掛家根
其余過半出来寄候処地震に付向拝
左右は震潰其外共東之方え押曲に瓦
一円落砕惣体委大破に相成候間地所内え
【左項】
猶又御仮殿補理
奉遷置右堂は修復に相成兼候間取崩
古木之内遣方に可相成木品撰雨覆補
理置建直普請之義は取調追而相伺候様
可仕候依之申上候以上
辰
三月 井戸対馬守
池田播磨守
┌────
│加藤又左衛門様 竹村慈左衛門
│中村八郎左衛門様 松本直兵衛
└──── 鈴木弥市
深川三十三間大破に付取崩候
儀に付申上書今日備中守殿え
御右筆恩田友之助殿を以進達
相済申候此段為御心得可申進旨
被申候以上
二月五日
┌────
│【朱書】
│「三月朔日加藤又左衛門持参竹村慈左衛門ヲ以上ル ヒレ付末ニ有」
│ 深川三十三間堂大破ニ付仮拜殿補理幷
│ 堂取崩入用之儀奉伺候書付
│ 本所見廻
│【朱書】
│ 「承リ付末ニ有」
└────
深川三十三間堂大破に付右地所内え
仮拜殿補理
御神像奉遷置右堂は不残取崩し
【右項】
可(追而)用立木品は為撰分け雨覆致し置
可申旨先達而申上置候通入用積り之儀
霊岸嶋川口町家持伝吉え申付候処
梁間弐間半桁行三間軒高壱丈三尺切妻作り
向拝霧除庇取付四方え長延廿壱間
高サ六尺之丸太矢来補理候積に而一式
一 金五拾七両銀四匁
【左項】
堂惣体三百九拾坪余取崩追て可用立
木品は古木に而雨覆仕付置候大工人足
諸掛り一式
一 金九拾弐両弐分
弐口合
金百四拾九両弐分銀四匁
右之通り相掛り候旨別紙之通仕様
【雰=霧】
【右項】
内訳帳差出候に付先前入用に見合候処
天保四巳年中仮拝殿補理候入用金四拾
六両銀壱匁八分相懸り此度之方高直に付
引ヶ方之儀得と取調再応吟味仕候処
旧冬以来諸色は勿論諸方一体直段
賃銀共相進み居候間先年之入用高
【左項】
に而は実以難引合勿論見体に不拘廉
其外可成丈ヶ省略仕内訳申立候儀に付
此上引方無之旨申立当節諸色其外
高直之段は申立候通無相違不相当之義も
相聞え不申候間右直段を以伝吉え受負
可被 仰付候哉尤不用之木品御払之
【右項】
積り取調追而相伺可申候此段奉伺候
【朱書】
「一 本文入用出方之儀は堂守鹿塩道菅
先代之もの相願候御貸附利金溜り之
内ゟ御渡方相成申候」
以上
辰 加藤又左衛門
三月 中村八郎左衛門
【左項】
【朱書】「承り付」
┌────
│書面伺之通仮拝殿金五拾七両銀四匁
│堂取崩木品仕分け撰方共金九拾弐両弐分に而
│霊岸嶋川口町家持伝吉え可申付旨
│被仰渡奉承知候
│ 辰
│ 三月廿一日
└────
【朱書】「ヒレ付」
┌────
│書面御入用之儀追而御沙汰次第相渡可申候
│ 辰三月 喜多村彦右衛門
└────
【朱書】「ヒレ付」
┌────
│書面三十三間堂大破に付仮拝殿補理幷
│堂取崩木品撰分入用之義取調候処諸色
│直段手間賃等も平常ゟ引上け居候段
│相違も無御座当時之調に而は不相当之義
│相見え不申候間本所見廻伺之通被仰渡
│可然哉に奉存候
│ 辰三月 年番
└────
【白紙】
【白紙】
【白紙】
【裏表紙・白紙】
地震(ぢしん)一口(ひとくち)はなし
かしまのかみ
江戸のおゝ
ししんにて
みまはりに
まいられける
とちうにて
なにかあや
しきぬら
くらものに
てあいけれは
かしま
「くせものまて
□こなたはそれと
みるよりもひつくり
せしかよわみを
みせしとせゝら
わらいなにか
とうしたと
かしま
「そのおちつき
かほかふさ〳〵しい
いつたいわれはとこへ
ゆくのたといわれて
ししんはさしつまり
ししん
「アゝラさんねんやくやしやナ
こんとゝいふかう□は
しんしうをふるつても大江戸へ出て
かみなしつきをさいわいにいちはん
おゝあてにあてよふとおもつたに
おやふんにみつかつてはもうかなわぬ
さアこれからはしみものくるひたとへ
このみはなへやきになりおゝくの人に
くわるゝとも いてこふん【?】をまたすししんに
はたらくそことうせ かしま「なにをこしやくな▲
▲ぬらくらものこのかしまの
かみのめにいつては江戸はもち
ろんしよこくまてゆるかぬ
みよ さわかす たいさい【?】 そこ
いつすんもうこくまいそ
【題字】
二日はなし
地震亭念魚
町々庵炎上
●将棊ずき【将棋好き】
●吉原やけ
●太神宮神馬
【右上】【判読できない箇所は他の資料を参照しました】
●此あいだのぢしんずきにしやうぎの
すきな人がふとゆきあいまして
「トキニかく兵へさんさてこの間は
けしからぬ事でしかし御ぶぢて
おめでとうござります
「イヤこれはばん吉さん御けがも
なくてしかしカク飛車(ひしや)〳〵と
しやうぎだをしはどうでごぜへ升
「コレハ〳〵此そうどうの中で
すきな道(みち)とてしやうぎでしやれるトハ
ありがてへもしこれじやア会所(くわいしよ)も
おあいだゝねま事に王将(わうしやう)でごぜへ升
「なるほど往生(わうじやう)のしやれかへおもしれへ▲
【右中】
▲それはそふとこのあいださる
ものしりにきゝましたが
このくらいなさわぎは
桂馬(けい)禾車(きやう)【香車】いらい【?】ないと
ゆうことで厶り升【ござります】
「イヤそのかはりによのかかゞ
ゆりなほつて金銀(きんぎん)のゆう
づうがよくなります
ときに妙(めう)ななりでどこへいきなさる
「ナニサさるおやしきへ歩(ぶ)に
やとわれてまいり升
「ソレじやア金(きん)に
なり升ふ
【中央】
●ときによしはらの
五丁町は大へんなさわぎだね
「さようサあすこはつぶれた上に
やけだからいゝぶんはねへ
「わしはあのばん五十けんにあすんで
いやしたがおそろしいしんどうサ
「モシよしはらがしんどうなら
むかふのくらのふるつた
くらゐはアリヤアかむろて
ごぜへやせう
【下】
●トキニこんど
いせの太神宮(だいじんくう)様の
しん馬(め)の毛(け)がのこら
ずなくなつたそふだが
此あいだゑどのぢしんに
太神宮(だいじんぐう)様がその馬(うま)に
のつてきてたいそふ
人をたすけた
そふだが
たすかつたものは
袂(たもと)にその神馬(じんめ)の毛(け)が
一本づゝあつたそふだ
「おや〳〵そふかへわたしのおとつさんは
このぢかのぢしんでつぶされて
しんでおてらへほふむつて
しまつたがもしやそのとき
きてゐたきものゝたもとに
神馬(じんめ)の毛(け)がありやア
しないかときものゝ袂(たもと)を
たづねてみておや〳〵
あらそわれないものだ
毛(け)があつたよ
「ドレみせなコリヤア
神馬(じんめ)の毛(け)じやアねへ
「それじやアなんだへ
「コレカこりやア鯰(なまづ)のひげだ
【表紙】
【タイトル】
輪池叢書 十二
【右左頁共に記載事項無し白紙】
【右頁】
第十二册目次
日本史鈔 源顕家忠顕
日本史列伝外国之二 (元)
地震説 藤井俊著【著:見せ消し】訳【追記】
山鹿古先生由来記参考《割書:一名参考山鹿由来記|稲葉則通著》
三子孝状《割書:堀田正穀著|刊本》
記観命事
老後百首
百【百:見せ消し】天【追記】寛日記并別記凡例 原稿
【左頁】
【右上】
五六【左横書き算用数字】
【右下】
【細字】
未
二千
三百
八十
六号
【細字下】
【赤字角印】
青木
印
【左端】
日本史鈔 《割書:源顕家|源忠顕》
【右頁】
【白紙】
【左頁】
【右上蔵書印・角印】
東京
図書
館蔵
【本文】
源顕家
源忠顕
源顕家準三宮親房之長子元弘元年歳甫
十四任参議兼左近衛中将三年兼弾正大
弼尋詔為陸奥守奉義良親王出鎮陸奥出
羽親房輔之顕家固辞不許親書旗銘賜之
及戎器数具時縉紳之仕事久廃欠及顕家
出乃悉稽循古儀帝於御前賜衣馬【於御前:追記】遣之《割書:公|卿》
《割書:補任北畠系図神皇正統記元|弘日記裏書梅松論太平記》居二月両州
恵服《割書:神皇正統記元|弘日記裏書》建武元年以功叙【以功叙:見せ消し】褒授従二
【右頁】
位二年兼【兼:見せ消し】拝鎮守府将軍《割書:補任源氏【源氏:追記】系図神皇正統|記按太平記係延元》
《割書:元年|恐誤》延元元年詔奉義良親王与新田義貞
俱攻足利尊氏于鎌倉顕家集兵国内応者【応者:見せ消し】不能【不能:追記】
甚少【甚少:見せ消し】時発【時発:追記】乃率見兵転戦而前《割書:関城書|太平記》逮抵鎌倉
尊氏既已西上是時東北諸将新田義興千
葉貞胤宇都宮公綱等兵来属兵凡五万顕
家尾尊氏昼夜兼行至近江使大館幸氏攻
取観音寺城殺五延暦百余人帝遣船七百隻迎
顕家泛湖以至寺《割書:神皇正統記元弘日|記裏書保暦間記梅》
《割書:松論太|平記》与新田義貞攻園城寺克之遂与諸
【左頁】
将分道攻京師顕家以三万人自粟田口放
火而進足利尊氏望之日北畠殿来此吾自【自:見せ消し】不【不:追記】
当之耳【当之耳:見せ消し】可不親当也【可不親当也:追記】率数十【十:追記】万人与【与:見せ消し】禦之【禦之:追記】戦数合解而並息【解而並息:見せ消し】雖衆寡不敵顕家【雖衆寡不敵顕家:追記】兵善戦尊氏不能破竝解而憩【兵善戦尊氏不能破竝解而憩:追記】義貞
因縦兵突撃尊氏敗走追至豊島河原顕家
督衆先登【督衆先登:見せ消し】先登督戦【先登督戦:追記】諸将継進大敗之尊氏走筑紫顕
家与義貞振旅旋京師《割書:元弘日記裏|書太平記》兼右衞
門督検非違使別当時足利尊氏党類【類:見せ消し】与【与:追記】四方
蜂起於是拝顕家権中納言再奉義良親王
復如陸奥《割書:補任系図神皇正統記元弘日記|裏書按保暦間記云顕家是行兼》
《割書:常陸下野両|国守今不取》攻斬相馬胤顕于法華堂相馬
【右頁】
光胤于小高城《割書:相馬|家侍》上書請曰陸奥国当辺
境之至要備蝦夷之不虞弘仁三年持下勅
符建鎮守府択主帥之器授将軍之号秧【秧:見せ消し】秩【秩:追記】従
五位上階率【率:追記】本国如鄰州牧宰率兼任之臣今
