暴瀉須知 《割書:附名義|》全
【右上枠外横書】
明治十三年五月刊
栗園浅田先生 著
暴瀉須知 《割書:附名義|》
如春病院蔵
【左】
暴瀉須知 《割書:附名義|》
曩者 奉官准 与回志十数名 設病院於浅草
森田街 名曰如春 権栗園浅田先生為院長
歳所療不下数千人 其上鬼籍者 ふ過十数人
豈重蒼生之幸 實副我倚四望也 近世有稱
虎狼痢一種疫病 連年流行 為之天者 不知
其数 其発如縣雨 無日先兆 其死如電過 不能
以一瞬 以坂醫家倉皇狼狽 不知其所指 況形
病家守 先生深有嘆於斯 乃著治塩編 暴瀉
須知等書 既刊行於世 去歳又著浦狼痢考一
【右】
塩 其書自古今之治療 至豫防避病之法 無又
肆尽実 夫先生日夜脉投剤 無暇及他 然而
有此挙 其用心於蒼生 豈不親切慳到字 生民
之夷既 蓋會不か量者馬 於是興同志お議 頓
絶其志 田輯二書物一編 刑以暮施於世 凡読
是書者 常記之心 以得免横夭之惨 則ツ謂成
我衛之素志 謂欧州治法之前別無仙道則
隘矣 是為序
明治十三年五月 井上榮三識【角印】
尭た大嶋信書 【角印】
【左】
暴瀉須知 《割書:附名義|》
栗園浅田宗伯著
余按ずるに頻年(とし〳〵)世上流行する處の暴瀉は明人所謂雜疫《割書:雜|疫》
《割書:の説説疫及瘟疫|彙編に委く見ゆ》にて實に急速恐るべきの病なり俗にころりと
云も卒倒の義ならん《割書:虎狼痢は萬病囬春霍乱の条にあり|全く霍乱の俗称にしてこれと異なり》故に其治
法亦急卒に施さじれば救ひ難き事多し蓋(けだし)病因二道あり其
初頭重く或は痛み風を悪み手足だるく或は筋強ばり或は
痺(しびれ)する様にて水瀉二三行宛あるものは表より感じて緩き
症なり早く葛根湯か五苓散の類を服して發汗すべし發汗
【右】
の効徹【ゆきとゞく 左ルビ】すれば下/利(り)漸止ものなり若緩症とくゆるかせにす
る時は忽(たちまち)嘔吐厥冷脉絶の証を發するものなり又一種たゞ
腹中雷鳴して傾盆の如く下利するものあり気分格別か
わりなれども下る度に肉脱して目も陥(おちい)り鼻も尖(とか)り其雷
鳴終には胸隔の中より突きぬけるように下利して忽ち
嘔吐を撥するなり至て急症にて片時も油断すべから
ず治法黄連湯生姜瀉心湯の類を頻に服し温覆自汗出る
やうにすべし《割書:或人横浜にて仏蘭斯(ふらんす)人これら病の治方を傳ふやはり|生姜瀉心湯に桂枝芍菜呉茱茰を加るものなり香港など》
《割書:にても専ら漢方を用|ゆかるを見るべきなり》若忽ち吐嘔を發し煩悶するものは先ず丁
子枯礬等分細末目方五分を水にて服すべし《割書:此方は小児のは|やてを治する方》
【左】
《割書:なり今活用|して効あり》後消暑飲を用ゆ《割書:半夏茯苓石羔|甘草生姜五味》薬汁納らさるもの
は少しづゝ冷服すべし若し吐利とも納りて煩渇を發す
るものは竹葉石膏湯白希湯等を用ゆべし若し吐利
止て二三日を経ても渇止ず舌胎ます〳〵厚くなり或は
黒胎になり煩悶するものは熱毒の内蒔なり早く大柴胡
湯《割書:病胸に専ら|なるもの》調胃承氣湯《割書:病腹に専ら|なるもの》にて下すべし若し
等閑にする時は顔色赤くなり或は惣身赤斑を發し或は
醉人の如く夢中になり終に死するものなり又消暑飲を
用ても吐利一二日止み兼るものあり橘皮藿香二味水煎
冷水に浸し用て止もあり虎翼飲にて止もあり《割書:半夏茯苓|橘皮生姜》
【右】
《割書:四味を伏竜肝水|にて煎するなり》呉茱茰湯の症もあり撰用すべし一老医
の傳に下利煩躁甚しきもの杷子白木茯苓三味煎用
て験(しるし)ありと杷子は随分用ゆる場合あり吐瀉後心中苦煩
して悶乱するもの黄連解毒湯《割書:黄連黄苓梔|子黄栢四味》を淡煎して用
ゆる時は即効あり但一瞬に吐利煩躁するものと吐利止て
も煩悶ます〳〵甚しきものは薬効立ぬ内に絶命す實に
恐るべきの甚しきなり又一種吐利せず煩悶するもの
あり是は霍乱の乾霍乱あるが如く疫毒の劇きものなり
早く走馬湯を用ゆべし《割書:杏仁二十粒巴豆五粒絹に包み|打碎き熱湯にて捩出し用ゆ》此薬にて
吐瀉すみものなり其後は証に随て薬を投すべし又轉
【左】
筋甚しく《割書:俗にこむら|かへりと云》七轉八倒するものあり木茱湯《割書:木瓜|呉茱》
《割書:茰塩少しを加へ水煎此方は元脚気の菜なれども|衛生家寳に四片金と名け霍乱轉筋に活用してあり》用ゆべし外には塩湯を
布に浸し蒸すべし又手足強直になりて苦痛するものあり
桃核承氣湯附子効あり此三種は肩或は腕脚を切りて血
をとるもよし其内良医師を招きて治法を謀るべし今唯一
時救急の治法のみを書するものなり葢し此證一種熱
悪の疫気なれば霍乱の如く參附を用ゆるを禁ず西洋の
阿片等は尚更の事なり《割書:埼嶴(ながさき)の医笠戸恕節曰閏戌年麻疹後|此証流行したれども熱浮多く冷浮至て》
少くなし故に西洋傳習の医阿片を用て皆敗北したり此地俗間に一術
あり渇するもの冷水を強飲し又は冷水に浴させて全活するもの多し
《割書:と熱厥の徴|ます〳〵明なり》世医厥冷脉絶に眩して石膏を恐るゝ者あれども
【右】
是は熱厥といふことを知らず憫笑すべきの至りなり又越
前ばいと同病に心得るものありばいは痧病にて其病状
漫遊雑記に悉く見へ暴瀉は痧と異なり混治すべからず是
亦ちなみに相辨するものなり
葛根湯 五苓散 黄連湯 生姜浮心湯 竹葉石膏湯
白虎湯 大柴胡湯 調胃承氣湯 桃核承湯
以上九方は傷寒論に出て世人普く知る處なり故に別
に録せず用ゆるに臨て急に薬舗(きくすりは)に調合させ服すべし
世上此病預防の薬種々あれども格別の成效を見ず反く
香竄(かいひゝかく)元燥(かわかす)の剤を常服するものは病に臨みて対症の薬効を
【左】
奏しかたし況や外常に芥子泥發泡等を施し内に人参附
子アヘンを服するもの實に愚の至り唯悪邪を辟るには
蘇合香円を服し暑熱甚しき時は五苓散を服し其他摂(やし)
養(しやう)を専らにすべし今一二を左に録す
醉飽を節にすべし又饑渇を忍ふべからず○屡暑熱を
冒(おか)し舟行輿走すべからず○強健に任せ洊りに労動(ちから)作力(わざ)
すべからず胃力を損じ感招しやすし〇深夜(よふけ)味爽(あけがた)風露を
衝て遠行すべからず〇頻数閨房(ふじん)に近き下元を損ずべからず
〇雨水を服すべからず〇霧雨に浹すべからず〇醉餘浴
后裸體(はだか)にて風處に臥すべからず〇菓實并諸冷物を食す
【右】
べからず〇諸港渡の地尤行れやすし猥りに蛮客舟夫
に応接し其氣を受べからづ
以上其大禁を記すのみ其他患者多き家に来訪する時は
必ず飲食して胃氣を壮にし香竄の薬を帯て邪悪
の氣を壓すべし凡此病は天地間一種熱悪の氣に感招
するとのなれば其病室凡風氣の通ずるやうにし且辟
悪のものを薫き清浄静養すべし然らざれば其邪氣傍人
に傳染(でんせん)して流行甚しきに至るなり故に憐むべきおは役(おふ)
舎賃房(べやうらだな)の患者なり小屋にて風氣通せす貧困にて穢
濁多きゆゑ一人感ずるときは連舎同房に傅染し且医
【左】
薬とゞかざるゆゑ多分死に至るなり余嘗て病院を営
しこれを救済せんと欲すれども微力にして其志を達
する事あたはず世の君子これを愍み病院を営して
医薬を施し玉はゞ窮民の大幸これに過ずと云
【右文字なし】
【左】
古呂利考
按に古呂利は、萬病回春、攪乱の一名虎狼病と云より出たりと
云、西洋所謂虎列刺の轉語(てんご)と云、説あれども、皆附會(ふかい)信ずるに
足らず古呂利の本 皇国の俗語にて、卒倒(そつとう)の義を云て古より早く
病に稱し來ることなり、元生間記録云、元禄十二年の頃、江戸にて古
呂利と云病はやり、今月流行す、早く南天の實と梅干を煎して
呑は、其病を受けず、左もなければ、そろりと煩(わづら)ひて、古呂利と死
すとて、江戸中南天の實と梅干を煎して飲しと云、此事申し出せしは神
田須田町の八百屋惣左衛門と云者、去年大阪より、多く梅干を仕込置
し處、今年上方の梅干きれて、一向に下らず、これに依て、我梅干を高
【右】
直にして、売らんとて、かゝることを言出しけるに、遂(つい)に聞へて八丈
島へ流されしと云、又古老の話に、昔古呂利にて、数万人死して
葬ること能はず、官因て水葬の令を下すと伝、閑窓瑣譚伝正徳享
保の年間の実録を記せし書に、正徳六年の夏、熱を煩ふ病人多
く、一ヶ月の中に、江戸町々にて死する者、八万余人に及ひ、棺(くわん)をこし
らへる家にても、間に合はす、酒の空樽(あきたる)を、亡骸(なきがら)を寺院へ葬す
る墓地(ぼち)埋(うづ)む所なければ、宗體(すうたい)に拘らす、火葬ならでは不_レ納と伝、
依て荼毘(だひ)所々に火葬せんとすれは、棺/桶(をけ)の数限(かずかぎ)りもなく積重(つみかさね)
て、十日二十日の中には、火をかけることならす、其到来の順に荼毘すれは、
日数をはるかに経ざれは為すこと能はす、是に於て貧者の亡骸は如
【左】
何ともすべきやうなく、町所の長たる人々も、世話行届兼て、公廳
へ訴申せしかば、夫々の御慈悲(ぢひ)を賜(たま)はり、寺院に仰付られ葬
り難き兦骸は、回向の後菰(くら)に包み舟に乗せて、悉(こと〴〵)く品川の沖(をき)へ
流し、水葬になさせらてしと伝、考ふるに、正徳六年は、六月廿二
日に改元ありて、享保元年となれり、彼の明暦三年の火災に、十
万八千人の焼兦、当時猶言傳へて怖(をそ)るれと、享保元年の天行病
に、数万人の一時に死兦せしは、後に傳て言者のなきは、火難と
違ひて、書留し事のなきにやと、伝々、又此疾正徳年間、鎮西(ちんせい)に起りて、
小児の感冒最も多く、暫次流傳して、尾州の地に及ひ、大人も適(たま〳〵)感する
者あり、人呼て早手と伝之を𩗗風の猝然として至るに比する也、爾
【右】
後筑の前後年々行ると伝こと、今時医談、及筑人鷹取遜弇の小児暴
痢新考に詳に見たり、其後甚く行はれしを文政壬年の秋とす、瘟
疫論發揮 ̄に伝、壬午の疫(えき)、其初自_二朝鮮_一傳_二干吾西州_一、歴山陰 ̄に迨_二
浪華 ̄ニ_一無 ̄く
_レ論 ̄するに_二老少強弱 ̄ヲ_一闔(カウ)戸(コ)傳染勢如_二破竹 ̄ノ_一死者、日三四百人、好生緒言伝、壬午
癸未、間、西州天行病、水瀉二三行而目陥鼻尖(くほみはなとがり)伝、是なり、時還
読我書伝、文政壬午の秋末冬初、浪華(なには)に三日古呂利と称する
病、流行せり、初は鎮西より起て、中国に至り、浪華に及
ぼし、京師にも、偶々(たま〳〵)病者あり、其症初起卒(にわか)に悪寒し続(つゞい)て吐
瀉甚しく或は胸膈へ迫りて急なるは日を出す、緩なるは三日許(はかり)に
して斃(たゆ)る故かくは名けしと也、浪華にては、甚多く沿門(ゑんもん)闔戸死兦する
【左】
者ありと聞けり、導水鎖言にいへる、三日坊の類なるべしと伝へり、何れ
霍乱の一種にてもあるべきか、百々漢陰は、増損理中丸の症なりと言
送れり、げにも然るべし伝々、此時は伊勢路にて流行して江戸には及
はざるなり、其後安政五年戌午の秋は、長崎より始りて、山陰南
海を経て、天下に遍(あまね)く、其中江都甚しく、初冬の頃は、奥羽まで傳
播し、雪天に至て初て止むと伝、喜多村栲窓翁曰、安政五年戌午の
秋、都下古呂利と伝病流行す、即医通説(と)く所の番沙の如し、八月
八日、伊藤宗益、朝四時下利して昏瞀(こんぼう)、七時に斃れたり、翌日同家婢
も死す、隣家田中彦七《割書:年六十|八》も七日に死せり、近街死者相踵す、下町
邉は最多し、其初は長崎より、漸々西国へ傳はり、大阪最甚し、東
【右】
海道、原吉原邉、闔境皆斃と伝、傳言咬吧の邉甚多死す、英魯人其
病を避て、崎嶴に来る、其舩中二三十人は、此病に嬰(かゝり)て崎嶴に上
陸せり、其より、傳染する所と伝へり、予の考には、古の尸注(しちう)の一
種にて、飛尸遁尸(ひしとんし)の類ならん、中悪鬼撃(げき)と伝も、此類症なり、
医通の治法は迂緩(うからん)なり、予別に考あり伝々、是歳の古呂利は、
江都最甚しく、斃する者男女併せて、武家二万二千五百五十四
人町家一万八千六百八十人にて、實に棺も給すると能はす茶
昆一所も宛(おつら)も酒舗の空樽を積累するが如くにて適(たお〳〵)は数日の間に、
蘇生(そせい)せしものも有と伝、享保以後の大疫と伝べし、其翌年巳未
又流行し、其後麻疹と併行、最劇く、これに継(つい)て、年々断せす、近歳
【左】
に迨て、時々甚く、人民を損(そん)すること。其数を知らす、医たる者尤
宜く心を悉(つく)して審察(しんさつ)し、本を探(さぐ)り源を尋て、救活せすんは
あるべからず、然るに、享保の症は、医書未だ論載する者を見
ず、文政の病は特(ひと)り、浪華西田尚綱《割書:耕悦|》と伝人、雑氣病按と伝書
を著(あらは)して、悉(くはし)く論せり、又津山の宇田川氏も西洋の説を飜譯(ほんやく)
して、甘汞を用ることを述ふ、安政の時は、西洋の著述翩々と
世に出つ、然れども、病源治療一定の説なく、漢科に至りて、
僅(わつか)に一二部の小著あるのみ、余之を漢土の書に考るに、呉震芳
か談往に、所_レ謂有_レ棺無_レ棺 九門計数巳に二十餘萬と伝、王庭が
痧脹玉衡の序に所_レ謂余在_二燕都_一、其時疫病大 ̄ニ作 ̄ル、患者胸腹稍満、生_二
【右】
白毛如_レ羊、日死数千人と伝もの、即此証にて皆明の祟禎十六年癸
未の歳に行はれしなり、其後清の道光元年に大に行はる、
汪期連瘟疫彙編 ̄ニ伝、麻脚瘟、其症脚忽 ̄チ麻木、肚腹疼痛吐瀉交 ̄く作 ̄ル、
朝 ̄ニ發 ̄メ夕 ̄ニ死 ̄ス、道光元年金陵患 ̄レ此 ̄ヲ者甚多、医林改錯 ̄ニ伝、道光元年歳次
辛巳、瘟毒流行、病吐瀉轉筋者数省、京師、尤甚、傷_レ人過多、貧不_レ能_二葬
埋_一者、国家發_レ帑施_レ棺、月餘之間、費 ̄ス_二数十万金 ̄ヲ_一医学實在易 ̄ニ庚辰巳辛
巳 ̄ノ歳、吾閩患_レ此而死 ̄スル者不_レ少、然 ̄モ皆起_二於五月_一、盛_二於六七月_一、至_二白露_一漸(やうやく)
軽而易_レ愈、且庚辰入り夏大旱而熱甚、人謂病由_二熱逼_一、辛巳入夏大澇
而寒さ^甚、人謂病由_二寒侵_一、而両歳病形如_レ一これ也、又嘉慶戌午 ̄ノ夏
行はれしことなり、医学實在易 ̄ニ伝、嘉慶戌午夏泉郡王孝庶、患
【左】
_レ痢七日、忽 ̄チ於_二寅午之交_一、聲微唖、譫語半刻即止、酉刻死、七月榕
城葉廣文観鳳之弟、患者同_二前證_一、来延自言、伊弟痢亦不_レ重、
飲食如_レ常、唯早晨嗌乾微痛、如_二見_レ鬼状_一、半刻即止、時届_二酉
刻_一余告以_レ不_二必往診_一、令_二其速 ̄ニ回_一、看々果於_二酉戌之交_一死 ̄ト是
也、葢 ̄シ此病、呉又可は以為_二瓜瓢箪瘟 ̄ト_一張隠庵は以為_二竒恒痢 ̄ト_一陳
修園 ̄ハ以為_二風伏氣乗__レ時而發 ̄スル之病_一、王清任 ̄ハ以為_二瘟毒_一、其
説少異はあれども、皆雑疫の一種となすは、信従すべし、
劉松峯説疫を閲(けみ)するに雑疫名色ある者七十二症あり、
何れも病来ること甚速にして、人を殺すこと、赤最捷な
う、異又可曰、疫氣者、亦雑氣中之一、但有_レ甚_二干他氣_一、故為
【右】
_レ病頗重、亦名_一之 ̄ヲ厲氣_レ雖_レ有_二多■不_一レ同、然無_二歳不_一レ有、至_二干
瓜瓤瘟疤■唐温 ̄ニ_一、緩者 ̄ハ朝發夕死、急者頃刻 ̄ニノ而兦、此又諸疫
之最 ̄モ重者、幾 ̄ント百年罕有之證、故難_下以_二常疫_一並論_上也確論と謂
べし、余戌午 ̄ノ秋七月二十九日より、九月十日に至るまて、此病を
療すること凢八百有餘人、日夜寝食を忘るゝに至る尓後年
々経験頗る獲る處あり、因て其治験を記して、治瘟編、暴食瀉
湏知等を著す、故に其治法は此に贅(ぜい)せす、益 ̄シ此病欧州に始
り、近世皇国に傳播して、和漢とも古來未曾有の病の様
心得たる俗醫多く、唯欧西の治法を模擬(もぎ)して、古/哲(てつ)の發明あ
ることを知る者鮮し因て和漢の履歴を挙け、以惑者を辨明すと伝、
【左】
附避瘟法
論語 ̄ニ郷人儺、孔安国註伝、駆_二逐疫鬼_一郊特牲(くちくすえきゝをゝこうとくせいに)郷人禓(いよう)【をはらい 左ルビ】、鄭玄
註曰、裼強鬼也、謂_三儺索_レ室欧_レ疫逐_二強鬼_一也、然らは則周
時既に駆疫の事あり、屠蘇辛盤の属も、避瘟の原始にして、
古来其法を載する者鮮(すくな)からず、張華 ̄か博物志伝、漢武帝
時、長安中大疫、宮中皆疫病、帝不_レ挙_レ楽、而使乞見請_下焼_二所
_レ貢香一枚_一以避_中疫氣_上帝不_レ得_レ巳聴、宮中病者登日並差、本草
網目伝、降真香一名紫蘇香、焼_レ之避_二天行時氣宅舎怪異嘗
有_レ人為_レ雷所_レ撃幸而不_レ死、半身成_二黒色_一、久而不_レ愈、諸医不
_レ能_レ治_レ之有_二異人_一教焼_一降真香_一薫_レ之即変_二黒色_一而復常竒方
【右】
類編辟瘟丹、此丹焼_レ能不_レ染_二瘟疫_一久空房屋焼_レ之可_レ避_二
穢悪_一乳香蒼朮・細辛・甘松・川芎降香各等分為_レ棗肉為
_レ丸、如_二芡實大_一遇_二瘟疫大作之時_一、家中各處焚_レ之即不_レ染_レ患
一方加_二白檀末、集験方避温丸、遇_二疫氣_一焼_二一丸_一即免_二傳染_一
蒼朮一斤為_レ末紅棗一斤、取_レ肉搗 ̄ラ為_レ丸如_二弾子大_一焼_レ之、説
疫蒼降反魂香、除_レ穢袪_レ疫、蒼朮降真香各等分、共末揉_二(もみ)入
艾葉内_一綿紙捲筒焼_レ之同一方天行時疫、宅舎怪異併降
真香有_レ験、又伝、房中不_レ可_レ焼_二諸香_一、衹(そゝ)冝_レ焚_二降真_一、諸香燥烈
不_レ可_レ用、降香除_レ、洗寃録辟穢丹、能辟_二穢氣_一麝香少許細
辛半両甘松一両川芎二両、右三味為_二細末_一蜜圓弾子大
【左】
久して伝_レ為_レ妙、毎日一圓焼_レ之、これ皆焼て邪を袪方なり、
倘湖樵書伝、亜細亜之地中海、有_レ島百千、其大者曰_二哥阿島_一、國
人尽 ̄ク患_レ疫、内有_レ名医依と加得と_一、不_下以_二薬石_一療_上レ之令_三城内
外遍挙_二大火_一焼一晝夜息而病亦愈矣按 ̄ニ疫為_二邪氣_一所_レ侵、
火氣猛烈、能盪(とう)_二滌(できす)諸邪_一邪盡而疾愈、亦至理也、易曰燥_二萬
物_一者莫_レ熯(かはかすは)_二乎火 ̄より_一疫者邪火也、猶
_下龍雷之火以_二正火_一滅_上レ之、是
理不_レ可_レ不_レ知烏、これ亦焼滅の最大なる者也、又嗅(かいて)而之を辟
る者あり、呉崑疫瘧五神丸、塞鼻法考伝、以_二疫氣無_レ形由
_レ鼻而入_一故就_レ鼻而塞(ふさぐ)_レ之 ̄ヲ世俗人馬平安散、医通点眼沙等を
以て鼻に塗り瘟を避る者は、是理なり、又内服して之を避
【右】
る方あり、洗寃録避穢方、三神湯、蒼朮二両白朮半両甘
草半両、右為_二細末_一、毎服二戔入_二塩少許_一、白湯_一服又伝、蘇合
香丸、毎一丸含化、尤能避_レ悪、聖濟総録、辟_二時疫温癘_一、辟温湯、
甘草大黄各二戔皀莢一戔、右三味用_二水盞_一、煎至_二一盞、去_レ滓空心
熱服、至_レ脱_二 下悪物_一為_レ効、又辟_二瘴癘温疫時氣_一預服蒼耳散方、蒼
耳三両、右一味為_レ散毎服二戔匕、空心井花水調下、仙拈集辟疫湯、
蒼朮三銭三分三厘川芎八銭五分乾葛一銭三分六厘甘草
一銭六分七厘薑三斤、連鬚葱頭三個、水二椀煎_二 八分_一、空心
服、巳病者 ̄ハ愈、未_レ病者不_レ染也とこれ也、又土地を清潔(きよく)にする
法あり、衛生寳鑑伝、或有_レ伝斯疾之召、或溝渠不_レ泄、穢悪不
【左】
_レ修、薫蒸而成者、或地多_二死氣_一、■發而成者、、或官吏抂怨
讟而成_レ之者、可_下於_二州治六合處_一、穿_レ 地深至_中 三尺_上、闊(ひらき)亦如_レ之、
取_二浄沙三斛_一、實_レ之以_二醇酒三升_一、沃(そゝぐ)_二其上_一、俾使_二レ君祝_一レ之、斯亦
消_二除疫癘_一之良術と、これ也、又衣被を浄くする法あり、
清 ̄ノ會稽陶東亭恵直堂経験方伝、凢遇_二疫染_一、以_二初病人
衣_一、於_二甑上_一蒸_レ、則一家不_レ染とこれ也、古人心を救済に盡
ここと如_レ此、而世医は知らす却て説く避邪の法、、洋医石黒氏の
著書に始て具備すと、豈棒腹の至りならずや、
【右】
明治十三年五月廿七日御届
同 年六月五日出版
著書 淺田宗伯
牛込區牛込
横寺町
四十一番地
出版人 山邊三子
浅草區浅草
森田町七番地
【裏表紙】
【ケース表】
船越敬祐撰
繪本黴瘡軍談 三冊
【ケース裏 文字無し】
【ケース背】
船越敬祐撰
繪本黴瘡軍談 三冊
【ケース表】
船越敬祐撰
繪本黴瘡軍談 三冊
【表紙】
繪本黴瘡軍談 上
【見返し 文字無し】
【右上段横書】
天保九戊戌歳七月
伯州米子 錦海 著
《題:繪本黴瘡軍談 全六冊》
浪花 烽山重春畵 藏六亭藏版
【赤角印 富士川游寄贈】
【左】
【赤角印 富士川氏蔵】
【角印】京都
帝国大学
図書之印
【本文】
予 ̄カ友舩越君明業 ̄トス_レ醫 ̄ヲ内外
諸科無_レ不 ̄ルコト_二兼通_一而最 ̄モ善 ̄ク攻 ̄ム_二
黴毒 ̄ヲ_一所在施 ̄ス_レ治 ̄ヲ亦以_レ此 ̄ヲ為
_レ先 ̄ト人目 ̄シテ為_二黴醫 ̄ト_一葢於 ̄テ_二此症
治方 ̄ニ_一苦心研尋二十年間
遂有 ̄リト_レ所_二發明 ̄スル_一云嘗 ̄テ著 ̄ス_二黴瘡
【右】
瑣談黴瘡雑話等 ̄ノ書 ̄ヲ_一並 ̄ニ皆 ̄ナ
國字為 ̄ル_レ文 ̄ヲ擧 ̄ケ_レ症 ̄ヲ指 ̄シ_レ方 ̄ヲ詳審
靡 ̄シ_レ遺 ̄スコト其 ̄ノ意欲 ̄ス_レ令 ̄シメ【「ント」左ルビ】_二下黴家 ̄ニ_一易_レ讀
易_レ解親 ̄ク知 ̄リ_二方剤 ̄ノ當否調理 ̄ノ
好悪 ̄ヲ_一而不 ̄ラ_上レ陥 ̄ラ_二盲毉 ̄ノ毒手 ̄ニ_一也
獨 ̄リ奈 ̄ン輕薄 ̄ノ子弟不_レ喜 ̄ヒ_二是等
【左】
誠言實説之書 ̄ヲ_一讀 ̄ムコト一過 ̄スレハ則
抛擲 ̄シテ無_レ顧 ̄ルコト君明察_レ之今復
著 ̄ス_二黴瘡軍談 ̄ヲ_一専傚 ̄フテ_二小説之
体 ̄ニ_一擧 ̄ク_二病薬交戰之状 ̄ヲ_一其 ̄ノ事
奇怪其 ̄ノ文工緻雖_二彼輕薄
之徒 ̄ト_一手一 ̄タヒ把 ̄レハ_レ之 ̄ヲ終 ̄ニ不_レ触_レ釋 ̄ルコト
【右】
玩讀 ̄ノ之久 ̄キ會 ̄ズ當 ̄サニ【「シ」左ルビ】_レ了_下-得 ̄ス此症
治方取舎【捨】利害 ̄ヲ_上君明 ̄カ用 ̄ル_レ意 ̄ヲ
可_レ謂_二深切 ̄ト_一哉方今小説盛 ̄ニ
行 ̄ル書坊 ̄ノ發版月《割書:〱》 ̄ニ倍 ̄シ日《割書:〱》 ̄ニ增 ̄ス概 ̄スルニ
_レ之皆是浮靡猥雑縦 ̄ヒ立 ̄ルモ_二勸
懲之説 ̄ヲ_一暗 ̄ニ開 ̄ク_二誨淫 ̄ノ捷徑 ̄ヲ_一讀 ̄テ
【左】
_レ之 ̄ヲ無 ̄ク_レ益不_レ如 ̄カ_レ不 ̄ルニハ_レ讀 ̄マ若 ̄キハ_二此書 ̄ノ
則不_レ然 ̄ラ假 ̄テ_二于寓言 ̄ヲ_一歸 ̄ス_二於實
用 ̄ニ_一巧手叚【段ヵ】善方便眞 ̄ニ有 ̄ルノ_レ益
_二於世 ̄ニ_一之書也其 ̄レ或徒讀 ̄ミ-徒 ̄ニ
玩 ̄ヒ以為 ̄ル_二尋常小説之流 ̄ト_一者 ̄ハ
則非 ̄ス_二君明 ̄カ意 ̄ニ_一矣
【寓言=たとえ話】
【辞書には「叚」は音「カ・ケ」で義は「かりる、かす」で「假」に通ず。とあり「段」は別字と有ります。然るにコマ⒑の4行目に「叚」を「だん」と仮名を振って使用している。】
【右丁】
天保九年戊戌三月
櫟陰散人 【印:檪陰】
浪華 森晋三書 【印】【印】
【左丁】
繪(ゑ)本(ほん)黴(ばい)瘡(さう)軍(ぐん)談(だん)
巻之第一
《割書: |いせいとうぜんにようふをみる》
醫生燈前見_二妖婦_一
《割書: |てんじんふかにまみをしりぞく》
天神斧下退_二魔魅_一
《割書: |かうやにくはいしてぐんじやことをぎす》
會_二郊野_一群邪議_レ事
《割書: |けいくをへんじてごけつつのりにをうず》
變_二形軀_一 五傑應_レ募
巻之第二
【右丁】
《割書: |ぜつせんをこゝろみてこくわうにんをさづく》
試_二舌戰_一國王授_レ任
《割書: |かんぼうをくじいてぞくとちうにふくす》
挫_二奸謀_一賊徒伏_レ誅
巻之第三
《割書: |てきぢんをおそふていどくかうべをうしなふ》
襲_二歒陣_一遺毒䘮_レ首
《割書: |ほんゑいをうしなふてるいれきあとをくらます》
失_二本營_一瘰癧晦_レ迹
《割書: |けつねつくはうでいはんにはいさうす》
血熱敗_二-走黄泥阪_一
《割書: |げかんゐんとうざんにめつぼうす》
下疳滅_二-亡陰頭山_一
《割書: |げんきをやしなふてやくしやうたゝかひをゆるむ》
養_二元氣_一藥將緩_レ戰
【左丁】
《割書: |ゑいほうをふせいでびやうぞくめいをおとす》
拒_二鋭鋒_一病賊殞_レ命
巻之第四
《割書: |ゑんじゆぐはんゆうにほこりてやぶれをとる》
延壽丸矜_レ勇取_レ敗
《割書: |ばいかうさんはかりことをさだめててきをうつ》
黴効散定_レ計討_レ歒
《割書: |りやうゆうしきりにいでゝくせんをきはむ》
両雄連出究_二苦戰_一
《割書: |いつしやうひとりすゝんでしうてきをみなごろしにす》
一將獨進鏖_一【二点】衆歒_一
《割書: |たいげんすいはかりてぞくぐんをたいらぐ》
大元帥計平_二賊群_一
《割書: |くしやうじんきたつてこくらんをほうず》
俱生神来報_二國亂_一
【右丁】
巻之第五
《割書: |こをいかししをかへすこうしゆだん》
活_レ枯回_レ死巧手叚【段】
《割書: |こうをとげなをまつたうすだいだんゑん》
遂_レ㓛全_レ名大團圓
目(もく)錄(ろく)畢(おはる)
巻之第六
黴(ばい)瘡(さう)軍(ぐん)談(だん)附(ふ)錄(ろく)增(ざう)補(ほ)《割書:大(たい)尾(び)》
【左丁】
醫宦篤實淳直
いくわんとくじつじゆんちよく
【右丁】
病賊黴毒大王
びやうぞくばいどくだいわう
【左丁】
藥將延壽丸
やくしやうゑんじゆぐはん
藥將治瘡丸
やくしやうぢさうぐはん
【右ページ囲み文字】
薬将黴効散
やくしやうばいかうさん
薬将奇良湯
やくしやうきりやうとう
【左ページ本文】
述意(じゆつゐ)
予(よ)此(この)著述(ちよじゆつ)をなすは強(あながち)に名聞(めうもん)を釣(つら)んが為(ため)にあらず熟(つら〳〵)当世(とうせい)の有(あり)さま
を見(み)るに黴毒(ばいどく)を患(うれふ)る者(もの)軽薄(けいはく)堕弱(だじやく)にして真実(しんじつ)病(やまひ)を治(ぢ)するの意(こゝろ)
なきゆへに奸医(かんい)盲医(もうい)のために誑(あざむか)れ遂(つい)に不治(なをらぬ)の症(せう)となりて生涯(しやうがい)
を誤(あやま)る者(もの)勝(あげ)てかぞふべからず此(この)輩(ともがら)の惑(まど)ひを解(と)き旦(かつ)不実(ふじつ)の
医者の奸盲(かんもう)を弁明(べんめい)し病者(びやうじや)をして其(その)毒手(どくしゆ)に陥(おちい)らざらしめんと
欲(ほつ)して鄙陋(ひろう)を顧(かへりみ)ず此(この)草紙(さうし)を綴(つゞ)りて世上(せじやう)に布(し)くものなり凡(およそ)
黴毒(ばいどく)をうれふる者(もの)は其(その)身(み)に元(もと)より邪気(じやき)に和(くわ)すべき天稟(てんりん)の
毒(どく)あり故(かるがゆへ)に黴毒(ばいどく)あるものと交(まじは)る時(とき)は其(その)邪気(じやき)天稟(てんりん)の毒(どく)に和(くわ)し
て身中(しんちう)に流(なが)れ入(い)りはじめは下疳(げかん)便毒(べんどく)淋病(りんびやう)等(など)を發(はつ)すこの時(とき)は
唯(たゞ)患(うれふ)る所(ところ)ばかりに毒(どく)あるがごとくなれども五臓(ござう)六/腑(ぷ)天稟(てんりん)のどく
【述意ノ一】
ある所(ところ)へは此(この)邪気(じやき)至(いた)らざる事(こと)なししかれども此毒(このどく)は人身(にんしん)に和(くは)し
易(やす)きゆへに疱瘡(ほうさう)麻疹(はしか)などのごとく其初(そのしよ)発熱(ほつねつ)気(き)甚(はなはだ)しく気分(きぶん)
あしく不食(ふしよく)する等(など)の苦(くるし)みなし故(かるがゆへ)に疱瘡(ほうさう)麻疹(はしか)などのごとく急(きう)に
死(し)することもなく又(また)急(きう)に治(ぢ)する事(こと)もなく牀(とこ)づきて寝(ね)るほど
にもあらず起立(おきたつ)て働(はたら)くこともなりがたく左右(とやかく)する内(うち)次第(しだい)に病(やまひ)
おもり遂(つい)には癈人(かたはもの)となり或(あるひ)は黴労(しつらう)などの不治(なをらぬ)の症(せう)となり劇(げき)
症(せう)に至(いた)りては苦痛(くつう)日久(ひひさし)くして死(し)する者(もの)又多(またおほ)しかゝるおそろしき
病(やまひ)なれども其初発(そのしよほつ)に甚(はなはだ)しき苦痛(くつう)なければ兎角(とかく)に身勝手(みがつて)
をいふて此節(このせつ)は忙(いそが)しければ休(やす)んで居(ゐ)る療治(りやうぢ)はならぬ強(つよ)き薬(くすり)は
瞑眩(めんけん)【「あたる」左ルビ】がいやじや散薬(さんやく)は飲(のみ)にくひ煎薬(せんやく)は面倒(めんどう)な傅薬(つけくすり)か膏薬(かうやく)
て早(はや)う治(なを)るがよい酒(さけ)はのまずには居(い)られぬ魚肉(さかな)を喰(くは)ねは飯(めし)が
喰(くへ)ぬなどゝ気儘(きまゝ)のありたけをいふが堕弱者(だじやくもの)のくせなり全体(ぜんたい)
是等(これら)の人(ひと)はいかなる料簡(りやうけん)ぞや病(やまひ)は其身(そのみ)の敵(てき)なり我身(わがみ)を大事(たいし)
とおもはゞ其敵(そのてき)となる病(やまひ)をばいかにもして打亡(うちほろぼ)すべきに暫時(ざんじ)の
不自由(ふじゆう)をいとひて生涯(しやうがい)の苦痛(くつう)を遺(のこ)し遂(つい)に其身(そのみ)を喪(うしな)ふは愚痴(ぐち)
とやいはん空気(うつけ)とやいはん一向(いつかう)論(ろん)にかゝりがたし箇(か)やうの病人(ひやうにん)多(おほ)け
れば奸医(かんい)時(とき)を得(ゑ)て世(よ)に蔓(はびこ)り巧言(こうげん)令色(れいしよく)雑芸(ざつげい)【「ついしやうけいはく」左ルビ】を以(もつ)て病家(びやうか)にとり
入(い)り治療(ぢりやう)をなすにも始終(しじう)病人(びやうにん)の機嫌(きげん)を料(はか)りて適当(てきとう)の治(ぢ)をなさず
別(べつ)して黴毒(ばいどく)などには瞑眩剤(めんけんざい)【「たうちういたむくすり」左ルビ】の功(こう)あるをしりながら病人(びやうにん)のきらふ
ことを察(さつ)して種々(しゆ〴〵)の言(ことば)を設(もう)け山帰来(さんきらい)は人をして逆上(ぎやくじやう)せしめ軽粉(けいふん)
生々乳(せい〳〵にう)そつぴるどろしすかるめら薫剤(かぎぐすり)などは一旦(いつたん)その効(こう)あり
ても寒薬(かんやく)なれば薬毒(やくどく)のこりて後(のち)に害(がい)をなすなどゝいふてこれ
【述意ノ二】
を用(もち)ひず毒(どく)にもくすりにもならぬ無益(むやく)の緩剤(くはんざい)【「やはらかなくすり」左ルビ】をあたへて久服(きうふく)
せしめ若(もし)熱(ねつ)あればねつをさまし腹(はら)をいためば其(その)いたみを治(ぢ)し疵(きず)
いためば膏薬(かうやく)をあたへ又(また)は阿片丸(あへんぐはん)を用(もち)ひて一時(いちじ)の苦痛(くつう)をたすけ
只(たゞ)枝葉(ゑだは)のみを刈(か)り除(のぞ)きて其(その)根本(こんぽん)を治(ぢ)せさればいつ迄(まで)も全治(せんぢ)
する期(ご)はなきなりたとへば下疳(げかん)【「かんそう」左ルビ】には搏薬(つけぐすり)洗薬(あらひぐすり)膏薬(かうやく)などを用(もち)ひ
て一旦(いつたん)其処(そのところ)はなをれども又(また)変(へん)じて便毒(べんどく)となり便毒(べんどく)をなをせば骨痛(ほねいたみ)
となり骨痛(ほねいたみ)をなをせば楊梅瘡(やうばいさう)となり楊梅瘡(やうばいさう)をなをせば瘰癧(るいれき)
となりかくのごとく種々(しゆ〴〵)に変(へん)じて後(のち)には頭面(づめん)手足(てあし)胸背(むねせな)腰腹(こしはら)などに
凝結(ぎやうけつ)し其処(そのところ)腫(はれ)いたみ或(あるひ)は腐爛(ふらん)坎落(かんらく)癈痼(はいこ)【「くさりたゞれかけおちすてもの」左ルビ】におよぶこれ所謂(いはゆる)二(ふた)
葉(ば)を剪(き)らずして斧(をの)を用(もち)ゆるにいたるなり其本(そのもと)をいへば病人(びやうにん)の堕弱(だじやく)
にして身勝手(みかつて)をいふと不実(ふじつ)の奸医(かんい)が適当(てきとう)の薬方(やくはう)を用(もち)ひず只(たゞ)枝(ゑだ)
葉(は)の病(やまひ)を治(ぢ)して病者(びやうにん)の心(こゝろ)をなぐさめ無益(むゑき)の薬(くすり)を久服(きうふく)させ
て薬礼(やくれい)を貪(むさぼ)るとによりてなり此(かく)のごとき奸医(かんい)浪花(おほさか)などには別(わけ)
て多(おほ)し又/一種(いつしゆ)盲医(もうい)なる者(もの)ありて軽粉生々乳(けいふんせい〳〵にう)《割書:そつぴるどろしすかるめら等は|けいふんせい〳〵にうより出し》
《割書:たる|者也》薫剤(かぎくすり)等(なと)の用(もち)ひやうをしらず右(みぎ)の内(うち)一二/方(ほう)を聞(きゝ)とり妄(みだ)りに日限(にちげん)
をきはめ仕切薬(しきりくすり)と号(ごう)してこれをあたへ人を誤(あやま)ること多(おほ)きがゆへに
いよ〳〵世上(せじやう)の惑(まど)ひを増(ま)す夫(それ)軽粉生々乳(けいふんせい〳〵にう)等(など)は酷烈(こくれつ)のものなれば
妄(みだ)りにこれを用(もち)ひるときは害(がい)をなすこと少(すく)なからず昔(むかし)長桑君禁(ちやうさうくんきん)
方(ぱう)を扁鵲(へんじやく)に許(ゆる)すこの禁方(きんぱう)とは蓋(けだし)軽粉生々乳(けいふんせい〳〵にう)等(など)の劇薬(げきやく)の方(はう)なるべし
加減(かげん)の法(はう)をしらずして妄(みだり)に用(もち)ひるときは害(がい)をなすがゆへにこれを禁(きん)じ
てかる〴〵しく人(ひと)に許(ゆる)さざるを以(もつ)て禁方(きんぱう)といふと有(あ)る一大医(いちだいい)語(かた)れり然(しか)
れば軽粉生々乳(けいふんせい〳〵にう)等(など)は加減(かげん)の法(はう)をしらざれば用(もち)ゆべき筈(はづ)にあらず
【述意ノ三】
今時(いまどき)は盲医(もうい)咨(ほし)【「恣」の誤記】ひまゝにこれを用(もち)ひるがゆへに愚俗(ぐぞく)の輩(ともがら)迄(まで)これ
を知(しつ)て一向(いつかう)の毒薬(どくやく)なりとおもへり悲(かなし)むべきの甚(はなはだし)きにあらずや
若(もし)この軽粉生々乳(けいふんせい〳〵にう)等(など)の加減(かげん)の法(はう)を知(しつ)てこれを用(もち)ゆるときはいか
ほどの痼疾(こしつ)結毒(けつどく)なりとも忽(たちまち)に治(ぢ)すべきなり故(かるがゆへ)に予(よ)はこの諸物(しよぶつ)を
以(もつ)て黴治(ばいぢ)【「ひへりやうぢ」左ルビ】必用(ひつやう)の方剤(はうざい)とす抑(そも〳〵)黴毒(ばいどく)に軽粉生々乳(けいふんせい〳〵にう)嗅薬(かきくすり)等(など)を用ひ
ずして山帰来(さんきらい)の応(おう)ぜざるものには何(なに)をもつて治(ぢ)を施(ほどこ)すべきや偶(たま〳〵)其(その)
害(がい)あるは盲医(もうい)の咎(とが)なり薬(くすり)の害(がい)にはあらず又(また)奸医(かんい)の妄言(もうげん)をもつて
軽粉生々乳(けいふんせい〳〵にう)を謗(そし)り病家(びやうか)を誑惑(きやうわく)するがごときは霊薬(れいやく)の流通(るづう)を
さまたげ治療(ぢりやう)の枢機(すうき)【「おもとするところ」左ルビ】をうしなふこと其罪(そのつみ)甚(はなは)だ大(おほ)ひなり病者(びやうじや)
よく〳〵これを考(かんが)へて軽粉(けいふん)等(など)の偶(たま〳〵)害(がい)をなすは全(まつた)く盲医(もうい)の過(とが)
なることをしり奸医(かんい)の妄言(もうげん)に誑(あざむ)かれざるやうにすべしこれら
の趣意(しゆい)を耳近(みゝちか)く世人(せじん)に告示(つげしめ)さんがために病(やまひ)と薬(くすり)との応(をう)不(ふ)
応(をう)を軍(いくさ)の勝負(しやうぶ)に喩(たと)へて方剤(はうざい)の加減(かげん)を述(の)べ明(あか)すこの
書(しよ)を熟読(じゆくどく)する時(とき)は自(おのづか)ら黴治(ばいぢ)【「ひへりやうじ」左ルビ】の逕庭(けいてい)【「すぢみち」左ルビ】を諳(そら)んじ知(し)り
盲医(もうい)の誤治(ごぢ)を免(まぬが)れ奸医(かんい)の悪計(あくけい)に陥(おちい)ることなからん
これ予(よ)が済世(さいせい)の微志(びし)なりと云尓(しかいふ)
天保九年戊戌六月 船越晋識
凡例(はんれい)
一/此書(このしよ)専(もつは)ら通俗(つうぞく)を要(よう)とすれは文詞(ぶんじ)の卑陋(ひろう)は勿論(もちろん)仮名(かな)づかひ
の違(ちが)ひ等(など)多(おほ)かるべし看(みる)人これを察(さつ)せよ
【述意ノ四】
一一/部(ぶ)の体裁(ていさい)全(まつた)く小説(せうせつ)軍記(ぐんき)に倣(なら)ふゆへに交戦(こうせん)のいきおひ勝敗(しやうはい)の
状(じやう)病薬(びやうやく)相攻(あいせむ)るに過(すぎ)たることありこれ戯著(げちよ)の常体(じやうてい)なり
一/澆季(ぎやうき)の俗徒(ぞくと)奇怪(きくはい)の事(こと)に非(あら)ざれば悦(よろこ)ばず故(かるがゆへ)に今(いま)も俗間(ぞくかん)に
行(おこな)はるゝ三国妖婦伝(さんごくようふでん)なるものを假(か)り用(もち)ひて悪狐(あくこ)の怨念(おんねん)
黴毒王(ばいどくわう)となり雷震(らいしん)等(ら)の神霊(しんれい)延寿丸(ゑんじゆぐはん)等(とう)の薬(くすり)となると
いふがごとき妄誕(もうたん)の上(うへ)に妄誕(もうたん)を加(くは)ふこれ全(まつた)く時俗(じぞく)の悦(よろこ)びを
邀(むか)へこの書(しよ)を熟読(じゆくどく)せしめんがためにして奇怪(きくはい)を述(のぶ)る
を以(もつ)て得意(とくゐ)とするには非(あら)ず
一/毎国(まいこく)病賊(びやうぞく)薬軍(やくぐん)を配当(はいとう)するものはたゞ其(その)大概(たいがい)に従(したが)ふ
強(しい)て株(これ)を守(まも)ることなかれ
黴瘡軍談(ばいさうぐんだん)巻(くはん)之/第(だい)一
伯州(はくしう)米子(よなご)船越敬祐(ふなこしけいすけ)著(あらはす)
医(い) 生(せい) 燈(とう) 前(ぜんに) 見(みる)_二 妖(よう) 婦(ふを)_一
天(てん) 神(じん) 斧(ふ) 下(かに) 退(しりぞく)_二 魔(ま) 魅(みを)_一
夫(それ)天地(てんち)の間(あいだ)物(もの)各(おの〳〵)相対(さうたい)あり所謂(いはゆる)天あれば地あり陰(いん)あれば陽(やう)
あり暑(しよ)あれば寒(かん)あり男(なん)あれば女(によ)あり乃至(ないし)善悪(ぜんあく)邪正(じやせい)等(とう)尽(こと〴〵)く
対待(たいだい)に非(あらざ)る事なし其中(そのうち)薬(くすり)と病(やまひ)とはわけて敵対(てきたい)相翻(さうほん)の者(もの)にて
薬(くすり)なきの病(やまひ)有(あ)ることなし上古(じやうこ)には疾病(しつぺい)少(すく)なければ薬方(やくはう)亦(また)少(すくな)し
末世(まつせ)に至(いた)りて疾病(しつぺい)多(おほ)ければ薬方(やくはう)亦(また)多し蓋(けだし)黴毒(ばいどく)の一証(いつしやう)は
古昔(こせき)此名(このな)有(ある)事なし元明(げんみん)の頃(ころ)より此症(このしやう)をいふ者(もの)あれども其(その)治(ぢ)
術(じゆつ)詳(つまびらか)ならず明(みん)の陳司成(ちんしせい)はじめて黴瘡秘録(ばいさうひろく)を著(あらは)し治方(ぢはう)
【一ノ一】
効験(こうげん)を挙(あぐ)る事/稍(やうやく)精(くはし)且(かつ)病源(びやうげん)を論(ろん)じて嶺南(れいなん)の地(ち)より発(おこ)るといふ
夫(それ)より以来(いらい)相続(あいつゞ)ひて是(これ)を論(ろん)ずるもの多(おほ)しといへども未(いまだ)其(その)的方(てきはう)を得(うる)
者(もの)を見(み)ず爰(ここ)に篤実淳直(とくじつじゆんちよく)といふ者(もの)あり曽(かつ)て黴毒(ばいどく)の治術(ぢしゆつ)に心(こころ)を
労(らう)し博(ひろ)く究(きは)め普(あまねく)渉(わた)りてやゝ其(その)方(はう)を自得(じとく)しあまたの薬剤(やくざい)を
製造(せいざう)して是(これ)を世(よ)に弘(ひろ)むれども世人(せじん)みな庸医(やうい)の言(ことば)を信(しん)じて
軽粉(けいふん)生々乳(せい〳〵にう)の劇剤(げきざい)を畏(をそ)れ謗(そし)るものは多(おほ)くして用(もち)ひる者(もの)は甚(はなはだ)
少(まれ)なり淳直(じゆんちよく)口惜(くちおし)きことに思(おも)ひ何(なに)とぞ無双(ぶさう)の妙方(めうはう)を捜(さぐ)り出(いだ)し黴(ばい)
瘡(さう)必治(ひつぢ)の妙(めう)を顕(あらは)さんと人(ひと)を避(さけ)て一室(いつしつ)に引籠(ひきこも)り広(ひろ)く方書(はうしよ)を
研尋(けんじん)して殆(ほとん)ど寝食(しんしよく)をわするゝに至(いた)る有(ある)夜(よ)いつものごとく残燈(さんとう)
の下(もと)に独坐(どくざ)し思惟(しゆい)沈吟(ちんぎん)する所(ところ)に忽(たちま)ち一陣(いちぢん)の冷気(れいき)肌(はだへ)を侵(おか)し
て人(ひと)の歩(あゆ)み来(きた)るけはひす淳直(じゆんちよく)は不思議(ふしぎ)におもひ眼(まなこ)を定(さだ)めて
見上(みあぐ)れば一人(いちにん)の婦人(ふじん)齢(よはひ)は二八(にはち)ばかりにして白玉(はくぎよく)の顔(かんばせ)丹花(たんくは)の唇(くちびる)眉(まゆ)は
三日の月(つき)よりも細(ほそ)く腰(こし)は二月の柳(やなぎ)よりも裊(たをやか)なりたけなる黒髪(くろかみ)
を緋(ひ)の袴(はかま)の裾(すそ)にひきはへしと〳〵とねり出(い)でたるさま一(ひと)たび顧(かへりみれ)ば
城(しろ)をも傾(かたむ)くべし二(ふた)たび顧(かへりみれ)ば国(くに)をも傾(かたむ)くべし嬋娟(せんけん)窈窕(ようちやう)とし
て百(もゝ)の媚(こび)あり半(なかば)かざしたる檜扇(ひあふぎ)の陰(かげ)より淳直(じゆんちよく)を見(み)て莞爾(につこ)
とわらひ妙(たえ)なる声(こへ)にて汝(なんぢ)はよも我(われ)を知(し)るまじ我(われ)こそ日頃(ひごろ)汝(なんじ)
と攻戦(こうせん)する黴毒(ばいどく)の精霊(せいれい)なり我(われ)通力(つうりき)をもつて汝(なんぢ)が此(この)あいだの
結構(けつかう)を知(し)れりよりて其(その)利害(りがい)を説(とき)さとし及(およ)ばぬ企(くはだて)を止(とど)めて无(む)
益(ゑき)の苦労(くらう)をなさしめじと思(おも)ふより姿(すがた)を爰(こゝ)にあらはしたり先(まづ)我(わ)が
上(うへ)の成立(なりた)ちをいひ聞(きか)すべし抑(そも〳〵)乾坤開闢(けんこんかいびやく)の時(とき)混沌(こんとん)の一気(いつき)
はじめて分(わか)れ其(その)清(すん)で軽(かろ)きは昇(のぼ)りて天(てん)となり濁(にご)りて重(おも)きは
【一ノ二】
降(くだ)りて地(ち)となり中和(ちうくわ)の霊気(れいき)は人(ひと)となり幽僻(ゆうへき)の滞気(たいき)は禽獣(きんじう)
となる其中(そのうち)我(わ)れは不正(ふせい)の陰気(いんき)の凝(こ)る所(ところ)にして開闢(かいびやく)以来(いらい)年数(ねんすう)
を経(ふ)る事/計(かぞ)ふべからずついに変(へん)じて金毛(きんもう)九尾(きうび)白面(はくめん)の狐(きつね)となる
神変(じんべん)自在(じさい)おのづから具(そなは)り宇宙(うちう)の間(あいだ)を飛行(ひぎやう)して至(いた)らぬ隈(くま)も
なく三世(さんぜ)の外(ほか)に透徹(とうてつ)してしらざることなし元来(ぐはんらい)邪気(じやき)の凝結(ぎやうけつ)
する所(ところ)なれば大極(たいきよく)の一理(いちり)に帰(き)する事/能(あた)はず悪念(あくねん)漸(やうや)く萌(きざ)し発(おこ)
りてあはれ世(よ)の人民(じんみん)を殺(ころ)し尽(つく)して一切(いつさい)国土(こくど)を魔界(まかい)になさん
ものをと思(おも)ひ立(たち)しかば先(まづ)唐土(とうど)に在(あ)りては殷(いん)紂(ちう)の時(とき)に当(あた)りて冀(き)
州(しう)の侯(こう)蘇護(そご)が妲(むすめ)を殺(ころ)し其(その)躯殻(みがら)に入(いり)かはり紂王(ちうわう)の妃(きさき)妲己(だつき)となり悪(あく)
虐(ぎやく)を勧(すゝ)め政道(せいとう)を乱(みだ)し邪侫(じやねい)を挙用(あげもち)ひ忠諫(ちうかん)を斥(しり)ぞけ殺(ころ)し
酒池(しゆち)肉林(にくりん)の傲楽(ごうらく)を窮(きは)め炮烙(ほうらく)蟇盆(たいぼん)の厳刑(げんけい)を制(せい)し西伯(せいはく)姫昌(きしやう)
を羐里獄(ゆうりごく)に収囚(しう〳〵)し姜(きやう)皇后(くはうごう)を摘星楼(てきせいらう)に擲殺(なげころ)し伯邑考(はくゆうかう)を
殺(ころ)して其(その)肉(にく)を醢(しゝびしほ)にし王子(わうじ)比干(ひかん)を囚(とらへ)て其(その)心(むね)を割(さく)其外(そのほか)罪(つみ)なき
を殺(ころ)し孕(はらめ)る女(をんな)の腹(はら)を割(さく)など其(その)数(かず)をしらず此(かく)のごとく世(よ)を乱(みだ)し人(ひと)
を殺(ころ)して我(わ)が望(のぞ)み成就(じやうじゆ)せんとせし処(ところ)に西伯(せいとく)【ママ】姫昌(きしやう)の子(こ)発(はつ)一(ひと)たび怒(いか)り
て天(てん)にかはり民(たみ)を弔(とむら)【吊】ひ罪(つみ)を伐(うつ)の兵(へい)を発(おこ)す呂尚(ろしやう)雷震(らいしん)殷郊(いんかう)等(ら)
の英俊(ゑいしゆん)是(これ)を佐(たす)け天下(てんか)響(ひゞき)のごとく応(をう)じて諸侯(しよこう)期(ご)せざるに会集(かいしう?)し
数万(すまん)の大軍(たいぐん)向(むか)ふ所(ところ)敵(てき)なく都城(とじやう)もたやすく攻落(せめおと)されて紂王(ちうわう)は鹿(ろく)
台(たい)に焚死(やけし)し我(わ)れも雷震(らいしん)に生捕(いけどら)れ刑(けい)を斧鉞(ふえつ)の下(した)に受(うけ)たれども
本体(ほんたい)は潜(ひそか)に抜(ぬ)け出(い)でなを唐土(とうど)に徘徊(はいくはい)せしが周徳(しうとく)正(まさ)に新(あらた)にして
聖主(せいしゆ)賢臣(けんしん)和合(わがう)したれば其(その)間(ひま)を伺(うかご)ふこと能(あた)はず遠(とを)く西天(さいてん)に飛去(とびさり)
花陽山(くはやうざん)の麓(ふもと)百姓(ひやくしやう)の女(むすめ)と生(うま)れ容色(やうしよく)をもつて耶竭国(やかつこく)斑足王(はんぞくわう?)の妃(きさき)と
なり主上(しゆしやう)を蠱惑(こわく)して諸(もろ〳〵)の悪事(あくじ)をなさしめ此(この)国(くに)より仏法(ぶつぽう)を破(やぶ)り
人民(じんみん)を殺(ころ)し尽(つく)さんと先(まづ)千僧(せんそう)を獅子(しゝ)に噉殺(くひころ)させ又(また)百王(ひやくわう)の首(くび)を
きらんとせしにこれよりさき普明王(ふめうわう)の法徳(はうとく)に我(わ)が妖気(ようき)を折(くじかれ)て
病(やまひ)を受(うけ)耆婆(ぎば)が診脈(しんみやく)に本体(ほんたい)を探(さぐ)りしられ金鳳山(きんぱうざん)より薬王樹(やくわうじゆ)
を採(と)り来(きた)り薬(くすり)となして与(あたへ)しゆへに苦痛(くつう)まさりて堪(たへ)がたく其(その)うへ
宮中(きうちう)に三尊(さんぞん)の影向(ようごう)あり仏(ぶつ)の威光(いくはう)我(わ)が妖邪(ようじや)を照破(せうは)し忽(たちま)ち本相(ほんさう)
を顕(あらは)され纔(わづか)に命(いのち)を遁(のが)れて飛(とび)さりたれどももはや天竺(てんぢく)に留(とゞま)る事(こと)
かなはず夫(それ)より日本(につほん)に飛渡(とびわた)り堀河院(ほりかはいん)の北面(ほくめん)坂部(さかべ)行綱(ゆきつな)が女(むすめ)と成(なり)
宮中(きうちう)に召(めさ)れて鳥羽院(とばいん)の寵(ちやう)を蒙(かうむ)り玉藻前(たまものまへ)と呼(よば)れたりいかにもし
日本(につぽん)を魔界(まかい)になさんとおもへども神国(しんこく)なれば人(ひと)の心(こゝろ)上下(しやうか)みな正直(せいちよく)にし
てたやすく悪(あく)を勧(すゝむ)る事(こと)を得(ゑ)ずさらば天子(てんし)の命(いのち)をちゞめ皇(くはう)
統(とう)を絶(たや)して世(よ)の乱(らん)を引出(ひきいだ)さんと玉体(ぎよくたい)を悩(なやま)せし所(ところ)に安部泰親(あべのやすちか)
神筮(しんぜい)を以(もつ)て我(わ)が妖邪(ようじや)を知(し)り御悩(ごなう)平癒(へいゆう)の祈(いの)りと号(ごう)し泰山(たいさん)
府君(ふくん)の法(ほう)を修(しゆ)せしゆへに悪狐(あくこ)の本体(ほんたい)を顕(あらは)され大内(おほうち)を去(さつ)て下野国(しもつけのくに)
奈須野(なすの)の原(はら)にひそみ隠(かく)れ人民(じんみん)を魅殺(みさつ)したるに此(この)事(こと)はやくも都(みやこ)へ
聞(きこ)へ勅命(ちよくめい)によりて泰親(やすちか)再(ふたゝ)び調伏(ちやうぶく)の法(はう)を行(おこな)ひ討手(うつて)として三浦上総(みうらかづさ)の両介(りやうすけ)
奈須野(なすの)に馳向(はせむか)ひ四方(しはう)を塞(ふさ)いで攻立(せめたつ)れば飛行自在(ひぎやうじざい)の我(わ)れなれども
調伏(ちやうぶく)の法(はう)に通力(つうりき)をとめられ武勇(ぶゆう)の矢先(やさき)に射伏(いふ)せられて数万歳(すまんざい)の
寿命(じゆめう)一時(いちじ)に亡(ほろ)び屍(かばね)を原上(げんしやう)にさらされたりされども悪魂(あくこん)は猶(なを)残(のこ)りて彼(かの)野(ゝ)
原(ばら)の石(いし)に着(ぢやく)し近付(ちかづく)者(もの)は毒気(どくき)を吹(ふき)かけ人畜(にんちく)の命(いのち)を取(と)る事/数(かず)しれず是(これ)
も程(ほど)なく玄翁(げんおう)の禅杖(ぜんじやう)に砕(くだか)れ悪魂(あくこん)一(ひと)たび飄散(ひようさん)せしが唐土(とうど)嶺南(れいなん)の地(ち)
におゐて再(ふたゝび)凝(こ)り集(あつま)りつら〳〵思(おも)ふに有待(うだい)の形(かたち)を借(か)る時(とき)は必(かならず)滅尽(めつじん)の
【一ノ四】
期(ご)あり無(む)【无】形(けい)の病(やまひ)となりなば長(なが)く磔焼(たくしやう)の害(がい)を免(まぬが)れ皮肉(ひにく)の中(うち)に分(わ)け
入(い)つて一人(いちにん)づゝ結果(かたづけ)んに人民(じんみん)を殺(ころ)し尽(つく)さんこと難(かた)きにあらずと遂(つい)に黴毒(ばいどく)
といふ一種(いつしゆ)難治(なんぢ)の 悪疾(あくしつ)となり八万四千(はちまんしせん)の眷属(けんぞく)を引(ひき)つれ万国(ばんこく)におし
渡(わた)り常(つね)に人身(にんしん)に出入(しゆつにう)し帝王(ていわう)賢聖(けんせい)に畏(おそ)るゝ事(こと)なく神明(しんめい)仏陀(ぶつだ)を
憚(はゞか)ることなしもとより不測(ふしぎ)の通力(つうりき)をそなへ聚散(じゆさん)隠顕(おんけん)【「あつまりちりかくれあらはれ」左ルビ】自在(じざい)を得(え)
たればたとひいかなる霊薬(れいやく)なりとも我(わ)れを対治(たいぢ)せんことおもひ
もよらず益(ます〳〵)威勢(いせい)を振(ふる)ふ所(ところ)明(みん)の陳(ちん)司成(しせい)はじめて我(わ)れに敵対(てきたい)
して黴瘡秘録(ばいさうひろく)といふ書(しよ)を著(あらは)し生々乳(せい〳〵にう)を以(もつ)て十二/方(はう)化毒丸(くはどくぐはん)
を撰(ゑら)む又(また)万病回春(まんびやうくはいしゆん)には五宝丹(ごほうたん)をあらはす外科正宗(げくはしやう〴〵)には紫金(しきん)
丹(たん)をあらはす其後(そのゝち)日本(につぽん)にては明和(めいわ)年間(ねんかん)に橘(たちばな)尚賢(せうけん)黴瘡證(ばいさうしやう)
治秘鑑(ぢひかん)を著(あらは)す又/天明(てんめい)年中(ねんぢう)に浅井(あさい)越後守(えちごのかみ)黴瘡約言(ばいさうやくげん)
をあらはす又(また)片倉(かたくら)元周(げんしう)黴癩新書(ばいらいしんしよ)を著(あらは)す文化(ぶんくは)年中(ねんぢう)に石(いし)
橋(ばし)忠庵(ちうあん)黴毒要方(ばいどくようはう)を著(あらは)す杉田(すぎた)立卿(りうきやう)は黴瘡新書(ばいさうしんしよ)を
著(あらは)す其後(そのゝち)【后】諸家(しよか)の著述(ちよじゆつ)多(おほ)けれども何(いづ)れも実験(じつけん)究理(きうり)の
書(しよ)にあらず学材(がくさい)をもつて著(あらは)す所(ところ)なれば畏(おそ)るゝに足(たら)ず陳(ちん)司(し)
成(せい)我(わ)が眷属(けんぞく)を攻(せ)めて少(すこ)しの勝利(しやうり)を得(ゑ)黴瘡秘録(ばいさうひろく)に必治(ひつぢ)
の功験(こうけん)を挙(あぐる)といへども我(わ)れに神変(じんべん)不測(ふしぎ)の眷属(けんぞく)多(おほ)し若(もし)是等(これら)に
出逢(いであ)ひなば陳(ちん)司成(しせい)も治(ぢ)をなすに術(じゆつ)なからん又/五宝丹(ごほうたん)紫金丹(しきんたん)は
あつぱれの良方(りやうはう)なれども是(これ)を用(もち)ひて速効(そくかう)を取(と)る事(こと)甚(はなはだ)少(まれ)なり
又/症(せう)に応(をう)ぜざる者(もの)は効(こう)もなきに財(ざい)を費(ついや)す已(すで)に独嘯庵(どくせうあん)が黴瘡口訣(ばいさうくけつ)
にも五宝丹(ごほうたん)を謗(そし)れり此(この)独嘯庵(どくせうあん)は我(わ)が畏(おそ)るべき者(もの)なれども中年(ちうねん)
にして世(よ)をさりたり橘(たちばな)浅井(あさい)が輩(ともがら)或(あるひ)は一旦(いつたん)の偶中(ぐうちう)をいひつのり或(あるひ)は
【一ノ五】
【右ページ】
淳直(じゆんちよく)書室(しよしつ)に
妖婦(ようふ)を見(み)る図(づ)
雷震(らいしん)来(きた)つて
淳直を助(たすく)る図(づ)
書
【「書」が見切れた「日」】
書籍
書籍
書籍
とくじつじゆんちよく
ばいどくだいわう
【左ページ】
ばいどくわう
じゆんちよく
らいしん
無(む)【无】験(げん)の空論(くうろん)にして取(とる)にたらず亦(また)片倉(かたくら)杉田(すぎた)がごときは博学(はくがく)
多材(たさい)にまかせ紅毛人(おらんだじん)の噺(はなし)を聞(きゝ)とり夫(それ)を書物(しよもつ)にかきあらはし
たるまでにてまさかの用(やう)には立(たち)がたし但(たゞ)し石橋(いしばし)は生々乳(せい〳〵にう)の
効(かう)を称(しやう)じ頗(すこぶる)諸家(しよか)にすぐれたれども治方(ぢはう)は却(かへつ)て僻(へき)多(おほ)し
是迄(これまで)我(わ)れに敵(てき)する者(もの)世(よ)の常(つね)の病(やまひ)とおもふがゆへに全治(ぜんぢ)の功(こう)を得(え)
ざるなり前(さき)にもいふごとく聚散(しゆさん)隠顕(おんけん)の妙(めう)を具(そな)へ五臓(ごさう)に分(わ)け入(いり)
九穴(きうけつ)をへめぐり乍(たちまち)腫(はれ)乍(たちまち)いたみ此(こゝ)に在(ある)かとすれば彼(かしこ)にあり
或(あるひ)は暫(しばらく)治(ぢ)するとみせて年数(ねんすう)をへて再(ふたゝ)び発(おこ)るかゝる自在(じざい)
の我(わ)れなればあらゆる名医(めいい)が匕(さじ)をなげ舌(した)を巻(ま)くも理(ことはり)ならず
やしかるに汝(なんぢ)分(ぶん)をしらず黴毒(ばいどく)を亡(ほろぼ)さんと諸家(しよか)に離(はな)れて見(けん)
を立(た)てありもせざる方薬(はうやく)を尋(たづ)ね治術(ぢじゆつ)工夫(くふう)に心(こゝろ)を労(らう)す愚(ぐ)の
甚(はなはだ)しと謂(いゝつ)べし今(いま)より黴毒(ばいどく)の医療(いりやう)をやめ敵対(てきたい)の心(こころ)を翻(ひるが)【飜】へ
さば長(なが)く汝(なんぢ)が福(ふく)を守(まも)り無病(むびやう)長命(ちやうめい)ならしめん若(もし)又(また)迷(まよ)ひを
とりて諌(いさめ)をこばみ猶(なを)我(わ)れに敵(てき)せんとならば災害(さいかい)後日を待(まつ)
べからず汝(なんぢ)が命(いのち)は此(この)座(ざ)に終(おは)らん心を定(さだ)めていらひをせよと
懸河(けんが)の弁舌(べんぜつ)よどみなくさもながやかにいひのべたり淳直(じゆんちよく)はつく
づくと聞(きゝ)はてゝ大息(おほいき)つぎさては汝(なんじ)は音(おと)にきく悪狐(あくこ)の霊(れい)にて
ありけるか汝しらずや悪(あく)は善(ぜん)に勝(かつ)事(こと)能(あた)はず邪(じや)は必(かならず)正(せい)に制せ
らる汝(なんぢ)已(すで)に三国(さんごく)に横行(わうぎやう)して諸(もろ〳〵)の悪をなすといへども遂(つい)に望(のぞ)みを
とげざるのみか果(はて)はその身を亡(ほろぼ)したりしかるを猶(なを)さとらずして悪魂(あくこん)
こりて病となり世(よ)の人民(じんみん)を殺(ころ)さんとは汝(なんぢ)が性(しやう)とはいひながらあま
りといへば執念(しうねん)深(ふか)したとひ不測(ふしぎ)の術(じゆつ)を以(もつ)て難治(なんぢ)の病(やまひ)と成(なり)たり
【一ノ七】
とも天下(てんか)の広(ひろ)き宇宙(うちう)の大ひなる必治(ひつぢ)の奇方(きはう)なからんやとても
叶(かなは)ぬ望(のそみ)をやめて早く善性(ぜんしやう)に立(たち)かへり大極(たいきよく)の理(り)に随順(ずいしゅん)し運(うん)を天(てん)
地(ち)と共(とも)にすべし若(もし)悪念(あくねん)止(やま)ずして猶(なを)人民(じんみん)を悩(なやま)すならば我(わ)れ
亦(また)此上(このうへ)丹誠(たんせい)を凝(こら)して遂(つい)には妙方(めうはう)を発明(はつめい)し汝(なんぢ)が毒悪(どくあく)を取(とり)
ひしぎ永(なが)く病根(びやうこん)を絶尽(たちつく)すべし死生(しせい)禍福(くはふく)は天(てん)にあり
汝(なんぢ)が力(ちから)におよばんや無(む)【无】用(やう)の舌(した)の根(ね)うごかさんよりはや立去れと
いひもはてざるに婦人(ふじん)の顔色(がんしよく)忽(たちまち)変(へん)じ眼(まなこ)血(ち)ばしり髪(かみ)逆立(さかだち)
淳直(じゆんちよく)をはつたとにらみあらこざかしき一言(いちごん)かな開闢(かいひやく)已来(いらい)凝(こ)り
塊(かたま)りし我(わ)が一念(いちねん)汝(なんぢ)が教誨(けうくはい)に翻(ひるがへ)【飜】らんや我(わ)れ好意(こうい)をもつて
利害(りかい)を説(と)くに汝(なんぢ)これを用(もち)ひず猶(なを)我(わ)れにあだせんとす思(おも)ひ
の外の痴者(しれもの)なり今/先(まづ)汝(なんぢ)をとり殺(ころ)して後(のち)の邪魔(じやま)をはらふ
べし覚悟(かくご)をせよと飛(とび)かゝり淳直(じゆんちよく)が髻(もとどり)取(とつ)て宙(ちう)に引立(ひつた)
て口(くち)より毒気(どくき)を吐(は)くと見へしが俄(にはか)に家(や)なり震動(しんどう)し
不祥(ふじやう)の悪臭(あくしう)室内(しつない)に溢(あぶ)れ口(くち)に入(い)り目鼻(めはな)を襲(おそ)へばさしも
の淳直(じゆんちよく)五体(ごたい)すくみ刀(かたな)を引(ひく)に手(て)うごかず已(すで)に危(あやう)きその折(おり)
から一朶(いちだ)の紫雲(しうん)靉靆(あいたい)【「たなびく」左ルビ】 として窓(まど)【䆫は俗字】にかゝり赫々(かく〳〵)たる瑞光(すいくわう)ひ
らめくと斉(ひと)しく跳(おどり)り出(い)でたる一人(いちにん)の大将(たいしやう)身(み)の丈(たけ)九/尺(しやく)有余(ゆうよ)
大眼(たいがん)濶面(くはつめん)色(いろ)飽(あく)まで赤(あか)く連腮(れんし)巻毛(けんもう)左右(さゆう)に分(わか)れ頭(かしら)には黄(こ)
金(がね)の兜(かぶと)をいたゞき身(み)には連環(れんくはん)鬱金皮(うこんひ)【欝は俗字】の鎧(よろひ)を穿(うが)ち百/花(くわ)錦(きん)
繍(しやう)の直垂(ひたゝれ)を着下(きくだ)し松紋(せうもん)桐室(どうしつ)の剣(けん)をはき獅子(しゝ)の帯(おび)に弓矢(ゆみや)を
かけ手(て)に長柄(ながゑ)の開山斧(かいさんふ)を打(うち)ふり一言(いちごん)の問答(もんどう)にも及(およば)ず妖怪(ようくはい)
の頭(かしら)を望(のぞ)み微塵(みぢん)になれよと打付(うちつく)れば叶(かなは)じとや思(おも)ひけん
【一ノ八】
飛鳥(ひちやう)のごとく身(み)をかはし窓(まど)けやぶりて半空(なかそら)に飛上(とびあが)り渦(うづ)巻立(まきたつ)
たる雲(くも)の中(なか)よりやをれ【注】淳直(じゆんちよく)慥(たしか)にきけ今(いま)取殺(とりころ)す奴(やつ)なれども
我(わ)が怨敵(おんてき)の来(きた)りしゆへ邪魔(じやま)になりてはたらかれず此(この)場(ば)は此(この)まゝ
遁(のが)すなり遠(とを)からずおもひしらせんといふ声(こへ)次第(しだい)に遠(とを)ざかり
何処(いづく)ともなく消失(きへうせ)けり其時(そのとき)淳直(じゆんちよく)は彼(かの)大将(たいしやう)のまへに頭(かしら)をさげ
僕(やつがれ)妖怪(ようくはい)に悩(なやま)され已(すで)に非命(ひめい)の死(し)をなさんとせしに将軍(しやうぐん)のたすけ
によりて不思議(ふしぎ)の命(いのち)を拾(ひろ)ひたり再生(さいせい)の恩謝(をんしや)し奉(たてまつ)るに詞(ことば)なし
僕(やつがれ)いまだ将軍(しやうぐん)を認(みし)らず抑(そも〳〵)いかなる御/方(かた)なるぞ願(ねがは)くは大名(たいめい)を
あかさせ玉(たま)へと謹(つゝし)んでのべければ彼(かの)大将(たいしやう)うちうなづき不審(ふしん)は尤(もつとも)
我(われ)こそは其(その)昔(むかし)鹿台(ろくたい)の合戦(かつせん)に殷(いん)の大軍(たいぐん)を切(きり)なびけ勇猛(ゆうもう)絶(ぜつ)
倫(りん)の名(な)を得(え)たる周(しう)の武王(ぶわう)の臣(しん)雷震(らいしん)なり当時(そのかみ)彼(かの)妖怪(ようくはい)は妲己(だつき)
【注 感動詞「や」に対称の代名詞「おれ」が付いたもの。やい、おのれ。】
となりて殷宮(いんきう)にあり我(わ)が手並(てなみ)を知(し)るがゆへに今(いま)猶(なを)畏(おそ)るゝこと
此(かく)のごとし我(わ)れは今(いま)天界(てんかい)に生(うま)れて帝宮(ていきう)守護(しゆご)の神将(しんしやう)たり神通(じんづう)
を以(もつ)て今宵(こよひ)先生(せんせい)の危難(きなん)にあふを知(し)り態(わざ)と来(きたつ)て必死(ひつし)を救(すく)ふ
是(これ)皆(みな)因縁(いんゑん)あることなり後(のち)にくわしく説(とき)示(しめ)すべし今(いま)先(まづ)先生(せんせい)を導(みちび)き
て彼(かの)悪霊(あくれい)主属(しゆぞく)が所在(しよざい)へつれ行(ゆ)き其(その)ありさまを見聞(けんもん)せしめ且(かつ)後(こう)
事(じ)をかたらはんと欲(ほつ)す我(わ)れに踵(つい)てはや来(き)玉(たま)へはやく〳〵とせり立(たつ)れば
淳直(じゆんちよく)は再拝(さいはい)しかさね〴〵の御恵(をんめぐ)みいかで仰(おう)せに戻(もと)らんやさらば御(をん)後(あと)に
随(したが)ふべしと立(たち)上(あが)りてこは〴〵ながら鎧(よろひ)の袖(そで)にとり付(つ)くを片手(かたて)を以(もつ)て
是(これ)を引(ひき)つけ片手(かたて)を挙(あげ)てまねくにしたがひ紫雲(しうん)再(ふたゝ)び舞(ま)ひさがり
二人(ににん)の体(からだ)【躰】を引(ひき)包(つゝ)み清風(せいふう)颼々(しう〳〵)として脚下(ぎやくか)に起(おこ)り雲(くも)を吹(ふき)上(あ)げふきな
びけ虚空(こくう)はるかに走(はし)り行(ゆ)く
【一ノ九】
会(くはいして)【會】_二郊野(かうやに)_一群邪(ぐんじや)議(ぎす)_レ事(ことを)
変(へんじて)【變】_二形躯(けいくを)_一 五傑(ごけつ)応(をうず)【應】_レ募(つのりに)
かくて両人(りやうにん)は雲(くも)に跨(またが)り風(かぜ)に御(ぎよ)し其(その)疾(と)き事(こと)矢(や)のごとく須臾(しゆ)の程(ほど)に
数百里(すひやくり)をはせさり風(かぜ)も少(すこ)しとだへしかばたなびく雲(くも)を踏(ふみ)しめて暫(しばらく)
息(いき)をつぎ居(ゐ)たり仕付(しつけ)もなれぬ道行(みちゆき)に淳直(じゆんちよく)は歯(は)の根(ね)も合(あは)ず
若(もし)もこゝから踏(ふみ)はづしては愛宕山(あたごさん)の土器投(かはらけなげ)微塵(みぢん)になるは疑(うたが)ひなし
あら恐(おそろ)しと思(おも)ふ程(ほど)肌(はだへ)粟立(あはだ)ち体(たい)ふるひ息(いき)を凝(こら)して雷震(らいしん)が鎧(よろひ)の
袖(そで)のちぎるゝばかり縋(すが)りつきたるありさまは龍(たつ)の尾(を)につく鼈(どろがめ)の首(くび)
縮(ちゞむ)るに髣髴(さもに)たり雷震(らいしん)は淳直(じゆんちよく)を弓手(ゆんで)の方(かた)に引廻(ひきまは)し先生(せんせい)恐(おそる)る
事(こと)なかれ雲(くも)は我(わ)が乗物(のりもの)なれば踏抜(ふみぬく)気(き)づかひ些(ちつ)ともなし此下(このした)こ
そ彼(かの)悪霊(あくれい)の主領(しゆれう)眷属(けんぞく)集(あつま)りて打(うち)かたらふ処(ところ)なり心(こゝろ)をしづめて
見聞(けんもん)し玉(たま)へといはれてやう〳〵心(こゝろ)づき鎧(よろひ)の袖(そで)は離(はな)せしが猶(なを)膝節(ひさぶし)
は定(さだ)まらず雷震(らいしん)に帯(おび)をとらせて雲(くも)の端(はし)より顔(かほ)差出(さしいだ)し下界(げかい)
遥(はるか)に見おろせば処(ところ)は何国(いづく)としらねども蒼茫(さうばう)たる広野(くはうや)【廣野】の上(うへ)に幾(いく)
簇(むれ)の妖気(ようき)集(あつま)り中央(ちうおう)には黴毒王(ばいどくわう)と覚(おぼ)しく黴色(かびいろ)の衣冠(いくはん)を着(ちやく)し
威風堂々(ゐふうどう〳〵)としてあたりを払(はら)【拂】ひ座(ざ)をしめたる傍(かたはら)には眷属(けんぞく)の諸大将(しよだいしやう)
上攻(じやうこう)結毒(けつとく)をはじめとして結毒(けつどく)難治(なんぢ)蝋燭(らうそく)下疳(げかん)遺毒(いどく)抜兼(ぬけかね)瘰癧(るいれき)
腫高(はれたか)痔疾(ぢしつ)痔漏(ぢらう)便毒(べんどく)腫満(はれみつ)楊梅瘡(やうばいさう)広成(ひろなり)【廣成】下疳(げかん)早成(はやなり)骨痛(ほねいたみ)動須(うごかず)
内下疳(ないげかん)疼(ひり〳〵)淋病(りんびやう)出兼(いでかね)雁瘡(がんがさ)【鴈瘡】愈兼(いへかね)疥癬(ひぜん)穢(きたなし)なんど一騎当千(いつきとうぜん)のもの
ども各(おの〳〵)数万(すまん)の眷属(けんぞく)をひきつれ或(あるひ)は青(あを)或(あるひ)は黄(き)或(あるひ)は赤(しやく)白(びやく)黒(こく)色々(いろ〳〵)
さま〴〵の装束(しやうぞく)に出立(いでたち)て例(れつ)を乱(みだ)さず並居(なみい)たり其時(そのとき)黴毒王(ばいどくわう)笏(しやく)
取直(とりなを)し我(わ)れ汝等(なんぢら)と共(とも)に此(この)日本(につぽん)長崎(ながさき)丸山(まるやま)の娼婦(おやま)の人体国(にんたいこく)に
【一ノ十】
忍(しの)び入(いり)しより女体国(によたいこく)より男体国(なんたいこく)にわけ入(い)り男体国(なんたいこく)より女体(によたい)
国(こく)に移(うつ)り今(いま)日本(につぽん)六十/余(よ)【餘】州(しう)の人体国(にんたいこく)に通路(つうろ)の自在(じざい)を得(え)たりさ
れども卑賎(ひせん)の人体国(にんたいこく)とは事(こと)かはり豪貴(ごうき)の国(くに)には近(ちか)より難(がた)かり
しが我(わ)れ奇術(きじゆつ)をもつて一人(いちにん)の美女(びじよ)と化(け)し先(まづ)手始(てはじめ)に福徳(ふくとく)
自在衛門(じざゑもん)が家(いへ)の腰元(こしもと)となり色(いろ)をもつてこれを誘(いざな)ふに
主(あるじ)をはじめ主管(ばんとう)手代(てだい)丁稚(でつち)小者(こもの) にいたる迄(まで)我(わ)が容色(やうしよく)にこゝろを
迷(まよは)し袖褄(そでつま)ひかぬものもなしもとより工(たく)みし事(こと)なればさそふになび
き口説(くどく)におち家内(かない)上下(しやうか)一人(いちにん)も残(のこ)さず夜毎(よごと)に枕(まくら)をかはせども我(わ)が
術(じゆつ)にくらまされ主(しう)は下人(げにん)の上(うへ)をしらず下人(けにん)は主(しう)の上(うへ)をしらず
我(わ)れのみ独(ひとり)かの女(をんな)といひかはしたりとのみ思(おも)ひて一夜(いちや)も
かゞさず交(まじは)るほどに天稟(てんりん)の毒(どく)の発動(はつどう)するを伺(うかゞ)ひ我(わ)が精霊(せいれい)
体中(たいちう)に忍(しの)び入(い)りさて汝等(なんぢら)をさそひ入(い)れつゝ忽(たちまち)彼(かの)家(いへ)を出(い)でさり
権(かり)の形(かたち)は隠(かく)したり程(ほど)なく彼(かの)一家内(いつかない)凡(およそ)【凢】我(わ)れと交(まじは)りし者(もの)黴症(ばいせう)
を発(はつ)せざるはなく或(あるひ)は下疳(げかん)或(あるひ)は便毒(べんどく)或(あるひ)は楊梅瘡(やうばいさう)或(あるひ)は内下疳(ないげかん)
或(あるひ)は蝋燭下疳(らうそくげかん)或(あるひ)は袋下疳(ふくろげかん)或(あるひ)は淋病(りんびやう)或(あるひ)は筋骨(すじほね)はれいたみ
起居(たちゐ)に苦(くるし)み終(つい)に腐爛(ふらん)して膿水(うみしる)流(なが)れ
出(い)で疵(きず)ふかくなりては骨(ほね)をあらはし
或(あるひ)は黴眼(ばいがん)或(あるひ)は頭痛(づつう)或(あるひ)は湿熱(しつねつ)にとり
つめられ或(あるひ)は疥癬(ひぜん)雁瘡(がんがさ) 【鴈瘡】に皮膚(ひふ)を
やぶられ或(あるひ)は咽喉(いんこう)【「のど」左ルビ】腐爛(ふらん)【「くさりたゝれ」左ルビ】疼痛(とうつう)を以(もつ)て
食道(しよくどう)の通路(つうろ)を困(くるし)められ或(あるひ)は痔疾(ぢしつ)
肛門(かうもん)腐爛(ふらん)腫痛(しゆつう)をもつて大便(だいべん)の通路(つうろ)
【一ノ十一】
【右ページ】
淳直(じゆんちよく)雷震(らいしん)と
魔所(ましよ)に至(いた)る
図(づ)
ひぜんきたなし
がんがさいへかね
ほねいたみうごかず
けつどくなんぢ
ないげかんひり〳〵
上こうけつどく
らうそくげかん
ばいどく大王
【左ページ】
げかんはやなり
るいれきはれたか
やうばいさうひろなり
べんどくはれみつ
ぢしつぢらう
りんびやういでかね
いどくぬけかね
【一ノ十二】
を悩(なやま)され漸々(ぜん〳〵)に身体(しんたい)羸痩(るいさう)し飲食(いんしよく)すること能(あた)はず是(これ)より
労熱(らうねつ)の法(はう)を行(おこな)ひ肺(はい)の臓(ざう)の都(みやこ)をせめて咳(せき)を出(いだ)さば黴労(ばいらう)必死(ひつし)
の症(せう)となり何(いづ)れも亡(ほろ)び失(う)せん事(こと)遠(とを)きにあらずかく一時(いちじ)にあまた
の人体国(にんたいこく)を亡(ほろぼ)さんはいと快(こゝろよ)き事(こと)にあらずや自讃(じさん)【「みづからほめる」左ルビ】にはあらねども
皆(みな)我(わ)が方寸(ほうすん)の術(じゆつ)に出(いで)たり汝等(なんぢら)も心(こゝろ)をせめて此上(このうへ)忠戦(ちうせん)おこたる
事なかれと言(ことば)の下(した)より上攻(じやうこう)結毒(けつどく)列(れつ)を出(い)で座(ざ)をすゝめ仰(をゝ)せ
の趣(おもむき)畏(かしこ)まれり去(さり)ながら若(もし)人体国(にんたいこく)の主人公(しゆじんこう)是迄(これまで)緩剤(くはんざい)の
弱将(じやくしやう)を用(もち)ひて効(こう)なきを憤(いきどを)り必死(ひつし)ときはめて劇剤(けきざい)の新手(あらて)
を入(い)れかへ破釜焚舟(はふほんしう)の勇(ゆう)をなさば味方(みかた)甚(はなは)た難儀(なんぎ)とならん
大王(だいわう)の良策(りやうさく)あらばあらかじめ承(うけたま)はらん各(おの〳〵)いかにと見(み)かへれば残(のこ)
りの眷属(けんぞく)口(くち)をそろへ上攻(じやうこう)結毒(けつどく)の言(ことば)のごとく後日(ごにち)の合戦(かつせん)こゝろ
もとなし猶此上の御下知(をんげぢ)を斉(ひとし)く願(ねが)ふ所なりと襟(ゑり)かき合
せ膝(ひざ)をすゝめ一度(いちど)に耳(みゝ)を傾(かたむ)けたり黴毒王(ばいどくわう)は莞爾(につこ)【尓】とわらひ
実(げ)に尤(もつとも)の用心なり然れども彼(かの)人体国(にんたいこく)は卑賎(ひせん)の国(くに)と同じ
からず世(よ)にいふ能衆(よいしゆ)療治(りやうぢ)にてたゞいつまでも五宝丹(ごはうたん)紫金丹(しきんたん)
山帰来剤(さんきらいざい)六物解毒湯(りくもつげどくとう)捜風解毒湯(さうふうげどくとう)忍冬(にんどう)蕺薬(じうやく)十全(じうぜん)
大補湯(たいふとう)補中益気湯(ほちうゑききとう)などの弱将(じやくしやう)を頼(たの)み軽粉(けいふん)嗅薬(かぎぐすり)生々(せい〳〵)
乳(にう)そつぴるどろしすかるめら等(など)は名を聞(きい)ても耳(みゝ)をふさぎ
て蛇蝎(じやかつ)のごとく畏(おそ)るゝなりかゝれば命(いのち)はおつるとも劇剤(げきざい)を
用(もち)ひて勝負(しやうぶ)を一時(いちじ)に決(けつ)する戦(たゝか)ひはよもなさじ抑(そも〳〵)又(また)我(わが)輩(ともがら)も劇
剤(ざい)を恐(おそ)れては人体国(にんたいこく)に入込(いりこん)で合戦(かつせん)はなりがたしたとひ劇剤に
出逢(いであふ)たり共(とも)只(たゞ)能(よく)機(き)に応(をう)じ変(へん)に従(したが)ひ或(あるひ)は避(さけ)或(あるひ)は当(あた)り彼(かれ)が鋭気(ゑいき)
【一ノ十三】
をつからかし日(ひ)を延(のば)すを肝要(かんよう)とす元(もと)軽粉(けいふん)生々乳(せい〳〵にう)などは勇猛(ゆうもう)
強烈(きやうれつ)の性(しやう)なれば其(その)過(すぐ)る所(ところ)躁動(さうどう)狼藉(らうぜき)甚(はなはだ)しく却(かへつ)て国中の
弊(ついへ)とならん其時(そのとき)一鼓(いつこ)【皷】に攻(せ)め討(うち)なば勝(かた)ずといふ事あるべからず
猶(なを)其(その)期(ご)に臨(のぞ)みては我(わ)れ分身(ぶんしん)の術(じゆつ)を行(おこな)ひ庸医(やうい)【醫】の魂(たましゐ)を
かりて主人公(しゆじんこう)を説(と)き惑(まよは)し劇剤(げきざい)の諸将(しよしやう)を讒言(ざんげん)し是(これ)を
遠(とふ)ざけて用(もち)ひざらしめ且(かつ)種々(しゆ〴〵)の妙計(めうけい)を施(ほどこ)し千変(せんべん)万化(ばんくは)に
はたらくべし今(いま)宇宙(うちう)の間(あいだ)に於(おい)て我(わ)れに敵(てき)せん者(もの)を覚(おぼへ)ず
たゞ太公望(たいこうぼう)雷震(らいしん)が輩(ともがら)は其(その)智(ち)といひ勇(ゆう)といひ我(わ)れにまさりて
恐(おそろ)しき者(もの)共(ども)なり今(いま)は天界(てんがい)に生(しやう)を受(うけ)て天庭(てんてい)守護(しゆご)の神将(しんしやう)たり
我(わ)れ先(さき)に篤実(とくじつ)淳直(じゆんちよく)といふ医者(いしや)が黴瘡(ばいさう)治論(ぢろん)の工夫(くふう)をなすを
心(こゝろ)にくゝ思(おも)ひ姿(すがた)を現(げん)じて殺(ころ)さんとせしが彼(かの)雷震(らいしん)に驚(おどろ)かされ医(い)
者(しや)を殺(ころ)すどころでなく我(わ)が姿(すがた)を隠(かく)しかねやう〳〵遁(のが)れ帰(かへ)り
たり所詮(しよせん)形(かたち)を顕(あらは)しては思(おも)はぬ敗(やぶ)れをとる事(こと)多(おゝ)し無形(むけい)の気(き)と
なりてあらん内(うち)は彼(かの)輩(ともがら)も恐(おそ)るゝに足(たら)ず汝等(なんぢら)もよく心得(こゝろへ)よかく
いふ内(うち)も気(き)づかひ長居(ながゐ)は無益(むやく)いざ汝等(なんぢら)は各国(かくこく)へ引取(ひきと)るべし我(わ)れも
形(かたち)を隠(かく)さんと座(ざ)を立上(たちあが)れば諸(しよ)眷属(けんぞく)悦喜(えつき)の色(いろ)面(おもて)にあらはれ
大王(だいわう)の妙策(めうさく)かくのごとしいかなる劇剤(けきざい)が寄(よ)せ来(く)るとも一戦(いつせん)に追(お)ひ
崩(くづ)し人体国(にんたいこく)を亡(ほろぼ)さんこと手裡(しゆり)にありあらこゝちよしよろこばし
さらば各(おの〳〵)本(もと)の所(ところ)へまかりさらんといふ内(うち)に凝(こり)たる妖気(ようき)立騰(たちのぼ)り
忽(たちまち)八/方(ぱう)に散乱(さんらん)しありし形(かたち)は消失(きへうせ)て荒野(くはうや)の草木(くさき)を吹(ふき)しほる風(かぜ)の
音(おと)のみ残(のこ)りけり淳直(じゆんちよく)奇異(きい)の思(おも)ひをなし雷震(らいしん)に打向(うちむか)ひ今(いま)黴(ばい)
毒王(どくわう)が申(もう)したる人体国(にんたいこく)とはいかなる処(ところ)にて候(さうらふ)や願(ねがは)くば明(あか)ししらしめ
【一ノ十四】
玉(たま)へといへば雷震(らいしん)鬚(びけ)かき撫(なで)先生(せんせい)未(いま)ださとらずや人体国(にんたいこく)は外(ほか)に
あらず即(すなはち)人(ひと)の一身(いつしん)なり今(いま)黴毒王(ばいどくわう)が申(もう)せしは福徳(ふくとく)自在衛門(じざゑもん)といふ
者(もの)の家内(かない)にして凡(およそ)【凢】七(しち)ヶ(か)国(こく)の人体国(にんたいこく)彼(かの)悪魔(あくま)が計(はかりこと)に陥(おちい)り国(くに)を侵(おか)し
悩(なやま)さるゝこと已(すで)に程(ほど)久(ひさ)し各国(かくこく)力(ちから)を尽(つく)して平治(へいぢ)の功(こう)を募(つの)れども只(たゞ)
庸医(ようい)の言(ことば)を信(しん)じ無用(むやう)の緩剤(くはんざい)を用(もち)ひるがゆへに唯(たゞ)其(その)効(こう)なきのみ
ならず病(びやう)薬(やく)共(とも)に害(がい)をなし今(いま)ははや滅亡(めつぼう)に近(ちか)し我(わ)れ天眼通(てんがんつう)
にて見(み)る所(ところ)彼(かの)国(くに)の倶生神(くしやうじん)国(くに)の滅亡(めつぼう)を悲(かなし)み憂(うれ)ひ主人公(しゆじんこう)を説(とき)
さとし先生(せんせい)を迎(むか)へ軍師(ぐんし)に進(すゝめ)んと欲(ほつ)し追付(おつつけ)此(こゝ)に来(きた)るべし先生(せんせい)少(すこ)し
も辞(じ)する事なかれ我(わ)れをはじめ太公望(たいこうぼう)殷郊(いんかう)辛申(しん〳〵)伯邑考(はくゆうかう)先(せん)
生(せい)と共(とも)に人体国(にんたいこく)に至(いた)り力(ちから)を勠(あはせ)て彼(かの)悪魔(あくま)を誅伐(ちうばつ)すべし先(さき)に
黴毒王(ばいどくわう)がいひし詞(ことば)を聞(きゝ)玉(たま)へるか宇宙(うちう)の間(あいだ)彼(かれ)が恐(おそ)るゝ者(もの)は我々(われ〳〵)
なり昔(むかし)殷(いん)の亡(ほろ)びし時(とき)悪狐(あくこ)は潜(ひそか)に抜出(ぬけい)で西天(さいてん)に至(いた)り華(くわ)
陽(やう)夫人(ふじん)となれば我々(われ〳〵)は亦(また)生(しやう)を替(かへ)て太公望(たいこうぼう)は普明王(ふめうわう)と
なり我(わ)れは耆婆(ぎば)と成(な)り天竺(てんぢく)に於(おい)て再(ふたゝび)彼(かれ)を追退(おひしりぞ)け其後(そのゝち)
日本(につぽん)に慕(した)ひ来(きた)り太公望(たいこうばう)は安部(あべの)泰親(やすちか)となり我(わ)れは上総之介(かづさのすけ)
となり殷郊(いんかう)は三浦之介(みうらのすけ)となり伯邑考(はくゆうかう)は奈須(なす)八/郎(らう)となり
遂(つい)に悪狐(あくこ)を亡(ほろぼ)し畢(おは)りぬ此(かく)のごとく彼(かれ)と我々(われ〳〵)とは相剋(さうこく)の性(しやう)
にして生々世々(しやう〴〵せゝ)迹(あと)を追(お)ひ敵対(てきたい)さらに休(やむ)事(こと)なし先生(せんせい)も
前生(ぜんしやう)は武吉(ぶきつ)と名(な)づけて誤(あやまり)て人(ひと)を殺(ころ)せしが太公望(たいこうばう)の救(すく)ひ
を得(ゑ)て命(いのち)を助(たすか)り其上(そのうへ)周(しう)の武王(ぶわう)の臣(しん)となり殷国(いんこく)征伐(せいばつ)の時(とき)も
我々(われ〳〵)とおなじく功(こう)を立(た)てたり其(その)因縁(いんゑん)にて今(いま)は医者(いしや)となり
悪狐(あくこ)がなりたる黴毒(ばいどく)と年(とし)ごろ常(つね)に攻戦(こうせん)し玉(たま)ふ先(さき)に我(われ)
【一ノ十五】
御身(をんみ)を救(すく)ひしもかゝるいはれあるがゆへなり彼(かれ)今(いま)は無(む)【无】形(ぎやう)
の悪疾(あくしつ)となり人体国(にんたいこく)に潜(ひそ)み隠(かく)れ長(なが)く我(わ)が輩(ともがら)の害(がい)を免(まぬが)
れたりと思(おも)へりされども我々(われ〳〵)は天界(てんがい)自在(じざい)の報(ほう)をうけ出没(しゆつぼつ)
変易(へんゑき)心(こゝろ)のまゝなれば今(いま)より奇効(きかう)の薬軍(やくぐん)となり人体国(にんたいこく)に
入(いつ)て彼(かの)悪徒(あくとう)を打(うち)亡(ほろぼ)さん先(まづ)某(それがし)は延壽丸(えんしゆぐわん)となり殷郊(いんかう)は黴効散(ばいかうさん)
となり辛申(しん〳〵)は治瘡丸(ぢさうぐはん)となり伯邑考(はくゆうかう)は奇良湯(きりやうとう)となり太(たい)
公望(こうばう)は神通(じんづう)を以(もつ)て常(つね)に先生(せんせい)の影身(かげみ)にそひ帷策(いさく)軍算(ぐんさん)【筭】
を助(たす)くべし我々(われ〳〵)力(ちから)を勠(あはす)る程(ほど)ならば黴毒(ばいどく)を亡(ほろぼ)さん事(こと)手(て)の中(うち)の
物(もの)を取(と)るより易(やす)し久(ひさ)しぶりの腕(うで)だてあつぱれの慰(なぐさ)みならん早(はや)
く迎(むか)の来(きた)れかしと詞(ことば)もいまだ終(おわ)らざる所(ところ)に下界(げかい)の方(かた)より白(はく)
光(くはう)かゝやぎ一箇(いつこ)の神人(しんじん)白雲(はくうん)に打(うち)乗(の)り直(たゞち)に淳直(じゆんちよく)が前(まへ)に至(いた)り
恭(うや〳〵)しく再拝(さいはい)し某(それがし)は福徳(ふくとく)自在衛門(じざへもん)といふ者(もの)の人体国(にんたいこく)倶生神(くしやうじん)
なり我(わ)が国(くに)の主人公(しゆじんこう)愚(おろか)にして黴毒(ばいどく)の悪魔(あくま)に誑(あざむか)れ変化(へんげ)の
美女(びじよ)と交(まじは)りしより一国(いつこく)忽(たちまち)黴毒(ばいどく)の賊軍(ぞくぐん)に侵(おか)され其(その)外(ほか)の属国(ぞくこく)
も彼(かの)美女(びじよ)と交(まじは)りしは尽(こと〴〵)く黴賊(ばいぞく)はびこり憂苦(ゆうく)する事(こと)年(とし)
久(ひさ)し各国(かくこく)の主人公(しゆじんこう)対治(たいぢ)の策(はかりこと)をめぐらせども才(さい)をしる事(こと)能(あた)
はずして庸医(やうい)の言(ことば)に任(まか)せ堕弱(だじやく)の緩剤(くはんざい)を大将(たいしやう)とするがゆへに
諸道(しよどう)の戦(たゝか)ひ味方(みかた)一度(いちど)も勝(かち)を取(と)らず危(あやう)き事(こと)旦夕(たんせき)に迫(せまれ)り
我(わ)れ是(これ)を見(み)るに忍(しの)びず各国(かくこく)の倶生神(くしやうじん)と心(こゝろ)を合(あは)せ主人公(しゆじんこう)
を説(と)きすゝめ先生(せんせい)を迎(むかへ)て軍師(ぐんし)と定(さだ)め彼(かの)悪賊(あくぞく)を追討(ついとう)し
国家(こくか)の無(ぶ)【无】為(ゐ)をはからんとす仍(よつ)て総(さう)【捴】代(だい)として某(それがし)わざ〳〵迎(むか)ひ
に立(た)てり希(こひねがは)くば先生(せんせい)労(らう)を辞(じ)せず国中(こくちう)に入(いり)玉(たま)はゞ幸(さいはひ)甚(はなはだ)し
【一ノ十六】
からんといふ詞(ことば)尤(もつとも)殷勤(いんぎん)【慇懃】なり淳直(じゆんちよく)は雷震(らいしん)がいふ所(ところ)みな適当(てきとう)すれ
ば少(すこし)も疑(うたが)ふ心(こゝろ)なく神人(しんじん)に答拝(とうはい)し仰(おふせ)の趣(おもむき)承(うけたまは)りぬ僕(やつかれ)軍師(ぐんし)の才(さい)
なけれども幸(さいはひ)にして呂尚(りよしやう)雷震(らいしん)等(ら)の扶(たすけ)あり彼(かの)輩(ともがら)と共(とも)に貴(き)
国(こく)にいたり及(およ)ばずながらも忠戦(ちうせん)をはけむべしといふを雷震(らいしん)引取(ひきとつ)
て心易(こゝろやす)かれ是(これ)よりすぐに諸大将(しよだいしやう)を呼(よ)びくだし一処(いつしよ)に入国(にうこく)仕(つかまつ)らんと
いひさして立上(たちあが)り天(てん)に向(むか)ふて差(さし)まねけば恰(あたか)も流星(りうせい)の迸(ほどはし)るが如(ごと)
く忽然(こつぜん)として数多(あまた)の天神(てんじん)雲(くも)の上(うへ)より飛下(とびくだ)り真先(まつさき)に殷郊(いんこう)
其(その)次(つぎ)に辛申(しん〳〵)其(その)次(つぎ)に伯邑考(はくゆうかう )少(すこ)し引下(ひきさが)りて大公望(たいこうばう)或(あるひ)は甲冑(かつちう)に
身(み)をかため或(あるひ)は文官(ぶんくはん)の装束(しやうぞく)してあたりせばしと立(たち)ならぶ雷震(らいしん)
は左右(さゆう)を見廻(みまは)し人体国(にんたいこく)に向(むか)はんに此(この)形(なり)にては叶(かな)ふべからず姿(すがた)をかへ
て入込(いりこむ)べし先(まづ)先生(せんせい)よりはじめ玉(たま)へと淳直(じゆんちよく)が口(くち)の中(うち)へ手(て)をさし
いれ一団(いちだん)【團】の赤気(しやくき)を引出(ひきいだ)し口(くち)に呪文(じゆもん)【咒】を唱(とのふ)れば淳直(じゆんちよく)が本(もと)の体(からだ)【體】は
霜(しも)の朝日(あさひ)にとくるがごとくめり〳〵と消失(きへうせ)一具(いちぐ)の色身(しきしん)新(あらた)になり
有(ある)にもあらず無(なき)にもあらず飛行(ひぎやう)自在(じざい)にして物(もの)に障(さへ)られ
ず岩石(かんぜき)をも透(とふ)すべく芥子(けし)の中(なか)にも隠(かく)るべし淳直(じゆんちよく)はあき
れにあきれてこはそも仙人(せんにん)になりたるか又(また)は天人(てんにん)になりたるか
と我(わ)れを忘(わす)れて飛上(とびあが)り跳(おど)り廻(まは)る其(その)内(うち)に雷震(らいしん)をはじめ
殷郊(いんかう)辛申(しん〳〵)伯邑考(はくゆうかう )何(いづ)れも微細(みさい)不測(ふしぎ)の形(かたち)と変(へん)じ薬気(やくき)あ
たりに紛々(ふん〳〵)たり太公望(たいこうばう)は羽扇(うせん)を上(あ)げいかに淳直(じゆんちよく)我(わ)れは政務(せいむ)
にあつかれば暫(しば)しも天庭(てんてい)を離(はな)れがたしたゞ神通(じんづう)をもつて
汝(なんぢ)を守(まも)り且(かつ)弁才(べんざい)【辨】智恵(ちゑ)を借与(かしあた)へ其時(そのとき)に応(をう)【應】じて万事(ばんじ)に不(ふ)
覚(かく)を取(とら)しめざらん四人(よにん)の神将(しんしやう)も淳直(じゆんちよく)を扶(たす)けて功(こう)を
【一ノ十七】
争(あらそ)はず一日(いちにち)もはやく凱陣(かいぢん)せよさらば〳〵と雲(くも)にまた
がり本(もと)の虚空(こくう)に飛去(とびさ)りぬ倶生神(くしやうじん)は舌(した)をまき揃(そろ)ひも
そろひし智者(ちしや)勇将(ゆうしやう)黴毒(ばいどく)を亡(ほろぼ)さんこと鏡(かゞみ)にかけて見(み)る
ごとし用意(やうい)よくば打立(うちたち)玉へ道(みち)しるべ仕(つかまつ)らんと雲(くも)を呼(よ)び
風(かぜ)を起(おこ)し真先(まつさき)に出立(いでたて)ば五人(ごにん)の神将(しんしやう)は其(その)跡(あと)にしたがひ
人体国(にんたいこく)へと急(いそ)ぎけり
黴瘡軍団(ばいさうくんだん)一之巻(いちのまき)終(おはり)
黴瘡軍談(ばいさうぐんだん)巻(くはん)之(の)第(だい)二
伯州(はくしう)米子(よなご)船越敬祐(ふなこしけいすけ)【舩】著(あらはす)
試(こゝろみて)_二 舌(ぜつ) 戦(せんを)_一 国(こく) 王(わう) 授(さづく)_レ 任(にんを)
挫(くじいて)_二 奸(かん) 謀(ぼうを)_一 賊(ぞく) 徒(と) 伏(ふくす)_レ 誅(ちうに)
昔賢(せきけん)いへる事(こと)あり人身(にんしん)は一箇(いつこ)の小天地(せうてんち)なりと抑(そも〳〵)人体国(にんたいこく)といふ
は其(その)方(はう)纔(わづか)に五/尺(しやく)なれども万物(ばんぶつ)尽(こと〴〵)く備(そなは)り乾坤(けんこん)陰陽(ゐんやう)の理(り)一つと
して欠(かぐる)事(こと)なし先(まづ)東方(とうばう)には肝(かん)の臓(ぞう)と云ふ都(みやこ)ありて春(はる)と木(き)とを
主(つかさ)どり一切(いつさい)青色(せいしよく)の物(もの)を貴(たつと)び其(その)食(しよく)は酢(すゆ)きを好(この)む筋爪(きんそう)二道(にどう)を管(くわん)
領(れう)し膽(たん)の府(ふ)を支配(しはい)す風気(ふうき)多(おほ)き土地(とち)なり西方(さいほう)の都(みやこ)を肺(はい)の臓(ざう)
と云(い)ふ秋(あき)と金(かね)とを主(つかさ)どり一切(いつさい)白色(はくしよく)の物(もの)を貴(たつと)び其(その)食(しよく)は辛(から)きを
好(この)む皮毛(ひもう)二道(にどう)を管領(くはんれう)し大腸(だいちやう)の府(ふ)を支配(しはい)す乾燥(かんさう)の勝(すぐ)れた
【一ノ一 (二ノ一の誤記)】
る土地(とち)なり南方(なんばう)の都(みやこ)を心(しん)の臓(ざう)と云(い)ふ夏(なつ)と火(ひ)とを主(つかさ)どり一さい
赤色(しやくしよく)の物(もの)を貴(たつと)び其(その)食(しよく)は苦(にが)きを好(この)む血脈(けつみやく)【脉】二道(にどう)を管領(くはんれう)し小(せう)
腸(ちやう)の府(ふ)を支配(しはい)す甚(はなはだ)温熱(うんねつ)の土地(とち)なり此(この)所(ところ)王都(わうと)にして主人公(しゆじんこう)
在(いま)す北方(ほくぱう)の都(みやこ)を腎(じん)の臓(ざう)と云(い)ふ冬(ふゆ)と水(みづ)とを主(つかさ)どり一切(いつさい)黒色(こくしよく)の
物(もの)を貴(たつと)び其(その)食(しよく)は醎(しははゆき)を好(この)む骨髄(こつずい)歯牙(しげ)の諸道(しよどう)を管領(くはんれう)し膀(ばう)
胱(くはう)の府(ふ)を支配(しはい)す寒気(かんき)勝(すぐ)れたる土地(とち)なり中央(ちうわう)の都(みやこ)を脾(ひ)の臓(ぞう)と
云(い)ふ土(つち)と土用(どよう)とを主(つかさ)どり一切(いつさい)黄色(くはうしよく)の物(もの)を貴(たつと)び其(その)食(しよく)は甘(あま)きを好(この)
む肌肉(きにく)二道(にどう)を管領(くはんれう)し胃(ゐ)の府(ふ)を支配(しはい)す温湿(うんしつ)の土地(とち)なり国中(こくちう)
すべて九門(きうもん)あり眼(がん)耳(に)鼻(ひ)各(おの〳〵)二門(にもん)口門(こうもん)水道門(すいどうもん)殻道門(こくどうもん)なりかくの
如(ごと)き人体国(にんたいこく)其(その)数(かず)無量(むりやう)無辺(むへん)にして其(その)中(うち)女国(によこく)男国(なんこく)の別(べつ)あり女国(によこく)
は男国(なんこく)に随(したが)ひ男国(なんこく)は女国(によこく)を恵(めぐ)む女国(によこく)を陰(ゐん)とし男国(なんこく)を陽(やう)とす陰(ゐん)
陽(やう)二国(にこく)和合(わごう)して又(また)国(くに)を生(せう)じ生々(せい〳〵)して止(やむ)事(こと)【㕝】なし一国(いつこく)毎(ごと)に定劫(じやうこう)有(あり)て
劫(こう)尽(つく)れは滅(めつ)す或(あるひ)は百年(ひやくねん)或は九十八十/年(ねん)下(くだ)りて五十六十/年(ねん)
を一劫(いつこう)とす而(しか)れども病(やまひ)と云(いふ)賊(ぞく)ありて国(くに)を侵(おか)し悩(なやま)し征討(せいとう)
度(ど)を誤(あやま)る時(とき)は劫滅(こうめつ)を待(また)ずして亡(ほろぶ)【亾】る事【㕝】あり又/士農工商(しのうこうしやう)の
差別(しやべつ)あり士国(しこく)の中(うち)にも学門(がくもん)教諭(けうゆ)を主(つかさ)どる国(くに)あり勇武(ゆうぶ)経(けい)
済(ざい)を勤(つとむ)る国あり医術(いじゆつ)方薬(はうやく)を事(こと)【㕝】とする国(くに)あり農国(のうこく)は少(すこ)しの
不同(ふどう)あれども大概(たいがい)【㮣】一例(いちれつ)に力作(りきさく)を以(もつ)て勤(つとめ)とし工国(こうこく)は工匠(こうしやう)を勤(つとめ)とし商(しやう)
国(こく)は売買(ばい〴〵)奔走(ほんさう)を勤(つとめ)とす又(また)其(その)中(うち)に貴賤(きせん)貧富(ひんぷく)強弱(きやうじやく)等(とう)
の小別(こわか)れあり前々(ぜん〴〵)は各国(かくこく)淳直(じゆんちよく)なりしが澆末(げうまつ)に至(いた)りては国風(こくふう)何(いつれ)も
衰(おとろ)へ士農工商(しのうこうしやう)やゝもすれば自国(しこく)の勤(つと)めを怠(おこた)り貴国(きこく)は賎国(せんこく)を虐(しいた)
げ富国(ふこく)は貧国(ひんこく)を侮(あなど)り強国(きやうこく)は弱国(じやくこく)を制(せい)す中(なか)にも医術国(いしゆつこく)は彼(かの)病(びやう)
【二ノ二】
賊(ぞく)を退治(たいぢ)する事(こと)【㕝】を主(つかさ)どれば其(その)任(にん)最(もつとも)重(おも)き国なり国(くに)の主人(しゆじん)
公(こう)賢明(けんめい)なれば薬軍(やくぐん)を手足(てあし)の如(ごと)くに使(つか)ひいかなる悪賊(あくぞく)をも討亡(うちほろぼ)
し病国(びやうこく)の大平(たいへい)を致(いた)すこゝを以(もつ)て病国(びやうこく)よりも是(これ)を敬(うやま)ひ貺贈(きやうざう)を
厚(あつ)くすれば自(おのづ)から貧賤(ひんせん)の憂(うれ)ひはなかるべきに近頃(ちかごろ)は医国主(いこくしゆ)
多(おほ)くは不正(ふせい)にして雑芸(ざつげい)【藝】便佞(べんねい)【侫】を以(もつ)て富貴国(ふうきこく)に媚諂(こびへつら)【謟】ひ富貴(ふうき)
国(こく)も亦(また)是(これ)を愛(あい)し医薬(いやく)軍法(ぐんぽう)に精(くは)しからざる者(もの)にも病賊(びやうぞく)追討(ついとう)
の任(にん)を与(あた)へて疑(うたが)はず是(これ)も小(こ)ぜり合(やい)にはよけれども一旦(いつたん)病賊(びやうぞく)の大挙(たいきよ)に
逢(おふ)ときは堕弱(だしやく)の補剤(ほざい)寸功(すんこう)を奏(そう)せず忽(たちまち)滅亡(めつぼう)する国(くに)其(その)数(かず)を知(し)ら
ず凡(およそ)【凢】不実(ふじつ)の医国主(いこくしゆ)は病国(びやうこく)の機嫌(きげん)をはかり功(こう)あるを知(し)りながら
瞑眩(めんけん)を恐(おそ)れて勇猛(ゆうもう)の劇剤(げきざい)を用(もち)ひず堕弱(だじやく)の緩剤(くわんざい)をもつて
戦(たゝか)はしめ若(もし)程(ほど)よく戦(たゝか)ひ勝(か)ちなば軍功(ぐんこう)にほこるべし軍(いくさ)利(り)なくして病(びやう)
国(こく)滅亡(めつぼう)【亾】すとも自国(じこく)の害(がい)にはならざる事なり其時(そのとき)は辞(じ)するに
命数(めいすう)を以(もつ)てすべし何(いづ)れにしても恩賞(おんしやう)にはづるゝ事はあるまじ
とかくの如(ごと)く両端(りやうたん)を持(ぢ)し真実(しんじつ)我(わ)が上(うへ)に引受(ひきう)けて忠戦(ちうせん)する
心(こゝろ)なしかゝれば病賊(びやうぞく)時(とき)を得(へ)て侵寇(しんかう)剽掠(ひやうれう)ほしひまゝなりさても
五人(ごにん)の神将(しんしやう)は倶生神(ぐしやうじん)に誘(いざなは)れ直(たゞち)に福徳(ふくとく)自在衛門(じざゑもん)が人体国(にんたいこく)【躰】
に至(いた)り王城(わうじやう)に登(のぼ)りて拝謁(はいゑつ)を乞(こ)ひければ国(くに)の主人公(しゆじんこう)大(おふひ)に悦(よろこ)び
自(みづから)出(いで)て是(これ)を迎(むか)へ延(ひい)て客座(きやくざ)に居(おら)しめ座(ざ)定(さたま)りて後(のち)淳直(じゆんちよく)に向(むか)ひ我(わ)
が国(くに)を始(はじ)め属国(ぞくこく)迄(まで)妖魔(ようま)の為(ため)に誑(あざむか)れ黴軍(ばいぐん)国中(こくちう)に攻(せめ)入(い)り困苦(こんく)
する事(こと)【㕝】一日(いちじつ)に非(あら)ず数多(あまた)の医国(いこく)より軍師(ぐんし)を招(まね)き募(つの)り合戦(かつせん)数度(すど)
に及(およ)べ共/賊徒(ぞくと)強(つよく)くして御方(みかた)利(り)を失(うしな)ひ国(くに)の危(あやう)き事(こと)【㕝】塁卵(るいらん)の如(ごと)し
今度(このたび)倶生神(くしやうじん)のすゝめに随(したが)ひ先生(せんせい)を請待(せうだい)せし所(ところ)早速(さつそく)の来(らい)
【二ノ三】
臨(りん)何(なん)の喜(よろこ)【㐂】びか是(これ)にしかん去(さり)ながらこゝに一つの難儀(なんぎ)あり我(わ)が曹(ともがら)
先生(せんせい)を以(もつ)て大元帥(たいげんすい)と仰(あおが)んと欲(ほつ)すれども先(さき)に元帥(げんすい)となしたる医(い)
国主(こくしゆ)数員(すいん)先生(せんせい)を拒(こば)んで彼(かれ)は富貴国(ふうきこく)の軍(いくさ)になれず黴賊(ばいぞく)駆(く)
除(ぢよ)の元帥(げんすい)の器(き)には非(あら)ずと罵(のゝし)る事(こと) 【㕝】大(おゝ)かたならず希(こひねがはく)は先生(せんせい)彼等(かれら)と
一問答(ひともんどう)して我々(われ〳〵)が疑(うたが)ひをも晴(はら)さし給へと云(い)はれて淳直(じゆんちよく)些(ちつ)とも擬宜(ぎぎ)
せず某(それがし)已(すで)に招(まね)きに応(おう)【應】ず何(なん)ぞ貴命(きめい)にそむかんや諸元帥(しよげんすい)と応(おう)【應】
対(たい)の事は本(もと)より願(ねが)ふ所(ところ)なりと答(こたふ)れば国主(こくしゆ)やがて命(めい)を伝(つた)【傳】へ大(たい)
元帥(げんすい)副元帥(ふげんすい)其外(そのほか)軍将(ぐんしやう)を招(まね)き集(あつ)む其(その)面々(めん〳〵)は山井(やまゐ)養民(ようみん)部(べ)
良(ら)棒庵(ぼうあん)藪井(やぶゐ)竹庵(ちくあん)寺領(ぢれう)養仙(ようせん)我久井(がくゐ)須加丹(すかたん)滑田(ぬめた)順才(じゆんさい)不(ふ)
実(じつ)貪欲(とんよく)口利(くちり)功庵(こうあん)不学(ふがく)弁功(べんこう)等(とう)の医術国(いじゆつこく)の主人公(しゆじんこう)何(いづれ)も当国(とうごく)
主(しゆ)の愛信(あいしん)する所(ところ)なり階下(かいか)には部下(ぶか)の軍将(ぐんしやう)山帰来剤(さんきらいざい)【皈】五宝丹(ごほうたん)
紫金丹(しきんたん)雞汁煎(けいじゆせん)等(とう)を始(はじ)めとして捜風解毒湯(さうふうげどくとう)消疳敗毒(せうかんはいどく)
散(さん)竜胆瀉肝湯(りうたんしやかんとう)【膽泻】防風通聖散(ぼうふうつうせうさん)荊防敗毒散(けいぼうはいどくさん)【草かんむりに「防」】六物解(りくもつげ)
毒湯(どくとう)通天再造散(つうてんさいざうさん)芎黄散(きうわうさん)伯州散(はくしうさん)反鼻丸(はんひぐはん)無二膏(むにかう)無(む)
三膏(さんかう)万能膏(まんのふかう)【萬】赤万能膏(あかまんのふかう)黒膏薬(くろかうやく)速功紙(そくこうし)油膏薬(あぶらがうやく)付(つけ)
薬(ぐすり)洗薬(あらひぐすり)蒸薬(むしぐすり)其外(そのほか)薬将(やくしやう)三百/余員(よいん)整々(せい〳〵)として排列(はいれつ)す
尓時(そのとき)倶生神(くしやうじん)は座中(ざちう)をみかへり各(おの〳〵)知(し)り給ふごとく黴軍(はいぐん)強(つよ)
くして国家(こくか)危(あやう)く主公(しゆこう)の憂苦(ゆうく)殊(こと)に甚(はなはだ)し各(おの〳〵)の軍配(ぐんばい)おろかなる
にはあらねども未(いまだ)平治(へいぢ)の萌(きざ)しを見(み)ずよりて我(わ)れ主公(しゆこう)をすゝめて淳(じゆん)
直(ちよく)君(くん)を伴(ともな)ひ来(きた)り元帥(げんすい)の任(にん)を与(あた)へ延寿丸(ゑんじゆぐはん)等(とう)の四天王(してんわう)を大将(たいしやう)として
城(しろ)を出(いで)て戦(たゝか)はしめんと欲(ほつ)す是迄(これまで)の如(ごと)く六物解毒湯(りくもつげどくとう)捜風解(さうふうげ)
毒湯(どくとう)忍冬(にんどう)蕺薬(じうやく)或(あるひ)は五宝丹(ごほうたん)紫金丹(しきんたん)洗薬(あらひぐすり)蒸薬(むしぐすり)膏薬(かうやく)
【二ノ四】
等(とう)を用(もち)ひて城(しろ)を守(まもり)て徒(いたづら)に日(ひ)を送(おくら)ば黴賊(ばいぞく)御方(みかた)を侮(あなど)り五臓六府(ござうろくふ)に攻(せめ)
入(い)り次第(しだい)に国中(こくちう)衰微(すいび)して精力(せいりよく)つき滅亡(めつぼう)【亾】指(ゆび)を折(おり)て待(まつ)べし未(いまだ)国(こく)
家(か)の勢(いきを)ひ盛(さかん)なる内(うち)に延寿丸(ゑんじゆぐはん)治瘡丸(ぢさうぐはん)黴効散(ばいこうさん)奇良湯(きりやうとう)等(など)の
神将(しんしやう)を用(もち)ひて手(て)づめの一軍(ひといくさ)こそ肝要(かんよう)ならん各(おの〳〵)異見(いけん)あらばのべ玉(たま)
へと云(い)ふを列座(れつざ)の内(うち)より無用(むやう)々々( 〳〵 )大王(だいわう)必(かならす)倶生神(くしやうじん)が奸言(かんげん)を信(しん)じみだり
に薬毒(やくどく)甚(はなはだ)しき暴将(ぼうしやう)を用(もち)ひ給ふな止(やむ)事を得(ゑ)ずして用(もち)ゆべきものは
奇良湯(きりやうとう)【左ルビ「さんきらい」】一人(いちにん)なり延寿丸(ゑんじゆぐはん)黴効散(ばいかうさん)治瘡丸(ぢさうぐわん)の三人(さんにん)は勇猛(ゆうもう)の大将(たいしやう)也
といへ共/寒薬(かんやく)なれば薬毒(やくどく)と云(い)ふものありて黴毒(ばいどく)をやぶり畢(おは)りて後(のち)
却而(かへつて)国家(こくか)をなやますこと黴毒(ばいどく)にすぎたり思(おも)ふに倶生神(くしやうじん)淳直(じゆんちよく)と
心(こゝろ)を合(あはせ)かくの如(ごと)き猛悪(もうあく)の薬将(やくしやう)を用(もち)ひ表(おもて)は黴賊(ばいぞく)を討(うつ)を名(な)として遂(つい)
には国家(こくか)を奪(うば)はんと欲(ほつ)す彼等(かれら)こそ叛逆人(ほんぎやくにん)の張本(ちやうほん)なり今(いま)黴毒(ばいどく)を
相手(あいて)にしては力(ちから)を以(もつ)て戦(たゝか)ふべからず先(まづ)鶏肉(けいにく)【雞】を以(もつ)て兵糧(ひやうらう)【粮】とし十全(じうぜん)
大補湯(たいふとう)補中益気湯(ほちうゑきゝとう)の如(ごと)き補剤(ほざい)を以(もつ)て国家(こくか)を補(おぎな)ひ国中(こくちう)
の気血(きけつ)を循環(じゆんくはん)させ膏薬(かうやく)を以(もつ)て黴毒(ばいどく)をふせがせなば人体国(にんたいこく)【躰】安全(あんぜん)に
して黴毒(ばいどく)も自(おのづから)にげさるべし倶生神(くしやうじん)淳直(じゆんちよく)が如(ごと)き奸人(かんじん)と延寿丸(ゑんじゆぐはん)治瘡丸(ぢさうぐはん)
黴効散(ばいかうさん)の奸賊(かんぞく)等(ら)を除(のぞ)き去(さ)り国家(こくか)の災(わざは)ひをまぬがれ給へと高声(かうしやう)
に罵(のゝし)りたり諸人(しよにん)おどろき是(これ)を見(み)れば不実(ふじつ)貪欲(とんよく)滑田(ぬめた)順才(じゆんさい)の両(りやう)
人(にん)なり倶生神(くしやうじん)大(おゝい)に怒(いか)り巧言令色(こうげんれいしよく)【功】を以(もつ)て病国(びやうこく)にとりいる幇閑(ほうかん)【左ルビ「たいこもち」】同前(どうぜん)
の汝等(なんじら)国家(こくか)安危(あんき)の評定(ひやうじやう)大切(たいせつ)の席(せき)に臨(のぞ)んで妄(みだり)に口(くち)を開(ひら)くは失敬(しつけい)の
至(いた)りなり且(かつ)某(それがし)を始(はじ)め淳直(じゆんちよく)先生(せんせい)四天王(してんわう)迄(まで)も皆(みな)謀反(むほん)の等類(とうるい)なりとは
聞捨(きゝすて)になり難(がた)し某(それがし)是(これ)を論(ろん)ぜんとおもへども言(いゝ)誤(あやま)りては恥辱(ちぢよく)とな
らん先生(せんせい)我(わ)れにかはりて具(つぶさ)に弁別(べんべつ)し給(たま)へと座(ざ)を退(しりぞ)けば淳直(じゆんちよく)は
【二ノ五】
【右ページ】
治瘡丸 黴効散
延寿丸 薬軍
倶生神 奇良湯 薬軍
淳直 薬軍
薬軍
国王【國】
近臣
順才
【左ページ】
貪欲
弁功
須加丹 薬軍
竹庵 功庵 薬軍
棒庵 養仙
養民
自在(じざ)ヱ(え)門国(もんこく)【國】に
淳直(じゆんちよく)諸元帥(しよげんすい)と
軍術(ぐんじゆつ)を
論(ろん)ずる図(づ)
【二ノ六】
膝(ひざ)を進(すゝ)め只今(たゞいま)倶生神(くしやうじん)の言(いゝ)し如(ごと)く今日(こんにち)の評議(ひやうぎ)は国家(こくか)の大事(だいじ)也(なり)
諸元帥(しよげんすい)をさしをき不当(ふどう)の悪言(あくごん)を吐(は)く無礼(ぶれい)【禮】 是(これ)より甚(はなはだ)しきはなし
且(かつ)又(また)我(わ)が四天王(してんわう)を罵(のゝし)るは賢(けん)を嫉(ねた)み能(のふ)を拒(こば)むなり汝等(なんじら)こそ国家(こくか)
の奸賊(かんぞく)なるべしと云(いは)せもあへず両人(りやうにん)は淳直(じゆんちよく)匹夫(ひつぷ)何(なん)ぞ我々(われ〳〵)を侮(あなど)ること
此(かく)の如(ごと)きや我々(われ〳〵)も黴賊(ばいぞく)退治(たいぢ)の副任(ふにん)を受(う)けたり国家(こくか)の大事(だいじ)
を誤(あやま)るを坐(いなが)【㘴】ら見(み)るに忍(しの)びず汝(なんじ)が将(ともな)ひし軍将(ぐんしやう)の毒悪(どくあく)を弁明(へんめい)
するを誤(あやまり)と云(い)ふべきや其上(そのうへ)幇閑(ほうかん)同前(どうぜん)とは舌長(したなが)き一言(いちごん)今(いま)一応(いちおう)【應】
其(その)ゆゑんを聞(きか)んと席(せき)を叩(たゝ)ひてつめかくる淳直(じゆんちよく)は気色(きしよく)を正(たゞ)
しいかにも其(その)訳(わけ)言(い)ひきかさん汝等(なんじら)薬(くすり)の能(のふ)を知(し)つて薬将(やくしやう)を談(だん)
するや薬(くすり)の能(のふ)をしらずして談(だん)するや七宝丸(しつぽうぐわん)治瘡丸(ぢさうくわん)延寿丸(ゑんじゆくわん)
黴効散(ばいかうさん)嗅薬(かぎくすり)水銀丸(すいぎんぐわん)そつぴるどろしすかるめら生々乳(せい〳〵にう)軽(けい)
粉(ふん)の類(るい)を寒薬(かんやく)にして是(これ)を用(もち)ひる時(とき)は黴瘡(ばいさう)一/度(たび)治(ぢ)するとも後日(こにち)に薬(やく)
毒(どく)を発(はつ)して国家(こくか)を亡(ほろぼ)【亾】すと云(い)ふ是(これ)汝等(なんじら)が愚昧(ぐまい)なる所(ところ)なり七宝丸(しつぱうぐわん)
は吉益(よします)東洞(とうどう)先生(せんせい)常(つね)に用(もち)ひて大功(たいかう)を得(ゑ)治瘡丸(ぢさうぐわん)は徳本翁(とくほんおう)常(つね)に
用(もち)ひて大功(たいかう)を得(ゑ)たり此(この)二大将(にたいしやう)は軽粉剤(けいふんざい)なり七宝丸(しつぽうぐわん)は劇(はげ)しく治(ぢ)
瘡丸(さうぐわん)はゆるやかにして其(その)功(かう)大(おゝい)にまさる故(ゆへ)に余(よ)是(これ)を用(もち)ひるなり又(また)諸(もろ〳〵)
の嗅薬(かぎぐすり)吸薬(すいぐすり)薫剤(くんざい)を黴効散(ばいかうさん)に代(かゆ)るものは是(これ)他(た)の方(はう)より甚(はなはだ)ゆ
るくして其(その)功(かう)大(おゝい)にまさり能(よく)黴毒(ばいどく)を駆(かり)【驅】除(のぞ)く故(ゆへ)なり又(また)生々乳(せい〳〵にう)そ
つぴる続七宝(ぞくしつぽう)ぺれしびたあの如(ごと)き猛薬(もうやく)はみだりに用(もち)ひがたき
ものなれば延寿丸(ゑんじゆぐわん)と云(い)ふ穏淳(おんじゆん)の名将(めいしやう)をゑらび猛列(もうれつ)の薬(くすり)にかへて
用(もち)ひるに其(その)瞑眩(めんけん)甚(はなはだ)ゆるく其(その)功(かう)は却(かへつ)て諸薬(しよやく)の及(およ)ぶ所(ところ)にあらず尤(もつと)も
能(よく)黴毒(ばいどく)を駆除(くじよ)【驅】するの大将(たいしやう)なり五宝丹(ごほうたん)紫金丹(しきんたん)鶏鹿散(けいろくさん)【雞】鶏汁煎(けいじゆせん)【雞】
【二ノ七】
等(とう)皆(みな)山帰来(さんきらい)【皈】を以(もつ)て主(しゆ)とす此(この)故(ゆへ)に余(われ)奇良湯(きりやうとう)一/将(しやう)を用(もち)ゆ何(いづれ)も比類(ひるい)
なき勇将(ゆうしやう)なるが故(ゆへ)に余(われ)これを以(もつ)て四天王(してんわう)とし他(た)の薬(くすり)を以(もつ)て是(これ)が助(たす)けとす
凡(およそ)【凢】黴毒(ばいどく)を責亡(せめほろぼ)【亾】すに此(この)四天王(してんわう)を用(もち)ひて事たるなり他(た)の方(ほう)へ機(き)に臨(のぞ)み
変(へん)に応(おう)【應】じ是(これ)が加勢(かせい)とすべし我(わ)れ又(また)黴毒(ばいどく)対治(たいぢ)の実験(じつけん)あり延寿丸(ゑんじゆぐわん)
治瘡丸(ぢさうぐわん)黴効散(ばいかうさん)の三大将(さんたいしやう)を用(もち)ひて合戦(かつせん)に及(およ)ぶ時(とき)は黴毒(ばいどく)賊徒(ぞくと)
の五臓(ござう)六腑(ろつぷ)骨髄(こつずい)に攻入(せめい)りたる者(もの)も散乱(さんらん)して表(ひやう)に発(はつ)し疵(きづ)ある所(ところ)
は四五/日(じつ)は痛(いたみ)を発(はつ)し腫(はれ)を生(せう)じ膿汁(うみしる)出(いづ)る事あり是(これ)黴毒(ばいどく)賊徒(ぞくと)を
駆除(かりのぞ)きて肌肉(きにく)をあぐるが故(ゆへ)なり黴賊(ばいぞく)逃去(にげさ)【迯】るにしたがひ痛(いたみ)さり
膿水(うみしる)つき疵(きづ)愈(いへ)て大平(たいへい)となる又(また)国(くに)によりては内(うち)にある黴毒(ばいどく)延寿丸(ゑんじゆぐわん)或(あるひ)
は治瘡丸(ぢさうぐわん)或(あるひ)は黴効散(ばいかうさん)に攻立(せめたて)られ表(ひやう)に出(いで)て熱(ねつ)を発(はつ)し斑(ほろせ)を発(はつ)し四五
日に逃去(にげさ)【迯】るあり是(これ)を以(もつ)て見れば発表(はつぴやう)の甚(はなはだ)しき温薬(おんやく)なり汝等(なんじら)が
如(ごと)き者(もの)は水銀(すいぎん)を以(もつ)て一向(ひとむ)きに寒薬(かんやく)と思(おも)ふこそおかしけれ薬(くすり)は製法(せいほう)に
よる者(もの)なり米(こめ)と糀(こうじ)と水(みづ)とを製法(せいほう)によりて甘酒(あまざけ)となり酢(す)となり酒(さけ)
となり焼酎(しやうちう)となる此(この)四(よ)つは冷水(れいすい)を以(もつ)て造(つく)れども熟(じゆく)する時(とき)は熱物(ねちぶつ)と
なる汝等(なんじら)は冷水(れいすい)と米(こめ)とを以(もつ)て造(つく)れる酒(さけ)も寒薬(かんやく)とするか延寿丸(ゑんじゆぐわん)治(ぢ)
瘡丸(さうぐわん)黴効散(ばいかうさん)此(この)三将(さんしやう)を余(よ)は温熱(おんねつ)の発表剤(はつぴやうざい)とす此(この)三将(さんしやう)の武勇(ぶゆう)
能(よく)疾病(しつぺい)を破(やぶ)り黴毒(ばいどく)賊徒(ぞくと)を駆除(くじよ)する事/神(しん)のごとし余(よ)常(つね)に世医(せい)【㔺】の
なす所(ところ)を見(み)るにたとへば下疳(げかん)楊梅瘡(ようばいさう)或(あるひ)は骨痛(ほねいたみ)或(あるひ)は筋痛(すじいたみ)或(あるひ)は頭痛(つゝう)或(あるひは)
四肢(てあし)胸(むね)背(せ)腰(こし)腹(はら)の疵(きづ)或(あるひ)は咽(のど)鼻(はな)等(など)の痛(いた)みに諸(もろ〳〵)の劇薬(げきやく)を用(もち)ひて
大効(たいかう)をあらはし外(ほか)にあらはるゝ所(ところ)の疵(きづ)或(あるひ)は腫(はれ)或(あるひ)は痛(いた)みさへ治(ぢ)すれば
病根(びやうこん)は抜(ぬけ)たる様(やう)に思(おも)ひ未(いまだ)黴毒(ばいどく)つきざるに大功(たいかう)をなしたる薬将(やくしやう)をやめ
薬毒(やくどく)をぬくと称(しやう)じて山帰来剤(さんきらいざい)【皈】を用(もち)ひるは大(おゝ)ひなる誤(あやま)りなり
【二ノ八】
【右丁】
彼(かの)薬毒(やくどく)が人体(にんたい)国中(こくちう)何(いづれ)の所(ところ)に止(とゞま)るべきや其(その)をる所(ところ)を余(よ)は未(いま)だ知(し)ら
ずいはゆる薬毒(やくどく)といふ者(もの)は薬能(やくのふ)なり一切(いつさい)の薬(くすり)毒(どく)なきはなし此毒(このどく)能(よく)
病毒(びやうどく)を破(やぶ)る病(やまひ)の為(ため)には毒(どく)にして人身(にんしん)に望(のぞ)めては 薬能(やくのふ)と云(い)ふべし
又/劇薬(げきやく)を用(もち)ひて口中(こうちう)いたみくさき涎沫(よだれ)を出(いだ)すは口中(こうちう)よりよだれ
について薬毒(やくどく)ぬけるが故(ゆえ)に薬毒つきるにしたがひ口中/治(ぢ)す若(もし)薬(やく)
毒(どく)のこれば口中(こうちう)も治(ぢ)せざるなり黴毒(ばいどく)は他(た)の病(やまひ)と品(しな)かはり容易(ようい)に
抜去(ぬけさ)る者(もの)に非(あら)ずあらはれたるところ一旦(いつたん)治(ぢ)したりともたゞこれ
草(くさ)の冬枯(ふゆがれ)するがごとし其(その)病根(びやうこん)五臓六腑(ござうろつぷ)骨髄(こつずい)にありて薬毒(やくどく)つき
精氣(せいき)復(ふく)し病国(びやうこく)おこたり不養生(ふようじやう)する時(とき)は又あらはるゝなり然(しか)るに
延寿丸(ゑんじゆぐわん)にもせよ又は治瘡丸(ぢさうぐわん)黴効散(ばいかうさん)奇良湯(きりやうとう)にもせよ其(その)功(かう)を
得(ゑ)たる者(もの)は久服(きうふく)して病根(びやうこん)をぬきさることをなさず黴毒(ばいどく)再発(さいほつ)す
【左丁】
る時(とき)は薬毒(やくどく)と名(な)づけて療治(りやうじ)を誤(あやま)る若(もし)薬毒(やくどく)体中(たいちう)に残(のこ)る者(もの)ならば
黴毒(ばいどく)の薬(くすり)のみには局(かぎ)るべからず大黄(だいわう)を用(もち)ひたる国(くに)も大黄(だいわう)のどく
腹中(ふくちう)にあるうちは腹(はら)痛(いた)み大便(だいべん)下利(くだり)大黄(だいわう)の毒(どく)つきれば腹痛(ふくつう)も
下利(くだり)もやむなり後日(ごにち)に至(いた)りて大黄(だいわう)の毒(どく)再発(さいほつ)し腹(はら)痛(いたみ)大便(だいべん)下利(くだり)べ
きや黴毒(ばいどく)の薬(くすり)も是等(これら)に准(じゆん)じて知(し)るべし病毒(びやうどく)を物(もの)にたとへば草(さう)
木(もく)にくせのつきたるごとしこやしをするは薬(くすり)のごとしくせのなをるまでこ
やしをせざれば其功(そのかう)なし延寿丸(ゑんじゆぐわん)の如(ごと)き勇武(ゆうぶの)大将(たいしやう)能(よく)病症(びやうせう)に応(おう)じ
大功(たいこう)を立(たつ)るといへども半途(はんと)にして止(や)められ他(た)の薬(くすり)を用(もち)ひらるゝ時(とき)は
病根(びやうこん)ぬけざるなり口中(こうちう)いたむ者(もの)は口中(こうちう)治(ぢ)するを待(まち)て功(こう)ありし薬(くすり)を
捨(すて)ず疵(きづ)のあと白(しろ)くなり或(あるひ)は常(つね)の色(いろ)になる迄(まで)用(もち)ひなば十に八九
病根(びやうこん)は抜去(ぬけさら)ん若(もし)万(まん)一 再発(さいほつ)する事もあらば其時(そのとき)又其 薬(くすり)を用(もち)ひ
【右丁】
必治(ひつぢ)の効(かう)をとるべきのみ未(いまだ)薬将(やくしやう)を用(もち)ひる方法(ほう〴〵)も知(しら)ず真実(しんじつ)病(やまひ)を
治(ぢ)するの心(こゝろ)なく利欲(りよく)にかゝはり病国(びやうこく)の意(こゝろ)をはかりて奸言(かんげん)を吐(は)くは
幇閑医(ほうかんい)【左ルビ:たいこもちいしや】に非(あら)ずして何(なん)ぞや今(いま)も我(わ)が四天王(してんわう)たる延寿丸(ゑんじゆぐわん)等(とう)の武(ぶ)
勇(ゆう)をそしり国家(こくか)を害(がい)する逆徒(きやくと)と云(い)ふ昔日(そのかみ)日本武(やまとだけ)の尊(みこと)の武(ぶ)
勇(ゆう)日本(にちほん)の病(やまひ)たる熊蘇(くまそ)を殺(ころ)す樊噲(はんくわい)が武勇(ぶゆう)鴻門(こうもん)の会(くはい)にて
漢(かん)の高祖(こうそ)の急病(きうびやう)を救(すく)ふ平(たいら)の貞盛(さだもり)藤原(ふぢはら)の秀郷(ひでさと)の武勇(ぶゆう)を以(もつ)て
天下(てんか)の大病(たいびやう)たる平(たいら)の将門(まさかど)を亡(ほろぼ)す此等(これら)の人 悪徒(あくとう)の為(ため)には大(だい)どく
なり国君(こくくん)の為(ため)には良薬(りやうやく)なり汝等(なんじら)なんぞ病(やまひ)を治(ぢ)するの薬能(やくのう)を
薬毒(やくどく)として是(これ)を讒(ざん)し国(くに)を助(たすく)るの良将(りやうしやう)を除(のぞ)かんとするや医門(いもん)の
罪人(ざいにん)国家(こくか)の奸賊(かんぞく)主公(しゆこう)早(はや)く此二人を追放(ついほう)し国(くに)の災(わざは)ひを除(のぞ)き給へ
と詞(ことば)するどに云(い)ひはなつ此二人は人体(にんたい)国主(こくしゆ)にこびへつらひ寵(ちやう)を受(うく)る
【左丁】
者共(ものども)なれば主人公(しゆじんこう)これをとりなし先生(せんせい)の怒(いか)り理(ことは)りと云(い)ひながら
今(いま)黴毒(ばいどく)賊徒(ぞくと)の為(ため)に国家(こくか)をなやまされ是(これ)を破(やぶ)るの評定(ひやうぢやう)の中(なか)
にて御(を)ん方(かた)の内乱(ないらん)あらば不吉(ふきつ)なり軍(いくさ)おさまる迄(まで)両人(りやうにん)の罪([つ]み)をゆるし
玉(たま)へと云(い)ひければ淳直(じゆんちよく)も怒(いか)りを抑(おさ)へ然(しから)ば軍(いくさ)おさまつて後(のち)必(かならす)二賊(にぞく)
が耳(みゝ)鼻(はな)をきり国境(くにさかへ)より追払(おいはら)ひ病国(びやうこく)をまよはし医道(いどう)にそむく者(もの)
のみせしめにいたさんと云(い)ひすてゝ再(ふたゝび)一座(いちざ)に向(むか)ひいかにかた〴〵口(くち)を
閉(とぢ)ては是非(ぜひ)分明(ふんめう)ならず各(おの〳〵)所存(しよぞん)を明(あか)し玉(たま)へとしは〴〵乞(こは)れて列坐(れつざ)
の中(うち)より口(くち)利功庵(りこうあん)進(すゝ)み出(い)て某(それがし)一(ひと)ツの不審(ふしん)あり凡(およそ)軽粉剤(けいふんざい)嗅薬(かぎくすり)
生々乳(せい〳〵にう)そつぴるどろしすかるめら剤(ざい)等(など)の大将(たいしやう)を用(もち)ひ或(あるひ)は山皈来(さんきらい)
剤(ざい)五宝丹(ごほうたん)紫金丹(しきんたん)雞鹿散(けいろくさん)水銀丸(すいぎんぐわん)等(など)の大将(たいしやう)を用(もち)ひ一旦(いつたん)は黴(ばい)
毒(どく)賊徒(ぞくと)を攻(せめ)破(やぶ)り国家(こくか)大平(たいへい)になるといへども不日(ふじつ)に無名(むめい)の賊徒(ぞくと)諸(しよ)
【右丁】
所(しよ)に蜂起(ほうき)し国家(こくか)をなやます此時(このとき)は黴毒(ばいどく)とも薬毒(やくどく)とも見分(みわくる)
事 能(あた)はず多(おほ)く是(これ)を薬毒(やくどく)として合戦(かつせん)を催(もやう)すに大(おゝ)むね其功(そのこう)なく
終(つい)に国家(こくか)滅亡(めつぼう)するはいかん淳直(じゆんちよく)従容(しやうやう)として答(こたへ)て曰(いはく)夫(それ)黴毒(ばいどく)は
隠顕(おんけん)不 測(しぎ)の病(やまひ)なり豈(あに)一旦(いつたん)の勝(かち)を得(ゑ)て心(こゝろ)をゆるすべきや少(すこ)しにても
病国(びやうこく)油断(ゆだん)をなせば再(ふたゝび)発(おこつ)て国家(こくか)を攻(せめ)侵(おか)す時(とき)黴賊(ばいぞく)症(しやう)を変(へん)じて
其名(そのな)を定(さだ)め難(がた)き故(ゆへ)に愚蒙(ぐもう)の粗工(やぶいしや)みだりに薬毒(やくどく)などゝ称(しよう)じて
無益(むゑき)の合戦(かつせん)をなし終(つい)に国家(こくか)を亡(ほろぼ)すなり山皈来(さんきらい)剤(ざい)にても軽粉(けいふん)生(せい)
々乳(せいにう)そつぴるどろしすかるめら嗅薬(かぎぐすり)等(など)にても勝利(しやうり)を得(ゑ)たる者(もの)は
あくまで其(その)薬将(やくしやう)を用(もち)ひ黴毒(ばいどく)賊徒(ぞくと)の隠(かく)れ居(い)る者(もの)を尽(こと〴〵)く駆(く)
除(じよ)して病根(びやうこん)を断(たつ)べきなり然(しか)るに国中(こくちう)少(すこし)く治(おさま)り黴賊(ばいぞく)隠(かく)るゝ時(とき)は
国主(こくしゆ)油断(ゆたん)怠慢(たいまん)して良医(りやうい)の詞(ことば)を用(もち)ひず薬将(やくしやう)をさしおき肉酒(にくしゆ)を
【左丁】
とりいれ女国(によこく)に交(まじは)り再(ふたゝび)国家(こくか)の大乱(たいらん)を引出(ひきいだ)す其時(そのとき)盲医(もうい)讒言(ざんげん)をかま
へ是(これ)皆(みな)彼(かの)薬毒(やくどく)の発(はつ)する所(ところ)なりと云(い)ふて始(はじ)め功(こふ)を立(たて)たる薬将(やくしやう)を
遠(とを)ざけ无益(むゑき)の補剤(ほざい)などを以(もつ)て戦(たゝか)はしめ功(こふ)なき時(とき)は愈(いよ〳〵)已前(いぜん)の有(ゆう)
功(こう)の薬将(やくしやう)を謗(そし)り彼(かれ)が毒勢(どくせい)甚(はなはだ)しくして全治(ぜんぢ)しがたしと云(い)ひ己(おのれ)が拙(せつ)【左ルビ:つたなき】
を蔵(かく)すの計(はかりこと)をなす病国(びやうこく)も亦(また)是(これ)を信(しん)じ有功(ゆうこう)の薬将(やくしやう)を罵(のゝし)りて
やまず此上(このうへ)はとて或(あるひ)は八卦(はつけい)うらやさん【占屋算】或(あるひ)は祈祷(きとう)願立(ぐわんだて)と徒(いたづら)に月日(つきひ)を
