コレクション1の翻刻テキスト

このテキストはみんなで翻刻で作成したものです.利用条件はCC BY-SAです.

BnF.

【表紙】

【見返し】
JAPONAIS
35
1

【見返し】

【上中央と右下の三行】
1794
Japonais
345
(1, 1-4)

【文字なし】

【文字なし】

【中央白抜き四角内上から】No22【線で抹消右上に】27
Hoksai Mangwa
Dessins et esquisses
en different genres
10 Vol in S【右上の小字不明】
par Hoksai
【題箋 赤字】《割書:傳神|開手》北斎漫畫二編 全

【印下から右回り】MSS【記号】BIIBLIOTHEQUE【記号】NATIONALE【中央不明】

【右下 資料整理ラベル】
JAPONAIS
 345
 12

【右上三行】Japonai 345 (ち2)

【一行が二行になる場合あり】
おのれことさらに物めてするくせはあらねと此さうし
の絵をうち見るよりてうちたゝきてふしあふき
あさみおとろくことおほかたならすさるは野山をかける
けたもの海川におよく魚あるは鳥むし樹草のた
くひすへてこゝろゆくはかりきはことにかきなしたるけに
になき上手のしわさとそ見へたる人のすかた絵は
わきておかしくらゐたかき人の優なるやまかつの
こち〳〵しきからぬしのゐや〳〵しき法師のたふ
とけなるはかせのしたりかほなるくすしのほこらは
【左端「北斎漫画ニ篇序」】

【枠外「北斎漫画二篇序」】
しきあそひのあた〳〵しきいろこのみのすころ
なるこしたへぬ老ひとはひゐさるみとり子こし
かく男くるまやるひとふねこくおのこ馬のくち
とりめのとはらとり【注①】ちゆうけんおとこつふね【注②】こんかき【注③】
ひはたふき【注④】はんしやうかちかはらつくりかへぬりあき人
おんやうし【注⑤】きこりかつきめ【注⑥】すまひ人【注⑦】髪あくるさま
ゆひくさまおくるさまいぬるさまやう〳〵さま〳〵の
かたちけはひさなからいきてはたらくかとそおほゆる
この絵師たれそととふに此ころの上手にす

【注① 腹取=腹部の按摩ををすること。またその行の人。女性の業。】
【注② つぶね=召使。下男。】
【注③ 紺搔き=紺屋。】
【注④ 檜皮葺き】
【注⑤ 陰陽師】
【注⑥ 「かつぎめ」あるいは「かづきめ」=潜女。海中にもぐって魚介などを採ることを仕事としている女。】
【注⑦ 相撲人】

める北齊の翁なりけりまことやこのひとの絵を
もとむとてところせうつとふ人はこゝらのほしの
北辰にむかふことくはたかつしかわせの田つらふく風に
なひくにことならすとかおのれとしたけほけひか
みて物このみも世人というらうへなからたゝ此ぬし
の絵をしみれはあなめてたあなおかしといつとて
もゑみまけてもてはやし興することなほよこ
もりたる人にたかはすさはわかうとゝおなし
こゝろなるはまたいたう老ぬにこそとせめて
【枠外「北斎漫画二篇序」】

【枠外「北斎漫画二篇序」】
たのもしきこゝちするもたくひなき繪にうち
見ほれておもはすうかれまとうにやあらむ
       六樹園主人

【繪】鳳凰(ほうおう)

【右頁】
北斎漫画二篇
龍(りやう)

【左頁】
鼉(だりやう)
                 蚦蛇(うはばみ)
応竜(おうりやう)  雨竜(あまりやう)

【右丁】
     出山(しゆつさん)   頼豪(らいがう)
釈迦(しやか)

跋陀羅(はつたら)
 尊者(そんしや)    鳴神(なるかみ)

【左丁】
注荼(ちうだ)          空海(くうかい)
半託迦尊者(はんたかそんじや)

那伽犀(なかさい)
那尊(なそん)
  者(じや)

跋羅(はつら)
駄闍(たしや)          法性坊(ほつしやうぼう)
尊者(そんじや)

【右丁】
因掲陀(いんかだ)    頭香(づかう)
尊者(そんじや)
                  手(しゆ)
                  灯(とう)

目犍連(もくけんれん)   座禅(ざぜん)【樿は誤記】

【左丁】
  伐那婆斯(はつなばし)
    尊者(そんじや)

半諾(はんだ)
迦尊者(かそんじや)

【右丁 各種職業の人の図 文字無し】
【左丁】
   地獄(ぢごく)

【右丁】
風舟(ふうせん)

支離車(かたはくるま)

【左丁】
水車(みづくるま)

【両丁 各種職業の人の図 文字無し】

【右丁 女性の生活姿態を表現した図 文字無し】
【左丁 男性の職業、娯楽上の姿態を表現した図 文字無し】

【両丁 各種お面の図】
【右丁】
       てんと     げどう     さる
ぶがく    きつね     ひよつとこ   やまのかみ
大てんぐ   おに      しほふき    ふくじん
小てんぐ   げどう     おかめ     てんぐ

【左丁】
おきな    大へつし    つりまなこ   大とびで
さんば    へいだ     わしはな
               あく
               ぜう      やせ おとこ
にやくなん  はんにや    やせおんな   ぜう
小おもて   なまなり    とじ      うば

【右丁】
維摩居士

【左丁】
面壁土像

【両丁生活雑貨の図 文字無し】

【両丁寺社関係の備品の図】

【両丁寺社の備品の図】

【両丁 文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁 人物の姿態 文字無し】

【両丁花木の絵 文字無し】

【右丁花卉の絵 文字無し】

【左丁花卉の絵】
おにばす    はなあほひ   さはぎゝやう

         おもと

もくれん     ばらん     くさふじ

【右丁 鳥類の絵】
とう
 りん
  もの

【左丁 獣類の絵】
もゝんぢい     ゑちごうさぎ   おさききつね   いたち
    やぎう
  ぢいぬ     すいぎう      同       ねこ
むじな
                            じや
                            か
                            う
                            ね
                            こ

【右丁】
    めだか           ざこ
                   ゑ
                   び
きんぎよ         は          た
             ゑ          な
         ふな             ご
はぜ

だぼ    ど     てなが
はぜ    じやう    ゑび     かいづ

【左丁】
ふゑふき    むつ            ほ
  だ                   ら
  い
      たか
       の
       は   あん
           こう
                      たち
    こ                 の
     ち           ひら   う
                  め   を
しま
 だい

【右丁】
この    さか      かます
しろ    また

         ふか

【左丁】
  いわし

    あなご
               く
               じ
わにざめ           ら
       あおりいか

【右丁】
寄浪(よするなみ)【奇は誤記】

【左丁】
      引浪(ひくなみ)

【右丁】
渦巻水(うづまくみづ)

【左丁】
     浅(あさ)
     瀬(せ)

【右丁 文字無し】
【左丁】
   ことんほう
               しやくとり
くそばい              むし
             けむ
              し

花烟草(はなたばこ)   こがねむし

むさゝ          石燕(せきえん)
  び
      てん

      風(ふう)
      狸(り)

かは
 ほり       かまいたち

【左丁】
蜂巣(はちのす)   くまばち   てう      ひる

              てう    みゝず

てんとう   あり                ゐもり
 むし

            くも   やもり    ふなむし

【右丁】
白沢(はくたく)

【左丁】
獏(ばく)

三玉(さんぎよく)の亀(かめ)

尾張東壁堂蔵版目録《割書:名古屋本町通七丁目》
            永楽屋東四郎
北斎漫画《割書:北斎画》全十冊  光琳漫画  全一冊
商人鑑《割書:同 画》 全一冊  北雲漫画  全一冊
北斎画式《割書:同 画》全一冊  文鳳麤画  全一冊
北斎狂画《割書:同 画》全一冊  蕙斎麤画  全一冊
絵本両筆《割書:同 画》全一冊  月樵麤画  全一冊
戴斗画譜《割書:同 画》全一冊  狂画苑   全一冊

三体画譜《割書:同画》全一冊   絵本孝経  全二冊
一筆画譜《割書:同画》全一冊   同噺山科  全五冊
名家画譜  全三冊   同春の錦  全二冊
福善斎画譜 全五冊   同尓波桜  全一冊
豊国画譜  全五冊   同大江山  全一冊
豊国年玉筆 全一冊   同曽我物語 全一冊
英泉画史  全一冊   同咲分勇者 全一冊

  京都書林  《割書:堀川通》
           伏見屋藤右衛門
        《割書:心斎橋通》
           柏原屋與左衛門
  大坂書林  《割書:同》
           同  清右衛門
        《割書:同》
           河内屋木兵衛
        《割書:同》
           敦賀屋九兵衛
        《割書:糀町四丁目》
           角丸屋 甚 助
  東都書林  《割書:日本橋砥石店》
           大坂屋 茂 吉
        《割書:同 新右衛門丁》
           前川 六左衛門
  尾陽書林  《割書:名古屋本町通七丁目》
           永楽屋東四郎【陰刻印】

【白紙 上部に外字で書き込み有り】

【表紙 題箋】
  《題:《割書:伝神|開手》北斎漫画五編  全》

【「編」と「全」の間に書き込みあるも不鮮明】

【資料整理ラベル】
JAPONAIS
  345
 1,1

  京都書林  《割書:堀川通》
           伏見屋藤右衛門
        《割書:心斎橋通》
           柏原屋與左衛門
        《割書:同》
  大坂書林     同  清右衛門
        《割書:同》
           河内屋木兵衛
        《割書:同》
           敦賀屋九兵衛
        《割書:糀町四丁目》
           角丸屋 甚助
  東都書林  《割書:日本橋砥石店》
           大坂屋 茂吉
        《割書:同 新右衛門丁》
           前川 六左衛門
  尾陽書林  《割書:名古屋本町通七丁目》
           永楽屋東四郎【印】永楽堂記

【絵画 文字無し】

【右丁】
烽火台(ほうくはたい)

【左丁】
【右から横書き】
源(みなもとの)義(よし)経(つね)

▲右は鎧(よろひ)の延(のび)従(ちゞみ)自由(ぢゆう)なる形(かたち)を
 ゑがくなり
▲胴(どう)は桶(おけ)に等(ひとし)く草摺(くさずり)板(いた)のごとく
 にて腹(はら)短(みじか)く足(あし)長(なが)し
 斯(かく)ては戦場(せんぜう)の働(はたらき)いかゞ

【右丁】
近江国(あふみのくに)《振り仮名:貝津 ̄ノ里|かひづのさと》
傀儡女(くゞつめ)金子(かねこ)ヵ
    力量(りきりやう)

【左丁】
家根

製作(せいさく)数々 有(ある)べし
次(つぎ)の徧(へん)に図(づ)す

【右丁 挿絵 文字無し】
【左丁】
やねの
つま
 なり

      其
      二

     鐘楼之(しゆろうの)
     家根(やね)

【右丁】
是世滅法(ぜしやうめつほう)
生滅々已(しやうめつめつい)
古鐘(こしやう)

【左丁】
一切経を見やすからしめんと
一柱八面の輪蔵を作り
□【末ヵ】世に残し給ふ

大建元年四月廿七日
本州に遷化


       普成(ふじやう)

【右丁】
輪蔵(りんぞう)ノ(の)内(うち)

【左丁 文字無し】

【右丁】
二       天蓋(てんがい)
                台(うてな)

【左丁】
 竿(かん)

 裏文曰
迷悟(ゆゐご)【注】三界城(さんがいぜう)
悟故(ごこ)十方空(じつほうくう)
本来(ほんらい)無東西(むとうさい)
何処(かしよ)有南北(うなんぼく)

【注 「めいご」とあるところ】

   経堂(きやうどう)の
   やね也

【右丁】
経(きやう)
 堂(どう)の
 やねの
 つま也

製作(せいさく)同(おな)じからずといへども丁数(てうすう)少(すくな)く
次(つき)の編(へん)に図(づ)す

   三 輪蔵(りんぞう)の
      脇正面(わきせうめん)に同(おな)じ

【左丁】
此処(このところ)
やね
  也

【右丁】


次(つぎ)の丁(てう)に
やねを
図す
紙中(しちう)
少きゆへ
大小
 不同
  なる
   べし

【左丁】
輪蔵(りんぞう)の
 外廻(まわり)り【衍】也(なり)
 正面(しやうめん)也(なり) 紙中(しちう)せまきゆへ
       からとわき一 ̄ト間を
            りやくす

【右丁】


【左丁】
輪蔵(りんぞう)ノ
  家根(やね)

のきのすみへ
つくなり

左右とも
同じければ
りやくす

【右丁】
寺門(ちもん) ̄ノ 一

【左丁 挿絵 文字無し】

【右丁】
塀(へい)
其二

【左丁】
博(はく)【轉は誤記】雅(がの)
  三位(さんみ)
【源博雅の異称】

【右丁】
安部仲麿(あべのなかまろ)

【左丁】
中納言(ちうなごん)
  行平(ゆきひら)

【右丁】
藤原忠文(ふぢわらのたゞぶん)

【左丁】
伊賀局(いがのつぼね)

【右丁】
藤原(ふぢわらの)
 実方(さねかた)

【左丁】
柿本(かきのもと) 貴僧正(きそうぜう)

【右丁】
天拝山(てんばいざん)

【左丁】
楠正成(くすのきまさしげ)

【右丁】
力士(りきし)
力(ちから)を競(くらぶ)

【左丁】
平(たいらの)
 正門(まさかど)


 老臣(らうしん)
  公連(きんつら)

【右丁】
        御息所(みやすところ)

【左丁】
            山辺赤人(やまべのあかひと)
守屋(もりやの)
 大臣(だいじん)
         西行法師(さいぎやうほうし)

【両丁で山の風景画 文字無し】

【右丁】
文屋(ぶんやの)
 康秀(やすひで)

                源頼朝(みなもとよりとも)

【左丁】
兼道(かねみち)
         大搭宮(おゝとうのみや)

大友(おゝとも)
 真鳥(まとり)

【右丁】
猿田彦太神(さるだひこだいしん)

【左丁】
天臼女命(あまのうすめのみこと)

【右丁 風景画 文字無し】
【左丁】
三(さん)
 尊(ぞん)
 窟(くつ)

【右丁 挿絵 文字無し】
【左丁】
摩竭(まかつ)
飢竭(けかつ)

【右丁】
禅宗之(ぜんしうの)
伽藍神(がらんじん)

【左丁 挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【両丁挿絵 文字無し】

【挿絵 文字無し】

尾張東壁堂蔵板目録   《割書:名古屋本町七丁目》
               永楽屋東四郎
北斎[漫]画《割書:北斎画》全十冊  光琳漫画  全一冊
商 人 鑑《割書:同 画》全一冊  北雲漫画  全一冊
北斎 画式《割書:同 画》全一冊  文鳳麤画  全一冊
北斎 狂画《割書:同 画》全一冊  蕙斎麤画  全一冊
絵本両筆 《割書:同 画》全一冊  月樵麤画  全一冊
戴斗画譜 《割書:同 画》全一冊  狂画苑   全一冊

【麁は麤の俗字】

三体画譜《割書:同画》全一冊  絵本孝経  全二冊
一筆画譜《割書:同画》全一冊  同噺山科  全五冊
名家画譜  全三冊  同春の錦  全二冊
福善斎画譜 全五冊  同尓波桜  全一冊
豊国画譜  全五冊  同大江山  全一冊
豊国年玉筆 全一冊  同□【曽ヵ】我物語 全一冊
英泉画史  全一冊  同咲分勇者 全一冊

余昔客京知文鳳山人于絵事
臭味相投日夜不厭臨別山人出
其所図曰是非以為贈也請子携
帰為児女之玩葢山人之筆之最略而
最得意者展観間前者如言後者
如笑画之伝神在阿堵上挙坐称

未曽有一日風月主人請而上梓曰是
豈独君家児女悦世間目而可伝
神之伝山人于是乎不朽
時寛政庚申春仲上澣
    張州 墨湖題美書
   【陰刻落款印】墨湖

【上段】
むな
 づくし

とる
てを
はづ
 す

【中段】
むなづく   はづ
 とるてを   す

ぞくにいふ
 せんり
  びき

【下段】
てをしめ
  あげる

 こたへて
しめ
 させぬ
  かたち

【裏表紙】

【表紙 題箋】
《題:《割書:伝神|開手》北斎漫画三編《割書: |3》全》

【資料整理ラベル】
JAPONAIS
 345
 1,3

【白紙】


目にみえぬ鬼神はゑがきやすくまちかき
人物はゑがく事かたしたとへば古の燧ふくろ歌
ふくろも丸角ゑち川の新製に及ばず七五三
の式正は八百善が食次冊にしかざるがごとし
こゝに葛飾の北斎翁目に見心に思ふこゝち筆
を下してかたちをなさゞる事なく筆のいたる所かたちと
心を尽さゞる事なしこれ人との日用にして偽を

いるゝ事あたはざるもの目前にあらはれ意表にうかふ
しかれば馬遠郭熙が山水ものぞきからくりの
三景にをとり千枝つねのりが源氏絵も 吾妻
錦の紅絵に閉口せり見るもの今の世の人の
世智がしこきをしり古の人のうす鈍なるを思ふ
べし
          蜀山人

漫画
三編

【右丁】
多門(たもん)         持国天王(ぢこくてんわう)
 天王(てんわう)

         四天王(してんわう)

広目(くわうもく)
 天王(てんわう)      増長天王(ぞうてうてんわう)

【左丁】
衆(しゆ)
弥(み)

【右丁】
        稲荷大明神(いなりだいめうじん)

吒枳尼天(だきにてん)

【左丁 宴会の図 文字無し】

【両丁 文字無し】

【両丁 文字無し】

【両丁 文字無し】

【両丁 文字無し】

【両丁 文字無し】

【両丁 文字無し】

【両丁 文字無し】

【右丁】
伏犧(ふつき)

【左丁】
神農(しんのう)

【右丁】
左慈(さじ)      王喬(わうけう)      上利剣(じうりけん)
郝大通(かくたいつう)  車胤(しやゐん)    東方朔(とうばうさく)
【】《振り仮名:例+灬|れつ)》
子(し)   控鶴(こうくかく)     林和靖(りんなせい)

【左丁】
丁令(ていれい)     武志子(ぶしし)      李八百(りはつはく)
 威(い)
         戴封(たいほう)            玉子(ぎよくし)
                              章(せう)
                  孫康(そんかう)
梅福(ばいふく)  張(てう)
           果(くは)

【右丁】
            馮長(ひやうてう)        王処(わうしよ)
      白(はく)
      石(せき)
浮丘伯(ふきうはく)   生(しやう)      張三手(てうさんしゆ)

 麻姑(まこ)                     鉄拐(てつかい)

蝦蟇(がま)         黄初平(くわうしよへい)        馬成子(ばせいし)

【左丁】
王倪(わうけい)        傘風子(さんふうし)       孫登(そんとう)

         張志(てうし)           簫(しやう)
           ■(こ)          綦(し)

陳南(ちんなん)          尹喜(ゐんき)      廬敖(ろかう)

                 長脚(あしなが)
穿胸(せんけう)
     三首(さんしゆ)     長耳(てうじ)聶      悄(しやう)

                           柔利(じうり)
飛(ひ)
 頭(とう)     狗国(くこく)          文身(ぶんしん)
 蛮(ばん)【蠻】
    小人(こひと)

【左丁】
        羽民(うみん)         三身(さんしん)
   晏陀蛮(かふり)【蠻】   無腹(むふく)
交脛(こうけい)
        後眼(こうがん)            丁霊(ていれい)
  繳濮(げきぼく)        長臂(てなが)

【右丁 図は省略】
  こゝにて三寸のたかさにかゝんときは

三ッわりの法
          こゝにて
            一寸也
     二ツを天とすべし

              一ツを地となす
                     也

【左丁】
 【左から横書き】九分のまどは
                    三分
 三分                一分
      木

 木

  かくのごとし
  ワクのすじにあはせ
           かくべし

【両丁 文字無し】

【両丁 文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁 文字無し】

【右丁】
雷(らい)

【左丁】
風(かぜ)

【右丁】
             狒々(ひゝ)

天(てん)
狗(ぐ)

【左丁】
幽霊(ゆうれい)


        山(やま)
        姥(うば)

【右丁】
海(かい)
市(し)

【左丁】
船鬼(ふなゆうれい)

【右丁】
人魚(にんきよ)
         河童(かつぱ)
     水豹(すいへう)
   水獺(かはおそ)
 海鼠(うみうじ)        鯪鯉(れうり)

【左丁】
海馬(かいば)


          水犀(すいさい)

【右丁 図は省略】
         ワリなくして     あさのはは
         もやうを            きつかうより
         かくしかた             かきて
         【図あり】と             よし
          ハのじを             ワリいらず
          かくべし               かくの
  づのごとく也                      しかた
                    かのこ
                   はやく       とかきて
                    かく事 【線有り】合る也


 ワリなしのさやがた        三ツきつかうを
  しゆもくをかくべし        こゝろへて
 【逆立ちの文字】            かく也
  かどを
   合る也  

【右丁】
風鳥(ふうてう)      鸎(うぐひす)
                         烏骨(うこつ)
                          鶏(けい)
ベラ            比翼鳥(ひよくのとり)
鷺(さぎ)
           鴴(ちどり)【鵆は国字】  駝鳥(だてう)

【左丁】
      鷚(ひばり)            《振り仮名:蠟嘴|いかる》  

  錦雞(きんけい)                 白(はつ)
                       鷴(かん)

山(さん)
鵲(じやく)                    鵲(かさゝぎ)
          烏鳳(おなが)

【右丁】
                           鵙(もず)
                      鷂(はいたか)

角(くま)
 鷹(たか)

 鳶(とび)
    鶚(みさご)    鷲(わし)

【左丁】
鴞(ふくろう)                    カラクン【七面鳥】
翡翠(かはせみ)     鶤(とう)
        鶏(まる)

           雷鳥(らいてう)

よし
きり              鸊鷉(かいつむり)

山茨菰(ほうづき)    真桑(まくは)        芋(いも)
         瓜(ふり)

蜀(とう)
黍(きび)              栗(くり)
     芍薬(しやくやく)【苟は誤記】      蓬虆(つるいちご)

【左丁】
柘榴(ざくろ)            冬瓜(とうぐは)    茄子(なす)

    浅瓜(あさふり)   大根(だいこん)

藤豆(ふぢまめ)        蕪(かぶら)         瓢(ひやう)
                      簞(たん)

【右丁文字無し】
【左丁】
鍾馗(しやうき)

【文字無し】

前北斎戴斗先生書譜 《割書:尾張名古屋本町七丁目》
              永楽屋東四郎
【縦線】
北斎漫画初二三編《割書:全一|冊宛》 《割書:先生の物(もの)に感(かん)じ興(きう)に乗(しやう)じ折(をり)にふれ心に任(まか)せて|さま〴〵の妙図(めうづ)を写(うつ)されし篇(へん)を続(つぎ)て全部(ぜんぶ)に見(みて)んこと速(すみやか)也》
【縦線】
同  四編  全一冊 《割書:草筆(さうひつ)を加(くは)へ席上(せきじやう)の草画(はやがき)にしからしむることを要(えう)とす》
【縦線】
同  五編  全一冊 《割書:花表(とりゐ)堂塔(どうたふ)伽藍(▢[が]らん)月卿雲客(ぐゑつけいうんかく)館斎(くわんさい)房舎(ばうしや)を委(くはし)く|うつしてなをつきざるは編々(へん〳〵)にもらすことなし》
【縦線】
同  六編  全一冊 《割書:剣法(けんほう)鎗法(さうほふ)弓馬(きうば)炮術(はうじゆつ)等(とう)稽古(けいこ)のかたちをうつして|つまびらか也 尤(もつとも)武徳(ぶとく)の尊(たうと)きを表(へう)せる一書(いつしよ)と云(いふ)べし》
【縦線】
同  七編  全一冊 《割書:国々(くに〴〵)名勝(めいしやう)の地(ち)風雨(ふうう)霜雪(さうせつ)のけいしよくをうつす》
【縦線】
同  八編  全一冊 《割書:前編(せんへん)に洩(もれ)たる例(れい)のおもしろくをかしき図(づ)|且 錦繍(きんしやう)養蚕(やうさん)の業(げふ)をゑがく》
【縦線】
同  九編  全一冊 《割書:和漢(わかん)古今(ここん)の名(な)たゝる武者(ふしや)勇士(いうし)および|貞婦(ていふ)烈女(れつぢよ)のたぐひをのす》

同  十編  全一冊 《割書:神仏(しんぶつ)ならびに貴僧(きそう)高僧(かうそう)幻術者(げんじゆつしや)其外(そのほか)|滑稽(こつけい)風流(ふうりう)の人物(じんぶつ)等(とう)をしるす》
【縦線】
同 商人鑑  全一冊 《割書:市中(しちう)商家(しやうか)四時(しいし)のいとなみを図(づ)して太平(たいへい)の恩沢(おんたく)を|あらはす数編(すへん)をかさねて一物(いちもつ)も残(のこ)るところなし》
【縦線】
一筆 画譜  全一冊 《割書:先生(せんせい)工夫(くふう)の一筆(いつひつ)にて人物(じんぶつ)山川(さんせん)草木(さうもく)禽獣(きんじう)|虫魚(ちうきよ)にいたるまてあまねく巻中(くわんちう)に尽(つく)せり》
【二重縦線】
蕙斎 危画  全一冊 《割書:画道(ぐわだう)初心(しよしん)速学(はやまなび)のために先生ふかく|工夫(くふう)ありし運筆(うんひつ)の草画(さうぐわ)なり》
【縦線】
名家 画譜  全三冊 《割書:古往今来([こおう]こんらい)諸国(しよこく)高名家(かうめいか)の奇画(きぐわ)妙図(めうと)を|▢▢に▢▢▢▢つめたるなり》
【縦線】
金氏 画譜  全一冊 《割書:明人(みんひと)諸名家(しよ[め]いか)の画賛(ぐわさん)のうち蘭竹(らんちく)の図(づ)を多く出し|画法(ぐわ▢▢[はふ])の高論(かうろん)を悉(こと〴〵)く集(あつ)めたるを其儘(そのまゝ)飜刻(ほんこく)す》
【縦線】
絵本 孝経  全二冊 《割書:ひらかなにていかなる童蒙(とうもう)もさとしやすきやうに|ひとつ〳〵に古事(こじ)を絵(ゑ)かきてときやはらけあけくれ翫(もてあそび)なから|至徳(しとく)要道(えうとう)をしらしむるうへなき重宝(ちようほう)の書(しよ)なり》
【縦線】
福善斎画譜  全三冊 《割書:滕嘉言(とうかげん)先生(せんせい)生涯(しやうがい)風流(ふうりう)骨徴(こつちやう)の画譜(ぐわふ)宋(そう)元(げん)明(みん)の|古画(こぐわ)の臨写(りんしや)をおほく載(のせ)せ【衍】たり》

【白紙】

【文字無し アルファベットの手書きメモあり】

【題箋】
《割書:伝神|開手》北斎漫画四編 全

【資料整理ラベル】
N。22

JAPONAIS
 345
 1,4

【白紙にメモ書き】
Japonais
 345
 (1,4)

物を宣るは書より大なるはなし。形を存るは画より善
なるはなし。と宣哉古人の風姿。古物の雅品。今知るものは
画図の妙也。今や葛飾戴【載は誤記】斗先生。画に堪能にして其
名高く。其画を乞ふもの多く。都下の我これが為に賞し。
爾れば閣筆に遑なく。門人臨本に乏しきを患ふ。先生
これを憐みて。邂逅閑ある毎に。山水人物をはじめ。動物
器財に至るまで。随筆してこれを写。梓彫て以門人に授。初学
の梯揩【ママ 注】たらしむ。其成を経るに。漸々として編をなす。第四編に
及びて。《割書:予》に序辞を乞ふ。茲におゐてこれを熟看に。前の三編

【注 階とあるところ。】

は密【蜜は誤記】画にして真の如し。四編は草画にして筆力の妙あり。
夫絵に画図写の三象あり。画は画の総【惣】名にして。則画の草也。
図は是画の行也。写は画の真なるもの也。爾に前の三編は真
行を画。四編に至て草を筆す。其序の差ふに惑ふ。先生
これを弁て曰。古人有言。立こと不能ものは行こと不能。行こと
不能ものは走こと不能。と立は真也。行は行也。走は草也。我是を以
次第とす。と嗚呼先生の弟子を導や。惇篤なること真の
師たり。《割書:予》此言を感じて以て此書の序辞とはなしぬ。
                絳山漁翁識

【枡の側の文字】
石斗
升合

【右丁文字無し】
【左丁】
甲賀三郎(かうがノさむろう)

【右丁文字無し】
【左丁】
馬鹿孫三郎(めがまごさぶろう)

【右丁文字無し】
【左丁ここに注記を書きます】
蒼海公(そうかいこう)       陳平(ちんぺい)
       樊噲(はんくわい)

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【右丁文字無し】
【左丁】
山葵(わさび)

【右丁】
虎杖(いたどり)

【左丁】
睡蓮(ひつじくさ)

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁絵画 文字無し】

【両丁絵画 文字無し】

【両丁絵画 文字無し】

【右丁】
十二支(じうにし)

【左丁 文字無し】

【両丁絵画 文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】

【両丁文字無し】
【右丁 丸印】
BIBLIOTHEQUE IMPERIALE MSS・
【左丁 右と同じ丸印】
【左丁 楕円印外側】
BIBLIOTIC NATIONALE
【楕円印内側】
MSS

【右丁】
浮腹巻(うきはらまき)
【頭部欄外 丸印】
BIBLIOTHEQUE IMPERIALE MSS・

【左丁 日本文字無し】
【頭部に右丁と同じ丸印あり】

【右丁】
太公望(たいこうぼう)
蘇武(そぶ)
西伯(せいはく)
孫晨(そんしん)
猩々(せう〳〵)
伯夷(はくい)
【丸印】
BIBLIOTHEQUE IMPERIALE MSS・

【左丁】
陶淵明(たうゑんめい)
扁鵲(へんじやく)
杜子美(としみ)
卞和(へんくは)
山谷(さんこく)
叔斎(しゆくせい)
伯楽(はくらく)
【丸印】
BIBLIOTHEQUE IMPERIALE MSS・
【楕円印外側】
BIBLIOTIC NATIONALE
【楕円印内側】
MSS

【右丁上段】
顔子(がんし)
曽子(そうし)
子思(しし)
【右丁下段】
周公(しうこう)
張子(てうし)
朱子(しゆし)
【丸印】
BIBLIOTHEQUE IMPERIALE MSS・

【左丁上段】
孟子(もうし)
程子(ていし)
周子(しうし)
【左丁下段】
韓退之(かんたいし)
邵康節(せうかうせつ)
欧陽永叔(おうやうゑいしゆく)
【楕円印外側】
BIBLIOTIC NATIONALE
【楕円印内側】
MSS

【右丁】
松明(たいまつ)
【丸印】
BIBLIOTHEQUE IMPERIALE MSS・

【左丁】
火渡(ひわたり)
鉄火(てつくは)
釣蝋燭(つりらうそく)
【楕円印 外側】
BIBLIOTIC NATIONALE
【楕円印 内側】
MSS・

和合神(わがうじん)
【上部丸印】
BIBLOTHEQUE IMPERIALE MSS・
【下部楕円印 外側】
BIBLIOTIC NATIONALE
【下部楕円印 内側】
MSS・

尾張東壁堂蔵板目録《割書:名古屋本町通七丁目》
            永楽屋東四郎
【上段】
北斎漫画《割書:北斎画》全十冊
商人鑑 《割書:同 画》全一冊
北斎画式《割書:同 画》全一冊
北斎狂画《割書:同 画》全一冊
絵本両筆《割書:同 画》全一冊
戴斗画譜《割書:同 画》全一冊
【下段】
光琳漫画   全一冊
北雲漫画   全一冊
文鳳麁画   全一冊
蕙斎麁画   全一冊
月樵麁画   全一冊
狂画苑    全一冊

【上段】
三体画譜《割書:同画》全一冊
一筆画譜《割書:同画》全一冊
名家画譜  全三冊
福善斎画譜 全五冊
豊国画譜  全五冊
豊国年玉筆 全一冊
英泉画史  全一冊
【丸印】
BIBLIOTHEQUE IMPERIALE MSS・
【内円 鳥の図】

【下段】
絵本孝経  全二冊
同噺山科  全五冊
同春の錦  全二冊
同には桜  全一冊
同大江山  全一冊
同曾我物語 全一冊
同咲分勇者 全一冊
【丸印 外縁】
BIBLIOTHEQUE IMPERIALELE MSS
【内円】
 R.F

      堀川通
京都書林      伏見屋藤右衛門
      心斎橋通
          柏原屋與左衛門
      同
          同  清右衛門
大坂書林  同
          河内屋 木兵衛
      同
          敦賀屋 九兵衛
      糀町四丁目
          角丸屋 甚 助
      日本橋砥石店
東都書林      大坂屋 茂 吉
      同 新右衛門丁
          前川 六左衛門
      名古屋本町通七丁目
尾陽書林      永楽屋 東四郎【「印」あり】
















【白紙 手書のメモあり】

【文字無し】

【文字無し】

【文字無し】

【文字無し】

【文字無し】

【裏表紙  文字無し】

BnF.

【題箋】
絵入  竹とり物語

【表紙裏(見返し) 文字無し】

  たけとり物語
いまはむかしたけとりのおきなといふもの有
けり野山にましりてたけをとりつゝよろつの
事につかひけり名をはさるきのみやつこと
なんいひける其竹の中にもとひかる竹なん
一すちありけりあやしかりてよりて見るに
つゝの中ひかりたりそれを見れは三すんはかり
なる人いとうつくしうて居たりおきな云やう
われ朝こと夕ことに見るたけの中におはする
にてしりぬ子になり給ふへき人なめりとて
手にうち入て家へもちてきぬめの女にあつ

けてやしなはすうつくしき事かきりなし
いとおさなけれははこに入てやしなふ竹とり
のおきな竹とるに此子を見つけてのちにたけ
取にふしをへたてゝよことにこかねある竹をみ
つくる事かさなりぬかくておきなやう〳〵
ゆたかになりゆく此ちこやしなふほとにすく
〳〵とおほき【注】になりまさる三月はかりになる
程によきほとなる人になりぬれはかみあけな
とさうしてかみあけさせきちやうの内よりも
出さすいつきかしつきやしなふ程に此ちこの
かたちのけそうなる事世になく屋の内は

【注 字面は「支に濁点が付いたよう」ですが仮名物語にこの字だけ漢字で書き振り仮名を付けるのは不自然なので、変体仮名「き」と書き濁点は誤記かと思われる。】


くらきところなくひかりみちたりおきなこゝ
ちあしくくるしき時も此子をみれはくるし
き事もやみぬはらたゝしき事もなくなく
さみけりおきなたけをとる事ひさしくなるも
さかえにけり此子いとおほきに成ぬれば名を
みむろといんへのあきたをよひてつけさすあ
きたなよ竹のかくやひめと付侍る此程三日う
ちあけあそふよろつのあそひをそしけるお
とこはうけきらはすよひほとへていとかしこ
くあそふ世界のをのこあて【身分が高いこと】なるもいやしき
もいかてこのかくやひめをえてしかな【得てしがな】みてし




かな【見てしがな】とをとにきゝめてゝまとふ【愛でて惑う=ひどく美しい、可愛いと思う】そのあたりの
かきにも家のとにもをる人たにたはやすく
見るましきものをよるはやすきいもねすやみ
の夜にもこゝかしこよりのそきかひま見まと
ひあへりさるときよりなんよはひとはいひける
人の物ともせぬ所にまとひありけともなにの
しるしあるへくも見えす家の人共に物をたに
いはんとていひかくれともことゝもせすあた
りをはなれぬ君達夜をあかし日をくらす人お
ほかりけるをろかなるひとはようなきありき
はよしなかりけりとてこすなりにけり其中

【挿絵 文字無し】

【挿絵 文字無し】

になをいひけるはいろこのみといはるゝ人五
人思ひやむときなくよるひるきたりけりその
名一人はいしつくりの御子一人はくらもちの
御子一人は左大臣あへのみむらし大納言一人
は大伴のみゆき中納言一人はいそのかみのもろ
たか此人々なりけり世中におほかる人をたに
すこしもかたちよしときゝては見まほしうす
る人たちなりけれはかくやひめを見まほしう
て物もくはす思ひつゝかの家に行てたゝすみ
ありきけれ共かひ有へくもあらす文をかきて
やれとも返事もせすわひうたなとかきてつ


かはすれ共かひなしと思へとも霜月極月の
ふりこほりみな月のてりはたゝくにもさはら
すきたり此人々あるときは竹とりをよひ出し
てむすめを我にたへとふしおかみ手をすりの
給へとをのかなさぬ子なれは心にもしたかえ
すとなんいひて月日ををくるかゝれは此人々
家にかへりて物を思ひいのりをしてはんを立
おもひやむへくもあらすさり共つゐに男あは
せさらむやはと思ひてたのみをかけたりあな
かちに心さしをみえありくこれをみつけてお
きなかくやひめにいふやう御身はほとけへんけの





人と申なからこれ程おほきさまてやしなひ
奉る心さしをろかならすおきなの申さん事
きゝ給ひてんやといへはかくやひめ何事をか
のたまはんことは承らさらむへんけの物にて
侍けん身ともしらすおやとこそおもひ奉れと
いふおきなうれしくもの給ふものかなといふお
きな年七十にあまりぬけふともあすともし
らす此世の人は男は女にあふ事をす女は男
にあふことをす其後なん門ひろくもなり
侍るいかてかさる事ノなくてはおはせんかく
やひめのいはくなんてうさる事かし侍らん







といへはへんけの人といふとも女の身もち
給へりおきなのあらんかきりはかうて【こうして】もい
ませかしこの人々の年月をへてかうのみい
ましつゝのたまふ事を思ひ定めてひとり〳〵
にあひ給へやといへはかくやひめいはく能も
あらぬかたちをふかき心もしらてあた心つき
なはのちくやしき事も有べきをとおもふ
はかりなり世のかしこき人なりともふかき心
さしをしらてはあいかたしとなんおもふといふ
おきないはく思ひのことくもの給ふかなそも
〳〵いかやうなるこゝろさしあらん人にか

あはんとおほすかはかり心さしをろかならぬ人
人にこそあめれ【有るめれ➝あんめれ➝あめれ=有るらしく思われる】かくやひめのいはくかはかりの
ふかきをか見んといはんいさゝかの事なり
人の心さしひとしかんなりいかてか中にを
とりまさりはしらむ五人の中にゆかしきも
のを見せ給へらんに御心さしまさりたりとて
つかうまつらんとそのおはすらん人々に申
給へといふよき事なりとうけつ日くるゝほ
とれいのあつまりぬ人々あるひはふえをふき
或は哥をうたい或はしやうかをしあるひはう
そ【口笛】をふきあふきをならしなとするにおきな出て





いはくかたしけなくきたなけ成ところに年
月をへてものし給ふ【いらっしゃる】事ありかたくかしこま
ると申おきなの命けふあすともしらぬをか
くの給ふ君達にもよく思ひさためてつかうま
つれと申もことはりなりいつれもをとりまさ
りおはしまさねは御心さしの程はみゆへし
つかうまつらん事はそれになんさたむへき
といへはこれ能事【成し遂げなければならないことがら】也人のうらみもあるまし
といふ五人の人々も能事なりといへはおきな
いりていふかくやひめ石つくり御子には佛
の御石のはちといふ物ありそれを取て給へと

いふくらもちの御子には東の海にほうらいと
云山あるなりそれにしろかねをねとしこかね
をくきとし白き玉をみとしてたてる木あり
それ一えたおりてたまはらんといふ今ひとり
にはもろこしに有火ねすみのかはきぬを給へ
大伴の大納言にはたつのくひに五色にひかる
玉ありそれを取てたまへいそのかみの中納言
にはつはくらめのもたるこやすの貝取て給へ
といふおきなかたき事にこそあなれ此国に
有ものにもあらすかくかたき事をはいかに申
さんといふかくやひめなにかかたからんといへ

はおきなともあれかくもあれ申さんとて
出てかくなん聞ゆるやうに見給へといへは御(み)
子(こ)たち上達部(かんたちめ)きゝてをいらかに【あっさりと】あたりより
たになありきそとやはのたまはぬと云てうん
して【倦んじて=気がくじけて】みなかへりぬなを此女見ては世にあるまし
き心ちのしけれはてんちくに有物ももてこ
ぬ物かはと思ひめくらしていしつくりの御子は
こゝろのしたく有人にて天ちくに二つとなき
はちを百千万里のほといきたりともいかてか
取へきとおもひてかくやひめのもとにはけふ
なん天ちくへ石のはちとりにまかるときかせ





て三年はかり大和の国とをちのこほりにある
山寺にひんする【賓頭盧】のまへ【前】なるはちのひたくろに
すみ【墨】つきたるをとりてにしきのふくろに入て
つくり花のえたにつけてかくやひめの家に
もてきて見せけれはかくやひめあやしかりて
みれははちの中に文ありひろけて見れは
うみ山のみちに心をつくしはてないしのはち
の涙なかれけかくやひめひかりや有と見るに
ほたるはかりのひかりたになし
  をくつゆのひかりをたにもやとさまし
   おくらの山にてなにもとめけん






とて返し出すはちを門に捨て此哥の返しをす
  しら山にあへはひかりのうするかと
   はちをすてゝもたのまるゝかな
とよみて入たりかくやひめ返しもせすなりぬ
みゝにもきゝ入さりけれはいひかゝつらひて【「言い拘ひ」=うまく言えず難儀して】
帰りぬ彼はちをすてゝ又いひけるよりそおも
なき事をははちをすつるとは云けるくらも
ちの御子は心たはかり有人にておほやけには
つくしの國にゆあみにまからんとていとま
申てかくやひめの家には玉のえたとりになん
まかるといはせてくたり給ふにつかうまつる

へき人々みな難波まて御をくりしける御子い
としのひてとの給はせて人もあまたゐておは
しまさすちかうつかうまつるかきりして出給ひ
御をくりの人々見奉りをくりて帰りぬおはし
ましぬと人には見え給ひて三日はかり有てこ
き給ぬかねてことみな仰たりければ其時一つ
のたからなりけるうちたくみ六人をめし取て
たはやすく【たやすく】人よりくましき【人寄り来まじき】家をつくりてかま
とを三へにし籠てたくら【「たくみら」とあるところ】を入給ひつゝ御子も
同所にこもり給ひてしらせ給ひたる【(まるで)お治めになっている】限十六そ【全十六ヶ所(の所領地)】
をかみに【の上に】くと【くど=竃の煙出しの穴】をあけて玉のえたをつくり給

かくやひめの給ふ様にたかはすつくり出つい
とかしこくたはかりてなにはにみそかにもて
出ぬ舟にのりて帰りきにけりと殿につけやり
ていといたくくるしかりたる様して居給へり
むかへに人おほく参たり玉のえたをは長ひつに
入りて物おほひて持て参るいつか聞けんくらも
ちの御子はうとんてゑの花持てのほり給へり
とのゝしりけりこれをかくやひめきゝて我は
此御子にまけぬへしとむねつふれておもひ
けりかゝる程に門をたゝたきてくらもちの御子
おはしたりとつく旅の御姿なからおはしたりと




【絵画 文字無し】

【絵画 文字無し】

いへはあひ奉る御子の給はく命を捨て彼玉
のえた持てきたるとてかくやひめに見せ奉り
給へといへはおきな持ていりたり此たまの枝
にふみそつけたりける
  いたつらに身はなしつとも玉のえを
   たおしてさらにかへらさらまし
是をも哀ともみてをるに竹取のおきなはしり
入りていはく此御子に申給ひしほうらいの玉
のえたを一つの所をあやまたすもておはしま
せり何を持てとかく申へき旅の御姿なからわ
か御家へもより給はすしておはしましたり












はや此御子にあひつかうまつり給へといふに
物もいわすつらつえ【頬杖】をつきていみしくなけか
しけに思ひたり此御子今さへ何かといふへから
すと云まゝにえんにはひのほり給ぬおきな理
に思ふ此國にみえぬ玉の枝なり此度はいかて
かいなひ申さん人様もよき人におはすなとい
ひゐたりかくやひめの云様おやのの給ふ事を
ひたふるにいなひ申さんことのいとおしさに取
かたき者をかくあさましくもて来る事をね
たく思ひおきなはねやのうちしつらひなとす
おきな御子に申様いかなる所にか此木は候ひ

けんあやしくうるはしくめてたき物にもと
申御子こたへてのたまはくさおととしの二月
の十日ころに難波より舟にのりて海中に出
てゆかん方もしらす覚えしかと思ふ事なら
て世中にいき何かてせんと思ひしかはたゝ
むなしき風にまかせてありく命しなはいかゝ
はせん生てあらん限かくありきてほうらいと
云らん山にあふやと海にこきたゝよひありき
て我國の内をはなれてありき罷しに有時は
波あれつゝうみのそこにも入ぬへく有時には
風につけてしらぬ國に吹よせられて鬼のやう




なる物出来てころさんとしき有時にはこしかた
行すゑもしらてうみにまきれんとし有時には
かてつきて草のねをくひものとし有時いはん
かたなくむくつけけなるものゝきてくひかく
らんと□【「し」ヵ】き有時はうみのかいを取て命をつく
旅のそらにたすけ給ふへき人もなき所に色々
の病をして行方空も覚えす舟の行にまかせ
てうみにたゝよひて五百日と云たつのこく計
にうみの中にわつかに山見ゆ舟の内をなんせ
めて見るうみのうえにたゝよへる山いとおほき
にてあり其山のさま高くうるはし是やわか

もとむる山ならむと思ひてさすかにおそろし
く覚えて山のめくりをさしめくらして二三
日計見ありくに天人のよそほひしたる女山の
中より出きてしろかねのかなまるを持て水をく
みありく是を見て舟よりおりてこの山の名を
何とか申ととふ女こたへて云これはほうらいの
山なりとこたふ是を聞にうれしき事限なし
此女かくのたまふは誰そととふ我名ははうかん
るりと云てふと山の中に入ぬその山を見るに
さらに上るへき様なし其山のそはひら【傍平=かたわら】をめく
れは世中になき華の木共たてり金しろかね







るり色の水山より流出たるそれには色々の玉
の橋渡せり其あたりにてりかゝやく木共立り
其中に此取て持てまうてきたりしはいとわろ
かりしか共の給ひしにたかはましかはとこの
花を折てまうて来る也山はかきりなく面白し
世にたとふへきにあらさりしかと此えたを折
てしかは更に心もとなくて船にのりておひ風
吹て四百余日になんまうてきにし大願力にや
難波よりきのふ南都にまうてきつる更に塩に
ぬれたる衣たにぬきかへなてなん立まうてき
つるとの給へはおきな聞て打なけきてよめる






  くれ竹の世々の竹とり野山にも
   さやはわひしきふしをのみ見し
是を御子聞てこゝらの日ころ思ひわひ侍つる
心はけふなんおちゐぬる【落ち着く】とのたまひて返し
  わかたもと【袂】けふかはけれはわひしさの
   千草のかすもわすられぬへし
との給ひかゝる程に男共六人つらねて庭に
出来一人の男ふはさみ【文挟み】文をはさみて申くも
むつかさのたくみあやへのうちまろ申さく玉
の木をつくりつかふまつりし事こ國をたち
て千余日に力をつくしたる事すくなからす然

にろくいまた給はらす是を給ひてわろきけこ【家子(けご)=下僕】に
給せんと云てさゝけたる竹取のおきな此たく
みらか申事は何事そとかたふき【首をかしげる】おり御子
われにもあらぬ氣しきにてきもきえ【肝消(ぎ)え=肝がつぶれる】居給へり
是をかくやひめきゝて此奉る文をとれと云て
みれは文に申けるやう御子の君千日いやしき
たくみらともろとも同所にかくれ居給ひて
かしこき玉のえたをつくらせ給ひてつかさも
たまはらむと仰給ひき是を此比あんするに
御つかひとおはしますへきかくやひめのえう
し【要じ=是非にと欲しがる】給ふへきなりけりと承て此宮より給はら

むと申て給へきなりといふをきゝてかくやひめ
くるゝ【暮るる】まゝに思ひはひ【思い侘び】つる心地わらひさかへ【笑い栄え=満面に笑みをたたえ】
ておきなをよひとりて云やう誠ほうらいの木
かとこそおもひつれかくあさましきそらこと
にて有けれははや返し給へといへはおきなこた
ふさたかにつくらせたる物と聞つれはかへさんこ
といとやすしとうなつきをりかくやひめの
心ゆきはてゝありつるうたの返し
  まことかと聞て見つれはことのはを
   かされる玉のえたにそありける
といひて玉のえたも返しつ竹取のおきなさは

かりかたらひつるかさすかにおほえて【わざと】ねふり
をり御子はたつもはした【中途半端】居るもはしたにて居
給へり日の暮ぬれはすへり出給ひぬ彼うれへ
せしたくみをはかくやひめよひすへてうれし
き人ともなりといひてろくいとおほくとらせ
給ふたくみらいみしくよろこひて思ひつる様
にもあるかなと云ひて帰る道にてくらもちの御
子ちのなかるゝ迄調させ給ふろくえしかひも
なく皆とり捨させ給ひてけれはにけうせにけ
りかくて此御子一しやうのはち是に過るはあら
し女を得すなりぬのみにあらす天下の人の


おもはん事のはつかしき事との給ひてたゝ一所
ふかき山へいり給ぬ宮つかささふらふ人々
皆手をわかちてもとめ奉れ共御死にもやし
給ひけん得見つけ奉□【らヵ】す成ぬ御子の御供にか
くし給はんとて年頃見え給はさりける也是を
なん玉さかるとは云はしめける右大臣あへの
みむらしはたからゆたかに家ひろき人にて
おはしける其年きたりけるもろこし船のわ
うけいと云人のもとに文を書て火ねすみのか
はといふなる物かひてをこせよとてつかうまつる
人の中に心たしかなるをえらひて小野のふさ



もりと云人をつけてつかはすもていたり彼から
にをるわうけいに金をとらすわうけいふみを
ひろけて見て返事かく火ねすみのかはころも
此國になき物也をとにはきけ共いまたみぬ物
なり世に有物ならは此國にももてまうてきな
ましいとかたきあきなひ也然共もし天ちくに
玉さかにもて渡なは若長者のあたりにとふ
らひもとめんになき物ならは使いにそへて金を
は返し奉らんといへりかのもろこしふねきけ
り小野のふさもりまうてきてまうのほる【参上する】と云
事を聞てあゆみとうする【動揺する】馬をもちてはしら



せんかへさせ給ふ時に馬にのりてつくしより只
七日にまうて来る文を見るに云火ねすみのか
は衣からうして人を出してもとて奉る今の世
にも昔の世にも此かははたはやすく【たやすく】なきものな
りけりむかしかしこき天ちくのひしり此國に
もて渡りて侍りける西の山寺にありときゝ及
ておほやけに申てからうしてかい取て奉る
あたひの金すくなしとこくし使に申しかは
わうけいの物くはえてかひたり今こかね五十両
給るへし舟の帰らんに付てたひをくれもし
かねたまはぬ物ならは彼衣のしち返したへと

いへる事を見て何おほすいまかね少にこそ
あなれうれしくしてお□せたるかなとてもろ
こしのかたにむかひてふしおかみ給ふ此かは
きぬ入たるはこを見れはくさ〳〵のうるはし
きるりをいろえてつくれりかはきぬを見れは
こんしやうの色るりけのすゑにはこかねの光
しさゝやきたりたからと見えうるはしき事
并へき物なし火にやけぬ事よりもけうら【清ら】
なる事限なしうへかくやひめこのもしかり給
ふにこそ有けれとのたまひてあなかしことて
はこに入給ひてものゝえたにつけて御身の

【絵画 文字無し】

【絵画 文字無し】

けさういといたくしてやかてとまりなんもの
そとおほしてうたよみくはへてもちていまし
たりそのうたは
  かきりなき思ひにやけぬかはころも
   たもとかはきてけふこそはきめ
といへり家の門にもていたりてたてり竹取出
きてとり入てかくやひめに見すかくやひめの
かは衣を見て云うるはしきかはなめりわきて
誠のかはならん共しらす竹取こたへていはく
ともあれかくもあれ先しやうし入奉らん世中
に見えぬかはきぬのさまなれは是をと思ひ給







ひね人ないたくわひさせ給ひ奉らせ給ふそと
云てよひすえたてまつれりかくよひすえて此
度はかならすあはんと女の心にも思ひをり此
おきなはかくやひめのやもめなるをなけかしけ
れはよき人にあはせんと思ひはかれとせちに
いなといふ事なれはえしひぬは理也かくやひめ
おきなに云此かは衣は火にやかんにやけすは
こそまことならめと思ひて人のいふ事にもま
けめ世になき物なれはそれをまことゝうたか
ひなく思はんとの給ふ猶是をやきて心見んと
云おきなそれさもいはれたりと云て大臣にかく

なん申といふ大臣こたへて云此かははもろ
こしにもなかりけるをからうしてもとめたつ
ね得たる也なにのうたかひあらんさは申とも
はややきて見給へといへは火の中に打くへ
てやかせ給ふにめら〳〵とやけぬされはこそ
こと物【異物=別物】のかはなりけりといふ大臣是を見給ひ
てかほは草のはの色にて居給へりかくやひめは
あなうれしとよろこひてゐたりかのよみ給ひ
ける哥の返しはこに入て返す
  名残なくもゆとしりせはかわころも
   思ひのほかにをきて見ましを





とありけるされは帰りいましにけり世の人々
あべの大臣ひねすみのかは衣をもていまして
かくやひめに住給ふとなこゝにやいますなと
とふある人の云かははひにくへてやきたりし
かはめら〳〵とやけにしかはかくやひめあひ給
はすといひけれは是を聞てそとけなきもの【遂げなきもの=やり遂げることができない】を
はあへなしと云ける大伴のみゆきの大納言は
我家にありとある人をあつめてのたまはくた
つのくひに五色のひかりある玉あなりそれを
取て奉りたらん人にはねかはん事をかなへん
とのたまふをのこ共仰の事を承て申さく

仰の事はいともたうとし但この玉たはやす
く得とらしをいはんやたつのくひの玉はいかゝ
とらんと申あへり大納言の給ふ天のつかひと
いはんものは命をすてゝもをのか君のおほせ
事をはかなへんとこそ思へけれ此國になき
てんちくもろこしの物にもあらす此國の海山
よりたつはおりのほる物也いかに思ひてか汝
らかたき物と申へきをのこ共申様さらは
いかゝはせんかたき物成共仰事にしたかひても
とめにまからんと申に大納言見わらひてなん
ちらか君の使と名をなかしつ君の仰事をは

いかゝはそむくへきとの給ふたつのくひの玉
とりにとて出したて給ふ此人々のみちのかてく
ひものに殿の内のけぬ【きぬ(絹)の誤記】わた【綿】せに【銭】なとある限取
出してつかはす此人々とも帰るまていもゐ【斎=ものいみ】を
して我はおらん此玉とりえては家に帰りくな
との給はせたりをの〳〵仰承て罷りぬ龍の首
のたま取得すは帰りくなとの給へはいつちも
〳〵あしのむきたらんかたへいなんすかゝるす
き事をし給ふ事とそしりあへり給はせたる
物をの〳〵わけつゝ取或はをのか家にこもり
居或はをのかゆかまほしき所へいぬ親君と

申共かくつきなきことをおほせ給ふ事とこ
とゆかぬ物ゆへ大納言をそしりあひたりかくや
ひめすへん【据ゑん=住まわせる】にはれいやう【例様=普段のさま】には見にくしとのた
まひてうるはしき家をつくり給ひてうるしを
ぬりまき絵して返し【別本には「壁し」】給ひて屋の上にはいと
をそめて色々ふかせてうち〳〵のしつらひに
はいふへくもあらぬあやをり物にゑをかきて
まこと【間ごと】はり【貼り】たりもとのめともはかくやひめを
かならすあはんまうけ【娶る準備】してひとり明しくらし
給ひつかはしゝ人はよるひるまちたまふに
年こゆるまてをともせす心もとなかりていと

しのひてたゝとねり二人めしつきとしてやつれ
たまひて難波のあたりにおはしましてとひ給ふ
事は大伴の大納言の人や舟にのりてたつ
ころしてそかくひのたまとね【「れ」の誤記ヵ】るとや聞ととは
するに舟人こたへていはくあやしき事かなと
わらひてさるわさする船もなしとこたふるに
をちなき【考えが浅い】事する舟人にもあるかなえしらて
かくいふとおほしてわか弓の力はたつ【龍】あらはふ
といころしてくひの玉はとりてんをそくく
るやつはらをまたしとの給ひて舟に乗て海
ことにありき給ふるにいと遠くてつくしの方の

海にこき出給ぬいかゝしけんはやき風吹世界
くらかりて舟をふきもてありくいつれの方共
しらす舟を海中にまかり入ぬへくふきまはし
て波は船にうちかけつゝまき入神は落かゝる様
にひらめきかくるに大納言はまとひてまたか
かるわひしきめ見すいかならんとするそとの給
ふかち取こたへて申こゝら舟に乗て罷ありくに
またかゝるわひしきめを見すみ舟うみのそこに
いらすは神おちかゝりぬへしもしさいはひに
神のたすけあらは南海にふかれおはしぬへし
うたて有【嘆かわしい】主のみもとにつかうまつりてすゝろ【思いがけないさま】

なるしにを【死にを】すへかめるかなと梶取なく大納言
是を聞ての給はくふねに乗てはかちとりの
申事をこそ高き山とたのめなとかくたのもし
けなく申そとあをへと【青へど。注】をつきての給ふかち取
こたへて申神ならねは何わさをかつかうまつ
らん風ふき波はけしけれ共神さへいたゝきに 
おちかゝるやうなるは龍をころさんともとめ給
候へはある也はやて【疾風】もりうのふか【吹か】する也はや神
に祈り給へと云能事なりとてかち取の御神
きこしめせ音なく心をさなくたつをころさん
と思ひけり今よりのちは毛一すちをたにうこ

【注 苦しんで吐くなまなましいへど】

かし奉らしとよこと【寿詞…祈願のことば】をはなちて立居なく〳〵
よはひ給う事千度計申給ふけにやあらんや
う〳〵神なりやみぬ少ひかりて風は猶はやく吹
梶取のいはく是は龍のしわさにこそ有けれ此
ふく風はよき方の風也あしき方の風にはあら
す能かたに趣てふくなりといへ共大納言は是を 
聞入給はす三四日ふきてふき返しよせたり
はまをみれははりまのあかしのはまなりけり
大納言南海のはまにふきよせられたるにやあ
らんとおもひていきつき【いきづき(息吐き)=苦しい息をする】ふし給へり舟にある
をのことも国につけたれ共国のつかさまうて

とふらふにも得おきあかり給はて船そこに
ふし給へり松原に御むしろしきておろし奉る
其時にそ南海にあらさりけりと思ひからう
しておきあかり給へるを見れは風いとおもき
人にてはら【腹】いとふくれこなたかなたの目には
すもゝを二つけたる様也是を見奉りてそ国の
つかさもほうえみたる国に仰給てたこし【手輿】つく
らせ給ひてにやう〳〵【うんうん唸りうめき】になはれて家に入給ひ
ぬるをいかてかきゝけんつかはしゝをのこ共
参りて申様たつの首の玉を得とらされしか
は南殿へも得参らさりし玉の取かたかりし事を

しり給へれはなんかんたう【勘当】あらしとて参つる
と申大納言お起居
てのたまはくなんちらよ
くもてこす成ぬ龍はなる神のるいにこそあ
りけれそれか玉をとらんとてそこらの人々の
かいせられんとしけりましてたつをとらへた
らましかは又こともなく我はかいせられなま
しよくとらへす成にけりかくやひめてうおほ
盗人のやつか人をころさんとするなりけり家
のあたりたに今はとをらし男共もなあり
きそとて家に少のこりたりける物共はたつの
玉をとらぬ者共にたひつ是を聞てはなれ給

ひしもとの上はかたはらいたくわらひ給ふい
と【糸】をふかせ【葺かせ】つくりし屋はとびからすのすにみ
なくひ【喰い】もていにけり世界の人の云けるは大伴
の大納言はたつのくひの玉取りておはしたる
いな【否】さもあらす御まなこ二にすもゝのやうな
る玉をそそへていましたるといひけれはあな
たへかた【食べ難】といひけるよりも世にあはぬ事をは
あなたへかたとはいひはしめける

  たけとり物語上終

【裏見開き】【裏表紙の見返しヵ】

【左上角】
Japonais
5600
 (1)

【左下】
Acq  83-416

【裏表紙】

【書票】
JAPONAIS
5600
1

【本の背】

【冊子の天或は地の写真】

【本 小口】

【本の地或は天の写真】

《割書:絵|入》竹とり物語  

【見返し】

【種々の印】
【上の印】
高等女
学校図
書之印
【中段の大きな角印】
女子高等
師範学校
図書之印

  たけとり物語下
中納言いそのかみのまろたかの家につかは
るゝをのことものもとにつはくらめのすくひ
たらはつけよとの給ふを承りてなにの用にか
あらんと申こたへての給ふやうつはくらめの
もたるこやす貝をとらんれうなりとのたまふ
をのこともこたへて申つはくらめをあまたこ
ろして見るたにもはらになきものなりたゝ
し子うむ時なんいかてかいたすらんと申
人たに見れはうせぬと申又人の申やう
おほいつかさのいひかしく屋のむねにつくの 

あなことにつはくらめはすをくひ侍るそれに
まめならんをのこともをひて【率て】罷りてあくら【足場】を
ゆひあけてうかゝはせんにそこらのつはくらめ
子うまさらむやは扨こそとらしめたまはめと
申中納言よろこひ給ひておかしき事にも
有かなもつともえしらさりけりけう【興】有事申
たりとの給ひてまめなるをのことも廿人はかり
つかはしてあなゝひ【足場】にあけすへられたり殿よ
り使ひまなく給はせてこやすのかひとりたる
かとむかはせ給ふつはくらめもひとのあまた
のほり居たるにおちて【懼ぢ】すにものほりこすかゝる

よしの返しを申しけれは聞給ひていかゝすへき
とおほしわつらふに彼つかさの官人くらつ丸
と申おきな申やうこやす貝とらんとおほしめ
さはたはかり【策略】申さんとて御前にまいりたれは
中納言ひたひをあはせてむかひ給へりくらつ
まろか申やうこのつはくらめこやす貝はあし
くたはかりて【不適当に計略して】とらせ給ふなりさてはえとらせ
給はしあななひにおとろ〳〵しく【人目を驚かす様で】廿人上りて
侍れはあれて【離れて】よりまうてこす也せさせたまふ
へきやうは此あなゝひをこほちて【こぼちて=壊して】ひとみなしり
そきてまめならん人一人をあらたにのせすへ

てつなをかまへて鳥の子うまん間につなを
つりあけさせてふとこやすかひをとらせ給ひ
なはよかるへきと申中納言のたまふやうい
とよき事なりとてあなゝひをこほし人みな
帰りまうてきぬ中納言くらつ丸にのたまは
くつはくらめはいかなる時にか子をうむとし
りて人をはあくへきとのたまふくらつ丸申様
つはくらめ子うまんとする時は尾をさゝけて
七度めくりてなんうみおとすめる扨七度めく
らんおりひきあけてそのおりこやすかひはと
らせ給へと申中納言よろこひ給て万の人

【図 石上中納言】

【図】

にもしらせ給はてみそかにつかさにいまして
をのこ共の中にましりてよるをひるになして
とらしめ給ふくらつ丸かく申をいといたくよ
ろこびてのたまふこゝにつかはるゝ人にも
なきにねかひをかなふる事のうれしさとの
給ひて御そ【衣】ぬきてかつけ給ふつ?【「給ひつ」とあるところか】さらによさり
此つかさにまうてことの給ふてつかはしつ
日暮ぬれは彼つかさにおはして見給ふに誠つ
はくらめすつくれりくらつまろ申やうおう
けて【尾浮けて】めくる【廻る】あらこ【粗籠=目のあらい籠】に人をのほせてつりあけさ
せてつはくらめのすに手を指入させてさくる

に物もなしと申すに中納言あしくさくれは
なき也とはらたちてたれはかりおほえんにと
て我のほりてさくらんとの給ひてこにのりて
つられ上りてうかゝひ給へるにつはくらめお
をさけていたくめくるにあはせて手をさゝけ
てさくり給ふに手にひらめる物さはる時に我
物にきり【握り】たり今はおろしてよおきなしえたり
との給ひてあつまりてとくおろさんとてつな
をひき過してつなたゆる則にやしまのかなへ【注】
の上にのけさまにおち給へり人々あさまし
かりてよりてかゝへ奉れり御目はしらめ【白眼】にて


【注 八島の鼎=宮中の大炊寮にあった八個の竈にかかっている八個の鼎】

ふし給へり人々水をすくひ入奉るからうして
いき出給へるに又かなへの上より手とり足取
してさけおろし奉るからうして御ここちは
いかゝおほさるゝととへはいきの下にて物は
少覚ゆれとこしなんうこ【「と」と見えるは誤記か】かれぬされとこやす
貝をふとにきりもたれはうれしくおほゆる也
まつしそく【脂燭】してこゝのかいかほ見んと御くしも
たけて御手をひろけ給へるにつはくらめのま
り【大小便をする】をけるふるくそをにきり給へるなりけりそ
れを見給ひてあなかひなのわさやとのたまひ
けるよりそ思ふにたかふ事をはかひなしと

云けるかひにもあらすと見給けるに御心ち
もたかひてからひつのふたに入られ給ふへく
もあらす御腰はおれにけり中納言はいくいけ
たる【別本に「わらはげたる(童げ)」とあり】わさしてやむことを人にきかせしとし
給ひけれとそれをやまひにていとよはくなり
給ひにけりかひをえとらすなりにけるよりも
人のきゝわらはん事を日にそへておもひ給ひ
けれはたゝにやみしぬる【病み死ぬる】よりも人きゝはつか
しく覚え給ふなりけりこれをかくやひめ
聞てとふらひにやる哥
  年をへて波立よらぬすみの江

   まつかひなしときくはまことか
とあるをよみてきかすいとよはき心にかしら
もたけて人にかみをもたせてくるしき心ちに
からうしてかき給ふ
  かひはかくありける物をわひはてヽ
   しぬるいのちをすくひやはせぬ
と書はつるたえ入給ひぬ是を聞きてかくやひめ
少あはれとおほしけりそれよりなん少うれし
き事をはかひありとは云けるさてかくやひめ
かたちの世に似すめてたき事を見かときこ
しめして内侍なかとみのふさこにの給おほく

の人の身をいたつらになしてあはさるかくや
ひめはいかはかりの女そとまかりて見てまい
れとの給ふふさこ承てまかれりたけとりの家
に畏てしやうじいれてあへり女に内侍の給ひ
仰事にかぐやひめのうち【別本に「かたち」とある】いう【優】におはすなり能
見てまいるへきよしの給はせつるになん参り
つるといへはさらはかく申し侍らんといひて入
ぬかくやひめにはやかの御使にたいめんし給
へといへはかくやひめよきかたちにもあらすい
かてか見ゆべきといへはうたてものたまふかな
御門の御使をはいかてかをろかにせんといへは

かくやひめのこたふるうやう御門のめしてのた
まはん事かしこし共おもはすといひてさらに
見ゆへくもあらすむめる子のやうにあれと
いと心はつかしけにおろそかなるやうにいひ
けれは心のまゝにもえせめすないしのもとに
帰り出て口おしくこのおさなきものはこはく
侍る者にてたいめんすましきと申しないしか
ならす見奉りてまいれと仰こと有つる物を見
奉らてはいかてか帰り参らん国王の仰事を
まさに世に住み給はん人の承たまはてありなん
やいはれぬこと【訳の分からないこと】なし給ひそとことははちしく【「はちかしく」とあるところか】

云けれは是をきゝてましてかくやひめ聞へく
もあらす国王の仰事をそむかははやころし
給てよかしと云此内侍帰り参て此由をそうす
御門きこしめしておほくのひところしてける心 
そかしとのたまひてやみにけれと猶おほしお
はしましてこの女のたはかりにやまけんとお
ほして仰給ふ汝か持て侍るかくやひめ奉れ
かほかたちよしときこしめしておつかひたひ
しかとかひなく見えす成にけりかくたひ〳〵
しくやはならはすへきと仰らるゝおきな畏て
御返事申やう此めのわらははたへて宮仕

つかうまつるへくもあらす侍をもてわつらひ
侍さり共罷りておほせ給はんとそうす是を聞召
て仰給ふなとかおきなのおほしたてたらん物
を心にまかせさらむ此女もし奉りたるも
のならはおきなにかうふり【冠り=官位】をなとかたはせ【賜ばせ=下さる】さ
らんおきなよろこひて家に帰てかくやひめに
かたらふやうかくなん御門の仰給へるなをや
はつかうまつりたまはぬといへはかくやひめこ
たへて云もはらさやうのみやつかへつかうま
つらしとおもふをしゐてつかうまつらせたま
はゝきえうせなんす【消え失せなんず=消え失せてしまうだろう】みつかさかうふり【官爵】仕てし

ぬはかり也おきないらふる様なし給ひそかう
ふりもわか子を見奉らでは何にかせんさは有
共などか宮つかへをし給はさらん死給ふへき
やうや有へきといふなをそらことかとつかま
つらせてしなすやあると見たまへあまたの人
の心さしをろかならさりしをむなしくなして
しこそあれきのふけふみかとののたまはん事
につかん人きゝやさし【恥ずかしい】といへはおきなこたへ
て云天下の事はと有ともかゝりとも御命の
あやうきこそおほきなるさはりなれは猶つか
うまつるましきことを参りて申さんとて

【挿絵】

【挿絵】

参りて申やう仰の事のかしこさ【畏れ多くもったいなさ】に彼わらは
をまいらせんとてつかうまつれは宮つかへに
出したておはしぬへしと申すみやつこ丸か手に
うませたる子にてもあらずむかし山にて見付
たるかゝれは心はせも世の人に似す侍ると
そうせさす御門おほせ給はくみやつこまろか
家は山もとちかく也御かりみゆきしたまはん
様にてみてんやとのたまはすみやつこまろか
申様いと能事也何か心もなくて侍らんにふ
とみゆきして御覧せられなんとそうすれは
御門俄に日を定て御かりに出給ふてかくや姫の

家に入り給ふて見給に光みちてけうら【清ら】にて居た
る人有是ならんとおほしてにけて入袖をとら
へ給へはおもて【面】をふたきて【覆って】候へとはしめよく御
らんしつれはたくひなくめてたく覚えさせ
給ひてゆるさしとすとてゐて【率て】おはしまさんと
するにかくやひめこたへてそうす【奏ず】をのか身は
此国に生て侍らはこそつかひ給はめいとゐて
おはしまし難くや侍らんとそうす御門なとか
さあらむなをゐておはしまさんとて御こし【輿】を
よせ給ふに此かくやひめきと【急に】かけ【影】に成ぬはか
なくくちおしとおほしてけにたゝ人にはあら

さりけりとおほしてさらは御ともにはゐて【率て】い
かしもとの御かたちとなり給ひねそれを見て
たに帰りなんと仰らるれはかくやひめもとの 
かたちに成ぬ御門猶めてたくおほしめさるゝ
事せきとめかたしかくみせつる宮つこ丸を
よろこび給ふさて仕まつる百くはん【百官=多くの官吏】人々ある
しいかめしう【盛大に】つかうまかる【饗応する】みかとかくやひめ
をとゝめて帰給はん事をあかす口おしくおほ
しけれと玉しゐをとゝめたる心ちしてなんかへ
らせ給ひける御こしに奉て後にかくや姫に
  帰るさ【帰る折】のみゆき物うくおもほえて

   そむきてとまるかくやひめゆへ
お返事
  むくらはふ下にも年はへぬる身の
   なにかは玉のうてなをも見ん
これを御門御らんしていかゝかえり給はんそら
もなくおほさる御心は更にたち帰るへくもお  
ほされさりけれとさりとて夜を明し給ふへき
にあらねはかへらせ給ひぬつねにつかうまつる
人を見給ふにかくやひめのかたはらによるへ
くたにあらさりけりこと人よりはけうらなり
とおほしける人のかれにおほし合すれは人にも

あらすかくやひめのみ御心にかゝりてたゝひとり
過し給ふよしなく御かた〳〵にも渡り給はす
かくやひめの御もとにそ御文をかきてかよは
させ給ふ御かへりさすかににくからすきこえか
はし給ひて面白く木草に付けても御哥をよみ
てつかはすかやうにて御心をたかひになく
さめ給ふ程に三年はかり有て春の初めよりかく
や姫月のおもしろう出たるを見てつねよりも
物思ひたる様也有人の月かほ見るはいむ【忌む】事と
せいし【制し】けれ共ともすれは人ま【人間=人のいないすき】にも月を見ては
いみしくなき給ふ七月十五日の月に出居て

せちに物思へるけしき也ちかくつかはるゝ人
人竹取のおきなにつけて云かくやひめれいもえ
月をあはれかり給へ共此頃となりてはたゝ事
にも侍べらさめりいみしくおほしなけく事有
へしよく〳〵見奉らせ給へといふをきゝてか
くやひめに云様なんてう【なんでふ=何という】心ちすれはかくもの
を思ひたる様にて月を見給ふそうましき【満ち足りて快い】世に
と云かくやひめ見れはせけん心ほそく哀に
侍るなてう【なでふ=どうして】物をかなけき侍るへきと云かくや
ひめの有所【居る所】にいたりて見れは猶物思へるけし
きなり是を見て有仏何事思ひ給ふそおほす

らん事なにことそといへば思ふ事もなし物
なん心ほそくおほゆるといへはおきな月な見
給ふそ是を見給へは物おほすけしきは有そと
いへはいかて月をみてはあらんとて猶月出れ
は出居つゝなけき思へり夕やみには物思はぬ
けしき也月の程に成ぬれはなを時々は打なけ
きなきなとす是をつかふものともなを物おほす
事有へしとさゝやけと親をはしめて何事とも
しらす八月十五日はかりの月に出居てかくや
ひめいといたくなき給ふ人目も今はつゝみ給
はすなき給ふ是をみて親共も何事そととひさ

はくかくや姫なく〳〵云先々も申さんと思ひ
しかともかならす心まとはし給はんものそと
思ひて今を過ごし侍りつる也さのみやはとて打
出侍りぬるそをのか身は此国の人にもあらす
つきの都の人也それをなんむかしのちきり有
けるによりなん此世界にはまうてきたりける
今はかへるへきに成にけれは此月の十五日に
彼もとの国よりむかへに人々まうてこんすさら
す罷ぬへけれはおほしなけかんかかなしき事
を此春より思ひなけき侍るなりといひていみ
しくなくをおきなこはなてう事をの給ふ

そ竹の中より見つけきこえたりしかどなたね
の大きさをおはせしをわかたけたちならふま
てやしなひ奉りたるわか子を何人かむかへ聞
えんまさにゆるさんやと云て我こそしなめと
てなきのゝしる事いとたえがたけ也かくやひめ
云月の都の人にて父母ありかた時の間とてか
のくによりまうてこしかともかく此国にはあま
たの年をへぬるになんありける彼国の父母の
事も覚えすこゝにはかく久敷あそひきこえ
てならひ奉れりいみしからん心地もせすかな
しくのみあるされとをのか心ならす罷りなんと

するといひてもろともにいみしうなくつかは
るゝ人も年比ならひて立ちわかれなん事を心 
はえなとあてやかにうつくしかりつることをみ
ならひてこひしからん事のたへかたくゆ水のま
れず同し心になけかしかりけりこの事を御
門きこしめして竹取か家に御使つかはさせ給ふ
御使に竹取出あひてなく事限なし此事をな
けくにひけもしろくこしもかゝまり目もたゝ
れにけりおきな今年は五十はかりなりけれ
とも物思ひにはかたとき【短期間】になん老になりにけ
りとみゆおつかひおほせ事とておきなに云

いと心くるしく物思ふ成は誠にかと仰たまふ
竹取なく〳〵申此十五日になん月の都より
かくや姫のむかへにまうてくなるたうとくとは
せ給ふ此十五日には人々給はりて月の都の人
□うてこは【来ば】とらへさせんと申御使帰り参りて
おきなの有様申してそうしつる事共申を聞
召ての給ふ一目見給ひし御心にたに忘れ給
はぬに明暮みなれたるかくやひめをやりてい
かゝ思ふべきかの十五日つかさ〳〵におほせて
ちよくし少将高野のおほくにと云人をさして
六ゑのつかさ【六衛の司】合て二千人の人を竹取か家に

つかはす家に罷てつゐ地の上に千人屋の上に
千人家の人々おほかりけるに合てあけるひま
もなくまもらす此まもる人々も弓矢をたいし【帯し】
ておもや【家の中央の部分】の内には女ともはん【番=警固】におりて守らす
女ぬりこめの内にかくや姫をいたかへており
おきなもぬりこめの戸さしてとくちにおり
おきなの云うかはかり守る所に天の人にもまけ
むやといひて屋のうへにおる人々にいはく露も
物そらにかけらは【翔けらば=空を飛び廻れば】ふといころし給へまもる人
人の云かはかりしてまもるところにかはり【別本には「蝙蝠」とあり】一た
にあらはまついころして外にさらさんと

【挿絵】

【挿絵】

おもひ侍るといふおきなこれをきゝてたのもし
かりおり是をきゝてかくやひめはさしこめて
まもりたゝかふべきしたくみをしたり共あの国 
の人を得たゝかはぬなり弓矢していられ【射られ】し
かくさしこめて有共彼国の人々はみなあきな
むとす相たゝかはんとす共彼国の人きなは
たけき心つかう人もよもあらしおきなの云様
御むかへにこん人をは長きつめしてまなこを
つかみつふさんさかゝみ【さがかみ(其髪)=そいつの髪】をとりてかなくりお
とさんさかしりをかきいてゝこゝらのおほやけ
人に見せてはちをみせんとはらたちおるかく

や姫いはくこはたかになのたまひそ屋の上に
おる人共のきくにいとまさなし【見苦しい】いますかりつる
心さしともを思ひもしらて罷りなんする事の
口おしうはべりけりなかきちきりのなかりけれは
程なく罷ぬへきなめりと思ひかなしく侍る也
親達のかへり見をいさゝかたにつかうまつらて
まからん道もやすくも有ましきに日頃も出居
てことし計のいとまを申しつれとさらにゆる
されぬによりてなんかく思ひなけき侍る御心
をのみまとはして【惑わして】さりなん事のかなしくたへ
かたく侍也かの都の人はいとけうらにおひをせ

すなん思ふ事もなく侍るなりさる所へまか
らんするもいみしく侍らす老おとろへ給へる
さまを見奉らさらむ事こひしからめといひて
おきなむねいたき事なし給ふそうるはしきす
かたしたる使にもさはらしとねたみおりかゝる
程によひ打過ぎてねのこく計りに家のあたりひる
のあかさにもすきてひかりたりもち月のあか
さを十あはせたるばかりにて有人の毛のあなさへ
見ゆる程なり大空より人雲にのりておりき
て土より五尺はかりあかりたる程にたちつらね
たり内外なる人の心とも物におそはるゝやう

にて相たゝかはん心もなかりけりからうして
思ひおこして弓矢をとりたてんとすれ共手に
力もなくなりてなへかゝりたる事に心さかし
きもの【しっかりしている者】ねんして【念じて】いんとすれともほかさまへいき
けれはあれも【荒も】たゝかはて心地たゝしれにしれて【ぼんやりして】
まもりあへりたてる人共はさうそく【装束】のきよら
なる事物にも似すとふ【飛ぶ】車一くしたり【具したり】らかい【羅蓋】さ
したり其中に王とおほしき人宮つこまろ
家にまうてこといふにたけく思ひつるみやつこ
まろも物にゑひたるこゝちしてうつふしにふ
せりいはく汝おさなき人いさゝか成くとくを

おきなつくりけるによりて汝かたすけにとて
かた時の程とてくたしゝをそこらの年頃そこ
らのこかね給ひて身をかへたるかことくなり
にけりかくやひめはつみをつくり給へりけれ
はかくいやしきをのれかもとにしはしおはし
つるなりつみのかきりはてぬれはかくむかふ
るおきなはなきなげくあたはぬ事也はや返
し奉れといふおきなこたへて申かくやひめ
をやしなひたてまつる事廿余年に成ぬか
た時との給うにあやしく成侍りぬ又こと所に
かくや姫と申人そおはしますらむと云こゝに

おはするかくやひめはおもき病をし給へはえ
出おはしますましと申せは其返事はなくて
屋の上にとふ車をよせていさかくやひめきた
なき所にいかてか久敷おはせんといひたてこめ
たる処の戸則たゝあきにあきぬかうし共も
人はなくしてあきぬ女いたきて居たるかくや
姫と【外】に出ぬえとゝむましけれはたゝさしあふ
きてなきおり竹とり心まとひてなきふせる所
によりてかくや姫いふこゝにも心にもあらて
かくまかるにのほらむをたに見をくり給へと
いへとも何しに【どうして】かなしきに見をくり奉らん我

をいかにせよとてすてゝはのほり給ふそくして
ゐておはせねとなきてふせれは御心まとひぬ
文を書置てまからんこひしからん折々取出
て見給へとて打なきて書ことはは此国に生れ
ぬるとならはなけかせ奉らぬほとまて侍らて
過わかれぬる事返す〳〵ほゐなくこそ覚侍れ
ぬきをく衣をかた見と見給へ月の出たらん夜
は見をこせ給へ見捨奉りてまかるそらよりも
落ぬへき心地すると書をく天人の中にもたせ
たるはこ有あまの羽衣いれり又あるは不死の
くすり入りひとりの天人云つほなる御くすり

奉れきたなき所の物きこしめしたれは御心地
あしからん物そとてもてよりたれはいさゝか
なめ給ひて少かた見とてぬき置ころもにつゝ
まんとすれはある天人つゝませす御そ【御衣=お召もの】をとり
出してきせんとすその時にかくや姫しはし
まてといひきぬきせつる人は心ことに成なり
といふもの一こといひ置へきことありけりと云
て文かく天人をそしと心もとなかり給ひかく
や姫物しらぬ事なのたまいそとていみしくし
つかにおほやけ【天皇】に御文奉り給ふあはてぬさま
なりかくあまたの人を給ひてとゝめさせ給へと

ゆるさぬむかへまうてきてとりいて【率て】罷ぬれは
口おしくかなしき事宮仕つかうまつらす
なりぬるもかくわつらはしき身にて侍れは
心得すおほしめされつらめとも心つよく承は
らすなりにし事なめけなるもの【無礼な者】に思召とゝ
められぬるなん心にとまり侍りぬとて
  今はとてあまの羽ころもきるおりそ
   君をころも【あはれカ】とおもひいてたる
とてつほのくすりそへて頭中将をよひよせて
奉らす中将に天人とりてつたふ中将とり
つれはふとあまの羽ころもを打きせれりつれは

おきなをいとおしかなしとおほしつる事も
うせぬ此きぬきつる人は物思ひなくなりに
けれは車にのりて百人はかり天人くして上
りぬ其後おきな女ちのなみたをなかしてまと
へとかひなしあの書とをきし文をよみてきかせ
けれと何せんにか命もおしからんたかためにか
何事もようもなしとてくすりもくはすやか
ておきもあからてやみふせり中将人々ひき
くじて【「引き具して」の意。濁点を打ち間違い】帰りまいりてかくや姫を得たゝかひと
とめす成ぬるをこま〳〵とそうすくすりのつ
ほに御文そへて参らすひろけて御覧して

いとあはれからせ給ひて物もきこしめさす
御あそひなどもなかりけりだいじん上達部(かんたちめ)を
め□【「し」ヵ】ていつれの山か天にちかきとゝはせ給ふ
にある人そうすするかの国にあるなる山なん
此都もちかく天もちかく侍るとそうすこれを
きかせたまひて
  あうこともなみたにうかふ我身には
   しなぬくすりも何にかはせん
かの奉る不死のくすりに又つほくして御使に
給はすちよくしには月のいはかさといふ人
を召てするかの国にあなる山のいたゝきにもて

つくべき由仰給ふみねにてすへきやうをしへ
させ給ふ御文ふしのくすりのつほならへて火
をつけてもやすへきよし仰給ふそのよし承て
兵者もあまたくして山へのほりけるよりなん
其山をふしの山とは名付ける其けふりいま
た雲の中へたちのほるとそいひつたへたる

茨城多左衛門板
 
【蔵書印 外円】
BIBLIOTHEQUE NATIONALE MSS
【同 内円】
R.F.

【裏見開き 書き込みあり】

【左上に】
Japonais
5600
(2)


【左下に】
Acq. 83-4

【裏表紙 書票】

JAPONAIS
5600
2

【冊子の背の写真】

【冊子の天或は地の写真】

【冊子の小口の写真】

【冊子の天或は地の写真】

【帙  外側】
書票
JAPONAIS
5600
1-2

【帙 書店の書票に】
《割書:絵|入》竹取物語  二冊
茨城多左衛門板
【書票下に左からよむ】
玉英堂書店
東京•神田  電話 294 − 8045

BnF.

【表紙】

【見返し】
JAPONAIS
302

【見返し】

【文字なし】

【文字なし】

【上部右側】
《割書:R.B| 1843》3285

【上部左側】
《見せ消ち:1044|》
302

【二行目は「.」により入力画面の行数表示が赤字になっている】

【文字なし】

【文字なし】

【標題紙裏】
【蔵書印 丸印】BIBLIOTHÈQUE IMPÈRI【続き不鮮明 ALE?】 MAN.

【二行目は「.」により入力画面の行数表示が赤字になっている】

法橋保国画図
野山草
浪華書舗 積玉団

【右丁は前ページで翻刻済】
【挟み込みの用紙、日本語部分 横書き】
絵本野山草   je hon no- jama gusa. 5 B.■【Sヵ8ヵ】°
Abbildungen nebst Beschu【uはreヵ】ibung wildwae【cヵ】hsender Pflau【nヵ】zeu【nヵ】. diSubold【注①②】
【丸囲み数字】20

【左丁】
画本野山草叙
四時行はれ百物成る中に山原
水沢の草花愛すへき物若干
各色を競ふて爛熳たりかの
淵明が菊を愛し茂叔が蓮を
愛するの類は其操をとりて色【亦ヵ】艶を
とらず是賢者の物を翫ふは志を

【注① 「diSubold」は「deSiebold」ヵ「DrSiebold」ヵ。シーボルトのサインヵ。「ie」の上に「U」のような半円有。「S」から「d」までの下にサインの末尾に書かれるような楕円形が書かれ、円の中に点が三つ有。】
【注② 全文は「Abbildungen nebst Beschreibung wildwachsender Pflanzen.de[Drヵ]Siebold」ヵ。語の意味は順に、「模写・挿絵・図解」「とともに」「記述・記録」「野生の・自生する」「植物」「シーボルト(サイン)」ヵ。】

【右丁】
喪はずして真に愛すれば也《割書:予》家
世〳〵画を嗜み筆を取て恒の
産とす依て今草花を図せんと欲
して或は山野に逍遥し或は
樹家に徘徊して見る所の花を
携へ葉を袖にして其名を尋て
真偽を弁し漢名に至ては本草

【左丁】
三才図会に依て是を訂し新花
の如きは出処を追ふて名を記す爰に
其佳なる物数十種を撰写す題に【而ヵ】
画本野山草といふ今幸に渋川氏の
需に応して梓に鏤はめ聊童蒙
の便りとす是【且ヵ】凡草花は風土の寒暖
肥痩によりて国々の形容同しからず

【右丁】
花葉ともに異あり今図する所は眼の
あたり𨵃【閲ヵ】る所を是とする而已巻を
開く徒是を察せば幸ならむ
  浪華  法橋保国
       【香炉印:衛】【角印:橘印/有税「橘有税印」】

【左丁】
画本野山草巻之一目録
甘菊花(かんきくくは) 紫蕙(しらん) 花蔓草(けまんさう) 熊谷草(くまかへさう)
敦盛草(あつもりさう) ほたる草 いちはつ 馬藺(ばりん)
白朮(をけら) 銀銭花(ぎんせんくは) 蘭菊(らんきく) 一りん草
【白朮の左側の振り仮名】びやくじゆつ
あやめ 春すかしゆり 午時花(ごしくは) 夕錦(ゆふにしき)
廉子(かのこ)百合(ゆり) 羽衣(はころも) 仙翁花(せんをうけ) 小苑草(せうゑんさう)
桔梗(きけう) しもつけ 芙蓉(ふよう) 山藤(やまふぢ)

【右丁】
あみだ笠(かさ) 紅黄(こうわう)草 をだまき 高麗(かうらい)菊
時計蘭(とけいらん) 沢桔梗(さはぎけう) 丁子(てうじ)草 かたこゆり
まゆはき くかい草 秋菊(あききく) 《割書:すいようひ|小猩々》
《割書:こがねめぬき 大ぬれ鷺|大般若 清見寺 さきわけ》 山杜鵑(やまほとゝぎす) 秋薊(あきあざみ)
燕麦(かるかや) 鬱金(うこん) 立葵(たちあふひ) 戎葵千弁(からあふひせんえ)
岩石蘭(がんぜきらん) 岩蘭(いはらん) 風蘭(ふうらん) 石斛(せきこく)
釣鐘(つりかね)かつら 黄蕙(わうけい)

【左丁】
南陽 酈懸(レイケン)ニ甘谷アリ水甘美也上ニ多 ̄ク菊アリ水ニ落テ流下ル谷中ノ
人家此水ヲ飲上寿ハ百二三十中ハ百余歳七八十ヲハ夭トスルナリ





【右丁】
紫蕙(しらん)
【左側の振り仮名】シケイ

【図中央の花の下の注記】白
            エンシ

【左丁】
【図中央下の花の右下の注記】キ
              ■【注】
              白
              白

【図中央下の花の下の注記】花 エンシク
              エンシクマ

花蔓草(けまんさう)

【注 ■は「名」ヵ「クハ」ヵ「クロ」ヵ。『畫本野山草. [1]』コマ6(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)では「名」。橘保国 画『絵本野山草 5巻』[1],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569335 コマ7では「クハ」「クロ」に見える。】
【五~六行目、九~十二行目の注記の文字は全て線で該当箇所を指している】

【右丁】
熊谷草(くまかへさう)

花ノウテナ白六
花コフンウス生エンシクマ
ホシクサノシルスシ同

【左丁】
花地白キソトサキヨリ
生エンシクマ内ソコヨリ同
クマスシホシ同生エンシ

敦盛草(あつもりさう)

ほたる草

【右丁】
いちはつ

【左丁】
馬藺(ばりん)

【右丁】
【見出し、囲み部分】甘菊(かんきく)花《割書:花五六月より|十月まで》【囲みの外】葉(は)つねの菊葉(きくのは)の順(めぐ)り丸(まろ)し花(はな)の色(いろ)白(しろ)黄(き)
さかやき有菊也 高(たか)さ一尺(いつしやく)ばかり又(また)は四五寸斗(しごすんばかり)山谷(やまたに)に有(あり)野原(のはら)にも
有あぢはひ甘(あま)きを以て甘菊といふ菊児童(きくじどう)にあしらふも是(これ)なり
【区切り線】
唐(たう)本草(ほんさうニ)菊花(きくくは)一名(いちめいは)女節(じよせつ)一名(いちめいは)女華(じよくは)劉蒙菊譜(りうもうがきくのふ)三十(さんじう)
五品(ごひん)又(また)三十二品(さんじうにひん)范石湖菊譜(はんせきこがきくのふ)七十二種(しちじうにしゆ)今(いま)不(す)_レ止(とゞめ)_二
《振り仮名:一-種|いつしゆの》甘菊(かんきくを)_一茎(くき)紫(むらさき)気(き)香(かうばしく)味(あぢはひ)甘(あまく)花(はな)深黄(しんくわう)単葉(せんよう)有(ある)_二粥(しゆく)膜衣(もい)_一
者(ものを)為(す)_レ真(しんと)取(とりて)_レ花(はなを)作(なし)_レ糕(もちと)并(ならひニ)鹹烹(しほににして)飲(のみて)佳(かなり)又(また)有(あり)_二鴛鴦菊(えんわうきく)五月
菊六月菊_一陸亀蒙(りくきもう)有(あり)_二把菊賦(はきくのふ)_一曽(かつて)端伯(たんはく)以(もつて)為(す)_二佳友(かいうと)_一
【区切り線】【見出し、囲み部分】しらん《割書:三四月花咲|けいとも云》
紫(し)けい共云《割書:漢名(かんめう)》白及(はくきう)
【囲みの外】葉 黄蕙(わうけい)のはに似(に)てながくこはし花しのたち
のびてらんのごとき本紫色(ほんむらさきいろ)の花さく花のうち
舌(した)あり同(おなじ)く紫いろに白き粟紋(なゝこ)すこし有あり又うすむら
さき有うすけいとも紫けいともいふ又白けいといふ有花のいろ
白し一 種(しゆ)白に紫の咲(さき)わけ有葉ほそく長(なが)しつねの紫よりは小(こ)

【左丁】
葉(は)にして茎(くき)をまきだん〳〵に葉 出(いつ)る至極(しごく)見事(みごと)なり
【区切り線】【見出し、囲み部分】けまん草《割書:漢|名》
荷苞牡丹(かはうぼたん)
《割書:又》黄(き)けまん
漢名 馬芹(ばきん)
【囲みの外】はなのかたちけまんのかたちだん〳〵につらなり
黄(き)けまん菊(きく)のかたちやぶにんじんの葉のごと
しはなのかたちせいらんのはなに似(に)て色(いろ)
黄(き)なりけまんの名(な)あれともくさみしかく
別(べつ)にちがひありはな三四月まであり
【区切り線】【見出し、囲み部分】熊谷草(くまかへさう)《割書:花三月》
敦盛草(あつもりさう)《割書:花二月》
【囲みの外】花のかたち母衣(ほろ)のごとく色白く葉は款冬(ふき)の
葉に似(に)てこはくあつしまた敦盛草(あつもりさう)は
色(いろ)うす紅(べに)也葉さゝばなり花のかたち似(に)たり是(これ)其類(そのるい)漢名 莪朮(がじゆつ)
【区切り線】【見出し、囲み部分】ほたる草《割書:四月中|はな有》
【囲みの外】葉 柳葉(やなぎのは)に似(に)てあつくつや有花ちいさく
いろ本(ほん)るりそこ白しるりと白との間(あいだ)にあいべにのほし
入(い)りうちにほそきしへあり至極(しごく)見事なり蔓(つる)生(しやう)
ず茎(くき)をふせ根(ね)をおろすほたるかづらともいふ又るり草(ざう)
とも玉(たま)かづらともいふたけ五六七寸ばかり谷にあり

【右丁】
白朮(をけら)

【左丁】
銀銭花(ぎんせんくは)

らんきく

【右丁】
一りん草

《振り仮名:𬞥蓀|あやめ》【注】

【左丁】
春すかしゆり

【注 「𬞥」は「渓」ヵ】

【右丁】
【見出し、囲み部分】白朮(びやくじゆつ) 《割書:花夏ゟ|秋の末|まて咲》
【囲みの外】春(はる)より生(しやう)ず葉(は)はこはくさゝらあり鋸歯(のこぎり)ちいさく一 枚(まい)葉(は)有
三つ葉(は)有花 白(しろ)く亦(また)桜色(さくらいろ)有 台(うてな)に小(ちいさ)き魚骨(うをのほね)のごとくなる
葉のとりまきあり長(たけ)一二尺ばかり一名ををけらともいふ
【区切り線】【見出し、囲み部分】銀銭花(ぎんせんくは) 《割書:朝露草(てうろさう)|ともいふ》
【囲みの外】はなのかたちかうそのことく花は秋葵(かうそ)より小(ちいさ)し
いろ白青きうるみ色花 底(そこ) 黒べにのきほひあり葉五つ出(で)三つて有
葉のきれ西瓜(すいくは)の葉に似(に)たり長一二尺ばかりえだもあり朝(あした)に
ひらきゆふべにしぼむその次(つぎ)なるはな又朝にひらく秋葵(かうそ)
の類也又 金銭花(きんせんくは)に似たり六七月まではなさく
【区切り線】【見出し、囲み部分】蘭菊草(らんぎくさう)
《割書:七月より|八月まて花》
【囲みの外】葉 布袋(ほてい)ぎくに似てうすくひろしさき尖(とか[がヵ])り
ふちのまはりきれあり葉の間にたん〳〵くるま
にさくはなにむらさきしろ二 種(しゆ)あり
【区切り線】【見出し、囲み部分】馬藺(ばりん)
【囲みの外】花のかたちあやめのごとし色(いろ)うすむらさき葉あやめ
に似てすこしほそし三四五月まではなあり
【区切り線】【見出し、囲み部分】いちはつ
【囲みの外】花に紫白二色有葉 日扇(ひあふぎ)に似(に)たり二月 末(すえ)花あり

【左丁】
【見出し、囲み部分】一りん草
兎葵(とき)《割書:二|月》
《割書:はな有》
【囲みの外】花葉ともに梅花草(はいくはさう)に似て小(こ)ぶり也しのだち一りんつゝ
はなさく夏雪草(なつゆきさう)ともいふ此 少(すこ)し大ふりなるを一(いつ)
花草(くはさう)といふ梅花(ばいくは)草とははなのつきやうにちがひあり
【区切り線】【見出し、囲み部分】あやめ《割書:三四|月》
《振り仮名:𬞥蓀|けいそん》【注】《割書:花|有》
【囲みの外】花に白あり紫有ねずみ色あり咲わけあり白に
紫のうつり少(すこ)し有花也 蜀錦(しよくきん)あやめといふ又色紫
にて六えうありまたをきなあやめといふは葉しろにあを
のうつりあり筋入(すじいり)あやめあり葉に白すじいる
【区切り線】【見出し、囲み部分】春透百合(はるすかしゆり)《割書:三四月|花さく》
【囲みの外】夏(なつ)すかしよりはすこし色つよくかのこ少(すくな)し
まるみ艶(つや)ありたちのびること二三尺はなのいろ黄あかく紅のく
ま有花びら六 枚(まい)しへ六 本(ほん)さきに米(こめ)有色むらさきなり
【区切り線】
百合(ひやくがう)有(あり)_二 三種(さんしゆ)_一。一名(いちめいは) 檀香(たんかう)。百合(ひやくがう)子(み)可(べし)_二烹(に)或(あるひは)蒸(むして)食(くらふ)_一_レ之(これを)。 益(ます)_レ気(きを)。一(いち)
名(めいは)山百合(さんひやくかう)。子(み)可(べし)_レ食(くらふ)。花(はな)遅(をそきこと)一月(いちげつ)不(す)_二甚(はなはた)香(かうばしから)_一 一名 ̄ハ虎皮百合(こひひやくがう)能(よく)殺(ころす)
_レ 人(ひとを)不(す)_レ可(べから)_レ食(くらふ)。都波(とは)不(ざり[るヵ])_レ知(しら)_二耕稼(かうかを)_一土(と)多(をゝし)_二百合(ひやくかう)_一。取(とりて)_二其根(そのねを)_一以(もつて)為(す)_レ糧(かてと)

【注 「𬞥」は「渓」ヵ】
【十四行下から二字目「尖」のルビ「か」は濁点が有るように見える。『畫本野山草. [1]』コマ12(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)では「が」。橘保国 画『絵本野山草 5巻』[1],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569335 コマ13では「か」。】
【三十五行下から三字目「じ」は薄く濁点が見える。国立国会図書館デジタルコレクション(右注と同)も同じ。『畫本野山草. [1]』(右注と同)は「じ」。】
【四十三行七字目「不」のルビ「ざり」は『畫本野山草. [1]』(右注と同)では「さる」。国立国会図書館デジタルコレクション(右注と同)では「さり[るヵ]」。】
【四十三行下から七字目「合」の後の「。」は『畫本野山草. [1]』(右注と同)と校合し補字】
【『畫本野山草. [1]』(右注と同)では四十二行十字目~ルビ「いちげつ」は「いちけつ」、同行下から四字目~ルビ「ひやくがう」は「ひやくかう」】

【右丁】
午時花(ごじくは)

【左丁】
夕錦(ゆふにしき)

【右丁】
鹿子(かのこ)百合(ゆり)

【左丁】
内朱
外ニクシキ

仙翁花(せんをうけ)

羽衣草(はごろもさう)

【右丁】
【見出し、囲み部分】午時花(こしくは)《割書:花六七月|一名金銭花|又子午花》
【囲みの外】葉のかたちずた草に似たれどものこぎり小(ちいさ)く
はにこはみあり花のかたちぼけの花に似てさきと
がりよこ花 開(ひらく)赤(あか)ぼけに似て色又 濃(こい)紅(べに)にして見事也花かゝへ
さき至極(しごく)いかりつよくうちにあかきざい五つたち中心(まんなか)に蕊(しべ)
一つ立(たつ)しべともにあかし葩(はなびら)の底(そこ)にもゝいろあり其 次(つぎ)に少(すこ)し
紫有 此(この)しべ総(そう)あかし台(うてな)長春(ちやうしゆん)に似(に)て又たねのふくらなし
つぼみたねに似てたね又つぼみに似たり長(たけ)一二尺はかり也
【区切り線】【見出し、囲み部分】錦帯花(きんたいくは)
《割書:一名》夕錦草(ゆふにしき)
【囲みの外】葉 番椒(とうがらし)【注】に似たり葉に大小有はなは山さくらに似た
り又花の茎(くき)長(なが)くしてはるか下に台(うてな)あり花のいろ
黄あり又紅有 半黄(はんき)半紅(はんあか)ありとびいりあり一本のうちに
いろ〳〵有また黄ばかりべにばかりあり葉むかひあひ出て
えだも両方へはびこるはな七八月にさくなり
【区切り線】【見出し、囲み部分】鹿子(かのこ)百合(ゆり)《割書:六七月|花有》
【囲みの外】葉ほとゝぎす草に似たり花白にして紅
のくまあり又紅むらさきのほしかのこあり葩(はなびら)六 枚(まい)花大さ鬼(をに)
百合(ゆり)のごとく茎(くき)同し高(たか)さ四五尺ばかりなり

【左丁】
【見出し、囲み部分】せんのうけ
剪秋羅(せんしうら)
【囲みの外】花葉ともがんひに似色本紅有白ありうす紅あり紫有
むらさきしぼり有りとびいり有高さ二尺斗六七月花さく
【区切り線】
剪春羅(せんしゆんら)花(はな)有(あり)_二 五種(ごしゆ)_一春夏秋冬(しゆんかしうとう)各(をの〳〵)以(もつて)_レ時(ときを)名(なづく)春夏(しゆんかの)
二羅(じら)色(いろ)黄(き)紅(くれなゐニして)不(ず)_レ佳(かなら)独(ひとり)秋冬(しうとうのものは)紅深(こうふかく)色(いろ)美(びなり)亦(また)在(あり)_二春(しゆん)
時(じ)分(わかつ)_一_レ種(たねを)又(また)一種(いつしゆ)色(いろ)金黄(きんくわう)美(び)甚(はなはだし)名(なづく)_二金剪羅(きんせんらと)_一
【区切り線】【見出し、囲み部分】のこぎり草
《割書:一名がんぎ草|又もしほ草又|はころもといふ》
【囲みの外】一 本(もと)に二三十 茎(けう) 生(をひ)たつ高(たか)さ二尺ばかり葉せまく
長(ながふ)してふちに鴈歯(がんぎ)有 夏秋(なつあき)の間(あいだ)はなをひらく細小(さいせう)
の菊花に似(に)たりいろ紅白二いろあり紅花を上品(じやうひん)とすはな五
月にありまた九月 末(すえ)にあるは紅(べに)むらさき色なり
【区切り線】
此(これ)本草図経(ほんさうづきやう)等(とうニ)其(その)生(せい)如(ごとし)_レ蒿(よもきの)作(なす)_レ 叢(くさむらを)高(たかさ)五六尺(ごろくしやく)一本(いつほん)一
二十茎(にじうけう)秋後(しうご)有(あり)_レ花(はな)出(いづ)_二於 枝端(したんより)_一紅紫色(こうししよく)形(かたち)如(ごとし)_二菊形(きくのかたちの)_一能(よく)
合(がつす)_レ之(これに)○史記(しき)亀策伝(きさくでんニ)言(いふこと)蓍(めどの)状(かたちを)極(きはめて)怪(あやし)妄(みだりニ)悉(こと〳〵く)不(ず)_レ可(へから)_レ信(しんす)惟(たゞ)
神(しんにする)【レ点脱ヵ】之(これを)爾(のみ)○詩経(しきやうニ)浸(ひたす)_二彼(かの)苞蓍(はうきを)_一《割書:葛風(かつふう)下(か)|泉章(せんのしやう)》朱註(しゆちうニ)著(めとは)筮草(ふさう)也(なり)

【注 「番」は「蕃」ヵ】
【三十八行目文末「一」はルビ脱ヵ】

【右丁】
小苑草(せうえんさう)

桔梗(ききやう)

【左丁】
しもつけ

【右丁】
芙蓉(ふよう)

【左丁】
内スシ 生エンシ
外コフン

【右丁】
山藤(やまふじ)

【左丁 文字無し】

【右丁】
【見出し、囲み部分】小苑草(せうえんさう)
【囲みの外】宿根(ふるね)より春(はる)生(しやうず)葉(は)はしをんより短(みじか)くよこへ少(すこ)しひろく
初生(しよせい)地(ち)に数茎(すけう)出(いで)て五六 尺(しやく)迄(まで)にのび立(たち)花しをんのごとくにて白し又
小(こ)しをんと云草あり花 極(きは)めて小(こ)りんにして白し草立(くさだち)葉ともしをん
のごとくにて小草(こくさ)也二尺ばかりのび立(たつ)花なり七八月はなさく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】桔梗(きけう)
【囲みの外】花 数(かず)多(をゝ)しるりの一重るり八重白一重白八重紅ひとへ紅八重
南京(なんきん)さらさは白にるりのしぼり入大りん南京さらさ咲(ざき)と
いふはつねの花よりひらたく咲 扇桔梗(あふぎぎゝやう)といふはさらさ咲より葩(はなびら)たくましく
咲也又 咲分(さきわけ)有黄の桔梗有せんだい桔梗 車(くるま)桔梗有六七月花有和名ありのひふき
【区切り線】
【見出し、囲み部分】下野(しもつけ)
線繍菊(せんしうぎく)
【囲みの外】花のかたちさくら川草のごとく本紅色葉もみぢに似て
茎(くき)ほそし白花有うすいろあり白花の方は葉あつくき
れあさし草下つけといふあり日光(につくはう)しもつけともいふはな葉共
に紅の方にをなしくさたちのひず小草(こくさ)なり鳳凰草(ほうわうさう)と
いふもはな葉ともに同じはのきれこみしもつけの葉
よりは丸し三種ともに同じものなり五六月はなあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】芙蓉花(ふようくは)
【囲みの外】葉は桐(きり)に似たれとものこぎり有て葉うすし葉両方へ

【左丁】
【見出し、囲み部分】《割書:一名は木蓮(もくれん)|芙蓉の名二つ》
《割書:有水に生(しやうず)るを|草芙蓉といふ》
《割書:荷花(はす)也 陸(くが)に|生るを木芙蓉》
《割書:といふ》
【囲みの外】一 對(つい)付(つく)大さくさぎのごとく又花はむくげに似たれども大
く一重あり八重有千重有色大白有大紅有 薄紅(うすべに)あり
しの立(たち)高(たか)さ一丈斗有もあり又一尺斗有も花咲一尺斗有とき
は草立(くさだち)一 丈斗(じやうばかり)有は木立(こだち)に成也 古枝(ふるえだ)よりわかはへ出て牡丹に同し
【区切り線】
芙蓉(ふよう)八九月 ̄の内(うち)開(ひらく)有(あり)_二拒霜之名(きよさうのな)_一 一名(いちめい) ̄は木蓮(もくれん)一名 ̄は木(もく)
芙渠(ふきよ)楚詞(そしに)搴(かゝぐ)_二夫容(ふようを)於 木末(もくばつに)_一有(あり)_二大紅(たいこう)粉紅(ふんこう)白(はく) ̄の三色(さんしき)_一又(また)
有(あり)_二酔芙蓉(すいふよう)_一 一日之内(いちにちのうち)花容(はなのかたち)三変(みたびへんず)由(より)_レ白(はく)而(して)淡紅(たんこう)桃紅(とうこう)
丸子(まろきみあり)芙蓉 一枝(いつし)土(つちより)開(ひらく)花(はな)幾色(いくいろぞ)一本上(いつほんのうへに)有(あり)_二 九色(くしき)_一魏文(ぎのぶん)
帝(てい)有(あり)_二芙蓉園(ふようえん)_一括異志(てんゐし)有(あり)_二《振り仮名:芙蓉館主|ふようく■【わヵはヵ】んしゆ》芙蓉 城(じやう)_一
【区切り線】
【見出し、囲み部分】紫藤(やまふぢ)
【囲みの外】花の形(かたち)豆(まめ)の花に似(に)たり色紫そとびらの色うすし内びら
いろこいむらさき也葉はぬるでに似たり一じくに葉十一二三まい
斗有花 茎(くき)に連(つら)なりさがる咲(さき)じくの長さ三尺 余(よ)有是は野田藤(のだふぢ)
又山藤は茎みじかく花も少し赤し白藤は花大くして茎短し
しの立 蔓(つる)にして木にまとふ白藤は花早し紫ははな遅(をそ)し三月咲なり

【三十四行二十字目「は」は「ば」ヵ。確認資料:橘保国 画『絵本野山草 5巻』[1],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569335 コマ20】
【四十行六字目「括」のルビ「てん」は「かつ」ヵ】
【四十三行十四字目「と」は『畫本野山草. [1]』コマ19(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)と校合し補字】

【右丁】
あみだかさ

紅黄草(こうわうさう)

【左丁】
地ヲウドノグ
  コキシヤウヱンジクマ
おだまき

高麗菊(かうらいきく)

【右図の上側 図の文字は全て線で該当箇所を指している】
白ヲウドノグ


【右図の中央】

【右丁】
【見出し、囲み部分】車軸草(しやぢくさう)
半辺蓮(はんへんれん)
【囲みの外】葉 矢筈(やはづ)のごとくうす紅(べに)のはなだん〳〵さく蔓(つる)と同く
ひろがりて立のびず又あみだかさともいふ五六月花さく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】をだまき草《割書:三四月|  花有》
【囲みの外】花のいろ柿紅(かきべに)花のうち黄にしてそと
黄のうつりありかたちいとまきのごとし葉はとんぼう草
に似て大葉(をゝは)なり茎(くき)むらさきいろはなの四方つのなきを
八重のをだまきといふまた放下僧(はうかざう)ともいふ
【区切り線】
【見出し、囲み部分】紅黄草(こうわうさう)
漢名 藤菊
【囲みの外】葉 蜀椒(さんせう)のはのごとく花のうちこい柿紅そと黄はなび
ら五 弁(まい)花のふちにそとの黄色少しまはり又千重有
【区切り線】
【見出し、囲み部分】かうらい菊
一名 春菊(しゆんきく)
蒿菜花(かうさいくは)
【囲みの外】花のかたちはま菊に似たり色黄にして葩(はなびら)さきよ
り白し葉のかたちまつむし草に似たりいろあ
さく又花の色 総(さう)黄なるもありまた総白も有
じくたちのびはなさくたかさ一二尺ばかり葉ふゆより
あり葉さきしなやかなるものなり葉しけくつ
くはなすくなく又をらんだきくともいふ

【左丁】
時計蘭(とけいらん)

《振り仮名:沢桔梗|さ□【は】ききやう》

【□は橘保国 画『絵本野山草 5巻』[1],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569335 コマ22と校合し補字】

【右丁】
丁子草(てうしさう)

かたこ百合(ゆり)

花エンシノグ
同ク□【マ】
ニホイ青

【左丁】
まゆはき

くかい草

【□は橘保国 画『絵本野山草 5巻』[1],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569335 コマ23と校合し補字】
【六行四字目「シ」は国立国会図書館デジタルコレクション(前注と同)では「ジ」】

【右丁】
すいようひ 《振り仮名:小猩〻|こしやう〳〵》

大ぬれ鷺

【図中央】
こがね
めぬき



【左丁】
大槃若(だいはんにや)

【図下 図の文字は全て線で該当箇所を指している】
生エンシクマ



【図左下】
清見寺
 さきわけ

【右丁】
【見出し、囲み部分】とけいらん《割書:又沢ゑびね|草共いふ》
【囲みの外】葉ゑびねのごとくにてみじかし
はなのかたちゑびねに似てちいさしいろくろべに
葉のうへにほしさま〳〵いる白のほしいるもあり
むらさきのほし入もあり水間(みづま)えびねとも小ゑびね
とも沢ゑびねともいふなり四五月はなあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】沢桔梗(さはぎけう)
【囲みの外】花ききやうに似てきれふかく葩長し色も桔梗に
同葉も同し高二三尺斗のび水より生す六七八月に花さく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】丁子草(てうじさう)
山梗菜(さんかうさい)
【囲みの外】葉柳葉に似て花こんいろかたち丁子のごとく
小りん也葉の間にさく三月はなあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】かたこ草
《割書:かたこ| ゆり》
旱藕(かんぐう)
【囲みの外】葉さゝ葉に似て花のかたちゆりのごとく色うす紅
なり万葉集(まんえうしう)のかたくりこれなりもちあつかふこと
久し芸花家(げいくはけ)にて初ゆりといふ二月はなあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】眉(まゆ)はき草。秋あざみ
田(た)むら草《割書:二八月| 花さく》
【囲みの外】花葉ともにあさみに似て葉うすくはり
なし花しの立(たち)のび小枝(こえだ)分(わか)れ卓散(たくさん)にはな

【左丁】
さく秋あざみといふ眉(まゆ)はきといふは秋あざみにかぎら
ず春あさみをいふはなのかたち眉はきに似たり一 種(しゆ)葉あ
つくきれふかくはなも又つねの秋あざみより大輪(たいりん)也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】くかい草
【囲みの外】花のかたち虎(とら)の尾(お)のごとく色うす紫なり葉
くるまばにつきだん〳〵に葉出る五月はなさく
【区切り線】
菊は秋より生(しやう)じて秋まで有 年中(ねんぢう)絶(たゆ)る事なし葉の徳(とく)
松(まつ)に似たり秋 草花(くさのはな)をとろふ比はな盛(さかり)にして冬に至(いた)りいよ
〳〵多し一名を菊としてよび名は多し又はなに大小有
先さしわたしかねさし一寸より以下は小りんとす小りんに二品有
五六分 已下(いか)は小(こ)りんとす一寸より二寸迄は中りん二寸より三寸迄
は大りん也三寸二分より小柄にあたるゆへ大の大三寸五分より
上は大の大大といふべし先(まづ)こゝにしるすは白(しろ)すいやうひ黄す
いやうひ有大はんにや又黄大はんにやぬれさき又小りんの
うち小せうじやう小がねめぬきせいけんしさきわけあるなり

【右丁】
山杜鵑(やまほとゝぎす)

秋薊(あきあざみ)

【左丁】
燕麦(かるかや)

鬱金(うこん)

【右図 線で該当箇所を指している】
地白六
生エンシカク

【左図】
スジ有ハキイロ
   クサクマ
スジナキハ白

【右丁】
立葵(たちあをひ)

【左丁】
戎葵千弁(からあふひせんえ)

【右丁】
岩石蘭(がんせきらん)

岩蘭(いはらん)

【左丁】
風蘭(ふうらん)

石斛(せきこく)

【図中央】
生エンシク

【右丁】
【見出し、囲み部分】山郭公(やまほとゝぎす)
時鳥草(ほとゝぎすさう)
【囲みの外】花のかたちつねのほとゝぎすにて色は其 鳥(とり)の羽(は)の
ごとくなるさゝらありつねのほとゝぎすより
葉も丸く花もはやさきなり七八月花さく漢名(かんめい)三白草(さんぱくさう)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】かるかや 漢名 燕麦(エンハク)
【囲みの外】葉 雀麦(ちやひきくさ)のごとく花もまたおなしいろ花 葉茎(はくき)
ともにくろくこはし七月に花和哥にはたゝかやともよめ
り白めかやともさま〳〵うたによめり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】平紅帯(へいこたい)《割書:六七八月|  花有》
【囲みの外】葉 彭翁菜(ほうをうな)に似(に)てきれふかく花しの立(だち)末(すえ)に
るりむらさきいろあざみのかたちにて丸きはなさく至(し)
極(ごく)かはりなり又ひらい草(さう)ともいふ歟(か)又ひこたへといふ也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】うこん草
 鬱金(うこん)
【囲みの外】葉 美人蕉(びじんしやう)に似たり花のかたち歎冬花(ふきのはな)のたけたるご
とくはの中に咲(さく)色(いろ)白く少(すこ)しうつり見ゆる八九月花有
【区切り線】
【見出し、囲み部分】葵(あふひ)《割書:五月| 花|  有》
菺葵(けんき)
戎葵(からあふひ)《割書:共|いふ》
【囲みの外】くれない八重一重有 花形(くはぎよう)木綿(わた)の花のごとし紫一重千
重有雪白千重と一重有 源氏(げんじ)うすいろにて花のへり
白し八重一重有そこ白八重一重有花の中白し

【左丁】
【見出し、囲み部分】蜀葵(しよくき)
【囲みの外】又 底(そこ)赤と云は花の中赤しうす墨(すみ)薄(うす)ねずみ色八重一重有【囲み部分、解説文は前行の続き】
【区切り線】
【見出し、囲み部分】石蘭(せきらん)
【囲みの外】葉はしらんはくらんなとのことくにて根本 土(つち)の上に二三
寸高く岩のごとくなるかぶ有年々に数(かず)出(いで)て後(のち)は岩石(がんぜき)のごとし
其(その)間々(あい〳〵)に花七八寸に出る花のかたちは大蘭に似て色うこん也
岩石蘭(かんぜきらん)といふ六七月はなさく蘭も同時なり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】なごらん
【囲みの外】葉はほそ長くあつく葉のさき丸し葉の□【色】は緑青(りよくせい)に
して青漆(せいしつ)をぬるがごとく花うす白少し青み有て色あさ
黄なり四五寸程に出て段(だん)〳〵に開(ひらき)花形(くはぎやう)は蘭花に似て五出
花中に一出有て濃紫色のかのこ有愛らしき花也七八月 咲(さく)也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】風蘭(ふうらん)《割書:花五|六月| ゟ》
おさ蘭(らん)《割書:八月| 迄》
【囲みの外】葉柳葉にしてほそくあつしつや有ちいさし花
のいろ白く小りん蘭花のごとし又なごらんありかや
らんありなごらんは葉大葉にして花の色黄らんの小(ちいさ)きがごと
し葉の間にさく根あがりてからことの外見事也かや
らんは葉 対生(むかひしやう)ずしげく出で梭(をさ)【注】のかたちのごとし故(ゆへ)におさらん

【注 『日本大百科全書』(小学館)の「オサラン」の項には「筬蘭」の記載有。「筬」「梭(=杼:ひ)」はともに機織り道具の部品の名称。】
【四十一行下から五字目の□は『畫本野山草. [1]』コマ28(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)と校合し補字】

【右丁】
といふ又天人夢ともいふ棒らんといふあり草の茎のごとく小
えたわかれふし〳〵に極(こく)こまかなる花さくかはりたるものなり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】石斛(せきこく)又
《割書:木に生(しやうず)るを》
木斛(もくこく)《割書:と| 云》
《割書:花五六月》
【囲みの外】さゝ葉に似てあつく小葉(こは)にして茎(くき)にひげ有一ふしづゝ
くゝり有 花形(くはぎやう)風(ふう)らんと同(をな)しく白し又うすべに有 棕梠(しゆろの)
皮(かは)にてつゝみつりものにてもてあそぶ正二月花有
【区切り線】
石斛(せきこく)生(しやうず)_二 六安(ろくあん)山谷水傍(さんこくすいのかたはら)石上(せきしやうに)_一今(いま)荊州(けいしう)広州郡(かうしうぐん)及(をよひ)温合(をんがう)
州(しうに)亦(もまた)有(あり)_レ之(これ)以(もつて)_二広南者(こうなんのものを)_一為(す)_レ佳(かなりと)多(をゝく)在(あり)_二山谷中(さんこくのうちに)_一 五月 生(しやうじ)_レ苗(なへを)茎(くき)
似(にたり)_二竹節(ちくせつに)_一節間(ふしのあいだ)出(いだす)_二砕葉(すいえうを)_一 七月 開(ひらく)_レ花(はなを)十月 結(むすぶ)_レ実(みを)《振り仮名:其根|その□【ね】》細(さい)長
黄色(きいろ也)七月八月 採(とる)_レ茎(くきを)以(もつて)_二桑灰湯(くはのあくを)_一沃(そゝけは)_レ之(これを)色(いろ)如(ごとし)_レ金(きんの)陰乾(かげほしして)用(もちゆ)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】つりがねかづら
【囲みの外】花のかたちほうちやくのごとく花の色白くう
るみありはなびらに紫(むらさき)のごまふありはなびら五つにして
うつぶきさく葉 風車(かざぐるま)のかたちに似れとも葉かた〳〵に付(つい)て
両方(りやうはう)にむかはす又しの立(だち)も似(に)たり山中の谷(たに)に有□【三】四月より八月迄有

【左丁】
釣鐘(つりがね)かづら

【十五行下から三字目「根」のルビ□は橘保国 画『絵本野山草 5巻』[1],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569335 コマ30と校合し補字】
【二十二行下から九字目の□(上の横線の左端が薄く見える)は『畫本野山草. [1]』コマ29(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)と校合し補字】

【右丁】
【見出し、囲み部分】黄蕙(わうけい)【囲みの外】葉しらんに似てひろくやはらかなりはなのかたちらんのご
とし色上々うこんなり葉にしろきほし入るもあり黄のほし
入(いる)もありこれをほしけいともほしがんぜきともこけいともいふ
根(ね)のもとにたまありがんぜきのごとし四月はなさく
【区切り線】
黄蕙(わうけい)

