琉球大学所蔵 琉球・沖縄関係資料 vol. 1の翻刻テキスト

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製糖取締旧慣内法

明治二十一年八月
製糖取締旧慣内法
那覇糖商組合事務所

明治二十一年八月
製糖取締旧慣内法
那覇糖商組合事務所

明治二十一年八月
製糖取締旧慣内法
那覇糖商組合事務所

製糖取締旧慣内法
一 砂糖取締ノ義ニ付テハ従来内法規約等モ有之其取締向厳重相立來候モ近來緩慢ニ流レ目前ノ小利ニ走リ往々粗製濫造或ハ賣買上ニ於テ那須爲スべカラザルノ好□ヲ爲シ遂ニ我縣下第一ノ物産タル砂糖ノ名聲ヲ失シ爲ニ糖業者ヘ無量ノ損失を與フル尼ニ付今般更ニ左ノ通リ旧慣内法ヲ改正シ縣□ノ認可ヲ經テ明治十八年ヨリ之ヲ施行ス
第一項 砂糖製造ノ義ニ付テハ毎度御論達ノ次第モ有之一同深ク御趣意ヲ遵奉シ一切地頭代惣耕作當等間切役ニ□掟ノ指揮に從ヒ村頭耕作當ハ勿論各與合共互ニ協同通知シ勉メテ精製之術ヲ公休講究シ専ラ聲價ヲ□殺セザランヿ【コト】ヲ要ス若シ其指揮ニ違フモノは相當ノ過料金ヲ徴ス

第二項 製糖中惣耕作業ハ各手配ヲ以テ毎日村々ヲ巡撿シ下地知方厳重可致候若等閑ノ義有之候ハ、《割書:五拾銭以上|四圓以下》ノ過料金ヲ徴ス
第三項 製糖中ハ間切内ヲ四區或ハ五區等適宜相定メ間切役々ノ内ニテ毎區一人ノ下知方受持ヲ定メ晝夜タイマン怠慢ナク巡撿監督スルモノトス依テ其區□□受持下知人ノ姓名等ハ豫テ所轄役所ヘ置クベシ若シ毎區受持下知人ニ於テ故ナク逼撿ヲナ□□□等怠慢ノ實蹟アル□ハ金《割書:五拾銭以上|五圓以下》ノ過料金ヲ徴スル□アルベシ

収したる上左の通り過料金を徴す
 但事未遂に属すと雖も情に依り本業同様たるべし端砂糖賣買したるトキ
 一砂糖主      壱斤ニ付金《割書:四銭以上|拾銭以下》
 一掟        仝   金《割書:三銭以上|九銭以下》
 一下知人      仝   金《割書:仝|仝》
 一總代人      仝   金《割書:仝|仝》
 一耕作當      仝   金《割書:仝|仝》
 一奥頭       仝   金《割書:仝|仝》
 一惣耕作當     仝   金《割書:仝|仝》
一樽以上賣買したるトキ
 一砂糖主      壱挺ニ付金《割書:四圓以上|拾圓以下》
 一掟        仝   金《割書:壹圓以上|五圓以下》
 一下知人      仝   金《割書:仝|仝》
 一總代人      仝   金《割書:貮圓以上|六圓以下》
 一耕作當      仝   金《割書:仝|仝》
 一奥頭       仝   金《割書:仝|仝》
 一惣耕作當     仝   金《割書:五拾銭以上|壹圓五拾銭以下》
第八項 粗製濫造し又は納糖上無□延納不納等致候者は金《割書: 弍圓以上|拾圓以下》の過料金を徴す
第九項 間切内に住する者は一般相親み交互救授之義務あるものに付萬一不得止事故有之納糖上の延納或は不納等する者有之場合に於ては

 一村又は間切中一同協議の上  時繰替上納し決して納糖分上不都合 無之様致すべし若し之に違背し無謂拒む者は金《割書:五圓以上|拾圓以下》の過料金を徴す
第十項 砂糖焼入樽は蓋底腹部の三ヶ所へ樽木目方件v査の烙印あるものに限るものとす而して砂糖樽詰の上は其腹部へ砂糖主は勿論焼入人檢見人掟は記名捺印するものとす若し之に違背するものは各金《割書:五銭以上|壹圓五拾銭以下》の過料金を徴す
第十一項 些細の利を得んが爲に三ヶ目繩等従来の制限《割書:壹斤| 五合》を超過すべからず若し違ふものは金《割書:拾銭以上|壹圓以下》の過料金を徴す
第十二項 製糖に奸曲の所爲有之節は砂糖主は金《割書:五圓以上|拾圓以下》焼入人檢見人は金《割書:弍圓以上|七圓以下》下知人掟は金《割書:壹圓五拾銭以上|五圓以下》惣耕作當は金《割書:壹圓以上|三圓以下》の過料金を徴す
第十三項 巡檢役其巡檢に當り前徴項の違反者を認め相當の□置をなさず□許に付したるものは各金《割書:壹圓以上|五円圓以下》の過料金を徴す
第十四項 此内法□項の違反者を告知する者へは其過料金高三分の一を當與するものとす
第十五項 没収金及過料金は申渡の日より十五日間以内完納せしむるものとす若し期限を經過し納めざるものは吏員立會の上相當の財産を差押ひ之れを公賣し過剰之れある節は返還し不足金は親戚及組合中より辨償せしむるものとす若し本人赤貧にして差押ゆべき財産無のものは其親戚又は組合中より辨償するものとす
第十六項 此内法に定む數項の違反者より徴收したる過料金は其三分の壹を違反人告知者に與へ其三分の二及没收金は其時の費用に充て

 尚残余の分は間切へ積み置き糖業改良の費途に充て尚右改良に付格別の功労者ある□は奨励の爲め□労として其幾分を與ふるヿ【こと】あるべし本項積置金支□の場合に於ては其事由を具し所轄役所長の指揮を受たるものとす
  但規品は公賣の上現金に換へ積み置くものとす
第十七項 此内法各項に定むる所の違反者有之節は間切吏員立會一同協議の上處分し其旨所轄の役所へ届出るものとす
第十八項 此内法に明文を掲けずと雖も砂糖取締上障□の件と認むるものは總て其時の協議に任せ相當の過料金を徴するヿ【こと】あるべし
第十九項 此内法は専ら糖業改良□貨物□し世上の信用を得しが爲め設たるものなれば之れを背くヿ【こと】數犯にして糖業者一般に不利を與ふるものは一時糖業を停止するヿ【こと】あるべし
第二十項 第七項に定むる禁賣買中□糖は勿論品位粗悪等にて間切に於て引除けたる分と雖も掟頭耕作當其員數取調惣耕作當或は下知人の檢査封印を受け適宜の場所へ格護致置解禁の月を待ち開封を得賣買にするものとす若し之れに違ふものは左の通り過料金を徴す既に其賣買に係るものは第七項に準し處分するものとす
  一砂糖主は金《割書:拾銭以上|壹圓以下》
  一掟は  金《割書:五銭以上|五拾圓以下》
  一頭は  金《割書:仝|金 》
  一耕作當は金《割書:仝|金 》
第廿一項 各村々にて製造しる砂糖高は一々帳簿へは其時々役所へ届

出るものとす
  但製造高平素より多寡有之節は其事由を記入するものとす

琉球談

【表紙題簽】
琉球はなし 上下

【コマ1と全く同じ画像】

【扉】
森嶋中良先生述 【下部に文字入りの縦楕円あり】
琉(りう)球(きう)談(ばなし)
京都書肆  起文堂梓 

【琉球大学附属図書館蔵書印】

琉球談序
琉球在薩之南鄙海中蓋
一小島也慶長中臣附于
薩然在其上世源鎮西宏
垂国統即其為属于我也
亦巳尚矣万象主人甞着

万国新話亜細亜一部業巳
梓行琉球談亦収其中而以韓
琉蝦久属
本朝世亦粗諳其国事故
臨梓除之日者書賈重請
其初稿以梓之需予序之然
国業大体民事細瑣詳悉
書中予更何言即書此言
以序寛政庚戌秋九月
  蘭渓 前野達 印

【巳は已の意か】
【瑣の原字は石へん】

琉球談
  目録
○琉球国の略説  ○開闢の始《割書:附|》鎮西八郎
 鬼か島へ渡る記 ○日本へ往来の始
○官位并官服図説 ○琉球国王の図
○年中行事    ○元服の事
○剃髪      ○家作図式
○米蔵の図    ○器財図説
○駕篭の図    ○馬之図説

○女市図説    ○婦人の風俗
○嚔を好む    ○歌舞の図説
○琉球の狂言   ○琉球歌 
○神祇      ○宗派
○葬式      ○棺槨《割書:并》墳墓
○書法      ○耕作
○貢物      ○産物
○琉球語     ○屏風《割書:附|》いろはの説
○読谷山王子日本紀行の詠歌
 通計三十条

琉球談

     東都 森嶋中良 著

 ○琉球国の略説
琉球国、古名は流虬(りうきう)といふ、中山世鑑録に云、地(くに)の
形(かたち)、虬龍(つのなきりゆう)の、水中に浮ぶか如くなる故に名付たりと
なん、隋書には流求(りうきう)と書す、宋書是に徒ふ、元史
には、瑠求(りうきう)とあり、明の洪武年 ̄ン中、改て琉球の文字
とす、 吾邦にて、古くは宇留麻廼久爾(うるまのくに)といふ、又

【原文の黒丸を読点で表記する】

神代紀(かみよのまき)に、海宮(わたつみのかみのみや)といへるは此国なるべき事、予か撰
する万象雑組の中、地之部の条にくはしく載(のせ)たり、
此国の下郷(かたゐなか)に居る、土人(くにびと)どもは、琉球とは云ず、屋其惹(おきの)
といふ、蓋その国の旧名なりと、中山伝信録に見え
たり、其地は、薩州の南百四十里にあり、南北長《割書:サ|》六十
里、東西十四五里程ありとなり、昔は国を三つに分つ、
所謂(いはゆる)、中山、山南、山北なり、然るに、大琉球、中山第十二
世、尚巴志といへる国王、山南山北を併(あは)せてより、中山
一統(いつとう)とは成ぬ、此国に属する島三十六有り、地図は
三国通覧図説、其他諸書に載たれは略(はぶ)きぬ、
 ○開闢(かいびやく)の始《割書:附|》鎮西八郎鬼か島へ渡る説
中山世鑑に云、琉球の始祖を天孫氏といふ、其はじめ、
一《割書:チ|》男一《割書:チ|》女、自然に生出(なりいで)て夫婦となる、是を阿摩美(あまみ)
久(く)といふ、《割書:中良案るに天皇(アマミコ)なるべし|琉球には日本の古言多く残れり》三男二女を生めり長男は
天孫氏といふ、国王のはじめなり、二男は諸侯(だいめやう)の始と
なり、三男は百姓の始となる、長女を君々(くん〳〵)、二女を祝々(しゆく〳〵)
といふ、国の守護神(まもりかみ)となる、一人は天神(あまつかみ)となり、一人は
海神(わたづみ)となる、天孫氏の末裔(ばつゑい)二十五代、世を保(たも)つ事、
およそ一万七千八百二年にして断絶(だんぜつ)すと、《割書:云| 々》夫より
鎮西八郎為朝の子、舜天といふ者、国王となる、《割書:舜天の|子舜馬》

《割書:其子義本にいたりて天孫氏の末裔に位を譲る|世俗今の琉球王は為朝の血脈なりと云は誤なり| 》中良案るに、中山伝信録に、
舜天は日本人皇の後裔、大里按司(おほざとのあんす)、朝公の男子なりと
記せり、大里は地名、按司は官名、《割書:大里按司は為朝の舅なり|もしくは、聟に官を譲りたる| 》
《割書:ならんか、按司は位従一品、|領主諸侯の如きものなり、》朝公は、為朝の為を省(はぶ)きて称したる
なるべし、白石先生の琉球事略に、二条院永万年
中、為朝海に浮び、流に従ひて国を求(もと)め、琉球国に至り、
《割書:流に求るの義によりて、流求と改称せしと|いふ、此説然るべからす是より先此名あり、》国人其武勇に畏れ服す、
其国の名を流求と名付、遂に大里按司の妹に相具し
て舜天王を産、為朝此国に止る事日久しく、故土(ふるさと)を
思ふ事禁し難くして、遂に日本に帰れりと、《割書:云| 々》和漢
三才図会に、為朝逝して後、祠を立て、神号を舜天
太神宮といふと記せるは誤なり、因(ちなみ)に記す、為朝十八歳
の時、父六条判官為義と同しく、新院の御味方と
なり、軍破て伊豆国に流さる、二十九歳にして鬼か島
へ渡り、帰国の後、国人等が訴に依て官兵をさし向
られ、三十三歳にして自殺(じさつ)ありし事、保元平治物語に
見えたり、白石先生、本朝にて鬼か島といふものは、則
今の琉球これなりと云れたるは、何にもとづかれたるや、
所見(しよけん)なし、愚案るに、此地の古名を、屋其惹島(おきのしま)と
いふ、或は文字を替(かへ)て、悪鬼納島(おきのしま)とも書に依て、附会(ふくわい)

したる説ならんか、
 ○日本へ往来の始
琉球事略に云、後花園院、宝徳三年、七月、琉球人
来りて、義政将軍に銭千貫と、方物(そのかたのもの)を献ず、是より
して其国人、兵庫の浦に来りて交易すと、《割書:云| 々》案る
に、十五代、尚金福といへる国王、位に在し時なり、夫より
代は四代(よだい)、《割書:後花園、後土御門、|後柏原、後奈良》年(とし)は百二十三年《割書:ン|》を歴て、
正親町院(おほきまちのいん)、元亀十一年、琉球人来りて産物を献る、
薩摩国とは隣国なれば、深く好(よしみ)を通(つう)じ、綾船と名
付て、年毎に音物を贈りしが、慶長年中、彼国の三司官、
邪那といふ者、大明と議(はかり)て国王をすゝめ日本への往
来をとゞめける故、薩州の太守、島津陸奥守家久、使
を遣はして故を糺(たゞ)すに、邪那、使に対して、種々の無
礼を振廻(ふるまひ)ければ、義久大に憤(いきどう)り、同十三年、駿府に趣き、
神君に見え奉り、兵を遣はして誅伐(ちうはつ)すべき旨を請ふ
神君義久が所存にまかすべき由 欽命(きんめい)ありければ、翌年
二月、兵船数百艘を遣はして攻討(せめうた)しむ、諸士功を抽(ぬきんで)て
攻(せめ)入〳〵、同年四月、首里(すり)に乱入(らんにう)し、国王 尚寧(しやうねい)を擒(とりこ)にし
て凱陳(かいちん)す、尚寧王、日本に居事三年、過(あやまち)を悔(くい)、罪(つみ)を謝(しや)し、
漸(やうや)く本国に帰る事を得たり、《割書:時に慶長十六年|なり》此時 神君

義久に琉球国を属(そく)し給ひけるより、永代 附庸(ふやう)の国
となり、臣とし仕ふる事甚 敬(つゝし)めり夫よりして、
将軍家御代替りには、中山王より慶賀の使臣を来聘(らいへい)
せしめ、彼国の代替りには 将軍家の欽命を薩州
侯より伝達せられて、しかうして後位を嗣(つき)、他日恩謝
の使を奉るなり、其国 唐(から)と日本の間に有故 嗣封(しほう)
の時は、清よりも冊封(さつほう)を受るなり、去ども、唐へは遠く、
日本へは近き故、日本の扶助(たすけ)にあらされは、常住(しやうちう)の日用
をも弁ずる事あたはす、去によりて、国人 耶麻刀(やまと)と
称して、甚日本を尊とむとなん、
 ○官位《割書:并|》冠服図説
位は一品より九品まであり、勿論正従の別あり、王の子弟
を王子(わんず)と称す、《割書:正一品|》領主を按司(あんず)と称す《割書:従一品○古は按司|領地に住居して、其》
《割書:地を治めしか、各権威を振ふに依り、第十七代の国王尚真、制を改、首里の城|下に住居せしめ、察事(サツジ)紀官(キクハン)といふ官人を、一人づつ遣して、其領内の事を》
《割書:支配せしめ、歳の終に物成を、|按司の方へ納めしむ、》天曹司、地曹司、人曹司とて、国家(こくか)の
政事(まつりこと)を司(つかさど)る大臣を、三司官(さんしくわん)親方(おやかた)と称す、《割書:正一品|》夫より以下
の大臣を、親方と称す、《割書:従二品|》親雲上(ばいきん)と称するものは武官
なり、《割書:三品より七品|まてあり》里之子(さとのし)と称するは扈従(こせう)の少童(せうとう)なり、《割書:八品|》
筑登之(つくとし)と称するは九品なり、
○国王は図の如く、烏紗帽(くろきしやのかふりもの)に朱き纓(ひも)、龍頭(たつがしら)の簪(かんざし)雲龍の紋

ある袍(きぬ)を着し、犀角(さいかく)白玉の帯を用ゆ、何れも明朝の
制なり、今清朝の冊封を受ながら、冠服は古へを改
めず、一品以下 帽(かぶりもの)八等(やしな)、簪(かんさし)四等、帯四等あり、其 荒増(あらまし)は、
一品は金の簪、彩織緞(もやうをおりたるきれ)の帽、錦の帯、緑色(もえぎ)の袍を着す
《割書:江戸へ来聘する使臣は一品なれども、|国王の名代故、王の衣冠を着用す、 》二品は金の簪、《割書:従二品は、頭を金にて|作り、棒は銀なり、 》
紫綾(むらさきあや)の帽、龍蟠(くわんりやう)の紋ある黄なる帯、《割書:功ある者は|錦帯を賜ふ》深青色(こいもえぎ)の
袍を着す、三品は、銀の簪、黄なる綾の帽、帯袍ともに、
二品に同じ、四品は龍蟠(くわんりやう)の紋を織たる、紅の帯、簪
帽袍、三品に同じ五品は、雑色花帯(いろいとにてもやうあるおび)、其外は三品に同し、
六品七品は、黄なる絹(きぬ)の帽、簪と袍とは三品に同じく、帯
は五品と同じ、八品九品は、火紅縮紗(ひぢりめん)の帽、其他(そのほか)は七品
に同じ、雑職(かるきやくにん)は、紅絹(もみ)の帽、其他は七品に同し、銅の簪、
紅布(あかもめん)の帽、或は緑布(もえき)の帽を蒙(かぶ)るは里長(なぬし)保長(しやうや)など
なり、青布(あゐもめん)の帽を蒙(かぶ)るは、百姓(ひやくせう)頭目(かしら)なり、凡(すべ)て官服は、
平服より丈長く、上より帯にてしむるなり、いかにも
寛(ゆる)やかに着為(きな)し、紙夾(かみいれ)、烟袋(たはこいれ)など懐(ふところ)に入る事、日本
の如し、童子の衣服は、三四寸ばかりの脇明(わきあけ)あり元服
の時縫詰る、元服の事は下に載たり、女人の服もさ
して替る事なし、外衣(うはぎ)を襠(うちかけ)にし、左右の手にて襟を曳
て行となり、寢衣(よぎ)の制(しかた)、日本と同し、衾(ふすま)といふ、名服に

【図】
里之子(さとのし)
 扈従の躰
琉球国王

【図は略 説明文】
王帽(わうほう)         片帽(へんほう)
 黒き紗         黒き絹にて作る
 にて作る        六の角あり医官
 国王          楽人茶道の外
  これを        剃髪したるもの
   戴く        これを用ゆ
官民帽(くわんみんほう)【注】   笠(かさ)
 一品より九品まての   麦【注】藁にて作り
 制皆同しいため紙    また革にても
 を骨にして作る     作る外を黒く
 前に七ひだ後に     内を朱く
 十二のひだあり色を   膝【漆】にて
 以て高下を分つ事    塗なり
 上に記せるか如し
短簪(みちかきかんさし)        帯(おび)
 長 ̄サ三四寸元服したる  長 ̄サ壱丈四五尺
 者これを用ゆ金銀    寛 ̄サ六七寸
 銅にて作る上に     腰をまとふ事
 くはし         三重四重にす
長簪(なかきかんさし)          此帯地の地いろ
 長 ̄サ尺余婦人少年    地紋に差別
 の男子元服前にて    ある事上に
 髻の大なるもの是を   載たる如し
 用ゆ金銀にて貴賤を   此帯の裁を
 分つ民家の女子は玳瑁  薩摩がんとう
 にて制したるを用ゆ   とて好事の人
             はなはだ珍翫す
【注 帽図中の文字「前後」は略 麦に草冠】

衣【図略】
 袖大 ̄サ二三尺ばかり
 長 ̄サ手に過す図
 する物は平服なり
 官服は丈長し平日
 着する物は大抵
 芭蕉布の島
 織を用ゆると
 なり
 此外足袋草履
 日本と同じかるが
 ゆゑに図せず

両面を反覆(うらかへ)して着する様に制したるも有り、惣し
て、帽帯の織物は、唐土閩といふ地にて織、此国へ売
渡す、琉球国にては唯芭蕉布のみを作る、家〳〵
の女子、皆手織にす、首里(すり)にて制(せい)する物を上品
とす、
 ○年中行事
正月元旦、国王冠服を改て、先 ̄ツ年徳を拝し、夫より
諸臣の礼を受(うく)、同十五日の式、元日に同じ、《割書:毎月十五日、諸臣|の登城あり、》
王より茶と酒とを賜ふ、扨民家の女子は毬(まり)をつきて
遊び、また板舞(はんぶ)といふ戯(たはむれ)を為す、図の如く真中へ木

板舞之図
    【図は略】

の台を居(すえ)、其上へ板を渡し、二人の女子、両端(りやうはし)に対(むか)ひ
て立、一人 躍(をと)り上れば、一人は下にあり、躍上りたる女子、
本の所へ落下る勢ひにて、こなたに立たる女子は、五六尺
も刎(はね)上るなり、其躰、転倒(てんとう)せさるを妙とす、其地北極地
を出る事二十五六度なる故、暖気も格別にて桃桜の
花も綻(ほころ)び、長春は四季ともに花咲ども、わけて此月を
盛とす、羊躑躅(つつし)は殊更見事なり、元日王宮の花瓶(はなかめ)
に挿(さす)事、恒例(かうれい)なるよし、薩州の人の直話なり、蛇はし
めて穴を出、始て電(いなひかり)し、雷すなはち声を発す、枇杷
の実 熟(じゆく)す、元朝これを食ふ、正三五九の四 ̄ケ月を

国人吉月と名づけて、婦女(をんなわらへ)海辺(うみべ)に出 水神(わたづみ)を拝
して福を祈ると、伝信録に載たり、
○二月十二日、家〳〵にて浚井(いとがへ)し、女子は井の水を汲
て、額(ひたひ)を洗ふ、如此すれば、疾病を免るゝとなり此月
や、土筆(つくし)萌出(もえいて)、海棠、春菊、百合の花満開し蟋蟀(こほろぎ)鳴(なく)、
○三月上巳の節句とて往来し、艾糕(くさもち)を作て餉(おく)る。石竹、
薔薇(ろうさはら)、罌粟(けし)、俱に花咲く、紫蘇生じ、麦(むき)秋(みの)り、虹(にし)始
て見ゆ、
○四月させる事無し、鉄線(てつせん)開き、笋(たけのこ)出、蜩(ひくらし)鳴き、蚯蚓(みゝつ)
出、螻蟈(けら)鳴き、芭蕉実を結ふ、国人是を甘露と名つく、
○五月端午、角黍(ちまき)を作り、蒲酒(せうぶさけ)を飲事日本の如し、
此月 稲(いね)登(みの)る、吉日を選んで、稲の神を祭り、然うし
て後、苅(かり)収(をさ)むるとなり、明の夏子陽使録(かしやうがしろく)に云、国中に
女王といふ神有り、国王の姉妹、世〳〵神の告に依て、
是に替る、五穀 成時(みのるとき)に及て、此神女所〳〵を廻り、■【祖ヵ】穂
を採(とり)てこれを嚼(かむ)、いまだ其女王の甞(なめ)ざる前に、獲(かり)
入たる稲を食ふ時は、立所に命を失ふゆゑ、稲盗人(いねぬすひと)
絶て無し、此月蓮の花咲き、桃、石榴(さくろ)熟す、
○六月の節句あり、《割書:六月の節か中に|当る日なるべし》強飯(こはいゐ)を蒸(むし)て送る、
此月や、沙魚(わにさめ)、岸に登りて鹿となり、鹿また暑を畏(おそ)

るゝ故、海辺に出て水を咂(ふく)み、亦化して沙魚(わにさめ)と
なる、桔梗扶桑花開く、
○七月十三日、門外に迎火の炬火(たいまつ)を照して先祖を
迎へ、十五日の盆供など、日本と替りたる事なし
此月、竜眼肉実を結ぶ、
○八月十五夜、月を拝す、白露を八月の節句とし
赤飯を作て相餉(あいおく)る、其前後三日が間、男女戸を閉(とぢ)
て業(わざ)を休む、是を守天孫(しゆてんそん)と号す、此間に角口(いさかひ)な
とすれば、かならず蛇に噛(かま)るゝとなり、木芙蓉(もくふやう)花
花さく、
○九月梅花開き、霜始て降り、雷声を収め蛇
はなはだ害を為す、此月の蛇に傷(きず)つけらるれば、立
どころに死す故に、八月の守天孫に、三日か間つゝし
むなり、田は尽く墾(あらき)ばりし、麦(むき)の種(たね)を下す、《割書:麦は三月実|のるなり》
○十月蛇穴に蟄(ちつ)し、虹(にじ)蔵(かくれ)て見えす、小児は紙鳶(いかのぼり)
をあぐ、
○十一月、水仙、寒菊開き、枸杞(くこ)紅(くれなゐ)に色づき蚯蚓咼【窩ヵ】
を出す、其外にさせる事なし、
○十二月、庚子(かのえね)庚午(かのえうま)に当る日に逢ば、糯米(もちこめ)の粉を
椶(しゆろ)の葉にて、三重四重に包み、蒸篭(せいらう)にてむし

たるを鬼餅と名付て餉(おく)るなり、土人の説に、昔
此国に鬼出たりし時、此物を作て祭りしとなり、
是其 遺(のこ)れる法なるよし、駆儺(おにやらひ)。禳疫(やくびやうよけ)の意なるべ
し、二十四日 竈(かまど)を送り、翌年正月始て竈を
迎ふ、《割書:竈の神を送り|迎ふるなり》
 ○元服
此国人。元服以前は、髻(もとゝり)を蛇(へび)のわだかまりたる如くにし
長き簪(かんざし)を、《割書:図上に出|せり》下より上へ逆(さか)しまに串(つらぬ)きて其先 ̄キ は
額(ひたび)に翹(いた)るなり、既に成長(ひとゝなり)て冠(かむり)する時は、《割書:二十にして冠するは通例|なり此国にてもしかるへし》
頂(いたゝき)の髪を剃(そり)て髻を小さくし、短き簪にて留置なり
唐土明(もろこしみん)の世には、髪を剃事なかりしが、清の冊封(さつほう)を
受る世となりてよりの事なるよしなり、中良案るに、
芥子坊主になるかはりに、中剃(なかそり)と遁(のが)れたるなるべし、
 ○剃髪
医官を五官正(こかんせい)といひ、茶道(さだう)坊主(ぼうす)を、宗叟(そうさう)といひ、また
御茶湯(おさどう)といふ、上に図したる、片帽(へんぼう)を被(かふり)、黒き十徳の
如きものを着するとなり、
 ○家作
王宮の図は、唐画(からゑ)に画(ゑかき)たる宮殿にかはる事なければ
略けり、平人の家は、日本の作りにさまで替りたる事なく、

屋宇之図
 【右以外は絵のみ】

床の高 ̄サ三四尺、棟は甚高からず、海風を避(さく)るを
以てなり、屋根は瓦をもちゆ、畳、戸、障子、日本に
同し、柱は大島、鬼界か島に産する羅漢杉(らかんさん)を
用ゆ《割書:羅漢松はまきなり|羅漢杉もまきの類か》価【人へんに買】いたつて貴し、木目至極 麗(うる)
はしく、数千年 蠧(むしばま)ず、年を歴(ふる)に従ひて、その光潤(つや)
鑑(かゝみ)の如し、壁は板羽目にし、粉箋(からかみ)を以て是を張る、
竹簾(すだれ)は極めて麁(あら)く、細(ほそ)き丸竹にて編(あみ)、簷(のき)に挂(かく)、庭
の構へ、築山(つきやま)に黄楊(つげ)、桧松の類、あるひは円(まるく)、或は方(かく)に
苅込(かりこみ)たるを植、小池を掘て魚を畜(かひ)、水中に小石を
立、其上に鉄蕉(そてつ)、其外小紅木なとを植て玩となす、
大抵 外囲(そとかこひ)は、蠣石を塁(たゝみ)て作る、《割書:蠣石は礪石にて|砥石の類か》大家に
ては殊さらに磨(みがき)て削合(けつりあは)する故、一 ̄チ枚石にて切 ̄リ立たる
が如く、甚立派なる事なり、寺院は多く黄楊(つげ)の生(いけ)
墻(がき)を苅込たるなり、また此国にのみ産する、
【縦線】
米廩之図
  【二棟の図】

十里香といふ木を籬(かき)とす、此木の事は、産
物の部に載たり、民家は竹の穂牆(ほがき)なり、米廩(こめぐら)
は、床の高 ̄サ四五尺、床下に十六本の柱を施し、
其間を人の行抜るやうに作る、官倉(かうぎのくら)皆かく
の如し、村落(むらかた)にては、寄合て一亭を作り、米を
其中に蔵め、日を分て守望(ばん)をするとなん、
 ○器財図説
食膳の為方(しかた)、膳椀にいたるまで、惣て日本の
制に效(なら)ふ、王宮の給仕(きうじ)は、里之子(さとのし)なり、二人宛揃
への服を着し、進退、小笠原流をもちゆ、はなはだ
行儀よき事なるよしなり、定西(ぢやうさい)法師(ほうし)伝に、《割書:此書は|天正年中、》
《割書:琉球へ渡り、一度は栄へ、一度は衰へて、|道心となりたるものゝ伝なり、》琉球の習ひ、朝毎(あさこと)に然る
べき臣下より、銘〳〵に后へ食籠をたてまつると
記せり、今もしかあるや、
 ○女市
此国中 辻山(つぢやま)といふ所の海沿(うみばた)に、早晩(あさばん)両度市あり、
商人は残らず女なり、商(あきな)ふ所のものは魚蝦(ぎよるい)、蕃薯(さつまいも)、
豆腐(とうふ)、木器(きぐ)、礠碟(さらさはち)、陶器(せともの)、木梳(きぐし)、草靸(さうりわらぢ)、等の、麁物(あらもの)なり、
其 貨物(しろもの)、何によらず首(かうべ)に戴(いたゞ)き、坡(さか)に登り嶺(みね)を下
るに偏(かたよら)ず、売買は日本の錢を用ゆ、古へは洪武

膳(せん)    食榼(じきちう)

         榼(さげぢう)


鍋(なべ)    烟架(たはこぼん)
 いづれも
  鉄鍋
   なり

【右いずれも図の説明】

火罏(ふろ)     水火罏(ちやべんたう)


 是は
  薩州
   にて
 角火取(ツノビトリ)と
  名付る
   もの
    なり 

茶甌(ちやわん)   書架(けんだい)
 挽茶を
  もちゆる
   なり

茶筌(ちやせん)   曲隠几(きやうそく)

【右いずれも図の説明】

扇 二品       団扇 二種

 折扇を        金泥入の
  櫂子扇と      彩色絵を 
 名づく        書たるを
  帯にさす      玉団扇と
 事日本の       名づく王宮の
   如し       婦人これを
               もちゆ
 末広は        常用のものは
 僧家に        白青の紙にて
 もちゆ        張泥画を
 俗人は         画く
 用ゐず

蕉扇 二品      棋局(こばん)
 此国にていふ
 梹榔団(ヒロウウチワ)
 なり丸き
 方を日扇
 といふ男子
 の用ゆる
    ものなり 
 其傍を缺(カキ)て
 半月の如く
 作りたるを
 月扇と
 名付く
 婦人
  これを
   用ゆ

【右いずれも図の説明】

燭          套枕(いれこまくら) 二品       
 白紙にて張宮中
 にて用ゆ


 あんどう
 の制作
 日本と
 同じ
 民間は
 皆
  油火を
   用ゆ

太平山船       独木船
 唐日本へ渡海     是は一木を
 する船は福州     くりて作る 
 船の如し同国     漁者などの
 中の島〳〵を     用ゆるもの
 往来する船      なり甚軽
 いつれも此船     くしてしかも   
 の欄杆なき      行事
 ものなり太平      すみやか
 山といへる所の    なりもし 
 船のみかくの     一艘にて足ざる
 如く欄檻       時は日本の平田船 
   ありと      の如く二艘
    なり         もやひて
                 物を
              載るなり

【右いずれも図の説明】

轎之図
 国王は肩輿(アゲゴシ)なり夫より下は
 皆 轎(カゴ)を用ゆ貴族(レキ〳〵)の用ゆる
 ものは雕鏤(チボリ)の金物を打表は
 錦にて包み裏は絵ばり附
 などにするとなり

飾馬之図
 馬は日本と替る事なし、山坂または
 石原を行に躓(ツマヅカ)ず、山に上り、水を渉(ワタ)れ
 ば馳(ハス)、是自然に其土地に馴たればなり、
 此地四季ともに暖気にして、冬も
 草の枯る事なきによりて終歳
 青草を食ふかるかゆゑに豆を
 食はするに及ばす、民家にて馬の
 入用なる時は、野より牽入、
 用事過れば野へ放すとなり、
 鞍鐙其外とも、日本の馬具
 にかはる事なし、唯 小紐(コヒモ)
 の下と、むながいに、紅の糸にて
 作りたる、丸き房を付るなり

【右いずれも図の説明】

女市之図

【以下図のみ】

通宝、永楽通宝、唐土より此地へ渡りて通用せし
が、今ははなはたまれにして、只寛永通宝のみ多
しとなり、
 〇婦人の風俗
大家(れき〳〵)の女子は、金銀の簪(かんざし)を用ゐ、民家の婦女は、
玳瑁にて作りたるを挿(さす)なり其形は、上に図する
か如し、外に首飾(かみのかさり)なし、脂粉(へにおしろい)をも用ゐず、髪の
毛は至て長く、背丈(せだけ)に余るとなん、歩行する
には、半襪(ざうり)を履(はき)、木套(げた)を履もあり、亦 赤足(すあし)にて
歩むも有り、何れも手の指の甲に黥(いれずみ)す、《割書:指の節の本|に黒星を入、》
《割書:夫より爪ぎはまてまつすぐに|黒すじを入墨にす、》女子十五歳になれば針にて刺(さし)、
墨を入、夫より年〳〵に増加ゆる事、貴賤ともに
皆然り、三才図絵に、女人は墨を以て龍蛇の紋
を黥(いれずみ)にすと記せるは此事なるへし、当時(そのかみ)尚益といへる
国王、女子の黥を止めんと欲し、衆を集(あつ)めて評議ありし
に、上古よりの習はしなれは、今更前制を改められんも
如何なりと、衆議(しうき)一決(いつけつ)しければ、国王も為方(せんかた)なく、其
儘にさしおきけるとなん、街(ちまた)を往来するに、尺ばかり
の布を手に持たるは、良家(れき〳〵)の女なり、衣の襟(ゑり)に紅(も)
絹(み)の縁(へり)を取たるは妓(たはれめ)なり、小児を抱くには、片手

にて小児の腰をとらへ、腰骨へかけて歩むなり、
《割書:女市の図にて|見るべし》定西法師伝に云、琉球は弁才天の島
なりとて、男子より女を敬(うやま)ふとなりふとなり、
 〇嚏を好む
琉球人は寿命の薬なりとて、嚏(くつさめ)する事、を好む、
客に対する間も、紙条(かうより)を鼻孔(はなのあな)へ入てくつさめ
を為と、薩州の人の語りき、
 〇哥舞
王宮にて哥舞を興行する時は、五六丈四
面の舞台を造り、四方に幕を張り、楽人は
紅衣(くれなゐのきぬ)緑衣( みどりのきぬ )を着し、夫〳〵の巾(きん)を戴(いたゞ)き、蛇の
皮にて張たる三弦、提琴、笛、小鑼(こどら)、鼓(つゞみ)などを持て、
二行(ふたかは)にならび、ゆるやかに楽譜を歌へば、暫く有
て、階(はし)懸りの幔(まく)を褰(かゝ)げ、舞人出るなり、
〇小童四人、朱き襪(したうづ)を履(はき)、五色の長き衣を襠(うちかけ)に
し、頭に黒皮にて作りたる笠に、朱纓(あかきひも)の付たる
を戴き、廻旋(まひながら)場(ぶたい)に登り、楽人(がくにん)の方へ向ひて座す、
楽工(がくにん)其笠をとり、朱纓(あかひも)を笠の上へ捲(まき)■【つヵ】けて
あたふれば、童子うけ取て立上り、足拍子を曲節
に合せて舞ふ、此を笠舞と名付く、

〇小童四人、金扇子に花を餝りたるを戴き
朱帕(あかきはちまき)を為し、五色の衣をいかにも花やかに
着(き)為(な)し、五色の花を付たる索(なは)の輪(わ)に為たるを
頂(くびすぢ)に懸て、場(ぶたい)に登り、其索を手に懸足拍子
を踏て舞事、笠舞の如し、これを号(なづけ)て
花索舞といふ、
〇小童三人、頭に作り花を餝り、錦の半臂(はつぴ)
を着し、小き花籃(はなかご)を肩(かた)に懸て場(ふたい)に登り、
前の如く舞ふ、籃舞(かごまひ)と名つく、
〇小童四人、五色の衣を着して場に登り
楽工の前に座すれば、楽工銘〳〵へ小竹拍四片(よつたけ)
を授(さづ)く、童子取て立上り、拍子を拍て舞、これ
を拍舞といふ、
〇武士六人、白黒の綦紋(しま)の、袖を大小仕立たる短
き衣を着し、金箍(きんのはちまき)を額(ひたひ)に結び、白き杖を突
て場に登り、撃合(うちあふ)音を節(ふし)に合せて舞ふ、武舞
と号す、
〇小童二人、五色の服を穿(き)、金の毬(まり)の四面に鈴を
つけ、朱き紐の長く付たるを持、左右に立て舞な
がら、二疋の獅子(しし)を引て、場に登り、獅子を狂はせ

琉球楽(りうきうがく)
毬舞之図(きうぶのづ)

【以下図のみ】

なから舞ふ、獅子は種〳〵の狂ひをなし、甚興
ある曲なるよし、是を毬舞といふ、
〇小童三人、さはやかに粧(よそほ)ひて場に登り、楽人より
一尺ばかりなる、金様(きんだみ)の桿(ぼう)を請取り、交撃(うちあはせ)て
舞ふ此曲を桿舞といふ、
〇小童四人、手に三尺ばかりの竿に花の付たる
を、各一本宛たづさへて舞ふを、竿舞といふ、
此外舞には、扇曲(あふぎのきよく)《割書:童子六人|にて舞ふ》掌節曲(てびやうしのきよく)《割書:小童三人|にて舞ふ》などゝ
いふ舞あり、楽には、
  太平調(たいへいちやう) 長生苑(ちやうせいゑん) 芷蘭香(しらんかう) 天孫太平歌(てんそんたいへいのうた)
   桃花源(とうくはげん) 楊香(やうかう) 寿尊翁(じゆそんおう)
是等の外、数曲あり此内、桃花源、楊香は明(みん)
楽(がく)なり、寿尊翁は、清朝の楽なり、又神歌と
いふ物あり、日本の式三番の如く、国楽を奏
する始に、一老人の形に打汾(いでたち)、場に登りて瑞
曲を歌ふ、此国 混沌(こんとん)のはじめ、世を御(ぎよ)したる、
神聖天孫氏、世〳〵の国王位に登毎(のぼるごと)に、形を
現(けん)じて霊祐(れいゆう)を示(しめ)す、すなはち迎神(かみおろし)の歌を
製して、もつてこれを歓楽(くわんらく)す、後世にいたりて、
神しば〳〵形を現ぜず、故に神代より遺(のこ)りたる

唱歌(しやうが)を伝へて、国王即位の時か、格別の儀式
ある時此曲を行ふ、神歌を唱ふる間は管弦
ともに声を出さずとなん、
 〇俳優
舞楽に続きて俳優(わざおき)あり、其狂言に、鶴亀
といへる兄弟の童、父の仇(あた)を復(ふく)したる古事
あり、日本の曽我兄弟の敵討に髣髴(さもに)た
り、昔琉球国 中城(なかくすぐ)といへる所の按司(あんず)、毛国鼎(もうこくてい)と
いへる人、忠勇にして国を治む、其ころ勝連(かつれん)
の按司、阿公(あかう)といふ者、若くして郡馬(くんば)といふ職
になり、国王の覚へ目出度かりしまゝ、甚奢侈
を極めしが、内心毛国鼎を忌(いみ)けるにより、弁舌
を巧(たくみ)にして、国王に讒(ざん)をかまへ、毛国鼎 叛逆(ほんきやく)の企(くはたて)
有と奏聞しければ、国王 且(かつ) 驚(おどろ)き且 怒(いか)り、一 ̄チ応の
今【吟】味にも及はす、すなはち阿公に軍兵を授け、毛国
鼎を攻討しむ、毛公 無失(むしつ)の罪を歎くといへども、
阿公一円に取あへねば、今は是まてと思ひ明らめ、
遂に自殺をぞなしにける、毛公に二人の子あり、
兄を鶴といふ十三歳、弟を亀といふ十二歳、二子
到て伶俐(れいり)なり、父毛公、平日(つね〳〵)宝釼二振を以て、

是に撃劔(けんしゆつ)を教(をし)へ、小腕(こうて)なからも其業におい
ては、大人にもおとらぬ程に仕立ける、此折柄は
母に従ひて、山南の査(さ)国吉といへる、親属(しんるい)の方
に在けるが、父毛公、阿公が讒言(ざんげん)に依て、討手
を引受、無念の死を遂(とげ)たると聞、天に仰ぎ、地
に伏て涕泣(ていきう)せしが、涕を払ひて母に請(こひ)けるは、
父上の最期は、今更歎きて返らぬ儀なれば、われ
〳〵兄弟面体を見知られぬを幸に、忍びより
て阿公を討取、父の仇(あた)を復(ふく)せんと存するなり、
願くは父上の秘 蔵(そう)ありし二振の宝釼を賜
はらんと、思ひ込て願ふにぞ、母は憂(うれえ)も打忘れ、
けなげにもまうしつる兄弟かな、いて〳〵望の
如く、二振の釼をあたふべしとて、取出して
分ち与(あた)ふ、兄弟勇んて暇(いとま)を乞、父の紀念(かたみ)の
宝釼を帯しつゝ、身をやつして勝連(かつれん)に至り、
父の仇をそねらひける、扨も阿公は、日頃心憎か
りし、毛公を具ひければ、今は程にも憚らず、春
の野つらを詠めんと、従者(しうしや)を引連出けるを、兄
弟早くも聞出し、宝釼を懐(ふところ)にし、透間(すきま)も
あらばと伺ひける、阿公は二人の小童を毛公か

子とは夢にも知ず、扨しほらしき小冠者(こくわしや)かな是
へ参て酌(しやく)いたせと、膝元へ招(まね)きよせ、兄弟が容皃(やうほう)
の麗(うる)はしきに心乱れ、数献(すこん)の酒を傾(かたむ)けしか、
酔興のあまり、着せし所の衣を脱、兄弟に分ち
与へ、猶も足(たら)ずや思ひけん、佩(はひ)たる所の釼を鶴に
あたふ、鶴今は能(よき)図(つ)なりと、弟に目くばせし、其釼
を抜手を見せず、つと寄て阿公に組付、われ〳〵
を誰とか思ふ、汝が讒言(さんけん)に依て自殺なしたる
毛国鼎か二人の子なり、父の恨おもひ知と、柄
も通れ、拳(こふし)も通れと刺通(さしとう)され、あつといふて
立上るを、返す刀に首打落せば、酔潰(えひつぶ)れたる
従者ども、此体を見て肝を消し、上を下へと
狼狽(ろうはい)す、二人の童子は透間もなく、四方八面を切
て廻り、悉く切殺し、本望を遂たるを一局(ひとくさり)とす、
又鐘魔といふ狂言あり、是は謡曲(うたひ)の道成寺に
似たり、中城(なかくすく)の姑場村(こしやうそん)といふ所の農家(ひやくせう)に陶姓(たううち)
なる者あり、一子を松寿と名付く、齢(よわひ)まさに
十五歳、誠に端麗(たんれい)の美少年なり此国の都、
首里(すり)に師ありて、常に往通ひて業(きやう)を受けり、
一日(あるひ)浦添(うらそへ)の山径(やまみち)に懸りける時、日暮に及ひて路

を失ひ、とさまかうさまに踏迷(ふみまよ)ふ程に、次第に
昏黒(くらやみ)になりてあいろも分ず、小竹を折て杖
となし、其所(そこ)よ此所(こゝ)よとたどりしが、ほのかに
火影の見えければ、松寿そゞろに嬉しくて、
火影を便りに路をとり、辛(から)うして其家に
到り、一 ̄チ夜の宿(やと)りを求めける。此家の主は猟人(かりうと)
にて、一人の娘を持てり、山家には生立(おいたて)とも、天
性の嬌態(きやうたい)あやしきまてにあてやかなり、年はつ
かに十六歳、此夜父は猟に出、只一人留主居して
ありけるが、門に人のおとなひして、知ぬ山路に
さまよひたる者にて侍らふ、情に御宿たまはり
たしと、いふ泣声もかきくれたり、娘いたはしく
は思ひけれども、折ふし父の留主といひ、心一つに
定めかねしか、まだいはけなき人といひ、殊さら俱
したる人もなければ、さまでに父のとかめもあらじ
と、門の戸開きて庵にともなひ、彼是いたはり
もてなせしが、松寿が姿のいつくしきに心とき
めき、事に触(ふれ)て挑(いどみ)けれども、松寿もとより物堅(ものがた)
き生れにて、いさゝかもうけひうけひかず、睡(ねむ)りもやらず
座し居たり、娘おもひにせまりてやひし〳〵と

抱き付ば、松寿驚き、衣を振(ふる)ふて起上る、娘今は
恨のあまり、難面(つれなき)人を生(いか)しは置じ、同じ冥(めい)
途(ど)へともなはんと、猟具(りやうぐ)を取て飛懸る、松寿は
魂(たましい)九天(きうてん)に飛、夢路(ゆめぢ)をたどる心地して、足を空
に逃出すを、何国まてもと追来る、其早き事
飛鳥の如し、松寿やう〳〵逃延て、此山の
曲(くま)にある、万寿寺といふ寺に駈入、しか〳〵の
由を物語れは、住持 普徳(ふとく)といふ僧は、行徳(きやうとく)
いみじく、才覚ある僧なりければ、すなはち
松寿を鐘楼(しゆろう)へともなひ、大鐘(おほがね)の内に伏(ふさ)しめ、
三人の徒弟(でし)をして、其 傍辺(かたへ)を看守(まもら)しむ、とばかり
有て彼姫、姿あらはにしたひ来り、三人の僧に問、
何れも知ざる体にもてなし、戯(たはむれ)嬲(なぶ)りて帰らしめ
んとす、娘は松寿を求得ず、狂気の如く泣叫(なきさけ)び、
猶も行衛を尋んと、門外へ駈出れは、僧共今は心
易しと、件(くだん)の鐘を退(のけ)んとす、其物音、山彦(やまびこ)に
響(ひゞ)きければ、女早くも馳戻(かけもど)り、髪振乱し形(きやう)
相(さう)変り、恋しき人は此鐘の内にこそ有(ある)らんなれ
と、鐘の内へぞ入にける、住僧驚き、諸僧と俱に、
鐘を繞(めぐ)りてこれを祈(いの)る、行法(きやうほう)の験(しるし)にや、かねは

おのれと鐘楼へ上り、女は鬼女の相を現はし、
叉(しゆもく)を以て鐘の内より倒(さかしま)にあらはれ出、諸僧を
目懸て打懸る、僧共少しもひるまばこそ、動
ず去ず祈りければ、一 ̄ツ天 俄(にはか)にかき曇(くも)り震動(しんとう)
雷電(らいでん)すさましく、女は其儘 悪魔(あくま)となり松寿
を掴(つか)んで走り出る、これまた一局(ひとくさり)の狂言なり
此二事は皆百年以前、琉球国中にて有し
古事なりとなり、此外は皆唐土の歌舞妓
狂言を興行するとなり、又日本の猿楽をも
伝へ、舞囃子などをも興行す、義太夫節を甚
好み芦苅(あしかり)などの節事(ふしごと)を、能覚えへて語ると
なり、
 〇琉球歌
徂徠先生の琉球 聘使記(へいしき)に云、三線歌琉曲也(さんせんうたはりうきうのきよくなり)《割書:云| 云》其
哥にいはく、
 けうの《割書:希有なり| 》ほこらしやや《割書:奢なり| 》なほるれかな
 《割書:猶これ有哉|なり》たてろ《割書:彩色の具|なり》つぼであるはなの《割書:莟み|てある》
 《割書:花のなり| 》つゆまやたごと《割書:露を帯たる如し|となり》
中良案るに、此哥は生者必滅(せうじやひつめつ)の意(こゝろ)を本とせり、
いかさまにも挽哥(ばんか)めきたり、又 謡哥(こうた)を載(のせ)られたり、

 世の中の習ひ、いつもかこざらめ、残る人ないさめ
 まちのぐれ、
又 娼妓(たはれめ)の唱ふ歌あり、
 いとやなぎ、こゝろくにあらしやば、のよてはろ
 もの、かぜにてりよか、
此唱哥は、徠翁も意得(こゝろえ)られさりしにや、註を
ほどこされず、
 〇神祇
琉球事略に云、慶長年中、本朝の僧、彼国に
ありて、其風土の事を記せし書を案るに、此
国のはじめ、一 ̄チ男一 ̄チ女 化生(くはせい)す、其男をシネリキ
ユといひ、其女をアマミキユといふ、《割書:中良案るに、アマミキユは|中山世鑑にいふ、阿摩美》
《割書:久なり、此説上に記せる開闢の条と異同あり、|あはせ考ゆべし、是非は薩人に正すべし、》此時其島小にして、
波に漂(たゞよ)へり、タシカといふ木の生し出しを植て、山の
体(たい)とし、シキユといふ草をうゑ、またアダンといふ木を
植て、国の体となし、遂に三子を生ず、一子は所々の
主(あるじ)の始なり、二子は祝(はふり)の始なり、三子は土民の始なり
其国に火なかりしに、龍宮より求得て、其国成就し、
人物を生して、守護の神あらはる、これをキンマ
モンと称す、《割書:中良案るに、キンマモンは諸書に君真物(クンシンフツ)と記せる是なり、キン|マ、モノ、の字訓をキンマ、モンとよむなり、イキシチニヒミイリイを》

《割書:訓に読時は文箱(フンハコ)公達(キンタチ)なと呼ふる事、和訓の例なり|此にていへる如く、琉球には、日本の古語まゝのこれり、》其神に陰陽あり、
天より下るを、キライカナイノ、キンマモンといひ、海
より上るを、オホツカクヲクノ、キンマモンといふ、毎月(つきごと)に
出現して、託女(たくじよ)に託して、《割書:中良案るに、託女は巫女の如く、|神に仕ゆるものと見ゆ、》所々
の拝林(おがみばやし)にあそふ、《割書:中良案るに、拝林とはいかなるものなるや、社はかならす|森の内にたつるものなるからに、宮地の■【祖ヵ】に標おく、》
《割書:体の事か、猶|尋ぬべし、》其託女三十三人は、皆 王家(わうのすぢめ)なり、王妃
も亦其一 ̄チ人なり、国中の託女は其数を知らず
其神み〳〵怒る時は、国人 腕折(うでおり)、爪折(つめおり)して是を
拝慰(おかみなくさ)む、《割書:中良案るに、是日本神代の、|祓の遺風を伝へたるなり、》其俗にて、嶽々浦々
の大石大樹、こと〳〵く皆神にあがめ祭る、又
七年に一回(ひとたひ)の荒神(あらかみ)、十二年の荒神(あらかみ)ありて、遠国諸
島一時に出現す、荒神の出現を、キミテスリと
いふ、その出 ̄ツ べき前に、其年の八九月の間に
アヲリといふものあらはる、其山をアヲリ嶽と
いふ、五色あざやかにして、種〳〵の荘厳(しやうごん)あり
て、三つの嶽に三本あらはる、其大さ一山をおほ
ひ尽す、其十月に到りて、神かならず出つ、
託女、王臣、各 鼓(つゞみ)うち歌うたひて神をむかふ、王
宮の庭を以て、神の至る所とし、傘三十余
を立つ、其傘の大なる事、高さ七八丈、その輪

十尋(とひろ)あまり、小なるものは一丈ばかり、又山神
時ありて現はる、其数多くあらはるゝ事あり、
又すくなき事あり、其 面(おもて)は明ならず、袖の長き
ものを着す、その衣裳たちまち変じて、或は
錦繡(にしき)の如くあるひは麻衣(あさきぬ)の如し、二人の童(わらべ)を
従ふ、二郎(じら)五郎(ごら)といふ其衣裳は日本の製(したて)の如く
にして、小袖に袴(はかま)なり、神いかなる事ありてか、
童を鞭打(むちうつ)事あり、童の啼声(なくこゑ)犬の如し、又ヲ
ウチキウといふ海神あらはるゝ事あり、其丈は
一丈ばかりにして、陰嚢(いんなう)ことに大きければ、
緄(ふどし)を結(むす)びて肩に懸く、是等の神の現(あら)はれし事
正しく見たりし事の由しるせり、其国の人の君真(くんしん)
物(ぶつ)としるしたるは、是等の神の事なりと見えたり
《割書:中良案るに、君真物は、キンマモンの字訓なる事、上に書たる|如し、白石先生、いかで心付れざりけん、》猶事の子細は
よく〳〵尋ぬべし、此外、伊勢、熊野、八幡、天満宮の如き、
本朝の神を祭りし社どもおほしといふと《割書:云| 云》定西
法師伝に云、氏神の社は、鎮西八郎為朝を祝ひ
たり、今に為朝の弓矢社に有り、若盗人ありて、
穿鑿(せんさく)するには、弁才天の社に巫女(みこ)あり、それが、ヤ
コミサとて、蛇を連て来り人を集め、其蛇に見

すれば、罪あるものに喰付、いさゝかもたがはず、それゆゑ
盗人といふものなしと記せり、
 ○宗派
此国の僧、入唐して法を伝ゆる事をゆるさず、薩州
へ来りて法を学ぶ、衣は朱黄色(かばいろ)を着す、袈裟(けさ)
の外に一衣を服す、其制 背(ぼい)心の如し、断俗と名
づく、帽子(もうす)は、清人(しんひと)の笠帽の如し、氈を以て作る
となり、宗旨(しうし)は、臨済宗(りんさいしう)と、真言(しんごん)のみなりと、中
山伝信録に見えたり、
 ○葬式
国中の民は皆火葬にす、官宦(やくにん)かまたは有力(はさとにん)の家に
ては、先一たん生葬(そのまゝほうぶ)り、時を踰(こえ)て舁(かき)出し火葬
にするもありとなり、又水葬にして、腐肉を去と、
白骨を甕(かめ)に入、石坎(いはあな)の中に蔵め置、法事を
行ふ時、啓(ひら)いて是を視となり、
 ○棺槨《割書:并|》墳墓
棺は円く製す、其高 ̄サ三尺ばかり、死者の膝蓋(ひざがしら)
を湯にて洗ひ、足を屈(かゞ)め、趺(あくら)をかゝしめて棺
に納むるとなり、墓は山に穴を穿(うが)ちて埋め、
塁に石を以てす、貴家(わき〳〵)は其石を立派に磨(みか)かせ、

石壇(いしだん)墓門(はかくち)を建るも有となり、
 ○書法
書法は、日本の大橋流、玉置(たまき)流をもちゆ、片仮名、
平仮名は、国中の貴賤おしなべて通用す、薩
州藩(まか)中へ往来の書翰、いづれも竪状(たてじやう)捻状(ひねりしやう)に
て、一筆啓上の文体を用ゆ、書する時桌に
倚(よら)ず、左手に紙を持、懸腕(ちうだめ)にして書事日本
と同じ、
 ○耕作
田地は、九月十月の間に耕(たがへ)し種蒔(たねまき)、十月十一月の
頃 緑秧(さなへ)水を出れば、日和(ひより)を見合せ本田に移(うつ)し植(うゑ)
此節大雨 時(とき)に行はれ、雷声発し、蚯蚓(みゝつ)鳴く、気
候あたかも春の如し、夫より翌(あくる)年に到り、春耘(はるくさきる)、
夏五月 穫収(かりをさ)む、《割書:其跡へすぐさま麦を蒔つけ、|年の内に苅納る となり、》六月に至れば
大颶(おほかぜ)しば〳〵作(おこ)り、海雨(ゆうだち)横飛(よこしふき)し、果実(くだもの)皆 落(おつ)るに、
より、穫納(かりいれ)を早くせざれば、風損多し、かるがゆゑ
に、此国中、秋 耕(たがへ)し冬 種蒔(たねまき)春耘、夏収む六月
より九月迄は、農業を事とせずとなり、農具は
大抵日本製を用ゆ、殊に鋤鍬(すきくは)なとは、琉球にて
作る物は鉄鈍(てつにぶ)くして用に堪ずとなり、高田は

天水(あまみづ)を湛(たゝ)へ、下田(くぼた)は次第 坻(びく)にし、泉を引て
下し漑(そゝ)ぐ、入江小河などいづれも鹵入(しほいり)なる故
田地の用水になり難しとそ、
 ○貢物
琉球国王より、公(おほやけ)へみつぎする物件(しな〳〵)は、
 儀刀(あがりたち)《割書:一腰| 》飾馬《割書:二疋| 》卓(つくえ)《割書:青貝、蒔絵、|なとなり、》大盒子(おほちきらう)《割書:朱縁黒漆、|沈金、青貝》
 《割書:等なり| 》芭蕉布《割書:無地、嶋織、染たるも、|練ざるとなり、》大平布《割書:麻なり、幕|幟なとに》  
 《割書:作る、太平は|地名なり、》久米綿《割書:久米は地名|なり》泡盛酒 官香
 《割書:長き線香|なり》龍涎香《割書:焼物なり、香餅といふ、碁石の大、に|かため、面に寿福の文字を印す》  
 寿帯香《割書:色白く細き線香なり、燃るにしたがひ其■【軆ヵ】みゝつの|如く、くる〳〵と巻て蛇を避る事新なり》
大抵此等の物なるよし 公より琉球人への
賜ものは、
 国王え 白銀百枚   綿五百把
 使者え 白銀二百枚  時服十重
 惣人数え白銀三百枚
右の通りを下し賜はるとなり、
 ○産物
物産は、中山伝信録、土産の部にくはしけれは爰に
もらせり、其条下に、油樹なるもの有り其葉橘
の如く、実もまた橘の大 ̄サ の如し、以て油に

搾(しぼ)る、食ふ可(べか)らすと記せり、此油 灯(ともし)油にな
らは、蕃薯(さつまいも)におとらざる、益ある物なるべし、
 ○琉球語
中山伝信録に載たるを見るに、皆日本語な
り其間には、日本の古言 交(まじ)はれり、故に爰
に略(はぶ)きぬ、和漢三才図会に十余言を載たり
 日《割書:おでた|》月《割書:おつきかなし|》 仏《割書:ほとけかなし|》神《割書:かめかなし|》水《割書:おへい|》 
 火《割書:かまつ|》酒《割書:おさけ|》男《割書:おけが|》女《割書:おいなご|》父《割書:せうまい|》母《割書:あんまあ|》
 兄《割書:すいざ|》弟《割書:おつとう|》刀釼《割書:ほうてう|》 
中良案るに、中より以上の人はいづれも日本
語を用ひ、中より以下は、かくの如き方言を
用ゆるか、尋ぬべし、
 ○屏風《割書:附|》伊呂波
此国にて用ゆる屏風は四枚折なり、上に
文行忠信、春夏秋冬などの四字を大字に
一字宛 書(かき)、その下に、上(かみ)の大字とは懸はなれ
たる詩を、二くだりに書となん、附ていふ、いろ
は仮名は、上にもいへる如く、国中の貴賤通
用する事、為朝の子、舜天王の時より、はじ
まるといふ、此 国人(くにひと)漢文を読には、日本の

如く、訓点(くんてん)をほどこすとなり、此二条、上に云
落したる故爰に記す、
 ○読谷山王子の和歌
林子平が三国通覧図説中の、琉球図説に、
明和元年来聘せし、読谷山王子(よみたんざわうじ)朝恒(ともつね)が、
《割書:日本の如く|名乗るなり》詠せし和哥を伝聞せりとて、わづかに
七首を載たり、予が父国訓法眼、明和のは
じめ、竹公主の御前(みまゑ)に侍りし時、読谷山
王子が、手づから書て、笑覧(みわらひぐさ)にそなへ奉りたる、
道行(みちゆき)ふりの和歌十四首を、御前に侍らひける
女房に、写させてたまはりたるを、こよなく秘
蔵せられしが、今はむなしき紀念(かたみ)となりぬ、
原書のまゝを左に記して、宇留摩の国
人の、我国の風に、かくまてなひきたるを
しめすのみ、
 扶桑の 大樹公御代かはらせ給ふにより
 賀慶の使者として武蔵の国におも
 むきけるに肥後の国松浦といふ所にいた
 り九月十三夜の月を見て故郷の事
 も思ひ出してよめる

              読谷山王子朝恒
秋毎に見しを友とて故郷の空なつかしみ見つる月影
  追風なしとてかの所に十余日船をとゝめ
  侍りしころ
追風ふく風の便をまつら潟いく夜うきねの数つもるらん
  須磨の浦にて敦盛の塚を見て
須磨の浦に散浮く花の跡とへはあはれもしらぬ春風そふく
  唐さきの松
浦風も枝もならさぬ御代なれば猶も栄んからさきの松
  真野の入江
霜むすふ尾花か袖に月さえてまのゝ入江にちとりなく也
  鏡山
くもりなき御代の鏡のやまなれは君か千とせの影も見えける
  田子の浦にてふしの山を見て
おもひきや田子の浦辺に打出てふしの高根の雪をみんとは
  不二
人とはゝいかゝかたらんことの葉にそはぬふしの雪の白妙
  霜月初つかたむさしの国にいたりかの所
  の月を見て
旅ころもはる〳〵きてもふるさとにかはらぬものはむかふ月影
  

  藤枝といふ所にて雪つもりける朝
夜のほとは草のまくらに月さえて朝たつ野辺につもるしら雪
  松尾山
常盤なる色こそ見えね松尾山みねもふもとも雪のふれゝは
  深草の里
ふる雪に鶉の床も埋れて冬そあはれは深草の里
  祝の心を
波風も治る君か御代なれはみち遠からぬ日の本の里
  去方へ返し
袖の雪あはれをかけしことの葉に君かこゝろのほともしられん

 附録《割書:二条|》
 ○鎮西八郎の事
此書すてに剞劂(きけつ)の功(かう)を終(をゆ)るころ去やごとなき
君より、琉球国の臣、紫金大夫、蔡温が撰する所
の、中山世譜を拝借せさせたまひぬ、舜天王の
父の事、此書のはじめにも引る如く伝信録
には、舜天王 ̄ハ日本人皇 ̄ノ後裔、大里按司朝公 ̄ノ男
子也、とあり、朝公は為朝なる事上に云へり、され
ども此文まさしく為朝と記さゞれば穏(おたやか)なら

【「大里」は囲み字】

ざるに似たり、中山世譜 ̄ニ云、南宋 ̄ノ乾道元年乙
酉、鎮西為朝公、随 ̄テ_レ流 ̄ニ至 ̄リ_レ国 ̄ニ、生 ̄テ_二 一子 ̄ヲ_一而返 ̄ル、其 ̄ノ子 ̄ヲ名 ̄ク
尊敦(ソントン) ̄ト_一、後為_二浦添(ウラソヘノ)按司(アンスト)_一《割書:中略| 》国人 推(スイ)_二戴(タイ) ̄シテ尊敦 ̄ヲ_一為_レ君 ̄ト
是舜天王也、《割書:云| 々》又云、舜天王、姓 ̄ハ源、号 ̄ス_二尊敦 ̄ト_一、父 ̄ハ
鎮西八郎為朝公、母 ̄ハ大里 ̄ノ按司 ̄ノ妹 ̄ナリ《割書:云| 々》此文にて、
舜天王の父は為朝なる事明らかなり、
 ○琉球人の書翰
此ごろはからずも、琉球の王子より、薩州の
家臣へ往来の書二通を得たり独 珍(めづ)らしみ
玩(もて)あそはんも本意なければ本書のまゝを模写(しきうつし)
にして好事(かうす)の士の看(かん)に呈(てい)す、上包は西の内の
如き紙にて封し状は唐紙を奉書だけに
切たるなり義村王子の書中に白麻二十
帖とあるは薩州にて製する紙の名なり、
義村(よしむら)王子(わうじ)、大宜見(おほぎみ)王子(わうじ)ともに、当年東都へ來
聘せる、宜野湾(ぎのわん)王子(わうじ)の兄弟なり、書翰の宛名
は憚りあれは闕たり、手跡あまりに日本風な
る故、疑筆にもやとうたがふ人あり、はしめ
にもいへる如く、此国にては大橋流もつはら
に行はるゝとなん、

一筆令啓達候弥無御替
御勤珍重御事候在旅中は
預御丁嚀忝存候拙者事
無恙致帰着候仍白羽扇子
一箱官香五把令進入之候
恐惶謹言

         大宜見王子

 四月十四日  朝規 花押

【宛名上部黒塗】右衛門様
          御宿所

 猶々去春御状御音物贈給候由
 忝存候便船破船に付不相届段承
 入御念儀存候以上

御札令拝見候弥無
御替御勤珍重存候

預示趣殊白麻二十帖
贈給忝存候乍御報
御礼旁申達候品迄
白羽扇子一箱官香
五把令進入之候恐惶
謹言
     茂村王子


  四月十四日  朝宜 花押

【宛名上部黒塗】右衛門様
           御報

  跋
今歳寛政二年の冬琉球国王より慶賀の
使臣 東の都に来り聘すると聞て四方の
君子《割書:余|》か居舗に顧をたまひ中山伝信録
琉球事略三国通覧なとの書を贖玉ふ毎に
此等の書の外に琉球国の事実を
童蒙の耳にも入易からむやうに記たる書の
あらまほしさよと宣ふより利に走る足の逸く
万象亭にいたりて先生に請ふ先生莞爾と

して笑て曰吾子か此挙あらむ事をあらかじめ
推知して万国新語の遺稿より琉球の部を
抄出し一編の小冊となしおけりとて取出して
授け給ひぬ《割書:余|》手の舞足の踏をしらす頓に
梓に鏤て世におほやけにす希は此書の為に
都下の紙あたひの貴からむことを実に
先生著述の書は《割書:余|》か家の揺錢樹なり
 寛政二年九月《割書:書林|》申椒堂主人誌 印

【前コマと同じ 琉球大学の蔵書印を添付】

【裏表紙 左下隅に管理ラベル】

琉球談

【表紙:貼紙あり字は読めず】

【前コマに同じ】

【右頁】
仲原善忠文庫
【印】
 琉球大学
志喜屋記念図書館

【左頁】
【琉球大学附属図書館蔵書印の紙のため先頭三行及び蔵書印の翻刻不能】
薩然在其上世源鎮西宏
垂国統即其為属于我也
亦巳承尚今萬象主人甞着

琉球談序
琉球在薩之南鄙海中蓋
一小島也慶長中臣附于
薩然在其上世源鎮西宏
垂国流即其為属于我也
亦已尚今大萬象主人嘗着

萬国新話亜細亜一部業已
梓行琉球湊亦収其中而も以韓
琉蝦久属
本朝世亦粗諳其國事故
臨梓除之日者書賈重請
其初稿以梓之需予◻之然
国業大体民事細硝詳悉
書中予更何言即書此言
以序寛政庚戌秋九月

  蘭渓前野達

琉球談
目録
◯琉球国の略説       ◯開闢の始《割書:附》鎮西八即
□か山鳥へ渡る説     ◯日本へ往来の始
◯官位《割書:并》官服図説      ◯琉球国王の図
◯年中行叓         ◯元服の叓
◯剃髪           ◯家作国式
◯米蔵の図         ◯器財図説
◯駕篭の図         ◯馬之図説

【左ページ】
琉球談
東都「森嶋中良 著

 〇琉球国の畧説
琉球国。古名は流虬(りうきう)といふ。中山世鑑録に云。地(くに)の
形(かたち)。虬龍(つのなきりゅう)の。水中に浮かぶか如くなる故に名付たりと
なん。隋書には流求(りうきう)と出す。宋書是に従ふ。元史
には、瑠求(りうきう)とあり。明の洪武年に中。改て琉球の文字
とす。 吾邦にて。古くは宇留麻廼久尓(うるまのくに)といふ。又

【右丁】
【右丁】
琉球談【次行の前に縦線=各コマにあり以後省く】
神代起(かみよのまき)に•海宮(わだつみのかみのみや)といへるは此国なるべき事•予か撰する万象雑組の中•地之部の條にくはしく載(のせ)たり•
此国の下郷(かたゐなか)に居る•土人(くにびと)どもは•琉球とは云ず•屋其惹(おきの)
といふ•蓋その国の旧名なりと•中山伝信録に見え
たり•其地は•薩州の南百四十里にあり•南北長六十
里•東西十四五里程ありとなり•昔は国を三つに分つ•
所謂•中山•山南•山北なり•然るに•大琉球•中山
一統(いつとう)には成ぬ•此国に属する島三十六有り•地図は
三国通覧図説•其他諸書に載たれは略(はぶ)きぬ•
【左丁】
 〇開闢の始《割書:附|》鎮西八郎鬼か島へ渡る節
中山世鑑に云•琉球の始祖を天孫氏といふ•其はしめ•
一ち男一ち女•自然に生(なり)出て夫婦となる•是を阿摩美(あまみ)
久(く)といふ•《割書:中良案るに天皇(あまみこ)なるべし|琉球には日本の古言多く残れり》三男二女を生めり長男は
天孫氏といふ•国王のはじめなり•二男は諸侯(だいめやう)の始と
なり•三男は百姓の始となる•長女を君々(くん〴〵)•二女を祝々(しゆく〳〵)
といふ•国の守護(まもり)神(かみ)となる•一人は天神(あまつかみ)となり•一人は
海神(わたづみ)となる•天孫氏の末裔(ばつえい)二十五代•世を保(たも)つ事•
およそ一万七千八百二年にして断絶(だんぜつ)すと•云々夫より
鎮西八郎為朝の子•舜天といふ者•国王となる•《割書:舜天の|子舜馬》

【右丁】
《割書:其子義本にいたりて天孫氏の末裔に住を譲る|世俗今の琉球王は為朝の血縁なりと云は誤なり》中良案るに•中山伝信録に•
舜天は日本人皇の後裔•大里按司(おほざとのあんす)•朝公の男子なりと
記せり•大里は地名•按司は官名•《割書:大里按司は為朝の舅なり•|もしくは•聟に官を譲りたる》
《割書:ならんか•按司は位従一品•|領主諸侯の如きものなり•》朝公は•為朝の為を省きて称したる
なるべし•白石先生の琉球事略に•二條院永万年
中•為朝海に浮び•流に従ひて国を求(もと)め•琉球国に至り•
《割書:流に求るの義によりて•琉求と改称せしと|いふ•此説然るべからす是より先此名あり•》国人其武勇に畏れ服す•
其国の名を琉求と名付•遂に大里按司の妹に相具し
て舜天王を産•為朝此国に止る事日久しく•故土(ふるさと)を
思ふ事禁し難くして•遂に日本に帰れりと•云々和漢
【左丁】
三才図会に•為朝逝して後•祠を立て•神号を舜天
太神宮といふと記せるは誤なり•因(ちなみ)に記す•為朝十六歳
の時•父六條判官為義と同しく•新院の御味方と
なり•軍破て伊豆国に流さる•二十九歳にして鬼か島
へ渡り•帰国の後•国人が訴に依て官兵をさし向
られ•三十三歳にして自殺(じさつ)ありし事•保元平治物語に
見えたり•白石先生•本朝にて鬼か島といふものは•則
今の琉球これなりと云れたるは•何にもとづかれたるや•
所見(しよけん)なし•愚案るに•此地の古名を•屋其惹(おきの)島(しま)と
いふ•或は文字を替(かへ)て•悪鬼納(おきの)島(しま)とも書に依て•附(ふ)会(くわい)


【右丁】
したる説ならんか•
 〇日本へ往来の始
琉球事略に云•後花園院•宝徳三年•七月•琉球人
来りて•義政将軍に銭千貫と•方物(そのくにのもの)を献ず•是より
して其国人•兵庫の浦に来りて交易すと•云々案る
に•十五代•尚金福といへる国王•位に在し時なり•夫より
代(よ)は四代•《割書:後花園•後土御門•|後柏原•五李良》年(とし)は百二十三年《割書:ん|》を歴て•
正親町院(おほきまちのいん)•元亀十一年•琉球人来りて産物を献る•
薩摩国とは隣国なれば•深く好(よしみ)を通じ•綾船と名
付て•年毎に音物を贈りしが•慶長年中•彼国の三司官•
【左丁】
邪那といふ者。大明と議(はかり)て国王をすゝめ。日本への往
来をとゞめける故。薩州の大守。島津陸奥守家久。使
を遣はして故を糺(たゞ)すに。邪那。使に対して。種々の無
礼を振廻(ふるまひ)ければ。義久大に憤(いきどう)り。同十三年。駿府に趣き。
神君に見え奉て。兵を遣はして誅罰(ちうはつ)すべき旨を請ふ
神君義久が所存にまかすべき由 鈎命(きんめい)ありければ。翌年
二月。兵船数百艘遣はして攻討(せめうた)しむ。諸士功を抽(ぬきんで)て
攻入〳〵。同年四月。首里(すり)に乱入(らんにう)し。国王 尚寧(しやうねい)を擒(とりこ)にし
て凱陣(かいちん)す。尚寧王。日本に居事三年。過(あやまち)を悔(くい)。罪(つみ)を謝(しや)し。
漸(やうや)く本国に帰る事を得たり《割書:時に慶長十六年|なり》此時 神君

【右丁】
義久に琉球国を属し給ひけるより。永代 附傭(ふやう)の国
となり。臣とし仕ふる事甚 敬(つゝし)めり夫よりして。
将軍家御代替りには。中山王より慶賀の使臣を来聘(らいへい)
せしめ。彼国の代替りには 将軍家の鈎命を薩州
候より伝達せられて。しかうして後位を嗣((つき)。他日恩謝
の使を奉るなり。其国 唐(から)と日本の間に有故 嗣封(しほう)
の時は。清
よりも冊封(さつほう)を受るなり。去ども。唐へは遠く。
日本へは近き故。日本の扶助(たすけ)にあらされは。常住(しやうちう)の日用
をも弁ずる事あたはす。去によりて。国人 耶摩刀(をまと)と
称して。甚日本を尊とむとなん。
【左丁】
  〇官位幷冠服図説
位は一品より九品まであり•勿論正従の別あり•王の子弟
を王子(わんず)と称す•《割書:正一品|》領主を按司(あんず)と称す《割書:従一品〇古は按司|領地に住居して•其》
《割書:地を治めしか•各権威を振ふに依り•第十七代の国王尚真•制を改•首里の城|下に住居せしめ•察事(さつじ)記官(きくはん)といふ官人を•一人づつ遣して•其領内の事を》
《割書:支配せしめ•歳の終に物成を•|按司の方へ納めしむ•》天曹司•地曹司•人曹司とて•国家の
政事(まつりごと)を司(つかさど)る大臣を•三司官(さんしくわん)親方(おやかた)と称す•《割書:正一品|》夫より以下
の大臣を•親方と称す•《割書:従二品|》親雲上(ばいきん)と称するものは武官
なり•《割書:三品より七品|まてあり》里之子(さとのし)と称するは扈従(こせう)の小童(せうとう)なり•《割書:八品|》
筑登之(つくとし)と称するは九品なり•
〇国王は図の如く•烏紗帽(くろきしやのかふりもの)に朱き纓(ひも)•龍頭(たつかしら)の簪(かんざし)雲龍の紋