送(おく)り坐(いながら)にして亡国(ばうこく)を待(ま)つ憫笑(びんせう)すべきの至(いた)りに非(あら)ずや未(いまだ)黴方(ばいかた)必(ひつ)
死(し)の症(しやう)に至(いた)らぬ内(うち)早(はや)く有功(ゆうこう)の薬将(やくしやう)を再(ふたゝび)用(もち)ひて戦(たゝか)はしめば賊徒(ぞくと)
を討亡(うちほろぼ)し不日(ふじつ)に国家(こくか)全治(ぜんぢ)の大平(たいへい)を致(いた)さん事 必定(ひつじやう)なり是(こゝ)を
以(もつ)て薬毒(やくどく)の害(がい)に非(あら)ず黴毒(ばいどく)賊徒(ぞくと)の再発(さいほつ)なる事を知(し)るべし今(いま)世(せ)
上(じやう)に黴毒(ばいどく)の逆乱(げきらん)によりて滅亡(めつぼう)する国(くに)甚(はなはだ)多(おゝ)し是(これ)医(い)国主(こくしゆ)薬将(やくしやう)を
【右丁】
用(もち)ひるの法(ほう)にくらく軍配(ぐんぱい)のよろしからざると国主(こくしゆ)の行(おこ[な])ひ正(たゞ)しか
らざると愚者(ぐしや)の妄(みだり)りに薬将(やくしやう)を謗(そし)りさまたぐるとによる其(その)本(もと)は
未(いまだ)治法(ぢはう)開(ひら)けざるが故(ゆへ)なりと云(い)ふを聞(きく)より我久井(がくい)須加丹(すかたん)頭(かしら)を
左右(さゆう)に打(うち)ふりて中言(ちうげん)ながら云(い)ふべき事あり足下(そくか)の論(ろん)ずる所(ところ)理(り)
にあたるといへども治法(ぢほう)未(いまだ)開(ひら)けずとは何(なに)を以(もつ)て云(い)ゝつや我(わ)が東洞(とうどう)先生(せんせい)
初(はじめ)て古医法(こいはう)を発明(はつめい)し扁鵲(へんぢやく)仲景(ちうけい)の深意(しんい)をさぐり知(し)り傷寒論(しやうかんろん)
金匱要略(きんきようりやく)を見(み)ひらき給(たま)ふ続(つゞひ)て南涯(なんがい)先生(せんせい)気血水(きけつすい)の論(ろん)を
立(たて)日本(にちぽん)はおろか異城(いゝき)【域の誤ヵ】迄(まで)も其(その)智発(ちはつ)に感服(かんぷく)す紅毛人(おらんだじん)も東洞(とう〴〵)先(せん)
生(せい)続七宝(ぞくしつぽう)を工夫(くふう)し軽粉剤(けいふんざい)を用(もち)ひて効(こう)あらざる所(ところ)へ用(もち)ひ玉(たま)ふに
紅毛国(おらんだこく)のそつぴると同様(どうやう)なるを見(み)て舌(した)を巻(まひ)て大(おふい)に尊信(そんしん)す我(わ)が
東洞(とうどう)先生(せんせい)は天朝(てんちやう)名医(めいい)の聖賢(せいけん)にして是(これ)より治法(ぢはう)大(おゝひ)にひらけ病(やまひ)
【左丁】
の定理(じやうり)を知(し)る足下(そくか)も東洞(とうどう)先生(せんせい)の道(みち)を以(もつ)て治術(ぢしゆつ)を行(おこな)ひながら何(なん)ぞ
治法(ぢはう)開(ひら)けずとは云(い)ふや甚(はなはだ)以(も[つ])て傍若無人(ぼうじやくぶじん)なりといへば淳直(じゆんちよく)は莞(につ)
尓(こ)【爾】と笑(わら)ひ足下(そくか)の言(ことば)の如く東洞先生より古医法(こいほう)ひらけ今(いま)天(てん)
朝(ちやう)の治術(ぢじゆつ)三 国(ごく)にすぐれたり然(しかれ)ども此 黴毒(ばいどく)は近世(きんせい)流行(りうかう)の病
にして東洞(とうどう)南涯(なんがい)の二先生も未(いまだ)此症(このしやう)の詳(つまびらか)なる事は論(ろん)じ給はず
某(それがし)が治法(ぢほう)開(ひら)けずと云(い)ふは雑病(ざつびやう)の事に非(あら)ず此 黴毒(ばいどく)一証(いつしやう)の治
法(はう)詳(つまびらか)ならざる事を云ふなり此 黴疾(ばいしつ)貴人(きにん)髙家(かうけ)に稀(まれ)なれば
天下の名医(めいい)も此病の治療(ぢりやう)に骨(ほね)を折(おら)ざるが故に其(その)著(あらは)す所の
書(しよ)空論(くうろん)妄談(もうだん)のみにして応変(おうへん)の治術(ぢじゆつ)薬方(やくはう)の加減(かげん)を委(くは)しく
出(いだ)したるは一つもなし凡(およそ)天下に水火(すいくは)ほど国家(こくか)の助(たす)けとなる者(もの)なし
又 能(よく)国家(こくか)の害(がい)をなす者(もの)水火より大(おゝひ)なるはなし薬も又左の如し
【両丁挿絵】
【右丁】
近臣
治瘡丸 奇良湯
淳直
国王
近臣
貪欲
【左丁】
延寿丸
黴効散
延寿丸(えんじゆぐわん)黴効(はいこう)
散(さん)、順才(じゆんさい)、貪欲(とんよく)
の両魔(りやうま)を
殺(ころ)す図(づ)
順才
【右丁】
加減(かげん)の法(はう)を知(しら)ずして是を用(もち)ひる事不 足(そく)なれば病毒(びやうどく)を除(のぞ)くこと
能(あた)はず過多(くわた)する時は却(かへつ)て害(がい)をなす薬の要(よう)は加減(かげん)にあり東洞(とうどう)
南涯(なんがい)の二(に)先(せん)生の如き緩劇(くわんげき)の薬方(やくほう)其 度(ど)に応(おう)じ当時(とうじ)に於(おい)て
効(こう)を得(ゑ)給へども只(たゞ)これ自得(じとく)の妙(めう)にして後世(こせい)の為に準縄(じゆんじゆう)と
なるべき書(しよ)を残(のこ)さゞれば何(なに)を以(もつ)て黴瘡治術(ばいさうぢじゆつ)の指南(しなん)とすべき
やこの故(ゆへ)に治法(ぢほう)未(いまだ)開(ひら)けずとは言(い)ひしなり今(いま)足下(そくか)の言(ことば)の中(うち)
続七宝(ぞくしつぽう)の事を挙(あげ)給(たま)ふ是にて薬毒(やくどく)賊(ぞく)に毒(どく)して国家(こくか)に毒(どく)
せざる事を証(しやう)すべきなり日本 古今(こゝん)の名医(めいい)たる東洞(とうどう)先生(せんせい)
軽粉丸(けいふんくわん)の能(のう)五宝丹(ごほうたん)にはるかにまさるを以(もつ)て軽粉丸(けいふんぐわん)を七宝(しつぽう)
丸と名(な)づけられたり此 七宝丸(しつぽうぐわん)の智勇(ちゆう)の及(およば)ざる勇猛(ゆうもう)の強賊(きやうぞく)
痼疾(こしつ)結毒(けつどく)には続(ぞく)七宝と云(い)ふ大将(たいしやう)を自製(じせい)して常に用
【左丁】
ひ南涯(なんがい)先生(せんせい)は生々乳(せい〳〵にう)を配(はい)して痼疾(こしつ)駆除(くしよ)の大将(たいしやう)となし諸国(しよこく)の強(きやう)
賊(ぞく)を征罸(せいばつ)し玉(たま)ふ生々乳(せい〳〵にう)続七宝(ぞくしつぽう)そつぴるの武勇(ぶゆう)の猛列(もうれつ)なる事
軽粉(けいふん)にくらべては四増倍(しそうばい)なり東洞(とう〴〵)南涯(なんがい)の二 先生(せんせい)此(この)三 大将(たいしやう)を始(はじめ)
嗅薬(かぎぐすり)水銀丸(すいぎんぐはん)軽粉丸(けいふんぐわん)等(とう)の能(のう)を以(もつ)て国家(こくか)の逆賊(ぎやくぞく)たる病毒(びやうとく)を
誅罸(ちうばつ)すべきことを天下(てんか)後世(こうせい)の疾医(しつい)に教(おし)へを残(のこ)し玉(たま)へども薬毒(やくどく)
体中(たいちう)にとヾまりて後日(ごにち)に国家(こくか)を害(がい)することは論(ろん)じ給(たま)はず何(なん)ぞ名(な)も
なき俗医(ぞくい)どもが一家(いつか)の言(げん)を推(お)し立(た)て是等(これら)の薬将(やくしやう)を謗(そし)るの
理(り)あらんや或(あるひ)は又(また)軽粉(けいふん)などを表(おもて)むきはいみきらい内分(ないぶん)にては潜(ひそか)に
用(もち)ひ病国(びやうこく)を欺(あざむ)くが如(ごと)きは尤(もつとも)憎(にく)むべし黴瘡證治秘鑑(ばいさうしよぢひかん)黴瘡約(ばいさうやく)
言(げん)などにはみだりに軽粉(けいふん)を謗(そし)り其(その)用(もち)ふべからざるを論(ろん)じ止(やむ)事
を得(ゑ)ざる時(とき)は又 軽粉(けいふん)を用(もち)ふるは何(なに)ごとぞ軽粉(けいふん)を謗(そし)りて害(がい)あると
【右丁】
云(い)ふも己(おのれ)が口(くち)又 軽粉(けいふん)を用(もち)ひて妙効(めうこう)あるといふも己(おのれ)が口(くち)其妄言(そのもうげん)
明(あきらか)なり某(それがし)は名聞(めうもん)を好(この)まず数年(すねん)研究(けんきう)して自得(じとく)する所(ところ)の治(ぢ)
術(じゆつ)薬方(やくほう)を集(あつ)め仮名書(かながき)にして黴瘡瑣談(ばいさうさだん)黴瘡雑話(ばいさうざつは)の二(に)
書(しよ)をつくる不実貪欲(ふじつとんよく)滑田順才(ぬめたじゆんさい)などが如(ごと)き外聞(ぐわいぶん)をかざる
賊医(ぞくい)はかなつきの書(しよ)の机(つくへ)の上にあるをはぢる者(もの)なり各位(おの〳〵)は才学(さいがく)
ありて究理(きうり)を勤(つと)む此書(このしよ)を読(よみ)て是非(ぜひ)を弁(べん)じ給(たま)へと数冊(すさつ)の書(しよ)を
差出(さしいだ)せば功庵須加丹(こうあんすかたん)大(おゝひ)に喜(よろこ)び我々(われ〳〵)古今(こゝん)の書(しよ)に眼(まなこ)をさらせ共(ども)
足下(そくか)の言(ことば)の如(ごと)く黴毒治法(ばいどくじほう)のくはしきものなし試(こころ)みに此書(このしよ)を一見(いつけん)
せんと受取(うけとり)て懐中(くわいちう)に入(い)れ退(しりぞ)くあとへ山井養民(やまひようみん)入(い)りかわりいかに
先生(せんせい)我(わ)れ世医(せい)の軍配(ぐんぱい)を見(み)るに軽粉剤(けいふんざい)嗅薬(かぎくすり)生々乳剤(せい〳〵にうざい)そつぴ
るどろしすかるめら剤(ざい)等(とう)を用(もち)ひて速(すみや[か])に勝利(しやうり)を得(ゑ)国家(こくか)治(おさま)り
【左丁】
て後(のち)又 薬毒(やくどく)をぬくと号(ごう)して山皈来剤(さんきらいざい)を久服(きうふく)せしむる者(もの)数月(すげつ)の内(うち)
に又 逆徒(ぎやくと)蜂起(ほうき)して国家(こくか)を悩(なや)まし乱世(らんせい)に至(いた)るは何(なん)ぞやと問(と)へば淳(じゆん)
直(ちよく)居直(いなを)りて足下(そくか)の尋(たづぬ)る所(ところ)是(これ)又 世上(せじやう)通貫(つうくわん)の要論(ようろん)なり前(さき)にも
云(い)ひし如(こと)く薬毒(やくとく)残(のこ)ると云(い)ふ事は至(いたつ)ての愚論(ぐろん)にして取(と)るに足(た)ら
ざれども世上(せじやう)一同(いちどう)に是(これ)を信用(しんよう)し適当(てきとう)の薬(くすり)を休(や)めて山皈来(さんきらい)をふく
用(よう)し以(もつ)て薬毒(やくどく)を抜(ぬく)とす故(ゆへ)に残(のこ)りし病毒(びやうどく)再発(さうほつ)するなりたゞいつ
迄(まで)も適当(てきとう)の薬将(やきしやう)を用(もち)ひて病(やまひ)の残党(ざんとう)を殺(ころ)し尽(つく)すべし彼(かの)黴(ばい)
賊(ぞく)は不測(ふしぎ)の術(じゆつ)を具(そな)へ軍(いくさ)敗(やぶ)れて叶(かな)はざる時(とき)は或(あるひ)は毛穴(もうげつ)に隠(かく)れ或(あるひ)は
骨髄(こつずい)に隠(かく)れて時節(じせつ)を待(ま)ち其(その)顕(あら)はるゝ時(とき)は本(もと)の如(こと)く国中(こくちう)に
はびこる実(まこと)に稀代(きたい)の逆賊(きやくぞく)なり此(この)黴毒王(ばいどくわう)が眷属(けんぞく)八万四千(はちまんしせん)の
中(なか)には一騎当千(いつきとうぜん)の大将(たいしやう)数(す)十人あり然(しか)るに治瘡丸(ぢさうくわん)延寿丸(ゑんじゆぐわん)黴(ばい)
【右丁】
効散(こうさん)の智勇(ちゆう)に勝(かつ)事 能(あた)はずして奇良湯(きりようとう)五宝丹(ごほうたん)紫金丹(しきんたん)鶏(けい)
鹿散(ろくさん)鶏汁煎(けいじゆせん)等(とう)に能(よく)勝(かつ)者(もの)あり治瘡丸(ぢさうぐわん)延寿丸(ゑんじゆくわん)黴効散(はいこうさん)に
能(よく)勝(かつ)といへども奇良湯(きりやうとう)五宝丹(ごほうたん)紫金丹(しきんたん)鶏鹿散(けいろくさん)鶏汁煎(けいじゆせん)等(とう)
に勝(かつ)事 能(あた)はざる者(もの)あり其(その)わり合(あい)あらましを云(い)へば延寿丸(ゑんじゆぐわん)の智(ち)
勇(ゆふ)を以(もつ)て戦(たゝか)ひなば十(じう)に六七は必勝(かならずかつ)事うたがひなし故(ゆへ)に延寿(ゑんじゆ)
丸(ぐわん)の勇智(ゆうち)には黴賊(ばいぞく)ども舌(した)を振(ふる)ふて恐怖(きやうふ)す黴効散(ばいこうさん)嗅薬(かぎくすり)に
も病賊(びょうぞく)等(ら)の畏(おそ)るゝ事 甚(はなはだ)し治瘡丸(ぢさうぐわん)どろしすかるめら剤(さい)この
三人は同様(どうやう)の智勇(ちゆふ)ならば是(これ)を以(もつ)て戦(たゝか)ひ十に三四の勝(かち)を得(ゑ)
る事 必定(ひつしやう)なり故(かるがゆへ)に是(これ)又 賊徒(ぞくと)の恐(おそ)るゝ所(ところ)なり奇良湯(きりやうとう)五宝(ごほう)
丹(たん)紫金丹(しきんたん)雞鹿散(けいろくさん)雞汁煎(けいじゆせん)此(この)五人 皆(みな)山帰来(さんきらい)の能(のふ)を以(もつ)て
主(しゆ)とす故(ゆへ)に五人の勇智(ゆうち)同様(どうやう)なれば奇良湯(きりやうとう)を以(もつ)て戦(たゝか)ひなば
【左丁】
十に三四の勝(かち)を得(う)るゆへ此(この)奇良湯(きりやうとう)にも黴賊(ばいぞく)おそるゝといへども
貧国(ひんこく)は軍用金(ぐんようきん)に乏(とぼ)しくして長(なが)く用(もち)ひる事 能(あた)はざるなり
さて是等(これら)の諸将(しよしやう)を用(もち)ひて戦(たゝか)ふに黴毒(ばいどく)賊徒(ぞくと)の軍中(ぐんちう)は邪(じや)
術(じゆつ)を以(もつ)て雲(くも)をまねき霧(きり)をふらし常(つね)に朦朧(もうらう)として何(いづれ)を夫(それ)と
見はくる事 能(あた)はずいかなる名医(めいい)も此陣(このぢん)は何薬(なにやく)の大将(たいしやう)向(むか)ひなば
必勝(ひつしやう)の利あると云(い)ふ事を知る事 能(あた)はず古今(こゝん)に是(これ)を論(ろん)ぜし
者(もの)もなし故(かるがゆへ)に余(よ)は多(おゝ)くの大将(たいしやう)を仮(か)らず延寿丸(ゑんじゆぐわん)治瘡丸(ぢさうぐわん)黴効(ばいこう)
散(さん)奇良湯(きりやうとう)の四将(ししやう)を用(もち)ひて其時(そのとき)の機(き)をはかりよろしからんと
思(おも)ふ者(もの)を先陣(せんぢん)に向(むか)はせ若(もし)勝(かつ)事 能(あた)はずと見る時(とき)は是(これ)をやめて
他(た)の大将(たいしやう)を向(むか)はしむ其(その)勝(かつ)と勝(かた)ざるを見(み)る事は合戦(かつせん)始(はじま)りて《振り仮名:兵𩛡|ひやうらう》
道(どう)口中門(こうちうもん)齗腫(はじゝはれ)【注】口気(こうき)少(すこし)く臭(くさ)きに至(いた)り筋骨(すじほね)のいたみにもせよ
【注 断は齗の誤。はじし。歯肉、歯ぐきのこと。】
【右丁】
きずにもせよ其(その)患(うれふ)る所(ところ)三五日の内(うち)に一度(ひとたび)はいたみつよくなり
五七日の内(うち)にいたみかるくなる時は勝(かつ)と知(し)りいたみかはらざるときは
勝(かた)ずと知(し)るべし勝(かた)ざる時(とき)は鐘(かね)をならして軍(いくさ)をおさめ勝(かつ)としらば攻(せめ)
鼓(つゞみ)【皷は俗字】を打(うち)て一足(ひとあし)も退(しりそか)ず戦(たゝか)はせ若(もし)口中(こうちう)のいたみつよき時(とき)はしばら
く休(やす)み口中(こうちう)のいたみ少(すこし)ゆるむ時(とき)は又 始(はじ)めのごとく戦(たゝかひ)を催(もやう)し勝(しやう)
利(り)を得(ゑ)て患(うれふ)る所(ところ)全(まつた)く治(ぢ)したりとも病国(びやうこく)を警(いまし)めて油断(ゆだん)させず
猶(なを)効(こう)を得(ゑ)たる薬将(やくしやう)を以(もつ)てゆるく戦(たゝか)はせ口中(こうちう)難儀(なんぎ)にならざる
様(やう)にして筋骨(すじほね)毛穴(もうけつ)の間(あいだ)に隠(かく)れたる残徒(ざんとう)を尽(こと)〳〵(〴〵)駆(か)り除(のぞ)き
再発(さいほつ)の憂(うれ)ひなからしむたとひ後々(のち〳〵)に至(いた)り余毒(よどく)起(おこ)りて害(がい)を
なすにも諸(しよ)薬将(やくしやう)の内(うち)初(はじ)め用(もち)ひて効(こう)を得(ゑ)たる者(もの)を以(もつ)て戦(たゝか)へば
早速(さつそく)に勝(かち)を取(と)るなり或(あるひ)は始(はじ)め効(こう)ありし薬将(やくしやう)再発(さいほつ)のとき
【左丁】
再(ふたゝび)むかい数日(すじつ)戦(たゝこ)ふとも其(その)症(しやう)かはり功(こう)なきこともあり此ときは
又しかるべき薬将(やくしやう)にかへてよろしきなり然(しか)るに軽粉(けいふん)嗅薬(かぎぐすり)な
どを討手(うつて)に向(むか)はせ一旦(いつたん)勝利(しやうり)を得(う)る時(とき)は病賊(びやうぞく)全(まつた)く亡(ほろ)びたりと思(おも)
ひ有効(ゆうこう)の薬将(やくしやう)をさしをき無益(むゑき)の山皈来剤(さんきらいざい)を用(もち)ひて薬毒(やくどく)
を抜(ぬ)くと号(ごう)し塩断(しほだち)いたさせ久服(きうふく)の戦(たゝかひ)をなさしめ国(くに)の元気(けんき)を
つからかすはひがことなるべし山皈来(さんきらい)薬毒(やくどく)を誅罸(ちうばつ)する者(もの)ならば
是(これ)を服(ふく)して薬毒(やくどく)つき再(ふたゝひ)国家(こくか)の乱(らん)あるべからず何(なに)によりてか後日(ごにち)
に至(いた)り国中(こくちう)再乱(さいらん)を引出(ひきいだ)すや是(これ)薬毒(やくどく)にはあらずして黴毒(ばいどく)
残徒(ざんとう)の顕(あらは)るゝなり然(しか)れば半途(はんと)にて効(こう)ありし薬将(やくしやう)を遠(とを)ざ
け山皈来(さんきらい)を用(もち)ひて残(のこ)りもせざる薬毒(やくどく)を攻(せむ)るは甚(はなはだ)無益(むゑき)のこと
なりあとにて用(もち)ひる山皈来剤(さんきらいざい)をさきに用(もち)ひて若(もし)症(しやう)に応(おう)
【右丁】
じ黴毒(ばいどく)を討亡(うちほろぼ)す時(とき)は劇剤(げきざい)用(もち)ゆるに及(およ)ばず彼輩(かのともがら)はたゞ山帰(さんき)【皈】
来(らい)よく薬毒(やくどく)を解(ぬく)と心得(こゝろへ)黴毒(ばいどく)を誅罰(ちうばつ)するの一奇薬(いつきやく)なること
を知(しら)ざるは最(もつとも)笑(わら)ふべしと是非(ぜひ)分明(ふんみやう)に説(と)きさとせば山井養民(やまいようみん)
甚(はなはだ)感服(かんぷく)し先生(せんせい)の高論(こうろん)皆(みな)実験(じつけん)にして我等(われら)が及(およ)ぶ所(ところ)にあら
ず向後(きやうこう)は先生(せんせい)とあをぎ軍術(ぐんじゅつ)指南(しなん)を受(う)くべしと再拝(さいはい)恭(きやう)
敬(けい)する所(ところ)に不学(ふがく)弁巧(べんこう)【字面は「功」】しやしやり出(い)で今(いま)淳直(じゆんちよく)の論(ろん)ずる所(ところ)は
鄙野(いなか)の国々(くに〴〵)の生(うま)れもそだちもあらくれたる者(もの)にはよけれ共
上方(かみがた)辺(へん)の人体国(にんたいこく)は生(うま)れもそだちも上品(じやうひん)にして女国(によこく)などは別(べつ)して
物(もの)やはらかなれば鄙野(いなか)療治(りやうぢ)の合戦(かつせん)のかけひきにてはあら〳〵
しくして用(もち)ひがたし寒国(かんこく)暖国(だんこく)の人体国(にんたいこく)は其(その)国々(くに〴〵)の風土(ふうと)によりて治(ぢ)
療(りやう)合戦(かつせん)もちがふべし淳直(じゆんちよく)如(ごと)き田舎者(いなかもの)は鄙野(いなか)の軍(いくさ)に相応(さうおう)なり
【左丁】
上方(かみがた)は風土(ふうど)を知(し)りたる上方(かみがた)医者(いしや)を軍師(ぐんし)となして戦(たゝか)はざればおそ
らくはあやまちあらんと云(い)へば淳直(じゆんちよく)は膝(ひざ)を打(うつ)て大(おゝい)に笑(わら)ひ不学(ふがく)弁(べん)
巧(こう)【字面は「功」】とは能(よく)付(つけ)たり汝(なんじ)古今(こゝん)の書(しよ)を見(み)る事 能(あた)はず医薬(いやく)の根元(こんげん)をしら
ずたゞ口弁(こうべん)を以(もつ)て病国(びやうこく)に諂(へつら)ひ曽(かつ)て半点(はんてん)の見識(けんしき)なし所謂(いわゆる)はい
はい医者(いしや)なる者(もの)なり夏(か)殷(いん)周(しう)三代(さんだい)の薬方(やくはう)を漢(かん)の末(すへ)にいたりて
張仲景(ちやうちうけい)是(これ)を択(ゑら)【擇】び又(また)自(みづから)方(はう)を造(つく)り傷寒論(しやうかんろん)金匱要略(きんきようりやく)の二(に)
書(しよ)をあらはし後世(こうせい)に残(のこ)されたり今(いま)数千歳(すせんざい)の後(のち)に至(いた)る迄(まで)此書(このしよ)を
以(もつ)て療治(りやうぢ)の規矩(すみかね)とす我(わ)が東洞先生(とうどうせんせい)も方(はう)に古今(こゝん)なし証(しやう)【證】に随(したがつ)
て是(これ)を治(ぢ)せよと申されたり日本(にちぽん)の内(うち)はおろか唐(から)天竺(てんじく)西洋(おらんだ)の人(じん)
物(ぶつ)たりとも其(その)病症(びやうしやう)に随(したかつ)て薬(くすり)を与(あと)ふるに何(なん)のあやまちあらんや汝(なんじ)が
如(ごと)き者(もの)を船頭(せんどう)となさば春(はる)は風(かぜ)おだやかなれば帆(ほ)を八 合(ごう)にもち夏(なつ)の
【右丁】
風(かぜ)はゆるやかなれば帆(ほ)を一升(いつしよ)にもち秋冬(あきふゆ)の風(かぜ)ははげしき故(ゆへ)帆(ほ)を五(ご)
合(ごふ)に持(もつ)と定(さだ)め帆(ほ)楫(かぢ)の加減(かげん)する事をしらざれば船(ふね)は尽(こと〴〵)く破損(はそん)
すべし汝(なんじ)鄙野人(いなかびと)には薬(くすり)を手強(てづよく)用(もち)ひ上方人(かみがたびと)には手よはく用(もち)ゆる者(もの)と思(おも)
へるか病(やまひ)の猛勇(もうゆふ)なるには弱国(じやくこく)にも劇薬(げきやく)を用(もち)ひ病(やまひ)の弱(よは)きは強国(きやうこく)
にも緩剤(くわんざい)を用(もち)ゆ人体国(にんたいこく)も其面(そのおもて)のちがふが如(ごと)く同病(どうびやう)たりといへ
ども同薬(どうやく)を以(もつ)ては攻(せ)めがたき症(しやう)ありよつて緩急(くわんきう)去加(きよか)増減(ぞうげん)の
匕(さじ)加減(かげん)あり汝(なんじ)が如(ごと)きは彼(かの)蝙蝠(へんぷく)の鳥(とり)に似(に)て鳥(とり)にあらざるに異(こと)な
らず医者(いしや)に似(に)て医者(いしや)に非(あら)ず幇閑(ほうかん)【左ルビ:たいこもち】に似(に)て幇閑(ほうかん)にあらず只(たゞ)
無益(むゑき)の巧言(こうげん)を吐(は)き病国(びやうこく)を迷(まよは)すばかりにて強敵(きやうてき)たる大病(たいびやう)を攻(せめ)
破(やぶ)る事(こと)思(おも)ひもよらず面(つら)の皮(かは)あつく此席(このせき)に出(いで)てよくも口(くち)をきくも
のかな若(もし)真実(しんじつ)医論(いろん)をなさんとならば先(まづ)古今(こゝん)の書(しよ)を見(み)て再(ふたゝ)び
【左丁】
来(きた)れといへば一言(いちごん)の返答(へんとう)もなく恥辱(ちぢよく)にや堪(たへ)ざりけん頭(かしら)をかゝ
へて鼠(ねづみ)の如(ごとく)逃(にげ)さりけりあとに出(いづ)るは薮井竹庵(やぶいちくあん)寺領養仙(ぢりやうようせん)両(りやう)
人(にん)斉(ひとし)く一楫(いつちよふ)し我々(われ〳〵)諸国(しよこく)の合戦(かつせん)のありさまを見(み)るに元気(げんき)壮健(さうけん)なる
人体国(にんたいこく)黴賊(ばいぞく)に悩(なや)まさるゝ時(とき)纔(わづか)に軽粉(けいふん)一分(いつふん)に当(あた)るほどの治瘡丸(ぢさうぐわん)
或(あるひ)は七宝丸(しつぽうぐわん)を用(もち)ひて合戦(かつせん)に及(およ)ぶに忽(たちまち)歯齦(はじゝ)腫(はれ)口中(こうちう)爛傷(らんしやう)して食(しよく)
する事 能(あた)はず或(あるひ)は斑(ほろせ)を発(はつ)し熱(ねつ)を発(はつ)し或(あるひ)は腹痛(ふくつう)下利(げり)し黴賊(ばいぞく)戦(たゝか)
ひ破(やぶ)れて逃(にげ)去(さ)る国(くに)もあり或(あるひ)は此(かく)の如(ごと)く瞑眩(めんけん)すれども黴賊(ばいぞく)少(すこ)しも
ひるまず薬将(やくしやう)勝利(しやうり)を得(ゑ)ざる国(くに)もあり又(また)元気(げんき)虚弱(きよじやく)なる人(にん)
体国(たいこく)を黴賊(ばいぞく)わづかにせめおかす所(ところ)へ軽粉(けいふん)二匁に当(あた)るほどの丸散(ぐわんさん)
を以(もつ)て合戦(かつせん)に及(およ)べども口中(こうちう)少(すこし)も痛(いたま)ず発熱(ほつねつ)発斑(ほつぱん)もなく腹痛(ふくつう)
下利(げり)もなくして黴賊(ばいぞく)大(おゝい)に打(うち)まけ逃去(にげさ)る国(くに)もあり又(また)黴賊(ばいぞく)自若(じじやく)
【両丁挿絵】
【右丁】
将瘰癧腫高
病将遺毒抜兼
【左丁】
薬将
薬軍(やくぐん)毒霧(どくむ)に
苦(くる)しむ図(づ)
【右丁】
として逃去(にげさ)らず弥(いよ〳〵)丸(ぐわん)散(さん)を加倍(かばい)して攻(せめ)討(うて)ども其(その)効(こう)なき国(くに)もあり
世医(せい)の論(ろん)ずる所(ところ)は口中(こうちう)腫(はれ)いたみ涎沫(よだれ)の出(いづ)るは黴毒(ばいどく)骨随(こつずい)【髄とあるところ】に隠(かく)れ
伏(ふし)たる者(もの)軽粉剤(けいふんざい)嗅薬(かぎぐすり)においたてられ骨(ほね)より逃(にげ)るの道筋(みちすじ)なく
歯(は)は骨(ほね)よりはへるものなれば歯根(はのね)より涎沫(よだれ)に付(つい)てぬけ出(いづ)るなりと
云(い)ふ然(しか)るに涎沫(よだれ)出(いづ)れども黴賊(ばいぞく)退(しりぞ)かず或(あるひ)は涎沫(よだれ)出(いで)されども黴賊(ばいぞく)退(しりぞ)
き一様(いちやう)ならざるはいかなる道理(どうり)ぞ又(また)五宝丹(ごほうたん)雞鹿散(けいろくさん)雞汁煎(けいじゆせん)山(さん)
皈来剤(きらいざい)嗅薬(かぎぐすり)軽粉剤(けいふんざい)生々乳(せい〳〵にう)そつぴるどろしすかるめら剤(ざい)等(とう)
を用(もち)ひて十(とう)の物(もの)八ツ迄(まで)治(ぢ)し今(いま)一ツになりて治(ぢ)せず前方(ぜんぱう)を以て数日(すじつ)
合戦(かつせん)に及(およ)ふ内(うち)に次第(しだい)にあともどりして治(ぢ)せざるはいかなる故(ゆへ)ぞ願(ねがはく)は
其 高論(かうろん)を聞(きか)んと温和(おんくは)の尋(たづね)にこなたも会尺(ゑしやく)し足下(そくか)の問(とい)尤(もつと)も
肝要(かんよう)の事なり凡(およそ)人体国(にんたいこく)の強弱(きやうじやく)病賊(びやうぞく)の軽重(けいぢう)にかゝわらず薬(くすり)瞑(めん)
【左丁】
眩(けん)の不 同(とう)あるは其(その)国々(くに〴〵)の生質(せいしつ)による薬(くすり)の瞑眩(めんけん)は酒(さけ)に准(じゆん)じて知(し)るべし
壱分の軽粉(けいふん)を服(ふく)して大(おゝい)に瞑眩する者(もの)は酒(さけ)壱合(いちごふ)を飲(のん)で大に醉(ゑい)を
発(はつ)するがごとし軽粉(けいふん)二匁を用(もち)ひて口中(こうちう)いたまざる者(もの)は酒(さけ)二升(にしやう)を飲(のん)で
も醉(ゑは)ざるが如(ごと)し又 軽粉(けいふん)の類(るい)を用(もち)ゆるに大に瞑眩(めんけん)する時(とき)と又瞑眩
の少(すくな)き時(とき)あり是(これ)も酒(さけ)のむ人の能(よく)醉(ゑう)時(とき)と又 醉(ゑは)ざる時(とき)有(ある)がごとし或(あるひ)は
劇剤(げきざい)を用(、もち)ゆるに初(はじ)めは大に瞑眩し続(つゞい)て数日(すじつ)用(もち)ゆる内(うち)に次第(しだい)に
瞑眩せざる様(やう)になる者(もの)あり是(これ)も下戸(げこ)の酒(さけ)を飲(のむ)にしたがひ上(じやう)
戸(ご)になるが如(ごと)し又(また)必(かならず)口中(こうちう)爛傷(らんしやう)して涎沫(よだれ)を吐(はか)ざれば黴賊(ばいぞく)さらずと
云(い)ふにあらず口中(こうちう)腐爛(ふらん)して臭(くさ)き涎沫(よだれ)を吐(はく)は薬毒(やくとく)の抜(ぬけ)いづる
にて黴毒(ばいどく)のぬけるにあらず此故(このゆへ)に涎沫(よだれ)出(いづ)るとも黴毒(ばいどく)治(ぢ)せざる者(もの)
あり涎沫(よだれ)出(いで)ざれども黴毒(ばいどく)治(ぢ)する者(もの)あり凡(およそ)黴毒(ばいどく)賊徒(ぞくと)はいづれより
【右丁】
逃(にげ)さると云(い)ふ事を知(し)らず此者(このもの)発表(はつぴやう)して治(じ)【ママ】するもあり吐下(はとげ)して治
するもあり或(あるひ)は吐下(とげ)発表(はつぴやう)なく消化(しやうくは)して治(ぢ)するもあり故(かるがゆへ)に劇(げき)
剤(ざい)を用(もち)ひて発熱(ほつねつ)発斑(ほっぱん)するもあり自下利(じげり)するもあり或(あるひ)は
何(なに)となく気分(きぶん)悪(あし)く不食(ふしよく)する者(もの)もあり是(これ)も薬(くすり)の瞑眩(めんけん)なり
此時(このとき)は気分(きぶん)よくなる迄(まで)合戦(かつせん)をやめ一度(ひとたび)御方(みかた)のゑいきをとゝのへよく
食(しよく)するに至(いた)りて又(また)前日(ぜんじつ)の薬将(やくしやう)を以(もつ)て合戦(かつせん)に及(およ)ぶべきなり然(しかれ)ども
其初(そのはじ)めの一軍(ひといくさ)にて必勝(かならずかつ)か勝(かた)ざるかを能々(よく〳〵)見(み)はけ而(しかう)して后(のち)に戦(たゝか)ふべし
凡(およそ)合戦(かつせん)は先(まづ)敵将(てきしやう)の智勇(ちゆう)虚実(きよじつ)をはかり其相手(そのあいて)になるべき大(たい)
将(しやう)を択(ゑら)み其時(そのとき)の変(へん)に応(おう)じて戦(たゝか)はざれば必勝(ひつしやう)の理(り)はあるべからずたと
へば黴効散(ばいこうさん)にて全治(ぜんぢ)するの証に治瘡丸(ぢさうぐわん)を用(もち)ひても延寿丸
を用ひても半(なかば)は治(ぢ)する様(よう)なれども適当(てきとう)の薬(くすり)にあらざれば全治(ぜんぢ)
【左丁】
ぜずして連服(れんぷく)する内(うち)にはあとをごりする者(もの)なり故(かるがゆへ)に其症(そのしやう)に応(おう)
ぜずと見(み)る時(とき)はよろしく方(はう)をかゆべきのみ篤(とく)と勘弁(かんべん)し玉(たま)へと
いふに両人(りやうにん)甘心(かんしん)し坐(ざ)を退(しり)ぞけば末坐(ばつざ)より部良棒菴(べらぼうあん)声(こへ)を
あげ某(それがし)も問事(とふこと)あり黴毒(ばいどく)をやめる国(くに)と一度(ひとたび)交(まじは)りても直(じき)に伝染(でんせん)
する国(くに)もあり又 黴毒(ばいどく)をやめる国(くに)と一期(いちご)夫婦(ふうふ)の交(まじは)りをなせども伝(でん)
染(せん)せざる国(くに)あるはいかんと云(い)ふを淳直(じゆんちよく)遙(はるか)に見(み)やりこは事々(こと〴〵)しき
問条(とひじやう)かな凡(およそ)人身(にんしん)に天稟(てんりん)の毒(どく)と云(いふ)ふ者(もの)あり此毒(このどく)ある者(もの)は不
正(せい)の邪気(じやき)に和(くわ)し易(やす)し故(かるがゆへ)に伝染(でんせん)あり黴毒(ばいどく)疥癬(ひぜん)疱瘡(ほうそう)はしか
等(など)は日本(にちぽん)の地(ち)に本(もと)よりある病(やまひ)に非(あら)ず中古(ちうこ)以来(いらい)外国(ぐわいこく)より
渡(わた)る所(ところ)なり此毒(このどく)人身(にんしん)天稟(てんりん)の毒(どく)に和(くわ)して伝染(でんせん)す天稟(てんりん)の
毒(どく)なき者(もの)は伝染(でんせん)せず天稟(てんりん)の毒(どく)軽(かる)き者(もの)は伝染(でんせん)するとも
【右丁】
治(ぢ)し易(やす)し天稟(てんりん)の毒(どく)深重(しんぢう)なるものは伝染(でんせん)し易(やす)く且(かつ)治(ぢ)し
がたし世俗(せぞく)天稟(てんりん)の毒(どく)ある事を知(し)らず父母(ふぼ)の黴毒(ばいどく)を受継(うけつぎ)瘡(さう)
毒(とく)の発(はつ)するのみを胎毒(たいどく)と思(おも)へども天稟(てんりん)の毒(どく)則(すなはち)胎毒(たいどく)なり其(その)伝(でん)
染(せん)すると伝染(でんせん)せざると伝染(でんせん)して軽重(けいぢう)あるは漆(うるし)の気(き)に感(かん)ずる
と感(かん)ぜさると是(これ)に感(かん)じて軽重(けいぢう)あるがごとしみなこれ天稟の毒(どく)の有无(うむ)厚(かう)
薄(はく)生質(せいしつ)の不 同(どう)による者(もの)なり疱瘡(ほうさう)痲疹(はしか)の如(ごと)きは其毒(そのどく)酷烈(こくれつ)な
るを以(もつ)て胎毒(たいどく)に和(くわ)する時(とき)正気(しやうき)とたゝかふ故(ゆへ)に必(かならず)大に発熱(ほつねつ)す此病(このやまひ)
一(ひと)たびやんで愈(いゆ)るときは天稟の毒(どく)邪毒(じやどく)と共(とも)に尽(つき)て再(ふたゝび)伝染(でんせん)せず
是(これ)疱瘡(ほうさう)痲疹(はしか)のみにあらず黴毒(ばいどく)疥癬(ひぜん)の如(ごと)きも其(その)症(しやう)に能(よく)応(おう)じ
たる薬(くすり)を以(もつ)て其(その)病根(びやうこん)を抜(ぬ)く時(とき)は再(ふたゝひ)伝染(でんせん)の患(うれい)なし是(これ)其(その)天稟(てんりん)の
毒(どく)尽(つく)るが故(ゆへ)なり是等(これら)は難(かた)き事にあらずよく思(おも)ふてしり玉(たま)へと
【左丁】
言句(ごんく)戻(もと)らず弁舌(べんぜつ)さはやかにして数番(すばん)の問答(もんどう)響(ひゞ)きのこへに応(おう)
ずるが如(ごと)く滔々(とう〳〵)と弁(べん)じおはれば諸医(しよい)屈伏(くつぷく)の色(いろ)を顕(あら)はし再(ふたゝび)言(ことば)を
発(はつ)する者(もの)なしかゝる所(ところ)に滑田順才(ぬめたじゆんさい)不実貪欲(ふじつとんよく)の両人(りやうにん)きつと目(めく)
注(ばせ)し一度(いちど)に刀(かたな)を抜(ぬい)て跳(おど)り出(い)で淳直(じゆんちよく)匹夫(ひつぷ)よつくきけ我々(われ〳〵)両 鬼神(きじん)
黴毒(ばいどく)大王の命(めい)によつて医者(いしや)となりていりこみ汝等(なんじら)が軍配(ぐんぱい)をさ
またげ武勇(ふゆう)の薬将(やくしやう)を遠(とふ)ざけ黴軍(ばいぐん)へ内通(ないつう)し此国(このくに)を始(はじ)め属(ぞく)
国(こく)も尽(こと〳〵)く亡(ほろぼ)さんと思(おも)ひしに汝(なんじ)にさゝへられ其(その)計(はかりこと)行(おこな)はれざるのみか
耳(みゝ)鼻(はな)を切(き)られ追払(おいはら)はれなば黴毒(ばいどく)大王の怒(いか)りに逢(あは)んこと必(ひつ)
定(ぢやう)せり今は是迄(これまで)両(りやう)人が死物狂(しにものぐる)ひなるぞ観念(くわんねん)せよと驀地(まつしぐら)
に討(うつ)てかゝる淳直(じゆんちよく)は少(すこ)しも騒(さはが)ず身(み)をかわしてはつたと白眼(にらみ)おのれ
ら如(ごと)きあさましき悪鬼(あくき)万物(ばんぶつ)の長(ちやう)たる人(にん)げんに近付(ちかづ)き仇(あだ)をなさん
【右丁】
とは不 敵(てき)なり四天王(してんわう)の輩(ともがら)きやつ討取(うちと)れと下知(けじ)すれば延寿(ゑんじゆ)丸 黴効散(ばいこうさん)心得(こゝろへ)
たりと飛(とび)かゝり手取(てど)りにせんと追廻(おいまは)る内(うち)二人(にゝん)の姿(すがた)は影(かげ)の如(ごと)く濛々(もう〳〵)として
消失(きへうせ)たり淳直(じゆんちよく)是(これ)を見(み)て是(これ)彼(かれ)が妖術(ようじゆつ)なり黴効散(ばいこうさん)早(はや)く煙(けむ)りを挙(あげ)
よと云(い)ふ下(した)より黴効散(ばいこうさん)は天(てん)に向(むか)ひ一条(いちじやう)の烟(けむり)を吹(ふき)かくれば順才貪欲(じゆんさいとんよく)
隠(かく)ること能(あた)はず異形(いぎやう)の姿(すがた)を顕(あら)はし雲(くも)を起(おこ)して逃(にげ)んとするを延寿丸(ゑんじゆぐわん)
黴効散(ばいこうさん)猿臂(ゑんぴ)を延(のば)して二人(ににん)をとらへ一(ひと)しめしむれば七穴(しちけつ)より鮮血(せんけつ)
を流(なが)し眼(まなこ)飛出(とびいで)手足(てあし)をもがひて死(し)したりけり此(この)ありさまに国(こく)
王(わう)は驚(おどろ)き且(かつ)喜(よろこ)び某(それがし)不 明(めい)にしてかゝる妖怪(ようくはい)共(とも)しらず信愛(しんあい)せし
事の愧(はづかし)さよ両将(りやうしやう)の武勇(ぶゆう)によりて亡(ほろ)び失(う)せたるは国(くに)の吉事(きちじ)軍神(ぐんじん)
の血祭(ちまつ)り共(とも)ならん賀(が)すべし〳〵且(かつ)先程(さきほど)よりの論討(ろんとう)を承(うけたまは)るに先生(せんせい)の
高才(かうさい)測(はか)るべからず疑念(ぎねん)全(まつた)く解(とけ)畢(おは)りぬ今(いま)よりは先生(せんせい)を以(もつ)て黴賊(ばいぞく)
【左丁】
征伐(せいばつ)の大元帥(たいげんすい)となさん諸君(しよくん)も是迄(これまで)の好(よし)みを忘(わす)れずおり〳〵来(きたり)て軍(ぐん)
配(ばい)を助(たす)け玉(たま)へと云(い)ふに皆々(みな〳〵)威儀(いぎ)を改(あらた)め此儀(このぎ)尤(もつとも)然(しか)るべし我々(われ〳〵)は一先(ひとまづ)引(ひき)とり
万一(まんいち)合戦(かつせん)難儀(なんぎ)の事(こと)もあらば速(すみやか)に集(あつま)らんと国王(こくわう)淳直(じゆんちよく)等(とう)に暇(いとま)を告(つ)
げ各国(かくこく)へと帰(かへ)り去(さ)る淳直(じゆんちよく)は国主(こくしゆ)に向(むか)ひ今日(こんにち)より元帥(げんすい)の任(にん)を受(うく)
れば万事(ばんじ)我(わ)れにまかせ玉(たま)へ古語(こご)に云(い)へる如(ごと)く軍陣(ぐんじん)に臨(のぞ)みては君命(くんめい)
も聴(きか)ざる事あり軍事(ぐんじ)に付(つい)て主公(しゆこう)の異論(いろん)あるべからず兵(へい)は神速(しんそく)を
貴(たつと)ぶといへば是(これ)より直(すぐ)に国中(こくちう)を巡見(じゆんけん)し其(その)容体(ようだい)を察(さつ)し合戦(かつせん)を
始(はじ)むべしと国主(こくしゆ)の近臣(きんしん)を案内(あんない)とし脈道(みやくどう)【脉は俗字】を始(なじ)め腹部(ふくぶ)頭面(づめん)唇舌(しんぜつ)等(とう)の
諸道(しよどう)を巡行(じゆんこう)して切所(ぜつしよ)要害(ようがい)賊軍(ぞくぐん)の屯(たむろ)する所(ところ)迄(まで)尽(こと〴〵)く見定(みさだ)め王城(わうじやう)
に帰(かへ)りて国主(こくしゆ)に是(これ)を奏(そう)し明日(めうにち)より合戦(かつせん)を催(もやう)さんと其(その)用意(ようい)をぞ急(いそぎ)ける
黴瘡軍談(ばいさうぐんだん)二の巻(くわん)終(おわり)
【右丁】
《割書:家伝|秘方》 輔神丸(ほじんぐはん) 《割書:一廻り七日ぶん|七服入代銀拾匁》 船越敬祐製(大阪北久宝寺町三休橋西へ入)【陽刻印】
【縦線有り】
此薬(このくすり)は犀角(さいかく)大人参(だいにんじん)洎夫藍(さふらん)等(など)を以(もつ)て製(せい)する故(ゆへ)に吐(は)き下(くだ)し
なくして其(その)妙功(めうこう)神(しん)のごとし第一(だいいち)下血(げけつ)とて大便(だいべん)にをるとき鮮(いろよき)
血(ち)を下(くだ)すなり《割書:但しはらいたみくろくかたまりたる|ちをくだすものは此くすり功なし》是(これ)あへて腹中(ふくちう)より
血(ち)のくだるにあらず肛門(こうもん)の内(うち)やぶるゝ所(ところ)ありて血(ち)下(くだ)るなり
甚(はなは)だしき者(もの)は一度(いちど)に五 合(ごう)壱 升(しやう)と下(くだ)ることあり数日(すじつ)くだる
ときは精気(せいき)よわり色(いろ)青(あを)くなるべし此症(このしやう)に此薬(このくすり)を用(もち)ひて速(そく)
功(こう)を得(う)ること奇々(きゝ)妙々(めう〳〵)なりその其外(そのほか)吐血(とけつ)衂血(はなぢ)咳血(たんけつ)等(など)に大妙(だいめう)
薬(やく)なり婦人(ふじん)月(つき)やくのをりもの止(やま)ざるに妙功(めうこう)あり一日に壱(いつ)
ぷくヅヽさゆにて三度(さんど)にのむべし百発百中(ひやくはつひやくちう)の神薬(しんやく)なり
【左丁 白紙】
【右丁 本文は前コマに同じ。】
【左丁 折り返しに手書き文字有り】
入コルソ【意味不明】
【裏表紙】
【表紙 題箋】
絵本黴瘡軍談 中
【資料整理ラベル】
富士川本
エ
23
【右丁白紙】
【左丁】
黴瘡軍談(ばうさうぐんだん)巻(くはん)の第(だい)三
伯州米子船越敬祐著
襲(おそつて)_二敵(てき) 陣(ぢんを)_一遺(い) 毒(どく) 喪(うしなふ)_レ首(かうべを)
失(うしなふて)_二本(ほん) 営(ゑいを)_一瘰(るい) 癧(れき) 晦(くらます)_レ迹(あとを)
福徳自在衛門(ふくとくじざゑもん)が人体国(にんたいこく)に攻入(せめいり)たる黴賊(ばいぞく)は瘰歴(るいれき)【癧】腫高(はれたか)遺毒抜兼(いどくぬけかね)
の両人(りやうにん)なり二賊(にぞく)ともに智謀(ちばう)深(ふか)く攻戦(こうせん)に慣(なれ)たり年(とし)を経(へ)て国家(こくか)を
蚕食(さんしよく)し遺毒抜兼(いどくぬけかね)は八方(はつぱう)に眷属(けんぞく)を分(わか)ち両腕(りやううで)に筋骨腫痛(きんこつしゆつう)の陣(ぢん)
をはり脇肋(きやうろく)には腫痛(しゆつう)腐爛(ふらん)の砦(とりで)をかまへ又(また)両膝頭(りやうひざがしら)に鶴膝風(くはくしつぷう)【注】の
ごとき陣(ぢん)をかまへ両脚(りやうぎやく)向臑(むこうすね)にも骨腫痛(こつしゆつう)の陣(ぢん)をはる所々(しよ〳〵)或(あるい)は腫(はれ)
或(あるい)はいたみ或(あるひ)は腐爛(ふらん)し或(あるひ)は膿水(のうすい)を流(なが)し或(あるひ)は寒熱(かんねつ)を往来(わうらい)させ
日夜(にちや)を分(わか)たず攻侵(せめおか)す瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】腫高(はれたか)は首(くび)すじ咽喉(いんこう)一面(いちめん)に気腫(きしゆ)
【注 脚がやせ細って鶴の脚のようになり歩行困難となる病気。】
【蔵書印 右下の二つの内の上】
富士川游寄贈
【同上部欄外】
富士川氏藏
京都
帝国大学
図書之印
【資料番号と日付】
183806
大正7、3、31
【右丁】
瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】等(など)の陣(ぢん)を数(す)ヶ(か)所(しよ)にかまへいたみを発(はつ)して紫黒色(しこくしよく)となり
口(くち)をひらき少(すこ)しづゝ黄水(わうすい)膿汁(のうじう)をながして止(やま)ず其狼藉(そのらうぜき)侵掠(しんりやう)
言(ことば)をもつていふべからず是迄(これまで)討手(うつて)に向(むか)ひし薬將(やくしやう)は三味夏枯草(さんみかこさう)
湯(とう)鯉魚湯(りぎよとう)七味夏枯草湯(しちみかこさうとう)糸瓜散(しくわさん)紫金丹(しきんたん)五宝丹(ごほうたん)山帰来(さんきらい)
剤(ざい)鶏汁煎(けいじうせん)雞鹿散(けいろくさん)提灯屋薬(ちやうちんやくすり)七腹薬(しちふくくすり)首(くび)より上(うへ)の薬(くすり)芎黄散(きうわうさん)
反鼻丸(はんびぐはん)益気湯(ゑききとう)大補湯(たいふとう)五龍円(ごりやうゑん)【圓】三臓円(さんざうゑん)【圓】等(など)いづれも力(ちから)を
つくして防(ふせ)げども二賊(にぞく)の勇猛(ゆうもう)あたりがたく其上(そのうへ)神変奇怪(じんべんきくわい)
の術(じゆつ)をおこなひ雨(あめ)をよび風(かぜ)をおこし雲(くも)をまねき霧(きり)をふらし
聚散(じゆさん)出没(しゆつぼつ)自在(じざい)にして薬軍(やくぐん)むかふ毎(ごと)になやまされたゝかふ
ごとに敗(やぶ)れをとり国中(こくちう)は日(ひ)を追(お)ふて弱(よわ)り賊徒(ぞくと)はいよ〳〵勝(かつ)に
に【「に」の重複ヵ】乗(の)る実(じつ)に危急存亡(ききうぞんぼう)の時(とき)なり去程(さるほど)に淳直(じゆんちよく)は其翌日(そのよくじつ)より合戦(かつせん)
【左丁】
を催(もやうさ)んと味方(みかた)の諸將(しよしやう)を駆(か)り集(あつ)め総軍(さうぐん)の隊伍(たいご)をさだむ先(まづ)先鋒(せんばう)
には葛根加朮附湯(かつこんかじゆつぶとう)三千 余騎(よき)を一手(ひとて)に備(そな)へ整々(せい〳〵)として推出(おしいだ)す中陣(ちうぢん)は
治瘡丸(ぢさうぐはん)二千 余騎(よき)図合(づあい)をはかりて切入(きりい)らんと兵(へい)を真(まん)まるに備(そな)へ
て先陣(せんぢん)の勢(いきお)ひをたすく後陣(ごぢん)は黴効散(ばいかうさん)三千 余騎(よき)諸軍(しよくん)のおさへ
として長蛇(ちやうじや)の陣(ぢん)をはり弱(よわ)き方(かた)をたすけんと八方(はつぱう)に眼(まなこ)をくばり
総(さう)【捴】勢(ぜい)八千 余騎(よき)列(れつ)を乱(みだ)さず瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】が陣(ぢん)を望(のぞ)んですゝみ出(いづ)れば
敵方(てきがた)もかくと聞(きく)より遺毒抜兼(いどくぬけかね)わが陣(ぢん)を手下(てした)の大将(たいしやう)に預(あづけ)
自身(じしん)は瘰癧(るいれき)【癧とあるところ】が本陣(ほんぢん)に来(きた)りて一手(ひとて)となり其勢(そのせい)凡(およそ)弐万(にまん)
余騎(よき)陣(ぢん)を霍翼(くはくよく)に備(そな)へ営(ゑひ)を出(いで)て待(まち)かけたり両軍(りやうぐん)その間(あい)
纔(わづか)に三段(さんだん)ばかりになりし時(とき)双方(さうはう)一度(いちど)に攻鼓(せめつゞみ)をならし鬨(とき)を作(つく)る
事(こと)三 度(ど)黴軍(ばいぐん)の陣門(ぢんもん)忽(たちまち)左右(さゆう)にひらけ両賊將(りやうぞくしやう)鎧兜(よろひかぶと)花(はな)やかに出(いで)
【右丁】
たち数多(あまた)の小賊(せうぞく)にあたりを囲(かこま)【圍】せ馬(むま)を跳(おど)らせてすゝみ出(いで)大音(だいおん)にて
叫(さけ)びけるは薬軍(やくぐん)の先鋒(せんばう)に進(すゝ)みたるは【「は」は衍字ヵ】葛根加朮附湯(かつこんかじゆつぶとう)なるかやさし
くも我々(われ〳〵)に向(むか)ふて矢(や)の一筋(ひとすじ)も射(い)かけんと思(おも)ひ立(たち)し者(もの)かな汝(なんぢ)は我々(われ〳〵)が
相手(あいて)にあらず近(ちか)よりてあたら命(いのち)を失(うしなは)んよりはやく退(しるぞ)きて後陣(ごぢん)に
扣(ひか)へたる治瘡丸(ぢさうぐわん)黴効散(ばいかうさん)を出(いだ)せよといはせも果(はて)ず葛根加朮附湯(かつこんかじゆつぶとう)軍(ぐん)
前(ぜん)に馬(むま)をすゝめ汝等(なんぢら)賊徒(ぞくと)の分斉(ぶんざい)として妄(みだ)りに大言(たいげん)を吐(は)くことなか
れ我(わ)が人体国(にんたいこく)は清浄(しやう〴〵)自然(しぜん)の神国(しんこく)なりしに国王(こくわう)の油断(ゆだん)より汝等(なんぢら)が
ごとき無頼(ぶらい)獰悪(ねいあく)【「どうあく」とあるところ】の徒(ともが)らに侵(おか)し掠(かす)められ一国(いつこく)其毒(そのどく)にくるしむ事(こと)
久(ひさ)し今(いま)や天命(てんめい)循環(じゆんくわん)して梟賊(けうぞく)殄滅(ちんめつ)【「てんめつ」とあるところ】の時(とき)いたり神兵(しんぺい)こゝに発向(はつかう)す
早々(さう〳〵)旗(はた)を伏(ふ)せ馬(うま)を回(かへ)して国外(こくぐわい)に逃去(にげさ)るべし若(もし)惑(まどひ)を抱(いだ)きて遅々(ちゝ)
する時(とき)は汝等(なんぢら)をはじめ末々(すへ〴〵)の小賊(せうぞく)
にいたる迄(まで)一人(いちにん)も余(のこ)【餘】さず身首(しんしゆ)その
【左丁】
所(ところ)を異(こと)にせんと高(たか)らかに呼(よば)はれば両賊(りやうぞく)は大(をゝい)に怒(いか)り出(いづ)るまゝの悪(あく)
言(げん)其罪(そのつみ)許(ゆる)しがたしさらば先(まづ)汝(なんじ)を生捕(いけどり)て生(いき)ながら其(その)舌(した)の根(ね)を抜(ぬか)
んと遺毒抜兼(いどくぬけかね)は画(ぐは)?雲(うん)の方(はう)天(てん)戟(げき)を打(うち)ふり瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】腫高(はれたか)は連環(れんくわん)
鉤鏁(かうさ)【鈎は鉤の俗字】の流星(りうせい)槌(つい)を投(なげ)かけ総(さう)【捴】軍(ぐん)を駆(かつ)て驀地(まつしぐら)に打(うつ)てかゝる葛根(かつこん)
加朮附湯(かじゆつぶとう)は少(すこ)しも騒(さわ)がず馬(うま)を乗(のり)すへて陣脚(ぢんぎやく)をかため鎗(やり)を挙(あげ)て
麾(さしまね)けば薬軍(やくぐん)の陣中(ぢんちう)より鉄炮(てつぱう)弩(いしゆみ)をつるべ放(はな)つ事(こと)雨(あめ)のごとく先(さき)
に立(たつ)たる賊軍(ぞくぐん)二百 余騎(よき)枕(まくら)を並(なら)べて打倒(うちたを)され勢(いきお)ひ少(すこ)ししらけたる
所(ところ)へ薬軍(やくぐん)の総(さう)【捴】勢(ぜい)鋒先(ほこさき)をそろへ面(おもて)も振(ふら)ず切(きつ)てかゝれば賊軍(ぞくぐん)は色(いろ)めき
たち已(すで)に総(さう)【捴】敗軍(はいぐん)と見(み)へにけるときに両賊將(りやうぞくしやう)は馬上(ばじやう)にありながら
髪(かみ)をさばき手(て)に印(いん)を結(むす)び口(くち)に咒文(じゆもん)を唱(とな)ふれば忽(たちま)ち天地(てんち)晦冥(くはいめい)し
隠々(いん〳〵)たる毒霧(どくむ)陣上(ぢんしやう)におこり咫尺(しせき)の間(あいだ)も見分(みわく)る事(こと)あたはずさし
は
【右丁】
も勇(いさ)みし薬軍(やくぐん)ども茫然(ぼうぜん)として向(むか)ふ所(ところ)をしらず賊徒(ぞくと)は得(え)たり
と取(とつ)てかへし度(ど)を失(うしな)ふたる薬軍(やくぐん)を四方(しはう)より取(とり)かこみ一人(いちにん)もあま
さじと揉(も)みたつる葛根加朮附湯(かつこんかじゆつぶとう)心(こゝろ)はやたけにはやれども妖術(ようじゆつ)
に眼(まなこ)をくらまされ將卒(しやうそつ)所々(しよ〳〵)に引別(ひきわか)れ討(うた)るゝ者(もの)数(かず)をしらず
必死(ひつし)に成(なり)て戦(たゝか)ふたり中陣(ちうぢん)に扣(ひか)へたる治瘡丸(ぢさうぐわん)遥(はるか)に此体(このてい)を見(み)て
大(をゝい)に驚(おどろ)き後陣(ごぢん)の黴効散(ばいかうさん)と一手(ひとて)になり疾風(しつぷう)のごとくかけきたり
中(なか)にも黴効散(ばいかうさん)は陣頭(ぢんとう)に向(むか)ふて仙烟消霧(せんゑんせうむ)の術(じゆつ)を行(おこな)へば毒霧(どくむ)
たちまち消滅(せうめつ)して敵味方(てきみかた)の陣勢(ぢんせい)分明(ふんめう)にあらはれたりこれに
気(き)を得(え)て内(うち)よりは葛根加朮附湯(かつこんかじゆつぶとう)外(そと)よりは治瘡丸(ぢさうぐはん)黴効散(ばいかうさん)諸卒(しよそつ)
を励(はげ)まして散々(さんざ)に切(きつ)てまはる其(その)切先(きつさき)するどくして当(あた)るべから
ず賊軍(ぞくぐん)再(ふたゝ)び敗形(はいぎやう)をあらはし右往左往(うわうざわう)に崩(くづ)れたてば両賊將(りやうぞくしやう)
【左丁】
もとも崩(くづ)れになり纔(わづか)に数千騎(すせんぎ)に討(うち)なされ本陣(ほんぢん)さして逃(にげ)
返(かへ)る葛根加朮附湯(かつこんかじゆつぶとう)治瘡丸(ぢさうぐはん)微効散(ばいかうさん)勝(かつ)に乗(のり)て追掛(おつかけ)〳〵
付入(つけいり)にせんとしたりけれども賊軍(ぞくぐん)已(すで)に営中(ゑいちう)に入(い)りかたく守(まも)り
て出合(いであは)ず其日(そのひ)もすでに暮(くれ)しかば軍(いくさ)を収(をさ)め野陣(のぢん)をとり合戦(かつせん)
の次第(しだい)を王城(わうじやう)に注進(ちうしん)す淳直(じゆんちよく)は軍(いくさ)の様子(やうす)を聞(きゝ)国王(こくわう)にむかふて
申(もう)しけるは御方(みかた)手合(てあはせ)の一戦(いつせん)に打勝(うちかち)たれば此機(このき)をはづさず攻(せめ)
立(たて)なば賊徒(ぞくと)の滅亡(めつぼう)すみやかならん明日(めうにち)の合戦(かつせん)には某(それがし)も彼処(かしく)
に向(むか)ふべしと国王(こくわう)に暇(いとま)をつげ綸巾(かんきん)【注①】を戴(いたゞ)き羽扇(うせん)【注②】を携(たづさ)へ安(あん)
車(しや)【注③】に乗(じやう)じて直(たゞち)に薬軍(やくぐん)の陣(ぢん)に入(い)れば大将(たいしやう)をはじめ士卒(しそつ)にいたる
までこと〴〵く勇気(ゆうき)をまし元帥(げんすい)こゝに来(きた)り玉(たま)へば賊軍(ぞくぐん)の妖(よう)
術(じゆつ)恐(おそ)るゝにたらず凱歌(かいが)を唱(となへ)ん事(こと)明日(めうにち)を出(いで)まじと手(て)を拍(うつ)て
【注① 青糸の綬で作った頭巾。諸葛孔明のかぶったもの。】
【注② 鳥の羽で作ったうちわ。】
【注③ 座って乗る老人・婦人用の馬車。】
【右丁】
悦(よろこび)合(あ)ふ淳直(じゆんちよく)はこれを制(せい)し賊徒(ぞくと)一旦(いつたん)のやぶれを取(と)るといへども勢(いきお)ひ
なを強大(きやうだい)なり殊(こと)に彼(かの)両(りやう)賊将(ぞくしやう)は智謀(ちぼう)深(ふか)くして出没(しゆつぼつ)測(きはま)りがたし
将卒(しやうそつ)心(こゝろ)を一(いつ)にして切所(ぜつしよ)にかまへて動(うご)かざる時(とき)は中(なか)〳〵急(きう)には攻(せ)め
がたからん先(まづ)試(こゝろみ)にせめ寄(よ)せて其(その)動静(どうせい)を見(み)るべしと其(その)翌日(よくじつ)
より三将(さんしやう)に下知(げぢ)して交(かは)る〴〵賊営(ぞくゑい)に向(むか)はしめ戦(たゝかひ)を挑(いど)むといへ
ども賊軍(ぞくぐん)は前日(ぜんじつ)のやぶれにこりて塁(るい)をかたくし溝(みぞ)をふかくし
防禦(ばうぎよ)の術(じゆつ)におこたらざればいかに攻(せむ)れどもよはるべき気色(けしき)は
見(み)へず已(すで)に数日(じつ)をおくりければ淳直(じゆんちよく)はこの体(てい)を見(み)てかすく長(ちやう)
陣(ぢん)に日(ひ)を度(おく)らば国中(こくちう)の弊(ついへ)を引出(ひきいだ)し却(かへつ)て味方(みかた)の害(がい)となら
ん今(いま)我(わ)れ一策(いつさく)を設(もう)けて此(こな)【ママ】備(そな)へを打破(うちやぶる)べしと急(きう)に王城(わうじやう)に
使(つかひ)を馳(はせ)て延寿丸(ゑんじゆぐはん)を呼(よび)よせ又(また)諸陣(しよぢん)に触(ふ)れて囲(かこみ)をとかせ
【左丁】
数里(すり)の外(ほか)に陣(ぢん)をうつし只(たゞ)遠攻(とふぜめ)の勢(いきほ)ひをなしはなはだ油断(ゆだん)
の体(てい)に見(み)へければ黴軍(ばいぐん)どもはじめは其(その)計(はかりこと)あらん事(こと)を恐(おそ)れ
て敢(あへ)て妄(みだり)に出(いで)んともせざりしが已(すで)に日(ひ)を経(へ)て薬軍(やくぐん)益(ます〳〵)用心(やうじん)の体(てい)
なきをみきはめ遺毒抜兼(いどくぬけかね)瘰歴腫高(るいれきはれたか)に向(むか)ひ薬軍(やくぐん)味方(みかた)防禦(ばうぎよ)
のつよきに倦(う)み退屈(たいくつ)の色(いろ)をあらはし只(たゞ)遠攻(とをぜめ)になし御方(みかた)兵粮(ひやうらう)の尽(つく)る
をまつと見(み)へたり此時(このとき)をはづさず一夜(ひとよ)討(うち)なさば味方(みかた)の勝利(しやうり)うた
がひなからんといふ瘰歴(るいれき)は頭(かしら)をふり此度(このたび)寄(よせ)来(く)る薬兵(やくへい)は前々(せん〴〵)
の弱輩(じやくはい)とおなじからず且(かつ)軍師(ぐんし)たる篤実(とくじつ)淳直(じゆんちよく)謀(はかりこと)を帷幄(いばく)
のうちにめぐらし進退(しんたい)緩急(くわんきう)その度(ど)をうしなはず今(いま)陣(ぢん)を退(しり)
ぞけ葛根加朮附湯(かつこんかじゆつぶとう)ばかりをもつて戦(たゝか)ひ油断(ゆだん)の体(てい)に見(み)するは
必(かなら)ず深(ふか)き謀(はかりこと)あるべし先(まづ)細作(さいさく)を入(い)れてその様子(やうす)を窺(うかゞ)はせ其后(そののち)
【右丁】
夜討(ようち)をかくるとも遅(おそ)かるまじと即(すなは)ちしのびになれたる者(もの)を選(ゑら)み
出(いだ)し薬軍(やくぐん)の陣(ぢん)に入(い)り実否(じつぷ)を窺(うかゞ)はしむるに其(その)忍(しの)び両(りやう)三日を
経(へ)て返(かへ)り来(きた)り敵方(てきがた)の将卒(しやうそつ)先日(せんじつ)の勝利(しやうり)に心(こゝろ)おごり且(かつ)味方(みかた)の
打(うつ)て出(いで)ざるを侮(あなど)り軽(かろ)んじ只(たゞ)遊戯(ゆうげ)して用心(ようじん)の体(てい)少(すこ)しもなし
と報(ほう)じければ瘰歴(るいれき)もうたがひをさんじさらば今宵(こよひ)逞兵(ていへい)をすぐり
て夜討(ようち)すべしと諸卒(しよそつ)に下知(げぢ)して用意(ようい)をなす此時(このとき)薬軍(やくぐん)の方(かた)に
は淳直(じゆんちよく)諸将(しよしやう)をあつめ潜(ひそ)かにいふやう今夕(こよひ)賊軍(ぞくぐん)にあたりて兵粮(ひやうらう)
を炊(かし)く烟(けむ)り見(み)へたり此頃(このごろ)我(わ)が計(はかりこと)をもつて油断(ゆたん)の体(てい)に見(み)せたるを
実(まこと)と思(おも)ひ夜打(ようち)をなすと覚(おぼ)ゆるぞ是(これ)こそ我(わ)がおもふ図(づ)なり今(こ)
宵(よひ)の内(うち)に賊将(ぞくしやう)を討取(うちと)るべし先(まづ)其(その)手分(てわけ)をなさんと延寿丸(ゑんじゆくわん)と
葛根加朮附湯(かつこんかじゆつぶとう)に各(おの〳〵)数千騎(すせんぎ)を分(わか)ちあたへ合図(あいづ)の場処(ばしよ)に向(むか)は
【左丁】
しめ陣中(ぢんちう)には態(わざ)と篝(かゞり)をたかせ旌指物(はたさしもの)も其儘(そのまゝ)立(た)ておき
兵卒(へいそつ)も鎧(よろひ)をとき眠(ねむ)りたる体(てい)にみせ敵(てき)のよするを待(ま)ち居(い)たり去(さる)
ほどに賊陣(ぞくぢん)には八千 余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わ)け一手は瘰歴腫高(るいれきはれたか)を大将(たいしやう)
として陣中(ぢんちう)を守(まも)らせ一手は遺毒抜兼(いどくぬけかね)自(みづから)大将(たいしやう)として薬軍(やくぐん)を夜(よ)
討(うち)にせんと馬(うま)は轡(くつは)を縛(しば)り人は枚(ばい)を含(ふく)み三更(さんこう)の頃(ころ)営(ゑい)を出(いで)て直(たゞち)に
薬軍(やくぐん)の陣前(ぢんぜん)にいたり忽(たちまち)鬨(とき)をどつと作(つく)り無二無三(むにむざん)に切(きつ)て入れば
薬軍は大に驚(おどろ)き敢(あへ)て戦(たゝか)はんとするものなく鎧(よろひ)を棄(す)【弃は古字】て兵糧(ひやうらう)を
棄(す)て我(わ)れ先(さき)にと逃出(にげいだ)す賊軍(ぞくぐん)は只(たゞ)一揉(ひともみ)に薬陣(やくぢん)を乗取(のつと)り勢(いきお)ひに
乗(じやう)じて追(おつ)かけ〳〵落(おち)散(ちり)りたる武具(ぶぐ)兵粮(ひやうらう)を争(あらそ)ひとり夜(よ)の已(すで)に
明(あけ)んとするをしらず行々(ゆく〳〵)天突(てんとつ)欠盆(けつぼん)【缼】の辺(へん)にいたりし時(とき)忽(たちまち)一声(いつせい)の鉄炮(てつぽう)耳(みゝ)
元(もと)に響(ひゞ)き薬軍(やくぐん)の伏兵(ふくへい)一 度(ど)にあらはれ備(そなへ)乱(みだ)れし黴軍(ばいぐん)の横合(よこあい)より
【両丁挿絵】
【右丁中部 横倒しの旗】
破身大将軍遺毒抜
【同 下部】
延寿丸(えんじゆぐわん)
伏兵(ふくへい)を
もつて
遺毒(いどく)を
討(うち)とる
図
いどくぬけかね【囲みの中】
俗に
たい
どく
と云
【左丁】
ゑんじゆぐはん【囲みの中】
【旗の文字】
黴賊追討使延寿丸
【右丁】
烈風(れつぷう)のごとく打(うつ)てかゝれば今迄(いまゝで)逃(にげ)たる薬兵(やくへい)も犇々(ひし〳〵)と守(も)り返(かへ)し
左右(さゆう)より攻立(せめたつ)る勢(いきおひ)はじめに似(に)るべくもあらず黴軍(ばいぐん)忽(たちまち)切崩(きりくづ)され浮(うき)
足(あし)に成て漂(たゞよ)へば遺毒抜兼(いどくぬけかね)大(をゝい)に怒(いか)り敵(てき)計(はかりこと)を設(もう)けたりとも何(なに)ほどの
ことかあらん備(そな)へを堅(かた)めて戦(たゝか)へやと自(みづか)ら丈八(じやうはち)の矛(ほこ)を揮(ふる)ひ士卒(しそつ)を励(はげ)
まして進(すゝ)む所に一人の大将(たいしやう)黒革(くろかは)の甲(よろひ)に身(み)を堅(かた)め怒(いか)れる虯髥(ぎうせん)【注】左右(さゆう)
に分(わか)れ手に緑沈百花鎗(りよくちんひやくくはさう)をしごき雷(いかづち)のごとき声(こへ)をはつして悪賊(あくぞく)何(なに)
の戯(たはむ)れをなすや黴賊(ばいぞく)追討(ついとう)四(し)将軍(しやうぐん)の随一(ずいいち)延寿丸(えんじゆぐはん)が手 並(なみ)をしら
ざるかと罵(のゝし)りもあへず真一文字(まいちもんじ)に突(つい)てかゝる遺毒抜兼(いどくぬけかね)は驚(おどろ)き
乍(なが)ら矛(ほこ)をもつて是を遮(さへぎ)りしばらくは防(ふせ)ぎしが延寿丸(えんじゆぐわん)が勇壮(ゆうさう)
当(あた)りがたく股(もゝ)腕(うで)《振り仮名:数ヶ所|すかしよ》に手負(てお)ひ已(すで)に危(あやふ)くみへければ小賊(せうぞく)六
七 騎(き)馬前(ばぜん)にたち塞(ふさが)り命(いのち)を捨(すて)て戦(たゝか)ふ内(うち)抜兼(ぬけかね)は馬(うま)に鞭打(むちうち)
【注 虬、髯はどちらも俗字。みずちのように曲がっているひげ。】
【左丁】
一散(いつさん)に逃出(にげいだ)す延寿丸(えんじゆぐはん)は怒声(どせい)を発(はつ)し六七騎(き)の小賊(せうぞく)を鎗玉(やりだま)
に上(あ)げ尽(こと〴〵)くはね飛(とば)し腰(こし)の間(あいだ)より一箇(いつこ)の流星丸(りうせいぐはん)を取出(とりいだ)し逃(にげ)
ゆく抜兼(ぬけかね)が頭(かしら)を望(のぞ)んで投付(なげつく)るに誤(あやま)たず手答(てごた)へして鉄(くろがね)の甲(かぶと)
二ツに破(わ)れ残(のこ)る響(ひゞ)き頭脳(づのふ)に徹(てつ)しさしもの抜兼(ぬけかね)目(め)くるめ
き馬(うま)より真逆(まつさか)さまに落(おつ)る所(ところ)を延寿丸(えんじゆぐはん)馳付(はせつけ)て只(たゞ)一鎗(ひとやり)に
さし殺(ころ)す大将(たいしやう)討(うた)れ残徒(ざんとう)全(まつた)からず数千(すせん)の黴軍(ばいぐん)蜘(くも)の子(こ)を散(ちら)
すがごとく粉々(ふん〳〵)と落行(おちゆく)を延寿丸(えんじゆぐわん)葛根加朮附湯(こつこんかじゆつぶとう)【「こつこん」は「かつこん」の誤】が勢(せい)淳直(じゆんちよく)が
旗本(はたこと)の勢(せい)と一ツになり短兵(たんぺい)急(きう)に追(おつ)つめ敵(てき)を斬(き)る事(こと)草(くさ)を薙(なぐ)がごと
く又たゞ猛虎(もうこ)の群羊(ぐんよう)を駆(か)るに異(こと)ならず五千 余騎(よき)の黴軍(ばいぐん)
わづか五六 百騎(ぴやくき)になり本陣(ほんぢん)さして逃帰(にげかへ)れば跡(あと)にのこりし瘰歴腫(るいれきはれ)
高(たか)櫓(やぐら)に登(のぼ)りて遙(はるか)に此体(このてい)をみて大に驚(おどろ)きさては遺毒抜(いどくぬけ)かね
【右丁】
深入(ふかいり)して敵(てき)の計(はかりこと)に陥(おちいり)たると見(み)へたり何(なに)にもせよ敗軍(はいぐん)を営中(ゑいちう)に
引入(ひきい)るべしと士卒(しそつ)を下知(けぢ)して営門(ゑいもん)を大にひらかせ精兵(せいへい)を将(ひき)ひて柵(さく)
外(ぐわい)に待(まち)うけ追来(おひく)る薬兵(やくへい)を流星(りうせい)搥(つい)をもつてばらり〳〵と打倒(うちたを)し
味方(みかた)の士卒(しそつ)を引入(ひきいれ)んとする所(ところ)へ延寿丸(えんじゆぐはん)鎗(やり)を上(あ)げて突(つき)来(きた)り瘰(るい)
歴(れき)が手勢(てぜい)五六十 騎(き)瞬(またゝ)くうちに打倒(うちたを)し其(その)勢(いきを)ひ恰(あたか)も円石(ゑんせき)【左ルビ:まるきいし】の険(けん)【左ルビ:けはしき】
阪(ぱん)【左ルビ:さか】を下(くだ)るがごとく新手(あらて)の黴兵(ばいへい)をまくりたて営門(えいもん)近(ちか)く進(すゝ)みよる
瘰歴(るいれき)は舌(した)をふるひ此(この)薬将(やくしやう)の武勇(ぶゆう)実(まこと)に万夫(ばんぶ)不当(ふどう)なりこれと
力戦(りきせん)せば人種(ひとだね)は尽(つ)くべし早(はや)く引上(ひきあ)げて営門(えいもん)を閉(とぢ)よと諸卒(しよそつ)に
下知(けぢ)して緊(きび)しく鉄炮(てつぽう)をうたせ其(その)ひまにぐ軍勢(ぐんぜい)をまどめ
次第(しだい)〳〵にくり引(ひき)に引入(ひきい)れんとす延寿丸(えんじゆぐはん)はすこしもひるまず
鉄炮(てつぽう)の烟(けふり)の下(した)より身(み)を跳(をど)らして真先(まつさき)にすゝみ引(ひき)ゆく黴(ばい)
【左丁】
兵(へい)を突立(つきたて)〳〵半点(はんてん)のすきまなく遂(つい)に門内(もんない)に飛(とん)で入(い)る跡(あと)
に続(つゞひ)て葛根加朮附湯(かつこんかじゆつぶとう)等(ら)諸軍(しよぐん)一同(いちどう)にひた〳〵と込(こ)み入(い)り
ければ瘰歴(るいれき)今(いま)は百計(ひやくけい)つき髪(かみ)をさばき鎧袍(よろひひたゝれ)をかなぐりすて
士卒(しそつ)に紛(まぎ)れて落(おち)てゆく大将(たいしやう)かくのごとくなれば残兵(ざんぺい)どもは
いふに及(およ)ばず或(あるひ)は落(おち)ゆき或(あるひ)は自害(じがい)し須刻(しばらく)の間(あいだ)に賊営(ぞくえい)全(まつた)く
陥(おちい)りけり延寿丸(えんじゆぐはん)は勢(いきを)ひに乗(じやう)じて陣々(ぢん〳〵)柵々(さく〳〵)尽(ごと〳〵)く火(ひ)をかけ
て焼(やき)はらひ兵粮(ひやうらう)を遣(つか)ふて暫(しばら)く英気(ゑいき)を養(やしな)ひ再(ふたゝ)び諸軍(しよぐん)を
将(ひき)ひて北(にぐ)るを追(お)ひ長(なが)く駆(かつ)て大(おゝい)に進(すゝ)み諸所(しよ〳〵)の《振り仮名:此+土|とりで》へ推(おし)寄(よす)るに
賊軍(ぞくぐん)ども遺毒(いどく)は打(うた)れ瘰歴(るいれき)は落(おち)失(う)せ本営(ほんえい)已(すで)に落着(らくぢやく)したり
と聞(きゝ)敢(あへ)て防(ふせ)ぐべき義勢(ぎせい)なくいづれも《振り仮名:此+土|とりで》をすて陣(ぢん)を抜出(ぬけい)で
遠(とを)く国外(こくぐはい)に逃(のが)れさり偶(たま〳〵)落(おち)のこりたるは薬軍(やくぐん)に害(がい)せられ
【右丁】
国中(こくちう)全(まつた)く一統(いつとう)に帰(き)したりければ淳直(じゆんちよく)は薬將(やくしやう)を分(わけ)て諸道(しよどふ)を
守(まもら)せ其身(そのみ)は王城(わうじやう)に帰(かへ)りて具(つぶさ)に軍(いくさ)の次第(しだい)を奏(さう)し且(かつ)諸道(しよどう)の仕置(しおき)
乱後(らんご)治世(ぢせい)の大旨(たいし)をくわしく論定(ろんぢやう)するを国王(こくわう)は聞(きい)て大に喜(よろこ)び吾(わが)
国(くに)久(ひさ)しく賊寇(ぞくこう)にくるしみしに先生(せんせい)の智勇(ちゆう)によりて妖氛(ようふん)【注①】を
はらひ除(のぞ)き再(ふたゝ)び天日(てんじつ)をみる事(こと)を得(え)たり其上(そのうへ)此后(こののち)治世(ぢせい)の
要論(ようろん)を示(しめ)し給(たま)ふ恩恵(おんけい)実(じつ)に身(み)に余(あま)る先(まづ)凱陣(かいぢん)の儀式(ぎしき)を
いたさんと山海(さんかい)の佳味(かみ)を具(そな)へて是(これ)を饗応(もてな)し酒(さけ)半酣(はんかん)に至(いた)
りて国王(こくわう)淳直(じゆんちよく)に向(むか)ひ此頃(このごろ)吾(わが)属国(ぞくこく)より使者(ししや)来(きた)り当国(とうごく)平(へい)
定(ぢやう)次第(しだい)早々(さう〳〵)先生(せんせい)を彼(かの)国々(くに〴〵)へ招待(しやうだい)すべきよし申越(もうしこ)したり
今(いま)先生(せんせい)の力(ちから)によりて吾国(わがくに)已(すで)に平定(へいぢやう)す希(こひねがは)くは先生(せんせい)労(らう)を
顧(かへりみ)ずすみやかに彼(かの)表(おも)へ趣(おもむ)き玉(たま)はゞ某(それがし)におゐても満足(まんぞく)ならん
【注① わざわい。戦乱。】
【左丁】
といふ淳直(じゆんちよく)は謹(つゝしん)で仰(おふせ)の趣(おもむ)き承知(しやうち)せり明日より彼国(かのくに)に
発向(はつかう)すべし但(たゞ)し当国(とうごく)におゐて一旦(いつたん)の合戦(かつせん)其図(そのづ)にかなひ
十分の勝(かち)を得(ゑ)たれどもいまだ全治(ぜんぢ)の国とはいひがたしその
ゆへは先日の合戦(かつせん)に瘰歴(るいれき)は落失(おちうせ)て行(ゆき)がたしれず渠(かれ)は遺(い)
毒(どく)にまさりておそろしき者なり実(じつ)に国外(こくぐわい)に逃去(にげさり)たるや
なを国中に潜(ひそ)みあるや其 実否(じつぷ)未(いまだ)分(わか)らず其上 彼賊(かのぞく)久し
く国中にありしゆへに諸道(しよどう)諸府(しよふ)彼(かれ)が風俗(ふうぞく)にうつされ其気
に化(くわ)したる者(もの)も又多し今 一旦(いつたん)の利(り)を得(ゑ)たりとも是ぎり
にして軍威(ぐんゐ)を収(をさ)め逸楽(いつらく)【注②】する時は黴賊(ばいぞく)再(ふたゝ)び窺(うかゞ)ひ来り害(がい)
をなさん事 疑(うたが)ひなしよろしく延寿丸(えんじゆぐわん)を用ひて諸道(しよどう)経絡(けいらく)を
巡見(じゆんけん)させ残徒(ざんとう)を駆(か)りのぞき黴賊(ばいぞく)の遺風(いふう)を一洗(いつせん)したまへ
【注② 遊び楽しむ。】
【右丁】
延寿丸(えんじゆぐはん)は勇猛(ゆうもう)なりといへども其性(そのせい)仁慈(じんじ)にして良民(りやうみん)を害(がい)す
る事なし殊(こと)に此度(このたび)大功(たいかう)を立(た)てたれば彼(かれ)をもつて征賊大(せいぞくたい)
将軍(しやうぐん)となし玉(たま)ふべしと奏(そう)すれば国王(こくわう)は暫(しばら)く考(かんが)へわが国(くに)
久(ひさ)しく軍馬(ぐんば)に困(くるし)む今(いま)始(はじ)めて大平(たいへい)に到(いた)りてなを將卒(しやうそつ)を
留置(とめを)くは国民(こくみん)あやぶみ怖(をそ)るべし延寿丸(えんじゆぐわん)が勇猛(ゆうもう)余国(よこく)【注】にて
も必用(ひつよう)たる者(もの)なれば彼(かれ)は其侭(そのまゝ)召(めし)つれ玉(たま)へ先生(せんせい)のをしへも
背(そむ)きがたければ延寿丸(えんじゆぐわん)が部下(ぶか)の兵(へい)を少々(せう〳〵)のこしおき国(くに)の
用心(ようじん)に備(そな)へんといへば淳直(じゆんちよく)もいかんともする事を得(え)ずさらば
とて延寿丸(えんじゆぐわん)が部下(ぶか)の精兵(せいへい)を呼出(よびいだ)し委細(いさい)を語(かたつ)て意(い)を
得(え)させ国王(こくわう)に請(こふ)て酒宴(しゆえん)を収(おさ)め是(これ)より直(すぐ)に属国(ぞくこく)に赴(おもむか)んと
其用意(そのようい)をなし諸将(しよしやう)を引(ひき)つれ国王(こくわう)諸臣(しよしん)にわかれ告(つ)げ雲(うん)
【注 他の国。外国。】
【左丁】
路(ろ)を踏(ふん)で立出(たちいづ)ればみな〳〵是(これ)を送(おく)りて遠(とを)く王城(わうじやう)の外(ほか)に
いたり数里(すり)にして手(て)を分(わか)ち諸人(しよにん)は王城(わうじやう)に帰(かへ)り淳直(じゆんちよく)が一(ひと)
隊(むれ)は直(たゞち)に属国(ぞくこく)へといそぎさりぬ
血(けつ) 熱(ねつ) 敗(はい)_二-走(さうす) 黄(くはう) 泥(でい) 阪(はんに)_一
下(げ) 疳(かん) 滅(めつ)_二-亡(ばうす) 陰(いん) 頭(とう) 山(ざんに)_一
福徳国(ふくとくこく)属国(ぞくこく)の内(うち)福徳長禄(ふくとくちやうろく)といふ国(くに)は主国(しゆこく)の殊(こと)に重(おも)ん
ずる所(ところ)にして余(よ)の属国(ぞくこく)に同(おな)じからず是(これ)を名(なづ)けて主管(ばんとう)といふ
此国の主人公(しゆじんこう)も彼(かの)妖婦(ようふ)に誑(あざむか)れ国中(こくちう)に黴賊(ばいぞく)攻入(せめいり)久(ひさ)しく乱妨(らんばう)に
くるしめり此国に向(むか)ひたる賊將(ぞくしやう)は下疳早成(げかんはやなり)骨痛動須(ほねいたみうごかづ)の両人
なり下疳早成(げかんはやなり)ははじめより国(くに)の入口 陰頭山(いんとうざん)の尾崎(をさき)に陣(ぢん)をすへ日夜(にちや)
に打(うつ)て出で陰茎道(いんきやうどう)を攻(せ)め侵(おか)す此所は女国(によこく)交通(かうつう)の街道(かいどう)国(こく)
【右丁】
中(ちう)河水(かすい)の落口(おちくち)別(べつ)して陽気(やうき)の集(あつま)る所(ところ)男国(なんこく)第一(だいいち)の要路(ようろ)なるゆへに
其(その)なやみ大方(おほかた)ならず賊軍(ぞくぐん)是を攻(せむ)る毎(ごと)に其響(そのひゞ)き諸道(しよどう)に徹(てつ)す骨(ほね)
痛動須(いたみうごかず)は潜(ひそか)に骨節(こつせつ)の間(あいだ)に攻入(せめい)りて要害(ようがい)の地(ち)に屯(たむろ)して暴威(ぼうい)
を振(ふる)へば骨体(こつたい)支節(しせつ)の諸道(しよどふ)これがために悩(なや)まされ一国(いつこく)運動(うんどう)のはた
らきを絶(た)つ苦痛(くつう)尤(もつとも)はなはだし去程(さるほど)に淳直(じゆんちよく)が輩(ともがら)已(すで)に国中(こくちう)にいたり
ければ俱生神(くしやうしん)出迎(いでむか)へて延(ひい)て王城(わうじやう)に入(い)る主人公(しゆじんこう)は再拝(さいはい)して是(これ)を労(ねぎ)ら
い客位(きやくゐ)の座席(ざせき)饗膳(きやうぜん)の珍美(ちんび)丁寧(ていねい)をつくさずといふ事なし暫(しばらく)ありて
主人公(しゆじんこう)は淳直(じゆんちよく)に向(むか)ひはじめ黴毒(ばいどく)の攻(せめ)入りたる様子(やうす)よりこれまで用ひ
たる薬將(やくしやう)の功(かう)なかりし事まで委曲(いきよく)に演説(ゑんぜつ)するを淳直(じゆんちよく)は逐一(ちくいち)に聞(きゝ)終(おわ)
り国主(こくしゆ)愁(うれ)ひ玉ふ事なかれ某(それがし)元帥(げんすい)となる上は是 程(ほど)の賊徒(ぞくと)日(ひ)を
計(かぞ)へて対治(たいぢ)すべし先(まづ)諸(もろ〳〵)の薬將(やくしやう)を召(めし)よせ玉へすみやかに合戦(かつせん)の
【左丁】
用意(ようい)をいたさんといへば国主(こくしゆ)は大に喜(よろこ)び命(めい)を伝(つた)へて武勇(ぶゆう)の
諸将(しよしやう)をよび集(あつ)む淳直(じゆんちよく)は諸軍(しよぐん)を点検(てんけん)し將(しやうを)ゑらび隊(たい)を分(わか)ち
次第(しだい)を守(まも)りて向(むか)はせける先(まづ)延寿丸(えんじゆぐわん)は二千 騎(ぎ)を率(ひき)ひて先鋒(せんぼう)とな
り後陣(ごぢん)は大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)を大将(たいしやう)として五千 余騎(よき)賊軍(ぞくぐん)と出(いで)
逢(あ)ふ所(ところ)を戦場(せんじやう)とさだめ整々(せい〳〵)として推(おし)てゆくかくと聞(きく)より
骨痛動須(ほねいたみうごかず)は下疳早成(げかんはやなり)に牒(ちやう)じ合(あは)せ此度(このたび)の薬將(やくしやう)は智勇(ちゆう)侮(あなど)り
がたし无謀(むぼう)の軍(いくさ)は危(あやう)かるべしと骨痛動須(ほねいたみうこかず)数千騎(すせんき)を引(ひい)て本陣(ほんぢん)を
出(いで)て路(みち)を遮(さへぎ)り下疳早成(げかんはやなり)は本(もと)のごとく陰頭山(ゐんとうざん)を守(まも)り部下(ぶか)の
賊將(ぞくしやう)血熱焮通(けつねつきんつう)に命(めい)じて緊(きび)しく陰茎道(ゐんきやうどう)を攻(せ)め討(うた)しむ是(これ)陰(いん)
茎道(きやうどう)は国中(こくちう)第一(だいいち)の要処(ようしよ)なればこゝを攻(せむ)る時(とき)は苦悩(くのう)国中(こくちう)に徹(てつ)し
国主(こくしゆ)煩悶(はんもん)に堪(たへ)ず必(かなら)ず兵(へい)をやめて膏薬(かうやく)などをもつて和議(わぎ)を
【右丁】
入(い)れ血熱(けつねつ)の乱妨(らんばう)をなだめんとする時(とき)下疳骨痛(げかんほねいたみ)斉(ひと)しく進(すゝ)んで
国郡(こくぐん)を切(きり)とり黴軍(ばいぐん)の根(ね)を堅(かた)くせんと謀(はか)りしものなり去程(さるほど)に薬軍(やくぐん)
の先鋒(せんばう)延寿丸(えんじゆぐはん)は黴軍(ばいぐん)路(みち)を遮(さへぎ)るを見(み)て少(すこ)しもためらふけし
きなく惣勢(さうぜい)を励(はげ)まし鬨(とき)の声(こへ)を上(あげ)るや否(いな)や無二無三(むにむざん)に突(つい)
てかゝる骨痛動須(ほねいたみうごかす)もこゝを破(やぶ)られては叶(かな)はじと力(ちから)を尽(つく)して
すゝみ戦(たゝか)ひ惣方(さうはう)死傷(ししやう)数(かず)をしらず時(とき)うつるまで挑(いど)みしが
黴軍(ばいぐん)遂(つい)に切立(きりたて)られ本陣(ほんぢん)に逃入(にげい)るを延寿丸(えんじゆぐはん)すきまもなく
おひ来(きた)り黴陣(ばいぢん)をおつとりまき散々(さんざ)に攻(せ)め立(たつ)る黴軍(ばいぐん)もこゝを
先途(せんど)と防(ふせ)ぎければ容易(ようい)には破(やぶら)れざれども次第(しだい)に気力(きりよく)は衰(おとろ)へ
けり此時(このとき)血熱(けつねつ)は兼(かね)ての合図(あいづ)なれば数千騎(すせんぎ)を卒(そつ)して陰茎道(いんきやうどう)に打(うつ)て
出(い)で、或(あるひ)は焼(や)きたて或(あるひ)は屠殺(ほふりころ)し心(こゝろ)のまゝに乱妨(らんばう)すれば国民等(こくみんら)
【左丁】
苦悩(くのふ)にたえず使(つかひ)を馳(は)する事 櫛(くし)の歯(は)を挽(ひ)くがごとく王城(わうじやう)に
注進(ちうしん)して救(すく)ひを乞(こ)ふ事はなはだ急(きう)なり国王(こくわう)は大(おゝい)にうれへ
悶(もだ)へいそぎ淳直(じゆんちよく)を召(めし)て次第(しだい)を語(かた)りかくては合戦(かつせん)成(なり)がたし
まづ薬將(やくしやう)を呼(よ)び返(かへ)し膏薬(かうやく)を以(もつ)て和議(わぎ)を入(い)れ賊徒(ぞくと)の
乱妨(らんばう)を止(とゞ)むべしといふ淳直(じゆんちよく)は大にわらひ主公(しゆかう)何(なに)とて惰弱(だじやく)の言(こと)を
発(はつ)し玉(たま)ふや某(それがし)已(すで)に計(はかりこと)を設(もう)けおきたり追(おつ)つけ凱歌(がいが)を
奏(さう)すべければ心(こゝろ)を安(やす)んじて煩苦(はんく)し玉(たま)ふ事(こと)なかれとなだめすかし
早馬(はやうま)をもつて延寿丸(えんじゆぐはん)大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)が方(かた)へ羽檄(うげき)【注】を送(おく)り何(なに)ゆへ
戦功(せんこう)遅々(ちゝ)するや早々(さう〳〵)賊將(ぞくしやう)の首(くび)を見(み)るべしといひ送(おく)り別(べつ)に一封(いつぷ)
の書(しよ)を作(つく)りくわしく謀略(ぼうりやく)をしめしければ両將(りやうしやう)は大(おゝい)に畏(かしこま)り不日(ふじつ)に
功(こう)を立(たつ)べきよし返簡(へんかん)をおくり延寿丸(えんじゆぐはん)は千 余騎(よき)を分(わか)ちて骨(ほね)
【注 危急を知らせて兵を集めたりするときに用いるつげぶみ。木の札に書き記し、これに鳥の羽を挟むからいう。】
【右丁】
ほねいたみうごかず
ぞくに
ほねうづき
といふ
【左丁】
ゑんじゆぐはん
げかんはやなり
ぞくに
かんそう
ト云
延壽丸(えんじゆぐはん)
下疳(げかん)骨痛(ほねいたみ)の
兩(りやう)賊將(ぞくしやう)を
ころす
圖(づ)
【右丁】
痛(いたみ)がおさへとなし千 余騎(よき)にて陰茎道(いんきやうどう)へ発向(はつかう)し大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)
は手勢(てぜい)を引(ひい)て切所(ぜつしよ)【注①】に埋伏(まいふく)す黴軍(ばいぐん)の方(かた)には血熱(けつねつ)が乱妨(らんぼう)により
て一国(いつこく)騒動(さうどう)煩乱(はんらん)すれば定(さだ)めて薬兵(やくへい)を収(おさ)め和議(わぎ)を入(いれ)んと
思(おも)ひし所(ところ)延寿丸 兵(へい)を分(わか)つて陰茎道(いんきやうどう)へ向(むか)ふと見(み)て大に怒(いか)り
さらば跡(あと)より追討(おひうち)にすべしと血熱(けつねつ)が方(かた)へも其旨(そのむね)をいひ送(おく)り
骨痛動須(ほねいたみうごかず)手勢(てぜい)をのこさず引率(いんそつ)し陣門(ぢんもん)を開(ひら)ひてきつて
出(い)でおさへに残(のこ)りたる薬軍(やくぐん)を一息(ひといき)にまくりたて勢(いきお)ひに乗(じやう)じて
殺出(さつしゆつ)す是(これ)より先(さき)に延寿丸(えんじゆぐはん)は陰茎道(いんきやうどう)にいたりて陣(ぢん)をはり戦(たゝか)ひ
を挑(いど)みければ血熱(けつねつ)も同(おな)じく陣(ぢん)をすゝめ真先(まつさき)に馬(うま)を躍(おど)らし薬(やく)
軍(ぐん)の弱將(じやくしやう)はやく首(くび)をわたせと呼(よば)はれば延寿丸 冷笑(あざわら)ひ汝(なんぢ)無頼(ふらい)
の悪賊(あくぞく)无用(むやう)の広言(くはうげん)を吐(は)かんより速(すみやか)に我(わ)が鎗下(さうか)の鬼(き)となれよと
【注① 漢字の字面通りだと音は「せっしょ」。意は、道がけわしく、通行の困難な場所。振り仮名の「ぜっしょ」だと「絶所」となり、意は、高い崖などによって道の絶えた所。】
【左丁】
緑沈鎗(りよくちんさう)を拈(ひねつ)てすゝみよる血熱(けつねつ)は丈八(じやうはち)の蛇矛(じやぼこ)をふるひ諸卒(しよそつ)
を駆(かつ)て迎(むか)へ戦(たゝか)ひけるが延寿丸(えんじゆぐわん)が勇猛(ゆうもう)に敵(てき)しがたく陣勢(ぢんせい)
しらけて見(み)へたる所(ところ)へ骨痛(ほねいたみ)が軍勢(ぐんぜい)薬軍(やくぐん)のうしろより襲(おそ)ひ
来(き)たり勢(いきお)ひ烈(はげ)しく揉(も)み立(たつ)ればさしもの延寿丸(えんじゆぐわん)前後(ぜんご)の敵(てき)をあし
らひかね紛々(ふん〳〵)【注②】として陣脚(ぢんぎやく)みだれ且(かつ)戦(たゝか)ひ且(かつ)退(しりぞ)く骨痛(ほねいたみ)血熱(けつねつ)は勝(かつ)
に乗(の)り是(これ)を追(お)ふて小腹(せうふく)の辺(へん)にいたりし時(とき)延寿丸(えんじゆぐわん)忽(たちま)ち陣(ぢん)を
長蛇(ちやうじや)に備(そな)へ合図(あいづ)と覚(おぼ)しく一道(いちどう)の烽烟(ほうゑん)を挙(あぐ)ると斉(ひと)しく上脘(じやうくはん)の
方(かた)より大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)が一手(ひとて)の軍勢(ぐんぜい)恰(あたか)も雷霆(らいてい)の落(おち)かゝるが
ごとく黴軍(ばいぐん)の後(うしろ)をのぞんで打(うつ)て出(いで)たり骨痛(ほねいたみ)血熱(けつねつ)は大(おゝい)に驚(おどろ)き
敵(てき)謀(はかりこと)を設(もう)けたるぞ平場(ひらば)の戦(たゝか)ひはあしかるべしはやく陰茎道(いんきやうとう)へ引(ひき)
かへせよと呼(よば)はる内(うち)に大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)ひた〳〵と攻(せ)めよせ薬汁(やくじう)を以(もつ)
【注② ふんぶん=物事が入り交じって乱れるさま。】
【右丁】
て製(せい)したる水鉄炮(みづてつぱう)を雨(あめ)のごとくに打立(うちたつ)れば薬気(やくき)空朦(くうもう)として
霧(きり)のごとく黴軍(ばいぐん)眼(まなこ)をひらくことあたはず前(まへ)よりは延寿丸(えんじゆくはん)勇猛(ゆうもう)
はじめに十陪(じうばい)しみだれ立(たつ)たる黴兵(ばいへい)を馬蹄(ばてい)に蹴(け)すへ鎗下(さうか)につき
伏(ふ)せ傍若無人(ぼうじやくぶじん)にあれまはる血熱(けつねつ)骨痛(ほねいたみ)も自(みづか)ら手(て)をくだして
薬兵(やくへい)を防(ふせ)ぎ居(い)たるを延寿丸(えんじゆぐわん)は遥(はるか)に見(み)て大に喜(よろこ)び望(のぞ)む所(ところ)の敵(てき)
ごさんなれと一散(いつさん)に馳(はせ)より大鎗(たいさう)を閃(ひらめか)しはつしと突(つ)く憐(あはれ)むべし
骨痛動須(ほねいたみうごかづ)胸門(きやうもん)に血烟(ちけふ)り立(たち)一声(いつせい)長(なが)く叫(さけ)んで馬(うま)より倒(まつさか)さまに
仆(たを)れけり血熱(けつねつ)は魂(たまし)い天外(てんぐわい)に飛(と)び馬(うま)を叩(たゝ)き立(た)て逃出(にげいだ)せば残卒(ざんそつ)
も一崩(ひとくづ)れになり陰茎道(いんきやうどう)を志(こゝろざ)して敗走(はいさう)す跡(あと)を慕(した)ふて数千(すせん)の薬(やく)
軍(ぐん)あまさじと追(お)ふほどに病賊(びやうぞく)は脇目(わきめ)もふらず足(あし)にまかせて走(はし)りし
が已(すで)に走(はし)る事(こと)数(す)十 里(り)にして血熱(けつねつ)始(はじ)めて心(こゝろ)づきさきに薬気(やくき)にむし
【左丁】
たてられ我(わ)が輩(ともがら)眼(まなこ)をひらくこと能(あた)はず薬軍(やくぐん)の勇猛(ゆうもう)に心(こゝろ)
をひやし只(たゞ)ひた走(ばし)りにはしりたるがこゝは陰茎道(いんきやうどう)の路(みち)にあらず
黄泥(くはうでい)脚(あし)を没(ぼつ)し臭気(しうき)鼻(はな)を襲(おそ)ふはさては音(おと)にきく国中(こくちう)
汚穢(おゑ)の流(なが)れ出(いづ)る所(ところ)穀道門(こくどうもん)【左ルビ:だいべんどうのこうもん也】の黄泥坂(くはうでいはん)なるべし此所(このところ)は一方(いつぱう)
口(ぐち)にして外(ほか)に逃(に)ぐべき道(みち)なし薬軍(やくぐん)後(しり)へより追来(おひきた)れば跡(あと)へかへる
事(こと)は猶(なを)かなはずすゝんで穀道門(こくどうもん)より逃(に)げ出(い)でたりとも主將(しゆしやう)は
別(わか)れ士卒(しそつ)は亡(ほろ)び独(ひと)り生残(いきのこ)りて何(なん)の面目(めんぼく)ありてか黴毒大王(ばいどくだいわう)にま
みゆべきや今(いま)こそ我(わ)が死(し)すべき時(とき)なり汝等(なんぢら)は逃出(にげいで)大王(だいわう)に此(この)
由(よし)を奏(そう)せよといひおわり刀(かたな)をとり直(なを)して首(くび)を刎(はね)ければ残卒(ざんそつ)は
愈(いよ〳〵)力(ちから)をおとしうろたへ騒(さは)ぐ所(ところ)へ大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)が薬軍(やくぐん)潮(うしほ)のごと
く追(お)ひ来(きた)り薬水(やくすい)を打(うち)かけ〳〵息(いき)をもつがずまくりおとせば
【右丁】
残兵(ざんぺい)一人(いちにん)も残(のこ)らず黄泥(くはうでい)にすべりこけ■(こん)【滾ヵ】々(〳〵)として関外(せきぐわい)になだれ
おち死生(しせい)もしらずなりにけり大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)は血熱(けつねつ)が首(くび)を採(とつ)
て鎗(やり)の先(さき)に貫(つらぬ)き勝鬨(かちどき)をあげてしづ〳〵と引返(ひつかへ)す此時(このとき)延寿(えんじゆ)
丸(ぐわん)は逃(にげ)ゆく血熱(けつねつ)を大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)にまかせ我(わ)が手勢(てぜい)を引(ひい)て陰(いん)
頭山(とうざん)へ馳(は)せ向(むか)ひゑひ〳〵声(ごへ)にて攻上(せめのぼ)る山塞(さんさい)の大将(たいしやう)下疳早成(げかんはやなり)は
頼(たの)みにおもひし骨痛(ほねいたみ)は打(うた)れ血熱(けつねつ)は逃(にげ)うせ存亡(そんばう)をしらずと聞(きゝ)
今(いま)は此(この)山塞(さんさい)保(たも)ちがたしはやく逃出(にげいで)んと落仕度(おちじたく)をなす所(ところ)に勝(かち)
ほこりたる薬軍(やくぐん)難(なん)なく塞門(さいもん)を打(うち)やぶり縦横无尽(じうわうむじん)に乱(みだ)れ
入(い)るを見(み)て逃(のが)れぬ所(ところ)と覚悟(かくご)を究(きわ)め鎧(よろひ)取(とつ)て肩(かた)に提(さげ)かけ
駿馬(しゆんめ)に跨(またが)【蹬は誤記】り大刀(たいとう)をふり残兵(ざんぺい)を將(ひき)ひて切(きつ)て出(い)で込(こ)み入(い)る薬(やく)
兵(へい)を薙立(なぎたて)〳〵一条(いちじやう)の血路(けつろ)をひらいて逃(にげ)んとするを延寿丸(えんじゆぐわん)馬(むま)
【左丁】
を跳(おど)らして前(まへ)を遮(さへぎ)り残賊(ざんぞく)はやく首(くび)をわたせと鎗(やり)をひねりて
突(つき)かゝる早成(はやなり)も刀(かたな)を舞(まわ)してこれをさゝへしが已(すで)に心(こゝろ)臆(おく)したる
上(うへ)いかでか延寿丸(えんじゆぐわん)が勇威(ゆうい)に当(あた)るべき忽(たちまち)一鎗(いつさう)に突落(つきおと)さるこの
うちに残兵(ざんぺい)はこと〴〵く薬軍(やくぐん)に屠(ほふ)りつくされ山塞(さんさい)全(まつた)く平(へい)
定(ぢやう)しければ火(ひ)をかけて塞営(さいゑい)を焼(やき)はらひ兵(へい)を収(おさ)めて帰(かへ)る道(みち)に
て大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)に出逢(いであ)ひ互(たがい)に勝軍(かちいくさ)を祝(しゆく)しこゝより両将兵(りやうしやうへい)を
合(あは)せ諸道(しよどう)諸府(しよふ)骨節(こつせつ)の間(あいだ)経絡(けいらく)まで残(のこ)らず駆(か)り尋(たづ)ね残賊(ざんぞく)
を追捕(ついふ)して後(のち)王城(わうじやう)に帰(かへ)りて淳直(じゆんちよく)に謁(えつ)しければ淳直(じゆんちよく)は是(これ)を引(ひい)
て国王(こくわう)に謁(えつ)し軍(いくさ)の次第(しだい)謀略(ぼうりやく)の始末(しまつ)をくはしく奏(そう)す国王(こくわう)は大
に喜(よろこ)び国家(こくか)再復(さいふく)の大慶(たいけい)深恩(しんおん)死(し)すともわするべからず先(まづ)其(その)
労(らう)を慰(い)【左ルビ:なぐさむ】すべしと大に宴(えん)をひらいて淳直(じゆんちよく)および諸将(しよしやう)を饗応(もてな)し
【右丁】
金帛(きんはく)をつんで贈(おくり)ものとす淳直(じゆんちよく)は是(これ)を受(うけ)ずこと〴〵返(かへ)し且(かつ)乞(こふ)て
杯(はい)【左ルビ:さかつき】を収(おさ)めしめ某(それがし)已(すで)に衆国(しうこく)回復(くわいふく)大元帥(たいげんすい)の任(にん)を受(うけ)たりしばらく
も逸予(いつよ)【豫】【注】すべきにあらず貴国(きこく)平定(へいぢやう)の上(うへ)は直(すぐ)さま次(つぎ)の属国(ぞくこく)に向(むか)ふ
べしと諸大将(しよだいしやう)を催促(さいそく)しいとまを告(つげ)て立出(たちいづ)れば国王(こくわう)も其(その)理(り)に
伏(ふく)し敢(あへ)てとゞめず送(おく)りて城外(じやうぐわい)に出(い)でおの〳〵袂(たもと)を分(わか)つ時(とき)福徳(ふくとく)
万吉国(まんきちこく)の俱生神(くしやうじん)忽然(こつぜん)と飛来(とびきた)り淳直等(じゆんちよくら)を再拝(さいはい)し吾国(わがくに)の
主公(しゆこう)諸賢(しよけん)の来駕(らいが)をうけ給(たまは)り御迎(をんむか)ひとして某(それがし)をさし
越(こ)せり恐(おそ)れながら吾跡(わがあと)につき玉(たま)ふべし御案内(ごあんない)仕(つかまつ)らんと
身(み)を返(かへ)して先(さき)にたち淳直(じゆんちよく)四天王(してんわう)と共(とも)に雁王(がんわう)の飛(とぶ)がごとく
空(そら)を凌(しのい)でいそぎけり
【注 いつよ=遊び楽しむ。】
養(やしなふて)_二元(けん) 気(きを)_一薬(やく) 將(しやう) 緩(ゆるむ)_レ戦(たゝかひを)
【左丁】
拒(ふせいで)_二鋭(ゑい) 鋒(ほうを)_一病(びやう) 賊(ぞく) 殞(おとす)_レ命(めいを)
其次(そのつぎ)の属国(ぞくこく)を福徳万吉(ふくとくまんきち)といふ此国(このくに)へは上攻結毒(じやうこうけつどく)痔疾痔(ぢしつぢ)
漏(らう)の両賊將(りやうぞくしやう)数多(あまた)の兵(へい)を引(ひい)て攻(せ)め入(い)り口中門(こうちうもん)穀道門(こくどうもん)に陣(ぢん)を張(は)
り兵糧(ひやうらう)【粮】運送(うんさう)穢物(ゑぶつ)送下(さうげ)の道(みち)をさへぎり又 結毒(けつどく)が部下(ぶか)の小(せう)
將(しやう)湿頭痛(しつづつう)頭頂前髪際(づちやうぜんばつさい)の辺(へん)を乱妨(らんぼう)し其響(そのひゞ)き眼耳(がんに)【左ルビ:めみゝ】等(など)
の諸門(しよもん)に徹(てつ)し一国(いつこく)是(これ)がために弊(つい)へ国王(こくわう)の憂苦(ゆうく)下民(かみん)のなげき
余(よ)の病国(びやうこく)に同(おな)じからず今度(こんど)俱生神(くしやうじん)の勧(すゝ)めにより篤実(とくじつ)淳直(じゆんちよく)
並(なら)びに其手(そのて)の薬將(やくしやう)を呼(よ)び迎(むか)へ黴賊(ばいぞく)対治(たいぢ)の事(こと)を付託(ふだく)す淳直(じゆんちよく)
は国(くに)に入(いつ)てより直(すぐ)に諸道(しよどう)を巡見(じゆんけん)し国中(こくちう)の形勢(ぎやうせい)を察(さつ)しおわり
国王(こくわう)にむかふて申(もう)しけるは賊徒(ぞくと)所々(しよ〳〵)の要路(ようろ)を立(たち)きり国勢(こくせい)
已(すで)に衰(おとろ)ふといへども脈道(みやくどう)の沈細(ちんさい)なるは病症(びやうせう)に応(おう)ずる所(ところ)且(かつ)腹部(ふくぶ)
【右丁】
いまだ虚弱(きよじやく)ならず大便(たいべん)かたく腸液(ちやうゑき)下(くだ)らざるは大吉(だいきち)なり不日(ふじつ)
に奇計(きけい)をもつて此(この)悪徒(あくと)を平(たいら)ぐべし心(こゝろ)を安(やす)んじてうれへ玉ふ
事(こと)なかれ先(まづ)軍立(いくさだて)をなすべしと諸(しよ)薬將(やくしやう)を召(めし)つどへ先後(せんご)陣(ぢん)
を定(さだ)む時(とき)に黴効散(ばいこうさん)座中(ざちう)より跳(おど)り出(い)で某(それがし)元帥(げんすい)に随(したが)ふて諸(しよ)
国(こく)にいたり未(いまだ)奇功(きこう)をあらはさず当国(とうごく)の合戦(かつせん)におゐては某(それがし)を以(もつ)
て先陣(せんぢん)とし玉(たま)ふべしといふ詞(ことば)いまだ終(おわ)らざるに延寿丸(えんじゆぐはん)同(おな)じ
く声(こへ)を上(あ)げ黴効散(ばいかうさん)何(なに)とて無礼(ぶれい)なるや某(それがし)已(すで)に所々(しよ〳〵)の軍(いくさ)に打(うち)
勝(かち)大功(たいこう)一身(いつしん)に帰(き)す何(なん)ぞ当国(とうごく)におゐて人(ひと)の後(しり)へに付(つく)べきや某(それがし)
こそ今度(このたび)の先陣(せんぢん)なりといへば黴効散(ばいかうさん)大にいかり汝(なんぢ)妄(みだ)【忘は誤記】りに
自負(じふ)して天下無双(てんかぶさう)の勇(ゆう)ありとおもへり我(わ)れ何(なん)ぞ汝(なんぢ)に
劣(おと)らんや当国(とうごく)の軍(いくさ)は是非(ぜひ)某(それがし)先陣(せんぢん)を申(もう)しうけんと争(あらそ)ふを
【左丁】
淳直(じゆんちよく)是(これ)を制(せい)して汝等(なんぢら)无(む)【牙は誤記】益(ゑき)の争(あらそ)ひをなすことを休(やめ)よ夫(それ)病(やまひ)に
種々(しゆ〴〵)の症(せう)あり薬(くすり)にも又(また)応不応(おうふおう)ありたとへば黴効散(ばいかうさん)が勝(かち)を得(え)
ざる病(やまひ)に延寿丸(えんじゆぐわん)を用(もち)ひて勝(かち)をとり延寿丸(えんじゆぐはん)の功(こう)なかりし所(ところ)へ黴効(ばいかう)
散(さん)むかふて奇勳(きくん)をたつ勝否(しやうひ)取舎(しゆしや)一例(いちれつ)なりがたし当国(とうごく)にある所(ところ)
の上部(じやうぶ)の結毒(けつどく)などには世医(せい)は只(たゞ)臭薬(かぎぐすり)ならでは叶(かな)はざるやうに思(おも)へり
是(これ)甚(はなは)だ誤(あやま)りなり黴賊(ばいぞく)の攻(せ)め入(い)る所(ところ)上下(しやうか)左右(さゆう)内外(ないぐはい)の差別(しやべつ)ある
べからず其(その)変態(へんたい)百条(ひやくじやう)なりとも只(たゞ)これ一種(いつしゆ)の黴賊(ばいぞく)なり其(その)
症(せう)に応(おう)ずる時(とき)はいかなる薬(くすり)も功(こう)を立(た)つ是迄(これまで)延寿丸(えんじゆぐはん)所々(しよ〳〵)の軍(いくさ)に
功(こう)ありしは能(よく)其症(そのせう)に応(おう)ずるがゆへなりさりとて必(かなら)ず黴効散(ばいかうさん)に
勝(まさ)るには非(あら)ず其症(そのせう)に応(おう)ぜざる時(とき)は黴効散(ばいかうさん)に譲(ゆづ)る事(こと)もある
べし先(まづ)此度(このたび)は延寿丸(えんじゆぐはん)を用(もち)ゆるといへども先陣(せんぢん)には十全太補湯(じうぜんたいふとう)
【右丁】
を用(もち)ゆるなり其(その)ゆへは当国(とうごく)已(すで)に衰憊(すいび)【注】してはじめより烈(はげ)しき
合戦(かつせん)はなりがたし十全大補湯(じうぜんたいふとう)は温和(おんくわ)の將(しやう)なれば彼(かれ)を用(もち)ひ
て諸道(しよどう)を安撫(あんぶ)せしめ気血(きけつ)を循環(じゆんくはん)させ鋭気(ゑいき)を整(とゝの)へて黴賊(はいぞく)を
防(ふせ)がせ其間(そのあいだ)に延寿丸(えんじゆぐはん)は少(すこ)しづゝ敵(てき)を打(うち)とり手(て)いたき戦(たゝかひ)はなす
べからず国力(こくりき)全(まつた)く復(ふく)したる時(とき)一時(いちじ)に打(うつ)て出(い)で手詰(てづめ)の一戦(いつせん)を催(もやう)
すべし此次(このつぎ)属国(ぞくこく)なをあまたなれば黴効散(ばいかうさん)を用(もち)ゆる時(とき)もあら
んか先(まづ)此度(このたび)は我(わ)が下知(げぢ)に随(したが)へよといへば黴効散(ばいかうさん)は唯々(いゝ)として退(しりそ)き
延寿丸(えんじゆぐはん)は大補湯(たいふとう)を伴(ともな)ひ陣外(ぢんぐはい)に出(い)でゝ用意(ようい)をなし惣勢(さうぜい)五千 余(よ)
騎(き)にて黴陣(ばいぢん)へぞ向(むか)ひける上攻結毒(じやうかうけつどく)は痔疾痔漏(ぢしつぢろう)と謀(はか)り兼(かね)
て合図(あいづ)をなし薬軍(やくぐん)何方(いつかた)にても攻(せ)め来(きた)らば一方(いつぱう)より切(きつ)て
出(い)で挟(はさ)み打(うち)にすべしと構(かま)へける今度(このたび)薬軍(やくぐん)むかふと聞(きゝ)結毒(けつどく)
【注 正しくは「すいはい」。】
【左丁】
は湿頭痛(しつづつう)に下知(けぢ)して頭脳(づのふ)を乱妨(らんぼう)させ痔疾(ぢしつ)に牒(ちやう)じ合(あは)せ
て下部(けぶ)をなやまさしめ薬軍(やくぐん)手(て)いたき戦(たゝか)ひをなさば血脈(けつみやく)
諸道(しよどう)騒動(さうどう)してつかれ切(きつ)たる国中(こくちう)益(ます〳〵)衰弊(すいへい)せん其図(そのづ)をはづ
さず国郡(こくぐん)に攻(せ)め入(い)り一挙(いつきよ)に国(くに)を亡(ほろ)ぼさんと謀(はか)りたりかくて大(たい)
補湯(ふとう)は先陣(せんぢん)として国中(こくちう)を推(お)し通(とを)り気血水(きけつすい)の良民(りやうみん)をお
びやかし財宝(ざいほう)を掠(かす)め往来(わうらい)の妨(さまたげ)をなす所(ところ)の小賊(せうぞく)を追(おひ)はらひ
良民(りやうみん)を助(たす)け気血水(きけつすい)を往来(わうらい)させ五臓六腑(こざうろつぷ)の弊(ついへ)をおぎなひ
敢(あへ)て妄(みたり)に戦(たゝか)はず後陣(ごぢん)の来(きた)るを待合(まちあは)す黴賊(ばいぞく)は案(あん)に相違(さうい)し
かくては味方(みかた)次第(しだい)によはるべしはやく此陣(このぢん)を追落(おひおと)せよと上下(しやうか)
より逆(さか)よせして攻(せむ)れども大補湯(たいふとう)は少(すこ)しもさはがずよせ来(く)る
敵(てき)を追立(おつたて)〳〵陣(ぢん)を堅固(けんご)に守(まも)りければ黴賊(はいぞく)いかんとも
【右丁】
する事(こと)能(あた)はず兎角(とかく)するうち後陣(ごぢん)の延寿丸(えんじゆぐはん)が勢(せい)着(ちやく)
到(とう)しければ薬軍(やくぐん)はます〳〵いさみ立(た)ち勢(いきほ)ひはじめに陪増(ばいさう)
す上攻結毒(じやうこうけつどく)痔疾痔漏(ぢしつぢろう)は此体(このてい)をみて気(き)をいらち此(この)まゝにては
味方(みかた)の通路(つうろ)絶(たえ)て敵勢(てきせい)ます〳〵振(ふる)ふべしいかにもして薬軍(やくぐん)を
追(お)ひはらはんと上下(しやうか)一時(いちじ)に合図(あいづ)を定(さだ)め勢(せい)を尽(つく)して推寄(おしよ)する
延寿丸(えんじゆぐはん)も手勢(てぜい)計(ばか)りにて打(うつ)て出(い)で両陣(りやうぢん)互(たがい)に鬨(とき)を作(つく)り近々(ちか〴〵)と
すゝみよる時(とき)に黴軍(ばいぐん)上下(しやうか)の陣門(ぢんもん)を一度(いちど)にひらき両(りやう)賊將(ぞくしやう)あらはれ
出(い)で延寿丸(えんじゆぐわん)を指(ゆひざ)して腐薬(ふやく)の弱將(じやくしやう)身(み)のほどを顧(かへりみ)ず来(きたつ)てと虎(とら)
の鬚(ひげ)を撚(ひねら)んとするかと呼(よばは)れば延寿丸は冷笑(あざわら)ひ汝等(なんぢら)こそあさ
ましき陰邪(いんじや)の類(たぐひ)起死回生(きしくわいせい)の霊薬(れいやく)にむかつて無用(むよう)の荒言(くはうげん)
を吐(は)く事(こと)なかれ先(まづ)我(わ)が手並(てなみ)のほどを試(こゝろ)みよと例(れい)の大鎗(たいさう)を
【左丁】
りう〳〵と引(ひき)しごき諸軍(しよぐん)とともに電(いなづま)のごとく突(つき)かゝれば
黴賊(ばいぞく)も切(きつ)て出(い)で手先(てさき)を回(まは)して働(はたら)くうち延寿丸(えんじゆぐわん)は鎧(よろひ)の
間(あいだ)より流星丸(りうせいぐわん)をとり出(いだ)し上下(しやうか)の黴軍(ばいぐん)を望(のぞ)んで紛々(ふん〳〵)と
投付(なげつく)るに賊将(ぞくしやう)をはじめ士卒(しそつ)まで此(この)流丸(りうぐわん)に中(あた)る者(もの)或(あるひ)は血(ち)を
吐(は)き或(あるひ)は悶絶(もんぜつ)して矢庭(やには)に五六十 騎(き)ばかり馬上(ばじやう)にたまらず
顛倒(てんどう)して地(ち)に仆(たを)れ軍勢(ぐんぜい)乱(みだ)れてみへければ延寿丸(えんじゆぐわん)は諸卒(しよそつ)に下(げ)
知(ぢ)して短兵(たんぺい)【注】をもつて切伏(きりふせ)〳〵一息(ひといき)に両陣(りやうぢん)をまくり立(た)て敵(てき)の
返(かへ)し合(あは)せざるうちに軽々(かる〴〵)と引上(ひきあ)げ陣門(ぢんもん)を鎖(とざ)して扣(ひか)へたり黴(ばい)
軍(ぐん)は漸々(やう〳〵)と備(そな)へをかため味方(みかた)を点検(てんけん)するに打死(うちじに)手負(ておひ)若干(そこばく)にし
て何(なん)の仕出(しいだ)したるゝともなくあきれ返(かへ)つてありけるが其(その)翌日(よくじつ)再(ふたゝび)
陣(ぢん)をはり上下(しやうか)牒(ちやう)じ合(あは)せて薬軍(やくぐん)に推(おし)よせ今日(こんにち)は是非(ぜひ)〳〵手詰(てづめ)の
【注 短い武器。刀剣をいう。】
【右丁 右下】
延寿丸(えんじゆぐはん)
痔疾(ぢしつ)を討(うち)
結毒(けつどく)を
追(お)ふ図(づ)
【同 左上部から左丁にかけて】
てつの
つちを
うち
つける
【左丁 左端中部】
この
ぞく
かしらへ
のぼりて
いろ〳〵の
がいを
なす
【右丁】
一戦(いつせん)をなさんと勢(いきほ)ひこんて攻(せ)めかゝる延寿丸は敵(てき)を矢(や)ごろ【注】に引寄(ひきよせ)
時分(じぶん)はよしと挟間(はざま)をひらき弓(ゆみ)鉄炮(てつぽう)【「鉋」は誤記】雨(あめ)のごとくに打出(うちいだ)しすこし
ひるんだる所(ところ)へ逞兵(ていへい)五百 余騎(よき)を引連(ひきつ)れ陣門(ぢんもん)を八字(はちのじ)にひらいて
切(きつ)て出(い)で猛虎(もうこ)の羊群(ようぐん)に入(い)るがごとく西(にし)より廻(まは)りて東(ひがし)にあらはれ
右(みぎ)より打(うつ)て左(ひだり)へ靡(なび)け敵兵(てきへい)の乱(みだ)れ立(た)つたる間(あいだ)にはやく陣中(ぢんちう)に馳入(はせい)り
内(うち)より門(もん)を鎖(とざ)して再(ふたゝ)び弓(ゆみ)鉄炮(てつぽう)を緊(きびし)く打立(うちた)て要害(ようがい)堅固(けんご)に守(まも)り
ければ黴軍(ばいぐん)は歯(は)を切(くひし)ばり怒(いか)るといへどもいかんともすべきやうなく
これより日々(にち〳〵)推寄(おしよす)る度毎(たびごと)に延寿丸(えんじゆぐわん)種々(しゆ〴〵)に働(はたら)き或(あるひ)は切(きつ)て出(い)で
或(あるひ)は飛道具(とびどうぐ)にて打伏(うちふ)せ黴軍(ばいぐん)死傷(ししやう)多(おゝ)きのみにて薬兵(やくへい)は少(すこ)し
もよはらず此間(このひま)に大補湯(たいふとう)は手勢(てぜい)をわけて諸道(しよどう)諸府(しよふ)を
巡撿(じゆんけん)させ黴軍(ばいぐん)小卒(せうぞく)の乱妨(らんぼう)をとゞめ気血水(きけつすい)を導(みちび)きます〳〵
【注 矢比=矢を射当てるのに手ごろな距離。】
【左丁】
補助(ほぢよ)の術(じゆつ)を施(ほどこ)せば国中(こくちう)の勢(いきほひ)次第(しだひ)に復(ふく)し国家(こくか)の命令(めいれい)行(おこなは)
れ小賊(せうぞく)ども所々(しよ〳〵)に散在(さんざい)する事(こと)能(あた)はすごと〴〵く本陣(ほんぢん)に帰(かへ)り
来(きた)り事(こと)の次第(しだい)を告(つげ)ければ上攻結毒(じやうこうけつどく)大に愁(うれ)ひいそぎ痔疾(ぢしつ)
痔漏(ぢらう)が陣(ぢん)にいたり薬軍(やくぐん)劇戦(げきせん)をなさず小(こ)ぜり合(あい)に日(ひ)を送(おく)り
其内(そのうち)に国(くに)の勢力(せいりよく)を復(ふく)せんとす我々(われ〳〵)当国(とうごく)に攻入(せめい)り已(すで)に七分通(しちぶとを)りを
随(したが)へたるに今(いま)の様子(やうす)にては次第(しだい)に国兵(こくへい)に取返(とりかへ)され后(のち)には銘々(めい〳〵)の身(み)の
措処(をきどころ)もなからんかはやく謀(はかりこと)を定(さだ)めずんば臍(ほぞ)を噬(かむ)の憂(うれひ)あるべし某(それがし)が
思(おも)ふには已前(いぜん)のごとく頭痛(づつう)に命(めい)じて頭脳(づのう)を攻(せめ)させ同時(どうじ)に口中門(こうちうもん)穀道(こくどう)
門(もん)を立切(たちき)り其(その)気力(きりよく)を弱(よは)らし薬軍(やくぐん)の向(むか)ひたる時(とき)は烈(はげ)しく当(あた)りて
兵威(へいゐ)をふるひ愈(いよ〳〵)国民(こくみん)をくるしませ薬兵(やくへい)の退(しりぞ)く時(とき)は静(しづか)に進(すゝん)で
臓腑(ざうふ)都城(とじやう)に攻入(せめい)り国王(こくわう)を討取(うちと)らん足下(そくか)はいかゞおもひ玉(たま)ふぞ
【右丁】
といへば痔疾痔漏(ぢしつぢらう)も頭(かしら)をかき某(それがし)とても別(べつ)に妙計(めうけい)なし先(まづ)貴命(きめい)に
随(したが)ふべしと即(すなはち)使(つかひ)を馳(はせ)て湿頭痛(しつづつう)に下知(げぢ)を伝(つた)へければ其日(そのひ)より頭(づ)
脳山(のうさん)へ黴軍(ばいぐん)打(うつ)て出(い)で大将(たいしやう)湿頭痛(しつづつう)は魔術(まじゆつ)を以(もつ)て南風(なんぷう)を起(おこ)し
土砂(どしや)を吹立(ふきた)て前髪際(ぜんばつさい)米噬(こめかみ)辺(へん)の土脈(どみやく)を震動(しんどう)させければ頭項(づかう)
強痛(きやうつう)宛(あたかも)破(わる)るがごとく国民(こくみん)のくるしみ甚(はなはだ)しく敷波(しきなみ)を打(うつ)【注】て王城(わうじやう)に急(きう)を
告(つ)ぐ国王(こくわう)も是(これ)がために煩悶憂苦(はんもんゆうく)して自(みづから)安(やす)んずる事(こと)あたはず淳直(じゆんちよく)
を呼(よ)んで計(はかりこと)を問(と)ふに淳直(じゆんちよく)は従容(しやうよう)として主公(しゆこう)暫(しばら)く忍(しの)び玉(たま)へ是(これ)薬軍(やくぐん)に
攻(せ)められ黴賊(ばいぞく)くるしんで動(どう)ずる所(ところ)彼等(かれら)が死物(しにもの)ぐるひなり我(わ)が勇將(ゆうしやう)延(えん)
寿丸(じゆぐはん)彼(かしこ)にあれば渠(かれ)が武勇(ぶゆう)を以(もつ)て遠(とを)からず頭痛(づつう)を討取(うちとら)ん只(たゞ)
気(き)を長(なが)く時節(じせつ)をまち玉(たま)ふべしいへば国王(こくわう)はこれを頼(たの)みに煩悶(はんもん)を忍(しの)び
吉左右(きつさう)をまち居(い)たり此時(このとき)延寿丸(えんじゆぐはん)は黴軍(ばいぐん)頭項(づかう)を侵(おか)すと聞(き)き太補(たいふ)
【注 あとからあとからと続く。絶え間がない。】
【左丁】
湯(とう)を呼(よ)んで申(もう)しけるは黴軍(ばいぐん)今(いま)上部(じやうぶ)を乱妨(らんぼう)して国民(こくみん)大に苦悩(くのう)
するよしはやく救(すく)はずんばあるべからず某(それがし)窃(ひそか)【竊】に一手(ひとて)の勢(せい)を引(ひい)て
頭項(づかう)にいたり大将(たいしやう)湿頭痛(しつづつう)を打取(うちと)り勢(いきほひ)に乗(の)りて咽喉門(いんかうもん)の賊(ぞく)
陣(ぢん)を劫(おびやか)さん足下(そくか)は手勢(てぜい)を分(わ)けて肛門(かうもん)の辺(へん)にある所(ところ)の灸瘡(きうさう)の如(ごと)
き小賊(せうぞく)の陣(ぢん)を打(うち)やぶり肌肉(きにく)を上(あ)げて其跡(そのあと)を愈(いや)し痔疾(ぢしつ)がい
きほひを弱(よわ)らし玉(たま)ふべしと商議(しやうぎ)し終(おわ)り陣中(ぢんちう)には二將(にしやう)
の旗指物(はたさしもの)を高(たか)く上(あ)げ部下(ぶか)の精兵(せいへい)をゑらんでこれを
守(まも)らせ延寿丸(えんじゆぐはん)は五百 騎(き)の兵(へい)を率(ひき)ひて上部(じやうぶ)へ発向(はつかう)し大補(たいふ)
湯(とう)は二千 騎(ぎ)にて肛門(かうもん)へ向(むか)ひけりかくともしらず湿頭痛(しつづつう)は
頭項山(づかうさん)に屯(たむろ)して日々(にち〳〵)打(うつ)て出(い)で魔術(まじゆつ)を行(おこな)ひ地脈(ちみやく)を動(うごか)し国(こく)
民(みん)をなやます所(ところ)に忽(たちまち)一彪(いつぴやう)の軍馬(ぐんば)山前(さんぜん)に殺到(さつとう)し天神(てんしん)のごとく
【右丁】
なる大将(たいしやう)真先(まつさき)に進(すゝ)み出(い)で小賊(せうぞく)はやく来(きた)つて勝負(しやうぶ)を決(けつ)せよ
と呼(よば)はる声(こへ)は頭上(づしやう)の雷(いかづち)のごとく頭痛(づつう)は忽(たちまち)心魂(しんこん)飛(とび)さり敢(あへ)て一言(いちごん)の
答(こた)へをなさず陣中(ぢんちう)に逃入(にげい)らんとするに彼(かの)大将(たいしやう)飛鳥(ひてう)のごとく馳(は)せ
来(きた)り鉄鞭(てつべん)を以(もつ)てはつしとうつ大力(だいりき)に打(うた)れてなじかはたまるべき
頭痛(づつう)は頭(かしら)胴(どう)ににへこみ【注】馬(うま)よりどふど落(おつ)る所(ところ)を片手(かたて)に掴(つか)んで遥(はるか)に
投(なげ)すて弱將(じやくしやう)我(わ)が手並(てなみ)をしるや我(われ)こそ天神(てんじん)再来(さいらい)の薬將(やくしやう)
消毒(せうどく)延寿丸(えんじゆぐはん)なるはと呼(よば)はれば小賊(せうぞく)どもは肝(きも)をけし音(おと)にきこへし
武勇(ぶゆう)の大将(たいしやう)近(ちか)よりて命(いのち)をうしなふな逃(にげ)よ〳〵と呼(よ)びつれて蛛(くも)
の子(こ)のごとく散乱(さんらん)す延寿丸は北(にぐ)るを追(お)ふて咽喉門(いんこうもん)にいたり直(すく)に
攻(せめ)かゝるべき勢(いきほひ)を示(しめ)せば黴陣(ばいぢん)の士卒(しそつ)胡乱(うろたへ)騒(さは)ぎ急(いそ)ぎ大将(たいしやう)上攻(じやうこう)
結毒(けつどく)をよび返(かへ)し四門(しもん)をかたく閉(とぢ)て防戦(ぼうせん)の用意(ようい)をなすこのとき
【注 にえこむ=めりこむ】
【左丁】
大補湯(たいふとう)は軍勢(ぐんせい)を率(ひい)て下部(げぶ)に向(むか)ひ小賊(せうぞく)の竄(かく)れたる灸瘡(きうさう)のごと
き小穴(せうけつ)を片端(かたはし)より塡埋(しんまい)し気血(きけつ)をめぐらし肌肉(いへじし)をあげ賊徒(ぞくと)の
栖(すみか)を除(のぞ)きされば痔疾痔漏(ぢしつぢらう)は是(これ)を聞(き)きて大に驚(おどろ)き兵(へい)を返(かへ)し
て本陣(ほんぢん)へ向(むか)はんとする時(とき)上攻結毒(じやうかうけつどく)が方(かた)へ使(つかひ)を馳(は)せ某(それがし)今(いま)本陣(ほんぢん)
に返(かへ)つて味方(みかた)をすくはんとす延寿丸(えんじゆぐわん)は気(き)ばやき大将(たいしやう)なれば
某(それがし)が引取(ひきと)るとしらば必(かなら)ず追討(おひうち)にすべしはやく其手(そのて)より打(うつ)て
出(い)でゝ延寿丸(えんじゆぐはん)が兵(へい)をくひとめ玉(たま)へといひ送(おく)り手勢(てぜい)を引(ひい)て退(しりぞか)ん
とするに延寿丸(えんじゆぐはん)がのこしたる兵(へい)かくと見(み)るより切(きつ)て出(い)で後(しり)へより
競(きそ)ひかゝれば痔疾痔漏(ぢしつぢらう)はあまたたび取(と)つて返(かへ)し敵兵(てきへい)を追払(おひはらひ)
おひはらひ自(おのづか)ら時(とき)をうつしけり上攻結毒(じやうけつどく)は痔疾痔漏(ぢしつぢらう)がしらせに
より薬軍(やくぐん)をくひ止(とめ)んと陣(ぢん)を開(ひら)いて打(うつ)て出(い)で延寿丸(えんじゆぐはん)が手(て)へ切(きつ)て
【右丁】
かゝるに薬軍(やくぐん)は少(すこ)しも騒(さは)がず暫(しばら)く戦(たゝか)ふてはさつと引(ひき)すゝむと見(み)せ
ては却(かへつ)て退(しりぞ)き次第(しだい)〳〵に引取(ひきと)れば結毒(けつどく)は是(これ)を見てさては薬軍(やくぐん)
烈(はげ)しき合戦(かつせん)を恐(おそ)るゝと見(み)へたり急(きう)に掛(かゝ)つて打散(うちちら)せと軍勢(ぐんぜい)を尽(つく)し
て競(きそ)ひかゝる薬軍(やくぐん)は只(たゞ)前(まへ)のごとく少(すこ)し進(すゝ)んで大に退(しりぞ)きいつしか痔疾(ぢしつ)
痔漏(ぢらう)が薬兵(やくへい)と戦(たゝか)ふ所(ところ)にいたりけるときに薬軍(やくぐん)の方(かた)に鬨(とき)の声(こへ)大
におこり延寿丸(えんじゆぐはん)馬(むま)を跳(おど)らして陣頭(ぢんとう)に出(い)で上攻結毒(じやうかうけつどく)痔疾痔漏(ぢしつぢらう)を
遥(はるか)に招(まね)きいかに鈍賊(どんぞく)ども某(それがし)が是(これ)まで数度(すど)の合戦(かつせん)に烈(はげ)しき戦(たゝか)ひ
をなさゞるは国中(こくちう)久(ひさ)しく衰耗(すいぼう)し国民(こくみん)劇攻(げきこう)にたえざるがゆへなり
今(いま)ははや国中(こくちう)の勢力(せい[り]よく)調(とゝの)ひあやぶむべき所(ところ)なし今日(こんにち)こそ某(それがし)が
勇武(ゆうぶ)のほどを見すべきぞまづ手(て)はじめに是(これ)を振廻(ふりまは)んと腰(こし)
より一挺(いつちやう)の連珠砲(れんじゆほう)を取出(とりいだ)しねらひを定(さだ)めてどふと打(う)つ其(その)
【左丁】
ひゞき霹靂(へきれき)のごとく先(さき)に立(たつ)たる黴兵(ばいへい)一連(いちれん)に百 騎(き)ばかり微(み)
塵(ぢん)にくだけて死(し)したりけり此勢(このいきほ)ひに辟易(へきゑき)しさはぎたつたる
黴軍(ばいぐん)を延寿丸(えんじゆぐはん)が精兵(せいへい)切先(きつさき)をそろへて切(きり)まくりきりま
くり看(み)る〳〵死人(しにん)のやまを築(きづ)けば上攻結毒(じやうかうけつどく)痔疾痔(ぢしつぢ)
漏(らう)いかにもして守(も)りかへさんと諸勢(しよせい)を下知(げぢ)して備(そな)へをたて
自(みづか)ら兵器(へいき)を取(とつ)て敵(てき)にあたり身命(しんめい)を惜(おし)まず防(ふせ)ぎければ
黴軍(ばいぐん)再(ふたゝ)び踏(ふ)みこたへんとする所(ところ)へ延寿丸(ゑんじゆぐはん)は摩(ま)【广】利支天(りしてん)【注①】のあれ
たる勢(いきほ)ひにて蒐来(かけきた)り血(ち)に染(そ)みたる鎗(やり)を馬(うま)の平首(ひらくび)にひき
そばめ【注②】痔疾痔漏(ぢしつぢらう)を望(のぞ)んで只(たゞ)一突(ひとつき)とくり出(いだ)す痔漏(ぢらう)もこゝぞ
一世(いつせ)の瀬戸(せと)と雷霆(らいてい)斧(ふ)を打振(うちふ)り向(むか)ひあはせて二十 余合(よがう)戦(たゝか)
ひけるが気力(きりよく)次第(しだい)につかれて危(あやう)くみへければ上攻結毒(じやうかうけつどく)鉄槌(てつつひ)
【注① 陽炎の神格化で、身を隠して障礙を除き、つねに日に仕えるとしてインドの民間に信仰された神。日本では、中世に武士の守護神として信仰された。】
【注② 引側め=身のかたわらに引き寄せて。】
【右丁】
を把(とつ)て助(たす)け来(きた)り夾(さしはさ)んで打(うた)んとす延寿丸(えんじゆぐはん)は精神(せいしん)ます〳〵
加(くは)はり二人を相手(あいて)に挑(いど)み戦(たゝか)ひ一声(いつせい)大に喚(おめ)くと見へしか痔疾(ぢしつ)
痔漏(ぢらう)を鎗玉(やりだま)にかけて中天(ちうてん)にはねあげ続(つゞ)ひてかゝる上攻(じやうこう)
結毒(けつどく)が鉄槌(てつつひ)の柄(ゑ)を身(み)をかはしてしかと握(にぎ)り一捻(ひとねぢ)ねぢれば精鉄(せいてつ)
にて延(のべ)たる槌(つち)の柄(ゑ)ほつきと折(お)れ手元(てもと)纔(わづか)に結毒(けつどく)が手(て)にのこり
槌(つち)は延寿丸(えんじゆぐはん)が手(て)にわたる此(この)勇力(ゆうりき)はや業(わざ)に結毒(けつどく)並(ならび)に残兵(ざんぺい)舌(した)
を振(ふる)ひ身(み)をちゞめ再(ふたゝ)び向(むか)ふ儀勢(ぎせい)なく馬(うま)を回(かへ)して逃(にげ)いだす
延寿丸はすかさず彼(かの)鉄槌(てつつひ)を片手(かたて)にふり上(あ)げ結毒(けつどく)を望(のぞ)んで
投付(なげつく)る思(おも)ふねらひ少(すこ)しもたがはず背骨(せぼね)の直中(たゞなか)にはつしと中(あた)り
結毒(けつどく)は暫(しばし)もたまらず馬(うま)より倒(さか)さまに落(おち)て血(ち)を吐(は)くこと夥(おびたゞ)し
是(これ)を見(み)て薬軍(やくぐん)はいよ〳〵勇(いさ)み勝鬨(かちどき)をつくつて追立(おつたつ)れば黴賊(ばいぞく)
【左丁】
の残徒(ざんとう)は立足(たつあし)もなく漸々(やう〳〵)結毒(けつどく)を引起(ひきおこ)して肩(かた)に引掛(ひつかけ)本陣(ほんぢん)さして
逃(にげ)てゆく延寿丸(えんじゆぐわん)は諸軍(しよぐん)を制(せい)し窮寇(きうこう)は逼(せま)るべからず今日(こんにち)已(すで)
に痔疾痔漏(ぢしつぢらう)を討取(うちと)り結毒(けつどく)に手(て)を負(おふ)せたれば残賊(ざんぞく)どもはなに
ほどの事(こと)かあらん若(もし)強(しい)てながおひせば敵徒(てきと)必死(ひつし)になつて返(かへ)し
合(あは)せんか其時(そのとき)は味方(みかた)にも亦(また)死傷(ししやう)多(おゝ)くことに新(あら)たに復(ふく)したる
国勢(こくせい)劇戦(げきせん)によりて再(ふたゝ)び潰(つい)へる事(こと)もあるべし只(たゞ)追(おひ)すてにして
軍(いくさ)を引(ひき)あげよと下知(げぢ)すれば諸軍勢(しよぐんぜい)敢(あへ)て遠(とを)くおはず引鐘(ひきがね)
をならして勝鬨(かちどき)を三 度(ど)あげ本陣(ほんぢん)に引(ひき)とりけるかゝる所(ところ)へ元帥(げんすい)
淳直(じゆんちよく)車(くるま)を駆(はせ)て出来(いできた)り延寿丸(えんじゆぐはん)が武勇(ぶゆう)大補湯(たいふとう)が補潤(ほじゆん)諸卒(しよそつ)