【左丁】
画本野山草巻之二目録
 時計(とけい)草  春蘭(しゆんらん)     時鳥(ほとゝぎす)
 桜菜(さくらな)   春蕙(しゆんけい)草    雪の下
 棣棠(やまぶき)   野芍薬(のしやくやく)    しやが
 仙台萩(せ▢[ん]だいはぎ)  紫白根葵(むらさきしろねあふひ)  挾竹桃(けうちくと▢[う])
 金桜茨(きんをういばら)  釣鐘(つりがね)草    花忍(はなしのぶ)
 熊野菊(くまのきく)  はくまなてしこ 靱(うつぼ)草

【▢は『畫本野山草. [2]』コマ2(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)と校合し補字】

【右丁】
 宝釈(ほうちやく)草  蘭(らん)     八代(やつしろ)草
 万花(まんくは)草  黄芩(わうごん)    花覆盆子(はないちご)
 松本剪(まつもとせん)  がんひ    小しやが
 水河骨(みづかふほね)  六(む)つ出杜若(でかきつばた) 菖蒲咲(あやめさき)
 芍薬(しやくやく)   春蘭     春竜胆(はるりんだう)
 ほとけ草 九曜(くよう)草

【左丁】
時計草(とけいさう)

ウテナ白六クサノシルクマ
ハナヒラ内白白六クマ
又ソト白サキヨリ白六クマ
ハナヒラ十枚ウテ十三枚

【右下】
○三ツ丁子カシラムラサキシクトモ
○五ツシモクカシラキ色シク白六
○又ウリガタ中シントモ白六
○又中シンノキワノクロミ又中
 ホドノクロミ是ムラサキキヤウ
○中白シへ又ソト中ノシベ白

【図右下】
葉一ハン
六セウ

【二行一字目~「宝釈草」は「宝鐸草」ヵ。どちらも情報有。】

【右丁】
春蘭(しゆんらん)

時鳥(ほとゝぎす)

【右図・右】
花生エンシノグ内白
ソトクサノシルクマ

【右図・中央】【注】
白六
クサクマ

【左図・上】
花ノ地コフン
生エンシクマ
星生エンシ

【左図・中央】【注】
クサノシルクマ
又生エンシノキヲヒ

【左丁】
桜菜(さくらな)

春蕙草(しゆんけいさう)

【右図・上】
花エンシグ生エンシノクマ

【左図・左上】
花コフン上シワウカケ
ウスヲウトクマ

【左図・中央】【注】
白六生エンシ
クマシワウ
ガケ

【注 線で図の該当箇所を指している】

【右丁】
雪下(ゆきのした)

棣棠(やまぶき)

【左丁 文字無】

【右丁】
【見出し、囲み部分】時計草(とけいさう)
《割書:ほじろ|   草》
《割書:とも| いふ》
【囲みの外】花(はな)色(いろ)白(しろ)し花 蕊立(しのだち)かたち風車(かざくるま)のごとく内に茶筌(ちやせん)の
ほのごとくきざ有 二廻(ふたまは)り立(たち)其(その)とまり紺色(こんいろ)也其うちに
高砂百合(たかさごゆり)のごとくなるもの五つ長(なが)く立(たち)花の底(そこ)黄(き)いろ
うちの方 白(しろ)く黄(き)色のふち取(とり)又其のうちに本紫(ほんむらさき)わらび手(て)の丁子(てうじ)
がしら蜘蛛手(くもて)のしん立(たち)そのしんの根(ね)に紫色 髪(かみ)すじのごとく小(ちいさく)
ほそきものしべにて取廻(とりまは)しくも手(て)のしんのうち亦(また)茶(ちや)色 米(け)
嚢(し)花の実(み)のごとく成(なる)もの長く立(たつ)花四つ時より開(ひら)き八つ時迄かゝへ日
に向(むか)ふ花しべのきざ廻(まは)ること時計(とけい)のごとく四月より咲出(さきだ)し七八月まて咲
【区切り線】
【見出し、囲み部分】春蘭(しゆんらん)《割書:一名》独頭蘭(とくとうらん)【囲みの外】葉(は)蘭(らん)に似(に)て小(ちいさ)し春(はる)白(しろ)うす紅(べに)の花を開(ひらく)らんのごとし二月花
【区切り線】
【見出し、囲み部分】郭公(ほとゝぎす)
 草(さう)
【囲みの外】花(はな)の形(かたち)桔梗(ききやう)の花びらのかゝりにて細手(ほそで)也色 数(かす[ずヵ])多(をゝ)し白あり
柿紅(かきべに)有(あり)又 本黄(ほんき)うす黄有花びら白く内に黒紅(くろべに)色のほし
入を山ほとゝぎすといふ葉さゝばにしてあつく茎(くき)をまいて出る葉の
上(うへ)に黒きほし有又なきも有 茎葉(くきは)ともにうすき毛艸(ひげ)有うぐひす
草(さう)とよぶも是よりわかちてよぶ也九月花 咲(さく)長(たけ)二 尺(しやく)あまりなり

【左丁】
【見出し、囲み部分】さくらな
《割書:さくら|  草》
《割書:品多し|三月より》
《割書:四月迄| 花さく》
【囲みの外】花の形(かたち)桜(さくら)花のごとくしのだち廻(まは)り咲(さく)花に色 数(かず)多(をゝ)し白 或(あるひ)は
雪白(ゆきしろ)紫(むらさき)又 咲分(さきわけ)うす紫 飛入(とびいり)有咲分桜草は今のしぼりにあらず
一りんの花びらに紫と白と色 分(わか)るうす紫は花 少(すこ)し大りん小町(こまち)桜草
といふ飛入りはしぼりさくら草 錦(にしき)桜草又咲分さくら草といふ長六七寸
【区切り線】
【見出し、囲み部分】春けい《割書:三月| 花》【囲みの外】葉(は)しらんに似(に)てひろくやはらかなりはなのかた
ちらんのごとく色 黄(き)うこんなり葉にしろきほしあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】やまぶき
棣棠(ていたう)
酴醿花(どびくは)
【囲みの外】花はなはだ黄いろにしてかたち庭(には)ざくらのごとく葉は
金(きん)のういばらのごとくちゞみあり一 種(しゆ)は一重(ひとへ)此花山ざくら
のごとく又色に二 種(しゆ)あり一種は白くしの立(だち)いばらの
ごとし二三月花 咲(さく)又秋より冬迄咲くかへり花も有 山原(やまはら)に生(しやう)ず
【区切り線】
【見出し、囲み部分】ゆきの下
《割書:一名》石荷(せきか)
《割書:又》虎耳草(こじさう)
 といふ
【囲みの外】花三月咲 真中(まんなか)より蕨(わらび)のごとく出(いで)て花形雪のごとし葩(はなびら)
三 枚(まい)は小(ちい)さし二枚は大(をゝい)にして長(なが)し花色白葉の形(かたち)丸く雪輪(ゆきわ)
のもやうのごとくにしてあつし葉のうら若葉(わかば)は本紅(ほんべに)古(ふる)はは
薄紅(うすべに)也 表(をもて)に薄(うす)白き筋(すじ)有 根下(ねのした)より長き蔓(つる)出(いで)て先(さき)にめがい生(しやう)ず地(ぢ)に根(ね)ををろす

【十八行下から六字目「数」ルビの「す」は濁点の一つが有るように見える。橘保国 画『絵本野山草 5巻』[2],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569336 コマ7も同様。『畫本野山草.[2]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)コマ6では「ず」。】
【二十一行下から七字目~「毛艸」のルビ「げ」は国立国会図書館デジタルコレクション(右注と同)で校合し補字】

【右丁】
野芍薬(のじやくやく)

花白生エンシクマ
中シン生エンシ
ニヲヒキ

【左丁】
しやが

仙台萩(せんだいはぎ)

【右丁】
むらさき白根葵

【左丁】
【見出し、囲み部分】野芍薬(のしやくやく)《割書:三月|花》
【囲みの外】はな葉(は)ともに芍薬に似(に)たり紅白(こうはく)二しゆ
ありいづれも見ごとなり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】しやが
《割書:二三月花》
【囲みの外】花のかたち小蝶(こてう)のとぶごときうすむらさき
白二 種(しゆ)あり葉(は)にすじ入たるあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】せんだい
萩《割書:三月》
【囲みの外】はな本黄 豆(まめ)のはなに似(に)たり葉(は)ははぎの葉の
ごとくにて葉(は)さきとがる
【区切り線】
【見出し、囲み部分】紫白根葵【囲みの外】花のかたち芙蓉(ふよう)のごとし外(そと)むらさきにして
うち白し葉つねのあふひに似たりさきとがりしのたち銭(せに)
あふひのごとく花よこにうつぶく花 一重(ひとへ)四月はなあり

【右丁】
挟竹桃(けうちくとう)

花生エンシグ
同クマ内ノ黒ハ
ゴフン外ハエンジ

【左丁 文字無】

【右丁】
金桜茨(きんのういばら)

【左丁】
釣鐘草(つりがねさう)

花忍(はなしのぶ)

【右丁】
【見出し、囲み部分】挟竹桃(けうちくたう)
【囲みの外】六月 土用前(どようまへ)より花ひらき七八月まて咲(さく)
なりはなのかたち二弁桃(ふたえもゝ)のごとくまた外(そと)に
海棠花(かいだうくは)のごとく紅(あか)き台(うてな)有又其下に青(あを)き本 台(うてな)有花
の色うす紅(べに)にして白き飛入(とびいり)有又 葩(はなびら)中心(まんなか)に白牙(しろききざ)あり
蕊(しべ)の中心(まんなか)に三 筋(すじ)木綿糸(もめんいと)をむしつたるごとく又葉は
女竹(をんなだけ)のごとく細長(ほそなか)し艶(つや)有あつきことゆづりはのご
とし葉三 方(ばう)につき枝(えだ)三方に出し木(き)のしのだち竹の
ごとく節(ふし)葉(は)ごとに有はなのしの立(たち)【注】赬桐(とうぎり)のごとし木
の高(たか)さ大小(だいせう)有大の高さ六七尺 余(よ)なり小の高さ四五寸
なるもはなさく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】金桜子(きんをうし)《割書:三四月| 花さく》【囲みの外】叢生薔薇(くさむらせうび)に類(るい)すはり有四五月白き花
を開(ひら)く大さ二三寸いろ大白にしてしべ長し同色白

【左丁】
にほひ黄(き)にして多(をゝ)し香(か)甚(はなはだ)高(たか)き花なりはなのかたち
は芍薬(しやくやく)のごとく一重(ひとえ)也 葉(は)三葉 少(すこ)し長(ながく)つやありはな
の台(うてな)葉の茎(くき)木ともはりありうてな葉のくきの
針(はり)けむしのごとく木のはりしげくこれをもつ
て垣(かき)につくる又一名をしだれいばらともいふ
【区切り線】
【見出し、囲み部分】釣鐘草(つりがねさう)【囲みの外】ほうちやく草(さう)に似てはなうつふけり
はなのいろうすむらさきにして葉びいどろ虎尾(とらのお)に
似たり葉つやありぢくにふし有長三尺ばかり五六
月はな有本名 沙参(しやじん)崖壁(がいへき)の間(あいだ)にあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】花忍(はなしのぶ)【囲みの外】葉 草(くさ)ふぢに似たり花のしの立(だち)は八代草(やつしろさう)に
似てのび花のかたち桔梗(ききやう)のごとく色うすむらさきまた
白も有たけ二三尺ばかり花五月 中旬(ちうじゆん)にあり

【注 ルビ「た」は「だ」ヵ。濁点の一つが有るように見える。橘保国 画『絵本野山草 5巻』[2],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569336 コマ12も同様。『畫本野山草.[2]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)コマ11では「た」。】

【右丁】
熊野菊(くまのぎく)

はぐま
 なでしこ

【左丁】
靱草(うつぼさう)

宝釈艸(ほうちやくさう)

【十行目「宝釈艸(草)」は「宝鐸艸(草)」ヵ。どちらも情報有。】

【右丁】
蘭(らん)

八代草(やつしろさう)

【左丁】
万花草(まんくはさう)

黄芩艸(わうごんさう)

【右丁】
【見出し、囲み部分】熊野菊(くまのぎく)
微銜(びがん)
《割書:五月花》
【囲みの外】花のかたちもつかうの花のごとしいろ本黄なり
葉のかたち益母草(やくもさう)に似(に)てあつく大葉なり茎(くき)に
むらさきのほし有 根本(ねもと)紫色(むらさきいろ)也又はんくはい草ともいふ
【区切り線】
【見出し、囲み部分】なでしこ《割書:六月| 花》【囲みの外】はな一重いろ白に紅しぼりよこきれふかきを
こまとめといふまた地(ぢ)しろきれふかき中りんを白(しら)
糸(いと)といふ花白一重八重紅しぼりを駒片(こまかた)といふ
【区切り線】
【見出し、囲み部分】うつぼ草
 《割書:五月花》
【囲みの外】はなのかたちうつぼのごとし葉より立のび
咲花に白むらさきうすいろ三 品(しな)あり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】ほうちやく草
《割書:又|白つりがね草|     といふ》
【囲みの外】葉 八代草(やつしろさう)に似(に)てはさき尖(とか)り茎(くき)にあかみ有
花のかたち小(こ)ぶくろのごとし紅白二種あり萕(せい)
苨(ねい)一名也はなつりかね草よりは長く大なり五月花さく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】蕙蘭(けいらん)《割書:花六|七月》
九節蘭(きうせつらん)
《割書:ふし九つ| 有をいふ》
【囲みの外】花のかたち蜂(はち)のごとく上々うこん色つやひかり
有はなしの三四本たちしの一本に六七りんづゝ
さくにほひ甚(はなはだ)高(たか)し古哥(こか)に 山 蜂(はち)のすがたに

【左丁】
花の咲出(さきいで)てにほひやとをく人ををふらん葉にかはりちり
虎班(とらふ)【斑ヵ】ありすじ入たる有つま白有又 鳳茶(ほうさ)といふは花のかたち
かはらず葉の尺ながくはさき四方へみだれつやひかり有 画(えかけ)る
鳳凰(ほうわう)の尾(お)のかたちに似(に)たり又かんらんといふ有 鳳蘭(ほうらん)に似(に)て葉に
つやひかり有 小葉(こは)也尺みじかく冬にいたり寒(かん)を侵(をか)して
花さくはなちいさしくろべになり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】八代草(やつしろさう)
《割書:六七月花》
【囲みの外】花のかたち桔梗(ききやう)のごとくいろききう紅しのだち葉
のあいに咲(さく)花 一処(ひとゝころ)にさく葉はをどり草に似(に)たり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】万花草(まんくはさう)《割書:花六七月白有| 長尺あまり》【囲みの外】はなのかたち桐 ̄に似(に)てひらたくしべ長ふし
て六すじありいろうすむらさき花のしの立(だち)桐 ̄の《振り仮名:如_レ花|はなのごとく》少(ちいさ)く下より
段々(だん〳〵)にさきのぼる葉まさ木(き)に似て丸く葉のめぐりに
白きりんあり草立(くさだち)まさ木に似て葉むかひあふ
【区切り線】
【見出し、囲み部分】黄芩草(わうごんさう)
《割書:六月中|  花》
【囲みの外】花 形(かたち)うつぼ草に似てながく色うすぎきやうにしてう
つぼ草のごとし葉 向(むか)ひ合(あい)出(いで)てみそはきのごとし長尺 余(よ)山谷(やまたに)に生(しやう)ず

【右丁】
黄芩(わうごん)生(しやうず)_二秭帰(しき)川谷(せんこく)及(をよひ)冤句(ゑんかうに)_一今(いま)川蜀(せんしよく)河東(かとう)陜西(けうせい)近郡(きんくん)皆(みな)
有(あり)_レ之(これ)苗長(なへのながさ)尺余(しやくよ)茎簳(けうかん)麤(そにして)如(ごとし)_レ筋(はしの)【筯ヵ】葉(は)従(より)_レ 地(ち)四面(しめん)作(なす)_二叢生(そうせいを)_一類(るいす)_二
紫草(しさうに)_一高(たかさ)一尺許(いつしやくはかり)亦(また)有(あり)_二独茎者(どくけうのもの)_一葉(は)細長(さいちやう)青色(せいしよく)両両(りやう〳〵)相対(あいたいす)
六月(ろくぐはつ)開(ひらく)_二紫花(しくはを)_一根(ね)黄(きにして)如(ごとし)_二知母(ちもの)_一麤細(そさい)長(たけ)四五寸(しごすん)二月(にくはつ)八月(はちくはつ)
採(とる)_レ根(ねを)暴乾(さらしほし)用(もちゆ)_レ之(これを)呉普本草(ごふがほんさう) ̄に云(いはく)黄芩(わうごん)又(また)名(なづく)_二印頭(ゐんとうと)_一 一名(いちめいは)内(ない)
虚(きよ)二月(にくはつ)生(しやうす)_二赤黄葉(せきくはうえうを)_一両両(りやう〳〵)四面(しめん)相値(あいあふ)其茎中(そのくきうち)空(むなしく)或(あるひは)方円(はうえん)
高(たかさ)三四尺(さんししやく)花(はな)紫紅赤(しこうせき)五月(ごぐはつ)実(み)黒(くろく)根(ね)黄(きなり)二月(にぐはつより)至(いたつて)_二 九月(くぐはつ)_一採(とる)
一名(いちめいは)腐腸(ふちやう)一名(いちめいは)空腸(くうちやう)一名(いちめいは)内虚(ないきよ)一名(いちめいは)黄文(わうぶん)一名(いちめいは)経芩(けいごん)
一名(いちめいは)妬婦(どふ)《割書:味(あぢ)苦(にがく)大寒(だいかんにして)旡(なし)【注①】_レ毒(どく)治(ぢす)_二骨蒸(こつしやう)寒熱(かんねつ)往来(わうらい)腸(ちやう)|胃(い)不(ざるを)_一レ利(り)治(ぢし)_二 丁瘡(てうさうを)_一排(ひらき)_レ膿(うみを)治(ぢす)_二乳癰(にうよう)発背(はつせきを)【注②】_一》

【左丁】
花覆盆子(はないちご)

【見出し、囲み部分】花(はな)いち
  ご
【囲みの外】花(はな)の形(かたち)江戸桜(えどさくら)の千葉花(せんよはな)に似(に)たり正中(まんなか)ほど
うこん色(いろ)有(あり)葉(は)はやまぶき草(さう)のはに似(に)たり
しのだちいばらのごとし三月にさく

【注① 「旡」は「無(无)」ヵ。「无」は「無」の同字(確認資料:『新漢語林(第二版)』鎌田正・米山寅太郎 著(大修館書店))。】
【注② 「発背」は「発脊」ヵ「発赤」ヵ】
【六行一字目「採」のルビ「る」は「り」ヵ。『畫本野山草.[2]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)コマ15では「り」。】
【六行下から五字目~「印頭」のルビ末尾の「と」は上に横線有。橘保国 画『絵本野山草 5巻』[2],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569336 コマ16も同様。『畫本野山草.[2]』(右注と同)では「と」。】
【十行割書右側三字目~「大寒」のルビ「に」は小さい字】

【右丁】
松本剪(まつもとせん)

【右下】
がんぴ

花内丹キウ
ワウ少クハヱ
ヌルヱンシクマ

【図中央下 線で図の該当箇所を指している】
丹ニクシキ

【区切り線】
【見出し、囲み部分】小しやが
【囲みの外】花(はな)つねのしやがにて小(ちい)さしいろうすむらさきなり立(たつ)ひら白(しろ)く
うすむらさきぜんたい白(しろ)もあり葉(は)同(をなじ)く小(ちい)さく三月はなさく也

【左丁】
小しやが
【区切り線】
【見出し、囲み部分】松本せん
剪紅花(せんこうくは)
剪秋蘿(せんしうら)
【囲みの外】花に色数多し紫松本は花の色うすむらさきなりから錦
松本は本紅に白のかすりしけし錦川松本はからにしき
よりはかすりすくなし白八重松本は花ひら六七枚より八九枚
出る花形松本は花びらかさねさくにいろ本紅也五月はな有

【右丁】
水河骨(みづかうほね)

【左丁】
六(む)ッ出(で)
 杜若(かきつばた)

菖蒲咲(しやうぶさき)

【右丁】
芍薬(しやくやく)

【左丁 文字無】

【右丁】
【見出し、囲み部分】《割書:水かふ|  ほね》
沢蓬草(たくほうさう)
《割書:四月花》
【囲みの外】葉あつくつや有葉さき尖(とが)り茎(くき)のもときれありくきふ
とく葉見事也花又あつく艶(つや)有 銀(ぎん)ばい草の花をあつく
したるごとし黄紅(きべに)有紅といふも咲(さき)出し黄にして花の
ふけるにしたがひ紅色出る也 姫(ひめ)かうほね有草立 至極(しごく)ちいさし花葉共
に同し又しんくれなひといふ有花のうちあかく外(そと)黄(き)色なり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】かきつばた
紫燕花(しえんくは)
《割書:六つ出五つ出|しぼり四月|五月 四季(しき)さき》
【囲みの外】花 数(かず)多(をゝ)し四季咲(しきさき)ありねずみ色有白有紫有 地(ぢ)む
らさきに白の班入(ふいり)【班は斑ヵ】あり鷲(わし)の尾(お)といふ地白に紫の粟紋(なゝこ)
一処に入を舞鶴(まひつる)といふ地(ぢ)あいきゝやうにて花 殊外(ことのほか)大
りん有 濡(ぬれ)きぬといふ白六えう有むらさき六えう有
大(をゝ)八ッはしといふもいろ紫花すぐれて大りんなり村雲といふは
地うすねずみにむらさきのしぼり少し入これに六えうあり一 種(しゆ)
摂刕(せつしう)吹田辺(すいたへん)に花ありいろ舞(まひ)つるのごとくはなびら一ぱいに粟紋(なゝこ)入
見事也其外色 立(たて)しぼり立(たち)ちがひ有も有 悉(こと〳〵く)のするに暇(いとま)あらず
【区切り線】
【見出し、囲み部分】芍薬(しやくやく)《割書:四月中|はなさく》【囲みの外】数(かず)定(さだま)らず多(をゝ)し一重八重千重有色大紅あり

【左丁】
大白有 淡紅(うすへに)白うす紅そこ白内紅有大紫中紫うす紫白うす紫
あり底赤(そこあか)有中の香(にほひ)に大白有大黄大白銀しでといふ大黄金しでと
いふ中(ちう)紫ふち黄なるをにしき立といふ又 牡丹(ぼたん)に似(に)たるを牡丹 立(だち)といふ只(たゝ)
にほひみじかく小(ちい)さきを上といふ大なるを下といふ又 中心(まんなか)に実(み)牡丹の
ごとく三つ立(たち)五つ立(たち)地(ぢ)より芽(め)出(いで)色 赤(あかく)長(たけ)のびること二三尺なるをよしとす
葉枝ともにをも木にひきそひ天(そら)へ立(たつ)也葉に三の枝有九葉七葉五葉
三葉有亦 末(すへ)を五葉にして元(もと)に二葉両方むかひあふたるあり
【区切り線】
芍薬(しやくやく)生(しやうず)_二 中岳(ちうがく)川谷(せんこく)及(をよび)丘陵(きうれうに)_一今(いま)処処(しよ〳〵)有(あり)_レ之(これ)准南者(わいなんのもの)勝(まさる)春(はる)
生(しやうず)_二紅芽(こうがを)_一作(なす)_レ叢(くさむらを)茎上(けうしやう)三枝五葉(さんしごえう)似(にて)_二 牡丹(ぼたんに)_一而 狭長(けうちやう)高(たかさ)一二(いちに)
尺(しやく)夏(なつ)始(はじめて)開(ひらく)_レ花(はなを)有(あり)_二紅白紫(こうはくしの)数種(すしゆ)_一子(み)似(にて)_二牡丹(ぼたんに)_一而 小(すこしき也)秋時(しうじ)采(とる)
_レ根(ねを)根(ねも)亦(また)有(あり)_二赤白(せきびやくの)二色(にしき)_一崔豹(さいほうが)古今注(ここんちうに)云(いはく)芍薬 ̄に有(あり)_二 二種(にしゆ)_一有(あり)_二
草(さう)芍薬 木(ぼく)芍薬_一木者(ぼくは)花(はな)大而(をゝいにして)色(いろ)深(ふかし)俗(ぞく) ̄に呼(よんで)為(するは)_二牡丹(ぼたんと)_一非也(ひなり)
一名(いちめいは)何離(かり)一名 ̄は白朮(びやくじゆつ)一名 ̄は余客(よかく)一名 ̄は犂食(りしよく)一名 ̄は解倉(かいさう)一名 ̄は鋋(せん)

【右丁】
春蘭

花コフンニ白ロク少
 クハヱヌルエンシノクマ
 星同スシ同

春竜胆(はるりんだう)

【左丁】
ほとけ
  草

九曜草(くようさう)

【右丁】
【見出し、囲み部分】春蘭(しゆんらん)
山蘭(さんらん)
幽蘭(ゆうらん)
国香(こくかう)
【囲みの外】花一本に一りん有花 香(にほふ)こと蕙蘭(けいらん)にかはらす色少し黄也又葉
もけいらんと同し又花のさやかつ〳〵有さやの色白うす黄青し
じくうす青紫色有 左伝(さてん) ̄に国香(こくかう)鄭文公妾(ていのぶんこうのしやう)有 燕姞(えんきつ)といふに蘭(らん)
を与(あた)ふと夢(ゆめみる)蘭に国香(こくかう)有 人眼(にんがん)をしてこれに媚(こびしむ)と也三月花
【区切り線】
【見出し、囲み部分】春竜胆(はるりんだう)《割書:又はるぎきやう| ともいふ》【囲みの外】はなのかたち八重ききやうに似て花のうら白
あさぎうす紅のほし有葉りんだうよりみじかく丸しさきと
がりはなのしのだちりんだうにかはらす三月はなさく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】仏子草(ほとけくさ)
《割書:三月| はなさく》
【囲みの外】はな六ようにしてうてななしはなのいろそこ濃(こい)
紅(べに)にして下(した)より黒(くろ)みあり又うちうらうすべに
にしてさきよりしろみあり葉まんだら花に似て大(をゝけ)く
はなのしのだちをだまき草(さう)に似(に)たり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】九曜艸(くようさう)《割書:三月|はな》
狗舌草(くぜつさう)《割書: 咲》
【囲みの外】はなのかたち菊のごとくいろ本黄しのだちまは
りさく葉(は)は苦葵菜のはに似てちいさし下(した)に付(つく)
単弁(ひとえ)有 千弁(せんえ)ありひとへを沢(さは)もつこうともいふ

【左丁 文字無】

【十九行下から二字目「大」のルビ「をゝけ」は『畫本野山草. [2]』コマ21(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)では「をゝき」】

【右丁 文字無し】

【左丁】
画本野山草巻之三目録
 鶏頭(けいとう)  玫瑰花(はいくはいくは) 《割書:むらさき|はま茄子》  泥(ぬま)あやめ
 清蘭(せいらん)草 しんこ花 草額(くさがく)  白糸(しらいと)草
 撫子(なでしこ)《割書:雪山 紅紫 白一重時斗【計ヵ】 吹合 唐撫子 小倉|大坂 孔雀 しゝぼたん 白糸 底紅 南京》 銭葵(ぜにあふひ)
 びよう  萱草(くはんざう)  紫陽花(あぢさゐ) 山紫(やまむらさき)
 秋葵(あきあふひ)  草山吹(くさやまぶき) 東菊(あづまぎく)  碇(いかり)草
 蒲公草(たんぽゝ) 鬼荊(をにいばら)  草蓮花(くされんげ) 白虎尾(しろとらのお)

【この文書の「巻之三」は『畫本野山草. [3]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1(くずし字))の求版本】

【右丁】
 硝子虎尾(びいどろとらのお) 沢瀉(をもだか)  八重沢瀉(やえをもたか)  星(ほし)草
 三つ柏(かしは)  秋海棠(しうかいと[ど]う) 鳥甲(とりかぶと)    曙艸(あけぼのさう)
 野菊(のきく)   溝萩(みぞはぎ)  がく草    千日紅(せんにちこう)
 檜扇(ひをふぎ)   藤撫子(ふぢなて[で]しこ) あらせいとう 七輪(しちりん)草
 羅生門(らしやうもん)  日車(ひくるま)  残菊(ざんきく)

【左丁】
鶏頭花(けいとうくは)

【図右下】
花地朱 生エンシクマ
     同ツヽキ

【図左】
白六
シヲウ
カケル

花キ

【右丁】
玫瑰花(はいくはいくは)
むらさき浜茄子(はまなすび)

【左丁】
泥(ぬま)あやめ

花エンシク
キヲイアイノクマ
生エンシカクル

【図右 線で該当箇所を指している】


【図左】
花コン

【図左下 線で該当箇所を指している】

【右丁】
清蘭草(せいらんさう)

しんこ花 《割書:花ゴフン【注】| 生エンシクマ》

【左丁】
草額(くさがく)

白糸草(しらいとさう) 《割書:花白》

【注 「ゴ」の濁点は不明瞭。『畫本野山草. [3]』5コマでは「ゴフシ」(濁点の部分は点が一つ)に見える。】

【右丁】
【見出し、囲み部分】鶏冠花(けいくは[わヵ]んくは)
【囲みの外】三月 苗(なへ)生(しやうし)夏(なつ)【注①】高(たか)さ五六尺葉 青(あをく)柔(やはらか)なり又高一寸あまり有
もはなさく花に大小有大は一尺 余(よ)色三いろ又五品也はな
赤(あか)きは毛氈(もうせん)のことく黄色はうこんの染色(そめいろ)のごとく花形(くはきやう)丸(まろく)【注②】長(なが)み有を
からけいとうといふ白赤(い[し]ろあか)さきわけ色〳〵とび入(いり)色々(いろ〳〵)しますし色
〳〵有又 小(ちいさ)き丸(まる)有五つ開(ひらい)て小(ちいさ)きたねをむすぶ又やりけいとうは
たまぼこなりにしてみな種(たね)也 是(これ)三色(みいろ)あり三月より十月まで
有又 野(の)けいとうは白うすむらさき有 野原(のはら)に多(をゝ)くあり
【区切り線】
《振り仮名:鶏-冠|けいくは【わヵ】ん》有(あり)_二《振り仮名:紅-白|こうはくの》《振り仮名:二-色|にしき》_一又(また)有(あり)_下 一枝上(いつしうへに)《振り仮名:秀_二【-】出|しうしゆつする》五色(ごしきを)_一者(もの)_上甚佳(はなはだかなり)
又(また)《振り仮名:木-紅|ぼくこう》者(は)一-名 ̄は《振り仮名:寿-星鶏-冠|じゆせいけいくは【わヵ】ん》即(すなはち)《振り仮名:矮-脚鶏-冠|わいきやくけいくは【わヵ】ん》亦(また)有(あり)_二紅-白
二-色_一或云(あるひはいはく)即(すなはち)玉樹後庭花(ぎよくじゆごていくは)也(なりと)其葉(そのは)甚肥(はなはだこへて)可(べし)_レ入(いる)_レ饌(せんに)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】玫瑰花(はいくはいくは)《割書:三月四月|花ひらく》【囲みの外】荊(いばら)せうびのるいなり葉は青出(あをで)花は紅紫色ひとへ大
りんにして芍薬(しやくやく)のごとく実(み)は丸く少(ちい)さくとがりりんごのごとくう
こん色にして後(のち)じゆくして朱紅(しゆべに)色又はなよりまさりて詠(なかめ)有
○時珍(じちん)が曰(いはく)高(たか)さ二三尺 枝(えた)多(をゝ)く針(はり)あり葉せうびに似(に)てへり
【左丁】
にのこぎりあり四月にはなひらく大なるは鉢(はち)のごとくす
こしきなるはさかづきのごとく妙香(めうかう)らんじやのごとしといへり
【区切り線】
玫瑰花(はいくはいくは)甚(はなはだ)香喜(にほひよく)壮(さかんじて)宜(よろしく)【左ルビ:べし】_二不時(ふじに)分(わかつて)_レ種(たねを)方(まさに)盛(さかんなる)_一年(とし)久則(ひさしきときは)
槁花(かるはな)作(つくり)_レ糕(もちに)佳(かなり)又(また)有(あり)_二黄花者(くはうくはのもの)_一亦(また)佳(かなり)伹(たヾし)【但】不(さる)【注③】_レ香(かうばしから)耳(のみ)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
花しやうぶ
漢名 泥菖(でいしやう)
【囲みの外】花四五六月迄ぬまあやめともいふ葉(は)にすじ入有すじしやうぶと云
花に色数おびたゝし柿(かき)五 葉(よう)有又紅むらさき色花びらあつく
うけかゝへ咲大々りんさつまうけさきといふ花形いろともに同しくしてはな
すこしちいさき有 桔梗(きけう)さらさといふは地桔梗に白ふとく班(ふ)【斑ヵ】入 受(うけ)かゝへさき
たてなりのり合といふは地白にうす桔梗うすくいるいつくしまといふは紅紫の
しほり也 染絹(そめきぬ)といふは地白にうす紫の粟紋(なゝこ)花びらの中に入花びらあつし網の
手といふは地白にうす紅のすじほそくあみのことくに入千重の白といふは常のよりは
花びら多し其外白紅藤しほりるり色数百 種(しゆ)有こと〴〵く書(かき)つくされず其大がい也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】せいらん草【囲みの外】はなのかたちらしやう門のごとくいろうすきるりなり
葉はみそはぎのはによく似たり葉に斑入(ふいり)あり五月はなあり

【注①~③ 『畫本野山草. [3]』6コマと異なる。 ①夏(なつ)→立(たつ) ②まろく→まるく ③さる→ざる】

【右丁】
撫子(なでしこ)

紅紫(べにむらさき)

大坂

くじやくなでしこ

【図右】
雪山

【図下】
小倉

【図左下】
白一重時斗【計ヵ】

【左丁】
吹合

白糸

唐なでしこ

【図右下】
しゝぼたん

【図下】
南京

【図左下】
そこ紅

【右丁】
銭葵(ぜにあふひ)

【左丁】
びよう草

【右丁】
【見出し、囲み部分】
しんこ花
水巴軾(すいはげき)
【囲みの外】花しのだちくみいとのことき花すへよりさき出し白(しろく)
ひらくほど紅(べに)いろ出(いづ)るみごとなり葉は秋筆草(あきふでさう)のご
とく地際(ぢぎは)にいづるしんこはなともいふ二三月にさく也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】草(くさ)がく《割書:五六月|  花》【囲みの外】花の色青白く四方に四弁(しまい)はなびらの大な■【る】花さく
其うちみなこまかなり大なる花にてがくのふち取(とり)たるごとし高さ四五寸
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
白糸草(しらいとさう)
《割書:漢名》秦芃
【囲みの外】花葉ともにしやう〴〵袴(はかま)のごとししやう〴〵ばかまと
は根(ね)にちがひあり別種(べつしゆ)なるべし七八月花さく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
なで
 しこ
《割書:五月より| 六月迄》
【囲みの外】紫一重きれあるをするがといふうすべに千重 撫子(なでしこ)と云
も有白一重大りんきれふかきを大さぎといふ同しく中
りんを小(こ)さぎと云 少(すこ)しうつり有八重を朝(てう)せんさぎと
と【と衍ヵ】云こひ紅一重を南京(なんきん)といふ是(これ)に八重有又こひ紅きれすくなきをご
すでといふ花に一重八重有白に紅(べに)しぼりを駒(こま)にしきと云是に似(に)て
しぼりよくきれふかきをこまとめといふ地白に藤(ふち[ぢ])紅なゝこしぼ
り千重をあさぎりといふ白一重中りんきれふかきを白糸(しらいと)と

【左丁】
いふ又しらいとゝいふに白百重きれよく中りん有雪白青み色
牡丹咲を浅間(あさま)といふ又 滝(たき)の白(しら)いとゝ云紅十重中牡丹咲を花がら
みといふ白 至極(しごく)大りんを巻竜(まきれう)といふ千重大ざきを雪ふじといふ
紫紅千重ぼたんざきをむさしのといふ又是より色よき牡丹咲有
からのかしらと云 藤紫(ふぢむらさき)八重大りんきれしこ【ご】くよきを花鳥(くはてう)山と
いふ其外めづらしきなでしこ一重八重十重百重千重 数(す)百
種(しゆ)あり筆(ふで)につくしがたく又なでしこにて撫子(なてしこ)をはなれ物(もの)有
【区切り線】
○蘧麦(きよばく)《割書:爾|雅》巨句麦(きよくばく)《割書:本|経》大菊(たいきく)《割書:爾|雅》大 蘭(らん)《割書:別|録》石竹(せきちく)《割書:日|華》南天竺草(なんてんぢくさう)
綱目(かうもく)弘景曰(こうけいがいはく)子(み)頗(すこぶる)似(にたり)_レ麦(ばくに)故(ゆへに)名(なづく)_二瞿麦(くばくと)_一○時珍曰(じちんがいはく)按(あんずるに)陸佃(りくてん)
解(げする)_二韓詩(かんしを)_一外伝云(ぐはいてんにいはく)生(しやうずる)_二于 両旁(りやうはう)_一謂(いふ)_二之(これを)瞿(くと)_一此(これ)麦之穂(むぎのほ)旁生故(はうせいするゆへ)
也(なり)爾雅(じがに)作(なす)_レ蘧(きよに)有(あり)_二渠衢二音(きよくのにをん)_一日華本草云(につくはほんさうにいはく)一名(いちめいは)燕麦(えんばく)一
名(めいは)杜姥草者(とらふさうといふは)誤矣(あやまれり)燕麦(えんばく)即(すなはち)雀麦(しやくはく)雀瞿(しやくく)二字(にじ)相近(あいちかし)伝写(てんしや)
之(の)訛爾(あやまりのみ)○瞿麦(くばく)生(しやうず)_二大山(たいさん)山谷(さんこくに)_一立秋(りつしうに)採(とりて)陰乾(かけぼしにす)

【不明瞭な字は、橘, 保国 ほか『絵本野山草 5巻』,柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/pid/2608944で校合して補字】
【■は『畫本野山草. [3]』で校合して補字】

【右丁】
萱艸(くはんざう)

【図中央】
花ノ地ニクシキ
ウスヲウトカケ
エンシクマ

【左丁】
花ノ地アサキ

紫陽花(あぢさい)

【右丁】
山紫(やまむらさき)

【左丁】
秋葵(かうぞ)

【右丁】
【見出し、囲み部分】
銭葵(せにあふひ)
小葵(こあふひ)
菟葵(ときひ)【ひ衍ヵ】
【囲みの外】葉 形(かたち)戎葵(からあふひ)に似たり然(しかれ)共丸し花 大(をゝき)さ銭(ぜに)のごとく桜草(さくらさう)の花
に似(に)たりいろ白有うす紫有うす紅有高さ三四尺ばかり
但(たゞし)花ははのあい〳〵より出(いで)葉見事なるもの也四五月あり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
びやう柳
金糸桃
【囲みの外】花黄色にして桃(もゝ)のごとくしべ黄(き)にして糸(いと)のごとし葉長じ
て柳(やなぎ)のごとし又木 細(ほそ)ふして糸(いと)のごとし葉は両方 ̄に封(ほう)すたてに延(のび)ず地(ち)にはふ
【区切り線】
金糸桃(きんしたう)花(はな)如(ことし)_レ桃(もゝの)而 心(しんに)有(あり)_二黄鬚(きなるひげ)_一《振り仮名:鋪_二-散|ふさんす》花外(くはぐはいに)_一若(ことく)_二
金糸(きんしの)_一然(しかり)亦(また)似(にたり)_二根下(ねのしたより)劈開(つんさきひらくに)_一分(わかつて)_レ種(たねを)三四月 花(はな)開(ひらく)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】くはん草【囲みの外】花いろ紅うこんかたちゆりの花のごとし葉すけに似て大(ふと)し花三月
【区切り線】
【見出し、囲み部分】紫陽花(あぢさい)
【囲みの外】しの立をでまりに似て高(たかさ)五六尺葉 両々(りやう〳〵)対(たい)して似(に)たり又
かたちは桜(さくら)に似(に)てこまかなるきざみ有花あつまり咲(さく)牡丹一
りんの大さをでまりのごとし又大小有 葩(はなびら)四 枚(まい)にして大(だい)は色白中はあさぎ
小(せう)は紫にして青(せい)也又色白有うす紅有黄あり四五月はなひらく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
山(やま)
紫(むらさき)
【囲みの外】小しきぶの木に似て枝しだれて花は少(すこ)しきなり五つはなびら
四五月咲秋 実(み)有色 藤紫(ふぢむらさき)ふさのことく葉 皆(みな)よめなのごとく相むかひつく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】あき葵【囲みの外】一名かうぞ又とろゝ草ともいふ花のかたち五月葵に同し

【左丁】
葉のかたちとりかぶとあるひはあさのはのごとくほそ長し葉に
大小有大は一尺 余(よ)又 茎(くき)長くはこはくとがり又のこぎり有もあり
なきも有 但(たゞ)し形(かたち)すざましきもの也花黄白くしてそこに
こき紫のきほひ有中のしんふように同じ花にふくろ包その
外に五の台(うてな)からむ秋の葵(あふひ)といへども夏(なつ)の土用(どよう)より七八月まで
さく高六七尺ばかり○葵の種類(しゆるい)多(をゝ)し花黄なるを蜀葵(しよくき)と云花
の小なるを銭葵或はから葵と云花赤きを紅葵と云り○傾(かたぶく)_レ日(ひに)。《割書:説(せつ)|文(ぶん)》
《割書:黄葵つねに葉をかたふけて日に向て|其根をてらさず○日向葵を云か》○衛(もる)_レ足(あしを)。左伝(さでん) ̄ニ《振り仮名:葵-猶-能|あふひなをよく》衛(もる)_二其足(そのもとを)_一と云り
【区切り線】
秋葵(しうき)一名(いちめいは)黄蜀(かうそ)葵 説文(せつぶん)黄葵(わうき)常(つねに)傾(かたふけ)_レ葉(はを)向(むかふて)_レ日(ひに)不(ず)_レ令(しめ)_レ照(てらさ)其根(そのねを)虞(ぐ)
絮韓渥(じよかんあく)各(をの〳〵)有(あり)_レ賦(ふ)花(はな)《振り仮名:将_レ落|まさにをちんとするとき》《振り仮名:以_レ筯|はしをもつて》取(とり)浸(ひたし)_二菜油内(さいゆうのうちに)_一治(ぢするに)_二湯火瘡(たうくはさうを)【左ルビ:やけど】_一甚妙(はなはだめう)《割書:也》
【区切り線】
集解【注①】
○禹鍚曰(うしやくかいはく)【鍚は錫ヵ】黄蜀葵(くわうしよくき)近道(きんたう)処処(しよ〳〵)有(あり)_レ之(これ)春(はる)生(しやうす)_レ苗(なへを)葉(は)頗(すこふる)
似(にて)_二蜀葵(しよくきに)_一而 葉(は)《割書:一【ニヵ】》尖小(せんしやう)多(をゝし)_二刻欠(こくけつ)_一夏末(なつのすへ)開(ひらく)_レ花(はなを)浅黄色(せんくわうしき)六
七月 採(とりて)《振り仮名:陰_二乾|かげぼしにす》【注②】之(これを)_一○宗奭曰(そうせきがいはく)黄蜀葵(くわうしよくき)与(と)_二蜀葵(しよくき)_一別種(べつしゆ)非(あらず)_二是(これ)
蜀葵中(しよくきのうち)黄者(きなるものに)_一也 葉心下(ようしんしたに)有(あり)_二紫檀色(したんしよく)_一摘下(とりくたし)剔散(てきさんして)《振り仮名:日_二乾|ほす》【注②】之(これを)_一

【注① 「集解」は四角囲み文字。この下に次の二行(四十九~五十行目)が書かれている。】
【注② 「乾」の前に「-」脱ヵ】
【四十三行目割書の右側十一字目「け」は『畫本野山草. [3]』では「げ」】
【四十三行目「葵猶能」の「-」は左側に書かれている】
【不明瞭な字は『畫本野山草. [3]』コマ12と校合し補字】

【右丁】
草山吹(くさやまぶき)

【左丁】
東菊(あづまぎく)

碇草(いかりさう)

【不明瞭な字は『畫本野山草. [3]』コマ13と校合し補字】

【右丁】
蒲公草(たんぽゝ)

【左丁】
鬼薊(をにあざみ)

【右丁】
【見出し、囲み部分】
山吹草
金糸梅(きんしばい)
【囲みの外】はなのかたち四つはなびらいろしごく本黄よるは
しぼみ昼(ひる)はひらく葉 野蜀葵(みつば)に似たり三月はなさく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
小青(せうせい)草
あづま菊
【囲みの外】葉 菥蓂(をになづな)のごとくにてきれなし花しの立五六本たちうす
紅いろきくのごとき花小りん又千本やりともいふ二月花咲
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
いかり草 《割書:四五|月》
淫羊藿(いんようくはく)《割書:花| 有》
【囲みの外】花のかたちいかりのごとく色にこいむらさきうす紫有
葉ちいさく葉本ひずみ有 茎(くき)葉共にかたしまた白
はなあり三しなとも草に大小有大いかり小いかりといふ
【区切り線】
【見出し、囲み部分】たんぽゝ【囲みの外】はなのかたち菊に似(に)たり茎(くき) ̄に無枝(えだなし)かうほねのごとく葉大
がゝり有てなずなのごとくざとり冬より葉を出し緑(みとり)にして霜(しも)を
うけてはのさきむらさきのこがれ有花の色黄又は白有又赤有と
いへども今に見ず花冬より咲も有多くは三月にさく
【区切り線】
蒲公草(ほこうさう)旧(もと)不(ず)_レ著(あらはさ)所(ところ)_レ出(いづる)_二《振り仮名:州-土|しうどを》_一今(いま)処処(しよ〳〵)平沢(へいたく)田園中(てんえんのうち)
皆(みな)有(あり)_レ之(これ)春初(しゆんしよ)生(しやうず)_レ苗(なへを)葉(は)如(ごとし)_二苦苣(くきよの)_一有(あり)_二細剌(さいし)【刺ヵ】_一 中心(ちうしん)抽(ぬきんず)_二 一(いつ)
茎(けうを)_一茎端(けうたん)出(いだす)_二 二花(じくはを)_一色(いろ)黄(きにして)如(ごとし)_二金銭(きんせんの)_一断(きれば)_二其茎(そのくきを)_一有(あり)_二白汁(はくじう)出(いづる)_一

【左丁】
人(ひと)亦(また)噉(くらふ)_レ之(これを)俗呼(ぞくによんて)為(す)_二蒲英(ほえいと)_一 一名(いちめいは)構耨草(かうじよくさう)甘乎(あまくして)無(なし)_レ毒(どく)
主(つかさどる)_二婦人(ふじんの)乳癰腫(にうようしゆを)_一水煮(すいしやして)《振り仮名:汁_二飲|じういんし》【「汁-飲」ヵ】之(これを)_一及(をよひ)封(ほうずれは)_レ之(これを)立(たちどころに)消(しようす)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
あざみ
 《割書:漢名》薊
《割書:三月花有四月|花開又五六月》
《割書:花有又秋さ|くもあり是》
《割書:は八月より|九月まで》
《割書:さくあざみ|  なり》
【囲みの外】花に数(かず)多(をゝ)し白 末紅(すえべに)本紅(ほんべに)あるひはすへ紫(むらさき)雪白又かき
るりむらさきうす紅いろあり雪白に本紅のさき
わけありむらさきに白のさきわけあり二種とも
に至極(しごく)上品(じやうひん)なりまた日光(につくはう)あざみといふあり中(ちう)紫
大りん葉はつねのあざみと同じよく培養(そだつれ)ば至極(しごく)
大(をゝい)になるなりまた天竺(てんぢく)あざみといふもあり
朝鮮(てうせん)あざみともいふはな葉(は)ともに大(をゝい)なり
はなのいろるりむらさき葉つねのあざみよりはきれふかく
平江帯(へこたい)のはを見るごとしくさだち格別(かくべつ)をゝきく目(め)ををど
ろかせりまたことし黄(き)いろのあざみをはじめて見るはな
のいろかはりたるといふばかりにてこのむにたらず葉に
斑(ふ)の入りたるも野(の)あさみを泥胡菜(きつねあさみ)ともいふなり

【不明瞭な字は『畫本野山草. [3]』コマ15と校合し補字】

【右丁】
草蓮花(くされんげ)

【左丁】
白虎尾草(しろとらのおさう)

硝子虎尾(ひいどろとらのを)

【右丁】
沢瀉(をもだか)

八重(やえ)
  沢瀉(をもだか)

【左丁】
星草(ほしくさ)

三柏(みつかしは) 《割書:花ゴフシ|白六クマ》

【右丁】
【見出し、囲み部分】草蓮花(くされんげ)《割書:五月花| あり》【囲みの外】葉(は)のかたちあは雪のごとく見まがふ也しのたちのび葩(はなびら)
あつくらう引(ひき)のごとくかたちれん花(け)のごとき花うつぶきさく
至極(しごく)見事なり花しのに小(こ)えだふりて茎(くき)花しの共にむらさき也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
虎尾(とらのお)
剪艸(せんさう)
《割書:五六【月脱ヵ】迄| 花さく》
【囲みの外】葉あつく山 薄荷(はつか)に似(に)て白き花ながくさく末(すえ)ほそく尾(お)のご
としるりいろうす紫(むらさき)有るりいろの葉はこはくしかみ有
うす紫(むらさき)のはきれふかくひろしよもきのあつきがごとし
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
びいどろ《割書:又る|り》
とらのお《割書:とら|のお|とも云》
【囲みの外】紫の形(かたち)長くのこぎり色ひかりつや有葉 両方(りやうはう)に対(むかひ)葉なり
花の色るりこん葩(はなびら)四 枚(まい)葩丸し六月花咲又白きは葩五つひらに
してさきとがり葉かた〳〵に付て艶(つや)なしさらつき有六月より七八月迄花咲
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
沢瀉花(をもだか)
白くはへ
黒くはへ
【囲みの外】は白くはへに同(をなじ)花 茎(くき)より車付(くるまつき)段(だん)〳〵につきてはなびら三
まい又八重のはな同して丸くふさのごとく二 種(しゆ)ともに色
しろしまんなかに黄なるにをひ有六七月花咲又白くはへには
はな見えず黒くはへは葉とうしん或(あるひ)はつくものごとくはな見へず
【区切り線】
慈菰(じこ)生(しやうず)_二江河(こうか)及(をよひ)江東(こうとう)近水(きんすい)河溝(かかう)沙磧中(させきのうちに)_一。味(あぢはひ)甘(あまく)微苦(すこしにがく)
寒(かんにして)無(なし)_レ毒(どく)。葉(は)如(ごとく)_二剪刀形(せんとうのかたちの)_一茎幹(けうかん)似(にたり)_二嫩蒲(とんぽに)_一。又(また)似(にたり)_二 三梭(さんしゆんに)_一。苗(なへ)甚(はなはだ)

【左丁】
軟(やらかして)其色(そのいろ)深青緑(しんせいりよく)。毎(ことに)_レ叢(くさむら)十余茎(しうよけう)。内(うち)《振り仮名:抽_二-出|ちうしゆつす》一-二-茎(けうを)_一。上(うへに)分(わかつて)
_レ枝(えたを)開(ひらく)_二小白花(せうはくくはを)_一。四弁蕊(しへんしべ)深黄色(しんくはうしよく)根(ね)大者(をゝいなるものは)如(ごとし)_レ杏(あんすの)。小者(すこしきなるは)如(ことし)_二
杏核(きやうかくの)_一。色(いろ)白而(しろくして)瑩滑(ゑいこつ也)。五月六月七月 採(とる)_レ葉(はを)。正月二月
採(とる)_レ根(ねを)。一名(いちめいは)剪刀草(せんたうさう)。一名 ̄ハ白地栗(はくぢりつ)。一名 ̄ハ河鳧茨(かふし)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】穀精草(こくせいさう)【囲みの外】田(た)の中(なか)に生(しやう)ず小(ちゐ)さく葉せきせうのことく花 針(はり)のごとく
なるじく出(いで)其 枝(えだ)多(をゝ)く出(いで)てさきに星(ほし)のごとく成(なる)丸(まる)付(つく)いろ
白(しろ)くしてひかり有て星(ほし)のごとし是を名付(なづけ)星草(ほしくさ)といふ又一 種(しゆ)有
葉 大(をゝけ)くして花(はな)少(ちいさ)く数(かす)すこし出(いづ)るも有○蘇頌(そしやう)が穀田(こくてん)の中(うち)に生(しやう)ず三月
花 咲(さく)小円星(せうえんせい)に似(に)たりと云是 誤(あやま)り也 形(かたち)は合(あ)へども二三月には見(み)えす
○時珍(じちん)が云(いはく)穀(こく)をおさむる後(のち)荒田(くはうてん)の中(うち)に生(しやう)ず細茎(さいけう)高(たか)さ四五寸 茎(くき)の
頭(かしら)に小白花(せうはくくは)有 乱星(らんせい)のごとく九月にはなをとるといへり時節(じせつ)も
よくあへども然(しか)らず極(きはめ)て小草(せうさう)なれは余草(よさう)にまけて生じ
がたし○釈名(しやくめいに) 載星草(たいせいさう) 文星草(ぶんせいさう) 流星艸(りうせいさう)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
三 ̄ツ かしは
《割書:漢名》睡艸(すいさう)
【囲みの外】葉のかたち紋(もん)に付(つく)る三がしはのごとししのたち形ききやう
草(さう)の花に似(に)てはなびらのさき少(すこ)しきれ有二三月花さく

【不明瞭な字は『畫本野山草. [3]』コマ18と校合し補字】
【三十五行十五字目「如」のルビ「ごとし」は『畫本野山草. [3]』では「ことし」】

【右丁】
秋海棠(しうかいだう)

【左丁】
鳥甲(とりかぶと)

【右丁】
明ほの草

【図右】
花コンシエンシノクマ
 同ウラクサクマ
  スシ同

【図上】
大ホシハエンシ
小ホシハヲウド

野菊(のきく)

溝萩(みそはぎ)

【左丁】
がく草

 花白青シ

【右丁】
【見出し、囲み部分】秋海棠(しうかいだう)《割書:七八月|はな|さく》【囲みの外】葉あつくもとひずみあり葉のつぢにいろあり
茎(くき)うすきいろふしあり四弁葩(しまいはなびら)二弁(にまい)は大(をゝい)に二弁はち
いさしうち黄のつぢありはなびらうす紅(べに)いろなり
【区切り線】
秋海棠(しうかいたう)旧伝(きうてんに)為(す)_二爛腸草(らんちやうさうと)_一。近日(きんじつ)見(みる)_下 人(ひとの)取(とり)_レ梗(くきを)去(さり)
_レ皮(かはを)蘸(ひたし)_二糖霜(さとうに)_一吃(くらふを)_上。頗(すこふる)清香(せいかう)其花(そのはな)艶麗(えんれい)可(べし)_レ愛(あいす)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
鳥(とり)かぶと《割書:八九|月》
草烏頭(さううづ)《割書:  花有》
【囲みの外】葉きくのはに似てあつくつや有きれふかし花
のかたち鳥かぶとのごとし花にるり白 柿紅(かきべに)三
いろあり又 蔓草(つるくさ)になるも有是をはなづるといふ葉すこし
まろくきれこまかにつるより小(こ)えだ出(いづ)るはなはるりいろなり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
みぞはぎ
鼠尾草(そびさう)
《割書:六七月花》
【囲みの外】葉の形(かたち)長丸(なかくまろ)し相 対付(むかひつい)て其葉の間々(あい〳〵)にはな有六つ葩(はなひら)
有又五つ葩有 段々(だん〳〵)入(いり)ちがひ也花色るりにして小き花
なり草立(くさだち)萩(はき)のごとし野(の)つゝみの下原(したはら)又みぞの辺(あたり)に多(をゝ)く生(しやう)ず
【区切り線】
別録曰(べつろくにいはく)鼠尾(そび)生(しやうず)_二平沢中(へいたくのうちに)_一。四月 採(とり)_レ葉(はを)七月 採(とりて)
_レ花(はなを)陰乾(かげほしにす)。弘景曰(こうけいかいはく)田野(てんや)甚多(はなはだをゝし)。人(ひと)採(とりて)作(なし)_レ滋(しると)染(そむ)_レ皁(くろきいとを)

【左丁】
【見出し、囲み部分】
唐(から)あぢさい《割書:六|月》
がく草  《割書:咲》
【囲みの外】木も葉(は)もうつげに似(に)たり花はあぢさいに似てしろく
花のかたちほそながくして杦(すぎ)なりに薹(たう)たちて
ひらくゆへから紫陽(あぢさい)ともいふ六月はなさく花の払底(ふつてい)なる時節(じせつ)
にてはなかくそくあるゆへに又がく草(さう)ともいふ
【区切り線】
【見出し、囲み部分】あけぼの草【囲みの外】葉あちさいのごとくにて少しひろし花のかたち梅
の花のごとく白紅一重 葩(はなびら)のさきとがりうちに花びら一 弁(まい)
に二つづゝほし入(いる)葉の間より花しのいで花数さく見事なり
吉野静(よしのしづか)ともいふ六七月にはなさく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】千日紅(せんにちこう)《割書:六月| 花有》【囲みの外】葉あつく茎(くき)むらさきのうつり有葉の末(すえ)に花
一りんづゝさくかたち丸くいろ紅紫 至極(しごく)見事也日をかさね花
のいろかはらず千日紅の名有白花有花葉共に同し
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
ひあふ
  ぎ
《割書:五六月|はな有》
【囲みの外】花びらうちこひ柿紅(かきべに)ちいさきほし有また本黄(ほんき)いろに
ほしなきも有又紅のほしなし有葉に白すじ入も
有葉うす白きすじ入花本黄にほしなしもあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】藤撫子(ふぢなでしこ)《割書:五六月| 花有》【囲みの外】葉川柳のはに似てあつくつや有花に紫白二色有花
びら五つはのうへにすゞなりにさく又 浜(はま)なてしこともいふ

【不明瞭な字は『畫本野山草. [3]』コマ21と校合し補字】
【十一行一字目~「草烏頭(さううづ)」は『畫本野山草. [3]』では「草鳥頭(さううう)」と書かれている】
【二十六行末「皁」のルビの「を」は『畫本野山草. [3]』では不明瞭】

【右丁】
千日紅(せんにちこう)

檜扇(ひあふき)

【左丁】
藤撫子(ふじなでしこ)

【右丁】
あらせいとう

七輪草(しちりんさう)

【左丁】
羅生門(らしやうもん)

【右丁】
【見出し、囲み部分】丈菊(じやうきく)【囲みの外】日向葵(ひうがあをひ)といふは長(たけ)七八尺花の大さ七八寸色黄にして春(しゆん)
菊(きく)に似たりかたち岩畳(がんでう)に見えて柔(やはらか)なり此はな朝(あした)は東(ひがし)に
向(むか)ひ日中(につちう)には南(みなみ)に廻(まは)り夕陽(せきやう)の比(ころ)は西(にし)にむかひ大陽(たいやう)を追(を)ふ
よつて日車とも名つく合歓木(ねふりのき)は夕(ゆふべ)に葉をたゝみ朝に開(ひら)く其外
【区切り線】
日車草(ひぐるまさう)

【左丁】
朝に開き夕に葩(はなひら)を抱(かゝゆる)花 多(をゝ)し丈菊ひとり大陽にむかひ廻(まは)る
東坡(とうば)の詩(し)に李陵(りれう)衛律(ゑいりつ)陰山(いんざんに)死(しす)。不(ず)_レ似(に)_三葵花(きくはの)識(しるに)_二大陽(たいやうを)_一と云にひとし七八月花
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
あらせいとう《割書:三月》
紫羅蘭花(しららんくは) 《割書:はな|さく》
【囲みの外】葉のかたち柳葉(やなぎは)にしてひろくはのうへ
に粉(こ)ふく茎(くき)ふとくふしたかしはな
びら四弁(しまい)いろ紅(べに)むらさきにつやありそこ白し葉のうへ
にすゞなりにさくあとに皁角(さや)有かたち豇豆(さゝげ)のごとし
さゝげのはやなりにこれをかへもちゆるなり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】
七りん草
九輪草(くりんさう)
旌節花(せいせつくは)
《割書:三月花|   さく》
【囲みの外】花のかたちさくら草のごとくにて葩(はなびら)あつくしの立(たち)
まはりさくしのふとく立(たち)のびだん〳〵に咲(さく)色 数(かず)あり
白紅あるひはゆきしろげんじ又うすいろ咲分(さきわけ)有 地(ぢ)紅
にしてはなびらふる白きを源氏(げんじ)九りん草といふ
【区切り線】
【見出し、囲み部分】羅生門(らしやうもん)《割書:はな| 三月》【囲みの外】はなるり色とりかぶとのはなのごとし葉おどり
草のはにしてすこしながくうすし茎蔓(くきつる)生(しやう)ずくきを
ふせふしより根(ね)ををろしはびこる

【右丁】
残菊(ざんきく)

花白マンナカシヲウノクマ
ウラサキヨリエンシクマ

【左丁】
画本野山草巻之四目録
 宝相花(ほうさうくは)  外浜(そとがはま)すかしゆり 為朝百合(ためともゆり)
 下野(しもつけ)   芥子(けし)      美人(びし[じヵ]ん)草
 岡河骨(をかかふほね)  鳳仙花(ほうせんくは)     べにの花
 水葵(みづあふひ)   水梛(みづなぎ)      鷺(さぎ)草
 野藤(のふぢ)草  花蓂茄(はなめうが)     金銭花(きんせんくは)
 寒菊(かんきく)   朝鮮蕣(てうせんあさかほ)     大八代(をうやつしろ)

【十三行目「花蓂茄」のルビ「が」は国立国会図書館デジタルコレクションのデータと校合し補字(橘保国 画『絵本野山草 5巻』[4],柳原喜兵衛,文化3. https://dl.ndl.go.jp/pid/2569338)】
【畫本野山草. [4] コマ2(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)では、十二行目「水葵」のルビは「みつあふひ」】

【右丁】
 貴船(きぶね)菊 朝顔(あさかほ)   宮城野萩(みやぎのはぎ)
 昼顔(ひるかほ)  夕顔(ゆふかほ)   達磨(たるま)菊
 竜胆(りんだう)  菝葜(はつかついはら)  冬牡丹(ふゆほ[ぼヵ]たん)
 元日(くはんじつ)草

【左丁】
宝相花(ほうさうけ)

【畫本野山草. [4] コマ3(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)では、三行目「達磨」のルビは「だるま」、四行目「菝葜」のルビは「はつかついばら」】

【右丁】
【下図の右上に記載】
外(そと)がはま
 すかしゆり

【上図の上に記載】
 花ゴフン
 中ヨリ
 シワウクマ

為朝(ためとも)
  百合(ゆり)

【左丁】
 下野(しもつけ)

【右丁】
芥子(けし)花

【左丁】
美人草(びじんさう)

【右丁】
【見出し、囲み部分】宝相花(ほうさうくは)
【囲みの外】薔薇(しやうび)に類(るい)す花 大(をゝけ)し大白(たいはく)有大 紅(こう)有 千弁(せんえ)二 種(しゆ)あり
長春花(ちやうしゆんくは)より花葉ともに大し三四月にさく俗(ぞく)に
長(なが)いばらといふ牛勒(きうろく)一名(いちめい) ̄は牛棘(きうきよく)一名 ̄は剌紅(しこう)【剌は刺ヵ】といふ山中(やまなか)の大木(たいぼく)の根(ね)に
生(しやう)ず又 谷岩(たにいは)のうへよりはへさがるあるひは岸(きし)又山 原(はら)よりはへ
さがるまた長春花より葉のちいさきもあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】外浜(そとがはま)すかし百合(ゆり)【囲みの外】花つねのすかしゆりにしていろ萱草(くはんさう)に
似てほしなし中心さきとんぼうがしら六筋(むすじ)蕊(しへ)のさき紫色の米(こめ)
粒(つぶ)有又葉 常(つね)の百合(ゆり)より細長(ほそなが)し三四月に花有長三尺ばかり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】為朝(ためとも)
百合(ゆり)
【囲みの外】花の色白く鹿子(かのこ)有むらさきくろ中心とんほうがしら
とびいろしべ同(をなじく)葉(は)鹿子(かのこ)ゆりに似たり葩(はなびら)の中より少(すこ)し
黄色有そこにすこしみと【どヵ】り色有 全体(せんたい)鹿子(かのこ)ゆりに似(に)たり鬼(をに)
百合(ゆり)よりふとくたくましく四月の中花有又は五六月迄長四五尺
ばかり茎(くき)ふとく色 黒(くろ)く青(あを)し花の大さ七八寸 余(よ)あり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】草下(くさしも)つけ【囲みの外】花立木の下つけとをなし色うす紅中しべ

【左丁】
しろく又白のしもつけもこれにをなじ葉は小(こ)てまり
のはに似(に)たりのこぎりあつてやわらかなりしのたち
藤(ふぢ)はかまに似て茎(くき)ほそし草(くさ)だちなり三 種(しゆ)のうちなり
三四月より六七月まではなさく漢名(かんめう)線繍菊(せんしうきく)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】芥子(けし)
罌粟
罌子粟
【囲みの外】葩(はなびら)四葉(しえう)にして色大紅有大白有紫有一重八重千 弁(え)あり
葉 苦菜(にがな)のごとし長三四尺ばかり葉のきれふかし四月
花さく麗夏花(れいげくは)といふ又 台(うてな)二葉有花 開(ひらけ)ば落(をち)る也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】麗春花(れいしゆんくは)
花鶯粟(くはをうぞく)
【囲みの外】俗(ぞく)にいふ美人草(びしんさう)かたち芥子(けし)にして小(ちいさ)くはな
びら同四葉いろ白有大紅有むらさき有ひとへ
ありまた八重有千 葉(え)有 春(はる)三月にはなさく葉は
けしのはにしてみじかく花のつぼみ葉 茎(くき)ともに毛(け)有
台(うてな)同(をなじ)はなひらくにしたがひ台(うてな)をちるなり
【区切り線】
鶯粟(をうぞく)八月 ̄の内(うち)種(うへて)喜(よく)。疎而(そにして)壮(さかん也)。収(をさめて)_レ子(み) ̄を作(なして)_レ腐(ふと)
佳(かなり)。又(また)有(あり)_二 五色(ごしき)千葉(せんよう) ̄の者(もの)_一。尤(もつとも)為(す)_レ可(べしと)_レ愛(あいす)

【四十四行八字目~「疎而」のルビ「に」は「う」に見える】
【『畫本野山草. [4]』コマ6(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)では、四行下から二字目「俗」のルビは「そく」、十行十三字目は「ほ」、十五行下から五字目は「ぼ」、十七行十一字目は「ど」、二十一行十五字目は「じ」】

【右丁】
岡河骨(をかかうほね)

鳳仙花(ほうせんくは)

【左丁】
べにの花

【右丁】
水葵(みづあふひ)

【左丁】
水梛(みづなき)

鷺艸(さぎさう)

【左図右・線で該当箇所を指している】アヲ

【右丁】
【見出し、囲み部分】をかかうほね
【囲みの外】花立かうほねに似たり色黄にして少し
あかみあり花の茎(くき)長し枝(えだ)有葉だちつはに似
たれどもまるしきれ有つやありじく根(ね)もとにあかみ
有また枝もとにふくろ葉あり四月より五月まで咲也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】鳳仙花(ほうせんくは)
【囲みの外】はなのかたち鳥(とり)の羽(は)をひらきたることしいろ
赤(あか)し大紅大白あり桃色(もゝいろ)有むらさき有又しぼり
あり又とびいり有葉のかたち亦 桃(もゝ)に似(に)てながし木立(こたち)
大小(たいせう)有 高(たか)さ三四尺ばかりあり又一二尺あり四五寸あるなり
枝あるもありなきもあり三月よりまた八九月迄
あり山里(やまさと)に生(しやう)ず本名(ほんめう)金鳳花(きんほうけ)といふなりまた俗(ぞく)に
ほねぬきぐさといふなり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】紅花(こうくは)
【囲みの外】葉色 浅(あさ)みどり台(うてな)くきともに浅(あさ)し四五月
紅いろのはなあり葉あさみに似(に)たれとも
きれまたなしはりありしげく葉(は)にさゝらありて

【左丁】
こはし又はなは色あかくつぼみあざみに似たりはりと葉に
てとりまきしげくありてはな開(ひら)くもすこしなり又しべ
のびてさき五つにひらくたけ三尺ばかりのびえだ多(をゝ)し
またつぼみをゝく葉に添(そい)てつく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】水(みづ)あふひ
みづなぎ
浮薔(ふしよく)
沢ぎきやう
【囲みの外】葉のかたち竹柏(なぎ)に似てつやあり茎(くき)を
まきていづる又葉 葵(あふひ)に似たるを水あふひと
いふはなしの立六 弁(え)のはなつらなりさくう
すいろ白むらさきの三 品(しな)桔梗(きゝやう)のごとくはな末(すえ)に
いろるり藤(ふぢ)ぎきやうに似てちいさくはなびらきれふかき
はなあい〳〵にさく六七八月あり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】さぎ草《割書: |沢瀉》
白萼(はくがく) 《割書:に|似たり》
【囲みの外】葉さゝ葉に似てほそくくきを巻(まい)て
いづるはな雪白(ゆきしろ)小鳥(ことり)のとぶかたちのごと
くあるひはさぎのとぶかたちに似たり沢(さは)のほとりに
あり水くさなり七八月にあり

【右丁】
 野藤草(のふじさう)

【左丁】
 花蓂茄(はなめうが)

【区切り線】
【見出し、囲み部分】墅藤(のふぢ)【野藤ヵ】《割書:四五月》【囲みの外】葉藤のごとくにて花も又大てい似て一ところづゝ■【注】
なりさくはなじくのびず中むらさきいろなり七月はなあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】花めうが
しゆくしや
【囲みの外】花白く車咲(くるまさき)五つびら葉めうがだけのごとく六月に
はなあり一名やぶめうが本名は和縮砂(わのしゆくしや)なり

【注 ■は「に」ヵ「こ」ヵ。この後にもう一文字あるように見える。】

【右丁】
金銭花(きんせんくは)

【左丁】
 寒菊(かんきく)

【右丁】
朝鮮蕣(てうせんあさがほ)

【左丁】
大八代草(をゝやつしろさう)
貴船菊(きふねぎく)《割書:エンジグエンジグマ|ニホイキ》

【右丁】
【見出し、囲み部分】金銭花(きんせんくは)《割書:《割書:又》金盞花(きんさんくは)|ともいふ》
【囲みの外】花のかたち菊のごとし一重有八重あり千重
有花中ごろに咲(さい)て開(ひら)かずちよく咲(さき)なり葉
は九曜草(くようさう)に似(に)たりはな四季(しき)に有色赤黄丹色葉色黄青して
浅(あさ)し長尺はかり八九月の比(ころ)より咲(さく)春(はる)三月さかりなりこれ
金盞花金銭花といふも漢名(かんめう)なり八 集画譜(しうぐはふ)草木(さうもく)の譜(ふ)【注】に云へ
り金銭花は俗(ぞく)にいふ也金盞花とはこつふさかつきに似たる
ゆへいふなり金銭花とは午時花(ごしくは)の事也金銭花を午時(ごし)といふは
午時(ごじ)にさく故也赤きを子午花(しごくは)と云黄なるを金銭花といふ也
又金盞花の本名は萵苣花(くはきよくは)《割書:又》金盞艸《割書:又》長春菊(ちやうしゆんぎく)といふ
【区切り線】
長春菊(ちやうしゆんきく) 俗名(ぞくめうは)回回菊(くはい〳〵きく)四時(しいし)有(あり)_レ花(はな)種(うへて)_二於 籬落間(りらくのあいたに)_一亦(また)自(をのづから)可(べし)_レ愛(あいす)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】寒菊(かんきく)【囲みの外】はな黄色 辻(つじ)黄いろにしてつゝしべなりもりあげ葩(はなびら)
は白し一重にしてまばらなり葉しげくして十月より赤く
紅のごとくになり十二月まてあり花のいろ金のごとくまた
水仙菊(すいせんきく)のはな一重にして葩白くさかやき青し葉の色う
ら灰色(はいいろ)表(をもて)青(あを)みどり九十月にあり冬(ふゆ)きくといふ

【左丁】
【見出し、囲み部分】曼陀羅花(まんたらけ)
【囲みの外】春(はる)たねより生(しやう)しかたち茄子苗(なすびなへ)のごとくにて段々(だん〳〵)
枝(えだ)出(いで)て葉も茄子(なすび)のごとく故(ゆへ)に異名(ゐめう)山茄(やまなすび)ともいふ
秋花さく色白 大輪(たいりん)花形(くはぎやう)あさがほのごとくたくましく異形(ゐぎやう)な
れば俗(ぞく)に唐人笛(たうじんぶえ)といふ尤(もつとも)其かたちなり花壇(くはだん)に植(うへ)て朝鮮朝(てうせんあさ)
がほといふ朝(あした)にひらき夕(ゆふべ)にしぼむ○時珍(じちん)が曰(いはく)曼陀羅花(まんだらけ)人家(じんか)に
春(はる)苗(なへ)を生(しやうじ)夏(なつ)長(ちやう)ず独茎(どくきやう)直(たゞち)に上(のぼり)高(たか)さ四五尺葉も茎(くき)も茄子(なずび)のごとく
八月白花ひらき九月迄有葉 牽午(あさがほ)花のごとく大(をゝけ)し朝(あした)に
開(ひら)き夕(ゆふべ)に合(がつ)すといへり木(き)も茎(くき)も黒紅(くろべに)なり実(み)丸(まろ)く針(はり)あり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】大八代草(をほやつしろさう)《割書:八九月| さく》【囲みの外】花八代草に似たり桔梗(きゝやう)のごとく色(いろ)同(をなじく)似(に)たり花 辻(つぢ)に
さく葉ごとに花つくさゝりんだうに似(にた)り八代草より遅(をそ)し山中に有
【区切り線】
【見出し、囲み部分】秋牡丹(あきぼたん)《割書:八月| より》
きぶね菊《割書:九月》
加賀(かが)きく《割書:まて|花有》
【囲みの外】葉のかたち菊(きく)の葉に似てきれあさくこはし
はな又きくのごとく紅紫色八重一重さきまた白
花あり花葉ともに同じ又 加賀(かゞ)菊共いふ本菊は
はなびら筋(すじ)あり此きくは葩(はなびら)に筋なし牡丹のごとく花 開(ひら)けて実(み)
のめぐり蕊(しべ)とりまく一重のけしのごとくけしぼうす有

【右丁】
朝顔(あさかほ)

【左丁】
宮城野萩(みやきのゝはぎ)

【右丁】
昼貌(ひるかほ)
 花エンシグ
  エンジノクマ

【左丁】
夕顔(ゆふがほ)

【右丁】
達广菊(だるまきく)【注】

【左丁】
竜胆(りんだう)

菝葜荊(ばつかついばら)

【注 「广」は「磨」】

【右丁】
【見出し、囲み部分】宮城野萩(みやぎのはぎ)【囲みの外】七八月に花さく花の色白有紫有うす色とび入有
花長しさがりひめ藤(ふぢ)のごとく咲(さく)又花に黄あれとも是は白のか
へり也又山萩も花白有紫うす色有宮城野は長一丈斗【計ヵ】又山萩は六尺斗【計ヵ】也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】朝顔(あさがほ)
【囲みの外】花四五月より七八月迄さく花のかたち昼顔(ひるがほ)に似て葉三 角(かく)
なり花数多し三四十はなるりこん色有白有うす赤有 浅(あさ)
黄(ぎ)有又とび入有しぼり有又 朝鮮朝(てうせんあさ)がほ花るり色たねをまき生(は)へて
葉二つ出れば花咲ちやぼ朝かほともいふ又みす朝顔(あさかほ)共いふ山草也本名 牽午(けんご)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】昼(ひる)かほ【囲みの外】花四五月にさくいろうすあかし又白あり雪白大りん有
あさがほは朝々はなさかりなり昼(ひる)かほは終日(ひめもす)はな咲(さい)てあり南(なん)
京(きん)ひるかほはいろさくらいろ小(こ)りんなり葉はそばのごとし花
はあさかほに似(に)てすこし小りん野山原(のやまはら)に蔓(つる)を生(しやう)ずる也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】夕顔(ゆふかほ)【囲みの外】はな六七月にさく花形(くはぎやう)朝顔(あさかほ)のごとし葉 大(をゝけ)く丸し花
の色白し本名 瓠(こ)又 瓢夕顔(ひさごゆうかほ)ともいふ是又同はな白し両品(りやうしな)ともに
花 夕方(ゆふかた)に咲(さく)千なりともいふひさごちいさしはたけものなり

【左丁】
【見出し、囲み部分】だるま菊(ぎく)
布袋(ほてい)菊
谷(たに)ぎく
薩摩菊(さつまさ[き]く)
【囲みの外】葉あつくうすき毛茸(ひげ)有 草(くさ)だちふとく花のかたち
ひとへのきくのこときうすむらさきいろのはな葉
のつぢきはにさく又白花ありなづれはもうせんびろ
うどのごとしやはらかに四季(しき)に葉有又だるま草
ともほてい菊共さつまぎく共いふ八月より九月迄咲山谷の草也
【区切り線】
【見出し、囲み部分】竜胆(りんだう)《割書:七月より|八月迄》【囲みの外】花のかたちちよくのごとくしの立さく葉さゝば也
はなのいろ白うす紅紫るり四品あり山中野原にあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】菝葜(はつかつ)
【囲みの外】荊(いばら)の類(るい)なり葉丸く柿(かき)のはのちいさきごとくにて
葉の中筋五つすじあり冬葉を落(をと)し春(はる)出(いつ)る秋 赤(あかき)
実(み)有 俗(ぞく)にさんきらいともいふ又さるとりいはらとも云
は非(ひ)なりさるとりいばらは葉の形(かたち)槐(ゑんじゆ)の葉のごとくなりはな
色本うこんなりたけ一二尺ばかりのびはり有又かめいばら
ともいふ川きし山中 谷(たに)あいに有又 野原(のばら)さゝりんだうと一
所にあり五月はなさく九十月にあかき実(み)あり

【右丁】
冬牡丹(ふゆぼたん)

【左丁】
元日草(くはんじつさう)

花ヒラキ
シベ同

クキ白六

シヲウ
カケヱンシクマ

生ヱンジスミ

【右丁】
【見出し、囲み部分】冬牡丹(ふゆぼたん)
【囲みの外】花のいろむらさき有 紅(べに)ありうすさき有大白有花
葉木とも春(はる)牡丹より少(ちいさ)し然(しか)し早咲(はやさき)は大(をゝひ)也
いろ春さく牡丹より美(び)なり紅色むらさきともに葉
あかききほひあり茎(くき)葉のすじもうすあかし八月より
葉も花も出て十一月の比花咲又つほみ出ても花ひらかぬも
あり但(たゞ)しぜんたいはるのよりは小(ちい)さし
【区切り線】
【見出し、囲み部分】元日草(ぐはんしつさう)
【囲みの外】花 金(きん)色 葩(はなびら)多(をゝ)く菊のごとし葉 胡蘿蔔(にんじ▢[ん])【注①】に似(に)たり
はな一重八重あり又 深黄(しんくはう)或(あるひ)は浅黄(せんくはう)又白もありと
いふはな朝(あした)にひらき夕(ゆふべ)にねぶる其はな又 翌朝(よくてう)ひらく久(ひさ)
しくあり高(たか)さ一寸より五寸又春の末(すえ)に至(いた)れば八九寸ば
かりのびる茎(くき)をのばし枝(えだ)をのばす葉ひらく正月より
二月まであり山原(やまはら)又 谷(たに)ぞこに生(しやう)ず近江国(あふみのくに)北山(きたやま)より出(いだ)せり
一名 福寿草(ふくしゆさう)【注②】又 漢(かん)名 報春艸(はうしゆんさう)漢(から)にも立春(りつしゆん)よりさくと
有 報春鳥(うぐひす)と同しよつて報春草といふ

【左丁】
画本野山草巻之五目録
 草(くさ)はんや 牡丹花(ぼたんくは)  牡丹 芽出(めだし)
 牡丹花 弁(ひとえ) 花 苞(つぼみ)   牡丹 台(うてな)
 擬法珠(ぎぼふし)  草(くさ)びやう 麒麟(きりん)草
 翁(をきな)草   釣船(つりふね)草  松虫(まつむし)草
 風車(かざくるま)   鉄線花(てつせんくは)  唐松(からまつ)草
 大から松 富貴(ふつき)草  葉鶏頭(はけいとう)

【注① ▢は『畫本野山草. [4]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)コマ19と校合し補字。ただしこの文書では「にんしん」となっている。】
【注② ルビ「し」は「じ」ヵ。微かに点が一つあるように見える。以下の二つの文書は「じ」。⑴注①と同 ⑵橘保国 画『絵本野山草 5巻』[4],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569338 コマ20】

【右丁】
 十様錦(じうようにしき)  鳫来紅(かんらいこう)  荷葉(かえう)めかへ
 荷葉盛(かえうさかり)  蓮花盛(れんくはさかり)  蓮花風吹
 蓮房(れんばう)   小てまり  大手まり
 菫(すみれ)    化楡草(えびね)【注】  九輪(くりん)草
 覆盆子(いちこ)  水仙

【左丁】
草ぱんや

花ノソト白シ内ラエンシノグ
生エンシノクマ中ノシン白シ
葉六セウウラ白六ツル
同花ノウテナ生エンシ

【図の下】実如此

【注 「楡」は「偸」ヵ。『角川俳句大歳時記』(角川学芸出版)の「海老根(えびね)」の項に「化偸草」の記載有り。】
【九行目は『畫本野山草. [5]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)コマ3では「草はんや」】

【右丁】
 牡丹花(ぼたんくは)

花ヒラ内外トモ
モトヨリクマ

【左丁】
牡丹 芽出(めだし)

 地ニクシキ
 ウスワウド
 カゲ
 ヱンシクマ

 □【古ヵ】木□【ハ】ネツミグ
 スミカスリ朱スミ
 クマ

【十五行三字目「ハ」は『畫本野山草』コマ4(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)と校合し補字】

【右丁】
 牡丹花 弁(ひとへ)

花苞(ハナツボミ)

【左丁】
牡丹 台(うてな)

 白六サキヨリ
 エンシクマ

【九行一字目「白」は『畫本野山草』コマ5(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)で確認】

【右丁】
 擬法珠(き[ぎ]ばふし)

【左丁】
 草びやう

 麒麟草(きりんさう)

【二行目のルビ「ぎ」は、橘保国 画『絵本野山草 5巻』[5],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569339 コマ7で確認】

【右丁】
【見出し、囲み部分】牡丹花(ぼたんくは)《割書:三月|中|花咲》
【囲みの外】花に大白大紅有紫うす紫有うす紅そこ紅口紅其外
万々有牡丹は総体(そうたい)を九品(くぼん)に分(わけ)て見(み)るべし九品といふは
一(いち)位(ゐ)二(に)形(ぎやう)三 色(しき)四 重(じう)五 実(じつ)六 蕊(すい)七 葩(は)八 葉(よう)九 木(ぼく)也一に位(くらゐ)といふに四等(しとう)の分(ぶん)
有一 位(ゐ)未見(いまだみず)二位三位をよしとする四位は有ふれたるとそ○二に形(かたち)と云
に五様あり富貴(ふうき)艶麗(えんれい)厳格(げんかく)乱雑(らんざつ)枯槁(こかう)なり富貴艶麗をよしとす○
三に色に二種有 咲出(さきだし)あかみたる様なるは珠玉咲(しゆぎよくさき)也 青(あを)みたるやうなるは
碧玉(へきぎよく)咲也珠玉咲はつや有て碧玉咲は花につやなし又是にたがへる
も有べし酔(えひ)ありしみ有酔しみあるは上花(しやうくは)の外(ほか)なるべし○四に重(かさね)は
五ッ葩(はなびら)より十五葩に至て一重とす廿葩より四十葩迄を八重とす四十
五葩より百葩までを千重とす百葩の外万重とす八重千重を
よしとす○五に実(み)に形容(けいよう)大小(だいせう)高下(かうげ)赤白(せきびやく)有白に黄白有銀白青
白有赤に薄(うす)赤 木瓜(ぼけ)色 濃(こい)赤 薄(うす)紫こい紫黒色あり形(かたち)に瓶子(へいし)有
実(み)のかしら五つにわれ七つにわるゝあり白は銀白□【紅】は濃(こき)有
小瓶子(こへいし)をよしとす芥子実(けしみ)鈴実(すゞみ)ともいふ○六に蕊(しべ)は

【左丁】
すべて黄なり淡濃(たんのう)多少(たせう)長短(ちようたん)あり黄にして少(ちいさき)をよしとす
○七つに葩(はなびら)は厚円(かうえん)薄鈌(はくけつ)有■【注】縮有ひらめくつほむ厚円(かうえん)にして
つぼむをよしとす○八 ̄に葉(は)に大小長短 頻縮(ひんしゆく)弱垂(じやくすい)円尖(ゑんせん)あり其
いろ紫 碧(みどり)淡濃(うすきこき)あり細長(さいちやう)にしてつよきをよしとす兼(かね)たる
色(いろ)をよしとす○九 木(き)に強直(きやうちよく)なるもあり巻曲(けんきよく)なるもあり
のびやかにほそく直(すぐ)なる有すなをにのびやかなるをよしとす
【区切り線】
賈耽(かたんが)花譜(くはふに)云(いはく)牡丹(ぼたん)唐人(たうじん)謂(いふ)_二之(これを)木芍薬(ぼくしやくやくと)_一欧公(をうこうが)牡丹(ぼたんの)
譜(ふに)有(あり)_二 九十 余種(よしゆ)_一又(また)易州進奉(いしうしんほう)十九 種(しゆ)今時(こんじは)則(すなはち)名(めい)
類(るい)又(また)多(をゝし)矣 坡(はが)云(いはく)看(みる)_二牡丹(ぼたんを)_一法(はう)《振り仮名:当_レ在_二|まさにあるべし》午前(ごぜんに)_一過(すぐ▢[る]ときは)_レ午(ごを)則 離(り)
披(ひす)此花(このはな)分(わけて)接(つぎ)当(あたつて)_二於 秋(あき)九月(くぐはつに)_一移植(うつしうへ)当(あたる)_二於 開花時(かいくはのとき▢[に])【一点有】舒(じよ)
元輿(げんよ)有(あり)_二牡丹賦(ぼたんのふ)_一丘璿(きうえい)有(あり)_二牡丹栄辱志(ぼたんえいじよくし)_一
【区切り線】
【見出し、囲み部分】開元遺事【囲みの外】牡丹(ぼたんは)花木妖(くはぼくのよう也)明皇時(めいくはうのとき)沈香亭前(ちんかうていのまへ)木芍(ぼくしやく)
薬(やく)盛(さかんに)開(ひらく)一枝(いつし)両頭(りやうとう)朝(あしたには)深碧(しんへき)暮(くれには)深黄(しんくはう)葉(は)粉(しろく)昼夜間(ちうやのあいだ)
香艶(かうゑん)異(ことなり)帝曰(ていのいはく)此(これ)花木妖(くはぼくのよう)也(なり)賜(たまふ)_二楊国忠(やうこくちうに)_一

【注 ■は扌+旧+一+ム・「捏」ヵ】
【不明瞭な字(□、▢)、二十九行下から二字目の下の一点は、橘保国画『絵本野山草 5巻』[5],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569339 コマ8と校合し補字】

【右丁】
翁(をきな)草

 花地ヱンジグヒラ同
 ソコヨリキクマトル
 スシヱンシ同ホシ

釣船(つりふね)草

【左丁】
 黄色ノ花ハ
 地キ仕立ハ右同

 松虫(まつむし)草

【右丁】
【見出し、囲み部分】草はんや
芃蘭(くはんらん)
【囲みの外】蘿摩(らま)は鏡(かゝみ)草とも云 蔓草(つるくさ)也六七月 鈴(すゞ)なりにして淡紫(うすむらさき)の
小(ちい)さき花さく百合(ゆり)に似(に)て星(ほし)なし五ひらにしてうてな
あり草(くさ)しの立(だち)葉とも女青(へくそ)かづらのごとし此 草(くさ)は折(をり)て見れば
乳汁(ちしる)出(いづ)る又 女青(へくそ)かづらは乳汁なし花 開(ひら)き晩秋(ばんしう)に実(み)を結(むす)ぶ紙麻殻(しまこく)
に似(に)たり初冬(しよとう)に至(いたつ)て自(みづから)割(さけ)白絮(しろきわた)出(いづ)る其 殻(もみ)船艋(こぶね)のごとし長(なが)さ大(をゝ)き
なるは二三寸 許(はかり)小(すこし)なるは寸余(すんよ)也是 神書(しんしよ)にいはゆる少彦名神(すくなひこなのかみ)蘿麻殻(らまこく)を以て
舟(ふね)とすと少名彦神を画(えかく)に用(もち)ふべきものすな□【は】ちこれなり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】玉簪花(ぎよくさんくは)
 《割書:四月花有》
ぎぼうし
《割書:一名は》
 白鶴仙(はくくはくせん)
【囲みの外】数(かす)多(をゝ)し葉のふちに白のかすりありふちうぎぼうし
といふ葉に班入(ふいり)【班は斑ヵ】ありぶんてうぎほうしといふきん
らんあり葉つねのぎぼうしにかはらず花雪白しの
たちのびかんざしのことく至極(しごく)見事也一種葉 極(▢[き]はめ)てほ
そながくつやあるもありはなきんらんに同しはなのいろ白
有ふぢいろ有 大(をゝ)ぎほうしはたかさ四尺ばかり小(こ)ぎぼうしは土地に
よりていろ〳〵あり山草なり
【区切り線】
玉簪花(きよくさんくは)一名(いちめいは)白萼(はくがく)能(よく)消(けす)_二骨鯁(うをのほねを)_一不(す)_レ可(へから)_レ着(つく)_レ牙(めを)着(つくれば)_レ牙(めを)則(すなはち)

【左丁】
裂砕(さけくだく)有(あり)_二紫黄(しくはうの)二色(にしよく)_一紫者(むらさきなるは)多(をゝく)黄者(きなるは)佳(かなり)種(たね)不(す)_二多有(をゝくあら)_一
【区切り線】
【見出し、囲み部分】草びやう【囲みの外】びやう柳に似たり花黄色にして葩五つにて芙蓉(ふよう)の
ごとしなるしべ短(みしか)く長春(ちやうしゆん)に似たり葉をとぎり草に似て葉むかひ
あひ両方を茎(くき)葉にてとりまく高三四尺斗【計ヵ】よこにはふ四五月花咲
【区切り線】
【見出し、囲み部分】きりん草
鋸歯葉(きよしえう)
景天(けいてん)
【囲みの外】葉べんけい草のごとく小葉にして葉のふちにきれあり
花のいろ黄にして一処につきさく草たちふとし花も
べんけい草のごとく五月花有葉三方につく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】翁草(をきなくさ)
白頭翁(はくとうをう)
【囲みの外】はの芽(め)だしゆき白にして日(ひ)をかさね次第(しだい)に青くなる又
虎班(とらふ)【斑ヵ】有せうがひげのごとく五月花有葉三方につく
【区切り線】
【見出し、囲み部分】釣船(つりふね)草《割書:花八九|月有》
【囲みの外】葉 野菊(のぎく)のはに似てきれあさく葉うすしくき
露節(ふしだち)して葉のうらより一寸ばかりのほそきいと
さがりはなをつる事つり船のごとしはなのかたちとりかぶとを
横にしたるごとく色 本金黄(ほんきんき)至極(しごく)かはり也又紫花有又白もあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】松むし草【囲みの外】葉よもぎのごとく茎(くき)ふとく花うす藤色丸き花さく
又いたのぎくともいふ一名 玉毬花(ぎよくきうくは)七八月より九月まではな有

【不明瞭な字(□、▢)は、橘保国 画『絵本野山草 5巻』[5],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569339 コマ10と校合し補字】

【右丁】
風車

【左丁】
鉄線(てつせん)花

【右丁】
唐松(からまつ)草

大から松

【左丁】
富貴(ふうき)艸

【右丁】
十様錦

葉鶏頭(はけいとう)

【左図の下】
葉地ヱンシク

【図】カキ

【左丁】
鳫来紅(がんらいこう)

【図の左】
葉地ヱンシク

【図 四箇所】ヱンシ
【図 中央】キ

【図の文字は全て線で該当箇所を指している】

【右丁】
【見出し、囲み部分】風車(かざぐるま)《割書:花三四月|  有》【囲みの外】花のかたちくるまのごとしはなびら八 枚(まい) ̄に して
うちにしん有花に数(かず)多(をゝ)し白一重うちむらさき一重べに
紫ひとへむらさき一重こんいろ一重又雪白八重ひとへ千重
あるひはゆき白千 弁(え)白に爪紅色(つまべにいろ)千 弁(え)かき紅千重有いづれ
も花 上品(じやうひん)にして見ごとなりはなの大(をゝき)さ四寸あまり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】鉄線花(てつせんくは)《割書:三四月|はな有》【囲みの外】花かざくるまのごとくにてちいさくしまり
花に千 弁(え)うち紫千重ありもりあげさき又白とうち紫と
のさきわけあり又 纏枝牡丹(てんしぼたん)といふはてつせんの千重にあり
はな白く葩(はなびら)八つにして面白(をもしろ)ふなし図(づ)にのせず花の大(をゝき)さ二三寸
【区切り線】
【見出し、囲み部分】唐松草(からまつさう)《割書:三|品》
 《割書:三四月花有》
《割書:又》秋から松
【囲みの外】花の色白くかたちから松のごとし茎(くき)にくろみ有
又紫花あり草(くさ)だち白のから松よりはしなやかなり又
白に紫のうつりあるも有葉も白のから松よりは
すこしあつし大からまつ草といふも有草だち大(をゝい)にたちの
びる草(くさ)なんてんといふ又 黄(き)から松有葉すこしかはりあり

【左丁】
【見出し、囲み部分】富貴草(ふうきさう)《割書:はな|三四月》
金鳳花(きんほうけ) 《割書:あり》
【囲みの外】花のかたち梅(むめ)のはなのごとくしべたちのび至極(しごく)
本金黄(ほんこがねき)いろ大りん葉きくのはに似て丸くあつ
しきれすくなく草花の上品(じやうぼん)なりはなに八重有千重有
白ありといへとも見ずまたさつまきんほうけといふ
【区切り線】
【見出し、囲み部分】葉鶏頭(はけいとう)【囲みの外】花形(くはぎやう)も葉もつねのけいとう也花は紅と黄とさき分
の三種有て葉に白くまだらの班(ふ)【斑ヵ】あり葉さきまはりは青くあ
をの中白く青紫にうす雪のふりたるやうにて花より見事な
ればはげいとうといふ花 赤(あか)きは葉にも白紅のまだら有七八月
【区切り線】
がんらい紅はにしき草といふ葉けいとうといふはあやまり也是にははな
なく葉の間(あひ)に実(み)をむすぶはげいとうの花形(くはぎやう)はけいとうのごとく也
けいとう花の同るい也鳫 来紅(らいこう)とは鳫(がん)来(きた)る時分(じぶん)見事なる故一名也葉 盛(さ▢▢[かり])八月
【区切り線】
老少年(らうしやうねん)一名(いちめいは)秋紅(しうこう)雁来紅(がんらいこう)有(あり)_二作詩(さくし)_一曰(いはく)
翔雁(ようがん)南来(なんらい)塞草(さいさうの)秋(あき)。《振り仮名:未_レ霜|いまだしもせざる》紅葉(こうえう)巳(すでに)【已ヵ】先(まづ)愁(うれふ)。緑(▢[り]よく)
珠(しゆ)宴(えん)罷(やんで)帰(かへる)_二金谷(きんこくに)_一。七尺珊瑚(しちしやくのさんご)夜(よ)不(ず)_レ収(しぼま)

【不鮮明な字▢は『畫本野山草. [5]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)コマ13と校合し補字】
【十九行十八字目~「草だち」は『畫本野山草. [5]』(右注と同)では「草たち」】
【四十行一字目「翔」のルビ「よう」は『畫本野山草. [5]』(右注と同)では「しう」】
【四十行九字目「霜」の右下に縦線有。汚れヵ。橘保国 画『絵本野山草 5巻』[5],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569339 コマ14には無。】

【右丁】
花ウスベニノ仕立ハ
ヱンジグサキヨリエンシ
クマ内ソト𪜈同
又モトヨリゴフンスシ入

荷葉盛(かえうさかり)

【右丁・右下】
荷葉(かえう)めかへ

【左丁】
蓮花盛(れんくはさかり)

【右丁】
蓮花風吹

【左丁】
蓮房(れんばう)

【右図 上から順に】

クサノシルクマ
四バン六セウ

【左図 上から順に】




【図の文字は全て線で該当箇所を指している】

【右丁】
小毬(こでまり)

【左丁】
大てまり

【右丁】
【見出し、囲み部分】れんの花
《割書:一名》荷葉(かえう)
《割書:一名》
  ふよう
《割書:四五六七月|   まで》
唐蓮(たうれん)
【囲みの外】花 数(かず)多(をゝ)しつま紅(べに)或(あるひ)は底(そこ)紅又 極(ごく)紅 色(いろ)白花有 金糸(きんし)れんぎんし
れんといふ有花びらにすぢのごとく成物見ゆる天竺(てんぢく)れんあり
色本紅花びらほそくつじ小(▢[ち]いさ)く葩(はなびら)折入(をれいり)万弁(まんえ)のごとしこれに白
花有又白に蓮紅有本紅白さきわけ大蓮有○凡(をよそ)蓮(はす)は先(まづ)うき葉
二かい葉三かい葉出て花のつぼみを出す葉 次第(した[だヵ]い)【注①】にさかへて花を開く
花 開(ひらき)其花をちて房(ばう)となる然(しか)るにうき葉とは水の上にうきなが
るゝをいふ又二かい葉は次(▢[つ]ぎ)に出て水の上より少(すこし)出て開(ひら)くを二かいといふ三がい葉は二
かいの上にまき葉立をいふ三がいば出てつぼみを出して葉盛して花開花ひらい
て落て房と成 荷葉(かえう)を画(えかく)は先葉 盛(さかり)にして葉の少(すこ)し下に花をあしらふ蓮花を画は
花の少し下に葉をあしらふ又 蓮(れん)を画(えかく)は蓮房(れんばう)を高(たか)くあげ葉花共に少し下にあしらふ
或(あるひ)は花をちらす葉をからして水 ̄に入蓮房 実(み)を飛(とば)して土中(どちう)宿(▢▢▢)【注②】。芽出。華盛。房実飛。此三 ̄▢[ツ]過現来 ̄▢[ト]云
【区切り線】
○爾雅(じか)ニ荷(か)ハ芙蕖(ふきよ)ナリ其茎(そのくき)ハ茄(か)其 葉(は)ハ荷(か)其花ハ菡萏(かんたん)其 実(み)ハ蓮(れん)其 根(ね)
ハ藕(ぐう)其中ハ菂(てき)○格物叢話(かくぶつさうわ)ニ荷花(かくは)重台(てうたい)ノモノ双頭(そうたう)ノモノハ以テ瑞(ずい)トス又 暁(あかつ▢[き])朝日(てうじつ)
ニ起(をき)夜(よ)ハ低(たれ)テ水(みづ)ニ入(いる)モノアリ睡蓮(すいれん)ト云 荷花(かくは)ヲ水芙蓉(すいふよう)𪜈草(そう)芙蓉𪜈云ナリ
【区切り線】
荷(か)一名(いちめいは)菡萏(かんたん)一名 ̄ハ水芙蕖(すいふきよ)有(あり)_二千葉(せんえう)黄(き)千葉 白(しろ)千葉 紅(べに)_一有(あり)_二紅(こう)
辺(へん)白心(はくしん)_一有(あり)【二点脱ヵ】馬蹄蓮(ばていれん)【一点脱ヵ】子(み)多而(をゝくして)大(をゝい也)有(あり)_二墨荷(ぼくか)_一並(ならひ) ̄ニ佳(かなり)種(うゆ)_二華山(くはさん▢[に])_一山頂(さんてう) ̄ニ有(あり)

【左丁】
_レ池(いけ)生(しやうす)_二千葉蓮(せんようのれんを)_一服(ふくして)羽化(うくはす)鄭谷詩(ていこくがし) ̄ニ所謂(いはゆる)太華峯頭(たいくはほうたうの)玉井蓮(ぎよくせいれん)是(これ)也(▢[な]り)
南海(なんかいに)有(あり)_下睡(ねふりて)【二点脱ヵ】朝日(てうしつに)【一点脱ヵ】夜(よる)低(たれて)入(いる)_上_レ水(みづに)歳(とし)有(あれは)_レ水(みづ)則(すなはち)荷(か)早発(はやくひらく)曽(かつて)端伯(たんはく)【注③】以(もつて)
為(す)_二浄友(じやういうと)_一又(また)有(あり)_二金蓮(きんれん)鉄線蓮(てつせんれん)白花(はくくは)大乙蓮(たいいつれん)_一花(はな)甚(はなはだ)難(かたし)_レ開(ひらき)本(もと)如(こ[ごヵ]とし)【注①】_二芭(ば)
蕉(せをの)_一葉(は)如(ごとし)_レ芋(いもの)亦(また)名(なづく)_二観音芋(くはんをんいもと)_一青蓮(せいれん)或(あるひは)云(いはく)即(すなはち)鉄線蓮(てつせんれんと)晋(しんの)仏図澄(ぶつとしやう)取(とり)
_レ鉢(はちを)盛(もり)_レ水(みづを)焼(たいて)_レ香(かうを)呪(じゆす)_レ之(これを)鉢中(はちのうち)生(しやうす[ずヵ])【注①】_二青蓮(せいれんを)_一花(はな)光色(くはうしき)耀(かゝやかす)_レ 人(ひとを)四五月内(しごぐはつのうち) ̄ニ開(ひらく)
【区切り線】
【見出し、囲み部分】小でまり《割書:はな|三月》【囲みの外】花の色白にして形をでまりに似たり葩五つ有中に
さかやき有葉のかたちのこぎり有下つけのごとく葉かた〳〵に
ついてはな間々より出る木立(こだち)やまぶきのごとくよこになびき
はびこる花 段々(だん〳〵)つらなる也又 茎(くき)赤黒なるは葉にこはみあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】おでまり
 《割書:三四月》
《割書:粉団(ふんだん)ははなの|  名なり》
【囲みの外】葉両方へ対(むか)ひ出て形(かたち)まろく大くちゝみ有てゆすら
梅のはに似(に)たり木の高さ丈余(じやうよ)枝同両方へ出て四方へふる其す
えに花有てまりのごとし葩(はなびら)本(もと)一やうにして五つわかる花一
りんのかたちは白梅(はくばい)のごとく花あつまる或(あるひ)は毬(てまり)のごとく花にうつり有
台(うてな)なし花 元(もと)小(せう)にして日を重(かさね)て大となる初開て青し盛に白(しろく)中心(まんなか)に穴(あな)有
【区切り線】
繍毬花(しうぎうくは)繍毬(しうぎう)作(なし)_レ花(はなを)《振り仮名:甚-繁|はなはだしげく》《振り仮名:簇-成|むらがりなし》如(ごとし)_レ毬(てまりの)《振り仮名:故-以|ゆへ ̄ニもつて》名(なづく)用(もつて)_二 八仙花(はつせんくはを)_一接(つけば)_二故枝(ふるえた) ̄ニ_一易(やすし)_レ生(しやうし)

【注① ルビの[ ]の字は、濁点の一つが有るように見える。橘保国 画『絵本野山草 5巻』[5],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569339 コマ18も同様。『畫本野山草.[5]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)コマ17では十二行目以外は濁点有。】
【注② 「宿」は「宀」+「石の口が日」。ルビ「▢▢▢」は『畫本野山草.[5]』(注①と同)では「やどる」ヵ、「やどつ」にも見える。】
【注③ 「曽端伯」は人名ヵ(読み方は確認できず)。「曽」の振り仮名「かつて」は誤ヵ。曽端伯は、「名花十友」の一つとして「荷花」を「浄友」とたとえている。(確認資料:『日本国語大辞典 精選版』(小学館)、『広辞苑(第七版)』(岩波書店)共に「名花十友」の項)】
【「-」は全て左側に書かれている】
【不明瞭な字▢は国立国会図書館デジタルコレクション(注①と同)と、または『畫本野山草.[5]』(注①と同)とも校合し補字。ただし十四行十二字目「次」のルビは『畫本野山草.[]5』のみで確認。】
【二十五行目(二箇所)、二十八行目、三十二行目、四十八行目(二箇所)の振り仮名「ニ」は小さい字で書かれている】
【『畫本野山草.[5]』(注①と同)と異なる部分:八行十三字目「極」のルビ「ごく」は「こく」、十行十七字目「万」は「方」、十八行下から十二字目「出」の後の「。」は無、二十行六字目~「芙蕖」のルビ「き」は「ぎ」、三十行下から六字目「甚」のルビ「だ」は「た」、四十八行十二字目「如」のルビ「ご」は「こ」】

【右丁】
菫(すみれ)

化楡草(えびね)【注】

【左丁】
九輪草(くりんさう)

【注 「楡」は「偸」ヵ。『角川俳句大歳時記』(角川学芸出版)の「海老根(えびね)」の項に「化偸草」の記載有り。】

【右丁】
覆盆子(いちご)

【左丁 文字無し】

【右丁】
【見出し、囲み部分】すみれ草
《割書:又》三国草(さんごくさう)
大すみれ
菫菜(きんさい)
箭頭草(せんとうさう)
【囲みの外】富貴すみれともかくれみのともいふ葉(は)のかたち花つる
のごとくにてきれふかく葉やわらかに小(こ)葉也 茎(くき)紫色
花白くすみれのごとき花さく此せうにて花葉かはり
たるもの三 種(しゆ)有葉ほそながきものあり丸葉ありま
ろきをつぼすみれといふ花にむらさき白ありみな地丁(すみれ)也
又 外(ほか)に三国草とよぶ草有所々にて名のかはる草もあれは別(べつ)の
三ごく草といふ草いつれを云かいぶかし花三月より八九月迄咲
【区切り線】
【見出し、囲み部分】ゑびね草
山磁石(さんじしやく)
【囲みの外】花 数(かず)多(をゝ)し大ゑびねといふは花の色本黄 大々(だいたい)
りんあるまんゑびねははなの色大ゑひねに同し大
りん大 南京(なんきん)も又花のいろ同じ金(きん)むらさきといふは花びら
こい柿紅(かきべに)つやありはなのうち舌(した)ともに本黄也茶金と
いふは花びら青葉【紫ヵ】にして舌(した)ともに同しいろすこしうすし
出ふねえびねはよごれしろにうすむらさきのかすりあり舌
もおなじ葉ゑびねは黄に青きうつり有花のそと中黄

【左丁】
うち舌(した)ともに白し紅かばゑびね有花びらうつり白にすこし
あかみ有紫のえびねはこい紫の打(うち)ぬきにして花びら舌(した)共(とも)に同し
色 鹿子(かのこ)ゑびねは白に紅のほし入白えひねは花ひら舌ともによご
れしろなり花びら青白く舌(した)白きをごすでゑびね□【と】いふ花
びら青葉【紫ヵ】にしてした白く紅の色さすを紅ゑびねといふまた
雪白(ゆきしろ)本紅(ほんべに)有夏ゑびね有秋えびねあり夏(なつ)ゑびねは黄に青き
うつりあり四五月にさく秋ゑびねは七八月にさくはなの
色 薄(うす)ざくら□【色】舌も同し花葉ともにかはらずさく旬(しゆん)にちがいあり
【区切り線】
【見出し、囲み部分】九りん
  草
旌節花(せいせつくは)
【囲みの外】花のかたちさくら草のごとくにて葩(はなびら)あつくしのだち
まはりさくしの立(だち)ふとく立(たち)のびだん〳〵に咲(さく)いろ数(かず)あり
白紅あるひはゆきしろげんじ又うす色咲わけあり地(ぢ)
紅(べに)にして花びらふち白きをげんし九輪草(くりんさう)といふ三四月はな有
【区切り線】
【見出し、囲み部分】いちご
覆盆子(ぶくぼんし)
【囲みの外】花梅のはなのごとき小りん黄いろ有雪白有 本草家(ほんざうけ)に実(み)を
覆盆子(ぶくぼんし)といひ葉を《振り仮名:■■|ゆうるい》【注①②】と云 冬(ふゆ)いちごとも寒(かん)いちこ共いふ

【注① ■一文字目は艹+凵+米。艹+幽ヵ】
【注② ■二文字目は艹+塁。蘲ヵ】
【五行目ルビ「さ」は「た」にも見えるが、橘保国 画『絵本野山草 5巻』[5],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569339 コマ21と校合し補字】
【二十九行下から四字目□は国立国会図書館デジタルコレクション(右注と同)と校合し補字】
【三十三行六字目□は『畫本野山草.[5]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)コマ20と校合し補字】

【右丁 文字無し】

【左丁】
【見出し、囲み部分】水仙花(すいせんくは)
【囲みの外】葉 蒲(がま)に似(に)たり花のかたち金盞銀台(きんさんきんだい)にたとふ花びら六よう
台(うてな)は三 角(かく)にして長(なが)し茎(くき)かうほねに似(に)たり又花は末(すえ)に薄絹(うすきぬ)の袋(ふくろ)に
包(つゝみ)袋ほどけて花 開(ひら)く花の色白ふして少(すこ)しなしめ也中の一盞(いつさん)に三玉(みつのたま)有一盞三
玉(ぎよく)ともに黄(き)うこん也八月より翌年(▢▢▢[よくね]ん)の二三月迄花有秋冬の水仙は花葉の中段(ちうだん)に
有 亦(また)春(はる)の水仙花は葉のたけにくらぶ総体(さうたい)草花に是を順(じゆん)じて夏秋の草花
たけ長し冬春の草花はたけみじかし四季(しき)の草花年中たゆる事
なし然(しかれ)とも秋冬の草花は冬気を凌(しの)ぎかねて春を待(また)ず処(ところ)へ水仙 薄(うす)
絹(ぎぬ)のふくろより金盞銀台を出し是春を待す春の草花 来(きた)るに一盞
を以て引合(ひきあは)する縁(えん)をむすびつなぐ花なり○楊誠斎云(やうせいさいがいはく)世(よ)に水仙を以て
金盞銀台となす蓋(けだし)単葉(ひ▢[と]え)のもの中に一酒盞(いつしゆさん)有 深黄(しんくはう)にして金色(きんしき)也千葉
のものは乃(すなはち)真(まこと)の水仙也○山谷云(さんこくがいはく)一名を仙骨(せんこつ)とす水仙花 凡花(ぼんくは)にあらず仙人
の骨象(こつしやう)ある也 故(ゆへ)に仙骨といふ△仕立花(シタテハナ)ゴフン中筋(ナカスヂ)同(ヲナジ)中筋ノ両(リヤウ)ワキ白緑(ビヤクロク)ニテ
クマドリツケニヲイ皿(サラ)ニヲイノ玉(タマ)ゴフンソコ白緑(ビヤクロク)ニテクマドル又 総花(ソウハナ)ヘキラニゴ
フンヲ加(クハヘ)テカケル中(ナカ)玉(タマ)ト皿(サラ)トモシワウヲカケル台葉(ウテナハ)トジクトハ四(よ)バン六セウヌルクサ
ノ汁(シル)クマトリシワウヲカケルハナヲツヽム袋(フクロ)ゴフンヌリウスワウドヲカケ朱墨(シユスミ)クマキラカケ
筋(スヂ)カキ朱墨(シユズミ)葉(ハ)ノネマキゴフンスリキラヲカケルクサノ汁(シル)ニテ筋(スヂ)カク

【不明瞭な文字や▢は、橘保国 画『絵本野山草 5巻』[5],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569339 コマ22、『畫本野山草.[5]』(翻刻!いきもの図鑑―コレクション1)コマ21と校合し補字】
【十六行目~のルビのうち、十八行下から十字目「四」のルビのみひらがな表記】

浪華後素軒橘保国画図

    《割書:大坂》藤村善右衛門
 彫刻
    《割書:同 》藤江四郎兵衛

宝暦五乙亥年八月
文化三丙寅年霜月求板
  書林   柳原喜兵衛

【このコマは、橘保国 画『絵本野山草 5巻』[5],柳原喜兵衛,文化3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2569339 コマ23の右丁と同じ】

【文字無】

【文字無】

【文字無】

【文字無】

【文字無】

【見返し 文字無】

【見返し 文字無】

【裏表紙 文字無】

【背表紙】
【横書き】
JE HON
NO JAMA
GUSA

【天地・天ヵ 文字無】

【背の部分(写真の上側)の色がコマ131より暗い色に見えることから天ヵ。コマ128の写真(背の上下の色)参照。】

【小口 文字無】

【天地・地ヵ 文字無】

【背の部分(写真の下側)の色がコマ129より明るい色に見えることから地ヵ。コマ128の写真(背の上下の色)参照。】

BnF.

【辞書の背表紙】
IEI KI KEN
DICTIONNAIRE
HOLLANDAIS - JAPONOIS
【背ラベル】
JAPONAIS
343

【蘭日辞典「訳鍵」】

BnF.

【白紙】

【白紙】

【白紙】

abel Bemusat
N°3462
396Encycle.Jar.L.LXXXⅡ.
Aebres adoeife'ranr
香木 Hiang Mou
Pen-thsao-Kang-mou, I, XXXIV
C.F.ⅢGo.=六十七=百五十二&Suir
Volume@.488 Jeullets
22 September 1871

BnF.

【巻物 題箋】
衣類裁物図
【資料整理番号の丸ラベル】
40
【資料整理番号の角ラベル】
SMITH-LESOUEF
 JAP
K-40

【巻物の軸棒の頭から撮った写真】

【巻物の軸棒のお尻から撮った写真】

【書き物を少し開いた状態。表紙題箋】
衣類裁物図
【資料整理番号の丸ラベル】
40
【資料整理番号の角ラベル】
SMITH-LESOUEF
  JAP
 K-40

【巻物の見返し 文字無し】



朱鞘
スヲリ


サケヲ
朱鞘
ノシメ

士 サムライ
襦袢
上下
熨斗目




下緒

スヲリ

商 
アキビト
襦袢


羽職【織の間違いカ】
小袖
シタキ
タビ

調市 
ハンチ

娼婦
ウカレメ
ハンカケ
公害


フサ
襦袢
ウチカケ
シタギ

木履


帯トメ
振袖
フクリ


ヲタマキ
針箱
イトマキ
ハリ
猬剪

裁刀
火熨

BnF.

【ラベル】
SMITH-LESOUËF
JAP
K-35

【文字なし】

【文字なし】

【45種類の旗の絵の集まり】
【「紀」の文字や家紋から考えて上下が逆であると思われる。】
【180度回転させた状態で右上から順に】
【1行目】抱き柏、加賀梅鉢(白抜き)、剣梅鉢、?、一文字に陰星、中陰三階菱
【2行目】?、?、?、九曜、長門三つ星、三階菱
【3行目】?、抱き柏?、?、?、角持ち地抜き蛇の目、?
【4行目】轡、違い山形、日本の国旗、二つ引き、釘抜き
【5行目】?、違い山形、四角と逆卍、逆卍
【6行目】紀、葵に違い山形、九曜、輪鼓竪引両、芸州鷹の羽、丸に八の字
【7行目】?、?、内隅入り平角?、内隅入り平角?、三つ引き、鉄砲菱
【8行目】葵、葵?、八つ割り抱き茗荷?、?、丸に三つ引き、平井筒

【ラベル】
SMITH-LESOUËF
JAP
K-35

BnF.

【表紙】
CATALOGUE DU FONDS JAPONAIS
Manuscrits et xylographes

Nouvelles acquisitions
1986-

CATALOGUE DU FONDS JAPONAIS
MANUSCRITS ET XYLOGRAPHES

NOUVELLES ACQUISITIONS
1986-2008

【右上・手書き頁番号】1


MANUSCRITS

Japonais 5329
(Réserve)
大般若波羅蜜多經 巻第一百九十四
奈良時代 八世紀写 永恩經
Dai hannya hara mittakyô, chapitre 194.
Non daté. Epoque de Nara. 8e siècle.  1 rouleau

Japonais 5330
(Réserve)
二十四孝
画并譯文 東都 牛山人箕騰世龍譯併書
梅溪平世胤画 維時寛政十一年歳次己未春仲
極彩色 画帖
Nijû shikÔ.
Non daté.  1 volume

Japonais 5331
(Réserve)
きふね 奈良絵本 上・下 洋装合一冊
Kibume. Nara ehon.
Non daté.  1 volume

Japonais 5332
布袋草司 絵巻 上(下欠)
Hotei sÔshi.
Non daté.  1 rouleau

Japonais 5333
勃那把爾帝始末 高橋景保訳編
文政頃新写
Bonaparute shimatsu. traduit par
Takahashi Kageyasu.
Non daté.  1 volume

Japonais 5334 (1-2)
「化度寺碑」「温泉銘」 金子鷗亭書
\Kedoji hi\, \Onsenmei\.
Calligraphies par Kaneko Otei.
Don du calligraphe, le 18 octobre 1988
Non daté.  2 feuilles

Japonais 5335
七福神本紀 飯塚清實序
寛保四年写 彩色挿絵七図
Shichifukujin hongi. Préface de Iizuka
Kiyosane. Illustré de sept dessins
coloriés au lavis. Daté 1744.  1 volume

Japonais 5336
太宗温泉銘 野崎幽谷書
奥書「一九八九年孟冬 幽谷臨模」
帙書名「幽谷臨書帖」
TaisÔ Onsenmei. Calligraphie par
Nozaki Yûkoku, d'après \L'Inscription
de la Source chaude\ par l'empereur
de Chine Taizong. Daté hiver 1989.  1 feuille

Japonais 5337
[街頭風俗絵巻] 無款 詞書なし
[幕末頃]写 絹本著色 1軸
[Gaitô fûzoku emaki].
Scènes de la rue. Anonyme.
Sans texte. Non daté. XIXe siècle.
Encre noire et couleurs sur soie.  1 rouleau

Japonais 5338 (1-2)
「處々全真」「月声松影」 藤田金治書
色紙判
Deux calligraphies originales par
Fujita Kinji  2 feuilles

【右上・手書き頁番号】2


MANUSCRITS (suite)

Japonais 5339
(Réserve)
[うらしま] 絵巻下(上欠)・元奈良絵本
[Urashima]. Incomplet.
Non daté.  1 rouleau
Japonais 5340 (1-5)

Japonais 5340 (1-5)
源氏物語 紫式部著
「末摘花」「明石」「蓬生」「夕霧」「早蕨」
Genji monogatari, par Murasaki Shikibu.
Non daté.  5 volumes

Japonais 5341 (1-9)
[女歌仙絵]
[Onna kasen'e].
Non daté.  9 pièces

Japonais 5342
(Réserve)
源平盛衰記 画帖
Genpei seisui ki.
Non daté.  1 volume

Japonais 5343
酒飯論絵巻
Shuhanron emaki.
Non daté.  1 rouleau

Japonais 5344
玻璃幻影 荒金大琳書
Pari gen'ei.
Calligraphie originale de
Arakane Dairin. Non daté. [1996.]  1 pièce

Japonais 5345
(Réserve)
桜の中将 奈良絵本 四・五(一・二・三欠)
江戸前期写 横本 2冊
Sakura no chûjô. Nara ehon. Incomplet.
Non daté.  2 volumes

【右上・手書き頁番号】3


Japonais 5346

Taketori monogatari
Epoque d'Edo
1 rouleau; 31,5 x 527,5 cm.; manuscrit à peintures comportant 5 scènes, sans texte.

