佐賀県立図書館の翻刻テキスト

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御府内大地震類焼場所再細記

安政二乙卯年十月二日
【朱印あり】関東〈并:〉街道筋
御府内大地震類焼場所再細記
      【印「禁売」】 同月廿五日改正

世(せ)俗(ぞく)よく云(い)へる。 當(あた)るも八卦(はつけ)當らぬも。
八卦(はつけ)とは冝(むべ)なり。 然(され)ど易(えき)の本(ほん)躰(たい)は。 筮(ぜい)竹(ちく)
を把(とり)心を澄(すま)し。 天(てん)地(ち)の神に疑(ぎ)惑(わく)を告(つ)げ。 決(けつ)
断を乞(こ)ひ卦(くわ)を求(もと)め。 陰(いん)陽(やう)両義を追(つひ)重(かさね)て
而(しか)して後(のち)に卦名(くわめい)を知(し)る。是時(このとき)に善悪(ぜんあく)を
神の示し玉ふなるを。売卜者(はいぼくしや)の汚たる。心
よろしくて判談(はんだん)する故。 的察(てきさつ)の真理(しんり)に至らず
恐(おそ)るへき事ならずや。此度の有斯(かゝる)大変(たいへん)も
神託(しんたく)既(すで)に無にあらず。 真偽(しんぎ)ハ知らねど去月(きよげつ)
晦日。彼の神田大明神(かんだたいめうしん)に。 仕(つか)へ申(まうす)神官(かんぬし)の。菅の
内に彼神(かのかみ)まし〳〵。我(われ)出雲(いづも)へと出立せしかど。氏
子の者に怪我(けが)あらんを。 気遣(きづか)して思ふが故(ゆゑ)に。立
戻(もど)りて汝(なんぢ)に告(つぐ)と。 託(たく)し玉ふハ夢(ゆめ)なれと。何事
欤出来心は。 考(かんが)ふれとも思案(しあん)に能(あた)ハず。 火災(くわさい)
を知らせ玉ふにや。と甲乙(たれかれ)懇意(こんい)に告(つぐ)るといへども。
怪敷(あやしき)事を言触(いひふら)し。 公事(おほやけ)の咎(とがめ)もあらんと。 口(くち)を噤(つぐ)
んて居(ゐ)たりしとなん。 是(これ)神(かみ)も天気(てんき)をして。 顕(あらは)然に
洩(もら)すハ難(かた)からん欤。 人(ひと)また是を推(すゐ)すもかたし。
唯(たゞ)無事(ぶじ)なるハ神仏(しんぶつ)の。 加護(かご)と歓(よろこ)び玉へかし。
と此 双子(いつさい)を見る人に信心(しん〴〵)を示(しめ)すになむ

安政二卯年十月二日夜亥之刻過俄に
大地震動致し崩候家ゟ出火所々に有之
候江戸中御屋敷寺院町家等并土蔵大
破損致たる事かぞへがたし依之遠国之
縁者又は取引へ告達するにふで筆紙に尽し
かたし潰家出火等残る所なく相記し候間能々
御覧可被下候
   日本橋北
日本橋北は宝町壱弐三丁目本町通り
駿河町辺伊勢町辺十軒店本石町
迄今川橋辺小伝馬町辺いづれも大
破損東え大伝馬町通り同断通り
はたご丁油町塩町馬喰町横山町両
国広小路柳原土手此間に即死三百人
計怪我人かぞへかたし
郡代御屋敷豊島町久右衛門町辺橋本
町弁慶橋お玉ヶ池市橋様御屋しき
神田小柳町籾蔵辺同松田町新石町
今川橋迄大破損此辺即死四百人余
怪我人数しらず筋違御門内に而酒井
様御やしき青山下野守様土井能登守様
松平左衛門尉様稲葉丹後守様土屋釆
女正様是より三河町迄大破損なり
西神田一円大破損土蔵皆々大破
又浜町辺諸々御屋敷破損松島町辺
大破即死此辺に而八十人計有之怪我
人は数不知夫より人形町辺堺町辺
吉町辺富沢町辺久松町辺村松
町辺橋町辺此辺みな〳〵大破夫より

とうかん堀酒井様本田様林様紀州
様井上河内守様三河様堀出雲守
様此辺諸所小屋敷又銀座甚左衛門
町辺行徳川岸小あみ町小舟町堀
江町照降町ふきや町新材木町辺
いづれも皆々大破損即死八十五人
計怪我人数不知
  霊岸島
  新川新堀辺
霊岸島四日市町塩町南新堀
町白銀町大川ばた町此辺弐丁余
も大破之上焼る即死七十人計怪
我人沢山松平越前守様御中屋敷
焼残るみなと町長崎町辺いづれも
皆々大破潰家も多し此辺川岸蔵
みな〳〵大破北新堀箱崎橋迄是又
大破損なり土井様久世様伊豆守様
御屋敷いづれも少し宛破損田安様
御やしき無事なり
   日本橋より南
   京橋まで
畳町五郎兵衛町南かじ町炭町
具足町柳町常磐町南伝馬町
二丁目三丁目狩野新道北紺屋町
白魚屋敷大根川岸本材木町八
丁目迄大潰の上やける此辺即死百六十
人計怪我人数不知此間に土蔵少し
残る日本橋より中橋までの間家

蔵大破損
  浅草并
  新吉原辺
新吉原江戸町壱丁目二丁目京町
壱丁目二丁目角町壱丁目二丁目
揚屋町伏見町共不残ゆり潰し
其上揚屋町ゟ出火して角町よりも
出火又々江戸町弐丁目出火郭内残
らず焼失土蔵一ヶ所も残無之怪
我人死亡の者算へがたし大門外にて
御高札并に同側焼残る向側不残やける
土手下網笠茶屋北の方少し残り
候得共大潰なり田町より出火して一丁目
二丁目夫より馬道通り両側大破損之上
焼るその火猿若町へ焼込同所壱丁目
中村座弐丁目は市村座三丁目は河原
崎座前後役者新道共不残大潰之上
焼る又は藪の内此辺いろは長屋多く
皆々大潰之上やける山の宿九品寺より向側
残り南へ花川戸町戸沢長屋にて焼
止る同馬道西側不残大破之上焼る南馬
道観音裏門角に而焼止る此辺即死の者
八百五十人余怪我人数不知浅草寺境内は
奥山の諸宮等いづれも破損致し観音本
堂山門鐘楼并随身門雷門三社念仏
堂此分不残無事なり五重之塔九輪少し
曲る観音寺中不残大破又寺中に有之候
いろは長家皆々大破損東橋際川付に而
は山谷堀迄焼残るといへども潰家甚多し

まつち山聖天宮無事也此辺大破損又は
潰家多し同所山谷橋より北の方今戸橋
辺銭座前後潰の上焼る焼残る所潰家多
同所穢多町残る是より真崎稲荷社まで
大破の家多し鳥越町壱二三四町山谷町
浅草町小塚原町千住大橋大千住まで大
破損の家多し此辺即死之者三百六十人計
怪我人数不知又小塚原町大破の上焼る夫より
浅草東本願寺本堂無事なれども東の方
家根少しいたむ尤寺中は大破損誓願寺門前
町別而潰家多し日輪寺本堂は破損寺中
不残大潰同所新堀端大破損夫ゟ菊屋
橋向ふ行安寺門前町半町計焼る同西の方
向ふ側新堀端迄凡壱町計もやける同所
材木町大破の上やける同並木町辺大破損
駒形堂は無事也同町西側中程角より
出火して諏訪町黒船町両側不残大破損
其上やける此間土蔵四ヶ所焼残る其火御馬
屋川岸にて焼止る此辺即死百八十人計尤
怪我人数不知三好町川岸の方焼残る御蔵
前通りは八幡様は鳥居迄無事也是ゟ浅
草御見附迄少々づゝ破損なり。
   下谷坂本三ノ輪辺
坂本壱二三丁目迄大潰之上焼る同町四丁目
金杉一二三丁目三の輪通り新丁此辺大潰
夫より根岸御行の松辺いづれも潰家多し
尤即死二百人計怪我人かぞへがたし
  下谷上野辺并
  外神田辺

下谷あべ川町此辺潰家多し東ゑひ山
下車坂幡随院門前町より御切手町
山崎町此辺御屋しき方寺院共大破損
なり同所七軒町ゟ出火同所備後様
出雲様両家大破損此辺御屋敷またハ
寺院諸々大破之上焼る同所かや町二丁
目ニ而焼止る上野広小路六阿弥陀ハ小破 
同上野町壱丁目より出火して弐丁半斗
焼る此辺即死弐百九十人斗怪家人数不知
北大門町黒門町下谷同朋町一丁目
二丁目上野黒門町此辺に屋敷同朋町
拝領屋敷井上様御屋敷御てん共潰る
石川主殿頭様御屋敷少々やけるその南
ニ而黒田豊前守様表長屋焼る此所ニ而
止り同所裏通り大関様御屋敷無事
なり下谷長者町壱丁目二丁目同代地
同二丁目上野南大門町下谷中御徒町
五六丁斗大破損之上焼る夫ゟ和泉橋
外藤堂和泉守様此外御屋敷いつれも
大破筋違御門外御成道邊大破損也
△湯島天神御社無事妻恋稲荷社
同断すべて此辺糀室潰故破損有之
候得共其外ハ少破なり夫ゟ本郷加州様
御屋敷同所備後様少々破損駒込白
山巣鴨板橋辺迄破損至て少なし
神田明神様御社内無事也聖堂内外
破損少々也
〇湯島天神後ろ切通しより同脇之方
女坂男坂上下共危き立家にて潰れ申
べき処大破無之ハ神徳なるべし

   市ヶ谷辺
   四ッ谷
   赤坂
   麻布迄
市ヶ谷御門外は尾州様御屋敷少々
破損夫より四ッ谷新宿辺は少々づゝ
損じ也糀町番町此辺いづれも少々
破損赤坂御門外紀州様御屋敷は
小破同鮫ヶ橋は所々大破有之赤坂
伝馬町桐畑此辺格別之事無之麻
布桜田町より芝赤羽根町辺迄是も
少々つゝは破損飯倉辺麻布市兵衛町
此辺格別大破無之
   芝辺
芝口壱丁目より大通り柴井町両側
とも大潰之上やける宇田川町三嶋町
神明町此辺大潰家多し即死二百六
十人計怪我人数不知諸所土蔵は不残
潰れ同神明御社は無事同所増上寺無
事也寺内に少々は破損芝海手仙台様御
屋敷脇坂様御屋敷会津様此辺諸々御
やしき格別之破損無之同所金杉辺ゟ
田町高輪辺品川までいづれも少々の
破損なり
   桜田兼房町
   西久保辺
西久保諸々御屋しき方并町屋不残
大破桜田兼房町自身番より同
所南の方松平兵部様御屋敷表長屋

まで大潰の上やける西の方にて伏見町
かぢ町久保町備前町太左衛門町因幡
町和泉町善右衛門町此辺潰家沢山
夫よりあたご下諸々御屋敷大破有之尤
此辺即死八十八人計怪我人数不知
   幸橋御門内ゟ
   和田倉御門内辺
幸橋御門内松平甲斐守様御屋敷伊
東修理太夫様御屋敷南部美濃守様
御屋敷大破の上焼る薩州様御装束
やしき南の方少し焼る山下御門内鍋嶋
肥前守様焼る日比谷御門外虎御門辺
あたらし橋御門内外桜田赤坂御門内山
王様御社無事霞ヶ関いづれも此辺少々
破損和田倉御門内松平肥後守様御屋
敷同御中屋敷并大番所同所腰掛焼
る同所南ノ方松平下総守様御屋敷焼る
内藤紀伊守様御屋敷残る数寄屋橋
御門より呉服橋御門内大名小路辺諸々
御大名様御屋敷大破多し八代州河岸
辺は常火消屋鋪松平相模守様同御添
屋敷遠藤但馬守様御屋敷いづれも大破後
焼る龍の口角森川出羽守様大手前にて
酒井歌雅樂頭様同向御屋敷共大破後焼る
常盤橋雉子橋御門内少々づゝ破損夫より
一ッ橋御門外に而は
〇小川町辺堀田備中守様御屋敷大破後
出火近所小屋敷火消御屋敷少し焼る
榊原式部太輔様松平紀伊守内藤駿

河守様松平駿河守様戸田長門守様
本多備後守様本郷丹後守様いづれも
大破後焼る夫ゟ小石川内小屋敷所々
大破一軒焼二ヶ所有之飯田町堀留辺
破損先は少なし神田橋外通り両側駿
河台小破なり此辺即死三百人計怪我
人かぞへかたし
   京橋より
   新橋まで
   筑【築】地
   鉄砲洲辺
京橋より新橋迄之間大破多し
筑地小田原町南飯田町元柳原
町此辺潰家大破損多し西本
願寺本堂無事也寺中は多大破有之
尤此辺小屋敷沢山皆々大破土蔵も
潰多し鉄砲洲浜松町東側十間町
松平淡路守様大破之上焼る明石町
潰家多し焼たるも同然なり此辺
にては即死二百八十人計怪我人かぞへ
がたし細川能登守様御屋敷は無事
なり此外大破多し佃島大破損住
吉御宮無事猟師町少々焼る
〇本八丁堀此辺諸々御屋敷町家何
れも大破なり八丁堀組屋敷此辺
少々破損町家は潰家等も有之
茅場町薬師堂無事也此辺川岸
どぞう土蔵皆々大破
   深川辺         四