の忠戦(ちうせん)を賞(しやう)じ大補湯(たいふとう)に命(めい)じていよ〳〵国中(こくちう)の闕耗(かんばう)【注】をおぎなはせ
ければ気血水(きけつすい)の国民(こくみん)は日々(ひゞ)に勢(いきほ)ひづき賊徒(ぞくと)は次第(しだい)に落(おち)うせ
【注 「欠乏」の意。「けつばう」と振るところを「かんばう」としているのは「欠」が我が国だけの訓義で「かん」とするところからと思われる。】
【右丁】
咽喉門(いんこうもん)の本陣(ほんぢん)もつての外(ほか)に色(いろ)めきたり是(これ)を見(み)て延寿丸は
逞兵(ていへい)を引(ひい)て再(ふたゝ)び黴陣(ばいぢん)に打向(うちむか)ふに結毒(けつどく)は先日(せんじつ)の合戦(かつせん)に
重手(おもで)を負(お)ひ物(もの)の用(よう)に立(たゝ)ず其上(そのうへ)士卒(しそつ)日々(にち〳〵)夜々(やゝ)に落(おち)うせ
国民(こくみん)の勢(いきほ)ひ俄(にわか)につよく悪血(をけつ)腐肉(ふにく)になりたる者(もの)も正血(しやうけつ)正(しやう)
肉(にく)になり降参(かうさん)したる者(もの)も俄(にわか)に下知(げぢ)に従(したが)はず其上(そのうへ)新手(あらて)の薬(やく)
兵(へい)攻(せ)め来(きた)るを見(み)て今(いま)ははや是迄(これまで)なりと落残(おちのこ)りし小賊(せうぞく)
を集(あつ)めて最后(さいご)の酒盛(さかもり)をなし其后(そのゝち)本陣(ほんぢん)に火(ひ)を掛(かけ)自(みづから)首(くび)を
刎(はね)て一 騎(き)ものこらず焼亡(しやうばう)す延寿丸(えんじゆぐはん)は火(ひ)の手(て)を見るより急(いそ)ぎ
馳付(はせつ)き火烟(くわえん)を打消(うちけ)し焼残(やけのこ)りし賊将(ぞくしやう)の首(くび)をとり猶(なを)近辺(きんぺん)に隠(かく)
れたる残賊(ざんぞく)を駆(か)り出(いだ)して尽(こと〴〵)く打取(うちと)り咽喉道(いんこうどう)全(まつた)く平定(へいぢやう)して
后(のち)諸軍(しよぐん)を引(ひい)て本陣(ほんぢん)に返(かへ)れば淳直(じゆんちよく)再度(さいど)の功(かう)を賞(しやう)じ今(いま)は凱(かい)
【左丁 欠丁】
【参考】
【東京大学図書館蔵本より欠丁部を翻刻し追記】
陣(ぢん)すべしと惣勢(さうぜい)をまどめて隊伍(たいご)を整(とゝの)へ王城(わうじやう)へ還向(くはんかう)す国(こく)
王(わう)はかくときくより遠(とを)く郭外(くはくぐはい)に迎(むか)へ打連(うちつれ)て都城(とじやう)に返(かへ)り
淳直(じゆんちよく)並(ならび)に諸大将(しよだいしやう)に数度(あまた)の金宝(きんほう)を贈(おく)り大に宴(ゑん)を設(もうけ)て凱陣(がいぢん)
の儀式(ぎしき)をなす是(これ)より先(さき)次(つぎ)の属国(ぞくこく)より俱生神(くしやうじん)来(きた)り彼国(かのくに)の
賊徒(ぞくと)つよければ先(まづ)勇名(ゆうめい)高(たか)き延寿丸(えんじゆぐわん)を差向(さしむ)け玉(たま)へ元帥(げんすい)は
当国(とうごく)平定(へいじやう)の后(のち)御入(をんい)りあるべしと再三(さいさん)に乞(こ)ひければ淳直(じゆんちよく)も止(やむ)
事(こと)を得(え)ず其(その)乞(こふ)に応(をう)じて此(こゝ)よりすぐに延寿丸(えんじゆぐはん)に逞兵(ていへい)千 余騎(よき)
を与(あた)へて先立(さきだつ)て彼国(かのくに)に向(むか)はしめ己(おのれ)は諸将(しよしやう)とともに逗留(とうりう)し
国王(こくわう)をさとして乱後(らんご)治世(ぢせい)の術(じゆつ)を論(ろん)じしばらく日(ひ)
数(かず)をおくりけり
黴瘡軍談三の巻畢
【裏表紙】
【資料整理ラベル】
富士川本
エ
23
【表紙 題箋】
絵本黴瘡軍談 下
【右丁 白紙】
【左丁】
黴瘡軍談(ばいさうぐんだん)巻(くはん)の第四(だいし)
伯州米子(はくしうよなご)船越敬祐(ふなこしけいすけ)著(あらはす)【白文の印】
延(ゑん) 寿(じゆ) 丸(ぐはん) 矜(ほこつて)_レ勇(ゆうに) 取(とる)_レ敗(やぶれを)
黴(ばい) 効(こう) 散(さん) 定(さだめて)_レ計(はかりことを)討(うつ)_レ敵(てきを)
其次(そのつき)助八(すけはち)といふ人体国(にんたいこく)は上攻結毒(じやうこうけつどく)が子(こ)結毒難治(けつどくなんぢ)下疳(げかん)
早成(はやなり)が子(こ)蝋燭下疳(らうそくげかん)の両賊將(りやうぞくしやう)入(いり)こみ陰茎山(いんきやうざん)鼻梁山(びりやうさん)を
攻侵(せめおか)し陣(ぢん)を進(すゝ)めて国中(こくちう)に向(むか)ふ山勢(さんせい)次第(しだい)に陥落(かんらく)し下民(かみん)
逃亡(ちやうぼう)して気血(きけつ)あれ肌肉(きにく)枯痩(こさう)す又(また)両眼門(りやうがんもん)にも腐爛(ふらん)疼痛(とうつう)
の陣(ぢん)を張(は)り小賊(せうぞく)に下知(げぢ)して近辺(きんぺん)を乱暴(らんぼう)させ頭脳(づのう)の間(あいだ)に
往来(わうらい)し鬨(とき)を作(つく)り螺(ほら)を吹(ふ)き鐘(かね)をならせば其声(そのこへ)頭門(づもん)耳門(にもん)
に震(ふる)ひ土脈(どみやく)搖動(ようどう)して裂(さけ)るがごとく居民(きよみん)の嘆(なげ)き国王(こくわう)の苦(く)
【上欄の印】
【縦長角印】
富士川氏藏
【角印】
京都
帝国大学
図書之印
【楕円形印】
183806
大正7.3.31
【右下部の印】
富士川游寄贈
【右丁】
悩(のふ)止(やむ)ときなし是迄(これまで)六物解毒湯(りくもつげどくとう)龍胆瀉肝湯(りうたんしやかんとう)山帰来剤(さんきらいざい)五(ご)
宝丹(ほうたん)【注】紫金丹(しきんたん)雞汁煎(けいじゆせん)或(あるひ)は軽粉剤(けいふんざい)芎黄散(きうおうさん)反鼻丸(はんびぐはん)等(など)打(うつ)
手(て)として向(むか)ひけれども賊徒(ぞくと)強(つよ)くして勝事(かつこと)あたはず国家(こくか)危(き)
殆(たい)に及(およ)びしに俱生神(くしやうじん)に勧(す[ゝ])められ国王(こくわう)始(はじ)めて心付(こゝろつ)き篤実(とくじつ)
淳直(じゆんちよく)を元帥(げんずい)と頼(たの)みけるに此頃(このごろ)いまだ万吉国(まんきちこく)に在(あり)て治国(ぢこく)の
計(はかりこと)をなす最中(さいちう)なれば先(まづ)部下(ぶか)の勇將(ゆうしやう)延寿丸(ゑんじゆぐわん)を招請(せうだい)し是(これ)
を以(もつ)て黴賊(ばいぞく)追討(ついとう)の大将軍(たいしやうぐん)となし不日(ふじつ)に合戦(かつせん)を催(もよ)ふさんとす
両(りやう)賊將(ぞくしやう)は先達(さきだつ)て万吉国(まんきちこく)の左右(さう)を聞(き)き其(その)親々(おや〳〵)の延寿丸(ゑんじゆぐはん)
に討(うた)れたるを知(し)れば此度(このたび)当国(とうごく)へ彼(かれ)が推寄(おしよす)ると聞(きい)て一(ひとたび)は喜(よろこ)
び一(ひとたび)は憂(うれ)ふ喜(よろこ)ぶゆゑんは当(とう)の敵(てき)に出逢(いであふ)ゆへなり憂(うれふ)るゆゑん
は延寿丸(ゑんじゆぐわん)が勇猛无双(ゆうもうぶそう)たやすく勝(かつ)こと能(あた)はざる故(ゆへ)なり此(こゝ)に於(おい)て
【注 江戸時代中期ごろ、梅毒に効があるといわれた売薬。】
【左丁】
両將(りやうしやう)は所詮(しよせん)此度(このたび)の合戦(かつせん)復仇(ふくきう)の志(こゝろざ)しを遂(とげ)んこと黴毒大王(ばいどくだいわう)の
力(ちから)を借(かる)より外(ほか)に計(はかりこと)あるべからずと商議(しやうぎ)を定(さだ)め両將(りやうしやう)斉(ひと)しく雲(くも)
を起(おこ)し風(かせ)に乗(じやう)じて直(たゞち)に黴毒王(ばいどくわう)の所(ところ)に至(いた)り再拝(さいはい)して涙(なんだ)を
はら〳〵と流(なが)し大王(だいわう)定(さだめ)て聞(きゝ)玉(たま)はん我々(われ〳〵)が父(ちゝ)下疳早成(げかんはやなり)は長(ちやう)
禄国(ろくこく)に於(おい)て延寿丸(ゑんじゆぐわん)が為(ため)にあへなく討(うた)れ上攻結毒(じやうこうけつどく)も万吉国(まんきちこく)
にて奴(きやつ)にうたれ其(その)無念(むねん)骨髄(こつずい)に徹(てつ)して忘(わす)れがたし此度(このたび)我々(われ〳〵)
が攻入(せめいり)し助八国(すけはちこく)へも延寿丸(ゑんじゆぐわん)打手(うつて)に向(むか)へり親々(おや〳〵)の当(とう)の敵(かたき)殊(こと)に
大王(だいわう)の為(ため)には重(かさ)なる怨敵(おんでき)なれば我々(われ〳〵)いかにもして彼(かれ)を討取(うちとら)ん
と存(ぞん)ずれども彼(かれ)が武勇(ぶゆう)は古今(ここん)絶倫(ぜつりん)にして我曹(わがともがら)の及(およ)ぶ所(ところ)
にあらず仰(あほ)ぎ願(ねがはく)は大王(だいわう)一臂(いつぴ)の力(ちから)を扶(たす)け彼(かの)薬丸(やくぐはん)を打取(うちとり)て我々(われ〳〵)
が忠孝(ちうかう)を全(まつた)からしめ玉へと謹(つゝし)んで述(のべ)にける黴毒王(ばいどくわう)は具(つぶさ)に
【右丁】
きゝ畢(おは)り汝等(なんぢら)が云(い)ふ所(ところ)尤(もつとも)道理(どふり)に叶(かな)へり急(いそ)ぎ加勢(かせい)を遣(つかは)す
べし我(われ)諸国(しよこく)の注進(ちうしん)によりて延寿丸(ゑんじゆぐわん)が勇猛(ゆうもう)をきゝおよぶ
中々(なか〳〵)力(ちから)を以(もつ)て戦(たゝかは)んとせば必定(ひつじやう)勝期(かつご)はあるべからず仍(よつ)て今(いま)汝等(なんぢら)
に一術(いちじゆつ)を授(さづけ)ん此術(このじゆつ)は古(いにし)へ相馬(さうま)の将門(まさかど)が用(もち)ひたる所(ところ)にして一体(いつたい)【躰】
七分身(しちぶんしん)の法(ほう)と名(なづ)く汝等(なんぢら)此術(このじゆつ)を行(おこな)ふときは一人(いちにん)の身(み)七人(しちにん)と
なり言皃(げんぼう)力用(りきよう)少(すこ)しもかはらず延寿丸(ゑんじゆぐわん)たとひ无双(ぶそう)の勇(ゆう)あ
りとも汝等(なんぢら)両人(りやうにん)十四人(じうよにん)と成(なつ)て向(むか)はゞ彼(かれ)討取(うちとら)んこと必定(ひつじやう)なりと
咒文(じゆもん)口決(くけつ)を授(さづ)くれば両將(りやうしやう)は大に喜(よろこ)びかゝる奇術(きじゆつ)を得(う)る上(うへ)は延(ゑん)
寿丸(じゆぐわん)を討(うた)んこと手裡(しゆり)にあり追付(おつつけ)吉左右(きつさう)を奏(さう)すべしと加(か)
勢(せい)の湿熱(しつねつ)五千余騎(ごせんよき)を引連(ひきつ)れ勇(いさ)み進(すゝ)んで帰(かへ)りける去程(さるほど)に
延寿丸(ゑんじゆぐはん)は淳直(じゆんちよく)に先達(さきだつ)て助八国(すけはちこく)にいたり国王(こくわう)に謁(えつ)して后(のち)部(ぶ)
【左丁】
下(か)の精兵(せいへい)一千余騎(いつせんよき)を一手(ひとて)となし国(くに)の中通(ちうどふ)りに陣(ぢん)をすへ
両(りやう)賊將(ぞくしやう)上下(しやうか)陣(ぢん)の通路(つうろ)を立切(たちき)り大ひに軍威(ぐんゐ)を耀(かゝやが)す結毒(けつどく)
難治(なんぢ)蝋燭下疳(らうそくげかん)の両賊(りやうぞく)は待設(まちもう)けたる事なれば上下(しやうか)一時(いつとき)に
牒(ちやう)【蝶は誤記】じ合(あは)せ逞兵(ていへい)をすぐりて二千余騎(にせんよき)ヅヽ隊伍(たいご)をみださず
薬軍(やくくん)の陣前(ぢんぜん)に推(お)し寄(よ)せ一度(いちど)に鬨(とき)をどつと作(つく)る中(なか)にも両(りやう)賊(ぞく)
將(しやう)は陣前(ぢんぜん)に身(み)を顕(あらは)し薬將(やくしやう)延寿丸(ゑんじゆぐわん)はいづくにある対面(たいめん)せんと
呼(よば)はる内(うち)延寿丸(ゑんじゆぐわん)も同(おな)じく陣頭(ぢんとう)に馬(うま)をすゝめ我(われ)こそ消毒(せうどく)
延寿丸(ゑんじゆぐわん)なり悪賊等(あくぞくら)我(わ)れに見(まみへ)んと願(ねが)ふは定(さだ)めて降参(かうさん)を
望(のぞ)む者(もの)ならんと云(い)へば両(りやう)賊將(ぞくしやう)は牙(きば)を噛(かん)で大ひに怒(いか)り延寿(ゑんじゆ)
丸(ぐわん)匹夫(ひつぷ)已(すで)に我々(われ〳〵)が親(おや)を殺(ころ)し尚(なを)我々(われ〳〵)を嘲弄(ちやうらう)するや今日(こんにち)此(この)
所(ところ)に推寄(おしよせ)たるは生(いき)ながら汝(なんぢ)を擒(とりこ)にして其肉(そのにく)を食(くらは)【喰】んと欲(ほつ)す
【右丁】
早(はや)く最期(さいご)の覚悟(かくご)をせよと罵(のゝし)れば延寿丸(ゑんじゆぐわん)は口を開(ひら)ひて大(たい)
笑(しやう)し汝等(なんぢら)は貪婪(どんらん)不儀(ふぎ)の悪賊(あくぞく)人情(にんじやう)は知(し)るまじと思(おも)ひしに
我(われ)を以(もつ)て親(おや)の敵(かたき)とし命(いのち)を捨(すて)て我(われ)に向(むか)ひ大言(たいげん)を吐(は)くことの
しほらしさよ不便(ふびん)ながら汝等(なんぢら)にも我(わが)引導(いんどう)を渡(わた)しくれん
と鎗(やり)をひねりて突(つき)かゝる両(りやう)賊將(ぞくしやう)もかけ合(あは)せ結毒難治(けつどくなんぢ)は偃(ゑん)
月刀(げつとう)を揮(ふる)ひ蝋燭下疳(らうそくげかん)は大刀(たいとう)を廻(まは)して切結(きりむす)び両軍(りやうぐん)入 乱(みだ)れ
て戦(たゝか)ひけるが延寿丸(ゑぬじゆぐわん)が勇鋒(ゆうほう)に突立(つきたて)られ黴軍(ばいぐん)忽(たちまち)敗形(はいぎやう)を
顕(あらは)しける所(ところ)に結毒難治(けつどくなんぢ)蝋燭下疳(らうそくげかん)少(すこ)し馬(うま)を退(しりぞ)けて左右(さゆう)
に分(わか)れ彼(かの)ならひ受(うけ)たる咒文(じゆもん)を唱(とのふ)れば怪(あや)しむべし両人(りやうにん)の形(かたち)
看々(みる〳〵)分(わか)れて七人(しちにん)と成(な)
り左右(さゆう)十四人(じうよにん)の賊將(ぞくしやう)一様(いちやう)の出立(いでたち)にて
手(て)に大刀(たいとう)をふり延寿丸(ゑんじゆぐわん)を討(うつ)て親(おや)の仇(あだ)を復(ふく)せよと声々(こへ〴〵)に
【左丁】
呼(よび)つれ四面(しめん)より打(うつ)てかゝる延寿丸(ゑんじゆぐはん)は事(こと)ともせず鎗(やり)を捨(すて)て剣(けん)を抜(ぬき)
左(ひだり)の手(て)には鉄鞭(てつべん)を揮(ふる)ひ火雷神(くはらいじん)の荒(あれ)たるごとく十四人を相手(あいて)に
火水になりて戦(たゝか)ひけるが正(まさ)しく前(まへ)に打(うち)ふせたるとおもへば忽然(こつぜん)
として後(しりへ)に在(あ)り右に切て落(おと)したると見れば左にありて自若(じじやく)
たり一時ばかりの戦(たゝか)ひにさすがの延寿丸(ゑんじゆぐわん)も気力(きりよく)労(つか)れ一まづ
引とり重(かさ)ねて此(この)魔術(まじゆつ)を折(くぢ)【拆は誤記】くべしと透(すき)を料(はか)りて馬(うま)を返(かへ)し陣(ぢん)
門(もん)にかけ入れば軍卒(ぐんそつ)も跡(あと)につゞひて乱入(みだれい)る黴軍(ばいぐん)は勝(かつ)に乗(の)り鬨(とき)を
作(つく)りて追来(おひきた)り付入【注】にせんとひしめくを延寿丸(ゑんじゆぐわん)下知(げぢ)して鉄炮(てつぽう)
弩(いしゆみ)を雨(あめ)のごとくに打出(うちいだ)せば黴軍(ばいぐん)面(おもて)を向(むく)べきやうなく今は是
までなりと兵(へい)をまどめ少し退(しりぞ)いて陣(ぢん)をとれば延寿丸も
四門(しもん)をかたく閉(とぢ)させ部(ぶ)を分(わけ)て持口(もちぐち)を守(まも)り経宵(よもすがら)敢(あへ)て眠(ねむ)らず
【注 つけいり=敵が退くに乗じて攻めこむ。】
【左丁 左下部】
病賊(びやうぞく)分身(ぶんしん)の
術(じゆつ)をもつて
延寿丸(えんじゆぐはん)を
やぶる図
【右丁】
黴軍(ばいぐん)は夜(よ)の明(あくる)を待(まつ)て寄(よ)せ来(きた)り声(こへ)大ひなる者を撰出(ゑりいだして)て【ママ】散々(さん〴〵)
に罵(のゝし)り辱(はづかし)め又は馬(うま)より下(お)りて赤裸(あかはだか)になり居眠(ゐねむ)りなどして
欺(あざむ)きける延寿丸(ゑんじゆぐはん)は悶(もだ)へ怒(いか)るといへども力を以(もつ)て戦(たゝか)ひがたきをし
れば只(たゞ)かたく守(まも)りて出合ず使(つかひ)を馳(はせ)て淳直(じゆんちよく)に救(すく)ひを求(もと)む此
時(とき)淳直(じゆんちよく)は万吉国(まんきちこく)全(まつた)く平定(へいぢやう)したるを見て急(いそ)ぎ出立んとお
もふ所へ延寿丸(ゑんじゆぐわん)が早打(はやうち)来(きた)り軍(いくさ)の次第(しだい)を注進(ちうしん)しければ心
大に驚(おどろ)き早く救(すくは)ずんばあやまち有べしと万吉 国王(こくわう)にいとまを
告(つ)げ諸勢(しよぜい)を率(そつ)して矢(や)のごとくに馳来(はせきた)り王都(わうと)に着(つき)て国(こく)
王(わう)に見(まみ)へ軍(いくさ)の様子(やうす)国中(こくちう)の安否(あんぴ)を問(とへ)ば国王(こくわう)は再拝(さいはい)して其(その)
労(らう)を謝(しや)し先日延寿丸 黴軍(ばいぐん)と戦(たゝか)ひ怪(あや)しき術(じゆつ)に悩(なやま)され陣(ぢん)に
逃(にげ)入て再(ふたゝ)び出ず黴賊(ばいぞく)はこれを侮(あなど)り日々 推寄(おしよせ)て戦(たゝか)ひをいどみ
【左丁】
頭項(づこう)を震動(しんどう)させ鼻梁山(びりやうざん)を掘(ほ)り穿(うが)ち陰茎道(いんきやうどう)の血肉(けつにく)を
壊(こぼ)ち乱妨(らんぼう)始(はじめ)に倍(ばい)すれば某(それがし)をはじめ臣佐(しんさ)下民(かみん)苦悩(くのう)すること
狂(きやう)するがごとし先生(せんせい)はやく妙計(めうけい)を下(くだ)して救(すく)ひ玉へと涙(なんだ)と共(とも)に
なげきけり淳直(じゆんちよく)は是(これ)を聞(きゝ)て国王(こくわう)いたく嘆(なげ)き玉ふな某(それがし)自(みづから)
向(むか)ふ上(うへ)は立所(たちどころ)に賊徒(ぞくと)を誅(ちう)すべし是(これ)より直(すぐ)に打立(うちたゝ)んと惣勢(さうぜい)
を引連(ひきつ)れ延寿丸(ゑんじゆぐわん)が陣(ぢん)に至(いた)り合戦(かつせん)の有(あり)さまを問(と)ひ定(さだ)【め】て後(のち)
黴効散(ばいこうさん)を呼出(よびいだ)し汝(なんぢ)先(さき)に万吉国(まんきちこく)に在(あ)りて延寿丸(ゑんじゆぐわん)と先陣(せんぢん)
を争(あらそ)ひしかども某(それがし)が下知(げぢ)を守(まも)り彼国(かのくに)にては延寿丸(ゑんじゆぐわん)に功(こう)を
譲(ゆづ)れり当国(とうごく)に於(おい)ては改(あらた)めて汝(なんぢ)を以(もつ)て討手(うつて)とす早々(さう〳〵)馳向(はせむか)ふて
軍功(ぐんこう)をあらはすべし但(たゞ)し延寿丸(ゑんじゆぐはん)は此度(このたび)は先(まづ)王城(わうじやう)に引取(ひきと)りて
休息(きうそく)せよ然(しか)れども旗指物(はたさしもの)は其侭(そのまゝ)にして汝(なんぢ)が戦(たゝか)ふ様(やう)に見せ
【右丁】
おき黴効散(ばいこうさん)は窃(ひそか)【竊】に閑道(かんどう)を廻(まは)り不意(ふい)に起(おこ)りて賊(ぞく)の本巣(ほんさう)を
劫(おびやか)し一挙(いつきよ)に敵(てき)を亡(ほろぼ)すべしといへば黴効散(ばいこうさん)は大に喜(よろこ)び兵(へい)を率(ひい)
て欣然(きんぜん)として出去(いでさ)り延寿丸(ゑんじゆぐわん)は王城(わうじやう)へ引(ひ)き退(しりぞ)きぬ結毒難治(けつどくなんぢ)
蝋燭下疳(らうそくげかん)は延寿丸(ゑんじゆぐはん)が堅(かた)く守(まも)りて出(いで)ざるを侮(あなど)り軽(かろん)じ日々(にち〳〵)
来(きた)つて戦(たゝか)ひを挑(いど)み此日(このひ)も早天(さうてん)より陣前(ぢんぜん)に推寄(おしよ)せ種々(しゆ〴〵)に
悪口(あくこう)して薬軍(やくぐん)を怒(いか)らせおびき出(いだ)さんとす時(とき)に薬軍(やくぐん)の陣(ちん)
門(もん)さつと開(ひら)け延寿丸(ゑんじゆぐはん)が手下(てした)の少将(せうしやう)数十騎(すじつき)にて顕(あらは)れ出(いで)両人(りやうにん)を
指(ゆび)ざして賊徒(ぞくと)今日(こんにち)已(すで)に死地(しち)に入(い)り猶(なを)無益(むゑき)の雑言(ざうごん)を吐(はく)やと
罵(のゝし)れば両(りやう)賊將(ぞくしやう)は冷笑(あざわら)ひ延寿丸(ゑんじゆぐはん)が勇猛(ゆうもう)すら先日(せんじつ)の合戦(かつせん)に
我々(われ〳〵)が手並(てなみ)に恐(おそ)れ陣中(ぢんちう)に逃入(にげいつ)て恥(はぢ)を忍(しの)び羞(はぢ)を忘(わす)れ味方(みかた)の
悪言(あくげん)を聞(きゝ)ながら耳(みゝ)を潰(つぶ)して居(ゐ)る所(ところ)に汝等(なんぢら)ごとき小輩(せうはい)陣頭(ぢんとう)に
【左丁】
出(い)でゝ荒言(くはうげん)を吐(はく)は殊勝(しゆしよう)なり今(いま)打(うち)ころす奴(やつ)なれども其(その)勇気(ゆうき)
にめんじて免(ゆる)しくれん早(はや)く退(しりぞ)いて延寿丸(ゑんじゆぐはん)を出(いだ)せよ今日(こんにち)こ
そは生捕(いけどり)て生(いき)ながら其肝(そのきも)を割(さ)き亡父(ばうふ)の幽霊(ゆうれい)を祭(まつ)らんと
いふ薬軍(やくぐん)は手(て)を打(うつ)て汝等(なんぢら)忽(たちま)ち頭(かうべ)無(な)き鬼(おに)と成事(なること)を知(し)らず舌(した)を
動(うごか)し脣(くちびる)を翻(ひるがへ)すは何事(なにごと)ぞ早(はや)く首(くび)を洗(あら)ふて刀(かたな)の至(いた)るを待(まつ)べし
とどつと笑(わら)ふて陣中(ぢんちう)に入(い)り内(うち)より門(もん)を鎖(とざ)したり難治(なんぢ)下疳(げかん)は
躍(おど)り上(あが)りて大に怒(いか)り薬卒(やくそつ)ども戦(たゝか)ふこと能(あた)はず一時(いちじ)のたはむれを
なすぞさらば此陣(このぢん)けやぶれよと忽(たちま)ち分身(ぶんしん)の術(じゆつ)を行(おこな)ひ両人(りやうにん)の
形(かたち)七人ヅヽになり諸軍(しよぐん)を下知(げぢ)して四面(しめん)より取(と)りかこみ无二(むに)
无三(むざん)に攻立(せめたつ)る陣中(ぢんちう)には鳴(なり)をしづめてひかへしが時分(じぶん)はよしと鉄(てつ)
炮(ぱう)弩(いしゆみ)を一度(いちど)に切(きつ)てはなし雨霰(あめあられ)と打立(うちたつ)れば寄手(よせて)は進(すゝ)み兼(かね)て
【右丁】
見へけるにぞ二人の賊將(ぞくしやう)は気(き)をいらちいひがいなき者(もの)どもかな
持楯(もちだて)を持(もつ)てかづきつれて乗入(のりいれ)よと真先(まつさき)に進(すゝ)みきびしく下(げ)
知(ぢ)すれば諸軍(しよぐん)是(これ)に気(き)を烈(はげま)し射(い)れども打(うて)ども少(すこ)しも屈(くつ)せず
已(すで)に陣門(ぢんもん)を打破(うちやぶ)らんとする所(ところ)に鼻梁山(びりやうざん)の方(かた)に当(あた)りて一道(いちどう)の
香烟(かうゑん)【左ルビ:にほひよきけむり】雲(くも)のごとく起(おこ)り一彪(いつぴやう)の軍馬(ぐんば)顕(あらは)れ出(い)で黴賊(ばいぞく)追捕使(ついふし)黴(ばい)
効散(こうさん)と書(かき)たる大旗(おほはた)【簱】を推(お)し立(た)て軍勢(ぐんぜい)手毎(てごと)に小賊(せうぞく)の首(くび)を
提(さげ)悪賊(あくぞく)ども未(いま)だ知(し)らずや鼻梁山(びりやうざん)の本陣(ほんぢん)已(すで)に陥(おちい)り賊卒(ぞくそつ)
尽(こと〴〵)く首(くび)をさづく汝等(なんぢら)も相伴(せうばん)せよと口々(くち〴〵)に呼(よば)はれば黴軍(ばいぐん)將卒(しやうそつ)
大におどろき振(ふり)かへり見ればかぎりなき薬兵(やくへい)後(うしろ)を立(たち)きり
裊々(じやう〳〵)【注】たる香烟(かうゑん)黴軍(ばいぐん)の陣上(ぢんしやう)に襲(おそ)ひかゝる賊兵(ぞくへい)烟気(ゑんき)に吹(ふか)れて
眼(まなこ)くらみ其上(そのうへ)両賊(りやうぞく)が分身(ぶんしん)の術(じゆつ)破(やぶ)れ十四人の人馬(にんば)本(もと)の両騎(りやうき)
【注 ゆらゆらゆれるさま。】
【左丁】
となりければ諸軍兵(しよぐんぴやう)力(ちから)を落(おと)し勢(いきほ)ひくぢけて乱(みだ)れ立(た)つ薬(やく)
軍(ぐん)はかくと見るより陣門(ぢんもん)をひらき切先(きつさき)をそろへ面(おもて)もふらず
切入(きりい)れば両(りやう)賊將(ぞくしやう)は分身(ぶんしん)の術(じゆつ)は破(やぶら)れ前后(ぜんご)の敵(てき)にあたりがた
く気(き)も魂(たましひ)も身(み)にそはず馬(うま)に鞭(むち)打(う)つて逃行(にげゆく)所(ところ)に一人の
大将(たいしやう)混甲(ひたかぶと)に身(み)を固(かた)め手(て)に百練(ひやくれん)切玉(せつぎよく)の宝刀(ほうとう)を打振(うちふ)り悪(あく)
賊(ぞく)いづくへ走(はし)るや薬軍(やくぐん)四天王(してんわう)の一員(いちいん)黴効散(ばいこうさん)此所(このところ)に在(あ)りて
汝等(なんぢら)を待(まつ)こと久(ひさ)しと雷(いかづち)のごとくに呼(よば)はり路(みち)を奪(うばふ)て立塞(たちふさ)がる
両賊(りやうぞく)は已(すで)に戦(たゝか)ひ疲(つか)れたる上(うへ)烟気(ゑんき)に蒸(むさ)れて心神(しん〴〵)くらみ再(ふたゝび)
新手(あらて)に向(むか)ふべき勢(いきほ)ひはなけれども逃(のが)れぬ所(ところ)と心(こゝろ)を定(さだ)め血刀(ちがたな)
を振(ふ)りて左右(さゆう)より寄(よ)せ合(あは)せ二打(ふたうち)三打(みうち)戦(たゝか)ひけるがいかでか黴(ばい)
効散(こうさん)に叶(かな)ふべき忽(たちまち)宝刀(ほうとう)を請(うけ)そんじ四段(よだん)に成(なり)て失(うせ)にけり残賊(ざんぞく)
【右丁】
どもは散々(ちり〴〵)になり陰茎道(いんきやうどう)をさして逃行(にげゆく)を黴効散(ばいこうさん)は追詰(おつつめ)々々( 〳〵 )
首(くび)を切事(きること)数(かず)を知(し)らず日(ひ)已(すで)に暮(くれ)ければ兵(へい)を収(おさ)め陣(ぢん)を取(とり)て
疲(つか)れを休(やす)め夜(よ)の明(あく)るを待(まち)て陰茎山(いんきやうざん)に推寄(おしよ)せかづき連(つれ)て
攻上(せめのぼ)るに黴軍(ばいぐん)は已(すで)に大将(たいしやう)を失(うしな)ひ法令(はうれい)全(まつた)からず軍陣(ぐんぢん)調(とゝ)のはず
只(たゞ)一息(ひといき)に追落(おひおと)され一人(いちにん)も残(のこ)らず打死(うちじに)し当陣(とうぢん)全(まつた)く落着(らくじやく)
しければ賊営(ぞくゑい)を焼(やき)はらひ居民(きよみん)を按撫(あんぶ)して気血(きけつ)を修理(しゆり)し
国勢(こくせい)を張所(はるところ)へ梅肉丸(ばいにくぐはん)淳直(じゆんちよく)が命(めい)を受(う)けて三百 余騎(よき)にて馳(はせ)
来(きた)り元帥(げんずい)の命(めい)あり各(おの〳〵)は引取(ひきと)り玉へ某(それがし)是(これ)より替(かは)りて跡(あと)
ざらへいたすべしと報(ほう)ずれば黴効散(ばいこうさん)は軍(ぐん)を収(おさ)めて帰陣(きぢん)し梅(ばい)
肉丸(にくぐわん)は残賊(ざんぞく)の諸所(しよ〳〵)に隠(かく)れたるを駆出(かりいだ)し河水(かすい)をせきかけて
小腸(せうちやう)より大腸(だいちやう)に流(なが)しけるに賊徒(ぞくと)は尽(こと〴〵)く此水(このみづ)に溺(おぼ)れ死(し)し
【左丁ここに注記を書きます】
肛門道(こうもんどう)に向(むか)ふて流(なが)れ落(おつ)ること滝(たき)【瀧】のごとし是(これ)より梅肉丸(ばいにくぐはん)を
滝門丸(りうもんぐはん)と名(なづ)けて賊徒(ぞくと)大に畏(おそ)れける今(いま)は国中(こくちう)全(まつた)く平治(へいぢ)し
ければ淳直(じゆんちよく)は諸將(しよしやう)を召集(めしあつ)めて其功(そのこう)を賞(しやう)じ別(べつ)して黴効(ばいこう)
散(さん)は功労(こうらう)第一(だいゝち)なりと褒美(ほうび)し諸軍(しよぐん)と共(とも)に凱旋(かいせん)す国王(こくわう)の
褒詞(ほうし)諸軍將(しよぐんしやう)への恩賞(おんしやう)皆(みな)余国(よこく)の例(れい)のごとしかくて淳直(じゆんちよく)は乱(らん)
後(ご)国(くに)の仕置等(しおきとう)委(くは)しく示(しめ)して後(のち)暇(いとま)を乞(こう)て諸將(しよしやう)をしたがへ
次(つぎ)の国(くに)へぞ向(むか)ひける
両(りやう) 雄(ゆう) 連(しきりに) 出(いでゝ) 究(きはむ)_二苦(く) 戦(せんを)_一
一(いつ) 將(しやう) 独(ひとり) 進(すゝんで) 鏖(みなごろしにす)_二 ■(しう)【血+ト】敵(てきを)_一
其次(そのつぎ)を金吉国(きんきちこく)といふ此国(このくに)へは便毒腫満(べんどくはれみつ)楊梅瘡広成(やうばいさうひろなり)の両(りやう)
賊将(ぞくしやう)攻入(せめい)り楊梅瘡(やうばいさう)は大陽(たいやう)に塞(さく)を構(かま)へ四肢(てあし)頭面(づめん)背腰(はいやう)胸腹(けうふく)
【右丁】
に眷属(けんぞく)を分(わけ)て大小(だいせう)の瘡(さう)を発(はつ)し疼痛(とうつう)して膿汁(のうじう)を出(いた)す便毒(べんどく)は
股(もゝ)の付根(つけね)に山(やま)のごとき陣(ぢん)を張(は)り其辺(そのへん)を攻浸(せめおか)せば下部(げぶ)の諸道(しよどう)
焮痛(きんつう)止(や)むときなく国中(こくちう)湿熱(しつねつ)行(おこな)はれ或(あるひ)は悪寒(おかん)発熱(ほつねつ)し国(こく)
民(みん)暫(しば)らくも安堵(あんど)することを得(え)ず是迄(これまで)庸医(ようい)の元帥(げんずい)に誑(あざむか)れ
膏薬(かうやく)並(ならび)に消疳敗毒散(せうかんはいどくさん)を用(もち)ひて両將(りやうしやう)を防(ふせ)ぎけるが時(とき)を経(へ)て
寸効(すんこう)なく賊徒(ぞくと)次第(しだい)に深入(ふかいり)して国勢(こくせい)漸(やうや)く衰(おとろ)へんとす淳直(じゆんちよく)は
諸將(しよしやう)と共(とも)に此国(このくに)に至(いた)り国王(こくわう)に謁(えつ)して国(くに)の動静(どうせい)を問(と)ひ且(かつ)諸道(しよどう)
を巡見(じゆんけん)しおはり四天王(してんわう)並(ならび)に諸大将(しよだいしやう)を召(めし)集(あつ)め軍議(ぐんぎ)を示(しめ)し合(あ)ひ
先(まづ)延寿丸(ゑんじゆぐわん)に精兵(せいへい)三千 余騎(よき)を与(あた)へて先鋒(せんぼう)とし荊(けい)■(ぼう)【艹 冠+防】敗毒(はいどく)
散(さん)に一万 余騎(よき)を付(つけ)て後陣(ごぢん)となし黴軍(ばいぐん)に向(むか)ふて戦(たゝかは)しむ両黴(りやうばい)
將(しやう)はかくと聞(きく)より額(ひたい)を合(あは)せてさゝやきけるは自在衛門国(じざゑもんこく)に攻(せめ)
【左丁】
入(い)りたる瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】遺毒(いどく)をはじめとし其余(そのよ)の国々(くに〴〵)に向(むか)ひたる諸大(しよたい)
將(しやう)智(ち)と云(い)ひ勇(ゆう)と云(い)ひ何(いづ)れも我々(われ〳〵)が上(かみ)にありしかども延寿(ゑんじゆ)
丸(ぐはん)黴効散(ばいこうさん)に出合(いであ) ふては暫(しば)しもたまらず尽(こと〴〵)く首(くび)を失(うしな)ふ況(いわん)や
我々(われ〳〵)が智勇(ちゆう)を以(もつ)て彼等(かれら)に敵対(てきたい)せんは恰(あたか)も卵(たまご)を投(とう)じて石(いし)に当(あつ)
るがごとしいざや黴毒王(ばいどくわう)に見(まみ)へて助力(じよりき)を乞(こは)んと忽(たちま)ち二片(にへん)の
雲(くも)を起(おこ)し是(これ)に乗(の)りて黴毒王(ばいどくわう)の所(ところ)に至(いた)り拝謁(はいゑつ)して具(つぶさ)に
旨趣(ししゆ)を暢(のべ)ければ黴毒王(ばいどくわう)打黙頭(うちうなづき)汝等(なんぢら)よくこそ心付(こころつ)きたり
我(われ)に種々(しゆ〴〵)の妙術(めうじゆつ)あれば汝等(なんぢら)に教(をし)へ授(さづけ)ん去(さり)ながら延寿丸(ゑんじゆぐはん)黴(ばい)
効散(こうさん)等(ら)は智勇(ちゆう)容易(ようい)の者(もの)にあらず已(すで)に助八国(すけはちこく)に於(おい)て結毒(けつどく)
難治(なんぢ)蝋燭下疳(らうそくげかん)の両將(りやうしやう)我(わが)伝(つた)へたる分身(ぶんしん)の術(じゆつ)にて延寿丸(ゑんじゆぐはん)を
悩(なやま)せしに不意(ふい)に黴効散(ばいこうさん)に破(やぶ)られて両人(りやうにん)共(とも)に命(いのち)を殞(おと)せり
【右丁】
然(しか)れば並々(なみ〳〵)の術(じゆつ)にては危(あやふ)からん此度(このたび)は我(わ)が大切(たいせつ)の秘方(ひはう)を授(さづく)る
間(あいだ)汝等(なんぢら)随分(ずいぶん)心(こゝろ)を用(もち)ひて是(これ)を行(おこな)ふべし此術(このじゆつ)は延寿丸(ゑんじゆぐはん)黴効散(ばいこうさん)が
輩(ともがら)の能(よく)破(やぶ)る所(ところ)にあらず一度(ひとたび)是(これ)を施(ほどこ)すときは薬軍(やくぐん)を鏖(みなころし)にせ
んこと疑(うたが)ひなしと云(い)へば両將(りやうしやう)は抃舞(べんぶ)して悦(よろこ)び勇(いさ)み即(すなはち)其法(そのはう)を
習(なら)ひ受(うけ)飽(あく)まで記得(きとく)して後(のち)黴毒王(ばいどくわう)に別(わか)れ人体国(にんたいこく)に帰(かへ)り来(きた)り
薬軍(やくぐん)遅(おそ)しと待(まち)かけたり却説(さても)延寿丸(ゑんじゆぐはん)は荊(けい)■(ぼう)【艹 冠+防】敗毒散(はいどくさん)に先(さき)
立(たつ)て三千余騎(さんぜんよき)を引率(いんぞつ)し黴毒(ばいどく)の陣門(ぢんもん)近(ちか)く推寄(おしよ)せ鼓(つゞみ)をな
らし鬨(とき)を作(つく)り軍威(ぐんい)を振(ふる)ふて攻(せめ)かゝる黴軍(ばいぐん)も鬨(とき)を合(あは)せ陣門(ぢんもん)を
開(ひら)ひて打(うつ)て出(い)で賊将(ぞくしやう)楊梅瘡広成(やうばいさうひろなり)便毒腫満(べんどくはれみつ)と馬(うま)を並(なら)べて
陣頭(ぢんとう)に進(すゝ)み銘々(めい〳〵)に名(な)を名乗(なの)り当手(とうて)の薬將(やくしやう)に見参(げんざん)せんと
呼(よば)はれば延寿丸(ゑんじゆぐはん)はきゝもあへず馬(うま)を跳(おど)らして蒐出(かけい)で逆賊(ぎやくぞく)の
【左丁】
悪気等(あくきら)天神応化(てんじんおうけ)の延寿丸(ゑんじゆぐわん)を見知(みし)りたるか早(はや)く馬(むま)を下(おり)て
降参(こうさん)せよと罵(のゝし)るにぞ賊将(ぞくしやう)は大に怒(いか)り无益(むゑき)の荒言(くわうげん)を吐(はか)んより
先(まづ)我々(われ〳〵)が手並(てなみ)を見よと刀鎗(とうさう)を舞(まは)して競(きそ)ひかゝれば延寿(ゑんじゆ)
丸(くはん)も鎗(やり)取直(とりなを)し入違(いりちが)へかけ合(あは)せ火花(ひばな)をちらして戦(たゝか)ふ内(うち)に両方(りやうはう)
の軍兵(ぐんひやう)も犇々(ひし〳〵)と刃(やいば)を合(あは)せ此(こゝ)を先途(せんど)と切結(きりむす)ぶ賊将(ぞくしやう)は延寿(ゑんじゆ)
丸(ぐはん)に突立(つきたて)られ已(すで)に危(あやふ)く見へけるが忽(たちま)ち分身(ぶんしん)の術(じゆつ)を以(もつ)て
楊梅瘡広成(やうばいさうひろなり)が形(かたち)変(へん)じて百(ひやく)八人となり延寿丸(ゑんじゆぐはん)を真中(まんなか)に
取込(とりこ)め四方(しはう)八面(はちめん)より切(きつ)てかゝる延寿丸(ゑんじゆぐはん)も一世(いつせ)の大事(だいじ)と気(き)
を烈(はげま)し身(み)を飜(ひるがへ)すこと燕(つばめ)のごとく此(こゝ)にあらはれ彼(かしこ)に隠(かく)れ勇(ゆう)
を振(ふる)ふて戦(たゝか)へば賊将(ぞくしやう)も容易(ようい)に延寿丸(ゑんじゆぐわん)を討(うつ)こと能(あた)はず延寿丸(ゑんじゆぐわん)
も囲(かこみ)を出(いづ)ることを得(え)ず後陣(ごぢん)の荊(けい)■(ぼう)【艹冠 +防】敗毒散(はいどくさん)は賊軍(ぞくぐん)に喰(くひ)とめ
【右丁】
られ延寿丸(ゑんじゆぐわん)と其間(そのあいだ)遥(はるか)に隔(へだゝ)り薬軍(やくぐん)十分(じうぶん)の難儀(なんぎ)に見へければ
淳直(じゆんちよく)は小高(こだか)き岡(おか)の上(うへ)より是(これ)を望(のぞ)みて大に驚(おどろ)き急(きう)に黴効(ばいこう)
散(さん)を呼出(よびいだ)し賊徒(ぞくと)分身(ぶんしん)の術(じゆつ)を以(もつ)て延寿丸(ゑんじゆぐはん)を悩(なやま)す汝(なんぢ)早(はや)く行(ゆき)て
救(すく)ひ出(いだ)せよと下知(けぢ)すれば黴効散(ばいこうさん)は一議(いちぎ)にも及(およ)ばず四五百 騎(き)の
兵(へい)を領(りやう)じ飛(とぶ)がごとくに戦場(せんじやう)に馳付(はせつ)け敗毒散(はいどくさん)と一手(ひとて)に成(な)り風(かざ)
上(かみ)より烟(けむり)を起(おこ)し勢(いきおひ)に乗(の)りて切(きつ)て入(い)り当(あた)るを幸(さいわ)ひに薙倒(なぎたほ)
せば賊軍(ぞくぐん)忽(たちま)ち乱(みだ)れ立(た)ち其上(そのうへ)広成(ひろなり)が分身(ぶんしん)の術(じゆつ)破(やぶ)れしかば
延寿丸(ゑんじゆぐわん)が勇気(ゆうき)益々(ます〳〵)加(くわ)はり難(なん)なく囲(かこみ)を出(い)で黴効散(ばいこうさん)敗毒散(はいどくさん)
と共(とも)に黴軍(ばいぐん)を切(きり)ちらす便毒腫満(べんどくはれみつ)はかくと見るより南方(なんぼう)に
回(まは)り習(なら)ひ受(うけ)たる魔瞽風(まこふう)の術(じゆつ)を行(おこな)へば俄(にはか)に一陣(いちぢん)の熱風(ねつぷう)おこり
其(その)あつきこと鉄火(てつくは)より甚(はなは)だしく是(これ)に当(あた)る者(もの)身(み)を焼(や)くが
【左丁】
ごとく薬軍(やくぐん)皆々(みな〳〵)面(おもて)を掩(おほ)ひ戦(たゝか)ふこと能(あた)はざれば延寿丸(ゑんじゆぐわん)黴効(ばいこう)
散(さん)敗毒散(はいどくさん)はとても叶(かな)ふべからざるを知(し)り兵(へい)を引(ひき)つれ本陣(ほんぢん)
さして逃(にげ)て行(ゆ)く賊軍(ぞくぐん)は勝(かつ)に乗(の)り跡(あと)を慕(した)ふて追掛(おつかく)れば討(うた)
るゝ者(もの)数(かず)を知(し)らず淳直(じゆんちよく)は此体(このてい)を見て急(いそ)ぎ消魔(せうま)【广】風(ふう)の法(ほう)を
行(おこな)ひ口(くち)に咒文(じゆもん)を唱(とな)ふれば忽(たちま)ち北方(ほくぽう)より涼風(れうふう)吹来(ふききた)り熱(ねつ)
気(き)一時(いちじ)に消散(せうさん)す賊軍(ぞくぐん)も術(じゆつ)の破(やぶ)れたるを知(し)り敢(あへ)て追(おは)ざれ
ば諸薬軍(しよやくぐん)は漸々(やう〳〵)に本陣(ほんぢん)に入り淳直(じゆんちよく)に見(まみへ)て敗軍(はいぐん)の罪(つみ)を謝(しや)
す淳直(じゆんちよく)は是(これ)を責(せめ)ず勝敗(しやうはい)は兵家(へいか)の常事(しやうじ)汝等(なんぢら)いたく心(こゝろ)
を労(らう)すること莫(なか)れ先(まづ)退(しりぞ)いて休息(きうそく)せよと皆々(みな〳〵)を追(おひ)やり治(ぢ)
瘡丸(さうぐはん)を呼(よん)で此度(このたび)の合戦(かつせん)に諸薬將(しよやくしやう)皆(みな)敗(はい)を取る此賊(このぞく)をうち
取(とら)ん者(もの)汝(なんぢ)の外(ほか)にあるべからず速(すみやか)に行(ゆい)て功(こう)を立(たて)よと謀略(ぼうりやく)委(くはし)く
【左丁 左下 四角い囲みの中】
黴効散(ばいこうさん)が勇(ゆう)
らうそく下疳(げかん)
結毒難治(けつどくなんぢ)を
きる図(づ)
【右丁】
云(い)ひ含(ふくむ)れば治瘡丸(ぢさうぐはん)は一々(いち〳〵)領掌(れうじやう)し兵(へい)を率(ひい)て出去(いでさ)りけり此度(このたび)の
合戦(かつせん)に賊徒(ぞくと)魔(ま)【广】瞽(こ)風(ふう)の術(じゆつ)を行(おこな)ひ熱風(ねつぷう)国中(こくちう)に吹渡(ふきわた)り国民(こくみん)
熱気(ねつき)に侵(おか)され苦(くる)しみけるが淳直(じゆんちよく)が消魔(せうま)【广】風(ふう)の法(ほう)にて熱気(ねつき)
を止(とゞ)め其(その)苦悩(くのう)はやむといへども眼門(かんもん)の辺(へん)彼(かの)熱風(ねつぷう)に打(うた)れて
より気血(きけつ)散乱(さんらん)して腫痛(しゆつう)を発(はつ)し眼門(がんもん)已(すで)に塞(ふさ)がらんとす
淳直(じゆんちよく)は是(これ)をきゝて急(きう)に洗眼湯(せんがんとう)に命(めい)じ是(これ)を救(すく)はしむるに洗(せん)
眼湯(がんとう)は眼門(がんもん)に馳(はせ)向(むか)ひ薬水(やくすい)を以て気血(きけつ)の散乱(さんらん)を治(おさ)め腫痛(しゆつう)を
散(さん)じ暫時(ざんじ)の間(あいだ)に功(こう)を奏(さう)し眼門(がんもん)の悩(なや)み全(まつた)く平治(へいぢ)しける却説(さても)
黴軍(ばいぐん)は音(おと)に聞(きこ)へし延寿丸(ゑんじゆぐはん)黴効散(ばいこうさん)等(ら)を一戦(いつせん)に打破(うちやぶ)りければ
今(いま)は薬軍(やくぐん)の方(かた)に手(て)に立(た)つ者(もの)はあるべからずさらば此方(このはう)より逆(さか)
寄(よせ)して薬軍(やくぐん)を踏潰(ふみつぶ)さんと評議(ひやうぎ)する所(ところ)に一人の小賊(せうぞく)馳来(はせきた)り
【左丁】
某(それがし)物見(ものみ)を仕(つかまつ)るに薬軍(やくぐん)の方(かた)より一手(ひとて)の軍勢(ぐんぜい)黴賊追討使(ばいぞくついとうし)治(ぢ)
瘡丸(さうぐわん)と書(かき)たる旗(はた)【簱】を立(た)て柵外(さくぐはい)に来(きた)りて陣(ぢん)を取(と)り候(さふろ)ふゆへ
窃(ひそか)【竊】に忍(しの)び入(い)りて其(その)様子(やうす)を窺(うかゞ)ふに四門(しもん)の固(かた)めは密(みつ)なれども
陣中(ぢんちう)は甚(はなは)だ油断(ゆだん)の体(てい)にて將卒(しやうそつ)打寄(うちよ)り酒宴(しゆゑん)を催(もよ)ふし中(ちう)
央(おう)には大将(たいしやう)治瘡丸(ぢさうぐはん)と覚(おぼ)しく酩酊(めいてい)して机(おしまづき)に倚(よ)り諸卒(しよそつ)を顧(かへり)
みて今度(こんど)の合戦(かつせん)黴軍(ばいぐん)甚(はなは)だつよく名(な)にあふ延寿丸(ゑんじゆぐわん)黴効(ばいこう)
散(さん)も一戦(いつせん)に打負(うちまけ)たるあとへ某(それがし)に再度(さいど)討手(うつて)の命(めい)下(くだ)り止(やむ)ことを
得(ゑ)ず向(むか)ふといへども延寿丸(ゑんじゆぐわん)黴効散(ばいこうさん)にすら切勝(きりかつ)ほどの強敵(きやうてき)
我(わが)微力(びりき)を以(もつ)ていかでか彼(かれ)に叶(かな)ふべけんや所詮(しよせん)明日(めうにち)の合戦(かつせん)には
必定(ひつぢやう)討死(うちじに)と覚(おぼ)ゆるなり仍(よつ)て今宵(こよひ)は最期(さいご)の酒宴(しゆゑん)をなす間(あいだ)
汝等(なんぢら)も量(りやう)を過(すご)して飽(あく)までに飲(の)み今生(こんじやう)の名残(なごり)を尽(つく)すべしと
【右丁】
いへば諸軍勢(しよぐんぜい)いづれも勇気(ゆうき)ぬけ酒(さけ)を飲(のめ)ども色(いろ)青(あを)ざめ軍中(ぐんちう)
何(なん)となく蕭然(しやうぜん)たる体(てい)に相(あい)見へ候(さふろう)と告(つげ)ければ両賊將(りやうぞくしやう)は掌(たなごゝろ)を打(うつ)
て悦(よろこ)び勇(いさ)み此頃(このごろ)の我々(われ〳〵)が勇名(ゆうめい)彼(かれ)が恐怖(きやうふ)するも理(ことわり)なり臆病(おくびやう)
風(かぜ)のさめぬ内(うち)はやく推寄(おしよせ)て蹴散(けちら)さんと両將(りやうしやう)一時(いちじ)に馬(むま)に跨(またが)り
軍兵(ぐんぴやう)を催(もよふ)し立(た)て一散(いつさん)に馳出(はせいだ)し薬陣(やくぢん)に至(いた)るや否(いな)や鬨(とき)を作(つく)
ること一声(いつせい)洪水(こうずい)の漲(みなぎ)るがごとく抜連(ぬきつれ)て切(きつ)て入(い)り苦(く)もなく陣(ぢん)
門(もん)を打破(うちやぶ)れば薬軍(やくぐん)は不意(ふい)を打(うた)れて敢(あへ)て戦(たゝか)はんとする者(もの)なく
右往左往(うわうさわう)に散乱(さんらん)す治瘡丸(ぢさうぐわん)は怒(いか)り叫(さけ)び比興(ひきやう)の者(もの)どもの振舞(ふるまひ)
かな踏(ふ)み止(とゞま)りて討死(うちじに)せよと大刀(だいとう)を揮(ふる)ふて切(きつ)て出(い)で広成(ひろなり)腫満(はれみつ)に
わたり合(あ)ひ火花(ひばな)を散(ちら)して戦(たゝか)ひけるが酒気(しゆき)を帯(おび)たるゆへにや打(うつ)
太刀(たち)定(さだ)まらず両人(りやうにん)に切立(きりたて)られ叶(かな)はじとやおもひけん初(はじ)めの
【左丁】
言(ことば)に似(に)もやらず馬(うま)の頭(かしら)を引(ひき)かへし捨鞭(すてむち)打(うつ)て逃(にげ)失(うせ)けり広成(ひろなり)腫(はれ)
満(みつ)は一戦(いつせん)に治瘡(ぢさう)丸が陣所(ぢんしよ)を奪(うば)ひ取(と)り意気(いき)揚々(やう〳〵)として中(ちう)
陣(ぢん)に入(いつ)て見(み)るに肉酒(にくしゆ)取乱(とりみだ)し杯盤(はいばん)狼藉(らうぜき)として所々(しよ〳〵)に琴(こと)鼓(つゞみ)
笙(しやう)笛(ふへ)を並(なら)べたりさては此所(このところ)にて酒宴(しゆゑん)を催(もよふ)せしならん我々(われ〳〵)
も是(これ)を用(もち)ひて今夜(こんや)の労(つか)れを慰(なぐさ)めんと將卒(しやうそつ)一ツ所(ところ)に寄(より)こぞり
元(もと)より无慚(むざん)の者(もの)どもなれば曽(かつ)て辞譲(じじやう)の礼(れい)なく酒肉(しゆにく)を争(あらそ)
ひ取(と)りて飲事(のむこと)は渇(かつ)したる蛇(じや)のごとく喰(くら)ふことは飢(うへ)たる猿(さる)のごとく
果(はて)は楽器(がくき)を取上(とりあげ)て或(あるひ)は歌(うた)ひ或(あるひ)は舞(ま)ひ一時(いちじ)の楽(たの)しみに百念(ひやくねん)
を忘(わす)れて有(あり)けるがいか■【ゞ】しけん便毒腫滿(べんどくはれみつ)尻居(しりゐ)にどうと打(う)ち
倒(たほ)れ口(くち)より黄(き)なる涎(よだれ)をはき眼(まなこ)を見張(みは)りて働(はたら)き得(え)ず皆々(みな〳〵)
大に驚(おどろ)き立寄(たちより)て介抱(かいほう)する内(うち)此者(このもの)どもも又 同様(どうやう)に腰(こし)を抜(ぬか)し
【右丁】
涎(よだれ)を吐(は)き算(さん)を乱(みだ)して倒(たを)れ臥(ふ)す広成(ひろなり)は心付(こゝろづ)きさてこそ敵(てき)の
計(はかりこと)に陥(おちい)りたるぞ是(これ)全(まつた)く酒肉(しゆにく)の中(なか)に麻薬(まやく)【左ルビ:しびれくすり】を和(くは)し入(いり)たるなり
此(こゝ)に在(あり)ては一人も助(たすか)るべからず匍匐(はらばひ)てなりとも早(はや)く本陣(ほんぢん)へ逃(にげ)
返(かへ)れと云(い)ふ声(こへ)次第(しだい)に舌(した)もつれして是(これ)も同(おな)じく身(み)を崩(くづ)し
枕(まくら)をならべて倒(たほ)れたり此(この)とき陣外(ぢんぐはい)に一声(いつせい)の鉄炮(てつぽう)ひゞき治瘡(ぢさう)
丸(ぐはん)爽(さはやか)に甲(よろ)ふたる兵(へい)数千騎(すせんぎ)を將(ひき)ひ突然(こつぜん)として出来(いできた)り逆賊(ぎやくぞく)
の匹夫共(ひつぷども)天誅(てんちう)の刃(やいば)を受(うけ)よと呼(よば)はり利刀(りとう)を挙(あげ)て倒(たほ)れ伏(ふ)したる黴賊(ばいぞく)
を片端(かたはし)より切殺(きりころ)すは只(たゞ)これ枯(かれ)たる草(くさ)を刈(かる)がごとく暫(しばら)くの内(うち)に
黴軍(ばいぐん)の將卒(しやうそつ)数千人(すせんにん)を屠(ほう)り尽(つく)し両賊將(りやうぞくしやう)の首(くび)を鎗(やり)のさきに
貫(つらぬ)かせ隊伍(だいご)を整(とゝの)へてしづ〳〵と黴軍(ばいぐん)の本陣(ほんぢん)におし寄(よ)せ楊梅(やうばい)
瘡広成(さうひろなり)便毒腫満(べんどくはれみつ)を治瘡丸(ぢさうぐはん)が手(て)に打取(うちと)りたり残賊(ざんぞく)を逃(のが)
【左丁】
すなと呼(よ)び連(つれ)て攻(せめ)かゝれば本陣(ほんぢん)に残(のこ)りたる賊徒(ぞくと)是(これ)をみて肝(きも)
を消(け)し防(ふせ)ぎ支(さゝへ)んとする者(もの)更(さら)になくあきれ反(かへ)りて立(たち)たる所(ところ)へ
薬軍(やくぐん)の士卒(しそつ)无二无三(むにむざん)に陣中(ぢんちう)に込(こ)み入(い)り切伏(きりふ)せ突伏(つきふ)せ荒(あ)れ
回(まは)るにぞ血(ち)は流(なが)れて盾(たて)を漂(たゞよ)はし屍(かばね)は積(つん)で丘(おか)をなす其中(そのうち)国(こく)
民(みん)の黴賊(ばいぞく)の勢(いきほひ)に畏(おそ)れ止事(やむこと)を得(ゑ)ず随(したが)ひたる者(もの)は此(この)とき尽(こと〴〵)く
降参(かうさん)し今(いま)は残賊(ざんぞく)一人もなく治瘡丸(ぢさうぐはん)は諸軍(しよぐはん)【ママ】をまどめて勝(かち)
鬨(どき)を上(あ)げ即刻(そくこく)陣(ぢん)ばらひして淳直(じゆんちよく)が陣(ぢん)に帰(かへ)り来(きた)り軍(いくさ)の
次第(しだい)を物(もの)がたり両賊(りやうぞく)の首(くび)を実検(じつけん)に備(そな)へければ淳直(じゆんちよく)は其功(そのこう)の
速(すみやか)なるを賞(しやう)じ打(うち)つれて王城(わうじやう)に帰(かへ)り国王(こくわう)に勝利(しやうり)を報(ほう)じ直(たゞち)
に次(つぎ)の属国(ぞくこく)へと打立(うちたつ)を国王(こくわう)諸臣(しよしん)今暫(いましば)らくの逗留(とうりう)を願(ねが)へ
ども淳直(じゆんちよく)は是(これ)を辞(じ)し諸軍勢(しよぐんぜい)を駆(か)り催(もよ)ふし本然(ほんぜん)として
【右丁】
出(い)で去(さ)りぬ
大(たい) 元(げん) 帥(すい) 計(はかりて) 平(たいらぐ)_二 賊(ぞく) 軍(ぐんを)_一
俱(ぐ) 生(しやう) 神(じん) 来(きたりて) 報(ほうず)_二 国(こく) 乱(らんを)_一
次(つぎ)に福松国(ふくまつこく)とて勢力(せいりよく)勝(すぐ)れたる国(くに)なりしが此国(このくに)へは疥癬(ひぜん)
穢(きたなし)雁(がん)【㕍は誤字】瘡愈兼(がさいへかね)の両賊(りやうぞく)攻入(せめい)り久(ひさ)しく国家(こくか)を侵(おか)すといへども
国王(こくわう)荊(けい)■(ぼう)【艹冠+防】敗毒散(はいどくさん)を以(もつ)て堅固(けんご)に防戦(ぼうせん)する程(ほど)に只(たゞ)皮表(ひひやう)の戦(たゝか)
ひのみにして内攻(ないこう)して五臓(ござう)の都(みやこ)に入(い)ること能(あた)はず是(これ)によりて
黴毒王(ばいどくわう)より加勢(かせい)として淋病出兼(りんびやういでかね)内下疳疼(ないげかんひり〳〵)の両人(りやうにん)を遣(つかは)
しければ穢(きたなし)愈兼(いへかね)大に喜(よろこ)び四將(ししやう)打寄(うちより)て商議(しやうぎ)を定(さだ)め淋病(りんびやう)
内下疳(ないげかん)の両將(りやうしやう)は陰茎門(いんきやうもん)の小便道(せうべんどう)に陣(ぢん)を張(は)り小便(せうべん)の通路(つうろ)
を差(さし)ふさぐ是(これ)によりて国中(こくちう)水気(すいき)不利(ふり)し河水(かすい)膀胱(ぼうくはう)に停住(ていぢう)
【左丁】
して熱(ねつ)を生(しやう)じて膿(うみ)となり血気(けつき)鬱蒸(うつじやう)して腫痛(しゆつう)を発(はつ)し国民(こくみん)
大に苦(くる)しみけるゆへ国王(こくわう)は計(はかりこと)を運(めぐ)らし大麦湯(たいばくとう)【左ルビ:むぎのゆ】に砂糖(さとう)を加(くは)へ食道(しよくどう)
より向(むか)はせ膀胱(ぼうくはう)に停住(ていぢう)する所の濁水(だくすい)に新水(しんすい)を加(くわ)へ快利(くわいり)せし
めて小便道(せうべんどう)の賊陣(ぞくぢん)を水攻(みづぜめ)にして推流(おしなが)さんとすれども淋病(りんびやう)内(ない)
下疳(げかん)陣中(ぢんちう)に底樋(そこひ)を造(つく)りたゝへたる水(みづ)を少(すこ)しづゝ抜(ぬき)ながす故(ゆへ)に
曽(かつ)て賊陣(ぞくぢん)の害(がい)にはならず竜胆瀉(りうたんしや)【泻】肝湯(かんとう)五淋散(ごりんさん)其他(そのほか)種々(しゆ〴〵)
の薬將(やくしやう)を向(むか)はしむれども何(なん)の功(こう)もなく水路(すいろ)益々(ます〳〵)淋秘(りんぴ)して疼痛(とうつう)
殊(こと)に甚(はなは)だしく国王(こくわう)諸民(しよみん)如何(いかん)ともすることを得(ゑ)ず苦悩(くのふ)に月日(つきひ)
を送(おく)りし所(ところ)に此度(このたび)俱生神(くしやうじん)淳直(じゆんちよく)を迎(むか)へ来(きた)り一国(いつこく)の喜(よろこ)び喩(たとふ)
るに物(もの)なく賊徒(ぞくと)伏誅(ふくちう)に指(ゆび)を屈(くつ)して待居(まちゐ)けり淳直(じゆんちよく)は国(くに)に入(いつ)
てより賊徒(ぞくと)の結構(けつこう)を委(くは)しく窺(うかゞ)ひ知(し)り先(まづ)奇良湯(きりやうとう)に一万(いちまん)
【右丁】
五千 余騎(よき)を授(さづ)けて内下疳(ないげかん)淋病(りんびやう)が陣(ぢん)に向(むか)はせ治瘡丸(ぢさうぐはん)にも軍(ぐん)
勢(ぜい)弐千 余騎(よき)を分(わか)つて雁瘡(がんがさ)疥癬(ひぜん)を打(うた)しむ奇良湯(きりやうとう)【左ルビ:さんきらいざい】は命(めい)を
受(うけ)て直(たゞち)に食道(しよくどう)より膀胱(ぼうくはう)に至(いた)り此所(このところ)に陣(ぢん)をすへて賊軍(ぞくぐん)を目(め)
の下(した)に見(み)おろし諸軍(しよぐん)に下知(げぢ)して新水(しんすい)をせきかけさせ窃(ひそか)【竊】に
心(こゝろ)きゝたる士卒(しそつ)を択(ゑら)【擇】び出(いだ)し計(はかりこと)を云(い)ひ含(ふく)め手勢(てぜい)数千人(すせんにん)と共(とも)に
何(いづ)れも浮履(うきぐつ)を穿(は)き水(みづ)を踏(ふん)で黴軍(ばいぐん)の陣前(ぢんぜん)に至(いた)り鬨(とき)をどつ
と作(つく)りければ内下疳(ないげかん)淋病(りんびやう)同(おな)じく陣門(ぢんもん)を開(ひら)ひて切(きつ)て出(い)で岸(きし)に
上(あが)らんとする薬軍(やくぐん)を追下(おひさ)げかさにかゝりて切立(きりたつ)る其勢(そのいきほ)ひ烈(はげ)しく
して薬軍(やくぐん)遂(つひ)に負色(まけいろ)になり水面(すいめん)にばつと引(ひ)く黴軍(ばいぐん)は勝(かつ)に乗(の)り
水抜(みずぬき)の底樋(そこひ)を掘(ほり)たる堤(つゝみ)の上(うへ)にをり立(たつ)て水上(すいしやう)の敵(てき)を打立(うちたて)けるが
忽(たちま)ち水音(みづおと)洶々(がう〳〵) と鳴(な)り築上(つきあ)げたる堤(つゝみ)めり〳〵と崩(くづ)れいだせば
【左丁】
黴軍(ばいぐん)は大に驚(おどろ)きこはそもいかなる事(こと)ぞと罵(のゝし)り噪(さは)ぐ間(あいだ)もなく
堤(つゝみ)は一道(いちどう)の波(なみ)となり滾々(こん〳〵)として流(なが)れ去(さ)り賊軍(ぞくぐん)は浮(うき)つ沈(しづ)んつ
濁浪(だくらう)に溺(おぼ)れ逃廻(にげまは)る有(あり)さまは小川(をがは)の魚(うを)の海(うみ)に出(で)て潮(うしほ)に吻(いきつ)くに異(こと)
ならず時(とき)に水底(みなそこ)より数十(すじふ)の薬兵(やくへい)あらはれ出(い)で我々(われ〳〵)奇良將(きりやうせう)
軍(ぐん)の命(めい)を受(う)け窃(ひそか)【竊】に水底(みなそこ)を潜(くゞ)り汝等(なんぢら)が拵(こしら)へ置(おき)たる底樋(そこひ)を
打抜(うちぬ)き堤(つゝみ)を崩(くづ)せば本陣(ほんぢん)も時(とき)の間(ま)に水底(みなそこ)の藻屑(もくづ)とならんあら
心地(こゝち)よやと呼(よば)はるにぞ黴賊(ばいぞく)主従(しゆじう)益(ます〳〵)驚(おどろ)き急(いそ)ぎ本陣(ほんぢん)を救(すく)はんと
波(なみ)を潜(くゞ)りて游(およ)ぎよらんとするに激浪(げこらう)大に漲(みなぎ)り来(きた)り其勢(そのいきほ)ひ
滝(たき)【瀧】のごとく黴賊(ばいぞく)の陣々(ぢん〳〵)片土(へんど)も残(のこ)さず推流(おしなが)せば黴軍(ばいぐん)は勢(いきほ)ひ抜(ぬけ)
力(ちから)疲(つか)れ水(みづ)に溺(おぼ)れて展転(てんでん)【轉】するを薬軍(やくぐん)は浮履(うきぐつ)に乗(の)り追詰(おつつめ)々々( 〳〵 )
打(うち)ころす内下疳(ないげかん)淋病(りんびやう)はさすがに賊(ぞく)の首領(しゆれう)なれば落来(おちく)る
【右丁】
水(みづ)をかき分(わけ)て薬軍(やくぐん)に割(わつ)て入(い)り命(いのち)を捨(すて)て切結(きりむす)ぶ奇良湯(きりやうとう)はか
くと見るより疾風(しつぷう)のごとくに走(はし)り寄(よ)り偃月刀(ゑんげつとう)を揮(ふる)ふと見へ
しが二人の賊将(ぞくしやう)忽(たちま)ち首(くび)なき屍(かばね)となり士卒(しそつ)の死体(しがい)【體】と共(とも)に
水(みづ)に随(したが)つて流(なが)れ失(うせ)けりかくて奇良湯(きりやうとう)は水(みづ)の流(なが)れ落(おつ)るを待(まつ)て
堤岸(つゝみぎし)を修理(しゆり)し水路(すいろ)をさらへ居民(きよみん)を安撫(あんぶ)して後(のち)総(そう)【捴】軍(ぐん)を随(した)
がへて王城(わうじやう)へ引帰(ひきかへ)す此(この)とき治瘡丸(ぢさうぐはん)は軍勢(くんぜい)を引率(いんぞつ)して道(みち)を
急(いそ)ぎ疥癬(ひぜん)雁(がん)【厂】瘡(がさ)が陣前(ぢんぜん)にいたり鬨(とき)を作(つく)り鼓(つゞみ)を鳴(なら)して勢(いきほ)ひ
を示(しめ)せば黴陣(ばいぢん)より雁(がん)【㕍は誤記】瘡愈兼(がさいへかね)軍兵(ぐんぴやう)を引(ひい)て打(うつ)て出(い)で何奴(なにやつ)なれ
ば此所(このところ)に来(きた)つて騒動(さうどう)をなし我(わが)諸軍(しよぐん)を驚(おどろか)すやはやく退(しりぞ)かずんば
目(め)に物(もの)見(み)せんと居丈高(ゐだけだか)に成(な)りて罵(のゝし)る所(ところ)に治瘡丸(ぢさうくはん)は馬(うま)を進(すゝめ)て
向(むか)ふに立(た)ち汝(なんぢ)未知(いまだし)らずや近頃(ちかごろ)助八国(すけはちこく)に於(おい)て黴軍(ばいぐん)の強將(きやうせう)揚(やう)
【左丁】
梅瘡広成(ばいさうひろなり)便毒腫満(べんどくはれみつ)を只(たゞ)一戦(いつせん)に討取(うちと)りたる薬將(やくしやう)四天王(してんわう)の随一(ずいいち)
治瘡丸(ぢさうぐはん)とは我事(わらこと)なり今(いま)元帥(げんずい)の命(めい)によりて此処(このところ)に発向(はつかう)す早々(さう〳〵)
に馬(むま)を下(お)り旗(はた)を伏(ふせ)て降参(かうさん)せよと呼(よば)はれば雁(がん)【厂】瘡(がさ)は是(これ)をきいて
怒気(どき)満面(まんめん)に発(はつ)しさては汝(なんぢ)が治瘡丸(ぢさうぐはん)なるか先(さき)に助八国(すけはちこく)に於(おい)
て広成(ひろなり)腫満(はれみつ)の両人(りやうにん)を殺(ころ)したるは只(たゞ)是(これ)偽(いつはり)の計(はかりこと)を用(もち)ひたるのみ
何(なん)ぞ汝(なんぢ)が武勇(ぶゆう)とせんや我(われ)今(いま)汝(なんぢ)を一刀(いつとう)の下(した)に誅伐(ちうばつ)して両將(りやうしやう)の
幽魂(ゆうこん)を慰(なぐさめ)んと刀(かたな)を舞(まは)して切(きつ)てかゝる治瘡丸(ぢさうぐはん)は鎗(やり)を以(もつ)て是(これ)を
はらひ或(あるひ)は付入(つけい)り受(うけ)ながし互(たがひ)に秘術(ひじゆつ)を尽(つく)し両軍(りやうぐん)も入(いり)みだ
れて時(とき)うつる迄 戦(たゝか)ひけるが黴軍(ばいぐん)遂(つひ)に追立(おつたて)られ已(すで)に敗形(はいぎやう)を
顕(あらは)し紛々(ふん〳〵)と崩(くづ)れ立(た)つときに雁(がん)【厂】瘡愈兼(がさいへかね)は馬上(ばじやう)に在(あり)て咒文(じゆもん)
を唱(とな)へ印(いん)を結(むす)べば忽(たちま)ち皮表(ひひやう)に熱風(ねつぷう)起(おこ)り薬軍(やくぐん)は此風(このかぜ)にあたりて
【右丁】
【囲みの中】
治瘡丸(ぢさうぐわん)
奇計(きけい)
病賊(びやうぞく)を
鏖(みなごろし)にする図(づ)
【左丁】
ようばいさうひろなり
べんどくはれみつ
俗に
よこね
といふ
【右丁】
身体(しんたい)焼(やく)がごとく俄(にはか)に癢痛(やうつう)してたへがたく薬軍(やくぐん)將卒(しやうそつ)面(おもて)を向(むく)
べき様(やう)もなく頭(かしら)をかゝへてうろたへ騒(さは)ぐを黴軍(ばいぐん)は得(ゑ)たりかしこしと
一斉(いつせい)に取(と)つて返(かへ)し散々(さん〴〵)に切(きり)まくれば治瘡丸(ぢさうぐわん)は所詮(しよせん)可(かな)はざるを
料(はか)り知(し)り馬(うま)を引(ひき)かへせば諸軍(しよぐん)も其跡(そのあと)に付(つ)き一崩(ひとくづ)れになりて
敗走(はいそう)す黴軍(ばいぐん)は長追(ながおひ)せず鉦(かね)をならして引上(ひきあぐ)るにぞ薬軍(やくぐん)は這々(はう〴〵)
に本陣(ほんぢん)に逃入(にげいり)治瘡丸(ぢさうぐわん)淳直(じゆんちよく)が前(まへ)に出(い)で罪(つみ)を謝(しや)しけるに淳直(じゆんちよく)
は敢(あへ)て咎(とが)めず慰諭(いゆ)して退(しりぞか)しめ其后(そのゝち)延寿丸(ゑんじゆぐわん)を呼出(よびいだ)し雁瘡(がんがさ)妖(よう)
術(じゆつ)を以(もつ)て治瘡丸(ぢさうぐはん)を悩(なや)ます汝(なんぢ)馳向(はせむか)ふて速(すみやか)に退治(たいぢ)せよと命(めい)ずれ
ば延寿丸(ゑんじゆぐはん)は喜(よろこ)び勇(いさ)み軍勢(ぐんぜい)纔(わづか)に四五百 騎(き)を引連(ひきつ)れ矢(や)を射(いる)
ごとくかけ出(いだ)し只今(たゞいま)引上(ひきあげ)たる黴軍(ばいぐん)の中(なか)へ面(おもて)もふらず切(きつ)て入(い)り
竪横(たてよこ)十文字(じふもんじ)に駆(かけ)ちらせば雁(がん)【厂】瘡(がさ)は大に怒(いか)り憎(につ)くき敵(てき)の
【左丁】
ふるまひかないで【薙いで】鏖(みなごろし)にして呉(くれ)んと馬(うま)を扣(ひか)へ手(て)に印(いん)を結(むす)び邪術(じやじゆつ)を
行(おこな)はんとするを見て延寿丸(ゑんじゆぐはん)は鎧(よろひ)の袖(そで)より流星丸(りうせいぐはん)を取(と)り出(いだ)し
賊将(ぞくしやう)の面(おもて)を望(のぞ)んではつしと打(うつ)にあやまたず雁(がん)【厂】瘡(がさ)が眉間(みけん)にあ
たり額上(かくしやう)に血烟(ちけむ)り立(た)ち馬上(ばしやう)にたまらず真逆様(まつさかさま)に倒(たほ)れけれ
ば黴徒(ばいと)はいよ〳〵途(ど)を失(うしな)ひ散々(さん〴〵)に成(な)りて崩(くづ)れ立(た)ち薬軍(やくぐん)に
追詰(おつつめ)られ一人も残(のこ)らず討(うた)れけり延寿丸(ゑんじゆぐはん)は雁(がん)【厂】瘡(がさ)が首(くび)をうち
落(おと)し軍(いくさ)を収(おさめ)て帰陣(きぢん)すれば淳直(じゆんちよく)は其効(そのこう)の速(すみやか)なるを賞(しやう)じ其(その)
日(ひ)の功名(こうめう)の一(いち)の筆(ふで)に付(つけ)させける其後(そのゝち)淳直(じゆんちよく)は荊(けい)■(ぼう)【艹冠+防】敗毒散(はいどくさん)
撲薬(うちぐすり)の両將(りやうしやう)を撰(ゑら)び出(いだ)し各(おの〳〵)軍兵(ぐんぺう)数千騎(すせんき)を与(あた)へ内外(ないぐわい)に分(わか)
ちて疥癬(ひぜん)が陣(ぢん)に向(むかは)しむ両將(りやうしやう)は直(たゞち)に打立(うちた)ち撲薬(うちぐすり)は皮表(ひひやう)に
廻(まは)り疥癬(ひぜん)が陣(ぢん)の追手(おふて)より大山(たいさん)の崩(くづ)るゝがごとく鬨(とき)を作(つくり)て
【右丁】
攻寄(せめよす)れば荊(けい)■(ぼう)【艹冠+防】敗毒散(はいどくさん)は食道(しよくどう)より賊陣(ぞくぢん)の搦手(からめて)へ出(い)で陣(ぢん)
外(ぐわい)に井楼(せいらう)を組(く)み其上(そのうへ)に士卒(しそつ)を上(のぼ)せ火箭(ひや)を放(はな)つこと雨(あめ)より
も繁(しげ)し賊軍(ぞくぐん)は前(まへ)に大敵(たいてき)を引(ひき)うけて進(すゝ)むべき路(みち)なく後(うしろ)は
井楼(せいらう)に立切(たちきら)れて退(しりぞ)くべき方(かた)なしいかゞはせんと周章(しうしやう)【左ルビ:うろたゆる】する内(うち)
はや陣々(ぢん〳〵)に火(ひ)うつり炎々(ゑん〳〵)と燃上(もへあが)るにぞ今(いま)は是迄(これまで)なりと
追手(おふて)の門(もん)を推(お)し開(ひら)き我(わ)れも〳〵と撲薬(うちぐすり)が陣(ぢん)にかけ入(い)り
思(おも)ふほど戦(たゝか)ひ枕(まくら)をならべて討死(うちじに)す大将(たいしやう)穢(きたなし)も乱軍(らんぐん)の中(うち)に切(きり)
死(じに)し賊営(ぞくゑい)はこと〴〵く焼(や)け失(う)せ皮肉(ひにく)の諸道(じよどう)全(まつた)く安寧(あんねい)に
帰(かへ)しければ両(りやう)大将(たいしやう)は軍(いくさ)を収(おさ)めしづ〳〵と引取(ひきと)りけりかくて淳(じゆん)
直(ちよく)は諸軍勢(しよぐんぜい)と共(とも)に国王(こくわう)に謁(ゑつ)し賊徒(ぞくと)伏誅(ふくちう)を奏(さう)すれば
国王(こくわう)は再拝(さいはい)稽顙(けいさう)して是(これ)を謝(しや)し宴(ゑん)を設(もう)けて饗応(きやうおう)す淳(じゆん)
【左丁】
直(ちよく)も諸国(しよこく)の逆徒(ぎやくと)全(まつた)く誅伏(ちうふく)しおはりければ心(こゝろ)喜(よろこ)び諸將(しよしやう)と共(とも)
に酒宴(しゆゑん)に連(つらな)り献酬(けんしう)に楽(たの)しみを尽(つく)し此(この)ほどの労(ろう)を慰(なぐさ)め居(ゐ)
たりけるかゝる所(ところ)へ忽(たちま)ち一叢(ひとむら)の雲(くも)舞(ま)ひ来(きた)り中(なか)より数多(あまた)の人(ひと)
おどり出(い)で淳直(じゆんちよく)が前(まへ)に再拝(さいはい)するをよく見れば自在衛(じざゑ)
門国(もんこく)の俱生神(くしやうじん)並(ならび)に残(のこ)し置(おき)たる延寿丸(ゑんじゆぐはん)が麾下(きか)の士卒共(しそつども)
なり淳直(じゆんちよく)は怪(あや)【「恠」は俗字】しみ訝(いぶか)り俱生神(くしやうじん)は国家(こくか)の守(まも)りなり遠(とほ)く
此処(このところ)へ来(きた)るは何(なに)ゆへぞや又 薬兵等(やくへいら)は彼国(かのくに)に在(あ)りて賊寇(ぞくこう)の不(ふ)
虞(ぐ)を防(ふせ)ぐべきに俱生神(くしやうじん)とともに此(こゝ)に帰(かへ)るは愈(いよ〳〵)以(もつ)て不審(ふしん)なり
殊(こと)に各(おの〳〵)愀然(しうぜん)として慷慨(かうがい)【左ルビ:いたみなげく】の気(き)面(おもて)に顕(あらは)る察(さつ)する所(ところ)主国(しゆこく)に於(おい)て
変(へん)あるならん早(はや)く子細(しさい)を物(もの)がたれよと云(い)へば俱生神(くしやうじん)は進(すゝ)み
出(い)で誠(まこと)に賢察(けんさつ)のごとく主国(しゆこく)再(ふたゝ)び大乱(たいらん)起(おこ)り滅亡(めつぼう)稍(やゝ)近付(ちかづき)
【右丁】
たり先(まづ)其由来(そのゆらい)を申述(まふしのべ)んさても元帥(げんずい)属国(ぞくこく)へ向(むか)ひ玉ひし
后(のち)国中(こくちう)益々(ます〳〵)平定(へいぢやう)し上下(しやうか)无為(ぶゐ)に誇(ほこ)りたるに安(やす)きに至(いた)り
て危(あやふ)きを忘(わす)るゝ習(なら)ひなれば国王(こくわう)いつしか油断(ゆだん)の心(こゝろ)おこり薬(やく)
兵(へい)を遠(とほ)ざけてはか〴〵しくは用(もち)ひす稍(やゝ)逸楽(いつらく)に傾(かたぶ)きたまふ其(その)
虚(きよ)に乗(の)りて逃(にげ)かくれたる瘰癧腫高(るいれきはれたか)黴毒王(ばいどくわう)と計(はかりこと)を合(あは)せ窃(ひそか)【竊】
に王(わう)の近臣(きんしん)食欲(じきよく)【慾】貪(むさぼる)色欲(しきよく)【慾】泥(なづむ)に厚(あつ)く賂(まいなひ)を贈(おく)り国王(こくわう)に悪事(あくじ)
をすゝめ毒食(どくしよく)淫欲(いんよく)【慾】を勧(すゝめ)しむ此(この)両人(りやうにん)元(もと)より欲(よく)【慾】悪(あく)限(かぎ)りなけ
れば一議(いちぎ)に及(およ)ばず是(これ)に同(どう)じ屡(しば〳〵)王(わう)を勧(すゝ)めて肉酒(にくしゆ)を国内(こくない)へ
引入(ひきい)れ女国(によこく)と交通(かうつう)せんことを請(こ)ふ是(これ)によりて国王(こくわう)も其心(そのこゝろ)稍(やゝ)
動(うご)きたる所(ところ)へ又 一人(いちにん)の医(い)国主(こくしゆ)其名(そのな)を衣服美麗(いふくびれい)と云ふ巧言(こうげん)
令色(れいしよく)を以(もつ)て眼耳門(がんにもん)より入(い)り込(こ)み王(わう)の左右(さゆう)に在(あり)て媚(こび)諂(へつら)ひ
【左丁】
食欲(じきよく)【慾】色欲(しきよく)【慾】と心(こゝろ)を合(あは)せ諸々(もろ〳〵)の悪事(あくじ)をすゝめ大王(だいわう)淳直(じゆんちよく)ごときの
盲医(もうい)に誑(あざむか)れ彼(かれ)が言(ことば)を守(まも)りて久(ひさ)しく酒肉(しゆにく)を絶(た)ち女国(によこく)交通(こうつう)
なきはいかなることぞかくては国土(こくど)の気(き)蔚(うつ)【鬱の誤記ヵ】して散(さん)ぜず終(つい)に鬱労(うつろう)
の症(しやう)を発(はつ)すはやく此(この)両事(りやうじ)を用(もち)ひて国勢(こくせい)を復(ふく)し鬱気(うつき)を散(さん)じ
て楽(たの)しみを衆民(しゆみん)と共(とも)にし玉へ先達(さきだつ)て淳直(じゆんちよく)元帥(げんすい)となり黴(ばい)
賊(ぞく)を亡(ほろぼ)すといへども是(これ)もと淳直(じゆんちよく)が功(こう)にはあらず国家(こくか)の勢気(せいき)
強(つよ)きがゆへに賊徒(ぞくと)遂(つい)に亡(ほろ)びたるなり彼(かの)延寿丸(ゑんじゆぐはん)等(とう)の將卒(しやうそつ)を
用(もち)ひ玉ふは長久万全(てうきうばんせん)の計(はかりこと)にあらず若(もし)此後(こののち)賊徒(ぞくと)蜂起(ほうき)の事(こと)
あらば某(それがし)を以(もつ)て元帥(げんすい)とし玉へいかなる強賊(きやうぞく)なりとも一戦(いつせん)に
討平(うちたいら)げんこと受合(うけあひ)なり少(すこ)しも愁(うれ)ひ玉ふべからずと佞弁(ねいべん)に任(まか)
せて説(と)き迷(まよ)はせば国王(こくわう)遂(つい)に其詞(そのことば)に随(したが)ひ食欲(じきよく)【慾】色欲(しきよく)【慾】の両臣(りやうしん)
【右丁】
に命(めい)じて国中(こくちう)の法禁(ほうきん)を弛(ゆるべ)日々(ひゞ)に酒肉(しゆにく)を引入(ひきい)れ数々(しば〳〵)女国(ぢよこく)と
交通(かうつう)す元(もと)より嗜(すき)たることなれば国王(こくわう)は是(これ)より政(まつりごと)を収(おさ)めず
日夜(にちや)逸楽(いつらく)に耽(ふけ)り玉へば食欲(じきよく)【慾】色欲(しきよく)【慾】時(とき)を得(ゑ)て権威(けんい)をふるひ
政令(せいれい)を擅(ほしいまゝ)にするほどに国中(こくちう)諸府(しよふ)諸道(しよどう)漸(ようや)く乱(みだ)れ下民(かみん)逃散(てうさん)
して経絡(けいらく)調(とゝの)はず気血(きけつ)順(じゆん)ならず国勢(こくせい)再(ふたゝび)衰弊(すいへい)す此時(このとき)を待(まち)て
瘰歴(るいれき)は黴毒王(ばいどくわう)より兵(へい)を乞(こ)ひ受(う)け又 国中(こくちう)の悪民(あくみん)どもを駆(かり)
催(もよを)し再(ふたゝ)び首筋(くびすじ)に屯(たむろ)して籏(はた)を上(あ)げ次第(しだい)に国家(こくか)を蚕食(さんしよく)し咽(いん)
喉(こう)天突(てんとつ)鈌盆(けつぼん)の辺(へん)まで塁々(るい〳〵)と結核(けつかく)の陣(ぢん)を張(は)り地道(ぢどう)を
堀(ほ)りて諸陣(しよぢん)相通(あいつう)じ其所(そのところ)紫黒色(しこくしよく)に成(なり)ていたみを発(はつ)し口(くち)を
開(ひら)き稀膿(みづうみ)黄水(きしる)滴(したゝ)り一口(いつこう)閉(とづ)れば一口(いつこう)をひらき其(その)あと遂(つひ)に
愈(いゆ)ることなく身体(しんたい)漸(ようや)く羸痩(るいさう)【左ルビ:やせる】し飲食(ゐんしよく)進(すゝ)まず盗汗(とうかん)を発(はつ)し
【左丁】
労熱(らうねつ)往来(わうらい)して咳嗽(がいさう)【左ルビ:せき】を生(しやう)じ白沫(はくまつ)【左ルビ:しろつば】を吐(は)き大便(だいべん)自下利(じげり)し又 不(ふ)
利(り)するときは小便(せうべん)も共(とも)に不利(ふり)して四肢(てあし)に虚腫(きよしゆ)を生(しやう)じ已(すで)に危篤(きとく)
の症(しやう)となれり是(これ)全(まつた)く衣服美麗(いふくびれい)が元帥(げんずい)となりて六物解(ろくもつげ)
毒湯(どくとう)《割書:是大坂にはやる|七ふく薬のるい也》を追討使(つひとうし)として膏薬(かうやく)をさしそへ瘰歴(るいれき)と戦(たゝか)
はしめ或(あるひ)は雞汁煎(けいじうせん)胃風湯(ゐふうとう)胃苓湯(ゐれうとう)等(など)の薬將(やくしやう)を用(もち)ひて日(ひ)を送(おく)
るが故(ゆへ)に治術(ぢじゆつ)寸効(すんこう)なくして病症(びやうしやう)こゝに至(いた)る某(それがし)は始(はじ)め食欲(じきよく)【慾】
色欲(しきよく)【慾】が悪事(あくじ)を勧(すゝめ)しときより諫諍(かんさう)に力(ちから)を尽(つく)すといへども
悪徒等(あくとら)にさゝへられ忠言(ちうげん)用(もち)ひられざるのみならず遂(つひ)に御前(ごぜん)を
遠(とほ)ざけられ重(かさ)ねて主人公(しゆじんこう)に謁(ゑつ)することを得(ゑ)ず久(ひさ)しく禁錮(きんこ)の
内(うち)に在(あり)しが已(すで)に国(くに)の滅亡(めつぼう)近(ちか)づくを坐(いなが)らにして見るに堪(たへ)ず
窃(ひそか)【竊】に君辺(くんぺん)に忍(しの)び入(い)り誠言(せいげん)を尽(つく)して利害(りかい)を説(と)き衣服(いふく)
【右丁】
美麗(びれい)を廃(はい)し再(ふたゝ)び淳直先生(じゆんちよくせんせい)を用(もち)ひ玉へと勧(すゝめ)しかば主人公(しゆじんこう)はじ
めて信悟(しんご)し然(しか)らば汝(なんぢ)窃(ひそか)【竊】に属国(ぞくこく)に馳行(はせゆ)き淳直先生(じゆんちよくせんせい)を伴(ともな)
ひ帰(かへ)るべしと内勅(ないちよく)あり某(それがし)は夫(それ)より直(たゞち)に出去(いでさら)んとせし所(ところ)に先(さき)
に棄(すて)られたる薬兵(やくへい)国王(こくわう)の不遇(ふぐ)を憤(いきどほ)り元帥(げんすい)の許(もと)に帰(かへ)るべし
とて某(それがし)と共(とも)に出(い)で立(た)ちさてこそ一所(いつしよ)に来(きた)り候(さふら)ふなり元(げん)
帥(すい)何卒(なにとぞ)吾国(わがくに)の不信(ふしん)を怒(いか)り玉はず玉駕(ぎよくか)を枉(まげ)られ国家(こくか)再(さい)
度(ど)の危難(きなん)を救(すく)ひ玉ひなば独(ひと)り国王(こくわう)某(それがし)が幸(さいわ)ひのみにあらず
一国(いつこく)衆民(しゆみん)の輩(ともがら)尽(こと〴〵)く恩恵(おんけい)に浴(よく)すべしと泪(なみだ)と共(とも)に演説(ゑんぜつ)す
是(これ)をきゝて国王(こくわう)をはじめ一座(いちざ)の諸人(しよにん)愕然(がくぜん)たること良(やゝ)久(ひさし)く
何(いづ)れも言(ことば)を出(いだ)す者(もの)なし淳直(じゆんちよく)は暫(しば)らく沈吟(ちんぎん)し今(いま)足下(そくか)の
言(ことば)をきくに貴国(きこく)再度(ふたゝび)の病乱(ひやうらん)其症(そのしやう)已(すで)に必死(ひつし)にちかし是(これ)
【左丁】
みな国王(こくわう)某(それがし)が言(ことば)を守(まも)らず妄(みだり)に悪事(あくじ)に傾(かはふ)きたるより起(おこ)る
所(ところ)にして自業自得(じごうじとく)いかんともすべからず然(しか)れども国王(こくわう)今(いま)は前(せん)
非(ぴ)を悔(くや)み誠(まこと)の心(こゝろ)より某(それがし)が軍略(ぐんりやく)を望(のぞ)み殊(こと)に足下(そくか)のごとき
无双(ぶさう)の忠臣(ちうしん)自(みづか)ら来(きた)つての請待(しやうだい)かた〴〵以(もつ)て辞(いな)みがたければ
是(これ)よりふたゝび貴国(きこく)に趣(おもむ)くべきなり某(それがし)向(むか)ひたりとも必(かなら)ず
治(ぢ)すべきや否(いな)やは知(し)るべからず其旨(そのむね)兼(かね)て心得(こゝろえ)玉へと云(いへ)ば
俱生神(くしやうじん)は拝舞(はいぶ)して喜(よろこ)び不肖(ふしやう)の某(それがし)を憐(あはれ)みたまひ再度(さいど)
入国(にうこく)し玉はんこと大慶(たいけい)是(これ)に益事(ますこと)なしたとひ治術(ぢじゆつ)功(こう)なく
滅亡(めつぼう)に及(およ)ぶとも先生(せんせい)の指揮(しき)にだにあづからば国中(こくちう)の本望(ほんもう)
なり御許容(ごきよよう)の上(うへ)は一刻(いつこく)もはやく打立(うちたち)玉へと急(いそ)がせば当(とう)
国(ごく)の君臣(くんしん)もとも〴〵に言(ことば)をそろへて是(これ)を乞(こ)ふ淳直(じゆんちよく)は領(りやう)
【右丁】
掌(じやう)ししからば直(すぐ)に立出(たちいで)んと諸薬將(しよやくしやう)を召(め)しつどへ用意(ようい)を
調(とゝの)へて国王(こくわう)諸臣(しよしん)に別(わか)れを告(つ)げ俱生神(くしやうじん)を先(さき)に立(た)て各々(おの〳〵)
雲(くも)に打乗(うちの)りて飛(とぶ)がごとくに馳(は)せ去(さ)りけり
黴瘡軍談(ばいさうぐんだん)四之巻(しのくはん)終(おはる)
【左丁】
黴瘡軍談(ばいさうぐんだん)巻(くはん)の第五(だいご)
伯州(はくしう)米子(よなご)船越敬祐(ふなこしけいすけ)著(あらはす)
活(いかし)_レ枯(こを) 回(かへす)_レ死(しを) 巧(こう) 手(しゆ) 段(だん)
遂(とげ)_レ功(こうを)全(まつたふす)_レ名(なを) 大(だい) 団(だん) 円(ゑん)
かくて淳直(じゆんちよく)が一簇(ひとむれ)は俱生神(くしやうじん)と共(とも)に再(ふたゝび)自在衛門国(じざゑもんこく)に至(いた)り国中(こくちう)の
様子(やうす)を見るに実(げ)にも俱生神(くしやうじん)の物語(ものがた)りしに違(たが)はず国(くに)の体勢(ていせい)大ひに
衰(おとろ)へ諸道(しよどう)諸府(しよふ)全(まつた)き所なく気血(きけつ)荒(あれ)肌肉(きにく)脱(お)ち曽(かつ)て昔(むかし)の面影(おもかげ)なし
淳直等(じゆんちよくら)は此 有様(ありさま)に心(こゝろ)を傷(いた)ましめ慨嘆(がいたん)しつゝも漸(やうやく)王城(わうじやう)に着(つ)き直(たゞち)に
国王(こくわう)の御前に出れば王(わう)の左右(さゆう)には食欲(じきよく)【慾】色欲(しきよく)【慾】の両(りやう)嬖臣(へいしん)侍立(じりつ)し少(すこ)し
隔(へだ)てゝ衣服美麗(ゐふくびれい)傲然(ごうぜん)として坐(ざ)をしめ其次(そのつぎ)には諸(もろ〳〵)の臣下(しんか)次第(しだい)を
守(まも)りて居並(ゐなら)びたり其時(そのとき)国王(こくわう)は居直(ゐなを)りて珍(めづ)らしや淳直公(じゆんちよくこう)属国(ぞくこく)
【右丁】
にて高名(かうめう)ありしよしは屡(しば〳〵)聞(き)く先は无異(ぶゐ)にて珍重(ちんちやう)なり足下(そくか)に別(わかれ)しより
後(のち)吾国(わがくに)は再(ふたゝ)び擾乱(じやうらん)し黴賊(ばいぞく)蜂起(ほうき)して国郡(こくぐん)過半(くわはん)彼(かれ)が有(う)となるあれなる
衣服美麗(いふくびれい)先生(せんせい)元帥(げんすい)となりて諸(もろ〳〵)の薬將(やくしやう)を用ひ種々(しゆ〴〵)に防戦(ぼうせん)を尽(つく)【盡】さ
るゝといへども賊勢(ぞくせい)強(つよ)くして薬軍(やくぐん)功(こう)を失(うしな)ひ国家(こくか)一日一日よはり衰(おとろ)ふ
仍(よつ)て俱生神(くしやうじん)を以(もつ)て先生(せんせい)を招請(しやうだい)したる所 旧好(きうこう)を忘(わすれ)ず速(すみやか)に来(きた)り玉(たま)ふ
喜(よろこ)びこれに増(ま)すことなし何卒(なにとぞ)美麗公(びれいこう)と心を合せ国家(こくか)平治(へいぢ)を謀(はか)り
玉(たま)はゞ猶(なを)此上(このうへ)の幸(さいは)ひならんといへば淳直(じゆんちよく)は膝(ひざ)を進(すゝ)め王命(わうめい)畏(かしこま)り候ふ
といへども其本(そのもと)乱(みだれ)て末(すへ)治(おさま)らず君(きみ)若(もし)真実(しんじつ)に国家(こくか)太平を致(いた)さんと
思(おも)ひ玉はゞ先(まづ)君(きみ)の左右(さゆう)に在(あ)る所の佞奸(ねいかん)を遠(とほ)ざけ而(しかう)して後(のち)に外寇(ぐわいかう)を
治(ぢ)するの計(はかりこと)をなし玉へ先(さき)に某(それがし)出国(しゆつこく)の節(せつ)呉々(くれ〴〵)も乱後(らんご)治世(ぢせい)の要(よう)を
論(ろん)じ毒食(どくしよく)淫欲(いんよく)【慾】を禁(きん)じたるに君(きみ)是(これ)を守(まも)り玉はず佞臣(ねいしん)奸者(かんじや)に
【左丁】
誑(あざむか)れ再(ふたゝ)び国乱(こくらん)を招(まね)き給(たま)へり此(かく)のごとくにては幾度(いくたび)にても同じ事(こと)にして
全治(ぜんぢ)の期(ご)あるべからず故(かるがゆへ)に此度は黴賊(ばいぞく)追討(ついとう)に趣(おもむか)ざる前(さき)に先(まづ)かの佞人(ねいじん)
奸者(かんじや)を追退(おひしりぞ)け根本(こんぽん)の災(わざは)ひを滅(めつ)して其後(そのゝち)合戦(かつせん)に取掛(とりかゝ)るべしと憚(はゞか)る
所(ところ)なく云(い)ひければ国王(こくわう)は赤面(せきめん)し頭(かしら)を低(たれ)て物(もの)言(いは)ず是(これ)を聞(き)ひて食欲(じきよく)【慾】
色欲(しきよく)【慾】衣服美麗(いふくびれい)に目注(めくばせ)し三人 斉(ひとし)く進(すゝ)み出(い)で淳直(じゆんちよく)が前(まへ)に膝(ひざ)をつゝ
かけいかに淳直(じゆんちよく)汝(なんじ)今(いま)王(わう)の左右(さゆう)に佞臣(ねいしん)奸者(かんじや)ありといふは抑(そも〳〵)誰(たれ)をさし
ての事(こと)なるや吾々(われ〳〵)已(すで)に王(わう)の左右(さゆう)に在(あ)り而(しか)れども奸佞(かんねい)の名(な)を受(うく)る
覚(おぼへ)なし外(ほか)に奸佞(かんねい)の者(もの)ありや否(いな)や詳(つまびらか)にこれを説(とく)べし其説(そのせつ)若(もし)
胡乱(うろん)なる時は吾々(われ〳〵)決(けつ)して汝(なんじ)をゆるさじと勢(いきほ)ひこんで詰(つめ)よすれば
淳直(じゆんちよく)も膝(ひざ)立直(たてなを)し汝等(なんじら)知(し)るまじと思(おも)ふや我属国(わがぞくこく)へ向(むか)ひしあと
にて食欲(じきよく)【慾】色欲(しきよく)【慾】黴毒王(ばいどくわう)の賂(まいなひ)を受(う)け衣服美麗(いふくびれい)と心を合せ
【右丁】
王(わう)の心を迷(まよは)して悪事(あくじ)を勧(すゝ)め国禁(こくきん)を癈(はい)【「廃」の誤記ヵ】して酒肉(しゆにく)を引入(ひきい)れ女国(によこく)
に交(まじは)り国(くに)の元気(げんき)を乱動(らんどう)し遂(つひ)に黴賊(ばいぞく)再寇(さいこう)の乱(らん)を引出(ひきいだ)せしにあら
ずやと云(い)はせもはてず三人は怒気(どき)満面(まんめん)に溢(あぶ)れ賊(ぞく)匹夫(ひつぷ)何(なん)ぞ
吾々(われ〳〵)を誣(しゆ)る事 此(かく)のごときや黴毒王(ばいどくわう)の賂(まいなひ)を受(うけ)しなどゝは跡(あと)
方(かた)もなきことなり酒肉(しゆにく)を引入れ女国(によこく)と交(ましは)りしは国(くに)の気(き)
力(りよく)を長養(ちやうよう)舒散(じよさん)せしめん為(ため)なり汝(なんじ)がごとき庸才(ようさい)の者(もの)は病(やまひ)
を追(おふ)事を知(し)つて体(たい)を調(とゝな)ふる事をしらず若(もし)久しく酒肉(しゆにく)を
絶(た)ち女国(によこく)交通(こうつう)を止(やむ)る時は体(たい)衰(おとろ)へ気(き)鬱(うつ)して却(かへつ)て異症(いしやう)を引
出す故(ゆへ)に此 両事(りやうじ)を以(もつ)て国(くに)の元気(げんき)を或(あるひ)は調(とゝの)へ或は散(さん)じ程(ほど)よく
和暢(くわちやう)せしむるを要(よう)とす然(しか)るに此 度(たび)国家(こくか)の擾乱(じやうらん)は此(この)両事(りやうじ)を
用ひたるゆへに非(あら)ず全(まつた)く先(さき)に黴賊(ばいぞく)攻戦(こうせん)の時 汝(なんじ)妄(みだり)に延寿丸(ゑんじゆぐわん)
【左丁】
等(ら)の諸(もろ〳〵)の劇將(げきしやう)を用(もち)ひ国中(こくちう)を乱妨(らんぼう)せしめたるによりて国(くに)の
精気(せいき)衰(おとろ)へたる所(ところ)へ黴賊(ばいぞく)再(ふたゝび)攻入(せめいり)たるなり何(なん)ぞ是等(これら)を以(もつ)て吾々(われ〳〵)
が罪(つみ)とすべきやと居丈高(ゐたけだか)に成(な)りて罵(のゝし)るを淳直(じゆんちよく)は冷笑(あざわら)ひ
鹿(しか)を指(ゆびざ)して馬(うま)と云(い)ふは古(いにしへ)の事(こと)と思(おも)ひしに汝等(なんじら)は毒(どく)を以(もつ)て
薬(くすり)なりとし薬(くすり)を以(もつ)て毒(どく)とす其悪(そのあく)尤(もつとも)にくむべきかな今(いま)汝等(なんじら)
が云(い)ふ所(ところ)は常体(つねてい)の国(くに)の事(こと)なりそれすら酒肉(しゆにく)色事(しきじ)を禁(きん)じ
たりとてあながち国(くに)の害(がい)になるとは云(い)ふべからず持戒(じかい)の僧(そう)
尼(に)のごとき却(かへつ)て无病(むびやう)長寿(ちやうじゆ)の国(くに)多(おゝ)し是(これ)を禁(きん)じて鬱症(うつしやう)を
引出(ひきいだ)すなどゝは畢竟(ひつきやう)国王(こくわう)の惰弱(だじゆく)【ママ】より起(おこ)るのみ殊(こと)に当国(とうごく)の
ごときは国乱(こくらん)已(すで)に年(とし)久(ひさし)く気血(きけつ)荒(あれ)て治(おさま)らず故(かるかゆへ)に乱後(らんご)に至(いた)つても
酒肉(しゆにく)色事(しきじ)をきびしく禁(きん)ずべき事(こと)なりいかんとなれば色事(しきじ)
【右丁】
は尤(もつとも)よく気血(きけつ)を放散(はうさん)し精気(せいき)をよはらす酒(さけ)は能(よく)気血(きけつ)を動乱(どうらん)
せしむ肉食(にくしよく)は悪血(おけつ)を増長(ざうちやう)す黴毒(ばいどく)は悪血(おけつ)に和(くわ)して正気(せいき)の虚(きよ)
より起(おこ)る者(もの)にして正気(せいき)実(じつ)したる時(とき)は敢(あへ)て起(おこ)らず故(かるがゆへ)に我(われ)国王(こくわう)
に説(とい)て酒色(しゆしよく)肉食(にくしよく)を止(とゞ)め正気(せいき)を補(おぎな)はしむる所(ところ)に汝等(なんじら)妄言(もうげん)を
以(もつ)て説(と)き惑(まよ)はし禁(きん)を破(やぶ)りて毒事(どくじ)をなさしめ国(くに)の乱(らん)を生(しやう)じ
ながら今(いま)に至(いた)つて己(おのれ)が罪(つみ)にあらずといふはいかなる道理(どうり)ぞと
厳然(げんぜん)として弁破(べんぱ)すれば食欲(じきよく)【慾】色欲(しきよく)【慾】は道理(どうり)に詰(つめ)られ暫(しばらく)言(ことば)を
出(いだ)さゞりしが再(ふたゝ)び首(かうべ)を挙(あ)げ智者(ちしや)にも千慮(せんりよ)の一失(いつしつ)あり吾々(われ〳〵)
国王(こくわう)を思(おも)ふの余(あま)り鬱散(うつさん)の為(ため)に勧(すゝ)めたる事(こと)なれども夫(それ)により
て国家(こくか)乱(みだれ)しとならばいかんがせん其罪(そのつみ)を蒙(かうむ)るべし黴毒王(ばいどくわう)より
賂(まいなひ)受(うけ)たりとは何(なに)を以(もつ)て云(い)ふや其(その)わけを聞(きか)んと詰(つめ)かくる此時(このとき)
【左丁】
末座(ばつざ)より俱生神(くしやうじん)飛(とん)で出(い)で其証(そのしやう)【證】拠(こ)は我(わ)が手(て)に在(あ)り眼(まなこ)を
開(ひらい)て是(これ)を見(み)よと一封(いつぷう)の書(しよ)を投与(なげあた)ふ食欲(じきよく)【慾】色欲(しきよく)【慾】は手(て)に取(と)りて
是(これ)を披(ひら)き見るに中(うち)には数通(すつう)の書簡(しよかん)あり黴賊(ばいぞく)より送(おく)りたる
賂(まいなひ)の謝答(しやたふ)にして何(いづ)れも自筆(じひつ)の文書(ぶんしよ)なれば両人(りやうにん)はこれを
見るより顔色(がんしよく)忽(たちま)ち土(つち)のごとく変(へん)じ覚(おぼ)へず額(ひたひ)に汗(あせ)をなし
敢(あへ)て再(ふたゝ)び口(くち)を開(ひら)かず此有様(このありさま)を見聞(けんもん)して国王(こくわう)大ひに逆鱗(げきりん)
あり不忠(ふちう)不義(ふぎ)の人非人(にんぴにん)諸官人(しよくわんにん)早(はや)く彼(かれ)を引出(ひきいだ)して法(ほう)の
ごとく断罪(だんざい)に行(おこな)ふべしと有(あり)ければ俱生神(くしやうじん)是(これ)を止(とゞ)め大王(だいわう)の
御怒(おんいか)りはさることながら彼等(かれら)は全(まつた)く本心(ほんしん)より国(くに)の滅亡(めつほう)を願(ねがふ)
にあらず黴賊(ばいぞく)の賂(まいなひ)に迷(まよ)ふて大王(だいわう)を悪路(あくろ)に導(みちび)き己(おの)が欲(よく)【慾】を
恣(ほしい)まゝにしたるなれば枉(まげ)て一命(いちめい)を免(ゆる)し生涯(しやうがい)禁錮(きんこ)に処(しよ)し玉へ
【右丁】
と淳直(じゆんちよく)も俱々(とも〴〵)言(ことば)を添(そ)へ纔(わづか)に命(いのち)を申(まう)し乞(こ)ひ諸官人(しよくわんにん)に下知(げち)し
て引去(ひきさら)しむ衣服美麗(いふくびれい)は立(たつ)にもたゝれず顔(かほ)を赤(あか)めて黙(もく)
坐(ざ)したるを国王(こくわう)は屹(きつ)と見やり我(わ)れ足下(そくか)を以(もつ)て智謀(ちぼう)无(ぶ)
双(そう)の人(ひと)と思(おも)ひ其言(そのことば)に迷(まよ)はされ悪事(あくじ)に陥(おちい)りかゝる大乱(たいらん)を
起(おこ)せしは皆(みな)是(これ)我(わ)が愚(おろか)より仕出(しいだ)したる事なれば今にいた
りて足下(そくか)を責(せめ)たりとも其甲斐(そのかひ)なし已後(いご)吾国(わがくに)へは出入
无用(むよう)なり早々(さう〳〵)に立去(たちさ)るべし誰(たれ)かあるあれ引立(ひつたて)よと下知(げぢ)に
つれ諸官人(しよくわんにん)ばら〳〵と立(た)ちかゝり大元帥(たいげんすい)の印(いん)を取(と)り上(あ)げ
庭上(ていしやう)より追払(おひはら)へば此頃(このごろ)の意気(いき)揚々(よう〳〵)たりしにはことかはり頭(かしら)
をかゝへ足(あし)を空(そら)にして国外(こくぐわい)へ逃去(にげさ)りけり此(こゝ)に於(おい)て国王(こくわう)は改(あらた)
めて元帥(げんずい)の印(いん)を淳直(じゆんちよく)に渡(わた)し礼(れい)を厚(あつ)くし言(ことば)を卑(ひき)くして
【左丁】
深(ふか)く先非(せんぴ)を悔(く)ひ嘆(なげ)き再度(ふたゝび)討賊(とうぞく)の事を頼みければ淳直(じゆんちよく)は欣(きん)
然(ぜん)として印(いん)を受(う)け取り大王の命(めい)承伏(しやうふく)せり去(さり)ながらつら〳〵
国中(こくちう)の容体(ようだい)を察(さつ)するに此度(このたび)攻(せ)め来(きた)る者(もの)は瘰癧(るいれき)ばかりには
あるべからず黴(ばい)毒王 自(みづから)発向(はつかう)せりと覚(おぼゆ)るなり然(しか)る時は大事(だいじ)
の軍(いくさ)にして是(これ)まで賊將共(ぞくしやうども)と戦(たゝか)ひしとは同じからず一朝(いつてう)一夕(いつせき)
には其功(そのこう)なかるべき間(あいだ)心(こゝろ)を長(なが)くして緩々(ゆる〳〵)と防戦(ぼうせん)し国家(こくか)の
恢復(くわいふく)を評(はか)るべし先(まづ)早(はや)く軍(いくさ)の手配(てくば)りをせんと国王(こくわう)の前(まへ)を
下(さが)り諸薬將(しよやくしやう)を呼集(よびあつ)め暫(しばら)く軍議(ぐんぎ)に時(とき)を移(うつ)しけるが所詮(しよせん)
此度(このたび)は国家(こくか)十分(じうぶん)衰労(すいらう)の時なれば烈(はげ)しき合戦(かつせん)はなし難(かた)し先(さき)
国勢(こくせい)を調理(てうり)すべしと一決(いつけつ)し補中益気湯(ほちうえききとう)に茯苓沢瀉芍(ぶくれうたくしやしやく)
薬湯(やくとう)を差(さし)そへ一万余騎(いちまんよき)国中(こくちう)へ出(いで)て陣(ぢん)を取(と)り黴賊(ばいぞく)には目(め)を
【両丁挿絵の内 右丁】
淳直(じゆんちよく)
黴毒王(ばいどくわう)を
苦(くるし)むる図(づ)
じゆんちよく
【左丁】
ばいどく王
るいれきはれたか
【右丁】
かけず専(もつぱ)ら気血(きけつ)を補(おぎな)はしめ延寿丸(ゑんじゆくわん)は逞兵(ていへい)四五百 騎(き)をあ
たへ処々(しよ〳〵)に埋伏(まいふく)し気血(きけつ)を妨(さまた)ぐる小賊(せうぞく)を打殺(うちころ)さしむ二將(にしやう)は命(めい)
を領(れう)じ各(おの〳〵)軍勢(ぐんぜい)を引(ひい)て打(うつ)で【ママ】出(い)で淳直(じゆんちよく)が教(をしへ)の如(ごと)く烈(はげ)しき
合戦(かつせん)をなさず補中益気湯(ほちうゑききとう)は茯苓(ぶくれう)沢瀉(たくしや)芍薬(しやくやく)等(ら)と共(とも)に
気血水(きけつすい)を導(みちび)き調(とゝの)へ循環(じゆんくわん)せしめ国民(こくみん)をなづけ賊徒(ぞくと)妨(さまたげ)を
なすときは延寿丸(ゑんじゆぐわん)忽(たちま)ち顕(あらは)れ出(い)で一戦(いつせん)に打(うち)ちらし賊徒(ぞくと)散(さん)
ずる時(とき)は本(もと)のごとくかくれひそむ初(はじ)めの程(ほど)は国民(こくみん)殺伐(さつばつ)を恐(おそ)
れ延寿丸(ゑんじゆぐわん)が打(うつ)て出(いづ)るを見ては本処(ほんしよ)を去(さ)りて穀道門(こくどうもん)より
逃出(にげいづ)るゆへ腹力(ふくりき)脱(だつ)し国勢(こくせい)おとろふ補中益気湯等(ほちうゑききとうら)力(ちから)をつ
くして撫育(ぶいく)し是(これ)を恵(めぐ)み懐(なづけ)ければ后(のち)には其(その)恩沢(おんたく)を感(かん)じ延(ゑん)
寿丸(じゆぐわん)小賊等(せうぞくら)と戦(たゝか)ふといへども曽(かつ)て驚(おどろ)き恐(おそ)れ逃去(にげさ)ること
【左丁】
なく是(これ)より国中(こくちう)次第(しだい)に勢付(いきほひつ)き気血水(きけつすい)よく調(とゝの)ひ小(せう)べん快(くわい)
利し浮腫(ふしゆ)消(せう)じければ小賊等(せうぞくら)栖(すみか)を失(うしな)ふて逃失(にげう)せ国民(こくみん)は益々(ます〳〵)
ふへて国家(こくか)の政令(せいれい)行(ゆき)わたり飲食(いんしよく)進(すゝ)んで腹力(ふくりき)を生(しやう)じ精気(せいき)調(とゝ)
のひ程(ほど)なく静謐(せいひつ)を歌(うた)ふべき前兆(ぜんてう)を顕(あらは)しける淳直(じゆんちよく)が案(あん)に違(たが)
はず今度(このたび)再寇(さいこう)の黴賊(ばいぞく)は瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】腫高(はれたか)のみにあらず黴毒大王(ばいどくだいわう)
自(みづか)ら出張(しゆつてう)して微労(しつろう)【ママ 注】必死(ひつし)の術(じゆつ)を行(おこな)ひ国中(こくちう)に眷属(けんぞく)をわかち
已(すで)に九分通(くぶどほ)り攻取(せめと)り今(いま)は平治(へいぢ)の気遣(きづか)ひなしと安堵(あんど)して
居(ゐ)たる所に此頃(このごろ)より小賊等(せうぞくら)追々(おひ〳〵)に馳返(はせかへ)り薬軍(やくぐん)に追立(おつたて)られ気(き)
血水(けつすい)の路(みち)を塞(ふさ)ぐこと能(あた)はず且(かつ)国民等(こくみんら)王令(わうれい)に懐(なづ)き順(したが)ひ合戦(かつせん)
に恐(おそ)れず故(かるがゆへ)に延寿丸(ゑんじゆぐわん)次第(しだい)に兵(へい)を増(ま)し数千騎(すせんぎ)にて打(うつ)て出(い)で
戦(たゝか)ひ稍(やゝ)烈(はげ)しければ瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】もこれが為(ため)に敗(やぶ)れを取(と)ること数々(しば〳〵)
【注 漢字の読みは「ビロウ」で意味は「いささかのてがら」。振り仮名から考えられる文字は「疾労」で意味は「病気。特に結核をいうか。」。】
【右丁】
なり今(いま)は我々(われ〳〵)が力(ちから)に及(およ)ばず大王(だいわう)自(みづか)ら御出馬(ごしゆつば)有(あつ)て然(しか)るべしと
報(ほう)ずれば黴毒王(ばいどくわう)は是(これ)を聞(きゝ)て大におどろき此度(このたび)ばかりはよも
本復(ほんぶく)の計(はかりこと)はあるまじと思(おも)ひしに其体(そのてい)にては国勢(こくせい)再(ふたゝ)びふるひ
全快(ぜんくわい)に程(ほど)なからんさすればゆるかせにすべき事(こと)にあらず我(わ)れ
自(みづか)ら出陣(しゆつじん)すべしと俄(にはか)に陣触(ぢんぶれ)をなし総(そう)【惣】勢(ぜい)三万余騎(さんまんよき)威風(ゐふう)堂(とう)
々(〳〵)と出(いで)たち国中(こくちう)気血水(きけつすい)の路(みち)を差塞(さしふさ)がんと瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】腫高(はれたか)に牒(てう)
じ合(あは)せ切所(ぜつしよ)を望(のぞ)んで進(すゝ)みけり薬軍(やくぐん)の細作(さいさく)【注】はかくと見るより
早速(さつそく)に淳直(じゆんちよく)に告(つ)げ知(しら)す是(これ)によりて淳直(じゆんちよく)は諸薬將(しよやくしやう)を呼(よ)び
つどへ注進(ちうしん)の旨(むね)を説示(ときしめ)し賊徒(ぞくと)已(すで)に大挙(たいきよ)して打(うつ)て出(いで)たれば
御方(みかた)も勢(せい)を尽(つく)して是(これ)にあたるべし今(いま)国中(こくちう)勢気(せいき)稍(ようや)く回復(くわいふく)し
下民(かみん)能(よく)なづき逃散(てうさん)の憂(うれ)ひなければ敵(てき)に出逢(いであ)ふともさのみ劇(げき)
【注 まわしもの。スパイ。】
【左丁】
戦(せん)を憚(はゞか)るべからずと下知(げぢ)を伝(つた)へ延寿丸(ゑんじゆぐわん)に精兵(せいへい)弐千 騎(き)を与(あた)へて真(まつ)
先(さき)に進(すゝ)ませ淳直(じゆんちよく)は数千騎(すせんぎ)にて其後(そのうしろ)に従(したが)ひ同(おなじ)く国中(こくちう)へ推出(をしいだ)す補(ほ)
中益気湯等(ちうえききとうら)は始(はじめ)のごとく気血水(きけつすい)の路(みち)を修理(しゆり)し下民(かみん)をなづけ
国勢(こくせい)を補(おぎな)ふて惰(おこた)ることなし却説(さても)黴毒王(ばいどくわう)は大軍(たいぐん)を率(ひい)て瘰歴(るいれき)と一(ひと)
手(て)になり国都(こくと)を望(のぞ)んで進(すゝ)む所(ところ)に前軍(ぜんぐん)の士卒(しそつ)忽(たちま)ち止(とゞま)り薬軍(やくぐん)
前面(ぜんめん)に屯(たむろ)したりと告(つぐ)れば黴毒王(ばいどくわう)は瘰癧(るいれき)を呼出(よびいだ)し黴薬(ばいやく)の勝敗(しようはい)
此一挙(このいつきよ)にあり汝(なんじ)先陣(せんじん)に進(すゝ)んで試(こゝろ)みに一戦(いつせん)を催(もよ)ふせよと命(めい)ずれ
ば瘰癧(るいれき)は領掌(れうじやう)し逞兵(ていへい)四五千を引(ひい)て進(すゝ)み出(い)で大音(だいおん)にて黴毒(ばいどく)
大王(だいわう)法駕(ほうが)の前(まへ)を遮(さへぎ)るは何者(なにもの)なるぞ早(はや)く路(みち)を開(ひらか)ずんば斧鉞(ふえつ)忽(たちまち)
頭(かうべ)に臨(のぞま)んと罵(のゝし)る声(こへ)未(いま)だ止(やま)ず延寿丸(ゑんじゆぐわん)馬(うま)を跳(おどら)してかけ出(い)で汝(なんじ)は
瘰癧腫高(るいれきはれたか)に非(あら)ずや先度(せんど)の合戦(かつせん)に汝(なんじ)を打(うち)もらし遺恨(いこん)かぎり
【右丁】
なかりしに今(いま)亦(また)自(みづか)ら来(きたつ)て死(し)を促(うなが)すは能々(よく〳〵)我(われ)に縁(ゑん)の深(ふか)き者(もの)ならん
先(まづ)汝(なんじ)を打殺(うちころ)して後(のち)に黴毒王(ばいどくわう)を擒(とりこ)にすべしと鎗(やり)を撚(ひねつ)てすゝみ
寄(よ)る瘰癧(るいれき)も連環槌(れんくわんつい)を打(うち)ふり両方(りやうほう)の士卒(しそつ)も得物(えもの)を把(と)り入(い)り
乱(みだ)れて戦(たゝか)ひけるが国中(こくちう)已(すで)に勢(いきほ)ひ付(づ)き人民(じんみん)攻戦(こうせん)を恐(おそ)れざるが
故(ゆへ)に薬軍(やくぐん)勇威(ゆうゐ)を振(ふる)ふて切立(きりたつ)れば黴軍(ばいぐん)遂(つひ)に負色(まけいろ)になり後陣(こぢん)
をさしてさつと引(ひ)く薬軍(やくぐん)も戦(たゝか)ひ疲(つか)れしかば敢(あへ)て追(お)はず左右(さゆう)に
分(わかれ)て息(いき)をつぎ二陣(にぢん)に譲(ゆづ)りてひかへたり次(つぎ)は淳直(じゆんちよく)が本陣(ほんぢん)の勢(せい)
と黴毒王(ばいどくわう)の籏本(はたもと)の勢(せい)と近々(ちか〴〵)とおしよせ両方(りやうほう)互(たがひ)に攻鼓(せめつゞみ)を鳴(なら)し
鬨(とき)を作(つく)り勢(いきほ)ひを示(しめ)して白眼(にらみ)合(あ)ふ所(ところ)に黴賊(ばいぞく)の軍門(ぐんもん)両段(りやうだん)に分(わか)れ
中央(ちうおう)に黴毒大王(ばいどくだいわう)衣冠(いくわん)を整(とゝの)へ車(くるま)に乗(の)り精兵(せいへい)に左右(さゆう)をまもらせ
しづ〳〵と推(を)し出(いだ)し遥(はるか)に淳直(じゆんちよく)を指(ゆびざ)してめづらしや篤実淳直(とくじつじゆんちよく)先(さき)に
【左丁】
取殺(とりころ)すべき奴(やつ)なりしに雷震(らいしん)に妨(さまた)げられ本意(ほんゐ)を遂(とげ)ずその後(のち)
所々(しよ〳〵)の国(くに)に於(おい)て我(わが)眷属(けんぞく)を打亡(うちほろぼ)し今又(いままた)当国(とうごく)に来(きた)つて我軍(わがぐん)
威(ゐ)を妨(さまた)ぐ重々(ぢう〳〵)の仇(あだ)なれば此度(このたび)は我(われ)誓(ちか)つて汝(なんじ)を殺(ころ)し宿意(しゆくゐ)を晴(はら)
さんと欲(ほつ)す然(しか)れども今(いま)にも先非(せんぴ)を悔(くや)み薬兵(やくへい)を引連(ひきつれ)逃(にげ)さらば
われまた汝(なんじ)に仇(あだ)すべからず汝今は雷震等(らいしんら)が助(たす)けなし若(もし)敵対(てきたい)
せんとならば先(まづ)其首(そのくび)をあらふべしと嘲(あざ)ければ淳直(じゆんちよく)も車(くるま)
をすゝめ悪賊(あくぞく)已(すで)に滅期(めつご)に臨(のぞ)みながら猶(なを)无用(むよう)の大言(たいげん)をなす
や先達(さきたつ)て我(われ)ねんごろに汝(なんじ)を諫(いさむ)れども用(もち)ひず遂(つい)に人体国(にんたいこく)に
寇(あだ)するが故(ゆへ)に我(われ)も又(また)姿(すがた)を変(へん)じ諸薬將(しよやくしやう)と共(とも)に国中(こくちう)に入り賊(ぞく)
徒(と)を誅戮(ちうりく)して国家(こくか)を安定(あんじやう)す是(これ)まで諸国(しよこく)の合戦(かつせん)に汝(なんじ)が股(こ)
肱(かう)の賊將(ぞくしやう)は尽々(こと〴〵)く討取(うちと)り残(のこ)るは汝(なんじ)と瘰癧(るいれき)ばかりなり打残(うちのこさ)れ
【右丁】
の兵(へい)を以(もつ)て安(いづく)んぞ我(わが)勇兵(ゆうへい)にあたるべきや且(かつ)汝(なんじ)未(いま)だわが薬(やく)
將(しやう)の種姓(しゆしやう)を知(し)らず延寿丸(ゑんじゆぐわん)とは雷震(らいしん)黴効散(ばいこうさん)とは殷郊(いんこう)治瘡(ぢさう)
丸(ぐわん)とは辛申(しんしん)奇良湯(きりやうとう)とは伯邑考(はくゆうこう)なり姿(すがた)をかへたるがゆへに
神通(じんづう)不測(ふしぎ)は少(すこ)し自在(じざい)ならざれども其勇(そのゆう)に於(おい)ては全(まつた)く
かはることなし汝(なんじ)が弱兵(じやくへい)を破(やぶら)んこと嚢(ふくろ)の物(もの)を取(と)るより易(やす)し
其上(そのうへ)我(わ)れ此間(このあいだ)より大公望(たいこうぼう)を一心(いつしん)に祈念(きねん)し神符(しんぷ)を焼(やい)て
天地(てんち)を祭(まつ)りたればもはや汝(なんじ)が妖術(ようじゆつ)折(くじ)け失(う)せ一つもその功(こう)
あるべからず今 其験(そのしるし)を見せん間(あいだ)はやく観念(くわんねん)して死(し)を急(いそ)ぐ
べしと云(いひ)おはり天に向(むか)ふて祈念(きねん)すれば空中(くうちう)に声(こへ)ありて大公(たいこう)
望(ぼう)此(こゝ)に在(あ)り魔軍(まぐん)速(すみやか)に退散(たいさん)せよと二声(ふたこへ)三声(みこへ)呼(よば)はると斉(ひとし)く
金色(こんじき)の瑞光(ずいくわう)閃(ひらめ)き来(きた)り黴軍(ばいぐん)の陣上(ぢんしやう)を照(てら)すと見へしが黴毒(ばいどく)
【左丁】
王(わう)忽(たちま)ち五体(ごたい)すくみ車(くるま)より真逆様(まつさかさま)に倒(たほ)れければ左右(さゆう)の士卒(しそつ)
驚(おどろ)き騒(さは)ぎ扶(たす)け起(おこ)して介抱(かいほう)し周章(しゆしやう)【左ルビ:あはてる】するを見るよりも薬軍(やくぐん)
は勇(いさ)み立(た)ち先(さき)に休(やす)み居(ゐ)たる延寿丸(ゑんじゆぐわん)と一手(ひとて)に成(な)り真(まつ)くろに
なりて切(きり)まくれば黴軍(ばいぐん)は立足(たつあし)もなく討(うた)るゝ者 麻(あさ)の如(ごと)く七裂(しちれつ)【左ルビ:ちり】
八裁(はつさい)【左ルビ:ちり】に崩(くづ)れ立(た)ち黴毒王(ばいどくわう)も已(すで)に危(あやふ)く見へけるが数十騎(すじつき)の士(し)
卒(そつ)踏(ふ)み止(とゞ)まりて討死(うちじに)しける内に瘰癧腫高(るいれきはれたか)我本陣(わがほんぢん)に誘(いざな)ひ
入れ残兵(ざんぺい)に下知(けぢ)して四門(しもん)を堅(かた)めきびしく防(ふせ)がせければ薬軍(やくぐん)
も左右(さう)なくは近付(ちかづ)き得ず互(たがひ)に力戦(りきせん)する所へ淳直(じゆんちよく)車(くるま)を進(すゝ)め来(きた)
りて是(これ)を制(せい)し御方(みかた)一戦(いつせん)に利(り)を得(え)黴毒王(ばいどくわう)を此所(このところ)へ追(おひ)こみたる
上(うへ)はもはや気(き)づかひすべきに非(あら)ず此間(このあいだ)に諸道(しよどう)を全(まつた)く平治(へいぢ)すべ
しと延寿丸(ゑんじゆぐわん)に命(めい)じて瘰癧(るいれき)が本陣(ほんぢん)を四方(しほう)より囲(かこま)【圍】せその通(つう)
【右丁】
路(ろ)を止(とゞ)め又(また)延寿丸(ゑんじゆぐわん)が部下(ぶか)の精兵(せいへい)を分(わけ)て国中(こくちう)を巡行(じゆんこう)させ
黴賊(ばいぞく)の落武者(おちむしや)並(ならび)に国中(こくちう)の悪民(あくみん)黴賊(ばいぞく)に心を寄(よす)る者をば
見 当(あた)るまゝに討殺(うちころ)さしめ補中益気湯等(ほちうえききとうら)に命(めい)をつたへて
いよ〳〵調補(てうほ)の術(じゆつ)を尽(つく)させけるゆへ暫(しばら)【「ら」を「く」と書くは誤り。】くの内に国勢(こくせい)全(まつた)く元(もと)の
ごとくに復(ふく)しける此間(このあいだ)に延寿丸(ゑんじゆぐわん)は瘰癧(るいれき)が陣(ぢん)を四方(しはう)より取(と)り
巻(ま)き日々 夜々(やゝ)に攻討(せめう)ち諸所(しよ〳〵)の砦(とりで)尽(こと〴〵)く攻(せめ)おとし今は纔(わづか)に
黴毒王(ばいどくわう)瘰癧(るいれき)が籠(こも)りたる砦(とりで)一(いつ)ヶ(か)所(しよ)になりければ黴毒王(ばいどくわう)は瘰癧(るいれき)
に向(むか)ひ我(わ)れ一度(ひとたび)大業(たいぎやう)を興(おこ)し数多(あまた)の人体国(にんたいこく)を亡(ほろぼ)さんと企(くわだ)て
たるに天運(てんうん)至(いた)らずして淳直(じゆんちよく)ごときに攻破(せめやぶ)られ多(おほ)くの眷属(けんぞく)を
失(うしな)ひ剰(あまつさ)へ我(わ)が奇術(きじゆつ)破(やぶ)れて再(ふたゝ)び用(もち)ゆることあたはず其上(そのうへ)敵將(てきしやう)
延寿丸(ゑんじゆぐわん)をはじめ皆(みな)雷震等(らいしんら)が変身(へんしん)なるよし然(しか)る時(とき)はこれに
【左丁】
勝(かち)を得(え)んこと思(おも)ひもよらず今(いま)は討死(うちじに)と覚悟(かくご)を定(さだ)めたり汝(なんじ)一人(いちにん)
此際(このきは)迄(まで)も附添(つきそ)ふこと身(み)に取(とつ)ていか程(ほど)かうれしけれいざや打(うつ)て出(い)で
花々(はな〴〵)布(し)く一戦(いつせん)をなし最期(さいご)の思(おも)ひ出(で)に備(そな)へんと云(い)へば瘰癧(るいれき)も泪(なみだ)を
ながし誠(まこと)に宣(のたま)ふごとく多(おほ)くの傍輩(ほうばい)は皆(みな)各国(かくこく)にて討死(うちじに)を遂(と)げ
某(それがし)一人(いちにん)御最期(ごさいご)の供奉(ぐぶ)すること生前(しやうぜん)の本懐(ほんくわい)是(これ)に過(すぐ)べからず然(しか)り
といへども君臣(くんしん)上下(しやうか)纔(わづか)の勢(せい)にて打(うつ)て出(いで)たりとも勝(かち)ほこりたる薬(やく)
軍(ぐん)にいかでか敵対(てきたい)なるべきや名(な)もなもなき匹夫(ひつぷ)の手(て)にかゝりたまはん
より君(きみ)ははやく御自害(ごじがい)有(あつ)て然(しか)るべし暫時(ざんじ)の防(ふせ)ぎは某(それがし)仕(つかまつ)るべき
なりと云(い)ひすてゝ坐(ざ)を立(た)ち上(あが)り黴毒王(ばいどくわう)の手(て)を取(とつ)て奥(おく)へ推(を)し
遣(や)り其後(そのゝち)鎧(よろひ)を脱(ぬぎ)すて連環槌(れんくわんつい)を投(な)げやり大刀(だいとう)を提(ひつさ)げ軽々(かる〴〵)と
出(いで)たち残兵(ざんぺい)を引(ひい)て陣門(ぢんもん)に顕(あらは)れいで黴毒王(ばいどくわう)の部下(ぶか)において
【右丁】
ゑんじゆぐはん【四角で囲む】
【左丁】
るいれきはれたか【四角で囲む】
黴毒王(ばいどくわう)
滅亡(めつぼう)の
図(つ)
ゑんじゆぐはん【四角で囲む】
ばいどくわう【四角で囲む】
【左下】
瘰歴(るいれき)【癧】腫高(はれたか)
討死(うちじに)の
図(づ)
【右丁】
万夫(ばんぶ)不当(ふどう)の名(な)を得(え)たる瘰癧腫高(るいれきはれたか)最期(さいご)の一戦(いつせん)なるぞ我(わ)れと
思(おも)はん者(もの)は首(くび)取(とつ)て高名(かうめう)にせよと呼(よば)はり〳〵驀地(まつしぐら)に切(きつ)て入(い)る元(もと)より
死(し)を究(きはめ)たる勇兵(ゆうへい)なれば薬軍(やくぐん)の先手(さきて)忽(たちま)ちに切崩(きりくづ)され本陣(ほんぢん)へ
なだれかゝれば瘰癧(るいれき)はすき間(ま)もなく追詰(おひつ)め本陣(ほんぢん)に切(きり)こまんと
勇(ゆう)を振(ふる)ふて悪戦(あくせん)す延寿丸(ゑんじゆぐわん)は是(これ)を見て拙(つたな)き味方(みかた)の逃様(にげざま)かな
さらば此敵(このてき)を打留(うちとめ)て臆病者(おくびやうもの)の目(め)をさまさしくれんと馬(うま)を飛(とば)して
近付(ちかづ)きよりいかに瘰癧(るいれき)先程(さきほど)よりの働(はたら)き最期(さいご)の一戦(いつせん)目(め)ざまし
きことなりいでや某(それがし)が冥途(めいど)の引導(いんどう)をなして得(え)させんと欺(あざ)むき
つゝ鎗(やり)をしごいて向(むか)ふに立(た)てば瘰癧(るいれき)は曽(かつ)て一言(いちごん)の答(こたへ)にも及(およ)ばず
血(ち)に染(そ)みたる大刀(だいとう)を打(うち)ふり両人(りやうにん)人(ひと)まぜもせず戦(たゝか)ひしが瘰癧(るいれき)は
数刻(すこく)の戦(たゝか)ひに力(ちから)つかれ延寿丸(ゑんじゆぐわん)が无双(ぶさう)【旡は誤記】の勇(ゆう)に敵(てき)することを得(え)ず
【左丁】
遂(つひ)に馬より下に突落(つきおと)さる大将(たいしやう)已(すで)に討(うた)れたれば小率(せうそつ)はいかでか
全(まつた)き事を得(え)んや見るが内に崩(くづ)れ立(た)ち乱軍(らんぐん)の中(うち)にのこらず命(めい)を
殞(おと)しけりさらば此 勢(いきほひ)に営中(ゑいちう)に乗(の)り入り残兵(ざんぺい)を駆(か)り出し黴(ばい)
毒王(どくわう)が首(くび)を取れよと延寿丸(ゑんじゆぐわん)諸軍(しよぐん)を下知(けぢ)して陣門(ぢんもん)を打 砕(くだ)き
ひた〳〵と込(こ)み入りて見るに営中(ゑいちう)は无人場(むにんじやう)【旡は誤記】となり残兵(ざんぺい)一人も見へ
ず本陣(ほんぢん)の中央(ちうわう)に黴毒王(ばいどくわう)と覚(おぼ)しく衣冠(いくわん)のまゝにて端座(たんざ)し
宝剣(ほうけん)を以(もつ)て胸元(むなもと)を差通(さしとふ)し自害(じがい)してありければ延寿丸(ゑんじゆぐわん)は傍(そば)
近(ちか)く進(すゝ)み寄(よ)り声(こへ)をはげましいかに黴毒王(ばいどくわう)霊(れい)猶(なを)あらば慥(たしか)に
きけ我(われ)は雷震(らいしん)が変身(へんしん)なり汝(なんじ)が妲己(だつき)【注】にて在(あり)しを殷宮(いんきう)に誅(ちう)
せしより生々(しやう〴〵)世々(せゝ)相剋(さうこく)して止(やま)ず今も又 薬病(やくひやう)の一対(いつたい)となり
此所に於(おい)て汝(なんじ)を誅伐(ちうばつ)するぞと彼(かの)宝剣(ほうけん)を抜(ぬき)取て細首中(ほそくびちう)に
【注 人名。殷の紂王の妃で、悪行多く、殷が滅びるもとを作ったといわれる。】
【右丁】
打 落(おと)すときに不思議(ふしぎ)や切口より白気(はくき)隠々(いん〳〵)と立上(たちのぼ)り其中(そのなか)よ
り声(こへ)を発(はつ)し我(わ)れ悪念(あくねん)とゞまらず病となりて人体国(にんたいこく)を亡(ほろ)ぼ
さんとせしに姿(すがた)をかへたる故(ゆへ)に通(つう)力おとろへ汝等(なんじら)が此人体国を守(しゆ)
護(ご)することをしらず一応(いちおう)の薬と思ひ共(とも)に戦(たゝか)ふて遂(つひ)に此 敗(はい)を
取(とれ)り我(わが)智勇(ちゆう)汝等(なんじら)に勝(かつ)事あたはず此後(このゝち)汝等(なんじら)が向(むか)ふ国へは
再(ふたゝ)び姿(すがた)を顕(あらは)すべからず今は本の栖処(すみか)へ帰(かへ)るなりと云(い)ふかと
思へば白気(はくき)忽(たちま)ち中 空(ぞら)に集(あつま)りやがて跡(あと)なく消(きへ)にけり薬軍(やくぐん)は
是を見聞(けんもん)して勇(いさ)み悦(よろこ)び黴毒王(ばいどくわう)主従(しゆ〴〵)の首(くび)を器(うつは)に入れ屍(しがい)は
陣(ぢん)屋と共に焼(やき)はらひ勝鬨(かちどき)を上(あ)げて引上(ひきあぐ)れば淳直(じゆんちよく)は延寿(ゑんじゆ)
丸(ぐわん)が毎度(まいど)の功(こう)を褒美(ほうび)し今は国中(こくちう)全治(ぜんぢ)したれば凱陣(かいぢん)すべ
しと諸道(しよどう)に向(むか)ひたる薬軍(やくぐん)を召(め)し返(かへ)し総軍勢(さうぐんぜい)【捴】をまどめて
【左丁】
王城(わうじやう)さして帰(かへ)り入(い)る国王(こくわう)は是(これ)を聞(き)き悦(よろこ)びに堪(たへ)かね諸官人(しよくわんにん)と
共(とも)に遠(とほ)く城門(じやうもん)の外(ほか)に出(い)でゝ是(これ)を迎(むか)へ先導(せんどう)となりて宮城(きうじやう)
に誘引(ゆういん)す淳直(じゆんちよく)は城中(じやうちう)に入(い)り国王(こくわう)に拝謁(はいゑつ)して軍(いくさ)の次第(しだい)を
語(かた)り黴毒王(ばいどくわう)主従(しゆ〴〵)の首(くび)を実検(じつけん)【撿】に備(そな)ふれば国王(こくわう)は淳直(じゆんちよく)等(ら)
を扇(あふ)ぎ立(た)てかゝる凶賊(けうぞく)を容易(たやす)く討取(うちと)り給(たま)ふこと実(じつ)に天神(てんじん)
の再来(さいらい)と謂(いゝ)つべし先(まづ)凱陣(かいぢん)を祝(しゆく)し一献(いつこん)を進(すゝ)めんと是(これ)より
大に宴(ゑん)を設(もう)け三日(さんじつ)が程(ほど)山海(さんかい)の珍味(ちんみ)を尽(つく)して饗応(けうおう)し宝(ほう)
蔵(ざう)より種々(しゆ〴〵)の奇貨珍物(きくわちんぶつ)を取り出(いだ)し淳直(じゆんちよく)諸薬将(しよやくしやう)に送(おく)り
猶(なを)いつ迄も此国(このくに)に住(ぢう)し玉へと乞(こひ)けるに淳直(じゆんちよく)は是(これ)をいなみ我々(われ〳〵)
は只(たゞ)悪徒(あくと)誅伐(ちうばつ)の為(ため)に来(きた)りたる者(もの)なり今(いま)已(すで)に諸国(しよこく)の賊兵(ぞくへい)
全(まつた)く亡(ほろ)びたれば帰心(きしん)矢(や)の如(ごと)くにして暫(しばら)くも猶予(ゆうよ)しがたしと
【右丁】
いふを国王(こくわう)はきゝ入れず七ヶ国の人民(じんみん)已(すで)に塗炭(とたん)に陥(おちい)りたる
が君(きみ)の力(ちから)によりて再(ふたゝ)び蘇生(そせい)し殊(こと)に我国(わがくに)は一 度(ど)ならず
二 度(ど)まで必死(ひつし)の危難(きなん)を救(すく)ひ玉はる大恩(だいおん)報(ほう)じ奉るに所なし
何(なに)はともあれ今暫(いましばら)く逗留(とうりう)し玉へとあながちに止(とゞ)むれども
淳直(じゆんちよく)は固(かた)く辞(じ)し功(こう)成(な)り名(な)遂(とげ)て身(み)退(しりぞ)くは天の道(みち)なり且(かつ)
兵(へい)は凶器(けうき)なり無為(ぶゐ)の時に用(もち)ゆべからず薬軍(やくぐん)の諸将(しよしやう)をとゞ
め玉ふとも今(いま)は其用(そのよう)なし某(それがし)又 薬軍(やくぐん)に離(はな)れて住(ぢう)する意(こゝろ)
なし速(すみやか)に退散(たいさん)せんと留(とゞま)るべきけしき見へざれば国王(こくわう)も今(いま)は
其言(そのことば)を屈(くつ)しがたくさらば別(わか)れの宴(さかもり)を催(もよほ)さんと群臣(ぐんしん)に命(めい)じ
て重(かさ)ねて酒肴(しゆかう)を安排(あんばい)させ笙歌(しやうが)伎楽(ぎがく)を奏(そう)して興(きやう)をそへ
もてなし甚(はなは)だ丁寧(ていねい)なり暫(しば)らくして淳直(じゆんちよく)は国王(こくわう)に請(こふ)て宴(ゑん)を
【左丁】
収(おさ)め受(うけ)たる所の恩賞(おんしやう)珍貨(ちんくわ)等(とう)尽(こと〴〵)く群臣(ぐんしん)に分(わか)ち散(さん)じ諸薬(しよやく)
将(しやう)に暇(いとま)を与(あた)へて帰(かへ)り去らしめ其後四天王と共(とも)に国王(こくわう)諸臣(しよしん)
俱生神(くしやうじん)に別(わか)れを告(つぐ)れば皆々(みな〳〵)涙(なんだ)をながして別(わか)れを惜(をし)み遠(とほ)く
送(おく)つて郊外(くはくぐわい)に至(いた)るを淳直(じゆんちよく)は是を辞(じ)しいつ迄(まで)も限(かぎ)りはあら
じ最早(もはや)是より帰(かへ)り玉へと数々(かす〴〵)云へば国王 諸臣(しよしん)俱生神(くしやうじん)名(な)
残(ごり)は更(さら)に尽(つき)ざれども共に行(ゆく)べき身に非(あら)ざれば遂(つひ)に国の界(さかへ)
に於(おい)て袂(たもと)を分(わか)ち右と左へ別(わか)れけりかくて五人の者は国 界(ざかへ)
を出てより虚空(こくう)遥(はるか)に飛(とび)去り本(もと)の雲間(くもま)にたどり付き
互(たがひ)に顔(かほ)を見合せて恙(つゝが)なきを祝(しゆく)し先(まづ)本の体(からだ)【躰】に成(なる)べしと
延寿丸は已前(いぜん)のごとく法(はう)を行(おこな)へば五人の形(かたち)は消失(きへうせ)て本(もと)の
ごとくなる身体(しんたい)となりしが雷震(らいしん)は淳直(じゆんちよく)に向(むか)ひさらば是
【右丁】
より袂(たもと)を分(わか)たん此頃(このころ)の合戦(かつせん)にて黴毒(ばいどく)追伐(ついばつ)の意味(ゐみ)は悟(さと)
り玉ひつらん此後(このゝち)いづくにても黴毒(ばいどく)と合戦(かつせん)の時は我々(われ〳〵)早速(さつそく)
かけつくべしと云へば淳直(じゆんちよく)は是を謝(しや)し此頃(このころ)諸国(しよこく)の軍(いくさ)に打
勝(か)ち名を揚(あ)げたるも全(まつた)く諸君(しよくん)の勇戦(ゆうせん)と大公望(たいこうほう)暗(ひそか)に
我(わ)が身中(しんちう)に分入(わけい)り守(まもり)玉ふとによりてなり諸君(しよくん)天庭(てんてい)に
帰(かへ)り玉はゞ大公望(たいこうぼう)に宜(よろ)しく我(わか)喜(よろこ)びを伝(つた)へ玉へよと云(いふ)内