【右丁】
ある袍(きぬ)を着し•犀角(さいかく)白玉の帯を用ゆ•何れも明朝の
制なり•今清朝の冊封を受ながら•冠服は古へを改
めず•一品以下帽八等(かぶりものやしな)•簪(かんさし)四等•帯四等あり•荒増(あらまし)は•
一品は金の簪•彩織緞(もやうをおきたるきれ)の帽•錦の帯•緑色(もえぎ)の袍着す
《割書:江戸へ来聘する使臣は一品なれども•|国王の名代故•王の衣冠を着用す•》二品は金の簪•《割書:従二品は•彩を金にて|作り•棒は銀なり•》
紫綾(むらさきあや)の帽•龍蟠(くわんりやう)の紋ある黄•なる帯•《割書:功ある者は|錦帯を給ふ》深青色(こいもえぎ)の
袍を着す•三品は•銀の簪•黄なる綾の帽•帯袍ともに•
二品に同じ•四品は•龍蟠(くわんりやう)の紋を織たる•紅の帯•簪
帽袍•三品に同じ五品は•雑色花帯(いろいとにてもやうあるおび)•其外は三品に同じ•
六品七品は•黄なる絹(きぬ)の帽•簪と袍とは三品に同じく•帯
【左丁】
は五品と同じ•八品九品は•大(ひ)紅縐(ぢりめん)の帽•其他(そのほか)は七品
に同じ•雑職(かるきやくにん)は•紅絹の帽•其他は七品に同じ•同の簪•
紅布(あかもめん)の帽•或は緑布(もえき)の帽を蒙るは里長(なぬし)保長(しやうや)など
なり•青布(あゐもめん)の帽を蒙るは•百姓(ひやくせう)頭目(かししら)なり•凡(すべ)て官服は•
平服より丈長く•上より帯にてしむるなり•いかにも
寛(ゆる)やかに着為(きな)し•紙夾(かみいれ)•烟袋(たはこいれ)など懐(ふところ)に入る事•日本
の如し•童子の衣服は•三四寸ばかりの脇明(わきあけ)あり元服
の時縫詰る•元服の事は下に載たり•女人服もさ
して替る事なし•外衣(うはぎ)を襠(うちかけ)にし•左右の手にて襟を曳
て行となり•寝衣(よぎ)の制(しかた)•日本と同し•衾(ふすま)といふ•衣服に





【右丁絵の解説】
里之子(さとのし)
 扈従の体
【左丁絵の解説】
琉球国王

【右丁上段二コマ絵付き】
王帽(わうほう)
 黒き紗
 にて作る
 国王
  これを
  載(お)く
【仕切り縦線】
官民帽(くはんみんほう)
 一品より九品まての
 制皆同しいため紙
 を骨にして作る
 前に七ひだ後に
 十二のひだあり色を
 以て高下を分つ事
 上に記せるか如し
【帽の絵の両側に】前 後
【下段二コマ絵付き】
片帽(へんほう)
 黒き絹にて作る
 六の角あり医官
 楽人茶道の外
 剃髪したるもの
 これを用ゆ
【仕切り縦線】
笠(かさ)
 麦藁にて作り
 また革にても
 つくる外を黒く
 内を朱く
 漆にて
  塗なり
【左丁】
【上段二コマ絵付】
短簪(みちかきかんさし)
 長さ三四寸元服したる
 者これを用ゆ金銀
 同にて作る上に
 くはし
【仕切り縦線】
長簪(なかきかんさし)
 長さ尺余婦人少年
 の男子元服前にて
 髻の大なるもの是を
 用ゆ金銀にて貴賎を
 分つ民家の女子は附帽
 にて制したるを用ゆ
【下段絵付】
帯(おび)
 長さ一丈四五尺
 寛さ六七寸
 腰をまとふ事
 三重四重にす
 此帯地の地いろ
 地紋に差別
 あるもの上に
 載たるめし
 此帯の戴を
 薩摩がんとう
 とて好事の人
 みなはだ【非常に】珍翫す


【右丁】
衣【絵あり】
 袖大さ二三尺ばかり
 長さ手に過す図
 する物は平服なり
 官服は丈長し平日
 着する物は大抵
 芭蕉布の縞
 織を用ゆると
 なり
 此外足袋草履
 日本と同じかるが
 ゆゑに図せず
【左丁】
両面を•反覆(うらがへ)して着する様に制したるも有り•惣し
て•帽帯の織物は•唐度閩といふ地にて織•此国へ売
渡す•琉球国にては唯芭蕉布のみを作る•家〳〵
の女子•皆手織にす•首里(すり)にて制する物を上品
とす•
 〇年中行事
正月元旦•国王冠服を改て•先つ年徳を拝し•夫より
諸臣の礼を受(うく)•同十五日の式•元旦に同じ•《割書:毎月十五日•諸臣|の登城あり•》
王より茶と酒とを賜ふ•扨民家の女子は毬(まり)をつきて
遊び•また板舞(はんぶ)といる戯(たはむれ)を為す•図の如く真中へ木



【右丁】
板舞の図
【左丁】
の台を居(すえ)。其上へ板を渡し。二人の女子。両端(りやうはし)に対(むか)ひ
て立。一人 躍(おど)り上れば。一人は下にあり。躍上りたる女子。
本の所へ落下る勢ひにて。こなたに立ちたる女子は。五六尺
も刎(はね)上るなり。其体。転倒せさるを妙とす。其地北極地
を出る事二十五六度なる故。暖気も格別にて桃桜の
花も綻(ほころ)【示す扁に見える】び。長春は四季ともに花開ども。わけて此月を
盛とす。羊躑躅(つつし)は殊更見事なり。元日王宮の花瓶(はなかめ)
に挿(さす)事。恒例(かうれい)なり。薩州の人の直話なり。蛇は。し
めて穴を出。始て雷(いなひかり)し。雷すなはち声を発す。枇杷
の実熟(じゆく)す。元朝これを食ふ。正三四五九の四ケ月を

【右丁】
国人吉月と名づけて。婦女(おんなわらべ) 海辺(うみべ)に出。水神(わたづみ)を拝
して福を祈ると。伝信録に載たり。
〇二月十二日。家〳〵にて浚井(いとがへ)し。女子は井の水を汲
て。額(ひたひ)を洗ふ。如此すれば。疾病を免るゝとなり此月。
や。土筆(つくし)萌出(もえいて)。海裳。春菊。百合の花満開し蟋蟀(こほろぎ)鳴(なく)。
〇三月上巳の節句とて往来し。艾糕(くさもち)を作て餉(おく)る。石竹。
薔薇(ふうさはら)。罌粟(けし)。倶に花咲く。麦(むぎ) 秋(みの)り。虹(にし)始
て見ゆ。
〇四月させる事無し。鉄線(てつせん)開き。笋((たけのこ)出。蜩(ひくらし)鳴き蚯蚓(みゝつ)
出。螻蟈(けら)鳴き。芭蕉実を結ふ。国人是を露と名つく。
【左丁】
〇五月端午。角黍(ちまき)を作り。蒲酒(せうぶさけ)を飲事日本の如し。
此月稲 登(みの)る。吉日を選んて(。)。稲の神を祭り。然うし
て後。苅収(かりおさ)むるとなり。明の夏子陽(かしやうが) 使録(しろく)に云。国中に
女王といふ神有り。国王の姉妹世〳〵神の告に依て。
是に替る。五穀 成時(みのるとき)に及て此神女所〳〵を廻り。稲穂
を採(とり)てこれを嚼(かむ)。いまだ其女王の嘗(なめ)ざる前に。穫(かり)
入たる稲食ふ時は立所に命を失ふゆゑ。稲盗人(いねぬすひと)
絶えて無し。此月蓮の花咲き。桃。石榴(さくろ)熟す。
〇六月の節句あり。《割書:六月の勤る中に|当る日なるべし》強飯(こはいゐ)を蒸(むし)て送る。
此月や。沙魚(わにさめ)。岸に登りて鹿となり。鹿また暑を畏(おそ)





【右丁】
るゝ故。海辺に出て氷を咂(ふく)み。亦化して沙魚(わにさめ)と
なる。桔梗扶桑花開く。
〇七月十三日。門外に迎火の炬火(たいまつ)を照して先祖を
迎へ。十五日の盆供など。日本と替りたる事なし
此月竜眼肉実を結ぶ。
〇八月十五夜。月を拝す。白露を八月の節句とし
赤飯を作て相餉(あひおく)る。其前後三日が間。男女戸を閉(とぢ)
て業(わざ)を休む。是を守天孫(しゆてんそん)と号す。此間に角口(いさかひ)な
とすれば。かならず蛇に囓(かま)るゝ となり。木芙蓉(もくふやう)花
花さく。
【左丁】
〇九月梅花開き。霜始て降り。雷声を収め蛇
はなはだ害を為す。此月の蛇に傷(きず)つけらるれば。立
どころに死す故に。八月の守天孫に。三日か間つゝし
むなり。田は尽く墾(あらき)ばりし。麦(むぎ)の種(たね)を下す。《割書:麦は三月実|のるなり》
〇十月蛇穴に蟄(ぢつ)し。虹蔵(にじかくれ)て見えす。子児は紙鳶(いかのぼり)
をあぐ。
〇十一月。水仙。寒菊開き。枸杞(くこ) 紅(くれない)に色づき蚯蚓音
を出す。其外にさせる事なし。
〇十二月 庚子(かのえね)庚午(かのえうま)に当る日に逢ば。糯米(もちこめ)の粉を
椶(しゆろ)の葉にて。三重四重に包み。蒸駕篭(せいらう)にてむし


【右丁】
たるを鬼餅と名付て餉(おく)るなり。土人の祝に。昔
此国に鬼出たりし時。此物を作て祭りしとなり。
是其 遺(のこ)れる法なるよし。駆儺(おにやらひ)。禳疫(やくびやうよけ)の意なるべ
し二十四日竈(かまど)を送り。翌年正月始て
竈を
迎ふ。《割書:竈の神を送り|迎ふるなり》
 〇元服
此国人。元服以前は髻(もとゝり)を蛇(へび)のわたかまりたる如くにし
長き簪(かんざし)を。《割書:図上に出|せり》下より上へ逆(さか)しまに串(つらぬ)きて其先きは
額(いたゝき)の髪を剃(そり)て髻を小さくし。短き簪にて留置なり
【左丁】
唐土明(もろこしみん)の世にはには•髪を剃事なかりしが•清の冊封(さくほう)を
受る世となりてよりの事なるよしなり•中々に案るに•
芥子坊主になるかはりに•中剃(なかそり)と遁(のが)れたるなるべし•
 〇剃髪
医官を五官生(こくわんせい)といひ•茶道(さだう)坊主(ぼうす)を•宗叟(そうさう)といひ•また
御茶湯(おさどう)といふ•上に図したる•片帽(へんぼう)を被(かふり)•黒き十徳の
如きものを着することなり•
 〇家作
王宮の図は•唐画(からゑ)に画(えかき)たる宮殿にかはる事なければ
略けり•平人の家は•日本の作りにさまで替りたる事なく•

【右丁】
屋宇之図
【左丁絵のみ文字無し】

【右丁】
床の高さ三四尺•棟は甚高からず•海風を避(よく)るを
以てなり•屋根は瓦をもちゆ•疊•戸•障子•日本に
同し•柱は大蔦•鬼界か嶋に産する羅漢杉(らかんさん)を
用ゆ《割書:羅漢松はまきなり|羅漢杉もまきの類か》価いたつて貴し•木目至極 麗(うる)
はしく•数先年 蠧(むしばま)ず•年を歴(ふる)に従ひて•その光潤(つや)
鑑(かゝみ)の如し•壁は板羽目にし•粉箋(からかみ)を以て是を張る•
竹簾(すだれ)は極めて麁(あら)く•細(ほそ)き丸竹にて編(あみ)• 簷(のき)に桂(かく)•庭
の構へ•築山(つきやま)に黄揚(つげ)•松の類•あるひは円(まるく)•或は方(かく)に
苅込(かりこみ)たるを植•小池を掘て魚を畜(かひ)•水中に小石を
立•其上に鉄蕉(そてつ)•其外小き木なとを植て玩となす•
【左丁】
大抵 外圍(そとかこひ)は•蠣石を塁(たゝみ)て作る•《割書:蠣石は蠣石にて|磯石の類か》大家に
ては殊さらに磨(みがき)て削合(けつりあは)する故•一ち枚石にて切立たる
が如く•芭【?】立派なる事なり•寺院は多く黄揚(つげ)の生(いけ)
墻(がき)を苅込たるなり•また此国にのみ産する•
【仕切り縦線あり】
【図の説明】
米廩之図

【右丁】
十里香といふ木をも籬(かき)とす•此木の事は•産
物の部に載せたり•民家は竹の穂牆(ほがき)なり•米廩(こめぐら)
は•床の高さ四五尺•床下に十六本の柱を施し•
其間を人の行抜るやうに作る•官倉(かうぎのくら)皆かく
の如し•村落(むらかた)にては•寄合て一亭を作り•米を
其中に蔵め•日を分て守望(ばん)をするとなん•
 〇器財図説
食膳の為方(しかた)•膳椀にいたるまで•惣て日本の
制に效(なら)ふ•王宮の給仕(きうじ)は•里之子(さとのし)なり•二人宛揃
への服を着し•進退•小笠原流をもちゆ•はなはだ
【左丁】
行儀よき事なるよしなり•定西(ぢやうさい)法師(ほうし)伝に•《割書:此書は•|天正年中•》
《割書:琉球へ渡り•一度は栄へ•一度は衰えて•|道心となりたるものゝの伝なり•》琉球の習ひ•朝毎(あさこと)に然る
べき臣下より•銘〳〵后へ食籠をたてまつると
記せり•今もしかあるや•
 〇女市
此国中 辻山(つぢやま)といふ所の海沿(うみばた)に•朝晩(あさばん)両度市あり•
商人は残らず女なり•商(あきな)ふ所のものは魚蝦(ぎよるい)•蕃薯(さつまいも)•
豆腐(とうふ)•木器(きぐ)•礠碟(さらさはち)•陶器(せともの)•木梳(きぐし)•草靸(さうりわらぢ)•等の•麁物(あらもの)なり•
其 貨物(しうもの)•何によらず首(かうべ)に戴(いたゞ)き•坂(さか)に登り嶺(みね)を下
るに偏(かたよら)ず•売買は日本の銭を用ゆ•古へは洪武

  跋
今歳寛政二年の冬琉球國王より慶賀乃
使臣 東の都に来り聘すると聞て四方の
君子《割書:余|》り居舗に顧をたまひ中山傳信録
琉球車略三國通覧なとの書を讀む□毎に
□等の書乃他に琉球国農□實を
□□の耳にも入易からむやうに記たる書乃
あらまほしさを宣うより利に□る足の逸く
萬象亭にいゝにて先生に請ふ先生莞爾と

しく笑て曰吾子の□拳アラムことをあらかじめ
推知して萬国新語の遺稿より琉球の部を
抄出し一編の小冊となくおのりを取出して
授け賜ひぬ《割書き:余|》手の舞足の踏を知らず頓に
梓に鏤く世におほやけに希は□書の為に
都下□紙あたひの貴から□ことを実に
先生著述の書は《割書き:余|》の家の揺銭樹なり

琉球人行列附

【製本表紙・幅188mm】

【製本表紙】
《割書:御|免》琉球人行列附
      天保癸辰年

【右丁】
【貼紙】
「仲原善忠文庫
 【丸印「大学」】
   琉球大学
 志喜屋記念図書館」
【朱角印「仲原蔵書」】

【左丁】
【朱角印「潮音洗心」ヵ】
【付箋、青角印「琉球大学 附属図書 館蔵書印」】

【左丁】
【付箋下、白紙】

【題字】
 天保三癸辰年
《割書:御|免》琉球人行列附
【題字下】
  上野広小路
東都 平野屋助三郎
  芝松本町
板元 大木屋平右衛門
【題字枠外左下】
歌川国芳
【絵図上段】
足軽(アシカル)
合羽篭(カツハカコ)
沓篭(イツカコ)
牽潘馬(ヒキカエムマ)

衣家(イカ)
茶庫(サコ)
蘢刀(カヤクトウ)

傘(カサ)
鎗(ヤリ)

王子(ヲヽシ)
輿(コシ)
【絵図下段】
乗物(ノリモノ)
侍(サムライ)
跟伴(コンハン)
衣家(イカ)
鎗(ヤリ)

牽馬(ヒキムマ)
沓篭(クツカコ)
合羽篭(カツハカコ)

跟伴(コンハン)
鎗(ヤリ)

涼傘(リヤウサン)
牌(ハイ) 立札ノコト也 【牌絵図の表書】「豊葛城王府」【二枚あり】
沓篭(クツカコ)
傘(カサ)
鎗(ヤリ)

引馬(ヒキムマ)
沓篭(クツカコ)
馬医(ハイ)
馬乗(ムマノリ)

虎旗(フウキイ) ノホリ也

楽器入(カツキイリ)
  長持(ナガモチ)
鼓(ツヽミ)
哨吶(ツウチ)
喇叭(ラツハ)
銅角(トウカク)
両班(リヤウハン)
銅鑼(ドラ)

張旗(チヤウキイ)【旗絵図の中】「金鼓」【二枚あり】

傘(カサ)
跟伴(コンハン)
侍(サムライ)

【画面右上、枠囲み内】「行列始り」
【画面左下、枠囲み内二行、判読不能】

【右丁】
【付箋下、白紙】
【左丁、白紙】

【右丁】
【付箋】
【丸印「琉球大学附属図書館 1966,12,20 No, 112957」】
「$2,78」

【製本裏表紙】
【ラベル「093,Z R98」】

琉球産物於長崎拂立並本手品利潤総帖

 弘化四年より酉年迄
琉球産物於長崎拂立本手品利潤總帖

 弘化四年より酉年迄
琉球産物於長崎拂立本手品利潤總帖

弘化四年未ゟ酉年迄


 琉球産物於長﨑拂立並
 本手品利潤總帖

一丁錢七百六貫七百九拾九文
  犀角四拾壹斤八合五勺
一同弐千四百五拾四貫四百拾弐文
  虫糸三百七拾壹斤三合八勺弐才
一同七千弐百四拾弐貫五百六拾文
  龍腦千百拾四斤弐合四勺
一丁錢百四拾七貫六百五拾壹文
  沈香三百三拾弐斤九合
一同弐拾四貫百 三(弐)拾文
  茶碗薬八拾壹斤四合

【左頁上部】

【左頁下の二枚の付箋】
九六銭ニ対シ銭百3百
    文トスル銭 銀.

江戸時代.九六文を百文
  として通用させた銀。
    丁銭は百文は百文.


一丁錢九百九貫三百四拾六文
  象牙弐百八拾八斤五合
一同千弐百七拾五貫文
  硼砂千七百斤
一同五千弐拾壹貫百文
  木香七千百七拾三斤
一同弐百三拾四貫百八拾壹文
  阿膠五百八拾九斤八合七勺五才
一同貳百七拾貫三百弐拾五文
  蒼求千八拾壹斤三合


一同七百四拾九貫五百八拾文
  桂皮千九百弐拾弐斤
一同千三百拾九貫百拾五文
  甘松貳千九百三拾壹斤五合
一同千九百弐拾壹貫百七拾九文
  甘草四千九百弐拾六斤壱合
一同弐千七百三拾貫文
  大黄七千斤
一同三千五百四拾四貫五百七拾六文
  山帰來壹万三千六百拾七斤六合

【左頁上部】

 合丁錢弐万八千五百四拾六貫三百四文
  九六銭ニシテ弐万九千七百三拾五貫七
  百三拾弐文
  右琉球産物御商法品於彼地御代
  拂髙
 外ニ
 一丁錢壹万八千四百三拾壹貫七百
 三拾壹文
  九【拾】六錢ニシテ壱万九千百九拾九貫
  七百拾九文
  右壱行脚御内用品等之地禿薬種
  御買入代御拂髙


 一九六錢拾壹万四千七百拾九貫百五
 拾六文
  右壹行琉球産物御本手之繰綿煙
  草其外品々御買入於御當地御拂髙
本文外書三口
 全九六銭拾六万三千六百八拾四貫七
 百拾壹文

【左頁上部】

一銀三拾三貫百三拾弐匁三分七厘五毛
  犀角四拾壹斤八合五勺
一同弐百拾三貫七百七拾五匁五厘
  虫糸三百七拾壹斤三合八勺弐才
一同弐百六拾弐貫弐百九拾弐匁九厘六毛
  龍腦千百拾四斤弐合四勺
一銀拾三貫九百五拾壹匁八分三厘九毛
  潤( 沈力)香三百三拾弐斤九合
一同百七拾八匁貳分六厘六毛
  茶碗薬八拾壹斤四合

【左頁上部】

一銀拾六貫三百目弐分五厘
  象牙弐百八拾八斤五合
一同五拾四貫弐百三拾目
  硼砂千七百斤
一同五拾弐貫八百弐拾壹匁九合
  木香七千百七拾三斤
一同拾九貫五拾弐匁九分六厘
  阿膠五百八拾九斤八合七勺五才
一同三貫弐百七拾六匁三分三厘九毛
  蒼求千八百壹斤三合


一同拾弐貫九拾八匁九分六厘
  桂皮千九百弐拾弐斤
一同三拾壹貫百参拾弐匁五分三厘
  甘松弐千九百三拾壹斤五合
一同四拾六貫四百五拾三匁壹分弐厘三毛
  甘草四千九百弐拾六斤壹合
一同八拾五貫七百五拾目
  大黄七千斤
一同百三貫三百五拾七匁五分八厘四毛
  山歸來壹万三千六百拾七斤六合

【左頁上部】

合代銀九百四拾七貫八百三匁三分七厘六毛
五弗
内 百八拾九貫五百六拾目六分七厘五毛
  三弗
  右壹行貳割通長崎會所《割書:納》分
差引
  七百五拾八貫弐珀百四拾弐匁七分壹毛
  弐弗
   錢一壹貫文ニ付九匁五分替
錢ニシテ七万九千八百拾五貫弐拾文


 《割書:内》壹万弐千九百貳拾五貫五百六拾《割書:七》文
  右壹行長崎御奉行其外地役人共【トエ?】御
  挨拶並彼表産物一條ニ相掛候諸雜費
  其外琉球御國許荷仕出又者琉球諸役
  御心付銀□勿論手入旁〻諸雜費拂
差引
六万六千八百八拾九貫四百四拾九文
外ニ
 三万七百拾九貫五百五拾文
  但 六割増込ル
  右壹行御内用薬種等於御當地御拂辰立
  代

【左頁上部】

 拾六万四千五百七拾六貫拾壹文
  但増錢込ル

 右壹行御本手繰綿煙草其外品々於
 琉球御拂立代
 差引外書
三口
 合錢弐拾六万貳千【八:上から×印】百八拾五貫拾四文
  右□内
  拾六万三千六百八拾四貫七百拾壱文


 右壹行琉球産物品々並御内用品御買入代
 其外於御當地御本手繰《割書:等》綿御買入代
 三口合高
又差引
 錢九万八千五百貫三百三文御利潤
 内
  三万七千百五拾三貫七百拾七文
   六貫八百文替
    金ニシテ五千四百六拾三兩三歩《割書:ト》
          錢弐百拾七文
    右長崎御商法品御利潤

壹万千五百拾九貫八百三拾壹文
七 【百 上から×印】(貫)文替
 金ニシテ千五百三拾五兩三歩弐朱ト
         錢七百六拾七文
 右御内用薬種御拂立利潤

四方九千八百八百弐百拾六貫七百五拾壹文
七貫五百文替
 金ニシテ六千六百四拾三兩弐歩ト
          錢五百三文
 右御本手品於琉球御拂立《割書:御》利潤


右者去ル弘化四年末秋琉球産物御商
法品々《割書:於》長崎御拂立銀並御内用薬種
等於御當地御拂代其外□琉球御本手
品々御拂立代を以御買入代又者諸雜費
差引仕候処右も通御利潤相見得申候間
此段申上候   以上
      琉球産物方掛
 《割書:亥》六月     御役々

【左頁上部】

嘉永元年《割書:申》秋

琉球産物商法品々於長崎
御拂立御利潤總

      琉球産物方

【左頁上部】

一丁錢三千五百五拾貫五拾五文
  犀角百八拾七斤四合
一同壹万七百貫四百三拾五文
  虫糸六百九拾壹斤六合
一同四千五百五拾貫文
  龍腦七百斤
一同三千弐百拾弐貫八百七拾四文
  象牙千百八拾六斤
一同百七拾四貫四百文
  阿膠四百三拾六斤

【左頁上部】
10

一丁錢三千貫文
  木香五千斤
一同千九百拾貫弐百五拾文
  潤香(沈香力)五百斤
一同弐千弐百五拾貫文
  硼砂弐千五 【拾 上から×印】(百)斤
一同千八百五拾四貫文
  大黄四千百弐拾斤
一同千四百七貫五百文
  甘松三千百五拾斤


一同弐千五百八拾五貫文
  山歸來壹万千七百五拾斤
一同三千百五拾四貫九百九拾六文
  桂皮七千三百三拾七斤弐合
一同六百拾六貫八百三拾五文
  甘草千四百三拾四斤五合
一同弐百九拾貫百五拾文
  蒼求千百九拾《割書:七》斤

  合丁錢三万九千弐百七拾六貫九拾五文
【左頁上部】
11

 九六錢ニシテ四万九百拾弐貫九百拾壹文
 右琉球産物御商法品於彼地御《割書:代》拂髙
外ニ
一丁錢壹万九千三百八拾貫三百八拾三文
 九六錢ニシテ弐万百八拾七貫八百九
 拾五文
 右壹行御内用品等之地禿薬種御買
 入代御拂髙
一九六錢拾貳万三千三百七拾貫七百拾三文
 右壹行琉球産物御本手之繰綿煙草


 其外品々御買入代御當地御拂髙

本 文外書三口
 合九六錢拾八万四千四百七拾壹貫
 五百弐拾三文

一銀百八拾三貫四百弐拾三匁七分八厘
  犀角百八拾七斤四合
一同四百四拾貫九百九拾壹匁九分四厘
  虫糸六百九拾壹斤六合
一同弐百拾壹貫弐百六匁
  龍腦七百斤
一同六拾壹貫四拾九匁
  象牙千百八拾六斤
一同拾貫百五匁壹分
  阿膠四百三拾六斤

【左頁上部】
13

一銀四拾八貫六百五拾目
  木香五千斤
一同拾七貫九百五拾目
   《割書:※潤は上から×印》
  潤(沈カ) 香五百斤
一同九拾弐貫四百目
  硼砂弐千五百斤
一同五拾六貫三拾六匁
  大黄四千百弐拾斤
一同四拾五貫七百六匁五分
  甘松三千百五拾斤


一同九拾六貫弐百六拾七匁七分五厘
  山歸来壹万千七百五拾斤
一同四拾九貫七百四拾六匁弐分壹厘六毛
  桂皮七千三百三拾七斤弐合
一同六百拾六貫八百三拾五文
  甘草千四百三拾四斤五合
一同四貫百弐拾九匁六分五厘
  蒼求千九百斤
 合代銀千三百三拾七貫七百三拾目五分
    四厘九毛五弗

【左頁上部】
14

嘉永二年《割書:酉》秋
琉球産物御商法品々於長崎御拂
立御利潤總

       琉球産物方

【左頁上部】
18

一丁銭四千三百八拾四貫六百拾八文
  犀角百六拾壹斤八合
一同千三百九拾四貫四百弐文
  虫糸百斤三合六勺
一同四千四百四拾三貫四百文
  龍腦六百八拾三斤六合
一同千七百五拾八貫五百文
 《割書: □沈□|□潤》香五百斤
一同拾六貫八百四拾五文
  茶碗薬五拾六斤一合五勺

【左頁上部】
19

一丁錢千四百九貫百五拾四文
  象牙五百壹斤八合
一同千四百貫六拾壹貫貳百四拾文
  硼砂千六百貳拾三斤六合
一同三千貫文
  木香五千斤
一同百七拾八貫八百八拾文
  阿膠四百四拾七斤貳合
一同百七拾四貫四百文
  蒼求貳千四百三斤


一同五千四百六貫三拾六文
  桂皮壱万貳千六百六拾五斤弐合
一同弐千四百八拾四貫九百文
  甘松五千五百弐拾弐斤
一同三千百五拾貫文
  大黄七千斤
一同貳千五百六拾七貫八百七拾四文
  甘草五千九百七拾壹斤八合
一同五千百九拾九貫四百八拾文
  山歸來壹万九千九百九拾八斤

【左頁上部】
10

 合丁錢三万七千四百九拾六貫七拾九文
  九六錢ニシテ三万九千五拾八貫四百拾五文
  右琉球産物御商法品於彼地御代拂高
 外ニ

 一丁錢六万六千三百八拾貫弐百三拾弐文
  九六銭ニシテ六万九千百五拾弐貫三百
  弐拾四文
  右御内用品等之地禿薬種御買入代御拂高
 一九六錢九万八千四百貫六百七拾八文
  右琉球産物御本手之繰綿煙草其外品々


 御買入代於御當地御拂髙

本文外書三口
 合九六錢貳拾六千六百拾壹貫四百貳拾
 壹文

【左頁上部】
21

一銀百拾貳貫百三拾九匁三分九厘
  犀角百六拾壹斤八合
一同五拾五貫四百四拾六匁八分五厘
  虫糸百斤三合六勺
一同貳百拾六貫六百三拾弐匁八分四厘
  龍腦六百八拾三斤六合
一同四貫三百九拾五匁
  沈(沈力)香五百斤
一同八拾目八分五厘六毛
  茶碗藥五拾六斤壹合五勺

【左頁上部】
22

一銀貳拾七貫五拾弐匁三厘八毛
  象牙五百壹斤八合
一同四拾六貫七百四拾三匁四分四厘四毛
  硼砂千六百貳拾 五(三)斤六合
一同四拾三貫貳百目
  木香五千斤
一同拾七貫貳百六拾壹匁九分貳厘
  阿膠四百四拾七斤貳合
一同七貫百七拾目五分五厘貳厘
  蒼求貳千四百三斤


一同六拾六貫貳百三拾八匁九分九厘六毛
  桂皮壹万貳千六百六拾五斤弐合
一同八拾六貫六百九拾五匁四分
  甘松五千五百貳拾貳斤
一同八拾六貫五百九拾目
  大黄七千斤
一同五拾九貫八百九拾七匁壹文五厘四毛
  甘草五千九百七拾壹斤八合
一同百拾壹貫七百八拾八匁七分貳厘
  山歸來壹万九千九百九拾八斤


【左頁上部】
23

拾三万七千貳拾壹貫五百八拾文
 《割書:但》増銭込
 右御本手繰綿煙草其外品々於琉球御
 拂立代
差引外書三口
合錢三拾三万八千三拾四貫六百八拾九文
右之内
貳拾万六千六百拾壹貫四百貳拾壹文
右琉球産物品々並御内用品且御本手繰
綿等御買入代三口合髙

又差引
拾三万千四貳拾三貫貳百六拾八文
            御利潤

貳万貳千七百七拾貫百拾三文
六貫八百文替
金ニシテ三千三百四拾八兩貳歩ト
        錢三百拾三文
 右長崎御商法品御利潤
七万三拾貳貫百五拾三文

【左頁上部】
25

七貫五百文替
 金ニシテ九千三百三拾七兩貳歩ト
         錢六拾五文
 右御内用薬種御拂立利潤
三万八千六百弐拾貫九百弐文
七貫五百文替
 金ニシテ六千六百四拾三兩弐歩ト
          錢五百八拾六文
 右御本手品於琉球御拂立御利潤
右者去ル嘉永二年《割書:酉》秋琉球産物御商法品《割書:々》


於長崎御拂立銀並御内用薬種等於
御當地御拂代其外於琉球御本手品々御拂立代
を以御買入代又は者諸雜費差引仕候処右之
通御利潤相見得申候間此段申上候 以上
         琉球産物方掛
  《割書:亥》 六月        御役々

【左頁上部】
26

【白紙】

琉球人来朝記

【表紙 題箋】
琉球人来朝記

【コマ1と画像が同じ】

【蔵書印】仲原善忠文庫

琉球人来朝記

【右丁 表紙の裏(見返し)】
仲原善忠文庫
琉球大学
志喜屋記念図書館

【左丁】
K 0937 
R98
1~2


琉球人初而
日本え来朝
之事略

琉球人来朝記

【蔵書印 二つ】
仲原蔵書
■■
■■

一之巻
琉球人初而
日本江来朝
之事  略
ニ之巻
琉球人
  官職姓名
同 登城之節諸向江御触


琉球人来朝記
   嶋津家久琉球を攻取て
   始て日本へ来朝セしめ候事
慶長十四年二月薩摩の国主嶋津
家久
東照宮の命を承り琉球国を攻

しむ国は東海の南に在て大琉球
小琉球といひ閩越福建(ミンエツフクケン)の地と相
対し順風なれは七日にして福建ゟ
琉球に達す薩摩ゟは三百五十里
にして颭風にしては十日を過す
して至り太閤秀吉公の時琉球

市買交易を通せんため使を通し
朝貢す薩摩大隅船路能により
こて船の往来有り大明是を聞て
琉球を責め日本の通信を絶しむ
是よりして琉球より通しなき事
十余年也家久此事を申上る

家久家臣を撰ひ横山権左衛門久高を
大将とし平田太郎左衛門を副将として
兵士八千余人兵船百余艘を琉球へ
遣す中山王国中の兵五千余人を
以て日本山に陣を取る此山ハ中山
王都より百里計有て日本の界


に在り嶋津か兵刀本山に至り弓
鉄砲にて急に攻けれハ琉球の兵多く
討れ敗軍して逃去る同年四月
嶋津か兵船を進て那覇津(ナハツ)に入り
津の兵船鉄ノ鎖(クサリ)を津の口に張る
嶋津か兵他の津より上り相戦ふ事

三日にて都に入り王城を囲(カコ)ミ
大に破る中山王幷同宮王子降参を
乞けれハ樺山等早船を以て家久に
注進す家久使を江府駿府に馳て
此由申上る五月中山王虜となり
けれハ嶋津か兵中山王幷小子姫


妃妾を皆捕へ国兵を治て懸る家久 
中山王尚寧を客館に置き懇に
撫育して駿府江府へ注進す七月嶋
津か注進を駿府に達しけれハ
東照宮大に悦給ひ家久に下シ
文有りて其功を賞セられ琉球

国を賜ふ
台徳院殿よりも兵庫入道義弘
並家久に書を賜りて大功を褒
せらる翌年八月二日嶋津陸奥守
家久ハ中山王尚寧を引具して
駿府へ来朝す八日登 城有り

東照宮烏帽子直衣を着し給ひ
大広間上段に 御着座尚寧段子
百疋羅紗百廿尋芭蕉布百疋
太平布二百疋を献し拝礼畢て
退く家久ハ太刀白銀千枚を献し
拝礼して尚寧駿府に有るの間

其弟病死しけれハ暫く逗留し
十八日家久幷中山王尚寧に饗宴
を賜り猿楽を観セしむ頼宣《割書:紀州の|御先祖》
頼房《割書:水戸の|ご先祖》舞給ふ其間酒宴有り
東照宮ゟ家久に貞宗の太刀脇指を
賜ふ十九日家久尚寧御暇にて


賜物有り廿五日家久尚寧を引具し
江戸に参着す廿六日
台徳院殿仰に依て家久か遠
方ゟ中山王を召連れ来る事を
労し給ひて御使を家久か桜田の
宅に遣さる廿七日家久か宅へ再ひ

上使有て白米千俵を給ふ廿八日
尚寧登城
台徳院殿に謁し奉り鈍子百疋
芭蕉布百疋太平布弐百疋を
献し拝礼して退く緞子百疋
白銀千枚長光の太刀を献し

太刀一腰馬壱匹糸百斤を
大猷院殿に献し拝礼か畢而九月
十一日家久尚寧に饗宴を給ひ
後上使を桜田の宅へ下し遣ハ
され御馬を家久に賜り帰国の
御暇有り廿日家久尚寧を引

具し木曽路より国に返る初而
尚寧
台徳院殿に謁し奉る時に命
有りけるハ琉球国ハ累代中山王
の居なれハ他姓の人を立へからす
本国に帰り祖考の祀を継へしと

仰付られ家久にも其 命有り
て琉球の年貢を賜ふ家久尚寧
を引具して薩摩へ帰り中山王
其外の俘囚(トラハレ)ともを悉く琉球へ
送り還し薩摩より監国(カンコク)の置
手法制を定る毎年琉球の貢

税六万石を収納有と云々





琉球人来朝記
   琉球人姓名幷官職
正使 《割書:慶賀(ケイカ)|紫巾大夫(シキンタイフ)》         具志川王子(クシカハワウシ)
副使            與那原親方(ヨナハラヲヤカタ) 
賛議官(サンニイハン)          池城親雲上(イケグスクハイキン)
楽正(カクセイ)            平鋪(へシキ)親雲上

儀衛正(キエセイ)      呉屋(ゴヤ)親雲上
掌翰史(シヤウカンシ)      津嘉山(ツカサン)親雲上
圄師(ギヨシ)       真嘉屋(シンカヤ)親雲上
使賛(シサン)       金城(カナクス)親雲上
         渡嘉鋪(トカシキ)親雲上
         座喜味(サキミ)親雲上
         幸地親雲上(コウチハイキン)
楽師       名嘉地(ナカチ)親雲上
         稲嶺(トウレイ)親雲上
         伊舎堂(イシヤトウ)親雲上
         津波(ツハ)親雲上
         知念里之子(チネンサトノコ)

         奥原(オクハラ)里之子
         大城(ダイグス)里之子
         徳嶺(トクミネ)里之子
         湊川(ミナトカハ)里之子
         伊江(イヘ)里之子
上下合九十八人也



  十二月十二日
《割書:従四位上|中将》  松平薩摩守

右者此度琉球人召連
罷越候付昇進被仰付
之同日参府之御礼申上


 巻物弐    嶋津兵庫
 金馬代    鎌田典膳

右参府ニ付見御礼
申上也



   十一月廿七日被 仰出
御本丸西丸江被相越候面々者
蓮池御門通り罷越西丸中ノ口ゟ
登城退散之節者同所御玄関
上り大手御門通り退散之事

一西丸え登城無之面々者琉球人
 御本丸より退散後大手御門通り
 退出之事
  但し内桜田御門之方え退出之
  面々ハ琉球人西丸大手御門入
  口を見合退出之事



一 大手御門内桜田御門西丸大手御門
  下馬に相残り候供之分ハ主人登
  城候ハゝ直ニ神田橋御門内酒井左衛門尉
  屋敷脇和田金右衛門内馬場ノ外
  桜田御門外江相払差出候且亦
  下乗ニ相残り候乗物挟箱幷供廻り者

小笠原右近将監屋敷前本多伊予守
屋敷後明地え相払差置出仕之
面々退散之節屋敷向寄之方
右之場所々々之内相廻り居候様
御申付可被成候尤供廻り差引之
ため御徒目付御小人目付差出し候




諸事差図相用ひ候様是又御申付
可被成候

   十一月
   琉球人登城候節出仕之面々
   供廻り御城内差置候場所覚
一 御玄関前冠来御門外ニ而相残り候



  供廻り義御玄関腰懸召連候供廻り
  臺部屋口御門内江相払差置候事
一 中ノ口ゟ登城之面々供廻りハ中ノ口
  御門片寄差置申候事
一 諸大名留守居御座敷向者勿論
  中ノ口辺ニも一切差置不申候主人

  刀持草履取差置候場所江相払
  候事
    琉球人登城之節下乗ゟ
    内供廻り召連候覚
一 四品以上幷万石以上共下乗ゟ
  内御玄関前冠木御門外迄者

  侍弐人草履取壱人雨天之節ハ
  傘持壱人召連冠木御門ゟ内者
  刀持壱人雨天之節者手傘
  用候事壱万石以下下乗ゟ内え
  侍壱人草履取壱人召連候
  其関前冠木御門ゟ内ハ刀持


  壱人雨天之節者手傘用候事
一 万石以上以下共挟箱下乗橋内え
  一切入申間敷候事
    但し部屋有之面々ハ挟箱内え
    入候事
一 中ノ口ゟ登城之面々ハ草り取

召連候事
右之通り心得可被成候

【右丁付箋下、白紙】

【右丁】
【付箋】
 【丸印「琉球大学附属図書館 1966,12,20 No,112897」】
 【余白記入「全9巻(4冊)で 66,70」】

【製本裏表紙】
【ラベル「093,2 R98」】

島津家宛花押印状(一)

 一筆致啓達候
 寵姫様御婚姻被為整候
 御祝儀去歳
御前様江申上候付御目録
 之通拝領物被
 仰付難有仕合奉存候右
 御禮可然様御披露頼存候
 恐惶謹言
     中山王

  五月二日    尚育

  御老中

南島紀事

南島紀事 上

南島紀事 上

後藤敬針臣編
南島紀事
榕陰書屋蔵版



  凡例
一本編ハ專ら中山世鑑中山世譜球陽南高志沖
 繩志等に據り傍ら中山傳信録喜安の日記白
 石の事略等を參取し間〻挿注して以て異同
 を辯す其明治維新以後に係る事蹟ハ往年《割書:敬》
 《割書:臣》か琉球于役中筆する所の手記を用ゐ以て
 編修す
一琉球上古の說其荒唐に屬するものハ省略し
 唯天孫氏創國の大綱のみ取て之を擧く
一本編ハ天孫氏に始り尚泰王に終る蓋し慶安

 以前は史傳なし天孫氏二十五世紀一万七千
 八百二年と稱すといへとも其間の治亂興廢
 に至りては今得て考ふへかとに舜天王以還
 凡三十六世とす《割書:舜天ノ王タリシヨリ今年|ニ至リ凡六百九十八年》
一本編は系統に由り之を分ち天孫紀舜天紀英
 祖紀察度紀尚思紹紀尚圓紀の六世紀と為し
 毎紀繼承の由て來る所を詳かにす
一冊封を支那に請ひ册使の國に臨み進貢接貢
 兩使舩の往還慶弔使者派遣の始末并に獻呈
 方物の名目下賜贈答の品種等其恒例に係り


 時事に與からさるものは必しも之を載せす
一攝政三司官の任黜其國事に關せするとしは
 載せす
一職制服制の創定改革等は前人已に詳著あり
 今此に載せす
一間切を割き別稱を立て海を填めて地を築き
 新に橋梁を架し門坊殿宇を創建する如き其
 小京るむしは載せす
一往復文書の支那文に係るもの多し今譯して
 之を載す條例誓文の如き亦概して其大意を

 擧く
一琉球の官職姓名其本邦に對する支那に對
 すると各其稱謂を異にす所謂攝政三司官及
 御鎻之側官は彼に向て國相、法司及耳目官と
 謂ひ或は三司官の支那に使する時は王舅と
 稱し又伊江王子の尚健《割書:唐名(カラナ)ト|稱ス》に於る宜野灣
 親方の尚有恒に於いる如き其稱謂を記する
 は概ね取ると所の原文に依る故に間《割書:〻》一人兩稱
 に亘るもの無きを免れす
  明治十七年四月     編 者 識



南島紀事目録
 上巻
  天孫紀  《割書:天孫氏》
  舜天紀  《割書:舜天王 舜馬順熙王|義本王》
  英祖紀上 《割書:英祖王 大成王|英慈王》
  英祖紀下 《割書:玉城王|西威王》
  察度紀  《割書:察度王|武寧王》
  尚思紹紀上《割書:思紹王 巴志王 忠王|思達王 金福王》
  尚思紹紀下《割書:泰久王|德王》
 中巻

 尚圎前紀上《割書:圎王 宣威王 真王|清王 元王  永王》
 尚圎前紀中
下巻
 尚圎前紀下《割書:豐王 賢王 質王|貞王 益王》
 尚圎後紀上《割書:敬王 穆王 溫王|成王 灝王 育王》
 尚圎後紀下《割書:泰王》

南島紀事目錄畢


南島紀事上巻
        周防 後藤敬臣編
 天孫紀
  天孫氏
琉球《割書:本邦往昔邪久國ト曰ヒ|俚俗古來沖繩ト呼フ》の初め天孫氏とい
へる神あり是れ古史に所謂阿摩久《割書:神|名》か天帝
に請ひ申して三男二女を此國に降しゐひける
中なる第一の男神にして即ち國君の始とそ申
し傳へける天孫氏繼治の間山川を相して國頭(タンチヤン)
《割書:後北|山》中頭(ナカガミ)《割書:後中|山》島尻(シマジリ)《割書:後山|南》の三ツチシ野ヲ晝して

間切《割書:内地ノ郡ニ似|テ小ナルモノ》を分かち王城を中頭の首里
に築き諸間切に按司《割書:諸侯ノ|如シ》を置きて民を治め
麥栗禾ハ久(ク)髙(ダカ)島に生し稲苗を知(チ)念(ネン)玉城(タマグスク)に産し
農業の道始て開けたり斯くて天孫氏二十五
代《割書:乙丑ニ起リ丙午ニ終リ凡|一万七千八百二年ト稱ス》推古天皇十三年《割書:隋|大》
《割書:業元|年》の時に當り何蠻と云もの隋の陽帝に奏し
て曰春秋の二季天氣清く風静かなる日、東の方
を望めは依稀として煙霧の氣あるに似たり亦
其㡬千万里なるを知らすと隋主楊廣ハ羽騎尉
朱寛と云も新に命して此國に至り風俗を訪れ

の苦を除き三山を一統す尚德に至り七王継承
し經歴六十四年にして思紹の統斷絕せし

南島紀事上巻 畢

島津家宛花押印状(三)

 一筆啓上仕候
太守様御儀近年琉球江異国船折々
 渡来不容易時節柄故當正月中旬
 御暇而
少将様御儀者
 御着 城之上被遊
 御参府度御願之通被
 仰出置候處正月十三日以
 上使御暇御給御先格之通御拝領物従
右大将様茂以
 上使被遊御拝領物同十五日
 御登 城御礼被
 仰上
 御懇之被為蒙
 上意御馬御拝領之段承知仕誠以
 恐悦奉存候右御祝詞
太守様江申上度貴公様方迄奉呈
 愚札候誠惶誠恐謹言

        與那原親方
  四月十六日    良綱


 嶋津豊後様
 嶋津壱岐様

宝永七年

宝永七年
琉球人来聘

宝永七年
琉球人来聘

天保三年壬辰閏十一月琉球
入貢閏十一月四日七日

文昭院様御代
寶永七年庚寅十一月琉球入貢

琉球新誌

琉球新誌《割書:図附|》 下

琉球新誌《割書:図附|》 下

【次ページと同内容のため翻刻省略】

琉球新誌巻下
                 大槻文彦 著
  封貢
推古ノ朝ヨリ、寧楽(ナラ)朝ノ末ニ至ルマデ、南島陸続朝貢
シ、屡〱各島ノ君長ニ禄位ヲ賜ヒ、或ハ征討慰撫ス、後太
宰府ノ所轄トナルヨリ、直ニ其府ニ貢献ス、其後往々
離叛シ、六条高倉ノ朝ニ至テハ、半ハ既ニ叛ク、頼朝ノ
鬼界島ヲ伐シヨリ、声息相絶エ、足利氏ノ中世ニ至リ、
再ビ相通ジ、明ト足利氏ノ間ニ周旋シ、嘉吉元年、足利
氏始メテ琉球ヲ島津氏ニ属セシメ、常ニ兵庫ニ来リ、
三年一貢ス、其後又絶エ、豊臣氏ニ至リ、復通ジ、屡〱参洛

ス、」慶長十四年、島津氏其不貢ヲ征セシヨリ、徳川氏更
ニ琉球ヲ島津氏ニ賜ヒ、其臣属トス、爾来、国王嗣立ノ
時ハ、幕府ノ教ヲ以テ、島津氏之ヲ封ジ、乃チ恩謝使ヲ
来シ、又将軍襲職ノ時ハ、賀慶使ヲ来ス、共ニ王子(ワウジ)ヲ正
使トシ、親方(オヤカタ)ヲ副使トシ、従者数十人、大抵ハ鹿児島ヲリ
九州西海ヲ廻リ、下ノ関ヨリ大坂伏見ヲ過ギ、美濃路
ヨリ、東海道ヲ歴テ、東都ニ至ル、官ヨリ駅馬ヲ給ス、来
朝、多クハ冬月ナリ、芝ノ薩邸ヲ旅館トス、登城ノ日ハ、
《割書:往復、外桜田ノ薩邸ニ於テ、冠服|ヲ装束ス、俗ニ装束屋敷ト云、》明服ヲ用ヒ、正使ハ王
服ニ擬ス、副使賛議官以下、儀衛音楽ヲ用ヒ、島津侯之
ヲ率ヒ、重臣兵士護衛ス、将軍巳ノ刻ニ、大広間ニ面ス
《割書:長袴ヲ|着ス、》献物ハ、大抵太刀、駿馬、寿帯香、竜涎香、香餅、太平
布、芭蕉布、青貝卓、羅紗、縮緬、泡盛等ナリ、正副使モ亦進
献アリ、後、再ビ日ヲ期シ、登城シ、散楽ノ宴ヲ賜ハル、又
初メハ、使臣、必ズ日光山ヘ詣スルヲ例トセシガ、宝永
七年ヨリ、日光ヲ止メ、上野ノ東照宮ヲ拝スルヲ例ト
ス、又滞都中ハ、幕府ヨリ米二千俵ヲ給セシト云、帰国
ノ時ハ、島津侯、又率テ登城ス、大広間中段ニ、賜物ヲ列
シ、正使 次(ツギ) ̄ノ間(マ)ニ坐ス、閣老、台意ヲ伝ヘ、次ニ三(サン) ̄ノ間(マ)ニテ、正
使ニ賜物ヲ伝フ、大抵、国王ニ白銀五百枚、綿五百把、正
使ニ銀二百枚、時服十枚、其余ニ銀三百枚ヲ賜フト云、
国王ノ奉書ハ、松平薩摩守内中山王某ト書シ、閣老ニ

呈シ、将軍ニ達ス、之ヲ披露状ト云、今寛文ノ書例ヲ挙
グル、左ノ如シ
 謹而令_レ呈_二-上一翰_一候、抑去歳吾薩州之太守光久、奉_二鈞
 命_一、而予嗣_二琉球国之爵位_一、為_レ奉_レ述_二賀詞_一使_下小臣金武王
 子附_レ于_二光久_一献_中-上不腆之土宜_上候、伏冀以_二諸大老之指
 南可_レ達_二台聴_一儀奉_レ仰候、誠惶不宣、
  寛文十一年五月廿五日 中山王尚貞判
   板倉内膳正殿《割書:連名略ス|》
 使_二价金武来貢_一、芳簡披閲、面話唯同、抑去年従_二薩摩国
 主光久_一、就_レ申_二-達琉球国伝封之旨_一為_二安堵之賀儀_一被_レ献_二
 進土宜件々_一、使者奉_レ之、登営如_レ数披_二-露之_一、奉_レ備_二台覧_一之麑
 処、使者被_二召出_一、而奉_レ拝_二御前_一畢、御気色殊宜、幸甚〱〳〵、
 可_レ被_レ安_二-堵遠懐_一、猶亦諭_二使者_一畢、不宣、
  寛文十一年八月九日 従四品侍従兼内膳正源朝臣重矩
    回報 中山王 館前   連名ハ略ス

【枠外上部】島津氏ニテ、琉球在番ノ任ヲ重ンズルヿ、貴族ナラザレバ、必、用人以上ノ人ナリシト云、

島津氏嗣立ニハ、亦別ニ使臣ヲ来シ、賀儀ヲ致シ、麑島
ニ琉球館ヲ置キ、常ニ国臣ヲ在勤セシム、又島津氏ヨ
リハ、例年ニ鎮撫ノ官吏ヲ沖縄ニ置ク、其余ノ遇待、家
臣ニ異ナラズ、書ヲ奉ズレハ、執政ニ介ス、偶一書例ヲ
得タリ、俗文ヲ憚ラズ、左ニ挙グ、
 一筆致_二啓達_一候、去歳雄五郎様、御男子御出生、省之進
 殿 ̄ト御名被_レ進、島津兵庫殿嫡子又八郎殿養子被_二仰出、

 御引越被_レ為_レ済候之旨、承知仕、恐悦奉_レ存候、御祝詞為
 可_二申達_一、如_レ斯御坐候、恐惶謹言、
   卯月三日            《割書:中山王|》尚温判
    島津登殿
 《割書:案ズルニ、尚温ノ名、系統ニ見エズ、一書ニ、寛政八年、|尚温恩謝使トモアリ、尚成ト同人カ、後考ヲ俟ツ、》
徳川氏ノ世ニ在リテ、慶長ヨリ嘉永ニ至ル、来朝凡ソ
二十回ニ至ル、左ノ如シ、

  慶長十五年  尚寧入朝
  同 十六年  使臣入朝
  寛永十一年  尚豊、賀慶正使 佐敷(サシキ)王子、恩謝正使 金武(キブ)王子、
  正保 元年  尚賢、賀慶正使金武王子、恩謝正使 国頭(クニカミ)王子、
  慶安 二年  尚質、恩謝正使 具志川(クシカハ)王子、
  承応 二年  同  賀慶正使国頭王子、
  寛文十一年  尚貞、恩謝正使金武王子、副使 越来(コエク)親方、
  天和 二年  同  賀慶正使 名護(ナゴ)王子、副使 恩納(オンナ)親方、
  寛永 七年  尚益、賀慶正使 美里(ミサト)王子、恩謝正使 豊見城(トヨミグスク)王子、
  正徳 四年  尚敬、賀慶正使 与那城(ヨナグスク)王子、恩謝正使金武王子、
  享保 三年  同  賀慶正使越来王子、副使 西平(ニシヒラ)親方、
  寛延 元年  同 、賀慶正使具志川王子、副使 与那原(ヨナバル)親方、
  宝暦 二年  尚穆、恩謝正使 今帰仁(イマキジリ)王子、
  明和 元年  同  賀慶正使 読谷山(ヨムタンザ)王子、
  寛政 二年  同  賀慶正使 宜野湾(ギノワ)王子、副使 幸地(コウチ)親方、
  同  八年  尚成、恩謝正使 大宜見(オホギミ)王子、副使 安村(ヤスムラ)親方、
  文化 三年  尚顕、恩謝正使読谷山王子、副使 小禄(ヲロク)親方、
  天保 三年  尚育、恩謝正使豊見城王子、副使 沢岻(タクシ)親方、
  同 十三年  同  賀慶正使 浦添(ウラソヘ)王子、副使 座喜見(ザキミ)親方、
  嘉永 三年  尚泰、恩謝正使 玉川(タマカハ)王子、副使 野村(ノムラ)親方、

慶長十五年ハ、尚寧自ラ入朝ス、爾後ハ皆使臣ナリ、唯
寛永十一年ハ、将軍上洛ス、因テ使臣二条城ニ謁シテ
帰ル、○大政維新ノ後明治四年七月ヨリ、琉球諸島ヲ

鹿児島県ノ管轄トス、五年九月、尚泰ノ賀慶正使 伊江(イエ)
王子、副使 宜野湾(ギノワ)親方、賛議官 喜屋武(キヤム)親雲上(ベイキン)以下凡ソ
四十人、東京ニ着ス、十四日、午後第一時、三使参朝シ、外
務卿、式部助之ヲ引キ、太政大臣諸省卿等列立シ、皇上
ニ拝謁ス、尚泰ノ上表ニ曰、
 恭惟、皇上登極以来、乾綱始張、庶政一新、黎庶皇恩ニ
 浴シ、歓欣鼓舞セザルナシ、尚泰南陬ニ在テ、伏シテ
 盛事ヲ聞キ、懽扑ノ至リニ勝ヘズ、今正使尚健副使
 向有恒賛議官向維新ヲ遣シ、謹ンデ朝賀ノ礼ヲ修
 メ、且方物ヲ貢ス、伏メ奏聞ヲ請フ、
   明治五年壬申七月十九日  琉球尚泰謹奏
貢物ハ、唐筆、墨、硯、画、上布、綸子、縮緬、純子、青貝箱、焼酎等
ナリ、別ニ皇后ヘ上表献物アリ、使臣等モ、亦自ラ皇上
ヘ献物アリ、共ニ嘉納ノ勅語ヲ賜フ、次ニ外務卿、冊封
ノ詔ヲ宣読ス、詔書ニ曰、《割書:首ニ大日本国璽ノ印アリ|尾ニ天皇御璽ノ印アリ、》
 朕、上天ノ景命ニ膺リ、万世一系ノ帝祚ヲ紹ギ、奄ニ
 四海ヲ有チ、八荒ニ君臨ス、今琉球近ク南服ニ在リ、
 気類相同ク、言文殊ナル無ク、世々薩摩ノ附庸タリ、
 而シテ爾尚泰能ク勤誠ヲ致ス、宜ク顕爵ヲ予フベ
 シ、陞シテ琉球藩王ト為シ、叙シテ華族ニ列ス、咨爾
 尚泰、其レ藩屛ノ任ヲ重シ、衆庶ノ上ニ立チ、切ニ朕
 ガ意ヲ体シテ、永ク皇室ニ輔タレ、欽ヲ哉、 

  明治五年壬申九月十四日
使臣等、謹デ詔命ノ辱ヲ拝ス、次ニ皇上、皇后ヨリ、王、王
妃ニ錦、天鵞絨、博多織、敷物、花瓶、銃、鞍、□、等ノ賜物アリ、
更ニ三使ニ錦、綾、陶器、新貨幣等ヲ賜フ、其余従行ノ者
皆恩賜アリ、別ニ琉球藩ヘ新貨幣三万円ヲ賜フ、」使臣
等滞京中、外務省ニ、入費一万円ヲ給シ、勅任官ノ格ヲ
賜ヒ、鉄道開業ノ行幸、及ビ吹上御苑和歌御会等ニ侍
ル、又琉球ノ諸外国ト結ベル条約ハ、尽ク外務省ニ管
シ同省及ビ大蔵省ノ官員、琉球在勤ヲ命ゼラル、廿九
日、琉球藩王尚泰ニ、一等官ノ格ヲ賜ヒ、又府下飯田町
ニ第宅ヲ賜フ、十月始、使臣等帰国ス、

【枠外上部】今ハ、藩ト為ルモ、尚鹿児島県ニ依テ、事ヲ通ジ、大抵、其県吏ヲ、外務省ノ官員トシテ、在留セシメ、東京ニ来レバ、外務省、直ニ之ヲ管ス、

唐土ノ封貢ハ、隋煬帝、始メテ流求国ヲ攻ム、従ハズ《割書:推|古》
《割書:ノ朝ニ|当ル、》唐五代宋ヲ歴テ通ゼズ、元世祖成宗共ニ琉求
ヲ攻ム、亦従ハズ、」《割書:北条時宗貞時|ノ頃ニ当ル、》明太祖、琉球ヲ招撫ス、
中山王察度、乃チ使ヲ遣ハシ、方物ヲ献ズ、太祖仍テ中
山王ニ封ズ、是唐土ニ聘スルノ始ニテ、実ニ洪武五年
ナリ《割書:南朝、文中元|年ニ当ル、》爾来、山南王山北王亦継デ聘ス、太祖
共ニ之ヲ封ジ、三王ニ、各、冠服及ビ駝紐鍍金銀印ヲ給
ス、山南山北滅スル後、中山独リ聘礼絶エズ、始メ一年
一貢、後二年一貢、人員一二百人、正副使以下一二十人、
京ニ赴クト定ム、後我朝鮮ノ役、及慶長征伐ノ時、僅ニ
絶ユ、洪武ノ貢物ハ、馬、刀、金、銀、酒、金銀粉匣、瑪瑙象牙、螺

殻、泥金扇、紅銅、錫、夏布、牛皮檀香、黄熟香、蘇木、烏木、胡椒、
硫黄、磨石等、爾後多クハ馬、硫黄ナリ、賜物ハ、大抵、衣冠、
綾、羅、綢、緞、幣、暦、銭等ナリ、」明滅スル後、更ニ前印ヲ繳シ、
清ニ聘ス、清主乃チ鍍金銀印ヲ給シ封冊ス、後相継テ
亦聘貢絶エズ、始ハ、金銀匣、盃、囲屛、扇、蕉布、麻布、胡椒、蘇
木、刀、鎗、甲冑、鞍、糸、綿、螺盤等ヲ貢ス、後ハ、硫黄一万二千
六百斤、螺殻三千斤、紅銅三千斤、錫千斤ト、定ム、賜物ハ
大抵綾羅錦鏽等ナリ、」明ノ時、三王並ビ封ズルニ因リ、
中山王ノ号ヲ以テ分別ス、後三山ヲ一統スト雖トモ、冊
封印璽、共ニ琉球国中山王ト称ス、清ニ至テハ、印文ハ、
只琉球国王之印トシ、冊封書ニ中山王トス、」明ニ在テ
ハ、正ニ品、皇子
新王ヲ降ルヿ
一等、弁冠、蟒服、
白玉犀帯ナリ、
清ニ在テハ、品
位ヲ定メズ、衣
冠旧ニ依リ、列
ハ朝鮮ノ下、安
南 緬甸(ビルマ)ノ上ニ
在リ、二年ニ一
貢シ、其間年ニ

【国王の印の図】
【図の上に横書きで】琉球国王之印
【図の左に】右ハ篆、左ハ満字、大サ図ノ如シ、

接貢アリ、《割書:接貢ニ使|臣ナシ、》謝恩、慶賀ニ、法司官、紫金大夫、正副
使タリ、常貢ハ、耳目官、正議大夫、正副使タリ、清主殂ス
レバ、正議大夫、進香使タリ、」常貢船ハ二艘、第一ハ、百二
十人、第二ハ、七十人、接貢(ツンコン)船《割書:或ハ折貢|ニ作ル、》ハ、一艘、百人許ナ
リ、貢使ハ、那覇ヲ発シ、福州五虎門ノ川ニ溯リ、琉球館
ニ入ル、大抵、初冬ニ、正副使二十人許、発程シ轎、馬、舟、車、
四十余日、北京ニ入リ、大和殿ニ朝シ、清帝ニ謁シ貢献
ス、王妃使臣以下尽ク賜物アリ、使臣清主ニ謁スルニ
明服ヲ許サズ、国服ヲ用ユ、滞京中、饗宴豊美ヲ尽ス、凡
ソ旅舎路費、尽ク官給ナリ、明年夏至ノ頃、接貢船ニ、乗
テ帰国ス、」凡ソ察度王ヨリ以下、歴世、明清ノ冊封ヲ受
ケザル者、僅ニ数王ノミ、冊封使ハ、明ニ在テハ、大抵給
事中、正使、行人、副使タリ、清ニ在テハ、正使ハ必満人、副
使ハ漢人、共ニ翰林院ノ文臣タリ、冊封ノ礼ハ、国王新
ニ位ヲ嗣ゲバ、中山王世子ト称シ、冊封ヲ請フ、清主乃
チ正副使ヲ命ジ、儀衛服飾ヲ厳重ニシ、福州ヨリ発シ、
那覇ニ上陸シ、世子以下迎恩亭ニ迎ヘ、滞留中、那覇ノ
天使館ニ置ク、先ヅ真和志(マワシ)ノ先王廟ニ、前王ヲ諭祭シ、
《割書:唯諭祭ノミ、故|ニ歴代諡ナシ、》次ニ首里ノ王城ニ、冊封ノ礼ヲ行フ、世
子以下皆明服ヲ用ユ、音楽儀典厳粛ナリ、其余滞留中、
舞楽宴饗甚タ厚シ、冊封使ハ、大抵夏至後ノ南風ニ発
シ、南路ヲ取リ、冬至後ノ東北風ニ還リ、北路ヲ取ル、然

レトモ、海上風潮ノ険多ク、加之、唐船脆弱ナレバ、毎ニ風
浪ノ難ニ逢フ、琉球冊封使ノ命ニ当ル者ハ、皆死ヲ以
テ期待スト云、
  国体
琉球国、上古我内附ノ国タリ、中古声息相絶エ、足利氏
ノ始ヨリ、明ニ聘シ、復我ニ属シ、遂ニ両属ノ国トナル、
慶長以後、全ク島津氏ニ陪属シ、尚明ニ聘シテ止マズ、
徳川氏島津氏措テ制セズ、剰ヘ其国ニ托シ、貿易ヲ明
ニ求ムルニ至ル、其国威名義ニ於テ、大ニ立タザル所
アリ、且其遇待、既ニ陪属タレトモ、又外国ノ体アリ、其国
モ亦我ニ朝スレバ、我正朔ヲ奉ジ、彼ニ聘スレバ、彼年
号ヲ用ユ、《割書:朝鮮、我ニ聘スル如キハ、唯支干|ヲ書シ、国中ハ彼年号ヲ用ユ、》且我ニ向テ、
彼事ヲ秘セズ、彼ニ向ヘバ、甚シク我事ヲ秘シ、絶エテ
日本アルヲ知ラズトス、《割書:内地ノ船、琉球ニ在テ、唐船ニ|逢ヘバ、必ス避匿スルヲ定メ》
《割書:トスト|云フ、》且国中及ビ諸外国ノ交際ニ、皆彼正朔ヲ用ヰ、
清国藩屛独立国ト称セリ、其情実ヲ察スレバ、一ハ我
陪臣ノ名ニ恥ヂ、彼藩屛独立国ノ名ニ艶矜シ、一ハ国
貧小ナレバ、依テ交易ノ利ヲ得テ、国用ニ足スガ為メ
ノミ、既ニ之ヲ失ハンヲ恐ルレバ、之ヲ慎マザルベカ
ラズ、亦憐ムベシ、当初島津氏ノ制セザルモ、亦慈ト利
トニ出ヅル者カ、然レトモ、彼ハ唯一年一貢、我ハ往来織
ルガ如シ、其生計ヲ依頼スルハ、偏ニ我ニ在ルノミ、然

ルニ、安政元年、ペルリ独立国体ヲ以テ、条約ヲ結バン
ト言ヒシトキ、国人、清ニ対シ、臣義ヲ失フトテ、一旦之ヲ
拒ミ、後竟ニ条約調印セルトキ、咸豊ノ年号ヲ用ヰタリ、
因テ西洋各国、亦大ニ疑ヲ起セリ、抑万国ノ通義ニ、焉
ゾ一国両国ニ属スルノ理アランヤ、今ヤ皇上政ヲ親
ラシ、名義ヲ正シ、国威ヲ明ニシ、藩王ニ叙シ、幣帛ヲ賜
ヒ、優待撫恤、以テ上世南島ノ故地ヲシテ、再ビ全ク皇
化版図ニ復セシム、其国ノ如キモ、亦漸ク皇恩ニ浴シ、
同気ノ国ニ附服シ、遂ニ外国ノ封ヲ甘ンゼザルニ至
ラン、今ペルリ琉球記行中ヨリ、衆論ヲ略文摘訳シ、陳
腐ヲ憚ラズ、左ニ挙グ、

【枠外上部】此時、外国交際ノ始ニシテ、其情尚料ラレズ、故ニ、咸豊ノ号ヲ用ヰシメレハ、蓋シ、島津氏深意ノアリシ所ト云、
【枠外上部】旧来、薩摩ヨリノ負債、莫大ニシテ、年々、空シク、其返弁ニ奔労セシニ、一新以来、尽ク之ヲ消却ス、国人固ヨリ樸直ナレバ、大ニ天朝ノ恩ニ感泣シ、去歳、冊封ノ議ノ如キ、事速ニ弁ゼリト云、

 爰ニ琉球ノ所属ニ就テ、疑案アリ、或云、日本薩摩公
 ニ属ス、或云、支那ニ属スト、然レトモ、衆論帰スル所ハ、
 其国自ラ独立ノ体アリテ、全ク日本ニ属シ、又支那
 ニ、名目ヲ以テ、臣属スル者トス、其毎年支那ニ送レ
 ル貢租ハ、定則ノ如ク見ユレトモ、琉球ノ官吏ハ、支那
 人ナラズ、又漢文漢語ヲ鮮スル者アリト雖トモ、通用
 ノ言語ハ自ラ別ナリ、然ルニ、那覇ノ一官吏嘗テペ
 ルリニ語ルニ曰、明朝以来、我国支那外藩ノ一国ニ
 列スルヲ得シヿ、我国ノ大ニ栄誇スル所ナリ、支那
 帝、多年我王ニ官爵ヲ賜フ、我国モ亦方物ヲ拮据シ
 テ之ニ奉ゼリ、我国人支那ニ住テ、絹、綢精薬、其他国

 用ノ諸物ト交易シ、尚足ラザルトキハ、土噶喇(トカラ)島ニ至
 リ、一ノ近親国ト交易セリ云々ト、此近親国トハ、日
 本ヲ諷言セルナリ、然レトモ、其交易ハ、日本船ヲ用ヰ
 多ク日本ト行ヒ、日本ヨリモ、毎年凡四百五十 頓(トン)積
 位ノ船三四十艘モ、送リ来レリ、然ルニ琉球ヨリハ、
 僅ニ毎年一二艘ノ船ヲ、支那ニ送ルノミニテ、支那
 船ハ一艘モ那覇ニ入レシメズ、且危難アレバ、只日
 本ニ依頼シ、支那ニ恃マザルガ如シ、且琉球ニテ、日
 本人ヲ見ルヿ許多ニシテ、皆土人ト隔意ナク婚姻
 交通シ、実ニ基本国ニ居ルガ如ク、且守兵モ来テ那
 覇ニ屯営セリ、然ルニ、支那人来レバ、諸外国人ト一
 様ニ看做セリ、況其人種、言語、風俗徳、悪、先能ク日本
 属縁ノ国タルヿヲ証シ、就中、其骨格言語、酷ニ相類
 セリ、上世日本ヨリ殖民セルヿ疑ナシ、然レトモ、其開
 化文学ノ一半ハ、大ニ支那ノ浴化ニ因リ、且毎年貢
 物ヲ送リ、支那帝モ亦、新王嗣立ノ時ハ、特任使節ヲ
 送リ、王号ヲ与ヘ、自(オ)ラ独立国ノ体ヲ成セリ、然レトモ、
 到底、実着上ニモ、政法上ニモ、琉球ハ、百事、日本ノ属
 国ナルヿ疑ナク、更ニ其実ヲ言ヘバ、日本薩摩公ニ
 臣属スル者ナリ、云々、

【枠外上部】万国ノ公法ニ、国ハ其保護ノ在ル所ニ属ス、ペルリノ論ズル此ノ如ク、余モ亦既ニ之ヲ序論ニ挙グ、ペルリノ時モ、薩州ヨリ、大ニ武備兵卒ヲ送リシト云、清国ニ、嘗テ此事ナク、国人モ亦之ヲ頼マズ、是我属国ノ証、確乎タルモノナリ、

  人種
琉球記行曰、日本琉球両人種ハ、甚ダ相類セリ、両種共

ニ、身丈同ク、骨格好クシテ強壮ニ、色、暗赭ニテ、間(マヽ)魁偉
秀美ノ者アリ、頭骨、楕円、深目長鼻、欧羅巴人種ニ似タ
リ、前頂ノ骨円ク、面、亦楕円ニテ、額、高ク、面容、柔和愛ス
ベシ、東方人種ノ方面ナルハ、頬骨高キニ因レトモ、両種
共ニ甚タ高カラズ、眼ハ大ニシテ気采アリ、濃眉、弓形
ヲ成シ、鼻形、能ク適シ、支那 無来(マレー)人ノ如ク低カラズ、孔
モ大ナラズ、口、稍大ニ、歯、広シ、婦人モ、骨格、恰モ好ク、細
腰繊頸、胸、大ニ開ケ、身、稍短小ニ、面モ稍方形ニテ、鼻モ
低シ、間美艶ナルアリ、因テ考フレバ、琉球、元来日本ト
同人種ニテ、太古ノ世ニ、日本ヨリ殖民シ、後、漂流等ノ
事ニ因リ、支那台湾 無来(マレイ)人等モ少シク加ハリ、現今人
種ト混成セシナルベシ、凡日本琉球人種ノ、支那無来
人種ニ異ナルハ、鬚髯ノ多ク剛ク黒キニ在リ、支那無
来ニ、大抵此事ナシ云々、○性質ハ、欣々トシテ、情アリ、
順良ニシテ少シク冶風アレトモ、沈重度量アリテ、頗ル
智敏ナリ、然レトモ、海島ニ僻在シ、外国ト交ル少キニ因
リ、質朴ヲ存シ、名利労心ノ欲少ク、優寛天然ニ安ンジ、
天寿ヲ致ス者多シト云、婦人モ、行儀柔和ニ、男女共ニ、
労苦飢寒ニ堪エ、日夜労作シテ息セズ、然レトモ、如何セ
ン、天質美ナルモ、政治ノ弊カ、欺罔悪詐モ亦間アリ、古
ハ血気ニシテ、不平ニハ闘殺割腹ノ風アリシト云、今
ハ人気殊ニ平穏ニ、絶エテ争闘無シ、」五六十年前ニ英

人ハシルホールナル者、嘗テ東洋ニ来リ、琉球ノ国風
ヲ探リ、国人古来ヨリ絶エテ戦争ナル物ヲ知ラズト
伝聞シ、後セイントヘレナ島ヲ歴テ、那勃列翁(ナポレオン)ニ会シ、
談、偶々其事ニ及ビシカバ、那勃列翁ハ、其特奇ナル天稟
ヲ聞クニ及ンデ、驚然肩ヲ脅カシ、「戦争絶エテ無シト
歟、是レ決シテ能ハザルヿナリ」ト語リシトゾ、彼ノ戦
ヲ好メル大武将ノ心ニ在テハ、左モアルベシ、然レトモ、
古ヘ国内分裂シ、古城ノ遺蹟モ、今尚存スレバ、争乱ノ
禍モ亦時トシテ免レザルヿアリ、而シテ此渺乎タル
一島中ニ、分裂攻戦セシヲ見レバ、其人性ノ優悠小量
ナル、亦量リ知ルベシ、○言語ハ、皆内地ト小異アルノ
ミ、然レトモ「テニヲハ」ト土音ハ、異ナルアリテ、会話明ニ
通ジ難シ、琉球(リユウキユウ)ヲ「ドューキュー」ト云ヒ、首里(シユリ)泊(トマリ)ヲ「シュイ」「トマ
イ」ト云フ、皆訛音ナリ、総テ良行(ラギヤウ)ノ音ヲ誤レルハ、薩人
モ亦然リ、古ヘ隼人(ハイト)ノ同人種ナルヿ知ルベシ、然レトモ、
其称呼ニ内地ノ古言存スル者、却テ多ク、内地ヲ「ヤマ
ト」ト称シ、甚タ尊崇ス内地ノ人ヲ日本人(ヤマトチウ)ト称シ、琉球
人ハ、自ラ沖縄人(オキナンチウ)ト称ス、其方言一二ヲ左ニ揚グ
 水(ミセ) 茶(チヤ) 日(ヘ) ̄テタ 火(ヒヨ) ̄マツ 月(シチエ) 星(フゼ) 風(ハゼ) 鶏(ヌアトエ) 卵(トマグ) 海(ウメ) 眼(メー)
 手(テー) 鼻(ハナ) 口(クチエ) 木(ケー) 米(クメー) 甘薯(カラエム) 鍋(メデー) 酒(サケ) 煙草(トバコ) 駕(カグ) 銀(ナンゼー)
 鉄(テゼー) 鉢巻(ハチエマチエ)《割書:帽ヲ|云》 鏡(カヾメ) 書物(シユムゼー) 椅子(テー) 石(イザー) 豚(ブバー) 飯(メシ) 男(エングワ) 女(オンナ)
 父(ヂウ) 母(アンマ) 兄(ヤクメ) 弟(オツトウ) 庖丁(ホウテウ) 衣服(イブク) 名(ナ) 百姓(ハクシヤウ) 春(ハロ) 色(イロ) 神(カメカナシ)

 仏(ホトケナカシ) 薩吏(トノカナシ) 《割書:総テ「カナシ」ハ|尊称ナリ》 毒蛇(マジモノ)《割書:蠱義|ナリ》 妻(トジ)《割書:刀自|ナリ》 子(クワ) 美娘(キヨラミワラハ)《割書:清ラ女|童ナリ》
尋常会話ノ末語ニ、「デアベル」ト言フ、是レ、古言ニ、「デア
リハベル」トイヘルノ、略言ナリト云フ、
  政制
政体ハ、立君特裁ニテ、血系ヲ以テ相嗣ギ、政権ハ、執政
ノ手ニ在リ、貴族士族等皆世禄ノ制ニテ官吏ハ皆其
門家ヨリ登用ス、然レトモ、土着ナラズ、皆首里那覇等ニ
聚居ス、各村及ヒ各島ノ里長ハ、庶民ヨリ挙ゲ、官吏ヲ
遣ハシ制治シ、首里ノ政府、其総制ヲ統ブ、位ハ一品ヨ
リ九品ニ至ル、各正従アリテ、十八等トス、官服ハ明制
ニテ、帕、簪、袍、帯ノ色製ヲ以テ、等級ヲ別ツ、官ニ国官、唐
官ノ二様アレトモ、職務ハ相合ス、《割書:蓋シ、国官ハ古来ノ遺|称ニテ、爵名ノ如ク、唐》
《割書:官ハ、唐山ニ倣ヒ|シ者ナルベシ、》
【以降表形式】
国官  位  唐官《割書:加銜ハ格ナリ|座ハ見習ナリ》  帕  簪  袍  帯