永代橋渡り南え御船蔵御舟手組
御屋敷破損す夫ゟ相川町木戸際
四軒計両側焼残る南え熊井町冨
吉町諸町中島町北川町辺不残
大潰之上焼るなり黒江丁に而右側角
米屋一軒残る同左り側表通り焼
残り候得共大潰多し西念寺大潰之
上焼る蛤町大島町焼る同所櫓
下一之鳥居仲町山本町永代寺表門
角まで焼る是迄皆々大潰之上出火
に而即死五百三十人計怪我人算へ難
し同所永堀町辺一色町辺清住町
代地辺何れも皆々大潰なり
△正八幡宮御宮無事石の鳥居は大破
時の鐘別而大破社内諸社皆々大破
同所同門前町潰家尤多し洲崎弁
天社内無事同所町家は大破損なり
三十三間堂大破木置場いつれも大
大破同所入船町辺潰家多し西の
方へ松平越中守様榊原様松平阿波守
様此辺火災は無之候得共怪我人沢山
有之同所黒江丁さか町代地辺余程
焼る也同所本所石原代地より同平野町
添地此辺少し焼る尤潰家甚多し即死
此間々百四十人計怪我人数不知同所東の方
六万坪より砂村毛利新田是ゟ東の方
大破潰家算に遑【いとま】なし同所寺町通諸
宗寺院大破損潰も多し浄心寺本堂
無事也寺中并表門中門此余は不残
大潰表門前題目石倒れる同霊岸

寺本堂無事表門は大破潰る寺内
不残大破同所本誓寺大破夫ゟ正
覚寺橋通り万年町一色町三角辺
納屋蔵町屋諸寺院大破潰も多し
即死百七十人計怪我人百三十人計
〇永代より北の方佐賀町万年橋霊
雲院海辺大工町辺伊勢崎町木置場
此辺潰家多し西平野町東平野町立花
様御屋敷夫ゟ南の方小名木川筋辺猿
江辺皆大破損夫より大橋向え渡深川
元町猿子橋迄不残潰る松平遠江守様
御屋敷も同断なり同所御舟蔵無事同
御船蔵前町より出火して同所大仏殿役所
歯がみ権現秋葉宿寺此辺ゟ南の方小
屋敷沢山皆々大破後焼る夫ゟ東の
方え六新堀町あべ川屋ゟ北に而又々出火
南森下町辺え飛火此辺いづれも大潰
之上焼る即死三百人計怪我人数不知此
辺に而土蔵一ヶ所も不残但しあべ川屋土蔵
残る夫ゟやな川町北六間堀町同通りにて
もみ蔵少々焼る同所神明門前町本社
無事井上河内守様御屋敷大破後焼る同
所常盤町辺やける小笠原様御屋敷少し
焼る太田様御屋敷是又少し焼る高橋
際に而焼留るいづれも此辺焼残り町家御
屋敷方潰家多し一ツ目八幡御旅所同所
弁天社本社格別之事なく再幸寺初音
稲荷いづれも此辺破損多し徳右衛門町二
丁潰之上焼るいづれも大崩に大潰之上
之出火故此辺迄之即死弐百三十人計怪

我人百八十人計有之是ゟ東五百羅漢
辺迄いづれも大崩多し
  本所辺
両国橋を渡り南え一ノ橋石垣崩同元町
此辺潰家多し回向院鐘楼堂潰同
所土屋様本田内蔵介様御屋敷大破又
是ゟ東小屋敷は不残大破也相生町松坂
町此辺大潰家多し緑町壱丁目二丁目
焼る三丁目は崩たる計に而焼残る此火
同三丁目角に而焼留る又四丁目五丁目焼
花町に而焼留る是迄即死之数百三十
人計怪我人百四十人計夫ゟ柳原町五
丁かやば町四丁亀戸天神御旅所辺何
れも大崩多し五ツ目渡し場際に而半
町計も焼る亀戸天神橋向ふ是また
半町餘焼る天神御社無事夫ゟ柳
島妙見宮無事天神橋より法恩寺
橋迄小屋敷多く寺院等も大破潰も
多し法恩寺橋際町家少々焼る此間之
即死百二十人計怪我人数不知又両国橋
渡り左りへ藤堂和泉守様御屋敷亀沢
町此辺小屋敷多く御竹蔵は無事夫より
大川通り津軽様御蔵屋敷松前伊豆
守様御屋敷松浦壱岐守様御屋敷此餘
諸大名方御下屋敷不残大破御船役
役所大破最上様御屋敷いづれも大破
夫ゟ石原町荒井町弁天小路辺大
潰之上焼る牛御前御旅所石原町御組
松倉町辺大崩也中の郷松平周防守様

御下屋敷焼る北本所番場町表町辺
此間いづれも大潰之上焼る也本所番場
町多田薬師女夫石南此辺潰家多し
土蔵残所なし業平橋辺組屋敷東橋
向ふ松平越前守様御屋敷細川能登守
様御屋敷瓦町に而瓦焼釜等迄潰れ
此辺不残大崩也是迄之間之即死二
百三十人計怪我人三百人計夫ゟ小梅村
瓦町少し焼る同所水戸様御屋敷常
泉寺門前大破是ゟ東吾妻の森辺
まて大崩なり三圍稲荷御社牛の御
前東え秋葉権現さいしゃう寺興福寺
長命寺いづれも本社本堂は無事隅
田川堤中より破裂泥を吹上る事夥し
此辺桜餅や其外所々潰家多し諏訪
明神白髭明神新梅屋敷寺嶋村蓮
華寺宝泉寺梅若塚木母寺大破此辺
院内茶屋向き潰家多く鐘ヶ渕水
神の森辺大破是ゟ東へ寺島村隅
田村若宮村引舟通辺客神大明神木
下川浄光寺薬師辺是より南へ舟ほり
辺葛西辺柴又かめあり辺二合半領辺
此外所々村々大破損なり
  小石川辺
  牛込辺
小石川御門外水戸様御屋敷青山様御
屋敷小笠原様御屋敷丹後守様豊後
守様御屋敷夫ゟ春木町辺町家大破損
是ゟ冨坂辺伝通院前辺いづれも破損

小石川牛天神辺下諏訪町諏訪明神
辺同所半町計も焼る此辺小屋敷沢
山いづれも大破夫ゟ小日向水道町古
川町辺潰家多し音羽より目白台
辺大塚辺雑司谷辺総じて大破牛
込赤城下改代町辺少し破損同所神
楽坂上此辺少々損ず近辺小屋しき
多くいづれも破損す
残分
〇本町四丁目新道に而中程家数七軒
 計大潰之上焼る
〇堀留町弐丁目に而土蔵一ヶ所焼る
〇板橋宿橋手前大破損なり同しく
 橋向ふは少々破損
〇谷中清水稲荷門前谷中八軒町代
 地此辺少し焼る
     御救小屋場所
      幸橋御門外久保町原
      深川海辺新田
      同 八幡宮境内
      浅草広小路
      上野御山下
     東叡山宮様ゟ御救小屋
      上野御山下原
 即死怪我人之数取敢ず記すが故に 
 其あらましを彰すなり猶委細は
 追加に出すを求め給ふべし是諸人に
 早く安否を知らしめんが為なり

〇施し名前附
【上部】
各々金一分ツゝ町内へ ふか川さが丁
一金二百十三両二分二朱 久任五左衛門
            勢州住宅ニ付
  米七石二斗 店支配人
            床兵衛
 御褒美銀七枚 外 二枚

各々金一分ツゝ丁内え  深川北川丁
一金百七十四両二分   近江屋喜左衛門
 御褒美銀七枚

一けんまへ       同さが丁
一金壱朱ツゝ      みやもと
  丁内其外へ

一けんまへ       同さが丁
一金壱分ツゝ      山屋喜兵衛
  右同断

一けんまへ       同丁
一金壱朱ツゝ      池北屋
  右同断

一けんまへ       同丁
一金壱分ツゝ      こめ勇
  右同断

            同丁
一金壱分ト       川むら
  黒米一斗ツゝ

            深川
一金壱分ト       相川丁某
  弐百文ツゝ

丁内へ
一金壱分ツゝ      深川木ば
寺町三丁へ      万和
一金弐朱ツゝ

出入せんどうへ     同さが丁
一金壱分ツゝ      ちくま
 七日之間
  みそ少々ヅゝ諸人えほどこす

丁内其外        北しんぼり
一金壱朱ト       長しまや
   百文ツゝ

丁内其外        同
一金壱朱ト       北むら
   百文ツゝ

丁内其外        同
一白米五升ツゝ     後藤氏

丁内其外        霊がんじま
一金壱朱ト       まる甚
  白米一升ツゝ

霊がん嶋十八ヶ丁へ   同
一金壱分ツゝ      鹿じま
【下部】
霊がんしま十八ヶ丁一けんまへ  南しんぼり
一白米一斗五升ツゝ       伊さか
 各々五日の間たき出し

一人まへ        南かやば丁
一白米五升ツゝ     永岡儀兵衛
 居廻り町内へ

一人まへ        新右衛門丁
一白米五升ツゝ     川むら
 右同断

一人まへ        日本はし万丁
一白米五升ツゝ     谷口熊五郎
 右同断

一人まへ        同青もの丁
一銭三百文ツゝ     さぬきや久兵衛
 御すくひ小屋へ

一けんまへ
一米三斗五升ツゝ    芝口
  西がはゆらき
  つゝきの町家へ   御屋敷様

一米五斗二升ツゝ
  源介丁へ

丁内へ
一金二朱ツゝ      露月丁
しばゐ丁へ       さかい屋
一金一朱ツゝ

丁内へ
一金二朱ツゝ      同
しばゐ丁え       きねや
一金一朱ツゝ

一けんまへ       かんだ
一金壱分ツゝ      紺屋丁某
  居廻り丁々へ

一人まへ        浅くさ仲丁
一金弐朱ツゝ      酒井屋
  かみなり門御救小屋へ

一人まへ        同
一金弐朱ツゝ      三喜
  右同断

 毎日みそ汁を     こまかた
一四斗に三荷ヅゝ     内田
  御すかひ小屋へ

一人まへ        同みすち丁
一白米五升ツゝ     関氏
  居廻り丁々へ

 雷門御救小屋     馬みち
一入の人々へ髪     かみゆひ
 さかやきほどこし   平五郎

右之外猶追々差加可申候

〔馬渡多蔵書簡〕

謹呈寒冷強御座処御清一
被為渡奉欣喜候当方モ幸皆々
凡全罷在候乍余事御放神可被下候
例之通田中老母之手当金トシテ
拾円丈別紙郵便為替券ヲ以差上候
御落手可被下候客月二十七日之大地震
は貴地方ハ如何アリシナラント懸念之
余り不取敢端書奉差上御様子相
伺置其後風評ニテは今度之地震
ハ東海道最モ強震就中美濃尾張
及当遠江之三ケ国地震ノ中心ニテ他ハ
格別ニアラサルノミナラス中国九州辺ハ僅
ニ微震位トノ事聞及安神仕候追々
新聞紙官報等ニテ御承知之通美濃
尾張之惨状ハ迚モ紙上ノ尽シ得ヘキ
モノニ非ス地震之当日彼地ニアリテ目
撃シタル友人之直話ニ依レハ美濃岐阜
大垣之如キハ震動ト家屋之倒ルヽ事ハ殆
ント同時ノ如クニテ避難之暇ナク彼ノ大垣
才判所検事某ノ一家残ラス死亡ノ如キ又
郡長某ノ家内悉皆圧死之如キ何レモ
避クル暇ナキニ起因スト岐阜市中大
垣市中ハ殆ント九分通尾張モ名古屋
市過半之如ク倒家之有様ハ将碁倒シ
之様ニ候又二十七日以来毎日毎夜数十回
強弱之震動アリ為メニ人民ノ家ニ在ルヲ
稀ニシテ多クハ家外ニ莚ヲ敷キ県官之
尽力ニテ握飯位ニ糊口ヲ過キ居候由天災
トハ乍申気ノ毒千万悚然之次第又
当遠江各地方は東京大坂辺之評判
トテは名古屋同様ノ震害ニ罹リシ如ク
書触ストノ事ニテ東京大坂辺ノ友人其
外ゟ隆ニ訪問之来書ヲ受一々返書スル
ニ閉口スル位ニテ実際は評判ノ如クナラス
浜松市中は一軒モ倒家ナシ尤多少之災害
は免レサルモ死亡者ハ近在ニ少々位アリタル
丈ケ御座候小生ノ室居ハ官舎ニシテ家屋
之構造堅固ナル為メ歟格別之破損ハ無之
只少々ノ器具転破損位ニ御座候併シ当
地方モ二十七日以来毎日毎夜数回ツヽノ
震動は不止昨夜迄ハ時々震動セリ
為メニ数千の人民穏カナラス只此際
之僥倖ハ当時之旅人在ノミ也西行汽車
之全通セサル為メ一時浜松へ停滞之旅客
夥敷旅人宿大繁昌ナリ之ニ次クハ人力
車夫ナリ然ルカ昨夜深更非常之大雨
雷鳴ニテ今朝は晴天トナリ最早震
動モ有之間敷ト迂生ハ推測セリ
右要用まて早々
乍筆末御家内様及田中老母ヘモ宜
敷御鳳声被下度候已上
  十一月五日朝出ス
         馬渡
石丸賢台侍史

書簡案

福寿
蘭を植黄金の
せ話お遠さけて
近も寿命
義務で
養なへ

蘭植テ黄金ノ世話
ヲ遠サケテ近モ寿
命義務デ養ナヘ
 九月十九日
付兼し人も見へねは空
くもる心もはれす
やみのよの月

弥御安全御創業          
             
近来は御尋も不申上御疎遠に存上候
御事業御勤被成候義と御悦申上候惣而は
最早御出佐賀時分と御待申上居候処
御様子も近来は  不承余り
心掛りに付一寸御尋申上度侭御申上義に
御坐候御手捌等に而御心柄義共に而は
無之哉と御尋も申上候而も御無益と思召に
候はんに付時々の御都合承り居候得は安心
仕候に付段々御捌には可有之候得共其
迄之処御都合承り度存罷在候
此段御尋迄早卒御坐候也

近来は御尋も不申上御遠々敷
存上候まつ〳〵御機けんよく御勤成候御事
何ゟも目出度存上候当年は佐賀表
        処々
も地震其外色々之災難計り
に而
御坐候度難儀之御事に御坐候併其御地には
地震も無之由先御安心に而御坐候
昨今只様【只管】品色【品類】高直に相成
          こまり居  
申候扨およし様ゟ御願之筋御坐候由
ニ而御文御送り申上候様御遣ニ付
御廻し申上候義に御坐候
      先は此段
御見廻  御申上候目出度かしく
 