に雷震等(らいしんら)は已(すで)に雲(くも)を動(うご)かし身を起(おこ)し云(い)はるゝ所 心得(こゝろへ)
たり又こそ見参(げんざん)に入るべけれ足下(そくか)もはやく去(さ)りたまへと
いへども淳直(じゆんちよく)は四人の英雄(ゑいゆう)に別(わか)るゝを忍(しの)びず依々(いい)恋々(れん〳〵)とし
て去(さ)り兼(かぬ)るをば雷震(らいしん)は見て大に叱(しか)り足下(そくか)此頃(このごろ)まで大(だい)
元帥(げんすい)として我々(われ〳〵)と共に戦国(せんごく)に臨(のぞ)み命(いのち)を的(まと)にして勇威(ゆうゐ)を
【左丁】
振(ふる)ふたる者(もの)が今(いま)暫時(ざんし)の別(わか)れを惜(をし)み児女(じじよ)のごとき挙動(ふるまひ)をなし
玉ふは甚(はなは)だ似気(にげ)なし一刻(いつこく)もはやく御身(おんみ)の内(うち)へ帰(かへ)り玉へと淳直(じゆんちよく)
が背(せなか)をはたと突(つひ)て雲(くも)の上(うへ)より推(おし)おとし四人(よにん)の姿(すがた)は雲(くも)に隠(かく)
れて失(うせ)にけり淳直(じゆんちよく)は半天(はんてん)より真逆様(まつさかさま)に落(おと)されければ心(こゝろ)
転動(てんどう)して我(わ)れを忘(わす)れ覚(おぼ)へずあつと叫(さけ)びたる其声(そのこへ)我(わ)が
耳(みゝ)に徹(てつ)し愕然(がくぜん)として驚(おどろ)き覚(さむ)れば只是(たゞこれ)南柯(なんか)の一夢(いちむ)にし
て其身(そのみ)は本(もと)の書室(しよしつ)の内(うち)消(きへ)んとする残燈(ざんとう)の下(もと)に机(つくへ)にもたれ
てうつむき居(ゐ)たり覚(さめ)て後(のち)も心(こゝろ)恍忽(くわうこつ)として暫(しばらく)は夢覚(むかく)の境(きやう)
を弁(べん)ぜざりしがやうやくにして我(われ)に帰(かへ)りつら〳〵夢中(むちう)の事(こと)を
考(かんが)ふるに人体国(にんたいこく)とは人(ひと)の一身(いつしん)国王(こくわう)主人公(しゆじんこう)とは心(こゝろ)なり俱生(くしやう)
神(じん)とは守(まも)り神(かみ)なり《割書:俱生神は別(べつ)なれども今は|借(か)り用(もち)ひて守り神とす》食欲(じきよく)色欲(しきよく)とは人(ひと)の
【右丁 右下】
淳直(じゆんちよく)
夢覚(ゆめさむ)る
の図(づ)
はくゆうかう
しんしん
いんかう
らいしん
じゆんちよく
【左丁】
じゆんちよく
【右丁】
慾情(よくじやう)なり諸官人(しよくわんにん)とは心(こゝろ)の枝葉(ゑだは)にして国民(こくみん)とは神経(しんけい)等(とう)より
血肉(けつにく)等(とう)の諸物(しよぶつ)なり賊徒(ぞくと)は即(すなはち)黴毒(ばいどく)薬軍(やくぐん)とは方薬(くすり)なり扨(さて)は
我(わ)れ多年(たねん)此症(このしやう)の治術(ぢじゆつ)に心(こゝろ)を労(らう)したるを神明(しんめい)是(これ)を憐(あはれ)んで
人身(にんしん)の容体(ようだい)病(やまひ)の軽重(けいじう)薬(くすり)の活用(くわつよう)等(とう)を夢(ゆめ)を以(もつ)て知(しら)せ玉ふ
者(もの)ならん又(また)彼(かの)四天王(してんわう)の内(うち)治瘡丸(ぢさうぐわん)奇良湯(きりやうとう)は我人(われひと)常(つね)に用(もちゆ)る
者(もの)なれども其加減(そのかげん)の妙(めう)は此度(このたび)の夢(ゆめ)にて発明(ぱつめい)す延寿丸(ゑんじゆぐわん)黴(ばい)
効散(こうさん)は我(われ)久(ひさ)しく其方(そのはう)を考(かんが)へ得(ゑ)たりといへども未(いまだ)顕(あらは)に用(もち)ひざ
りしが是(これ)も夢(ゆめ)の応(おう)を以(もつ)て推(おす)ときは必(かなら)ず花枯(くわこ)肉骨(にくこつ)の能(のう)
あらんと其夜(そのよ)の明(あく)るを待(まつ)て次(つぎ)の日(ひ)より二品(にひん)の薬(くすり)を製造(せいざう)し
是(これ)を病人(びやうにん)に与(あた)へ試(こゝろみ)るに夢中(むちう)の功(こう)に少(すこ)しも違(たがは)ず瞑眩(めんけん)緩(ゆるゝ)【或は「ゆるく」ヵ】して
速効(そくこう)あり実(じつ)に奇代(きたい)の良薬(りやうやく)なれば淳直(じゆんちよく)は日頃(ひごろ)の望(のぞ)み成就(じやうじゆ)
【左丁】
したりと大ひに喜(よろこ)び治瘡丸(ぢさうぐわん)奇良湯(きりやうとう)に合せて黴薬(ばいやく)【左ルビ:かさぐすり】の四
天王(てんわう)と名づけ病(やまひ)の軽重(けいぢう)病人(びやうにん)の虚実(きよじつ)をはかりて是(これ)を用(もち)【「の」とあるは誤記と思われる。】ひ
しかば此手(このて)にかゝりし者(もの)一人(いちにん)も治せざるはなく其(その)名大ひに顕(あら)
はれ病(やまひ)を托(たく)し薬(くすり)を乞(こ)ふ者(もの)門(もん)に至(いた)りて絶(たゆ)ることなし是(これ)全(まつた)く
夢(ゆめ)の応(おう)なればとて暇(いとま)あるごとに淳直(じゆんちよく)自(みづか)ら筆(ぶて)【ママ】を染(そ)め詳(つまびらか)に
夢中(むちう)の次第(しだい)を記(しる)しけるがやがて五ツの巻(まき)となりぬ元(もと)よ
り人に伝(つた)ふることを欲(ほつ)せず只(たゞ)独閲(とくゑつ)の楽(たの)しみに備(そな)へけるを
友人(ゆうじん)何某(なにがし)謄写(とうしや)を乞(こ)ふて止(やま)ざれば遂(つひ)に其意(そのゐ)に任(まか)せ借(か)し
あたへて写(うつ)さしむ其人(そのひと)又(また)是(これ)を人に借(か)し与(あた)へ次第(しだい)に写(うつ)
し伝(つた)へける故(ゆへ)に此書(このしよ)今(いま)盛(さか)りに世(よ)の中(なか)に行(おこな)はるゝ事とは
なりにけり
【右丁】
附録(ふろく)
黴毒(ばいどく)の病原(びやうげん)を論(ろん)ずる事/諸家(しよか)の説(せつ)さま〴〵なり陳氏(ちんし)は
嶺南(れいなん)の地(ち)より発(おこ)るといふ黴瘡秘録(ばいさうひろく)に云(いは)く嶺南(れいなん)之(の)
地(ち)卑湿(ひしつ)而(にして)暖(だん)霜雪(さうせつ)不加(くはへず)蛇蟲(じやちう)不蟄(しらせず)諸凡(しょはんの)汚穢(おゑ)蓄積(ちにちくしやく)
於地(して)遇一湯来復(いちやうのらいふくにあふて)湿毒(しつどく)與(と)瘴気(しやうきと)相蒸物(あいむすもの)感之則(これにかんずれば)黴(ばい)
爛(らんして)易毀(やぶれやすく)人(ひと)感之則(これにかんずれば)瘡痬(さうやう)易侵(おかしやすし)と《割書:云| 云》西洋説(おらんだせつ)を唱(とな)ふる
者(もの)は陳氏(ちんし)が説(せつ)を破(は)して嶺南(れいなん)の地(ち)より起(おこ)る者(もの)ならば古(いにし)へ
よりあるべきに上代(じやうだい)は无(な)くして明末(みんまつ)陳氏(ちんし)が時世(ぢせい)を待(まつ)て
起(おこ)るは何(なん)の故(ゆへ)ぞ其(その)説(せつ)甚(はなは)だ不當(ふどう)なり元来(くわんらい)黴毒(ばいどく)の濫(らん)
觴(じやう)は紅毛(おらんだ)フランス国人(こくにん)紅毛(おらんだ)開闢(かいびゃく)より一千四百九十四年
日本/明應(めいおう)三年に当(あた)りてアメリカ国(こく)を見出(みいだ)しアメリカ
【左丁】
国(こく)アンチリス島(とう)を攻侵(せめおか)し財宝(ざいはう)を掠(かす)め取(と)り又(また)婦女(ふじょ)を奪(うば)ふ
て舶中(はくちう)【左ルビ「ふねのなか」】に収(おさ)め是(これ)と交(まじは)る者/悉(こと〴〵)く黴瘡(ばいさう)を発(はつ)し是より
紅毛国(おらんだこく)に流行(りうこう)す故(かるがゆへ)にフランスポツクと云(い)ふポツクと
云(い)ふは瘡(かさ)といふ義(ぎ)なり病名(びやうめい)をヤウス病といふその後(のち)
十年を経(へ)て唐土(とうど)広東(かんとう)の湊(みなと)に紅毛(おらんだ)賈舶(あきなひぶね)来(きた)りて広(かん)
東人(とうじん)に伝染(でんせん)せしむ故(ゆへ)に唐土(とうど)にては広東瘡(かんとうさう)といふ其後(そのゝち)
日本/永禄(ゑいろく)十二年に異国船(いこくせん)入津(にうつ)長崎(ながさき)に定(さだま)り異国(いこく)
人(じん)より長崎人(ながさきじん)に伝染(でんせん)せしむる故(ゆへ)に其(その)はじめは唐瘡(とうさう)と云(いふ)
と《割書:云| 々》是等(これら)皆(みな)空論(くうろん)にて取(とる)に足(たら)ずアメリカといふは日
本(ぽん)西北(せいぼく)にあたり数万里(すまんり)を隔(へだ)てゝ広大无辺(くわうだいむへん)の大国(たいこく)也
此国(このくに)の土人(どじん)此(この)病(やまひ)を得(う)るゆへんはいかんぞや紅毛人(おらんだじん)も
【右丁】
知(し)らず華人(とうじん)も知(しら)ず日本人は猶(なを)知(し)らず余(よ)が意(ゐ)を以(もつ)て云(いふ)
ときは此/病(やまひ)は天地間(てんちかん)一種(いつしゆ)悪気(あくき)の感(かん)ずる所にして天
稟(りん)の毒(どく)ある者はこれに感(かん)じて病(やまひ)を発(はつ)す人より人に
伝染(でんせん)するも皆(みな)是(これ)天地間(てんちかん)の悪気(あくき)なり然(しか)れば強(しい)て病(びやう)
原(げん)を論(ろん)ずるは無益(むゑき)のことなり故(ゆへ)に前書(ぜんしよ)に黴毒(ばいどく)を悪(あく)
狐(こ)の霊(れい)の所為(しよゐ)としたるも其(その)知(し)りがたきを示(しめ)すのみたゞ
乾坤(けんこん)一種(いつしゆ)の邪気(じやき)とおもへばことすむべし凡(およ)そ陰邪(いんじや)の
気(き)凝集(ぎやうしう)するときは皆(みな)毒(どく)となる都会(とくわい)の地(ち)は罪(つみ)を犯(おか)す
者(もの)多(おほ)く牢舎(らうしや)に入る者/始終(しじう)断(たへ)ず此(この)牢中(らうちう)に毒気(どくき)あ
りて纔(わづか)に三五日/入牢(にうらう)し赦(ゆる)されて家(いへ)に帰(かへ)り数日(すじつ)の後(のち)
牢毒(らうどく)を発(はつ)して疥癬(ひぜん)のごとき瘡(かさ)を発(はつ)す俗(ぞく)に牢瘡(らうかさ)と
【左丁】
云(い)ふ尤(もつとも)熱気(ねつき)甚(はなは)だし若(もし)瘡(さう)を発(はつ)せざる者(もの)は周身(しうしん)疼痛(とうつう)
して其(その)熱気(ねつき)傷寒(しやうかん)の劇症(げきしやう)のごとく死(し)する者(もの)多(おほ)し然(しか)
るに此(この)毒(どく)一度(ひとたび)病(や)んで癒(いゆ)るときは再(ふたゝ)び入牢(にうらう)するとも毒(どく)
気(き)を感(かん)ずることなし是(これ)前書(ぜんしよ)に云(いふ)しごとく疱瘡(ほうさう)痲疹(はしか)
牢毒(らうどく)などは其(その)毒(どく)酷烈(こくれつ)にして初発(しよほつ)の時(とき)病(やまひ)きびしく
邪気(じやき)と正気(しやうき)と戦(たゝ[か])ふて重(おも)き者(もち)は命(めい)を殞(おと)し癒(いゆ)る者(もの)は
邪毒(じやどく)と共に天稟(てんりん)の毒(どく)尽(つ)き其(その)身(み)に和(くわ)すべき毒(どく)なき
故(ゆへ)に再(ふたゝ)び感(かん)ずることなき也/黴毒(ばいどく)は其(その)初発(しよほつ)邪気(じやき)と正気(しやうき)と
和(くわ)し易(やす)き故(ゆへ)に発熱(ほつねつ)もせず不食(ふしよく)もせず気分(きぶん)もかはること
なし而(しかう)して其(その)毒(どく)は容易(やうい)に抜(ぬけ)る者(もの)にあらず是(これ)仏家(ぶつけ)の
破石(はせき)断藕(だんくう)の喩(たとへ)の如し一挙(いつきよ)に害(がひ)をなさゞる者は又/一挙(いつきよ)
【右丁】
に平(たいら)げ難(がた)きものなり初発(しよほつ)纔(わづか)の下疳(げかん)などには膏薬(かうやく)或(あるひ)
は付薬(つけぐすり)又は十日廿日の薬にて一度(ひとたび)治(ぢ)するときは何(なに)より
心(こころ)易(やす)き病(やまひ)の様(やう)に思(おも)ひ薬を服(ふく)せず劇剤(げきざい)をきらひ毒食(どくしよく)
房事(ぼうじ)を慎(つゝし)まず其(その)初(はじめ)を疎(おろそか)にするゆへに次第(しだい)に病毒(びやうどく)深(ふか)
入(いり)して或(あるひ)は目を潰(つぶ)し鼻(はな)を陥(おと)し耳(みみ)を聾(つぶ)し声(こへ)を唖(と)め
或(あるひ)は手足(てあし)屈伸(のびかゞみ)ならず或(あるひ)は奇石(きせき)怪岩(くわいがん)のごとき面体(めんてい)と
なり恥(はぢ)を終身(しうしん)に遺(のこ)し或(あるひ)は命(めい)を殞(おと)す余(よ)か父母(ふぼ)も此(この)病(やまひ)
に罹(かゝ)りて天年(てんねん)を終(おはら)ずして世(よ)をさり余(よ)も又/此(この)病(やまひ)に苦(くる)しむ
こと数年(すねん)種々(しゆ〴〵)の方剤(はうざい)を用(もち)ひるといへども曽(かつ)て寸効(すんこう)ある
ことなし此(こゝ)に於(おい)て一/医生(いせい)に詣(いたり)委(くは)しく病苦(びやうく)を演舌(ゑんぜつ)し此(かの)
のごとく世(よ)に在(あつ)て長(なが)く苦(くる)しまんより速(すみやか)に死(し)するもまた
【左丁】
幸(さいは)ひなり故(かるがゆへ)にいかなる劇薬(げきやく)も恐(おそる)る意(こゝろ)なし願(ねがは)くは十死一生(じつしいつせう)
の劇治(げきぢ)を施(ほどこ)し玉へと乞(こふ)に彼(かの)医生(いせい)さらば軽粉剤(けいふんざい)の中(うち)七(しつ)
宝丸(はうぐわん)を飽(あく)まで用ゆべしと一 ̄ト廻(まは)り七日ぶんを服(ふく)せしむ第(だい)
四日にいたりて口中(こうちう)腫(はれ)いたむ残(のこ)る三日ぶんを口中/痛(いた)んで丸
薬/服(ふく)しがたきをはかり第(だい)五日の朝(あさ)一度(いちど)にのこらず服(ふく)し
尽(つく)す其(その)夜(よ)より口中大に爛傷(らんしやう)し涎沫(よだれ)を吐(は)く事/毎日(まいにち)
二/升(しやう)ばかり此(かく)のごとき事三十/余日(よじつ)口中は次第に治(ぢ)して
病毒(びやうどく)は更(さら)に減(けん)ぜず彼(かの)医生(いせい)の云(いは)く是(これ)薬力(やくりき)足(たら)ざるなり
猶(なを)七宝丸(しつぱうぐわん)を連服(れんぷく)すべしと又是を以(もつ)て攻(せむ)ること前年(ぜんねん)十一
月より翌年(よくねん)六月に至(いた)りしかども未(いま)だ其(その)効(こう)あるを見
ず此時(このとき)は身體(しんたい)羸痩(るいさう)し血肉(けつにく)枯(か)れ落(おち)て残(のこ)るは骨(ほね)と皮(かは)と
【右丁】
のみなり此(かく)のごとく劇攻(げきこう)をなして効(こう)を得(え)ざるが故(ゆへ)に是より
服薬(ふくやく)を止(や)め精気(せいき)を調(とゝの)へんと肉食(にくしょく)すること六十日ばかり
精力(せいりよく)復(ふく)し肌肉(きにく)生(しやう)ずといへども黴瘡(ばいさう)は益々(ます〳〵)甚(はなはだ)し其後(そのゝち)
又/嗅(かぎ)薬(ぐすり)を用ひるに五七日より涎沫(よだれ)を吐(は)き五十/余日(よじつ)に
及(およ)んで瘡毒(さうどく)半(なかば)は治(ぢ)したるに似(に)れども終(つひ)に全(ぜん)治に至(いた)ら
ず故(かるがゆへ)にこれをも止(や)めて暫(しばら)く治(ぢ)療(りやう)を怠(おこた)り居(ゐ)たるに病(びやう)毒(どく)
次第に再発(さいほつ)し其(その)翌年(よくねん)三月/頃(ごろ)には苦痛(くつう)前々(ぜん〳〵)に加(か)倍(ばい)
す此時(このとき)始(はじ)めて延寿丸(ゑんじゆぐわん)の方(はう)を発明(はつめい)し《割書:是より先(さき)此病を治せんが|為に憤(いきどほ)りを発(はつ)して医(い)と》
《割書:なり薬方を|捜(さぐ)ること日(ひ)久(ひさ)し》自(みづか)ら製(せい)して是を服(ふく)するに口中/腐爛(ふらん)せず涎沫(よだれ)も
吐(はか)ざれども漸々(ぜん〳〵)に快復(くわいふく)し凡(およそ)三十/余(よ)日(じつ)にして遺(のこ)る所(ところ)なく
全治(ぜんぢ)す猶(なを)連服(れんふく)すること百/余日(よじつ)天稟(てんりん)の毒(どく)病毒(びやうどく)とともに
【左丁】
尽(つき)たるか其後(そのゝち)二十/余年(よねん)の今に至(いた)り再発(さいほつ)は勿論(もちろん)曽(かつ)て伝(でん)
染(せん)の憂(うれ)ひを覚(おぼ)へず是(これ)即(すなは)ち夢中(むちう)に淳直(じゆんちよく)が云(い)ひし如(ごと)く天(てん)
稟(りん)の毒(どく)尽(つき)るときは其(その)身(み)に加(くわ)する毒(どく)なき故(ゆへ)に再(ふたゝ)び伝(でん)
染(せん)せざるなり故(かるがゆへ)に黴毒(ばいどく)を憂(うれ)ふる人/別(べつ)して売婦(ばいふ)などは
其(その)初発(しよほつ)に能々(よく〳〵)病根(びやうこん)を断(たつ)ならば一生(いつしやう)伝染(でんせん)の気(き)づかひ
なし若(もし)根治(こんぢ)せざるときは己(おのれ)も一生涯(いつしやうがい)苦(くる)しみをなし人にも
伝染(でんせん)せしめ又(また)は夫妻(ふさい)子孫(しそん)に其(その)毒(どく)を遺(のこ)すに至(いた)る然(しかれ)ば
此病を受(うけ)たる人は篤(とく)と利害(りがい)を弁(わきま)へ全治(ぜんぢ)の事(こと)を考(かんがふ)べし
医(い)家(か)も又/治療(ぢりやう)に心を入れて謬誤(ひゆうご)なき様(やう)になすべき
なり余(よ)が前年(ぜんねん)の事(こと)を今にして思へば尽(こと〴〵)く誤治(ごぢ)なり
はじめ三ケ年の間(あいだ)无益(むゑき)の緩剤(くわんざい)を用(もち)ひたるも誤(あやま)り又
【右丁】
軽粉丸(けいふんぐわん)を以(もつ)て八ヶ月の間(あいだ)劇攻(げきこう)せしも誤(あやま)り以上五ヶ年
の中(うち)は无益(むゑき)の苦(くるし)みをなしたり是(これ)を今 治療(ぢりやう)せば先(まづ)はじ
めに緩剤(くわんざい)の山皈来剤(さんきらいざい)を一剤(いちざい)用(もち)ひ若(もし)功(こう)なくば七宝丸(しつぽうぐわん)を
一剤(いちざい)用(もち)ひ是(これ)にて口中(こうちう)腫(はれ)いたみなくば又 加倍(かばい)して用ひ口
中 腫痛(はれいた)むに至(いた)りて病(やまひ)治(ぢ)せざれば口中治するを待(まち)て
延寿丸(ゑんじゆぐわん)を用ゆる程(ほど)ならば五ヶ年の苦(くるし)みはなく只四五ヶ
月には全治(ぜんぢ)すべきなり今 世上(せじやう)に余(よ)がごとく治療(ぢりやう)を誤(あやま)
りて数年(すねん)苦(くるし)み病薬(びやうやく)の為(ため)に身代(しんだい)を失(うしな)ひ或(あるひ)は癈人(かたはもの)と成(な)り
或(あるひ)は非命(ひめい)に死(し)する者 其数(そのかず)挙(あげ)て計(かぞ)ふべからず傷(いたむ)べきの
甚(はなはだ)しきなり余(よ)が此書(このしよ)を著(あらは)すは専(もつぱ)ら是等(これら)の事(こと)を世(よ)に
諭(さと)し長(なが)く黴毒(ばいどく)の害(がい)を免(まぬが)れ令(しめ)んと欲(ほつ)するのみ然(しか)れば
【左丁】
此病(このやまひ)を憂(うれ)ふる者は此書と付録(ふろく)の黴瘡雑話(ばいさうざつわ)とを幾度(いくたび)
も読(よみ)て其道理(そのどうり)を能々(よく〳〵)心 得(へ)而(しかう)して后(のち)病(やまひ)の有さまに
よりて用ふべき薬(くすり)を用ゆるならば不実(ふじつ)の医者(いしや)または
半識(なまものしり)の医者の薬を用ゆるには遥(はるか)に勝(まさ)りて无益(むゑき)の月
日も送(おく)らず无益(むゑき)の金銭(きんせん)を費(つひや)さず病毒(びやうどく)も速(すみやか)に抜(ぬけ)て
再発(さいほつ)もせず再(ふたゝ)び伝染(でんせん)することも无(なか)るべし此書に載(のせ)たる
治術(ぢじゆつ)一ッとして虚妄(きよもう)【左ルビ:うそ】あることなし若(もし)延寿丸(ゑんじゆぐわん)黴効散(ばいこうさん)の二
方(はう)をあらはに出さば天地 神明(しんめい)に憚(はゞか)らず大人 君子(くんし)に慙(はづ)
べからずいかんがせん浪遊无録(らうゆうむろく)の医生(いせい)なれば糊口(ここう)【左ルビ:くちすぎ】の種(たね)
に此二方を秘(ひ)して顕(あら)はさゞるは心中(しんちう)に深(ふか)く愧(はづ)る所なり看(かん)
官(くわん)諸賢(しよけん)幸(さいはひ)に優察(ゆうさつ)を垂(た)れ玉ふべし
【右丁】
○自在衛門国(じざゑもんこく)の合戦(かつせん)は遺毒(いどく)にて周身(しうしん)をいたみ瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】を発(はつ)
せし症(しやう)なり葛根加朮怖付湯(かつこんかじゆつぶとう)は其薬力(そのやくりき)足(たら)ず治瘡丸(ぢさうぐわん)黴(ばい)
効散(こうさん)を兼用(けんやう)するに症(しやう)に応(おう)ぜざる故(ゆへ)是(これ)をやめ其瞑眩(そのめんけん)
の治(ぢ)するを待(まつ)て延寿丸(ゑんじゆぐわん)を与(あた)え効(こう)を得(え)たれども瘰歴(るいれき)【癧とあるところ】未(いま)だ
全治(ぜんぢ)せざる内に延寿丸をやめたる故(ゆへ)再発(さいほつ)せし所 他医(たい)に
誑(あざむ)かれ無益(むゑき)の薬(くすり)を久服(きうふく)せしめ病薬(びやうやく)のために精気(せいき)衰(おとろ)へ
腹力(ふくりき)脱(だつ)し虚熱(きよねつ)を生(しやう)じ大便(だいべん)自(おのづか)ら下利(くだり)身体(しんたい)枯痩(こそう)し必(ひつ)
死(し)の症(しやう)に至(いた)り始(はじ)めて心付き又 前医(ぜんい)に託(たく)せしに先(まづ)補剤(ほざい)
を以(もつ)て精気(せいき)を復(ふく)し自下利(じげり)を治(ぢ)し延寿丸(ゑんじゆぐわん)を与(あた)へて病毒(びやうどく)
を攻(せ)め精力(せいりよく)復(ふく)するに随(したが)ひ延寿丸をまし用ひて全治(ぜんぢ)し
たるを示(しめ)す者なりすべて腹力(ふくりき)脱(だつ)したるときは延寿丸(ゑんじゆぐわん)
【左丁】
黴効散(ばいこうさん)治瘡丸(ぢさうぐわん)等(など)を用(もち)ゆれば大便(だいべん)下利(げり)する者(もの)ある故(ゆへ)其(その)
始(はじ)めは少(すこ)しづゝ与(あた)【與】へ腹力(ふくりき)復(ふく)するに随(したが)ひ多服(たふく)せしむるもの
なり○長録国(ちやうろくこく)の合戦(かつせん)は下疳(げかん)骨(ほね)いたみにて下部(げぶ)に血熱(けつねつ)
甚(はなはだ)しく下疳(げかん)疼痛(とうつう)するゆへ大黄牡丹皮湯(だいわうぼたんぴとう)を与(あた)へて熱(ねつ)
毒(どく)をくだし延寿丸(ゑんじゆぐわん)を用(もち)ひて速功(そくこう)を得(え)たるを示(しめ)すなり
○万吉国(まんきちこく)の合戦(かつせん)は黴毒(ばいどく)上攻(じやうこう)して結毒(けつどく)と成(な)り咽(のど)をい
ため頭痛(づつう)をなし又(また)肛門(こうもん)腐爛(ふらん)疼痛(とうつう)し食物(しよくもつ)咽(のど)を下(くだ)らず
身体(しんたい)羸痩(るいそう)して精気(せいき)おとろへたる症(しやう)ゆへ補剤(ほざい)を与(あた)【與】へ
延寿丸(ゑんじゆぐわん)兼用(けんやう)するに初(はじ)めは少(すこ)しづゝ与(あた)【與】へ精気(せいき)復(ふく)するに
したがひ延寿丸(ゑんじゆぐわん)を加倍(かばい)し能(よく)応(おう)じて根治(こんぢ)したるを示(しめ)
すものなり○助八国(すけはちこく)の合戦(かつせん)は蝋燭下疳(らうそくげかん)を発(はつ)し又(また)
【右丁】
鼻梁(はなばしら)腫(はれ)いたみ耳(みゝ)なり聞(きこ)へず頭痛(づつう)甚(はなは)だしき症(しやう)にて延寿(ゑんじゆ)
丸(ぐわん)を用(もち)ゆれども効(こう)なければ是(これ)をやめて黴効散(ばいこうさん)を与(あた)へて速(すみやか)
に治(ぢ)せしが其人(そのひと)壮健(さうけん)なる故(ゆへ)に又(また)梅肉丸(ばいにくぐわん)を与(あた)へ大に下(くだ)したるを
示(しめ)す者(もの)なり○金吉国字(きんきちこく)の合戦(かつせん)は便毒(べんどく)と楊梅瘡(やうばいさう)【注①】を発(はつ)し
たる症(しやう)に荊防(けいぼう)【艹+防】【注②】敗毒散(はいどくさん)を発表(はつぴやう)の為(ため)に兼用(けんやう)し延寿丸(ゑんじゆぐわん)
を用(もち)ゆれども効(こう)なく又(また)黴効散(ばいこうさん)を用ひて是(これ)も効(こう)なし治瘡丸(ぢさうぐわん)
を用(もち)ひて能(よく)応(おう)じ速(すみやか)に治(ぢ)したるを示(しめ)す者(もの)なり○福松国(ふくまつこく)
の合戦(かつせん)は疥癬(ひぜん)と鴈瘡(がんがさ)と内下疳(ないげかん)と淋病(りんびやう)とを一(ひと)ツ(つ)にして
合戦(かつせん)を分(わか)つは黴毒(ばいどく)の薬(くすり)疥癬(ひぜん)に効(こう)なく疥癬(ひぜん)の薬(くすり)黴毒(ばいどく)
に効(こう)なき者(もの)にて疥癬(ひぜん)は麻疹(はしか)のごとく黴毒(ばいどく)は疱瘡(ほうさう)の
ごとし其症(そのしやう)別(べつ)なるを分(わか)つなり又(また)内下疳(ないげかん)と淋病(りんびやう)は山(さん)
【注① 顔面に出る梅毒の古名。俗にいうとうがさ。化膿したところが楊梅(やまもも)の実に似ているところからいう。】
【注② 漢方薬に「荊防敗毒散」として現在でも販売されている。「艹+防」の字は『大漢和辞典』でも見当たらない。筆者の誤記と思われる。】
【左丁】
帰来(きらい)の能(よく)応(おう)ずる事 多(おほ)きゆへ是(これ)を分(わか)つなり又(また)鴈瘡(がんがさ)は治(ぢ)し
がたき者(もの)ゆへ山帰来(さんきらい)の功(こう)をたてず後(のち)に延寿丸(ゑんじゆぐわん)を用(もち)ゆる
者(もの)なり此(かく)のごとく合戦(かつせん)を以(もつ)て治術(ぢじゆつ)を示(しめ)すといへども延(ゑん)
寿丸(じゆぐはん)は遺毒(いどく)瘰歴(るいれき)下疳(げかん)骨(ほね)いたみ鴈瘡(がんがさ)【厂】に効(こう)ありて便(べん)
毒(どく)楊梅瘡(やうばいさう)に効(こう)なきにあらず只(たゞ)其人(そのひと)に応(おう)ずると応(おう)ぜ
さるにて応(おう)ずる者(もの)は是(これ)を用(もち)ひ応(おう)ぜざる者(もの)は薬(くすり)をかゆべき
のみ此書(このしよ)本(もと)より戯作(けさく)なれば只(たゞ)大略(たいりやく)を挙(あげ)て其用(そのやう)を示(しめ)
す其(その)変化(へんくわ)細密(さいみつ)に至(いた)りては筆紙(ひつし)の尽(つく)す所(ところ)にあらず服(ふく)
用(やう)する者(もの)自(みづか)ら知(し)るべし病薬(びやうやく)の応(おう)不応(ふおう)を察(さつ)せず是(これ)
を用(もち)ひ効(こう)の有無(うむ)を以(もつ)て此書(このしよ)に出(いだ)す所みな虚誕(きよたん)なりと
思(おも)はんことを恐(おそ)るゝが故(ゆへ)に更(さら)に数楮(すうちよ)を費(つひや)して其由致(そのよし)を
【右丁】
断(ことは)り老婆心(らうばしん)を示(しめ)すこと【左ルビ:しれたことをくどういふこと】しかり
船越晋(ふなこししん)再識(さいしき)
黴瘡軍談(ばいさうぐんだん)五(ご)の巻(くわん)終(おはり)大尾(たいび)
【縦線あり】
黴瘡軍談(ばいさうぐんだん)は時俗(ぢぞく)【注】を悦(よろこば)しめんため面白(おもしろ)く戯著(たはむれにあらは)せしものなり
此度(このたび)出来(しゆつたい)の黴瘡茶談(ばいさうさだん)は療治(りやうぢ)を専要(もつぱら)にするものなれば黴毒(ばいどく)
治療(ぢりやう)の奥妙(ごくゐ)をくはしくいたし延寿丸(ゑんじゆぐわん) 黴効散(ばいかうさん) 治瘡丸(ぢさうぐわん) 奇良湯(きりやうとう)
其他(そのほか)妙薬(めうやく)奇方(きほう)膏薬(かうやく)等(とう)にいたるまで凡(およそ)五十 方(ぽう)をゑらみいだし
末(すへ)には種々(いろ〳〵)難治㽸痾(むつかしきなんびやう)結毒(けつどく)を余(よ)が療治(りやうぢ)せしことを詳(つまびら)かに
かきあらはすゆへに此書(このしよ)によりて治療(ぢりやう)せば黴毒(ばいどく)の一症(いつしやう)はいかなる痼疾(こしつ)
悪証(あくしやう)【證】たりとも速(すみやか)に治(ぢ)すべし治療(りやうぢ)【振り仮名は「ぢりやう」とあるところ。】に志(こゝろざし)ある者(もの)はみるべき書(しよ)なり
【注 世人。】
【左丁】
京都寺町通仏光寺 河内屋藤四郎
江戸日本橋通壱丁目 須原屋茂兵衛
書 同 弐丁目 山城屋佐兵衛
同 弐丁目 須原屋新兵衛
同本石町十軒店 英 大 助
同浅草茅町弐丁目 須原屋伊 八
林 同芝 神 明 前 岡田屋嘉 七
大阪心斎橋通博労町角 河内屋茂兵衛
同 心斎橋通本町角 河内屋藤兵衛
【141コマ目と同じ】
【左丁左下折返に文字と印有り】
【裏表紙】
【ケース表】
疱瘡心得草
【ケース裏】
【ケース背】
疱瘡心得草
【ケース表】
疱瘡心得草
【表紙】
【右枠外上部 横書】
寛政十年戊午春大新板
《題:疱瘡心得草(ほうさうこゝろえぐさ)《割書:全部一冊》》
此/本(ほん)は疱瘡(ほうさう)初(はじめ)て日本にわたりし事/初熱(ほとおり)より日数(び(ママ)かず)
心得の事ども并に麻疹(はしか)水痘(へいない)の心得(こゝろへ)疱瘡(はうそう)人の
介抱(かいほう)看病(かんびよう)人の心得等迄 具(つぶさ)に平かなにしるして
世に広(ひろ)くせん事を願(ねが)ふのみ
平安書林 東壁堂梓 【印】東【印】壁
【右頁右側欄外印】 富士川遊寄贈
【頭部欄外蔵書印】京都帝国大学図書之印
疱瘡心得草序(ほうさうこゝろへぐさじよ)
語(ご)に曰(いわく)父母(ちゝはゝ)は唯(たゞ)その子の病(やまひ)を憂(うれ)ふとのたまへり
父母(ちゝはゝ)の子(こ)の病(やまひ)をいたわり思(おも)ふ事(こと)のやるせなき
や我(わが)日(ひ)の本(もと)にもさま〴〵の病(やまひ)多(おゝ)き中(なか)にも疱(ほう)
瘡(さう)ほど軽(かろ)き重(おも)きによらず親(おや)の心(こゝろ)恐(おそ)れ苦(くる)しきは
あらじげに人間(にんげん)ひと世(よ)の間(あいだ)の大厄(たいやく)ならん然(しか)るに疱瘡(ほうさう)は
年(ねん)〳〵いつとなく流行(はやり)すれど時候(じかう)によりてか今年(ことし)此(この)
病(やまひ)諸国(しよこく)に遍(あまね)く時行(じかう)遁(のがれ)がたきに至(いた)るされば無(む)かし/ゟ(より)
疱瘡(ほうさう)の名方(めいほう)は中華(から)倭(やまと)の大醫(たいゐ)の文(ぶん)にあまた載(のせ)有(あり)し
といへ□□【「とも」ヵ】俗家(ぞくか)の用心(ようじん)心得(こゝろへ)に成(なる)べき書(しよ)はいまだ見(み)
あたらず今度(こんど)はやりしより疱(ほう)さうに民家(みんか)
のこゝろへとなるべき事(こと)を師(し)にこひ得(え)て
疱瘡人(ほうさうにん)の介抱(かいほう)の致(いた)しかたを平仮字(ひらかな)に書集(かきあつ)め
て附録(ふろく)には麻疹(はしか)水痘(すいとう)【「へいない」左ルビ】の事(こと)までを記(しる)し
梓(あづさ)にちりばめて廣(ひろ)く世(よ)の人(ひと)女中(ぢよちう)がた迄(まで)
も常(つね)〴〵見置(みおき)たまはば心得(こゝろへ)にもならむかし
と希(こひねが)ふのみ
寛政九つの冬 東壁堂謹識
疱瘡(ほうさう)心得草(こゝろへぐさ)惣目録(そうもくろく)
一 疱瘡(ほうさう)日本(にほん)へ始(はじめ)て渡(わた)りし事
一 疱瘡(ほうさう)始終(しじう)の日数(ひかず)心得(こゝろへ)の事
一 紙燭(しそく)照(てら)し様のこゝろ得の事
一 神祭(かみまつ)りの心得の事
一 肌着(はだぎ)の袖(そで)を長(なが)くする心得の事
一 疱瘡(ほうさう)前後(ぜんご)禁食(どくいみ)の品(しな)の心得の事
一 疱瘡人(ほうさうにん)の居間(ゐま)へ忌(いむ)心得の事
一 序病(ほとおり)【「じよやみ」左ルビ】三日の間(あいだ)の吉悪(よしあし)心得の事
一 見点(でそろい)【「けんてん」左ルビ】三日の間(あいだ)の吉凶(よしあし)心得の事
一 潅漿(みづもり)【「きちやう」左ルビ】三日の間(あいだ)の吉凶(よしあし)心得の事
一 貫膿(やまあげ)【「くわんのう」左ルビ】三日の間の吉凶(よしあし)の心得の事
一 収厭(かせ)【「しうゑん」左ルビ】三日の間の吉凶(よしあし)の心得の事
一 さゝ湯(ゆ)の心得の事
一 痘前(ほうさうまへ)痘後(ほうさうのち)の心得の事
一 眼(め)を守(まも)る心得の事
一 鼻(はな)のふさがりし時(とき)の心得の事
一 搔破(かきやぶり)の用心(ようじん)心得の事
一 一角(うにこうる)の事
附録(つけたり)
一 痳疹(はしか)心得の事
一 水痘(へいないも)の心得の事 惣目録終
疱瘡(ほうさう)心得草(こゝろへぐさ)
志水軒 朱蘭述
疱瘡(ほうさう)日本(にほん)へ始(はじめ)て渡(わたり)し事(こと)
我国(わがくに)は元(もと)より神国(しんこく)にしてあやしき病(やまひ)もなく穏(おだや)かなり
しに聖武天皇(せうむてんわう)天平(てんへい)八年に疱瘡(ほうさう)はじめて渡(わた)り時行(はやり)
来(きた)る此時(このとき)夏(なつ)より冬(ふゆ)に至(いた)りて死(し)に及(およ)ぶもの多(おゝ)かりし
尤(もつとも)是(これ)までなき事(こと)ゆへに療治(りやうじ)又は病家(びやうか)介抱(かいほう)のしかたも
不得手(ふゑて)と見(み)へたり是(これ)五臓(ごぞう)の真気(しんき)を動(うごか)し時気(じき)に感(かん)ず
る所(ところ)此(この)病(やまひ)をなしぬ此 病(やまひ)はやる時(とき)は恐(おそれ)ぬ人(ひと)はなし病(やまひ)始(はじめ)は
傷寒(しやうかん)に似(に)つかわしく其品(そのしな)〴〵有(あり)軽(かろ)き症(せう)なれば藥(くすり)を飲(のむ)
【右頁】
疱瘡神祭(ほうさうのかみまつ)る図(づ)
【左頁】
にも不及(およばす)至(いた)りて重(おも)きにあたれば薬(くすり)も届(とゞ)かぬ事(こと)あり病(やまひ)
を受(うけ)て三五十五日の間(あいだ)なり始(はじめ)て疱人(ほうそうにん)の熱(ねつ)ある時(とき)は其心(そのこゝろ)
得(え)忘(わす)れず気(き)を付(つく)る事/第(だい)一なりいよ〳〵疱瘡(ほうさう)らしき事
なれば其人(そのひと)の目(め)の内(うち)に涙(なみだ)うるみてまだるきが如(ごと)し両足(りやうそく)
たゝぬも有(あり)腹中(ふくちう)に通(かよ)ふ熱(ねつ)を得(とく)と考(かんが)へ知(し)るべし見様(みやう)
考(かんが)へかた左(さ)に記(しる)すなり 介抱人(かいほうにん)は老女(らうによ)物(もの)なれたるもの
能(よく)〳〵疱人(ほうさうにん)の容体(ようだい)を昼夜(ちうや)にくわしく見(み)置(おき)て良(よい)
医師(いしや)に告(つ)げ聞(きか)せ油断(ゆだん)なく看病(かんびやう)あらばたとひ難痘(むつしきほうさう)
なりとも少(すこ)しも一命(いのち)に気遣(きづか)ひなし平愈(へいゆう)すること
疑(うたが)ひ有(ある)べからず
【右頁】
紅梅(こうばい)
盛(さかり)
の
体(てい)
【左頁】
疱瘡(ほうさう)はじめ終(おわり)の日数(ひかず)心得(こゝろへ)の事
熱蒸(ねつしやう)とて三日/有(あり)俗(ぞく)にほとおりといひ又(また)は序病(じよやみ)といふ
見点(けんてん)とて三日あり俗(ぞく)に出(で)そろひといふ
潅漿(きちやう)とて三日有/俗(ぞく)に水(みづ)もりといふ
貫膿(くわんのう)とて三日有俗に山(やま)あげといふ
收厭(しゆゑん)とて三日有俗にかせといふ
かくのごとく三日づゝにて十五日をへて後(のち)瘡(かさ)のふた落(おち)
て愈(いゆ)るを順症(じゆんせう)といふ出(で)そろひより風(かぜ)にあてべからず痘(いも)
かろく見へても外(ほか)へ出(いだす)べからず水(みづ)もりは前後(ぜんご)大事(だいじ)なり
かきやぶる事(こと)を気(き)を付(つく)べしやまあげかせはじめなり
【図中の文字】
高嶋屋
京祗園町
小町紅
高嶋屋
【右丁 白紙】
【左丁】
かせになりてくひものに気(き)を付(つ)くべし
紙燭(しそく)照(てら)し様(やう)の心得の事
序病(じよやみ)の時(とき)余病(よびやう)にてもあるか又(また)は疱瘡(ほうさう)ならんかと心得(こゝろへる)に
紙(し)そくを捻(ひね)りて軽重(かろきおもき)多少(たしよう)をうかゞひ見(み)るなり昼(ひる)なれ
ば屏風(びやうぶ)にてかこひ闇(くら)くして病(やむ)ものゝ左(ひだり)の頬(ほう)より見始(みはじめ)
額(ひたひ)の真中(まんなか)をよくみるべし《振り仮名:兔角|とかく》に日(ひ)の光(ひか)りにては
見(み)へかぬる物(ものなり)すでに肌表(はだひやう)にあらわれて後(のち)はともし火(び)は
悪(あし)く其時(そのとき)は日(ひ)ならでは血色(ちのいろ)の紅白虚実(こうはくきよじつ)わかちがたし
たゞ発熱(ほつねつ)うたがわしき時(とき)のみなり紅紙(べにがみ)を用(もち)ゆべし
もし紅紙(あかがみ)なき時(とき)は紅(べに)を白紙(しらかみ)にぬりて用(もち)ゆ右の
【右頁】
紅(べに)の花(はな)を作(つく)る 体(てい)
【左頁】
紙燭(しそく)を病者(びやうしや)の目じり耳(みゝ)のあたりよりすかしてらし
見れば皮(かわ)ひとへ下にむら〳〵として見ゆる内に粒(つぶ)の
点(てん)をむすびかけたる有(あり)たゞむらつきてのみ有(ある)も有
肌色(はだいろ)血(ち)の色(いろ)に気(き)をつけ見るべし尤(もつとも)手足(てあし)ともに
くわしくみるべし大概(たいがい)はわらはるゝもの其上(そのうへ)上手(じやうず)の
医家(いしや)へ相談(さうだん)あるべきなり
神祭(かみまつ)りの心得(こゝろへ)の事
痘(いも)の神(かみ)を祭(まつ)るは穢(けが)れを避(さく)る為(ため)なり痘病人(ほうさうにん)の
居間(いま)は随分(ずいぶん)清(きよ)くすべし其間(そのま)に神を安置(あんち)す何(いづ)
れの間(ま)にても勝手(かつて)の宜(よろ)しき所に机(つくへ)を置(おき)て祭るべし
【右頁】
高(たか)き棚(たな)などに祭(まつ)るべからず疱瘡病人(ほうさうにん)の喰(く)ひて
わるき品(しな)を神へ備(そな)ふべからず神の灯明(とうみやう)は昼夜(ちうや)灯(とも)
し置(おく)べし神おくりは十五日にさゝ湯(ゆ)して送(おく)るなり
神いませば油断(ゆだん)する事なし世間(せけん)に十二日に神を
送(おく)るは誤(あやま)りなり神/送(おく)りして後(のち)に変(へん)にあふもの多(おゝ)
し出そろひより十二日にして序病(じよやみ)より十五日めなり
肌着(はだぎ)の袖(そで)を長(なが)くする心得(こゝろへ)の事
袖長(そでなが)とは両手(りやうて)をのべて三寸ばかりも指先(ゆびさき)より長(なが)く
ゆつたりとすべし袖口(そでくち)を細(ほそ)くすべからず手(て)の出(だ)し入(いれ)
ゆるきを要(よう)とすもし痘病人(ほうさうにん)眠(ねむ)る時はその袖の
【左頁】
先(さき)ひもにてくゝりおくべし我(われ)しらずにつむり又(また)かほに
手(て)をあげて搔事(かくこと)もあるものなり又ひとへの紅木綿(べにもめん)を
頭(つむり)に着(き)せ置(おく)べし水(みづ)もりの頃(ころ)にぜひ礙(さわ)るものなり此
袖長(そでなが)にて防(ふせ)ぐべし又 水(みづ)もりより両足(りやうそく)のあわひに木(も)
綿(めん)のひとへ襦(じゆ)ばんにてもへだてに挟(はさみ)て足(あし)の爪先(つまさき)にて
足(あし)と足(あし)と両方(りやうほう)すりて搔破(かきやぶ)らぬやうに用心(ようじん)に気(き)を
付(つく)べしかならず手(て)ばかりの気遣(きづか)ひして足(あし)にはこゝろ
つかぬものなり
疱瘡(ほうさう)前後(ぜんご)禁食(どくいみ)の品(しな)心得(こゝろへ)の事
酢(す) 酒(さけ) 麪類(めんるい) 餅類(もちるい) 惣(そう)じて油気(あぶらけ)の類(るい)食事(しよくじ)に魚類(ぎよるい)
【右頁】
は干肴(ひざかな)にても乳(ち)のみ子(ご)なれば母子(はゝこ)ともに無用(むよう)なり
其外(そのほか)くさきものからき物(もの)菓実(このみ)生冷(なまひへ)のもの何(いづ)れも
いみきろふべし世間(せけんに)疱瘡神(ほうさうがみ)のすきのものなど言(い)ふて
くわせ大(おゝき)に仕(し)ぞこのふ事(こと)まゝ多(おゝ)し
疱(ほう)さう人(にん)の居間(ゐま)へ忌(いむ)心得(こゝろへ)の事
痘人(とうにん)の居(ゐ)る間(ま)へつゐに見(み)なれぬ人(ひと)出入(でいり)し声(こゑ)高(だか)に
ものを言(ゆ)ひて痘人(とうにん)を驚(おどろ)かすべからず又にほひの気(き)
をいむべし懐中(くわいちう)のにほひ袋(ふくろ)梅花香油(ばいくわかうのあぶら)成人(おとな)の
痘人(とうにん)ならば房事(ぼうじ)をかたく慎(つゝしむ)べし腋気(わきが)ある人(ひと)出入(でいり)を忌(いむ)
出家(しゆけ)比丘尼(びくに)出入をいむ雪隠(せつゐん)のにほひ又女の月(つき)のさ
【左頁】
わりをいむ髪(かみ)の毛(け)火に入やけぬやうに心得(こゝろへ)べし病(や)み
始(はじめ)より一間(ひとま)より外へ連(つれ)れ出づべからず小児(せうに)などはよく
くせに成る物ゆへ其(その)心得(こゝろへ)第一なり痘(いも)はものにあやかり
やすきものゆへに紅絹(あかききぬ)を屏風(びやうぶ)にかけ置(おく)べし又 時節(じせつ)の
寒暖(かんだん)に随(したが)ひ衣裳(いしやう)程(ほど)よくあたゝめすごして汗(あせ)を出す
べからず
序病(ほとおり)【「じよやみ」左ルビ】三日の間(あいだ)の吉悪(よしあし)の心得の事
外感(さむけ)【「ぐわいかん」左ルビ】によつておこれば水ばなせき出るものなり或(あるひ)は
食(しよく)もたれの熱(ねつ)よりおこり又は驚(おどろ)く事ありて序(ほとおり)熱と
なる然(しか)るに序病(ほとおり)の熱(ねつ)励(はげ)しきものかへつて痘(いも)多く
【右頁】
出るものあり発熱(ほつねつ)の時は軽重(かろくおもき)には寄(よ)るべからず総(すべ)て
食事(しよくじ)は喰(く)ひかぬるものなり痘(いも)は始(はじめ)終(おわ)り胃(ゐ)の気(き)を根(こん)
本(ぼん)とす重(おも)しといへども只(たゞ)箸(はし)のすたらぬを吉として
凌(しの)ぎ通(とお)すべし生(むま)れ付て肝(かん)の気/高(たか)ぶるものは発熱(ほつねつ)に
目をみつめる事ありとも驚(おどろ)くべからず必(かならず)その跡(あと)おだ
やかなるものなりうわこと多く人見(ひとみ)しりさへ弁(わきま)へぬもの
難症(なんしやう)也又大の悪性(あくしやう)は序病(じよやみ)の時/頭(かしら)面(おも)て計(ばか)り火に
焼(やくる)が如(ごと)く赤(あか)く紅(べに)を指(さし)たる様(やう)なり紙燭(しそく)を以(もつ)て見れば肉(にく)
と皮(かわ)との間にところ〴〵紅(べに)のかたまりて動(うご)かざるもの
扨(さて)は熱(ねつ)つよく唇(くちびら)紫黒(むらさきくろ)く見ゆる尤/声(こへ)も出る事なく
【左頁】
雁(がん)のなくが如(ごとく)なるは大悪痘(だいあくとう)なりたゞ一がいには論(ろん)じがたし
吐瀉(としや)また腹(はら)いたむもの食滞(しよくのとゞこほり)ひへの気と又/痘(とう)の毒火(どくくわ)に
よるとの二つなり其内(そのうち)序(ほとおり)熱の腹(はら)くだりは急(きう)にはとめ
難(がた)し吐(は)くものは痘(いも)の毒火(どくくわ)上(かみ)へ向(むか)ふ故に重(おも)し《振り仮名:兔角|とかく》吐(はくこと)を
治(じ)すべしひへによりて下(くだ)るをとめざれば疱瘡(ほうさう)出うきかぬる
もの也/大便(だいべん)数日(すじつ)けつする時(とき)少(すこ)し通(つう)ずべし疱瘡の毒火(どくくわ)
によりて腹(はら)痛(いた)めば腰(こし)へかけていたむなり是(これ)必(かならず)重(おも)し発熱(ほつねつ)
のとき汗(あせ)出るもの気/和(くわ)し甚(はなは)だ吉症(よきしやう)なり血症(けつしやう)は悪(あし)し
発熱(ほつねつ)に鼻血(はなぢ)出るは治(ぢ)すべし気遣有べからず
見点(でそろい)【「けんてん」左ルビ】三日/間(あいだ)の吉凶(よしあし)の心得の事
【右頁】
見点(でそろい)【「けんてん」左ルビ】のみへそめには表裏(ひやうり)の虚実(きよじつ)を考(かんが)へうかするてだて
かんじんなり痘人(ほうさうにん)の性(しやう)として風寒(ふうかん)にて表(ひやう)をとづる
もの有/裏(うら)の気のよわきもの有此外に毒氣(どくき)をすか
して発(はつ)するも有/是等(これら)詳(つまびらか)に弁(わきま)へてよき医師(いしや)を頼(たの)み
家内(かない)の介抱(かいほう)如在(じよさい)なく心得る事/肝要(かんよう)なり吉症(きちしやう)と言(いふ)
とも出浮(いでう)くまでは大切(たいせつ)也/風(ふ)としたる物にさゝわられて
至(いたつ)て軽(かろ)き疱瘡にても出浮(いでう)かずして変(へん)にあひ又は
折角(せつかく)出浮(いでうき)かけて引込(ひきこむ)もありかせ口より出浮がたき
を大事とすべし痘(いも)の始終(しじう)は全(まつた)く発熱(じよやみ)【ママ】の時(とき)に
弁(わきま)へしるべし見点(でそろひ)頭(かしら)面(かほ)より見へ手足(てあし)ともにばらりと
【左頁】
大(おう)
江(へ)
山(やま)
の
図(づ)
【右頁】
出(いで)てその色(いろ)上(うへ)へ白(しろ)く根(ね)あかくして瘡(かさ)に光(ひか)り有(あつ)て手(て)に
て探(さぐ)ればさわる度(たび)に熱(ねつ)さつはりと覚(さ)め食事(しよくじ)すゝみ
大便(だいべん)小便(せうべん)常(つね)の如(ごと)きは吉痘(きつとう)なり頭(かしら)面(おもて)にあまた出(いづ)るといへ
ども粒(つぶ)わかれて肌(はだ)の地(ぢ)あざやかなれば気遣(きづか)ひなし
もしは蚕(かいこ)の種(たね)のごとくなるものもしは其(その)色(いろ)白(しら)け肌(はだ)の
色(いろ)と同(おな)じやけどの様(やう)なるもの出(いづる)かと思(おも)へば隠(かく)れかくるゝ
かと思(おも)へば顕(あらは)るゝもの発熱(ほつねつ)一二日にして見点(けんてん)し又は
熱(ねつ)なくして見(み)へて熱(ねつ)出(いづ)るものは至(いたつ)つて大切(たいせつ)なり
始(はじめ)額(ひたい)よりみゆるを吉(よし)とす頤(おとがひ)咽(のど)の下(した)より見(み)ゆるは
必(かなら)ず出物(できもの)多(おゝ)し両(りやう)の頬(ほう)の痘粒(いもつぶ)分(わか)れて出(いづ)るは吉(きつ)
【左頁】
症(しやう)なりいづれ両(りやう)の頬(ほう)はべつたりとして粒(つぶ)たち分(わか)れ
がたきものなり両(りやう)の頬(ほう)さへたち出(いつ)れば跡(あと)より多(お[ゝ])く出(いて)ぬ
もの也/惣(そう)じてよひ疱瘡(ほうさう)はむね腹(はら)にはなきもの也
又/頭(かしら)面(かほ)に見(み)へずして手足(てあし)或(あるひ)は腰(こし)尻(しり)のあたりより
見(み)ゆるものは逆(ぎやく)にしてよろしからず又/此時(このとき)皮(かわ)ひとへ
内(うち)にありて出(い)で浮(う)かざるものは甚(はなはだ)た六(むつ)ケ(か)敷(し)是非(ぜひ)に
狂(くるい)躁(さわぎ)てむしやうになくものなり介抱(かいほう)の人(ひと)随分(づいぶん)と
心(こゝろ)を附(つく)べし見点三日を出(で)そろひとす足(あし)に出(いづ)るを
言(い)ふ軽(かろ)きは足(あし)のうらになくても三日になれば
出揃(でそろい)とすべし疱瘡(ほうさう)の三関(さんせき)は先(まづ)弐度(にど)の関所(せきしよ)
【右頁】
有(あり)て出浮揃(でうきそろ)ふを上(かみ)の関(せき)と云(いふ)膿水(うみ)持(もち)てかせかゝる
を後(のち)の関(せき)といふ出(い)でうきかぬるは五日六日の上(かみ)の関(せき)
を超(こ)へがたし後(のち)の関(せき)は十日十一日にあり乍去(さりながら)生(うま)れ子(ご)
の一年にみたぬは十五日の期(ご)を待(また)ずして早(はや)くかせ
るゆへ其痘(そのいも)の重(おも)きものは八日九日を三四 才(さい)の十日十一日
にあてゝ見(み)るべし俗(ぞく)に始終(しじう)を十二日と心(こゝろ)得て神送(かみおく)り
するは疱瘡(ほうさう)の吉凶(よしあし)を定(さだ)むべし吉痘(よきとう)は是(これ)より藥(くすり)用(もち)
ゆべからず又/軽(かろき)といへども余病(ほかのやまひ)を挟(はさ)むものは其儘(そのまゝ)になし
置(おく)べからす良医(よいいしや)の指図(さしづ)を持(もちゆ)べきなり
潅漿(みづもり)【「きてう」左ルビ】三日の間(あいだ)のよしあしの心得の事
【左頁】
第(だい)一に水(みつ)もりにかき破(やぶ)ればよき疱瘡(ほうさう)にても変(へん)じ
悪(あし)く成(なる)也/出揃(でそろ)ひして肌地(はだぢ)分(わか)れ顆粒(つぶたち)いで水(みづ)もるは
吉事(よきこと)也/大吉痘(たいきつとう)はつぶあら〳〵としてぐるりに赤(あか)みを
あらわし痘(いも)の色(いろ)勢(いきほ)ひ強(つよ)く気(き)の不足(ふそく)なる痘(いも)は赤(あか)
めぐりなく痘(いも)と肌(はだ)の色(いろ)と同(おな)じく白(しら)みて勢(いきほひ)うすし
熱(ねつ)は出(いで)そろいてはさめ又/水(みづ)もりに熱(ねつ)出(で)るものなり
吉痘(よきとう)は表熱(ひやうねつ)ありても裏(うら)すゞしく食事(しよくじ)すゝむ也
此/時(とき)血熱(けつねつ)つよく痘(いも)の色(いろ)血(ち)ばしりてうるをわぬも
のはいそいで毒(どく)を解(げ)すべし又/気(き)虚(きよ)して血疱(けつほう)となり
て血(ち)のまゝにて潰(つぶ)るゝものは重(おも)き痘(いも)也/水疱(すいほう)といふ
【右頁】
もの有(あり)出(で)かけよりやけとのふくれたるが如(ごと)くにしてうみ
もたぬをいふ是(これ)惡症(あくしやう)也又/蚕種疱(さんしゆほう)といふ有(あり)是(これ)蚕(かいこ)
の種(たね)の如(ごと)きものは之時/頭面(かしらかほ)大(おゝい)にはれて目(め)をとぢて又
早(はや)くまどをあけて変(へん)を顕(あらわ)す一/身中(しんちう)皆(みな)潅漿(みづもり)とい
へども頭面(かしらかほ)潅漿(みづもり)せざるは大切(たいせつ)なり又/吐逆(ときやく)して止(やま)ず大(だい)
便(べん)下(くだ)り小便(せうべん)に血(ち)を下(くだ)すもの甚(はなはだ)惡(あし)き也/或(あるひ)は唇(くちびる)ふとく
腫(はれ)て破(やぶ)れ血(ち)出(いで)て食事(しよくじ)進(すゝ)みがたく咽(のんど)痰(たん)強(つよ)く涎(よだれ)自(おのづか)ら
流(なが)れ出(いで)るは惡(あし)き也又/吉痘(きちとう)にても此時は少(すこ)しかゆみ
有(あり)又いらつきてさわりたきもの也/是(これ)が為(ため)に袖長襦(そでながじゆ)
袢(ばん)【伴】を用意(ようゐ)するものなり又/看病人(かんびやうにん)も昼夜(ちうや)打(うち)つゞ
【左頁】
きて草臥(くたびれる)故/寝(ねむ)りつよく出るもの也あら手(て)の人(ひと)をそへ
て必(かなら)ずねむるべからず膿水(うみ)にさへなれば少(すこ)しかき破(やぶれ)ても
大成(おゝいなる)禍(わざわ)ひはなし随分(ずいぶん)油断(ゆだん)すべからず
貫膿(やまあげ)【「くわんのう」左ルビ】三日の内(うち)の吉惡(よしあし)の心得の事
此時(このとき)やまあげと俗(ぞく)に云(い)ふ是迄(これまで)の順(じゆん)の通(とお)りにさへゆけば
宜(よろ)し上(かみ)半分(はんぶん)の手(て)あてよろしければ自(おのづか)ら山(やま)十分(ぢうぶん)に
上(あが)る也/痘(いも)の豆(まめ)に似(に)たるは山上(やまあげ)の時(とき)にて知(し)るべし痘(とう)出(いで)て
ゟ七日に至(いた)りて其形(そのかたち)まるあかく満(みち)〳〵て光(ひか)り潤(うるお)ひ
有(あり)て緑水(りよくすい)【「あをみづ」左ルビ】の如(ごと)く段(だん)〳〵に其色(そのいろ)蝋(らう)のごとくにて立上(たちあが)
り見(み)ゆるを貫膿(くわんのう)と云(い)ふ此/時(とき)出(で)ものばら〳〵として
【右頁】
表(ひやう)に山上(やまあげ)の熱(ねつ)有べし然(しか)れ共(ども)かくの如(ごと)きは吉痘(よきとう)にし
てこと〴〵く膿(うみ)となりて肌(はだ)表(ひやう)に出(いで)あくれば内(うち)すゞ
しくなるゆへに食事(しよくじ)進(すゝ)み自(おのづ)からうつくしくかせて
癒(いゆ)る也/惡(あしき)痘(いも)はまづ咽(のど)まで痘(いも)出(いで)て食事(しよくじ)乳味(にうみ)も
通(とう)りがたく毒氣(どくき)肺(はい)の臓(ぞう)の氣道(きみち)にせまりて表(ひやう)へ出(いで)
がたくかわきつよく声(こゑ)かれて出(いで)ず口(くち)いき一面(いちめん)にかた
まりと成(なり)もだへ苦(くる)しみ何程(なにほど)の妙方(めいほう)にても叶(かな)ひ難(がた)
し毒氣(どくき)膿(うみ)をなり表(ひやう)へ顕(あらは)れず急(きう)にとぢて変(へん)
をなす也此/関(せき)は十日十一日にあるべし痘(いも)の生死(せうじ)は
膿(うみ)の有無(うむ)に決定(けつぢやう)をなす又すでにやまを上(あげ)るものに
【左頁】
内托(ないたく)の藥(くすり)を用(もち)ひすごすべからす藥氣(くすりけ)なく自(おのづ)から
かせるを待(まち)てよし但(たゞ)し貫膿(くわんのう)の時(とき)は皆(みな)起(おこり)腫(はれ)により
痛(いたむ)ものなれども厳(きび)しくいたんで堪(たへ)がたき程(ほど)ならば惡(あし)し
或(あるい)は此時(このとき)に面(かほ)目(め)のはれ早(はや)く引(ひけ)ばあだ痂(がさ)落(おち)て後迄(のちまで)
も地腫(ぢばれ)有(あつ)て段々(だん〳〵)に引(ひく)をよしとす又/痘(とう)大(たい)がいに
山(やま)をあげて俄(にはか)にふか【るヵ】ひ出(いで)はぎりつよくかわきあり
て腹(はら)下(くだ)り甚(はなは)だあやうきもの有(あり)此時(このとき)の五臓(ござう)の内(うち)身(しん)
躰(たい)の真氣(しんき)皆(みな)表(ひやう)にあらわれて内證(ないしやう)にわかに虚(きよ)して
かようの変(へん)を顕(あらわ)す也/必(かならず)驚(おどろ)く事(こと)なかれ只(たゞ)能(よく)看病(かんびやう)
人(にん)見(み)とゞけて良醫(いしや)にまかせて人参(にんじん)など用て
【右頁】
陽氣(ようき)を補(おぎの)ふを肝要(かんよう)とすしかし此/変(へん)に至(いた)るも
皆(みな)介抱人(かいほうにん)の如在(じよさい)よりするわざなり
収厭(かせ)三日の間のよし惡(あし)の心得の事
疱瘡(ほうさう)に遅(おそし)速(はやしの)二品(ふたしな)ありいずれもさゝ湯(ゆ)。程(ほど)あし
ければ痘(いも)膿(うみ)かへる事(こと)あり又此三日を過(すぎ)て痘(いも)
そのままにてかせる気色(きしよく)なきもの有(あり)内(うち)の虚寒(きよかん)
毒氣(どくき)の餘熱(よねつ)とによる此/二(ふた)つを考(かんが)へ知(し)るべし吉疱(よきほう)
瘡(さう)はつむり口(くち)鼻(はな)のあたりよりかせはじめむね
わき手足(てあし)に及(およ)び上(かみ)よりせんぐりにかせて出(で)もの
ふたあつく堅(かた)くしてうみかへるといふことなくして
【左頁】
此時/手足(てあし)の節(ふし)〴〵のあたりにいたむ痘(いも)あればより
と成もの也/早速(さつそく)にはらひ毒(どく)の藥を用べし水靨(すうおう)と
云(いふ)もの有(あり)かせる時つぶと粒(つぶ)と一つに成て痘(いも)の先(さき)より
汁(しる)出(いで)て流(なが)れてかたまるなり手足(てあし)身(み)は活石(くわつせき)ようの
ものを一めんにふりかけ衣裳(いしやう)に付(つか)ぬ様(やう)に用心(ようじん)すべし
かせ口(くち)になりては順痘(じゆんとう)にても熱(ねつ)出るもの也/夫故(それゆへ)に笹(さゝ)
湯(ゆ)の加減(かげん)氣(き)を付(つく)べし此時に小便(せうべん)通(つふ)じ少(すくな)くば餘毒(よどく)を
拂(はら)ふべしもし不食(ふしよく)する時は裏(うら)のよはみと合点(がてん)し頭痛(づつう)
すれば目(め)に氣を付(つく)べし大便(だいべん)こわばるは餘毒なり扨又
さゝ湯(ゆ)は日かぎりによるべからず餘毒(よどく)久(ひさ)しくなれば
【右頁】
躰(たい)の虚性(きよせう)によるなりたゞ氣血(きけつ)を補(おきの)ふを本(もと)とす
醫家(いか)より毒(どく)けしの藥(くすり)を用ひ過(すご)すべからず頭面(かしらかほ)は早
くかせ足(あし)さきは総(すべ)ておそきもの也さすれば痘(いも)多(おゝ)く
出(いで)たるものは出(で)そろひゟ柔成布(やわらかなるぬの)の帷子(かたびら)を袷(あわせ)にし
て着(き)せしむべし其上(そのうへ)に絹(きぬ)の衣類(いるい)を重(かさ)ねあたふべし
いか程(ほど)重(おも)き疱瘡(ほうそう)にても十五日を過(すぐ)れば痘(いも)の
毒(どく)に死(し)するものなし故(ゆへ)に十五日にして神(かみ)を送(おく)るべし
さゝ湯(ゆ)は軽(かろ)しといへども十五日を待(まつ)べしかせ口(くち)にして
はひへぬ様に時氣(じき)を防(ふせ)ぐ事/専要(せんよう)なり
笹湯(さゝゆ)の心得の事
【左頁】
四五日/前(まへ)ゟ米(こめ)のかし水を取置(とりおき)て能(よく)ねさせ置(おき)その
うわずみを湯(ゆ)に焚(たく)べし湯(ゆ)に入るゝ事/重(おも)き痘(いも)は
日数(ひかず)にかゝわるべからず湯の内へ手拭(てぬぐひ)をひたし得(とく)と絞(しぼり)
りてかせたる痘(いも)の跡(あと)をしか〳〵と押(おさ)へ湯の氣(き)をあつ
ればかせの熱(ねつ)こゝろ能(よく)おさまる也/必(かなら)ずぬらしあらふべ
からずかほは目の上下(うへした)をよけ眼(め)の中へ湯の氣(き)入ば
眼中(がんちう)をそこのふ事有/手足(てあし)惣身(そうしん)まんべんに湯を引(ひく)
べし背(せ)は軽(かろ)くすべし湯をかけ終(おわ)れば風(かぜ)に當(あ)つべ
からず夫(それ)より又両三日/隔(へだて)て二/番(ばん)湯を浴(あぶ)せしむべし
三/番(ばん)湯をすまして常(つね)の湯に入るべし
【右頁】
痘前(ほうさうまへ)痘後(ほうさうのち)のこゝろへの事
疱(ほう)さう前(まへ)色(いろ)〳〵のまじない有といへどもたしかならず
もしまじないを用ひば正月/喰摘(くいづみ)にかざりし野老(ところ)を
七/軒(けん)にてもとめ常(つね)の如(ごと)く煎(せん)じ小児(せうに)をあらふ事/極(きわめ)て
よし第一の用心は世間(せけん)にはやる節(せつ)は雨氣風(あまけかぜ)ふき或(あるひ)は
人込(ひとごみ)の中(なか)夜(よ)あるき遠道(とうみち)をいみこゝろへべし節(おり)〳〵
の寒暑(かんしよ)は勿論(もちろん)時氣(じき)を払(はら)ふ藥(くすり)を用ひてよし疱瘡(ほうさう)
軽(かろ)く仕廻(しまは)ば其跡(そのあと)を大切(たいせつ)に養生(ようじやう)すべし第一には喰(く)ひ
ものに有むまきものを進(すゝ)むれば餘毒(よどく)を助(たすけ)て眼(め)を
損(そん)じあしき出(で)きものを發(はつ)し疳(かん)をわずらふ物也
【左頁】
夫(それ)故に疱瘡跡(ほうさうのあと)にては七十五日の間(あいた)をいむ也/産前後(さんぜんご)
と同じ実(まこと)に痘(いも)は一生(いつしやう)の大厄(たいやく)なればおろそかにすべからず
眼(め)を守(まも)る心得の事
痘(いも)の時(とき)ゟ眼(め)あきかぬればかせの時(とき)まつ毛(げ)をとぢて
ひらきかぬるは鳥(とり)の羽(は)をとをきかせてふとあけさす
る事あり兎(うさぎ)のふんにて洗(あら)へば奇妙(きめう)に目あくあり
さま〴〵の法(ほう)ありといへども信(しん)じがたし
鼻(はな)のふさがりし時(とき)の心得の事
小児(せうに)山あげの程(ほど)より鼻息(はないき)ふさがりて乳(ち)をのみ
かぬるもの有是は前(まへ)かたゟ折〳〵心を付/鼻中(はなのなか)
【右頁】
の垢(あか)を取(とる)にしかず
掻破(かきやぶ)りの用心のこゝろへの事
凡(およそ)かきやぶりも膿(うみ)に成て後(のち)は少(すこ)しも邪广(じやま)にな
らず痘(いも)の内に一粒(ひとつぶ)甚(はなは)だかゆきあり夫(それ)に付て外(ほか)
の痘(いも)を損(そん)ずる故也水もりの頃(ころ)あやまりて掻破(かきやぶ)る
時は直(す)ぐにうどんの粉(こ)をふり掛(かくる)べし又/荊芥(けいがい)をこ
よりにひねり込(こみ)て火を付(つ)けかゆき痘(いも)の先(さき)へ火を
当(あ)つればかゆみはとまるなり
一角(うにこうる)の事(こと)
古(いに)しへより痘(いも)に藥(くすり)なしと云(いふ)事ありしかし一角(うにこうる)は
【左頁】
毒(どく)けしの物にて痘(いも)には妙(めう)なり夫(それ)故(ゆへ)に發熱(ほつねつ)より
鮫(さめ)にておろし両(りやう)三/度(ど)程(ほど)づゝ白湯(さゆ)にて用(もち)ゆべし扨又
柳(やなぎ)の虫(むし)も痘(いも)の毒(どく)を肌(はだ)の外(ほか)へ追(お)ひすかすの功(こう)有
此/品(しな)もはやく用ゆべし又/煎(せん)じて虫(むし)を去(さ)り呑(のむ)べし
又テリアカの類(るい)痘(いも)の妙薬(めうやく)也/良薬(りやうやく)あまた有と
いへども用ひがたし痘(いも)は藥(くすり)を用(もちい)て害(がい)ある事(こと)有
悪(あ)しき痘(いも)になれば藥(くすり)も益(ゑき)なし中痘(ちうとう)はかへつて
藥(くすり)の為(ため)にあやまる事(こと)ありたゞ大切(たいせつ)に慎(つゝし)むべし
附録
麻疹(はしか)心得(こゝろへ)の事
【右頁】
麻疹(はしか)の熱(ねつ)も傷寒(しやうかん)に似(に)てはげしくたゞ咳嗽(しわぶき)頻(しき)
りにして声(こへ)かれて出(いで)ず咽(のど)はれ痛(いた)み口(くち)乾(かわ)きのんど
渇(かつ)して湯水(ゆみづ)を呑(のむ)事(こと)かぎりなし熱(ねつ)ある事一日にし
てからだ皮(かわ)の中(なか)に寸地(つんぢ)もなく出(いで)て蚤(のみ)蚊(か)のさしたる
様(やう)に其跡(そのあと)或(あるひ)は粟(あわ)つぶなどのごとく出(いでゝ)後(のち)熱(ねつ)さめ半(はん)日
又は一日/或(あるひ)は一日半二日にして瘡子(はしか)おさまるものは順(じゆん)
にしてよし瘡(はしか)ほと折(おり)の時(とき)よき醫師(いしや)を頼(たの)み藥を
服(ふく)さすればその毒(どく)汗(あせ)にしたがつて出安(でやすく)し發熱(ほつねつ)の時(とき)
に外は風寒(ふうかん)にあたり内(うち)はひへもの生物(なまもの)などを食(しよく)する
事(こと)かたく無用(むよう)也/病者(びやうしや)内(うち)ねつする故(ゆへ)に生物(なまもの)ひへもの
【左頁】
を好(この)むにより禁制(きんせい)をおかして内外(うちそと)より冷(ひへ)瘡子(はしか)
出(で)る事(こと)なく悪症(あくしやう)に変(へん)ずるもの也たゞ衣類(いるい)をあつく
着(き)て汗(あせ)を出(いだ)し防(ふせ)ぐべし瘡子(はしか)ほとおりの時(とき)咽(のど)の中(うち)
腫(は)れ飲(のみ)くひ入(い)りがたし甚(はなは)だ急症(きうしやう)也うろたへて咽(のど)
に針(はり)する事(こと)無用(むよう)也/是(これ)瘡子(はしか)の火毒(くわどく)さかんなる故(ゆへ)也
熱(ねつ)を解(げ)す藥(くすり)を用(もちひ)水(みず)煎(せんじ)して服(ふく)すべし或(あるひ)は寒(かん)の水(みづ)
膈雪(きよねんのゆき)をたくわへて服(ふく)すべし其(その)しるし妙(めう)也/瘡子(はしか)の
熱(ねつ)さかんなる時(とき)冷水(ひやみず)或は梨子(なし)蜜柑(みかん)熟柿(じゆくし)などを
食(くら)ふ事(こと)多(おゝ)くしてはしか収(おさま)りて痢病(りびやう)に死(し)する
類(るい)あり何程(なにほど)渇(かわ)くとも湯(ゆ)をあたへて冷(ひや)ものを飲(のま)
【右頁】
する事を禁(きん)ず瘡子(はしか)出(いで)る時(とき)元(もと)より腹(はら)痛(いたみ)泄泻(せつしや)し
或(あるひ)は自利(じり)といふて大便(だいべん)覚(おぼ)へず通(つう)ずるもの有(あり)もし
くは赤白(しやくびやく)の痢病(りびやう)を兼(かぬ)るもの有(あり)是(これ)皆(みな)惡性(あくしやう)なり
急(いそ)ぎ良醫(よきゐ)の療治(りやうじ)を受(うく)べし瘡子(はしか)出(で)る時(とき)吐(と)きやく
をするものなり小児(せうに)なれば乳(ち)をあますものなり
然(しか)れどもはしか出(で)つくせば吐(と)も自(おのづ)から止(や)むものなり
又(また)出盡(いてつく)しても吐(と)やまぬ症(せう)も有(あり)惡性(あくしやう)也/慎(つゝし)むべし
瘡子(はしか)出(いで)て色(いろ)紅(くれ[な])ひなるは吉症(きつしやう)也又/紫黒色(むらさきくろいろ)ともに
死症(ししやう)也たゞ保養(ほよう)を第一(だいいち)とす兎角(とかく)風寒(ふうかん)をいとふ
べし軽(かる)きものは四十九日を待(まつ)て禁忘(どくいみ)を捨(すつ)べし
【左頁】
重(おも)きもの七十五日又は百日を待(まつ)べし何(いづれ)も痘(いも)の禁(きん)と
おなじ
水痘(へいない)の心得(こゝろえ)の事
水痘(すいとう)はへいないもといふ痘(いも)に似(に)て出(いづ)るにやすくかせ
安(やす)し始(はじめ)て出(いで)る洗(さき)【先】潤(うるほ)ひて水(みづ)を持(もつ)て有(ある)ゆへに水痘(すいとう)と
いふ惣身(そうしん)ほとおり二三日をまたず始終(しじう)五六日にして
其(その)瘡(かさ)水膿(みずうみ)ばかりにして収(おさま)る療治(りやうじ)禁忌(きんき)の事(こと)痘(いも)
瘡(はしか)にかわる事(こと)なし其内(そのうち)痘瘡(いもはしか)は一生涯(いつしやうがいに)一度する
ものにて水痘(へいないも)は両三度もするもの有(あり)痘(いも)は五臓(ござう)の
中(うち)より起(おこ)り麻疹(はしか)水痘(へいないもは)たゞ六腑(ろくふ)より發(おこ)る
【右頁】
事(こと)を弁(わきま)へて軽(かろき)重(おもき)を分別(ふんべつ)すべき事なり
疱瘡(ほうさう)心得(こゝろへ)艸(ぐさ) 終
丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨丨
寛政十年
戊午の春発行
寺町通四条上ル町
平安書林 蓍屋善助
【左頁】
此中何方様わくにりとれ
よたしに一はやく
大坊まひ つか〳〵
ろ召酒野何後に入にて
ちかじや
■■■す
■■
【裏表紙】
【ケース】
【ケース】
引痘(うゑぼうさう)の諸事/素人(しらうと)一己(いつこ)の臆断(りやうけん)に任(まか)し又は引痘を行(おこな)
はぬ医(ゐしや)の指揮(さしづ)を守(まも)りて謬(しそこなふ)こと多(おほ)きを以て此(こゝ)に始(し)
終(じう)の心得を挙て十全(けがなきこと)を保(うけあふ)の道を喩(さと)す引痘を其
子に行はんと欲(おも)ふ人は必此書を閲(み)て他(ほか)に心を惑(まどは)すこと勿(なか)れ
《題:引(うゑ)痘(ぼうさう)喩俗(さとし)草(ぐさ)》
《題: 安芸有喜斎》
三宅ぬしあきの国に
接痘のわさをおこなひ
て此病にわつらふへき
児ともの為にいみしきわさを
たてらるゝよしを聞て
吹すきはあれ散こすゑの
うきかせをよそにさくらの
花しつめ【注】かな 芳樹
【注 陰暦三月の花の散る頃、疫病も分散して人を悩ますと考えられていたことから、疫病を払うために、古代、令制で神祇官が行った祭祀の一つ。大神(おおみわ)、狭井(さい)の二神をまつった行事。】
引痘(うゑほうさう)さとし草
引痘(うゑほうさう)貴人(きにん)に専(もつは)ら行(おこな)ひ給ふ事
此引痘は古今無二の良法(よきほふ)にして人命(ひとのいのち)を助(たすけ)ること
是(これ)に出(いづ)る物なし嘉永二年己酉に和蘭(をらんだ)より此種(このたね)を
持来(もちきたり)しより人々/尊信(そんしん)する者 多(おほく)して京都にては
親王方(みやさまがた)を初奉り諸国には御大名方に専ら行(おこなひ)給ふ
事は人々の知(しる)所なりかゝる貴(たつと)き御方にはよく〳〵
御穿鑿(ごせんさく)ありて聊(いさゝ)か妄漫(みだり)なる事を用い給ふ物に
非す然に世人(よのひと)一己(おのれ)の臆断(りようけん)にて此の法を疑(うたが)ひ或(あるひ)は譏(そしり)
などするは実(ぢつ)に頑愚(がんぐ)【左ルビ「ことのわからぬ人」】といふ者なり
悪説(あしきひやうばん)は能々/撿査(たゞ)し見るべき事
引痘の再(にど)発せぬ理(わけ)は言(いふ)にも及ねば爰(ここ)に略(りやく)しぬ
世人(よのひと)折角に吾(わが)子に引痘して大厄(たいやく)を逃(のが)さんとせし
時に何所(どこ)に再痘(にど)したといひ又/彼所(あれ)には引痘に
て夭死(わかじに)したもありなど実(ほん)らしく云(いひ)なして其/父(お)
母(や)の疑(うたがひ)を起(おこさ)しむる悪人(あくにん)あり若(もし)左様なる説(ひやうばん)ある
時は我(わが)子の為(ため)なれは竭力(ちからをつくして)【左ルビ「こんかぎり」】能々/撿査(ただ)し見るべし
必ず浮説(うそ)なりしかし無法(むほふ)の医(いしや)が妄(みだり)に引痘して
真仮(ほんものとにせものと)の弁別(わかち)も知(しら)ずして誤(しそこなふ)事は常にあることなれば
引痘には別(わけ)て医(いしや)を撰(えらぶ)を第一とすること也
他病(ほかのやまひ)を引痘の罪(つみ)とすべからざる事
引痘したる頃又其後も他(ほか)の病(やまひ)起(おこる)ならば必引痘が
【左頁】
引出したとして其父母大に後悔(こうくはい)し又すゝめし
人を恨(うらむ)るに至(いた)る是/畢竟(ひつきやう)引痘を疑(うたかふ)心の離(はな)れぬなり
惣(すべ)て諸病(しよびやう)は何時(いつ)起(おこる)も計(はか)られぬ物なれば引痘の内(うち)
外(そと)とて必ず病の起(おこ)らぬ事はなしそれを尽(こと〴〵)く引
痘の罪(つみ)とするは迷惑至極(めいわくしごく)のこと也引痘の道理(だうり)を
能々 曉解(えとく)する時は此/疑(うたがひ)の起らぬ物也
引痘/諸事(しよじ)素人(しらうと)の臆断(りやうけん)に任(まか)すべからざる事
小児(こ)生下(うまれて)四十日已上には引痘すべし六七ヶ月の頃
より生歯(はのはへる)頃は同しくはせぬをよしとす又 寒暑(さむさあつさ)の
気候(きこう)に拘(かゝわら)ず風雨霜雪を厭(いと)はず日の吉凶(よしあし)は猶更
言(いふ)に及はずと知べし然るに世の人たゞ素人(しらうと)の臆断(りやうけん)
【枠外上部】
生歯(はのはへる)頃(ころ)に
は必でき
ぬといふ
にはあら
【枠外上部】
ず是を又
おそれす
ぎて引痘
を怠(おこた)り自
然痘の来
るを待も
不覚悟(ふかくご)也
依て是も
医に任(まか)す
べし
【右本文】
にて医(ゐしや)が夫等(それら)に妨(かまひ)なきことを諭(さとす)といへども聞
入れず或は初より医にも相談せずして今少し
丈夫(じやうぶ)の附(つく)を待べしなどいひて恰(てうど)生歯(はのはへる)頃(ころ)になり
て思ひ立ち又は此頃は多用なり又は不気候(ふきこう)なり
とて医のすゝめる頃に引痘せずして遂に自然(じねん)
痘(ほうさう)の流行(はやる)頃になりて狼狽(うろたへ)るも詮(せん)なきにいたる事
なり又引痘の中(あひだ)には清涼(すゞやか)にすべき事は後の条(くだり)
にも見ゆる如くなれども是も聞入ず温暖(あたゝめ)すぎて
害患(さはり)を起(おこ)さしむる事ありすべて引痘の事は何も
引痘に精巧(こうしや)なる医(ゐしや)に委任(うちもたれ)てその教喩(をしへ)に随ふ
へし左なき時は十全(けがなきこと)は保(うけあ)ひがたし
【左頁】
引痘を軽悔(あなどる)べからざる事
自然痘(じねんほうさう)ならば縦(たと)ひ軽(かろき)証なりとも父母大に恐(きづかふ)て
日々/医(ゐしや)の診察(みあはせ)を嘱(たの)み昼夜(ちうや)怠(おこた)らず看視(かんびやう)し或は前
後新仏に参詣(さんけい)して遠路(ゑんろ)をも厭(いとは)ざるに引痘なれば
とて軽侮(あなどり)て心を用(もちひ)ず骨をも折(をら)ず種(たね)を分(わけ)んが為
に他家(よそのいへ)に行事(ゆくこと)は猶更/悪(きら)ひ剰(あまつさへ)医家(ゐしやのいへ)遠路(ゑんろ)なればとて
推(つれ)【携ヵ】の行(ゆく)事を厭(いと)ひ又は子(こ)の泣(なく)事を憫(あはれ)【「おご」左ルビ】がりなどして引
痘を怠(おこた)り或は真假(ほんとにせと)の弁別(わかち)を鑑定(みさため)させず又夜は
熟眠(ねすぎ)て子の思(おもふ)まゝに疱(でもの)の痒(かゆみ)を掻剥(かきはぐ)をもしらぬ人
あり是等は己後(いご)再痘(にどほうさう)するとも医(ゐしや)の誤(しそこなひ)に非ずと
知べし引痘してその最(も)易(やす)き難有さを思ふときは
【枠外上部】
医家(ゐしやのいへ)に携(つれ)
行(ゆき)て引痘
する時は
多人数の
なかにて漿(うみ)【「たね」左ルビ】
の善(よき)をゑ
らみて種
る事なれ
ども其家
【枠外上部】
に医を招(よび)
寄(よせ)てはそ
の事叶は
ず
【右本文】
自然痘(じねんほうさう)の十分一は心を用ひ骨を
折るとも何事かあらん
種(たね)は人々に伝(つたふ)
べき事
此引痘の種(たね)は元来(ぐわんらい)
西国(さいこく)の或(あ)る御大名
の御骨折にて和蘭(をらんだ)
より御取寄に相成
それをその姫君(ひめぎみ)に
うゑさせ玉ひて其
種を末々へ下(くだ)されたる
【左本文】
より日本国中に弘(ひろ)がり
たるものなり種(たね)といふは
即(すなは)ち発出(はえいて)たる痘(ほうさう)の良漿(よきうみ)
なり己(わ)が子も人の子の
漿(うみ)を種(たね)として大厄(たいやく)を逃(のが)れ
たれば又人の子にもわが
子の漿(うみ)を伝(つた)ふべき道なり
旦(そのうへ)是を採(とり)て一切 害(さはり)にな
らぬ物なれば医もそれを
採(とり)伝(つた)へて始終(しじう)たえぬ様に
することなり万一その子に毒(どく)など
【右本文】
ありて種(たね)にならぬもあればとりて人々に伝ふる程の
良漿(よきうみ)ならばその父母 喜(よろこ)び勇(いさ)むべき事なるに中(なか)に
は可愛(かあい)子の漿(うみ)を破(やぶ)り採(とる)ことは医にもさせぬなど
理不尽(りふじん)に言(いひ)て種(たね)の絶(たえ)るを気毒(きのどく)にも思はぬ人あり
是は人情(にんじよう)も恩義(をんぎ)もしらぬ人なり其上是を採(とり)て
為(ため)にならずは高貴(たつとき)御方は猶更末々へ下されぬはづ
医も亦せぬ筈なり是等を考(かんかへ)見るべし
合併(かふへい)【「であひぼうさう」左ルビ】は必ず恐(おそ)れる事にあらざる事
自然痘(じねんほうさう)がはやる時に引痘すると自然痘と一同(いちどう)に
合併(がふへい)【「であふ」左ルビ】する事あれば流行(はや)らぬ前に引痘をすまし
置(お)けば安心至極なりしかし流行(はやる)時に引痘すると
【左本文】
自然痘を呼出(よびだ)して合併(がふへい)し難(むつかし)うなるといふてそれを
恐(おそれ)て引痘せぬ人も亦 多(おほ)しといへとも左様の理(わけ)は
なきもの也 引(うゑ)てから十五六日を越(こ)しては再(ふたゝ)び
自然痘を患(わづら)ふこと決(けつ)してなき事なれども十五
六日の間(あいだ)には稀(たま)には自然痘か來(く)ることは引痘
せぬ前も同じことにてそれは禀有(もちまへ)の痘(ほうさう)ゆへ善(よき)も
悪(あしき)もあるべし合併すると別(わけ)て難(むつかし)うなるといふ
事はなき也引痘の書(ほん)には合併すると多くは軽(かる)し
とさへかきのせたり依て流行(はやる)時とて引痘を恐(おそ)れ
てせざるは自然痘の來(く)るを伝更【受ヵ】るものにして
危(あぶな)きを求むるの道としるべし
【右本文】
痘中の心得(こゝろえ)調護(ようじん)并に禁食(きんしよく)の事
一 痘は引(うゑ)てより三四日の頃より見点(ほみせ)して十一二日
には乾収(かはく)を常とすれども人によりて少(すこし)の遅速(ちそく)あり
と知べし出痘(でるほうさう)は一粒(ひとつぶ)にてもよしと知べし
一 熱(ねつ)は多く八九日に発(で)るものなり又初より発るも
あり此頃は寝(ね)られぬあり食事 進(すゝま)ぬあり癇(かん)動(うご)
くあり又何事もなきあり人々によりて異同(ちかひ)
あれどもそれによりての害(さはり)はなきものなり
一 落痂(かきとれて)後(のち)牛痘疹(ぎうとうしん)とて惣身(そうしん)に斑疹(ほろせ)の発(で)る事あり又
毒(どく)多き人は壊爛(わかびれ)て灸(やいと)の泡着(ほうちやく)の様になりて長く
乾収(かは)かぬあり又 出痘(ほそうのでゝをる)中(うち)よりそれ等の見える
【左本文】
あり毒(どく)の少(すくな)き人には是の患(うれひ)なし是等の発(で)る
人は自然痘(じねんほうさう)にては助(たす)かられぬ毒(どく)と知るべし
一 衣類(いるゐ)其外/清涼(すゞやか)にするはよし温暖(あたため)過(すぎ)るは宜(よろ)しからず
大抵(たいてい)諸事(しよじ)平生(へいぜい)の調護(ようじん)にかはらぬをよしとす
一 痘中(ほうさうのあいだ)外(そと)へ出(でる)こと常(つね)の如く遊戯(あそび)等も心に任(まか)すへし
一 日々 浴湯(ゆをつかひ)てよし風呂にも入れてさわりなし
一 頭髪(さかやき)を剃(そ)りてよし
一 甚暑(どよう)日中(ひのつち)には裸体(はだか)も障(さゝはり)なし弄水(みづなやみ)も苦しからず
一 厳寒(さむさ)の時も巨燵(こたつ)をすごすべからず
一 筒袖(つゝそで)《割書:てつぽうそで|ともいふ》を用(もちゆ)べからず
一 痒(かゆ)き時は乳汁(ちゝ)を塗(ぬる)へし掻剥(かきはが)ぬ様に心を附べし
一 七八日の頃 腋下(わきのした)に腺腫(ねができる)事あり抱(だき)かゝへに
心附べし泣叫(なく)こと強(つよ)きはそこの痛(いた)む
と知べし
一 出痘(できたほうさう)に真(ほんもの)と假(にせもの)とあり出高(でそろひ)の
時それを鑑(み)定(さだめ)るが医(ゐしや)の要訣(かんじんのでんじゆ)なり
依て医家(ゐしや)の指揮(さしづ)に任(まかせ)て日限(にちげん)
を問(と)ひ其頃又 携行(つれゆく)べし
若 假痘(にせほうさう)ならば再(にど)
種(うゑ)ねは後日(のち)に再痘(にどほうさう)
するなり又 真痘(ほんぼうさう)
にて順正(じゆんしやう)ならば
漿(うみ)を採(とら)せて他(よそ)の種(たね)とする事なり是も医に
任(まか)せて快(こゝろよ)く許(ゆる)すへし他医(よそのゐしや)より其/種(たね)を求(もとめ)る
ならば引(うゑ)たる医(ゐしや)に尋(たづね)ての上にて漿(うみ)を採(とら)す
べし
一 痘中(ほうさうのあいだ)忌諱(いみごゝ)一切なし神祭(かみまつり)は自然痘(じねんぼうさう)にても医法(ゐしやのほふ)には
なき事なれば人々の心任(こゝろまか)せにすべきものか
一 此引痘は百日咳(つよきたぐり)【「せき」左ルビ】。頭瘡(づさう)。疥癬(ひぜん)【「しつ」左ルビ】。佝僂病(せむしはとむねのるゐ)【「ちゑのおそき」左ルビ】。疳(むしかん)。等の諸病に
行(おこなひ)て若しからだ或は平癒(へいゆ)にいたるもありと西書(をらんだのしよもつ)に出(いで)
予も数々(かず〳〵)是等(これら)其外(そのほか)の病にも経験(ておぼえ)あり是は常に
病身(びようしん)なる児(こ)自然痘(じねんぼうさう)を患(わづらひ)て後(のち)大に快(こゝろよ)くなるも同理(ひとつわけ)
にて疑(うたがふ)べきにあらず詳(くはしく)は予(わ)か作(つく)りし補憾録(ほかんろく)に見えたり
【裏表紙】
【表紙 題箋】
散花養生訓 全
【資料整理ラベル】
1594
1
【同】
852
37
【蔵書印】
松山
池内氏
藏梓
【右丁】
【朱印】
天教保
幼托茲
仁獣
伯巖【落款】
【左丁】
【牛の画】
琢斎【落款】
【右丁】
松山藩 石井喜太郎
うゑもせぬたねこそ身にはおひ
にけれおひすはわれもうゑまし
ものを
義郷
きみか手に
たねとり なく成に
そめし ける哉
えひす草
うゑぬひと 清臣
同藩 西村弥四郎
【左丁】
散花養生訓 【印=遠加文庫】
【印=木邨氏図書記】 松山 池内蓬輔 記
総論(そうわけ)
嘉永二年の夏/和蘭船(おらんだぶね)齎来(もちわたり)しより今に至(いた)つて七
年の間/各国(くに〳〵)行(おこなわ)るゝ種痘(うへほうそう)は牛痘(うしのほうそう)の苗(たね)にて/古(ふる)く行
ひ来りし人痘(はやりほうそう)とは苗の元素(おゝもと)大に異なり人痘の
苗にて種(うゆ)る法(ほう)数術(かづ〳〵)有りといへとも危嶮(あやうきこと)多きゆ
へ牛痘法/始(はじまり)しより絶(たへ)て行(おこの)ふ人なし此(この)牛痘法は
一人も命(いのち)を誤(あやま)らす麻面(じやぎ)畸醜(かたわもの)とならず古今(こゝん)の妙
【右開】
術なり医(い)法の中にも痘(ほうそう)に鈎(かぎ)らす妙術奇法(みようじゆつきほう)と唱(となへ)
る法は多くあれども此法に及ふ法なしいかな
る妙術奇法といへども一人に功あれば一人に
害(がい)あり一病に得(う)る事あれば一病に失(しそこない)あり百的(ひやくにんが)
百中(ひやくにん)の金功をうること能(あた)わす故(ゆへ)に此牛痘法は
古今/無二(ふたつなき)の法なる事を知るべし其無二の法な
る事を一諸侯(あるおだいみよう)深(ふか)く感(かん)じ玉ひて厚(あつ)き仁恵(おめぐみ)より和
蘭人に嘱(おゝせつけ)られて痘苗を貢舶(もちわた)り皇国(につほん)の重宝(たから)と
なれり其由来(そのゆらい)は既に芸州(あきのくに)の種痘家(うへて)三宅氏の著(あらわ)
せる引痘喩俗草(うへぼうそうさとしぐさ)と云(い)へる小冊子(こざうし)に見えたり其(その)
【左開】
略(りやく)に曰(いわ)くヿ此引痘の種は元来(くわんらい)西国(さいこく)の或る御大名
の御骨折りにて和蘭より御取奇に相成それを其
姫君(ひめぎみ)にうゑさせ玉ひて其種を末〳〵へ下された
るより日本国中に/弘(ひろ)かりたるものなり種とい
ふは即(すなわ)ち発出(はへいで)たる痘(ほうそう)の良漿(よきうみ)なり己(わ)が子も人の
この漿を種として大厄(だいやく)を逃(のが)れたれは又人の子
にも己が子乃漿を伝うべき道なり且(そのうえ)是を採(とり)て
一切/害(さわり)にならぬ物なれば醫もそれを採(とり)伝(つた)へて
始終(しじう)たえぬ様にする事なり万一その子に毒(どく)な
どありて種にならぬもあればとりて人々に傳
【右丁】
ふる程の良漿(よきうみ)ならばその父母/喜(よろこ)び勇(いさ)むべき事
なるに中には可愛(かわい)子の漿を破(やぶり)り採(と)ることは醫
にもさせぬなど理不尽(りふじん)に言(いひ)て種の絶(たへ)るを気毒(きのどく)
にも思はぬ人なり是は人情(にんじやう)も恩儀(おんぎ)もしらぬ人
なり其上是を採(とり)て為にならずば高貴(たつとき)御方は猶
更末々へ下されぬはつ醫も亦せぬ筈なり是等
を考(かんがへ)見るべし」とあるを見ては其仁恵のありが
たき事/言語(ことば)に尽(つく)し難(がた)し其/訳(わけ)も知らず疑心(うたがい)を離(はな)
れす種々(いろ〳〵)の悪説(わるくち)を流布(いいふら)し婦女子(おんなこども)を迷(まよ)わす事/実(しつ)
に天下の大/罪(とが)人/其罪(そのとが)其身(そのみ)に帰(むくい)て終(つい)に自然(しぜん)の道(どう)
【左丁】
理(り)に因(より)て愛(かわゆき)子を天痘(はやりほうそう)の為(ため)に夭傷【左=とられる】する人少から
ず恐(おそ)れ謹(つゝし)むべし
種日法(うへびのわけ)
○種痘(ほうそう)を乞(こ)ふ父母の心得べきは先つ種(う)へ日(び)に
携行(つれゆ)き受痘(うへてもらい)しより第四日(よつかめ)に当(あた)る早朝(そうちよう)携(つれ)行き見(ほみ)
苗(せ)の況景(もよう)を質(ただ)【左=みてもらい】し《割書:真痘の見苗なれば此日より心まか
|せに赤幣(おしめ)を張(はり)て其儀(ぎしき)の如くす》
又/第七日(なぬかめ)に携行きて起脹潅膿(やまあけほんうれ)真假(よしあし)の鑑定(みわけ)を乞(こ)
ひ且(そのうへ)漿(たね)乞(このま)るゝ時は快(こゝろよ)く漿を分つべし三宅氏
も言(いへ)る如く/瑣少(すこしも)害(さわり)ある事なし《割書:予も|》七年来(しちねんらい)数百(かずの)
児(こども)に試(こゝろ)むれども一人害あるを/曽(かつ)て見聞(みきゝ)せす然
【右開】
ども其漿を採るに定法(おきて)あり譬(たとへ)は五顆(いつか)ある者は
二顆(ふたつ)の外(まか)採るものにあらず不熱(てなれぬ)の醫(うへて)は五顆/盡(みな)
く採ると言へども五顆盡く漿を採りては防痘(うえほうそう)
の功(しるし)少なし何(なに)ゆゑに防痘の功少なしと言へば
八九日前(ほんうれのまえ)に掻(か)き破(やぶ)れば再剃(うへなをし)するものゆゑ其功
少なし故に種痘を托(たの)む醫(い)は格別(かくべつ)に選(えら)んで托む
べし鎖術(さゝいなわざ)の様(よう)に見ゆれども種法(うへかた)鑑定(みきわめ)ともに口(く)
訣(でん)もあり且つ経験(てをほへ)も多からざれば真仮の鑑定
に窮(こま)る事少なからず其種術鑑定経験/正(ただ)しから
ざれば牛痘を種ゆるといへども再痘すまじき
【左開】
に非(あ)らず次の條(くだり)に真痘の一端(はしくれ)を挙(あげ)て世(せけん)の迷(まよい)を
解(と)く聊(すこし)の助(たすけ)に備(その)ふ世(よ)のひと何(なに)ごとも是非(よしあし)を正さ
ず驚(おどろ)くべからざる事に驚き驚くべきに驚かず
再痘したと言(いふ)其/元(もと)を正さず漫(みだ)りに種痘は何に
もならぬものにて彼(かしこ)にも再痘したり(こゝ)にも再
感せり/剩(あまつ)さゑ痘を種て后天痘に染(うつ)るときは悪(あく)
痘(とう)が発(でき)て死したり又種痘すれば夭折(わかじに)する等(など)の
空言(うそ)を信(まこと)にし狐疑猶予(うたがいみあわす)内に天痘に罹り終(つい)に取
りがゑなき一子(ひとりご)を失ひ後悔(こうくわい)するを見るに忍(しの)び
ず世人は笑(わら)ふべけれども遠慮(えんりよ)なく嬰児(こども)を見る
【右丁】
毎(たび)に種痘せしめよと強(しい)て勧(すゝ)むなり種痘中醫
の誤(あやま)り或は父母の杜撰(そまつ)より合併(かふへい)と言て種痘と
天痘と一時(いちじ)に発する事なり此痘を世人再痘と
言ふ再痘にわあらず合併/或(あるいは)兼痘(けんとう)と言ゑる症(たち)な
り再痘と言るものは種后十五日の経過(うんあわせ)恙(さわ)りな
く痂も落て后天痘に罹らば是れ全(まつ)く再痘なり
其症あることを未(いま)だ聞(き)かず知(し)らず醫(い)の不熟か
虚説(うそ)かよく〳〵吟味あるべし尚(なを)世人/何(いつれ)の説(いふこと)を聞(き)
き誤(あやま)りたるか小児/生(うま)るゝ其年は痘に感(かん)ぜぬも
のなどの空言を信じ種痘の訳(わけ)を信じながら種(うへ)
【左丁】
ずして流行痘を感じて死するを毎次(おり〳〵)見聞きせり
小児/生下(うまるゝ)四五十日を経(すぐ)れば種(うゆ)べし空言に迷ふ
べからす必らず予が億説(ひがこと)に非ず和蘭に於(おき)て此
の如き種法なる事/引痘諸書(うへぼうそうのほん)に見(みへ)たり痘を種て
真痘を得(ゑ)て十五六/若(もし)くは十七八日を過(すぎ)る迄(まで)は
天痘を恐るゝ事/疫癘(じゑき)を恐るゝ如くすべし其(その)体(からだ)
の痘を感(う)ける感受力(かんじゆりよく)と言るもの全(じゆう)く(ぶんに)脱(ぬ)けず
《割書:委しくは種痘|小言に見たり》天痘の毒気(どつき)は風につれ又は衣裳(きるい)に染(つき)
て五里十里の遠路(ゑんぱう)も飛ひ行きて人に伝染(うつる)もの
なり古人(こじん)も十五日を過るまでは合俗を恐るゝ
【右開】
る実に疫病を遁(よけ)るが如くす
真痘弁(しんとうのわかち)
○真痘の次序(したい)は種日より第三日の夜又は四日
の朝に至つて蚤(のみ)の咬(かみ)たる如く淡紅色(はなりあかく)に顕(みへ)るは
真痘の見苗(ほみせ)なり
《割書:種る翌日大豆大さに赤く腫れ|上るは仮痘の見苗なり》夫(それ)
より経過して第八区日に至れば満漿(けんうれ)して葡萄(ぶどう)
のよく熟(うれ)るに似(に)て痘の周囲(まわり)に紅単(こうこん)とれ赤き糸
の如く輪(わ)を廻(まわ)し痘の頂(いただ)き少し凹(くぼ)み流行痘の
面部(かほ)に四五(よついつゝ)顆を発したる善痘(ぜんとう)に異ならず又九
日十日に至れば掀衝(きんしやう)とて一様(つつたり)に痘と痘との間
【左開】
赤く腫(は)れ《割書:いわゆる|じばれなり》脇下(わきのした)腫れ面色埃淡(かほいろあをざめ)て心中(きげん)爽(さわや)か
ならず熱(ねつ)の発作(でいり)ありて天紙(うすれいき)によりては頭痛(づつう)吐(と)
瀉(しや)又は不食(ふしよく)すること有り是(これ)真痘の徴候(しるし)なり仮(か)
痘(とう)には此の如き諸症(わずらい)なし若(も)し仮痘なれば幾度(いくたび)
も種直(うへなを)すべし真痘といへるものは其/年齢(としかす)によ
りては一点(いつてん)まても諸症/備(そなわ)るときは種痘の功(さるし)あ
ることなりたとへ数点(かず〳〵)発出(てきる)とも真仮分明(よきわるきたゝか)なら
ざる時は其功なし故に携れ来る日記(やくそくに)は風雨寒(あめかぜあつさ)
暑(さむき)多事匁肥(いそがわしき)且(か)つ遠近(とをきちかき)をゑらばず種痘醫の家に
行こと是父母たるものゝ専務(うんよう)なり尚種痘中は
【右開】
食傷風邪(しょくたりかぜひき)其他(そのほか)を発せざると夜分(やぶん)掻き破らぬ
ようとに心を配(くば)る事是又油断あるべからず天
痘の如く昼夜看病(よるひるかいほう)の苦(くる)しみもなく神佛(かみほとけ)を祈り
或は大金を費(つい)やす等の配慮(いんぱい)なければ乳児(ちのみご)は母
の食物(くいもの)を淡簿(さかりとしたもの)にし十二日の間は堅(かた)く慎むべし
乳(ちゝ)汁の性(あじ)を変紋(かわら)し其乳汁を嚥(の)ましめば其児/種(いか)
引の病を発する事ありて痘に拘(かわ)なぬ症にて命
を検(そん)ずるあり古人のいへるにも人命(じんめい)は朝露(あさつゆ)の
如く危(あやう)きものにて無病(つね〴〵)平全の時と雖(いゑ)ども何ん
時病を発して死すましきにも非らずいわんや
【左開】
種痘中/他病(ほかごと)にて死るも婦女子は種痘のゆゑと
疑心を起(おこ)し悪評(わるくち)を流布して此の良法(りようほう)を汚(けが)す事
少なからす
禁戒(いみごと)
○種后(うつてのち)風呂(ふろ)に浴(い)る事/先輩(せんせいだち)の法悦(かんがく)ありて適不適(よしあし)
あれども過半(たいてい)浴(いら)ぬ方/宜(よろ)しく半身浴(はんしんよく)とて腰以下(こしよりしも)
を四時(なつふゆ)とも洗(あら)ひ其他(そのほう)は手巾(てぬぐい)にて拭(ぬぐ)い置(お)くべし
随痘(なちにより)其人に指揮(さしず)すべし
○剃髪(さかやき)は種后/五六日(いつゝむやう)の間(うち)は害(さわり)なし七八日より
濃熱(のうねつ)とて熱を発(おこ)すゆく十二日の后/剃(そ)るべし
【右開】
○灸火(やいと)は種后宜しからず十二日の后すゆべし
元来灸火の効用(こうのう)は衝動(しやうどう)とて筋肉気血(そうしん)を動(うご)かし
て病を治(なを)すものゆゑ症(たち)によりては大小害あり
十二日の后すゆべし
○衣類(きもの)は寒辺(かんちう)といへども法外(ほうぐわい)の重服(かさねぎ)は宜しか
らず近時(ちかころ)行(はや)る筒袖(つゝそで)《割書:一に鉄他袖と|いゑるもの》/痘中(うへてのち)甚だ不便利(ふべんり)
なり年常(つね〳〵)といへども嬰児には不養生(ふようじやう)の服(きもの)なり
用ゆべからず
○禁食(どくいみ)は用飲膳(まいにちそへもの)に供(そなへ)るの品(もの)甚だたし盡(ても〳〵)く此
に書記(かきしる)す事/能(あた)わず漸(やうやく)く二三品(すこしばかり)を次に記(しる)せりは
【左開】
とも其(その)天賦(うまれつき)と貴賤(うへ〳〵しも〴〵)都(みやこ)鄙(いなか)との少差(ちがい)もあれば委し
くは醫に問て用ゆべし
青色(あをいろ)の魚類(うをるい) 脂肪(あぶら)多(おゝ)き魚鳥(うをとり)又/獣類(けだもの)の肉(にく)
塩蔵(しほくら)の魚鳥 総(すべ)て難消化(こなれにく)き食物(くいもの) 油酒
酸味(すのけ) 餅(もち) 烏賊(いか) 章魚(たこ) 海老(えび) 蒟蒻(こんにやく)
南瓜(かぼちや) 茸類菓(たけるいなり)ものゝ諸品(るい)善悪あれども惣て
食せざるべし豌豆蚕豆(えんどうこやまめ)の二品(ふたつ)大害(だいどく)あり痘
に痒(かゆ)みを生(おこ)して十に八九は掻き破るなり
落痂(うわおちこ)の后も暫時(しはらく)食すべからず摩蛹(たゞ)れて痘(あ)
痕(と)久しく乾(かわ)かざる事なり是予が経験す
【右開】
事/所(ところ)なり
○神祭(まみまつ)りは醫(い)法にあづからぬ事ゆへ其心に任(まか)
すべし種痘は一切(いつせつ)忌憚(いみきらい)なきを妙とす只/痘漿(たね)の
善悪に因(より)て痘の染不染(つくふかぬ)あり故(ゆへ)に種痘に念(こゝろ)ある
人は醫の動(すく)むる時は前に言る如く大凡(たいてい)の差(さ)し
合(あい)は捨(す)て置(おき)て種(う)ゆべし惣て種痘醫は漿の続(つい)く
を専(もつぱ)らとし棚(あわれと)塩(おけふ)の術(わざ)を行(おこな)う心(こころ)上より嬰孩(えどりご)を愛(あい)
する事/親疎(しんそ)の別(わかち)なく当(しかも)大陽(にちりん)の六合(せかい)を照臨(てらし)たも
ふが如とし
散花養生訓 終
【左開】
○此の散花養生訓(かへそうそういやうじやうくん)は種痘中/摂生(やうしやう)の次第(くわい)を
問るゝに人毎(それ〳〵)に答るに迎(ひま)あらず且つ言語(いふこと)
は聴聞(きくように)の間(より)誤(あやま)りなき事能わず故に至要(うんよう)の
一二言を綴(つゞ)り傍(かたわ)ら答訓(こたへ)の労(めんどう)も劣(はぶ)くが為に
木(はん)に上(ほり)し家塾(いへ)に蔵(おさ)めり必ず公にするに非
らず尚種痘の委曲(くわしきこと)は予が耕(つヾ)り作(な)す種痘(しうとうせう)に
言(げん)に見へたり他日(ちか〳〵)夜々梨(はんにほること)を果(はた)さば諸君子の
槃生を希ふと伝 角
安政二年未巳外秋日 散花堂施印
【記述なし】
【裏表紙】
瘡家示訓 全
瘡家示訓
凢(およ)そ億兆(をくてう)の人。病(やまひ)せるのくさ〴〵多(をほ)かる中に。
黴瘡(ばいさう)てふ悩(なやめ)るや。其(その)はじめ閨房(けいぼう)のみぞり
かはしきる利發(をこ)り。父兄(ふけい)にはすたゝなり。同じ
家(いへ)なる人にも。深(ふか)く隠(かく)しつめるゝより。終身(しふしん)の
奇人(きしん)となり。果(はて)〳〵は魂(たま)の張(お)の。飯(ひえ)ぬるに至るも
はた鮮(すゝれ)しとせず。醫又愈(いゆ)々の道(みち)し。わいため
【右】
ぬにしもあらあずど。うたゝ其功績(いさほし)の著明(じよめい)な
るを見ず。こや労(らう)して功(かう)なしといはん。さるを
小川氏顕道(あきみち)のぬしなゝ。是(これ)を憐悃(れんこん)なせる事爰(こゝ)
に年わり。その病(やまひ)しはじめに萌(きざす)す所を。誡(いましめ)の言(こと)
実(げに)〳〵至(いたり)ふかう。旦庸醫(りつやうゐ)心肝(しんかん)に。延(いしばか)するの言(こと)の
葉(は)。いと切(しきり)にして。こせひ瘡家示訓(そうかしくん)と号(がう)し。一名(いちめう)
瘡守土団子(かさもりつちだんご)と題し。梓(し)に壽(しゆ)し佛いる。世の永(なが)き
【左】
寳(たから)ともいふべし。此(この)小川のぬしは。醫員(ゐいん)何がしの■(ゐん)にて。
家(いへ)つ風吹絶(ふきたえ)ずして。御施薬院(おほんせやくゐん)になん。旧(ふる)く事業(ことはざ)
つとめ怠(おこた)らて。齢古希(こき)より余(あま)れること四(よ)とせ。子孫(しそん)の
数多(かず)は廿余(はたちあま)り三(み)たつ。いさゝかの悩(なやめ)る事さへあらで。どのも〳〵
さかんに公(おふやけ)につかう結つるや。はた世に稀(まれ)なりと伝べし。
こたの此書(このしよ)を携(たづさへ)いく。吾に序せと需(もとめ)切(せち)なれど。己(をのれ)は
醫の道とては菽麦(しやくばく)をさへもしらねど。ひたふるに悩る事
【右】
露(つゆ)あれで。八十五とり巳の齢を保(たも)ちふるも。僥倖(ぎやうかう)なりとて。
いなひ参らすも。ゆるされねば。せんすべなみに固陋(ころう)寡聞(くわぶん)
も厭(いと)いで。かゝるひかことの葉を。はじめにくはへぬる
雲しかいふじん。
文化七午年
硃川岱老士
陽■日 高元如 【花押】
【左】
瘡家示訓《割書:一名瘡守土団子|》
四海(しかい)波静(しづか)に。元和(けんわ)このかたの泰平(たいへい)なる
日本開(ひら)けしよりの
御代(みよ)にして。萬異(よろづ)ゆたかなることたうとぶに
あまりあり。世人(ひと〳〵)かゝる未曾有(みぞう)のありがたき
世に鼓腹(こふく)【左ルビ ハラツゞミ】して。なをたれりとせず。たかきも
いやしきも客氣(うはき)にまかせ。飲食(いんしよく)女色(ぢよしよく)の二つに
【右】
のみ心肝をうつすにより。遂(つい)には疾病(やまひ)おほく
して命(いのち)みじかし。それ人のおもんずる所は
命(・)なり。命にまされる寳(たから)あらじ。命みじか
なれば財(たから)の山に入ても更(さら)にかひなし。親(おや)
もてる人主人(しやじん)もちし人は。ことに飲食(いんしよく)女色(ぢよしよく)に
陥溺(かんでき)【左ルビ オボレル】せぬやうに。深(ふか)くをそれつゝしむべき
ことなり。それが中にも瘡毒(そうどく)ほど。世にいたましく
あさましきものはなし。此病(このやまひ)によりて
【左】
痼疾(ほねがらみ)となり。なかくくるしみ。うまれもつかぬ
廃人(かたわ)となり。終(つい)には死(し)にいたる人おびたたし。
此病/高貴(かうき)の人にあることすくなく。下士以下(かしいか)
卑賎(ひせん)のものにあり。質朴(りちぎ)なる者の患(うれへ)るはほと
ぬどまれなり。《割書:余(われ)|》犬馬(けんば)の齢(とそ)すでに七十三にして。
老廢(ろうはい)の身のうへ氣力(きりよく)うすくなり。近きころは佗(た)の
治療(ぢれう)もほどこあず。されども世に此病の多(おほき)をみるに
なげかしく。今(こゝ)茲に瘡毒(そうどく)のみの薬(くすり)と病(やまひ)と醫(いしや)と
【右図中文字】
素山画
御休所
瘡守稲荷大明神
瘡守
【左図中文字】
守(しゆ)護(ご)神(かみ)
瘡守稲荷大明神
【右】
三ツの意味(いみ)を述(のべ)。名醫(めいい)のをしへを規矩(すみかけ)とし。
さとし易(やす)からんやうにしるして。年若(としわか)き人々の。
こゝろえとなるべきことを示(しめ)すなり
〇唐土(もろこし)の古(いに)しへは。此病を侵入淫瘡(しんいんさう)となづけし
よし。元(げん)の世(よ)の初(はじめ)よりはじまり。明(みん)の世/萬暦(ばんれき)の
頃(ころ)にいたりて。さかんに流布(るふ)す。袁了凡(ゑんりようはん)が。痘疹(とうしん)
全書(ぜんしよ)に。楊梅瘡(ようばいさう)は近世(ちかきよ)広東(くわんとう)より傳染(でんせん)しきたる。
ゆへに広東瘡(くわんとうさう)となづくと見えたり。もろこしも
【左】
明(みん)の季(すへ)は泰平(たいへい)にて。繁華(はんくわ)にありけるにより。
都鄙(みやこいなか)ともに。酒肆(いざかや)女閭(ぢようろや)の類(るい)みち〳〵たりとうや。
今/我(われ) 邦のごとく盛世(さかんなるよ)にて。人民(にんみん)飲食(いんしよく)女色(ぢよしよく)に・
ふけりしにより。此病も多くありしなり。泰平(たいへい)
長久(ちやうきう)の世に時行病(はやるやまひ)なるべし。頗(すこぶ)るによりたる
ことなり。
〇人は萬物(ばんもつ)の霊長(れいちゆう)にして。天地の間(あいた)に。人ほど
たつとく智恵(ちゑ)あるものなし。故に一切(いつさい)の巧(たくみ)なる
【右】
わざは精妙(せいめう)をつくすなり。しかはあれど疾病(やまひ)の
事にいたりては。人ほど愚昧(をろか)なるものはなし。
禽獣(とりけだもの)のたぐひは。巣居(さうきよ)【「スニスムトリ」 左ルビ】知_レ風穴居知_レ雨(かぜをしりけつきよあめをしる)といひ。
牛馬(ぎうば)に護胎(ごたい)【「ハラミテツゝシム」 左ルビ】といふことあり。鷄犬(とりいぬ)の類毒物(るいどくなるもの)はくらはず。
みな己(をのれ)が身命(しんめい)を守(まもる)ことをしれり。人として
大切(たいせつ)の身命をまもることをしらず。飲食女色
に溺(おぼ)れやまひを生(しやう)じ。其(その)うへに庸平(よう)【「ヤブ」 左ルビ】醫(い)【「イシヤ」 左ルビ】にゆだね。
害(わざわい)をまねぎ。天年(てんねん)をたもたずして。夏(なつ)の虫(むし)の
【左】
ともし火に入ごとくに死するを見れば。萬物(ばんもつ)の
霊長(れいちやう)にして。智恵(ちゑ)ありといふのしるしさらになし。
禽獣(きんじう)にはをとりて恥(はづ)べきものなり。天地の間。たゞ
一氣の運行(うんこう)にて。萬物をの〳〵其生(せい)を保(たもつ)ことなり。
此氣は人の目に見えずして。いたらざる所なし。
故に天地の氣(き)に相応(さうをう)する人は。無病長命(むびやうちやうめい)なり。
天地の氣にそむける人は。多病短命(たびやうたんめい)なり。是みな
人間(にんげん)みづから得失(とくしつ)をなすこととこゝろえべし。
【右】
とりわき小児を生育(をいそだて)するには。天理(てんり)の自然(しぜん)を以(もつ)て
やしなふ時は。醫者(いしや)をたよりにせず。薬を用ひずして。
病(やまひ)すうなく見つよきなり。すこしも天然(てんねん)の
道(みち)にそむき。わたくしの才覚(さいかく)を以てそだつれば。
此氣をそこなひ病おほくして。そだちがたし。
〇此病は飲食女色(いんしよくぢよしよく)の二慾(によく)より發(おこる)といへども。根本(こんほん)は
娼妓(ぢようち)と交接(かうせつ)するよりして。此病を受(うく)るなり。
それ娼妓は数千の人にまじはるにより。その汚精(をせい)を
【左】
うけて。下部(げぶ)に濕熱欝【?】滞(しつねつうつたい)してきよからず。これに
交接すれば。その濕熱の氣に觸感(しよくかん)【「フレテウツル」 左ルビ】して。下疳便毒(げかんべんどく)【「ラヤリヨコ子」 左ルビ】を
はつし。それよりいろ〳〵の壊症(ゑしやう)と変(へん)じて。ながく
身をくるしめ。終(つい)に命(いのち)をうしなふなり。娼妓は
瘡毒(さうどく)の府(ふ)【「イチグラ」 左ルビ】といふべし。此病百人が百人大かた
娼妓よりつたふ。我身より發(はつ)せしを見ることすくなし。
《割書:余|》むかし女閭(ぢようろや)よりたのまれて。おほく此病を治療
せしことあり。いづれの家(いえ)も。娼妓十人あれば七八人は。
【右】
内々(ない〳〵)に此病あり。されども面(かほ)には紅粉(べにおしろい)を粧(よそほ)ひ外貌(かほかたち)
に【「・」 左ルビ】てはさらに病妓(かさかき)とみえず。まことにばけものと
いふべし。すでんい妖(ばけもの)といふ字(じ)は。夭(わか)き女(おんな)の二字を。一字と
せしなり。豈(あに)おそるべきにあらずや
〇此病の症候(わづらひやう)いくばくといふことなし。はじめは
みな下疳便毒(げかんべんどく)よりおこる。これこの病の苗芽(なへめだし)なり。
古語(こゞ)に苗芽(けうげ)にして去(さら)ざれば。ついには斧柯(おのまさかり)を用ひんと
すといへり。樹木(じゆもく)の類も苗(なへ)のときにはさりやすし。
【左】
大木(たいほく)になりては去(さり)がたきをいふなり。されば下疳(かやく)
便毒(よとね)は痼疾廢人(ほねがらみかたわ)となるの苗芽(なへめだし)なりといおしれて。
良醫(よきいし)を聞(きゝ)たゞして療治をうけ。心(こゝろ)ながく服薬(ふくやく)
すべし。若人(わかうど)はとかににはやくいやさんと速攻(そくこう)のみを
いそげとも。此病にかぎり一朝一夕(いつてふいつせき)にはいへず。てまどる
ものぞかかし。豪家(あきびと)の倉■(くら)を建るがごとくに。日数(ひかず)を
へ(・)ずしては。いゑがたしと心得べし。
〇此病の一名を恥瘡(はぢがさ)といふ。はじめ下疳便毒の
【右】
ときは。みづから其(その)悪瘡(あくそう)なるを恥(はぢ)て人にかたらず。ひそかに
同(どう)【「・」 左ルビ】、氣(き)相求(あいもとむ)の友(とも)にのみ談(かた)り合奇薬妙方(あい◎きやくめいほう)ときけば
みだりに服(ふく)し。或は庸醫(へたいしや)にゆだね。急迫(きうはく)【「イソギマハゝル」 左ルビ】にいやさん
ことをもとむ。醫(いしや)も亦(また)眼前(かんぜん)の功(こう)を見せ利を求(もとめ)むと。
己(おのれ)が得(とく)とおぼえもなき峻剤(つよきくすり)をもちゆ。是すこしの
火災(てあやまち)を外(ほか)へしらせず。家内(かない)の者(もの)にて消止(けしとゞ)めんと
して。かへつて大火災(おふくわじ)となすにをなじ。をろか
なるのいたりなり。貝原先生(かいばらせんせい)の伝。諸病の甚
【左】
しくなるは。おほくは初發(しよほつ)の時薬(くすり)ちがへするに
よれり。病症(びやうしやう)にそむける薬を用ゆれば治(ぢ)しがたし。
ゆへに療治(れうじ)の要(かなめ)は初發にあり。病おこらばはやく
良醫(よきいし)をめねぎて治(ぢ)すべし。病ふかくなりては治し
がたし。扁鵲(へんじやく)が齊候(せいかう)に告(つげ)たるが如(ごと)しといへり。
よろずの事も始(はじめ)につゝしまざれば。後悔(のちぐえ)おほし。
○最初(さいしよ)下疳(げかん)を生(しやう)じ。次に便毒(べんどく)となり。それより
いろ〳〵に変(へん)じ。軽(かろ)き時は。頭痛(づつう)。耳鳴(みゝなり)。筋骨疼痛(すじほねいたみ)。
【右】
頭髪(あたまのかみ)脱落(ぬけおち)。楊梅瘡(とうがさ)。重(おも)き時は。内障(そこひ)失明(めみえず)。耳聾(つんぼ)。
鼻中濃汁(はなよりしみしるいづ)。鼻梁(はなばしら)崩隕(くづれおち)。痔疾(ちのやまい)漏瘡(しりばす)。嚢癰(きんたまくづれ)。陰莖(いんきやう)
潰触(くづれ)。喉癬(のどくづれ)。脛瘡(すねがさ)。多骨疽(かさよりほねのできものでる◎)失音聲啞(こゑいですこゑかれる)。水腫(ごたいはれる)
歯齦膿潰(はくきうみくさる)。頭痛如破(づつうわれるがごとし)。痿躄(こしぬけ)。吐血(ちをはく)。噎隔(ばきつかえる)の諸症(いろ〳〵のやまひ)と
なり。或は面目(めかほ)腐爛(くづれたゞれ)して。殆(ほとん)ど癩病(うつはい)のごときあり。
鬱氣(うつき)して労咳(ろうがい)に似(に)たるあり。鼓脹中風(こちやうちうき)に類(るい)せる
あり。此外あぐるにいとまあらず。中にも耳聾(つんぼ)
喉癬(のどくさる)の二症は。難治(なんぢ)の中の難治にして。大抵(たいてい)の
【左】
醫は手を下すことあたわざるの症(しやう)なり。偖(さて)
軽症(けいしやう)の時庸醫は。托出(たくしゆつ)の剤(ざい)を用ること過度(くわど)【「ホドニスギル」 左ルビ】するに
より。或は眼目(がんもく)そんじ。或は耳聾(つんぼ)となり。又は毛髪(けかみ)
痜落(ぬけをつ)。すへて薬(くすり)といふ者は。皆(みな)偏性(へんしやう)有毒(うどく)の物ゆへ
其病に應(をう)ぜざれば。かへつて其ほど〳〵の害(かい)をなす。
さればはじめより醫をゑらびて。みだりなる
療治をうけじ。みだりなる賣薬(はいやく)などに迷(まよへ)じと
用心すべし。
【右】
○此病に馬肉(ばにく)をくらふものあり。馬肉はもろ〳〵
の夲草に毒(どく)ありとみえたり。いまだ醫書の中(うち)に。
此病の薬(くすり)餌(くひ)に用ることを見ず。ことに馬は武用(ぶよう)に
そなへ民力(みんりよくを)をたすけ国家の用をなすものなれば。
たとひ功験(こうげん)ありとても容易にくらふべきにあらず。
そのうへ馬肉は湿熱(しつねつ)大過(はいくわ)のものにして。ます〳〵
毒氣(どくき)をますものなれば。かならず。くらふまじきなり。
○下疳(げかん)に膏薬(かうやく)油薬(あふらくすり)などみたりに敷(つく)るはよろしからず。
【左】
便毒(べんどく)には膏薬(こうやく)を敷(つけ)て。膿水(うみしる)をとらねばならず。
又此病温泉(とうじ)に入べからず。湯治(とうじ)して瘡傷(てきもの)
だん〳〵と腐(くず)るゝあり。或は早(はや)くいえすぎて痿■(こしぬけ)と
なるものあり。其(その)害(がい)あげていふべかるず。常(つね)の
入湯(いりゆ)も熱(あつ)きはわろし。其外庸醫の洗薬(あらひくすり)と
称(しやう)するものに。害(がい)をのこすも往々(おり〳〵)あるなり。
○此病夫(おつと)にあれば妻(つま)妾(てかげ)に傳(つた)へ。妻妾にあれば夫に
つたふ。又遺毒(ゆいどく)【「ヲヤユヅリノドク」 左ルビ】とて子孫にも流傅(りうでん)【「ウツシツタフ」 左ルビ】ス。父母の此病を
【右】
胎内(たいない)よりうけて出生(しゆつしやう)し。いとけなき時頭面(つむりかほ)其外へ
瘡瘍(できもの)を發(はつ)し。鼻梁(はなばしら)崩隕(かけおつる)のたゞひもあり。世人は
小児の胎内(たいない)よりうけきくる瘡瘍(そうよう)ゆへ。胎毒(たいどく)〳〵と
一様(いちゆう)に称(ぜう)すれども。其中に瘡毒の胎毒おひほき
なり。かく子孫(しそん)につたふる所は。まつたく癩病(らいびやう)の
血脉(ちづぢ)をひき傳(つた)ふにひとし。又瘡毒病人を看病(かんびやう)
して傅染(てんせん)【「ウワリウツル」 左ルビ】することあり。此病ほどうるさきものは
あらじ。實(まこと)におそろしき病なり。家に一人(ひとり)
【左】
疥癬(ひぜんがさ)を病(やむ)ものあれば。挙家(いひのうち)のこりなく傅住(てんぢう)
するにより。世人疥癬を忌(いみ)きらへども。此病の
傍人(しばにいるひと)に傳染(でんせん)することをさとさず。すべて瘡汁(うみしる)の
ある病。臭気(わるきかほり)のある病は傅染することあり。これ氣の
憑依(ひやうい)【「トリツク」 左ルビ】するところ。をづくべからず。
〇此病を世醫の療治(れうじ)するを見るに。表裏虚実(ひうりきよじつ)を
分別(ふんべつ)せず。山帰来(さんきらい)を主薬(しゆやく)とし。補器補血(ほきほけつ)の剤(くすり)を
用ることは。かりにもなきことのおもひ。此病といへば
【右絵の文字】
素山戯尽
即席
御料理
御吸物
丼もの
大平
御取肴
【左】
萬病(まんびやう)の基(もとい)
【右】
峻劑(つよきくすり)ならで。外に治法(ぢはふ)のなきやうにこゝろえ。標的(めあて)
なしに。一時(いつとき)に毒(どく)を一掃(いつそう)せんことのみを要領(かなめ)とし。
或は速(すみやか)【「イソグ」 左ルビ】にすべきことをゆるくし。緩(ゆる)くすべきことを
いそぎて終(はて)は沈痾痼疾(ちんあこしつ)となるなり。峻劑を用ひ
當分(とうぶん)いゆるに似(に)たりといへども。毒氣(どくき)内陥(ないかん)して骨髄(こつずい)に
沈(しみこ)み害(わざわひ)をなす。俗に佛(ほとけ)たのみて地獄(ぢごく)に堕(おつる)といふが
ごとし。都(すべ)てれやうじの法は。病ひ表(うへ)にあれば
表(うへ)を治(ぢ)し。裏(うち)にあれば裏(うち)を療(れう)し。上(かみ)にあれば上(かみ)
【左】
下(しも)にあれば下。病のある所にしたがひて藥を
ほどこす。これ醫師の法則(すみかね)にして。其間に臨機(りんき)
應変(おうへん)あり。しかるを庸醫は。病人の安逸労苦(らくにくらすくるしみくろう)。
資稟(うまれつき)の充實虚弱(つよきよはき)にもとんぢやくせず。便毒(よこね)に
此薬。楊梅瘡(とうがさ)に此薬と。わづかに四五方の薬劑(くすり)
のみを施(ほどこ)して其餘(よのよ)をしらず。十人に一人(ひとり)二人(ふたり)
瘳(いゆ)ることをうれども。偶中(まぐれあたり)にして醫の功(こう)に
あらず。病人の幸(しやはせ)にして瘳(いへ)たるなり。其外は
【右】
壊病(ゑびやう)となして。終身(みをおゝかまで)人をなやまさしむ。
それ壊病といふは。誤治(くすりちがい)によりて毒氣百骸(どくきからだうち)に
結伏(むすびかくれ)し。連綿(れんめん)といへざるなり。始(はじめ)より壊病と
なるの症(しやう)とてはさらになし。雜治(わるき之じ)のたりを
なして。人をそこなひなやますなり。壊病に
なりては。愈ることも遅(おそ)く死(しぬ)ることも速(すみやか)ならず。
年(とし)を積(つ)み月(つき)をかされて。いかばかり苦(くる)しむ
ことなり。此ゆへに貧賤(ひんせん)の者は生業(いとなみ)をうし
【左】
なひ無告(むこく)【「ヤドナシ」 左ルビ】の者となり。果(はて)は道路(だうろ)にさまよひ
斃(たふ)れ死す。あはれなる事ならずや。
〇峻劑(しゆんざい)といふは。正々乳(せい〳〵にう)。七寳丸(しつはうぐわん)。梅肉丸(はいにくぐわん)。薫藥(いふしぐすり)。
膽礬(たんはん)。水銀(みづかね)。生漆(きうるし)。巴豆(はづ)。などの加入藥。法外
いろ〳〵のけやけき藥をいふ。皆それ〳〵の効験(しるし)
あれど。其病に應(をう)ぜざれば。大(おほい)に元氣を損傷(そんしやう)す。
實(じつ)に殺人剣(さつじんけん)【「ヒトヲコロスツルギ」 左ルビ】ともいふべし。世醫の中には。此病を
一か年に十人か二十人療治をなして。是等(これら)の
【右】
方劑(くすり)のみを。此病のくすりとこゝろえ。方意(はうい)に
通【「・」 左ルビ】ずることもなければ。用(もちひ)かた混雜(ごたませに)して。角(つの)を
直すく牛(うし)を殺(ころ)すたぐひあり。これ用ひまじき
時に峻劑をみだりに用ひ。元氣を衰(おとろ)へしむるに
より。病を追去(おひさる)ことならず。難治の症となりゆく
なり。古人(こじん)も病(びやう)傷易_レ治(ぢしやすく)。藥(やく)傷難_レ療(れうししがたし)といひり。
すべて。諸藥は毒物(どくぶつ)なれば。人の身に用べき物に
あらず。故に藥をあたにして。かひつて病を
【左】
まうくる人世におほし。平和(ゆはりなる)の藥なりとも。
ふくするは大切(たいせつ)の事なりとこゝろへべし。
古語(こゞ)に藥(くすり)と兵(へい)とは凶器(わるきだうぐ)なりといふ。つね〴〵醫師を
よく〳〵えらび。正(たゞ)しき療治の藥をのむべし。
もつとも正道(しやうたう)なる醫の療治かたは。迂遠(うゑん)【「マハリドヲし」 左ルビ】のやう
にて速(すみやか)に藥(くすり)の効(しるし)見えがたければ。始終(しじう)は
かへつてはかどること。急(いそ)がばまはれといふがごとし。
かくいへばとてやはらかにけがのなきやう
【右】
にとばかりげらづゝき。虻(あぶ)もとらず。蜂(はち)もとらぬ醫者
の藥はのむべからず。
〇庸醫(ようい)の藥をふくして後(のぢ)。口中たゞれ。歯牙(はきば)ゆるがば。
輕粉劑(けいふんさい)とこゝろえべし。軽粉は。毒烈(どくれつ)の物。肌表(はだへ)を
乾燥(かんそう)するものゆへ。血液(けつゑき)をかはかし。槁(から)たる木のうるほひ
なきがごとくにて。津液(しんゑき)の流通(るつう)とゞこほり。口(くち)へばかり
出るがゆへに痰嗽(たんそう)をうれへ。はなはだしきは晝夜(ちうや)
涎沫(よだらあは)をはきつゞけ。唾壷(はいふき)を傍(そば)にはなさずくるしむ
【左】
なり。津液(しんゑき)は一身の潤(うるほ)ひにして。化(くわ)して精血(せいけつ)となる
大切のものなり。しかれば庸醫にまかぜ。かゝる峻劇(しゆんげき)の
藥劑(くすり)をのむべからず。もし軽粉入の藥をふくし
口中そんじ。其外いろ〳〵のたゝりをなさば。白梅(むべぼし)を
煎(せん)じてのむべし。或はそれに黒豆(くろまめ)を加入(くわへいる)もよろしき
なり
〇庸醫の中には。前銀(まへがね)とて諸病ともに。藥をあたへぬ
まへに。藥料(かひあわせ)となづけ、金銀をむさぼる惡習(わるきしわざ)あり。
【右】
わけて此病には此事おほし。これ醫たるの
主意(しゆい)をしらざるの所醫為(しわざ)にして。醫道のうへの
罪人(つみんど)なり。心のけがれたること言語(ごんご)にたえたり。
これがために財(ざい)を費(ついや)しうしなふ人おほくあり。
しかはいへど。醫者のふとゞきのみにもあらず。此病を
患(うれひ)るものは。みな無頼放蕩(はふしらずどうらく)もの。或は卑賎(ひせん)の者
なれば。醫者の身心(しんじん)を労(ろう)せし事はこゝろづかず。
謝禮(ゆくれい)といふこともをろそかなるよりをこりし
【左】
ならん。それはともあれ是等(これら)につきても。醫の良拙(よしあし)を
うかゞひゑらぶこと簡要(かんゑう)なり。今の世平々(へい〳〵)【「ナミ〳〵」 左ルビ】たるの醫は。
もつはら商人(あきびと)の心根(こゝろね)にして。みなわがために
利養(りやう)をもとめ。人のうれひを憂(うれい)とせず。不学無術(もんまうなにもしらず)の
うはべを飾(かざ)り。臆度(をくたく)【「スイリヤウ」 左ルビ】の療治をほどこすがおほし。
世人(ひと〴〵)の醫をみる眼(まなこ)は。腐女(おんな)の刀脇差(かたなわきざし)の飾りを
見たるにおなじ。羊質虎皮(やうしつこひ)【「ヒツジガトラノカワヲキル」 左ルビ】の醫なれば。こゝろ
賢(かしこ)き人も良拙をみわくることかたかるべし。偖(さて)時醫(はやりい)を
【右】
みるに。家居作事分際(いへゐさくじぶんざい)より華麗(りつは)にして。辞氣(ものいひ)
容貌(なりかたち)は武家(ぶけ)の風体(ふうてい)をなし。衣服(いふく)腰物等(こしのものとう)の
飾りを美(び)にし。肩輿(かご)を飛(とは)しはな〳〵敷歩行(あるく)
あり。此黨(このともがら)の中にとりわき庸醫あり。其うへ
これも分際より物入(ものいり)おほく。をのづから心むさく
利欲(りよく)にはしり。仁慈(じんじ)の心をうしなふことは。前銀(まへがね)とる
醫に異(こと)なることなし。今(いま)大路家(おほじけ)にて門人(でし)への
制條(いましめ)の中に。好_二華麗_一則欲心甚而(くわれいをこのむときはよくしんはなはだにして)。失_二慈仁之道_一 (じしんのみちをうしなふ)。
【左】
只宜_レ守_二倹約_一 (たゞよろしくけんやくをまもるべし)との規則(きそく)あり。実(げ)にもつともなる
カ條(かでう)なり。
〇唐土(もろこし)に戴元禮(たいげんれい)といふ人。醫学修行(いがくしゆげやう)に出て。
楊州(やうじう)にいたる所。門前(もんぜん)に人の市(いち)をなす醫あり。これぞ
たづぬる良醫ならんと。うれしくおもひ寄宿(きしゆく)しけり。
此【「・」 左ルビ】醫病人に藥をわたすに。鉛(なまり)を入てせんずべしと
いふことあり。元禮ふしぎに思ひて何とまうす藥方(やくはう)
にやあと問ければ。建中湯(けんちうとう)なりと言(こと)ふ。これ飴(あめ)の字(じ)を
【右】
鉛の字と。とりちがへたる文盲(もんまう)さに。元禮も興(きよう)を
さまし。そう〳〵其家を立/去(さり)たるとぞ。飴は脾胃(ひい)を
やしなふもの鉛は脾胃をそこなふもの。雲泥(うんでい)の違(ちがひ)
なり唐土は文字の國(くに)なるにかゝることあり。まして
我(わが) 邦(くに)には。あさましき醫者おほく。しらざる
ことおも曲理(こじつけ)にいひまぎらかし。萬病(まんびやう)しらざること
なき顔(はほ)をして。今日を渉(わたる)がおほし。又此病を
わづが十人二十人治療(ぢれう)して。たゞ紙上(しじやう)のはしくれを
【左】
おぼへたるまゝ。鏡(かゞみ)にうつし見るがごとく廣言(くわうげん)を
吐(はき)ちらし。いまだ經験(けいげん)もせざる藥を投(とう)ずるも
あり。或は家方(かほう)秘方(ひはう)などゝとなへ。奥(おく)ゆかしく
おもはせて。たぶらかすたぐひもあり。人民(にんみん)の為(ため)に
する藥なるに。何がゆへに秘方/秘傅(ひでん)といふことあらん。
此黨(このともがら)を小人醫(せうじんい)となづけて醫師の中(うち)の蛇蝎(どくむし)なり。
此外に見聞(みきく)に忍(しの)びざるのてだてをなして。
俗人をたらすあり。今の世天理を恐(おそ)れ。心力(しんりよく)を
【右図中文字】
素山戯画
【左図中横文字】
瘡病人(そうびやう)の府(くら)
【右】
盡(つく)して治療する醫者は希(まれ)なり。病人の大なる
不幸(ぶしあはせ)にして。嘆(たん)ずべきことそかし。因(ちなみ)に載(の)す。或人
時めく醫者に。火消壷(ひけしつぼ)に火を納(いれ)るに。たち
まちに消(きゆ)るはなにがゆへと問(とい)けれは。蓋(ふた)して火氣(くわき)
をもらさぬにより消(きゆ)るといひけり。醫として
これらの理にくらきは捧腹(ほうふく)【「ヲゝワラヒ」 左ルビ】すべきことなり。そも〳〵
人間(にんげん)は天地の正氣をうけてうまれ。天地は父母に
してこれを生育(せいいく)す。故に水土によりて人の
【左】
氣象(きしやう)もひとしからず。其/生(しやう)ずる物も差別(しやべつ)あり。
醫の病を療するも。万物造化(ばんもつぞうくわ)の理(り)に殫思(たんし)【「ヲモヒヲツクス」 左ルビ】して
後(のち)。人の病を治療すべし。萬(よろづ)の藝術のごとくに。
容易(ようい)にあきらめがたき藝(しわざ)なり。しかるを世人は。たゞ
頭(あたま)が丸(まる)く竹箟(ちつへい)を挾(はさ)み。口辨(こうべん)【「クチリコウ」左ルビ】よく阿順(あじゆん)【「ヘツラヒ」 左ルビ】なる者を。
良拙(じやうずゝた)のわきまへもなく用(もちひ)るにより。形容(なりかたち)さへ
醫/体(てい)をそなへて。人の氣に入やうにすれば。今日を
おくるに渡世(とせい)ができるゆへに。家産(すぎわい)を破(やぐ)りし者。
【右】
剃髪(ていはつ)して醫者と化(ばける)がおほし。さればこそ
世の中に。庸醫みち〳〵て人をそこなふこと
甚大(はなはだおほい)なり。顯道(あきみつ)弱冠(をさなき)より先(ちゝ)考/家兄(あに)の膝下(しつか)に
侍(はべ)りて。治療を傍観(ぼうくわん)【「ソバニミル」 左ルビ】すること久しく。又みづ
から治療せし所も万を以てかぞふべし。
其あいだ此病を療することもつともおほし。
その聞えありてや。異(こと)なる術(じゆつ)もあらんかと。
遠方(ゑんほう)よりも訪(とひ)きたりて。診視(しんし)治療を乞(こひ)もとむ。
【左】
それが中におり〳〵しるしを得(ゑ)たるもあれど。
大かたは偶中(まぐれあたり)にて。内にみづから顧(かへり)みれば。背中(せなか)に
汗(あせ)することおほし。その手近(てぢか)きにいたりては。附子(ぶし)
石膏(せきこう)の二症(にしやう)だにわかつこともあたはずして。
おほくの月日をすぐし待りぬ。今や稀古(きこ)の
齢(とし)をこえて。拙(つたな)きむかしの問(と)はずがたりも