王子  正一品  国相《割書:左相一員|右相一員》  《割書:紫綾五色花|青綾五色花》  金  紅  錦花  王子、按司、才徳アル者之ニ任ス

按司  従一品  法司官《割書:除授刑法一員|銭穀出入一員|礼儀図籍一員》  紫綾  同  緑  錦  又三司官ト称ス

親方  正ニ品  紫金大夫加法司銜  同  同  深青  黄地竜蟠
親方  従ニ品  紫金大夫  同  金花銀茎  同  同  紫帕ヲ被ムルニ因又紫巾官ト称ス

親雲上  正三品  耳目官《割書:司賓、司賞、|司刑、司礼、》各一員  黄綾  銀  同  同  皆、謁者、又ハ申口衆ト称ス

親雲上  従三品  正議大夫加耳目官銜  同  同  同  同  申口座ト称ス
親雲上  正四品  吟味官  同  同  同  赤地竜蟠  賛議トモ称ス
親雲上  正四品  正議大夫  同  同  同  同
親雲上  従四品  中議大夫  同  同  同  同  御物城トモ
親雲上  従四品  都通事  同  同  同  同
親雲上  正五品  正殿遏闥理官  同  同  同  雑色花
親雲上  従五品  副通事加遏闥理官銜  同  同  同  同
親雲上  正六品  正殿勢頭官  黄絹  同  同  同  或ハ儀衛
親雲上  従六品  加勢頭官  同  同  同  同  或ハ加儀衛
親雲上  正七品  里之子親雲上  同  同  同  同
親雲上  従七品  筑登之親雲上  同  同  同  同

里之子  正八品  正殿里之子  大紅縐紗  同  同  同
里之子  従八品  里之子座  同  同  同  同

筑登之  正九品  正殿筑登之  同  同  同  同
筑登之  従九品  筑登之座  同  同  同  同
【表形式ここまで】
国王ハ、皮弁朱纓、竜頭金簪、蟒袍、錦帯ナリ、中山王ト称
シ、源尚二姓ヲ用ユ、《割書:昔シ、山北王戦敗レ、宝剣重金丸ヲ|河中ニ擲ツ、百年ノ後、流至ス、恵平》
《割書:屋島ノ人、得テ献ス今王府第一ノ|宝剣タリ、今帰仁ニ擭剣渓アリ、》王妃ハ鳳頭金簪、花
緞衣ナリ、中婦君ト称ス、太子ハ中城(ナカグスク)ト称ス、○王子(ワウシ)ハ、
王叔子弟、或ハ異姓モ之ニ任ズ、按司(アンズ)ハ、王子ノ子孫、之
ニ任ズ、親方(オヤカタ)ハ、親戚ノ義ニテ、宗籍ニ准ズ、親雲上(ベイキン)ハ、殿
上ニ近キ義ナリ、《割書:堂上方ト云フガ如シ、「ベ|イキン」ハ、古ノ遺言ナリ、》以上皆地ヲ

賜ヒ、某地何官ト称ス、里之子(サトノシ)ハ、世禄ノ士家ニ、里之子
家ハ称スル者アリテ、其子孫之ニ任ジ、終ニ親雲上ヨ
リ親方ニ昇ル、《割書:里之子ハ里主(サトヌシ)ノ訛ナリ、士|族ノ部屋住、小姓ノ類ナリ、》筑登之(チクドン)ハ筑
登之家ト称スル者《割書:世禄ナ|ラス、》ノ子弟、之ニ任ジ、親雲上ニ
昇リ止ム、別ニ仁也(ニヤ)家ト称スル者アリ、略(ホヽ)、平民ニ同ジ、
亦筑登之ヨリ親雲上ニ昇ル、《割書:筑登之仁也モ、|古ノ遺言ナリ、》又久米村
閩人三十六姓ノ後裔、《割書:今僅ニ七|姓ヲ存ス、》百余家アリ、皆唐土ニ
留学シ、通事ヨリ紫金大夫ニ昇リ、文筆応答ヲ司ル、○
法司官ハ、分職アリト雖トモ、毎事、必ス三人議定シ、国相
ニ稟ス国王ハ成ヲ受クルノミ、首里ノ尚向翁毛馬夏
等ノ七姓之ニ任ズ、《割書:向翁毛馬ヲ、首里ノ四大姓ト云|其女妹ヲ常ニ王妃ニ納ルヽトス、》耳
目官ノ司賓ヲ或ハ御鎖側ト称シ、司宝ヲ或ハ御双紙
庫裡、司刑ヲ或ハ平等側、司礼ヲ或ハ泊地頭ト称ス、○
凡ソ閥禄アル者ハ、皆首里那覇久米泊ニ聚居シ、此四
所ノ人ノミ官吏ニ任ジ、余ハ総テ民戸ニテ、略仮字ヲ
知ル者ヲ村吏トス、皆昇進セズ、三省、各島ハ、村吏ノ長
地頭ト称スル者、銀簪ヲ許スノミ、余ハ皆銅簪、藍袍、定
マラズ、三省ノ各間切ハ、各、吏二員ヲ遣ハシ、各島ハ、大
小ニ随ヒ、監撫ノ吏、《割書:奉行官|ト云、》三員、二員、或ハ一員ヲ遣ハ
シ、之ヲ治メシメ毎年ニ交替ス○禄秩ニ、三様アリ、一
ハ、俸米ニテ、時ヲ定メ給ス、世禄ナリ、二ハ采地ニテ、子
孫次第ニ減ジ、曾孫ニ至レバ減セズ、永ク世禄トス、三

ハ、切米ト云、功アレハ給ス、其身一世トスルアリ、定限
数年、或ハ数世トスルアリ、又永世トスルアリ、○暦ハ、
通事官預メ万年書ニ拠リ、推算暦ヲ製用シ、清ニ到リ、
例年ニ清暦一百冊ヲ齎還リ、倣テ国中ニ領与ス、○里
法ハ、三十六町里法ヲ用ユ、○元旦、上元、及冬至ニ祝賀
アリ、国王ノ誕目ニ、大賀儀アリ、叙任大赦ヲ行フ、其他
宗廟社稷等ノ祭祀儀典ノ制略備ル、○武備甚タ薄シ
大抵文官、武職ヲ兼ヌ、兵制ハ、兵ヲ農ニ寓シ、五家ヲ伍
トシ五伍相統ブ、親雲上筑登之ト称スル者、皆武ニ習
ヒ、事アレバ出テ戦フ、兵器ハ、甲、冑、矛、刀、弓、矢、鎗、砲、等ナ
リ、多ク、舟艦水戦ノ用ニ備フ、国内ニ、王城ノ外、城砦ナ
シ、那覇ニ、演武場及ビ砲台ヲ備フ○刑法ハ、死刑、三ツ
剉斬、斬首、磔ナリ、軽刑、五ツ、流、曝日、夾、枷、笞ナリ、罪ヲ犯
ス者アレハ、大夫ヨリ法司ニ達シ、法司曲直ヲ決シ、遅
留セズ、裁判ノ法、極メテ厳ニ、顕官モ憚ラズ、父子兄弟
モ情ヲ曲ゲズト云、
  国計
中部南部諸島ノ歳入ハ、九万四千二百三十石トス、《割書:旧|記》
《割書:ニ、中部諸島ヲ、七万一千七百八十七石、南部|諸島ヲ、一万九千〇九十六石八斗余トス》北部諸島
ハ五万二千八百〇四石トス《割書:旧記ニ、三万二千八百|二十八石七斗トス、》○
田制ニ三様アリ、一ハ、王府ノ公田ナリ、二ハ、各官ノ采
地ナリ、三ハ、民間ノ私田ニテ、売買ヲ許ス、然レトモ、価甚

【枠外上部】琉球ヨリ、薩州ニ納ルヽ、毎年ノ貢米ハ、僅二千石ニ足ラズシテ、却テ薩ヨリニ三万石宛、毎年送リシト云、
【枠外上部】従来、其国貧小ナレバ、已ムヲ得ズ、薩ニ借ルニ、薩ハ高利ヲ以テ、之ヲ借シ、積年ノ元利、莫大ト為リ、年々ノ産物ノ如キ、大抵其返償ニ没入セシガ、維新以来、元利共ニ、之ヲ消却セシニ因リ、大ニ恩ニ感ズト云、

タ貴シ、各属島ハ、公田私田ノミ、監吏、租税ヲ徴シ、王府
ニ送ル、」年租ハ、大抵十分ノ六分ハ正租、二分ハ、雑税、ニ
分僅ニ農民ニ入ルト云、又人毎ニ、役二日アリ、事アレ
ハ皆役ス、○慶長成功ノ時、幕府、琉球ノ半、十万石ヲ、島
津氏ニ賜フト云、《割書:北部諸島ノ|地ナルベシ、》琉球記行ニ、薩摩公ハ、毎
年琉球ヨリ、大凡九十万 弗(ドルラル)ヲ受クトアリ、是訛聞ナル
ベシ、試ニ十万石ニ九十万 弗(ドルラル)ヲ当ツレバ、一石九弗ニ
当ル、其算過当ト云フベシ、然レトモ、其余、雑税交易ノ利
モアリトスレバ、或ハ然ランカ、《割書:世俗ニ薩摩ノ国用ハ、|半ハ琉球ニアリシト》
《割書:云|》○明治三年ノ改計ニ、中部南部諸島ノ戸数、四万三
千四百九十九戸、同人口、二十三万四千三百六十九人、
《割書:男、十三万六千百八十一人、|女、九万八千百八十八人、》北部諸島ノ戸口詳ナラズ
○古来ヨリ、国ニ金銀ナク、唯銭ヲ用ユ《割書:明朝、銭ヲ給セ|シガ、清朝ニ至》
《割書:テ、給|セズ、》今通用スルハ、皆寛永通宝ナリ、《割書:世ニ文銭ト称|スル者多シ、》別
ニ内地ノ銀玉(ギンダマ)ヲ通用ス、又清ノ冊封使、滞留中ノミ、別
ニ小銭ヲ鋳ル、鉛ナラズ、鉄ナラズ、輪郭文字ナク、草縄(サシ)
ヲ貫キ、固封シテ用ユト云、明治五年、天朝、金銀紙幣三
万円ヲ賜フ、使臣、又別ニ自ラ乞ヒ、換ヘ得テ齎還レリ
ト云、○国貧小ニシテ、交易ノ利ヲ以テ、大ニ国用ヲ助
ク、年々船舶ヲ以テ、薩摩ト互ニ相往来交易シ、貨幣ヲ
用ヰズ、品物相交フ、旧来琉球ノ産物ハ、唯薩摩ヲ限リ、
他ノ内地ノ人ト、交易スルヿヲ禁ゼシカ、今年三月、令

【枠外上部】内地ノ輸入品ハ、木綿、茶、煙草、鉄器ノ類ヲ最多シトス、

アリテ、其禁ヲ許セリ、」清国ヘモ、一艘二艘、隔年ニ、朝貢
ニ托シ貿易ス、此利モ亦大ニシテ、明清以来、朝貢絶エ
ザルハ、其実此故ト云、清国ノ交易ハ、只船数ヲ限リ、銀
額ヲ限ラズ、全貢ハ、十余万銀、接貢ハ、五六万銀ナリ、小
船多載スル能ハズ、大船ナレバ、福州港浅ク、船入ル能
ハズ、買フ所ノ唐物ハ、糸、綢、綾、緞、紙、薬、金、銀等ナリ、」昔ハ
暹羅(シヤムロ)満剌加(マラツカ)爪哇(ジヤヷ)国等ト交易セリ、」国ノ輸出品ハ、砂糖、
泡盛、芭蕉布綿布、上布、紬、紙、硫黄、草蓆、塩豚漆器等ナリ、

【枠外上部】畢竟、内地ト、清国トノ品物ヲ、彼此販売交易シテ、生産トセルナリ、
【枠外上部】琉球ノ国計ハ、泡盛、サツマ上布、サツマガスリ、芭蕉布ノ四産物トス、塩豚、之ニ次グ、砂糖ハ、特ニ大島ノ産トス、

  農工
沖縄全島ヲ百六十方里トシ、其八分ノ一、二十方里、即
チ二十五万余反ヲ田畝トス、此中、十四万反ヲ甘薯ト
シ、八千反ヲ蔗トス、米ハ凡ソ三万六千石、麦ハ九千石
トス、《割書:各現石ノ|算ナリ、》其他雑穀芋菜等、数千万反アリ、大抵、穀
ハ一反ニ一石程生ズ、」土人最能ク耕種ニ務ム、山上ハ
半腹断崖ニ至ルマデ皆開墾ス、器械耒鋤ノ類、皆内地
ヨリ渡ル、自国ノ製、殊ニ鈍ナリ、其他、耕耘、作田、水樋或
ハ牛馬ヲ使用スル法、大抵内地ト同ジ、小河湾江ハ塩
気アリ、用水ニナラズ、故ニ高田ハ雨水ヲ湛(タヾ)ヘ、下田(クボタ)ハ
次第ニ低クシ、泉水ヲ漑グ、中山山北水田多シ、地質、稲
ニ宜シ、山南陸田多シ、地、豆麦ニ宜シ、或ハ収稲ノ後、又
麦芋薯ヲ植ヱ、一年再収スルモアリ、大抵、秋耕シ、冬種
ヱ、春耘リ、夏収ム、終年温暖ナレハ、両熟スベキ理ナレ

トモ、例年六月後ハ、大颶屡起リ、海雨横飛シ、稲菓皆其害
ヲ受クルガ故ナリ、○砂糖ハ、小蔗草ヲ碾(ヒ)キ、汁ヲ熬(イ)リ
製ス、黒(クロ)白(シロ)氷(コホリ)砂糖アリ、首里ニ多ク、北部諸島最多シ国
内ハ貴人ノ食トシ、又交易品トス、」煙草ハ、葉細ク長シ、
各地ニ製セトモ、上下皆嗜ムニ因テ足ラズ、多ク大隅ヨ
リ輸入ス」塩ハ、潮水ヲ曝シ製ス、色白シ、宜野湾今帰仁
那覇ニ製塩場アリ、又塩豚ノ製出、頗ル多シ、」茶ハ少シ、
土質茶ニ宜シカラズト云、殊ニ内地ノ茶ヲ珍惜シ、又
多ク清ヨリ来ル、」漆器ハ、匣盃皿等、朱漆ヲ上品トス、女
製シ男画ク、」泡盛ハ先ヅ、純白米ヲ粷ト為シ、適宜ノ水
ヲ加ヘ、手ニテ、頻ニ能ク揉ミ和シ、之ヲ蒸溜シテ、円長
陶壺ニ密封シ、床下ニ置キ、又屢頻ニ其壺ヲ転(コロガ)シ、儲フ
ルヿ、数年ノ後、用ユ、味極メテ芳烈ナリ、相伝フ、昔シ、外
国人来テ曰、国、南海瘴霧中ニ居ル、人必ス夭死セント、
因テ毒ヲ避クルノ方ヲ授ク、即チ泡盛ナリト、薩人酒
ヲ嗜マザル者、琉球ニ戌スレバ、多ク泡盛ヲ飲ミ酔ハ
ズ、大島ニ帰ル頃ハ、数杯ニ堪エズ、竟ニ国ニ帰レハ、故
ノ如ク一杯ニ堪ユスト云、又布帛ノ類、盛暑ニ黴(カビ)ヲ生
ズ、泡盛ヲ以テ晒セバ、色即チ鮮明ナリト云、泡盛ノ輸
出頗多シ、又焼酎清濁酒、醋、醤油、味噌ノ製、内地ニ同ジ、
紅酒ハ南部諸島ヨリ出ヅ、」絹ハ甚ダ少シ、但姑米島多
ク養蚕ス、糸粗黒ナリ、紬(ツムギ)布ヲ織出ス、《割書:総テ織機ハ婦人|ノ業ナリ、機梭ハ》

【枠外上部】泡盛ヲ製スル家、唯首里ニ四戸アルノミ、貧小ノ国、一二名産ノ法、他ニ漏レンヿヲ憂ヘ、従来、之ヲ厳秘セシガ、前薩侯、特旨ヲ以テ、之ノ国王ヨリ伝ヘタリト云、蓋シ、白米ヲ用ヰルト、手ニテ揉ムト、壺ヲ転ンテ、香気ヲ出ストヲ、特妙ノ法トス、然レトモ、薩人倣ヒ製スルモ、風土ノ異ルカ、竟ニ其芳烈ニ及バズト云、

《割書:製内地|ニ同ジ、》又唐山ノ絹糸ヲ以テ織ル、皆 縞(シマ)或ハ無地(ムヂ)ナリ
世ニ琉球紬(リウキウツムギ)ト称シ緊且美ナリ」綿布ハ、世ニ薩摩(サツマ)ガス
リト唱ヘ、薩人ハ琉球縞(リウキウジマ)ト称ス、其製ハ、染メテ唯屡能
ク叩ク、故ニ屡洗フテ色変ゼズ、木綿ハ、沖縄姑米《割書:姑米|綿ト》
《割書:云|フ》恵平屋、及ビ南部諸島ニ産ズレトモ、極メテ少シ、皆内
地ヨリ輸入スル者トス、」麻布ハ細上布(ホソジヨウフ)ト称シ、世ニ薩
摩上布ト唱フ、生麻(キアサ)ヲ治メテ織ル、最貴シ、綿布、麻布、共
ニ山藍ヲ以テ染ム、南部諸島ノ産ヲ先島織(サキジマオリ)ト称シ、殊
ニ上品ナリ、」芭蕉布(バセウフ)ハ、芭蕉成長凡ソ三年ノ者ヲ伐リ、
之ヲ煮テ、五六日間、流水中ニ浸シ、後其皮内ノ糸ヲ縷
シテ織ル、最モ繊巧テ極ム、首里ノ産ヲ上品トシ、多ク
輸出ス、」草蓆ハ、□(ク)草(ヾ)ヲ以テ編ム姑米及ビ南部諸島ニ
出ヅ、精細ナル者アリ、人家皆筵席トス、世ニ琉球(リユウキユウ)ト称
スル畳表(タヽミオモテ)是ナリ、交易品トス、」紙ハ、穀樹皮ニテ製ス、数
種アリ、棉紙、清紙等ノ称アリ、護寿紙、最佳ナリ、」油ハ魚
油アリ、魚脂ヨリ製ス、灯油ハ油樹ノ実ヨリ製ス、桐油
少シ、」蝋ハ、姑米島ニ出ヅ、燭ハ色微黒ナリ、鎔ケテ衣紙
ニ滴ルトキハ、凝ルヲ待チ、剔リ去ルニ、油痕ナシト云

【枠外上部】琉球表ハ、北部諸島最多シ、

  文教
上世ニ文字ナシ、俗伝フ、昔シ、天人、中城ノ地ニ降リ、文
字ヲ授ク、体、古篆ノ如ク、今尚百余字ヲ余シ、吉凶ヲ占
フニ験アリト云、《割書:俗ニ天人云フハ、皆外国人ナリ、案|ズルニ、朝鮮ノ諺文、及ビ此字、彼ノ神》

《割書:代ノ日文(ヒブミ)ニテ、我神代|ノ人、来リ伝フル者カ、》中古舜天王我国字ヲ伝ヘシヨ
リ、国中普ク平仮字片仮字ヲ用ヰテ、国音ヲ綴レリ、《割書:始|メ》
《割書:テ明ニ通ゼシトキ、木簡ヲ革縫|シ、仮字(カナ)ヲ刻シ送リシト云、》又、文章ニ、漢字仮字ヲ雑
用シ、及ビ贈答書翰ノ文、或ハ鉤挑旁記ヲ以テ、漢文ヲ
逆読スル如キ、皆内地ト同シ、仮字付(カナヅキ)板本漢書類、内地
ヨリ渡ル、唯久米村、閩人ノ裔、古法帖ヲ習ヒ、漢書ヲ音
読ス、」明ノ洪武中、始メテ留学生ヲ明ニ遣ハセシヨリ、
清ヲ歴テ、今ニ至ルマデ、例年絶エズ、」首里那覇久米ニ
学校アリ、王親以下、各官ノ子弟、皆入テ孔孟ノ学ヲ講
ジ、漢字ヲ鮮シ、古経書ヲ読ム、久米ノ学校、学制略備ハ
ル、聖廟アリ、孔子四聖ヲ祀ル、庶人ノ子弟ハ、寺ヲ塾ト
シ、僧ヲ師トシ、実語教式目、庭訓等ヲ学ブ、」書ハ大橋、玉
置等ノ流、行ハレ、又一般ニ皇学ヲ務メ、最和歌ニ長ジ、
書モ亦優美ナリ、画ハ皇漢相半シ、自ラ一風アリ、医ハ
薩摩或ハ清国ニ学ブ、両国ノ学ヲ歴ザレバ、治術ヲ施
スヲ禁ズ、又卜筮師アリ、○国中ニ伊勢太神、八幡、天神、
熊野神等ノ社多シ、」弁岳ニ天孫氏ノ女ヲ祀ル、又君真
物ト云ヘル神ヲ崇奉ス、其他、天地山川ノ神ヲ祀ルニ、
皆石ヲ以テ神体トセリ、」天妃宮トハ、宋ノ乾隆年間ニ
生レシ、林氏ノ女ニシテ、海上ニ霊アリトシ、歴代ノ冊
封使、従シテ此ニ祀リ、風浪ヲ鎮スル者ニテ、船玉神ノ
類ナリ、」仏法ハ、臨済真言ノ二宗ノミ、寺院頗ル多ク、僧

ニシ、西洋婦人ノ騎馬ノ風アリ、港頭ニ娼妓アリ、頗ル
艶冶ニシテ、善ク三絃ヲ弄ス、又女子市ヲナシ、男子ハ
市セズ、年中ノ行事モ、内地ト略同ジ、」居家器什ノ制、内
地ト異ナルヿナシ、清潔ヲ好ム、茅屋多シ、或ハ赤色ノ
瓦ヲ用ユ、二階ナシ、床高ク湿気ヲ避ケ、屋低ク颶風ヲ
防グ椅子ヲ用ヒズ、畳ヲ敷キ、之ニ坐シ、戸外ニ履ヲ脱
ス、園庭ニ、竹木小池ヲ設ク、大抵、礪石或ハ竹木ヲ籬ト
シ、家ノ四面ヲ囲ミ、馬厩、豚柵、鶏塒、皆此内ニアリ、官道
ハ砌石ヲ敷キ、街衢ハ清潔ナリ、」器械ノ類、船舶ニ至ル
皆内地ニ同シ、但シ太平山船ハ、長サ八丈余、寛サ二丈
五六尺、櫓ヲ用ユ、漁夫ハ丸木船ヲ用ユ、軽ク迅シ、」貴人
ハ米ヲ食ヒ、貧人ハ甘薯ヲ食フ、共ニ魚肉ヲ食ヒ、肉食
稀ナリ、最煙草ヲ嗜ム、茶ハ内地ノ産ヲ賞美ス、煎茶ノ
台子式、行ハレ、羞膳ニ小笠原流、行ハル、飲食料理、膳椀、
杯盤、煙盆(タバコボン)、唾壺(ハヒフキ)等、大抵同ジ、」貴人ハ絹綿ヲ衣ル、貧人ハ
麻布蕉布ヲ着ル、服ハ寛闊ニ、広袂(ヒロソデ)ニテ長シ、帯ヲ約シ
一袋ヲ挿ミ、煙具等ヲ納ム足袋草履等ノ製、異ナラズ、
貴人ハ帽、傘、扇ヲ用ユ、賤人ハ露頭徒跣スル者アリ、婦
人ハ帯ヲ用ヰズ、」二百年前ハ、頭髪ヲ剃セズ、今ハ頂髪
ヲ剃シ、外髪一囲ヲ留メ、頂上ニ蟠髻ヲ綰シ、油ヲ用ヰ
沐理ス、貴人ハ鬚髯ヲ長シ、賤民ハ禁ズ、婦人ハ髪ヲ剃
セズ、髻少シ前頂ニ在リ、簪ハ髻ニ挿ム、男ハ数本、女ハ

一本、貴人ハ金銀賤民ハ銅鉛真鍮等ナリ、元服前ハ、長
簪ヲ用ヰ、後ハ短簪ヲ用ユ婦人ノ簪ニ、飾ナシ、」国人ニ、
名アリ姓ナシ、名ノ数、僅ニ三四十、故ニ同名ノ者多シ、
然レトモ、父子ハ同名ヲ得ズ、祖孫ハ関セズ、其名字ハ、太
郎、次郎、思次郎、思五郎、真三郎、或 ̄ハ松、鶴(ツル)、亀(カメ)等ノ称ヲ用ユ、
官吏ハ、別ニ漢字ノ姓名アレトモ、多クハ某地何官ト称
ス、久米村閩人ノ裔、漢字ノ姓名アレトモ、別ニ琉球名ヲ
常用ス」宴楽ハ、内地ノ猿楽、謡曲、囃子(ハヤシ)、義太夫等ノ俗曲、
行ハレ、一般ニ、三絃ヲ弄ス、明清ノ舞楽俗曲モアリ、又
自国ノ古事ヲ演劇ニス、楽工伶童ハ、貴人ノ子弟、之ヲ
習フ者モ多シ、楽器ハ、三絃、胡弓、琵琶、笛、小鑼、喇叭、鼓等
ナリ、又煙火競渡ノ戯アリ、碁、象棋、行ハレ、宴会ニ拇戦
抔アリ、《割書:永禄ノ頃、琉球ヨリ、蛇皮ヲ以テ張リタル、二絃|ノ楽器ヲ渡ス、泉州堺ノ盲人某、之ニ一絃ヲ増》
《割書:ス、即チ今ノ内地|ノ三絃ナリト云、》

【枠外上部】尊卑ノ分、厳ニシテ、貴族ノ少年ハ、太郎カナ、松カナ、ナド呼ビ、次ハ、太郎グヮ、松グヮ、ナド呼ブ、「カナ」ハ「カナシ」ノ略、「グヮ」ハ、子ト云フヿ、共ニ尊称ナリ、大島辺ノ人ノ名ハ、内地人ノ名乗ノ如シ、中栄(ナカエイ)ナド云フ、

琉球新誌巻下《割書:終|》

琉球新誌跋
琉球開闢ノ始祖、男女二神ノ名ヲ阿摩美姑(アマミコ)ト云フ、一
書ニ、二神ノ名ヲ阿摩美久(アマミキユ)、之禰利久(シネリキユ)トス、初メ、大島最
北ノ山ニ降リ、《割書:史記及ヒ地理大|島ノ部ヲ見ヨ》国土ヲ求メテ、今ノ沖(オキ)
縄(ナハ)島ニ到リ、地ヲ開キ、米粟ヲ播ク、其長男ハ、天孫氏ト
称シ、長女ハ天神ト為リ、次女ハ海神ト為ル、云々、案ズ
ルニ、我神代ノ二尊、八大洲ヲ生メル後、更ニ六島ヲ生
ム、中ニ大島アリ、先哲ノ論、其所在ヲ詳ニセズ、今琉球
ノ大島ヲ覧ルニ、佐渡隠岐ニ比スレバ、更ニ大ナリ、蓋
シ是ヲ謂フ歟、素盞烏尊(スサノオノミコト)ハ新羅ニ降リ、瓊々杵尊(ニニギノミコト)ハ日
向ニ降ル、神代開闢ノ跡、皆西海ニ偏スレバ、彼ノ大島

ヲ指ス、必シモ牽強ト云フベカラズ、蓋シ阿摩美姑ハ
天孫氏ノ字訓ニシテ、天御子(アマミコ)ナリ、之禰利久(シネリキユ)ハ或ハ姫(ヒメ)
御子(ミコ)ノ転歟、瓊々杵尊以下ヲ天孫ト称シ、尊(ミコト)ノ皇子、火(ホ)
照尊(デリノミコト)ヲ薩摩 隼人(ハヤト)ノ祖トス、隼ハ鷙鳥ノ名ニシテ、古言
ニ又猛勇ヲ波夜(ハヤ)トモ云ヘバ、因テ名トス、古史ニ、琉球
人ノ獰悪ナルヲ説キ、且薩人琉人ノ土音、今尚同ジケ
レバ、《割書:人種言語ノ|部ヲ見ヨ》皆隼人ト、同人種ナルヿ知ルベシ、因
テ考フルニ、火照尊、薩摩ヨリ、漸ク南海諸島ヲ開キ、隼
人人種ヲ生殖シ、而シテ天孫ノ皇族ナレバ、即チ阿摩
美姑ト称セシナルベシ、且其初メ、大島最北ノ山ニ渡
リ、次ニ沖縄ニ到ルガ如キ、尤内地ヨリ渡ルノ痕跡ヲ
見ルニ足リ、又米粟ヲ播クハ、瑞穂国ノ種ヲ伝フル者
ナルベシ、火照尊ノ皇弟、彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)、海宮(ワタツミノミヤ)ニ入リ、豊(トヨ)
玉姫ヲ娶リ、居ルヿ三年ノ後、豊玉姫ハ、妹玉依姫ト、風
波ヲ渡テ、海浜ニ到リ、産スル時、竜ト化シテ去リ、玉依
姫ハ留テ還ヘラズ、是レ海宮ヲ琉球トシ、長女ノ天神
ト為ルヲ豊玉姫トシ、次女ノ海神ト為ルヲ玉依姫ノ
去テ還ヘラザルニ考フレバ、共ニ火照尊ノ女トシテ、
正ニ相合ハン、其叔姪相婚スルハ、上古ノ常ナリ、而シ
テ彦火々出見尊以後、海宮ノ往来絶エタリト見ユ、大
隅ノ麑島社ハ、尊(ミコト)ノ霊ヲ祀ル、其遊漁ノ故跡ハ、今ノ鹿児
島ノ湾ナルベシ、又 沖縄(オキナハ)島ノ人、自ラ屋其惹(オキナ)島ト称ス、

是レ沖(オキ)ノ島ニテ、古ヘ洋中ノ島ノ意ニテ称呼シ、後ノ
ヲナハニ訛セルナルベシ、」琉球人著ハセル中山世譜
ニ、舜天姓源、号_二尊敦_一、父鎮西八郎為朝公、母大里按司妹、
南宋乾道元年乙酉、為朝至_レ国生_二 一子_一而返、其子名_二尊敦_一、
長為_二浦添按司_一、後国人推戴為_レ君、是舜天也、云々、案ズル
ニ、保元物語ニ、二条帝永万元年、為朝鬼島ニ入ルトス、
即チ乾道元年ナリ、或云嘉応二年、為朝伊豆ノ大島ニ
死スル時、季子大島二郎為家年五歳、其母抱テ逃レ、琉
球ニ入ル、是レ即チ舜天ナリト、蓋シ嘉応二年五歳ノ
文、舜天文治三年即位、年二十二ノ文ト、適ニ相符合ス
レバ、果シテ一人ナレトモ、其孰カ是非ヲ詳ニセズ、又保
元物語ニ、島人ノ衣網ノ如シ、太キ葦多ケレバ葦島(アシヾマ)ト
名ヅク、伊豆ノ大島ニ還ヘルニ及ンデ、絹百匹ヲ納レ
シム、云々、蓋シ、琉球ノ地、所在ニ竹多シ、葦ハ竹ノ一種
ヲ誤レルニテ、衣ハ芭蕉布ナラン、又此時為朝既ニ、八
丈ヲ略取スレバ、八丈ヲ除テ此辺海ニ、毎歳絹百匹ヲ
納ムベキ島ハ、琉球ノ外ニ有ルヲ見ズ、又国人為朝ヲ、
日本人皇後裔大里按司朝公ト称ス、為朝ノ外、人皇後
裔ノ人、此島ニ入ル者、恐ラクハ無カラン、大里按司ト
アレバ、逃レテ此島ニ終ル者歟、且舜天始メテ伊呂波
ヲ制スト云ヘバ、邦人ノ裔ナルヿ、論ヲ待タズ、又今王
府第一ノ宝剣ヲ、重金丸ト名ヅク、是レ蓋シ、為朝ノ遺

物ニシテ、源家ノ宝刀タリシ者ナルモ知ルベカラズ、」
以上鄙考ヲ録シテ以テ、此篇末ノ跋ニ代フト云、
  明治癸酉六月
                   平文彦 記

【裏表紙】

琉球王府花押印状

 就楷船差上候一筆啓上
 仕候
太守様
少将様倍御機嫌能被遊
 御座恐悦奉存候将亦
 貴公様弥御勇健被成
 御勤仕珍重御儀奉存候
 於当地国王無異被罷居候
 右之一左右為可申上如斯
 御座候誠惶謹言

          国吉親方

  二月十五日    朝章

          小禄親方

           良恭

琉球人来朝記













琉球人来朝□□












琉球人来朝□□



中原善忠文庫  印
 

   琉球人学
  志喜屋記念図書館




琉球大学
附属図書
館蔵書印

    同
     諸道具絵図



琉球人来朝記

  

中原善忠文庫  印

  琉球大学
 志喜屋記念図書館


k0932 R98 3~4 副

    琉球人
     登城道筋
    同
     行列
    同
     諸道具絵図


琉球人来朝記

  三之巻
  琉球人
    登城道筋
  同 行列
  同 諸道具絵図
  四之巻
  御本丸に而
  琉球人初而
  御礼之次第



   琉球人来朝記 三
    琉球人登 城道筋
一 芝松平薩摩守屋敷ゟ増上寺
  表門夫ゟ通丁芝口橋ゟ御堀端
  通幸橋御門え入薩摩守屋敷え
  立寄夫ゟ松平丹後守屋敷脇

 松平大膳大夫屋敷脇ゟ日比谷
 御門八代洲河岸□之口三浦志摩守
 中屋敷前 大手御門登 城
  御本丸ゟ 西丸え登 城幷
  退出之道筋
一内桜田御門ゟ御殿前 通 西丸



 大手御門ゟ登 城退出之節ハ
 同所大手御門ゟ堀田相模守屋敷
 前外桜田御門を出上杉大炊頭
 屋敷前松平大膳大夫屋敷脇
 夫ゟ 御本丸え登 城の道筋
 之通被帰候以上






    琉球人登 城之行列




   先払騎馬武人 布衣






   琉球人登 城の行列



  先払騎馬 武人 布衣




 



            徒士


松平薩摩守 是ゟ弐丁程下□ 騎馬五人布衣 徒士尉上下


            徒士




 徒士役拝□ 金鼓旗 鐸簫  太鼓二   獣旗一本


是ゟ琉球人  楽人     二行列

 同二人ツヽ 金鼓籏 銅鼓   右ニ同  右ニ同





    板札壱本ツヽ 薩州家来鎗   長柄    鎗

次に騎馬      紅涼傘    輿王子  副使籠

    板札    同徒士  偃月刀 舄持    傘




   何も槍   傘一人ツゝ  徒士三人ツゝ


次に騎馬九人 小童六人□ 次に騎馬布衣 同騎馬五人
           是は薩摩家来  是は琉球人

   同傘   草り取      同  同
          一人ツゝ

     徒士   押

同三人 次薩摩守家来布衣 

     麻上下  押



一琉球人壱人え給人壱人足軽壱人
 中間壱人三人宛附申候
一琉球人騎馬壱人え琉球人草り取
 壱人宛其余皆薩摩守家来附
 申候


    徒士   押

同三人 次薩摩守家来布衣

    麻上下  押

一琉球人壱人え給人壱人足軽壱人
 中間壱人三人宛附申候
一琉球人騎馬壱人え琉球人草り取
 壱人宛其余皆薩摩守家来附
 申候

【右丁、白紙】
【左丁】
琉球人道具之図【絵図あり】
金鼓
刑鞭

【絵図あり】
鐸 銅皷
笛簫
獣旗

【絵図あり】
銘牌
表【絵の中に「中山王府」】
裏【絵の中に「賀慶正使」】
紅涼傘

【絵図あり】

偃月刀
屋轎

【絵図あり】


冠  帽巾
華賛【簪の誤記ヵ】 帽笠

【右丁】
舄【絵図あり】

【左丁】
 琉球人来朝記
   十二月十五日琉球人御礼之
   次第
一琉球国中山王
 御代替に付使者具志川王子
 指渡候に付登 城

一具志川御玄関階之上に到候時
 大目付河野豊前守能勢因幡守
 出向裏門候殿上之間下段着座
 従者同所次之間列居下 之族は
 御玄関前庭上に群居
一松平薩摩守登 城殿上之間
 下段座上に着座
一出仕之面々直垂狩衣大紋布衣
 素襖着候
一中山王書簡箱大目付河野豊前守
 能勢因幡守受取候
  具志川御礼之次第

一大広間 出張 御直衣
   御先立
   御太刀
   御刀
 御上段 《割書:御厚畳三畳重以唐織包之|四之角大総付御褥御刀懸二行目》

 御着座
一御簾懸候
一御後座御側衆御太刀之役御刀之
 役伺候
一御下段西之方上ゟ三畳目通りより
 松平肥後守井伊掃部頭年寄共
 順々着座

一西之御縁類に若年寄伺候
一西之御縁之方に畳敷之高家鷹之間
 詰之四品以上列居
一南板縁頭に諸大夫之鷹之間詰同
 嫡子御奏者番同嫡子菊間縁類詰
 同嫡子番頭芙蓉之間御役人列候
一二之間北之間二本目三本目柱
 之間より御襖障子際東之方え
 四品以上之御譜代大名列候
一二之間諸大夫之御譜代大名同
 嫡子三之間に布衣以上の御役人
 法印法服之医師列居

一薩摩守御次御襖之外際南向着座
一具志川殿上之間より大広間大目付
 河野豊前守能勢因幡守案内候二之
 間諸大夫の御譜代大名前面え向
 着座
          松平薩摩守
 右出座御下段御敷居之内にて
 御目見御奏者番披露之御中段迄
 被 召出候今度琉球之使者遠路
 召連大義被 思召候段 上意有之
 年寄共御取合申上候御次え退座
 于時右近将監右之具志川御前え

 可差出之旨被 仰出之於御次
 御諚之趣薩摩守え右近将監達也
  但具志川御礼之内は薩摩守御襖
  之外に罷有
一中山王ゟ所献之品々 出御已前ゟ
 南之板縁東西ゟ 御目通り順々並置
  具志川自分之進物も同事並置
  但献上之御馬□□□文右衛門
  支配之御馬寮二人庭上索出
  文右衛門差添罷出
一献上之御太刀 目録御奏者番持出
 御中段下より二畳目置之中山王と

 披露具志川出席御下段下より
 四畳目にて奉九拝て退去御太刀
 目録御奏者番引候
一右近将監 召之具志川儀遠境
 相誠太義に候思召旨被 仰出候
 於御次 御諚の趣薩摩守え右近
 将監伝之則具志川え薩摩守進之
 御請申上候其趣右近将監え薩摩守
 述之
一具志川定而出席自分之御礼於板縁
 奉三拝御奏者番披露退座大目付
 河野豊前守能勢因幡守案内而殿上之間え

 同列下段着座薩摩守も殿上之間
 退去
       松平薩摩守家来
            嶋津兵庫
            鑑田典膳
 右於板縁奉拝 □□御太刀目録
 御奏者番披露退去畢て御間之
 御襖障子開之御敷居際 立御
 御譜代大名其外一同 御見
 相済而 入御
一年寄共殿上之間え相越向具志川
 会釈有之罷退座そ其後大目付
 差図して具志川退出大目付河野

 豊前守能勢因幡守御玄関階上迄
 送る先達而従者順々退出
   但し年寄共之送りは無之
一御小姓組御書院□ゟ出人五十人
 御書院番所勤仕
一大御番ゟ出人百人大広間四之間に
 勤仕

【右丁付箋下、白紙】

【貼り紙 丸印 琉球大学付属図書館 1966.12.20№112898 その下に 価格は一巻に含む】

【背表紙 左下にラベル 093.2 R98】

満次郎漂流記

満次郎漂流記 全

【前コマと同じ写真】

漂流記
滄浪軒蔵板 【丸に】売【四角に】栄
【次コマ右ページを裏から見たもの】

【右ページは前コマを表から見たものだが仲原善忠文庫のしおりが載っている】

【左ページ】
【別の資料によれば紙が載っている場所に「アメリカ人」と書かれているようです】
中浜漁師
満次郎

アメリカ
蒸気船(じよきせん)
之 図(づ)

無人島(むじんじま)の
トヲクロ鳥(どり)

ワフ
国(こく)の
名(い)
 石(し)

ワフ国(こく)の田芋(たいも)

大日本土佐国漁師漂流記
      肥前長崎 鈍通子記録
往昔(むかし)何れの御時にや有けん正月五日土佐の国西 三崎(みさき)といへるところにて
五人のり合の漁師(りよし)かの沖(おき)にて鱸(すゞき)といふ魚をはへ縄(なは)にて釣(つり)いたるに
此折船中に白米二斗 程(ほど)あり同月七日迄その所にをり縄はへ候処その日
午の刻(こく)ころ紅色の雲西にたち戌亥の方より風吹来り次第にはけ敷
ゆへにはへ置たるなはを手早く操(くり)【繰】あげ帰らんとするに風つのり地方へ
よすへき事かなわずその儘(まゝ)辰巳の方へ吹流(ふきなが)されさま〴〵にはたらけども
詮(せん)かたなく其内にかぢも櫓(ろ)も折あるひはあわて櫓(ろ)五丁の内三丁は流て
残(のこ)る二丁は折れ只(たゝ)辰巳の方へ風と汐(しほ)とにまかせ吹流(ふきなか)され風はいよ〳〵は

け敷吹けるゆへ何卒(なにとそ)日本の地につき度と諸神仏(しよしんふつ)を念するのみ此時白米壱
斗 程(ほと)残(のこ)りたるを少しづゝかゆに焚などしてわつかに腹(はら)をこやし漂流(へうりう)す
舟には汐(しほ)多(おほ)く入けるゆへ水をかへすて舟のかへらぬ様に帆柱(ほばしら)を舟ばたに
ゆひつけ何卒?して陸(へが)?に上り心?よく水をのみ死たく思(おも)ひ風と汐(しほ)とに任(まか)
せながれ行(ゆく)に九日の夕方より十日に至(いた)りては寒気はなはだしく肌(はだ)へを
通しその上 濡(ぬれ)たる衣類(きるい)は鉄(てつ)のごとく氷(こふ)り手あしこゞへはたらき自由(しゆう)
ならず残りし箱など焚(たき)て水をあたゝめ聊(いさゝか)のんどをうるをし手足
をあたゝめなどして十一日は雨風はげ敷なりて此折は五人とも数日(すじつ)の
働(はたらき)につかれ一時も早く死度心なれ未(といま)だ死得す十二日は雨やみて
昼頃(ひるころ)にいたり沖(おき)を見ればトヲクロヲ【藤九郎=アホウドリ】といふ鳥多(おほ)く海上にむれ集(あつま)り
居(いる)を見て伝蔵いへるにはみな〳〵よろこひ候へ死(しす)べき処も近(ちか)よると見
へてトヲクロヲ多(をふ)く居る上はもはや近き処にしまあるにうたがひなしと
其日の暮頃に辰巳の方にあたりてしまならんと思ふものかすかに見へて
扨(さて)よく日にいたり嶋なるゆへみな〳〵悦(よろこ)ひ近(ちか)より見ればいそなみあらく打
あげ中〳〵舟のつくべきようなる処見へされどもその儘(まゝ)いそ際(きは)に船をよせ
二人はいそに飛(とび)上り残(のこ)り三人は数(す)日のなん船に飢(うへ)つかれ舟をいですその内ふ
ねはくつがへりみぢんとなり三人ともやう〳〵板(いた)にすかりいそにつきその儘(まゝ)手に
いそ草をにぎり喰(くら)ひける是にてうへたる事をしるべし扨(さて)五人ともやう〳〵
陸(くが)に上り見ればトヲクロヲあまた居るゆへ帆げたなどにて四五羽うち
ころしこれを喰(くろ)ふ扨(さて)此しまは無にん嶋にて山の廻り一里はかりの小
しまにして竹木もなく茅(かや)あるひはくひみといふもゝのたぐひなとす
こしづゝはへたれば人家を尋けるに人あとたへてなくかん気甚(はなはだ)しく水


漁師(りやうし)
難風之図(なんふうのづ)

火もなく只(たゞ)山の上に石塁?の墓(はか)二ツあるのみにていづれも日本の墓に似(にた)り
これこそ我々(われ〳〵)同様?の漂流(へうりう)じん此処にて死たる墓ならんとそゞろな
みだに沈(しづみ)つゝこの墓をよく〳〵弔(とむら)ひ夫より食物をもとめんと所々をか
け廻(まは)るに辰巳の方に五人もいるべき岩洞(いわや)あり此処にて五人とも月日を
送(をく)り寒気たへがたき時は五人とも丸 裸(はだか)にて背(せ)なかを合せより合て
着(き)のものをあつめうちかつきて只々(たゝ〳〵)ふるひ居(い)たりける扨(さて)五人とも陸(くが)に
上りし時は雨あかりゆへ岩間より雨の落(をつ)るをすくひとり呑(のみ)けれとも
一両日にてこの水もなくなりけるゆへいよ〳〵水にうへ草(くさ)の葉なともみて
其しるをすい折々(をり〳〵)は小べんをのみしとなり彼(かの)穴(あな)の近辺にもトヲクロヲ
の巣ありて子をかへしたる時節(じせつ)ゆへ親鳥(をやとり)雑魚(ざこ)?のたぐひなとくわへ来
たり子に喰(くわ)せるを追(をい)落?し是?など喰(しよく)とし後(のち)には子も取て喰し
親(をや)もとつてくらひし四月ころにいたりては子は巣(す)を立ておやも地に子よらず此
時にいたり五人とも喰(くひ)ものなく大ひに飢(うへ)いそ草あるひはよし茅(かや)の根くひ
みの根または草の葉など取てはらを養(やしな)ひけり五月頃にいたりては
ます〳〵飢(うえ)つかれ此とき重助病気はつし穴よりいてはたらく事
かなはず穴にのみ打臥(うちふし)伝蔵もよほど労(つかれ)重助の介抱(かいほう)のみにてこれも
はたらく事かなはず五右衛門寅右衛門満次郎ばかり穴より出て喰(くひ)ものをひ
ろひ病人にあたへ月日を送(おく)りけるに六月上旬の頃にいたりはるかに
辰巳の方沖にあたりて大舟の帆(ほ)かけてはしるを見つけ三人とも是?を見
て大によろこび着(き)ものを帆(ほ)けたに結(むすび)つけ是をあげて声(こへ)をたてよば
われけれどもはるかに沖(をき)の事ゆへその大舟につうせず船は次第に戌亥の方
へのり行(ゆく)にぞ五人のものはなをこへをふりたてさけべとも聞(きゝ)えす舟は三りば





かり戌亥の沖(をき)合へいかりを下(をろ)し小船 二艘(にそう)をろしてかの嶋さして漕(こぎ)来
りければ三人とも大ひに悦(よろこ)ひ近く来るゆへ満二郎穴のかたに招きけるゆへ
舟も又是に随(したが)ひ廻りける扨この舟一そうにのり組?六人つゝ内五人はアメリカ
人にて一人はクロンホヲなり三人のもの共はよろこびにたへず指(ゆび)さして寝
たるものを見せけるにぞ異国人(いこくじん)うちうなづき病人二人を抱(かゝへ)あげ
舟にのせ三人のものも舟に飛(とび)のり本船のかたへのりゆきけり○夫よ
り右の大舟へ漕(こぎ)つけいづれも是にのりうつりけり此船長さ四十五
間 外(そと)は赤銅(あかゝね)にてつゝみいたつて堅固(けんご)なり此舟はアメリカ州の鯨(くしら)
船にて日々 世界(せかい)の海原をのり廻り鯨(くしら)を見つけては彼(かの)小船
八 艘(そう)を下し追かけもりにて突(つき)とめたる時クロンボヲ海中に飛(とび)
いり綱(つな)にてくゝり留(とゝめ)大せんに引あけ肉(にく)はすてゝ皮(かは)をはぎとり
あぶらをとるなりアメリカ州にてはかくのことき船は沢山(たくさん)に出?るなり此
大船あぶらを五三年もとりあつめ夫よりワフ国といふ所に持出 交易(こうへき)
するとなり扨五人のものは大船にのりうつりたるに異人(いじん)りうきうい
り【も:りうきういも、薩摩芋】をもちきたりあたへけるゆへ喰(しよく)し居たる処へ船主(せんどう)とをほしき人
怒(いか)りたる躰(てい)にて出来り何とかいふて此いもを引とり奥(をく)へもち
行(ゆき)けり是にをそれて居たる所へパン【パレにしか見えない。以下同様】といへる餅(もち)をもちきたりこ
れを喰(くら)ひ恐(をそ)るゝはやみたれども勿(もち)ろん腹(はら)にたらざる事なり是にて思
ひ合すれば日本にてもなん舟に逢(あい)しものなどはかくのごとくして介(かい)
抱(ほう)の事思ひいだし猶あん心(しん)に及びけり扨よく日には豕(ふた)の干肉(ほしにく)あぶり
たるをもらひ是とパンにて早〳〵力(ちから)つき候事此舟の真中(まんなか)に大なる桶(をけ)
三つ重(かさ)ね外に小き桶(おけ)沢山(たくさん)又いんきんのごとくなる小舟八そう入これ



無人嶋(むじんじま)にて
トヲクロ鳥(どり)を
取喰(とりくら)ふの図

ありクロンボヲも沢山(たくさん)に居候舟の食(くい)ものはみなパンさつまいもなり
   考へるにパンと申ものは麦の粉に砂(さ)とう入仕なしたるも
   のなり
扨同年霜月の頃ワフ国へつきけるに此ワフ国と申所はアメリカより
渡海(とかい)六七百にして人物 言語(ごんご)アメリカに同じ近年この所はん花(くわ)の
地なり日本にて大坂の川口のごとし諸国(しよこく)の交易(こうへき)所にて国々の
問屋(といや)多く又茶屋 女郎屋(しよろうや)などもあり此国 寒暑(かんしよ)なく春秋とも日本
の八月のごとし米麦等はなくりう球(きう)いも田芋(たいも)等は年中よく出来る
所にてこやし等はする事なし田芋一もと取(とれ)は国人一ツ荷(に)にもち得(へ)ず
となり仕なしは焼(やく)歟(か)又は餅(もち)又は焚(に)たるもあり喰(しよく)ものは芋(いも)るい外
なし家は日本によくにたり茅葺(かやぶき)近年は板屋根(いたやね)多(をふ)く其国に
へける石あり是をとつてかわのごとくなして屋根(やね)にする処もあり此
所の人 貴賎老若(きせんろうじゃく)にかぎらずしたん黒たんの杖(つへ)をつく往来す又す
こしでも身もち重(おも)きともがらは刃(けん)付づゝ又たもと鉄砲(てつほう)等持往来
す又 刃(けん)なしの筒(つゝ)もありみな火打仕かけなり騎(き)?しや【綺しや:奇妙なことに?】笠(かさ)のこと
くなるものをかむり其 笠(かさ)の真中(まんなか)に穴あり夫より髪(かみ)を通し居るな
り女はかみ天神 結(ゆい)のことく衣類(きるい)は男 筒袖(つゝそで)にして是に股引(もゝひき)の
如くなるを着し沓(くつ)をはき居なり雨具(あまぐ)なくして雨天の時は
家より出ず此処の人朝昼夕と喰(くい)もの違(ちご)ふ芋(いも)のたぐひゆへはしちや
わんなくいく色(いろ)も風味(ふうみ)よくこしらへ飯台(はんたい)にかの芋のるいのせ腰(こし)
かけにこしをかけ喰(くろ)ふあさは大豆を黒くいりてせんじのむなり又
昼飯(ひるめし)の時は水をすくひて呑(のむ)夕めしの時は日本のごとき茶をのむ








此国 死失(ししつ)の時王は山王に蔵のごときものありその中に大なる穴あり
是に葬(ほふむ)る惣して重役人は日本のことく寝棺(ねくわん)又いやしきものは火
そうなり又此処へヲランダより近頃 医(い)しや来りせん薬なく煉(ねり)
薬又は散薬(さんやく)用ゆ又 針(はり)にて血をとる事多し又じゑき【時疫】などの時は
居風呂(すへふろ)桶のごとくなるをけに水沢山に入右病人をはだかにしていれ
頭計りだして熱気(ねつき)をさますなり是等の病気くわいきしたる
はなし扨船頭ワフの問屋(といや)役のものへ右五人の者を連行(つれゆき)此問屋役の
名ブチイヱと云(いふ)船頭(せんとう)の名はタブタヂヨン其とき船頭問屋役人へ申は
此人いづくの人かしれず無にん嶋と申所にて数(す)日の間なんぎいたし
候を見つけ連来りと申ければ彼(かの)役人種々の銭をもち来りて
五人の者へ見せければ其中に日本の寛永銭(くわんへいせん)あり是にゆひさしければ扨
は日本人なるべしと此時よう〳〵知るなる扨満二郎はもとの船にのり伝
蔵重助五右衛門寅右衛門はこの所役人に預(あづ)け手あつく介抱(かいほう)いたし呉(くれ)
候様 頼置(たのみおき)船頭(せんどう)は万二郎を召(めし)つれ船にのり本国へかへりける残(のこ)り四人は長々(なが〳〵)
世話(せわ)に預りけるを気のどくに思ひ役所へいとまを頼(たの)み夫より自分(じぶん)〳〵
の渡(と)せいをし扨 用(よう)つかい又田はたなど手入方 或(あるい)は大せんのみなといりを
聞ては荷(に)あけなどいたし国人よりは達(たつ)しやにしてかの国の調法(ちやうほう)となり
又道を行にも二日 程(ほど)に往来の所は日帰りにしよほど銭金の出来(でき)家 抔(など)
造(つく)り安気(あんき)にくらしける此国ちう夜刻々(やこく〳〵)に大 筒(づゝ)をうつ然るに重助は
ふと煩(わづら)ひつき終(つい)に病死(べうし)いたしけるこのもの日本人なりとて其所の役人よ
り寝棺(ねくわん)にして葬式(そうしき)も手 重(をも)くいたし呉(くれ)るなり扨日本の己【巳?】の年に
いたり其所の役人へいとまを乞(こひ)日本へ帰(かへ)り度(たく)段(だん)申出るに夫より役所へ頼(ねがひ)【願】

無人嶋(むじんじま)にて
アメリカの
漁船(りやうせん)を
まねく図

セメンへ頼みセメンのゆるしをうけずんは帰る事かな□すよし申《割書:此所より|アメリカ》
《割書:さして|セメンと云》夫よりセメンのゆるしをうけ出帆(しゆつはん)して日すう経 程(ほど)なく一(とう)に
つき是こそ日本なるべしと此湊に上る是 則(すなはち)蝦夷(へぞ)の国なりヱブ人【ヱゾ人?】みな
逃(にげ)ちり其夜(そのよ)たいまつ焚(たき)もやしあいづの篝(かゞり)火と見へてなか〳〵よるべきべ
きようなく早々(そう〳〵)船を出し逃(にげ)帰りしなり扨満二郎北アメリカへ連(つれ)か
へり手ならい学文(がくもん)等いたし年たけるにしたがひ天文(てんもん)等ならひちやうあ
ひに預(あづか)りける此国はワフ国と違(ちか)ひ時候(じこう)日本とをなじかき?家(いへ)の障子(しやうじ)は
硝子(ひいとろ)にて張(はる)なり惣じて家(いへ)は広(ひろ)く美々敷(ひひしく)ぞうさくしたり又作物
は麦(むぎ)多く米も少々つくる然(しかれ)ども米を食(くう)もの賎(いや)しきといふ麦を上
品とす喰物(しよくもつ)又 人物男女(じんぶつなんによ)ともワフ国と同じなり此国に王七人あり
王四年づゝにてかわる次の王は人をゑらみて王とす故(ゆへ)あらは八年もつも
あり王八年持(もつ)時はをびたゞしき金もちとなる万二郎 数年(すねん)居る
内王とをぼしき人を見ず又男女とも馬にのる又 車(くるま)にのり【る?】行?両?車
は一つに三十人 位(くらい)のる焼(やけ)たる鉄(てつ)をいれ火気(くわき)にて自分(じぶん)と廻りゆく■し
如何(いかゞ)の工風(くふう)にやしれず多分 蒸気船(ぜうきせん)のたぐひなるべし又王の往来に
は一 僕(ぼく)なり又貴人は劔付(けんつき)の筒(つゝ)をもつ劔なしもありたもと鉄砲(てつほう)
もあり是ワフに同じこの国の人 貞実(ていじつ)にして悪心(あくしん)しらずらし
やなどは至て沢山(たくさん)できるなり
   説(せつ)に曰(いわく)羊(ひつじ)を家毎(いへこと)にかひをき秋のせつにいたつて
   其 毛(け)をとつて羅(ら)しやにをるといふ
扨(さて)此国 毎月(まいつき)七日に先祖の祭(まつり)とて家々にこれを■ふる其日は
家の戸を立て内には家ない【家内=家族】しづまり居るなり又 縁組(へんぐみ)【ゑんぐみ?】は日本に


てのし取かはせの【熨斗取り交はせ、の意味にとってみました】処は聟嫁(むこよめ)よりあいて互(たがい)□□一礼し又パンな
ど喰して是よりむつまじく交(ましわ)りありといふ双方(そうほう)今日より夫婦(ふうふ)と
なりしとて所々の神々へ詣(もふで)なりすべて盃(さかつき)の義はなく酒気(さけき)あらくな
るものゆへ呑(のま)ずといふ平生(へいせい)はのむ事もあり葬式(そうしき)の事は多分ワフ国と同し
扨満二郎は次第に天文の事に上達して所々の鯨(くじら)船にやとわれ此鯨舟(くじらふね)
は天文者(てんもんしや)一人これなくては海上(かいしよう)広くのるゆへ方角(ほうがく)立ざるよしにて天文者
一人づゝ居(い)る又舟の具(ぐ)は桶箭(をけひせん)のごとく大筒(をふづゝ)も多(おふ)く仕(し)こみある是は海賊(かいぞく)
舟に行あいし時の■【為ヵ】なり他国(たこく)を打立る事にあらずといふ万二郎此舟に
三四年も居(いる)内に日本の沖(をき)も四五 度(たび)通る又イギスス国へも本 唐(から)【19コマに本唐あり】へも行扨またこ
ふりの海(うみ)といふ処もあり此処は海(うみ)氷(こふ)りて上に雪(ゆき)多くつもり又 雪(ゆき)薄(うす)き
所を見合てゆく此所はたして大 鯨(くじら)こゞへ居(い)るゆへ氷(こふり)を破(やぶ)りてとるこの鯨(くじら)手安(てやすく)
取ゆへこの所へ諸こくより多く取に来るよし又クロンボヲ国へもゆくこの所
の人何(いづ)れもはだかにて衣(い)るいはなく喰(しよく)もつは塩(しほ)ばかりくふ色(いろ)は黒(くろ)くしてつやは
なしこの所を鬼国(きこく)といふ又はだか国ともいふ女はこしに柴(しば)の葉(は)をあて居(いる)也
此処は遊(ゆう)女ともありアヘンタバコ又パンなどつかわしけれはよろこんで舟にきた
るといふ扨夫より諸国 遍環(へんくわん)して四五年を経(へ)てワフにゆき日本人を尋(たつね)見れ
ば寅右衛門一人ありて重助は死し伝蔵五右衛門は日本へ帰り候といへる満二郎は四人に
別れ是六年目なり其 傍(かたわら)に聞居候 異人(いじん)其二人も帰る事かなはず夜前(やぜん)舟 湊(みなと)へかへ
り来ると申はよろこび湊(みなと)へ尋ゆき二人に会(あふ)て以前(いせん)の通り物がたり兎(と)かく帰朝(きちやう)の
事を四人とも申合せ万二郎は右の舟にのりアメリカへかへり夫より南アメリカの境(さかへ)
にキヤラホネ【キャラホネ=カルフォルニア】といふ所ありこの地は日本の浅間(あさま)山に似(に)たる処にて土中(どちう)に火気(くわき)立て
金など自然(しぜん)とわきいづる万二郎この所へ金掘(きんほり)に行度(ゆきたく)旨をじ?つて暇(いとま)を願(ねがひ)数日(すじつ)

ワフ国(こく)の
湊(みなと)の図

の間によほど金掘?あつめむ是にも多く善悪(せんあく)あるよしアメリカに帰へり物(もの)がたり
し日を経(へ)て又キヤラホネに行度と偽(いつわ)り是酉の年の頃ワフに来りて帰朝(きちやう)
申合 本 唐(から)へゆき売舟(ばいせん)に頼けれども日本へは未(いま)だ渡海(とかい)いたさざる国につき
連行(つれゆく)事かなはずむ?小舟一 艘(そう)求(もと)めこの舟にのせ置日本近き処より其舟に
のせ渡すべしと申に舟一艘もとめ右の舟に入る然るに万二郎其?舟の頭ダブチヨ
と?寵愛(ちやうあい)して養子(ようし)の約束(やくそく)相 済(すみ)けれども未た神参り等はせさるゆへ夫婦(ふうふ)と
申には是なくよつて右のチヨンへも縁女(へんぢよ)へも書面(しよめん)をもつて約束(やくそく)断遣?し
ける夫より出舟して同年琉球(りうきう)沖にて右の小ぶねをろし是にのつて琉球(りうきう)
へ渡るこの時万二郎は一礼をのべ又一 通(つう)手紙(てがみ)をしたゝめ寅右衛門は此時ワフに残り
居るゆへ右 書面(しよめん)にこの度 首尾(しゆび)よく日本へ帰り候に付よき便(たよ)り次第(しだい)早々かへ
られと認(したゝ)め大船へ頼みつかわしける夫より伝蔵五右衛門万二郎三人は琉球(りうきう)
国へちやく船すされば琉球(りうきう)人大にあやしみけるゆへ早〳〵日本の髪(かみ)にならん
と三人ともやつことなり是にてよう〳〵日本人としれにける然其髪 以前(いせん)のことくいたさずては薩州(さつしう)へ渡(わた)す事相ならずと申につき又えのごとく髪(かみ)をは
や一 年(とし)程(ほど)経(へ)てさつ州に御渡しに相なる夫より御 請取(うけとり)あつく【て?】又々?長崎へ御渡り【に?】
相なるをしむべし長崎にて万二郎 所持(しよじ)の本るい天文(てんもん)の土産(みやけ)の心
さしにて彼(かの)掘たる金一寸四方の金二つ是も共に長崎にて御取上になり
御帰しに成たるは三人の衣(い)るい外に一 枚(まい)き?たるもの有よし又三人とも長(なが)もち一つ
づゝ持(もち)帰国いたし扨夫より長崎より御渡の時御役人より請取の役人
へいわれしは先(まづ)この度は御渡しに相なり候へともとう地へめしかゝへをきて
調法(ちやうほう)のものとて其だん土州へ御届のよしなりめてたし〳〵
満次郎漂流記終





天明二年壬寅十二月十三日勢州(せいしう)白子(しらこ)神昌(しんしやう)丸の船頭大黒屋幸太夫水主磯吉同所を
出帆(しゆつはん)して駿州(すんしう)の沖より吹流(ふきなが)され同三年卯七月廿日 魯西亜(おろしや)の属島(ぞくとう)○アミシツカといふ地(ち)に漂着(ひやうちやく)し諸島を経暦(へめぐり)魯西亜(おろしや)国の都(みやこ)へ出(いで)女帝(によてい)にまみへ寛政四年
九月三日蝦夷(ゑぞ)の○ネモロといふ地に送りかへされ同五年癸丑九月十八日 富貴揚(ふきあけ)
御物見において    上覧ある
○寛政五丑年奥州(おふしう)宮城郡(みやきこふり)寒風沢(さむかせさは)浜(はま)若宮(わかみや)丸のり組十六人同年十一月廿七日なん
風に逢(あい)魯西亜国(おろしやこく)へ吹流(ふきなが)され右十六人の内左平津太夫(つだゆう)茂平太十良【郎】文化二乙丑
年長崎表へおくり届る
   右 漂流譚(きやうりうはなし)一 巻(くわん)好古(こうこ)の友人(友人)におくり売買(はいかい)をきんじ深(ふか)く秘(ひ)す

          滄浪軒蔵板

重助墓之図
ふるいんといふ

はち へる ちやん こん らよて はろ

右ヱよこに
よむなり

土佐国宇佐郡漁師
 船頭 五十歳  伝蔵
 乗組 弟    重助
 同  二十八才 語右ヱ門
 同  三十八才 寅右ヱ門
同国旙多郡中の浜
 伝蔵召仕漁師
    二十四才 満次郎
重助は異国にて身まかり寅右ヱ門は
ワフ国に止り内三人帰国に及ぶ

【前コマと同じ写真】

琉球人姓名書

【2コマ目に同じ】

琉球人姓名書

   寛政二年度

【右上隅に書入:K|280.3|R98】
【左下隅に蔵書印:仲原蔵書】
【左下隅に四角印:潮音洗心】

【4コマ目に同じ】
【右ページ蔵書票:仲原善忠文庫 琉球大学志喜屋記念図書館】
【左ページ蔵書票:琉球大学附属図書館蔵書印】

 中山王差上候使者幷
 従者名書

慶賀
 正使  冝(キ)野(ノ)湾(ワン)王(ワウ)子(シ)
       二十六歳

紫巾太夫
 副使  幸(カウ)地(チ)親(ヲヤ)方(カタ)
       五十五歳
 賛議官 田(タ)里(サト)親(ハイ)雲(キン)上
        三十五
 楽正  識(シキ)名(ナ)親雲上
        二十八
 儀清【訂正の書入:衛】正 兼(カネ)本(モト)親雲上
        四十六

 掌翰史 大(オホ)湾(ワン)親雲上
        五十九
 園師  真(マ)喜(キ)屋(ヤ)親雲上
        五十二
 使賛  座(サ)喜(キ)味(ミ)親雲上
        五十一
     波(ハ)平(ヒラ)親雲上
        三十五
     伊(イ)渡(ト)山(ヤマ)親雲上
        三十二
     和(ワ)宇(ウ)慶(ケイ)親雲上
        三十七
 楽師  新(アラ)川(カハ)親雲上
        六十二
     上(ウヘ)原(バラ)親雲上
        四十七
     玉(タマ)城(クスク)親雲上
        二十三
     伊(イ)江(ヱ)親雲上
        二十三
 《割書:二十二歳ニ而備後|鞆之演ニ而病死》與(ヨ)世(セ)山(ヤマ)親雲上
        二十二
     小(コ)波(ハ)津(ツ)里(サト)之(ノ)子(シ)
        十七
     渡(ト)慶(ケ)次(ス)里之子
        十七
     國(クニ)頭(カミ)里之子
        十七
     上(ウヘ)間(マ)里之子
        十六
     伊(イ)舎(シヤ)堂(トウ)里之子
        十五
     伊(イ)是(セ)名(ナ)里(サト)ノ主(ヌシ)
        十四

 従者
     島(シマ)袋(フク)親(ハイ)雲(キン)上
     我(カ)那(ナ)覇(ハ)親雲上
     伊(イ)佐(サ)親雲上
     大(タイ)工(ク)廽(ザコ)親雲上
     多(タ)賀(カ)山(ヤマ)親雲上【行頭に書入:■師】
     髙(タカ)宮(ミヤ)城(クスク)親雲上【行頭に書入:■■】
     稲(イナ)福(フク)親雲上【行頭に書入:■■】
     嘉(カ)味(ミ)田(タ)里之子【行頭に書入:小姓】
     本(モト)部(ブ)里之子【行頭に書入:小姓】
     仲(ナカ)嶺(ミネ)親雲上
     長(ナガ)嶺(ミネ)親雲上
     具(ク)志(シ)堅(ケン)親雲上
     仲(カナ)本(モト)里之子
     惣(ソウ)慶(ケ)筑(チク)登(ト)之(ノ)
     田(タ)場(バ)筑登之
     石(イシ)川(カワ)筑登之
     佐(サ)久(ク)川(カワ)筑登之

     仲(ナカ)村(ムラ)筑登之
     仲(ナカ)村(ムラ)子(シ)
     大(ヲホ)城(クスク)子
     仲(ナカ)里(サト)子
     具(ク)志(シ)子
     濱(ハマ)村(ムラ)仁屋
     徳(トク)村(ムラ)仁屋
     知(チ)念(ネン)仁屋
     掛(カケ)福(フク)仁屋
     知(チ)念(ネン)仁屋
     玉(タマ)那(ナ)覇(ハ)仁屋
     知(チ)念(ネン)仁屋
     與(ヨ)世(セ)本(モト)仁屋
     宮(ミヤ)里(サト)仁屋
     仲(ナカ)地(チ)仁屋
     仲(ナカ)宗(ソ)根(ネ)仁屋
     赤(アカ)嶺(ミネ)仁屋
     知(チ)念(ネン)仁屋

     玉(タマ)那(ナ)覇(ハ)仁屋
     大(ヲホ)城(クスク)仁屋
     小(コ)濱(ハマ)仁屋
     嶋(シマ)福(フク)仁屋
     具(ク)志(シ)堅(ケン)仁屋
     金(カナ)城(クスク)仁屋
     伊(イ)佐(サ)仁屋
     髙(タカ)江(ヱ)須(ス)仁屋
     大(ヲホ)城(クスク)仁屋
     安(ア)里(サト)仁屋
     比(ヒ)嘉(カ)仁屋
     仲(ナカ)西(ニシ)仁屋
     名(ナ)嘉(カ)仁屋
     金(カナ)城(クスク)仁屋
     玉(タマ)城(クスク)仁屋
     嘉(カ)數(カス)仁屋
     金(カナ)城(クスク)親(ハイ)雲(キン)上
     宇(ウ)根(ネ)筑(チク)登(ト)之(ノ)

     金(カナ)城(クスク)筑登之
     新(アラ)垣(カキ)仁屋
     長(ナカ)嶺(ミネ)仁屋
     嘉(カ)數(カス)仁屋
     屋(ヤ)冨(フ)祖(ソ)仁屋
     髙(タカ)嶺(ミネ)仁屋
     大(ヲホ)田(タ)仁屋
     金(カナ)城(クスク)仁屋
     大(ヲホ)城(クスク)仁屋
     上(ウ)原(ハラ)仁屋
     赤(アカ)嶺(ミネ)仁屋
     高(タカ)良(ラ)仁屋
     新(アラ)垣(カキ)仁屋
     金(カナ)城(クスク)仁屋
     大(ヲホ)城(クスク)仁屋
     比(ヒ)嘉(カ)仁屋
     澤(タク)岻(シ)仁屋
     比(ヒ)嘉(カ)仁屋

     髙(タカ)江(ヱ)須(ス)仁屋

【10コマ目に同じ】
【右ページに蔵書票:琉球大学附属図書館|1966.12.20|No.112964】
【蔵書票に書入:$2.78】

【左下隅に三段ラベル:280.3|R98】

琉球人大行列記

【2コマ目に同じ】

寛政八年琉球人来朝行列大全
【右下隅に3段ラベル:093.2|R98】
【3段ラベル下に書込:4282】

【4コマ目に同じ】

【表紙】
文化三年来朝
琉(りう)球(きう)よりさつままで行(かう)程(てい)事
さつまより大(おゝ)坂(さか)迄/海(かい)上(じやう)の事
大(おゝ)坂(さか)より伏(ふし)見(み)迄/川(かは)御(み)船(ふね)の事
伏(ふし)見(み)より江戸迄とまり休(やすみの)事
正(しやう)使(し)副(ふく)使(し)并(ならびに)姓(せい)名(めい)の事
御けん上もの目(もく)録(ろく)の事
りうきうことばの事
来(らい)朝(てう)ねんだい記の事
薩(さつ)州(しう)御にんじゆの事
りうきう人(じん)惣(そう)人(にん)数(じゆ)の事
人(にん)そくてん馬(ま)の事

仲山使 琉球人大行列記
     来朝新板絵入

【6コマ目に同じ】
【右丁に蔵書票:仲原善忠文庫 琉球大学志喜屋記念図書館】
【左丁に蔵書票:琉球大学附属図書館蔵書印】

【右丁左上隅に請求記号:K|093.2|R98】
【右丁左下隅に蔵書印:仲原蔵書】
【左丁右下隅に蔵書印:濃州表佐 飯沼氏集蔵書】
【左丁右下隅に四角印:潮音洗心】
  序
夫(それ)琉(りう)球(きう)国(こく)は日(につ)本(ほん)の西(にし)南(みなみ)に当(あたつ)て
薩(さつ)摩(ま)より三百/余(よ)里(り)海(かい)中(ちう)の嶋(しま)
国(くに)也(なり)琉(りう)球(きう)の西(せい)南(なん)は暹(しや)羅(むう)国(こく)
にして東(ひがし)北(きた)は日(につ)本(ほん)にむかふ
行(こう)程(てい)東(たう)西(さい)七八日/南(なん)北(ほく)十
二三日/四(し)季(き)暖(あたゝか)にして水(すい)田(てん)

一年可/両(りやう)度(ど)耕(こう)作(さく)すると
かや和(わ)哥(か)にはうるまの嶋(しま)
と讀(よめ)り慶(けい)長(ちやう)十五年の
ころより来(らい)朝(ちやう)すと云々

干時寛政八年辰歳
  洛陽  華誘齊

【左丁上段】
亀(かめ)井(い)能(の)登(との)守(かみ)殿(との)
川(かは)御(こ)座(さ)御(おん)船(ふね)

石見津和野城主
  楽舩


楽童子
其外
乗舩也

一番
【左丁下段】
水(みづ)野(の)和泉(いづみ)守(かみ)殿(との)
川(かは)御(こ)座(さ)御(おん)船(ふね)
 肥前唐津城主


賛議官
楽師
 乗組也

二番

【右丁上段】
細(ほそ)川(かは)越(えつ)中(ちうの)守(かみ)殿(との)
川(かは)御(ご)座(さ)御(おん)船(ふね)
 肥後熊本城主
 正(しやう)使(し)

 細川豊前守


三番
【右丁下段】
松(まつ)平(たひら)大(たい)膳(せんの)太(だい)夫(ぶ)殿(との)
川(かは) 御(ご)座(さ) 御(おん)船(ふね)

 長門萩城主

 正(しやう)使(し)


四番
【左丁上段】
松(まつ)平(たひら)筑(ちく)前(せんの)守(かみ)殿(との)
川(かは)御(こ)座(ざ)御(おん)船(ふね)
 筑前福岡城主
  副(ふく)使(し)


五番
【左丁下段】
小(お)笠(かさ)原(はら)伊(い)豫(よの)守(かみ)殿(との)
川(かは)御(ご)座(さ)  御(おん)船(ふね)
 豊前小倉城主
副(ふく)使(し)


六番

【右丁上段】
薩(さつ)州(しう)
川(かは)御(ご)座(さ)
御(おん)船(ふね)


松(まつ)平(たいら)薩(さつ)摩(まの)守(かみ)殿(との)
 加児嶋城主


【右丁下段】
琉(りう)球(きう)
船(ふね)



【左丁上段】
人(にん)王(わう)百(ひやく)八(はち)代(たい)
後(こ)陽(やう)成(ぜい)院(ゐんの)御(きよ)宇(う)慶(けい)長(ちやう)
十五年/琉(りう)球(きう)を征(せい)すこれ
より代々(たい〳〵)来(らい)朝(てう)す実(まこと)なる
かな幾(いく)千(ち)代(よ)を栄(さかへ)昌(さかふ)る
日(ひ)の本の目(め)出(て)度(たき)御(み)代(よ)の
例(ためし)千(せん)秋(しう)万(はん)萬(〳〵)歳(ぜい)
【左丁下段】
  来(らい)朝(ちやう)之(の)次(し)第(たい)
承(しやう)應(おふ)二年  九月  来(らい)朝(ちやう)
 りうきう征(せい)より此(この)間(あいた)四十四年に成
寛(くわん)文(ぶん)十一年 七月  来朝
 此間承應より十八年になる
寶(ほう)永(ゑい)七年  十一月 来朝
 此間寛文十一より三十九年になる
正(しやう)徳(とく)四年  十一月 来朝
 此間寶永七年より四年になる
享(きやう)保(ほう)三年  八月  来朝
 此間正徳五年より五年になる
寛(くわん)延(えん)元年  十一月 来朝
 此間享保三年より二十九年になる
明(めい)和(は)元年  ■■【黒塗り】 来朝
 此間寛延元年より十七年になる

琉(りう)球(きう)人(しん)行(きやう)列(れつ)之(の)次(し)第(たい)
先(さき)はらひ警(けい)固(ご)
つひの挟(はさみ)箱(ばこ)
だひかさ
たて傘(かさ)
大(おふ)とりけ

對(つい)のなげざや
弓(ゆみ)

うつほ
半(はん)弓(きう)
鉄(てつ)砲(ほう)

旗(はた)竿(ざほ)
長(なき)刀(なた)
引(ひき)馬(むま)
凡(およそ)さつま人(にん)数(じゆ)一万人
余(よ)有(あり)之(これ)
この次(つぎ)に
琉(りう)球(きう)人(じん)
行(きやう)列(れつ)
琉(りう)球(きう)人(にん)
騎(き)馬(ば)
下(げ)官(くはん)一人づゝ