【裏面】
【蔵書ラベル、58-1146、013】

写本 文化十二年九州大風雨流失損亡記並越後大地震之控

文政十二《割書:己 | 丑》二月写
九州大風雨流失損亡記
《割書:幷|》越後大地震之控

文政十一戊子八月九日夜九ツ時より同十日朝五ツ時迄大風雨
肥前国城主鍋島也
松平肥前守様御領分佐賀城
三拾五万七千三拾六石之内
一 水下   田畑四千四百拾丁八反
一 砂下   千六百拾丁壱反
一 潰家   三万三千四百五拾??
一 半潰   一万四千五百?拾五軒

一 焼失家   千四百七拾三軒
一 死人    八千五百五拾人
一 牛馬    七百五拾三疋
一 橋落    弐百五拾ヶ所
一 山抜    弐千八百弐拾八ヶ所
一 倒木 但し往来筋斗 三拾弐万二百廿八本
一 破船    百ト五艘
一 堤切抜   弐百九拾弐ヶ所
但し間数にして壱万弐百七拾五間
外に深堀と申在所遠き故
未調方不行届候故しらす
肥前大村城主
大村上総介様御領分
弐万七千九百七十石之内
一 潰家   三千家余り
一 半潰   千七百弐十軒
一 死人   三千百七拾人

一 怪我人   千九拾五人
肥前長崎幷在々へ入て
一 潰家   弐千弐百八拾軒
一 半潰   千四拾九軒
一 死人   四拾五人
一 怪我人  百ト三人
一 破船   弐百八拾□艘
一 石垣   四百五拾八間
一 焼失家  八十六軒
一 阿蘭院【朱筆で陀の加筆】屋敷 丸潰
   右同所五間に十三間土蔵之内
   砂糖壱万斤余入有之所
   皆々海中へ吹流申候
一 阿蘭院【朱筆で陀の加筆】船《割書:稲佐と申村へ吹|上未た引下り不申候》

一 唐船二艘《割書:同村之磯へ打上け|田畑も出来不申挽し申候】

一 焼失家   三百拾八軒
一 山抜    三十壱ヶ所
一 水下田畑  千弐百石余
一 破船    千九百廿壱艘
   但瀬戸島呼子ノ際迄
筑後国柳河城主
立花左近将監様御領分
十一万九千六百石之内
一 新田    六百石塩入□□
一 死人    三千人余り
一 潰家    二千六百三拾軒
一 怪我人   千八百人余り
    其外牛馬倒木未タ調
    方不行届候
筑後国久留米城
有馬玄蕃守【朱筆で玄蕃の補筆】様御領分
廿一万石之内
一 潰家    壱万七拾九軒
一 城下焼失  弐百三拾余

一 同在々ニ而 弐百七拾軒
一 死人    弐百九人
一 怪我人   五百六拾三人
     其外石垣倒木牛馬橋落ノ儀ハ未タ
     調方行不届事外ニ当七月洪水ニ而
     七百石余り流失仕候
筑前国福岡城主
松平備前守様御領分黒田也
五拾弐万石余之内
一 潰家    弐万弐千拾八軒
一 半潰    壱万七千百三拾壱軒
一 死人    弐千三百五拾三人
一 破船    四百廿船余
一 怪我人【朱筆で怪の補筆】 三千四百廿人
一 福岡御殿  丸潰
一 二ノ丸□【矢か】倉【朱筆で倉の補筆】 半潰
     幷二
   筑前国中之木之儀は何万数とも相分不申
豊前彦山権現本社大破

   神殿之扉豊前之国間の嶋迄吹さらし候事誠に
   実正也
   則間の嶋之物大戸開持参致彦山へ相納候事但し
   豊前之国間の嶋迄里数廿七り余之地也
   外に
   座主客殿は百畳計りの間吹さらし其外坊中
   大損立木倒之事数は不相知
 豊前国小倉城主
  小笠原大膳太夫様御領分
   拾五万石城下計り
一  御城廻り  半潰
一  潰家    三百拾八軒
一  死人    五拾三人
一  怪我人   百三人
一  破船    拾弐艘
    其外遠近在々未た調方行不届事
  長州下ノ関計り
一  破船    九百三拾九 艘(ソウ)
一  死人    六拾五人
一  潰倒石垣 并 土蔵塀等

  不残潰流失□岡倒半潰惣数四百拾弐軒
右之通九月廿五日出之書状を以□田表ゟ
申来る事実正也
  同年十一月十二日朝五ッ時ゟ大地震
越後国
 長岡様御領分
  弐万石之場所
        上組
一  潰家      拾五軒
   半潰      弐拾軒
   死人      弐人
        北組
一  潰家      千九拾六軒
一  半潰      四百廿三軒    
   死人      百八拾三人
   怪我人     百廿七人
        栃尾


  壱万石
一  和田御蔵      丸潰
一  潰家        三拾七軒
一  門□方       四軒
一  死人        百九十人
一  馬         五疋
一  怪我人       百六拾弐人
      河根川組
一  御蔵        丸潰
一  御家        弐百廿壱軒
一  半潰        百五拾四軒
一  死人        三拾壱人
一 堀丹波守様御領分
  三万石内
   見附三組壱万石
一  潰家        千弐拾三軒

一   潰焼    百五拾五軒
一   半潰    百七拾三軒
一   破損    五百三拾弐軒
  〆  千八百八拾三軒也
一   即死    二百廿七人
    穢我人   二百廿壱人
      下田三組□□

某消息

 なを〳〵めて度
       かしく
態度御聞候を見
      申上候
御機嫌克めて度
      よし
御申文候また〳〵
       地しん
いたしま事ニおとろき
入候事ニ御さ候右に付
障り候も御致し不申やと
御尋被成候得とも
       かくへつ
障り候事も御さ無
       之由候
御世話とも被成申し候も
御ゆる〳〵被成へく候
      めて度
        かしく

縫之助殿   □【母か】 
  御返事

【裏面】
【蔵書ラベル、58-1644、012.9】

地震二付被災等箇条書

一去二日夜四ツ時過
 只一震ニ而諸所
 相潰候由又は二震
 目ニ潰候共又は昼之
 内一篇【遍】震候共申候
【付札】
「十月二日夜四時比震出懸
 直ニ相潰跡震は短有之候」
一外御長屋は潰レ不申
 候共又は御家老長や
 より表御門殿付迄
 扨又北之方東西
 之御長屋潰候共申候
【付札】
「御家老長屋ゟ表御門脇迄
 護摩堂ゟ北折廻シ元御住
 居御門跡長屋迄潰南長屋ハ
 御留主居小屋ゟ西ノ分下屋潰
 本長屋ハ所々屋根大崩落内
 長屋ハ都而相潰申候表御門護
 摩堂御門ハ残ル」
一御殿向は一切潰レ
 不申候由併久保
 文才ハ其夜当番
 中ニ而御家下ニ被相成
 候共申候又は文才
 元春見栄抔も利左衛門
 病気ニ付同人小屋へ
 被参居候共申候
【付札】
「御式台御書院御居間辺迄ハ
 潰不申西御殿扨又北御殿之
 内御玄関ゟ南役所向等は都而
 相潰申候久保文才ニハ泊番ニ而
 右崩下ニ相成被申候外之医師も
 利左衛門小屋ニハ参り居不申候尤同人
 倅大九郎実松郁一郎ニハ看病方
 ニ而同居崩下ニ相成被申候」
一御前様ニは田安ゟ
 御駕籠迄も差揃
 御迎参候共又ハ老女
 駕籠ゟ御立退被
 為在候共申候惣而女中
 向は一切怪我無之候哉
【付札】
「田安ゟ鋲打駕籠御迎ニ参候付
 右ニ被為 召高砂御門ゟ御立退
 半蔵御門内土居崩有之候故九段
 坂へ御廻り田安へ被為 入御供御用人一人
 野田其外御附之人々佐藤私ニも
 御供相勤翌三日昼比罷帰候
  御附之人々ハ詰有之候」
【付札】
「女中ハ壱人も怪我無之候」
一何れ之小屋辺ゟ火
 相発候哉
【付札】
「隣御屋敷内長屋ゟ相発北風ニ而此
 御方御子屋辺へ火ノ見倒懸り此御方
 八天社南内長屋辺ゟも一同燃出候由」
一怪我人御老人其外
 共四五人の内ニは定而
 重疵之人々も可
 有之誰々ニ候哉
【付札】
「別紙ニ頭書仕置候」
一長州様御屋敷火之見
 其外焼失之届右は
 定而彼ノ御方自火ニ
【付札は次ページ】

【前と重複部分は略】
 可有之どふか御留主居
 ゟ御留主居ニ懸合も
 為有之由
【付札】
「長州御留守居被参志波殿請之上
 此節之義ハ地震之上出火焼失と
 御届可仕旨懇請有之候由勿論
 公辺ゟも火急之御穿鑿無之類火
 之御沙汰而已ニ有之候」
一大和様三沢様望ノ
 木屋敷辺りハ格別
 之義も無之候哉
【付札】
「いつれの御屋敷も外開等少々
 相損御殿向ハ格別之義無之候
 龍土広尾赤坂も先ハ御
 無難之由尤となたもねり
 塀等ハ皆崩申候」

【裏面】
【蔵書ラベル、59-2495、515】

某書簡案

       先皆様御無事ニ
驚入申候皆々様御障りも安心仕候
   「地震」震ニ付
昨日は地「振」御尋被下
       御見廻と御坐候而
   「誠に」「近来」まれ成ゆりニ御坐候
態と御出被下別而忝御礼厚ク
   扨 「頃日」
申上候其節は植木差上置候御礼
           「御挨拶」
と御坐候而何ゟ之御菓子御恵「投」
         「□」
   是又厚御礼申上義也  
被下「亦」余り「御念」之入候義厚々
                申上義ニ
「御坐候」皆様先々御無事之事
           安心仕候
         も
「然処」又々今日「は」ゆり申
            鳥渡
こまり入候事共ニ御坐候「寸楮」
 □ 御様子
□御礼御見廻旁辻申上候
   皆様御様子伺旁祝志
申上候可祝

昨日は地震御見廻と御坐候而
        別而忝存上
態と御出被下候由「其節私」
其御方ニも御無事ニ先々安心
「一寸外出致居御無礼申上候」
申上候
扨植木上置候処右御礼として
御恵被下
何ゟ之御菓子其より是又
厚御礼申上候先々皆々様にも
御無事ニ安心仕候又々今日も
地震致こまり入候義ニ御坐候

【裏面】
【蔵書ラベル、58-2122、013】

〔山元荘兵衛書翰〕

一筆啓上仕候従求方衆当十五日
御認之貴札同廿六日相届忝拝見仕候
薄暑之砌弥御壮栄其御元迄
御出張之由珎重奉賀寿候随而私事
三月始より日州表へ御家老衆并
御用人衆其外山床迄も御見分
有之前以出張仕居頃日帰郷
無異儀罷在候間乍憚御平慮
可被下然は御注文白炭船賦
迄も御免許相成旧冬為念
御掛合も申上置其砌船々
大坂え罷登居帰帆次第年末ゟ
早春追々赤江積出之手当ニ
御座候処無存掛変事
到来之訳は地震津波ニ而

大痛ニ相成於上方右修甫等ニ
滞船殊之外隙取別船之儀も
大坂表ニ而同断之事ニ付日州船
此方賦之内弐艘え御軍役之大成
荷物鹿児島廻り押而御留主居衆ゟ
被申付右通大混雑案外之
次第ニ而適御約定之白炭
及間違候而は無申訳別而心配仕
精々手ヲ付最早先達而
三艘は赤江出帆疾と佐賀え
着岸候半哉又三艘も当月末
来月始之間ニ赤江出帆可仕様
旧冬御掛合申上候員数より
今弐千四五百俵は相重候段
今朝高岡勘場ゟ申遣候
右通之船繰ニ而長兵衛等も
赤江跡船出帆見届罷帰り
肥前之港可罷越段も申越候間
貴公様ニも此度は当所迄

御越ニ不及早々御帰国
ニ而御待入可被下候尤船々
早仕舞ニ而出水川内え
直ニ致廻船候様其末江戸
御用船欠キ候事ニ御坐候間
船頭共へ聢と御申達可被下候
是迄延引右成為御坐候間
御役筋えも不都合不相成様
清左衛門様被仰談御申上置
         可被下候
左候而此度一仕切相済候末
秋分此御役筋船賦規定
無之内ニ貴公様ニテ今一往
当所へ御越ニ而何とか御申出
相成候は決而御都合可宜哉と
致愚案候御返書飛脚
可差立之処得田氏え岡部ゟ
便宜承り右え相頼取込ニまかせ
麁筆ヲ以荒増如此御座候
尚期後音之時候謹言
   従鹿児島
卯四月廿九日認 山元荘兵衛
求方旅宿ニ而
石丸善助様

二白小出御氏え別紙不行居候条宜御伝上
奉希候扨先度日州山床切場ニ而
産物不残御見分之節灰印
之事役頭ゟ御尋候ニ付私間ニ合
ぼや〳〵と能キニ当座申取置候各様モ
粗御聞通之事ニ而御役筋向違之
事候へとも今なりニ而は尾之字ニなり
不申候間久米様え被仰上如何様ニも
其御吟味次第迚御内談可被遂ニ而も
只今ニ而は其事炭などニ少も相障
付候模様も不相見得御坐候是も右ニ而も
左ニ而も尾なり申候は何事も
御都合可宜哉余計之事なから
御両君之決段可然様奉希候
善助様御注文品当春迄は爰元出方
払底ニ付態々琉球へ致注文置
申候ニ付六月中ニは無間違
当所え相届可申候様夫ゟ仕送り之
都合も可仕候是も延引相成気之毒
奉存候へとも不遠相伺可申候様
御承知可被下候下物之処ハいつニ而も
少々は御坐候へとも是はさし上
             頓首

【山元は日向にあった鹿児島藩の林業拠点の責任者。石丸は佐賀藩の反射炉用白炭の調達責任者。白炭生産は島津斉彬の重点施策】
 

御江戸大地震大破并出火類焼場等書上之写

【蔵書の分類印が押してある半透明な紙から表紙=2コマ目参照=が透けて見えていると思われるが、現物を見なければ断定はできない】

(表紙)