1: Kaguya-hime recevant d'un messager céleste l'élixir de longue vie
2: Le coupeur de bambou et son épouse présentant l'élixir de longue vie à l'empereur
3: Kaguya-hime assistant à des divertissement en l'honneur de son départ
4: Kaguya-hime visitée par l'empereur
5: Kaguya-hime recevant des présents de la part de ses prétendants

竹取物語
江戸時代 写
1軸; 31,5 x 527,5 cm.; 紙本着色; 詞書なし

Modalités d'entrée:
Entré le 3 mars 2011
Acq. 11-02

【右上・手書き頁番号】4


XYLOGRAPHES

Japonais 5607
Konrei shiyô keshibukuro・par Hakusui
Kan'en 3 (1750).
1 fasc.: ill.; 12,8 x 18,5 cm.
婚礼仕用罌粟袋 白水著
江戸 西村源六 大坂 柏原屋清右衛門
京 菊屋七郎兵衛・和泉屋伝兵衛
寛延三年刊 2巻1冊 絵入

Japonais 5608 (1-5)
Nagasaki bunkenroku・par Hirokawa Kai.
Kansei 12 (1800).
5 fasc: ill.; 26 x 17,7 cm.
長崎聞見録 広川獬著
京都 林伊兵衛 林喜兵衛 藤井孫兵衛
大坂 浅野弥兵衛 森本太助 岡田新治郎
寛政十二年庚申九月刊 5巻5冊 絵入

Japonais 5609
Nanbanji kôhaiki. Préf. de Kiyû Dôjin.
1 fasc.; 25,6 x 17,9 cm.
Contient aussi Jakyô taii de Sessô Sôsai.
Edition imprimée à caractères mobiles en bois.
Préf. datée: Keiô 4 (1868).
南蛮寺興廃記 杞憂道人序(整版)
無刊記 慶応四年序 1冊
雪窓宗崔著「邪教大意」を合刻
木活字版原裝

Japonais 5610
Bangosen・par Katsuragawa Chûrô.
1 fasc.: 18,4 x 12,7 cm.
Contient aussi Bankoku chimei sen.
Préf. datée: Kansei 10 (1798).
蛮語箋 桂川中良
無刊記 寛政十年序 1冊
附録 万国地名箋

【右上・手書き頁番号】5


XYLOGRAPHES (suite)

Japonais 5611 (1-5)
Itsukushima ema kagami・par Chitoseen Fujihiko.
Tenpô 3 (1832).
5 fasc.: ill. en coul.; 26,5 x 18,9 cm.
厳島絵馬鑒 千歳園藤彦著
渡辺対岳・丸茂文陽・白井南章・千歳園藤彦縮図
京 三木安兵衛、江戸 須原屋茂兵衛、
大阪 河内屋太助、広島 樽屋総左衛門・米屋岳助
天保三歳次壬辰春三月 5巻5冊 色刷絵入

Japonais 5612 (1-6)
Shin chomonjû.
Kan'en 2 (1749),
6 fasc.; 26 x 18 cm.
Retirage postérieur.
新著聞集
寛延二年版 後刷 6冊

Japonais 5613
Nagasaki kôeki nikki・par Nagakubo Sekisui.
Bunka 2 (1805).
1 fasc.: ill.; 26,5 x 18 cm.
長崎行役日記 長久保赤水著
東武 小倉仁兵衛、京都 林伊兵衛・藤井孫兵衛、
攝城 森本太助・田邑九兵衛・浅野弥兵衛
文化歳在乙丑孟春[文化二年]刊
5巻5冊 絵入原装
題簽書名:《割書:標註 | 図画》 長崎紀行

Japonais 5614 (1-2)
Komachi kashû.
[S. l.]:[s. n.], c. Kanbun (1661-1673).
2 fasc.: ill.; 22,7 x 15,7 cm.
小町家集
無刊記 寛文頃刊 2冊 絵入

【右上・手書き頁番号】6


XYLOGRAPHES (suite)

Japonais 5615 (1-12)
Nihon hyakushôden issekibanashi・par Shôtei Kinsui;
illustré par Yanagawa Shigenobu.
12 fasc.: ill.; 25,1 x 17,7 cm.
Préf. datée: Kaei 7 (1854).
日本百将伝一夕話 松亭金水著 柳川重信画
大阪 群玉堂河内屋岡田茂兵衛 嘉永七年序 12冊 絵入

Japonais 5616
Tsukinamishû
1 fasc.: ill. en coul.; 22,4 x 15,8 cm.
Epoque d'Edo, c. XVIIIe siècle (seconde moitié).
月並集 句合せ合冊
無刊記 江戸後期刊 1冊 色刷絵入

Japonais 5617
Zôho nenchû kichiji kagami・compilé par Chin Mai kankô ?;
traduit par Chiba Genshi; complété par Takai Ranzan.
1|fasc.: ill.
Préf. datée: Bunsei 9 (1826).
増補年中吉事鑑 陳枚簡侯編集 千葉玄之譯解 高井蘭山増補
京都 出雲寺文次郎等刊 無刊記 文政九年序 1冊

Japonais 5618
Kôchô nijûshi kô・par Matsudaira Yôkei.
1 fasc.: ill.
Préf. datée: Ansei 3 (1856).
皇朝二十四孝 松平容敬著
無刊記 安政三年序 1帖 絵入

Japonais 5619
Onzôshi shina watari. Tome II.
[c. 1661-1673].
1 fasc. (manque: t. 1): ill. coloriées à la main
御曹子島渡 巻下
無刊記 寛文頃刊 1冊(上欠) 間似合紙刷り丹緑本

【右上・手書き頁番号】7


XYLOGRAPHES (suite)

Japonais 5620 (1-11)
Zenken kojitsu・compilé et illustré par Kikuchi Yôsai;
révisé par Tezuka Mitsuteru et al.
Incomplet, 11 fasc.: ill.; 26,3 x 18,4 cm et 25,6 x 18 cm.
前賢故実 菊池容斎編・画 手塚光照等校
雲水無盡庵蔵梓本 明治刊 菊池武丸蔵版
存: 巻第三上・下、四上、六上、七上・下、八上・下、
九上、十上・下    端本 11冊 絵入

Japonais 5621 (1-7)
Banpô shoga zensho・par Seisai-shujin.
Kaei 3 (1850).
7 fasc.: ill.; 8,1 x 18,2 cm.
万宝書画全書 清斎主人編
東都[江戸]: 須原屋茂兵衛[等], 嘉永3年
6巻・序目1巻 全7冊
題簽書名: 書画必携 名家全書

Japonais 5622
Sankô furyaku・par Kurihara nobumitsu.
1 fasc.: ill.; 8,2 x 18,2 cm.
Préf. datée: Tenpô 15 (1844).
鏨工譜略 栗原信充
無刊記 天保13年序 1冊

Japonais 5623
Mimeyori sôshi: 2 hen gekan・par Ryûtei-Senka I;
illustré par Utagawa Sadahide.
1847 (Kôka 4).
Incomplet, 1 fasc. (le dernier des quatre livrets):
ill.; 17,6 x 18,2 cm.
美目与里艸紙 二編下巻 笠亭仙果一世作 歌川貞秀画
江戸 山本平吉 引化4年刊 零本1冊(全4冊の内)

【右上・手書き頁番号】8


XYLOGRAPHES (suite)

Japonais 5624
Môshi hinbutsu zukô・compilé par Oka Genpô;
illustré par Tachibana Kunio (Yûhôsai Kunio).
Naniwa [Osaka]: Shishobô, c. 1785 (Tenmei 5).
1 vol. (7 kan en 3 fasc., couvertures d'origine),
rel. cartonnée: ill.; 26 x 18 cm.
毛詩品物図攷 岡元鳳編 橘国雄(Yû芳斎国雄)画
Naniwa [大阪] 四書坊 天明5年頃刊
洋装合1冊(原装7巻3冊)

Japonais 5625 (1-30)
Chinsetsu yumiharizuki・par Takizawa Bakin;
illustré par Katsushika Hokusai.
Edo: Hirabayashi Shôgorô, daté 1807-1811 (Bunka 4-8),
retirage postérieur. 30 fasc.: ill.
椿説弓張月 滝沢馬琴作 葛飾北斎画
江戸 平林庄五郎 文化4―8年版の後刷

【右上・手書き頁番号】9


XYLOGRAPHES

Japonais 5626 (1-60)
Genji monogatari 54 livres - suppléments: meyasu, keizu, hikiuta, Yamaji no tsuyu
Auteur: Murasaki Shikibu (987-1015)
Éditeur du texte et illustrateur: Yamamoto Shunshô (1610-1682)
[Kyôto], Yaô Kanbei, Jôhô 3 [1654]
60 volumes; 226 illustrations en noir; 27,4 x 19,5 cm.
Sceaux: 「鳳翔閣蔵」、「源頼徳印」
源氏物語54巻 目案7巻 系圖1巻 引哥1巻 山路の露1巻
紫式部[著](987-1015); 山氏春正[註・畫]
洛陽: 八尾勘兵衛, 承應3[1654]
60冊: 挿図: 半丁214図、見開き12図; 27,4 x 19,5 cm.
印記: 「鳳翔閣蔵」、「源頼徳印」

Japonais 5627 (1-20)
Kokon chomon jû 30 livres
Auteur: Tachibana no Narisue
Ôsaka, Kashiwaraya Seiemon & Kawachiya Mohachi, 1770
20 vol.; illustrations en noir; 22,4 x 16 cm.
Sceaux: 「平戸藩蔵書」、「楽歳堂図書記」、「子孫永宝」
古今著聞集20巻
橘成季著
大坂: 柏原屋清右衛門: 河内屋茂八, 明和7[1770]求板.
20冊: 挿絵あり; 22,4 x 16 cm.
印記: 「平戸藩蔵書」、「楽歳堂図書記」、「子孫永宝」

Japonais 5628
Ikoku monogatari
[Kyôto], sans date, Kikuya Shichirôbei
1 vol., 25,4 cm x 18,1 cm.
137 illustrations en noir, rehaussées de couleur à la main.
異國物語
[京都], [出版年不明], 菊屋七郎兵衛
1冊: 挿図: 137図; 25,4 cm x 18,1 cm.

Japonais 5629
Shûchin gajô・Ishikawa Tairô
Edo: Tsutaya Jûsaburô, 1803 [Bunka 9].
3 vol.; 31,8 x 21,3 cm.; illustrations en noir et couleurs; cachet: LG [Louis Gonse], Hayashi
Tadamasa
聚珍画帖3巻・石川大浪
シュウチンガジョウ・イシカワ, タイロウ
[江戸]: 蔦屋十三郎: 享和3 [1803]
3冊: 挿絵あり; 31,8 x 21,3 cm., 印記: LG [Louis Gonse]、「林忠正」

【裏表紙】

【背表紙】
JAPONAIS: Supplément

【管理タグ】
4
bur. or.
M
4
BIS

BnF.

【題字】
海外人物小伝・二

【表紙裏】
【資料整理ラベル】
JAPONAIS
 615
  2

【上部手書き文字】
Japon.615(■)

【下部手書き文字】
Don.F605.

《割書:海外|治乱》繍像人物小傳巻之二
  第二回
去(さ)る程(ほと)に勃那把爾的(ほなはるて)は意太里亜(いたりや)の陣(ちん)を去(さ)り「マ
スセナ」を大/将(しやう)として己(おの)れに代(かは)らしめ紀元(きけん)一千
八百年【注】我国の享和(きゃうわ)元(くはん)辛酉(かのととり)年(とし)彼(か)の七月/初一日(ついたち)巴(は)
里斯(りす)に返(かへ)る巴里斯府(はりすふ)人(じん)或(あるひ)は其(その)歸(かへ)るを喜(よろこ)ぶ者(もの)あ
り或(あるひ)は又/其(その)驕慢(きやうまん)にして國(くに)を奪(うは)はんとする心(こころ)日(ひ)々
に盛(さか)んなるを嫉悪(しつを)【左るび:ニクニ(ニクミか)】し因(よつ)て之(これ)を害(がい)せんと欲(ほつ)する
者あり十月/乱(らん)を作(おこ)す者(もの)を捕(とら)へて禁獄(きんこく)せしむ十
二月/一声(てつほう)の(を)爆炸(まつて)の(あん)下(に)/勃那把爾的(ほなはるて)を弑逆(しいきやく)【左ルビ:コロス】せんと

【注 我国の享和元年は一千八百一年とされているので一年ずれている。以後西暦と和暦がずれたままで表記さる。】

謀(はか)る者あり然(しか)れども狙射(ねらいうち)中(あた)らず是(これ)も亦(また)發覺(はつかく)【左ルビ:アラハル】し
て誅(ちう)に伏(ふく)す翌(あくる)一千八百一年/我國(わかくに)の享和(きやうわ)二/壬戌(みつのへいぬ)
年/彼(か)の一月/大(おほひ)に其(その)余党(よとう)を捜索(さか)し貴賤(きせん)を問はず
雅谷貌義團(やこつぷきだん)の人員(にんしゆ)一百三十名を緝捕(しゆほ)【左ルビ:カラメトリ】して其中(そのうち)
七十/名(にん)は放流(はうりう)し「アレナ」「セラッシ【」記号脱】等(とう)の人は初(はし)めの
乱(らん)に與(くみ)し此(こヽ)に至(いた)つて尚(なを)逆心(きやくしん)を挿(さしはさ)むを以(もつ)て「キュイ
ルロッチネ」《割書:首を刎|る刑名》の刑(けい)に處(しよ)し且(か)つ「フレフェクヽ」《割書:廻|り》
《割書:役|人》をして遍(あまね)く人家(しか)を捜索(さか)して兵器(へいき)を匿(かく)す者は
盡(こと〳〵)く繳納(きやうのう)【左ルビ:■レカサル】せしめて宦庫(くわんこ)に鎖(とさ)す是(これ)より前(まへ)一千八
百年/我国(わかくに)の享和(きやうわ)元(くわん)辛酉(かのとのとり)年(とし)彼(か)の九月三日/北米里(きたあめり)

堅(か)国(こく)と和(くは)し両国(りやうこく)貿易(かうえき)の法制(はうせい)を約(やく)す窩々所徳礼(おゝすとれい)
畿(き)も亦(また)「モンアウ」為(ため)に破(やぶ)られて後(の)ち和(わ)を請(こ)ひ一
千八百一年 我国(わかくに)の享和(きやうわ)二 壬戌(みつのへいぬ)年(とし)彼(か)の二月九日
「リュネフィルレ」《割書:地|名》に盟(ちか)ひ列応河(れいんが)左岸(さがん)の地(ち)一帯(いつたい)和蘭(おらんだ)
土(とち)に至(いた)るまでこと〴〵く仏蘭西(ふらんす)に割(さき)与(あた)ふ但(たゝ)し英吉(えげれ)
利(す)は未(いまた)だ【衍】和(わ)を講(かう)せず三月二十八日 両(りやう)斉西里亜王(しゝりやわう)
と和(くは)し七月十五日 宝帥(ぼうす)《割書:意太里|亜法王》と「コンコルダー
ト」《割書:王侯宝帥|と盟ふ礼》を行(おこな)ひ八月二十四日「ハルツベイエ
レン」国(こく)と別(べつ)に盟誓(ちがひ)を為(な)し同(おなし)く二十八日 故(もと)の抜(ば)
答肹亜義團(たあひやぎだん)と和(くは)し九月二十九日 葡萄牙(ぼるとがる)と多勒(まとりつ)

多(と)に和議(わぎ)を結(むす)び十月 初一日(ついたち)大貌利丹尼(えげれす)と和議(わぎ)
を謀(はか)り同月八日 俄羅斯(おろしや)と和(くは)し其後(そののち)都爾其(とるく)と和(わ)
を議(ぎ)す是(こゝ)に於(おい)て十一月九日 巴里斯(はりす)に於(おい)て諸国(しよこく)
講和(かうわ)偃武(えんふ)の祭祀(さいし)を行(おこな)ふ此(こ)れ第一位(だいいちい)「コンシュル」那(な)
波列翁(ぼれおん)の凱旋(かいせん)【左ルビ:イクサニカチカヘル】するを 祝(しゆく)するなりこれより前(まへ)六
月 阨日多(えしつと)の軍(いくさ)利(り)あらす僅(わつか)に仏蘭西(ふらんす)に属(そく)したる
地(ち)も尽(こと〴〵)く之(これ)を敵(てき)に割与(さきあた)へ既(すで)にして残兵(ざんへい)僅(わづか)に国(くに)
に返(かへ)るを以(もつ)て臣民(しんみん)深(ふか)く是(これ)を慚愧(ざんき)【左ルビ:ハヂハツル】す此(こゝ)に至(いたつ)て人(ひと)
々(〴〵)初(はしめ)て阨日多(えじつと)の恥(はち)を遺(わす)れたり
是(こゝ)に於(おい)て勃那杷爾的(ぼなばるて)は諸(しよ)学術(がくじゆつ)を隆興(りうこう)【左ルビ:サカンニ オコシ】し交易(かうえき)を

盛(さかん)にし軍艦(くんかん)を修補(しゆほ)し植民(しよくみん)を弘恢(ひろく)せんと欲(ほつ)し殫(たん)【左ルビ:セイヲ】
精(せい)【左ルビ:ツクシ】焦思(せうし)【左ルビ:オモヒヲコガシ】専(もつば)ら其事(そのこと)を務(つと)む一千八百二年 我国(わがくに)の享(きやう)
和(わ)三癸亥年 彼(か)の一月「コンシュル」自(みづか)ら親衛(しんえい)の兵(ひやう)を
率(ひき)ひて「レイヲン」に赴(おもむ)き意太里亜(いたりや)国内(こくない)「シスアル
ベイン」《割書:地|名》義団(ぎだん)を復(ふく)す仏蘭西(ふらんす)の百宦(ひやくくわん)議(ぎ)して勃那(ぼな)
杷爾的(ばるて)を以(もつ)て之(これ)が総裁(そうさい)たらしむ三月 大貌利丹(だいぶりた)【左ルビ:エゲレ】
尼(に)【左ルビ:ス】と「アミインス」《割書:地|名》に会(くはい)して和議(わぎ)を定(さだ)む勃那杷(ぼなば)
爾的(るて)は既(すで)に土地(とち)を墾闢(こんへき)【左ルビ:ヒラク】し人民(にんみん)を蕃殖(はんしよく)【左ルビ:シケリフエル】し宝帥(ばうす)と
「コンコルダート」を挙行(あげおこな)ふて国法(こくほう)を正(たゞ)し継(つい)で仏(ふ)
蘭西(らんす)国内(こくない)寺院(じいん)の法制(ほうせい)を約(やく)し廃蕪(はいぶ)【左ルビ:スタレル】せる学校(がくかう)を興(おこ)

し僧寺(そうじ)の祭祀(さいし)の廃(すた)れたるを挙(あ)げ興(おこ)し邦人(くにたみ)の他(た)
国(こく)に散在(さんざい)する者(もの)を処措(しよそ)【左ルビ:オリシク】する新法(しんばう)を建(たて)る等(とう)の善(ぜん)
政(せい)を施(ほどこ)すを以(もつ)て民心(みんしん)帰服(きふく)し人々(ひと〴〵)嘳々(み〳〵)【ヨロコビナク】として其(その)
徳沢(とくたく)の深(ふか)きを誦(しやう)す故(ゆへ)を以(もつ)て五月八日 議政宦(ぎせいくわん)勃(ぼ)
那杷爾的(なばるて)を冊(たて)て「コンシュル」の位(くらい)に居(お)らしめ政(まつりごと)を
行(おこな)ふこと更(さら)に十年を期(き)とす勃那杷爾的(ぼなばるて)は既(すで)に
其請(そのしやう)に允(したがふ)て其位(そのくらい)を践(ふ)み国政(こくせい)を躬(みづから)にす又(また)国民(こくみん)太(たい)
半(はん)勃那杷爾的(ぼなばるて)をして畢生(いつしやう)此位(このくらい)に在(あ)らしめんと
諮議(しぎ)【左ルビ:ハカリ】し因(よつ)て先(まづ)其(その)功勲(いさほし)を賞(ほ)め今(いま)別(べつ)に親衛(しんえい)の兵(ひやう)を
賜(たま)ふ勃那杷爾的(ぼなばるて)は新(あらた)に此(この)兵隊(ひやうたい)を得(え)て権勢(けんせい)倍々(ます〳〵)

昌(さかん)なり邪曲(じやきよく)を為(な)す諸宦人(しよくわんにん)を尽(こと〴〵)く籠絡(ろうらく)【左ルビ:オシコメシバル】す是(こゝ)に
於(おい)て衆(しゆ)民 連署上表(れんしよしやうひやう)【左ルビ:レンメイノシヨヲアゲル】して上(かみ)に云(い)へる如く勃那杷(ぼなば)
爾的(るて)を一生(いつしやう)「コンシュル」の位(くらゐ)に在(あ)らしめんと請(こ)ふ
八月二日 政宦(せいくわん)会議(くわいぎ)して衆(しゆ)の望(のぞみ)に任(まかせ)勃那杷爾的(ぼなばるて)
を其(その)位(くらい)に冊立(さくりう)【左ルビ:タテル】し畢生(いつしやう)其(その)宦(くわん)に任(にん)ずるを命(めい)ず勃那(ほな)
杷爾的(はるて)が位爵(ゐしやく)今(いま)は則(すなは)ち諸政官(しよやくにん)の上(かみ)に在(あつ)て文武(ぶんぶ)
百宦(ひやくくわん)皆(みな)己(おの)れが指揮(しき)【左ルビ:サシツ】に従(したか)はざる者(もの)なく威権(ゐけん)赫奕(かくえき)【左ルビ:カ□ヤキ オホキ人】
たり八月二十七日 百宦(ひやくくわん)咸(こと〴〵)く忠義(ちうき)をつくし進(すゝん)で
他心(たしん)なく「コンシュル」を奉載(ほうさい)【左ルビ:ウケイタヾク】すべきの盟書(めいしゆ)を上(あげ)る
是(こゝ)に於(おい)て義団(ぎだん)の朝廷(てうてい)無事(ふじ)なるを以(もつ)て勃那杷爾(ぼなばる)

【右丁 挿絵のみ】
【左丁】
那波(なぼ)
 列翁(れおん)を
嫉(ねた)み夜(よ)に
乗(じやう)して殺(ころ)
さんと謀(はか)る
    図(づ)

的(て)心(こゝろ)を専(もつぱ)らにして外国(ぐわいこく)を蕩平(とうへい)【左ルビ:ヒロクターラグ】する策(はかりこと)を施(ほどこ)し八
月二十六日「エルバ島(とう)を収(おさ)めて我(わが)共和義団(きやうわぎだん)に属(ぞく)
す赫勿菱亜(へるへしや)の国民(くにたみ)乱(らん)を作(おこ)す是(これ)より前(まへ)は其(その)国(くに)独(どく)
立(りう)して属(ぞく)する所(ところ)なし此(こゝ)に至(いたつ)て仏蘭西(ふらんす)に属(ぞく)し其(その)
命令(めいれい)を聴(き)く比蒙突(ぴいもんと)を并(あわ)して仏蘭西(ふらんす)の郡県(ぐんけん)と為(なす)
又(また)新(あらた)に学校(かくかう)の制度(せいと)を定(さだ)め士民(しみん)の律令(りつれい)を刊(かん)し街(ち)
衢(また)を修(おさ)め溝渠(みぞ)を疏鑿(そさく)【左ルビ:ホル】す是(これ)に由(よつ)て民庶(みんしよ)の間曠(かんくわう)【左ルビ:ヒマムナシ】に
して素業(そぎやう)なき者(もの)皆(みな)恒産(つねのさん)を得(え)たり此(この)諸仁政(しよじんせい)を行(おこな)
ふ間(あいだ)英吉利(えげれす)勃那杷爾的(ぼなばるて)を疾(にく)む心(こゝろ)深(ふか)し時(とき)に英吉(えげれ)
利(す)の日刊朝報(につかんてうほう)【ヒヾニシタヽメテウニワク】を得(え)たり曰(いわ)く渠(かれ)今(いま)和議(わぎ)を講(こう)ずる

者は姑(しば)らく其 難(なん)を弭(ゆる)めて大に戦艦を修(しゆ)し海軍
の力能く我に敵(てき)するに足(た)るを須(まつ)て其和 盟(めい)を破
り以て仏蘭西(ふらんす)の宿世(しゆくせ)の讐(あだ)を報(ほう)せんとするなり
と云(い)ふ勃那杷爾的(ぼなばるて)曰く然(しか)らば則ち英吉利(えげれす)は和
議に狃(なれ)安んじて我(わが)軍備(くんび)の全く成るを安間(あんかん)と俟(ま)
つ心(こゝろ)なきこと明かなり宜(よろ)しく彼(かれ)に先だち発(はつ)す
べしと俄(にはか)に軍(ぐん)議を定む是(こゝ)に於(おい)て両国 交々(かはり〴〵)書(しよ)を
遣(や)つて迭(たがい)に非義(ひき)を責(せ)め和議(わぎ)遂(つい)に又 破(やぶ)れ一千八
百三年 我国(わかくに)の文化元甲子年英吉利と戦(たゝかい)を交ゆ
「【「記号脱】ハノーフル」《割書:国|名》は両国の間に在て英(え)吉利に属(そく)す

故に先づ勃那杷爾的(ぼなばるて)大将「モルチール」を遣(やつ)て之
を伐(うた)しむ六月三日 早(はや)く既(すで)に其 城(しろ)を囲(かこ)む既にし
て和を請(こ)ひ「スュリンケン」の地(ち)に盟(ちか)ふ故を以て仏(ふ)
蘭西(らんす)は手(て)を下(おろ)さずして「ハノーフル」を降(くだ)し一(いつ)切
武器(ぶき)銃(おほづつ)礮(いしびや)糧(かて)馬を繳納(きやうのう)【左ルビ:ツカネオサムル】せしむ英吉利(えげれす)は前(まへの)盟(ちかひを)《振り仮名:不_レ守|まもらず》
又今仏蘭西の「ハノーノル」を攻(せめ)取るを坐視(さし)【左ルビ:ヰナカラミテ】して
之を救(すく)ふこと能(あた)はず是に於(おい)て仏蘭西(ふらんす)は英吉利
を征討(せいたう)するに須(もちふ)る所(ところ)の兵 備(び)既に整(とゝの)ひ又 黄祁(どいつ)は
我に信従(しんじう)して英吉利を防禦(ぼうぎよ)【左ルビ:フセグ】する便宜(ひんき)を得(え)たり
是に於て欧邏巴大陸(えうろつぱたいりく)同盟(どうめい)諸侯(しよこう)尽(こと〴〵)く英吉利と交(まじはり)

を絶(た)ち且(かつ)四 辺(へん)諸港(しよこう)【左ルビ:ミナト】に英吉利(えけれす)船(ふね)及(およ)び貿易(かうえき)貨物(くはふつ)
を通(つう)ぜざるの法制(ほうせい)を定(さだ)め一千八百三年 我国(わかくに)の
文化元 甲子(きのへね)年 彼(か)の六月二十日 英吉利(えけれす)の百 貨(くは)を
仏蘭西(ふらんす)諸港(しよこう)に運(はこび)入ることを厳(きび)しく禁(きん)じ其英吉
利(す)海岸(かいかん)を掩撃(えんけき)【左ルビ:ワタリウツ】する軍艦(いくさぶね)は尽(こと〳〵)く之を「ハフレ」より
「ヲステンデ」に至るまでの諸港脚(しよみなと)にあつめ又其
全隊(せんたい)軍艦(くんかん)も皆(みな)未(いま)だ戦闘(たゝかひ)を始(はし)めず此時(このとき)英吉利(えげれす)は
兵(へい)を発(はつ)して仏蘭西(ふらんす)黄祁(どいつ)の諸海港(しよかいこう)及び「エルベ」「ウェ
ーセル」二河の諸地(しよち)を襲(おそ)ひ撃(う)つ一千八百四年 我(わか)
国(くに)の文化二 乙(きのと)丑年 彼(か)の二月十五日 勃那杷爾的(ぼなばるて)

を殺(ころ)し乱(らん)を作(おこ)さんと謀(はか)る者(もの)ありて其事(そのこと)発覚(はつかく)【左ルビ:アラハル】す
其 首謀(しゆばう)は「ヒセグリュ」「ゼヲルゲス」たり其 余(よ)の逆徒(ぎやくと)
四十三人 皆(みな)前後(ぜんご)捕(とらはれ)に就(つ)く「モレアウ」も亦(また)其 数(かす)の
中に在(あり)て生擒(いけと)らる又此 逆党(きやくとう)仏蘭西(ふらんす)人の避(さけ)て外(くはい)
国(こく)にある者(もの)及(およ)ひ英国(えいこく)の使節(しせつ)黄祁(どいつ)に居(お)る「アケン
テン」等(ら)と密(ひそか)に書(しよ)を通(つう)じて内外(ないくはい)相応(あいおう)せんと謀(はか)る
と告(つぐ)る者あり是(こゝ)に於(おい)て急(きう)に「コウリンコウルト」
に命(めい)じ二 隊(たい)の兵(ひやう)を統領(たうれう)せしめ三月十五日の夜
兵(へい)を潜(ひそ)めて列応河(れいんが)を渉(わた)り其(その)備(そな)へざるに乗(じやう)じて
「バアテン」部内(ぶない)に進(すゝ)み「ケール」「エツテンヘイム」囲(かこ)み

「エングイーン」の赫督(へると)撫を緝捕(しうほ)【左ルビ:カラクール】して巴里斯(はりす)に致(わた)
し軍議(ぐんぎ)庁前(てうぜん)に引出(ひきいだ)し同二十日の夜(よ)之(これ)を炮(あぶり)殺(ころ)す
俄羅斯(おろしや)雪際亜(すうえしや)之を聞(き)き其(その)国法(こくほう)に背(そむ)き縦(ほしいまゝ)に公侯(こう〳〵)
を誅戮(ちうりく)するを責(せ)め問(と)ふ仏蘭西(ふらんす)対(こたへ)て曰く其 反逆(ほんぎやく)
不(ふ)軌(き)【左ルビ:ノリ】を謀(はか)る大 罪(ざい)を犯(おか)すを以て已(や)むことを得(え)ず
之を戮 殺(さつ)するを辞(じ)し又 英吉利(えげれす)の使臣(ししん)「フランシ
スタラーケ」は「ミッンセン」の地に在(あ)り「スペンセル
スミット」は「ステュットガルド」の地に在てひそかに仏(ぶつ)
国(こく)の内乱(ないらん)を起(おこ)さんと謀(はか)る証拠(しやうこ)を以て告(つ)ぐ二人
は之(これ)を聞(き)き急(きう)に英(えい)国に返(かへ)りて其 由(よし)を訴(うつた)ふ因(よつ)て

英吉利(えげれす)は二人の為(ため)に其(その)罪(つみ)なきの状(よし)を仏国(ふらんす)に白(まう)
す然(しか)れども此二人 実(じつ)は隠謀(いんぼう)なきにあらず是(こゝ)に
於(おい)て仏蘭西(ふらんす)の諸宦(しよくわん)相議(さうだん)して曰く是(かく)の如(ごと)く非分(ひぶん)
を僥(いつわり)倖(さいわい)する者(もの)踵(くびす)を継(つい)で起(おこ)るは畢竟(ひつきやう)我国は共(きやう)【左ルビ:トモニ】和【左ルビ:クワシ】
義団(ぎだん)【左ルビ:ギヲムスブ】にして常主(じやうしゆ)なきを以てなり宜(よろし)く伝世(でんせ)の良
主(しゆ)を択(えら)び立て以て其 患(うれ)ひを除(のぞ)くべしと是(こゝ)に於(おい)
て衆議(しゆぎ)一 決(けつ)して一千八百四年我国の文化二乙
丑年 彼(かの)三月三十日「トリビュナート」《割書:政令を領内へ|布施する宦名》
より諭文(さとしぶみ)を下す其(その)文に曰く我国(わがくに)共和義団にし
て常主(じやうしゆ)なきを以て内 乱(らん)続(つゞ)き起(おこ)る故([ゆ]へ)に新(あらた)に皇帝(くわうてい)

【右丁】
を冊立(さくりう)【左ルビ:タテル】し万機(ばんき)を一身(ひとり)に任(にん)じ其位(そのくらゐ)は世(よ)々 勃那把(ぼなば)
爾 的(て)姓(せい)の親族(しんぞく)に嗣(つが)しめば如何(いかに)と国中に布告(ふかう)す【左ルビ:シキツグ】
諸州(しよしう)よりも各々(おの〳〵)上 疏(しよ)【左ルビ:ウハベ ツクロフ】して固(もと)より願(ねが)ふ所(ところ)の幸(さいわ)ひ
なりと陳(ちん)【左ルビ:ノブ】ず是(こゝ)に於(おい)て五月十八日「セナート」《割書:議政|大宦》
又躬(み)自(みづか)ら会議(くわいぎ)の席(せき)に臨(のぞ)む既(すで)にして衆心(しゆしん)一 致(ち)し
百 議(ぎ)咸(みな)同(おな)じく本月(ほんげつ)二十日又 諭(さとし)文を下し盛儀(せいぎ)を
具(そな)へて勃那把爾的(ぼなばるて)氏(し)名は那波列翁(なぼれおん)を奉(ほう)じて伝(でん)
世(せ)皇帝(くわうてい)の位(くらゐ)に即(つか)しめたるを国中に布告(ふかう)【左ルビ:シキツグ】す
是(こゝ)に於て国内(こくない)処々(しよ〳〵)に分鎮(ぶんちん)する諸将(しよしやう)咸(みな)相会(あいくわい)して
曰く今度の即位(そくい)恐(おそ)らくは却(かへつ)て後来(のち)の大禍(わざはひ)を引

【右丁】
出さんと先(せん)見を述(の)べ眉(まゆ)を攢(ひそ)めて私言(しげん)【左ルビ:サヽヤク】せり然る
に勃那把爾的は新(あらた)に大位に升(のぼ)り初めて天 威(ゐ)を
振(ふる)ふて下 民(みん)を懾服(せうふく)【オトシ ナツク】せんと欲(ほつ)し逆党の刑(けい)を正(たゞ)す
「ピセグフ《割書:コ》」《割書:人|名》は是より前四月六日 擒(きん)【トリコ】せられて獄(こく)
中に死(し)し「モレアウ」《割書:人|名》は反逆の事を知(し)れども党(く)
與(み)せざるを以て多年 獄(ごく)中に幽囚(ゆうしう)すべしと既(すて)に
して恩典(おんてん)を蒙(かふむ)り米里堅(あめりか)に遯(のが)れしむ「セヲルゲ」《割書:人|名》
は其党九人と倶(とも)に六月二十五日誅せらる其 余(よ)
或(あるひ)は赦(ゆる)され或は寺(じ)院に徙(うつ)され逆党(ぎやくとう)尽(こと〴〵)く平(たい)らぐ
勃那把爾的(ぼなばるて)は天子の位(くらい)に即(つ)く後 覇(は)【トル】心(しん)昌熾(しやうし)【左ルビ:マス〳〵 サカン】し欧(えう)

邏巴(ろつぱ)全洲(せんしう)を奄有(えんゆう)【左ルビ:オホヒ タモツ】する志(こゝろざし)あり此時(このとき)仏国(ふらんす)は兵馬(ひやうば)精(せい)
練(れん)向(むか)ふ所(ところ)必(かなら)ず克(か)ち加(くは)ふるに皇帝(くはうてい)英武(えいふ)にして他(た)
国(こく)みな望(のぞん)で之(これ)を懼(おそ)るゝを以(もつ)て国勢(こくせい)自(おのづか)ら強大(きやうだい)と
なり近国(きんごく)は士気(しき)懈惰(おこたり)兵制(ひやうせい)弛(ゆるみ)弱(よわ)し其余(そのよ)諸国(しよこく)も率(おほむ)
ね皆(みな)大平(たいへい)に慣(な)れあだかも睡漢(ねふれるおとこ)の如(ごと)く一人も目(め)
を張(は)り気(き)を鼓(こ)【左ルビ:ウツ】【皷は俗字】中原(ちうげん)に抗衡(たゝかはんと)【左ルビ:ウチタイラゲント】する志(こゝろざ)しを抱(いだ)く者(もの)
なし是(こゝ)を以(もつ)て勃那把爾的(ぼなばるて)縦(ほしいまゝ)に近隣諸国(きんりんしよこく)を劫略(こうりやく)【左ルビ:オヒヤカシカスメル】
する事(こと)【叓は古字】を得(え)たりと云(いふ)其年(そのとし)十二月二日 宝師(ぼうす)。巴里(はり)
斯(す)府(ふ)に於(おい)て勃那把爾的(ぼなばるて)に皇帝(くはうてい)の金冠(きんのかんむり)を賜(たま)ふ此(この)
大礼(たいれい)已(すで)に畢(おは)るのち先(ま)づ意太里亜(いたりや)を討(う)ち先(さき)に建(たて)

【右丁 挿絵 文字無し】

【左丁 挿絵】
   赫督撫

那波(なぼ)
 列翁(れおん)
怒(いか)つて
エングイーン
国(こく)の
 赫督撫(へるとぶ)【左ルビ:コクシユ】を
炮(あぶ)り殺(ころ)
 す図(づ)

たる義団(ぎだん)を滅(めつ)す一千八百五年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)三 丙(ひのへ)
寅年(とらとし)彼(かの)三月十五日 国人(くにたみ)勃那把爾的(ぼなばるて)の義子(ぎし)【左ルビ:ヤシナヒ ゴ】「エウ
ゲニュベアウハルナイス」《割書:人|名》を立(たて)て意太里亜王(いたりやわう)
と為(な)し皇(わう)の妹(いもと)「エリサ」《割書:女|名》を「ピヲムピノ」《割書:地|名》の布綸(ぷりん)
錫帥(せす)《割書:女の|官名》に封(ほう)じ其夫(そのおつと)「ハッシヲシ」《割書:人|名》を「リェツカ」《割書:地|名》の布(ぷ)
綸帥(りんす)《割書:官|名》に封(ほう)ず其(その)熱弩亜(せ▢ゆあ)「パルマ」「ピアセンサ」《割書:以上|地名》
及(およ)び古(いにしへ)の比蒙突(ぴいもんと)諸国(しよこく)は皆(みな)仏蘭西(ふらんす)に併(あわ)す既(すで)にし
て軍(いくさ)を班(あつ)めて意太里亜(いたりや)より返(かへ)る此時(このとき)に方(あた)つて
窩々所徳礼畿(おゝすとれいき)新(あらた)に英吉利(えげれす)。俄羅斯(おろしや)と合従(がつしやう)するを
聴(き)き急(きう)に兵(へい)を興(おこ)して黄祁(どいつ)を伐(う)つ九月二十五日

列応河(れいんか)を済(わた)り「バーテン」「ウュルテムベルグ」《割書:以上|国名》と
和(わ)を結(むす)ふ此時(くのとき)俾粤連(ぺいえれん)《割書:地|名》黄祁(どいつ)をはなれて仏蘭西(ふらんす)
に付(つ)く既(すで)にして向(むか)ふ所(ところ)皆(みな)克(か)ち遂(つい)に兵(へい)を窩々所(おゝす)
徳礼畿(とれいき)《割書:則ち|黄祁》に進(すゝ)め一千八百五年 我国(わかくに)文化(ぶんくは)二
丙寅(ひのへとら)年(とし)彼(か)の十一月十三日 大将(たいしやう)「ミュラット」早(はや)く既(すで)に
勿能府(う▢▢ゐんふ)に入(い)る那波列翁(なほれおん)陣(ちん)を進(すゝ)めて「スコンブリュ
ン」《割書:地|名》に到(いた)る十二月二日 俄羅斯(おろしや)の兵(ひやう)を「アウステ
ルリッツ」《割書:地|名》に破(やぶ)る黄祁(どいつ)帝(てい)弗郎氏(ふらんす)和(わ)を講(かう)じ兵(ひやう)を止(やめ)
んと請(こ)ふ同二十六日「フレスビュルグ」《割書:地|名》に会(くはい)して
盟(ちか)ふ是(これ)に由(よつ)て黄祁(どいつ)は数州(すしう)饒沃(にようよく)【左ルビ:ユタカ】の地(ち)を喪(うしな)ひ俾粤(ぺいえ)

連(れん)「バーデン」「ウュルテンベルク」の三国(さんこく)は数州(すしう)を益(まし)
封(ほう)じて爵(しやく)を王国(わうこく)に晋(すゝ)む又(また)孛漏生(ぷろいせん)と和(わ)を結(むす)ぶ孛(ぷ)
漏生(ろいせん)「ハノーフル」《割書:地|名》を仏国(ふらんす)に割与(さきあた)ふ「ハノーフル」
は故と英吉利(えけれす)親戚(しんせき)の国(くに)なり今(いま)孛漏生(ふろいせん)縦(ほしいまゝ)に仏国(ぶつこく)
に割与(さきあた)ふるを以(もつ)て英吉利(えけれす)是(これ)を悪(にく)み交々(こも〳〵)兵(へい)を構(かま)
ふ一千八百六年 我国(わかくに)の文化(ぶんくは)四 丁卯年(ひのとうどし)群臣(ぐんしん)奏議(そうぎ)
して仏蘭西(ふらんす)皇帝(くはうてい)に「デンゴローテン」《割書:大帝と|云義也》の別(べつ)
号(がう)を上(たてま)つる是(こゝ)に於(おい)て帝(てい)の志(ころさ[し])倍々(ます〳〵)侈大(したい)【左ルビ:ヲコリオホヒ】なり俾粤(へんえ)
連(れん)王(わう)の女(むすめ)を以(もつ)て帝(てい)の義子(きし)意太里亜(いたりや)王(わう)「ベアウハ
ルナイス」に配(はい)し帝(てい)の正妃(きさき)の姪女(めい)は「ハーテン」の

太子(たいし)に婚(こん)し三月 帝(てい)の僚姻(あいむこ)「ミュラヮト」《割書:人|名》を「セレーヘ」
「ベルグ」両地(りやうち)の赫督撫(へるとぶ)に封爵(ほうしやく)す皇弟(わうのおとゝ)「ヨセフ」《割書:人|名》を
那波里(なぼり)。斉西里亜(しりや)《割書:以上|国名》の王(わう)に封(ほう)ず勿搦祭亜(へねしや)は仏(ふ)
蘭西(らんす)版図(はんと)に合(あわ)す「ギュアスタルラ」《割書:地|名》は皇(わう)の妹(うと)「パウ
リネ」」《割書:女|名》に与(あた)へ「ネラフカーテル」《割書:地|名》は「ヲゝルロフ
スミニストル」《割書:軍政都|指揮》名は「ベルニィール」に賜(たま)ふ「タ
ルレイランド」「ベルナドヮテ」《割書:人|名》の二人を封(ほう)じて各(おの)
々(〳〵)赫督撫(へるとふ)となす其余(そのよ)将軍(しやうぐん)《割書:レーゲル|ーフデレ」》等 都指揮(としき)《割書:ミ|ニ》
《割書:スト|ル》等(ら)は其(その)軍功(ぐんこう)の勝劣(しやうれつ)に応(おう)じて戦(たゝか)ひ取(と)る処(ところ)の
国(くに)に於(おい)て采邑(さいゆう)【「さつ」は誤ヵ】恩賞(おんしやう)を賜(たま)ふこと差(しな)あり一千八百

六年 我国(わかくに)の文化(ぶんくは)四 丁(ひのと)卯年(うどし)彼(か)の七月十二日 列応(れいおん)
義団(ぎだん)【左ルビ:ギヲラスラ】を建(た)つ那波列応(なぼれおん)之(これ)が防衛(ぼうえい)たり乃(すなは)ち之を天(てん)
下に布告(ふこく)す八月 黄祁帝(どいつてい)仏朗氏(ふらんす)羅瑪(ろをま)帝位(ていゐ)を去(さ)る
是(こゝ)に於(おい)て古(いにし)へよりの黄祁(どいつ)国制(こくせい)尽(こと〴〵)く瓦解(ぐはかい)【左ルビ:クガケル】【ガはダの誤ヵ】す孛漏(ぶろい)
生(せん)は一旦(いづたん)仏国(ふらんす)と和(くは)すと雖ども其(その)凌轢(れうれき)【左ルビ:シノギ シノク】に堪(タケ)るこ
と能(あた)はず又(また)兵(へい)を挙(あげ)て仏蘭西(ふらんず)【ママ】と「エナ」及(およ)び「アウェル
スタット」《割書:地|名》に戦(たゝかふ)て皆(みな)敗(やぶ)られ其(その)堅固(けんご)なる城(しろ)寨(とりで)数所(すしよ)
皆(みな)守(まも)ること能(あた)はずして仏蘭西(ふらんす)に降(くだ)る沙瑣泥亜(さきそにや)
は孛漏生(ぶろいせん)との通路(つうろ)を断(た)たれ救援(すくひたす)くることあた
はす「ヘスセン」《割書:地|名》の鳩児豊瑟督(きうるほるすと)《割書:豊瑟督は爵内|の尤も貴き者》は

連戦(たゝかふことに)皆(みな)敗(やぶ)れ其国を出奔(しゆつぽん)す十月二十七日 那波列(なぼれ)
翁(おん)兵を引てベルレイン」に入(い)り十一月 初(つい)一日 英(えけ)
国(れす)を囲(かこ)み攻(せめ)るの軍令(ぐんれい)を下(くだ)し且(か)つ彼(かれ)と交易(かうえき)し相
親(した)しみ交(まじは)るを厳禁(げんきん)す仏蘭西帝(ふらんすてい)波羅尼亜(ぼろにや)の俄羅(おろ)
斯(しや)。孛漏生(ぷろいせん)等の為に国(くに)を削(けづ)られたるを憐(あわれ)み其 版(はん)
図(と)を故(もと)に復(ふく)せんと約(やく)す俄羅斯(おろしや)急(きう)に孛漏(ぶろい)生を救(すく)
ふ一千八百六年 我国(わがくに)の文化四丁卯年彼の十二
月二十六日 仏蘭西(ふらんす)と「ビュルュスキ」の地に戦(たゝか)ふて俄(お)
羅斯(ろしや)の兵 敗(やぶ)れ走(はし)る明年(あくるとし)二月七日「エウラウ」《割書:地|名》に
戦(たゝか)ふて又大に敗北(はいぼく)す爰(こゝ)に又 都爾其(とるく)の兵 俄羅斯(おろしや)

を犯(おか)す是を以て兵力分れて益々 弱(よわ)し加之(しかのみならず)「ヘイ
ルスベルグ」「ヲストロレンカ」《割書:以上|地名》の二地の軍利
なく「フリーーランド?」の戦(たゝか)ひも亦 敗(やぶ)る是(こゝ)を以て
俄羅斯(おろしや)。孛漏生(ぷろいせん)終(つい)に和(わ)を仏蘭西(ふらんす)に請(こ)ふ七月七日
「チルシッー【トヵ】」の地に盟(ちか)ふ孛漏生(ぷろいせん)は兵 卒(そつ)を亡(うしな)ふこと
四百万 余(よ)且(か)つ累万(るいまん)の煙土(えんと)銀を貢納(かうのう)するを約(やく)し
其銀 両(りやう)斉足(さいそぐ)【左ルビ:スミケリ】するに至(いた)るまて堅固(けんこ)の城寨(しやうさつ)【ママ】数(す)所を
仏蘭西(ふらんす)に典当(てんとう)【左ルビ:アヅケ アフル】す是(こゝ)に於て仏国(ふらんす)皇帝(くはうてい)は赫督撫(へるとぶ)国
「ワルスカウ」の一部(いちぶ)を沙瑣尼亜王(さきそにやわう)に賜(たま)ひ新王(しんわう)国
「ウェストファーレン」の一(いち)部を「ヒーロニミュス」《割書:人|名》に賜

ふ「ヒトロニミュス」は帝の同胞(とうはう)【左ルビ:ヲナジハラ】なり是(これ)より前(まへ)「ウュル
テムベルグ」《割書:国|名》の王女(わうぢよ)に婚(こん)せり
是(こゝ)に於(おい)て那波列翁(なぼれおん)は巴里斯(はりす)に凱帰(かいき)し一千八百
七年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)五 戊辰(つちのへたつ) 年(どし)彼(か)の十月二十七日「フ ̄ヲ
レタイネブレアウ」の地(ち)にて窃(ひそ)かに是班牙(いすはにや)と和(わ)
睦(ぼく)して葡萄牙(ほるとがる)を救(すく)はざらしめ即(すなはち)兵(へい)を率(ひき)ひて
葡萄牙(ほるとがる)を伐(う)ち又(また)是班牙(いすはにや)とは陽(おもて)に和睦(わぼく)の状(ふり)を為(な)
し却(かへつ)て潜(ひそか)に兵(へい)を発(はつ)して之(これ)を攻(せか)【ママ】て「ヘトリュリエ」《割書:地|名》
を取(とつ)て仏蘭西(ふらんす)に併(あわ)す大(おほひ)に厳令(げんれい)を出(いだ)して英吉利(えげれす)
の互市(かうえき)を禁(きん)ず此(こ)れ大害(たいがい)を彼(か)れに生(しやう)じて困迫(こんはく)【左ルビ:クルシミセマル】せ

せ【衍】しめんとする謀(はかり)ことなり那波列翁(なぼれおん)は既(すで)に諸(しよ)
国(こく)を兼(かね)併(あわ)して兵力(へいりき)日々(ひゞ)に強大(きやうだい)となり勢(いきほひ)に乗(じやう)じ
て猶(なを)近国(きんごく)を合(あわ)して仏蘭西(ふらんす)国域(こくいき)を開(ひら)き大(おほひ)にせん
と欲(ほつ)し一千八百八年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)六 己巳(つちのとみ)年(どし)彼(か)の
一月一日 今(いま)。近隣(きんりん)の諸国(しよこく)我(われ)に順従(しゆんじう)【左ルビ:シタガフ】するを時(とき)とし
て「ケル」「カステル」「ウェセル」「フリッシンケン」《割書:以上|地名》を收(おさ)
めて仏国(ふらんす)に併(あわ)す此時(このとき)是班牙(すはにや)に内乱(ないらん)あり党(とう)を分(わけ)
て相攻(あいせ)む仏蘭西帝(ふらんすてい)之(これ)を利(り)し遂(つい)に其国(そのくに)をうばひ
皇(わう)の弟(おとゝ)那波里王(なぼりわう)「ヨセフ」を徙(うつ)し封(ほう)じて是班牙王(すはにやわう)
となし帝(てい)の義弟(ぎてい)「ミュラット」をうつして那波里(なぽり)に王(わう)

たらしめ大 赫督撫地(へるとぶち)「ベルグ」《割書:地|名》を和蘭王(おらんだわう)の幼子(ようし)【左ルビ:オサナコ】
に賜(たま)ふ俄羅斯帝(おろしやてい)。那波列翁(なぼれおん)と「エルフュルト」の地(ち)に
会(くはい)して更(さら)に前盟(ぜんめい)を申(まうし)固(かた)む又 英吉利(えげれす)は仏蘭西(ふらんす)の
是班牙(いずはにや)を奪(うばふ)を見(み)て之を疾(にく)み兵(へい)を挙(あけ)て仏蘭西を
討(う)つ十月二十九日那波列翁 其地(そのち)に赴(おもむ)き英吉利(えげれす)
を破(やぶ)る窩々斯徳礼畿(おゝすとれいき)又兵を挙(あげ)て来(きた)り冠(かた)するを
聞(き)き急(きう)に兵(へい)を旋(めぐ)らして之を拯(すく)ふ黄祁帝(といつてい)弗朗氏(ふらんす)
は仏国(ぶつこく)の為(ため)に数々(しば〳〵)敗(やふ)らるを以て尚(なを)兵(へい)を起(おこ)して
宿仇(しゆくきう)を雪(すゝ)がんと欲(ほつ)し一千八百九年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)
七 庚午(かのへむま)彼(か)の四月九日 戦書(せんしよ)を那波列翁(なぼれおん)に贈(おく)る

既(すで)にして戦(たゝか)ひに及(およ)ぶ黄祁(どいつ)の兵(ひやう)終(つい)に亦(また)敗(やぶ)る五月
十二日 和(わ)を請(こ)ひ勿能府(うえいねんふ)を仏蘭西(ふらんす)に付(ふ)す七月十
二日 兵(ひやう)を徹(てつ)し十月十四日仏蘭西 窩々所徳礼畿(むゝすとれいき)【注】
勿能府(うえいねんふ)に盟(ちか)ひ更(さら)に数州(すしう)を割(さい)て仏蘭西(ふらんす)にあたへ
且(かつ)鉅万(きよまん)の煙土銀(えんどぎん)を献貢(けんかう)【左ルビ:オサメル】す又 那波列翁(なほれおん)の元妃(もとのきさき)「ヨ
セフィネ」《割書:女|名》子(こ)なし因(よつ)て那波列翁(なぼれおん)之(これ)を廃(はい)せんと欲(ほつ)
す一千八百九年 我(わか)文化(ぶんくは)七 庚(かのへ)午年 彼(かの)十二月十六
日 遂(つい)に之(これ)を廃(はい)す初(はじ)め那波列翁(なぼれおん)「マリアロユィセ」《割書:女|名》
を窩々所徳礼畿(おゝすとれいき)《割書:即ち|黄 祁(イツ)》の亜鴉爾都赫督(あゝるにへると)■(ひん)《割書:女宦|の名》に
封(ふう)ず是(こゝ)に至(いたつ)て立(た)てゝ継妃(けいき)【左ルビ:ニトメノキサキ】とす此際(このあいだ)又(また)意太里亜(いたりや)


【注 ここでの振り仮名は「むゝすとれいき」とあるが、前コマでは「おゝすとれいき」とある。】

小王(しやうおう)を「ホルストプリマート」《割書:第一位|ホルスト》より陞(のぼ)して
「フランキホルト」《割書:地名ドイツの|中央にあり》の伝世(でんせ)赫督撫(へるとぶ)【左ルビ:シヨコウ】と
なす「ハノーフル」を「ウェストファーレン」《割書:以上|地名》に合(あわ)し
て一州(いつしう)となす七月 初一日(ついたち)和蘭王(おらんだわう)を廃(はい)し又(また)之(これ)を
仏蘭西(ふらんんす)に合(あわ)す又「ワルリッセルラント」及び「エムス」
「ウェセル」「エルベ」《割書:以上|河名》此(この)三(さん)河口辺(かこうへん)の列応義団(れいんぎたん)諸地(しよち)
「ハンセー【」脱ヵ】府「ヲルテンビュルグ」大赫督撫領(だいへるとぶれう)【「脱ヵ】ベルグ」
の一部(いちぶ)及(およ)び「ウェストファーレン」《割書:以上|地名》等(とう)の諸地(しよち)を割(さい)
て仏蘭西(ふらんす)に幷(あわ)す
是(こゝ)に於(おい)て那波列翁(なぼれおん)が威勢(ゐせい)已(すで)に其(その)隆盛(りうせい)【左ルビ:サカン】を極(きわ)め欧(えう)

【右丁 挿絵】
俄羅斯の大将

【左丁】
俄羅斯(おろしや)
 仏蘭西(ふらんす)と
  大(おほひ)に莫斯(もす)
   科窪(こう)に戦(たゝかふ)図(づ)

邏巴(ろつぱ)を蚕食(さんしよく)【左ルビ:ダン〳〵キリトル】して大半(たいはん)其(その)号令([が]うれ[い])に従(したか)へども是班牙(いすはにや)
との戦(たゝか)ひ未(いま)だ終(おは)らず而(しか)して英吉利(えげれす)も未(いま)だ愈々(いよ〳〵)
戦(たゝか)ひ克(か)つの利(り)を收(おさ)むること能(あた)はず俄羅斯(おろ[し]や)も亦(また)
今(いま)我(われ)に和(くは)すと雖(いへ)ども其心(そのこゝろ)測(はか)るべからず然(しか)るに
一千八百十一年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)九 壬申(みづのへさる)年(とし)俄羅斯(おろしや)雪(すう)
際亜(えしや)再(ふたゞ)【ママ】ひ兵(ひやう)を挙(あげ)て仏蘭西(ふらんす)を伐(う)つ仏蘭西(ふらんす)大(おほ)ひに
兵(ひやう)を備(そな)へて之(これ)を防(ふせ)ぐ雪際亜(すうえしや)の兵(ひやう)速(すみやか)に黄祁(どいつ)の数(す)
州(しう)を下(くだ)す但(たゞ)し孛漏生(ぷろいせん)の諸城塞(しよじやうさい)及(およ)び「ダンチフ」は
尚(なを)仏蘭西(ふらんす)に属(ぞく)す此時(このとき)黄祁(どいつ)。波羅尼亜(ぽろにや)の地方(ちはう)には
諸国(しよこく)の軍勢(ぐんぜい)雲(くも)の如(ごと)く集(あつま)り那波列翁(なぼれおん)の大纛偈(たいとうか)【左ルビ:[ハ]タシタ】に

在(あり)て俄羅斯(おろしや)と戦(たゝかは)んとす一千八百十二年 我国(わがくに)の
文化(ぶんくは)十 癸酉(みづのととり)年(どし)彼(か)の五月九日 那波列翁(なぼれおん)は聖格琭(しんとろろう)
徳(ど)を発(はつ)し六月二十五日 其(その)軍勢(ぐんぜい)「ニイメン」河(が)を済(わた)
り九月十五日 俄羅斯(おろしや)の旧(きう)都府(とふ)莫斯科窪(もすこう)に兵(へい)を
進(すゝ)む此時(このとき)俄羅斯(おろしや)人(じん)自(みづか)ら火(ひ)を五百 所(ところ)に放(はな)ち市街(しかい)【左ルビ:マチ】
を焼(や)く風(かぜ)烈(はげ)しく火(ひ)盛(さかん)にして其(その)煙炎(えん〳〵)滅(めつ)せさる事(こと)
七日 是(これ)に依(よつ)て那波列翁(なぼれおん)が総(そう)【惣】軍(ぐん)大(おほい)には敗衄(はいじん)し其(その)罷(ひ)【左ルビ:ツカレ】
弊(へい)したる兵(へい)を莫斯科窪(もすこう)に屯(たむろ)して冬月(ふゆ)を渉(わた)【左ルビ:コヘ】り春(はる)
の来(きた)るを待(また)んと欲(ほつ)すれとも今(いま)其(その)府城(ふじやう)尽(こと〴〵)く焼夷(せうい)【左ルビ:ヤキタイラグ】
せるを以(もつ)て兵馬(ひやうば)を休息(きうそく)するに地(ち)なく進退(しんたい)窘迫(きんばく)【左ルビ:クルシミセマル】

し十月十七日 已(や)むことを得(え)す兵(へい)を退(しりぞ)くこの時(とき)
大雪(おほゆき)降布(ふりしい)て大軍(たいぐん)の兵士(へいし)凍死(こゞへじに)相(あい)望(のぞ)み生て還(かへ)る者(もの)
二三千にすぎず那波列翁(なぼれおん)已(すで)に大兵(たいへい)を挫折(ざせつ)【左ルビ:クジキ ヲレ】し又(また)
「マレット」と云(いふ)者(もの)乱(らん)を作(おこ)し仏蘭西(ふらんす)の帝位(ていゐ)を傾覆(けいふく)【左ルビ:カタムケクツガヘサン】せ
んと謀(はか)る急報(きうほう)【左ルビ:■■ケ】を得(え)て「スモログノ」《割書:地|名》に於(おい)て那波里(なぽり)
王をして己(おの)れに代(かは)つて残兵(ざんへい)を指揮(しき)せしめ十二
月十八日 自(みづか)ら巴里斯(はりす)に返(かへ)る此時(このとき)是班牙(いすはにや)の兵乱(ひやうらん)
熾(さかん)にして亦(また)仏蘭西(ふらんす)の為(ため)に甚(はなは)だ利(り)あらず初(はじ)め宝(ほう)
帥(す)是班牙(いすはにや)の動乱(どうらん)を鎮(しづ)めんと欲(ほつ)し両国(りやうごく)の中(なか)に居(ゐ)
て之(これ)を和解(わかい)【左ルビ:ヤハラゲトク】す其(その)言所(いふところ)那波列翁(なぼれおん)の為(ため)に不便(ふべん)なる

を以(もつ)て聴(きか)れず宝帥(ほうす)憤(いきどふ)つて那波列翁(なぼれおん)を罰(ばつ)して法(はう)
縁(えん)を断(たゝ)んとす那波列翁(なぼれおん)怒(いか)つて之(これ)を擒(とら)へ巴里斯(はりす)
に送(おく)りて幽囚(ゆうしう)【左ルビ:オシ コメル】す是(こゝ)に至(いたつ)て是班牙(いすはにや)の人心(じんしん)を収(おさめ)ん
と欲(ほつ)し一千八百十三年 我国(わがくに)の文化(ぶんくは)十一 甲戌(きのへいぬ)年(どし)
彼(か)の一月二十八日「フヲ【小文字】ンターネブレァゥ」の地(ち)に
て宝帥(ほうす)の囚(とらはれ)を釈(と)き旧盟(もとのちかひ)を尋(つ)き其(その)盟(ちかひ)を十全(じうぜん)完成(くはんせい)
【「脱ヵ】コンコルダート」と名(な)づけて以(もつ)て新(あらた)に其(その)乱(らん)を戡(うち)
靖(やすん)ず三月二十七日 孛漏生(ふろいせん)戦書(せんしよ)を那波列翁(なぼれおん)に贈(をく)
る那波列翁(なぼれおん)進(すゝ)んで黄祁(といつ)の中央(ちうわう)に陣(ぢん)す五月二日
「リュッツェン」の地(ち)に戦(たゝか)ひ二十日二十一日「バッツェレ」「ウェ

ルセン」両地(りやうち)に戦(たゝかふ)て皆(みな)之(これ)に克(か)ち転(てん)じて「シンシア」
に攻入(せめい)る「ダホウト」《割書:人|名》は「ハムビュルク」の地(ち)を復(かへ)し
六月四日 兵(へい)を止(やめ)るを約(やく)す窩(お)々 所徳礼畿(すとれいき)は仏蘭(ふらん)
西(す)孛漏生(ぷろいせん)両国(りやうごく)の兵(へい)を和(くは)せんと欲(ほつ)し「プラーグ」の
地(ち)に於(おい)て和議(わぎ)を謀(はか)る和議(わき)ならず既(すで)にして八月
十日 窩々所徳礼畿(おゝすとれいき)又(また)反(はん)して戦書(せんしよ)を仏蘭西(ふらんす)に贈(おく)
る遂(つい)に「デレステン」に戦(たゝか)ふ窩々所徳礼畿(おゝすとれいき)の兵(ひやう)戦(たゝか)
ひ破(やぶ)る仏将(ぶつしやう)「モレアウ」《割書:人|名》重創(おもきず)を蒙(かふむ)る此(これ)を那波列(なぼれ)
翁(おん)が最(もつと)も後(のち)の勝(かち)とす八月二十六日【「脱ヵ】カイスパグ」
《割書:地|名》に武略舎爾(ぶりつせる)《割書:人|名》勇戦(ゆうせん)して仏蘭西(ふらんす)の軍(いくさ)を破(やぶ)り全(ぜん)

【裏表紙】

【背】

【天(地)小口】

【小口】

【天(地)小口】

BnF.

【巻物前面】
【「四十二国人物図説」(享保五年刊)と思われます】

【巻物上面】

【巻物下面】

1大明人
  大明ハ唐土也世々国号ヲ改カ故ニ定タル号ナシ國人ミツカラ
  称シテ中華中国ト云十五省ヲ定テ一京十三道ヲ立ルハ
  大明ノ大祖帝也日本ヨリ唐土ト号スル事ハ大唐ノ世ニ日本ニ
  親/睦(ボク)繁カリシ故ナリ又/伽羅(カラ)ト号スルハ古日本ヨリ異国ヲ指テ
  伽羅(カラ)ト号ス故ニ漢唐韓ノ字皆伽羅ト訓ス又支那ト
  云ハ天竺方ヨリ称セシ名ニテ梵語トゾ震旦モ支那ノ
  転音ナリト云リ


 大清人

 大清ハ即今ノ唐土ノ号也天子ノ本国韃靼ナルカ故ニ大明ノ世ノ
 風俗ヲ改此故ニ二国ノ図ヲ分テ古今ノ風俗ヲシラシム二京十三道
 文字経史学法前代ニ随テ変改セス


 朝鮮人

 朝鮮ハ古ノ三韓ニテ馬韓辰韓弁韓ノ地ナリ中古ハ新羅
 百済高麗ト分チ末代合テ朝鮮ト号ス国八道アリ寒国ナリ
 京畿道ハ北極地ヲ出ル事三十八度釜山海ハ三十六度


 琉球人

 琉球ハ南海中ノ島国ナリ古ハ龍宮ト云中古琉求ト云末代ニ
 琉球トス暖地ナリ北極地ヲ出ル事二十五六度


  東京(トンキン)人
東京ハ古ヨリ唐土
ニ属セル国ニテ中
華ノ文字ヲ用ル尤詞ハ別ナリ古唐土ヨリ
交趾(コウチ)ト云シハ此国也末代ニ至テ両国ニ分レ東辺ヲ東京ト云南辺ヲ
広南ト云今ハ広南ノミ交趾ト号ス風俗相同シキ故ニ別ニ交趾ヲ
図セス何レモ煖国ナリ北極地ヲ出ル事凡五十六度ナリ

 韃靼人
韃靼ハ本名 韃而靼(タツチタン)
ト云今ハ而字ヲ
略ス其国ノ
東西黒白ノ
二種有
属類
甚タ多ク
国界四十八道ニ
相分レテ
大国ナリ
古ノ胡国ト云ヒ
或ハ蒙古ト云モ皆
此国ノ別号ナリ
南海ハ唐土ニ接(セツ)シ北方ハ氷海ニ近ク大寒地ニテ四季昼夜長短
大ニ他方トハ同カラサルノ所多シ最富饒国ナリト云国人弓馬ヲ好ミ
勇強ノ風俗ナリ北極地ヲ出ル事四十三度ヨリ六十四度ニ至ル南北
短ク東西ニ長シ

【「6」と朱書き】
  爪哇(ジヤワ)人 【口偏に爪の字は見当たりません。「爪哇」でジャワの表記OKです。】

爪哇ハ唐土西南方
ニ当テ遠キ国也大熱
国ナリ四時寒
暑ノ次序
唐土日本
ノ国ト相反シテ甚
別ナリ今日本ニ来ルヲランタ人住居ノ咬(クラツハ)𠺕巴【左側に「ジヤカタラ」と振り仮名】モ此国ノ北端ナリ
故ニ別ニ人物ヲ図セス北極ハ見ヘス南極地ヲ出ル事六度或ハ七度

【「7」と朱書き】
 馬加撒爾(マカサル)人

 馬加撒爾ハ呂宋(ルスン)ノ南ニアタル島国ニテ大熱国ナリ人物賎
南北ノ両極星ヲ見ルコト蘇門答剌(ソモンタラ)ニ同

  暹羅(シヤム)人
暹羅ハ南天竺 摩羯陀(マカダ)国ノ内ナリ唐土ヨリ西南ニ当レル熱国ニテ
東埔寨(トンホヂヤ)【左側にも振り仮名。「カホチヤ」】モ同類ノ国ナリ最モ仏法ヲ尊敬ス東埔寨ハ暹羅ヨリ
暑熱強ク人物甚賎シ北極地ヲ出ル事シヤムハ十四度トンホチヤハ十二度

 【「9」と朱書き】
  莫臥爾(モゴル)【左側にも振り仮名。「モヲル」】人 【卧は臥の俗字】

莫臥爾ハ回々(ウイ〳〵)ヲ以テ莫臥爾トスルハ誤(アヤマリ)ナリ是モ南天竺ノ内ニテ
第一ノ大国ナリ十四道有テ宝貨富饒ノ国也云ヘリ煖国ナレトモ気候ハ凡
唐土広東ニ等シトナリ北極地ヲ出ル事二十二度

【「10」と朱書き】
阿蘭陀(ヲランダ)人
 阿蘭陀ハ欧羅巴ノ北海ノ地ニアリ前爾瑪尼亜(セルマニヤ)ノ西隣 払郎察(フランス)ノ地ニ相
 界フ国ナリ尤寒国ニテ南北相距ル事二度小国ナリ日本唐土ノ西北ニ
 当テ日本ヨリ海上一万三千里有リ北極地ヲ出ル事五十四五度或ハ五十六度

【「11」と朱書き】
百児斉亜(ハルシヤ)人

 百児斉亜ハ亜細亜(アシヤ)ノ内天竺ノ西辺ナル大国ナリ獣類(シウルイ)土産多ク四季
 有テ豊ナル国也ト云百児ノ字又百爾ト作

度爾格(トルコ)人
【「12」と朱書き】

 度爾格ハ天竺ヨリ西北テアル国ニテ四季有リ人物勇強ニシテ武ヲ好ム
 国ナリ隣国是カ為ニ併セラルヽ多シ

【「13」と朱書き】
莫斯哥米亜(ムスカウヒヤ)人

 莫斯哥米亜ハ欧羅巴(ヱヽロツパ)ノ内阿蘭陀国ノ東ニアル大国ニテ大寒国ナリ
 異類ノ獣畜多キ水土ナリ石火失ハ此国ヲ根本トス故ニ多ク有ト云ヘリ
 此辺ハ諸国総テ北極地ヲ出ル事五十度或ハ六十度ノ間ナリ

【「14」と朱書き】
以西把尼亜(イスハニヤ)人

 以西把尼亜ハ欧羅巴(ヱゝロツパ)ノ内ノ大国ナリ四季有リト云リ尤邪法国ナリ

【「15」と朱書き】
波爾杜瓦爾(ホルトガル)人
 波爾杜瓦爾 亜媽港(アマカハ) 臥亜(ゴア)以上三国ハ皆邪法国ノ属ニテ人物風俗相
 同ト云リ亜媽港ハ唐土ノ南海中ニアリ臥阿(ゴア)ハ天竺ノ南辺ニ有テ煖国也ト云リ
 ホルトガルハ遥ニ西方 欧羅巴(ヱヽラツパ)ノ内方テ四季有国ナリ

【「16」と朱書き】
意太里亜(イタリヤ)人
 意太里亜 以西把尼亜此二国欧羅巴ノ内ニテ大国ナリ四季有ト云ヘリ

 イタリヤノ都ヲ羅媽トイヱリ一国ナリ何レモ邪法国ナリ

【「17」と朱書き】
斉爾瑪尼亜(セルマニヤ)人
 斉爾瑪尼亜ハ阿蘭陀国ニ並ヒタル国ニテ寒国ノ大国ナリ人物風俗ヲラン
 ダニ相類ス

【「18」と朱書き】
諳尼利亜(インギリヤ)人

 インギリヤハ阿蘭陀ノ西隣海中ノ島国ナリ尤大国ニテ風俗ヲランダニ
 似テ其種又異ナリ欧羅巴(ヱゝロツパ)ニ属ス

【「19」と黒字書き】
 魯西亜(ヲロシヤ)人
 ヲロシヤハ欧羅巴(ヱゝロツパ)ノ内ヲランタ国ノ東ニアル寒国ナリ海魚山林獣類大ニ多
 五穀宝豊饒ノ国ナリ此国ノ本国ムスコウビイヤ也

伯剌西爾(ハラシイル)人

 伯剌西爾ハ南 亜墨利加(アメリカ)ノ東辺ニ有テ人倫ノ作法ニアラズ奸勇ニシテ人ヲ
 殺(コロ)シ炙(アブリ)食フト云今ノ代ハ諸国ノ人往来シテ交易スル事多ク故ニ少シク
 人倫ノ作法ヲ知レリ

【「21」と朱書き】
 為匿亜(キネイヤ)人
 為匿亜ハ利未亜(リミヤ)ノ内ノ大国ナリ熱国ニシテ武勇ヲ専ラトシ風俗尤賤シ
 海上甚遠キ国ナリ

【「22」と黒字書き】
 羅烏(ラウ)人

 羅烏ハ暹羅ニ近キ類国ニテ摩羯陀(マカダ)国ノ内ナリ尤熱国ニテ人物風俗ハ
 暹羅ニ異ナリ故ニ別ニ是ヲ国ス此国多ク斑文竹(ハンモンチク)ヲ生ス

【「23」と黒字書き】
 亜爾黙尼亜(アルメヱヤ)人
 亜爾黙尼亜ハ西天竺ノ西ニ在テ四季アル国ナリ但シ寒国ナリ此辺国上国多シ
 古ハ西天竺ニ属

【「24」黒字書き】
 槃朶(ハンタ)人
 槃朶ハ蘇門答剌(ソモンタラ)ニ近キ島国ナリ熱国ニテ風俗 紅毛(ヲランダ)ニ似テ又別ナリ
 勇悍ヲ好ムト云

【「25」と黒字書き】
 亜費利加(アメリカ)人
 亜費利加ハ利未亜(リミヤ)ノ内ニ有ル大国ナリ四季アリ併暖国ニテ一ヶ年ノ間
 寒気少ク米麦肥饒ナル国ナリ

【「26」と黒字書き】
 比里太尼亜(ヒリタニヤ)人
 比里太尼亜ハ利未亜(リミヤ)ノ内ニテ欧羅巴(ヱヽロツハ)ヨリハ南方地中海ヲ隔テタル国ナリ
 尤大国ニテ四季正シキ国ナリト云

【「27」と黒字書き】
 工答里亜(ゴンタリヤ)人
 工答里亜ハ莫斯哥未亜(ムスコヲビイヤ)ニ並ヒタル国ニテ風俗又別ナリ尤大国ノ寒国ナリ
 石火失ハ此国トムスコヲビイヤトヨリ始レリト云此国ノ馬ハ皆驢駝(ロダ)ナリ

【「28」と黒字書き】
 大泥亜(タニヤ)人
 大泥亜ハ欧羅巴(ヱゝロツパ)ノ内ニテ波羅尼亜ノ東ニアリ大◦(◦寒)国ナリ最モ大国ニテ

 南北ニ長ク南ハ地中海ニ近ク北ハ極辺ニ近クシテ夏ノ節夜甚ミジカシ
 海魚多ク山林獣諸国ニスグレ五穀宝 饒(ユタカ)ニシテ天文暦象ノ側器ハ
 此国ヲ最一トスルヨシ聞伝フ

【「29」と黒字書き】
翁加里亜(ヲンカリヤ)人
翁加里亜ハウンカリトモ云此国 欧羅巴(ヱゝロツパ)ノ内ニ在テ産物甚豊饒ニテ牛羊
殊ニ繁殖(ハンシヨク)スト云最モ寒国ナリ

【「30」と黒字書き】
撒児本(サルモ)人

 撒児本ハ略シテサモト云此国モ西天竺ノ北ノ方ニ在テ最モ寒国ナリ国人
 武勇ニシテ獣類多キ水土ナリ

【「31」と黒字書き】
阿勒恋(アゼレン)人
 阿勒恋ハ南 亜墨利加(アメリカ)ノ内大国ニテ其人武勇ヲ好ナ(メ)【「ナ」を見せ消ちにして右に「メ」と傍記】リ此国ニ世界第一ノ
 大河アリ広サ日本ノ里数十里ニ相当ルト云リ熱国ニテ日本ヨリ東南ニ
 アタル阿ノ字略シテ勒恋トモ云

【「32」と黒字書き】
加拿林(カナタ)人
 加拿林ハ亜墨利加ノ内ニ有大国ナリ四季有ト云ヘトモ熱国ニテ賎シキ風
 俗ナリ或ハ加納恋(カナレン)トモ云

【「33」と黒字書き】
 答加沙谷(タカサゴ)人
 答加沙谷ハ唐土東南海中ノ島国ナリ昔阿蘭陀人住居セシ時台湾ト号シ
 国姓爺(コクセイヤ)居住以後 東寧(トヲネイ)ト改ム暖国ナリ地民風俗甚賎ク常ニ麋鹿等猟シ【「シ」を消してある風】
 スル事ヲ産業トス農民甘蔗西瓜ヲ種ル事産トス米麦一歳ニ二タヒ収ム
 北極地ヲ出ル事二十二三度

【「34」と黒字書き】
凡良哈(ヲランカイ)人
 凡良哈ハ朝鮮ノ北東ニアル寒国ナリ良ノ字艮トスルハ誤カ此国甚タ朝
 鮮ニ近シト云リ或曰女真国ノ属ナリ北極地ヲ出ル事凡四十二度

【「35」と黒字書き】
呂宋(ロソン)人
 呂宋ハ台湾ヨリ南海ニアル島国ナリ熱国ニテ湿毒深キ地ナリト云
 末代邪法ノ属類ト成テカノ国ノ者多ク住スト云地民風俗甚賎シ

【「36」と黒字書き】
剌答蘭(ラタラン)人
 剌答蘭ハ日本ノ東南大海中ニ有ル島国ニテ熱国ナリ昔蛮ノ諸国往
 来ノ節船ヲ寄テ見タリト云末代紅毛等到ル事有リヤ詳カナラス

【「37」と黒字書き】
蘇門答剌(ソモンタラ)人
蘇門答剌ハ或ハサマダラトモ云爪哇【「6 爪哇人」の項参照】国ノ北ニアル島国ナリ是モ大熱国ニテ
人物風俗賎ク国主ナク面々ニ地ヲ領ス争事ナシ此国金銀ヲ産ストイヘトモ
民多ク取事ヲセス偶金塊ヲ得ルコトアレハ旅人ニ交易スト云南北ノ両星ヲ
見ル此国ノ東ニ浡泥(ブルネル)国有リ人物風俗相同シク常熱国ナリ故ニ別ニ
載セス爪哇(ジヤワ) 蘇門答剌 浡泥等ハ墨瓦臘泥加(メガラニカ)近シ

【「38」と黒字書き】
 小人

 小人ハ波智亜(ハチヤ)ト云国ナリ欧羅巴(ヱゝロツパ)東北隅辺北ノ方氷海ニ至ル地ナリ大寒
 国ナリ半年ハ昼ノミ続キ半年ハ夜ノミ続キ人ノ長尺二三寸ト云伝フ
 然レトモ一尺有余ナリト云唐土ニテ短人トモ云是ナリ

【「39」と黒字書き】
長人
 長人ハ智加ト云国ナリ南亜墨利加ノ内ニ有リ此国ニ相並ヒ巴太温(ハタウン)ト
 云国モ人丈ケ大ナリ凡其丈ケ此方一丈二尺ト云イツレモ日本ノ巽(タツミ)ノ方
 アタレリ四季有風俗尤勇強ニシテ弓矢ヲ好ミ其矢ノ長サ六七尺



              崎湯
                義隣言▢▢
 天保十三寅年四月下旬写之

BnF.

【表紙】

JAPONAIS159

【白紙】

【白紙】

《題:雲根志(ウンコンシ) 前編(ゼンヘン) 後編(ゴヘン) 三編(サンヘン)
           共略抄一本》

《題:雲根志(ウンコンシ) 前編(ゼンヘン) 後編(ゴヘン) 三編(サンヘン)
           共略抄一本》

【白紙】

 前編 一 雲根志
 文字関石(ヲジハセキイシ)十一
土佐国(トサノクニ)栗之御崎(クリノミサキ)二十町 沖(ヲキ)ノ海底(ウミソコ)ノ産(サン)本朝(ホンテウ)
硯石(スヾリイシ)ノ至品(シヒン)ナリ文字関石(モシセキイシ)ト名(ナヅ)ク又土佑ノ
青石(アヲイシ)或ハ島硯(シマスヾリ)ナドイヘリ其(ソノ)色(イロ)青黒(アヲクロク)シテ赤(アカキ)
筋(スヂ)アリ毎年(マイネン)三月三日 大干潟(ヲホヒカタ)ニテ二丁 余(ヨ)モ潮(シホ)
望(ツキ)ス昔(ムカシ)ヨリノ例(レイ)ニシテ当地(トウチ)西寺(ニシデラ)ノ僧(ソウ)アマタ出(イデ)
テ海辺(カイヘン)ニ立(タツ)テ経(キヤウ)ヲヨミ其経 終(ヲハ)ラザル間(アイダ)ニ沖(ヲキ)
ヘハシリヲテヒカタノ砂(スナ)ノ中(ナカ)ニテ拾(ヒロ)ヒ得(ウ)ルナリ

今ハ砂中ニテハ得ル事カタク水中(スイチウ)ニ沈(シヅミ)【右に「沉」の字あり】テ石
ヲ尋得(タヅネヱ)テ抱(イダ)キ上ル事ナリ経(キヤウ)終(ヲハ)ル時ハ潮(シホ)ミ
チクルユヘ石ヲイ《見せ消ち:ド|ダ》キテ急(キウ)ニ陸(クガ)ヘハシリ来ル
又 奥州(ヲウシウ)ヲガチノ海中(カイチウ)ニ硯石(スヽリイシ)アリ名品(メイヒン)ナリ
是モ三月三日 大潮(ヲホシホ)引(ヒキ)ノ時 海底(カイテイ)ニ沈(シヅミ)テ採来(トリキタ)
ルトイフ
   石鍾乳(セキセウニウ)二十八
高山(カウサン)ノ窟(イワヤ)ニアリ其色白ク上ヨリサカリテ氷柱(ツラク)
ノゴトク白(ヒ)ニ照(テ)《見せ消ち:テ|ラ》シ見ル時ハ雪ノコトク銀星(キンノホシ)アリ

一 鐘(シユ)黒キモアリ所々ニ産(サン)ス美濃(ミノヽ)国 三国(ミクニ)ガ岳(タケ)
紀州(キシウ)熊野(クマノ)ノ大雲取(ヲホクモトリ)山 讃岐(サヌキ)国 屋島(ヤシマ)ノ奥伊予(タクイヨノ)
国 小松(コマツ)吉田(ヨシタ)松山(マツヤマ)大洌(ヲホヅ)信州(シンシウ)木曽御岳(キソノミタケ)又 白骨(シラホネ)
地獄谷(ヂゴクタニ)鼬(イタチ)ガ窟(イワヤ)下総(シモフサ)ヲ流山 遠州(ヱンシウ)岩水寺(カンスイジ)村
岩水寺 境内(ケイダイ)肥後(ヒコ)益城郡(マスキコヲリ)渡山(ワタリヤマ)越前(ヱチゼン)越後(ヱチゴ)佐渡(サト)
ノ山中(サンチウ)ニアリ大和(ヤマトノ)国 金峰山(キンフサン)菊(キク)ガ窟(イワヤ)ハ洞(ホラ)ノ
中(ウチ)鍾乳(シヤウニウ)ニテ菊花(キクノハナ)ヲナセリヨツテ名(ナツ)ク又 江州(コウシウ)
甲掛(カウカケ)山 風穴(カサアナ)ニアリ同国(トウコク)犬上郡(イヌカミコヲリ)ニ佐目(サメ)村アリ
《割書:予》宝暦(ハクリヤク)八年五月コヽニ至(イタ)ル多賀明神(タガメウジン)ヨリ

五里バカリ奥(ヲク)ナリ此山中ニ風穴(カサアナ)トイフアリテ
ツネニ風ヲ生(セウ)ス洞(ホラ)ノ高(タカ)サ二 丈余(デウヨ)幅(ハヾ)二 丈余(デウヨ)広(ヒロ)
キ所(トコロ)ニテハ三四 丈(テウ)モアリ一町ホド行(ユキ)テカクノコト
キノ洞穴(ホラアナ)上下 左右(サユウ)数十(スジウ)ニワカリ其一 道(ミチ)ノスヘニ
テ又 数百(スヒヤク)ニ分(ワカ)リ又一 町半程(テウハンホド)モユキテハ蜘蛛(クモ)ノ巣(ス)
ノゴトク量(カズ)モナクリカリテ方角(ハウガク)ヲウシナヒユキ
カタク其 奥(ヲク)コト〴〵ク見ツクシガタシ土人(トジン)ツタ
ヘイフ一 里(リ)行(ユキ)テヨコニナリルヽ大河(ヲホカハ)アリコレヲワ
タリテ伊勢国(イセノクニ)ヘヲタリトシカルヤイナヤヲ

シラズ此(コノ)窟(イワヤ)ノ中(ウチ)前後(センゴ)左右(サユウ)上下一寸モアキタル
所ナクコト〳〵ク鍾乳(シヤウニウ)ナリ上(ウヘ)ヨリサカリタルハ
氷柱(ツラク)ノコトクフトサ一 囲(カクミ)ナガサ一 間(ケン)二 間(ケン)或(アルヒ)ハ一 丈(デウ)
二 丈(デウ)ニシテ下(シタ)ヘトヽキ丸(マル)ハシラノゴトクナルモアリ
両側(リヤウカハ)ヘナタノタルハ浪(ナミ)ノゴトク滝(タキ)ノゴトク或(アルヒ)ハ牛(ウシ)
馬(ムマ)ノ頭(カシラ)背(セ)ニ似(ニ)不動(ブドウ)ノ後光(ゴクハウ)ニ似(ニ)タリ其 形状(ケイシヤウ)
コトバニツクシガタシ所々 多(ヲホ)シトイヘドモ多ク
大ナル事此所ニヲヨフハアラジトゾ

  後編 一之上雲根志
 仏像石(フツゾウセキ) 十四
富士(フシ)山ノ麓(フモト)大宮(ヲホミヤ)ノ谷(タニ)ニ大石アリ石面(セキメン)ニ仏像(ブツソウ)
隠起(インキ)ス其 長(ナカ)サ二五寸 全(マツタ)ク人作(シンサク)ニアラズ天造(テンザウ)
也又 能登国(ノトノクニ)鳳至郡(ホウシノコホリ)菩薩谷(ボサツタニ)ニ菩薩石トイフ
モノアリ長(ナガサ)一寸色黄ニシテ人形(ヒトノカタチ)ノゴトク面目(メンモク)
具(ソナハ)ルニハアラズ只(タヾ)法師(ホフシ)ノカタチアルノミ本草(ホンサウ)ノ
菩薩石トイフモノハ同名(トウメウ)異類(イルイ)ナリ又 肥後国(ヒゴノクニ)阿(ア)
蘇山(ソヤマ)ノ川(カハ)ノ口村(クチムラ)鷲峰寺(シユホウジ)ニ此物アリ長サ一尺

一二寸 皆(ミナ)仏ノ形(カタチ)ナリ故(ユヘ)ニ仏石トイフ又 奥州(ヲウシウ)出(デ)
羽(ハ)界(サカヒ)ニ羅漢石(ラカンセキ)アリ是(コレ)モ自然(シゼン)ニ僧(ソウ)ノカタチ或
ハ一人或ハ双(ナラ)ヘリ洛西(ラクセイ)嵯峨(サガ)臨川寺(リンセンシ)桂洲和尚(ケイジウスシヤウ)
《割書:予》ニ観音石(クワンヲンセキ)ヲ恵(メグ)ミイフ真(マコト)ニ彫刻(チヤウコク)セルゴトク
ナレドモ決(ケツ)シテ天然(テンネン)ノ産(サン)ナリ其 長(タケ)五寸三分 観(クワン)
音(ヲン)ノ立像(リフゾウ)ナリ一偈(イチゲ)ヲ副(ソヘ)テ贈(ヲク)リヌヘリ又《割書:予》此
書(シヨ)ヲ艸(サウ)スル日 課然(グウセン)トシテ一 老僧(ラウソウ)来リ机辺(キヘン)ニ
座(ザ)シテ云家ハ勢州(セイシウ)ヨリ出タル雲水(ウンスイ)ノ僧ナリ
足(ソコ)下ニハ幼年(ヨウネン)ヨリ玉石ヲ愛玩(アイクワン)シテ近ス和(ワ)

漢(カン)ノ石譜(セキフ)ヲ著(アラハ)スト我(ワカ)師(シ)ハ勢州(セイシウ)一志郡(イツシコホリ)称名(セウメウ)
寺(ジ)ナリ嘗(カツ)テ某事(ソレノコト)アリネガハクハ石譜(セキフ)ノ片端(ヘンタン)
ニコレヲ載(ノセ)イヒテント懐中(クワイチウ)ヨリ一紙(イツシ)ヲ出シテコ
レヲ示(シメ)ス《割書:予》取テ閲(ケミ)スルウチニ彼(カノ)僧(ソウ)行方(ユクヘ)ナク
立シリケリヨツテ悉(コト〳〵)ク問(ト)フニヨシナク其紙上
ニシルセルガマラヲコヽニ出ス勢州一志郡 新屋(ニハヤ)
庄村(ノシヤウムラ)称名寺 中興(チウコウ)第(タイ)二 泥洹院(ナイヲンイン)了道上人(カヤウダウシヤウニン)関東(クワントウ)
巡行(シユンコウ)ノ時 出流(ユスル)ノ嵒窟(ガンクツ)ニ至(イタ)ルニ其中(ソノウチ)皆(ミナ)仏像(ブツザウ)ナリ
各(ヲノ〳〵)大石(タイセキ)連綿(ネンメン)ニシテ仮令(タトヘ)石匠(セキシヤウ)力ヲ尽(ツク)ストモ得(ウ)

ベキ事カタカルベシコヽニ了道師(リヤウダウシ)末代(マツタイ)ノ亀鑑(キカン)
且(カツ)ハ帰郷(キキヤウ)ノ賜(タマモノ)ニセントテ三日三夜 丹誠(タンセイ)ヲ抽(ヌキ)
ンデ嵒窟(ガンクツ)ニ籠(コモ)リ一 仏体(ブツタイ)ヲ得ン事ヲ願(ネカ)フニ
満(マンス)ル夜ノ五更(ゴカウ)ニ一 仏体(フツタイ)ヲ感徳(カントク)セリ随喜(スイキ)ノ涙(ナミタ)
時(トキ)ヲ移(ウツ)シテコレヲ負(ヲ)ヒナリテ帰(カヘリ)又 面像(メンゾウ)座光(ザクワウ)
自然石(シネンセキ)ニシテ儼然(ゲンゼン)トシテ拝(ヲガマ)レイフ今ニ当寺(タウジ)ノ
什物(ジフモツ)トスト記(シル)セリ又 近江(アフミノ)国 三上(ミカミ)山 正覚寺(シヤウガクジ)ニ
阿弥陀石(アミタセキ)ヲ珍蔵(チンサウ)ス当(タウ)山ニテ得(エ)タリトサレト
モ詳(ツマヒラカ)ナラズ凡(シヨソ)仏像石(ブツゾウセキ)仏紋石(フツモンセキ)ノ事 諸家(シヨカ)ノ珍(チン)

蔵(サウ)甚タ多シ本朝(ホンテウ)コレヲ産(サン)スル所 少(スクナ)カラス又
唐土(タウト)ノ書(シヨ)ニ出ルモノ甚タ多シ続篇(ゾクヘン)ニ是ヲ出
スベシ
   後編 《見せ消ち:二|一》
 金鱗石(キンリンセキ)三十二
《割書:予》珍蔵(チンサウ)ノ一ッニ金鱗石アリ其形 円(マドカ)ニ少シ長
ク鶏卵(ケイラン)ノコトク外ニ黒色 堅硬(ケンカウ)ノ皮アリ破去(ワリサツ)
テ全体(センタイ)金色ノ鱗(ウロコ)アリ若(ワカ)キ松カサノ大ナルガ
コトシ佐渡国(サトノクニ)金ヲ掘(ホ)ル穴(アナ)ノ中ニテ稀(マレ)ニ得(エ)タリ

 ト金銅礦(キントウクハウ)或(アルヒ)ハ蛇含石(ジヤガンセキ)ニ似タリ又 美濃国(ミノヽクニ)可(カ)
 児郡(ニコホリ)石原村(イシハラムラ)三宅氏(ミアケウヂ)去年(キヨネン)同物(ドウフツ)ヲ裹(ツヽミ)朱(キタツ)【「来」の間違いか】テ木(キ)
 曽(ソ)山 鎌津谷(カマツタニ)ノ産(サン)ナリトイフ《割書:予》蔵(サウ)ゼル所ノ物ニ
 異(コト)ナルコトナシ是ヲ以(モツ)テ考レバ礦(クワウ)又ハ蛇含(ジヤカン)或
 ハ諸国(シヨコク)珀石(ハクセキ)ノ類ニアラズ一種ノ別物(ベツフツ)ナリ佐渡(サド)
 ニテハ金(キン)チヽリト云美濃ニテハノタフクリトイフ
 一説(イツセツ)ニ美濃国(ミノヽクニ)加児郡(カニコホリ)石原村(イシハラムラ)天神山(テンシンサン)ニモアリ
 トイヘリ

  後編 二
 生魚石(セイキヨセキ) 九
近江国大津ノ町家(マチヤ)ノトリ葺(ブキ)屋根ニ置(ヲキ)タル石
へ時々 鴉(カラス)ノ来リテ啄(ツイバ)ム一石アリヨツテ心ヲトヽ
メテ是ヲ見ルニ外(ホカ)ノ石ハツヽカズ只一石ノミ数(ス)
日(ジツ)同シアマリフシキニ思ヒ其家ノ主人(シユジン)ニコトワ
リテ是ヲオロシ見ルニ常ノ石ニ異(コト)ナル事ナシ
モトヨリ何ノ臭(カ)モナキユヘ捨置(ステヲキ)ケレバ鴉(カラス)又来
リテ其石ヲ啄(ツイバ)ムイヨ〳〵フシギニヲモヒウチ破(ワリ)

見レバ石中 空虚(クウキヨ)ニシテ水五合許ヲ貯(タヽイフ)其中ヨリ
三寸許ノ年魚(アユ)飛出(トヒイデ)テ死タリ又洛ノ津島(ツシマ)先生
物語ニ寛永(クワンヱイ)ノ比東国ニ或(アル)山寺ヲ建(タテ)ルニ大石アリ
造作(ザウサク)ノ妨(キマタゲ)ナリトテ石工(イシキリ)数人シテコレヲ谷ヘ切落(キリヲト)
セリ其石中 空虚(クウキヨ)ニシテ水出ル事二三 斛(コク)石工等
大ニヲトロキ怪(アヤ)シム内ヨリ三尺許ナル魚(ウヲ)躍出(ヲドリイデ)
テ谷川ヘ飛入 失(ウセ)ヌト今其石 半(ナカバ)ハ堂(ダウ)ノ後(ウシロ)半ハ
下ナル谷川ニ有石中ノ空虚ニ三人ヲ入ルト又
肥前国(ヒセンノクニ)長崎(ナカサキ)或(アル)富家(フカ)ノ石 垣(カキ)ニ積込(カミテミ)シ石ヲ

阿蘭陀人(ヲランダジン)高価(カウカ)ニ求(モトメ)人事ヲ乞(コ)フ主人後ノ造(ザウ)
作(サク)ヲウレヘアタヘス望(ノゾ)ム事シキリニヤマズヨツテ
是非(セヒ)ナクコレヲアタフ其 用(ヨウ)ヲキクニ蛮人(バンジン)云(イフ)是
生魚石(セイキヨセキ)ナリ此石ノ廻(マハ)リヲ磨(スリ)ヲロシ外ヨリ魚ノ
透(スキ)見ユルヤウニシテ高貴(カウキ)ノ翫(クワン)ニ備(ソナ)フ最(モツト)モ至宝(シハウ)
ナリト又伊勢国 一志郡(イツシコホリ)井堰(井セキ)村ニ石工(セキコウ)多シ或
石工石中ニ水ヲ貯(タクハ)ヘ石亀(イシガメ)ヲ得タリ大サ六寸
許 尋常(ヨノツネ)ノ石亀ニカハラズ側(カタハウ)ノ清水(シミツ)養(ヤシナ)ヒタリシ
ニ両日ヲ経(ヘ)テ死(シ)ス享保(ケウホウ)ノ末年(マツネン)遠江国(トホトフミノクニ)浜松(ハママツ)

ノ農家(ノウカ)ニ一石アリ常(ツネ)ニ藁(ワラ)ヲ打盤(ウツバン)ニ用ユ自然(シゼン)ニス
レテ石面(セキメン)光彩(クハウサイ)ヲ生(シヤウ)ズ内ニ泥鰌(トチヤウ)ノゴトキ物 運動(ウンドウ)スル
ヲ見テ主人(シユジン)シラス猶(ナホ)藁(ワラ)ヲ打トテ遂(ツヒ)ニ其石ヲ破(ワリ)
タリ所(トコロ)ノモレ怪異(カワイイ)ノ事ニヲモヒテ其家ニ祠(ヤシロ)ヲ立テ
カノ破石ヲ祭(マツ)ルト是同国 本多(ホンダ)某(ナニガシ)語(カタ)ラル又 或(アル)候(コウ)
家(カ)ノ秘蔵(ヒザウ)ニ鶏卵(ケイラン)ノカタチニ似(ニ)テ稍(ヤク)大キナル
玉ノ内ニ水ヲ貯(タクハ)ヘ魚スメリ其魚ノ首尾右ノ玉
ニ礙(サハリ)テ動(ウコ)ク事アタハズ是 琉球国(リウキウコク)ヨリ献(ケン)ズ
ルヨシ加賀国 普賢院(フゲンイン)ノ物語ナリスベテ此

類ノ事只 言伝(イヒツタ)フルノミニテイマダ其 実(ジツ)ヲ見ズ
雲林石譜(ウンリンセキフ)ニモ生魚石ノ事出タリヲモフニ同(ドウ)
日(ジツ)ノ談(タン)ナルヘシ
  第三
 霹靂碪(ヘギレキチン)四
雷(ライ)アマリシ諸ニ種々(シユ〳〵)ノ【挿入「石」】アリコレヲ霹靂碪トイフ
阿波国津山ヘ落(ヲチ)シ時 異形(イギヤウ)ノ石ヲ得タリ一ッハ長
三四寸 三絃(サミセン)ノ撥(バチ)ノゴトク色(イロ)印部(インベ)【「印」のフリガナに見せ消ちあり。元の字「ベ」】ノ焼物(ヤキモノ)ニ似(ニ)
タリ紫黒(シコク)色ナリ石ニシテ石ヨリ堅(カタ)シ是 本草(ホンザウ)

ニイフ雷斧(ライフ)カ今一ッハ■(マカ)ク長サ二寸形僧ノ袈(ケ)
裟(サ)ニカクル掛絡(クハラ)ノゴトク白色青ヲ帯(ヲブ)是 雷書(ライシヨ)
ニイフ雷環(ライクワン)ナルベシ今一ッハ長四五寸 牛角(ウシノツノ)ノゴトク
本(モト)太(フト)末 鋒(トガリ)紫黒ニ赤ヲ帯(ヲ)フ甚(ハナハダ)堅(カタ)シ是 雷鑽(ライサン)
ナルベシ又大坂 安治川(アヂカハ)ヘ雷ヲチシ時 泥中(デイチウ)ニ乾(カハキ)
タル漆(ウルシ)ノカタマリノゴトキ物ヲ拾(ヒロ)ヘリ石ニアラズ
土(ツチ)ニアラズ尤 堅(カタ)シ按ズルニ是 雷墨(ライボク)ナランカ又
近江国 志賀郡(シガコホリ)大津(ヲホツ)ニ雷落シ時此物ヲ得
タリ甚(ハナハダ)香(カ)アリ後ニハ香モ去リヌ又因幡国

鳥取(トツトリ)へ雷ヲチシ時 鏃石(ヤジリイシ)ヲ数十拾ヘリ近江
国越智川ヘ雷落シ時 俗(ゾク)ニ云 天狗(テング)ノ爪(ツメ)ヲ拾
ヘリ其外雷ノ沙汰(サタ)ナクテモ此 類(ルイ)ヲ得(ウ)ル取アリ
色形大小一ナラス種々(シユ〳〵)様々(サマ〳〵)ナルモノアリ能州(ノウシウ)
所(トコロ)ノ口畑(クチハタ)ノ中ヨリ天狗(テング)ノ爪(ツメ)ヲ多ク掘出ス猶
砂中(シヤチウ)或ハ石中或ハ古(フル)キ屋根(ヤネ)等ニアリ美濃国(ミノヽクニ)
赤坂(アカサカ)金生山(キンシヤウザン)ニ雷斧(ライフ)及ヒ鏃石(ヤジリイシ)多シ遠州(ヱンシウ)ノ秋(アキ)
葉山(バサン)ニ雷鐶(ライクワン)アリ近江国 【挿入「石(イシ)」】部(ベ)ノ宿ノ山ニ雷斧
ヲ拾(ヒロ)ヒシ事有肥後国 熊本(クマモト)近山(キンザン)芦北(アシキタ)ニ雷斧

鏃石トモニアリ奥州(ヲウシウ)南部(ナンブ)出羽(テハ)ノ羽黒山(ハグロサン)越後(エチゴ)馬(バ)
正面村(セウメンムラ)東 美濃(ミノ)客見野(カクミノ)飛騨(ヒダ)国 高原(タカハラ)等ニ雷
斧多シ其外国ク稀(マレ)ニアリト見ユ細小(サイシヤウ)ナルハ三
五分 巨大(キヨダイ)ナルハ尺余(シヤクヨ)カケ肥(ハタ)アリミガキ肌アリ諸(シヨ)
方(ハウ)石ヲ愛(アイ)セル家毎(イヘコト)ニ雷斧(ライフ)雷 刀(タウ)雷 鎚(ヒ)雷 碪(チン)雷
環(クハン) 雷 珠(ジユ)雷 鑽(サン)雷 揳(ケツ)雷 墨(ボク)雷剣等アリ根元(コンゲン)一物(イチブツ)
ナリ各(ヲノ〳〵)形容(ケイヨウ)ニヨツテ名ヲ呼(ヨフ)ナルヘシ《割書:予》数(ス)百 種(ジユ)
ヲ蓄(タク)色(イフ)形大小 産所(サンシヨ)等(ヒト)シカラズ按スルニ雷ニ
寄(ヨ)ル事 非(ヒ)ナリ意上者(ヲモフニ)上古ノ兵具(ヘウグ)ナランカ口伝

アリ 諸国ニ出ス 雷斧 《割書:色形数品|大ㇵ尺小ㇵ尺寸》
 陰陽石(インヤクセキ) 三十四
駿州(スンシウ)大井河(ヲホ井ガハ)ノ上ニ藁品(ワラシナ)川トイフ川アリ当辺(タウベン)ニ
陰陽石ト云物ヲ産(サン)ス陰石ハ女陰(ニヨイン)。陽石ハ男根(ナンコン)ノ
状(カタチ)ナリ其石大小アリコレヲ拾(ヒロ)フニイヅレモ【挿入「色」】黒シ但(タヾシ)
陰石ハ内(ウチ)赤ク中(ナカ)ニ核(カイ)アリテ即(スナハチ)馬蹄石(バテイセキ)ノ一 種(シユ)ナリ
真(マコト)ニ女子(ニヨシ)ノ陰門(インモン)ニ似(ニ)タリ多クハ藤河(フヂガハ)大井河(ヲホイガハ)ニテ
稀(マレ)ニ拾(ヒロ)フ此所ヨリ流(ナガ)レ出ルナルヘシ明和(メウワ)年中(ネンヂウ)
遠州(ヱンシウ)金屋宿(カナヤノシヤク)平野屋 某(ナニカシ)訪(トフラハ)レテイフ此石藤河

大井河又ハ安部河(アベカハ)等ニ多シ此(コヽ)ニ不思議(フシギ)ナルハ
人ノ渡(ワタ)ル所ニハアレドモ外(ホカ)ニテハルカタ【「多」の誤りか】シト又 甲(カ)
斐国(ヒノクニ)駒个岳(コマガタケ)ニモアリ但(タヾシ)大ナ類モノ多ク小キ
モノ稀(マレ)ナリ其山中ノ大石スヘテ男根(ナンコン)ノ状(カタチ)ナリ又
讃岐国ヨリ出ルモ其北方ニ陰石ヲ拾(ヒロ)ヒ南方
ニハ陽石ヲ得(ウ)ルト是 天地(テンチ)自然(シゼン)ノ理ナルベシ又
江州 石部宿(イシヘノシユク)ノ北 菩提寺村(ボダイジムラ)ノ山中(サンチウ)浪岩(ナミイハ)トイフ
所ニ陰門(インモン)ノ形アル大石多シ又大和国ニ天道(テンタウ)
羅石山(ラセキサン)トイフアリ此山上ニ長サ一丈 余(ヨ)ノ男根(ナンコン)

石アリ其形 甚(スナハダ)【「ハナハダ」の誤りか】似(ニ)タリ又 麓(フモト)ニ方(ハウ)一間(イツケン)許(バカリ)ナル女
陰石アリテカタハラニ小キ池(イケ)アリ此 池水(チスイ)毎月(マイゲツ)上(カミ)
十五日ハ血色(チノイロ)ニ変(ヘン)ズト是 経候(ケイカウ)ノコヽロニヤ《割書:予》大
ナルモノ尺(シヤク)許(バカリ)小ナルモノ五《見せ消ち:寸|分(ブ)》許(バカリ)ナルヲ五十 対(ツイ)
ヲ蓄(タクハ)フ 陽石(ヤウセキ)《割書:色黒ク白キ|筋アリ》 陰石(インセキ)《割書:全体|黒色》
  夷大黒石(エビスダイコクイシ)三十八
十月二十日ハ夷講(エヒスコウ)トモ又ハ誓文払(セイモンハラヒ)トモイフテ例(レイ)
年(ネン)商家(シヤウカ)ニハ祝(イハ)フ事ナリ去ル元文(ゲンブン)八年ニ江州
大津 炭屋(スミヤ)某(ナニガシ)此日 鯛(タイ)ヲ買(カヒ)テ料理(レリリ)ス其 腹中(フクチウ)

ニ一物ヲ得タリ水ニ洗(アラヒ)テ見レバ桃(モヽ)ノ大サ許(ハカリ)ナル二ツ
双(ナラ)ビ色黒ク堅(カタ)キ石ニシテ夷大黒 連座(レンザ)ノ自然石(ジセンセキ)
彫刻(テウコク)セルガコドクシテ似像(ジザウ)ノモノ至テ美石(ビセキ)ナリト
甚タ珍重(チンテウ)シテ今ニ伝(ツタ)フシカレトモ此人 他郷(タキヤウ)ニ移(ウツリ)
テ今ハ大津ニ住(ヂウ)セズ又《割書:予》両神(リヨウシン)並(ナラビ)座(ザ)ス自然石(ジネンセキ)ヲ
蔵(ザウ)ス大サ手ヲ発(ヒラキ)シゴトク色黄赤ナリ片面(カタメン)ヨリ
見レバ二神見エ片々(カタ〳〵)ハ割肌(ソレハダ)ナリ江州 多賀明神(タガメウジン)
ノ山奥(ヤマヲク)戸羽谷(トバダニ)ノ産(サン)ナリ此所ニ多ク産ス里人(リジン)人(ニン)
形石(キヤウセキ)トイフ伝来(デンライ)江州 八幡山(ハチマンヤマ)土田(ツチダ)正宗寺(シヤウジウシ)方丈(ハウヂヤウ)

ヨリ恵(メグ)【見せ消ちあり。元の字「カ」】マル
  大黒石(ダイコクイシ)三十九
河内国 大黒村(ヲホグロムラ)大黒谷(ダイコクダニ)トイフアリ当山(タウザン)ニ名高(ナタカ)キ
大黒天(ダイコクデン)マシマスヨツテ村名(ムラナ)トス里人(リジン)云 毎日(マイニチ)
自然(ジネン)ノ大黒石一 体(タイ)流レ出ルヲ信心(シンジン)ナルモノハ拾(ヒロ)
ヒ不 信(シン)ノモノハ拾ヒ得ズト《割書:予》ガ珍蔵(チンザウ)スル沰 即(スナハチ)
《見せ消ち:山|此(コノ)》所(トコロ)ノ産(サン)ナリ大サ拳(コブシ)ノゴトク黒ク堅(カタ)シ面目(メンモク)
具(ソナハ)ルニハアラズ似像(シザウ)ノモノナリ又江戸 道中(ダウチウ)佐夜(サヤノ)
中山(ナカヤマ)菊川(キクガハ)ニ橘屋(タチハナヤ)隠居(インキヨ)山形屋(ヤマガタヤ)トイフ旅蔵屋(ハタゴヤ)

アリ其家ニアル所大サ枕(マクラ)ノゴトク槌俵(ツチタハラ)ノカタチ
マデ鮮(アサヤカ)ナリト屋後(ヲクゴ)ニ小社(ホコラ)アリコヽニ祭(マツ)ル近山(キンサン)ニ拾(ヒロ)
ヒ得タリト又江州大津 小関(コセキ)真光寺(シンクワウジ)ニモ有高
サ七八寸 神棚(カミダナ)ニ納(ヲサ)ヒ産所(サンシヨ)詳(ツマヒラカ)ナラズ東海道(トウカイタウ)坂(サカ)
ノ下ノ駅(ヱキ)【「キ」に見せ消ちあり。元の字「タ」】ヨリ東筆捨山(ヒガシフデステヤマ)ノ近山ニアリ大石ナリ
海道(カイダウ)ヨリモ《見せ消ち:堅|望(ノゾ)》ム又勢州 朝熊(アサグマ)ヨリ内宮(ナイクウ)ヘ出ル
山端(ヤマハタ)ニ大黒石アリ前ニ鳥居(トリイ)ヲ立(タツ)
  夷石(エヒスイシ)四十
江州(ゴウシウ)栗太郡(クリタコホリ)矢橋村(ヤバセムラ)ノ農家(ノウカ)某(ナニカシ)夷石(エヒスイシ)アリ《割書:予》ガ

家ニ来(キタル)大工(ダイク)即(スナハチ)其(ソノ)村(ムラ)ノモノナリ或日(アルヒ)此石ヲ預(アヅカ)リ
来リテ《割書:予》ニ見セシム似像(シザウ)ノモノニシテ面目(メンモク)鮮(アサヤカ)
ナルニハアラ《見せ消ち:ヌ|ネ》ド鯛(タヒ)ヲワキバサミ烏帽子(エバウシ)ヲイ
タヽクカゴトキ勢(イキホ)ヒイカサマ夷(エビス)トモイフベキモノ
ナリ近辺(キンヘン)ノ石川ニ拾(ヒロ)ヒシト又 坂(サル)ノ下(シタ)東ノ山 及(ヲヨビ)
勢州 朝熊(アサクマ)山 等(トウ)大黒石ニ並(ナラ)ビ立(タテ)リイツレモ大
石ナリ前条(センテウ)ト互(タガヒ)ニ見ルベシ
   後編 四
  鏃石 一

続日本後紀(シヨクニホンコウキ)ニ承和(セウワ)六年 出羽国(テハノクニ)ヨリ言(マウ)ス去(サンヌル)八月
二十九日 田川郡(タカバノコホリ)ノ西浜(ニシハマ)ヨリ府(フ)ニ達(タツ)スルノ程(ホド)五十
余里(ヨリ)モトヨリ石ナシシカル又月ノ三日ヨリ霖雨(リンウ)ヤ
マズ雷電(ライテン)甚シク十余日ヲ経(ヘ)テ晴天(セイテン)ヲ見ル時ニ海(カイ)
浜(ヘン)ヨリ自然(シゼン)ニ隕石(ヲツルイシ)アリ其(ソノ)数(カズ)少カラズ或(アルヒ)ハ鏃(ヤジリ)ニ似(ニ)鋒
ニ似 或(アルヒ)ハ白ク或ハ黒(クロ)又 青(アヲ)ク赤(アカ)シト又 三代実録(サンダイジツロク)仁(ニン)
和(ワ)元年(グワンネン)六月二十一日出羽国 秋田城中(アキタシヤウチウ)及(ヲヨヒ)飽海郡(アクミコホリ)神(カミ)
宮(クウ)ノ西浜(ニシハマ)ニ石(イシ)ノ鏃(ヤジリ)ヲフラスト又云 同年(ドウネン)二月出羽国
飽海郡(アクミコホリ)諸山(シヨサン)ノ神社ノ辺(ホト)リ石鏃(セキゾク)ヲフラスト

泉州(センシウ)ニ旭峰(キヨクホウ)トイフ僧(ソウ)アリ生国(シヤウコク)出羽(テハ)ナリ此人 語(カタツ)テ
云出羽国又 神軍(カミイクサ)トイフ事アリ毎年(マイネン)矢(ヤ)ノ根石(ネイシ)ヲ
フラス鳥海山(テウカイザン)ノ辺リ神(カミ)ノ森(モリ)ノ麓(フモト)ナル矢島(ヤジマ)ト
イフ浜(ハマ)ナリ其 神軍(カミイクサ)ノハジメハ海上 西北(ニシキタ)松前(マツマヘ)ノ方
ニアタリ綿(ワタ)ヲ摘(ツミ)タルガゴトキ白雲長サ三四丈 幅(ハヾ)
二十間 程(ホド)海中(カイチウ)ヨリ涌出(ワキイヅ)ル其雲五七日モ動(ウコ)カズ
毎年ノ例(レイ)ニシテ是ヲ見ルト其マヽ浜(ハマ)カタ役人(ヤクニン)
ヨリ御領主(ゴレウシユ)津軽(ツガル)ノ御役所(ゴヤクシヨ)ヘ申上ル御 加勢(カセイ)
トシテ御 物頭(モノカシラ)十人 足軽(アシガル)五百人 十手(トテ)又 分(ワ)ケ

常(ツネ)ノ弓(ユミ)ニ青竹(アヲダケ)ノ矢(ヤ)ヲヒツソギニシテ白紙(シラカミ)ノ筈(ハヅ)ヲ
付タルヲ数千(スセン)コシラヘ彼(カノ)浜(ハマ)ニ至(イタ)リテ十組(トクミ)ニソ
ナヘ当(アテ)モナク海中ヘハナツ事ナリ時ニ大地(ダイチ)震(シン)《見せ消ち:物|動(ドウ)》
シテ雷電(ライテン)甚シク《見せ消ち:両|雨(アメ)》車軸(シヤヂク)ヲ流(ナガ)シ逆風(キヤクフウ)土砂(ドシヤ)ヲ
吹上(フキアゲ)目口モ開(アキ)ガタシ社内何トナク鳴(ナ)リ昼
夜ノワカチ更(サラ)ニナシ津軽御 城下(ジヤウカ)ヘハ七里 余(ヨ)
ナレドモ其 響(ヒヽキ)ヲツタヘ昼【挿入「ニ」】シテ夜ノ如シ此 間(アヒダ)ハ
御家中御 用筋(ヨウスヂ)御免(ゴカン)ニテ御 番(バン)バカリナリ
万事御ツヽシミニテ昼夜二三日又ハ五七日ニシテ

納(ヲサマ)ル事モアリ天気(テンキ)快晴(クワイセイ)ニヲヨビテ御 加勢(カセイ)引(ヒキ)
退(シリゾ)キ国中(コクチウ)他領(タレウ)御城下 津軽候(ツガルコウ)御家中其外
上 山辺(ヤマヘ)ノ町人百姓マデカノ浜ニ出テ矢ノ根ヲ拾(ヒロ)
ヒ求(モトム)ル事ナリ砂中(シヤチウ)海中(カイチウニハ甚多シ此矢ノ根石

BnF.

ときはこせんは源のよしともになれてうしわかを
まうけたまふ也其後心なら
す平のきよもりに
まみえ給ふ也
 おもひ
  きや
   世の
 ありさまの
   こひころも
  かさねて人に
     なれん物とは

BnF.

【表紙】

【見返し】
【ラベル】
Le No.1827 fleurs et insectes par
Utamaro (arrive 1819 PGS?)【括弧内?】
【最初の単語不明】classe aux beaux-arts

【ラベル】
JAPONAIS
367

【ラベル裏】

【文字無し】

【文字無し

【文字無し】

【右上】1827【抹消】
367

【ラベル】
I
Ye-hon mousi-no erabi
Choix d'insectes, un livre
d'estampes avec des vers
2 Vol. Compl.
No 531 du cat. lib.Japonico?【以下不明】
【本タイトル】
画本虫撰 上

【右上】
Japonais
367
(1)

けふなんはつき十四日の夜野辺に
すたく虫の声きかんと例のたはれたる
友とちかたみにひきゐて両国の北
よしはらの東鯉ひさく店さきのほとり
隅田のつゝみに氈うち敷てをの〳〵
虫のねたんつけのたかきひくきを
さためんとす故ありて酒と妓とを
いましめたれはわきめよりはしはむしの
ゑんとやいふへきなにかしの高の
ねふちの声むしの音にましりてほの

【右丁】
きこゆるなとかのくえんしの建立
ありし姫宮の持仏堂も思ひ出られ
てあはれなりされは朝市のふる
ものあつかひよと人いふめれとたゝに
やはとて長嘯子のえらひ給へる諸虫
歌あはせの跡を追て恋のこゝろの
され歌をのはへ【述ばへ】侍るにとかくして夜も
ふけ侍し江山風月常のあるしなけ
れは地しろをせむる大屋もあらねと
草のむしろのまらうと為は【なるは】なく虫
【左丁】
こそあるしなれとてつゆけき方
にうちむかひてねもころにぬかつきて
立ぬこれなん三百六十のひとつ
なかまのいやなりけらし
       宿屋飯盛
          しるす

【右丁絵画のみ】
【左丁】
     蜂        尻焼猿人
こは〳〵にとる蜂のすのあなにえやうましをとめをみつのあちはひ
     毛虫       四方赤良
毛をふいてきすやもとめんさしつけてきみかあたりにはひかゝりなは

【右丁】
   馬追虫       唐衣橘洲
夜〳〵は馬おひむしのねにそなく君に心のはつなのはして
   むかて       鹿都部真顔
ねかはくは君かつはきにとけ〳〵ととけてねふとの薬ともかな
【左丁絵画のみ

【右丁絵画のみ】
【左丁】
   けら
     耶奈妓波良牟加布
あたしみはけらてふ虫や
         いもとせの
ゑんのしたやに
      ふかいりを
         して
   はさみむし
     桂眉住
みし人を思ひきるにも
きれかぬる
  はさみむしてふ
    名こそ
      鈍けれ

【右丁絵画のみ】
【左丁】
   蝶      稀年成
夢の間蝶とも化して吸てみむ恋しき人の花のくちひる
   蜻蛉     一富士二鷹
人こゝろあきつむしともならはなれはなちはやらしとりもちの竿

【右丁】
   虻      紀定丸
耳のきはの虻とや人のいとふらんさしてうらみむはりももたねは
   芋虫     條門橘丸
芋虫に似たりや〳〵ころ〳〵とわかれちさむき
舟の小蒲団
【左丁絵画のみ】

【右丁】
   松虫     土師掻安
蚊屋つりて人松虫はなくはかりなにおもしろきねところじやない
   蛍      酒楽斎瀧麿
佐保河の水も汲ます身は蛍中よしのはのくされゑんとて
【左丁絵画のみ】

【右丁絵画のみ】
【左丁】
   はつた     意気躬黒成
おさへたるはつたと思ふ待夜半もたゝつま戸のみきち〳〵となく
   蟷螂      浅草市人
くつかへる心としらてかま首をあけて蟷螂のおのはかりまつ

【右丁絵画のみ】
【左丁】
   ひくらし     百喜斎森角
一目よしちよつとこのまに抱ついてせはしなきねはひくらしかそも
   くも       つふり光
ふんとしをしりよりさけてねやの巣へよはひかゝれるくものふるまひ

【文字無し】

【裏表紙見返しカ】

【裏表紙】

画本虫撰   下

【右上手書き文字】
JAPONAIS
367
(2)

【右丁絵画のみ
【左丁】
   赤蜻蛉     朱楽菅江
しのふより声こそたてね赤蜻蛉をのかおもひに
               痩ひこけても
   いなこ     軒端杉丸
露はかり草のたもとをひきみれはいなこのいなと飛のくそ
                   うき

【右丁】
   虵
          千枝鼻元
かきおくる文もとくろを
        まき帋に
つもる思ひのたけは
        なかむし
   とかけ    問屋酒船
きらはるゝうらみや色も
         青とかけ
葛葉ならねと
    這まとふらん
【左丁絵画のみ】

【右丁絵画のみ】
【左丁】
   蓑虫     立花裏也
暗の夜に西はとちやらわかねとも
しのふあまりのかくれみのむし
   兜虫     唐来三和
恋しなは兜虫ともなりぬへし
しのひの緒さへきれはてし身は

【右丁】
   蝸牛     高利刈主
はれやらぬその空言にかたつふりぬるゝほと猶つのや出しけん
   轡虫     貸本古希
かしましき女に似たるくつわ虫なれもちりりん
              りんきにやなく
【左丁絵画のみ】

【右丁絵画のみ】
【左丁】
   きり〳〵す     倉部行澄
さのみには鳴音なたてそきり〳〵すふか入壁も耳のある世に
   蝉         三輪杉門
うき人のこゝろは蝉に似たりけり聲はかりして
すかたみせねは

【右丁絵画のみ】
【左丁】
   蚓      一筋道成
よる昼もわからてまよふ恋のやみきみをみゝすの
              ねをのみそなく
   こうろき   此道くらき
こうろきのすねとや人の思ふらんうらむ間もなく
              おれてみすれは

【右丁】
   蛙     宿屋飯盛
人つてにくとけと首を
ふるいけの
  かはるのつらへ
     水くきそうき
   こかねむし
     小簾菅伎
あはれともみよ
     まくらかの
       こかねむし
こかるゝたまの
     はひよるの
         床
【左丁絵画のみ】

鳥之部
     喜多川歌麿筆
獣之部
     宿屋飯盛撰
魚の部
【縦仕切線。全体囲みあり】
今様櫛■【竹+捦】雛形全三冊 前北斎為一筆
百橋一覧       一枚右同筆
【縦仕切線】
原刻 天明戊申正月   蔦屋重三郎
          江戸馬喰町二丁目
補正 文政癸未八月   西村屋与八

【文字なし】

【右上手書き】
N=11【以下単語読めず】

【文字無し】

【文字無し】

【文字無し】

【文字無し】

【裏表紙見返し】

【裏表紙】

【背表紙】
【部分的に見える文字上から】
N
YE-HON-
MOUS
INO EREBI
N
N

【天あるいは地】

【小口】

【天あるいは地】

BnF.

和泉式部はいつみの守みちさたかつま也
一条院の時代の人なり

  くらきより
   くらき
    みちにそ
 いりぬへ
     き
はるかに
 てらせ山の
     はの
      月

BnF.

【製本表紙、文字なし】

【表紙見返し、文字なし】

【文字なし】

【白紙】

【右上隅ページ番号ヵ】393
N° 3431【下線あり】

【白紙】

【右上隅ページ番号】1
Notices divrerses
   sur
L’extrême Orient.
   ━

  Volume de 173 feuillets
   14 Septembre 1871.

【白紙】

【右上隅ページ番号】2
Notices diverses
   sur
L’extrême Orient.
   ━

Chine,Japon,Annam,Siam, F.

   ━

   Paris.
   1848.

【裏返し】

【右上隅ページ番号】3

【文字なし】

【右上隅ページ番号】4

【文字なし】

【右上隅ページ番号】5

【文字なし】

【ページ】6
【アクサンと単語のアンダーライン省略】
Abaque, en chinois Swan-pwan,machina a compter.Voy.Swan-pwan
【aで始まる単語】
A【弧状のアンダーライン】

Ab-dar ,domestique hindou charge de

rafraichir l'eau.M.

Abel (le Docteur)

Achem. 【スペース】 ,capitale du
royaume de ce nom ,a la pointe N.O.
de l'ile de Sumatra.

Ainos. 【スペース】 peuple aborigene
des iles Kourile et Thoka, et soumi
au Japon. Ils parlent une langue
particuliere. Bouillet

Aksou 阿克蘇【スペース】 district de la
province au sud du Tien-chan. Biot

【右へ移動】
Aberdeen, precedanment nominee
Tchoktcheon,
petite ville de l'ile de Hong-Kong; 【上に挿入】sur la cote Sud;pecherie, et
Station militaire anglaise. fortune,p.15

Agar-agar, sorte d'algue (Fucus Sauharinus)
dont les Chinois font une sort de gelatine
pour la table, et une colle queles insectes ne peuvent attaquer.

Alfourous.

Amberst (W. Pitt, comte) fut
charge en 1816 d'une mission en Chine qui est peu de succes. Bouillet

Amiot (le Pere)

【ページ】7

【文字無し】

【ページ】8
Amour.

Amoy. Voyez Hia-men.

Andrada (le Pere Antoine), missionnaire
jesuite, ne vers l'an 1580, mort en 1634,
parcourut l'Asie et penetra un des premiers
dans le Thibet (l624). Son voyage au
Thibet parut a Lisboune en 1626, et fut
traduit en francais des 1628. Bouillet.


Anglais. 英吉利(ying-ki-li)

Angleterre 英吉利国 (ying-ki-li-
Kwok)

Anier (lat.S.6°3'.long. E.103°34'du mer de Paris).
port de Java ou relachent les batiments qui
passent par le detroit de la Sonde.