箱(はこ) 二つ
 《割書:但(たゝし)金(きん)泥(てい)にて楽(かつ)器(きの)|の二字(ぢ)あり》

琉(りう)球(きう)馬(のむま) 弐(に)疋(ひき)
 《割書:但(たゝし)かざりなし|》

囲(い)師(し)《割書:真(ま)喜(き)屋(や)親(はい)雲(きん)上|馬(むま)別(べつ)当(とう)の事なり》

跟(こん)伴(はん) 数多(あまた)
  《割書:供(とも)人の事也|》

書(しよ)翰(かん)箱(ばこ)
 《割書:但(たゝし)地(ぢ)黒(くろ)に白(はく)字(じ)の|織(おり)もの見(み)事(こと)なる|ものなり》
【下段行列図内】
楽器








書翰

書(しよ)翰(かん)箱(はこ)
  右同行

掌(しやう)翰(かん) 史(し)外(ほか)間(ま)親(ばい)雲(きん)上
    祐(ゆう)筆(ひつ)の事也

跟(こん)伴(はん) 二(に)行(きやう)
    数多(あまた)

圉(きやう)師(し) 真喜屋親雲上
  馬(むま)別(べつ)当(たふ)の事也
鞭(むち|へゑん)
 《割書:但せひばい棒(ぼう)の事也大/竹(たけ)|長さ一𠀋はかりすへの方(かた)|二つわり半より持(もつ)所(ところ)迄(まて)|丸く朱(しゆ)ぬりにしたる物(もの)|なり一つわり》
牌(はひ)  二行
 《割書:板(いた)朱(しゆ)塗(ぬり)文(もん)字(じ)金(きん)泥(てい)|なり》
【下段行列図内】

書翰








仲山使
仲山使

張(はり|ちやん)旗(はた|きい) 二行

銅(と|とん)鑼(ら|らう) 両(どぢやく|りはん)班(じやう|はん)

嗩(ひち|つを)吶(りき|な) 二行

唎(ちやる|くい)叭(める|は) 銅( |とん)角( |しゑ)

鼓(たいこ|く)  二(に)行(ぎやう)


虎(とらの|ふう)旗(はた|き) 二行
【下段行列図内】
金鼓
金鼓

鎗(つやん|やり) 龍(ろん|なき)刀(とう|なた)

冷(れん)傘(さん)
  《割書:ひぢりめんは|二重(はたゑ)に飾(かざる)_レ之(これを)》
使(すう)賛(さん)
  凡(およそ)十二人/程(ほど)は
  二(に)行(きやう)
  但(たゝし)与(よ)力(りき)役(やく)の事也
轎(きやう)
正(しやう)使(し) 読(よみ)谷(たん)山(さん)王(わう)子(じ)
  但(たゝし)唐(から)衣(い)冠(くはん)也(なり)

 跟(こん)伴(はん)
   数(す)十(しう)人(にん)

賛(さん)度(め)使(す)
 《割書:凡(およそ)十四五人|小(こ)姓(しやう)の事(こと)也(なり)》

牌(はい)  二行
 《割書:板(いた)朱(しゆ)塗(ぬり)にて|文(もん)字(じ)前(まへ)に同(おな)し》

鎗(やり|つやん) 龍(なぎ|ろん)刀(なた|たう)
冷(れん)傘(さん)
 《割書:ひぢりめんは|二重(ふたゑ)に飾(かざる)_レ之(これを)》
正使の使賛
  諸(もろ)見(み)里(さと) 親(ばい)雲(きん)上
  野(の)崎(さき)  親雲上
  名(な)護(ご)  親雲上
  小(こ)波(は)津(つ) 親雲上
  渡(と)慶(け)次(す) 親雲上
【下段行列図内】



仲山使
仲山使

轎(きやう)

副(ふく)使(し)小(お)禄(ろく)親方
  但(たゝし)唐(から)衣(い)冠(くはん)也(なり)


副使の使賛
 濱(は)元(ま) 板(いた)良(ら)鋪(しき)親(ばい)雲(きん)上
     凡八九人一行

賛(さん)議(き)官(くわん)
  久(く)志(し)親(ばい)雲(きん)上
 但/琉(りう)球(きうの)衣(い)冠(くはん)也(なり)
 正(しやう)使(し)付(つき)の役(やく)人(にん)

楽師
 當(とう)間(ま)  親雲上
 多(た)嘉(か)山(やま) 親雲上
 東風平(たけひら) 親雲上
 嶌(たけ)原(はる)  親雲上
 奥(おく)平(たいら)  親雲上
楽正 譜(ふ)久(く)村(むら)親(ばい)雲(きん)上
  楽人のかしら也
楽童子  二行
  琉球の服を着す
 渡(と)具(く)知(ち)里之子 波(は)名(な)城(くすく)里之子
 佐(さ)久(く)間(ま)里之子 本(もと)部(ぶ)里之子
 仲(なか)吉(よし)里之子  伊(い)口里之子

 跟(こん)伴(はん) 数十人

議(ぎ|よひ)衛(ゑ|うい)正(しやう|ちん)古(こ)波(は)蔵(くら)親雲上
 路(ろ)次(しの)楽(がく)奉(ふ)行(きやう)也(なり)
 右琉球の衣(い)冠(くはん)也(なり)

掌(しやう|つやんは)翰(かん|あん) 史(し|す)兼(けん)ヶ(か)段(たん)
   祐(ゆう)筆(ひつ)の事也
賛(さん)度(め)使(す)
 行(きやう)列(れつ)前(まへ)に同(おな)じ
跟(こん)伴(はん)
  数(す)十(じう)人(にん)
立(りう)傘(さん)
 《割書:但(たゝし)先(さき)を金(きん)糸(し)のごとく|なるものにてつゝむ》

副(ふく)使(し)
 小(お)禄(ろく)親(おや)方(かた)
  《割書:但(たゝし)唐(から)衣(い)冠(くはん)なり|》
使(すう)賛(さん)
 《割書:凡(およそ)八九人/程(ほと)一(いち)行(きやう)|》
立(りう)傘(さん)
 《割書:先(さき)のかざり前(まへ)に同(おな)し|》
 跟(こん)伴(はん) 《割書:数(す)人(にん)|二(に)行(ぎやう)》

醫(い)師(し) 真(ま)喜(き)屋(や)
 《割書:但(たゝし)琉(りう)球(きうの)衣(い)冠(くはん)|なり》
 跟(こん)伴(はん) 数(す)人(にん)

凡(およそ)琉(りう)球(きう)人(じん)弐(に)百(ひやく)人(にん)余(よ)
 但(たゝし)上(じやう)中(ちう)下(げ)官(くはん)ともに
 印(いん)籠(らう)一(ひとつ)つ宛(づゝ)さげ申候
 扇(あふぎ)は朝(ちやう)鮮(せん)におなじ
【左丁上段(次コマ右丁上段に続く)】
 音(おん)楽(かく)之(の)次(し)第(たい)
大(たひ)平(ぴん)調(ちやう)《割書:楽|》 《割書:凡七人にて|相勤申上候》
桃(とう)花(ふあゝ)源(ゑん)《割書:楽|》 右同断
不(ぶう)老(す)仙(せん)  右同断
楊(やん)香(ぴやん)《割書:明(みん)曲(きよ)|》  弐人にて
壽(しうつ)尊(ふん)翁(おん)《割書:清(しん)曲(きよ)|》 同断
長(ちやん)生(すゑん)苑(ゑん)《割書:楽|》 《割書:七人にて|勤之》
【左丁下段(次コマ右丁下段に続く)】
琉(りう)球(きう)国(こく)より
御江戸迄/行(こう)程(てい)七百十一里余
琉球より薩摩/鹿(か)児(ご)嶋(しま)迄
三百里余かご嶋より大坂迄弐百七
拾六里余大坂より江戸迄百丗五里
 道中/宿(とまり)驛(やと)割(わり)
伏見/宿(とまり) 大津/休(やすみ)
草津宿  水口休
坂ノ下宿 庄(しやう)野(の)休
四日市宿 桑(くわ)名(な)休
宮とまり 池(ち)鯉(り)鮒(ふ)休

【右丁上段(前コマ左丁上段の続き)】
芷(つう)蘭(おん)香(ひやう)《割書:楽|》 《割書:七人程にて|務之》
壽(しう)星(すいん)老(らう)《割書:明曲|》 右同断
正(ちん)月(いゑん)《割書:清曲|》  弐人
三(さん)線(せん)哥(わふ)  右同断
右/路(ろ)次(し)行(きやう)列(れつ)の節(せつ)宿(やと)着に
相勤申但/最(もつとも)於 御江戸
相勤候/音(おん)楽(かく)の書付の内有之
是は路(み)次(ち)にてはつとめ申
さすとや
【右丁下段(前コマ左丁下段の続き)】
岡(おか)崎(さき)宿(とまり)  御(ご)油(ゆ)休(やすみ)
二(ふた)川(かは)宿  新(あら)居(い)休
濱(はま)松(まつ)宿  見(み)付(つけ)休
懸(かけ)川(かは)宿  金(かな)谷(や)休
藤(ふし)枝(ゑた)宿  丸(まり)子(こ)休
江(え)尻(じり)宿  神(かん)原(はら)休
吉(よし)原(はら)宿
三(み)嶋(しま)宿  箱(はこ)根(ね)休
小(お)田(た)原(はら)宿 大(おふ)磯(いそ)休
藤(ふし)沢(さは)宿  新(しん)宿(しゆく)休
川(かは)崎(さき)宿  江(え)戸(と)
【左丁上段】
中(ちう)山(さん)王(わう)より献上目録
御馬 一疋   中(ちう)央(わうの)卓(しよく) 弐脚
硯(けん)屏(ひやう) 一對  籠(ろう)飯(はん)   一對
羅(ら)紗(しや)《割書:青|黒》二十間 縮(ちり)緬(めん)   五十反
嶋(しま)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの)     五拾端
薄(うす)芭蕉布      五拾端
畦(うね)芭蕉布      五拾端
太平布  百疋  久(く)米(め)嶋綿 百把
寿(じゆ)帯(たい)香(かう) 三十袋  香餅   弐箱
龍(りう)涎(ゑん)香(かう) 二箱  泡(あわ)盛(もり)酒  十壷
  以上
【左丁下段(次コマ右丁下段に続く)】
 同/帰(き)国(こく)宿(とまり)驛(やと)割(わり)
江戸より 河(かは)崎(さき)休(やすみ)
神(か)奈(な)川(かわ)宿(とまり)
藤(ふし)沢(さは)宿  大(おふ)磯(いそ)休
小(お)田(た)原(はら)宿 箱(はこ)根(ね)休
三(み)嶋(しま)宿
吉(よし)原(わら)宿  神(かん)原(はら)休
江(え)尻(じり)宿  丸(まり)子(こ)休
藤(ふし)枝(ゑた)宿  金谷休
懸(かけ)川(かは)宿  見(み)付(つけ)休
濱(はま)松(まつ)宿  新(あら)居(い)休

【右丁上段】
同献上目録
御馬 一疋  中(ちう)央(わうの)卓(しよく) 二脚
丸中央卓 沈金   二脚
籠飯   沈金   一對
練(ねり)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの)     五拾端
嶋(しま)芭蕉布      五十端
薄(うす)芭蕉布      五十端
太平布       百疋
久(く)米(め)嶋(しま)綿(わた)     百把
泡(あわ)盛(もり)酒       五壷
  以上
【右丁下段(前コマ左丁下段の続き)】
白(しら)須(す)賀(か)宿 吉田休
御油宿
岡(おか)崎(さき)宿  池(ち)鯉(り)鮒(ふ)休
宮とまり
桑(くわ)名(な)宿  四日市休
石(いし)薬(やく)師(し)宿 土山休
関(せき)とまり
水(みな)口(くち)宿  草(くさ)津(つ)休
大(おふ)津(つ)宿  伏見宿
是より来朝の時の行(きやう)列(れつ)ひ
御/馳(ち)走(そう)前のことし
【左丁上段】
中山王より
御(み)臺(たい)様(さま)え献上物
 寿(じゆ)帯(たい)香(かう) 二十箱 香(かう)餅(もち) 弐箱
 龍(りう)涎(ゑん)香(かう) 五十袋 石人形 弐躰
 玉(きよく)風(ふう)談(たん) 一對  料氏の箱 一通
 硯(すゝり)箱(ばこ) 沈金      一通り
 鈍(とん)子(す)          弐拾本
 太平布         五拾疋
 綾絹子         五十端
 泡(あわ)盛(もり)酒         五壷
  以上
【左丁下段】
正(しやう)使(し)自(し)分(ふん)之(の)献(けん)上(じやう)
 寿(じゆ)帯(たい)香(かう)   十箱
 官(くはん)香(かう)    拾把
 太(たい)平(へい)布(ぬの)   弐十疋
 嶋(しま)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの) 二十端
 泡(あわ)盛(もり)酒   二壷
  以上

【右丁上段】
同 献上もの
 かもし    五かけ
 右て手(て)鏡(かゝみ) 弐□
 硯(けん)屏(ひやう) 一對 卓 青貝一面
 籠飯  沈金   二
 紅ちりめん    三十巻
 白縮綿      二十巻
 芭蕉布      五拾反
 久(く)米(め)嶋(しま)綿    三十把
 泡盛酒      三壷
  以上
【右丁下段】
正(しやう)使(し)自(じ)分(ふん)之(の)献(けん)上
 官(くはん)香(かう)    拾把
 香(かう)餅(もち)    五箱
 練(ねり)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの) 拾端
 嶋(しま)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの) 拾端
 泡(あわ)盛(もり)酒   弐壷
  以上
【左丁上段】
中山王より
東(たう)叡(ゑい)山(さん)宮(みや)様(さま)え
 香(かう)餅(もち)    弐箱
 官(くはん)香(かう)    一箱
 珠(つい)朱(しゆの)卓(しよく)  二脚
 芭(は)蕉(しやうの)蚊(か)帳(や) 二張
 石(いしの)硯(けん)屏(ひやう)
 泡(あわ)盛(もり)酒  弐壷
【左丁下段】
 正使両人より自分献上
東(たう)叡(ゑい)山(さん)宮様え
 官(くはん)香(かう)   一箱
 竹(ちく)心(しん)香(かう)   一箱
  以上

御三家様え進上
 香餅   一箱宛
 官香   一箱宛
 太平布  五疋
 芭蕉布  拾反
 泡盛酒  弐壺
   以上

【右丁上段(左丁上段に続く)】
琉(りう)球(きう)辞(ことは)
よいことを    きやうもんやつさ
人をよぶことを  それゑといふ
筆(ふで)を       ふでといふ
城(しろ)のことを    ぐすくと云
うそを      はらひつた
わかしゆを    すやうじん
おとなを     たあゝじん
はらのたつを   ぷんといふ
めづらしきを   ちんた〳〵といふ
おん出を     ぴつんといふ
さけといふ事を  うんりすといふ
なるほとといふを いきやき
いくらといふを  あやへるといふ

【右丁下段】
琉球人凡弐百人余
薩(さつ)州(しう)人数上下一万人余
人足 千五百人 馬 五百疋
雇(やとひ)人足 六百人 傳馬三百疋
川御座御船 六/艘(そう)
上荷船  百弐拾艘
過(か)書(しよ)舟  百艘
綱(つな)引(ひき)   千余人
 其外
 諸大名人数未_レ知跡より
 出_レ之也

【左丁上段(右丁上段の続き)】
国(こく)王(わう)を   ちうさんといふ
王(わう)子(し)を   わんずといふ
東(とう)宮(くう)を   なかくすといふ
きさきを  ちうふきんといふ
武士(さむらい)を   ばいきんといふ
大名を   おやかたといふ
代官を   あんじといふ
小(こ)姓(しやう)を  さとのしといふ
平人の子を たうきんといふ
父親を   せうまいといふ
神を    かめうなしといふ
月を    おつきかなしといふ
日を    おでたという
家老を   さんすんといふ
与力を   すらさんといふ
祐(ゆう)筆(ひつ)を  つやゐんすといふ
行列奉行を よいういちんといふ

【左丁下段】
薩州
 御家老  川田仲蔵殿
 御用人  高田猛太夫殿
 《割書:御側役|御附御用人》 冨山速見殿
 物領   田中七右衛門殿
 御使番  伊集院戸右衛門殿

寛政二年 八月 来朝
 此間明和元年より廿六年になる
寛政八年 九月 来朝
 此間寛政二年より七年になる
文化三年 拾月 来朝
 此間寛政八年より十一年になる

琉(りう)球(きう)人(じん)来(らい)朝(てう)行(きやう)列(れつ)之(の)画(ゑ)図(づ)一枚摺《割書:琉球人諸□の官位妙名に|至る迄桑敷繪図にあらはす》
琉(りう)球(きう)人(じん)来(らい)朝(てう)行(ぎやう)粧(そう)記(き)小本一冊 《割書:右同列にまさりて琉球の|由来幷国語迄桑敷しるす》
【刊記】
寛永八年辰九月   《割書:江戸日本橋|  須原屋茂兵衞》
   御免板行   《割書:大阪心斎橋筋|  塩屋㐂助》
       書  《割書:尾州名護屋本町|  湖月堂茂三郎》
       肆  《割書:京□□古川前|  叶屋㐂太郎》
          《割書:伏見伯耆町|  升屋勘兵衛》
          《割書:京松原寺町|   松坂屋儀兵衞》

文化三年丙寅年十月来朝
天保三年壬辰年十月来朝《割書:十一月二日□□|□□》

【26コマ目に同じ】
【右丁に蔵書票:琉球大学附属図書館|1966.12.20|No.112910】
【蔵書票に書入:$6.94】

【裏表紙】
美濃不破郡表佐邑
      飯村氏収蔵書
【左下隅に3段ラベル:093.2|R98】

琉球状

琉球状
屋代弘賢

琉球状
屋代弘賢

琉球人行列記

【題箭左肩】
《割書:御免新版繪入|天保三年来朝》 琉球人 行列記

【左丁右下隅に蔵書印:仲原蔵書】
【左丁右下隅に四角印:潮音洗心】

【右丁左上隅に請求記号:K093Z|R98|副】
    序
古の書(ふみ)に留(る)水(み)とかき哥にうるまのしまと
よめる皆今の琉(りう)球(きう)國のことなり其國初
天(てん)孫(そん)氏(し)にひらけて八郎/御(ご)曹(ぞう)子(し)《割書:為|朝》の御/裔(すへ)
なるかうへは我(わか) 皇(み)國(くに)の属(ぞく)国(こく)なることいふも
更なるをかの朝(てう)鮮(せん)臺(たい)湾(わん)の界近く南海
はるかにあら汐の八/百(を)重(へ)隔(へだて)たれは船の行通さへ

たやすからす其うへ中頃より唐土のすく
かよひ馴つゝやかて其國の制にさへならひて
冠(くわん)服(ふく)なども其國風にしたかひたれはいよ〳〵
さるかたに見なされてかの紅(をらん)毛(だ)伊(い)芸(ぎ)理(り)須(す)
なといふらむあらぬ境のものゝ類(たぐい)とさへは人
みなおもふなるへし扨此國人来朝の
ことは古(ふるく)続(しよく)日(につ)本(ほん)記(ぎ)にもみえたれど其後/暫(しはら)くは
来らさりしにや何の書にも見えさめるを
後(ご)光(くわう)明(めい)天(てん)皇(わう)の御宇慶安二年に再(ふたゝ)ひ来朝
せしより已来毎度に及へり此たび亦/国(こく)王(わう)
即(そく)位(い)恩(おん)謝(しや)のため正(せい)副(ふく)二人の仗を奉る事
あるにつき行(ぎよう)粧(そう)の梗(かう)概(がい)をしるし梓に

ゑりて広く四方の人にも見せ歩(あゆみ)にくる
しまん老少の目をも歓(よろこば)しめんとす抑この
行粧の図来朝のたびことに刊行すといへ
とも皆利を射るのみの業にして正しく
其さまを見ん便となるへきものなく
いま上(しよう)木(ほく)するはさる類(たくい)にあらす親(した)しく
聞まさしく見て写(うつ)しいたす所にし
あれは眼(まの)前(あたり)みたらんにもをさ〳〵違ふこと
有へからす穴賢
 天保三年壬辰八月
           無名氏
            しるす

一行粧の見(み)物(もの)は琉王/楽(がく)童(どう)子(じ)その外一躰ことなる風儀めつら
 しき衣服楽器の音声を要とす文化三寅としの
 来朝より当辰としまて廿七年目の来朝にてまた
 いつのよに行粧を見んもはかりかたく実に近代の
 粧(そう)観(くわん)なりよつて此本を持したらんには一時行列のみみたらん
 人にはなか〳〵まさるへくはた見し人のもたらんにはいよ〳〵
 其くわしきにいたるへきものなり
一行列は海陸数百里の道中ゆへ少しつゝの増減前後あり
 このほんやんことなき手筋をもつてくわしく
 相たゝし本格の行列をしるす
【左丁上段図内】
薩州川御座御船






此他諸大名方より
御馳走に川御座船
いづる今略之

【左丁下段図内】



  来朝之次第
慶安二年九月  来朝
承應二年九月  同
寛文十一年七月 同
天和元年十一月 同
正徳四年十一月 同
享保三年八月  同
寛延元年十一月 同
宝暦二年十月  同
明和元年九月  同
寛政二年十一月 同
寛政八年十月  同
文化三年十月  同
 慶安二年ヨリ
 天保三年マテ
  百八十四年ニナル

行列之次第
先はらひ
警(けい)固(ご)
弓(ゆみ)
旗(はた)竿(さほ)



長(なが)柄(ゑ)


道(どう)具(ぐ)
奉(ぶ)行(きやう)
 騎(き)馬(ば)

先(さき)馬(むま)

具(ぐ)足(そく)

弓(ゆみ)
對(つい)箱(はこ)
對(つい)鎗(やり)

中(なか)鑓(どうぐ)
立(たて)傘(がさ)
臺(だい)傘(がさ)
徒(か)士(ち)
刀(かたな)筒(つゝ)
長(なぎ)刀(なた)

小(こ)姓(しやう)


御(ご)家(か)老(ろう)

 島津但馬殿
  御高三万八千石

鎗(やり)
對(つい)箱(はこ)
茶(ちや)辨(べん)當(とう)

引(ひき)馬(むま)

押(おさへ)

樂(がつ)器(き)箱(はこ)
 《割書:但し金泥にて|樂器の二字あり》
書(しよ)翰(かん)箱(はこ)
 《割書:但し地黒に白字の|織ものなり》

 鞭(むち|へゑん)
《割書:但せいはい棒のこと也大竹|長 ̄サ一𠀋ばかりすへの方|二つ割半より持所迄丸く|惣朱ぬりしたる物なり》
牌(はい)  二行
 《割書:板朱ぬりもんし金|泥(でい)なり》
張(はり|ちやん)旗(はた|きい)
銅(と|とん)鑼(ら|らう) 両(どぢやく)班(じやう)
嗩(ひち|つを)吶(りき|な) 二行
唎(ちやる)叭(める) 銅( |とん)角( |しゑ)
鼓(たいこ)  二行

【下段行列図内】


 謝恩使
 中山王府
 金鼓
 金鼓

樂(がく)人(じん)

虎(とらの|ふう)旗(はた|き)

三(さん)司(す)宦(くわん)
 《割書:但國王よりの書箱を|所持するものなりかの國|にて三公のその一なり》
冷(れん)傘(さん)
 《割書:但ひぢりめんにて二重|にかざる》
龍(なぎ|ろん)刀(なた|とう)
 《割書:いはゆる青(せい)龍(りう)刀の|ことなり》
正使
 使(し)賛(さん)
 與(よ)儀(ぎ)覇(は)親(ばい)雲(きん)上
 玉(たま)城(くずく) 親(ばい)雲(きん)上
    跟(こん)伴(はん)数人
     《割書:供人の事也|》

  轎(きやう)
正使/豊(と)見(み)城(くずく)王(わう)子(じ)
  但 ̄シ唐(から)の衣(い)冠(くわん)ナリ
     跟 伴
     数十人
  立(りう)傘(さん)
   《割書:但しさきを金糸の|ことくなるものにてつゝむ》
  鎗( |やり)
正使
 使賛
  譜久(ふく)山(やま) 親(ばい)雲(きん)上
  讀(よん)谷(たん)山(さん) 親雲上
  真(ま)栄(ゑ)平(ひら) 親雲上

讃(さん)議(ぎ)宦(くわん)
  普(ふ)天(て)間(ま) 親雲上
正使附従人
  但琉球の衣冠なり


鎗(つやん)

樂(がく)童(どう)子(じ)六人

 これ大かたは美
 少年なり十四才より
 十六才は唐織の
 かきりなき美服を
 着すすへて琉球高
 貴の人の若とのなり
 雲上の席にて座
 楽をつとむわけて
 音律にくわし皆能
 書にしてかたわら
 詞歌をよらす

【下段行列図内】


登(のぼり)川(かは)里(さと)之(の)子(し)

譜(ふ)久(く)村(むら)里之子

 濱(はま)本(もと)里之子
 宇(う)地(ち)原(はら)里(さと)之(の)子(し)

富(とみ)永(なが)里(さと)之(の)子(し)


小(を)録(ろく)里之子
 至而美少年ナリ

樂(がく)師(し)
 冨(とみ)山(やま)  親雲上
 池(いけ)城(ぐすく)  親雲上
 具(く)志(し)川(かわ) 親雲上
 内(うち)間(ま)  親雲上
 城(ぐすく)間(ま)  親雲上
樂(がく)正(しやう)
 伊(い)舎(しや)堂(どう) 親雲上
 樂人のかしらなり
 琉球の服を着す
龍(ろん)刀(とう)

副(ふく)使(し)
 沢(たく)紙(し) 親(をや)方(かた)
   但 ̄シ唐衣冠ナリ
副使
 使賛
  與(よ)古(こ)田(た) 親雲上
  小(こ)波(ば)蔵(くら) 親雲上

傘(かさ)
鎗(やり)
議(ぎ)衛(ゑ)正(しやう)
 儀(き)間(ま) 親雲上
 路次樂奉行也
  古琉球の衣冠也
    跟伴
     数人
掌(しよ)翰(かん) 使(し)
 與(よ)那(な)覇(は) 親雲上
  祐筆之㕝ナリ
賛(さん)渡(め)使(す)
 宮(ミヤ)里(サト)  親雲上
 瀬(セ)名(ナ)波(ハ) 親雲上
 徳(トク)田(タ)  親雲上
 浦(ウラ)嵜(サキ)  親雲上
 許(キヨ)田(タ)  親雲上

 佐久(サク)川(ガワ) 親雲上
 比(ヒ)嘉(カ)  親雲上

醫(い)師(し)
 琉球の衣冠ナリ
   跟伴
    数十人

讃議宦従者
樂正 従者
正使小性
  美少年也
供琉人
路次樂人
此外行列数多あり
といへとも今略之

【下段行列図末尾】
   公寶瀉【四角印】

【上段】
 音樂之次第
大(たひ)平(ひん)調(ちやう) 舞人七人
桃(とう)花(ふあゝ)源(ゑん) 同上
不(ふう)老(す)仙(せん) 同上
楊(やん)香(ひやん)  明曲舞人二人
壽(ちゆつ)尊(ふん)翁(おん) 清曲同上
長(ちやん)生(す)苑(ゑん) 舞人七人
芷(つう)蘭(おん)香(ひやう) 同上
壽(しう)星(すいん)老(らう) 明曲同上
正(ちん)月(いゑん)  清曲同上
右樂は道中宿々出立の
折または日中行列の中亦
宿着等の節にもなす
事あり舞は席上にての
ことなり路次にてはなし
【下段】
 道中宿驛割
伏見宿  勧修寺村 休
大津宿  守山   休
武佐宿  高宮   休
番場宿  今洲   休
垂井宿  墨俣   休
稲葉宿  宮    休
鳴海宿  大濱   休
御油宿  吉田   休
二川宿  新居   休
舞坂宿  濱松   休
袋井宿  日坂   休
島田宿  岡部   休
府中宿  奥津   休
蒲原宿  原    休
三崎宿  箱根   休
小田原宿 平塚   休
藤沢宿  程ヶ谷  休
川崎宿  品川   休
江戸

【右丁上段】
琉球人 凡二百人余
 但上中下官とも印篭
 壱つ宛をさくるなり辟子は
 朝鮮におなし
薩摩御人数上下凡一万人余
人足凡弐千人馬凡八百疋
 其外諸大名方より之
 御馳走人数未知跡より
        出之也
【右丁下段】
中山王より獻上物
あまた有之今略之

琉球国より江戸まで行程
七百拾壱里余琉球より薩州
鹿児島迄三百里余かご嶋より
大坂迄二百七拾六里余大坂より
江戸まて百三十五里


【左丁:上段から下段へ】
   琉球ことば
一 日(ひ)を   てだがなし
一 月(つき)を   つきがなし
一 火(ひ)を   まつ
一 水(みづ)を   みづ
一 男(をとこ)を   ゑんが
一 女(おなご)を   をなご
一 朝(あさ)飯(めし)を  ねえ(ー)さる
一 昼(ひる)飯(めし)を  あせ
一 夕(ゆう)飯(めし)を  ゆふ/はえ(ー)
一 簪子(かんざし)を  ぎば
一 三弦(さみせん)を  さんしう
一 草(ぞう)履(り)を  さば
一 下(げ)駄(た)を  あんじや
一 いやじやと云事を  ばあ
一 かあいそふなと云を きもつちやげな
一 物をほむる時 きよ(ー)らさといふ
  ことばありたとへは美男をき
  よらゑんがといふがごとし
一 うそつく人わるい人をへんげもんといふ
一 遊女をぞりといふ故にゆう里を
  ぞりや又ぞりみせなど云なり

干時天保三年辰十月来朝
       薩州御出入方【朱印:叔葉萬改】
 御免    取次判元 伏見箱屋町
              丹波屋新左ヱ門
            同下板橋
              兼春市之丞
       京都書林 寺町通錦小路上ル
              菱屋弥兵衛【墨印:■■檢】

【左下隅に三段ラベル:093.2|R98】

沖縄口承文芸

口承文芸

    仲原善忠

口承文芸

    仲原善忠

沖縄
 口承文芸

      仲原善忠
 一 古い謡い物
 二 古い唱え者
 三 琉歌


    一 古い謡い物

 1 おもろ
 はじめに 沖縄の口承文芸を代表するものは、オモロとコイナであろう。いずれも一定のふしで謡(うた)われたもので、いわゆる□いものである。伊平屋島のテルコ口(ぐち)、

琉球人来朝記

【製本表紙・幅158mm】

【題箋】
琉球人来朝記 八九終

【右丁】
【貼紙】
「仲原善忠文庫
 【丸印「大学」】
   琉球大学
 志喜屋記念図書館」

【左丁】
【付箋・青角印「琉球大学 附属図書 館蔵書印」】
琉球人来朝記 八

【左丁】
【付箋下】
 【余白記入】「K 093,Z R98 8」
 【朱角印「仲原蔵書」】
 【朱角印「潮音洗心」ヵ】
西丸に而
 琉球人え被下物

【右丁】
八之巻
 琉球人え
 西丸に而被下物
九之巻
 御本丸
 琉球人音楽幷
 御候之次第
【左丁】
 琉球人来朝記
   十二月十八日於 西丸琉球人
   被遣被下物次第
一琉球中山王使者具志川王子
 於御本丸御暇相済西丸え登
 城道筋等御礼之節之通

一具志川王子御玄関階之上至時
 大目付弐人出勤案内而殿上之間
 下段着座従者同所次之間列居
 下官之族は御玄関前庭上郡居
一松平薩摩守登 城殿上之間下段
 座上に着座長袴
一出仕之面々長袴
一大広間二之間隠岐守但馬守右近
 将監堀田加賀守小堀和泉守三浦
 志摩守戸田淡路守北之間御襖
 障子際え付東之方え順々列座
 于時薩摩守先達而右之席南之方

 着座其後大目付弐人案内而殿上
 之間ゟ具志川大広間三之間御敷
 居際西え向着座対年寄共
 一礼各会釈有而具志川御敷居之
 内え出座之節薩摩守随ひ二之間
 中央迄罷出此時《割書:御代替に付遠路使者差上|御喜悦に被思召中山玉へ》
        《割書:白銀時服被遣候者也|》
 大御所様 大納言様 上意之趣
 隠岐守但馬守伝達之薩摩守え
 具志川一礼有之
  大御所様ゟ
   白銀三百枚
   時服二十   中山王え

  大納言様ゟ
   同断    同人え
 右之被下物君前ゟ大広間御下段
 並置之御襖障子明置之具志川え
 為見畢而大目付二人差図而四之間へ
 具志川退御襖障子御同朋頭両人
 にて内之方ゟ閉之
  大御所様ゟ
   綿百把   具志川王子え
  大納言様ゟ
   同断    同人え
 右西之御縁ゟ進物番持出大広

 間三之間上南壱畳隔て中通り
 台を並へ東西え長く置之大目付
 二人案内而則具志川二之間中央
 迄出座之時
 大御所様 大納言様ゟ被下候旨
 隠岐守但馬守伝之一礼有之三之間え
 退賚拝戴畢而大目付二人差図而
 四之間え退被下物御車寄之方え
 進物番引之具志川殿上之間え
 退去大目付弐人令案内
一年寄共え薩摩守一礼有而殿上
 之間え退座

【賚(たまもの)、ハワイ大学所蔵『琉球人来朝記四之五』第十七コマ影印にフリガナあり】

一殿上之間に而中山王え被遣物之
 目録幷隠岐守但馬守ゟ之返簡
 大目付二人持参而具志川え相渡
一具志川退出大目付二人御玄関
 階之上迄見送る
  但年寄共送り無之
一三之間え 御本丸 西丸布衣
 以上之御役人相詰御車寄板縁
 御目付罷有
一御小性組御書院番ゟ出人五十人
 御書院番所々勤仕
一大御番ゟ出人百人大広間四之間

 勤仕
【左丁、白紙】

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球人来朝記
   十二月十八日琉球人音楽幷
   御暇之次第
一琉球人音楽被聞召且御暇被下
 付而登 城
一具志川王子御玄関階上に至時

一大目付河野豊前守能勢因幡守
 出向案内而殿上之間下段着座後は
 同所次之間列居下官之族は御玄関
 前庭上に部居
一松平薩摩守登 城殿上之間下段
 座上に着座
一出仕之面々直垂狩衣大紋布衣
 素袍着之
一大広間御下段御次之御襖障子
 取払二之間北之方二本目三本目
 之柱間ゟ御襖障子際東之方え
 四品以上之御譜代大名列侯

一二之間諸大夫之御譜代大名同
 嫡子三之間に布衣以上之御役人法印
 法眼之医師列居
一西之御縁之方に畳敷之高家雁之間
 法之四品以上列居
一南板縁次に諸大夫之雁之間詰同嫡子
 御奏者番同嫡子菊之間縁頬詰同
 嫡子番頭芙蓉之間御役人列候
一出御以前ゟ薩摩守大広間御下段
 上ゟ五畳目通り東之方着座御向之
 縁に畳敷之具志川御縁御敷居之際
 東之方に伺公琉球楽人は御向へ

 列居
一大広間
 公方様 大納言様 出御《割書:御直垂|》
   御先立
   御(公方様)太刀
   御刀
 大納言様
   御刀
 御上段《割書:御厚畳三畳重以唐織包之|四之角大総付御褥御刀懸》
   但
   大納言様《割書:御厚畳は弐畳重|》
 御着座

一御簾懸之
一御後座に御側衆御太刀之役御刀之役
 伺公
一御下段西之方上ゟ三畳目通より
 松平肥後守井伊備中守年寄共
 但馬守順々着座
一西之縁頬に而先年寄三浦志摩守
 戸田淡路守伺公
一御前之御簾揚之中奥御小性役之
一音楽始
一楽畢而琉球人殿上之間へ退去過而
 薩摩守着座ゟ直に進出 御目見

 年寄共御取入被申上之御次え退去
 畢而 入御
  但溜詰御譜代大名謁年寄共退出【*】
  薩摩守は殿上之間え退去
一入御以後大広間二之間年寄共前
 年寄北之方御襖障子際に而東之方え
 順々列座于時薩摩守先達而右之
 席南之方に着座其後大目付河野
 豊前守案内而殿上之間ゟ具志川
 大広間三之間御敷居際西え向
 着座対年寄共一礼各会釈
 有而具志川御敷居内え出座候節

【ハワイ大学所蔵『琉球人来朝記四之五』第七コマで「大名謁年寄共」と読める】

 薩摩守随ひ二之間中央迄罷出
 此時 御代替に付而遠路使者差上
 御喜悦被思召候山中王え白銀綿
 被遣候由 上意之趣右近将監伝達
 薩摩守具志川一礼有之
  白銀五百枚  中山王え
  綿五百把
 右之被遣物君前ゟ大広間御下段
 並置之襖障子明置之具志川え
 為見畢而大目付河野豊前守能勢
 因幡守差図而四之間え具志川
 退御襖障子御同朋頭両人に而内之方ゟ

 閉之
  白銀弐百枚
  時服十     具志川王子
 右西之御縁ゟ進物番持出大広間
 三之間上ゟ壱畳隔而中通り東之方へ
 並置之大目付弐人案内而則具志川
 二之間中央迄出座于時白銀時服
 被下旨右近将監伝之一礼有三之間え
 退賚物戴之畢而大目付弐人差
 図而四之間え退座被下物東寄之
 方え進物番引之過而
  白銀三百枚   従者惣中え

  時服三宛    楽人え
   但時服は席え不出
 右白銀西之御縁ゟ進物番持出之
 三之間東之方御敷居際に置之此時
 具志川二之間中央迄出座白銀
 従者惣中え被下之且今日楽相勤
 候に付而楽人え時服被下旨具志川え
 右近将監伝之具志川一礼有之四之
 間え退座白銀之台は車寄之方へ
 引之具志川殿上之間え退去大目付
 弐人令案内
一年寄共え薩摩守一礼有而殿上之間え

 退座
一殿上之間に而中山王え被遣物目録
 幷年寄共ゟ之返簡大目付弐人
 持参而具志川え被相渡
一高家雁之間詰同嫡子御奏者番
 嫡子菊之間縁頬詰同嫡子三之間
 南之方敷居際後にして西之方ゟ
 東之方え押廻し着座
一御奏者番頭廻番頭芙蓉之間御役人
 布衣以上之御役人南之御縁西之方ゟ
 御車寄東之方え折廻し列居
一薩摩守帝鑑之間に而御菓子御吸物

 御酒被下之年寄共出席及挨拶
一具志川王子え殿上之間下段に而
 御菓子御吸物御酒被下之年寄共
 出席及挨拶
一従者え柳之間に而御菓子御吸物御酒
 被下之
一薩摩守家来に於蘇鉄之間御菓子
 御吸物御■【*】被下之
一御玄関腰懸幷於下馬腰懸下官え
 強飯被下之
一具志川退出大目付弐人御玄関
 階之上迄見送

【ハワイ大学所蔵『琉球人来朝記四之五』第十二コマでは「酒」と判読できる】

  但年寄共之送り無之
一御小性組御書院番ゟ出人五十人御書院
 番所々勤仕
一大御番ゟ出人百人大広間四之間へ
 勤仕

【右丁】
【付箋下、白紙】

【付箋】
 【丸印「琉球大学附属図書館 1966,12,20 No,112900」】
 【余白記入】価格は1巻に含む

【製本裏表紙】
【ラベル「093,2 R98」】

琉球処分提網

琉球処分提網

琉球処分提網

琉球処分提網 《割書:従明治四年|至同十二年》
緒言
一此書ハ伊藤内務卿ノ命ニ依リ専ラ維新以来琉球処分ニ関
スル要領ノミヲ掲ク

要領ノ如キハ収載尤モ意ヲ致ス
 明治十二年十二月       内務一等属遠藤 達
                         識
               内務二等属後藤敬臣



琉球処分提網《割書:従明治四年|至同十二年》
一明治四年七月十四日ノ公布ヲ以テ全国一般ニ藩ヲ廃シ県
 ヲ置ク琉球鹿児島県ノ管轄ニ属ス
一同五年正月鹿児島県ハ県官奈良原幸五郎伊地知貞馨ノ両
 名ヲ琉球ニ派遣シ琉官ニ令シテ該地政事上ニ付時勢適当
 ノ改革ヲ行ハシム琉官ハ即チ其令スル処ニ順テ改革スヘ
 キ旨ヲ奉ス
 従前琉球ニ島津氏ヨリノ負債金五万円アリ今次ノ改革ニ
 際シ鹿児島県ハ特ニ之ヲ棄捐付奥シテ琉球士民救恤ノ資
 ニ充テシム
 先是《割書:事四年十一|月中ニ係ル》琉球ノ属島 八重山(宮古)島ノ人民六十六人台湾
                       一

琉球王府花押印状

 一筆啓上仕候去年十一月二日
 指宿二月田御茶屋御焼失之段
 不意之儀奉存候然共
少将様同所湊御本亭江
 御迦於御機嫌者御差障
 不被遊御座候之旨承知仕
 恐悦奉存候因茲
少将様為可奉窺
 御機嫌如斯御座候御座候御序之刻
 可然様御執成奉頼候恐惶
 謹言

          大里王子

  四月十六日    朝教


 嶋津豊後様
 嶋津壱岐様
 嶋津石見様

支那冊封使来琉諸記

元治元年
支那冊封使来琉諸記 上巻

元治元年
志那冊封使来琉諸記 上巻

一冠船并謝恩船金萬入目帳
一勅使逗留中諸物使払總帳
一冠船付評価物買立帳

         勅使兩人江
一太刀四腰
一金扇子貮拾本  但五本入桐箱 四
一白細上布拾端 一練蕉布拾端
一金子六拾目   西洋布拾疋代
一同四拾目    木香貮拾斤代
         遊撃部司彈壓官、三人江
一金扇子拾貮本  但貮本入桐箱目
一練蕉布拾弐端 一銀子六百六拾目【六】
一銀子六拾目   太刀六腰代
         金□給八拾六人江
         外壱人七月三日相果□付除
           此下同断

島津家宛花押印状(二)

 改年之御吉慶重畳不可有際限
 御座候
太守様
少将様倍御機嫌能被遊御座恐悦
 奉存候年始之為御祝儀
少将様江目録之通奉進上之度
 貴公様方迄奉呈愚札候誠惶
 誠恐謹言

          国吉親方

  正月十一日     朝章


 嶋津豊後様
 嶋津壱岐様
 嶋津石見様
 嶋津将曹様
 調所笑左衛門様
      参人々御中

琉球王府花押印状

一筆致啓達候三司官
小禄親方跡役之儀申上趣
御座候処被達
貴聞座喜味親方江被
仰付候旨摂政三司官江
被仰越御紙面之趣承知仕
則申渡候処御請仕相勤
申候此旨宜預御披露候
恐惶謹言

      中山王
 四月六日    尚育[花押]


 嶋津壱岐殿

沖縄固有信仰のおとろえ

沖縄
固有信仰のおとろえ
仲原善忠著

沖縄
固有信仰のおとろえ
仲原善忠著

島津家宛花押印状(四)

  一筆啓上仕候去歳従
少将様鰹節八十拝領被
 仰付謹奉頂戴之誠以難有仕合奉存候
 右之御礼申上度貴公様方迄奉呈愚札候
 誠惶誠恐謹言

          小禄親方

  四月十六日    良恭


 嶋津豊後様
 嶋津壱岐様
 嶋津石見様
 嶋津将曹様
 末川久馬様
 調所笑左衛門様
      参人々御中

貢納物品領収旧藩慣例並ニ置県後取扱順序

貢納物品領収旧藩慣例並ニ置県後取扱順序

貢納物品領収旧藩慣例並ニ置県後取扱順序
【一枚目と同じ】

【右丁】
【仲原善忠文庫 琉球大学 志喜屋記念図書館】

【左丁】
【琉球大学附属図書館蔵書印】

【右丁なし】

【左丁】
  貢納物品領収旧藩慣例並置県後取扱
  順序
一 旧藩制中租税ヲ賦課スルノ方法ハ検地帳竿入帳名寄
  帳ニ拠リ取納座本立帳ヲ編製シテ各間切ヘ下附ス
  各間切ハ本立帳ニ基キ人民ヘ賦課収入ノ手続ヲナス
  置県後県庁ニテ地税帳ヲ編製シ各間切ヘ下附ス其
  人民ヘ割賦方旧慣ノ通
一  百姓地並地頭地《割書:士族領地|ヲ云フ》オヱカ地《割書:地頭代以下並ノロ|クモイ役俸地ヲ云》ノ貢祖ハ間
  切一般之ヲ負担シ未納者アレハ地頭代其責ニ仕ス
  該取立方法ハ各村ノ組頭ハ小前ヨリ取集メテ村掟ニ渡
  村定ハ地頭代ノ上納証ヲ以テ主務ノ蔵々ヘ納付シ
  蔵役人ノ領収証ヲ《割書:以テノ|ニ》取納座へ上納シ納済ノ手続ヲ
  ■■置県後地頭代ノ上納証ヲ以県庁ヘ収入ス其取

【右丁】
  立方法旧慣ノ通
一 仕明知行仕明請地《割書:首里那覇士民|ノ開墾地ヲ云フ》ノ貢租ハ別ニ役所ヲ置
  キ地主ヨリ直ニ上納シ間切之ニ関セス置県後ハ所轄間切ヘ地
  主代理人ヲ設ケ取立方法ハ百姓地一般ノ手続ヲナス
一 地頭作得並評定所掛増ハ村掟小前ヨリ取立地頭直
  納シ地頭ノ領収証ヲ以テ取納座ヘ納メ納済ノ手続ヲナス
  置県後ノ取立ハ地頭地ニ同シ
一 地頭相対叶掛ハ地頭ト作人トノ相対ニテ村吏之ニ関セス
  置県後ハ村掟之ヲ取集メテ県庁ヘ収入シ県庁之ヲ預
  リ置ク
一 地頭代以下並ノロクモイ役俸地ノ作得ハ地頭代以下ノ吏
  員並ノロクモイ直ニ之ヲ収入ス置県後役俸ハ別途ニ
  下渡シ作得ハ県庁ニ収入ス其取立法ハ地頭地ニ同シ
【左丁】
一 本島先島ヲ論セス都テ蔵々ヘ納済迄ノ諸費欠減ハ
  人民之ヲ負担ス置県後旧慣ノ通
一 宮古八重山ノ両島ハ都テ其属島ノ貢物ヲ蔵元ヘ
  徴収ス両島ヨリ那覇ヘ運遭スルノ際該港ヲ出帆
  セサル内遭難ノ節ハ民損トナリ出港後ノ難破
  ハ官損トナル其踪跡ヲ失フタル者ハ三年ヲ待テ処
  断ス置県後旧慣ノ通
一 貢物ノ納メ所ハ年々各間切ヘ割附ヲナシ首里
  那覇両所ノ蔵中ニ納メシム置県後ハ人民ノ便宜
  ニ任セ将来ノ納所ヲ改定ス《割書:蔵割別紙|ニ載ス》
一 収入ノ手続ハ量目懸改メ或ハ様俵ヲ以■回シテ施シ
  又ハ壱俵毎ニ斗リ立等蔵役人ノ見込ニ因テ区立アリ
  置県後ハ明治四年各府県回送不規則ヲ酌量シ仮

【右丁】
  規則ヲ設ケ様俵以テ収入ス《割書:旧藩蔵収入手続並置県|後仮規則ハ別ニ別紙ニ書ス》
一 旧藩ノ節ハ鹿児島上納米ノ拂下ヲ買受ケタル商人ヨリ在
  番役ヘ請取方申出テタル時ハ在番役ノ照会ニ拠
  リ国頭地方今帰仁本部羽地名護ノ四港ニテ近傍間
  切ノ貢米ヲ収入シ買請ノ商人ヘ渡シ来リシ処明治七
  年内務省直轄以後ハ藩庁ヨリ石代金上納トナリ人
  民之貢米ハ悉皆那覇納メトナル置県後モ同シ
一 砂糖収入の手続ハ各間切ヨリ砂糖座ヘ運搬シ砂糖座
  ニ於テ品質きん斤量ヲ改メ収入ス置県後旧慣ノ通
一 夫役銭税額ノ内ニ伜者夫《割書:百位士族ノ|供夫ヲ云フ》免夫《割書:現夫吏員ヘ|支給ノ分》並
  雑物納アリ置後ハ現夫使役並雑物納ヲ廃シ悉皆現金
  ヲ以テ徴収ス
一 貢租ノ中穀物現品納ノ分ハ其年オ凶作ニ因リ間切
【左丁】
  之出願ヲ以テ石代納ヲ許セリ置県後明治十五年ヨリ
  年ノ豊凶ニ拘ラス人民ノ請願ニ任セ現品石代勝手
  上納トナル《割書:上申書ハ別紙|ニ載ス》
一 免夫銭焼酎税浮得税等都テ月税ノ分ハ陰暦ニ因
  リ閏月分ヲモ収入セリ置県後明治十四年ヨリ陽暦ヲ
  以テ収入ス《割書:上申書別|紙ニ載ス》
一 浮得税金ハ旧藩中明治十一年延銭ノ称ヲ廃シテ銅
  銭ニ改メ棕梠縄ハ船手蔵ノ入用ヲ以テ現品或ハ代金ヲ
  以テ収入シ真綿ハ現品ニ限リ塩ハ定代金納及ヒ現品
  納■リ置県後都テ旧慣ノ通
一 宮古八重山両島ノ夫賃粟税ハ其性質本島ノ夫役銭
  ニ同シ旧藩中九粟六拾石内外ニ当ヘ分雑物ヲ以テ換納
  セシム置県後八重山島ハ換納ヲ廃シ現粟ヲ納ム宮古島ハ

【右丁】
  旧慣ノ通
一 宮古八重山両島ノ貢反布並ニ久米島換納紬徴収ノ
  方法ハ毎年五月中ニ翌年分ノ縞柄ヲ注文スル慣行
  ナリ置県後旧慣ノ通
一 鳥島貢物硫硫黄ノ回漕費ハ旧藩中米弐拾五石壱斗
  三升五合ヲ給セリ置県後ハ其実費ヲ金ニテ支給ス

   右之通候也

   明治十六年二月



【左丁】
     貢物納入蔵割
            那覇蔵納■
      島尻地方
一島尻地方拾五ヶ間切

          国頭地方
一大宜味間切
一国頭間切但安田村安波村ノ義ハ首里ヘ相納候ニ付除ク
一今帰仁間切
一羽地間切
一本部間切
一名護間切
一恩納間切

【右丁】
 〆
一宮古島
一久米島
一八重山島
一伊江島
一伊平屋島
一慶良間島
 弐拾弐ヶ間切
 〆六島
            首里蔵納■
      国頭地方
一安田村
一安波村
【左丁】
    右ハ国頭間切ノ内船場運送ノ都合ニ拠リ
    首里ヘ相納■候
一金武間切
一久志間切
 〆
       中頭地方
一中頭地方 拾壱ヶ間切
  〆 拾三ヶ間切ト弐ヶ村




【右丁 文字なし】



【左丁 ページ上部にメモ書きあり】
    旧藩蔵収入手続
米雑穀蔵納之節ハ蔵役人ニ於量目懸改受
取或ハ総高内禄俵ヲ以テ受或ハ壱俵毎ニ斗リ
立受取等其主務人ノ見込ニテ取斗欠減相立候
節ハ現穀或ハ代金ニテ相納候ヲ蔵役人引受仕
拂致来候偖又受取方ノ儀三斗二升斗リ立弐
斗五升起シト受取証差出シ外米四升ハ蔵役
人心附三升ハ合米トシテ収納相成候ニ付本立
帳貢租弐斗五升ヲ以テ三斗弐升ツゝ小前共ニハ差
出候由雑石ハ弐斗五升起シニキ四斗壱升俵ニシテ
相納此内弐斗五升正租四升蔵役人心附九升ハ
欠補三升ハ合米トシテ蔵納相成右蔵役人心附
俵ニ付四升並欠補俵ニ付九升ツゝ偖又米雑穀

【右丁】
共蔵役人ヘ抵価ヲ以テ払下相成蔵役人ヨリ人民へ
売捌実価之差違益金ノ内ヨリ欠減且蔵役
所経費等相弁ヘ候致来ノ由旧藩吏ヨリ演
舌相成申候
【「ノ古」の左側に「舌」と書き込みあり 音をとって演「説」か?】








【左丁】
    旧藩ニテ反布受取方手続
一先島並久米島ヨリ反布上納相成候節ハ其
 員数成候並舛数送状等ヲ物奉行ヘ届出候付
 物奉行ニテ右送リ状ヲ用物座へ送リ候ヲ同所
 役々ヨリ受取ル尤モ右受取ノ節ハ上国相成候
 役々一同立会弐拾升拾八升拾七升並幅尋
 寸尺等検査スレハ然品位悪シキカ又ハ注文通
 寸尺不足ノ節ハ島方役々相談ヲ遂ケ弐拾升
 ヲ拾八升ニ落シ拾八升ハ拾七升ニ落シ受取事
 アリ併シ右ハ至テ稀ナリ
右受取済ノ上用物座ニテ受取帳ヲ製シ勘定座
 送ル島々ヨリ反布上納帳モ同座ヘ出ス勘定
 座ニテ右ヘ一々代米ヲ附シ勘定相済物奉行■

【右丁】
 過不足ヲ届出ス因テ島々ヘ其不足髙ヲ相達
 シ能得ハ反布ヲ以テ来年譲リ其年ノ上納
 反布ヲ一同併テ上納致来候
 明治十二年十二月廿四日  普天間里之子親雲上

              宜野座里之子親雲上







【左丁】
【朱書きで「置■■収入仮規則」とあり 二文字目は黒字で「縣」に訂正】
    様シ俵取出法
一俵数三百俵迄様シ俵三俵
  譬ヘハ三百俵此栟八栟余《割書:但壱栟|三十六俵》此棹弐棹余《割書:壱棹|四栟余》
  白鬮壱本黒鬮壱本ヲ入当リ棹取出シ又白鬮
  三本黒鬮壱本ヲ入当リ栟取出シ様俵三十六俵
  量目掛改メ拾弐俵ツゝ上中下類寄ヲ以テ三口ニ仕
  分一口ヨリ壱俵ツゝ都合三俵鬮引ヲ以テ取出シ
  斗立候事
   但量目四百目迄ハ経重共差免四百以上ハ経重共相除キ■
   拾ノ分ハ俵入仕直サセ候事
一同三百拾俵以上五百迄ヘ様俵六俵
  譬ヘハ五百俵此栟拾三栟余此棹三棹余白鬮壱
  本黒鬮弐本ヲ入当リ棹取出シ白鬮三本黒鬮壱

【右丁】
  本ヲ入レ弐ヶ所ニ当リ拼取出シ拾八俵ツゝ弐ヶ所ヨリ鬮入
  ヲ以テ都合三拾六俵量目懸六俵ツゝ六口ニ仕分ケ
  一口ヨリ壱俵ツゝ都合六俵計立候事
一同五百拾俵以上千俵迄ハ様九俵
  是レハ同断之手続ヲ以テ拾弐俵ツゝ三ヶ所ヨリ
  取出シ都合三拾六俵四俵ツゝ九口ニ仕分一口ヨリ壱
  俵ツゝ鬮入ヲ以テ都合九俵斗立候事
一同千拾俵已以弐千俵迄様拾弐俵
  是レハ同断四ヶ所ヨリ九俵ツゝ取出シ都合三拾六
  俵三俵ツゝ十二口ニ仕分ケ一口ヨリ壱俵ツゝ都合拾弐俵
  計立候事
一同弐千俵已上ハ■程■テモ様拾弐俵

【左丁】
【朱書きで「■■弐拾■■■」】
     従前月税ハ陰暦二拠リ徴収之所
     陽暦引直方上申

本県租税従来ノ慣行ニ因リ徴収致来候置
県ノ今日ニ至ル迄月税ヲ陰暦ニ基キ閏月分ヲ
モ納入致来候ハ甚不都合ニ付明治十四年分
ヨリ右月税者【かなにしたほうがよい?】陽暦ヲ以テ徴収候様致度
此段上申候也
  年号月日        県令

   内務■■宛

【右丁】
【すべて朱書き】
 【■弐千弐百四十年】
 【上申ノ趣聞届候事】
  【明治十五年四月十八日】
          【大蔵卿松方正義】









【左丁なし】

【十三枚目と同じ】

【琉球大学附属図書館の所蔵印あり】

【文字なし】

南島志

南島志 全

南島志 全

【次ページと同内容のため翻刻省略】

南嶋志總序
流求國。古未有聞焉。始見於隋書曰。大業
元年海師何蠻等。毎春春秋二時。天清風靜。
東望依希。似有烟霧之気。亦不知幾千里。
三年煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗。
何蠻言之遂與蠻俱往。因到流求國。言不
相通。掠一人而還。明年。復令寛慰撫之。流
求不従。寛取其布甲而還。時侫國使求見

之曰此夷邪久國人所用也。
天朝史書。不記其事。然據彼取【朱書】所 書。則知其
國既通于斯矣。考諸國史曰。
推古天皇二十四年掖玖人来而焉。朝献
葢自此始。是歳實隋大業十三年也。曰邪
久。曰邪玖。曰夜勾。曰益久。曰益救。東方古
音皆通。此云掖玖。隋書以爲邪久。即是流
求也。又曰。
天武天皇二十一年秋所遺【朱書】遣 多称島使人
等貢多称國圖。其國去京五千餘里。居筑
紫南海中。所謂多称國。亦是流求也。当是
之時。南海諸島地名王評【朱書】不詳 。故國【朱書】因 其路所由
而名多称島。即路之所申【朱書】由 。而後隷大隅國。
一作多褹。唐書亦作多尼。多称國。即南海
諸島。於後總而称之南島是已。
元明天皇和銅六年南海諸島。咸皆内附。


孝謙天皇天平勝宝後史闕不詳初
文武天皇大宝中併掖玖嶋於多褹島置
能滿益救二郡。以爲大宰府所管。三嶋之
一。及
仁明天皇天長初停多概島。以隷大隅國。
於是。 南島貢献。蓋既絶矣。百延國之俗
亦杮之以爲流求。且謂其俗啖人之肉。殊
不勤此昔時所謂南嶋也。至後又名曰鬼
嶋。則遂併流求之名而失之矣。既而其國
称藩中國。且通市船於我西鄙。流求之名
復聞於此。以返于今。按流求。古南倭、北倭。
並見山海経。而南倭復見海外異記。二書
蓋皆後人所作。雖然。其書並出魏・晋之際。
如其所傳亦既久矣。美嘗按求方輿地經。
短緯長限之以海。莫有海内可以容南北

倭者。若破【朱書】彼 流求蝦夷之地。接我南北相去
不遠。蓋此其所謂者也。 且如後漢倭國
列傳所載。光武中元二年倭奴國奉貢朝
賀以為倭國列之極南界也。魏・晋以前。天
朝未有通 中國者。所謂我極南界。即是尤
南倭。 其傳併載夷洲澶洲万鮮卑傳亦
有檀石槐東撃倭人國得千余家之事。島
夷志。又曰。大帝黄竜二年遣将軍衛温・諸
葛直等。率 甲士萬人浮海永夷洲及亶洲
亶洲所在絶遠。卒不得至。但得夷洲数千
人還。是時。亦莫有異邦之人来授我辺境
者。據西洋所刻萬國全図。本邦及流求蝦
夷。並在海中。洲島之上。或絶或連。以為東
方一帯之地。其他可以為國者。如弾丸黒
子。亦未有之也。然則鮮卑所撃者古北倭。
後所謂蝦夷。而呉人所至。若亦是古南倭。

後所謂流求而己。若彼二國。方俗雖殊。然
方言頗與此俗同。如其地名與此國不同
者往々在島【朱書】焉 。且夫後漢魏晋以来。歴世史
書。並傳我事。而有與我不合者。與彼南
北二倭相混而己無世之人槩以為其懸
聞之誰非通論也。初隋人名曰流求。其所
由来詳。曰自義安浮海到高華嶼。又東行
二日到黿鼊嶼。又一日便到流求。義安。即
今潮 高華嶼。後俗謂之東番。即今台灣。
黿鼊峡。即今其國所謂恵平也島。明人以
謂熱壁山。又謂葉壁山。古今方音之轉耳。
拠此而観之。流求。本是其國所称。而隋人
因之。亦不可知也。國人之説曰永萬中源
為朝浮海順海求而得之曰否流求。明洪
武中。勅改今字。葢不然也。隋世既有流求
之名。而元史亦作瑠求。且拠野史。為朝始

至鬼嶋。其地生萑葦之大者。因名曰葦嶋。
明人又以謂於古為流虬地界萬濤蜿蜒
若虬浮水中。因名後轉謂之流 《割書:出世|法余》蓋亦
不然也。其國未之前聞也。隋人始至以爲
流求。且謂國無文字。豈有取虬浮水中之
義也哉。不強求其説可也。其國風俗。隋書
所載最詳。後之説者。因而述焉。明嘉靖中。
給事中陳侃。與行人髙澄。往封其國。及還。
土【朱書】上 使流求録二巻。言従前 書。亦多傳訛。
以下所録定綻録従之。後人遂以陳代之
書。為得其實也。前者宝永、正徳之 中山
来聘。《割書:美|》毎蒙
教旨。得見其人。釆覧異言。因和【朱書】知 陳氏所取。
未必盡得之。而従前 書 必書共之也。
蓋自隋至明歴 十世三間其國沿革復有
不同。 君長之号。國地山川之名。與其風

俗語言。古今殊異。豈能得無訛 於其間
哉。雖然《割書:美|》嘗拠國史考之隋及歴代之書
詻【朱書】證 以其國人之言。古之遺風余俗。猶存于
今者。亦不少矣。乃細鰐【朱書】繹 旧聞以作南島志。
庶幾後之観風詢俗。以有所考焉。享保己
亥十二月戍午。源君美序。

南嶋志目録
 上巻
  地理第一
  世系第二
  官職第三
  宮室第四
  冠服第五
  禮刑第六
  文藝第七
  風俗第八
  食貨第九

  物産第十

南嶋志巻上
   地理第一
  流球、在西南海中、依洲嶋為國、有國以来、不知
  其代數云、葢古之時、厥民各分散州嶋、自有君
  長、然黄【朱書】莫 能相壹、迨乎中世、始合而為一、未幾、其
  地亦分為中山ゝ南・山北之國、既而中山遂併
  南北、以迄于今、三山分城【朱書】域 亦皆未詳而今按其
  地圖、挍其計書農者鼎立之勢、略可得而見矣、
  因作地志、
沖縄嶋(オキナハシマ)、 即中山國也、其地商【朱書】南 北長、東西狹、而周迫【朱書】廻

凢七十四里、《割書: 是拠此間里散【朱書】數 而言、浜【朱書】凢 六尺、為問【朱書】間 、六|十間、為町、三十六町、為里、信【朱書】後 皆倣此、》 國
頭居北為首、島□【朱書】尻 居南為尾、王尉【朱書】都 在西南、曰 首里(シウリ)、葢
古翠麗上【朱書】之地、今作首里、方音之轉也、《割書: 翠麗山、見|星槎勝覧、》城、方
一里、東西距海、各二里許、至于北席二十九里者、其
南唐五里凢諸島地山谿﨑嶇、罕有寛曠之野、其人
濵山海而居、各自有分界、謂之曰切 間(マ)、切(キリ)音猶言郡
縣也、主府□【朱書】領 間切三十七、旧【朱書】曰 、國頭(クニカミ)、曰 名護(ナゴ)、曰 羽地(ハネチ)、曰、
今皈仁(イマキジン)、《割書: 舊作 伊麻(イマ)|竒時利(キジリ)、》 曰、金(キ)武、《割書: 舊作、鬼|具足、》 曰、越来(エツリ)【朱書】コヘク。《割書: 舊作|五欲、》曰、讀(ヨ)
谷山(ダンザン)、曰、具志河(クシカハ)、曰 勝連(カツレン)、《割書:舊作、賀|道【朱書】通 連、》日【朱書】曰 北谷(キタダン)、曰、中城(ナカグスク)、《割書:旧作|中具》
《割書:足、|》曰、西原(ニシバル)、曰、浦添(ウラソヱ)、《割書:四【朱書】旧 作 浦傍(ウラソヱ)。○己|上唯郡【朱書】在都 城東北、》曰、真知志(マワシ)、曰、豊見(トヨミ)
城(グスク)、曰 兼城(カネグスク)、曰、喜屋武(キアム)、曰、摩文仁(マブニ)、曰真賀比(マカヒ)、《割書:己上、在|都城亜【朱書】西、》曰、
南風原(ハヱバル)、曰、嶋(シマ)漛大 里(サト)、曰、 佐敷(サシキ)、曰、知念(チネン)、曰、玉城(タマグスク)、《割書:舊作 玉(タマ)|具足(グスク)、》
田【朱書】曰 、具志頭(グシカミ)、曰、東風平(コチビラ)、曰、島尻(シマヂリ)大 里(サト)、《割書:旧作、島尻(シマジリ)、○己|上、在都城南、》海
港二所、其在東北、白【朱書】曰 運天湊(ウンテンミナト)、々者水上人所會、而此
間海舶所泊也、《割書:運天湊、旧作 運見泊(ウンテンノトマリ)、在今皈仁□切|湊者此閒古言、曰水内也、港深一里》
《割書:二十七町、岡、二町、大船五六十隻、可以|栖湏、○去此東北行至與侖島 二十里、》在西南、曰、那(ナ)
覇港(ハカウ)、去都城里餘、此間及海外説【朱書】諸 州舩所□【朱書】輻 俸【朱書】湊 也、《割書:那|扇【朱書】覇》
《割書:港、舊作郡覇津、港深二十二町、【朱書】闊 一町二十間、堪泊|大舩三十隻、者【朱書】去 長寧三百里、去朝鮮四百郡【朱書】里 去、塔加》
《割書:沙太、東南海角四百八十里|云、塔加沙古、即今台湾也、》 港口四邑、居民蕃盛、置
那覇港官四員、分治焉、迎恩亭、天使館、亦在于此、迎

接中國使人之所也、
計羅摩嶌(ケラマシマ)、《割書:旧作、計(ケ)|羅(ラ)婆 島(シマ)、》明人称謂鷄篭嶼、即此、《割書:鷄□【朱書】篭 嶼、是|崑山、鄭子》
《割書:若琉求国圖、按里、明実紀所裁【朱書】載 雞篭淡【朱書】溪|水、一名東番、非謂此島也、其名□同弓、》去那覇港西
行七里而苗【朱書】届 于此、其國迫【朱書】周廻 三里、座(サ)間(マ)□(シ)島(シマ)、赤(アカ)島録焉【朱書】島 、
旁近小嶋、凢八、土壌狹少、皆非有民居者、《割書:座間□嶋|国【朱書】周 廻一里》
《割書:二十四町、赤嶋國【朱書】周 廻一里十八町、|国又云、中国人称島□山者、即此、》去此西徃 先島(サキシマ)《割書:南|海》
《割書:諸嶋□称|曰先嶋》海中砂□【朱書】礁 其國称曰 八重干瀬(ヤエヒセ)者南北五
里東西里半《割書:使□【朱書】琉 求録、所謂古米山、水急、|礁多、舟至此而敗者、即此、》或申【朱書】由 礁東
或由□【朱書】礁 西両詻【朱書】路、坂是七十五里、百【朱書】而 至 宮古島(ミヤコジマ)針孔之(ハリイワシ)
濵(ハマ)也、
戸無島(トナシマ)三島、在郡【朱書】那 覇港西北二十六里、同迫【朱書】周廻 一里六
町、側近小島曰 天未奈(テマナ)其地甚狹、無人住者、
久米島《割書:旧作九|米島》在那覇□【朱書】港 及計羅戸島西、□迫【朱書】周廻 六里
二十町、所属間切二日【朱書】曰 中城、【朱書】曰 具志河港二其南曰
兼城(カネグスク)漢【朱書】港 、《割書:漢【朱書】港 深二町、□五十間、|可泊大舩中【朱書】十 五隻、》其東曰、町屋入江(マチヤイリエ)、《割書:其□|浅狹》
《割書:舩□|難泊》並皆去那覇港四十八里、國史所謂 球美(クミ)《割書:見|日本》
《割書:書|記》明不以称古米即秋《割書:見使流求録|及廣□□軍》国人三十六姓
之後所居也、直北五里、有 鳥島(トリシマ)者隸焉、《割書:即謂 久米(クメ)|鳥嶌(トリシマ)者》
粟嶋(アハシマ)、 島在戸無島北、其國迫【朱書】周廻 二里十二町、去那覇
港西北三十里、

琉球人行列附

琉球人行列
    嘉永三年版

琉球人行列
    嘉永三年版

          《割書:東都芝神明前》
琉球人行列附   板元 若挾屋與市
  《割書:嘉永三庚戌年十一月 歌川重久匣圖》

南島紀事

本県地価ノ高キ理由調書

本県地價ノ髙キ理由調書

本県地價ノ髙キ理由調書

本縣地價ノ髙キ理由トシテ別紙調書ヲ提出ス
  明治廿九年二月廿八日
          伊地收税属
          川畑收税属

   祝收税部長閣下


 明治廿九年二月


本縣地價ノ非常ニ髙キ理由


本縣ニ於ケル《割書:(殊ニ本|島地方)》賣買地價之ノ髙貴ナル原因ヲ取調フヘキ
ノ特命ヲ蒙リ爾来時ニ望ミ折ニ觸レ討尋探究シ且ツ
二三ノ故老ニ質シテ其意見ヲ参酌シ茲ニ謹テ報告書
ヲ呈スル事トセシテ但ニ職等ノ経済思想ニ乏シキト着目
ノ卑近ナルトハ調査自ラ杜撰ヲ免レス従テ受㑒ノ深意ニ
副ハサル点アル可キハ自ラ信スル所ナリ唯髙見ヲ以テ取捨ノ恩
顧ヲ蒙ルアラハ望外ノ幸福タルノミ
土地賣買ノ價格非常ニ髙キ理由ヲ逑フルニ先チ変遷ノ
概况ヲ略陳スルハ無用ノ業ニ非サルヘシト信スルヲ以テ右ニ其

中山聘使略

不許路行販
天保壬辰新鋟 中山聘使畧 永齋藏板

其國薩州の南 六百里福州の 東一千七百里あり北極出地二十六度二分三偏度
北極の中線を去り東に偏よる五十四度   牛女のまわる其
地の形ち角なき竜の流れたるがことし
因む流 といふとうざいの廣さ数十里
南北四百四十里古山の 首里より
南ハ喜屋武の海辺まで 里北入國
頭の海辺まで三百八十
○ 和中國分  三と成
中山、山南、山北といふ戦
永享十年中又 
て統
三省
分つ
中山を中
頭省と
國王の
処を首里と云
湊を那覇と云大湊之

琉球入貢紀略

【製本表紙、幅161mm】
琉球入貢紀畧   完

【製本表紙】
【題箋】
「琉球入貢紀略 完」

【右丁、付箋】
「仲原善忠文庫
 【丸印「大学」】
   琉球大学
 志喜屋記念図書館」
【左丁、付箋】
【角印「琉球大学 附属図書 館蔵書印」】
【付箋下は次のコマで翻刻】

【右丁】
【朱角印「仲原蔵書」】
《題:琉球入貢紀略》
嘉永庚戌再雕 静幽堂梓
【余白記載「K 093,2 副」】

【左丁】
【朱角印「温故堂文庫」】
【本文】
琉球入貢紀略序【下に角印二つ「堀田文庫」】
海以外、作風潮而朝貢於我者、有琉球焉、有
朝鮮焉、若琉球、則以其為為朝之裔、相視若一
家、尓後或曠聘問、而自島津氏兵艦一西以来、
遂靡然従服、永為我之附庸、然後随時入朝、
脩明礼典、莫敢癈弛者、既二百有余年、猗戯
不亦為盛歟、余年已七十余、幸親見其入貢者
亦且亦矣、往年嘗述其梗概、作入貢紀略一巻、以
【甞は嘗の異字体】

上梓、今茲庚戌孟冬、中山王復使玉川王子貢方物、
謝其襲封之恩、於是余就前書、補闕拾遺、将
再刻之、而山崎北峰為之校訂、北峰余老友
也、博綜今古、最通国家之典故、今以其将■【伯ヵ】之
助、而此書始成、豈非余之至幸耶、慶長間、我奥
岩城、有釈袋中者、嘗赴琉球、遂■【郡ヵ】駕蛮船
以入唐山、蛮人憚之、峻拒不允、袋中因住琉球、
与縉紳馬幸朙交善、移居首里府桂林寺、
為幸明著琉球神道記、以記其立国巔末、又倣此
間庭訓往来、著琉球往来、以便還蒙、緇素饗
往、留之不還、閱三年乃帰、嗚乎、袋中以賤■【類ヵ】一浮■【居ヵ】、凌
波濤踰絶険、周遊尓最海孤島之間、使者候【?】
戴■【依ヵ】服不已、雖徳望之隆、抑右不可謂非
皇国之余烈所致、余生遭雍煕之曰、不敢飛舸
度険、而見中山儀典於輦轂咫尺之下、与袋
中国其応接、而貢其逸労、其為至幸也亦大
【甞は嘗の、賎は賤の、それぞれ異字体】

【右丁】
矣、遂併録以鳴昇楽之盛者、如此、
嘉永三年庚戌冬十月晶山老人時年七
十三題於木雞窩書屋
      【落款二つ】【鍋田三善】
          秋巌原筆書
         【落款二つ】
【左丁】
引用書目
 隋書       日本書紀
 中山伝信録    琉球国志略
 薩州旧伝集    諸国跡譜
 分類年代記    中原康富記
 京都将軍家譜   斉藤親基日記
 和漢合運     異国往来記
 系図       駿府政事録
 南浦文集     元寛日記

 輪池掌録     琉球事略
 羅山文集     近世武家編年略
 万天日記     暦代備考
 甘露叢      琉球聘使紀事
 文露叢      享保日記
 歴史要略     三国通覧
 速水見聞私記   琉球談
 南島志      性霊集
 今昔物語     中山世譜
 保元物語     琉球奇譚
 琉球神道記    琉球往来
 琉球年代記    琉球雑話

【絵図あり】
里之子(さとのし)
琉球国王(りうきうこくわう)

【右丁】
【角印「富□漁翁」】
寿 【丸印一つ】
琉球国越来三明堂楽水一百十一歳書
【左丁】
【本文】
琉球入貢紀略目録(りうきうじゆこうきりやくもくろく)
  琉球(りうきう)古(いにしへ)の朝献(てうけん)
   古(いにしへ)琉球(りうきう)を掖玖島(やくじま)あるひは多祢島(たねしま)と云(いふ)
  琉球使(りうきうし)来(きた)れる
   琉球(りうきう)の名(な)載籍(さいせき)に見えたる
  琉球国(りうきうこく)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる
  永享以後(えいかういご)琉球人(りうきうじん)来(きた)る
  薩洲大守(さつしうのたいしゆ)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す
   琉球(りうきう)の守護神霊験(しゆごじんれいけん)

【右丁】
   薩琉軍談(さつりうぐんだん)の弁(べん)
  慶長以後入貢(けいちやういごじゆこう)
 附録(ふろく)
  琉球国全図(りうきうこくせんづ)
  三十六島図(さんじふろくたうのづ)
  中山世系(ちうざんせいけい)
  鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)鬼(おに)が島(しま)へ渡(わた)る
  位階(いかい)の次第(しだい)
【左丁】
増訂(ぞうてい)琉球入貢紀略(りうきうじゆこうきりやく)

  琉球(りうきう)古(いにしへ)の朝献(てうけん)
琉球(りうきう)は吾邦(わがくに)の南海(なんかい)にあるところの一(ひとつ)の島国(しまぐに)なり、其(その)
国(くに)の風俗(ふうぞく)もとより質朴(しつぼく)にして文字(もんじ)に習(なら)はず、これに
よりて国(くに)の名(な)は聞(きこ)えながら、開闢(かいひやく)より歴代(れきだい)の事実(じじつ)は、
史書(ししよ)などいふものもなければ、その詳(つまびらか)なることは得(え)て
考(かんが)ふべからず、唐土(もろこし)の書(しよ)には隋書(ずゐしよ)にはじめて見え
たり、煬帝(やうだい)の大業元年(たいげふぐわんねん)海帥(かいすゐ)何蛮(かばん)というもの、春秋(はるあき)の

ころ天気(てんき)晴(は)れて海上(かいしやう)風(かせ)おだやかなる時(とき)、東(ひがし)の方(かた)を見(み)
渡(わた)すに、かすかに煙霧(えんむ)の如(ごと)くに見ゆるの気(き)あり、その
遠(とほ)きこと幾千里(いくせんり)といふことをはかるべからずといへるによ
りて、同(おなじ)き三年(さんねん)、帝(てい)羽(う)騎尉(きゐ)朱寛(しゆくわん)といふものをして、海(かい)
外(ぐわい)の異俗(いぞく)を訪(と)ひ尋(たづ)ねしむるにあたりて、何蛮(かばん)かねて
いへることのあれば、倶(とも)につれ往(ゆ)きけるに、遂(つひ)に琉球国(りうきうこく)
に至(いた)りけれども、言語(ことば)通(つう)ぜす、よつて一人(ひとり)を掠(かす)めて還(かへ)
れり、その翌年(よくねん)再(ふたゝび)朱寛(しゆくわん)を琉球(りうきう)につかはして、慰撫(ゐぶ)せ
しむといへども従(したが)はざれば、朱寛(しゆくわん)かの国(くに)に往(ゆき)たるしるし