(朱印)
『再々改』
安政二卯十月二日
 御江戸大地震大破
  幷出火類焼場等書上之写
(朱印)
『年代記抜書
 地震之部加之』
      要石堂施板」

安政二卯年十月二日夜亥ノ刻頃、東南之方ゟ大地震ゆり出し、江戸四里四方大破ニ
成、諸〻ゟ出火もへ出し、怪我人・死亡人筆紙ニ尽しがたし、然ル処其夜、町御会所ゟ窮
民え御救飯被下置候ニ付、存命之者ハうへ不申候事、誠以泰平之御仁恵、難有事也、
猶亦窮民・無住ニ相成候者、御救小屋御建被下、日〻三度之喰物被下候場所左ニ印、
  幸橋御門外  浅草雷門前  深川海辺新田
《割書:新吉原町|山谷田町辺》新吉原江戸一丁目・二丁目、京丁一丁目・二丁目、角丁壱丁目・二丁目、揚屋丁、伏見丁
惣じて仲の丁より四方郭中残る所なく類焼にて、大門外御高札幷ニ同じかハの分残り、右カハ残らすやける、日本堤にて往来の地さけたり、郭中におひて土蔵一ケ所も
残りなくゆり潰し、其上に火事なるゆへ、けが人・死亡の者かぞへ尽しがたし、夫
より田丁にて出火して、同所壱丁目袖すりいなり、土手下あミがさ茶や北の方
少し残り候へ共、大形つぶれ家と相成申候、同所西の方谷中にて天王寺門前ニテ
山川丁馬頭くわんオン・西方寺と二ケ寺ハのこる▲同所南方馬路どふりより北しん町
やけ込、遍照いん、其向ふ猿若丁三丁目かハらさき、二丁目市村、壱丁目中むら、右三座
の前後がくや役者しん道共やける、但シ三丁目森田かん弥宅より北の方のこる、夫より
薮の内ゆりつぶれ・火災等にて残る所少し、同所東の方山の宿九品寺より向
うハのこる、南へ花川戸丁戸沢長屋七分やけて止り、同所馬道西がハの分▲吉祥
院・徳応院・延命いん・誠心いん・無動院・教善いん、北馬道迄、同所南馬道ハ曲り角迄、
やける▲同所馬道東かハの分善龍院・泉陵いん・泉蔵いん・修善院・妙徳院・医王いん・
まんだら堂・金剛いん・覚善いん・法善いん・妙音院・顕松院、右の分にいろは長屋多
くあり、皆やける、同所一の権現やける、同所慈性いんにて焼止る▲浅草寺境内の
分奥山の諸宮等何れも破損いたし、同寺内にて正智いん・長寿いん・勝蔵いん・
寿命いん・正福いん・智光いん、同く梅園いん・実相いん・松寿いん・金蔵いん・観知いん・

日音いん、此分裏にいろは長屋あり、いつれも大破也▲観音本堂・山門・鐘楼・
随身門・雷神門・三社念仏堂此分無事也、五重の塔くりん少し曲る、東橋
川付の方にてハ北方山谷ほり迄焼残り候へ共、潰家最多し、右の内待ち山
無事也▲同所山谷はしより北の方、今戸はしきハ半丁計やける、同所銭ざ前
後ハ焼失・潰家等甚多し▲同所ゑた丁のこる▲同所遍照寺のならび総泉寺ゟ
真﨑いなり迄、大破の家多く、川口と柳屋と云れうりやハ無事也、同所山谷丁・
浅草丁、同くつゝき中村丁・小塚原丁・千住宿大橋迄大破の家多し、又千住ニて
しょう焼失在之、此分追加に出すへし
(白抜き文字)「浅草辺」浅草本願寺の分、本堂無異、寺中教覚寺・専勝寺・玉泉寺・証
願寺・円照寺・法ゆう寺・雲行寺・来応寺・光円寺、其外大破損、同所誓願
寺門前丁潰家多し、日輪寺門前其外此辺潰家多く惣崩にて、町〻
分りがたく候、菊屋ばし向行安寺門前丁半丁やける、同所西向がハ新堀はし迄
一丁余やける、同あへ川丁近辺潰家多し▲こまか形丁左りがハ初冨士と申れう
りや手前角より両かハ不残やける、此へん土蔵一ケ所も残所なし、すハ丁両かハ
焼ける、黒舟丁同断、同所しつくひや土蔵のこり、同所角米問屋半のこる、三好
丁川岸の方のこる、同所南御馬屋は岸にて止る、蔵前通り無異、
(白抜き文字)「下谷辺」下谷七軒丁よりやけ、同所南方備後・出雲両家大破、同所大正寺・
光生寺・心行寺迄、同向出雲様上やしきや焼、但し七軒丁向かハにて霊雲寺
下やしきゟ南方町家・休昌寺・忠綱寺・小宮・川俣・朝比奈、其となり妙顕寺・正
慶寺・東渕寺やける、喜連川半やける、同所南方かや丁二丁目、其向称仰寺・無安
寺、同東方教証寺やけ、此所にて止る、かや丁一丁目中ほとより二丁目の分也、下谷
坂本一丁目より三丁目迄不残やける、同所北方金杉・ミのわ・根岸御行松辺潰

家甚多し、同南東方東えい山下車坂・はんすう院門前丁・切手丁・山ざき丁、此
辺やき、寺院共大破多し、上野広小路六あミだのこり、同上野丁一丁目不残やける、
二丁目過半やける、徳大寺・一乗いん、同所南方北大門丁・下谷同朋丁一丁目・二丁目・上の黒門丁、
同御家来やき、同朋丁拝領やき、井上ちくご守様長屋・御てん共潰る、石川とのも様
南方少やける、黒田豊前守様表長屋やけ、此所にて止ル、同所大関信濃守様無事、下
谷長者町一丁目・二丁目・同三丁目代地・同二丁目残地・上野南大門丁・下谷車坂丁・同家来
やき、中御徒士丁高野と申家ゟ南え六丁計やける、同所西方へ廻り、辻元と云医師
やけ、同向五六軒やける、同所西北方湯しま・本郷、加州様・備後守様少〻破損、夫より
駒込・白山・すかも辺迄破損有之▲小石川御門内さぬき様・するが様、同御門外水戸様・青山様・
丹後様・小笠原様・豊後様大破、牛込は赤城下・改代丁・小日向水道丁・古川丁近辺潰家甚
多し、音羽より目白台・ぞうしかや、東方大つか、此へん大破無之候△市ケ谷御門外
尾州様小破損、かうし丁・飯田丁・ばん丁・四ツ谷・新宿、此辺淀はし辺大破▲赤坂御門外
紀州様小破損、同てんま丁・さめかはし・桐はたけ・寺□しゟ赤はね川筋迄大はそん、目
黒・ひろを・白かね代丁・高輪・品川・同北方札の辻、此辺四方少々破損ニて、委くハ後篇ニ出之
【白抜き文字】「芝辺」染井町両かハ共やける、宇田川丁、三島丁・神明丁、此分潰家多、土蔵残所なし、
同神明無事、同増上寺地中北方の分少破損、土□少〻破損在之▲同所ゟ南方金
杉・札の辻迄格別大破無之、同所方ニて桜田兼房丁自身番より同所南松平兵部
表長屋迄やけ、同西方伏見丁・かぢ丁、くぼ丁・太左衛門丁・びぜん丁・いなバ丁・いつミ丁・喜右衛門
丁、此辺潰家尤多し▲同西南方あたこ下・西のくほ・いゝくら・麻布市へへ丁・六本木
辺大破無之
【白抜き文字】「《割書:永田町|外桜田》辺」半蔵御門外御大名諸屋敷・町屋共少々破損▲南方外さくら田・赤坂
御門内三べざか・山王社無事、かすミが関・虎の門・新しばし迄破損、東方幸橋御門

内松平甲斐守様・伊東修理大夫様やける、南部美濃守様やける、薩州せうぞく
やき、南方少やける▲山下御門内・ひゞや御門外少破損
【白抜き文字】「丸の内辺」和田倉御門内大番所・同所松平肥後守様中やしき共やける、同所腰掛やける、同
南松平下総守様やける▲すきやばしゟ呉服ばし内大名小路ノ前後御大名少〻破
多し▲辰の口向森川出羽守様・酒井うたの頭様中やしき・同上やしきやける▲常盤
ばし・きじ橋御門少破損▲田安様・清水様無事《割書:遠藤但馬守|本多中務大輔》やける
【白抜き文字】「小川町辺」一橋御門外ごぢいんの原松平豊前守様・本郷丹後守様共にやける、其外小
やしき五六軒やける、小石川御門内よりするが台・小川丁筋、筋違御門迄少〻破損▲外神田
さミせんぼり七曲・泉ばし・新し橋・浅草御門・柳橋少〻破損、同所北方御蔵前より
御馬やがし迄無事▲すじかい御門内すだ丁ゟ今川橋・日本橋迄家・蔵の破損多
く、火災無之
【白抜き文字】「日本橋辺」日本橋ゟ中橋迄、家・蔵大破▲中橋、南てんま丁二丁目横南かぢ丁より狩
野しん道・五郎兵衛丁・畳丁・北こんや丁・白魚やしき・同東方鈴木丁・いなば丁・ときわ丁
太田やしき・柳丁・ぐそく丁・炭丁・本材木丁八丁目河岸迄やける、土蔵此間に少残る
【白抜き文字】「京橋辺」京ばしゟ新橋迄御屋敷・町屋共大破▲築地、小田原丁・南飯田丁・元
柳原丁、此辺大破・潰家尤多し▲西本願寺本堂無事、寺中数軒大破、此辺
御やしき大破・土蔵潰多し▲鉄砲洲・十間丁・松平淡路守様やける、明石丁潰家
甚多し、又亦松丁・細川能登守様無事、其外大破多し▲佃嶋大破損▲本八丁堀ゟ
北方大通り、八丁堀組やしき、亦かやハ丁・薬師堂無事、四方町屋所〻大破・潰家・破損等多し
【白抜き文字】「霊岸嶋辺」霊岸島拾丁、四日市丁・白銀丁・大川はた丁・南しんぼり、川岸限やける、松平
越前守様中やしき残る、其余ミなと丁・長さき丁大破▲同所北の方、北しん堀・久世様・
伊豆様・土井様小〻破損、田安様無事、其外大破▲行徳かし・小あミ丁・どうかん

ぼり酒井様・本田様・林様・紀州様・三河様・井上河内様・堀出雲守様、此へんのやしき
幷ニ銀座甚左衛門丁ゟ人形丁通・はたご丁通り迄大破そん、同向にて小舟丁・堀江丁・
本舟丁・せと物丁、此辺不残大破▲北方大川ばたにて安藤様・新庄様・すがぬま菅沼様大破、
同裏通り秋元様・牧野遠江守様・永井肥前守様、此四方大川ばたゟ横山丁迄大破
【白抜き文字】「今川橋辺」日本橋北、本丁・今川橋迄大破、十けん店・東方石丁通・大てんま丁・小てん
ま丁・はたご丁・油丁・ばくろふ丁・横山丁・両国ひろ小路・柳原の土手迄大破▲同所郡
代やしき・としま丁・細川玄蕃頭様・弁慶ばし・お玉ケ池・市橋下総様・小柳丁・もミぐら・
すた丁の通り迄大破損、土蔵多く大破▲同所西方、すじかい御門内にて青山下野
守様・酒井様・土井能登守様・松平左衛門様・稲葉丹後守様・土屋うねめ様・戸田竹次郎様・内藤駿河守様・堀田備中守様・伊東若狭守様・柳原式部様・本多伊予守
様・本田豊前守様・御勘定奉行・三河丁迄、此四方御やしき・町家共大破、悉記がたし
【白抜き文字】「深川辺」永代橋わたり、相川丁御舟手組破損、同所木戸きハ二軒の方、南
方熊井丁やける、正源寺やける、とミよし丁・諸丁・中島丁・北川丁・黒江丁右かハ半丁残る、つゝき蛤
丁・大島丁・西念寺やける、一の鳥居・永代寺門前山本丁・仲丁右かハ・永代寺表門角にて焼止ル、同
左かハ半丁手前にて止ル、八幡宮無事、右の鳥居二ケ所大破、社内多くはそん、同門前丁潰
家多し、三十三間堂大破、木場何れも大破、同東入ふね舟丁潰家多し、すさき弁天
社内無事、但し茶屋等破損、木置場大破、同南西方阿州様・越中様・榊原様・瑞雲
寺ハ少破そん、此辺火災ハなし、同所黒江丁・さる丁代地、凡一丁四方やける、同所本所石原
丁代地より平の丁添地、一丁計やける、此辺潰家多し、同所東方六万坪ゟ毛利新田・
砂村、猶この東方がく四方共大破、潰家数しれず▲同寺町通り、諸宗寺院大破損、
淨心寺本堂大破、寺内三ケ寺幷中門・表門・手水舎共潰、同表口題目石倒れる、
同霊かん寺表門倒、本堂・寺内共大破、同所本誓寺大破損、夫より正覚寺橋通り