官昇八座位至二品依別勅蒞【蒞:見せ消し】莅【莅:追記】本州以功兼
鎮守府恩寵誠重雖然位高而官卑恐違先
格願今後三位以上任此職者加大字以為
永格因時制誼歴代之通規親王任刺史特
号大守蓋此類也伏望夭【夭:見せ消し】天【天:追記】裁制可【制可:見せ消し】於是【於是:追記】為鎮守府
大将軍《割書:建武記|職原抄》二年陸奥将士多応足利尊
【左頁】
氏攻顕家顕家戦不利奉義良親王保霊山
城《割書:元弘日記裏書保暦間記太平記按保暦|間記顕家戦敗棄霊山城走宇都宮今不》
《割書:取|也》尋発結城宗広伊達信夫南部下山氏【氏:見せ消し】族【族:追記】
等兵六千出陣白川関兵士来属【属:見せ消し】赴【赴:追記】幾十万進
至下野足利義詮発兵拒于【于:追記】利根川会霖雨水
漲顕家部下長井実永弟豊後次郎等乱流
而進万【万:見せ消し】余【余:追記】衆隨渉水為之激【激:見せ消し】泛【泛:追記】溢西岸敵溺死無
数大潰而走《割書:元弘日記裏|書太平記》顕家入武蔵府駐
五日宇都宮公綱来属顕家遣兵攻芳賀禅
可降之与北條時行新田義興共攻鎌倉走
【右頁】
義詮敗走【敗走:追記】三年率兵赴京師士卒侵掠恣暴所過
焚蕩比至尾張藤原昌能掘口貞満引兵来
会兵勢弥張鎌倉及縁道敵軍発兵尾之【弥張鎌倉及縁道敵軍発兵尾之:見せ消し】益振敵将桃井直常士岐頼遠等【益振敵将桃井直常士岐頼遠等:追記】沿道出兵往往躡後衆至八万余【沿道出兵往往躡後衆至八万余:追記】顕
家駐陣青野原与桃井直常士岐頼遠戦大
敗之諸将番戦皆克《割書:太平記難|太平記》相持月余《割書:難|太》
《割書:平|記》足利尊氏将高師泰率兵来陣【陣:見せ消し】拒【拒:追記】黒地川【川:見せ消し】河【河:追記】顕
家兵三十万【兵三十万:追記】不能進転道【進転道:見せ消し】復戦先是【復戦先是:追記】尊氏復陥京師帝幸吉野顕家転由【尊氏復陥京師帝幸吉野顕家転由:追記】伊勢将【将:追記】赴吉野按顕家将大軍赴京道路転戦皆克抵青野原兵勢益振而本書有結城宗広青野小衄不能破黒地之語不記其事蓋戦青野原之時為桃井直常等所敗乎顕家猛将也擁大兵以屡勝之豈可有逗撓回避之事乎今不可暁【按顕家将大軍赴京道路転戦皆克抵青野原兵勢益振而本書有結城宗広青野小衄不能破黒地之語不記其事蓋戦青野原之時為桃井直常等所敗乎顕家猛将也擁大兵以屡勝之豈可有逗撓回避之事乎今不可暁:追記】《割書:神皇正統記元|弘日記裏書保》
《割書:暦間記|太平記》師泰尾至【尾至:見せ消し】追到【追到:追記】雲津川《割書:津或作出|国語同》顕家返
戦敗之【返戦敗之:見せ消し】撃却之【撃却之:追記】《割書:元弘日記裏|書難太平記》遂至南都謀復京師未【遂至南都謀復京師未:見せ消し】休兵奈良聚諸将門計【休兵奈良聚諸将門計:追記】
発足利尊氏遣兵来攻顕家敗走河内義良【発足利尊氏遣兵来攻顕家敗走河内義良:見せ消し】結城宗広曰不破黒地径詣行宮至尊有問何以対焉我兵雖疲足破京師万致挫衄暴尸於王城之域【結城宗広曰不破黒地径詣行宮至尊有問何以対焉我兵雖疲足破京師万致挫衄暴尸於王城之域:追記】
【左頁】
親王還帰吉野《割書:元弘日記裏|書太平記》顕家聚敗率出
陣安倍野使弟顕信拠男山高師直率精兵
来襲顕家戦敗以二十余騎衝囲而出中流
矢薨【親王還帰吉野《割書:元弘日記裏|書太平記》顕家聚敗率出
陣安倍野使弟顕信拠男山高師直率精兵
来襲顕家戦敗以二十余騎衝囲而出中流
矢薨:見せ消し】
亦可洩憤顕家従之未発尊遣桃井直常□撃顕家兵疲不能戦遂潰走入河内稍収散兵拠男
山将窺京師尊氏遣高師直攻之顕家拠険深墼士皆致死敵軍不利師直慮河内摂津官軍与顕家
椅角留重兵囲城身陣天王寺断援路顕家出城与戦大敗従二十余騎将突囲奔吉野抵安倍野敵兵合囲顕家躬冒矢刀
接戦竟没于陣時【亦可洩憤顕家従之未発尊遣桃井直常□撃顕家兵疲不能戦遂潰走入河内稍収散兵拠男
山将窺京師尊氏遣高師直攻之顕家拠険深墼士皆致死敵軍不利師直慮河内摂津官軍与顕家
椅角留重兵囲城身陣天王寺断援路顕家出城与戦大敗従二十余騎将突囲奔吉野抵安倍野敵兵合囲顕家躬冒矢刀
接戦竟没于陣時:追記】年二十一《割書:補任系図神皇正統記元弘|日記裏書保暦間記太平記》
贈従一位右大臣《割書:関城書高野宝勝院所|蔵親房自【自:見せ消し】手【手:追記】筆
願文系図》二
子曰顕成曰親成《割書:系図按結城文書四家合|攷云顕家有一女育在結》
《割書:城親朝許【許:見せ消し】家【家:追記】後嫁|安東太郎貞季》
源忠顕内大臣有房之孫而権中納言有忠
之子也家称六条或千種《割書:源氏系図|太平記》年壮喜
騎射以博賭淫飲【淫飲:見せ消し】酒色【酒色:追記】為事有忠絶不為子《割書:太平|記》
【右頁】
仕歴蔵人頭左近衛中将弾正大弼拝参議
《割書:公卿補任系|図太平記》後醍醐帝潜幸笠置忠顕扈之
及笠置陥被虜帝御六波羅南方北條仲時
北條時益特放忠顕与中納言藤原藤房給
侍遂与蔵人頭藤原行房宮女従三位藤原
氏大納言典侍小宰相《割書:二女姓|氏未詳》従帝適隠岐
帝御網代車発京師士女縦観填巷攀望悲
泣公言于路曰武人乃爾肆廃遷天子運豈
得永護将佐佐木高氏嘗於帝幸石清水時
【左頁】
防守淀橋帝行為歌賜之曰志流倍須流美
知古曽安羅須奈利奴斗毛与斗能和多利
和々須礼志毛世志高氏伏泣不能起久之
至鳥羽斥車更御肩輿於道亭館陋隘軍士
或親窺□【□:覩?】面帝又為歌曰安波礼斗波奈礼毛
美流羅牟和加多美遠於毛布古古呂波以
麻毛加波羅須然所以供御衛送礼有加於
後鳥羽帝之西遷焉《割書:増鏡太平記|異本太平記》自出雲三
尾湊御舟至隠岐府島御国分寺明年官軍
【右頁】
所在並起隠岐守護佐佐木清高日夜巡警
行在以防非常《割書:按伯耆巻云時北条高時|密命清高行弑逆今不取》然
衛士多□【□:竊?】通意【通意:見せ消し】欲翼戴【欲翼戴:追記】者中門衛士佐々木義【中門衛士佐々木義:見せ消し】綱【綱:見せ消しに漏れたか?】冨士名義綱衛中門【冨士名義綱衛中門:追記】奉
密旨往出雲招集兵士為塩治高貞取抅帝
遅之数日不至乃与忠顕謀託以三位局産
期在近移就外舎乗昏而出道斥輿歩行【歩行:見せ消し】徒歩【徒歩:追記】独
忠顕従焉《割書:増|鏡》扣路傍民家問千波港【港:見せ消し】湊【湊:追記】主人熟
視帝対曰【港:見せ消し】湊【湊:追記】去此五十町許路多岐易迷請
為郷導負帝到【港:見せ消し】湊【湊:追記】諭請【請:見せ消し】求【求:追記】舟
師載【載:見せ消し】御【御:追記】之舟師【師:見せ消し】人【人:追記】亦請【請:見せ消し】以【以:追記】
帝【帝:見せ消し】為【為:追記】非恒【恒:見せ消し】常【常:追記】人曰今日得操【操:見せ消し】奉【為:追記】此舟【舟:見せ消し】役【役:追記】是鄙人生涯之
【左頁】
栄取請所向【向:見せ消し】往【役:追記】忠顕察【察:見せ消し】善【善:追記】其言誠【言誠:見せ消し】誠実【誠実:追記】曰此乃【此乃:見せ消し】是則【是則:追記】天下之
主十善之君■【矣カ】急得届【得届:見せ消し】欲抵【欲抵:追記】出雲伯耆之地【地:見せ消し】間指形便之地赴之【間指形便之地赴之:追記】事成
賞以邑土舟師【師:見せ消し】人【人:追記】喜感掲帆【掲帆:見せ消し】解纜【解纜:追記】疾馳佐佐木清高
発舸追及忠顕【忠顕:見せ消し】舟中【舟中:追記】望之驚愕不知所為帝謂舟
師【師:見せ消し】人【人:追記】曰勿怖第垂釣《割書:梅松|論》舟師【師:見せ消し】人【人:追記】乃匿帝及忠顕
于【于:追記】船底覆以薧魚使舵工水手列立其上而身
坐釣追兵【追兵:見せ消し】賊【賊:追記】上御船徧索舟師【師:見せ消し】人【人:追記】徐問曰【曰:追記】公等何索曰
先帝【先帝:見せ消し】主上【主上:追記】逃出【出:見せ消し】去【去:追記】隠岐必在海中《割書:梅松論太平記|異【異:見せ消し】諸【諸:追記】本太平記》舟
師【師:見せ消し】人【人:追記】詒今夜子刻有船出港【港:見せ消し】湊【湊:追記】一人冠一人烏
帽子京上﨟【京上﨟:見せ消し】簪纓之客【簪纓之客:追記】也今可行【可行:見せ消し】行可【行可:追記】五六里乃遙指曰船
【右頁】
猶在彼《割書:太平記乃遙以下|懅異本太平記》追兵転舵去須臾
敵舸百余艘又追至駛如飛会風息所御船
■【涯カ】潮不得進帝仏舎利于□【□:海?】黙祷朕有何
譴所因至此朕再臨御国家者天請垂擁護
不然雖生何為《割書:太平記朕有以下|拠異【異:見せ消し】諸【諸:追記】本太平記》俄而風分
吹敵舸西御船東経出雲《割書:経出雲拠増|鏡伯耆巻》到伯耆名和港【港:見せ消し】湊【湊:追記】漂蕩四日□【□:羸?】困危恐【恐:見せ消し】甚【甚:追記】極矣《割書:漂蕩以|下拠伯》
《割書:耆|巻》忠顕登□【□:岸?】問路人曰此問【問:見せ消し】地【地:追記】亦有知名武人
邪《割書:梅松論云舟人教帝|依長年今拠太平記》路人答以名和長年
忠顕直造長年所居宣旨委託長年即【即:見せ消し】乃【乃:追記】発兵
【左頁】
奉帝幸船上山聚宗党起兵【聚宗党起兵:追記】軍勢大震車駕還京命訪向
者郷導之民不知所在云
【以下暫く割書の文が続く】
【割書の文】
増鏡太平記異本
太平記梅松論伯
耆巻按異【異:見せ消し】毛利家本天正【毛利家本天正:追記】本太平記云忠顕与帝侍女通有
孕帝託其移就外舎以出謂忠顕曰所生若
男必為汝嗣及娩果男後以【以:見せ消し】使【使:追記】継家梅松論曰
佐佐木【佐佐木:見せ消し】冨士名【冨士名:追記】義綱奉帝及忠顕往于伯耆又按【又按:追記】伯耆巻
曰帝用忠顕謀与載【曰帝用忠顕謀与載:見せ消し】載後醍醐帝播遷始末【載後醍醐帝播遷始末:追記】三【三:イキ、見せ消しは誤りではないか】位局於後以衣自蔽
以出門者誰何忠顕答有妊婦在外三位局
往省之門者掲輿簾見三位局在焉遂得過