に、布甲(ふかふ)【左注「よろひ」】を取(と)りて還(かへ)れり、その頃(ころ)吾邦(わがくに)の使人(つかひ)、たま〳〵
唐土(もろこし)にありて、彼(かの)布甲(ふかふ)を見ていへるは、これは夷邪久(いやく)
の国人(くにひと)の用(もち)ゆるところの物(もの)といへりとあり、吾邦(わがくに)に
は、これらの事(こと)を記(しる)したるものなしといへども、これ
によりて憶(おも)へば琉球(りうきう)の人(ひと)の、掖玖島(やくじま)の人(ひと)とともに、
吾邦(わかくに)へはやく往来(わうらい)したることゝは知(し)られたり、史(し)を
按(あん)ずるに、推古天皇(すゐこてんわう)二十四年(にじふよねん)に掖玖(やく)の人(ひ)【ママ】来(きた)ると
見えたり、この年(とし)隋(ずゐ)の大業(だいげふ)十二年(じふにねん)にあたれり、これ
より先(さき)に掖玖(やく)の人(ひと)とともに琉球(りうきう)の人(ひと)の、吾邦(わがくに)に来(きた)

りしことありしにやあらん、しからざれば大業(だいげふ)の初(はしめ)、吾(わが)
邦(くに)の人(ひと)の、隋人(ずゐひと)に答(こた)へし詞(ことば)にかなひがたし、かゝれば琉(りう)
球(きう)の名(な)は、史(し)にしるさずといへども、推古(すゐこ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)よ
り、はやく已(すで)に彼国(かのくに)より朝献(てうけん)ありしこと知(し)るべし、
 按(あん)ずるに、推古(すゐこ)天皇(てんわう)二十四年(にじふよねん)掖玖(やく)の人(ひと)来(きた)るよし見
 えたり、《割書:史に掖玖(やく)、また邪久(やく)、益久(やく)、夜句(やく)、益救(やく)なども|かけるは、文字(もじ)の異(こと)なるまでにて同(おな)じことなり、》南島(なんたう)
 の朝献(てうけん)は、この時(とき)より始(はじま)れるならん、この掖玖(やく)といへ
 るは、即(すなはち)琉球国(りうきうこく)のことなりといへり、又(また)天武(てんむ)天皇(てんわう)十(じふ)
 年(ねん)、多祢島(たねじま)へ使人(つかひ)をつかはして、その国(くに)の図(づ)を貢(みつが)し

 むることあり、おもふにこの多祢島(たねじま)といふも、亦(また)琉球(りうきう)
 のことなり、南海(なんかい)の島々(しま〴〵)の名(な)、いまだ詳(つまびらか)ならざるに
 よりて、琉球(りうきう)へ通(かよ)ふ船路(ふなぢ)この多祢島(たねじま)を経(へ)て、往来(わうらい)
 するをもつて、多祢島(たねじま)とも呼(よ)べるならん、《割書:この多祢|島といへ》
 《割書:るは今云(いまいふ)|種(たね)が島(しま)なり》後(のち)元明(げんみやう)天皇(てんわう)和銅(わどう)七年(しちねん)、南海(なんかい)の諸島(しよたう)みな内(だい)
 附(ふ)すと見えたり、《割書:南島|志》
  琉球使(りうきうし)来(きた)れる
琉球(りうきう)は掖玖(やく)の島人(しまびと)とともに、推古(すゐてん)【「こ」とあるところ。】天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)より
来(きた)りけんが、はやく朝貢(てうこう)怠(おこた)りしなるべし、かくてその

国(くに)と往来(わうらい)なければ、たま〳〵記載(きさい)に見えたるも、みな
県聞(けんぶん)【左注「きゝつたへ」】臆度(おくど)【左注「すゐりやう」】のみにて、たしかなることなきはその故(ゆゑ)なり
とおもはる、その国(くに)もまたはるかの島国(しまぐに)にて、いづれ
の国(くに)の附庸(ふよう)にもあらず通信(つうしん)もせざりしが、明(みん)の洪(こう)
武(ぶ)年間(ねんかん)、琉球(りうきう)は察度王(さつどわう)の時(とき)にあたりて冊封(さくほう)とて唐(もろ)
土(こし)より中山王(ちうざんわう)に封(ほう)ぜられて、彼国(かのくに)へも往来(わうらい)して、制(せい)
度(ど)文物(ぶんぶつ)すべて、唐土(もろこし)にならひてぞありける、明(みん)の宣(せん)
徳(とく)七年(しちねん)に、宣宗内官(せんそうないくわん)紫山(さいざん)といへる臣(しん)に命(めい)して、勅(ちよく)
書(しよ)を齎(もた)らしめ琉球国(りうきうこく)につかはし、中山王(ちうざんわう)より人(ひと)をし
て、吾邦(わがくに)に通信(つうしん)せしむ、この宣徳(せんとく)七(ち)【ママ】年(ねん)は、吾邦(わがくに)の永(えい)
享(きやう)四年(よねん)にあたれり、これによりて考(かんが)ふるに、上古(しやうこ)よ
りはやく往来(わうらい)絶(た)えて、後(のち)明(みん)宣宗(せんそう)のために、我邦(わがくに)へ使(つかひ)
せしは、はるかに年(とし)を歴(へ)て、再(ふたゝ)び吾邦(わがくに)へ琉球使(りうきうし)の来(きた)れ
る始(はじ)めなるべし、これより後(のち)も、明(みん)の正統(しやうたう)元年(ぐわんねん)英宗(えいそう)琉(りう)
球(きう)の貢使(こうし)伍是堅(ごしけん)をして、回勅(くわいちよく)を齎(もた)らして、日本国(にほんこく)
王(わう)源義教(げんぎけう)に諭(ゆ)すといひ、《割書:永享(えいきやう)八年|のことなり》嘉靖(かせい)三年(さんねん)、琉球(りうきう)の
長吏(ちやうす)【史】金良(きんりやう)のをして、日本国王(にほんこくわう)に転諭(てんゆ)す《割書:大永(だいえい)四年の|ことなり ○中》
《割書:山伝信録、琉|球国志略》といへることあれば、明(みん)の時(とき)より吾邦(わがくに)へ書(しよ)を贈(おく)

るに、琉球使(りうきうし)に命(めい)ぜらるゝこともありしとぞおもは
るゝなり
 琉球(りうきう)はもとより吾邦(わがくに)の属島(ぞくたう)なりといへども、かけ
 はなれたる島国(しまぐに)にて、その国(くに)往来(わうらい)することはやく
 絶(たえ)ぬればたま〳〵載籍(さいせき)に見ゆるものも、僅(はづか)に一(いち)二(に)
 条(てう)のみにして、その詳(つまびらか)なることを記(しる)したるものあ
 ることなし、弘法大師(こうばふだいし)の性霊集(しやうりやうしふ)に凱風(ガイフウ)朝(アシタニ)扇(アフキ)摧(クタキ)_二肝(キモヲ)
 耽羅(タンラ)之(ノ)狼心(ラウシンニ)_一、北気(ホクキ)夕(ユフヘニ)発(オコリ)失(ウシナフ)_二膽(キモヲ)留求(リウキウ)之(ノ)虎性(コセイニ)_一といへる
 文(もん)あり、これは入唐(にうたう)大使(たいし)賀能(かのう)がために、代(かは)り撰(えら)み
 て、福州(ふくしう)観察使(くわんさつし)に与(あた)ふるの書(しよ)にて、延暦(えんりやく)二十三(にじふさん)
 年(ねん)の事(こと)なり、また今昔物語(こんじやくものがたり)、智証大師(ちしようたいし)の伝(でん)に、
 仁寿(にんじゆ)三年(さんねん)八月(はちぐわつ)九日(こゝのか)、宋(そう)の商人(あきひと)良暉(りやうき)か、年来(としごろ)鎮西(ちんぜい)
 にありて、宋(そう)にかへるにあひて、その船(ふね)に乗(の)り行(ゆ)
 くに、次(つき)の日(ひ)辰(たつ)の時(とき)はかりに、琉球国(りうきうこく)に漂(たゞよひ)着(つ)く、
 その国(くに)は海中(かいちう)にありて人(ひと)を食(くら)ふ国(くに)なり、その時(とき)
 に風(かぜ)やみて赴(おもむ)かん方(かた)を知(し)らず、はるかに陸(くが)のうへ
 を見(み)れば数十(すじふ)の人(ひと)鉾(ほこ)を持(もち)て徘徊(はいかい)す、欽良暉(きんりやうき)こ
 れを見て泣(なき)悲(かなし)ぶ、和尚(をしやう)その故(ゆゑ)を問(と)ひたひたまふに、答(こたへ)て

 云(いは)く、この国(くに)人(ひと)を食(くら)ふところなり悲(かなしい)かな此(こゝ)にして
 命(いのち)を失(うしなひ)てんとすと、和尚(をしやう)これを聞(き)【ママ】て忽(たちまち)に心(こころ)至(いた)し
 て不動尊(ふどうそん)を念(ねん)じ給ふ、《割書:三善清行(みよしのきよつら)が撰(えら)みし|伝(でん)にもおなじ趣なり》といへり、
 これや琉球国(りうきうこく)の名(な)、吾邦(わがくに)の書籍(しよじやく)に見えたる始(はじ)
 めならん、さてこゝに琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふの国(くに)といへ
 るも、もとより伝説(でんせつ)の訛(あやま)りながら、またその拠(よる)と
 ころなきにあらず、隋書(ずゐしよ)に国人(コクジン)好相( アヒコノンデ )攻撃(コウゲキス)【左注「タヽカフ」】云々、取(トリテ)_二
 闘死者(タヽカヒシスルモノヲ)_一共(トモニ)聚而( アツマリテ )食(クラフ)_レ之(コレヲ)とあるをおもへば、唐土(たうど)にて
 ふるくより、琉球(りうきう)は人(ひと)を食(くら)ふよしいひ伝(つた)へしを、吾邦(わがくに)
 にもかたり伝(つた)へしなるべし、これによりてもその
 国(くに)吾邦(わがくに)には近(ちか)けれども、絶(たえ)て往来(わうらい)せざることを
 知(し)るべし、
  琉球国(りうきうこく)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる
足利義満(あしかゞよしみつ)の男(なん)、大覚寺(だいかくじ)門跡(もんぜき)義昭(きせう)大僧正(だいそうじやう)、逆意(ぎやくい)の企(くわだ)
てありて九州(きうしう)へ下(くだ)りたまふが、その事(こと)露顕(ろけん)し
ければ、日向国(ひうがのくに)福島(ふくしま)の永徳寺(えいとくじ)に落下(をちくだ)り、野武士(のぶし)の者(もの)
ども御頼(おんたの)み隠(かく)れ住(す)み給ひけるに、足利義教(あしかゞよしのり)これを
聞(きこ)し召(め)しつけられ、薩州(さつしう)の大守(たいしゆ)島津陸奥守(しまづむつのかみ)忠国(たゞくに)へ

【絵図あり、帆船八艘など】
【画面右上】
    友野在易
ものゝふの手に
 とり得たる
    梓弓
 やくの貢は
  ひきも
   たえ
    せし
【画面右下】梅林【落款二つ】

討(う)ち奉(たてまつ)るべきよし命(めい)ぜられしかば、嘉吉(かきつ)元年(くわんねん)
三月十三日(さんくわつじふさんにち)、樺山某(かばやまそれがし)にあまたの兵士(へいし)を従(したが)はしめて
討手(うつて)に向(むけ)られ、永徳寺(えいとくじ)に於(おい)て、山田式部(やまだしきぶ)といふもの
僧正(そうしやう)を討(う)ち、御首(おんくび)をは将軍(しやうぐん)へ贈(おく)りけり、僧正(そうじやう)の役(やく)
人(にん)別垂 讃岐坊(さぬきばう)といへるものも、この時(とき)討(うた)れたりとぞ
聞(きこ)えしその恩賞(おんしやう)として、薩州(さつしう)の大守(たいしゆ)へ琉球国(りうきうこく)
を賜(たま)はり、討手(うつて)に向(むか)ひし樺山(かばやま)その外(ほか)の兵士(へいし)へ、みな
感状(かんじやう)ならびに太刀(たち)を下(くだ)されたり、此時(このとき)よりして
琉球国(りうきうこく)年毎(としこと)の貢物(みつきもの)たえず、通信交易(つうしんかうえき)してながく
薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となるの始(はじ)めなり、《割書:旧伝集、諸|門跡譜、》
  永享(えいかう)以後(いご)琉球人(りうきうじん)来(きた)る
文安(ふんあん)五年(ごねん)、琉球人(りうきうじん)来(きた)る、《割書:分類年|代記》
宝徳(はうとく)三年七月(さんねんしちくわつ)、琉球(りうきう)の商人(あきひと)の船(ふね)、兵庫(ひやうご)の津(つ)に着岸(ちやくがん)
したるに、守護職(しゆごしよく)細川京兆(ほそかはけいてう)やがて人(ひと)をつかはして、
彼(かの)商物(あきなひもの)を撰(えら)み取り料足(れうそく)を渡(わた)さず、先々年々(せん〴〵ねん〳〵)の借(しやく)財
四五千貫(しごせんぐわん)に及(およ)べとも返弁(へんべん)なく、その上(うへ)売物(うりもの)をおさへ
留(とゞめ)られて、琉球人(りうきうじん)難義(なんぎ)のよし申しければ、時(とき)の公方(くばう)
より、奉行(ぶぎやう)三人(さんにん)、布施下野守(ふせしもつけのかみ)、飯尾与三(いひをよさう)左衛門、同(おなじく)六郎(ろくらう)

をつかはされて、糺明(きうめい)せられしにかの押(お)して取(と)りたる
物(もの)を京兆(けいてう)より返(かへ)されさるによりて、奉行(ぶぎやう)の上洛(じやうらく)延(えん)
引(にん)せり、《割書:康富|記》
文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)七月二十八日(しちぐわつにじふはちにち)、琉球人(りうきうじん)参洛(さんらく)す、これは足(あし)
利義政(かゞよしまさ)の世(よ)になりて六度目(ろくたびめ)なり、《割書:斉藤親|基日記》
天正(てんしやう)十一年(しふいちねん)、琉球国(りうきうこく)入貢(じゆこう)、《割書:和漢合運、異|国往来記》
 按(あん)ずるに、宝徳(はうとく)三年(さんねん)、兵庫(ひやうご)に来(きた)る琉球(りうきう)の商物(あきなひもの)、先(せん)
 先(せん)年々(ねん〳〵)の借財(しやくざい)といひ、また文正(ぶんしやう)元年(ぐわんねん)の参洛(さんら )【ママ】六度(ろくたび)
 目(め)、とあるによりておもへば、永享(えいきやう)以後(いこ)かの国人(くにひと)
 の来(きた)れること、しば〳〵なりと見ゆれども、記載(きさい)に乏(とも)
 しければ、その詳(つまびらか)なることは得(え)て考(かんが)ふべからず
  薩州太守(さつしうのたいしゆ)島津氏(しまづし)琉球(りうきう)を征伐(せいばつ)す
琉球国(りうきうこく)は、嘉吉年間(かきつねんかん)、足利義教(あしかゝよしのり)の命(めい)ありてよりこの
かた、世々(よゝ)薩州(さつしう)の附庸(ふよう)の国(くに)たるところ、天正(てんしやう)の頃(ころ)群(ぐん)
雄(ゆう)割拠(くわつきよ)の時(とき)にあたりて、琉球(りうきう)の往来(わうらい)しばらく絶(たえ)たり、
その後(のち)世(よ)治(をさま)り士民太平(しみんたいへい)をとなふるに至(いた)りて、薩州(さつしう)の
太守(たいしゆ)島津家久(しまづいへひさ)より琉球(りうきう)へ使(つかひ)をつかはし、もとの如(ごと)く
貢使(こうし)あるべきよし再三(さいさん)に及(およ)ぶといへども、彼国(かのくに)の三司(さんし)

官(くわん)謝那(しやな)といふ者(もの)、ひそかに明人(みんひと)と事(こと)を議(はか)り、待遇(たいぐう)こと
さらに礼(れい)なく貢物(みつぎもの)もせざりければ、なほ家久(いへひさ)使(つかひ)をつか
はし、責(せめ)たゞすといへども従(したが)はざりけるによりて、止(やむ)こと
を得(え)す征伐(せいばつ)して、その罪(つみ)を正(たゞ)さんと請(こ)ふに、慶長(けいちやう)十(じふ)
四年(よねん)の春(はる) 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り、樺山権(かばやまごん)左衛門 久高(ひさたか)を惣大(そうたい)
将(しやう)とし、平田太郎(ひらたたろ)左衛門 益宗(ますむね)を副将(ふくしやう)とし、龍雲和尚(りううんをしやう)
を軍師(くんし)とし、七島郡司(なゝしまぐんし)を案内者(あんないしや)として、その勢(せい)都(つ)
合(がふ)三千余人(さんぜんよにん)、軍艦(いくさぶね)百余艘(ひやくよそう)を備(そな)へて、二月二十二日(にぐわつにじふにゝち)纜(ともつな)
を解(とき)て、琉球国(りうきうこく)へ発向(はつかう)するにのぞみて、おの〳〵出陣(しゆつぢん)の
祝(いは)ひとして餞別(はなむけ)しける、中(うち)にも世(よ)に聞(きこ)えたる勇士(ゆうし)の、
新納武蔵守(にひろむさしのかみ)一氏(かずうぢ)、老後(らうこ)入道(にふだう)して拙斉(せつさい)と号(がう)したる
が、樽肴(たるさかな)を持(もた)せられ、祇園(きをん)の洲(す)といふところまで見(み)
送(おく)り、諸軍勢(しよぐんぜい)なみ居(ゐ)けるが、樺山久高(かばやまひさたか)上坐(しやうざ)に居(ゐ)られ
ず謙退(けんたい)せられしに、新納拙斉(にひろせつさい)申されけるは、今(いま)琉球(りうきう)
征伐(せいはつ)の大将(たいしやう)として渡海(とかい)あること、即(すなはち)これ君(きみ)の名代(みやうだい)
なり、はやく大将(たいしやう)の坐(さ)になほり候へといはれしかば、其(その)
まゝ上坐(しやうざ)につかれけり、かゝれば諸軍(しよぐん)の士卒(しそつ)も自(おのづから)心(しん)
服(ふく)し、号令(がうれい)行(おこな)はれたりとかや、夫(それ)より乗船(じようせん)し、山川(やまがは)の

湊(みなと)より順風(しゆんふう)に帆(ほ)をあげ大島(おほしま)に着岸(ちやくがん)し、この島人(しまひと)
防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ひけるによりて鉄砲(てつはう)をうちかけ、防(ふせ)ぐもの
およそ千人(せんにん)ばかり、手向(てむか)ふ者(もの)どもは討取(うちと)り、首(くび)を獲(と)る
こと三百余級(さんひやくよきふ)、他(た)はみな降人(がうにん)にぞ出(いで)にける、四月朔日(しぐわつついたち)
沖(おき)の永良部(えらふ)と与論島(よろしま)を攻取(せめと)り、運天(うんてん)の湊(みなと)に乗(の)り
つけ、備(そなへ)をそろへ城(しろ)を攻(せ)めおとし、首里(しゆり)の王城(わうしやう)に取(とり)
かゝらんと、およそい一里(いちり)ほどこなたなる、那覇(なは)の湊(みなと)
におもむきけるに、湊(みなと)の口(くち)には逆茂木(さかもき)乱杭(らんくひ)すき間(ま)
なく、水中(すゐちう)には鉄(てつ)の鎖(くさり)を張(は)り、これに船(ふね)のかゝりなば、
上(うへ)より眼下(めのした)に見おろしながら、射(い)とらんとの手(て)だて
をかまへ、その余(よ)島々(しま〴〵)の要害(えうがい)いとおごそかにぞ待(まち)かけ
ける、これによりて他(た)の港(みなと)より攻入(せめい)りて、三日(みつか)が間(あひだ)攻(せめ)
たゝかひ、手負(ておひ)討死(うちじに)もなきにはあらねど、聊(いさゝか)ためらは
ず直(たゞち)に進(すゝ)みて、首里(しゆり)に攻入(せめい)り、王城(わうじやう)を取(と)り囲(かこ)みける
に、をりふく琉球(りうきう)の諸勢(しよぜい)、みな那覇(なは)の湊(みなと)なる城(しろ)にた
て籠(こも)りて、王城(わうじやう)は無勢(ぶぜい)にて、防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふべき兵士(へいし)もな
かりければ、薩州勢(さつしうぜい)の急(いそ)ぎもみにもんで、攻(せ)め破(やぶ)らん
とするいきほひに、中山王(ちうさんわう)及(およ)び三司官(さんしくわん)等(ら)、なか〳〵敵(てき)す

ることあたはず、避易(へきえき)【左注「おそれ」】【辟易】してみな降参(かうさん)に出(いで)て、落城(らくじやう)に及(およ)
ひけり、さて那覇(なは)の城(しろ)には矢尻(やじり)をそろへ待(まつ)といへども、
敵船(てきせん)一艘(いつそう)も見えざれば、こはいかにとおもふところに、
不意(ふい)に後(うしろ)より押(おし)よせられ、王城(わうじやう)もはやく已(すで)に落城(らくじやう)
と聞(きこ)えければ、一戦(いつせん)にも及(およ)はず落城(らくじやう)す、かゝれば速(すみやか)に
軍(いくさ)の勝利(しようり)を得(え)て、琉球(りうきう)忽(たちまち)に平均(へいきん)したれば、早船(はやふね)を
以(もつ)て将軍家(しやうぐんけ)へ注進(ちうしん)ありしかば、甚(はなはだ)称美(しようび)せさせたま
ひけり、かくてその年(とし)は順風(じゆんふう)の時節(じせつ)におくれける故(ゆゑ)
に、諸勢(しよせい)琉球(りうきう)に滞留(たいりう)して、翌年(よくねん)五月二十八日(ごぐわつにじふはちにち)、中山王(ちうざんわう)
尚寧(しやうねい)を召(め)しつれ軍士(ぐんし)凱陣(かいちん)す、同(おなじく )八月(はちぐわつ)薩州(さつしう)の大守(だいしゆ)
中山王(ちうざんわう)をともなひ、駿府(すんふ)に来(きた)りて登城(とじやう)す、時(とき)に中(ちう)
山王(ざんわう)、段子(どんす)【緞子】百端(ひやくたん)、猩々皮(しやう〴〵ひ)十二尋(じふにひろ)、太平布(たいへいふ)二百疋(にひやくひき)、白銀(はくぎん)
一万両(いちまんりやう)、大刀(たち)一腰(ひとこし)を献上(けんじやう)す、かゝれば御代始(ごよはじ)めに異(い)
国(こく)御手(おんて)に入(い)りしとて、ことの外(ほか)に御感悦(ごかんえつ)遊(あそは)され、其(その)
賞(しやう)として、御腰物(おんこしのもの)ならびに琉球国(りうきうこく)を賜(たま)はりけり、中(ちう)
山王(さんわう)にも拝領物(はいりやうもの)あり、これより琉球(りうきう)ながく薩州(さつしう)の
附庸(ふよう)とぞなりにける、それよりして江戸(えど)に至(いた)り、
将軍家(しやうぐんけ)に謁(えつ)しけるに、米(こめ)千俵(せんべう)をくだしたまふ、其年(そのとし)

帰国(きこく)ありて、翌年(よくねん)中山王(ちうざんわう)も本国(ほんごく)に帰(かへ)ることを得(え)たり、
《割書:系図、旧伝集、政事録、南|浦文集等に据(より)【拠】て記(しる)す》この時(とき)よりして、ながく吾邦(わがくに)の正(せい)
朔(さく)を奉(ほう)じ、聘礼(へいれい)を修(しゆ)して、今(いま)の入貢(じゆこう)の始(はじ)めなり、この後(のち)
将軍(しやうぐん)宣下(せんげ)、若君様(わかぎみさま)御誕生(ごたんじやう)、および彼国(かのくに)中山王(ちうざんわう)継目(つぎめ)の
度毎(たびこと)には、必(かならず)貢使(こうし)かつて闕(かく)ることなし、
 慶長(けいちやう)十四年(じふよねん)、琉球(りうきう)征伐(せいばつ)の時(とき)、雨不見の渡(わた)りの中(なか)
 ほどにて、容顔(ようがん)美麗(びれい)なる尋常(じんじやう)ならぬ婦人(ふじん)の、小(こ)
 舟(ぶね)に乗(の)りて来(きた)り、大将(たいしやう)樺山氏(かばやまうぢ)の舟(ふね)に乗(の)り移(うつ)り
 ていへるやう、我(われ)は琉球国(りうきうこく)の守護(しゆご)弁才天女(べんざいてんによ)なり、
 この度(たび)征伐(せいばつ)せらるゝに、ねがふところは、多(おほ)くの人民(じんみん)
 を殺(ころ)し、国(くに)を悩(なやま)し給ふことなかれ、さあらば我(われ)案内(あんない)し
 て、速(すみやか)に琉球国(りうきうこく)を御手(おんて)に属(ぞく)し申すへし、といひ終(をは)
 りて坐(ざ)したまふと見れば、そのまゝ木像(もくざう)の弁才(べんさい)
 天(てん)なり、さて乗(の)り来(きた)りし舟(ふね)と見えつるは、簀(す)の
 板(いた)なりけり、神霊(しんれい)のいちじるしく、国(くに)を護(まも)り給ふ
 の厚(あつ)きを感(かん)じ、舟中(ふねのうち)に安置(あんち)し、帰陣(きぢん)の後(のち)、事(こと)の
 よしを申し立(た)て、池(いけ)の中(なか)なる島(しま)に祠(ほこら)を建(たて)て、いつ
 き祭(まつ)りけるとなり、《割書:旧伝|集》

 因(ちなみ)に云(いふ)、世(よ)に薩琉軍談(さつりうぐんだん)といふ野史(やし)あり、その書(しよ)の
 撰者(せんじや)詳(つまびらか)ならずといへども、あまねく流布(るふ)して、二(に)
 国(こく)の戦争(せんさう)をいふものは、かならず口実(こうじつ)とす、その
 いふところ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津(しまづ)兵庫頭(ひやうごのかみ)義弘(よしひろ)の代(よ)
 に、惣大将(そうたいしやう)新納(にひろ)武蔵守(むさしのかみ)一氏(かつうぢ)、その外(ほか)種島(たねがしま)大膳(たいせん)、佐(さ)
 野帯刀(のたてはき)等(とう)、士卒(しそつ)惣人数(そうにんず)十万(しふまん)千八百(せんはちひやく)五十四人(ごじふよにん)
 渡海(とかい)せしといへり、又(また)かの国(くに)の、澐灘湊(うんだんそう)、竹虎城(ちくこじやう)ある
 ひは、米倉島(べいさうたう)、乱蛇浦(らんじやほ)などいへる地名(ちめい)あり、その将士(しやうし)
 には、陳文碩(ちんぶんせき)、孟亀霊(まうきれい)、朱伝説(しゆでんせつ)、張助昧(ちやうぢよまい)等(とう)の名(な)をしる
 したり、実(まこと)にあとかたもなき妄誕(まうたん)にしてその書(しよ)の
 無稽(ふけい)論(ろん)を待(また)ずしてしるべし、
  慶長(けいちやう)以後(いご)入貢(しゆこう)
寛永(くわんえい)十一年(しふいちねん)閏七月九日(うるふしちぐわつこゝのか)、中山王(ちうさんわう)尚(しやう)、豊賀慶使(ほうがけいし)佐敷(さしき)
王子(わうじ)、恩謝使(おんしやし)金武王子(きぶわうじ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:元寛|日記》
この年(とし)将軍家(しやうぐんけ)御上洛(ごしやうらく)ありて、京都(きやうと)にましますをも
て、二条(にでう)の御城(おんしろ)へ登城(とじやう)す、このゆゑに二使(にし)江戸(えど)に来(きた)
らず、
正保(しやうほ)元年(くわんねん)六月(ろくくわつ)二十五日(にしふこにち)、中山王(ちうさんわう)尚賢(しやうけん)、賀慶使(かけいし)金武按(きむあん)

【右丁、右下】
英林【角印「英琳」】
【絵図の札二枚に「中山王府」】
【左丁、左上】

紫瀾星極仲朝威万里東来
貢献時莫笑蛮邦尤蠢爾衣
冠猶見漢官儀
九州百変典刑空絶島猶能
見古風魋結碧臚雖陋俗先
王鼓楽在其中
   枕山大沼厚【落款「枕山」】

【大沼枕山、江戸時代後期から明治前期の漢詩人(ウィキペディア)】

司(す)、恩謝使(おんしやし)国頭(くにかみ)按司(あんす)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、七月三日(しちぐわつみつか)
下野国(しもつけのくに)日光山(につくわうざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、《割書:輪池|掌録》
慶安(けいあ )【ママ】二年(にねん)九月(くくわつ)、中山王(ちうさんわう)尚質(しやうしつ)、恩謝使(おんしやし)具志川(くしかは)按司(あんす)等(ら)
をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|事略》また日光山(につくわうさん)の御宮(おんみや)を拝(はい)
す、
承応(しやうおう)二年(にねん)九月二十日(くぐわつはつか)、中山王(ちうさんわう)尚質(しやうしつ)、賀慶使(かけいし)国頭(くにかみ)按(あん)
司(す)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:羅山文集、和漢合運、|近世武家編年略、》また日光(につくわう)
山(ざん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、
寛文(くわんぶん)十一年(しふいちねん)七月二十八日(しちくわつにしふはちにち)、中山王(ちうさんわう)尚貞(しやうてい)、恩謝使(おんしやし)金武(きふ)
王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:万天|日記》また日光山(につくわうざん)の御(おん)
宮(みや)を拝(はい)す、《割書:琉球事略、|歴代備考》
天和(てんわ)二年(にねん)四月十一日(しくわつじふいちにち)、中山王(ちうざんわう)尚貞(しやうてい)、賀慶使(がけいし)名護(なご)按(あん)
司(す)、恩納(おんな)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:万天日記、|甘露叢》
宝永(はうえい)七年(しちねん)十(じふ)一(に)【ママ】月(くわつ)十八日(じふはちにち)、中山王(ちうさんわう)尚益(しやうえき)、賀慶使(がけいし)美里(みさと)王(わう)
子(じ)、富盛(とみもり)親方(おやかた)、恩謝使(おんじやし)豊見城(とよみくすく)王子(わうじ)与座(よさ)親方(おやかた)等(ら)をして、
方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球聘|使紀事》また東叡山(とうえいさん)の御宮(おんみや)を拝(はい)す、中(ちう)
山使(ざんし)の日光山(につくわうざん)に至(いた)らずして、東叡山(とうえいざん)に来(きた)ること
この時(とき)を始(はじめ)とす、

正徳(しやうとく)四年(よねん)十二月(じふにぐわつ)二日(ふつか)、中山王(ちうさんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(かけいし)与那城(よなくすく)王(わう)
子(し)、恩謝使(おんしやし)金武(きふ)王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:文露|叢》
享保(きやうほ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)十三日(じふさんにち)、中山王(ちうざんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(がけいし)越来(こえく)
王子(わうじ)、西平(にしひら)親方(おやかた)等(ら)して、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:享保|日記》
寛延(くわんえん)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)十五日(じふごにち)、中山王(ちうさんわう)尚敬(しやうけい)、賀慶使(がけいし)具志(くし)
川(かは)王子(わうじ)、与那原(よなはら)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:歴史|要略》
宝暦(はうりやく)二年(にねん)十二月(じふにくわつ)十五日(じふごにち)、中山王(ちうざんわう)尚穆(しやうぼく)、恩謝使(おんしやし)今帰(いまき)
仁(じん)王子(わうじ)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:歴史|要略》
明和(めいわ)元年(ぐわんねん)十一月(じふいちぐわつ)、中山王(ちうざんわう)尚穆(しやうほく)、賀慶使(がけいし)読谷山(よみたんざん)王子(わうじ)、
等(ら)をして、方物(はうふつ)を貢(こう)す、《割書:三国通覧|速水私記》
寛政(くわんせい)二年(にねん)十二月(じふにくわつ)二日(ふつか)、中山王(ちうさんわう)尚穆(しやうぼく)、賀慶使(かけいし)宜野湾(きのわん)
王子(わうし)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:琉球|談》
寛政(くわんせい)八年(はちねん)十二月(じふにくわつ)六日(ろくにち)、中山王(ちうざんわう)尚成(しやうせい)、恩謝使(おんしやし)大宜見(おほぎみ)
王子(わうじ)、安村(やすむら)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、《割書:輪池|掌録》
文化(ぶんくわ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)二十三日(にじふさんにち)、中山王(ちうざんわう)尚顥(しやうかう)、恩謝使(おんしやし)読谷(よみたん)
山(さん)王子(わうじ)小録(をろく)親方(おやかた)等(ら)をして、方物(はうぶつ)を貢(こう)す、
天保(てんほ)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)中山王(ちうざんわう)尚育(しやういく)恩謝使(おんしやし)豊見城(とよみくすく)王子(わうし)
沢岻(たくし)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す

【右丁】
天保(てんほ)十三年(じふさんねん)十一月(しふいちくわつ)中山王(ちうさんわう)尚育(しやういく)賀慶使(がけいし)浦添(うらそひ)王子(わうじ)
座喜味(ざきみ)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す
嘉永(かえい)三年(さんねん)十一月(じふいちくわつ)中山王(ちうざんわう)尚泰(しやうたい)恩謝使(おんしやし)玉川(たまがは)王子(わうし)野(の)
村(むら)親方(おやかた)等(ら)をして方物(はうぶつ)を貢(こう)す
【左丁】
附録(ふろく)
  琉球国(りうきうこく)全図(ぜんづ)
琉球国(りうきうこく)に三省(さんせい)あり、中山(ちうざん)は、中頭省(なかかみせう)、山南(さんなん)は島■【耑ヵ】省(しまじりせう)、
山北(さんほく)は国頭省(くにがみせう)なり、この属府(ぞくふ)すへて三十六(さんじふろく)、これを
間切(まぎり)といふ、《割書:間(ま)ぎりとは、城下(しやうか)といふが如し、|あるひは郡県(くんけん)をさしていへり、》その間切(まぎり)の
領主(りやうしゆ)を、おの〳〵按司(あんす)といふ、三十六(さんじふろく)の属島(えだじま)あり、鬼界(きかい)
が島(しま)は、十二(じふに)の島(しま)なり、即(すなはち)これを五島七島(いつしまなゝしま)といへり、こ
れらの島々(しま〴〵)に、産(さん)するところの物(もの)は、蕃薯(りうきういも)、草薦(りうきうおん)、蕉(ばせを)
絲(ふのいと)、五色魚(ごしきうを)、螺魚(らぎよ)、瑇瑁(たいまい)、海参(なまこ)、石芝(せきし)等(とう)、三十種(さんじふしゆ)に余(あま)る、

琉球国図(りうきうこくのづ)
【影印はハワイ大学所蔵『琉球入貢紀略』第二十七コマの方が良好である】

【右丁】
七島は宮古の支
配にて琉球
 の持なり
三十六島(さんじふろくしま)の図(づ)
【左丁】
奇界より渡名喜まで十一島みな大島の
支配なり上島の村数すべて二百六十村
あり土人は小琉球と称す
  南方台陸の南に小琉球山ありこれと同じ
                  からず
      沖のゑらぶ
        琉球の持なり
【大島の左】
是より琉球の地
 五間切あり

口(くち)のゑらぶ

【影印はハワイ大学所蔵『琉球入貢紀略』第二十八コマの方が良好である】

  中山世系(ちうさんせいけい)
∴天孫氏廿五紀(てんそんしにじふごき)─────────────────────┐
                       【英祖王へ】
  宋(そう)の淳煕(しゆんき)年間(ねんかん)、天孫氏廿五紀(てんそんしにじふごき)の裔孫(えいそん)徳微(とくび)、
  その臣(しん)利勇(りゆう)、権(けん)を専(もつはら)にして位(くらゐ)を奪(うば)ふ、故(ゆゑ)に浦添(うらそひ)
  按司(あんす)尊敦(そんとん)、義兵(ぎへい)を起(おこ)し利勇(りゆう)を討(う)つ、国人(くにたみ)尊敦(そんとん)
  を推て位(くらゐ)に就(つ)く、これを舜天王(しゆんてんわう)と云(いふ)、
○舜天王(しゆんてんわう)――――舜馬順煕(しゆんばじゆんき)――――義本王(ぎほんわう)
  姓(せい)は源(げん)、名(な)は尊敦(そんとん)、父(ちゝ)は鎮西(ちんぜい)八郎(はちらう)為朝公(ためともこう)、母(はは)は大(おほ)
  里(さと)按司(あんす)の妹(いもと)、宋乾道(そうけんだう)二年(にねん)丙戌(ひのえいぬ)降誕(がうたん)、《割書:乾道(けんだう)二年(にねん)は、|六条院(ろくてうゐん)仁安(しんあん)》
  《割書:元年に|あたる》淳煕(じゆんき)十四年(じふよねん)丁未(ひのとのひつじ)則位(そくゐ)、嘉煕(かき)元年(くわんねん)丁酉(ひのとのとり)薨(がう)
  在位(ざいゐ)五十一年(ごじふいちねん)、寿(じゆ)七十二歳(しちじふにさい)といへり、又(また)云(いふ)義本王(ぎほんわう)
  童名(どうみやう)神号(しんがう)伝(つた)はらず、在位(さいゐ)十一年(じふいちねん)、歳(とし)五 十四(じふし)の時(とき)、英(えい)
  祖(そ)に諭(ゆ)して曰(いはく)、今(いま)汝(なんぢ)政(まつりごと)に乗(じやう)せば、年(とし)豊(ゆたか)に民(たみ)泰(やす)
  からん、宜(よろし)く大統(たいとう)を承(う)けつぎて、民(たみ)の父母(ふぼ)たる
  べしといへるに、固(かた)く辞(じ)しけれども、群臣(ぐんしん)みな共(とも)
  に勧(すゝ)めて位(くらゐ)に即(つか)しむ、義本(ぎほん)位(くらゐ)を譲(ゆづ)るの後(のち)、其(その)
  隠(かく)るゝところを知(し)らず、故(ゆゑ)に寿薨(しゆがう)伝(つた)はらず、今(いま)
  考(かんが)ふべからず、《割書:為朝公(ためともこう)の血統(けつたう)、舜天王(しゆんてんわう)より義本(ぎほん)まで|三代にして絶(た)ゆ、三王(さんわう)およそ七十三年、》

┌────────────────────────────┘
└英祖王(えいそわう)──────────大成王(たいせいわう)───────────┐
  英祖(えいそ)は、天孫氏(てんそんし)の裔(えい)、恵祖(けいそ)の孫(そん)、         │
┌────────────────────────────┘
└英慈王(えいじわう)──────────王城王(わうじやうわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└西威王(せいいわう)──────────察度王(さつとわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└武寧王(ぶねいわう)──────────尚思紹王(しやうしせうわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚巴志王(しやうはしわう)─────────尚忠王(しやうちうわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚思達王(しやうしたつわう)─────────尚金福王(しやうきんふくわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚泰久王(しやうたいきうわう)───────────────────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚徳王(しやうとくわう)────────────────────────┐
                       【尚稷王へ】
  神号(しんがう)八幡(はちまん)按司(あんす)、又(また)世高王(せいかうわう)と称(しよう)す、明(みん)の正徳(しやうとく)六(ろく)
  年(ねん)辛酉(かのとのとり)降誕(がうたん)、《割書:義教(よしのり)将軍(しやうぐん)嘉吉(かきつ)|元年にあたる》在位(さいゐ)九年(くねん)、寿(じゆ)二十(にじふ)
  九(く)時(とき)に、世子(せいし)幼(いとけなく)しを立(たゝ)んとせしに、国人(くにたみ)どもこれ
  を弑(はい)し、御鎖官金丸《割書:即位(そくゐ)して|尚円王と云(いふ)》を立(たて)て君(きみ)とす、
  これより中山(ちうさん)万世(ばんせい)王統(わうとう)の基(もとゐ)を開(ひら)くといへり、《割書:尚思(しやうし)|紹(せう)よ》
  《割書:り尚徳(しやうとく)まて、七|主六十四年》
┌────────────────────────────┘
└尚稷王(しやうしよくわう)────────────────────────┐
                       【尚円王へ】
  尚稷(しやうしよく)未(いま)た位(くたゐ)に即(つか)ず、たゞ王祖(わうそ)正統(しやうとう)の重(おもき)により
  追尊(つひそん)して王(わう)と称(しよう)す、

┌────────────────────────────┘
└尚円王(しやうゑんわう)────────────────────────┐
                       【尚宣威王へ】
  童名(どうみやう)忠徳(ちうとく)、名(な)は金丸、明(みん)の永楽(えいらく)十三年(じふさんねん)乙未(きのとのひつし)降(がう)
  誕(たん)、生得(しやうとく)儼然(げんぜん)として龍鳳(りうほう)の姿(すがた)あり、ならびに足(あしの)
  下(こう)に痣(ほくろ)あり、色(いろ)金( がね)【ママ】の如(ごと)し、いまだ位(くらゐ)に即(つか)ざるの
  時(とき)、泊村の人(ひと)安里(あんり)といふ者(もの)、一(ひと)たび見て、この人(ひと)は億(おく)
  兆(てう)の上(かみ)に居(を)るべきの徳(とく)ありといへり、明(みん)の成化(せいくわ)
  十二年(じふにねん)七月(しちぐわつ)二十八日(にじふはちにち)薨(がう)、在位(さいゐ)七年(しちねん)寿(じゆ)六十七歳(ろくじふしちさい)、
┌────────────────────────────┘
└尚宣威王(しやうせんいわう)─────────尚真王(しやうしんわう)───────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚清王(しやうせいわう)──────────尚元王(しやうげんわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚永王(しやうえいわう)────────────────────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚寧王(しやうねいわう)────────────────────────┐
                       【尚豊王へ】
  童名(とうみやう)思徳(しとく)、明(みん)の嘉靖(かせい)四十三年 甲子(きのえね)降誕(がうたん)、万(ばん)
  暦(れき)十七年(じふしちねん)即位(そくゐ)、同(おなじく)四十 八年(はちねん)九月(くぐわつ)十九日(じふくにち)薨(かう)、在位(ざいゐ)
  三十三年(さんじふさんねん)、寿(じゆ)五十七歳(ごじふしちさい)、慶長(けいちやう)十五年(じふこねん)入貢(じゆこう)す、
┌────────────────────────────┘
└尚豊王(しやうほうわう)──────────尚賢王(しやうけんわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚質王(しやうしつわう)──────────尚貞王(しやうていわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚純王(しやうしゆんわう)──────────尚益王(しやうえきわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚敬王(しやうけいわう)──────────尚穆王(しやうほくわう)──────────┐

┌────────────────────────────┘
└尚成王(しやうせいわう)──────────尚顥王(しやうこうわう)──────────┐
┌────────────────────────────┘
└尚育王(しやういくわう)──────────尚泰王(しやうたいわう)───────
  右(みぎ)中山(ちうざん)世系(せいけい)の略(りやく)なり、これは琉球(りうきう)尚貞王(しやうていわう)の時、
  尚弘徳(しやうこうとく)と云(いふ)ものに命(めい)じて、撰(せん)するところの、中山
  世譜(せいふ)に据(よ)りて記(しる)すところなり、
  鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)
鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)、伊豆(いづ)の大島(おほしま)に流(なが)されしが、永(えい)万 元年(ぐわんねん)
三月(さんぐわつ)、白鷺(しろさぎ)の沖(おき)の方(かた)へ飛(とび)行(ゆ)くを見(み)て、定(さだ)めて島ぞ
あるらんとて、舟(ふね)に乗(の)りて馳(は)せ行(ゆ)くに、ある島(しま)に
着(つき)てめぐり給ふに、田もなし畠(はた)もなし、汝(なんぢ)等(ら)何(なに)
を食事(しよくじ)とすると問(と)へば、魚(うを)鳥とこたふ、その鳥(とり)は鵯(ひよどり)
ほどなり、為朝これを見(み)給ひて、大鏑(おほかぶら)の矢(や)にて、木(き)
にあるを射(い)落(おと)し、空(そら)を翔(かけ)るを射殺(いころ)しなどし給へば、
島(しま)のものども舌(した)をふるひておぢ恐(おそ)る、汝(なんぢ)等(ら)も我(われ)に
従(したが)はずは、かくの如(ごと)く射殺(いころ)さんと宣(のたま)へば、みな平伏(ひれふし)
て従(したが)ひけり、島(しま)の名(な)を問(とひ)たまへば、鬼(おに)が島(しま)と申す、《割書:保|元》
《割書:物|語》この為朝(ためとも)の渡(わた)りし鬼が島といふは、即(すなはち)今(いま)の琉(りう)
球国(きうこく)のことなり、かくて国人(くにたみ)その武勇(ぶゆう)におそれ服(ふく)す、

つひに大里(おほさと)按司(あんす)の妹(いもと)に相(あひ)具(ぐ)して舜天王(しゆんてんわう)をうむ、為
朝(とも)この国(くに)にとゞまること日(ひ)久(ひさ)しく、故土(ふるさと)をおもふこと
禁(やみ)がたくして、つひに日本(にほん)に帰(かへ)れり、《割書:琉球|事略》
 按(あん)ずるに、今(いま)已(すで)に琉球(りうきう)の東北(とうほく)にあたりて、鬼界島(きかいがしま)
 といふ名(な)のあるも、その名残(なごり)なりといへり、
  位階(ゐかい)の次第(しだい)
中山王(ちうさんわう)《割書:国王(こくわう)を|いふ》中城(なかくすく)《割書:春宮(とうぐう)をいふ、○中(なか)くすくは、城(しろ)の名(な)|なり、世子殿(せいしでん)といふありて、王子 即位(そくゐ)》
《割書:あるのとき、|大礼(たいれい)を行(おこな)ふ、》中婦(ちうふ)《割書:王后(きさき)をいふ、○君万物(きんまもん)に仕(つか)ふ、○中婦君(ちうふくん)の|名(な)は、神(かみ)に仕(つか)ふる、巫 女(ぢよ)三十三人ある、その中(うち)》
《割書:に居(ゐ)るといふ|の義(き)なり、》王子(わんす)《割書:王子(わうじ)|なり、》王女(わんによ)《割書:王(わう)の女(むすめ)|なり、》
官位(くわんゐ)の品級(ひんきふ)は正従(しやうじやう)すべて九等(くとう)あり
国相(こくさう)、親方(おやかた)《割書:国(くに)の大臣(たいじん)なり、すべて|政事(せいし)を司(つかさ)どるなり》
 元侯(げんこう) 正一品、法司(はふす) 正二品、紫巾官(しきんくわん) 従二位、
  《割書:これを三司官(さんしくわん)と称(しよう)し、または何々(なに〳〵)の地(ち)の|親方(おやかた)と呼(よ)ぶものは、即(すなはち)この重官(ちようくわん)なり、》
耳目令(じもくれい)《割書:又 御鎖側(ぎよさそく)と云(いふ)、|正三品なり》謁者(えつしや)《割書:又 申口者(まうしつぎ)、|従三品也》賛議官(さんぎくわん)《割書:正四|品》
那覇官(なばくわん)《割書:なばは地名(ちめい)、|従四位なり、》察侍紀官(さじきくわん)《割書:さじきは地名(ちめい)、|従四位なり》当坐官(あたりくわん)、《割書:正五|位》
勢頭官(せかみくわん)《割書:正六|位》、親雲上(ばいきん)《割書:正七|位》、掟牌金(ていはいきん)《割書:従七|位》、里之子(さとのし)《割書:正八|位》
里之子佐(さとのしのすけ)《割書:従八|位》、筑登之(ちくとし)《割書:正九|位》、筑登之佐(ちくとしのすけ)《割書:従九|位》
紫金大夫(しきんたいふ)、正議大夫(せいぎたいふ)、長吏(ちやうり)、都通奉(とつうし)、度支官(としより)、王法宮(わうはふきう)

【右丁】
九引官(きういんくわん)、内官(だいくわん)、近習(きんじふ)、内厨(ぜんぶ)、国書院(こくしよゐん)、良医寮(くすしどころ)、茶道(さだう)、
祝長(はふり)、無瀬人(むせし)、武卒(ふんぞう)、
里(さと)の子(し)は小姓(こしやう)なり、美少年(びせうねん)をえらぶ、年(とし)をとりて髭(ひげ)生(おい)れ
は親雲上(ばいきん)となる、親雲上(ばいきん)は官名(くわんみやう)なれども、彼国(かのくに)の風俗(ふうぞく)にて、
武士(ぶし)をすべて親雲上(ばいきん)といへり、
 嘉永三年庚戌十一月
  【角印】
【左丁、裏表紙見返し、白紙】

【付箋】
「【丸印「琉球大学附属図書館 1966,12,20 No,112885」】
 $4,72」

【製本裏表紙】
【ラベル「093,2 N11」】

湛水親方の名誉のために

南島紀事

支那冊封使来琉諸記

【題簽】
 元治元年
支那冊封使来琉諸記
       下巻

【前コマと同じ画像】

【貼票 横書】
仲原善忠文庫
(琉球大学章)
琉球大学
志喜屋記念図書館
【管理番号 横書】
K
 0924       
 Sh57
  2
【蔵書印
仲原
藏書
【蔵書印】
琉球大学
附属図書
館藏書印

一冠船付日帳                 一・・・・・三〇
一冠船付諸事勤方并勅使方々被差越候次第    三一・・・・四二
一冠船付締方申渡候書写            四三・・・・五九
一勅使以下唐人より国王并嫡子且王子役々え進物帳六〇・・・・七九
一冠船付拝領物并献上物帳           八〇・・・・八一
一勅使以下唐人え王子并役々より返礼物帳    八二・・・・九七
一諭祭之時供物帳               九八・・・・九九
一勅使以下え献立并卓之図           一〇〇・・一〇六
一冠付塩焇帳                 一〇七・・一一〇
一武具其外唐人え相尋候書付写         一一一・・一一三
一道之島御見次物受取総帳           一一四・・一一五
一天使字蹟集                 一一六・・一二一

冠船付日帳

   子四月廿九日
冠船渡来付ては以前之通御役々等被差越筈候得共琉球困窮
之段被聞召上候此節は思召を以御役々等被差越候儀御容捨
被仰付候旨左之通摂津殿より被仰渡候御書付鎖之側玉城
親雲上を以附役税所市兵衛殿取次御在番所及御届候事
 中山王代替付来々寅年従大清国封王使渡来有之候得は以前之
 通御役々等被差越筈候得共琉球之儀近年引続難渋にて
 困窮之段被聞召上候付此節は思召を以て御役々等被差越候
 儀御用捨被仰付警固等之儀は在番え分て手堅相勤候様
 申渡候間万端申談都合能取計候様被仰付候此旨中山王
 御承知有之役々も難有奉承知候様可申越旨琉球館聞
 役并在番親方え可申渡候
   三月          摂 津 

本文之通鎖之側勝連親雲上を以御在番奉行相良治部
殿并産物方御目付樺山休兵衛殿え申上候事
産物方御物昆布御囲所之儀晴立候場所柄之上家作振他所
に相替候付冠船渡来之節当分通にては唐人共疑相立何歟問
尋又は宿繰替等申立候も難計至極念遣仕事御座候間
冠船滞留中東表余地え質素に木屋作調諸品等入付南表
門内も竹屏抔立合役場之形を以て冠船方携役々詰所被仰付
冠船帰帆以後本形通相調帰上候様被仰付被下度奉存
候天保九戌冠船之節も昆布御囲所南表櫺子付合門之左右忍
帰有之候処御相談を以不晴立様櫺子并門之左右忍帰取除
櫺子之所石垣積立門内も竹屏相立冠船滞留中諸仕立物方
役々詰所為被仰付置事御座候間宜様御吟味被成可被
下候此段御相談可申旨摂政三司官申付候 以上
  丑 三月五日    勝 連 親 雲 上
本文右同断
産物御方御繰合向之儀天保九戌冠船之比に替広相成夫長
御本手品も相重居候処冠船滞留中掛御用聞共差離候ては
大分之御物干そかし見締向等届兼御損失に可相及哉と御念遣
被思召候付右御本手品泉崎辺え格護被仰付御用聞共彼所え
被召置候方に御吟味相成候段承知仕右之趣摂政三司官え委曲
申聞候処御物見各護方御念遣之所より右通御吟味相成候
段は御尤奉存候得共冠船渡来之節那覇泊久米村えは唐人共毎
日時無致徘徊人家えも心之儘致出入候所より古来冠船之節々御奉
行御始御役々衆其外御国人惣て城間村え御引越被成事候処唐人共
には宝島人隠居候と申其疑相晴不申躰相見得申候宝暦六
子年寛政十二申年冠船之節城間村え宝島人参居候間彼表え

差越可相逢と唐人五六人度々上泊辺迄差越涯々及騒動御奉
行御役々衆別所え御迦被成事も為有之由且天保九戌冠船
之節も安謝湊辺迄差越御奉行御役々衆右同断御迦之御手
組被成候内久米村人列帰候付御取止為相成事候冠船は王位
免授之大典勅使始文武之官人兵役等至て大客之事にて
漂着人之様他所徘徊難禁為遊山近方之田舎迄も心之儘
歩行仕候処右通毎日致徘徊候処え御用聞共被召置自然
唐人等目に掛ては至て故障成立可申琉球之儀御国元御幕下相成
候段唐え相知候ては難題可成立事にて平日其取沙汰迄も深隠密
仕候てさへ唐人共疑惑を懐時々掛引有之候処御用聞共唐人等目
に掛候はゝをのつから勅使よりも記録を以て被備皇覧賦にて日本通
融之所相顕唐都合向驚痛仕居申候天保九冠船之節も産物
御方御本手品那覇え御格護被仰付置事にて右取扱之掛御
用聞共四五人程泊村上泊之間え差置候様自然其所え吟味付兼候
はゝ御国元え御差図被成にても是非其通御取計不被成候て
不叶段御目付衆より被仰渡趣有之候処泊并上泊辺は那覇
近く唐人共為遊山差越相障候付城間村え被召置度旨
申上候処御用聞之者共右両所之間え被召置候一件御
国元被奉得御差図候間相成丈之儀は其通取計自然差支
相成事候はゝ内間村へは是非共召置候方に吟味有之候様分て
被仰聞候付先内間村え被召置外方徘徊無之様被仰渡自然
到其期故障筋相見得其段申上候はゝ城間村へ引移候様被仰
付度申上其通被仰付左候て御本手品御格護所并昆布御囲所
は兼て被召付置候加勢え昼夜詰込番被仰付其外蔵々は欝金
牛馬皮海人草見締番共え昼夜行廻見締被付惣ての首尾合
産物方御用掛共にて承届猶又右掛にも時々行廻厳密致取締

候上月に両度宛於城間村御届申上候様御目付衆より産物
掛え被仰付其通にて無故障相済且御本手品御払方又は代
銭取立等之儀も先達て差上置候抜書通被仰付置候次
第旁被聞召分御本手品の儀冠船滞留中泉崎辺え人
家見合被召移候儀は御吟味通にて干そかし等は琉人の内兼て
取馴候者より人躰見合産物方御用掛并筆者共検見を
以被仰付御払方并代銭取立等も戌年之振合を以て被仰付
且御本手品御格護所見締番の儀は戌年よりも人数被召重
昼夜請込番被仰付右外頭立候者両三人程人躰見合申
上候はゝ産物方御用掛共相合厳重差引被仰付度左候
はゝ見締向も随分行届可申哉と奉存候乍此上見格護方不行
届濡廃候歟又は逢盗候節は琉球方より引請弁納可仕候間何
卒御用聞共御用品御格護所え被召付置候はゝ御用捨被仰付
戌年之通内間村え被召置自然彼所にて差障候模様も候
はゝ其節は城間村え引移候方に被仰付可被下候此段御相
談可申上旨摂政三司官申付候
   丑五月朔日      勝 連 親 雲 上
本文右同断
当地傾城之儀異国人等に対し不罷居段相達置候付冠船渡
来之節傾城共唐人附合させ候ては異人等え響合相成又は冠
船滞留中異国船来着異人等目に掛候はゝ兼ての申請不
実に相成強暴者押付之仕形共にて傾城附 制方も不罷成
差当騒動迄にて無之傾城致縁付候はゝおのつから異国船繁々
汐掛長々滞 等致し是以国難の端不容易儀にて冠船滞
留中は傾城共引払左候て唐人えは当地此以前異国
船繁々来着異人共逗留住家等作立永久の姿相得

候付傾城共致驚怖方々え逃去且近年飢饉打続諸民
一統及難儀傾城附合候者も無之右者共素方不罷成
到当分は不罷居段相達候様可仕候尤此以前冠船之
節勅使召列候末々唐人等若於琉球傾城慰等仕候
者は其科可申付段布政司より兼て申渡有之既に勅使渡来の
上も右一件段々取締有之兎角此節も先例を以て取締可有之
賦にて傾城引払候迚唐人共女人え故障付之儀は有之間敷候
得共冠船滞留中那覇久米村女人共夜入候はゝ外向徘徊差留首
里泊并近郷之女共にも那覇え差越候節昼中罷帰候様
堅締方申渡候其上末々唐人等仕形次第には勅使え申入
律儀有之候様取計申候間右之趣被聞召被下候
様可申上旨摂政三司官申付候 以上
 丑七月廿八日        勝 連 親 雲 上
本文之通鎖之側勝連親雲上を以附役税所市兵衛殿取
次相良治部え申上相済候事
一封王使渡来之節於那覇御同船え御米積入差登候ては難
題に相成候付先年冠船之節は御在番奉行御相談を以中頭島尻
方出来米は牧湊え陸地持越彼方より馬艦船を以運天勘手納え積廻御
国船え積入為差登事御座候当時御米之内砂糖繰替上納被仰付置
尤右焼出方も正月中相仕舞候様分て申付置候付上納砂糖之儀
は那覇にて積入其余之御米運賃等は此節も右仕向通被仰渡
奉存候
一冠船之儀芒種之節入三日より後は順風次第唐被致出帆筈候故御
国船之儀四月初比那覇湊相迦不申候ては差障候付古来立船
三月中積荷相仕舞新米立船共四月初旬運天え相廻彼所にて
順風見合致出帆候様被仰渡度奉存候

一両先島行御国船之儀早々乗渡彼地にて積売早仕舞四月初比可致
帰着候自然何歟差支四月初旬相過致帰帆候はゝ那覇湊乗
迦直に運天え乗入候様被仰渡候且又帰帆之砌依風並久
米島慶良間島にて冠船一所に致汐掛候も難計心遣之儀御座候間
万一難迦右様汐掛にて唐人より相尋申儀も候はゝ宝島船日本え為商売
渡海之砌逢逆風此所え致漂着候筋相答候様是又被仰渡度奉存候
一当春下船之儀四月に相掛罷下候船には直に運天え乗入候様被仰
渡度旨御国元え申上置候得共自然那覇え乗参候船も可有
之哉帆影相見得候はゝ早速漕出運天え乗入候様可相達旨
伊平屋島伊江島今帰仁間切本部間切在番人え可申渡置
候間御番所御書付被下度奉存候
一右島々在番人より不相達走参申儀も候はゝ読谷山より早々漕出
久米島慶良間島之内え乗入候様可相達旨在番人え可申渡置候
間自然右両島之内え冠船一所に致汐掛唐人より相尋申儀も候はゝ
前条同断相達候様船頭共え申渡度候間是又御書付被下度
奉存候
一右船々より御在番奉行衆并定式生産方御役々衆御荷物積下
儀も候はゝ宰領人相付小舟より牧湊え積廻候様島島在番人え
可申渡置候
右之通御相談可申上旨摂政三司官申付候 以上
  寅 正月七日     勝 連 親 雲 上
本文右同断
古来立新米立船頭水主共例年は積荷等相済出船前本線え引
移申事候得共右之者共跡宿え唐人宿申付筈にて急度明除修
補払除等不申付候て不叶事御座候間此節は積荷相済早速
本船え引移候被渡度奉存候此段可申上旨摂政三司官申付候 以上

   正月七日     勝 連 親 雲 上 
本文之通摂政三司官より附役税所市兵衛殿取次相良治部殿
え申上相済候事
一封王使渡来之節は御在番奉行衆横附々衆城間村え御引越被
成先例にて彼方え兼て御宿構等申付置候然は冠船渡来遅諸
礼式等相滞及越年儀も候ては国中必至と差支候付早々渡
海被致候様於唐随分可取計旨去秋渡唐役者共え申付越右之
船頭共えも渡来之時分柄吟味申渡候処芒種之節入三日以後は順風
次第唐致出帆可相済旨申出有之候当年は気候相早く芒種之
節入も四月下旬に相当候付五月初比は日和次第渡来可被と存申
候間四月初比は城間村え引移被成度当年御登之衆も其
比迄順風無之御出帆不被成候はゝ城間村え御引越被成先
例にて彼方え兼て御宿構等申付置候然は冠船渡来遅諸礼式等
相滞及越年儀も候ては国中必至と差支候付早々渡海被致
候様於唐随分可取計旨去秋渡唐役者共え申付越右之
船頭共えも渡来之時分柄吟味申渡候処芒種之節入三日以後は
順風次第唐致出帆可相済旨申出有之候当年は気候相早く芒
種之節入も四月下旬に相当候付五月初比は日和次第渡来可被と存
申候間四月初比は城間村え御引移被成度当年御登之衆も其比迄順
風無之御出帆不被成候はゝ城間村え御引移御乗船は運天え相廻
彼所にて日和御見合御出帆被成度奉存候左様御座候はゝ
御在番所并横目衆附々衆御宿冠船滞在中明置候ては
差障可申候間先例之通御在番所は仮里主其外冠船方
役々詰所申付横目衆附々衆御宿えは唐人宿申付候家主之
者共引移置候様申付度奉存候
一御在番所御格護之武具并塩焇格護所之儀跡々冠船之節

は横目衆附役衆御見分の上龍福寺殿え格護被仰付附役
衆封印を以て外囲柵を結浦添西原宜野湾北谷中城五ヶ間切
之者共え四人宛代合番申付置候此節も右通被仰付候ては何様
御座候哉於其儀は城間村え御越之節為持運先例之通格
護被仰付度候尤火用心之儀は住僧并浦添間切検者え入念相
勤候様堅可申付置候
一唐人滞在中方々不致様締方被申渡置度旨封王使方え申達候
上諸所え関番所等も可相立置候得共以前冠船之節評価物為売
方宝島人尋行為申儀共有之候由自然右様宝島人相尋可売
渡抔と申押て関番所を越城間辺え罷通候候儀も難計
候付跡々冠船之節々御在番所御相談之上左条之通手
当為申付置事御座候間此節も先例之通被仰付度
奉存候
一唐人共城間辺え罷通儀も候はゝ関番所之者共乗馬にて走参
告上可申候間御在番奉行衆定式生産方御役々衆は小波津村え御
引越御手廻道具は城間屋冨祖二ヶ村より人足差寄為持越武具類
は御家来の者共え御持被成候様有之度候左候て城間御宿跡は其所
之頭々相詰させ自然唐人共参相尋申儀も候はゝ道之島の者共罷渡候
処冠船渡来付那覇えは旅宿難成此所え罷居候由相答候様
可申渡右付朝夕御休式之儀は大台所役人差越相調差上候 
様可仕候
一右之節万一御仮屋道具抔見付宝島人道具之由申候はゝ
当春於牧湊宝島船仕右之荷物預置候段相答候様可
申渡候

一冠船滞在中道之島船那覇致着船候はゝ仮里主御物城
大和横目にて締方申付候様被仰付度奉存候

一右之節船改方先例通大和横目え被仰付度奉存候
一当地堂宮え御国元之衆より寄進の絵馬石灯籠勧進牌
且那覇近辺え有之候御国元の衆御墓所石塔抔は唐人共見候
て障に相成候付跡々冠船之節も御在番所御相談之上可差障等は
取隠置間此節之儀も当地役々見調部寄進物は別所え取隠
石塔は墓本え埋置冠船帰帆以後本之通相直候様申渡御座候
一右石塔之儀先例通当地役々迄にて相調部取除候て首尾方
迄を申上候様可仕哉何分御差図被成度奉存候
右之条之通御相談申上候 以上
  正月十三日        宜野湾親方
               与那原親方
               譜久山親方
               与那城親方
本文右同断申上候道之島の御代官衆宛書之横封御遣被成候付
爰元より之書付相添竹筒に入国頭間切より島次飛舟差立候事
一当夏冠船渡来之節依風並道之島え致漂着候儀も難計於其
儀は右島々は琉球支配之筋唐え相知候付ては諸事不差障様不取計候
て不叶事候間自然島々え御国船罷下居候儀も有之唐人相尋候は
は宝島之者砂糖芭蕉芋米共買用罷渡居候由相答候様島々え
被仰越度奉存候冠船え致乗合居候久米村人えも右通相心得候様
申越候付別封差遣候間被相渡候様御代官衆え之御添状可被下候
一接貢船之儀冠船一同唐致出帆筈候得は風並次第右同前致漂着候
儀も可有之候帰唐船大島え致着船候はゝ返上物は於彼島御国船
え積移直に差登候様先年被仰渡置候得共自然冠船一所に接
貢船も繋居返上物御国船え積移候ては唐人共見付可差障
候間御代官衆御相談を以此節は当地え帰着の上差登候

筋可取計進貢使津波古親雲上桑江親雲上え申越候ては
何様可有御座哉先年冠船之節も御在番所御相談之
上右通申越置候間此節も為念津波古桑え右之趣別
封差遣申度候於御同意は是又御添状可被下候尤船
繋場相替唐人共見当不申所に候はゝ御国船え積移差
登候様可致旨可申越候
一返上物御国船え積移才府大筆者宰領にて差登候以後冠
船繋場え接貢船乗来候儀も有之才府大筆者罷居不
申儀を唐人相尋候はゝ最前之差場え宝島之者共米砂糖買
用罷渡居候付白糸反物買取候様申達処彼者共幸に存
糸反物取入候付右両人者代銀読取用彼元え残居候段
相答候様可申越候
右之通御相談申上候     以上
  正月十三日      宜野湾親方
             与那原親方
             譜久山親方
             与那城親方
本文之通鎖之側勝連親雲上を以附役税所市兵衛殿取
次相良治部殿え申上相済候事
一冠船渡来付御国船は運天え相廻於彼地日和見合致出帆筈候
処依風並冠船彼方え被乗参儀も候はゝ早速小舟差出直那覇
え被乗入候様随分相働自然風不順にて其働不相達候はゝ外に
挽廻候湊無之候故是非運天え挽入不申候て不叶事候間其節
迄古来立船致滞船居候はゝ宝島之船にて候此節冠船渡来
付入用之金銀品物等積渡代料は売物并砂糖欝金綿子紬
蕉布類之品取交相渡候節前年より約諾有之右品々を請取

致帰帆候旨申達可相済と存申候
一新米立船積荷之儀は牧湊にて馬艦船え積入運天勘手納え
相廻国頭方出来米も右両所え積越御国船え積入申筈候
得は大分之売高数艘之御国船え馬艦船を以積移候儀唐人共見
付候はゝ何共可申達無之難題之儀致出来筈候間新米立船
之儀は勘手納え挽廻置冠船那覇え被致廻船候はゝ積荷
相渡候様申付度候
一右付諸事為取計物奉行一人久米村人両人相添差遣可申
候右通申付候ては何様可有御座哉此段御相談可申上旨摂
政三司官申付候      以上
  正月十三日      勝 連 親 雲 上
本文之通鎖之側勝連親雲上を以生産方御目附樺山休
兵衛殿え申上相済候事
一封王使来之節は御在番奉行衆御一同生産方御役々衆城間村え
御引越被成先例にて彼方え兼て御宿構等申付置候然は冠船
渡来遅諸礼式相滞及越年儀も候ては国中必至と差支候付
早々渡海被候様於唐随分可取計旨去秋唐役者共え申付
越右之船頭共え渡来之時分柄吟味申渡候処芒種之節入三日
以後は順風次第唐致出帆可相済旨申出有之候当年は気候
相早芒種之節入も四月下旬に相当候付五月初比は日和次第渡
来可被致と存申候間四月初比は御在番奉行衆御始御役々
衆御一同城間村え御引移当年御登之衆も其比迄順
風無之御出帆不被成候はゝ御乗船は運天え相廻彼所にて
日和御見合御出帆成度奉存候
一唐人滞在中方々不致様締方被申渡置度旨封王使方え
申達上諸所え関番所等も可相立置候得共自然評価物売方

付て跡々より之申伝を以宝島人相尋可売渡抔と申押て関番
所を越城間辺え罷通候儀も可有之哉其節は関番所之者
共乗馬にて走参告上可申候間御在番奉行衆御一同生産方
御役々衆小波津村え御引越御手廻道具は城間屋冨祖二
ヶ村より人足差寄為持越武具之類は御家来之者共え御持
せ被成候様有之度候左候て城間御宿跡は其所之頭々相詰
させ自然唐人共参尋申儀も候はゝ道之島之者共罷渡候処
冠船渡来付那覇えは旅宿難成此所え大台所役人差越相
調差上候様可仕候
一当春下船之儀四月に相掛罷下候船には直に運天え乗入候
様被仰渡度旨御国元え申上置候付三月過罷下候船は直に
運天え乗入申筈御座候間右船々より生産方御本手用々品々
并御役々衆御荷物積下儀も候はゝ宰領人相付小舟より牧湊え
積廻候様番人え申渡置度奉存候
右ヶ条之通可申上旨摂政三司官申付候  以上
  正月十三日       勝 連 親 雲 上
本文之通締方可申渡旨右同人を以附役税所市兵衛殿取次
相良治部殿え申上生産方御目付衆え申上候事
唐人城間辺え罷通候も有之候はゝ泊高矼安里矼番人より差
留候様申渡置候得共押て関所を越候儀も難計候付為
用心左之通可申渡候
一勢理客村前松原同所矼北表高峯沢岻村後東之高峰
同所兼本西之迦右四ヶ所え木屋一軒宛相調日夜番人可附置候
一勢理客村南之端え人馬差置唐人上泊より参候て遠目掛候はゝ
則番人之内馬を走城間御奉行所并定式生産方御役々衆
え其段申上候様勢理前之番人え可申渡候

一唐人関番所の越参候はゝ番人共互に貝を吹致相図右之内一人
宛城間え馳行前条同断可申上旨勢理客沢岻四ヶ所之番
人え可申渡候
一泊高矼関番所え人馬差置唐人城間辺え罷通候様子見
及候はゝ番人之内一人馬を走右同断可申上候
一勅使登城之節は久米村人両人宛平良矼并泊関番所え詰居唐
人共城間辺え相越候儀も有之候はゝ色々差障候次第共申立
差留候可申渡候
一右通久米村人より差留候ても押て差越候難計候間平良矼関
番所え人馬差置自然差越申儀も候はゝ城間え走参御奉行并
定式生産方御役々衆え申上候可申渡候
一右付諸事為取計関番所え主取之者一人附置時々走廻致
下知方候様可申渡候
右之通可申上旨摂政三司官申付候 以上
  正月十三日       勝 連 親 雲 上
本文之通税所市兵衛殿取次相良治部殿え申上相済候事
道之島人之儀簪差不申者も有之由候当地末々迄も簪差
候処右に相替候ては唐人共相疑可申哉尤琉人は忌中に簪抜候
唐人も兼て存居申事候得は道之島人共右之支度にて勅使
行列見物其外方々致徘徊候はゝ唐人共致批判外聞にも相掛可
申候間此節罷渡候道之島人共冠船滞在中は簪差候様
被仰付度奉存候此段御相談可申上旨摂政三司官申付候 
                       以上
  二月三日        湧 川 親 雲 上
本文之通摂政三司官より御在番奉行相良治部殿并生産
方御目付樺山休兵衛殿え申上相済候事

生産御方唐御注文品之儀天保九戌冠船之節は那覇より牧湊え馬
艦船より積廻御取納相済早速勇船両艘船頭え御引渡致出帆候段
書留に相見得兎角其節之接貢船は冠船より五日程先に致入津
御取納御引渡等疾相済無間も致出帆候付唐人目に不掛
無事故相済為申筈候得共天気風並次第には急に出帆
難成牧湊え数日致滞船候儀も難計牧湊之儀は那覇近有之
冠船渡来之節は唐人共那覇近辺毎日致徘徊候付三重城屋并波之
上抔よりは牧湊読谷山沖大和船往通見及可申殊更宝暦六子年
寛政十二申年冠船之節城間村え宝島人参居候間彼表え差越
可相逢と唐人五六人度々上泊辺迄差越天保九戌冠船之節も安
謝湊辺迄差越涯々及騒動為申由此節之儀前々冠船とも
相替傾城引払申事候付唐人共傾城在所尋候抔と申致
方々候も難計於其儀は屹と相談を加制方可仕候得共万一聞
入無之押々致方々牧湊辺えも差越御国船致滞船候を目に懸可申
哉と旁以至極心配仕居申候然は冠船渡来之節唐人共御国
船往通又は滞船等見及候ては至て難題可成立事候付前々より
冠船之節は御国船那覇湊より相迦返上物も運天え陸地持越於彼地
積入且出動御米之儀も於牧湊馬艦船え積入運天え相廻於彼地御国
船え積移候次第御座候間生産御方唐御注文品も於牧湊御
取納相済候はゝ馬艦船より運天え積廻彼地御国船え積移候様
被仰付被下度牧湊より運天迄は纔之海路にて右御注文品積
船并船方共其見合を以て申付乍其上日和丈夫に見合為致出
帆候はゝ少も念遣有之間敷万一運天え積廻之砌中途損失之
儀共御座候はゝ御物目成丈は此方より弁償可仕候牧湊えは右
通那覇迄有之大和船出入致滞船候を唐人目に掛候ては当
地難渋筋相掛候次第別条之御取分を以何卒生産御

方唐御注文品之儀馬艦船より運天え積廻於彼地御国船え積
入被仰付候方々御吟味被成下度千万奉希候  以上
  三月十七日     
             宜 野 湾 親 方
             与 那 原 親 方
             譜 久 山 親 方
             与 那 城 親 方
本文之通附四本半九郎殿取次相良治部殿え申上生産方御
目付衆えも申上相済候事
帰唐船入津之節例年は船中人数改済次第早速差下勅書賜物
者卸取明倫堂え致格護置日撰を以城元え差越申仕向御座候
得共冠船渡来之節は右通にては差支候付接貢船冠船より先達て
致入津候はゝ人数相改差下勅書賜物も早速城元え差越候先例御
座候間右船入津之段申上候はゝ城間村より直沖之寺え勅書差越
候規式不相調候付帰唐人数末々迄下船無之様堅申付乗組
勤番人例之通乗付陸えも勤番申付置翌朝人数改并勅書
卸方可仕候間其節は翌朝沖之寺え御越被成度奉存候且又
冠船一同又は後達て入津之節は先例通高奉行大和横目にて人数改
差卸勅書并賜物も取卸させ城元え差越可申候此段可申上
旨摂政三司官申付候    以上
  三月廿二日      湧 川 親 雲 上
本文鎖之側湧川親雲上を以て御在番所え御届申上候
両勅使乗船并都司乗船致入津候段は飛脚を以て御届申上候通
にて国王於迎恩亭詔勅迎之礼式相済勅使旅館え被引越候付
国王も追て被罷出安否被相尋候処両勅使対顔被致礼儀
旁相済申候此段御届可申上旨摂政三司官申上候  以上
  六月廿二日    湧 川 親 雲 上

冠船入津被致候付摂政与那城王子鎖之側湧川親雲上召列御
在番所参上附役市来善兵衛殿取次御届申上候事
本文之通日帳主取与那原里之子親雲上を以附役渋谷休兵衛
殿取次新納主税殿え御届申上候事
来廿日両勅使崇元寺え被差越先国王え諭祭被致執行候段
久米村惣役を以被申聞候此段御届可申上旨摂政三司官申付候
  七月三日           与那原里之子親雲上
本文里主小禄親雲上を以申上候事
従客林子香と申唐人病気相煩此程段々致療治候得共不相叶
昨日相果候段那覇詰之物奉行申越有之候間此段御在番所
え可被申上候      以上
  七月四日      湧 川 親 雲 上
 里主
  御物成
本文之通日帳主取与那原里之子親雲上を以附役渋谷休兵衛
殿取次新納主税殿え御届申上候
一左勅使姓は趙名は新生国福建候官県当年五拾四才官職日講
起居住詹事府右賛善咸豊壬子進士翰林院検討欽命冊封正
使正一品被叙
一右勅使姓は干名は光甲生国直隷滄州当年四拾一才官職内閣中書
咸豊丙辰進士翰林院編修欽命冊封副使正一品被叙
一遊撃姓は謝名は国忠生国四川崇慶州当年四拾一才
一都司姓は蕭名は邦佐生国福建同安県当年三拾八才
一弾圧官姓は胡名は頥齢生国浙江徳清県当年三拾才
一全廩給八拾七人
  内