万年丁・一色丁大崩・三角、此所納屋・蔵・町家・諸寺院多く潰▲永代橋左の方さか丁・万年
ばし・霊雲いん・海辺大工丁・いせ崎丁・木場、此へん潰家多し、平の丁東西・立花様大破、
同西方奥川丁・円速寺・万徳院大破損▲南方小名木川筋猿江辺、此所の四方大破、いふ
計なし▲大橋をわたり右へ深川元町・松平遠江守様下やしき・さるこ橋迄悉潰る、同
大橋ゟ左方木下図書潰、あたけ御舟蔵無事、同所一ツ目弁天大破損、同所八まん
旅所・同所再幸寺・初音いなり、此辺多く崩、同所御舟蔵前丁ゟ出火、同所大仏殿役所・
とがミごんけん・秋葉宿寺、此南方小やしき多く破損の後やける、同所東方六軒堀あへ川屋
より半丁北にて出火、南森下飛火、此辺大崩、焼地在之▲八名川丁・北六間堀丁・同通り
もみぐら少やける、同所神明門前丁、本社残り、此辺一面やける、井上河内守様やける、常盤丁よりやけ出し、
小笠原様やける、太田様表長家少やける、高橋きハにて止る、此四方やけ残、町〻・御屋敷潰家甚多し、弥勒
寺表門潰、同所要律寺・慶長寺共大破、いよはし橋通り東方徳右衛門丁二丁目・三丁目辺やける、近辺何れも大崩
【白抜き文字】「本所辺」両国ばし右方一のはし石垣崩、同元丁回向院鐘楼堂潰、同所本多
内臓介大破、相生丁一丁目ゟ五丁目迄大崩、同ミとり丁一丁目二丁目迄やける、三丁目角にて
止る、同四丁目五丁目・花丁、しゆ木橋際迄やける、津軽様大破、同北方柳原丁五丁・かやは丁
四丁・亀戸天神旅宿・本所瓦丁・松代丁四丁目・中の郷五橋丁迄悉大崩、土蔵残所なし
▲本所五ツ目渡場際、十軒計焼けて消る▲亀戸天神・ふもん院・光明寺・萩寺・光蔵寺・長寿寺・阿部長徳寺・亀戸丁・柳島丁・法性寺・妙見宮・常照寺・押上村・最教寺・大雲寺・
徳生寺・永泉寺・全性寺・春慶寺・報恩寺橋通り霊山寺・本法寺・大法寺・真盛寺・
南本所出村丁・北割下水・南割下水、此へん小屋敷多潰、土蔵数ケ所崩▲大川通藤堂
和泉守様中やしき・同所津軽様蔵やしき大破、松前伊豆守様・御竹藏無事、駒止石の通り
松浦壱岐守様・同所御大名下やしき最上様・石原町願雲寺・御舟改役所・御馬屋河岸通り迄
大破、土蔵残る処なし▲本所石原丁半丁やける、同所向井将監様・徳山様・牛御前旅所・石原町

御組・あらい丁・松倉丁、此分大崩▲同所中の郷表丁半丁計やける、北本所番場丁・南本所番場
丁・原庭丁・多田薬師・女夫石、此辺悉潰残る所少し、同所東なり平橋・南蔵院・延命寺・北条新蔵様、此辺
粗やき、同断吾妻橋渡り、細川能登守様・松平越前守様下・竹腰兵部様下・尾丁尾やき、釜等迄潰、此外
大破、土蔵多く崩れ、悉算がたし▲同小梅村・尾町小ぐら庵と云れうりややける、近辺類焼、同所水戸殿下
やしき・同所日蓮宗常泉寺・門前吾妻森・西方三囲りいなり・牛御前・長命寺、すミだ川堤さけ・割、地中泥
を吹出ス事おびたゞし、同所桜もち其外所〻潰家甚多し、同黄檗宗牛頭山弘ぶく寺地内悉潰、すハ明神・
白ひけ明神梅やき、宝泉寺・木母寺・梅若塚等大破、院内茶屋潰家多く、同かねケ淵水神ノ森大破、夫ゟ東方すた
村・寺島村・若宮村・引舟通客神大明神・木下川淨光寺薬師・同南舟堀・葛西、西柴又・かめあり・二合半領、此外村〻大破、中川御番所前向共大崩
残分
〇小川町堀田様・戸田様・高家戸田様・小やしき少〻やける、近辺大破
〇小石川牛天神下すハ丁すハ明神大破・同所半丁計やける、同江戸川筋潰家多し
一 御屋敷潰・焼共二万四千二百六十三軒 一 町数同三
千七百八十七丁 一 死人二十一万七千三百八十余人
一 寺院一万六千三百五十二ケ寺
【9コマ左頁は過去の大地震一覧。縦4分割、横8分割計32マス。それぞれ発生年を見出しに地震の内容を記す。末尾の年は安政2年までの年数=10コマの注参照】
【右端列1マス目】白鳳五 土佐国田地五十余石たちまち海となる 千百八十年
【同2マス目】同六 伊豆国え大島できる 千百七十九年
【同3マス目】同十一 風なくして神社仏閣崩 千百七十四年
【同4マス目】同十二 天下大ぢしん、人馬多く死ス 千百七十三年
【第2列1マス目】慶雲四 六月天下大地震 千百五十七年
【同2マス目】天平六 四月天下大ぢしん 千百五十一年
【同3マス目】同十七 天下大ぢしん、月をこへてやまず 千百四十年
【同4マス目】勝宝五 摂州大つなミ 千百三十四年
【第3列1マス目】延暦十八 ふじ山やける、其音が雷 千八十八年
【同2マス目】天長四 諸国大ぢしん 千六十一年
【同3マス目】貞観六 五月ふじ山やけて三十里程人家崩 千二十年
【同4マス目】同十一 奥州大ぢしん 千十五年
【第4列1マス目】元慶二 関東大ぢしん 千十一年
【同2マス目】仁和元 大ぢしん大雷、星下る事雨のごとし 千四年
【同3マス目】延喜十一 正月大地震 九百七十四年
【同4マス目】承平二 九月廿七日大ぢしん 九百五十四年
【第5列1マス目】同五 諸国大地震 九百五十一年
【同2マス目】天慶元 四月十五より廿七日まて大ぢしん 九百二十七年
【同3マス目】長久二 大地震 八百三十九年
【同4マス目】同三 大ぢしん 法成寺塔たをるゝ 八百三十八年
【第6列1マス目】寛治 諸国大ぢしん 七百九十三年
【同2マス目】同六 諸国大つなミ 七百八十七年
【同3マス目】建保元 和田かつせん、大ぢしん 六百七十七年
【同4マス目】正嘉元 大ぢしん、みぶ寺やける 六百二十二年
【第7列1マス目】乾元 大嵐、大つなミ 五百七十七年
【同2マス目】元弘 大ぢしん 五百二十一年
【同3マス目】延文五 大ぢしん 四百九十七年
【同4マス目】天授三 諸国山〻崩る 四百八十二年
【第8列1マス目】応永十三 大ぢしん 四百五十一年
【同2マス目】文安五 大ぢしん 四百九年
【同3マス目】宝徳 度〻大ぢしん 四百八年
【同4マス目】文明七 津の国大つなミ 三百八十三年
【10コマに続く】

【10コマ最初は9コマ左頁に続き過去の大地震一覧。縦4分割、4列計16マス。それぞれ発生年を見出しに地震の内容を記す。末尾の年は安政2年までの年数=注参照】
【右端列1マス目】明応三 大ぢしん 三百六十三年
【同2マス目】永正七 遠州別て大ぢしん 三百四十六年
【同3マス目】天正十七 駿遠大ぢしん 二百六十六年
【同4マス目】慶長二 京大坂ぢしん 二百五十九年
【第2列1マス目】同十八 諸国大ぢしん 二百四十三年
【同2マス目】寛永四 正月、関東大ぢしん 二百廿九年
【同3マス目】寛文元 諸国大ぢしん 百九十五年
【同4マス目】天和三 日光山大ぢしん 百七十三年
【第3列1マス目】元禄十五 宝永山出げん、関東大ぢしん 百五十三年
【同2マス目】宝永四 十月五畿内大ぢしん 百十九年
【同3マス目】文化元 六月四日より七日まて出羽大ぢしん 五十二年
【同4マス目】同九 関東大ぢしん 四十四年
【第4最終列1マス目】天保元 七月二日京都大ぢしん 二十六年
【同2マス目】弘化四 善光寺開帳、信州大地震 九年
【同3マス目】嘉永六 相州小田原大ぢしん 三年
【同4マス目】同七 豆州下田大つなミ
【大地震一覧表の注】右ニ相印年代ハ年号始ヨリ今安政二年迄、天下大地震之年数早クリ也
【10コマ右頁の後半は本文の補遺】
 前書ニ相落し候分、左ニ相印申候
一 カウシ町紀州様表長屋・尾州様西長屋・霞ケ関黒田様北角長屋潰レ、
  四谷新道南半丁程・同所大通り・玉川御上水万年樋大崩レ、往還壱丈余、
  又ハ弐丈余之穴明き候所、す、数万之人部ニテ三日之間ニ相直り候、永田町・
  山王ウラ門前土井様・岡部様表長屋相ツブレ申候
一 御救小屋深川八幡境内 一 下谷山下明地 一 上野宮様ゟ同所山下
【10コマ左頁は死者数まとめ】
一此度大地震之節死亡人、諸寺本山ニテ取調之写
一天台宗   弐万千五百余人
一浄土宗   三万五千七百余人
一古儀真言宗 一万九千五百余人
一新儀真言宗 壱万七千六百余人
一禅臨済宗  一万九千五百余人
一同曹洞宗  七千六百余人

一黄檗宗   七千五百余人
一日蓮宗   九千八百余人
一同勝劣派  五千七百四人
一西本願寺  三万三千九百余人
一東本願寺  三万七千八百余人
一時 宗   三千七百余人
 〆 廿壱万九千八百余人

〔下村〕七右衛門書状

 猶以端書ニは恐多奉存候得共
 御前様ニも去ル七日朝五ツ時頃益
 御機嫌能溜池御屋敷之方
 御帰殿被遊恐悦奉存候已上
先月十四日発之貴翰落手拝見
仕候先以
上様益御機嫌能一昨七日
御着府被遊奉恐悦候貴所様
ニも弥御健剛被成御勤珍重
奉存候偖爰許未曾有大地震
ニ而御屋敷過半相倒候上不残
御焼失之次第徳永伝之助且追々
井上善兵衛ニも廉々御内外被相合
越候処両人共
御旅中迄ニ而引返被申御同役ヨリ
御用状而已ニ而は事実委曲相知
兼候由ニ而細ニ為御知仕候様被示聞
同月二日夜四ツ時頃未寝入不申所
怪敷音相響哉否猛烈ニ下ゟ突上ケ
列【烈】敷急発ニ而是は大地震と存
枕頭之大小相帯候迄ニ而不遑袴着
式台ゟ出可申と間半之廊下壱間程
参候処遠近頭上前後左右一勢
何角(ナニカ)落倒之響実ニ肝を潰其勢
ニ而付明之行灯打消手探ニ而可参致
候所忽前ニ梁様之物落塞一歩も
出来不申右ニ付中庭中門ゟ出可申
立返候得は跡も同様落塞進退
相 迷(マヨヒ)召仕共ニは如何之様子ニ而候哉
呼懸候処遑立出居候様子ニ而声
を聞探参候を綱手ニ〆漸小屋外へ
出見候処表御長屋
御殿過半相倒山下御門向迄
一惣見ニ相成居頓而御馬屋後長州
御屋敷或は東 北(ホク)押廻火之 先(サキ)
相発折節北西之風ニ而御屋敷は
筋違ニ而御無難ニ而可有之相見兎 角(カク)
案外之御大変ニ付
御前様御住居向無覚束奉伺
御安否度小屋道具之儀は召仕え
打委壱人御広式を志罷出候処

【前と重複の部分を省略】
道筋御家御壁塀其外相倒
其上を踏越々々或は下を潜り漸
御用人部屋辺迄罷出候得は右横
左横相倒道筋も相分不申御広式
御式台筋之儀も同様倒塞右ニ付
御門外立出元御住居御門辺ゟ罷出
可申参候処途中不図佐藤久平え
行逢
御前様ニは外御庭之方益御機
嫌能御立退居被遊之由為相知被申
大ニ奉安堵右ニ付外御庭外御開
御壁塀相倒居候所を踏越罷出
候処高砂御門内藤棚之下ニ□【宁か】
被為
居御附女中抔御擁護申上居被申
不慮之御大変とは乍申夜更右之
御為体恐多も無御勿体奉存
去りとは可致 上(アグ)様無之御風ども
御引不被遊様何角御心遣申上然内
早御屋敷え火相移所々燃移其 頃(コロ)
ニ而は朽木御屋敷ゟ引続伊東様
御屋敷辺其外諸方 発(ホツ)火半ハ過
頃(コロ)迄は御広式は御無難ニ而可有之
相見居候得共井水迚は 都(スベ)而家倒込
火消道具も既ニ焼失外ゟ駈付
之火消迚は壱人も無之徒ニ手を束
天(テン)運而已相祈罷在御広式丈相残
候半ハ
御立退ニは相及間敷申合候処 火(クワ)勢
烈敷所より風下ニ而無之処迄延蔓
終ニ御広式ニも燃移然処ニ而は不 暁(アケ)
内何方ニも御立退被遊方ニ而可有之申合
候処溜池御中屋敷は迚も被為
入候様無之小城屋敷は過半相倒
鹿島屋敷ハ当時至而手狭蓮池
屋敷ニ而も可有之哉然処御召輿其外
御行列道具都而及焼失 何(イツレ)と有之

【前と重複の部分を省略】
可然哉十方ニ暮罷在候半【処か】田安ゟ御輿
其外用意御迎参候付御同所御越
被遊候方ニ可有之申合男女御供差立
御不都合無之様ニシテ高砂御門より
御出輿益御機嫌能被遊
御立退奉恐悦候御跡ニ而火勢
弥延張両
御殿御蔵ニ諸御門 発暁(ヨアケ)迄ニ不残
御焼失誠ニ以恐怖不及得失意候
未鎮火不相成内其許御内外え早速
被相合越方可有之御 含(フクメ)書相認
候儀も出来兼伝之助罷越被申候ハヽ
委細見聞前之儀ニ而御含書ニ相及
間敷申合
御前様え奉伺暁前頃ゟ出立罷越
被申其後同六日晩ゟ井上善兵衛え
御報配之儀其外御内外え是又早 追(ヲヒ)
ニシテ相含越宿許え無難之為知寸
楮差越度ハ存候得共色々御事多殊
筆紙墨迄及焼失漸右等之品
致調達候故透と現地見聞之次第
二三行宛相認倅え之書状同十日出
足軽早ニ相托差越置御近親方え
夫々之書状出来兼候ニ付書面之趣
何方ニも宜相達候様相認置候付而は
伝之助善兵衛ニ而下地御承知之上倅え
内状之趣も 追(ヲヒ)々御聞得可被下奉存
居候処両人共
御旅中ゟ引返被申候様其許えは
御旅中ゟ申越可相成と之御事之由ニ而
追々帰府被致然処ゟ委細御紙面
之趣ニ而委細申越候様御尤ニ承知仕候
最早彼方此方ゟ之御一左右ニ而細砕
御聞得ニ相成居可申とは被存候得とも
別紙死亡怪我人且御歩行目附ゟ
其書付差出申候最寄御焼失等之