索船泛海忠顕義綱及成田小三郎奴金吾
従之次日到出雲野波浦遣人諭地頭以投
託之意地頭辞以勢寡不足相容願速幸他
所招集兵士臣亦赴従後会帝固聞郡和長
年有勇名因問地頭以那和庄曰去此東行
二日程然風潮不使恐致沮滞乃御船次日
到沙汰浦■【更カ】歩上得馬乗之馬不□【□:肯?】前帝怪
之任其前之馬返至故船処乃復御船則佐
佐木清高兵奄至以無船不得追次日到杵
【右頁】
【割書の文】
築浦杵築社司発舸追之樴師疾棹急馳得
免去而義綱金吾為所虜次日到片見又問
那和庄有釣人答已過五里許命転拕西嚮
帝与忠顕匿身船底蔽以□【□:薨?】魚清高発舸追
至忠顕命□【□:擑?】師直前故掠□【□:敵?】舸而過敵不覚
遂到那和遣小三郎往説長年以勤王小
三郎既至長年所居不請而直入家人怪愕
□之詰問小三郎曰事須面陳乃得見長年
宣以上旨長年奉詔軍食小三郎以乾□【□:糒?】小
三郎且喜且懼強而咽之以示不怯也長年
遂奉駕守船上山与【与:追記】諸書所記【記:見せ消し】差【差:追記】異
同如此今拠太平記旁須採用増鏡梅松論従諸本【増鏡梅松論従諸本:追記位置が明示されていなかったのでここに追記】【ここで長文の割書文終了】
赤松則村攻
北条仲時北条時益于【于:追記】六波羅不利忠顕奉命
将兵往俱経【俱経:見せ消し】援_レ之【援_レ之:追記】略京師路収降兵幾得三万《割書:太|平》
《割書:記作二十万余今|従異【異:見せ消し】諸【諸:追記】本太平記》但馬守護太田守延奉恒
良親王挙兵【兵:見せ消し】義【義:追記】至丹波篠村適与忠顕会忠顕
【左頁】
因奉恒良親王【親王:追記】進陣西山峯堂時僧良忠陣于男山赤松則村于【于:見せ消し】屯【屯:追記】山碕忠顕意恃衆欲専功孤
軍進入京師令軍士綴帛鎧袖書風字以為
号与六波羅兵戦不利守延死之忠顕引軍
還峯堂議欲退次【次:見せ消し】舍【舍:追記】児島高徳若留【若留:見せ消し】苦諌【苦諌:追記】之曰【以下追記】勝敗兵家之常一敗何差之有当_レ進而不_レ進当_レ退而不_レ退進退失_レ機非_二将之良者_一也我兵雖失尚多於敵兵此地深山大河形勝足拠宣留拒于此然我兵疲矣恐敵乗弊夜来襲【追記終了】我請僕【僕:追記】
扼七条橋以□賊夜襲率兵而出【以□賊夜襲率兵而出:見せ消し】備_レ之乃自将三百余騎守七条橋【備_レ之乃自将三百余騎守七条橋舍:追記】忠顕怯懼
即夜奉恒良奔男山尋【尋:見せ消し】於是【於是:追記】足利尊氏自内野赤
松則村自東寺忠顕自竹田入戦京師大克
進囲六波羅忠顕令曰宜先【宜先:見せ消し】□【□:曠?】_レ日持_レ久【□【□:曠?】_レ日持_レ久:追記】千剱破賊未還【賊未還:見せ消し】兵捨_レ彼来救則腹【兵捨_レ彼来救則腹:追記】
援【援:見せ消し】背受_レ敵宜先其不来【背受_レ敵宜先其不来:追記】急攻破【破:見せ消し】抜【抜:追記】之軍士連車数百両撒屋材山積
【右頁】
車上推至城門下火之以燔門楼北条仲時
北条【北条:追記】時益不_レ能_レ拒【不_レ能_レ拒:追記】遂挟光厳院東奔《割書:太平|記》忠顕得神鏡于北山荘奉安禁中《割書:皇年代|略記》車駕帰闕忠顕率
従兵五百前駆以□【□:虞?】非常以功賜三大国及
邑数十処【処:見せ消し】所【所:追記】為食邑《割書:太平記按本書不著【著:見せ消し】載【載:追記】|所賜国名今不可【可:見せ消し】所【所:追記】考》寵渥
無比忠顕自是奢【奢:見せ消し】驕【驕:追記】汰無度令家臣番設盛饌
率所□【□:暱?】数百人就酣宴又作大厩畜馬数十
匹酔毎【酔毎:見せ消し】毎酔【驕:追記】着錦袴□【□:虎?】皮行縢連騎遊猟《割書:太平|記》足
利尊氏之犯闕□【□:虞?】忠顕与結城親光名和長年
【左頁】
等大戦【等大戦:追記】防【防:見せ消し】于【于:追記】勢多《割書:梅松|論》延元元年剃髪《割書:補|任》尋与少将藤
原雅忠拒足利尊氏西坂戦敗而【敗而:追記】死《割書:系図太|平記》四子
具顕長忠忠方顕経《割書:系|図》顕経少納言少将《割書:左|右》
《割書:不|詳》正平七年諸将攻京師顕経以兵五百自
丹波路入戦《割書:園太暦|太平記》尋任権大納言《割書:新葉|集》子
雅光従三位権中納言「【「:追記】雅光子光清」【】:追記】《割書:系|図》
【右頁・左頁共に白紙】
【右頁】
【白紙】
【左頁】
【右上】
五五【左横書き算用数字】
【右下】
【細字】
末
二千
五百
八十
七号
【細字下】
【赤字角印】
青木
印
【左端】
日本史 列伝外国
【右頁】
【白紙】
【左頁】
大日本史巻之二百三十三 列伝第一百六十
外国二
元主忽必烈其先韃靼蒙古部人也初五代梁
唐之間契丹阿保禨并服其旁小国称皇帝以
其所居地名為姓曰世里世里訳者謂之耶律
阿保□【□:禨?】卒徳光嗣攻陥唐営平等州石敬塘借
其兵滅唐約為父子徳光取鴈門以北十六州
地以幽州為燕京後又滅晋多取其地国号遼
或称契丹徳光卒兀欲立更名阮卒迷律立更
名璟卒明扆立更名賢卒称文殊立更名□屡与
【右頁】
宋相攻宋真宗以歳幤銀十万両絹二十万匹
約和親《割書:五代史宋|史遼史》 堀河天皇寛治中商舶至
契丹契丹商道言能算等亦来以事相諍遂禁
絶之《割書:百錬|鈔》宋微宗崇寧中女直完顔阿骨打又
称帝国号金更名旻殂弟呉乞買立更名晟与
宋約夾攻契丹滅之尋又攻宋陥汴京執微宗
欽宗而去至完顔亮移都于燕于汴《割書:金|史》蒙古也
奉貢遼金至鉄木真始称皇帝遂攻燕京取之
鉄大直卒号大祖子窩□台立卒号太宗貴由
立卒号定宗蒙奇立卒号憲宗忽必烈其弟也
【本文上部に追記】
弘賢按百錬抄寛
治七年二月十九日□
郷定申渡契丹□
商客并道言□
筭等争論大小
月相違十二月神
今食不供暁膳内
侍已不罪名太神
宮祢宜等勘問事
云熟読□道言
能等非契丹也
商美渡契丹也
商客則我邦也
商也契丹也凡此
一章議三事也
然混二□一□意曰
遂禁絶之□
忽可□也
【追記終わり】
【左頁】
《割書:元|史》亀山天皇文永五年高麗使其臣潘阜持蒙
古及其国書至蒙古書略田【田:見せ消し】曰【曰:追記】大蒙古国皇帝奉
書日本国王我祖宗受天明命奄有区夏遐方
異域畏威懐徳者不可悉数朕即位之初以高
麗無辜之民久瘁鋒鏑即令罷兵還其疆域反
其旄倪高麗君臣感戴来朝義雖君臣歓若父
子計王之君臣亦已知之高麗朕之東藩也日
本密跡高麗開国已来又時通中国至朕躬而
無一乗之使以道【道:見せ消し】通【通:追記】和好尚恐王国知之未審故
遣使持書布告朕志冀自今以往通問結好以
【右頁】
相親且聖人以四海為家不相通好豈一家之
理哉以至用兵夫孰所好王其図之不報放却
其使《割書:関東評定伝編年記|八幡愚童訓皇記》六年春蒙古遣其臣
黒的殷弘来求報書対馬島拒而不納黒的等
虜島人塔三【三:右側に二と追記】郎弥二郎二人而去《割書:五代帝王物|語関東評定》
《割書:伝元|史》秋高麗金有咸高□持蒙古及其国書而
来併還塔二郎弥二郎《割書:関東評|定伝》八年蒙古使趙
良弼来到太宰府太貮索其国書良弼曰国書
我当自致於国都不可【可:追記】少於手矣府官索而不止
良弼録其本進之其書大抵謂王者無外高麗
【左頁】
已為一家王国実為隣境故嘗馳信使修好遂
寂無所聞今復遣趙良弼如即発使与之偕来
親仁善隣国之美事其或猶予以至用兵其孰
所楽為也《割書:按言続紀録其書大概故|今拠元史少足其意》此行也蒙
古意必淂答書以十一月為期□【□:見せ消し】廷【廷:追記】議令太宰府
移牒良弼使張鐸持牒先帰《割書:吉続記関東評定|伝編年記按五代》
《割書:帝王物語曰文永五年蒙古至廷議命菅原|為長草答書既而北條時宗以謂蒙古書辞無》
《割書:礼不可報輟而不遣吉続記曰是時用|撰少加脩飾而不載其文故其為勅書与為幕》
《割書:府書不可得知也然考時事無朝廷報書之理|矣元史作守護所拠之則令太宰府移牒也》
九年五月張鐸復至太宰府不納《割書:関東評定伝|考元史良弼》
【右頁】
《割書:復至太宰|府不納》十一年蒙古船四百五十艘兵三万
許至対馬島守護代宗馬允助国《割書:或作藤|馬允》防戦
死之又攻壱岐島守護代平景隆死之蒙古取
二島男子即悉殺之其女子掌縛舷進攻
太宰府筥崎今津佐原等処鎮兵拒戦不利多
死傷者少弐景資射中蒙古一大将《割書 :愚童訓曰|賊将流将》
《割書:公考東国通鑑流将之将当作復|流列音相近蓋元将列後亨也》蒙古宵遁遅
明鎮西兵士追之不及獲船一艘百二十人斬
之《割書:愚童訓関東評定伝編年|記歴代皇紀日蓮註画讃》後宇多天皇建治
元年四月蒙古改国号元使杜世忠何文著撒
【左頁】
都魯丁未長門室津《割書:考元史改国号元当此|亀山帝文永八年也而》
《割書:殺邦未知其事至是因使者来始聞|之也故前此概書蒙古此後書元》八月杜世
忠何文著撒都魯丁及高麗使総九人付征夷
将軍府拘于鎌倉鎌倉執権相模守北條時宗
収斬之於是命太宰府及沿海郡国厳警備令
天下省減諸事専務倹約以助軍興《割書:関東評定伝|編年記元史》
弘安二年元将夏貴范文虎等遣周福欒忠僧
霊果通事陳光至太宰【宰:追記】府猶欲諭以通和也即斬
之于博多《割書:関東評|定伝》是歳元滅宋《割書:宋史|元史》四年五
月元以高麗為前導兵十数万船数千艘蔽海
【右頁】
而来直指壱岐島至太宰府陳列于能古志賀
二島高麗船従対馬至宗像海与元船合関東
軍及九州二島兵悉会于太宰府拠高岸布陣
是以賊船不敢近岸草野七郎夜襲焼船一艘
殺十数人由是元軍連鎖巨舟設弩外向守備
甚厳河野通有駕軽舟而前弓弩乱発通有部
下多死通有亦傷左肩而勇気愈励冑?矢石而
進其船高大不可移乗使縁舟檣而上一躍入
船中擒著玉冠者一人而帰元船転至鷹嶋会
海中青龍見硫黄気盈海島其巨帥単艇先遁
【左頁】
七月晦夜大風雨海水簸蕩舟船破壊漂溺無
算屍隨潮汐入浦浦為之塞可践而行敗卒数
千尚在鷹島繕修壊船将逃帰少弐景資及鎮
西兵乗勢掩撃殺溺死者甚多請降者千余悉
斬之《割書:愚童訓関東評定伝天地|根元歴代図河野家譜》後聞元兵十万