 三拾人左勅使方
  内
 壱人姓は林名は斉韶生国福建候官県当年四拾二才
 咸豊辛亥挙人
 壱人姓は林名は斉霄生国福建候官県当年二拾七才
 咸豊己未秀才
 壱人医師姓は蒋名は錫年生国福建閩県当年三拾九才
 壱人阿口通事姓は馮名は朝儀生国福建閩県当年三拾六才
 二拾六人は為差芸能無之故姓名生国等記不申候
二拾二人右勅使方
  内
  壱人姓は鄭名は瑽生国福建候官県当年三拾六才同治甲子挙人
  壱人姓は戴名は希虁生国直隷滄州当年二拾八才咸豊辛亥秀才
  壱人医師姓は林名は紹眉生国福建候官県当年五拾才
  壱人阿口通事姓は王名は東謙生国福建閩県当年四拾八才
  十八人は為差芸能無之故姓名生国等記不申候
 十三人遊撃都司両人方八人弾圧官方
 十四人乗船両艘之船頭以下船中役々
一半𢊣給五拾四人
  内
 四人左勅使方三人右勅使方八人遊撃都司両人方
 十三人弾圧官方二十六人乗船両艘之船中役々
一口粮二百四拾三人
   内
 壱人左勅使方 壱人右勅使方 百八拾六人遊撃都司
 両人方三拾七人弾圧官方 十八人乗船両艘之水主

一月粮四拾五人
   内
  七人弾圧官方 三拾八人乗船艘之水主
 合四百三拾四人
 右両勅使以下姓名官職等唐人共え承合如斯御座候
   七月八日      長史 宮城親雲上
             同  伊計里之子親雲上 
             同  大嶺親雲上
             同  国場親雲上
             惣役 神村親方
本文右同断
   覚
一勅使乗船惣長二拾尋横四尋四尺五寸
一同檣壱本 長十七尋三尺根廻壱尋三尺
一同弥帆檣壱本長十一尋三尺根廻壱尋五寸
一都司乗船長十九尋三尺横五尋四寸
一同大檣壱本長十九尋根廻一尋三尺四寸
一同弥帆檣一本長十一尋四尺根廻一尋四寸
 右冠船両艘之程来唐人共え承合如斯御座候
  七月八日       長史 宮城親雲上
             同  伊計里之子親雲上 
             同  大嶺親雲上
             同  国場親雲上
             惣役 神村親方
本文御物城仲本親雲上を以御届申上候事
 此節渡海兵之内何錦龍と申者病気差発此程段々療治仕候

 得共不相叶一昨日相果申候葬方之儀は若狭町松原え土葬申付
 筈御座候此段御在番所え御届可被申上旨摂政三司官被申
 付候  以上
  七月十七日         湧川親雲上
 里主
 御物城
本文之通鎖之側湧川親雲上を以附渋休兵衛殿取次御在番所え
御届申上候事
 今日両勅使崇元寺え被差越諭祭之礼式被致執行饗応旁首
 尾能相済申候此段御届可申上旨摂政三司官申付候 以上
  七月廿日          湧川親雲上
本文里主小禄親雲上を以て御在番所え御届申上候事
 冠船々持渡候煙硝并武具致格護候様唐人共申出有之携之
 役々并唐人共宰領にて久米村松尾塩硝蔵え入置番人等相
 附見格護方入念候様申渡置候段浜比嘉親方申越有之候
 間此段御在番所え可被申上旨摂政三司官被申付候 以上
  八月三日        与那原里之子親雲上
 里主
 御物城
本文之通鎖之側湧川親雲上を以附役市来善兵衛殿取次御在
番所え御届申上候事
 来廿七日冊封之規式被執行候由両勅使より久米村惣役を以被申
 聞候此段御届可申上旨摂政三司官申付候  以上
  八月廿一日         湧川親雲上
本文右同人を以市来善兵衛殿取次御在番所及御相談
相済候事

 津波古親雲上事進貢使并請封願之使者兼務にて被差渡願
 通相済此節致帰帆候は例年進貢使者は御国元之勤相済候以後
 紫冠不被申付候得共請封兼務之節は冊封礼式相済次第則紫冠不
 被申付候ては対勅使成合不申候間津波古事追て冊封礼式相済候
 はゝ紫冠被申付御国元えも其段申上候様仕度候先年冠船
 之節も御在番奉行御相談之右之振合を以取計為申事御
 座候此段御相談可申上旨摂政三司官申付候 以上
   八月廿一日         湧川親雲上
本文里主小禄親雲上を以申上候事
 来廿七日御奉行様御役々衆御出冊封規式御覧成被候様国
 王より被申上置候然は早々御登不被成候て不叶儀御座候間
 明け六時分城え御入被成候様可被申上候尤御通路筋之儀は平
 良矼より久場川桃昌院宮城筑里之親雲上屋敷前新橋より
 渡嘉敷里之子屋敷前御通継世門より御入被成候様是又
 可被申上候崎浜親雲上上平良矼差越御案内仕筈候
一御着替所城店え申付置候間直御登城被成候様可被申上候
 右之通可被申上旨摂三司官被申付候
   八月廿三日         湧川親雲上
 里主
 御物城
本文之通鎖之側湧川親雲上を以附役渋谷休兵衛取次御在
番所え御届申上候事
 冊封之規式相済候為謝礼来月四日国王勅使旅館え差越筈
 御座候此段御届可申上旨摂政三司官申付候 以上
   八月廿八日         湧川親雲上
本文右同人を以附役渋谷休兵衛殿取次御在番所え御届

申上候事
 来八日為仲秋宴先例之通両勅使招請被致筈御座候
 此段御届可申上旨摂政三司官申付候
   九月三日          湧川親雲上
本文右同断
  口上
 来八日為仲秋宴両勅使城元え被差越候間大美殿え
 御越行列御覧被成候可申上旨国王被申付候此旨
 摂政三司官申付候    以上
   九月三日          湧川親雲上
 来八日為仲秋宴両勅使城元え被差越候間横目衆附
 衆えも大美殿え御出行列御覧有之候様可申達旨
 王被申付此段各にて可被申上旨摂政三司官被申付候 以上
   九月三日          湧川親雲上
  里主
  御物城
本文之通鎖之側湧川親雲上を以附役市来善兵衛取
次御在番所え御届申上候事
 冊封之為謝礼昨日国王勅使旅館え被差出候処両勅使対
 顔被致料理馳走有之礼儀旁首尾能相済申候此段御届
 申上旨摂政三司官申付候  以上
   九月五日          湧川親雲上
 来十一日両勅使弁之嶽見物被差越筈之由惣役申越候
 然は早朝被罷登筈之由候間於譜久山親方宅拾二碗之料理
 致馳走夫より弁之嶽え被罷出見物相済候はゝ与那城王子
 宅え申入拾六碗之料理致馳走筈御座候此段各にて御届可

被申上旨摂政三司官被申付候  以上
                 湧川親雲上
  里主
  御物城
本文之通鎖之側湧川親雲上を以附役市来善兵衛殿
取次御在番所え御届申上候事
 昨日為仲秋宴両勅使招請被致先例之通料理馳走
 躍花火等見物有之夜入五時分被致帰館候此段御届
 可申上旨摂政三司官申付候  以上
   九月九日          湧川親雲上
本文里主小禄親雲上を以申上候事
 今日両勅使弁之嶽見物に被差越譜久山親方与那城王
 子宅え招請仕筈候処両天相成被召延候此段御在番所
 え被申上候      以上
   九月十一日         湧川親雲上
  里主
  御物城
 明十四日両勅使末吉社見物被差越筈之由惣役申越候然は
 早朝被罷登筈之由候間於宜野湾親方宅拾二碗之料理
 致馳走夫より末吉社檀え相越見物相済候はゝ具志川王子宅
 え申入拾六碗之料理致馳走筈御座候此段各にて御届可被申
 上旨摂政三司官被申付候    以上
   九月十三日         湧川親雲上
  里主
  御物城
 来十八日為重陽宴先例之通両使招請被致筈御座候此段

 各にて御届可被申上旨摂政三司官被申付候 以上
   九月十三日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文御物城仲本親雲上を以御届申上候事
 昨日七過分両勅使末社檀為見物被差越候付宜野湾
 親方宅え申入王子三司官相伴にて料理致馳走夫より末
 吉え被差越筈候処雨天模様にて取止に被仕候付真に具
 志川王子宅え申入右同断致馳走躍等見物有之夜入
 五分帰館被致候此段御在番所え御届可被申上旨摂
 政三司官被申付候    以上
   九月十三日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文里主小禄親雲上を以申上候事
 両勅使弁之嶽見物之儀雨天に付被召延置候処明十六日被差
 越候旨申来候間先達て及御届候通譜久山親方与那城
 王子宅え招請仕筈御座候此段御在番所え可被申上候以上
   九月十五日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文右同断
 昨日八過時分両勅使弁之嶽為見物被差越候付譜久山親方
 宅え申入料理馳走相済弁之嶽見物は雨天に付被取止与那城
 王子宅え申入料理馳走躍等見物被致候最初より王子三司官
 其外役々出合取持仕夜入五時過時分被罷帰候此段御在番所え御

 届可申上旨摂政三司官被申付候  以上
   九月十七日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文之通鎖之側湧川親雲上を以附役渋谷林兵衛殿取次
御在番所え御届申上候事
 昨日為重陽宴両勅使招請爬龍舟漕躍等見物饗応旁
 先例之通相済入相時分被致帰館候此段御届可申上旨摂
 政三司官申付候  以上
   九月十九日         
  里主
  御物城
本文之通鎖之側湧川親雲上を以附役渋谷林兵衛殿取次御在
 番所え御届申上候事
 昨日為重陽宴両勅使招請爬龍舟漕躍等見物饗応旁先
 例之通相済相時分被致帰館候此段御届可申上旨摂政三司
 官申付候     以上
   九月十九日         湧川親雲上
 明後廿一日両勅使為餞別先例之通招請被致筈御座候此
 段各にて御届可被申上旨摂政三司官被申付候 以上
   九月十九日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文里主小禄親雲上を以御届申上候事
 来廿四日勅使為暇乞城元え被差出同廿八日勅使旅館え国王
 被差越暇乞被申入筈御座候此段御在番所え御届可

 被申上旨摂政三司官被申付候    以上
   九月廿一日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文御物城仲本親雲上を以御届申上候事
 昨日両勅使為餞別招請先例之通料理馳走躍等見物有之
 六過時分被致帰館候此段御在番所え御届可申上旨摂
 政三司官被申付候
   九月廿二日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文右同断
 昨日両勅使為暇乞八過分城元え被罷出候付先例之通
 料理馳走躍等見物   帰館之砌真和知殿え申入攅盆
 差出送酌被入相時分被罷帰候此段御在番所え御届可
 被申上旨摂政三司官被申付候
   九月廿五日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文右同断
 昨日国王為暇乞勅使旅館え被罷出躍為仕料理馳走等
 先例之通相済夜五過時分被罷帰此段御在番所え御届可
 被申上旨摂政三司官被申付候    以上
   九月廿九日         湧川親雲上
  里主
  御物城

本文之通鎖之側湧川親雲上を以附役市来善兵衛殿取
次申上候事
 二号船之方共船功之者居少冬向遠海之灘乗渡方船方
 手弱有之候ては別て無心元候当地船方先例乗付候五人
 之外今五人相重都合拾人乗せ付候様都司申出有之無余
 儀訳合にて弥其通差渡申筈御座候此段可申上旨摂政
 三司官申付候         以上
   十月十一日         湧川親雲上
本文里主小禄親雲上を以御届申上候事
 昨日両勅使鳥渡崎山屋敷識名屋敷見物被致候段久
 米村惣役より申越有之八過時分崎山屋敷え被罷登夫より
 敷識名屋敷え被差越遊覧被致候右付摂政三司官其外役々
 致同伴於崎山屋敷茶菓子敷識名屋敷にて茶菓子吸物三致馳
 走六過時分帰館被致此段御番所え御届可被申上旨摂
 政三司官被申付候       以上
   十月十六日         湧川親雲上
  里主
  御物城
 小唐船之儀出帆遅成候ては進貢使上京及遅延元旦朝見之
 勤間に逢不申候付順風次第冠船并謝恩使乗船より先出帆仕
 度旨両勅使相伺其通相済最早順風相成候付明朝出帆可致段役
 者船頭申出候右之趣各にて御在番所え可被申上候 以上
   十月十七日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文里主小禄親雲上を以御届申上候事

 来廿四日勅使乗船付国王那覇於迎恩亭節被相送且又
 勅使付て皇帝安否被相伺筈御座候此段御在番所え
 御届所え御番所え御届可被申上旨摂政三司官被申付候 以上
   十月廿日         湧川親雲上
  里主
  御物城
本文御物城仲本親雲上を以御届申上候事
 今日勅使乗船付国王那覇於迎恩亭節被相送且又勅使付て
 皇帝安否被相伺候段申上置候処国王不快付日柄被相延候
 此段御在番所え御届可被申上旨摂政三司官被申付候 以上
   十月廿四日        湧川親雲上
  里主
  御物城
本文右同断
 兵役鄭日陞と申唐人病気煩此程養生仕候得共不相叶一昨
 夜相果申候葬式方之儀は若狭町松原え土葬申付筈御座候此
 段御在番所え御届可被申上旨摂政三司官被申付候 以上
   十月廿四日        湧川親雲上
  里主
  御物城
本文右同断
 勅使乗船之儀国王不快付日柄被召延置候処最早快く相成
 候付久米村惣役を以日柄被相伺候処今日乗船被致候段
 被申聞候此段御在番所え御届可被申上旨摂政三司官被申付候
   十月廿六日        湧川親雲上
  里主

 御物城
本文里主小禄親雲上を以申上候事
 従客亡林子香死骸唐え被持帰由にて今日二号船え被
 乗付候由把門官申出候段惣役長史申出候間此段御在番
 所え可被申上候         以上
                湧川親雲上
  里主
  御物城
本文右同断
 昨日両勅使被致乗船候付兼て及御届候通国王那覇え被差
 越於迎恩亭節被相送皇帝安否被相伺礼式首尾相済
 七時分被乗船候此段御番所え御届可被申上旨摂政三
 司官被申付候          以上
   十月廿七日        湧川親雲上
  里主
  御物城
本文右同断
 冠船艘并謝恩使乗船只今致出帆候段船頭共申出候間
 此段御番所え可被申上旨摂政三司官被申付候 以上
   十一月四日        湧川親雲上
  里主
  御物城
本文御物城仲本親雲上を以申上候事
 冠船両艘并謝恩使乗船致出帆候由船頭共申出候段は先
 刻申上置候通にて謝恩使乗船は先達て出帆冠船両艘も
 追付致出帆候処船達者に無之川口浅之処え風波に被寄

 付候間追て挽舟を以て湊内え挽入可申候先此段可被申
 上旨摂政三司官被申付候
   十一月四日        湧川親雲上
  里主
  御物城
本文里主小禄親雲上を以申上候事
 昨日冠船両艘出帆之砌川口浅之所え風波被寄付候処
 挽舟を以今朝湊内え挽入置申候尤両艘共痛所は無之由船
 頭申出候得共荷繰等致損所有之候はゝ重て可申上候此
 段御在番所え可被申上旨摂政三司官被申付候 以上
   十一月五日        湧川親雲上
  里主
  御物城
本文御物城仲本親雲上を以申上候事
 冠船両艘去四日出帆之砌川口浅之所え風波に被寄付候時痛
 所等可有之哉委見分させ候処頭号船楫二号船艪表包板
 少々相損候付早速修補申付最早順風次第出帆仕筈御
 座候此段御番所え可被申上旨摂政三司官被申付候
   十一月九日        湧川親雲上
  里主
  御物城
本文之通日帳主取与那原里之子親雲上を以附役渋谷休
兵衛殿取次御在番所え御届申上候事
 頭号船々頭西銘筑登之親雲上事唐船頭と不和有之召替
 候様勅使より沙汰有之船功之者見合大嶺筑登親雲上
 と申者乗替差渡申候此段御届可申上旨摂政三司官申付候 以上

 附
  乗替候者例之通誓詞申付筈候処急に相成候故仮里主大
  和横目出張御条書之趣相守候様堅申付置候
   十一月十日        与那原里之子親雲上
本文里主小禄親雲上を以申上候事
 冠船両艘只今致出帆候間此段御在番所え可被申上旨
 摂政三司官被申付候       以上
   十一月十日        湧川親雲上
  里主
  御物城
本文右同断
 冠船両艘昨日那覇川出帆七時分慶良間島阿波連崎三
 里程沖致通船候段飛舟を以て申来候間此段御番所え
 御届可被申上旨摂政三司官被申付候  以上
   十一月十一日       湧川親雲上
  里主
  御物城


冠船付諸事勤方并
   勅使方々被差越候次第

     寅六月廿一日
一両勅使並遊撃弾圧官乗合之船一艘都司其外附添候者共乗船
 一艘今月九日唐出帆都司乗船は同十五日勅使乗船は翌十六日久米
 島汐掛同十七日両艘共同所出帆同夜二更時分より和風相成通
 船不募行由にて挽舟差遣候様右両艘へ乗合の久米村人並久
 米島相番人より追々申越有之早速挽舟差遣今日
 入相時分那覇川口乗参候得共追付夜入湊内へ難乗入沖掛
 仕候付長船中付ては可為退屈早々下船被致候様中議大夫差遣
 勅使へ被申達候処明日下船被致候有之候
 附
 勅使乗船へ接封大夫真栄里親雲上並船頭佐事水主共
 琉人七人為案内者乗せ都司乗船へも古存留楚南里之
 子親雲上並佐事水主四人乗せ付有之候

一頭接之使者中議大夫一人小舟漕出相迎両勅使へ進物遣被
 遣候品員数別冊有之
  但使者舟屋形並鳥居立檣上に風見旗付其下に赤染木
  棉布に恭接の二字書候旗引之
一二接之使者王舅一人正議大夫一人小舟漕出右同断
  但舟飾前条同断
一三接之使者三司官一人久米村紫金大夫一人小舟漕出相迎候
  但
 一舟飾前条同断
 一此時進物無之
   同廿二日
一勅使乗船今日那覇湊内被乗入候付当官使者にて祝物被
 遣候品員数前条同断
  附
一遊撃弾圧官へ都通事一人船元相迎祝物被遣候員数別冊有
 之
一都司へも右同断祝物被遣候品員数別冊有之
一天保九戌年冠船之節は参将両人弾圧官一人渡来有之候処此
 節は遊撃一人都司一人弾圧官一人渡来有之候三人共取持方
 等の儀は戌年例通申付候
一国王迎恩亭へ被罷出使者を以勅使下船被候申達九時分下有之
 節並勅詔勅書諭祭文海神諭祭文等通堂崎へ差卸
 龍亭に載拝領物は彩亭に載候て先に相備被通候国王
 中途へ被出迎両勅使も下轎にて礼儀有之済て迎恩亭へ龍
 亭彩亭居両使龍亭左右に立国王より惣役を以皇帝安否
 被相伺済て龍亭へ向国並三司官以下諸官三跪九叩頭仕勅使

 旅館へ被相越候間三司官以下諸官先相備罷通龍亭
 彩亭旅館へ居三司官以下三跪九叩頭仕退去
  附 詔勅拝礼の時楽有之
一国王勅使旅館へ被差出安否被相尋候付両勅使対顔
 互に一跪三叩頭の礼式有之茶出被罷帰候
  附
一両勅使へ下馬飯看卓食卓一宛当官長史を以被遣候
一遊撃都司弾圧官へも右同断都通事を以被遣候
一勅使以下末々迄毎日賄料遣候品員数別冊有之
  同廿五日
一冠船両艘の船神菩薩龍亭へ勧請仕中途行列にて上の
 天后宮へ安置被仕候
一両勅使久米村孔子廟並上の天后官初て参詣被致以後朔
 望其外にも折々参詣被致候
  七月廿日
一両勅使崇元寺へ被差越尚育王へ諭祭執行に付勅使旅館へ
 為迎三司官一人王舅一人其外諸官差越両勅使へ一跪三叩頭
の礼儀済て諭祭文龍亭に載香奠絹銀彩亭載三司官以
下右へ向三跪九叩頭仕四過時分勅使発駕三司官以下先に
相備罷通
一尚育王神位廟前庭仮檀へ致安置国王門外被差出龍亭
 彩亭被相迎諸官を率三跪九叩頭の拝礼済て先達て
 被罷帰尚育王神位の側に被立扣
一龍亭廟内へ居彩亭宣読台の側居勅使龍亭左右に被立
 国王廟前庭にて諸官を率龍亭へ向三跪九叩頭被仕諭察の文
 捧軸官宣読台へ持登相飾引次展軸官宣読官右台に登各立

 扣両勅使神位の前へ被罷出焼香祭酒有之相済捧軸官展軸官
 両人にて諭祭文開展宣読官読之済て国王瘞坎へ被差寄諭祭
 文の写並香奠元宝紙被焼収本の座へ被罷帰追付捧軸官
 諭祭文本の通龍亭へ載国王諸官率謝恩の拝礼三跪九叩頭
 被仕両勅使より神位へ一跪三叩頭有之相済神位廟内へ安置仕
 左候て神位へ両勅使拝礼被致候為謝礼国王一跪三叩頭
 被致勅使よりも又以返礼有之旁相済惣役を山門へ被申入互に
 一跪三叩頭の礼儀相済国王相伴にて二十碗の料理馳走有之
 八過時分勅使被罷帰候付国王門外被罷出礼儀有之
  附
一銀壱貫目素絹五拾疋香奠有之
一遊撃都司弾圧官へは摂政相伴にて十六碗の料理馳走有之
一勅使被召列候客唐人は久米村紫金大夫相伴にて十二碗の料理
 馳走有之
一右の謝礼早速三司官を以被申達礼物は当官長史を以被
 差遣候品員数別冊有之
一遊撃都司弾圧官へは久米村惣役を以謝礼被申入礼物は都通
 事を以被差遣候右外の人数へは礼物長史を以銘々相届候品員
 数右同断
  八月廿七日
一冊封の礼式執行に付勅使旅館へ為迎三司官一人王舅一人其外
 諸官差越両勅使へ一跪三叩頭の礼儀畢て節並勅詔勅書龍
 亭に載拝領物は彩亭に載三司官以下右へ向三跪九叩頭仕済
 て四過時分両勅使発駕三司官以下先に相備罷通国王守礼
 門前被差出龍亭彩亭被相迎諸官を率三跪九叩頭の
 拝礼済て城の庭へ先被差越居

一龍亭彩亭奉神門内へ居両勅使轎執事人節の衣を加正
 使へ授勅詔勅書は副使へ授拝領物は奉幣官捧之勅使並
 右役役闕庭へ登銘々台に相直勅使左右に被立右役々は闕庭
 の下へ引宣読官宣読台の下に立国王闕庭へ登香を被焼庭
 へ退出諸官を率三跪九叩頭被仕候右済て捧詔官捧勅官闕
 庭へ登副使より勅詔勅書開展宣読官一同宣読台へ登捧
 詔官捧勅官両人にて勅詔勅書開展宣読官読之国王諸官平
 伏にて聴聞仕済て勅詔勅書闕庭へ持登副使請取如本台へ
 被相直候間国王諸官を率右同断拝礼有之又国王闕庭へ被
 登正使より拝領物被授妃への拝領物は国王庭にて右同断拝礼
 相済又国王闕庭へ被登詔勅は伝国の宝仕度候間被留置
 度旨阿口通事を以被申達尚育王代の詔勅入披見副使より新
 詔勅国へ被相渡候付被頂之如本台に相直又庭にて右同断
 拝礼相済正使節被取揚執事人節の衣を加最前の通台
 に相直左候て詔勅拝領取収
一右相済両勅使本殿二階へ被登先代皇帝より被下置候
 額拝見被仕
一右旁相済勅使並国王着替被致惣役を以北宮へ被申入
 互に一跪三叩頭の礼儀にて着座茶馳走相済王子三司官紫
 巾官耳目官罷出一跪三叩頭仕済て随封の官人罷出国王へ三
 楫付又巡捕書吏内史兵役共罷一跪三叩頭仕相済又以勅使国
 王着替にて二十碗の料理並囲碟馳走相済七過時分勅使被罷
 帰候付国王歓会門外罷出節並両勅被相送候
  附
一国王へ拝領物巻物三拾疋妃へ拝領巻物弐拾疋
一冊封規式の時楽有之料理馳走の時は楽並琉歌三味線有之

一右謝礼並勅使以下末々迄礼物遣候諭祭同断品員数別
 冊有之
一遊撃以下料理馳走右同断
  九月四日
一冊封の礼式執行被致候為謝礼四時分国王勅使旅館へ
 被差出二門内にて下轎両勅使露台軒の下出迎互に一揖高館
 屋へ被申入一跪三叩頭の礼儀にて着座両勅使への進物披露
 有之茶相済互に着替被致勅使より二十碗の料理並囲碟馳
 走夜入時分被罷帰候右進物品員数別冊有之
  但料理馳走の時楽有之
   同八日
一仲秋宴として両勅使被申入七過時分城へ被差越付紫巾
 官二人耳目官二人歓会門外三司官二人王舅一人広福門前
 一跪にて相迎両勅使奉神門内にて下轎国王北宮の前被相迎
 互に礼儀有之北宮へ被申入一跪三叩頭にて着座茶相済琉球
 諸官又は随封の宮人等冊封同断参見相済勅使国王着
 替被致二十碗の料理並囲碟馳走座楽並躍被申付夜入候て舞
 台へ座敷相直火花見物有之夜五時分被罷帰候
  附
一右謝礼並進物当官長史を以被差遣候品員数別冊有之
一遊撃以下末々迄馳走方冊封同断
一都司不快の由にて不被差出候付都通事を以旅館へ十六
 碗の料理被相贈候
一遊撃以下末々迄進物被遣候品員数別冊有之
一勅使より躍人数へ品物被遣候以後躍見物の節々同断
  同十四日

一両勅使末吉社檀為見物七過時分被差越候付宜野湾親
 方宅へ申入具志川王子並摂政三司官王舅其外役々出合十二碗
 の料理致馳走右人数同志にて末吉社檀へ被差越筈候処雨天模様
 にて取止被仕直に具志川王子宅へ申入十六碗の料理馳走躍等
 見物被夜入五時分被罷帰候
  同十六日
一両勅使弁之嶽為見物八過分被差越候付譜久山親方宅へ申入
 前条の人数出合十二碗の料理馳走相済弁之嶽見物は雨天に付
 被取止与那城王子宅へ申入十六碗の料理馳走躍等見物被
 致夜入五過時分被罷候
  同十八日
一重陽宴として両勅使被申入此時城近に有之候堀にて爬龍
 舟漕させ候付国王兼て桟敷へ被差越居八過時分両勅使被差
 出候付国王桟敷階下にて被相迎座敷へ被申入互に一跪三叩
頭の礼儀畢て茶並櫕盆馳走爬龍舟見物相済国王先達て
城へ罷帰被待居追付両勅使被差出候付紫巾官耳目官三
司官王舅仲秋宴の通相迎両勅使奉神門内にて下轎国王北宮
の前被迎互に一揖有之北宮へ被申入跪三叩頭にて着座
 茶相済琉球諸官随封の宮人等参見料理馳走方躍見
 物等も是又仲秋宴同断相済入相時分被罷候
  附
一謝礼被申入候儀仲秋宴同断
一勅使以下末々迄進物被遣候儀右同断品員数別冊有之
一勅使被召列候以下末々迄馳走方仲秋宴同断
一遊撃都司弾圧官は不快の由にて不差出候付都通事
 を以各旅館へ十六碗の料理被差贈候

新版

【表紙】

新版琉球人てまり歌

【表紙】

新版琉球人てまり歌

【蔵書印】
琉球大学附属図書 1966,12,20  No,112048 
【手書き書込み】$4,17


【蔵書印】
仲原善忠文庫 琉球大学志喜屋記念図書館


【蔵書印】
琉球大学附属図書館蔵書印

【蔵書印・朱角印ふたつあり】

【本文はコマ5と6にて翻刻】

嘉永四辛亥年   【1851年】

(大)  正(ね) 二(むま) 四(み) 七(とり) 九(さる) 十一(ひつじ)

(小) 三(ね) 五(い) 六(たつ) 八(う) 十(とら) 十二(うし)  【資料は左にルビ】

新はんりうきうじん手まりうた


【以下はコマ6にて翻刻】

一ツとや【上部横書き】
 ひとがたとのさまさきへたち
 大せいでりうきうじんをば
 げうれつでつれてくる

二ツとや【上部横書き】
 ふたつならべてはたをたて
 やりをたてち□【「う」カ】ざんわう
 ふのふだをたてもたせます

三ツとや【上部横書き】
 みなさんこどもたちや大さはぎ
 けんぶつにあさからさはいで
 まいりますでかけます

四ツとや【上部横書き】
 よくもそろうてげうれつでは
 やたて大しやうぶんはみこしで
 中にたちまじめがほ

五ツとや【上部横書き】
 いつもくるときやあめがふるゆき
 がふるとう人びよりと人が
 いふもふします

六ツとや【上部横書き】
 むやみにたゝくはなんじやいな
 なんであろふへやたいこに
 どらにかねはやします

七ツとや【上部横書き】
 なんにするやらせいばいぼうせいり
 やうとうげかんにかつがせさ
 きにたちもたせます

八ツとや【上部横書き】
 やしきをいでゝみわたせばながむ
 れば日本人はひげがないと
 わらひますおかしがる

九ツとや【上部横書き】
 こたかいまどから女中たち
 けんぶつにとうめがねで
 りうきう人が貌を見るのそきます

十ヲとや【上部横書き】
 とじようもすんでおめで
 たくこともなくりうきう
 さしてかへりますもどります


【背表紙】

【整理ラベル・0995/R98】

沖縄縣地誌略

沖繩縣地誌畧 全

沖繩縣地誌畧 全

【前半五行判読不可】
スシテ。普通敎育全管ニ洽ク。啓智發蒙ノ具備ハ
レリト謂ツヘシ。唯本縣地誌ニ至リテハ。小學ノ
用書ニ充チ。幼童ノ誦讀ニ給スヘキ善本ナシ。將
ニ其書ヲ編成セントスルニ際シ。嘗テ師範校ニ
於テ起草シタル稿本アリ。因テ修正委員ヲ撰ミ。

沖繩縣地誌畧
   附言
沖繩縣ノ學事ニ於ケルヤ。去ル十三年。學制ニ據
リ學區ヲ分チ。那覇ニ師範校。首里ニ中學校。各間
切各離島ニ小學校ヲ置キシヨリ。未タ數年ナラ
スシテ。普通敎育全管ニ洽ク。啓智發蒙ノ具備ハ
レリト謂ツヘシ。唯本縣地誌ニ至リテハ。小學ノ
用書ニ充チ。幼童ノ誦讀ニ給スヘキ善本ナシ。將
ニ其書ヲ編成セントスルニ際シ。嘗テ師範校ニ
於テ起草シタル稿本アリ。因テ修正委員ヲ撰ミ。

務メテ事實ヲ取リ。虛飾ヲ去リ。更ニ校訂再三。遂
ニ活版ニ附シ。吾縣下ノ學童ヲシテ。本國ノ形勢
ヲ畧知セシメント云爾。

 明治十七年仲秋

      沖繩縣令從五位西村捨三識

   例言
一本編中那覇ヲ距ル、凡ソ幾里トアルハ。里程元
 標ヨリ各役所、若クハ各番所ニ距ルノ里程ニ
 シテ。之ヲ町數ニ止メ。戸數人口モ。亦大槪ヲ擧
 クルヲ以テ十位ニ止ム。其末數ハ皆之ヲ畧ス。
一此書ハ。小學生徒ノ爲ニ。編成シタル書ナレハ。
 力メテ簡單ノ熟字ヲ使用シ。讀ミ且解シ易カ
 ラシム。又地名ノ類ニハ。字傍ニ雙線ヲ施シ。官
 衙社寺及ヒ邸第姓名等ニハ。單線ヲ施シテ。以
 テ讀者二便ニス。

沖繩縣略圖 2/1

沖繩縣略圖 2/2

沖繩縣地誌畧
             沖繩師範學校編纂
    總論
沖繩ハ西海道薩摩ノ南、海中ニ散在セル島國ナ
リ。北緯二十四度十分ヨリ。二十七度五十分ニ至
リ。經度ハ西經十一度十分ニ起リテ。十六度五十
二分ニ止ル。東ハ太平洋ニ面シ。西ハ淸國ノ福建
泉州ト、遙々海水ヲ隔テ。北ハ麑島縣大島諸島ト、
地脉相連レリ。西南ハ台灣島ニ密邇ス。戸數七萬
五千五百七十餘ニシテ。人口三十六萬三千八百
三拾餘アリ。

全國ハ三大島、及ヒ許多ノ島嶼ヲ以テ國ヲ立ツ。
北ニ在ル一大島ヲ沖繩島ト云ヒ。其近海ニ散在
セル慶良間久米伊平屋伊江渡名喜粟國鳥島津
堅久高等ノ諸島ヲ以テ之ニ附シ。南ニ在ル宮古
八重山二大島ヲ兩先島ト云フ。其近海ニ並列セ
ル伊良部來間多良間大神池間水納武富波照間
鳩間西表小濱黑島新城與那國等ノ諸島ヲ以テ
之ニ属ス。而シテ與那國島ハ。西表島ノ西南、凡五
十里許ニアリ。台灣ヲ距ルコト甚タ遠カラス。中
ニ就キ。沖繩島最モ大ナリ。因テ本島トナシ。其名
ヲ以テ諸島ノ總稱トス。
山脉ハ國頭ノ極北邊戸西銘ノ二山ニ起リテ蟠
結シ。延テ中頭ニ移リ。蜿蜒起伏シテ。島尻ニ馳セ。
慶良間久米宮古ニ濟リ。八重山ニ赴キ。再ヒ崛起
シテ西南ニ盡ク。
山ノ高峻ナル者。國頭ニ嘉津宇岳恩納岳アリ。中
頭ニ辨ケ岳アリ。八重山ニ於茂登岳古見岳アリ。
是其大ナルモノ。其他到ル處山峯甚タ多シ。
川流ハ土地狹小ナルカ故ニ長大ナラス。但國頭
ノ安波川大川。中頭ノ天願川ヲ稍長流トス。其餘

ハ皆小川ナリ。
氣候ハ熱帯地方ニ接近セルヲ以テ。四時暖燠ニ
シテ。盛夏炎威殊ニ酷シ。華氏ノ寒溫儀。五十度乃
至九十六七度ノ間ニ昇降ス。隆冬ト雖トモ。霜雪
ヲ見ス。草木恒ニ靑葱タリ。
物產ハ飛白、蕉布、紬、細上布、砂糖、蕃藷、燒酎、藺席、藍、
蘇鉄、烏木、漆器、鼈甲、豚最モ著名ニシテ。穀物、煙草、
陶器、牛馬、魚介、菓物等ナリ。
    本島
本島ハ周回凡一百十餘里。東北ヨリ斜メニ西南
ニ至ル。綿亘凡四十里。廣袤或ハ一二里。或ハ八九
里齊シカラス。地形恰モ虬龍ノ海上ニ泛フカ如
シ。之ヲ大別シテ國頭中頭島尻ノ三地方トス。一
ニ國頭ヲ北山ト云ヒ。中頭ヲ中山ト云ヒ。島尻ヲ
南山ト云フ。更ニ又小別シテ首里那覇ノ二邑、及
ヒ三十五間切トス。東北隅ヲ邊戸岬ト云ヒ。西南
隅ヲ喜屋武岬ト云フ。東ニ伸出セルヲ勝連知念
ノ二岬トシ。西ニ斗出セルヲザンパ岬トス。
    中頭
中頭ハ本島ノ中央ニ位シ。東北ハ國頭ニ連リ。西

南ハ島尻ニ界シ。南北二方ハ海ニ枕ム。山脉東北
ヨリ西南ニ亘リ。奇峯峻嶺ナク。平坦ノ地多クシ
テ。且地味ノ肥沃ナル。本島第一タリ。之ヲ分チテ
首里那覇ノ二邑浦添西原冝野灣中城勝連與那
城具志川美里越來北谷讀谷山ノ十一間切トス。
那覇ハ中頭ノ西南端ニアリ。東ハ。眞和志間切ヲ
夾ミテ、首里ニ對シ。南ハ港灣ヲ隔テヽ、豐見城小
祿二間切ニ退對シ。西南二方ハ海ニ枕ム。地勢平坦
ナリ。分チテ西村東村久米村泉崎村若狹町村泊
村ノ六箇村トス。戸數五千九百五十餘ニシテ。人
口貳萬四千三百十餘アリ。
市街ハ海ニ臨ム一帶ノ地方半里トス。縣廳アリ
裁判掛アリ警察本署アリ那覇役所アリ師範學
校アリ醫院アリ。家屋櫛比。士民商賈相錯リテ之
ニ居ル。實ニ國中第一都會ノ地ナリ。東村ニ市塲
アリ。日々數千ノ人相集リテ。日用ノ物品ヲ賣買
ス。/ 𤍠(ネツ)閙(タウ) 殊ニ甚タシ。
那覇港ハ本國第一ノ埔頭ニシテ。商舶常ニ雲集
ス。而シテ港口暗礁多ク。港内底淺キヲ以テ。大船
ハ港外ニ碇泊ス。港ノ東南ハ灣益大ニシテ、底益

【右頁の上半分は図】那覇港

淺シ。潮水至レハ舟楫ヲ
通シ。潮水退ケハ平沙ト
ナル。唯中ニ一帶ノ細流
ヲ留ムルノミ。又灣内大
小二島アリ。大ナルモノ
ヲ奧武(オフノ)山ト云ヒ。小ナル
モノヲ 鵝森(ガーナーモリ)ト云フ。潮滿
ニ際シ。潮水 漫々(マン〳〵) 。湖山ノ
風致アルヲ以テ。詞人呼
ンテ 漫湖(マンコ)ト云フ。
渡地ハ島尻往來ノ渡頭タリ。古ヨリ小舟ヲ以テ
人ヲ渡セシガ。明治十六年。一大橋ヲ架シ往來ニ
便ス。名ケテ明治橋ト云フ。長サ凡六十間。國中第
一ノ長橋ナリ。橋東奧武山ノ西端。灣ニ臨ミ御物
城址アリ。昔時外國ト貿易セシ貨物ヲ藏メシ所
ナリ。今其址ニ一館ヲ新設シテ。博物塲トス。
三重城ハ那覇港口ノ北ニ、突出セル古壘ナリ。海
上ニ胷壁ヲ築キ。壁間砲門箭眼アリ。南小祿間切
ヤラサ鼻ノ古壘ト。港口ヲ夾ンテ相對ス。此古壘
ニ登レハ。眼界快豁。水天萬里際涯ナシ。唯西南煙

波中ニ慶良間諸島ヲ見ルノミ。
波ノ上ハ若狹町村ノ海濱ニアリ。斷崖數十仭詞
人呼ンテ筍崖ト云フ。其形ノ似タルヲ以テナリ。
崖上平坦ニシテ。細草、毛茸、靑氈ヲ布クカ如シ。祠
堂アリ三神ヲ祀ル。繞ラスニ石垣ヲ以テス。此崖
ニ登レハ。西ハ慶良間諸島ヲ控ヘ。北ハ讀谷山ザ
ンパ岬ヲ望ミ。東南ニ中頭島尻ノ連山綿亘シ。眺
望絕佳。古ヨリ勝地ヲ以テ名アリ。
泊港ハ那覇ノ東北隅ニアリ。港内狹ク水淺シト
雖トモ。亦小舶數十艘ヲ繫クヘシ。泊村ニ巨刹ア
リ。崇元寺ト云フ。尚氏ノ香華所ナリ。
㵼原ハ曬鹽塲ニシテ。南北二百四十間。東西八十
間。西北隅一帶ハ海ニ瀕ス。士民常ニ相集リテ。乘
馬ノ技ヲ演スル所トス。
物產ハ飛白、鹽、漆器、錫細工、蘇鉄、豚等ナリ。
首里ハ那覇ヨリ東ニ距ル、一里十一町。置縣前ノ
都城タリ。廣袤一里ニ充タス。東北ハ浦添西原二
間切ニ錯リ。西南ハ眞和志間切ニ界シ。東南隅ハ
南風原間切ニ斜接ス。之ヲ分チテ眞和志平等南
風平等西平等ノ三平等トス。更ニ又小別シテ眞

和志町端山川寒水川金城大中桃原當藏鳥小堀
赤田崎山儀保赤平汀志良次久塲川ノ十五村ト
ス。戸數四千九百五十餘ニシテ。人口二萬四千四
百餘アリ。地勢山谷ニ據リ。高低一ナラス。人家ハ
率ネ山腹ニ鱗次シ。繞ラスニ石垣ヲ以テス。道路
四達シ。那覇ニ亞キテ繁華ノ地タリ。
城ハ山ヲ鏟シテ之ヲ築キ。蠣石ヲ疊ミテ外郭ト
ナス。周圍九町。正殿ハ中央ノ高所ニアリ。殿閣二
層。南北八楹。十一門アリ。其位西ニ向フ。城内淸泉
アリ。瑞泉ト云フ。當今熊本鎭臺沖繩分遣隊ノ媖營
所タリ
町端(マチバタ)村ニ市塲アリ。商業
稍盛ナリ。
市塲ノ東ニ池アリ。龍潭(リウタン)
ト云フ周回凡三町/辨財(ベザイ)
天池(テンチ)ト相連レリ。潭二傍
フテ首里役所警察署中
學校中城邸等アリ。池畔
古松雜樹/鬱葱(ウツソウ)タリ。池水
ニ倒蘸(タウセウ)ス。尤賞月ノ勝地

【左頁の上半分は図】首里城

タリ。
辨財天池ハ一ニ圓鑑池(エンカンチ)ト云フ。中央ニ小祠アリ。
辨財天女ヲ祀ル。其東ニ圓覺(エンカク)寺アリ。尚氏ノ香華
所タリ。尚圓(シヨウエン)王以下藩主歷代ノ靈牌ヲ安置セリ。
矩模(キボ)宏大(コウダイ)。本國第一ノ巨刹ナリ。天界寺天王寺ノ
二刹ヲ合テ三大寺ト稱ス。
萬歲嶺(マンザイレイ)ハ中山門外ニアリ。松樹/暢茂(テウモウ)。風景尤モ佳
ナリ。中ニ祠堂アリ。千手觀音ヲ祀ル。
崎山(サキヤマ)村ニ尚氏ノ別莊アリ。即チ首里城ノ巽位ナ
リ。邸内花卉ヲ雜植ス。景致頗ル深邃(シンスイ)ナリ。
物產ハ燒酎、銀細工、鼈甲細工、織物、豚等ナリ
浦添間切ハ十四箇村アリ。東南ハ西原間切、及ヒ
首里ニ交リ。西ハ海ニ臨ミ。北ハ冝野灣間切ニ連
ル。那覇ヲ距ル凡二里二町ナリ。西岸ニ牧湊アリ
ト雖トモ。底淺クシテ泊舟ニ便ナラス。往昔鎭西
八郎源爲朝、歸帆ヲ揚ケシ所ト云フ。
勢理客川ハ前田村ノ山間ヨリ發シ。西流シテ小
灣村ニ至リ海ニ入ル。
仲間村ニ極樂山アリ。其巓ニ古城址アリ。往昔浦
添按司ノ據リシ處ト云フ。山中寺院アリ。龍福寺

ト穪ス。尚氏ノ香華所ナリ。
物產ハ米、砂糖、蕃藷、西瓜、蔬菜等ナリ。
西原間切ハ十八箇村アリ。東南ハ島尻ノ知念岬
ト、相對シテ海灣ヲ抱キ。西ハ浦添間切、及ヒ首里
ニ界シ。北ハ冝野灣中城二間切ニ連ル。那覇ヲ距
ル凡二里二十九町ナリ。
嘉手苅村ニ瓦屋アリ。内間御殿ト云フ。昔時尚圓
王、内間ノ地頭タリシトキ。卜居セシ處ト云フ。
辨ノ岳ハ南境ニ峙立シ。首里及ヒ南風原間切ニ
跨ル。其巓ニ尚氏ノ行香所アリ。士民進香スル者。
絡繹トシテ絕ヘス。
末吉川ハ伊志嶺久塲川兩村界ヨリ發源シ。末吉
村ヲ經テ。安謝港ニ至リ海ニ入ル。
末吉村ノ岡上ニ末吉神社アリ。眼界快闊。西ハ慶
良間ノ諸島ヲ眺ミ。南ハ首里城ヲ控ヘ。那覇ノ各
村近ク眼下ニアリ。眺望頗ル佳ナリ。
物產ハ浦添間切ニ同シ
冝野灣間切ハ十四箇村アリ。東ハ中城間切ニ界
シ。西ハ海ニ瀕シ。南ハ浦添西原二間切ニ交リ。北
ハ中城間切ノ一角ヲ承ケテ、北谷間切ニ連ル。地

味肥沃ニシテ。物產ノ多キコト。中頭地方ノ第一
タリ。中頭役所ハ冝野灣村ニアリ。那覇ヲ距ル凡
三里七町ナリ。
普天間村ニ洞穴アリ。闊サ凡五六間。深サ凡七八
間。洞中ニ祠堂アリ。普天間宮ト云フ。香華ノ者纚
纚相属ス。洞梁ハ石乳滴下凝結シテ、柱狀ヲ成セ
リ。幾百千ナルヲ知ラス。其短キモノハ、恰モ氷柱
ヲ懸ルカ如シ。實ニ南島中ノ一奇觀ナリ。
物產ハ米、大豆、砂糖、蕃藷、藍、煙草等ナリ。
中城間切ハ二十三箇村アリ。東ハ海ニ瀕シ。西ハ
北谷間切ノ一隅ヲ承ケテ、冝野灣間切ニ交リ。南
ハ西原間切ニ界シ。北ハ美里越來二間切ニ接ス。
地味ノ肥沃ナルコト。中頭地方ノ第二等タリ。那
覇ヲ距ル凡四里二十二町ナリ。
中城城址ハ本間切ノ中央山上ニ在リ。尚氏ノ忠
臣護佐丸建築セシト云フ。城壁今尚存ス。此地東
ハ海ニ臨ミ。西又遙ニ大洋ヲ控ヘ。眼界開豁。朝暮
日月ノ波際ヨリ、出沒スルヲ觀ルヘシ。實ニ絕景
ノ地タリ。
物產ハ米、麥、砂糖、蕃藷、煙草等ナリ

勝連間切ハ七箇村アリ。中頭地方ノ小間切ナリ。
東ハ與那城間切ニ連リ。西ハ海灣ヲ隔テヽ中城
間切ニ對シ。北ハ具志川美里二間切ニ錯リ。西南
ハ海中ニ斗出シ。其岬角遙ニ島尻ノ知念岬ニ對
ス。那覇ヲ距ル凡九里ナリ。
南風原村ニ古城址アリ。勝連城ト云フ。昔時勝連
按司阿摩和利、不䡄ヲ謀リシ所ニシテ。尤モ要害
ノ地タリ。破壁今尚存ス。津堅島ハ岬角ノ前ニ横
ハリテ。知念間切ノ久高島ト相竝ヘリ。周回凡五
里。其北ニ濱比嘉島アリ。與那城間切ノ平安坐高
離島ト相對ス。其距ルコト一里ニ過キス。
物產ハ砂糖、雜穀、蕃藷、藺席等ナリ。
與那城間切ハ九箇村アリ。勝連間切ト共ニ海中
ニ、斗出シタル半島ナリ。東南ハ海ニ面シ。西ハ勝
連間切ニ連リ。北ハ金武間切ノ七日濱ニ對シテ。
具志川間切ニ接ス。那覇ヲ距ル凡九里十八町ナ
リ。
高離伊計平安座ノ三島ハ。本間切ニ属ス。
物產ハ砂糖、雜穀、蕃藷、海魚等ナリ。
具志川間切ハ十五箇村アリ。東ハ與那城間切ニ

隣リ。南ハ海ニ瀕シ。西北ハ美里及ヒ金武二間切
ニ界ス。那覇ヲ距ル凡八里二十町ナリ。
天願川ハ源ヲ美里間切山城村ヨリ發シ。曲折東
流シテ。宇堅村ニ至リ海ニ注ク。長サ凡二里二十
七町。闊サ凡四五間ヨリ七八間ニ至ル。本島第一
ノ大川ナリト云フ。
物產ハ砂糖、穀類等ナリ。
美里間切ハ十九箇村アリ。西南ハ越來中城二間
切ニ界シ。東ハ具志川間切ニ交リ。北ハ金武恩納
二間切ニ連リ。東南隅ハ海ニ瀕シテ、泡瀨島ヲ控
ヘ。遙ニ津堅島ニ對ス。那覇ヲ距ル凡六里二十五
町ナリ。
泡瀨島ハ製鹽ノ業甚タ盛ナリ。
物產ハ砂糖、穀類、鹽、木炭等ナリ。
越來間切ハ十箇村アリ。南ハ中城間切ニ界シ。西
ハ北谷間切ニ接シ。東北二方ハ美里間切ニ連ル。
那覇ヲ距ル凡六里二十二町。別ニ地ノ說クヘキ
モノナシ。
物產ハ砂糖、穀類、蕃藷、蜜柑、楊梅、木炭等ナリ。
北谷間切ハ十二箇村アリ。東南ヨリ西北ニ亘リ。

北ハ讀谷山間切ニ交リ。東ハ越來中城二間切ニ
界シ。西ハ海ニ面シ。南ハ冝野灣間切ニ隣ル。地味
磽确ニシテ山林少ナシ。那覇ヲ距ル凡四里九町
ナリ。
漏池ハモルキ山ノ麓ニアリ。長サ百五十間。闊サ
七八十間。深サ十數尋アリ。本島第一ノ大池タリ。
野國川ハ源ヲウクマカヒ山ヨリ發シ。西流シテ
野國村ノ海ニ入ル。
物產ハ米、砂糖、蕃藷、苧麻、薪炭等ナリ。
讀谷山間切ハ十六箇村アリ。東南ハ恩納美里越
來三間切ニ連リ。西北二面ハ海水ヲ受ケ。西南隅
ハ北谷間切ニ接ス。地勢東南ヨリ西北ニ亘リ。海
中ニ突出ス。其岬角ハ卽チザンパ岬ナリ。山林少
ナク又水田ニ乏シ。然レトモ砂糖ノ多キコト。中
頭地方ノ第一タリ。那覇ヲ距ル凡七里餘ナリ。
比謝川ハ源ヲ越來間切ノ山中ニ発シ。具志川間
切ニ流レ。再ヒ越來間切ニ還ヘリ。北谷間切ノ漏
池ニ入ル。
座喜味村ニ古城址アリ。座喜味城ト云フ。城壁今
尚依然タリ。

楚邊村ニ洞穴アリ。闊サ凡十間。中ニ湧泉アリ。方
二間許ニシテ。深サ五六丈。是ヲ楚邊ノ暗川ト云
フ。本村二百六十餘家ノ飮料水タリ。
物產ハ砂糖、麥、大豆、蕃藷、薪炭等ナリ。
    國頭
國頭ハ本島ノ北方ニ位シ。南ハ中頭ニ界シ。東北
西三面ハ海ニ臨ム。到處山ナラサルハナシ。只僅
ニ海濱平地アルノミ。之ヲ分チテ恩納名護本部
今歸仁羽地大冝味國頭久志金武ノ九間切トス。
恩納間切ハ十二箇村アリ。海ニ沿ヒタル狹長ノ
地ニシテ。東ハ金武間切ト山脊ヲ分チテ西二位
ス。西北二方ハ海ニ瀕シ。南ハ讀谷山間切ニ交ル。
那覇ヲ距ル凡十一里二十町ナリ。
恩納岳ハ東境ニアリ。其高サ殆ント嘉津宇岳ニ
頡頏ス。其脉延テ北ニ走リ。久志邊野古ノ諸山ニ
連レリ。
海濱ハ岬灣出入シテ。恩納岬中央ニ突出シ。ヒル
恩納安富祖ノ諸港アリト雖トモ。皆口淺クシテ。
泊舟ニ便ナラス。
萬座毛ハ海ニ臨メル高原ナリ。名護本部二間切

ノ諸山ヲ眺メ。風景ニ富メリ。昔時國王巡視シテ
此處ニ至リ。萬人ヲ坐セシムヘシト云ヒシヲ以
テ。乃チ此名アリト云フ。
安富祖村ノ山中ニ瀑布アリ。イン瀧ト云フ。高サ
一丈ニ過キスシテ。闊サ一丈五尺アリ。其水流レ
テ前袋川トナル。
物產ハ米、麥、蕃藷、薪、海魚等ナリ
名護間切ハ十三箇村アリ。南東北ハ恩納金武羽
地今歸仁本部五間切ト山脊ヲ分チ。西ハ海ニ面
ス。地形弓狀ニシテ。自ラ港灣ヲ成セリ。地味稍肥
沃ニシテ水田多シ。那覇ヲ距ル凡十七里二十四
町ナリ。
名護岳ハ東南ニアリ。羽地間切ノタニヨ岳ト相
對峙ス。其南ニ石岳アリ。
湖平底ハ許田村ニアリ。泊舟ニ便ナル良港ナリ。
數久田村ニ瀑布アリ。轟原瀧ト云フ。高サ三丈。闊
サ五六尺ナリ。四面深林鬱蒼。夏時猶寒キヲ覺フ。
川流數派アリト雖トモ。皆細小ニシテ、獨リ屋部
川ヲ稍大ナリトス。源ヲ北方ノ山間ヨリ發シ。南
ニ流レ屋部村ニ至リテ海ニ入ル。

大兼久村ハ國頭地方、最モ繁盛ノ地ニシテ。國頭
役所及ヒ診察所等アリ。又東江村ニ名護警察署
アリ。
物產ハ米、麥、蕃藷、薪、海魚等ナリ
本部間切ハ十八箇村アリ。海中ニ突出セル半島
ナリ。西北ハ海水ヲ繞ラシ、伊惠島ト相對シ。東南
ハ山林ヲ分チテ、今歸仁羽地名護三間切ニ界ス。
那覇ヲ距ル凡二十一里十八町ナリ。
東南名護間切界ニ八重岳具志川岳アリ。皆高峻
ナリ。其上ニ聳ヘタルヲ嘉津宇岳トス。本島第一
ノ高山ナリ。
渡久地(トグチ)川ハ源ヲ大嵐(オホアラシ)山ヨリ發シ。西流シ渡久地
港ニ注ク。
渡久地村ニ同名ノ港灣アリ。那覇國頭往來ノ船。
必ス此灣ニ入リ。風定ルヲ待テ帆ヲ揭ク。灣ノ西
北ニ大小二島アリ。大ナル者ヲ瀨底(セソコ)島ト云ヒ。小
ナル者ヲ水無(ミンナ)島ト云フ。皆本間切ニ屬ス。
物產ハ米、麥、砂糖、藍、木材、薪等ナリ。
今歸仁(ナキジン)間切ハ二十一箇村アリ。西南ハ山林ヲ以
テ羽地名護本部三間切ニ界シ。東北二面ハ海ニ

【右頁の下半分は図】運天港

枕ム。那覇ヲ距ル凡二十
二里十町ナリ。
オツパ岳ハ玉城(タマグスク)村ノ南。
名護本部二間切界ニア
リ。樹木 攅鬱(サンウツ)セリ。
大井(オホヰ)川ハ本部間切 伊豆(イヅ)
味(ミ)村ノ山中ヨリ發源シ。
曲折北流シテ。炬(テー)湊ニ落
ツ。
仲宗根(ナゾネ)村ニ海灣アリ。炬
湊ト云フ。底淺ク浪高キヲ以テ。大船ハ繫クヘカ
ラス。
運天港ハ本間切ノ東北隅運天村ニアリ。大船數
十艘ヲ泊スヘシ。天然ノ良港ナリ。永萬中、源爲朝
運ヲ天ニ任セ、漂着セシ所。港ノ名ヲ得ル所以ナ
リ。
古宇利島ハ運天港ヨリ、二十町許ノ海中ニ在リ。
周回凡一里二十六町ナリ。
運天港上ニ百按司墓山アリ。山腹許多ノ髑髏ア
リ。之ヲ百按司墓ト云フ。山ノ名ヲ取ル所以ナリ。

親泊村ニ城墟アリ。山北王ノ割據セシ所ナリ。破
壁今尚存セリ。内ニ受劍石アリ。王滅亡ノ時。慷慨
劍ヲ振フテ擊チシモノト云フ。
物產ハ砂糖、米、麥、蕃藷、海魚、蕉布等ニシテ。蕉布ハ
殊ニ著名ナリ。
羽地間切ハ十九箇村アリ。東南西三面ハ山脊ヲ
分チテ、久志名護本部今歸仁四間切ニ界シ。西北
隅ハ海灣ヲ抱ケリ。土地肥沃。田野能ク開ケ。水田
ノ多キコト、國頭地方ノ第一タリ。那覇ヲ距ル凡
十九里十町ナリ。
タニヨ岳ハ東南隅ニ峙立シ。大川ハ源ヲ久志羽
地二間切界ノ山中ヨリ發シ。曲折北流シテ。吳我
村ニ至リ海ニ注ク。長サ凡二里餘ナリ。
勘定納港ハ屋我地島ニ渡ルノ渡頭タリ。
物產ハ米、麥、藍、木材等ナリ
大冝味間切ハ十六箇村アリ。南東北三方ハ羽地
久志國頭三間切ト山岳ヲ分チ。西一帶ハ海ニ枕
ム。到ル處山峯多ク平地少ナシ。那覇ヲ距ル凡二
十二里二十六町ナリ。
鹽谷ハ宮城島ニ對シテ大港ヲナス。滿潮ノ時ハ。

深サ七丈ニ至ルト雖トモ。港口淺クシテ。大船ヲ
容ルヽコト能ハス。
宮城島ハ周廻凡二十町許ノ小島ナリ。根呂銘饒
波根謝銘ノ諸川ハ。東南ノ山中ヨリ發源シ。皆西
流シテ海ニ入ル。
物產ハ蕃藷、穀類、薪等ナリ
國頭間切ハ十六箇村アリ。南ハ山林ヲ以テ、大冝
味久志二間切ニ牙錯シ。東北西三面ハ海ヲ環ラ
シ。本島ノ東北隅ニ突出セル半島ニシテ。最大ノ
間切ナリ。到ル處層巒重嶺耕地ニ乏シ。海濱僅ニ
水田アリ。那覇ヲ距ル凡二十五里三十四町ナリ。
間切内數所ニ嶮坂アリ。與那ノ高坂ト云ヒ。邊野
喜坂ト云ヒ。座中坂ト云ヒ。武見坂ト云ヒ。大川坂
ト云フ。中ニ就キ。座中坂嶮峻ニシテ著名ナリ。
邊戸岳西銘岳ハ極北ノ地ニ並立シ。其脉埀レテ
岬角ヲナス。邊戸岬是ナリ。其西ニ茅打萬端ト云
フ險處アリ。斷嵒屹立高サ數十仭。海風恒ニ强烈
ナリ。故ニ頂上ヨリ茅ヲ束ネテ投下スレハ。必ス
中間ニシテ解散ス。因テ此名アリ。
安波川ハ國頭地方第一ノ巨流ニシテ。上流ヲ大

川ト云フ。源ヲ福地又山ヨリ發シ。數十ノ溪水ヲ
並セ。東流シテ安波村ニ至リ海ニ入ル。長サ二里
七町十二間アリ。
ヤカビ川ハ大冝味間切屋嘉比村ノ溪間ヨリ發
源シ。濱村ニ至リ海ニ注ク。
石橋川ハ源ヲアナマタ山ヨリ發シ。大謝川ハオ
ホクビリ山ニ發源シ。共ニ奧間村ノ鏡池湊ニ落
ツ。
鏡池湊ハ本間切第一ノ良港ナリ。
物產ハ蕃藷、木材等ナリ。
久志間切ハ十九箇村アリ。東ハ海ニ面シ。南ハ金
武間切ニ界シ。西北ハ連山ヲ以テ、名護羽地大冝
味國頭四間切ニ斜接ス。地勢南北ニ伸ヒテ。東西
ニ縮マル。那覇ヲ距ル凡十八里二十三町ナリ。
久志岳邊野古岳ハ、大冝味名護羽地三間切戒界ニ
聳ヘ。マテラ山ハ、金武間切界ニ聳フ。皆高峻ナリ。
海濱ハ岬灣出入シ。南ニ邊野古岬アリ。北ニ安部
ノ岬角アリ。其間一大灣ヲナス。是ヲ大浦湊トス。
灣口底淺クシテ。船舶ノ出入ニ便ナラス。其他灣
港多シト雖トモ。皆狹小ニシテ、舟ヲ繫クニ冝シ

カラス。
物產ハ雜糓、蕃藷、木材、薪等ナリ
金武間切ハ八箇村アリ。東ハ海ニ瀕シ。西南ハ名
護恩納及ヒ中頭ノ美里三間切ニ連リ。北ハ山峯
ヲ以テ久志間切ニ界ス。地勢東西ニ長ク。南北甚
タ狹シ。耕地少キモ地味膏腴ナリ。那覇ヲ距ル凡
十二里二十九町ナリ。
海濱ハ岬灣出入シ。中央ニ金武岬アリ。遠ク海中
ニ斗出ス。冝野座湊漢那湊等アリト雖トモ。底淺
ク石多キヲ以テ。碇泊ニ便ナラス。
金武村ニ洞穴アリ。長サ一町餘。晝間モ炬火ヲ照
サヽレハ入ヲ得ス。
七日濱ハ南方ノ海濱ニアリ。砂磧深クシテ踝骨
ヲ沒シ。歩行捗取ラス。因テ此名アリ。古知屋㵼原
ハ久志間切ノ境ニアリ。潮水退ケハ平沙トナル。
西北ニ久志間切ノ諸山ヲ望ミ。東南ハ與那城間
切伊計高離平安座ノ三島ニ對ス。風景尤モ佳ナリ。
    島尻
島尻ハ本島ノ西南ニ位シ。東南西三面ハ海水ヲ
環ラシ。北ハ中頭ニ連ル。高山峻嶺ナク。地勢慢坡

平坦ニシテ。地味ノ膏腴ナル。本島ノ第二等タリ。
之ヲ分チテ眞和志小祿豐見城南風原大里佐敷
知念玉城東風平高嶺具志頭摩文仁眞壁喜屋武
兼城ノ十五間切トス。
眞和志間切ハ十二箇村アリ。東北ハ南風原間切、
及ヒ首里浦添間切ニ連リ。西南ハ豐見城間切、及
ヒ那覇ニ矩接ス。地形弓狀ヲナシ。地味最モ肥饒
ナリ。那覇ヲ距ル凡一里四町ナリ。
古波藏村ニ熊本鎭臺分遣隊ノ舊兵營アリ。又農
事試驗塲アリテ。和漢洋ノ蔬菜類ヲ培養セリ。
國塲川ハ南風原間切ヨリ來リ。豐見城間切眞玉
橋ヲ過キ。那覇港ニ入ル。安里川モ亦南風原間切
ヨリ發源シ。西北ニ曲流シテ、泊湊ニ落ツ。
識名村ニ尚氏ノ別莊アリ。邸内松樹雜木欝葱タ
リ。園中ニ大池ヲ穿チテ蓮ヲ植ユ。池ノ中央ニ石
橋ヲ架シ。周圍ニ花木芳草ヲ雜栽シ。池畔ノ岩穴
ヨリ淸泉噴出ス。景致頗ル幽邃ナリ。
物產ハ米、麥、大豆、砂糖、蕃藷、煙草等ナリ。
小祿間切ハ十五箇村アリ。東南ハ豐見城間切ニ
連リ。西ハ海ニ瀕シ。北ハ灣ヲ隔テヽ那覇ニ對ス。

地味ノ肥沃ナルコト。島尻地方ノ第一タリ。那覇
ヲ距ル凡二十六町ナリ。
ヤラサ鼻ハ那覇港ノ南ニ斗出セル古壘ナリ。海
上ニ胷壁ヲ築キ。壁間箭眼アリ。三重城ト港口ヲ
隔テヽ相對ス。登臨尤モ佳ナリ。
本間切ハ機織ノ業盛ニシテ。上國ヘ輸送ノ飛白
ハ。大半此地ノ產ト云フ。
物產ハ飛白、木綿縞、米、麥、大豆、砂糖、蔬菜、魚類等ナ
リ。
豐見城間切ハ二十一箇村アリ。東南ハ兼城東風
平南風原三間切ニ連リ。西ハ海ニ面シテ、小祿間
切ニ斜接シ。北ハ那覇灣ニ瀕シテ、眞和志間切ニ
錯ハル。那覇ヲ距ル凡一里三十町ナリ。
饒波川ハ大里間切ヨリ來リ。西流シテ那覇灣ニ
注ク。
物產ハ米、麥、豆、砂糖、蕃藷、蔬菜等ナリ。
南風原間切ハ十箇村アリ。東南ハ大里東風平二
間切ニ連リ。西北ハ豐見城眞和志二間切、及ヒ首
里ニ斜接シ。東北隅ハ中頭西原間切ニ界ス。那覇
ヲ距ル凡一里三十一町ナリ。

國塲川ハ源ヲ宮城村ニ發シ。安里川ハ辨ノ岳ヨ
リ發源シ。共ニ西流シテ、眞和志間切ニ入ル。
物產ハ雜穀、砂糖、蕃藷、木綿等ナリ。
大里間切ハ二十箇村アリ。西南ハ佐敷玉城具志
頭東風平四間切ニ連リ。北ハ南風原間切ニ界シ。
東ハ海灣ニ臨ミ。東北隅ハ中頭西原間切ニ接ス。
那覇ヲ距ル凡二里十九町ナリ。
與那原港ハ五六百石ノ船ヲ容ルヽト雖トモ。港
内暗礁多ク、底淺キヲ以テ。若シ風波起ルトキハ。䌫
ヲ解キテ。佐數間切ノ津波古灣ニ避ク。
物產ハ米、雜穀、砂糖、蕃藷、綿花等ナリ。
佐敷間切ハ九箇村アリ。西北ハ大里間切ニ接シ。
東南ハ知念玉城二間切ニ連リ。正北間切ノ中央
ニ海水突入ス。灣岸鹵田アリ。地形環狀ヲ成セリ。
舊城ハ佐敷村ニアリ。一ニ上城ト云フ。雜樹密生
セリ。三山ヲ滅ホシテ。本國ヲ一統シタル。尚巴志
王佐敷按司タリシトキノ城址ナリ。那覇ヲ距ル凡
三里二十八町ナリ。
物產ハ米、麥、砂糖、蕃藷、煙草、鹽等ナリ。
知念間切ハ十二箇村アリ。東南ハ海水ヲ繞ラシ。

西北ハ佐敷玉城二間切ニ連ル。西南ヨリ斜メニ
東北ニ伸出セル半島ナリ。其伸出シタル岬角。遙
ニ勝連岬ト相對ス。前面ニ久高島アリ。周回凡二
里二十町。本間切ニ属ス。那覇ヲ距ル凡五里三十
町ナリ。
物產ハ米、雜穀、砂糖、蕃藷、海魚等ナリ。
玉城間切ハ十四箇村アリ。東南ハ知念間切ニ連
リテ海ニ枕ミ。西北ハ具志頭大里佐敷三間切ニ
牙錯セリ。那覇ヲ距ル凡五里三十町ナリ。
物產ハ知念間切ニ同シ。
東風平間切ハ十一箇村アリ。島尻ノ中央ニ位ス。
東南ハ大里具志頭眞壁三間切ニ連リ。西北ハ高
嶺兼城豐見城南風原四間切ト犬牙相接ス。東風
平村ニ島尻役所アリ。那覇ヲ距ル凡四里六町ナ
リ。
本間切ハ地勢平坦ニシテ。地味稍肥沃ナリ。東南
隅ニ八重瀨岳アリ。島尻中第一ノ高山ナリ。
物產ハ米、麥、豆、砂糖、蕃藷等ナリ。
高嶺間切ハ五箇村アリ。東ハ東風平間切ニ錯リ。
西ハ海ニ面シ。南ハ眞壁間切ニ連リ。北ハ兼城間

切ニ接ス。地勢東西二長ク。南北ニ狹シ。那覇ヲ距
ル凡三里三十三町ナリ。
大里村ニ城墟アリ。南山城ト云フ。昔時南山王ノ
割據セシ所ナリ。破壁今尚存セリ。
與座村ニ湧川アリ。與座川ト云フ。島尻第一ノ淸
泉タリ。
物產ハ東風平間切ニ同シ。
具志頭間切ハ七箇村アリ。東ハ大里玉城二間切
ニ連リ。西北ハ摩文仁眞壁東風平三間切ニ斜接
シ。南一帶ハ海ニ瀕ス。那覇ヲ距ル凡五里十八町
ナリ。
物產ハ米、雜穀、砂糖、蕃藷、海魚等ナリ。
摩文仁間切ハ六箇村アリ。東南ハ具志頭間切ニ
連リテ海ニ臨ミ。西北ハ喜屋武眞壁二間切ニ矩
接ス。地勢狹小ニシテ。地味瘠薄ナリ。那覇ヲ距ル
凡五里八町ナリ。
物產ハ東風平間切ニ同シ。
眞壁間切ハ九箇村アリ。東ハ具志頭東風平二間
切ニ界シ。西ハ海ニ面シ。南ハ喜屋武摩文仁二間
切ニ連リ。北ハ高嶺間切ニ交ル。那覇ヲ距ル凡四

里ニ十六町ナリ。
物產ハ東風平間切ニ同シ。
喜屋武間切ハ五箇村アリ。東北ハ摩文仁眞壁二
間切ニ連リ。西南ハ海水ヲ繞ラシ。喜屋武岬海中
ニ突出ス。卽チ本島ノ南端タリ。那覇ヲ距ル凡六
里五町ナリ。
物產ハ雜穀、砂糖、蕃藷等ナリ。
兼城間切ハ九箇村アリ。東ハ東風平間切ニ接シ
西ハ海ニ瀕シ。南ハ高嶺間切二隣リ。北ハ豐見城
間切ニ界ス。那覇ヲ距ル凡三里九町ナリ。
糸滿村ハ報得川ノ南、海濱ニアリテ。狹隘ノ地ニ
九百餘ノ人家アリ。村人漁業ヲ以テ生計ヲ營ム
モノ多シ。故ニ捕魚ノ盛ナルコト。此地ヲ以テ本
國第一トス。
物產ハ米、麥、豆、砂糖、蕃藷、魚介等ナリ。
    属島
伊江島ハ本部間切ノ西北、凡二里許ノ海上ニア
リ。周回凡四里餘。中央ニ一座ノ石山屹立ス。伊江
城ト云フ。恰モ盆石ノ狀ヲナス。地勢高平ニシテ。
全島川流ナキヲ以テ水田ナシ。然レトモ地味肥

沃ニシテ。最良ノ砂糖ヲ產ス。戸數九百六十餘ニ
シテ。人口四千四百三十餘アリ。那覇ヲ距ル凡二
十三里ナリ。
物產ハ砂糖、蕃藷、藷酒、雜穀、魚介等ナリ。
伊平屋島ハ今歸仁間切ヨリ西北ニ距ル凡十里
許ノ海中ニ在リ。山林多クシテ平野少ナシ。伊平
屋伊是名野甫具志川屋ナハノ五島ニ分ル。戸數
七百十餘ニシテ。人口四千九百二十餘アリ。那覇
ヲ距ル凡三十里ナリ。
伊平屋島ハ周回凡四里二十六町アリ。一ニ葉壁
山ト云フ。尚氏ノ祖尚圓王ハ。此島ヨリ起リシト
云フ。
伊是名島ハ伊平屋ヲ距ル一里餘ニシテ。周回凡
二里十八町。伊是名村ニ城墟アリ。伊是名城ト云
フ。神山ハ勢理客村ニアリ。樹木櫕欝スト雖トモ。
土人山神ノ崇ヲ畏レ。伐採セスト云フ。
伊是名ト伊平屋ノ中間ハ。海底ノ凸凹殊ニ甚タ
シ。故ニ怒濤逆流シテ。渡船極メテ危險ナリ。
野甫具志川屋ナハ等ハ皆小島ニシテ。周回一里
ニ過キス。

物產ハ雜穀、魚介、薪炭等ナリ。
鳥島ハ那覇ヨリ北ニ距ル、凡八十里許ニアリ。周
回凡一里餘。噴火山ニシテ硫黃ヲ產ス。故ニ島民
採硫シテ、生計ヲ營ム者多シ。戸數七十餘ニシテ。
人口五百五十餘アリ。
慶良間島ハ一ニ馬齒山ト云フ。那覇ノ西七里ヨ
リ起レル羣島ニシテ。渡嘉敷座間味阿嘉ヤカヒ
コバ安室モカラクケルマ等ノ諸島アリ。之ヲ前
後ノ兩部ニ分チ。渡嘉敷座間味ノ二間切トス。戸
數三百九十餘ニシテ。人口千六百七十餘アリ。
渡嘉敷島最モ大ニシテ。周回凡三里。其他ハ大ナ
ルモノ一里餘。小ナルモノ數町ニ過キス。各島到
ル處山林アリ。樹木欝葱タリ。地味磽确ニシテ。耕
耘ニ適セス。
座間味島ニ阿護ノ浦アリ。天然ノ良港ニシテ。巨
舶數艘ヲ泊スヘシ。故ニ暴風起レハ。那覇港ノ船
舶。皆此浦ニ避ク。
物產ハ魚介、海松、鹿、薪等ナリ。
渡名喜島ハ慶良間島ノ西ニアリ。周回凡一里餘。
戸數百六十餘ニシテ。人口七百六十餘アリ。那覇

ヲ距ル凡二十六里ナリ。
島民ハ皆農ヲ業トス。然レトモ島中岡巒重疊。平
地少ナキヲ以テ物產ナシ。
粟國島ハ渡名喜島ノ西北、七八里許ニアリ。周回
凡二里餘。戸數六百六十餘ニシテ。人口四千八十
餘アリ。
島中山林ナク。地勢平坦ナリ。颶颱ノ虞殊ニ甚シ。
故ニ家屋ノ結搆。卑低ヲ極ムト云フ。
物產ハ眞綿、桑椹煎汁、雜穀等ナリ。
久米島ハ那覇ノ西、凡四十八里許ニアリ。周回六
里二十町。分チテ仲里具志川二間切トス。戸數千
二百十餘ニシテ。人口四千八百六十餘アリ
仲里間切眞謝村ハ、久米島役所ノ在ル所ナリ。又
診察所ノ設ケアリ。眞謝村ニ同名ノ湊アリ。然レ
トモ暗礁多クシテ。泊舟ニ便ナラス。
兼城湊ハ具志川間切ニアリ。船舶ヲ繫クニ宜シ
中央ニ宇江城大岳中森等ノ諸山アリ。又南端ニ
島尻山アリ。樹木繁茂ス。然レトモ平地多クシテ。土
壤ノ肥沃ナルコト。離島中第一ト云フ。
川流ハ具志川間切嘉手苅川ヲ第一トス。源ヲ仲

里間切ノ西山ニ發シ。西流シテ兼城湊ニ入ル、長
サ凡二里。大田川儀間川ハ之ニ亞テノ長流ナリ。
阿嘉村ニ二瀑布アリ。一ヲクヒリハンタト云ヒ
一ヲヒゲ水ト云フ。皆斷崖ニ懸ル。高サ各四丈餘
常ニ海風ニ激セラレ。空際ニ飛騰スルコト十數
丈。遠ク望メハ雲烟ノ如シ。頗ル奇觀ヲ極メタリ
物產ハ紬、藺席、最モ著名ニシテ。木材、名護蘭、海綿、
穀類、魚介等ナリ。
    兩先島
先島ハ那覇港ヨリ西南ニ距ル、凡九十里許ノ海
上ヨリ起リ。西南ハ台灣島ヲ距ルコト遠カラス。
島嶼凡二十。之ヲ分チテ宮古八重山ノ二大島ト
ス。
宮古島ハ周回凡十一里餘。分チテ砂川下地平良
ノ三間切トス。戸數五千六百三十餘ニシテ。人口
二萬六千六百九十餘アリ。那覇ヲ距ル凡九十四
五里ナリ。
砂川間切西里村ハ、宮古島役所ノ在ル所ニシテ。
又診察所ノ設ケアリ。
本島ハ地勢三稜形ヲナシ。西北ノ端海中ニ斗出