はづかしけれど。醫業(いぎやう)はかたきことにして。凡庸(ぼんよふ)【「ナミ〳〵ノヒト」 左ルビ】の
なすべき藝(しわざ)にあらず。故に庸醫は常(つね)に多し。
【右】
病よりこはきものは。醫者なることを。若人(わかうど)の
こゝろえにもと書(かき)のす。此外/小児(みどりこ)の生育(をいそだて)の
■に。書しるしたき事もあれど。老(おい)の氣根(きこん)の
ものうくて。筆をとゞむといふ。
巳
文化六年巳己仲冬 小川巳疎齋書
瘡家示訓《割書:終|》
【左】
文化七年庚午仲冬
江戸湯島切通町下
須原屋文五郎
同 神田鍛冶町二丁目
中村屋善 藏
小川先生著書目
養生囊 四冊
四十首遺藻 一冊
泰山遺説 一冊
御しも艸 三冊
瘡家示訓 一冊
【裏表紙 文字無し】
虎列剌豫防諭解 《割書:各一| 計二》
虎列剌豫防諭解 各一 計二
内務省《割書:社寺局|衛生局》編輯
《題:虎列剌豫防諭解 完》
【右頁】
内務省《割書:社寺局|衛生局》編輯
虎列剌豫防諭解
社寺局出版
【左頁】
緒言
昨年虎列剌病ノ流行セル患者拾六萬余人二上リ
其内十萬余人ハ遂ニ之レガ犠牲トナレリ人世ノ
毒害ヲ逞ウスルモノ虎列剌ヨリ甚シキハナシ是
時ニ當テヤ政府豫防ノ規則ヲ發シ各地方ノ官吏
ハ百方此ニ盡力シタリト雖モ憾ムラクハ細民其
旨ヲ解セズシテ病毒ノ畏ルベキヲ知ラズ或は隠
蔽忌避シ或ハ頑嚚不逞ニシテ誠實ニ之ヲ遵奉スル
モノ少ナキヲ以テ十分ニ豫防ノ成効を見ルコト能
虎列剌豫防諭解 緒言 内務省
【右頁】
ハザリキ蓋シ斯民ヲ開諭啓導シテ先ヅ其蒙ヲ發
クニ非ザレバ如何ナル良善ノ法律規則アリト雖
トモ決シテ其美果ヲ結ブコト能ハズ然シテ朝トナク
夜トナク孜々諄々戸ニ説キ家ニ諭シ遂ニ能ク其
良心ヲ挑發シ頑ヲ解キ愚ヲ啓キ以テ斯民ヲ至惨
ノ害毒ニ脱セシムルモノハ特ニ敎導職ノ説諭ニ
頼ラズンバアラズ我内務卿大ニ此ニ見ルアリ乃
チ此諭解一篇ヲ草セシメ以テ其説敎ニ資セント
ス幸ニ敎導職タル人能ク此誠意ヲ體シ其力ニ因
リテ人民ヲシテ普ク傳染病ノ畏ルベキヲ知リ各
【左頁】
自豫防ノ方法ヲ實践シ兼テ養生自衛ノ道ヲ會得
セシムルニ至ルヲ得バ日本全國ノ健康即チ富彊
ヲ他日ニ企望スルヲ得ベシ而シテ其要只人民各
自ニ己ガ一身ノ健康ヲ保護スルノ良心ヲ啓發ス
ルノ一點ニアルノミ
明治十三年四月 内 務 省
【左頁】
虎列剌予防(これらよぼう)の諭解(さとし)
第一章
虎列剌(これら)其他(そのた)伝染諸病(でんせんしよびやう)の予防(よばう)及(およ)び制伏(せいふく)の事(こと)
凡(すべ)て人(ひと)の世(よ)の中(なか)に在(あ)るには形(かたち)ある敵(てき)と形(かたち)なき敵(てき)
とありて斷(た)えず人(ひと)の生活(すぎはひ)を妨(さまた)げ身(み)の健康(けんかう)【「たつしや」左ルビ】を害(がい)し
甚(はなはだ)しきは貴(たふ)とき命(いのち)を奪(うば)ひ去(さ)りて之(これ)を絶(たや)さんとす
るに至(いた)る戦争(いくさ)洪水(おほみづ)飢饉(ききん)大風(おほかぜ)火災(くわじ)地震(ぢしん)等(とう)は多(おほ)くは
形(かたち)あるものにて人々(ひと〴〵)も普(あま)ねく知(し)りたるいと恐(おそ)る
べき大敵(たいてき)なりされど此形(このかたち)ある敵(てき)の外(ほか)更(さら)に形(かたち)なき
【右頁】
敵(てき)ありて形(かたち)あるものよりは一層(いつそう)劇(はげ)しき害(がい)をなし
且(かつ)其敵(そのてき)の所為(しわざ)曾(かつ)て人(ひと)の耳目(みゝめ)に掛(かゝ)らず正(まさ)しく害(がい)を
なしたる後(のち)に至(いた)りて始(はじ)めて其(その)畏(おそ)るべきを知(し)るも
のあり此敵(このてき)は是(こ)れ何物(なにもの)なるや即(すなは)ち虎列剌(これら)其他(そのた)の
伝染病(でんせんびやう)なり其(その)攻(せ)め来(きた)る鋒刃(ほこさき)は極(きは)めて神變不測(しんべんふしぎ)に
して如何(いか)なる所(ところ)に潜(ひそ)み隠(かく)れ如何(いか)なる所(ところ)より撃(う)ち
出(いづ)るか容易(ようい)に之(これ)を知(し)り難(がた)く吾人(われひと)ともの目(め)に觸(ふ)れ
ざるゆゑ之(これ)を形(かたち)なき敵(てき)と云(い)ふなり其人間(そのにんげん)に害毒(がいどく)
をなすこと形(かたち)ある敵(てき)よりも夐(はる)かにまさりて畏(おそ)る
べき大敵(たいてき)なり
【左頁】
さて斯(か)く畏(おそ)るべき病敵(びやうてき)も決(けつ)して偶然(ぐうぜん)に攻(せ)め来(きた)り
て其害毒(そのがいどく)をなすものならず来(く)るには必(かなら)ず来(く)るだ
けの自然(しぜん)の道理(だうり)のあることは戦争(いくさ)飢饉(ききん)洪水(おほみづ)等(とう)其(その)
天然(てんねん)の理(り)に因(よつ)て出来(いでき)たるに異(こと)ならず凡(すべ)て此等(これら)の
災害(わざはひ)は皆(みな)それ〴〵の道理(だうり)ありて起(おこ)るものにて決(けつ)
して神佛(しんぶつ)の冥罰(ばち)にも非(あら)ず又(また)悪魔(あくま)の所為(しわざ)にも非(あら)ず
若(も)し神佛(しんぶつ)の怒(いかり)ならば善(ぜん)を祐(たす)くる神佛(しんぶつ)が慈悲善根(じひぜんごん)
の人(ひと)までも悪人共(あくにんとも)におしなべて生命(いのち)を絶(た)つの理(り)
はあらじ若(も)し亦(また)悪魔(あくま)の所為(しわざ)ならば人力(じんりよく)を以(もつ)て防(ふせ)
ぎ得(う)るの理(り)なかるべし
【右】
されぞ世間(せけん)にあらゆる事物人(ものごとひと)の目(め)に触(ふ)れ耳(みゝ)に触(ふ)
れ心(こゝろ)に感(かん)ずるものとして一(いつ)も天然(てんねん)の理(り)に合(あ)はざ
るはなく一事一物各箇(いちじいつぶつそれ〴〵)に皆其道理(みなそのだうり)を具(そな)ふる中(なか)に
人力(じんりよく)を将(もつ)て之(これ)を取除(とりのぞ)き或(あるひ)は変更(へんかう)することならざる
者地震暴風淫雨(ものぢしんおふかせながあめ)の如(ごと)きは如何(いかん)ともする能(あた)はずさ
れど戦争飢饉火災傅染病(いくさきゝんくわじでんせんびやう)の如(ごと)きに於(おい)ては各自適(めい〳〵それ)
当(だけ)の豫防(よぼう)をなし其方法(そのしかた)を施(ほどこ)さず此災害(このわざわひ)を免(のが)るゝ
のとを得(う)べし抑此等(それ〳〵それら)の災害(わざはひ)も固(もと)より天然(てんねん)の道理(だうり)
を踏(ふ)みて来(て)るものなれば吾人(われ〳〵)が之(これ)を防(ふせ)ぎ制(せい)する
にも亦天然(またてんねん)の道理(だうり)に原(おとづ)き力(ちから)を尽(つく)さゞるべからず
【左】
そをなさずして徒(いたづ)らに神仏(しんぶつ)をのみ祈請(きせい)するとも
決(けつ)して免(のが)るべきものにはあらず
され災害(わざはひ)を免(のが)るゝに神仏(しんぶつ)の助力(たすけ)を仰(あふ)では勿論(もちろん)よ
きことなれど己(おのれ)も力(ちから)を尽(つく)して其災害(そのわざはひ)の由(よつ)て来(く)る道理(だうり)に対(たい)して十分(じやうぶん)に打(う)ち消(け)す方法(しかた)をなさゞれず
神仏(しんぶつ)とても加護(かご)する能(あた)はず例(たと)へず朝夕神仏(あさゆふしんぶつ)に參(さん)
詣(けい)し丹精凝(たんせいこ)めて信仰(しんかう)なし福徳利益(ふくとくりえき)を祈(いの)るとも農(のう)
民(みん)にして耕作(かうさく)を力(つと)めず商人(しやうにん)にして算勘(かんぢやう)を怠(おこた)ると
きす神仏(しんぶつ)も之(これ)に福利(ふくり)を與(あた)ふる能(あた)はず依然(いぜん)として
貧賤(ひんばふ)の人(ひと)なるべし是(こ)れ其福利(そのふくり)を獲(え)らるべき道理(だうり)
【右】
を踏(ふ)まず一向(ひたすら)に之(これ)を神仏(しんぶつ)に祈(いの)るが故(ゆゑ)なり病人(びやうにん)も
亦(また)その如(ごと)く其快復(そのくわいふく)を神仏(しんぶつ)に祈(いの)り医薬(いやく)の療養怠(れいゆおこた)る
ときは神仏(しんぶつ)も亦此病(またこのやまひ)を到底治(つまりぢ)することを能(あた)はず病(やまひ)に
す皆一病毎(みないちびやうごと)に病(やまひ)となるべき天然(てんねん)の道理即(だうりすなは)ち原因(みなもと)
あり発(はつ)するものなれば其原因(そのみなもと)に対(たい)したる一定(いつてい)
の常則即(きまりすなは)ち療養(れうやう)を施(ほどこ)さずして神仏(しんぶつ)を抑(あふ)くそ愚(おろか)と
謂(い)ふべきなり
是故(このゆゑ)に人々(ひと〴〵)にて其災害(そのわざはひ)を免(のが)れんと思(おも)はづ先(ま)づ其(その)
災害(わざはひ)を免(のが)るべき道理(だうり)を踏(ふ)みて自身(じしん)にも為(な)すべき
事(こと)を能(よ)く力(つと)め然(しか)る上(うへ)にて神仏(しんぶつ)に加護(かご)を願(ねが)ふが当(たう)
【左】
然(ぜん)なり凡(すべ)て信心(しん〴〵)をなす事(こと)は実(じつ)に殊勝(しやしよう)なる事(こと)なれ
ども其信心(そのしんじん)をなす前(まへ)に充分一身(じうぶんいつしん)の手(て)を尽(つく)さねば
信心(しんじん)も利益(りやく)あるをなしされば今世間(いませけん)の一大敵(いちだいてき)に
して暴悪非道(ほうあくひだう)の災害(わざはひ)をなす彼(か)の虎列刺病(これらびやう)を豫防(よぼう)
なし又之(またこれ)を制伏(せいふく)するに当御(あた)り神仏(しんぶつ)の加護(かご)を仰(あふ)ぐと
人々(ひと〴〵)に尽力用心(じんりよくようじん)する事(こと)とは亦右(またみぎ)に陳(のぶ)るが如(ごと)く天(てん)
然(ねん)の常理(だうり)に従(したが)はざるべからず一家(いつけ)の福利(ふくり)を求(もと)む
るに先(ま)づ十分(じふぶん)に其業(そのげふ)を力(つと)めて神仏(しんぶつ)に祈請(きせい)すれば
眼前(がんぜん)に其功験(そのしるし)を見(み)る如(ごと)く先(ま)づ第一(だいいち)に各自(それ〴〵)に其本(そのほん)
分(ぶん)を尽(つく)して以(もつ)て虎列刺病(これらびやう)の大敵(たいてき)を防(ふせ)ぐことを力(つと)む
【右】
べし
此(この)虎列刺病(これらびやう)の大敵(たいてき)は現在昨年無惨(げんざいさくねんむざん)にも我(わ)が兄弟(きやうだい)
たる十萬餘人(じふまんよにん)を無罪(むざい)に殺(ころ)せる怨敵(をんてき)なれば本年(ほんねん)よ
りも各自(それ〴〵)に力(ちから)を尽(つく)して其(その)凶悪(きようあく)を免(のが)れんことを欲(ほつ)す
るは固(もと)より同情一意(どうじやういちい)にして論(ろん)を俟(ま)たざることな
れども如何(いかん)ある事(こと)に力(ちから)を尽(つく)し如何(いか)なる方法(しかた)を施(ほどこ)
しなぞよく天然(てんねん)の道理(だうり)に叶(かな)ひて之(これ)を豫防(よばう)なし之(これ)
を制伏(せいふく)することの成(な)るべきや此等の方(しかた)を十分(じふぶん)に
工夫研究(くふうけんきう)なきことは今日(こんにち)吾人(われ〳〵)の最大切(もつともたいせつ)なる義務(つとめ)
と謂(い)ぐべし
【左】
夫(か)の農民(のうみん)が米(こめ)を作(つく)るに先(ま)づ苗代(なはしろ)の仕立(したて)より莠草(はぐさ)
の耘除培養(かりとりこやし)の時期(やりどき)など十分(じふぶん)に其(その)処理(てあて)を会得(ゑとく)せざ
れば秋(あき)の豊穣(みのり)を獲(う)ること能(あた)はず虎列刺病(これらびやう)の豫防(よぼう)も
亦(また)その如(ごと)く先(ま)づ十分(じふぶん)に豫防(よぼう)する方法(しかた)を会得(ゑとく)なき
ざれす決(けつ)して其益(そのえき)あることなく又(また)其害(そのがい)を免(のが)るゝ
能(あた)はず然(しか)るを一般(ちつぱん)の人民(じんみん)は此(この)凶暴(けいやぼう)なる虎列刺病(これらびやう)
を防(ふせ)ぐの手段(しゆだん)に尤(もつと)も疎(いと)く且(か)つは極(きは)めて拙(つたな)くして
此(この)大敵(たいてき)を防(ふせ)ぐには如何(いか)なる方法(しかた)をのあるやらん解(げ)
さゞるものゝ多(おほ)ければ今(いま)其手段(そのしやだん)方法(しかた)をば委(くは)しく
次(つき)に辨説(かきの)すべし人々(ひと〴〵)能(よ)く此(この)解説(ときあかし)を会得(ゑとく)せば政府(せいふ)
【右】
より虎列刺(これら)を防(ふせ)ぐべき良法(しかた)を施行(しかう)せらるゝとき
能(よ)く其(その)主意(しゆい)も分(わか)り其(その)規則御(きそく)を循(したが)ひ守(まも)りて諸俱(もろとも)に力(ちから)
を尽(つく)し用心(ようじん)する信意(しんい)も確(しか)と定(さだ)まるべし政府(せいふ)の法(おふれ)
は如何(いか)ほどに深(ふか)き仁恵(めぐみ)のありとても人民(じんみん)共(とも)に其(その)
法(おふれ)を助(たす)けて之(これ)を行(おこな)はねが仁政(じんせい)も亦用(またよう)をなさず猶(なほ)
耕作耨(かうさく)と培養(こやし)とに曾(かつ)て力(ちから)を用(もち)ひずして豊穣(ゆたか)の収納(しやなふ)
を神仏(しんぶつ)に禱(いの)ると同(おな)じことなるべし
さて其(その)手段(しやだん)は第一(だいいち)に虎列刺(これら)を豫防(よぼう)することにて病(やまひ)
の此町此村(このまちこのむら)に入込(いりこま)ぬ様(よう)予(あらかじ)め用心(ようじん)するの仕方(しかた)なり
第二(たいに)は既(すで)に此町内此村内(このちやうないこのそんない)に入(い)りたる後(のち)に施(ほどこ)し行(おこな)
【左】
ふ仕方(しかた)にて虎列刺(これら)を制伏(せいふく) ないふせる 法(ほふ)なり病(やまひ)の来(き)たら
ぬ其(その)前(まへ)に豫防(よぼう)をなすは入込(いりこ)みたる後(のち)に制伏(せいふく)する
よりも勝(まさ)れることは誰々(だれ〳〵)も渾(すべ)て同意(どうい)の筈(はづ)なれど成(なる)
丈(た)け虎列刺(これら)の町村(ちやうそん)に入(い)り込(こ)まぬ様(よう)注意(ちゆうい)して防御(はうぎよ)
をなすこと肝要(かんえう)なり家(おへ)に入(い)り込(こ)みたる盗賊(たうぞく)を捕(とら)ふ
るは先(ま)づ盗賊(たうぞく)の入(い)らぬ様(よう)戸締(とじまり)するに如(か)かずとは
古昔(むかし)よりの金言(きんげん)なり
第二章
虎列刺(これら)其他(そのた)の傅染病(でんせんびやう)を豫防(よぼう)する各人(ひと〴〵)の心得(こゝろえ)
【右】
の事(こと)
傅染病(でんせんびやう)の町村内(ちやうそんない)に入(い)り込(こ)むことなく安全(あんぜん)に其(その)生計(なりはひ)
を営(いとな)まんと思(おも)はづ先(ま)づ其(その)傅染病(でんせんびやう)の原因(みなもと)を制伏(せいふく) ねしふせる し
て之(これ)を除(のぞ)くべし凡(すべ)て傅染病(でんせんびやう)の原因(みなもと)となるべきも
のに四項(よかど)あり其(その)名目(みやうもく)は左(さ)の如(ごと)し
(甲) 空気(くうき)
(乙) 飲水(のみみづ)
(丙) 飲食物(いんしよくぶつ)
(丁) 他人(たにん)との交通(まじはり)
されば各人(ひと〴〵)の用心(ようじん)すべきことは皆(みな)右(みぎ)の四項(よかど)の外(ほか)に
【左】
漏(も)れず其(その)用心(ようじん)能(よ)く行届(ゆきとゞ)きて四項(よかど)に宜(よろ)しきに適(かな)
ふときは平常(つね〴〵)無事安全(ぶじあんぜん)にして虎列刺(これら)流行(りうかう)
の時(とき)と
雖(いへ)ども必(かなら)ず其(その)災害(わざはひ)を免(のが)るべし今此(いまこの)四項(よかど)を説(と)き明(あか)
すに問(とひ)を設(まう)けて答(こたへ)をなさん
甲 空気(くうき)
<問>吾人(われ〳〵)の呼吸(こきふ)する空気(くうき)を清潔(せいけつ)ならしむるには如(い)
何(か)なる方法(しかた)を用(もち)ふべきや
空気(くうき)を清潔(せいけつ)にするの方法(しかた)は左(さ)の箇條(かでう)に注意(ちゆうい)す
べし
<第一>吾人(われ〳〵)の住居(すまひ)する地所(ぢしよ)は高燥(たかだい)にして且(そのうへ)/清潔(せいけつ)
【右】
なるを良(よし)とす若(も)し其(その)屋敷地面卑(やしきぢめんかき)かへして湿気(しつけ)多(おほ)
く或(あるひ)は掃除(さうぢ)を怠(おこた)りて汚芥(ごみあくた)積滞(つもりたま)るときは家中(やうち)の
空気(くうき)も自然(しぜん)に不潔(ふけつ)と晝夜(ちうや)此(この)悪気(あくき)の中(うち)に視(おき)
息(ひし)すれば遂(つひ)に病(やまひ)を生(しやう)ずるに至(いた)るべし
<第二>住居(すまひ)の床(ゆか)は成(な)るべく高(たか)くして其下(そのした)に十分(じふぶん)
風(かぜ)を通(つう)ずべし地上(ちじやう)へ直(ぢき)に床(ゆか)を設(まう)くべからず湿(しつ)
氣(け)なる土地(とち)にては殊(こと)に危(あやう)し
<第三>大小便所(だいせうべんじよ)は最用心(もつともようじん)して清潔(せいけつ)に掃除(さうぢ)し度々(たび〳〵)
両便(りやうべん)を取除(とりの)くべし久(ひさ)しく両便(りやうべん)を貯(たくは)ふるときは
腐(くさ)れ出(いだ)して一種(いつしゆ)の悪気(あくき)を醸(かも)し之(これ)が為(た)めに家中(やうち)
【左】
の空気(くうき)不潔(ふけつ)となるべし虎列刺病(これらびやう)熱病(ねつびやう)等(とう)流行(りうかう)す
るときは特(べつだん)に用心(ようじん)して掃除(さうぢ)を怠(おこた)るべからず
<第四>下水溝渠(けすゐみおどふ)は成(な)るたけ住居(すまひ)より遠(とほ)く離(はな)る
を宐(よろ)しとす其中(そのなか)に瀦(たま)りたる汚水(よごれみづ)は日(ひ)を経(ふ)るに
従(したが)ひて次第(しだい)に腐(くさ)れ出(だ)し亦(また)一種(いつしゆ)の悪気(あくき)を醸(かも)して
家中(やうち)の空気(くうき)を汚(よご)すこと両便所(りやうべんじよ)に異(こと)ならず故(ゆゑ)に下(げ)
水(すい)を通(とほ)すには軒下(のきした)より二間餘(にけんよ)も隔(へだ)てゝ設(まう)け時(とき)
々(〴〵)之(これ)を洗(あら)ひ流(なが)し決(けつ)して汚芥(ごみあくた)の瀦(たま)らざる様(やう)に心(こゝろ)
掛(が)くべし但(たゞし)此(この)汚水(よごれみづ)は酌(く)み取(と)りて両便(りやうべん)と共(とも)に培(こや)
料(し)に用(もち)ふべし総(そう)じて五穀野菜草木(ごこくやさいさうもく)の培料(こやし)に供(きよう)
【右】
するものは人身(じんしん)には害(がい)ありと心得(こゝろう)べし
<第五>庖廚(だいどころ)の残棄物(すたりもの)即(すなは)ち野菜(やさい)の切屑(きりくづ)煮滓(にがら)灰等(はいとう)は
住居(すまひ)の接近(まぢか)に積(つ)み置(お)きて腐(くさ)れ出(だ)されべからず
成(な)るべく度々(たび〳〵)之(これ)を離(はな)れたる大芥溜(おほごみため)亦(また)は培料(こやし)の
貯場(おきば)に送(おく)るべし若(も)し止(や)むことを得(え)ずして家(いへ)の近(ま)傍(ぢか)に積(つ)み置(お)くときは臭気(くさみ)を放(はな)ちて家中(やうち)に入(い)ら
ざる様(やう)に注意(ちゆうい)すべし
<第六>住居(すまひ)の近傍(まぢか)床下等(ゆかしたとう)には常(つね)に汚水両便等(よごれみづりやうべんとう)の
地中(ちちう)に滲込(しみこ)まぬ様(やう)用心(ようじん)すべし故(ゆゑ)に便所(べんじよ)を作(つく)る
には溜壺(ためつぼ)は陶器(やきもの)を用(もち)ふるを良(よし)とす桶樽(をけたるい)は永(なが)く
【左】
保(たも)ち難(がた)く程(ほど)経ずして朽(く)ち腐(くさ)れ汚水(よこれみつ)漏(も)れ自(ほの)づと
朝夕起臥(あさゆふおきふ)する家(いへ)の下(した)に滲(し)み透(とほ)りて其(その)空気(くうき)を汚(けが)
すものなり
<第七>腐(くさ)りて悪(あし)き臭(か)のある魚類(うをるゐ)野菜類(やさいるゐ)を家内(かない)に
蓄(たくは)ふべからず又(また)培料(こやし)を貯(たくは)ふる小屋(こや)は成丈(なるたけ)住居(すまひ)
より遠(とほ)く引離(ひきはな)すべし
右(みぎ)の如(ごと)く逐一(ちくいち)に列記(かきの)するときは只(たゞ)空気(くうき)を清潔(せいけつ)
にする一事(いちじ)のみにても亦(また)其(その)関係(くわんけい)の少(すく)なからず
るを知(し)るべし然(しか)れども人々(ひと〴〵)能々(よく〳〵)/空気(くうき)の不潔(ふけつ)な
るは百病(ひやくびやう)の本(もと)なりと謂(い)ふことを合点(がてん)して常(つね)に用(よう)
【右】
心(じん)の念(ねん)を生(しやう)ずるときは右(みぎ)の箇條(かでう)を容易(ようい)に為(な)し
得(う)べき事柄(ことがら)にして格別(かくべつ)に骨(ほね)を折(を)るにも及(およ)ばず
又(また)多(おほ)く金銭(きんせん)を費(つい)やすにも非(あら)ず詰(つま)る所(ところ)は只(たゞ)人々(ひと〳〵)
の用心(ようじん)にあるのみ今(いま)再(ふたゝ)び前(まへ)に述(の)べたる事項(ことがら)を
約(つゞ)めて簡単(てみじか)に繰返(くりかへ)し各人(ひと〴〵)に合点(がてん)し易(やす)からしむ
事を左(さ)の如(ごと)し
<第一>家(いへ)を建(たつ)るには乾(かは)きたる清潔(せいけつ)の土地(とち)を撰(えら)
むべし
<第二>床(ゆか)は高(たか)く張(は)りて其下(そのした)に風(かぜ)を通(とう)すべし
<第三>便所(べんじよ)は度々(たび〳〵)掃除(さうぢ)して久(ひさ)しく蓄(たくは)ふから
【左】
ず
<第四>
下水(げすゐ)は遠(とは)く住居(すまひ)を離(はな)して其(その)瀦水(たまりみづ)を浚通(さらひとほ)
すべし
<第五>庖厨(たいどころ)の残棄物(すたりもの)を住居(すまひ)の近傍(まぢか)に置(お)くべか
らず
<第六>両便(りやうべん)其他(そのほか)の汚水(よごれみづ)は地下(ちか)に滲(し)み込(こ)みて家(いへ)
の下(した)に潜(うつ)らぬ様(やう)にすべし
<第七>腐(くさ)りたる魚類(いをるゐ)野菜(やさい)は家(いへ)の内(うち)に置(お)くべか
らず培料(こやし)小屋(ごや)は遠(とほ)く離(はな)して建(た)つべし
乙 飲水(のみみづ)
【右】
<問>平生用(つね〴〵もち)ふる所(ところ)の飲水(のみみづ)を清潔(せいけつ)にするを如何(いか)なる
方法(しかた)を用(もち)ふべきや又(また)水(みず)を飲(の)ぶときは如何(いか)なる心(こゝろ)
得方(ゑかた)をなすべきや
飲水(のみみづ)のことも亦(また)少(すこ)しく氣(き)を留(とゞ)めて用心(ようじん)すれば
吾人(われ〳〵)の為(ため)に大(おほい)なる福益(ふくえき)となることなり されば
も良(よ)からぬ飲水(のみみづ)は極(きは)めて危(あやう)きものにして極悪(ごくあく)
性(しやう)の疾(やまひ)も一杯(いつばい)の水(みづ)より起(おこ)るものなれば其害(そのがい)は
不潔(ふけつ)の空気(くうき)にも劣(おと)らぬものと心得(こゝろう)べし
飲水(のみみづ)を清潔(せいけつ)にする方法(しかた)も亦(また)前(まへ)に述(の)べたる空気(くうき)
を清潔(せいけつ)にする方法(しかた)と大抵(たいてい)異(こと)なることなし尤(もつとも)取分(とりわ)
【左】
けて左(さ)の條件(かじう)に注意(ちゆうい)すべし
<第一>市中(しちう)或(あるひ)は村内(むらうち)を通(つほ)れる河水(かはのみづ)或(あるひ)は渠水(ほりのみづ)は一(ひと)
度沙濾(たびすなごし)にするか又(また)は煮沸(にたゝ)せたる後(のち)に非(あら)ざれば
之(これ)を飲(の)むべからず但(たゞし)河水(かはみづ)にても山谷(やまたに)の間(あひだ)より
密閉(しめきり)たる管(くだ)又(また)は樋(とひ)を通(とほ)して引(ひ)きたるものは其(その)
色(いろ)透明(すきとほり)良(よ)からぬ臭味(くさみ)なきものなれば之(これ)を飲料(のみきて)
となして宜(よろ)し されども河水(かはみづ)の町村(まちむら)を通(とほ)りたる
ものは衣類(いるゐ)の洗濯(せんたく)両便(りやうべん)の滲込(しみこみ)其他(そのた)種々(しゆ〴〵)の原因(みなもと)
に由(よ)りて傅染病(でんせんびやう)の毒種(どくき)を混合(ませあは)するものなる故(ゆゑ)
によく〳〵心附(こゝろづ)け其等(それら)の原因(みなもと)あるものは縦令(たとひ)
【右】
外見(みかけ)は清浄(しやう〴〵)なるものにても容易(ようい)に飲(の)まざる様(やう)
用心(ようじん)すべし
<第二>河水(かはみづ)を用(もち)ひずして井水(ゐどのみづ)を用(もち)ふる場所(ばしよ)は其(その)
井(いど)の位置(ありば)に注意(ちゆうい)し便所(べんじよ)を離(はな)るゝ遠近(ゑんきん)及(およ)び便器(べんき)
の製造(つくりかた)堅固(じふうぶ)にして其中(そのなか)の汚汁(しる)を漏(も)らす憂(きづかい)なき
や否(いなや)を吟味(ぎんみ)すべし土中(つちのなか)に滲込(しみこ)みたる両便(りやうべん)の汚(し)
汁(る)は土層(つちめ)を潜(くゞ)りて井水(ゐどのみづ)に混入(まさりい)ること案外(あんぐわい)に容(よう)
易(い)なるものなり総(そう)じて土中尾(つちのなか)に滲込(しみこ)みたるもの
は其儘(そのまゝ)に消失(きえう)するものゝ如(ごと)く思(おも)ひて其(その)卯/行先(ゆくさき)を
穿鑿(せんさく)せさるは世人(よおひと)の常(つね)なれども土層(つちめ)は宛(あだか)も篩(ふるひ)
【左】
の如(ごと)くにて常(つね)に其(その)吸収(すひこ)みたるものを濾過(こしとほ)すこと
少(すこ)しも障(きは)りなきもの故(ゆゑ)に井(ゐど)の近傍(まぢか)に汚汁(わるみづ)あれ
ば忽(たちまち)に井中(ゐどのなか)に混入(まざりは)るなり畏(おそ)るべく慎(つゝし)むべし
<第三>井(ゐど)は近傍(まぢか)にの溝下水(みぞげすゐ)より其(その)汚水(わるみづ)を滲透(しみとふ)さゞ
る様(やう)平常(つね〴〵)に注意(ちゆうい)すべし故(ゆゑ)に下水(げすゐ)を通(とほ)すには成(な)
る丈(た)け井(ゐど)より遠(とほ)くすべし又(また)成(な)るべく魚類等(うをるゐとう)を
井戸端(ゐどばた)にて調理(こしら)へぬ様(やう)するが宜(よろ)し是(これ)は魚(うを)の洗(あらひ)
汁(しる)野菜(やさい)の切屑(きりくづ)など腐(くさ)れ出(いだ)して自然(しぜん)に其(その)土中(つちのなか)に
滲入(しみこ)み井水(ゐどのみづ)を汚(よご)すが故(ゆゑ)なりされば井(ゐど)は油断(ゆだん)な
く心附(こゝろづ)けて之(これ)を看護(もりかば)ふこと宝物重器(たからもの)を秘蔵(たくは)ふる
【右】
が如(ごと)くすべし等閑(なほざり)にするときは些(すこし)の間隙(すきま)より
悪者竄入(わるきものしのびこ)みて人(ひと)の生命(いのち)をも取(と)るに至(いた)るものな
り
<第四>井(ゐど)は時々(とき〴〵)之(これ)を汲(く)み干(ほ)して十分(じふぶん)に浚(さら)ひ浄(きよ)め
井闌(ゐどがは)の木材朽腐(きしなくちくさ)るときは速(すみやか)に修繕(しゆふく)を加(くは)ふべし
資財(かね)なる人(ひと)は煉瓦(れんくわ)或(あるひ)は「セメント」を用(もち)ひて井闌(ゐどがは)
を築(きづ)くを良(よし)ことに一時(いちじ)は高價(たかね)の如(ごと)くなれども長(なが)
き月日を経(ふ)れは却(かへつ)て大(おほい)に経済(かはぢやうあひ)になるなり
<第五>水(みづ)は岩石(いはいし)多(おほ)き山(やま)より湧(わ)き出(いづ)るものを尤(もつとも)清(せい)
潔(けつ)なりとす故(ゆゑ)に斯(かゝ)る水(みづ)を密閉(しめきり)たる管(くだ)或(あるひ)は樋(とひ)を
【左】
引(ひ)きて町村(まちむら)に導(みちび)くことを得(う)れば第一(だいいち)の良法(よきしかた)なり
されども蓋(ふた)のなき堀切渠(ほりきりどぶ)又(また)は樋(とひ)にて引(ひ)くは宜(よろ)
しからずなり又(また)井水(ゐどのみづ)を用(もち)ふるときは先(ま)づ其水(そのみづ)
の性質(せいしつ)を吟味(ぎんみ)すべし卑(ひく)き地所(ぢしよ)及(およ)び人口稠密(いへごみ)な
る場所(ばしよ)にては尚更(なほさら)の事(こと)なり丘阜(おかこやま)及(およ)び高燥(たかたい)の地(ち)
は其(その)地内(ぢうち)の便所(べんじよ)下水(げすゐ)を遠(とほ)く離(はな)れたる井戸(ゐど)なれ
ば其水(そのみづ)も亦(また)善良(ぜんりやう)なるを常(つね)とす若(も)し其(その)土地(とち)の人(ひと)
にて飲水(のみみづ)の善悪(よしあし)に疑念(うたがひ)あるときは府県(ふけん)の衛生(ゑいせい)
課(くわ)に申立(まをしたて)て之(これ)が吟味(ぎんみ)を受(う)くべし
<第六>水(みづ)の黄色(きいろ)なるもの灰白色(はいけいろ)なるものは飲(の)む
【右】
べからず
良(よ)からぬ臭気(くさみ)或(あるひ)は鹹味(しほからみ)を帯(お)びたる水(みづ)は飲(の)むべ
からず
水中(みづのふか)に小(ちいさ)き蟲(むし)或(あるひ)は有機物(いうきぶつ)より生(しやう)じたる黄色(きいろ)の
游埃(うきごみ)など混(まじ)るときは飲(い)むべからず
<第七>虎列刺(これら)、窒扶私(ちぶす)、痢病(りびやう)等(とう)の患者(くわんじや)の吐下物(はきくだしもの)を芥(ごみ)
溜(ため)便所(べんじよ)《割書:殊(こと)に井戸(ゐど)|に近(ちか)き者(もの)》に捨(す)てべからず直(す)ぐに土層(つちめ)を
潜(くゞ)りて井水(ゐどみづ)に混(まざ)り大害(たいがい)をなすものなり
<第八>豚牛馬(ぶたうしうま)等(とう)家畜(かちく)の小屋(こや)は井(ゐど)の近傍(まぢか)に設(まう)くべ
からず
【左】
丙 飲食物(いんしよくぶつ)
<問>飲食物(いんしよくぶつ)の注意(ちゆうい)は如何(いかに)して其(その)宜(よろ)しきを得(う)べきや」
我邦(わがくに)の人(ひと)は日常(つね〴〵)飲食(のみくひ)する物料(しなもの)の性質(せいしつ)を吟味(ぎんみ)せ
ざらうもの多(おほ)し是(こ)れ宜(よろ)しからざる風習(ならはし)にて苟且(かりそめ)
にも自己(おのれ)の命(いのち)を重(おも)んじ傅染病(でんせんびやう)流行(りうかう)等(とう)の時(とき)など
に方(あた)りて其(その)害(がい)を避(さ)けんと思(おも)はづ飲食物(いんしよくぶつ)の善悪(ぜんあく)
は必(かなら)ず審(つまびら)かに吟味(ぎんみ)せざるべからず人體(ひとのからだ)の臓腑(ざうふ)
と血液(ちしる)とは悪(あし)き食物(しよくもつ)に遇(あ)へは至極(しごく)もろきもの
にして如何(いか)なる屈強(くつきやう)の勇士(ゆうし)なりとも一口(ひとくち)の飲(のみ)
食(くひ)より病(やまひ)を起(おこ)し死(し)を来(き)たす程(ほど)の害(がい)を受(う)くるも
【右】
のなり就中(なかんづく)日(ひ)を経(へ)て腐(くさ)りたる魚(うを)、経日(ひまし)の蝦蟹(えびかに)、牡(か)
蠣(き)、貝類(かひるゐ)などは最(もつと)も危(あやう)し殊更(ことさら)炎暑(えんしよ)の時候(じこう)暖気(だんき)の
土地(とち)等(とう)にては右(みぎ)の如(ごと)き貝類(かいるい)蝦類(えびるい)の新鮮(あたらし)からざ
るものを食(しよく)して即日(そのひ)に大病(たいびやう)を發(はつ)すること屡(しば〳〵)多(おほ)し
此他(このた)通常(なみ)の魚類(うをるゐ)にても日(ひ)を経(へ)たるものは霍亂(くわくらん)
を起(おこ)すことあり慎(つゝひ)み警(いまし)めざるべからず今(いま)左(さ)に飲(いん)
食(しよく)に付(つ)き用心(ようじん)の要領(あらまし)を列記(かきの)すべし
<第一>死魚(しにうを)の悪(あし)き臭(くさみ)ある腐(くさ)りたるものは食(く)ふべ
からず
病魚(びやうぎよ)みて其肉(そのにく)輭(やはらか)に弾力(しまり)なきものは食(く)ふべから
【左】
ず
藏鮞(こもち)の魚(うを)は成(な)るべく食(く)はぬを良(よし)とす
<第二>干魚(ほしうを)の悪(あし)き臭(か)なるもの黴を生(しやう)じたるもの
腐(くさ)りたるもの蟲(むし)を生(しやう)じたるものを食(く)ふべから
ず
<第三>鹽魚(しほうを)の輭(やはらか)にして豆腐(とうふ)に触(ふ)るゝが如(ごと)きもの
悪(あし)き臭(か)又(また)は一種(いつしゆ)鼻(はな)を撲(う)つ臭気(くさみ)あるものを食(く)ふ
べからず
<第四>牛乳(ぎうにく)其他(そのた)の獣肉類(けものゝにくるい)は其(その)獣(けもの)の無病(むびやう)にて其(その)肉(にく)
の新鮮(あたら)しきものにあらざれば食(く)ふべからず若(も)
【右】
し其(その)肉(にく)腐(くさ)りたるか又(また)は病(や)みたる肉(にく)なれば吐(はき)下(くだし)
或(あるひ)は熱病(ねつびやう)を起(おこ)すことなる故(ゆゑ)甚(はなは)だ危(あや)うきものな
り凡(すべ)て肉類(にくるゐ)の悪臭(あしきか)を放(はな)ち紫黒色(くろむらさきいろ)或(あるひ)は蒼白色(あをしろいろ)を
現(あら)はすものは食料(しよくれい)に適(てき)せざるものと知(し)るべし
<第五>熟(じゆく)せざる果実(くだもの)又(また)は腐(くさ)りかゝりたる果実(くだもの)を
食(く)ふべからず
<第六>黴(かび)を生(しやう)じ或(あるひ)は腐(くさ)りたる蔬菜(やさい)を食(く)ふべから
ず
<第七>黴(かび)を生(しやう)じ又(また)は饂(すえ)かゝりたる米飯(めし)を食(く)ふべ
からず
【左】
<第八>腐(くさ)りたる酒(さけ)、醤油(しやうゆ)等(とう)及(およ)び酒類(さけるゐ)の贋造物(にせづくりもの)を
用(もち)ふべからず
<第九>総(そう)じて日常(まいにち)の飲食物(いんしよくぶつ)は十分(じふぶん)に心附(こゝろづ)け力(つと)め
て清潔(せいけつ)にし時々(とき〴〵)黴(かび)を生(しやう)ぜざるか悪臭(あしきか)を放(はな)たざ
るか腐(くさ)かゝらざるかを注意(ちゆうい)すべし
<第十>夏秋炎暑(なつあきのあつさ)の時候(じこう)に在(なつ)ては多分(たぶん)に生物(なまもの)を喫(く)
ふべからず 下痢(げり)の常習(くせ)なる人(ひと)は、尤(もつとも)用心(ようじん)すべし」
総(すべ)て虎列刺病(これらびやう)流行(りうかう)のときは假令(たとひ)新鮮美良(あたらしきけつこう)の食(しよく)
物(もつ)たりとも十分(じふぶん)に飽食(たいしよく)すべからず 始終(しじう)節度(ひかへめ)に
すべし 大酒(たいしゆ)はことによろしからず
【右】
丁 他人(たにん)との交通(まじはり)
<問>人々(ひと〴〵)各自(めい〳〵)の交通(まじはり)は如何(いか)なる注意(ちゆうい)をなすべきや」
<第一> 凡(すべ)て劇場料理店(しばゐれうりや)寺院(てら)旅店(はたごや)其他(そのた)工場(こうば)製作(せいさく)
場(ば)鑛業場(かもほりば)等(とう)にて衆多(おふく)の人(ひと)の羣聚(くじゆ)する場所(はしふ)は各(ひと)
人成(ぐな)るべくは暫時(おり〳〵)其場(そのば)を出(いで)て新鮮(あらた)なる空気(くうき)を
適宜(よきほど)に吸(す)ふ様(やう)にせしむべし呼出(はきだ)したる空気(くうき)を
直(すぐ)に復(ま)た吸入(すひこ)むことは極(きは)めて体害(たいがい)になり且(か)つ
皮膚(ひふ)より蒸発(じようはつ)する氣(き)を吸入(すひこ)むも亦(また)害(がい)ある故(ゆゑ)に
久(ひさ)しく一處(いつしよ)に集(あつま)り居(を)るは宜(よろ)しからず殊(こと)に右等(みぎら)
の場所(ばしよ)にては飲食(いんしよく)を節(いちば)にし且(か)つ成(な)るべく飲酒(いんしや)
【左】
等(とう)を戒(いまし)べし
<第二>人力車夫(じんりきしやひき)の疾走(かけること)度外(どぐわい)に久(ひさ)しきに過(す)ぐるは
宜(よろ)しからず 人身(ひとのみ)の心臓肺臓(しんざうはいざう)は其(その)結構(たてけつ)して此(この)
様(やう)なる劇(はげ)しき労働(ほもをり)に堪(た)ふべきものに非(あら)ず一日(いちにち)
に十里(じふり)以上(いじやう)の路(みち)を疾走(かえ)るときは害(がい)なりと知(し)る
べし
<第三>婦人小童(おんなこども)は職工場(しよこうば)製作場(せいさくば)等(とう)にて餘(あま)り度(ど)に
過(す)ぎたる労役(ほもをり)をなさゞるを宜(よろ)しとす 且(か)つ此等(これら)
の場(ば)にては新鮮(あたら)しき空気(くうき)善良(ぜんりやう)なる飲水(のみみづ)及(およ)び相(さう)
當(たう)する滋養品(やしほひしな)を受用(じゆよう)せしむべし
【右】
<第四>埋葬場(まいさうば)火葬場(くわさうは)は成(な)る丈(た)け人家(じんか)を離(はな)るゝ所(ところ)
に在(あ)る様(やう)にすべし
<第五>市街道(まちみち)の掃除(さうぢ)に注意(ちゆうい)して断(た)えず清潔(せいけつ)に
なすべし
以上<甲><乙><丙><丁>の四項(よかど)を分(わか)ち各人(ひと〴〵)にて虎列刺(これら)及(およ)び
其他(そのほか)の傅染病(でんせんびやう)を豫防(よぼう)する為(た)めに平常(つね〴〵)注意(ちゆうい)すべき
要件(かど〳〵)を略説(りやくせつ)せり
今(いま)其等(それら)の悪病(あくびよう)既(すで)に町村(ちやうそん)に侵(おか)し入(い)りたる後(のち)に於(おい)て
之(これ)を制伏(おしふ)すべき方法(しかた)を次(つぎ)に説(と)き明(あか)さん
【左】
第三章
虎列刺(これら)其他(そのほか)の傅染諸病(でんせんしよびやう)を制伏(おしふ)する人民(じんみん)各自(めい〳〵)
の心得(こゝろえ)の事(こと)
虎列刺(これら)その他(ほか)の傅染病(でんせんびやう)其(その)町村(ちやうそん)に入(い)り込(こ)むときは
其(その)町村(ちやうそん)の衛生委員(ゑいせいゐゐん)にて郡區長(ぐんくちやう)戸長(こちやう)に力(ちから)を協(あは)せ豫(よ)
防(ぼう)消毒(せうどく)の事(こと)を世話(せわ)あるべけれども一般(いつぱん)の人々(ひと〴〵)に
て其(その)世話(せわ)あるべき廉々(かど〳〵)の概要(あらまし)を知(し)り且(かあつ)各自(めい〳〵)の心(こゝろ)
得方(えかた)をも豫(うね)て定(さだ)め置(お)かざれば萬一(まんいち)の時(とき)に及(およ)びは
自(おのづ)と事情(じじやう)の隔(へだて)を生(しやう)じ或(あるひ)は其(その)世話(せわ)を疑(うたが)ひて不都合(ふつがふ)
の事(こと)多(おふ)かるべし
【右】
虎列刺(これら)流行(りうかう)の時節(じせつ)に若(も)し吐瀉(はきだし)などなりて虎列刺(これら)
にまぎらはしき病(やまひ)にかゝりたらば直(すぐ)に衛生委員(ゑいせいゐゐん)
に届出(とゞけい)で醫師(いしや)にたのみて療治(れうぢ)すべし隠蔽(つゝみかく)してそ
れ〳〵の手当(てあて)をもなさゞのゆゑ手/後(おくれと)なりて
一人(いちにん)の命(いのち)を失(うしな)ふのみならず一町一村(いつちやうちつそん)にひろがり
て数千人(すせんにん)の難儀(なんぎ)ともなるなりされば隠蔽(つゝみかくし)なく速(すみや)
かに其(その)筋(すぢ)へ届出(とゞけい)づることは豫防(よぼう)第一(だいいち)の肝要(かんゑう)にて若(も)
とならうものなり昨年(さくねん)なども皆(みな)隠蔽(つゝみかくし)より俄(にわ)かに傅(でん)
染病(せん)して一郡一國(いちぐんいつこく)に蔓延(まんえん)し救(すく)ふべからずる勢(いきほひ)にな
【左】
りたる例(ためし)多(おほ)し能々(よく〳〵)心得(こゝろう)べきことなり
さて其(その)隠蔽(つゝみかくし)をする所以(ゆゑん)を原(たづぬ)るに多(おふ)く各自(めい〳〵)の誤解(げしぢかひ)
に出(いづ)るものにして就中(なかんづく)避病院(ひびやうゐん)ぶ入(い)るを畏(おそ)るゝに
よれり因(より)て今(いま)避病院(ひびやうゐん)の取扱(とりあつかひ)と其(その)道理(だうり)とを委敷説(とはしくと)
きて人々(ひと〴〵)の惑(まどひ)を散らすべし
虎列刺(これら)の病毒(びやうとく)は其(その)吐瀉物(としやぶつ)の中(うち)にありて速(しみやか)に傅染(でんせん)
するものゆゑ一人(いちにん)の病者(びやうしや)ありて其(その)同室(おなじま)に家族(かない)な
ど起臥(おきふし)なさば瞬間(またゝくひま)に一家内(いつかない)残(のこ)らず病(やまひ)に移(うつ)り染(そ)み
血統(ちすぢ)を絶(たや)すに至(いた)るべければ病者(びやうしや)は必(かなら)ず病間(びやうま)を定(さだ)
め看病人(かんびやうにん)を取極(とりき)め用(よう)なき家族(かない)は其(その)病間(びやうま)に妄(みだ)りに
【右】
立入(たちい)らざる様(やう)になし又(また)其(その)吐瀉(としやあぶつ)には充分(じうぶん)に消毒(せうどく)
して手落(ておち)なき様(やう)にするが一家(いつか)の豫防(よぼう)にて此(この)二項(ふたかど)
の目的(めあて)を尽(つく)しなば外(ほか)に豫防(よぼう)はなきことなりされど
も其(その)家(いへ)貧窮(ひんきう)にて看病(かんびやう)すべき人(ひと)もなく又(また)看病(かんびやう)をな
きときは其(その)日(ひ)の稼(かせぎ)に差支(さしつか)へ或(あるひ)は老人子供(としよりこども)ばかり
にて手当(てあて)も届(とゞ)かず又は人数(にんづ)多(おほ)くして間数(まかず)少(すく)なき
者杯(ものほど)は所詮(しよせん)前(まへ)の二項(ふたかど)を充分(じうぶん)仕遂(しと)ぐること能(あた)はず
此等(これら)の人(ひと)の心(こゝろ)にはあはれ善(よ)き看病人(かんびやうにん)のありたら
ば介抱(かいほう)も届(とゞ)きつらん好(よ)き病室(びようま)のありたらば家族(かない)
にも遷(うつ)るまじと思(おも)はぬ者(もの)はなかるべし又(また)旅籠屋(はたごや)
【左】
に泊(とま)り学校(がくこう)製作場(せいさくば)杯(ほど)に寄宿(きしゆく)して身寄(みより)朋友等(ともだちとう)の引(ひき)
取人(とりて)なき者(もの)は其(その)家(いへ)の迷惑(めいわく)となり業體(げふてい)にも差響(さしひゞ)き
本人(ほんにん)の身(み)になりては如何計歟(いかばかりか)居(を)りづらく思(おも)ふべ
く又(また)は旅人(たびゝと)の途中(とちう)にて発病(はつびやう)したる其(その)時(とき)は世話(せわ)す
る人(ひと)もなかるべし かゝる者(もの)の為(ため)に避病院(ひびやうゐん)を取建(とりたて)
て其(その)難儀(なんぎ)を救(すく)ひ親切(しんせつ)に世話(せわ)せよとて設(もう)けられた
る規則(きそう)なれば此等(これら)の人(ひと)は願(ねが)ひては入院(にふゐん)をなすべ
き筈(はづ)なりたるを兎角(とかく)に畏(い)み嫌(きら)ひ取留(とりとま)らざる妄説(まうせつ)
に惑(まど)ふは謂(いは)れなきことにて其(その)身(み)は勿論(もちろん)家族(かない)まで
誘(さそ)ふて殺(ころ)す者(もの)を謂(い)ふべし入院(にふゐん)すれば療治(れうぢ)も出来(でき)
【右】
又(また)消毒(せいどく)も行届(ゆきとゞ)き家族(かない)に遷(うつ)る虞(きづかひ)もなく殊更(ことさら)店商家(いやうか)
にては商売(あきなひ)も出来(でき)がたけれども入院(にふゐん)したる其(その)後(のち)
に衛生委員(ゑいせいゐゐん)の指図(さしず)を受(う)け其(その)家(いへ)に消毒(せうどく)する時(とき)は其(その)
商売(あきなひ)も許(ゆる)さるべし故(ゆゑ)に避病院(ひびやうゐん)に入(い)ることは其(その)身(み)
の為(た)め又(また)家族(かない)の為(た)め又(また)経済(けいざい)の為(た)めと知(し)るべし
偖(さて)避病院(ひびやうゐん)の取扱(とりあつかひ)は如何(いか)なることをなすか全(まつた)くこ
れを知(し)らずして只管(ひたすら)浮説(ふせつ)を信用(しんよう)なし入院(にふゐん)を嫌(きら)ふ
者(もの)多(おほ)し依(よ)りて今(いま)其(その)取扱方(とりあつかひかた)の大略(あらまし)を左(さ)に示(しめ)すべし
一/避病院(ひびやうゐん)にては病者(びやうしや)一人毎(いちにんごと)に清浄(しやう〴〵)の寝床(ねどこ)蚊帳等(かやとう)
なり病室(びやうま)は通例(つうれい)四畳敷(よでふじき)に壹人(いちにん)の規則(きそく)にて病者(びやうしや)
【左】
多(おほ)き時(とき)にても一人(いちにん)二畳敷(にでふじき)より減(げん)ずることなし
一/醫師(いしや)は院中(ゐんちう)に詰(つ)め切(き)り時々(とき〴〵)見廻(みまは)りて懇切(ねんごろ)に療(れう)
治(ぢ)せらるべし
一/看病人(かんびやうにん)は晝夜(ちうや)附(つ)き居(を)りて親切(しんせつ)に介抱(かいはう)なし吐瀉(としや)
物(ぶつ)は一人(いちにん)毎(ごと)に備(そな)へたる器(うつは)に取(と)りて其(その)都度(つど)消毒(せうどく)
を行(おこな)ふなり
一/軽症(けいしやう)の病者(びやうしや)と重症(ぢゆうしやう)の病者(びやうしや)こそ病室(びやうま)を区別(くべつ)し快(くわい)
方(ほう)に赴(おもむ)くときは復(ま)た別室(べつま)に移(うつ)すなり
一/家族(かぞく)にて看病(かんびやう)をなさんことを望(のぞ)む時(とき)は必(かんら)ず速(しみやか)に
許容(ゆる)さるべし尤(もつとも)常(つね)に院中(ゐんちう)に寄宿(きしゆく)なすとも妄(みだり)に
【右】
出入(でいり)することは許(ゆる)されざるべし
一/近親(きんしん)にて見舞(みまひ)の為(た)め対面(たいめん)を望(のぞ)む時(とき)は許(ゆる)さるべ
し尤(もつとも)出院(しふつゐん)の節(せつ)は消毒(せうどく)を行(おこな)はるべし
一/病室(びやうま)全快(ぜんくわい)すれは消毒(せうどく)を行(おこな)ひ出院(しゅつゐん)を許(ゆる)さるべし
一/病者(びやうしや)軽症(けいしやう)より重症(ぢゆうしやう)に変(へん)づる時(とき)は家族(かぞく)に通知(しらせ)あ
るべし
一/病者(びやうしや)死亡(しばう)する時(とき)は別(べつ)に設(まう)けたる清浄(せい〴〵)の室(しつ)に移(うつ)
し入れ速(すみやか)に其(その)由(よし)の通知(しらせ)あるべし且(か)つ家族(かぞく)を喚(よび)
寄(よ)せて其(その)死體(しがい)を示(しめ)さるべし尤(もつとも)遅參(ちさん)する時(とき)は消(せう)
毒等(どくとう)の後(おく)るゝを以(もつ)て先(ま)づ其(その)死體(しがい)を取片付(とりからづけ)らる
【左】
べし
一/死體(しがい)は丁寧(ていねい)に取扱(とりあつか)はれ充分(じうぶん)消毒(せうどく)して入棺(にふくわん)せし
め夫(それ)より埋火葬場(まいくわさうば)に送(おく)らるべし
右(みぎ)の如(ごと)く避病院(ひびやうゐん)の取扱(とりあつかひ)は決(けつ)して粗略(そりやく)ならざるも
のなりされば自宅(じたく)にて療養(りうやう)の届(とゞ)かぬ者(もの)は速(すみやか)に其(その)
病人(びやうにん)を避病院(ひびやうゐん)に送(おく)るを良(よし)とす然(しか)つときは病人(びやうにん)の
療治(れうぢ)看病(かんびやう)も十分(じうぶん)に行届(ゆきとゞ)き且(か)つ他人(たにん)に傳染(でんせん)せざる
二(ふた)つの益(えき)あり昨年(さくねん)の流行(りうかう)にも一家(いつか)に一人(いちにん)の病者(びやうしや)
ありて次第々々(しだい〳〵)に傳染(でんせん)し遂(つひ)に一家(いつか)残(のこ)らず死絶(しにた)え
或(あるひ)は一人(ひとり)の小児(せうに)を存(のこ)し或(あるひ)は一人(ひとり)の老人(らうじん)を残(のこ)す等(とう)
【右】
実(じつ)に惨(むご)らしを状況(ありさま)にて言(い)ふに忍(しの)びざるもの少(すく)な
からずされば一家(いちか)の主人(しゆじん)たるものは家内(かない)の此(この)病(やまひ)
に傳染(でんせん)せざる様(やう)に注意(ちゆうい)するは固(もと)より其(その)職分(やくまへ)義務(つとめ)
にして若(も)し其(その)主人(しゆじん)にて病人(びやうにん)を引分(ひきわく)ることなく又(また)
は其(その)吐瀉物(としやぶつ)の消毒(せうどく)に注意(ちゆうい)せざるときは特(ひと)り其(その)家(か)
内(ない)を安全(あんぜん)に保護(ほうご)し得(え)ざあるのみならず一町一村(いつちやうしつそん)之
れが為(た)めに無量(むりやう)の災難(さいなん)を受(う)くるなるべし
各人(ひと〴〵)能(よ)く心(こゝろ)を平(たひらか)にして右(みぎ)の道理(だうり)を会得(ゑとく)すれば避(ひ)
病院(ひびやうゐん)に対(たい)して不平(ふへい)を訴(うつた)へ又(また)は粗暴(てあら)なる挙動(ふるまひ)をな
すべからざることは何人(なんひと)にても能(よ)く合点(がてん)し得(え)らる
【左】
べきなり
避病院(ひびやうゐん)は右(みぎ)の有様(ありさま)ゆゑ決(けつ)して恐(おそ)るべきものにあ
らず自宅療養(じたくれいやう)の届(とど)かぬとおもふものは願(ねがひ)ても入(にふ)
院(ゐん)療治(れうぢ)すべきものなりまして譯(わけ)なく忌嫌(いみきら)ひて病(やまひ)
のおこりたるをも隠蔽(つゝみかく)し吾人(わら〳〵)の難儀(なんぎ)を見(み)るは不(ふ)
了簡(れいけん)の限(かぎ)りと謂ふべし
又(また)虎列刺流行(これらりうかう)の時(とき)は政府(せいふ)は勿論(もちろん)町村(ちやうそん)の衛生委員(ゑいせいゐゐん)
にて如何程(いかほと)に豫防(よぼう)消毒(せうどく)の世話(せわ)あるとも其(その)地(ち)に住(すま)
居(ひ)の人々(ひと〴〵)にて病敵(びやうてき)を退治(たいぢ)する念慮(ねんりよ)なければ決(けつ)し
て其(その)効(しるし)あるものならず故(ゆゑ)に人々(ひと〴〵)皆(みな)其(その)心得(こゝろえ)ありて
【右】
流行(りうかう)の時(とき)は其(その)心得(こゝろえ)たる丈(たけ)の事(こと)を一家々々(いつけ〳〵)に行(おこな)ひ
守(まも)らざるべからず人々(ひと〴〵)にて之(これ)を等閑(なほざ)り怠(おこた)るとき
は新佛(しんぶつ)も加護(かご)し給(たま)はざるべし
各人(ひと〴〵)にて皆(みな)虎列刺(これら)の原因(げんいん)となり病毒(びやうどく)の蔓延(はびこ)るべ
き種(たね)を消滅(いつけ)すことを力(つと)むべし今(いま)其(その)病毒(びやうどう)を消滅(うちけ)す
べき方法(しかた)を次(つぎ)に列記(かきしる)さん
<第一>各人(ひと〳〵)皆(みな)清浄(しやか〴〵)と伝(い)ふことを忘(わす)るべからず肢體(からだ)
は勿論(もちろん)衣服(きもの)住居(すまひ)下水(げすゐ)便所(べんじよ)芥溜(ごみため)等(とう)まで都(すべ)て清潔(せいけつ)
にすべし虎列刺(これら)の病毒(びやうどく)は皆(みな)不潔(ふけつ)より殖(ふえ)るもの
なり動物類(どうぶつるゐ)の腐(くさ)りたるものは病毒(びやうどく)に第一(だいいち)の培(こや)
【左】
料(し)にして不潔物(ふけつもの)を以(もつ)て養(やしな)ふときは非常(むじやう)に蕃殖(はびこ)
るものと知(し)るべし
<第二>各人(ひと〴〵)都(すべ)て適度(よきほど)を守(まも)り何事(なにごと)も其度(そのど)を過(すご)すべ
からず殊(こと)に飲食(いんしよく)は努(つと)めて節少(ひかへめ)にし暴食(たいしよく)などす
べあらず日常(つね〴〵)職業(しよくげふ)とする仕事(しごと)なりとも度外(どどわい)に
勉強(べんきやう)なすべからず
腐(くさ)りたる死魚(しにうを)を食(く)ふべからず黴(かび)を生(しやう)じ或(あるひ)は蟲(むし)
付(つき)たる食物(しようもつ)を用(もち)ふべからず夏日(なつのひ)は貝類(かひるゐ)牡蠣類(かきるゐ)
及(およ)び蝦類(えびるい)を食(く)はざるを良(よし)とす不熟(ふじゆく)或(あるひ)は腐(くさ)りた
る菓物(くだもの)を食(く)ふべからず日(ひ)を経(へ)たる獣肉(けものにく)を食(く)ふ
【右】
べからず
都(すべ)て日常(つね〴〵)の食物(しよくもつ)は其(その)料理(れうり)に念入(ねんい)れ疑(うたが)はしき食(しよく)
物(もつ)は努(つと)めて喰(く)はざる様(よう)にすべし
<第三>各人(ひと〴〵)飲水(のみみづ)は注意(ちゆうい)すべし若(も)し少(すこ)しにても濁(にご)
り或(あるひ)は臭気(くさみ)あるか或(あるひ)は味(あぢ)の良(よ)からぬときは決(けつ)
して其(その)水(みづ)を飲(の)むべからず虎列刺(これら)町村内(ちやうそんない)に入(い)り
込(こ)むときは必(かなら)ず一旦(いつたん)其(その)水(みづ)を沙濾(sなごし)にし煮沸(にたゝ)して
後(のち)飲(の)むべし町村(ちやうそん)の人家(じんか)ある場所(ばしよ)を通(とほ)りたる河(かは)
水(みづ)は容易(ようい)に飲(の)むべからず又(また)浅(あさ)き井戸(ゐど)の水(みづ)を飲(の)
むべからず近邉(きんぺん)に便所(べんじよ)或(あるひ)は下水(げすゐ)あるときは多(おほ)
【左】
くは汚汁(わるみづ)滲(し)み透(とほ)して其(その)井戸(ゐど)は不潔(ふけつ)となるもの
なり若(も)し町村内(ちやうそんない)一般(いつぱん)の飲水(のみみづ)に付(つ)き不安心(ふあんしん)の事(こと)
ならば衛生委員(ゑいせいゐゐん)に依頼(たの)みて其(その)世話(せわ)を請(こ)ふべし」
<第四>各人(ひと〴〵)注意(ちゆうい)して其(その)便所(べんじよ)より汚汁(わるみづ)の漏(も)らぬ様(よう)
に心付(こゝろづ)け屡々(しば〳〵)之(これ)を斟取(くみと)りて十分(じふぶん)に其(その)跡(あと)を掃除(さうぢ)
すべし
<第五>下水溜(げすゐだめ)は屡々(しば〳〵)斟取(くみと)りて田畠(たはた)に送(おく)るべし
<第六>各人(ひと〴〵)止(や)むを得(え)ざる事(こと)にあらざれば無益(むやく)に
虎列刺病者(これらびやうしや)に直接(ちかづ)き及び病者(びやうしや)ある家(いへ)に立入(たちい)る
べからず且(か)つ成(な)るべく妄(みだり)に他家(たけ)の便所(べんじよ)に上(のぼ)ら
【右】
ざる様(やう)注意(ちゆうい)するを良(よし)とす
<第七>各人(ひと〴〵)常(つね)に「フラネル」或(あるひ)は紋派織(もんぱをり)の腹帯(はらおび)を巻(ま)
き《割書:幅(はゞ)八(はつ)|寸(すん)位(ぐらゐ)》夜中(やちう)も成(な)るべく之(これ)を解(と)くべからず炎暑(あつき)
の時(とき)に裸體(はだか)又(また)は雨戸(あまど)を開(あ)け放(はな)ちて眠(ねむ)るべから
ず晝夜(ちうや)温度(おんど)の不平均(むら)に感(かん)ずるときは劇(はげ)しき腸(ちやう)
加答児(かたる)を起(おこ)すことあり慎(つゝし)むべし
<第八>下痢(げり)の兆(きざい)あるときは決(けつ)して生物(なまもの)又(また)は消化(せうくわ)
あしき物(もの)を食(く)ふべからず粥(かゆ)或(あるひ)は葛湯等(くずゆとう)を用(もち)ふ
るを良(うよし)とす若(も)し下痢(げり)を發(はつ)するときは警察分署(けいさつぶんしよ)
或(あるひ)は町村(ちやうそん)役場等(やくばとう)に備(そな)へたる薬(くすり)を用(もち)ひ直(すぐ)に醫師(いしや)
【左】
を頼(たの)むべし
<第九>右(みぎ)の如(ごと)く注意(ちゆうい)用心(ようじん)するの後(のち)虎列刺病(これらびやう)尚(な)ほ
其(その)家(いへ)に侵(おか)し入(い)りたる取敢(とりあ)へず其筋(そのすぢ)へ届(とゞ)
け出(い)で先(ま)づ健康(たつしや)なる人(ひと)を引分(ひきわ)け看病人(かんびやうにん)の外(ほか)は
病人(びやうにん)に近(ちか)づかしむべからず其(その)吐下(はきくだ)したるもの
又(また)は之(これ)に汚穢(けが)れたるものは決(けつ)して之(これ)を便所(べんじよ)往(わう)
来(らい)下水(げすゐ)芥溜(ごみため)田圃(たはた)溝川等(みぞかはとう)に棄(す)つべからず一たび
之(これ)を等閑(なほざり)にするときは一人(にん)の不注意(ふちゅうい)より數千(すうせん)
萬人(まんにん)を殺(ころ)すに至(いた)るものにて豫防中(よぼうちう)の第(だい)一に肝(かん)
要(えう)とする所(ところ)なり現(げん)に昨年(さくねん)も虎列刺病者(これらびやうしや)の汚穢(よごれ)
【右】
物(もの)を川上(かはかみ)に投棄(なげすて)又(また)は洗濯(せんたく)したる為(た)め直(すぐ)に其(その)
川下(かはしも)に住居(すまひ)せる村々(むら〳〵)に傅布(はびこ)り或(あるひ)は病毒(びやうどく)に触(ふ)れ
たる衣服(きもの)敷物等(しきものとう)を消毒(せうどく)せずして再(ふたゝ)び用(もち)ひ又(また)は
遺物(かたみ)として貰受(もらひう)け之(これ)が為(た)めに感染(かんせん)して死(っし)する
物(もの)其例(そのためし)少(すくな)からず総(そう)じて虎列刺病(これらびやう)の大流行(おほりうかう)とな
るは大抵(たいてい)此等(これら)の事(こと)より起(おこ)るものにて虎列刺毒(これらどく)
は之(これ)を汚物(よごれもの)に混(こん)ずれば直(すぐ)に殖延(ふえはびこ)りて一滴(いつてき)の吐(と)
瀉物(しやぶつ)も瞬間(またゝくひま)に幾千萬(いくせんまん)となり八方(はつぼう)に蔓延(はびこ)ること
實(じつ)に畏(おそ)るべきものなりされば吐瀉物(としやぶつ)の取扱(とりあつかひ)は
豫(あらかじ)め相当(さうたう)の器(うつは)を用意(ようい)し之(これ)に消毒薬(せうどくやく)二三合(にさんごう)を入(い)
【左】
れ置(お)き病者(びやうしや)の吐瀉(としや)する度(たび)之(これ)に受(う)け屋外(いへのそと)に持出(もちだ)
し桶(おけ)或(あるひ)は壺等(つぼとう)に移(うつ)し其(その)器(うつは)は都度々々(つど〳〵)希薄(うすき)石炭(せきたん)
酸水(さんすゐ)にて洗(あら)ひ又(また)前(まへ)の如(ごと)く消毒薬(せいどくやく)を入(い)れ用(よう)に供(そな)
ふべしさて桶(おけ)或(あるひ)は壺(つぼ)に移(うつ)したるものは充分(じうぶん)に
消毒薬(せうどくやく)を注(そゝ)ぎ蓋(ふた)をなして溜(た)め置(お)き一定(いつてい)の場所(ばしよ)
に運(はこ)び焼棄(やきす)つべし焼棄(やきすて)の法(はふ)は其(その)場所(ばしよ)に相当(さうたう)の
穴(あな)を堀(ほ)り其中(そのなか)に灰(はひ)或(あるひ)は石灰(いしばひ)を撒(ま)き乾(かは)きたる藁(わら)
枯草(かれくさ)落葉(おちば)鉋屑(かんなくづ)鋸屑等(のこぎりくすとう)に石炭油(せきたんゆ)を灌(そゝ)ぎて穴(あな)の底(そこ)
に入(い)れ其上(そのうえ)に汚穢物(よごれもの)を投込(なげこ)み藁(わら)枯草等(かれくさとう)を
覆(おほ)ひ火(ひ)を點(とも)して焼棄(やくす)つべし火勢減(くわせいげん)ずれば更(さら)に
【右】
油(あぶら)を注(そゝ)ぎて掻交(かきま)ぜ全(まつた)く焼尽(やきつく)して灰燼(はひ)となる様(やう)
にすべし又(また)病人(びやうにん)の通(かよ)ひたる便所(べんじよ)は消毒薬(せうどくやく)を注(そゝ)
ぎ斟取(くみと)りて前(まへ)の如(ごと)く焼棄(やきす)て其跡(そのあと)をよく〳〵掃(さう)
除(ぢ)し其他(そのた)病者(びやうしや)の吐瀉物(としやぶつ)を投入(なげい)るゝことなき便所(べんじよ)
とも同じく防臭薬(ぼうしうやく)を灌(そゝ)ぐべし木綿切衣服(もめんぎれきもの)夜具(やぐ)
等(とう)総(すべ)て病人(びやうにん)に触(ふ)れて汚(よご)れたるものは決(けつ)して健(たつ)
康(しや)なる人(ひと)に触(ふ)れしめず充分(じうぶん)に消毒法(せうどうほふ)うぃお行(おこな)ひ襦(じゆ)
袢(ばん)手拭等(てぬぐひとう)価(ね)の貴(たか)からざるもの又(また)は口(くち)を拭(ぬぐ)ひた
る紙屑(かみくづ)涎(よだれ)の染(し)みたる枕紙(まくらがみ)までもなども取落(とりおとし)なく
都(すべ)て焼棄(やきすつ)るを良(よし)とす僅(わづか)の品(しな)を惜(をし)みて焼棄(やきす)てず
【左】
之(これ)が為(た)め其毒(そのどく)に感(かん)じ発病(はつびやう)して死(し)しtる者(もの)往々(わう〳〵)
あり慎(つゝし)むべき事(こと)なり若(も)し焼(や)く能(あた)はざるものは
消毒水中(せうどくすゐちう)に入(い)れ煮沸(にたゝ)すること一時間(いちじかん)にして後(のち)水(みづ)
石鹸(しやぼん)にて丁寧(ていねい)に洗濯(せんたく)し清水(きよたみづ)を灌(そゝ)ぎて乾(かは)かすべ
し若(も)し其(その)家(いへ)に消毒薬(せうどくやく)なきときは直(たゞち)に近邉(きんぺん)の警(けい)
察分署(さつぶんしよ)又(また)は町村役場(ちやうそんやくば)に柢(いた)りて消毒薬(せうどくやく)を乞(こ)ひ其(その)
用(よう)に備(そな)ふべし総(すべ)て右(みぎ)の消毒法(せうどくほふ)は病家(びやうか)にては理(り)
會(くわい)せざる人(ひと)もあり兎角(とかく)行届(ゆきとゞ)かぬものゆゑ衛生(ゑいせい)
委員(ゐゐん)又(また)は醫師(いしや)の指圖(さしづ)に従(したが)いて丁寧(ていねに)に注意(ちゆうい)すべ
し消毒薬(せうどくやく)並(ならび)に吐瀉物(としやぶつ)の取捨等(とりすてとう)は委員(ゐゐん)にて夫々(それ〴〵)
【右】
の取計(とりはからひ)ある筈(はづ)なり
<第十>若(も)そ病者(びやうしや)療養(れいやう)居(とゞ)かずして死兦(しはう)したる時(とき)は
早速(さつそく)衛生委員(ゑいせいゐゐん)に告知(つげし)らせ其(その)死屍(しがい)は消毒法(せうどくほふ)を行(おこな)
ひ速(すみや)かに入棺(にふくわん)するをよしとす又(また)死屍(しがい)は成(な)る丈(たけ)
火葬(くわさう)にするが良(よ)し其故(そのゆゑ)は埋葬(まいさう)にては如何程(いかほど)に
消毒(せいどく)するとも其(その)屍(かばね)の腐(くさ)るに随(したが)がひ自(おの)づと地中(ちちう)に
滲(し)み透(とほ)し或(あるひ)は川水(かはみづ)井戸等(ゐどとう)に流(なが)れ込(こ)みて再(ふたゝ)び害(がい)
を萌(きざ)すべし火葬(くわさう)は其毒(そのどく)を焼拂(やきはら)ひ全(まつた)く清浄(しやう〴〵)とな
るものなり但(たゞ)し従来(まへからから)の慣習(ならはし)にて之(これ)を好(この)まぬ者(もの)
も多(おほ)かりしよりい一時(いちじ)は火葬(くわさう)禁止(きんし)の令(れい)も出(い)でた
【左】
りしが元来(もとより)清浄(しやう〴〵)にして事(こと)に害(がい)なく且(かつ)は葬地(さうち)に
便利(たゝり)あるより終(つひ)に其禁(そのきん)をも解(と)かれしなれば殊(こと)
に傳染病(でんせんやまひ)にて死(し)したる遺骸(なきがら)の如(ごと)きは人(ひと)の為(ため)に
も我為(わがため)にも火葬(くわさう)にこそはなさまほしてけれさな
くとも汚(よご)れたる身體(からだ)を浄(きよ)め荼毘(だび)の烟(けむる)となすこと
は往古(そのかみ)の天皇(みかど)后妃(きさき)を始(はじ)め皆(みな)行(おこな)はせ給(たま)へる法(ほふ)に
て決(けつ)して賤(いやし)むべきものならば高間(たかま)の原(はら)も蓮(はす)の
臺(うてな)も皆(みな)清浄(しやう〴〵)と聞(き)くかゝつは悪(あ)しき病(やまひ)の屍(かばね)を持(も)た
は神(かみ)も佛(ほとけ)も嫌(きら)ひ給(たま)はん殊更(ことさら)埋葬(まいさう)を望(のぞ)む時(とき)は勝(かつ)
手(て)の所(ところ)へ葬(ほうむ)り難(がた)く又(また)改葬(かいさう)することも決(けつ)して成(な)ら
【右】
ざる規則(きまり)なれど焼(や)きたる後(のち)の遺骨(ゆゐこつ)なれは先祖(せんぞ)
の墓地(はかち)に持来(もちきた)り夫婦同穴(ふふおなじあな)に葬(はう)むることも都(すべ)て望(のぞみ)
の儘(まゝ)なるべし
此(この)虎列刺病(これらびやう)は劇(はげ)しき症(しやう)に至(いた)りては如何(いか)なる名(めい)
醫(い)にても容易(ようい)に治(ぢ)し得(う)べきものち非(あら)ず大抵(たいてい)世(せ)
界(かい)の例證(ためし)を挙(あ)ぐれば百人(ひやくにん)虎列刺(これら)に罹(かゝ)るときは
五十人(ごぢふにん)は必(かなら)ず治(ぢ)せざる程(ほど)の悪病(あくびやう)なり其上(そのうへ)に此(この)
病(やまひ)は人(ひと)に傳染(でんせん)する一種(いつしゆ)の毒(どく)ありて人(ひと)より人に
傳(つた)ふるものなれば人々(ひと〴〵)十分(じふぶん)の力(ちから)を極(きは)めて病人(びやうにん)
と健康(たつしや)なる人(ひと)とを引分(ひきわ)け其(その)傳染(でんせん)を防(ふせ)ぐことに尽(じん)
【左】
力(りよく)せざるべからず今(いま)一人(いちにん)の病者(びやうしや)あらんに家内(かない)
残(のこ)らず其(その)枕頭(まくらもと)を取巻(とりま)き病人(びやうにん)に取付(とりつ)き其(その)吐瀉物(としやぶつ)
の消毒法(せいどくはふ)焼棄等(やきすてとう)の事(こと)を等閑(なほざり)にするときは忽(たちま)ち
一家(いつか)に感染(かんせん)して先祖(せんぞ)の血統(ちすぢ)をも絶(たや)すこと昨年(さくねん)
の例(ためし)に照(て)らして明(あきら)かなり
以上(いじやう)虎列刺病(これらびやう)につき豫防(よぼう)制伏(せいふく)の解説(ときあかし)を全国(ぜんこく)町村(ちやうそん)
の人々(ひと〴〵)にてよく〳〵會得信用(ゑとくしんよう)し之(これ)を實地(じつち)に施(ほどこ)し
など此(この)兇毒(きようどく)なる悪病(あくびやう)を必(かなら)ず剋制(おしふ)する目的(めあて)を達(たつ)し
昨年(さくねん)の惨(むご)らしき状況(ありさま)を再(ふたゝ)び今年(こんねん)に見(み)るほどの憂(うれひ)
なきこと復(ま)た疑(うたがひ)もあらざるべしされば各人(ひと〴〵)の力(つと)む
【右】
べき前(まへ)の件々(くだり)は皆其本分(みなそのほんぶん)の義務(つとめ)にして即(すなは)ち自己(おのれ)
の身(み)を安全(あんぜん)に保(たも)つべき實益(じつえき)あるものにて各人(ひと〴〵)己(おの)
れと我身(わがみ)を棄(す)て自(みづか)ら注意(ちゆうい)することなければ縦令(たとひ)政(せい)
府(ふ)の力(ちから)にも又(また)神佛(しんぶつ)の力(ちから)にも決(けつ)して保護(はうご)すること
能(あた)はず
各人(ひと〴〵)能(よ)く正直(しやうぢき)に此(この)諭解(さとし)の箇條(かぢう)に注意(ちゆうい)して之(これ)を守(まも)
り一人々々(ひとり〳〵)の無事安全(ぶじあんぜん)を祈(いの)るべし一人(いちにん)安全(あんぜん)なれ
ば家内(かない)も町内村内(ちやうないそんない)も安全(あんぜん)にして天下(てんか)も太平(たいへい)なり
と知(し)るべし
虎列刺豫防(これらよはう)の諭解(さとし) 終
【左】
明治十三年四月十二日出版届
内務省
社寺局
【裏表紙】
《題:痘疹断毒論》
《背表紙:痘疹断毒論 一冊》
《題:痘疹断毒論》
【シール】富士川本|ト|107
《題:□□【痘疹】斷毒論 乾□【坤ヵ】》
三巴先生著 【印】艸蔭醫■藏
國字㫁毒論
東都書肆 《割書:文𠜇慶壽 四家|千鍾二酉 發行》
【左頁】
【印】富士川游寄贈
【印】亰都帝國大學圖書之印 【印】容帠象■■寧
【印】186320|大正 7.3.31
其法無常相以和■【益ヵ】
為相而其夫得■【益ヵ】也
在乎令段之其■【頓ヵ】令
之信此不過以現量
此於専主取證相現
量其況■【念ヵ】至■【無ヵ】若人
由是得其功■【別ヵ】刻化
物之證一所■仁■
之切無■【弓ヵ】因類一言
留
文化丁丑之秋【文化十四年(1817)】
金?毛産?老衲
縁■僧足 【印】典涼北童
小第?秝?阿拝書 【印】淀?【印】■
【左頁】
断毒論序
凢事有利而不勝其害 者(ヽ)有
益而不勝其損 者(ヽ)痘麻者【は】人之【の】大患
也(ヽ)一患之而【して?】幸不羅其害 者(ヽ)可㫁
終身之 患(ヽ)乃【すなはち?】曰利曰益可 也(ヽ)若夫
危嶮横逆之 症(ヽ)雖有扁張之 術(ヽ)
無所用 也(ヽ)大則亡 國(ヽ)小則亡 家(ヽ)其廑
得生路 者(ヽ)亦或毀身巻 明(ヽ)是利不
勝其 害(ヽ)益不勝其指可知 矣(ヽ)或 曰(ヽ)
痘麻者流行之病 也(ヽ)避而不可避 也(ヽ)
亦 曰(ヽ)痘了種 也(ヽ)是殆隷於戦国遊
士之説 矣(ヽ)其曰勤避之而可保全其終
身 者(ヽ)思孟之道 耶(ヽ)非 耶(ヽ)遭遇雖有
時(ヽ)不倚危途則典害其為道 也(ヽ)
橋本善也 者(ヽ)甲州市川人 也(ヽ)著断
毒論(ヽ)曰痘麻黴疥有形傅染之
病(ヽ)有避而可避之 理(ヽ)将明其説於
天 下(ヽ)使当時之 人(ヽ)皆知其説之可 従(ヽ)
其句信 者(ヽ)堅且篤 矣(ヽ)今茲携来
謁余之一 言(ヽ)余二十年 前(ヽ)奉
台命教諭鍼刺於甲 州(ヽ)居甲府之醫
【右開】
学(ヽ)時既知善也非常/人(ヽ)且所以避
痘麻水痘/事(ヽ)繋於
朝議則非善也之私言/也(ヽ)因不拒
其/請(ヽ)贅数言於篇/端(ヽ)
文化戊寅夏四月望
侍医法眼石坂宗哲撰
【添字「ヽ」は句読点ヵ】
【左開】
国字(こくじ)断毒論(だんどくろん)凡例(はんれい)
一/先(さき)に断毒論(だんどくろん)を著(あらは)し痘瘡(とうさう)【「はうさう」左ルビ】痲疹(ましん)【「はしか」左ルビ】をやまざる為方(しかた)をくはしく
説明(ときあかす)といへども漢文(かんぶん)なれば人(ひと)ごとには読(よみ)やすからず痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)は
人間(にんげん)生界(しやうがい)の大厄(たいやく)なればおしなべて人(ひと)の知(しり)給はんがために国字(かな)
にて本書(ほんしよ)漢文(かんぶん)のあらましをしるし世(よ)に公(おほやけ)にせん事(こと)を欲(ほつ)す
一/此(この)書(しよ)に説(とく)如(ごと)く痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)は時候(じこう)の流行病(りうかうびやう)にあらず黴瘡(かさ)疥瘡(ひぜん)
に等(ひとし)き伝染病(でんせんびやう)なる理(り)を世(せ)上/一統(いつとう)に弁(わきまへ)知(しり)て忌嫌(いみきらふ)ときは忽(たちまち)毒気(どくき)
伝染(でんせん)の根(ね)を断(たつ)て世(せ)上に痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)の大厄(たいやく)はあるべからず是(これ)《割書:予(よ)》
が此書(このしよ)を断毒論(だんどくろん)と号(なつけ)し本意(ほんい)なり元来(くはんらい)此(この)毒(あくどく)の為(ため)に古今(ここん)
後來(こうらい)無量(むりやう)の人(ひと)の非命(ひめい)に死(し)するを歎(なげく)より憤発(ふんはつ)して筆(ふで)を下(くだ)せば
【注 本資料内では、「疒+黴」は該当する字がないため「黴」と表記する。又、「痲」は「麻」が正であるが、筆者は意図的に使用している(20コマ目参照)ことから、ママとする】
【右開】
おのづから誇言(くわげん)不遜(ふそん)も多(おほ)かるべし読人(よむひと)其罪(そのつみ)を恕(ゆる)して後来(こうらい)無量(むりやう)
の人(ひと)を救(すくふ)一大(いつたい)仁術(じんじやつ)に同志(どうし)あらん事(こと)を希(こひねがふ)のみ
一/此(この)書(しよ)に説(とく)ところは古今(ここん)医書(いしよ)並(ならび)に世人(せじん)のこゝろえと大(おほい)に異(こと)なり第一(だいいち)
に痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)の伝染病(でんぜんびやう)なる証拠(しやうこ)を引(ひい)て古来(こらい)天行(てんかう)時疫(じゑき)にて胎毒(だいどく)
を発(はつ)すといふ医書(いしよ)の偽説(ぎせつ)を破(やぶる)第二(だいに)は人身(じんしん)天稟(てんりん)の毒気(どくき)万種(ばんしゆ)
なるに因(より)て万病(まんびやう)を患(うれふ)る源(みなもと)を明(あか)す第三(だいさん)は生気(せいき)を毒気(とくき)の和(くは)不和(ふくわ)
を説(とひ)て万病(まんびやう)一生(いつしやう)一度(いちど)の理(り)を諭(さとす)是(これ)皆(みな)天然(てんねん)の定理(ていり)其他(そのた)医書(いしよ)
病源(びやうげん)の誤(あやまり)又は人(ひと)のいまだ疾(やまひ)とならざる先(さき)に万病(まんびやう)の形(かたち)を眼(め)に見(み)ざる
気中(きちう)に区別(くべつ)する類(たぐひ)すべて医論(いろん)微妙(みめう)の説(せつ)は本書(ほんしよ)漢文(かんぶん)の中(うち)に論(ろん)
じて此(こゝ)に略(りやく)す読人(よむひと)説(せつ)の殊(こと)なるを疑(うたがひ)異端(いたん)の看(かん)を為(なす)ことなかれ 終
【左開】
秋山郷(あきやまがう)飛騨(ひだ)の白川郷(しらかわかう)美濃(みの)の苗木領(なへきりやう)伊豆(いづ)の八丈島(はちぢやうじま)越後(ゑちご)の妻有(つまり)の
庄(しやう)紀伊(きい)の熊野(くまの)周防(すほう)の岩国(いわくに)伊予(いよ)の露(つゆ)の峯(みね)土佐(とさ)の別枝(べつゑ)肥前(ひぜん)の大村(おほむら)同国(どうこく)
の五島(ごとう)肥後(ひご)の天草島(あまくさじま)はいにしへより今(いま)に至(いたる)まで痘瘡(とうさう)を病(やむ)事(こと)なし是(これ)全(まつたく)神仏(かみほとけ)
の加護(かご)にもあらず薬(くすり)を用(もちゆ)るにあらず唯(ただ)痘瘡(とうさう)を病(やむ)ものを其(その)土地(とち)へいれず痘瘡(とうさう)の
ある所(ところ)へは通行(つうかう)せざる故(ゆゑ)なりまれに其(その)毒(どく)に香触(かぶれ)て病(やむ)ものは飛疱瘡(とびほうさう)と名附(なつけ)て村(むら)
里(さと)をはなれし処(ところ)に小屋(こや)を作(つくり)痘瘡(とうさう)を病(やみ)たる人(ひと)に介抱(かいほう)を頼(たのみ)痂(かさぶた)おちて後(のち)家(いへ)にかへる
又(また)他国(たくに)にある時(とき)流行(りうかう)すれば急(きう)に其(その)所(ところ)を逃去(にげさる)なり右(みぎ)の如(ごと)く避(さけ)きらひさへすれ
ば生涯(しやうがひ)のがるゝ病(やまひ)なれば気運(きうん)時候(じこう)にてはやる時疫(じえき)にあらず土地(とち)の気(き)にて起(おこる)病(やまひ)
にもあらず黴瘡(ばいさう)【「かさ」左ルビ】疥瘡(かいさう)【「ひぜん」左ルビ】とおなじ伝染病(でんせんびやう)なるはうたがひなき事(こと)なり其(その)年(とし)の気(き)
運(うん)時候(じこう)の病(やまひ)は寒暑(かんしよ)【「さむきあつき」左ルビ】温涼(うんりやう)【「あたゝかすゞしき」左ルビ】の中(うち)にさま〳〵の惡気(あくき)おこりて人(ひと)の病(やまひ)となるゆゑにいかほ
【右開】
ど避(さけ)ても自然(しぜん)と病(やみ)いだす人(ひと)おほし又(また)惡氣(あくき)もとの如(ごと)く消(きゆ)れば其病(そのやまひ)もおのづから
しずまるなり是(これ)は氣(き)のうちに起(おこり)て人(ひと)の眼(め)にもみえず人(ひと)の病(やまひ)となりても是(これ)といふ
べき形(かたち)なき故(ゆゑ)に無形(むぎやう)の邪氣(じやき)といふ痘瘡(とうさう)の類(るい)は一種(いつしゆ)の瘍(はれもの)にて臭氣(しうき)もあり形(かたち)もある
故(ゆゑ)有形(ゆうぎやう)の毒氣(どくき)といふ此(この)毒氣(どくき)は寒暑温涼(かんしようんりやう)の過不及(くわふぎふ)にもかゝはらず人(ひと)より人(ひと)に傅(でん)
染(せん)して世(よ)の中(なか)に絶(たゆ)る事(こと)なき惡毒(あくどく)の病(やまひ)なり是(これ)に類(るい)する病(やまひ)は痲疹黴瘡疥瘡(ましんばいさうかいさう)【「はしかかさひせん」左ルビ】
なり是も寒暑温涼氣運(かんしようんりやうきうん)にかゝはらず人(ひと)より人(ひと)に傅染(でんせん)する病(やまひ)なり是(これ)を有形(ゆうぎやう)
傅染(でんせん)の四病(しびやう)といふ是皆(これみな)陰陽(いんやう)沴氣(てんき)【「みたれたるき」左ルビ】のなす所(ところ)にして其源(そのもと)は方外(はうぐわい)異域(いいき)【「ゑびす」左ルビ】におこれり
先(まづ)此(この)四病(しびやう)の濫觴(らんしやう)を左(さ)にしるして天行時疫(てんかうじえき)にあらざるをあかし古今醫流(ここんいりう)
の迷(まよひ)を暁(さとす)ことしかり
痘瘡(とうさう)【「はうさう」左ルビ】の濫觴(らんしやう)【「はじまり」左ルビ】
【左開】
國字断毒論(こくじだんどくろん)
【上段】
甲斐 橋本/德伯(善哉)寿著
江戸 溝部益有山閲
【下段】
男門人
橋本保節
田中見龍
川手見貞
友泉見淑
仝校
【本文】
發端(ほつたん)
古今(ここん)痘瘡(とうさう)【「はうさう」左ルビ】を其年(そのとし)の氣運時候(きうんじこう)にて流行時疫(はやるじえき)と心得(こヽろゑ)又(また)一生(いつしやう)に一/度(ど)にか
ぎるを奇妙不思儀(きめうふしぎ)の病(やまひ)なりとて醫書(いしよ)に聖瘡天花瘡(せいさうてんくわさう)などゝ異名(いみやう)を附(つけ)世間(せけん)
の人(ひと)も痘神(はうさうかみ)の病(やま)しむるなど心得(こゝろゑ)しは甚(はなはだ)あやまりなり此病(このやまひ)は其年(そのとし)の氣運時候(きうんじこう)
にもあらず別(べつ)に不思儀(ふしぎ)の病(やまひ)にもあらず斯病(かくやむ)べき所以(ゆゑ)ありて病(やむ)なり凡病(およそやまひ)に不(ふ)
思儀(しぎ)ならぬやまひはひとつもなく皆(みな)奇妙不思儀(きみやうふしぎ)なり先よく是(これ)を辨(わきまへ) て見(みる)ぞ
【右開】
なれば癤(ねぶと)の一ッ二ッ出(いつる)を見(み)ては不思儀(ふしぎ)ともおもはず痘瘡(とうさう)の小粒(こつぶ)なる瘍(はれもの)おほく
出(いつる)を見(み)て不思儀(ふしぎ)といふはいかゞぞやおほきを不思儀(ふしぎ)といはんかすくなきを不(ふ)
思儀(しぎ)といはんかまして痘瘡(とうさう)の看形(みす〳〵かたち)ある瘍(はれもの)に苦(くるしむ)を不思儀(ふしぎ)といひ傷寒時疫(しやうかんじえき)
の形(かたち)もなく眼(め)にもみえずして人(ひと)の命(いのち)をとるを不思儀(ふしぎ)をおもはざるはいかゞぞや是(これ)
をたとへば木(き)の実(み)を種(うゑ)て木(き)の生(しやう)ずるを不思儀(ふしぎ)といひ晴天(せいてん)に雲(くも)の起(おこる)をば不思(ふし)
儀(ぎ)といはざるにおなじ笑(わらふ)べき事(こと)なり別(わけ)て古今(ここん)醫家(いか)俗家(ぞくか)ともに不思儀(ふしぎ)の
第一(だいいち)とするは此病(このやまひ)の一生一度(いつしやういちど)にかぎるなり是等(これら)は古今(ここん)の醫流(いりう)さへ絶(たえ)てしらざる
事(こと)なれば世人(せじん)のしらざるはさもあるべき事(こと)なり其審(そのつまびらか)なる理(り)は後(のち)にくはしく
誌(しるし)て此(こゝ)に略(りやく)す先(まづ)痘瘡(とうさう)の氣運時候(きうんじこう)にて病(やむ)やまひにあらず元来(くわんらい)
日本(につほん)の土地(とち)の氣(き)にて起病(おこるやまひ)にもあらざる證拠(しようこ)は信濃(しなの)の國(くに)木曽(きそ)の御嶽同國(おんたけどうこく)の
【左開】
痘瘡(とうさう)は古(いにしへ)なき病(やまひ)なり唐山(もろこし)にては東晉元帝(とうしんげんてい)の建武元年(けんむぐわんねん)南陽(なんやう)にて虜(りよ)【「ゑびす」左ルビ】を攻(せめ)し
時初(ときはじめ)て此病(このやまひ)を傅(つたへ)て流行(りうかう)したる故(ゆへ)に虜瘡(りよさう)と名附(なつけ)たる事(こと)肘後方(ちうごはう)といふ書(しよ)に見(み)え
たり其形(そのかたち)豆(まめ)に似(に)たるをもつて豌豆皰瘡(ゑんとうはうさう)とも名附(なつけ)しなり又(また)豆(まめ)に似(に)たるゆゑに疒(やまひかむり)を
加(くわへ)て痘(とう)の字(じ)を作(つくり)しなり世(よ)に後漢(ごかん)の光武帝(くわうぶてい)の建武(けんむ)に傅(つたはり)しといふはおなじ年號(ねんがう)
なる故(ゆへ)に誤(あやまる)ならん或人(あるひと)の説(せつ)に前漢(ぜんかん)の張騫(ちやうけん)か月支國(げつしこく)に使(つかひ)せし時(とき)傅來(つたへきたり)しといふ
は絶(たへ)て據(よりどころ)なき説(せつ)なり
日本(につほん)は
聖武天皇(しやうむてんわう)天平七年乙亥初(てんへいしちねんきのとのいはじめ)て此(この)病(やまひ)流行(りうかう)せし事(こと)續日本紀(しよくにほんき)に詳(つまびらか)なりまた廿
九年を経(へ)て
大炊(おほい)の癈帝(はいてい)天平寶字七年癸卯(てんへいほうじしちねんみつのとのう)に流行(りうかう)せり又(また)廿八/年(ねん)を経(へ)て
【右開】
桓武天皇(くわんむてんわう)延暦九年庚午(ゑんりやくくねんかのへむま)に流行(りうかう)せり其流行(そのりうかう)の遠(とほ)きは今(いま)の痲疹(ましん)【「はしか」左ルビ】の流行(りうかう)にか
はる事(こと)なくあらゆる人(ひと)病(やみ)つくして病(やむ)べき人(ひと)なければ又(また)異國(いこく)より傅來(つたへきたる)まては病(やむ)
人(ひと)なし是(これ)氣運時候(きうんじこう)にもあらず土地(とち)の氣(き)にもあらざる證拠(しやうこ)なり延暦九年(ゑんりやくくねん)の後(のち)は
異國(いこく)より傳(つたへ)ずとも處々(しよ〳〵)病(やみ)めぐりしとおぼしく天下諸國(てんかしよこく)往々而在(わう〳〵にしてあり)と續日本紀(しよくにほんき)
に誌(しる)されたり諸(もろ〳〵)の記録(きろく)を老(かんがふ)【考】るに延暦九年(ゑんりやくくねん)の後(のち)は海内一統(かいだいいつとう)にはやりし事(こと)はたえ
てみえざるなり今邉鄙(いまへんひ)は六七年(ろくしちねん)に一度(いちど)めぐり來(きたれ)ども三都(さんと)はつねに絶(たゆ)る事(こと)なし
是(これ)も都(みやこ)と邉鄙(へんひ)と氣候(きこう)の違(ちがふ)て流行(りうかう)の別(べつ)なるにはあらず三都(さんと)は人も数多(あまた)なれば病(やみ)
めぐるうちに又(また)産(うまる)るものもおほく病(やま)ざるものもおほきゆゑ常(つね)にたえざるなり然(しか)
のみならず痘瘡児(とうさうご)を懐(いだき)し乞食(こつじき)をは別(わけ)て人(ひと)もあはれみあれば痘瘡(とうさう)を病初(やみはじめ)るやい
な都(みやこ)に出(いづ)る乞食(こつじき)おほしと聞(きく)邉鄙(へんひ)にても痘瘡(とうさう)を遠方(ゑんはう)へ傳(つたへ)あるくものは乞食(こつじき)の
【左開】
痘瘡児(とうさうこ)なり又(また)戦國(せんごく)の記録(ころく)を見(み)るに今(いま)と違(ちがひ)おほく年(とし)たけて痘瘡(とうさう)を病もの有(あり)
是(これ)も乱世(らんせい)と治世(ちせい)と気候(きこう)のちがふにはあらずうちつゞきみだれて騒(さはがし)き世(よ)の中(なか)は
たがひに國郡(くにこほり)の境(さかひ)をかぎりて人(ひと)の往来(ゆきゝ)も親(したし)からねばおのづから病(やまひ)をも傳(つたへ)ざるなり
今(いま)も上(うへ)ツ(つ)方(かた)は痘瘡病(とうさうやみ)に触近(ふれちかづき)給ふ事(こと)おのずから希(まれ)なるゆゑに多(おふく)は年(とし)たけてやみ
給ふ方(かた)あり前(まへ)にもいふごとく其(その)病人(ひやうにん)にちか寄(より)其(その)にほひを嗅(かぎ)其(その)衣類玩物食(いるいもてあそびものしよく)
物等(もつとう)にふれざれば生界(しやうがい)のがれやすき病(やまい)なれば其年(そのとし)の気候(きこう)のみだれにては
やる無形(むきやう)の邪気(じやき)とは各別(かくべつ)にて傅染(でんせん)してのみ病(やむ)といふ事(こと)を人(ひと)ごとに能々(よく〳〵)辨(わきまへ)給ふべきなり
時疫(じえき)も傅染(でんせん)しやすきものなれども多(おほく)は貧窮(ひんきう)にて苦労(くろう)する人(ひと)か又(また)は平世身(へいせいみ)
持(もち)のよからぬ人(ひと)にうつりてさもなく人ことにうつるものにはあらざるなり然(しかれ)ども時疫(じえき)の
類(るい)は其土地(そのとち)の氣沴(きみだれ)てうつらずともおのれと病(やみ)いだす人(ひと)あれば是非(ぜひ)もなし痘(とう)
【右開】
瘡痲疹(さうましん)の類(るい)は眼邉形(まのあたりかたち)もありにほひもありて知(しり)やすき惡疾(あくしつ)なり是(これ)に塗(まみれ)て
傅染(でんせん)し命(いのち)をうしなひ廃人(はいじん)【「かたは」左ルビ】となる其(その)俗習(ぞくしう)なか〳〵言葉(ことば)にのべがたし試(こゝろみ)に世(よ)の盲(まう)
人(じん)にとへば十人(じふにん)に八九人(はつくにん)は痘瘡(とうさう)にて潰(つぶれ)し盲目(まうもく)なりむかし此(この)病(やまひ)起(おこり)しより今(いま)にいたる天(てん)
下(か)の人を害(がい)するは算(さん)の数(かず)にも名附(なづけ)がたし非命(ひめい)といはんか非業(ひごふ)といはんかまして今(いま)より
後(のち)無量(むりやう)世(せ)の人を害(がい)するに至(いたつて)は悲(かなしむ)もなをあまりあり世(よ)の中にそれとはしらず
一生(いつしやう)に一度(いちど)の厄(やく)をむろふとて此病(このやまひ)の傅染(でんせん)するを悦(よろこび)ねがふは何事(なにごと)ぞや土地(とち)の俗習(ならはせ)に
てこと〴〵敷(しく)神棚(かみたな)をかざり絹布(けんふ)を引(ひき)はへたがひに贈(おくり)ものゝつひえいはんかたなくおびたゝし
其中(そのなか)に不學文盲(ふがくもんまう)の艸醫(やぶい)は痘瘡(とうさう)の毒氣(どくき)をいかなるものとも辨(わきまへ)ずはづか一巻二巻(いちくわんにくわん)
の醫書(いしよ)を持(もち)指(ゆび)を折(をり)首(くび)をのばして流行(りうかう)のおそきを待(まち)わび已(すで)に此病(このやまひ)ちがずき㳽(はび)
蔓(これ)ば時(とき)を得(え)たりといたみ悦(よろこび)おのれが利慾(りよあく)を先(さき)にして人(ひと)の非命(ひめい)に死(しぬ)るを露(つゆ)ばかり
【左開】
も悲(かなし)まず天命(てんめい)なり世(よ)並(なみ)なりと事(こと)もなげにいひのゝしり此(この)惡疾(あくしつ)を糊口(くちすぎ)の幸(さいはひ)
とするは憎(にくむ)べき事(こと)ならずや唐山(もろこし)の醫流(いりう)も此病(このやまひ)の陰陽沴亂(いんやうてんらん)の毒氣(どくき)を
異國(いこく)より傅來(つたへき)て人間(にんげん)に絶(たえ)ざるをしらず胎毒(たいどく)の偽説(ぎせつ)【「いつはり」左ルビ】を千古不易(せんこふえき)と心得(こころえ)
て東晉(とうしん)のいにしへより今(いま)にいたる千四百七十/余年(よねん)の間(あひだ)其年(そのとし)氣運(きうん)の時疫(しえき)に
て人(ひと)の一生(いつしやう)に一度(いちど)かならずまぬかれがたき病(やまひ)なりと數多(あまた)の醫書(いしよ)にしるせしは
何事(なにごと)ぞや笑(わらふ)べきの甚(はなはだ)しきなり
痲疹(ましん)【「はしか」左ルビ】の濫觴(らんしやう)【「はじまり」左ルビ】
痲疹(ましん)も痘瘡(とうさう)とおなじく古(いにしへ)なき病(やまひ)にして其始(そのはじめ)は異國(いこく)の毒氣(どくき)を人(ひと)より人に傳(つたへ)
染(そみ)て痘瘡(とうさう)の國郡(くにこほり)をめぐる如(ごと)く數多(あまた)の大國(たいこく)を廻(めぐり)古今(ここん)かぎりなき人を殺(ころす)病(やまひ)に
して時候疫癘(じこうえきれい)とは各別(かくべつ)なるものなり痘瘡(とうさう)は國郡(くにこほり)をめぐるゆゑに其流行(そのりうかう)
【右開】
近(ちか)く痲疹(ましん)は外國(ぐわいこく)をめぐり來(きたる)ゆゑに流行(りうかう)の間(あひだ)遠(とほ)し唐山(もろこし)に此病(このやまひ)の起(おこり)しは何(いづれ)の
書(しよ)にもくはしからねども意(おもふ)に痘瘡(とうさう)の濫觴(らんじやう)と前後(ぜんご)とほからじ此(この)ゆゑに隋唐(ずいとう)の代(よ)の
醫書(いしよ)にも其病證(そのびやうしやう)を明(あきらか)にせず傷寒(しやうかん)發斑瘡(ほつはんさう)と混(こん)じて論(ろん)ぜしなり
日本(につほん)は人皇(にんわう)三十一/代(だい)
敏達天皇(びんたつてんわう)十四/年(ねん)乙巳(きのとのみ)に此病(このやまひ)流行(りうかう)して百官(ひやくくわん)大臣(だいじん)より萬民(ばんみん)に至(いたる)まで死亡(しばう)甚(はなはた)
しかりし事(こと)日本書記(にほんしよき)に詳(つまびらか)なりいにしへは赤喪瘡(あかもかさ)稲目瘡(いなめかさ)赤疱瘡(あかはうさう)などいひし
を後(のち)に巴斯加(はしか)あるひは稲摩(いなずり)など名附(なづけ)たり一説(いつせつ)に是(これ)より三十四年/以前(いぜん)人皇(にんわう)
三十代
欽明天皇(きんめいてんわう)十三年/壬申(みつのとのさる)にあたつて百濟國(ひやくさいこく)より佛像(ぶつざう)經巻(きやうくわん)幡(はた)天蓋(てんがい)等(とう)を
奉(たてまつり)ければ
【左開】
帝(みかど)是(これ)を拜(はい)し給ふべきやいなやを評議(ひやうぎ)ありしに中臣(なかとみ)の鎌子(かまこ)物部(ものゝべ)の尾輿(をこし)等(ら)外(ぐわい)
國(こく)の佛(ほとけ)を拜(はい)し給はゞ國神(くにつかみ)かならず怒(いかり)給はんよしを諫奉(いさめたてまつり)ければ是(これ)を拜(はい)し給はず小(を)
墾田(はるだ)といふ所(ところ)に安置(あんち)せしめ給ひ元來(ぐわんらい)信仰(しんかう)の心深(こゝろふかき)によつて稲目(いなめ)の宿祢(すくね)に賜(たまはり)
ければ稲目(いなめ)悦事(よろこぶこと)かぎりなく向原(むこはら)の館(やかた)を捨(すて)て寺(てら)とせり此年(このとし)痲疹(ましん)驟(にはか)に流行(りうかう)
して萬民(ばんみん)の死亡(しばう)甚(はなはだ)しかりければ是(これ)稲目(いなめ)が外國(ぐわいこく)の佛(ほとけ)を拜(はい)するゆゑに天神地祗(てんしんちぎ)
の御怒(みいかり)によつてかかる惡氣(あくき)の疫癘(えきれい)あり是皆(これみな)稲目(いなめ)が罪(つみ)なりとて時(とき)の人(ひと)稲目瘡(いなめかさ)
と名附(なつく)といへり流行(りうかう)の年歴(ねんれき)を推(おし)て見(み)れば據(よりどころ)ある説(せつ)なり諸(もろ〳〵)の記録(きろく)に載(のする)を
見(み)るにもれたりとおぼしき所(ところ)もあれど其審(そのつまびらか)なるは
敏達天皇(びんたつてんわう)の十四年/乙巳(きのとのみ)より南朝(なんてう)
後村上天皇(ごむらかみてんわう)興国(こうこく)四年/壬午(みつのとのむま)まで七百五十八/年(ねん)の間(あひだ)廿回(にじふたび)流行(りうかう)せり其委證(そのくはしきしやう)
【右開】
據(こ)は前編(ぜんへん)に詳(つまびらか)なり其後(そののち)記録(きろく)の考(かんがへ)がたきは博覽(はくらん)の君子(くんし)を待(まつ)のみ近比(ちかごろ)人(ひと)の
しる所(ところ)は寶永(ほうえい)五年/戊子(つちのへね)より享和(きやうわ)三年/癸亥(みづのとのい)まで九十六/年(ねん)の間(あいだ)五回(いつたび)流行(りうかう)す古(いにしへ)
より記録(きろく)に載(のする)も今(いま)流行(りうこう)するも東國(とうこく)より起(おこり)し事(こと)なく毎度(まいど)西國(さいこく)より東國(とうこく)に
流行(りうかう)す是(これ)
日本(につほん)の地氣(ちき)にて起(おこる)病(やまひ)にあらず外國通舩(ぐわいこくつうせん)より傳來(つたへきたる)ゆゑなり其(その)毒氣(どくき)のめぐ
り來(くる)に大抵(たいてい)年數(ねんすう)あるに似(に)たれども亦(また)さだまりなく國々(くに〳〵)の人(ひと)残(のこり)なく病(やみ)つく
せば病(やむ)べき人(ひと)なき故(ゆゑ)に此(この)病(やまひ)たえて又(また)しばらくすれば外國(ぐわいこく)より傅來(つたへき)て流行(りうかう)する
なり其(その)流行(りうかう)恰(あたか)も痘瘡(とうさう)の一國(いつこく)病(やみ)つくせば他國(たこく)へうつり又(また)しばらくすればめぐ
り來(くる)にかはる事(こと)なし是則(これすなはち)傷寒時疫(しやうかんじえき)の如(ごと)く其年(そのとし)の氣候(きこう)の沴(みだれ)にてはやる病(やまひ)に
あらざる故(ゆゑ)に一國一郡(いつこくいちぐん)にかぎりて痲疹(ましん)を病事(やむこと)は古(いにしへ)より今(いま)にいたるまで絶(たえ)てなき
【左開】
事(こと)なり
和漢古今(わかんここん)の醫流(いりう)これをしらず其年(そのとし)の氣運時令(きうんじれい)の疫癘(えきれい)なりと心得(こゝろえ)すべて
風邪(ふうじや)の薬(くすり)を用(もちゆ)るは甚(はなはだ)しき誤(あやまり)にあらずや氣運時令(きうんじれい)の病(やまひ)にならざるゆゑに其病(そのびやう)
者(じや)にちかよらず衣類(いるい)器物(きぶつ)食物(しよくもつ)などをよく禁制(きんせい)し流行(りうかう)の地(ち)にゆかざれば人(ひと)の
生涯(しやうがい)決(けつし)て病事(やむこと)なき病(やまひ)なり
黴(ばい)【「かさ」左ルビ】瘡(さう)の濫觴(らんしやう)【「はじまり」左ルビ】
黴瘡(ばいさう)も痘瘡痲疹(とうさうましん)とおなじく古(いにしへ)なき病(やまひ)なり醫書(いしよ)に時氣(じき)にて起(おこ)り又(また)は湿(しつ)
氣(き)にて起病(おこるやまひ)なりといへどもさにあらず是(これ)も亦(また)異國(いこく)の毒氣(どくき)を人(ひと)より人(ひと)に傳(つたへ)そみ
て萬國(ばんこく)に瀰蔓(はびこり)
日本(につほん)にも傳來(つたへきたり)しなり其(その)濫觴(らんじやう)を尋(たずぬ)るに西洋開國(せいやうかいこく)より千四百九十四/年(ねん)に當(あたり)
【右開】
て斯幫私國(すぱんすこく)より《割書:一名イス|ハニア》亜墨利加國(あめりかこく)を《割書:日本の東にある大州なりイスハニヤ國|のアメリキュースといふ人初て見出たるゆ》
《割書:ゑにアメリカと|名附といへり》攻侵(せめをかし)財寶(ざいほう)又(また)は顔(かほ)よき女(おんな)を數多(あまた)奪(うばひ)とり大舶(おほふね)の中(うち)に俘虜(とりこ)と
し是(これ)と交媾(かうごう)せしものは畢(こと〳〵く)此病(このやまひ)に染(そみ)て忽(たちまち)スパンス國(こく)にはびこり夫(それ)より意太(いた)
里亜國(りやこく)拂郎察國(ふらんすこく)都逸國(といつこく)等(とう)にはびこれり其始(そのはじめ)スパンス國(こく)に起(おこり)し故(ゆゑ)にス
パンスポツクと名附(なつく)といへり《割書:ポツクとは蛮語(ばんご)にてカサといふ義なり又一名をリユーヱスヘネルカといふ淫(いん)|穢の病といふ義也又一名をヒユーテンダカラといふ陰所のうれひといふ義也》
右(みぎ)は阿蘭陀書(をらんだしよ)の弗爾部畧却(ふるぶりやつけ)に誌(しるる)ところなり《割書:予長崎に遊学せし比中野忠雄に|従ひ醫書およひ天学書和解の時》
《割書:フルブリユーツケを見る事を得たり中野氏は蘭学無双にして又算術に通達し彼国の天学書ナテユル|キユンストの奥義を明む其和解の書ありといへともいまた世に行ふ事あたはす惜かな其人今は黄泉の客となれり》
其(その)年歴(ねんれき)を考(かんがふ)るに實(じつ)に我(わが)
日本(につほん)
後土御門天皇(ごつちみかどてんわう)明應(めいおう)三年/甲寅(きのえとら)にあたれり唐山(もろこし)は明(みん)の考宗弘治(かうそうしうち)の末(すゑ)の比(ころ)此病(このやまひ)
【左開】
始(はじめ)て廣東(かんとう)に起(おこり)て國々(くに〴〵)にはびこりし故(ゆゑ)に廣東瘡(かんとうさう)あるひは廣瘡(かうさう)と名附(なづく)と續(しよく)
醫説(いせつ)黴瘡秘録等(ばいさうひろくとう)の書(しよ)に見(み)えたり是(これ)を楊梅瘡(やうばいそう)と名附(なづけ)しは其形(そのかたち)楊梅(やうばい)【「やまも[も]」左ルビ】
に似(に)
たるものあればなり黴瘡(ばいさう)と名附(なづけ)しは此病(このやまひ)の身中(しんちう)に侵入(しみいる)は物(もの)の黴(かび)くさるが如(ごとく)なる
によつてなり其外(そのほか)さま〴〵の名(な)あれども此(こゝ)に畧(りやく)す明(みん)の弘治(こうち)の末(すゑ)は
後柏原天皇(ごかしははらてんわう)永正(えいしやう)の始(はじめ)にあたれりスパンス人(じん)アメリカより此病(このやまひ)を傳(つたへ)し後(のち)數年(すねん)
を經(へ)て西洋(せいやう)賈舶(かはく)【「あきんどぶね」左ルビ】の湊泊(ふなとまり)する廣東(かんとう)に起(おこり)しを廣東瘡(かんとうさう)と名附(なづけ)たる其因縁(そのいんゑん)
こそあきらかなり
日本(につほん)にも是(これ)を傳(つたへ)て其始(そのはじめ)は長﨑(ながさき)に起(おこり)しならん
後奈良天皇(ごならのてんわう)弘治(こうち)の比(ころ)まではすべて外國(ぐわいく)の舶(ふね)は泉州界(せんしうさかひ)の津(つ)又(また)は筑前(ちくぜん)の博多(はかた)豊(ぶん)
後(ご)の府内等(ふないとう)に入津(いりつ)せしが永禄(えいろく)十二/己巳(つちのとのみ)の年(とし)始(はじめ)て長﨑(ながさき)に入津(いりつ)する事(こと)にさ
【右開】
だまれり黴瘡(ばいさう)も此比(このころ)長崎(ながさき)に傳(つたへ)しにや今(いま)長崎(ながさき)にて黴瘡(ばいさう)をポツクといふはかの陀(を)【阿】
蘭陀(らんだ)にいふスパンスポツクの畧語(りやくご)なり又(また)今(いま)も九州(きうしう)にてすべて唐瘡(とうさう)といふはむかしの
名(な)の遺(のこり)しなり我(わが)甲斐(かひ)の知足齋(ちそくさい)徳本翁(とくほんをう)の著(あらは)せし梅花無尽蔵(ばいくわむじんさう)といふ
書(しよ)には唐瘡(とうさう)と名目(めいもく)せり《割書:板本の無尽蔵に梅瘡とあるは荻野|氏の私にあらためたるにて誤るり》今(いま)一般(いつはん)にカサといひ瘡毒(さうどく)
といひあるひは湿毒(しつどく)んどゝいふは誤(あやまり)なり瘡(かさ)とは傷(はれもの)の惣名(そうみやう)なれば黴瘡(ばいさう)にかぎ
りて瘡(かさ)とも瘡毒(さうどく)ともいひがたし又(また)傅染病(でんせんびやう)にて湿氣(しつき)にて起病(おこるやまひ)にあらざれ
ば湿毒(しつどく)といふも誤(あやまり)なり是(これ)も痘瘡(とうさう)を醫家(いか)俗家(ぞくか)ともあやまりて疱瘡(はうさう)といふ類(るい)
なり此病(このやまひ)を唐瘡(とうさう)と名附(なづけ)しは元来(ぐわんらい)なき病(やまひ)を外国(ぐわいこく)の人(ひと)より傳(つたへ)て病(やみ)はじめし
故(ゆゑ)に唐瘡(とうさう)と呼(よび)ならはせしなり是(これ)皆(みな)
日本(につほん)の地氣(ちき)にて起病(おこるやまひ)にあらず永禄(えいろく)以來(いらい)外國(ぐわいこく)より傳來(つたへき)し明證(めいしやう)なり是(これ)全(まつたく)
【左開】
傅染(でんせん)してばかり病(やむ)やまひなる故(ゆゑ)に行儀(ぎやうぎ)正(たゞし)き人(ひと)はやまずして青楼妓女(せいろうきぢよ)【「ぢよろうやげいしや」左ルビ】などに行(ゆき)
通(かよふ)もの又(また)は下々(げ〳〵 )の男女(なんによ)の身持(みもち)正(たゞし)からずみたりかはしき家々(いへ〳〵)にはやりて人(ひと)しらず
うつりまみれ其(その)毒氣(どくき)は世(よ)の中(なか)に絶(たえ)ずして痘瘡(とうさう)の國々(くに〴〵)をうつりめぐるにかはる
事(こと)なし此病(このやまひ)は別(べつ)して後(のち)に傳(つたへ)しゆゑに醫書(いしよ)の治方(ちほう)もくはしからずおほくは家々(いへ〳〵)
の家傳(かでん)あるひは売薬(ばいやく)などもちゐ皆(みな)一定(いつてい)の方(はう)をもつて療治(れうぢ)する故(ゆゑ)に病(やまひ)
と齟齬(そご)【「くいちがふ」左ルビ】して終(つひ)に痼疾(こしつ)となるもの多(おほ)し殊(こと)に醫家(いか)俗家(ぞくか)ともに誤事(あやまりこと)あり下(け)
疳瘡(かんさう)あるひは便毒(べんどく)をやめば何(なに)の差別(さべつ)もなく黴瘡(はいさう)の薬(くすり)を用(もち)ゆ是(これ)大(おほい)なる誤(あやまり)に
て人(ひと)を害(かい)する事(こと)なり其故(そのゆゑ)いかんとなれば便毒(べんどく)下疳瘡(げかんさう)はいにしへよりある病(やまひ)にて
黴瘡(ばいそう)の如(ごと)く傅染(でんせん)せず其場所(そのばしよ)と形(かたち)とはおなじけれども其毒(そのどく)は甚(はなはだ)別(べつ)なるもの
にて療治(れうぢ)も大(おほい)に違(ちがひ)あり醫家(いか)俗家(ぞくか)ともに心得(こゝろえ)べき事(こと)なり是故(これゆゑ)に黴瘡(はいさう)の
【右開】
便毒(べんどく)黴瘡(ばいさう)の下疳(げかん)といはざればよろしからず世間(せけん)に黴瘡(ばいさう)を下疳(げかん)湿毒(しつどく)な
どゝいふ醫者(いしや)あり笑(わらふ)べき事(こと)なり是等(これら)は前編(ぜんへん)にくはしき事(こと)なれども人(ひと)ごとに
心得(こゝろえ)べき事故(ことゆゑ)に其(その)あらましをしるすなり又(また)此病(このやまひ)をうつりても一點(いつてん)の瘡(かさ)も
發(はつ)せず我身(わがみ)に一向(いつかう)おぼえなくも頭痛(づつう)をなやみあるひは脚氣(かつけ)の如(ごと)く肢體(からだ)い
たみあるひは耳聾(つんぼ)となりあるひは内障(そこひ)となりあるひは痰(たん)欬(せき)出(いて)て労證(ろうしやう)の如(ごと)
くあるひは眉(まゆ)髪(かみ)ぬけて癩病(らいびやう)の如(ごと)くあるひは急(きふ)に癇(かん)を發(はつ)するもの有(あり)是(これ)は早(はや)
く黴瘡(ばいさう)の毒(どく)をぬく薬(くすり)を用(もちね)ざればそれ〳〵の病(やまひ)となりはつるなり又(また)房事(ばうじ)に
てうつるのみならず乳呑児(ちのみこ)にてもうつる故(ゆゑ)あればかならず病(やむ)なり是(これ)は早(はや)く
其病(そのやまひ)なるを察(さつ)して療治(れうぢ)すれば大人(をとな)よりも愈(いえ)やすし又(また)其(その)両親(りやうしん)にありて
胎内(たいない)より其氣(そのき)を禀(うけ)て生(うまる)るもの有(あり)是(これ)を遺毒(いどく)といふ是(これ)は至(いたつ)て毒氣(とくき)ふかし
【左開】
早(はや)く療治(れうぢ)せざれば生涯(しやうがい)ぬけがたきものなり此病(このやまひ)今(いま)は都鄙(とひ)【左ルビ「みやこいなか」ヵ】ともに多(おほく)ありて
俗(ぞく)までも薬方(やくはう)をおぼえて用(もちゆ)るもの有(あれ)ども第一(だいいち)に心得違(こゝろえちがひ)の事(こと)あり此病(このやまひ)に
用(もちゆ)る薬(くすり)種々(しゆ〴〵)あれども先(まづ)主薬(しゆやく)として用(もちゆる)は軽粉(けいふん)と山帰來(さんきらい)なり軽紛(けいふん)ならで
は治(ぢ)せざる病證(びやうしやう)あり又(また)山帰來(さんきらい)にあらざれば應(おう)ぜざる病證(びやうしやう)あり山帰來(さんきらい)
の證(しやう)に軽紛(けいふん)を用(もちゆか)もよろしからず軽紛(けいふん)の證(しやう)に山帰來(さんきらい)を用(もちゆる)も反(かへつ)てあしく
しかるを貧家(ひんか)は費(つひえ)にくるしみてわけなく軽紛剤(けいふんざい)を服(ふく)し冨家(ふか)は軽紛(けいふん)を用(もちゆ)
れば薬毒(やくどく)残(のこり)てあしくと一圖(いちづ)に心得(こゝろえ)て山帰來(さんきらい)のみもちゆるは両方(りやうはう)とも
に誤(あやまり)なり又(また)山帰來(さんきらい)軽紛(けいふん)ともによろしからざる病證(びやうしやう)あり何病(なにやまひ)にても此理(このり)あ
りて一定(いつてい)の方(はう)を以(もつ)て治(ぢ)するものにあらずされば醫書(いしよ)に廣渉(ひろくわたり)て治療(ぢれう)に
深切(しんせつ)なる醫者(いしや)を撰(ゑらひ)てたのむべきなり右(みき)にいへる山帰來(さんきらい)軽紛(けいふん)ともに用(もちひ)が
【右開】
たき場(ば)へ用(もちゆ)る薬方(やくはう)の類(るい)は予(よ)か著述(ちよじゆつ)の省方類鑑(せいはうるいかん)にくはしく載(のす)前(まへ)にいへる如(ごと)
く此病(このやまひ)は傅染(でんせん)してばかり病(やむ)なれば其毒氣(そのどくき)に觴染(ふれそま)ざるやうにすれば夫婦(ふうふ)
といへどもうつらず痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)よりものがれやすき病(やまひ)なり又(また)此病(このやまひ)に怪(あやしむ)べき事(こと)
あり其毒氣(そのどくき)に染(そみ)て後(のち)には骨(ほね)をくさらし筋(すじ)をやぶり其(その)子にまで傳(つたへ)るほどの
毒氣(どくき)をもちながら数年(すねん)を経(へ)ても身中(しんちう)に伏(ふし)かくれて痛(いたみ)かゆみもなく其(その)
身(み)も無病(むびやう)なりと心得(こころえ)身中(しんちう)に黴毒(ばいどく)のあるをしらず是等(これら)の辨(べん)は後(のち)にくは
しく記(しるし)て此(こゝ)に畧(りやく)す
疥瘡(かいさう)【「ひぜんかさ」左ルビ】の濫觴(らんしやう)【「はじまり」左ルビ】
疥瘡(かいさう)も痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)黴瘡(ばいさう)の如(ごと)く古(いにしへ)なき病(やまひ)にして沴氣(てんき)を異國(いこく)の人身(じんしん)
に結(むすび)人(ひと)より人(ひと)に傅染(でんせん)していつの比(ころ)よりか
【左開】
日本(につほん)にも傳來(つたへき)しなり此病(このやまひ)黴瘡(ばいさう)とおなじく下(げ)々(〳〵)の行義(ぎやうぎ)よからぬ家々(いへ〳〵)をうつりめぐり
て世(よ)の中(なか)に絶(たえ)ざる病(やまひ)なり古書(こしよ)を考(かんがふ)るに疥(かい)の字(じ)は瘡(かさ)の名(な)にあらず一日間(いちにちはざめ)の瘧(ぎやく)の
名(な)なりしを中(なか)むかし癩病(らいびやう)癬(たむし)の類(るい)すべて肌膚(きふ)鱗(うろこ)だちて見(み)ぐるしき病(やまひ)を疥(かい)とい
ひしなり又(また)はるか末(すゑ)の世(よ)に今(いま)の疥瘡(ひぜんかさ)傳(つたはり)しをかの中古(かなむかし)の疥(かい)と混(こん)じて醫書(いしよ)にも
疥癩(かいらい)疥癬(かいせん)などつらねて書(かき)しは病證(びやうしやう)を明(あきらか)にせざる誤(あやまり)なりくはしき事(こと)は前編(ぜんへん)にしる
して此(こゝ)に畧(りやく)すおよそ文字(もんじ)は古(いにしへ)より體(てい)もさま〴〵 にかはりし故(ゆゑ)に誤字(ごじ)もあり俗字(ぞくじ)もあり
あるひは其物(そのもの)と其字(そのじ)と違(ちがひ)しもありて正(たゞし)からざる字(じ)おほし字(じ)は物(もの)の名(な)なり名(な)正(たゝし)
からざれば物(もの)もあきらかならず物(もの)と名(な)とをあきらかにするは学者(がくしや)の専務(せんむ)なりし
かれども俗習(ぞくしふ)となりては改(あらため)がたきもの有(あり)無(む)の字(じ)の如(ごとき)はかの書(しよ)を焚(やき)儒(じゆ)を坑(あな)にせし
秦(しん)の李斯(りし)か作(つくり)し字(じ)なれば儒者(じゆしや)にはきらふべきなれども通用(つうよう)するがごとし疥の
【右開】
字(じ)も病(やまひ)は三種(さんしゆ)にて一字(いちじ)を用(もちゆ)るは誤(あやまり)なれども俗習(ならはせ)なれば今(いま)に至(いたり)て改(あらたむ)べやうなし
すべて物(もの)ありて後(のち)に文字(もんじ)を作(つくれ)ば傅染(でんせん)四病(しびやう)の如(ごと)きいにしへなき病(やまひ)は豆(まめ)に似(に)たる
故(ゆゑ)に痘(とう)の字(じ)を作(つく)り麻子(あさのみ)の如(ごと)くすきもなく出(いづ)れば麻疹(ましん)といひ後(のち)に疒(やまひかむり)を加(くわへ)
て痲(ま)の字(じ)を作(つくり)人(ひと)の身(み)に侵入(しみいり)てぬけがたきこと物(もの)の黴(かびる)に似(に)たれば黴瘡(ばいさう)といふ如(ごと)く
疥瘡(かいさう)も其(その)始(はじめ)別(べつ)に名(な)のあるべきなれども疥癩(かいらい)の病(やまひ)と紛(まぎれ)やすき病證(びやうしやう)なる故(ゆゑ)に誤(あやまり)
て疥(かい)の字(じ)と其(その)まゝに用來(もちひきたり)しなり是皆(これみな)夷狄(いてき)の陰陽(いんやう)常(つね)なくみだれて惡毒(あくどく)
薫蒸(くんしよう)する土地(とち)に起(おこり)し病(やまひ)を傳來(つたへきたり)しな
りよしや唐山(もろこし)にはいにしへより疥瘡(ひぜんがさ)あり
といふとも我(わが)
日本(につほん)のいにしへはなき病(やまひ)なり其故(そのゆゑ)いかんとなれば天暦(てんりやく)の比(ころ)源(みなもと)の順(したがふ)が著(あらはし)たる和名(わみやう)
抄(せう)に疥癩(かいらい)二字(にじ)にてハタケと訓(くん)じたり是則(これすなはち)古(いにしへ)の書(しよ)にある疥(かい)の字(じ)は今(いま)の疥瘡(ひぜんがさ)
【左開】
にあらざる證據(しやうこ)なり今(いま)の疥瘡(かいさう)はすべて肥前瘡(ひせんがさ)といふ肥前(ひぜん)の國(くに)にては小瘡(せうさう)
といふ其(その)國(くに)の名(な)を諱(いむ)なり是則(これすなはち)前(まへ)にいふ如(ごと)く其(その)土地(とち)の名(な)によつて虜瘡(りよさう)といひ
スパンスポツクといひ廣東瘡(かんとうさう)といひ唐瘡(とうさう)といふ類(たぐひ)にて最初(さいしよ)肥前(ひぜん)に傳來(つたへき)て
起(おこり)しゆゑに肥前瘡(ひぜんがさ)とは名附(なづけ)しなり肥前肥後(ひぜんひご)いにしへは一國(いつこく)にてヒノクニ
といへり後(のち)に前後(ぜんご)二ツに境(さかひ)を分(わけ)てもヒノミチノクチノクニといへり肥前(ひぜん)と稱(しやう)
するは國(くに)も二ツにわかれ名(な)も字音(じいん)に呼(よび)ならひてはるか後(のち)の名(な)なれば此(この)
病(やまひ)のいにしへなきといふはうたがふべからず是皆(これみな)惡毒(あくどく)の氣(き)を外國(がわいこく)より傳來(つたへきたり)
て元(もと)より
日本(につほん)の土地(とち)の氣(き)にて起病(おこるやまひ)にあらずれば其(その)病人(じやうにん)の氣(き)に触(ふれ)感(かん)ずるものはやみ
さもなき人(ひと)の身(み)におのれと起病(おこるやまひ)には決(けつし)てあらざるなり是(これ)は古今(ここん)醫書(いしよ)にも
【右開】
論(ろん)ぜず人(ひと)絶(たえ)ていはざる事(こと)なれども今(いま)現然(げんぜん)と明證(めいしやう)ある事(こと)なれば此(この)理(り)を
よく辨(わきまへ)有形(ゆうぎやう)傅染(でんせん)の病(やまひ)は人(ひと)の生涯(しやうがい)のがれやすきといふ事(こと)を人(ひと)ごとに心得(こゝろへ)
給ふべきなり
方土(はうど)の異氣(いき)【「ところによつてきをことにす」左ルビ】
右(みぎ)にいへる四傅染(しでんせん)の病(やまひ)はいかなる由縁(ゆえん)ありて外國(ぐわいこく)に起(おこり)て
日本(につほん)におこらざる其本(そのもと)を考(かんがふ)るにおよそ天地(てんち)の間(あひだ)に萬物(ばんもつ)を生(しやう)ずるは其(その)土地(とち)〳〵の
陰陽(いんやう)の氣(き)に自然(しぜん)と其物(そのもの)を生(しやう)ずべき氣(き)ありて生(しやう)ず其物(そのもの)に毒氣(どくき)のある
も其(その)土地(とち)の陰陽(いんやう)の氣(き)に毒(どく)の生(しやう)ずべき氣(き)ある故(ゆゑ)なり草(くさ)の烏頭木(うづき)の巴豆(はづ)
金(きん)の水銀石(すいぎんいし)の礜石虫(よせきむし)の斑猫鳥(はんめうとり)の鴆鳥(ちんてう)あるも其(その)土地(とち)の氣(き)に自然(しぜん)と
其毒(そのどく)を生(しやう)ずべき氣(き)あるゆゑなり病(やまひ)も陰陽(いんやう)不測(ふしき)の物(もの)にして草木金(さうもくきん)
【左開】
石生類(せきしやうるい)の生(しやう)ずる如(ごと)く其(その)土地(とち)〳〵の陰陽(いんやう)の中(うち)にさま〴〵の毒氣(どくき)を結(むすび)て其(それ)【某】
々(〳〵)の病(やまひ)となる故(ゆゑ)に瘧(ぎやく)の多(おほき)土地(とち)には年々(ねん〳〵)に瘧(ぎやく)おほし水腫(すいしや)の多(おほき)土地(とち)には歳々(さい〳〵)
に水腫(すいしゆ)おほし是則(これすなはち)人(ひと)の病(やまひ)とならざる以前(いぜん)に其々(それ〳〵)の病(やまひ)となるべき氣(き)は陰陽(いんやう)
のうちに定(さだまり)てあるなり痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)黴瘡(ばいさう)疥瘡(かいさう)の如(ごとき)きも是(これ)にかはる事(こと)なく
先(まづ)其土地(そのとち)に其毒(そのどく)を生(しやう)ずべき氣(き)有(あり)て其土地(そのとち)の人(ひと)の病(やまひ)となりそれを人(ひと)より人(ひと)に
傳(つたへ)て其(その)毒氣(どくき)の元(もと)より無(なき)土地(とち)へも傳渡(つたへわたる)なり是(これ)を譬(たとふ)るに土地(とち)になき草木(さうもく)も
他國(たこく)よりうつし植(うゆ)れば榮(はえ)そだつが如(ごと)しいにしへ
日本(につほん)に柑子(かうじ)なかりしを
聖武天皇(しやうむてんわう)神龜(しんき)二年 乙丑(きのとのうし)佐味(さみ)の虫麻呂(むしまろ)播磨(はりま)の直弟兄(あたいをとゑ)唐土(もろこし)より齎歸(もちかへり)
て植(うゑ)そだてし故(ゆゑ)に従五位下(じゆごいのげ)に叙(じよ)せられし事(こと)續日本紀(しよくにほんき)にみえたり柑子(かうじ)
【右開】
のみならず古(いにしへ)より今(いま)も尚(なを)異國(いこく)より渡(わたり)て榮(はえ)そだつ草木(くさき)おびたゝし唐(とう)の代(よ)
にさへ長安(ちやうあん)に牡丹(ぼたん)はなかりしを則天皇后(そくてんくわうこう)西河(せいが)より上苑(じやうゑん)にうつし植(うゑ)てより
蔓延(はびこり)しと舒元輿(じよげんよ)が牡丹(ぼたん)の賦(ふ)の序(じよ)に見(み)へたり其他(そのほか)なき土地(とち)に移(うつし)て榮(はえ)そ
だつ草木(さうもく)は數(かぞふ)るにいとまあらず草木(さうもく)は土(つち)にやどりて何(いづれ)の國(くに)へも傳(つたへ)痘瘡(とうさう)痲(ま)
疹(しん)黴瘡(ばいさう)疥瘡(かいさう)の類(たぐひ)有形(ゆうぎやう)惡毒(あくどく)の病(やまひ)は人(ひと)の氣血(きけつ)にやどりて何(いづれ)の國(くに)の人(ひと)にも
傳(つたふ)傷寒(しやうかん)時疫(じえき)の類(たぐい)は其年(そのとし)の陰陽(いんやう)の時令(じれい)にて聚(あつまる)も散(ちる)も定(さだ)まりなければ
其氣(そのき)もとのごとく淸(すめ)ば其(その)邪氣(じやき)もおのづから消失(きえうせ)て病人(やむひと)なし是則(これすなはち)無形(むぎやう)の
邪氣(じやき)なるゆゑなりおよそ病(やまひ)は草木(さうもく)の土地(とち)に相應(さうおう)せざれば枯(かれ)はつるが如(ごと)く
其病(そのやまひ)の毒氣(どくき)と其土地(そのとち)の氣(き)と相應(さうおう)せざれば延蔓(はびこら)ざると見(み)えて北國(ほくこく)の
胡(ゑびす)には痘瘡(とうさう)なきよし醫書(いしよ)に見(み)ゆしかれども胡(ゑびす)も中國(ちうごく)に來時(きたるとき)は痘瘡(とうさう)を病(やむ)
【左開】
といへば胡(ゑびす)の國(くに)にても近(ちか)ずかばかならず迯(のがれ)がたからん
日本(につほん)は陰陽(いんやう)淸和(せいくわ)にして土地(とち)の毒氣(どくき)甚(はなはだ)うすきとおぼしく諸(もろ〳〵)の薬種(やくしゆ)の類(るい)も
舶來(はくらい)のものにくらぶれば其効(そのかう)うすし是(これ)全(まつたく)土地(とち)のあしき故(ゆゑ)に其効(そのかう)の薄(うすき)には
あらず土地(とち)の毒氣(どくき)うすきゆゑに其効(そのかう)もうすきなり土地(とち)のよきしるしは人(ひと)
の脾胃(ひい)を補(をぎなふ)五 穀(こく)菜菓(さいくわ)の類(るい)は稔(みのり)味(あじはひ)までも萬國(ばんこく)に勝(すぐれ)て類(たくひ)なし是(これ)に依(よつ)て
人物(じんぶつ)も極(きはめ)て豪雄(がうゆう)なるゆゑ武勇(ぶゆう)は世界(せかい)第一(だいいち)なりと異國(いこく)におゐても稱美(しやうび)す
《割書:蛮説にイキリスタルタリヤ 日本を世界の|三武国と称して 日本を其第一とす》かゝる陰陽(いんやう)淸和(せいくわ)の國(くに)なる故(ゆゑ)に土地(とち)の氣(き)
に痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)黴瘡(ばいさう)疥瘡(かいさう)の如(ごと)き惡毒(あくどく)の病(やまひ)はおこらざるなり然(しかれ)ども其毒(そのどく)
氣(き)にふれて染(そみ)やすきは天地精英(てんちせいゑい)の氣(き)を稟(うけ)て天地(てんち)と一物(いちぶつ)なる人身(じんしん)なれば
陰陽(いんやう)の氣(き)はよきもあしきも感應(かんおう)す其(その)感應(かんおう)の速(すみやか)なるは聲(こゑ)にこたまの應(おう)ず
【右開】
るが如(ごと)し近世(きんせい)淸(しん)の張璐玉(ちやうろぎよく)が醫通(いつう)といふ書(しよ)に番沙(ばんしや)といふ異氣(いき)惡毒(あくどく)の病(やまひ)漠(ばく)
北(ほく)より今(いま)の唐山(とうざん)へ流傳(ながれつたへ)し事(こと)をしるせり是(これ)のみならず異域(いいき)より傳來病(つたへきたるやまひ)
おほきが中(なか)にも疙瘩瘟(こつたふうん)瓜瓢瘟(くわぢやううん)などいふおそろしき病(やまひ)外國(ぐわいこく)より唐山(とうざん)へは時(とき)
として流來事(ながれきたること)あり唐山(とうざん)は我(わが)
日本(につほん)の如(ごと)く環海(くわんかい)【「うみのめぐり」左ルビ】の國(くに)にあらず其地(そのち)数千萬里(すせんばんり)の方外(はうぐわい)蛮夷(ばんい)に接属(つゞき)し故(ゆゑ)に
おのづから人(ひと)の往來(わうらい)に従(したがふ)て数多(あまた)の惡毒(あくどく)の病(やまひ)も傳(つたふ)るならん嗚呼(あゝ)いかなれ
ば外國(ぐわいこく)蛮夷(ばんい)の土地(とち)には陰陽(いんやう)の沴氣(てんき)さま〴〵にむすぼれこりてかゝる惡(あく)
毒(どく)の病(やまひ)を生(しやう)ずるや後(のち)には
日本(につほん)にも傳(つたへ)ながれて又(また)も非命(ひめい)に死する人(ひと)のおほからんかおそるべき事(こと)な
り是皆(これみな)方土(はうど)の異氣(いき)にして人(ひと)の病(やまひ)とならざる前(まへ)に其毒(そのどく)はさま〴〵に凝(こり)
【左開】
定(さだまる)ものなり其土地(そのとち)によりて毒氣(どくき)の異(こと)なる證據(しやうこ)はカマイタチといふ病(やまひ)は關東(くわんとう)に
ありて西國(さいこく)になしといふ又(また)犬神(いぬがみ)といふ毒氣(どくき)は西國(さいこく)に多(おほく)あれども関東(くわんとう)にある事(こと)なし
是等(これら)も其土地(そのとち)の氣(き)のしからしむるものにしてあやしむにたらず我(わが)甲斐(かひ)の中郡(なかこほり)
は水種(すいしゆ)おほくありかし至(いたつ)て治(ぢ)しかたく瘧(ぎやく)は治(じ)しやすし同國(どうこく)なれども都留郡(つるこほり)の
水種(すいしゆ)は愈(いえ)やすく瘧(ぎやく)には至て難證(なんしやう)あり一國(いつこく)の内(うち)にて其(その)病毒(びやうどく)のさま〴〵なるは
皆(みな)陰陽(いんやう)沴氣(てんき)のする所(ところ)いはんや茫々(ばう〳〵)たる萬國(ばんこく)廣莫(くわうばく)の間(あいた)に生(しやう)ずる沴氣(てんき)のさま
〳〵いかなる病毒(びやうどく)のあらんも測(はかり)しるべからず
天稟(てんりん)【「てんよりうくる」左ルビ】の毒氣(どくき)
諸(もろ〳〵)の醫書(いしよ)に痘瘡(とうさう)は穢(けがれ)たる産血(うぶち)を呑(のむ)ゆゑなりといひあるひは父母(ふぼ)交媾(かうごう)の慾火(よくくわ)
なりといひあるひは天行(てんかう)時疫(じえき)にて胎毒(たいどく)を發(はつ)するなりといひ其外(そのほか)さま〳〵説(せつ)
【右開】
あれども先(まづ)は胎毒(たいどく)といひしをあたり御はりなき後來不易(こうらいふえき)の明説(めいせつ)と心得(こゝろえ)てふた
たび其病(そのやまひ)の源(もと)を尋(たづぬ)る人(ひと)なきゆゑに痘瘡痲疹(とうさうましん)の一生(いつしやう)に一度(いちど)やむも日數(ひかず)をかぎる
も傳染(でんせん)するもたえてわからずおもひ〳〵に自己(じこ)の説(せつ)を立(たつ)る故(ゆゑ)に醫書(いしよ)において其(その)
うたがひはるゝ事(こと)なし胎毒(たいどく)といふ説(せつ)は然(しかる)べきやうに聞(きこゆ)れども反(かへつ)て病(やまひ)の源(もと)をあ