Annam (empire d') 安南 (ngan-nan),
comprenant le Tong-King, la Cochinchine,
le royaume de Tsiampa, au S.E. de la
Chine.
La capitale est Kiao-Tcheou. Biot.
【右へ移動】
Anna, monnaie d'argent du Bengale - le 16e-
d'une roupie (environ 3 cents).

【ページ番号】9

【文字無し】

【ページ番号】10
Arabes.

Arabie.

Ava. une des provinces de l'empire birman.
【右へ移動】
Argoun 【スペース】 riviere, branche principale
du fleuve Amour,

【Bで始まる語】
B【弧状のアンダーライン】
Badakchan 巴達克山(
), district au milieu des monts Tsong-ling.

Barkoul 巴爾庫勒(
), appele aussi Tchin-si-fou
鎮西府, district de Tarsarie, entre
les premieres branches du Tien-chan.

Barrow

【ページ番号】11
【右側】
Basilan.

【文字無し】

【ページ番号】12
Batavia (lat.S.6°8' long.E.104°2'. mer. de Paris)
Cap. de l'ile de Java

【文字無し】

【ページ番号】13
Bengale.

Bergeron.

Bleu(fleuve). Voyez Yang-tsze-kiang

Bonze. nom que les Europeens donnent aux
pretres de la Chine.
【右へ移動】
Bin-sin. 【スペース】Min-tching, ruines d'une
ancienne ville detruite par le chef de pirates
Ko-chin-gha.

Bocca-Tigris. Voy.Bogue.

Bogue, en chinois
du Tigre.
Le Bogue est remarquable par ses forts qui,
neanmoins, n'ont offert a deux reprises, malgre
leurs 800 bouches a feu, aucune resistance aux Europeens.

Bolor.

Bombay.
Troisieme presidence des etablissements britanniques
dans l'Inde.

Borneo 浡泥(Po-ni)

Bouddha.

Bouddhisme.

Bouvet (le Pere 【スペース】 )
【右へ移動】
Bouguis (Ouguis).Peuple de l’Oceanie, repandu
principalement dans la Malaisie, et surtout a
Java et a Celebes, navigateur,industriaux et
commercant. Beraud.

【ページ番号】14

【文字無し】

【ページ番号】19
Boym (le Pere Michael).
Son nom chinois etait Pou-mi-ke et
son surnom Tchi-youen

【Cで始まる単語】
C.【弧状のアンダーライン】
Cambodge.

Canal (grand)

Canton. Voyez Kwang-tcheon.
【右へ移動】
Cache. Voyez Cash.

Calcutta.
Premiere presidence des etablissements brritannique,
dans l'Inde.

【ページ番号】16
Cantor, botaniste et medecin anglais.

【文字無し】

【ページ番号】17
Cartes de visit.

Catholiques (missions). Voyez Missions

Ceylan 錫蘭 (Si-lan)

Cha-mo 砂漠 (mer de sable), grand
desert au N.O. de la Chine,appele
aussi Gobi 戈壁 ( ). Biot.
【右へ移動】
Cash, en chinois【スペース】 ;petite piece de
monnaie.

Catay. Voyez Cathay.

Cathay ou Catay. nom donne a la
Chine, au moyen age.

Cathcart (lord L.), mort a Anier (Java),
en 1788, en se rendant en Chine, comme
ambassadeur de la grande Bretagne.

Chang-hai.上海。nom d'un
arrondissement et d'une ville du 3e-【eは序数の語尾】 ordre,
dept. de Song-Kiang-fou.
Premier etablissement sous les Youen.
La ville est pres de la mer et est tres-
commercante. Biot.

Chan-hai-King 山海経。

Chan-si 山西 une des provinces
septentrion. de la Chine prop. dite.

Chang-tong 山東 une des provinces
oientales de la Chine prop. dite.

【ページ番号】18

【文字無し】

【ページ番号】19
Chen-si 陜西 une des provinces
occidentales de la Chine prop.dite.

Chi-King 詩経.

Chi-nai-ngan 【スペース】 auteur du
Choui-hou-tchouen

Chine.
【右へ移動】
Chimo ou Ximo. Voy. Kiou-siou.

Ching-che-long
celebre chef de pirate (17e-【注】 siecle).
haussmann 11, 10.

Ching-King 盛京 en mandchou
MouKden【スペース】, nom de la
capital et du principal departement
du Liao-tong 遼東.

Ching-yiu-kouang-hiun-tchou
聖諭広訓註。
dialecte de Peking
【注:eの下のハイフンは序数を示す】

【ページ番号】20

【文字無し】

【ページ番号】20
Chop-sticks.

Choue-wen, 説文。

Choui-hou-tchouen【スペース】 ,ou
l'histoire des emigrations, par Chi-nai-ngan.
roman chinois, le 5e-【序数】des t'sai tsze.

Chou-King 書経。

Christianisme.

Chun 舜。Empereur chin.

Chusan. Voyez Tcheou-chan.
【右へ移動】
Chuckchew. Voy. Tchoktcheou et
Aberdeen.

【ページ番号】22

Clippers. navires anglais fraudeurs d'opium.

【ページ番号】23
Cochinchine, 安南 (ngan-an), 交趾
(Kiao-tchi).

Colao.

Compradore.

Confucins. Voyez K'ong-fou-tsze.

Coree 朝鮮 (tchao-sien) ;高麗 (Kao-
li).
Soumise aux chinois en 668, sous l'empereur
Kao-tsong.


Coulis. Porteurs de fardeaux, de bagages.

Cycle.
【右へ移動】
Cupsi-moon (baie de).

【ページ番号】24

【文字無し】

【ページ番号】25

【文字無し】

【ページ番号】26
【Dで始まる単語】
D.【アンダーライン】
Davis.

Diagrammes de Toh-hi.
【右へ移動】
Desima. Ile du Japon, dans la baie et en
face de Nangasaki, a laquelle elle communique
par un pont. Etablissement hollandais avec
un resident.

【文字無し】

【ページ番号】27

【文字無し】

【ページ番号】28
【Eで始まる単語】
E.【弧状アンダーライン】
Eleuths 額魯特( ), peuple
de la Tartarie【注】 occidentale. Leur pays etait
au S.du T'ien chan, et comprenait
Aksou, Kachgar, Yarkand. Biot.

Ellis
【注:Tartarie chinoiseは現在の中国東北、モンゴル、チベットを指す用語。Tartarie occidentaleもそれに近い意味と思われる=https://www.library.osaka-u.ac.jp/others/tenji/maps/map010.htm】

Emouy. Voyez Hia-men.

Espagne.

Europe.

【ページ番号】29

【文字無し】

【ページ番号】30
【Fで始まる単語】
F.【弧状アンダーライン】
Fan-kouei

Fartoux (le Pere

Foh 仏, nom chinois de Bouddha.
【右へ移動】
Fa-ti 【スペース】jardins renommes, pres de
Canton.

Fok-hi 伏義。

Fo-kien 福建 une des provinces
de la chine prop. dite.

Fong-tao 馮道, patron des imprimeurs
chinois, ministre d'etat sous les
cinq dynasties (10e-【序数】 siecle). Mort.Dict.angl.
ch.au mot Printer.

【ページ番号】31

【文字無し】

【ページ番号】32
Fontanay (le Pere

Formose. Voyez T'ai-wan.

Fo-t'ou t'ching
celebre Gamaneen.
【右へ移動】
Fortune, voyageur de la Societe des Apothicaires de Londres

Fouquet (le Pere

Fou-tcheou-fou【スペース】capitale
de la province de Foh-Kien.

【ページ番号】33

【文字無し】

【ページ番号】34
【Gで始まる単語】
G.【弧状アンダーライン】
Gange (le).

Gaubil (le Pere Antoine)

Gerbillon (le Pere
【右へ移動】
Gengis-Khan.

Gobi (desert de ). Voy. Cha-mo.

Gutzlaff (le D.

【ページ番号】35

【文字無し】

【ページ番号】36
【Hで始まる単語】
H.【弧状アンダーライン】
Hai-nan.

Han 漢 nom de la 【スペース】dynastie imperiale.

Han-fei【スペース】,philosophe tao-sse.
il florissait sous Ngan-wang, empereur
des Tcheou, qui l'envoya en ambassade
dans le royaume de T'sin, en 397 av. J.C.
Son ouvrage, qui a 4 vol.,traite principalement
des peines et des lois.

Han-lin (college des).

Hannistes. Voyez Hong.

Hao-kieou-tchouen 好述伝。la
femme accomplie. roman chinois, le 3e- des
t'sai-tsze.

【ページ番号】37

【文字無し】

【ページ番号】38
He-long-kiang 【スペース】nom
Chinois de la reviere Amour. Voyez
Amour.

Hia【スペース】,nom de la premiere dynastie
imperiale, fondee par

Hia-men
【右へ移動】
Hiang-kiang 香港。Voy.Hong Kong.

Hiu-chin 許慎。auteur du Choue-wen
説文。

H’lassa, ville du Thibet.

Hoa-tsien-ki【スペース】。histoire du
papier a fleurs d'or. le 8e- des t'sai-tsze.
【右へ移動】
Hoai-nan-tsze【スペース】philosophe
chinois qui incline vers la doctrine des Tao-sse.
C'est le plus ancien des ecrivains de l' ecole
appelee T'sa-kia, c'est-a-dire de l'ecole
des polygraphes. Il etait petit-fils de
l'empereur Kao-ts, fondateur de la
dynastie des Han. Il florissait sous
l'empereur Hiao-wen-ti qui regna
entre l'an 179 et 156 av.J.C. Il avait
ete nomme roi de Hai-nan (dans la
province actuelle de Ngan-hoei).
Les ouvrages forment 6 vol.

【ページ番号】39

【文字無し】

【ページ番号】40

【文字無し】

【ページ番号】41
Hoang-hai【スペース】(Mer【fleuve抹消】 jaune).

Hoang-ho 黄河 (fleuve jaune)

Howang-pou 黄埔。ーVoyez Whampoa.
hwang-pou. Riviere.

【下部抹消】

Hoei 回 un des disciples de
confucius.

Ho-ho-noor (lac). Voyez T'sing-hai.

Ho-kouan-tsze 【スペース】philos.
tao-sse. Il etait originaire du pays de
T'son. Il etait, dit-on, contemporain
des philosophes Yang-tchou et Me-ti
que Meng-tsze combat dans plusieurs
endroits de son livre, et dans la doctrine
etait regardee par l'ecole de Confucius
comme heterodoxe et dangereuse. Son
ouvrage forme 1 vol. Les editeurs y
signalent de graves lacunes et de
nombreuses incorrections qui tiennent
a l'etat de mutilation dans lequel il
est parvenu jusqu'a nous.
【右へ移動】
Hoei-nou
Ce sont les memes peuples de race turque qui,
au XIIIe-siecle【13世紀】, sont connus sous le nom de
Ouigours.


【ページ番号】42

【文字無し】

【ページ番号】43
Ho-lan. Voyez Hollandais
Ho-lin 火林。presume Karakhorin, district
de Tartarie. Voyez Karakhorin.

Hollandais 荷藍 (ho-lan)

Ho-nan 【スペース】, une des provinces
de la Chine prop. dite.

Hong (marchands)

【抹消部分】
Hong-Kiang 紅江 (literal. riviere rouge),
Ile de la baie de Canton. On prononce
Hong-Kong dans le dialecte de la
province. Voy. Hong-Kong.

Hong-Kong. Voyez Hong-kiang. 【抹消】
Capit.【抹消】 Victoria
Ch.lieuf
Hong-Kong (baie de). une des plus belles et
des mieux abritees.
8 ou 10 milles de long, sur une largeur
variant de 2 a 6. fortune, p.13.

Hong-lieou-mong 紅楼夢。
roman chinois, dans le dialecte de Peking.
【右へ移動】
Hong-Kong (Little). Voy. Stanley.

【ページ番号】44

【文字無し】

【ページ番号】45
Hoppo.

Hou-Kouang 湖広 une des anciennes
provinces de la Chine propr. dite,
actuellement partagees en deux: le
Hou-pe et le Hou-nan.

Ho-nan.【スペース】une des provinces
de la Chine propr. dite.

Hou-pe.【スペース】une des provinces
de la Chine propr. dite.
【右へ移動】
Hou-men【スペース】,embouchure du Tigre.
Voy. Boua-Tigris, Bogue, Tigre,

Hue.
Capit. de la Cochinchine.

Hwang-ti 黄帝。Empereur Chinois,

I.-J.【括り弧状アンダーライン】
I-li 伊犁 siege du gouvernement
Chinois dans l'Asie centrale.

Incendie des livres (213 av.J.C.)

Inde. 【前括弧抹消】印度 (in-tou).

In-Kiao-li【スペース】roman chinois,
le 2e- des t'sai tsze.

【ページ番号】46

【文字無し】

Japon 日本 (jih-pen)

Jo

Jaune (fleuve). Voyez Hoang-ho.
Java (ile de). 瓜哇 (Koua-wa).

Jeh-ho. Voyez Thehol.
【右へ移動】
Jou 【スペース】, nom des Sectateurs de Confucius.

【Kで始まる単語
K.【弧状アンダーライン】
Kachgar.

Kang-hi 康熙。

Kan-sou 甘粛 une des provinces
de la Chine propr. dite.

Kao-li Voyez Coree.

【ページ番号】48

【文字無し】

【ページ番号】49
Kao-tong-Kia
auteru du Pi-pa-Ki.

KaraKhorin ou KaraKhorum., ville de
l'empire chinois, dans le pays des Mongols
KhalKas, pres de l'OrKhone, par 100°long.E. et
48 lat. N.; jadis capitale de GengisKhan. Elle
est aujourd'hui ruinee.

KhalKas 【スペース】. Peuple de l'empire chinois nomade
et pasteurs. Il habite la partie septentrionale de la
Mongolie, arrosee par la Selenga, l'OrKhone et
l'Argoun. Leur pays est limite par le grand desert
de Gobi. Ce peuple est peu connu. C'est de cette
nation que sortit le fameux Gengis-khan.

Khou-khou-noor. Voyez T'sing-hai.
【右へ移動】
Kecho.

Khan.

Kiang-nan 江南 une des provinces
de la Chine propr. dite.

Kiang-si【スペース】une des provinces
de la Chine propr. dite.

Kiao-tchi 交趾。Voyez Cochinchine.
【右へ移動】
Kiakhta (lat.N. 50°20'. long. E.103°).
ville russe, sur les frontieres de la Tartarie
chinoise, ou se fait le principal commerce
chino-russe. La ville chinoise est appelee
Mai-mai-tchin.

【ページ番号】50

【文字無し】

【ページ番号】51
Kien-long 乾隆。

Kin-cha-Kiang 金沙江。 affluent du
Yang-tsze-Kiang.

Kin-ping-mei 金瓶梅。
Dialecte de Peking.
【右へ移動】
King-tek-tchin 景徳鎮 bourg immense de la
province de Kiang-si, celebre par ses fabriques
de porcelaine qui y alimentent, dit-on, 500
fourneaux.
Pop.500,000 hab.? Lat.29°6'. Long.115°54’。Biot.

Kiou-siou, ou Chimo ou Ximo, une des 4 grandes iles
qui composent l'empire du Japon.

Kiu-jin.

【ページ番号】52
Ki-ying.
Commissaire imperial, charge des relations
avec les etrangers.

【文字無し】

【ページ番号】53
Ko (le Pere

Kobi ou Gobi 【スペース】,autrement dit
cha-mo【スペース】,

Kotchinga. Voyez Tching-tching-kong.

Kouang-si【スペース】une des provinces
de la Chine prop. dite.

Kouang-tcheou【スペース】capitale
de la province de Kouang-tong.

【ページ番号】54

【文字無し】

【ページ番号】55
Kouang-tong 広東une des provinces
meridionales de la Chine prop. dite.

Kouan-tsze 【スペース】le plus celebre
philosophe de l'ecole appelee Fa-Kia,
c'est a dire de la classe des ecivains qui
traitent des lois penales. Il florissait dans
le royaume de T'si, vers l'an 480 av.J.C.
On a de lui 389 essais (sur l'ecnomie politique,
la guerre et les lois) que Lieou-hiang, qui
vivait sous les han, reunit en 86 chapitres.
L'ouvrage entier forme 8 vol. en 24 livres.


Kouan-yin.

【ページ番号】56

【文字なし】

【ページ番号】57

【文字なし】

【ページ番号】58
Kouei-pi 【スペース】commentateur estime
du Yi-King qui vivait sour les Song,
au commencement du XIIe- siecle de notre ere. Landr. Cat. Klap. 3.

Kouei-tcheou 【スペース】une des provinces
de la Chine prop. dite.

Kouen-lun 崑崙。autrement Koulkoun,
grande chaine de montagnes【抹消あり】, prolongement de
l'Hindou-koh qui se dirige, de l'O.a l'E., vers le
35e- parallele de latitude IV.

Kouen-lun 崑崙 ou Kouen-t’un, nom
chinois de l'ile Poulocondor, dans la mer de
Cochinchine. Biot.

K'ong-fou-tsze 孔夫子 ou K'ong-tsze
孔子, ne en 551 a .c., mort a l'age
de 73 ans, 479 ans avant notre ere,
et 9 ans avant la naissance de Socrate

【ページ番号】59

【文字なし】

【ページ番号】60
K'ong-tsze. Voyez K'ong-fou-tsze.

Kouen-t'un. 崑屯。Voyez Kouen-lun.

Kouriles (iles).

Koxinga. Voyez Tching-tching-kong.

【Lで始まる単語】
L.【弧状アンダーライン】
Lamas.

Lan-tao. Voyez T’ai-yo.

Laos.

Lao-tsze 老子, ne en 604 a.c.,
54 ans avant K'ong-tsze. Son 名
etait 李耳 Li-eurl. On le nomme ordinaire 老君
Lao-Kiun.

【ページ番号】61

【文字なし】

【ページ番号】62
Lascars. Les Europeens appellent ainsi
les matelots des mers de l'Inde.Ils
donnent le meme nom aux soldats du
train d'artillerie, et encore aux domestiques
charges du service des tentes dans les
armees. Dupeuty-trahon, le Moniteur
Indien. Paris, 1838, in - 8?.

Lacomte (le Pere

Liao-tong 遼東。province septentrionale
de la Chine.
【右へ移動】
Liampo, ancien etablissement portugais,
en face de Ning-po. Voy. Ning-po.

Lieou-hiang.
Vouyez Kouan-tsze.

Lieou-kieou (iles) 琉球。

Lie-tsze 【スペース】philosphe
tao-sse, anterieur a Tchoang-tsze
qui le cite assez souvent. Suivant
gques(?) auteurs chinois, il publia
son ouvrage, qui forme 2 vol., la
4e- annee de Ngan-wang, des Tcheou,
l'an 398 a.c.

【ページ番号】63

【文字なし】

【ページ番号】64
Li-Ki 礼記。

Li-Kwoh-tchouen 列国伝。

Li-ma-teou 利瑪竇。nom chinois
de Mathieu Riccii.

【一行目抹消】
Ling-ting. Voyez Lintin.

Linguiste.

Lin-tin 冷汀 (w.w.) ou 零丁B. (ling-ting),
Ile a embouchure de la riviere de
Canton.
【右へ移動】
Li-t'ai-peh 李太白。

【ページ番号】65

【文字なし】

【ページ番号】66
Lo-Kouan-tchong
auteur du San-Koue-tchi.

Lolos.

Lou 魯 (royaume de =,
). Patrie de Confucius.

Luçon (ile de). 呂宋 (liu-song).

Lun-yu 論語 。un des Sse-chou,
par Confucins.

【ページ番号】67

【文字なし】

【ページ番号】68
【Mで始まる単語】
M.【弧状アンダーライン】
Macao. 奥門 (ngao-men)
(dept de Kouang-tcheou-fou).

Macartney (lord).
【右へ移動】
Madras.
Deuxieme presidence des etablissements britanniques
dans l'Inde.

Maigrot.

Manille. (lat.N.15°50'. long. E.116°41')
Capit. de l'ile Luçon et de l'Archipel des Philippines.
【右へ移動】
Maimatchin. 【スペース】mai-mai-tchin.
Voy.Beraud. et Kiakhta.

【ページ番号】69

【文字なし】

【ページ番号】70
Mantchoux 満洲(man-tcheou)

Marco-Polo Voyez Polo (marco).

Ma-touan-lin

【ページ番号】71

【文字なし】

【ページ番号】72
Medhurst.

Meng-tsze 孟子 contemporain de
Xenophon et de Socrate, 4e- siecle A.C.,
auteur du livre qui porte son nom et qui
fait partie des Sse-chou.

Meng-tsze 孟子, un des Sse-chou.

Me-ti 【スペース】ancien philosphe.
Voyez Ho-kouan-tsze.

【ページ番号】73

【文字なし】

【ページ番号】74

【文字なし】

Miao-tsze

Milne
【右へ移動】
Mi-lin (monts)

Min 閩 un des anciens nom s de la
province de Foh-Kien.

Mongols 蒙古。

【ページ番号】76

【文字なし】

【ページ番号】77
Morrison (le Docteur)

Morrison

Moukden. Voyez Ching-king

【ページ番号】78

【文字なし】

【ページ番号】79
【Nで始まる単語】
N.【弧状アンダーライン】

Namoa. 南澳 (nan-ngao). Ile situee a
l'extremite orientale du Kouang-tong;grand
entrepot d'opium.

Nan-hoa-king
ouvrage sphique(?) de Tchouang-tsze.
Napier (lord)
surintendant de S.M.B. en Chine
【右へ移動】
Nangasaki (lat. N. 32°48',long. E.127°52')
Ville commerciale et port du Japon, sur l'ile
de Chi-mo, et aupres de laquelle se trouve la
petite ile de Desima, ouvert , depuis 2 siecles,
au commerce Hollandais.

Nan-king 南京

Nan-ngao. 南澳。Voyez Namoa

Nestoriens.

【ページ番号】80

【文字なし】

【ページ番号】81
Ngan-hoei 【スペース】une des provinces
de la Chine prop. dite.

Nan-nan 【スペース】. Voyez Cochinchine.

Ngao-men.【スペース】Voyez Macao.

Ning-po 寧波。
province de Tche-kiang.

Noel (français)

【ページ番号】82

【文字なし】

【ページ番号】83
【Oで始まる単語】
O.【弧状アンダーライン】
Ophir. Montagne volcanique de l'ile Sumatra
nommee par les Indigenes Gounong-Pasaman.
Elle a plus de 4,200 m. d'altitude.Beraud.

Orkhone. Riviere de la Mongolie, chez les Khalkas,
affluent de la Selenga. Sur ses bords etait Jadis
la ville fameuse de Karakhorum.

Ou-tchao 王朝 (les 5 dynasties) - periode
de l'histoire chinoise (Xe-【注】siecle)
【注:Xの右上のeは序数を表す.-は本来eの下にある。他のコマも同様。】

【右へ移動】
Ouigours. Voy. Hoei-nou.

【ページ番号】84

【文字なし】

【ページ番号】85
【Pで始まる単語】
P.【弧状アンダーライン】
Pan-hoei-pan【スペース】historienne
celebre.

Parennin (le Pere

Pegu. Voy. Beraud.
Peguans.

Pei-wen-yun-fou 佩文韻府。
【右へ移動】
Paris. 巴𥝤城 (Pa-li-tching).W.

【ページ番号】86

【文字なし】

【ページ番号】87
Pe-King.

Pe-kouei-tsi【スペース】ou la tablette de
jade blanc. le 9e-【e-は序数の表示】des t'sai-tsze.

【ページ番号】88

【文字なし】

【ページ番号】89
Perse 波斯 (Po-sse).

Pe-tchi-li 【スペース】une des provinces
de la Chine prop. dite.

Pe-tsin 【スペース】nom chinois du
Pere Bouvet. Voyez Bouvet.

Philippines (iles).

【ページ番号】90

【文字なし】

【ページ番号】91

【文字なし】

【ページ番号】92
Pi-kan.

Ping-chan-ling-yen
ou les deux chinoises lettres。ーroman chinois,
le 4e-【序数のe】des t'sai-tsze.

Ping-Kouei-tchouen
ou la Pacification des demons (des ennemis).
― le 10e des t'sai-tsze.


Pi-pa-ki 【スペース】ou l'histoire du
luth。― par Kao-tong-kia。―drame
chinois, le 7e-【序数のe】 des t'sai-tsze.

【ページ番号】93

【文字なし】

【ページ番号】94
Piraterie.
Voyez Haussmann, Voy. en Chine, T.II,p.10-16.

Polo (Marco).

Population de la Chine.

【ページ番号】95

【文字なし】

【ページ番号】96
Pouan-kou 盤古。
【右へ移動】
Poulocondor (ile), dans la mer de Cochinchine.
Voyez Kouen-lun et Kouen-t'un.

Pou-mi-ke 【スペース】nom chinois
du Pere Michel Boym.

Pou-tsze-hia 卜子夏。Commentateur
du Yi-king.

【ページ番号】97

【文字なし】

【ページ番号】98
Po-yang 鄱陽湖。Grand lac situe dans
le departement de Jao-tcheou 饒州dans
la province de Kiang-si 江西。

Premare (le Pere

Protestantes (Missions).

Province.

【ページ番号】99

【文字なし】

【ページ番号】100

【文字なし】

【ページ番号】101
【Rで始まる単語】
R.【弧状アンダーライン】
Rangoun. Voy.Beraud.

Ricci (Mathieu). Voyez Li-ma-teou.

Rubruguis.

Ruggiero (le Pere Michel)

【ページ番号】102

【文字なし】

【ページ番号】103
Russes.

【Sで始まる単語】
S.【弧状アンダーライン】
Samaneens.

Samarcande.

【ページ番号】104

【文字なし】

【ページ番号】105
San-Koue 三国。peiode de l'histoire
chinoise.

San-Koue-tchi 三国志。l'histoire des
trois royaumes, par Lo-Kouan-tchong❘
roman historique, le 1er-【序数=最初の】des t'sai-tsze.

Sapek.

Schaal (le Pere Adam).

【ページ番号】106

【文字なし】

【ページ番号】107

【文字なし】

【ページ番号】108
Selenga.

Siam (royaume de). 暹羅(tsien-lo).

Sieou-tsai.

Sincapour. Voy Singapore.

Singapore. Voy Beraud.

Sing-chi-tso-pou
Biographie universelle de la Chine.

【ページ番号】109

【文字なし】

【ページ番号】110
Si-siang-ki 【スペース】。ou l'histoire
du Savillon occidental .❘roman chinois,
le 6e【六番目】 de t'sai-tsze.

Song 宋。nom de la【スペース】 dynastie imperiale.
【右へ移動
Souan-pouan.

Soy ou Soya, sorte de condiment qui
s'exporte en grande quantite pour les
Indes, l'Angleterre et les Etats-Unis,
et dont les Chinois font un tres-grand
usage.

Sse-chou 四書。les quatre livres
classiques, savoir:

le Ta-hio

le Tchong-yong

le Lun-yu

le Meng-tsze.

【ページ番号】111

【文字なし】

【ページ番号】112

Sse-makouang 司馬光。auteur du
Loui-pien 類篇。

Sse-mathan.

Sse-matching.【スペース】historien
chinois.

【ページ番号】113

【文字無し】

【ページ番号】114
Sse-mat'sien 司馬遷。

Sse-tchouen 四川une des provinces
de la Chine prop. dite.
【右へ移動】
Stanley, precedemment nommee Little Hong-Kong,
petite ville de l'ile de Hong-Kong, sur la cote Sud. Pecherie.

Sumatra.

Sun-tsze 【スペース】philosophe lettre,
posterieur a Meng-tsze. Il florissait dans
la periode des guerres appelee Tchen-koue,
entre 375 et 230 av.J.C. On le regarde en
Chine comme le plus celebre ecrivain de
l'Ecole de Confucius, et on place son
ouvrage qui forme 5 vol., immediatement
apres les Sse-chou. Il traite de la politique
et de la morale. On l'estime autant pour
la justesse de ses connaissances que pour la
clarte de son style.

【ページ番号】115

【文字無し】

【ページ番号】116
【右側】
Swan-pwan. (abaque, souan-pouan).

【Tで始まる単語】
T.【弧状アンダーライン】
Tachard (le Pere

Ta-kio 大学 un des Sse-chou, par
Tseng-tsze.

【ページ番号】117

【文字無し】

【ページ番号】118
Tai-wan 台湾。nom de l'ile Formose et
de sa capitale.

Tai-yo 太奥 nom d'un bourg et d'une
grande ile, a l'est de la rade de Macao,
appeles autrement Lan-tao.

Tang 唐 nom de la 【スペース】dynastie imperiale.

【ページ番号】119

【文字無し】

【ページ番号】120
Tao.

Tao-sse.

Tartares



【ページ番号】121

【文字無し】

【ページ番号】122
Tchang-cha-fou【スペース】capitale
de la province de Ho-nan.

Tchao-sien 朝鮮。Voyez Coree.

【ページ番号】123

【文字無し】

【ページ番号】124

【文字無し】

【ページ番号】125
Tcheh-kiang 浙江 une des provinces
de a Chine prop. dite.

Tchen-kouek 戦国 。nom d'une period
de l'histoire chinoise (375-230 av. J.C.)

Tchou 周 nom de la 3e-【序数】 dynastie
imperiale.

Tcheou-chan 舟山。grande ile au N.E.
de Ning-po-fou, connue en Europe sous
le nom de Chusan.
Capitale : Ting-hai.

【ページ番号】126

【文字無し】

【ページ番号】127
Tcheou-kong 【スペース】2e- 【序数】fils de
Wen-wang.

Tchi-li【スペース】. Voyez Peh-tchi-li.

Tching-tching-kong
amiral ou pirate chinois, connu sous le nom
de Koxinga. Il fit la guerre aux Tartares-
Mandchoux, chassa les hollandais des iles
Formose et Pong-hou, prit le titre de roi,
et mourut en 1670.

【ページ番号】128

【文字無し】

【ページ番号】129
Tchin-si-fou.【スペース】Voyez Barkoul.

Tchi-youen 【スペース】。surnom chinois
du Pere Michel Boym.

【ページ番号】130

【文字無し】

【ページ番号】131
Choang-tsze 【スペース】。le plus brillant
ecrivain de l'ecole de Lao-tsze. Il florissait
sous l'empereur Hien-ti, qui commença
a regner l'an 368 av. J.C. auteur du
Nan-hoa-king, en 4 vol.

【右へ移動】
Tchoktcheou:Voy. Chuckchew et Aberdeen

Tchong-koueh 中国。

Tchong-yong 中庸。un des Sse-chou,
par Tseu-sse.

【ページ番号】132

【文字なし】

【ページ番号】133
Tchou-fou-tsze 朱夫子。le plus celebre des
commentateurs des King et des Sse-chou.
Il vivait sous les Song 宋 , dans la 2e-【序数=二番目の】
moitie du XIIe- siecle 【十二世紀】. Son histoire de la Chine
commence au regne de Foh-hi.

Tchou-hi 朱熹。Voyez Tchou-fou-tsze.

Tchun-tsieou 春秋。annales du Royaume
de Lou 魯。le 5e- King, compose par Confucius.

【ページ番号】134
Tenasserim. Voy.Beraud.

【文字なし】

【ページ番号】135
Thibet.

T'ien-chan 天山。grande chaine de
montagnes de l'Asie centrale, parallele
au Koue-lun.

T'ien-tchao 天朝。Voyez Chine.

T'ien-tchu【スペース】。Voyez Inde.

【ページ番号】136

【文字なし】

【ページ番号】137
T'ien-tri (pour T'ien?), roi de Cochinchine,
mort le 4 9bre【septembreの省略】~【breの下部の表記】 1847. Sous son regne, les
chretiens etaient violemment persecutes.
Son successeur est un jeune homme de
18 ans, qui a pris le nom de Tic-Duc.
(Constitutionnel du 25 Juill. 1848).

Ting-hai 定海。nom d'un arrondissement
et d'une ville de 3e- ordre, dept. de
Ning-po-fou, et comprenant l'ile de
Tcheou-chan (Chusan).

【ページ番号】138
Tong-tign 洞庭(lac).

【文字なし】

【ページ番号】139
Tou-fu 杜甫。surnomme Tsuze-mei
【スペース】, l'un des plus celebres poetes
de la Chine; ne au commencement du
VIIIe siecle【八世紀】. Il partagea avec Li-t'ai-peh,
son contemporain, la gloire d'avoir
reforme la poesie chinoise.

Tou-hoei 杜回。general celebre.

Tourane, (lat. N. 16° 7'. long. O.105° 52').
Port de Cochinchine.

Trigault (le Pere Nicolas)

【ページ番号】140

【文字なし】

【ページ番号】141
Tseng-hie 倉頡 mandain civil qui
vivait sous le regne de Hoang-ti (2.698
av.J.C.). Il passe pour etre l'inventeur
du systeme d'ecriture adopte par
Chinois.

T'seng-tsze 曾子。ne vers 505 av.J.C.
auteur du Ta-hio et du Miao-king.

【左側四行抹消】
【右側】
Tsiampa.【スペース】Voyez Annam.

Tsien-lo【スペース】Voyez Siam.

【ページ番号】142

【文字なし】

【ページ番号】143

【文字なし】

【ページ番】144
Tsin 秦 nom de la 【スペース】dynastie imperiale.

Tsing 【スペース】nom de la【 スペース】dynastie imperiale.

T'sing-hai 青海。le lac ho-ho-noor ou
Khou-khou-noor, a l'O. de la Chine.

T'sing-tsao 青草湖。grand lac situe
dans le dept. de Yo-tcheou 岳州, province
de hou-nan 湖南。

【ページ番号】149

【文字なし】

【ページ番号】146
Tsin-sse.

Tso-kieou-ming
collaborateur de Confcius.

Tsong-ling (monts) 葱嶺。grande chaine
partant de l'himalaya et courant du
S. au N. en traversant le T'ien-chan. On
l'appelle aussi Bolor.

【ページ番号】147

【文字無し】

【ページ番号】148
Tsou-tsze 楚辞 (poesies).

Tsze-hia 子夏。Voyez Pou-tsze-hia.

Tsze-mei. 【スペース】Voyez Tou-fou.

Tsze-sse 子思。petit fils de Confucius,
ne vers 515 av.J.C, mort vers 453.
auteur du Tchong-yong, attribue par
Remusat a K'ong-tsze.

【ページ番号】149

【文字なし】

【ページ番号】150
Typa (le) + 字門 chih-tsze-men, partie
du port a Macao.

【Vで始まる単語】
V.【弧状アンダーライン】
Vallat (le Pere
Jesuite français.

Verbiest (le Pere

【ページ番号】151
【右側】
Victoria, capital de l'ile de Hong-Kong.

【文字なし】

【ページ番号】152
Vietnam. 【スペース】Voyez Annam.

Visdelou (le Pere

【文字なし】

【ページ番号】153

【文字なし】

【ページ番号】154
【Wで始まる単語】
W.【弧状アンダーライン】
Wang-pei 王弼。un des commentateurs
du Yi-king. Il vivait sous les Wei 魏。

Wen-Tchong-tsze
philosophe de la secte des lettres.
queques auteurs chinois le regardent
comme un disciple de Meng-tsze.
Son ouvrage forme 1 vol.

Wen-wang.

【ページ番号】155

【文字なし】

【ページ番号】156
Whampoa. 黄埔 (Hoang-pou), port de
Canton. C'est la station de tous les navires
etrangers qui font de commerce avec cette ville.
Whampoa est situe a 16 Kilom. environ, en
aval de Canton. La eut lieu, le 24 7bre-【数字が7に見えるが語尾が-breで終わる月(9-12)のどれか又は誤記と思われる】 1844,
la signature du traite de commerce conclu entre
la France et la Chine par l'entremise des
plenipotentiaires de Lagrene et Ki-ying, et dont
les ratifications ont ete echangees a Macao
le 25 aout 1845.

Wou-jin-kie 呉仁傑。un des
commentateurs du Yi-king. Il vivait
sous les Song 宋。

Wou-san-kouei 呉三桂。general
celebre.

Wou-wang

【ページ番号】157

【文字なし】

【ページ番号】158
Wou-yi chan 武夷山。montagnes
celebres.

【Xで始まる単語】
X.【弧状アンダーライン】
Xavier (Saint François).

【ページ番号】159
【右側】
Ximo . Voy. Chi-mo.

【文字なし】

【ページ番号】160
Y.【弧状アンダーライン】

Ya-long-kiang 【スペース】affluent
du Yang-tsze-kiang.

Yang

【ページ番号】161

【文字なし】

【ページ番号】162
Yang-tchou 【スペース】ancien philosophe.
Voyez Ho-kouan-tsze.

Yang-tsze 【スペース】philosophe de la secte des
lettres. Il vivait sous l'empereur Tching-ti qui
regne depuis l'an 32 jusqu'a l'an 7 av J.C. Son
ouvrage, intitule Fa-yen, forme 2 vol.

Yang-tsze -kiang. 洋子江。fleuve.

Yao 尭。Emp.


【ページ番号】163

【文字なし】

【ページ番号】164

【文字なし】

【ページ番号】165
Yedo

Yen-chin
chef de pirates (XIIIe siecle). V. Haussmann, II, 11.

Yeso.

Yik-king 易経。

【ページ番号】166

【文字なし】

【ページ番号】167
Yin-tou. 【スペース】Voyez Inde.

Yong-tching 雍正。

【ページ番号】168

【文字なし】

【ページ番号】169
Youe 粤 un des anciens noms de la province
de Canton.

Youen 元。

Yu.

Yu-ho 【スペース】affluent du Peh-ho,
arrose Pe-King.

【ページ番号】170

【文字なし】

【ページ番号】171
Yun-nan 【スペース】une des provinces
de la Chine prop. dite.

【文字なし】

【ページ番号】172

【文字なし】

【ページ番号】173
【Zで始まる単語】
Z.【弧状アンダーライン】
Zheol 熱河 (Jeh-ho).m.

【蔵書印】BIBLIOTHEQUE IMPERIALE MSS.

【文字なし

【見返し?】

【丸ラベル】JAPONAIS 393

【裏表紙】

【背表紙】
A.SMITH
NOTICES
SUR
L'ORIENT
【ラベル】JAPONAIS 393

BnF.

【巻物の巻いた状態】
【整理番号】
24
【資料整理ラベル】
SMITH-LESOUEF
  JAP
 K - 24

【巻物の左側からの写真】

【巻物の右側からの写真】

【巻物の表紙】
【整理番号】
24
【資料整理ラベル】
SMITH-LESOUEF
   JAP
 K -  24

【見返し 文字無し】

【馬の絵 文字無し】

【馬の絵 文字無し】

【馬の絵 文字無し】

【馬の絵 文字無し】

【馬の絵 文字無し】

【馬の絵 文字無し】

【馬の絵 文字無し】

【馬の絵 文字無し】

【馬の絵 文字無し】

【馬の絵 左の文は次のコマに全文あり。ここでは省く】

右馬具図者以阿波介藤原以文
拠諸記所考画之其濃彩之不
及者以考證細看之

 天保七丙申孟春  画所預伊勢守従五位上藤原光清【印(白文)】
光清
之印

BnF.

【表紙 題箋】
海外人物小傳 四

【資料整理ラベル】
JAPONAIS
 615
  4

【白紙】
【資料整理ラベル】
JAPONAIS
 615
  4
【手書きメモ】
Don.  7605

《割書:海外|治乱》繍像人物小伝巻之四
   第四回
厄勒祭亜(ぎりしや)国《割書:当時(いま)都爾(とる)|斯(く)と云》の亜歴山多児(あれきさんどる)垤(で)は才徳(さいとく)万(ばん)
人(にん)に傑出(けつしゆつ)し依(よつ)て臥盧的(ごろうで)と称(しやう)す是(これ)を漢(かん)に訳(やく)して
歴山王(れきざんわう)と云(いふ)。馬則多尼亜(まぜとにや)《割書:国|名》の王(わう)「ヒリッピュス」の男(なん)也(なり)
紀元前(きげんぜん)三百五十六年 我国(わがくに)の 考安天皇(かうあんてんわう)の三十
九年 丁卯(ひのとう)年(どし)《割書:此時我国未|だ年号なし》に了(あたつ)て「ペルラ」の地(ち)に生(うま)
る其(その)未(いま)だ幼(いとけな)き時(とき)より気宇弘恢(きうこうたい)【左ルビ:キヲオホヒニヒロク】更(さら)に幼弱(ようじやく)の者(もの)に
似(に)ず父(ちゝ)「ヒリッピュス【」脱】王(わう)嘗(あへ)て大(おほひ)に敵(てき)に克(か)つ帝(てい)是(これ)を聴(きゝ)
其(その)友(とも)に向(むかつ)て泣(ない)て曰(いわ)く父王(ちゝわう)我(われ)に功名(こうみやう)の地(ち)を遺(のこ)さ

ず是(これ)を以(もつ)て泣(なく)といへり父王(ちゝわう)沢(えら)【「は」は誤】んで「ファンスタギ
ラ」《割書:地|名》の大賢(たいけん)亜理嘗斯多(ありすと)を召(めし)て之(これ)が傅(かしづき)たらしむ鞠(きく)【左ルビ:ヤシ】
育(いく)【左ルビ:ナイ】訓導(くんだう)【左ルビ:オシヘミチビク】并(ならび)に其力(そのちから)を竭(つく)す帝(てい)齢(よわい)僅(わづか)に二十 歳(さい)にして
馬則多尼亜(マゼトニヤ)の王位(わうい)を嗣(つ)ぐ帝(てい)嘗(あへ)て他(た)に適(ゆ)くこと
厄勒西亜(ぎりしや)部内(ぶない)「テラシー」「イルレリイリー」《割書:二国|の名》帝(てい)
の在(あ)らざるを候(うかゞ)ひ馬則多泥亜(ませとにや)に反(そむ)く帝(てい)急(きう)に駕(か)
を回(かへし)て之(これ)を征(せい)すこれを帝(てい)の初陣(ういぢん)とす「アテニー」
等(とう)の国人(くにたみ)復(また)降(くだ)る「テバネルス」《割書:国|名》独(ひと)り拒(こば)んで降(くだ)ら
ず帝(てい)怒(いか)り攻(せめ)て其(その)都(みやこ)を陥(おと)しいれ人民(にんみん)を屠戮(とりく)して
殆(ほとん)ど尽(つく)す其中(そのなか)に独(ひと)り「ピンダリュス」《割書:人|名》の一族(いちぞく)特恩(とくおん)

を以て免(まぬが)るゝことを得(え)たり是(こゝ)に於(おい)て厄勒西亜(ぎりしや)皆(みな)
帝(てい)に属(そく)す此時(このとき)百爾西亜(へるしや)大(おほひ)に兵(へい)を発(おこ)して厄勒西(ぎりし)
亜を伐(うつ)国人(くにたみ)皆(みな)帝の防禦(ばうぎよ)を得(え)て干戈(かんくは)の禍(わざは)ひを免(まぬか)
れんと請(こ)ふ其中(そのなか)に独(ひと)り「シノーペ」《割書:地|名》の人「ジヲゲ
ノス」請ふ所(ところ)なし「ジヲゲノス」は此土(このとち)の碩学(せきがく)にて
郭門(くはくもん)の外(ほか)に家(いえ)して意思(いし)【左ルビ:コヽロオモヒ】間曠(かんくわう)【左ルビ:トモニアキラカ】なり帝(てい)躬(み)親(みづか)ら之(これ)を
訪(とふら)ふて其 容貌(かたち)を望(のぞ)むに貧窶(ひんる)にして衣服(いふく)垢穢(くく▢い)な
り日に向(むかつ)て背(せ)を曝(ほ)す帝 進(すゝん)で問(とふ)て曰く卿(きやう)もまた
闕乏(けつぼう)する所(ところ)ありや「ジヲゲノス」の曰く吾子(ごし)吾(わ)が
前(まへ)に立(たつ)て太 陽(やう)の我(われ)を照(てら)すを障(さ)ふ【左ルビ:サワリヲナス】是(こ)れ闕乏のみ

【右丁】
帝(てい)其(その)言(こと)を聞(きゝ)て大(おほひ)に驚(おどろ)き厚(あつ)く尊敬(そんきやう)す
帝兵(ひやう)を発(はつ)して亜細亜(あじや)に赴(おもむ)く歩兵(ぶひやう)三万 騎(き)兵五千
初(はじめ)て「ガラニキュス【「」」記号脱】河上(かはのほとり)に戦(たゝか)ふて百爾西亜(へるしや)の兵を
敗(やぶ)る「サルディス」「エフェセ」《割書:以上|地名》等(とう)の諸(しよふ)皆(みな)門(もん)を開(ひらひ)て
降(くだ)る帝(てい)猶(なを)大(おほひ)に敵国(てきこく)を征討(せいたう)せんと欲(ほつ)すれども兵(へい)
士(し)皆(みな)故郷(こきやう)を懐(おも)ふの情(しやう)を抱(いだ)くを見(み)て其(その)兵士(へいし)の心(こゝろ)
を一にせんと欲(ほつ)し軽重(けいぢう)の船(ふね)二 隻(そう)を残(のこ)して其余
の兵 戦(せん)皆(みな)将士(しやうし)をして毀(こぼ)たしめ以て其 帰(かへ)る心を
断(た)つ乃(すなは)ち進(すゝ)んで「ハリカルナシュフ」《割書:地|名》に抵(いた)りて大
の其 府(ふ)を攻む敵(てき)兵 驍勇(きやうゆう)にして善(よ)く拒(ふせ)ぐといへ

【右丁】
とも竟(つい)に之(これ)を破(やぶ)る小亜細亜(こあしや)の諸侯(しよこう)皆(みな)帝(てい)に従(したか)ふ
此時(このとき)「ホンテュス【」記号脱】王「ミトリダテス」《割書:王|名》も亦 降(くだ)り爾来(しかるのち)
帝征 討(たう)する事(こと)ある毎に必(かなら)ず従ふ帝「フィリーギー」
《割書:地|名》に在り兵(ひやう)を遣(やり)て「セレネ」《割書:地|名》を取(と)る其後(そののち)「ゴルディ
ヲン」《割書:地|名》に赴(おもむ)き其 地(ち)の歳星(さいせい)の像(さう)を安置(あんち)する殿堂(でんだう)
詣(まい)り奇功(きこう)の結紐(けつちう)【左ルビ:ムスビヒモ】あるを視(み)て自(みつか)ら剣(けん)を抜(ぬい)て之(これ)を
斫断(せきだん)【左ルビ:キリクツ】す続(つゝい)て「カパドシー」《割書:国|名》を降(くた)し「タルスュス」《割書:地|名》に
抵(いた)る此時(このとき)の偶々(たま〳〵)入浴(にうよく)して熱病(ねつびやう)を得(え)たり病(やまひ)極(きわ[め])て
危嶮(きけん)なり百児西亜王(へるしやわう)達柳氏(たりうす)之を聞(き)きひそかに
侍医輩(しいはい)【左ルビ:ゴテンヤク】に金帛(きんはく)数多(あまた)を遣(つかは)して帝を療治(れうぢ)すること

勿(なか)れと請(こ)ふ是(こゝ)を以て一人も之(これ)を治(ぢ)せんと云者(いふもの)
なし然(しか)るに一(ひとりの)医生(いしや)其(その)疾(やまひ)を治(ち)する薬(くすり)を剤(さい)せんと
請(こ)ふ此時(このとき)帝(てい)の親友(しんゆう)「パルメニヲ」と云者 書(しよ)を帝(てい)に
贈(おくつ)て告(つげ)て曰く「ヒリッヒュス」達柳氏(だりうす)が賂(まいない)を受け帝を
毒害(どくがい)せんとすと帝 此事(このこと)を知らざる為(まね)して医(いしや)を
召(め)して薬盞(くすりちやわん)を手(て)に持(も)ち開封(かいほう)したる書(しよ)を医(いしや)に覧(み)
せしめ因(よつ)て其(その)面(かほ)を睨(にらん)で真偽(しんぎ)を察(さつ)して後(のち)其薬(そのくすり)を
服(ふく)す此時(このとき)に方(あたつ)て「ロウセイアウ」《割書:人|名》は「エミレ」に在
り帝(てい)の動静(ようす)如何(いかゞ)を伺(うかゞ)ふ病(やまひ)初(はじめ)て愈(いゆ)るを知らずし
て達柳氏(だりうす)兵(へい)を発(はつ)して帝(てい)を伐(う)つ帝(てい)之(これ)を「イシュス【」記号脱】河(か)

畔(はん)に迎(むか)へ戦(たゝか)ふて大(おほひ)に之(これ)を敗(やぶ)り金帛(きんはく)軽重(けいちう)を得(う)る
こと夥(おびたゝ)し其(その)親族(しんぞく)を生捦(いけどり)す帝(てい)之(これ)を待(ま)つ礼(れい)あり又(また)
達馬斯谷(だますきゆす)を囲(かこ)む是(こ)れ百爾西亜王(へるしやわう)の宝庫(ほうこ)の在(あ)る
所(ところ)なり乃(すなは)地中海(ちちうかい)の諸府(しよふ)を按撫(あんぶ)し凱歌(かいか)を唱(となへ)て
「ハレス」を発(はつ)し阨日多(えしつと)を取(と)る初(はじ)め阨日多(えしつと)久(ひさ)しく
百爾西亜(へ[る]しや)の虐政(かこい)にくるし困(くる)しむを以(もつ)て乃(すなは)ち其(その)残暴(ざんぼう)を
除(のぞ)き善政(せんぜい)を行(おこな)ふ又(また)其(その)民心(みんしん)を得(え)んと欲(ほつ)し其(その)故礼(これい)
法教(ほうきやう)を復(ふく)す遂(つい)に「アレキサンドリー」《割書:地|名》に到(いた)り初(はじめ)
て帝都(ていと)の基礎(もとい)を建(た)つ此(これ)より以来(このかた)此地(このち)巍然(きぜん)とし
て古帝都(こていと)の一となると云(いふ)帝(てい)已(すで)に数々(しば〳〵)達柳氏(だりうす)が

【右丁 挿絵の説明】
    歴山王【▢で囲む】

【左丁】
歴山王(れきざんわう)
大賢(たいけん)ジヲゲノスを
訪(とふら)ふ図(づ)     ジヲゲノス【▢で囲む】

兵(へい)と戦(たゝかふ)て是(これ)を破(やぶ)り春(はる)に至(いたつ)て又(また)兵(へい)を発(はつ)して百爾(へる)
西亜(しあ)を伐(う)ち其 騎(き)将を襲(おそ)ふ騎兵(きへい)敗走(はいさう)す達柳氏(だりうす)も
亦(また)殆(ほとん)ど危(あやふ)し然(しか)れども馬(むま)駿(しゆん)にして僅(わづか)に免(まぬが)るゝこと
を得(え)たり其 陣営(ちんえい)器械(きかい)及び無数(あまた)の宝貨(たから)を得(え)たり
是(こゝ)に於(おい)て西亜細亜(にしあじや)皆(みな)帝(てい)の版図(はんと)【左ルビ:レウブン】に入(い)る罷鼻落(ばびろん)「スュワ
サ」《割書:人|名》門(もん)を開(ひらい)て迎(むか)へ降(くた)る「スュウサ」は其国(そのくに)極(きわ)めて富殖(ふしよく)
にて東方(とうばう)の金貨(きんくは)悉(こと〴〵)く阜積(ふせき)【左ルビ:オホクツム】すと称(しやう)す遂(つい)に兵(へい)を進(すゝ)
めて百爾西亜(へるしや)本都(ほんと)「ヘルセポリス」に入る
帝已に洪業を建(たて)て版図(はんと)【左ルビ:レウブン】極(きわ)めて広大(くわうだい)【左ルビ:ヒロクオホヒニ】宇内(うない)【左ルビ:セカイヂウニ】無比(むひ)【左ルビ:タグヒナシ】と
称(しやう)す是(こゝ)に於(おい)て志し盈(み)ち気(き)傲(おご)り数々(しそ〳〵)【注】怒(いかつ)て勇将を

【注 9コマ目の最終行の「数々」に「しば〳〵」と振っているので「しは〳〵」の誤か。】

誅戮(ちうりく)す又 百爾西亜(へるしや)本都(ほんと)「ヘルセポリス」【」記号脱】府は殷富(いんぶ)
壮麗(さかん)なること天 下(か)の奇観(きくわん)たり帝(てい)一日大に醉(えふ)て
之(これ)を焚(や)く醉(えい)醒(さめ)て大に後悔(こうくはい)し速に兵を起(おこ)して又
達柳氏を追(お)ふ「バクトリアナ」《割書:国|名》の将(しやう)「ベススュス」と
云者達柳 氏(す)を捕(とら)へて之(これ)を殺(ころ)す此時に帝(てい)達柳氏(だりうす)
が屍(しかばね)の車上に横(よこた)はり創痍(やりきず)の身(み)に満(みつ)るを見(み)て涙(なみだ)
を垂(た)れて懇(ねんごろ)に之を弔(とふら)ひ百爾西亜(へるしや)の葬(さう)儀を用て
厚(あつ)く之を葬(ほふむ)る次(つい)で「ヒルカニー」「マルセンラント」
「バクトリアナ」《割書:以上|国名》等を降(くだ)し遂(つい)に立て亜細亜(あじや)王
と為(な)る帝素と規模(きぼ)宏大(くわうだい)識量(しよくりやう)広遠(くはうえん)大に四方(しはう)を経(けい)

営せんと欲(ほつ)し其 冬(ふゆ)駕(か)を進(すゝ)めて亜 細亜(じや)の北 部(ぶ)北
高海に抵(いた)る此地は厄勒祭亜(ぎりしや)人の当時 未(いま)だ知(し)ら
ざる地なり帝(てい)名を好(こ[の])み地を拓(ひら)く心 是(こゝ)に至て尚
未だ乂(おさ)まらず故に「スセイテレ」《割書:国|名》は蛮夷(ばんい)にして
礼義を知らざる邦(くに)なれとも又之を征討(せいたう)して其
君を朝(てう)せしむ已(すで)にして駕(か)を「バクトリアナ」《割書:国|名》に
返(かへ)り又明年又近国の未だ服(ふく)せざる者を征(せい)し「ソ
グディアナ」全国を従(したが)へ「ヲキシイアルテス」《割書:人|名》が一
族(ぞく)の帝(てい)に抗拒(こうきよ)する者を捕(とら)ふ又其女「ロキサネ」を
娶(めと)る勝(すく)れたる美(び)人なり是に於(おい)て其父「ヲキシイ

アルテス」も帝に服事(ふくじ)す
帝已に四国を臣 服(ふく)せしめ人民 泰(たい)平の化を戴(いたゞ)く
是に於て駕を発(はつ)して印度(いんど)に幸(みゆき)す即 応多江(いんじゆすえ)を済
り国 侯(こう)「タピリュス」【」記号脱】《割書:人|名》と和を約(やく)す既(すで)にして「ヘイタ
スペス」【」記号脱】河を済(わた)る此時「ポリュス」《割書:人|名》之を中 流(ほど)に防禦(ぼうぎよ)【左ルビ:フセグ】
す帝 迎(むか)へ戦(たゝかふ)て之(これ)を破(やぶ)る是に於(おい)て「ポリュス」《割書:人|名》乞(こふ)て
曰く若(もし)帝に降(くだ)らは何を以て我を処(しよ)せん帝の
曰く封(ほう)じて王と為(な)さん「ポリュス」乃ち臣下(しんか)となら
ん事を請(こ)ふ帝其国を返(かへ)し与ふる外に諸地(しよち)を増(まし)
封じて「ラントホーグト」の爵号(しやくがう)を賜(たま)ふ已にして

駕を進め安義(がんけす)江を済(わた)りて猶東 征(せい)せんとすれ共(ども)
群従(ぐんじう)みな怨(うら)むるを以て已(や)むことを得(え)ずして駕を
回(かへ)す道にして数々(しば〳〵)危難(きなん)に遇(あ)ふと云「ヘイダスペ
ス」【」記号脱】江に抵(いた)り軍艦(いくさぶね)を集(あつ)め其 鹵簿(ろはく)【ママ】【左ルビ:トリコ】の一半(なかば)を分(わけ)て自(みづか)
ら随(したか)へ船(ふね)に乗(じやう)して江を下(くだ)り其 一半(なかは)は江の両岸(りやうがん)
に循(したが)ひゆかしむ已(すで)に江を下(くだ)り又 応多(いんじゆす)江に航(かう)し
て大海に達(たつ)す馬則多泥亜(まぜとにや)【注】人(じん)未(いま)だ大(だい)海を知(し)らす
此時初て見(み)て驚(おどろい)て以て壮観(さうくわん)となせり次(つい)で軍艘(くんさう)
を百爾西亜(へるしや)海 湾(わん)に進(すゝ)め水路(すいろ)を舎(お)き旱道(かんどう)を歴(へ)て
罷鼻落(ばびろん)に返(かへ)る途(みち)亜拉比亜(あらびや)国(こく)の大沙漠(たいしやばく)を経(ふ)るに

【注 18コマに「馬則多泥亜(ませとにや)」と記載。】

軍士(ぐんし)食(しよく)匱(とぼ)しく水(みづ)なきを以(もつ)て死亡(しばう)相(あい)望(のぞ)む軍士(くんし)帝(てい)
に従(したがふ)て百爾西亜(へるしや)に帰(かへる)者(もの)僅(わづか)に四分(しぶ)の一なりと云
帝(てい)「スュッサ」に在(あつ)て達柳氏(だりうす)の長女(むすめ)「スタチラ」《割書:女|名》と婚(こん)す
典儀(てんぎ)極(きは)めて盛大(せいだい)にして古今(ここん)未(いま)だ聞(きか)ざる所(ところ)たり
既(すで)にして罷鼻落(ばひろん)城(じやう)に行(ゆ)き更(さら)に後来(こうらい)の大志(たいし)を成(な)
さんと図(はか)る惜(おし)いかな適々(たま〳〵)病(や)むこと三日 大(おほひ)に酒(さけ)
を被(かふむ)り暴(にはか)に崩(ほう)ず寿(じゆ)三十二 歳(さい)時(とき)に帝嗣(ていし)【左ルビ:ヨツギ】未(いま)だ定(さだ)ま
らず諸将(しよしやう)争議(そうぎ)すること一二日 遂(つい)に皇(わう)の弟(おとゝ)「アリ
テュス」《割書:人|名》を立(たて)て位(くらゐ)を嗣(つが)しむ帝(てい)の屍(しかばね)は布多禄某氏(ぶとろめうす)
之(これ)を金棺(きんくわん)に斂(おさ)め「アレキサンドリア」の寺に葬(ほふむ)る

  亜理斯多得列氏(ありすとでれす)
亜理斯多得列氏(ありすとでれす)は「ファンスタギラ」《割書:地|名》の人(ひと)なり多(と)
智(ち)古今(ここん)に傑出(けつしゆつ)す今(いま)其(その)一二の履歴(りれき)を撮(とつ)て左(さ)に開(かい)
すと云(いふ)亜理斯多(ありすと)は紀元前(きげんせん)三百八十四年に生(うま)る
歳(とし)十七にして「アテネ」《割書:地|名》に到(いた)り布剌多(ぶらと)《割書:人|名》に従(したがふ)て
術芸(じゆつげい)を学(まな)ぶ天性(むまれつき)聡明(そうめい)叡智(えいち)にして能(よ)く学(がく)を勉(つと)め
業(げう)。大(おほひ)に進(すゝ)む布剌多(ぷらと)《割書:人|名》の曰(いは)く亜理斯多(ありすと)は猶(なを)学校(がくこう)
の精神(せいしん)の如(ごと)しと布剌多(ぷらと)已(すて)に没(ぼつ)して後(のち)其友(そのとも)「ヘル
ミアス」と云(いふ)者(もの)「ミイレイ」【」記号脱】部内(ぶない)「アルカルネ」の地(ち)に
在(あ)り亜理斯多(ありすと)之(これ)に其地(そのち)に就(つ)き終(つい)に其(その)妹(いもと)を娶(めとる

後(のち)に馬則多泥亜(ませとにや)王(わう)より聘(へい)せられて歴山王(あれきさんでる)の師(し)
傅(ふ)と為(な)る歴山王(あれきさんでる)曽(かつ)て曰(いは)く我(わ)れ師傅(しふ)を愛(あい)する事(こと)
父王(ちゝわう)に超(こ)ゆと然(しか)れども後(のち)に及(およ)んで寵待(てうたい)寖(やゝ)衰(おとろ)ふ
亜理斯多(ありすと)既(すで)に幼主(ようしゆ)を撫育(ぶいく)して大(おほひ)に其(その)力を竭(つく)せ
り数歳(すうさい)の後(のち)又(また)「アテネ」に返(かへ)り「レイセユム」《割書:地|名》に学(がく)
校(こう)を刱(おさ)【剏は俗字】め「ペリパテチセン」【」記号脱】学派(がくは)の開祖(かいそ)と為(な)る歴(あれき)
山王(さんでる)崩(ほう)じて後(のち)敵国(てきこく)より僧(そう)を遣(つかは)して亜理斯多(ありすと)を
讒間(ざんかん)す亜理斯多(あ すと)曰(いは)く吾(われ)図(はか)らず此讒(このざん)に遭(あ)ふ必(かなら)ず
「アテネ」人(じん)をして再(ふたゝ)び我(わが)学術(がくしゆつ)を凌辱(れうちよく)【左ルビ:ハツカシ】せしむべか
らずと云(いふ)て乃(すなは)ち「アテネ」《割書:地|名》を去(さ)り「カルシス」《割書:地|名》に

到(いた)り竟(つい)に没(ぼつ)す其(その)一生(いつしやう)著(あらは)す所(ところ)の書冊(しよさく)極(きわ)めて多(おゝ)し
然(しか)れとも和蘭(おらんだ)に伝(つたは)らさる者(もの)亦(また)多(おゝ)し其(その)学術(がくじゆつ)に於(おけ)
る博(ひろ)くして通(つう)ぜざる所(ところ)なし又(また)寰宇(せかい)の理学(りがく)弁物(べんぶつ)
多識(たしき)の説(せつ)に明(あきら)かなり其(その)「アステチア」《割書:地|名》に居(お)る時(とき)
詩 名(めい)一時(いちじ)に騁(へい)すと云(いふ)
 因(ちなみに)云(いふ)。厄勒祭亜(ぎりしや)国(こく)。今(いま)都爾其(とるく)と云(いふ)此国(このくに)は「アガイ
 セ」【」記号脱】海(かい)。地中海(ちちうかい)。玉 泥西海(にすかい)。祋古(とるく)《割書:或は都爾|其に作る》を以(もつ)て其(その)
 四境(しくは[い])を限(かぎ)る初(はじ)め享徳(きやうとく)三年 彼国(かのくに)の紀元(きがん)一千四
 百五十四年 祋古(とるく)の兵(ひやう)既(すで)に公斯璫丁諾波児(こんすたんちのをぽる)を
 を【衍】取(とつ)て之(これ)に拠(よ)り又(また)兵(へい)を進(すゝめ)て此国(このくに)を敗(やぶ)り其民(そのたみ)

を威劫(おひやか)して之(これ)を降(くだ)せしより以来(このかた)闔国(かうこく)其(その)版図(はんと)
に帰(き)すること四百年 許(ばかり)民人(ひと〴〵)一日も寧処(ねいしよ)【ヤスクオル】する
に遑(いとま)あらず其(その)虐政(げきでい)【ママ】を悪(にく)み民人(みんじん)帰服(きふく)の心(こゝろ)なく
上下(しやうか)怨(うら)み畔(そむ)くと雖共(いへども)【虽は雖の俗字】其(その)力(ちから)微弱(びじやく)なるに依(よつ)て能(よ)
く倒懸(たうけん)の苦(くる)しみを解(と)くこと能(あた)はず然(しか)るに天(てん)
保(ほう)三年 彼国(かのくに)の一千八百三十二年 豪傑(がうけつ)興(おこ)り。今(いま)
国人(くにたみ)虐政(げきせい)に係(かゝ)り苦(くる)しむを憐(あはれ)み忠憤(ちうふん)身(み)を遺(わす)れ
国(くに)に徇(じゆん)し義兵(ぎへい)を挙(あし)【ママ】ぐ国民(くにたみ)悦(よろこん)で雲(くも)の如(ごと)く集(あつま)り
身(み)に影(かげ)の従(したが)ふごとく和順(わじゆん)し千辛万苦(せんしんばんく)の戦(たゝかひ)を経(ふ)
れども少(すこ)しも勇気(ゆうき)を撓(たゆま)さず終(つい)に祋古(とるく)の兵(へい)を

破(やぶ)つて独立(とくりう)して一(ひとつの)王国(わうこく)と為(な)る後(のち)に国名(こくめい)を都(と)
爾其(るく)と改(あらた)む是(これ)より前(まへ)文政(ぶんせい)八年 涅弟爾蘭田(おらんだ)の
人(ひと)厄勒祭亜(ぎりしや)を扶(たす)け其(その)交易(かうえき)旺盛(さかん)ならしめんと
欲(ほつ)し同志(どうし)の士(し)を募(つの)りて各々(おの〳〵)其(その)得(え)んと欲(ほつ)する
産物(さんぶつ)を告(つげ)しめ力(ちから)を戮(あは)して彼(か)れに往(ゆき)て交易(かうえき)せ
んとし乃(すなは)ち請帖(しやうでう)【左ルビ:タノミテウ】を国中(こくちう)に発(はつ)す其(その)請帖(くはいぶん)の初条(はじめ)
に云
○方今(いま)欧邏巴(えうろつは)州中(しうぢう)事変(しへん)多端(たたん)なりと雖(い)【虽は俗字】へども
 後(のち)の史(し)【左ルビ:シヨモツ】を記(き)する者(もの)をして今(いま)を相像(しやうざう)【左ルビ:オモヒヤル】せしむ
 るに足(た)るの一大事(いちだいじ)あり夫(それ)厄勒祭亜(ぎりしや)の民人(ひと〴〵)

 は其(その)風俗(ふうぞく)素(もと)より勇(ゆう)を尚(たつと)び義(ぎ)を重(おお)んず今(いま)は
 則(すなは)ち無雙(ぶさう)の忠勇士(ちうゆうし)節義(せつぎ)を奮(ふる)ひ其国(そのくに)を独立(とくりう)
 と為(な)し夷狄(いてき)の政令(せいれい)を離(はな)れて厄勒祭亜(ぎりしや)一国(いつこく)
 の塗炭(とたん)を免(まぬが)れんと欲(ほつ)し殆(ほと)んど四百年 許(ばか)り
 の屈辱(くつぢよく)【左ルビ:ハツカシメ】に遭(あ)ふ後(のち)乃(すなは)ち豪傑(ごうけつ)雲合(うんがう)期(き)せずして
 皆(みな)兵(へい)を操(とつ)て立(た)ち欧邏巴(えうろつぱ)の土(とち)に生(うま)れず欧邏(えうろつ)
 巴(ぱ)の礼俗(れいぞく)と異(こと)にして我(わが)精詣(せいけい)の学科(がくくは)を毀(こぼ)ち
 我(わが)礼義(れいぎ)の俗(ならはし)を傷(やぶ)り天地(てんち)の正道(せいだう)を棄(すて)【弃は古字】て凌辱(れうぢよく)
 を極(きはむ)るの夷狄(いてき)を征(せい)して其(その)控御(こうぎよ)【左ルビ:ユミヒキムマニノル】を脱(だつ)【左ルビ:ノガ[シ]】しその
 羈紲(きえい)【左ルビ:キヅナニカヽル】を免(まぬが)れんと力(ちから)を殫(つく)し精(せい)を竭(つく)し忠勇(ちうゆう)を

 奮(ふる)ふて其身(そのみ)を顧(かへり)みず我(われ)は則(すなは)ち無前(むぜん)の勇偉(ゆうい)
 を奮(ふる)ひ敵(てき)は則(すなは)ち暴虐(ぼうぎやく)【左ルビ:オカシ ソコナフ】を以て人(ひと)の国(くに)を劫制(こうせい)
 するの勢力(せいりき)を逞(たくまし)ふす彼(かれ)是(これ)虎闘(こたう)【左ルビ:トラ タヽカヒ】して竜戦(りやうせん)【左ルビ:リヤウ タヽカフ】し
 孰(いづ)れか贏(か)ち孰(いづ)[れ]か輸(まく)るを弁(べん)ずること能(あた)はず
 四方(しはう)の人(ひと)皆(みな)目(め)を注(ちう)【左ルビ:トヾメ】して其(その)勝敗(かちまけ)の状(ありさま)を覧(み)る
 在昔(むかし)は厄勒祭亜(ぎりしや)の人(ひと)曽(かつ)て已(すで)に忠勇(ちうゆう)を以て
 四方(しはう)の耳目(じもく)を竦聳(おどろか)す而(しか)して今(いま)は其(その)国人(くにたみ)同(どう)
 一(いつ)忠勇(ちうゆう)の心(こゝろ)を抱(いだ)き毅然(きぜん)【左ルビ:ツヨク】として立て其国を
 守(まも)り且(か)つ其道(そのみち)を守(まも)る是(こゝ)を以て欧邏巴(えうろつは)の人
 民(みん)皆(みな)其(その)高義(かうぎ)を仰(あふ)ぎ精忠(せいちう)を慕(した)はざる者(もの)なく

 或(あるひ)は暴厲(ぼうれい)【左ルビ:ヲカシ ソコナイ】恣睢(しすい)【左ルビ:ホシイマヽ】邪説(じやせつ)を信(しん)じ妖怪(ようくはい)を唱(となふ)る夷人(いじん)
 の為(ため)に敗衄(はいじん)【血+刅は衄の俗字】して殺戮(さつりく)に遭(あふ)を聞(きく)毎(ごと)に皆(みな)之(これ)が
 為に血(ちの)涙(なみだ)を逬(はう)【左ルビ:ナガス】【注①】せざる者(もの)なし○其(その)二章(にしやう)は【別本による】今(いま)
 我(わが)同州(どうしう)諸藩(しよはん)彼(かの)国人(くにたみ)と交(まじは)るの浅深(せんしん)親疎(しんそ)を問(と)
 はず凡(およ)そ人心(しんしん)を抱(いた)く者(もの)孰(たれ)か此(この)挙(きよ)を為(な)し運(うん)
 を天(てん)に任(まか)せて同盟(どうめい)の人(ひと)を求(もと)めず救援(きうえん)の兵(へい)
 を請(こ)はず独(ひと)り天庇(てんのたすけ)と独力(ひとりのちから)とを以(もつ)て孑然(けつぜん)【左ルビ:カタヒヂ】【注②】と
 して力(ちから)を量(はか)らず慓悍(へうかん)【左ルビ:ハケシクモ】強暴(きやうはう)【左ルビ:シイオカス】の大国(たいこく)に抗(むかひ)敵(てき)す
 るを見(み)て其(その)中腸(はらわた)を熱(ねつ)し怒火(むね)を沖(ひや)し其(その)百(ひゃく)折(せつ)【左ルビ:クヂケル】
 撓(たゆ)まざるの孤忠(こちう)を憫(あはれ)まざる者(もの)あらんや今(いま)は

【注① 迸は俗字】
【注② 別本、国書データベースの『海外人物小伝』による。https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100414406/82?ln=ja】

 則(すなは)ち其(その)義挙(ぎきよ)【左ルビ:キヘイヲアグル】の大成(おほひになる)を冀(こひねか)ふて万邦(ばんぽう)の人(ひと)期(き)【左ルビ:ヤクソク】せ
 ずして皆(みな)慨歎(なけき)の声(こえ)を発(はつ)せざる者(もの)なし然(しから)ば
 則(すなは)ち我(わが)涅弟耳蘭田(おらんだ)に在(あつ)ても亦(また)自(みづか)ら制(せい)する
 こと能(あた)はずして同(おなじ)く此(この)嗟歎(なげき)の声(こえ)を揚(あぐ)る事(こと)
 固(まこと)に怪(あやし)むべきにあらず況(いはん)や涅弟耳蘭田(おらんだ)の
 如(ごと)きは彼(か)の大挙(たいきよ)を見る間(あいだ)卻(かへつ)て我(わ)が昔日(むかし)の
 喪乱(そうらん)を経(へ)て終(つい)に孥隷(ぬれい)の辱(はづかしめ)を免(まぬか)れ凌辱(れうぢよく)の苦(く)
 を脱(だつせ)【左ルビ:マヌガレ】しことを回想(くわいしやう)【左ルビ:オモヒマワス】するに耐(たへ)たり今(いま)我(わが)他国(たこく)の
 羈紲(きえは)【ママ 注】【左ルビ:キヅナニカヽル】を脱(だつ)し今(いま)の独立(どくりう)を成(な)し基(もと)を固(かため)て万世(ばんせい)
 不抜(ふばつ)の業(げう)を建(たつ)るに至(いた)る功績(いさほし)は千万世(せんばんせ)国人(くにたみ)

【注 22コマ10行目に既出の語には「きえい」とあり、別本にも「きえい」とある。】

 の心肝(しんかん)【左ルビ:ムネキモ】に雕鐫(てうけい)【左ルビ:ホリツケ】し消磨(とぎけ)すべき事(こと)なきを以(おも)へ
 自(みづか)ら民人(ひと〳〵)の性情(こゝろ)を陶鋳(たのしま)して忠良(ちうりやう)の心腸(しんちやう)を
 養成(やうじやう)せり是を以て人の難(なん)を憐(あはれ)み非理(ひり)の冤(えん)【マガレル】
 狂(きやう)【注】【左ルビ:ツミ】を受(うく)る者あれば数々(しば〳〵)其(その)紛(まよひ)を解(と)き其難を
 排(すく)ひ或は他国(たこく)の凌犯(れうはん)【左ルビ:ヒロメ ヲカス】するに遭(あ)へば国(くに)の為(ため)
 に身を徇(じゆん)する者 国史(こくし)に大書(ほめしる)せり云々
此に因(よつ)て観(み)る時は厄勒祭亜(ぎりしや)国人(こくじん)善(よ)く忠をつ
くし進(すゝ)むの心を抱(いだ)き数々 敗衄(はんじん)すと雖(いへ)【虽は俗字】共(ども)敢(あへ)て
屈(くつ)せず終(つい)に祋古(とるく)の絆紲(きづな)を脱(とい)て独立(どくりう)の国 体(たい)を
成せる状(ありさま)を概見(がいけん)【左ルビ:オヨソミル】するに足(た)れり厄勒祭亜(ぎりしや)版図(はんと)【左ルビ:レウブン】

【注 抂は狂の譌字。音はどちらも「キャウ」で「わう」は誤。】

のうち穆勒亜(もれあ)七 州(しう)に分(わか)つ 其(その)一は「アルゴリ
ス」【」記号脱】【注】州(しう)。首府(しゆふ)は「ナウプリ」 其二「アカヤ」【」記号脱】州首府「パ
トラス」 其(その)三「エリス」【」記号脱】州。首府「ガスツーニ」 其
四「ヲップルメスセニー」【」記号脱】州(しう)首府(しゆふ)「アルガチヤ」 其
五「ネードルメスセニー」【」記号脱】州。首府「カラマータ」
其(その)六「ラコニア」州。首府「ミストラ」 其七「アルカ
ヂー」州。首府「トリポリサ」 以上(いじやう)七州 昔(むかし)厄勒祭(ぎりし)
亜(や)の盛(さかん)なるときは人口(にんべつ)二百万今は僅(わづ[か])に三十万
許(ばかり)。近傍諸島(きんぽうしよとう)六州に分つ 其一は北(きた)スホラ
ーデレ」属島(ぞくとう)「スコペロ」「スケロ」「【「記号脱】イスパラ」 其二

【注 【」記号脱】としたところはすべて「州」に続くところなので筆者は意図して「」」を付ていないのかもしれない。】

東(ひがし)スポラーデン」属島(そくとう)「サモス」「パーモス」 其(その)三
西(にし)スポラーデン」属島「ヘイドラ」「エサナ」「サロミ
ス」 其四北セイクラーデン」属島「アントロス」
「セイラ」「セア」 其五 中央(ちうわう)セイクラ【注】ーデン」属島(そくとう)
「ナキソス」「ミロ」「シプリノス」 其六 南(みなみ)セイクラ
ーデン」属島(ぞくとう)「スタムパリ」「サントリン」「カルパト
ス」 以上 島嶼(とうよ)【左ルビ:シマ】六 州(しう)人口(にんべつ)十九万六千 穆勒亜(もれあ)
七 州(しう)を合(あは)して之(これ)を算(さん)するに十三 州(しう)の人口(にんべつ)葢(けだし)
殆(ほとん)ど五十万に及(およ)ぶと云(い)ふ弘化元年(かうくわぐわんねん)に記(き)する
所(ところ)は人口(にんつ)一百万なりと云(いふ)孰(いつれ)か是(せ)なるを知(し)ら

【国書データベースの別本による。https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100414406/85?ln=ja】

ず然(しか)れども祋古(とるく)の毒手(どくしゆ)を免(まぬが)るゝ事(こと)爰(こゝ)に迨(およん)で
已(すで)に十 余年(よねん)なる時(とき)は逃亡(たうばう)【左ルビ:ニゲウセル】の者(もの)回籍(くはいせき)【左ルビ:カヘリシル】し又(また)他国(たこく)
人(じん)も来帰(らいき)し日(ひ)を追(おつ)て家(いえ)富(と)み戸(と)栄(さか)へ人民(にんみん)の繁(はん)
殖(しよく)すること推(おし)て知(し)るべし



《割書:海外|治乱》繍像人物小伝巻之四《割書:終》

【見返し 白紙】

【裏表紙】

【冊子の背】

【冊子の天或は地】

【冊子の小口】

【冊子の地或は天】

BnF.

【表紙」

【表紙裏面】
【資料整理ラベル】
JAPONAIS
  317

【文字なし】

【メモ書きあり】

【メモ書きあり】

【メモ書きあり】

【題箋】 日本王代一覧 三

【表紙裏】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

日本王代一覧巻之一目録
 一葉
一神武天皇 在位七十六年【押印あり】
 二葉
二綏靖天皇 在位三十三年
 二葉
三安寧天皇 在位三十八年【押印あり】
 二葉
四懿徳天皇 在位三十四年
 三葉
五孝照天皇 在位八十三年
 三葉
六孝安天皇 在位百二年
 三葉
七孝霊天皇 在位七十六年
 四葉
八孝元天皇 在位五十七年
 四葉
九開化天皇 在位六十年

 四葉
十崇神天皇 在位六十八年
 五葉
《割書:十|一》垂仁天皇 在位九十九年
 六葉
《割書:十|二》景行天皇 在位六十年
 九葉
《割書:十|三》成務天皇 在位六十年
 九葉
《割書:十|四》仲哀天皇 在位九年
 十葉
《割書:十|五》神功皇后 在位六十九年
 十三葉
《割書:十|六》応神天皇 在位四十一年
 十四葉
《割書:十|七》仁徳天皇 在位八十七年
 十六葉
《割書:十|八》履中天皇 在位六年
 十七葉
《割書:十|九》反正天皇 在位六年

 十八葉
《割書:二|十》允恭天皇 在位四十二年
 十九葉
《割書:廿|一》安康天皇 在位三年
 十九葉
《割書:廿|二》雄略天皇 在位廿三年
 廿葉
《割書:廿|三》清寧天皇 在位五年
 廿一葉
《割書:廿|四》顕宗天皇 在位三年
 廿二葉
《割書:廿|五》仁賢天皇 在位十一年
 廿二葉
《割書:廿|六》武烈天皇 在位八年
 廿三葉
《割書:廿|七》継体天皇 在位廿五年或廿八年
 廿四葉
《割書:廿|八》安閑天皇 在位二年
 廿四葉
《割書:廿|九》宣化天皇 在位四年

 廿五葉
《割書:三|十》欽明天皇 在位三十二年
 廿六葉
《割書:卅|一》敏達天皇 在位十四年
 廿七葉
《割書:卅|二》用明天皇 在位二年
 廿八葉
《割書:卅|三》崇峻天皇 在位五年
 廿九葉
《割書:卅|四》推古天皇 在位三十六年
 卅葉
《割書:卅|五》欽明天皇 在位十三年
 卅一葉
《割書:卅|六》皇極天皇 在位三年
 卅六葉
《割書:卅|七》孝徳天皇 在位十年《割書:大化五年号始 ̄ル|白雉五》
 卅八葉
《割書:卅|八》斉明天皇 在位七年

日本王代一覧巻之一
  人王一代
神武(ジンム)天皇 天照大神ヨリ五代。鸕鷀草(ウガヤ)葺不合尊(フキアヘセズノミコト)第四
 ノ御(ミ)子ナリ。御/母(ハヽ)ヲ玉依姫(タマヨリヒメ)トイフ。龍神(リウジン)ノ娘(ムスメ)ナリ。神
 武御年十五ニテ。太子ニタチタマフ。御年四十五ノ時。
 日向(ヒウガノ)国ヨリ船軍(フナイクサ)ヲヲコシ。筑紫(ツクシ)ヲ平(タイラ)ゲ。安芸(アキノ)国ヘ出タ
 マヒ。其(ソレ)ヨリ吉備(キビノ)国へ到(イタ)リタマヒテ。兵船ヲトヽノヘ。兵
 粮(ラウ)ヲアツメ。三年/逗留(トウリウ)シタマフ。《割書:吉備 ̄ノ国ハ。今ノ備前|備中備後ナリ》其ヨ
 リ難波(ナニハ)河内(カハチ)ヲ歷(ヘ)テ。大和(ヤマトノ)国/孔舎衛坂(クサカエノサカ)ト云所ニテ。長(ナガ)
 髄彦(スネヒコ)トイヘル大/敵(テキ)ト合戦(カツセン)シ。又/紀伊(キノ)国/名草(ナグサ)熊野(クマノ)ニテ。
 度(ド)-々合戦ス。海上ニテ風ニアテラレ。/官軍(クハングン)/利(リ)ヲ失(ウシナツ)テ。神
 武ノ御/兄(イロエ)三人。所々ニテウセタマヒヌ。サレドモ神武ノ

 兵威。次第ニ強ク盛ニシテ。長髄彦(ナガスネヒコ)ヲ始トシテ。菟田(ウダノ)
 兄猾(エウゲシ)。八十梟帥(ヤソタケル)。兄磯城(エシキ)ナド云ル。数多ノ大敵悉ク滅
 シカハ。甲寅(キノヘトラ)ノ年ニ。日向国ヲ出タマヒシヨリ。十年ヲ歷(へ)
 テ。辛酉(カノトノトリ)ノ年。大和 ̄ノ国畝傍山(ウネヒヤマ)ヲ切開(キリヒラキ)テ。始テ内裏(ダイリ)ヲ作(ツク)
 リ。帝位(テイイ)ニツキタマフ。是ヲ橿原宮(カシハバラノミヤ)ト申ス。即是(スナハチコレ)神武
 天皇ノ元年ナリ。宇摩志麻治命(ウマシマチノミコト)ト。道臣命(ミチノヲミノミコト)ト両人。
 武功(フコウ)勝(スグ)レタルニヨリテ。軍兵ヲ召具(メシグ)シ。内裏ヲ警固(ケイゴ)ス。
 道臣命ノ司(ツカサド)ル軍兵ヲバ。来目部(クメブ)トイフ。宇摩志麻治(ウマシマチノ)
 命ノ司ドル所ヲハ物部(モノヽヘ)トイフ。今ニ至ルマテ。武士(ブシ)ヲモ
 ノヽフモフトイフコトハ。是ヨリ始レリ。天種子(アマノタネコノ)命。天富(アマトミノ)命。左(サ)
 右(ウ)ニ侍(ハンベ)リテ。政([マ]ツリゴト)ヲ執行(トリヲコナ)フ。天種子(アマノタネコノ)命ハ。天 ̄ノ兒屋根(コヤネノ)命《割書:春(カス)|日(ガ)》
 《割書:大明|神》ノ未ニテ。藤原氏(フヂハラウヂ)ノ先祖(センゾ)也。又宇摩志麻治 ̄ノ命与

 天奇日方(アマノアヤシヒカタノ)命トヲ以テ。申食國(シンショクコク)政大夫(セイタイフ)トス。此ノ官ハ。後(コウ)
 世(セイ)ノ大臣ノ儀ナリ。天皇アルトキ。高キ丘(ヲカ)ニ登(ノボリ)テ。此
 國 ̄ノ狀(カタチ)蜻蛉(アキツムシ)【左ルビ:カゲラフ】ニ似タルヲ見テ。始テ秋津洲(アキツノス)ト名ヅケ
 ラル。蜻蛉ハ。カゲラフト云(イフ)虫也。天皇(ザイイ)在位七十六
 年ニシテ。崩御(ホウギヨ)マシマス。御年百二十七 此御代ノ
 元年。異朝ニテハ周(シ?ウ)ノ惠(ケイ)王ノ十七年ニ當(アタ)レリ
  二代
綏靖(スイセイ)天皇 神武ノ太子ナリ。御母ヲ蹈鞴(タヽラ)五十(イ)鈴媛(スヾヒメ)ト
 イフ大己貴(ヲホアナムチノ)神ノ孫。事代主(コトシロヌシ)神ノ娘(ムスメ)也。緩靖ノ別腹
 ノ兄ヲ手研耳(タギシミヽノ)命トイフ。年既ニタケテ。神武ノ時
 ヨリ政ニ預リシカバ。世ヲ奪(ウバフ)ノ志アリ。コレニヨリテ。神
 武/崩御(ホウギヨ)以後(イゴ)二年ノ間。綏靖/位(クラヰ)ニ即(ツク)コトアタハズ其

 同腹(ドウフク)ノ兄/神八(カミヤ)井 耳(ミヽノ)命ト談合(ダンカフ)シ。手研耳命ヲ射殺(イコロ)
 シテ。綏靖/卽位(ソクヰ)シタマフ。葛城/高丘宮(タカヲカノミヤ)ニマシマス湯(ユ)
 彦友(ヒコトモノ)命トイフ人。政ヲ執行(トリヲコナ)へリ。在位(ザイイ)三十三年ニシ
 テ崩ス。御年八十四
  三代
安寧(アンネイ)天皇 綏靖ノ太子ナリ。御母ハ。五十(イ)鈴依媛(スヾヨトヒメ)トイ
 ヲ【フの誤ヵ】。是モ事代主 ̄ノ神ノ娘ナリ。此時/都(ミヤコ)ヲ大和(ヤマト)ノ片塩(カタシホ)
 ニ遷シ。浮孔(ウキアナノ)宮ニマシマス。出雲(イヅモ)色 ̄ノ命トイフ人。政ヲ執(トリ)
 行フ 在位三十八年 ̄ニ崩ス。御年五十七
  四代
懿德(イトク)天皇 安寧ノ太子ナリ。御母ヲ渟名底仲媛(ヌナソコナカヒメ)トイ
 フ。鴨王(カモノヲホキミ)トイヘル人ノ娘ナリ 此 代(ヨ)ニ都ヲ大和ノ輕(カルノ)

 地(トコロ)ニ遷(ウツ)シテ。曲峽(マガリヲノ)宮ニマシマス。出雲色 ̄ノ命/政(マツリゴト)ヲ執(トリ)行フ
 在位三十四年 ̄ニ崩ス。御年七十七 此御代元年。異(イ)
 朝(テウ)ニテ。周ノ敬(ケイ)王十年ニアタレリ。孔子此時ニ出
 タル
  五代
孝照(カンセウ)天皇 懿德ノ太子ナリ。御母ハ。天豊津媛(アマトヨツヒメ)トイフ。
 安寧ノ孫(マコ)。息石耳(イキシミ) ̄ノ命ノ娘ナリ 此時都ヲ大和ノ掖(ワキノ)
 上(カミ)ニ遷(ウツシ)シ。池心 ̄ノ宮ニマシマス。出石心 ̄ノ命。瀛津世襲(ヲキツヨソノ)命。
 政ヲ行フ。在位八十三年ニシテ崩ス。年百十四
  六代
孝安(コアン)天皇 孝照ノ太子ナリ。母ハ世襲足(ヨソタラシ)媛トイフ。
 瀛津世襲 ̄ノ命カ妹(イモフト)ナリ 此時ニ大和ノ室地(ムロチ)秋津(アキツ)

 島(シマ)官ト云トコロニマシマス。在位百二年ニシテ崩ス歳
 百三十七
  七代
孝/霊(レイ)天皇 孝安ノ太子ナリ。母ハ押(ヲシ)媛ト云。懿德ノ孫
 天足彦(アマタラシビコ)国/押(ヲシ)人ノ娘ナリ 大和ノ黒(クロ)田/廬戸(イホリドノ)宮ト云
 所ニマシマス
 此帝ノ五年ニ。近江(アフミノ)国ノ地サケテ湖(ミツウミ)タヽヘ。同時ニ駿(スル)
 河(ガノ)国/富士(フジ)山。初(ハジメ)テアラハル ト云/伝(ツタ)ヘタリ。在位七十
 六年ニシテ崩ス。歳(ミトシ)百二十八 此代異朝ニテハ。秦(シン)
 ノ始皇(シクハウ)ノ時ニアタリテ。徐福(ジヨフク)ト云モノ。蓬萊山(ホウライサン)不死(フシ)
 ノ藥ヲモトメントテ。日本へワタリ。富士山ニ留ルト
 云伝タリ。又/紀州(キシウ)熊野(クマノ)ニモ徐福カ祠(ヤシロ)アリ

  八代
孝 元(ケン)天皇 孝 霊(レイ)ノ太子ナリ。母ハ細媛(ホソヒメ)ト云。磯城縣主(シキノコホリヌシ)
 大目(ヲホメ)ガ娘ナリ 大和ノ軽地(カルノトコロノ)境原(サカヒハラノ)宮ト云所ニマシマ
 ス。鬱色雄(ウチシコヲノ)命トイフ人。政ヲ行フ 在位五十七年ニ
 シテ崩ス。歲百十七
  九代
開化(カイクハ)天皇 孝元ノ太子ナリ。母ハ鬱色([ウ]チシコ)譴 ̄ノ命ト云。鬱色
 雄 ̄ノ命カ妹ナリ 大和ノ春日(カスカノ)卒河(イサカハノ)宮ト云トコロニマ
 シマス。孝元ニミヤツカヘセル。伊香色譴(イカシコメノ)命ト云ル女ヲ
 后(キサキ)トス。后ノ父 大綜麻杵(ヲホヘツキ[ノ])命政ヲ行フ。又伊香色雄(イカシコヲノ)
 命モ政ヲ執タリ 在位六十年ニシテ崩ス。歳百十五
  十代

崇神(スウジン)天皇 開化ノ太子ナリ。母ハ伊香色譴命ト云都ヲ
 大和ノ磯城(シキ)ニ遷(ウツ)シテ。瑞籬(ミヅガキノ)宮ニ住(スミ)タマヒ。群(グン)臣ト天
 下ヲ治(ヲサム)ルコトヲ談合(タンカフ)セラル即位ノ初。疫病(ヤクビヤウ)ハヤリ
 ケレハ。天皇其御娘 豊鍬(トヨスキ)入 ̄リ-姫ヲシテ。天照大神ヲ。大
 和ノ笠縫邑(カサヌイノムラ)ニ祭奉(マツリタテマツ)ル。又 渟名城(ヌナキ)入 ̄リ娘【姫の誤ヵ】ヲシテ。大国 魂(タマノ)
 神ヲ祭(マツラ)シム。然レトモ此姫。神ノ心ニヤカナハザリケン。
 髪落(カミヲチ)体痩(カタチヤセ)テ祭(マツル)コトアタハズ。其 後(ノチ)天皇 潔斎(ケツサイ)シ。大 物(モノ)
 主(ヌシノ)神 等(トウ)。八百万(ヤヲヨロツノ)神ヲ祭(マツ)リシカハ。疫病(ヤクビヤウ)ヤミテ国家(コクカ)ユタ
 カナリ《割書:大国魂モ大物主モ皆大己貴神|ノ事ナリ三 輪(ワノ)大明神是ナリ》其後。大彦(ヲホヒコノ)命
 ト。武渟河別(タケヌカハワケ)ト吉備津彦(キビノツヒコ)ト。丹波道主(タンバノミチヌシノ)命ト四人ヲ將(シヤウ)
 軍(グン)トシテ。四方ノ国々へ遣シ。戎夷(ジウイ)ドモヲ平(タイラ)ゲシム。是
 ヲ四 道(タウ)ノ將軍ト云。日本ニテ將軍ノ始ナリ此時 武(タケ)

 埴安彦(ハニヤスヒコ)ト云ル人。謀叛シ。都ヲヲカシケルカ。官(クハン)軍 相(アヒ)
 戦(タヽカフ)テ武埴安彦 亡(ホロビ)ヌ。近国(キンゴク)ステニ治(ヲサマ)ルニヨリテ。皇子 豊(トヨ)
 城(キノ)命ヲシテ。東(トウ)国ヲ治 ̄メ シム。武諸区(タケモロワケノ)命ト云臣ニ。大連(ヲホムラシ)
 ト云 官(クハン)ヲサヅケ。政ヲ執 ̄ラ シム。任那(アマナノ)国ヨリ使者(シシヤ)来(キタリ)テ。
 貢(ミツキモノ)タテマツル。此国ハ三韓ノ內ナルヘシ。異(イ)国ヨリ貢
 ヲ献(ケン)ズルコト是ヲ始トス。或說(アルセツ)ニハ。任那国ヨリ来ル
 人。額(ヒタイ)ニ角アリ。船ニ乗(ノ[ツ])テ越前(ヱチセン)筍飯浦(ケヒノウラ)ニ著(ツキ)タリ。故ニ
 其処ヲ角鹿(ツノカ)ト名(ナヅ)ク。筍飯(ケヒ)ハ。今ノ気比(ケヒ)ナリ。角鹿ハ。今
 ノ敦賀(ツルガ)ナリ 在位六十八年ニシテ崩ス。歳百二十
  十一代
垂仁(スイニン)天皇 崇神ノ太子ナリ。母ハ御間城姫(ミマキヒメ)ト云。大 彦(ヒコノ)命
 ノ娘ナリ。大和国 纒向(マキムク)ニ都(ミヤヰ)シ。珠城(タマキノ)宮ニ住(ヂウ)ス。新羅(シンラ)国ヨ

 リ。天日槍ト云ル者 来(キタリ)テ。鏡(カヽミ)玉(タマ)刀(カタナ)桙(ホコ)等(トウ)ノ宝(タカラ)物ヲタテ
 マツル。天皇ノ后(キサキ)ヲ狹穂姫(サホヒメ)トイフ。后ノ兄ヲ。狹穗彦
 ト云フ。謀叛(ムホン)ノ志(コヽロサシ)アリテ。ヒソカニ后ヲ呼(ヨビ)テ。サマ〳〵ニカ
 タラヒテ。剣(ツルギ)ヲ授(サヅ)ケ。天皇ヲ弑(コロサ)シメントス。后ヲソルヽト
 イヘトモ。辞(ジ)スルコト叶(カナハ)ズ。剣ヲウケトル。或(アル)時天皇后ノ
 膝(ヒザ)ヲ枕(マクラ)トシ。昼寝(ヒルネ)シタマフ。后 如何(イカヾ)セント案(アン)ジワヅラ
 ヒ。覚(ヲホ)ヘズ。涙(ナミタ)ヲチテ帝(ミカト)ノ顔(カホ)ヘカヽル。此時帝ノ御 夢(ユメ)ニ。
 錦(ニシキ)-色(イロ)ノ小蛇(コヘビ)。御 頸(クシ)ニマツハルトミテ目サメヌ。此夢 如何(イカ)
 ナル故(ユヘ)ニヤト。后ニ尋(タヅネ)ラル。后アリノマヽニ申ス。天皇 驚(ヲトロイ)テ。
 汝(ナンヂ)少シモ罪(ツミ)アラストテ。上毛野(カウヅケノ)ハ綱田(ヤツナタ)トイフ大 将(シヤウ)ニ
 命(メイ)ジテ。狹穂彦ヲ伐(ウタ)シム。狹穂彦 稲(イネ)ヲ積(ツミ)テ城(シロ)トシテ
 防戰(フセキタヽカ)フ。此 ̄ノ時后 悲(カナシ)ミテ。我兄ヲ伐(ウタ)セテハ。后トナリテ

 モ面目(メンボク)ナシトテ其 産(ウ▢)【「ウム」ヵ】トコロノ誉津別皇子(ホンツワケノワウジ)ヲ抱(イダキ)テ兄ノ
 城へ入ル。官軍(クハンクン)弥(イヨ〳〵)スヽミテ。后ト皇子トヲハ出スヘキトイ
 ヘドモ。狭穂彦 同(トウ)心セス。八網田 火(ヒ)ヲ放(ハナツ)テ城ヲ攻落(セメヲト)ス。
 皇子ハ抱(イガ)キ取(トリ)テ免(マヌカ)レタリ。狭穂彦ハ。后ト共(トモ)ニ亡(ホロビ)ヌ。此
 皇子 成人(セイジン)ノ後。三十ニ及(ヲヨフ)マテ。言(モノイフ)コトアタハス。或(アル)時 鵠(クヾイ)
 ノ鳴(ナキ)テ飛(トブ)ヲ見テ。是何物ゾト云テ。始テモノイフ
 此御代ニ大和 ̄ノ国ニ当麻蹶速(タヘマノクエハヤ)トイヘル大 力(リキ)アリ。又
 出雲(イヅモノ)国ニ野見(ノミ)ノ宿禰(スクネ)トイヘル勇士(ユウシ)アリ。此 両(リヤウ)人ヲ召(メシ)
 テ。力(チカラ)ヲクラヘシム。野見 力(チカラ)マサリテ。蹶速ガ脇骨(ワキホネ)ヲ折(ヲリ)。
 腰(コシ)ヲ蹈(フミ)テ殺(コロ)ス。是日本ニテ相撲(スマヒ)ノ初ナリ。野見ニハ。
 蹶速ガ領地(リヤウチ)ヲ給(タマハ)リテ。都(ミヤコ)ニ留(トヽ)メテミヤヅカヘセシム。
 此人 埴(ハニ)ヲ以テ人 形(カタ)。其 外(ホカ)様(サマ)々ノ器(ウツハモノ)ヲツクルコトヲ司(ツカサ)

 トル。其 子孫(シソン)代-々 栄(サカヘ)タリ。菅原(スカハラ)氏モ。コノ末(スエ)ナリ
 武渟(タケヌ)川 別(ワケ)ト。彦(ヒコ)国 茸(フク)ト。大 鹿島(カシマ)ト。十千 根(ネ)ト。武(タケ)日ト。五
 人ヲ大夫(タイフ)トシテ政ヲ司シム 此帝ノ在位(ザイイ)二十五年ニ
 アタル三月ニ。皇女(クワウニヨ)倭姫(ヤマトヒメ)ヲシテ。天照大神ヲ。伊勢国 五《割書:イ》
 十 鈴(スゝ)川上ニ祠(マツ)リ奉(タテマツ)ラル。今ノ內官(ナイクウ)コレナリ。倭姫ハ。斎(サイ)
 官(クウ)ノ始ナリ。八十六年ニ。初テ異朝(イテウ)へ使(ツカヒ)ヲ遣サル。後漢(ゴカン)
 ノ光武皇帝(クハウフクハウテイ)ノ末(バツ)年ニアタレリ 在位九十九年ニシテ
 崩ス。歳百四十。天下 泰(タイ)平ニテ目出度(メテタキ)御代ナリ
  十二代
景行(ケイカウ)天皇 垂仁ノ太子ナリ。母ヲ日葉酢媛(ヒハスヒメ)トイフ。丹波 ̄ノ
 道主ノ娘ナリ 天皇 即位(ソクイ)ノ後。美濃(ミノノ)国へ行幸(キヤウガウ)シ。其
 ヨリ大和へ帰(カヘ)リ。纏向(マキムク)日代宮ニマシマス其 後(ノチ)筑紫(ツクシノ)熊(ヲ)

 襲(ソ)謀叛(ムホン)シケレハ。天皇 追討(ツイタウ)ノタメ。筑紫へ行幸アリ。先
 周防(スハウ)ノ国ニ赴(ヲモム)キタマフ。此国ニ神夏磯煖(カミカシヒメ)トイヘル女(ニヨ)人。
 スグレタル大将ニテ。数多(アマタ)ノ人数(ニンジユ)ヲ率(ヒキイ)ケルガ。天皇へ
 皈服(キブク)シ。其国ノ敵共(テキトモ)ヲ平(タイラ)ケ。其(ソレ)ヨリ豊前(フゼン)ノ国ニ到リ
 此国ノ岩窟(イハヤ)ニ。土蜘蛛(ツチクモ)住(スミ)ケルヲ平ケ。日向ノ国へ到リ
 高屋(タカヤ)ノ宮ニ居(ヰ)タマフ。熊(ヲ)襲ノ大将 八十梟師(ヤソタケル)ガ娘ヲ
 召(メシ)テ寵愛(テウアイ)シ。即(スナハチ)其娘ヲカタラヒテ。八十梟師ニ酒ヲ
 勧テ是ヲ殺(コロ)ス。此時 海人(アマ)腹赤(ハラガ)ノ魚(ウヲ)ヲ天皇ニ奉ルコト
 アリ。日向ノ国ニマシマスコト六年ニシテ。又 筑紫(ツクシ)ヲ巡(メグ)リ
 タマフ。或(アル)時 夜(ヤ)-中 船(フネ)ニ乗テ岸(キシ)ニツクコトヲ知ラズ。遥(ハルカ)ニ火
 ノ見ユル処ヲミテ。船ヲ著(ツケ)タマフ。其所ヲ名(ナ)ツケテ。火ノ
 国トイフ《割書:今ノ肥前肥|後両国是也》此時 阿蘇(アソノ)宮 ̄ノ明神人トナリテ

 出テ。天皇ニマミユ。其 後(ノチ)天皇大和 ̄ノ国ニ皈(カヘ)リタマフ。年ヲ
 歴(ヘ)テ。熊襲(ヲソ)又 謀叛(ムホン)シケレハ皇子 小碓(ヲウスノ)尊ヲ大将トシテ
 是ヲ討(ウタ)シム。尊御歳十六。身ノ長(タケ)一-丈(デウ)。力(チカラ)強(ツヨ)クシテ鼎(カナヘ)
 ヲアグ。熊襲(ヲソノ)大将ヲ。川上 梟師(タケル)トイフ。一 族(ソク)ヲ聚(アツメ)テ酒モ
 リシケル所ヘ。尊 偽(イツハ)リテ女ノ形(カタチ)トナリテ。往(ユキ)テ伺(ウカヾ)フ。川上
 是ヲ見(ミ)テ美(イツクシ)キ女ナリト思ヒ。タヅサヘテ一-宿(シユク)セシム。夜ニ
 入テ人ナキ時。尊 袖(ソデ)ノ内ヨリ剣(ツルギ)ヲ抜(ヌイ)テ。川上カ胸(ムネ)ヲ刺(サ)
 ス。川上驚テ。何(ナニ)者ゾト問フ。尊アリノマヽニ語ル。川上申
 ケルハ筑紫ノ内ニテ。我ニマサル大力ナシ。然ルヲ今尊
 殺(コロ)サル。然レハ君ノ御-名(ナ)ヲ日本武(ヤマトタケノ)尊ト申シタテマツル
 べシト云テ終ニ死ス。尊 即(スナハチ)其一 族(ゾク)ヲ平 ̄ケ テ。大和へ皈(カヘ)ル。コ
 レヨリ日本武尊ト名乗(ナノリ)タマフ。其 ̄ノ後 東(トウ)国ノ夷(ヱヒス)トモ謀(ム)

 叛(ホン)シケレハ。今度ハ日本武尊ノ兄(イロエ)大 碓(ウス)皇子ヲ遣サルベシ
 ト沙汰アリケレドモ。甚タヲソレテ逃(ニケ)竄(カクレ)ラルヽニヨリ。又
 日本武尊ヲ大将トシ。東国へ遣(ツカハ)サル。尊 先([マ]ツ)伊勢大神宮(イセノタイジングウ)
 ヘ参(マイ)リ。倭姫(ヤマトヒメ)ニ逢(アフ)テ宝剣(ホウケン)ヲ給(タマハ)リテ進発(シンハツ)ス。駿河(スルカノ)国ニ到
 ル時。野へ出テヽ鹿(シカ)ヲ狩(カ)ル。夷共(ヱヒストモ)火ヲ放(ハナツ)テ尊ヲ焼殺(ヤキコロ)サン
 トス。尊ノ帯(ハキ)タマヘル宝剣(ホウケン)自(ミツカ)ラ抜(ヌイ)テ燃(モエ)来ル草(クサ)ヲナギ
 払(ハラ)フ。尊又 燧(ヒウチ)ヲ打(ウチ)テ。火ヲ放(ハナ)ツ。其 火(ヒ)敵ノ方へ向(ムカ)ヒモヘテ。
 敵(テキ)悉(コト〳〵)ク焼殺サル。宝剣(ホウケン)ヲ草薙(クサナギノ)剣ト云(イヘ)ルハ此イハレナリ
 其(ソレ)ヨリ相模(サカミ)ノ国ヘ到リ。上総(カツサ)ノ海ヲ渡ル時。風アラクテ。
 尊ノ船 危(アヤウ)【「アカウ」は誤ヵ】カリケレハ。尊ノ妾(オンナメ)橘媛(タチバナヒメ)。コレハ竜神ノ尊へ
 タヽリヲナスナルヘシ。君ノ命(メイ)ニ替(カハラ)ントテ。自(ミツカラ)海(ウミ)ニ沈(シヅ)ミヌ。既
 ニシテ風ヤミテ御-舟(フネ)岸(キシ)ニ著(ツ)ク。其ヨリ陸奥(ミチノクノ)国ニ到リ。

  蝦夷(エミシ)ヲ平ケ。常陸(ヒタチ)ニ到リ筑波山([ツ]クハヤマ)ヲ歴(ヘ)テ。甲斐(カヒノ)国へ到リ。
 又 武蔵(ムサシ)上野(カウツケ)ヲ巡(メク)リテ碓日(ウスヒ)ノ坂(タウゲ)ニ登(ノボ)リ東南(タツミ)ヲ望(ノゾ)ミテ。
 橘媛ヲシタヒテ。アカツマトノタマフ。東国ヲアツマト云
 ハ。此イハレナリ。其ヨリ尊 副(フク)将 吉備武彦(キヒノタケヒコ)ヲ北陸道(ホクリクタウ)へ
 遣(ツカハ)シ。尊ハ信濃(シナノ)ヲコヘテ。美濃(ミノ)ヘ出。武彦モ。北陸道ヨリ。
 此所ヘ参会(サンクハイ)ス。其(ソレ)ヨリ尊 尾張(ヲハリ)ヘ出テ。宮簀媛(ミヤスヒメ)ヲ娶(メトツ)テ。
 暫(シバラ)ク逗留(トウリウ)セラル。近江国 膽吹(イブキ)山ニ悪神(アクシン)アリト聞テ。
 尊 歩(カチ)ニテ山へ登(ノボ)ル。山神大-蛇(ジヤ)トナリテ途([ミ]チ)ニ卧ス。尊
 其 ̄ノ蛇(ジヤ)ヲ蹈(フン)テ通(トヲ)リ過(ス)ク。此時山中ニ雲(クモ)霧(キリ)起(ヲコリ)テ甚(ハナハ)ダ
 暗(クラ)シ。尊ヤウ〳〵霧(キリ)ヲシノヒテ山ヲ出。其心マドヒテ酒(サケ)
 ニ醉([ヱ]イ)ルガコトシ。山(サン)下ノ泉(イツミ)ヲノミテ醒(サメ)ヌ。其 泉(イ)ヲ醒井(サメカイ)ト
 云。此ヨリ尊 毒気(トクキ)ニアタリ。御 身(ミ)イタミ。煩シキニヨリ。

 尾張ニ還リ伊勢へ移ル。御 痛(イタミ)イヨ〳〵甚(ハナハタシ)キニヨリ。武彦(タケヒコ)
 ヲ使者(シシヤ)トシテ。東国ヲ平(タイラ)グル趣(オモムキ)ヲ天皇ニ申ス。暫(シハラ)ク
 アリテ。尊ハ伊勢《割書:ノ》国 能褒野(ノホノ)ト云フ所ニテ隠(カク)レタマヒ
 ヌ。御歳三十。後ニ白鳥(シラトリ)ト化(ケ)シテ。大和国 琴弾(コトヒキ)ノ原(ハラ)
 ニ飛行(トビユク)ト云ツタヘタリ。天皇 甚(ハナハ)タ歎(ナゲ)キ悲(カナシ)ミタマフ
 其《割書:ノ》後(ノチ)天皇 武内宿禰(タケウチスクネ)ヲ以テ棟梁(トウリヤウ)ノ臣トス。諸臣ノ
 カシラト云フ義ナリ。天皇 晩年(バンネ[ン])日本武尊ヲシタ
 フコトヤマズシテ。其 平(タイラ)グル処々ヲ見ントテ。自ラ東
 国へ行幸ス。其(ソレ)ヨリ都ヲ近江国 志賀(シガ)ニ遷(ウツ)シ。三年 住(スミ)
 タマヒ。志賀ニテ崩御(ホウギヨ)セラル 在位六十年。御歳百
 六。御子七十 余(ヨ)人アリ。皆国々 郡(コホリ)々へ分(ワカ)チ居(ヲラ)シム。
 其 子孫(シソン)多(ヲホ)シ

  十三代
成務(セイム)天皇 景行ノ御子日本武尊ノ弟ナリ。母ハ八坂(ヤサカ)
 入媛ト云。八坂入 彦(ヒコ)皇子ノ娘ナリ。近江 ̄ノ志 賀(カ)ニ都ヲ
 立テ。高穴穂(タカアナホノ)宮ニ住(スミ)タマフ。武内宿禰ヲ以テ大 臣(ジン)ト
 ス。是大臣ノ始ナリ国々 郡(コホリ)々ニ司(ツカ)サヲタテ。其 ̄ノ所々へ
 武具(ブグ)ヲ分チツカハシ。山川(サンセン)田畠(デンハタ)村里(ソンリ)ノ境(サカイ)ヲ分(ワカ)チ定(サタメ)ヲ
 ル。百-姓(シヤウ)悦(ヨロコビ)テ。天下無事ナリ 在位六十年ニシテ崩ス。
 御歳百七
  十四代
仲哀(チウアイ)天皇 日本武尊(ヤマトタケノミコト)ノ御子。成務ノ姪(オイ)【注】ナリ。日本武大
 攻(コウ)アントモ早世(サウセイ)ニヨリテ。帝位(テイイ)ニ即(ツカ)ス。故ニ成務ノ時。
 此仲哀ヲ太子トシテ位(クラヰ)ヲ譲(ユヅ)ル。母ハ両道(フタミチ)入媛ト云。

【「姪」は「甥」の意にも使われる文字。横のアルファベットの振りによって「オイ」とす】

 垂仁ノ娘ナリ 天皇 即位(ソクイ)シ。御 父(チヽ)日本武尊ヲシタ
 ヒタマヒテ。諸国ニ詔(ミコトノリ)シテ。白鳥ヲタテマツラシム。尊
 白鳥ト化(ケ)シタルユエナリ。此 ̄ノ時 大伴(ヲホトモノ)武 持(モチ)ヲ大 連(ムラジ)トシ。
 大臣武内宿禰ニナラヘテ。政(マツリコト)ヲ行(ヲコナハ)シム。後世ノ左右(サウ)大-
 臣ノ義ナリ。即位ノ明(アクル)年越前 ̄ノ角鹿(ツノカ)ニ行幸シ笥飯(ケヒ)ノ
 宮ニ住(スミ)タマフ。暫(シハラ)クアリテ。皇后(クハウクウ)幷(ナラビニ)百官ヲバ角鹿ニ
 留(トヽメ)テ紀伊国ニ行幸ス。此時 熊襲(ヲソ)謀叛(ムホン)ノ由(ヨシ)聞(キコ)ヘケレ
 ハ。天皇ハ直(スク)ニ長門(ナカトノ)国へ行幸。后モ角鹿ヨリ長門 ̄ノ国
 へ参会(サンクハイ)シ。豊浦(トヨラ)ノ宮ニ住(スミ)タマフ。其(ソレ)ヨリ筑紫ノ橿日(カシヒノ)
 宮ヘ遷(ウツシ)テ熊襲(ヲソ)ヲ討(ウツ)コトヲ謀(ハカ)ル。其 ̄ノ折節(ヲリフシ)皇后(クハウクウ)ヘ。アヤ
 シキ神託(シンタク)アリテ。熊襲ヲバサシヲキ。新羅国(シンラコク)ヲ討(ウタ)ルベ
 シトツケラルヽトイヘドモ。天皇同心セズ。自(ミツカ)ラ兵(ツハモノ)ヲ率(ヒキ)ヒ

 テ。熊襲ヲ討(ウチ)タマフ。軍(グン)中ニテ。御 身(ミ)煩(ハツラハ)シクシテ。程(ホド)ナク
 崩御(ホウキヨ)シタマフ。或ハ賊(ゾク)ノ矢(ヤ)ニアタリタマフトモ云リ
 在位九年。御歲五十二。越前 ̄ノ気比(ケヒノ)大明神ハ此天皇ヲ
 崇(アガ)メ祠(マツ)ルトナン
  十五代
神 功皇后(ゴウクハウグウ) 仲 哀(アイ)ノ后(キサキ)ナリ。開化(カイケ)天皇ノ曾孫(ヒマコ)。気長宿禰(イキナガスクネ)
 ノ娘ナリ 皇后 筑紫(ツクシ)ニテ懐妊(クハイニン)ノ內ニ。仲哀 崩御(ホウギヨ)ア
 リ□【シ】カハ。武内大臣ト相談(サウダン)シ。仲哀ノ崩御ヲカクシ。官(クハン)
 軍(グン)ヲ遣(ツカハ)シ。熊襲(ヲ▢)【ソ】ヲ討平(ウチタイラケ)シム。其外ノ謀叛人(ムホンニン)ヲモ皆シ
 ヅメタマフ皇后神 託(タク)ニマカセ。新羅ヲウタントヲホシ
 メシ。肥前 ̄ノ国 松浦(マツラ)ノ河ニテ鉤(ツリハリ)ヲナケ。我 思(ヲモ)フコト。カ
 ナフベクンバ。此 餌(エ)ヲハムヘシト云テ鉤竿(ツリサホ)ヲアケタマヘ

 ハ。《振り仮名:細-鱗-魚|アユ》ヲ得タリ。今ニ至(イタル)マテ。此河ニ《振り仮名:年-魚|アユ》多(オホ)シ。女
 人 鉤(ツル)トキハ魚ヲ得。男(ヲトコ)鉤トキハ魚ヲ得ズトナン。皇后
 又 橿日浦(カシヒノウラ)ニテ御髪(ミクシ)ヲトキテ曰(イハク)。我 西方(サイハウ)ヲウタントス。
 其 験(シルシ)アルベクンハ。我 髮(カミ)分(ワカ)テ両(フタノ)トナルベシトテ。御髪ヲ海(カイ)
 水(スイ)ニヒタシ洗(アラ)ヘハ。忽(タチマチ)両方へ分(ワカ)レケレハ。即(スナハチ)其 ̄ノ分(ワカ)ルヽマヽニ。
 分チ束(▢▢)ネテ髻(モトヽリ)トシテ。男子(ナンシ)ノ貌(カタチ)ヲ仮(カリ)テ。群(クン)臣ト征伐(セイバツ)
 ノコトヲ議(ギ)シタマフ。即 ̄チ諸国(シヨコク)ヘ勅(チヨク)シテ。船(フネ)ヲアツメ。武(フ)
 具(グ)ヲトヽノヘ。軍兵(グンビヤウ)ヲメシアツム。弩(ト)ト云ル大弓モ。此時
 始テ作(ツク)レリ。皇后ミツカラ斧(ヲノ)鉞(マサカリ)ヲ取([ト]リ)テ。諸軍ヲ下知(ケヂ)シ
 タマフ。住吉明神(スミヨシミヤウジン)ノ霊(レイ)出テ御 舟(フネ)ヲ守(マモ)リ。先鋒(サキガケ)スト云ツ
 タヘタリ。此神ハ水神(スイジン)ナルユヘナリ。其 外(ホカ)アヤシキ事ド
 モ多シ。皇后 石(イシ)ヲ取テ。御 腰(コシ)ニハサ三。マジナイタマヒテ。

 願(ネガハク)ハ胎内(タイナイ)ノ皇子。征伐(セイハツ)ヲハリテ。還(カヘラ)ン時ニ。誕生(タンジヤウ)シタマ
 ヘトノタマフ。御 船(フネ)スデニ和珥津(ワニノツ)ヨリ出ルトキ。波(ナミ)風 甚(ハナハダ)
 アラカリケルガ。海中(カイチウ)ノ大-魚(ギヨ)多(ヲホ)ク浮(ウカ)ヒ出テ。御 船(フネ)ヲサ
 シハサミマモリケレバ。波(ナミ)風モタヲヤカニナリテ。幾程(イクホド)モ
 ナク。新羅(シンラ)へ著(ツキ)タマフ。新羅ノ王。大ニ恐(ヲソ)レ。是ハ日本ノ神(ジン)
 兵ナルベシトテ。拒(フセグ)コトアタハズ。自(ミツカ)ラ囚(トラハレ)【左ルビ:メシウト】人トナリ。素(シロ)キ
 旗(ハタ)ヲ立テ降参(カウサン)シ。永(ナカ)ク日本ノ奴(ヤツコ)トナリテ。貢(ミツキ)物ヲ棒(サヽク)ベ
 シト申ス。官軍(クハングン)新羅王ヲ誅(チウ)セント申ス。皇后下知シ
 テ其 命(メイ)【左ルビ:イノチ】ヲユルシ。遂(ツイ)ニ其国中ヘ入テ。財宝(サイホウ)ノ入タル府庫(クラ)
 ニ封(フウ)ヲツケ。絵図(エヅ)書物(シヨモツ)ヲ収(ヲサメ)トリ。皇后ノ枝(ツエ)ニツキタマ
 フ矛(ホコ)ヲ。新羅王ノ門ニタテヽ。後世ノシルシトス。或說(アルセツ)ニハ。
 新羅王ハ。日本ノ犬(イヌ)ナリト。弓(ユミ)ニテ書(カキ)ツケタマフ。是 犬(イヌ)

  追(ヲフ)物ノヲコリナリトモ云リ。新羅王スナハチ人 質(ジチ)ヲ
 タテマツリ。金銀 幷(ナラビニ)色(イロ)アル絹(キヌ)サマ〴〵ヲ。船八十 艘(サウ)ニ
 ツミテ奉ル。コレヨリ毎(マイ)年八十艘ノ貢(ミツキ)物ヲタテマツ
 ル。高麗(カウライ)王 百済(ハクサイ)王コレヲキヽテ。ヒソカニ人ヲツカハシ。日
 本ノ軍(イクサ)ノ勢(セイ)ヲウカヾヒ。敵対(テキタイ)ナリガタキコトヲサトリ
 テ。各(ヲノ〳〵)自(ミツカ)ラ皇后ノ御 陣(ヂン)ニ参(マイリ)テ。頭(カウベ)ヲタヽキ平伏(ヘイフク)シ。今
 ヨリ以後(イゴ)。永(ナガ)ク日本ヘシタガヒ。毎年ノ貢物ヲコタルへ
 カラズト□ス新羅高麗百済ヲ。三韓ト云。今ノ朝鮮(テウセン)
 是ナリ。三韓スデニ平(タイラギ)ケレハ。大 矢(ヤ)田 宿禰(スクネ)ト云人ヲ。新
 羅(ラ)ニ留(トヾメ)テ鎮守(チンシユ)将軍トシ。三韓ヲ下知セシメテ。皇后ハ
 皈朝(キテウ)シタマフ。異朝(イテウ)ノ書ニハ。此 ̄ノ時 魏(ギ)ノ帝(ミカド)ノ使(シ)-者(シヤノ)張政(チヤウセイ)
 ト云モノ来テ。日本ト三韓トノ。アツカヒノ事ヲ調(トヽノ)フト

 イヘリ  皇后 筑紫(ツクシ)ヘ皈(カヘ)リ。皇子ヲ誕生(タンジヤウ)ス。応神(ヲウジン)天皇
 是ナリ。其所ヲ宇瀰(ウミ)ト名(ナ)ヅク。コヽニヲヒテ皇后 豊浦(トヨラ)
 へ皈(カヘ)リ。仲哀天皇ノ喪(モ)ヲヲサメテ。大和ヘ赴(オモム)ク。此時ニ
 仲哀ノ妾(ヲンナメ)ノ子(コ)。麛坂(カコサカノ)王。忍熊(ヲシクマノ)王二人。兵ヲ起(ヲコ)シ播磨(ハリマノ)国
 ニテ。皇后ヲ防キテ曰ク我ハ兄(イロネ)ナリ。皇后ノ産(ウメル)トコロハ。
 弟ナリ。何ノ従(シタガ)フベケンヤト云フ。其 ̄ノ ヲリフシ。麝坂王 狩(カリ)ニ
 出テ。赤キ猪(イ)ニ食殺(クヒコロ)サル。忍熊 ̄ノ王ハ退(シリソキ)テ。山 城(シロ)国 菟道(ウヂノ)
 辺(ヘン)ニ陣(ヂン)ヲ張(ハ)ル。皇后 武内宿禰(タケウチスクネ)ヲ大将トシテ。忍熊 ̄ノ王
 ヲ伐ツ。武内 詐(イツハ)リテ曰ク。忍熊 ̄ノ王 帝位(テイイ)ニ即(ツク)ベシ。皇后 母(ボ)
 子(シ)従(シタガ)ヒ奉ラルベシト云。忍熊 悦(ヨロコヒ)テ油断(ユダン)スル所ヲ。武内
 急(キフ)ニ攻(セメ)ケレハ。忍熊 破(ヤブ)レ。走(ハシ)リテ勢(セ)田ニ沈(シヅ)ミ死ス。コレニヨ
 リテ。皇后天下ノ政(マツリコト)ヲ執行(トリヲコナ)ヒ。大和ノ磐余(イハレ)ノ宮ニ住(スミ)タ