淂生還者三人高麗兵一万死者七千余人《割書:元|史》
《割書:東国|通鑑》忽必烈殂号世祖子真金早卒孫鉄木耳
立《割書:元|史》後伏見天皇正安元年鉄木耳聞我崇浮
図遣僧一寧来諭通好放之于伊豆《割書:元史元|亨釈書》鉄
木耳殂号成宗武宗海山立殂仁宗愛育黎抜
【右頁】
力八達立殂英宗碩徳八剌立殂也孫鐵木兒
立殂称泰定帝明宗和世㻋立殂文宗圖帖睦
尓立殂寧宗懿璘質班立殂順帝要懽帖睦尓
立朱元璋兵入燕妥懽帖睦爾北走元滅《割書:元|史》
【左頁】
【白紙】
【右頁】
【白紙】
【左頁】
【右上】
三八【左横書き算用数字】
【右下】
【細字】
末
二千
五百
三十
三号
【細字下】
【赤字角印】
青木
印
【左端】
地震説
【右頁】
【白紙】
【左頁】
地震説
臣藤井俊奉
命謹訳
夫レ地震ハ地球ノ一方ヲ震蕩シ毎ニ
多クハ雷ノ如キ烈シキ轟響ヲ発シ或ハ
地ヨリ焔火ヲ挙ケ或ハ水ヲ滚湧シ
或ハ風ヲ起ス
【右頁】
地震の原由
地震ハ火山ノ発炎ト其原ヲ同フス其
理ハ多ク硫黄㷔硝ヲ生シ殊ニ火石ヨ
リ生スル硫黄ヲ多ク産スル土地《割書:火山在|ルノ地》
ハ地震モ亦多シ是レ常ニ地下ノ通竅
《割書:原名「ヲントルアールドセコロイッセン」地下空竅ノ義ナリ|「ヨハンネスボイス」カ所謂ル地中■【■:夥?】多ノ空竅アッテ水火》
《割書:ノ気其内ニ伏シ其気ヲ常ニ|山上ニ送発スト云者是ナリ》ヨリ餾騰スル蒸気
《割書:考案ノ条ニ云ク総テ地体中ニ硫黄質ノ気充ツ之レ|ヨリ異常ノ煦熱【(热)】及ヒ火気ヲ生ズト是即チ其気ヲ云》ヲ
【左頁】
発出スル所ノ発蒸坑《割書:原名「メーネン」地中ニ所在ス|ル脈理即チ空竅ニシテ通行ス》
《割書:ル長短大小広狭一ナラス漢人|ノ所謂ル火脈ナル者是ナリ》ノ其ノ地ニ在ルヲ
以テナリ《割書:案スルニ発蒸坑ハ大体其発口ヲ高山ニ開ク|即チ富士山浅間山白山等ノ発炎是ナリ其発》
《割書:蒸坑狭少ナルカ又ハ障碍アツテ地中ノ通竅ヨリ噴発迸|出シ来ル所ノ火気ヲ発出スルニ■【■:足?】ラサルモノ【(牜)】ハ火気坑内ニ激搏》
《割書:シテ近傍ヲ震衝ス是火山発炎地震ヲ兼ル者ナリ若シ|火気通竅中ニ逼迫盈溢ストトモ【(𪜈)】発蒸坑ヲ得テ之》
《割書:ヲ山上ニ発出スル事能ハサルモノ【(牜)】ハ其地ヲ数里激搏震|衝シテ終ニ火気ヲ発泄ス是尋常称スル所ノ地震ナリ》
《割書:火山ノ地震ハ常二多ク尋常ノ地震ハ稀ナリト雖トモ【(𪜈)】|其原異ナル事ナシ唯火気ヲ発蒸坑ヨリ発出スルト》
《割書:然ラサルト|ノ別ノミ》其蒸気恰モ煙窓ノ煤ノ如ク
【右頁】
通竅ノ裏面ニ附着シ且ツ其処ニ生ス
ル焔硝ト混知シ火ノ燃著シ易キ質ノ
物トナル之ヲ火鹸<割書:原名「コルスト」即チ皮売ノ|義ナリト雖□【□:トモ?】其質ノ>
<割書:硫黄硝石ヨリ成ルヲ|以テ今火鹸ト訳ス>ト名ク
火鹸ニ火ノ燃著スルニ三種ノ別アリ
○一ハ火石<割書:原名「ヒョール|ステーン」>ヨリ薫蒸スル所
熾熱ノ□【□:気?】ニ□【□:因?】ル是レ即チ硫黄ノ一種
ニシテ常ニ自ラ火□【□:炎?】□【□:炎?】発スルモノナリ
【左頁】
○二ハ地中ノ蒸□【□:炎?】火ノ如キ□熱ノ度ニ
至ルニ□【□:因?】ル○三ハ水大石ノ下ヲ潜流シ
儘マ其石ヲ□シテ傍辺ノ石ニ突触
スルヲ以テ火ヲ発スルニ□【□:因?】ル ○
既ニ其火鹸ニ火□【□:気?】燃著スル時ハ忽チ
火□【□:炎?】通竅内ニ逼迫シ迸出セン事ヲ欲
シ猛響ヲナシテ下ヨリ其地ヲ激搏震
衝シテ火□【□:気?】放出スルニ非レハ停マ
【右頁】
ス其ノ火鹸ハ一種ノ物ニシテ白【白:自?】然生
ノ銃薬トモ□【□:謂?】ツ可シ○火山ハ地下ニ
在ル所ノ火□【□:気?】過度ニ併聚セルヲ発出
スルノ道路ニ他ナラス○其発蒸坑ノ
広狭地下ニ過度併聚セル火□【□:気?】ヲ発出
スルニ□【□:足?】リテ障碍ナキ時ハ激搏震衝
ノ勢アル事ナリ唯□【□:煙?】ヲ起発スルノミ
ニメ【メ:シテ?】猛火ヲ噴発スル事ナシ「ヘシュヒウ
【左頁】
ス」山ニ於テ之ヲ徴証スル事ヲ得ル<割書:「ヨーハー|ンヒユ>
<割書:ブネル」曰ク「ヘシュヒウス」ハ高山ノ名「ソムス」ノ地ニアリ|テ「ナヘルス」ノ都城ヲ去ル事「イタリヤ」里ヲ以テ十八里>
<割書:「日本六里十八丁準ス」此ノ山常ニ煙ヲ出シ又時ア|ツテ火焔ヲ発スル事アリト地窠中ニ狭小ナル処アルヲ云>○若シ是レニ反シテ火石坑ノ狭小ナ
ル処アツテ過度ノ火□【□:気?】ヲ湊聚メ其ノ
□【□:気?】窓ヨリ発出スル事能ハサル□【□:トキ?】ハ火
□【□:気?】□閉迫閟シテ噴スル口ヲ得ンガ
爲ニ其地ヲ激搏震衝シ既ニ口ヲ得ル
【右頁】
□【□:トキ?】ハ忽チ其地ニ驚□【□:畏?】スヘキ猛響ヲ発
シ火焔ヲ噴起ス○其地震スル一団ノ
火□【□:気?】ノ噴発ニ他ナラサレハ素ヨリ限画ア
ツテ遠境ニ及ハサル事猶ヲ銃薬
庫ニ災アルトキニ火勢ノ達スル
事纔ニ一二里ニスキサルガ如シ
○「ヱトナ」<割書:「シヽリーン島|ノ高山ノ名>山ノ烈シキ発□【□:炎?】
シヽリーン」<割書:地中海|ノ嶌>ノ金嶌ヲ震
【左頁】
蕩ス然□【□:トモ?】僅ニ三四百里ヲ通震スルニ
過キス○「ヘシュヒウス」<割書:註前ニ|見ヘタリ>山ニ猛烈ナ
ル火□【□:炎?】ヲ発セシトキ其ノ近隣及ヒ「ナペ
ルス」<割書:註前ニ|見ヘタリ>ヲ震遥スル□【□:トキ?】「アルペシ」<割書:フラン|ケレイ>
<割書:キ」「トイツラント」ト【「:脱落?】イタリヤ」|トニ堺スル山ノ名>山「フランケレイキ」
<割書:「アウロツパ」中|ソ【ソ:ノ?】王国ノ名>等ニハ及ハス<割書:註以上ノ諸説ハ|火山発□【□:炎?】ノ地震>
<割書:ヲ兼ヌル|者ナリ>○地震ニ火山ノ発□【□:炎?】ヲ兼ル事
ナク一斎ニ数百里ヲ通震スル事。アリ
【右頁】
嘗テ「ヱンゲランド」<割書:「アウロツパ」|王国ノ名>「フラン
ケレイキ」<割書:註前ニ|見ヘタリ>「ホルランド」<割書:「アウロツパ」|中ノ候【候:侯?】国>「ド
イネヱラント」<割書:「エウロツパ」|中ノ王国>「ホンカレイン」<割書:「ヱウロツ|パ」中ノ>
<割書:王|国>諸国一斉ニ地震セシ事アリ其経
震ハ如此ノ遠界ニ達スト雖トモ其縛震
ノ及フ里数ハ之ニ比スレハ甚タ狭シ
千七百五十五年十一月<割書:日本宝暦五年|ニ当ル>朔日
ニ「リツサボン」<割書:「ポルユガル」|ノ邑都ノ名>ヲ頽□【□:毀?】セシ地震
【左頁】
ハ北ヨリ南ニ及ビ「アンゲリヤ」ノ里数ニテ二千五百里<割書:日本里数一千五十|里有余ニ準ス>ノ間ヲ猛
烈ニ通震ス乃チ「クルーンランド」<割書:【「:脱落?】アウロ|ツパ」ノ>
<割書:北ノ方ニ|アル国>ニ始リ夫ヨリ「トリニテ」<割書:未|詳>「ヘルロ」
<割書:「スコツトラン|ド」海ノ嶌ノ名>等ノ諸島「スコツトランド」<割書:「フリタ|ニヤ」二>
<割書:大嶌|ノ一>ノ西方一二ノ諸島「イヱルランド」<割書:同|上>
「アンゲランド」<割書:註前ニ|見ヘタリ>ノ西辺ヲ震遥シ又
夫ヨリ「ポルチュカル」<割書:註前ニ|見ヘタリ>及ヒ「スパンイ
【右頁】
ヱ」<割書:「ヱウロツパ」|中王国ノ名>一部分ヲ経テ「アフリカ」<割書:六|大>
<割書:洲ノ|一>ニ至リ「ヘズ」<割書:【「:脱落?】アフリカ」中|ノ王国ノ名>【「:脱落?】マロツエ」<割書:同|上>ヲ震
遥シテ南海ニ終レリ○凡ソ地震ノ震
遥スルヤ通竅中ニ火ヲ挙ル度ニ応シ
テ遠キニ達スル事ノ多少同シカラス
ト□【□:雖?】□【□:トモ?】一道ノ直条ニ貫震シ必ス猛烈
ニ轟声ヲ発スル事重載ノ車輪ヲ迅疾
ニ□走スル動響ノ如ノ然リ
【本文上部に追記】
【追記内容はコマ二六右頁中の一部とほぼ同じ】
【追記文】
其地震スルヤ一団
ノ火□【□:気?】ノ噴発ニ
他ナラサレハ素ヨリ
限画アツテ遠界
ニ及ハサルノ勺ト
前後
【左頁】
猛烈ナル地震ノ記
千六百九十三年ニ烈シキ地震ニテ「シ
シリーン」<割書:註前ニ|見ヘタリ>島ノ「カタネア」<割書:街衢|ノ名>ヲ全
ク頽壊シ○特リ「シヽリーン」<割書:註前ニ|見ヘタリ>ノ
ミナラス遠ク「ナペルス」<割書:註前ニ|見ヘタリ>「マルタ」<割書:地|中>
<割書:海ノ|島ノ名>ニ及ベリ○其震揺ニ因テ衆人立事
能ハスシテ□【□:顛?】仆シ地ニ□【□:臥?】スルトキハ撓
桃転環ノ□【□:宛?】モ巨涛ノ上ニ在ルカ如シ
【右頁】
之ヲ以テ其劇烈ナル事ヲ知ヌ可シ○
土地各処ヲ折裂シテ夥シク水ヲ滚湧
シ山岳ヨリ巌石ヲ震崩シテ転隨シ多
ク民屋ヲ毀ツニ依テ其中ニ圧死セラ
ルヽ者数ヲ知ラズ○海中ニハ怒涛大
ニ起激シ鳴響ヲ発シ殆ント驚畏スル
ニ堪タリ○「ヱトナ」<割書:註前ニ|見ヘタリ>山ハ恐怖スベ
キ火焔ヲ噴発シ其響□【□:宛?】モ雷ニ異ナラ
【左頁】
ス之ニ因テ有名ノ都邑村落五十四其
余許多ノ小村ヲ毀損セリ○嶌中ノ死
者ヲ総計スルニ凡六万人其中チ「カタ
ナ」<割書:註前ニ|見ヘタリ>ニ死セル人凡一万八千人ニ及
ヘリ○千七百四十六年ニ「ヘーリユ」<割書:南|ア>
【この後欄外下部に□で囲んで追記】
【追記文】
ニ於テ
【追記終わり】
<割書:メリカ中ノ|王国ノ名>「リマ」<割書:「ヘーリユー」|ノ都邑ノ名>及ヒ【「:脱落】カルラヲ」<割書:「リマ」ニ|屈【屈:属?】セル嶌ノ名>
ヲ劇ク地震シ○人家尽ク海底ニ沈
淪シ惟タ一塔ヲ残スノミニシテ居人
【右頁】
皆溺死ス○其港ニ繋泊セシ般【般:船?】ニト五
艘アリシニ四艘ヲ一里許リ陸上ニ激颺
シ余ハ尽ク波涛ニ僨淪セリ○「リマ」
<割書:註前ニ|見ヘタリ>ハ大邑トモ云ヘキ地ナレトモ僅ニ
二十七家ヲ存スルノミニメ【メ:シテ?】居人尽ク
圧殺セラレ殊ニ僧尼ノ輩多ク之ニ及
ブ蓋シ寺宇ハ高ク聳ヘ且ツ巨□【□:材?】ヲ用