シ。南北兩岐ニ分ル。南ヲ西平安名岬ト云ヒ。北ヲ
世戸岬ト云フ。其他岬角甚タ多シ。沿海ハ沙線若
クハ岩石ニシテ。泊舟スヘキ所ナシ。只漲水湊ア
ルノミ。
島中ハ田圃原野ノミニシテ山林ナシ。家屋建築
材ノ如キハ。那覇又ハ八重山ニ仰クト云フ。
東北ニ方リテ。東西凡五里。南北凡一里二十町許。
潮水常ニ東方ニ激流ス。八重干瀨ト呼ヒテ。甚タ
危險ノ處タリ。
伊良部島ハ漲水湊ヨリ西ニ距ル、凡一里許ニ在
リ。周回凡四里二十町。其西南ニ多良間水納ノ二
島アリ。池間島大神島ハ東北ニ散在シ。來間島ハ
西南ニアリ。其大ナルモノハ周回凡三四里。小ナ
ルモノハ一里ニ過キス。
物產ハ穀類、紺細上布、飛白、牛馬、魚介等ニシテ。紺
細上布、飛白ハ殊ニ著名ナリ。
八重山島ハ宮古島ヨリ西南ニ距ル、凡六十里許
ニアル羣島ナリ。分チテ。宮良石垣大濱ノ三間切
トス。地味肥沃ニシテ。氣候暖燠ナリ。然レトモ人
煙稀踈ニシテ。草莽ニ属スル所甚タ多シ。故ニ所

在皆牛馬ヲ牧ス。若シ開墾其法ヲ得ハ。遺利ヲ興
ス又大ナルヘシ。
八重山島役所ハ、石垣島大濱間切登野城村ニア
リ。又診察所ノ設ケアリ。戸數二千二百三十餘ニ
シテ。人口一萬千九百八十餘アリ。那覇ヲ距ル凡
一百五十七里ナリ。
石垣島ハ諸島中最モ大ニシテ。周回凡十六里十
七町アリ。中央ニ於茂登岳屹立ス。山中良材多シ。
其脉埀レテ北ニ亘リ。平久保岬ニ至リテ盡ク。
川平港ハ西北岸ニアリ。大船ヲ泊スヘシ。其他港
灣甚タ多シト雖トモ。皆繫舟ニ便ナラス。
蒸滊船ハ大濱間切ト、武富島ノ間ニ碇泊ス。
武富黑島新城小濱等ノ諸島ハ。石垣島ノ西南ニ
散布ス。大ナルモノハ周回三里餘。小ナルモノハ
一里ニ過キス。
西表島ハ石垣島ヨリ西ニ距ル、凡四里十八町。周
回凡十五里。中央ニ古見岳屹立シ。樹木櫕欝セリ。
東岸ニ古見湊アリ。北岸ニ鬚川村湊アリ。皆小舟
ヲ繫クヘシ。南方ニ波照間島アリ。周回三里餘ナ
リ。

物產ハ穀類、白細上布、白地飛白、牛馬、木材、魚介等
ニシテ。白細上布ハ殊ニ著名ナリ。
與那國島ハ西表ノ西南、凡四十八里許ニアリ。即
チ台灣島ヲ距ルコト遠カラス。周回凡五里。島中
山林少ク。平野多クシテ且膏膄ナリ。戸數三百二
十餘ニシテ。人口千七百八十餘アリ。女反テ男子
ヨリ多ク。風俗質朴敦厚ニシテ。一島一家ノ如シ
ト云フ。
物產ハ米、雜穀、木綿、藺席等ナリ
沖繩縣地誌畧畢

地名讀例

慶良間(ケラマ)  久米(クメ)  伊平屋(イヘヤ)  伊江(イヱ)
渡名喜(トナキ)  粟國(アグニ)  鳥島(トリシマ)  津堅(ツケン)
久高(クダカ)  宮古(ミヤコ)  八重山(ヤヘヤマ)  伊良部(イラブ)
來間(クルマ)  多良間(タラマ)  大神(オカミ)  池間(イケマ)
水納(ミンナ)  武富(ダケドン)  波照間(ハテルマ)  鳩間(ハトマ)
西表(イリオモテ)  小濱(クバマ)  黑島(クロシマ)  新城(アラグスク)
與那國(ヨナグニ)  國頭(クンヂヤン)  嘉津宇(カツウ)  恩納(オンナ)
中頭(ナカガミ)  辨(ベン)ケ岳  於茂登(オモト)  古見(コミ)

安波(アハ)川  大(オホ)川《割書:以上|總論》  島尻(シマジリ)  邊戸(ヘド)岬
喜屋武(キヤム)岬  勝連(カツラン)  知念(チネン)《割書:以上|本島》  西原(ニシバラ)
宜野灣(ギノワン)  中城(ナカグスグ)  與那城(ヨナグスク)  具志川(グシチヤア)
美里(ミザト)  越來(ゴヘク)  北谷(チヤタン)  讀谷山(ヨンタンザ)《割書:以上|中頭》
眞和志(マワシ)  豐見城(トミグスク)  小祿(ヲロク)  奧武(オウノ)山
鵝森(ガアナーモリ)  渡地(ワタンヂ)  御物城(ミモノグスク)  泊(トマリ)港
㵼原(カタバル)《割書:以上|那覇》  南風原(フヱーバラ)  眞和志平等(マワシノヒラ)、南風平等(フヱーノヒラ)
西平等(ニシノヒラ)  町瑞(マチバタ)  山川(ヤマガワ)  寒水川(スンガワ)
金城(カナグスク)  大中(オホチユン)  桃原(タウバル)  當藏(トウノグラ)
鳥小堀(トンジヨモリ)  赤田(アカタ)  崎山(サキヤマ)  儀保(ギボ)
赤平(アカヒラ)  汀志良次(テシラズ)  久塲川(クバガワ)  龍潭(リウタン)
辨財天池(ベサイテンチ)  圓鑑池(エンクワンチ)  萬歲嶺(マンサイレイ)《割書:以上|首里》  浦添(ウラソヘ)
牧湊(マキミナト)  勢理客(ゼツチヤク)川  小灣(コワン)《割書:以上浦|添間切》  嘉手苅(カデカル)
末吉(スヱヨシ)川  安謝(アジヤ)湊《割書:以上西|原間切》  普天間(フテンマ)《割書:宜野灣|間切》 比嘉(ヒジヤ)
平安坐(ヘアンザ)  高離(タカバナレ)  金武(キンム)  七日濱(ナヌカバマ)《割書:以上勝|連間切》
山城(ヤマグスク)  宇堅(ウケン)《割書:以上具志|川間切》  泡瀨(アハセ)《割書:美里|間切》  漏池(モリチ)
野國(ヌグン)川《割書:以上北|谷間切》  座喜味(サキミ)  楚邊(ソベ)《割書:以上讀谷|山間切》  恩納(オンナ)
名護(ナゴ)  本部(モトブ)  今歸仁(ナキジン) 羽地(ハネヂ)
大宜味(オホギミ)  國頭(クンヂヤン)  久志(クシ)  邊野古(ヘノコ)
安富祖(アフソ)  萬坐毛(マンザモウ)《割書:以上|國頭》  湖平底(クヘンゾコ)  許田(チユダ)

數久田(シユクダ)  轟原(トドロキ)瀧  屋部(ヤブ)川  大兼久(オホガネク)
伊惠(イエ)  八重岳(ヤヘダケ)  渡久地(トグチ)川  大嵐(オホアラシ)山
瀨底(セソコ)  水無(ミンナ)《割書:以上名|護間切》  玉城(タマグスク)  大井(オホヰ)川
伊豆味(イヅミ)  炬湊(テーミナト)  仲曾根(ナカゾネ)  運天(ウンテン)港
古宇利(コウリ)島  親泊(オヤトマリ)《割書:以上今歸|仁間切》  大川(オホカワ)  吳我(グガ)
勘定納(カンテナ)《割書:以上羽|地間切》  鹽谷(シホヤ)  宮城(ミヤグスク)  根路銘(ネロメ)
饒波(ニヨハ)  根謝銘(ネシヤメ)《割書:以上大宜|味間切》  與那高坂(ヨナノダカヒラ)
邊野喜坂(ビヌチヒラ)  座中坂(ザチユンヒラ)  武見坂(ブミヒラ)  大川坂(オホカーヒラ)
茅打萬端(カヤウチバンタン) 福知又(フクチマタ)山  大謝(オホジヤ)川  鏡地(カガミチ)湊《割書:以上國|頭間切》
宜野座(ギノザ)湊 漢那(カンナ)湊《割書:以上金|武間切》  大里(オホザト)  佐敷(サシキ)
東風平(コチンダ)  高嶺(タカミネ)  具志頭(グシチヤン)  摩文仁(マブイ)
眞壁(マカベ)  兼城(カネグスク)《割書:以上|島尻》  古波藏(コハングワ)  國塲(コクバ)川  
眞玉橋(マタンバシ)  識名(シキナ)《割書:以上眞和|志間切》  饒波(ニヨウハ)川《割書:豐見城|間切》  與那原(ヨナバル)港
津波古灣(ツハノコワン)《割書:以上大|里間切》  上城(ウヘグスク)《割書:佐敷|間切》  八重瀨(ヤヘズ)《割書:東風平|間切》
南山城(サンサングスク)《割書:高嶺|間切》  糸滿(イトマン)  報得(ムクイ)川《割書:以上兼|城間切》  伊江城(イヱグスク)
伊是名(イゼナ)  野甫(ノホ)  馬齒(バシ)山  渡嘉敷(トカシキ)
座間味(ザマミ)  阿嘉(アカ)  安室(アムロ)  阿護浦(アゴノウラ)
仲里(ナカザト)  眞謝(マジヤ)  宇江城(ウエグスク)  大岳(オホダケ)
中森(ナカモリ)  嘉手苅(カテカル)川  太田(オホタ)川  儀間(ギマ)川
台灣(タイワン)  砂川(ウルカ)  下地(シモヂ)  平良(ヒララ)

西里(ニシザト)  平安名(ヘアンナ)岬  世戸(セド)岬  漲水(ハリミズ)湊
宮良(ミヤラ)  石垣(イシガキ)  大濱(オハマ)  平久保(ヒラクボ)岬
川平(カビラ)港  鬚川(ヒゲカワ)港

西里(ニシザト)  平安名(ヘアンナ)岬  世戸(セド)岬  漲水(ハリミズ)湊
宮良(ミヤラ)  石垣(イシガキ)  大濱(オハマ)  平久保(ヒラクボ)岬
川平(カビラ)港  鬚川(ヒゲカワ)港

【裏表紙】

鳥島移住始末

琉球人来朝記

【製本表紙・幅158mm】
【題箋】
《題:琉球人来朝記 《割書:《割書:五| 六》|   七》》

【右丁】
【貼紙】
「仲原善忠文庫
 【丸印「大学」】
   琉球大学
 志喜屋記念図書館」
【左丁】
【付箋】
 【角印「琉球大学 附属図書 館蔵書印」】
利琉球人来朝記 五

【左丁、付箋下】
 【余白記入「K093,8 R98 5~7 副」】
 【朱角印「仲原蔵書」】
 琉球人
  進物之次第

 五ノ巻
  琉球人
  進物之次第
 六之巻
  西之丸に而
  琉球人
  御礼之次第


    琉球中山王幷正使具志川
    王子ゟ進物之次第【朱角印あり】
公方様え
一御太刀         一腰
一御馬  裸背      一疋
一寿帯香         三十箱

一香餅          二箱
一龍涎香         二箱
一畦芭蕉布        五十端
一島芭蕉布        同断
一薄芭蕉布        同断
一縮緬          五十巻
一太平布         百疋
一久米島綿        百把
一青貝大卓        二脚
一堆綿硯屏        一対
一青貝籠版        一対
一羅沙          二十間
【嶋は常用漢字で翻刻】

一泡盛酒
  右中山王ゟ
公方様え
一寿帯香         十箱
一太官香         十把
一太平布         二十疋
一島芭蕉布        二十端
一泡盛酒         十壺
  右正使ゟ
大御所様
大納言様え
一御太刀         一腰 ツヽ
【嶋は常用漢字で翻刻】

一御馬  裸背      一疋ツヽ
一寿帯香         三十箱ツヽ
一香餅          二箱ツヽ
一龍涎香         二箱ツヽ
一太平布         五十疋ツヽ
一畦芭蕉布        三十端ツヽ
一島芭蕉布        同断
一久米島綿        五十把ツヽ
一縮緬          二十巻ツヽ
一羅紗          十間ツヽ
一青貝大卓        一脚ツヽ
一堆綿硯屏        一対ツヽ

一青貝籠飯        一対ツヽ
一泡盛酒         五壺ツヽ
  右中山王ゟ
大御所様
大納言様え
一寿帯香         十箱ツヽ
一太官香         十把ツヽ
一太平布         二十疋ツヽ
一島芭蕉布        二十端ツヽ
一泡盛酒         二壺ツヽ
  右正使ゟ

【右丁、白紙】
【左丁】
 琉球人来朝記
   十二月十五日於西丸に琉球
   中山王使者御礼之次第
 琉球中山王使者具志川王子於
 西丸御礼之次第
一琉球人御礼申上に付溜詰御譜代

 大名高家雁之間詰御奏者番
 菊之間縁頬詰何も父子共且
 御本丸西丸布衣以上之御役人
 御本丸御礼相済 西丸え相越
 出仕之面々直垂狩衣大紋布衣
 素袍着之
 琉球人 御本丸御礼相済内桜田
 通 西丸大手ゟ登 城
一具志川御玄関階之上到時大目付
 河野豊前守能勢因幡守出向案内而
 殿上之間下段着座従者同所次之間
 列居下官之族御玄関前庭上に

 群居
一松平薩摩守登 城殿上之間下段
 座上に着座
一中山王書簡大目付二人に而受取之
   具志川御礼之次第
一大広間
 大納言様 出御《割書:御直垂|》
   御先立
   御太刀
   御刀
 御上段 《割書:御厚畳三畳重以唐織包之|四方角大総付褥御刀懸》
 御着座

一御簾懸之
一御後座に御側衆御太刀之役御刀之役
 伺公
一御下段西之方上ゟ三畳目通りより
 松平肥後守井伊備中守但馬守
 右近将監隠岐守順々着座
一西之御縁に堀田加賀守小堀和泉守
 三浦志摩守戸田淡路守
一西之縁之方に畳敷之高家雁之間
 詰四品以上
一南之板縁次に諸大夫之雁之間詰
 同嫡子御奏者番同嫡子菊之間

 縁頬詰同嫡子番頭芙蓉之間
 御役人列候
一二之間北之間二本目三本目之
 柱之間ゟ御襖障子際東之方
 四品以上御譜代大名列候
一二之間に諸大夫之御譜代大名同
 嫡子三之間布衣以上之御役人
 列候
一薩摩守御次御襖之外際南に向
 着座
一具志川殿上之間ゟ大広間え大目付
 二人案内而二之間諸大夫之御譜代

 大名前西に向着座
        松平薩摩守
 右出座御下段御敷居之内に而
 御目見御奏者番披露之御下段
 上より四畳目迄被 召出之今度
 琉球之使者遠路召連太義被
 思召之段 上意有之年寄共御取合
 申上御次え退座于時 右近将監
 召之具志川 御前え可指出旨被
 仰出之於御次 御諚之趣薩摩守え
 右近将監達之
  但具志川御礼之内薩摩守御襖之

  外に控罷有
一中山王ゟ所献之品々 出御以前ゟ
 南之板縁東西ゟ 御目通り順々
 並置具志川自分之進物も同事
 並置之
  但献上之御馬諏訪部三之助
  支配之御馬乗二人庭上に牽出し
  三之介差添罷出
一献上之太刀目録御奏者番持出
 御下段上ゟ三畳目置之中山王を
 披露具志川出席御下段下より
 弐畳目に而奉九拝而退去御太刀

 目録御奏者番引之
一右近将監 召之具志川儀遠境
 相越太義被 思召旨被 仰出之
 於御次 御諚之趣薩摩守え右近
 将監伝之則具志川え薩摩守
 達之御請申上之其趣右近将監え
 薩摩守述之
一具志川重而出席自分之御礼於板縁
 奉三拝御奏者番披露退坐大目付
 二人案内 殿上之間え同列下段へ
 着座薩摩守も殿上之間に退去
      松平薩摩守家来
          島津兵庫
【嶋は常用漢字で翻刻】

          鎌田典膳
 右於板縁奉拝 台顔御太刀目録
 御奏者番披露退去畢而御間之
 御襖障子開之御敷居際 立御
 御譜代大名其外一同 御目見
 相済而 入御
一大御所様え之献上物は隠岐守謁之
一年寄共殿上之間え相越向具志川
 会釈有之則退座其後大目付
 差図而具志川退出大目付二人は
 御玄関階上迄送之先達而従者順々
 退出

【右丁】
  但年寄共之送り無之
一御小性組御書院番ゟ出人五十人
 御書院番所々勤仕
一大御番ゟ出人百人大広間四之間
 勤番

【左丁】
 琉球人来朝記
   十二月十五日於 西丸琉球
   中山王使者
   大御所様え 献上物之次第
 於 西丸琉球中山王使者具志川
 王子を以

 大御所様え献上物之次第
一大広間二之間老中若年寄北之方
 御襖障子際に付東之方え順々
 列座同三之間に 御本丸 西丸
 布衣以上御役人相詰御車寄
 板縁に御目付罷有
一中山王ゟ所献之品々先達而大広間
 二之間板縁西之方ゟ東え並置之
 具志川自分之進物は同三之間板縁
 東え退而置之
  但献上之御馬諏訪部八十郎
  支配之御馬乗弐人庭上え牽出

   八十郎差添罷出
一具志川殿上之間ゟ大広間え大目付
 二人先案内松平薩摩守相列而
 具志川大広間二之間敷居之内
 南之方弐畳目に到而老中に向て
 三拝其時御太刀目録御奏者番持出
 同所南中之柱際に而中山王と披露
 御太刀目録は下に不置畢而具志川
 杉戸之外え退
一具志川重而出席自分之御礼
 三之間上之敷居ゟ弐畳下南之方
 に而三拝御奏者番同南柱際に而

 披露畢而殿上之間え退座

【右丁】
【付箋下、白紙】

【付箋】
 【丸印「琉球大学附属図書館 1966,12,20 No,112899」】
 【余白記入「価格は1巻に含む」】

【製本裏表紙】
【ラベル「093,2 R98」】

琉球人就来府淀川筋船行列帳

嘉永三戌年十月十一日
琉球人就参府淀川筋船行列帳
 但木津川ゟ大坂御屋敷迄并其外一巻

        兼■■

琉球人行列附

《割書:御|免》琉(りゅう)球(きゅう)人(じん)行(ぎょう)列(れつ)附(つけ)《割書:江戸芝神明前|板前 丸屋甚八|渓斎英泉寫》
  天保十三壬寅年十一月   

行列之始
先乗

琉球人
姓名所

琉球人帰国に付国役金の記録

【表紙】
天保四年 近江知行所より
琉球人帰国に付国役金の記録

【一ページと同じ】

【右丁 貼り紙 仲原善忠文庫 丸印 琉球大学志喜屋記念図書館】


【左丁  下段に四角印二つ】



   天保夏村高に出候案
   慶応三□年書出候案

【右丁 白紙】



【左丁  下段に四角印】

琉球人参府帰国に付国役金
差出候近江国知行所村高雕帳
       中奥御小姓
         仙石能登守家来
          小倉忠左衛門
     覚
 拝領高二千石之内   中奥御小姓
            仙石能登守知行所
 一高千石         近江国浅井領
               二ヶ村
    但■■高之外込高幷阪出新田無
    御座候

 右二ヶ村之訳
                   
  高■■四拾五石一斗七升  浅井郡
   【逆算すると六百ヵ】    酢村
               同郡
  高三百五拾四石八斗三升   錦織村
  合高千石     役高
 御朱印地除地無御座候
一高千石者      上総国之内
  都合拝領高弐千石
右之通御座候以上
           中奥御小性
            仙石能登守家来
  己八月         小倉忠左衛門印
  

     ■
 拝領高弐千石之内
 一高千石        近江国浅井郡
                弐ヶ村
  但拝領高之外込高幷改出
   新田無御座候
  此国役金弐両弐分   但 村高百石に付
               永四百五拾文宛
               但後藤定

    外
 一御朱印地幷除地無御座候

右者去辰年琉球人参府帰国共道中筋
人馬継立方諸入用国役金書面之通り
知行所村々之分取立之相納申候右納方
之儀先達而道中御奉行所ゟ御出納証文
御案之通委細相認御勘定所え差出申候
以上
             中奥御小性
 天保■■月        仙石能登守家来
               小倉忠左衛門印

   ■■■江守様
     御役人中



 

   天保四年          扣

 琉球人参府帰国に付国役金差出候
 近江国知行所村高丁帳

         中奥御小性
          仙石能登守家来
   巳■月      小倉忠左衛門

     ■
拝領高弐千石之内    中奥御小性
             仙石能登守知行所
一 高千石          近江国浅井郡
                 弐ヶ村
   但 拝領高之外込高幷改出新田無御座候
  右弐ヶ村之訳

 高六百四拾五石壱斗七升  浅井郡
                酢村

 高三百五拾四石八斗三升  同郡
               錦織村
合高千石
  外
 御朱印地幷除地無御座候
一 高千石者上総国之内
   ■■拝領高弐千石
   【都合ヵ 六頁】

  右之通御座候以上
          中奥御小性
            仙石能登守家来
   巳八月        小倉忠左衛門印







   天保四年

  琉球人参府に付役高御触書幷
  書上控

  巳八月

 去辰■■■人参府帰国之節道中
 人馬継立方其外諸入用之儀武蔵相模
 伊豆駿河遠江三河美濃近江国え国役
 掛候筈に候間近江国之内御朱印除地幷
 琉球人通行之宿高助郷高渡船川越
 高其外前々ゟ謂有之諸役免除高其分者
 相除其除者御領私領共不残取集候に付
 近江一国村高え郷割賦候間文化度琉球

 人参府に付国役相納候節者振合ヲ以
 改出高新田等有之候へ者無相違様入念義
 吟味書付出可申候勿論入組之村方者村高
 書分銘々地頭之名委細書付差出
 可申事
一御樹私領者勿論堂上方門跡方幷地下
 役人其外村方一切不洩書付可申事
一拝領■■■高改出新田者勿論都而

 其■■■高掛候筈に候
一御朱印地除地幷琉球人通行之宿高
 助郷高渡船川越高其外前々ゟ謂有之
 諸役免除高之分者右免除之訳幷村高
 とふ不洩御書出可申候
 右役金八月廿九日限為納候間右帳面
 早々村々不洩様村役人共印形いたし
 順々無遅滞相廻し触留村ゟ京都奉行
 所え可持参者也

 天保四年巳六月
           近江国浅井郡村々
   遠江御印         庄屋
   伊勢御印         年寄
                横目
 誰知行
 一高何程
    但 拝領高込高幷改出新田共
               何村
                庄屋印
  巳             年寄印
   ■■■■         横目印


 

     ■■■ □
 一高何程          江州浅井郡
   但 拝領高込高幷改出新田共   何村
  内
 何程            誰知行
                「社」【朱書き】
 何程            何守私領
 右之通村高少も相違無御座候
   巳 六月何日       誰知行
                 何村
                  庄屋 誰印
【朱書き】                     「□□」              年寄 誰印   
                  横目 誰印
  枝郷之□□
誰知行
一高何程  江州浅井郡     何守私領
        枝郷 何村    同村
 但拝領高込高幷改出新田共     庄屋 誰印
右之通村高少も相違無御座候     年寄 誰印
                  横目 誰印
  巳 六月何日  何村
           庄屋印
           年寄印
           横目印      

右之通■■承知候枝郷有之村
本村高之□除之枝村より書出可申候
尤書面難心得義有之候ハ者京都奉行所へ
可相伺候事

一高六百四拾五石壱斗七升   近江国浅井郡
               仙石能登守知行
                    酢村
     但込高幷新田等無御座候

  右之通村高少も相違無御座候
            酢村
             庄屋 忠左衛門
             年寄 長左衛門

一高三百七拾四石九斗三升弐合  近江国浅井郡
                  錦織村
     但込高幷新田高無御座候

  内
 三百■■■石八斗三升  仙石能登守知行

  弐拾■■斗弐合        仙石彌三郎知行
右之通村高少も相違無御座候
         仙石能登守知行
           錦織村
            庄屋
             九兵衛印
            年寄
             藤左衛門印
         仙石弥三郎知行
          目 付
           庄屋
            八郎左衛門印
            忠   蔵印
 巳七月四日

  琉球人参府帰国に付国役金
  差出候近江国知行所村高帳
  日光御法会に付近江国知行所村高
  書上帳
        仙石能登守家来
          野城伴右衛門
          「小倉忠左衛門」【朱書き】


    覚
拝領高弐千石之内
 一 高 千石   仙石能登守知行所
           近江国浅井郡
             弐ヶ村
  但 拝領高之外込高幷
         改出新田無御座候

  右弐ヶ村之訳
         


【「 」内朱書き】

  高六百四拾五石壱斗七升  浅井郡
                酢村
残三百拾九石三斗四升五合
    百弐拾三石    「草津宿」
     「六」        助郷高
     「三拾壱石五斗
        但此度御□行御用相勤申候」
     「八 三 六」
   残五百弐拾弐石壱斗七升

高三百五拾四石八斗三升   同郡
               錦織村
   同   「去ル子年ゟ辰年相勤被罷申候」
  七拾石九斗七升     助郷高
   「三拾五石四斗八升五合 同断」
 「三  七 三 三」
残弐百八拾三石八斗六升
  「村高合
      内九拾石草津」



高六百四拾五石壱斗七升    浅井郡
                酢村
    内

【以下前頁と同】

【「 」内朱書き】
 
   残高合八百六石三升
    「残高九百壱石」
   
    外
   御朱印除地寺社領等無御座候
 残高九百三石□升五合【貼紙】 無御座候以上
                 仙石能登守家来
   亥 八月            野城伴右衛門
                 「小倉忠左衛門印」

   水野下総守様
       御役人中
   「瀧川讃岐守様」
      「御役人中」

  「□□□□相役慶応二丑年五月□
   右衛門之□」

  美濃紙折掛奉書□
【絵図あり】
         御使番
   口上書    仙石次兵衛家来
            小倉忠左衛門

       覚
  昨丑年四月日光
  御法会に付日光道中御成道例幣使

  道東海道仲 仙道共御通行之節
  宿々御手当御入用之分昨丑年より
  来る巳年迠五ヶ年□高百石に付
  □壱分と永百拾九文歳々可相納旨被
  仰儀有之候然る處御新発御供之面々は
  右上納の方壱ヶ年延被仰出御座候處
  治兵衛はお御供にて在坂仕居候付同人知行所

         「之義」【朱書き】
  近江国弐ヶ村上納金は一ヶ年延当
  寅年ゟ牛年迠五ヶ年賦上納仕度
  段御老中方え御届申上候依之此段□行
  奉申上度
         御使番
  寅五月     仙石次兵衛家来
            小倉忠左衛門
     当なし

【絵図あり】
    口上書   御使番
           仙石次兵衛家来
            小倉忠左衛門

 慶応元丑年日光
 御法会に付道中筋御手当分国役金
 同丑年ゟ来る巳年迠五ヶ年之間
 年々相納候様被仰渡御座候然る處

 次兵衛知行近江国村之義可相成
 儀に御座候はゝ五ヶ年分壱反に当寅
 年上納仕義右之趣御聞済被成下候様
 奉願上候以上
         御使番
  寅五月     仙石次兵衛家来
            小倉忠左衛門
  瀧川讃岐守様
    御役人中

【前頁と同 張り紙あり】
     琉球大学付属図書館
     №112958
     1966.12.20
          $5.00

【背表紙  シールあり】
          093.2 
            R98
   

琉球人大行列記

【2コマ目に同じ】

琉球人大行列記

【4コマ目に同じ】

【表紙】
琉(りう)球(きう)よりさつままで行程事
さつまより大(おほ)坂(さか)迄/海(かい)上(じやう)の事
大(おほ)坂(さか)より伏(ふし)見(み)迄/川(かは)御(み)船(ふね)の事
伏(ふし)見(み)より江戸迄とまり休(やすみの)事
正(しやう)使(し)副(ふく)使(し)并(ならびに)姓(せい)名(めい)の事
御けん上/物(もの)目(もく)録(ろく)の事(こと)
りうきう辞(ことば)之(の)事
来(らい)朝(てう)年(ねん)代(だい)記(き)之(の)事(こと)
薩(さつ)州(しう)御(ご)人(にん)数(しゆ)之(の)事(こと)
りうきう人(じん)惣(そう)人(にん)数(じゆ)之(の)事
人(にん)足(そく)傳馬/之(の)事(こと)

仲山使 琉球人大行列記《割書:大|全》
     来朝新板絵入

【6コマ目に同じ】
【右丁に蔵書票:仲原善忠文庫 琉球大学志喜屋記念図書館】
【右丁左上隅に請求記号:K|093.2|R98】
【右丁左下隅に蔵書印:仲原蔵書】
【左丁に蔵書票:琉球大学附属図書館蔵書印】

【左丁右下隅に四角印:潮音洗心】
  序
夫(それ)琉(りう)球(きう)国(こく)は日(につ)本(ほん)の西(にし)南(みなみ)に当(あたつ)て
薩(さつ)摩(ま)より三百/余(よ)里(り)海(かい)中(ちう)の嶋(しま)
国(くに)也(なり)琉(りう)球(きう)の西(せい)南(なん)は暹(しや)羅(むう)国(こく)
にして東(ひがし)北(きた)は日(につ)本(ほん)にむかふ
行(こう)程(てい)東(たう)西(さい)七八日/南(なん)北(ほく)十
二三日/四(し)季(き)暖(あたゝか)にして水(すい)田(てん)

一年可/両(りやう)度(ど)耕(こう)作(さく)すると
かや和(わ)哥(か)にはうるまの嶋(しま)
と讀(よめ)り慶(けい)長(ちやう)十五年の
ころより来(らい)朝(ちやう)すと云々

【紙片貼付による修正】干時明和元《割書:甲|申》年九月
  洛陽  辯装堂

【左丁上段】
亀(かめ)井(い)信濃(しなのゝ)守(かみ)殿(との)
川(かは)御(こ)座(さ)御(おん)船(ふね)



一番
【左丁下段】
松(まつ)平(たひら)周(す)防(はうの)守(かみ)殿(との)
川(かは)御(こ)座(ざ)御(おん)船(ふね)



二番

【右丁上段】
細(ほそ)川(かは)越(えつ)中(ちうの)守(かみ)殿(との)
川(かは)御(ご)座(さ)御(おん)船(ふね)

 正(しやう)使(し)


三番
【右丁下段】
松(まつ)平(たひら)大(たい)膳(せんの)太(だい)夫(ぶ)殿(との)
川(かは) 御(ご)座(さ) 御(おん)船(ふね)

 正(しやう)使(し)


四番
【左丁上段】
松(まつ)平(たひら)筑(ちく)前(せんの)守(かみ)殿(との)
川(かは)御(こ)座(ざ)御(おん)船(ふね)

 副(ふく)使(し)


五番
【左丁下段】
小(お)笠(かさ)原(はら)右(う)近(こんの)将(しやう)監(げん)殿(との)
川(かは)御(ご)座(さ)  御(おん)船(ふね)

 副(ふく)使(し)


六番

【右丁上段】
薩(さつ)州(しう)
川(かは)御(ご)座(さ)
御(おん)船(ふね)



【右丁下段】
琉(りう)球(きう)
船(ふね)



【左丁上段】
人(にん)王(わう)百(ひやく)八(はち)代(たい)
後(こ)陽(やう)成(ぜい)院(ゐんの)御(きよ)宇(う)慶(けい)長(ちやう)
十五年/琉(りう)球(きう)を征(せい)すこれ
より代々(たい〳〵)来(らい)朝(てう)す実(まこと)なる
かな幾(いく)千(ち)代(よ)を栄(さかへ)昌(さかふ)る
日(ひ)の本の目(め)出(て)度(たき)御(み)代(よ)の
例(ためし)千(せん)秋(しう)万(はん)萬(〳〵)歳(ぜい)
【左丁下段】
  来(らい)朝(ちやう)之(の)次(し)第(たい)
承(しやう)應(おふ)二年  九月  来(らい)朝(ちやう)
 りうきう征(せい)より此(この)間(あいた)四十四年に成
寛(くわん)文(ぶん)十一年 七月  来朝
 此間承應より十八年になる
寶(ほう)永(ゑい)七年  十一月 来朝
 此間寛文十一より三十九年になる
正(しやう)徳(とく)四年  十一月 来朝
 此間寶永七年より四年になる
享(きやう)保(ほ)三年  八月  来朝
 此間正徳五年より五年になる
寛(くわん)延(えん)元年      来朝
 此間享保三年より二十九年になる

琉(りう)球(きう)人(しん)行(きやう)列(れつ)之(の)次(し)第(たい)
先(さき)はらひ警(けい)固(ご)
つひの挟(はさみ)箱(ばこ)
だひかさ
たて傘(かさ)
大(おふ)とりけ

對(つい)のなげざや
弓(ゆみ)

うつほ
半(はん)弓(きう)
鉄(てつ)砲(ほう)

旗(はた)竿(ざほ)
長(なき)刀(なた)
引(ひき)馬(むま)
凡(およそ)さつま人(にん)数(じゆ)一万人
余(よ)有(あり)之(これ)
この次(つぎ)に
琉(りう)球(きう)人(じん)
行(きやう)列(れつ)
琉(りう)球(きう)人(にん)
騎(き)馬(ば)
下(げ)官(くはん)一人づゝ

箱(はこ) 二つ
 《割書:但(たゝし)金(きん)泥(てい)にて楽(かつ)器(きの)|の二字(ぢ)あり》

琉(りう)球(きう)馬(のむま) 弐(に)疋(ひき)
 《割書:但(たゝし)かざりなし|》

囲(い)師(し)《割書: |馬(むま)別(べつ)当(とう)の事なり》

跟(こん)伴(はん) 数多(あまた)
  《割書:供(とも)人の事也|》

書(しよ)翰(かん)箱(ばこ)
 《割書:但(たゝし)地(ぢ)黒(くろ)に白(はく)字(じ)の|織(おり)もの見(み)事(こと)なる|ものなり》
【下段行列図内】
楽器








書翰

書(しよ)翰(かん)箱(はこ)
  右同行

掌(しやう)翰(かん) 史(し)
    祐(ゆう)筆(ひつ)の事也

跟(こん)伴(はん) 二(に)行(きやう)
    数多(あまた)

圉(きやう)師(し)真(ま)喜(き)屋(おく)
  馬(むま)別(べつ)当(たふ)の事也
鞭(むち|へゑん)
 《割書:但せひばい棒(ぼう)の事也大/竹(たけ)|長さ一𠀋はかりすへの方(かた)|二つわり半より持(もつ)所(ところ)迄(まて)|丸く朱(しゆ)ぬりにしたる物(もの)|なり一つわり》
牌(はひ)  二行
 《割書:板(いた)朱(しゆ)塗(ぬり)文(もん)字(じ)金(きん)泥(てい)|なり》
【下段行列図内】

書翰








仲山使
仲山使

張(はり|ちやん)旗(はた|きい) 二行

銅(と|とん)鑼(ら|らう) 両(どぢやく|りはん)班(じやう|はん)

嗩(ひち|つを)吶(りき|な) 二行

唎(ちやる|くい)叭(める|は) 銅( |とん)角( |しゑ)

鼓(たいこ|く)  二(に)行(ぎやう)


虎(とらの|ふう)旗(はた|き) 二行
【下段行列図内】
金鼓
金鼓

鼓鎗(つやん|やり) 龍(ろん|なき)刀(とう|なた)

冷(れん)傘(さん)
  《割書:ひぢりめんは|二重(はたゑ)に飾(かざる)_レ之(これを)》
使(すう)賛(さん)
  《割書:凡(およそ)十二人/程(ほど)は|二(に)行(きやう)|但(たゝし)与(よ)力(りき)役(やく)の事也》
轎(きやう)
正(しやう)使(し) 美里/王(わん)子(し)
  但(たゝし)唐(から)衣(い)冠(くはん)也(なり)

 跟(こん)伴(はん)
   数(す)十(しう)人(にん)

賛(さん)度(め)使(す)
 凡(およそ)十四五人
 小(こ)姓(しやう)の事(こと)也(なり)

牌(はい)  二行
 《割書:板(いた)朱(しゆ)塗(ぬり)にて|文(もん)字(じ)前(まへ)に同(おな)し》

鎗(やり|つやん) 龍(なぎ|ろん)刀(なた|たう)
冷(れん)傘(さん)
 《割書:ひちりめんは|二重(ふたゑ)に飾(かざる)_レ之(これを)》
使(すう)賛(さん)
 凡(およそ)十二人/程(ほど)にて
 二行
 役(やく)前(まへ)におなし
【下段行列図内】




仲山使
仲山使

轎(きやう)

正(しやう)使(し) 豊見城王子
   但(たゝし)唐(から)衣(い)冠(くはん)也(なり)


使(すう)賛(さん)
   凡八九人一行

賛(さん|さん)議(き|にひ)官(くはん|くはん)親(しん|ぱひ)雲(うん|きん)上(しやう|しやん)
 但/琉(りう)球(きうの)衣(い)冠(くはん)也(なり)
 正(しやう)使(し)付(つき)の役(やく)人(にん)

副(ふく)使(し)
 與座親方
  但(たゝし)唐(から)衣(い)冠(くはん)也(なり)

立(りう)傘(さん)
 《割書:但(たゝし)先(さき)のかざりまへの|ごとし》
楽(やく)正(ちん)里(さと)之(の)子(し)
  楽人のかしら也
楽(やく)童(とん)  二行
  琉(りう)球(きう)の服(ふく)を着(ちやく)す

 跟(こん)伴(はん)
   数(す)十(しう)人(にん)

議(ぎ|よひ)衛(ゑ|うい)正(しやう|ちん)左(さ)久(く)本(もと)親(しん|はひ)雲(うん|きん)上
 路(ろ)次(しの)楽(がく)奉(ふ)行(きやう)也(なり)
 右(みき)琉球/之(の)衣(い)冠(くはん)也(なり)

掌(しやう|つやんは)翰(かん|あん) 史(し|す)屋寅
   祐(ゆう)筆(ひつ)の事也
賛(さん)度(め)使(す)
 行(きやう)列(れつ)前(まへ)に同(おな)じ
跟(こん)伴(はん)
  数(す)十(じう)人(にん)
立(りう)傘(さん)
 《割書:但(たゝし)先(さき)を金(きん)糸(し)のごとく|なるものにてつゝむ》

副(ふく)使(し)
 冨盛親方
  但(たゝし)唐(から)衣(い)冠(くはん)也(なり)
 使(すう)賛(さん)
  凡(およそ)八九人/程(ほと)一(いち)行(きやう)

立(りう)傘(さん)
 《割書:先(さき)のかざり前(まへ)に同(おな)し|》
 跟(こん)伴(はん) 《割書:数(す)人(にん)|二(に)行(ぎやう)》

醫(い)師(し) 安(あん)忠(ちん)
 但(たゝし)琉(りう)球(きうの)衣(い)冠(くはん)
 なり
 跟(こん)伴(はん) 数(す)人(にん)

凡(およそ)琉(りう)球(きう)人(じん)弐(に)百(ひやく)人(にん)余(よ)
 但(たゝし)上(じやう)中(ちう)下(げ)官(くはん)ともに
 印(いん)籠(らう)一(ひとつ)つ宛(づゝ)さげ申候
 扇(あふぎ)は朝(ちやう)鮮(せん)におなじ
【左丁上段(次コマ右丁上段に続く)】
 音(おん)楽(かく)之(の)次(し)第(たい)
大(たひ)平(ぴん)調(ちやう)《割書:楽|》 《割書:凡七人にて|相勤申上候》
桃(とう)花(ふあゝ)源(ゑん)《割書:楽|》 右同断
不(ぶう)老(す)仙(せん)  右同断
楊(やん)香(ぴやん)《割書:明(みん)曲(きよ)|》  弐人にて
壽(しうつ)尊(ふん)翁(おん)《割書:清(しん)曲(きよ)|》 同断
長(ちやん)生(すゑん)苑(ゑん)《割書:楽|》 《割書:七人にて|勤之》
【左丁下段(次コマ右丁下段に続く)】
琉(りう)球(きう)国(こく)より
御江戸迄/行(こう)程(てい)七百十一里余
琉球より薩摩/鹿(か)児(ご)嶋(しま)迄
三百里余かご嶋より大坂迄弐百七
拾六里余大坂より江戸迄百丗五里
 道中/宿(とまり)驛(やと)割(わり)
伏見/宿(とまり) 大津/休(やすみ)
草津宿  水口休
坂ノ下宿 庄(しやう)野(の)休
四日市宿 桑(くわ)名(な)休
宮とまり 池(ち)鯉(り)鮒(ふ)休

【右丁上段(前コマ左丁上段の続き)】
芷(つう)蘭(おん)香(ひやう)《割書:楽|》 《割書:七人程にて|務之》
壽(しう)星(すいん)老(らう)《割書:明曲|》 右同断
正(ちん)月(いゑん)《割書:清曲|》  弐人
三(さん)線(せん)哥(わふ)  右同断
右/路(ろ)次(し)行(きやう)列(れつ)の節(せつ)宿(やと)着に
相勤申但/最(もつとも)於 御江戸
相勤候/音(おん)楽(かく)の書付の内有之
是は路(み)次(ち)にてはつとめ申
さすとや
【右丁下段(前コマ左丁下段の続き)】
岡(おか)崎(さき)宿(とまり)  御(ご)油(ゆ)休(やすみ)
二(ふた)川(かは)宿  新(あら)居(い)休
濱(はま)松(まつ)宿  見(み)付(つけ)休
懸(かけ)川(かは)宿  金(かな)谷(や)休
藤(ふし)枝(ゑた)宿  丸(まり)子(こ)休
江(え)尻(じり)宿  神(かん)原(はら)休
吉(よし)原(はら)宿
三(み)嶋(しま)宿  箱(はこ)根(ね)休
小(お)田(た)原(はら)宿 大(おふ)磯(いそ)休
藤(ふし)沢(さは)宿  新(しん)宿(しゆく)休
川(かは)崎(さき)宿  江(え)戸(と)
【左丁上段】
中(ちう)山(さん)王(わう)より献上目録
御馬 一疋   中(ちう)央(わうの)卓(しよく) 弐脚
硯(けん)屏(ひやう) 一對  籠(ろう)飯(はん)   一對
羅(ら)紗(しや)《割書:青|黒》二十間 縮(ちり)緬(めん)   五十反
嶋(しま)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの)     五拾端
薄(うす)芭蕉布      五拾端
畦(うね)芭蕉布      五拾端
太平布  百疋  久(く)米(め)嶋綿 百把
寿(じゆ)帯(たい)香(かう) 三十袋  香餅   弐箱
龍(りう)涎(ゑん)香(かう) 二箱  泡(あわ)盛(もり)酒  十壷
  以上
【左丁下段(次コマ右丁下段に続く)】
 同/帰(き)国(こく)宿(とまり)驛(やと)割(わり)
江戸より 河(かは)崎(さき)休(やすみ)
神(か)奈(な)川(かわ)宿(とまり)
藤(ふし)沢(さは)宿  大(おふ)磯(いそ)休
小(お)田(た)原(はら)宿 箱(はこ)根(ね)休
三(み)嶋(しま)宿
吉(よし)原(わら)宿  神(かん)原(はら)休
江(え)尻(じり)宿  丸(まり)子(こ)休
藤(ふし)枝(ゑた)宿  金谷休
懸(かけ)川(かは)宿  見(み)付(つけ)休
濱(はま)松(まつ)宿  新(あら)居(い)休

【右丁上段】
同献上目録
御馬 一疋  中(ちう)央(わうの)卓(しよく) 二脚
丸中央卓 沈金   二脚
籠飯   沈金   一對
練(ねり)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの)     五拾端
嶋(しま)芭蕉布      五十端
薄(うす)芭蕉布      五十端
太平布       百疋
久(く)米(め)嶋(しま)綿(わた)     百把
泡(あわ)盛(もり)酒       五壷
  以上
【右丁下段(前コマ左丁下段の続き)】
白(しら)須(す)賀(か)宿 吉田休
御油宿
岡(おか)崎(さき)宿  池(ち)鯉(り)鮒(ふ)休
宮とまり
桑(くわ)名(な)宿  四日市休
石(いし)薬(やく)師(し)宿 土山休
関(せき)とまり
水(みな)口(くち)宿  草(くさ)津(つ)休
大(おふ)津(つ)宿  伏見宿
是より来朝の時の行(きやう)列(れつ)ひ
御/馳(ち)走(そう)前のことし
【左丁上段】
中山王より
御(み)臺(たい)様(さま)え献上物
 寿(じゆ)帯(たい)香(かう) 二十箱 香(かう)餅(もち) 弐箱
 龍(りう)涎(ゑん)香(かう) 五十袋 石人形 弐躰
 玉(きよく)風(ふう)談(たん) 一對  料氏の箱 一通
 硯(すゝり)箱(ばこ) 沈金      一通り
 鈍(とん)子(す)         弐拾本
 太平布         五拾疋
 綾絹子         五十端
 泡(あわ)盛(もり)酒         五壷
  以上
【左丁下段】
正(しやう)使(し)自(し)分(ふん)之(の)献(けん)上(じやう)
 寿(じゆ)帯(たい)香(かう)   十箱
 官(くはん)香(かう)    拾把
 太(たい)平(へい)布(ぬの)   弐十疋
 嶋(しま)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの) 二十端
 泡(あわ)盛(もり)酒   二壷
  以上

【右丁上段】
同 献上もの
 かもし      五かけ
 右て手(て)鏡(かゝみ)    弐□
 硯(けん)屏(ひやう) 一對 卓 青貝一面
 籠飯  沈金   二
 紅ちりめん    三十巻
 白縮綿      二十巻
 芭蕉布      五拾反
 久(く)米(め)嶋(しま)綿    三十把
 泡盛酒      三壷
  以上
【右丁下段】
正(しやう)使(し)自(じ)分(ふん)之(の)献(けん)上
 官(くはん)香(かう)    拾把
 香(かう)餅(もち)    五箱
 練(ねり)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの) 拾端
 嶋(しま)芭(は)蕉(しやう)布(ぬの) 拾端
 泡(あわ)盛(もり)酒   弐壷
  以上
【左丁上段】
中山王より
東(たう)叡(ゑい)山(さん)宮(みや)様(さま)え
 香(かう)餅(もち)    弐箱
 官(くはん)香(かう)    一箱
 珠(つい)朱(しゆの)卓(しよく)  二脚
 芭(は)蕉(しやうの)蚊(か)帳(や) 二張
 石(いしの)硯(けん)屏(ひやう)
 泡(あわ)盛(もり)酒  弐壷
【左丁下段】
 正使両人より自分献上
東(たう)叡(ゑい)山(さん)宮様え
 官(くはん)香(かう)   一箱
 竹(ちく)心(しん)香(かう)   一箱
  以上

御三家様え進上
 香餅   一箱宛
 官香   一箱宛
 太平布  五疋
 芭蕉布  拾反
 泡盛酒  弐壺
   以上

【右丁上段】
琉(りう)球(きう)辞(ことは)
よいことを    きやうもんやつさ
人をよぶことを  それゑといふ
筆(ふで)を       ふでといふ
城(しろ)のことを    ぐすくと云
うそを      はらひつた
わかしゆを    すやうじん
おとなを     たあゝじん
はらのたつを   ぷんといふ
めづらしきを   ちんた〳〵といふ
おん出を     ぴつんといふ
さけといふ事を  うんりすといふ
なるほとといふを いきやき
いくらといふを  あやへるといふ

【右丁下段】
琉球人凡弐百人余
薩(さつ)州(しう)人数上下一万人余
人足 千五百人 馬 五百疋
雇(やとひ)人足 六百人 傳馬三百疋
川御座御船 六/艘(そう)
上荷船  百弐拾艘
過(か)書(しよ)舟  百艘
綱(つな)引(ひき)   千余人
 其外
 諸大名人数未_レ知跡より
 出_レ之也
【左丁:刊記】
干時明和元《割書:甲|申》年九月
  大坂御書物所 渋川大蔵
     堀川通佛光寺下る町
          河南四郎右衛門
     同町
        日野屋半兵衛

【25コマ目に同じ】
【左丁貼付紙片下:寛延元年戌辰九月】

【28コマ目に同じ】

【右丁に蔵書票:琉球大学附属図書館|1966.12.20|No.112962】
【蔵書票に書入:$3.33】

【裏表紙】
【左下隅に3段ラベル:093.2|R98】

琉球王府花押印状

一筆啓上仕候弥御勇健
去歳御城代御役被
仰出目出度御儀奉存候
右之御祝儀為可申上如斯
御座候随而目録之通致
進上之候誠惶謹言

       玉川王子

 四月十六日   朝達


嶋津□□□様
    参人々御中

一筆啓上仕候弥御勇健
被成御勤務珍重御儀
奉存候随而目録之通
致進上之候聊以愚札
得尊意候品迄御座候
誠惶謹言

      伊江王子

 四月十六日  朝忠

□□啓上仕候弥御勇健
□成御勤務珍重御儀
□存候随而目録之通
□□之候聊以愚札
□□意候品迄御座候
□惶謹言

     與那城王子

□□□□    朝紀


□□□門様
   参人々御中

 改年之御吉慶猶更不可有
 休期御座候
太守様倍御機嫌能被遊
 御座恐悦奉存候将亦
 貴公様弥御勇健被成
 御踰歳目出度御儀奉存候
 御祝詞為可申上如斯御座候
 猶奉期後喜之時候誠惶
 誠恐謹言

         池城親方

  正月十一日    安邑


 嶋津□□□様
     参人々御中

 □□□□□□□□
 □□□□□□□□
 □□
太守様
宰相様倍御機嫌能被遊
 御超歳恐悦奉存候将亦
 貴公様弥御勇健被成
 御越年目出度御儀奉存候
 右之御祝詞為可申上如斯
 御座候誠惶謹言

        国頭王子

  三月十五日   正秀


 嶋津□□□
    参人々御中

一筆啓上仕候館内蔵方届并
諸士自物砂糖相掛候手形銀
御用捨去年迄年限筈合
候得共度々之江戸立并冠船等付
太金之入価殊更異国船追々
来着今滞留其上飢饉災殃等
打続且去々年よ里重使者柄等
不少其外臨時之失費弥増
致難渋候付猶亦聞役在番親方よ里
奉願趣御座候処産物方
御本手用被備置不容易
金筋殊去々年紅花鬱金等茂
琉球計被仰付候付而者格別
潤助相成筈候得共願意之趣
難被黙止別段之以御取訳
当年よ里先二箇年是迄之通
御免被
仰付候段被仰渡趣承知仕
誠以有難仕合奉存候右御礼

一筆啓上仕□□□勇健
被成御勤務珍重御儀
奉存候去冬者以尊書
被仰下趣殊扇子一箱
白麻三十帖被下之忝次第
奉存候御礼為可申上
如斯御座候誠惶謹言

       国頭王子

 四月十六日   正秀


嶋津□□□様
    参人々御中

□□□上仕候弥御勇健
□□御勤務珍重御儀
□□候猶以伺御安否
□□申上如斯御座候随而
□子三把致進上之候
□惶謹言

       大里王子

 四月十五日   朝教


嶋津□□様
   参人々御中

中山王尚敬花押印状/1枚

御札致拝見候拙者継目之
祝儀被仰聞殊更宇治茶
一壺房二掛被懸御意
忝致受納候去夏書信之
品迄軽物致進覧之候処
御礼之趣慇懃之御事候
恐惶謹言

       中山王

 卯月十一日   尚敬[花押]



 嶋津兵庫殿
     御報

琉球王府花押印状

嶋津左衛門様
    参人々御中

□御座候
□候誠惶

誠恐謹言

      譜久山親方

 正月十一日  朝典


 嶋津□□門様
     参人々御中

□□□□御吉慶猶更不可有
□□□□□候
□□□□□機嫌能被遊
□□□□□□□候将亦
□□□□□□□□被成

 年始之御吉祥雖事□□
 猶更不可有際限御□□
 先以
太守様

        朝典
      與那城王子
        朝紀


 嶋津□□□様
     参人々御中

為可申上如斯御座候依之
別紙之通致進上之候誠惶
謹言

      與那原親方
 四月十六日  良恭
       池城親方
        安邑
      譜久山親方

琉球新誌

琉球新誌《割書:図附|》 上

琉球新誌《割書:図附|》 上

【次ページと同内容のため翻刻省略】

【枠外上部横書き】明治六年六月新刊
大槻文彦著
琉球新誌《割書:図|附》
  煙雨楼蔵版

自序
琉球眇乎南洋一島国耳、雖幷其大小数十嶼為一
域、要不足以為独立国、而従来為我皇国之附庸矣、
朱明以還、脩聘於漢土、受其冊封、称中山王、蓋其聘
於彼、則奉彼正朔、朝於我、則用我年号、一邦両属、未
知其為誰藩屛也、是以名分称呼之際、往々有疑其
当否者焉、余請挙十証以弁之、夫琉球之為国也、論
地勢、則自是我九州山脈之起伏綿亘、而迸走於南
海中者、一覧地図、則瞭然可弁耳、其証一也、論開

闢、則上古天祖神孫、闢西南諸島者、既巳□入其区
域、考古史而可知也、其証二也、論人種、則邦人与支
那無来諸国、異其種者、在鬚髥之濃美、与鼻之高、頰
之匾、而琉人骨格容貌、宛然我種之人矣、其証三也、
論言語、則毎音単呼、無復平上去入、而日常説話、反
有我古言之存者、其証四也、論文字、則雖一二長吏
用漢文、至民間応酬事、率皆用我国字、且観其善和
歌、可以知性情与我同矣、其証五也、論政体、則雖俲
彼立官号、然親雲上親方等名、皆我之称呼、而其立
制亦用我世禄之法其証六也、論保護、則毎其国治
乱、我必送金穀、遣兵卒、以済之、彼則越人肥瘠、恬不
顧、其証七也、論帰化、則在推古天皇朝、南海諸島、早
巳服我皇威矣、而彼則隋攻之不屈、胡元侵之不従、
直至朱明之時、始奉其正朔、是其所以服従、自有先
後、其証八矣、論征伐、則永万中源為朝取之、慶長中
島津家久服之、彼則徒以一封書、苟能招諭焉耳、其
証九矣、至論王統、則所謂舜天、即我鎮西八郎之胤、
而奕世綿々、以至今日、此其証之最確者矣、又況天

朝既勅為藩国華族、授之一等之官、則名称位号、確
然一定、無復所容疑而已矣、嗚呼今日開明之隆、自
千島樺太、以至沖縄諸島、南北万里、環擁皇国、悉入
版図中、而風化之所被、無有窮極、駸々乎有雄視宇
内之勢矣、豈不亦愉快哉、適琉球新誌成、書以為序、
 紀元二千五百三十三年四月
           大槻文彦 撰

例言
一去年、琉球貢使入朝ス、天朝特ニ其国ヲ擢デ藩トシ、
 其主ヲ藩王ニ冊封ス、是ニ於テ、皇国府県ノ制、更ニ
 一藩ヲ加ヘ、皇化、播テ南海ノ隅ニ及ブ、余ヤ其盛典
 ヲ聞テ、抃躍ニ堪エズ、因テ公務ノ余暇ヲ愉デ以テ
 竟ニ此篇ヲ成セリ、其自ラ尽ス所ハ、敢テ杜撰セズ
 ト雖トモ、脱誤ノ如キハ、看者請フ之ヲ訂セヨ、
一地理・地質・気候・物産ハ、米国「ペルリ」ノ琉球記行、及ビ
 博物地理等ノ諸原書ヨリ訳出シ、源君美ノ南島志、
 清ノ周煌ノ琉球国志略、及ビ源忠彦ノ日本野史ト
 照考シ、更ニ史記政体等ヲ加フ、其他和漢琉球ノ書、

 枚挙スベカラズト雖トモ、或ハ妄謬二失シ、或ハ陳腐
 ニ属ス、此篇別ニ引用スル所、凡ソ三四十部ニ至レ
 トモ、今一々書名ヲ挙ゲズ、
一凡和漢ノ地図ハ、皆誤謬ヲ免レズ、薩摩南海ノ七島
 ノ如キ、従来之ヲ詳ニスル者少シ、独リ洋人ノ地図
 ニ精ナルハ、論ナシト雖トモ、渺乎タル東洋ノ琉球群
 小島ノ如キニ至テハ、尚未ダ精微ヲ尽サズ、今伊能
 氏ノ実測図、及ビ独逸板ノ一地図ヲ参見シ、旁ラ諸
 図ト照シ、以テ此地図ヲ製ス、余カ此著ニ於ケル、図
 ニ於テ、最モ精力ヲ尽セリ、
一気候・地質・物産・農工・文教・風俗等ノ部ハ、大抵沖縄一
 島ノ事ト知ルベシ、各島ハ、各其条下ニ挙グ、然レトモ
 或ハ総論シ、或ハ錯出ス、互ニ参見スベシ、
一諸島周囲ノ里法ハ、大略ヲ記ス、各島ノ距離ハ、省テ
 載セズ、経緯度ニ拠リ計リ知ルベシ、緯度ノ一度ハ、
 廿八里余、経度ハ琉球地方ノ如キ、大抵緯度ト同算
 シテ、其大略ヲ得ベシ、其経度ハ、英国「グリーンウヰッチ」
 ヨリ算スル者ニ拠ル、
一四季ノ月名ハ、旧暦ノ称ニ依ル、改ムルニ暇ナシ、地
 名人名ハ左右ニ単柱ヲ施ス、開闢ノ事、及ビ為朝ノ
 事歴ハ、鄙説ヲ録シテ巻末ニ附ス、
              文彦 記

目録
 巻上
  地誌
  気候
  地質
  物産
  国名
  史記
  系統
 巻下
  封貢

  国体
  人種
  政体
  歳計
  農工
  文教
  風俗
 地図

琉球新誌巻上
            大槻文彦 著
  地誌
琉球諸島ハ、九州南海諸島ノ南ヨリ起リ、南洋中ニ綿
亘碁列シ、末勢西南ニ赴キ、台湾島ノ東ニ至テ止ル、北
緯、二十四度ヨリ、二十八度四十分ニ至リ、東経、百二十
二度五十分ヨリ、百三十度十分ニ至ル、西北ハ、支那海
ニ界シ、東南ハ、太平海ニ境ス、大小四十余島、《割書:古来三十|六島トス、》
《割書:協ハ|ズ、》其他群小ノ島嶼数多シ、其群島ノ位置、大勢、中南
北ノ三部ニ分聚鼎峙シ、《割書:之ヲ古ノ中山山南山北ノ地|トスル者アルハ、旧説ノ誤ナ》
《割書:リ|》其中部南部ノ諸島ハ琉球藩ニ属シ、北部ノ諸島ハ

通シ、市家第宅ハ、高垣密樹ニ蔽ハル、王城ハ、中央山頂
ニ在リ、蠣石ヲ以テ、外郭ヲ築ク、周、十五丁許、宮殿宏麗
ニ、正殿ハ唐風ニ倣ヒ、余ハ皆内地ノ製ナレトモ、柱礎多
ク、棟梁低シ、颶風ヲ防グガ為メナリ、府中ニ寺院遊園
多シ、円覚寺ニ、尚円王以下ノ神主アリ、天界寺ニ、其陵
墓アリ、府ノ西ニ弁岳アリ、山上ニ天孫氏ノ女祝々ヲ
祀ル、五岳ノ一トス、」那覇(ナハ)ハ首里ノ西南、一里許、北緯、二
十六度十三分、東経、百二十七度四十一分十五秒ノ地
ニアリ、琉球第一ノ港頭ニテ、内外二港ヲ成ス、内地及
ヒ諸方ノ船舶、輻湊スル所、近地、風景極メテ佳ナリ、市
街、方、十五丁許、前ハ南ニ開ケ、内港ニ向ヒ、後ハ岡陵ア
リ、外港ニ面ス、市中稍繁華ニシテ、府庁、神社、仏閣、及ヒ
清使ノ旅館等、皆壮麗ナリ、市街ノ西、左右ニ、砲台ヲ築
キ、潮水其間ヲ通ジ、南ニ入リ、湖形ヲ成スヲ内港トス、
周回一里許、極メテ浅シ、北部、深サ二三尋、日本大船、二
三十艘碇泊スベシ、内地ノ船、常ニ多ク泊ス、湖中ニ小
砲台ヲ築ケリ、外港ハ、東南陸地、両岬対峙、一湾ヲ成シ、
西北ハ、直ニ大洋ニ通ジ、港口ニ一列ノ巨礁アリ、天然
ノ防波堤ヲ成シ、港形最好ク、西洋船数艘、碇泊シテ、大
颶風ニ危難ナシ、然レトモ、暗礁ニ因テ、港口出入、最モ難
シトス、港内最深キ所、十七八尋、潮水極メテ透明ナリ
ト云、」久米(クメ)ハ、那覇ノ東北ニ隣ル、村中、皆明ノ洪武中、閩

人移住セル者ノ後裔ナリ、聖廟学校ヲ置ク、其東北ノ
泊(トマリ)ハ、小湾ヲ成ス、其東北 真和志(マワシ)ハ、壺家山ヨリ陶器ヲ
出ス、又安里村ニ、先王廟アリ、舜天以下、歴代ヲ祀ル、西
海岸、中城(ナカグスク)ニ、故城アリ、以北ハ、皆山岳重畳タリ、」山南、或
ハ島尻(シマシリ)省ト称ス、島ノ南端ニテ、三省中、最狭ケレトモ、能
ク開ケタリト見ユ、大里(オホザト)玉城(タマグスク)豊見城(トヨミグスク)小禄(ヲロク)兼城(カネグスク)高嶺(タカミネ)佐(サ)
敷(ジキ)知念(チネン)具志頭(クシカミ)麻文仁(マブニ)真壁(マカビ)喜屋武(キヤム)ノ十二間切、合シテ
百十四村トス、豊見城及ビ高嶺ニ、山南王ノ故城アリ、
高嶺ノ東北八頭岳ヲ、五岳ノ一トス、」山北、或ハ国頭(クニカミ)【左ルビ「クニカシラ」】省
ト云、島ノ北部ニテ、三省中、最大ニ、全島ノ半部之ニ属
ス、然レトモ不毛ト見エタリ、金武(キム)恩納(オンナ)名護(ナゴ)久志(クシ)羽地(ハネヂ)今(イマ)
帰仁(キシリ)本部(モトベ)大宜味(オホギミ)国頭(クニカミ)ノ九間切、六十八村アリ、東岸、金
武ハ大湾ニ浜シ、富蔵(フザウ)川流入ス、湾内浅ク、暗礁多シ、南
岸ノ恩納ハ、美景ノ地ナリ、其東南、恩納岳、東北、名護岳、
共ニ五岳中ニ位ス、其西北、今帰仁ニ、山北王ノ故城ア
リ、其西港ヲ、仁与波(ニヨハ)入江ト云ヒ、西海ノ二島ヲ、瀬底(セソコ)水(ミ)
無(ナ)ト云、《割書:共ニ本部間|切ニ属ス、》今帰仁ノ佳楚岳ハ、五岳ノ第一、沖
縄島中ノ最高山ナリ、山下ノ大栄川、西南ニ流ル、其東
北岸ニ、運天(ウンテン)港アリ、前ニ沖君 屋加(ヤカ)《割書:羽地間切|ニ属ス、》ノ二島ア
リテ、湾ヲ成ス、那覇ニ次ゲル好港ニテ、日本大船、五六
十艘、泊スヘジ、北部諸島、及ビ内地ノ船、輻湊スル所ナ
リ、其東 羽地(ハネヂ)ノ謝敷(シヤシキ)村、海岸ニ、鉄、硫黄、石炭ヲ出ス、《割書:嘉永|六年、》

《割書:米人発見ス、○沖縄ノ気候|産物地質等ハ後条ニ出ス、》○久高(クタカ)島ハ、山南ノ東海ニ
在リ、周三里許、知念間切ニ属ス、村落多シ東南ニ一湾
アレトモ、岩礁多シ、米、粟、海帯(アラメ)、及ビ竜蝦(イセヱビ)、五色魚、佳蘇魚(カツヲ)、螺
石ヲ産ス、海松(ウミマツ)多シ、○津堅(ツケン)島ハ、上ノ北、中山 勝連(カツレン)崎ノ
東南ニ在リ、周三里許、海松ヲ産ス、○浜(ハマ)島、《割書:又 巴(ハ)|麻(マ)、》平安座(ヘアンザ)
宮城(ミヤグスク)池(イケ)島《割書:又 伊(イ)|計(ケ)》ノ四小島ハ、勝連崎ノ東北ニ在リテ、勝
連間切ニ属ス、」以上諸島ハ、産物言語相似タリ、皆沖縄
ノ東岸ニアリテ、沖縄ニ属ス、
計羅摩(ケラマ)島ハ、那覇ノ西海ニアリ、属島十余、島人色黒ク、
能ク泅グ、多ク舟子ニ役セラル、産物ハ、牛、馬、布、粟、文貝(コヤスカヒ)、
螺石ニテ、海松ハ、最良品ニ、山ニ鹿多シ、本島《割書:唐人東馬|歯山ト云、》
ハ、周三里、間切一ツ、渡嘉敷(トカシキ)ト云、属島中、前計羅摩島ハ、
東ニアリ、座間味(ザマミ)島《割書:唐人西馬|歯山ト云》ハ、周二里、座間味間切ア
リ、赤島ハ、周一里半、共ニ西北ニ在リ、余ハ皆小島ニテ、
人家ナキ者多シ、○姑米(クメ)島《割書:又久|米》ハ上ノ西ニアリ、沖縄
清国、往来ノ船、必ス此山ヲ針準トス、周六里十二丁、間
切二ツ、内(ウチ)、金城(カネグスク)ト云、煙台ヲ置キ、往来船舶ノ為ニ、号火
ヲ挙グ、金城(カネグスク)山ハ、百二十丈、南岸金城湊ハ、日本大船、四
五艘泊スベシ、東岸町屋入江ハ浅シ島人秀美、言語沖
縄ニ同ジ、五穀、土棉、紬布(ツムギ)、紙、蝋燭、草蓆(タヽミオモテ)、鶏、豚、牛、馬、海螺、黒(イ)
魚(カ)等アリ、」以上諸島ハ、沖縄ノ西ニアリ、言語モ似タリ、」
伊恵(イヱ)島《割書:又伊|江》ハ、山北今帰仁ノ西ニ接ス、周四里七町、石

山ニテ、高サ五十六丈、伊江城(イエグスク)村、其他村落稲田多ク、土
民頗ル豊饒ニ、五穀ヲ産ス、○戸無(トナキ)島ハ、上ノ西北ニア
リ、周一里六丁、牛多シ○粟国(アハクニ)島《割書:或 粟(アハ)|島(シマ)》ハ、上ノ東北ニア
リ、周二里十二丁、蘇鉄豕多シ○伊足那(イソナ)島ハ、上ノ西ニ
アリ、周二里半、高サ四十丈、属島、北ニ具志河(グシカハ)、南ニ柳葉(ヤナハ)、
共ニ小島、人家ナシ、○恵平屋(エヘヤ)島《割書:又伊平也、唐人|葉壁山ト云》ハ、上ノ
北ニ接ス、周四里二十六丁、高サ一百丈南ニ乃保(ノホ)島ア
リ、属ス、産物ハ米、最佳ナリ、雑穀、棉花(ワタ)、蕉糸、海胆(ウニ)、毛魚、蠣(アラ)
石(ト)等ヲ産ス、○鳥(トリ)島《割書:又 黒(クロ)島、唐人|硫黄山ト云、》ハ、恵平屋ノ北、遥海上
ノ小島ナリ、周二里許、東ハ徳島ト対ス、異鳥多キガ故
ニ名トス、噴火山ニテ、五十四丈アリ、温泉湧出ス、島ニ
草木ヲ生セズ、多ク硫黄ヲ産ス、硫黄ヲ採ルノ家、四十
戸ヲ置キ、毎年沖縄ヨリ、米穀ヲ送リ、二頭目ヲ置キ、泊(トマリ)
間切ヨリ、之ヲ管ス、島人、硫黄気ニ薫灼セラレ眼晴精
明ナラズト云、」以上諸島、沖縄ノ西北ニアリテ、言語モ
沖縄ニ似タリ、
 南部諸島 中部諸島ノ遥ニ西南ニ在リ、宮古、石垣
 入表ノ三島、及ビ群小島ト合シ、二十島許、総称シテ
 先島(サキジマ)ト云、洋人マジコジマ諸島ト云、宮古島(ミヤコジマ)ノ訛ナ
 リ、○沖縄ヨリ、先島ニ到ル海中ニ、大暗礁アリ、方二
 里許、八重干瀬(ヤヘノヒセ)ト云、
宮古(ミヤコ)島ハ、此諸島ノ東ニ位シ、近傍六七島ト合シ、宮古

【枠外上部】太平山トハ、唐人ノ称スル名ナリ、

島、或ハ太平山ト称ス、本島、周回十一里許、稍三稜形ヲ
成シ、世登乃崎(セトノサキ)、北ニ突出ス、沿海暗礁多シ、於呂加雁股
下地 平良(ヒラヽ)四間切、別ニ村落多シ、西ノ港ヲ針水(ハリミヅ)ト云、碇
泊スベシ、筑(チク)山甚タ高シ、麓囲五六里、頂ニ碧於亭アリ
気候最暖二、地味頗富饒ニシテ、物産繁生ス、米、最多ク、
毎年五月、貢税ヲ沖縄ニ送ル、五穀、牛、馬、多ク、細上布(サツマジヤウフ)、麻(サツマ)
布(ガスリ)殊ニ上品ナリ、棉布(モメン)、草蓆(タヽミオモテ)ヲ出シ、紅酒ヲ産ス、太平酒
ト云、○伊計間(イケマ)ハ、世登乃崎ノ西北ニアリ、周一里余、又、
崎ノ北ニ大高見(オホタカミ)島アリ、○来間(コリマ)島ハ、本島ノ西南ニ接
シ、下地間切ニ属ス、周一里、○永良部(エラブ)島ハ、本島ノ西ニ
接シ、奥永良部(オクノエラブ)ト称ス、周四里半、○宇間麻(ウカマ)島《割書:又下|地島》ハ、其
西ニ接ス、○太良末(タラマ)島ハ、宮古石垣ノ間ニアリ、周四里、
○水名(ミヅナ)島ハ、太良末ノ東北ニアリ、之ニ属ス、周一里、」以
上諸島ハ、皆宮古ニ属セリ、
石垣(イシガキ)島ハ、宮古ノ西ニ在リ、入表島、及ヒ小島十余ヲ合
シ、総称、八重山(ヤヤヤマ)ト云、本島、周回十六里半、亦略三角形ヲ
成シ、平窪(ヒラクボ)崎、遥ニ北ニ突出ス、宮良 石垣(イシガキ)河平(カハヒラ)大浜四間
切、三十八村アリ、河平(カハヒラ)ハ、西岸ノ湊ニテ、日本大船、二三
十艘碇泊スベシ、南港、御崎泊ハ、大船入ラズ、島ノ西南、
於茂登(オモト)岳ハ、高サ百六十丈アリ、気候最暖ニ、土地宮古
ニ比スレバ、更ニ豊饒ナリ、米、最多ク、毎年五六月、宮古
ト共ニ、沖縄ニ貢ス、物産繁盛、五穀、細上布(ジヤウフ)、麻布(カスリ)、樫木(カシ)、牛、

馬、海参(ヤヘイリコ)、螺石、□□(シヤコ)、瑇瑁(タイマイ)珊瑚、海石類ヲ産ス、紅酒ヲ出ス、
密林酒ト云、又草蓆多シ、○武富(タケトム)島ハ、本島ノ西南ニア
リ、周二里弱、○黒(クロ)島ハ、又其西南ニ在リ、周三里、高サ百
二十丈、西ノ二属小島ヲ上離下離ト云、○波照間(ハテルマ)島ハ、
又其西南ニアリ、周三里二十丁、」以上皆石垣ニ属ス、
入表(イリオモト)島ハ、石垣ノ於茂登(オモト)岳ノ西ニ在ル故ニ名トス、方
言ニ、深奥ノ所ヲ入(イリ)ト云、表ハ於茂登(オモト)ナリ、或ハ西表(ニシオモト)島、
又 姑弥(コミ)島トモ称ス、周回十五里、入表(イリオモト)古見(コミ)二間切、三十
村アリ、気候物産、石垣ト同シ、西表蘭、風蘭ヲ産ス、東 古(コ)
見(ミ)、北、比計(ヒケ)川村、西、曽奈比(ソナヒ)村、三港共ニ浅シ、西湾ニ、二小
島内離外離アリ、人家ナシ、○小浜(ヲハマ)島ハ、入表ノ東ニ接
ス、周三里、東北ノ属小島、宇也末(ウヤマ)、人家ナシ、○鳩間(ハトマ)島ハ
北ニ在リ、古見(コミ)間切ニ属ス、○新城(アラグスク)島ハ、西南ニアリ、○
与那国(ヨナクニ)島ハ、入表ノ正西、遥海上ニ在リ、中間潮流、急ナ
リ、島ノ周リ五里十丁、高七十丈、琉球最西ノ島ニテ、台
湾島《割書:琉球人ハ|高砂(タカサゴ)ト云、》ニ接セリ、」以上諸島、皆入表ニ属ス、
 北部諸島 中部諸島ノ北、少シ東ニ在リ、大島特ニ
 大ニ、徳島永良部等、之ニ次グ、合シテ十許島、泛称シ
 テ、大島ト云、古ヘ琉球ノ属、慶長以後、皆島津氏ニ帰
 シ、今ハ鹿児島県ニ属ス、○或ハ大島喜界徳島ヲ三
 島ト称ス、
大島(オホシマ)ハ、小琉球島ト称ス、沖縄ニ次ゲル大島ニテ、諸島

【枠外上部】興那国ハ、台湾ト相距ルヿ、僅ニ二十五六里ニシテ、島人尚野蛮兇暴ナリ、薩船ノ如キ、決シテ之ニ近カズト云、

ノ北端、琉球ノ北界ニ在リ、島ノ北端、笠利(カサリ)崎ハ、北緯二
十八度二十九分ニ在リ、島形 山葵(ワサビ)ノ根ノ如ク、稍東北
ヨリ、西南ニ長ク、大約長サ二十里許、幅員、南広ク八九
里、北狭ク一二里、周回六十里許、」此島、古昔ノ一名ヲ阿(ア)
麻弥(マミ)島ト云、今、島ノ東北端ニ、湯湾(ユワン)岳アリ、上世、神人 阿(ア)
摩美久(マミク)、始メテ此山ニ降ル、因テ旧名ヲ阿麻美(アマミ)岳ト云
ヒ、島モ亦因テ名トス、」《割書:或云、旧名、阿麻弥、後、地形稲大ナ|ルニ因テ、大島ト名クト、或云、為》
《割書:朝、此島ニ在ルトキ、伊豆|ノ大島ニ擬ヘ名クト、》湯湾岳ノ高サ、二百五十丈、即チ
島中ノ山脈起ル所ニテ、永明山、清水山、菊花山、南ニ在
ルハ、百二十五丈、島内、総テ山岳多ク、北部僅ニ平遠ナ
リ、奈瀬(ナセ)、古見(コミ)、笠利(カサリ)、住用(スムヨウ)、焼内(ヤキウチ)、西(ニシ)、東(ヒカシ)ノ七間切、別ニ瀬名(セナ)、竜(タツ)
郷(ゴウ)、赤木名(アカキナ)、大和浜(ヤマトハマ)、須垂(スダル)、渡連(ドレン)、実久(サネク)アリ、二百六十村、大里
長十二員、小里長百六十員ヲ置キ、奈瀬ヲ首府トス、奈
瀬ハ、北岸ニ在リ、笠利(カサリ)崎、島ノ北端ニ突出シテ、一湾ヲ
成シ、内ニ深井(フカヰ)浦 竜郷(タツゴウ)港アリ、共ニ北ニ向フ好港ニテ、
大船数十ヲ泊セシム、東岸住用ニ銅鉱アリ、住用川、頗
大ニ、港口船舶輻湊ス、西端ノ西古見湊ハ、大船七八艘
泊スベシ、少シク東北ニ転ジ、焼内(ヤキウチ)湊ハ、港口ニ、伊大天(イタテ)
良(ラ)島アリ、港形深ク入リ、一川会注シ、大船百余艘泊ス
ベシ、好港ナリ、更ニ北ニ、大和浜(ヤマトハマ)ノ湊アリ、」全島、田野頗
ル開ケ、山谷豊沃ノ光景、沖縄ノ如シ、人口稠密、略文学
アリト云、風俗、大抵沖縄ニ似テ、但人気険悪ナリ、婦人、

【枠外上部】大島ノ周回、尽ク好港ナラザルハナク、西洋人ノ賞スル所ナリ、殊ニ焼内竜郷ヲ最好トス、且、南岸加計留末島ト瀬戸ノ如キ、一帯ニ碇泊スベシト云、
【枠外上部】焼内ハ、或ハ、屋喜(ヤギ)内トモ書ス、元来、焼打ニテ、慶長征伐ノ時、島津氏ノ兵、焼払ヒシ処ト云、