 マフ。仲哀天皇ノ葬礼(サウレイ)ヲ執行(トリオコナ)ヒ。産(ウメ)ルトコロノ皇子ヲ
 太子トス。異朝(イテウ)ノ魏(ギ)ノ国ヘ。使者(シシヤ)ヲ両度(リヤウド)遣(ツカハ)ス。魏(ギ)ノ国ヨ
 リモ。使者 来朝(ライテウ)ス。互(タカイ)ニ贈(ヲクリ)物アリ。又 呉(コ)国ノ王 孫権(ソンケン)ハ。日
 本ヲ攻(セメ)ントテ。数(ス)万ノ人 数(ジユ)ヲ渡(ワタ)ストイヘドモ。海(カイ)上ニ
 テ疫病(ヤクビヤウ)ニカヽリテ。死(シス)ルモノ多シ。総(ソウ)【惣】ジテ此皇后ノ事
 ハ。異朝ノ書物ニモ。多ク書記(カキシルシ)タリ 在位六十九年
 ニシテ崩ス。時百歳
  十六代
応神(ヲウジン)天皇 仲哀ノ御子ナリ。御母ハ。神功皇后ナリ。胎(タイ)
 内(ナイ)ニマシマス時。仲哀 崩御(ホウギヨ)アリ。皇后ノ腹(ハラ)ニヤドリタ
 マヘハイマダ生(ム)レズトイヘリ。既(スデ)ニ帝王ノ正 統(トウ)ナリトテ
 胎中(タイチウ)天皇ト申ス生レタマエル時。御 腕(ウデ)ノ上ニ。肉(ニク)高(タカ)クア

 ツマリテ鞆(ホンダ)【左ルビ:トモ)】ノゴトシ。鞆ハ。箙(エビラ)ノコトナリ。此 時分(シブン)ニ。箙ノ
 名ヲ。ホンダトイフニヨリテ。天皇ノ御名ヲ。誉田(ホンダノ)天皇
 ト申ス。神功崩シテ後。即位(ソクイ)シタマフ。大和ノ軽島明(カルノシマアケノ)
 宮ニ住タマフ。《振り仮名:蝦-夷|エミシ》-人ヲ召(メ)シテ。廏坂(ムマヤザカノ)道ヲ造(ツク)ラシム。
 三 韓(カン)ノ人ヲ召(メシ)テ池(イケ)ヲ掘(ホラ)シム。総(ソウ)【惣】ジテ此時ハ。三韓 残(ノコ)
 ラス貢(ミツキ)物ヲ奉リ。其 国政(コクセイ)モ皆(ミナ)日本ヨリ下-知(チ)ス。武内
 大臣此代ニモ政(マツリコト)ヲ執行(トリヲコナ)ヒケルガ。或(アル)時 勅使(チヨクシ)トシテ筑(ツク)
 紫ヘ赴(ヲモム)キケル間ニ。大臣ノ弟(ヲト〳〵)甘美内(ウマシウチノ)宿禰 讒言(ザンゲン)シ申
 ケルハ。武内筑紫ニテ。三韓ヲカタラヒ謀叛(ムホン)セントスト
 奏(ソウ)ス。天皇 怒(イカツ)テ使者ヲ遣(ツカハ)シ。武内ヲ殺(コロ)サシム。壱伎直(イキノアタヒ)
 ノ真根子(マネコ)ト云モノ。武内ノ命ニ替(カハ)リテ死ス武内ハ。
 竊(ヒソカ)ニ皈(カヘ)リテ科(トカ)ナキ由ヲ申ス。天皇 聞(キヽ)テ。武内ト。其美

 内ト。神前(シンゼン)ニテ湯(ユ)ヲ探(サクラ)シメ。其 実否(ジツフ)ヲ決ス。武内 勝(カツ)テ。本(モト)
 ノゴトク官職(クハンシヨク)ニ復(フク)ス。湯起請(ユキシヤウ)ノ起(ヲコ)リハ是ナリ
 此代ニ。百済国ヨリ。王仁トイエル《振り仮名:博-士|ハカセ》。論語(ロンコ)等(トウ)ノ書(シヨ)物
 ヲ持(モチ)テ来朝(ライテウ)ス。太子 菟道稚郎子(ウヂノワカイラツゴ)是ヲ師(シ)トシテ。書ヲ
 読習(ヨミナラ)フ。又 絹(キヌ)ヲヌヘル者モ。絹 織(ヲル)ル者モ。糸綿(イトワタ)ツミヒク
 モノモ。三韓ヨリ皆来ル。呉国(ゴコク)ヨリ来レル者ヲバ。呉織(クレハトリ)
 ト云 ̄フ。秦(シン)ノ始皇(シクハウ)ノ子孫(シソン)モ。後漢(ゴカン)ノ帝(ミカト)ノ子孫モ。来朝ス
 ル者アリ或(アル)時天皇吉野へ行幸スルトキ。此山ノ奥(ヲク)
 ノ国樔(クス)ト云所ニスメル者 参(マイ)リテ。醴(コザケ)ヲ奉ルコトア
 リ。吉野ノ国樔ノ。内裏(ダイリ)ヘ参ルコトハ。コレヨリ始レリ
 在位四十一年ニシテ崩ス。御歳百十  此天皇 欽(キン)
 明(メイ)ノ代ニ。神(カミ)ト現(ケン)【左ルビ:アラハシ】ジ。豊前(ブゼンノ)国 宇佐(ウサノ)宮ニ崇(アガ)メ奉ル。白 幡(ハタ)

 八 流(ナカレ)クダリ立タルイハレアルニヨリテ。八 幡(マン)大菩薩ト
 申ス。清和(セイワ)ノ御時。山城 ̄ノ国男山ヘ勧請(クハンジヤウ)セラレテ。宗廟(ソウベウ)
 トナレリ
  十七代
仁德(ニントク)天皇 応神ノ御子ナリ。母ハ仲(ナカ)姫ト云フ。五百城(イヲキ)
 入 彦(ヒコノ)皇子ノ孫(マゴ)ナリ。誕生(タンジヤウ)ノ日 木(キ)菟ト云 鳥(トリ)来テ産殿(ウブドノ)
 へ入ル。同日ニ武内大臣モ子ヲウメリ。鷦鶺(サヾキ)ト云鳥来
 テ。其 産屋(ウブヤ)ヘ入ル。応神此ヲ聞テ。実(マコト)ニアヤシキコトナ
 リ。君臣其シルシヲ。トリカヘテ名ヅケントテ。皇子ノ
 名ヲハ。大鷦鶺ト云ヒ。武内カ子ノ名ヲバ。木菟 宿禰(スクネ)
 ト云フ。応神在位ノ時 末子(バツシ)菟道稚郎子(ウヂノワカイラツゴ)ヲ太子ト
 シテ国ヲ譲リ。大鷦鶺ヲバ。太子ノ輔(タスケ)トシテ。政ヲ行(ヲコナハ)シ

 ム。然ルニ応神崩御ノ後。太子 位(クラヰ)ヲ大鷦鶺ニ譲(ユヅ)ル。大鷦
 鶺イカデカ兄ナリトモ。父ノ意ニソムクベケンヤト云テ
 ウケズ。互(タガイ)ニ相譲ルコト三年マデ帝位(テイイ)定(サダマ)ラス。太子ハ
 菟道(ウヂ)ニマシマス。大鷦鶺ハ難波(ナニハ)ニヲハシマス。民ノ貢(ミツキ)物
 モ両方へ持運(モチハコベ)ドモ。タガヒニユヅリテトラズ。太子 宣(ノタマ)ヒ
 ケルハ。我 生(イキ)テ天下ヲハ【ワの誤記ヵ】ヅラハサンヨリハトテ。自(ミヅカ)ラ死
 シタマフ。大鷦鶺 驚(ヲドロイ)テ行テ見(ミ)レバ。太子ヨミガヘリテ。
 辞(コトバ)ヲカハシテ。遂(ツイ)ニ死ス。コレニヨリテ大鷦鶺 遂(ツイ)ニ即(ツク)
 _レ位(クラヰニ)仁德天皇是ナリ攝 ̄ツ津 ̄ノ難波ニ都シ。高津(カウツノ)宮ニマシマ
 ス。倹約(ケンヤク)ヲ好(コノ)ミテ。内裏(タイリ)ノ宮 造(ヅク)リモ色ドリカザルコト
 ナシ。百済ノ王仁 難波津(ナニハヅ)ノ歌(ウタ)ヲ奉(タテマツリ)テ祝(ユハヒ)ヲノブ。在位ノ
 四年ニアタリテ。高キ屋ニ登(ノボ)リテ望見(ノゾミミル)ニ。民(タミ)ノ竈(カマド)ノ

 煙(ケフリ)少(スクナ)カリケレバ。百姓(ハクセイ)ノ貧(マドシ)キコトヲ覚(サトリ)テ。年貢(ネング)ノ外ノ
 課役(クハヤク)ヲ免(ユル)シ。御衣(ギヨイ)ヤブルレドモ。改(アラタ)メ調(トヽノ)ヘズ。御殿(ゴテン)クヅレ
 テ雨風モレトモ修理(シユリ)スルコトナシ。御 膳(ゼン)ヲモ減(ケン)ゼラル。
 カクテ三年ヲ歴(ヘ)テ。又高キ屋ニ登リテ見タマヘバ。
 竈(カマド)ノ煙(ケフリ)甚(ハナハタ)繁(シゲ)ク立ツヲミテ。百姓ノ富(トメ)ルヲシリテ大
 一 【「ニ」ヵ】悦(ヨロコ)ブ。五 穀(コク)モ饒(ユタカ)ナリケレバ。百姓 等(ラ)内裡ヲ修理セン
 ト望(ノゾ)ム。同心シタマハズ。又三年ヲ歴テ始テ内裏ヲ造(ツク)
 リケレハ。百姓 老(ヲヒ)タルモ少(ワカ)キモ。皆力ヲ竭(ツク)シテ。幾程(イクホド)モナ
 ク成就(ジヤウジフ)ス。此天皇ヲ聖人ナリト誉(ホメ)タテマツルトナン。或(アル)
 時 高麗(カウライ)国ヨリ。鉄(クロカネ)ノ楯(タテ)。鉄ノ的([マ]ト)ヲ奉ル。天皇其 使(シ)者ヲ
 内裏ヘ召(メ)シ。盾(タテ)人 ̄ノ宿禰(スクネ)ニ命ジテ。此 ̄ノ鉄 ̄ノ的(マト)ヲ射通(イトヲ)サシム。
 彼 ̄ノ使者是ヲ見テ大ニ畏ル。百済国ヨリ酒 ̄ノ君ト云人

 来テ鷹(タカ)ヲスヘテ。天皇ノ御狩(ミカリ)ニ供奉(グブ)シ。雉(キジ)ヲトル是日
 本ニテ鷹狩ノ始ナリ。武内大臣ハ。景行ノ時ヨリ以(コノ)
 来(カタ)。成務仲哀神功応神ヲ歴(ヘ)テ。此代ニ薨(コウ)ス。凡(ヲヨソ)六代
 ノ間。政ヲ執(トル)コト二百四十余年。其 ̄ノ齢(ヨハイ)三百十七歳
 トナン。或(アルイ)ハ三百三十歳トモ云リ。子共 多(ヲホ)クアリテ
 子孫 繁昌(ハンジヤウ)ス 額田(ヌカタノ)皇子ト云人。闘鷄(ツゲ)ノ山中ニ狩シ
 テ夏ノ氷(コホリ)ヲ得テ。天皇ニ奉ル。コレヨリ水室(ヒムロ)トテ。冬
 ノ氷(コホリ)ヲ取テ。春夏マデ蔵置(カクシヲク)コト始レリ
 飛弾(ヒダノ)国ニ人アリ。其名ヲ宿儺(スクナ)ト云。身ハ一(ヒト)ツニシテ。其
 面(ヲモテ)二ツアリ。手足 各(ヲノ〳〵)四ツアリ。力 強(ツヨ)ク身(ミ)軽(カロ)シ。弓矢ヲ
 持(モチ)。剣(ツルギ)ヲ佩(ハイ)テ。人ヲナヤマス。武振熊(タケフルクマ)ト云人。勅(チヨク)ヲ承(ウケタマハツ)テ是
 ヲ討殺(ウチコロ)ス。天皇 治世(ヂセイ)ノ間。昼夜(チウヤ)心ヲ政(マツリゴト)ニ尽(ツク)シ。民ヲ恵(メグ)

 ミタマイシカバ。天下 泰(タイ)平ニシテ。王化大ニ行(ヲコナハ)ル
 在位八十七年ニシテ崩ズ
  十八代
履(リ)中天皇 仁徳ノ御子ナリ。母ヲ磐之媛(イハユキヒメ)【注】ト云。武
 内ノ孫(マゴ)。葛城(カヅラキ)ノ襲津彦(ソツヒコ)ノ娘ナリ 仁徳崩御アリ
 テ。履中 即位(ソクイ)ナキ内。田 矢代(ヤシロノ)宿禰ガ娘 黒媛(クロヒメ)ヲ娶(メトラン)ト
 テ御 弟(ヲト〳〵)住吉(スミヨシノ)仲 ̄ノ皇子ヲ遣(ツカハ)シテ。案内(アンナイ)ヲ通(ツウ)セシム。時
 ニ仲 ̄ノ皇子ヲノレ天皇ナリト名ノリテ黒媛ヲヲカス。
 皈(カヘ)ルトキニ鈴(スヾ)ヲワスレテ。媛ノ所ニノコセリ。其 明夜(アクルヨ)
 天皇媛ノ所へ行幸アリ鈴ヲ見テ。此ハ誰(タレ)ガ鈴ソヤ
 ト云。媛。君ノ昨夜(サクヤ)持(モチ)来タマフ物ナリキト申ス。天皇
 驚(ヲトロキ)テ。サテハ仲 ̄ノ皇子 既(スデ)ニ媛ヲヲカセリト知テ。言(コトバ)ナ

【注 「イハノヒメ」とあるところ。アルファベットの振りを見ると「いわの」となっている】

 クシテ皈(カヘ)リタマフ。仲 ̄ノ皇子此 ̄ノ事アラハレヌトヲソレ
 テ却(カヘツ)テ兵ヲ起(ヲコ)シ。内裏(タイリ)ヲ囲(カコ)ム。天皇 少(スコシ)モヲモヒヨフ
 ズ。酒(サケ)ニ酔(ヱヒ)テ臥(フ▢)タマフ。平郡(ヘグリ)ノ木菟(キツ)宿禰。物部 ̄ノ大 前(マエ)阿(ア)
 知使主(チキミ)。三人 参(マイリ)テ。俄(ニハカ)ニフセグベキヤウモナケレバ。天皇ヲ
 馬ニ扶(タス)ケ乗(ノ)セタテマツリ。河内(カハチ)ヘ逃行(ニケユク)。仲 ̄ノ皇子。天皇ノ
 逃(ニゲ)出ルヲシラズ。火ヲ放(ハナタ)テ。難波ノ内裏ヲ焼(ヤ)ク。天皇大
 和ノ国へ越(コエ)テ。人 数(ジユ)ヲ聚(アツ)ム。此 ̄ノ時御-弟 瑞歯別(ミツハワケノ)皇子。難
 波ヨリ馳(ハセ)参ル。天皇 汝(ナンヂ)モ仲 ̄ノ皇子ガ同類(ドウルイ)カト疑(ウタカヒ)テ。対(タイ)
 面(メン)セスシテ曰ク。若(モシ)実(マコト)ノ忠心(チウシン)ナラハ。難波ニ皈リテ。仲 ̄ノ
 皇子ヲ殺(▢▢)スヘシ。瑞歯別スナハチ木菟宿禰と同 道(ダウ)シ。
 難波ニ皈リ。仲 ̄ノ皇子ノ近習(キンジユ)ノ者 ̄ノ刺領巾(サシヒレ)ヲカタラヒテ
 仲ノ皇子ヲ厠(カハヤ)ノ內ニ殺ス。木菟宿禰瑞歯別ニ申(モウシ)ケルハ。

 刺領巾 功(コウ)アリトイヘトモ。其 己(ヲノレ)ガ君ヲ弑(コロ)セル者([モ]ノ)ナレバ。
 免(ユル)スベキニアラストテ。刺領巾ヲ殺ス。仲 ̄ノ皇子ノ同 類(ルイ)
 悉(コト〳〵)ク亡(ホロ)ビケレハ。天皇 都(ミヤコ)ヲ大和ノ磐 余(レ)ニ定(サタ)メタマフ。
 平 郡(クリノ)木菟ト。蘇我満智(ソガノマチノ)宿禰ト。物 ̄ノ部 ̄ノ伊莒弗(イロフノ)大 連(ムラジ)ト。
 円大使主(ツブラノヲホキミ)ト。四人 国政(コクセイ)ヲ執(ト)ル。御-弟瑞歯別大 功(コウ)アルニ
 ヨリテ。太子ニ立ラル。或(アル)-時天皇御船ヲ内裏ノ前ノ
 池ニ浮(ウカヘ)テ。酒宴シタマフトキ。桜花(サクラバナ)御 盞(サカヅキ)ノ內ヘ落(ヲチ)ケ
 レハ。是ヲ賞(シヤウ)ジテ内裏ノ名ヲ稚(▢カ)桜ノ宮ト名ツケラル。
 諸(シヨ)国ニ文筆(ブンヒツ)ニ達(タツ)シタル者ヲ分チ置(ヲイ)テ。其 国(クニ)々ノコトヲ
 記(シルサ)シム 在位六年 ̄ニシテ崩ス。御年七十
  十九代
反正(ハン▢ウ)天皇 履中ノ弟ナリ初ハ瑞歯別皇子ト申セシカ仲

 皇子ヲ殺(コロ)シテ功(コウ)アルニヨリテ。履中ノ譲リヲウケテ即(▢)
 位(クラヰ)。河內(カハチ)ノ丹比(タンヒ)ニ都ス。柴籬(シバガキノ)宮トマフス 在位六年ニシ
 テ崩ス
  二十代
允恭(インゲウ)天皇 反正ノ弟ナリ。生(ウマ)レツキ多病(タヒヤウ)ニテ。御 父兄(フケイ)
 ノ心ニ叶(カナハ)ズ。サレドモ仁孝(ジンカウ)ノ志(コヽロサシ)アルニヨリテ。反正 崩御(ホウギヨ)
 ノ後。群(グン)臣 相談(サウダン)シ。位ニ即(ツケ)シメント申ス。数度(スド)辞退(ジタイ)シテ
 従(シタガハ)ズ。后(キサキ)忍坂(ヲシザカ)大中姫シキリニスヽメ。群臣ノ思(ヲモヒ)ヨルトコロ
 如何(イカヽ)サシヲカサルヘキト申スニヨリテ。一年 余(アマリ)ヲ歴テ
 後。即位シタマフ。新羅ヨリ。スグレタル《振り仮名:医-者|イシヤ》来テ。療治(リヤウヂ)
 シケレハ。御 病(ヤマヒ)モ愈(イヤ)ス。コレヨリ政ニ心ヲツケ。百 官(クハン)諸(シヨ)
 臣ノ姓(シヤウ)氏ヲ改(アラタ)メタヽシ。真偽(シンギ)ヲ决(ケツ)ス 皇后(クワウクウ)忍坂大中

 姫ノ妹(イモフト)ヲ。衣通姫(ソトヲリヒメ)ト云。容貌(ヨウハウ)美(イツク)シク。タグヒナキニヨリ
 テ。天皇是ヲ召(メシ)テ。大和 ̄ノ藤原(フヂハラノ)宮ニヲキテ。寵愛シタマ
 フ。皇后 妬(ネタ)ミ甚(ハナハタシ)クシテ。自(ミツカ)ラ焼死(ヤケシ)ナント怒(イカ)ルニヨリ
 テ。衣通姫ヲ。河内ノ茅渟(チヌノ)宮ニ置(ヲ)ク。道ノ程(ホト)隔([へ]タ)タルニ
 ヨリテ。后(キサキ)ノ妬(ネタミ)少シ止(ヤミ)ヌ天皇 度(ド)-々茅渟へ行幸(ギヤウガウ)アリ。
 我セコガ。クベキヨイナリ。サヽカニノ。クモノフルマイ。
 カネテシルシモ。ト云歌ハ。衣通姫ノ。天皇ヲシタヒテ
 ヨメル歌(ウタ)ナリ 在位四十二年ニシテ崩ス。御歳七
 十八 天皇ノ太子ヲ木梨軽皇子(キナシノカルノワウジ)ト云。淫乱(インラン)ニシテ
 国民シタガハス。其 ̄ノ弟 穴穂(アナホノ)皇子。兵(ツハモノ)ヲ起(ヲコ)シテ。太子ト
 相 争(アラソ)フ。太子 逃(ニゲ)テ死ス。或(アルイ)ハ伊予(イヨノ)国ヘ流(ナガ)ストモ云
  二十一代

安 康(カウ)天皇 允恭ノ子ナリ。兄ノ太子ヲ。ヲシノケテ即(ソク)
 位(イ)ス。母ハ忍坂大中姫ト云。二岐(フタマタ)皇子ノ娘ナリ大和 ̄ノ
 国 石上(イソノカミ)ニ都ヲ立。穴穂 ̄ノ宮ニ居(キヨ)【左ルビ:イマ】ス。天皇ノ叔父(ヲヂ)ヲ。大 草(クサ)
 香(カノ)皇子ト云。讒言(ザンゲン)ニヨリテ。天皇ノ心ニ叶(カナ)ハザルコト
 アルニヨリテ。兵ヲ起(ヲコ)シ。大草香ヲ殺(コロス)其 妾(ヲンナメ)中蒂(ナカシ)姫ヲ
 バ。内裏ヘ召(メシ)テ罷愛(▢▢ウアイ)セラル。中蒂姫ガ大草香ノ所ニ
 テ生(ウミ)タル子ヲ。眉輪(ミリン)王ト云。母ノ籠愛ニヨリ。同ク內
 裏ヘ出入(シユツニフ)ス。サレドモ天皇へダツル心アリケレバ。眉
 輪ノ王ヲソル。或時天皇。姫ノ膝(ヒザ)ヲ枕(マクラ)トシ臥(フス)時。眉輪ノ
 王ウカヽヒ来テ。天皇ヲ弑(コロ)シタテマツル 在位三年
 歲五十六
  二十二代

雄略(ユウリヤク)天皇 安康ノ弟ナリ安康 弑(コロ)サレヌト聞テ。雄
 略 急(イソ)キ申胄(カツチウ)ヲ帯(タイ)シ。兵ヲ率(ヒキ)ヒ。内裏へ赴(オモム)ク。眉輪王 畏(ヲソレ)
 テ。我 帝(テイ)位ヲ求(モトメ)ズ。只 父(チヽ)ノ仇(アタ)ヲムクユルノミナリト云テ。葛(カツラ)
 城円(キノツフラ)大臣カ宅(イエ)ニ逃隠(ニケカク)ル此時雄略ノ兄ニ。坂合(サカアヒノ)皇子。八(ヤ)
 釣(ツリノ)皇子トテ二人アリ。雄略此二人モ。眉輪 ̄ノ王ト同心カ
 ト疑(ウタカヒ)テ。自(ミツカ)ラ刀(カタナ)ヲ抜(ヌイ)テ。八釣 ̄ノ皇子ヲ斬殺(キリコロ)ス。コレニヨリ
 テ。坂合 ̄ノ皇子 畏(ヲソ[レ])テ。眉輪 ̄ノ王ト同ク。大臣カ宅ニ逃(ニゲ)入ル。
 雄略 使(ツカイ)ヲ遣(ツカハ)シ。坂合 ̄ノ皇子。眉輪 ̄ノ王ヲ出セト云。大臣
 サスガニ忍(シノ)ビガタクテ出サズ。雄略大ニ怒(イカツ)テ。大臣
 ガ宅ヲ囲(カコミ)テ火ヲ放(ハナ)ツ。坂合。眉輪王。大臣。皆焼死ス。雄
 略ノ従弟(イトコ)ニ。市辺(イチノベノ)皇子ト云ハ。履中天皇ノ子ナリ。
 雄略此人ノ帝位ニ望(ノゾ)ミアランコトヲ疑(ウタカヒ)テ。此(コレ)ヲ招(マネ)キ

 寄(ヨ)セ狩場(カリバ)ニテ射殺(イコロ)ス。コヽニヲイテ。雄略 泊瀬(ハツセノ)朝倉(アサクラ)ノ
 宮ニテ即位(ソクイ)。平 郡(グリ)ノ真鳥(マトリ)ヲ大臣トシ。大 伴(トモノ)連(ムラジ)室屋(モルヤ)。物 ̄ノ
 部 ̄ノ連 目(メ)ヲ大連トシテ。政ヲ行(ヲコナ)ハシム。天皇 生(ムマレ)ツキアラ
 クシテ人ヲ殺(コロス)コトヲ好(コノ)ム。罪(ツミ)ナクテ死スル者 ̄ノ多(ヲホ)シ。人
 皆(ミナ)譏(ソシ)リテ。大 悪(アク)天皇ト申ス。又 狩(カリ)ヲ好(コノミ)テシバ〳〵遊猟(ユウレフ)ス。
 或時 葛城(カツラキ)山ニテ。此 ̄ノ山-神 一事(ヒトコト)参(サン)-会(クハイ)シテ。物語スルコト
 アリ。 此代ニ。新羅。高麗。百済。互(タカイ)ニ不-和(ワ)ニテ。日本
 へ貢(ミツキ)物ヲコタリシカバ。官(クハン)兵ヲ遣(ツカハ)シ。コレヲシヅメシム。
 三韓ノ内。百済 専(モツハ)ラ日本へ従(シタカヘ)リ。新羅高麗ハ。従フコ
 トモアリ。背(ソム)クコトモアリ 天皇在位二十一年ニ
 アタリテ。天照太神ノ神託(シンタク)アルニヨリテ。ニ十二年ノ
 九月ニ。始テ豊受(トヨケ)太神ヲ。伊勢国 度会郡(ワタラエノコホリ)山田 ̄ノ原(ハラ)ニ

 祠(マツ)ラル。今ノ外宮(ゲクウ)是ナリ。同年 丹波(タンハ)国 水江(ミツノエノ)浦島子(ウラシマコ)
 ト云モノ。舟ニ乗(ノリ)。釣(ツリ)ニ出テ。大ナル亀(カメ)ヲ得タリ。亀化(ケ)シ
 テ女トナリテ。浦島ト夫婦(フウフ)トナリ。相 共(トモ)ニ蓬莱(ホウライ)山ニ
 至ルトイヒツタヘタリ。天皇在位二十三年 ̄ニシテ崩ス。歳
 六十二。初ハ政アラカリノ【タとあるところか】ルガ。後ニハシヅカニテ国(コク)
 家(カ)治(ヲサマ)ル
  二十三代
清寧(セイネイ)天皇 雄略ノ子ナリ。母ハ葛城 ̄ノ韓媛(カラヒメ)ト云。円(ツフラ)大
 臣ガ娘ナリ。清寧ノ弟ヲ。星(ホシ)川 ̄ノ皇子ト云。雄略 崩(ホウ)シ
 テ後。其 ̄ノ母 吉備稚媛(キビノワカヒメ)ガスヽメニヨリテ。位(クライ)ヲ奪(ウバヽ)ント
 ス。大 伴(トモノ)室屋(モルヤノ)大連。東漢掬直(ヤマトノアヤノツカノアタヒ)等(ラ)星川 ̄ノ皇子。幷(ナラヒ)ニ稚媛
 ヲ殺シテ。清寧 即(ツク)_レ位。大和 ̄ノ磐余甕粟(イハレノミカクリ)ニ都ス。大伴 ̄ノ

 室屋大連。平郡真鳥 ̄ノ大臣。政ヲ執レリ。天皇 生(ウマレ)ナガラニ
 シテ御髪(ミクシ)白カリケレハ。白髪(シラガノ)天皇ト名ヅケ奉ル
 在位五年ニシテ崩ス
  二十四代
顕宗(ケンソウ)天皇 履中天皇ノ孫(マゴ)市 ̄ノ辺 ̄ノ皇子ノ子ナリ。市 ̄ノ辺 ̄ノ
 皇子ハ。雄略天皇ニ殺サル。其時顕宗 幼(ヨウ)少ニテ。兄ノ
 仁賢ト共ニ身ヲヤツシ。卑キ者ノマネヲシテ。幡磨(ハリマノ)国ヘ
 逃(ニケ)行テ明石(アカシ)郡ノ忍海部細目(ヲシウミベノホソメ)ニ仕(ツカ)ヘ。牛馬(ギウバ)ヲ牧(カフ)テ。其名
 ヲ顕(アラハ)サズ。或時幡磨 ̄ノ《振り仮名:国-司|コクシ》山 ̄ノ部(ヘ) ̄ノ小楯(ヲタテ)。明石郡ニ到ル。顕
 宗ヨキ時節(ジセツ)ト思ヒ。小楯ガ前ニテ舞謡(マヒウタフ)テ。其舞ノ
 中ニ。履中孫ト云コトヲ謡(ウタ)フ。小楯大 ̄キニ驚(ヲトロ)キ。急(イソ)ギ清
 寧天皇ヘ奏聞(ソウモン)ス。清寧子ナキニヨリテ。コレヲキヽテ

 大ニ悦(ヨロコ)ビ。顕宗仁賢相-共ニ迎取(ムカヘトリ)テ養子(ヤウシ)トス。清寧
 崩御ノ後。兄ナレハ仁賢即位シタマヘトイヘバ。仁賢我
 ハ兄ナレドモ。弟ニシカス。其 ̄ノ上小楯ニ逢(アフ)テ。名ヲ顕(アラハ)ス
 コトモ。皆弟ノ所爲(ソイ)【左ルビ:シハザ】ナリト言(イヒ)テ譲(ユヅル)。コレニヨリテ。其
 姉(アネ)飯豊皇女(イヒトヨノクワウニヨ)シバラク位(クラヰ)ニツキテ。政ヲ行フ。此皇女
 一タビ夫(ヲツト)ト交(マジハリ)テ後。男女ノ道スデニ知レリト云テ。其
 後ハ夫ニ会(クハイ)スルコトナシ。皇女位ニアルコト十月アマ
 リニシテ崩ス。飯豊天皇ト云トモ。一年ニダニ及(ヲヨ)バ
 ネハ。王代ノ数(カズ)ニイレズ。コヽニヲヒテ。大臣大連 等(ラ)。顕宗
 仁賢ニ即(ソク)-位ノコトヲスヽム。兄弟猶 互(タカイ)ニ譲(ユツ)ルトイヘ
 トモ。仁賢カタク辞退(ジタイ)スルニヨリテ。顕宗 即(ツキ)_レ位大和 ̄ノ
 八釣(ヤツリノ)官ニ住(スミ)タマフ。百官皆 悦(ヨロコン)テ仕ヘタテマツル。三月

 三日ニ。曲水宴(キヨクスイノヱン)ヲ開(ヒラ)クコトハ。此御代ヨリ始(ハジマ)ル。山 ̄ノ部 ̄ノ小
 楯ニ山 官(クハン)ヲ授(サツケ)テ冨栄(トミサカ)ヘシム。山官ハ。山ノ奉行(ブギヤウ)ノ事ナ
 ルヘシ。御 父(チヽ)市(イチ) ̄ノ辺(ベ) ̄ノ皇子 殺([コ]ロサ)レシトキ。一所ニテ死(シニ)シ者 ̄ノ
 ノユカリヲ尋(タツネ)テ褒美(ホウビ)セラル。置目(ヲキメ)ト云ル老嫗(ヲヒメ)アリ。
 市 ̄ノ辺 ̄ノ皇子ヲ葬(ホウム)リ埋(ウヅミ)シ処(トコロ)ヲシリテ言(ゴン)-上シケレハ。天皇
 悅テ。其処ニ行テ。父ノ骨(ホネ)ヲ掘(ホリ)出シ歎(ナケ)キタマフ。置目
 ニ様(サマ)々ノ賜(タマ)モノアリ。大和 ̄ノ国ニ。猪甘(イアマ)ノ老人ト云モノ
 アリ。天皇 流浪(ルラウ)ノ時。此老人ニ逢(アヒ)ケレバ。老人天皇ノ
 ワヅカニタクハヘタル粮(カテ)ヲ奪(ウハヒ)トレリ。此 ̄ノ恨(ウラミ)ニヨリテ。
 即位ノ後。此老人ヲ呼(ヨビ)-出シ。飛鳥(アスカ)河原ニテ斬殺(キリコロ)ス。其
 一 族(ソク)ヲハ。膝(ヒザ)ノ筋(スチ)ヲ断切(タチキリ)テカタハトス。其子孫ニ至ル
 マテ。代々皆 跛(アシナヘ)タリトナン。天皇 治世(チセイ)ノ間。民ニ課役(クハヤク)

 ヲカクルコトナカリケレハ。百姓 富(トミ)テ。五 穀(コク)豊(ユタカ)ナリ
 銀 銭(セン)一 文(モン)ヲ以テ。稲(イネ)一石ヲ買(カ)フ 在位三年ニシ
 テ崩ス。歳三十八
  二十五代
仁賢(ニンケン)天皇  顕宗ノ兄ナリ。顕宗崩シテ後。位ニ即(ツキ)タ
 マフ。大和 ̄ノ石(イソノ)上 ̄ノ広高(ヒロタカノ)宮ニ住タマフ。国家(コクカ)無事(フジ)ニシテ。
 五 穀(コク)豊(ユタカ)ナリ。在位十一年ニシテ崩ス
  二十六代
武烈(ブレツ)天皇  仁賢ノ太子ナリ。此時 平郡真鳥(ヘグリノマトリ)大臣。雄
 略ノ時ヨリ。政ヲトリテ威ヲ振フ。コヽニ至リテ。仁賢
 崩御。武烈イマタ即位(ソクイ)セザルトキ。真鳥ヒソカニ帝(テイ)
 王タラント思フ志アリ。此 折節(ヲリフシ)物 ̄ノ部 ̄ノ麁(ソ)【麤】鹿火(カノヒ)ガ娘(ムスメ)

 影媛(カゲヒメ)ヲ。武烈 娶(メトラ)ントスル処(トコロ)ニ。真鳥ガ子 鮪(シビノ)臣。スデニ
 影媛ヲヲカセリ。又真鳥ガ家ニ馬アリ。武烈是ヲ求(モト▢)
 レトモ奉ラズ。武烈 怒(イカツ)テ大 伴金村(ドモノカナムラ)ニ語(カタリ)テ。数(ス)千ノ兵
 ヲ金村ニ相 添(ソ▢)。先 ̄ツ鮪 ̄ノ臣ヲ殺シ。真鳥ヲモ攻(セメ)殺ス。《割書:真鳥|ハ武内》
 《割書:ノ孫|ナリ》武烈即位ノ後。悪逆無道(アクキヤクフタウ)ナリ。大和 ̄ノ泊瀬(ハツセノ)列城(モムキノ)【左ルビ:ツラキ】宮(ミヤ)
 ニ居テ。或ハ胎(ハラ)メル女ノ腹(ハラ)ヲサキテ。其内ヲ見。或ハ人ノ
 爪(ツメ)ノ甲(カフ)ヲ抜(ヌイ)テ薯蕷(ヤマノイモ)ヲ掘(ホラ)シメ。或ハ人ヲ木ニノボセテ。
 其木ヲ切倒(キリタフ)シ。或ハ弓(ユミ)ヲ以テ是ヲ射落(イヲト)ス。或ハ人ヲ池
 ノ樋(ヒ)ヘ入テ。矛(ホコ)ヲ以テ突殺(ツキコロ)ス。或ハ女ヲ裸(ハダカ)ニシテ。板ノ
 上ニ居(ヲラ)シメテ。馬ヲ牽(ヒイ)テツルマシム。其外 奢(ヲゴリ)ヲ極メ。酒(シユ)
 色(シヨク)ニ耽(フケ)ル。人皆 畏(ヲソレ)テ。悪(ニク)マスト云コトナシ 在位八年ニ
 シテ崩ス。子ナシ 仁德天皇ノ王孫ハ。コヽニ至(イタリ)テ絶(タヘ)タリ

  二十七代
継体(ケイタイ)天皇 応神天皇五世ノ孫(ソン)ナリ。応神ノ御子
 ヲ。二派(フタマタノ)皇子ト云。其子ヲ太即子(ヲホイラツゴ)ト云。其子ヲ彦主(ヒコヌシ)
 人 ̄ノ王ト云。是継体ノ父ナリ。或說(アルセツ)ニハ。応神ノ御子
 ノ私斐(シヒ)王ト云。其子ヲ彦主人 ̄ノ王ト云。是継体ノ父
 ナリト云リ。継体年久ク越前 ̄ノ国ニ住タマフ。武
 烈崩シテ。仁德ノ王孫 絶(タヘ)ケレバ。大伴 ̄ノ金村 ̄ノ大連。物 ̄ノ
 部 ̄ノ麁(ソ)【麤】鹿(カノ)火 ̄ノ大連。巨勢男(コセノヲ)人 ̄ノ大臣 等(ラ)相談(サウダン)シ。継体ヲ
 迎へ奉ル。樟(クス)葉 ̄ノ宮ニテ。金村 御鏡(ミカゝミ)宝剣(ホウケン)神璽(シンシ)ヲ奉ル。
 継体五-度(ド)マテ辞退(ジタイ)スレドモ。金村 等(ラ)シキリニスヽメ
 申ニヨリテ。即位(ソクイ)シタマフ。時 ̄ニ歳五十八。金村。男人。麁【麤】
 鹿 ̄ノ火。三人政ヲ執ル。都ヲ山城 ̄ノ筒城(ツヽキ)ニ遷(ウツ)シ。後ニハ同国

 乙訓(ヲトクニ)ニ都ス。其後ニ又大和 ̄ノ磐余(イハレ)玉 穗(ホ)宮ニ遷ル。筑紫(ツクシ)ニ
 磐(イハ)井ト云者アリ。謀叛(ムホン)ヲ起シ。肥前(ヒゼン)肥後 豊(ブ)前豐後ヲ
 押領(アフリヤウ)シ。三 韓(カン)ノ頁(ミツキ)物ヲ押(ヲサ)ヘテ奪(ウバヒ)取ル。天皇金村ト議(ギ)シ
 テ。麁【麤】鹿 ̄ノ火ヲ大將トシ。斧鉞(フエツ)【左ルビ:ヲノ マサカリ】ヲ授(サヅ)ケ。筑紫ノ事ハ汝(ナンチ)ニ任(マカ)
 ス。賞罰(シヤウバツ)心ノマヽ二行へ。奏聞(ソウモン)ニ及ヘカラズト宜(ノタマ)フ。麁【麤】鹿 ̄ノ
 火 即(スナハチ)進発(シンハツ)シ。御(ミ)井 ̄ノ郡ニテ合戦(カツセン)シ。磐井ヲ切テ。筑紫ヲ
 シヅム。近江ノ毛野(ケマナ)ト云者ヲ。三韓ヘ遣(ツカハ)シ。政ヲ行(ヲコナハ)シム。
 毛野三韓ニ到テ。勅詔ヲ宣(ノフ)ルトキハ。高(タカキ)所ニ登(ノボリ)テイヒ
 ワタス。三韓ノ諸臣 庭(ニハ)ニアリテ是ヲ承(ウケタマハ)ル。此代百済国
 ヨリ、五経ノ博士(ハカセ)叚楊尓(タンヤウニ)ト云者 ̄ノ来朝ス。其後 高安茂(カウアンボ)
 ト云博士来テ。叚揚尓ニ替(カハ)ル 天皇在位二十五年
 ニシテ崩ス歳八十二。或ハ在位二十八年トモイヘリ

  二十八代
安閑(アンカン)天皇  継体ノ長子ナリ。母ハ目子(メコ)媛ト云。継体
 越前ニアリシ時ノ妃ナリ。天皇即位ノ後都ヲ大和
 ノ勾(マガリ)金 ̄ノ橘(タチハナ)【ママ】宮ニ遷(ウツ)シタマフ。金村相 継(ツヽイ)テ政(マツリコト)ヲ執ル。国
 家(カ)豊(ユタカ)ニ五 穀(コク)ミノレリ。在位二年ニシテ崩ス。吉野 ̄ノ金
 峯(ブ)山ノ神ハ。此天皇ヲ崇(アガム)トイヒツタヘタリ
  二十九代
宜化(センクハ)天皇  安閑ノ弟ナリ。安閑子ナキニヨリテ位ニ
 ツク。都ヲ大和ノ檜隈(ヒ[ノ]クマノ)廬(イホリ)入野 ̄ノ宮ニ遷シテ住タマフ。
 蘇我稲目(ソガノイナメ)ヲ大臣トシテ。金村麁【麤】鹿 ̄ノ火ニ加ヘテ。政ヲ
 執シム。天皇 詔(ミコトノリ)シテ曰ク。黄金(ワウゴン)万貫(マンクハン)アリトモ。飢(ウエ)ヲ救(スクフ)
 ベカラス。白 玉(ギヨク)千 箱(サウ)アリトモ。寒(サムキ)ヲ救ベカラス。シカレバ。

 五 穀(コク)ハ天下ノ本ナリトテ。稲目麁【麤】鹿 ̄ノ火ニ命シテ。国
 々ニ御 蔵(クラ)ヲ立テ。粮(カテ)ヲ積(ツミ)タクハヘシム。タトヒ不 慮(リヨ)ノコ
 トアリトモ。人民(ニンミン)ノ命(メイ)ヲ救(スク)フベシトノ心ナリ。此時三
 韓ノ内ニテ。新羅ト任那(アマナ)ト争(アラソ)フコトアリ。大伴 ̄ノ狭手(サテ)
 彦ヲ遣(ツカハ)シテコレヲシヅメシム。狭手彦ガ妾 松浦佐用(マツラノサヨ)
 嬪(ヒメ)別(ワカレ)ヲヲシミテ山ニ登(ノボ)リテ。其船ヲ望(ノソ)ミ歌ヲヨム
 コトアリ。狭手彦ハ金村カ子ナリ 天皇在位四年
 ニシテ崩ス。歲七十三
  三十代
欽明(キンメイ)天皇  継体ノ子ナリ。母ハ手白香(タシロカノ)皇后ト云。仁賢
 ノ娘ナリ。継体即位以後ノ后ナリ。故ニ安閑宣化ト
 別腹(ヘツフク)ナリ宣化崩シテ。欽明即位ス。都ヲ大和ノ磯城(シキ)

 島ニ遷(ウツ)シ金刺(カナザシノ)宮ニ住タマフ。此時三韓ニ乱(ラン)アリテ。新
 羅高麗二ツニナリ。百済任那ヲ攻ム。日本ヨリ百済
 任那ヲ救フ。日本ノ使者 膳臣巴提使(カシハデノヲミハテス)ト云者 ̄ノ。百済へ
 赴ク。路次(ロシ)ニテ雪(ユキ)ニアヒ。海辺ニ一宿ス。其 携(タヅサヘ)タル小 児(ニ)
 ヲ虎(トラノ)食殺(クヒコロ)ス。巴提使怒テ。其 足跡(アシアト)ヲ尋(タヅ)ネ。山中ニ入。
 虎 ロ(クチ)ヲ開(ヒラキ)テ進ミ来ル。巴提使 左(ヒタリ)ノ手(テ)ニテ虎ノ舌(シタ)ヲ
 握(ニギ)リ。右ノ手ニ刀(カタナ)ヲ取テ。虎ヲ刺殺(サシコロ)シ。其 皮(カハ)ヲハギト
 リテ皈朝ス 天皇 治世(ヂセイ)ノ十三年ニアタリテ。百済王
 使者ヲ献(ケン)シ。釋迦(シヤカ)仏 ̄ノ像(ザウ)幷 ̄ニ旛(ハタ)天 蓋(カイ)幷 ̄ニ仏 経(キヤウ)ヲ献(タテマツ)ル天
 皇悦ブ。大臣 稲目(イナメ)コレヲ拝(ハイ)シタマヘトスヽム。物 ̄ノ部 ̄ノ尾
 輿(コシ)等(ラ)申ケルハ。本 朝(テウ)神(シン)-国ナレバ。天皇ノ拝(ハイ)シタマフ神
 多(オホ)シ。イカデカ異(イ)国ノ神ヲ拝センヤ。恐([オ]ソラ)クハ本朝ノ神

 ノ怒(イカリ)ヲイタスへシ。此ニヨリテ天皇拝セズ。其 像(ザウ)稲目ニ
 タマハル。悦テ拝受(ハイジユ)ス。其家ヲ捨(ステ)テ寺(テラ)トシテ。向原(カウゲン)【左ルビ:ムクハラ】寺ト
 号ス仏像ヲ安置(アンヂ)ス。コレ日本へ仏法 渡(▢タ)リテ伽藍(ガラン)ヲ作
 ル初ナリ。幾程(イクホト)モナク諸国ニ疾病(ヤクビヤウ)ハヤリケレバ。尾輿 等(ラ)
 コレ仏ノ災(ワザハイ)ナリト申スニヨリテ。仏像ヲ難波(ナニハノ)堀江(ホリエ)へ捨(ステ)
 テ寺ヲ焼(ヤク)。其後又 再興(サイコウ)セラル。又百済国ヨリ。五経 博(ハカ)
 士(セ)。易(エキノ)博士。曆(コヨミノ)博士。医(クスノ)博士。幷ニ藥(クスリ)ヲミシル者ヲタテ
 マツル。沙(シヤ)門ヲモ十余人奉ル。高麗(カウライ)新羅ハ。ヤヽモスレハ。
 日本ヲ背(ソム)クニヨリテ。大伴 ̄ノ狭手彦(サテヒコ)ヲ高麗ヘ遣(ツカハ)シ是
 ヲ攻(セ)ム。狭手彦 進(スヽン)テ王 宮(クウ)マテ攻入ル。高麗王ワツカニ
 免(マヌカレ)テ逃(ニゲ)-去ル。其 宝(タカラ)物ヲ取テ天皇ニ献(ケン)ジ又大臣 稲目(イナメ)
 ニ贈(ヲク)ル新羅へ遣(ツカハ)サル官軍ノ中。伊企儺(イキナ)ト云モノアリ。

 新羅へ生捕(イケドラ)レケレハ。降参(カウサン)セヨト云。従(シタカ)ハズ。新羅 ̄ノ人。刀(カタナ)
 ヲ抜(ヌイ)テ是ヲヲトシ。伊企儺ガ臀(イザライ)【左ルビ:シリ】ヲ日本ノ方ヘ向ハシメ。
 日本ノ将(シヤウ)我臀(ワカシリ)クラヘト云ベシト責(セメ)ケレハ。伊企儺 声(コエ)
 ヲ揚(アゲ)テ。新羅王我臀クラヘトヨハヽル。敵(テキ)怒(イカツ)テ是ヲ殺(コロ)
 ス。其後新羅モ又日本ヘナビク 天皇ノ末(ハツ)年ニ。始テ
 神託(シンタク)アルニヨリテ。八 幡(マン)大神ヲ。豊前(ブゼン)ノ宇佐郡(ウサノコホリ)ニ崇(アガメ)
 祠(マツ)ラル。山城 ̄ノ国加茂 ̄ノ明神モ。此代ニ初テ祭(マツ)ラルト云リ。
 天皇在位三十二年ニシテ崩ス
  三十一代
敏達(ビンタツ)天皇  欽明ノ太子ナリ。母ハ石姫ト云。宜化ノ
 娘ナリ。天皇即位ノ始。物 ̄ノ部 ̄ノ守屋(モリヤ)ヲ大 連(ムラジ)トシ。蘇我(ソガ) ̄ノ
 馬子(ムマコ)ヲ大臣トス。守屋ハ。尾(ヲ)輿ガ子ナリ。馬子ハ。稲目ガ

 子ナリ。此時高麗ヨリ表(ヘウ)ヲ奉ル。烏(カラス)ノ羽(ハ)ニ書(カキ)ケレバ。字 黒(クロク)
 シテ見 知(シル)コトナシ。王 辰尓(シンニ)ト云者 ̄ノ。是ヲ飯(イヒ)ノ上ニ置(ヲキ)
 テ蒸(ムシ)テ。帛(キヌ)ヲ以テ烏ノ羽ノ上ヲヲシケレハ。其 文字(モンジ)皆帛ニ
 写(ウツリ)テ是ヲ読ム人皆感ズ。其 ̄ノ後 内裏(ダイリ)ヲ。訳語(ヲサ)田ト云所ニ
 立テ都シ玉フ。百済ヨリモ新羅ヨリモ。仏像経論ヲ
 奉ル。天皇ハ。文史(フンシ)ヲ好(コノミ)テ。仏法ヲ信セス。天皇ノ御 姪(メイ)
 廏户(ムマヤドノ)皇子。幷 ̄ニ馬子ノ大臣。甚好ミテ崇敬(ソウキヤウ)ス。此時又
 疫病(ヤクビヤウ)ハヤリケレハ。守屋 奏聞(ソウモン)シケルハ。是馬子ガ仏
 法ヲ信ズルタヽリナリ。ヨロシク仏法ヲ断絶(ダンゼツ)スヘシト
 申ス。天皇然ルヘシトノタマフ。守屋 即(スナハ)チ自(ミツカ)ラ寺ヘ
 赴(オモム)キ。堂塔(ダウタフ)ヲ打毀(ウチヤブ)リ。仏像ヲ焼捨(ヤキステ)。其 灰(ハイ)ヲ難波(ナニハノ)堀
 江へ流ス。僧尼(ソウニ)ノ衣(コロモ)ヲハギテ追放(ツイハウ)ス。馬子 涙(ナミダ)ヲ流(ナガ)シ。

 テ悲(カナシ)ム。其後馬子病-気ニヲカサレケレバ。奏聞(ソウモン)シテ。
 己(ヲノ)レガ病(ヤマヒ)。仏-力(リキ)ニアラズンバ愈(イエ)ガタシト申ス。天皇キ
 コシメシテ。汝(ナンヂ)独(ヒトリ)仏法ヲ行(ヲコナ)ヘトユルシタマフ。馬子コヽニ
 ヲキテ。又仏法ヲ再興(サイコウ)ス  天皇在位十四年ニシ
 テ崩ス。歳四十八。或説(アルセツ)ニ二十四ト云ルハ。アヤマリナリ
  三十二代
用明(ヨウメイ)天皇  欽明第四ノ子。母ハ堅塩媛(カタシホキメ)ト云。蘇我稲(ソガノイナ)
 目(メ)カ娘ナリ。敏逹崩ジテ。用明 即(ツク)_レ位 ̄ニ。ワヅカ二年ニシ
 テ。病ニカヽリタマフ。仏ニ祈(イノラ)ント議(ギ)ス。守屋。幷 ̄ニ中臣勝(ナカトミノカツ)
 海(ウミ)。コレ無益(ムヤク)ノコトナリト諫(イサ)ム。馬子 誰(タレ)カ勅定(チヨクデウ)ニ従(シタガ)
 ハザラントテ。豊国法師(ホウコクホツシ)ト云者ヲ。内裏(タイリ)ヘ呼寄(ヨビヨセ)ケレ
 ハ。守屋ニラミイカル。天皇ノ御子廏戸【左ルビ:ムマヤド】 ̄ノ皇子ト。馬子

 トハナハタ睦(ムツマ)シ。スデニシテ天皇崩ズ。守屋ヒソカニ天
 皇ノ弟。穴穂部(アナホベノ)皇子ヲ立テントス。馬子従ハズ。穴穗
 部ヲ殺ス。遂ニ廏户。幷 ̄ニ諸皇子 達(タチ)ヲカタラヒ。軍(イクサ)ヲ起(ヲコ)
 シテ守屋ヲ攻(セ)ム。守屋 拒(フセキ)戦(タゝカフ)テ三度 勝(カ)ツ。其 ̄ノ後 跡見(アトミノ)
 赤檮(イチヒ)ト云者ノ矢(ヤ)。守屋ニアタリテ死ス。其一 族(ソク)皆
 亡(ホロ)ブ。廏戸 ̄ノ皇子 始(ハジメ)テ摂州(セツシウ)四天王寺ヲ作(ツク)ル。守屋ヲ
 討(ウ)ツ時ニ祈念(キネン)スルユヘナリ。守屋ガ領地(リヤウチ)一万 頃(キヤウ)ヲ
 分(ワケ)テ赤檮(イチヒ)ニ給(タマハ)リ。其外ヲバ。皆天王寺ノ領トス。廏戸 ̄ノ
 皇子ハ。聖徳(シヤウトク)太子ノコトナリ。其 誕生(タンジヤウ)ノ時。母 廏辺(ムマヤノホトリ)ニ
 ヤスラヒテ産スルユヘニ。廏户ト云。用明天皇 愛(アイ)シテ
 内裏ノ上ノ宮ニ置(ヲク)ユヘニ。上 宮(タウ)【ママ 或ハ「クウ」ヵ】太子トモ云。生(ムマレ)ツキ徳太子ト云。又八人シテ奏(ソウ)スル

 コト一- 度(ト)ニ聞(キイ)テ決(ケツ)スルユヘニ。八 耳(ニ)【左ルビ:ミゝ】太子トモイフ豊(トヨ)
 聡(ケ)トモ云。コレモ耳ノハヤキ義ナリ
  三十三代
崇峻(シユジユン)天皇  用明ノ弟ナリ。馬子ガハカラヒニテ即(ツク)_レ位 ̄ニ
 馬子 甚(ハナハ)ダ威(イ)ヲ振(フル)ヒケレバ。天皇コレヲ悪(ニク)ム。或(アル)時 山猪(イノシヽ)
 ヲ奉ルモノアリ。天皇コレヲミテイツカコノ豬(イ)ノ頸(クビ)ヲ
 切(キル)コトク。我キラフ者ヲ斬(キル)ベキト宣(ノタマ)フ。廏戸 ̄ノ皇子モ
 此時御前ニ侍ルトナン。宮女(キウジヨ)罷(テウ)衰(ヲトロヘ)テ。天皇ヲウラム
 ル者アリ。此事ヲ馬子ニ告(ツ)グ。馬子 畏(オソレ)テ。勇土(ユウジ)東漢(ヤマトノアヤノ)
 直(アタヒ)駒(コマ)ト云者ヲカタラヒ。御寝所(ギヨシンジヨ)ニ入テ。天皇ヲ弑(コロ)シ
 奉ル 在位五年。東漢直駒。ヒソカニ馬子カ娘 河上(カハカミ)
 姫ニ通(ツウ)ズ。馬子 怒(イカツ)テ。コレヲ捕(トラヘ)テ樹(キ)ニ縛付(ユハヒツケ)射殺(イコロシ)テ。其 首(クビ)

 ヲ斬(キ)ル。此時三韓ノ押(ヲサヘ)ノタメニ。日本ノ宮軍(クハンクン)数(ス)万筑紫
 一 陳(ヂン)ス。馬子 急(イソ)キ使(ツカヒ)ヲ遣(ツカハ)シ。都ニ乱(ラン)アレドモ。カハルコト
 ナシ。サハクコトナカレト相 触(フル)
   三十四代
椎古天皇《割書:女帝》欽明ノ御娘。用明ト同腹(トウフク)ナリ。敏達ハ別(ベツ)
 腹ナリ。故ニ十八歳ノ時。敏逹ノ后(キサキ)トナル。敏達崩シ
 テ。用明崇峻。皆 程(ホド)ナク崩スルニヨリテ。蘇我 ̄ノ馬子力
 ハカラヒニテ。推古即位ス。時 ̄ニ歲三十九。神功皇后 女(ニヨ)
 主(シユ)ニテ。天下ノ政ヲ聞ユヘニ。王代ノ数ニ入トイヘドモ
 イマ夕真(マコト)ノ天子ノ位ニハツカズ。故ニ皇后ト云テ。
 天皇ト云(イハ)ズ。推古ニ至テ。真ノ天皇ノ位ニツク。日本
 女帝ノ始メナリ。御 姪(ヲイ)廏戸 ̄ノ皇子ヲ太子トシテ。摂(セツ)

 政(シヤウ)セシム。是摂政ノ始ナリ。太子時ニ歳二十一。馬子
 ト心ヲ同(ヲナジフ)シテ。仏法ヲ興(ヲコ)シ。伽藍(ガラン)ヲ建(コン)立ス。三韓ヨリ
 名アル僧(ソウ)多(ヲホ)ク来ル。天皇ハ。小 墾(ハル)田ノ宮ニマシマス。
 太子ハ斑鳩(イカルガノ)宮ニ居テ。甲斐(カヒノ)驪駒(クロコマ)ニノリテ。毎日天
 皇へ出仕ス。太子 自(ミヅカ)ラ憲(ケン)法十-七 箇(カ)-条ヲ定(サダ)メ。世ニ
 行(ヲコナ)フ。憲法ハ。法度ノコトナリ。又大德小德。大仁小
 仁。大礼小礼。大信小信。大義小義。大智小智トイ
 ヘル十二ノ冠(カムリ)ノ名ヲタテヽ。其冠ノ色ヲカヘテ十二 階(カイ)
 ノ位ヲ定(サダ)ム。此 ̄ノ比 異朝(イテウ)ニテハ。隋(スイ)ノ場帝(ヤウダイ)ノ時ニアタ
 レリ。日本ヨリ。小 野(ノゝ)妹 子(コ)ヲ使トシテ。隋ヘ遣(ツカハ)ス。其書
 簡(カン)ヲ太子書レケル。其 辞([コ]トハ)ニ。日出ル処ノ天子書ヲ致(イタ)
 ス。日没処ノ天子 羔(ツゝガ)ナシヤト云々。楊帝是ヲ見テ。文

言無禮ナリシテ悅ズ。妹子歸朝ノ時。隋ヨリ使者斐
世清ヲ添テ日本ヘ來朝ス。都へ入官人ヲ遣シテ是
ヲ迎ヘシム。世清煬帝ノ書簡ヲ持シテ参內應應
ヲタマハル。世清歸トキ。又妹子ヲ添テ遣サル。此度ハ
高向玄理ト云人學問ノタメ二。妹子ニ從テ。隋へ赴ク。
年ヲ歷テ妹子歸朝ス。玄理ハ。三十餘年ヲ經テ歸朝
セリ俗説ニ太子ハ南岳思大和尚ノ生レガハリ。其前生
所持ノ法華經ノ南岳ニアルヲ。妹子ニ云ヒフクメテ取
寄ラルトイヘトモ。日本紀ニハ見へ侍ラズ其後隋ノ代
亡テ。唐ノ代トナルニヨリテ。犬上ノ御田鍬ト云者ヲ勅
使トシテ。大唐ヘ遣サル是遣唐使ノ初ナリ太子馬子
ト相議シ。日本前代帝王ノ紀ヲツクル今ノ旧事本記

是ナリ。太子摂政スルコトニ十九年ニシテ。天皇二サ
キタチテ薨ス。歲四十九。常ニ慈悲ノ心深シテ殺生ヲ
此マス。群臣ヲ饗スルニモ菜膳ヲ用ユ専佛法ヲ信ジ
テ。或ハ経ヲ講釋シ或ハ経ノ註ヲ作ル。天王寺ノ外寺ヲ
造ルコト九箇所ナリ。或時太子片岡ヲ過ルトテ。餓者
ヲ見テ。衣食ヲ賜。其餓者歌ヲヨミテ奉ル其後餓者死
ス。太子是ヲ葬ル此者タヽビトニアラズト思テ。後日ニ
墓ヲ開テ見レバ。衣服バカリアリテ其屍ナシト ン後世
ニ是ヲ文殊ノ化現ナリト云リ。禪家ニハコレヲ達磨ナリ
ト云リ。太子薨シテ後。馬子猶政ヲ執テ三宝ヲ信ズ。
或時僧ノ中ニ。斧ヲ執テ。其父ヲ打者アリ。コレニ ニリテ
馬子奏聞シ。百濟ノ僧觀勒ヲ僧正トシテ。僧中ノ事ヲ

司ドラシム。此僧官ノ始ナリ。此時天下ノ寺数四十六僧
八百十六人。尼五百六十九人アリシカ。此後次第二多
クナレリ高麗ヨリ。惠濯ト云僧來テ。三論宗ヲヒロム。
其後馬子モ死ス。敏達ノ時ヨリ此時マデ。大臣ノ位ニ
居ルコト。五十五年ナリ 天皇在位三十六年ニシテ
崩ス歲七十五
 三十五代
舒明天皇 敏達ノ嫡孫。押坂彦入皇子ノ子ナリ。推古
崩スル時。舒明へ遺勅アリトイヘトモ。マタ太子ニ立ズ
コレニヨリテ聖德太子ノ子山背王モ帝位ニ望ミアリ。
大臣蘇我蝦夷《割書:馬子|ガ子》群臣ヲ聚メ。イツレカ然ルへキト相
談シ。推古遺言ヲ用テ舒明ヲ立テ天皇トス飛鳥岡

村宮ニ住タマフ。即位ノ後。犬上三田鍬等ヲ遣唐使
トス其歸朝ノ時大唐ヨリ高表仁ト云ル者勅使ト同道
シテ來朝セリ。難波一テ迎舩ヲ遣ス歸國ノ時對馬
マテ送タシム。是唐ノ太宗皇帝ノ時ニアタレリ與代ニ
·三韓皆從ヒ。世モリトリシカトモ彗星度々出由。其外メヅラ
シキ星見ヘ。又大風霖兩等モアリ。惠隱ト云ル僧ヲ宮
中ヘ召テ。無重壽經ヲ說シム·内裏ニテ斎ヲ設ケ。經ヲ
講スルコトコレヨリ始レリ人皇治世ノ間攝州有間
ノ温湯へ行幸アリ。又伊豫ノ温湯ヘモ行幸セラル其外
方々ヘ遊猟セラル 在位十三年ニシテ崩ス
二十六代
皇極天皇女帝敏逹ノ曾孫。押坂彦人皇子ノ孫。茅渟王

ノ娘ナリ。舒明ノ后トナル。舒明崩シテ。后天皇ノ位二即
ク。飛鳥ノ板盖宮ニ住タマフ。蘇我蝦夷大臣トナリテ。政
ヲ行ス三韓ヨリ使者來テ。舒明ヲ弔ヒ。皇極ノ即位ヲ
賀ス。今年大ニ旱シケレハ。様々ニ神ニ祈リ。又蝦夷ガ
ハカラヒニテ。經ヲ讀佛ニ禱レドモ雨降ス。天皇自ラ
南淵川ニ行幸アリテ四方ヲ拝シ。天ニ祈リシカハ。五
日ノ間大雨打續テ。民皆大ニ悅ビ萬歲ト呼ブ。此時
大臣蝦夷奢ノアマリニ。巳ガ祖廟ヲ葛城ニ造リ。其儀
或天子ノ歌舞ヲ執行フ。蝦夷ガ子ヲ入鹿ト云其威
勢父ヨリモ勝リ。自ラ國ノ政ヲ執行フ。人皆ヲソル。入鹿
ガ一名ヲ鞍作ト云ル。蝦夷病ニ罹ケレバ。其著スル紫ノ
冠ヲ。私ニ入鹿ニ譲リ。大臣ニ准ス。入鹿イヨ〱威ヲ振フ。聖

德太子ノ子山背王ト。入鹿不和ナリケレハ巨勢德土師
連ニ兵ヲソヘテ。山背王ノ住ル班鳩宮ヲ攻ム。山背王ノ
奴三成ト云者。一人當千ノ兵ニテ。拒キタヽカフ。土師連
試レス入鹿ガ兵引退ク。其隙ニ山背王馬骨ヲ取テ。
室內ニ置キ。其妻子ヲトモナヒ。竊ニ逃出テ。擔駒山ニ
カクル。三輪君田目連等從介。巨勢德又進テ。班鳩宮ヲ焼
テ。灰燼ノ中ニ焼タル骨多ケレハ。山麓王焼死給ヘリト思ヒテ。
ヤガテ囲ヲ解テ引退ク。三輪君申ケルハ。コレヨリ竊ニ東國
一向ヒ軍ヲ起スベシ。入鹿ヲ亡セシ云フ。山背王我一人ノユヘヲ以
テ。萬人ヲ頒スベカラズト云テ從ズ。四五日ヲ歷ルウチニ。入鹿
聞付テ軍兵ヲ遺シテ是ヲ。山背王竊ニ山ヲ出テ。斑鳩
ニ皈リ。三輪君ヲ使トシテ。我軍ヲ起サハ勝ベキ道アリ然レ〓テ

人ヲナヤマスコトヲカナシム故ニ。我身ヲ入鹿ニアル
ナリトテ。妻子相共ニ自害シテ亡フ。山背王ハ。聖德
本子ノ子ナレハ世ノ人皆ヲモンジテ。威勢アリシヲカ
ク亡シケレハ。入鹿マス〱逆威ヲ振フ。世ノ人入鹿ヲ
悪マズト云フコトナシ。此時様々ノ怪異アリ
天皇治世ノ三年正月ニ。中臣鎌足ヲ神祇伯ノ官に
任ス。病者ナリト云テ。辞退シ。三嶋ト云所ニ居ス。此時天
皇ノ弟ニ。輕皇子ト申ス人アリ。脚氣ヲ煩ヒテ出仕シ
タマハズ。鎌足ト中ヨカリケレハ輕皇子ノ許へ參テ自
直ス。輕皇子其志ヲ感ジ。元来タヾ人ニアラサルコトヲ
知テ體愛ノ女ヲ鎌足ニ遣シ。懇ニウヤマフ。鎌足モ過
分ノコトニ思ヒ。輕皇子ノ舍人ニ向テ云ケルハ。此皇子ヲ

天下ノ主トナシタテマツリ。此思ヲ報ゼント願フトカタ
レバ。輕皇子傳聞テ大ニ悅ブ。舒明天皇ノ御子ニ中ノ大
兄皇子ト申アリ。コレモ大キナル志アリ。鎌足元來智惠
有テ。世ヲ救ヒ正サント云フ志アリ。蘇我入鹿カ君臣
禮ヲ失ヒ社稷ヲウカヾフ企アルコトヲ憤テ。諸ノ皇
子ノ内ニ。功名ヲ立ヘキ人ヲ求テ見ルニ中大兄ニ如クハナ
シ。然レドモ志ヲ云フ便リナシ。アルトキ中大兄法興寺
ノ槻木ノ下ニテ鞠ヲ打玉フ時。鎌足モ其會ニアヅカレ
し。中大兄ノ皮履ノヲツルヲ見テ。鎌足掌ニスヱテ。跪テ
奉ル大兄モ跪テ受玉フ。是ヨリ交リ中ヨク成テ。互心
中ヲカクサズ眠バレケルガ人ノ疑フ事モコソアレトテ。
南淵先生ト云ヘル儒者ニ道ヲ間トテ。大兄モ鑵足モヲ

手ニ書ヲ取テ。問公孔子ノ級ヲ學ハル。其往還ノ道スガラ。ヒ
ソカニ密事ヲ謀ル。鎌足申サレケルハ。大事ヲ謀ル者ハ助ケ
アルニハシカシ願クハ。蘇我倉山田麻呂ガ女ヲ娶テ昵近
ヅキ。其後謀テ功ヲナサバ。速ニナルベシト云フ。大兄聞テ
其儀ニ隨フ。鎌足自ラ徃テ媒ヲナシ。彼女ヲ大兄ニスヽ
ム。鎌足又佐伯子麻呂。葛城綱田トイフ二人ヲ舉用テ。
大兄ニスヽム。是謀ヲハシラズシテ。入鹿新ニ家ヲ造リ。
父蝦夷ガ家ヲモ己カ家ヲモ宮門ト名ヅケ。男女ノ子
共ヲバ。王子ト稱ス。家ノ外ニ城ヲ構へ藏ヲ作テ。武具
ヲタクハヘ置。水舟ヲ多ク造テ。火災ノソナヘトス。父子
共ニ出入スルゴトニ。勝レタル勇士ニ矛ヲ持シメ從シム。
家ニ居ルトキモ。用心ヲコタルコトナシ。同四年六月朔

日中大兄倉山田麻呂ニ語テ日ク。三韓貢ヲ奉ル
日。必汝ヲシテ其表狀ヲ讀シムヘシ。其時入鹿ヲ斬ル
ベキノ謀ヲ告ラル。倉山田麻呂同心シス。此月十三
日天皇大極殿ニ出タマフ。鎌足。人鹿ガ心ニ人ヲ疑
晝夜劔ヲ持コトヲ知テ。ワサヲキノ者ニオシエテ。タ
リテ劔ヲ解シム入鹿笑テ劔ヲサシヲキ。御前ノ坐ニ
列ス。ワサヲキハ。今狂言スル者ノ類ナリ。倉山田進デ
三韓ノ文ヲ讀ム。爰ニ中大兄衛士等ヲ警テ十二
ノ御門ヲ閉。人ノ徃來ヲ止メ。衛士ヲ一所ニ召聚テ。
祿物ヲ賜ハント云謀ノ沙汰アリ。サテ中大兄ハ自ラ
長キ戈ヲ取テ。御殿ノワキニカクレ。鎌足ハ弓矢ヲ取
テ守ル。勝麻呂ト云者ニ。筥ヲ持セテ。子麻呂綱田ノ

両入ニ授ク。筥中ニ。一ツノ劔アリ。速ニ入鹿ヲ斬〓
トイヘドモ。子麻呂ヲソレケレハ鎌足コレヲ勵ス。サレド
モ倉山田。文ヲ讀果ントスレドモ。子麻呂進ミ來
ラサル故ニ。汗ヲ流シ。聲フルイ。手ワナヽク。入鹿怪ン
テ問テ云ク。何故ニフルイワナヽクヤト云フ。倉山田
答テ云ク。御前近キ故ニ。最忝ク。汗ノ流ルヽヲヲボ
ヘズト云フ。中大兄。子麻呂等カ入鹿ヲ畏テ進マサ
ルヲ見テ。咄嗟シテ。スナハチ子麻呂等ト同時ニ劔
ヲ取テ。入鹿カ頭ト肩トヲ斬ル。入鹿驚テ立ントスル
處ヲ。子麻日劔ヲ振テ入鹿ガカタ足ヲ斬ル入鹿コロビ
タヲレテ頭ヲタヽキ。御座ニ向テ云ク。臣何ノ罪ト云ユ
トヲシラズ。明ニ察シタマヘト云フ。天皇モ大キニ驚

王ヒテ中大兄ニ詔シテ。是何事ゾヤトノタマフ。中大兄
平伏シテ奏聞シテ日ク。入鹿諸王子ヲ滅シテ。寶祐ヲ
頷ントス。如何ソ天位ヲ以テ入鹿ニ易ンヤト云。天皇ス
ナハチ立テ内二入玉ヒヌ。子麻呂綱田。遂ニ入鹿ヲ斬
殺ス。此日兩降テ。潦水庭ニ満リ。筵障子ヲ以テ。入鹿
ガ死骸ヲ掩フ。中大兄ハ其ヨリ法興寺ニ城ヲ構フ諸
皇子達皆從フ。又蝦夷カ方へ赴ク者モアリ。中大兄人
ヲシテ。人鹿ガ死骸ヲ蝦夷ニタマハル又巨勢德ヲ大
將トシテ。蝦夷ヲ攻シメ。其黨類ニ告テ曰ク。古今ノ
間。誰カ君臣ノ道ヲ知ザラン。何ソ賊臣ニ從フヤトイヘ
バ。蝦夷カ徒党黒皆逃去ヌ。蝦夷スナハチ家ニ伝レル旧
記并ニ助寶共燒捨テ後。其身モ誅セラレヌ此時日本

前代ノ記録多ク失タリ。其焼残ル所ヲ。舩史惠尺トリ
ラサメテ。中大兄へ奉ル。天位ヲ中ノ大兄ニ讓ントス。シカ
レドモ。中大兄ノ兄ニ。古人皇子ト云人アリ。ソレヲコヘテ
即位如何アルヘキナレバ。先御叔父輕皇子ヲ即位セ
シメタマハヽ神妙ナルヘシト。鎌足申ケレバ。中大兄尤
ナリト同心レテ。スナハチ帝位ヲ輕皇子ニ讓ル。是モ
古人へ讓ル。古人ハ入鹿ト昵シキニヨリテ。彼滅亡ヲ
悼テ。位ヲ辞シテ僧トナル。コレニヨリテ輕皇子位ニツク。
孝德天皇是ナリ。中ノ大兄ハ後ニ天智天皇ト申ス。鎌
足ハ藤原氏ノ元祖大織冠是ナリ。此末所々 テ申
スヘシ。帝王存生ノ内ニ位ヲ讓ルコトハ。皇極ヲ始トス
 三十七代

孝德天皇 皇極ノ弟ナリ。入鹿誅セラレテ後。御姉皇
極ノ讓ヲ受テ即位。此時大伴長德犬上健部。金靭ヲ
帶テ。御前ノ左右ニ立ツ。百官列拜ス。皇極ニ尊号ヲ
奉テ。皇祖母尊ト云フ。中大兄ヲ以テ太子トス。阿倍倉梯
麻呂ヲ左大臣トシ。蘇我倉山田麻呂ヲ右大臣トス。此
左右大臣ノ始ナリ。鎌足ニハ錦冠ヲ賜リ。内大臣ト云
ス官ヲ授テ。食禄ヲ加増シ。百官ノ上ニ居テ。天下ノ政
ヲ任セラル。入鹿亡テ國家無事ナルハ。此人ノ功ナリ。其後ニ
又紫冠ヲ賜リ。食祿ヲモ加ヘラル。高向玄理ト。僧旻ヲ博
士トス。二人共二入唐シテ。學問シタル者ナリ 始テ年
号ヲ立テ。大化元年トイフ。八省百官ノ名モ。皆此時定
ル。冠ヲ十九ツクリ。其色ニヨリテ位ノ階ヲ定ム。都ヲ難波

長柄ノ豊崎ニ遷シ。新ニ内裏ヲ造ル。大化二年正月元月
群臣朝拜ノ禮始テ畿内并國々ニ司ヲ置。關旅并ニ
驛傳ヲ定メ。山川ヲ分チ。郡ノ大小ヲ限リ里人ニ長ヲ
スヘテ。民ノ家數人數。年貢井ニ土産ノ品々。武具馬
具等ノ事マデ勘ヘ定ム。家數百アル所ヨリ。采女一人
ヅヽ奉ラシム。采女ハ其所ヨリ然ルヘキ女ヲエラミテ。宮
仕セシムルヲ云フ。國々ヘ使者ヲ遣シ。國司善悪ヲ
勘テ。是ヲ賞罰ス。又諸國ニ庫ヲ作リテ。武具ヲタクハ
へ置ク。右大臣蘇我倉山田麻日勅ヲ承テ。群臣ニ
命ジテ諫言ヲ獻セシム。其外朝廷儀式此時定レル
コト多シ。太子中大兄ノ皇子臣中臣鎌足ト相議
セラルナルベシ。大化五年ニ。左大臣阿倍倉梯麻呂薨ス。

同年ニ右大臣蘇我倉山田麻ガ弟蘇我日向讒言
ヲ構ヘ。石大臣逆心アルヨシヲ奏ス。右大臣へ討手ヲ遣
サル。右大臣少モ官軍ニ敵對セズ。其妻子ト共自害
ス。其後右大臣罪ナキ證提アラハルヽニヨリテ。日向ス
筑紫へ遠流セラル。コレニヨリテ。巨勢徳ヲ左大臣トシ。
大伴長德ヲ右大臣トシテ。共ニ大紫ト云フ冠シ賜ル。
其明年長門國ヨリ。白雉ヲ献リケレバ。是ハメデタキ事
ナリト。各言上シケレハ天皇ヨロコヒテ内裏へ百官ヲ
アツメ。コレヲ見セシム。其儀式元日朝賀ノゴトシ。白雉
ヲ輿ニノセ。四人ノ臣ヲシテ。コレヲ庭ヨリ殿上ヘ昇ア
ゲシム。左右大臣コレヲ請取テ。御前ニ置ク。即年号
ヲ改テ白雉ト云フ。長門ノ国司ニ位ヲ授ケ。天下へ大

赦ヲ行ル
白雉二年。始テ繡佛ヲ作ル。其長一丈六尺。其外千佛
像ヲ刻ム。又内裏ヘ二千百餘人ノ僧尼ヲ聚メ。一切
經ヲ讀シメ。一千七百餘ノ燈ヲ燃ス
白雑四年ニ吉士長丹等ヲ勅使トシテ。遣唐舩ヲ發
セラル唐ノ高宗皇帝ニ見へテ歸朝セリ。此勅使ニ
從テ。和州多武峯ノ開山定惠モ其外名アル僧多ク
入唐ス。定惠ハ鎌足ノ子ナリ。此代ニ。新羅高麗百
濟。毎年貢物ヲ奉ル其數少ケレハ。是ヲ改テ責ハタル。
或時新羅ノ使者唐人ノ裝束ヲ著テ。筑紫マデ來
リケルヲ聞シメシテ。日本ノ風俗ニ異ナリト怒テ。コレ
ヲ追歸サル。巨勢大臣コレヲ伐ント奏聞シケレトモ。

其義ニ及バス 天皇在位大化五年白雉五年合テ十
年ニシテ崩ス
 三十八代
齋明天皇 女帝皇極ノ別號ナリ。孝德崩シテ。皇極再ビ
帝位ニ復ス。齋明天皇ト申ス。是重祚ノ初ナリ。一度
位ヲ去テ。重テ即位スルヲ重祚ト云フ。太子中大兄ノ
ハカラヒニテ。難波ヨリ。大和ノ飛鳥ノ板蓋官へ都ヲ
遷ス。コレヨリサキ。難波鼠多ク連テ。大和ノ方へ向ヒ
ケルカ。遷都ノ兆ナリトソ。其後飛鳥ノ岡本ノ宮へ遷タ
マフ。内臣中臣鎌足政ヲ行フ。四年ノ冬。天皇太子と。
紀伊國ノ温湯ニ行幸ス。蘇我赤兄。都ノ留守タリシガ。
孝德ノ子有馬皇子ニカタリテ。天皇政ヨロシカラスト

云ヒケレバ。皇子喜テ謀叛ノ志アルコトヲ密談ス赤兄
イツハリテ許諾シ。スナハチ皇子ノ宅ヲ攻テ。皇子ヲ
捕テ紀州ヘ遣ス。太子直ニ是ヲ尋問テ。其逆謀分明
ナリケレハ。有間皇子ヲ。藤代坂ニテ。クビリコロス。時ニ十
九歳。其同類或ハ殺サレ。或ハ流罪セラル。或ハ有間皇子。
紀州岩代ノ松ノ枝ヲ結ヒ。歌ヲヨミテ。頸ヲクビリテ死
ストモ云リ同年阿部比羅夫ヲ大將トシテ。肅慎ノ
國ヲ討テ。生タル羆二ツ。并ニ罷皮七十枚ヲ得タリ。
肅愼國ハ。北方ノ國ニテ。韃靼ノ内ナリ。比羅夫又舩軍
ヲ率テ。蝦夷ヲ平ケテ皈ル。蝦夷ハ日本武尊東征
以後。王化ニ從フコトモアリ。又叛クコトモアリ。此度
比羅夫太勝利ヲ得テ。政所ヲ置テ歸ル

五年遣唐使ヲ發ス。勅使坂合石布津守吉祥ニ。蝦夷
人ヲ添テツカハサル。太唐ノ高宗皇帝ニ見ユル時。先日
本ノ天皇恙ナシヤト問。執事等モ無事ナリヤ。國中
モ平ナリヤト問テ。其後蝦夷ノ事ヲ問ル蝦夷人モ。弓
矢并鹿皮ヲ唐帝ニ奉ル
六年九月。百濟國ヨリ使者來テ言上シケルハ。去七
月ニ。新羅兵大唐ノ軍ヲカタラヒ來テ。百濟國ヲ打
破リ。君臣皆生捕ラル。百濟ノ大將福信ト云フモノ。ワ
ツカミ殘レル兵ヲ以テ。新羅ノ兵ヲ退タリ。願クハ日
本ニ人質トナリテアルトコロノ。百濟皇子豊璋ヲ迎へ
分トリテ。百濟ノ王トアフギ日本ノ加勢ヲ乞テ。國ヲ再
興セント請フ。天皇許容シ。豊璋ヲ百濟王トシタマフ。即チ

兵舩ヲ作リ。武具ヲ調ヘ。先難波マテ行幸。太子中大兄
攝政シ。諸國ノ軍ヲ召アツメタマフ。備中國下郡ノ一 
ヨリ人數二萬ヲ出シケレバ。其所ヲ号シテ。二萬郷ト云
明年ノ春御船進發シ。伊予ニ泊リ。土佐ノ朝倉ニ到ル。
此所ニ社アリ。其神木ヲ切テ。假ノ内裏ヲ造ル。神ノタヽ
リニヤ。御殿タチマチクツレテ死スル者多シ 同年ノ
七月ニ。天皇朝倉ノ宮ニテ。崩御マシマス 在位。初度
三年半。重祚七年。合テ十年ナリ。皇極ト斎明ト。一人ニ
テマシマセトモ。後世ニツノ諡ヲタテ。前後ノ御治世
ヲ分フナルヘシ

王代一覧巻之一終

(なし)

日本王代一覧卷之二
三十九代
天智天皇 舒明天皇ノ子ナリ御母ヽ齋明天皇ナリ。
始ハ中大兄皇子ト号ス。又葛城皇子トモ開別皇子
トモ申ス。中臣鎌足ト策ヲメグラス。皇極ノ叚ニ詳ナ
リ。孝德齋明二代ノ間。皇太子トナル、齋明ノ七年二大
唐并ニ新羅ヨリ。百濟ヲ破リケレハ。百濟國ノ臣福信ガ
読ニヨリテ。軍勢ヲモヨホシ。齋明天皇土佐國朝倉へ
行幸。此時天智太子タルニヨリテ。軍中ノ政ヲ攝シタマ
フ。山中ニ黒木ノ御所ヲ作リ。儉約ヲ用ヒ。民ヲ労セシ
メス。朝倉木丸殿トハ是ナリ。又刈萱ト云フ所ニ關ヲス
エ。非常ヲ戒メ。出入ノ者ヲ改テ其姓名ヲ尋問テ。往來

セシム。此所ヨリ旣ニ百濟ノ加勢ヲ出サントスルトキ。其
年ノ七月ニ齋明崩御アリシカハ。天智素服ヲ著ナガラ。
政ヲ聞タマフ。其年ノ八月ニ。將軍阿曇比羅夫。河邊
百枝等ヲ大將トシテ。百濟ヲ救ハシメ。兵粮武具ヲ贈リ
遣ス 九月百濟ノ皇子豊璋ニ。秦朴市田來津等。五
千ノ兵ヲ百濟へ送リ歸ス。福信出迎テ。豊璋ヲ百
濟王ト仰キ。日本ノ下知ヲウク。豐璋ハ。久ク人質トナリ
テ。日本ニ居ルトイヘドモ。彼國大唐新羅ニ破ラレテ。
國王ナキニヨリテ如此。其後天智ハ。齋明ノ喪ヲ奉ジ
テ。大和へ歸リタマフ。明年布三百端ヲ百濟王豊璋
ニ賜リ。矢十萬本。絲五百斤。綿千斤。布千端 千張。
稱種三千石ヲ。福信ニ賜フ今年大唐并新羅ヨリ。髙

麗ヲ攻ム。高麗加勢ヲ日本ニ請フ。即加勢ヲ遣サル。
大唐ノ大將任雅相病死シ。龐孝泰ハ討死ス。蘇定方
ト云ル大將。高麗ノ都ヲ攻圍ケルガ。コレモ利アラズ
シテ引退ク。其明年又兵船立兵粮ヲ調ヘ。数萬ノ軍
兵ヲ百濟へ遣サレ。新羅ヲ伐シム。此時豊璋ト福信
ト。中悪クナリテ。福信ヲ殺ス。既ニシテ新羅ノ兵進
テ百濟ヲ攻ム。大唐ノ大將孫仁師。劉仁願。劉仁軌。水
陸ヨリ百濟へ攻來ル。中ニモ劉仁軌ガ率ル兵船百七十艘
白江口ト云フ取ニ陳ヲ張ル。日本ノ兵コレト合戰ス。大
敵ナレハ。左右ヨリ挾ミ討レテ敗軍シ。水ニ溺レテ死スル
者数ヲ知ラス。日本ノ大將朴市田來津。歯ヲクイシバ
リ大ニ怒テ。唐兵數十人ヲ切殺シテ。其身モ討レ又カ 

リケレバ。豊璋ハ國ヲ捨テ高麗へ奔ル。日本ノ軍兵ハ皆
帰陳ス。百濟ノ人々多ク日本ヘ逃來ル者多シ。其中
男女四百餘人ヲ。近江國神前郡ニ移シ畳ル又東國
ヘ二千餘人ヲ分チ遣ス。其後大唐ヨリ劉德高トイ
 ル使者來ル。其歸ルトキニ。守君大石坂部石積等ヲ
遺唐使トシテ發船ス。大唐ノ高宗皇帝ニ逢テ歸ル。
カクテ異國ト無事ニナリシカバ。筑紫ノ内所々ニ。城ヲ
構ヘ。堤ヲ築キ。番ヲスヘ。又大和國高安城。讃岐國屋
嶋城ヲモ築カル。齋明天皇崩御ノ後六年ノ歷テ新
ニ陵ヲ築テ改メ葬ル。此時マデハ。大智イマダ即位ノ禮
ヲ行ハズ。猶太子ノ作法ニテヲハシケルガ。此葬リ畢テ
後。都ヲ近江ノ滋賀ニ遷ス。明レハ七年春正日滋賀ノ

都ニテ即位シタマフ。
八年ノ冬内臣中臣鎌足病ニ臥ケレバ。天皇自ラ其家
ニ行幸アリテ。何ニテ思フコトアラバ申スベシト宣フ。
鎌足對テ我何ヲカ申スベキヤ。唯葬禮ヲ輕クセンコト
ヲ願フ。生テ國ニ益ナク。死シテ何ソ人ヲ勞センヤト申
ス。時ノ人感ゼスト云コトナシ。其後天皇又御弟天武ヲ
鎌足ノ家ヘ遣ハシ。内大臣ニ任ゼラレ。大織冠ト云官ヲ
賜テ。中臣ヲ改テ。初テ藤原姓ヲ賜ハル。是内大臣ノ娘
ナリ。但シ此時左右ノ大臣ノ上ニ位ストナン。大織冠ハ。
正一位ニアタル官ナリ。藤原ハ。鎌足ノ生レクル在所ノ
名ナリ。其出ル所ノ名ヲトリテ姓トセリ。其後幾程
ナクシテ大織冠薨ス歲五十。或ハ五十六トモ云リ。

皇自ラ其家ヲ行幸アリテ歎キタマフ。天皇生レツキサ
カシク。學問ヲ好ミシカバ。萬ツノ政。其外禮法儀式。此
御代ニ至リテ能調フレリ。後世マデ。本朝中興ノ帝ト
申ス
十年辛未ノ正月元日ニ。御子大友皇子ヲ大政大臣
トシテ。百官ヲ總テ萬機ノ政ヲ得ハシム。蘇我赤兄テ
左大臣トシ。中臣金連ヲ右人臣トス。大政大臣ハ。此時
ヨリ始ル。コレヨリサキ。天皇御弟天武ヲ大子トス。天
武ノ后持統ハ天智ノ娘ナリ。大友皇子ノ妃十市皇
女ハ。天武ノ娘ナリ。カタ〱シタシキナカナレドモ。大友
生レツキサカシク。人ヲナツケ。其上學問ヲ好ミ。詩ヲ
作リ。文章ニ達シケレハ。世ノ人皆心ヲ大友ニ寄セケルニ

ヤ。天武疑ヒ畏ルヽ心アリ。其年ノ十月。天智不例ナリ
シカハ。遺言ノ爲ニ天武ヲ召ス。蘓賀安麻呂ト云フ者。
サヽヤキテ言ケルハ。心アリテ返事申サレヨ。天武ウナ
ツヒテ御前ヘ參ル。天智疾甚シ。後ノ事汝ニ任ス
ト宣フ。天武某シ多病ナリ。願クハ大友皇子ヲ太子ト
シタマヘ。其シハ出家セント云。天智其心ニ任スベシト
云。大武即内裏ノ佛殿ニテ。髪ヲ剃テ僧トナル。勅ア
リテ袈裟ヲ賜ル。天武御前へ參リ暇ヲ申シ。許容ア
リシカバ。即チ近江ヲ出テ。吉野へ赴名群臣皆宇治マ
デ送リテ歸ル。時人申シケルハ天武ヲ吉野ヘ遣スコトハ。
虎ニ翼ヲツケテ。放ツガコトシト云リ。カヽリシ後ハ大友
皇子イヨ〱威強クナリテ。左大臣蘓我赤兄。右大臣中

臣金連等ノ群臣。皆大友ノ前ニテ盟ヲナシテ。少モ違
變アルベカラズト約束ス。カクテ十二月。天智崩御マ
シマス。在位十年御歳四十六。或ハ五十八トモ云リ。又一
說二ハ。天智天皇或時山科へ行幸アリテ皈リ夕マハズ。
天ニ登リタマフニヤ。御履バカリ留ルニヨリテ。其所ニ
陵ヲ立タリトイヘリ。明レハ壬申ノ年。大友皇子ノハカラ
ヒニテ。吉野へ人ヲ遣シ。天武ヲ召カヘン。近江ニ置テ。其樣
子ヲ見テ。コレヲ殺スベキカトノ沙汰アリシカバ。十市皇
女竊ニ是ヲ悲ミテ。文ヲカキテ魚ノ腹ノ中ニ入テ。吉
野へ送リ遣ス。天武コレヲ見テ。大ニ懼ル村國ノ男依
ト云フ臣ヲ召シテ曰ク。近江ノ諸臣我ヲ害セン事ヲ
謀ルト聞ク。汝等急キ美濃國ニ徃テ。兵ヲ發シ。不破

ノ道ヲ塞クヘシ。我モ又ヤガテ漁發セント云フ。其後天武
大伴志摩ヲ使トシテ。大和ノ留守高坂王ヲカタラハ
レケレバ。同心セサルニヨリテ。急ギ事ノアラハレヌサキニ
トテ。吉野ヲ出タマフ。俄ノ事ニテ御車モナケレバ。天武
ハ馬ニ乗。御后持統ハ輿ニ乗ル。御子草壁皇子忍壁
皇子以下。近臣二十餘人女孺十餘人。徒歩ニテ供奉ス。
路次ニテ猟師二十餘人來テ御供ニ候ス。又伊勢ノ貢
米ヲノセテ通ル馬五十疋ヲ得テ。其米ヲハ捨テ歩ノ
人ヲ乗セシム。此路次。山城國ヲ過ルトキ。流矢來
武ノ背ニアタル。其所ヲ矢背ト云。山中ニ逃入テ。鞍
馬ヲ繋グ所ヲ。鞍馬山ト号ス。其後大野ト云所ニ
到テ。日暮。山中暗シテ道ヲ知ラズ。家ヲコホチテ

トシテ是ヨリ進ンテ伊賀國ニ到ル。中山二入時ニ。當
國ノ軍士等數百人來リ參ル。ソレヨリ伊勢國 越テ
國司三宅連ガ軍兵五百人ヲ得テ。鈴鹿ノ関ヲ塞ク。天
武ノ子高市皇子大津皇子ハ。皆近江ニアリケルカ潜
カニ逃出テ。伊賀伊勢ノ内ニテ。天武ニ參會ス。此時天
武跡大川ノ邊ヨリ。遥ニ天照大神ノ拜セラル去程ニ•
村國ノ男依。美濃國ノ兵三千人ヲ催シテ。不破ノ関ヲ
寒グヨシ注進シケレハ。大武高市皇子ヲ不破へ遣シテ
守ラシム。又東海道東山道ヘモ。使ヲ遣シ軍ヲ催シム。
天武持統モロトモニ。伊勢國桑名郡ニ暫ク体息セ
ラル。世俗 說ニハ。天武吉野國樔ニテモ。志摩國ニテモ
美濃ノ洲股ニテモ。大友ノ兵ニ逐レテ。難議ニ及フト云

ヒツタ レド。日本紀ニハ見へ侍ラズ。其後天武桑名ニ持
統ヲ留置。其身ハ不破ヘ赴ク。尾張國司小子部鉏釣  
二万ノ兵ヲ率テ從フ。天武高市皇子ヲ和蹔ト云フ
所ニ居ラシメテ。諸軍ヲ下知セラル。天武ハ野上ト云フ
所ニ御座ス。カヽルトコロニ。大和國ニテ。大伴吹負ト云フ
者。軍ヲ起シ。天武ノ方トナリテ。所々ニテ攻戰ヒ利
ヲ得テ。既ニ奈良マテ進デ入リ。近江ヘ押寄ントス。大
友皇子方々へ軍兵ヲ遣シ防クトイヘトモ。利ヲ失
テ引退ク。既ニシテ天武ノ大將。村國男依等。數萬
兵ヲ率テ近江へ向フ。皆赤キ符ヲツケタリ。大友ノ大
將境部薬ト。息長横川ニ戰テ藥ヲ切ル。又鳥籠山ニ
テ。大友ノ大將泰友足ヲ斬リ。安河ニテ。土師千島ヲ

生補ル。即チ進デ勢多マテ来リシカハ。大友自ラ群臣ヲ
率ヒテ。橋ノ西ニ陣ス。互ニ鐘皷ヲウチ。弓矢乱レ放テ雨
ノゴトシ。大友ノ大將智尊ト云者勝レタル勇土ニテ防ギ
戰ヒケレバ。敵進ムコトアタハズ。既ニシテ智尊討死ス。大
友ノ軍散走ル。男依橋ヲ越テ粟津ニ至ル。大友ノ大將
犬養連谷塩手等皆討死ス。大友皇子行ヘキ所ナク山
前ニ隠レテ。自ラ縊レテ死ス。時ニ二十五歲ナリ其頸ヲ
取テ天武ノ御座所へ送ル。高市皇子近江へ來リテ。罪
ノ軽重ヲタヾシテ。右大臣中臣金連ヲ切リ殺シ。左大
臣蘇我赤兄等。數輩ヲ流罪セラル。壬申ノ乱トハ是ナリ
 四十代
天武天皇 天智ノ弟ナリ。天友皇子討レテ後伊勢ノ

國ヨリ大和ニ到リ。内裏ヲ造リ。浄見原宮ト号シ。即 
場ヲ設ケ。即位セラル。壬申ノ乱ニ。勲功アル者ヲ褒美セ
ラル。高麗新羅皆使ヲ献レテ即位ヲ賀ス
白鳳二年始テ大 経ヲ為サシム
三年對馬國ヨリ白銀ヲ奉ル。是日本ニテ白銀出ル始
ナリ。此代ニ正月踏歌トテ。內裏ノ庭ニテ男女ヲドリ
ウタフコト也。又同キ十五日ニ郡臣御薪ヲ進ズルコト。
六月晦日ノ祓。又大嘗會ノ悠紀主基モ。五節ノ舞姫
モ皆始レリ。諸社ノ祭モ始ルコト多シ。又朝廷ノ法度
品々多ク定メラル。群臣ノ位四十八階ヲ定メラル。装
束ノ色ヲモ其位ニヨリテ定メラル。又人ノ姓氏ノ品ヲモ
分チ定メラル

白鳳十三年(684)ニ。大地震アリテ西クヅシ。川涌出テ。諸国
ノ官舎御藏并ニ神社寺塔多ク壊レ。人民六畜多ク
死ス。伊豫國ノ温泉ハ。ツブレテ出ズ。土佐國(To ſa no koe ni)ノ田地ハ。五
十餘万興没シテ海トナル。伊豆國(I zoe no Koe n)ニハ。俄ニ一ツノ島出
來ル。其外在位ノ間怪異多シ
朱烏元年九月ニ崩ス 在位十五年年号ハ白鳳十
四年。朱鳥一年
 四十一代
持続天皇《割書:女帝|》天智ノ娘天武ノ后ナリ。壬申ノ乱ニ。天武
從テ伊勢國マデ赴キ。桑名ニ居テ。乱平テ後。大
和ノ都ニ皈ル。軍中ニモ。即位ノ後モ。天武 輔テ政ニ
預ルコト多シ。天武崩シテ後。持統政ヲ聞特統ノ產

ル子ヲ。草壁皇子ト云。天武ノ時ヨリ太子タリ。別腹ノ
子ヲ大津皇子ト云。其器量人ニ勝レ。文才アリテ能
詩賊ヲ作ル。天武愛シテ政ヲ開シム。天武崩シテ後大
津皇子。聯ニ謀叛ノ志アリ。事アラハレケレハ。持統ト
草壁太子ノハカラヒニテ。大津ヲ殺ス。其時モ臨終ノ詩
ヲ作レリ。時ニ一十四歲トナン。カクテ三年ヲ歴テ草
壁太子薨ゼラル。時ニ二十八歲。其明年持統遂ニ天
皇ノ位ニ即ク。群臣三種ノ神器ヲ奉ル。大赦ヲ天下
ニ行シ。其上京中畿内ノ年老タル男女五千餘人
ニ稲ヲ賜フ。人毎三十束ヅヽナリ。又無緣ノ者。并
ニ疾アル者貧キ者ニ稲ヲ賜フ。高市皇子ヲ。太政
大臣トシ。丹比島ヲ右大臣トス。其外八省百官等

皆是ヲ置群臣ニ俸禄ヲ増加ヘ。皇女并ニ命婦ニ
モ位ヲ授。皇女ヲ内親王ト云フコトモ。又女人ノ位ニ
スヽムコトモ。コレヨリ始ム。天皇年々吉野ヘ行幸アリ
ヌアルトキ。伊勢國へ行幸アルベシト沙汰アリシカバ
中納言三輪高市麻呂農業ヲ妨ンコトヲ慮テ。シキ
リニ諌メ申セドモ許容ナク遂ニ行幸アリ伊賀伊
勢志摩ノ年貢ヲ减ジ。老人ニ稱ヲ賜フ。又藤原ノ内
裏ヲ造テ。都ヲ遷サル。其後高市皇子薨セラル天皇
イヅレノ皇子ヲカ。太子トスベキト沙汰アリ。葛野王
ト云ル臣ノ申ニヨリテ。草壁太子ノ子珂瑠璃王ヲ太
子ニ定メラル。其後天皇不例ナリシカバ。在位十一年
ニテ。位ヲ珂瑠太子ニ讓ル。文武天皇是ナリ。持統ニハ。

上天皇ノ尊号ヲ奉ル。存生ノ内ニ位ヲ譲ルコトハ。皇極
ニ始ルトイヘドモ。太上天皇ノ尊号アルコトハ。持統ヨリ
始レリ
 四十二代
文武天皇 天武ノ孫。草壁太子ノ子ナリ。祖母持続ノ
譲リヲウケテ即位ス
元年。藤原宮子媛ヲ夫人トス。藤原不比等ノ娘ナリ。不
比等ハ。大織冠ノ子ナリ。後ニ淡海公ト云シハ是ナリ。
二年。役小角ヲ伊豆嶋ニ流ス。小角ハ役行者ノ事ナリ。
其人怪キ術ヲ知テ。大和國葛城山ニ住テ。鬼神ヲ召ツ
カヒ。其下知ニ従ハザル神ヲバ。是ヲ捕ヘ縛ル。韓國廣足
ト云者。行者ヲ師トシ。其術ヲ智ヒケルガ。怪キコトニテ。

人ヲ惑ス由。奏聞スルニヨリテ。行者ヲ流罪セラル。年ヲ
歷テ赦免セラル
四年。道昭ト云ル僧病死ス是ヲル葬ス。日本ニテ火
葬ノ始ナリ。此僧岩キ時入唐シ學問シテ。皈朝ノ後元
興寺ニ住ケルガ。天下ヲ廻リアリキ。方々ノ津濟ニ。船ヲ
設ケ橋ヲ造ルコト多シ。山城國宇治橋モ此僧ノ始
テカクル所ナリ。同年藤原不比等等ニ詔シテ。律令ヲ
撰シム。律六卷令十卷アリ。律ハ法度ノ定メナリ。令
ハ政務ノ下知ヲキテナリ。此二部ハ。後世マデノ重寶ナリ。
大寶元年正月元日。天皇大極殿ニ出御アリ。御門ノ
正面ニ。鳥形ノ旗ヲ立。左ニハ日ノ旗。青龍旗。朱雀ノ旗ヲ
タテ。右ニハ月ノ旗。玄武ノ旗。白虎ノ旗ヲタテタリ百官

朝拜シ。異國ノ使者ハ。旗左右ニ並居タリ後世マデ大
禮アルトキニ。其儀式如此トナン 同月。大納言大伴
御行卒ス。右大臣ヲ贈ラル是贈官ノ始ナリ二月丁
巳。大學寮ニテ。始テ釋尊ヲ執行ヒテ。孔子ヲ祭リタマ
フ。是ヨリ年々春秋ヲコタルコトナン 五月。粟田真人
ニ節刀ヲ賜リ。遣唐使トス。相從フ屬官多シ 七月。
左大臣多治比島薨ス。歲七十八
二月十月。太上天皇持統参河國ニ御幸ス 十一月ニ
大和ニ歸リ 十二月崩御マシマス
三年正月。朝禮ヲヤメラレ。太上天皇ノタメニ齋ヲ設ケ
ラル 三品刑部親王ニ。知大政官事ト云官ヲ授テ。
國政ヲ執シム。此人ハ天皇ノ叔父ナリ 四月。右大臣阿

倍御主人薨ス 十二月ニ。持統天皇ヲ。飛鳥岡ニ火
葬ス帝王火葬ノ始ナリ
慶雲元年正月。石上麻呂ヲ右大臣トス。七月。遣唐使粟
田真人歸朝ス。田二十町。米千石ヲ賜リテ労ハル。此人
大唐ニテ。則天皇后ニ見へ。麟德殿ニテ宴ヲ賜ル。文才
器量勝レテ。衣冠シテ參内セル威儀神妙ナリト。異朝
ノ書ニモ記セリ
二年。諸國飢饉疫病シケレバ。醫藥ヲ賜リテ是ヲ救フ。
四年五月。讃岐國人。錦部刀良。筑後國人。許勢形見
等ニ。衣服并ニ塩米ヲ賜ル。是ハ天智ノ御時。百濟ノ
加勢ノ中ニアリテ。唐人ニ生捕レ。四十餘年異國ニア
リテ。粟田真人ニ從テ歸朝セリ 六月。天皇崩御

シタマフ。御生レツキ。ユルヤカニシテ仁愛ナリ。學問ヲ
好ミ詩ヲ作リ。又射藝ニモ達シタマフ。御歳ワヅカニ
二十五。在位ノ始四年ハ年号ナシ
大寶三年。慶雲四年。合テ十一年ナリ。孝德天皇ノ大
化ヨリ年号始ルトイヘドモ。其以後或ハ年号ヲ立或
ハタテラレズ。大寶ヨリ以後ハ年号絶ルコトナシ
 四十三代
元明天皇女帝天智ノ娘。特統ノ妹。草壁太子ノ妃。丈武
ノ母ナリ。文武崩シテ其子聖武幼少ナレバ。文武ノ遺
言ニリテ。元明即位ス。其明年ノ春武藏ノ國ヨリ和
鋼ヲ獻スルニヨリテ。即チ年号ニ用ラル。和銅元年三
月。石上麻呂左大臣トナル。藤原不比等右大臣トナル

二年三月。隆奧越後ノ夷叛キケレバ。將軍ヲ遣シ是ヲ
平グ 五月。新羅使金信福來テ貢物ヲ捧グ。藤原
不比等是ニ對面ス。信福日本ノ大臣ニ逢コトヲ悦テ
拝ス
三年三月。都ヲ平城ニ遷ス。此遷都ノコトハ。文武ノ和
年ヨリ其沙汰アリ。コヽニイタリテ内裏成就セリ。藤
原不比等與福寺ヲ平城ニ造ル。平城ハ奈良ナリ
四年。太安麻呂古事記三卷ヲ作ル
五年。始テ陸奥ノ國ヲ分テ出羽國ヲ置
六年。丹波ヲ分テ後後トシ。備前ヲ分テ美作ヲ置。日
向ヲ分テ大隅ヲ置。同年諸國ノ風土記ヲ作ラシム。
此記ニハ。國々ノ郡郷山河原野。井ニ其土産草木

鳥獸ニ至ルマデシルシ。其上其國々々ニテ云傳タル
昔ノ物語マデ。書ノセタリ。又信濃ト美濃ト。堺道
セハクケハシク。往來難議ナルニヨリテ。始テ木曽路
ヲ開テ通ラシム
七年。大和國ニ。孝行ノ者二人アリ。詔シテ其人身ヲ
終ルマデ公役ヲ免ス。惣シテ此比ハ。孝子順孫義夫
節婦ノキコヘアルモノヲバ。褒美セラル
八年。天皇位ヲ御娘元正ニ讓リ。太上天皇ト稱ス
在位八年年号和銅
 四十四代
元正天皇《割書:女帝|》元明ノ娘。文武ノ姉ナリ。元明ノ譲リヲウ
ケテ即位。年号ヲ霊亀ト号ス

霊亀二年。高麗人千七百九十九人ヲ。武藏ノ國ニ遷
シ。其所ヲ高麗郡ト号ス 同年。多治比縣守ヲ遣唐
使トス。藤原宇合ヲ副使トス。吉備大臣。此時ハイマダ
下道真備ト云テ。ニ十三歳ナリ。阿倍仲麻呂十六歳。
二人共ニ學問ノ爲ニ縣守ニ從テ入唐
養老元年三月。左大臣石上麻呂薨ス。歲七十八。九月。
近江國へ行幸。山陰山陽南海道ノ國司參リツドヒ
テ歌舞ス。其ヨリ美濃國へ行幸。東海東山北陸道
ノ國司來リツドヒテ。雑伎ヲ奏ス。美濃國當耆郡
多度山ニ泉アリ。コレミテ手ヲアラヒ。面ヲアラヘバ。皮
層ナメラカニナレリ。又痛ミアル所ヲアラヘハ。タチマ
チ愈。又是ヲ飲。或ハ是ニ浴スレバ。白髪モ黒クナリ。ヌケタ

レ髪モ再生ジ。眼精モ明ニナルトイヘリ。天皇此トコロヘ
行幸ナリテ。此泉ハ老ヲ養フヘシト仰セラレ。即年号ヲ
養老ト号ス。俗ニ謂ル養老ノ瀧是ナリ
二年五月。越前ヲ分テ能登トシ。下総ヲ分テ安房トス
十二月多治比縣守。大唐ヨリ歸ル 同年右大臣藤
原不比等ニ命ジテ。重テ律令各十卷ヲ修セシム
四年五月。三品舍人親王。日本紀三十卷ヲ作テ奉ル。
神代ヨリ持統天皇マデヲ。詳ニ記セリ。舎人ハ。天武ノ
子ナリ 八月。右大臣藤原不比等薨ス。歳六十二。太
政大臣正一位ヲ贈ラレ。文忠公ト謚ス。淡海公是ナリ。
舍人親王ヲ以テ。知太政官事トシテ。政ヲ行ハシム
今年。大隅ノ隼人。陸奥ノ蝦夷謀叛シケレバ。東西ヘ將軍

ヲ遺シ 平ゲシム
五年正月長屋王ヲ右大臣トス 明經博士。井ニ才藝
アル者ニ。物ヲタマフ 十二月太上天皇《割書:元明|》崩ス歲
六十
八年正月。天皇位ヲ聖武ニ讓ル。太上天皇ト号ス。在
位霊亀二年養老七年。合テ九年
 四十五代
聖武天皇  文武ノ太子ナリ。母ハ藤原夫人宮子ト云フ。
贈太政大臣藤原不比等ノ娘也。文武崩スルトキ。聖武
幼少ナルニヨリテ即位セス。元明ノ代ニ。十四歲ニテ大子
トナリ。元正ノ代ニ。政ヲアヅカリ聞タマフゴヽニイタリテ。
譲リヲウケテ位ニツク

神亀元年二月。右大臣長屋王左大臣トナル 十月
紀伊國玉津嶋弱浦ニ行幸
四年。勅使ヲ諸國へ遣シ。國司ノ政ヲ改メシム。又百官ノ
善悪ヲ紀ス
五年。渤海使者來テ。貢物ヲ奉ル。渤海ハ高麗ノ部類ナ
リ。コレヨリサキ。高麗國ハ大唐ニ滅サル。其ワツカニノコル
者ヲ。渤海國ト号ス
天平元年正月。左大臣長屋王逆心ノ聞ヘアリケレバ式
部卿藤原宇合等ヲ遣シテ。長屋王カ家ヲ圍ミ。又舎人
親王等ヲ遣シテ。其罪ヲ問シム。長屋王自害ス。其妻子
皆殺サル。長屋王ハ。天武ノ孫高市皇子ノ子ナリ
八月藤原光明子ヲ立テ皇后トス。是モ不比等ノ娘

ナリ。天皇ハ不比等ノタ ニ外孫ナルニニ。又婿ナレバ藤
氏ノ繁昌此時ヨリ起レリ
二年正月。百官ヲ宴シ。仁義禮智信ノ五字ヲ札ニカキ。
是ヲトラシメ。其字ニヨリテ。物ヲ賜フ事差アリ
二月。釋奠勅使ヲ大學寮ニ遣シ。博士等ヲ勞ヒ物ヲ
賜ル 四月。始テ施藥院ヲ立テ。民ノ疾アルモノヲメグム
四年。多治比廣成ヲ遣唐使トス
六年藤原武智麻呂右大臣トナル。不比等ノ長男ナリ次
男ヲ房前ト云。此時参議ノ官ニテ。政ニアヅカル。其三男
ヲ式部卿宇合ト云。其四男ヲ左京大夫麻呂ト云
七年三月。多治比廣成大唐ヨリ歸ル。此人玄宗皇帝
ニ謁シ。名ヲ異朝ニアラハス。下道真《割書:吉備|大臣》モ此時皈

大臣轍シ。書物其外様々ノ器ヲ持テ皈レリ。又孔子顏子并
九哲ノ像ヲモ持テ參レリ。在唐ノ間二十年ニ及ベリ。今年
夏ヨリ冬ニ至ルマデ。天下豌豆瘡ト云モノハヤリテ。病
死スル者多シ。俗ニ是ヲモガサトモ云。今ノ疱瘡ナルベ
シ 十二月。三品舎人親王薨ス。歲六十。太政大臣ヲ
贈ラル。八年南天竺僧菩提林邑國僧佛哲來朝ス
同年。從三位葛城王ニ橘姓ヲ賜リ。名ヲ諸兄ト改ム。
橘姓是ヨリ初ル
丸年四月参議藤原房前卒ス。歲五十七 七月
参議藤原麻呂卒ス。歳四十三ノ同月右大臣藤原
武智麿薨ス。歲五十八其病中ニ正一位ヲ授ケラレ。
左大臣ニ任ゼラル 八月ニ参議藤原宇合卒ス。歳四

十四。此人ハ。皆不比等ノ子ノニテ。天皇ノ舅ナリ。兄弟四
人。同年ニ皆モガサニテ薨逝。武智麻呂ノ家ハ。南ニ
アルニヨリテ南家ト云。房前ノ家ハ。北ニアルニヨリ
テ北家ト云。次男ナレトモ此人ノ子孫繁昌シテ。今
ニ至ルマデ。攝家ハ皆此末ナリ。宇合ハ式部卿ヲ兼ル
 ヨリテ式家ト云フ。此人 文武ノ才アル人ニテ。名ヲ異
國マテ顕セリ。麻呂ハ左京大夫ヲ兼ルニヨリテ。京家
ト云。後世藤原氏ノ末葉ハ甚タ多シトイヘドモ。皆此四
家ヨリ出ザルハナシ 天皇ノ御母藤原大夫人宮子。
久ク疾ニカヽリテ。人ニ逢コトナシ。此年ノ冬。皇后ノ御
方ニテ。僧正玄肪ヲ一目御覽ジテ。快ク笑ヒタマイテ。
天皇トモ久々ニテ對面アリ上下目出度ト悅ブ。コ

レニヨリテ。綿布ヲ玄防ニ賜ル
十年正月。御娘阿倍内親王ヲ。太子ニ立ラル。孝謙天
皇是ナリ天皇皇子一人アリトイヘドモ。早世ニヨリ
テ如此。橘諸兄ヲ右大臣ニ任ゼラル
十二年八月。太宰少貳藤原廣嗣上表シテ。時ノ政
ノ得失ヲ申シ。下道真備ト僧正玄昉世ヲ乱ル間。コ
レヲ除ント言上シ 九月。遂ニ筑紫ニテ謀叛ス。コレニ
ヨリテ。大野東人ヲ大將軍トシ。紀飯麻呂ヲ副將
軍トシ。諸國ノ軍勢一萬七千人ヲ添。又佐伯常人。阿
倍虫麻呂ニ。四千人ヲ添テ。相共ニ廣嗣ヲ討シム伊勢
太神宮へ勅使ヲ立ラレ。奉幣シ祈請セラル。所々ノ関
所ヘ軍兵ヲ遣シ守シム。廣嗣ハ。肥前ノ國遠珂ノ郡

ニ城ヲカマヘ。板樻ト云所ニ出張ス 十月大將軍
大野東人。板樻河ニテ。廣嗣ガ万騎ノ兵ト合戰廣
嗣ガ前手ノ兵木ヲ編テ舩トシ。河ヲ渡ントス。常人
虫麻呂大弓ヲ放テ射ケレハ。敵進フアタハズ。常人等
六千餘八ヲ帥テ進ミ。廣嗣ニ言ヲ懸テ呼ケレハ。廣嗣
馬ニ騎テ進出テ。勅使ハ何人ソト問フ。常人某々ト
荅ケレハ。廣嗣馬ヨリ下テ。我本ヨリ朝廷ヘ叛カズ。只
真備ト玄肪トニ怨アリト云。常人然ハ何トテ大軍
ヲ起シ。官軍ニ向テ戰ヤト云。廣嗣誉ルコトアタハズシ
テ退ク。廣嗣自ラ五千人ヲ帥ヒ。其ノ弟綱手ニ五千人
ヲ添。又多胡古麻呂ニ兵ヲ添テ。三手ニ分レテ進ム。
廣嗣カ一手先進テ。二手ハイマダ到ザル内ニ。官軍急

ニ攻ケレハ。廣嗣戰負テ。舩ニ乗テ異國ヘ逃トスル処ヲ肥前
國松浦郡長野村ニテ。官軍ノ内。安倍黒麻呂ト云
者廣嗣ヲ生取テ。則是ヲ斬ル。綱手モ同ク殺サル或説
ニ。廣嗣駿馬ニ騎テ海へ飛入テ其霊タヽリヲナスニヨリテ。松
浦ニ社ヲ立テ。神ト祟ト云リ。廣嗣ハ。宇合ガ子ナリ。
廣嗣乱ノ内ニ。天皇伊勢ノ國へ行幸アリ。大神宮ヘモ
奉幣シ給テ。美濃伊賀ヲ歷テ。山城ノ國相樂郡ニ都
ヲ遷シ。内裏ヲ作ル。是ヲ恭仁宮トイフ。廣嗣ガ同類ノ
罪ヲ定メ。東人飯麻呂常人虫麻呂等ニ位ヲ授ケラル。
十四年。近江國甲賀郡紫香樂官ニ行幸。其ヨリ右大
臣橘諸兄ヲ。伊勢大神宮へ遣サル
十五年正月ニ。太宰府ヨリ腹赤ノ魚ヲ献ル。是ヨリ

毎年元月ノ節會ニ。此魚ヲ用ラル 五月。右大臣橘
諸兄左大臣ニ任ス 十月。紫香樂官ニ行幸シ。僧行
基ヲシテク天下ヲ勸進セシメ。盧舎那ノ金銅大像ヲ
作ル
十六年春。都ヲ攝津國難波ニ遷ス 十一月紫香
樂官ノ寺ニ始テ。大佛ヲ立ツ。天皇自。ラ其縄ヲヒク。
太上天皇《割書:元正|》モ御幸アリ
十七年正月。行基ヲ大僧正トス 八月。紫香樂宮ノ
大佛ヲ奈良ニ遷ス
十八年。玄昉死ス。此僧入唐シ歸朝ノ時。經論五千餘
卷。并ニ佛像持テ來ル。天皇紫袈裟ヲ給テ。榮罷ア
リシガ。沙門ノ行ニソムクヿアルニヨリテ人皆悪ム。此時

筑紫ニウツサレテ死ス。或說ニハ。廣嗣ガ怨霊ニ害セラル
ト云リ
十九年。太上天皇《割書:元正|》不例ニテ。明レハ二十年四月。六
十九歲ニテ崩御。其追善ノ爲ニ。法華經千部ヲ写ス
八月。釋美ノ服器。及儀式ヲ定メラル
二十一年正月。天下殺生ヲ禁ジ。行基ヲ召テ。大菩薩
ノ号ヲ授ラル 二月。行基病死。歲八十。此僧少キ時ヨリ。
諸國ヲメグリアリキ。所々ニ橋作堤ヲ筑ク。其留リ住
スル處ニハ。必道塲ヲ立タリ。畿内ニモ四十九處アリ。天皇
甚歸依シ給フ。陸奧國司百濟王敬福始テ黄金ヲ貢。
当国小田ノ郡ヨリ出ル處ナリ 四月。天皇東大寺ニ
行幸シ。北面シテ佛像ニ向ヒ自三寶奴ト称ス。皇后太子

群臣皆伺候ス。橘諸兄ヲシテ。佛像ニ向ヒ。陸奥ノ國ヨリ
黄金ヲ出スヿヲ告グ。コレヨリサキ。天皇大佛ノ料ニ。黄金ヲ
異國ヘ求ントス。然ルニ奥州ヨリ始テ奉リシカバ。大ニ喜
ブ。三月又奥州ヨリ黄金九百两ヲ奉ル。皆大佛ノ料ニ
用ヒラル 同月。左大臣橘諸兄。正一位ニ知シ大納言藤
原豊成ヲ。右大臣ニ任ゼラル 七月。天皇位ヲ太子ニ
譲リ。大上天皇ト称ス 天皇在位神亀五年。天平二
十年。合テ二十五年
 四十六代
孝謙天皇 《割書:女帝|》聖武ノ娘ナリ。母ハ光明皇后藤原不比等
ノ娘ナリ。聖武男子ナキニヨリテ。孝謙ヲ太子トス。吉備
公ヲ師トシテ學問シ給フ。聖武ノ譲ヲ受テ即位ス

天平勝寳元年。八幡大神ノ詫宣ニヨリテ。大和國平郡
ニ。神宮ヲ作ル。東大寺ノ八幡是ナリ。天皇モ太上天皇モ
光明皇后モ。東大寺へ行幸アリテ。僧ヲ表メ經ヲ讀シム
二年。藤原清河大伴古麻呂。吉備真備ヲ遣唐使トス
四年四月。大佛開眼供養。天皇東大寺へ行幸。百官供
奉其儀式元日ニ同シ 天皇寺ヨリ皈ル時。大納言藤原
仲麻呂ガ田村ノ家ニ入給ヒテ。其處ヲ御在所トセラル。
仲麻呂籠臣タル故ナリ
六年正月。遣唐使大伴古麻呂。吉備真備歸朝ス。藤原
清河ハ大唐ニ止テ不歸古麻呂奏聞シケルハ。大唐ニア
リシ時。正月元日。玄宗皇帝出御アリテ。諸國ノ使者ニ
對面ノ時。西ノ一ノ座ハ。吐蕃國ノ使者。東ノ一ノ座ハ。新羅ノ

使者ナリ。日本ノ使者ハ西ノ二ノ座タルベシ。大食國ノ使者
ハ。東ノ二ノ座タルベシト定メラル。其時古麻呂イカリテ。新
羅古ヨリ今ニイタルマデ。日本へ從フ。イカデカ日本ノ使
者ヲ。彼ガ下ニ置ヤト。ハヾカラズ申ケレハ。大唐ノ將軍呉
懷實。其色ヲ見テ。日本ノ使者ヲ大食國ノ上ニ置キ東ノ
一ノ座トス。新羅ノ使者ヲハ西ノニノ座ニ置ケリト云云
此時唐僧鑑真從テ來朝ス。古麻呂。吉備。皆位ヲ進
メラル
八年二月。左大臣正一位橘諸兄。逆心アリト申スモノ
アリ。天皇許容セズ諸兄ヲシテ。官職ヲ辞メ致仕ス
五月。太上天皇聖武崩ス。歲五十六。甚佛法ヲ好ニヨリ。
テ。落飾シテ。法諱ヲ勝滿ト云。帝王ノ髪ヲソルヿハ。聖武

ヨリ始マル。太上天皇ノ遺言ニテ。道祖王ヲ太子トセ
ラル。是ハ天武ノ孫。新田ノ皇子ノ子ナリ
天平寳字元年。橘諸兄薨ス。歲七十四。井手大臣ト号
ス 三月。太子道祖王ヲステ。其家ニ歸ラシム。右大
大臣藤原豊成。帝ノ遺言ナレバ如何ト申シケレドモ。天
皇ノ心ニカナハザルニヨリテ如此 四月。親王ノ内孰力
太子トスベキト沙汰アリシニ。豊成等申ス旨アリトイ
ヘドモ許容ナク。藤藤仲麻呂ガ申スニヨリテ。大炊王
ヲ太子トセラル。此モ天武ノ孫。舎人親王ノ子ナリ
五月。天皇藤原仲麻呂ガ田村ノ宮ニ遷リマシ〱テ。仲
麻呂ニ紫微内相ト云ヘル官ヲ授テ。内外ノ武官ヲツカ
サドラシム。其作法大臣ノ如シ。豊成ハ。仲麻呂カ兄ニテ。

右大臣タレドモ仲麻呂寵臣タルニヨリテ。其権威甚
フルヒケレバ。豊成ト不和ナリ此二人ハ。不比等ノ孫武
智麻呂カ子ナリ。此時橋諸兄ガ子ニ。奈良麻呂ト云者
アリ。仲麻呂ガ横柄ヲ。ホシイマヽニスルコトヲ怒リ。大伴
古麻呂等ヲカタラヒ。仲麻呂ヲ殺シ。道祖王ヲトリタ
テ。天皇ノ位ヲトリカヘントハカル。此事豊成風聞シ我仲麻
呂ヲ教誨スベシ乱ヲヲコスベカラズト止ム其内ニ早事
露レシカバ。仲麻呂大ニ怒テ則奏聞シ。奈良麻呂。其外
同類ヲトラエテ。盡ク殺ス。道祖王モ害セラル。豊成モ
此事知ナカラ。奏聞セザル罪カロカラズトテ。筑紫へ流
罪セラル。明年八月。天皇位ヲ太子大炊王ニ讓ル孝謙
ヲハ高野天皇ト申ス。在位天平勝寶八年天平寶