テ経営セシ故ナリ○其震揺スル間ノ
【左頁】
長サ十五分時ノ一ニ逮ヘリ
千七百五十五年ノ地震ハ数百里ヲ通
震スト雖□【□:トモ?】特リ【リ:ニ?】「ポルチュガル」<割書:註前ニ|見ヘタリ>ノ
ミ猛烈ニシテ他国ハ甚シキ害ナシ是
必ス火【□:気?】深ク地底ニ悶メ【メ:シテ?】発セシモノ
ナルベシ」【」:不用?】○「ヲホルト」<割書:都邑ノ名蓋シ「ホルネ|ユル」ノ地ナラン未詳>居人其ノ将ニ震セントスル以前ノ轟
響ノ劇シキニ恐怖セザル者ナク且ツ其震
【右頁】
各処ノ煙窓十字柱等ヲ尽ク蕩墜ス○河岸
ノ開裂スル事凡六丈許ナリシガ其震
揺ノ中ニ再ヒ旧ニ復セリ○□テ海柵
<割書:原名「ホーム」内洋渡船ノ外洋ニ漂|出セサル為ニ設ル所ノ柵ナリ>外ニ泊セシ
二艘ノ大船其勢ニ乗シテ海柵ヲ逾へ
陸ニ上リ進テ河ニ入レリ○「マトリタ」
<割書:「スバシセ」|都邑ノ名>「セヒルレ」<割書:同|上>「カジキス」<割書:「スバンヒ」ノ|西南ノ鳴【鳴:嶋?】名>モ
共ニ一時ニ地震セシニ「カシキス」ノ海
【左頁】
ハ巨涛漲起シテ六七丈ノ髙サニ逮ヒ
海□羅郭西辺ノ巌石并ニ外濠ノ堤防
ニ激メ【メ:シテ?】女□【□:墻?】二十五丈許ヲ毀テ城内ニ
侵入シ全都ノ街衢ニ洪□【□:溢?】シ人民ノ死
亡セル事極テ夥シ
「リッサホン」<割書:「ホルチュカル」|ノ大都邑ノ名>ハ始メ八分時ノ間
劇シク震蕩シテ人立起スル事能ハス
多ク都下ノ大□【□:廈?】髙屋人家ヲ崩頽メ【メ:シテ?】其
下ニ死亡スル人凡五万人大地ノ淪□【喪?】
眼前ニ迫ル歟ト思ワルホトノ厳シ
猛響ヲ発セリ○其震ノ止ム事十五分時ニシテ
後震ヲ□【継?】キ其劇キ事前 震(エ□)ニ少【少:劣?】ラス○平地各
処ヲ拆裂メ【メ:シテ?】或ハ焔火ヲ起シ或ハ水ヲ湧シ
或ハ煙ヲ発シ殆ント恐怖ニ余
アリ○其ノ同時ニ河水数十尺ヲ
増シ滔漲メ【メ:シテ?】「ターク」<割書:「ホルチュクル」|ノ河ノ名>河ニ在シ
【左頁】
シ【シ:不用?】諸船ヲ蕩揺メ【メ:シテ?】覆シ両岸ノ屋舎ヲ震
傾メ【メ:シテ?】河中ニ顛堕スルニ因テ大半毀頽
シテ水底に淪没セリ
「ポルチュガル」并ニ「アルガルヘ」<割書:「ポルチュガル」ニ|属セル王国ノ名>中ニ
於テ之ヲ震スルノ微甚ハ異ナル事
有レトモ概メ【メ:シテ?】此ノ地震ノ曁ザル処ナ
ク有名ノ諸山ヲ震崩シ巨大ノ岩石ヲ
渓谷ニ転隕セリ○「ハロ」<割書:「ホルチュカル」|ノ大邑ノ名>ノ居人
【右頁】
頽屋ノ下ニ死亡スル者凡三千余人「マルラマ」
<割書:「ポルチュガル」|ノ大邑ノ名>「ホルトステマリア」<割書:未|詳>「ステ
リスガル」<割書:同|上>等ハ過半之ヲ頽毀ス○其ノ
地震ハ「スパンエ」「ホルチュケル」南海ノ浜
ニ進ミ海底ヲ潜震シ「アフリカ」ニ移リ
テ「アルガルヘ」ノ都邑各□【□:溢?】「バルハレイン」
<割書:「アフリカ」|ノ一部>ノ海浜ノ諸邑ヲ震シ○同時ニ
於テ其余ノ「アフリカ」ノ諸地并ニ「セイ
【本文上部に横倒しで追記】
【追記文】
「ボルナュカル」「ステーテン」ノステーテン」
「マリア」及「リユカル」<割書:ポルチュカルノ|町ナリ>
【筆記体のローマ字部分は翻刻できず】
【追記文終わり】
【左頁】
リーン」ノ各地モ亦タ大ニ地震ス
地震ノ考案 所能
【右脇に筆記体のローマ字で追記あり、翻刻できず】
千七百五十八年ニ「ペテルスピユルク」<割書:地|名>
ノ本然究理学校ノ督学「ロモノソウー」
先生ノ奉ル所ノ書中ニ地震ハ諸金ノ
成質ニ必用ナル事ヲ載セリ其書ニ云
ク総テ地球体中硫黄質ノ物ヲ充ツ之
レヨリシテ異常ノ煦熱及ヒ火□【□:気?】ヲ生
【右頁】
スル事火山ヲ以テ之ヲ徴スベシ○其
地中ノ硫黄□【□:気?】ヨリ火ヲ生シテ発洩ス
可キ口ヲ得サルトキハ閉悶セル□【□:気?】ノ噴
発努力ヲ増劇スルニ因テ激搏□【□:衝?】シ
テ地震ヲ発ス茲ニ於テ地中ニ空竅ヲ
成ス是レ所謂ル坑ニシテ其坑中ニ土
質ト塩質○ト混和セル物ヲ生ス其溶解
セル塩□【□:気?】ハ潜シテ河海ニ流出ス○坑
【本文上部に横倒しで追記】
【追記文】
尋常ノ土質及塩□【□:気?】ニテハ諸金石ノ性ニ
化スル事理会シカタシ
【追記文終わり】
【左頁】
中ニ結成スル○塩土二質ノ物経ル所ノ
火□【□:気?】ニヨツテ煎煉セラレ金石諸類<割書:原名|ミネ>
<割書:ラー|レン>ノ質ニ変シ○再ヒ火□【□:気?】ノ煎熬ニヨ
ツテ溶解シ諸金坑中ノ砿条ニ分輸ス
之ニ因テ坑中ニ諸金アル事ヲ得ル
地震ヲ仮造
此ノ法ハ火術家ヨリ伝フル所ニメ【メ:シテ?】自
然ノ激衝ニ異ナラサル地震ヲ起ス之
【本文上部に横倒しで追記】
【追記文】
前ニ塩□【□:気?】潜メ【メ:シテ?】河海ニ流出スレハ又是ニ塩□【□:気?】アルノ理明カナラス故ニ
【筆記体ローマ字:翻刻できず】ヨリーーーーー【筆記体ローマ字:翻刻できず】
マデハ【筆記体ローマ字:翻刻できず】ナルヘシ
【追記文終わり】
【右頁】
ヲ以テ前説ノ妄ナラザル事ヲ論ス可
シ其法
鉄砂一貫九百二十目硫黄同上
右些少ノ水ヲ以テ能ク煉和シテ餻
□【□:餅?】ノ稠原ニ至リ地ヲ掘ル事三四尺
ニメ【メ:シテ?】之ヲ埋ムベシ三時或ハ三時半ニ
メ【メ:シテ?】必ス地震ヲ起シ或は𤇆ヲ発シ
或ハ火炎ヲ挙ク○夫レ二種ノ冷物
【左頁】
ヲ以テ之ヲ埋ムルニ能ク如此ニ
震衝ヲ起スニ至ル然ルトキハ則チ
「アユトナ」山ノ発炎ト雖トモ此ノ合
剤ノ多量ナル者ニ他ナラサル事必
セリ故ニ其ノ気海底ニアツテ噴発
スルトキハ巨涛ヲ起シ大空密雲ノ中
ニアツテ激発スルトキハ電光雷鳴ヲ
為ス
【左右頁共に白紙】
【右頁白紙】
【左頁】
【右上】
ハ二十三
【右下】
【細字】
末
二千
三百
四三【三:見せ消し】十
五号
【細字下】
【赤字角印】
青木
印
【左端】
山鹿古先生由来記参考
【右頁白紙】
【左頁】
山鹿古先生由来記参考
一山鹿素行軒平義□平家物語ニ山鹿兵藤太
秀遠之末葉也後改藤原髙祐父山鹿六右衛門
ニ山鹿玄庵ト改医師ト成八十有余ニテ死去
也
一山鹿六右衛門先生ハ太閤秀吉時代ヨリ大名
関長門守殿五万石伊勢亀山也長門守殿跡
兵部殿子細有テ五万石五千石トナル右兵部殿
【右頁】
子孫関伊織殿当時定火消也
一関長門守殿家中山鹿六右衛門二百石ヲ領ス
子六人惣領惣左衛門<割書:但嫡子アリ|仙助ト云>三木惣右衞門
母津軽将監母<割書:津軽越中守殿|御家老>御徒衆之妻山鹿
甚五左衞門山鹿平馬<割書:松浦肥前守殿|御家老>右六人也
右山鹿六右衞門関長門守殿家中ニテ傍輩ヲ
討立退会津エ行其頃蒲生下野守家老町田
左近同長門父子ヘ便折有之節下野守殿へ
被召出候様ニト頼之掛リ居ル左近ハ三万也右之
【左頁】
左近長門父子懇意ニ致シ為合力二百五十石ヲ
送近習女房ヲ遣此腹ニ甚五左衞門平馬出生
也于時蒲生殿家潰レ候其節町田左近五千
石ニテ
大猷院様エ被召出左近殿新組与力廿騎同心
五十人被仰付候依之左近殿肝煎ニテ六右衞門
ヲ与力ニ入可_レ給ト有之候得共達テ辞退惣領
惣左衞門ヲ与力ニ成シ自分ハ医師ト成嫡子
仙助ハ甚五左衞門殿守立為養子甚五衞殿ハ
【右頁】
浅野内匠頭ヨリ牢人以後内匠頭殿ヨリ合力モ
有之候ニ付御無心中惣左衞門子仙助ヲ内匠頭
殿ヘ被召出新知四百石給ル其時仙助十五歳在所
播州赤穂ニテ屋鋪被下普請最中仙助疱瘡
相煩死去依之断絶也惣左衞門与力ニ有附不
申候内之事故仙助ヲ甚五左衞門殿為養子
浅野内匠頭殿ヘ出シ申候
一山鹿甚五左衞門殿幼名佐太郎後手跡之師文
三郎ト名付ル六歳ヨリ読書拾一歳ヨリ講釈ヲ
【左頁】
仕ル拾二歳ノ時林道春ヨリ見台ヲ許サル十六歳
ヨリ御徒頭北条新蔵殿御門弟ニ成兵学修行
三年目ニ免許ヲ取新蔵殿御持筒頭其後大目付
御役□【□:替?】北条安房守殿ト申候御役用多ニ付惣テ
安房守殿御門弟甚五左衞門殿ヘ御引付ナリ
一山鹿甚五左衞門殿初浅野内匠頭殿ヘ千石ニテ被召出候
其後願ニテ牢人甥仙助ヲ願被召出候事委細前条
之通也甚五左衛門殿牢人以後牛込和瀬田ニ住居也
甚五左衛門殿元和八年壬戌年誕生明暦二丙申年
【右頁】
三拾五歳ニテ全書述作有寛文六丙午年十月三日
浅野殿ヘ御預ケニテ在所播州赤穂ニ拾年住居右
十年ノ間ハ寛文六午七未八申九酉十戌十一亥十二子
延宝元丑二寅三卯四辰年
御免江戸へ帰浅草田原町三町目ニ屋鋪ヲ調住居
<割書:表口十七八間|二十二三間>先住之残シ置所之額有之積徳堂之
三字有依之人多積徳堂ト唱
御免以後十年目死去貞享二乙丑九月廿六日也六拾
四歳牛込和瀬田禅宗宗三寺ニ墓所有
【左頁】
月海院瑚光浄珊居士
一甚五左衞門殿二女一男有津軽将監妻
津軽平十郎妻山鹿藤助也
一山鹿藤助殿松浦肥前守殿ヨリ扶持御合力有之元文
三戊午年三月十九日七拾三歳ニテ死去
至徳院活水真竜居士右同寺ニ墓所有
一藤助殿三子有山鹿源之進今藤助ト云
松浦殿ヨリ御合力<割書:近年御家来ニ成延享元子年中老トナル|御在所ヘ行ク>
次男佐々木源次郎<割書:大御番衆之由叔父名跡|六百石高之由>
【右頁】
三男山鹿甚蔵<割書:甚蔵ハ藤堂和泉守殿ヘ被召出廿人扶持被下|毛利之養子トナル毛利甚蔵ト名乗後和泉守殿|永沼久太夫養子ニ被申付>
右之趣三木惣右衞門物語ニテ古先生之出所及
𣴎候訳如期旦又当先生之儀有増者補テ記置者
也
元文三戊午五月日 稲葉則通
【左頁】
参考
此書ハ稲葉源太夫則通ノ記シ置処也稲葉氏ハ藤介
高基ノ門人水戸ノ家士也参考ハ時良作也山鹿
兵藤太秀遠平家物語十一巻遠矢ノ箇条ニ出
素行ノ二字時良按ルニ孫子行軍篇曰今素行以
教其民則民服ト云云蓋此語ニヨルモノカ義□本朝
武芸正伝曰山鹿甚五左衞門義矩者後改高祐
就_二北条氏長_一得_二兵法奥秘_一大鳴暫仕_二浅野釆女
正長友_一領米邑千石後致仕スト云
【右頁】