【前と重複の部分を省略】
諸御屋敷見聞書并近来捧呈
書差上申候少相備候深川本庄且
広小路筋或は吉原辺之咄残り候得共
不取留儀ハ不遑枚 挙(キヨ)候別紙死亡
誠ニ断腸仕候洞雲死体漸八日経
相知野田清右衛門小屋へ参倅通之助ト
碁を打居被申清右衛門ニは脇ゟ見物
致居被申不図大地震ニ付父子共
御蔵倒其上ニ明善堂倒重候上を
踏越立退被申洞雲ニは御蔵之
塀下ニ相成居被申候由御坐候誠ニ一時
之御災害ニ而
御前様御行列道具御膳部類
第一賢崇寺御宝塔
御尊牌
孝台院様御宝塔溜池之方ハ
外御開塀新里御長屋起方修理
両御住居所御内外役之 詰(ツメ)所御長屋
ニ而治切不申丈掘建小屋夜を日ニ
継候而急場之御手当中々一通り之
御事ニ而は無之御賢察可被下儀と
奉存候何角細々得貴意度候得共
別而御事多相任不申先は御受旁
卒筆御見覧可被下候猶期後音候
恐惶謹言
 十一月十一日

【裏面からの画像】

【裏面からの画像】

市佑様    七右衛門

【佐賀藩家老鍋島市佑宛】

増田忠八郎書状

初春中旬本月三日両度之
御懇牘捧領辱奉拝閲候如
尊命逐日和光御座候処倍
御堅勝被成御動履奉拝賀候
然は震災之末御取締就中
后庭向抔は容易ニ転換難相成
御坐候色々
御倡率ゟして綿衣麁服と相変し
右畢竟万事御復古之次第誠ニ
難有御国元ニも御厳粛之条々
追々拝承如尊諭御転福不遠
御事歟唯或説ニ余りニ瑣砕過き
又酷薄ニ近く候得は爾後窒礙【碍】
被行兼候のミならす却而ゆり戻し
崩れ候様之患ひ等は無御坐哉と申
評も御座候得共夫は兎も角も
第一着惟【帷か】邪之御美意モ知り乍恐
感喜之至奉存候扨都下大勢震災
之天戒ゟして転禍為福旨趣之
上書 列侯ニは越前侯御目附ニは大久保
   右近将監等数人小役迄     
之向抔も
御坐候由ニ候得共差立候御更張之詮は
相見へ不申瑣々たる衣服之制式位ニ而
万般は依然たる御模様ニ而殊更海防
向等之処も一向為差義も無御座折々世
評ニ候得は何事も御勘定奉行等中段
之筋ゟ相興り上段之国老辺りハ強而
建議等無之哉ニ承り兎角何も不足観ニ
様ニ御座候き惣而尤可寒心ハ紀州
一橋西城御養続一条時論紛々列侯以
下諸御役人ニ至迄二ツニ割レいまた扇

【重複部分を省略】
之揚り候処は不相分何分天下公論之通ニ
可相成や誠ニ危き次第殊ニ可怪は
列侯始元来公私邪正之処ニは頓着無
御座各其欲る所之利害ニ仍之其向々々
荷担有之やニ風評誠ニ不祥之至是又
衰運之光景歟薩侯等も其内ニ而是ハ
幕府え其御息女を御配偶之趣向
之由右御息女養実の真偽ニ而届と不届との
相違有之由ニ而庶論紛々と御坐候
上天ハ御超然として御関係無御座
御深慮恐伏と申も中々愚之至と奉存候
◯当月初高輪御台場一番二番の所
拝見仕候処望ミ観候ゟ内輪ハ中々壮観
ニ而築造費も余程之御事ニ可有御坐流石
天下之御威光先ツ大略之処囲ひ土居式
の厚サ弐拾間夫ニ準し陣小屋玉薬庫
等厳重ニ御座候尤御備への銅製大銃等ハ
頗麁相之様ニ相見へ御国元ゟ御廻しの鉄
大銃様ニも御坐候得共大体之棋模は先ツ
西洋ニ象り有之尤悉く其法則ニは
叶ひ不申由其折之佃ニ而制造相成り候
スクーネル船六艘右近所ニ御繋相成居
候故是又乗込拝見候処一体簡易厳
重之製ニ而使【便か】船運送等ニ至極便利ニ
可有御座歟勿論魯夷製ニ寸分之違ひ
無之由しかし底入至而浅く大銃等
載セ与【組】候ニは利方思わ敷有之間敷噂ニ
御坐候右御台場船共追々御老若方
御見分相成筈之由
上ニも一両日中ニは被為 入筈ニ御坐候
◯横浜ニ繋相成候水府製造之大船
一名は厄害丸公儀御役人方の名く所と云々も少し宜相成候や頃日ハ
閣老初五十崎斗遠乗之末一覧相成候由
ペロトン【隊列】銃陣等も於所々稽古有之

【重複部分を省略】
候得共いまた三段備へ之旧習ニ而候上都下之
宿習歟裁附冠り物等ニ奇羅を飾り
侍俄【狂言】とも申候様成形装見も可厭中々
実地実用之姿とハ相見へ不申候洋学
校等も上位へ致担当候向キ無之処
より歟一節果敢取候光景ニは無
御坐候夫ニ引替大庭雪斎来書之旨ニ
候得は御国元ニは余程盛んニ可相成勢ひニ
御坐候由可賀御事ニ奉存候○惣而如尊
諭方今魯英仏戦争ニ而外患
如以前窮迫ならす候ハ本朝の大幸
所謂国家閑暇とも可申時節之上
増而震災之天戒も候得は旁以
唯此時を然りとして是日も不足諸役ハ
勿論防禦之御手当等も可有御坐□【処か】
大略前文之次第志ハ天下の勢ひ
可知又可概【慨】嘆歟と奉存候○初春
御恵書之砌は御憿著ニ被為在候由爾来
如何いまた剰寒も去り切らす不順
之候ニ候得は猶又御保□【養か】之儀奉祈義ニ
御座候◯白河公書差上候ニ付御懇篤之
御謝詞云々誠ニ以望外之仕合ニ奉存候
◯御減人云々ゟ難黙止□【処か】ゟ奉愁訴
御次第被御含置被下候由難有奉
拝謝候尚宜様奉承義ニ御坐候○矢上
沖ニ米船渡来諫早筋及騒動候
得共無間も帆影見隠し候由扨下田港へ入
右同船不一艘入港之噂御座候由是ハ
全ク伝聞の浮説歟於当地ハ為何義も
承知不仕候○御一類下村氏大病之末
頃日ゟ帰郷相成長途之旅行何卒

【重複部分を省略】
安全候得かしと存候噂有之候○近内
アメリカへ漂流候土州万次郎え箕作
等同席ニ而面晤之筈ニ御座候是等ハ
稍異聞も可有御座歟其他ハ零砕
申上候程の義無御座候先以両返
御恵書之御請旁時候御伺ゐ可申上
草略御座候恐惶謹言
         増田忠八郎
 二月十七日認

 鍋 市佑様

【佐賀藩家老鍋島市佑宛、増田は佐賀藩士】

【裏面の画像】



【左端】
地震ニ付

大石又蔵書状

  猶以今日は別而取紛罷在候付乱筆
  之体御免可被成下候様奉願上候以上

 先月十七日之尊書被成下
 拝見仕候寒冷弥増御座候処
 益御安泰被成御勤仕奉
 恐悦候然は先月二日夜案外之
 大地震ニ而
 御殿向を始小屋〳〵震潰然半【処の書き癖か】
 長州様御屋敷内より出火ニ相成
 此御方え火移其上
 西御殿西脇より又々火出候得とも
 取消候もの壱人も無御座火消
 道具は皆以家下ニ相成只々見物
 いたし居候外無御座段々
 御殿え火懸
 御前様ニは漸御外庭迄御立退
 被遊候処御輿は不申及御行列御
 道具も御家下ニ相成候処段々
 御殿向も御焼失ニ而いつれ之御場所えも
 御立退出来不申御役々大心配ニ
 御座候半【処の書き癖か】
 田安様より御迎ニ御輿参り候付
 御手廻計ニ而御同所え被遊
 御立退候御屋敷中死亡三十
 六人怪我人数十人有之其内
 即死又は家下ニ相成候人々は
 声を立候付色々と手配堀出し
 候得共中々不行届其内ニ火懸其節之有様
 中々難尽手紙次第ニ而有之候
一御大名一番稠敷所は
 松平肥後守様ニ而上中下之御
 屋敷震潰出火ニ而死亡人五百人
 余其上品川二之御台場御請持
 之処同様ニ而皆以死亡柳沢
 御屋敷同断ニ而一棟之長屋ニ而
 七十人余即死是又数百人死亡
 長州様五十人余周州様八九十人
 其外諸御屋敷数十人宛無之所
 御座なく一車ニ三十人計宛数車ニ而
 寺え運有之たる趣ニ御座候御屋敷は
 兼而少人数故此節脇様より死
 亡怪我人寡有之候由御座候
一右ニ付御恵書被成下有かたく
 奉存候私ニは逃出候処座之方は二階
 落居候付台所へ参り是又下家
 震崩彼是仕居候間下家は皆以
 崩候後漸逃出候故却而無難ニ而
 罷在大仕合仕候
一別紙定而御覧可被為在とハ奉存
 候得共差上申候御覧之末高木殿え
 乍憚御廻被成下候様奉願候
一上様御道中無御滞去ル七日溜池
 御屋敷え被遊
 御着府恐悦至極奉存候然処早速
 より御普請御取懸相成候処兼而大

 【重複部分を省略】
 損之上此度之地震ニ而猶又及大破
 大御手入之上短日之砌ニ而果散【敢】取
 不申漸
 御住居向之処御当日迄どうやら
 こふやらニ而御間ニ合
 御前様ニも七日朝五時比田安ゟ
 御帰殿被遊候御行列御道具も
 此節新規ニ相整申候御供立小屋之儀ハ
 畳敷入も間ニ合不申漸昨□【夜か】迄ニ
 敷入相成地詰之面々は掘建小屋ニ而
 公儀より御救小屋同様ニ御坐候
一此度地震火事ニ付諸家様御難渋ニ
 被 思召候付当年中月次之御礼
 不被為
 請候付不時之御礼今日有之候付
 此御方之儀も下る御延引相成
 候得は十二月半過ニも可相成候付一昨九日
 上使下る御参勤御礼無御滞
 被為済恐悦至極ニ奉存候
一明後十三日大和守様え
 上様御出被成候筈御座候
一地震ニ而死亡弐十六万人余と
 申事ニ御坐候
一水戸様ニ而は御家老両人死亡
 其筋は大総之趣ニ相聞候

 右之趣御礼旁申上度如斯
 御座候恐惶謹言
       
         大石又蔵
  十一月十一日   【安政二年】

  市佑様 【佐賀藩家老鍋島市佑】


【文中上様は藩主鍋島直正、御前様はその妻】

【裏面の画像のみ】

口達写

江戸より之早打飛脚
到着去る二日夜亥刻頃
大地震にて桜田御屋敷
所々震潰然半【處と同義のつもりか】出火
御長屋向迄不残御 類【見消】焼失
之段申来候依之
着座【家老に次ぐ重臣】中則
御城罷出
上々様へ御機嫌
相伺候様と御座候以上


十月四日  伊東次兵衛
      田中善右衛門
      池田半九郎
      中野神右衛門
           写
鍋嶋縫殿助様

【裏面】

十月二日夜怪我人名書

十月二日夜怪我人
  張 玄一 殿
  梅崎勘兵衛殿
  江副杢之進殿
  原口太兵衛殿
 手明鑓
  片岡利左衛門殿
  村嶋杢兵衛殿
  吉村重四郎殿
  兵動 忠平殿
  坂井吉左衛門殿
  古賀喜左衛門殿
 御徒
  三好千右衛門
 足軽
  吉田 兵助
  井手 龍助
  今泉 寿助
 下坊主
  立川 柳仙
 一孤
  秋元喜右衛門
  御広式部手男
     伝七
  御台所部手男
     源助
     弥助
  中溝忠次郎殿召仕
     熊吉
  中村大助殿召仕
     権助
  末次惣右衛門殿召仕
     伊右衛門
  神代友左衛門殿召仕
     喜三
  御文使
     要助
  大工小頭
     喜助

右之通御座候以上

卯十月 御歩行目付

【裏面の画像】

  十月二日夜怪我人
外疵ハ無之候得共脇腹ゟ腰
ニ懸当り強御伏七日ゟ押々出勤
        張 玄一
重疵面部最早出勤 
        梅崎勘兵衛
重疵同断    江副杢之進
軽シ足     原口太兵衛
      手明鑓 
重疵最早出勤  片岡利左衛門
軽シ足     村嶋杢兵衛
軽シ出勤    吉村重四郎
足折レ候由   兵動 忠平
        坂井吉左衛門
軽シ      古賀喜左衛門
      御徒
重疵腰之由   三好千右衛門
      足軽
        吉田 兵助
        井手 龍助
        今泉 寿助
      下坊主
        立川 柳仙
      一孤
        秋元喜右衛門 
      御広式部手男
           伝七
      御台所部手男
           源助
           弥助
      中溝忠次郎召仕
           熊吉
      中村大助召仕
           権助
      末次惣右衛門召仕
          伊右衛門
      神代友左衛門召仕
           喜三
      御文使  
           要助
      大工小頭
           喜助

  右之通御座候以上
いつれも段々快相成申候下輩ハ
軽重能わかりかね書載不仕候

【裏面の画像】 

十月二日夜四時比大地震二而諸屋敷倒家焼失荒増

十月二日夜四時頃大地震
ニ而諸屋敷倒家焼失
荒増

  森川利左衛門殿
  同  大九郎殿
  実松 郁一郎殿
  久保 文才 殿
 足軽
  堤  勘兵衛
  石丸 孫作
  山田 吉蔵
 坊主
  中山 久悦
  同  女房
  同子 三人
 元締方部手男
     伊兵衛
 中溝五兵衛殿召仕
     壱人
 御広式部手男
     松大夫
 御留守居使番
     壱人
 元締方下役小屋番其外
     弐人
 元手明鑓古賀藤大夫殿
 召仕之由近比来着候由
     壱人
 丸屋部屋之者
     壱人
 鍋嶋屋抱八百屋男
     壱人