字二年。合テ十年
 四十七代
廃帝 天武ノ孫舎人親王ノ子ナリ。藤原仲麻呂カ
ハカラヒニテ。太子ニ立ツ
天平寶字二年八月。孝謙ノ讓ヲ受テ卽位。仲麻呂
ヲ大保ニ任セラル。大保ハ右大臣ナリ。此時アリテ
云ク。仲麻呂其曾祖大織冠ヨリコノカタ國ノ佐トシ
テ。天下無事ナリ。其ヒロク民ヲ惠ノ美ナル。古ヨリ並
ナシ。又悪人ヲ押へ乱ニ勝ツ功アリトテ。其姓名ヲ
藤原惠美押勝ト給ハル《割書:俗説ニ孝謙押勝ヲ御覧シテハエミ|ワラワセ給フユヘニ由恵美ト云ハ誤ナリ》
十二月。大唐ニ安祿山乱ヲヲコシ。世ヲ奪フ由。日本へ
聞ユルニヨリテ。安祿山本意ヲトゲズンバ。若日本ノ海

上へヤ。ウカヽヒ。キタルベキモ。ハカリガタシ。所々ニ其用心
ヲスベシト下知ス
三年六月。御父舍人親王ヲ諡シテ崇道盡敬皇帝ト云
四年正月。諸國へ使ヲ遣シテ。其國ノ風俗ヲ見セシム
同月。天皇及孝謙相謀テ。押勝ニ從一位ヲ授ケ。大師
ニ任ゼラル。大師ハ。太政大臣ナリ。天皇及孝謙度々押
勝カ家ニ行幸アリ 六月。光明皇大后崩ス。歲六
十 八月。勅スラク藤原不比等ハ其功高ク。且朝廷
ノ外戚ナレバ。齊ノ太公ガ例ニ准シテ。近江ノ國十二郡
ヲ以テ。是ヲ封シテ。淡海公ト号スベシ。淡海ハ近江ノ
事ナリ。又押勝請ニヨリテ。武智麻呂。房前並ニ
太政大臣ヲ贈ラル

五年。都ヲ近江國保良ニ遷ス
六年二月。押勝ニ正一位ヲ授ク。頃日弓削道鏡ト云ル
僧。孝謙ノソバ近ク侍テ。寵愛甚シ。天皇然ルベカラズト
諫メラル。此ニヨリテ。二帝ノ御中不和ニナリケレハ。孝
謙保良ノ都ヨリ奈良ヘ歸ル。天皇モ又奈良へ歸ル。其
後孝謙落飾。法諱ハ法基ト云。五位以上ノ者ヲ召テ曰。
我已ニ出家ス。然レドモ國家ノ大事。賞罰ノ二ヲバ。我自
決スヘシ。其外之事ハ。当今ノ帝ニ任ス
七年高麗ノ使王新福來テ貢ヲ奉ル。押勝ガ ニテ宴ヲ設ケ
八年九月押勝権サカリナリト云ヘトモ道鏡ガ常ニ
孝謙ノ御前ニ侍テ其恩寵巴ガ上ニアルコトヲ憤
リテ常ニ心モトナクヲモヒテ私ニ太政官ノ印ヲ用

テ。軍兵ヲ召アツメ。用心シケレバ。孝謙是ヲ聞テ。小納
言山村王ヲ遣 。其即ヲ此ヲ取 シム。押勝其子訓儒麻呂
ヲシテ。此ヲ奪シム。此時坂上端田麻呂勅ヲ承テ訓儒
ヲ麻呂ヲ射殺ス。押勝又矢田船老ヲシテ。甲胄ヲ著シ。馬
ニノセテ。山村王ヲ。ヲビヤカス。紀舩守勅ヲ承テ。矢田
部老ヲ射殺ス。コヽニライテ押勝ガ官位ヲ削ル。押勝
其同類ヲ召ツレテ。近江國へ走ル。藤原良継等ノ官
軍追懸所々ニテ合戦ス。高嶋三尾崎ニテ。佐伯三野
ナド云ル官軍。押勝子真光等ト。午ノ刻ヨリ申ノ刻マ
デ戰テ。官軍少ツカレケル所ヘ。藤原藏下麻呂新手
ニテ馳來ル。三野モ又進ム。其外ノ諸大将モ。水陸ヨリ
攻カリケレバ。押勝カ兵皆亡ヌ。其妻子ト共ニ舩ニノ

ラントスル所ヲ。官兵石村々主ト云者。押勝ノ生捕テ
討斬。其首ヲ京ヘ送ル。真光等以下。其徒黨三十餘人
皆一所ニテ殺サル。又道祖王ノ兄塩焼王モ押勝司類
ノ聞ヘアルニヨリテ。同害セラル。押勝力兄豊成。其罪ヲ
ナダメテ呼出シ。本ノ如ク右大臣トス。又道鏡ヲ大臣禪
師トシテ。政ヲ行シム 十月孝謙山村王等ヲ遣シ。内
裏ヲ團ム。當今ノ帝モ。押勝ト同類ニテ。孝謙ヲ害スルノ
謀アリトテ帝位ヲ。ヲヒヲロシ。淡路國ヘ流ス。在位六年
ナリ。孝謙ノ天平寶字ノ年号ヲ用ヒテ。別ニ年号ヲ
立ス。明年淡路國ニテ崩セラル。實ハ弑ラルヽナルベシ。歳
三十三。淡路ノ廢帝トハ是ナリ
 四十八代

稱德天皇《割書:女帝|》 即孝謙ナリ。廃帝ヲ押ノケ。再位ヲ践其
重祚ヲ稱德ト云ナリ。皇極齊明。一帝ニテ二号アル例
ナリ
天平神護元年十月。道鏡二大政大臣禅師ノ位ヲ授
テ。文武百官ヲシテ拜賀セシム 十一月。右大臣從一
位藤原豊成薨ス。歲六十二
二年正月。藤原永手右大臣ニ任ス。吉備真備ヲ大納
言トス 十月。道鏡ニ法王ノ位ヲ授ク。藤原永手ヲ
左大臣トシ。吉備真備ヲ右大臣トス。此人再入唐シ。博
學ノ譽アルニヨリテ。微賎ヨリ次第二登レテ。大臣ニ
イタル。世ニ謂ユル吉備大臣是ナリ
神議景雲元年二月。釋莫。天皇自大學家へ行幸ア

リ。三月越智泰澄死ス。此越前白山ヲ開ク人ナリ
七月。僧勝道始テ下野國二荒山ヲ開ク。日光山是ナリ
二年十月。大学助教膳臣。大江奏聞シケルハ。大唐ノ
天子。孔子ヲ尊テ文宣王ト諡ス。然ラバ日本ニテモ其
例ニ任セ。文宣王ト申サント請フ。則セ勅許セラル
十一月。始テ春日神社ヲ。大和國三笠山ニ立元武雷
命。天甩屋根命齋生命姫大神ヲ祭ル
三年正月。道鏡内裏ノ西宮ニ居ル。大臣以下皆出仕ス
二月。左大臣永手ガ宅ニ行幸又右大臣吉備ガ宅ヘモ
行幸アリ 五月。天皇ノ妹不破内親王ハ。塩焼王ガ妻
ナリ。塩焼殺サレテ後。其子水上志訪志麻呂ト密談
シ。天皇ヲノロヒケル由露顕ニヨリテ。内親王ハ京中ヲ

遂出サレ。志計志麻呂ハ。土佐ノ國へ流サル 九月大
幸府ノ阿曽麻呂ト云者。道鏡ガ威勢ノ強キヲ見テ。コビ
ヘツラヒ。宇佐八幡ノ託宣ト称シテ。道鏡ヲ帝位ニ即シ
メバ。天下泰平ナラント云道鏡悅デ。天皇ニ申ス。天皇道
鏡ヲ愛スルコト甚シトイヘドモ帝位ノコトハ私ナラ
ヌコトナレバ宇佐ヘ勅使ヲ遣シ其神詫ニ任セテ決
セント宣フ道鏡然ルベシト申ス。天皇和氣清麻呂
ヲ召テ曰ク。八幡大神夢ノ告アリ。汝ヲ勃使トシテ。宇佐
ニ遺スベシ。能敬テ神詫ヲ聞テ皈レト云云清麻呂御前
ヲ退クトキ。道鏡人ヲシリゾケテサヽヤキケルハ。此度ノ
勅使ハ。我ニ位ヲ讓ラルヘキヤ否ト。八幡大神ニ問ルヽ
トコロナリ。其心得ヲ以テ。神詫ヲ言上スヘシ。汝ガ返事

ニヨリテ。我即位セバ。汝ヲ大臣トナシテ。國ノ政ヲ任スへ
シ。若返事悪クハ。重キ罪二行フベシトテ。眼ヲイカラカ
シ。刀ニ手ヲカケテヲトス。清麻呂宇佐へ参詣シ。是ハ國
家ノ大事ナリ。縱ヒ詫宣アリトモ。卒 ニハ信レガタシ。
願クハ。一ノ不思議ヲ示シタマヘト祈念シケレバ。大神忽
チ長三丈バカリ人形ヲ現ジテ影向アリ。其光リ満月ノ
コトシ清麻呂伏拜シテ。クギギ見ルコトアタハる神詫ニ
曰ク我國ノ天ツ日嗣ハ。神代ヨリ代々皇胤ノ外。臣トシ
テ伺フヘキニアラズ。况ヤ無道ノ者ヲヤ。汝皈テ。アリノマヽ
ニ申スベシ。道鏡ヲ畏ルヽコトナカレト云云清麻呂元來
忠節ノ者ナレハ。神詫肝ニ銘ジテ。都ニ皈リ参内ス。道鏡
御前ニ侍テ。椅子ニヨリカヽリ。清麻呂ヲ呼テ神詫イ

カニト問。清麻呂少モ諂ラハズ。アリノマヽニ奏聞ス。天皇
モイト興ナク思召。道鏡大ニ怒テ。眼ノ色ハ皿ノゴトク
赤ナリ。其面或ハ青クナリ。或ハ赤クナリ。大息ツイデ。清
麻呂ヲ睨ミ申シケルハ。彼巳ガ心ヲ以テ。神詫ヲ詐リテ
申スナルベシ。クセゴトナリ。死罪ニ處スベシ。天皇死罪マ
テハイカニトナダメタマヘハ。道鏡怒テ。清麻呂ガ名ヲ。
穢麻呂トツケカヘテ。其足ノ筋ヲタチテ。大隅國へ流ス。
路次ニテ。清麻呂ヲ殺スベシト。道鏡ハカリケレドモ。其
折節雷雨甚クシテ。タメラフウチニ。勅使來テ死罪
ヲナダム。清麻呂足ノ筋ヲタヽレテ。行歩叶ハザリシガ。
宇佐八幡へ参詣シケレハヽ。不思議ノコト モアリ
テ。足ノ筋怨チナヲリテ。行歩本ノゴトクナノ【リ?】タリト

イヒ傳タリ。藤原百川ト云ル人。清麻呂力忠節ヲアハ
レミテ。備後國ニ其私領アリケル。分テ清麻呂ガ配所
へ贈ル。同年十月太宰府ノ學校。五經バカリヲ讀習ヒ。
三史ナキニヨリテ。所望ノ申。奏聞スルニヨリテ。史記漢
書。後漢書三國志晉書ヲ賜ル
四年二月天皇河内ノ由義宮ニ行幸アリ。道鏡非常
ノ怪キ食物ヲ奉ル。四月。都ヘ還御アリシガ。六月ヨリ
不例ニテ。様々御藥ヲスヽムレドモ。験ナシ。群臣謁見
スルコトナシ。道鏡弥ホシヒマヽナリ。人皆アヤブム。八
月。天皇遂ニ崩御アリ。歳五十三。年号天平神護二年。
神護景雲四年。合テ六年。前ノ十年ヲ合テ。在位十
六年ナリ。左大臣藤原ノ永手。右大臣吉備真備等相談

シ。皇子ノ内誰カ即位セシムベキト云。群臣申ストコロ
 ナリシニ。藤原百川ト。藤原良継ト。策ヲ合セ。求
手ヲスヽメテ。白璧王ヲ立テ。太子トス。道鏡ハ。稱德天
皇ノ陵ノ下ニ居シヲ。太子及永手等ガハカラヒニテ。下
野ヘ流シ。藥師寺ノ別當トス。世ヲ簒ントセル悪人ナレ
ドモ。先帝ノ御恩深キ者ナルニヨリテ。死罪ヲ免ストナ
ン。年ヲ歷テ。道鏡下野國ニテ病死ス。和氣ノ清麻呂
ヲ都ヘ呼皈ス
 四十九代
光仁天皇  御名ヲ白壁王ト申ス。天智天皇ノ孫。施
基皇子ノ子ナリ。聖武。稱德ニ仕ヘテ。大納言マデ昇進
ス。稱德天皇崩御ノ後。永手并ニ百川等ガハカラヒ

ニテ。思ノ外ニ即位。時ニ歲六十二。抑壬申ノ乱ニ。大友
皇子訪レテ。天武即位アリシカハ。天智ノ子孫ハ。衰テ
微々ナリシガ。コヽニ至リテ。天武ノ王孫ハ却テ絶テ。天
智ノ嫡流王統ヲ継リ。宝亀元年十月。從一位左大
臣藤原永手ニ。正一位ヲ授ク。コレヨリサキ。橘諸兄惠
美押勝正一位ニ進ム。今永手ヲ加テ三人ノ外ハ。存生
ノ内ニ昇ルハナシ。此以後ハ皆贈位ナリ 十一月。御父
施基皇子ヲ。田原皇子ト諡ス 十二月。末手ニ山城
國ノ内。二百町ノ郷ヲタマハル
二年二月。左大臣永手薨ス。年五十八淡海公ノ孫。
房前ノ子ナリ 三月。右大臣吉備真備致仕ス。大
中臣清麻呂ヲ右大臣トス。藤原良継ヲ內臣トス

十一月。大賞合目ヲ行フ。参河國ヲ由機トシ。因幡國ヲ
須岐トス。其儀式ユヽシク備ハレリ。凡大嘗会ハ。帝王
一代ニ一度行ハルヽ大礼ナリ
三年。渤海國ノ使者壹萬福來テ貢物ヲ奉ル。其表
无礼ナリトテ。壹萬福ニ責問ルヽ旨アリ。様々謝スル
ニヨリテ。返簡ヲ賜ル 天皇ノ后ヲ。井上内親王ト
云フ。其産ル子ヲ他戸親王ト云フ。立テ太子トス。天皇
ノ第一ノ皇子ヲ。山部親王ト云フ。参議藤原百川。山
部ヲ太子トセマクホツシテ。謀ヲメグラス。カヽルトコロ
ニ。井上皇后。天皇ト中悪クナリテ。潜ニ天皇ヲノロ
ヒ。他戸太子ノ子ヲ。早ク即位セシメントハカル事顕レケレ
ハ。百川奏聞シテ。皇后及ビ他户太子ヲヲヒヲロス其

後。何レノ皇子カ。太子トスベキト沙汰アリ。百川。第一
ノ皇子ナレバ。山部親王シカルベシト申ス。天皇ハ。皇女
酒人内親王ヲ立ント宜フ。藤原濱成ハ。山部ハ母イヤシ
ケレハ。イカヽナリ。第二皇子稗田親王然ルベシト云フ。
百川太子ノ位ハ。公母ノ貴賤ニヨラスト云。天皇タメラヒテ
決セズ。百川齒ヲクヒシバリ。殿前ニ立テ。四十餘日ノ
間。少モ〓ズ。太子ノ定ルヲ聞スンハ退出スベカラズト。
堅ク思ツメタル氣色ナレバ。天皇モ止コトヲ得ズシ
テ許容シ。山部ヲ立テ太子トス。時ノ人百川ガ二
心ナキコトヲ感ス。年ヲ歷テ井上皇后モ。他戸
親王モ皆卒ス。井上ノ怨霊龍トナリタリト云傳タリ
六年十月。吉備大臣薨ス。歲八十二 十一月。陸奥

國ノ夷起リケレハ。鎭守將軍大伴駿河麻呂。其根
城ニテ攻破リ。是ヲ平ゲテ功アルニヨリテ。勅使ヲ遣
シテ褒美セラル
八年正月内臣藤原良継ヲ内大臣トス。其位右大
臣ノ次ニアリ。此年佐伯今毛人ヲ遺唐大使トス。小
野石根ヲ副使トス。今毛人路次ヨリ疾ト稱ジテ行
カズ。石根假ニ大師トナリテ發舩ス。孝謙ノ時ニ。藤原
ノ清河大使トナリテ入唐シ。彼地ニ留テ歸ラザルニ
ヨリテ。度々迎舩ヲ遣ハサルトイヘドモ。唐帝コレヲ愛
メカヘサス。此度モ勅書 清河ニ賜リ。皈ルベキノ旨
仰セ遣サル。サレドモ終ニ 朝セズ。清河ハ。房前ノ子
ナリ。阿倍仲麻呂ハ。元正ノ時吉備大臣ト同ク入唐

シ彼地ニテ秘書監ト云フ官ニ升リ。名ヲ  ト改。又朝立
衡トモ云。〓〓トモ云。李白魏萬王維。包 ナドイヘル名
高キ輩ト交ヲムスブ。其後歸朝シケルトキ。明州ノ津
ニテ。日本ノ方ヲ望ミ。天ノ原。フリサケミレバ春日ナル三笠
ノ山ニ出シ月カモ。ト詠ジケルトナン。海上ミテ風ニ逢フテ
水ニ没ストイヒツタヘタリ。又或說ニハ。仲麻呂モ清河モ。
同ク歸朝セシガ。風ニ逢テ安南國へ吹ツケラレ。其ヨリ
又清河同道シ。大唐へ到リ。七十餘ニテ病死ストイヘリ。
清河モ大唐ニテ病死セリ 九月内大臣藤原良継
薨ス。此人ハ。宇合ノ子ナリ。神勝カ乱ニ軍功アリ
九年正月。待從五位以上ノ者ヲ召テ。宴ヲ説ケ被物ヲ
賜ル 三月。大納言藤原魚名ヲ内臣トス 十月。遣

唐使第二舩第四舩歸朝ス。小野石根ト。唐使趙寶英
等カ乗タル第一ノ舩ハ。風波ニ逢テ海ニ没ス。惣ジテ遣唐
使ノ發スル時ハ。大使船副使舩。判官船士典松と云テ。大
舩四艘ツ、遣サル
十年正月。藤原魚名ヲ內大臣トス
五月大唐ノ使孫興進。泰付期等。來テ進物ヲ献ズ。内
裏ニテ響応ヲ設ラル。中納言石上宅御其挨拶ヲナス
宅嗣ハ。文スグレタル人ナリ。其後右大臣大中臣清麻
呂館ヘ。唐ノ使者ヲ招キ。饗ヲ設ク。綿三千屯ヲタマハ
リテ。歸朝セシム 七月。參議中衛大將藤原百川卒
ス。歲四十八。天皇モ太子モ甚惜タマフ。此モ宇合ノ子ナリ
十一年正月唐使高鶴林并ニ新羅ノ使金蘭〓等來

ル。宴ヲ設ケ祿ヲ賜ル 三月。陸奥國鬼伊泊〓 麻呂乱
ヲ作シテ。按察使参議紀廣純ヲ殺シテ。國中ノ官物
ヲ掠ム。大伴益立紀吉佐美等ノ官兵ヲ。奥州へ遣サ
ル。又出羽ヘモ官兵ヲ遣シテ守ラシム。諸國ヨリ兵粮ヲ。
多ク陸奥へ運シム 九月。藤原小黒麻呂ヲ。奥州討手
ノ大將トス。夷賊ヤワヤクハビコリテ。タヤスク亡ヒズ
天鷹元年二月。米十万斛ヲ。陸興國へ贈遣ス 三月。天
皇不例。四月位ヲ皇太子山部親王ニ讓テ即位セシム。
桓武天皇是ナリ。使ヲ伊勢大神宮へ遣シ。即位ヲ告ラ
ル 六月右大臣大中臣清麻呂致仕ス。內大臣藤原
魚名ヲ左大臣トス 八月。藤原小黒麻呂。奥州ノ賊ヲ
平ゲ帰京。正三位ヲ授ラル。紀古佐美等モ軍功ニヨリ

テ賞ヲ蒙ル。大伴益立。功ナキニヨリテ。位ヲ奪ハル
十二月。光仁天皇崩ス。歳七十三年号寶亀十一年。天
應一年。在位合十二年
 五十代
桓武天皇 光仁第一ノ子ナリ。山部親王ト号ス母ハ
高野夫人ト云。高野乙継カ娘ナリ。天皇始稱德二仕へ
テ從五位下。大學頭ニ任ス。光仁即位ノ後。四位ノ侍
從トナリ。中務卿ニ任ス
寳亀四年ニ。太子トナル
天應元年ニ即位。御弟早良親王ヲ太子トス
延暦元年閏正月。因幡守氷上川継謀叛シ。内裏ヘ夜
計セントハカル。事顕レテ。伊豆國へ配流セラル。氷継 天

武ノ曾孫。塩焼王カ子ナリ。母不破内親王ハ。淡路國ヘ
流サル。光仁崩シテ。諒闇ノ内ナルニヨリテ。死罪ヲ宥
テ流罪ス。月卿雲客ノ内。其同類親類タル者皆流罪
セラル 五月。宇佐八幡官神詫アリテ。大菩薩ト称
スト云云 六月。左大臣藤原魚名罪アリテ。官ヲヤメ
ラレ。筑紫へ下向ス。其後赦免アリテ歸京シテ薨ス。
藤原田麻呂右大臣トナル。此比ハ左大臣ニテモ。右大
臣ニテモ。一人アリテ。左右並置レズ。大納言タル人。大
臣ニ副テ政ニ預ル
二年三月。右大臣藤原田麻呂薨ス。歲六十二。《割書:宇合ノ|子ナリ》
七月。藤原是公右大臣トナル
十月。交野ニ行幸シテ。鷹狩アリ

三年五月。山城國乙訓郡長岡ノ地ヲ見立 六月ヨリ
内裏ヲ作リ 十一月。天皇奈良ヨリ。長岡へ行幸ア
リ。加茂明神へ奉幣シ。都遷ノコトヲ申サル。此神ハ山
城ノ地主タルニヨリテナリ
四年八月。天皇奈良へ行幸。太子右大臣藤原是
公。中納言藤原種継長岡ノ留守タリ。天皇常ニ遊猟
ヲ好テ。政ヲ太子ニ任セラル。種継ハ天皇ノ近臣ニテ。
内外ノコトラ執行フ。長岡へ都遷ノコトモ。種継ガ進
メ申ストコロナリ。或時太子奏シテ。佐伯今毛人ヲ參
議トス。種継。佐伯氏ハ。参議ニ昇ル家ニアラスト申テ。コ
レヲヲサヘトヽメントス。太子甚憤リ怨テ。事ニフレテ種
継ヲ殺サント奏ス。天皇從ズ。コレヨリ政ヲ太子ニ任ゼ

ス。太子甚恨ム。此時天皇ノ奈良へ行幸スルヲヨキ折
節ト思ヒ。大伴継人。大伴竹良ヲ。日暮ガタニ。種継カ家
へ遣シネラハシム。此時都遷ノミギリニテ。家造リモ
マバラニテ。種継燭ノ下ニアリケルヲ窺テ矢ヲ放ツ。
アヤマタズ種継カ身ヲ射通シテ。即チ死ス。天皇大ニ
驚キ。奈良ヨリ長岡へ歸テ。継人竹良ヲ捕テ穿
鑿シ。太子ノ所為マギレナカリケレバ。逆鱗アリテ。太子ヲ
淡路へ流ス。太子断食シ。路次ニテ死ス。淡路ニテ葬礼
ヲ行フ。継人竹良等斬罪シ。其外太子ノ方ニ侍ル者
流罪セラル。種継ニハ。正一位左大臣ヲ贈ラル。甚悼ミ惜
ミタマフユヘナリ。其後早良ノ霊タヽリヲナス由二テ。祟
道天皇ト謚ス。勅使ヲ天智天皇ノ陵ト。光仁天皇

ノ陵トヘ遣シ。太子ヲ廢ルコトヲ申サル 十一月。御
子安殿親王ヲ太子トス
五年正月從三位右衛門督坂上苅田麻呂卒ス。歲五
十九。 此人弓馬ニ達シテ。内裏ノ守護タリ。田村麻呂カ
父ナリ
六年十月。交野ニ行幸。大納言藤原継繩カ別業ヲ
御座所トス。縄ヲ務使トシテ。天神ヲ交野ニ祠ヲ
シム。光仁天皇ヲ祭ラル
七年正月。太子元服。大納言經縄中納言紀舩守。御
冠ヲ加へ奉ル 二月。藤原百川ガ子。緒嗣十五歲ニ
テ。御前ニヲイテ元服。百川ガ舊功ヲ仰セ出サレ。御落涙
アリテ。様々ノ賜モノアリ。位ヲ授ケ封户ヲ賜フ

七月。前右大臣大中臣清麻呂薨ス。歳八十八 十二
月。奥州ニ夷賊起リケレバ。参議紀古佐美ヲ征夷大將
軍トシテ。奧州ヘ遣サル。坂東ノコトハ汝ニ任スト仰セラ
ル。此年最澄。始テ比叡山延暦寺ヲ開テ。根本中堂
ヲ建。最澄ハ傳教大師ナリ
八年。奥州夷賊ハヒコリテ強クナル 六月。大將軍紀古
佐美諸軍ヲ率テコレヲ討。福部副將。池田真牧。安倍黒縄等
先戰テ敗軍ス。夷賊勝ニノル。官軍大二破テ。或ハ殺サレ。
或ハ川ニ溺テ死スル者三千許夷ハワヅカ八十九人
討レタリ。九月。古佐美等歸京ス。大納言継縄等勅ヲ
承テ。太政官ニヲイテ。其罪ヲ糾明シ奏聞シケレハ。古佐
美ハ赦免セラレ。真牧墨繩ハ。官ヲ奪ハル。右大臣藤原。

是公薨ス歲六十三《割書:武智麻呂カ孫|》
九年二月。藤原継縄右大臣トナル 三月東海東山諸
國ニ詔シテ兵粮十四万斛ヲ調ヘ。大宰府ニ仰テ。鉄胄
二千九枚ヲ造シム。奥州ノ夷ヲ征センタメナリ 八月筑
紫飢饉ス。其民八万八千余人ニ。物ヲ賜テ賑シメグム
十年正月。百濟俊哲。坂上田村麻呂等ヲ。東海東山へ遣
シテ。軍士ヲヱラミ。武具ヲ調ヘシム 七月大伴弟麻
呂ヲ。征東大使トシ。俊哲田村ヲ副使トシテ。奥州ヘ遣
ハサル
十二年正月。大納言藤原小黒麻呂左大辨紀古佐美。
并ニ僧賢憬等ヲ遣シテ。山城國葛野郡宇太村ノ地
ヲ見セシム。此地ニ都ヲ遷スベシトテ。内裏ヲ造ラル遞都々

ノコトヲ賀茂明神ヘモ。天智天皇山科ノ陵。光仁天
皇田原ノ陵ヘモ申サル 六月。新都ニ殿冨門。美福門。
安喜門。偉鑿門。藻壁門。待賢門。陽明門。逹智門。談天門。
都芳門等ヲ。諸國へ分チ課テ。是ヲ造ラシム 九月。菅
野真道藤原葛野麻呂ヲ。新都ヘ遣シテ。百官ノ宅地ヲ
分スメシム
十三年十月。葛野新都ノ內裏成就スルニヨリテ。天皇
行幸アリ。此所左蒼龍右白虎則朱雀後玄武四神相
應ノ地ニテ。其上山川麗シク。四方出入ノ道尤便ヨケレ
ハ。百王不易ノ都タルベシトテ。平安城ト号ス。又其長八
尺計ナル土偶人ヲ作リ。鉄ノ甲胄ヲキセ。鉄ノ弓失ヲ
持シメ。帝都ヲマモラシメ。君後世ニ。都ヲカヘントスルコ

トアラバ。守護神タルヘシト誓言テ。東山ノ上ニ立テ。西
ムキニ是ヲ埋ム。今ノ將軍塚是ナリ。サレバ國家ニ變
アルトキハ。此塚鳴動スト云ヒツタヘタリ
十五年正月。芹川野ニ遊猟。天皇常ニ猟ヲ好テ。京外
畿内所々年々行幸 七月。右大臣藤原継繩薨ス。歲
七十。豐成ガ子ナリ。此大臣文武ノ才アリ。續日本紀ハ。
菅野真道ト。此大臣ト。二人ノ撰スルトコロナリ。中納言
紀古佐美ト。神王トヲ大納言トシテ。政ヲ行ハシム。此冬
東寺ヲ建ラル。此年藤原伊勢人ト云者。鞍馬寺ヲ創
ム。又勤操ト云ル僧。始テ法華八講ヲ執行フ
十六年四月。紀古佐美卒ス 十一月。從四位下。坂上
田村麻呂ヲ。征夷大将軍トス。久ク奥州ニアリテ。軍労

アルユヘナリ
十七年七月。坂上田村麻呂。清水寺ヲ造ル 八月大
納言神王右大臣トナル
十八年二月。從三位民部卿和氣清麻呂卒ス。歲六十
十九年。三月十四日ヨリ。四月十八日マデ。富土頂自ラ
燃テ。昼ハ煙暗ク。夜ハ火光天ヲ照ス。其聲ハ雷ノゴト
ク。灰ノ下ルコト雨ノゴトシ。山下河水皆紅ナリ 十一
月。田村麻呂ニ命シテ。諸國ニ分散スル奥州夷賊ヲ。
点検セシム
二十年二月。監試對策アリ。菅原清公題ヲ出シテ是
ヲ問テ。文章生ノ才ヲ清公ハ。菅丞相ノ祖父也

陸奥國の夷賊高丸と云者の

BnF.

【文字なし】
【ラベル】
JAPONAIS
5337

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

BnF.

《題:両筆画譜   全》

【ラベルと右隣手書】
JAPONAIS
269

908

春雨降日ひとり文つくゑにむかひ烏羽玉の
やみをもてらすはけあたまもたら
ちねのなて過しにやなとよみ老を
かこちありけるをりしも書肆東壁堂
きたりさきに浪速の立好斎か海山の
けしき画きたるに近き比むさしなる北斎
是に人物かきくはへさいしきをさへ
ものしたるひと巻をとうてつ是を

【上部欄外手書&下の薄い文字】
Japonais 269

Riyo hitsu gwafu【両筆画譜の表記】
Hokousai et Hok■
【朱〇内】
DON.
No5616

見るに目をよろこはしめ心をよろこはしむ
実や五十年の栄花の夢よりまのあたり
四季のけしきを見つるは此両筆の
一巻ならんとたちまち老をわすれ
此はしに筆とるは
     九花街なる
         堂理宝

.

《題:北斎写真画■》【書誌情報からすると「画譜」と推定される】
【右上ラベル1】
322
B
【右上ラベル2】
416
【右下ラベル】
JAPONAIS
638

いにしへのかねしろくきらめくすちなか
らむ鏡もとし月をし【強調の助詞】ふれ【経れ】はおのつから
むらくもなすくもりもいてきぬへしされは
いまやうなるものからあふひ【唐葵=タチアオイ】やつ花【茅花】かた【形】
のかゝみをらてむまきゑの箱にいれたるなと
うちみるよりきら〳〵しくはなやかにかゝや
きたらんはいにしへのにもまさりてめてたし
とおほゆるそかし[い]てや【以下折り目】
かくこそあらめふりにたるつし【厨子】あるは
てはこ【手箱】なとのそこにうつもれたるしみの
すみかよりとうて【取う出】たる古代なるゑよりも
いまめかしきかたさへそひて見るにうち
ゑまるゝはをりにつけことにふれてうつ
りゆく人の心のさかにこそ
 文化とゝせあまりひとゝせやよひついたちの日
                平由豆流

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】


【文字なし】


【文字なし】


【文字なし】


【文字なし】


【文字なし】


【文字なし】


【文字なし】


【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

BnF.

万鬼国図
【ラベル】
SMITH-LESOUËF
JAP
K-21

【文字なし】

【文字なし】

万鬼国図
【ラベル】
SMITH-LESOUËF
JAP
K-21

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

【文字なし】

住吉内記弘貫模

【文字なし】

BnF.

【表紙】

【見返し】
JAPONAS
190

【白紙】

【白紙】

【扉】
【題簽】
繪本朝鮮征伐記《割書:前編|  壹》

鶴峰彦一郎挍正 【印 千里必究不許飜刻】
橋本玉蘭畫圖

《題:繪本朝鮮征伐記》
東都書房  萬笈閣【印 萬笈】

題_二朝鮮征伐記_一
赤縣之州相傳太古之世。帝王出_レ乎_二東方_一
開_二【-脱】闢國土_一。教_二-化人民_一。扵_レ是蠢化蠕動。始有_二
倫理_一。穴居野䖏。方有_二教養_一矣。赤縣之東方
則我神州也。西洋人以為_二東方_一。是神聖首
出之郷。是之謂歟。然則可_レ知。彼之所_レ為_レ道
彼之所_レ為_レ教者。亦皆係_レ乎_二我 神聖之所_一
_レ授也。若能辨_二君臣父子之義_一。則誰不_レ尊_二
皇蕐之尊_一乎。至_二豐臣太閤之起_一。憤_三-激諸道

阻_二-格帝命_一。西討東伐。以定_二 六十餘國_一猶羞_下
諸醜夷有_中阻_二王化_一者_上。於_レ是先嘱_二琉球_一求_二通
扵_一レ眀眀主不_レ聽。太閤欲_下以_二朝鮮_一為_二前導_一。起_二-
越山海_一直入_上レ于_レ眀。朝鮮依違不_レ従太閤發
_レ怒遂興_二大軍_一。以伐_二朝鮮_一。盖㔟不_レ得_レ不_レ然也。
夫朝鮮者。古之三韓。 神功皇后奉_二神教_一
而所_レ獲。方_二此時_一也。新羅王素組面縛。降_二扵
 官舩之前_一。其誓曰非_三東日更出_レ西。鴨綠
之水逆流。河石昇為_二星辰_一。而若闕_二春秋朝

貢_一。則天神地祇共罸殛焉。高麗百濟二國
王亦一時降附永稱_二西蕃_一。 皇后因以定_二
内官家_一。置_二鎮守将軍_一。以統_二-制三韓_一。三韓朝
貢。不_三敢憚_二航海之遠_一。而三國史記。東國通
鑑䓁所_レ記。一言不_レ及_二此事_一何也。是亦得_レ非_下
阻_二王化_一者_上哉。太閤之征_二朝鮮_一不_レ得_レ不_レ然也。
雖_レ然當時諸将。皆血氣好_レ功。有_レ威無_レ恩與_二
 神聖柔遠之制_一相反。可_レ憐八道無辜之
民。盡被_二殘滅_一矣。獨有_下鬼将軍之勇且仁。得_二

太閤之心_一者_上。然小西行長䓁嫉_二其功_一相䦧。
奸計及_二冊封之事【一点脱】。将_レ汚_二 國體_一。其罪大也
矣。太閤大怒。欲_下併_三行長與_二明使者_一。皆誅_中【-脱ヵ】殺
之_上。行長諉_三罪扵_二 三奉行_一。諸将亦解_二救之_一事
𦆵得_レ止焉。嗚呼使_二太閤_一果誅_二行長䓁_一。姑舎_二
朝鮮之役_一。乃遣_二鬼将軍䓁_一。越海直問_二明主
之罪_一。則朱明之國者。在_二太閤之手_一。而朝鮮
之地者。為_二群下沐浴之邑_一。柔遠之制自行
■【耳ヵ】。吾扵_二此事_一。為深惜_レ之。友人菊池春日樓

刻_二朝鮮征伐記_一。又就_レ余求_二題言_一。余乃書_レ之
以與_レ之。讀者善_二其善者_一。惡_二其惡者_一。則亦扵
其學_一。庶有_二𥙷【補】益_一云■【爾】。

 嘉永癸丑之春
      海西漁夫鶴峰戊申題

【地図】

【地図】
朝鮮国全図(てうせんこくぜんづ)

朝鮮郡州府県之名目(てうせんぐんしうふけんのみやうもく)
     京畿道(けんきたい) 郡(ぐん)三ッ 府(ふ)三ッ 州(しう)七ッ 県(けん)三ッ
(郡)楊根(やうこん)  豊徳(ほうとく)  水原(すゐげん)
(府)漢城(かんじやう)  開城(かいじやう)  長湍(ちやうせん)
(州)《振り仮名:■州|てきしう》  亷州(れんしう)  潤州(じゆんしう)  驪州(りしう)  谷州(こくしう)  果州(くわしう)
  坡州(はしう)
(県)交何(かうか)  三登(さんとう)  土山(とさん)
     江原道(こうけんたい) 郡(くん)七ッ 府(ふ)五ッ 州(しう)四ッ 県(けん)十
(郡)忤城(きよせい)  平海(へかい)  通州(とうしう)  寧越(ねいゑつ)  松岳(しやうかく)  旌善(せいせん)
  高城(かうせい)
(府)江陵(こうりやう)  淮陽(わいやう)  三歩(さんほ)  襄陽(しやうやう)  鉄原(てつげん)
(州)原州(をんしう)  江州(こうしう)  槐州(くわいしう)  溟州(めいしう)
(県)平康(へいかう)  安昌(あんしやう)  烈山(れつさん)  麒麟(きりん)  酒泉(しゆせん)  丹城(たんしやう)
  蹄麟(ていりん)  蔚珍(うつさん)  瑞和(すゐくわ) 歙谷(きふこく)

【( )は丸囲み文字】
【■は「彳+易」・「楊」or「惕」or「㑥」ヵ】

     黄海道(ばはいたい) 郡(くん)二ッ 府(ふ)三ッ 州(しう)五ッ 県(けん)七ッ
(郡)遂安(すゐあん)  延安(えんあん)
(府)平山(へさん)  瑞興(すゐこう)  承天(しようてん)
(州)黄州(くわうしう)  白州(はくしう)  海州(はいしう)  愛州(あいしう)  仁州(じんしう)
(県)安岳(あんかく)  三和(さんくわ)  龍岡(りやうこう)  咸従(かんしやう)  江西(こうせい)  半峯(はんほう)
  長淵(ちやうえん)
     全羅道(こるらたい) 郡(くん)三ッ 府(ふ)二ッ 州(しう)四ッ 県(けん)廿三
(郡)霊巌(れいかん)  古阜(こふ)  珍島(ちんとう)
(府)全州(てるしう)  南原(なんおん)
(州)羅州(らしう)  済州(せいしう)  光州(くわうしう)  昻州(こうしう)
(県)万頃(ばんきやう)  荗長(ほちやう)  鎮安(ちんあん)  扶安(ふあん)  全渠(せんきよ)  康津(かうしん)
  興徳(こうとく)  黄城(くわうしやう)  楽安(らくあん)  昌平(しやうへい)  済南(せいなん)  会寧(くわいねい)
  大江(たいこう)  臨波(りんは)  古皐(こかう)  南洋(なんやう)  富順(ふじゆん)  扶寧(ふねい)
  麻仁(まじん)  渚城(ちよじやう)  海南(かいなん)  神云(しんうん)  移安(いあん)

     忠清道(ちくしやくたい) 郡(ぐん)四ッ 州(しう)九ッ 県(けん)七ッ
(郡)清風(せいふう)  《振り仮名:■陽|うんやう》  天安(てんあん)  林川(りんせん)
(州)忠州(ちうしう)  《振り仮名:■州|むしう》  興州(こうしう)  清州(せいしう)  靖州(せいしう)  礼州
  公州(こうしう)  幸州(こうしう)  洪州(こうしう)
(県)永春(ゑいしゆ)  扶余(ふよ)  保寧(ほうねい)  報恩(ほうおん)  石城(せきしやう)  連山(れんざん)
  燕岐(えんき)
     平安道(へあんたい) 郡(ぐん)十一 府(ふ)九ッ 州(しう)十六 県(けん)六ッ
(郡)加山(かさん)  价川(かいせん)  郭山(くわくさん)  雲興(うんこう)  熈川(きせん)  宣川(せんせん)
  江東(こうとう)  慈山(じざん)  龍川(りうせん)  順川(しゆんせん)  伝川(でんせん)【注】
(府)平壌(へくしやく)  見仁(けんじん)  成川(せいせん)  寧辺(ねいへん)  定遠(てゑん)  江界(こうかい)
  昌城(しやうじやう)  合蘭(かふらん)  広利(くわうり)
(州)安州(あんしう)  霊州(れいしう)  青州(せいしう)  定州(ていしう)  朔州(さくしう)  昻州(こうしう)
  平州(へいしう)  撫州(ぶしう)  常州(じやうしう)  義州(ぎしう)  宿州(しゆくしう)  銀州(きんしう)
  鋼州(こうしう)  渭州(いしう)  鉄州(てつしう)  買州(かいしう)【注】

【■ 「阝+昷」・「温」ヵ】
【■ 「矛+今+力」・「務」ヵ】
【注 「伝(傳)川」は「博川」の誤ヵ】
【注 買州(かいしう)の振り仮名は「はいしう」の誤ヵ】

(県)孟山(もうさん)  徳川(とくせん)  陽徳(やうとく)  江東(こうとう)  中和(ちうくわ)  泰川
     慶尚道(けくしやくたい) 郡(くん)七ッ 府(ふ)六ッ 州(しう)五ッ 県(けん)十一
(郡)蔚山(うるさん)  咸陽(かんやう)  熊川(こもがい)  陜川(せふせん)  永川(えいせん)  梁山(りやうざん)
  清道(せいどう)
(府)金海(きんかい)  善山(せんざん)  寧海(ねいかい)  密陽(みつやう)  安東(あんとう)  昌原(しやうげん)
(州)慶州(けくしう)  泗州(ししう)  尚州(しやくしう)  晋州(しんしう)  蔚州(うるしう)
(県)東萊(とくねき)  清河(せいか)  義城(ぎじやう)  義興(ぎこう)  開慶(かいけい)  巨済(きよせい)
  昌寧(しやうねい)  三加(さんか)  安陽(あんやう)  高霊(かうれい)  守城(しゆじやう)
     咸鏡道(はみきやんたい) 郡(ぐん)三ッ 府(ふ)五ッ 州(しう)八ッ 県(けん)一
(郡)端川(たんせん)  蜀莫(しよくはく)  寧遠(ねいゑん)
(府)咸興(かんこう)  永興(えいこう)  鏡城(けいしやう)  安辺(あんへん)  会寧(くわいねい)
(州)延州(えんしう)  徳州(とくしう)  開州(かいしう)  蘇州(そしう)  合州(かふしう)  燕州(えんしう)
  随州(ずゐしう)  惠州(けいしう)
(県)利城(りじやう)

【右丁・絵のみ】

【左丁】
朝鮮王(てうせんわう)《振り仮名:李■|りゑん》
溺(おほれ)_一【二点誤】于(に)女色(ぢよしよくに)【一点脱】乱(みだす)_二
於(を)_二【二点衍】国政(こくせい?)_一

【■ 「日+八+日」・「㫟」「昖」ヵ】

【右丁・絵のみ】

【左丁】
大明(たいみん)の提督(ていとく)
  李如松(りぢよしやう)

【右丁】
小西摂津守行長(こにしつのかみゆきなが)

【左丁】
雖(いへとも)_レ有(ありと)_二智勇(ちゆう)【一点脱】其性(そのせい)姧(かん)
雄(ゆう)与(と)_二沉惟敬(ちんいけい)_一潜(ひそかに)雖(いへとも)
_レ謀(はかると)於 和議(わきを)_一不(ず)_レ成(なら)惟(い)
敬(けい)者(は)被(らる)_レ罪(つみせ)

   日本(につほん)より朝鮮(てうせん)に到(いた)る海路程(うみみちのり)
肥前国(ひせんのくに)名護屋(なごや)より壱岐(いき)の国(くに)まで 四十八/里(り)
壱岐国(いきのくに)より對馬国(つしまのくに)まで 四十八/里(り)
對馬(つしま)の城本(しろもと)より對馬(つしま)の豊崎(とよさき)まで 三十六/里(り)
豊崎(とよさき)より朝鮮(てうせん)釜山浦(ふさんかい)まで 四十八/里(り)
釜山浦(ふさんかい)より朝鮮(てうせん)王城(わうじやう)まで 一千二百六十/里(り)
朝鮮(てうせん)王城(わうじやう)より鴨綠江(あうりよくこう)まで 一千二百/里(り)
   薩摩(さつま)より琉球(りうきう)の道程(みちのり)
薩摩(さつま)の棒(ぼう)の津(つ)より役(えん)の島(しま)まで 四十八 里(り) 薩摩(さつま)の内(うち)なり
役(えん)の島(しま)より種(たね)か島(しま)まで 十六/里(り) 日本(につほん)の内(うち)《割書:高(たか)四/萬石(まんこく)|はかり》
種(たね)が島(しま)より七嶌(しちとう)まで 十六/里(り) 七ッ島(しま)あり
七島(しちとう)より大島(おほしま)まで 十六/里(り) これより琉球(りうきう)の内(うち)なり《割書:六群(ぐん)|あり》
大島(おほしま)より八幡馬場(はちまんばゝ)へ 九十/里(り) 此所(このところ)琉球(りうきう)王城(わうじやう)なり
   凡(およそ)百八十六/里(り)

朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編惣目録
    巻之一
 一 朝鮮国(てうせんこく)の圖(づ)《割書:并(ならびに)》地理(ちり)の名目(みやうもく)
 一 朝鮮国(てうせんこく)初(はじめ)の事(こと)
 一 衛満(えいまん)朝鮮(てうせん)の王(わう)となる事(こと)
 一 三韓(さんかん)古今(こゝん)分別(ふんべつ)有事(あること)
 一  巻之二【行頭数字衍】
 一 朝鮮(てうせん)地方(ちほう)大略(たいりやく)の事(こと)
 一 日本(につほん)より三韓(さんかん)を初(はじめ)て攻(せむ)る事(こと)
 一 日本(につほん)代々(よゝ)朝鮮(てうせん)を攻(せむ)る事(こと)

 一 新羅国(しんらこく)興廃(こうはい)《割書:并(ならびに)》朝鮮(てうせん)雞林(けいりん)と號(がう)す事(こと)
 一 高勾麗(かうこうらい)始興(はじめおこり)の事(こと)
 一 百済国(ひやくさいこく)始祖(しそ)興(おこり)の事(こと)
 一 唐(たう)新羅(しんら)二兵(にへい)百済(ひやくさい)を亡事(うつこと)【注】
 一 日本勢(につほんぜい)百済(ひやくさい)を救(すく)ふ事(こと)
 一 高勾麗(かうこうらい)滅亡(めつばう)【注】の事(こと)
 一 新羅(しんら)滅亡(めつばう)【注】《割書:并(ならび)》高麗(かうらい)始祖(しそ)王建(わうけん)の事(こと)
 一 高麗(かうらい)盛衰(せいすい)《割書:并(ならひに)》李成桂(りせいけい)位(くらゐ)を竊(ぬす)む事(こと)
    巻之二
 一 豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)天下(てんか)御成敗(こせいはい)の事(こと)

【注 兦は亡の本字】

 一 橘康廣(たちばなやすひろ)朝鮮(てうせん)に到(いた)る事(こと)
 一 重(かさね)て両使(りやうし)を朝鮮(てうせん)に遣(つかは)さる事(こと)
 一 朝鮮(てうせん)の三使(さんし)来朝(らいてう)の事(こと)
 一 棄君(すてぎみ)誕生(たんじやう)《割書:并(ならびに)》逝去(せいきよ)の事(こと)
 一 秀吉公(ひでよしこう)朝鮮(てうせん)征伐(せいばつ)思立(おもひたち)の事(こと)
    巻之四
 一 朝鮮(てうせん)征伐(せいばつ)舩造(ふねつくり)の事(こと)
 一 秀吉公(ひでよしこう)琉球国(りうきうこく)に書(しよ)を遣(つかは)す事(こと)
 一 朝鮮(てうせん)大明(たいみん)に急(きう)を告(つぐ)る事(こと)
 一 朝鮮国(てうせんごく)日本(につほん)の軍(ぐん)を惧(おそる)《割書:并(ならびに)》英雄(えいいう)を選(えら)ぶ事(こと)

 一 朝鮮国(てうせんこく)に到(いた)る人数(にんず)着当(ちやくたう)の事(こと)
 一 秀吉公(ひでよしこう)筑紫(つくし)御進発(ごしんばつ)の事(こと)
 一 秀吉公(ひでよしこう)処々(しよ〳〵)神社(じんじや)御参詣(ごさんけい)の事(こと)
 一 渡海(とかい)の諸将(しよしやう)軍評定(いくさひやうぢやう)并(ならびに)逆風(ぎやくふう)に逢(あふ)事(こと)
 一 小西行長(こにしゆきなが)抜懸(ぬけがけ)《割書:附(つけたり)》藤堂佐渡守(とう〴〵さどのかみ)唐島(からしま)を放火(やく)事(こと)
    巻之五
 一 加藤左馬助(かとうさまのすけ)番船(ばんせん)を乗取(のつとる)事(こと)
 一 日本勢(につほんぜい)釜山浦(ふさんかい)の城(しろ)を取(とる)事(こと)
 一 小西行長(こにしゆきなか)東萊(とうねぎ)を攻陥(せめおと)す事(こと)
 一 浮田秀家(うきたひでいへ)行長(ゆきなが)に後詰(ごづめ)の事(こと)

 一 慶尚道(けくしやくどう)処々(しよ〳〵)落城(らくしやう)《割書:并(ならびに)》黒田長政(くろだなかまさ)金海(きんかい)に入(いる)事(こと)
    巻之六
 一 黒田長政(くろだながまさ)金海(きんかい)稷山城(しよくざんしやう)を攻(せめ)とる事
 一 小西行長(こにしゆきなが)忠州(ちくしう)を攻落(せめおと)す事
 一 朝鮮王(てうせんわう)都(みやこ)を落(おち)る事
 一 加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなが)先陣(せんぢん)を争(あらそ)ふ事
 一 王城(わうじやう)途中(とちう)郡県(ぐんけん)を陥(おとしい)る事
 一 加藤清正(かとうきよまさ)龍津(りうしん)を越(こゆ)る事
    巻之七
 一 小西行長(こにしゆきなが)朝鮮(てうせん)の都城(とじやう)に入(い)る事

 一 加藤清正(かとうきよまさ)都(みやこ)へ入(い)る事
 一 朝鮮王(てうせんわう)所々(しよ〳〵)艱難(かんなん)の事
 一 朝鮮王(てうせんわう)平壌(へくしやく)に入(い)る事
 一 戸川花房(とがははなぶさ)白光彦(はくくわうげん)李時禮(りしれい)を討(うつ)事
 一 黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)武勇(ぶゆう)の事
 一 清正(きよまさ)王子(わうし)を追(おひ)かくる事
 一 清正(きよまさ)克諴(こくかん)が軍(ぐん)を戦(たゝか)ひやぶる事
     巻之八
 一 清正(きよまさ)兀良哈人(おらんかいしん)と合戦(かつせん)の事
 一 清正(きよまさ)安辺(あんへん)へかへる路(みち)軍(いくさ)の事

 一 秀吉公(ひでよしこう)加勢(かせい)を朝鮮(てうせん)につかはさるゝ事(こと)
 一 小西行長(こにしゆきなか)朝鮮勢を破(やぶ)る事
 一 李鎰(りいつ)行在所(あんざいしよ)に到(いた)る事
 一 李鎰 義綂(よしのり)が兵(へい)を防(ふせ)ぐ事
 一 遼東(れうとう)の李時孳(りじじ)朝鮮を窺見(うかゞひみ)る事(こと)

 一 清正(きよまさ)征東使(せいとうし)伯寧将軍(はくねいしやうぐん)を擒(とりこ)にする事
 一 東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)ノ両王子(りやうわうし)にまみゆる事
 一 黒田長政(くろだながまさ)が先勢(さきぜい)狼川(らうせん)にて軍(いくさ)の事
 一 小早川隆景(こはやかはたかかげ)晋州城(しんしうじやう)をかこむ事

 一 行長(ゆきなが)書(しよ)を朝鮮王(てうせんわう)へ贈(おく)る事(こと)
 一 行長 数度(すど)和議(わき)を欲(ほつ)する事

 一 李徳馨(りとくけい)僧(そう)玄蘇(げんそ)等(ら)に会(くわい)する事(こと)
 一 小西行長(こにしゆきなが)平壌城(へくしやくしやう)東岸(とうがん)に寄(よす)る事
 一 朝鮮(てうせん)の軍兵(ぐんひやう)浅灘(あさせ)に備(そな)ふ事
 一 朝鮮 王(わう)嘉山(かさん)に留(とゞま)る事
 一 高彦伯(かうげんはく)小西行長(こにしゆきなが)が陣(ぢん)へ夜討(ようち)の事
   《割書:并(ならびに)》倭兵(わへい)江(え)を渡(わた)る事
 一 平壌(へくしやく)落城(らくじやう)の事

 一 柳成龍(りうせいりやう)粮米(らうまい)を防(ふせ)ぐ事
 一 柳成龍(りうせいりやう)兵粮(ひやうらう)を聚(あつむ)る事
 一 遼東(れうとう)の祖承訓(そしようくん)遊撃将軍(ゆうげきしやうぐん)史儒(ししゆ)朝鮮(てうせん)を援(すくふ)事
 一 小西行長(こにしゆきなか)祖承訓(そしようくん)と戦(たゝか)ふ事
 一 祖承訓(そしようくん)遼東(れうとう)に走(はし)る事
 一 元均(げんきん)李舜臣(りしゆんしん)をまねぐ事

朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編巻
    目録
 一 朝鮮国(てうせんごく)初(はじめ)の事(こと)
 一 衛満(えいまん)朝鮮王(ていせんわう)と成(なる)事
 一 三韓(さんかん)古今(こゝん)分別(ふんべつ)有(あ)る事

朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編巻之一

   朝鮮国(てうせんこく)初の事

夫(それ)日本(につほん)よりはるかに西(にし)の海(うみ)を隔(へだ)て一方境(いつはうけい)の国土(こくど)あり是(これ)を名付(なづけ)て朝鮮(てうせん)
国(ごく)とは云(い)へるなり則(すなは)ち支那(しな)の東濱(とうひん)にあたつて古(いにしへ)より唱(とな)ふるところの三韓(さんかん)の
地(ち)は此境(このきよう)なり往昔(そのかみ)は如何(いか)なる人(ひと)の何(なに)の世(よ)に開闢(かいびやく)したる国(くに)ぞと問(と)へば。もと
より東夷(とうい)の一種(いつしゆ)にして草(くさ)を結(むす)んで雨露(うろ)を覆(おほ)ひ穴(あな)を鑿(うが)ちて寒暑(かんしよ)を
避(さ)く。ましてや君長(くんちやう)の差別(しやべつ)もなく毛類(まうるい)を殺(ころ)して食(しよく)となし草葉(くさば)をむ
すんで衣(ころも)となす蠢(うご)きわたれば無智(むち)の民(たみ)とは聞(きこ)えけり。此時(このとき)一人の神化(しんげ)の
男(おとこ)出生(しゆつしやう)し。此国(このくに)の人(ひと)に教(おし)へて家居(いへゐ)を作(つく)る仕方(しかた)を知(し)らせ茅(ちかや)を斬(きり)ては屋(おく)

を蓋(おほ)ひ金(かね)を扣(たゝ)へて門限(もんげん)をたて城邑(じやうゆう)こゝに始(はじ)めてなれば山(やま)に採(と)り水(みづ)に探(さぐ)り
野(や)を耡(す)き家(いへ)にかしくの功業(こうぎやう)。全(まつた)くなる是(これ)よりして此国(このくに)の者(もの)とも人智(じんち)のた
つときことをさとりて土着(どちやく)安身(あんしん)の宜(よろし)と云(い)へるすべを悦(よろこ)ふ。爰(こゝ)におゐて一国(いつこく)の人(ひと)
相集(あひあつま)り。此神人(このしんじん)を尊敬(そんけい)しこの国(くに)の君(きみ)に立(たて)て囲饒(いけふ)渇仰(かつこふ)したりけり此人(このひと)
変化(へんげ)の人(ひと)なりける故(ゆゑ)。もとより名乗(なの)れる姓氏(せいし)もなしされば神人(しんじん)の初(はじめ)て下(くだ)りし
地(ち)を見(み)れば檀木(だんぼく)の下(した)にてありけるゆゑ其木(そのき)によつて名(な)をかたどり。是(これ)を檀(だん)
君(くん)と尊(たつと)び称(しよう)じ。国(くに)をはじめて朝鮮(てうせん)と号(がう)しける此時(このとき)中国(ちうごく)唐堯(とうげふ)の在位(ざいゐ)
戊辰(ぼしん)の歳(とし)の事(こと)なりとかや。はじめの程(ほど)は平壌(へくしやく)の地方(ちはう)に都(みやこ)したりしが後(のち)に
都(みやこ)を白岳(はくかく)に移(うつ)したり。神君(しんくん)は其後(そのゝち)此国(このくに)の民(たみ)ともを全(まつた)く教(おし)へ導引(みちびき)終(をは)り。
阿斯達山(あしたつさん)の中(うち)に入(いり)神(しん)を顕(あらは)しけるとなり。それより檀氏(だんし)の子孫(しそん)国(くに)を受(うけ)て

つぎ世(よ)を伝(つた)へたる事(こと)。千百四拾八年 商(せう)の武丁(ぶてい)乙未(きのとひつじ)の年(とし)に至(いた)るといへり。此(この)
後(のち)又(また)殷(いん)の箕子(きし)周(しう)の武王(ぶわう)に封(ふう)ぜられ始(はじ)めて。此国(このくに)に至(いた)るまでは時世(じせい)ははるか
に隔(へだ)たれど。誰(たれ)かその世(よ)をうけ伝(つた)へ幾世(いくよ)をかへたりけん正(たゞ)しき史説(じせつ)なきゆゑ
に。彼国(かのくに)に人(ひと)の論(ろん)と云(いへ)とも疑(うた)がはしきの一事(いちじ)とす。武王(ぶわう)既(すで)に殷紂(いんちう)が無道(ぶだう)を誅(ちゆう)し
その有道(ゆうたう)をたつとび。紂(ちう)が諸父(しよふ)大師(たいし)の官(くわん)箕子(きし)が大賢(たいけん)なるを以(もつ)て朝鮮(てうせん)
候(こう)になし給ふ。箕子(きし)此国(このくに)を給(たま)はりしより平壌(へくしやく)に都(みやこ)を立(たて)たれど。其民(そのたみ)猶(なほ)も
愚痴(ぐち)なるを教(お)しへ。五穀(ごゝく)を種(う)ふるの道(みち)をつくし蠶(こがい)の糸(いと)を繰(いとく)り。織工(しよくこう)を
なさしむ国(くに)を治(おさ)むる条目(でうもく)。八ヶ条(でう)にかぎりて其(その)制禁(せいきん)を立(たて)定(さだ)む。爰(こゝ)に於(おい)て
国内(こくない)大(おほい)に治(おさ)まり。国(くに)に盗賊(たうぞく)のあとたゆれば自(おのづか)ら門戸(もんこ)を閉(とづ)る事(こと)もな
し。女(おんな)は夫(おつと)に貞節(ていせつ)をつくすの道(みち)をしる。箕子(きし)はじめ此所(こゝ)に至(いた)る時(とき)中(ちう)

【左ページ上部】
周(しう)の武王(ぶわう)
殷紂(ゐんちう)の無道(ぶだう)
を征(せい)し大(たい)
賢(けん)箕子(きし)を
朝鮮(てうせん)に封(ほう)ず
其国(そのくに)に入(い)りて
民(たみ)に耕作(かうさく)蚕織(さんしょく)の【蝅は異体字】
事(こと)を教(おし)へ法令(はうれい)を
正(たゝ)しくして其(その)人民(しんみん)を
安(やす)んぜしむ

華(くわ)の人(ひと)を五千人を率(ひき)ひて到(いた)りける。詩書(ししよ)礼楽(れいかく)醫卜(いほく)の枝芸(きけい)までみな
したがへて往(ゆき)たりしが。既(すで)に朝鮮(てうせん)に入(い)ると云(いへ)とも其土(そのど)の人(ひと)の言語(ごんご)さらに通(つう)ぜ
ず。故(ゆゑ)に訳者(つうじ)を以(もつ)て言(ことば)を解(げ)し人道(じんだう)に五常(こじやう)あることを知(し)らする故(ゆゑ)中国(ちうごく)の
風(ふう)自(おのづか)らうつしける。これによつて衣冠(いくわん)の制度(せいと)こと〳〵く中国(ちうごく)に同(おな)じ。それより歳(せい)
霜(そう)おし移(うつ)り周道(しうだう)もまた。哀(おとろ)ふる代(よ)に到(いた)り諸矦(しよこう)我意(がい)をふるふの時(とき)。こゝに燕(ゑん)
国(こく)の矦(こう)王号(わうがう)を偕称(せんしよう)し。東方(とうばう)の国々(くに〴〵)まで兵(へい)を出(いた)して切(きり)なびけ。既(すで)に朝鮮(てうせん)
の地(ち)までも打入(うちい)らんなどゝ取(とり)さたあれば。朝鮮矦(てうせんこう)はこのよしを聞(きく)よりも同(おな)
じく。是(これ)も王号(わうがう)を称(しよう)し兵(へい)をおこして燕(ゑん)を伐(うち)。周王(しうわう)の味方(みかた)をなし天子(てんし)
をたつとぶ道(みち)を立(たて)んとしたりける。されども朝鮮(てうせん)の大夫(たいふ)禮(れい)といへる者(もの)強(しひ)て
。便宜(びんぎ)のよからぬ事(こと)をもつて諌(いさ)むる故(ゆゑ)。兵出(へいをいだ)すの事(こと)をば止(や)みぬその後(のち)に

大夫(だいぶ)禮(れい)をもつて説士(せつし)となし。燕(ゑん)の国(くに)につかはし燕王(ゑんわう)に説(とか)しめたり。燕王(ゑんわう)は其(その)
理(り)を得道(とくたう)して朝鮮(てうせん)は計畧(けいりやく)する其志(そのこゝろさし)をば止(や)めたり。其後(そのゝち)に朝鮮国王(てうせんこくわう)の
子孫(しそん)に至(いた)りて。其国(そのくに)の冨饒(ふによう)なるにつき其志(そのこゝろさし)しやゝ驕(おご)り。政(まつ)りごと虐(きやく)にして国(くに)
人(ひと)の意(こゝろ)離(はな)るゝを。燕(ゑん)の国(くに)より窺(うかゞ)び兵馬(へいば)を遠(とほ)く入(い)れ動(どう)じ。朝鮮(てうせん)の西境(さいぎやう)を
攻(せめ)とること凡(およそ)二千 余里(より)。満汗(まんかん)といふ所(ところ)に至(いた)つて界(さかい)を立(たつ)其後(そのゝち)秦(しん)六 国(こく)を合(あは)する時(とき)万里(はんり)
の長城(ちやうじやう)を築(きつ)きけるに。遼東(れうとう)を以(もつ)てかきりとして朝鮮(てうせん)は外(ほか)になしたりけり。此時(このとき)の
朝鮮王(てうせんわう)は箕子(きし)より四十 代(たい)の孫(そん)。箕否(きひ)が位(くらい)に立(たつ)て君(きみ)たるに秦王(しんわう)の威(ゐ)におそれて秦(しん)に入(いつ)
て附属(ふぞく)す。否(ひ)死(し)して其子(そのこ)準(じゆん)立(たつ)て二十 余年(よねん)。陳勝(ちんとう)項羽(こう)が乱(らん)起(おこ)り天下(てんか)大(おほい)に困窮(こんきう)し
燕(ゑん)斉(せい)趙(ちよう)の民(たみ)ともやゝ亡(ほろ)びて箕準(きじゆん)に帰(き)す。其後(そのゝち)盧綰(ろくわん)が燕王(ゑんわう)となれる時(とき)
箕準(きじゆん)は燕(ゑん)と約(やく)を定(さた)め浿水(ばいすい)を以(もつ)て両国(りやうこく)の界(さかい)を定(さた)め。其後(そのゝち)に盧綰(ろくわん)は漢(かん)

に反(はん)して匈奴(けうと)に入(い)る。此時(このとき)に燕人(ゑんひと)衛満(えいまん)といへる者(もの)燕(ゑん)の国(くに)を亡命(かけおち)して党(たう)を
聚(あつ)むること。千 余人(よにん)にして衛満(えいまん)これが。頭(かしら)となつて魋結(かみをからけ)蛮夷(ゑひす)の服(ふく)を着(つ)け
中国(ちうこく)の衣冠(いくわん)を棄(す)て東(ひかし)の方(かた)浿(ばい)の水(みつ)を打渡(うちわた)り。來(きた)りて朝鮮国(てうせんこく)の王城(わうしやう)に至(いた)り
うつたへ云(いふ)我々(われ〳〵)永(なか)く西界(さいかい)に居(きよ)を定(さた)め朝鮮(てうせん)の藩屏(はんへい)たらん事(こと)を願(ねか)ふに
箕準(きしゆん)は是(これ)をまことゝし。衛満(えいまん)を官(くわん)にすゝめて博士(はくし)となし地方(ちはう)百 里(り)の州(しう)を
あたへ西(にし)の鄙(ゑびす)の境(さかい)を守(まも)らす衛満(えいまん)すでに朝鮮国(てうせんこく)に居住(きよちう)して彼(かの)亡命(かけおち)の
從党(じふたう)を招(まね)ぎはかりて朝鮮国(てうせんこく)を奪(うは)はんとす則(すなは)ち使者(ししや)を朝鮮(てう[せ]ん)の
王城(わうじやう)につかはし慌(あは)たゞしく告(つ)けさせける漢(かん)の兵軍(へいくん)十方(じつはう)より朝鮮国(てうせんこく)に
襲(おそ)ひ來(きた)るとうけ給はる我等(われら)今(いま)是(これ)に付(つい)て城内(じやうない)に参候(さんこう)し宿衛(しゆくえい)たらんと
申 乞(こふ)箕準(きじゆん)は是(これ)をまこととし何(なん)の意(こゝろ)もなき所(ところ)へ忽(たちま)ち衛満(えいまん)が兵(へい)とも王(わう)

城(じやう)に撃入(うちいり)て攻討(せめうち)ける箕準(きじゆん)が方(かた)にも番兵(ばんへい)ども防([ふ]せ)ぎ戦(たゝか)ふといへとも。衛(えい)
満(まん)か兵士(へいし)大勢(おほせい)なれば遂(つひ)に軍(いくさ)に打負(うちま)け。箕準(きしゆん)は船(ふね)に打乗(うちの)り南海(なんかい)さして
没落(ぼつらく)せり
   衛満(えいまん)朝鮮王(てうせんわう)と成(な)る事(こと)
衛満(えいまん)既(すて)に箕準(きじゆん)をば追(お)ひ出(いた)し。自(みつか)ら王倹城(わうけんしやう)に拠(より)て朝鮮(てうせん)の主人(しゆじん)となり
実(じつ)に漢(かん)の恵帝(けいてい)呂后(りよこう)の世(よ)に当(あた)れるなり。此時(このとき)天下(てんか)初(はし)めて定(さた)まりて太平(たいへい)の基(もとい)
を立(た)つ。遼東(れうとう)の大守(たいしゆ)は衛満(えいまん)と約(やく)すらく今(いま)より你干(なんち)漢外臣(かんくわいしん)となつて塞(さい)
境(きやう)の外(そと)なる諸国(しよこく)を保(たも)ち漢(かん)の境辺(きやうへん)に寇(あた)をなすべからず若(もし)又(また)諸国(しよこく)の夷(い)
蕃(びす)朝鮮(てうせん)の下(した)に随順(ずゐじゆん)し。中国(ちうこく)へ入朝(じゆてう)せんと欲(ほつ)する者(もの)をは此方(このはう)よりあへて
是(これ)を禁(きん)する事(こと)なし。何程(なにほと)も夷藩(いはん)の国(くに)を你(なんち)の器量(きりやう)に任(まか)せて手(て)に附(つけ)

へしと定(さた)むる故(ゆゑ)衛満(えいまん)爰(こゝ)におゐて自己(じこ)の兵威(へいゐ)を逞(たくま)しふして隣国(りんこく)を侵(おか)し
撃(う)ち或(あるひ)は財物(ざいもつ)を与(あた)へて是(これ)を誘(みち)びき。朝鮮国(てうせんこく)のその傍(かたはら)の小邑(せうゆう)まで多(おほ)くは
来伏(らいふく)せしめたり真蕃(しんばん)臨屯(りんとん)の諸郡(しよくん)もみな〳〵来(きたり)て服属(ふくしよく)すれば此地(このち)も今(いま)
は方角(はうかく)数千里(すせんり)の国(くに)とは成(なり)にける。かくて衛満(えいまん)が子孫(しそん)朝鮮国(てうせんこく)を相受(あひう)け
て。第(たい)三 代(たい)右渠(ゆうきよ)といへるが世(よ)に至(いた)りし時(とき)。漢国(かんこく)より逃亡(かけおち)し来(きた)る者(もの)ます〳〵多(おほ)
くなりければ弥(いよ)国(くに)は繁栄(はんえい)せりされども右渠(ゆうきよ)は我威(かい)を立(たて)て。天子(てんし)の国(くに)
に入朝(にうてう)すべきの意(こゝろ)もおこらず近隣(きんりん)の辰国(しんこく)より既(すて)に天子(てんし)に参内(さんだい)すべき
よしを思立(おもひたつ)よし云(い)ひ来(きた)れば。右渠(ゆうきよ)は是(これ)を防(ふせ)きおさえて道(みち)を通(とほ)さず。漢(かん)
の武帝(ぶて[い])の時(とき)に至(いた)り歩河(しやうか)【注】と云(い)へる臣(しん)を。朝鮮(てうせん)の使(つかひ)として右渠([ゆ]うきよ)にすゝめ諭(さと)して
天子(てんし)の朝廷(てうてい)に入朝(じゆてう)し其命(そのめい)に順(したか)へと云(い)はしむれども。右渠(ゆうきよ)は遂(つひ)に承引(しよういん)せ

【注 「歩河」は「渉何」の誤ヵ】

ず寔(まこと)にもつて詔命(ぜうめい)を違背(ゐはい)するだにも。その罪(つみ)大(おほい)なるべきにあまつさへ漢(かん)の使者(ししや)
渉河(しやうが)【注】を襲(おそ)ふて撃殺(うちころ)せり。爰(こゝ)において漢(かん)の武帝(ぶてい)元封(けんほふ)三 年(ねん)朝鮮(てうせん)を討伐(とうはつ)
せんと。楼舡将軍(ろうこうしやうぐん)楊僕(ようぼく)に命(めい)じ。斉(せい)より路(みち)しそれより渤海(ほつかい)に船を浮(うかば)せ。
左将軍(さしやうぐん)筍彘(じゆんてい)は遼東(れうとう)に出(いで)て。朝鮮矦(てうせんこう)右渠(ゆうきよ)が渉河(しやうが)【注】を殺(ころ)せる罪(つみ)を攻(せめ)し
む。右渠(ゆうきよ)もまた兵(へい)を発(はつ)して漢兵(かんへい)を防(ふせ)ぐにより。両将(りやうしやう)城(しろ)をかこんで是(これ)を
攻撃(せめうつ)といへども。其戦(そのたゝか)ひ利(り)あらず攻(せ)めあぐんで見(み)えたりける。朝鮮(てうせん)の城中(じやうちう)
の諸臣(しよしん)ども謀(はかりこと)をめぐらし。漢(かん)の二将(にしやう)の意(こゝろ)を隔(へだ)て楊僕(ようぼく)をすゝめて朝鮮(てうせん)に
降(くた)し。漢(かん)に背(そむ)くの相談(さうだん)をなしたり左将軍(さしやうぐん)筍彘(じゆんてい)是(これ)を初(はじ)めは知(し)らざりしか
ども。のちには此儀(このぎ)を察(さつ)するゆゑ。いよ〳〵城(しろ)をば急(きふ)にもせめず楊僕(ようぼく)がその
動静(どうせい)を待(まち)窺(うかゞひ)【「ひ」は衍ヵ】ふて居(ゐ)たりけり。漢(かん)の朝廷(てうてい)には楊僕(ようぼく)が異変(いへん)あるをは知(し)り

【注 「渉河」は「渉何」の誤ヵ】

給はず久(ひさ)しく朝鮮(てうせん)に兵(へい)を屯(とゞ)めて虚(いたづら)に費(ついや)すことをとがめ給ふに筍彘(じゆんてい)ひそ
かに楊僕(ようぼく)が変(へん)あることを申により重(かさ)ねて斉南(せいなん)の大守(たいしゆ)公孫遂(こうそんずゐ)に命(めい)を
下(くだ)して朝鮮(てうせん)に往(ゆ)き向(むか)はしめ其節(そのせつ)にのぞんで便宜(びんぎ)の事(こと)あるに至(いた)つては京(きやう)
都(と)まで告報(つけはう)ずるに及(およ)ばず事(こと)を意(こゝろ)に任(まか)すべきとの別勅(べつちよく)を蒙(かうふ)りて夜(よ)
を日(ひ)についで馳(はく)【「く」衍ヵ】せたりける已(すで)に朝鮮(てうせん)の漢(かん)の陣(ぢん)に着(ちやく)せしかば左 将軍(しやうくん)筍彘(じゆんてい)
は公孫遂(こうそんすゐ)に対(たい)しひそかに楼舡将軍(ろうこうしやうぐん)楊撲(ようぼく)がそむく意(こゝろ)ある事(こと)を告(つ)げ
知(し)らするに公孫遂(こうそんすゐ)やがて是(これ)を捕(とら)へしめ其軍兵(そのぐんひやう)を一所(いつしよ)に合(あは)せて其後(そのゝち)急(きふ)に
城(しろ)を取(とり)かこんで攻撃(せめうつ)たり城中(じやうちう)の者(もの)ども油断(ゆだん)なし楊僕(ようぼく)か一左右(いつさう)の
相図(あひづ)を待居(まちゐ)る時(とき)なるに思(おもひ)の外(ほか)にせめ立(たて)られあはて騒(さわ)ぎて驚(おどる)きける爰(こゝ)
に朝鮮(てうせん)の諸臣(しよしん)に朝鮮相(てうせんのしよふ)路人(ろじん)韓相(かんのしよふ)陰(いん)尼雞林(にけいりん)の相(しよふ)参(さん)将軍(しやうぐん)唊(けう)【注】なんどいへる

【注 史実と照合すると、「朝鮮相路人」は「朝鮮の相の路人」、「韓相陰」は「朝鮮の相の韓陰」、「尼雞林の相参」は「尼谿の相の参」、「将軍唊」は「(朝鮮の)将軍の王唊」に比定されると思われる。】

者(もの)ども一所(いつしよ)に謀(はかりごと)を定(さだ)めてつひに右渠(ゆうきよ)を殺(ころ)し。漢軍(かんぐん)に降(くだ)りけり爰(こゝ)に於(おゐ)て
朝鮮国(てうせんこく)全(まつた)く漢(かん)の下(した)に附属(ふぞく)せしかば。国(くに)を破(やぶ)りて四郡(しぐん)となし今度(こんと)右渠(ゆうきよ)
を殺(ころ)して漢(かん)に帰(き)したる者(もの)どもに分(わか)ち与(あた)へらる。参(さん)を封(ほう)じて澅清侯(くわくせいこう)とな
し。陰(いん)を封(ほう)じて荻苴侯(てきしよこう)とし。唊(けふ)を平州侯(へいしうこう)となし。路人(ろじん)が子(こ)最(さい)を以(もつ)て涅(ねつ)
陽侯(ようこう)となしたりける。かくてまつたく朝鮮一国(てうせんいつこく)の侯号(こうがう)は絶(たえ)たりけり。
   三韓(さんかん)古今(こゝん)分別(ふんべつ)有(あ)る事(こと)
馬韓(ばかん)辰韓(しんかん)弁韓(べんかん)是(これ)を合(あは)せて三 韓(さん)【「さ」は「か」の誤記ヵ】といふ。其(その)馬韓(ばかん)といへるは箕準(きしゆん)すでに衛(えい)
満(まん)が為(ため)に攻奪(せめうば)はれ。其(その)左右(さいふ)の臣下(しんか)宮人(きうしん)を率(ひき)ひ走(はし)りて遠(とほ)く海(うみ)に逃(のか)れ入(いり)。
韓(かん)の地(ち)金馬郡(きんばぐん)に居住(きよぢう)をなし自号(しごう)して韓王(かんわう)といへり。其地(そのち)後世(こうせい)に称(しよう)ず
るところの益州(えきしう)の地(ち)の古城(こじやう)の墟(あと)なり。土人(どじん)は名付(なづけ)て箕準城(きしゆんじやう)といへると

なり朝鮮(てうせん)の南方(なんばう)に当(あた)るとか。其後(そのゝち)百済王(ひやくさいわう)温祚(うんぞ)が位(くらゐ)に立(たて)る時(とき)。此所(このところ)を一所(いつしよ)に
合(あは)せて保(たも)つといへり。是(これ)をもつて考(かんが)ふれば此所(このところ)馬韓(ばかん)と名付(なづく)るは百済国(ひやくさいこく)の旧名(きうめい)
なるに疑(うたが)ひなし。しかるに後世(かうせい)説(せつ)を立(たつ)て馬韓(ばかん)はもと勾麗(かうらい)の名(な)にして。弁韓(べんかん)
はまた百済(ひやくさい)なりといふ者(もの)は尤(もつとも)正義(しやうぎ)にあらざるなり。古(いにしへ)は馬韓(ばかん)の地(ち)広大(かうだい)にし
て五十 余(よ)の国(くに)を立(た)つ。大国(たいこく)といふものは人家(じんか)万戸(まんこ)にあまり。小国(せうこく)といふは千 軒(げん)
に滅(げん)ぜず惣(そう)じて十 余万戸口(よまんこかう)の人家(じんか)あり。また辰韓(しんかん)は馬韓(ばかん)よりは東(ひがし)にあり自(おのづか)
ら立(たつ)て。我々(われ〳〵)か先祖(せんぞ)は秦(しん)の時(とき)の亡人(ばうじん)にて始(し)。【。衍ヵ】皇(こわう)が世(よ)に乱(らん)を避(さけ)てこゝに至(いた)り。韓(かん)
国(こく)に逃入(にげいり)【迯は俗字】しを韓人(かんじん)これをあはれみ韓国(かんこく)の東界(とうかい)を置(おき)て。これに与(あた)へ城柵(じやうさく)
を立(たて)しむと。その言語(ごんご)なほ秦人(しんひと)に類(るい)せる事(こと)のありともいへり。或(あるひ)は是(これ)を
辰韓(しんかん)と号(なづ)く辰韓(しんかん)乃(すなは)ち後世(かうせい)新羅(しんら)なり始(はじめ)め【め衍】のほどは国(くに)に主人(しゆじん)なき時(とき)は馬韓(ばかん)に乞(こ)ふて。

これを立(たて)しかそのゝち新羅(しんら)の始祖(しそ)赫居世(かくきよせい)が。此(この)辰韓(しんかん)の地(ち)より興(おこ)つて統(とう)
を立(たて)て子孫(しそん)にゆづる。扨(さて)また弁韓(べんかん)は其始(そのはじ)め国(くに)を起(おこ)すの祖(そ)を知(し)らず。かつは
辰韓(しんかん)の属国(ぞくこく)と聞(きこ)えたり。辰弁両韓(しんべんりやうかん)の地(ち)をすべて二十四の国名(こくめい)ありしは往昔(むかし)
のことと聞(きこ)えたり。其時(そのとき)には大国(たいこく)に四五千 軒(けん)の人家(じんか)あり。小国(せうこく)には六七
百 家(け)民人(みんじん)を住(すま)しめたりといへり。新唐書(しんたうしよ)に是(これ)を載(の)せて弁韓(べんかん)は楽浪(らくらう)の
地(ち)。是(これ)をまた平壌(へくしやく)と云(いふ)ともいへり。古(いにし)へ漢(かん)の時(とき)の楽浪郡(らくらうぐん)といふ時(とき)は。是(これ)を以(もつ)て見(み)
るときは辰韓(しんかん)の新羅(しんら)たる。弁韓(べんかん)は高勾麗(かうこうらい)たる疑(うたがひ)なき所(ところ)なり。また後漢(こかん)
書(しよ)にこれを説(とい)て。弁韓(べんかん)は南(みなみ)にあり辰韓(しんかん)は東(ひがし)に有(あり)。馬韓(ばかん)は西(にし)にありといふ其(その)
南(みなみ)とさし。東(ひがし)とさすは漢(かん)の地界(ちかい)遼東(れうとう)の地(ち)を北西(ほくせい)と定(さだ)めて説(とく)ことの言(ことば)なり。
弁韓(べんかん)は辰馬(しんば)の二韓(にかん)の南(みなみ)にあるといふの儀(き)にあらず。三 韓(かん)すべて七十 余國(よこく)の

名目(みやうもく)は陳壽(ちんじゆ)が書(しよ)せる三国志(さんごくし)に見(み)えたれど。東史(とうし)世(よ)絶(た)へて傳(つた)わらざれば
今(いま)朝鮮(てうせん)の地(ち)におゐて。在所(あるところ)はたしかに知(し)れずといふ。


朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編巻之一《割書:終》

朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編(しよへん)巻之二
     目録
 一 朝鮮(てうせん)地方(ちはう)大略(たいりやく)の事(こと)
 一 從(より)_二日本(につほん)_一攻(せむる)_二 三韓(さんかんを)_一初(はじめ)の事(こと)
 一 日本(につほん)代々(よゝ)攻(せむる)_二朝鮮(てうせんを)_一事(こと)
 一 新羅国(しんらこく)興廃(こうはい)《割書:并(ならびに)》朝鮮(てうせん)号(かうす)_二雞林(けいりんと)_一事(こと)
 一 高勾麗(かうこうらい)始(はじめ)興(おこりの)事(こと)
 一 百済(ひやくさい)始祖(しそ)興(おこり)の事(こと)
 一 唐(たう)新羅(しんら)二兵(にへい)亡(うつ)_二百済(ひやくさいを)_一事(こと)【兦は亡の本字】
 一 日本勢(につほんぜい)百済(ひやくさい)を救(すく)ふ事(こと)

 一 高勾麗(かうこうり)滅亡(めつばう)の事(こと)
 一 新羅(しんら)滅亡(めつはう)《割書:并(ならびに)》高麗始祖(こうらいしそ)王建(わうけん)の事(こと)
 一 高麗(こうらい)盛衰(せいすゐ)《割書:并(ならびに)》李成桂(りせいけい)位(くらゐ)を窃(ぬすむ)【竊は旧字】事(こと)

朝鮮(てうせん)征伐記(せいばつき)初編巻之二

   朝鮮(てうせん)地方(ちはう)大略(たいりやく)の事(こと)

朝鮮(てうせん)地方(ちはう)。縣郡(げんぐん)の世々(よゝ)に異(こと)なる名号(めいがう)を考(かんが)ふるに。漢(かん)の武帝(ぶてい)元封(げんほう)三
年(ねん)右渠(ゆうきよ)が王命(わうめい)にしたがはさるを討伐(たうばつ)あつて。遂(つひ)に朝鮮(てうせん)の地(ち)を平(たいら)げ定(さだ)めて。
こゝにおいて。楽浪(らくらう)。臨屯(りんとん)。玄菟(げんと)。真蕃(しんばん)。の四郡(しぐん)を置(お)く。楽浪郡(らくらうぐん)の泊(とま)りはこれぞ即(すなは)
ち。故(もと)の朝鮮王(てうせんわう)右渠(ゆうきよ)が都(みやこ)する治所(ちしよ)として。また臨屯(りんとん)は故(もと)の東暆県(とうしけん)の治所(ぢしよ)。玄(げん)
菟郡(とぐん)はまた。故(もと)の沃沮城(よくしよじやう)と云(いひ)し府(ふ)にして。これを時(とき)の治所(ぢしよ)なりとか中(なか)ごろ夷(い)
貊(びす)のために所侵(おかされ)て。郡(ぐん)を勾麗(こうり)の西北(せいぼく)にうつしたり。漢(かん)の時(とき)といへども此所(このところ)の治(ぢ)
所(しよ)たることは同前(どうぜん)たりと聞(きこ)えたり。また真蕃郡(しんばんぐん)の治所(ぢしよ)たるは。霅県(げんけん)を以(もつ)て

定(さだ)めたり。また漢(かん)の昭帝(せうてい)始元五年(しげんごねん)朝鮮(てうせん)の旧地(きうち)。平那(へいだ)玄菟(げんと)等(とう)の郡(ぐん)を
もつて。平州(へいしう)の都督府(ととくふ)となし。臨屯(りんとん)楽浪(らくらう)等(とう)の郡(ぐん)をもつて。東府(とうふ)の都督(とゝく)
府(ふ)となせり。それ府(ふ)は一国(いつごく)の治政(ぢせい)を出(いだ)しなす仕置所(しおきところ)を称(しよう)するなり。都督(とゝく)
はまたその所(ところ)の政事(せいじ)を正(たゞ)す。官人(くわんにん)の職名(しよくめい)たりとしるべきなり。其(それ)より唐(たう)の
世(よ)に至(いた)りて。朝鮮(てうせん)の土地(とち)方境(はうきやう)を定(さだ)むるに。東西(とうざい)は二千 里(り)南北(なんぼく)は四千 餘里(より)にし
て。西北(せいぼく)は鴨緑江(あうりよくこう)にいたれり。此水(このみづ)つねに緑(みどり)の色(いろ)なるは。恰(あたか)も鴨(かも)の頭毛(くびけ)を見(み)る
が如(ごと)くなり。故(ゆゑ)にこの江(え)を名(な)づけてかく云(いへ)り。北(きた)は女直(ぢよぢよく)の州(しう)にかぎれる是(これ)一名(いちめう)は
兀良海(おらんかい)といへるとかや。偖(さて)また國(くに)に八道(はちだう)を啓(ひらい)て。第一(だいゝち)に京畿道(けいきたう)この道(みち)は京(けい)
城(じやう)の海道(かいだう)にして。江原(こうげん)咸鏡(はみきやん)の両道(りやうだう)は北(きた)に出(いづ)る道筋(みちすぢ)なり。平安(へいあん)黄海(ばはい)の両道(りやうだう)
は平壌(へいじやく)の東(ひがし)にあり。忠清道(ちくしやくたい)慶尚道(けいしやくたい)の二道(にだう)は海(かい)の東南(ひがしみなみ)にあり。全羅道(こるらだう)は

海(かい)の西南(せいなん)の道路(だうろ)たり。その外(ほか)府州郡縣(ふしうくんけん)すべて二百 餘(あまり)りの地名(ちめい)をつらね。三
韓(かん)鼎足(ていそく)の如(ごと)く立(たつ)て。代々(よゝ)数(す)百 歳(さい)の間(あひだ)を歴(へ)。互(たがひ)に武威(ふゐ)を争(あらそ)ひ來(きた)る《割書:事(こと)段々(だん〳〵)|下(しも)に見(み)ゆ》
新羅国(しんらこく)の東(ひがし)は長人国(ちうじんこく)につゞき。西(にし)は百 済(さい)に隣(とな)り南(みなみ)は海濱(かいひん)に臨(のぞ)み。北(きた)は高(かう)
麗(らい)の地(ち)につゞけり。東南(とうなん)は是(これ)日本(につほん)渡海(とかい)の通路(つうろ)なり。百 済国(さいこく)は唐土(とうと)洛陽(らくやう)の
東(ひがし)。六千 餘里(より)蒼海(さうかい)はるかに途(みち)を隔(へだ)て。その正東(まひがし)は新羅国(しんらごく)の海(うみ)につゞき。西(にし)は
越州(えつしう)北(きた)は高麗(かうらい)にあたつて海水(かいすゐ)間(へだゝ)つて湛(たゝ)へたり。また高麗(かうらい)は新羅(しんら)の西(にし)にあ
たつて。南(みなみ)は海(かい)を越(こ)ゆるまで百 済国(さいこく)の領分(りやうぶん)たり。西北(にしきた)は遼水(れうすい)を過(す)ぎ支那(しな)
営州(えいしう)の地(ち)につゞき。北方(ほつはう)は靺鞨(まかつ)の狄国(てきこく)なりこの遼水(れうすい)と名付(なづく)るは世(よ)にしれる遼(れう)
東(とう)の地(ち)にして。靺鞨(まかつ)は今(いま)の韃靻国(だつたんこく)の別種(わかれ)たり。是(これ)も漢(かん)の世(よ)楽浪郡(らくらうぐん)の一分(いちぶ)た
り。洛陽(らくやう)の東(ひがし)を去(さ)る事(こと)。五千 余里(より)国主(こくしゆ)は平壌(へいじやく)に居城(きよじやう)を構(かま)ふとなり。今(いま)に

至(いた)つて朝鮮(てうせん)の国都(こくと)にして。長安城(ちやうあんじやう)と名付(なづく)るなり。城野(じやうや)の外(そと)に一 方(はう)は高山(かうさん)廻(めぐ)り
つゞき。盤石(ばんじやく)峙聳(そはだちそび)へて険隘(けんあい)自(おのづから)の。要害(やうがい)を其儘(そのまゝ)の城郭(じやうくはく)に用(もち)ひたれば。堅固(けんご)宜(よろ)
しき外関(くわいくわん)たり。内(うち)には万民(ばんみん)居所(きよしよ)を安(やすん)し市店(してん)商肆(せうし)は。町(まち)を連(つら)ね售物(うりもの)をそ
なへ。高堂(かうとう)楼閣(ろうかく)軒(のき)を重(かさ)ねたるは寺院(じゐん)あり。官所(くわんしよ)もあり真俗(しんぞく)貴賤(きせん)交会(かうくわい)
男女(なんによ)その業(ぎやう)をたのしめば。実(じつ)に一 方(はう)冨饒(ふにやう)の境(けやう)たり。南郊(なんかう)は広(ひろ)く開(ひら)け浿水(ばいすい)を
限(かぎ)つて喉(のんど)とし。別(べつ)に王宮(わうきう)を構(かま)へ其基(そのもとい)塁土(つちをかさね)疂石(いしをたゝん)で。高(たか)く。土屏(どべい)を築(きづい)て溝濠(みぞほり)
ふかくしたゝめ。乃(すなは)ち浿水(ばいすい)の流(ながれ)を引(ひい)て深(ふか)き淵(ふち)を湛(たゝへ)たる。たとひば河伯(かはく)魚鼈(ぎよべつ)たり
とも漂瘍(みつにふか)れて。なか〳〵易(やす)くは渡(わた)り得(う)べからざるの急流(きふりう)たり。それより左(ひだ)りの方(かた)を
望(のぞ)めば。遥々(はる〳〵)と路隔(みちへだ)たりて国内城(こくないじやう)と。漢城(かんじやう)と雲(くも)を衝(つ)き山巓(さんてん)に兀然(こつぜん)たるは。唐(とう)
の代(よ)より此所(このところ)朝鮮国(てうせんこく)の別都(べつと)と定(さだ)め。壁(るい)をかさね塹(みぞ)を深(ふか)くし。一 方(はう)の不虞(ふぐ)の

備(そなひ)にいましめ構(かま)ふ。また大遼水(たいれうすい)小遼水(せうれうすい)二ッの流(なが)れ。国内(こくない)に廻(めぐ)りわかれて長(とこしな)へに
漲(みなぎ)れば。舟筏(ふねいかだ)運漕(うんそう)の便宜(びんぎ)あつて。実(まこと)に負担(ふたん)の旅客(りよかく)を助(たす)く。此水(このみづ)源洞(みなもと)は遥(はる)
か靺鞨(まかつ)の西南(さいなん)の山渓(さんけい)より洩出(もれいづ)る。さゞれ水(みづ)それより次第(しだい)に広(ひろ)く漂(たゝ)へて洋々(よう〳〵)
たる流波(りうは)を動(どう)じ。南(みなみ)に向(むか)ひ安市城(あんしじやう)の前(まへ)なる大江(たいえ)とはなりたるなり。それより
また。遼山(れうさん)の西岸(さいがん)に一帯(ひとすぢ)の派流(はりう)をなすを。名(な)づけてこゝに小遼(せうれう)と云(いふ)。末(すゑ)再(ふたゝ)
び南(みなみ)に廻(めぐ)り流(なが)るゝを梁水(れうすい)と唱(とな)ふれば一水(いつすい)にして三(みつ)の名(な)をなす大河(たいが)なり。爰(こゝ)
に馬訾水(ばしすい)と云(い)ふ河(かは)あり。是(これ)もまたその源上(みなかみ)は靺鞨(まかつ)の白山(しらやま)と云所(いふところ)より涌(わ)き
出(いづ)る。纔(わづか)に小(せう)なる渓澗(けいかん)たりと雖(いへ)とも万木(ばんぼく)の雨露(うろ)の滴(したゝ)り落(おち)添(そふ)て。つひにはかゝ
る大江(たいえ)の秋水(しうすい)を湛(たゝ)ゆれば。其末(そのすへ)に至(いた)つては千隻(せんせき)の旅舶(りよはく)を浮(うか)め來(きたつ)ても。猶(なほ)豁(ゆたか)な
る大濤(たいとう)を起(おこ)し動(どう)せる。朝鮮(てうせん)の州郡(しうぐん)第一(だいゝち)の大浸(たいしん)たり。その水(みづ)もとより底(そこ)を

計(はか)らず。四時(しじ)の碧潭(へきたん)藍(あゑ)に染(そ)みなす是(これ)ぞ名高(なたか)き鴨緑江(あうりよくこう)の要処(やうしよ)なり。
平壌(へいしやく)よりは西北(せいぼく)なれば。唐土(とうと)遼東(れうとう)の地(ち)を経(へ)來(きた)る。路道(ろたう)屈竟(くつきやう)の堅(かた)めたるゆへ
に。唐土(とうと)中国(ちうごく)と高麗(かうらい)の境(さかひ)と定(さだ)め。常(つね)に大舮(おほぶね)を浮(うか)べ旅客(りよかく)の往來(わうらい)を迎(むか)へ。馬(うま)を
渡(わた)し人(ひと)を渡(わた)す。大津口(たいしんこう)とは聞(きこ)えけり。
   日本(につほん)より三韓(さんかん)を攻(せむ)る初(はじ)めの事(こと)
爰(こゝ)に本朝人皇(ほんてうにんわう)十四 代(たい)。仲哀天皇(ちうあひてんわう)と申 奉(たてまつ)るは。第(だい)十三 代(たい)の君王(くんわう)景行天皇(けいこうてんわう)の
王子(わうじ)。日本武王子(やまとたけのわうじ)の第(たい)二の御子(おんこ)にて渡(わた)らせ給ふ。御母(おんはゝ)は両道入姫(ふたみちひめ)の命(みこと)と申す。
垂仁天皇(すゐにんてんわう)の皇女(くわうぢよ)なり。そも〳〵我(わが)日本(につほん)の大祖(たいそ)神武天皇(じんむてんわう)より。以来(このかた)継体(けいたい)の御(おん)
事(こと)たるや。各々(おの〳〵)其代(そのよ)の儘(まゝ)にして全(まつた)く父(ちゝ)は子(こ)に譲(ゆづ)り給ひて。爰(こゝ)に十二 代(だい)の天(あまつ)
祚(ひつき)を累(かさ)ねさせ給ふ処(ところ)に。景行(けいかう)の儲君(もふけのきみ)日本武尊(やまとたけのみこと)の。東夷(とうい)を制伐(せいばつ)し給ひ

信濃國(しなのゝくに)まで入(い)り給ふとき。山神(さんじん)の尤(とが)めに遇(あ)ひ不幸(ふこう)にして御 ̄ン身(み)を焼(やか)れ給ひ
ける。尾張(をはり)の國(くに)まで事故(ことゆゑ)なく回(かへ)り至(いた)り給ひけれとも。遂(つひ)に爰(こゝ)にて遊去(かんさり)ます。御(おん)
父(ちゝ)景行(けいかう)一向(ひたすら)これを哀(かなし)み給ふのみならず。王子(みこと)の勲労(くんらう)大方(おほかた)ならず痛(いた)ましく思召(おぼしめ)
し其(その)御子(おんこ)仲哀(ちうあひ)を東宮(とうくう)に立(た)て置(お)き。遂(つひ)に御代(みよ)をは譲(ゆづ)らせ給ふとなん。この
天皇(てんわう)の御形(おんかたち)他(ひと)にすくれおはしまし。御身(おんみ)の長(たけ)一丈(いちじやう)にして実(まこと)に勇猛(ゆうまう)の志気(しき)あ
ること。御父尊(おんちゝみこと)にも劣(おと)らせ給はぬ御器量(こきりゆう)なり。皇后(くわうこう)は息長足姫(いきながたりひめ)と申す。
第九代(だいくだい)開化天皇(かいくわてんわう)より。第三(だいさん)の皇孫(わうそん)息長宿祢(いきなかすくね)の命(みこと)の女(むすめ)なるを立(たて)て。皇(くわう)
后(ごう)となし給ふ。是(これ)ぞ則(すなは)ち神功皇后(しんこうくわうごう)の御(おん)ことなり。御意(おんこゝろ)天皇(てんわう)にひとしく雄(すぐ)れ
させ給ひて。最(もつと)も勇(ゆう)におわします。此時(このとき)に當(あた)つて九州(きうしう)の戎(ゑびす)の魁首(かしら)。熊襲(くまをそ)と
云(い)へる無道(ぶたう)の者(もの)。可畏(かけまくもかしこ)き天子(てんし)の常(つね)ある。神器(しんき)の威(い)ある理(ことは)りを知(し)らず。これ

【右丁 挿絵のみ】
【左丁】
皇后(かうごう)三韓(さんかん)
御征伐(ごせいばつ)のとき
楼船(ろうせん)三千 余艘(よさう)
をうかめ諏訪(すわ)
住吉(すみよし)の御神(おんかみ)を始(はじ)め
奉(たてまつ)り海神(かいじん)御船(おんふね)の左右(さいふ)
を守護(しゆこ)し奉(たてまつ)りしかば
風雨(ふうう)のわざはひなく彼国(かのくに)
にいたり龍神(りうじん)より奉(たてまつ)りし干(かん)
満(まん)二珠(にしゆ)の神宝(しんはう)を以(もつ)て夷(い)
賊(そく)を一 時(じ)に征討(せいとう)し給ふ

よりさき景行天皇(けいかうてんわう)の御宇(ぎよう)に於(おゐ)て。筑紫(つくし)の地(ち)にて反逆(ほんぎやく)を企(くわだ)て。貢物(みづきもの)を
も押(おし)とゞめて是(これ)を献(けん)ぜず。しば〳〵叡慮(えいりよ)にそむきし儘(まゝ)京都(きやうと)より多(おほ)くの軍(ぐん)
兵(ひやう)を指遣(さしつかは)され。討伐(とうばつ)を加(くわ)へらる。熊襲(くまをそ)すでに己(おのれ)が足(たら)ざることを知(し)れるが
故(ゆゑ)に。一旦(いつたん)は其(その)罪(つみ)に伏(ふく)し随(したが)ふといへども。また再(ふたゝ)び謀反(むほん)をなし朝廷(てうてい)の貢献(こうけん)
を怠(おこ)たつて奉(たてまつ)らず。天皇(てんわう)は聞召(きこしめし)悪(にく)き者(もの)の仕方(しかた)かな。急(いそ)ぎ誅伐(ちゆうばつ)あるべ
きに定(さだ)めて。宝輦(ほうれん)をかの地(ところ)に廻(めぐ)らされ。自(みづか)ら追討(つひとう)せらるべきの旨(むね)あり。国(くに)
々(〳〵)の軍兵(くんひやう)を召(め)されける。皇后(くわうこう)はこの事(こと)あるを聞召(きこしめ)し。吾(われ)は女(おんな)なりとても
此度(このたび)の御供(おんとも)に参(まゐ)らでやあるべきと。頻(しき)りに望(のぞ)ませ給ふにより。天皇(てんわう)も又(また)此(この)
儀(ぎ)を御承引(ごしよういん)まし〳〵ける。既(すで)に鷁舟(けぎしう)の纜(ともつな)を解(とく)に至(いた)り。皇后(くわうごう)は此度(このたび)逆賊(けぎぞく)
追討(つひとう)御祷(おんいのり)のためにとて。先(さき)だつて越前(ゑちせん)の国(くに)笥飯(けひ)の明神(みやうじん)に詣(まう)で。奉幣(ほうへい)を

参(まゐ)らせらる。其(それ)より北国(ほくこく)の海上(かいしやう)に龍舟(りうしふ)を巡(めく)らし。天皇(てんわう)と一所(いつしよ)に行逢(ゆきあひ)給ひ筑(つく)
紫(し)の地(ち)に趣(おもむ)かせ給ふに。一(ひ)とりの神(かみ)あらはれ皇后(くわうごう)の御夢(おんゆめ)ともなく。御現(おんうつゝ)にもあら
で物(もの)おしへなし申す。是(これ)より西(にし)の方(かた)にあたりて宝(たから)の多(おほ)き国(くに)あり。早(はや)くこれを
討伐(とうばつ)して日本下(につほんのした)に附属(ふぞく)し給ふべし。熊襲(くまをそ)は小国(せうこく)なりその上(うへ)伊弉諾(いざなぎ)伊(い)
弉冉(ざなみ)の。産置(うみおき)たまへる国(くに)なれば討(うた)ずとも終(つひ)には順(したが)ひ靡(なび)きなんぞと。有(あり)けるを
皇后(くわうごう)は急(いそ)ぎ天皇(てんわう)に告(つ)げ。しひて諌(いさ)めさせ給へども天皇(てんわう)これを用(もち)ひ給はず。強(しひ)て
制(せい)し給(た)ふところに。その事(こと)遂(つひ)に成就(じやうじゆ)すべからざる故(ゆゑ)にや有けん。俄(にはか)に橿日(かぢひ)の行宮(あんきう)に
して隠(かくれ)給ふぞうたてしき。泣々(なく〳〵)御尸(おんから)をば長門(ながとの)の国(くに)の内(うち)に治(おさ)め埋(うづ)めて。これを穴戸豊(あなととよ)
浦(うら)の宮(みや)と申すなり。すでに皇后(くわうごう)の御腹(おんはら)には応神天皇(おうじんてんわう)の胎育(はらま)させ給ふ御 ̄ン時(とき)な
り。しかるに皇后(くわうごう)はかゝる乱逆(らんげき)の時(とき)にのぞんで。帝位(ていゐ)一日(いちにち)も空(むなし)かるべからざる理(ことは)りを群(ぐん)

臣(しん)挙(こぞつ)つて奏聞(そうもん)するにより。女躰(によたい)の御身(おんみ)ながら天位(てんゐ)につかせ給ひける。是(これ)そ第(だい)
十五代の継体(けいたい)神功皇后(じんこうくわうごう)にて渡(わた)らせ給ふ。爰(こゝ)に皇后(くわうこう)は仲哀天皇(ちうあひてんわう)の御教(おんおしへ)を承(う)
け給はず。強(しひ)て我意(がい)を用(もち)ひ給ふにより神(かみ)の祟(たゝ)りのある故(ゆゑ)にや。俄(にわか)に崩御(ほうきよ)まし〳〵
ければ大(おほい)に恐(おそ)れ給ふのみか。また御憤(おんいきどほ)りも深(ふか)くして三韓征伐(さんかんせいばつ)の叡慮(えいりよ)は遂(つひ)に
起(おこ)りけり。諸臣(しよしん)とともに此議(このぎ)を詢(と)ひ計(はか)り給ひ。日本(につほん)の国内(こくない)にあらゆるところ
の大小(たいせう)の神祗(しんぎ)【祇】を勧請(かんしやう)し。常陸国(ひたちのくに)鹿島(かしま)の地(ち)に神集(かみあつ)めし給へける。中(なか)に阿度部(あとべ)
の礒良(いそら)と云(いへ)る神(かみ)一人。この召(めし)に応(おう)ぜざるはいかなる故(ゆゑ)にやあらんと。諸(もろ〳〵)の神達(かみたち)は
庭燎(ていりやう)【左ルビ:にはひ】の光(ひかり)をさかんに焼(た)き。青白(せいひやく)の幣(にきで)を榊(さかき)の枝(えだ)に懸(か)けつらね。風俗(ふうぞく)催馬楽(さいばら)
さま〳〵の神事(かみこと)をなし給ふ。礒良(いそら)感(かん)にたへずして海中(かいちう)より顕(あらは)れ出(い)て。神遊(かみあそび)
の場(には)に交(まじは)り会(くわい)す。諸神(しよじん)は礒良(いそら)の皃(かを)をつく〴〵と見(み)給ふに。蜂螺(ほら)貝虫(かひちう)浮(うき)

藻草(もくさ)海苔(かいたい)の類(たぐ)ひ透間(すきま)もなく。手足身体(しゆそくしんたい)に取付(とりつき)たり。おの〳〵是(これ)を奇(あやし)んで
その故(ゆゑ)を問(とひ)給ふ。礒良(いそら)答(こたへ)て我(われ)海中(かいちう)に跡(あと)たれて。魚鱗(ぎよりん)を利(り)せんと思(おも)ひしよりかく
のことくのさまとなる。この見(み)くるしきを恥(は)ぢ。思(おも)ひ。止(や)んことなき神遊(かみあそび)に遅参(ちさん)を
なせる所以(ゆゑん)なりと申ける。皇后(くわうごう)は礒良(いそら)をもつて海龍王(かいりうわう)へ御 ̄ン使(つかひ)とし。龍宮(りうぐう)の
宝物(ほうもつ)なる潮(しほ)の満干珠(みちひのたま)を乞(こひ)借(か)り給ひけるに。龍神(りうじん)勅(ちよく)にまかせて二ッの玉(たま)をた
てまつる。皇后(くわうごう)はこれより早(はや)く御船(おんふね)を艤(ふなよそほ)ひし給ひて。軍兵(ぐんびやう)を渡海(とかい)せんとし給
ふに胎中(たいちう)に在(ましま)す。太子(たいし)の重(つき)月(かさな)りて御腹(おんはら)ふくらかになるにより。常(つね)に召(め)す御 ̄ン鎧(よろひ)の
引合(ひきあは)せ狭(せま)くして。御膚(おんはだへ)の脇(わき)のあきける故(ゆゑ)。高良明神(かうらみやうじん)の謀(はかりごと)にて巧(たく)ませ給ひ一ッ
の小板(こいた)をこしらへて当(あて)給ふ。今(いま)の世(よ)まで伝(つたは)り鎧(よろひ)の脇立(わきだて)といふものあるは。是(これ)がはじめ
と承(うけたまは)る。諏訪(すは)住吉(すみよし)の両神(りやうじん)は。副裨(ふひ)の二将軍(にしやうぐん)となり給ひ。皇后(くわうごう)の陣(ぢん)を助(たす)け玉(たま)

へばましてや自余(じよ)の神兵(しんへい)をや。楼船(ろうせん)三千 余艘(よさう)を漫々(まん〳〵)たる蒼海原(あをうなは[ら])に乗(の)り
放(はな)つて。高麗(こま)の地(ち)に漕向(こぎむか)ふ。住吉(すみよし)の社(やしろ)とまうするは。昔(むかし)伊弉諾尊(いざなきのみこと)の。日向(ひうが)の国(くに)
小戸川(をとかわ)の川上(かはかみ)檍(あをき)が原(はら)と云(い)ふ所(ところ)にして秡(はらい)し給ふ。その時(とき)に化生(けせふ)したりし表筒男(うはつゝを)底(そこ)
筒男(つゝを)の神(かみ)これなりとか。斯(かく)て新羅(しんら)百済(ひやくさい)高麗(こま)を討(うち)したかへ給(たま)ふべき奇瑞(きずゐ)を
見(み)せ。海神(かいじん)形(かたち)を顕(あらは)し御 ̄ン船(ふね)をさしはさんで。多(おほ)くの海族(かいぞく)守護(しゆご)せしかば波濤(はとう)お
のづから風(かぜ)を動(とう)ぜず。彼國(かのくに)に着岸(ちやくがん)あるこの由(よし)すでに三韓(さんかん)に聞(きこ)へければ。高麗(こま)
の者(もの)ども兵船(へいせん)万余艘(まんよさう)をおし浮(うか)め。海上(かいしやう)に出会(いであひ)合戦(かつせん)をなしたりける。両軍(りやうぐん)
鋒(ほこ)を交(まじ)ゆることすでに半(なか)ばに至(いた)りて。皇后(くわうごう)はかの干珠(かんしゆ)を取(とつ)て海(うみ)に入給へは。海上(かいしやう)
忽(たちま)ち干潟(ひかた)となつて舟(ふね)の進退(しんたい)かなはねば。高麗(こま)の兵(へい)あざむかれ船(ふね)より下(くだ)つて歩(ほ)
行(かう)をなし。矛戟(ほこ)を取(と)つて進(すゝ)める時(とき)また潮(しほ)の満(みつ)る玉(たま)を取(とつ)てなげうち給へ。

けるに大濤(おほなみ)山(やま)を崩(くづ)すが如(ごと)く。大水(たいすい)忽(たちま)ち漲(みなき)りて高麗(こま)の兵卒(へいそつ)万 人(にん)をこと〳〵
く底(そこ)の藻(も)くずとなしたりける。残(のこ)りし者(もの)ども乱(みた)れ立(たつ)て漸(やうや)くに船(ふね)を廻(めぐ)らし逃(のが)れ
行(ゆく)ゆゑ。皇后(くわうごう)の神兵(しんへい)は全(まつた)き勝(かち)を得(え)たりける。新羅王(しんらわう)は手合(てあはせ)の一戦(いつせん)に利(り)を失(うしの)ふのみ
ならず。我(われ)日本(につほん)の神兵(しんへい)の大軍(だいぐん)なるに驚(おどろ)きおそれ。遂(つひ)に我陣前(わがぢんぜん)に降参(かうさん)して命(めい)を請(こ)
ひ。すなはち誓(ちかつ)て申やう。今(いま)より後(のち)日本(につほん)へ貢物(みつぎもの)の舟(ふね)楫(かぢ)の乾(かは)く間(ま)なく。毎年(まいねん)に
郡(くに)の内(うち)の宝物(ほうもつ)は申に及(およ)ばず。男女(なんによ)奴婢(ぬひ)の数(かず)をそへて是(これ)を調進(てうしん)すべし。たとへば
朝(あした)の日(ひ)は西(にし)より出(いで)て河水(かすい)返(かへつ)て逆流(けきりう)し。地(ち)の石(いし)曻(のほつ)て天(てん)の星辰(せいしん)に連(つらな)れる世(よ)はありと
ても。春秋(はるあき)の朝貢(てうこう)は闕(か)き惰(おこ)たれる事(こと)はあらじと。頭(かうべ)を叩(たゝい)て佗(わび)申す茲(こゝ)において。
皇后(くわうこう)は新羅王(しんらわう)の降(かう)を納(い)れ免(ゆる)し。其(その)科(とが)をなだめ給へける。其国(そのくに)に伝(つた)ふる文書(ふんしよ)の
類(るひ)をば尽(こと〳〵)く取収(とりおさ)め給へけるとなり。新羅王(しんらわう)の方(かた)よりは其国(そのくに)の至宝(しいほう)の数(かず)を撰(えら)み。

て大船(たいせん)八十 艘(さう)に満(み)ち載(の)せて奉(たてまつ)る。高麗(かうらい)百済(ひやくさい)両國(りやうこく)の王(わう)もこの戦(たゝか)ひを聞(き)き。畏(おそ)れ
我軍(わがぐん)に敵(てき)しがたきことを知れば。早(はや)く皇后(くわうこう)の陣営(ちんえい)に馳参(はせまい)りともに降参(かうさん)を請(こ)ひ
申。今(いま)より以来(いらい)永(なが)く日本(につほん)西方(さいはう)の藩兵(ばんへい)と称(しよう)し。貢献(こうけん)さらに怠惰(たいた)なく是(これ)を捧(さゝ)げ
んと佗(わび)たるにぞ。是(これ)またこゝに免許(めんきよ)なれば永(なが)く。日本(につほん)の幕下(ばつか)となるは勇々(ゆゝ)しかりけ
る次第(しだい)なり。此時(このとき)に支那(しな)は魏(ぎ)の世(よ)のことなりしが。其臣(そのしん)張政(ちやうせい)と云(い)ふ者(もの)を三韓(さんかん)和睦(わぼく)
の使者(ししや)とし。日本(につほん)の中(なか)を取(と)りあつかへしと聞(きこ)へけり。こゝに於(おゐ)て皇后(くわうごう)は大矢田(おほやだ)の宿祢(すくね)
と云(いふ)人(ひと)を。新羅国(しんらこく)の鎮(しづ)めとし金城(きんじやう)にとゞめ置(おい)て。帰帆(きはん)を促(うなが)さる皇后(くわうこう)の持(もた)せた
まへる。御 弓(ゆみ)の末弭(すへはづ)にて高麗王(かうらいわう)は日本(につほん)の犬(いぬ)なりと。石壁(せきへき)に書(しよ)し給も此時(このとき)のこと
なりと聞(きこ)へけり。皇后(くわうごう)すでに筑紫(つくし)の地(ち)に帰(かへ)り着(つか)せ給ひて。御安産(ごあんざん)なりけるその
御誕生(ごたんじやう)まします皇子(わうし)ぞ。これ応神天皇(おうじんてんわう)にて御座(おはしま)す。是(これ)よりして高麗(かうらい)は常(つね)

に我国(わがくに)に附(つ)き順(したが)ひ。多年(たねん)の貢献(こうけん)怠(おこ)たらず呉服(こふく)羅綾(らりやう)の織工(おりく)。大紋(たいもん)の高麗縁(かうらいへり)
と世(よ)に云(い)へるは皆(みな)これ初(はじ)めて此国(このくに)より出(いで)たる物(もの)と聞(きこ)へけり
   日本(につほん)代々(よゝ)朝鮮(てうせん)をせむる事(こと)
斯(か)くて高麗(かうらい)百済(ひやくさい)の二国(こく)は已(すで)に附(つき)したがふといへども。新羅(しんら)は常(つね)に漸(やゝ)もすれば野(や)
心(しん)を含(ふく)んで。吾国(わかくに)の命(めい)に叛(そむ)きぬるを皇后(くわうごう)これを怒(いか)らせ給へ。襲津彦(をそつひこ)に詔(みことのり)ま
し〳〵重(かさ)ねて新羅(しんら)を責(せ)めさせらるれば。是(これ)も畏(おそ)れて附(つき)したがふ其(それ)より年月(としつき)過(すぎ)
されば神功皇后(じんこうくわうごう)も崩御(ほうぎよ)まし〳〵けるゆゑ。王子(わうし)御位(おんくらい)に即(つか)せ給ひ是(これ)を応神天(おうじんてん)
皇(わう)と申 奉(たてまつ)る。此時(このとき)世(よ)には三韓(さんかん)全(まつた)く我国(わがくに)に附属(ふぞく)すれば。其国(そのくに)の政刑(せいけい)をも皆(みな)
日本(につほん)より是(これ)を下知(げち)して。大和(やまと)の国(くに)軽島(かるしま)明(あけ)の宮(みや)の造営(さうえい)の時(とき)は。蝦夷人(ゑぞじん)を召(めし)て
厩坂(むまやざか)の道(みち)を啓(ひら)き。三韓(さんかん)の人(ひと)を召(めし)ては池沼(いけぬま)を掘(ほ)らしめ給ふとかや。この時(とき)に武内(たけうち)

大臣(たいしん)の弟(おとゝ)甘美内(あまみうち)の宿祢(すくね)大臣(たいじん)を讒(ざん)し。武内(たけうち)筑紫(つくし)にして三韓(さんかん)を相語(あひかたら)ひ謀(む)
叛(ほん)せんと巧(たく)めりと云(い)ふにより。天皇(てんわう)怒(いか)つて武(たけ)の内(うち)大臣(だいじん)を誅殺(ちゆうはつ)あるべき討手(うつて)の
兵(へい)をつかはさるゝにより。壱岐(いき)の直(あたい)真根子(まねこ)と云(いふ)もの武(たけ)の内(うち)の命(めい)に替(かは)りて死(しゝ)たり
ける。其内(そのうち)に武内(たけうち)の臣(おみ)はひそかに京洛(けいらく)にかへり至(いた)りて科(とが)なき由(よし)を申すに。天皇(てんわう)
これを叡聞(えいぶん)あつて武内(たけうち)と甘美内(あまみうち)と神前(しんぜん)にて湯(ゆ)を探(さぐ)らせその真偽(しんぎ)を正(たゞ)さ
るゝに。武内(たけうち)の臣(しん)過(とが)なきにきわまれば甘美内(あまみうち)が讒言(さんげん)はあらはれたり。今(いま)の世(よ)に
真偽(しんき)を神(かみ)に正(たゞ)さんとて。湯(ゆ)を探(さぐ)り鉄火(てつくわ)を握(にぎ)れる因縁(いんえん)は。これが始(はじ)めと承(うけ給は)る此(この)
時(とき)また。百済国(ひやくさいこく)より貢献(こうけん)をすゝめざるを討伐(とうばつ)あるべき撃手(うつて)として。紀(き)の角(つの)
宿祢(すくね)に命(めい)じて其怠(そのおこた)りを正(たゞ)さるゝに。其国人(そのくにびと)大(おほい)に畏(おそ)れ其王(そのわう)辰斯(しんき)といへるを殺(ころ)
し。さてその罪(つみ)を悔(く)ひかなしむが故(ゆゑ)により。其王(そのわう)の兄(あに)抌流王(しんりうわう)と云(いへ)るが子(こ)。阿花(あくわ)と

云(いふ)を立(たつ)て百済王(ひやくさいわう)となし給ふ。此時(このとき)の事(こと)かとよ王仁(わうじん)と云(い)へる博士(はかせ)論語(ろんご)等(とう)の書(しよ)を持(じ)
して來朝(らいてう)し。絹(きぬ)を織(をる)工人(たくみにん)糸綿(いとわた)をつみ縫者(ぬふもの)までこと〳〵く添(そへ)て奉(たてまつ)るなり。応神(おうじん)
の御(お) ̄ン嗣(つぎ)仁徳天皇(にんとくてんわう)の御宇(ぎよう)。新羅(しんら)重(かさ)ねて日本(につほん)の命(めい)を違背(いはい)するの情(じやう)あらは
るれば。田道(たみち)をして是(これ)を討伐(とうばつ)す。此時(このとき)高麗(こうらい)もすこしく野心(やしん)の意(こゝろ)あるにより。
日本(につほん)の才藝(さいけい)を計(はか)り見(み)んとや思(おも)ひけん。鉄(てつ)にて認(したゝ)めたる楯板(たていた)同(おなしく)的(まと)を奉(たてまつ)る。
天皇(てんわう)これを察(さつ)し給へばすなはち。彼国(かのくに)の使者(ししや)を内裏(たいり)へ召(めさ)れ盾人宿祢(たてひとのすくね)と
云(い)ふ強弓(がうきう)の者(もの)に仰(おふ)せて。鉄(てつ)の的(まと)を射通(いとほ)さしむ。かの使者(ししや)大(おほい)に畏(おそ)れて舌(した)を捲(ま)く
。また此(この)御宇(ぎよう)に百済(ひやくさい)より酒(さけ)の君(きみ)と云人(いふひと)來(きた)りで鵰鷹(しうよう)【左ルビ:たか】の鳥(とり)を取(と)る術(じゆつ)を教(おしへ)たる
鷹狩(たかがり)の始(はじめ)なり。同(おなじ)き二十七 代(だい)継体天皇(けいたいてんわう)の御宇(きよう)。筑紫(つくし)に岩井(いわゐ)と云者(いふもの)あり
て謀叛(むほん)を起(おこ)し。肥前(ひぜん)肥後(ひご)豊前(ぶぜん)豊後(ぶんご)を押領(おうりやう)し。三韓(さんかん)の貢物(みつぎもの)を中途(ちうと)に

押(おさ)へて奪(うば)ひ取(と)る。天皇(てんわう)は大臣金村(だいじんかねむら)とこれを議(はか)り。鹿鹿火(ろかひ)と云人(いふひと)を大将(たいしやう)と
し岩井(いわゐ)を誅殺(ちゆうさつ)せしめ。近江(おふみ)の毛野(けや)と云(い)ふ者(もの)を三韓(さんかん)へつかはし。政(まつりこと)を行(おこな)はしむ
毛野(けや)三韓(さんかん)に至(いた)りて勅詔(ちよくぜう)を宣(のふ)るときは。高(たか)き所(ところ)に登(のほ)つて是(これ)を宣(の)べわたせば。
三韓(さんかん)の諸臣(しよしん)は庭(には)に在(あつ)て是(これ)を承(うけ給は)る。この御代(みよ)に百済(ひやうさい)より五経(ごきやう)の博士(はかせ)段揚尓(だんやうじ)
といへる者(もの)を指遣(さしつかは)せり。同(おなじ)き廿九 代(だい)宣化天皇(せんくわてんわう)の時(とき)に百済国(ひやくさいこく)より使者(ししや)あり
て。新羅(しんら)より兵(へい)を起(おこ)し任那(あまな)の国(くに)を攻(せ)め百済(ひやくさい)まで寇(あだ)し來(きた)れり。援(すくひ)の兵(へい)を賜(たま)へ
と請(こ)ふ。これに依(よ)りて大伴(おほとも)の挟手彦(さでひこ)を大将軍(たいしやうぐん)となし。大勢(おほぜい)の兵士(へいし)をつかはさる
挟手彦(さでひこ)は大臣(たいじん)金村(かねむら)が子(こ)なりけり。挟手彦(さてひこ)勅命(ちよくめい)に応(おう)じて任那(あまな)を平(たいら)げ。百(ひやく)
済(さい)を救(すく)ひ助(たす)けて軍功(ぐんこう)を立(たて)たりけり。挟手彦(さでひこ)が妾(せう)松浦佐用姫(まつらさよひめ)が夫(おつと)が夫(おつと)の別(わか)れ
を悲(かなし)んで高山(かうさん)の巔(いたゞき)にかけ登(のぼ)り。漕行舩(こきゆくふね)の影(かげ)見(み)ゆるに領巾(ひれ)ふる袖(そで)を返(かへ)して