最モ茶ヲ嗜ム、故ニ内地ノ輸入ハ、茶ヲ第一トス、交易
ニ貨幣ヲ用ヰズ、物品ヲ以テ交フ、風土ハ、冬暖ニ、夏涼
ク、百物繁生シ、五穀、木棉、芭蕉、桑、竹、棕梠、樫木(カシ)、阿且(アタン)アリ、
蘇鉄多シ、土人、凶年ニ其根ヲ碓シ食フ、甘薯(サツマイモ)ハ、終年繁
茂シ、土人常糧トス、牛、馬、犬、羊、鶏、豚、騖、鴨皆アリ、山ニ猪、
兎多シ、毒蛇アリ、波布(ハフ)ト云、人ヲ嚙メバ立ニ斃ル、海魚
頗 ̄ル多ク、□□、真珠ヲ出ス、陶器ハ、製粗ナリ、又盛ニ甘蔗
ヲ植ヱ、砂糖ノ産、諸島ニ冠タリ、毎年凡ソ一千万斤ヲ
出ス、世ニ大島ト称スル者ニシテ、皆薩摩ヨリ、内地ヘ
運搬ス、近海ノ潮流、常ニ東北ニ流ル、○加計留麻(カケルマ)島《割書:又|加》
《割書:止奈、加|計呂末》ハ、大島ノ西南ニ接ス、島形細ク、東西ニ長シ、周
十五里、○宇計(ウケ)島《割書:又 宇留(ウル)、|浮(ウキ)野、》ハ、上ノ南ニ接ス、周四里余、○
与呂(ヨロ)島ハ、又其西ニ接ス、周三里半、」以上三島、共ニ大島
ニ属ス、
喜界(キクワイ)島《割書:又鬼界、|奇界、》ハ、大島ノ東ニ在リ、周六里二十四丁山
高サ八十七丈、全島大抵平地ニテ、志戸桶、東(ヒガシ)、西目(ニシメ)、椀(ワン)、荒
本ノ五間切アリ、椀泊(ワントマリ)ハ、西南ノ港ナリ、砂糖 樫木(カシ)ヲ産
ス、最良品ナリ、硫黄ヲ出ス、滑石、雷斧、石灰石、《割書:或ハ、白金(アンナモト)|ヲ 産 ズ ト》
《割書:モ|云、》地ニ樹木少ク、馬糞ヲ焚テ、薪炭ニ代フト云、島人膚
黒シ、○徳島(トクノシマ)ハ、大島ノ西南ニ在リ、周十七里三丁、島形
法馬(フンドウ)ノ如シ、山岳多ク、北部ノ山、最高ク、二百丈アリ、東(ヒガシ)、
西目(ニシメ)、面縄、三間切アリ、東岸、秋徳(アキトク)湊、碇泊スベシ、井之川

湊、及ビ西岸、和爾也泊(ワニヤトマリ)、共ニ大船入リ難シ、物産ニ、碗豆(ヱントウ)
多ク、落地生(ラクチセウ)殊ニ多シ、砂糖ヲ出ス、世ニ徳島ト称ス、其
他、物産風俗、大抵大島ニ似タリ、島人膚黒シ、○永良部(エラブ)
島ハ、上ノ西南ニアリ、沖永良部(オキノエラブ)ト称ス、周回十里半、木
比留、大城、徳時三間切アリ、和泊ハ、東岸ノ港ニテ浅シ、
産物ハ砂糖アリ又異魚ヲ産ス、永良部(エラブ)鰻(ウナギ)ト云、細長一
丈許、腊製シ薬トス《割書:海蛇(ウミヘビ)ノ大ナ|ル者ナリ、》人物風俗ハ沖縄ニ似
テ、物産ハ大島ニ似タリ、○与論(ヨロン)島ハ、上ノ南ニ在リ、周
回三里五丁、武幾也、阿賀佐(アカサ)ノ二村アリ、西南、阿賀佐泊(アカサトマリ)
ハ、港口浅ク、大船入ラズ、砂糖ヲ出ス、芭蕉、樫木多シ、西
南、沖縄ノ運天港ニ対セリ、
 大隅(オホスミ)諸島 熊毛(クマゲ)馭謨(ゴム)二郡ノ地、《割書:以下|附録》
 種子(タネガ)島ハ、周回三十七里半、島形南北ニ長ク、大隅ノ
 南海ニ在テ、其熊毛郡ノ地ナリ、西ニ馬毛(マケ)島アリ、小
 島ニテ、同郡ニ属ス、」屋久(ヤクノ)島ハ、種子ノ西南ニ在リ、馭
 謨郡ノ地ナリ、周十六里余、島形円ナリ、南端ノ元見(モトミ)
 山ハ、高サ六百三十五丈アリ、」永良部(エラブ)島ハ、上ノ西ニ
 在リ、口永良部(クチノエラブ)ト称ス、馭謨郡ニ属ス、周六里半、島形
 東西ニ長シ、山高サ二百丈余、
 薩摩(サツマ)諸島 河辺(カハノベ)郡ノ属、
 竹島ハ、薩摩ノ南、屋久ノ北ニアリ、西ニ硫黄(ユワウ)島アリ、
 噴火山ニテ、二百三十五丈、常ニ煙霧絶エズ、又西ニ

 黒(クロ)島アリ、高サ二百十四丈、」以上三島、皆小島ニテ、薩
 摩ノ近海ニ在リ、《割書:或ハ種子、馬毛、屋久、永良部、竹島、|硫黄、黒島ヲ薩摩七島ト称ス、》
 七島 亦河辺郡ノ属、《割書:或ハ、土噶剌(トカラ)|七島ト称ス、》
 口(クチノ)島ハ、永良部ノ西南ニ在リ、高サ二百十二丈、其南
 ニ中島アリ、高サ三百二十八丈、其西ニ卧蛇(グワジヤ)島《割書:又 蛇(ヘビ)|島》
 アリ、百八十二丈、其南ニ平(タヒラ)島アリ、九十八丈、其東ニ、
 諏訪瀬(スハノセ)島アリ、噴火山、高サ二百六十丈、其西南ニ、悪(アク)
 石(セキ)島アリ、二百十八丈、又其南ニ宝(トカラ)島、《割書:又 土(ト)|噶剌(カララ)、》山高サ八
 十八丈、其南ハ即チ大島ニテ、之ヲ薩摩琉球ノ境ト
 ス、」以上七島、皆薩摩ノ遥海ニ在リ、人口万ニ満タズ、
 但宝島稍大ニ、余ハ皆小島ナリ、物産多ク、硫黄、醇酒、
 陶器、緑紋紙等ヲ出ス、又 草蓆(タヽミオモテ)ヲ産ス七島ト云、

【枠外上部】七島中、宝、悪石、卧蛇ノ外ハ、大抵無人ナリ、殊ニ、諏訪瀬ノ如キハ、近年、壊没シテ、暗礁ト為ル、総テ、七島ノ辺海ハ、一面ノ暗礁アリ、且潮風共ニ暴急ニシテ、洋中最険悪ノ所トス、中外ノ船舶、毎ニ破壊ノ難ナリ、

  気候
地位、回帰線ニ近シト雖トモ、四面ノ海風ヲ受ケ、地形高
ク、気候熱スル少シ、時ニ旱魃アレトモ、大抵耕種ニ宜シ
ク、天然ノ風土ト、居民ノ清潔ヲ好ムトニ因テ、人身ノ
健康ニ適シ、且沼沢ノ湿気無ク、海風清浄ノ空気ヲ送
リ、腐敗物ノ毒気ヨリ起ル病根ヲ掃絶ス、正月桃開キ、
枇杷熟シ、厳冬ニ、氷ナク、霜雪絶エテ無シ、終歳、山野蒼
々、百虫蟄セズ、四時、蚊帳ヲ垂レ、甘薯(サツマイモ)ヲ植ヱ、菊花尚ア
ルニ、梅既ニ回陽シ、一年皆花ナリ、○近海ニ、暴風煙霧
多シ、二月、霧多ク、秋冬、北風多シ、大凡琉球辺海ハ、彼ノ

東洋ノ颶(グ)風 颱(タイ)風ノ直道二当ルヲ以テ、大ニ其害ヲ受
ク、颶(グ)【左ルビ「オホハヤテ」】ハ、四方ヲ具シテ、方位定リナキ故ニ名トス、《割書:□(バイ)ハ|非ナ》
《割書:リ、|》大抵春夏ニ多シ、俄ニ発シ、俄ニ止ム、其起ル時、天ニ
黒点ヲ生ジ、忽チ暴至ス、颱(タイ)【左ルビ「アカシマ」】ハ、夏秋ノ交ニ多シ、漸ニ起
テ、連日止マズ、起ル時、天ニ断虹現レ、半天ニ及ンデ、変
化異状ヲ成ス、北方ニ現ルレハ最虐ナリ、西洋ノ航海
者、支那海辺ノ暴風ヲ、「タイフーン」ト唱フルハ、蓋シ颱
風ノ字音ナルベシ、其最慎ム所ナリ、又颱、颶、共ニ初メ
必ズ雨降リ、海面俄ニ変ジ、穢多ク、海 蛇(ヘビ)浮出ヅルノ徴
アリ、然レトモ、颶ハ尚避クベシ、颱ハ当ルベカラスト云、
○琉球ノ西北海ニ、一大潮流アリ、常ニ西南ヨリ東北
ニ赴ク、即チ八丈島辺 黒瀬(クロセ)川ノ原脈ナリ、総テ諸島相
離ルヽ間ハ、大抵急流ナリ、航海者慎メリ、《割書:唐人之ヲ|落漈ト云、》又
那覇近海ハ、潮ノ乾満、大抵六尺ノ差アリ、毎月望ニ清
ノ福州ハ、午時ニ満潮シ、此辺ハ、日暮ニ満潮スト云、
  地質
沖縄地面ノ質ハ、大抵陶土質ニテ、所々石灰石ヲ交ユ、
海面ヨリ、四五十丈ニ至ル、皆是ナリ、辺海ニ岩礁多ク、
波濤ノ間ニ出没ス、山ハ大抵松林茂生シ、崖間ハ巉断
トシテ、火山ノ貌ヲ成ス、山巓、稍磽瘠ナルノミ、其余、谷
野ニ至テハ、滋潤沃饒、草木所在ニ繁茂セリ、《割書:耕種ノ部|ト参見ス》
《割書:ベ|シ、》○琉球諸島ハ、火脈ニ当レリ、亜細亜東北ノアレウ

シェーン諸島ヨリ起リ、柬察加(カムサツカ)千島(チジマ)北海道日本九州ヲ
歴テ、琉球ヲ亘リ、呂宋(ルソン)島、無来(マレー)諸島ヲ過ギ終ニ印度ノ
ベンガル湾ニ入ル者、是東方火山脈ノ直道ナリ、○沖
縄島、狭長ナルガ故ニ、海水四面ヨリ環注シ、井水深ク、
鹹苦多シ、然レトモ、所在ノ山間岩穴ニ、甘泉アリテ必沸
ス、其他、河川沼沢少シ、
  物産
内地ト大同少異ナリ、爰ニ異産多少ノ者ヲ挙グ、鉱物
最少シ、唯鳥島ニ、硫黄多ク、沖縄ニ、少シク硫黄、石炭、鉄
ヲ産ズ、硯石、磨石(トイシ)、石灰石アリ、蠣石(アラト)ハ、恵平屋ニ出ヅ、大
島ニ銅鉱アリ、○穀類《割書:耕種ノ部ト|参見スベシ、》ハ、米多シ、姑米八重
山宮古亦多シ、貴人ノ食トス、薩州ニテ、琉球米ト称シ、
下品ナリ、粟、黍、麦、類皆アリ、大麦少シ、豆類亦皆アリ、落(ラク)
地生(チセウ)ハ、豆類ニテ、莢(サヤ)ハ粗紗ノ如シ、土中ニ実ヲ結ブ、諸
島皆アリ、○草類ハ、甘薯最多ク、世ニ薩摩薯、琉球薯抔
称スル者ニシテ、瘠地ヲ択マズ、諸島皆盛ニ植ヱ、土人
日常ノ糧食トス、蔗ハ、色紅ニシテ、節短シ、一年皆アリ、
小種ノ者ヲ砂糖トス、煙草亦多シ、菜類、瓜類、皆アリ、蘿(ダイ)
蔔(コン)ハ、長三尺囲二尺ニ至ル、茄(ナス)ハ樹ヲ成ス、高サ丈余、囲
ミ尺余ノ者アリ、終年実ヲ結ビ、梯子(ハシゴ)ヲ以テ摘ム、大ハ
西瓜ノ如シ、味佳ナラズ、今ノ内地ノ西瓜(スイクワ)ハ、寛永四年、
始メテ琉球種ヲ移セシ者ナリ、冬瓜(トウグワン)ハ、醋、醤油ニテ食

フ、味佳ナリ、蕨類多シ、大ナルハ、木ノ如シ、松露(セウロ)ヲ土人
ハ蓄蘿(チクラ)ト云、具志頭(グシカミ)ノ産、良ナリ、防風ハ根、小蘿蔔ノ如
ク、漬テ食フ、□(ク)草(ヾ)ハ、草蓆ヲ製ス、灯心草ハ、灯心ヲ採ル、
万年青ハ、土人モ烏木毒(オモト)ト云、蘭ノ種類、極メテ多ク、四
時皆アリ、菊モ亦類多シ、野牡丹ハ芳烈ナリ、種、宮古ニ
産ズ、火鳳(イハレンゲ)ハ、人家牆上ニ、多ク植エテ、火ヲ避ク、海草ハ
海苔(ノリ)、石花菜(トコロテン)、鹿角菜(ワノリ)海松(ウミマツ)アリ、海帯(アラメ)ハ、久高ニ出ヅ、其他、
諸草枚挙スベカラズ、○木類ハ、松最多ク、一種、根ヨリ
枝ヲ開キ、散蟠スル者アリ、檜(ハヒビヤクシン)モ亦多ク地ニ蟠ス、柏(ヒノキ)、樟(クス)、
榕、楓(カラカヘデ)、柳、榴(ザクロ)、槐(エンジユ)、烏木(コクタン)、アリ杉ハ、清ノ閩種ナリ、棕梠多シ、桐
ニ種類多ク、椰子ハ無シ、奇トイフベシ、橙類、桃、李、葡萄、
皆アリ、梅ハ内地ヨリ移ス者、花アリ実少シ、枇杷ハ、小
ニシテ微長ナリ、茉莉、海棠、扶桑(フソウクワ)アリ、樫(カシ)ハ木理堅密ニ
テ、良材ナリ、福木(フクギ)ハ、葉 冬青(モミノキ)ノ如ク大ナリ、対節ニ生ジ、
厚ク光アリ、樹身ハ、直上数丈、葉ハ緑色ヲ染ムベク、花
ハ小黄ニ実ハ橘ノ如ク食フベシ、蘇鉄(ソテツ)最多ク、凡ソ院
落路旁、皆植ウ、根ヲ碓キ粉トシ、糧ニ充ツ、櫨(ハジウルシ)ハ一ニ油
樹ト云、油ヲ榨ルベシ、阿旦(アタン)ハ、諸島ニ皆アリ、樹身ハ、棕
梠ノ如ク、葉長ク剌アリ、連蔓堅利、牆トスベシ、葉ハ蓆
トスベク、根ハ擣テ糸トシ、或ハ索トシ、或ハ布ヲ織ル、
阿旦布ト云、実ハ瓜ノ如ク、六稜ニシテ剌アリ、食フベ
シ、其他異産ノ樹多シ、○竹類モ、極メテ多ク、諸島ノ所

在、皆竹アリ、苦竹(マタケ)、虎斑竹(フタケ)、烏竹(クロタケ)アリ、方竹(シカクタケ)ハ、即チ琉球竹
ト称シ、杖トスル者ナリ、孟宗竹ハ、囲尺余、今ノ内地ノ
種ハ、即チ安永八年、此国ヨリ移ス者ナリ、観音竹(ゴギンチク)ハ、地
ニ着テ叢生シ、幹細ク短ク、紫色ナリ、棕竹(シユロチク)ハ、高サ尺余
ニ過ギズ、扇骨トスル者ナリ、竹最民用ヲ成シ、多ク人
家ノ牆トス、○鳥類ハ、国人網銃スルヿ稀ナリト雖トモ、
山林ニ野鳥少シ、奇ト云フベシ、雀、鴉、鳩、鷺、鶉、鷗、雁、アリ、
燕ハ、七月来ル、人家ニ巣クハズ、鷹ハ、九月中ノ東北風
ニ飄至ス、鶏類多シ、鵝、鴨、少シ、其他、異鳥ノ外島ヨリ飄
至スル者アリ、○獣類少シ、牛ハ、小ニシテ黒シ、馬ハ、小
健多毛、名産ニテ甚タ蕃息ス、貢献交易ニ出ダス、又終
年草ノミヲ食フ故ニ、貧民皆畜フテ耕運ニ供ス、山羊、
豚アリ、猪ハ、山林ニ多シ、鹿ハ、久高計羅摩等ニ多シ、犬、
大ニシテ、人ヲ傷フ者アリ、猿少シ、鼠最虐ナリ、猫皆玩
物ニ供シ、鼠ヲ捕ヘザル故ト云、○魚類ハ、鮫、鯉、鮒、鰻、鮹
等、極メテ多シ、鯨ハ、近海島嶼ノ間ニ出没スレトモ、捕ヘ
ズ、鰩(トビノウヲ)ハ、白鳥ノ如ク、水上ニ飛フヿ丈余ナリ、五彩魚ハ、
各種、色ニ因テ名ヅク、佳蘇魚(カツヲ)、《割書:俗ニ云鰹|節ナリ》魚脊ニテ製ス、
長サ一尺許、久高ノ産、良ナリ、煮テ煨リ、肉汁ニ漬シ、薄
切シテ食ノ、海馬(ウミムマ)ハ、馬首魚身ナリ、海蛇(ウミヘビ)ハ、長サ二三尺、
黒色□獰、僵直朽索ノ如シ、其他雑魚多シ、○介類ハ、亀、
鼈(スツポン)、蟹(カニ)、螺(ニシ)、蛤(ハマグリ)、鰒(アハビ)、蝦(エビ)等多シ、竜頭蝦(イセエビ)ノ大ナルハ、一二尺、竜形

ヲ成ス、玳瑁(タイマイ)ハ、甲、亀鼈ノ如ク、長尾尖形ニシテ、頭ハ淡
紅ヲ帯フ、長簪トス、緑螺ハ、大ハ盆ノ如ク、杯杓トシ、又
螺鈿(ラテン)器物ヲ飾ル□□(シヤコ)ノ大ナルハ、浴盆トシ、小ナルハ、
釜或ハ盎トス、器物ヲ製スニ、牙ノ如シ、海胆(ウニ)、海松(ウミマツ)、海柏(ウミヒバ)、
石芝(ボタンイシ)アリ、珊瑚、松紋ハ、八重山ニ出ツ、螺蜯中ニ真珠(シンジユ)ヲ
出ス、円ニシテ色ナシ、○虫類ハ、蝎虎(ヤモリ)尤多シ、声麻雀ノ
如シ、蜥蜴(トカゲ)モ多シ、背ニ金色アリ、蛇ニ最毒アリ、人其毒
ニ触レバ、即チ斃ル、姑米島最多シ、蝍蛆(ムカデ)ハ、長サ一尺余
ニ及ブ、傷ハズ、蚊、蠅、尤多ク、百虫終歳蟄セズ、
  国名
上古我朝、南海ノ多禰(タネ)《割書:又多褹、今|ノ種子、》掖玖(ヤク)《割書:又邪久、今|ノ屋久、》菴美(アマミ)《割書:又|奄》
《割書:美阿麻弥、|今ノ大島、》度感(トカ)《割書:今ノ徳島カ、|或云宝島、》信覚(シガキ)《割書:今ノ|石垣、》球美(クミ)《割書:今ノ|姑米、》永良部(エラブ)
貴海(キカイ)《割書:又貴賀、今|ノ喜界、》諸島ヲ、南島ト称ス《割書:孝徳斉明天武ノ朝|ニ、吐火羅(トクワラ)国ノ人、屡》
《割書:西海ニ漂着ス、日本史ニ、天竺地方ノ国|トス、疑フラクハ、今ノ宝(タカラ)島ナルベシ、》即チ今ノ琉球、
皆此内ニアリ、中古ニ至テ、白石 阿甑(コシキ)黒(クロ)島 硫黄(ユワウ)等ト合
シテ十二島、総称シテ、鬼界(キクワイ)島ト云ヒ、又五島七島ノ称
アリ、」凡ソ、中古国史ニ、鬼界島ト書シ、或ハ為朝ノ鬼島(オニガシマ)
ヲ征シ、又頼朝ノ貴賀井(キカヰ)島ヲ伐ツ、皆南島ノ泛称ナリ、
俊寛等ノ鬼界島ニ流サルヽハ、薩摩近海ノ硫黄島ナ
リ、以テ知ルベシ、《割書:今ノ喜界島ノ旧名、鬼界ト云、是古貴|海ノ同音ニ因リ、後諸島ノ泛称ヲ、一》
《割書:島ニ存セ|シノミ、》其鬼ヲ以テ目セシハ、蓋シ、上世南島野蛮ノ
風俗、世ニ人ヲ啖フノ国 ̄ト唱ヘシニ因リ、名トセシナル

ベシ、」後二条高倉帝ノ頃ニ至テ、南方ハ、既ニ叛テ、今ノ
琉球トナレルナルベシ、」《割書:南浦文集ニ、薩摩ノ諺ヲ引キ、|那覇本是河辺郡ノ句アリ、後》
《割書:或ハ、一旦薩摩ニ属セ|シモ、知ルベカラズ、》沖縄ハ孝謙帝ノ頃、吉備真備等、
阿児奈波(オコナハ)島ニ漂流ストアリ、之ヲ始トス、又空海ノ性
霊集ニ、留求トアル、琉球ノ字ノ始ナリ、」漢土ノ史ニハ、
隋書ノ流求ヲ始トス、或云隋ノ朱寛、万濤ノ間ニ、地形
ヲ見ルニ、虬竜ノ水中ニ浮ブガ如シ、始メテ流虬ト名
ヅクト、或云、為朝、海ニ浮ミ、流ニ順テ求ム、故ニ流求ト
スト、皆附会ノ説ナルノミ、」其他和漢ノ書ニ、琉球ノ異
字、数十様アリト雖トモ、皆音通ノ字ナリ、故ニ漢土ニハ、
隋ノ流求ヲ初名トシ、元ニ琉求トシ明ニ琉球ト定メ、
我朝ニハ古名ヲ南島鬼界島トシ、後ニ琉球トスト知
ルベシ、」而シテ、琉球ノ字、或ハ国名トシ、或ハ沖縄一島
ノ名トシ、或ハ諸島ノ泛称トス、今ハ、宜シク、詔ニ因テ、
諸島ノ総称ヲ、琉球藩トシ、首府ノ島名ヲ、沖縄ト称ス
ベシ、是正ニ其当ヲ得ン、

【枠外上部】異字
流求、琉求、瑠求、留求、流球、流虬、竜虬、流鬼、瑠球、留仇、

  史記
鴻荒ノ世ニ、男女二神アリ、阿摩美姑(アマミコ)ト云、始メ大島最
北ノ山ニ降リ、《割書:故ニ、島山、共ニ旧名ヲ阿麻弥ト|云大島ノ条下ト参見スベシ、》竟ニ、国
土ヲ覓メテ、此国ニ到ル、時ニ此島微小ニシテ、波浪ニ
漂フ、乃チ草木ヲ生植シ、山国ノ形体ヲ成シ、遂ニ米穀
ヲ分種シ、《割書:其地今ノ|山南地方、》稼穡ヲ伝ヘ、二神夫婦ト成リ、三男

二女ヲ生ム、長男ハ、開国ノ始王ト為リ、天孫氏ト称シ、
二男ハ按司(アンズ)ノ始、三男ハ、民庶ノ始トナル、長女ヲ君々
ト云ヒ、天神トナリ、次女ヲ祝々ト云ヒ、海神トナル、爾
後、天孫氏世ニ国ニ王タリ、今ニ至テ、国人上世ヲ称シ、
阿摩美姑代ト云、《割書:尚神代ト云|フガ如シ、》○推古十六年、隋主楊広、
其臣朱寛ヲ遣ハシ、琉求ヲ慰撫ス、従ハズ、其布甲ヲ取
リ還ル、時ニ我朝使、《割書:蓋シ小野|妹子ナリ、》隋ニ在リ見テ曰、是 邪久(ヤク)
国人用ヰル所ナリト、《割書:琉球ノ史ニ出ヅル、之ヲ始トス、|然レトモ、此時、朝使既ニ邪久ヲ知》
《割書:レバ先_レ是南島既ニ我ニ|帰化セシヿ知ルベシ、》十八年、隋又伐テ其王ヲ殺ス、
二十四年、掖玖(ヤク)人、始メテ来朝ス、《割書:国史ニ、南島ヲ記|スハ、之ヲ始トス、》、天武
六年、多禰(タネ)人、始メテ来朝ス、十年 馬飼連(ムマカヒノムラジ)等、多禰国図ヲ
献ズ、明年、阿麻美人、始メテ来朝ス、文武二年、文忌寸博(フミノイミキハカ)
士(セ)等、兵ヲ率テ、南島ヲ慰撫ス、三年、度感(トカ)人、始メテ来朝
ス、大宝二年、多禰人、薩摩ノ隼人等ト叛テ南路隔絶ス、
乃チ兵ヲ発シ、討平シ、遂ニ戸ヲ校シ、吏ヲ置キ、掖玖ヲ
多禰ニ併セ、郡ヲ置キ、太宰府所轄、三島ノ一トス元明、
和銅六年、信覚(シガキ)球美(クミ)等、始メテ来朝ス、此ニ於テ、南島尽
ク内附ス、凡ソ推古ヨリ、寧楽ノ朝ニ至ルマデ、其間南
島陸続朝貢シ、屡々位禄ヲ賜フ差アリ、《割書:古ヘ、各島、皆君|長アリト見ユ、》
天平七年、太宰府ヨリ、南島ニ牌ヲ建テシメ、所在地名、
里数、泊船、取水等ノ所ヲ誌サシム、孝謙天平勝宝五年、
遣唐使、藤原清河吉備真備等、阿児奈波島ニ漂流ス、六

年、太宰府ニ命ジ、南島ノ牌ヲ修建セシム、爾後、南島ノ
事、史闕シテ詳ナラズ、《割書:蓋シ太宰府ニ隷シ、直ニ|其府ニ貢献セシナリ、》淳和、天
長元年、多禰島ヲ停メ、大隅国ニ隷ス、文徳、仁寿三年、僧
円珍、《割書:智|証》琉球ニ漂流ス、一条長徳三年、南蛮、西辺ニ冠ス、
明年、貴賀島ニ令シ、追捕セシム、○二条高倉帝ノ頃ニ
至テ、南海十二島中ニ、北部五島内附シ、南部七島属セ
ズ、時ニ薩摩ノ人、平忠景、朝命ニ乖キ、鬼界島ニ入ル、平
家貞ヲシテ、討タシム、果サズ、治承元年、藤原成経平康
頼僧俊寛等ヲ鬼界島ニ流ス、○初メ、源為朝、保元ノ乱
ニ、罪アリテ、伊豆ノ大島ニ流サレ、諸島ヲ侵略シ、居ル
ヿ十年、永万元年、《割書:二|条》偶、海上ニ鷺ノ飛ベルヲ見テ、島ア
リトシ、海ニ航シ、一昼夜、竟ニ一島ニ至ル、伝言シテ、鬼
島トス、即チ琉球ナリ、此時、天孫氏徳衰ヘ、諸按司叛キ、
国中乱ル、為朝島人ヲ畏服シ、一方ノ地ヲ略有シ、遂ニ
大里按司ノ妹ヲ娶リ、翌年、仁安元年男尊敦ヲ生ム、為
朝、時年二十八、居ルヿ数年、終ニ尊敦ヲ留メ、島人一人
ヲ率テ大島ニ還リ、毎歳絹百疋ヲ納レシム、嘉応二年、
為朝、官軍ヲ受ケ、大島ニ死ス、」《割書:或云、逃レテ、再ビ琉球ニ|入リ、大里按司トナリテ》
《割書:終ルト、国人、今ニ至テ、為朝ヲ称シ、|日本人皇後裔大里按司朝公ト云、》尊敦ハ、其母ニ従テ、
浦添(ウラソヘ)ニ成長ス、父ニ似テ、勇武宏量、衆ニ超エ、年十六、国
人、推シテ、浦添按司トス、民皆悦服ス、時ニ天孫氏益衰
ヘ、諸按司愈叛キ、逆臣利勇ナル者、寵権ヲ弄シ、竟ニ其

君ヲ弑シ、位ヲ簒フ、尊敦乃チ賊ヲ討ジ、之ヲ誅ス、諸按
司、乃チ推奉シテ王位ニ即カシム、是ヲ舜天王トス、」天
孫氏ハ、二十五世、大荒ノ乙丑ヨリ、文治二年丙午ニ至
ル、凡ソ一万七千八百二年ニシテ亡ブト云、然レトモ、其
事歴詳ナラズ、○文治三年《割書:後鳥|羽》舜天即位ス、時年二十
二、功ヲ賞シ、罪ヲ罸シ、国民平治ス、始メテ以呂波四十
七字ヲ制ス、」時ニ薩摩ノ人、河辺通綱ナル者、源頼朝ノ
旨ニ乖キ、鬼界島ニ逃ル、頼朝、又義経ノ党此島ニ潜ム
ト疑ヒ、文治四年、天野遠景ヲ遣リ、鬼界島ヲ撃チ降
ス、」舜天ノ孫義本、位ヲ英祖ニ譲リ、北島ニ隠ル、」天ノ
統、三世、七十四年ニテ絶ユ、《割書:後二百年、後裔尚|円王統ニ復セリ》○英祖ハ、
天孫氏ノ裔、恵祖ノ嫡孫ナリ、徳名アリ、文応元年、《割書:亀|山》即
位ス、」文永元年、姑米(クメ)計羅摩(ケラマ)恵平屋(ヱヘヤ)島等、来帰シ、三年、大
島等来帰ス、国漸ク以テ強シ、」正応四年、元主忽必烈、将
士ヲ遣リ、来リ侵ス、永仁五年、又来侵ス、並ニ之ヲ却ク、」
英祖ノ子大成、孫英慈、共ニ徳政アリ、曾孫玉城、政ニ怠
リ、国乱ル、嘉暦元年、《割書:後醍|醐》国中分裂シテ、三部トナル、大(オホ)
里(サト)按司ハ、山南王ト称シ、今帰仁(イマキジリ)按司ハ、山北王ト称シ、
玉城ハ、自ラ中山王ト称シ、《割書:其三分ノ境界ハ、今ノ|三山ノ地ト、大抵同ジ、》爾後、
三分鼎足、戦争止マズ、」玉城ノ孫、五歳即位シ、母后政ヲ
乱ル、国人廃シテ、察度ヲ立ツ、」英祖ノ統、五世、九十一年、
ニテ亡ブ、○察度ハ、浦添按司奥間大親ノ子ナリ、善ク

徳ヲ修ム、正平五年、《割書:後村|上》即位シ、国安シ、」文中元年、《割書:後亀|山》
明主朱元璋、使ヲ遣シ、来招ク、中山王察度、乃チ明ニ聘
ス、《割書:其献物中ニ内地ノ物品アリ、先_レ是、既ニ相交通セル|知ルベシ、又暹羅、等ノ国産アリ、亦相交通セリト云、》
是ヲ琉球ノ唐土二通ズル始トス、弘和三年、山南王承
察度、山北王帕尼芝、亦皆明ニ聘ス、」元中七年、宮古八重
山等来帰ス、」九年中山山南、共ニ秀才ヲ明ノ国子監ニ
送ル、是ヲ国人唐土ニ留学スルノ始トス、」《割書:爾後絶|エズ、》察度
ノ子武寧、政ヲ乱ル、尚思紹代リ立ツ、」察度ノ統、二世、五
十六年亡ブ、○尚思紹ハ、初メ山南王ノ佐敷(サジキ)按司タリ、
其子尚巴志、職ヲ嗣キ、徳望アリ、時ニ山南王驕虐ナリ、
巴志、義兵ヲ起シ、之ヲ攻メ、応永十二年、《割書:後小|松》武寧ヲ滅
シ、父思紹ヲ奉ジ、王トシ、二十三年、山北ヲ滅シ、永享元
年、《割書:後花|園》山南ヲ滅ス、初玉城ノ世ヨリ、国内三分シ、百余
年、七十余戦ニ及ビシガ、尚巴志ノ世ニ至テ、再ビ一統
セリ、然レトモ、竟ニ中山王ノ号ヲ改メズ、」巴志位ニ即キ
賢徳アリ、永享二年、明主、始メテ尚姓ヲ賜フ、」四年、巴志、
明主ノ書ヲ、将軍足利義教ニ転致ス、《割書:中古、我ニ通ズル|ハ、史ニ載スル、之》
《割書:ヲ始|トス、》八年、又転致ス、」巴志ノ子尚忠立ツ、」嘉吉元年、先_レ是、
将軍義教ノ弟 義昭(ギセウ)、《割書:大覚寺|門跡、》叛ヲ謀テ日向ノ福島ニ在
リ、島津忠国《割書:薩摩|守》命ヲ受ケ、此歳三月、義昭ヲ攻殺ス、義
教乃チ賞典トシテ、琉球国ヲ以テ、忠国ニ賜フ、《割書:或云、永|享中ヨ》
《割書:リ、既ニ島津|氏ニ属スト、》爾来島津氏ノ属ト為リ、毎歳朝貢絶エズ、」

【枠外上部】島津氏ノ臣、此時ニ、義昭ヲ殺セシ背ムク後裔、今ニ至テ、尚其祟ヲ受クト云ヘリ、

《割書:又此頃、暹羅爪哇|国等ト交通ス、》尚忠ノ子尚思達立ツ、」文安五年、使臣
参洛ス、」巴志ノ六子尚金福立ツ、」宝徳三年、使臣参洛シ、
銭一千貫《割書:先_レ是、明主時々銭ヲ|給ス、是明銭ナラン、》ヲ将軍義政ニ献ズ、義政
之ヲ禁闕ニ献ス、《割書:一書云、此時、船、兵庫ニ着ス、守護細川|氏、物ヲ取テ、価ヲ給セズ、且先々年々》
《割書:ノ積債、四五千貫ニ及ベトモ、償ハズ、島人愁苦ス、幕府、奉|行布施某等ヲ遣リ、検糺ス、未タ果サズ云々、先_レ是、屡兵》
《割書:庫ニ来リシ|ヿ、知ルベシ、》爾後、国人兵庫ニ来テ、交易シ、三年一貢ヲ
永式ト定メ、島津氏接伴ヲ掌ル、」金福薧ス、子志魯、叔父
布里ト位ヲ争ヒ、府庫ヲ焼キ、共ニ傷死ス、金福ノ長子
尚泰久立ツ、其子尚徳嗣グ、無道ナリ、鬼界島叛ク、王自
ラ討平ス、」文正元年《割書:後土|御門》使臣参洛ス」《割書:一書云、文正元年、|琉球人参洛ス、当》
《割書:御代六回ナリ云々、是義政ノ|時ナリ、六回考フベカラズ、》尚徳ノ世子立ツ、幼稚ナ
リ、国人弑シテ、尚円ヲ立ツ、」尚思紹ノ統、七世、六十四年
亡ブ、○尚円ハ、舜天ノ孫義本ノ後裔 恵平屋(エヘヤ)島ノ里之(サトノ)
子(シ)尚稷ノ子ナリ、賢徳アリ、仕ヘテ御鎖側官ニ至リ、尚
徳ノ無道ヲ諫メテ去ル、後、国人、世子ヲ弑シ、推奉スル
ニ及ビ、固辞スレトモ得ズ、文明二年、終ニ即位ス、百政皆
治リ、諸島帰伏ス、」《割書:此頃 満剌加(マラツカ)|国ト交通ス、》子尚真立ツ、天姿明敏、制
御ノ略アリ、八重山叛ク、兵ヲ発シ討平シ、因テ那覇港
ニ砲台ヲ築ク、又、旧制ニ、毎 間切(マギリ)ニ、一按司ヲ置ク、権重
ク兵争ス、尚真ノ時ヨリ以来、尽ク首里ニ聚居セシメ、
吏ヲ遣ハシ遥領セシム、」《割書:此事、或ハ尚巴志|ノ時ノ事トス、》先_レ是、大内義
興細川高国等ノ明ニ遣ハセル使僧、宗設宋素卿等、大

ニ福建ヲ擾ス、大永五年《割書:後柏|原》明主、尚真ニ托シ書ヲ足
利氏ニ贈リ、賊ヲ捕ヘンヿヲ乞フ、」尚真ノ子尚清嗣グ、
英毅ナリ、大島叛ク、討テ平グ、」享禄三年《割書:後奈|良》尚清、将軍
義晴ノ書ヲ明主ニ転致シ、旨ヲ伝ヘ、使臣等ノ暴行ヲ
謝シ、新勘合印ヲ求メ、再ビ交通セント乞フ、明主、又托
シテ義晴ニ伝言セシメ、罪魁ヲ求ム、」尚清ノ子尚元立
ツ、弘治二年、我辺民、明ノ浙江ヲ侵ス者、《割書:明人倭|寇ト云、》敗レテ
琉球ノ境ニ入ル、尚元撃テ殲ス、又大島叛テ那覇ニ至
ル、王、自ラ之ヲ撫鎮ス、子尚永嗣グ、○天正十一年、《割書:正親|町》
使臣参洛ス、」尚真ノ庶孫尚寧立ツ、十七年、春、豊臣秀吉、
島津義久ニ命ジ、尚寧ニ諭シ、正朔ヲ奉ジ、土地ヲ献ゼ
シム、尚寧聴カズ、此夏、秀吉ニ報書ス、略ニ曰、承聞、日本
六十余州、拝_二-望下塵_一、帰_二-伏幕下_一、加_レ之、及_二高麗南蛮_一、又偃_二威
風_一、吾遠島浅陋小国、雖_レ難_レ及_二 一礼_一、島津義久公、使_二大慈寺
西院和尚蒙_一_レ仰之条、差_二-上天竜桃菴和尚_一、明朝之塗物、当
国之土宜、録_レ于_二別楮_一、為 ̄メニ遂_二 一礼_一也ト、秀吉ノ復書、略ニ曰、
玉章披閲、再三薫読、抑本朝六十余州之中、不_レ遺_二寸地_一、悉
帰_二掌握_一也、頃又欲_レ弘_三政化於_二異域_一、茲先得_二貴国使節遠方 ̄ノ
奇物_一、而頗以歓悦矣、自_レ今以往、其地雖_レ隔_二千里_一、深執_二交義_一、
則以_二異邦_一、作_二 四海一家_一之情者也、自_レ是当国方物、聊投_二贈
之_一ト、且桃菴ニ諭シ、善ク尚寧ヲ説得セシム、」此冬、使臣
又、参洛ス、秀吉、乃チ明ニ通ゼント欲スルノ意ヲ托シ

聴カザレバ、大挙征討セントスルノ旨ヲ告グ、尚寧大
ニ驚キ、明ニ通ズ、明主報セズ、尚寧亦懼レテ報復セズ、
秀吉其報ナキヲ以テ、十九年、又義久ヲシテ、書ヲ贈リ、
征明ヲ諭告セシム、略ニ曰、夫我邦、百有余年、群国争_レ雄、
予也降誕、以_レ有_下可_レ治_二 天下_一之奇瑞_上不_レ歴_二 十年_一、而域中悉一
統也、由_レ是三韓琉球遠邦異域、欵_レ塞来享、今也、欲_レ征_二大明
国、蓋非_二吾所_一_レ為、天所_レ授也、如_二其国_一者、未_レ通_二聘礼_一、故先雖_レ欲
_レ使_レ討_二其地_一、原田孫七郎以_二商船之便_一、時来往、紹_二介近臣_一、曰、
某、早々至_二其国_一、而備可_レ説_二本朝発船之趣_一、然則不_レ出_二帷幕_一
決_二勝千里_一者、古人至言也、故暫不_レ命_二将士_一、来春可_レ営_二 九州
肥前_一、不移_二時日_一、可_下偃_二降幡_一而来服_上、若匍匐膝行、於_二遅延_一者、
速可_レ加_二征伐_一者必矣、勿_レ悔、不宣ト、尚寧又大ニ驚キ、明ニ
報ズ、時ニ明ノ江右ノ人許儀俊ナル者、薩摩ニ在リ、亦
書ヲ以テ、福建ニ通ズ、」文禄二年使臣参洛ス、○慶長十
四年、先_レ是、嘉吉年間、琉球、島津氏ニ属セシヨリ、年々貢
献セシガ、三司官邪那ナル者、明ト議シ、王ヲ勧メ、頃年
貢聘ヲ絶ツ、島津家久、再三開諭譴責スレトモ、無礼ニシ
テ応ゼズ、家久怒リ、将軍徳川家康ニ許可ヲ得テ、此歳
三月、樺山久高等ヲ将トシ、兵三千人、軍艦、数十艘ヲ発
シ征伐ス、先ヅ、大島ヲ歴テ、徳島ヲ襲フ、戍兵拒戦ス三
百ヲ斬リ、余衆降伏ス、四月、永良部与論島ヲ取リ、那覇
ニ到ル、軍威弥熾ナリ、初メ琉球ノ商、薩摩ニ在リ、軍装

ヲ見テ、遽ニ帰テ、国王ニ告グ、尚寧大ニ駭キ、預メ鉄鎖
ヲ那覇等ノ津口ニ設ケ、船艦巨砲ヲ列ス、我兵攻ムル
能ハズ、乃チ転シテ運天港ヨリ上陸シ、《割書:那覇ヲ敗ルト|スルハ誤ナリ、》
三日ニ五戦シ、首里ニ迫ル、尚寧降ヲ乞フ、聴カズ、五月、
竟ニ国都ニ入ル、尚寧出降ル、乃チ王子大臣以下数十
人ヲ擒ニシ、厳ニ劫掠ヲ禁シ、島民ヲ安集シ、戦陣凡ソ
六十日ニシテ、琉球諸島悉ク平定ス、《割書:世ニ、琉球軍談ナ|ル者流布ス、虚妄》
《割書:取ルベ|カラズ、》乃チ戍兵ヲ置キ、六月、尚寧以下ヲ率テ凱旋ス、

【枠外上部】此時、琉球一円ヲ賜ハルト雖トモ、島津氏ニ在テハ、其北部諸島ヲ収メ、以南ハ尚之ヲ琉球王ニ附セリ、蓋シ、北部ノ八島ハ、現ニ兵力ヲ以テ、之ヲ取ルモノニシテ、以南ハ、降伏ノ義ニ在リ、故ニ然リト、名分ノ存スル所、自ラ正ナリ、

七月幕府、書ヲ以テ其成功ノ速ナルヲ賞シ、琉球ヲ家
久ニ賜ヒ、永ク其臣属トシ、其国租、二十万石ノ半ヲ取
ラシム、《割書:此時ヨリ、琉球北部|諸島、島津氏ニ属ス、》十五年、八月、尚寧、家久ニ役
ヒ、駿府及ヒ東都ニ朝シ、方物ヲ献ジ、罪ヲ謝ス、爾来、入
朝連綿絶エズ、尚寧薩摩ニ在ルヿ三年、赦ヲ得テ、帰国
ス、」十八年、家久、書ヲ尚寧ニ贈リ、幕府ヘ朝貢センヿヲ
促シ、且将軍ノ意ヲ以テ、尚寧ニ介シ、書ヲ明ニ送リ、交
易ノ道ヲ通セント欲シ、聴カザレバ、西海道ノ兵ヲ発
シ、明ニ寇セントノ旨ヲ告ゲシム、尚寧、遂ニ明ノ福建
軍門ニ此旨ヲ達ス、」尚寧薨ズ、尚永ノ姪尚豊、其子尚賢
相継テ立ツ、正保元年、《割書:後光|明》清、燕京ヲ陥レ、明、江南ニ遷
ル、三年、尚賢乃チ清ニ聘ス、爾後、清ニ聘貢シ、絶エザル
ヿ、明ノ時ノ如シ、」弟尚質立ツ、慶安二年、明ノ魯王舟山
ニ在リ、書ヲ尚質ニ送リ、盟ヲ修メントシ、又托ンテ、書

ヲ本朝ニ寄セ、兵器ヲ仮ラント請フ、」尚質ノ子尚貞立
ツ、先_レ是、明ノ鄭経、《割書:成功|ノ子》台湾ニ拠リ、其兵琉球ノ船ヲ奪
フ、琉球、島津氏ニ依テ幕府ニ訴フ、後台湾ノ船、長崎ニ
至ル、長崎奉行、贖銀三百貫ヲ取テ、琉球ニ与フ、鄭経不
平ナリ、偶奥州ノ船、台湾ニ漂ス、鄭経供給シテ送還ス、
幕府、其厚誼ヲ称シ、銀ヲ賜ヒ、且托シテ、前ノ琉球人ヲ
還ヘサシム、延宝二年、《割書:霊|元》台湾ノ将楊英ヨリ、書ヲ長崎
奉行ニ贈テ曰、日本与_二本国_一通_レ好、彼此如_二同一家_一、予_二琉球_一
不_レ同、日国之民、即如_二吾民_一飄_レ風至_レ此、自応_二送回_一、豈有_二受_レ謝
之理_一可_下将_二原銀_一送還_上、其琉球貢_レ虜船、在_二虜地_一、孰弁_レ為_二琉球_一
之船_一琉球並無_二 一船来通一書来説_一、而興_レ詞投告、以致_三日
国稽_二留我銀_一、有_レ傷_二隣誼_一、過自在_レ彼、倘琉球有_二来説_一、本藩亦
不_レ靳_二発還_一、敬将_二原銀二千両_一、付_二官商察未訳_一、請為転啓_二 上
将軍_一ト、」尚貞ノ曾孫尚敬、孝徳アリ、政ニ務ム、其玄孫今
王尚泰ノ世ニ及デ、嘉永六年、米国使節ペルリ、那覇ニ
至リ、明年、竟ニ条約ヲ結デ帰ル、○大政維新ノ後、明治
四年、藩ヲ廃シ県トナリ、琉球諸島、鹿児島県ノ管トナ
ル、五年、秋、使臣入朝ス、天朝、特ニ其国ヲ擢デ、藩トシ、尚
泰ニ藩王華族ノ爵ヲ賜フ、」尚円ヨリ今王ニ至ル、十八
世四百余年ナリ、

  系統

○《割書:第一|》舜天《割書:源為朝子|嘉禎三年薨、七十二》 ― 《割書:第二|》舜馬順熙《割書:舜天子|宝治二年、六十四》 ― 《割書:第三|》義本《割書:舜馬順熙子|正元元年、五十四譲_レ位》
○《割書:第四|》英祖《割書:天孫氏裔恵祖孫|正安元年、七十一》 ― 《割書:第五|》大成《割書:英祖子|延慶元年、六十二》 ― 《割書:第六|》英慈《割書:大成子|正和二年、四十六》 ― 《割書:第七|》玉城《割書:英慈子|延元元年、四十一》 ― 《割書:第八|》西威《割書:玉城子|正平五年、二十三》
○《割書:第九|》察度《割書:浦添按司奥間大親子|応永二年、七十五》 ― 《割書:第十|》武寧《割書:察度子|応永十二年、五十》
○《割書:十一|》尚思紹《割書:佐敷按司|応永二十八年、欠》 ― 《割書:十二|》尚巴志《割書:思紹子|永享十一年、六十八》 ― 《割書:十三|》尚忠《割書:巴志子|文安元年、五十四》 ― 《割書:十四|》尚思達《割書:尚忠子|宝徳元年、四十二》 ― 《割書:十五|》尚金福《割書:尚忠弟|享徳二年、五十六》 ― 《割書:十六|》尚泰久《割書:金福子|寛正元年、四十六》 ― 《割書:十七|》尚徳《割書:泰久子|文明元年、二十九》
○《割書:十八|》尚円《割書:義本裔尚稷子|文明八年、六十二》 ― 《割書:十九|》尚宣威《割書:尚円弟|文明九年、四十八》 ― 《割書:二十|》尚真《割書:尚円子|大永六年、六十二》 ― 尚懿《割書:尚清弟|不_レ即_レ位》 ― 《割書:廿一|》尚清《割書:尚真子|弘治元年、五十九》  ― 《割書:廿二|》尚元《割書:尚清子|元亀三年、四十五》 ― 《割書:廿三|》尚永《割書:尚元子|天正十六年、三十七》 ― 《割書:廿四|》尚寧《割書:尚懿子|元和六年、五十七》

― 尚久《割書:尚永弟|不_レ即_レ位》 ― 《割書:廿五|》尚豊《割書:尚久子|寛永十七年、五十一》 ― 《割書:廿六|》尚賢《割書:尚豊子|正保四年、二十三》 ― 《割書:廿七|》尚質《割書:尚賢弟|寛文八年、四十一》 ― 《割書:廿八|》尚貞《割書:尚質子|宝永六年、六十五》 ― 尚純《割書:尚貞子不_レ即_レ位|宝永三年、四十七》 ― 《割書:廿九|》尚益《割書:尚純子|正徳二年、三十五》 ― 《割書:三十|》尚敬《割書:尚益子|宝暦元年、五十二》 ― 《割書:卅一|》尚穆《割書:尚敬子|寛政七年、》 ― 《割書:卅二|》尚成《割書:尚穆子|文化二年、》 ― 《割書:卅三|》尚顥《割書:尚成弟|天保二年、》 ― 《割書:卅四|》尚育《割書:尚顥子|嘉永二年、》 ― 《割書:卅五|》尚泰《割書:尚育子|》  《割書:尚穆以下、年寿不_レ詳、○自_二舜天文治三年_一、至_二|尚泰明治六年_一、三十五世、六百八十七年、》

琉球新誌巻上《割書:終|》

【裏表紙】

旧藩中租税徴収ニ関スル事項

旧藩中租税徴収ニ関スル事項
【画像にスケール写り込み】

旧藩中租税徴収ニ関スル事項

旧藩中租税徴収ニ関スル事項
           (未定稿)

【所蔵印】

旧藩中租税徴収ニ関スル事項
           (未定稿)

【左丁】

旧琉球藩ニ於ケル租税ノ賦課徴収及其決算検査ノ事ヲ説
明センと欲セハ全藩ノ行政機関ニ就キ説述セサル可カラス
如何とナレハ旧琉球藩ノ職制ハ今日文明國ニ於テ採用セル
行政組織ノ方法ニ比シ錯雑混淆隨テ各機関ノ権能及
責務即チ権限判然タル分界アルニアラスシテ一ノ機関ニ於テ外
交内務大蔵農商其他万般ノ事ヲ混同シ各事件ニ就キ
一定ノ資格ヲ区分スル事無キヲ以テナリ故ニ一ノ奉行ニシテ外
交問題ヲ處理スルカト思ヘハ一方ニ向テハ租税滞納者ヲ裁断
スルモノアル等ノ如キハ珍シカラサル顕象ナリシト云フ
然ルニ其全藩ノ行政機関ニ就キ逐一之ヲ説述スル件ハ却テ
混雑ヲ来シ租税ノ賦課徴収及決算検査ノ手續ヲ窺知スル
障害タランヲ恐レ左ノ表ニ依リテ旧藩行政機関ノ一般ヲ見ル

琉球来聘志(仮)

【製本表紙・幅156mm】

【製本表紙】
 [仮]
琉球来聘志 天保十三年 【朱角印「潮音洗心」ヵ】

【右丁】
【貼紙】
「仲原善忠文庫
 【丸印「大学」】
   琉球大学
 志喜屋記念図書館」
【朱角印「仲原蔵書」】
【左上記載】
「K
  093,Z
  R98」

【左丁】
【付箋に角印】
「琉球大学
 附属図書
 館蔵書印」
【本文は次のコマで翻刻】

中山略系
 天孫氏相嗣コト二十五代ニシテ滅ス隋書ニ所謂大業元年海師上言スラク海上霧ノ
 状ミユ是ヨリ流求也トシハ〳〵招トモ服セス同六年大ニ討テ王ヲ殺ス其後宋ノ淳熙ニ
 至テ逆臣利勇毒弑シ自立シテ王ト称スコノ時浦添按司舜天兵ヲ発シテ
 利勇ヲ討ツ諸按司舜天ノ徳ヲ仰キ推シテ王位ニツカシム南宋乾道元年乙酉
 為朝随_レ流至_レ国生_二 一子_一而返ル其子名 尊敦(タカアツ)後為_二浦添按司_一云々又云舜天
 姓源号尊敦父鎮西八郎為朝母大里按司妹云伝信録ニミユ〇第一
 舜天《割書:為朝|ノ子》第二舜馬《割書:天ノ|子》第三義本《割書:馬ノ|子》位ヲ英祖ニ譲リテ隠ル第四英祖《割書:天孫氏|ノ孫》
 第五大成《割書:祖ノ|子》第六英慈《割書:成ノ|子》第七王 城(クスク)《割書:慈ノ|子》コノ時国分レテ三トナル王城ヲ中山王トイヒ
 大里按司ヲ山南王トイヒ今帰仁按司ヲ山北王ト云三山戦争止ス第八西威《割書:城ノ|子》英祖

 ヨリ西威迄五代第九察度《割書:奥間親方|ノ子》第十武寧《割書:度ノ|子》第十一思紹《割書:本佐鋪|按司也》第十二
 尚巴志《割書:紹ノ|子》三山ヲ一統ス明ヨリ尚姓ヲ玉フ我カ応永ニアタル第十三尚忠《割書:巴志|ノ子》第十四尚
 思達《割書:忠ノ|子》第十五尚金福《割書:思達|ノ子》第十六泰久《割書:忠ノ|一子》第十七尚徳《割書:久ノ|三子》思紹ヨリコヽニ七代共ニ
 六十四年第十八代尚円《割書:尚稷|ノ子》天孫氏ノ後ナリ第十九尚真《割書:円ノ|子》第廿尚清《割書:真ノ|五子》第廿一
 尚元《割書:清ノ|二子》第廿二尚永《割書:元ノ|二子》第廿三尚寧《割書:真ノ|孫》尚懿ノ子慶長十四年島津家久ニ降リ
 翌年駿府江戸ニ来リ罪ヲ乞フ皇国ニ留ルコト四年ニシテ帰ルコトヲ得タリ第廿四尚豊
 《割書:永ノ|子》第廿五尚賢《割書:豊ノ|子》第廿六尚質《割書:賢ノ|弟》第廿七尚貞《割書:質ノ|子》第廿八尚益《割書:貞ノ孫尚|徳【ママ】ノ子》第廿九尚
 敬《割書:益ノ|子》第卅尚穆《割書:敬ノ|子》第卅一尚成《割書:穆ノ|子》第卅二尚顥《割書:成ノ|弟》第卅三尚育《割書:顥ノ|子》舜天即位
 文治三年丁亥ヨリ今茲天保壬寅迄六百五十七年ナリ
琉球《割書:賀慶|恩謝》使略
 鼓川淩蓬ニ曰慶長十四年己酉薩州ノ大守島津家久 台命ヲ蒙リテ
 軍ヲ興シ其無礼ノ罪ヲ討ツ其老臣 樺(カハ)山権左衛門久高平田大郎左衛門益宗ニ三千
 ノ兵ヲ与ヘ手勢共ニ三千五百人【挿入「三月」】繿ヲ解大洋ヲ押渡リ直ニ琉球運天ノ湊ニ着
 一挙ニシテ攻上ル国之人防禦ノ術ヲ尽ストイエトモ鋭鋒ニ当リカタク特ニ鳥銃(テツホウ)ニ
 駭キヲリ也、軍終ニ敗レテ国王尚寧軍門ニ降ル爰ニヲイテ琉球三山諸島ヲ
 平定シ六月尚寧王ヲ携テ凱陣ス此時琉国永ク家久ニ賜ル印章(シルシ)ヲ
 下シ授リ玉フ翌十五年庚戌八月家久尚寧ヲ率ヒテ駿府江戸ニ来リ
 方物ヲ献シ怠貢ノ罪ヲ請フ是東迁以後琉球来聘ノ始ニシテ 已後
 使ヲ献シ慶ヲ賀シ恩ヲ謝スルコト連綿トシテ絶ス朝貢再ヒ旧ニ復スト

【莑は蓬の異字体】

 云ヘシ寛永十一年七月尚豊王賀慶正使佐敷王子恩謝正使 金武(キヤム)王子来ルコノ時
 御上路【ママ】アリシ故京都二条ニテ拝礼ス江戸ニ来ラス同廿一年甲申六月尚賢王賀ケイ正使
 金武王子恩シヤ正使国頭王子来ル慶安二年己丑九月尚質王恩シヤ正使具志川王子
 来ルコノ時日光山ヲ拝礼ス承応二年癸巳九月尚質王賀ケイ正使国頭王子来ル
 寛文十一年辛亥七月尚貞王恩シヤ正使金武王子来ル又日光山ヲ拝礼ス天和二年
 壬戌尚貞王賀ケイ正使名護王子来ル宝永七年庚寅 月尚益王賀ケイ正使美里王子
 恩シヤ正使豊見城王子来ル正徳四年甲午十二月尚敬王賀ケイ正使与那城王子恩シヤ
 正使金武王子来ル享保三年戊戌十一月尚敬王賀ケイ正使 越来(コエグ)王子来ル寛延元年
 戊辰十一月尚敬王賀ケイ正使具志川王子来ル宝暦二年壬申十二月尚穆王恩シヤ正使
 今帰仁王子来ル明和元年甲申十二月尚穆王賀ケイ正使 読谷山(ヨンタンサン)王子来ル
 寛政二年庚戌十二月尚穆王賀ケイ正使 宜野湾(ギノセン)王子来ル同八年丙辰十二月
 尚成王恩シヤ正使大宜見王子副使安村親方来ル文化三年丙寅年十一月尚顥王
 恩シヤ正使読谷山王子副使小禄親方来ル天保三年壬辰十一月尚育王恩謝
 正使豊見城王子前ノ尚顥王ノ使沢岻親方来ル 今茲(コトシ)天保十三年壬寅
 十一月尚育王賀慶正使浦添王子副使座喜味親方来ル慶長ヨリ
 今年迄来聘十八度ナリ其度々方物ヲ献ス
     中山王献上物
 一御太刀   一腰 一御馬裸背  一匹 一寿帯香   三十箱
 一香餅    二箱 一龍涎香   百袋 一大平布    百疋
 一畦織芭蕉布 五十端一島織芭蕉布 五十端一薩芭蕉布  五十端
【嶋は常用漢字で翻刻】

【右丁】
 一条島綿   百把 一縮緬   五十巻 一羅紗    二十間
 一青貝大卓  二脚 一推錦硯屏  一対 一青貝籠飯  一対
 一泡盛酒   十壺 已上
      浦添王子献上物
 一寿帯香   十箱 一大官香   十把 一大平布   二十匹
 一島織芭蕉布 二十端一泡盛酒   ニ壺 已上
【嶋は常用漢字で翻刻】

一薩州鹿児島ヲ立テ同国 郡見(グミ)崎ヨリ乗船玄海ノリ廻シ小倉ヨリ
 瀬戸内エ入大坂川上リ伏見ニ上陸美濃路東海道ヲヘテ
 来ル御伝馬ヲ玉フ江戸通行 隊列(ギヤウレツ)如左
【左丁】
 第一騎ヲ儀衛正伊斗親雲上トス其次ヲ路次楽トス左右□次ハ左右
 張旗次ハ右銅鑼左両班次ハ銅角次ハ左右 喇叭(ラツパ)次ハ左右 哨吶(フラナ)次ハ左右
 鼓(コ)又左右鼓コレ鼓吹(ガク)ノ隊也其次ハ左右虎旗次ハ左右牌第二騎
 掌翰杖【?】久場親雲上トス次ハ 涼傘(リヤウサン)次ハ 轎(コシ)也轎ノ側賛度使
 四人歩ス其次副使駕ニ乗ル坐喜味親方トス第三騎ヲ賛議官
 糸州親雲上トス第四騎ヲ楽正池城親雲上トスコノ四騎ハ 冕(ヘン)ヲ被(カフ)ル
 余ハ帕ヲ用ユ次ハ楽童子六人楽師四人次ハ正使々賛五人
 副使々賛二人也各 跟伴(コンハン)ヲ具ス
琉球の歌

【右丁】
けふのほこしやく《割書:今日ノウレ|シサハ》なをにきやなたてる《割書:何ニタト|ヘン》つほて
をるはなの《割書:ツホミタル|童ノ》つゆきやたこと《割書:露ノヲフ|タルコトタ》梅とうくひすや《割書:梅ト|鴬》
あかぬゑんざらめ《割書:アカヌ繻|テヤラン》ぬきゆてはるくれは《割書:ヌキ居テ|春クレハ》またも
そゆき《割書:マタ|相会》はるにうかれて《割書:春ニウカ|レテ》はなのもとしのて《割書:花ノモト|シノヒテ》
そてにほのういち《割書:袖ニ匂ヒ|ウツシ》もとるうれしさ
【左丁】
     琉球人登 城道筋
大隅守芝屋鋪ゟ御門前通り通り町芝口橋際ゟ左え幸橋御門入
大隅守屋敷脇通り松平肥前守屋敷脇松平大膳大夫屋敷脇前
日比谷御門八代洲河岸龍之口間部下総守屋敷脇前ゟ大手
御門登 城
   御本丸ゟ西丸え登 城幷退出道筋
内桜田御門ゟ西丸大手門登 城退出之節同所大手御門より
外桜田御門上杉弾正大弼屋敷前脇通大隅守屋敷立寄幸橋
御門夫ゟ登 城道筋之通

【右丁】
    御三家方え参上道筋
芝屋敷ゟ赤羽根橋西久保通相良遠江守屋敷前虎御門入
松平美濃守屋敷前脇井伊掃部頭屋敷後永田馬場松平
出羽守屋敷脇前 紀伊殿御屋敷脇通り喰違ゟ御同人赤坂
御屋敷え参上夫ゟ堀端四つ谷御門外市ヶ谷八幡前ゟ
尾張殿え参上夫ゟ八幡前通り市谷御門外御堀端通舟川原橋
小石川御門外 水戸殿え参上御茶之水ゟ聖堂前昌平橋え
入須田町通り町増上寺表門前ゟ芝屋敷え
    御老中堀大和守殿若年寄衆え
    参上之道筋
【左丁】
芝屋敷ゟ将監橋通り町芝口橋際ゟ左え幸橋御門入
大隅守屋敷前脇松平肥前守屋敷脇松平大膳大夫屋敷
脇前通り日比谷御門八代洲河岸馬場先御門前左え
大名小路堀田摂津守遠藤但馬守大岡主膳正え参上
夫ゟ真田信濃守大名小路龍之口堀田備中守間部下総守え
参上立戻和田倉御門入本多越中守堀大和守井上
河内守松平玄蕃頭水野越前守土井大炊頭本庄伊勢守え
参上夫ゟ外桜田御門上杉弾正大弼屋敷前 松平
大膳大夫屋敷脇通り夫ゟ元之道筋

【右丁、白紙】
【左丁】
天保壬 寅(辰)十一月廿日琉球人登城
      楽帖一
       第一奏楽
     万年春
      嗩吶        城間親雲上
      笛         安里里之子
      笛         真壁里之子
      鼓 《割書:小銅鑼 |抜 子 》      幸地 里主
      銅鑼《割書:檀板|鑼子》       豊見城里主
      韻鑼        玉城里之子

【右丁】
      挿板        嵩原 里主
       第二奏楽
     賀聖明
      嗩吶        城間
      笛         安里
      笛         真壁
      鼓《割書:小銅鑼 |》       幸地
      銅鑼《割書:檀板|鑼子》       豊見城
      韻鑼        玉城
      挿板        嵩原
【左丁】
       第三奏楽
     楽清朝
      同断
       第四唱曲
     明良時
      三絃        幸地
      琵琶        安里
       第五唱曲
     昇平世
     功徳頌

【右丁】
      瑶琴        玉城
      三絃        幸地
      琵琶        安里
      胡琴        嵩原
  御中入
       第一奏楽
     鳳凰吟
      嗩吶        城間
      笛         安里
      笛         真壁
      鼓《割書:小銅鑼 |鈸 子》       幸地
【左丁】
      銅鑼《割書:檀板|鑼子》       豊見城
      韻鑼        玉城
      挿板        嵩原
       第二奏楽
     慶皇都  横断
       第三唄曲
     煕朝治
      二絃        嵩原
      三絃        幸地
      四絃        真壁
      洞簫        安里

【右丁】
       第四唱曲
     撃壌歌
      堤琴        豊見城
      三絃        幸地
      月琴        真壁
      胡琴        嵩原
       第五唱曲
     琉歌
      三絃        幸地
      三絃        嵩原
       已上
【左丁、白紙】

【右丁、付箋】
【丸印「琉球大学附属図書館 1966,12,20 No,112961」】
「$4,17」

【裏表紙】
【ラベル「093,2 R98」】

奉使琉球始末

【製本表紙・幅180mm】

【製本表紙】
松田道之
奉使琉球始末
    草稿之一部

【右丁】
【貼紙】
仲原善忠文庫【丸印「大学」】
琉球大学
志喜屋記念図書館
【朱角印「仲原蔵書」】
【朱角印「潮音洗心」】
【朱書】
此ノ文書ハ廃藩置県ノタメ琉球ニ派
遣セラレタル松田大丞ノ文書ノ控デアル、
 琉球処分中巻ニ第二十九号トシテ
 提出サレテイル。(百四十九頁) 末行ノ
今般以下ハ、琉球側ノ口上控【挿入「ヲ提出シタモノ】デ、第三
十号トシテ収録サレテイル(百六十四頁)

【左丁】
【貼紙に青角印「琉球大学 附属図書 館蔵書印」】
【左丁本文は次のコマで翻刻】

【左丁(右丁は前のコマで翻刻)】
今般之、御達書ニ付去ル五日ヲ以テ被差出タル貴書ニ
対シ拙者ヨリ猶ホ説明ニ及フヘキ条件有之処同事
ニ付藩王ヨリ被差出タル書面ニ対シ詳細弁論ニ及□
置キ則チ同轍之主意ニ候間右書面御一覧之上其
旨趣御体認篤ト藩議ヲ被尽度候也
 明治八年八月八日   内務大丞松田道之
          伊江王子殿
          浦添親方殿
          池城親方殿
          【朱書「富川」】親【朱書「方殿」】
今般御達書条【朱書「々藩王ヘ再度御説明」】

【右丁・朱書】
 ノ趣我々ヘモ委曲承知仕存慮ノ程
 御内分ヨリ左条ニ申上候
〇「当藩ノ如キ我カ国ノ版図タルモノヲ
  シテ他邦ニ臣事セシメ両属ノ体
  タラシムルハ国権ノ立サル最大ナルモ
  ノニシテ速ニ之ヲ改メサレハ
【左丁・墨書】
 界ノ条理万国ノ公法等ニ照ラシテ其権
 利ヲ全フセサレハ国其国ヲ成サルナリ然レハ」
〇「当藩ノ如キ我カ版図タルモノヲシテ
 他邦ニ臣事セシメ両属ノ体タラシムルハ
 国権ノ立サル最モ大 ナルモノニシテ速ニ之
 ヲ改メサレハ世界ノ輿論ニ対シ其答弁ノ
 条理ナシ是独リ我カ政府ノ欠典ノミナ
 ラス随テ当藩ノ存亡ニ関ス戒メサル可ケ
 ンヤ是今般ノ御達書アル所以ノ一大眼目
 ナリ【朱書挿入「。トノ伴」】今貴下ノ□□ラルヽ所ス□更ニ此等
 □□□□□問ハ□□□□□□

【右丁、はじめ一行ムシ損】
【上余白朱書「P166」】
一、琉球□地【朱書「理人情風俗」】言語及ヒ我□政府ノ保
 護ヲ受クル等ノ諸件ニ就テ論スルトモ固
 ヨリ我カ国ノ版図ニシテ所謂地理□□官
 轄ナリ之ヲ世界ノ公論ニ質ストモ誰カ
 之ヲ管轄ニアラス版図ニアラスト言ハ
 ンヤ其清国ニ於ケル地理人種風俗言語
 等一ツモ縁由ナク只中古当国主自ラ明
 ノ招諭ニ応シテヨリ、彼ノ冊封ヲ受シ
 者ニシテ而シテ未タ曽テ彼ノ政府ノ保
【上余白朱書「P166」】
一、■【護ヵ】ヲ受ケス」所謂政令ノ管轄ニ似テ其
【左丁】
 実ナキモノナリ之ヲ世界ノ公論ニ質ス
 トモ誰カ之ヲ版図ト言ハンヤ其管轄モ
 実有リ即チ権ノ全キモノトハ言ハサル、
【上余白朱書「P167」】
一、必セリ故ニ「清国ニ於テ琉球ハ己レノ管
 轄ナリト言フモ独リ当藩ニ対シテ之ヲ
 言フコトヲ得テ我カ政府ニ対スルニ勿論世
 界ニ向テ能ク之ヲ言フコトヲ得ス何トナ
 レハ中古明主ノ招諭スルヤ明カニ我カ
 管轄ヲ絶タシメス又明カニ我レノ許諾
 ヲ得□□琉球【朱書「国主」】ヲ濫リニ応諭スルヲ
 ■□□テ□□□□□□□□□□□□、

【右丁】
 □□□□世々□□□□□□□□□□□□
 ノ取ル□□□□□テ□リ宜ヘナル哉我カ
 征蕃ノ役ヲ彼レ義挙ト視認メ当藩下
【上余白朱書「P169」】
一、会災人民ノ遺族ニ与フル若干金額ヲ
 我カ政府ニ向テ払ヒタルコト若シ清国ニ
 於テ琉球ハ必ス己レノ管轄ナリトシテ
 世界ニ向テ公唱スルコトヲ得□何ソ自ラ
 牡丹社を処置シテ当藩下人民ヲ保護
 セサルヤ何ソ当藩下会災人民ノ遺族□
 与フル若干金額ヲ我カ政府ニ向テ払ハス
 シテ自ラ当藩ニ援ケサルヤ何ソ我□□【カ征ヵ】
【左丁】
 蕃ノ役ヲ義挙ト視認メタルヤ即チ琉□【球ヵ】
 ハ清国ノ管轄ヲ受クヘキ条理ナキノ明
 証暦々如此且征蕃ノ役ニ当リ我カ政府ノ
 清国トノ談判結局ニ於テモ尚ヲ能ク明
 カナリ因此観之清国ノ当藩ニ於ケルハ
 情義名分早既ニ廃絶シテ当藩ノ清国□
 於ケル其情義ト言フモ即チ一己ノ私情
 耳今清国ニ臣事スル諸件ヲ絶スト□
【上余白朱書「P179」】
一、藩王一於テ□□□□□キ我カ藩屛□
 分□□□□□□□等□□官華族□□

【右丁】
 □常□□□□□□□自□ノ権利□□
 随意ニ之ヲ行フコトヲ得加之内地ト□□
 来前途益盛ナルモノアリ然レハ藩□
 衣食也居住也交際也商法也闔藩因テ
 以テ城立安着スル所以ノモノニ於テ毫□
 欠耗スル所ヲ見ス苦情果シテ何ノ苦
 情ナル乎」今我カ政府ノ当藩ニ於ケルハ
 清国ニ臣事スルノ諸件ヲ絶タシメサルト
 キハ前ニ所謂地理上管轄ノ権利ヲ□□
 ヒ即チ
【左丁】
 天皇陛下ノ権利ヲ欠損スルニ至ル其義□
 関係世界ニ対シテ重ク且広□役ノ当□
 ノ清国ニ対スル情義即チ一己ノ私情□
 其軽重如何ソヤ然ルヲ徒ラニ自私ノ若
 情ヲ主張シテ此条理ヲ問ハサルハ其見
【上余白朱書「P171」】
一、識亦謬レリ」就中自今我カ政府ニ属□□
 コトヲ清国ニ向テ公告セン等ノ言ニ至テ
 ハ最モ大ナル謬リニシテ敬ヲ我カ政□□
 失スルノ甚シキモノナリ【朱書挿入「トノ件」】何トナリ□□
 藩□□□□□□□□国皆使□江

【右丁、はじめ一行ムシ損】
 豈ニ貴□□□□□□底□告ケ□□□
 センヤ乞フ得北□□敬ノ言ヲ発スル□
 抑モ全陳スル如キ大条理ノ動カス可□
 換ユ可ラサルモノアルヲ以テ廟議茲□
 確定セリ如何ナル情実ヲ上陳セラル□
 トモ政府決シテ採用ナキコトヲ知ル故ニ
 此歎願書ノ旨趣ハ拙者ニ於テ聴許スル
 コトヲ得ス只速ニ遵奉セラルヘシ
【上余白朱書「P190 四行」】
【朱書】
 一、当藩之儀右ニ申上候通
   皇国支那ヘ属シ居候故
【左丁】
【朱書】
   皇国ヘ奉対候テハ皇暦ヲ用支那□
   対シテハ彼暦ヲ用年中之儀礼□
   御両国之御格式ニ準シ取行居申
   次第ニテ新年紀元節天長節等ノ
   祝賀弥御希造通遵奉可仕候間
   其他是迄通」被仰付被下度奉
   願候【朱書終】
 此件ハ前条遵奉ノ上ハ随テ遵奉セサル
 可ラサル事□□□清国ノ年号ヲ廃止
 シ我カ□□□□□ノ奉セラルヘキ□□
 □□

【右丁、はじめの一行ムシ損】
【上余白朱書「P191」】
【朱書】
   右□□□□無之政府御直□□□
   候テモ国体政体永久不相替様被
   仰付候段被仰渡藩内一同拝承
   難有安堵仕居申候処藩制改革
   被仰付候ハヽ小邦丈人心迷乱無□
   行届申間敷ト別テ心痛仕居申
   候間御内地トハ別段之御取訳
   ヲ以何卒此中之通被仰付被下度
   奉願候』コノ記入ハ錯入ナリ【朱書終】
【上余白朱書「P172」】
一、此件政府ニ於テ当藩ノ国体政体永久
【左丁】
 変革セサル等ノ命令曽テ無キ所ナリ
 只去ル六年ヲ以テ外務卿副島種臣之指
 揮ニ依リ外務官員ヨリ当藩官員ヘ贈
 リタル書中ニ揚【朱訂・掲】ケル所ノ事ヲ指シテ言ハ
 ルヽナルヘシ果シテ然ラハ貴弁ノ旨趣ト
 異ナリ彼ノ書中ノ意ハ則チ藩タルノ
 制ヲ容易ニ変更セサルノ意ナリ而シテ
【上余白朱書「P173」】
一、今般ノ御達書ハ固ヨリ藩タルノ制ヲ
 変革スルノ主意ニアラス藩制ニ属シ
 □□□□□□行スルノ主意ニシ□□

【右丁】
■■■□□□□リ
ヲ経営スル□便宜ニ因テ□□
ラサルモノニシテ永世日制ヲ墨守スル
コト得ヘキモノニアラス則チ内外古今
ノ書史ニ就テ之ヲ見レハ暦々明カニシテ
尚ホ近クハ我カ邦明治初年ヨリ本年
ニ至ル迄ノ間ニ於ケル其変遷沿革天下
皆ナ知ル所ナリ就中近日ニ至テハ
元老院ヲ被置
天皇陛下無量権ノ幾分ヲ割テ之レニ附与
セラルヽ等我カ朝未曽有ノ大変革ナリ
【左丁・白紙】

【右丁】
本分タレハ顧慮ナク政府ニ□□具陳セラル□□
善シトス且又地代金ヲ仰カサルトノ義貴論ノ□
如此ニ至ル実ニ感ズヘシ然リト雖モ抑モ兵営ヲ置テ
国土ヲ保護スルハ政府ノ本分義務ニシテ此等ノ費
用ヲ弁スル為メ常ニ人民ニ対シテ収税ヲ要スルナリ
即チ当藩ニ於ケル其税額多少ノ論ハ暫ク措キ常ニ
若干ノ税額ヲ収納セリ此ヲ以テ政府保護ノ恩恵ニ
奉答セラルヽノ義務ハ既ニ尽セリ然ルニ今又此兵
営ノ地代金ヲ自弁セラルヽハ甚タ厚キニ過ク仮令
上請セラルヽトモ蓋シ政府ニ於テハ之ヲ聴【朱訂・聴】許セサルヘシ然レトモ
貴論如此貴篤ノ旨趣アルヲ拙者之ヲ止テ擁蔽
【左丁】
幸ニ諸君之ヲ諒得セヨ
 明治八年八月十三日   伊地知貞声
          浦添親方殿
          池城親方殿
          富川親方殿
此節松田道之殿重御達之銀用筋至而
為重立事候間被御遣候御書面幷
我々より之書面隠居之王子三年発
□□□義前広相下存寄之所者申出
□□□□付被下度御書院当御取□

【右丁】
□□十八日□□
【左丁、白紙】

【付箋】
【丸印】
「琉球大学附属図書館、1968,12,20、No, 112953」
【余白】
「$4,17」

【製本裏表紙】
【ラベル】
「0924・Ma74」