きらかにせざる證據(しやうこ)なり其理(そのり)いかんとなればおよそ人(ひと)は天地萬物(てんちばんもつ)の長(ちやう)にして
至(いたつ)て神霊(しんれい)なるものなり其(その)神霊(しんれい)なるは何(なに)ゆゑなれば天地萬物(てんちばんもつ)に感通(かんつう)
する故(ゆゑ)なり其(その)感通(かんつう)するは何(なに)ゆゑなれば天地萬物(てんちばんもつ)の氣(き)を身中(しんちう)に兼備(かねそなへ)
る故(ゆゑ)に是(これ)と感通(かんつう)するなり此故(このゆゑ)に口(くち)の味(あじはひ)をしり眼(め)の色(いろ)をしり鼻(はな)の香(にほひ)をし
り耳(みゝ)の聲(こゑ)をしるを初(はじめ)として喜怒哀楽(きどあいらく)【「よろこびいかりかなしみたのしむ」左ルビ】に心(こゝろ)の動(うごく)も男女(をとこをんな)の情(なさけ)に魂(たましい)の
蕩(とろくる)も諸病(しよびやう)の起(おこ)りてくるしむも皆(みな)未生以前(みしやういぜん)より内(うち)に兼備(かねそなへ)たる氣(き)と外(ほか)
【左開】
にあるものと感應(かんおう)するゆえなりしかれども其(その)感應(かんおう)する所(ところ)人(ひと)ことに濃淡厚薄(のうたんこうたく)【「こきあはきあつきうすき」左ルビ】
有無(うむ)【「あるなき」左ルビ】の差別(さべつ)あり是則(これすなはち)人(ひと)の智愚寿夭強弱多病無病(ちぐじゆえうきやうじやくたびやうむびやう)の殊(こと)なる由縁(ゆえん)なり
是(これ)を稟賦(りんふ)ともいひ性質(せいしつ)ともいふ則(すなはち)天稟(てんりん)なり天命(てんめい)なり人(ひと)におゐては是(これ)を
性(せい)といふ其性(そのせい)の濃淡厚薄(のうたんこうたく)有無多少(うむたせう)さま〴〵なり此故(このゆゑ)に生涯(しやうがい)唱歌(せうか)【「うた」左ルビ】管弦(くわんけん)【「なりもの」左ルビ】
を学(まなび)ても一節(ひとふし)も調(しらへ)の和(あは)ざるもの有(あり)是(これ)は五音(ごいん)の調子(ちやうし)身中(しんちう)に兼備(かねそなへ)ざる故(ゆゑ)な
り是(これ)を無律(むりつ)の人(ひと)といふ身中(しんちう)に五音(ごいん)の兼備(かねそなへ)し人(ひと)は調子(ちやうし)をしる事(こと)聲(こゑ)にこたま
の應(おう)ずるが如(ごと)し是(これ)を有律(うりつ)の人(ひと)といふ其(その)天性(てんせい)に五音(ごいん)はあれども音曲(をんぎよく)の業(わざ)に
上手下手(じやうずへた)の差別(さべつ)あるは其身中(そのしんちう)の音律(をんりつ)に濃淡厚薄(のうたんこうはく)あるによつてなり病(やまひ)
におゐては是(これ)を天稟(てんりん)の毒(どく)といふ其毒(そのどく)の濃淡厚薄(のうたんこうはく)有無多少(うむたせう)人(ひと)ごとにおなじ
からず此故(このゆゑ)に生涯(しやうがい)黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)の如(ごと)き傳染病(でんせんびやう)の者(もの)と枕(まくら)をならべても其病(そのやまひ)に感(かん)
【右開】
ぜざるは天性身中(てんせいしんちう)に其毒(そのどく)なき故(ゆへ)なり是(これ)を無毒(むどく)の人(ひと)といふ痘瘡痲疹(とうさうましん)は人(ひと)ごと
に病(やむ)ものなれどもまれに病(やま)ざるものゝあるは其(その)身中(しんちう)に病(やむ)べき毒氣(どくき)のなき
ゆゑなり身中(しんちう)に其(その)毒氣(どくき)ある人(ひと)は焔硝(ゑんしやう)に火(ひ)のうつるが如(ごと)し是(これ)を有毒(うどく)の
人(ひと)といふ病(やまひ)をうくるに重(おも)き軽(かる)き人(ひと)ごとにおなじからざるはかの五音(ごいん)の調子(ちやうし)の濃(のう)
淡厚薄(たんこうはく)にかはる事(こと)なく身中天稟毒氣(しんちうてんわんどくき)の濃淡厚薄(のうたんこうはく)あるによつてな
り近(ちか)く譬(たとへ)をとれば漆(うるし)に香触(かぶれ)るもの有(あり)かぶれざあるもの有(あり)少(すこし)かぶるゝものあり
おほく香触(かぶる)る者(もの)あり酒(さけ)に酔(ゑふ)もの有(あり)酔(よは)ざるものあり酒(さけ)に酔(ゑふ)ものは酔(ゑふ)べき氣(き)
内(うち)にありて酒(さけ)の氣(き)に感應(かんおう)し漆(うるし)にかぶるゝものはかぶるべき氣(き)内(うち)にありて漆(うるし)に
感應(かんおう)す是皆(これみな)其人々(そのひと〴〵)の天稟(てんりん)にて未生以前(みしやういぜん)より其氣(そのき)を含(ふくみ)て生(うまる)るなれ
ば是亦(これまた)胎毒(たいどく)といはんか痘瘡痲疹(とうさうましん)の感應(かんおう)も漆(うるし)と酒(さけ)にかはる事(こと)なく天稟(てんりん)
【左開】
病(やむ)べき氣(き)ある故(ゆゑ)に病(やむ)其氣(そのき)なきものは生涯(しやうがい)病(やま)ざるなり賣色(ばいしよく)の身(み)にて
黴瘡(ばいそう)を病(やま)ざるものあるも天稟(てんりん)に其氣(そのき)なき故(ゆゑ)なりしからば黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)も
天稟性質(てんりんせいしつ)によれば是(これ)をも胎毒(たいどく)といはんか黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)にかぎらず萬病(まんびやう)すべ
て病(やむ)と病(やま)ざるとは其人(そのひと)の天稟性質(てんりんせいしつ)によるものなれば畢(こと〳〵く)胎毒(たいどく)といはんか
かく胎毒(たいどく)といふべきもの数多(あまた)なれば痘瘡痲疹(とうさうましん)にかぎりて胎毒(たいどく)といふ
は病(やまひ)の源(もと)をしらざるより出(いで)し僻説(ひがこと)なるを知(しる)べきなりたゞ父母(ふぼ)の疾(やまひ)を其(その)
児(こ)に傳(つたへ)ると妊娠(にんしん)のうち母(はゝ)の食物(しよくもつ)あしくて其児(そのこ)に病(やまひ)あるは胎毒(たいどく)ともいふべ
きかしかれども多病(たびやう)なる人(ひと)の児(こ)に無病(むびやう)のもの有(あり)無病(うむびやう)の人(ひと)の児(こ)に多病(たびやう)の
ものあり賢(かしこき)ものゝ子(こ)に愚鈍(ぐどん)なるものも生(うま)れ愚鈍(ぐどん)なる人(ひと)の子(こ)に秀才(しうさい)の
者(もの)も有(あり)見持(みもち)よからぬものも無病(むびやう)にて長生(ながいき)し行儀(ぎやうぎ)正(たゞし)き人(ひと)にて多病短命(たびやうたんめい)な
【右開】
るものありてかならす然(しかる)べき事(こと)もしからず然(しかる)べからざる事(こと)もしからしむる
は皆(みな)天稟(てんりん)にして人意(じんい)をもつて豫(あらかじめ)さだめがたし天(てん)より稟所(うくるところ)は人(ひと)の智(ち)
力(りき)を以(もつ)ていかんともすべからざるものなれば聖人(せいじん)これを天命(てんめい)なりとの給ふ
なり天稟(てんりん)に諸(もろ〳〵)の毒氣(どくき)のあるやなしやはしりがたき故(ゆゑ)に身(み)を慎(つゝしみ)慾(よく)をほしゐまゝ
にせずして生(せい)を養(やしなふ)を第一(だいいち)に聖人(せいじん)は教(をしへ)給ふなり天稟(てんりん)の毒氣(どくき)濃(こき)ものはいふもさら
なりたとへ薄(うすゝ)とも身持(みもち)あしく飲食(いんしよく)みだりなれば氣血(きけつ)みだれ毒氣(どくき)いよ〳〵
熾(さかん)になり諸病(しよびやう)の起事(おこること)すみやかなるは薪(たきゞ)に油(あぶら)をそゝぐが如(ごと)し此故(このゆゑ)萬病(まんびやう)は
常(つね)に身中(しんちう)にあるものぞと心得(こゝろへ)て病(やま)ざるやうに其身(そのみ)を慎(つゝしむ)を第一(だいいち)とすべきな
り人(ひと)の身(み)は父母(ふぼ)より受(うけ)しものなれば其身(そのみ)に傷(きず)をつくるさへ不孝(ふかう)なり
と聖人(せいじん)のいましめ給へるを病(やま)ずしてすむ病(やまひ)を傳染(でんせん)して命(いのち)を捨(すて)生(うまれ)もつか
【左開】
ぬ廃人(はいじん)【「かたわ」左ルビ】となりはつるはあさましき事(こと)ならずや
一生一患(いつしやういつくわん)の辨(べん)【「いつしやうにひとたびやむわけ」左ルビ】
萬病(まんびやう)の中(なか)に痘瘡痲疹(とうさうましん)のみ一生一度(いつしやういちど)にかぎるを見(み)て俗家(ぞくか)はたゞ奇妙(きめう)
不思議(ふしぎ)の病(やまひ)なりとし醫家(いか)はかの宋元(そうげん)の醫流(いりう)が胎毒(たいどく)の臆説(おくせつ)を誠(まこと)と
心得(こゝろえ)蛇(へび)の衣(きぬ)を脱蝉(ぬきせみ)の殻(から)を蛻(ぬく)が如(ごと)く人間(にんげん)一生(いつしやう)に一度(いちど)かならず病(やむ)べきやまひ
なりといふは天地萬物生々死々同一(てんちばんもつせい〳〵し〳〵どういつ)の定理(ていり)を以(もつ)て痘瘡痲疹(とうさうましん)も一生(いつしやう)に一(いち)
度(ど)なるをしらざる故(ゆゑ)なり是(これ)をしらざるゆゑに眼邉(まのあたり)黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)の一生(いつしやう)
に一度(いちど)なるに心附(こゝろづか)ざるなり此(この)傳染四病(でんせんしびやう)にさへ心附(こゝろづか)ざるゆゑにまゝて
萬病(まんびやう)の一生(いつしやう)に一度(いちど)なるには心附(こゝろづか)ざるなり萬病(まんびやう)は看(みす〳〵)一生(いつしやう)に幾度(いくたび)も病(やむ)
ものあれば一生一患(いつしやういつくわん)にあらずとおもふはことわりなれどもさにあらず
【右開】
黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)を幾回(いくたび)も病(やむ)は其(その)度々(たび〳〵)外(ほか)よりうけて病(やむ)にはあらず初染(はじめそみ)し
毒(どく)を發(はつ)し竭(つく)さゞるゆゑに身中(しんちう)にこもり居(ゐ)てをり〳〵に發(はつす)るなり前(まへ)に
いふごとく病(やまひ)は人(ひと)ごとに天稟毒氣(てんりんどくき)の濃淡厚薄(のうたんこうはく)あり然(しか)のみならず正(せい)
氣(き)毒氣(どくき)と和不和(くわふくわ)といふ事(こと)あり此(この)和(くわ)すと和(くわ)せざると天稟毒氣(てんりんどくき)の濃(のう)
淡厚薄(たんこうはく)とは病(やまひ)の緩急軽重安危(くわんきふけいぢゆうあんき)【「ゆるきはやきかるきおもきやすきあやふき」左ルビ】の源(みなのと)にして病状(びやうじやう)の千変化(せんぺんばんくわ)なる
は皆(みな)こゝに本(もと)づくなり此(この)天稟毒氣(てんりんどくき)と和不和(くわふくわ)とを察(さつ)せざる故(ゆゑ)に古今(ここん)の
醫流(いりう)すべて萬病(まんびやう)の一生(いつしやう)に一患(いつくわん)なるを知(しる)ことあたはざるなり先(まづ)痘瘡(とうさう)は毒氣(どくき)
甚(はなはだ)猛烈(まうれつ)なる故(ゆゑ)に一度(いちど)其氣(そのき)に感(かん)ずれば正氣(せいき)と毒氣(どくき)を鋭戦(するどくたゝかふ)て發熱煩悶(ほつねつはんもん)
し痘瘡(とうさう)正氣(せいき)に追(おは)れて皮外(ひぐわい)へ發(はつ)すれば正氣(せいき)やすらかにして熱氣(ねつき)解(げ)
すたとへ痘瘡(とうさう)おもくとも正氣(せいき)勝(かつ)ものは日数(ひかず)をかぎり膿(うみ)となり痂(かさぶた)となり穢(ゑ)【「けがれ」左ルビ】
【左開】
悪(あく)【「あしき」左ルビ】の氣(き)を脱去(ぬきさつ)て身中(しんちう)に少(すこし)ものこらずもし正氣(せいき)敗(やぶれ)て毒氣(どくき)を發(はつ)せざれ
ば忽(たちまち)に死(し)すたとへ發(はつ)しても正氣(せいき)撓(たはん)で膿氣(のうき)【「うみけ」左ルビ】少(すこし)も内(うち)に陥(おちいる)ものは必(かならず)変證(へんしやう)をなす
臓腑(ざうふ)に陥(おちいる)ものは下利(げり)【「くだり」左ルビ】甚(はなはだ)しく正氣(せいき)つきてあやふし此時(このとき)やむことを得(え)ず澁(しぶり)
薬(くすり)を用(もちゐ)て下利(げり)を止(とむ)れば毒氣(どくき)漸(やうやく)肉分(にくぶん)に復(ふく)【「かへる」左ルビ】して腫瘍(はれもの)骨節(ほねぶし)にあつまり膿(うみ)
潰(つひえ)て痘瘡(とうさう)の膿(うみ)に萬倍(まんばい)す或(あるひ)は毒氣(どくき)眼(め)にあつまり或(あるひ)は牙疳(げかん)【「はくさ」左ルビ】となり其(その)
害(がい)さま〴〵なりかくの如(ごとく)なるは皆(みな)毒氣(どくき)と正氣(せいき)と戦時(たゝかふこと)甚(はなはだ)しく實(じつ)に火(ひ)
水(みづ)の如(ごとく)なるをもつて暫時(ざんじ)も正氣(せいき)と和合(わがふ)して人(ひと)の身中(しんちう)にとゞまらず外(ほか)
に發(はつ)するか内(うち)に陥(おちいる)か二ッ一ッの勝敗(しやうはい)【「かちまけ」左ルビ】を決(けつ)するゆゑに一たび病(やめ)ば天稟(てんりん)の毒(どく)
氣(き)おのづから尽(つき)て生涯(しやうがい)二度(ふたゝび)病(やま)ざるなり痲疹(ましん)も正氣(せいき)と戦(たゝかふ)て天稟(てんりん)の毒(どく)
氣(き)を發(はつ)し竭(つく)すゆゑに二度(ふたゝび)病(やま)ざるは痘瘡(とうさう)とおなじけれども毒氣(どくき)少(すこし)ゆる
【右開】
く正氣(せいき)と和合(わがふ)する所(ところ)ある故(ゆゑ)に發(はつ)しかねたるものは痢病(りびやう)をやみ《割書:痲疹のはやる|度々世間に痢》
《割書:病流行する事あり|是皆其餘毒なり》又(また)は肌膚(きふ)に滞(とゞこほり)て乾疥(かんかい)【「こせ」左ルビ】となり或(あるひ)は肉分(にくぶん)に滞(とゞこほり)て瘍(はれもの)となり或(あるひ)は
肺(はい)の臓(ざう)に滞(とゞこほり)て痰欬(たんせき)いえがたし痲疹(ましん)の餘毒(よどく)は醫書(いしよ)にたえて論(ろん)ぜざれば
其(その)餘毒(よどく)なるをしる醫者(いしや)はまれなるべし是皆(これみな)正氣(せいき)と毒氣(どくき)と和合(わがふ)するにて痘(とう)
瘡(さう)と少(すこし)殊(こと)なる所(ところ)なり就中(なかんづく)黴(ばい)【黴に疒】瘡(さう)はいたつて正氣(せいき)と和合(わがふ)する故(ゆゑ)に㴱毒氣(ふかくどくき)に感(かん)じ
てもいたみかゆみもなく寒熱(かんねつ)もせず不食(ふしよく)もせず氣分(きぶん)にかはる事(こと)なく無病(むびやう)なる人(ひと)
にことならず一度(ひとたび)病(やまひ)いえて後(のち)又(また)あらためて病(やむ)に似(に)たる者(もの)あれども全(まつたく)前(まへ)の毒(どく)
氣(き)の再發(さいほつ)するにてあらたに病(やむ)にはあらず其(その)證據(しやうこ)は二度(ふたゝび)病(やむ)ものに便毒楊梅瘡(べんどくやうばいさう)
などの外邉(うはべ)なる證(しやう)を病(やむ)ものはなく皆(みな)喉鼻筋骨(のどはなすじほね)あるひは下疳(げかん)《割書:下疳とは陰莖漸々に|腐落るをいふ陰瘡陰》
《割書:爛をも下疳と|いふは誤なり》の類(るい)ふかく重(おも)き證(しやう)ばかり病(やむ)なりかゝる毒氣(どくき)身中(しんちう)にありながら
【左開】
疼養寒熱不食(いたみかゆみかんねつふしよく)のわづらひもなく無病(むびやう)の如(ごとく)なるは毒氣(どくき)を正氣(せいき)と和合(わがふ)する
故(ゆゑ)ならずや疥瘡(かいさう)は毒氣(どくき)尤軽(もつともかる)く療治(れうぢ)せずとも甚(はなはだ)しき害(がい)なしかへつて摩(すり)
藥温泉藥湯(ぐすりをんせんくすりゆ)などにて毒氣内攻(どくきないこう)し水腫(すいしゆ)となりて間(まゝ)死(し)するものあり能(よく)毒氣(どくき)を
發(はつ)する薬(くすり)を服(ふく)して毒(どく)の脱(ぬけ)たる人(ひと)はふたゝび其病人(そのびやうにん)に■(ふれ)【觸】ちかづきても病事(やむこと)な
し毒氣(どくき)殘(のこる)ものは幾度(いくたび)も病(やむ)なり俗(ぞく)に疥瘡三年(ひぜんさんねん)といふも此病(このやまひ)の愈(いゆ)べき時分(じぶん)の
大槩(たいがい)にて痘瘡痲疹(とうさうましん)の日数(ひかず)を限(かきる)と長(なが)き短(みじか)きのかはるのみなり是皆(これみな)其病(そのやまひ)こと
に緩急輕重(くわんきふけいぢゆう)【「ゆるきすみやかかるきおもき」左ルビ】の㔟(いきほい)あるは正氣(せいき)と毒氣(どくき)と和合(わがふ)すると戦(たゝかふ)との差別(さべつ)なり一度(ひとたび)天(てん)
稟(りん)の毒(どく)を發(はつ)し竭(つく)して後(のち)二度(ふたゝび)其病(そのやまひ)をやまざる證據(しやうこ)は今(いま)黴(ばい)【黴に疒】瘡(そう)を病(やぶ)ものを見(み)
よ療治(れうぢ)を法(ほふ)の如(ごと)くにして能(よく)其毒氣(そのどくき)を袪(さり)つくせばいか程(ほど)其病(そのやまひ)あるものに
馴染(なれそみ)ても二度(ふたゝび)是(これ)を病(やむ)ことなし療治(れうぢ)よからねども正氣(せいき)盛(さかん)なるものは其毒(そのどく)
【右開】
を咽鼻(のどはな)あるひは肢體(からだ)に發(はつ)して天稟(てんりん)の氣(き)を自然(しぜん)と此(これ)に脱(ぬく)ものあり俗家(ぞくか)
に黴瘡(かさ)が何所(どこ)に脱(ぬけ)し彼所(かしこ)に脱(ぬけ)しといふは是(これ)なり是(これ)も二度(ふたゝび)病(やむ)となし疥(かい)
瘡(さう)とても天稟(てんりん)の毒氣(どくき)を發(はつ)し竭(つく)して二度(ふたゝび)病(やま)ざるは是(これ)にかはる事(こと)なし此(この)
故(ゆゑ)に当世(とうせい)青楼(せいろう)【「ぢよろうや」左ルビ】の徒(やから)は黴瘡疥瘡(ばいそうかいさう)の病中(びやうちう)を閉屋(とや)といひて病(やん)で後(のち)を
安堵(あんど)とするも重(かさね)て染(そま)る心(こゝろ)づかひなければとりもなほさず小児(せうに)の痘瘡(とうさう)
痲疹(ましん)をすまして安心(あんしん)する如(ごと)く心得(こゝろえ)しものなり是則(これすなわち)一度(ひとたび)天稟(てんりん)よりあ
る所(ところ)の痘毒(とうどく)を發(はつ)し竭(つく)せば痘毒(とうどく)たえ痲毒(まどく)を發(はつ)し竭(つく)せば痲毒(まどく)た
えて生涯(しやうがい)二度(ふたゝび)病(やま)ざるなり黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)も是(これ)にかはる事(こと)なく一生(いつしやう)に一(いち)
度(ど)なれども正氣(せいき)と毒氣(どくき)と和合(わがふ)する故(ゆゑ)に天稟(てんりん)の氣(き)ぬけかねて幾度(いくたび)
も病(やむ)なり右(みぎ)の四病(しびやう)にかぎらず萬病(まんびやう)こと〴〵く天稟(てんりん)にある所(ところ)の毒氣(どくき)を發(はつ)
【左開】
しつくしてのちは外(ほか)より毒氣(どくき)に觸(ふれ)ても身中(しんちう)に感應(かんおう)すべき毒氣(どくき)な
きゆゑ病(やまひ)の起(おこる)べきやうはなき也 是(これ)を譬(たとふ)るに鳥銃(てつぽう)の發勢(はつするいきほひ)にことならず
鳥銃(てんぽう)の中(うち)に火(ひ)の起(おこる)べき火藥(くわやく)あれども外(ほか)より火氣(くわき)の感應(かんおう)なければ鳥(てつ)
銃(ぽう)さびくさるまで火焔(くわゑん)を發(はつ)する事(こと)なし是(これ)諸病(しよびやう)ともに外(ほか)より其氣(そのき)を
うけざれば生涯(しやうがい)病(やま)ざる譬(たとへ)なりもし少(すこし)にても火氣(くわき)に觸(ふる)ときは金銕(きんてつ)を
つらぬき岩石(がんぜき)を碎(くだく)いきほひあり是(これ)天稟毒氣(てんりんどくき)を發(はつ)するの譬(たとへ)なり一(ひと)
度(たび)硝火感應(しやうくわかんおう)して㷔炎(ほのふ)おこり今丸(きんぐわん)飛(とび)さつて後(のち)はいか程(ほど)火氣(くわき)に近(ちか)づき
ても火㷔(くわゑん)の起(おこる)べき縁(ゑん)なし是(これ)萬病天稟毒氣(まんびやうてんりんどくき)竭(つき)て一生一患(いつしやういつくわん)の譬(たとへ)なり
火薬(くわやく)おほく其器(そのうつは)手薄(てうす)ければ火㷔(くわゑん)とゝもに鳥銃(てつぽう)やぶれてふたゝび用(よう)を
なさず是正氣(これせいき)よわく毒氣(どくき)つよく病(やまひ)と共(とも)に身(み)の亡(ほろぶ)る譬(たとへ)なり正氣(せいき)と毒(どく)
【右開】
氣(き)と和(くわ)する病(やまひ)は長引(ながひき)て天稟(てんりん)の毒(どく)を解脱(げだつ)するもおそし是(これ)をたとゆるに
炭薪油(すみたきゞあぶら)おなじ火(ひ)の然(もゆ)【燃】るものにてはやきおそきあるが如(ごと)し萬病(まんびやう)すべて
愈(いゆる)と愈(いえ)ざるとは正氣(せいき)と毒氣(どくき)の勝敗(しやうはい)【「かちまけ」左ルビ】にありおなじ病(やまひ)を幾度(いくたび)も病(やむ)は毒(どく)
氣(き)と正氣(せいき)と和(くわ)するなり二度(ふたゝび)其病(そのやまひ)をやまざるは天稟毒氣(てんりんどくき)の發(はつ)し竭(つく)るな
り是等(これら)は古今醫流(ここんいりう)のたえて心附(こゝろづか)ざる所(ところ)にして然(しか)も天地萬物生々死々同(てんちばんもつせい〳〵しゝどう)
一(いつ)の定理(ていり)此(こゝ)にもるゝ事(こと)なし先(まづ)漆(うるし)に香觸(かぶる)るものを見(み)よ天稟(てんりん)に其毒氣(そのどくき)な
きものは漆葉(うるしのは)を喰(くらふ)ても香觸(かぶれ)ず其毒(そのどく)うすきものは漆(うるし)の附(つき)たる所(ところ)ばかり
癢(かゆ)がるものあり毒氣(どくき)至(いたつ)て厚(あつき)ものは漆(うるし)の風(かぜ)にふかれても大(おほき)にかぶれて
大熱(だいねつ)おこり咽(のど)かわき譫言(うはこと)をいひ惣身(そうしん)はれ爛(たゞるゝ)ものあり是皆(これみな)天稟(てんりん)の
漆毒(しつどく)に有無濃淡(うむのうたん)【「あるなきこきあはき」左ルビ】ある故(ゆゑ)なり其(その)かぶるゝものに心(こゝろ)を附(つけ)て見(み)よ一度(いちど)二(に)
【左開】
度(ど)三度(さんど)とたび〳〵かぶるゝ時(とき)は次第(しだい)にかぶれやううすくなりて後(のち)にはかぶ
れざるなり是(これ)は天稟(てんりん)の毒(どく)漸々(ぜん〳〵)に脱(ぬけ)るにて疥瘡(かいさう)を幾度(いくたび)も發(はつ)して
毒氣(どくき)の脱(ぬけ)るとおなじ事(こと)なり又(また)いたつて漆(うるし)にかぶるゝもの人(ひと)の教(をしへ)にまかせ
漆(うるし)の嫰葉(さかば)を下飯(さい)にして甚(はなはだ)かぶれて其後(そののち)はたえてかぶれざるものあり
是(これ)は痘瘡(とうさう)をわざ〳〵うつりて天稟(てんりん)の毒(どく)の脱(ぬけ)るとおなじ事(こと)なり痘瘡(とうさう)
は小児(せうに)の病(やまひ)なれども老人(らうじん)にも病(やむ)ものあり是(これ)は晩(おそ)く天稟(てんりん)の毒(どく)を解脱(げたつ)する
なり黴瘡(ばいさう)は大人(をとな)の病(やまひ)なれども乳(ち)のみ児(こ)にも傳染(でんせん)して病(やむ)ものあり是(これ)は
早(はや)く天稟(てんりん)の毒(どく)を發顕(はつけん)するなり醫書(いしよ)にすべて小兒(せうに)の病(やまひ)とする白禿頭瘡(しらくぼかみがさ)
水痘(のらも)の類(たぐひ)は皆(みな)はやく天稟(てんりん)の毒(どく)を解脱(げだつ)するなり萬病(まんびやう)こと〴〵く天稟(てんりん)毒(どく)
氣(き)の解脱(げだつ)に本(もと)づくをもつて瘧疾痢病(ぎやくしつりびやう)の類(たぐひ)さへ初(はじめ)て病時(やむとき)より二度(にど)め
【右開】
は軽(かる)く至(いたつ)ておもく病(やむ)ものはかならず二度(にど)は病(やま)ず軽(かるく)とも二度(にど)病(やま)ざるもの
は天稟毒氣(てんりんどくき)の解脱(げだつ)せしなりすべて痘瘡痲疹(とうさうましん)の如(ごと)く一度(いちど)にて了々(さつはり)
と天稟(てんりん)の毒氣(どくき)のぬけかぬるは正氣(せいき)と毒氣(どくき)と和合(わがふ)して戦所(たゝかふところ)甚(はなはだ)しからざ
る故(ゆゑ)にて實(じつ)は萬病(まんびやう)皆(みな)一生(いつしやう)に一度(いちど)なり傷寒時疫(しやかんじゑき)の形(かたち)もなき邪氣(じやき)にても
能(よく)心(こゝろ)を附(つけ)て見(み)よ汗(あせ)につれ下利(くだり)につれ氣血(きけつ)ともに震動(しんどう)し臓腑経絡(さうふけいらく)を
洗濯(せんだく)し病毒(びやうどく)内外(うちそと)に透(とほり)て後(のち)に愈(いえ)たるものは二度(にど)おなじ病(やまひ)は病(やま)ざるなり
適(たま〳〵)おなじ病(やまひ)を幾度(いくたび)も病(やむ)ものはかならず前(まへ)の病(やみ)やう内外(うちそと)に透(とふ)らず毒氣(どくき)
の竭(つき)ざる所(ところ)あるなり病(やまひ)のみにあらず天地(てんち)の間(あひだ)の萬物(ばんもつ)は皆(みな)一生一死(いつしやいつし)にて
死(し)して再生(ふたゝびいき)るものはあらず希(まれ)に蘇生(よみがへる)ものは實(じつ)に死(し)したるにはあらず
元氣(げんき)のいまだ盡(つき)ざるなり世人(せじん)陰陽造化生々死々(いんやうざうくわせい〳〵しゝ)の定理(ていり)を明(あきらか)にせざる
【左開】
故(ゆゑ)に天稟毒氣(てんりんどくき)の有無濃淡(うむのうたん)と正氣(せいき)と毒氣(どくき)の和(くわ)不(ふ)和によつて萬病(まんびやう)お
の〳〵緩急軽重(くわんきふけいぢやう)【「ゆるきはやきかるきおもき」左ルビ】あつて其病状(そのびやじやう)と殊(こと)にするにまよひだゞ痘瘡痲疹(とうさうましん)
の日数(ひかず)をかざり一生(いつしやう)に一度(いちど)患(うれふ)るを見(み)て奇妙(きめう)不思議(ふしぎ)の病(やまひ)とおもへるはおも
はざるの甚(はなはだ)しきなり
萬病(まんびやう)萬毒(まんどく)の辨(べん)
痘瘡(とうさう)と痲疹(ましん)を同時(どうじ)に病(やむ)ものを夾痲痘(けふまとう)と名(な)づく痘瘡(とうさう)の中(うち)に痲疹(ましん)を夾(さしはさむ)ゆ
ゑなり痘瘡(とうさう)と痲疹(ましん)と夾(さしはさむ)のみならず黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)あるひは傷寒時疫(しやうかんじえき)何(なに)
病(やまひ)にても病(やまひ)あるうえに痘瘡痲疹(とうさうましん)の流行(りうかう)あれば是(これ)を夾(さしはさん)で患(うれひ)をなす
無病(むびやう)なるものにくらぶれば其害(そのがい)は勿論(もちろん)なりしかれども前(まへ)にいふ如(ごと)く
萬病(まんびやう)おの〳〵緩急軽重濃淡厚薄(くわんきふけいぢやうのうたん)の分限(ぶんげん)ありて皆(みな)それ〳〵の形(かたち)をなし彼(かれ)
【右開】
とこれと混雑(こんざつ)せず痘瘡(とうさう)を病(やみ)て痲毒(まどく)のつくるにもあらず痲疹(ましん)を病(やみ)
て痘毒(とうどく)も脱(ぬけ)がたし《割書:予(よ)|》女(をんな)の黴瘡(ばいさう)にて軽紛剤(けいふんざい)を服(ふく)し咽口(のどくち)たゞれてくるし
むものを療治(れうぢ)せりある日(ひ)悪寒發熱(をかんほつねつ)して重(おも)き痘瘡(とうさう)を病出(やみいだ)せり数(す)
度(ど)危(あやふき)に至(いたり)しが幸(さいはひ)に命(いのち)をうしなはずして痘瘡(とうさう)は愈(いえ)たれども黴毒(ばいどく)は
少(すこし)も減(げん)ぜず其後(そののち)さま〴〵に療治(れうぢ)して漸々(やう〳〵)いえたり是皆(これみな)病(やまひ)ことに其(その)
毒氣(どくき)各別(かくべつ)にして混雑(こんざつ)せざるものなり是則(これすなはち)天地陰陽造化(てんちいんやうざうくわ)の妙(めう)にし
て草木(さうもく)は草木(さうもく)なれども萬種萬類(ばんしゆばんるい)なり生類(しやうるい)は生類(しやうるい)なれども生類(しやうるい)も亦(また)萬(ばん)
種萬類(しゆばんるい)なり病(やまひ)は病(やまひ)なれども病(やまひ)も亦(また)萬種萬類(ばんしゆばんるい)なり醫家(いか)に是(これ)を
暁(さとら)ず痘瘡(とうさう)は胎毒(たいどく)の發(はつ)するにて蛇(へび)の衣(きぬ)を袪(ぬぎ)蝉(せみ)の壳(から)を蛻(ぬく)が如(ごと)く一身(いつしん)の
毒(どく)を脱(ぬき)さる故(ゆゑ)に後(のち)に諸病(しよびやう)も軽(かる)く身(み)の幸(さいはひ)なりといふは甚(はなはだ)しき誤(あやまり)なりたと
【左開】
へいか程(ほど)おもき痘瘡(とうさう)を病(やみ)ても素(もと)より痘瘡(とうさう)を病(やむ)べき毒(どく)のみ盡(つき)て一毛(いちもう)ほども
身(み)の為(ため)にはならず身中(しんちう)にふくめる諸(もろ〳〵)の毒氣(どくき)は少(すこし)も減(げん)ずる事(こと)なく萬病(まんびやう)と
もに此理(このり)にて萬毒(まんどく)なるは痘瘡(とうさう)の後(のち)痲疹(ましん)をやみ漆(うるし)にかぶるゝ類(たぐい)にてもしるべき
なり近比(ちかごろ)一派(いつは)の醫流(いりう)謾(みだり)に萬病一毒(まんびやう)の説(せつ)をなして多(おふく)の人(ひと)をまよはせ
り是(これ)元來(もとより)陰陽造化(いんやうざうくわ)の明理(めいり)を暁(さと)らざるゆゑに病(やまひ)はいかなるものといふ事
もしらずたゞ暴戻不仁(ぼうれいふじん)の心(こゝろ)より出(いで)たる僻説(ひがこと)にして大(おほい)に醫道(いどう)に害(がい)あり
て亦(また)大(おほい)に人命(じんめい)に害(がい)あり萬病(まんびやう)を一毒(いちどく)なりといふは治工(やこう)【「かぢ」左ルビ】が金銀銅銕錫鉛(きんぎんどうてつすゞなまり)を
分別(ふんべつ)なく一ッのかねなりといふが如(ごと)く必(かならず)鍛煉(たんれん)の功(こう)はなしがたし苟(かりそめ)にも醫(い)は司命(しめい)
の業(げふ)なればかゝる誣言(そらごと)に欺(あざむ)かれて萬病(まんびやう)を一毒(いちどく)と心得(こゝろえ)みだりに薬(くすり)を用(もち)ひて
人命(じんめい)を害(そこな)ふ事(こと)なかれ
【右開】
痘瘡(とうさう)【「はうさう」左ルビ】を避(さけ)る辨(べん)
人身(じんしん)は天地萬物(てんちばんもつ)の霊(れい)なるゆゑに天地(てんち)の間(あひた)にあらゆる萬物(ばんもつ)の氣(き)を天稟身(てんりんしん)
中(ちう)に兼(かね)ふくむを以(もつ)て外(ほか)よりそれ〳〵の毒氣(どくき)に感應(かんおう)して諸病(しよびやう)となるはく
はしく前(まへ)に説(とく)ところにして其毒氣(そのどくき)に觸(ふる)るものは病(やみ)ふれざるものは病(やま)
ざる理(り)はあきらかなり然(しか)るを人(ひと)ごとに黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)は避(さけ)て病(やま)ざるを知(しつ)て
避(さく)れども痘瘡痲疹(とうさうましん)の避(さけ)て免(まぬかれ)やすきをしらずかへつて一日(いちにち)も早(はや)く病(やむ)
を悦(よろこぶ)は何事(なにごと)ぞや熟(つら〳〵)其(その)ありさまを見(み)るに恐(おそれ)ざるにはあらざれども何故(なにゆゑ)
にかゝる悪疾(あくしつ)に馴(なれ)ちかづくぞなれば俗家(ぞくか)は痘神(はうさうがみ)といふものありて人間(にんけん)
の一生(いつしやう)に一度(いちど)やまでかなはぬ病(やまひ)なりと心得(こゝろえ)醫家(いか)は其年(そのとし)の氣運時令(きうんじれい)にて
自然(しぜん)と此(この)疫癘(えきれい)はやりて人身(じんしん)の胎毒(たいどく)を發(はつ)するぞと心得(こゝろえ)し古今俗習(ここんぞくしふ)のあ
【左開】
しき故(ゆゑ)なり人(ひと)ごとに児(こ)の生(うまれ)おつるより此病(このやまひ)をあんじわづらひなほさら
近邉(きんへん)に流行(はやり)きたれば神佛(かみほとけ)にいのり又(また)は頼(たのみ)すくなき豫防薬(まへがきくすり)を用(もちゐ)ひた
すら此病(このやまひ)を軽(かるく)うけん事(こと)を願(ねがへ)ども至(いたつ)て傳染(でんせん)しやすき悪疾(あくしつ)を避(さけ)ずして神(かみ)
佛(ほとけ)をいのり又(また)は薬(くすり)を用(もちゆ)るは大酒(たいしゆ)して醉(よは)ぬを神佛(かみほとけ)にいのり酔(よは)ぬ薬(くすり)を前(まへ)に
用(もちゆ)るとおなじ事(こと)にてたぐひなく愚(おろか)なるわざくれなり此病(このやまひ)にかゝりて
は掌(たなごゝろ)をかへす如(ごと)く身(み)にもはかへじとおもふ子(こ)をころし二人(ふたり)となき世嗣(よつぎ)をたや
す人(ひと)の身(み)にとりては天雷地震(てんらいぢしん)より眼(ま)の邉(あたり)おそるべき悪疾(あくしつ)にして殊(こと)
に衣類玩物食物等(いるいもてあそびものしよくもつとう)に毒氣(どくき)つきて遠(とほく)へも傳染(でんせん)する毒氣(どくき)なれば此病(このやまひ)
のある家(いへ)より食物玩物(しよくもつもてあそびもの)など人(ひと)に贈遣(おくりつかは)す事(こと)はあるまじき事(こと)にて人(ひと)も是(これ)
をうけて悦(よろこぶ)べき事(こと)にあらず此病(このやまひ)の毒氣(どくき)の物(もの)に附(つき)て遠方(ゑんはう)へも傳染(でんせん)す
【右開】
るは最(もつとも)おそるべきものにて天明七未年(てんめいしちひつじどし)の正月(しやうぐわつ)八丈島樫立村(はちぢやうじまかしだてむら)の百姓(ひやくしやう)幸助(かうすけ)と
いふ者(もの)海邉(かいへん)に出(いで)て遊居(あそびい)たりしに枕箱(まくらはこ)やうの物(もの)浪(なみ)に漂(たゞよひ)しを拾(ひろひ)あげ
てひらき見(み)れば錦絵(にしきゑ)土人形(つちにんぎやう)などありしゆゑ大(おほき)に悦(よろこび)持(もち)かへりて其(その)
子供(こども)の玩物(もてあそび)に遣(つかは)しけるに忽(たちまち)痘瘡(とうさう)を病(やみ)はじめて家内(かない)不残(のこらず)傳染(でんせん)し村(むら)
中(ちう)一統(いつとう)に病(やみ)て死(しす)るものもおほく又(また)中之郷(なかのがう)といふ処(ところ)にも蔓延(はびこり)しゆゑに中(なか)
之郷(のかう)の病人(びやうにん)をば早速(さつそく)樫立村(かしだれむら)へ除(のけ)し故(ゆゑ)に中之郷(なかのがう)は纔(わづか)十七人(しうしちにん)にて其毒(そのどく)
氣(き)断(たえ)たり其(その)枕箱(まくらばこ)やうの物(もの)はかならず國方(くにかた)の痘瘡(とうさう)やみの阮物(もてあそび)なるゆ
ゑにかゝる殃(わざはひ)を引出(ひきいだ)したりとて其後(そののち)は右(みぎ)やうの漂流(ひやうりう)もの有(あり)てもいひ
傳(つたへ)て拾(ひろひ)とらずといへり又(また)正徳元卯年(しやうとくぐわんうどし)寛政七卯年(くわんせいしちうどし)三(みつ)ッ根村(ねむら)大賀郷(おほがかう)两村(りやうむら)に
痘瘡流行(とうさうりうかう)せしも漂着(ひやうちやく)の舩(ふね)に痘瘡病(とうさうやみ)ありて其(それ)より蔓延(はびこり)しといへりかく遠(ゑん)
【左開】
方(ほう)へも傳(つたへ)やすき毒氣(どくき)なればまして近(ちかき)あたりへ痘瘡病(とうさうやみ)の物(もの)は遣(つかはす)まじき
事(こと)にて人(ひと)も是(これ)を受(うけ)て悦(よろこぶ)べき事(こと)にあらずおよそ病(やまひ)の傳染(でんせん)するは漆(うるし)に
香觸(かぶる)るもおなじ事(こと)にて少(すこし)其氣(そのき)をうけしものは少(すこ)し病(やみ)おほく其氣(そのき)をう
けしものは多(おほ)く病(やむ)同理(どうり)なれば痘瘡(とうさう)の側(そば)へ痘瘡(とうさう)前(まへ)の子共(こども)はちかよらざる
やうにし給ふべきなり唐山(もろこし)はたえて此病(このやまひ)を避(さけ)て免(まぬかる)るをしらざるには張氏(ちやうし)
醫通醫宗金鑑等(いつういそうきんかんとう)の書(しよ)に種痘(しゆとう)【「うゑはうさう」左ルビ】の術(じゆつ)を載(のす)其術(そのじゆつ)は痘瘡(とうさう)の痂(かさぶた)をとりて
無病(むびやう)の児(こ)の鼻(はな)の中(なか)に入(いる)れば十日(とほか)をすこさず痘瘡(とうさう)を病(やむ)なり《割書:其法種々|あれども此》
《割書:に畧|す》此術(このじゆつ)原(もと)は西洋(せいやう)の戎(えびす)より唐山(もろこし)に傳(つたは)りて今(いま)は
本邦(ほんぽう)にも間(まゝ)此術(このじゆつ)を行(おこなふ)ものあり《割書:予(よ)|》も西國(さいこく)に在(あり)し此(ころ)是(これ)を試(こゝろみ)しにおのれと
病(やむ)にかはる事(こと)なしよしや無病(むびやう)の時(とき)を見(み)て病(やま)しむるゆゑに其害(そのがい)少(すくな)しと
【右開】
いふとも種痘(しゆとう)の醫者(いしや)ごとに名醫(めいい)にもあらず晝(ひる)は死(しぬ)る病(やまひ)の起(おこる)を朝(あさ)はし
らざるものゝおほき世(よ)の中(なか)なれば病(やまひ)あると病(やまひ)なきとを見(み)わくるも
かたき事(こと)なり殊(こと)に平生多病(へいせいたびやう)にて浮雲(あぶなく)見(み)ゆる児(こ)も痘瘡(とうさう)を軽(かるく)するも
のあれば必(かならず)病(やまひ)ある故(ゆゑ)におもくするともさだめがたしおよそ人(ひと)の身(み)に
病(やまひ)の起(おこる)は物(もの)に黴(かび)のつく如(ごと)く物(もの)を湿地(しつち)におけば黴(かび)燥地(かはくところ)にあれば黴(かび)ず病(やまひ)
も是(これ)にかはる事(こと)なくたとひ病(やむ)べき身(み)にても病(やむ)べき由縁(ゆえん)を遠(とほ)ざくれば病(やむ)
事(こと)なく病(やむ)べき身(み)なればとて強(しひ)て病(やむ)は黴(かびる)ものなればとて湿地(しつち)に
置(おく)とおなじ事(こと)にて其害(そのがひ)は目前(もくぜん)なりかゝるわづらはしき業(わざ)をせんより
一向(いつかう)に此病(このやまひ)を病(やむ)ことなくはいかばかりめでたからん痘瘡(とうさう)は氣運時令(きうんじれい)の疫癘(えきれい)
にあらず元來(ぐわんらい)
【左開】
日本(につぽん)の土地(とち)の氣(き)にて起(おこる)ものにあらず黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)にかはる事(こと)なき傳(でん)
染病(せんびやう)なるは今(いま)看(みす〳〵)避(さけ)て病(やま)ざる土地(とち)数多(あまた)あるを見(み)て知(しる)べきなり古(いにしへ)は代々(よゝ)の
朝廷(てうてい)より遣唐留学(けんとうりうがく)の使(つかひ)とて外國(ぐわいこく)へ行(ゆき)給ふ公卿(くぎやう)もあまたあり又(また)は歸(き)
化(くわ)とて外國(ぐわいこく)より來住(きたりすむ)ものもおほかりきそれのみならず亂(みだれ)たる世(よ)に
は私(わたくし)に往來(ゆきゝ)するものもありし故(ゆゑ)におのづから土地(とち)にあるべからざる病(やまひ)も
傳(つたへ)しなり元(もと)より土地(とち)に其毒氣(そのどくき)ありて起病(おこるやまひ)は其氣(そのき)の中(うち)に住人(すむひと)なれ
ばいかやうに身持(みもち)よくても必まぬかれんとはいひがたし身持(みもち)よき人(ひと)にて
自然(しぜん)と病(やむ)は天命(てんめい)なり痘瘡痲疹(とうさうましん)の如(ごと)き傅染病(でんせんびやう)にて死(しぬ)るものはこと〴〵
く非命(ひめい)なり寝處飲食逸楽苦労分(ねおきのみくひたのしみくろうぶん)に過(すぎ)て病死(びやうし)するさへ聖人(せいじん)は
非命(ひめい)なりとの給へりまして病(やま)ずしてする病(やまひ)にて死(しぬ)るは非命(ひめい)の甚しき
【右開】
にあらずやたゞ痘瘡(とうさう)は悪毒(あくどく)猛烈(まうれつ)にして傳染(でんせん)しやすき病(やまひ)なれば其(その)
避(さく)れば病(やま)ざるをしりて獨身(どくしん)ものは處(ところ)をかへ宿(やど)をかへて遯(のがる)るとも主(しゆう)に仕(つかへ)
親(おや)につかへ妻子券族(さいしけんぞく)を養(やしなふ)ものは避(さけ)てのがるゝを辨(わきまへ)しりていかばかり心(こゝろ)
ぐるしくおもふとも爲方(せんかた)なしまして貧者(ひんじや)の世渡(よわたり)は衣食住(いしよくぢう)のわづらひ
病(やまひ)より事(こと)急(きふ)なれば是(これ)をうち捨(すて)て痘瘡痲疹(とうさうましん)は避(さけ)がたし是皆(これみな)世(よ)の中(なか)
の俗習(ぞくしふ)にひかれて是非(ぜひ)なく病(やむ)まじき病(やまひ)をやみ死(しぬ)まじき命(いのち)を死(しぬ)るなり
何事(なにごと)も俗習(ぞくしふ)となりては是非(ぜひ)もなきものにて越後(えちご)の國(くに)魚沼郡妻在(うをぬまごほりつまり)の
庄(しやう)は往古(わうこ)はすべて痘瘡(とうさう)を避(さけ)しがいつとなく解(おこたり)て今(いま)は纔(はづか)に結東(けつとう)。中子新(なかごしん)
田(でん)。城原新田(しろはらしんでん)。百合窪新田(ゆりくぼしんでん)。下穴藤(しもけつとう)。中子本田(なかごほんでん)。清水河原(しみずかはら)。見玉(みたま)。野地(のぢ)。處(ところ)
平(だいら)。大赤坂新田(おほあかさかしんでん)。源内山新田(げんないやましんでん)大場新田(おほばしんでん)。百(もゝ)ノ(の)木(き)。新田(しんでん)。のみなり是(これ)も近比(ちかごろ)
【左開】
は痘瘡(とうさう)を病(やむ)もの次第(しだい)におほし是(これ)を見(み)れば漸々(ぜん〳〵)と避痘(ひとう)【「はうさうをさける」左ルビ】の土地(とち)はなくな
りて後(のち)には醫書(いしよ)にいへる如(ごと)く時氣疫癘(じきえきれい)と心得(こゝろえ)て傳染毒氣(でんせんどくき)といふ事(こと)
は萬世(ばんせい)の後(のち)までもしらざるやうに成行(なりゆか)んか悲(かなし)むべき事(こと)なり避痘(ひとう)
の土地(とち)はいづれも俗習(ならはせ)となりて皆(みな)一心(いつしん)に忌避(いみさくる)ゆえに千余年(せんよねん)の久(ひさし)き
天下一般(てんかいつはん)に流行(りうこう)する悪疾(あくしつ)をのがれて身命(しんみやう)を全(まつたふ)す右(みぎ)の如(ごと)く一村一心(いつそんいつしん)に
て避(さく)れば一村(いつそん)やまず一國一心(いつこくいつしん)にて避(さく)れば一國(いつこく)病(やま)ず海内一心(かいだいいつしん)にて避(さく)れば
海内(かいだい)病(やま)ざる傅染病(でんせんびやう)なれば其土地(そのとち)の廣(ひろさ)にしたがつていよ〳〵避(さけ)やすく
狭(せま)ければいよ〳〵避(さけ)がたし此故(このゆゑ)に避痘(ひとう)の土地(とち)は大抵(たいてい)山中邉鄙(さんちうへんぴ)の所(ところ)な
りしかれども肥前(ひぜん)の國(くに)大村(おほむら)周防(すはう)の國(くに)岩國(いわくに)は四方(しはう)みな痘瘡流行(とうさうりうかう)の中(なか)
にある城下(じやうか)なれども避(さけ)て病(やま)ざるを見(み)れば何(いづ)れの土地(とち)にても此病(このやまひ)を
【右開】
避(さけ)るはいとやすき事(こと)なり
痲疹(ましん)【「はしか」左ルビ】を避(さけ)る辨(べん)
痘瘡(とうさう)を避(さけ)る土地(とち)はあれども痲疹(ましん)を避(さけ)る土地(とち)あるをきかず別(わけ)て痲疹(ましん)は
醫書(いしよ)にも天行氣運(てんかうきうん)の疫癘(えきれい)と心得(こゝろえ)古今(ここん)たえて傳染(でんせん)の病(やまひ)なるを説(とく)も
のなし能(よく)其毒氣(そのどくき)の因縁(いんえん)をあきらむれば痘瘡(とうさう)とおなじ傳染病(でんせんびやう)にし
て避(さく)れば生界(しやうがい)病(やま)ざるはうたがふべからず《割書:予(よ)|》多年(たねん)此(こゝ)に心(こゝろ)を用(もちひ)て其(その)
證據(しやうこ)をしるす事(こと)左(さ)の如(ごと)し安永五丙申(あんえいごひのえさる)のとし伊豆國加茂郡加納村(いづのくにかもごほりかなふむら)
五右衛門(ごゑもん)といふものゝ娘(むすめ)ふさ懐姙(くわいにん)し故(ゆゑ)ありて下田(しもだ)に居(い)たりしに此時(このとき)
痲疹(ましん)下田(しもだ)にはやりて懐姙(くわいにん)のものこと〴〵く半産(はんざん)せり是(これ)におそれ
て湯治(とうぢ)にかこつけ蓮臺寺(れんだいじ)の温泉(をんせん)に迯(にげ)てしばらく滞留(たうりう)するう
【左開】
ち痲疹(ましん)も亦(また)こゝにはやり來(き)たりければ下加茂村(しもかもむら)の知方(しるかた)に迯(にげ)てあ
りしに下加茂(しもかも)も亦(また)しきりに病人(やむひと)ありやむ事(こと)を得(え)ず其(その)よしをなげ
きて親里(おやざと)加納(かなふ)に帰(かへり)しが間(ま)もなく加納(かなふ)にもはやりてすまいがたく此(この)
時(とき)長津呂村(ながつろむら)は痲疹(ましん)皆(みな)済(すみ)しと聞(きゝ)て此(こゝ)に移(うつり)て知方(しるかた)に滞留(たうりう)し流行(りゆかう)
おさまりて後(のち)親里(おやさと)加納(かなふ)に帰(かへり)て平産(へいさん)せり又(また)享和三癸亥(きゃうわさんみつのとのい)の年(とし)の痲(ま)
疹(しん)に死(し)するものおほく殊(こと)に懐姙(くわいにん)のものに無事(ぶじ)なるはなし時(とき)に甲州(かうしう)
高室村(たかむろむら)高室五郎兵衛(たかむろごろびやうゑ)の妻(さい)懐姙(くわいにん)せり家内(かない)挙(こぞつ)て其(その)害(がい)あらん事(こと)を
おそる《割書:予(よ)|》慇懃(ねんごろ)に痘瘡痲疹(とうさうましん)は天行時疫(てんかうじえき)にあらず黴瘡疥瘡(ばいさうかいさう)の如(ごと)く
人(ひと)より人(ひと)に傳染(でんせん)する事(こと)並(ならび)に古今醫書(ここんいしよ)の誤(あやまり)を演説(えんせつ)せしに主人(しやじん)元來(もとより)
醫家(いか)なるを以(もつ)て《割書:予(よ)|》が説(せつ)を是(ぜ)とし其(その)長女(あねむすめ)をつれ一間(ひとま)に入(いり)て其氣(そのき)を避(さけ)る
【右開】
事(こと)三月余(みつきよ)其比(そのころ)親里(おやさと)西花和村(にしはなわむら)内藤氏(ないとううじ)は痲疹(ましん)すみて後(のち)日數(ひかず)を経(へ)しに
より此(こゝ)に引移(ひきうつり)秋(あき)に至(いたり)高室(たかむろ)に帰(かへり)て安産(あんざん)し母子三人(ぼしさんにん)ともに免(まぬかれ)たり同(どう)
年(ねん)東都(とうと)萩原市左衛門(はぎはらいちざゑもん)といふ人(ひと)材木(ざいもく)を駿河国(するがのくに)大井河(おほゐがわ)の奥(おく)赭石(あかいし)が嶽(だけ)
の下(もと)より代(きり)【伐】出(いだ)せしに杣(そま)日庸(ひよう)大方(おほかた)壮年(さうねん)にて痲疹前(なしんまへ)のものおほし此(この)
病(やまひ)杣屋(そまや)に入(いら)ば妨(さまたげ)ならん事(こと)をはかり夫食(ふじき)諸色(しよしき)を貯(たくはへ)人夫(にんぶ)を山中(さんちう)より
いださず秋(あき)を過(すぎ)杣屋(そまや)の事(こと)終(をはり)て皆(みな)山中(さんちう)より出(いで)たりこゝにおいて痲(ま)
疹(しん)をまぬかれしもの五拾三人(ごじふさんにん)なり是(これ)《割書:予(よ)|》が親(したし)くしる所(ところ)にして避(さく)れば病(やま)
ざる明證(めいしやう)なり其外(そのほか)避(さけ)て病(やま)ざるもの数多(あまた)あれどもくだ〳〵しければ
畧(りやく)す又(また)氣運(きうん)時令(じれい)にあらざる證據(しやうこ)は去(さんぬ)る享和三年(きやうわさんねん)の痲疹(ましん)は八丈島(はちじやうじま)に
流行(りうかう)せず是(これ)其年(そのとし)の氣運(きうん)本國(ほんこく)と違(ちかふ)にはあらずみだりに通船(つうせん)せざる
【左開】
島(しま)なる故(ゆゑ)に幸(さいわひ)にして傳染(でんせん)の縁(えん)なかりしなり古(いにしへ)萬壽二年(ばんじゆにねん)より承(しちう)
歴元年(りやくぐわんねん)まて五十三年(ごじふさんねん)の間(あいだ)流行(りうかう)せざるも八丈島(はちじやうじま)にて享和三年(きやうわさんねん)の
痲疹(ましん)を傳(つたへ)さるとおなじく外國(ぐわいこく)の毒氣(どくき)を傳(つたへ)きたらざるなり此後(こののち)の流行(りうかう)
八丈島(はちじやうじま)に傳(つたはら)ば数年(すねん)を経(へ)る故(ゆゑ)に老人(らうじん)までも皆(みな)病事(やむこと)あらん傳聞(つたへきく)に
今(いま)唐山(もろこし)にては痲疹(ましん)年々(ねん〳〵)に流行(りやかう)するといへり是(これ)も
日本(につぽん)と氣運(きうん)の違(ちがふ)にあらず大國(たいこく)なれば國府(こふ)もおほく人(ひと)も数多(あまた)な
れば病(やみ)つくさずして年々(ねん〳〵)にあるにて今(いま)東都(とうと)に痘瘡(とうさう)の常(つね)にあ
るとおなじ事(こと)なり唐山(もろこし)にても邉鄙(へんぴ)人少(にんせう)の處(ところ)は一度(いちど)病(やみ)て病(やむ)べき人(ひと)
なければ此病(このやまひ)の年々(ねん〳〵)にはやるべきやうなし年々(ねん〳〵)にあるといふは
かならず大都(たいと)大府(たいふ)のことならん
【右開】
日本(につほん)は流行(りうかう)の度々(たび〳〵)残(のこら)ず病(やみ)つくして其毒氣(そのどくき)たゆるゆゑ外國(ぐわいこく)より傳(つたへ)
來(きたる)其始(そのはじめ)をさへたゞさば痘瘡(とうさう)よりも禦(ふせぎ)やすし此故(このゆゑ)に痘瘡(とうさう)を禦時(ふせぐとき)は
おのづから痲疹(ましん)のふせぎは其中(そのうち)にありもし此(この)二病(にびやう)をやむ事(こと)なくは後(こう)
代(たい)まで人(ひと)の非命(ひめい)を救(すくふ)其数(そのかず)はかりがたく其仁(そのじん)も亦(また)類(たぐひ)なし是則(これすなはち)聖人(せいじん)
いまだ然(しか)らざるをふせぎいまだ萌(きざゝ)ざるを治(おさむ)との給へるとしへにちかはらんか
【左開】
國字断毒論附録(かながきだんどくろんふろく)
痘神(はうさうがみ)の辨(べん)
痘神(はうさうがみ)を祭事(まつること)は古(いにしへ)断(たへ)てなき事(こと)なり痘瘡(とうさう)はじめて我
朝(てう)に傳(つたはり)しは實(じつ)に
聖武帝(しやうむてい)の天平七年乙亥(てんへいしちねんきのとのい)の秋(あき)にして其後(そのゝち)流行(りうかう)するごとに改元大赦(かいげんたいしや)
諸社奉幣(しよしやほうへい)大祓(おほばらへ)など疫癘(ゑきれい)を禳(はらひ)の事(こと)はあれども痘神(はうさうがみ)を祭(まつり)し事(こと)は
断(たへ)てなし即(すなはち)前編(ぜんへん)に引(ひく)ところの續日本記(しよくにほんき)を初(はじめ)として南北(なんほく)
両朝(りやうてう)にいたるまで六百餘年(ろつひやくよねん)の間(あいだ)あまたの記録(きろく)に痘神(はうさうがみ)の事なきは顯(げん)
然(ぜん)たる證據(しやうこ)なりおもふに此(この)悪毒(あくどく)の病(やまひ)流行(りうかう)して死亡(しぼう)するもの夥(おびたゝし)きゆ
へに神(かみ)に尊(たふとみ)祭(まつる)ならば此菑(このわざはひ)をのがれやすき輕(かる)くやうくるとおもふ
【右開】
俗情(ぞくじやう)より起(おこり)し事(こと)にてかならず近来(きんらい)の俗習(ぞくしう)なるべし麻疹(ましん)も同様(おなじやう)に
流行(りうかう)して人(ひと)の死亡(しぼう)も痘瘡(とうさう)にかわらねば麻疹神(はしかがみ)をも祭(まつる)べきに今(いま)におい
て其事(そのこと)なきは大抵(たいてい)二十年前後(にじふねんぜんご)にて流行(りうかう)すれば恐(おそる)る心(こゝろ)もおのづから
弛緩(ゆるやか)になりて神(かみ)にもまつらざるか諺(ことわざ)にいふ咽下(のどもと)すぎて熱(あつ)さわするゝ
類(たぐひ)ならん痘瘡(とうさう)は年数(ねんすう)ちかく巡(めぐり)きたるゆへに自(おのづから)畏懼(おぢおそる)る俗情(ぞくじやう)よりかゝる
風俗(ふうぞく)とは成(なり)たるならん然(しかる)を痘神(はうさうがみ)の所為(しよゐ)にて此(この)やまひ流行(りうかう)するとお
もふは甚(はなはだ)しき誤(あやまり)なり特(こと)に此病(このやみ)やうの一生一度(いつしやういちど)に限(かぎる)と瘡(かさ)の形(かたち)の異(こと)や
うなるを見(み)て痘神(はうさうがみ)の所為(しよゐ)とおもへども此病(このやまひ)の異(こと)やうなるは此病(このやまひ)の持(もち)
まへにて前(まへ)にもいふごとく萬病(まんびやう)ともにそれ〳〵の持(もち)まへあるものなれば
痘瘡(とうさう)ばかりを不思儀(ふしぎ)なりとして痘神(はうさうがみ)の所為(しよゐ)とするは甚(はなはだ)しき迷(まよひ)な
【左開】
り此理(このり)をよく〳〵辨(わきまへ)て神(かみ)の所為(しよゐ)ゆへに遯(のがれ)がたしとはおもふべからず一向(いつかう)
に神病(かみやみ)のまよひをはらし唯(ただ)此病(このやまひ)を忌避(いみさくる)を専一(せんいち)として辨(わきまへ)なき人(ひと)には
其理(そのり)を慇懃(ねんごろ)に語(かたり)つたへて世上(せじやう)の人(ひと)の痘瘡(とうさう)にて非命(ひめい)に死(し)するを免(まぬかる)る
こそ願(ねが)はしけれ我(わが)甲斐(かひ)の國(くに)は近来(きんらい)痘神(はうさうがみ)を祭事(まつること)別(わけ)てはなはだし
く痘瘡(とうさう)六日(むいか)にあたる夜(よ)より親族(しんぞく)縁者(えんじや)はもとより夥(おびたゞし)く人(ひと)を招(まねき)其家(そのいへ)
の心々(こゝろ〳〵)に僧社家(そうしやけ)修験者(しゆげんじや)を請(しやう)じ赤白(しやくびやく)の紙(かみ)を数多(あまた)きりまぜて神(かみ)
棚(たな)を飾(かざり)痘瘡(とうさう)重(おも)き軽(かる)きの差別(さべつ)もなく祭(まつり)さゞめき親族(しんぞく)知音(ちいん)より
おもひ〳〵に当世(とうせい)の錦絵(にしきゑ)干菓子(ひぐわし)餅(もち)酒(さけ)或(ある)ひは絹布(けんふ)衣類(いるい)など我(われ)ま
しに贈(おくり)きたるを痘瘡病(とうさうやみ)の寝處(ねどころ)のあたり處(ところ)せくまで飾(かざり)かけて其品(そのしな)
の多(おふき)を其家(そのいへ)の面目(めんもく)とす又(また)十二日(じうにゝち)にあたる日(ひ)を棚上(たなあげ)と稱(となへ)て前(まへ)の
【右開】
ごとく人(ひと)を招(まねき)て饗應(きやうおう)し神棚(かみたな)を屋(や)の上(うへ)に捧贈(さゝげおくり)ものを遣(おくり)し家々(いへ〳〵)
へ残(のこり)なく𩝽(こは)飯(めし)を贈(おくり)つかはす國中(こくちう)の風俗(ふうぞく)なり家々(いへ〳〵)にて我おとらじ
と祭(まつり)さゞめく風俗(ふうぞく)なれば痘瘡流行(とうさうりうかう)の年々國中(ねん〳〵こくちう)の費(つひえ)は計(はかり)しる
べからす奢侈(おごり)やすき世(よ)の中(なか)の癖(くせ)なれば此事(このこと)次第(しだい)に増長(ぞうちやう)して
神棚(かみたな)の飾(かざり)やうもおもひ〳〵に工夫(くふう)をこらし其家(そのいへ)の分限(ぶんげん)も囘顧(かへりみ)
ず質種借用(しちくさしやくよう)の操(あやづり)にて其時(そのとき)の費(ついへ)はしのげとも終(つひ)には其年(そのとし)の年(ねん)
貢(ぐ)にさへ苦(くるしむ)にいたるかく痘神(はうそうがみ)を信仰(しんかう)して少(すこし)は痘瘡(とうさう)も軽(かる)く世並(よなみ)
も能(よく)なるぞならば費(つひえ)の代(しろ)がへにもなれべたれども痘瘡(とうそう)は反(かへつ)て重(おも)
く死(し)するものも多(おほ)き理(り)にて近来(きんらい)の流行(りうかう)は兎角(とかく)世なみもあしく死(し)す
る者(もの)も多(おほ)し是(これ)其年(そのとし)の氣候(きこう)のあしきのみにもあらず痘神(はうさうがみ)を
【左開】
祭(まつり)やうの甚(はなはだ)しき故(ゆゑ)ならん其理(そのり)いかんとなれば痘瘡(とうそう)は元来(ぐわんらい)傳染(でんせん)
しやすき病(やまひ)にて一度(いちど)毒氣(どくき)に香触(かぶれ)ても必(かならず)病(やむ)やまひなれば痘神(はうさうがみ)
を祭(まつり)やう賑(にぎは)しく相互(あいたがひ)に往来(ゆきゝ)しげ〳〵なればおのづから其家々(そのいへ〳〵)の小(しやう)
児(に)の出入(いでいり)もしげく其處彼處(そこかしこ)にて痘毒(とうどく)に香触(かぶるゝ)ゆへに数多(あまた)の小児(しやうに)
一時(いちぢ)に病(やみ)いだし忽(たちまち)毒氣(どくき)さかんに蔓延(はびこり)流行(りうかう)の勢(いきほひ)かならず速(すみやか)なり
傷寒疫癘(しやうかんゑきれい)を初(はじめ)として総(すべ)て流行病(はやりやまひ)は初(はじめ)と終(おはり)は軽(かる)く死(し)する者(もの)は
稀(まれ)なれども中頃(なかころ)盛(さかん)なる時(とき)は難症(なんしやう)も多(おほ)く死(し)する者(もの)も多(おほ)し是(これ)
は目前(もくぜん)に人(ひと)の知(しる)ところなり増(まし)て疫癘(ゑきれい)よりも毒氣(どくき)の猛烈(もふれつ)な
る痘瘡(とうさう)なれば数多(あまた)の小児(しやうに)一時(いつとき)に病(やみ)て毒氣(どくき)さかんなれば難(なん)
症(しやう)も多(おほ)く死(し)するも多(おほ)し是(これ)《割書:予|》が痘神(はうさうがみ)を祭(まつり)さゞめく時(とき)は痘瘡(とうさう)
【右開】
いよ〳〵重(おも)く死(し)するものも多(おほ)しといふ理(ことはり)ならずや熟(つら〳〵)世上(せじやう)にて
痘神(はうさうがみ)を祭(まつり)やうを見(みる)に祭(まつり)やうは祭(まつる)こゝろとは齟齬(くひちがふ)て差別(さべつ)の
なき事(こと)なり如何(いかん)となれば實(じつ)に痘神(はうさうがみ)の所為(しよゐ)にて痘瘡(とうさう)を
病(やむ)ぞならば是(これ)かならず悪氣邪神(あくきじやじん)なり速(すみやか)に追禳(おひはらふ)べき事な
り都(すべ)て身(み)を清(きよ)め家(いへ)を掃(はらふ)て神(かみ)を祭(まつる)は悪氣邪神(あくきじやじん)の祟(たゝり)を
禳(はらひ)凶事災難(きやうじさいなん)のなからんことを祈(いのる)にあらずや然(いかる)を痘瘡(とうさう)の如(ごと)き
悪病(あくびやう)を病(やま)しめて人(ひと)を殺(ころす)邪神(じやじん)を家内(かない)に祭(まつる)べき事(こと)にあらず
およそ疫癘(ゑきれい)の流行(りうかう)する時(とき)は疫邪(ゑきじや)を追禳(おひはらふ)とて金鼓(かねたいこ)をならし
祓(はらひ)を読(よみ)経(きやう)を誦(よみ)て追禳(おひはらふ)かならす其験(そのしるし)ある事(こと)なり是(これ)いにしへよ
りの教(をしへ)にて疫癘(ゑきれい)の毒氣(どくき)の消散(しやうさん)するは正(たゞし)き神(かみ)を祭(まつり)て邪(じや)
【左開】
神(じん)を追禳(おひはらふ)ゆへなり然(しから)ば痘神(はうさうがみ)も疫癘(ゑきれい)の如(ごと)く追(おひ)はらうふべきを鳴(なり)
ものをならせば痘神(はうさうがみ)他處(たしよ)へ退(のく)とて笛(ふえ)をならす売飴郎(あめうり)をさ
へ禁制(きんぜい)してその土地(とち)へいれざる風俗(ふうぞく)の村里(むらさと)あり愚癡(ぐち)といわんか
無智(むち)といわんか売飴郎(あめうり)が吹笛(ふくふえ)のひゞきにすら他處(たしよ)へ退神(ひくかみ)なら
ば古(いにしへ)よりの教(おしへ)に従(したがつ)て速(すみやか)に痘神(はうさうがみ)を追禳(おひはらふ)べき事(こと)ならずや若(もし)痘(とう)
瘡(さう)を病(やま)する神(かみ)にはあらず痘瘡(とうさう)の病人(びやうにん)を守護(しゆご)する神(かみ)なり
といふぞならば痘神(はうさうがみ)の病(やま)する病(やまひ)にはあらざるなり痘神(はうさうがみ)の病(やま)する
病(やまひ)にあらずんば痘瘡(はうさう)に限(かぎり)て業々(ぎやう〳〵)しく神棚(かみたな)を飾(かざり)て祭(まつり)さゝめくべき
事(こと)にあらず神棚(かみたな)を飾(かざり)て痘瘡(とうさう)を軽(かる)く病(やむ)ならば疫癘(ゑきれい)とても命(いのち)にかゝ
る病(やまひ)なれば痘瘡(とうさう)の如(ごと)く神棚(かみたな)を家内(かない)に飾(かざり)て祭(まつり)さゝめくべき事(こと)な
【右開】
らんか若(もし)疫神(やくじん)を家(いへ)の内(うち)に祭(まつり)て痘瘡(とうさう)の如(ごと)く祭(まつり)さゞめく者(もの)あらば
愚癡(ぐち)といわんか無智(むち)といわんか是(これ)元来(ぐわんらい)痘神(はうさうがみ)を祭事(まつること)は俗情(ぞくじやう)より出(いで)
て俗習(ぞくしふ)となりし事なれば祭(まつり)やうも差別(さべつ)なく祭神(まつるかみ)は何神(なにかみ)といふ
辨(わきまへ)もなく無状(むしやう)に信仰(しんかう)するばかりにて畢究(ひつきやう)は反(かへつ)て殃(わざはひ)をまねく
基(もとひ)なり是(これ)即(すなはち)祭(まつり)やうと祭心(まつるこゝろ)とは齟齬(くいちがふ)て差別(さべつ)なしといふ理(ことはり)ならずや
此理(このり)を人ごとに辨(わきまへ)知(しつ)て先(まづ)痘神(はうさうがみ)を祭事(まつること)を止(やむ)るならば痘瘡(とうさう)も軽(かる)く
非命(ひめい)に死(し)する人(ひと)も少(すくな)く家々(いへ〳〵)の費(つひえ)もなく誠(まこと)に一(ひとつ)の大國益(だいこくゑき)なり何(いづれ)の
土地(とち)にても痘神(はうさうがみ)を祭(まつり)さゞめく風俗(ふうぞく)ならば其村里(そのむらさと)の長(をさ)たる人(ひと)は害(がゐ)に
なりて益(ゑき)なき理(り)を慇懃(ねんごろ)に教訓(けうくん)して速(すみやか)に停止(てうじ)すべき事(こと)なり世(せ)
間(けん)の人(ひと)こぞつて痘神(はうさうがみ)といふものありて病(やま)するとおもふは他(た)の病症(びやうしやう)
【左開】
とかわりて少(すこし)も穢(けがれ)不浄(ふじやう)の氣(き)に触(ふる)るときは痘瘡(とうさう)変(へん)じてかならず悪症(あくしやう)
となるを見(み)て神(かみ)は不浄(ふじやう)を忌(いむ)ものなれば痘神(はうさうがみ)の怒(いかり)にて病人(びやうにん)に祟(たゝり)
をなすぞと一途(いちづ)におもひ入(いり)し俗習(ぞくしふ)なり俗家(ぞくか)のみならす醫家(いか)も穢(ゑ)
氣悪臭(きあくしう)に触(ふる)るときは痘瘡(とうさう)に変(へん)の起(おこる)を見(み)て穢氣(ゑき)を忌(いみ)きらふ病(やまひ)
なりと思(おもふ)は甚(はなはだ)しき誤(あやまり)なり痘瘡(とうさう)は穢(けがれ)不浄(ふじやう)をにくむ病(やまひ)にあらず穢(けがれ)
不浄(ふじやう)を甚(はなはだ)しく好(このむ)病(やまひ)なり其理(そのり)は左(さ)に委(くはし)く辨(べん)ず
痘瘡(とうさう)穢氣不浄(ゑきふじやう)を好(このむ)辨(べん)
痘瘡(とうさう)を病者(やむもの)穢氣不浄(ゑきふじやう)の臭氣(しうき)にあたる時(とき)は忽(たちまち)癢(かゆみ)を發(はつ)し変(へん)
症(しやう)の起(おこる)は目前(もくせん)に人(ひと)の視(みる)ところなり人々(ひと〳〵)穢(けがれ)たる氣(き)に感(かん)じて痘瘡(とうさう)
たちまち悪症(あくしやう)となるを見(み)て痘神(はうさうがみ)不浄(ふじやう)を嫌(きらふ)ゆへに忽(たちまち)悪症(あくしやう)を起(おこす)
【右開】
なりとおもへども全(まつたく)さにあらず痘瘡(とうさう)穢氣(ゑき)不浄(ふじやう)を甚(はなはだ)しく好(このむ)ゆへに
悪症(あくしやう)を發(おこす)なり是(これ)世人(せじん)のおもふとは背腹(うらはら)なる違(ちがひ)なり其理(そのり)いかん
となれば元来(ぐわんらい)痘瘡(とうさう)の毒氣(どくき)は人(ひと)の呼吸(こきう)につれて口鼻(くちはな)より
入(いり)て五臓六腑(ごぞうろつふ)に透(とをり)一身(いつしん)の経絡(けいらく)に浸(しみ)わたり已(すで)に正氣(せいき)を傷(やぶら)んと
す正氣(せいき)は其毒氣(そのどくき)を外(ほか)へ追出(おひいだ)さんとす此時(このとき)正氣(せいき)と毒氣(どくき)と挑戦(いどみたゝかふ)
ゆへに一身(いつしん)の気血(きけつ)悩乱(のふらん)して忽(たちまち)熱氣(ねつき)を發(はつ)す是(これ)を初熱(じよねつ)といふ
痘瘡(とうさう)のみにかぎらす萬病(まんびやう)すべて邪氣(じやき)は正氣(せいき)を亡(ほろぼ)さんとし正(せい)
氣(き)は邪氣(じやき)を身中(しんちう)に在(あら)せじと挑戦(いどもたゝこふ)なり総(すべ)て正氣(せいき)と邪氣(じやき)と
人(ひと)の身中(しんちう)にて戦(たゝかふ)を名(な)づけて病(やまひ)といふおもふに人(ひと)の身中(しんちう)は病(やまひ)の戦(せん)
場(じやう)なり痘瘡(とうさう)は他(ほか)の病(やまひ)より毒氣(どくき)猛烈(もうれつ)なるゆへに其戦(そのたゝかひ)最(もつとも)はな
【左開】
はだしく毒氣(どくき)外へ發(はつ)せざれは正氣(せいき)敗(やぶれ)て初熱(じよねつ)の間(あいだ)に死(し)す正氣(せいき)強(つよく)
戦勝(たゝかひかつ)て毒氣(どくき)を皮肉(ひにく)の外(そと)へ追出(おひいだす)ときは熱氣(ねつき)解(げ)して心身(しんじん)ともに安(やす)し
是(これ)其(その)はじめ傳染(でんせん)する時(とき)口鼻(くちはな)より入(いり)し穢氣悪臭(ゑきあくしう)の痘毒(とうどく)もゝの
瘡(かさ)の形(かたち)と成(なつ)て皮肉(ひにく)の外(そと)へ發(はつ)するゆへに正氣(せいき)安堵(あんど)して心身(しんじん)ともに始(はじめ)て
常(つね)に復(ふく)するなり此(こゝ)におゐて正氣(せいき)いよ〳〵戦勝(たゝかひかつ)の勢(いきほひ)に乗(じやう)じ氣血(きけつ)ともに
順行(じゆんかう)して毒氣(どくき)をのこらず外(そと)へ駆出(かりいだ)し膿(うみ)となり痂(かさふた)となる若(もし)此時(このとき)穢(ゑ)
氣不浄(きふじやう)の悪臭(あくしう)病人(びやうにん)の口鼻(くちはら)に少(すこ)しにても入(いる)ときは漸(やうやく)外(そと)へ發(はつ)したる痘(とう)
瘡(さう)元来(ぐわんらい)穢悪(ゑあく)の毒氣(どくき)なれば磁石(じしやく)と銕(てつ)と吸合(すひあふ)がごとく同氣相應(どうきあいおう)ずる
理(り)にて痘瘡(とうさう)忽(たちまち)身中(しんちう)に引入(ひきいり)て再(ふたゝび)生氣(せいき)と毒氣(どくき)と戦(たゝかふ)ゆへに又(また)初(はじめ)の如(ごと)く
熱氣(ねつき)發(おこつ)て身体(しんたい)悩乱(のふらん)しさま〴〵の悪症(あくしやう)となるなり是(これ)全(まつたく)痘瘡(とうさう)は穢(ゑ)
【右開】
氣(き)不浄(ふじやう)を嫌(きらふ)にあらずはなはだ悪臭(わるくさき)にほひを好(このむ)なり此時(このとき)はやく芬々(ふん〳〵)
たる馨香(せいかう)を焚(たい)て其病者(そのびやうじや)に嚊(かゞ)せ服薬(ふくやく)にも香氣(かうき)の薬品(やくひん)を加(くわ)へて用(もちゆ)
れば其変症(そのへんしやう)を救(すくふ)なり痘瘡(とうさう)は穢毒(ゑどく)の病(やまひ)なるゆへに悪臭(あくしう)の氣(き)を
好(このみ)人(ひと)の正氣(せいき)は清潔(せいけつ)なるものなれば悪臭(あくしう)の氣(き)を悪(にくむ)是則(これすなわち)臭氣(しうき)と
香氣(かうき)と相反(あいはん)するも正氣(せいき)と毒氣(どくき)と相戦(あいたゝかふ)も皆(みな)天地(てんち)自然(しぜん)の明理(めいり)疑(うたがふ)べ
からず何(なん)ぞ悪毒(あくどく)臭氣(しうき)の痘瘡(とうさう)穢氣(ゑき)不浄(ふじやう)を悪(にくん)で内(うち)にひく理(り)あらんや
痘瘡(とうさう)穢氣(ゑき)を嫌(きらふ)ゆへに内(うち)へ引(ひく)ぞとおもふ世人(せじん)の心得(こゝろゑ)とは實(じつ)に黒白(こくびやく)の差(たがひ)
なりまして痘神(はうさうがみ)が不浄(ふじやう)を嫌(きらふ)ゆへなりとおもふは辨(わきまへ)なき事(こと)なり右(みぎ)に辨(べん)
する如(ごと)く穢氣(ゑき)不浄(ふじやう)を好(このむ)ほどの悪疾(あくびやう)なれは追禳(おひはらひ)こそせめとふと
み祭(まつり)て慶(よろこび)さゞめくべき事(こと)にあらず若(もし)全快(ぜんくわひ)の慶事(よろこびごと)を為(せ)は日数(ひかず)を
【左開】
経(へ)て痂(かさぶた)も脱(おち)其身(そのみ)も精浄(しやう〴〵)になり人(ひと)にも香触(かぶれ)ざる時(とき)いかほどにも慶(よろこひ)さゞ
めくべき事(こと)なり
貴人(きにん)痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)を避(さけ)やすき辨(べん)
痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)は黴瘡(ばいさう)疥瘡(がいさう)にかわる事(こと)なき傳染病(でんせんびやう)なるは目前(もくぜん)に避(さけ)て
病(やま)ざる土地(とち)あまたありて疑(うたがひ)なき病(やまひ)なれば下々(しも〴〵)の賤(いやし)きものゝ貧(まづし)く忙(いそがはし)
き世(よ)わたりにも一命(いちめい)にかゝる大事(だいじ)ぞと心得(こゝろゑ)て避(さけ)さへすれば生涯(しやうがい)のがれ
やすき病(やまひ)なりまして一群(いちぐん)一國(いちこく)を領(りやう)し給ふ御方(おんかた)として痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)を病(やみ)
給ふ事(こと)は決(けつ)して有(ある)まじき事(こと)なり熟(つら〳〵)おもふに高貴(かうき)の御方(おんかた)としてかゝる
悪病(あくびやう)を避(さけ)給はぬ事(こと)はあるまじきなれども間(まゝ)痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)に犯(おかさ)れ給ふ
御方(おんかた)のあるは必(かならず)禦方(ふせきかた)の厳重(げんちう)ならざるによつて人(ひと)しらず毒氣(どくき)に染(そみ)
【右開】
給ふならんすべて軽(かる)き痘瘡(とうさう)は軽(かる)くうつるとおもふ世上(せじやう)のならはせ
なれば軽(かる)き痘瘡(とうさう)の慶物(よろこびもの)など下(しも)より捧(さゝぐ)るか又(また)は軽(かる)き痘瘡(とうさう)には近(ちか)よ
り給ふ事(こと)などあるゆへに傳染(でんせん)し給ふなるべし傳染(でんせん)の由縁(ゆゑん)なくて此(この)
病(やまひ)をやむ理(り)は決(けつ)してなき事(こと)なり若(もし)傳染(でんせん)の由縁(ゆゑん)なくても病(やむ)ならば
避(さけ)て病(やま)ざる土地(とち)のあるべきやうもなく諸病(しよびちゃう)のごとく時ならず
其處(そこ)彼處(かしこ)にても常(つね)に病(やむ)ものもあるべきに流行(りうかう)の時(とき)は蠶(かひこ)の桑(くわ)を
食(はむ)が如(ごと)く片端(かたはし)より病(やみ)めぐりて一國(いちこく)病(やみ)つくせば次第(しだい)に他國(たこく)へ押遷(おしうつり)
又(また)年(とし)を経(へ)てめぐり来(きたり)全(まつたく)傳染(でんせん)の證據(しやうこ)いふもさらにくだ〳〵しかく顯然(げんぜん)
たる傳染病(でんせんびやう)なれば避(さくる)にさけやすく禦(ふせぐ)にふせぎやすきものを貴人(きにん)の
傳染(でんせん)し給ふは避(さけ)やすき病(やまひ)なるをしろしめさゞるか禦方(ふせぎかた)に怠(おこたり)し事(こと)
【左開】
あるか下々(しも〴〵)の如(ごと)く好(このん)で痘瘡(とうさう)をむかへ給ふか此(この)三(みつ)ツの外(ほか)に出(いづ)べからす
假令(たとへ)其(その)藩中(はんちう)に痘瘡(とうさう)ありとも痘瘡(とうさう)の慶事(よろこびごと)を固禁(かたくきん)じ食物等(しよくもつとう)
を他家(たけ)へ贈事(おくること)を緊戒(きびしくいましめ)給はゞ貴人(きにん)へ傳染(でんせん)する事(こと)は決(けつ)して有(ある)まじ
き理(り)なり貴御方(たつときおんかた)の世嗣(よつぎ)なければ如何(いか)なる勲功(くんこう)の名家(めいか)といへども
國除(くにのぞか)れて断絶(だんぜつ)するは古(いにしへ)よりして
和漢(わかん)治國(ちこく)の大法(たいほう)なり痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)は幼稚(ようち)必患(ひつくわん)の大厄(たいやく)にして世嗣(よつぎ)
の一大事(いちだいじ)に關(あつ[かる?])悪病(あくびやう)なれば如何(いか)やうにも厳重(げんぢう)に禦(ふせぎ)給ふべき事(こと)な
らんか然(しかる)に古(いにしへ)より今(いま)もなほ貴御方(たつときおんかた)の間(まゝ)此病(このやまひ)にて世嗣(よつぎ)の故障(こしやう)
あるは實(じつ)に歎(なげか)はしき事(こと)なり傳聞(つたへきく)武田(たけだ)の貴族(きぞく)穴山梅雪齋(あなやまばいせつさい)天(てん)
正十年六月(せうじうねんろくくわつ)山城(やましろ)の國(くに)宇治郡(うぢごほり)草内村(くさうちむら)にて横死(わうし)の後(のち)嫡子(ちやくし)勝千代(かつちよ)
【右開】
ともふせしを幼稚(ようち)なれども穴山家(ななやまけ)の家督(かとく)として穂坂常陸有(ほさかひたりあり)
泉大學等(いづみだいかくとう)の寄騎(よりき)をして甲州下山(かうしうしもやま)の舘(たち)を補佐(ほさ)せしめ給ふ是(これ)
全(まつたく)武田家(たけだけ)の遺跡(ゆいせき)たえん事(こと)を惜(をし)ませ給ふ御恵(おんめぐみ)の深(ふかき)ゆへなり
とぞ然(しかる)に同(おなじく)十五年六月七日(じうごねんろくぐわつなのか)重(おも)き痘瘡(とうさう)にかゝりて逝去(せいきよ)し給へり
惜哉(おしゐかな)武田家(たけだけ)の血脈(けつみやく)痘瘡(とうさう)のために断絶(だんぜつ)せり又(また)蒲生氏郷(がもふうちさと)の嫡男(ちやくなん)
蒲生飛騨守秀行(がもふひだのかみひでゆき)ともふせしは会津六十三万石(あいづろくじうさんまんごく)を領(りやう)し給へり逝(せい)
去(きよ)の後(のち)嫡子(ちやくし)忠郷(たゞさと)ともふせしを家督(かとく)として参議従四位上下野(さんぎじゆしいのじやうしもつけの)
守(かみ)に任(にん)ぜらる然(しかる)に寛永四年丁卯正月四日(くわんゑいよねんひのとのうせうぐわつよつか)二十五(にじうご)にて痘瘡(とうさう)の厄(やく)に
かゝつて逝去(せいきよ)し給ひ世嗣(よつぎ)なきによつて其國(そのくに)を除(のぞか)る同年二月十日(どうねんにぐわつとふか)
二男(じなん)羽州上山(うしうかみのやま)を領(りやう)し給ひて忠知(たゞとも)ともふせしを豫洲松山(よしうまつやま)の城主(じやうしゆ)とし
【左開】
て江州日野(ごうしうひの)の地(ち)三万石(さんまんごく)を合(あはせ)て二十三万石(にじうさんまんごく)を賜(たまはり)侍従(じじゆう)兼(けん)中務大輔(なかつかのたゆふ)
に任ぜられ是(これ)も亦(また)寛永十一年甲戌八月四日(くわんゑいじういちねんきのへいぬのはちくわつよつか)歳三十(としさんじう)にて痘瘡(とうさう)
にて逝去(せいきよ)し給ひ世嗣(よつぎ)なきによつて國(くに)を除(のぞか)る此(こゝ)におゐて蒲生家(がもふけ)の血(けつ)
脈(みやく)もつひに断絶(だんぜつ)せしといへり惜(おしむ)べし武田家(たかたけ)といひ蒲生家(かもふけ)といひ堂々(とう〳〵)
たる名家(めいか)痘瘡(とうさう)のために血脈(けつみやく)断(たへ)て其國(そのくに)も滅亡(めつぼう)せしは實(じつ)に歎(なげか)はし
き事(こと)なり是等(これら)の事(こと)によつておもひめぐらすに郡國(ぐんこく)を領(りやう)し給ふ御方(おんかた)は
世嗣(よつぎ)の大厄(たいやく)眼邉([まの]あたり)の悪疾(あくしつ)なれば厳重(げんぢう)に避(さけ)給ふべき事(こと)ならんか下々(しも〴〵)の
賤(いやし)きものは任居(すまい)もせまく乳母侍女(おちめのと)の介抱(かいほう)もなく痘瘡(とうさう)流行(りうかう)の時(とき)
にいたつては隣家(りんか)までも病(やむ)ものありて貴人(きにん)よりも禦方(ふせぎかた)に難危(なんき)あり
然(しか)れども其家(そのいへ)に小児(せうに)の往来(いきゝ)をいましめ其家(そのいへ)の物(もの)を齎来事(もちきたること)を禁(きん)
【右開】
ずれば決(けつ)して香觸(かぶる)る事(こと)なしまして高貴(こうき)の御方(おんかた)は乳母侍女(おちめのと)の
外(ほか)に立交(たちまじる)ものなく常(つね)に藩邸(やしき)の中(なか)に生長(せいちやう)し給へば香觸(かぶれ)給ふべき縁(ゑん)
なし唯(たゞ)痘瘡(とうさう)痲疹(ましん)は避(さけ)て遯(のがれ)やすき病(やまひ)といふ事(こと)を給仕(きふじ)の人(ひと)さへ意得(こゝろゑ)
あらば他(た)の病(やまひ)を禦(ふえぎ)給ふより容易事(いとやすきこと)なり他(た)の病(やまひ)の禦(ふせく)のみ厳(げん)
重(ぢう)にて死生安危(しせいあんき)はかりがたき痘瘡(とうさう)を避(さけ)給はぬ事(こと)のあるべきや
是(これ)かならず世上(せじやう)の俗習(ぞくしふ)に牽(ひか)れ給ふならん其俗習(そのぞくしふ)の源(みなもと)は異國(いこく)
の毒氣傳染(どくきでんせん)の痘瘡(とうさう)を天行時氣(てんかうじき)の疫癘(ゑきれい)と同(おなじ)やうに説(とき)なし
たる醫書(いしよ)の誤(あやまり)より起(おこる)ならん
痘瘡(とうさう)禦方(ふせぎかた)
《割書:予(よ)|》幼少(ゑうせう)なりし頃(ころ)人(ひと)の話説(はなし)を聞(きく)に八丈島(はちじやうしま)はすべて痘瘡(とうさう)を病者(やむもの)
【左開】
なし是(これ)は鎮西八郎為朝(ちんぜいはちらうためとも)の勇猛(ゆうもう)なる神霊(しんれい)あるによつてなりと
此話説(このはなし)を聞(きく)ごとに唯(たゞ)為朝(ためとも)の勇猛(ゆうもう)に痘瘡(とうさう)までも恐慄(おぢおのゝく)かとおもひ
居(ゐ)たり其後(そのゝち)紀州(きしう)の熊野(くまの)信州(しんしう)の御嶽(おんたけ)なども病者(やむもの)なき話説(はなし)を
聞(きく)といへども是(これ)も亦(また)いづれ稀有(けう)なる神霊(しんれい)の所為(しよゐ)か別(べつ)に病(やま)ざる因縁(いんえん)
もあるやと聞(きゝ)すてゝ過(しぎ)しに天明(てんめい)のはじめ長崎(ながさき)に遊歴(いうれき)して吉雄氏(よしをうぢ)
の門(もん)に在(あつ)て阿蘭(をらん)の外科(ぐわいくわ)を学(まなび)し頃(ころ)師(し)にかはりて儘(まゝ)大村天草(おほむらあまくさ)に
いたり見(みる)に此地(このち)も古(いにしへ)より痘瘡(とうさう)を病(やむ)ものなし其病(そのやま)ざるは前編(ぜんへん)の
発端(ほつたん)に誌(しるす)ごとく香觸(かぶれ)ざるやうに忌嫌(いみきらふ)のみにて薬(くすり)を用(もちゆ)るにもあら
ず神(かみ)の守護(しゆご)にもあらざるなり又(また)其後(そのゝち)見聞(けんもん)する所(ところ)の痘瘡(とうさう)を
避(さく)る土地(とち)も亦(また)数多(あまた)なり其(その)避(さけ)やうも皆(みな)大村天草(おほむらあまくさ)に異(こと)なる事(こと)
【右開】
なし此(こゝ)において按(あん)ずるに古今(ここん)の痘書(とうしよ)にいふ所(ところ)の痘瘡(とうさう)は天行(てんかう)
疫癘(ゑきれい)にて胎毒(たいどく)を發(はつ)するといふ説(せつ)に従(したがふ)ときは他(ほか)の疫癘(ゑきれい)は大村(おほむら)
天草等(あまくさとう)にも流行(りうかう)して痘瘡(とうさう)の疫癘(ゑきれい)のみ大村天草(おほむらあまくさ)に流行(りうかう)せ
ざるも疑(うたがは)し又(また)大村天草(おほむらあまくさ)の人(ひと)には胎毒(たいどく)なしといふに当(あた)れり
此疑(このうたがひ)おこつてより古今(ここん)の醫書(いしよ)を渉獵(せうれふ)する事(こと)三十年(さんじふねん)遂(つひ)に痘(とう)
瘡(さう)麻疹(ましん)黴瘡(ばいさう)疥瘡(かいさう)の四病(しびやう)は陰陽(いんやう)沴亂(てんらん)の悪毒(あくどく)ある方土(はうど)の異(い)
氣(き)にして外國(ぐわいこく)より傳来(つたへきたり)し病(やまひ)なるゆへに避(さけ)て病(やま)ざる理(り)を發明(はつめい)
し始(はじめ)て此書(このしよ)を著(あらは)し痘瘡(とうさう)麻疹(ましん)にて世上(せじやう)の人(ひと)の非命(ひめい)に死(し)す
る殃(わざはひ)なからん事(こと)を希(こひねがふ)なり此書(このしよ)を断毒論(だんどくろん)と名(な)つけしは
此書(このしよ)に説(とく)ところの如(ごと)く彼(かの)大村天草等(おほむらあまくさとう)其他(そのほか)避痘(ひとう)の土地(とち)
【左開】
にならひ一國(いつこく)々々に痘瘡(とうさう)を禦(ふせぐ)ときは忽(たちまち)
日本(につほん)の痘毒(とうどく)は根(ね)を断(たち)きりて永(なが)く此悪疾(このあくしつ)のために死(し)するゝものは
あらじとおもふがゆへなり幸哉(さいはひなるかな)外國(ぐわいこく)通船(つうせん)厳重(げんぢう)なれば一度(いちど)避(さけ)て
病(やま)ざる風俗(ふうぞく)となつて後(のち)はいにしへ外國(ぐわひこく)通船(つうせん)みだりなる世(よ)の如(ごと)く再(ふたゝび)
痘毒(とうどく)を傳来(でんらい)して海内(かいだい)に蔓延(はびこる)事(こと)はあるべからす設令(たとへ)漂流(ひやうりう)の外(ぐわひ)
國船(こくふね)に痘毒(とうどく)の者(もの)あつて稀(まれ)に傳染(でんせん)するものありとも纔(わづか)一村(ひとむら)一浦(ひとうら)
の外(ほか)には蔓延(はびこる)べからず然(しかる)ときは寛永中(くわんゑいちう)かの耶蘇悪宗(やそあくしう)の
族(やから)が滅亡(めつぼう)して永(なが)く其菑(そのわざはひ)なきがごとく萬々世(ばん〳〵せい)にいたる後(のち)も
痘毒(とうどく)の患(うれい)は有(ある)べからざらん文化庚午(ぶんくわかのえむま)の秋(あき)前編(ぜんへん)を著(あらはし)て後(のち)に顧(おもひ)め
ぐらすに何(いつれ)の事(こと)も自身(じしん)に試(こゝろみ)ざる事(こと)は空論(くうろん)にして取(とる)にたらず因(よつ)て
【右開】
親(したし)くこれを試(こゝろみ)んとおもふ所(ところ)に其明年(そのめうねん)辛未(かのとのひつじ)のとし痘瘡(とうさう)國中(こくちう)
に流行(りうかう)して《割書:予(よ)|》が村中(そんちう)千餘家(せんよか)毒氣(どくき)次第(しだい)に蔓延(はびこり)死亡(しぼう)する小(せう)
児(に)日々(ひゞ)に多(おほ)し時(とき)に《割書:予(よ)|》が小児(せうに)男子六歳(だんしろくさい)女子四歳(じよししさい)容易(たやすく)痘瘡(とうさう)を
避(さけ)て少(すこし)も其患(そのうれい)にかゝらず殊(こと)に《割書:予(よ)|》が家(いへ)内科(ないくわ)外科(げくわ)眼科(がんくわ)を兼(かね)て
業(ぎやう)とすれは毎日(まいにち)痘瘡(とうさう)の病家(びやうか)に往来(わうらい)し又(また)痘瘡(とうさう)にて眼(がん)
病(びやう)瘍腫(はれもの)の小児(せうに)日々(ひゞ)に出入(いでいり)春(はる)より秋(あき)にいたるまで絶(たへ)る間(ひま)なし
かく痘瘡(とうさう)の病人(びやうにん)ひまなく家内(かない)に立入(たちいり)てさへ禦方(ふせきかた)に心得(こゝろゑ)あれ
ば毒氣(どくき)に香觸(かぶるゝ)ことなしまして醫家(いか)にあらざる家(いへ)にて痘(とう)
瘡(そう)を避(さく)るはいとやすし此年(このとし)《割書:予(よ)|》が説(せつ)を信(まこと)として痘瘡(とうさう)を避(さけ)し
家(いへ)十戸(じつこ)小児(せうに)すべて十六人(じふろくにん)一人(いちにん)も過(あやまち)なくやす〳〵と痘瘡(とうさう)の殃(わざはひ)を
【左開】
免(まぬかれ)て今(いま)に至(いたつ)て恙(つゝが)なし是(こゝ)におゐて痘瘡(とうさう)の禦(ふせぎ)やすき事(こと)を試得(こゝろにゑ)
て親(したし)く禦方(ふせぎかた)の心得(こゝろゑ)等(とう)を畢(こと〴〵)く自得(じとく)し世(よ)に公(おほやけ)にしてあまねく
痘瘡(とうさう)の患(うれい)を除(のぞか)ん事(こと)を欲(ほつし)此附録(このふろく)一編(いつへん)を追加(ついか)して痘瘡(とうさう)禦方(ふせぎかた)の
心得(こゝろゑ)を誌事(しるすこと)左の如(ごと)し
一 痘瘡(とうさう)の傳染(でんせん)に三(み)つあり第一(だいいち)は痘瘡病(とうさうやみ)に近(ちか)よりて熱氣(ねつき)
鼻(はな)に入(いる)ときは假令(たとへ)其臭(そのにほひ)はしらずとも必(かならず)毒氣(どくき)に香觸(かぶるゝ)なり
第二(だいに)は痘瘡病(とうさうやみ)の玩物(もてあそびもの)すべて病中(びやうちう)寝處(ねどころ)に在(あり)し物(もの)を手(て)に触(ふれ)
ても傳染(でんせん)す第三(だいさん)は痘瘡家(とうさうか)の食物(しよくもつ)にて傳染(でんせん)す是(これ)は至(いたつ)て
すみやかなりおもふに器物(うつはもの)にさへ香觸(かぶれ)て傳(つたはる)ほどの毒氣(どくき)な
れば食物(しよくもつ)を烹(にる)ときの熱氣(ねつき)と痘瘡(とうさう)の熱氣(ねつき)と同氣(どうき)相(あい)
【右開】
合(がつ)するゆへに食物(しよくもつ)冷(ひへ)て後(のち)までも痘毒(とうどく)浸入(しみいり)てあるならん
外(ほか)に類(たぐふ)べき病(やまひ)もなき悪毒(あくどく)なり
一 痘瘡(とうさう)を避(さく)るに先(まづ)専一(せんいち)の覚悟(かくご)は幼少(ゑうせう)の時(とき)に避(のがれ)れても大人(をとな)
となりて病(やむ)は難危(なんき)なり小児(せうに)の時(とき)には死(しす)とも悲(かなしみ)すくなし
とおも□【ふ】事(こと)を了然(さつはり)と止(やめ)て病事(やむこと)を好(このむ)べからず是(これ)は世上(せじやう)の人(ひと)
ごとにおもふ所(ところ)なれども甚(はなはだ)情(なさけ)なき事(こと)にて此迷(このまよひ)あるゆへに
世間(せけん)の人(ひと)おしなべて痘瘡(とうさう)の傳染(でんせん)を願望(ねがひのそむ)なり前編(ぜんへん)にくわし
く論(ろん)ずる如(ごと)く痘瘡(とうさう)の重(おも)き軽(かる)きは天稟(てんりん)の性質(せいしつ)によりて大(おと)
人(な)と小児(せうに)の差別(さべつ)にはよらざるなり譬(たとへ)ば至(いたつ)て重(おも)き痘瘡(とうさう)を
病(やみ)て死(し)すべき性質(せいしつ)の命(いのち)にても一度(いちど)の流行(りうかう)を遯(のがる)れば復(また)
【左開】
流行(りうかう)するまでの年数(ねんすう)を生延(いきのび)二度(にど)の流行(りうかう)を避(さく)れば二度(にど)の
年数(ねんすう)を長生(ながらへ)乃至(ないし)九度十度(こゝのたびとたび)の流行(りうかう)を禦(ふせぐ)ときは七十年来(しちじふねんらい)
の齢(よはひ)を保(たもつ)目前(もくぜん)の美事(びじ)なり流行(りうかう)する度(たび)ごとに避(さくる)は心(こゝろ)うき事(こと)
のやうなれども都鄙(とひ)ともに大抵(たいてい)三四箇月(さんしかつき)にては近邉(きんへん)の流行(りうかう)は
しづまるものなれば此禦(このふせぎ)の遂(とげ)ざる事(こと)はあるべからす心(こゝろ)にか
けて禦(ふせぎ)ても我(われ)しらず傳染(でんせん)するは是非(ぜひ)もなし早(はや)く病(やま)せて
安心(あんしん)せんとおもふ親(をや)の身(み)にとりては其児(そのこ)の生死(しやうじ)を試(こゝろみる)にあたり
て類(たぐひ)もなき無慈悲(むじひ)なる事(こと)なり其児(そのこ)の身(み)にとりては實(じつ)に
生死(しやうじ)の境(さかい)痛(いた)はしく憐(あはれむ)べき事(こと)ならずやかへす〳〵も幼少(ゑうせう)の
時(とき)には死(し)んでもよしとおもふは人情(にんしやう)にあるまじき事(こと)なり
【右開】
一 痘瘡(とうさう)流行(りうかう)の風説(ふうせつ)あらず先(まづ)家内(かない)の者(もの)に痘瘡(とうさう)は香觸(かぶれ)ての
み病(やむ)ものなれば他(ほか)の病(やまひ)より遯(のがら)やすき由(よし)を慇懃(ねんごろ)に教(おしゆ)べ
し痘瘡(とうさう)まへ三歳(さんさい)以上(いじやう)言語(ことば)を聞(きゝ)わけあるよりして痘瘡(とうさう)は
恐(おそろし)き病(やまひ)にて近(ちか)よれば香觸(かぶれ)て死(しに)もし痘顔(もがほ)にもなり盲人(めくら)
にもなり廃人(かたは)にもなる事を毎(まい)日 幾度(いくたび)もいひきけておそるゝ
やうに教訓(きやうくん)すべし正直(しやじき)なる児心(こごゝろ)にて恐怖(きようふ)して遠(とほ)ざかるゆへ
に甚(はなはだ)禦方(ふせぎかた)の便(たより)となるなり
一 痘瘡(とうさう)流行(りうかう)する時(とき)はすべて親類(しんるい)地音(ちいん)の方(かた)へ痘瘡(とうさう)を避(さくる)よ
しを豫(あらかじめ)話説(はなし)おきて裞(いはひ)の品(しな)食物(しよくもつ)など何(なに)によらず痘瘡(とうさう)全(ぜん)
快(くわい)の後(のち)までは贈(おくら)るゝ事(こと)を緊(きびし)くことはるべし若(もし)贈(おくる)もの
【左開】
あらば怱々(そう〳〵)水(みつ)に流(ながす)べし痘瘡家(とうさうか)にても贈遣(おくりつかはす)は甚(はなはだ)しき悪事(あくじ)
なり其 贈(おくり)ものにて傳染(でんせん)して死(し)ぬるときは人(ひと)を殺(ころす)にあた
ればなり
一 世間(せけん)にて第一(だいいち)の意得(こゝろゑ)たがひは軽(かる)き痘瘡(とうさう)は軽(かる)くうつるとおもふ
ゆへに軽(かる)き痘瘡(とうさう)に狎近(なれちか)づく是(これ)は甚(はなはだ)あしき事(こと)なりすべて病(やまひ)の
毒氣(どくき)は火(ひ)の如(ごと)く人(ひと)の身(み)は薪(たきゞ)の如(ごと)し少(すこし)の火(ひ)より大火(たいくわ)となるに異(こと)
ならず軽(かる)き痘瘡(とうさう)にても香觸(かぶる)る人(ひと)の性質(うまれつき)に痘毒(とうどく)のふかき者(もの)
は忽(たちまち)其身(そのみ)を焦(こがす)なり一間(いつけん)の家(いへ)にて三人四人(さんにんよにん)枕(まくら)をならべて
病(やみ)ながら軽(かる)き重(おも)きさま〴〵なるを見(み)て軽(かる)きを香觸(かぶれ)てかる
からず重(おも)きを香觸(かぶれ)ておもからざるを知(しる)べきおり就中(なかんづく)
【右開】
愚(おろか)なる人(ひと)は彼(かの)痘神(はうさうがみ)に重(おも)く病(やま)せる神(かみ)と軽(かる)く病(やま)せる神(かみ)
ありと心得(こゝろゑ)て軽(かる)き痘瘡病(とうさうやみ)の家(いは)へ其児(そのこ)をつれゆきて
撫(なで)させなどするものあり然火(もえび)に近(ちか)づくるよりも危(あやう)し決(けつ)し
て為(す)べからざる事(こと)なり
一 旅行(りよこう)の路次(ろし)に痘瘡(とうさう)の流行(りうかう)あらば痘瘡病(とうさうやみ)ある逆旅(はたごや)には
次宿(ししゆく)すべからず休息(きうそく)するにも其/心得(こゝろゑ)肝要(かんゑう)なり必(かならす)晝飯(ひるめし)
を齎(もち)て猥(みだり)に沽食(かいぐひ)をすべからず貴人(きにん)は痘瘡病(とうさうやみ)の衣類(いるい)すべ
て病人(びやうにん)に屬(つき)たる物(もの)ともに他家(たけ)へ移(うつ)させて次宿(しきゆく)し給へば傳染(でんせん)
する事(こと)なし痘瘡(とうさう)は傳染(でんせん)して次第(しだい)にめぐるやまひなれば
数十里(すじふり)の路次(ろし)に流行(りうかう)する事(こと)なし纔(わつか)一日程(いちにちゞ)二日程(ふつかぢ)には流行(りうかう)
【左開】
の駅路(ゑきろ)を過行(すぎゆく)ゆへに旅中(りよちう)にての禦方(ふせ ぎかた)はかへつて家(いへ)に在(ある)と
きよりいとやすき事(こと)なり
一 途中(とちう)にて痘瘡病(とうさうやみ)に逢(あふ)ときは其(その)にほひを嗅(かゞ)ざるやうにすべ
し眼(め)に見(み)たるばかりにて香觸(かふる)るものにあらず其時(そのとき)は水(みづ)にて
鼻(はな)の孔(あな)を濡(ぬらす)べし水の清潔(せいけつ)よく痘毒(とうどく)の穢(けかれ)を避(さく)る事(こと)
妙(めう)なり水(みづ)なき時(とき)は唾(つば)にて鼻(はな)の孔(あな)をぬらすべし鼻(はな)に涼(すゞ)
氣(け)のおぼへあるうちは痘毒(とうどく)の熱氣(ねつき)を禦(ふせぐ)なり唾(つば)は人身(じんしん)の
清液(せいゑき)なるが故(ゆへ)に味(あぢ)もなく濁(にごり)もなく天地(てんち)の雨露(うろ)に異(こと)ならず
試(こゝろみ)に臭氣(しうき)に向(むかつ)て唾(つは)にて鼻(はな)の孔(あな)をぬらし見(みる)べし忽(たちまち)その
臭氣(しうき)をおぼへず是則(これすなはち)痘毒(とうどく)の穢氣(ゑき)をも避(さく)るしるしなり
【右開】
疫癘(ゑきれい)を避(さくる)にも此術(このじゆつ)をよしとす然(しかれ)ども此術(このじゆつ)にて全(まつたく)避(さくる)といふ
にはあらず兎角(とかく)痘瘡(とうさう)の毒氣(どくき)を鼻(はな)に嗅(かゞ)ざるやうに意(こゝろ)を
用(もちゆ)べし
一 痘瘡(とうさう)流行(りうかう)の時(とき)は飴(あめ)菓子(くわし)の類(たぐひ)すべて沽食(かいぐひ)をきびしく禁(きん)
ずべし児 心(ごゝろ)にて懇望(こんもう)すいるとも痘毒(とうどく)沽食(かいぐひ)にあるよしをいかにも
怖(おそろ)しく教訓(きようくん)して戒(いましむ)べし是(これ)は痘瘡(とうさう)を避(さくる)のみならず過食(くわしよく)の
禦(ふせぎ)にもなりて益(ゑき)あつて害(がい)なき事(こと)なり
一 痘瘡(とうさう)流行(りうかう)の時(とき)は祭祀(まつり)劇場(しばい)観場(けんぶつ)すべて人(ひと)衆(おほく)あつまる所(ところ)へ
行(いき)て香觸(かぶれ)ざるやうに遠慮(ゑんりよ)すべし
一 痘瘡(とうさう)流行(りうかう)すれば小児(せうに)多(おほ)く死(し)するゆへに故衣舗(ふるぎや)に痘瘡(とうさう)
【左開】
児(ご)の故衣(ふるぎ)おほし是(これ)を沽(かふ)て着用(ちやくよう)すれば痘瘡(とうさう)に香觸(かぶる)る
事(こと)あり然(しかれ)ども貧家(ひんか)は故衣(ふるぎ)にあらざれば費(ついえ)を省(はぶき)がた
し若(もし)故衣(ふるぎ)を沽(かひ)用(もちひ)は一夜(いちや)水(みづ)に浸(ひたし)洗濯(せんたく)して後(のち)は香觸(かぶるゝ)事(こと)
なし
一 痘瘡(とうさう)の痂(かさぶた)脱(おち)一度(いちど)湯(ゆ)に入(いり)て後(のち)は傳染(でんせん)する事(こと)なし但(たゞし)
病中(びやうちう)の衣類(いるい)洗濯(せんだく)せざれば香觸(かぶるゝ)事(こと)あるべし
一 痘瘡(とうさう)流行(りうかう)の間(あいだ)は習書(てならひ)読書(ものよみ)等(とう)すべて稽古事(けいここと)にて他(た)
處(しよ)へいくを遠慮(ゑんりよ)すべし若(もし)痘瘡児(とうさうこ)と同居(どうきよ)して香觸(かぶるゝ)事(こと)
なれはなり其児(そのこ)怜利(れいり)にて避(さくる)か師範(しはん)の人(ひと)意(こゝろ)あつて禦(ふせぐ)
ならは傳染(でんせん)する事(こと)はなけれども何(いづ)れ流行(りうかう)の間(あいだ)ばかりな
【右開】
れば病(やん)で稽古(けいこ)を怠(おこたる)より遥(はるか)に優(まされ)り
一 痘瘡(とうさう)の盛(さかり)より混堂(ふろや)に入(いる)べからす痂(かさぶた)あるもの多(おほく)入(いる)ゆへなり
田家(いなか)は水風爐(すいふろ)に意(こゝろ)をつくべし
一 主(しゆ)に仕(つかふ)る人(ひと)は痘瘡(とうさう)を避(さく)べきや避(さく)べからざるやを先(まづ)その主人(しゆじん)に
うかゞひ避(さく)べしとあらば避(さけ)てよし若(もし)避(さけ)べからずとあらば
主人(しゆじん)の意(い)に違(たがふ)て避(さくる)はあしかるべし主(しや)のためには身命(しんめう)を投擲(なげうつ)
べきものなれば病(やまひ)とても主(しゆ)に違(たがふ)て命(いのち)を愛(おしむ)はあしかるべし
一 痘瘡(とうさう)を避(さくる)土地(とち)にては若(もし)過(あやまつ)て香觸(かぶれ)し者(もの)あれば匆々(そう〳〵)里(さと)をはなれ
たる處(ところ)に小屋(こや)を造(つくり)病中(びやうちう)の雜具(ざうぐ)を調(とゝのへ)介抱(かいほう)薬用(やくよう)の事(こと)は以前(いぜん)
痘瘡(とうさう)を病(やみ)し人(ひと)を庸(やとひ)日數(ひかず)たち痂(かさぶた)も脱(おち)一度(いちど)湯(ゆ)に入(いり)て後(のち)家(いへ)に
【左開】
帰(かへる)なり病中(びやうちう)の雜具(ざうぐ)は其儘(そのまゝ)に捨(すて)おきて乞食(こわじき)の獲(ゑ)ものとする
もあり又(また)小屋(こや)とも焼(やき)すつる處(ところ)もありといへり是(これ)を他處(たしよ)に
聞(きゝ)ては捨殺(すてころす)やうに意得(こゝろゑ)て情(なさけ)なく心憂事(こゝろうきこと)におもへども介抱(かいほう)
薬用(やくよう)の備(そなへ)あれば捨殺(すてころす)にはあらず衆(おほく)の人(ひと)の害(がい)になる事(こと)なれば
いかやうにも厳重(げんぢう)にするこそよかるべし態(わざ)と痘瘡(とうさう)に狎(なれ)ちかづ
きて衆(おほく)の人(ひと)を殺(ころし)情(なさけ)なく心憂(こゝろうき)ことを見(み)きくにははるか優(まさり)し
事(こと)ならん土地(とち)の定(さだめ)にて小児(せうに)うまれおつるより一人(いちにん)につき毎日(まいにち)
一銭(いつせん)づゝの積銭(つみぜに)を貯(たくはへ)おきて其(その)土地(とち)の痘瘡(とうさう)を禦(ふせぐ)臨時(りんじ)の用(よう)
に充(あて)おく處(ところ)ありと聞(きゝ)およびぬ實(まこと)によく心(こゝろ)を用(もちひ)たる事(こと)にて是(これ)も
亦(また)痘瘡(とうさう)を病(やみ)たるうへの慶事(よろこびごと)に多(おほく)の金銭(きんせん)を費(つひやす)にははるかに優(まさり)し
【右開】
事(こと)ならん其(その)積銭(つみせん)を用(もちひ)ば土地(とち)の大小(だいせう)にしたがひ避痘(ひとう)の備(そなへ)は
いかやうにも足(たる)べき事(こと)ならん
麻疹(ましん)の傳染(でんせん)も痘瘡(とうさう)にかはる事(こと)なければ禦方(ふせぎかた)も痘瘡(とうさう)
にかはる事(こと)なし但(たゞ)痘瘡(とうさう)は常(つね)に國々(くに〴〵)を巡行(じゆんかう)してたへざれど
も麻疹(ましん)は毎度(まいど)外國(ぐわひこく)より傅来(でんらい)するゆへに大抵(たいてい)二十年来(にじふねんらい)を
隔(へだて)て流行(りうかう)すれば生涯(しやうがい)三度四度(さんどよたび)の流行(りうかう)をさへ禦(ふせげ)ば假令(たとへ)麻(ま)
疹(しん)にて死(し)すべき命(いのち)にても六七十年(ろくしちじふねん)の齢(よはひ)をたもつ理(り)なれば
痘瘡(とうさう)よりも禦(ふせぎ)やすし
右(みぎ)の條々(でう〳〵)に誌(しる)せし如(ごと)く痘瘡(とうさう)麻疹(ましん)流行(りうかう)の時(とき)のみ意(こゝろ)を用(もちゆ)れば一(いつ)
生(しやう)決(けつ)して傳染(でんせん)せず免(まぬかれ)やすき病(やまひ)なり古(いにしへ)より痘瘡(とうさう)麻疹(ましん)の全(まつたく)傳(でん)
【左開】
染(せん)毒氣(どくき)に因(よる)ことを一言半句(いちげんはんく)も説(とく)ものなく只(たゞ)天行(てんかう)時疫(じゑき)にて胎毒(たいどく)
を發(はつ)すといへる醫書(いしよ)の偽(いつわり)遂(つひ)に世上(せじやう)の俗習(ぞくしふ)となつて人間(にんげん)生涯(しやうがい)一(いち)
度(ど)の大厄(たいやく)となれり醫(い)は病人(びやうにん)に薬(くすり)を與(あたゆ)るのみにもかぎらずいまだ病(やま)ざ
るを治(ぢ)すといへる古人(こじん)の教(おしへ)もあれば身(み)の鄙陋(ひろう)を回顧(かへりみ)ず世人(せじん)是(これ)よ
り狎痘(かうとう)【「はうそうになるゝ」左ルビ】の俗習(ぞくしふ)あしきを知(しつ)て避痘(ひとう)【「はうさうをさくる」左ルビ】の風俗(ふうぞく)とならん事(こと)を希(こひねがふ)のみ
国字断毒論附録終(かながきだんどくろんふろくをはり)
橋-本-氏 ̄ハ。出 ̄ツ_レ自 ̄リ_二本-州武-田-姓_一。寿-永中。安-田義-
定。任 ̄ス_二遠-州 ̄ノ牧 ̄ニ_一。其 ̄ノ族采-食 ̄スル於橋-本ノ郷 ̄ニ_一者 ̄ノ。乃 ̄チ為 ̄スト
_レ氏 ̄ト云 ̄フ。中-世外-記 ̄ナル者 ̄ノ。移 ̄テ居_二州 ̄ノ之古-府 ̄ニ_一。親 ̄ク受 ̄チ_二知-
足-齋徳-元 ̄ノ之傅 ̄ヲ_一。為 ̄ル_レ醫 ̄ト。是 ̄ヲ為_二伯壽 ̄カ祖 ̄ト_一。以_レ故徳-
本 ̄ノ之遺-書若-干。蔵 ̄テ在 ̄リ_二伯-壽 ̄カ家 ̄ニ_一。外-記 ̄ノ之胤善-
也。移 ̄テ居_二市-川 ̄ノ郷 ̄ニ_一。従_レ是四-世 ̄ニシテ至 ̄ル_二伯-壽 ̄ニ_一。伯-壽嘗 ̄テ
請 ̄フ_二益 ̄ヲ高-室昌-參 ̄ニ_一。其 ̄ノ子韞 ̄ナル者 ̄ハ。余 ̄カ之女-婿 ̄ナリ也。故 ̄ニ
余 ̄カ於_二伯-壽 ̄ニ_一。不 ̄ル_二亦 ̄タ自 ̄ラ外 ̄ナラ_一也。爰 ̄ニ伯-壽有 ̄リ_レ憾 ̄スルヿ_下痘麻
黴疥。傅-染 ̄ノ之疾 ̄ニシテ。而近 ̄ハ則 ̄チ染 ̄ミ。避 ̄ハ則免 ̄ル。人能 ̄ク知 ̄テ_二
黴疥 ̄ノ可 ̄ヲ_一レ避。而不_レ知 ̄ラ_二痘麻 ̄ノ易 ̄ヲ_一レ避。非 ̄ス_二啻不 ̄ルノミニ_一レ知 ̄ラ_レ焉 ̄ヲ。
或 ̄ハ託 ̄シ_二之 ̄ヲ神 ̄ニ_一。或 ̄ハ禱 ̄リ_二之 ̄ヲ佛 ̄ニ_一。以 ̄テ_レ禍 ̄ヲ為 ̄シ_レ福 ̄ト。以 ̄テ_レ患 ̄ヲ為 ̄シ_レ慶 ̄ト。
係 ̄ル_二非-命 ̄ニ_一者 ̄ノ不 ̄ルニ_上_レ少 ̄カラ矣。於 ̄テ_レ是 ̄ニ憤-然 ̄トシテ著 ̄ス_二断-毒-論 ̄ヲ_一。其 ̄ノ
意在 ̄リ_レ欲 ̄スルニ_下 一 ̄ヒ洗 ̄テ_二俗-習 ̄ノ之失 ̄ヲ_一。匡_中-救 ̄セント非-命 ̄ノ之厄 ̄ヲ_上。其 ̄ノ
説可 ̄ク_レ聽。其 ̄ノ撰勤 ̄タリ矣。向者 ̄ニ。享-和癸-亥。麻-毒流-
行 ̄ス。時 ̄ニ韞 ̄カ之妻既 ̄ニ身 ̄メリ。懼 ̄レ_三為 ̄メニ_レ麻 ̄ノ所 ̄レンヿヲ_二堕-胎 ̄セ_一。即 ̄チ学 ̄セ_二避-
免 ̄ノ之術 ̄ヲ_一。乃 ̄チ攜_二 一-女 ̄ヲ_一匿 ̄ル_二于深-室 ̄ニ_一。母-子倶 ̄ニ無 ̄シ_レ恙
焉。今慈辛-未 ̄ノ春。痘-毒流-行。余 ̄カ花-渓未 ̄ル_レ經_二痘-
厄_一者 ̄ノ。四-十一-人。余 ̄カ家。伯 ̄ヤ也一-男一-女。仲 ̄ヤ也
一-女。在_二子其 ̄ノ中 ̄ニ_一叔 ̄ヤ也。先_レ之 ̄ヨリ為 ̄リ_レ婿_二舅-氏 ̄ニ_一。亦有_二
一-男_一。蚤罹 ̄ツテ_レ痘 ̄ニ隕 ̄ツ。以_レ是 ̄ヲ挙-家愀-然 ̄トシテ怖 ̄ル。皆 ̄ナ云 ̄フ痘 ̄ハ
可 ̄キ_レ避 ̄ク耳 ̄ミ。仍 ̄テ議 ̄ルニ_二之 ̄ヲ邨-中 ̄ニ_一。奉 ̄スル_レ教 ̄ヲ者 ̄ノ。僅 ̄ニ四-戸。無 ̄ク_レ幾 ̄モ
痘-毒来 ̄リ侵 ̄ス。輕-重有_レ品。死 ̄スル者 ̄ノ七-人。不 ̄シテ_レ用 ̄ヒ_レ意 ̄ヲ而
免 ̄ルヽ者 ̄ノ三-人。避 ̄テ而免 ̄ルヽ者 ̄ノ七-人。今痘-毒殆 ̄ント盡 ̄ク。無_二
復為 ̄ルヿ_一レ念 ̄ト焉。起 ̄ツ者 ̄ハ。乃 ̄チ謂 ̄ヒ_レ因 ̄ルト_二痘-神 ̄ノ冥-福 ̄ニ_一。不 ̄ル_レ起 ̄タ者 ̄ノハ。
乃 ̄チ父-母敖-敖 ̄ノ聲不_レ止 ̄マ。特 ̄タ余 ̄カ黨 ̄ノ之兒 ̄ノミ。不_レ禱 ̄ラ不
_レ患 ̄ヘ。孩-笑晏-晏。亦神 ̄ノ福 ̄ヒ乎避 ̄ノ之福 ̄ヒ乎。願 ̄クハ有 ̄テ_下
同_二-志 ̄スル伯-壽 ̄ニ_一者_上。施 ̄シ_二之 ̄ヲ一-郷 ̄ニ_一。引 ̄テ及 ̄ボシ_二 一-州 ̄ニ_一。遂 ̄ニ俾 ̄メハ_下 天-
下 ̄ノ人 ̄ヲシテ。為_中 天-平-上 ̄ノ之民 ̄タヲ_上。則 ̄チ可 ̄ケンヤ_レ不 ̄ル_レ謂 ̄ハ_二濟-民 ̄ノ之一-
助 ̄ト_一乎。余 ̄カ以 ̄テ_レ所 ̄ヲ_二親 ̄ク視 ̄ル_一。記 ̄シテ而為_レ徴 ̄ト。
文化辛未十一月望甲州花渓大機 識
文化十一年甲戌秋七月
江戸本石町四丁目
西村源六
同 江戸橋四日市
松本平助
書林
同 日本橋南壹町目
須原屋茂兵衛
同 日本橋北室町三丁目
須原屋彌三郎
【前コマと同】
【左ページ折り返し部分】
戌四に仕入《割書:十二■|トハ》
【裏表紙】
《題:麻疹御伽双紙 完》
【背表紙】麻疹御伽双紙 完
【題箋】
《題:麻疹御伽双紙 完》
【題箋】
《題:麻疹(はしか)御(お)伽(とぎ)双(そう)紙(し) 完》
【見返し】
麻疹(はしか)によろしき食物
ゆりね かんひやう にんじん ほし大根(だいこん) やきしほ 水あめ
あづき やへなり さつまいも 白うり 冬瓜(とうくわ) くわへ
くす くろまめ 十六さゝけ ひしき せんまい かたくり
うど いんげん いんげんまめ らくがんのるい ふき 白せつかう【白雪糕】
かつをぶし くこのめ れんこん 右之類毎日食してよし此外
ごほう 冬大こん うこ木のめ 長いも 白さとう かるやき【軽焼き煎餅】
やうかんのるい折〳〵食してよし春夏の大こん悪し
魚類は あわび きす かながしら さより むしかれい
日数十五日も立て少々つゝよし其外魚類とり類竹の子
きのこ類あふらけすのものめんるいくだものなすび 玉子そ らまめ
なたまめ 梅づけ 粕(かす)つけ類五十日忌べし慎(つゝしま)ざれば
よどく出て難症となるおそるへし房事(ぼうじ)は殊に慎しむへし五十日
前におかせは命にもかゝはる事なれはおそるへしはしかはかはきある
ものなれはくすゆを与(あたう)ふへし梨子(なし)を焼て与(あた)へてもよし
【左ページ】
尚々
廿七日出之御状昨日到来拝見候所御伽双紙之作
可致旨承知扨当春は無人に而尤多用書物
談(よみ)候暇も無之候へとも難見捨其夜稿を起し
今日は要用故打捨漸夜に入引円め直に
浄書致遣候別に序文趣向有之候へ共先取込
故やはり此状を序に被成可然候いつれ発兌
急き候事肝心と存候以上
二月二日夜
山田様 亀文【注】
頼まれて御伽双紙の魁は野崎にあらぬ梅の急作
【活動期から見て大河原亀文の可能性あり】
【右】
さだめて人間界(にんけんかい)では
此ころはさはくだろふ
ひいらぎの三十三枚と多羅(たら)
葉(よう)のまじないにはちと
へこみた
げびぞうと女に目の
ないやつは
ひどいめに
あはせるが
よい
【左】
麻疹鬼(はしかかみ)
人間世界(にんけんせかい)へ
来(きた)り人を悩(なやま)さんと
西(にし)の海(うみ)にて勢揃(せいそろい)て
風雲(ふううん)に乗(のり)りたる図(づ)
大/団扇(うちは)是(これ)は風を引かせるに用
槌(つち)是は頭痛(づつう)をさせ腰(こし)ひさ【膝】を
いたませるに用
槖鑰(ふいご)これは口中を
かはかし
いきゝれせきを出しくさめを
させるに用
水砲(みつてつほう)これは腹(はら)を下すに用
縄(なは)是は人の手足(てあし)をしはりうごかぬよふにするに用
火床(ほど)これは大 熱(ねつ)を出(だ)す道具(どうく)なり
【右】
薬種方(やくしゆかた)には唐物(からのくすり)和薬一統(わのくすりいつとう)にはしか【麻疹】をふせがんと升麻葛根(せうまかつこん)を
大将(たいしやう)として四/方(ほう)の入口(いりくち)に陣(ぢん)をとり六枚屏風(ろくまいひやうふ)を盾(たて)につき
御医師方(おいしやがた)の供(とも)かんはんを幕(まく)とし威儀(いぎ)とう〳〵とまちかけ【待掛】
たり その加勢(かせい)には本町(ほんちよう)三丁目/并(ならひに)町(まち)〳〵端(はし)〳〵( 〳〵 )薬屋(くすりや)の
蔵(くら)に年久(としひさし)しく隠(かく)れたる薬(やく)にたゝすも此節(このせつ)十分(じうふん)の勢(いきをひ)ひ
盛(さかん)に馳出(はせいた)すいかにはしかゞ
悩(なやま)さんとおもふとも
鶏卵(たまご)に石(いし)で叶(かのう)ふ
まじとぞ見へたりけり
しかしおとつさんおつかさん
おいしやさんの
いひなさる通(とを)り毒(どく)な
物(もの)をあがらぬ様(よう)になさらぬとはしかめかいろ〳〵の事をして
たまし
ます
そのわけはたん〳〵次(つぎ)にあるからよんでみな
【左】
【上辺】
涼膈剤助(りやうかくざいすけ)は
別(へつ)に陣(ぢん)をとり敵(てき)の
様子(ようす)を伺(うかこう)ふまさかの
時(とき)は出(で)て大功(たいこう)
をあらはす
おいらはいつれ
ごづめた【後詰めだ】
さき
ば
しる
と
しそ
こ
ないが
で
きる
【中右辺から】
芝(しは)へんに一揆(さはき)が
おこつたといふが
大勢(たいせい)ゆく
には
およぶ
まい
【中下辺から】
不養生(ふようじやう)で
はし かに
つけこまれ
二度目の
かつせんには
てぬる
い
ことはして
いら
れぬ
みな〳〵
せい
たせ〳〵
【図中説明文字】
桔(き)梗(きやう)
シヤクヤク【芍薬】
甘
芒【芒消。コマ16にあり】
巵【山巵子=サンシシ、クチナシの実。コマ16にあり】
大黄【だいおう】
おうこん【黄芩】
はつか【薄荷】
れんきやう【連翹】
涼膈剤助伏兵
升(しやう)麻(ま)
葛(かつ)根(こん)
甘(かん)草(そう)
【左端 幡】
升麻葛根剤(シヤウマカツコンサイ)
【右】
夫(それ)麻疹(はしか)はその形(かたち)麻仁(あさのみ)の如(こと)く痘瘡(ほうそう)はその形(かたち)豆(まめ)の如(ことく)く形(かたち)に依(よつ)て名付(なつけ)
たるものなりその日本に流行(りうかう)せし事/栄花物語(ゑいくわものかたり)なとに見へ年限(ねんけん)ありて
必発(かならすはつす)すといへとも定(さたまり)たる数(かす)はなし中頃(なかころ)元禄(けんろく)三年庚午の秋(あき)より
同四年未の三月/下旬(すへ)にて世間(せけん)に流行(はやり)し大人小児(おとなことも)その害(がい)にあふもの
幾千万(いくせんまん)その後(のち)宝永(ほうゑい)五年戊子《割書:元禄三年ゟ|二十三年目》同六年己丑まて日本
国中(こくちう)一/統(とう)にはやり人民(じんみん)死亡(しほう)その数(かす)をしらす又/享保(きやうほ)十五庚
戌年《割書:宝永五年ゟ|二十一年目》はやり又/宝暦(ほうれき)三癸酉年《割書:享保十五年ゟ|二十四年目》はやり
又/安永(あんゑい)五丙申年/流行(はやり)《割書:宝暦三年ゟ|二十四年目》又/享和(きやうは)三癸亥年《割書:安|永》
《割書:五年ヨリ|三十二年目》流行(りうかう)して貴賤上下(きせんしやうけ)その害(がい)をかふむりしこと皆(みな)人の
知(し)る所(ところ)なりおもふにその流行するは疫気(やくき)の運行(うんこう)に随(したかつ)て腑(ふ)
中伏蔵(ちうふくぞう)の毒(どく)感発(かんはつ)する所(ところ)なり中古(ちうこ)よりこれを除(のそく)く方(ほう)も
【左】
又/治療(ぢりやう)の方(ほう)もありといへとも年数(ねんすう)定(さた)まらさるをもつて諸人(しよにん)油断(ゆたん)して
これを信(しん)せす時(とき)にのそんて刃手足掻(もみであがけ)とおよふことなしたとひ
その毒(とく)軽(かるう)ふして急(きう)に平愈(へいゆ)するとも一旦(いつたん)腹中(ふくちう)の腑臓諸経(ふそうしよけい)を
動擾(どうしやう)する事なれは食物禁忌(しよくものきんき)慎(つゝ)しまされはその害(がい)もつとも
はなはたし依(よつ)て今(いま)神聖(しんせい)の除呪法的験(まぢないほうてきけん)の二方を記(しる)して遍(あまねく)く
世(よ)にしらしむ此方(このほう)容易(ようゑき)にして奇々(きゝ)妙々(めう〳〵)となり明(みん)の殷方叔(いんほうしく)
が麻疹心法(ましんしんほう)に奥秘(おくひ)をきはめたる薬剤(やくさい)にもまさりその験(しるし)の
速(すみやか)なる事(こと)誠(まこと)に神(しん)のことし
麻疹除呪法(はしかをかるくするまじない)
【右】
柊(ひいらき)の(の)葉(は)
多羅樹葉(たらしゆよう)
【左】
一/節分(せつぶん)の夜(よ)門(かと)にさしたる柊(ひいらき)の葉(は)を三十三/軒(けん)にて一枚(いちまい)つゝもらひ
あつめ煎(せん)じてはしかせぬ小児(ことも)に呑(のま)すべしかならす軽(かるく)して
殃(わざはい)あることなし
一/多羅樹葉(たらやうのは)一枚(いちまい)とり
麦殿(むきとの)は生(うま)れたまゝに麻疹(はしか)してかせたるのちは我身(わがみ)也けり
といふ歌(うた)を書(かき)はしかせぬ小児(ことも)の名(な)と年(とし)を書(かい)て川(かは)へ流(なが)すへし
かならすはしか軽(かるく)く余病(よひやう)も出(いで)ず
右は我(わか) 日本/神聖(しんせい)の伝法(てんほう)にして必験(ひつけん)の妙法(めうほう)なり
信(しん)すへし尊(たつとむ)むへし
麻疹(はしか)避忌(へきい)
【右】
腋下狐臭気《割書:わきのした|わきがのにほひ》房中淫液気《割書:男女ましはり|の気》
行遠労汗気《割書:とふみちをしてほね折|あせたしたるにひ》溝糞濁悪気《割書:ふるどふのくされ|つちのにほひ》
諸瘡腥臭気《割書:てきものうみちの|にほひ》砒硫蚊煙気《割書:ひそうゆわう|かいぶしの気》
誤焼頭髪気《割書:かみの毛を火に|入れたるにほひ》吹滅灯燭気《割書:やすろうそくを|吹けしたるにほひ》
柴煙魚骨気《割書:かまとのけむとうをの|ほねのやけるにほひ》葱蒜韮薤気《割書:ねきにら大にら|らつきよのにほひ》
煎炒油煙気《割書:あふらけを|するにほひ》酔酒葷腥気《割書:さけのみがねきや|まくろをくひたるにほひ》
麝香燥気《割書:香剤(かうざい)にしてかはかす|ゆゑいむ》
【左】
生人性来《割書:しらぬひとの|出入》詈罵呼《割書:大/声(こへ)にて|はらたつ事》万【?】梳頭《割書:女のかみをゆふ|にむかはす》
右の避忌(へきい)つゝしむ時はおもき症(せう)も軽(かる)くなりつゝしまされば
軽(かる)き症(せう)も重(おもき)きに変(へん)す豈(あに)これをつゝしまさらんや
右/数条(すじやう)は著作(ちよさく)の趣意(しゆい)にして正尽無交(しやうじんむかう)の常(とく)【?】
実話(じつは)麻疹(はしか)の害(かい)を免(まぬか)れ玉はん事をおもふ老婆心(ろうばしん)也
見玉はんへ必(かならす)あなづり捨(すて)玉ふへからす時にこれより
御伽双紙(おときさうし)第二番目(たいにばんめ)串戯(くわんぎ)教訓(きやうくん)始(はしまり)左様(さよふ)【串戯=冗談】
チヨン〳〵〳〵 幕(まく)
【右】
まいがたかい【前が高い】
下に居(いろ)〳〵【「座っていろ」と言っている】
アノ娘は十六七と見へる
つけこめ〳〵
アノ
としまは
此よい【「此宵」の意味?】
おれが
なやました
こちらにたこと【をヵ】
あげているは
だゞ吉では
ないか
あいつ我まゝ ものだ
ちと こらしてやれ
【図中文字】
なにか
けふは
はださむい
【左】
此ころよめ
の
そうだんかあるか
おらが
おしこむと
のびと
なる
じや
なんでもはたち
下たのものは男でも
女でも とつ付け〳〵
麻疹鬼(はしかかみ)風雲(かざくも)に
乗(のり)りて
世界(せかい)を見おろし
人(ひと)を悩(なやま)す評議(ひやうぎ)
の図(づ)
【図中文字】
どふか
ぞつといふきみだ
風でもひきはせぬか
はしかゞ
はやると
いふ
さたゞ
おいらは
こゝろが
やすい
【右】
はしかかみ下界へ
来り
人にとり つく
図(づ)
折助どん【折助=武家の下人のこと】
ぞつとする
きみは
ないか
【13〜18行目は左から読む】
にほひだ【匂ひだ】
あだな【色っぽい】
それに又
出来た
よく
此あねさんのかみはよつほど
【左は図のみ】
【右】
はしか
初(はしめ)発(ほつ)
熱(ねつ)を
出(だ)す
図(づ)
此くすりは一はいに
つまるのだ
【左】
どうだまたねつが
あるが何ぞどくでも
くはせはせぬか
なんだかけふは又
きむづか
しう
こざり
ます
坊さんこれ
うまい
ものが
ある
【右】
麻疹鬼(はしかかみ)
来(きたり)て
悪寒頭痛(おかんづづう)
を
させる
図(づ)
【図中の文字】
たれぞちつと
かわつて
くれろ
ぞく〳〵して
づゝうが
いたします
あおけ〳〵〳〵
おいしやさままた
升麻葛根か
ハヽアましん
じや
【左】
御くすりは
出来
まし
たか
モウふいこを
しかけてねつを出しては
とふだ
しめた
ぞ〳〵
此むすめは
いま四五日
ゆるしてやれ
かはい
そふ
しや
【右】
【図中の文字】
あしもとの
あかるい
ころ
はやく
にけるが
かちだ
桔梗湯五郎(ききやうとうごろう)が
矛先(ほこさき)
あたる
へかす
さじさきのまはるだけは
盛(もつ)て〳〵 もりまはすぞ【盛る=薬を処方する】
さつとふり出した
ところが
こんな
ものだ
【左】
参蘓飲入道(じんそいんにうどう)
先陣(せんぢん)に
進(すゝん)んで
麻疹鬼(はしかかみ)を
追(おい)まくる
図(づ)
【図中の文字】
五苓散之助(ごれいさんのすけ)
御手際(おてきは)
感心(かんしん)仕(つかまつり)ました
ころんでも
たゞは
おき
られぬ
【人物名】
桔梗
参蘓
五苓
【右】
【図中の文字】
【芒消】
サアおれが
ちからいつはい
おし
つけて
たて
くだし
だぞ
【はつか=薄荷】
おれも爰では中位たが
馬しま【高島?】の家伝では名が高い
【連翹の台詞、左から右へ読む】
値が高い
鼻より
おれも 今度ちと
近年 なかつたか
あた まをあける事も
【山巵子】
ヲイ黄苓さんもちつと
そつちへよりねへ
なける所がねへ
【麻疹鬼?】
しりのあなからおひ
出されるのが
こいつは
おそれる
【大黄】
名目はかりでも
たれしらぬものも
ある
めい
ゑんまと
いわづとも
大わう
には
おそれる
【黄苓と甘草に捕まった鬼】
人をあまく
見たら
とんだからいめに
あつた
涼膈剤助(りうかくさいすけ)
大熱(たいねつ)の軍勢(ぐんせい)を
退治(たいぢ)する図(づ)
【図中の文字、人物名。すべて生薬の名前】
芒消【ぼうしょう=芒硝】
はつか【薄荷】
連翹【れんぎょう】
山巵子【さんしし=サンザシの実】
大黄【だいおう】
甘草【かんぞう】
【右】
黄連解毒(わうれんけどく)
白虎湯蔵(びやくことうそう)
煩燥(はんそう)の軍勢(ぐんぜい)
を
しづめる
図
【左】
【ちも(知母)】
おれも唐物でなけれは
こふはりきめぬ
【石膏】
とりしめ
やうを【取締めやうを】
見そこ
なつた
か
【鬼】
ねみゝに水
こりやた
まらぬ
とうぞう
には
叶はぬ
〳〵
【人物名、すべて生薬の名前】
黄柏【キハダ】
山巵子【さんしし。クチナシの実。=山梔子】
黄蓮【おうれん】
黄苓【おうごん】
ちも【知母、ハナスゲ】
石膏【せっこう】
【右】
【図中文字】
本町
本陣図
三丁目
【左】
大黄は
冬船が
すくなひ
から
こまり
ます
大わうと甘草
これには
こまる
これからまた
五十けん
斗【ばかり】
まへるだ【=まえるだ、参るだ。「〜だ」は田舎言葉の語尾か】
【右】
頃(ころ)は天放(てんほう)二十三年/人間世界安楽(にんけんせかいあんらく)にして四海浪静(しかいのなみもしつか)に
吹(ふく)風の神もおとなしく万民無病息才(はんみんむひやうそくさい)なりしが天地運(てんちうん)
行(こう)の気(き)はのがれがたく一の殃害(わさわい)出て来たりその由来(ゆらい)を
尋れば享和(きやうは)三年/薬種療治之助攻有(やくしゆりやうぢのすけこうゆう)に責伏(せめふせ)
せられ西(にし)の海(うみ)に隠(かくれ)れ居(い)たりし麻疹鬼(はしかがみ)年(とし)〳〵厄払(やくはらい)か引(ひつ)
握(つかん)んでさらりさつと投込(ほうりこみ)し悪魔外道(あくまげとう)を集(あつめ)め人間世界(にんけんせかひ)を
犯(おかし)し脳(なやま)【ママ、○悩。以下同】さんと去年(こその)秋(あき)の末より風の神を頼(たのみ)み人〳〵の油断(ゆだん)
を見(み)すまし先襟(まづゑり)もとより責入(せめいり)背中腰骨(せなかこしほね)に至り(いたり)り腑中(ふちう)
に隠(かくれ)れ居(い)たる毒二郎(どくじろう)といふ溢者(あふれもの)と割符(わりふ)を合せ先(まづ)一/番(ばん)に
向井/肺蔵(はいぞう)か持分(もちふん)へ押込(おしこみ)嚏咳嗽(くさめせき)などを出(いた)し咽(のんど)を痛(いため)め
声(こひ)をからし又(また)赤木心之丞(あかきしんのぜう)か領分(りやうぶん)へ火攻(せめ)の大熱(たいねつ)を発(はつ)して
【左】
譫語(たはこと)忘言(むたこと)【○妄言】をいわせ或は胃蔵(いぞう)が構(かまひ)を水/責(せめ)にして泄瀉(くだ)し又は
大小/便(へん)両道(りやうどう)をとり塞(ふさ)きて不通(とをさす)さま〳〵手をかへて責脳(せめなやまし)し
その後(のち)毛穴皮上(けあなかわうへ)に押(おし)出し二十三年の蟄懐(ちつくはい)をはらし
楽(たのし)まんもし又ふ養生(ようせう)にしてつゝしまざるものあらは再(ふたゝび)ひ押入り
心のまゝに責脳(せめなやま)さんと評議既(ひやうぎすて)に一決(いつけつ)して正月の頃より大
都(と)端(はし)〳〵に押寄(おしよせ)せたり然(しかる)るに人間世界(にんけんせかひ)は久しく無事なり
けれは若(わか)きもの小児(ことも)ならは屁(へ)ともおもはす何のその麻疹(はしか)
とやらいか程(ほと)の事かあらんと平気(へいき)になりて居(い)たりけるに
三十以上の人は已前(いせん)に手ごりし何さま手当(てあて)せすはあるへからす