まねきしも此時(このとき)の事(こと)と聞(きこ)えける。同(おなじく)欽明天皇(きんめいてんわう)の在位(さいゐ)の時(とき)新羅(しんら)より任(あま)
那(な)百済(ひやくさい)を攻(せむ)るにより。日本(につほん)より是(これ)を救(すく)はしむ其使者(そのししや)の一人。膳(かしはで)の臣(しん)巴提使(はでし)と
云者(いふもの)あり。百済(ひやくさい)へ趣(おもむ)ける路(みち)にして深雪(ふかゆき)に遇(あひ)ぬるが故(ゆゑ)に。海辺(かいへん)に一宿(いつしゆく)したるに召具(めしぐ)
したる童子(どうじ)を虎(とら)のために喰殺(くひころ)さる。巴提使(はでし)これを大(おほい)に怒(いか)り虎(とら)のすでに行(ゆき)さり
し足(あし)のあとを追(おひ)たづね。山中(さんちう)に入(い)りたりしに遂(つひ)にかの兒(ちご)を喰(くろ)ふ虎(とら)を見出(みいだ)し。かゝ
つて是(これ)を搏(うた)んとす。虎(とら)は怒(いか)りの相(そう)をなし口(くち)をひらいて進(すゝ)み來(きた)るを。巴提使(はでし)左(ひだり)の手(て)
にてやがて虎(とら)の舌(した)をとり。右(みぎ)の手(て)にて刀(かたな)をとりそのまゝ虎(とら)を引(ひき)とらへ刺殺(さしころ)し。其皮(そのかは)を
剥(はい)たくりて日本国(につほんこく)に帰朝(きてう)せり。かくて百済王(ひやくさいわう)使者(ししや)を献(けん)じて仏経(ぶつきやう)佛具(ぶつぐ)諸道(しよたう)の博(はか)
士(せ)を奉(たてまつ)る。同(おなじく)御宇(ぎよう)二十三年 高麗(かうらい)新羅(しんら)はやゝもすれば日本(につほん)の下知(げぢ)に背(そむい)て。貢献(こうけん)
の備(そなひ)ざる故(ゆゑ)。紀男麻呂(きのをまろ)河辺(かはべ)の臣(しん)等(ら)をつかはして討伐(とうばつ)せらる。その軍(ぐん)の大将(たいしやう)擒(とりこ)とな

巴提使(はでし)童僕(どうぼく)を
 虎(とら)に喰殺(くひころ)さる
 足跡(あしあと)を尋(たづ)ねて
その虎(とら)を
 打殺(うちころ)す

つて我国兵(わがこくへい)をはづかしむるによつて。大伴(おほとも)の挟手彦(さてひこ)を重(かさね)ねてつかはさえるゝに。百(ひやく)
済王(さいわう)は両国(りやうこく)の約(やく)をなさず。日本(につほん)の命令(めいれい)を用(もち)ひけるにより挟手彦(さでひこ)は百済王(ひやくさいわう)
とともに謀(はかりごと)を合(あは)せしかは。挟手彦(さでひこ)が軍(いくさ)大(おほい)に勝利(しようり)を得(え)て。高麗王(かうらいわう)の王宮(わうきう)ま
で攻入(せめいり)たり。高麗王(かうらいわう)はわずかに免(まぬか)れ出(いで)て逃(のが)れ出(いで)て挟手彦(さでひこ)が兵(へい)ども高麗(かうらい)の宝(ほう)
物(もの)どもを奪(うば)ひ取(とつ)て。これを天皇(てんわう)に献上(けんしやう)し大臣(だいしん)稲目(いなめ)にも贈(おく)りけり。今度(こんど)新(しん)
羅(ら)へつかはさるゝ官軍(くわんぐん)の中(うち)に。伊企儺(いきな)といへる者(もの)過(あやまつ)て新羅(しんら)の軍(いくさ)に擒(とりこ)となる。彼(かの)
軍将(ぐんしやう)伊企儺(いきな)を責(せめ)て降参(かうさん)せよとて。嚇(をど)し罵(のゝし)れど伊企儺(いきな)これを肯(うけ)かはず。新(しん)
羅人(らびと)刀(かたな)を抜(ぬい)てこれが首(くび)を斬(きら)んずと駭(おどろか)し。伊企儺(いきな)が臀(しり)を日本(につほん)の方(かた)に向(む)け
させ。日本(につほん)の将(しやう)我尻(わがしり)をくらへと云(い)へ言(いふ)たらば命(いのち)助(たす)くべし。云(いわ)ずんば忽(たちま)ち此刀(このかたな)にて
斬(き)らんと罵(のゝし)る。伊企儺(いきな)この時(とき)大音(たいおん)揚(あ)げ新羅王(しんらわう)我臀(わがしり)をくらへと。呼(よば)はる

敵兵(てきへい)大(おほい)も怒(いか)つて遂(つひ)に伊企儺(いきな)は殺(ころ)されける。その後(ご)新羅王(しんらわう)もまた日本(につほん)に順(したが)ひ
ける。同(おなじく)三十四 代(たい)推古天皇(すいこてんわう)の御宇境部(ぎようさかいべ)の臣(しん)に勅(ちよく)あつて。高麗(かうらい)を攻撃(せめうた)しむ
る高麗王(かうらいわう)力(ちから)つきて。邦(くに)の内(うちの)城池(じやうち)を献(けん)じて降(かう)を納(いる)る。同(おなじく)三十八 代(だい)斉明天皇(せいめいてんわう)
の重祚(ぢうそ)の御謚号(おんおくりな)を皇極天皇(くわうきよくてんわう)と申 奉(たてまつ)りし。此(この)御宇(ぎょう)在位六年(さいゐろくねん)に百済国(ひやくさいこく)の使(し)
者(しや)來(きた)りて言上(ごんじやう)しけるは。去(さ)る六 月(がつ)に新羅(しんら)の兵(へい)大唐(たいとう)の軍(ぐん)をまねいて。百済国(ひやくさいこく)
を撃破(うちやぶ)り。君臣(くんしん)みな生捕(いけど)られすでに亡国(ぼうこく)に至(いた)れり。されども百済王(ひやくさいわう)の宗族(そうぞく)
福信(ふくしん)といへる者(もの)。残兵(ざんへい)を借(か)り集(あつ)め一端(いつたん)新羅(しんら)の兵(へい)をば追(お)ひ退(しりぞ)けたり。願(ねがは)く
ば貴国(きこく)に人質(ひとしち)としてあるところの。扶余王子(ふよわうじ)豊璋(ほうしよう)《割書:これ百済(ひやくさい)|の王子なり》を返(かへ)し玉(たま)はら
ば。再(ふたゝ)び国(くに)を興(おこ)さんと請(こ)ひたりける。天皇(てんわう)これを許容(きよよう)し給ひ豊璋(ほうしやう)を送(おく)
り返(かへ)して。百済王(ひやくさいわう)となさんとしまた加勢(かせい)をもつかはさるべき用意(ようい)とし。即(すなは)

ち兵船(ひやうせん)を造(つく)り。武器(ぶき)を調(とゝの)へ給ふべき為(ため)として。まづ難波(なには)まで行幸(ぎやうこう)あり。皇太(くわうたい)
子(し)中(なか)の大兄(おほえ)を摂政(せつしやう)とし。諸国(しよこく)の軍(くん)を招集(めしあつ)めらる。備中国(ひつちうのくに)下(しも)の郡(こふり)の一郷(いちがう)よ
り人数(にんす)二 万(まん)を出(いだ)しければ。其国(そのくに)を号(がう)して二万(にま)の郷(がう)とは名付(なづけ)たり。明年(みやうねん)の春(はる)
すでに御(お) ̄ン船(ふね)を進発(しんばつ)あり。伊予(いよ)に泊(とま)り土佐(とさ)に至(いた)り給ふ時(とき)。其所(そのところ)に社(やしろ)ありその
神木(しんぼく)を切取(きりとつ)て仮(か)りの内裏(たいり)を造(つく)り給ふを。とがめ給ふ神(かみ)の祟(たゝ)りにや新造(しんざう)の
御殿(ごてん)忽(たちま)ちくづれて。死(しゝ)たる者(もの)もまた多(おほ)し。同(おなじ)き年(とし)の七 月(がつ)に天皇(てんわう)も又(また)。朝倉(あさくら)
の宮(みや)に崩御(はうぎよ)【ママ】ある。同(おなじく)三十九 代(だい)天智天皇(てんちてんわう)の御宇(ぎょう)即位(そくゐ)の年(とし)。将軍(しやうぐん)阿曇比羅(あつみのひら)
夫(ふ)可邊(かはべ)の百枝(もゝえ)等(ら)を大将(たいしやう)として。百済(ひやくさい)を救(すく)はんため兵粮(ひやうらう)武具(ぶぐ)を贈(おく)り給へ。同く
九月(くがつ)百済王(ひやくさいわう)の王子(わうし)豊璋(ほうしやう)を免(ゆる)しつかはし。秦朴市田來津(はたえいちたくつ)等(ら)に五千(ごせん)の兵(へい)を指(さし)
添(そ)へて送(おく)り遣(つか)はさる。福信(ふくしん)もまた中途(ちうと)まで出(いで)迎(むか)へて豊璋(ほうしやう)を百済(ひやくさい)に奉請(うけしやう)じ。

百済王(ひやくさいわう)と仰(あほい)で日本(につほん)の下知(けぢ)を受(うけ)たりける。
   新羅国興廃(しんらこくこうはい)《割書:并》《振り仮名:朝鮮号_二雞林と_一|てうせんけいりんとうかうす》事(こと)
爰(こゝ)に新羅国(しんらこく)の中興(ちうこう)の始祖(しそ)。朴赫居世(はくかくきよせい)と云者(いふもの)は漢(かん)の宣帝(せんてい)。五鳳(ごほう)元年(くわんねん)日本(につほん)
の崇神天皇(ようじんてんわう)の四十一年に当(あた)つて。一方国(いつはうこく)を建(たつ)る事(こと)あり。その先祖(せんそ)何(いづ)れの国(くに)何(い)
何(か)なる氏(うぢ)の人(ひと)なるをもしらず。不思議(ふしぎ)の出世(しゆつせう)たる者(もの)なり。朝鮮(てうせん)すでに漢(かん)の
武帝(ぶてい)のために亡(ほろぼ)され。その国(くに)を四郡(しぐん)となすより朝鮮(てうせん)旧国(きうこく)の遺民(ゐみん)ども。こと〳〵
く分離(ふんり)して東海(とうかい)のほとりなる。山谷(さんこく)の間(あひだ)に居所(きよしよ)をかまへて聚(あつま)り居(ゐ)る。遂(つひ)に村(そん)
里(り)をなしその数(かず)六 所(しよ)に分(わか)ちたり。一にはこれを閼川(あうせん)の楊山里(やうさんり)と云(いふ)。二ツには突山(とつさん)の
高墟村(かうきよそん)。三には嘴山(しざん)の珎支村(ちんしそん)。四には茂山(ぼさん)の大樹村(たいしゆそん)。五には金山(きんさん)の加里(かり)。六には明活(めいくわつ)
高村(かうそん)とぞ称(しよう)じける。これを辰韓(しんかん)の六 部(ぶ)とせり有(あ)るときの事(こと)なるに。高墟村(かうきよそん)

の里(さと)の長(おさ)蘇伐公(そばつこう)と云(いへ)る者(もの)。遥(はる)る【衍ヵ】か楊山(やうざん)の麓(ふもと)を見(み)れば蘿井林(らゐりん)と云(いへ)る処(ところ)の方(はう)
角(かく)に。馬(うま)の嘶(いなゝ)ぐ声(こゑ)のするを怪(あや)【恠は俗字】しくも聞(きこ)ふるかな。こゝにおいてその声(こゑ)をしるへに尋(たづ)ね
行(ゆき)て見(み)てあれば。馬(うま)の形(かたち)はあらずして大(おほい)なる卵(たまご)を一つ拾(ひろ)ひたり。常(つね)に替(かは)れる卵(たまこ)に
て何鳥(なにとり)の種(たね)とも見(み)えず。乃(すなは)ちこれを打(うち)わりて見(み)てあれば其中(そのうち)よりうつくしき嬰(あ)
男兒(かご)ぞ出(いで)たりける。蘇伐公(そばつこう)は是(これ)を愛(あい)して抱(いだ)きとりて家(いへ)にかへり。養育(やういく)をなし
たりければ。此兒(このこ)程(ほど)なく成長(せいちやう)し総角姿(あげまきすがた)となりにけり。六部(ろくふ)の者(もの)とも是(これ)に驚(おどろ)き
如何(いか)さまにも。その行末(ゆくすへ)を思量(しりやう)するに惟者(たゞもの)ならず。是(これ)を国(くに)の君(きみ)にとりたて尊(そん)
敬(けう)せば。所(ところ)の繁栄(はんえい)疑(うたか)ひあるべからずと。六部(ろくぶ)の村長(むらおさ)評定(ひやうちやう)して。つひに是兒(このこ)を守(も)
り立(たて)て韓国(かんこく)の主人(しゆじん)とせり。その歳(とし)いまた十三の幼年(ようねん)の時(とき)と聞(きこ)へける。乃(すなは)ち尊号(そんがう)
を進(すゝ)めて。居西于(きよせいう)と云(い)ふ是(これ)辰韓(しんかん)の風俗(ふうぞく)に王(わう)と唱(とな)ふる辞(ことば)なり。その国(くに)を徐(ぢよ)

羅伐(らばつ)と名付(なつけ)其姓(そのせい)を朴(ぼく)と云(い)ふ。是(これ)は卵(かいこ)を剖(▢▢)て破(はり)し其形(そのかたち)の朴(ほく)に《割書:朝鮮瓠(てうせんひさこ)を|呼(よ)んて朴(ほく)と云》似(に)
たるをもつてなり。其(その)妃(ひ)をは閼英(あつえい)と云(い)ふ此女(このおんな)もまた變生(へんせう)にして。閼英井(あつえいゐ)の龍(りやう)の
子(こ)なるを以(もつ)て如何(いか)に名付(なづけ)たり。其生質美色(そのうまれつきびしよく)あるを以(もつ)て立(たつ)て妃(ひ)となしたる
なり。寔(まこと)に此女(このおんな)賢徳(けんとく)の行(おこなひ)ありて内(うち)を治(おさ)むる道(みち)正(たゝ)しく。宮中(きうちう)の婢(ひ)に至(いた)るまで
恩愛(おんあい)の深(ふか)きになづいてければ。内外(ないくわい)これを悦(よろこ)んで二聖(じせい)の御代(みよ)と仰(あふ)きける。斯(かく)
て国(くに)を享(う)くること六十年に及(およ)びける。其子(そのこ)南解(なんかい)に国(くに)を譲(ゆづ)り。是(これ)を二 代(たい)の朴(ほ)
南解(なんかい)と云(い)ふ此時(このとき)にあたつて。南解(なんかい)が在位(ざいゐ)五 年(ねん)の春(はる)。昔脱解(せきたつかい)と云(い)ふ者(もの)を南(なん)
解(かい)が婿(むこ)にとる。此者(このもの)旧(もと)は木多那国(もくたなこく)と云(い)ふ処(ところ)の者(もの)なり。其国(そのくに)は日本(につほん)より東北(とうほく)
の方(かた)一千 里(り)に当(あた)れるなり。その国(くに)の王(わう)の女妻(ちよさい)一ツの卵(たまこ)を生産(せうさん)せしを。国王(こくわう)これを
不祥(ふせう)として速(すみやか)に棄(すて)さしむ。其妻(そのつま)我(わか)産(うめ)る恩愛(おんあい)の引(ひ)くところより。卵子(たまこ)を捨(すつ)

【右丁 絵画のみ】
【左丁】
高麗王(かうらいわう)
 金蛙(きんあ)
大白山(たいはくさん)に
 遊(あそ)んで
 一奇女(いつきぢよ)を
   得(う)る

るに忍(しの)びざれども夫(おつと)の命(めい)のそむきがたきに。帛(はく)を以(もつ)て卵(たまこ)をつゝみ宝物(ほうもつ)を多(おほ)く中(うち)に
満(いれ)て。是(これ)を櫝(ひつ)に入(いれ)封(ふう)じ海(うみ)に浮(うか)めて流(なが)し去(さ)り。八重(やえ)の塩路(しほぢ)の雲霞(くもかすみ)行衛(ゆくゑ)もしらず
放(はな)ちさる。偖(さて)もこの櫝(ひつ)朝(あした)の風(かせ)夕(ゆふ)への浪(なみ)に漂泊(たゝよふ)て行程(ゆくほと)に。遂(つひ)による瀬(せ)の定(さだま)るにや
金官国(きんくわんこく)の磯辺(いそべ)によるを。海浜(かいひん)の漁人(ぎよじん)とも是(これ)を取(とり)あけ卵(たまご)を見(み)て。これは何(いか)なる
水怪(すゐくはい)【恠は俗字】ぞや。此程(このほと)しきりに風波(かせなみ)悪(あら)ふして漁(すな)どりの無(なか)りしは是(これ)が故(ゆゑ)にてありけるかと
早(はや)く捨(すて)よとて。元(もと)の如(こと)くに封(ふう)をなしおそれて沖(おき)へ衝(つ)き出(いた)す。其(それ)よりこの櫝(ひつ)再(ふたゝ)び転(めく)
りたゞよひて。辰韓(しんかん)の阿珎浦口(あちんほこう)といふ所(ところ)の蜑女(あま)の老嫗(らうば)。是(これ)を見付(みつけ)て櫝(ひつ)を開(ひら)きたり
けるに。其中(そのなか)に美(び)なる男兒(なんし)の微笑(びしやう)して有(あり)けるを。老嫗(らうば)はよろこんて遂(つひ)にこれを
やしなひたつるに。程(ほと)なく成人(せいじん)するにしたかへ身(み)の長(たけ)九尺(くしやく)にあまり。其骨(そのこつ)清(きよ)く秀(ひい)
てゝ凡人(ぼんにん)とは更(さら)に見(み)へざりける。其知識(そのちしき)大(おほい)にすぐれたり。曽(もと)よりこの兒(ちこ)の姓名(せいめい)

のしれざれば嫗(うば)が始(はじめ)て櫝(ひつ)をとり上(あぐ)る時(とき)。この兒(ちご)ことともに鳴鵲(なくからす)あり則(すなは)ちこれ
によりて鵲(からす)の字(じ)の声(こゑ)と。形(かたち)と借省(かりはぶき)て昔氏(せきし)と名乗(なのら)らせたり。また其櫝(そのひつ)を解(とく)
の義(ぎ)をとり。その名(な)を脱解(だつかい)と呼(よ)んたりける。生計(すきのひ)のなき儘(まゝ)に漁釣(ぎよてう)の業(わざ)を在(し)
ならつて。老嫗(らうば)をやしなひしが常(つね)に怠(おこた)る色(いろ)もなく嫗(うば)はある時(とき)この兒(こ)に向(むか)ひ。你(なんが)
が骨相(こつさう)を見(み)るに。凡人(ぼんにん)に殊(すぐ)れて類(たぐ)ひまれなる者(もの)と知(し)る。克(よく)く学文(がくもん)をつとめ
て功名(かうみやう)を立(たつ)るならば大(おほい)に立身(りつしん)すべきなりかまへて其身(そのみ)を疎(おろそ)かに持(もつ)べからずと。教(きやう)
訓(くん)すれば脱解(だつかい)遂(つひ)に学文(かくもん)を専(もつは)らに勤(つと)めたる中(かな)にも。地理(ちり)の吉凶(きつきやう)に通(つう)じたり
爰(こゝ)に楊山(やうざん)の瓠公(こゝう)とのへるが宅地(たくち)を見(み)るに。其吉祥(そのきちじやう)の地(ち)なるをかんがへ此地(このち)を借(か)り
て居住(きよぢゆう)せり。瓠公(こゝう)はもと日本人(につほんしん)と聞(きこ)へたり。其後(そのゝち)に南解王(なんかいわう)は脱解(だつかい)ばが賢徳(けんとく)あ
るを聞(きく)より。その愛寵女(むすめ)を以(もつ)て脱解(たつかい)を婿(むこ)にとり。南解(なんかい)が死(し)せるとき遺(ゆゐ)

言(ごん)して向後(いまより)は此国(このくに)を継(つが)ん者(もの)。朴昔(ぼくせき)の二姓(にせい)の内(うち)何(いづ)れにても年歯(としは)の長(ちやう)じたらん
者(もの)を登(のほ)せて。主人(しゆじん)となすべしと定(さだ)めたり。それよりは朴昔(ぼくせき)の二姓(にせい)互(たがひ)に国(くに)を受継(うけつぎ)
たり。第(たい)三 代(たい)脱解(だつかい)が世(よ)を知(し)る時(とき)。一夜(いちや)金城(きんじやう)の西(にし)始林(しりん)の間(あひだ)に当(あた)り鶏(にはとり)の鳴(なく)声(こゑ)あり
けるを怪(あや)【恠は俗字】しみて。瓠公(ここう)に命(めい)じて見(み)せしむれば。小(ちい)さき黄金色(わうごんしき)の櫝林(ひつはやし)の梢(こずへ)にか
かり。其下(そのした)に白(しろ)き雞(にはとり)の鳴(なき)けるあり。瓠公(ここう)は急(いそ)き馳(は)せ回(かへ)りて脱解(だつかい)に告(つく)れば則(すなは)ち
人(ひと)をつかはし。この櫝(ひつ)をひらき見(み)其中(そのなか)に奇麗(きれい)なる小男兒(せうなんし)ありければ。脱解(だつかい)
大(おほい)によろこび。天(てん)より授(さづ)くる嗣(よつぎ)の子(こ)なりとて其(その)金櫝(かねびつ)より出(いで)たる円(えん)?をかたどり。乃(すなは)
ちこの兒(こ)の姓(せい)を起(たつ)て金氏(きんし)とし。自己(じこ)の養子(やうし)としまた雞(にはとり)の吉祥(きちじやう)あれば。始林(しりん)を
改(あらた)め雞林(けいりん)となし是(これ)よりして朝鮮(てうせん)の一名(いちみやう)には唱(とな)ひける斯(かく)て新羅(しんら)の国主(こくしゆ)是(これ)よりまた
三姓(さんせい)互(たがひ)に受継(うけつい)で朴昔金氏(ぼくせききんし)の家(いへ)を起(た)つされども朴昔(ぼくせき)の二 姓(せい)は中昔(なかころ)に退転(たいてん)し

第十六代 奈勿(なほつ)が時(とき)よりして。全(まつた)く金氏(きんし)の国(くに)となる其後(そのゝち)廿二代の主(しゆ)。金智證(きんちしやう)
が世(よ)たる時(とき)新羅(しんら)群臣(ぐんしん)奏(さう)していはく。始祖(しそ)国業(こくけう)を始(はじ)め給へしより以來(このかた)国号(こくがう)
一に定(さだ)まらず。或(あるひ)は斯羅(しんら)或は斯盧(しんろ)或(あるひ)は新羅(しんら)と申すか。その中を臣(しん)等(ら)以(もつ)て
勘(かんがふ)ればその新(しん)と唱(とな)ふるは徳(とく)。これ新(あらた)なるの義(ぎ)ありまた羅(ら)と云者(いふもの)は。これ狩(しゆ)
猟(れう)の器(き)にして鳥獣(てよしう)を網羅(まうら)してとるべきのものたれば。其如く四方の国の聚民(しゆみん)
を日々に新(あらた)なる徳をもつて。我国(わかくに)に網羅(まうら)して聚(あつ)むるの意(こゝろ)にかなへは。是(これ)より
長く国号(こくがう)をなすべしと。評議(ひやうき)一に定(さた)まりこれよりして。新羅国王(しんらこくわう)と称(しよう)じける。
   高勾麗(こうこうらい)始興(はしめおこり)の事(こと)
漢(かん)の昭帝(せうてい)建昭(けんせう)二 年(ねん)に当(あた)つて。高勾麗(こうこうらい)の高朱蒙(かうしゆもう)と云(いへ)る者(もの)始(はじめ)て立(たつ)て。国(くに)を
なす其(その)根元(こんけん)は如何(いか)なる者(もの)ぞと考(かんが)ふるに。こゝよりさき扶余王(ふよわう)解夫婁(かいふろう)と

云(いへ)る者(もの)年齢(ねんれい)すでに。老(おい)に至(いた)れど子(こ)の無(な)き事(こと)を悲(かな[し])んで。山川(さんせん)の神(かみ)に祭(まつ)りて嗣(よつき)の
子(こ)を求(もと)むるに。ある時(とき)扶余王(ふよわう)鯤淵(こんえん)と云ふ所(ところ)を過(すく)るとて。その淵(ふち)の傍(かたはら)にて乗(のつ)た
る馬(うま)の足(あ)を止(とゞ)めて策(むち)うてども動(うこ)かさるに心(こゝろ)づき。あたりを見れば珍(めづ)【珎は俗字】らしき大石(たいせき)あ
り。彼馬(かのうま)しきりに此石(このいし)に向(むか)ひ対(たい)して涙(なみだ)をながす。扶余王(ふよわう)いよ〳〵怪(あやし)【恠は俗字】んでその石を
転(ころば)しのけ見てあれば。金色(こんしき)の蛙形(かへるのかたち)なる小兒(せうに)一人 出(いで)たり。王よろこんで抱(いた)き取
これぞ寔(まこと)に天(てん)の授(さづ)くる端相(すゐさう)たりとて。乃(すなは)【「ち」は誤】ち己(おのれ)が子となし養育(やういく)するほどに。
日を経(へ)て成長(せいちやう)したりければ。立てこれを太子(たいし)とす。その家(いへ)の長臣(ちやうしん)阿蘭弗(あらんほつ)と
云(いへ)る者(もの)扶余王(ふよわう)に告(つぐ)るやう。昨夜(さくや)不思義(ふしき)の夢(ゆめ)を見たり天 帝(てい)我(われ)にのたまふやう
正(まさ)に我子孫(わがしそん)をして爰(こゝ)に国を立(たて)しむ。你(なんぢ)は早(はや)く東海(とうかい)のほとりへ行(ゆき)。宜(よろし)き地を見立(みたて)
べし加葉原(かえうけん)と云地(いふち)あり。其所(そのところ)土壌(とじやう)ゆたかに地(ち)厚(あつ)し土穀(ごこく)によろしき所なれば。早(はや)

く都(みやこ)をうつせとの御 ̄ン誥げたしかなりと云(いふ)。こゝによりて扶余王(ふよわう)もその教(おしへ)にしたが
つて。つひに彼所(かしこ)に都(みやこ)を遷(うつ)したれは扶余(ふよ)の旧都(きうと)には。何(なに)ともなく人(ひと)あつて出来(いてきた)
り自(みつか)ら天帝(てんてい)の子(こ)と名乗(なの)り。其名(そのな)を解慕漱(かいほそう)と云(い)へりしが。此所(このところ)をしたかへて自(し)
然(ぜん)に爰(こゝ)の君(きみ)となる。東扶餘(とうふよ)の解夫婁(かいふろ)薨(かう)ずるに及(およ)んで。金蛙(きんあ)これが嗣(つぎ)とな
る金蛙(きんあ)ある時(とき)出(いで)て遊(あそ)ぶに。大白山(たいはくさん)の南(なん)優渤水(ゆうぼつすい)と云所(いふところ)にて一人の女子(によし)を得(え)る。
金蛙(きんあ)は女(おんな)に対(たい)して。你(なんぢ)はこれ如何(いか)なる者(もの)の女(め)なるぞと問(とひ)ければ。女(おんな)こたへて我(われ)はもと
河伯(かはく)の女(むすめ)其名(そのな)を柳花(りうくわ)【桺は柳の本字】と云(い)へり。或時(あるとき)諸弟(しよてい)と出(いで)遊(あそ)ふに解慕漱(かいほそう)と云(い[へ])る者(もの)の。我(われ)
を誘(あさむ)き熊心山下(ゆうしんさんか)鴨緑室(あふりよくしつ)の中(うち)に入(いり)て。我(われ)とともに私(わたくし)す彼者(かのもの)其後(そのゝち)再(ふたゝ)び來(きた)らず。
何(いづ)くとも行方(ゆきがた)なし。父母(ふぼ)我媒(わかなかたち)なふして人(ひと)にしたがふ罪(つみ)を悪(にく)んで。遂(つひ)に爰(こゝ)には
なかされたりと語(かた)るを。金蛙(きんあ)是(これ)を異(こと)なることゝ思(おも)ひければ。彼(かれ)をとらへて家(いへ)に

朱蒙扶余国(しゆもうふよこく)
をのがれて淹(えん)
流水(りうすい)にいたる
追手(おつて)の急(きふ)なる
を見(み)て天(てん)に
向(むか)つて裞言(のつと)す
れば魚鼈(ぎよべつ)出(いで)
て河(かは)をわたす

回(かへ)り一室(いつしつ)の中(うち)に住(すま)しめて外(ほか)に出(いだ)さず。その成行(なりゆき)をうかゞひたり。ある時(とき)この女(おんな)朝日(あさひ)の
影(かげ)に照(てら)されて。是(これ)より思(おも)はず妊娠(にんしん)し鉄卵(てつらん)の如(ごと)きものを生産(せうさん)す。その中(なか)より奇(き)
なる男子(なんし)を出(いだ)したり。骨相(こつさう)もとより凡人(ぼんにん)のやうにもなし。すでに七 歳(さい)におよぶ時(とき)は
自(みつか)ら木(き)を曲(まげ)て弓(ゆみ)となし竹(たけ)を隠(ため)あては矢(や)を造(つく)り。是(これ)をとつて物(もの)を射(い)るに中(あた)らずと
云(い)ふことなし。扶余国(ふよこく)の俗(ぞく)の言(ことば)によく弓(ゆみ)射(い)るを朱蒙(しゆまう)と呼(よ)ふ。今(いま)此男子(このなんし)よく
弓(ゆみ)射(い)るをほめ称(しよう)し。遂(つひ)にこれが名(な)を呼(よ)んで朱蒙(しゆもう)と名(な)づく。金蛙(きんあ)が子(こ)ども
七人ありその技芸(きげい)をくらふるに一人として朱蒙(しゆもう)に及(およ)へる者(もの)はなし。金蛙(きんあ)が嫡子(ちやくし)
帯素(たいそ)をはしめ相謀(あいはか)りてこれをひそかに殺(ころ)さんとす。朱蒙(しゆもう)が母(はゝ)これを知(し)りぬれ
ば密(ひそか)に朱蒙(しゆもう)に向(むか)ひ。国人(くにびと)汝(なんぢ)を害(がい)せんとす早(はや)く爰(こゝ)を去(さ)るべしと教(おし)へければ。朱蒙(しゆもう)
は母(はゝ)の意(こゝろ)にまかせて。烏伊(うい)。摩離(まり)。陜父(せんふ)と云(いへ)る。三人の者(もの)どもを伴(ともな)ひ東扶余(とうふよ)の

ちをのがれ出(いで)淹淲水(えんこすい)と云(い)へる河岸(かし)に至(いた)れどもわたりをなしべきやうもなしその
ときにのつと【祝詞】し。我(われ)は是(これ)天帝(てんてい)の子(こ)にして河泊(かはく)の外甥(くわいせい)たり今日(こんにち)なんをのがれて爰(こゝ)
に來(きた)るを伺たより救はさるぞと罵(のゝし)れば忽ち河流(かりう)浪切(なみきら)し多の魚鼈(きよべつ)あつま
りてはしをなし。四人の者(もの)を渡(わた)しけりうしろより追手(おつて)の至ると云どもずでに朱蒙(しゆもう)
を渡(わた)るを見ておの〳〵あとへかゑり。その後 朱蒙(しゆもう)は卒本扶余(そつほんふよ)沸流水(ふつりうすい)のへん
まてを手(て)に入つひに爰(こゝ)に国(くに)を立て居城を定(さだ)め。高勾麗(かうこうり)と国(くに)を号(ごう)し自己(じこ)の
姓(せい)を高氏(かうし)と称(しよう)ず是(これ)よりして近郡(きんぐん)を斬(き)りしたかへ大威猛(たいいまう)をふるひしが。位(くらい)に
つくこと十九 年(ねん)にして薨(こう)ずれば龍山(りうせん)といふところに葬(ほうふ)り是(これ)を東明聖王(とうめいせいわう)と云。

第(たい)二 代(だい)を琉離王(るりわう)と号(がう)しける
   百済(ひやくさい)始祖(しそ)興(おこり)の事(こと)

百 済(さい)の始祖(しそ)高温祚(かううんそ)が立てること。漢成帝(かんせいてい)𩿇(こう)喜三年に当(あた)り。新羅(しんら)の始祖(しそ)
が四十年。高勾麗(かうこうり)の琉璃王(るりわう)が二年なり高勾麗の高朱蒙(かうしゆもう)が扶余(ふよ)の難(なん)を
のがれ去り。卒本扶余(そつほんふよ)に至(いた)れるとき。卒本王男子(そつほんわうなんし)なふして女子(によし)のみ三人ありけ
るが。朱蒙(しゆもう)が平(へい)人にあらざることを察(さつ)する故 第(たい)二の女を妻(め)となし朱蒙(しゆもう)
を立て嗣(つぎ)となす。其妻(そのつま)二人の子(こ)を生(う)めり長子(ちやうし)を沸流(ふつりう)と名(な)付。次子(じし)を温祚(うんそ)
と云 朱蒙(しゆもう)か嫡子(ちやくし)類利(るいり)といへるが。すで高勾麗(かうこうり)の王(わう)となる時(とき)卒本(そつほん)にて生れし
二人の子。類利(るいり)がために殺(ころ)されん事(こと)を悪(にく)んで。烏干(うかん)馬黎(ばれい)の氏ある者(もの)以上十人
の臣(しん)を召(めし)つれ。南に逃(のが)れ去(さ)つて二人ともに国(くに)をひらきしかと。沸流(ふつりう)が国(くに)は衰(おとろ)へ温祚(うんそ)
が方(かた)は大に栄ふ乃ち慰禮(うつれい)と云(い)ふ所に城(しろ)をなす。その後(のち)に国号(こくがう)を百 済(さい)と号(かう)し
たり。彼(かの)十人の臣下(しんか)ども何(いづ)れも補国(ほこく)の臣(しん)となり。是(これ)を称(しよう)ずとかや百済と高勾(こうかう)

麗(り)はその系図(けいづ)一(いつ)に出(いで)たるなり。其(その)後孫(こうそん)三十 代(たい)義慈王(きしわう)が時(とき)に至(いたつ)て。唐(とう)のために
亡(ほろぼ)さるゝとき。唐(とう)は百済(ひやくさい)の故地(こち)を分(わか)つて。熊津(ゆうしん)。馬韓(ばかん)。東明(とうめい)。金漣(きんれん)。徳安(とくあん)。五所(ごしよ)の
都督(とゝく)を置(おい)て。各(おの〳〵)其下(そのしも)の州県(しうけん)を統(すべ)しめ其中(そのなか)の棟梁(とうりやう)を撰(えら)んで。是(これ)を軍令(くんれい)の本(もと)
となしける。
    《振り仮名:唐新羅二兵亡_二百済を_一|とうしんらにへいひやくさいをうつ》事(こと)
爰(こゝ)に新羅(しんら)の太宗王(たいそうわう)。六 年(ねん)百済(ひやくさい)の義慈王(ぎしわう)十九 年(ねん)に当(あた)つて。百済国(ひやくさいこく)の王城(わうじやう)には
さま〳〵の物化(ものゝけ)あやしき事(こと)を示(しめ)すは。此国(このくに)の亡(ほろ)ぶべき前兆(せんてう)とは後(のち)にぞ思(おも)ひ合(あは)せけ
る。これよりさき年々(ねん〳〵)に新羅(しんら)百済(ひやくさい)両国(りやうこく)の争(あらそ)ひあれどもやゝもすれば新羅(しんら)の軍(ぐん)
よはくして百済(ひやくさい)の勝(かち)となれば。新羅(しんら)これを憂(うれ)ひくるしみ。諸臣(しよしん)と議(ぎ)して唐朝(とうてう)
に使(つかひ)をつかはし。援兵(えんへい)を請(こ)ひたりけり。此時(このとき)唐(とう)の高宗(かうそう)顕慶(けんけい)四 年(ねん)の事(こと)なりける。

その年(とし)も暮(くれ)明(あく)る三月。唐(とう)の左武衛(さゝふゑ)大将軍(たいしやうぐん)蘇定方(そていはう)等(とう)に命(めい)あつて。百済国(ひやくさいこく)を
伐(うた)しめらる。先(さき)だつて新羅(しんら)より来(きた)りて唐(とう)に宿衛(しゆくゑい)たる。金仁問(きんじんぶん)を道路(たうろ)険(けん)
易(い)の案内(あんない)たらしむ。其(その)土地(とち)の要害(やうがい)を答(こた)ふること絵図(ゑづ)に向(むか)ふが如(こと)くなる故(ゆゑ)。
高宗帝(かうそうてい)大(おほい)に悦(よろこ)び遂(つひ)に三軍(さんぐん)を調(とゝの)へて。その備(そなへ)を定(さだ)めらる定方(ていはう)を神丘道行(しんきうだうかう)
軍(ぐん)大総官(たいそうくわん)となし。仁問(じんもん)を副大総官(ふくたいそうくわん)となし。左驍衛(さげやうえい)将軍(しやうぐん)刈伯英(かうはくえい)龐孝公(はうかうこう)
右武衛(いうぶゑい)将軍(しやうぐん)馮士貴(ひやうしき)等(とう)をして。水陸(すいりく)十三 萬(まん)の人数(にんす)にて百済(ひやくさい)を伐(うた)しめたり。また
新羅王(しんらわう)に勅(ちよく)ありこれが援兵(えんへい)たるべき旨(むね)を蒙(かうふ)り。同(おなじ)く夏(なつ)六月には新羅王(しんらわう)自(みづか)ら
兵(へい)に将(しやう)として唐軍(とうぐん)を助(たすけ)たらんとす。乃(すなは)ち南川停(なんせんてい)と云(いふ)処(ところ)に軍(ぐん)を次(じ)して。唐兵(とうへい)
の相図(あいづ)をこゝに待居(まちゐ)たり。既(すで)に蘇定方(そていはう)等(とう)兵(へい)を引(ひい)て菜州(さいしう)と云(い)ふ処(ところ)より。海(うみ)を
渡(わた)つて出來(いできた)る舳艫(ぢくろ)千 里(り)の浪(なみ)を断(た)ち。旌旗(せいき)万天(ばんてん)の雲(くも)を起(おこ)して。既(すで)に徳物島(とくぶうとう)と

云(い)ふ所(ところ)に軍(いくさ)だてすと聞(きこ)えければ。新羅王(しんらわう)は大(おほい)によろこび其太子(そのたいし)法敏(はふひん)大将軍(たいしやうぐん)金庾(きんゆ)
信(しん)将軍(しやうぐん)真珠(しんしゆ)天存(てんそん)等(ら)を。迎(むか)ひのための使者(ししや)とし兵船(へいせん)一百 艘(さう)の楫櫓(しうろ)【櫨は誤】を早(はや)め
て定方(ていはう)が軍(くん)に会(くわい)しけり定方(ていはう)ときに法敏(はふひん)に対(たい)して云(いふ)。我軍(わがぐん)は海(うみ)より伐(うつ)べし太子(たいし)は
陸(くが)より攻(せめ)よ。期(ご)するに來(きた)る七月十日を以(もつ)て直(たゞち)に義慈王(ぎしわう)が都城(とじやう)を擣(つか)んとす。互(たがひ)に
礼(れい)をはり約(やく)を定(さだ)めて進(すゝ)み撃(うつ)ほどに。百済(ひやくさい)の軍兵(ぐんへい)出(いで)迎(むか)ひ戦(たゝか)ふといへども其軍(そのぐん)遂(つひ)
に利(り)をうしなひ。白江(はくこう)炭峴(たんけん)などいふ百済(ひやくさい)一 国(こく)の要害(ようがい)第一(だいゝち)の所(ところ)もうち破(やぶ)られて。城(しやう)
内(ない)の上下(じやうけ)大(おほい)に騒動(さうとう)に及(およ)ぶ。階伯将軍(かいはくしやうぐん)なんど云(い)ふ者(もの)どもゝ大(おほい)に戦(たゝかひ)て討死(うちしに)す。これによつ
て唐軍(とうぐん)新羅(しんら)の兵(へい)どもに大(おほい)に百済(ひやくさい)界内(けやうない)に乱(みだ)れ入(いり)て。義慈王(ぎしわう)其子(そのこ)孝泰(かうたい)等(とう)を始(はじ)
めとし。其外(そのほか)の大臣(だいじん)将士(しやうし)八十八人百 姓(せう)万二 千 余人(よにん)引連(ひきつれ)還(かへ)りけり。
   日本勢(につほんぜい)百済(ひやくさい)を救(すく)ふ事(こと)

斯(かく)て我国(わがくに)に宿直(とのゐ)たる。百済国(ひやくさいこく)の王子(わうし)豊璋(ほうしやう)を。その臣(しん)福信(ふくしん)が百済(ひやくさい)の亡国(ぼうこく)
を相続(さうぞく)せんと願(ねが)ふにより。望(のぞ)みにまかせてかへされける是(これ)日本(につほん)の天智天皇(てんぢてんわう)即(そく)
位(ゐ)の歳(とし)の明年(あくるとし)なり。また天皇(てんわう)より福信(ふくしん)が軍(いくさ)の助(たすけ)に賜(たま)ふところは。征矢(そや)十万(じふまん)糸(いと)
五百 斤(きん)。布(ぬの)千端(せんだん)葦皮(あしかは)千張(せんちやう)稲種(いねたね)三千 石(ごく)とぞ聞(きこ)えける。今年(ことし)大唐(たいたう)并(ならびに)新(しん)
羅(ら)より高麗(かうらい)をも攻撃(せめうつ)により。高麗(こうらい)よりも日本(につほん)へ加勢(かせい)を請(こ)ふにつき。高麗(かうらい)
へも又(また)加勢(かせい)を数多(あまた)つかはさるゝに。大唐(たいとう)の大将(たいしやう)任邪相(にんがそう)は陳中(ぢんちう)に病死(ひやうし)をなし。同(おな)
しく総【惣】官(さうくわん)龐孝泰(わうかうたい)は。嶺南(れいなん)の水戦(すゐせん)の士(し)を率(ひき)ひて蛇水(じやすい)といふ所(ところ)の上(うへ)に戦立(いくさだて)をなす
高勾麗(かうこうらい)の権臣(けんしん)蘇文(そふん)といふ者(もの)。大将(たいしやう)となつて唐(たう)の兵(へい)をむかひ撃(うつ)。龐孝泰(わうかうたい)
が軍兵(ぐんへい)大(おほい)に戦(たゝか)ひやぶれて。蘇文(そぶん)が軍(ぐん)に逼(せはめ)られその子弟(してい)十三人とともに潔(いさぎ)よく。
戦(たゝか)つて討死(うちじに)をしたりける。唐(たう)大将(たいしやう)蘇定方(そていはう)は既(すで)に高麗(かうらい)の兵壌(へくしやう)まで囲(かこ)むと

いへども龐孝泰(わうかうたい)が討死(うちじに)して高麗(かうらい)の兵勢(へいせい)さかんなるより。一軍(いちぐん)の敵(てき)せざることを
悟(さと)り兵(へい)を収(おさ)めて引回(ひきかへ)すこゝに百済(ひやくさい)を救(すく)ふの日本勢(につほんせい)兵士(へいし)兵粮(ひやうらう)をとゝのへ。数万(すまん)
の軍(ぐん)にて新羅(しんら)をうつよし聞(きこ)えければ。福信(ふくしん)は大(おほい)によろこび浮屠(ふと)道探(だうたん)と
ともに兵(へい)を起(おこ)し。周留城(しうりうじやう)を撃(うつ)て出(いて)豊璋(ほうしやう)を日本(につほん)の船(ふね)よりむかひ来(きたつ)て。百(ひやく)
済王(さいわう)と仰(あを)ぎける。是(これ)に仍(よつ)て百済国(ひやくさいこく)の打(うち)もらされ西北部(せいほくぶ)よりみな〳〵兵(へい)を起(おこ)し来(さた)つて。日本(につほん)
勢(せい)に相応(さうおう)ししば〳〵戦(たゝか)ひをましへけるが。遂(つひ)に新羅(しんら)の兵(へい)を退(しりぞ)け勝軍(かちいくさ)し
たりける。其後(そのゝち)福信(ふくしん)は道探(だうたん)を殺(ころ)し。その人数(にんす)をあはせてこれを保(たも)つといへ
とも扶余(ふよ)豊璋(ほうしやう)かちから制(せい)するに及(およ)ばすつひに其中(そのなか)悪(あし)くなり扶余王(ふよわう)権抦(けんへい)を相争(あひあらそ)ひ福(ふく)
信(しん)密(ひそか)に豊璋(ほうしやう)を殺(ころ)さんことを巧(たく)めるに。ある人(ひと)これを豊璋(ほうしよう)に告(つ)げしらする
に。豊璋(ほうしよう)は自(みづか)ら新任(しんにん)する臣下(しんか)どもを召(め)し具(ぐ)し。福信(ふくしん)がおもひもよらざ

るところへ押寄(おしよせ)彼(かれ)を生捕(いけとり)て斬(きつ)たりける此時(このとき)に日本(につほん)より指越(さしこ)す軍兵(ぐんひやう)も
百済(ひやくさい)に着岸(ちやくがん)の折(をり)から。新羅国(しんらこく)の兵(へい)と唐(から)の熊津惣管(ゆうじんそうくわん)孫仁師(そんしんし)等(ら)百済(ひやくさい)の
周留城(しうりうしやう)に奇来(よせきた)りて。扶余(ふよ)豊璋(ほうしよう)を攻(せ)むる時(とき)なりける。此時(このとき)新羅王(しんらわう)等(ら)も
舟師(せんし)をひきひて。熊津江(ゆうしんこう)より同(おな)じく周留城(しうりうじやう)におし奇(よす)る中途(ちうと)にして日本(につほん)
の兵船(へいせん)に出合(いであひ)たれば。両陳(りやうぢん)則(すなは)ち舟軍(せんぐん)をとゝのへ白江口(はくこうかう)といふ所(ところ)にして戦(たゝか)ひ
をまじへたりされ共(ども)新羅(しんら)の軍兵(ぐんひやう)は目(め)にあまる大軍(たいぐん)なれば。軍兵(ぐんひやう)を合(あは)すること四(よ)
度(よ)に及(およ)べと我軍(わがくん)みな戦(たゝか)ひまくるに。新羅(しんら)の兵(へい)勝(かつ)ほこつて我(わが)兵船(へいせん)四百 余艘(よさう)
を暫時(ざんじ)のほどやき立(たつ)れば余煙(よえん)天(てん)をかすめ蒼天(さうてん)をやくかと驚(おどろ)かる。また討(うち)
死(しに)せし者(もの)ともの屍(かばね)は海水(かいすい)にうかんで白波(しらなみ)は紅(くれない)に変(へん)じけり日本(につほん)の大将(たいしやう)
軍(ぐん)朴市田來津(ゑちたくづ)味方(みかた)の逃(のが)るゝ船(ふね)どもに下知(げぢ)して。揖(かぢ)をめぐらし櫓(ろ)をとゝめ

て大(おほい)に呼(さけ)び。鉾(ほこ)をまじへて敵兵(てきへい)数十人(すしふにん)暫時(ざんじ)の間(あいだ)に討取(うちと)りたり。勇猛精神(ゆうまうせいしん)
の其(その)有(あり)さまはさながら。郡羊(ぐんよう)の猛虎(まうこ)に遇(あ)ふが如(ごと)くなり。唐(たう)新(しん)の両兵(りやうへい)とも此(この)
勢(いきほ)ひに辟(へき)【劈】易(ゑき)し。進(すゝ)み兼(かね)て見(み)えけれども日本(につほん)の兵軍(へいぐん)はつゝける味方(みかた)の
あらざれば。其身(そのみ)一人を以(もつ)て万千(まんせん)の兵(へい)に当(あた)りがたくしてつひに。朴市田來津(ゑちたらつ)【ママ】は
討(うた)れにけり事(こと)すでにかくの如(ごと)くなりければ。豊璋(ほうしやう)今(いま)は独身(どくしん)にてのがれ出(いて)て
高勾麗(かうこうらい)に落行(おちゆき)けり。百済国(ひやくさいこく)の王子(わうし)忠勝(ちうかつ)忠志(ちうし)等(とう)はその部下(ぶか)の人衆(にんしゆ)を引(ひき)
て。唐(たう)の軍(ぐん)に降参(こうさん)すれば我軍(わがぐん)の残兵(ざんへい)は。新羅(しんら)の軍(くん)にくだれるも又(また)多(おほ)
かりける新羅(しんら)の大将(たいしやう)我軍(わがくん)の降人(かうさん)に対(たい)して云(いふ)。新羅(しんら)よりなんぢが国(くに)とは海(うみ)を
隔(へだ)て講話(かうわ)をなして。聘問(へいぶん)交通(かうつう)に嘗(かつ)て他(た)の意趣(いしゆ)を構(かま)へず。しかるに何(なん)ぞ百
済(さい)を救(すく)ふて我(われ)をはかれる。今(いま)汝(なんぢ)が命(いのち)我(わが)掌握(しやうあく)のうちにあれどもこれを殺(ころ)す

に忍(しの)びず。早々(はや〳〵)かへりてこの趣(おもむき)を汝(なんぢ)が国(くに)の王(わう)に語(かた)れといふてかへしけり。日本(につほん)の兵(へい)
士(し)どもは豊璋(ほうしやう)破(やぶ)れて走(はし)る上(うえ)は。誰(たれ)か味方(みかた)をなすべきやうなくみる〳〵軍(いくさ)を
かへしけり。百済(ひやくさい)の者(もの)ども此時(このとき)に日本(につほん)へ逃(のが)れ來(きた)るも多(おほ)かりける。其中(そのうち)男女(なんによ)四百
余人(よにん)を近江(おふみ)の国(くに)なる神前郡(かんさきこふり)に移(うつ)し置(おか)れ。また東国(とうごく)へ二千 余人(よにん)を分(わか)たれ
けり。其後(そのゝち)唐朝(たうてう)より劉徳高(りうとくかう)といへる者(もの)を日本(につほん)へ來(きた)らしむれは。我朝(わがてう)より守(もり)
君(きみ)の大石坂部(おほいしさかべ)の積(つもり)等(ら)を遣唐使(けんたうし)として渡海(とかい)せしめ。大唐(たいとう)の高宗皇帝(かうそうくわうてい)
に対面(たいめん)して帰(かへ)りたりける。かくてぞ日本(につほん)と異国(いこく)の意趣(いしゆ)とけ。しばらく無(ふ)
事(し)には成(なり)にける
   高勾麗(かうこうらい)滅亡(めつばう)の事(こと)
高勾麗(かうこうらい)の朱蒙(しゆもう)始(はじめ)て国(くに)をひらくの後(のぢ)。第二代(たいにたい)を琉璃王類利(るりわうるいり)といへりそれ

より子孫(しそん)うけつぎ。第(だい)廿六代をば栄留王(えいりうわう)と称号(しようがう)す其得(そのうまれつき)昏愚(こんぐ)暗弱(あんしやく)にして
政(まつりこと)を自(みつか)らせす賊臣(ぞくしん)蘇文(そぶん)に打まかせたるにより。彼すでに国(くに)を奪(うは)はんとする
に至(いた)りて栄留(えいりう)俄(にはか)にこれを心(こゝろ)づき。其力(そのちから)をも計(はか)らず弱(よわ)きを以(もつ)てみだりに強(きやう)を制(せい)
せんとしてければ。かへつて彼(かれ)がために殺(ころ)さるゝは本意(ほんい)なかりける次第(しだい)なり。第(だい)
二十八代 宝蔵(ほうざう)が位(くらゐ)に立(たつ)にいたる。是又(これまた)蘇文(そぶん)が立(たつ)るところなれば君位(くんゐ)に居(おる)
の名(な)のみにして。一国(いつこく)の政事(せいじ)権抦(けんへい)全(まつた)く下(しも)に移(うつ)りて。国民(くにたみ)ともに蘇文(そぶん)が民(たみ)と
なる。彼(かれ)が凶悪(きやうあく)日々(ひゝ)まさり行(ゆ)き我(わが)まゝのきわめには。唐帝(たうてい)の使臣(ししん)を囚(とら)へ
て中国(ちうこく)の命(めい)に違(たが)へば。爰(こゝ)におゐて唐(たう)の太宗(たいそう)憤怒(ふんぬ)の余(あま)り。彼(かれ)が弑逆(しいきやく)の罪(つみ)を鳴(なら)
して自(みづか)ら六軍(ろくぐん)の兵士(へいし)を盛(さか)んにして。是(これ)を討伐(とうはつ)し給へども勝利(しやうり)なふして一端(いつたん)
軍(いくさ)をかへし給ふなり。しかりといへども兵家(へいか)に所謂(いわゆ)る小国(せうこく)の大国(たいこく)に克(かて)るは。

【右丁 絵画のみ】
【左丁】
百済国(ひやくさいこく)の
王子(わうじ)我国(わがくに)にかへる
とき 天智天皇(てんぢてんわう)
より征矢(そや)十万(じふまん)
綿(わた)五百 斤(きん)布(ぬの)千 端(だん)
韋皮(おしかは)千 張(ちやう)
米(こめ)三千 石(ごく)を
   給はる

是(これ)ぞ後(のち)の禍(わさは)ひたりと斯(これ)を以(もつ)て論(ろん)ずれば。高勾麗(かうこうらい)のあやうきこと実(じつ)に
旦暮(たんぼ)にあるかなと意(こゝろ)ある輩(ともがら)はみな〳〵眉(まゆ)を皺(しは)めけり。太宗皇帝(たいそうくわうてい)のうらみ
の意(こゝろ)猶(なほ)もつてましければ。頻(しき)りに諸大将(しよたいしやう)に命(めい)あつて高勾麗(かうこうらい)を討伐(とうばつ)あ
れども。其利(そのり)を全(まつた)く得(え)給はずさるによつては。自(みづか)ら再(ふたゝ)び是(これ)を討(うた)せんと思召(おぼしめし)
けれど未(いま)だ時節(しせつ)の至(いた)らざるにや。おのづから其事(そのこと)遅々(ちゝ)に及(およ)ぶところ。高勾麗(かうこうらい)
の国事(こくじ)年々(ねん〳〵)衰退(すいたい)の世(よ)となつて。万(よろづ)の政(まつりこと)みな非(ひ)なるの上(うへ)にあまつさへ。蘇文(そぶん)
既(すで)に死(しん)だりけるつひに其家(そのいへ)の内(うち)みだれ蘇文(そぶん)が子(こ)ども欲(よく)を争(あらそ)ひ嫡子(ちやくし)男(なん)
生(せう)其弟(そのおとゝ)男建(なんけん)男産(なんさん)等(ら)と相和(あひくわ)せず。すでに互(たがひ)に害(かい)せんとするに至(いた)れば男生(なんせう)
はやく唐(たう)に降(くだ)りて高勾麗(かうこうらい)を討伐(ちうはつ)し給はゞ。我等(われら)導引(みちびき)せんと請(こ)ふ此時(このとき)
唐(たう)の高宗(かうそう)の時(とき)なりしが則(すなは)ち李世勣(りせせき)契苾何力(けいひつかりよく)の英将(えいしやう)ともに命(めい)ぜられ

兵(へい)をあげて討(うた)しめ給ふ。此時(このとき)に契苾何力(けいひつかりよく)先鋒(せんほう)なり平壌城(へいしやくしやう)に押(おし)よせた
り李世勣(りせいせき)が兵(へい)これに続(つゞ)ひて打入(うちいり)しが遂(つひ)に。高勾麗王(かうこうらいわう)宝蔵(はうさう)を獲(とりこ)となす
男建(なんけん)は事(こと)急(きふ)にのぞんて。自殺(しさつ)すれども未(いま)だ死(し)するに及(およ)ばざるを李世勣(りせいせき)が
軍(くん)に執(とら)へらる王(わう)宝蔵(はうさう)か子(こ)の。福男(ふくなん)徳男(とくなん)其外(そのほか)大臣(たいじん)男建(なんけん)等(ら)二十 余万(よまん)をこ
と〳〵く獲(とりこ)として唐朝(たうてう)にかへりけり。寔(まこと)に唐(たう)の高宗(かうそう)中材(ちうさい)の人(ひと)にして最(もつと)も太(たい)
宗(そう)に及(およ)ぶべきにはあらず。李世勣(りせいせき)又(また)壮年(さうねん)の武略(ぶりやく)愚(おろか)にして老後(らうこ)に勇気(ゆうき)の
益(まさ)れるにはあらざれども時運(しうん)の至(いた)ると至(いた)らざる所(ところ)の有(ある)ゆゑとこそ聞(きこ)え
けれ高勾麗(かうこうらい)の始祖(しそ)。東明王(とうめいわう)漢元帝(かんのけんてい)建昭元年(けんせうぐわんねん)甲申(きのへさる)に卒本扶余(そつほんふよ)に
都(みやこ)を定(さだ)め。瑠璃王(るりわう)が癸亥年(きがいのとし)都(みやこ)を国内城(こくないしやう)に移(うつ)し。其後(そのご)丸都(くわんと)平壌(へ[い]しやく)長安(ちやうあん)
城(しやう)等(とう)の所々(しよ〳〵)に都(みやこ)を定(さだ)む。爰(こゝ)に於(おゐ)て唐(たう)の高宗(かうそう)捴章元年(さうしやうくわんねん)にして。高勾麗(かうこうり)

へ亡(ほろ)びたり。凡(およそ)二十八 王(わう)にして歳星(さいせい)七百五 年(ねん)なり。実(じつ)に我(わが)日本(につほん)の天智天皇(てんちてんわう)の
在位(ざいゐ)七 年(ねん)に当(あたれ)り。夫(それ)高勾麗(かうこうらい)は本(もと)檀君(だんくん)が朝鮮(てうせん)の地(ち)をひらきし都(みやこ)の
墟(あと)にして。其後(そのゝち)箕子(きし)が封境(ほうきやう)の所(ところ)たり漢(かん)の時(とき)に分(わ)けたりし。玄兎(けんと)楽浪(らくらう)の地(ち)
半(はん)にあたる。中華(ちうくわ)の東北(とうほく)の隅(すみ)の向(むか)ふと聞(きこ)ゆ往日(そのかみ)箕子(きし)八 条(てう)の禁戒(きんかい)を立(たて)て
礼義(れいぎ)をもつて治道(ちだう)をなす。猶(なほ)末(すへ)の世(よ)に風俗(ふうぞく)のこりて其民(そのたみ)正直(しやうちき)にして婦人(ふしん)は
貞信(ていしん)ありて淫(いん)をこのまず。此(この)仁賢(しんけん)の化(くわ)なるかな其(その)天性(てんせい)柔順(じうじゆん)にして。南北(なんほく)
西(せい)の夷(ゑひす)には最(もつと)も異(こと)に聞(きこ)えけり
   新羅(しんら)滅亡(めつほう)《割書:并(ならびに)》高麗(かうらい)始祖(しそ)王建(わうけん)が事(こと)
新羅王(しんらわう)第(だい)三十代 文武両王(ぶんぶわう)といへる者(もの)。英雄(えいゆう)の器量(きりやう)あり発明(はつめい)にして智勇(ちゆう)ある
者(もの)なればよく先人(せんじん)の業(けふ)を受(うけ)つぎ唐朝(たうてう)に意(こゝろ)をかたむけ。唐兵(たうへい)を請(こ)ふて百済(ひやくさい)

の地(ち)を亡(ほろぼ)し高勾麗(かうこうらい)の敵(てき)を滅(めつ)し。始(はじめ)て三韓(さんかん)一統(いつとう)の封(ほう)を得(え)たれば高勾(かうこう)
麗(らい)の余党(よたう)を納(い)れ優(なづ)け百済(ひやくさい)の古地(こち)により繁栄(はんえ)の土地(とち)となりぬる処(ところ)
に。中頃(なかごろ)国(くに)に内乱(ないらん)起(おこ)り科(とが)を唐(もろこし)の朝廷(てうてい)より蒙(かうむ)り。一端(いつたん)爵位(しやくゐ)までを削(けつ)らるゝといへ
とも。再(ふたゝ)びこれをかへし賜(たまは)り其後(そのゝち)世々(よゝ)相続(さうぞく)し。第(たい)五十代に至(いた)りける此時(このとき)
の新羅王(しんらわう)は新聖王(しんせいわう)と号(がう)し。女子(によし)にて国(くに)を受(うけ)つきたるが其(その)行(おこな)ひ正(たゞ)しか
らず。唐(たう)の則天皇后(そくてんくわうこう)にも超過(てうくわ)したりし淫女(いんぢよ)にして。其(その)志(こゝろざし)悪(あく)なれば国民(くにたみ)大(おほい)に
困窮(こんきう)し。四方(よも)に盗賊(たうぞく)おこり戦闘(せんたう)所々(しよ〳〵)に障(ひま)なきを。爰(こゝ)に弓裔(きうえい)といへる者(もの)
其時(そのとき)を窺(うかゞ)ひ北京(ほくきん)といふ所(ところ)にて返逆(ほんぎやく)を企(くわだ)てたり。弓裔(きうえい)は其先祖(そのせんぞ)新羅王(しんらわう)四十
六代 憲安王(けんあんわう)の庶子(しよし)より分(わか)れたり。弓裔(きうえい)初(はじ)め生(うま)るゝ時(とき)屋上(おくじやう)に白氣(はくき)おこり。天(てん)
につゐて虹(にじ)の如(ごと)くなりけるを。日官(につくわん)のために奏(そう)せられすてに悪祥(あくしやう)なりとて殺(ころ)さ

るべかりしを乳母(ちぼ)かなしんで深(ふか)くかくして養育(やういく)したりしが。八九 歳(さい)にして僧(そう)と
なりしも壮年(さうねん)の後(のち)に至(いた)れば。僧律(そうりつ)の戒行(かいきやう)をもつゝしまず行跡(きやうせき)悪(あ)しき者(もの)な
り。爰(こゝ)に国(くに)には一揆(いつき)おこつて盗賊(とうぞく)しば〳〵起(おこ)るに乗(じやう)じ。竹州(ちくしう)の賊(ぞく)の魁(かしら)箕萱(きけん)が
下(した)に属(ぞく)しけれども。後(のち)にはともに一方(いつはう)によりすまふ。またこゝに加恩懸(かおんけん)の甄萱(しんけん)
といへる者(もの)も謀反(むほん)して武珍州(ふちんしう)【珎は俗字】といふ所(ところ)に兵(へい)を聚(あつ)めたり。弓裔(きうえい)甄萱(しんけん)とともに
王号(わうがう)を僭(せん)して国(くに)を盗(ぬす)むの意(こゝろ)ありしも。後(のち)高麗(かうらい)の大祖(たいそ)のために平(たいら)げらる。
既(すで)に真聖王(しんせいわう)が国(くに)亡(ほろび)んとして一人の英雄(えいゆう)出(い)づ。其名(そのな)を王建(わうけん)とぞいひける元(もと)
は松嶽郡(せうがくぐん)の人(ひと)にして父(ちゝ)をば王隆(わうりう)と号(がう)しける。王建(わうけん)が生(うま)れし時(とき)異僧(いそう)來(きた)つて
此子(このこ)の凡人(ぼんにん)ならざる事(こと)を。其父(そのちゝ)に教戒(けうかい)せしが異人(いじん)の云(いひ)しに違(たが)はず。初生(しよせい)の
ときよりさま〴〵の奇端(きずゐ)をば示(しめ)すのみならず。幼(いとけな)きより聡明世(そうめいよ)に聞(きこ)えその

形骸(ぎやうたい)【注】龍顔(りうがん)しな〳〵の異(い)あるに。又(また)其意(そのこゝろ)寛厚(くわんかう)の仁者(じんしや)たるはこれぞ定(さだ)めて乱(らん)
民(みん)を助(たす)け世(よ)を済(すく)ふべき人(ひと)ならんと意(こゝろ)をよせぬ者(もの)はなし。王建(わうけん)初(はしめ)は弓裔(きうえい)が
幕下(ばくか)にありしが。弓裔(きうえい)これに鐵原郡(てつえんぐん)の太守(たいしゆ)となす。其後(そのゝち)威望(いまう)大(おほい)に加(くは)り
人心(じんしん)の帰(き)し順(したが)ふところ。爰(こゝ)にあれば部下(ぶか)の諸将(しよしやう)王建(わうけん)をすゝめ王号(わうがう)を称(しよう)じ
て。国(くに)を高麗(かうらい)と号(がう)しける。この時(とき)中国(ちうごく)は後梁(ごりやう)の太宗(たいそう)貞明(ていめい)の年(とし)。我(わ)が本(ほん)
朝(てう)醍醐天皇(だいごてんわう)延喜年中(えんきねんちう)に当(あた)つて新羅国(しんらこく)景明王(けいめいわう)が二 年(ねん)に王建(わうけん)国(くに)を建(たつ)
るの歳(とし)にして。其後(そのゝち)新羅(しんら)に五十五 代(たい)敬順王(けいしゆんわう)が在位(さいゐ)八 年(ねん)にして。終(つひ)に重箸(ちうき)を
高麗(かうらい)の王建(わうけん)に譲(ゆつ)つて降参(かうさん)をなしたりける。こゝに高麗王(かうらいわう)在位(ざいゐ)十七 年(ねん)にし
て。中国(ちうごく)後唐(こうたう)の潞王(ろわう)が清泰元年(せいたいくわんねん)。我(わ)が本朝(ほんてう)の朱雀院(しゆじやくゐん)承平四年(しようへいよねん)と聞(きこ)え
けり。そも〳〵新羅(しんら)の始祖(しそ)赫居世(せききよせい)漢(かん)の宣帝(せんてい)五鳳元年甲子(ごほうくわんねんきのへね)を以(もつ)て。辰韓(しんかん)

【注 骰は音・義ともに合わず、音からは體が考えられるも、字面からは骸と思われ、「形骸」と書き「ぎやうたい」と仮名を振ったと捉え「骸」にする。】

の土(ど)に都(みやこ)を定(さだ)め国(くに)を徐伐羅(ぢよはつら)と号(かう)し。朴(ぼく)昔(せき)金(きん)の三 姓(せい)相伝(あいつた)へ知證王(ちしようわう)癸未(きび)
の年(とし)国(くに)を定(さだ)めて新羅(しんら)と号(がう)し。太宗王(たいそうわう)の庚申(かのへさる)に百済(ひやくさい)の地(ち)を合(あは)せ文武王(ぶんぶわう)
戊辰(ぼしん)の年(とし)高勾麗(かうこうらい)まで。一統(いつたう)すべきの唐(たう)の封(ほう)を受定(うけさだ)めて敬順(けいじゆん)が高麗(かうらい)に降(かう)
をなすまで。朴氏(ぼくし)十 王(わう)昔氏(せきし)八 王(わう)金氏(きんし)三十七にして年(とし)をかぞふる事(こと)。九百九十二 年(ねん)
王世(わうせ)五十五 王(わう)にして新羅國(しんらこく)は亡(ほろ)びにけり。
    高麗(かうらい)盛衰(せいすい)《割書:并(ならひに)》李成桂(りせいけい)位(くらゐ)を竊(ぬす)む事(こと)
高麗(かうらい)の大祖(たいそ)全(まつた)く新羅(しんら)の乱国(らんごく)を平(たいら)げ三韓(さんかん)の旧地(きうち)を一統(いつとう)し世(よ)をつたふること
爰(こゝ)に三十二 王(わう)ともに四百七十五 年(ねん)の歳(とし)をへたるも其後(そのゝち)権臣(けんしん)李世桂(りせいけい)が為(ため)
に其国(そのくに)を奪(うば)はれたり。第(だい)三十一 代(たい)恭愍王(けふみんわう)が本性(ほんせい)其始(そのはじ)め令名(れいめい)世上(せじやう)に聞(きこ)ゆと
いへども。中年(ちうねん)に至(いた)つて其志(そのこゝろざ)しいつしかくじけ我意(かい)をふるまふところより親族(しんぞく)

大臣(たいじん)を軽(かろ)んじ嫌(きら)つて是(これ)をうとんじ。偏(ひとへ)に讒人(さんにん)を信用(しんよう)するの理(り)に戻(もど)れる心(こゝろ)と
なつて邪僧遍照(じやそうへんせう)が妖悪(ようあく)あるを正直(しやうぢき)の人なりと心(しん)実に思(おも)ひまどふて。是(これ)に政(まつり)
事(こと)を与(あた)ふれば遍照(へんせう)もこれをよき時(とき)至(いた)るの幸(さいわひ)と。速(すみやか)に還俗(げんぞく)し其名(そのな)を辛(しん)
肫(とん)とあらため国(くに)の政事(せいじ)を意(こゝろ)にまかせて。遂(つひ)に一国(いつこく)の政権(せいけん)其身(そのみ)に帰(き)する
事(こと)十五六 年(ねん)の間(あいだ)なりしか。其(その)子孫(しそん)辛禑(しんぐう)辛昌(しんせう)父子(ふし)に至(いた)て高麗(かうらい)の神器(しんき)【注】
を竊(ぬす)み。王氏(わうし)の族(ぞく)こゝにつき国(くに)又(また)亡(ほろ)ぶに至(いた)るに。恭譲王(けふじやうわう)一人たま〳〵諸大将(しよだいしやう)の
おし戴(いたゞ)くにより。一たんは統(とう)を保(たも)つて暫(しばら)く其世(そのよ)をなすといへども。天命(てんめい)こゝに
絶(たゆ)べきの時節(じせつ)にやきわまりけん。日々(ひゞ)の政道(せいだう)みだりがはしく遂(つひ)に国(くに)を李成桂(りせいけい)
がために奪(うば)はれて。王氏(わうじ)の国(くに)は敗亡(はいぼう)せり。此年(このとし)大明(たいみん)の大祖(たいそ)皇帝(くわうてい)洪武(こうぶ)二十五
年(ねん)なり。同(おな)じく三十 年(ねん)にあたつて国号(こくがう)を旧(ふる)きに回(かへ)りて。再(ふたゝ)び朝鮮(てうせん)とは唱(とな)へ

【注 コマ99の9行目にこの字面で「器」の意で使用されている。】

ける。是(これ)我(わ)か本朝(ほんてう)の天子(てんし)百一 代(だい)後小松院(ここまつのゐん)應永年中(おうえいねんぢう)足利義満公(あしかゞよしみつこう)の治世(ぢせい)
李成桂(りせいけい)こゝに於(おゐ)て大明(たいみん)へ朝貢(てうこう)の使(つかひ)を通(つう)じ。年号(ねんがう)正朔(せいさく)にいたるまでみな一
に大明(たいみん)の制法(せいはう)に承(う)け順(したが)ふ。かくて我朝(わがてう)近頃(ちかごろ)打(うち)つゞいて闘諍(とうぜう)諸国(しよこく)に起(おこ)り。反(ほん)
逆(ぎやく)逃亡(とうはう)の輩(ともから)其身(そのみ)を寄(よ)すべき所(ところ)なき者(もの)は。一族(いちぞく)徒党(とたふ)を引(ひき)いれて大船(たいせん)を
多(おほ)く海上(かいじやう)に乗(の)り浮(うか)め。往来(わうらい)の蛮舶(ばんはく)商船(しやうせん)の宝物(ほうもつ)をかすめ奪(うば)ふて年月(としつき)を
送(おく)り或(あるひ)は大明(たいみん)朝鮮(てうせん)の津々嶋々(つゞしま〴〵)を見立(みたて)。勝手(かつて)のよからん方(かた)に押入(おしいり)て乱防(らんばう)
に及(およ)ばざれども。弓矢(ゆみや)を携(たつさ)へ兵甲(へいかう)を着(き)たれば漁人(ぎよしん)農夫(のうふ)は云(いふ)におよばす
官人(くわんにん)といへども混(みだ)りに是(これ)を防(ふせ)ぐに及(およ)ばず。大明(たいみん)朝鮮(てうせん)大(おほい)にくるしみ使書(ししよ)を発(はつ)し
てうつたへ歎(なげ)くといへども。亡名(はうめい)流浪(るらう)の士(し)のなすところ一(いつ)に我国(わがくに)の預(あづか)り知(し)る儀(ぎ)にあ
らずと答(こた)へらる。且(かつ)又(また)國内(こくない)近年(きんねん)静謐(せいひつ)ならねば。朝鮮(てうせん)より貢献(こうけん)の怠(おこた)り

あるを。とがむるにも及(およ)ばず多(おほ)くの年月(としつき)を過(すこ)しけり




朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之二終

【白紙】

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編巻之三

    目録
 一 豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)天下(てんか)御成敗(ごせいばい)の事(こと)
 一 橘康廣(たちはなのやすひろ)朝鮮(てうせん)に到(いた)る事(こと)
 一 重而(かさねて)両使(りやうし)を朝鮮(てうせん)に遣(つかはさ)るゝ事(こと)
 一 朝鮮(てうせん)の三使(さんし)來朝(らいてう)の事(こと)
 一 棄君(すてきみ)誕生(たんじやう)《割書:并(ならびに)》逝去(せいきよ)の事(こと)
 一 秀吉公(ひでよしこう)朝鮮征伐(てうせんせいばつ)思立(おもひたち)の事(こと)

【白紙】

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編巻之三

  豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)天下御成敗(てんかごせいばい)の事(こと)

爰(こゝ)に本朝(ほんてう)人王(にんわう)一百七代(いつひやくしちだい) 正親町院(おほぎまちのゐん)の御宇(ぎよう)に当(あた)つて。豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)は惟任(これたう)日向(ひうがの)
守(かみ)光秀(みつひで)を誅戮(ちゆうりく)し給ふ後(のち)は。天下(てんか)の権柄(けんへい)自(おのづか)ら其身(そのみ)に帰(き)し官爵(くわんしやく)すてに。人臣(じんしん)
の極(きわ)めに至(いた)り今歳(ことし)。天正(てんしやう)十三 年(ねん)七月十一日 関白職(くわんぱくしよく)に任(にん)じ給ふは。実(まこと)に以(もつ)て往古(わうご)
より我朝(わがてう)にはためし少(すくな)き御(お) ̄ン事(こと)なり。其(その)御 ̄ン祝(いわひ)として今日(こんにち)参内(さんだい)の御儀式(ごぎしき)供奉(ぐぶ)の大(だい)
名(みやう)。奇羅(きら)をかざり任官(にんくわん)の歴々(れき〳〵)。栄耀(えいよう)をあらはすことすてに今日(こんにち)にとゞまれりと。
雑色(ざつしき)下部(しもべ)に至(いた)るまで。晴(はれ)を尽(つくさ)ぬ者(もの)もなし。禁裏(きんり)。仙洞(せんとう)。女御(にようご)。更衣(かうい)女房達(にようぼたち)。摂(せつ)
家(け)。百官(ひやくくわん)。は申に及(およ)ばす諸司(しよし)役人(やくにん)の末々(すへ〴〵)に至(いた)るまで。品々(しな〳〵)の賜(たまは)りもの宝(たから)の山(やま)を

崩(くづ)すが如(こと)くなるは語(かた)るに言葉(ことば)もなかるべし。爰(こゝ)に於(おい)て秀吉公(ひでよしこう)は前田徳善院(まへだとくぜんゐん)
玄以(けんい)。浅野弾正少弼長政(あさのだんじうやうせうひつながまさ)。増田右衛門尉長盛(ますだゑもんのぜうながもり)。石田治部少輔三成(いしだぢぶせうゆうみつなり)。長束大(ながつかおほ)
蔵大輔正家(くらたいふまさいへ)。を以(もつ)て五奉行(ごぶぎやう)と定(さだ)め。国家(こくか)の政(まつりごと)を司(つかさど)らしめ給へける。中(なか)にも浅野(あさの)
弾正長政(だんじやうながまさ)の妻(つま)は。秀吉(ひでよし)の御台所(みだいどこ)と腹替(はらがはり)の姉妹(あねいもと)たるがゆへ。最(もつと)も親(した)しみ深(ふか)く
して評議(ひやうぎ)相談(さうだん)の事(こと)。あるごとに内外(ないげ)を論(ろん)ぜず長政(ながまさ)これを預(あづか)り聞(きか)ずと云(いふ)
ふことなし。玄以(げんい)はまた信忠(のぶたゞ)の推挙(すいきよ)し給ふ人(ひと)にして。長束(ながつか)はその始(はじ)め丹羽五郎左(にはごらうざ)
衛門尉長秀(ゑもんのぜうながひて)につかへたりし人(ひと)なれども。其(その)評論(ひやうろん)何事(なにこと)も尋常(よのつね)の類(たぐ)ひにあらず。
智才(ちさい)に秀(ひいで)し者(もの)ゆゑに。此度(このたび)の列(れつ)に抜(ぬき)んでらる。増田長盛(ますだながもり)。石田三成(いしだみつなり)。両人(りやうにん)はもとより
秀吉公(ひでよしこう)の家(いへ)に伺候(しかう)して年久(としひさ)しく事(つかふま)つる者(もの)なれば。此列(このれつ)に加(くわ)はるなり殊(こと)に長政(ながまさ)
は。其性(そのせい)豪気(がうき)にして肝(きも)魂(たましい)人(ひと)にすぐれ。物(もの)ごとの利害(りかい)に能(よく)あきらかなる者(もの)なればと

て此職(このしよく)に居(すへら)れける。秀吉重(ひてよしかさ)ねて令(れい)を下(くだ)し宣(のたま)ふやう。玄以(けんい)は京洛(けいらく)の所司代(しよしたい)とし洛(らく)
外(くわい)の。神社佛閣(じんじやぶつかく)僧俗(そうぞく)の雑事(ざつし)何(なに)によらず。是(これ)を掌(つかさと)つて裁許(さいきよ)せよ。長束大蔵(なかつかおほくら)は天下(てんか)
の年貢(ねんぐ)。軍役(くんやく)の事(こと)を司(つかさ)どれ。長政(ながまさ)長盛(なかもり)三成(みつなり)は諸(もろ〳〵)の評定(ひやうちやう)を吟味(きんみ)せよ。万一(まんいち)不善(よからさる)
の事(こと)をかまへ。民(たみ)百姓(ひやくせう)を労困(らうこん)せしむるの政(まづりこと)をなすべからず。小事(せうじ)あらば一二人にて相(あい)
計(はか)るともこれ可(か)なり。郡国(ぐんこく)の政事(せいじ)の相談(さうだん)をば速(すみやか)に評議(ひやうぎ)をなすべし。公儀(こうぎ)遅(ち)
滞(たい)のことあらんは。是(これ)民(たみ)の困窮(こんきう)する本(もと)たるべし。籠獄(らうごく)訴訟(そせう)を決断(けつだん)せば慎(つゝしん)
んで聴(きゝ)さはき富(とめ)るを愛(あい)し。貧者(まつしきもの)を軽(かろ)んずべからずと。理世安民(りせあんみん)の政(まつりこと)を諸(しよ)
奉行(ぶぎやう)に仰付(おふせつけ)らるれば。おの〳〵此議(このき)を承(うけ給は)り恭(つゝしん)で退出(たいしゆつ)せられける
   橘康廣(たちはなのやすひろ)朝鮮(てうせん)に到(いた)る事(こと)
其歳(そのとし)も既(すて)に暮(くれ)明(あく)れば。天正(てんしやう)十四 年(ねん)にもなりにけり。ある時(とき)に秀吉公(ひてよしこう)老臣(らうしん)近従(きんじふ)

【右丁】
朝鮮(てうせん)の
両使日本(りやうしにつほん)の
兵乱(ひやうらん)をきゝ
畏(おそ)れ病氣(ひやうき)と
いつわり貢献(こうけん)
の品々(しな〴〵)を
対州(たいしう)の
県令(けんれい)に詫(たく)
   して
帰帆(きはん)す

【左丁 絵画のみ】

の人々(ひと〴〵)を召(め)され仰出(おほせいだ)されけるやう。吾(わが)威風(いふう)すでに海内(かいだい)に加(くわ)はり日本(につほん)六十 余州(よしう)
におゐては。すてに靡(なひ)かぬ草木(くさき)もなきに。未(いま)だ朝鮮(てうせん)の嘉祝(かしゆく)の使(つかひ)來(きた)らす。殊(こと)に
代々(よゝ)吾国(わかくに)の聘使(へいし)のみ彼国(かのくに)に至(いた)ると雖(いへ)とも。彼(かれ)が返礼(へんれい)をなさゞるは何事(なにこと)ぞ
や其上(そのうへ)又(また)朝鮮(てうせん)は往古(わうこ)より日本(につほん)付属(ふそく)の国(くに)なるに如此(かくのことく)の躰(てい)たらく畢竟(ひつきやう)を察(さつ)
するに。是(これ)我国(わかくに)を軽(かろん)し慢(あなど)ると云者(いふもの)にあらざるや。それに付(つい)ては先(まつ)一旦(いつたん)通信使(つうしんし)
を求(もと)めて。彼国(かのくに)の意趣(いしゆ)を探(さく)るべしとて橘(たちばな)の康廣(やすひろ)に仰付(おふせつけ)られて。朝鮮(てうせん)に遣(つか)は
さる。今年(ことし)天正(てんしやう)十四 年(ねん)は。明朝(みんてう)の萬暦(ばんれき)丙戌(ひのへいぬ)の年(とし)と聞(きこ)えけり是(これ)より先(さ)き足(あし)
利家(かゝけ)天下(てんか)を知(しり)給ふて。殆(ほとんど)こゝに二百 餘年(よねん)なり。往日(さきのひ)明(みん)の洪武年中(こうぶねんぢう)に当(あた)り朝(てう)
鮮(せん)より隣国(りんごく)旧好(きうこう)を修(おさ)むる使者(ししや)としてその役(やく)を相勤(あひつと)むる。申叔舟(しんしゆくしう)といへる者(もの)
幾度(いくたび)か日本(につほん)に渡海(とかい)をなし。我国(わがくに)の風俗(ふうぞく)勇武(ゆうぶ)の有(あり)さまをも能(よく)諳(そらん)したり

し者(もの)なりけるが叔舟(しゆくしう)すでに死(し)せんとする時(とき)にのぞんで朝鮮王(てうせんわう)成宗(せいそう)は叔舟(しゆくしう)か
方(かた)に使者(ししや)をつかはし何(なに)にても言(ことば)を遺(のこ)すべきの意(こゝろ)あらば国(くに)の為(ため)に一言(いちごん)を述(のぶ)べ
し必(かなら)ず遠慮(えんりよ)を以(もつ)て申さでやある事(こと)なかれと命(めい)あれば叔舟(しゆくしう)答(こたへ)て奏(そう)する
やう願(ねが)はくば国家(こくか)と日本(につほん)と長(なが)く不和(ふわ)なる御 意(こゝろ)を起(おこ)し給ふべからず終(つひ)に其(その)懈(おこた)り
の儀(ぎ)有(ある)ならば必(かなら)ず国(くに)の害(がい)となるべきの処(ところ)なりと云(いひ)しを成宗(せいそう)も彼(かれ)が異見(いけん)を
感悟(かんご)し給へけるにや茲(こゝ)に於(おい)て副提學(ふていがく)李亨元(りかうげん)書状官(しょじやうくわん)金訢(きん〳〵)と云(い)ふ者(もの)をし
て。旧交(きうかう)を修(おさめ)ん為(ため)に遣(つかは)し対馬(つしま)の国(くに)まで到(いた)るといへども渡海(とかい)風水(ふうすい)の悪(あし)きに
よつて正使(せいし)すでに疾(やまい)を生(せう)じ書(しよ)を成宗(せいそう)に奉(ほう)じ回(かへ)らん事(こと)を乞願(こひねか)ふ成宗(せいそう)も
また彼(かれ)が意(こゝろ)に任(まか)せて赦(ゆる)さるれば音物(いんもつ)書状(しよしやう)をばこれを以(もつ)て対馬(つしま)の国主(こくしゆ)に
致(いた)しすゝめて両使(りやうし)は是(これ)よりやめて帰国(きこく)を赦(ゆる)されたり其後(そのゝち)は絶(たへ)て日本(につほん)への

使(つかひ)を通(つう)する事(こと)なかりしなり。只(たゞ)日本(につほん)の信使(しんし)來(きた)れは礼(れい)によつて応接(おうせつ)はかりにして
事畢(ことおは)れりと聞(きこ)えたりそも〳〵我朝(わかてう)の記(き)によつて此事(このこと)を考(かんが)ふるに。京都将軍(きゃうとしやうぐん)源(みなもと)
義政公(よしまさこう)の長禄(ちやうろく)二 年(ねん)まては朝鮮(てうせん)の來朝使(らいてうし)の時々(とき〳〵)來(きた)れる事(こと)の見(み)へたれども
それより以來(このかた)は絶(たへ)て此事(このこと)所見(しよけん)なし。されば其後(そのゝち)打続(うちつゝき)て本朝(ほんてう)大(おほい)に戦国(せんこく)となり
左(さ)ながら打乱(うちみだ)れたる碁(ご)の如(ごと)くなる故(ゆゑ)に此時(このとき)の朝鮮(てうせん)の使(つかひ)も風水(ふうすい)の難儀(なんき)に言(こと)
を寄(よ)せて身(み)の危(あやう)きをのかれ中途(ちうと)より帰(かへ)れると知(し)られたりそれより後(のち)足利家(あしかゞけ)
滅亡(めつはう)し今(いま)や秀吉公(ひてよしこう)天下(てんか)を渾一(こんいち)に成(なし)給ふよりすてに十 余年(よねん)に至(いた)れるなり
此間(このあひた)日本(につほん)の商売人(しやうばいにん)。幾人(いくたり)か朝鮮(てうせん)に往来(わうらい)する者(もの)ありと雖(いへ)ども我国(わがくに)の令(れい)
法(ほう)厳密(けんみつ)なる。その刑罰(けいばつ)をつゝしんで。こゝに本朝(ほんてう)の時世(ときよ)も遷(うつ)り代(かわ)つて当世(とうせい)す
てに秀吉公(ひてよしこう)天下(てんか)の権柄(けんへい)を取(とり)玉(たま)ふと云(い)ふことをも嘗(かつ)て以(もつ)て泄(もら)さねばこれによつ

て朝鮮(てうせん)の君臣(くんしん)は。猶(なほ)今(いま)に源氏(げんじ)足利(あしかゞ)の世(よ)たりとばかり思(おも)ふ処(ところ)へ。秀吉公(ひでよしこう)の信使(しんし)とし
て。橘(たちばな)の康廣(やすひろ)着岸(ちやくがん)すれば始(はじめ)て豊臣秀吉(とよとみひでよし)の世(よ)と成(な)る事(こと)を知(し)るなり。康廣(やすひろ)
時(とき)に年齢(ねんれい)五十あまりの男(おとこ)の。其(その)容貌(ようぼう)大(おほい)にたくましふして鬚(ひげ)髪(かみ)すでに。斑(またら)に白(しろ)きが
過(すぐ)るところの旅館(りよくわん)馬驛(うまつき)に至(いた)つては宿(しゆく)する所(ところ)の家屋(かをく)を吟味(ぎんみ)し。村里(そんり)の中(なか)の広(ひろ)き宅(いへ)
なるを求(もと)めて本陣旅宿(ほんぢんりよしゆく)と定(さだ)め其威(そのい)の厳重(けんぢう)なるを示(しめ)しける。又(また)自己(じこ)の寛大(くわんたい)を
ふるまひ。倨傲(おこりほこ)れる様体(やうだい)は往日(さき〳〵)朝鮮(てうせん)に至(いた)れる所(ところ)の日本使(につほんし)にもあらねば。所々(ところ〳〵)の
郷民(がうみん)以(もつて)の外(ほか)に仰天(ぎやうてん)せり。夫(それ)朝鮮国(てうせんごく)には古(いにしへ)よりの作法(さはう)として日本(につほん)よりの使者(ししや)たる。
その王城(わうじやう)まで至(いた)り過(すぐ)るの路(みち)すぢをば。すでに使(つかい)の来(きた)ること聞(きく)より早(はや)く境内(きやうない)の歩兵(ほへい)
を発(はつ)し。槍(やり)を執(とつ)て左右(さいふ)の道(みち)を立(た)て夾(はさ)みて。行列(ぎやうれつ)を通(とほ)らしむ是(これ)をもつてかの
国(くに)の軍威(くんい)を示(しめ)す風儀(ふうぎ)なりとか。されは此度(このたび)康廣(やすひろ)が打(うつ)て通(とほ)る一路(いちろ)にも。各(おの〳〵)

【右丁】
橘康廣(たちはなのやすひろ)
朝鮮(てうせん)に
   使(つかひ)して
本朝(ほんてう)の武威(ぶゐ)
を異域(いいき)に
輝(かがや)かんさんとて
武器調度(ふきてうど)
従臣(じふしん)の
衣服(いふく)を
装(かさ)り其行(そのこう)
程(てい)の警衛(けいえい)
を土芥(とかい)のに
見(み)て王城(わうしやう)
にいたるる

【左丁  絵画のみ】

出合(いであは)せ立(たち)ならんで槍(やり)をとり。間々(あひだ〳〵)に隊(そなへ)の頭(かしら)と見(み)えたる者多(ものおほ)くの人数(にんず)を下(げ)
知(ぢ)し。すはと云(い)はゞ討取(うちとれ)と云(いわ)ぬ計(ばかり)の顔色(がんしよく)なり。康廣(やすひろ)は元來(もとより)かゝる事(こと)異(こと)なる
とも思(おも)はねば手(て)の者(もの)どもに下知(けぢ)をなし。左右(さいふ)に眼(まなこ)をくばつて静(しづか)に馬(うま)を乗(のり)
すゝめ。すでに仁同(じんだう)と云所(いふところ)に到(いた)り付(つ)く時(とき)。其(その)路辺(みちのべ)の鎗(やり)とる者(もの)を急度(きつと)睨(にら)んて
馬(うま)をひかへて。から〳〵と打笑(うちわら)ひ汝(なんち)が輩(ともがら)の持(もつ)ところ槍(やり)の竿(ゑ)はなはだ短(みじか)し。それが
人(ひと)を衝(つ)くやくに立(たゝ)んやさても油断(ゆだん)なる抱(かゝ)へやうやと。高声(たかごゑ)に物(もの)いへば人歩(にんぶ)ど
も物言(ものごと)の通(つう)ぜぬゆゑ。何言(なにごと)とはわきまへねども。康廣(やすひろ)が眼(まなこ)つきの冷(すさま)じきと高声(かうしやう)
に笑(わろ)ふとの其様(そのさま)に。肝(きも)つぶしあきれかへりて居(ゐ)たりしが。左右(さいふ)に立(て)てる己(おの)が達(たち)と舌(した)
をまきたる顔色(がんしよく)す。かくてこゝをも過通(すぎとほ)り程(ほど)なく尚州(しやくしう)に着(つき)たりけり。此所(このところ)の
牧守(くにのかみ)宋應洞(そうおうとう)と云(いへ)る者(もの)の。康廣(やすひろ)が馳走(ちさう)のため待(まち)うけの旅館(りよくわん)まて。綺羅(きら)びやかに

賁飾(かざり)立(たて)。さま〳〵の饗応(きやうおう)美(び)をつくし其(その)酒宴(しゆえん)には。楽器(がくき)を連(つら)ね舞歌(ぶか)の
子女(しぢよ)衆(おほ)く列座(れつざ)し。さま〳〵の興(きやう)を促(うなか)せり衣裳(いしやう)に花(はな)をかざりては。桃李(とうり)の色(いろ)を
あらそひ顔色(がんしよく)に。笑(ゑみ)をふくんでは夜月(やげつ)のかけ媚(こび)をなす。まことに歯牙(しげ)の春色(しゆんしよく)と
はかゝる事(こと)をや云(い)ひつらん。康廣(やすひろ)は應洞(おうたう)が己(すで)に両鬢(りやうびん)の霜(しも)ふりて。翁(おきな)さびたる
顔色(がんしよく)なるにかゝる色(いろ)をもてあそぶを見(み)るより。傍(かたはら)なる通事(つうじ)に云含(いひふく)め應洞(おうとう)
に告(つげ)させける。御覧(こらん)の如(ごと)く我等(われら)老衰(らうすゐ)に及(およ)べること。年齢(ねんれい)より抜群(ばつくん)に見(み)え候
は数年(すねん)干戈(かんくわ)の内(うち)にあつて。多(おほ)くの心労(しんらう)をなす故(ゆゑ)なりと存(そん)するに。又(また)應君(おうくん)
はつね〳〵如此(かくのごとく)安樂(あんらく)の中(うち)におはしますなれば。何(なん)の憂(うれひ)もあるまじきに見(み)
申せば両鬢(りようびん)全(まつた)く白(しろ)くなり候こと心得(こゝろえ)がたき一事(いちじ)なりと難(なん)じたるは。應洞(おうとう)
が色欲(しきよく)に淫(いん)することを少(すこ)し諷言(あてこと)したるとは聞(きこ)え[け]り。それより王城(わうしやう)に到着(いたりつき)

朝鮮王(てうせんわう)に書(しよ)を奉(ほう)じをはりぬれば。其後(そのゝち)禮曹判官(れいそうはんぐわん)の所(ところ)にして。朝鮮王(てうせんわう)より
饗宴(きやうえん)を賜(たま)はりける。酒(さけ)すでに酣(たけなは)なるの時(とき)に及(およ)んで。康廣(やすひろ)は腰付(こしつけ)の瓢簞(ひやうたん)【簟は誤】
より席上(せきじやう)に胡椒(こせう)を多(おほ)くとり散(ちら)して。これを甜(つ)み食(くら)ふを見(み)一座(いちざ)にありつる妓(ぎ)
女(ぢよ)ども。康廣(やすひろ)は隣国(りんごく)他家(たけ)の人(ひと)ぞとて遠慮(えんりよ)の心(こゝろ)。すこしもなく皆々(みな〳〵)これを争(あらそ)
ひて奪(うば)ひ合(あふ)たるは。さらに男女(なんによ)の礼儀(れいぎ)もたへ。興(けう)さめたる有(あり)さま放埓(はうらつ)なりし事(こと)
どもなり。康廣(やすひろ)すでに旅館(りよくわん)にかへりて通事(つうじ)の者(もの)に向(むか)ひ。打(う)ち嗟(なげ)いて語(かた)りける
は。汝(なんぢ)が国(くに)早(はや)く亡(ほろ)びん氣(き)の毒(どく)さよ。それ男女(なんによ)の禮(れい)あつて隔(へだ)つるは。これ人道(にんだう)の
くゝりたり。然(しか)るに今(いま)你(なんぢ)が国(くに)のやうを見(み)るに。上(かみ)にあるも下(しも)なる者(もの)も一様(いちやう)に色(しき)
慾(よく)のみたりをつとめとなし。網紀(かうき)の立(たゝ)ぬ所(ところ)あれば亡(ほろ)びずして。何(なに)をか待(また)ん自己(おのれ)
が云(い)ふところ辟目(ひがめ)にはあらじと云(いひ)けるを。後(のち)にぞ思(おも)ひしられたり。康廣(やすひろ)す

でに帰国(きこく)の趣(おもむ)きを告(つげ)て返翰(へんかん)を請(こ)ふと雖(いへ)とも。秀吉(ひでよし)の来書(らいしよ)の辞(ことば)甚(はなは)だ倨(おご)り
て今(いま)天下(てんか)我(わか)一握(いちあく)の中(うち)に帰(き)する等(とう)の語(こ)あるを見(み)。朝鮮王(てうせんわう)これを不快(ふくわい)に懐(おも)
ふの故(ゆへ)。但(たゝ)其書(そのしよ)を報(ほう)し通信(つうしん)のことにおいては。水路(すいろ)はるかにしてつねに使(つかひ)を遣(つかは)
しかたしと云(いふ)をもつて。聘使(へいし)の事(こと)をばゆるさず。康廣(やすひろ)かへりて右(みき)の趣(おもむ)きを報(ほう)
ずれば。秀吉公(ひてよしこう)大(おほい)に怒(いか)り給ひて遂(つひ)に。康廣(やすひろ)を誅(ちゆう)し其刑(そのけい)一族(いちそく)までに及(およ)へり
とかや秀吉公(ひでよしこう)康廣(やすひろ)が罪科(さいくわ)さして。誅(ちゆう)すへきにはあらさるを何(なに)の故(ゆゑ)あつて。
其罪(そのつみ)一門(いちもん)に及(およ)ぶにやと其(その)意趣(いしゆ)をさつするに康廣(やすひろ)か兄(あに)康年(やすとし)は足利家(あしかゞけ)
の時代(しだい)より。幾回(いくたひ)か朝鮮国(てうせんごく)の遣使(けんし)として往来(わうらい)し。彼国(かのくに)の職名(しよくめい)まてをも受(うけ)
たりし者(もの)の末(すへ)なれは多(おゝ)くは今(いま)その述(のぶ)る所(ところ)の語(ご)の中(うち)にも朝鮮国(てうせんこく)の荷担(かたん)する
の下心(したごころ)の有(あり)けるにや。また秀吉公(ひてよしこう)の心中(しんちう)に往々(ゆく〳〵)は朝鮮(てうせん)へ軍(いくさ)を出(いだ)さんの。謀慮(ほうりよ)

のある折柄(をりから)又(また)若(もし)康廣(やすひろ)か彼国(かのくに)の為(ため)反間(はんかん)もなりねべきは我国(わがくに)の大(おほい)なる妨(さまた)けたる
事(こと)なりとさてそ切(きつ)ては捨(すて)られしは深(ふか)き意(こゝろ)と聞(きこ)えける。
   重(かさね)て《振り仮名:被_レ遣両使于朝鮮_一事|りやうしをてうせんにつかはさるゝこと》
秀吉公(ひてよしこう)既(すで)に橘康廣(たちばなのやすひろ)を誅殺(ちゆうさつ)あつて。後(のち)再(ふたゝ)ひ対馬大守(つしまのたいしゆ)平義智(たいらのよしあきら)柳川豊(やながはぶ)
前守(せんのかみ)調信(しけのふ)并(ならひ)に禅僧(ぜんそう)玄蘇(けんそ)《割書:号(かうす)仙(せん)|巣》を差添(さしそへ)られ重(かさ)ねて朝鮮国(てうせんこく)につかはし。通信(つうしん)
使(し)渡海(とかい)あるへき旨(むね)を催促(さいそく)せられける。此(この)義智(よしとも)は宗宗慶(そうのむねとし)か子孫(しそん)とし代々(たい〳〵)
此島(このしま)の領主(りやうしゆ)たり朝鮮(てうせん)順路(しゆんろ)の海道(かいたう)として彼国(かのくに)の近隣(きんりん)たれば。土地(とち)風俗(ふうぞく)海陸(かいりく)
の案内(あんない)まて能(よく)そらんじたる故(ゆゑ)を以(もつ)て。此度(このたび)の使節(しせつ)を承(うく)るなり殊(こと)に義智(よしとも)は
秀吉公(ひてよしこう)の家臣(かしん)。小西摂津守(こにしせつゝのかみ)か婿(むこ)たれば秀吉公(ひてよしこう)の腹心(ふくしん)を明(あ)け示(しめ)さるゝの一
人なり又(また)義智(よしとも)いまた年/廿(は[た])たりと雖(いへと)も勇悍(ゆうかん)他(ひと)にすぐれ。殊(こと)に当時(たうし)権臣(けんしん)の

一家(け)につらなり。秀吉公(ひでよしこう)の目見(めみ)せ能(よき)につけ諸人(しよにん)これを畏服(いふく)すれば。柳川調(やなかはしげ)
信(のぶ)といへども。凡(すべ)て義智(よしとも)が指圖(さしづ)を承(うく)る処(ところ)とこそ聞(きこ)えけれ。両使(りやうし)は早(はや)く朝(てう)
鮮(せん)の王城(わうじやう)に打入(うちい)りたりければ。東平館(とうへいくわん)にこれを宿(しゆく)させてさま〳〵に饗応(きやうおう)
せり。かくて朝鮮王(てうせんわう)其(その)意趣(いしゆ)を尋問(たづねとは)るゝに義智(よしとも)答(こたへ)て。幾回(いくたび)も貴国(きこく)通信(つうしん)
の使(つかひ)を邀(むか)ふるに外(ほか)なし。今度(こんど)は義智(よしとも)調信(しげのぶ)両人(りやうにん)とともに通使(つうし)を誘引(ゆういん)せず
んば本国(ほんごく)にかへるべからずといふ。是(これ)において彼国(かのくに)の諸臣(しよしん)胥集(あひあつま)つて評議(ひやうぎ)を
なして云(いふ)。日本(につほん)の両人(りやうにん)に諷(ふう)して其実(そのじつ)に両国(りやうこく)の隣好(りんこう)を求(もと)むるに意(こゝろ)ありや。又(また)他(た)
の陰謀(ゐんぼう)を構(かま)ふるや否(いなや)を先見(まづみ)よとて。其議(そのぎ)一に定(さだ)まれば乃(すなは)ち旅館(りよくわん)賓奏(ひんそう)の
役人(やくにん)に云(いは)せける。是(これ)より数年前(すねんさき)倭人(ねいじん)【ママ】來(きた)りて全羅生道(てるらだう)に寇(あだ)をなし。竹島(たけじま)を損(そん)
じ其砌(そのみぎ)り。朝鮮国(てうせんこく)の辺将(へんしやう)李太源(りたいけん)を殺(ころ)せり。且(そのうへ)日本(につほん)の生口(さんこう)を獲(とら)へて聞(きく)に朝(てう)

鮮(せん)の辺(さかい)の氓(たみ)沙乙背同(しやいつはひどう)といへる者(もの)。国内(こくない)を逃亡(かけおち)して日本(につほん)の地(ち)に入(いり)やゝもすれば
倭(わ)の海賊(かいぞく)を導引(みちびい)て。寇(あだ)をなすにより朝鮮王(てうせんわう)の愠(いきとほ)り深(ふか)く此事(このこと)にある処(ところ)
なり。しかれば今(いま)の謀(はかりこと)に日本(につほん)に在(あ)る処(ところ)の朝鮮(てうせん)の叛民(はんみん)を擒(とりこ)とし。送(おく)りかへされ
なば通信(つうしん)の求(もと)めは早速(さつそく)に叶(かな)ふべきと。余所(よそ)ながら物語(ものかたり)なさしめける。義智(よしとも)聞(きゝ)
てそれこそ易(やす)き望(のぞみ)なるべけれとて。早速(さつそく)平調信(たいらのしけのふ)を日本(につほん)へかへらしめ。未(いま)だ数月(すげつ)
ならざるに悉(こと〳〵)く叛民(はんみん)の日本(につほん)の地(ち)にありける者(もの)。十四人まで生捕(いけどり)て朝鮮(てうせん)の王城(わうしやう)へ
来(きた)る。朝鮮王(てうせんわう)は仁政殿(じんせいでん)に出御(しゆつぎよ)なし大(おほい)に兵威(へいゐ)をそなへ。沙乙背同(しやいつはいどう)等(とう)を擒(とりこ)
ながら庭上(ていしやう)に引(ひき)すへ。委細(ゐさゐ)に彼者共(かのものとも)の罪悪(さいあく)をせめ問(と)ふに。其(その)白状(はくじやう)明(あきら)かに発(はつ)
する上(うへ)は。外(ほか)に再(ふたゝ)び詰問(なじりとふ)ことあらずとて。それより城外(しやうくわい)の常(つね)に刑罰([け]いばつ)をな
すの地(ち)に引出(ひきいだ)し。斬罪(ざんざい)して捨畢(すておは)るこゝにおゐて義智(よしとも)には。内厩(ないきう)の馬(うま)一

匹(ひき)を賜(たま)ひ其後(そのゝち)また義智(よしとも)調信(しげのぶ)等(ら)の遣使(けんし)を殿内(でんない)にして饗宴(きやうえん)あり。其(その)
よろこびを盡(つく)されけり。此時(このとき)衆議(しゆうぎ)紛々(ふん〳〵)として通信使(つうしんし)を。日本(につほん)に渡海(とかい)せし
むべきの義(き)一 決(けつ)せず。相国(さうこく)柳成龍(りうせいりう)知事(ちし)邉恊(へんけう)等(ら)強(しひ)て啓(まふ)して使(つかひ)をつかはし。報(はう)
答(たふ)し給はん事(こと)のよろしかるべき旨(むね)を奏(そう)す。其(その)第一(たいゝち)には外(ほか)には和睦(わぼく)の義(き)をとゝのへ
内(うち)には彼国(かのくに)の動静(どうせい)を窺(うかゞ)ひ見(み)んこと。是(これ)失計(しつけい)にあらじと諫るに朝議(てうき)始(はしめ)
て一に定(さだま)り。朝鮮王(てうせんわう)は柳成龍(りうせいりう)等(ら)に命(めい)して日本(につほん)への使(つかひ)すべき。器量(きりやう)の者(もの)をゑ
らましむ時(とき)に。大臣僉知(だいじんせんち)黄允吉(くわういんきつ)司成(しせい)金誠(きんせい)一 等(とう)を抜(ぬき)んでたり。黄允吉(くわういんきつ)を
上使(しやうし)とし金誠(きんせい)一を副使(ふくし)となす。曲籍(でんせき)許箴(きよしん)を以(もつ)て書状官(しうしやうくわん)となし。庚寅(かのへとら)
年(とし)三月つゐに義智(よしとも)等(ら)と。おなじく朝鮮(てうせん)の湊(みなと)を船出(ふなて)してはるかに漕(こき)
向(むか)ふ。此度(このたひ)義智(よしとも)朝鮮(てうせん)の国王(こくわう)へ土産(みやけ)として。孔雀(くしやく)二 羽(は)ならびに鳥鋭(てうゑい)

宗(そう)対馬守(つしまのかみ)
  義智(よしとも)
柳川(やなかは)豊前守(ふせんのかみ)
  調信(しけのふ)
朝鮮(てうせん)の両使(りやうし)
を引率(いんそつ)
  して
聚楽城(しゆらくしやう)に
  来(きた)る

鎗刀(さうたう)の類(るい)を献(けん)じたり。夫(それ)我朝(わかてう)に鉄砲(てつほう)の術(じゆつ)ある初(はじめ)を尋(たづ)ぬるに。後奈良院(ごならのゐん)の
御宇(ぎよう)天文(てんぶん)八 年(ねん)八月に。南蠻(なんばん)より渡海(とかい)の商船(しやうせん)悪風(あくふう)に漂泊(たゞよは)されて大隅国(おほすみのくに)種(たね)
子島(がしま)に吹(ふき)よせらる。海浜(かいひん)の魚人(きよじん)とも相集(あひあつま)りて何国(いづく)の者(もの)ぞと尋(たつ)ねけれども。その
言語(ごんご)通(つう)ぜねば解(げ)すへきやうのなき処(ところ)に。船中(せんちう)に大明国(たいみんこく)の儒生(しゆせい)便船(びんせん)したる五(こ)
峯便(ほうびん)と云(いへ)る者(もの)船(ふね)より出(い)で。筆(ふで)執(と)つて委細(いさい)を書(しよ)すによりてこそ其(その)蠻船(なんせん)たる
をば知(しり)たるなり。嶋主(しまぬし)兵部丞(ひやうぶのじやう)時堯(ときたか)是(これ)を痛(いた)はり。暫(しばら)く旅館(りよくわん)に宿(しゆく)せしめて
さま〳〵に饗應(もてな)しける。船長(ふなおさ)牟良叔舎(むらしゆくしや)時堯(ときたか)が其情(そのなさけ)の厚(あつ)きに感(かん)じ。
船中(せんちう)の宝(たから)たる蠻物(ばんもつ)多(おほ)く時堯(ときたか)に進(すゝ)むる中(うち)に。此鉄砲(このてつほう)あるを取出(とりいだ)し薬(くすり)を
こめ火(ひ)を刺(さし)て目当(めあて)をして。放(はな)つて見(み)すれば忽(たちま)ち火雷(くわらい)の如(こと)き響(ひゞ)きあり。臭(くさ)
き煙(けふり)雲(くも)を衝(つい)て。外(ほ)り。其(その)玉丸(ぎよくくわん)の当(あた)る処(ところ)は金石(きんせき)と雖(いへど)も打碎(うちくだ)き。劈穿(さきうがた)ずと

云ふことなきを軍用第一(ぐんようだいち)の重宝(ぢうほう)たるものなりとて。時堯(ときたか)にこれを与(あた)へ其(その)秘術(ひじゆつ)薬(やく)
方(ほう)までこと〴〵く伝授(でんじゆ)したりけり。当世(たうせい)に見(み)るところの短筒(たんつゝ)種(たね)か島(しま)と云(いへ)る。鉄砲(てつはう)
は是(これ)なり時堯(ときたか)是(これ)を島津義久(しまつよしひさ)に送(おく)れば。義久(よしひさ)この器(き)をこしらへ将軍家(しやうぐんけ)に
奉(たてまつ)り。其術(そのじゆつ)を根来寺(ねごろし)の杉(すぎ)の坊(ぼう)に伝授(でんじゆ)せしを始(はしめ)としそれより次第(しだい)に妙用(みやうよう)
を工夫(くふう)し来(きた)つて大小(だいしやう)鉄銅(てつどう)の筒(つゝ)は云(いふ)に及(およば)す。火矢筒(ひやつゝ)松樹紙(せうじゆかみ)をもつて張(は)れる
筒(つゝ)までもその術(じゆつ)諸国(しよこく)にくわしく成(な)りぬ。実(まこと)に武用(ぶよう)その技(ぎ)を尽(つく)せる時世(ときよ)とな
るももとより武道(ぶだう)さかんなる我国(わがくに)の風俗(ふうぞく)ゆゑと聞(きこ)えけり。義智(よしとも)又(また)此物(このもの)を
朝鮮(てうせん)へも送(おく)りし故(ゆゑ)彼国(かのくに)始(はじめ)て鉄砲(てつほう)あるを知れりとなり
   朝鮮(てうせん)の三使(さんし)来朝(らいてう)の事(こと)
かくて朝鮮国(てうせんこく)の通信使(つうしんし)の三人と宗(そう)対馬守(つしまのかみ)義智(よしとし)【ママ】と桺川調信(やながわしげのぶ)。僧(そう)玄蘇(けんそ)

等(ら)と同じく四月二十九日には釜山浦(ふさんかい)に船(ふね)を発(はつ)し。対馬(つしま)の国(くに)に至(いた)り着(つき)ぬ此所(このところ)に留(とま)
ること一日また船(ふね)を発(はつ)しすへて水行(すいこう)四十 余里(より)にして壱岐(いき)の島に到着(たうちやく)し。それ
より長門国(なかとのくに)那古耶(なこや)などを歴(へ)過(す)ぎ。同七月二十二日に至(いた)りて京都(きやうと)洛陽(らくやう)の地(ち)に
到着(たうちやく)す。それより五条堀川(ごでうほりかは)本國寺(ほんこくじ)中(ちう)を旅館(りよくわん)と定(さだ)め。暫(しばら)く逗留(たうりう)の儀(き)をな
さしむ。此時(このとき)に当(あた)つて秀吉公(ひでよしこう)は相州(さうしう)小田原(をだはら)。北条氏政(ほうてううちまさ)追討(つひとう)の為(ため)として
彼国(かのくに)に発向(はつかう)なし給ふの。御 ̄ン留守(るす)たれば御帰京(ごききやう)を待(まつ)ほどすでに数月(すげつ)を
経(へ)たりけり程(ほど)なく凱歌(がいか)し給ふと雖(いへ)ども。又(また)託(たぐ)するに城官(じやうくわん)修治(しゆぢ)の事(こと)ありと
て。已(すで)に五月(ごげつ)を経(へ)て後(のち)朝鮮使(てうせんし)御対面(ごたいめん)有(あ)るべきの由(よし)を仰出(おふせいだ)されたり。三使(さんし)の
者(もの)は聚楽亭(じゆらくてい)に参上(さんじやう)し。朝鮮国王(てうせんこくわう)の書(しよ)を奉(ほう)ず其帖(そのてう)に云(いはく)。
   朝鮮国王(てうせんこくわう)李㫟(りえん) 奉(たてまつる)_二書(しよを)

  日本国王之殿下(につほんこくうわうのでんか)_一
  春候(しゆんこう)和煦(くわく)動静(とうせい)佳勝(かしやうならん)遠伝(とほくつたふ)
  大王(たいおう)一(いつ)_二-統(とうし)六十餘州(ろくじふよしうを)_一雖(いへとも)_レ欲(ほつすと)_三速(すみやかに)講(かうじ)_レ信(しんを)修(しゆして)_レ睦(むつひを)以(もつて)敦(あつうせん[と])_二隣好(りんこうを)_一恐(おそらくは)道路(たうろ)湮晦(いんかい)使(しめんことな)_三
  臣行李(しんがあんりの)有(あら)_二淹滞之憂(あんたいのうれひ)【一点脱】歟(か)是以(こゝをもつて)多年(たねん)思而止矣(おもふてやみぬ)今(いま)令(しめて)_レ與(ともなは)_二貴介(きかいに)_一遣(つかはして)_二黄允(くわういん)
  吉(きつ)金誠一(きんせいいつを)許箴之三使(きよしんのさんしを)_一以(もつて)致(いたす)_二賀辞(かじを)_一自(より)今(いま)以往(いわう)隣好(りんこう)出(いでば)_二于 他上(たのかみに)_一幸甚(こうじん)
  仍(なほ)不腆(ふてん)土宜(とき)錄(ろくの)在(あり)_二別幅(へつふくに)_一庶幾(こひねがはくば)笑留(せうりうせよ)餘(よは)順(したかつて)_レ序(じよに)珍嗇(ちんしよくせよ)不宣(ふせん)
    萬暦(はんれき)十八年三月日   朝鮮国(てうせんこく) 李㫟(りえん)
偖(さて)又(また)朝鮮国(てうせんこく)より関白(くわんはく)秀吉公(ひでよしこう)へ献上(けんじやう)の音物(いんもつ)別幅(へつふく)に書(しよ)する処(ところ)の品々(しな〳〵)朝鮮国(てうせんこく)の馬(うま)二
疋(ひき)大鷹子(おふたかのこ)十五 連(れん)鞍子(あんす)二 面(めん)《割書:并(ならびに)》諸(もろ〳〵の)馬具(はぐ)二通(ふたとほり)黒麻布(くろまふ)三十 疋(ひき)白綿紬(しろめんゆう)五十 匹(ひき)青斜皮(せいとひ)
十 張(ちやう)人参(にんじん)百 斤(きん)豹皮(ひやうひ)二十 張(ちやう)虎皮(とらのかは)二十五 張(はり)彩花毛氈‘(さいくわせん)十 枚(まい)紅綿紬(こうめんゆう)十 匹(ひき)清蜜(せいみつ)十一 壷(つぼ)豹皮(ひやうひ)心(しん)

兒皮(しひ)辺海松子六碩等と聞(きこ)えけり秀吉公(ひでよしこう)既(すで)に対面(たいめん)の儀(き)をはり乃(すなは)ち返翰(へんかん)を遣(つかは)さる其文(そのぶん)に曰(いはく)
   近歳(きんさい)本朝(ほんてう)分(ふん)崩離(ほうり)析(せきし)兵革(へいかく)不(ざる)_レ止(やま)故(ゆゑに)予(われ)発(はつして)_レ憤(いきとほりを)不(ず)_レ過(すごさ)数(す)
   年(ねん)宇内(うない)既(すでに)清夷(せいゐなり)矣 夫(それ)我(われは)固(まことに)甕(よう)牖(よう)【牗は俗字】縄(せう)枢(すう)之(の)周餘(しうよ)也(なり)然(しかれども)
   慈母(じぼ)夢(ゆめみて)_三日輪(にちりん)入(いると)_二懐中(くわいちうに)【一点脱】而(しかふして)吾(われ)以(もつて)降(くだれり)時(ときに)有(あり)_二相士(そうし)_一曰(いはく)日(ひ)之(の)
   所(ところ)_二照臨(せうりんする)_一莫(なし)_レ不(ずといふこと)_二砥(たいらぎ)属(つか)_一後来(こうらい)其(その)有(あらんこと)_二蓋(をほふの)【レ点脱】世(よを)之氣(き)_一不(ず)_レ可(べから)疑(うたかふ)焉
   故(かるかゆへに)吾(われ)常(つねに)自負(じふす)一且(いつたん)乘(しようじ)_二時運(じうん)【一点脱】而 龍(りやうの如くに)飛(とび)東略(とうりやく)西征(せいせい)南伐(なんはつ)
   北討(ほくとう)大功(たいこう)之(の)速(すみやか)成(なること)也 誠(まことに)如(ことし)_二大陽(たいやうの)一(ひとたび)外(のほりて)万物(ばんもつ)皆(みな)無(なきが)_一_レ不(ずと云こと)
   _レ照(てらさ)焉 吾(われ)想(おもふに)人生(じんせい)不(ず)_レ満(みた)_レ百(もゝに)豈(あに)壱(いち)_二-鬱(うつとして)于 一方(いつほう)_一以(もつて)費(ついやかさん)_レ日(ひを)乎(や)
   是(これ)故(ゆゑに)吾(われ)促(うながして)_二大兵(たいへいを)_一将(まさに)入(いり)_二大明(たいみんに)_一而 使(して)_二【左ルビ:しめんとす_下】一剣(いつけんの)霜(しもを)_一満(みた)_中 四百州(しひやくしうに)
   之(の)天(てんに)_上唯(たゞ)是(これ)之(これを)願(ねがふ)耳(のみ)若(もし)然(しからば)則 必(かならす)以(もつて)_二貴国(きこくを)為(せん)_二前(せん)鋒(ばうと)_一也【注】 其(それ)

【注 金+夅は鋒の俗字】

   必(かならず)勿(なかれ)_二遺失(いしつはすること)_一吾(われ)出(いださんの)_二軍(くんを)于 大明(たいみん)_一之 時(とき)弥(いよ〳〵)與(と)_二貴国(きこくと)_一結(むすはん)_二交隣(かうりん)
   之(の)好(よしみを)_一而已(のみ)
秀吉公(ひでよしこう)より朝鮮(てうせん)の上副使(じやうふくし)共(とも)に。銀(きん)四百 両(りやう)を賜(たま)ふ其外(そのほか)書状(しよじやう)通事官(つうじくわん)以上(いじやう)各々(おの〳〵)
差(しな)あつて。御 ̄ン暇(いとま)賜(たま)はりければ今日(こんにち)京都(きやうと)を発(はつ)し。帰国(きこく)にこそは趣(おもむ)きける。
   棄君(すてきみ)誕生(たんぜう)《割書:并(ならひに)》逝去(せいきよ)の事(こと)
明(あく)れは天正(てんしやう)十九 年(ねん)正月元日。秀吉公(ひでよしこう)今日(こんにち)参内(さんだい)の御儀式(ごぎしき)華(はな)をかざり。路(ろ)
次(じ)の警衛(けいえい)嚴重(げんぢう)に執行(とりおこな)はせ給(たま)ふて。公事(おほやけ)の御祝事(おんいわひこと)をはりければ。東西南(とうざいなん)
北(ぼく)の諸大名(しよだいみやう)聚楽城(じゆらくしやう)に相集(あひあつま)りて。年頭(ねんとう)の御 ̄ン慶(よろこび)申 上(あぐ)る。去年(きよねん)相州(さうしう)小田(をだ)
原(はら)一戦(いつせん)に北条氏政(ほうでううちまさ)頭(かうべ)を授(さづく)るの後(のち)は天下一統(てんかいつとう)の御代(みよ)とをさまり。吹風(ふくかぜ)枝(えだ)をな
らさず長閑(のどか)なる春(はる)に立回(たちかへ)【囘は古字】り。京洛(けいらく)伏見(ふしみ)大坂(おほさか)の間(あひだ)には万馬(ばんば)の往来(わうらい)。日々(ひゞ)路頭(ろとう)を

去(さ)りあへず。目出度(めでたき)御代(みよ)の瑞祥(しるし)ぞと喜(よろこ)ばざる者(もの)もなし。秀吉公(ひでよしこう)しば〳〵諸大(しよだい)
名(みやう)近従(きんじふ)の第宅(ていたく)に御駕(おんが)をまげられ。茶(ちや)の会(くわい)遊楽(ゆうらく)さま〳〵の観(みもの)をつくして観(くわん)
樂(らく)を極(きわ)め給ふ。中(なか)にも技曲(きゞよく)をすかせ給へ南都四座(なんとよざ)の猿樂(さるらく)どもを召聚(めしあつ)めて。その家(いへ)
々(いへ)の秘曲(ひしよく)を尽(つく)させ上覧(しやうらん)あるこそ目出度(めでた)けれ。又(また)去年(きよねん)の夏(なつ)秀吉公(ひでよしこう)の愛(あひ)【ママ】さ
せ給ふ。女中(ぢよちう)の腹(はら)に男子(なんし)出来(てき)させ給ふあり。此女(このおんな)は浅井備前守長政(あさゐびぜんのかみながまさ)が女(むすめ)なり。
秀吉公(ひでよしこう)御齢五十(おんよわひいそじ)に逾(こへ)給ふまで。未(いま)だ一處(ひとゝころ)の御子(おんこ)も出来(でき)給はぬに適々(たま〳〵)儲(まうけ)給ひ
たる。御 ̄ン子(こ)なるをましてや男子(なんし)にさへおはしませば。其(その)折節(をりせつ)の御 ̄ン祝(いわひ)大方(おほかた)なら
ず。されば諸大名(しよだいみやう)の在京(ざいきやう)あるは申(まう)すに及(およ)ばず。国々(くに〳〵)より若君(わかぎみ)の出来(でき)させ給ふ
慶賀(けいが)のためとて。参勤(さんきん)の輩(ともから)あれば或(あるひ)は遠路(えんろ)の使者(ししや)飛脚(ひきやく)。毎日(まいにち)引(ひき)もきら
すさゞめきわたり。京中(きやうぢう)の貴賎(きせん)の往来(わうらい)はにぎやかなりし事(こと)どもなり。即(すなは)ち御(おん)