素行先生元和八壬戌年八月庚戌日出生嶋原ノ一揆
御退治ハ素行子十七歳ノ時也ト云由井正雪御仕
置先生三十歳ノ時也此書ニハ十六歳ノ時北条新蔵
門弟ニナルトアリ配所残筆ニハ八歳ノ時四書五経七書
詩文ノ書大方読覚候九歳ノ時林道春ノ門ニ入十五
歳ト時尾畑勘兵衞殿北条安房守殿ヘ逢兵法稽古
□【□:修?】行セシム廿歳ヨリ内ニテ北条安房守殿筆者ニテ
尾畑勘兵衞殿印免之状給リ候廿一歳ノ時勘兵衞殿
印可被仕テ殊更門弟中一人モ無之印可之副状ト
【左頁】
申ヲ我等ニ被_レ与候ト有_レ之此書ト少違フ○素行子
四十五歳ノ時淺野家エ御預ケ五十五歳ノ時御免○
始先生淺野家ヘ召出サレタルハ慶安四辛卯年素行
子三十ノ歳ナリ十年ノ間勤仕万治三庚子年三十九歳
ノ時知行断テ浪人アリ寛政二庚戌年時良山鹿藤助
高忠ニ謁シテ委敷物語スル其次而ニ尋テ聞処在ノ如シ
○山鹿源之進三男アリ惣領文三郎次男左藤治三男
藤蔵ト云惣領文三郎早世二男左藤治跡ヲ次ク処又
程ナク病死三男藤蔵順養子トナル右藤蔵子ナシ因テ
【右頁】
今高忠ヲ養子トス高忠実方ハ素行子ノ弟平馬ノ
跡ナリ是亦松浦家ニ仕フ
牛込早稲田宗三寺 <割書:時良先生寛政六甲寅年閏十一月|廿二日参詣ノ時写之モノナリ>
素行先生石碑背文如左
先考名高祐藤姓山鹿氏別號素行子元和
壬戌載八月庚戌 歾(本ノミ)貞享乙丑年九月癸未
孤子<割書:政實|高基>泣血稽願立
【左頁】
頭書ニ少充相違之儀モ可有之候先承及候通記置申候
此書付妄ニ他見勿伝
【頁末】
参考山鹿由来記終
【右頁白紙】
【左頁】
【右上】
百二十一の二【数字は算用数字】
【右下】
【細字】
末
二千
四百
三十
二号
【細字下】
【赤字角印】
青木
印
【左端】
三子孝状
【左右頁共に白紙】
【右頁】
【大字篆書体】
三子
孝状
【左頁】
【枠外右下】
孝
【本文】
江州阪田郡口分田邑。係吾封内。其民藤
兵衛。家貧乏而僅耕田一畝。傭作二畝。有
男曰清五郎。二女長染季悦。皆有至性。清
稼穡苦□【□:辛?】。而昼苐宵索。其務□【□:過?】人。姉妹力
蚕織。不梳不粉。三子同心供養。夙夜無怠。
母風痺滞病十余年。帯不能自結。手不持
器。三子代侍養。先意察色。母忘其病。嘗遇
【右頁】
□【□:凶?】歳。三子藜藿不厭。而奉養如常。必以白
粲。母不知饑歳。近隣或憐与布粟焉。長浜
祀日。観者如堵。父慰清之劬労。将同往。清
使父先往。因自謂今饑渇之患。在旦夕。稼
穡方急。寸陰不可怠也。辞則傷父意。不辞
則如母病何。遂不往。耕耘終日在田畝。及
父帰。謝以其故。父深感喜焉。又有佛刹営
【左頁】
【枠外右下】
百
【本文】
搆之事。戸々往傭。清父子□【□:無?】与焉。父曰。今
日我使爾休矣。清曰。是非佗。仏祖之事。固
請而往。竣事。疾帰而耕耘。其用心労力。率
如此。母□【□:舊=旧?】風発動。且病痢危殆。三子調護
最至。或夜潜浣滌中帬茵蓐務令潔清。不
使人見焉。近隣有贈糕者。母疾已革。三子
在側。不忍坐視曰。餻其所嗜。或得啖与乃
【右頁】
取少許。以指柱歯而含之。不下咽而絶。三
子悲哀曰。今而後。母之余不□復餕也。因
摘出口中之餻。今而食之。近隣吊者咸曰。
多年竭力。於三子盡矣。三子同辞答曰。□【□:凶?】
荒不得如意。天不仮数年以伸我情。是終
身之恨也。乃伏地号慟。聞者皆隕淚。今茲
辛㐪【亥】之冬。邑宰以其状報。時男清。二十有
【左頁】
【枠外右下】
行
【本文】
一歳。姉染。二十有三歳。妹悅。十有八歳。予
感動流涕。賞以米穀。乃欲使群臣及封内
子弟。敦孝弟以重人倫。因記其事。且告諭
曰。夫孝者先王之至徳要道也。人民之髙
行也。教莫先焉。道莫大焉。天下無有無父
母之人。父母者天也。父生我。母鞠我。人生
而未離父母之懐抱。寒則欲衣。飢則欲食。
【右頁】
疾痛則欲撫摩。痒■【疴カ】則欲抑掻。而未能宣
以言。父母之至誠。為保抱携持。察之乳晡
察之起臥。孩笑啼笑。一喜一憂。瞬息之頃。
無不有撫育之恩。能言能行。教導反覆。不
能暫舎。至於成人也。為冠為昏。為営生理。
百計千方。心力労■【癖瘁?】矣。父母之於子。天下
皆是也。子之於父母。何■【獨カ】不思之哉。夫父
【左頁】
【枠外右下】
之
【本文】
子之道。天性也曰忠曰順曰孝曰悌。不外
于天性。故曰。事君不忠。非孝也。□【□:莅?】宦不敬。
非孝也。朋友不信。非孝也。戦陣無勇。非孝
也。生乎由是。死乎由是。□【□:公?】私内外。出入応
接。莫非孝也。今聞三子之至誠。而体之。則
誰不感発興起哉。是非天降地出之所能。
非教習之所能。以至性体至誠。人情之実
【右頁】
也。所以人々無性之異也。伝曰。道不遠人。
□之為道而遠人。不可以為道。烏呼往者
不可及。来者猶□追。自今吾士吾民。孝爾
父母。敬爾兄長。教訓爾子孫。和順爾□【□:郷?】里。
務重爾稼穡。母博奕飲酒。母争訟闘□【□:狼?】。母
好財侈奢。母戯怠淫朋。善相勧勉。悪相告
戒。為忠敬之士。為循良之民。共以成仁厚
【左頁】
【枠外右下】
源
【本文】
之俗云爾。賛曰。
惟茲三子。忘労尽力。困乏不□【□:撓?】。報天罔極。
士乎農乎。傚爾至徳。
寛政辛亥年臘月十九日
従五位下朝散大夫堀田豊前守紀正穀
【寛政武鑑によれば、江州坂田郡宮川藩主一万三千石、御定府】
撰□【□:弄?】書
【角印】宮川矦印、【角印】正穀之印、【角印】□□
【左右頁共に白紙】
【右頁白紙】
【左頁】
【右上】
三二【算用数字】
【左端】
武野氏女
記観命事 風馬附
【右頁白紙】
【左頁】
記観命事
観命者武野女子也年既長不笄不嫁■【鑽カ】髪
而素衣無膏沢粉飾日以奉神事仏為醮
斎能洞知人□【□:胷?】中所想憶指擿其情皆靡
不【不:追記】黯然心眼也人有忮心則末及門便建杖而
逐之敬信而来者則能為之指陳其禍福
事之後当成敗若鏡照而著揲久而後皆
有験必改新衣仰胆日而後言纚々可聴
也里人皆畏而神之里有観音大士祠圮
【右頁】
穨将■【癈カ】観命為之募縁聚其射而新之
奉其䟽而□募謂其人曰汝施金若干
甚好曰汝欲輸村幾件甚好皆如其人心所
思皆恐惶而聴従不日而落成輪□【□:爰?】翬飛
近邑無有也堂中塑観命仰胆日挙手
障其光像安之今茲文政癸未二月十五日
天火災其廬僧文啔在其里金泉寺是日
聚僧供涅□【□:槃?】会撞鐘撃鼓将讃唄闔村
皆集俄而火起皆走而救之既燼□【□:焉?】観
【左頁】
命抱膝而坐化蓋年八十有余金泉長老無隠
曰命所奉者天狐神也天狐神者風馬曰
三狐神一曰天狐二曰地狐三曰紫狐今駿
府市尹牧野君安永天明聞猶見風馬
蓋如七十許人云風馬者人皆葛而貂裘或
遺之葛則裘其坂裘於溝中之■【瘠カ】者人
皆裘而猶葛或衣之裘則橋下之□【□:乞?】匃
得葛而喜一貴家之女公子疾病医祷束
手無知所出者薦風馬ハ□【□:哢?】符有神験者公
【右頁】
召而咨之風馬曰尊痾無何也去年某月
某日御海鰕入胃而不消致斯疾也我符投
之貴恙今起公悦乃命符且命太官閲去
歳膳羞帳籍羞杲羞海鰕皆大驚無■【幾カ】女公子
痊矣公欲禄風馬辞不受乃表之則道路人
亦獲其故衣也公欲賞風馬辞僅受小版
三両而帰々則靡之𤇆花不毫留于家也
於是風馬之聲焜燿遠近乞符謁禳者
屨相属也而風馬名常在尓家也公益神而
【左頁】
奇之一日謂曰封彊之内得無有故焉乎
風馬対曰貴封之都甲与乙忿諍相刃于
朝其坂云々事猝起今朝不早判之党与
角立宣裁之甲與乙重臣也公立命使遣
之裁断其事告変者相遇于半途国老
以下驚眼公之神明也一日請符者跡風馬
馬方在吉原娼家而飮曰符不可得也余在
婬房不潔請帰家斎而書之請者曰病危
篤在旦夕不可緩恐有不諱叩頭哀求風馬
【右頁】
憐之為書符有若𤇆者起于符工真沖
虚而散遂失其術爾後書符無験也言事
不中也□【□:頽?】然一老翁而已無他技也然以其
耇耊而健也諸侯争招致之年且百有余
歳猶無恙也為賜金褒賞云云自言余
所奉者紫狐神也触媟嬻而失之焉蓋奉
狐神者不貪財也貪則共術不嬻色也嬻□
致禍如風馬家無留財観命売薬而不
弐価不畜奴婢者皆是巳金泉寺在新座
【左頁】
郡新倉村文啔駿府宝泰寺僧也為余語如此
村史氏云俗聞相伝野狐千歳為白狐云云
千歳為玄々狐々千歳為風狐所□天狐豈当
狐邪玄狐当地狐邪捜神記称千歳老
狐化為婦人自称阿紫則紫狐即白狐中之
一種邪風馬以媟嬻失術当罰也而寿考
観命以謹敬崇奉焉当賞也而焚死我何
以知其賞罰之所在邪意者狐狸之政固殊
【右頁】
平人之所為耶将焚之災之□所以賞之
邪仏家之所謂火定三昧者耶
【左頁白紙】
【右頁白紙】
【左頁】
【右上】
百十七【算用数字】
【右下】
【細字】
末
二千
四百
六十
九号
【細字下】
【赤字角印】
青木
印
【左端】
超岳院儀同殿添削
【右頁白紙】
【左頁】
題堀河
老後百首<割書:宝永辛卯自正月晦日至二月二日|六時許>
立春 平清上
〽わかえぬと世【世:左脇に〻見せ消し】・【・:人】にいはれぬ・か【ぬか:それぞれ左脇に〻見せ消し】【・:て】老の身もけさ立春そ心のとけき
【添削結果:わかえぬと人にいはれて老の身もけさ立春そ心のとけき】
□【□:鴬?】
〽三【三:追記】めつらしと四【四:追記】はつねに心五【五:追記】のはへ今の【今の:それぞれ左脇に〻見せ消し】てかきく【てかきく:追記】一【一:追記】 身はかねてよの【かねてよの:それぞれ左脇に〻見せ消し】老の・【・:二春の】うくいす
【添削結果:身は老の春のうくいすめつらしとはつねに心のはへてかきく】
若菜
〽いく春の袖にふれつゝ老に猶野辺のわかなをつみそそへぬる
【右頁】
残雪
〽わか草・【・:のうへ】に残れ【れ:左脇に〻見せ消し】るはやく消ゆ今と【ゆ今と:それぞれ左脇に〻見せ消し】て【て:追記】老のかしらの雪そつれなき
【添削結果:わか草のうへに残るはやく消て老のかしらの雪そつれなき】
早蕨
〽かすむ野のわらひ折にと行賎のあゆみも老はうらやまれぬる