と覚(おほへ)へを取りたる薬種勢(やくしゆせい)を■催(もよう)しけれ第一/番(ばん)に升麻(しやうま)
葛根(かつこん)を尋(たつね)けるに此物(このもの)久しく人に用ひられ筵俵(むしろたはら)に包(つゝ)まれ【包われ?】
【右】
蔵(くら)の下積(したつみ)して居(い)たりけるを探(さがし)し出しはしかせめ来るよしを
咄(はなし)しけれは升麻葛根(しやうまかつこん)忽(たちまち)ち意追(いきほひ)【?】高(たかく)く声(こへ)張上(はりあけ)け時(とき)なる
かな〳〵我等(われ〳〵)両人芍薬甘草(しやくやくかんそう)と心を合せ采配取(さいはいとつ)て
先陣(せんちん)に向(むか)はゝ二三ヶ月か又半年の内に再度(ふたゝび)無病(むびやう)安(あん)
楽(らく)の世(よ)と成(なる)すべし【○成(なす)すべし】しかしなから参蘇飲入道(じんそいんにうとう)五苓散之助(これいさんのすけ)
桔梗湯五郎(ききやうとうごろう)などをも召(めし)つれ然(しかる)るべし涼膈剤介(りやうかくさいすけ)百虎(ひやくこ)
湯蔵(とうそう)は敵(てき)の様子(よふす)を見合(みあは)せ扣(ひかへ)【控】させんいつれ御医者(おいしや)のさしづに
依(よつて)て精力(せいりき)を尽(つくし)し責伏(せめふせ)んと威勢盛(いせいさかん)んに見へたりけるさて
麻疹勢(ましんせい)は先(まつ)子供大勢(こともたいせひ)の店(たな)を伺(うかゝ)ひ夜詰怠屈(よつめたいくつ)に
居眠(いねむり)りたる透(すき)を見すましぞつと一風吹かせて責入(せめいり)けれは
爰(こゝ)にも三人/彼所(かしこ)にも五人/頭痛発熱(つゝうほつねつ)終(つい)に騒動(そうどう)のもととは
【左】
なりにけり此よしはやく薬種方(やくしゆかた)に聞(きこへ)へけれは升麻葛根(しやうまかつっこん)
早速(さつそく)芍薬甘草(しやくやくかんそう)を引連(ひきつれ)れ身を火水に投(なけ)入れ徳利(とくり)の
内(うち)にかくれ毎朝(まいあさ)〳〵責(せめ)かけければ何(なに)かはもつてたまるへき手(て)
合(あい)の合戦(かつせん)は麻疹勢(はしかせい)まづかる〳〵と逃出(にけいて)たりかゝる様子(よふす)にては
格別(かくへつ)の案事(あんし)しもあるましと人々おもひける所に神田の八丁堀
に住(すまい)ける孫二郎が隣長屋(となりながや)に茶(ちや)九郎といふ若者(わかもの)あり
一旦(いつたん)麻疹勢(はしかせい)に脳(なやま)【悩】まされしが防禦(ふせき)の薬種勢(やくしゆせい)いろ〳〵
手(て)を尽(つくし)し早々(そう〳〵)に追退(おいしりそけ)け五六日にて平癒(へいゆ)しけるかげび
蔵(そう)なる生(うま)れつきにて一寸(ちよと)と向(むかふ)ふの屋台店(やたいみせ)葱真黒(ねぎまくろ)
なとをつまみ喰(くひ)貧乏徳利(ひんほうとくり)もなつかしくなり一盃(いつはい)き
げんに心うかれ何のまゝのかはよが破(やぶれ)れの小口(こくち)一と夜夫婦(よふうふ)
【右】
まくらを並(ならへ)らへて寝(ね)たりけれは麻疹勢(はしかせひ)此虚(そのきよ)を伺(うかひ)ひ
まづ風(かせ)を吹(ふかせ)かせて嚏(くさめ)をさせ火床(ほど)にふいごをしかけ
て大熱(たいねつ)を起(おこし)し槌(つち)をもつて頭(かしら)を打(うつ)て頭痛(づゝう)させその外(ほか)
いろ〳〵の道具(とうぐ)をもつて責悩(せめなやまし)しけれは茶(ちや)九郎大に驚(おどろき)き
始(はしめ)て不養生(ふようせい)より此苦(このく)を得(ゑ)たる事を悔(くゆ)るといへともせん方(かた)
なく打臥居(うちふしい)にけるを升麻葛根/此体(このてい)を見て憎(にくき)き
麻疹(はしか)めか振舞(ふるまい)かないて一と攻責(せめせめ)て追至(おいいた)さんと兼(かねて)
て用意(ようい)の仲間(なかま)黄連解毒(おうれんげとく)を先(さき)に立(たて)て麦門(ばくもん)地(ぢ)
骨皮(こつひ)をさし添(そへ)或は白虎湯蔵(ひやくことうそう)と差替(さきかはり)〳〵手(て)を尽(つくし)し
て責立(せめたて)けれははしか勢(せい)遂(つい)に追(おい)まくられ此所(このところ)を立(たち)さりける
又(また)与太郎町に住(すまへ)ける町人の一人息子(ひとりむすこ)駄太吉(ただきち)とて
【左】
伊吾(いご)にはすこし 生(うまれ)れ まし涎喰(よたれくい)とは兄弟分位(きやうだいふんくらい)の生(うまれ)れつきにて七八
才(さひ)にも成(なり)りけれと常(つねに)に父母(ふぼ)の仰(おふせ)も聞入(きゝいれ)れす我侭(わがまゝ)なりけるを麻(はし)
疹勢(かせい)これ幸(さいわい)と押込(おしこみ)何でも四文(しもん)の煮(につけ)つけ肴屋(さかなや)胡麻揚(こまあけ)
天麩羅(てんふら)なとを鼻先(はなさき)へ持参(もちまいり)いろ〳〵ねたり言(こと)をいわせおもふ
さまたく【堂〳〵?】させて仲間(なかま)暫(しはらく)く此/所(ところ)に逗留(とうりう)し草臥(くたひれ)を休(やす)めんと
おもひしに薬種(やくしゆ)かた早く是を知(しつ)てもし此虚(このきよ)に乗(のつて)て痩多(やせた)
疳之丞(かんのしやう)出(いて)て來(きた)らば大なる難義(なんぎ)とならんとその手当厳重(てあてけんちう)にし
て甘(あまき)き物(もの)また生(なま)にて冷(ひへ)たる物(もの)腥(なまくさ)き魚類(うをるい)等を禁(きん)し手(て)を尽(つくし)して
防(ふせき)きければこれも難(なん)なく快気(くわき)すといへ共/危(あやう)かありける次第
なり今(いま)子供衆(こともしう)のねだり事をいふを駄太(だゞ)といふは此駄太(このだゞ)
吉(きち)より始(はじまり)りけり又或は店(たな)の番頭(はんとう)薬種勢(やくしゆせい)の御影(おんかけ)に依(よつて)て
【右】
かる〳〵と仕(し)てをり身(み)を慎(つゝ)しますふつとおもひ冨ケ岡のかた波(なみ)
の上の風紀(ふうき)を犯(おかし)し早帰(はやかへ)りの心熱(しんねつ)となり再(ふたゝ)ひ麻疹勢(はしかせい)
に責寄(せめよせ)られすてに危(あやうく)く見へたりしが薬種勢(やくしゆせい)心を合せ御医(おい)
師(し)の軍配(くんはい)に随(したかい)ひこれも漸(ようやく)く快気(くわき)なり又或(またあるい)はうかれ
女(め)の十年/苦界(くがい)の苦(く)の内(うち)にまたはしかの苦(く)に責(せめ)られよるべ
定(さだ)めぬ流(なかれ)れ身(み)仇浪(あだなみ)かけし仇枕(あたまくら)かはす詞(ことば)はいつわりの誠(まこと)すく
なき人心かくての果(はて)はいかにせんと忍(しのひ)ひ涙(なみた)にに胸(むね)せまりたばこ
のんでもきせるよりとはおもひ重(かさな)る人の上(うへ)飯(まゝ)も透(とを)らぬ難症(なんせう)
なりしが薬種勢(やくしゆせい)ひとしほ哀(あはれ)におもひ評義(ひやうぎ)しけるは産(うみ)の
親(おや)は越路(えちろ)のすへはる〳〵爰(こゝ)に流(ながれ)れ来(き)て沈(しつみ)み果(はて)たる事なれは
病(やま)でさへ年の内/浮(うかむ)む瀬(せ)はなき身(み)の上(うへ)なれはいで精力(せいりき)を
【左】
尽(つくし)し救(すく)はんと名高(なたかき)き医師(いし)と心を合せ一ヶ月/余(よ)の日数(ひかす)を経(へ)て
漸(よふ)〳〵病の床(とこ)をはなれたりしが我侭(わがまゝ)ならぬ五尺(ごしやく)の身(み)すがゞき【弦楽器をかき鳴らすこと】
の音(ね)にせり立られ夕みせの勤(つとめ)にすはりたれどいまたほど経(へ)ぬ
病の身物おもひにおのつから懐(ふところ)に顔(かほ)さし入れうつぶきたる
額(したい)にほつれかゝりし前髪(まひかみ)も殊(ことに)にうつくしく見へたりければふと
煩脳(ぼんのう)【煩悩】の風誘(かせさそう)ふに格子先(こうしさき)より見立られかはす枕(あくら)の床(とこ)のうち
おもしろそふな客人(きやくじん)とおもふ心の迷(まよひ)より下紐(したひも)までもうちとけて
かたらひけるけのきぬ〳〵の朝(あした)より再(ふたゝひ)ひはしか勢(せい)につけこまれ
既(すてに)に危(あやうく)く見へたりしが薬種勢(やくしゆせい)臨機応変(りんりおうへん)千変万化(せんへんばんくわ)
その身を守護(しゆご)して責立(せめたて)ければ又/安楽(あんらく)の身となりたりける
是皆(これみな)不養生(ふようせう)の仕(し)そこなひおそれつゝしむへきことなり扨(さて)此後(このご)
【右】
麻疹勢(はしかせい)は威勢(いせい)をうしなひ薬種方(やくしゆかた)は十/分(ふん)に勝(かち)ほこり大言(たいけん)を
吐(はい)てりきみける譬是(たとひこれ)より麻疹勢(はしかせい)張良(ちやうりやう)孔明(こうめいが)計(がはかりこと)をもつて
責(せむる)るとも我(われ)また孫呉(そんご)の秘術(ひしゆつ)を尽(つくし)し半年(はんねん)はかりの内(うち)には
一向(ひたすら)安楽(あんらく)無病(むひやう)の世界(せかい)となさんと本町(ほんてう)三丁目に本陣(ほんちん)を居(す)へ町〳〵
薬種屋(やくしゆや)に出張(てはり)を構(かまひ)ひ威儀厳選(いぎけんせん)と備(そなへ)たれば麻疹一統(はしかいつとう)
に流行(はやり)たりとも万民無恙世(はんみんつゝがなきよ)の中(なか)とならんこと千秋万歳万(せんしうはんさいはん)〳〵( 〳〵 )
歳(さい)もめてたかりける次第(したひ)なり
文政七甲申三月吉日 小伝馬三丁目 蔦屋十三郎
通油丁 鶴屋喜右エ門
新刻発行 人形丁通り 同 金助
両国広小路 山田佐助
【左】
《割書:御かほの|くすり》美艶仙女香(びゑんせんぢよこう) 一包四十八孔
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
此御くすりは享保(きやうほ)十一年二十一番の船主(せんしゆ)伊浮九(いふきう)といへる
唐人(とうじん)長崎偶居(なかさきぐうきよ)の時(とき)丸山の全盛中近江(ぜんせいなかあふみ)や菊(きく)野と称(せう)せし
遊女(ゆうぢよ)に授(さつけし)し奇絶(きたい)の妙薬なり功能(こうのう)は包紙(つゝみかみ)にくはしく記す
十包以上御もとめ被下候へば三芝居役者(さんしばいやくしや)自筆(しひつ)の扇子(あふき)景(けい)物に【景物=風情あるもの、興味をそそるもの】
さし上候御用のせつは御ひゐきの役者名前(やくしやなまい)御好可被成候
___________________
調合弘所 《割書:江戸南伝馬丁三丁目|いなり新道いあなりの東となりにて》 さか本氏製
【弘所=ひろめどころ】
火ろたを年
六りうまつ方はりて
麻病ら深り
ひくよ
松種
【カバー】
《題:避疫要法 全》
【カバー】
【背】
避疫要法
【表】
《題:避疫要法 全》
【表紙】
《題:避疫要法《割書:一三■六|》 全》
大祲後。毎有疾疫。聞丙午之災。明春疫死者。十倍餓死
者。本年荒歉。殆如丙午。而疾万寖興。高野翁憂之。有此
小著。其述辟方及治方頗詳。夫疫行而辟之。辟之不得
而治之。猶如橋解頼有舟楫。則其於済患也広矣。梓戌。
欣然遂題。丙申至日後五日羽倉則識 内田恭書
避疫要法
序
夫 ̄レ凶歉 ̄ト与 ̄ハ_二疫疾_一 天-災 ̄ノ之最 ̄モ大 ̄ナル者 ̄ニシテ而 ̄シテ両 ̄ツノ者並 ̄ビ至 ̄ル往-々有 ̄リ_レ之方人治-化
隆-盛 官 ̄ニ有 ̄テ_二賑-済之法_一而 ̄シテ民不_レ飢 ̄エ焉医 ̄ニ有_二治-疫之書_一而 ̄シテ民不_レ夭 ̄セ焉
独 ̄リ至 ̄テ_二避疫之法 ̄ニ_一未(ス) ̄タ_二嘗 ̄テ之 ̄ヲ聞 ̄カ_一也余病 ̄ミ_レ之前 ̄ニ著 ̄シ_二瘟-疫-考 ̄ヲ_一附 ̄ス_二避-疫之法 ̄ヲ於
巻-末 ̄ニ_一而 ̄シテ校-讐未 ̄タ_レ竣 ̄ラ今-冬既 ̄ニ見_二疫-疾之兆 ̄ヲ_一於 ̄テ_レ是 ̄ニ先 ̄ツ摘_二-抄 ̄シテ其要 ̄ヲ_一命 ̄シテ_二門-生
高橋景-作 ̄ニ_一校 ̄セシメ_レ之 ̄ヲ名 ̄ケテ曰 ̄フ_二避-疫要-法 ̄ト_一其 ̄ノ専_二-用 ̄スル国-字 ̄ヲ_一者 ̄ハ使(ムル) ̄シテ_三レ 人 ̄ヲ易 ̄カラ_二通-暁 ̄シ_一也是 ̄レ
【ルビは左ルビ】
瑣-々《割書:タル》小-箋雖 ̄トモ_レ不 ̄ト_レ足 ̄ラ_レ観 ̄ルニ因 ̄テ_レ此 ̄ニ得 ̄ハ_レ免 ̄ルヽコトヲ_二其 ̄ノ患 ̄ヲ_一則 ̄チ此 ̄ノ舉豈 ̄ニ無 ̄ランヤ_三裨_二-益於世 ̄ニ_一哉如 ̄ハ_二
其 ̄ノ詳-説 ̄ノ_一載 ̄テ在 ̄リ_二瘟-疫考 ̄ニ_一観 ̄ル者 ̄ノ察 ̄セヨ諸
丙申至日後二日瑞皐高野譲長英識於東都麹町甲斐坂
之大観堂
避疫法(ひゑきほう)【「ヤクヨケカタ」左ルビ】の概略(がいりやく)【「アラマシ」左ルビ】
○凡そ疫熱(ゑきねつ)【「ヤクビヤウ」左ルビ】流行(りうかう)【「ハヤル」左ルビ】するときは都府(とふ)【「ミヤコ」左ルビ】も田舎(でんしや)【「イナカ」左ルビ】も同(をな)じことにて貴(たつ)ときも
賤(いや)しきも皆(みな)その傳染(でんせん)【「ウツル」左ルビ】を恐(をそ)れて其(その)病人(ひやうにん)に近(ちか)よらずしてこれを
避疫(ひゑき)【「ヤクヨケ」左ルビ】良法(りやうほう)【「ヨキシカタ」左ルビ】と心得(こゝろえ)るなり是(これ)も其理(そのこと)はりなきにもあらねとも元来(くわんらい)疫
熱のはやる時(とき)は天地(てんち)の間(あいだ)に異(こと)なる一戻氣(いちれいき)【「ドクキ」左ルビ】あるゆへに其/病人(びようにん)を訪(と)へ直(たゞ)
ちにこれより傳染(でんせん)せざるもわれしらず此氣(このき)に感(かん)じて自然(しぜん)に此(この)
病(やまい)を發(はつ)することあり是(これ)を以(もつ)て第一(だいいち)に人々(ひと〳〵)の身體(しんたい)【「カラダ」左ルビ】此(これ)に感(かん)ぜぬよふ
に心(こゝろ)を用(もち)ひて養生(やうじやう)すべきなり其(その)養生法(やうじやうほう)甚(はな)はだ多(おぼ)し或(あるい)は吐(は)き
薬(くすり)を用(もち)ひ或は胃(い)【「ハラ」左ルビ】を健(すこ)やかになす薬を用ひ或は絡(らく)を刺(さ)し血(ち)をとり
或は下(くだ)し薬を用(もち)ゆ何(いづ)れも/功験(こうげん)【「シルシ」左ルビ】ありといへども/其中(そのうち)にて下(くだ)し薬
を用(もち)ひて腹(はら)の内(うち)を清潔(せいけつ)【「キレイ」左ルビ】になして壅滞(ようたい)【「トヾコヲリ」左ルビ】なきよふにするを避疫の
尤(もつと)もよき法(ほう)となすなり此薬(このくすり)には大黄(たいわう)二匁(にもんめ)覇王塩(はわうゑん)一匁(いちもんめ)《割書:下にい|だす》白石(はくせき)
鹸(かん)一匁《割書:下にい|だす》の割(わり)にて先(まづ)大黄覇王塩を粉(こ)となし石鹸を交(まじ)へ糊(のり)
にて丸薬(くわんやく)となし一/日(ひ)に懸目(かけめ)五分(ごふん)ほどづゝ用ひて一日に二度(にど)ぐらい下(くだ)る
ほどになし三四日(さんよつか)も連用(れんよう)【「ツヽケモチユ」左ルビ】すべし若(も)し/又(また)田舎(でんしや)にて右(みぎ)の薬(くすり)買調(かひとゝの)へがた
く拠(よりところ)なき時(とき)は大黄二匁/芒硝(ぼうせう)一匁右/粉(こ)となし糊にて丸薬となし
又は粉薬(こくすり)となし用(もち)ゆるなり又/三黄丸(さんわうぐわん)芎黄散(きうわうさん)などにてもよし
服量(ふくりやう)は人(ひと)の性(せい)によりて五六分(ごろくふん)も用(もち)ゆるなり凡(をよ)そこれを用いて外(ほか)に
不養生(ふやうじやう)の事(こと)さへなければ多分(たぶん)は疫熱に染(そま)ぬものなりたとへ萬一(まんいち)これ
に染(そ)むも多(おほ)くは軽症(けいしやう)にして死(し)にはいたる者(もの)なしとす凡そ凶年(きやうねん)の
後(のち)に疫熱はやるは皆(みな)麁飧(そぞん)悪食(あくじき)のために腹中(ふくちう)に/汚物(をぶつ)【「アシキモノ」左ルビ】鬱滞(うつたい)【「トゞコウル」左ルビ】し
胃腸(いちやう)【「ハラ」左ルビ】衰弱(すいじやく)【「ヨハル」左ルビ】するゆへに其/始(はじ)めは僅(はづ)かばかりの感冒(かんぼう)【「カゼヒキ」左ルビ】にても遂(つい)には疫熱
となるなり但(たゞ)しこれには大に道理(どうり)あることにて余が著はす瘟(をん)
疫考(ゑきかう)といふ書(しよ)の内(うち)に詳(つま)びらかにすれども/平人(へいにん)【「シロウト」左ルビ】には知(しら)らずしても
よきことなれば此(こゝ)に略(りやく)す只(たゞ)このゆへに腹中(ふくちう)の掃除(そうじ)を専一(せんいち)とすべし
さればとて漫(みだ)りに下(くだ)すは胃腸(いちやう)に損害(そんがい)あれば一月(いつげつ)のうちに一二度(いちにど)も
下(くだ)してのち左の煎薬(せんやく)を二三/服(ぶく)も用ひて胃腸を調(とゝの)ふべし其方
藿香(くわくこう)《割書:大々》木香(もくかう)《割書:小》益智(やくち)《割書:小》芍薬(しやくやく)《割書:大》右(みぎ)水(みづ)にて煎(せん)じ用ゆるなり又疫
熱は氣の鬱(うつ)する處よりも起(をこ)るを以(もつ)てなるたけは家の内を掃除(そうじ)し
/塵埃(じんあい)【「チリアクタ」左ルビ】不浄(ふじやう)のものなきよふにいたすべし田舎(でんしや)にて疫熱/多(おほ)きわけ
は家の内庭(うちには)の面(をも)て等(とう)の掃除(そうじ)あしくして室内(しつない)に氣の鬱(うつ)する
によりて元(もと)より疫毒(ゑきどく)もあらぬに自然(しぜん)と疫熱を生(しやう)すればなり江都(えど)
にても中間部屋(ちうげんべや)御救小屋(おすくいごや)牢内(ろうない)等(とう)にては世上(せじやう)に疫熱なきときにも
常に此/病(やまい)あるは氣の鬱するによるなり又/大商戸(だいしようこ)【「オゝダナ」左ルビ】等の如き狭(せま)き
處に数(す)人/鱗次(りんじ)【「ゴタ〳〵」左ルビ】して寝食(しんしよく)【「クラス」左ルビ】する家又は裏店(うらだな)の如(ごと)き一方口(いつほうぐち)の處には
疫熱多くして高門(こうもん)【「ウエズガタ」左ルビ】大廈(たいか)【「ヤシキガタ」左ルビ】等の廣濶(かうかつ)【「テビロ」左ルビ】なる住居(じうきよ)【「スマイ」左ルビ】に疫熱少なきは氣
の鬱すると鬱せぎるの二つに因(よ)るなりこのゆへに寝室(しんしつ)【「ネマ」左ルビ】居間(いま)等
にはとりわけ窓(まと)をつけ氣(き)の通(つう)するふふになすべし 本邦(ほんほう)【「ニツポン」左ルビ】の
風俗(ふうぞく)にて疫熱に限(かぎ)らず総(そう)じて熱氣(ねつき)ある病には夜被(よぎ)を重(をも)くなし
固(かた)く窓戸(そうこ)【「マドシヤウジ」左ルビ】を閉(とぢ)或(あるい)は屏風(びやうぶ)を繞(まは)し少しも風の來(きた)らぬよふになし
只(たゞ)汗(あせ)のみ出(いだ)してよきことのよふにおもふは大(おほい)なる謬(あやま)りなりこれにては
軽(かろ)き病も重(おも)き病となるものなりよく〳〵この處を了解(りようげ)【「ガツテン」左ルビ】して氣の
通(つう)し風の來(きた)るよふになして内(うち)にある陳舊(ちんきう)【「フルキ」左ルビ】の汚氣(をき)【「アシキキ」左ルビ】を除(のぞ)き外(ほか)にある新(しん)【「アタラ」左ルビ】
/鮮(せん)【「シキ」左ルビ】なる清氣(せいき)【「ヨキカゼ」左ルビ】を入るべしよく此氣を入れ代(かゆ)る法は先(ま)づ冬なれば病人の
寝室の窓戸を閉(と)ぢて其内に大なる火鉢(ひばち)に火を熾(さかん)になしたる
を置(を)き温(あた)たかになし急(きう)に窓(まと)の戸を開(ひら)くべし然(しか)るときは其内(そのうち)の旧(ふる)
き氣(き)は外(ほか)へゆき外の新(あたら)しき氣は内に入り新旧(しんきう)交代(かうたい)するなり其後火
鉢(ばち)を去(さ)り戸を閉るを良(よし)とす大抵(たいてい)熱病(ねつびやう)には此法(このほう)を一日に三四度(さんよど)も
行ふべし又夏なれば火(ひ)を用ゆるに及(およ)ばず其寝室の内に風の少し
來りて稍(やゝ)涼(すゞ)しきよふになすべし又大勢の人/攅簇(さんぞく)【「ゴタ〳〵」左ルビ】して病室(びやうしつ)【「ビヨウニンベヤ」左ルビ】に集(あつま)
り看護(かんご)するは氣を鬱せしむる理(ことは)りあれば宜(よろ)しからずとす無/用(よう)の人は
なるたけこれに居(お)らぬよふになすべし但(たゞ)し若(も)し又やむ事なき
わけにて大勢/居(お)るときはこの上(うえ)に出す法を幾度(いくど)も行ふて氣を入れ
代(か)ゆべしさればとて病人寒さを覚(おぼゆ)るほどに風の來るは宜(よろ)しからず此處(このところ)
に斟酌(しんしやく)して感温(かんをん)【「サムサアタヽカサ」左ルビ】のぐあひほとよきよふになすべし又疫熱はこれを
看護(かんご)する人に傳染(でんせん)するはもとより論(ろん)なくその近隣(きんりん)にも傳染(でんせん)する
ことあるゆへに 本邦(ほんほう)昔(いにしへ)よりの風習(ふうしう)【「ナラハセ」左ルビ】にてその看病人(かんひやうにん)は鼻(はな)には龍脳(りうのう)麝(じや)
香(かう)の如(こと)き芳辛香竄(ほうしんかうざん)【「カヲリニホウ」左ルビ】の物(もの)を塗(ぬ)り其(その)側室(わきべや)には沈香(ぢんかう)蒼术(そうしゆつ)【「ヲケラ」左ルビ】等(とう)を炷(た)き其近隣
にても蒼木【术】陳皮(ちんひ)杜松木(とせうぼく)【「ソチレマツ」左ルビ】等はいふに及ばず干(ほ)し鰑(するめ)の類(るい)にても炷(た)きて
其/毒氣(どくき)を避(さけ)んとす按(あん)ずるにこれはよき法にあらず益(ゑき)なくにして害(がい)
多(おゝ)し行(をこな)ふべからず物(もの)を薫(くん)【「カヲラセ」左ルビ】してこれを避(さく)るのよき法いく通(とふり)りもあり一法(いつほう)
に蒸露罐(しやうろくわん)【「ランビキ」左ルビ】にてひきたる醋(す)を藁(わら)などの箒(はゝき)の先にひたしこれを揮(ふる)つ
て壁戸(へきと)に漉(そゝ)ぎかけ土鍋(どなべ)に龍脳醋(りうのうさく)《割書:下にい|だす》を入(い)れ微火(びくわ)にて温(あた)ため其/蒸(ゆ)
氣(げ)を室内(しつない)に満(みた)しめ時々(とき〴〵)かくの如(ごと)くになすなり又(また)法爐(ほうろ)の上(うへ)に鍋(なべ)を
かけこれに灰(はい)と砂(すな)とを入(い)れ焼(やき)ものゝ壺(つほ)をとりて其半(そのなか)ば頃(ごろ)まで埋(うづ)
めその内(うち)に海塩(うみしほ)を入(い)れ灰(はい)砂(すな)及(およ)び塩(しほ)も温(あたゝか)になるたるとき緑礬酸(りよくばんさん)【「ロウハノス」左ルビ】
《割書:下にい|だす》を塩(しほ)の内(うち)へ灌(そゝ)ぎかけ烟(けふり)を升發(せうはつ)せしめこれを室(へや)の内(うち)に満(みた)しむ
るなり大抵(たいてい)室内(へや)の濶(ひろ)さ畳(たゝみ)四十枚(しぢうまい)ほども敷(しく)くらいなれば海塩の量(かさ)
七十八匁緑礬酸の量(かさ)六十五匁にて足れりとす室の大小に準(じやん)じ此割(このわり)にて
此品(このしな)を増減(ましへら)すべし二法(にほう)とも疫毒を制伏(せいふく)し傳染(てんせん)を防(ふせ)ぐの良法(りやうほう)な
りとはいへども人の性(しやう)によりて醋(す)の氣(き)を悪(にく)み龍脳(りうのう)の氣(き)を嫌(きら)ふことあり
て上にいたす法/行(おこな)い難(がた)きことあり又/下(しも)に出(いた)す法は人(ひと)其烟(そのけふり)に触(ふる)れば
忽(たちま)ち咽(むせ)びて咳嗽(せき)を發(はつ)し肺臓(はいぞう)に害(がい)あるゆへに此は疫熱にて死(し)せし人
の寝室(ねま)又は久(ひさ)しく人の住(すまい)せぬ空室(あきべや)などには行ふてよしといへとも人の
在(あ)る所(ところ)の居間(いま)寝室(ねや)等には用ひ難(かた)きことありこのゆへに左(さ)に出す法を
尤(もつと)もよしとす其法/細(こま)かなる砂(すな)を土鍋(どなべ)に入れ爐(ろ)にかけて温め水氣(みづけ)去(さる)
に至(いた)り別(べつ)に少(ちい)さき焼(やき)ものゝ猪口(ちよこ)を半分(はんぶん)ごろまで埋(うつ)め硝石(せうせき)【「シヤウエンセウ」左ルビ】の末四匁
ほど其(その)猪口に入(い)れすこし温め窓の戸を閉(と)ぢ其後(そのゝち)緑礬酸四匁ほど
を取りその硝石のうへに注(そゝ)ぎかけ硝子(びいどろ)の火箸(ひばし)にて頻(しき)りに攪動(かきまへ)し
《割書:金類(かねるい)の箸(はし)は|尤(もつと)も忌(い)むなり》烟氣(ゑんき)を發(はつ)せしむるなり此氣は疫毒を制伏するの効(しるし)著(いみ)じ
くして呼吸(こきう)【「イキ」左ルビ】にも害(がい)なく熱(ねつ)を涼(すゞ)しむるの益(とく)ありゆへに何(いづ)れの處にても毒(どく)
氣(き)鬱滞(うつたい)せしとおもふ處には此器(このうつは)を置(お)き氣(き)を升發(せうはつ)せしむべし悪性(あくせう)の
疫熱には一日に二三/度(ど)も此法を以てその寝室を薫(くん)すべし若(も)し又
田舎(いなか)にて物(もの)の不自由(ふじゆう)にて此法行ひかたくやんごとなきときには硝石一
味(み)を火(ひ)に炷(た)き又は線香花火(せんかうはなび)を焼(た)き其氣(そのき)を室内に満(みた)しむべし
疫熱(ゑきなつ)を看護(かんご)し又(また)訪問(ほうもん)する人(ひと)の心得(こゝろえ)
○第一/津唾(しんだ)【「ツハ」左ルビ】は毒氣に感(かん)じ易(やす)きの性(せう)あるゆへに病人の傍(きは)にてこれを呑(のみ)
下(くだ)すこと勿(なか)れこと〴〵くこれを吐出(はきいだ)すべし第二(たいに)、甚(はなは)だ空腹(すきはら)にて病人を
看護すること勿れ食後(はんご)を良(よし)とす又/據(よりどころ)なき事(こと)にて其説(そのせつ)に訪問(ほうもん)せば
酒(さけ)少々(せう〳〵)用ゆるを良(よし)とす第三(たいさん)鼻(はな)には龍脳醋(りうのふさく)をぬるべし石黄(せきわう)雄黄(をわう)等は
宜(よろ)しからず用ゆること勿れ第四(たいし)病(びやう)人/大汗(おほあせ)出(い)て室内(へや)汗(あせ)の臭氣(にをい)ある
ときは戸(と)を開(ひら)き新風(よきかぜ)を入代(いれかゆ)べし第五(たいご)、病人の衣服(いふく)はとき〴〵取(と)り代(か)へ
又は洗(あら)い濯(すゝ)ぎ潔(いさぎ)きものを着(き)せしむべし夜被(よぎ)も時々(とき〳〵)揮(ふる)ひ敷(し)きな
をし室内(へや)も一日に数度(すど)掃除(そうぢ)すべし第六(たいろく)、病人の寝間(ねま)の温度(あたゝかさ)は大(あつ)
過不及(すぎさむすぎ)なきよふに心(こゝろ)を用(もち)ゆべし第七(だいしち)病人の部屋(へや)に人/大勢(おほせい)居(お)らぬ
よふにすべし狭(せま)き部屋なればことさらこれを忌(い)む第八/看病人(かんびようにん)も
訪問人(みまふひと)も毎日(まいにち)浴湯(ゆあみ)し又は灌水(みつあみ)し垢付(あかつか)ぬ衣服(きるもの)を着(きる)べし病人の用
ゆる器(うつは)も念(ねん)いれ洗(あら)い浄(きよ)むべし棻を煎(せん)ずる器(うつは)は焼(やき)ものを上(よし)とす
第九疫熱は恐(をそ)るべき病(やまい)なれどもあまり恐(をそ)るゝは宜(よろ)しからず大(おほい)に恐るゝ
ときは此(これ)に感(かん)じ易(やす)く又感じて其(その)病勢(ひようせい)一層(ひとかさ)重(おも)くなるなり第十(たいじう)
病人と同(おな)じ牀(ゆか)に眠(ねふる)ること勿(なか)れ凡(およ)よこの十(じう)ヶ條(しやう)の事(こと)を心(こゝろ)に記(き)して
兼(かね)て上(かみ)に示(しめ)す所(ところ)の薬(くすり)を用ひ其法を守るときは多(おふ)くは傳染(でんせん)せぬ
ものなれば恐るゝことなく親(した)しきものへは訪問(ほうもん)看護(かんびよう)すべし田舎(いなか)など
にては疫病人の方へは親族(しんるい)縁者(えんじや)朋友(ともたち)までも行(ゆき)き通(かよ)ひなくして病人
見殺(みごろ)しになることあり悲(かな)しむべきことなり皆これを避る法を知(し)
らぬゆへなり
疫病(やくびよう)の人(ひと)快復(くわいふく)し又は死(し)する後(のち)の心得(こゝろへ)
疫熱の病人/死(し)せば早(はや)く其(その)屍(しかば[ね])をかたづけ速やかに埋葬(とむらい)すべし但(たゞ)し
疫熱にて死するものは地氣(ぢのき)をうけて蘓(よみ)がへることあれはよく〳〵心(こゝろ)
得(え)て埋葬(ほふむり)の後(のち)も氣(き)を付(つく)べし○病人/著用(ちやくよう)せし衣類(きるい)は速(すみや)かに洗(あら)ひ
浄(きよ)め毒氣(どくき)を除(のぞ)き又/薫陸(くんろく)【ワノコハク 左ルビ】をたきこれを薫(くん)じ其後/著用(ちやくよう)すべし
○病人の部屋(へや)は快復(くわいふく)の後(のち)なりとも死亡(しぬる)の後(のち)なりとも丁寧(ていねい)に掃除(そうじ)
して日中(ひるなか)には窓の戸をひらきて氣(き)をいれ代(か)へ又は草花(くさばな)を瓶中(はないけ)に
さし水(みづ)を入(い)れこれを其(その)部屋(へや)の日(ひ)のあくる處(ころろ)にいだしてその草花
より新氣(よきき)を吐(は)かしむべし又/上(かみ)にいだす海塩(しほ)に緑礬酸(ろうはのす)を濯(そゝ)ぎ
烟(けふり)を發(はつ)せしめるもよし
疫熱を防御(ほうぎよ)【フセギ 左ルビ】してその蔓延(まんゑん)【フへハビコル 左ルビ】を遮(さへぎ)り止(とゝ)むるの良法(よきしかた)
○ある遠(とを)き國(くに)にて疫熱はやるときは王公(わうかう)貴人(きにん)はいふに及ばず豪農(ごうのう)【オゝヒヤクシヤウ 左ルビ】
富商(ふしやう)【ゼニモチアキビト 左ルビ】その外(ほか)有力(ゆうりき)のもの資財(しざい)を出(いだ)し新(あら)たに病院(ひやういん)を営(いと)なみ凡そ
疫熱を病(や)むものあれば速やかにこれに迎(むか)へて医(い)を招(まね)ぎ看病人(かんひようにん)を
添(そ)へこれを療養([り]やうじ)せしめ以(もつ)てその病の他(ほか)に蔓(はび)こるを防(ふせ)ぎ止(とゞむ)といふ
按(あん)するに痘瘡(ほうそう)を病むものを他所(たしよ)に移(うつ)し其地(そのち)に置(おか)ぬよふになし
これにて痘瘡なきところ 本邦(につほん)の内(うち)に今(いま)現(げん)にありまことに
此法は疫を防止(ほうし)する一大良法(いつちよきしかた)といふべし嗚呼(あゝ)疫熱の人を害(がへ)す
るは凶飢(きゝん)よりも甚(はな)はだし医(い)の疫熱を治(じ)するは抑(そも)そも末(すへ)なり願(ねが)は
くは其本(そのもと)を治(じ)せんとす余(よ)が此(この)避疫(ひゑき)の法(ほう)を述(のぶ)るも畢竟(ひつきょう)此(こゝ)に原(もと)づ
くなり
覇王塩(はわうゑん)製(せい)し法(かた)
○硫黄(いわう)硝石(せうせき)各(おの〳〵)等分(とうぶん)右(みぎ)何(いつ)れも細末(さいまつ)となしよく交(まじ)へ焼(やき)ものゝ壺(つぼ)に
火(ひ)を入(い)れ其内(そのうち)にこれを少(すこ)しつゝ匙(しやぢ)にすくひてふりかけ次第(しだい)々々( 〳〵 )に
此(かく)のごとくなして炎火(ほなふ)つきるに至(いた)りてその燃(もへ)たる滓(かす)をとり土鍋(どなべ)に
入(い)れ水(みづ)を加(くわ)へて徐(しづ)かに煎(に)て其滓(そのかす)のこらず水(みづ)にとけ水のうへに少(すこ)し
皮のはるよふになりたるとき火(ひ)より下(おろ)し細布(ぢのよきゝれ)にて濾(こ)しひやし
置(を)き塩(しほ)の塊(かた)まり器(うつは)の底(そこ)に凝(こ)り及びその器(うつは)の周圍(ぐるり)に附(つ)くものをと
り用(もち)ゆるなり此(これ)は即(すなは)ち覇王塩(はわうゑん)なり
石鹸(せきけん)の事(こと)
○石鹸は和名しやぼん(--------)といふ其品(そのしな)三通(みとふ)りあり白(しろ)き品(しな)は二通(ふたとふ)り
餹(あめ)いろの品/一通(ひととふ)りなり白きもの一(ひとつ)は和蘭陀(おらんだ)より渡(わた)り一(ひとつ)は唐(から)山
より渡(わた)る此品(このしな)は下品(げひん)にて内薬(のみぐすり)にはなし難(がた)し上(かみ)の和蘭陀より
渡る白きいろにて方形(しかく)なるものよし内用(ないよう)すべし若(も)し又(また)此品(このしな)な
きときは餹色(あめいろ)のものを用(もち)ゆべし此(これ)も和蘭陀より渡るものなり
和(わ)にても製(せい)すれども下品(けひん)にて垢(あか)おとしには用(もち)ゆべしといへども内用
には供(そな)へがたし
龍脳醋(りうのうさく)の製(せい)し法(かた)
○厳醋(つよきす)二合(にがう)龍脳四匁右先づ龍脳(りうのう)を乳鉢(にうはち)にて摺(す)り細末(さいまつ)となし
醋(す)をそろ〳〵と入(い)れてよく交(まじ)へ夫(それ)より下(しも)に圖(づ)するが如(ごと)く蒸露鑵(じようろくわん)【ランビキ 左ルビ】に
入(い)れ焼酎(しやうちう)を取(と)る如(ごと)くになして其(その)露水(つゆみつ)を硝子壜(せうしどん)に受(うく)るなり大(たい)
抵(てい)五勺(ごしやく)計(ばか)りもとりて其味(そのあじ)うすくなるときはこれを引離(ひきはな)し其口(そのくち)
を黄蝋(わうろう)又(また)は硬(かた)き髪油(ひんつけ)を以(もつ)て栓(せん)となし氣(き)のもれぬよふになし
貯ふるなり
【下部に図面表示あり】
圖解(ゑのわけ)
甲【○囲み】は蒸露鑵(らんびき)の全形(ぜんけい)なり此(これ)には焼(やき)
ものにて製(せい)したるを良(よし)となす乙【○囲み】は
風呂(ふろ)なり炭火(すみび)はなるたけやはらかなるを
良(よし)とす㊀此の處(ことろ)に水を入れおき水
熱(あつく)なりたる時は二の栓(せん)を抜(ぬ)き其水
をいだし又栓をなし冷水(ひやみづ)を入れ幾度(いくど)も
かくの如(ごと)くになすなり㊁此の處は水を抜(ぬ)く口なり栓(せん)をなしおくなり
㊂此口は露(つゆ)水のしたゞり出る處なり㊃竹のつぎほ㊄は硝子壜(せうしどん)【フラスコ 左ルビ】なり
㊅蒸露鑵(ぜうろくわん)の底(その)にて此處に龍脳醋(りうのふさく)を入(い)るゝ處なり
緑礬酸(りよくばんさん)の製(せい)し法(かた)
○火に破(わ)れがゝき壜(とくり)《割書:びんほふどくり|をよしとす》の上を蚌灰泥(しつくい)にて塗(ぬ)り乾(かわ)かし其後
緑礬(りよくはん)をさつと粉(こ)になし炒(い)りて水氣を乾(かわ)かしこれをその壜に七分目(しちぶんめ)
ほと入(い)れてその壜(とくり)の口を外の小(ちい)さき壜の横に穴(あな)のあきし處に挿(はさ)み
入(い)れ其/合際(あわせめ)を蚌灰泥(しつくい)にて塗(ぬ)りかため圖(づ)にある如(ごと)くに少し斜(なゝ)めに傾(かた)
むけてしちりんの上に載(の)せ四方(しほう)より炭(すみ)を積(つ)みかさね烈火(つよきひ)にて
焼(やく)なり然(しか)るときは其/小(ちい)さき壜の口より水(みづ)滴(した)だり出(いづ)るなり此水/始(はじ)めは
淡(あは)くして味(あぢ)なしいでしだいにして捨(すつ)つべし大抵(たいてい)しかけてより一時(ひとゝき)余
をすぎていづるものは烟(けぶ)りの如(ごと)くにして人々此氣にあたれば咽(むせ)びて
其/味(あじ)は酸(す)く澁(しぶ)し此時は其/小(ちい)さき壜の口に別(べつ)に和蘭陀(おらんだ)渡(わた)りの硝(せう)【フラ 左ルビ】
子壜(しどん)【スコ 左ルビ】を連(つら)ね《割書:和製(わせい)は用ひ|がたし》其(その)合際(あわせめ)を蚌灰泥(しつくい)などにてぬりかため其
蒸氣(いき)外に漏(も)れずしてみな硝子壜の内(うち)に滴(した)たりたまるよふに
なすべし炭(すみ)は始終(しぢう)つぎ加(くわ)へて火勢(ひのせい)弱(よわ)らぬよふになすべし若(もし)
大壜(おほどくり)少し破(わ)れて是より少し烟(けふ)りの出るときは蚌灰泥(しつくい)を外(ほか)より
塗(ぬ)り繕(つくら)ふべし大抵(たいてい)春の日にても朝よりしかけて夕(ゆふ)かたまで此(かく)
の如(ごと)くになして焼(や)き其/壜(とくり)の口より少しも烟(けむり)の下(くた)らぬよふになる
にいたりて硝子壜(せいしどん)を引離(ひきはな)し其口を黄蝋(わうろう)又は硬(かた)き髪油(びんつけ)等にて
栓(せん)をなし氣の漏(も)れぬよふになし貯(たくわ)ふるなり但(たゞ)し此(こゝ)に示(しめ)す法は
極(きわ)めて略法(りやくほう)なり詳(つま)びからなることは名(めい)
物考(ぶつかう)といふ書(しよ)に出(い)づ見るべし
附言(ふげん)
○凡(およ)そ上に載(のす)る方法(ほう〳〵)【シカタ 左ルビ】にて人々(ひと〳〵)多(おふ)くは疫熱の患(うれい)を免(まぬ)かるべしといへども
間(まゝ)また人の性(せい)によりて此(これ)にても逃(のが)るゝことなく邉僻醫(へんぺきい)【カタイナカイシヤ 左ルビ】に乏(とぼ)【スクナキ 左ルビ】しきの
地(ち)にてはみす〳〵其/治療(じりやう)を怠(をこた)り初(はじめ)は軽症(けいしやう)にして治し易(やす)きものも
遂(つい)に危険(きけん)【ヲモリ 左ルビ】にして治(じ)し難(かた)き症(しやう)となることありこのゆへに今(いま)左(さ)に平人(しろうと)
にも用ひ得(う)べき其/治方(じほう)の大略(あらまし)を記(しる)して病の初めに誤(あやまり)りなくすみ
やうにこれを治せしめんとするなりこれを譬(たとふ)るに草木を除(のぞ)くに根(ね)
深(ふか)からず枝葉(えたは)繁茂(はんも)せざるうちに早(はや)く抜(ぬ)きたるが如(ごと)し其病/力(ちから)を費(つい)
やさずして治すべきなり但(たゞ)し平人には病の初め疫熱に感(かん)ぜしや
否(いな)や知(し)れがたし然(しか)れども疫熱/近隣(きんりん)【チカキアタリ 左ルビ】に行(をこ)なはれて其人(そのひと)手足(てあし)懈怠(だるく)頭(づ)
痛(つう)悪寒(をかん)【サムケ 左ルビ】發熱(ほつねつ)して食味(しよくみ)【モノヽアジ 左ルビ】なきときは疫熱なりと心得(こゝろえ)て速(すみ)やかに左(さ)に
いだす薬(くす)りを用ゆべし
凶歉後(きゝんご)の疫熱を治する方法(しかた)の概略(あらまし)
○疫熱は其/流行(りうかう)する歳(とし)と四時(しじ)【ジセツ 左ルビ】の異(こと)なるに従(したが)ひ其性(そのせい)多少(たしやう)同(おな)じ
からずして又同じ毒氣(どくき)に感(かん)じても人の性(しよう)によりて病(やまい)を發(はつ)する状(かたち)一(いつ)
ならざれは治法に於(おい)ても亦(また)一定(いちじよう)【キメ 左ルビ】し難(がた)きなり然れども凶荒後(きゝんご)に流
行する疫熱は多(おほ)くは胃腸(はら)の汚物(おぶつ)に起原(きげん)【モトヅキ 左ルビ】して其/病症(びようしよう)も亦(また)略(ほゞ)相(あい)
同(おな)じきをもつて今(いま)こゝに其/治法(じほう)の大略(あらまし)を記(しる)すなり其法は先(まつ)病人
の氣力(きりよく)いまだ衰(おとろ)へぬうちに腹中(はらのうち)の汚物を除(のぞ)くべしこれには吐(は)き薬
をよしとす吐(は)き薬には吐根(とこん)【イペカコアナ 左ルビ】《割書:ヲランダ(--------)より|渡るもの也》を妙(みやう)とす服量(のみりやう)大人(おとな)は懸目(かけめ)
三分三厘(さんぷんさんりん)を一度(いちど)に用ゆるなり又/吐酒石(としゆせき)《割書:上にお|なじ》二厘より三四厘まで
こと用ゆるもよし瓜蒂(くはてい)は瞑眩(めんげん)つよし用ゆること勿(なか)れ総(すべ)て吐薬(とやく)を
用ひて後(のち)悪心(むかつき)する時(とき)は生(なま)ぬるき塩湯(しほゆ)を三四/盃(はい)用ひて吐(と)を迎(むか)ふべし
病人/始(はじ)めより舌(した)に胎(たい)あるものは尤(もつと)も早(はや)く吐薬(とやく)を用ゆべし若(も)し又(また)此
薬/調(とゝ)のひ難(かた)き時(とき)は生(なま)ぬるき塩湯(しほゆ)数盃(すはい)のみて鳥(とり)の羽(はね)の梢(さき)を咽(のんど)へ入(い)
れ吐(と)を迎(むか)へて吐(と)せしめ吐後(とご)は上(うえ)にいだす下(ぐた)る丸薬(くわんやく)を用ひて凡(およ)そ二三
度(と)も下(くた)すべし下後(けご)は洎夫藍(さふらん)一分(いつぷん)を温湯(ゆ)に浸(ひた)して一度(いちど)に用ゆべし大(たい)
抵(てい)此(かく)の如(ごと)くにして腹内(ふくない)の汚物(をふつ)を除(のそ)く時(とき)は軽(かろ)き症(しやう)は此のみにても治(じ)
し重(おも)き症にても此にて死(し)にいたるもの少(すくな)しとす但(たゞ)し此にても諸症(しよしやう)減(げん)
ぜさるときは半風呂(はんぶろ)又は大桶(おほをけ)に常(つね)より熱(あつ)き湯(ゆ)を入(い)れ白芥子(からし)の粉末(こ)
一合(いちがう)程(ほど)加(くわ)へかきまわし病人/厚衣(あつぎ)をなし裳(すそ)をまきあげ両足(りようそく)ともに
股(もゝ)の下(した)まで此湯(このゆ)のうちに入れ半身浴(はんぎようずい)をなすべし尤(もつ)とも此湯は常(つね)の
湯より少(すこ)し熱(あつ)きよふになして凡(およ)そ小半時(こはんとき)ばかり過(すぎ)て全身(せんしん)より汗(あせ)いづる
を度(かぎり)とし足(あし)を拭(ぬぐ)ひ牀(とこ)に入(い)り厚(あつ)き夜被(よぎ)をかけ接骨木花(にはとこのはな)十匁(じうもんめ)計(ばかり)
を水(みつ)三合(さんごう)にて一合(いちがう)に煎(せん)じつめこれを一度(いちど)に用ひて汗をとるべし
桂枝(けいし)などの入りたる薬にて汗をとるは宜(よろ)しからず大抵(たいてい)此方を毎日(まいにち)
二度(にど)つゝも施用(いたす)すべし渇(かわき)つよきときは橙(だい〳〵)、柚(ゆづ)、枸櫞(くねんぼ)、等の汁(しる)を絞(しぼ)り
砂糖(さとう)を加(くわ)へ熱湯(にえゆ)を入れかきまぜて日(ひ)にいく度(ど)も用ゆべし若(も)し又(また)此(この)
汁(しる)なきときは蜂蜜(はちみつ)米錯(こめす)各(おの〳〵)五匁(こもんめ)程(ほと)右(みぎ)交(まし)へあわせ湯(ゆ)せんになし時々(とき〴〵)
攪動(かきまは)し六七匁(ろくしちもんめ)に煮(に)つまりたるを度(がきり)となしこれを日(ひ)に二三度(にさんど)も與(あた)
ふべし咳嗽(がいそう)【セキ 左ルビ】、喘鳴(ぜんめい)【ノドナリ 左ルビ】、呼吸不利(こきうふり)【イキツキアシキ 左ルビ】、等(とう)の症あるにも此薬/妙(みよう)なり頭痛(づつう)つ
よきときは顳顬(こめかみ)に水蛭(ひる)五六條(ごろくひき)づゝ附(つ)け血(ち)を吸(すは)せ又(また)は針(はり)にて此部(このところ)を
乱刺(らんし)【チヨイ〳〵サシ 左ルビ】し吸角(すいふくべ)をかけ血(ち)をとるべしこれにても其痛(そのいたみ)なを減(げん)ぜざる
ときは温湯(ゆ)に醋(す)を入れ硝石(せうせき)三匁(さんもんめ)ばかりを加(くわ)へて溶(とか)し帨等(てぬぐいとう)にひたし
絞(しぼ)りて顳顬(こめかみ)頸(くび)額(ひたい)頭上(つむりのうへ)を温(あたゝ)め蒸(むす)べし又(また)龍脳(りうのふ)三厘(さんりん)硝石(せうせき)五分(ごふん)右(みき)細末(さいまつ)
となし麵粉(めんぷん)【ウドンノコ 左ルビ】を加(くわ)へて糊丸(こぐわん)となし二度(にど)に用(もち)ゆるもよし汗(あせ)出(いだ)がたき
ときは厳醋【[ツ]ヨキス 左ルビ】四匁に磠砂(どふしや)の末(こ)三分を加へ溶化(とか)しこれを一度に與ふ
べし多分は汗出るものなり若(も)し又/一度(いちど)にて汗(あせ)出(いで)ざるときは二三(にさん)
度(ど)も用ゆべし夜中(やちう)睡(ねむ)りかぬるときは洎夫藍(さふらん)一分(いつふん)を湯(ゆ)に浸(ひた)し出(いだ)し
其汁(そのしる)を一度(いちど)づゝに用ゆべし又(また)胃(はら)腸の汚物(をぶつ)より來(きた)るの疫熱は腹内(ふくない)
自(みづか)ら衰弱(すいじやく)【ヨハル 左ルビ】するゆへに吐下(とげ)の薬を用ゆるの後(のち)は日(ひ)に一貼(いつぷく)づゝ絶(たへ)ず
左(さ)の煎薬(せんやく)を用ゆること良(よし)とす其方(そのほう)藿香(くわくかう)《割書:大々|》木香(もくかう)《割書:小|》龍膽(りうたん)《割書:小|》大麥(たいばく)《割書:大|》
右(みき)調合(ちようがう)しざつと水煎(すいせん)するなり又/腹痛(ふくつう)【ハライタミ 左ルビ】嘔氣(おうき)【ムカヘキ 左ルビ】等(とう)の症は蛔蟲(むし)より
生(せう)すること多(おふ)きを以(もつ)て此症あらば海人艸(かいにんさう)《割書:大々|》大黄(たいわう)《割書:中|》茴香(ういきよう)《割書:小|》大麥(だいばく)【オゝムギ 左ルビ】《割書:大|》
右(みぎ)調合(ちようかう)し水煎(すいせん)し與(あた)ふべし又/胸中(きようちう)【ムネノウチ 左ルビ】苦悶(くもん)【モダへ 左ルビ】心下(しんか)【ミヅオトシ 左ルビ】痞硬(ひこう)【ツカエ 左ルビ】し按(お)して痛(いた)
みあるときは蜀葵根(しよくきこん)【オホアホエノネ 左ルビ】七匁/苦薏(くよく)【ノギクノハナ 左ルビ】五匁/接骨木花(せつこつもくくは)【ニハトコノハナ 左ルビ】六匁右/大袋(おほふくろ)に入(い)れ
水七合にて五合に煎(せん)じつめ醋(す)五勺(ごしやく)を加(くわ)へ其/袋(ふくろ)を絞(しぼ)りこれを以(もつ)て
心下(しんか)及(およ)び腹(はら)を温(あたゝ)め蒸(むす)べし凡(およ)そ右等(みぎら)の方(ほう)にて其初(そのはじ)めに意(こゝろ)を用(もち)ひ
速(すみ)やかに療養(りようよう)すれば大抵(たいてい)は治(じ)するものなり但(たゝ)し此は凶饑(きゝん)の年(とし)悪(あく)
食(じき)の後(のち)流行(りうかう)する疫熱を治(じ)する方中(ほうちう)にて尤(もつ)とも簡便(かんへん)【テミヂカ 左ルビ】なるを撰(ゑら)み
平人の手(て)に用ひて害(がい)なき薬のみを記(しる)したれば概(がい)【ヲシナベ 左ルビ】して此薬を
以(もつ)て諸疫(しよえき)を治(じ)し難(かた)し然(しか)れども此方法(このほう〳〵)は諸疫熱/倶(とも)に其初(そのはじめ)に用ひて
良効(よきしるし)あれば何疫(なふえき)なりとも恐(おそ)るゝことなく速(すみ)やかに用ゆべし軽症(かろきせう)は
此にて忽(たち)まち全治(ぜんじ)することを得(う)べし今(いま)其他(そのた)の疫熱の治方(じほう)は急(きう)【イソグ 左ルビ】
務(む)【ヿ 左ルビ】に非(あら)ずして又/此(この)小箋(せうせん)【ヲリホン 左ルビ】には詳示(しようじ)【カキツクシ 左ルビ】し難(かた)ければ別本(べつほん)に記(しる)して此に
略(りやく)するなり観(み)ん人(ひと)其(その)足(たら)ざるを咎(とか)むること勿(なか)れ
門人 上毛 高橋景作 校
避疫要法《割書:終》
今茲丙申歳不登各國飢荒曩哲云飢荒之後疫疾尋興其理
或然也高野翁為乃懼頃作救荒二物考及温疫考可謂能識
著書之急務矣然而濟生之急朝不待夕茲先述避疫之法以
為今擧之嗃矢蓋欲使黎庶預免乎淪喪横夭之禍也其志豈
可不嘉哉嘆賞之餘遂弁一言於巻端云
天保七年小寒後三日醫學教讀原元浚誌
瑞皐高野先生著述書目
醫原樞要内編 五冊 《割書:臨刻》
醫原樞要外編 七冊 《割書:近刻》
瑞皐活套 十冊 《割書:同》
和蘭史略 七冊 《割書:同》
西洋雑誌 十五冊 《割書:同》
奇器集成 十冊 《割書:同》
瘟疫考《割書:附》避疫法 二冊 《割書:臨刻》
二物考 一冊 《割書:刻成》
大観堂 執事
江戸芝神明前
書林 和泉屋吉兵衛
【裏表紙】
【右頁 5コマ目右頁の裏面】
【左頁 4コマ目左頁の裏面】
【表紙】
【整理ラベル・富士川本/コ/23】
【題箋】
国字痘疹戒草 上
【右丁】
錦橋池田先生著
《題:痘疹戒草》 衆甫堂蔵
【痘疹とは痘瘡の発疹のこと。痘瘡とは天然痘、疱瘡のこと】
【頭部欄外に横一行書き】
文化三載丙寅春二月彫刻
【左丁】
痘疹戒草序
痘-疹戒-草成 ̄ル矣錦-橋-翁謂
_レ余曰斯-編 ̄ハ為_二 ̄ニシテ病-家将-護_一 ̄ノ而
作 ̄ル也国_二字 ̄ニシ其-文_一 ̄ヲ浅_二近 ̄ニスル其-語_一 ̄ヲ
者 ̄ハ以_レ ̄テナリ便_二 ̄ナルヲ于俚-俗 ̄ノ之検-尋_一 ̄ニ也
若夫 ̄ノ医-家古-今 ̄ノ痘-書汗-牛
【「国字」及び「浅近」に竪点(合符)脱ヵ】
【朱印・京都帝国大学図書之印】
【朱印・富士川游寄贈】
【黒印・184658 大正7.3.31】
【右丁】
充-棟指不_レ暇_レ偻善- ̄ク読 ̄ミ善- ̄ク撰 ̄テ
以 ̄テ施_二 ̄ストキハ之 ̄ヲ于理-療_一 ̄ニ則何_二 ̄カ有 ̄ン于
八-症四-節_一 ̄ニ豈待_二 ̄ンヤ此 ̄ノ兎園冊
子_一 ̄ヲ乎余取 ̄テ而閲_レ ̄スルニ之 ̄ヲ自_二 ̄リ痘疹 ̄ノ
原-委将-息禁-忌_一以 ̄テ至_三 ̄ルマデ夫 ̄ノ医
家 ̄ノ之旧-弊 ̄ト与_二 ̄トニ俗-習 ̄ノ之紕-繆_一
【左丁】
辨-論詳-悉至 ̄レリ矣尽 ̄セリ矣為_レ ̄ス巻 ̄ヲ
三為_レ ̄ス条 ̄ヲ二十六足_レ ̄レリ為_二 ̄スニ将-護 ̄ノ
之亀-鑑_一 ̄ト蓋 ̄シ翁 ̄ノ之於_二痘疹_一 ̄ニ元-
々本-々釣_レ ̄リ玄 ̄ヲ索_レ ̄メ賾 ̄キヲ遠 ̄クハ採_二 ̄リ諸-
家 ̄ノ之精-華_一 ̄ヲ近 ̄クハ接_二 ̄ス戴-氏 ̄ノ之秘-
伝_一 ̄ヲ以_二 ̄テ一科_一 ̄ヲ名_レ ̄アル世 ̄ニ者 ̄ノ海-内一-
【右丁】
人 ̄ナリ也斯 ̄ノ-編 ̄ハ乃其 ̄ノ緒-余勿_二 ̄レ以 ̄テ
_レ此 ̄ヲ視_一_レ ̄ルコト翁 ̄ヲ
文化三年仲春既望
内班医官杉本良仲温識
【刻印「杉本良印」「仲温」】
【左丁】
痘疹戒草自序
或人(あるひと)とふて曰(いはく)人(ひと)生(うま)れて痘瘡(はうさう)を患(うれへ)ざる者(もの)なしといへども七八十の人
此(この)厄(やく)を免(のが)れたりといふ者あるはいかに我(われ)答(こたへて)曰(いわく)古(むかし)の諺(ことば)に鶴(つる)頂(いたゞき)を発(はつ)
せざれば其(その)声(こゑ)を大(おほい)にせず蚕(かひこ)三度(さんど)眠(ねむ)らざれば其(その)糸(いと)をなさず
蟹(かに)殻(から)を脱(ぬか)ざれば其(その)腹(はら)を宏(おほ)ひにせず虎(とら)爪(つめ)を転(かへ)ざれば其(その)威(いきほひ)を
ふるはず蝉(せみ)殻(から)を蛻(ぬか)ざれば其(その)声(こゑ)を長(なか)ふせず人も又(また)痘瘡(はうさう)を発(はつ)せざ
れば身体(からだ)の蓄(たくはへし)毒(どく)外(ほか)へ出(いで)すして若(もし)他国他郷(ほかのくになぞ)へ行(ゆく)時(とき)は競(きやう)々【左に「こゝろおかれ」と傍記】と
して薄氷(うすきこほり)を踏(ふむ)に似(に)たり夫故(それゆゑ)痘瘡を忌(いみ)嫌(きら)ふは君子(くんし)の質(しつ)に
あらずはた天質(うまれつき)胎毒(たひどく)浅(あさ)く時気(じき)に感(かん)ずる事(こと)もあさき人は症(やまひ)
【右丁】
も軽(かろ)く瘡(でもの)も稀(すくな)ふして頭面(かほ)に二ツ三ツ手足(てあし)に四ツ五ツを発(はつ)し或(あるひ)
は産瘡(うぶせ)とて産屋(さんや)の内(うち)に於(おひ)て惣身(からだ)に赤(あか)き細(ちいさ)なる瘡(てもの)を発(はつ)す是(これ)
を爛衣瘡(らんいさう)といふ《割書:俗(そく)に胎毒(たいどく)|ともいふ》其(その)内(うち)に痘(ほうさう)を六ツ七ツ雑(まじ)へ出(いだ)すもあり父(おや)
母(おや)もその痘といふ事をしらで遂(つひ)に七八十/歳(さひ)に至(いた)り此(この)阨(やく)を免(のかれ)
たりと思(おも)ふもありこれを其(その)幼稚(えうち)の時(とき)を知(し)らずといふ必(かならず)しも有(ある)
無(なき)の説(せつ)に抱(かゝは)り泥(なづ)むべからず且夫(そのうへ)大人(おとな)の痘(とう)は小児(こども)より重(おも)しと
す往々(たび〳〵)四五十の人/痘(はうさう)患(わづら)ふをみるに稀密(おほきすくなき)の差別(しやべつ)ありといへども
何(いづ)れも皆(みな)皮膚(みのかは)厚(あつ)く気(き)も血(ち)も不足(たらず)して凶逆(わるきやまひ)をなす者(もの)多(おほ)し
夫(それ)故(ゆゑ)痘は四五歳より十二三歳のあひたを吉(よし)とす凡(およそに)痘の稀(すくなき)
【左丁】
は気血(きけつ)壮実(つよく)して瘟疫(うんえき)に感(かん)する事/浅(あさ)きゆゑなり密(に?のおほき)は気血
衰虚(よはく)して疫癘(えきれい)の気を受(うけ)る事/深(ふか)き故(ゆゑ)なり痘は稀密(きみつ)にかゝ
はらず順逆(じゆんぎやく)を要(えう)とすとて瘡(でもの)の多(おほき)少(すくなき)にはよらず症(やまひ)の善悪(よしあし)を第(だい)
一(いち)とする事なり古人(むかしびと)も稠密(ちうみつ)を恐(おそ)れす一点(いつてん)を嫌(きら)ふとて一点(ひとつ)にて
も悪(あし)き痘あるときは害(わざはひ)をなすものにて稀疎(てものすくなき)なれはとて忽(おろか)せ
にすべからず又(また)凶逆(きようぎやく)を恐(おそ)れず食(しよく)を要(えう)すとてたとひ六(むつ)ヶ敷(しき)
症(やまひ)なりとも飲食(のみくひ)をよくする者(もの)は幸(さいはひ)に愈(なを)るもありされど又(また)
食(しよく)を二にして膿(うみ)を一とすとて痘(ほうさう)灌膿(うみもた)ざれは食(しよく)をよくするとて
よろこぶことなかれ且(かつ)痘は諸病(もろ〳〵のやまひ)とちがひわづか十二日を定期(かぎり)
【右丁】
として順逆(じゆんぎやく)険(けん)の三項(みとふり)あり順(じゆん)なるものは薬(くす)りを用(もち)ひずして
自(おのづか)ら愈(なをる)といへども風寒(かぜ)を防(ふせ)がず穢気(けがれ)不浄(ふじよふ)を忌(い)ます禁忌(いみこと)を守(まも)
らざれば忽(たちまち)に順(じゆん)も逆(ぎやく)に変(かは)る事(こと)掌(てのうら)をかへすが如(ごと)し又/発熱見(ほうさうのは)
点(じめ)の時(とき)毒(どく)を解(け)す薬(くす)り痘(でもの)を稀(すくな)ふする薬(くす)りなどいひて俗家(ぞくか)一(おし)
等(なべ)て種々(いろ〳〵)の薬(くす)りを用(もち)ひ反(かへ)つて害(わざはひ)を招(まね)くもあり故(かるかゆゑ)に今(いま)世間(せけん)庸(へた)
医合(いしや)薬肆(くすりうり)のあやまりを糺(たゞ)し痘中(ほうさう)首尾(はしめをはり)食物(くひもの)禁好(よしあし)幷(ならび)に看病(かんびやう)
の仕様(しいやう)など委(くは)しく記(しる)して門人(もんじん)に示(しめ)し初学(しよがく)の一助(いちじよ)となし名(な)
づけて痘疹戒草といふ時(とき)に或(ある)人(ひと)此(この)書(しよ)をみて懇(ねんごろ)に告(つげ)て曰(いはく)方(い)
家(しや)良(よき)薬(くすり)を撰(えら)びて起死回生(きしくわいせひ)の労(ほねをり)をなすといへども病家(びようか)介抱(かいほう)
【左丁】
守護(しゆご)に疎忽(そこつ)なるをもて終(つひ)に鬼籙(きろく)に陥(おちい)る者(もの)すくなからず
此(この)書(しよ)和解(わげ)して世俗(せぞく)媪嬶(うばかゝ)の見易(みやすき)き儘(まゝ)になし是(これ)を海内(よのなか)にほ
どこそば万世(のち〳〵)痘(ほうさう)を患(わづら)ふものを救(すく)ふの功(こう)実(まこと)に大(おほ)ひならんと
強(しひ)てすゝむるに因(よつ)て漫(みだ)りに筆(ふで)を染(そめ)て国字(かながき)につゞり媪嬶(うばかゝ)の読(よみ)
易(やす)からん事(こと)を欲(ほつ)し世俗(せぞく)痘家(とうか)看病(かんびやう)の便(たよ)りとなすと云々
寛政五癸丑【西暦では一七九三年】春三月
周防錦橋翁書於洛陽紫水亭
【右丁 白紙】
【左丁】
痘疹戒草巻之上
目録
一総論 一十戒
一痘源の説 一時気の説
一痘中按摩を忌説 一痘中脈を診さる説
一痘出て死症なしの説 一種痘の説
一預め痘を防の説 一大人出痘の説
一婦人出痘の説 一孕婦出痘の説
一巴豆丸薬を禁る説 一一角を用る説
一柳の虫を用る説 一広東人参の説
【巴豆は、トウダイグサ科の常緑小高木。種子から巴豆油を採り下剤とする。】
【一角は、クジラ目イッカク科の哺乳類。雄の長い歯は、解毒剤として珍重された。】
【柳の虫は、柳の幹を食害する木食虫の一種。子どもの疳(かん)にきくといい、これを醤油に漬け、焼いて食べさせた。】
【広東人参は、中国の広東から輸入した人参。薬用。】
【右丁】
巻之中
一痘神を祭の説 一祭事の説
一穢気不浄を避る説 一四時房内の差別
一痘中調護の法 一酒湯の説
一酒湯の仕法 一世俗通用酒湯の方
巻の下
一痘中痘後好物一百二十余品
一痘中痘後禁物一百二十余品
目録終
【四時:春夏秋冬】
【酒湯は、疱瘡が治った後に浴びる湯。米のとぎ汁に酒をまぜて酒湯というとも、また笹の葉に浸してふりかけるので笹湯というとの説もある。】
【左丁】
痘疹戒草巻上
痘疹科錦橋池田先生輯著 《割書:男|門人》 《割書:校正|参較》
総論
古(いにしへ)の医書(いしよ)に少陰(しよういん)有余(ゆうよ)なれば皮(かは)痺(しび)れて隠軫(いんしん)を発(はつ)すといへり今(いま)考(かんが)
ふるに痘瘡発出(ほうさうをはつす)の理(り)に合(がつ)する所(ところ)あり夫(それ)痘瘡は火(ひ)に属(ぞく)して先(まつ)熱(ねつ)せ
ざれば出(いで)ず殊(こと)に外(ほか)の出瘡(てもの)とちがひて頭面(かほ)惣身(からた)に発(はつ)すといへども痛(いたみ)
痒(かゆみ)を覚(おほ)えずこれ皮(かは)痺(しび)れて隠軫(いんしん)を発(はつ)すといふに合(がつ)せずや又(また)仲景(ちゆうけい)
も風気(ふうき)相搏(あひうつ)て癮(いん)𤺋(しん)を発(はつ)す久(ひさ)しくして痂癩(からひ)となるなどいふも今の
【右丁】
痘瘡と理を合する処あり又(また)肘後方(ちうごはう)に天行発斑(てんかうはつはん)とみえ病源候(びやうげんかう)
論(ろん)に傷寒登豆瘡(しやうかんゑんとうさう)の説(せつ)あり又痘瘡の名も多(おほ)くして其(その)始(はし)め赤(せき)
点(てん)をみて斑(はん)といひ一二日/顆粒(つぶ)をなすを指(さし)て疱瘡(ほうさう)といひ四五日に至
り形(かたち)の豆(まめ)に似(に)たりとて痘瘡(とうさう)といふ又/未(いま)だ生(うま)れざる先(さき)の天(てん)より受(うけ)
たる所なりとて天瘡(てんさう)といひ天(てん)の気(き)に感(かん)して発(はつ)するが故(ゆゑ)に天花(てんくは)
ともいふ其/病(やまひ)四節(しせつ)の期(き)正(たゝ)しくてありながら変化(かはること)測(はか)りがたきゆゑ
に聖瘡(せひさう)といひ古(いにし)へ虜国(りよこく)より伝染(うつり)たるを以(もつ)て虜瘡(りよさう)とも呼(よぶ)𤺋(しん) は
疿病(ひびやう)也(なり)𤺋(しん) と疹(しん)とは本(もと)壱字(いちじ)瘡(さう)と疹(しん)とは皮外(かはのそと)に現見(あらはれみ)ゆるものゝ
惣名(そうめい)にして痘のみにはかゝはらず又/唐土(もろこし)の名医(めひい)達(たち)痘瘡の根元(もと)を論(ろん)
して或(あるひ)は胎毒(たひとく)といひ淫火(いんくは)の毒(どく)といひ又/三穢毒(さんえとく)ともいふ皆(みな)臆度(をくたく)の説(せつ)
【左丁】
にして未(いま)だ詳(つまび)らかならず盧銑(ろせん)曰(いはく)一生(いつしよう)に壱度(いちど)患(わづら)ふて再度(にど)せざるは
胎毒(たいどく)なり歳気不正(としのたゝしからぬき)に感(かん)して流行(はやり)は疫癘(えきれい)なりといひ節斉(せつさい)も痘(ほうさう)
の本(もと)は胎毒(たいどく)なれども一児(ひとり)出痘(ほうさう)すれば衆児(おほぜひ)伝浅(うつり)【「染」の誤記ヵ】て出痘するは瘟疫(うんえき)
なり故(ゆゑ)に呼(よび)て痘瘟(とううん)といふとあり彼是(かれこれ)を稽(かんか)ふるに淫火(いんくは)のどく飲食(くひもの)
の毒(どく)相混(まじり)て人(ひと)の体中(からたのうち)に伏(ふく)し隠(かく)れ不正(ふせひ)の外気(くわひき)に感(かん)して発(はつ)する事(こと)
時(とき)をまつといふ説(せつ)穏(おたや)かなり又 我(わか)
日本(にほん)にても延長(えんちやう)三年【西暦九二五年】に丹波(たんは)家(け)より公卿(くきやう)衆(しゆう)へ答(こたへ)らるゝには痘瘡は
歳疫(としのわるきき)の為(なす)ところとあり和気(わけ)氏(し)の王侯(おうこふ)達(たち)へ答(こたへ)らるゝには鬼(おに)の病(やま)ひ
とも見えたり又我
国(くに)にても痘瘡の名(な)も多端(おほく)あり其(その)窠粒(つふだつ)をみて皰瘡(ほうさう)といひ水(みつ)
【右丁】
の泡(あわ)に似(に)たりとて泡瘡(ほうさう)ともいふ又(また)イモといふは古(いにし)へ此(この)病(やまひ)流行(はやれ)れば
殊(こと)の外(ほか)忌(いみ)嫌(きら)ふ故(ゆへ)にイムといふ意(こゝろ)なり又モガサといふは頭面(かほ)惣身(からた)瘡(てもの)
を発(はつ)し其(その)形(かたち)癩病(らひびやう)に似(に)たりとて古(いにし)へ此(この)病(やま)ひを患(わつら)ふものあれば山(やま)
奥(おく)に捨(すて)置(おき)て人家(ひとさと)をへたて人路(つうろ)を絶(やめ)て喪(も)に居(を)る人(ひと)の如(こと)くする故(ゆゑ)に
喪瘡(もかさ)といふ説(せつ)あり我(われ)先氏(せんぞ)の業(ぎやう)を嗣(つぎ)て痘科(ほうそう)に志(こゝろさし)を深(ふか)ふし余(あ)
多(また)の痘疹(ほうさう)の書(しよ)を取(と)り合(あは)せ考(かんか)ふるに唐土(もろこし)も古(いにし)へはかくありしよし
又(また)韃靼(たつたん)類種(るひしゆ)に郷裏(さとのうち)痘瘡(ほうさう)を患(わつら)ふ者(もの)あれば深谷(やまおく)に移(うつ)し置(おき)生否(よしよし)【縦縦:「どうなろうとも」の意の「よしよし」ヵ】を
天(てん)に任(まか)せ人跡(ひとのつうろ)を絶(やむ)となり今(いま)
日本(にほん)にも其(その)例(れい)あり聞及(きゝおよ)ふ所(ところ)を此(こゝ)にしるしぬ
肥前(ひせんの)国/天草(あまくさ)肥後(ひこの)国/熊本(くまもと)周防(すはうの)国/岩国(いはくに)紀伊(きいの)国/熊野(くまの)信濃(しなのゝ)国/木(き)
【左丁】
曽(そ)山中(やまなか)御嶽山(みたけさん)の辺(へん)等(など)におひて痘瘡/患(わつら)ふものあれば一/郷(さと)一/村(むら)を隔(へたて)て
人家(ひとのいへ)を去(さる)こと一二/里(り)にして山野(のやま)深谷(たになど)に小屋(こや)をしつらひ或(また)ヽ【はヵ】農家(のふか)を
かりて傍人(そへひと)をつけ置(おき)て食物(くひもの)など始(はし)めにはこばせ一家(いつけ)親類(しんるひ)たりと
も出入(でいり)を絶(やめ)て医(いしや)をむかへて薬りを用(もち)ゆる事も少(すくな)し偶(たま〳〵)薬(くす)りを
用(もち)ゆといへども誠(まこと)に疎忽(あらまし)なる事のみ多(おほ)し又(また)或は国々(くに〳〵)浦々(うら〳〵)にては
鬼神(おにかみ)の病(やまひ)と称(とな)へて薬(くす)りを用(もち)ひずたゞ清浄(しやうじやう)を専(もつはら)として巫祝(いのりごと)【「祝言」の意】を
信(しん)し祈祷(きたう)のみするもありいかにも痘瘡には穢気(けがれ)不/浄(じやう)を忌(いみ)て
飲食(くひもの)禁好(よしあし)を詳(つまひ)らかにして調護(かひほう)を能(よく)守(まも)るときは順(じゆん)なるものは薬(くす)
りせずして愈(いへ)険(けん)なるものも薬(くす)り宜(よろ)しきにかなへば順(しゆん)に転(てん)し逆(ぎやく)
なるものも十に四五を治(なを)し得(う)る事(こと)ありと活幼心法(くはつようしんはう)に見えぬさ
【絵のみ】
【右丁】
れは疱瘡(ほうさう)には物音(ものおと)静(しつか)なるをよしとして大音罵詈(おほこゑにしかり)打話大笑(おほこゑにわらふこと)を忌(い)
むべし然(しか)るに国(くに)々/浦(うら)々にては痘者(ほうさうにん)の耳元(みゝもと)にて鈴(れい)錫杖(しやくじやう)螺貝(ほらがひ)を吹鳴(ふきならし)
し大音声(たいおんじやう)に祈祷(きとう)するもあり凡(およそ)痘(ほうさう)の一/症(やまひ)は静(しつか)なるを好(この)み躁(さわか)しき
を嫌(きら)ふ故(ゆゑ)に若(もし)物音(ものおと)などに驚(おとろ)くときは驚搐(きやうふう)といふ病(やまひ)をなし順(じゆん)なる
ものも逆(ぎやく)に変(かはる)る事(こと)掌(てのうら)をかへすよりもはやし慎(つゝし)むべし〳〵
続古事談(そくこじたん)第(だひ)五に疱瘡(ほうさう)は新羅国(しんらこく)に始(はしま)り築紫(ちくし)に来(きた)れりとみゆ
続日本紀(そくにほんきに)曰/天平(てんへい)七年/時候(じかう)穏(おたや)かならず夏(なつ)より秋(あき)に及(およ)ひて天下(よのなか)
豌豆瘡(えんとうさう)を患(わつら)ふもの多(おほ)し俗(そく)に裳瘡(もがさ)といふ又(また)天平(てんへい)九年の春(はる)疫瘡(えきさう)大(おほ)
ひに流行(はや)れり始(はし)め築紫(ちくし)より来(きた)り夏(なつ)より秋(あき)に至(いた)りて公卿(くきやう)以下(いか)
庶民(しも〳〵)百姓/相継(つゝ)ひて此(この)厄(やく)に嬰(うく)るもの夥(おひたゝ)しとなり本朝世記(ほんてうせいき)を稽(かんか)ふ
【左丁】
るに曰
【一字台頭】聖武皇帝(せようむてんわう)の御宇(おんとき)に蕃国(ばんこく)より疱瘡(ほうさう)来(き[た])りて天下(よのなか)此(この)難(やまひ)【难】に逢(あふ)ふもの甚(はなはた)多(おほ)
し世(よ)の人(ひと)異病(たゝならぬやまひ)と称(とな)へて別居(へつや)を造(つく)りて山野(やまの)に捨(すて)おき喪(も)に居(を)る
人の如(こと)くするが故(ゆゑ)に喪瘡(もがさ)といふとなり然(しか)らば疱瘡(ほうさう)の名(な)を呼(よ)ひ始(はし)め
しは天平(てんへい)の頃(ころ)なりしや
【一字台頭】聖武皇帝の御時より凡(およそ)千二百年/余(あまり)の今(いま)に及(およ)べり又(また)唐土(もろこし)の歴史(れきし)を稽(かんか)
ふるに前漢(せんかん)武帝(ぶてい)の時(とき)張騫(てうけん)といふ人(ひと)西域(せひいき)に使(つかひ)して此(この)病(やまひ)を伝染(うつ)りてよ
り中国(もろこし)に流布(はや)るとて時(とき)の人/虜瘡(りよさう)と呼(よひ)しとなり此(この)時(とき)我(わか) 邦(くに)
【一字台頭】開化天皇(かひくはてんわう)三十六年にあたれり余(われ)思(おも)ふに上古(ふかきむかし)の事は茫(ばう)然として詳(つまひ)らかな
らずといへども古代(むかしよ)の人(ひと)は精(せい)を積(つ)み神(しん)を全(まつと)ふするが故(ゆゑ)に病(やま)ひすくな
【右丁】
ふして命(いのち)永(なか)し今(いま)の人(ひと)は厚味(かうみ)を喰(くら)ひ酒色(さけといろ)におぼれ神(しん)を耗(へら)し
精(せい)を労(よはら)すかゆゑに多病(やまひおほく)にして命(いのち)夭(みちか)し其(その)子(こ)もまた欲火(よくくは)深(ふか)ふし
てなるを以(もつ)ての故(ゆゑ)に極(きは)めて虚弱(よはきもの)多(おほ)ふく痘を発するも順美(じゆんび)なる
は少しはた古(いにし)へは此(この)阨(やく)すくなきをもつて其(その)治療(りようぢ)の奇(よき)法(はう)もなけれど
今(いま)此(この)難(なん)あるか故(ゆゑ)に天(てん)より名医(よきいしや)を降(くた)し給(たま)ひ古(いにし)へにいはざる痘源(ほうさうのもと)を
発揮(はつき)して諸(もろ〳〵)の名医(めいい)達(たち)これか治法(りようじ)を論(ろん)し定(さた)めおかれしよりこの
かた世(よ)の人(ひと)此(この)難(なん)に逢(あふ)て逆(ぎやく)を免(のか)るゝ者(もの)すくなからず誠(まことに)にありがたき
事(こと)にあらずやされど古(むかし)よりいひ伝(つた)へ聞伝(きゝつた)へし奇方(きほう)妙法(めうほう)など時(ときの)医
粗工(へたいしや)俗人(ぞくしん)などの手(て)にふれて泥(どろ)に泥(どろ)をぬりし如(こと)くにて是非(よしあし)明白(あきらか)なら
ずして繁(しげく)雑(みたり)になりぬ凡(およそ)万病(もろ〳〵のやまひ)ともに禁好(くひものよしあし)あり殊(こと)に痘瘡(ほうさう)の禁(きん)
【左丁】
好(かう)最(もつとも)肝要(かんえう)にして一ツもあやまる事あれば順(じゆん)も忽(たちまち)に逆(ぎやく)に変(かは)る事(こと)すみ
やかなり況(いはん)や小児(しように)の痘瘡(ほうさう)におひてをや前(まへ)にもしるせし通(とふ)り禁忌(いみごと)を
謹(つゝし)み調護(かひはう)をせん一とせは凶(きよう)も吉(きつ)に転(かは)りて愈(なをる)もあり又(また)妙薬(めうやく)奇方(きほう)といふ
とも妄りに用(もち)ゆべからず医師(いしや)に任(まか)せて其(その)療治(りようじ)を受(うけ)病家(びやうか)にて兎(と)やかく
をいふべからず医師(いしや)も又よろしく其(その)症(やまひ)を詳(つまひ)らかにして軽卒(かろ〳〵しく)【率】すること
なかれ今(いま)世俗(せぞく)あやまり来(きた)る事(こと)など糺(たゝ)し痘中(ほうさう)介抱(かいほう)の法(しやう)四時(しじ)房内(ねや)の
差別(しやへつ)食物(くひもの)禁好(よしあし)の辨(わきまへ)禁忌(いみこと)調護(かいほう)の法(しやう)幷(ならひ)に痘神(ほうさうかみ)を祭(まつ)る由縁(ゆゑん)痘後(とうご)
酒湯(さかゆ)の法(ほう)等(など)を微細(こまやか)に和解(わげ)してしるす事左の如し
十戒
一/痘瘡(ほうさう)稀密軽重(かろきおもき)ともに風寒(かせ)穢気(けかれ)不浄(ふじやう)を忌(い)む事(こと)肝要(かんえう)なりもし
【絵のみ】
【右丁】
発(ねつ)熱して痘/出(いつ)る時(とき)風寒(かせ)穢気(けがれ)不浄の気(き)に感(かん)するときは出(いて)んとする
痘出がたし已(すて)に痘出ての後に感するときは出瘡/肥大(ふとり)がたくして膿(うみ)を
持(もた)たず已に膿をもつ時風寒穢気不浄に感すれば乾枯(かれしほみ)て痒(かゆみ)を発(はつ)す已
に収靨(かせ)にかゝりて感すれば出瘡/潰爛(たゝれ)て膿汁(うみ)かわかず已に痂(ふた)おつる時に感
すれは瘡(てもの)また膿(うみ)かへるもありまた驚風(きやうふう)を発(はつ)するもあり是(これ)皆(みな)父母(おや〳〵)傍人(そはひと)
禁忌(いみこと)を謹(つゝし)み守(まも)らざる過(あやま)ちより起(おこ)りて順(しゆん)なるものを逆(きやく)に変(かは)りて危(あや)ふ
きに至(いた)る事/多(おほ)し慎(つゝし)むべし〳〵
一痘瘡に望(のそ)みて妙薬(めうやく)奇方(きほう)といふとも妄(みた)りに用(もち)ゆへからず近頃(ちかごろ)一角(うにかふろ)を
痘瘡の妙薬(めうやく)などいひ伝(つた)へ寒熱(かんねつ)虚実(きよじつ)を弁(わきま)へず時医(じい)俗医(ぞくゐ[し]や)薬店(くすりや)俗家(ぞくか)
押並(おしなへ)て一概(いちがい)に一角を用ひて害(わさわひ)をまねく事(こと)すくなからず夫(それ)痘症(ほうさう)に毒(どく)
【左丁】
実(じつ)熱実(ねつじつ)内実(ないじつ)表実(ひやうじつ)といふものあり此(この)四症(よつのもの)なそには其(その)初熱(はしめねつ)のとき少(すこ)
しつゝ用(もち)ゆるも妨(さまたけ)なしまたもちひざるもよし若(もし)陽虚(ようきよ)気(き)
虚(きよ)血虚(けつきよ)内虚(ないきよ)表虚(ひやうきよ)なといふ症(やまひ)にあやまつて少(すこ)しも一角(うにかふろ)を用(もち)ゆるときは
後(のち)必(かならす)虚寒(きよかん)といふ症(やまひ)に変(かは)りて腹(はら)くだり出瘡(てもの)平(やまあげず)■【「隠」の誤記ヵ】して膿(うみ)をもたず寒(ふ)
戦(るひ)咬牙(はきしり)して痒(かゆみ)■【塌ヵ】を発(はつ)し終(つひ)に救(すく)ひがたきにいたるものなり妄(みた)りに用(もち)
ゆべからず人(ひと)を殺(ころ)す慎(つゝし)むべし
一/阿蘭陀(おらんた)国より持(もち)来(きた)るサフラム○テリヤアカの二品(ふたしな)世俗(せぞく)痘瘡の妙(めう)
薬(やく)と心得(こゝろえ)て是(これ)を用(もち)ゆるもの多(おほ)しサフラムは蕃紅花(はんかうくは)といふて本草(ほんそう)に
載(のす)る所(ところ)其(その)性(しよう)紅花(こうくは)に似(に)て血(ち)を活(いか)し血(ち)を行(めくら)し血(ち)を滋(うるほし)補(おきな)ふの功(こう)あり
故(ゆゑ)に血熱(けつねつ)枯燥(こそう)血滞(けつたい)血実(けつじつ)といふ症(やまひ)あらば用(もち)ゆへし又(また)婦人(おんな)の痘瘡(ほうさう)中(ちう)
【右丁】
経水(つきやく)止(やま)ざるに用(もち)ひてよし又テリヤアカは阿蘭陀(おらんた)製(せい)あり和製(わせい)あり
其(その)功(こう)いつれも相(あひ)似(に)たり然(しか)れども舶来(からわたり)の品(しな)を上品(よし)とす其(その)薬性(くすりのせひ)寒涼(ひやし)解(どく)
毒(をげ)する者(もの)故(ゆゑ)初(はし)め熱(ねつ)熾(さか)んに毒(どく)強(つよ)く痘瘡/出(で)かぬるものには少(すこ)し用(もち)ゆ
るもよし又(また)熱毒(ねつどく)咽喉(のんど)に攻(せめ)のほりて腫(はれ)痛(いた)むものに用ひて甚(はなは)た其(その)功(?う)あ
りされど虚症(きよしやう)にて咽(のと)を痛(いた)むものには必(かならす)しも用(もち)ゆべからず惟(たゝ)冷水(ひやみつ)に
て匀(とき)咽(のと)の外(そと)より塗(ぬり)てよし若(もし)虚寒(きよかん)の症(しやう)候あるものにあやまち用(もち)ゆ
れば人(ひと)をころす慎(つゝし)むへし
一痘瘡には婦人(おんな)経水(つきやく)の穢(けかれ)と産婦(さんふ)の穢(けかれ)を大(おほ)ひに忌(いむ)へしもし母(おや)乳(う)
母(は)傍人(かひほうにん)なと経水の穢れあらは其穢れを避(さけ)る薬(くす)りありこれを其(その)
婦人(おんな)の懐(ふところ)に入(いれ)置(おけ)は其(その)穢(けかれ)れ病人(ひやうにん)にかゝらぬなりまた痘書(とうしよ)に丘尼(あま)巫祝(みこ)
【左丁】
禰宜(かんなき)山伏(やまふし)の輩(ともから)痘瘡人の臥床(ねま)へ入(い[る])へからずとあり余考ふるに此輩
は常(つね)に喪服(もふく)に触(けか)れて衣服(いふく)をあらためず又/線香(せんこう)抹香(まつこう)沈香(しんこう)の香(か)に
ふれて其人に臭気(にほひ)あるを嫌(きら)ふゆゑなりされど国々(くに〳〵)浦々(うら〳〵)にては僧道(そうとう)
巫祝(いのりこと)を信(しん)して祈念(きねん)するもありたとひ信(しん)して祈念するとも其/臥(ね)
床(ま)の内へは入へからず別間(べつま)にしてよろしまた常(つね)に線香(せんこう)抹香(まつこう)などの
香(か)になれたる病人(ひやうにん)などには妨(さまたげ)なし左(さ)もなき人(ひと)ならば重(おく)【「おも」の誤記ヵ】く慎(つゝし)む
へし
一/土地(とち)の風俗(ふうぞく)によりて痘瘡を患(わつら)ふ家内(かない)にて蒼朮(そうじゆつ)沈香(しんこう)抹香(まつこう)艾葉(もくさ)
柊(ひゝらき)鳳尾蕉(そてつ)【焦】干鰯(ほしいはし)の類(るひ)を薫物(たきもの)にするありいつれも其にほひ痘瘡に
よろしからす沈香は気(き)を降(くた)し蒼朮は出瘡(てもの)を乾(かは)かし艾は血(ち)を渋(しぶ)く
【右丁】
し鰯は気血(きけつ)を滞(とゝこふ)らし線香抹香は人の元気(けんき)を減(へら)し鳳尾蕉柊は
悪鬼(おに)を避(さけ)るといふ理(り)にて節分(せつふん)に用(もち)ゆるところより取(と)り来(きた)れるもの
なりされど痘瘡は気血(きけつ)流行(りゆうこう)するをもてよしとするゆゑ妄(みた)りなる
品(しな)を薫(たき)てそのにほひの為(ため)に血気流行(ちときとのめく)るところを止(とゝ)めらるゝによ
りて種(いろ)々のにほひを好(この)まざるなり但(たゝ)荊芥(けいかい)茵蔯(いんちん)大棗(たひそう)を薫(たく)をよし
とす此(この)品(しな)穢気(けかれ)不浄(ふじやう)をさけ痘の痒(かゆみ)をふせくの功(こう)あるかゆゑなり
他(ほか)の品(しな)を禁(きん)し慎むへし
一痘瘡は軽重(かろきおもき)稀密ともに始(はし)めより十二日の間/襯衣(はたき)をとりかゆるを
忌むべしもしはたき大小便(たいしようべん)にてぬれけがれたらんには外(ほか)の暖(あたゝか)なる襁(む)
褓(つき)にて小児(しやうに)の腰(こし)より腹(はら)にひきまはししつかりと巻(まき)て下衣(したき)の裳(すそ)をかゝ
【左丁】
けあけておくへし尤(もつ[と])も冬(ふゆ)ならんには炬燵(こたつ)のそはに寝(ね)させ置(おく)へし
また襁褓も数(かす)多(おほ)ふ用意(ようい)して炬燵にかけ置(おき)て暖かなるをとりかゆへ
し但(たゝ)し傍人(そはひと)なと懐(ふところ)に入(いれ)置(おき)て暖かなるを用意(ようい)するもよし随分(すひふん)風寒(かせ)を
ふせき禁忌(いみこと)を慎むへし
一三四五歳の小児(ことも)痘瘡するをみるに父母(おや〳〵)傍人(かいほうにん)なと抱(た)きかゝへ座中(さしき)をあ
ちらこちらへゆくもあり又/抱(た)きてすはりをるもあり疱瘡(ほうさう)は陰病(いんひやう)とて
静(しつか)なるをよしとして躁(さはか)しきを嫌(きら)ふか故(ゆゑ)に昼夜(よるひる)ともに安睡(よくねふ)りよく乳(のみ)
食(くひ)するを第一(たいいち)とすされば抱(た)きかゝへて座(すは)り居(を)れは足腰(あしこし)たるくなるま
まに右(みき)や左(ひたり)りへ抱(たき)かへなとして暫(しはら)くも静(しつ)かならず小児(ことも)も熟睡(よくねる)事(こと)
なりかたく驚(おとろ)きやすし又(また)は手足(てあし)の出瘡(てもの)などすりやぶりて膿(うみ)を持(もち)が
【右丁】
たし殊(こと)にあちらこちらへ行(ゆく)とき間風(まかせ)をきりて風寒(かせ)にあたりやす
したゝ時候(しこう)をうかゝひ炬燵(こたつ)のそはに寝(ね)させ置(おく)へし疱瘡外にいて
あるか故(ゆゑ)にすこしもすれはさむけをうけやすしそれゆゑ大小便(たいしやうやう)な
どの時(とき)も夏(なつ)は座敷(ざしき)冬(ふゆ)は炬燵(こたつ)のそはにて便器(まる)にてとるへしよく〳〵
風寒(かせ)を慎むへし
一疱瘡は外(ほか)の病(やま)ひとちがひすこしもあやまちあれは順(よき)も逆(あし)きに
変(かは)る事 掌(てのうら)をかへすかことくなるものゆゑによく〳〵医者(いしや)を撰(えら)ひ任(まか)すへし
庸医(へたいしや)などは但(たた)其(その)出瘡(てもの)といふところのみに気(き)をつけて症候(ようたい)の寒熱(かんねつ)虚実(きよじつ)
もしらず妄(みた)りに発散(はつさん)解毒(どくけし)の薬(くす)りをもちひて害(わさはひ)を招(まね)く事(こと)すくなから
ず痘書(とうしよに)曰 虚弱(きよじやく)の痘瘡は父母(おや〳〵)よく禁忌(いみこと)を慎(つゝし)み医者(いしや)くすりをあやま
【左丁】
り用(もち)ひされば逆(あし)きも順(よき)に転(かわ)り生(せい)を得(う)るものありとかや妄(みた)りに発散(はつさん)
解毒(どくけし)の薬(くす)りを用(もち)ゆる事(こと)を禁(きん)すべし慎(つゝし)むべし
一 痘瘡(でもの)稠密(おほき)ものは五日六日よりして微熱(すこしくねつし)微渇(すこしくかわき)眼封(めとじ)鼻合(はなふさがる)をよしとす
鼻合りて乳(ちゝ)を呑(のみ)かぬるものには白粥(しらかゆ)を煮熟(よくに)て其うは湯(ゆ)のねは
りたるに焼塩(やきしほ)少(すこ)し加(くは)へて与(あた)ふへし渇(かわ)きつよくならは尚(なほ)〳〵与(あた)ふへ
しまた鼻のふさかりたるを必(かなら)すひらきあくる事(こと)をわろしとす慎(つゝし)
むべしまた六日七日になれは微熱して渇くものなり其時(そのとき)は糯米(もちこめ)五(ご)
勺(しやく)稲米(うるちこめ)五勺をゆるく粥(かゆ)に煮熟(にじゆく)して其うは湯(ゆ)のねはりたるに焼塩
太白砂糖(たいはくさとう)少(すこ)し斗(ばか)りを加へて薬(くす)りとかはり〳〵に与ふへしたとひ渇き
強(つよ)くともかならず甜瓜(まくはうり)西瓜(すいくは)梨(なし)棗(なつめ)樒柑(みかん)葡萄(ふたう)大凝菜(ところてん)冷麺(ひやそうめん)冷水(みつ)な
【右丁】
どの類(るひ)を壱切(いつさひ)禁(きん)して与ふへからすもし強(し)ひて好(この)むものあらは医(い)
師(しや)によく〳〵聞(きゝ)て与ふへし妄(みた)りに与ふへからす慎むへし
一 疫癘痘(えきれいたう)とてわろき所(ところ)よりうつりたる疱瘡(ほうさう)一種あり往々(まいと)其(その)症(ほうさう)をみ
るに甚(はなはた)凶逆(わるく)して危(あや)ふきに及(およ)ふもの多(おほ)し夫故(それゆへ)いまた疱瘡(ほうさう)前(まへ)の
小児(こども)を野山(のやま)深谷(ふかきたに)水沢(かさわ)【振り仮名は「みさわ」の誤記ヵ】古墓(ふるきはか)杯(など)常(つね)に歩(あゆ)みなれざる処(ところ)へつれゆく
事(こと)なかれすへてこれらの地(ち)を非常(ひしやう)といふてもしその非常(ひしやう)の
気(き)をうけ山嵐(さんらん)の瘴気(しようき)に触(ふれ)侵(おか)されて三日のうちに発熱(ねつはつ)し痘
瘡を患(わつら)ふるものは疫癘痘とて殊(こと)の外(ほか)凶逆(あしき)ものなり父母(おや〳〵)傍人(そはひと)よく
〳〵気(き)を付(つけ)て慎(つゝし)むへし余(われ)五十年このかた痘瘡の療治(りようじ)に志(こゝろさし)を
ふかふして数多(あまた)の病人(ひやうにん)をうかかふに看病(かんひやう)介抱(かいはう)の疎忽(おろか)によりて順(しゆん)
【左丁】
も逆(きやく)に変(へん)するもの多(おほ)し誠(まこと)に憐(あは)れむべき事なり是(この)故(ゆゑ)に今(いま)
十/戒(かい)をしるしして看病(かんひやう)介抱(かいほう)のあらまし慎(つゝし)むべきことをあぐ
病家(ひやうか)よく〳〵こゝろを付(つけ)て考(かんか)ふへし
痘源の説
痘疹(たうしん)玉髄(きよくすひに)曰/天地(てんち)は万物(はんふつ)の原(もと)父母(ふぼ)は人体(しんてい)の原(もと)にて人(ひと)生(うま)れて痘(ほうさう)の
厄(やく)を免(のか)れたるものなし本(もと)痘(ほうさう)の原(もと)は淫火(いんくわ)に根(ね)ざして時気(じき)不正(ふせい)に
感(かん)して時(とき)を待(まつ)て発(はつ)す夫(それ)男女(なんによ)交媾(かうこう)のとき其(その)身体(からた)和調(とゝの)ひて真(しん)
元(けん)の精胎(せいたい)となれは其(その)子(こ)気血(きけつ)壮健(さかん)にして骨肉(こつにく)充実(しゆうじつ)に生(うま)れつき
無病(むひやう)なるか故(ゆゑ)に痘を患(わつら)ふといへとも順美(しゆんび)にして時毒(じどく)を受(うく)る
事(こと)も浅(あさ)けれは痘も稀疎(きそ)なりもし交媾の時(とき)身体 調和(てうくわ)せす気
【右丁】
血/鬱滞(うつたい)して或(あるい)は其(その)女(おんな)経水(つきやく)いまた止(やま)ざる時(とき)は淫火(いんくわ)の液(えき)にごり又(また)
真元(しんけん)の精(せい)も清(きよ)からず相(あひ)徼(げき)して胎(たい)となれは其(その)子(こ)気血(きけつ)凝瘀(きやうお)して又
生質(うまれつき)虚弱(きよしやく)なる故(ゆゑ)痘を患(わつら)ふときは凶悪(きやうあく)をなし時気(じき)を受(うく)る事(こと)
深(ふか)ければ稠密(てうみつ)なるもの多(おほ)しこれを先天(せんてん)の毒(どく)といふ又/母(はゝ)の腹中(ふくちう)
にある時(とき)其(その)母(はゝ)飲食(のみくい)を謹(つゝ)しみ起居(たちゐ)を静(しつか)にして胎気(たいき)安静(しつか)なれば
気血(きけつ)壮堅(さかん)にして胎内(たいない)の毒(どく)を受(うく)る事/浅(あさ)く向来(きようらい)痘を発(はつ)すといへ
ども順(しゆん)症なり若(もし)其(その)母(はゝ)常(つね)に厚味(こうみ)を食(くらい)ひ情慾(しようよく)をほしひまゝに
すれば生(うま)れ子(こ)もまた気血(きけつ)衰弱(すいじやく)にして胎毒(たいどく)ふかく向来(きようらい)痘を発(はつ)す
といへども凶悪(きやうあく)なるもの多(おほ)しこれを後天(こうてん)の気(き)といふ此(この)二(ふた)ツの毒(どく)痘瘡(ほうさう)の
根元(もと)にて時気(じき)不正(ふせい)を受(うけ)感(かん)して三(み)ツの毒(どく)鎔冶(とろけあひ)て発(はつ)する事(こと)は水(みつ)の湿(しめ)
【左丁】
りある所(ところ)へ流(なか)れ火(ひ)の燥(かわ)きあるところへ就(つく)か如(こと)し
時気の説
諸書(しよしよ)を考(かんか)【攷】ふるに男女(なんによ)交媾(かうこう)の時(とき)慾火(よくくわ)の毒(とく)児(じ)の体中(ていちう)に伏(ふく)しかくれ
て形(かたち)もなふ音(おと)もなくまた臭(にほひ)もなし天行(てんこう)時気(じき)不正(ふせい)に感(かん)して内外(うちそと)
の毒(とく)混動(こんとう)するはなを磁石(じしやく)の鉄(てつ)を吸(す)ひ琥珀(こはく)の塵(ちり)をひろふかことし
されは痘を一図(いちづ)に胎毒(たいとく)の為(なす)所(ところ)といふは理(り)にあたるまし
痘中按摩を忌むの説
孟継孔(もうけいこう)曰(いはく)発熱(ほつねつ)して痘を発(はつ)してより頭(かほ)面/惣身(からた)手足(てあし)を按摩(なてさ)
する事(こと)を忌(い)むへし妄(みた)りに按摩(あんま)すれは皮肉(かはにく)の間(あひた)に血(ち)の色(いろ)浮(うか)
ひあつまりて痘の出たる所も出ぬ所も一様(い[ち]よう)に赤(あか)くなりてまた血(ち)
【絵のみ】
【右丁】
のあつまりし所(ところ)は出痘(ほうさう)も稠密(おほくてる)ものにて後(のち)かならす痒瘙(かゆみ)を発(はつ)す
ものなり庸医(よふゐ[し]や)俗家(そくか)其(その)故(ゆゑ)をしらで妄(みた)りに按摩(あんま)する事(こと)をよしと
す向後(このゝち)慎(つゝし)み禁(きん)すべし
痘中脈を診さる説
張寅賔(てういんひん)曰(いはく)人(ひと)の病(やまひ)は脈(みやく)をもて其(その)病源(やまひのもと)を詳(つまひ)らかにすれど惟(たゝ)痘の一症(いつしやう)は
他(ほか)の病(やまひ)とちかひて内(うち)より興(おこ)りて外(そと)に発(はつ)し一二日/発(はつ)し尽(つく)せは三四
日/肉腫(からたはれ)て五六日山をあげ次第(したい)に膿(うみ)をもよふし痂落(かせ)の時(とき)なとは稠密(てものおほき)
ものなれは老松皮(ふるまつかわ)の如(こと)く或(あるひ)は鶏糞(にはとりのふんを)殻(かけたる)如(こと)くにて功(こう)を収(おさめ)るなりされは
出瘡(てもの)のうへより脈を診(うかゝ)ふたれはとて綿入(わたいれ)布子(ぬのこ)のうへより脈を切(み)る
に似(に)たりそれ故(ゆゑ)古人(むかしひと)も痘中脈(ほうさうのみやく)を診(うかゝ)ふは靴(かはぐつ)を隔(へた)てゝ痒(かゆ)きをかく
【左丁】
か如(こと)しといへり又(また)剥兎(はくと)の如しとて出瘡(てもの)の皮(かは)やふれ膿血(うみ)淋漓(なかれ)て兎(うさき)の
皮(かは)を剥(はき)たるいようになるあり又(また)収痂(ふたつく)る事(こと)あつくして乾(かわ)きたる形(かたち)蚯(み)
蚓(みつ)の灰(はい)にまふれたるに似(に)たるあり或(あるひ)は爛痘(らんたう)とて痂(かさふた)まくれはけて
膿血(うみ)爛(たゝ)れ流(なか)るゝありこれらの症(しやう)に望(のそ)みて脈を診(うかゝ)ふとも其(その)症(しやう)を
詳(つまひ)らかにする事(こと)はなるまし且(そのうへ)痘は陰病陽(いんひやうよう)に発(はつ)するものゆゑ
其(その)脈は必(かならす)しも陽脈(ようみやく)をあらはすものなりもし脈によりて療治(りやうち)を
施(ほとこ)さす人(ひと)の命(いのち)を害(わさはひ)する事(こと)少(すく)なかるまし是(この)故(ゆゑ)に余(わ)か家(いへ)の術(しゆつ)に
ては唇(くちひる)舌(した)と形(かたち)色(いろ)とを第(たい)一として其(その)日期(につき)を推(おし)内外(うちそと)の症(やまひ)を詳(つまひ)らか
にして治術(りやうぢ)の縄則(のり)とす痘に望(のそ)みて脈をいふ輩(ともから)は其(その)精要(せいいよう)の妙(めやう)
理(り)を悟(さと)らざるなりされど熱(ねつ)の時(とき)と痂収(かせ)の後(のち)とは脈(みやく)によるべし
【右丁】
痘瘡に死症なしといふ説
痘科鍵(たうくわけん)に痘はしめていてゝ死症(ししやう)なしといへり余(われ)数千人(すせんにん)の痘を診(うかゝ)
ふ中(なか)に母(はゝ)の腹内(ふくない)にて痘をはつしなから生(うま)れ降(くた)るものありまた産(さん)
屋(や)のうちにて痘を発(はつ)するものあり又(また)三七日を過(すき)ずして痘を発す
るものあり何(いつ)れも至(いた)つて稀少(かすすくな)にして頭面(かほ)に五ツ六ツ/手足(てあし)に四ツ五ツ
を発し貫膿(うみもた)ずして落痂(ふたおち)愈(なほ)るなり余(われ)考(かんか)【攷】ふるに産婦(さんふ)と痘瘡(ほうさう)と
はひと生(うま)れての役目(やくめ)にて女子(をんな)嫁(よめいり)して産(さん)をするは道(みち)の常(つね)なり一度(いちど)
痘を患(わつら)ふも又(また)鳥獣(とりけたもの)の毛(け)をかゆる理(り)にて此(この)ふたつのものは病(やまひ)にふしながら
外(ほか)より祝詞(いわい)来(きた)るをもて他(ほか)の病気(ひやうき)とちかふ所(ところ)をしるべし殊(こと)に古(いにしへ)の人(ひと)
は精真(せいしん)内(うち)に守(まも)り慾火(よくくわ)の毒(どく)を受(うく)る事(こと)も浅(あさ)ければ痘も稀(かすすくな)に症(しやう)も順(じゆん)に
【左丁】
して薬(くす)りを服(ふく)するまてもなくそれゆへ古(いにしへ)に痘をいはさるとみえた
り中古(ちうこ)以来(いらい)人(ひと)此(この)阨(やく)に逢(あ)ふて命(いのち)を落(おと)すもの多(おほ)き故(ゆゑ)は雑症(ざつしやう)これ
を殺(ころ)すとて或(あるひ)は熱(ねつ)血中(けつちう)に就(つ)き或(あるひ)は外風寒(ほかかせ)に閉(とち)られ或は穢(けか)れ
不浄(ふじやう)の気(き)を受(うけ)或は大病(たいびやう)の後(のち)気血(きけつ)よはりしうへに痘を患(わつら)ふものな
ど皆(みな)逆(きやく)をなすものなり左(さ)もなき時(とき)に於(おひ)ては医薬(くすり)病症(やまい)にあたらす
して人(ひと)をころすものにて痘はもと死症(ししやう)なしと見えたり雑病(ほかのしやう)加(くわ)は
りて逆(ぎやく)を為(なす)は是非(ぜひ)もなけれ医薬(くすり)の人(ひと)を害(わさはひ)する事(こと)慎(つゝし)むへし
種痘の説
李仁山(りにんさん)張路玉(てうろぎよく)痘を植(うゑ)うつす事(こと)をいひ置(おき)ぬ余(われ)四五/児(じ)に験(こゝろ)み見る
に其(その)稀少(てものすくな)にして自(おのつから)愈(いゆ)るものは様痘(いようとう)に類(るい)して後(のち)再度(ふたゝび)痘を発(はつ)す
【右丁】
るあり又(また)甚(はなは)た稠密(てものおほく)に発(はつ)し出(いたし)て漸(よう〳〵)治療(りやうぢ)を尽(つく)して愈(なほり)たるもあり
又/大逆(たいぎやく)にして六日に至(いた)り黄泉(こうせん)に陥(おちい)るもの一人(ひとり)ありしより禁(きん)して
種痘(うゑほうさう)の法(ほう)を用(もち)ひず李仁山(りにんさん)か説(せつ)には日(ひ)をえらひ種痘(しゆたう)する時(とき)は
十の中八九は順(じゆん)なりといへども植(うゑ)すして自然(しせん)と患(わつら)ふものも十
の中八九は治療(りやうぢ)病(やま)ひにあたれは全快(せんくわひ)するものなりさればあな
がち種痘して病(やまひ)を招(まね)くも益(えき)あるましまして痘の順逆(よしあし)瘡(でもの)の
稀密(おふきすくなき)は胎毒(たいどく)のみの為(なす)ところにもあらす時気(じき)によりて変(かは)りぬ病(やまひ)
も出来(いてく)るものなれは種痘して稠密(てものおほく)凶逆症(あしきしやう)をなさはあしかるへ
し忌(いみ)慎(つゝし)みてする事(こと)なかれ
預め痘を防の説
【左丁】
古人(むかしひと)預(あらかし)め痘を防(ふせく)の方(ほう)余多(おほく)あり玄兎丹(げんとたん)預防丹(よほうたん)固本丹(こほんたん)稀痘保嬰丹(きたうほうえいたん)
消毒稀痘丹(しようどくきたうたん)消毒保嬰丹(しようどくほうえいたん)龍鳳丹(りようほうたん)兎血丸(とけつくわん)兎紅丸(とこうくわん)二血丸(にけつくわん)其外(そのほか)種々(いろ〳〵)あり
といへども挙(あけ)て数(かそ)へがたし余(われ)用(もち)ひ験(こゝろ)むるに其(その)功(こう)なし活幼心法(くわつようしんほう)にも富(ふう)
貴(き)の家(いへ)其(その)子(こ)を愛(あい)して痘瘡/流行(はやる)ときは医師(いしや)をむかへて解毒(どくけし)発散(ちらし)
薬(くす)りなどを与(あた)へ医(いしや)も又(また)其(その)稀(てもの)軽(すくな)ふすべき理(り)なしといふ事(こと)をわきまへ
ず妄(みた)りに薬(くす)りを用(もち)ひて脾胃(ひい)を損(そこな)ひ気血(きけつ)を傷(やふ)り元気(けんき)を折(くぢ)き肌(み)
肉(はた)を敗(やふ)りて其後(そのゝち)痘を患(わつら)ふときに望(のそ)みて用(もち)ひ置(おき)し薬(くす)りの毒(どく)のこ
りて凶逆(あしき)病(やまひ)をなし終(つひ)に救(すく)ふべからざる事(こと)をいたす憐(あは)れむべし
すべて痘(ほうさう)前(まへ)に妄(みた)りに薬(くす)りを用(もち)ゆべからざる事(こと)前(まへ)にもくはしく
述(のべ)ぬされど峯石山(ほうせきさん)といふ古人(こしん)の秘方(ひはう)に牛黄天府丸(こほうてんふくわん)といふ方(はう)あり
【絵のみ】
【右丁】
《割書:一名(いちめう)は金嚢(きんのう)|牛黄丸(こほうくわん)といふ》凡(およ)そ痘は血実(ちじつ)気虚(ききよ)の症(しやう)多(おほ)きによりて毒気(どくき)を制(せい)するの
気(き)力(ちから)よはき故(ゆゑ)毒気(どくき)いよ〳〵大盛(さかん)なれば脾胃(ひい)の中(うち)に陥(おちい)りて肌肉(みはた)の間(あひた)に
毒(どく)滞(とゝこほ)り瘡(でもの)も出(いて)がたしさすれは内外(うちそと)ともに■(うつ)【欎の略字ヵ】擁(よう)して必(かなら)す凶逆(わろき)をな
すか故(ゆゑ)に痘疫(ほうさう)流布(はや)るとき此(この)天府丸(てんふくわん)もて用(もち)ひ置(おく)ときは表裡(うちそと)の壅滞(とゝこほり)
解(げ)して毒気(とくき)凝(こり)■(うつ)【欎の略字ヵ】する患(うれ)ひなしされど此(この)薬(くす)り痘を稀(すくな)ふし毒(どく)を解(げ)
すといふにはあらずもちろん用(もち)ひいようあり
大人出痘の説
凡(およ)そ大人(おとな)の痘(ほうさう)は小児(ことも)より重(おも)しといふは小児は一を抱(いた)ひて未(いま)だ離(はな)れず
とて生(うま)れたるまゝにて外(ほか)に気(き)を損(そこな)ふ事(こと)なし大人は皮膚(みのかは)厚(あつ)く心気(こゝろ)を
労(ろう)し酒肉(のみくひ)を縦(ほし)ひまゝにして且(そのうへ)淫事(いんじ)におぼれて心腎(しんじん)虚耗(よはり)たる処(ところ)
【左丁】
へ痘を患(わつら)ふときは表肌(そとはた)に毒(どく)滞(とゝこほ)りて痘いてかたく内(うち)に守(まも)る所(ところ)の精神(せいしん)虚(よ)
耗(はり)あるか故(ゆへ)に瘡(てもの)起灌(やまあけ)しがたく毒(とく)もれすして腹腰(はらこし)いたみ大便(たいよふ)通(つふ)せず
小便(しようよふ)油(あふら)の如(こと)く或(あるひ)は血(ち)を下利(くた)すものは皆(みな)毒(とく)擁(さかん)にして内虚(うちきよ)するか故也又
薬(くす)りも大剤(おほぶく)にしてあたふへし随分(すいふん)婦人(をんな)を遠(とほ)さけてふかく淫欲(いんよく)を慎(つゝし)
むへし
婦人出痘の説
凡(およ)そ婦人(をんな)経行(つきやく)見(み)し後(のち)は男子(をのこ)とちかひあり経水(つきやく)も痘中(ほうさうちう)に来(きた)
らは早(はや)く止(やむ)るをよしとす止(やま)ざるときは凶逆(むつかしき)症(やまひ)起(おこ)るなり起脹(やまあけ)の時(とき)
経水(つきやく)にかゝれは痘/起発(やまあけ)灌膿(うみもつことを)せずして色白(いろしろ)くなるものなりまた痘(ほうさう)
中(ちう)に経行にかゝりて昼夜(ちうや)躁(さわか)しく狂(きちかひ)の如(ことく)にて譫言(うはこと)いふありはやく療(りやう)
【右丁】
治(ぢ)せざるときは救(すく)ふべからず医師(いしや)心得(こゝろう)へし
孕婦出痘の説
㜳妊(くわひにん)の痘(ほうさう)は至(いた)つて重(おも)きものなり只(たゝ)胎(たい)の堕(おち)さるようにするを肝要(かんよう)とす
もし腹中(はらのうち)に病(やま)ひなきものならは腹(はら)を按摩(あんま)して捫事(もむこと)を忌(い)むべし
四五日(やまあけ)のあいたに胎堕(りうざん)するものは療治(りやうぢ)によりて快愈(なほる)ものなり灌膿(ほんうみ)の
時(とき)に胎堕(たいおち)るものは甚(はなは)た逆(ぎやく)なり十日の後(のち)に胎(たい)おつれは亦(また)療治ありすへ
て胎堕(りうざん)するものは血熱(けつねつ)にあらす必(かなら)す気虚(ききよ)の症(しやう)なるか故(ゆゑ)に随分(すいぶん)気(き)を
補(おきな)ふ薬(くす)りを第一(たいいち)とすへし大人参(たいにんしん)を用(もち)ひてよろしつとめて禁忌(いみこと)を慎(つゝし)
むべし
巴豆丸薬を禁するの説
【左丁】
伯圜(はくくはん)八十一/論(ろんに)曰/腸胃(てうい)熱毒(ねつとく)あるものは是(これ)を下(くた)すべし又(また)飲食(のみくい)の停滞(とゝこほり)
あれば是(これ)を下(くた)すべし痘(ほうさう)の一症(いつしやう)は他(ほか)の病(やま)ひとちかひて内(うち)より外(そと)へ発(はつ)
すれは腹中(はらのうち)自(おのつか)ら空(むな)しくして内(うち)に物(もの)なし若(もし)謬(あやま)つて巴豆丸薬(はづくわんやく)の類(たくひ)を
用(もちゆ)れは内気(うちのき)を折(くち)き五/臓(ぞう)六/府(ふ)の気を下(くた)すによりて痘毒(たうどく)其(その)虚(きよ)に乗(しやう)
して内(うち)に攻(せめ)入(い)りて瘡(てもの)平陷(へいかん)【左に「ひつたゝす」と傍記】して膿(うみ)をもたす終(つひ)に凶逆(あしきやまひ)をなすもの多(おほ)
し近来(ちかころ)古方家(こはうか)とて妄(みた)りに巴豆丸(はづくわん)紫圓(しえん)の類(たくひ)を痘に用(もち)ひて人(ひと)を害(わさはい)
するをみるに何(いつ)れも溏泄(はらくたり)やますして瘡(ほうさう)紅色(あかみ)失(うせ)て白(しろ)くなり或(あるひ)は
灰色(はいいろ)になりて逆(きやく)に変(へん)するものあり是(これ)皆(みな)薬(くす)り人(ひと)を殺(ころ)す所(ところ)なり又(また)
順症(じゆんしやう)といへども妄(みた)りに下(くた)し薬(くす)りを用(もち)ひて膿(うみ)を妨(さまた)け遂(つひ)に凶逆(きやうぎやく)をい
たし救(すく)ふへからさるなりたとひ十人の内(うち)一人/快気(くわひき)なすものも後(のち)必(かなら)す
【右丁】
腫物(しゆもつ)など発(はつ)して日(ひ)を引(ひき)て難義(なんき)に及(およ)ふもの多(おほ)し妄(みた)りに用(もち)ゆへか
らす
一角を禁するの説《割書:附人魚骨人牙さん|》
馮子秘録(ふしひろくに)曰/気血(きけつ)よはきときは痘毒(たうどく)を制(せい)するの力(ちから)なく痘(ほうさう)出(いつ)るといへとも
起脹(やまあけ)せず灌膿(ほんうみ)せずしかるに庸医(よふゐ)俗家(そくか)一等(おしなへ)て一角(うにかうる)を用(もち)ゆることを好(この)み害(わさはい)
を招(まねく)社(こそ)愚(おろか)なれ一角/人魚骨(にんぎよこつ)の二品(ふたしな)阿蘭陀(おらんだ)国より持来(もちきた)る物(もの)にて第(たい)一/解毒(とくけし)によろ
しと言(いひ)伝(つた)へぬしかも一角は角(つの)にあらず魚(うを)の牙(きは)なり角も牙も其(その)性(せい)寒冷(かんりやう)な
るものにて殊(こと)に寒涼(かんりよう)の性(せい)にあらされは解毒(とくをけ)す功(こう)少(すくな)し今(いま)痘の虚(きよ)
実(じつ)をわかたす一概(いちかひ)に寒涼解毒を用(もち)ひて内(うち)脾胃(ひい)をやぶり元気(けんき)を
損(そん)し外(ほか)肌肉(みはた)を傷(そこな)ふて自(みつか)ら其(その)非(わるき)といふ事(こと)をしらず余(われ)世俗(せそく)の一角
【左丁】
を用(もち)ゆるをみるに二三/歳(さい)の小児(ことも)に一度(いちと)に二/分(ふん)三分/程(ほと)粉(こ)にして白湯(さゆ)もて
あたふるあり凡(およ)そ小児(ことも)の腸(ひ)【脾の誤記ヵ】胃(い)は脆弱(もろき)ものにてたとへは濡紙(ぬれかみ)の如(こと)し一角
細末(よくこ)にして用(もち)ゆといへともざら〳〵として砂(すな)の如(こと)し腹中(はらのうち)にとゝまりて消化(きえ)
ざれは脾胃(ひい)を敗(やぶ)りて痘症(ほうさう)虚寒(きよかん)に変(へん)して寒戦(ふるひ)咬牙(はきしり)をなし大便(たいよふ)
青色(あをきいろ)なるを下(くた)して終(つひ)に救(すく)ふべからざる事(こと)をいたすもの多(おほ)しもし熱毒(ねつどく)
さかんなる症(やまひ)には鮫(さめ)にて磨(す)り粉(こ)にして一匁(いちもんめ)程(ほと)猪口(ちよく)に入(いれ)水(みつ)にてゆる
くとき熱湯(にへゆ)の中(うち)にしはらく入置(いれおき)て其(その)うは湯(ゆ)を与(あた)ふべし必(かなら)す過(すご)し
用(もち)ゆる事(こと)なかれ虚症(きよしやう)のものには必(かなら)す与(あた)ふべからず又(また)痘疹心印(たうしんしんいん)に人(ひと)
牙(のは)は解毒(どくけし)の効(こう)甚(はなは)たするときものゆゑ虚弱(きよかん)の痘症に用(もち)ゆるときは後(のち)
必(かなら)す斑爛(たゝれさけ)て難治(むつかしき)に及(およ)ふものなり妄(みた)りに用(もち)ゆへからずといへり慎(つゝし)むへ
【右丁】
し〳〵
柳の虫を用ゆる弁
浪華(おほさか)京都(きやうと)なとの俗医(そくい)多(おほ)くは痘に柳虫(やなきのむし)を用(もち)ゆといへとも余(われ)考(かんか)ふるに古(むかし)
人(ひと)未(いま)た痘に柳虫(やなきのむし)を用ゆる事(こと)をきかず本草(ほんそう)にも其(その)功能(こうのう)をいはず痘疹要(たうしんえう)
訣(けつ)に桑虫(くはのむし)は腎肺(しんはい)の毒(とく)沈伏(しつみかくる)を起(おこ)すといへり又(また)救偏瑣言(きうへんさけん)に熱実(ねつじつ)はなは
たしく凶逆(きやうぎゃく)なる症(しやう)にして毒気(とくき)沈伏(しつみかく)るゝものは十中に八九は桑虫(そうちう)を濃(こ)く
煎(せん)して薬(くす)りに和(ませ)て用(もち)ひて神功(しんこう)ありといへり余(われ)往(たひ)々/桑虫(そうちう)を用(もち)ひ験(こゝろ)
むるに其(その)功(こう)炳然(へいせん)【左に「あきらか」と傍記】としてあり都(すへ)て木(き)に生(うま)れて木(き)を喰(くら)ふ虫(むし)を耗蠹(ごふと)
といひて何(いつ)れの虫(むし)も其(その)形(かたち)よく似(に)たるものなるか故(ゆゑ)に桑虫(そうちう)と柳虫(りうちう)とゝ
りちかへたるにやはたかたかな書(かき)にてリウチユウ《割書:柳(やなき)の|むし》ソウチユウ《割書:桑(くは)の|むし》
【左丁】
を見(み)あやまりて用(もち)ゆるにや後来(このゝち)詳(つまひ)らかにすへし柳虫(りうちう)は口(くち)円(まろ)く桑(そう)
虫(ちう)は口(くち)尖(とか)りてあるもの故(ゆゑ)宜(よろ)しくこれをもてわかつへし桑虫(そうちう)は痘瘡の
毒(とく)沈(しつ)み伏(ふく)しておこらず灌膿(うみもち)かたきものに用(もち)ひて甚(はなは)た功(こう)ありされと虚(きよ)
症(しやう)には酒(さけに)煎(せんじ)て用へし煎(せん)じやう口伝(くてん)あり
広東人参の説
広東人参(かんとうにんしん)は一切(いつさい)の血症(ちのやまひ)を治(し)して失血(しつけつ)亡陽(ほうよう)産前(さんせん)産後(さんこ)崩血(ぼうけつ)崩漏(ぼうろう)とい
ふやまひに用(もち)ひて尤(もつとも)功(しるし)あり一説(いつせつ)に騏驎血(きりんけつ)蒲黄(ほほふ)犀角(さいかく)なとに等(ひと)しき
所(ところ)の功(こう)ありとて何(いつ)れも血(ち)を凝泣(しふら)するの功(こう)あれと気(き)を補(おきな)ふ功(こう)なし蓋(けたし)
痘は気不足(きふそく)血有余(ちゆうよ)に発(おこ)るもの多(おほ)きゆへ広東人参(かんとうにんしん)を強(しひ)て用(もち)ゆへ
からすもし過(すご)し用(もち)ゆれは血(ち)いよ〳〵実(じつ)して気(き)いよ〳〵おとらふゆゑに血(ち)も
【右丁】
これか為(ため)に渋(しぶ)りめくらずして肌肉(みはた)に泛(うかひ)溢(あふ)れて出瘡(てもの)赤色(あかみつよく)なりて掻(か)
痒(ゆみ)を発(はつ)し或(あるひ)は癍(はん)といふものを発(はつ)し又(また)は疔(てう)といふものを生(しやう)す或(あるひ)は血行(ちめく)
らずして血毒(けつどく)といふ症(やまひ)になりて出瘡(てもの)焦(こかれ)黒(くろ)くなり膿(うみ)もたずして終(つひ)に
危(あや)ふきに至(いた)るなりされど婦人(をんな)の痘中(ほうさう)に経水(つきやく)にかゝるものには随分(すひふん)用(もち)
ひてよし又(また)血虚(けつきよ)といふ症(やまひ)にて出瘡(てもの)あかみうすきにはすこしもちゆるも
よし但(たゝし)気血(きけつ)ともに虚(きよ)したる者(もの)には朝鮮大人参(てうせんたいにんしん)にあらざれは用(もち)ひて
しるしなし
痘疹戒草巻上畢
【裏表紙】
【表紙】
【整理ラベル・富士川本/コ/23】
【題箋】
国字痘疹戒草 中
【左丁】
痘疹戒草巻中
痘疹科錦橋池田先生輯著 門人 《割書:執 瑞見|諄 玄随》同較
痘神を祭る説
痘神(ほうさうかみ)を祭(まつ)る事(こと)唐土(もろこし)にもあるよし保嬰録(ほうえいろく)留青集(りうせいしゆう)等(なと)の書(しよ)に
見(み)えぬ
日本(にほん)にても古来(むかしより)痘瘡(ほうさう)は鬼神(おにかみ)の病(やま)ひと称(とな)へて痘神(ほうさうかみ)をまつる事(こと)専(もつは)
らなりされとあなかちに神(かみ)のみを祭りて薬治(やくぢ)を忽(おろそ)かにするを
もてそゞろに鬼籙(きろく)に陥(おちい)る事(こと)をいたすは誠(まこと)に不孝(ふかう)不/慈(じ)の甚(はなは)た
【朱印・京都帝国大学図書之印】
【朱印・富士川游寄贈】
【黒印・184658 大正7.3.31】
【右丁】
しき事(こと)なれと秋南江(しうなんこう)【注】鬼神論(きしんろん)にも見(み)えぬ我(われ)思(おも)ふにすへて神(かみ)は穢(けかれ)
気/不浄(ふじよう)を忌(いみ)嫌(きら)ふもの故(ゆゑ)痘者(ほうさうにん)ある家(いへ)は務(つと)めて清浄(しよう〴〵)を第一(たいいち)とすべ
し神(かみ)の果(はた)して有無(あるなき)は姑(しはら)くおきて痘症(ほうさう)は穢気(けかれ)不浄(ふじよう)を忌(いむ)者(もの)ゆゑ
其(その)居間(ゐま)に神(かみ)在(いま)すと思(おも)へは自(おのつか)ら清浄をこゝろ懸(かく)る故(ゆゑ)痘者穢気
に感(かん)し不浄を蒙(かふむ)る事あるまじされは痘者の為(ため)にもよろし殊(こと)に
病中(ひやうちう)に神祭(かみまつ)りして祝(いは)ふは心(こゝろ)に快(こゝろ)よきものなれは随分(すいふん)祭(まつ)るは
よろし然(しか)れども神(かみ)のみに詫(たく)【託】して薬治(くすり)を忽(おろそか)にするは愚(おろか)なるの甚(はなは)
たしきなり
祭事の弁
国(くに)々によりて神棚(かみたな)具物(そなへもの)祭(まつり)の法(ほう)などちかふ事(こと)ありといへとも大体(たいてい)
【左丁】
家(いへ)の入口(いりくち)に注連縄(しめなは)張(はり)りて紅紙(あかかみ)にて幣(へい)を垂(た)れ置(おき)又/房(ねま)の入口(いりくち)にもさ
のとふりするは穢気(けかれ)不浄(ふじよう)を避(さく)る為(ため)なり房内(ねま)に神棚(かみたな)設(もふ)けて《割書:一尺程|たかく》
《割書:かざるもあり又/天花(らんま)|板のしたへつるもあり》紅紙を敷(しき)猩(しよう)々/達摩(たるま)猿面(さるめん)等(なと)赤(あか)き色(いろ)の人形(にんぎやう)を置(おき)
或(あるひ)は目出度(めでたき)人形(にんぎやう)なとかざり置(おく)もあり何(いつ)れも紅色(へにいろ)をとり祝(いはひ)を取(と)り
たるなり又(また)御酒(みき)徳利(とくり)紅紙にて口(くち)をかざり常灯明(しようとうめふ)を点(てん)し魚(うを)菓(くわし)
を具(そな)へ《割書:紅餅(へにもち)紅団子(へにたんこ)赤小豆飯(あつきめし)赤鯛(あかたひ)あかめはる|ほうぼふ糸(いと)より鯛かながしらのたぐひを具ふ》何(いつ)れも紅色なるを供(そな)ふ
る事(こと)なり伝(つた)へきくに唐土(もろこし)にても痘の正(たゝしき)色(いろ)は紅(へに)を貴(たつと)ひ喜慶(よろこひ)のこ
とにも紅色を用(もちゆ)るによりて痘瘡ある家(いへ)には紅色をこのむよし
我(わか)
邦(くに)にかはりし事なし又/国(くに)々によりて神棚(かみたな)へ具(そな)へ物かざり物なと
【注 正しくは「南秋江」】
【絵のみ】
【右丁】
種(いろ)々の品(しな)ありといへども何(いつ)れもましなひにてさしたる由所(わけ)あるにあ
らず見聞(みきく)に及(およ)ふところ一二を左(さ)にしるす
馬(うま)の沓(くつ)をかざるあり馬(うま)は痒(かゆ)き所(ところ)ありとも思(おも)ふまゝに掻(かく)事(こと)なりか
たき故(ゆゑ)痒(かゆみ)を忍(しの)ふという事(こと)より取(と)り来(きた)るならんか
箕(み)をかざりおきて痘者(ほうさうにん)頭(かほ)手(て)なと痒(かゆ)がれは箕(み)の上(うへ)の方(はう)を掻(かき)あし
腰(こし)を痒(かゆ)がれは箕(み)の下(した)の方(はう)を掻(かく)事(こと)あり箕(み)は身(み)といふ義(き)にて身(み)の
痒(かゆ)ゆみを箕(み)の身(み)にうつすといふ義(ぎ)なるか
引臼(ひきうす)をかざるありこれは首尾(はしめをはり)順(じゆん)にまはるといふ意(こゝろ)を取(とり)たるなる
へし
産俵(さんたはら)は俵(たはら)の蓋(おほ)ひにて米穀(へいこく)をもらさぬ者(もの)故(ゆゑ)痘(てもの)の頂(うへ)より膿(うみ)をもら
【左丁】
さぬといふ意(こゝろ)をとりてかざり置(おく)なるへし
これらの類(るひ)いろ〳〵ありといへとも何(いつ)れも此(この)意(こゝろ)にておすべしさ
したる理(わけ)あるにあらず
又痘者ある家(いへ)に神棚(かみたな)の側(そは)に張(はり)り置(おく)哥(うた)に
痘瘡(ほうさう)のやとはととへはあともなし此(この)処(ところ)にはいもせざ
らまし
此歌(このうた) 御詠(ぎよえひ)なるよし聞(きゝ)伝(つた)へぬ我(われ)いまた詳(つまひ)らかにするに暇(いとま)な
し姑(しはら)くしるして再考(さいかう)【攷】をまつ
穢気不浄を避る説
諸書(しよしよ)にくはしく穢気(えぎ)を避(さく)るの弁(へん)あり今(いま)和解(わげ)して俗家(そくか)に
【右丁】
しめす
一/狐臭(わきか)ある人(ひと)痘者(ほうさうにんの)房内(ねや)へ入事(いること)なかれ
一痘者房内にて淫事(いんじ)なす事(こと)なかれ淫液(いんえき)の臭(にほひ)を忌(いむ)
一人の遠方(ゑんほう)より急(いそ)ぎ来(きた)る汗(あせ)の臭(にほひ)をきらふ
一/溝(みそ)圊(せついん)なとさらへる臭を忌
一/婦人(おんな)経水(つきやく)新産(しんさん)の婦人(おんな)産穢(さんえ)の臭をきらふ
一/悪(わろ)き瘡(かさ)をわつらひし人のにほひ幷(ならひ)にうみ汁(しる)つきし衣服(きもの)の臭を
忌
一/蚊(か)を焼(やき)髪(かみ)を焼(やき)し臭幷に油灯(ともしひ)蝋燭(らうそく)紙燭(しそく)を吹消(ふきけす)臭を忌
一/硫黄(いわう)■(しや)【麝ヵ】香(かう)龍脳(りうのふ)又(また)はかけ香(かう)のにほひを忌
【左丁】
一/魚(うを)鳥(とり)を焼(やき)又は魚/肉(にく)を炒(い)りこがし或(また)は油(あふ)らをいる臭をきらふ
一/胡葱(あさつき)薤(らつきやう)蒜(にんにく)野蒜(のひる)韮(にら)青葱(ひともし)の類(たくひ)の臭を忌
一/酒(さけ)に酔(ゑひ)たる人(ひと)のにほひをきらふ
一いまた見知(みし)らぬ人その房内(ねや)へ妄(みた)りに入(いる)へからず用向(いようむき)ありて入とも
痘者に見えぬようふにすへし医者(いしや)たりとも次(つき)の間(ま)にて荊芥(けいかい)茵蔯(いんちん)
の類(るひ)を焚(たき)薫(くん)してのうへにいるへし
一/大声(おほこゑ)にて人(ひと)をしかり又は口論(こうろん)の音(こゑ)痘者にきかしむる事(こと)なかれ
一痘者にむかひて髪(かみ)を結(ゆ)ひ粧(けはひ)してみせる事(こと)なかれ
一痘者の傍(そは)に居(ゐ)る人/身体(みはた)かゆしといへとも掻(かき)て痘者に見(み)せる
事(こと)なかれ
【右丁】
一/痘後(ほうさうのゝち)一番湯(いちはんゆ)まては房内(ねや)又(また)は病床(ねや)の前(まへ)なる庭(には)なと掃除(そうじ)するこ
となかれ
一/僧(しゆつけ)尼(あま)比丘(ひく)称宜(ねき)【称は祢の誤記ヵ】山伏(やまふし)巫女(みこ)など房内(ねや)にいる事なかれ
一痘者のかたはらにてさわかしき物云(ものいひ)又(また)は大音(おほこゑ)にてわらふ事なかれ
一/酒宴(さかもり)舞謡(まひうた)ふこと必すきんずへし
凡(およそ)これらの禁忌(いみこと)を謹(つゝ)しみ護(まも)らされは順(じゆん)なるものも逆(ぎやく)に変(へん)し
危(あや)ふきにいたり又(また)能(よく)守(まも)るときは逆(ぎやく)なるものも幸(さいはい)に生(せい)を得(え)て険(けん)な
るものは順(じゆん)に転(てん)すへし尤(もつとも)気血(きけつ)壮実(さかん)なる痘者は物事(ものこと)にまけあや
かる事はすくなけれと気血(きけつ)虚弱(よはき)痘症(ほうさう)は物事にまけ易(やす)しこのゆゑに
父母(おや〳〵)傍人(そはひと)よく〳〵こゝろをつけて禁忌(いみこと)調護(かひほう)飲食(のみくひ)禁好(よしあし)を第一(だいいち)
【左丁】
とすへし飲食のよしあしは末(すゑ)の巻(まき)にしるす
四時房内の差別
一/貴賤(たつときいやしき)貧福の程(ほと)々に従(したか)ひ痘者(ほうさうにん)介抱(かいほう)房内(ねや)の差別(しやへつ)あれと唯(たゝ)こゝに
しるせし処(ところ)によりて其(その)程(ほと)相応(さうおふ)になすへし
一痘はその始(はしめ)先(まつ)熱(ねつ)ありて已(すて)に痘といふ事(こと)明(あき)らかならは春夏秋(しゆんかしう)
冬(とう)ともに東南(ひかしみなみ)にむかひ西北(にしきた)を後(うしろ)にする坐舗(さしき)を見立(みたて)尤(もつとも)四季(しき)の寒(さむき)
暑(あつき)によりて坐敷(さしき)の差別(しやべつ)あるへきなり其(その)よろしき処(ところ)の坐舗を掃(そう)
除(し)して雨戸(あまと)障子(しやうし)襖(ふすま)なとたてきりて乳香(にうかう)を焚(たき)其(その)座中(さちう)の湿気(しつき)不
浄(しやう)をさけてのうへ衣桁屏風(いかうひようふ)に紅色(へにいろ)なる衣服(きもの)をかけまた荊芥(けいかい)茵蔯(いんちん)
を薫(ふすべ)て其(その)香(にほひ)の坐中/隅(すみ)々まて行届(ゆきとゝく)をよしとすこれ皆(みな)穢気(けかれ)を避(さくる)
【右丁】
の法(ほう)なり
一/房内(ねや)の入口(いりくち)に注連縄(しめなは)をはり紅紙(へにかみ)にて幣(へい)をたれおけは家内(かなひ)の人(ひと)又は
他(ほか)より来(きた)る人(ひと)の心得(こゝろえ)にもなり自(おのつか)ら穢(けか)れを避(さけ)る法(ほう)なるへし勿論(もちろん)穢気(けかれ)
ある人(ひと)房内にいるへからすまた房内は黒黯(くらく)して天日(にちりん)の光(ひかり)強(つよ)く照(て)りいら
ぬようにして灯火(ともしひ)を夜(よる)昼(ひる)照(て)らし置(おく)へしとかく陰病(いんひやう)なるか故(ゆゑ)
静(しつか)なるをよろしとす冬(ふゆ)春(はる)の時候(しこう)寒期(さむきころ)は純(とん)𢃖(てう)緬(めん)𢃖(てう)を垂(たれ)て風寒(かせ)を
防(ふせ)き炬燵(こたつ)火鉢(ひはち)その坐敷(ざしき)相応(そうおう)に調(とゝの)へ置(おく)へし寝床(ねところ)は蒲団(ふとん)二重(ふたへ)三(み)
重(へ)に敷(しき)て十二日の間(あいた)は必(かな)らす掃除(そうじ)する事(こと)なかれ掃除(そうじ)する事(こと)かた
く禁(きん)すへし
一/房内(ねや)の入口(いりくち)に紅染(へにそめ)の暖簾(のうれん)を垂(たれ)おきて風(かせ)を防(ふせ)くへし次(つき)の坐舗(ざしき)に
【左丁】
風炉(ふろ)火鉢(ひはち)薬(くす)り道具(とうぐ)膳(せん)具/白湯(さゆ)煎茶(せんちや)にいたるまて調(とゝの)へ置(おく)へし
房内(ねやのうち)は昼夜(よるひる)共(とも)に荊芥(けいかい)を焚(たき)て穢(けかれ)れをさけてよろし自(おのつか)ら痘者/痒(かゆみ)の
患(うれひ)を免(のか)るへし父母(おや〳〵)傍(そは)人共に大小便(たいしようへん)に行(ゆき)帰(かへ)らは次(つき)の間(ま)にて荊芥を
焚薫(やきふすへ)て不浄(きよらかならぬ)気をはらひてのうへに房内に入(いる)へし医者(いしや)とても又同
し
一/聞人(ぶんしん)氏(し)曰(いはく)春冬(はるふゆ)は純(とん)𢃖(てう)を垂(たれ)て寒(さむさ)を防(ふせき)夏秋(なつあき)は蚊(か)𢃖を垂て蚊と蝿(はひ)と
をふせき又/胡荽子(こずひし)を一/合(こう)ほと酒(さけ)をふきて四ツにわけ袋(ふくろ)に入(いれ)𢃖の
四隅(よすみ)につりおきて穢れをさくへし夏/期(ころ)は務(つと)めて蝿を避(さく)へし若(もし)
蝿/来(きた)りて痘に子(こ)を産(うみ)つけなとすれは二三日すきて痒(かゆ)みを発(はつ)
し或(また)は痛(いた)みてくるしむものなりこれを蛆痘(そたう)といふされと蛆痘を
【右丁】
なすものは命(いのち)につゝかなし良(よろ)しき薬りをもとむへし
一/前(まへ)にもいふ通(とふ)り痘/出(いて)てより十二日まては襯衣(はたき)をきせかゆる事な
かれ若大小便にてぬれけかれたらは暖(あたゝか)なる襁褓(むつき)にて其(その)ぬれ穢れ
たる処(とこ)をぬくひまた別(へつ)の暖なるむつきにて痘者の腹(はら)腰(こし)にひき
まはし彼(かの)湿(しめ)りある襯衣の裳(すそ)をからけあけて冬ならは炬燵(こたつ)によせ
て寝(ね)させ置へし又夏なとは父母傍人襁褓を懐中(ふところ)にあたゝめ用(よう)
意(い)してよろしもつとも濡(ぬれ)穢れたる襁褓を痘者にまとひおくへから
す早速(さつそく)とりかゆへし又/痘中(ほうさうちう)椽前(えんさき)庭(には)前にて大小便さする事(こと)
かたくきんすへし寒(かん)中ならは炬燵の蒲団(ふとん)をまくりあけてその
側(そは)にて便器(まる)もて取(とる)へし暑(しよ)中ならは座敷(ざしき)にて風(かせ)あたらぬよふ
【左丁】
に便器にて取へし
一/四季(しき)の時候(じこう)によりて衣被(きせもの)よろしきにかのふよふにはからふへしまた
暑中なれはとて風/吹(ふく)所(ところ)へつれゆく事かたく禁(きん)すへし夏(なつ)は陽(よう)外(ほか)
にして陰(いん)内(うち)とて表(そと)はあつけれと裏(うち)は冷(ひへ)るものなり殊(こと)に痘の陰(いん)に
属(そく)しそのうへ気血(きけつ)の二者(ふたつのもの)毒(とく)をおくり外(ほか)へいつるゆゑ内は必(かなら)す虚(きよ)し
易(やす)しこの理(り)をあきらめすして暑中はあつかるへしなとこゝろえ
風吹所へ連(つれ)行(ゆき)て害(わさはひ)を招(まね)く事なかれ又/団扇(うちは)五明(あふき)にてもあふくこと
を忌(い)め
痘症調護の法
一痘の介抱(かいほう)も症(やまひ)の様子(ようす)によりて異(ちか)ひもあり又/病家(ひやうか)とても症のあ
【右丁】
らまし吉凶(よしあし)をわきまへされはゆき届(とゝ)かぬ事あるへきか為(ため)に痘中あ
らましの症候(よふたひ)を附(そへ)録(しる)すこと左の如(こと)し
一/丹渓(たんけい)曰(いわく)凡(およそ)痘/発出(はつす)るの前/先(まつ)熱(ねつ)して諸(もろ〳〵)の症をなす熱/軽(かろ)きものあり
重(おも)きものあり嘔吐(えすきはく)もあり泄瀉(はらくたる)もあり搐搦(ひきつけ)するもあり目(め)を張(は)りて
反張(そりかへる)もあり又/悠(うつ)々として睡(ねふ)るもあり啼(なき)号(さけ)ひて止(やま)ざるもあり大熱さ
めて又/発(はつ)するもあり譫語(うわこと)いふて躁(さわく)もあり或は腹(はら)腰(こし)いたむもあり
大便/通(つふ)せず小便しぶり或は膏(あふら)の如く血(ち)の如きを通つるあり千変(せんべん)
の症をなすゆゑ老医(こふしやいしや)も痘といふ事を決(けつ)しかたく食傷(しよくしやう)風邪(ふうじや)驚(きよう)
風に似(に)て又痘症にうたかはしき故(ゆゑ)古人(むかしのひと)これを疑似(きじ)の症(しよう)といふとな
り
【左丁】
一/始(はし)めより痘熱(ほうさうのねつ)を発(はつ)するものあり又(また)他(ほか)の病(やまひ)にて熱(ねつ)を発(はつ)し痘を発
するものあり又一日/熱(ねつ)して痘を発すもあり三日/程(ほと)にて見点(けんてん)するを
よしとす又(また)数日(すじつ)にして痘を発するもあり何(いつ)れ痘疫(ほうさう)流行(はや)る時(とき)なら
は早(はや)く医師(いしや)に請(こ)ひて薬(くす)りを求(もと)むへし医師(いしや)もよろしく其(その)症(やまひ)を詳(つまひ)
らかにして薬(くす)りを用(もち)ゆへし熱してより二日にもならは紅紙燭(へにしそく)もて
頭面(かほ)を照(てら)し診(うかゝ)ひ皮(かは)と肉(にく)との間(あひた)に赤(あか)き点(てん)ありて蚊(か)の嘴(くひ)し跡(あと)の如(こと)
きもの何処(とこ)〳〵に幾点(いくつ)あるといふ事/見覚(みおほ)へおきてまた次(つき)の日(ひ)灯(ともしひ)を