【重複部分略】
 御馬  壱疋 
是迄焼死

 花房 元春老
 大須賀見栄老
 池田 洞雲老
 同人弟子
  綾部 玄益
  沢野 玄育
 久保文才老
  妻
  同子 壱人
 下目付
  北村武左衛門
 足軽
  立石 勘太郎
 御広式御仲間
  末永利兵衛
 梅崎勘兵衛召仕
     壱人
 池田洞雲老召仕 
     壱人
 古賀喜左衛門殿夫
     壱人
 愛野忠四郎殿夫
     壱人
是迄倒家之下ニ相成死

右之通御座候以上
卯十月 御歩行目付

【裏面の画像】
    

某書状

【裏面のみ】

【前欠】
□□□御上之金子等正ニ御請取
申上候追而夫々差上申義ニ御坐候
御蔭ニ盆之御祭も出来申義御礼
申上義ニ御坐候扨又中元之御祝義と
御坐候而父子え御恵被下情嫁ゟも
御礼申上候私三円戴申候深山両人え
御着類被下別而有難御蔭ニ夏
羽織着致されぬ様そんじ
居候間整可申と厚御礼申上候
扨御願申上候御羽織之義共承知被成
候由ニ而委細御申被下別而忝
承知仕候尤新調は被成下候義
出来候由承知右ニ而は御代と相成ニ付
承知仕候計りニ而も何時も出来
候と承知仕候得は安心仕義ニ御坐候
就而は直ニ御頼も申上度御坐候得共
何も御まへさま御難題ニ相成候而は
弥ケ上之罪に御座候間いつれ半金
なり共段々御贈り申上ニ而先ハ段々と
御払方申上度候得共只今ハ
金繰も出来不申壱弐円充
成共差上度御坐候間何程ニ而
出来可申哉後便ニ而御しらせ置
被下候得は其心仕義ニ御坐候間御申
被下度御願申上置候願は此
年内ニ御願申上度存念ニ御坐候願ハ
御上之為人ニ即拵御遣被下候得は
猶「宜敷」有難御坐候
御裏もおりかへしニ而御宜候
       併右は全御まへ
御自分御拵御苦労相懸候ニ付御気之毒
ニは候得共右出来候得は全御まへ
御勤之御印ニ右之御願も出来
候ニ付猶有難此節ハ私ニも
きつと直置誠之御代ニ相成候付
有難箱入ニ致置心得ニ御坐候
尤御代金之義は幾分充可
差上申義ニ御坐候間凡御しらせ
 先以宜敷御坐候得は御難題なから御かわし置  
置願上申義御坐候此段
 被下候義御出来不相成候得は御願申上置知せニ
先以御礼旁辻申上候近日
 御坐候御不都合之義共御坐候ハヽ
又々申上義御坐候
     御見合被成候而宜敷御坐候
右は廿七日認置申候○ 
◯扨ハ当地永々の雨ニ而処々大洪水
切と流家けが其外あわれ之事も
有之中々の様子片田江ハ皆以
はらひ其外所々はらひ候処
勝ニ御坐候屋敷ハ御存之通ニ此
地ニ而は揚不申候得共稲荷社え
参る石橋ハ三寸程越数日
流居申ハ中々世間之人々
安心ならす居候半一昨廿八日

【重複部省略】
夜十一時比大地震ニ而ゆひ起され
間内ニは居不申庭ニ出候得共
「止不申少々のふ敷相成候間」
又々間ニ入孫子共もおろたへ
居候をたき「あけ」出し皆々一夜
外ニ居申候昨夜迄ハ又も
ゆりはせぬかと思気有之
ね入不申気分不勝まつ書状
認候気分無之よふ〳〵今日昼
書かゝり居候而書次御覧ニ
入申候昨夜承り候得は肥後ハ
猶大地震ニ而千間もひしけ
候由承り申候当地は左様ニは
無之所々古家共たをれ
候由ニ御坐候先ハ此段御礼旁
申上候後便ニ又々可申上候
 七月廿九日認

永々雨ニ而佐賀県中之様
洪水ニ而切渡其外所々家屋
其外打流シ怪我其外不少
哀レ成事共ニ御坐候其半一昨
夜十一時比大地震ニ而 起され
肝も取モレ罷在候然ルニ肥後之様子
承り候得共佐賀ゟ地震【中断】

早々御尋と存居候得共大地震       
ニ而気分不勝共ニ而延引仕候其御地ハ
佐賀ゟ猶又地震烈敷由驚入候
義共ニ御坐候八代之方も同様之          
義ニ御坐候哉御無難ニ而被成御坐候哉一刻も
御様子承り度存上候一寸御尋迄ニ
御坐候御返事御待申上候也

【明治二十二年七月、筑後川大洪水と熊本大地震が重なった時期の書状案】

某書状

別啓私ニは二階住居ニ而相
寝居候処烈敷音致候付
直ニ起出候拍子ニ屋根瓦其外
頭上落懸り所々疵付候へ共
格別之義無之内ゆり静り候付
階子ハ塞り居候得共漸這出
見候処召仕共ニも幸無難ニ而下屋ハ
潰居候得共世間火も起り不申候付跡は
召仕申付置直様北御殿駈付
候処
御前様ニは御庭之方被遊
御出御付男女も守護仕一向志波
其外も駈付外御庭之方へ
御転座之内火事ニ相成詰一統
付居相働候得共柄杓壱本
鎌壱ツ無之井戸ハ皆以
潰ふさかり本文之次第
誠ニ以無是非次第御遠察
可被下候暗夜之事ニ付御屋敷
内之見留も出来兼申候巨細ハ
難申砕爰許ゟ罷下候者ニ而
委敷御承知可被下候右ハ任
兼日柄極御内々申上候


 別啓

【裏面】
【蔵書ラベル、59-2494、0123】

〔下村〕七右衛門書状

一筆啓上仕候今程逐日
暖気差募候処御双方
上々様益御機嫌能被遊御座
恐悦奉存候次ニ貴所様弥
御堅勝被成御勤珍重奉存候
私も先月十二日出立之末昨八日
無滞着府仕候出立之砌は態々
御来駕被下殊ニ御叮嚀御仕成
被下候儀重畳辱仕合奉存候
御入来之砌筑前沖異船相見
候趣御咄ニ而枉而承知仕追々筑前
路人足共申咄候処ニ而は一日も滞船ハ
不致航行候由其後長州ニ而承候は
先月初比同州西海矢玉浦へ
異船相見是も只通行候迄之由
乍然筑前長州ニ而も余程騒キ
立候事之由長州ハ同十五日ゟ十八日
迄大調練有之筈之由御座候扨
伊勢路四日市辺ゟ神原
迄之所地震火事ニ而実ニ見ニ
忍兼申候大低及見及聞之荒増
得貴意度候得共御□【領か】内往来
之人々ゟ御聞得ニ相成居可申候事

察不記置致候将又箱根山下
仕舞候後之所ニ而黒船相見候事
を人足共互ニ咄候故何事歟と
相尋見候処下田之方へ仏郎船
八艘参為其注進同所ゟ小田原
之方へ飛脚先刻通参候由然処
無程小田原城下へ参見候処入口
足軽町家々ゟ印之陣笠胴着
鉄砲用意ニ而出立一方ゟは物頭
と相見騎馬ニ而采配腰ニ帯
何レも勢屯之様成所ニ出張之体
相見先以三百人之出勢と申事ニ而
御座候途中人足共申咄候事ニ而
弥仏郎船ニ而候哉虚実は知兼
申義ニ御座候得共何と申出勢迅
速之事と感心仕申候着懸御留主居
面会相尋候得共存知無之由
今日善右衛門え相尋可申存候所
飛脚立取紛之由ニ而出勤無之
実事ニ而御座候は定而同人ゟ
申上相成候事と相考申候先々着
仕候ニ付御窺旁為可得貴意
差急草承御座候恐惶謹言
 三月九日

【裏面の画像】


市佑様     七右衛門

【裏面の画像】

地震二付御内覧書

極御内々別啓を以申上候扨当地
先般之御大変ハ誠ニ絶言語如何と
可申上様無御坐実ニ恐縮之至奉存候
一体之義ハ段々其筋々ゟ御詳悉
之御事と奉存候付不能贅筆惣而
都下一般之処ハ伝聞候ゟ実見
候□【処か】ニ而ハ尚稠敷様ニ而先
御城内外を始諸御門目附々々之
塀櫓石垣等夥敷大破たとへは
大銃等被打懸手ひどく攻撃ニ逢ひ
候様成模様共ニ而中々一両年位ニ而ハ
元々之通り相成候様子ニハ不相見其次
大名簱本屋敷〳〵勿論軽重ハ様々
ニ候得共先押平而破壊多く町家は
元来家立少サク候故歟割合ニシテハ余程
手軽御坐候去年は伊勢駿河等両
太祖之御廟地ニ地震当年ハ
幕府御膝元ニ形之通災異ハ何と
やら可畏天意共ニは無之やと白面
書生之身ニ而も寒心候様ニ奉存候惣而
大勢一変候歟三弦之音等ハ絶果何□【処か】〳〵も 
金鎚之響と打替り往来人夥敷ハ不相替
候得共従前華麗之体とハ相変り綿服ニ
裁附大流行ニ御坐候扨御老若屋敷遠
方之向キ〳〵ハ主従三人位早馬ニ而日々登
城水戸老公ニも隔日御登城之由然るニ
腹心股肱之家老戸田忠太夫前名銀次郎側用人
藤田虎之助当時誠之進曾而忠誠の二字を分ち
拝領名之面々不幸ニシテ圧死故大御力落し
候由右両人ニ相続き候人物も不承誠ニ
可惜次第ニ御坐候諸侯方奥様抔圧死
之評も取々ニ候得共大名ニ而ハ小出信濃守と
申御方壱人ハ実説ニ而簱本ニは数多有之由
扨 公辺ゟ段々御省略之御触達等は
段々可為御承知ニ付附省筆候惣而御役人
方之□【処か】御勘定松平河州当時尤勢ひニ而
水公阿部殿方も御依頼有之旨御目附岩瀬
修理才物ニ而大もて水公は川路水野筑州
伊沢作州抔評判宜敷
上ニも御登城之折之印外ニ筒井殿方ニも
御逢ひ被遊候由箱立奉行堀織部正御目附

【重複部分省略】
大久保右近将監殿人物之由風評高く御坐候
誰レ之作ニ候や別紙番附手ニ入候侭御慰迄
拝呈仕候一体○印之通あだ名ニ致し有之候故
一向相分り不申武鑑其外相調て漸相分り候
丈ケ翻訳為仕義ニ而勿論御人柄之次第ハ
書面通りニも参り間敷候得共大概は当り居候
風評ニ御坐候得き扨
上ニ御着府以来龍土広尾虎ノ御門
大和守様御方 御出大和様ニも此御方御出
相成一体御発明之上奇麗之御方ニ而候得き
越前守様薩州邸へも 御出之処越前様
ニも海防ニは余程被用御心追々西洋様之
戦艦等も御製作之御念ニハ候得共いまた不相開
余程外面向之段ニ而真味ニ入候御咄□【処か】ニハ
不参由薩邸ニは小蒸気船も出来居候故
三田之方 御出之折 御乗込品川
会津川越等之御台場迄も御乗廻し
御内覧御坐候□【処か】右船も昇平丸同様不思わ敷
逆風ニは不参順風ニも帆懸日本船ゟ遅く
候位之由同所邸内海岸ニ銅製大砲も備付
相成居□【処か】是又十分ニ無之精錬局様之
場も候得共中々御国元入畢竟ニハ不参
いまた前方之由しかし御冨有故蘭書
其外御取入ハ素ゟ 公辺向御取繕ひ
よりシテ船艦等何分重式之本規則而如
不逢何からも出来候処ハ誠ニ可畏者共
封内三州琉球ニ到り而も石炭ハ強而無之由ニ御坐候
公儀江川殿支配高島四郎大夫抔何ニ而鋳立
相成候大銃ひけ穴又はあれ多く間ニは
台尻ねち之処ゟ放出之折火抔吹出し
候物も有之誠ニ危き物之由惣而御府内ニ而
大銃或は調錬等ハ誠ニ虚日なく其音
姦敷程ニ有之候得き私抔外藩附合
も致し候ハヽ何歟異聞も承り可申候得共当今
御厳密之御仕与ニ而渡方等被相減
候上元来之貧生殿右外交ニ付而ハ物入
有之候処ゟ不本意も節縮一途ニ相固り
小屋のミ越せ居殊ニ御供は無御坐大
障持ニ而看書等を以日々を相送り申候
扨予州様中川様方も御出内匠頭殿ニは毎々
御心中々御爽快之御様子と奉伺候

【重複部分省略】
上ニも当節は余り 御事多御事も
無御坐 御運動之為め頃日ゟ
御責馬等相始り其他御屋敷中
何事も無御坐候御国老ハ如何ニ御坐候や
家中此間之寒威ハ殊之外強却而
昨今ニ相成少し凌能方ニ御坐候
右之次第申上候程之義も無御坐候得共
着以来余り御無礼罷在候ニ付而ハ
御伺旁何事成共奉得 尊意度と
存出し候侭めつたやたらニ相認たる
義ニ御坐候条御一覧之上ハ御火中
被成下度奉希候返々も無埒不砕
之体ハ偏ニ御高免奉仰候以上

【裏面の画像】

【裏面の画像】


  御内覧

地震

十月二日夜四時比大地震二而諸屋敷焼失并破損所荒増

 十月二日夜四時比
 大地震ニ而諸屋敷
 焼失并破損所荒増
  山下御門内
一阿部能登守様屋敷惣倒
一丹羽若狭守様屋敷大損
一有馬備後守様屋敷倒
 焼失
一朽木江近守様屋敷半倒
一松平薩摩守様中屋敷
 外通焼失御殿半倒
 表門残ル
一南部信濃守様屋敷倒
 焼失
一亀井隠岐守様屋敷
 大損
一伊東修理大夫様御屋敷
 倒焼失
一松平時之助様屋敷右同
一小城屋敷表門通半倒
 表門残ル御殿惣倒