花
〽花に猶心そとむる老いけに【けに:それぞれ左脇に〻見せ消し】又【又:追記】のこれ【これ:それぞれ左脇に〻見せ消し】ちみむ【ちみむ:追記】か春の数もあらしと
【添削結果:花に猶心そといろ老い又のちみむか春の数もあらしと】
菫
〽三【三:追記】一夜ねんその【その:それぞれ左脇に〻見せ消し】一【一:追記】ふることも二おもひ出てやわすられてとみる【わすられてとみる:それぞれ左脇に〻見せ消し】老・【・:の袂】もすみれ□野に
【添削結果:ふることもおもひ出てや一夜ねん老の袂もすみれ□野に】
【左頁】
杜若
〽なつかしと見し面・影は【面影は:それぞれ左脇に〻見せ消し】【・:よのまくの】かきつはた五【五:追記】老もへたてぬ【ぬ:左脇に〻見せ消し】す四【す四:追記】花のむらさき【むらさき:それぞれ左脇に〻見せ消し】うたつは【うたつは:追記】
【添削結果:なつかしと見しよのまくのかきつはた花のうたつは老もへたてす】
款冬【つわぶき】
〽年を経・【・:てなれ】し名残【名残:それぞれ左脇に〻見せ消し】を花も思ふとやいはぬ色にも□□のい吹
【添削結果:年を経てなれしを花も思ふとやいはぬ色にも□□のい吹】
葵
〽二葉てふ名もなつかしきあふひ草老はわきても【も:左脇に〻見せ消し】や【や:追記】猶あふく也【あふく也:それぞれ左脇に〻見せ消し】かさくまし【かさくまし:追記】
【添削結果:二葉てふ名もなつかしきあふひ草老はわきてや猶かさくまし】
郭公
〽名のりてもししすかな【すかな:それぞれ左脇に〻見せ消し】きか物【きか物:追記】とや時鳥老の家をとはれ【家をとはれ:それぞれ左脇に〻見せ消し】はなれさへよそに【はなれさへよそに:追記】過ぬか
【添削結果:名のりてもししきか物とや時鳥老のはなれさへよそに過ぬか】
【右頁】
菖蒲
〽軒端たへふりにし我もきふてとに【てとに:それぞれ左脇に〻見せ消し】はまた【はまた:追記】ふけるあやめに老をすて【をすて:それぞれ左脇に〻見せ消し】やさん【やさん:追記】
【添削結果:軒端たへふりにし我もきふはまたふけるあやめに老やさん】
盧橘【ろきつ:ナツミカン又はキンカン】
〽遠きをは【遠きをは:それぞれ左脇に〻見せ消し】ねさめして【ねさめして:追記】花橘に【に:左脇に〻見せ消し】の【の:追記】におはやて【はやて:それぞれ左脇に〻見せ消し】ふよは【ふよは:追記】老の常そさらに恋しき
【添削結果:ねさめして花橘のにおふよは老の常そさらに恋しき】
蓮
〽風かほる池のはちすは老しく乃【乃:左脇に〻見せ消し】・【・:もなれを】心の□【□:花?】ととひ【ととひ:それぞれ左脇に〻見せ消し】になさ【になさ:追記】りけはや
【添削結果:風かほる池のはちすは老しくもなれを心の□【□:花?】になさりけはや】
泉
〽わきかへり□のいつみに老の世の心のあか【あか:それぞれ左脇に〻見せ消し】ちり【ちり:追記】もきよめつるかな【きよめつるかな:それぞれ左脇に〻見せ消し】あらふ涼しさ【あらふ涼しさ:追記】
【添削結果:わきかへり□のいつみに老の世の心のちりもあらふ涼しさ】
【左頁】
立秋
〽ことしたに【たに:それぞれ左脇に〻見せ消し】さへ【さへ:追記】なかは過ぬと秋風もわきて身にしむ老の衣も
【添削結果:ことしさへなかは過ぬと秋風もわきて身にしむ老の衣も】
七夕
〽天川<割書:絶ぬ|ふかき>□をわかよはひやそせの□・【・:乃秋かけこ】にくみて【くみて:それぞれ左脇に〻見せ消し】しらなく【らなく:それぞれ左脇に〻見せ消し】
【添削結果:天川<割書:絶ぬ|ふかき>□をわかよはひやそせの□乃秋かけこにし】
萩
〽いく状か老の心をそむれ【むれ:それぞれ左脇に〻見せ消し】めきて【めきて:追記】とも秋にのこらぬ萩乃花すか
【添削結果:いく状か老の心をそめきてとも秋にのこらぬ萩乃花すか】
蘭
〽かにめてくきてこそ見つれ前はかまたりふし【たりふし:それぞれ左脇に〻見せ消し】れをも【れをも:追記】わかぬ老の身なれと
【添削結果:かにめてくきてこそ見つれ前はかまれをもわかぬ老の身なれと】
【右頁】
萩
〽軒ちかみ老の耳たにおゝつくや秋を告ぬ【を告ぬ:それぞれ左脇に〻見せ消し】さやかな【さやかな:追記】る萩の上風
【添削結果:軒ちかみ老の耳たにおゝつくや秋さやかなる萩の上風】
雁
〽なれときた老は口さてやらひぬこの世なかのその哀さ
朝顔
〽□【□:な?】かき夜の寝覚なかにおき出る【る:左脇に〻見せ消し】て【て:追記】老は見・【・:たる】る朝顔の花
【添削結果:□【□:な?】かき夜の寝覚なかにおき出て老は見たるる朝顔の花】
擣衣【砧(きぬた)で衣を打つこと】
〽老らくの枕にちかき砧にそよその□【□:夜?】さむも更にしゝなく
【左頁】
虫
〽・【・:なく】むしの音の【音の:それぞれ左脇に〻見せ消し】よは頭を老になそらへて【になそらへて:それぞれ左脇に〻見せ消し】のたくひに【のたくひに:追記】友も【も:追記】きくねかそのすかや
【添削結果:なくむしのよは頭を老のたくひに友もきくねかそのすかや】
初冬
〽月花の折もさひしき老に又へるき冬の【の:左脇に〻見せ消し】も【も:追記】今朝はきにけり
【添削結果:月花の折もさひしき老に又へるき冬も今朝はきにけり】
時雨
〽時のまにうつりりかくれる【にうつりりかくれる:それぞれ左脇に〻見せ消し】のそらさためなき【のそらさためなき:追記】時雨にも老の性こそ濡まさりけれ
【添削結果:時のまのそらさためなき時雨にも老の性こそ濡まさりけれ】
雪
〽降はれし雪も友待夕くれをとはれぬ老の宿の寂しき
【右頁】
寒蘆
〽難波江やつのくむ芦のいつのまに枯しと老になかめそへぬる
炭竃
〽おく山のすみやく煙一すしに□ほ□さは老にかはらし
炉火
〽うつみ火の【の:左脇に〻見せ消し】も【も:追記】友・【・:と】ならなく【なく:それぞれ左脇に〻見せ消し】す【す:追記】はいかにして老のね覚を忍ひはてまし
【添削結果:うつみ火も友とならすはいかにして老のね覚を忍ひはてまし】
忍恋
〽ゆふへく心引れつはなけくかな軒のしのふ・【・:の露】をうかめやの【やの:それぞれ左脇に〻見せ消し】ても【も:左脇に〻見せ消し】
【添削結果:ゆふへく心引れつはなけくかな軒のしのふの露をうかめて】
【左頁】
片恋
〽みすや人磯辺の岩のつれなきによをてくたつか浪のたらぬ【たらぬ:それぞれ左脇に〻見せ消し】□路【□路:追記】を
【添削結果:みすや人磯辺の岩のつれなきによをてくたつか浪の□路を】
恨恋
〽海士も【海士も:それぞれ左脇に〻見せ消し】う・【・:きはたく】しや【しや:それぞれ左脇に〻見せ消し】藻にすむ虫のわれかくとおもひしれともうらみはてぬる
【添削結果:うきはたく藻にすむ虫のわれかくとおもひしれともうらみはてぬる】
鶴
〽寝覚する老の枕に落にけり【落にけり:それぞれ左脇に〻見せ消し】かよひきぬ【かよひきぬ:追記】雲井の鶴の子をとふ声
【添削結果:寝覚する老の枕にかよひきぬ雲井の鶴の子をとふ声】
川
〽飛鳥川あすこそしらねけふまてはなかれてわたる老に【に:左脇に〻見せ消し】の月日【の月日:追記】も有かな【かな:それぞれ左脇に〻見せ消し】
【添削結果:飛鳥川あすこそしらねけふまてはなかれてわたる老の月日も有】
【右頁】
橋
〽老の世にかけてこそみれ年月をわたるも久し勢田の長橋
山家
〽もとよりも世になくさまぬ老の身はわきて住へき山陰の庵
懐旧
〽はちぬへきわかよの事を【を:左脇に見せ消しマークは付けられていないが、追記に変更せよということか?】・【・:も】心はすも【心はすも:それぞれ左脇に〻見せ消し】人は【は:左脇に〻見せ消し】にか【に:追記】昔と【と:左脇に〻見せ消し】を三【を三:追記】したひて【て:左脇に〻見せ消し】きく五のるり出つる【五のるり出つる:追記】
【添削結果:はちぬへきわかよの事もしたひきく人に昔をのるり出つる】
【左脇に追記文】
心の程はかくす明から
如此候
世之常
〽つねなさの数つもり【つもり:それぞれ左脇に〻見せ消し】見はて【見はて:追記】ぬる老の身にはか【はか:それぞれ左脇に〻見せ消し】ありとて【ありとて:追記】なき世をはいかて【て:左脇に〻見せ消し】か【か:追記】たのまむ
【添削結果:つねなさの数見はてぬる老の身にありとてなき世をはいかかたのまむ】
【左脇に追記文】
うち過んも如何にておしはかりて
如此候
【左頁】
愚訂三十九首
実陰【陰:隆?】
【右頁】
恨恋
恋すてふことは五の常ならてはつか老にはことの葉うな其
五の常をはなれては□乱の方に□
まことの恋の情にあらすと心得飛己紅
此は其理ふかき
候
【左頁白紙】
【右頁】
【左上角】
千【又はチ】
【左頁】
【右上】
六十一【算用数字】
【右下】
【細字】
末
二千
五百
八十
四号
【細字下】
【赤字角印】
青木
印
【左端】
天寛日記并別記凡例 原稿
【右頁白紙】
【左頁】
天寛日記
凡例
一凡【凡:四角枠で囲む】書は【は:追記】天正十八年八月朔日より寛永七年
十二月 日【日:四角枠で囲む】にいたり【り:左脇に〻見せ消し】るま【るま:追記】て四十二【二:左脇に〻見せ消し】一【一:追記】年の間の事・【・:諸記録をし【し:左脇に〻見せ消し】参考し】て□記しぬ
【清記文】
【一凡【凡:四角枠で囲む】書は天正十八年八月朔日より寛永七年
十二月 日【日:四角枠で囲む】にいたるまて四十一年の間の事諸記録を参考して□記しぬ】
一凡【凡:四角枠で囲む】諸記【記:左脇に〻見せ消し】書【書:追記】に出【出:左脇に〻見せ消し】見え【見え:追記】たる事良【良:追記】文体【体:左脇に〻見せ消し】をその侭に【その侭に:それぞれ左脇に〻見せ消し】改めす【改めす:追記】写取りて【りて:それぞれ左脇に〻見せ消し】