てらし診(うかゝ)ふて昨日(きのふ)見置し点(てん)窠粒(つふたち)たるよふにみえ別(へつ)に又(また)昨日(きのふ)見し
如(こと)きもの出(いて)あれは大体(たいてい)痘としるへし勿論(もちろん)其(その)症候(よふたひ)等(なと)引合(ひきあは)せ考(かんか)【攷】ふ
べきなり
【右丁】
一 壱度(いちと)熱(ねつ)してよりは父母(おや〳〵)傍人(そはひと)側(そは)をはなれぬよふにすへし熱つよき
ものは驚搐(ひきつけ)おこるものなり此時(このとき)急(いそ)き抱(いた)きてしつかりと抱(かゝへ)しめてよ
ろし若(もし)甚(はなは)たしけれは目(め)まひ気(き)うせなとして人事(ひとこと)をしらぬ様(よふ)にもな
るものなり左(さ)あらは熊胆(くまのい)を水(みつ)にてとき用(もち)ゆへしテリヤアカも少(すこ)
しはよろし妄(みた)りに種(いろ)々の気付薬(きつけくす)りを用ゆべからず始(はし)め驚搐する
は驚痘(きやうたう)とてよきもあり又 中悪(ちうあく)とてわろきもありいしやにまかせて
療治(りやうじ)をうくへし又(また)腹(はら)背(せなか)を按摩(なてさす)る事(こと)なかれ世間(せけん)痘疫(ほうさう)流行(はやる)とき
ならはたとへふさぎ強(つよ)きものとても驚風(きやうふう)とおもひ針灸(はりきう)按摩(あんま)する
事(こと)なかれ
一痘は他(ほか)の病(やま)ひとちかひわつか十二日をかきりとして十二日を又四ッに
【左丁】
わりてこれを四節(しせつ)といふなり出斉(てそろひ)まて三日を見点(けんてん)といひ次(つき)の三日
を起脹(やまあけ)といひ又次の三日を灌膿(ほんうみ)といふ膿(うみ)もちての後(のち)収靨(かせ)三日にし
て功(こう)を収(おさむ)る也されと此(この)あとに落痂(ふたおち)三日といふものあり始(はしめ)の熱(ねつ)は長(なか)き
あり短(みしか)きあり定(さたま)りしことなし又 後(のち)の余毒(よとく)も或(あるひ)は無(なき)もあり久(ひさ)し
く延(ひ)くもあり故(ゆゑ)に初熱(はしめのねつ)と余毒(よとく)とは定(さたま)りし期(かきり)なし今(いま)見点(けんてん)より
落痂(ふたおち)まて十五日のあひたをもて痘の定期(さたまりしひ)となし調護(かいほう)の法(しよほう)をし
るすなり
一 已(すて)に痘たる事(こと)しれたらは垢(あか)つかぬ衣服(きもの)きせかゆへし貴人高位(たつときくらいのひと)と
いふとも瘡(てもの)稠密(おほ)なる痘ならは襯衣(はたき)は紅(へに)つむき又は紅木綿(へにもめん)をもち
ゆへし絹類(きぬるい)にては膿期(うみもつとき)潰爛(たゝれ)て膿汁(うみしる)なかれ襯衣(はたき)に付(つき)かわきて身(み)
【右丁】
動(うこき)する毎(こと)に出瘡(てもの)の痂(かは)と共(とも)にはなれて又/膿(うみ)血(ち)を流(なか)し痛(いた)む者(もの)なり
されと瘡(てもの)稀疎(すくな)なるは絹(きぬ)にても妨(さまたけ)なし
一 管橓(くわんしゆん)曰(いはく)穢気(けかれ)不浄(ふじやう)外(ほか)より解(げ)する方(ほう)あり
房事(ほうじ)経水(つきやく)生/産婦(さんふ)の穢(けかれ)を被(こふむ)りおかさるゝには大棗(たいそう)を烟薫(くすへ)て
よし
酒(さけ)に酔(ゑひ)たる臭(にほひ)によりて不快(よからぬ)者(もの)は葛根(かつこん)茵蔯(いんちん)を烟薫(たき)てよし
五辛(こしん)《割書:にんにくにら|のたくひ》の類(るひ)の臭(にほひ)にまけて不快者は生姜(しようか)を烟薫てよ
し
喪者(もしや)の穢(けか)れ疫癘(えきれい)の気(き)によりて不快者は大黄(たいおう)蒼朮(そうじゆつ)を烟
薫てよし
【左丁】
狐臭(わきか)または犬狐(いぬきつね)に驚(おと)されて不快者は楓毬(ふうきゆう)【注】を烟薫てよし
雨風(あめかせ)或(また)は霖雨(なかあめ)湿気(しめり)によりて不快者は蒼朮(そうじゆつ)楓毬(ふうきゆう)【注】を烟薫て
よし
諸(もろ〳〵)の悪気(わろきき)を避(さけ)るは乳香(にうかう)を焚(たき)てよし又(また)胡荽酒(こすいしゆ)を噀(ふく)もよしと
なり今(いま)荊芥(けいかい) をもて験(こゝろ)むるに避穢法(へきえほう)に極(きは)めてよろし
一 序病(しよびやう)三四日にして熱(ねつ)さめて元気(けんき)よく汗(あせ)やみて顔(かほ)の色(いろ)うすべに
いろにて飲食(のみくひ)も相応(そうおう)にすゝむをよしとす又(また)乳食(のみくひ)すゝみかねるもの
にても味噌(みそ)塩(しほ)の味(あし)を好(すく)をよしとす又(また)此時(このとき)吐瀉(はきくたし)するといふとも昼(よる)
夜(ひる)ともによくねむるものはよろし
一 序病のうち大便(たいへん)溏泄(ゆるくくたり)小便(しようへん)快通(よくつう)するをよしとす又/虚症(うちよはき)ものにて大
【注 「楓毬」は「毬楓」が正】
【絵のみ】
【右丁】
便/一向(いつかう)に通(つう)せさるあり妄(みた)りに下(くだ)すへからす腐医(へたいしや)俗家(そくか)なと妄(みた)りに下(くた)し
ぐすりを用(もち)ひて一概(いちづ)に毒気(とくき)を下(くた)しさへすれはよき事(こと)と心得(こゝろえ)たるは愚(おろか)
なる事(こと)也(なり)夫(それ)痘に気虚(ききよ)より始(はしま)るものあり内虚(ないきよ)にはしまるものあり表(ひよう)
虚(きよ)にはしまるものあり又(また)実熱(じつねつ)より始る者(もの)あり表実(ひようしつ)に始(はしま)る者(もの)あり
内実(ないしつ)にはしまるものあり其(その)症(やまひ)に随(したか)ひて下(くだ)すへきは下(くだ)すへし補(おきな)ふへきは補(おきな)ふへし妄(みた)
りに下(くた)し薬(くす)りもて虚症(きよしよう)の者(もの)にあたふれは人をころす恐(おそ)るへし〳〵
一 前(まへ)にもしるせしとふり稀密軽重(かろきおもき)ともに稀痘(きたう)解毒(けどく)の妙方(めやうほう)奇方(きほう)
といふとも妄(みた)りに用(もち)ゆへからずおもくつゝしむへしまた生冷(つめたき)ものをあ
たふへからず何(なに)にてもよく煮(に)熟(じゆく)したる者(もの)飲食(のみくひ)さすへし
一 序熱(しよやみ)二三日/程(ほと)にて痘/始(はしめ)て出(て)るを見点(けんてん)といふ《割書:俗(そく)にほみ|せといふ》又(また)三四日に
【左丁】
して足(あし)の心(うら)に痘/出(て)るを出斉(しゆつせい)といふ《割書:俗(そく)にてそ|ろひといふ》初(はし)めに出(て)たる痘はまつ肥大(ふとり)
ひかりありて後(のち)に出(て)たる痘も次第(したひ)に肥大(ふとり)かゝるをよしとす此時(このとき)小便(しやうへん)度(たひ)
度(たひ)通(つう)するは尤(もつと)もよろし
一 もし初(はしめ)二三日のうち熱(ねつ)甚(はなはた)しく口(くち)かわき声(こゑ)唖(かれ)て大便(たいへん)通(つう)せす小便
もしぶり或(あるひ)は通(つう)するとても血(ち)の若(こと)きあり或は乾呕(からへつき)しきりなる
もあり眼(め)のうち赤色(あかく)甚(はなはた)しきは血(ち)を灑(そゝく)か如(こと)くにて朱(しゆ)を塗(ぬ)るか如(ことく)顔(かほ)の
色(いろ)もあかく或は青(あを)きもあり或は昼夜(よるひる)譫語(うはこと)いふて躁(さわか)しく狂妄(きちかひ)の
如(ことき)もありまたは腰(こし)腹(はら)を疼(いたみ)て睡(ねむ)る事(こと)なりかたく或は惣身(そうしん)の出瘡(てもの)赤紫(あかむらさき)
にて甚(はなはた)しきは焦黒(こかれくろく)なるもあり急(きう)によろしきくすり用(もち)ひて大便(たいへん)を下(くた)
すをよしとす若(もし)療治(りやうち)遅(おそ)きときは救(すく)ひかたし
【右丁】
一 出斉(てそろひ)より三日の間(あひた)を起脹(きてう)といふ《割書:俗(そく)に山(やま)|あけといふ》凡(およそ)初(はし)めより四日にいたり
て惣身(からた)の熱(ねつ)さめて元気(けんき)よく飲食(のみくひ)進(すゝ)みかぬるとも常(つね)の如(ことく)によく眊(ねむ)り
音(こゑ)かれすして小児(ことも)ならは平常(つね〳〵)好所(すくところ)の翫物(もてあそひもの)なと取(と)りよせ遊(あそ)ふをよ
しとすされと気六(きむつ)ヶ敷(しき)故(まゝ)遊(あそ)ひ戯(たわむ)るこゝろはあれと或(あるひ)は投(なけ)すてゝ
我(わか)まゝいひて寝(ね)たり起(おき)たりなそするは熱(ねつ)の後(のち)なる故(ゆゑ)こゝろ爽(さはや)かなら
さる也(なり)此時(このとき)腹(はら)の下(くた)りやみて小便(しようへん)沢山(たくさん)に度(たひ)々/通(つう)するをよしとす又(また)此時
噴嚔(くつしやめ)度(たひ)々/出(て)るものなり数多(かすおほ)く出(て)る程(ほと)よろし痘の理(り)をあきらめさる
者(もの)は外感(がいかん)風邪(ふうじや)なりとこゝろえ療治(りやうち)ちかひするものなり心得(こゝろう)へし
一五六日にして痘/勃(ふつ)々として肥大(ふとり)桃紅色(うすへにいろ)にひかり顔(かほ)も浮腫(うすはれ)次(し)
第(たい)に眼胞(まふた)も腫(はれ)て目(め)ひらきかぬるはよろしまた手(て)にて痘をなでみれは
【左丁】
皮(かは)厚(あつ)く水漿(みづけ)もれず手にて珠(たま)を撫(なづる)が如(こと)くしかも彩(つや)の潤(うるほひ)あるは尤(もつと)
も大吉(たいきち)なり此(この)時(とき)よく睡(ねむ)りよく食(しよく)し音(こゑ)清(きよ)らかにして大便(たいへん)かたく小
便(へん)通(つうず)るを専一(せんいち)によろしとすこれ五六日の験(けん)なり若(もし)七日の期(き)に
至(いた)りて稠密(てものおほ)なるもの此(この)時(とき)一度(いちと)大便通すれは殊(こと)の外(ほか)わろし別(へつ)し
て大人(おとな)の痘症(ほうさう)此(この)時(とき)すこしも大便通するときは忽(たちま)ち順(しゆん)も逆(ぎやく)に変(かは)る
ものなり都(すへ)て大人(おとな)小児(ことも)ともに此(この)期(とき)にて大便通する者(もの)は甚(はなは)た大事(たいせつ)な
りとしるへし速(すみやか)に治(ぢ)せざれは必(かなら)す凶逆(きやうぎやく)に変(へん)す
一 灌膿(ほんうみ)の期(き)にて微(すこ)し熱(ねつ)ありて微(すこ)し渇(かわ)くは痘の常(つね)なり庸医(へたいしや)実熱(しつねつ)と
こゝろえ療治(りやうぢ)ちかひして人(ひと)を殺(ころ)す事(こと)おほし向後(このゝち)慎(つゝし)むへし傍人(そはひと)よ
ろしく其(その)渇(かわ)くにしたかひて薬(くす)りと粥(かゆ)のうは湯(ゆ)をかはり〳〵にあた
【右丁】
ふへし必(かなら)す渇(かわ)きと熱(ねつ)とを患(あんす)る事(こと)なかれ
一七八九日にして気血(きけつ)充実(つよき)ものは痘/悉(こと〳〵)く貫膿(うみもち)て面(かほ)十分(しうふん)に腫(はれ)目封(めとち)鼻(はな)
塞(ふさか)るといへとも元気(けんき)よく乳食(のみくひ)を能(よく)して静(しつか)に眊(ねむ)る事(こと)を好(この)む者(もの)大吉なり
されと貫膿(ほんうみ)のときは鼻の孔(あな)塞(ふさか)るものゆゑ小児(ことも)なと乳(ちゝ)をのみかぬるもの
なり此(こゝ)に於(おひ)て小児/乳房(ちふさ)をくはへて壱口(ひとくち)喫(すひ)【吃】ては一息(ひといき)つき又(また)乳房をく
はへて一口/喫者(すうもの)は痘の常(つね)にあるところなり十/分(ふん)に乳を喫(のみ)かぬるは
鼻(はな)の孔(あな)の塞(ふさか)りし故(ゆゑ)と一図(いちづ)に思(おも)ひて俗家(ぞくか)なとやゝもすれは鼻(はな)の孔(あな)を
通(ひらき)たかる者(もの)也(なり)必(かなら)すしも左様(さいよう)の事(こと)なすへからずすへて痘(ほうさう)貫膿(ほんうみ)にかゝ
れは眼胞(まふた)封(とち)鼻孔(はなのあな)ふさくをもてよろしとす稠密(てものおほ)なる者(もの)は出始(てはしめ)より十二
三日まて開(ひら)かざるを第一(たいいち)よろしとすされと鼻(はな)塞(ふさか)りて乳(ち)のみかぬる小児(ことも)
【左丁】
は自(おのつか)ら腹中(ふくちう)力(ちか)らなふして饑(ひたる)き者(もの)なれは糯米(もちこめ)五/勺(しやく)稲米(うるうこめ)五勺を白(しら)
粥(かゆ)に煮熟(よくに)て其(その)うは湯(ゆ)の濃(ねはり)たるに焼塩(やきしお)すこしいれて与(あた)ふへし又(また)
完穀(まるつふ)を食(くら)ふ小児ならは粥(かゆ)のかたき所(ところ)を与(あた)ふへし此時(このとき)かわきある
ものなれは其(その)渇(かわき)にしたかひて随分(すいふん)粥(かゆ)とくすりとをかはり〳〵に飲(のみ)
食(くひ)さすへきなり
一七八九日の頃(ころ)に大便(たいへん)小便(しやうへん)ともに快(こゝろよく)通(つう)するものは内虚(ないきよ)内寒(ないかん)の症(しよう)と
て重(おも)きものなり此時(このとき)もし飲食(のみくひ)進(すゝ)み難(かた)く安睡(ねむり)かぬるものは大(おほひ)に
わろしすへて此様(このいよう)なる症(しよう)は始(はし)め起脹(やまあけ)の期(とき)にも痘/山(やま)あけかぬるもの
なり早(はや)く良(よき)薬(くすり)得(え)て内(うち)を補(おきな)ひ大人参(たいにんしん)を本方(せんやく)の中(うち)へ加(くは)へ又(また)別煎(へつせん)に
して用(もちゆ)へしまた俗家(そくか)或(あるひ)は僧道(そうとう)巫祝(ふしゆく)を信仰(しんかう)して祈念(きねん)専一(せんいち)にす
【右丁】
る者(もの)ありたとへ祈念(きねん)すれはとて僧道(しゆつけ)巫祝(かんなき)の類(たく)ひは痘者(ほうさうにん)の臥床(ねま)へ
入(い)ることなかれ別(へつ)の坐敷(さしき)にて祈祷(きたう)すへし其(その)故(ゆゑ)は前(まへ)にくはしくし
るしぬ
一七八九日にして痘膿(ほんうみ)豊満(じうふん)なれはすこし痒(かゆ)みをなす事(こと)痘の常(つね)に
ある所(ところ)なり其(その)痒(かゆ)き所(ところ)を父母(ちゝはゝ)傍人(そはひと)の手(て)にて徐(そろ)々と摩(なて)さするを好(この)み
て眊(ねむり)を催(もよ)ふす者(もの)なり若(もし)痒(かゆ)み甚(はなはた)しく手足(てあし)を揺(うこか)ししはらくも
静(しつか)ならす頭(つむり)をふりまはし項(くひ)をねしまはして悶(もた)へ苦(くる)しみ睡(ねむ)る事(こと)あ
たはす痰(たん)つかへ息(いき)せまるものは二日をまたすして凶逆(きようぎやく)に変(へん)す
一七八九日に至(いた)りて一度(いちと)腹(はら)下(くた)れ□【は】寒戦(ふるひ)咬牙(はきしり)なして眼(め)をひらき鼻(はな)ひらきて
呼吸(いきつかへ)せはしくなる者(もの)は毒(とく)内(うち)にせめ入(いる)の症(しよう)なりこれを気虚(ききよ)の極(はけしき)とす又(また)此(この)上(うへ)に大(たい)
【左丁】
便(へん)青色(あをいろ)なるを下利(くたす)は虚寒(きよかん)の極となす此(この)時(とき)大人参(たいにんしん)大/附子(ふし)大剤(おほふく)にして与(あた)ふるより外(ほか)
に治(ぢ)すべき薬(くす)りなし翁仲仁(おうちうにん)曰(いはく)虚寒(きよかん)の症候(やまひ)悉備(そなは)りて参附(しんふ)峻(つよく)補(おきなふ)の
薬(くす)り与(あた)へて元気(けんき)尚(なを)衰(おとろ)へて薬(くす)り功(こう)を奏(そう)せざれは他(ほか)の治方(ぢはう)なしとな
り此(こゝ)に於(おひ)て医者(いしや)も詮方(せんかた)なく辞(ことは)りいふて去(さ)れは病家(ひやうか)も驚惶(おとろき)て又(また)
他(ほか)の医者(いしや)むかへて療治(りようち)請(こ)ひ頼(たの)めは庸医(ようい)なと或(あるひ)は前医(まへのいしや)の参附(しんふ)用(もち)
ひたるを謗(そし)りて壱概(いちかひ)に清涼(ひやし)瀉下(くたし)の毒(とく)をもて与(あた)ふれは痘者(ほうさうにん)少(すこ)
しのうちは穏(おたや)かなるよふにみゆるものなり辟(たと)へは悪人(あくにん)愚人(ぐにん)の中(うち)
に善人(せんにん)智恵(ちゑ)あるものあれは兎(と)や角(かく)是非(よしあし)いふてもめやひ六(むつ)ヶ敷(しき)も
善人(せんにん)智恵者(ちゑしや)見限(みかき)りてにげ去(さ)るときは差当(さしあたり)て是非(よしあし)いふて兎(と)や角(かく)
六ヶ舗【鋪 】事(こと)もなけれと間(ま)もなく其(その)身(み)を亡(ほろほ)す事(こと)をしらざるか如(こと)き
【右丁】
なり庸医(ようい)其(その)すこし穏(おたや)かなるを見て此(この)理(り)をしらで高言(かうけん)吐(はき)て自(じ)
慢(まん)する内(うち)忽(たちまち)に諸(もろ〳〵)の悪(わろき)症(やまひ)起(おこ)りて手(て)のうらをかへすよりも早(はや)く変(へん)来(きた)
るものなり孫子(そんし)の説(せつ)にも痘症(ほうさう)虚寒(きよかん)の者(もの)に参附(しんふ)の薬(くす)りをそしり
斥(しりそけ)て壱概(いちかひ)に涼薬(ひやすくすり)又(また)は壱通(ひととふ)りの薬(くす)りを用(もち)ひて人(ひと)を殺(ころ)す事(こと)をいた
すとも見ゆこれ古(いにしへ)よりの戒(いましめ)なり病家(ひやうか)よろしく此(この)理(り)を考(かんか)へ疑(うたか)ひの
心(こゝろ)をおこさずして強(しひ)て参附(しんふ)の薬(くす)りを用(もち)ひ置(おく)ならんにはまた万一(まんいち)
救(すく)ふへき策(てだて)もあるへし医者(いしや)も随分(すいふん)心(こゝろ)を留(とめ)て虚実(きよじつ)を詳(つまひらか)にしての
うへに薬(くす)り用(もち)ゆへきなり
一 七八九日にして大便(たいへん)ゆるくくだり出瘡(てもの)いろ白(しろ)くなりて平(ひらたく)陥(くほま)り痒(かゆみ)を
なすは大悪症(たいあくしよう)なり大人参(たいにんしん)を随分(すいふん)用(もち)ゆへし凡(およそ)此(この)時(とき)にして能(よく)飲食(のみくひ)し
【左丁】
よく寝(ね)るといふとも一/度(と)大便(たいへん)通(つう)するときは忽(たちまち)顔(かほ)の腫(はれ)ひき眼(め)鼻(はな)ひら
き呼吸(いき)せはしきものは必(かなら)す内攻(ないかう)の症(しよう)とて六(むつ)ヶ舗(しき)【鋪】ものなり急(きう)に良医(りようい)
に任(まか)せて気血(きけつ)を補(おきな)ひ脾胃(ひい)を調(とゝな)ふ薬(くす)りを用(もち)ゆへし此(こゝ)に於(おひ)て治術(りようち)に拙(つたな)き
者(もの)は解毒(とくけし)発散(はつさん)寒涼(ひやし)瀉下(くたし)の剤(くすり)をもて人(ひと)を殺(ころ)す事(こと)をいたす慎(つゝし)むへし
若(もし)此(この)症(しよう)に補益(ほえき)調和(てうくわ)の薬(くす)り早(はや)く用(もち)ひざれは救(すく)ひかたし
一 八九日にして頭面(かほ)十分(しうふん)に膿(うみ)もちて出瘡(てもの)黄色(きいろ)にして潤沢(うるほひ)光活(ひかり)手(て)に
て摸(なて)見(み)れはぬれけなくねばつかすして蜀黍(なんばんきび)をなでさするが如(こと)く元気(けんき)
能(よく)て静(しつか)に眊(ねむ)る事(こと)を好(この)み乳食(のみくひ)薬(くす)りを快(こゝろよく)して父母(ちゝはゝ)傍人(そはひと)気遣敷(きつかはしき)程(ほと)によく
眊(ねむ)るもの大吉(たいきち)なり若(もし)眊(ねむ)りかね躁(さわか)しきものは変症(へんしよう)はかりかたし良医(りようい)
に任(まか)せて療治(りようぢ)すへし
【右丁】
一 九日は灌漿(ほんうみ)の終(をはり)の日(ひ)にて口のまはりより両腮(りようのほう)へかけて次第(したひ)に膿(うみ)気か
わきて靨(かせ)にかゝるをよしとす是(これ)を俗(そく)にほしいひになるといふ手(て)にてなて
さすれはざら〳〵してねはつく事(こと)なきを吉(よし)とす
一 八九日にして出瘡(てもの)稠(おほ)密なるもの膿(うみ)色/俄(にはか)に乾(かわ)き卒(にはか)に靨(かせ)るものを倒(たう)
靨(えん)といふ大凶(たいきやう)なり急(きゆう)に良医(りようい)に任(まか)せて治(りようち)を請(こ)ふへし遅(おそ)きときは救(すく)ひか
たし
一 稠密(てものおほ)なる者(もの)五六日より七八日に至り咽(のと)を痛(いた)み声(こゑ)かれて飲食(のみくひ)薬汁(くすり)を呑(のみ)
かぬるものといへとも九日に至(いた)りすこしく痛(いた)みもゆるく声(こゑ)も清(きよ)らかにな
りて飲食(のみくひ)薬汁(くすり)咽(のと)に通(とふ)りやすきものは痘(たう)の常(つね)にて畏(おそ)るゝ事(こと)なしもし
九日に至(いた)りいよ〳〵痛(いた)み強(つよ)く声(こゑ)一向(いつかう)に出(て)さるものは大凶(たいきやう)也(なり)此(こゝ)に於(おひ)て口(こう)中
【左丁】
臭気(くさみ)あるものは必(かなら)す凶逆(きようきやく)としるへし
一 十日十一日十二日は収靨(しゆうえん)といふ《割書:俗にかせ|といふ》面部(かほ)の濃(うみ)色/次第(したい)に乾(かわ)き稀疎(てものすくな)な
るものは赤小豆(あつき)を二ッにわりてつけたる様(いよう)なるをよしとすまた九日の夜(よる)
より十日にいたりては頸(くひ)より両手(りようて)の膿(うみ)色/充満(みち)て十日の夜(よ)より十一日の
夜(よ)に至(いた)りては腰(こし)より両足(りようあし)の膿(うみ)色/満足(みちたる)をよしとすこれを期(き)に順(したか)ふて功(こう)
を収(おさ)むといふ此(この)時(とき)元気(けんき)さはやかによく乳食(のみくひ)して能(よく)安睡(ねむり)大便(たいへん)常(つね)の如(こと)く小(しよう)
便(へん)しげく通(つう)するをよしとす若(もし)此(この)時(とき)大熱(たいねつ)やまず口/渇(かわき)甚(はなはた)しく痘痂(ほうさうふた)つくり
せすして呼吸(いき)せはしく眊(ねむ)らざるものは大凶(たいきよう)也(なり)急(きゆう)に良医(りようい)に任(まか)せて治(ち)を請(こ)
ふへし
一 十二日を開眼(かいかん)の期(き)といふて初(はしめ)て眼(め)をひらくの時(とき)也たとへ稠密(てものおほ)なるものにて
【右丁】
も十二三日に至(いた)れは両眼胞(りようまふた)の腫(はれ)ひきて目(め)を開(ひら)く者(もの)をよしとす若(もし)十二
三日に至(いた)り一度(いちと)ひらきて又(また)十七八日に至(いた)り再(ふたゝ)ひ眼封(めとち)るものは眼疾(かんしつ)也/急(きゆう)
に良医(りようい)に任(まか)せて治(ぢ)を請(こ)ふへし療治(りようち)遅(おそ)き時(とき)は終(つひ)に盲目(もうもく)となる者(もの)多(おほ)し
これ皆(みな)医者(いしや)の早(はや)く療治(りようち)せざる誤(あやま)りよりなる事(こと)なり都(すへ)て痘後(ほうさうこの)眼病(めのやまひ)
は常(つね)の眼疾(やみめ)と異(ちかひ)て妄(みた)りに点薬(さしくす)りする事(こと)なかれまたあらひくすり
もよろしからす古人(むかしひと)も痘後(たうこ)眼疾(かんしつ)あらは眼科(めいしや)に治(ち)を請(こ)ふ事(こと)なかれ妄(みた)
りに点薬(さしくすり)すれは瞳子(くろまなこ)を潰(そこな)ひて廃人(はいしん)となるといへり是故(このゆゑ)に世俗(せそく)痘後(たうこ)
眼疾(かんしつ)あらは此(この)理(こと)わきまへ心得(こゝろえ)へし
一 痘後(ほうさうのち)腫毒(しゆもつ)眼疾(かんしつ)走馬疳(そうはかん)の三症(さんしよう)は医者(いしや)療治(りようち)誤(あやま)りてよりなるあり又(また)
倒靨(とふえん)倒陥(たふかん)なといふ症(しよう)に薬(くす)り多(おほ)く用(もち)ひて命(いのち)を救(すく)ひ腫毒(しゆもつ)眼疾(かんしつ)走馬疳(そうはかん)
【左丁】
等(なと)をなさしむるは医者(いしや)の誤(あやま)りにあらすこれ重(おも)き病(やまひ)を先(まつ)療治(りようち)して
軽(かろ)き病(やまひ)となしおきてのうへに十全(しうせん)の快気(くわいき)をなさしむるなり
一 十一二日に小便(しようへん)しけく快(こゝろよく)通(つふす)るは大吉(たいきち)なり此(こゝ)に於(おひ)て面部(かほ)の腫(はれ)次第(したい)
次第(したい)に減(へり)両眼(まふた)ひらきて乳食(のみくひ)日(ひ)を逐(おつ)て進(すゝ)み渇(かわき)も漸(せん)〳〵にやみ能(よく)安(ね)
眊(むる)をよろしとす
一 十三日十四日十五日を落痂(らくか)の期(き)といふて瘡痂(てものゝふた)漸(せん)々に落(おつ)るなり此(こゝ)に於(おひ)
て若(もし)すこしも不順(ふじゆん)を加(くは)ふれは余毒(よとく)遷変(せんへん)として大害(わさはひ)をなすもの多(おほ)
し若(もし)稠密(てものおほ)にして不順(ふじゆん)を加(くは)ふるときは頭面(かほ)手足(てあし)の痘痂(かさふた)古(ふる)き松(まつ)の皮(かは)
のよふなるあり或(あるひ)は鶏(にはとり)の糞(ふん)をすりつけたるよふなるもあり或(あるひ)は蚯(みゝ)
蚓(つ)の灰(はひ)にまふれたるよふなるもあり或(あるひ)は蛇(へび)の皮(かは)をはきたるよふな
【右丁】
るもあり或は黒(くろ)くなりて煙(けふり)にふすぼれたるよふなるもあり又(また)身(み)
動(うこか)しもならずして木人(きにんきやう)のよふなるもあり唯(たゝ)よく睡(ねふ)り能(よく)食(しよく)して精(せい)
神(しん)爽(さわやか)なる者(もの)は十二日の後(のち)必(かなら)す頭(つむり)項(かほ)のあひたにおひて腫毒(しゆとく)を発(はつ)し或(あるひ)
は手足(てあし)其外(そのほか)肉(にく)厚(あつ)き所(ところ)へも種毒あまた発(はつ)して生(せい)を得(う)るものあり
一 八日より十三日の間(あひた)に膿(うみ)の臭(にほ)ひあるをよろしとす是(これは)其/内(うち)の毒気(どくき)肌(き)
肉(にく)の外(ほか)へいてゝ痘(たう)臭(にほふ)なり若(もし)わるきにほひ甚(はなはた)しく坐中(ざちう)に満(みち)人(ひと)に附(つき)或
は鼻(はな)をうかつよふなるは逆症(ぎやくしよう)としるへしまた六七日にして出瘡(でもの)未(いま)た
十分(しうぶん)に膿(うみ)もたずして臭気(にほひ)甚(はなは)たしきものは必(かなら)す凶症(きようしよう)なりこれは内(うち)
の毒(どく)外(ほか)へ出(いつ)る臭(にほ)ひとはちかひて肌肉(きにく)の腐(くさ)るゆゑににほひあるを
もてわろしとす
【左丁】
一 十二三日に至(いた)り痘(てもの)爛(たゝ)れ皮(かは)はげて膿水(うみしる)流(なか)れ出(いて)て乾(かわ)きかぬるものを
爛痘(らんたう)といふこの痘には赤小豆(あつき)を細末(よくこ)にしてふりかけるをよしとす又(また)蕎(そ)
麦(は)粉(こ)をふりかけるもよろし其外(そのほか)の薬(くす)り多(おほ)くありといへとも妄(みた)りに
用(もち)ゆへからす世俗(せそく)の方(ほう)にかはらけを粉(こ)にしてふりかける事(こと)あり土器(かはらけ)
は元来(くわんらい)土(つち)なるゆゑ爛(たゝれ)はげて膿(うみ)水/淋漓(なかれ)て日(ひ)久(ひさ)しく乾(かわ)かざれは又(また)元(もと)
の湿気(しめりけ)にかへる理(り)あり故(ゆゑ)に用(もち)ゆへからす
一 檮杌痘(とうこつたう)といふあり《割書:俗(そく)にうらうつ|痘といふ》靨(かせ)にかゝりて又(また)うみかへるなり此(この)
症(しよう)ははやく毒物(とくもつ)を食(くら)ひ或(あるひ)は風寒(かせ)にあたり或は穢気(けかれ)に感(かん)し
卒(にはか)に身(み)熱(ねつ)して痘/又(また)膿(うみ)かへる事(こと)をなす也(なり)膿(うみ)水/漏(もれ)出(いて)て衣被(きもの)の
裏(うら)にしみ附(つき)て身動(みうこき)すれは出瘡(てもの)の痂共(かはととも)にはなれて膿血(うみち)淋漓(なかれ)て
【右丁】
其(その)痛(いた)み忍(しの)ひ難(かた)き者(もの)なり此(この)症(しよう)も赤小豆(あつき)の粉(こ)を敷(しき)蒲団(ふとん)へも
衣被(きもの)へも又(また)爛(たゝ)れはげたる所(ところ)へもたつふりとふりかけ寝(ね)させおく
へし又(また)象牙(さうげ)の粉(こ)もよろしとす其外(そのほか)薬(くす)り多(おほ)くあり医者(いしや)に請(こひ)
求(もと)むへし又(また)愈(いよ〳〵)余毒(よどく)強(つよ)けれは疳蝕瘡(かんしよくさう)といふ者(もの)を発(はつ)す又(また)痘癩(たうらい)と
いふあり二症(にしよう)ともに六(むつ)ヶ(か)敷(しき)症(しよう)なれと早(はや)く療治(りやうち)すれは愈(なを)るものなり
一 痘(ほうさう)後(こ)日数(ひかす)を経(へ)るといふとも若(もし)風寒(かせ)に感(かん)しあたれは其(その)変(へん)は
かりかたし或(あるひ)は熱(ねつ)を発(はつ)して驚風(きやうふう)となるあり古人(むかしひと)これを九逆(きうきやく)
一生(いつせい)なりともいへりこれ等(ら)は父母(ちゝはゝ)傍人(そはひと)禁忌(いみこと)を慎(つゝし)み守(まも)らさる誤(あやま)
りなりとしるへしつゝしむへし
一 痘出て十一二日に至(いた)り虚寒(きよかん)の症(しよう)未(いま)た悉(こと〳〵)く除(のそ)き去(さら)さるに早(はや)
【左丁】
く靨(ふたづく)りさせんとて補益(ほえき)のくすりを除(のそき)て竟(つひ)に清熱(せいねつ)解毒(けとく)涼瀉(くたし)の
剤(くすり)を与(あた)ふるときは毒(どく)内(うち)に攻(せめ)入(いつ)て逆(きやく)に変(へん)し救(すく)はざるに至(いた)るなり慎(つゝし)
むへし
一 痘後/漸(やうや)く生意(せいい)を得(う)ると雖(いへ)とも元(もと)痘は内(うち)より外(ほか)へ毒(とく)を送(おくつ)て気(き)
血(けつ)労(つか)れざる事(こと)を得(え)ず故(ゆゑ)に内(うち)五臓六腑(こそうろつふ)の気虚(ききよ)耗(がう)して真気(しんき)不(ふ)
足(そく)なるか故(ゆゑ)にいさゝかも風寒(かせ)飲食(のみくひ)其(その)平(たいたかなる)【ママ】を得(え)ざる時(とき)は変症(へんしよう)百出(ひやくしゆつ)
する者(もの)なり務(つとめ)て禁忌(いみこと)調護(かいほふ)を第一(たいいち)とすへし此(こゝ)に於(おひ)て能(よく)眊(ねふり)
り【語尾の重複ヵ】能(よく)食(しよく)して気血(きけつ)も次第(したい)に常(つね)に復(ふく)し一身(いつしん)軽快(かろくこゝろよく)なるをよろしと
す又(また)眼中(めのうち)鼻中(はなのうち)さゝはりもなく廃人(かたは)の患(うれひ)なき者(もの)禁忌(いみこと)調護(かいほふ)
よろしきにかなへは日を逐(おつ)て全快(せんくわい)やすかるへし或(あるひ)はふるき病根(やまひのね)
【右丁】
も痘毒(たうとく)とゝもに去(さ)る事(こと)もあり禁忌(いみこと)を犯(おか)し調護(かいほふ)を失(うしな)へは害(わさは)ひ
のこりて終身(いつしやう)の患(うれひ)となるもあり慎(つゝし)むへし但(たゝ)し禁忌(いみこと)を専(もつはら)とするも
痘後(たうこ)わすかに百日(ひやくにち)の間(あいた)なれはしはしの事(こと)別(へつ)して忽(おろ)かせにすへ
からす大人は別(へつ)して淫房(いんじ)を慎(つゝし)み禁(きん)する事(こと)尤(もつと)も肝要(かんいよう)なり慎(つゝし)
むへし〳〵
酒湯の説
一 痘瘡(ほうさう)酒湯(さかゆ)《割書:さゝゆとも|いふ》の期(き)は初発(はしめ)より十四五日/比(ころ)なり尤(もつと)も其(その)稀(かろ)
密軽重(きおもき)によりて十日十二日十五日十八日廿一日二十五日めに酒湯する
をよろしとす世俗(せぞく)或(あるひ)は十二日めに限(かき)ると心得(こゝろえ)しは大(おほひ)なる過(あやまち)なり
もし痘症(ほうさう)すこしく不順(ふじゆん)を加(くは)ふるときは十一二日の比(ころ)ようやく貰膿(ほんうみ)【「貰」は「貫」の誤記ヵ】
【左丁】
のさかりにして未(いま)た吉凶(よしあし)も決(けつ)しがたし薬(くす)り其(その)宜(よろしき)にかなひて生(せい)を得(う)
るとも此(この)症(しよう)ならんには十七八日めを見合(みあはせ)て酒湯すへし又/瘡稀(てものすくなく)症(しよう)
軽き血靨痘(けつえんたう)といふ一症は五六日にして膿(うみ)色/充満(しゆうまん)し八九日にして血
靨とてあづきを二ツにわりてつけたるいようにふたづくるものなり此
症ならんには十日めに酒湯すへし却(かへつ)て俗人(そくしん)の情(じよう)とて酒湯/以前(いせん)は
痘者(ほうさうにん)を痘神(かみ)に託(あつけ)置(おき)たるように心得(こゝろえ)又/神(かみ)は穢気(けかれ)を嫌(きら)ふといふを
もて昼夜(よるひる)怠(おこた)りなく清浄(しやうじやう)を専(もつは)らとして諸事(しよじ)念(ねん)を入(い)るか故(ゆゑ)に自(おのつか)
ら痘者の為(ため)によろしすてに酒湯して神(かみ)を送(おく)り帰(かへ)すと思(おも)へは
家内(かない)先(まつ)安気(あんき)の思(おも)ひをなして自ら懈(おこた)るこゝろありて禁忌(いみこと)調護(かいほふ)
を以前のいように念(ねん)いらず万端(はんたん)取(とり)あつかひ次第(したひ)に粗末(そまつ)になる
【絵のみ】
【右丁】
よりして痘後/諸症(もろ〳〵のやまひ)また興(おこ)るもあり故(ゆゑ)に瘡稀症軽きにあらさ
れは十二日の酒湯をのへてよろし凡(およ)そ初(はし)めより十日に至りて頭面(かほ)の
膿(うみ)色/豊満(みち〳〵)して黄(き)赤(あか)黒(くろ)色(いろ)に瘡頭(てものゝかしら)ひかり潤沢(じゆんたく)とてつやうつくしき者(もの)
をよしとす又(また)口角(くちのまはり)より額(ひたへ)へかけて痂(ふたづく)り上(のほ)りて一面(いちめん)にかわき瘡痂(かさふた)あ
つく十一日にしてこれを摸(なて)みれはねはつかすして諸症(やまひ)穏(おたや)かなるも
のならは十二日に酒湯するもよろし然(しか)れとも若(もし)内症(うちのやまひ)穏【左に「おだやか」と傍記】ならざる
ものならは必す酒湯をのはすへし
一 稠密(てものおほ)なる者(もの)といふとも症(しよう)順美(じゆんび)なれは九日に至(いた)りて口角(くちのまはり)より漿(うみ)
かわき両顴(りやうくわん)《割書:両方の|ほふ》天庭(てんてい)《割書:ひた|へ》の膿(うみ)色/勃(つふ)々として勢(いきほひ)よく乾(かわく)もあ
り又(また)乾きかぬるもあり又(また)少(すこ)しく不順(ふじゆん)なる者(もの)は一面(いちめん)に痂(ふた)づくるといへ
【左丁】
とも白膿(しろうみ)をいたゝくもあり又(また)鶏糞(けいふん)穀(こく)の如(こと)しとて鶏(にはとり)の糞(ふん)をすり
つけたる様(よう)なるもあり又手にて摸(なつ)れは膿汁(うみしる)じる〳〵とするもあり又
両耳(みゝのへん)頭(つむり)額(ひたひ)は膿(うみ)色のさかりにして未(いま)た痂(ふた)づくる気色(けしき)なく其(その)内症(うちのやまひ)を
診(うかゝ)ふに諸症(しよしよう)未(いま)た穏(おたや)かならさる者は必(かなら)す酒湯を急(いそ)く事なかれ又
正(たゝ)しき収靨(しゆうえん)にあらすしてしば〳〵詰痂(ふたづくり)はやまる者あり妄(みた)りに酒
湯すべからす恐(おそ)らくは向来(このゝち)急変(きゆうへん)あらん事/恐(おそ)るへし
一 十一日十二日にして微(すこし)渇(かわき)微(すこし)熱(ねつ)あるは痘(たう)の常(つね)なり此(こゝ)におひて身体(からた)
快(こゝろよ)く精神(こゝろ)爽(さはやか)に飲食(のみくひ)常(つね)の如(ことく)にて能(よく)安眊(ねぶ)り大小/便(よふ)とゝのひ音声(こゑ)
清亮(きよく)両眼(まふた)ひらき手足(てあし)動(うこか)しやすく内外(うちそと)の症(やまひ)ともに穏(おたやか)なる者(もの)吉(きつ)
兆(てう)なり天気(てんき)快晴(はれ)し日を見合(みあは)せ酒湯すべし必(かなら)す十二日めにかき
【右丁】
る事(こと)なかれ
一 痘中(ほうさうちう)不順(ふじゆん)を加(くは)へて十一二日に至(いた)り愈(いよ〳〵)険(あしく)なりて漿(うみ)未(いま)た足(た)らず或(あるひ)は
皮(かは)薄(うすく)膿(うみ)漏(もれ)て乾(かわ)かず或は頭面(かほ)乾(かわき)黒(くろく)或は両(りやう)の頬(はう)外剥(くわいはく)とて皮(かは)はけて
肉(にく)乾(かわき)黒(くろく)なり或/手足(てあし)水泡(みつぶくれ)の形(かたち)をなし或は身熱(みのねつ)火(ひ)のことく或は煩躁(さわき)譫(うは)
語(こといふ)あり或は乳食(のみくひ)すゝます口/渇(かわき)未(いま)たやます精神(こゝろ)困憒(つかれ)て眊(ねふ)る事な
らず或は目封(めとち)ていまたひらく力(ちから)なく或は臭気(くさみ)坐中(さちう)に満(みち)て鼻(はな)をう
かち音声(こゑ)いてすして唖(をし)のことく或は大便(たひへん)溏泄(くたり)て呼吸(こきふ)せまり痰喘(たんぜん)
する者(もの)酒湯する事なかれ
一 十二日十三日十五日といふとも少(すこ)しくも不順(ふじゆん)の症あらは必(かなら)す酒湯
を延引(のは)すべし往(たひ)々酒湯をはやまりて忽ち凶逆に変する者(もの)
【左丁】
をみるに蓋(けたし)諸症未た平和ならさるに酒湯するか故なりこれ湯の
人をころすにあらす医者其症を詳にせすして酒湯を早く許(ゆる)す
の故なり慎むへし
一 世俗酒湯と称する事/由(よつ)て来る所あり按(あんする)に往古(むかし)痘瘡を異病(あやしきやまひ)と
してこれを患(わつら)ふ者(もの)あれは野山(のやま)に移(うつ)しおき人跡(ひとさと)を絶(たち)て親類一家
音信を絶し吉凶(よしあし)を天にまかせおき幸に平愈すれは五十日の
後一家親類打寄りて沐浴(ゆあみ)させ我家(わかや)へつれ帰り喪瘡(もかさ)の忌明(いみあき)と
て酒宴催ふして祝(いは)ふとなり今の酒湯蓋し此例によるならんか
一 築紫法師(つくしほうし)の方言(ほうけん)に中頃(なかころ)築紫(つくし)の国(くに)に村上(むらかみ)何某(なにかし)といふ外科(けくわ)あ
り其(その)子(こ)二人/難痘(なんたう)を患(うれ)ふ壱人は臭痘(しゆうたう)壱人は蛆痘(そたう)難渋(なんじう)日(ひ)を積(つもり)て
【右丁】
痛(いたみ)痒(かゆみ)忍(しの)ひかたし此によつて米泔水(しろみつ)は性(せい)寒(かん)なり酒(さけ)は大/熱(ねつ)なり故(ゆゑ)に
寒(かん)温(うん)相和(あいくわ)して陰(いん)を起(おこ)し陽(いやう)をめくらして気血(きけつ)を補養(ふやう)する力(ちから)あ
りとて一日/是(これ)を用(もちひ)て是を蒸(むし)みるに其(その)痛(いたみ)痒(かゆみ)なかばしりそき二たひ
にして大半(たいはん)愈(いへ)三度にして其(その)瘡(さう)悉(ことこと)く愈(いゆる)となり是より酒湯は
しまれりと本朝(ほんてう)一/覧(らん)に見えたり
酒湯の仕法
一 痘痂(かさぶた)已(すで)になりて膿(うみ)色かわきたるを診ひ黄(き)赤(あか)黒(くろく)なりて手に
て是をなづればざら〳〵として手のうらにねばつく事もなく手足
いまたかわかす漿(うみ)色/豊実(じうふん)にして表裏(ひやうり)の症(せう)共(とも)に平和(へいわ)に能(よく)食(しよく)し
能(よく)安眊(あんすい)するを伺(うかゞ)ひ定て天気(てんき)清和(よく)時候(じかう)のよろしきを見あはせ
【左丁】
て酒湯をなすへし必(かなら)す十二日にかきる事なかれ酒湯の法/先(まつ)痘者
に快(こゝろよ)く食(しよく)さしめて熱湯(にへゆ)一升五合程杉たらひに盛(もり)て其中へ好(よき)酒(さけ)壱合
斗いれて紅染(べにぞめ)の手拭(てぬくひ)に熱湯(にへゆ)をしたし能(よく)しほりて水気(みつけ)なき様に
して壱/番湯(はんゆ)は額(ひたい)より眼胞(まふた)両/顴(ほう)両/頤(おとかい)まて一/扁(へん)湯気(ゆけ)にて蒸(むす)なり
但(たゝ)し一ばん湯(ゆ)は一/扁(へん)にて止(や)む直(すく)に病牀(ねところ)にいれて乳母(うは)と共(とも)に寝(ね)させ
衣被(きるい)を頭面(かほ)に覆(おふひ)て一/時(とき)はかり安睡(よくねさ)して微(すこし)汗(あせ)をとるをよしとす是(これ)則(すなはち)
余(よ)【餘】毒(とく)を解(けす)るの功あり尚(なを)酒湯(さかゆ)の後(のち)風寒(かせ)にあたるを禁(きん)すへし壱は
ん湯をなしての後(のち)神(かみ)おくりすへし必(かなら)す十二日にかきる事なかれたと
へ神送(かみおく)りをなすといへとも痘中(たうちう)同前(とうぜん)に禁忌(いみこと)を慎(つゝし)みて朝(あさ)暮(ゆふ)調護(かいほう)
に念(ねん)を入(い)るへし怠(おこた)ることなかれ二/番(はん)湯(ゆ)は此日より一日/間(あいた)をおき
【右丁】
て三日めにまた米泔水(しろみつ)好酒(よきさけ)前(まへ)のことくにして紅染手拭(へにそめのてぬくひ)に熱湯(あつゆ)をし
たし能(よく)しぼり水気(みつけ)なきやうにして頭(かしら)頂(いたゝき)額(ひたい)両耳(りやうみゝ)項(うなし)頸(くひ)胸(むね)両手(りやうて)の
指(ゆひ)さきまて二扁(にへん)ほとむすなり直(しき)に前(まへ)の通(とふり)にして寝(ね)させ微汗(すこしあせ)を
とるにしたかひて余(よ)【餘】毒(どく)解(げ)すへき法(ほう)なり三/番(はん)湯(ゆ)はまた一日/間(あひた)をお
きて三日めに米泔水(しろみつ)好酒(よきさけ)前(まへ)のことくにして紅染手拭に熱湯をし
たしてしほり水気なきやうにして頭面(すめん)惣身(そうしん)両手/腹(はら)背(せなか)腰(こし)臀(しり)
腿(もゝ)臁(はき)両/膝(ひさ)足心(あしのうら)まて二扁ほとむすなり前のことく寝させて微汗を
とる事また前のことし若いまた余(よ)【餘】毒/悉(こと〳〵)くつきさるものは三日め
三日めに前のことくにして酒湯をなすへし又/痘瘡(ほうさう)の症(しやう)によりて十
八日/以後(いこ)は児(ちご)の惣身(そうしん)に酒をぬりて風呂(ふろ)にいるゝもよろし凡そ痘後(たうこ)
【左丁】
漸(やうや)く全快(せんくわい)すといへともまた余(よ)【餘】毒(とく)/太甚(はなはた)しきものは日を逐(おふ)て遷変(せんへん)【左に「なかひき」と傍記】する
を恐(おそ)るへからす或(あるひ)は風寒(かせ)に感(かん)して驚搐(きやうふう)をはつし或は飲食(いんしよく)停滞(ていたい)
によりて壊症(ゑしやう)に及んて難治(なほりにくゝ)なるもの多し都(すへ)て一/番(はん)湯(ゆ)の日より七
十五日の間/禁忌(いみこと)を慎(つゝし)み護(まも)ること緊要(きんいよう)也(なり)としるへし
世俗通用酒湯の方
米泔水(しろみつ)《割書:一升五合|》酒(さけ)《割書:少|》大麦(おほむき)《割書:十粒|》赤小豆(あつき)《割書:十粒|》鼠糞(ねすみのふん)《割書:十粒|》古釘(ふるくき)の頭(かしら)《割書:一|ツ》
黒豆(くろまめ) 笹(さゝ)《割書:十枚|》以上/熱湯(あつゆ)の中にいれて紅染(へにそめ)手拭(てぬくひ)にしたしてしほ
りもせす出物(てもの)をしたすなり其外(そのほか)国々(くに〳〵)の仕例(しなれ)いろ〳〵あるといへと
も米泔水(しろみつ)と酒とは何れも同しまた所によりて米泔水(しろみつ)に酒(さけ)少(すこし)を加
へて笹(さゝ)の葉(は)に付(つけ)てふりかけるもあり故(ゆゑ)にさゝゆといふとなりされと
【右丁】
さけとさゝとは和訓(わくん)通(つふ)し用(もちゆ)る例(ためし)ありひろくかんかふへし
一 大麦(おほむき)は手掌(てのうち)に握(にき)りてつかぬものゆゑ疱瘡(ほうさう)の跡(あと)つかぬといふ義な
るゝか
一 赤小豆(あつき)は稀痘(きたう)あつきを二ツにわりてつけたるやうなるゆへ是を
好ならん
一 鼠(ねつみ)の糞(ふん)は常(つね)に尻(しり)につかぬものゆゑ是(これ)も疱瘡(ほうさう)の痕(あと)つかぬといふ義な
り
一 古釘(ふるくぎ)の頭(かしら)は早(はや)く釘(くぎ)のほらしことく瘡頭(でものゝかしら)のかたくなるを祝する
ならんか
一 黒豆(くろまめ)は一/切(さい)の毒(どく)を解(げ)するゆゑに早く余(よ)【餘】毒(どく)を解(げ)すといふ義なり
【左丁】
一 犾(いぬ)の足跡(あしあと)の土を入るあり是も跡(あと)つくといへとも早くきえうせる心な
り又一/説(せつ)に犾(いぬ)の足(あし)のうらへは土しみつかぬをもて酒湯にとり用となり
一 笹(さゝ)はさけといふ意(こゝろ)也/是(これ)痘穢(たうのけかれ)をきよむるのこゝろなり蓋/痘後(たうこ)の祝詞(いはいに)
格別(かくへつ)の子細(しさい)もなく痘後(たうこ)のましないなりとしるへし
【右丁】
痘疹戒草巻中畢
【裏表紙】
【表紙】
【題箋】
国字痘疹戒草 下
【左丁】
痘疹戒草巻下
痘中痘御後食物禁好の目録
一 粳米(うるこめ)《割書:たゝこめ|ともいふ》 一 陳廩米(ふるこめ) 一 白粥(しらかゆ) 一 飱飯(ゆづけめし)
一 糯米(もちこめ) 一 孛娄(はぜ) 一 餻(うるめもち)《割書:たゞこめもち》 一 粢(もち)《割書:もちこめもち》
一 味醤(みそ)《割書:みそしる》 一 醤油(しやうゆ) 一 酒(さけ)《割書:すみさけ》 一 白酒(しろざけ)《割書:しろねりざけ》
一 豆腐(とうふ) 一 麪筋(ふ) 一 醴(あまさけ) 一 茶(ちや)
一 飴餹(あめ) 一 葛粉(くずのこ) 一 黒大豆(くろまめ) 一 罌子(けし)
一 餡(あん)《割書:よせこといふ》 一 赤小豆(あづき) 一 豌豆(こゑんどう)《割書:又のらまめ|といふ》 一 大麦(おゝむぎ)
一 小麦(こむぎ) 一 麪(むぎのこ) 一 蕎麦(そば) 一 饂飩(うんどん)
一 糉(ちまき) 一 ■■(むぎだんご) 一 稷(こきび) 一 蜀黍(もろこし)《割書:なんばんきびともいふ|》
【「罌子」の「罌」は「賏+告」】
【■■は「䬣餄」ヵ】
一 秫(もちあわ) 一 粟(あわ) 一 稗(ひえ) 以上十一品 大麦(おゝむぎ)の下に出(いだ)ス
一 薯蕷(やまのいも)《割書:ながいも》 一 芋(さといも) 一 莱菔(だいこん) 一 胡蘿蔔(にんじん)
一 菘(はたけな)《割書:わかな》 一 水菜(みづな) 一 茼蒿(きくな) 一 鶏児腸(よめな)
一 牛蒡(ごぼう) 一 蓮根(れんこん)《割書:はすね》 一 蚕豆(そらまめ) 一 刀豆(なたまめ)
一 眉児豆(いんげんまめ)《割書:又ふじまめ|ともいふ》一 越瓜(あさうり)《割書:しろうり》 一 《振り仮名:■藕|かたくり》 一 欵冬(ふき)《割書:ふきのとう》
一 独活(うどめ) 一 蘘荷(めうがたけ)《割書:めうがのこ》 一 五加苗(うこぎのめ) 一 白梅(むめぼし)
一 苦蕒(ちさ) 一 蕪菁(かぶな) 一 《振り仮名:瓢■|かんひやう》 一 竹筍(たけのこ)
一 糸瓜(へちま) 一 枸杞苗(くこのめ) 一 石耳(いわたけ) 一 生姜(せうが)
一 棗(なつめ) 一 葡萄(ぶどう) 一 梨(なし) 一 冬瓜(とうくわ)《割書:かもうり|とうがん》
一 馬歯莧(すべりひゆ) 一 慈菇(くわひ) 一 草石蚕(ちよろき) 一 石蜜(こうりざとふ)
【左丁】
一 白柿(つるしがき)《割書:ゑだかき|ほしがき》 一 蒲公英(たんほゝ) 一 地膚苗(はゝきゝ) 一 萱草(くわんぞうな)
一 紅藍苗(くれない) 一 松蕈(まつたけ) 一 昆布(こんぶ) 一 薺(なづな)
一 繁縷(はこべ) 一 乾鰹(かつをぶし) 一 海参(いりこ)《割書:きんこ》 一 鱵魚(さより)
一 鰻鱺(うなぎ) 一 海鰻(はも) 一 沙魚(はぜ) 一 幾須古(きすご)
一 金賀志良(かながしら) 一 石決明(あわび) 一 牡蛎(かき) 一 女波留(めばる)
《割書:ほうぼう【左ルビ】》
一 藻魚(もうを) 一 鯉(こい) 一 鯽(ふな) 一 泥鰌(どじやう)
一 鯧魚(まながつを) 一 比目魚(ひらめ) 一 鰈魦魚(かれい) 一 鱈(たら)
一 魁蛤(あかかい) 一 《振り仮名:■蛤|はまぐり》 一 蜆(しゞみ) 一 石首魚(いしもち)《割書:くち》
一 鬣(たい) 棘鬣(こだい) 赤鬃(おふだい) 黄檣魚(あまだい) 烏頬魚(くろだい)
方頭魚(はなおれだい) 金糸魚(いとよりだい) 海鯽魚(ちぬだい)
【「牛蒡」の「蒡」は「艹+房」に作る】
【「瓢■」の「■」は「畜」ヵ 「苗」の誤ヵ】
【「■藕」の「■」は「茸」ヵ 「旱」の誤ヵ】
【「■蛤」の「■」は「蚊」ヵ 「文」の誤ヵ】
一 鶴(つる) 一 鷸(しぎ) 一 鶏(にはとり) 一 鳧(かも)
一 鳩(のばと) 一 鴿(いへばと) 一 鶉(うづら) 一 告天子(ひばり)
一 雀(すゝめ) 一 椋鳥(むくどり) 一 比衣鳥(ひゑどり) 一 兎(うさぎ)
一 野猪(いのしゝ)
右(みき)痘中(とうちう)日則(ひかず)にしたがひてあとふべきもの又(また)あたへざるものまた痘(とう)
中(ちう)始終(しじう)食(しよく)すべきもの一百二十 余品(よしな)を択(ゑらひ)糾(たゞ)して此(こゝ)に記(しる)す
此書(このしよ)を読(よみ)糾(たゞし)てその日数(ひかず)にしたがひてあとふべし常(つね)に眼前(がんぜん)に
ありて痘中(とうちう)痘後(とうご)よろしからざるもの此書(このしよ)の後(のち)にしるす
かならずあとふべからず百日の間(あいだ)禁(きんず)べきものなりとしるべし
【左丁】
一 痘中(とうちう)痘後(とうご)食物(しよくもつ)禁好(よしあし)の部(ぶ)
一 粳米(うるこめ) 温(あたゝか)なる飯(めし)は性(せい)熱(ねつ)なり冷飯(ひへためし)は性(せい)寒(かん)なりいづれも人(ひと)を
養育(やしのふ)の第(だい)一なり諸病(しよひやう)に用(もちい)て忌嫌(いみきら)ひなし
一 陳廩米(ふるこめ) 歳(とし)久(ひさ)しくたくわへ置(をき)たる米(こめ)なり病人(ひやうにん)小児(せうに)にあたへて益有(ゑきあり)
といへども気(き)をくだす功(こう)あるゆへ痘中(とうちう)五日より十日までは
用捨(ようしや)すべし但(たゝし)一 年(ねん)をこしたる米(こめ)をよしとす新米(ことしこめ)は
病人(ひやうにん)小児(せうに)にあとふべがらず
一 粥(かゆ) 白粥(しらかゆ)は脾胃(ひい)を養(やしな)ふ要食(ようしよく)なりまた粥(かゆ)を煮熟(にじゆく)して
其上(そのうへ)にねばりたる湯(ゆ)を柔膩(しうじ)といふまだ完穀(まるつぶ)を喰(くわ)
ざる小児にあとふべし痘瘡(とうそう)出物(でもの)おゝきものは六日の後(のち)は
【右丁】
かならず眼(め)とじ鼻(はな)ふさがるを大吉(だいきち)とす故(ゆへ)に鼻(はな)ふさ
がりて乳(ち)を飲(のみ)かぬる小児(せうに)はかならず腹中(ふくちう)空餒(ひだるき)ものなり
其時(そのとき)しらかゆのねばりたる上湯(うわゆ)に焼塩(やきしほ)すこし白砂糖(しろざとう)
すこしをくわへて随分(ずいぶん)あとふべしまた味噌(みそ)かゆは痘(とう)
中(ちう)あとふべからず味重(あじわいおもき)ものゆへ停滞(ていたい)し易(やす)しまた完穀(まるつぶ)
を喰(くろ)ふ小児は随分(ずいぶん)かたき粥(かゆ)をあとふべし
一 飱飯(ゆつけめし) 痘中(とうちう)痘後(とうご)共(とも)にあとふべしまた茶漬飯(ちやづけめし)はよく胸(むね)を
ひらき食(しよく)を進(すゝむ)といへども湯漬飯(ゆづけめし)よりおとれり茶粥(ちやがゆ)は
功能(こうのふ)茶(ちや)づけ飯に同(おな)じ三品(みしな)ともに痘中 妨(さまたげ)なし
一 糯米(もちごめ) 腹中(ふくちう)をあたゝめ熱(ねつ)をもよふして身体(しんたい)の血(ち)をめぐらし
【左丁】
気力(きりよく)を益(ま)し脾胃(ひい)をあたゝめ虚寒(きよかん)の症(しやう)にあたへて
はらのくだりを止(や)め大小 便(へん)をかたくしよく疱瘡(ほうさう)の
起発(やまをあけ)膿色(うみ)をもよふす功(こう)あり実(まこと)に痘中(とうちう)の良食(よきくいもの)
といへども初発(しよほつ)より九日十日の間はあたふべし若(もし)膿漿(ほんうみ)
充足(みちたる)ものは用(もちゆ)べからず凡(およそ)疱瘡(ほうそう)は稀蜜軽色(おもきかるき)によらず
六日の後は眼(め)封(と)じ鼻(はな)ふさがりて乳(ち)をのみにくきものは
疱瘡の常候(つね)なり此時 糯米(もちこめ)を五勺(ごしやく)粳米(うるこめ)五勺をゆる
き粥(かゆ)に煮熟(にじゆく)してそのねばりたる上湯(うわゆ)に焼塩(やきしほ)少(すこ)し
くわへてあとふべしまた焼塩に砂糖(さとう)をすこしくわへて
与(あと)ふるもよし又 小児(せうに)の大小をはかりて完穀(まるつぶ)を喰(くろ)ふ
【「稀蜜軽色」の「蜜」は「密」の誤】
【右丁】
小児はかゆのかたきに焼塩少しくわへてたへよ又
乳婦(うば)も共(とも)に食(しよく)すべし若(もし)七八日に至(いた)れば口(くち)かわく
ものなればその渇(かわき)にしたがひて薬(くすり)と粥の上湯(うわゆ)とを
かへ〴〵にあとふべし尤 膿色(うみ)十分(じうぶん)に足(たる)ものは糯米(もちこめ)の
かゆを忌(い)め痘後 余毒(よどく)を発(はつ)す故(ゆへ)に禁(きんず)べし粳米(うるこめ)の
粥によろし
一 孛婁(はぜ) はぜは即ちもち米(こめ)をもみなから炒(いり)て花(はな)となす疱瘡(はうそう)稀密(きみつ)
軽重(けいぢう)をゑらばず初発(しよほつ)より九日十日まであとふべし
疱瘡を起発(はりだ)し膿(うみ)をもよふす功能(こうのふ)あり十日の後(のち)は
あとふべからず余毒(よどく)をはつするなり
【左丁】
一 餻(うるめもち) 即(すなわち)たゞこめなり脾胃(ひい)をやしのふものなれば痘中(とうちう)痘後(とうご)
始終(しじう)あたへて妨(さまたけ)なし
一 粢(もち) 糯米(もちこめ)にて製(せい)したるものはだんごにてもおなじその功能(こうのふ)
気力(きりよく)をまし脾胃(ひい)をあたゝめ大小 便(べん)をかたくす痘瘡(とうそう)に
望(のそみ)て初発(しよほつ)より九日十日までの良食(りやうしよく)とす若(もし)未(いまだ)完穀(まるつぶ)を
喰(くわ)ざる小児には白湯(さゆ)にてよく煮(に)たゞらして其 稠粘(ねばり)たる
上湯(うわゆ)に砂糖(さとう)焼塩(やきしほ)をすこしくわへてあとふべし新(あらた)に製(せい)し
たる生(なま)もちをよしとす九日にいたりて膿色(うみ)十分に充(みち)たる
ものはあとふべからず痘後(とうご)余(よ)どくをはつす痘後(とうご)百日 禁(きん)ず
べし又 氷餅(こおりもち)は一年もすぎたるものをよしとす痘中
【右丁】
痘後(とうご) 妨(さまたげ)なし又 赤飯(せきはん)は痘中痘後ともに忌(いむ)べし
一/味醤(みそ) また味噌(みそ)といふ世人(せじん)朝夕(あさゆふ)羹(あへしほ)となして百味(ひやくみ)に和(くわ)して
喰(くら)ふ平和(へいわ)にして毒(どく)なし一切(いつさい)の食物(しよくもつ)の毒(どく)を解(げ)す諸(もろ〳〵)の
生物(なまもの)を煮(に)和(くわ)して脾胃(ひい)を滋補(うるおす)なり常に用(もちい)て人に
益(ゑき)あり痘中/首尾(しゆび)用べし妨(さまたげ)なし
一/醤油(しやうゆ) 朝夕(あさゆふ)用(もちゆる)事/味噌(みそ)に同(おな)じ諸(しよ)魚/諸鳥(しよてう)諸獣(しよじう)諸肉(しよにく)一切の
菜蔬類(やさいるい)の毒(どく)を解(げ)す百味(ひやくみ)に和(くわ)して羹(あへしほ)となして喰(くろ)ふに益(ゑき)
あり痘家(とうか)始終(しじう)是(これ)を用ひて忌嫌(いみきらい)なし又/醋(す)は痘中
痘後百日/禁(きんす)べし
一/酒(さけ) 大熱(だいねつ)にして毒(とく)あり此もの種類(しゆるい)多(おゝ)したゞ灰気(はいき)なく薄(うす)
【左丁】
黄色(きいろ)なるものをよしとす痘瘡(とうそう)の症(しやう)によりて薬中(やくちう)に
和(くわ)して薬性(やくせい)を引廻(ひきまは)す功(こう)ありゆへに血気(けつき)をめぐらし腹中(ふくちう)を
あたゝめ陽気(やうき)をますなり疱瘡出て熱気(ねつき)しりぞき
五日の後(のち)酒(さけ)を好(このむ)小児(せうに)には少(せう)〳〵( 〳〵 )あとふべし尤/出物(でもの)赤色(あかく)して
身(み)熱(ねつ)するものは忌(い)め若(もし)六日の後(のち)出瘡(でもの)おこらず或(あるい)は紅色(べにいろ)
薄(うす)くして次第(しだい)にしろく平(ひらたく)陥(くほまり)たるものは酒(さけ)をあたふべし
若(もし)虚寒(きよかん)の症(せう)あるものは酒(さけ)をあたゝめて与(あたへ)よその功(こう)
参附湯(じんぶとう)に類(るい)すもし九日十日にして膿色(うみ)十/分(ぶん)に
足(たる)ものは禁(きん)ずべし若きんぜされば痘後(とうご)必(かならす)腫毒(しゆどく)眼疾(がんしつ)
をはつす又十日の後は百日/酒(さけ)を禁(きん)ぜされば生涯(しよふがい)風寒(ふうかん)に
【右丁】
あふごとに痂痕(でものゝあと)赤紫色(あかむらさき)にあらはれて婦人(ふじん)などは見苦(みくるし)き
ものなり故(ゆへ)に百日の間(あいだ)酒を禁(きん)ずべし
一/白酒(しろざけ) 大熱(だいねつ)にして毒(どく)あり近来(きんらい)所々(しよ〳〵)に醸(つくり)て売(うる)ものあり此もの
糯米(もちこめ)を干飯(ほしい)にして水焼酎(みづしやうちう)にしたし製(せい)するなりゆへに
疱瘡(ほうそう)虚寒(きよかん)の症候(しやうこう)あるものは六七日の後(のち)酒(さけ)を好(このむ)小児(せうに)
に湯煎(ゆせん)にしてあたゝめて少(せう)〳〵( 〳〵 )あとふべし又十日の已後(いご)は
百日/禁(きん)すべし
一/豆腐(とふふ) 少(すこ)し毒(どく)あり小児(せうに)乳婦(うば)病人(ひやうにん)生(なま)にて喰(くろ)ふべからず塩噌(ゑんそ)に
和(くわ)してよく煮(にて)喰(くろ)ふべし疱瘡/首尾(しゆび)あたへて妨(さまたげ)なし
尤(もつとも)焼(やき)どうふは九日の後(のち)百日の間(あいだ)禁(きん)ずべしまたあげ豆腐(どうふ)は
【左丁】
痘中痘後百日の間禁じてあとふべからず
一/麪筋(ふ) 毒(どく)なし尤(もつと)も生(なま)ぶ焼(やき)ふの二/種(しゆ)ともに痘中(とうちう)痘後(とうご)
あとふべし首尾(しゆび)塩噌(ゑんそ)に和(くわ)して煮熟(にじゆく)して乳婦(うば)
ともにあたへて妨(さまたけ)なし
一/醴(あまさけ) 毒(どく)なし痘中(とうちう)痘後(とうこ)あたゝめてあたふべし腹中(ふくちう)を温(あたゝ)め
脾胃(ひい)を養(やしの)ふの功(こう)あり乳母(うば)ともにあたへてよろしたゞ
貪(むさぼり)用(もち)ゆべからず病中(ひやうちう)妄(みたり)にあとふれば乾嘔(からゑつき)をなす
一/茶(ちや) せんじ茶(ちや)ひき茶(ちや)の二/品(しな)ともに功(こう)のふ相同(あいおな)じまた虚弱(よわき)
小児に強(しい)て用(もちゆ)べからず若痘中/渇(かわく)といへどもたゞ白粥の
上湯(うわゆ)によろし若(もし)茶(ちや)をこのむものはかゆの上湯(うわゆ)に
【右丁】
茶をすこしくわへてあたふべし
一/葛粉(くすのこ) 毒(どく)なし痘中(とうちう)始終(しじう)いろ〳〵なる物を塩噌(ゑんそ)に和(くわ)し煮(に)
喰(くろ)ふべし妨(さまたけ)なしまた葛餅(くずもち)はよく製(せいし)て砂糖(さとう)に和(くわし)て
痘中(とうちう)痘後(とうご)あたふべし又/蕨餅(わらびもち)は小児病人にあたふべからず
痘中痘後/是(これ)を喰(くろ)ふべからず害(がい)をなす
一/黒大豆(くろまめ) 此(この)もの種類(しゆるい)おゝし痘中/妄(みだり)に用(もちゆ)べからず尤/煮豆(にまめ)は
痘中/首尾(しゆび)少々(せう〳〵)あたふべし炒豆(いりまめ)と豆の粉(こ)は痘中痘後
百日/禁(きん)ずべし後(のち)余(よ)どくをはつすまた国々(くに〳〵)によりて
疱瘡(ほうそう)已(すで)に出(いで)てより八日めの日をやまあけの日となし
て此日をまちて白大豆(しろまめ)をよくいりて神棚(かみたな)へそなへ又(また)
【左丁】
痘児(とうじ)に二三/粒(りゆう)与ふる事あり是(これ)をやまあけの祝(いわひ)と
なす其後(そのご)百日の間は禁(きん)じてあたへず
一/罌子(けし) 毒(どく)なし邪熱(じやねつ)を逐(お)ひ腹(はら)のくだりをとゝめ渇(かわき)を潤(うるほ)すこう
能(のう)あり痘中/首尾(しゆび)用(もちい)て妨(さまたけ)なしまた胡麻(ごま)は痘中/症(しやう)に
したがひて薬(くすり)に用ゆるといへとも痘後百日/禁(きん)すべし
一/餡(あん) またかんともいふ又よせこともいふ其製(そのせい)種類(しゆるい)多し紅豆(さゝげ)
小豆(あづき)白豆(しろまめ)豌豆(のらまめ)乾栗(からぐり)甘藷(さつまいも)の類にて飴(あめ)蜜(みつ)砂糖(さとう)に
和して製(せい)するなり又むし果子(くわし)饅頭(まんぢう)ともに売(うり)ものは
此類おゝし其製(そのせい)をゑらびて病人小児にあたふべし
尤/餡(よせこ)にて気(き)をくだす力(ちから)あり砂糖は内(うち)をゆるくする
【「罌子」の「罌」は「賏+告」】
【右丁】
能(のう)ありゆへに大便(だいべん)ゆるき病(びやう)人に妄(みだり)にあたふべからす尚(なを)
痘中(とうちう)六日より十日までは多(おゝ)くあたふべからず
一/赤小豆(あづき) 白豆(しろさゝげ)緑豆(やへなり)もその功(こう)相似(あいに)たり熱(ねつ)を解(げ)し気(き)を
くだし大小便(たいせうべん)を通(つう)ずる功(こう)あり故(ゆへ)に疱瘡(ほうさう)初発(さいしよ)より
四五日の間(あいだ)は用(もち)ゆべし六日より十日まではあたふべからず又
十日の後(のち)は妨(さまたげ)なし若(もし)痘後/膿水(のうすい)かわかざるものあらば
赤小豆(あづき)を細末(こまか)にしてふりかけてよし
一/豌豆(ゑんどう) またのら豆(まめ)こゑんどうといふ塩噌(しをみそ)にて煮(に)喰(くろ)ふ
べし尤/痘(とう)に望(のぞん)て五日より十二日まではあたふべからず
痘後/小児(せうに)乳婦(うば)ともにあたへて妨(さまたげ)なし此品(このしな)嫰(わか)き
【左丁】
ものはさやともに塩噌(ゑんそ)に和してあたふべし又/炒豆(いりまめ)に
したるは百日きんずべし
一/大麦(おゝむぎ) 小麦(こむぎ) 麪(むきのこ) 蕎麦(そば) 饂飩(うんどん) 糉(ちまき) 《振り仮名:■■|むぎだんご》 稷(うるきび) 蜀黍(もろこし) 《振り仮名:秫|もちあわ》
粟(あわ) 稗(ひへ) 以上十二品/世人(よのひと)常(つね)に食料(しよくりやう)となして饑(ひたるき)を
育(やしな)ふものなりといへとも痘瘡に稠密軽重(かろきおもき)あり人(ひと)に
富貴貧賎(ふうきひんせん)あり食物(しよくもつ)に《振り仮名:反覆禁好|はんふくきんこう》あり故(ゆへ)に
妄(みだり)にあたふべからず富家(ふか)は朝暮(あさゆう)慎(つゝし)み禁(きん)じて妄に
食(しよく)せず貧家(ひんか)は朝暮(てうぼ)に禁ぜずして是(これ)をあたへて
恙(つゝが)なしといへとも貧家(ひんか)の小児(せうに)は痘後(とうご)廃人(はいじん)おゝし
富家(ふうか)の小児(せうに)は痘後/廃(はい)人/少(すくな)し是(こゝ)をもつて彼(かれ)を
【右丁】
見(み)るにその謹(つゝしむ)と謹(つゝしま)ざるとの故ならんか向来(こうらい)用(もちゆる)もの
是(これ)を鑑(かんが)みるべし
一/薯蕷(やまのいも) 又ながいも又/自然薯(じねんじよ)といふ毒(どく)なし痘中/首尾(しゆび)ともに
塩噌(ゑんそ)に和(くわ)してよく煮(に)てあたふべしまた塩焼(しほやき)味噌焼(みそやき)
にしてもよろし又とろゝ汁(しる)は忌(いむ)べしまた痘後/眼疾(かんしつ)の
ものは禁ずべし又/仏掌薯(つくねいも)またせうがいもあり功(こう)
能(のう)なかいもに同じまた子をむかごといふ功能(こうのう)/親(おや)共に
おなし
一/芋(さといも) 紫芋(とうのいも)二/品(しな)ともに痘瘡(とうそう)に望(のぞ)みてあたふべからず
又/眼疾(かんしつ)/余(よ)どくなきものは三七日の/後(のち)は乳婦(うば)小児共に
【左丁】
あたへて妨(さまたけ)なし塩噌(ゑんそ)に和し煮熟(よくにたゞらか)してあたへよ
一/萊菔(だいこん) 又/葉(は)を大(だい)こんなといふともに毒(どく)なし此(この)もの種類(しゆるい)おゝし
四季(しき)ともに用(もち)ひて妨(さまたげ)なし或(また)は煮(に)或(また)はむし或は塩噌(ゑんそ)に
和(くわ)し魚(うお)に和してあとふべし痘中(とうちう)始終(しじう)用(もちい)て妨なし
小児/乳婦(うば)ともにあたふべし生(なま)にてあたふべからず
一/胡蘿蔔(にんじん) 嫩葉(わかは)をよく湯煮(ゆに)して醤油(しやうゆ)に和(くわ)してあたへてよし
とす又/根(ね)は気(き)をくだし内(うち)をゆるくす痘(とう)に望(のそん)で
五日より九日までは多(おゝ)くあたふべからず十日の後(のち)は
小児乳母ともによく煮熟(にじゆく)してあたふべし
妨(さまたげ)なし
【右丁】
一/菘(はたけな) 此もの種類(しゆるい)おゝしかぶなの類(るい)なり毒(どく)なし
気(き)をくだし腹中(ふくちう)を和(わ)し小便(せうべん)を通(つうず)よく蔬(そ)と
なして食(くら)ふべし又塩噌に和(くわ)して煮熟(にじゆく)して喰(くう)も
よしとす尤六日より十日までは乳婦(うば)小児(せうに)ともに
あたふべからず十日の後は妨(さまたげ)なし
一/水菜(みづな) 此ものしゆ類(るい)多(おゝ)し土地(とち)によりて種(たね)かわるなり毒(どく)
なし又(また)一説(いつせつ)に小毒(せうどく)あり痘中あたふべからず痘後
十五日の後(のち)は小児乳母ともにあたへてよしとす又
春分(しゆんぶん)の後(のち)は禁(きん)ずべし大毒あり気(き)を動(うごか)して
足(あし)の疾(やまい)をなすといふ説(せつ)あり京師(けいし)の人/脚気(かつけ)
【左丁】
煩(わづろ)ふもの甚(はなはだ)おゝし春(はる)より初夏(なつのはしめ)のあいだ貧家(ひんか)
常(つね)に是(これ)を蔬菜(そさい)となして喰(くろ)ふゆへならん向来(こうらい)
是(これ)を《振り仮名:驗|こゝろみ》よ
一/茼蒿(きくな) 又しゆんきく又ろうまきくといふ毒(どく)なし此(この)もの
疱瘡(ほうそう)に望(のそん)で六日より十日までは妄(みたり)にあたふべからず
たゞよく湯煮(ゆに)をして水(みづ)にさわして味噌(みそ)醤油(しやうゆ)に
和(くわ)してあたへよ十日の後は小児乳婦ともに
あたへて妨(さまたげ)なし
一/鶏児腸(よめな) 毒(どく)なし血(ち)をやぶり気(き)をくだす功(こう)あり故(ゆへ)に痘瘡に
望んで初発(しよほつ)より十二日まではあたふべからず十五日の
【右丁】
後(のち)は用(もちい)て妨(さわり)なしよく湯煮(ゆに)をして水(みづ)にさわ
して渋気(しぶけ)をさりて塩噌(ゑんそ)に和してあたふべし
一/牛蒡(ごぼう) 毒(どく)なしよく湯煮(ゆに)をして水(みづ)にさわして塩噌(ゑんそ)に
和(くわ)してまた煮熟(にじゆく)して常(つね)に菜蔬(さいそ)となすべし
此もの菜中(さいちう)の佳品(よきしな)なり其性(そのせい)はなはだにぶきもの
なり故(ゆへ)に痘中(とうちう)痘後/是(これ)をあたへて妨(さまたげ)なしまた
牛蒡(こぼう)の実(み)を炒(いり)て用(もちゆ)ればその勢(いきおい)甚(はなはだ)つよきもの
なり根(ね)と実(み)とその性(せい)大ひにちがひあり向来(こうらい)用(もちゆる)
もの是(これ)を択(ゑら)べ
一/蓮根(はすね) 毒(どく)なしかわきを止(と)め腹(はら)のくだりをとめ食(しよく)を消(け)し
【左丁】
酒どくを解(げ)す諸(もろ〳〵)の失血(しつけつ)を治(じ)すよく煮熟(にじゆく)して
塩噌(ゑんそ)を和(わ)し喰(くら)ふべし一説(いつせつ)に諸瘡(しよそう)をはつすといふこと
あり是又(これまた)非(ひ)なりとす尤/血(ち)をしぶらす功能(こうのう)有(あり)痘中
十日の後小児乳婦ともに用(もちゆ)べしまた近来(きんらい)蓮根(れんこん)
葛(くず)の新渡(しんわたり)あり小児病人にあたへて妨(さまたげ)なし
一/蠶豆(そらまめ) 毒(どく)なし莢(さや)嫩(わかき)ときはさやともに煮(に)喰(くら)ふべし又この
《割書:あふゑんどう》
まめは皮(かわ)あつて煮熟(にじゆく)して皮(かわ)をさりて喰(くう)ふべし尤
脾胃(ひい)よわき小児(せうに)はおゝく与(あた)ふべからず痘瘡十二日の
後乳婦小児ともにあたへてよし又/炒豆(いりまめ)にしたるは
百日/忌(いむ)べし
【右丁】
一/刀豆(なたまめ) 毒(どく)なし中(うち)をあたゝめ気(き)をくだす又(また)莢(さや)わかきものは
ともに煮(に)喰(くら)ふべし痘後(とうご)十二日の後(のち)あたへ妨(さまたげ)なし
一/眉児豆(いんけんまめ) 毒(どく)なし莢(さや)嫩(わかき)ものは塩噌(ゑんそ)に和して煮喰ふべし胃(い)を
《割書:又ふじまめ》
和(くわ)し食(しよく)をすゝむおゝく用(もちゆ)べからず胸(むね)をふさぐなり痘中
首尾(しゆび)小児乳婦ともに《振り仮名:少〳〵|せう 〳〵 》喰(くら)ふべし妨なし
一/越瓜(しろうり) 生(なま)にて用(もちゆ)べからず塩噌に和して煮/喰(くら)ふ痘中痘後
《割書:あさうり》
用ひて妨(さまたげ)なし
一《振り仮名:甘藕|かたくり》 奥州(おゝしう)より出(いづ)るを上品(しやうひん)とす脾胃(ひい)虚(きよ)して腹(はら)くだるを療(りやうず)
故(ゆへ)に胃(い)の気(き)よわふして食(しよく)する事あたわざるものはかた
くりを薄(うす)く沸湯(にへゆ)にて煉(ね)りて砂糖(さとう)を少(すこ)しくわへて
【左丁】
あたふべし若(もし)病(びやう)人/食(しよく)すゝみかぬるものは用(もち)ゆべしまた
穀気(こつき)にたへず相応(そうわう)に食(しよく)するものはしら粥(かゆ)のよく
ねばりたるを与(あたう)べし
一/欵冬(ふき) ふきの葉(は)くき毒(どく)なし此もの菜中(さいちう)の佳品(よきしな)なり
病人小児に用(もちい)て妨(さわり)なし痘瘡/首尾(しゆび)あたふべし
よく湯煮(ゆに)をして皮(かわ)をさり塩噌(ゑんそ)に和(くわ)して再(ふたゝび)煮熟(にじゆくし)て
あたふべしまた欵冬花(かんとうくわ)といふあり則(すなわち)ふきの花(はな)なり
性(せう)同(おな)し妨(さまたげ)なし
一/独活(うど) 毒(どく)なし痘中/首尾(しゆび)用べし生(なま)にて用ゆるを忌(い)め
《割書:うとめ》
塩噌に和して煮(に)て用てよし或(また)蒸(むし)て食(くらう)もよし
【「甘藕」は「旱藕」ヵ】
【右丁】
一/蘘荷(めうが) めうがたけ又/花(はな)をめうがの子(こ)といふ毒(どく)なし邪気(じやき)
不祥(ふじやう)をのぞくなり痘中(とうちう)痘後(とうご)あるいはむし焼(やき)或(また)は
煮(に)または湯煮(ゆに)をして塩噌(ゑんそ)に和(くわ)して与(あた)ふべしなま
にてもちゆべからず
一/五加苗(うこぎのめ) 毒(どく)なし嫩芽(わかめ)をよく湯煮(ゆに)をして水(みづ)にさわし塩噌(ゑんそ)に
和(くわ)してあたふべし皮膚(ひふ)の風湿(ふうしつ)をさるなり痘中(とうちう)用(もちい)て
妨なし
一/白梅(うめぼし) 毒(どく)なし常(つね)に用(もち)ひて食(しよく)どくを解(け)し心気(しんき)を安(やす)くし
煩渇(かわき)を止(と)め若(もし)病(びやう)人/或(あるい)は痘中に用ゆるときはまず梅干(むめぼし)
を冷水(ひやみづ)にて一二へん程(ほど)よく煮(に)てその湯(ゆ)をすて又
【左丁】
ふたゝび新(あらた)なる水(みづ)にてよく煮(に)てその湯(ゆ)をさり又/醤(しやう)
油(ゆ)をくわへて煮和(にわ)して砂糖(さとう)をくわへ与(あた)ふべし痘中(とうちう)
首尾(しゆび)妨(さまたげ)なし
一/苦蕒(ちさ) 微毒(びどく)あり生(なま)にて用(もち)ゆべからずよく湯煮(ゆに)をして塩噌に
和(わ)して喰(くら)ふべし痘中(とうちう)あたふべからず痘後十五日の後(のち)
小児(せうに)乳婦(うば)ともにあたへて妨(さまたげ)なし此もの種類/多(おゝ)し
赤(あか)きもの紫(むらさき)のもの毒(どく)あり病(びやう)人小児に用べからず
一/蕪菁(かぶな) 根葉(ねは)ともに喰(くら)ふべし毒なし常(つね)に用ひて中(うち)を
和(わ)し気(き)を通(つう)じ人を《振り仮名:肥健|こやし》身をかろくならしむ尤(もつとも)
痘中/禁(きん)ずべし痘後十五日の後(のち)は小児乳母ともに
【右丁】
塩噌(ゑんそ)に和(くわ)して煮熟(にじゆく)して用(もち)ゆべし
一《振り仮名:瓢■|かんひやう》【畜ヵ】 毒(どく)なしかわきを止め熱(ねつ)をさまし心肺(しんはい)を潤(うるを)し
よく煮熟(にじゆく)して塩噌に和して痘中(とうちう)首尾ともに
あたふべし妨(さまたげ)なし
一/竹筍(たけのこ) 淡竹(はちく)を上品(じやうひん)とす其外(そのほか)しゆ類(るい)多(おゝ)し小毒(しやうどく)あり
此もの疱瘡(ほうさう)初発(しよほつ)より四五日の間まで薬中(くすりのうち)に
くわへてよし其(その)勢(いきおい)土中(どちう)より■(つよく)【峻ヵ】発(はつす)るゆへなり胸(むねの)
中(うち)の煩熱(はんねつ)をのそき口のかわきをとゝめ痰熱(たんねつ)を
さます六日の後(のち)あたふべからず痘後百日/禁(きん)ず
べし
【左丁】
一/糸瓜(へちま) 嫩葉(わかば)巻葉(まきは)ともに煮(に)喰(くら)ふべし此もの痘瘡(とうそう)初(しよ)
発(ほつ)二三日の間(あいだ)解毒(けどく)の薬中(やくちう)にくわへて用(もちゆ)といへども
強(しい)て与(あと)ふべからず虚弱(きよじやく)の疱瘡に妄(みだり)に用(もち)ゆれは脾(ひ)
胃(い)をやぶり心気(しんき)を損(そん)じ肌肉(きにく)をやぶる能(のふ)ありまた
糸瓜湯(へちまゆ)へちま水(みづ)を疱瘡によしとこゝろへて一概(いちがい)に
用(もち)ゆるは香川氏(かかわうじ)の誤(あやまり)なり都而(すべて)疱瘡は発散(はつさん)解毒(げとく)の
薬(くすり)つよく過時(すくるとき)はのちかならず出瘡のかわ斑爛(たゞれ)て
《振り仮名:凶逆|きやうきやく》に変(へん)ずるものおゝし故(ゆへ)に妄(みだり)にあたふべからず
一/枸杞苗(くこのめ) 毒(どく)なし煩熱(はんねつ)をのぞき気を益(ま)し皮膚(はだへ)骨節(ほねのあいだ)の
風邪(ふうじや)をさり熱(ねつ)どく散(ちら)すよく湯煮(ゆに)をして醤油(しやうゆ)
【右丁】
味噌(みそ)に和(くわ)して痘中(とうちう)首尾(しゆび)ともに与(あた)へて妨(さまたげ)なし
一/石茸(いわたけ) 毒(どく)なし元気(けんき)を補(おぎな)ひ大小便(たいせうべん)をかたくす目をあきらか
にし肌肉(はだへ)をうるほす痘中首尾/塩噌(ゑんそ)に和(くわ)し煮(に)
喰(くら)ふべし痘後(とうご)食(しよく)して余毒(よどく)を解(げ)す
一/生姜(せうが) 毒(どく)なし脾胃(ひい)をうるおし気血(きけつ)をめぐらし薬中(やくちう)に
これをくわへて発散(はつさん)のこゝろあり又/一切(いつさい)の毒(どく)を解(げし)
痘瘡/初発(しよほつ)より八九日の間(あいだ)は用(もち)ゆべしよく膿色(うみ)を
催(もよう)すなり又痘後/余毒(よとく)眼疾(がんしつ)のものは忌(い)め尤(もつと)も
砂糖漬(さとうづけ)は始終(ししう)用ひて妨(さまたげ)なし
一/大棗(なつめ) 毒(どく)なし惣(そう)じて薬中(やくちう)にくわへて用(もち)ゆるといへども
【左丁】
痘中痘後/生(なま)にてあとふべからず走馬(はぐさ)疳をはつ
すといへり妄(みだり)に用(もち)ゆべからず
一/葡萄(ふどう) 毒(どく)なしよくかわきをとゞむるといへども妄(みたり)にあたふ
べからず痘中(とうちう)大便(だいべん)通(つう)ぜずして瘡色(てものゝいろ)あかく口(くち)かわ
き飲水(ひやみづ)をこのむものは少(せう)〳〵あたふべしたとへ口(くち)かわく
といへ共(ども)腹(はら)くだるものは禁(きん)じて用(もち)ゆべからず
一/梨(なし) 毒(どく)なし熱邪(ねつじや)をさり痰嗽(たんせき)をやめかわきをとゞめ
中(うち)をうるほす若(もし)疱瘡(ほうそう)熱症(ねつしやう)なきものはあたふ
べからす腹中(ふくちう)をひやして虚寒(きよかん)に変(へん)じて《振り仮名:凶逆|きうきやく》【注】に
およぶものありたとへ口(くち)かわくといへども妄(みだり)に
【注 「きうきやく」は「きやうきやく」の「や」脱ヵ】
【右丁】
あたふべからず
一/冬瓜(とうがん) 毒(どく)なし小便(せうべん)を通(つう)じかわきをとゞめ気(き)を益(ます)と
《割書:かもうり|又とうくわ》いへども痘中(とうちう)五日(いつか)より十日(とうか)までは禁(きん)ずべし
十日の後(のち)は妨(さまたげ)なし塩噌(ゑんそ)に和(くわ)し煮熟(にじゆく)して
あたふべし十日/以後(いご)は喰(くら)ふべからず冷症(れいしやう)をはつ
すといへり
一/馬歯莧(すべりひゆ) 毒なし気(き)をおぎない熱(ねつ)をのぞき九窮(きうきやう)を通(つうず)
痘中(とうちう)あたふべからず痘後(とうご)十一日の後(のち)はよく湯煮(ゆに)
をして塩噌(ゑんそ)に和(くわ)して用(もち)ゆべし醋(す)にてあたう
べからず又(また)痘瘡(ほうそう)の後/日(ひ)久(ひさしく)瘢痕(かさぶた)おりず若(もし)痂(かさぶた)
【左丁】
あつく肉中(にくちう)に陥(くぼまり)いりたるものは後(のち)かならず疱
瘡の痕(あと)つくなり是(これ)を俗(ぞく)に《割書:みつちやといふ|又あばたともいふ》莧(ひゆ)を
つきしぼりてその汁(しる)をよく煮(に)つめて痂(かさぶた)の
上(うへ)にその汁(しる)をぬれば瘡痂(かさぶた)おちて後(のち)あとつかぬ
といふ説(せつ)あり
一/慈菇(くわい) 毒(どく)あり痘中痘後百日/禁(きん)ずべし若(もし)これを
喰(くら)ふときは余(よ)どくをはつすといふ説(せつ)あり忌(いむ)べし
一/草石蚕(ちよろぎ) 毒(どく)なし痘中(とうちう)首尾(しゆび)用(もち)ひて妨(さまたげ)なし生(なま)にて
喰(くろ)ふべからず塩噌(ゑんそ)に和(くわ)して煮(に)喰(くろ)ふべし
一/石蜜(かうりざとう) 毒なし口(くち)のかわくを止(と)め心肺(しんはい)を潤(うるお)し痘中(とうちう)
【右丁】
首尾(しゆび)あたへて妨(さまたげ)なしおゝく用(もち)ゆべからず痘後(とうご)
疳虫(かんむし)を生(しやう)ず又/白砂糖(しろざとう)も功能(こうのう)おなじ病人(びやうにん)
には氷(こおり)おろしをよしとす
一/白柿(つるしがき) 俗説(ぞくせつ)に痘中(とうちう)痘後(とうご)是(これ)を喰(くら)へば急症(きうしやう)をはつすといふ
《割書:ゑだかき》 説(せつ)ありいまだこれを験(こゝろみ)ず惣(そう)じて生柿(なまがき)醂柿(じゆくしがき)《振り仮名:柿糕|かきもち》
の類(るい)は病人(ひやうにん)痘児(とうじ)に禁(きん)じてあたふべからず痘中(とうちう)百日
忌(いむ)べし
一/蒲公英(たんぽゝ[注]) 毒(どく)なしよく食(しよく)どくを解(げ)す滞気(たいき)を散(さん)じ熱(ねつ)どく
をさる痘中痘後/用(もち)ひて妨(さまたげ)なしよく湯煮(ゆに)をし
て塩噌(ゑんそ)に和(くわ)してあたふべしまた婦人(ふじん)の乳腫(ちのはれ)を
【左丁】
よく散(ちら)すなり一/説(せつ)によく乳(ちゝ)汁を通(つう)ずといへり
一/地膚苗(はゝきゝ) 毒(どく)なし嫩苗(わかめ)を蔬(したしもの)となして食(くら)ふべし気(き)を和(くわ)し
悪瘡(あくそう)のどくを解(げ)す痘中首尾/用(もち)ゆべしよく
湯煮(ゆに)をして水(みづ)にさわし醤油(しやうゆ)或(あるい)は味噌(みそ)に
和(くわ)し用(もち)ゆべし
一/萱草(くわんぞうな) 毒(どく)なし煩熱(はんねつ)をさまし菹(そ)となして胸(むね)をひらく内(うちを)
安(やす)くし目(め)をあきらかならしむ此ものすこし臭(にお)ひ
あり故(ゆへ)に痘中/用(もち)ゆべからず十二日の後(のち)小児(せうに)乳婦(うば)
ともにあたへて妨(さまたげ)なし
一/紅藍苗(くれない) 毒(どく)なし嫩苗(わかめ)を喰(くら)ふべし其(その)能(のう)紅花(へにのはな)に同(おな)じ若(もし)
【注 振仮名の「ゝ」には半濁点が付】
【右丁】
痘瘡(とうさう)はじめて出(いで)て赤色(あかいろ)なればかならず血熱(ちねつ)に
類(るい)す初発(しよほつ)四五日の間(あいだ)少(せう)〳〵用(もち)ひて妨(さまたげ)なしよく
湯煮(ゆに)をして水(み[づ])にさわし塩噌(ゑんそ)に和(くわ)して与(あと)ふべし
痘中(とうちう)妄(みだり)に用(もち)ゆべからず
一/松蕈(まつだけ) 疱瘡(ほうそう)はじめ出(いで)かぬるものに干松茸(ほしまつだけ)を水(みづ)にてせんじ
用(もち)ひて功(こう)ありといふ説(せつ)あり未(いま)だこゝろみずすべて
蕈類(たけるい)は皆(みな)化生(けしやう)のものゆへに病人(ひやうにん)小児(せうに)に妄(みだり)に
あたふべからず然(しか)れども石茸(いわたけ)志米知(しめじ)奈米須々幾(なめすゝき)
初茸(はつだけ)の四品(よしな)病人小児にあたへて妨(さまたげ)なしといへども
又痘中痘後/禁(きん)じて用(もち)ひざるもよし
【左丁】
一/昆布(こんぶ) 毒なし小便(せうべん)を通(つう)じ結腫(けつしゆ)をちらし生(なま)にてあたふ
べからず痘中五日より十二日までは用ゆべからず能(よく)洗(あらい)
醤(しやうゆ)にて煮熟(にじゆく)してあたふべし小児/乳婦(うば)ともに
用ひて妨(さまたげ)なし
一/薺(なづな) 毒(どく)なし内を和(くわ)し五臓(ごぞう)の気(き)をくたす痘中/禁(きんじ)て
用ゆべからず痘後/眼疾(がんしつ)のものは用ひて益(ゑき)ありよく
湯煮(ゆに)をして塩噌(ゑんそ)に和(くわ)してあたふべし
一/繁縷(はこべ) 毒(どく)なし悪瘡(あくそう)を治(じ)する功(こう)ありといへども又(また)血(ち)をやぶる
《割書:ひづり》 能(のう)あり痘中(とうちう)用(もち)ゆる事なかれ痘後十二日の後は
あたへて妨(さわり)なし
【右丁】
一/乾鰹(かつをぶし) 毒(どく)なし百味(ひやくみ)を和(くわ)して甘味(あまく)ならしむ《振り仮名:久病労|ひさしきやまいつかれ》
たる人(ひと)常(つね)に塩噌(ゑんそ)に和(くわ)し百味(ひやくみ)に和(くわ)すればその
味(あじわい)い甘美(あまく)にしてよく食(しよく)を進(すゝ)む功(こう)あり故(ゆへ)に常に
用(もち)ひて脾胃(ひい)をとゝのへ肌肉(きにく)を肥健(こや)し痘中痘後
もちゆべし又/生鰹(なまがつを)は大毒(だいどく)あり用ゆべからず又/鰹節(かつをぶし)を
けづり醤油(しやうゆ)に和(くわ)し病人(ひやうにん)小児(せうに)にあたふべからず《振り仮名:蚘虫|むし》を
生(せう)ずといふ説(せつ)あり
一/海参(いりこ) 毒なし元気(げんき)を補(おきな)ひ五臓(こぞう)を補益(ほゑき)し諸(もろ〳〵)の虚労(きよろう)
《割書:きんこ》 虚損(きよそん)を治すよく湯煮をして再(ふたゝび)塩噌(ゑんそ)にて煮熟(にじゆく)
してあとふべし尤/疱瘡(ほうそう)は初発(しよほつ)より十日までは酒塩(さかしを)
【左丁】
をくわへてよろし十日の後(のち)は酒気(さかぎ)は忌へし薄醤(うすじやうゆ)
にて煮熟(にしゆく)し白砂糖(しろざとう)をすこしくわへてよろし
此もの痘中首尾あたへて妨(さまたげ)なし
一/鱵魚(さより) 毒(どく)なし疫病(やくひやう)の毒をさる痘中首尾あたへて妨
なし或(あるい)は焼醤(やきしやうゆ)にしたし或(また)はしほやき或は煮蒸(にむし) ̄シ
てよろし生(なま)にてあたふべからず
一/鰻鱺(うなぎ) 毒(どく)なし諸瘡(しよそう)を治(じ)す諸虫(しよちう)をころす労損(ろうそん)を治す
但(たゝし)大便(たいべん)をゆるくす故(ゆへ)に痘中あたふるを忌(いむ)痘後
十五日の後(のち)大便(だいべん)かたきものは六七寸のものを焼(やき)て
あたふべし大(おゝ)なるものは毒あり病人(びやうにん)小児にあた
【右丁】
ふべからす禁(きん)ずべし
一/海鰻(はも) 毒なし皮膚(ひふ)の悪瘡(あくそう)疥癬(ひぜんかさ)痔瘻(いぼじ)を治(じ)すこの
もの常(つね)に《振り仮名:肉餻|かまぼこ》となして病人小児にあたへて益(ゑき)あり
疱瘡首尾用ひて妨なし生にてあたふべからず
或は煮(に)或は焼(やき)てよろし
一/沙魚(はぜ) 毒(どく)なし中(うち)をあたゝめ気(き)を益(ま)し脾胃(ひい)をとゝのへ
疱瘡(ほうそう)首尾(しゆび)あたふべし或は塩焼(しをやき)或は塩噌(ゑんそ)に和し
て煮(に)てよろし生(なま)にてあたふべからず
一/幾須古(きすご) 毒(とく)なし味(あじわい)かろく甘美(むまく)して魚(うを)の中(うち)の佳品(よきもの)なり
病人小児/及(および)痘中首尾あたへて妨(さわり)なし或はしほ焼(やき)
【左丁】
或は蒸(む)し或は《振り仮名:肉餻|かまぼこ》となして用ゆべし生(なま)にて忌(いむ)
べし
一/加奈賀志良(かながしら)毒(どく)なし病人(ひやうにん)小児(せうに)常(つね)にあたへて妨(さまたげ)なしまた疱瘡(ほうそう)
首尾(しゆび)ともに用ゆべし煮熟(にしゆく)し或(あるい)は炙肉(やき)て醤油(しやうゆ)に
和(くわ)してあとふべし生(なま)にて用/事(こと)を禁(きん)ぜよ
一/石決明(あわび) 毒(どく)なし精(せい)をまし目(め)をあきらかにし気血(きけつ)を養(やしない)
疱瘡(ほうそう)首尾/煮熟(にじゆく)してあたふべし生(なま)にてあたふ
べからず
一/牡蛎(かき) 毒なし虚損(きよそん)を治(じ)し丹毒(たんどく)を解(げ)す塩噌(ゑんそ)に和(くわ)し
てよく煮(に)て食(くら)ふべし痘中首尾用て妨(さわり)なし
【右丁】
生(なま)にてあたふべからず
一/女波留(めはる) 毒(どく)なし黒(くろ)赤(あか)の二種(にしゆ)あり小児(せうに)病人(ひやうにん)及(および)痘中(とうちう)痘後(とうご)
始終(しじう)用(もち)ひて妨(さまたげ)なし尤(もつとも)皮(かわ)は膏気(あふらげ)つよき故(ゆへ)にあたふ
べからず煮熟(にしゆく)してよし又(また)或(あるい)は焼(やき)て醤(しやうゆ)に和(くわ)して
甚(はなは)だ甘美(あまき)なり又/沖(おき)めばるといふあり色黒(いろくろく)して
長(なかさ)さ七八寸のもの病人痘後/喰(くら)ふべからず毒(どく)ありまた
俗(ぞく)に藻魚(もうを)またあこめばるといふあり是則(これすなわち)めばるの
類(たくい)にして味(あじわ)ひかろきものなり毒なし病人小児
及(をよび)痘中首尾あたへて妨(さまたげ)なし尤/皮(かわ)は膏気(あぶらき)つよ
しあたふべからず其製(そのせい)めばるに同(をな)じ
【左丁】
一/鯉(こい) 毒(どく)なし小便(せうべん)を通(つう)じ乳(ちゝ)汁を通(つう)ず此もの脾胃(ひい)を
ゆるくす故(ゆへ)に痘中あたふべからず痘後十二日の後(のち)は
塩噌(ゑんそ)に和(くわ)し煮熟(にじゆく)して小児(せうに)乳婦(うば)ともにあたふべし
若(もし)痘後/腹(はら)くだり易(やす)きものは是(これ)を忌(い)め
一/鯽(ふな) 毒(どく)なし中(うち)をとゝのへ気(き)をくだす虚(きよ)を補(おきのう)の功(こう)ありと
いへども痘中(とうちう)用べからず痘後十二日の後(のち)あたふべし若(もし)
下利(くだり)易(やす)きものは禁(きん)ずべし
一/泥鰌(どじやう) 毒(どく)なし中(うち)をあたゝめ気(き)を益(ま)し脾胃(ひい)をとゝのへ渇(かわき)を
止(と)めるといへども痘中/用(もち)ゆる事(こと)を忌(い)め痘後十五日の
後はあたふべし若(もし)下利(はらくだる)ものは忌(いむ)べし
【右丁】
一/鯧魚(まなかつを) 毒(どく)なし胃(い)の気(き)をとゝのへ五臓(こぞう)の気(き)をくだす胃風(いふう)
をさり穀(こく)を消化(せうくわ)す痘中(とうちう)用(もち)ゆる事(こと)を忌(い)め痘後(とうご)十
二日の後(のち)は妨(さまたげ)なし或(あるい)は炙肉(やき)或(あるい)は塩噌(ゑんそ)に和(くわ)して煮(に)
熟(じゆく)してあたふべし生(なま)にて用(もち)ゆべからず
一/比目魚(ひらめ) 毒(どく)なし痘中(とうちう)用(もち)ゆべからず痘後(とうご)三七日の後(のち)はあたふ
べし妨(さまたげ)なし煮熟(にじゆく)し或(あるい)は蒸(むし)て用(もちゆ)べし
一/鰈鯋魚(かれい) 小毒(せうどく)あり痘中(とうちう)あたふべからす痘後/余(よ)どくなきものは
三七日の後は小児(せうに)乳婦(うば)ともに用(もち)ゆべし
一/鱈(たら) 毒(どく)なし能(よく)気(き)を補養(をきのふ)といへども生肉(なま)のものはにく
柔弱(やわらか)にして病人(ひやうにん)小児(せうに)にあたへて妨(さまたげ)なし塩鱈(しをたら)干鱈(ひたら)は
【左丁】
肉(にく)甚(はなは)だ堅剛(かたく)して化(くわ)しがたし故(ゆへ)に虚弱(きよじやく)なるものに
あたふべからず痘後(とうご)十五日の後(のち)は乳婦(うば)に与(あたへ)てよし
一/魁蛤(あかがい) 毒(どく)なし五臓(こぞう)を利(り)し脾胃(ひい)を健(すこやか)にし中(うち)をあたゝ
めよく食(しよく)を消化(せうくわ)する能(のう)ありといへども痘中用
べからず痘後十二日の後塩噌に和(くわ)し煮熟(にじゆく)して
あたふべし
一/蚊蛤(はまぐり) 毒なし五臓(こぞう)をうるほしかわきをとゝめ胃(い)をひらく
といへども痘中(とうちう)用(もち)ゆべからず痘後三十日の後(のち)はあたへて
妨(さまたげ)なし塩噌(ゑんそ)に和(くわ)し煮蒸(にむし)てあたふべし最(もつとも)焼(やき)用(もちゆ)る
事(こと)を忌(い)め
【右丁】
一 蜆(しゞみ) 毒(どく)なし胃(い)の湿気(しつき)をのぞき熱(ねつ)どくをさり小便(せうべん)
をつうじ黄疸(をうだん)と治(じ)す目(め)をあきらかにすといへども
痘中(とうちう)あたふべからず痘後(とうご)三十日の後(のち)はあたへてよし
又(また)いふ同(おなしく)痘瘡(ほうそう)いへて後 皮膚(ひふ)の内(うち)にちいさき瘡(でもの)を
発(はつ)し漆(うるし)かぶれの様(やう)なるを生(しやう)じて痒(かゆみ)にたへがたき
ものは蜆(しゞみ)を一合(いちごう)程 水(みづ)につけて飼(かう)ごと四五日おきて
その水(みづ)をとりてその痒所(かゆきところ)をあらへば則(すなわち)愈(いゆる)なり
一 翻車(うきゝ)魚 《割書:俗(ぞく)にうきゝの|かめともいふ》此(この)もの水戸(みと)の海中(かいちう)にあり其性(そのせい)温(あたゝか) ̄ニして
よく脾胃(ひい)をあたゝめて腹中(ふくちう)の寒気(かんき)を除(のぞき)さる
なり故(ゆへ)に痘瘡七八九日の期(き)にして腹(はら)くだり
【左丁】
寒戦(ふるい)咬牙(はきしり)するものあらば細(こまか)にけづりよく水(みづ)
にてさわし塩(しをけ)をさりて薄味噌汁(うすみそしる)にて
煮熟(にじゆく)しており〳〵あとふべし痘中(とうちう)腹(はら)のくだりを
よくとゞむるに甚(はなは)だ功(こう)あり
一 石首魚(いしもち) 毒(どく)なし胃(い)をひらき気(き)を益(ま)し食滞(しよくたい)を治(じす)と
いへども初発(しよほつ)より七八日の間(あいだ)はあたふべしその功(こう)
鯛(たい)に相似(あいに)たりよく出瘡(でもの)をおこす能(のう)ありゆへに
痘後百日 忌(いむ)べし若(もし)誤(あやまり)用(もち)ゆる時(とき)は余毒(よどく)をはつす
一 赤鬃(たい) 棘鬃(こだい)また鯛(たい)《割書:万葉集(まんようしう)に鯛は周防(すおう)|の魚(うを)なるべしといへり》毒なし中(うち)を
とゝのへ胃(い)の気(き)をまし五臓(ごそう)をやしなひ陽道(ようどう)を
【右丁】
さかんにし陰血(いんけつ)を益(ま)し人を肥(こや)し健(すこやか)ならしむ
婦人(ふじん)の乳汁(ちゝ)をよく通(つう)ず此もの海中(かいちう)の佳品(よきもの)なり
一説(いつせつ)に癰疽(ようそ)痘瘡(とうそう)已(すで)に起発(おこり)て膿(うみ)をもちかぬる
ものにあたへてよく膿色(うみ)を催(もよふ)すなり若(もし)疱瘡(ほうそう)
六七日/至(いた)りて稀密(きみつ)軽重(けいじう)を択(ゑらま)ず膿(うみ)を催(もよふ)し
がたきものは薄味噌(うすみそ)に生鯛(なまだい)と餅(もち)とを煮熟(にじゆくし)て
酒(さけ)を少(すこ)しくわへて乳婦(うば)小児(せうに)ともにあたふべし
忽(たちま)ち平陥(ひらた)なりたる出瘡(でもの)起発(おこり)て膿色(うみ)勃然(にはか) ̄ニ
充足(みちたる)事(こと)妙(めう)なり若(もし)膿色(うみ)たりみつるものは九日の
後(のち)かならずあたふべからず余(よ)どくをはつするなり
【左丁】
また鯛(たい)の種類(しゆるい)甚だ多(おゝ)しといへども真鯛(まだい)を
よしとす 黄檣魚(あまたい) 烏頬魚(くろだい) 方頭魚(はなおれたい) 金糸魚(いとよりだい)
海鯽魚(ちぬだい)【左ルビ:くろたい】 其性(そのせい)相似(あいに)たり真鯛(まだい)其外(そのほか)の鯛(たい)の種類(しゆるい)
何れも百日/禁(きん)ずべし余(よ)どくをはつすといへり
一/鶴(つる) 毒(どく)なし気力(きりよく)を益(ま)し血(ち)を補(おぎな)ひ虚症(きよせう)をとゝのへ
肺気(はいき)を補養(をきのふ)元気(けんき)虚弱(きよじやくの)痘症(とうせう)に四五日の間(あいだ)少々(せう〳〵)
あたふべしおゝく用(もち)ゆれば痘後かならず眼疾(がんしつ)を
生(せう)ず又(また)卵(たまご)は甘(あまく)しほはゆし常(つね)に用(もち)ひて預(あらかじ)め
痘毒(とうどく)を解(げ)する功(こう)あり故(ゆへ)に小児(せうに)にあたへて益(ゑき)
あり
【右丁】
一/鷸(しぎ) 毒(どく)なし虚(きよ)をおきない人(ひと)をあたゝむる功(こう)あり痘中(とうちう)
虚寒(きよかん)の症候(しやうこう)あるものは薄味噌汁(うすみそしる)に糯粢(もち)と
酒(さけ)すこし加(くわ)へてよく煮熟(にじゆく)して乳婦(うば)小児(せうに)ともに
あたふべし胃寒(いかん)をのぞきさるなり痘後(とうご)十日の
後(のち)は百日/禁(きん)すべし若(もし)あやまりて用(もち)ゆれば余毒(よどく)
をはつす
一/鶏(にはとり) 毒(どく)なし此(この)もの能(よく)虚(きよ)をおきなふといへども又血を
しぶらす功(こう)あり故(ゆへ)に禁(きん)じて用(もち)ゆべからず又/痘瘡(とうそう)
色(いろ)しろくしてやまあげせざるものに鶏冠血(にはとりのゑぼしのち)をとり
て酒(さけ)に和(くわ)して温(あたゝめ)て用(もち)ゆる方(ほう)あり又/煎薬(せんやく)のうちに
【左丁】
くわへて用もよし能(よく)紅色(あかいろ)をつけるものなり又
鶏卵(たまご)は毒(どく)なし心気(しんき)をしづめ五臓(ごぞう)を安(やす)くす
邪熱(しやねつ)をさるといへども若(もし)痘後(とうこ)炒米(いりこめ)干菓子(ひくわし)
の類(るい)と共(とも)に食(しよく)すれば後(のち)必(かならず)眼疾(がんしつ)をはつすといふ
説(せつ)あり故(ゆへ)に痘中痘後/妄(みたり)にあたふべからず
一/鳧(かも) 毒(どく)なし中(うち)をおぎなひ胃(い)の気(き)を益(ま)し食(しよく)を消化(せうくわ) ̄ス
《振り仮名:瘡癤|そうせつ》を治(じ)す水気(すいき)を療(りやうず)といへども痘瘡中は
用(もち)ゆべからず痘後/平日(へいじつ)にかへる【加へるヵ】ものはあたふべし妨(さまたけ)なし
一/鳩(のばと) 毒(どく)なし此(この)ものよく諸薬(しよやく)の毒(どく)を解(げ)す又/悪瘡(あくそう)を
治(じ)すといへども痘中(とうちう)あたふべからず痘後三十日の
【右丁】
後(のち)小瘡(ちいさきでもの)となりて日久(ひひさ)しく愈(いへ)ざるものは少々(せう〳〵)あた
ふべし又/鴿(いへばと)の一/種(しゆ)あり毒あり食(しよく)すべからず
一/鶉(うづら) 毒なし五臓(こぞう)を補(おきな)ひ中気(ちうき)をまし筋骨(すじほね)をつよく
すといへども痘中(とうちう)あたふべからず痘後(とうご)全快(ぜんくわい)す
るをまつて塩噌(ゑんそ)に和(くわ)し煮(に)喰(くら)ふべし又/告天子(ひばり)も
功能(こうのう)鶉(うづら)に同(おな)じ
一/雀(すゝめ) 毒(どく)なし痘中痘後(とうちうとうこ)禁(きん)ずべし又痘後/目疾(めをやむ)もの
雀(すゞめ)の頭頂(かしら)の血(ち)をとりて眼中(かんちう)に点薬(さしくすり)となすもの
ありといへどもいまだ其功(そのこう)を見ず大抵(たいてい)痘後(とうご)余(よ)
どく目中(めのうち)に入(い)るものは指薬(さしくすり)を大に忌(い)むべし
【左丁】
目(め)の瞳子(くろたま)傷潰(やぶりついやし)て廃人(かたわ)となるといへり故(ゆへ)に妄(みだり)に目中(めのうち)に
さしぐすりをする事を禁(きん)ぜよ又/椋鳥(むくどり)比衣鳥(ひへとり)みな
毒なしといへども痘中痘後百日/禁(きんじ)て与(あと)ふべからず
一/兎(うさぎ) 毒(どく)なし血(ち)を涼(すゞしく)し熱(ねつ)を解(げ)す大腸(たいてう)を利(り)すゆへに
痘中用ゆるを忌(い)め又/臘月(しわす)八日の朝(あさ)霜露(しもつゆ)をのみたる
兎(うさぎ)をとりて痘前(とうまえ)に食(しよく)するときは出瘡(でもの)稀少(すくなし)といふ
説(せつ)ありといへどもいまだその功(こう)を見(み)ず又/預(あらかじめ)稀痘(きとう)の
薬(くすり)に兎血丸(とけつくわん)兎紅丸(とこうくわん)の類(るい)あり往々(おう〳〵)是(これ)を用(もち)ひて未(いま)だ
其功(そのこう)を見(み)ず尤これは古(むかし)よりのまじないなるべし
随分(すいぶん)用ひて妨(さまたけ)なしあたふべし
【右丁】
一/野猪(いのしし) 毒(どく)なし肌膚(はだへ)をおぎない潤(うるおし)て五臓(ごぞう)の精(せい)を益(ま)し凡(およそ)そ
十月/以後(いご)寒中(かんちう)に用ひて益(ゑき)ありといへども妄(みたり)にあたふ
べからず最(もつとも)四/国(こく)土佐(とさ)の人は痘瘡(とうそう)あればかならず猪肉(いのしし)
を求(もとめ)て稀味噌汁(うすみそしる)にて煮爛(にたゝらし)酒(さけ)少(すこし)しくわへて痘(とう)
児(じ)にあたふるなり若(もし)生(なま)なるものなければ塩漬(しおづけ)の
肉(にく)にてもよく煮(に)てあたふるなり若(もし)いまだ食(しよく)する事
あたわざる小児(せうに)はその汁(しる)をあたふるなり是/疱瘡(ほうさう)の
やまあげによろしといふ事なり予(よ)是(これ)を考(かんがう)ふるに
胡氏(ごし)八十一論(はちじういちろん)に猪尾血(ちよびけつ)を用ゆる説(せつ)あり是は家猪(ぶたの)
血なれども大抵(たいてい)相類(あいるい)するゆへに是を用るならんか
【左丁】
尤(もつとも)猪尾血(ちよびけつ)を妄(みだり)に用(もち)ゆるからず【注】若(もし)気虚(ききよ)或(また)は虚弱(きよじやく)の
痘症(とうせう)に謬(あやまり)てあたふるときはかならず大事(だいじ)に及(およ)ぶ
ものありとしるべし
禁物(きんもつ)
橘《割書:たちばな》 胡麻《割書:ごま》 炒豆《割書:いりまめ》
豆粉《割書:まめのこ》 醋 《割書:す》 嫩艾餻《割書:よもぎもち|よもぎだんご》
焼酒《割書:しやうちう》 酒娘《割書:さけかす》 芥 《割書:からし》
黄実《割書:ひし》 椎子《割書:しひ》 西瓜《割書:すいくわ》
甜瓜《割書:あまうり|まくわうり》 生柿《割書:なまがき》 柚 《割書:ゆ|ゆず》
【注 「用ゆるからず」は「用ゆるべからず」の誤ヵ】
【右丁】
金橘《割書:きんかん》 桑椹《割書:くわいちこ》 枇杷《割書:びわ》
楊梅《割書:やまもゝ》 林檎《割書:りんご|又りんごなし》 栗 《割書:くり》
生梅《割書:なまうめ》 杏子《割書:あんず》 杏子《割書:すもゝ》
石花菜《割書:ところてん》 乾苔《割書:あおのり》 羊栖菜《割書:ひじき》
紫菜《割書:あまのり|あさくさのり》 裙蔕菜《割書:わかめ》 海■《割書:あらめ》
蓴 《割書:じゆんさい》 胡瓜《割書:きうり》 南瓜《割書:ぼうふら|かぼちや》
茄子《割書:なすび》 蒟蒻《割書:こんにやく》 紫莧《割書:ぜんまい》
蕨 《割書:わらび》 恭菜《割書:ふだんそう》 菠薐《割書:ほうれんそう》
藜 《割書:あかざ》 野蜀葵《割書:みつばせり》 梨 《割書:なし》
棗 《割書:なつめ》 水■《割書:みつせり》 韭 《割書:にら》
【左丁】
葱 《割書:ひともし|ねぎ》 胡葱《割書:あさつき》 薤 《割書:らつきやう|らんきやう》
茖葱《割書:ぎやうぢやにんにく》大蒜《割書:にんにく》 野蒜《割書:のびる》
番椒《割書:とうからし》 胡椒《割書:こしやう》
鮭 《割書:さけ》 香魚《割書:あゆ》 鱒 《割書:ます》
鮧 《割書:なまず》 鱠残魚《割書:しろうお》 詶鯯魚《割書:このしろ》
鱸魚《割書:すゞき》 鯔 《割書:ぼら》 撥尾《割書:いな》
文鰩魚《割書:とびうを》 青魚《割書:さば》 梭魚《割書:かます》
䲙魚《割書:たなご》 鱮魚《割書:うみたなご》 馬鮫魚《割書:さわら》
鰛魚《割書:いわし》 海鰌《割書:くじら》 古阿伊雑古《割書:こあいざこ|小いわしのるい》
鯖鯷《割書:にしん》 章魚《割書:たこ》 烏賊魚《割書:いか》
【「海■(あらめ)」は「海帯」ヵ。■は「世+巾」】
【「紫莧(ぜんまい)」は「紫萁」ヵ】
【「水■(みつせり)の■は「菫+刂」ヵ「𠞱」ヵ】
【「香魚(あゆ)」の「香」は「禾+田」】
【右丁】
鰕 《割書:ゑび》 阿美雑古《割書:あみざこ》 鰷魚《割書:はぜ》
鰊鯑《割書:かづのこ》 魚師《割書:ぶり》 波末知《割書:はまち》
竹莢魚《割書:あじ》 牛尾魚《割書:こち》 白刀魚《割書:たちうを》
恵曽《割書:ゑそ》 徳蘇魚《割書:しびはつ|おゝうをまぐろ》鰵魚《割書:あら》
志伊良《割書:しいら|くまひき》 宇留女《割書:うるめ|いわし》 魚鱠《割書:なます》
魚鮓《割書:うおのすし》 田蠃《割書:たにし》 西施舌《割書:みるくい|みるがい》
蓼螺《割書:にし》 拳螺《割書:さゞい》 玉珧《割書:たいらぎ|ゑぼしかい》
阿佐利貝《割書:あさりがい|くすじがい》鴈 《割書:がん》 鶩 《割書:あひる》
雉子《割書:きじ》 鶴雉《割書:やまどり》 青■《割書:あおさぎ》
鵁鶄《割書:ごいさぎ》 水獺《割書:かわをそ》
【「波末知」の「末」が「未」】
【「徳蘇魚」の「徳」は「彳」が「亻」】
【「田蠃」の「蠃」は「口」が「罒」】
【「西施舌」の「施」は「方+色」】
【「青■」の■は「荘+鳥」】
【左丁】
右(みぎ)ともにあわせて禁物(きんもつ)となすもの一百五品 最(もつとも)常(つね)に食(しよく)するもの毒(どく)に
軽重(けいじやう)あり又 痘毒(とうどく)に淺深(あさきふかき)あり故(ゆへ)に痘期(とうき)に至(いた)りて其症(そのしやう)に随(したが)ひ
禁好(よしあし)ありといへども悉(こと〴〵)く筆端(ひつたん)につくしがたし唯(たゞ)痘中痘後
食物(しよくもつ)禁好(よしあし)を略(ほゞ)択(ゑら)び糾(たゞ)して疱瘡(ほうそう)の一助(いちしよ)となす実(まこと)に痘瘡の
一百日の間(あいだ)慎(つゝし)み禁(きん)じて妄(みだり)にあたふべからず往々(これまで)これをこゝろむるに
富家(ふうか)の小児(せうに)は痘後 余(よ)どくをはつすといへども廃人(かたわ)となるもの
甚(はなは)だすくなし貧家(ひんか)の小児(こども)は痘後(とうご)余(よ)どく遷変(せんべん)として廃人(かたわ)と
なるもの多(おゝ)し是皆(これみな)禁忌(いみ)を慎(つゝし)み護(まも)らざるの過(あやまち)なるべし
妄(みだり)に執(とつ)て以(もつ)て食(しよく)せしむる事なかれ父母(ちゝはゝ)傍人(そばひと)よく〳〵慎(つゝ)しみ
禁(きんず)べしとなり又 痲疹(はしか)の禁好(きんこう)は疱瘡より重(おも)しといへども大抵(たいてい)
【右丁】
疱瘡と同(おなじ)し此書(このしよ)にしたがひて択(ゑら)びあたふべし大(おゝ)なるあやまち
ある事(こと)なし
痘疹戒草巻下終
【見返し】
痘科辨要《割書:十|巻》 追刻
東都 《振り仮名: 西村 源六|日本橋通本石町十軒店西側 》
同 《振り仮名: 角丸屋甚助|麹町平河二丁目蛤店 》
書肆 洛陽 《振り仮名: 風月庄左衛門|二条通衣棚角 》
浪華 《振り仮名: 糸屋 市兵衛|天神橋筋伏見両替町 》
【裏表紙】
《題:麻疹養生伝 全》
《背表紙:麻疹養生伝 全》
《題:麻疹養生伝 全》
《題:麻疹養生伝 全》
唐玄宗帝嘗臥病忽夢
万鬼侵玉床而又有一
士提剣撃之鬼忽退帝
問其名答云先朝之卑
宦鐘馗者也帝夢寤而
後命宦祭之後人是以
画其像掛壁上則必除
疫万云
麻疹養生伝序
夫人之性 ̄ハ理也有_二 天命 ̄ノ之性_一有_二気質 ̄ノ之性_一寿夭
貧福 ̄ハ即 ̄チ天命 ̄ノ之性賢愚緩急 ̄ハ即 ̄チ気質 ̄ノ之性 ̄ニシテ【シテ合字】而各
為 ̄リ_二懸隔之異_一而養生中 ̄ルトキハ_レ【トキ略字】節則免 ̄ル_二夭死 ̄ヲ_一始末慮 ̄ルトキハ_レ【トキ略字】遠
則不_二餓死 ̄セ_一 天命 ̄ノ之性 ̄スラ尚然 ̄リ焉況 ̄ヤ如 ̄キ_二気質 ̄ノ之性 ̄ノ_一依 ̄レリ_二其善
行 ̄ニ_一矣偶患 ̄フル_二麻疹 ̄ヲ_一者唯専_二 一 ̄トセハ養生 ̄ヲ_一何為 ̄ソ有 ̄ン_二幸不幸之異_一哉
此書拾_二鳩 ̄シ古今 ̄ノ医説 ̄ヲ_一投 ̄テ_下得 ̄ル_二其症_一者 ̄ニ_上欲 ̄スル_レ令 ̄ント_レ不 ̄ラ_レ誤 ̄ラ_二全体 ̄ヲ_一而已
文政甲申春 重田貞一謹誌
麻疹(はしか)之来由
○痘瘡(はうそう)麻疹(はしか)ともむかしは曽(かつ)てなし此故に内経(ないけう)に載(のせ)ず後(ご)
漢(かん)の張仲景(ちやうちうけい)も又これを論(ろん)ぜず魏(ぎ)より以来/病論(びやうろん)あり
といへども薬方(やくはう)なしたま〳〵唐(とう)の孫真(そんしん)人はじめて疱(はう)
瘡(そう)の治(ぢ)方を出せども麻疹のことはいまだあらず
○或書に曰/推古(すいこ)天皇三十四年日本/穀作(こくさく)実(み)のらず
是によりて三/韓(かん)より米粟(へいぞく)百七十 艘(そう)を調進(てうしん)しける
その船/浪花(なには)につく船の中に三人の少年 瘡疹(さうしん)を
なやむものあり異形者(ゐぎやうのもの)蔭(かげ)のごとくその病者どもに
付そひゐたりけるゆへ側(かたはら)のものあやしみその名を問(と)ふ
にかのものども答(こた)へてわれ〳〵は疫神(ゑきじん)の徒(と)なり瘡疹(そうしん)
の病(やま)ひをつかさどるものにしてもとは此病をうけて
死(しゝ)たるものどもなるが今 疫神(ゑきじん)となりてこの病者に付
こゝにわたれり傷(いたま)しきかな今よりして此/国(くに)の人もまた
これを患(うれふ)るべしと言おわりて形(かたち)消(きへ)うせたるがそれよりして
日本に瘡疹の病あるといへり然(しかれ)ども恐(おそ)らくは此疫神
【右】
は/疱瘡(はうそう)神なるべし/麻疹(ましん)は其後のものにて/疱瘡(はうそう)はさき
なるべし猶/瘡疹(さうしん)とは痘瘡(ほうさう)麻疹(はしか)水痘(みづいも)みな惣(すべ)ての名
なればいづれかいまだ分明(ふんみやう)ならず
○痘瘡麻疹とも人間一世の大厄(たいやく)なれども其/軽(かろ)き
にいたりては服薬(ふくやく)をも用ひずして治するもの有その
中麻疹は痘瘡より稍(やゝ)はげしくして熱毒(ねつどく)さかんに足(あし)
/腰(こし)たゝず/本性(ほんせう)をうしなひ夢中(むちう)となるものありしかれども養(よう)
生(じやう)を専(もつはら)とし食物(しよくもつ)を用捨(ようしや)する時はおのづから無難(ぶなん)に全(ぜん)
【左】
快(くわい)するものなりはじめ熱(ねつ)ありと思(おも)はゞよく風にあたらざる
やう温(あたゝか)に打ふし決(けつ)してひやゝかなるものを食(しよく)せずかわけばとく
水を呑(のむ)と至(いたつ)てあししとかく白(しら)かゆかさゆ漬(づけ)あるひは寒(かん)ざらし
の粉(こ)どうみやうじなと食(しよく)すべし年とりたる人はおのれと其/斟(しん)
酌(しやく)あるべけれども幼稚(ようち)のものはあのわきまへもなくくるしきまゝ
に夜着(よき)をふみぬぎ手足を出し冷(ひゆ)るを構(かまは)ざるものなれば
看病(かんびやう)人よく〳〵心くばりし介抱(かいほう)第一のものなりかまへて
おこたり給ふことあるべからず
【右】
食物(しよくもつ)よろしきもの
○やき塩(しほ) ○かんひやう ○ほし大根(だいこん) ○ゆりのね
○にんじん ○かたくり ○古(ふる)みそ漬(づけ) ○上くず
○くろ豆(まめ) ○氷(こほり)こんにやく ○白瓜 ○冬瓜
○いんげん ○十六さゝげ ○ひじき ○小豆
○やゑなり ○水あめ ○白せつかう ○麩(ふ)《割書:これも酒ふは|あしし》
○牛房(こぼう)これは出そろふまではよし
右之外白さとう少しはよし生黒(なまくろ)さとう大きにあしし
【左】
梅ぼしかつほぶし出そろふまではよし芋類(いもるい)はけつ
してかたく禁物(こんもつ)なり
○菓(くた)ものあしし其内/梨子(なし)少しばかりはよし去ながら
くはざるにしくはなし
○魚類(うをるい)きすあいなめさよりは肥立(ひだち)にかゝりて少しづゝ
はよしおなじくならばざつと一塩(ほとしほ)にして用ゆるかたよし
○鯛(たい)ひらめは三十日ばかりも遠慮(ゑんりよ)すべしすべて/甲(かう)ある
もの一切あししあやまつて食(しよく)するときは命(いのち)にもかゝわる
【右】
べし是は半年ばかりもつゝしみてよし
○貝(かい)類あしし鮑(あわび)はひだちにかゝり少しづゝはよしそれも
酢(す)がいにしてはあしし
○鳥(とり)類一切あしし玉子(たまご)も百日は忌(いむ)べし
○青(あを)ものほし菜なとはよし生(なま)なるものはあしし
○油氣(あふらけ)は七十五日忌べし○豆腐(とふふ)しはらくあしし
○こんにやく○竹の子○そらまめ○なたまめ
○梅づけ○なま梅○/柿(かき)るい○茸(たけ)類
【左】
いづれも大きにあしし百日いむべし
○もみ瓜○茄子(なす)生漬(なまづけ)○黄(き)瓜○大根(だいこん)新づけ
いづれも四五十日/忌(いむ)べし其内茄子は猶/日数(ひかず)忌(いむ)ほどよし
○酢(す) ○酒(さけ) ○餅(もち) いづれもしばらく遠慮(ゑんりよ)すべし
そのうち干菓子(ひぐはし)はよししかしあまりに甘(あま)きはあしし
小児(せうに)などは肥立(ひだち)にかゝりことの外/食(くひ)たがるものゆへ餅など
このむ時はやへなりあんのしんこはくるしからず餅はあしし
○麺(めん)類あししうどんはよし
【右】
○肥(ひ)だちかゝりて腹(はら)たつことかなしむことすべて気(き)をつかふ
ことあしゝ只人と雑談(そふだん)をなし草紙(さうし)などよみて退屈(たいくつ)
せざるがよしまた湯(ゆ)をつかふこと髪(かみ)月代(さかやき)をすること
大事(たいじ)なり廿日ほども過(すぎ)なばざつと洗足(せんそく)し髪(かみ)はこれも
ざつとたばねておきそれより四五日も過て沐浴(ゆあみ)髪(かみ)
さかやきしてよし
○房事(ぼうじ)は殊(こと)につゝしむべしあやまつときは命(いのち)にもおよ
ぶなれば二 ̄タ月ほどはたしなみてよし
【左】
○麻疹(はしか)服薬(ふくやく)之事/医書(いしよ)にあまた出たれども大体(たいてい)俗家(ぞくか)
には升麻葛根湯(しやうまかつこんとう)を用ひ來るよしなれども此前/享(けう)
和(わ)三亥年/流行(りうかう)のときは葛根湯あわず荊防敗(けいほうはい)
毒散(どくさん)に少し時の加減(かげん)をし用ひたりしよし
或(ある)老人(らうじん)のかたりたりし心得(こゝろへ)べきことなり
○麻疹まじなひの事/三豆湯(さんづとう)或は馬屋(むまや)の盥(たらゐ)をかぶれ
ばきはめて麻疹かろしなど其外さま〴〵流布(るふ)す
といへども先年/長崎(ながさき)の人より書付(かきつけ)越したる奇妙(きめう)
【右】
の一/符(ふ)あり因(ちなみ)にこれをしるす
■■【注】乙【3文字▢で囲む】《割書:此三字をかきて家のうちにはりおけばきはめて|はしかかろしといへり》
○群談採余(ぐんだんさいよ)といふ書に此事あるよし異国予章(ゐこくよしやう)と
いふ所の南に舟渡(ふなわたし)の所あり一人の僧(そう)来り津吏(わたしもり)にいふ
今しばらくありて黄衫(わうさん)をきたるもの五人/籠(かご)を負(おふ)て
此所に来るべしかならず是をわたすまじ若(もし)あやま
つてわたす時は禍(わざはひ)あるべしと筆(ふで)をとり此三字をした
ためわたしもりにあたへて彼等(かれら)来らば是を見す
【左】
べしと告(つげ)おはつて去(さる)はたして黄衫(わうさん)を着(き)たる五人の
もの来り直(たゞち)に舟にのりてわれ〳〵は府州県(ふしうけん)にゆく疫(ゑき)
鬼(き)なりはやく舟をわたすべしといふそのときわたし
もり件(くだん)の三字(さんじ)を取出し見すれば五人是を見て俄(にはか)に
うろたえ走逃(はしりにげ)さりしゆへわたしもり此/符(ふ)をつたへ
予章(よしやう)の家ごとにはらしめたるにそのとき江浙(かうせつ)と
いふ所/疫病瘡疹(ゑきびやうそうしん)おほくして死するもの少からず
予章の方は何事もなかりしとぞこのゆえに
【■■:「竹車龴疋」「竹厂斬】
【右】
いまもつて疫瘡疹(ゑきさうしん)流行(りうかう)の時には是を家にはりて
この禍(わさはひ)さくると異国人伝来(ゐこくしんでんらい)のよし仍(よつ)て
むかしより西国にてはこの符によりて瘡疹を
まぬがれあるひはかろくするとかの人よりつたへし
まゝをこゝにしるす
麻疹(はしか)年数(ねんすう)大概(たいがい)
○日本書記には敏達(びだつ)天皇四十年乙巳此/症(やまい)はじめ
て日本に流行(りうかう)し上百官(かみひやくくはん)より下万民にいたるまで
【左】
死亡(しほう)するものおほかりしとなり或書(あるしよ)に痘瘡(ほうそう)は
聖武天皇(しやうむてんわう)天平七年にはじめて流行(りうかう)し麻疹(はしか)は
同九年はじめてはやる其後/桓武帝(くはんむてい)延暦(ゑんりやく)
九年五十四年ぶりにして流行(りうかう)し延暦より
長徳(てうとく)四年迄二百十九年にしてはやりまた長
徳より文明三年まで四百七十四年めに流行す
延暦長徳の間(あいだ)また長徳文明の間ともに年数/長(てう)
遠(ゑん)なればさだめて其中に麻疹はやりしことも
【右】
ありしやしらずそれよりは永正四年まで文
明より三十七年めにしてはやり永正四年より
慶安(けいあん)三年まで百四十四年めにしておこな
はれ慶安(けいあん)より元禄(げんろく)三年まで四十二年めはや
り同四年ふたゝび大に流行して死するもの
数(かず)おほし元禄より享保(けうほ)十五年まで四十
年めはやり享保より宝暦(ほうれき)三年まで二十四
年めにしておこなはれ宝暦より安永(あんゑい)五年
【左】
まで二十年めにして流行し安永より享和(けうわ)三
年まで二十八年めにはやれり凡天平より享
和三年まで千七十六年の間/数度(すど)の流行にし
てしかも生涯(しやうがい)一たび病(やみ)てふたゝび病ざるも亦
一異(いちい)なり猶享和三年より当文政七年まで
二十一年目にあたる
麻疹薬方
○升麻葛根湯(しやうまかつこんとう) 葛根《割書:三匁|》升麻/芍薬(しやくやく)甘草(かんぞう)《割書:各|二匁》
【右】
右調じ合せ生姜(せうが)を入/煎(せん)じ服(ふく)す序病(じよやみ)に用る
に冬月なれば紫蘇(しそ)《割書:八匁|》加へ用ゆ又序病に手足/冷(ひゆ)
る時は桂枝(けいし)《割書:一匁半|》加へ用ゆべし
○荊防敗毒散(けいぼうはいどくさん) 羗活(けうくはつ) 獨活(どくくはつ) 柴胡(さいこ) 前活(ぜんくはつ)
枳穀(きこく) 川芎(せんきう) 桔梗(きゝやう) 茯苓(ぶくりやう) 荊芥(けいがい) 連翹(れんぎやう)
忍冬(にんどう)《割書:各|等分》 甘草(かんぞう)《割書:減半|》
右/生姜(せうが)入/煎(せん)じ服(ふく)すべし瘟疫(うんやく)四時不正の
邪毒(じやどく)皮肉(ひにく)の間に凝滞(こりとゞこほ)るものを駆敗(かりやぶ)るがゆへに
【左】
麻疹の的剤(てきざい)なり
○退疹香(たいしんかう) 瘡朮(さうじゆつ) 降真香(かうしんかう) 川芎(せんきう) 乳香(にうかう)
右おの〳〵細末にし一両目づゝ調和(ていくは)し用ゆ
○すべて疱瘡(はうそう)麻疹(はしか)熱病(ねつびやう)時毒(しどく)等を煩(わづら)ひたる後
息(いき)くさく口中/臭気(しうき)あるは其/余毒(よどく)のこりたる
なればさやうの時ははやく良医(りやうい)に治療(ぢりやう)を請(こふ)べし
打すておかば病/再発(さいほつ)すべし
○保元湯(ほげんたう)は元気(げんき)虚弱(きよじやく)のものゝために立(たて)たる薬方
【右】
なれば実性(じつしやう)のものにはよろしからず凡其症和順
にしてかろきものには薬を用ひずしてもよし
去ながら用心(ようじん)にしくはなし肥立(ひだち)よりとかく食(しよく)もつ
大事(だいじ)なり毒(どく)なるものはなるたけその日数よりおそ
く食(しよく)するほどよし
○芙蓉黄石散(ふようわうせきさん)は痘瘡(づそう)麻疹(ましん)等(とう)の快発(くわいはつ)しがた
きに用ひて證(しるし)あり又其/厲毒(まんどく)潜伏(せんふく)し内攻(ないこう)して
発する水腫に用ひてよく其毒を駆逐(かりおひ)て即(すなはち)治(ぢ)する也
【左】
○すべて麻疹(はしか)の序病(しよやみ)も痘瘡(はうさう)とおなしことなり
そのうち麻疹は面(おもて)のいろありて中指(たけたかゆび)冷(ひへ)て咽(のど)の
はしかきをしるしとす療治(りやうぢ)も大体は疱瘡
の序病(しよやみ)とおなじことなりすでに出てよりは
犀角解毒湯(さいかくげどくとう)または瀉白消毒飲(しやはくしやうどくいん)【泻は俗字】あるひは加味(かみ)
金沸草散(きんほつさうさん)等をかんがへて加減(かげん)し用ゆべきなり麻
疹の後その余毒(よどく)にて肥立(ひだち)かね煩(わづら)ふときは芩連玄(こんれんげん)
参湯(しんとう)または十仙湯などを考(かんが)へ加味し是を用ゆべし
【右】
○凡/疱瘡(はうそう)麻疹(はしか)とも其/症(やまひ)おこらんとするときその
父母また乳母(うば)などの夢(ゆめ)に異人(ゐじん)を見ることあり
老嫗(らうおう)を見るをよしとす壮女(そうしよ)を見ると凶(けう)とし僧(そう)
あるひは侍(さふらひ)をみるを中とす是則/疫神(ゑきじん)なり因(ちなみ)にいふ
べし或(ある)人の子疱瘡のとき其父の夢(ゆめ)に白衣(はくゑ)を着(き)
たる法師(ほうし)しろきてぬぐひをかふりたるがわか家に
入来ると見てさめて後其子疱瘡の序病(じよやみ)に
かゝれり依(よつ)て赤(あか)き頭巾(づきん)をかふらせたるが病者(びやうじや)この
【左】
赤きをきらひ白きてぬぐひを望(のぞみ)すべてのもの色(いろ)の
しろきを好みたるゆへ其父母ことの外いまわしがり
て他(た)の疱瘡(はうそう)には異(こと)なることを愁(うれ)ひ案(あん)じわびゐたり
しが何事なくしまひて肥立(ひだち)こゝろよく其子今に
おゐて壮健(さうけん)なり白きいろは喪中(もちう)の服(ふく)なるゆへ父母気
にかけて案じたりしも無難(ぶなん)にして平愈(へいゆ)せし
ことものは案(あん)ずるものにあらず麻疹(はしか)とてもそのごとく
一生にひとたびの大厄(たいやく)なれば其/脳(なやみ)甚(はなはだ)しといへども
【右】
養生(ようじやう)を専要(せんよう)とすれば難(なん)なくして全(まつた)かるべしさきに
享和(けうわ)三亥年/麻疹(はしか)のはやりしとき予 旅中(りよちう)
にありて東海道(とうかいどう)箱根(はこね)を通りしに乞食(こつじき)の
子の麻疹(はしか)に悩(なやみ)たるが道路(どうろ)に菰筵(こもむしろ)をかふり打ふし
ゐたる側(そば)に其 姉(あね)と見ゆるが是も麻疹をせしと
見え形痩(かたちやせ)ていまだ肥立(ひだち)間もなき体(てい)なれども
元気(げんき)よく何事をかわらひ戯(たはふ)れて遊びゐたる見
へたりまた雲助(くもすけ)どもの中にも麻疹のあとありて
【左】
やうやく肥立(ひだち)にかゝりしと見へしも駕(かご)をかき荷物(にもつ)
を負(おひ)などしていきほひよく酒肴(さけさかな)思ひのまゝに
飲食(いんしよく)する体(てい)なりかゝる身にして其病の中にも
風寒(ふうかん)を凌(しの)ぐ儲(まうけ)もあるまじく食物(しよくもつ)もさだめし
空腹(くうふく)の時は禁忌(きんき)をもゑらむましきにこゝろよく
肥立せしと見れば何事なく仕果(しおほ)せしと見え
たり世俗(せそく)には疱瘡(ほうそう)を美目定(みめさだ)めといひ麻疹(はしか)は
命(いのち)さだめ【注】なりといへどもかく野人(やじん)の無難(ふなん)なるは実(まこと)
【注 「命定め」=生きるか死ぬかを決定すること、またその要因。特に近世、幼児にとっての疱瘡、麻疹(はしか)などをいう。】
【右】
に天の賜(たまもの)なるべし是によりて見れば禍福(くはふく)はそれ〳〵
の分限(ぶんげん)によりて異(ゐ)ある事天道なるへければ
彼(かれ)に比(ひ)してこれをおろそかにすべからざること
勿論(もちろん)なり《割書:予》短才愚盲(たんさいぐもう)にして此書を編(つゞる)こと
自力(しりき)の及ぶ所にあらず其時/富士川(ふじかわ)岩渕宿(いわぶちじゆく)よ
り身延(みのぶ)道にかゝり甲府(かうふ)へ出しばらく滞留(たいりう)せ
し中/神醫(じんい)徳本老(とくほんらう)の遺書(いしよ)なりとて麻疹(はしか)
のことを委敷(くはしく)書たりしを見るに治法(ぢほう)および食物(しよくもつ)
【左】
の禁忌(きんき)其外心得のことども悉(こと〴〵)くしるしたれば《割書:予》是を書
抜(ぬき)旅袖(りよしう)に収(おさめ)帰りしまゝを取敢(とりあへ)ずこゝに模写しおわんぬ
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西邦麻疹雑談(さいこくましんぞうだん)全三冊《割書:むかし西国にて麻疹はや|りし時めづらしきものかたり|ありしを聞つたへしるす》
十返舎著
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《割書:右之通(みぎのとをり)|麻疹(はしか)に》寿福請取帳(じゆふくうけとりてう)全一冊《割書:はしかのことをおもしらおか|しく書つゞりたるなれは麻|疹の御見舞によき絵|ざうしなり》
同 作
文政七甲申年正月発兌
江戸
小伝馬町三丁目
蔦屋重三郎
書林
通油町
鶴屋喜右衛門
人形町
鶴屋金助
【見返し】
【裏表紙】