  数寄屋御門内
一番所惣倒
一長井飛騨守様屋敷倒
 焼失
一松平主殿頭様御屋敷
 右同
一牧野兵部様御屋敷右同
一松平阿波守様中屋敷
 外大損御殿惣倒
一松平土佐守様中屋敷

【重複部分省略】
 惣倒
  
  日比谷御門内
一見附番所惣倒
一本多中務大夫様屋敷
 倒焼失
一土井大炊頭様屋敷
 半倒
一馬場先前火消屋敷
 倒焼失

  大名小路
一松平因幡守様御屋敷
 一八代洲川岸通外御長屋
  倒
 一南通外御長屋残ル
 一北東打廻シ外御長屋
  倒焼失
 一御殿半倒
一鳥井丹波守様屋敷大損
一小笠原左衛門佐様屋敷
 外通倒御殿残ル
一松平能登守様屋敷少々
 損し
一松平和泉守様御屋敷
 大損し
一松平備前守様屋敷川岸
 通外長屋倒レ御殿残ル
一久世大和守様屋敷表
 門通倒御殿残ル
一阿部伊勢守様屋敷
 川岸通外長屋倒レ
 御殿残ル
一酒井雅楽頭様上屋敷并
 向中屋敷共倒焼失
 但上屋敷表門斗残ル

【重複部分省略】
一森川出羽守様屋敷
 倒焼失

  和田倉見附内
一番所焼失
一松平肥後守様両屋敷
 とも倒焼失
一松平下総守様屋敷右同
一大下馬腰掛焼失
一馬場先御門番所焼失

  西御丸下
一内藤紀伊守様屋敷倒
 焼失
一酒井右京亮様屋敷
 倒
  但外長屋残
一松平玄蕃頭様屋敷
 半倒
一松平伊賀守様表御門斗
 倒
一牧野備前守様屋敷外通
 折廻シ倒
一本庄安芸守様屋敷
 外通大損
一本多越中守様屋敷
 外通大損
一御馬屋大損

  外桜田
一松平美濃守様屋敷表門
 通少々倒
一小笠原佐渡守様屋敷
 倒レ 
一松平大膳大夫様御屋敷

【重複部分省略】
此御方御馬屋境長屋
火之見共焼失其外
大損

右之外諸御大名御簱本
屋敷市中共倒家焼失等
数多御座候得共御最寄
見取候分此段御達仕候以上

卯十月  御歩行目付

【裏面の画像】

〔新聞切抜〕

 昭和三三、一、二八、西日本【手書き】

《割書:高島|炭鉱》地震探鉱を計画
  注目される漁業補償問題

[長崎]三菱高島鉱業
所では、三月いっぱい
長崎港外神の島付近の
沿岸一帯にかけて地震
探鉱を行う。付近は長
崎市と各漁協が浅海増
殖五カ年計画実施中の
海面でもあり、また三
月は魚類の産卵期直前
なので、補償問題を
めぐって市、漁協、漁
民の間に関心を呼んで
いる。
 高島鉱業所からさいきん神の島
 漁協に示された計画案によると
 地震探鉱は三月ごろ約一カ月間
 にわたり伊王島沖から西彼式見
 村および長崎市福田、神の島に
 いたる沿岸一帯にかけて行われ
 るもので、ダイナマイト使用数
 は二百八十発(一発九《割書:キロ|グラム》)水面下
 一《割書:メー|トル》から二《割書:メー|トル》ていどのところで
 爆発させ地震波によって海底の
 鉱脈を測定しようとするもの。
ダイナマイト一発の影響範囲六十
《割書:メー|トル》(沿岸一帯の水深三十五《割書:メー|トル》てい
ど)とされているが、これにたい
する条件として炭鉱側から
 ①爆破は短期間、魚類接岸に関
 係せぬ時期を選ぶ②西部漁協内
 の一本釣り、ハエナワで全くこ
 れら水域に依存する者約十名に
 たいし月八千円を十二カ月間、
 最低百万円以上の補償を考慮す
 る③十名の補償は漁場復旧が思
 わしくない場合は、以後これを
 補償する。
地震探鉱予定海面に関係のある
漁協は神の島、福田、式見、香焼
伊王島、深堀、土井首など七漁協。
十六日神の島で臨時総会を開き態
度を協議したが、基本的には石炭
は基幹産業だから認めるが、将来
長期にわたって影響がある場合は
絶対阻止する。沿岸近くで行われ
ることは初めてのことであるし影
響がどのていどのものかわからな
いので、もっと調査したい(神の
島漁協中ノ瀬専務談)といった段
階。三十日市および漁協で話合い
態度を決める。市では近く調査の
うえ海区漁調委に報告書を出し意
見を求める。
 なお同海区は、浅海増殖五カ年
 計画の実施地域に当たっており
 三十二年度市予算約四十五万円
 でコンクリート造りの魚のアパ
 ート、魚礁を作製中であるのを
 はじめ、三十一年にはワカメの
 増殖と伊勢エビ養殖(三カ年
 禁漁区)を行った。ことしも宮
 城県から購入した種カキ八イカ
 ダ(七千二百万円)の養殖、真
 珠貝の試験養殖(三カ年計画)
 などが計画されている。市では
 もし将来にわたって影響が考え
 られる場合、魚礁設置は網場方
 面に変更せねばならぬと語って
 いるが、地震探鉱による補償問
 題が、どのように解決されるか
 こんごの成行きが注目される。

十月二日夜四時比大地震二而諸屋敷焼失并破損所荒増

 十月二日夜四時比大地震ニ而
 諸屋敷焼失并破損所荒増

  山下御門内
一阿部能登守様屋敷惣倒
一丹羽若狭守様右同大損
一有馬備後守様屋敷倒焼失
一朽木江近守様屋敷半倒
一松平薩摩守様中屋敷外通
 倒焼失御殿半倒表門残ル
一南部信濃守様屋敷倒焼失
一亀井隠岐守様屋敷大損
一伊東修理太夫様御屋敷倒焼失
一松平時之助様屋敷右同
一小城屋敷表門通半倒表門残ル
 御殿惣倒

  数寄屋御門内
一番所惣倒
一長井飛騨守様屋敷倒焼失
一松平主殿頭様御屋敷大損
一牧野兵部様御屋敷右同
一松平阿波守様中屋敷外大損
 御殿惣倒
一松平土佐守様中屋敷惣倒
  
  日比谷御門内
一番所惣倒
一本多中務太夫様屋敷倒焼失
一土井大炊頭様屋敷半倒
一馬場向前火消屋敷倒焼失

  大名小路
一松平因幡守様御屋敷
 一八代洲川岸通外御屋敷倒
 一南通外御長屋残ル
 一北東打廻シ外長屋倒焼失
 一御殿半倒
一鳥井丹波守様屋敷大損
一小笠原左衛門佐様屋敷外通倒
 御殿残ル
一松平能登守様屋敷少々損
一松平和泉守様御屋敷大損
一松平備前守様屋敷川岸通外長屋
 倒レ御殿残ル
一久世大和守様屋敷表門通倒御殿残ル
一阿部伊勢守様屋敷川岸通外長屋
 倒レ御殿并表門通外長屋残ル
一酒井雅楽頭様上屋敷并向中屋敷共
 倒焼失
 但上屋敷表門斗残ル
一森川出羽守様屋敷倒焼失

  和田倉内
一番所焼失
一松平肥後守様両屋敷共倒焼失
一松平下総守様屋敷右同
一大下馬腰懸右同
一馬場先御門番所焼失

【重複部分省略】
  西御丸下
一内藤紀伊守様屋敷倒焼失
一酒井右京亮様屋敷倒
  但外長屋残ル
一松平玄蕃頭様屋敷半倒
一松平伊賀守様表御門斗倒
一牧野備前守様屋敷外通折廻シ倒レ
一本庄安芸守様屋敷外通大損
一本多越中守様御屋敷大損
一御馬屋半倒

  外桜田
一上杉弾正少弼様松平安芸守様
 御屋敷其外共少々宛之損
一松平美濃守様屋敷表門通少々倒
一小笠原大膳太夫様御屋敷
 此御方御馬屋境長屋火見共焼失
 其外大損

右之外諸御大名御簱本屋敷
市中共倒家焼失等数多御座候得共
御最寄見取候分此段御達仕候以上

 卯十月  御徒目付

【裏面の画像】

【「」は見え消し】
   山下御門内
一阿部能登守「様」殿屋敷相倒
一丹羽若狭守「様」殿屋敷大損
一有馬備後守「様」殿屋敷倒焼失
一朽木近江守「様」殿屋敷半倒
一松平薩摩守「様」殿中屋敷外通
 倒焼失御殿半倒表門残ル
一南部信濃守「様」殿倒焼失
一亀井隠岐守「様」殿屋敷大損
一伊東修理太夫様御屋敷倒
 焼失
一松平時之助「様」殿屋敷右同
一小城屋敷表門通半倒表門
 残ル住居惣倒南長屋残ル

  数寄屋御門内
一見付番所惣倒
一長井飛騨守「様」殿屋敷倒焼失
一松平主殿頭様屋敷大損
一牧野備後守様屋敷右同
一松平阿波守「様」殿中屋敷外
 大損御殿惣倒
一松平土佐守「様」殿中屋敷惣倒
  
  日比谷御門内
一見付番所惣倒焼失
一本多中務太夫「様」殿屋敷倒焼失
一土井大炊頭様屋敷半倒
一馬場先前火消屋敷倒焼失

  大名小路
一松平「因幡守」相模守様屋敷
 一八代洲川岸通外長屋倒
 一南通外長屋残ル
 一北東打廻シ外長屋焼失
 一御殿半倒
一鳥井丹波守「様」殿屋敷大損
一松平能登守様屋敷少々損
一小笠原左衛門佐「様」殿屋敷外通
 倒御殿残ル
一松平和泉守様屋敷大損
一松平内蔵頭「様」殿屋敷川岸通
 外長屋倒御殿残ル
一久世大和守「様」殿屋敷表門通
 倒御殿残ル

【重複部分省略】
一阿部伊勢守「様」殿屋敷川岸通
 外長屋倒御殿残ル
一酒井雅楽頭「様」殿上屋敷并向
 中屋敷共倒焼失
  但上屋敷表門斗残ル
一森川出羽守「様」殿屋敷倒焼失

  和田倉御門内
一見付番所焼失
一松平肥後守「様」殿両屋敷共倒
 焼失
一松平下総守「様」殿屋敷倒焼失
一大下馬腰懸焼失
一馬場先御門番所焼失

  西御丸下
一内藤紀伊守様「様」殿屋敷倒焼失
一酒井右京亮「様」殿屋敷倒
  但外長屋残ル
一松平玄蕃守「様」殿屋敷半倒
一松平伊賀守様表御門斗残ル
一牧野備前守「様」殿屋敷外通折
 廻シ倒
一本庄安芸守「様」殿屋敷外通
 大損
一本多越中守様屋敷大損
一御馬屋大損

  外桜田
一上杉弾正少弼「様」殿松平安芸守様
 御屋敷其外共少々宛損
一松平美濃守「様」殿屋敷表門通
 少々倒
一松平大膳太夫様御屋敷
 此御方御馬屋境長屋少々倒
 焼失

右之外諸大名御簱本
屋敷倒焼失扨又即死怪我人
等数多有之趣候得共御最寄
見取候分御座候

 右ハ其砌御徒目付ゟ差出候
            写

【裏面の画像】

夘十月二日夜四時比大地震二而死亡人名書

卯十月二日夜四時比大地震ニ而
死亡
       森川利左衛門殿
       同 大九郎殿
       実松郁一郎殿
      足軽
       堤 勘兵衛
       石丸孫作 
       山田吉蔵

       中山久悦并
       女房子〆五人
       元締方部手男
          伊兵衛
       御留守居使番
          壱人
       元締方小屋番其外
        丸屋人弐人
       鍋島屋抱
        八百屋男壱人
       古賀藤太夫元召仕之由
       近比参候者喜右衛門
       久保文才老
       御広式部手男 
          松太夫
       中溝五兵衛殿召仕
          壱人
       丸屋部屋之者
          壱人
     是迄焼死
       
       花房元春老
       大須賀健栄老
       池田洞雲老
      右同人方罷出居候
       綾部玄益
      右同人弟子
       沢野玄育 
      久保文才老
       妻并子壱人
      下目付
       北村武左衛門
      足軽
       立石勘太郎
      御広式御仲間
       末永利兵衛
      梅崎勘兵衛殿        
       丸屋人召仕壱人
      池田洞雲老
       丸屋人召仕壱人
      愛野忠四郎殿
          召仕壱人
      古賀喜左衛門殿
          召仕壱人

右之通死亡相成申候以上
卯十月   御歩行目付

【裏面の画像】

卯十月二日夜四時比大地震ニ而死亡

       森川利左衛門
       同 大九郎
       実松郁一郎
      足軽
       堤 勘兵衛
       石丸孫作 
       山田吉蔵
      坊主
       中山久悦并
       女房子〆五人
       元締方部手男
          伊兵衛
       御留守居使番
          壱人
       元締方下役小屋番其外
        丸屋人弐人
       鍋島屋抱
        八百屋男壱人
 古賀藤太夫元召仕之由近比参候者
         喜右衛門
       久保文才
       御広式部手男 
         松太夫
       中溝五兵衛召仕
          壱人
       丸屋部屋之者
          壱人
    是迄焼死
       
        花房元春
        大須賀健栄
        池田洞雲
      右同人方罷出居候
        綾部玄益
      右同人弟子
        沢野玄育 
      久保文才
        妻并子壱人
      下目付
        北村武左衛門
      足軽
        立石勘太郎
      御広式御仲間
        末永利兵衛
      梅崎勘兵衛召仕        
         丸屋人壱人
      池田洞雲召仕
         丸屋人壱人
      愛野忠四郎
          召仕壱人
      古賀喜左衛門
          召仕壱人
   
右之通死亡相成申候以上

【裏面の画像】