記し【記し:それぞれ左脇に〻見せ消し】其書の【の:左脇に〻見せ消し】名をは【は:左脇に〻見せ消し】小字に【字に:それぞれ左脇に〻見せ消し】注してその出所を
知らしむ【知らしむ:それぞれ左脇に〻見せ消し】□にす
但し諸書の記す所首尾を断して此らの目するは原文のままにて通し難きはいさゝか
文字を加へたるもあり。【以下の文は次頁冒頭へ】
【清記文】
【一凡【凡:四角枠で囲む】諸書に見えたる事良文を改めす写取
其書名を小注してその出所を□にす
但し諸書の記す所首尾を断して此らの目するは原文のままにて通し難きはいさゝか
文字を加へたるもあり。】
【右頁】
それは彼記は【前頁末尾より移動】
連綿したる物なれば前後の照意にて
それと知らるれとも今爰に一句一章を
きり取りて記し又次に他の事をも交へ
記すなれはその人の名なくては誰か事
とも見分難き事もあれは也。
たとへは国師日記にとり其序と記すことなくて之【之:左脇に〻見せ消し】此【此:追記】に
記すには金地院其序と記・【・:し】をし【し:左脇に〻見せ消し】る【る:追記】類(タクヒ)・【・:是】なり
【清記文】
それは彼記は
連綿したる物なれば前後の照意にて
それと知らるれとも今爰に【いまここに】一句一章を
きり取りて記し又次に他の事をも交へ
記すなれはその人の名なくては誰か事
とも見分難き事もあれは也。
たとへは国師日記にとり其序と記すことなくて此に
記すには金地院其序と記しをる類(タクヒ)是なり
一一事記【記:上に〻見せ消し】の数【の数:追記】書に出たる事【事:左脇に〻見せ消し】は事な【な:左脇に〻見せ消し】正【正:追記】き実記の【実記の:左脇に〻見せ消し】
かたをとる也さ【とる也さ:左脇に〻見せ消し】採用せり然【採用せり然:追記】れとも【も:追記】事実疑も【も:左脇に〻見せ消し】なきは歉なる
【清記文】
一一事の数書に出たるは事正きかたを採用せり然れとも事実疑なきは歉なる
【本文の左上に追記】
舞意そく
御礼申と
いふこと□□
□此は
神龍院
□れ申と
き
【左頁】
かたをはを【を:左脇に〻見せ消し】ふ【ふ:追記】きてま【ま:左脇に〻見せ消し】精【精:追記】きかたを取りたるあり【取りたるあり:左脇に〻見せ消し】とれるもなそゝみらす又【とれるもなそゝみらす又:追記】
又【又:左脇に〻見せ消し】事は一事は一ツ事なるを【は一ツ事なるを:左脇に〻見せ消し】を記して月【を記して月:追記】日に異るあり【に異るあり:追記】或は
年を違へ【違へ:左脇に〻見せ消し】隔【隔:追記】て諸書に出た【た:左脇に〻見せ消し】せ【せ:追記】る事あり是に【事あり是に:左脇に〻見せ消し】類【類:追記】は
国師日記後序記にの実【実:左脇に〻見せ消し】当時の之も【当時の之も:追記】記につきて新記の【の:左脇に〻見せ消し】
方【方:左脇に〻見せ消し】をは取らすされど拠るへきかた【かた:左脇に〻見せ消し】書【書:追記】なき・【・:時】は始に
出【出:左脇に〻見せ消し】み【み:追記】たるかたを・【・:先】しるしてその下に他書の異同
を註しおきぬ【しおきぬ:左脇に〻見せ消し】せり
【清記文】
かたをはふきて精きかたをとれるもなそゝみらす【★なきにあらす?】又事は一事を記して月日に異るあり或は年を隔て諸書に出せる類は国師日記後序記に【★序記等?】の当時の之も記につきて新記をは取らすされど拠るへき書なき時は始にみたるかたを先しるしてその下に他書の異同を註せり
一日記は【日記は:追記】凡事を記す事諸記に出たる侭に記すといへども
事長きはその大綱を挙【挙:追記】日記に記し細事は
【清記文】
一日記は凡事を記す事諸記に出たる侭に記すといへども事長きはその大綱を挙日記に記し細事は
【本文の右脇および右上に追記】
○諸諸【諸:左脇に〻見せ消し】詳畧これの事の詳□に様々いてこ也詳の中に
畧あり畧の中に詳あるは
その事を採
用して【て:左脇に〻見せ消し】□くの十
分はして
き□る□
しむ
【右頁】
別記せり栽別記すたとへは御三家□□はしめ諸
大名の館へ渡御の次第
日記に出【日記に出:左脇に〻見せ消し】記【記:追記】しこの時の御饗応の次第□
賜の品々にくたし【たし:左脇に〻見せ消し】は【は:追記】しき事をは□く
或は御感状又【又:左脇に〻見せ消し】或【或:追記】は領地の御判
物及書に皆前記に【に:左脇に〻見せ消し】□□□の事□
御□書を給ふとはかり記してその文□にはみな
【清記文】
別記せり栽別記すたとへは御三家□□はしめ諸大名の館へ渡御の次第記しこの時の御饗応の次第□賜の品々にくはしき事をは□く或は御感状或は領地の御判物及書に皆前記□□□の事□御□書を給ふとはかり記してその文□にはみな
【本文の左上に追記】
□来の
文書
【左頁】
別記に記しをきぬ
一殿中の事は
上の事は申に及はすすくに
皆日記に記し他事は
ことことく別記に記【記:左脇に〻見せ消し】□【□:追記】し□たとへは
大坂の役はは
仰によりてあらをの事【あらをの事:左脇に〻見せ消し】なし【なし:追記】
志【志:左脇に〻見せ消し】たるといふは日記にしるし御【御:追記】先手の働き
にも元和年縁あるよりて只その大略をのみ日記には【日記には:追記】
記しをき多くの軍士銘々【銘々:左脇に〻見せ消し】自己【自己:追記】の働きは
【清記文】
別記に記しをきぬ
一殿中の事は上の事は申に及はすすくに皆日記に記し他事はことことく別記に□し□たとへは大坂の役はは仰によりてなしたるといふは日記にしるし御先手の働きにも元和年縁あるよりて只その大略をのみ日記には記しをき多くの軍士自己働きは
【右頁】
皆別記にしるしをきたり【たり:左脇に〻見せ消し】ぬ【ぬ:追記】又上の【上の:左脇に〻見せ消し】□【□:追記】事に
かくかく思事とて【かくかく思事とて:左脇に〻見せ消し】あるといへと【あるといへと:追記】も聞たることも
新□はたこく別記にしるしをきたる
ことも○あり事きたならす
【清記文】
皆別記にしるしをきぬ又□事にあるといへとも聞たることも新□はたこく別記にしるしをきたることも○あり事きたならす
一日記は記事なき日は只【は只:左脇に〻見せ消し】も【も:追記】ふ【ふ:追記するも左脇に〻見せ消し】日計り【計り:左脇に〻見せ消し】を
記しをきぬ【をきぬ:左脇に〻見せ消し】別記は記すへき事のみを書或る
にはかて日次をは記さず
【清記文】
一日記は記事なき日も日を記し別記は記すへき事のみを書或るにはかて日次をは記さず
【頁末一行上に付箋。付箋上の記事】
一月の大小異同あるは古書のきしに疑を
なしてをきぬ □かくす
【左頁】
定めぬ
一万石以上の人の卒したるは日記に記し以下の
人の死したるはみな【みな:左脇に〻見せ消し】別記に記しをきぬ【しをきぬ:左脇に〻見せ消し】収む
【清記文】
定めぬ
一万石以上の人の卒したるは日記に記し以下の人の死したるは別記に記収む
一凡の【の:追記】事実【実:追記】月のみしれ【しれ:左脇に〻見せ消し】書伝【書伝:追記】て日のしれさるは□【□:左脇に〻見せ消し】其【其:追記】月
の末にしるしをきぬ一《割書:叙爵所替|御役替の類》月日ともに
しれさるは十二月の末に此年月日不知□と
して【して:左脇に〻見せ消し】記しをきぬされと又【又:左脇に〻見せ消し】或は【或は:追記】日をかさね【かさね:左脇に〻見せ消し】へたて【へたて:追記】或は
月を越し記事あり《割書:関東大坂の役あとは|幾日より幾日迄それそれの功労ありしなと》
《割書:いへ□|た□□》多くは別記に記し侍【侍:左脇に〻見せ消し】た【た:追記】れとその旨とする
【清記文】
一凡の事実月のみ書伝て日のしれさるは其月の末にしるしをきぬ一《割書:叙爵所替|御役替の類》月日ともにしれさるは十二月の末に此年月日不知□と記しをきぬされと或は日をへたて或は月を越し記事あり《割書:関東大坂の役あとは|幾日より幾日迄それそれの功労ありしなと》《割書:いへ□|た□□》多くは別記に記したれとその旨とする
【右頁】
【頁末一行上の付箋によって隠されていた記事以外はコマ七一と同じ】
【付箋によって隠されていた記事】
一月の大小疑しきは皇和通暦によりて
【左頁】
【コマ七一と同じ】
【右頁】
所あるはその日をも【も:左脇に〻見せ消し】□【□:追記】て日記にしるしたるもあり【たるもあり:左脇に〻見せ消し】
その名【名:左脇に〻見せ消し】ムネ【ムネ:朱で追記】□【□:追記】とする所も【も:左脇に〻見せ消し】なきは月□り□年は
かけて記したるもありぬ【したるもありぬ:左脇に〻見せ消し】す【す:追記】一定ならさる也
す□□・【・:彼此の記す所】□の決しかたきものは□てれく
これと□□とす并記して後の
訂正を俟
【清記文】
所あるはその日を□て日記にしるしそのムネ□とする所なきは月□り□年はかけて記す一定ならさる也
す□□彼此の記す所□の決しかたきものは□てれくこれと□□とす并記して後の訂正を俟
一此書編集の事は 年 月 日
より草稿を創文化八年七月初旬
浄写功を終畢ぬ
【左頁】
【左上角、四角模様枠印紙貼り付け】
【印紙内、右上赤色小判型印影、内容】
特別
【印紙内、横書き三段、内容】
ち
四三【算用数字】
七【算用数字】
【右頁、白紙】
【左頁】
【左上角、四角模様枠印紙貼り付け】
【印紙内、右上朱色小判型印影、内容】
特別
【印紙内、横書き三段、内容】
ち【朱色】
四三【算用数字】
七【算用数字】
【裏表紙、文字記載なし】