名(な)を始(はじめ)は棄君(すてぎみ)と名付(なづけ)給ふが。あまり寵愛(てうあい)の意(こゝろ)より八幡太郎殿(はちまんたらうどの)と御 ̄ン名(な)をかへ
させ給ふて。掌中(たなこゝろ)の珊瑚(さんこ)優曇華(うどんげ)の花(はな)よりも猶(なほ)珍布(めづらしく)もてなし給ひける。目出度(めでたき)
中(なか)に其年(そのとし)も暮(く)れ。今年(ことし)もはや九月 中半(なかば)に成(なり)にける。かゝる所(ところ)に八幡太郎殿(はちまんたらうどの)い
かなる故(ゆゑ)ともなく。俄(にはか)に病(やまひ)つかせ給へは秀吉公(ひでよしこう)を初(はじ)めまゐらせ。内外(ないげ)の人々(ひと〳〵)手(て)に
汗(あせ)を握(にぎ)りて如何(いかゞ)あらんと云(いへ)るほど。次第(しだい)に御 ̄ン氣色(けしき)。重(おも)らせ給ふを諸方(しよはう)の名(めい)
医(い)。自己々々(おのれ〳〵)が良法(りやうはう)の覚(おぼ)へを尽(つく)し。御祈(おんいのり)の師(し)は丹誠(たんせい)を抽(ぬき)んづるといへども。
終(つひ)には医療(いりやう)の術(しゆつ)もたへ。神仏(しんぶつ)の加護(かご)の験(しるし)もなきにや。今(いま)は此世(このよ)のかぎりとなつ
て。女中(ぢよちう)の歎(なけ)き諸臣(しよしん)の譟動(さうどう)云(いふ)ばかりなく哀(あは)れなり。中(なか)に就(つい)て秀吉公(ひでよしこう)の御悼(おんいたみ)
悲歎(ひたん)の涙(なみだ)には袂(たもと)のかはく間(ま)もなし。情愛(じやうあい)常(つね)に思(おもひ)に焦(こが)れ惨怛(さんだつ)の色(いろ)肝(きも)を乾(かは)
かす。近從(きんじふ)の輩(ともがら)其(その)哀情(あいじやう)を示(しめ)さんとて髪(かみ)を断(き)り。若君(わかぎみ)の喪(も)にこもれる人(ひと)もあり

秀吉公(ひでよしこう)は憂鬱(ゆううつ)の御意(おんこゝろ)斯(かく)ても慰(なくさ)む事(こと)もありやと。清水寺(せいすいじ)に参詣(さんけい)ありて
彼所(かしこ)に滞留(たうりう)し給ふこと三日までに至(いた)りける。音羽山(おとはやま)の松(まつ)の風(かぜ)瀧(たき)の響(ひゞ)きに音(おと)そふ
るに。暁(あかつき)の夢(ゆめ)打(うち)さめ寝(ね)られぬまゝの思(おも)ひより。却(かへつ)て若君(わかぎみ)の哀(あひ)を引出(ひきいだ)す種(たね)とこそ
なれ。何(な)に慰(なださ)む意(こゝろ)はなく秀吉公(ひでよしこう)つく〳〵と。寝(ね)られぬ枕(まくら)をそはだてゝ思(おも)ひつゞけ
給ひけるやう。さても往古(いにしへ)より中華(もろこし)の軍兵(ぐんひやう)来(きた)つて。我国(わがくに)を侵(おか)せること幾度(いくたび)と云(いふ)
事(こと)なし。然(しか)れども本朝(ほんてう)より外国(ぐわいこく)を伐(うち)しことは。神功皇后(しんごうくわうごう)の三韓(さんかん)を征伐(せいばつ)し
給ふの外(ほか)。いまだ聞(きか)ざることなり今(いま)我(われ)卑賎(ひせん)の民間(みんかん)より震起(ふるひおこ)り。位(くらゐ)人官(にんくわん)の極(きは)め
に至(いた)り六十 州(しう)を掌(たなごゝろ)の中(うち)に握(にぎ)れる身(み)となれば。何(なに)不足(ふそく)の事(こと)もなく一生(いつせう)は憂(うれひ)なき
の地(ち)に座(ざ)し。起臥(おきふし)老(おひ)の安身(あんしん)をこそ樂(たのし)むべきと思(おも)ひつる甲斐(かひ)もなく方(まさ)に今(いま)掌中(しやうちう)
に珠(たま)くだけては再(ふたゝ)びかへる光(ひかり)なく。枝上(しじやう)に花(はな)散(ちり)て遂(つひ)に栄(さか)ふる色(いろ)を不見(みず)。されば

世間(せけん)のありさまを熟(つく〴〵)と案(あん)ずるに。幼年(ようねん)は泉中(せんちう)の夢(ゆめ)暁(あかつき)知(し)らぬ別(わか)れとなり。余(よ)
筭(さん)は風前(ふうぜん)の燈(ともしび)暮(くれ)をも頼(たの)まぬ憂(うれひ)に沈(しづ)んで。既(すで)に此生(このしよう)を蹙(しゞめ)んとす大丈夫(だいぢやうぶ)豈(あに)
鬱々(うつ〳〵)として歎(なげ)きに死(し)することあらんや。秀次(ひでつく)を以(もつ)て帝都(ていと)の守護(しゆご)となし。日(につ)
本国中(ほんこくちう)の事(こと)を掌(つかさどら)しめ。我(われ)は将(まさ)に大明国(たいみんこく)に入(いつ)て皇帝(くわうてい)とうちなつて。老(おひ)の鬱(うつ)
情(じやう)を晴(はら)さんに何(なん)の子細(しさい)かあるべき。其上(そのうへ)去年(きよねん)書翰(しよかん)を朝鮮(てうせん)に馳(は)せて略(ほゞ)此事(このこと)を
通(つう)ずと雖(いへ)ども。彼国(かのくに)未(いま)だ有無(うむ)の沙汰(さた)なし。是(これ)又(また)罪(つみ)せずんば有(あ)るべからず。我(わ)れ
思(おも)ふに先(まづ)大明(たいみん)をば打(うち)すて置(おき)。朝鮮(てうせん)を征伐(せいばつ)して朝鮮(てうせん)我(わ)が意(こゝろ)にしたがはゞ。彼(かれ)が兵(へい)を
先手(さきて)として軍(いくさ)を進(すゝ)めんに従(したがは)すんば。こと〳〵攻夷(せめたいら)ぐべし直(すぐ)に我(わ)が鉾先(ほこさき)を以(もつ)て。
大明(たいみん)に入(い)らんには手間(てま)どる事(こと)あるべからずと。思案(しあん)し給へ早々(そう〳〵)聚楽城(じゆらくじやう)に還(かへ)
らせ給ふは。ひとへに邪慢(じやまん)の天狗(てんく)どもよき折(をり)を窺(うかゞ)ひ。秀吉公(ひでよしこう)の心中(しんちう)に入(いり)かはりて障(しやう)

【右丁】
大閤秀吉公(たいかうひでよしこう)
大広間(おほひろま)に
出御(しゆつぎよ)五大老(ごたいらう)
中老(ちうらう)五奉行(ごふきやう)
をはじめ
諸役人(しよやくにん)
  諸大名(しよたいみやう)を
 集(あつ)め給ひ
朝鮮(てうせん)
征伐(せいはつ)の事(こと)を
仰出(おほせいだ)さる
主計頭(かずへのかみ)
清正(きよまさ)
先手(さきて)を
乞(こ)ふ

【左丁 絵画のみ】

㝵(げ)をなすとぞ聞(きこ)えける。
   秀吉公(ひでよしこう)朝鮮征伐(てうせんせいばつ)思立(おもひたち)の事(こと)
偖(さて)も秀吉公(ひでよしこう)清水寺(きよみつてら)より帰城(きじやう)あつて。近従(きんじふ)の人(ひと)に仰(おふ)せ付(つけ)られ早々(さう〳〵)。大老(たいらう)中老(ちうらう)
五奉行(ごぶぎやう)の者(もの)共(ども)は云(い)ふに及(およ)ばず。其外(そのほか)諸(もろ〳〵)の老功(らうこう)ある大将(たいしやう)ども末々(すゑ〳〵)の輩(ともがら)に至(いた)るま
て。こと〴〵く相誥(あひつむ)【詰とあるところ】べし評議(ひやうぎ)せんずる事(こと)ありと。触渡(ふれわた)すべきの上意(じやうい)あれば是(これ)は
如何(いか)なる珍事(ちんじ)ぞと。各々(おの〳〵)驚(おどろ)き早速(さつそく)にこの趣(おもむき)を述(のべ)たりけり此時(このとき)に。
大権現(だいごんげん)德川公(とくがはこう)。前田利家(まへだとしいへ)。浮田秀家(うきたひでいへ)。毛利輝元(もうりてるもと)。小早川隆景(こはやかはたかかげ)。これを天下(てんか)
の大老(たいらう)となし。生駒雅樂頭(いこまうたのかみ)。中村式部少輔一氏(なかむらしきぶせふゆうかつうぢ)。堀尾帯刀吉晴(ほりをたてわきよしはる)。を以(もつ)て中老(ちうらう)
と定(さだ)められたり。五奉行(ごぶぎやう)はなを前(まへ)に定(さだ)めおかるが如(ごと)くなり。時(とき)をうつさず在京(さいきやう)
の諸大名(しよだいみやう)役人(やくにん)まで登城(とじやう)あり。何事(なにごと)をか仰出(おふせいだ)さるゝやらんと思(おもひ)をこらして仕(し)

候(こう)ある程(ほど)なく。秀吉公(ひでよしこう)御出座(ごしゆつざ)あつて上意(じやうゐ)有(あり)けるは。日本(につぼん)すでに我手(わがて)に入(いり)て
天下(てんか)一 統(とう)の代(よ)となる事。一ッは面々(めん〳〵)の軍功(ぐんこう)ある故(ゆゑ)か。それにつゐては此国(このくに)を
は中納言(ちうなごん)に渡(わた)し。《割書:三好中納言秀次(みよしちうなごんひでつぐ)|秀吉公(ひでよしこう)の甥(おひ)なり》摂政(せつしやう)関白(くわんはく)ともに天機(てんき)をうかゞつて。彼(かれ)に
譲(ゆづ)り京都(きやうと)の守護(しゆご)とし。我(われ)大明(たいみん)に打渡(うちわた)りて彼(かの)所(ところ)をうちしたかひて隠居(ゐんきよ)
所(じよ)とせんとおもふが故(ゆゑ)。兼(かね)て去年(きよねん)朝鮮(てうせん)の使(つかひ)にもこの義(ぎ)をすでに云(いひ)つかはすの
ところ。其(その)返答(へんたふ)もいまだ是非(ぜひ)の沙汰(さた)におよばず。しかる時(とき)は彼国(かのくに)の怠(おこた)りなり。
是(これ)を征伐(せいはつ)せすんば有(ある)べからずことには。我(われ)すでに老屈(らうくつ)を催(もよほ)したれば事(こと)遅々(ちゝ)
におよぶ時(とき)は。その願(ねかひ)ひ中途(ちうと)にして空(むな)しからんは口(くち)おしき次第(しだい)なるへし。是(これ)
によつて俄(にはか)におもひ立(たつ)ところなり。二ッには日本(につほん)は小国(しやうこく)ゆへおの〳〵旧功(きうこう)の輩(ともがら)に
爵禄(しやくろく)を与(あた)へんと欲(ほつ)しても。我意(わかこゝろ)に叶(かな)はざれば我(わ)か武功(ふこう)の太刀先(たちさき)にて。大国(たいこく)

の山(やま)も川(かは)もみな我手(わがて)に入(い)れ。功作(こうさく)ある者(もの)どもには意(こゝろ)の如(ごと)く知行(ちぎやう)をも所持(しよぢ)
させん事(こと)は。なんぼうこゝろよき老(おひ)のなぐさみ頃日の鬱朦(うつもう)をはらさんに。此上(このうへ)は
有(ある)べからずとおもひ立(たつ)が故(ゆゑ)。諸老中(しよらうぢう)ともへ申 談(たん)せんため召(めし)よせしなり。おの〳〵は
何(なん)とおもふぞ異見(ゐけん)あらば。遠慮(ゑんりよ)なく申さるべしと上意(じやうゐ)ある。大老(たいらう)の面々(めん〳〵)
より五奉行衆(こぶぎやうしゆう)にいたるまで。おもひもよらぬ珍事(ちんじ)を承(うけ給は)り。当座(たうざ)に何(なん)と御返(ごへん)
荅(たふ)申さんやうなく。アツト計(はかり)にて互(たがひ)に目(め)と目(め)を見合(みやわせ)【語尾衍】せしばらく言葉(ことば)を出(いだ)
す人(ひと)もなし。実(じつ)に數百年来(すひやくねんらひ)日本(につほん)の大乱(たいらん)となつて。東西(とうざい)の国(くに)の終(おはり)まで年(ねん)
々(〳〵)の戦闘(せんとう)に父(ちゝ)に離(はな)れ子(こ)を殺(ころ)し。百 姓(しやう)は賦役(ふやく)にかり立(たて)られ人馬(にんば)非理(ひり)の労(らう)
困(こん)によつて。安(やす)き間(ひま)なき若(く)なりしもやうやく去年(きよねん)の秋(あき)よりこそ。暫(しばら)く大(たい)
平(へい)のきさしを顕(あらは)し。民(たみ)も公家(こうけ)も安楽(あんらく)の気(き)に移(うつ)らんとする時(とき)。又(また)大軍(たいぐん)を

動(どう)じでしらぬ行末(ゆうゑ)の風波(ふうは)をしのひて。見(み)も聞(きゝ)もせぬ人(ひと)の国(くに)へ怨(うら)みも起(おこ)
らぬ兵戈(へいくわ)を動(どう)じおもむかんことは。妻子(さいし)の難(なげ)き父母(ふぼ)の情(こゝろ)まで一々おもひ
つゞりみるほど。誰(たれ)一人の意(こゝろ)に宜(よろ)しとおもふべき満座(まんざ)の人々(ひと〳〵)さしうつむひて。
居(ゐ)たる許(ばかり)なり。斯(かく)ては上(かみ)の仰(おほせ)の御挨拶(こあいさつ)間抜(まぬけ)の仕(し)たる体(てい)に見(み)ゆる処(ところ)を。
徳川公(とくがはこう)しづかに仰出(おほせいだ)されて。是(これ)はめつらしき御沙汰(ごさた)にも御座(おはします)かな。一 段(だん)しかる
べうおぼへ候とある秀吉公(ひでよしこう)の御顔色(ごがんしよく)うるはしく見(み)へたるに。是(これ)につゞひて
高列(かうれつ)を出(いで)て申 上(あぐ)る旨(むね)あるは。加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)なり高声(かうしやう)にはり
あげて。偖(さて)も其昔(そのむかし) 神功皇后(しんかうくわうこう)の三 韓(かん)を攻(せめ)給ひしより。朝鮮(てうせん)は我国(わがくに)
の犬(いぬ)同前(どうせん)の定(あため)【ママ】にして。此方(こなた)の下知(げぢ)につき貢物(みつきもの)をも怠(おこた)りなく。年々(ねん〳〵)持参(じさん)
の筈(はづ)なるに。それさへ近代(きんたい)は其(その)沙汰(さた)を取失(とりうしな)ひ。につくひ仕形(しかた)に候あまつさへ

御 ̄ン尋(たつね)のおもむきの御 ̄ン返事(へんじ)まで遅々(ちゝ)におよぶ事(こと)その科(とが)宥免(ゆうめん)なされかたき
事(こと)勿論(もちろん)の義(ぎ)にて候なり殊(こと)には八 幡殿(まんどの)の御追善(こつゐせん)にも高麗(かうらい)へ御人数(こにんす)を
つかはされ面々(めん〳〵)の手柄次第(てがらしだい)に御知行(ごちぎやう)を下(くた)され武士(ぶし)の意(こゝろ)を悦(よろこは)せ給はんは是(これ)
に過(すぎ)たる御法事(ごはふじ)は候まじ弥(いよ〳〵)事(こと)の決(けつ)する上(うへ)は清正(きよまさ)身(み)不肖(ふせう)に候へど御 ̄ン先(さき)
手(て)の御免(ごめん)蒙(かうふ)り生(いき)ながら高麗王(かうらいわう)を引(ひつ)とらへ対定乞(たいぢやうこひ)を仕(つかまつ)らせ日本(につほん)への
年貢諸役(ねんぐしよやく)をつとめさせそれより大明(たいみん)の案内(あんない)に駆立(かりたて)て分捕(ぶんどり)高名(かうみやう)仕(つかまつ)ら
んは子細(しさい)なき事に候といきり切(きつ)て申せば秀吉公(ひでよしこう)は大(おほひ)に御機(ごき)げんよくて
称(なんぢ)が申す通(とほ)り聊(いさゝ)か吾(わが)こゝろに違(たが)ふ事(こと)なしと即時(そくし)に人數(にんす)割備(わりそなひ)定(さた)め
の評定(ひやうぢやう)を仰出(おほせいだ)されけるとなり
朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之三《割書:終目》

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之四
      目録
 一 朝鮮征伐(てうせんせいばつ)船造(ふなつくり)の事(こと)
 一 秀吉公(ひでよしこう)書(しよ)を琉球国(りうきうこく)へ遣(つかは)さるゝ事(こと)
 一 朝鮮(てうせん)大明(たいみん)へつぐる事(こと)
 一 朝鮮国(てうせんこく)日本(につほん)の軍(ぐん)をおそる《割書:并》英雄(えいゆう)を選(えらぶ)事(こと)
 一 朝鮮(てうせん)に到(いた)る人数(にんず)着当(ちやくたう)の事(こと)
 一 秀吉公(ひでよしこう)筑紫(つくし)御進発(ごしんはつ)の事(こと)
 一 秀吉公(ひでよしこう)所々(しよ〳〵)神社(じんじや)御参詣(ごさんけい)の事(こと)
 一 渡海(とかい)の諸将(しよしやう)軍評諚(いくさひやうちやう)《割書:并》 逆風(きやくふう)に逢(あふ)事(こと)

 一 小西行長(こにしゆきなが)抜懸(ぬけがけ)《割書:附 》藤堂高虎(とう〴〵たかとら)唐島(からしま)を放火(はうくわ)の事(こと)

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之四

   朝鮮征伐(てうせんせいばつ)船造(ふなつくり)の事(こと)

五奉行(ごぶぎやう)の人々(ひと〳〵)は。すでに如此(かくのごとく)備定(そなひさだ)めの仰(おほせ)出(いだ)され有(ある)うへは。是(これ)を今(いま)さらとゞめ申
すとも。事止(ことやむ)むべき義(ぎ)にあらねば。諸大名(しよだいみやう)に触渡(ふれわた)して早(はや)く御 ̄ン支度(したく)をな
さしむるにしくべからずと。一々 次第(しだい)に触(ふれ)つかはし城内(じやうない)に是(これ)を招集(めしあつ)めて。此儀(このぎ)を
かたく決定(けつぢやう)せり。第一(たいゝち)に標汒(ひやうぼう)たる海路(かいろ)を大軍(たいぐん)の押渡(おしわた)らんに。船楫(ふねかぢ)悪(あし)ふしては叶(かなふ)
べからずと。御 ̄ン船奉行(ふねぶぎやう)九鬼大隅守嘉隆(くきおほすみのかみよしたか)を伊勢(いせ)の浦辺(うらべ)につかはし。
大(おほ)いなる軍船(ぐんせん)数(す)百 艘(さう)造(つく)らしむ。その第一(たいゝち)に尤(もつとも)大(おほ)いなるをば日丸(につほんまる)と
号(ごう)して。これ秀吉公(ひでよしこう)の召(め)さるべき御座船(ござふね)の領(れう)とぞ聞(きこ)えたりその

外(ほか)四国(しこく)中国(ちうごく)九州(きうしう)の船(ふね)たよりよき国々(くに〳〵)の大名(たいみやう)も。各(おの〳〵)渡海(とかい)の仕度(したく)のために
大船(おほふね)多(おほ)く作(つく)り立(たて)て。兵粮米(ひやうらうまい)を儲(たくは)へ軍兵(ぐんひやう)を催促(さいそく)して。人々(ひと〳〵)打立(うちたつ)べき用意(ようい)
の外(ほか)今更(いまさら)余事(よじ)はなかりける。時(とき)に秀吉公(ひでよしこう)重(かさ)ねて仰(おほせ)いださるゝは。来年(らいねん)
正月 先陣(せんぢん)の兵(へい)どもははやく洌山(うるさん)にすゝみ。二三月に至(いた)つて諸軍(しよぐん)こと〳〵く
渡海(とかい)すべし。我(われ)まさに旅館(りよくわん)を肥前(ひぜん)名護屋(なごや)につくり。其所(そのところ)に居(ゐ)て軍旅(ぐんりよ)の
指図(さしづ)におゐて如此(かくのごとく)は。便(たよ)りよからんか又(また)東国(とうごく)の兵士(へいし)は。山谷(さんこく)馬上(ばじやう)にのみ達(たつ)
者(しや)にして。舟軍(ふないくさ)に不勝手(ふかつて)なれば是(これ)をば名護屋(なごや)に屯(あつ)め置(おき)。その国(くに)の遠近(えんきん)を
はかりて兵(へい)の多少(たしやう)を出(いだ)さすべし。其(その)また方角(はうがく)の近(ちか)からんところは。常(つね)の軍役(ぐんやく)
なかばを出(いだ)すべし。遠(とほ)くして勝手(かつて)のよからぬは其兵(そのへい)三が一。或(あるひ)は五分(ごぶ)にして其(その)一を出(いだ)
して何(いづ)れもまさに此法(このはう)を守(まも)るべし。又(また)南海(なんかい)四国(しこく)九州(きうしう)の兵(へい)はつねに。舟軍(ふないくさ)になれ

たらん者共(ものども)は。皆々(みな〳〵)朝鮮(てうせん)に押(おし)わたりて軍功(くんこう)をはげますへしと。約束法度(やくそくはつと)
を定(さだ)めて又(また)京都(きやうと)の警衛(けいえい)大坂(おほさか)の番手(ばんて)まで。其(その)人数(にんず)を定(さだ)め置(おか)れけり。
   秀吉公(ひでよしこう)書(しよ)を琉球国(りうきうこく)へ遣(つかは)す事(こと)
秀吉公(ひでよしこう)はこゝに於(おゐ)て今度(こんど)朝鮮征伐(てうせんせいばつ)のあらんとすることを琉球国(りうきうこく)にも
告知(つけし)らせ其(その)威風(いふう)をしめさんとて一書(いつしよ)をしたゝめ。島津兵庫頭(しまづひやうごのかみ)に仰付(おふせつけ)
られて贈(おく)り遣(つかは)さる其趣(そのおもむき)に曰(いはく)
  吾(われ)勃(ほつ)_二興(こふし)于 蓬(ほう)姿(しに)_一順(したがつて)_二武威(ぶい)之(の)運(うんに)_一 六十(ろくじう)餘州(よしう)既(すでに)入(いる)_二彀(やごろの)中(うちに)_一
  故(ゆゑ)。殊域(しゆいき)避方(かほう)来庭(らいていする)者(もの)不(からず)_レ少(すくな)吾(われ)今(いま)将(まさに)_レ征(せいせんと)_二大明(たいみんを)_一是(これ)天(てんの)所(ところ)
_レ授(さづくる)也(なり)蕞(すこし)禾(きなる)琉球(りうきう)未(いまだ)【左ルビ:■】_レ通(つうぜ)_二聘帛(へいはくを)_一吾(われ)欲(ほつす)_下遣(つかはして)_レ兵(へいを)征(せいせんと)_上_レ之(これを)而(しかも)原田(はらだ)
  孫七朗(まごしちらう)以(もつて)_二南舶(なんはく)之(の)有(ある)_一_レ利(り)故(ゆゑに)屢(しば〳〵)往(わう)-_二来(らいす)于 琉球(りうきうに)_一比(この)頃(ころ)俾(▢て)_下【左ルビ:■しむ】

  近臣(きんしんを)_一達(たつ)_中-告(こう)吾(われに)_上曰(いはく)速(すみやかに)赴(おもむき)_二琉球(りうきうに)_一説(とかば)_下本朝(ほんてう)征(せいする)_二明国(みんこくを)_一之(の)旨(むねを)【上点脱】則(すなはち)
  其(その)来亨(らいきやうせんこと)不(ず)_レ可(べから)_レ疑(うたがふ)焉 是(この)故(ゆゑに)余(よ)暫(しばらく)宥(なだめ)_レ之(これを)来春(らいしゆん)出(いだす)_レ師(いくさ)之(この)日(ひ)
  速(すみやかに)可(べし)_二来(きたり)謁(ゑつす)_一若(もし)怠(おこたつて)而不(すんば)【レ点脱】至(いたら)則(すなはち)其(それ)必(かならず)遣(つかはし)_二大 兵(へいを)_一焼(やき)_二其(その)城郭(しやうくわく)_一
  鏖(みなごろし)_二其(その)島民(たうみんを)_一可(べし)_レ運(めくらす)_二于掌上(たなごゝろのうえに)_一
と認(したゝ)めて是(これ)を贈(おく)られけるところに。琉球(りうきう)の君臣(くんしん)この書(しよ)を得(え)て大(おほい)に驚(おとろ)き早速(さつそく)
に官人(くわんにん)。鄭禮(ていれい)と云者(いふもの)を使(つかひ)とし大明国(たいみんこく)へこの旨(むね)を告(つ)け訟(うつた)ふ。福建(ふくけん)巡撫使(しゆんぶし)趙(てう)
参魯(さんろ)といへる者(もの)の吹虚(すいきよ)によりて。日本 入寇(にゆこう)するの支度(したく)専(もつぱ)らなる由(よし)伝(つた)へ承(うけ給は)る
所(ところ)なりと。委曲(いきよく)に子細(しさい)のやうを申(まう)せば又(また)江右(こうゆう)の閩人(みんじん)許議(きよき)といふ者(もの)。近年(きんねん)薩(さつ)
摩(ま)の国(くに)に在(あり)て医(い)を業(げふ)として居(ゐ)たりけり又(また)同郷(どうきやう)朱均(しゆきん)といへる者(もの)是(これ)も
薩摩(さつま)の国(くに)に居(ゐ)たりしが。蜜(ひそか)に相議(あひぎ)して福建(ふくけん)の守(まも)りたる大明の臣(しん)に右(みき)

の旨(むね)を告(つげ)やりける大明帝(たいみんてい)は敢(あへ)て是等(これら)を恐(おそ)るべき事(こと)ともせず。唯(たゝ)海浜(かいへん)
の兵士(へいし)に令(れい)して軍船(ぐんせん)をとゝのへたる用心(ようじん)の事(こと)ばかりなり。琉球(りうきう)よりも日本(につほん)へ
返(へん)書も贈(おく)らすして。さて止(や)みたりける
   朝鮮(てうせん)大明(たいみん)へ急援(きふえん)を告(つぐ)る事(こと)
茲歳(ことし)大明国(たいみんこく)萬暦(ばんれき)辛卯(かのとう)は。日本(につほん)の天正(てんしやう)十九 年(ねん)に当(あた)れり。然(しか)れば去年(きよねん)
朝鮮(てうせん)より我国(わがくに)へ指遣(さしつかは)すところの。来使(らいし)黄允吉(くわういんきつ)金誠一(きんせいいつ)が等(ともから)此春(このはる)に至(いた)り
て帰国(きこく)なす。両使(りやうし)はすでに来朝(らいてう)して日本(につほん)にありし時(とき)。彼国(かのくに)のもてなしの
体(てい)より始(はじ)め。秀吉公(ひでよしこう)の風度(ふうど)諸臣(しよしん)のやうすまてくわしく是(これ)を述(のべ)おわつて
再(ふたゝ)ひ誠一(せいいつ)申(まうす)やう。我等(わかともから)まさに帰国(きこく)せんとするに当(あた)りて。彼国(かのくに)の荅書(たふしよ)を
裁(さい)せず。先(まづ)両人(りやうにん)の者(もの)は回(かへ)り去(さ)るべし後(あと)より荅書(たふしよ)をやらんと云(い)ひし。其時(そのとき)

【右丁】
朝鮮王(てうせんわう)
日本(につほん)より帰(かへ)る
の両使(りやうし)を召(め)し。
諸臣(しよしん)朝参(てうさん)
して一たびは
怒(いか)り一たびは
おそる

【左丁 絵画のみ】

我等(われら)重(かさ)ねて申けるゆうは。使臣(ししん)として国書(こくしよ)を奉(ほう)じ来(きた)りながら。若(もし)其(その)返書(へんしよ)
を受(うけ)ずして帰参(きさん)いたしなば。是(これ)君命(くんめい)を草(くさ)【艸】莽(むら)に委(すつ)るに同(おな)じからんの条(でう)
是非(ぜひ)ともに乞受(こひうけ)て回(かへ)らんと申(まう)せしを。允吉(いんきつ)若(もし)や強(しひ)て此事(このこと)を請(こひ)なば秀(ひで)
吉(よし)か意(こゝろ)に逆(さか)つて。長(なか)く彼国(かのくに)に押留(おしとゞめ)られなんかと。俄(にはか)に我等(われら)をすゝめて海(うみ)
界(きは)の浜(はま)まで到(いた)り回(かへ)りて相待(あひまつ)とき。荅書(たふしよ)始(はじ)めて到来(たうらい)せりされども其(その)ことば
礼(れい)なく。人(ひと)を慢(あなど)るの体(てい)多(おほ)くありし故(ゆゑ)。再三(さいさん)押返(おしかへ)してこれを改(あらた)めさせたる処(ところ)
なり。偖(さて)又(また)其(その)経来(へきた)る所々(ところ〳〵)の国主(こくしゆ)どもの贈(おく)り与(あた)ふる品々(しな〴〵)の音物(いんもつ)をは。金誠(きんせい)
一(いつ)全(まつた)く此(これ)を退(しりぞ)けて少(すこ)しも受納(うけおさむ)ることなしと語(かた)る。是(これ)より先(さき)黄允吉(くわういんきつ)すでに
釜山(ふさん)に回(かへ)り泊(とま)るとき。一使(いつし)を馳(はせ)て王城(わうしやう)へ其(その)量見(りやうけん)を述(のべ)て曰(いは)く日本(につほん)の様(やう)を
窺(うかゞ)ひ候にかならず兵禍(へいくわ)ちかきに起(おこ)り来(きた)り候はんか。早(はや)く御用心(こようじん)の事(こと)ある

べしこれによつて先(さき)だつて注進(ちうしん)に及(およ)べりと訟(うつた)へしにより。今日(こんにち)当着(たうちやく)の時(とき)早々(さう〳〵)此(この)
議(き)を相謀(あひはか)らんとて。朝鮮王(てうせんわう)自(みづか)ら両使(りやうし)を召(めし)て尋問(たづねとは)る。允吉(いんきつ)が対(こた)ふる処(ところ)全(まつた)
く前(まへ)に述(のぶ)るが如(ごと)し。誠一(せいゝち)に再(ふたゝ)び此議(このき)を尋(たつ)ねらるゝに誠一(せいいち)が荅(こた)へは大(おほい)に相違(さうゐ)し。
何(なに)をもつて兵事(へいじ)の禍(わざは)ひあらんと云事(いふこと)を允吉(いんきつ)は見申(みまうず)や。臣(しん)は且(かつ)て存(ぞん)じ別(わか)
つことなし。允吉(いんきつ)謾(みだ)りに人(ひと)の心(こゝろ)を譟動(さうどう)せしむるに至(いた)るかと云(い)ふ。諸(もろ〳〵)の議(ぎ)
者(しや)あるひは允吉(いんきつ)を主(しゆ)として是(これ)を取(と)るもあり。また誠一(せいゝち)を是(ぜ)なりといへる
者(もの)もあつて一座(いちさ)紛々(ふん〳〵)の説(せつ)やまざりける。時(とき)に柳相(りうしやう)誠一(せいゝち)に向(むか)ひ君(きみ)が言(こと)黄使(くわうし)
と相違(さうゐ)す。万一(まんいち)兵(へい)起(おこ)りて油断(ゆだん)あらば。君(きみ)是(これ)をいかんとかせんと云(い)ふ。誠一(せいゝつ)重(かさ)
ねて吾(われ)と云(い)へども。豈(あに)よく倭人(わじん)の終(つひ)に変動(へんとう)あるまじきといふ事(こと)の見定(みさだ)め
はなけれども。たゞ黄(くわう)が言(こと)のはなはだ重(おも)く申(まうす)を聞(きい)て。朝廷(てうてい)も野外(やぐわい)も以(もつて)の

外(ほか)に驚(おどろ)きまどひ候を心(こゝろ)落付(おちつけ)申(まう)さんため。かくは荅(こた)へ候なり強(しひ)て兵禍(へいくわ)のあ
るまじきとは肯(うけが)ひにくき事(こと)なりといふ。しかのみならず倭(わ)より来(きた)れる返書(へんしよ)に
兵(へい)を率(ひい)て超(こへ)て大明(たいみん)へ入(い)らんの語(ご)あり。柳相(りうしやう)議(ぎ)して此言(このこと)只(たゞ)に黙(もく)すべきにあらず。
早(はや)く使臣(ししん)をもつて天朝(てんてう)《割書:大明|を指(さす)》へ奏聞(さうもん)すべしといへば。或(あるひ)は又云(またいふ)恐(おそ)らくば此言(このこと)を
皇朝(くわうてう)に申(まう)さんとき。我国(わがくに)の私(わたくし)に倭國(わこく)に通(つう)ぜしことを尤(とか)め罪(つみ)せられんか。一(いつ)に
これを諱(いみ)かくして告(つげ)ざるがましならんといふ。柳相(りうしやう)時(とき)におしかへして夫(それ)事(こと)に因(よつ)
て隣国(りんごく)に往來(わうらい)する事(こと)古(いにし)へより。民(たみ)を保(たも)つの仁徳(じんとく)より免(まぬか)れざるの例(ためし)ありむかし
成化(せいくわ)の間(あひだ)にも日本(につほん)より我(われ)にたよりて。貢物(みつぎもの)を中国(ちうごく)に求(もと)むる時(とき)即(すなは)ち其実(そのじつ)
を尽(つく)して奏聞(さうもん)せしに。勅(ちよく)あつて此旨(このむね)を諭(さと)さる。前例(ぜんれい)すでに然(しか)るときは
独(ひと)り今日(こんにち)のみの科(とが)にあらず。今(いま)これを諱隠(いみかくし)て奏聞(さうもん)せざらんこと。大義(たいぎ)

に於(おゐ)てよからざるなり。況(いはん)や倭人(わじん)実(じつ)に順(じゆん)を犯(おか)すの謀(はかり)ことあつて他国(たこく)より是(これ)
を奏聞(そうもん)し。天朝(てんてう)反(かへ)つて我国(わがくに)の同謀(どうぼう)あるが故(ゆゑ)を以(もつ)て隠諱(かくしいめ)ると疑(うたが)はれんは。
其罪(そのつみ)なか〳〵通信(つうしん)の類(るい)にあらじと強(しひ)て申(まう)し請(こひ)たるに。朝鮮王(てうせんわう)も此議(このぎ)に
同(どう)し遂(つひ)に金應南(きんおうなん)と云(いへ)る者(もの)を使(つかひ)とし馳(はせ)て。此議(このぎ)を大明国(たいみんこく)に奏聞(そうもん)す時(とき)に
福建(ふくけん)の人(ひと)。許議俊(きよぎしゆん)。陳申(ちんしん)等(ら)倭人(わじん)のために捕(とら)へられ彼国(かのくに)にありけるも。密(ひそか)
に此事(このこと)を大明国(たいみんこく)に告(つ)げやり。又(また)琉球国(りうきうこく)の世子(せいし)しきりに使(つかひ)を遣(つかは)して此事(このこと)
を奏(そう)する砌(みきり)なるに。朝鮮国(てうせんこく)の使(つかひ)のみ未(いま)だ大明(たいみん)に至(いた)らざる故(ゆゑ)を以(もつ)て。大明(たいみん)
帝(てい)は扨(さて)は朝鮮(てうせん)日本(につほん)と一(ひと)ッになつて大明(たいみん)へ二心(ふたこゝろ)ありけるやと。議論区々(きろんまち〳〵)な
る中(なか)に許國曽(きよこくそう)と云(い)へるものは。先立(さきだつ)て大明(たいみん)より朝鮮(てうせん)へ使節(しせつ)として来(きた)る者(もの)
なるが衆臣(しゆうしん)の論(ろん)を止(とゞ)めて曰(いは)く。朝鮮国(てうせんこく)の本朝(ほんてう)へ至誠(しせい)なる。かならず倭人(わじん)

とともに叛(そむ)くにあらじ。しばらく待(まつ)て見(み)給へと云(いふ)こと未(いま)だ久(ひさ)しからずして。
應南(おうなん)等(ら)が至(いた)るに付(つい)て。許公(きよこう)も大(おほい)によろこぶのみか朝議(てうぎ)も始(はじ)めて定(さだま)りけり。
   朝鮮国(てうせんこく)日本(につほん)の軍兵(ぐんひやう)をおそれ英雄(えいゆう)選(えら)む事(こと)
朝鮮王(てうせんわう)倭人(わしん)の難(なん)あらん事(こと)を憂(うれ)ふるが故(ゆゑ)。朝廷(てうてい)に日々(ひゞ)集会(しふくわい)して評(ひやう)
議(ぎ)を定(さだ)め。其(その)国辺(くにざかへ)の武事(ぶじ)を煆煉(たんれん)する輩(ともがら)をゑらむに。金晬(きんすゐ)といへる者(もの)
をすゝめて慶尚(けくしやく)の監司(かんし)となし。李洸(りくわう)を全羅(てるら)の監司(かんし)とし尹先覺(いせんかく)を
以(もつ)て。忠清監司(ちくせいかんし)と定(さだ)めて三道(さんだう)の巡見(じゆんけん)をなさしめ所々(しよ〳〵)の城地(じやうち)の修理(しゆり)を加(くわ)へ
兵具(へいぐ)器械(きかい)を備(そな)へ設(まう)く。三道(さんだう)の中(うち)慶尚道(けくしやくたい)の城(しろ)を築(きづ)くこと尤(もつとも)多(おほ)かりけり。
永川(えいせん)。清道(せいたい)。三嘉(さんか)。大丘(たいきう)。星州(せくしう)。釜山(ふさん)。東萊(とうねき)。晋州(しんしう)。尚(しやく)州。の如(こと)き左右(さいふ)の兵營(へいえい)とな
し。或(あるひ)は新(あらた)に築(きづ)くもあれば。或(あるひ)は古(ふる)きを増修(ましおさ)むもあり。時(とき)に昇平(しようへい)すでに久(ひさ)

しふして中外(ちうくわい)ともに安(やす)きに狎(な)れ。民間(みんかん)また労役(らうえき)をもつて憚(はゝか)りなやむの時(とき)な
れば。所々(しよ〳〵)の普請(ふしん)に召(めし)とられ往来(わうらい)の任歩(にんぶ)に駆立(かりたて)るを。無益(むえき)の事(こと)に労困(らうこん)す
るやうにのみ人々(ひと〳〵)覚(おぼ)えて。国家(こくか)の大事(だいじ)と思(おも)ふわきまへなく怨(うら)みの声(こゑ)路(みち)に載(みち)
たり。前(さき)の曲籍(てんせき)李魯(りろ)と云(い)ふ者(もの)柳相(りうしよう)に書(しよ)を贈(おく)りて。城(しろ)を築(きつ)くの良謀(りやうばう)に
非(あら)ざる事(こと)を言(い)ふ。そのうへ曰(いは)く三嘉(さんか)の地(ち)前(まへ)に鼎津(ていしん)の遥(はる)かなる水(みづ)を隔(へだ)てた
れば。倭人(わじん)よも飛(とん)ではこゝには渡(わた)るまじ。船(ふね)なくば何(なに)を以(もつ)てか克(よく)至(いた)らん何(なん)の
為(ため)にか浪(みだり)に版築(ふしん)して。民歩(みんぶ)を労(らう)するに至(いた)るやと云(い)ふ。夫(それ)万里(ばんり)の滄溟(さうめい)だ
に障(さゝ)へ隔(へだ)つる事(こと)なくて超来(こえきた)らん。倭賊(わそく)をたゞ一帯(いつたい)の江水(こうすい)を以(もつ)て渡(わた)ること
叶(かな)ふべからずと決(けつ)して頼(たの)めるおろかさ。一時(いちし)の評論(ひやうろん)すべて如此(かくのごとく)なるこそうた
てけれ。又(また)弘文館(こうふんくわん)の書箚(しよたう)を奉(たてまつ)りて委曲(いきよく)の謀計(ばうけい)を論(ろん)ぜしに。其説(そのせつ)を用(もち)

ひずして。西南(せいなん)の築(きづ)ける所(ところ)みな其(その)地形(ぢぎやう)の勢(いきほ)ひに叶(かな)わず。たゞに濶大(くわつだい)の地(ち)を撰(えら)ん
て大勢(おほぜい)をいるゝを以(もつ)て専(もつはら)とす。晋州城(しんしうじやう)の如(ごと)きは本(もと)幸(さいわ)ひに其地(そのち)険(けん)【險は旧字】に拠(より)て守(まも)
りをなすべき事(こと)なるに。其古城(そのこじやう)の小(せう)なるを嫌(きら)つて新(あらた)に東面(とうめん)の地(ち)に移(うつ)して。
下(くだ)つて平地(ひらち)にこれを築(きづ)けり。其後(そのゝち)倭軍(わぐん)の此城(このしろ)に入(い)る事(こと)やすく。城(しろ)を保(たも)つに
至(いた)らざるこそ残念(ざんねん)なれ。また軍政(ぐんせい)の本(もと)たる大将(たいしやう)を択(えら)【擇は旧字】むにあり。また 大将(たいしやう)の
要(やう)たるは。軍事(ぐんじ)に組練人(ねれたるひと)を以(もつ)て付属(ふぞく)せんこそよかるへし。斯(かゝ)ることの計策(けいさく)
をば百(ひやく)に一ッも挙(きよ)せざる事(こと)こそ愚(おろか)かなれ。爰(こゝ)に井邑(せいゆう)監(かん)李舜臣(りしゆんしん)もとより
胆勇(たんゆう)謀略(ぼうりやく)のある者(もの)なればとて。擢(ぬき)んでられ全羅道(てるらだう)水軍(すいぐん)節度使(せつとし)になさ
れける。舜臣(しゆんしん)騎射(きしや)に鍛煉(たんれん)なる者(もの)なる故(ゆゑ)造山(ざうざん)の万戸(ばんこ)となつて。巡察使(じゆんさつし)鄭(てい)
彦信(げんしん)が幕下(ばつか)にあり。鹿屯島(ろくとんとう)の屯田(とんでん)たるとき一日 大(おほい)に霧暗(きりくら)く。暴雨(ぼうう)頻(しき)りに

至(いた)らんとするを見(み)。軍柵中(くんさくちう)の兵士(へいし)ども尽(こと〳〵)く。田畝(でんほ)【注】に出(いで)て刈(かり)たる禾(あわ)を取(と)り収(おさ)め
て。留守(るす)には僅(わづか)十人のこり居(ゐ)る時節(じせつ)にのぞんで。俄(にはか)に胡人(こじん)の騎馬(きば)を連(つら)ねて襲(おそひ)
来(きた)るを。舜臣(しゆんしん)ははやく柵門(さくもん)を閉(とぢ)かため。自(みづか)ら柳葉箭(りうやうせん)をおつとり柵(さく)の内(うち)よ
りさしとり引(ひき)つめ。散々(さん〴〵)に射立(ゐたて)れば何(なに)かはもつてたまるへき。賊(ぞく)数十騎(ずしうき)をやに
はに馬(うま)より射倒(いたふ)しけり。胡虜(こりよ)是(これ)に驚(おどろ)いて忽(たちま)ちに退(しりそ)き去(さ)る。舜臣(しゆんしん)夫(それ)より
大(おほき)に門(もん)をひらかせ。只(たゝ)一騎(いつき)にて馬(うま)駈出(かけいだ)し大(おほい)に呼(さけ)んで是(これ)を逐(お)ふ。虜(ゑびす)どもこれに乱(みだ)
れ立(たつ)て尽(こと〳〵)く奔去(はしりさ)るは。全(まつた)く舜臣(しゆんしん)か力(ちから)なり然(しか)れども誰(たれ)あつてこれを朝廷(てうてい)に推(おし)
挙(あぐ)る者(もの)なふして。それより十四 年(ねん)小官(せうくわん)に隠(かく)れしを。今度(こんど)倭賊(わぞく)の急(きふ)なるゆゑに
召出(めしいだ)さるゝと聞(きこ)えけり。時(とき)に朝鮮(てうせん)の朝廷(てうてい)に武将(ぶしやう)多(おほ)しといへども。惟(たゞ)申砬(しんりつ)と李(り)
鎰(いつ)の二人のみ。最(もつと)も名(な)ある輩(ともがら)なりまた。慶尚右兵使(けくしやくゆうへいし)曹大坤(そうたいこん)已(すで)に其年(そのとし)老(おひ)に

【注 畝の古字「畞」の俗字】

【右丁 絵画のみ】

【左丁】
李舜臣(りしゆんしん)
 単騎(たんき)
にして
胡虜(ごろ)の
 賊兵(そくへい)を
  追(お)ふ

至(いた)れるのみならず。勇気(ゆうき)の劣(おと)れる男(おとこ)なれば柳相(りうしよう)請(こ)ふて李鎰(りいつ)をもつて。これに
代(かへ)給ふべき旨(むね)を申(まう)すと云(い)へとも。曹判書(そうはんしやう)洪(こう)。汝諄(しよしゆん)が強(しひ)て曰(いは)く。名将(めいしやう)は当(まさ)に京(きやう)
都(と)に在(あら)しむべし李鎰(りいつ)を遠所(えんしよ)に離(はな)ち遣(や)るべからずと。柳相(りうしよう)重(かさ)ねてすべての
事(こと)其議(そのき)にあづかるを以(もつ)て貴(たつと)しとせり。況(いはん)や兵(へい)を治(おさ)め敵(てき)を防(ふせ)ぐの道(みち)をや。
最(もつと)もみたりに弁(べん)ずべからず。一朝(いつてう)にして変(へん)あらばこれを遣(やら)ずんばあるべから
ず。同(おな)じくこれを遣(や)るならば早(はや)く遣(や)らんには及(しく)べからず。あらかしめ備(そな)ひて変(へん)
のおこるを待(また)んこそ能(よか)らんずれ。其上(そのうへ)に祖宗(そそう)より已来(このかた)鎮管(ちんくわん)の法(ほふ)あつて。諸(しよ)
道(たう)の兵(へい)を以(もつ)て所々(しよ〳〵)の鎮府(ちんふ)に付属(ふぞく)せしめ。鎮管(ちんくわん)にある所(ところ)の総大将(そうたいしやう)の下(げ)
知(ぢ)を請(こは)しむ。慶尚道(けくしやくたい)を以(もつ)て是(これ)を言(い)へば。金海(きんかい)。大丘(たいきう)。尚州(しやくしう)。慶州(けくしう)。安東(あんとう)。晋州(しんしう)。
これを六鎮(ろくちん)の場所(ばしよ)とす。一所(いつしよ)敵兵(てきへい)ある時(とき)は六鎮(ろくちん)これを救(すく)ふ。たとへば一鎮(いつちん)

たま〳〵利(り)を失(しつ)するといへども。他(た)の鎮(ちん)次第(しだい)に兵(へい)を厳(おごそか)にして堅(かた)く守(まも)るときはこ
と〳〵く靡(なび)き立(たつ)て奔(わし)り。潰(つい)ゆるに至(いた)るべからず此法(このはう)当今(いま)名(な)のみにして。実(じつ)は昔(むかし)
の如(ごと)くにあらず。一(いつ)に驚急(きやうきふ)の事(こと)あらば必(かならず)遠近(えんきん)謾(みだ)りに動(どう)じ。将(しやう)なきの軍(いくさ)を以(もつ)
て原野(げんや)の内(うち)に聚(あつ)め将師(しやうすゐ)を千里(せんり)の外(ほか)に待(また)んは。其(そ)れ勝利(しやうり)あるべからず。早(はや)く
古(いにし)への法(はう)によつて。名将(めいしやう)の武功(ぶこう)あるを撰(えら)んで所々(しよ〳〵)に分(わか)つて軍心(ぐんしん)総聞(すべきく)ところ
あらしめ給へと云ども。此議(このぎ)を行(おこ)なはれず明(あく)れば壬辰(みづのへたつ)の春(はる)申砬(しんりつ)。李鎰(りいつ)の
二将(にしやう)を分(わか)ちつかはし。辺(へん)の備(そな)ひの懈(おこたり)を巡見(じゆんけん)せしめ李鎰(りいつ)は忠清(ちくしやく)全羅道(てるらたい)
に往(ゆ)き。申砬(しんりつ)は京畿(けんき)黄海道(べかいたい)に行(ゆか)しめらる。点撿(てんけん)するところの事(こと)は弓矢(きうし)
搶刀(そうたう)の事(こと)のみなり。申砬(しんりつ)素(もと)より残暴(ざんばう)の名(な)ある者(もの)にして至(いた)る所(ところ)の人(ひと)を殺(ころ)し。
威(い)を立(た)て我意(がい)を震(ふる)ふにより。所々(ところ〴〵)の守令(しゆれい)たゞこれを畏(おそ)るゝのみなれば。

人歩(にんぶ)を発(はつ)し道路(だうろ)を治(おさ)め。馳走饗應(ちそうきやうおう)の事(こと)のみを専(もつは)らに勤(つと)めとし。其(その)
他(た)の備(そな)ひ禦(ふせ)ぎの長(なが)き策(はかりごと)におゐては聊(いさゝか)もなかりけり。程(ほど)なく二将(にしやう)は巡見(じゆんけん)し
終(おは)りて立回(たちかへ)【囘は俗字】る。かくて四月も一日になれば砬(りつ)は柳相(りうしよう)の宅(たく)に来(きた)りて。私(わたく)しの雜談(ぞうたん)
におよべる時(とき)柳相(りうしよう)これに問(と)ふて曰(いは)く。倭兵(わへい)のこゝに到(いた)り来(きた)らんことさもあれ早(い)
晩(つ)の時(とき)にか。変(へん)あらん且(かつ)又(また)今日(こんにち)賊(ぞく)の勢(いきほ)ひ難易(なんい)如何(いかん)とかするや。事(こと)興(おこ)ら
ば貴公(きこう)此任(このにん)に當(あた)るべきの人(ひと)たり。其謀(そのはかりごと)いづれに出(いで)んと思(おも)ひ給ふぞと問(とい)ける
に。申砬(しんりつ)はなはだ是(これ)を軽(かろん)じ何(なん)の憂(うれひ)とするに足(た)らんや。さのみ心(こゝろ)を労(らう)し
給ふべからすと云(い)ふ。柳相(りうしよう)重(かさ)ねて左(さ)にあらず往(さき)には倭兵(わへい)但(たゞ)に短兵(たんへい)を頼(たの)み
とせしが。今(いま)は鳥銃(てつほう)長技(ちやうぎ)をとれり軽(かろ)〳〵しく見(み)るべからず。其上(そのうへ)我(わが)國家(こくか)
久(ひさ)しく昇平(しようへい)の安楽(あんらく)に住(ぢう)して。士卒(しそつ)の意(こゝろ)おそれて弱(しやく)なり事(こと)急(きふ)なるに

至(いた)つては土(つち)の如(ごと)く崩(くづ)れ瓦(かはら)の如(ごと)く解(とけ)ん時(とき)。一旦(いつたん)にはこれを支(さゝ)へ防(ふせ)ぐに難(かた)からん
若(もし)戦闘(せんたう)数年(すねん)を経(へ)て。後(のち)人々(ひと〴〵)兵(へい)を習(なら)ひ法(はふ)を知(し)らん時(とき)はしるべからず。その
初(はじ)めに於(おゐ)て吾(われ)甚(はなは)だ此義(このぎ)を憂(うれひ)に思(おも)ひりといへども。申砬(しんりつ)かつて省悟(さとら)ず縦(たと)
ひ鳥銃(てつほう)ありとても。豈(あに)よくすべて当(あた)らんやと云(いひ)すてゝ其座(そのざ)を立(たち)さりけり。
申砬(しんりつ)初(はじ)め穏城府使(おんしやうふし)の官(くわん)にありし時(とき)。胡虜(ゑびす)来(きた)りて鍾城(しようじやう)を囲(かこ)むに砬(りつ)馳(はせ)
往(ゆき)て。纔(わづか)に十餘騎(じうよき)の兵(へい)にて胡虜(ゑびす)の大勢(おほぜい)を突撃(つきうつ)てこれを破(やぶ)るの功(こう)によつて。申(しん)
砬(りつ)が将(しよう)の量(りやう)あるを進(すゝ)め挙(あげ)られしものなるが。先日(さきのひ)趙栝(てうくわつ)が秦(しん)の兵(へい)を軽(かろ)ん
じ事(こと)に臨(のぞ)んで惧(おそ)るゝの意(こゝろ)のなかりしに。是(これ)又(また)克(よく)も似(に)たるかな如此(かくのごとく)の量見(りやうけん)
は。事(こと)の過(あやまち)を引出(ひきいだ)すべきかと識者(しきしや)は眉(まゆ)を皺(しは)めける
   朝鮮(てうせん)に到(いた)る人数(にんず)着当(ちやくたう)の事(こと)

同(おなじく)天正(てんしやう)十九 年(ねん)は豊臣秀吉公(とよとみひでよしこう)。朝鮮(てうせん)に渡海(とかい)すべき人数(にんず)又(また)は名護屋(なこや)に屯(とゞ)む
べきの。軍兵(ぐんひやう)を分(わか)ち定(さだ)め諸軍(しよくん)の手分(てわけ)をなし給ふ。時(とき)に秀吉公(ひでよしこう)仰出(おふせいだ)さるゝは
此度(このたび)朝鮮(てうせん)発向(はつかう)の先手(さきて)のことは。兼(かね)て主計頭(かずへのかみ)が望(のぞ)む所(ところ)といへども高麗(かうらい)。
渡海(とかい)の船路(ふなぢ)その筯(すぢ)不案内(ふあんない)にしては最(もつと)も衆(しゆう)を誤(あやま)るの事(こと)に至(いた)らんか。これ
によつて一の先手(さきて)は小西摂津守行長(こにしつのかみゆきなが)に相定(あひさだむ)る所(ところ)なりと。上意(じやうい)あれば加藤(かとう)
清正(きよまさ)も其意(そのい)畏(かしこま)りて随(したが)ひけるゆゑ。二の先手(さきて)とは定(さだめ)りけり一の先手(さきて)小西摂津(こにしつの)
守行長(かみゆきなが)。其兵(そのへい)七千 宗対馬守義智(そうつしまのかみよしあきら)其勢(そのせい)五千。松浦式部卿法印鎮信(まつらしきぶきゃうはういんちんしん)
三千。有馬修理太夫(ありましゆりだいふ)二千人。大村新八郎(おほむらしんはちらう)一千。宇久大和守(うくやまとのかみ)七百人。以上(いじやう)一万八
千七百人を右(みぎ)の先手(さきて)と相定(あひさだ)む。加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)一 万(まん)人。鍋島加賀守直(なべしまかゞのかみなほ)
茂(しげ)其兵(そのへい)一 万(まん)二千人。相良宮内大輔(さがらくないたいふ)八百人 此手(このて)合(あは)せて。二 万(まん)二千八百人を一手(いつて)

として是(これ)ぞ左(ひたり)の一 手(て)なり。主計頭(かずへのかみ)鬮(くし)を取(とつ)て一日 替(かは)りに。日(ひ)を隔(へだ)て先陣(せんぢん)を勤(つと)
むへきの仰付(おほせつけ)られたり。黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)その兵(へい)五千人。羽柴豊後守大友義(はしばぶんこのかみおほともよし)
統(とう)六千人。合(あはせ)て一万一千人 是(これ)三 番(ばん)の相備(あひそなひ)たり。島津兵庫頭義弘(しまつひやうこのかみよしひろ)その兵(へい)
一 万(まん)人 毛利壱岐守(もうりいきのかみ)二千人 高橋(たかはし)九郎二千人。秋月(あきつき)三郎 伊藤民部太輔(いとうみんぶたいふ)
島津又(しまつまた)七郎。おの〳〵一千人 合(あはせ)て一万七千人をもつて四 番(ばん)とす。五 番(はん)には福(ふく)
島左衛門大輔正則(しまさへもんたいふまさのり)。四千八百人 戸田民部少輔(とだみんぶしやういふ)三千九百人。長宗我部土佐(ちやうそかべとさの)
守元親(かみもとちか)三千六百人。合(あはせ)て一万二千三百人六 番(はん)には。蜂須賀阿波守(はちすかあはのかみ)七千二
百人。生駒雅楽頭(いこまうたのかみ)五千人。合(あはせ)て一万二千七百人。【一万二千二百人の誤】七 番(ばん)に小早川左衛門佐隆(こはやかはさゑもんのすけたか)
景(かげ)一万人 立花左近将監宗茂(たちばなんさこんしやうけんむねしげ)二千五百人。久留米侍従(くるめししふ)千五百人 高橋主(たかはししゆ)
膳(ぜん)正五百人。筑紫上野介(つくしかうつけのすけ)九百人。合(あはせ)一万五千七百人。【一万五千四百人の誤】八 番(ばん)は毛利右馬頭(もうりうまのかみ)

輝元(てるもと)。その兵(へい)三万人一 列(れつ)とす都合(つかふ)十四萬二百人【十三万九千四百人の誤】の著当(ちやくたう)なり。さて又(また)海路(かいりく)の人々(ひと〳〵)には九鬼(くき)
大隅守(おほすみのかみ)一千五百人。藤堂佐渡守高虎(とう〴〵さどのかみたかとら)二千人 。脇坂中務少輔(わきざかなかつかさしやういふ)千五百人。加藤左馬頭(かとうさまのかみ)
善明(よしあきら)七百五十人。来島出雲守(くるしまいづものかみ)七百人 菅平右衛門(すげへいゑもん)二百五十人。 桑山藤太(くわやまとうた)一千人
同(おなじく)小傅次(こでんし)一千人。堀内安房守(ほりうちあはのかみ)八百五十人 杉若傅三郎(すぎわかでんざふらう)六百五十人。都合(つかふ)十五万四百人【十四万九千六百人の誤】
海陸(かいりく)分(わかつ)て。押出(おしいた)すべき御軍法(こぐんはう)を定(さた)めらるゝは。天正(てんしやう)二十 年(ねん)壬辰 年号(ねんごう)こゝに改(あらた)まつて。
文禄元年(ぶんろくくわんねん)三月十日の御 ̄ン書出(かきだ)しと聞(きこ)へたり。渡海(とかい)の面々(めん〳〵)相守(あひまも)るべき数(す)ケ(か)條(でう)を
以(もつ)て諸手(しよて)大将(たいしやう)に触(ふれ)わたさせ給ふなり。既(すて)に四 国(こく)九州(きうしう)伊勢(いせ)紀伊国(きいのくに)の兵船(へいせん)は。順(じゆん)
をもつて乗出(のりいた)すべき仰出(おほせいだ)されなりとかや 徳川公(とくがはこう)其兵(そのへい)一万五千人 大和中(やまとちう)
納言英俊(なごんひてとし)《割書:秀長|の子》其兵(そのへい)一万 前田利家(まへだとしいへ)。その兵(へい)八千 徳川秀康(とくかはひでやす)其兵(そのへい)千五百
織田常真(おたじやうしん)《割書:信雄剃髪|して常信と号》其兵(そのへい)千五百 上杉景勝(うへすきかげかつ)其兵(そのへい)五千 蒲生氏郷(かまううじさと)其(その)

兵(へい)二千。佐竹義宣(さたけよしのぶ)其兵(そのへい)三千。伊達政宗(だてまさむね)その兵(へい)千五百。最上義光(もかみよしみつ)其兵(そのへい)一千。森(もり)
右近大夫忠政(うこんたいふたゞまさ)其兵(そのへい)二千。丹羽五郎左衛門長重(にはごらうさゑもんながしげ)其兵(そのへい)八百。木下勝俊(きのしたかつとし)其兵(そのへい)千
五百。北(きた)の庄(しやう)某(なにがし)六百人。同(おなじく)舎弟(しやてい)美作守村上周防(みまさかのかみむらかみすおふの)守二千人。溝口伯耆守(みそぐちほふきのかみ)千三百
人。木下宮内少輔(きのしたくないしやういふ)百五十人。水野下野守(みつのしもつけのかみ)千人。青木紀伊守(あをききのかみ)千人。宇津宮弥三(うつのみややさふ)
郎(らう)三百人。秋田太郎(あきたたらう)百二十人。津軽右京亮(つがるうきやうのすけ)五十人。南部大膳大夫(なんふだいぜんのたいふ)。本田伊(ほんだい)
勢守(せのかみ)。那須太郎(なすたらう)。日根野織部(ひねのおりへ)。北条美作守(ほうてうみのゝかみ)【「みまさかのかみ」の誤ヵ】伊藤長門守(いとうなかとのかみ)。凡(すべ)て外様(とさま)の大名(たいみやう)其(その)
勢(せい)六 万(まん)六千 余人(よにん)なり。扨(さて)又(また)近從(きんじふ)御 ̄ン手廻(てまは)りの人々(ひと〳〵)には。富田左近(とみたさこん)金森飛弾守(かなもりひたのかみ)
蜂屋大膳大夫(はちやだいぜんのだいぶ)。戸田武蔵守(とだむさしのかみ)。奥山佐渡守(おくやまさどのかみ)。池田備中守(いけだひつちうのかみ)。小出信濃守(こいてしなのゝかみ)津(つ)
田長門守(たながとのかみ)。仙谷越前守(せんごくゑちぜんのかみ)。木下右衛門大夫(きのしたゑもんのたいふ)。上田左太郎(うへださたらう)山崎左馬介(やまざきさまのすけ)。稲葉兵(いなはひやう)
庫助(このすけ)市橋下総(いちはししもふさ)。赤松上総介(あかまつかづさのすけ)羽柴下総守(はしはしもふさのかみ)大嶌雲(おほしまうん)八。伊藤弥吉(いとうやきち)。野村肥(のむらひ)

後守(このかみ)。木下右衛門(きのしたゑもん)。船越五郎右衛門(ふなこしごらうゑもん)。宮木藤左衛門(みやぎとうさゑもん)。橋本伊賀守(はしもといがのかみ)。鈴(すゝ)
木孫市(きまごいち)。生熊源介(いけぐまけんすけ)。羽柴(はしば)三 吉(きち)。長束大蔵少輔(ながつかおほくらのしやういふ)。古田織部(ふるたおりべ)。山崎右京進(やまざきうきやうのしん)
蒔田左衛門権佐(まへださゑもんのごんのすけ)。中江式部大輔(なかえしきぶのたいふ)。生駒修理亮(いこましゆりのすけ)。同(おなしく)主殿佐(とのものすけ)。溝口大炊助(みぞくちおほいのすけ)
川尻肥前守(かはしりひせんのかみ)。池田弥右衛門(いけだやゑもん)。大塩與一(おほしほよいち)。木下左京(きのしたさきやう)。矢部豊後守(やべぶんごのかみ)。有馬玄番(ありまけんばの)
助(すけ)。寺澤志摩守(てらさはしまのかみ)。寺西筑後守(てらにしちくごのかみ)。同(おなじく)次郎助(じらうすけ)。福原右馬助(ふくはらうまのすけ)。竹中丹後守(たけなかたんこのかみ)長谷(はせ)
川右兵衛尉(かわうひやうえのじやう)。松岡右京進(まつおかうきやうのしん)。松下右兵衛(まつしたうひやうえ)。氏家志摩守(うじいへしまのかみ)。同(おなじく)内膳正(ないぜんのかみ)。寺西右(てらにしう)
兵衛尉(ひやうえのしやう)服部土佐守(はつとりとさのかみ)。間嶌彦太郎(ましまひこたらう)。御 ̄ン馬廻(うままは)り御 ̄ン扈從組(こしやうぐみ)。御 ̄ン使番(つかひばん)弓鉄(ゆみてつ)
砲(ほう)の物頭(ものかしら)諸役人(しよやくにん)御 ̄ン中間(ちうげん)以下(いか)に至(いた)つて凡(すべ)て五千七百 余人(よにん)は是(これ)御 ̄ン手廻(てまは)
りと聞(きこ)えたり又(また)別(べつ)に六万の人数(にんず)を分(わけ)て遊兵(ゆうへい)と定置(さだめおき)給ふ。すでに朝鮮(てうせん)渡海(とかい)
の兵(へい)《割書:十五万二千 余人(よにん)とも云|或は十三万 余人(よにん)とも云》まことに多(おほ)しと申せども。大明(たいみん)よりの援(えん)

兵(へい)の多(おほ)からん時(とき)に。其手当(そのてあて)となさんためとこそ知(り)られたり。
   秀吉公(ひでよしこう)筑紫(つくし)御進発(ごしんばつ)の事(こと)
今年(ことし)文禄元壬辰年(ふんろくくわんみづのへたつどし)三月には。秀吉公(ひでよしこう)肥前(ひぜん)名護屋(なごや)へおもむき給ふよしに
相極(あひきはま)る。すでに去年(きよねん)より彼所(かしこ)御狩屋(おんかりや)の普請(ふしん)等(とう)を。近習(きんじゆ)外様(とざま)の差別(さべつ)なく
一所(いつしよ)〳〵を分(わか)つて。其(その)もよりよき大名(たいみやう)小名(せうみやう)に仰付(おふせつけ)られしかば。大勢(おほぜい)の人数(にんす)を
以(もつ)て本丸(ほんまる)二の丸(まる)。楼門(ろうもん)矢倉(やくら)は申(まう)すに及(およ)ばず。奥(おく)の局(つぼね)に山里(やまさと)の数寄屋(すきや)築山(つきやま)
遣水(やりみつ)所々(しよ〳〵)の番所(ばんしよ)まで木石(ぼくせき)を撰(えら)み工匠(くしよう)を揃(そろ)へて奇羅(きら)をみがける間所(まどころ)。大小
五六十 処(しよ)の造作(ざうさく)を数月(すげつ)も経(へ)ざるに出来(しゆつたい)せしかば。分別(ふんべつ)なき者(もの)とも云(いひ)けるは
是(これ)ひとへに。太閤(たいこう)の御器量(ごきりやう)の広(ひろ)きと又(また)御威風(ごいふう)の強(つよ)きをもつて。流石(さすが)武功(ぶこう)の人々(ひと〴〵)
まて畏(おそ)れ仰(あほ)ぐがゆゑにより。何事(なにごと)にもあれ御 ̄ン意(こゝろ)に叶(かな)わぬ事(こと)のなきを見(み)よと。

【右丁】
秀吉公(ひでよしこう)
 行装(ぎやうそう)
花麗(くわれい)に
 して
 筑紫(つくし)
御進発(ごしんばつ)
  の図(ず)

【左丁 絵画のみ】

のゝしる者(もの)もあれば。また適(たま)〳〵多(おほ)き人(ひと)の中(なか)には是非(せひ)の理(ことは)り知(し)りたる人(ひと)は。異域(いいき)に
兵(へい)を弄(もてあそ)んでよしなき民(たみ)を怨鬼(ゑんき)となし。それさへあるに大兵(たいへい)を興(おこ)す国(くに)の費(ついえ)の
大方(おほかた)ならぬがゆゑを以(もつ)て百姓(ひやくしやう)は云(いふ)に及(およ)ばず大名(たいみやう)も近年(きんねん)困窮(こんきう)なるに一朝(いつてう)の驕(おこり)と
て仮屋(かりや)の普請(ふしん)の結搆(けつかう)は何事(なにごと)ぞやと謗(そし)れる者(もの)も多(おほ)かりける。斯(かく)て三月に
至(いた)つては秀吉公(ひでよしこう)の御 ̄ン備(そなひ)段々(たん〳〵)に打起(うちたつ)べきに極(きわ)まれば諸老臣(しよらうしん)一やうに。大将軍(たいしやうくん)名護(なご)
屋(や)に御在陣(こさいちん)あるなれば。定(さた)めて大明(たいみん)朝鮮(てうせん)をかきらす書翰(しよかん)の遣取(やりとり)も多(おほ)から
んに。文才(ぶんさい)の者(もの)なくんば叶(かな)ふべからず。一両輩(いちりやうはい)其者(そのもの)をゑらんで召具(めしぐ)せられんかと
申(まう)せば。秀吉公(ひでよしこう)聞召(きこしめし)我(われ)大明(たいみん)朝鮮(てうせん)の人(ひと)をして。今(いま)よりは其(その)文字(もんし)を抛(なけう)たせて悉(こと〳〵)く
吾國(わかくに)のいろはをしらしむるに。何(なん)の難(かた)事(こと)かあらん。何(なに)無益(むえき)の徒(ともから)を携(たつさ)へんや
と宣(のたま)へば。老臣(らうしん)といへども再(ふたゝ)び此旨(このむね)を強(しひ)て。進(すゝ)むることの叶(かなは)さるゆゑ其後(そのゝち)は言(ことば)

をかへす者(もの)もなし。秀吉公(ひでよしこう)其夜(そのよ)思案(しあん)し給へけん翌日(よくしつ)則(すなは)ち相国寺(しようこくし)の僧(そう)承兌(しようゑつ)
南禅寺(なんぜんじ)の僧。霊山(れいさん)東福寺(とうふくし)の僧(そう)永哲(えいてつ)等(ら)を促(うなが)して。ともに名護屋(なごや)におもむ
き給ふ。同月(どうげつ)二十六日に秀吉公(ひでよしこう)京(きやう)を出(いで)て備押(そなひおし)あらんとす。京洛(けいらく)の町人(ちやうにん)百姓(ひやくせう)に
至(いた)るまで今日(こんにち)の行装(ぎやうそう)を見物(けんぶつ)すべき旨(むね)。御免(ごめん)あれば其通路(そのつうろ)たる小路(こうぢ)〳〵町家(まちや)
の肆店(みせたな)寺社(じしや)の門外(もんぐわい)。人(ひと)ならずといふ所(ところ)なし天晴(あつはれ)奇代(きたい)の見物(けんふつ)やと。遠国(えんこく)在々(ざい〳〵)
所々(しよ〳〵)よりも親(おや)を携(たづ)さへ。子(こ)を抱(いだ)き京洛(けいらく)の縁(ゑん)【緑は誤】をもとめて相(あひ)集(あつま)る。男女(なんによ)の数(かす)大(おほ)
凡(よそ)二三 万(まん)とそ聞(きこ)えける。
   秀吉公(ひでよしこう)所々(しよ〳〵)神社(じんじや)御参詣(ごさんけい)の事(こと)
其夜(そのよ)は秀吉公(ひでよしこう)摂津(つの)国(くに)。茨木(いばらき)に至(いた)りて後(のち)御 ̄ン馬(うま)を進(すゝ)め給ふ。同(おなしく)四月 秀吉公(ひでよしこう)は
安芸(あき)の広島(ひろしま)に到(いた)り着(つか)せ給ひこゝに一 両日(りやうにち)御逗留(ごたうりう)まし〳〵厳島明神(いつくしまみやうしん)に詣(まう)で

社頭(しやとう)海辺(かいへん)眺望(てうぼう)さま〳〵の奇(き)なる詠(なが)めに。旅館(りよくわん)【舘は俗字】の情(じやう)をなぐさめ給へ夫(それ)より進(すゝ)ん
で。長門(ながと)の国府(こくふ)へ入(いり)給ふ  仲哀天皇(ちうあひてんわう)神功皇后(じんごうくわうごう)の社(やしろ)に参詣(さんけい)ありて。太閤(たいかふ)不肖(ふせう)
の身(み)ながら神功(じんごう)の跡(あと)をつがんため此度(このたび)三韓征伐(さんかんせいばつ)の事(こと)思立(おのひたつ)ところなり。可畏(かけまく)も
辱(かたじけなく)も百代(もゝよ)の末(すへ)といへども神徳(しんとく)の冥加(みやうが)あらせ給へ。我国(わがくに)の武功(ぶこう)大(おほい)にして今度(こんど)朝(てう)
鮮(せん)は申(まう)すに及(およ)ばず。大明国(たいみんこく)の果(はて)まても和光(わくわう)の影(かげ)あまねかるべしと祈(いの)らせ給へ。
夫(それ)よりまた赤間(あかま)が関(せき)にのぞんで。阿弥陀寺(あみだじ)に立寄(たちよら)せ給へ  安徳天皇(あんとくてんわう)の御影(みえい)《割書:并(ならひに)》
平家(へいけ)の一門(いちもん)の画像(ぐわぞう)を一覧(いちらん)あるに。古(いに)しへより今(いま)までの旅客風(りよかくふう)僧(そう)意(こゝろ)ある輩(ともがら)の
詠感(えいかん)したる。詩歌(しか)どものよきも悪(あし)きも其側(そのかたはら)にひつしと貼付(はりつけ)てあるを見(み)給へば。寺(じ)
僧(そう)は出(いで)て其故事(そのこじ)を語(かた)りてなぐさめ奉(たてまつ)るに。秀吉公(ひでよしこう)大(おほい)に悦(よろこ)び給へ寺僧(しそう)に物(もの)多(おほ)
く賜(たま)はれば俄(にはか)に德(とく)つきて見(み)えにける夫(それ)よりつひに。肥前(ひぜん)名護屋(なごや)に着(つき)て仮(かり)の御(ご)

殿(てん)に入(いり)給ふ。新造(しんざう)といへどもおのづからなる海山(うみやま)の景(けい)を取用(とりもち)ひ。磯辺(いそべ)の松(まつ)岩(いわ)
根(ね)の小篠(おさゝ)此(この)山里(やまざと)に遷(うつ)し来(きた)つて苔(こけ)むせる。谷(たに)かげの茶店(さでん)までわざとならぬ
風興(ふうきやう)に一会(いつくわい)を促(うなが)せり。軍(いくさ)の労(らう)をなぐさめ給はん便(たよ)りまでとゝのへたる。京洛(けいらく)の城(しろ)
とてもさらにかはらぬ趣(おもむ)きを去(さんぬ)る頃(ころ)。清正(きよまさ)が申上(まうしあげ)しにかわらぬとて秀吉公(ひでよしこう)
の御気色(おんけしき)。殊(こと)によろしく見(み)えけれは上下(じやうげ)これに安堵(あんど)をなす。かくて秀吉(ひでよし)
公(こう)此所(こゝ)に御座(ござ)あつて。朝鮮(てうせん)日本(につほん)両海辺(りやうかいへん)に屯(あつま)りたりし軍兵(ぐんひやう)すべて四十八万
人の米穀(べいこく)。并(ならび)に舟子(ふなこ)馬(うま)の草蒭(くさわら)まで一ッも遅々(ちゝ)のなきやうに其(その)たより宜(よろ)しく。
弁(べん)じさせ給へるは凡(およそ)日本(につほん)始(はじま)りて。如此(かくのごとく)の英雄(えいゆう)の出(いで)んこと末代(まつだい)はいざしらず。上(じやう)
古(こ)より例(ため)しすくなき事(こと)どもにおどろかさりし人(ひと)はなし。
   渡海(とかい)の諸将(しよしやう)軍評定(いくさひやうぢやう)《割書:并(ならひに)》逆風(きやくふう)に逢(あ)ふ事(こと)

去程(さるほど)に文禄元年(ふんろくぐわんねん)三月の初(はじ)め。日本(につほん)の諸将(しよしやう)は朝鮮国(てうせんごく)へ押渡(おしわた)らんとて。同(おなしく)
十二日 名護屋(なごや)をは辰(たつ)の刻(こく)に船出(ふなで)の約速(やくそく)相(あひ)きわめたり。すでに其日(そのひ)になししか
ば小西摂津守(こにしつのかみ)をはじめとして。其外(そのほか)諸手(もろて)の大船(たいせん)ども組手(くみで)にしたがひ其列(そのれつ)を
相追(あひお)ふて。纜(ともつな)をとき数船艘(すせんざう)の帆柱(ほばしら)を押立(おした)て帆(ほ)をあぐる声(こゑ)のすさまじきに。
諸手(もろて)の船(ふね)より放(はな)しかくる石火矢(いしびや)のひゞきは。只(たゞ)百千(ひやくせん)の雲雷(うんらい)の一度(いちど)に落(おち)かゝる如(ごと)
くなり。既(すで)に湊(みなと)を漕(こぎ)はなれ蒼海(さうかい)の浪路(なみぢ)はるかに漂々(びやう〳〵)と。前後(ぜんご)左右(さいふ)を見渡(みわた)
せばさま〴〵の船印(ふなしるし)に。家々(いへ〳〵)の紋付(もんつき)たる旌旗(せいき)【方+星は誤】風(かせ)にひるがへり。幔幕(まんまく)浪(なみ)を照(てら)し
ては吉野(よしの)龍田(たつた)の花(はな)紅葉(もみぢ)をさながら水(みづ)に浸(ひた)すが如(ごと)し。渡(わた)らば錦(にしき)の中(なか)やたえな
んと読(よみ)たりし流(ながれ)の末(すへ)の海(うみ)に入(い)るやと異(あやし)まる。かくて順風(しゆんふう)にまかせけるまゝに
壱岐国(いきのくに)風本(かざもと)といふ所(ところ)まで。時刻(じこく)を移(うつ)さず押付(おしつけ)。夫(それ)より多(おほ)くの船(ふね)を揃(そろ)へ

対馬国(つしまのくに)へ漕渡(こぎわた)らんとするほどに風(かぜ)かはり。船(ふね)を出(いで)すべきやうなく十日 余(あま)りはいか
りをも起(おこ)さず。此時(このとき)に海路(かいろ)の諸将(しよしやう)九鬼大隅守嘉隆(くきおほすみのかみよしたか)が方(かた)に集(あつま)りて。軍中(くんちう)
の約速(やくそく)をなす。時(とき)に大田小源吾(おほたこげんご)。毛利兵橘(もうりへいきつ)。竹中源助(たけなかけんすけ)。懸樋弥五郎(かけひやごろう)。毛利(もうり)
民部大夫(みんぶたいふ)。は秀吉公(ひでよしこう)より軍中(ぐんちう)の目付(めつけ)として付(つけ)られし人々(ひと〳〵)なり。諸将(しよしやう)各々(おの〳〵)誓(せい)
詞(し)を以(もつ)て。其約速(そのやくそく)を衆士(しゆうし)に示(しめ)すべしと衆議一決(しゆうぎいつけつ)しければやがて誓詞(せいし)の前(まへ)
書(がき)を定(さた)む其(その)ケ(か)条(てう)には。
 一  船中(せんちう)の軍評定(いくさひやうぢやう)の儀(ぎ)最(もつと)も其中(そのなか)のよろしきところ有(あ)るを択(えら)んで
    用(もち)ゆべき事
 二《割書:ニハ》諸船(しよせん)何(いづ)れに依(よ)らず危難(きなん)にのぞむ事(こと)あらば急(きふに)可相救(すくふべき)の事(こと)
 三《割書:ニ》 歒謀(てきばう)珍布(めつらしき)手立(てだて)あらば互(たがひ)にこれを申談(まうしだん)すべき事(こと)

【右丁 絵画のみ】

【左丁】
藤堂(とう〴〵)
佐渡守(さどのかみ)
高虎(たかとら)
朝鮮(てうせん)
の番船(ばんせん)
百余艘(ひやくさう)を
 乗(のつ)とり
唐島(からしま)を
放火(はうくわ)して
首百余級(くびひやくよきう)を
    とる

 四《割書:ニハ|》 忠節(ちうせつ)の浅深(せんしん)依怙贔屓(えこひいき)をもつて偏頗(へんば)の義(き)あるべからす。真(まつすぐ)に申(まうし)
     述(のふ)べき事(こと)
 五《割書:ニハ|》 他人(たにん)の軍忠(ぐんちう)を盗(ぬす)みて以(もつ)て我功(わがこう)となす事(こと) 堅(かた)く禁(きん)ずべき事(こと)
 六《割書:ニハ|》 諸手(しよて)より一将(いつしやう)ごとに諜船(ものみふね)二艘(にそう)づゝ出(いだ)すべき事(こと)
 七   名護屋(なごや)御本陣(ごほんぢん)へ注進(ちうしん)の義(ぎ)これある者(もの)必(かならず)御目付衆(おんめつけしゆう)の指図(さしづ)を
      うけ其意(そのい)にまかすべき事            右(みき)の条々(でう〳〵)
奉行衆(ぶぎやうしやう)宛(あて)どころにして霊神(れいじん)に誓(ちか)ひ。血判(けつはん)を調(とゝの)ひ連判(れんばん)をなしおはつて福原(ふくはら)
□□□□るは。評議(ひやうぎ)相(あひ)とゝのひ互(たかひ)に目出度事(めでたきこと)なり。さらば酒(さけ)をはじめ船(ふな)
□□□□折(おり)二合(にがふ)樽(たる)三 荷(が)出(いだ)したれば。九鬼(くき)是(これ)を聞(きい)て最(もつと)もしかるべしとて
□□□□いとなみ。肴(さかな)さま〴〵とゝのへ盃盤狼藉(はいばんらうぜき)として酒宴(しゆえん)もすでに尽(つき)

ぬれば。佐渡守(さどのかみ)は千秋樂(せんしうらく)を謡(うた)ひをさめ其日(そのひ)の会(くわい)は終(おは)りける。
   小西行長(こにしゆきなが)抜懸(ぬけかけ)《割書:附(つけたり)》藤堂佐渡守(とう〴〵さどのかみ)唐島(からしま)を放火(はうくわ)の事(こと)
諸軍(しよぐん)すでに壱岐(いき)の風本(かざもと)に至(いた)つて数日(すじつ)逗留(たうりう)すといへども逆風(きやくふう)に逢(あふ)がゆゑおの〳〵
気(き)をせき。意(こゝろ)もだへけれども如何(いかゞ)とも詮方(せんかた)なくて風待(かざまぢ)して居(ゐ)たる処(ところ)に行長(ゆきなが)の
思(おもひ)らく海涛(かいとう)もしおだやかならば。諸将(しゆしやう)の船(ふね)みな発(はつ)すべししか〴〵人(ひと)に先(さき)だつ
て速(すみやか)に朝鮮(てうせん)に入(い)らんにはと思(おも)ひ定(さだ)め。其夜(そのよ)の夜半(やはん)ばかりにひそかに纜(ともづな)をとき手(て)
勢(せい)をまとひ。宗義智(そうよしあきら)が人数(にんず)と共(とも)に押出(おしいだ)して対馬(つしま)豊崎(とよさき)に馳(はせ)たりけり翌朝(よくてう)
になりければ逆風(きやくふう)やうやくに静(しづま)りたれば諸手(もろて)の船(ふね)ども早(はや)く馳(はせ)んと錠(いかり)を上(あぐ)
るに至(いた)つて。清正(きよまさ)長政(ながまさ)等(とう)行長(ゆきなか)が船(ふね)の見(み)えざるにおどろき。さらば船共(ふねとも)を
押出(おしいだ)せとて我先(われさき)にと漕行(こきゆき)ける。すでに進(すゝ)み行(ゆく)こと五六 里(り)も過(すぎ)つらんと思(おも)ふ

時(とき)。また逆風(きやくふう)に吹(ふき)もどされて是非(ぜひ)なく風本(かさもと)にかへりけり。行長(ゆきなが)が一手(ひとて)のみ難(なん)なく
豊島(とよしま)に着岸(ちやくがん)し。それより心(こゝろ)は鶏林(けいりん)の地(ち)に馳(はす)るといへども狂風(きやうふう)みだりに強(つよ)くして。
船(ふね)漕出(こきいだ)さんやうもなし。行長(ゆきなが)は清正(きよまさ)等(ら)がすでに至(いた)るべきことを慮(おもんはか)りければ
大風(たいふう)を凌(しの)ひて進(すゝ)み行(ゆく)。釜山浦(ふさんかい)へと漕(こぎ)よせける。斯(かく)て諸手(もろて)の面々(めん〳〵)加藤清正(かとうきよまさ)
を始(はじめ)として。黒田(くろだ)鍋島(なべしま)小早川(こばやかは)島津(しまづ)福島(ふくしま)其外(そのほか)の諸将(しよしやう)まで。段々(たん〳〵)の兵船(ひようせん)共(ども)
或(あるひ)は熊河(こもがい)に押入(おしいり)或(あるひ)は釜山浦(ふさんかい)につかんとて。海上一面(かいしやういちめん)に押渡(おしわた)りけり。こゝに藤堂佐(とう〴〵さ)
渡守高虎(とのかみたかとら)は意(こゝろ)はやき者(もの)なりければ。他人(たにん)に先(さき)をせられては口惜(くちおし)き次第(しだい)なる
べしとて唐島(からしま)を心(こゝろ)かけ。夜半(やはん)ばかりにひそかに船(ふね)を乗出(のりいだ)し手勢(てぜい)わづかに五百
人を引分(ひきわけ)たり。すでに唐島表(からしまおもて)に着(つき)ければ朝鮮(てうせん)より指置(さしおき)たる。番船(ばんせん)の揃(そろ)へたる
を目(め)がけ一柏子(ひとひやうし)に船(ふね)漕(こぎ)よせひた〳〵と乗(のり)うつる。藤堂(とう〴〵)が運(うん)や強(つよ)かりけん爰元(こゝもと)

に漕(こき)うかべたるは。敵船(てきせん)の気(き)を奪(うば)はん為(ため)の見(み)せ船(ふね)のかざりのみなりければ。はか〳〵
しき人数(にんず)をも乗(のら)ざるゆゑ。意(こゝろ)やすく時(とき)の間(ま)に百艘(ひやくそう)あまりの船(ふね)を乗取(のつと)り。高虎(たかとら)
は此勢(このいきほ)ひに唐島浦(からしまうら)へ漕付(こぎつけ)て島(しま)の人家(じんか)を放火(はうくわ)して。敵(てき)の首(くび)百(ひやく)ばかり討取(うちと)り。
手勢(てぜい)のこらず陸(くが)へ上(あが)り陣取(ぢんとり)ける。味方(みかた)の諸将(しよしやう)は放火(はうくわ)の火煙(くわゑん)に驚(おどろ)き。抜(ぬけ)がけの
者(もの)ありけりや。急(いそ)ぎ船(ふね)を漕(こぎ)つけて味方(みかた)の勇士(ゆうし)をはげませよと。船手(ふなて)の勢(せい)は
申(まうす)に及(およ)ばず。数千(すせん)の兵船(ひようせん)我(われ)おとらじと乗出(のりいだ)し。逃行敵(にげゆくてき)の番船(ばんせん)ともを乗(のり)か
け〳〵奪(うば)ひ取(と)る。既(すで)に其数(そのかず)百余艘(ひやくよさう)におよびける七人の目付(めつけ)もろとも諸手(しよて)の大(たい)
将(しやう)は。唐嶋(からしま)に打(うち)あかりて暫(しばら)く休息(きうそく)したりける。七人の内(うち)より今日(こんにち)の取合(とりやい)を早速(さつそく)
名護屋(なごや)へ早船(はやふね)をもつて注進(ちうしん)ある。諸将(しよしやう)すでに唐島(からしま)に打上(うちあか)り。一所(いつしよ)に会合(くわいがふ)して
今日(こんにち)の働(はたら)きは。藤堂(とう〴〵)が手(て)一番(いちばん)なりと評議(ひやうぎ)し。重(かさ)ねて朝鮮(てうせん)へ向(むか)ふべきやう如何(いかゞ)せ

んと列座(れつざ)相談(そうだん)の半(なかば)なるに。加藤左馬助嘉明(かとうさまのすけよしあきら)そつと立(たつ)て雪隠(かわや)に行体(ゆくてい)にもて
なし。我手(わがて)に属(ぞく)せる若殿原(わかとのばら)を一人 招(まね)ぎて。只今(たゞいま)向(むか)ふに見(み)えたる番船(ばんせん)を乗(のつ)
取(とる)へし。早々(さう〳〵)手船(てふね)の足(あし)はやからんを二十 艘(さう)ばかり用意(ようい)せよとて。我(わが)陣船(ぢんせん)に走(はし)
らせ。其身(そのみ)は何(なに)となき体(てい)にもてなし本(もと)の座(ざ)についたりける。





朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編之四《割書:終》

朝鮮征伐記(てうせんせいはつき)初編巻之五

    目録

 一 加藤左馬助(かとうさまのすけ)番船(ばんせん)を乗取(のつとる)事(こと)
 一 小 西摂津守(にしせつゝのかみ)釜山浦(ふさんかい)の城(しろ)を攻落(せめおと)す事(こと)
 一 浮田秀家(うきたひていへ)抜(ぬけ)がけして小西(こにし)を救(すく)はんとする事
   《割書:附(つけたり)》加藤清正(かとうきよまさ)熊川(こもかい)に着(つく)事(こと)
 一 加藤清正(かとうきよまさ)慶州(けいしう)を攻落(せめおと)す事(こと)

【白紙】

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編巻之五

  加藤左馬助(かとうさまのすけ)番船(ばんせん)を乗取(のつとる)事(こと)
斯(かゝ)りければ左馬助(さまのすけ)が手(て)の船(ふね)の中(なか)より軽(かる)く乗出(のりいだ)す。早船(はやふね)二三十 艘(そう)中(なか)にも
塙団右衛門直行(はんたんゑもんなほゆき)は。真先(まつさき)に乗出(のりいだ)し水主(すゐしゆ)に下知(げぢ)して真一文字(まいちもんじ)に漕出(こぎいだ)す。つゞいて
左馬助(さまのすけ)が甥(おひ)なる権七(ごんしち)をはじめとして。我(われ)劣(おと)らじと乗進(のりすゝ)む左馬助(さまのすけ)兼(かね)て相図(あひづ)
の事なれば早(はや)く其座(そのざ)を立上(たちあが)り船場(ふなば)をさして駈(かけ) 出し。やがて船(ふね)に乗移(のりうつ)り
飛(とぶ)が如(こと)くに敵船(てきせん)の方(かた)へ乗(のり)かくる。七人の目付(めつけ)をはじめ諸将(しよしやう)はこれを見るより。
あれ見(み)給へ左馬助(さまのすけ)が軍法(ぐんはう)に背(そむ)いて危(あやう)く一人 抜(ぬけ)がけするは。若(もし)も仕損(しそん)ずる事
あれば味方(みかた)のものゝ気落(きおち)となる。早(はや)くこれをとゞめよと七人の目付(めつけ)其外(そのほか)。

諸将(しよしやう)の中(なか)よりも端舟(はしふね)をもつてこれを止(とゞ)め。兼(かね)て抜(ぬけ)がけすべからずと総大将(そうたいしやう)の仰(おほせ)
にて。約諾(やくだく)ありし甲斐(かひ)なく正(まさ)なふこそ見(み)え候へ。早々(さう〳〵)爰元(こゝもと)へ帰(かへ)られよ一 列(れつ)の上(うへ)にて
約(やく)したるに。一人かゝりて克(よき)はづなれば誰(たれ)かおくれ候はんと。船(ふね)はしらせて禁(きん)ずれ
ば左馬助(さまのすけ)使(つかひ)に向(むか)ひ。仰(おふせ)尤(もつとも)に候なりしかしながら我手(わがて)の若輩(じやくはい)はやりすぎ。
我等(われら)が下知(げぢ)も請(うけ)申さず御軍法(ごくんはう)をすでに破(やぶ)り候 得(え)ば。なか〳〵人(ひと)をして止(とゞ)めたる
分(ぶん)にては合点(がてん)いたす事(こと)ならず。扨(さて)ぞ我等(われら)自身(ししん)に是(これ)を止(とゞ)めにまゐる追付(おしつけ)それへ
罷(まか)りかへるべし。抜(ぬけ)がけの意(こゝろ)はいさゝか以(もつ)て候はずと云捨(いひすて)て。せり立(たつ)て船(ふね)を漕(こぎ)
付(つく)る。殊(こと)にさきより天気(てんき)はれ風(かせ)なみはこゝろよし。二里ばかり澳(おき)にかきならべ
たる朝鮮(てうせん)の番船(はんせん)四十 餘艘(よさう)。賁(かさ)り立(たつ)て斥候舩(ものみふね)と相定(あひさだ)め日本人の来(きた)るを
待(まち)かけさせ。夫(それ)より一里ばかり引下(ひきさが)り大船(たいせん)数(す)千 艘(そう)幾重(いくえ)ともなく。八重(やえ)の塩(しほ)

路(ぢ)を乗切(のりきつ)て待(まち)かけたるは。数十里(すじふり)の海上(かいしやう)にすべて蒼白(さうはく)の浪(なみ)もなく。紅錦紫繍(こうきんししう)の
船(ふな)やかた粧(よそほ)ひ立(たつ)たる色(いろ)のみなり。かゝる大勢(おほぜい)の真中(まんなか)へ味方(みかた)わづかの小勢(こぜい)にてかゝら
んやうはなけれども。左馬助(さまのすけ)の不敵者(ふてきもの)にだしぬかれ諸将(しよしやう)の船共(ふねとも)口惜(くちおし)と思(おも)へる猛(まう)
風(ふう)に浪(なみ)を動(どう)じ我(われ)劣(おと)らじと。手船(てふね)〳〵へ乗(のり)うつるより声々(こゑ〳〵)に水主(すゐしゆ)ども後(おく)るゝ
な。揖取(かんどり)いかにと譟(さわ)ぎわめくは偏(ひとへ)に雷鳴(らいめい)の如(ごと)くにて。物(もの)の分(わか)ちも聞(きこ)えば
こそ。其間(そのま)に左馬助(さまのすけ)が船(ふね)どもは早(はや)朝鮮(てうせん)の斥候舩(ものみふね)の乗浮(のりうか)めたる真中(まんなか)へ。猶(ゆう)
予(よ)会釈(えしやく)もなく衝(つき)かゝれば。四十 余艘(よそう)の番人(ばんにん)ども弓弩(きうど)鉄砲(てつはう)をそろへて一 度(ど)
に打立(うちたつ)ればなか〳〵手易(てやす)くは乗(のり)うつらんやうもなく。流石(さすが)に勇(いさ)める者共(ものども)も少(すこ)し
思惟(しゆい)にわたるを見て。左馬助(さまのすけ)が与力(よりき)なりける塙團右衛門直行(はんだんえもんなをゆき)。水主(すゐしゆ)をはげ
まし朝鮮船(てうせんふね)へ近寄(ちかよる)とひとしく。鎖(くさり)の先(さき)にかきのつきたるを敵船(てきせん)へ投込(なげこみ)小縁(こべり)

へかけて力(ちから)にまかせて手(た)ぐり寄(よせ)。大太刀(おほだち)を振(ふり)かざし敵兵(てきへい)二人を海中(かいちう)へ切(きつ)て
おとし。其まゝ敵船(てきせん)へ飛乗(とびのり)当(あた)るを幸(さいわ)ひ切廻(きりまは)る。左馬助(さまのすけ)は是(これ)を見て直(なを)
行(ゆき)打(うた)すなつゞけ〳〵と。自(みづか)ら水主(すゐしゆ)をしかりつけ無二無三(むにむさん)に敵船(てきせん)へ乗(のり)かけ
すでに向(むか)ふへ飛越(とひこえ)んとす。左馬助(さまのすけ)が同船(とうせん)に有(あり)つる小扈從(ここしやう)。主(しゆう)を討(うた)せて
は叶(かな)ふまじと。左馬助(さまのすけ)が脇(わき)の下(した)をつゝとぬけ。敵船(てきせん)へ乗(のり)うつる心(こゝろ)は剛(がう)に見へ
つれども。待設(まちまう)けたる敵(てき)の中(なか)へ飛込(とびこむ)に何(なに)かはもつてたまるべき。やかて爰(こゝ)
にて討(うた)れける。左馬助(さまのすけ)是(これ)を見(み)るより南無三宝(なむさんばう)といふまゝに。鎗(やり)おつとり
朝鮮船(てうせんふね)へ乗込(のりこみ)左右(さいふ)に当(あた)り火花(ひばな)を散(ちら)して戦(たゝか)ひば。姪(おひ)の権七(ごんしち)つゞいて駈入(かけいり)
伯父(おぢ)と姪(おひ)と二人つれ。前後(ぜんご)に敵(てき)をとりて乱戦(らんせん)す。主人(しゆじん)先(さき)だつて如此(かくのごとく)に働(はたら)く
を見(み)るより其手(そのて)の兵士(へいし)誰(たれ)か一人 臆(おく)すべき。我先(われさき)にと乗入(のりいり)〳〵斬(き)るをも突(つく)

をも少(すこ)しもひるまず。我先(われさき)にと敵船(てきせん)に取付(とりつき)おもひ〳〵に戦(たゝか)ひ乗入(のりいれ)ば。朝鮮(てうせん)の
兵(へい)防(ふせ)ぎかねて十 艘(そう)ばかり乗取(のつと)られ。残(のこ)る三十 艘(さう)は舳艫(ちくろ)を回(かへ)し後陣(ごぢん)の
同勢(どうぜい)へ逃入(にけいつ)たり。後(あと)に残(のこ)りし日本(につほん)の諸大将(しよだいしやう)左馬助(さまのすけ)にだしぬかれ。無念(むねん)に
おもひ我(われ)も〳〵と手船(てふね)に乗(のり)我(われ)よ人(ひと)よと罵(のゝし)る声(こゑ)。おびたゞしく左馬助(さまのすけ)は
乗取(のつとつ)たる番船(ばんせん)に。大綱(おほづな)をつけて十 艘(そう)ばかりの船(ふね)を漕戻(こぎもど)させける。諸大将(しよたい)
将(しやう)是(これ)を見(み)ていよ〳〵気(き)をもみ。一 同(よう)に水主(かこ)をはげまし朝鮮勢(てうせんせい)数百艘(すひやくそう)にて
ひかへたるを乗取(のつと)るべしとて船(ふね)をはやめ波(なみ)おし切(きつ)て押寄(おしよす)る。脇坂中務安(わきさかなかつかさやす)
治(はる)久留島出雲守(くるしまいつものかみ)。戸田民部少輔(とだみんふしやうゆう)。藤堂佐渡守高虎(とう〴〵さどのかみたかとら)。蜂須賀阿波守(はちすかあはのかみ)
が輩(ともがら)真一文字(まいちもんじ)に押(おし)かゝる。左馬助(さまのすけ)は元来(ぐわんらい)藤堂(とう〳〵)脇坂(わきざか)とその中(なか)不和(ふわ)なる
事故(ことゆゑ)。評議(ひやうぎ)の時(とき)も口論(こうろん)せし事(こと)なれば。今(いま)諸大将(しよだいしやう)の見(み)る前(まへ)にて脇坂(わきさか)等(ら)に

勝(まさ)る功名(こうみやう)を顕(あら)さんと。第一(だいゝち)ばんに乗浮(のりうか)べたる番船(ばんせん)へ一 文字(もんじ)に押(おし)かゝる。朝鮮勢(てうせんせい)
は先刻(さき)の敗軍(はいぐん)を憤(いきどほ)りて居(ゐ)たる事(こと)なれば。左馬助(さまのすけ)が船(ふね)を乗取(のつと)らんと相(あい)かゝり
に漕向(こぎむか)ふ。弓(ゆみ)鉄砲(てつはう)にて射立(ゐたつ)る事(こと)さながら雨(あめ)の如(ごと)し。左馬助(さまのすけ)怒(いか)り罵(のゝし)り船(ふね)
をおしへけける時(とき)。萩作左衛門(はぎさくざゑもん)打(うち)かぎを以(もつ)て引(ひつ)かけて乗入(のりい)らんとなしけれ
ども。敵兵(てきへい)是(これ)を切拂(きりはら)ふて半弓(はんきう)を射(ゐ)かけしかは。矢(や)二 筋(すぢ)三 筋(すぢ)あたつて其身(そのみ)自(じ)
由(ゆう)ならず。左馬助(さまのすけ)も抜(ぬけ)がげ【ママ】の若殿原(わかとのばら)を止(と)める体(てい)にて乗出(のりいだ)したる事(こと)なれば。
帷子(かたひら)一 重(え)に渋手拭(しふてぬぐひ)にて鉢巻(はちまき)したるばかりなれば。矢(や)三 筋(すぢ)あたつて船(ふな)はだを
踏(ふみ)はづし海(うみ)へ落入(おちいり)けるが元(もと)より早業(はやわざ)にて落(おち)さまに。船(ふね)の艗(へさき)へ取(とり)つき浮(うき)ぬ
しづみぬたゞよふところを。作左衛門(さくざゑもん)左馬助(さまのすけ)が帯(おび)をつかんで船中(せんちう)へ引上置(ひきあげお)き。
敵船(てきせん)へ飛(とび)こみ一 番乗(ばんのり)萩作左衛門(はぎさくざゑもん)と名乗(なのり)ける。左馬助(さまのすけ)起上(おきあが)りもの〳〵しや

といふまゝに続(つゞい)て二 番(ばん)に乗入(のりいつ)たり。川村権七(かはむらごんしち)。戸田三郎四郎(とださぶらうしらう)。宮川三郎左(みやかはさふらうざ)
衛門(ゑもん)。土方長兵衛(ひぢかたちやうべゑ)。中島勝右衛門(なかじまかつゑもん)。東勘兵衛(あづまかんべゑ)。藪与左衛門(やぶよざゑもん)も飛入(とびいつ)て
勇(ゆう)を振(ふる)つて戦(たゝか)ふほどに敵船(てきせん)三 艘(そう)乗取(のつとり)ける。左馬助(さまのすけ)が乗移(のりうつ)りし船(ふね)には三
五人の敵(てき)のみにて外(ほか)に兵(へい)一人も見(み)へざれは。何方(いつかた)へ逃失(にげうせ)けんと踏板(ふみいた)を上(あげ)見(み)れ
ば。敵(てき)は舩底(ふなぞこ)へしのび入(いり)半弓(はんきう)を引(ひき)そばめ待(まち)かけたり。何(いつ)れもすべきやうなく
猶予(ためらい)居(ゐ)けるを。左馬助(さまのすけ)眼(まなこ)をいからしてそこ退(のき)候へ我(われ)入(い)らんとすゝみ入(い)
る。是(これ)を見(み)るより土方長兵衛(ひぢかたちやうべゑ)真先(まつさき)に飛入(とびいり)しかば。つゞいてみな〳〵切(きつ)て入(いり)当(あた)る
をさいわひ切廻(きりまは)る。敵兵(てきへい)叶(かな)はしと海(うみ)へ飛入(とびいる)も有(あり)あるひは討(うた)るゝも有(あり)。左馬助(さまのすけ)
も左(ひだ)りの腹(はら)を射(ゐ)ぬかれて血(ち)の流(なが)るゝこと滝(たき)の如(ごと)し。されとも是(これ)をことともせ
す。猶(なほ)敵船(てきせん)へ漕付(こぎつけ)んと下知(げぢ)して居(ゐ)たるところへ。鍋島信濃守勝繁(なべしましなのゝかみかつしげ)。一 番(ばん)に乗(のり)

【右丁】
加藤左馬助(かとうさまのすけ)
   嘉明(よしあきら)
一 手(て)の従兵(しふへい)にて
朝鮮(てうせん)の番船(ばんせん)
 数十艘(すじつさう)を
   乗取(のつと)る

【左丁 絵画のみ】

つけ来(きた)り扨(さて)も命(いの)しらず左馬殿(さまどの)かなと。大音(だいおん)に誉(ほめ)ければ左馬助(さまのすけ)につこと
笑(わら)ひ。今日(こんにち)の働(はたら)きいかゞ見(み)給ひしやと自慢(じまん)して立(たつ)たる有(あり)さま。夜叉(やしや)羅刹(らせつ)【殺は誤】の
怒(いか)るが如(ごと)し。かゝる所(ところ)へ脇坂(わきさか)も乗付(のりつけ)しかば兼(かね)て不和(ふわ)なる脇坂(わきざか)なれば。左(さ)
馬助(まのすけ)大音(だいおん)あげて。嘉明(よしあきら)が乗取(のつとつ)たる明船(あきふね)多(お[ほ])く御座(ござ)候。いそぎ乗移(のりうつり)将軍(しやうぐん)へ
注進(ちゆうしん)し給へ。油断(ゆだん)ばしし給ふな脇坂(わきざか)どのと呼(よば)はりければ。安治(やすはる)物(もの)をもいわず
怒(いか)りもだへ討死(うちしに)して。左馬助(さまのすけ)に見(み)せよ兵共(つはものども)と敵船(てきせん)の中(なか)へ面(おもて)もふらず走(はし)り
入(い)る。久留嶋出雲守通安(くるしまいづものかみみちやす)は水主(すいしゆ)に下知(げぢ)して。脇坂(わきさか)に先(さき)たゝんと乗来(のりきた)り
朝鮮船(てうせんふね)へ乗(のり)ちかづくと其(その)まゝ。身(み)をおとらして敵中(てきちう)へ乗入(のりいり)忽(たちま)ち敵(てき)六七人
を海中(かいちう)へ切(きり)こみ。命(いのち)を羽毛(うまう)の軽(かろ)きに比(ひ)し義(ぎ)を金鉄(きんてつ)の重(おも)きになぞらへ戦(たゝか)
ひける此時(このとき)藤堂(とう〳〵)蜂須賀(はちすか)等(とう)の面々(めん〳〵)。味方(みかた)をはけまし攻戦(せめたゝか)ふといへども大(たい)

船(ふね)を乗廻(のりまは)し半弓(はんきう)を射(ゐ)かくる事(こと)繁(しげ)く。なか〳〵近(ちか)つくこと出来(でき)ずおの〳〵
船(ふね)を引(ひつ)かへしける故。敵(てき)は勝(かつ)にのり日本舩(につほんふね)へ乗付(のりつけ)〳〵責(せめ)たりける。久留嶋(くるしま)
もつゞく味方(みかた)もあらざれば。命(いのち)かぎりと戦(たゝか)ふといへども。敵船(てきせん)より射出(ゐいだ)す
矢(や)は数(かす)しれす其身(そのみ)にあたりて。つゐに此所(こゝ)にて討死(うちしに)す。脇坂(わきさか)も今(いま)は最期(さいこ)と
おもひ。死力(しりき)を出(いだ)して戦(たゝか)ふといへとも敵(てき)の矢先(やさき)に射(ゐ)すくめられ。霎時(しはし)躇躕(ためらひ)【蹰は躕の俗字】
居(ゐ)るを見(み)て朝鮮勢(てうせんぜい)得(え)たりや応(おう)と。無二無三(むにむざん)に責立(せめたつ)る脇坂(わきざか)が兵共(へいども)散々(さん〳〵)に
なつて逃散(にげちつ)たり。安治(やすはる)今(いま)は是(これ)までなりと甲(かふと)をぬぎ太刀(たち)を抜(ぬき)船(ふな)ばたに腰(こし)
をかけ。近寄(ちかよる)敵(てき)を切払(きりはら)へ〳〵自害(じがい)せんとなしけるを。家老(からう)家(いへ)の子(こ)引立(ひつたて)て
こゝにて討死(うちじに)あらんはしかるべからず。一《割書:ト》先(まづ)陸(くが)へ上(あが)らせ給へ某(それがし)等(ら)残(のこ)りて討死(うちじに)
仕(つかまつ)るべしと諌(いさ)め。無理(むり)に抱(だ)き上(あ)げて陸(くが)の方(かた)へ漕戻(こぎもど)す。安治(やすはる)無念(むねん)の涙(なみだ)を

なかせど詮方(せんかた)なく引(ひつ)かへす。朝鮮(てうせん)の兵共(へいども)勝(かつ)にのつて日本勢(につほんぜい)を追(おひ)まくる。
扨(さて)久留嶋出雲守(くるしまいつものかみ)が弟(おとゝ)。村上彦右衛門(むらかみひこゑもん)は外船(ほかふね)に有(あつ)て戦(たゝか)ひ居(ゐ)しか。兄(あに)の
討死(うちじに)を聞(きく)より涙(なみだ)をながし。今(いま)は生(いき)て何(なに)かせん討死(うちじに)して追付(おひつか)んと。家人(げにん)
をはけませ敵中(てきちう)へ真一文字(まいちもんし)乗入(のりいれ)ば。敵船(てきせん)より射出(ゐいた)す矢(や)は霰(あられ)の如(ごと)くなか〳〵
面(おもて)を向(む)くへきやうはなけれど。主従(しゆう〳〵)ともに討死(うちじに)と覚悟(かくこ)をきはめし事(こと)。すこしも
ひるます敵船(てきせん)へ漕付(こぎつけ)𨭚(しのぎ)を削(けづ)りて挑(いと)み戦(たゝか)ふ心(こゝろ)は剛(がう)にはやれども敵(てき)より射(ゐ)る
矢(や)におの〳〵深手(ふかで)を負(おひ)。既(すで)に斯(かう)よと見(み)へけるところに左馬助(さまのすけ)はるかに是(これ)を
見(み)て。角切角(すみきりかく)に三 文字(もんし)の船(ふな)じるしは。久留嶋(くるしま)が一 門(もん)なるべしあれ討(うた)すると
自身漕付(じしんこぎつけ)。打(うち)かきをもつてかけとめ是(これ)を救(すく)ふて攻(せめ)たゝかふ。此時嶋津義弘(このときしまつよしひろ)
手勢(てぜい)を下知(げぢ)して敵船(てきせん)を乗取事(のつとること)なかれ。只(たゞ)真中(まんなか)を乗(の)りてかなたこなたへ

乗分(のりわけ)よ必(かなら)ず舟(ふね)にあたるべからずと。采幣(さいはい)とつてかけまはる嶋津(しまづ)が手(て)の者(もの)大将(たいしやう)
の下知(げぢ)にしたかつて。右(みき)に往(ゆ)き左(ひだり)に往(ゆ)き南北(なんぼく)に突衝(つきつい)て。一 所(しよ)にこれを聚(あつま)らせじ
となしければ。大船(おほふね)のとりまはし元来(もとより)思(おも)ふ儘(まゝ)ならねば。軽(かる)き舟(ふね)にせびらかされ
て大(おほい)に飽(あく)んで戦(たゝか)ひつかれ。今日(こんにち)の軍(いくさ)は是(これ)までと湊(みなと)の方(かた)へ押(おし)かへせば。日本勢(につほんせい)も終(しう)
日(じつ)の戦(たゝか)いに将卒(しやうそつ)ともに労(つか)れしかば。元(もと)の陣所(ぢんしよ)へ漕戻(こぎもど)し扨(さて)七人の横目衆(よこめしゆう)
将軍(しやうぐん)へ注進(ちうしん)すべしとて。今日(けふ)の次第(しだい)をしたゝめ此度(このたび)の軍功(ぐんこう)左馬助(さまのすけ)第一番(だいいちはん)
なりと注進(ちうしん)す。秀吉公(ひでよしこう)聞召(きこしめし)藤堂(とう〴〵)が唐島(からしま)へ押寄(おしよ)せたる功(こう)を感(かん)じ。左(さ)
馬助(まのすけ)が比類(ひるい)なき働(はたら)きを賞(しやう)し。脇坂(わきさか)が粉骨(ふんこつ)あるをそれ〳〵に褒(ほめ)感(かん)ぜ
らるゝの趣(おもむき)をかゝせて下(くだ)されしかば。おの〳〵勇(いさ)みすゝむ中(なか)にも脇坂(わきさか)は一 身(しん)の
不覚(ふかく)家(いゑ)の瑕理(かきん)なれば。すでに切腹(せつぶく)をやなすべきとしきりに憤(いきどほ)りたるを。七

人(にん)の目付(めつけ)の人々強(ひと〳〵しひ)て押(おさ)へ上(かみ)の意(こゝろ)にしたかへ給ひ。これ忠(ちう)なりと諌(いさ)めし所(ところ)へ如此(かくのごとく)
の感帖(かんぢやう)を賜(たまは)るゆへ。辱(かたしけな)きこと心胸(しんきやう)に撤(てつ)して其(その)志(こゝろざし)金石(きんせき)の思(おも)ひとなり。弥(いよ〳〵)命(いのち)を
塵芥(ぢんがい)に比(ひ)せんとぞ勇(いさゝ)みける。
   小西行長(こにしゆきなが)釜山浦(ふさんかい)の城(しろ)を攻落(せめおと)す事(こと)
かくて小西行長(こにしゆきなが)はすでに海上(かいしやう)の狂風(きやうふう)をおし切(きつ)て。卯月(うづき)十三日 釜山浦(ふさんかい)に至(いた)り
しかば。士卒(しそつ)に下知(げぢ)して物(もの)の具(ぐ)つけさせ自分(じぶん)真先(まつさき)に馬(うま)に打乗(うちのり)駈上(かけあか)る。宗(そう)
対馬守(つしまのかみ)をはしめ有馬松浦(ありままつら)五島大村(ごとうおほむら)の面々(めん〳〵)。甲(かふと)の緒(を)をしめ色(いろ)めき渡(わた)つ
て我劣(われおと)らじと先(さき)をあらそひ。おめき叫(さげ)ぶ有(あり)さまはいかなる強敵(がうてき)といへ
ども。面(おもて)をむくべきとは見(み)へざりける。朝鮮(てうせん)にては日本人(につほんじん)大軍(たいぐん)にて寄(よ)せ
来(きた)る旨(むね)。先達(さきだつ)て聞(きこ)へければ。李雄(りゆう)。孟明伯(まうめいはく)。を大将(たいしやう)として。剛兵(かうへい)二万 餘騎(よき)

にて釜山浦(ふさんかい)をかため居(ゐ)たりしか。此(この)有(あり)さまを見(み)て倭勢(わせい)すでに寄(よせ)たりとて。
上(うへ)を下(した)へと騒動(そうだう)し海陸(かいりく)におりかさなつてひしめきたり。小西行長(こにしゆきなが)是(これ)を
見(み)て大音(たいおん)揚(あげ)て下知(げぢ)しけるは。渡(わた)せや人(ひと)〳〵後(うしろ)を見(み)するな。馬(うま)の足(あし)たゝば
船(ふね)より乗移(のりうつ)れ。海中(かいちう)にて弓(ゆみ)鉄砲(てつはう)放(はな)すべからず甲(かふと)の鉢(はち)をかたむけて。前(まへ)
輪(わ)にひらみて鎧(よろひ)をよく〳〵ゆり合(あは)せよ。人(ひと)にも馬(うま)にも力(ちから)を添(そへ)よ味方(みかた)
渡(わた)らば敵(てき)半弓(はんきう)をあつめて射(ゐ)んずらん。敵(てき)は射(ゐ)ると射(ゐ)かへする相(あひ)た
めして。錣(しころ)を射(い)らるゝなと曳(えい)〳〵声(ごゑ)あげて押上(おしあが)る。行長(ゆきなが)は真先(まつさき)に進(すゝ)ん
で采幣(さいはい)を振(ふ)つて手勢(てぜい)七千 余騎(よき)駈上(かけあが)る。宗対馬守(そうつしまのかみ)をはじめとして
松浦大村(まつうらおほむら)の兵士(へいし)一千二千 騎(き)一むれ〳〵。乗連(のりつれ)〳〵二万 余(あま)りの軍勢(ぐんぜい)
塩(しほ)はな踏立(ふみたて)蹴(け)たてゝ。驀地(まつしくら)になつてかけ上(あが)る。李雄(りゆう)。孟明伯(まうめいはく)。騎射(きしや)の

兵(へい)二万 余(あま)り。矢(や)ぶすま作(つく)つて雨(あめ)の降(ふ)る如(ごと)くさん〳〵に射(ゐ)る。柳川信重(やなかはのぶしげ)是(これ)
を見(み)て家老(からう)豊前守(ぶぜんのかみ)と唯(たゞ)二人。横(よこ)さまにまくり立(たつ)て挑(いど)み戦(たゝか)ふ。有馬修(ありましゆ)
理太夫(りのたいぶ)は自身(じしん)母衣(ほろ)をかけ。大(おほ)くわ形(がた)の甲(かぶと)を着(ちやく)し黒(くろ)の駒(こま)の太(ふと)くたくまし
きに打乗(うちのつ)て。孟明伯(まうめいはく)が本陣(ほんぢん)へおめいて馬(うま)を乗入(のりいれ)たり。有馬(ありま)柳川(やながは)が兵士(へいし)
何(なに)かはもつて猶予(ゆうよ)すべき。一 文字(もんじ)に駈破(かけやぶ)らんと捲立(まくりたつ)て切(きつ)て入(いる)。朝鮮勢(てうせんぜい)死力(しりき)
を出(いだ)して防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふといへども。日本勢(につほんぜい)急(きふ)にもみ立(たて)しかは。副将(ふくしやう)たる李雲(りうん)
一(いつ)をはじめ能(よき)兵共(つはものども)七八人 忽(たちま)ち討死(うちじに)しければ。朝鮮勢(てうせんぜい)叶(かな)はじと引退(ひきしりぞ)く
を遁(のが)すまじと日本勢(につほんぜい)は。地(ち)けふりを立(たて)追(おつ)かけたり朝鮮(てうせん)の兵(へい)。二千七百
余人(よにん)討(うた)れしかば町中(まちなか)へ引入(ひきいり)かねたりしところに。孟明伯(まうめいはく)が勇兵(ゆうへい)八百人
面(おもて)もふらずどつとかへし。釜山浦(ふさんかい)の町口(まちぐち)碧巖寺(へきがんじ)の楼門(らうもん)を楯(たて)に取(とつ)て。火(ひ)

出(いづ)る程(ほど)戦(たゝか)ひけるこれによつて。朝鮮勢(てうせんぜい)もからき命(いのち)を助(たす)かりて釜山(ふさん)
浦(かい)の城(しろ)へ逃(にけ)入(い)り。門(もん)のくわんぬきをさしかためたり。行長(ゆきなが)は手合(てあはせ)の軍(いくさ)に打(うち)
勝(かつ)て城外(じやうぐわい)の町家(まちや)を焼立(やきたて)。小高(こだか)きところに打上(うちあが)り暫(しばら)く息(いき)を休(やす)めけるが行(ゆき)
長(なが)采幣(さいはい)を振(ふつ)て。城(しろ)は弱(よは)りけるぞ一 方(はう)を明(あけ)三方(さんばう)より攻付(せめつけ)よと下知(げぢ)すれば。
先手(さきて)に備(そな)ひし比々左近右衛門(ひゝさこんゑもん)。小西若狭守(こにしわかさのかみ)急(きふ)にかゝり太鼓(たいこ)を打立(うちたて)けれ
ば。大手(おほて)よりは松浦法印(まつうらはうゐん)をはじめ有馬(ありま)大村(おほむら)の面々(めん〳〵)。三千五百 余人(よにん)弓(ゆみ)鉄(てつ)
炮(はう)をつるべかけ息(いき)をもつかせず攻(せめ)たりける。扨(さて)行長(ゆきなが)は後(うしろ)の高山(かうざん)に登(のぼ)り上(うへ)
より城中(じやうちう)を見(み)おろし。数千挺(すせんてう)の鉄炮(てつはう)をもつて雨(あめ)の降(ふ)る如(ごと)く打(うち)かくれば。
城中(じやうちう)には朝鮮人(てうせんじん)みち〳〵たる事(こと)なれば。玉(たま)一ツに二人三人ツヽ討(うた)れ上(うゑ)を
下(した)へと騒動(そうどう)す。大手(おほて)は大村(おほむら)五島(ごとう)松浦(まつら)の人々(ひと〳〵)。鬨(とき)を作(つく)りておめき叫(さけ)んで攻(せめ)

【右丁】
小西摂津守(こにしつのかみ)
   行長(ゆきなが)
釜山浦(ふさんかい)の城(しろ)
を攻落(せめおと)す

【左丁 絵画のみ】

ける故(ゆゑ)城中(じやうちう)防(ふせ)ぎかねて見(み)へたる折柄(をりから)。大手(おほて)の門際(もんきは)の塀(へい)より行長(ゆきなか)が弟(おとゝ)小(こ)
西主殿助種長(にしとのものすけたねなか)は【注①】十六ふしの絵鶴(ゑつる)に金(きん)の切裂(きつさき)のさし物(もの)をさし。一 番(ばん)に
乗上(のりあが)り大音(だいおん)あけ一 番乗(ばんの)り。小西主殿助(こにしとのものすけ)なり。後陣(こぢん)の人々(ひと〳〵)見(み)たるかと呼(よは)はる
二番に五島半右衛門(ことうはんゑもん)。太田喜太夫(おほたきたいふ)二 番乗入(ばんのり)と呼(よは)はり乗込(のりこめ)ば続(つゝ)ひて同勢(とうせい)
我先(われさき)にと乱(みだ)れ入(いる)。城兵(じやうへい)は今(いま)は叶(かな)はじと西門(にしもん)より逃出(にけいで)んとせし時(とき)。行長(ゆきなが)七千 余(よ)
騎(き)を下知(げぢ)して山上(さんじやう)より落(おと)しかけ。勇(ゆう)をふるつて捲(まく)り立(たて)しかば大将(たいしやう)李雄(りゆう)
は馬(うま)に鞭(むち)をうつて熊川(こもかは)【注②】さして落(おち)て行(ゆく)。孟明伯(まうめいはく)は大音(だいおん)上(あげ)国家(こくか)士卒(しそつ)を養(やしな)
ふは今日(こんにち)の為(ため)なり。身(み)をもつて国(くに)に住(ぢゆう)する者(もの)豈(あに)此難(このなん)を見(み)て逃(にげ)んやと。士卒(しそつ)
をはげまし踏(ふみ)とゞまつて戦(たゝか)ふところに。小西(こにし)が家人(げにん)吉川三太夫(きつかはさんたいふ)馳(はせ)ならんで
馬上(ばじやう)ながら無手(むづ)と組(くみ)しが。両馬(りやうば)が間(あひ)に摚(とう)と落(おち)しばしが程(ほと)はねぢ合(あふ)といへども

【注① 「ハ」は助詞の「ハ(は)と思われる。漢数字の「八)はコマ200の9行目のように明らかに「八」と見えるように書いている。】
【注② 他のコマでは「こもかい」となっている。】

孟明伯(まうめいはく)大力(たいりき)にて。三太夫(さんだいふ)を取(とつ)て押(おさ)へ首(くび)かき切(きつ)て立(たつ)たるところを。小西與左(こにしよざ)
衛門(ゑもん)駈来(かけきた)り。後(うしろ)より孟明伯(まうめいはく)か首(くび)を討落(うちおと)す。朝鮮(てうせん)の兵(へい)は是(これ)を見(み)て何(なに)かは
こらへ戦(たゝか)ふべき。右往左往(うわうざわ)に逃散(にげちる)を追(おひ)かけ追詰(おひつめ)首(くび)を取事(とること)。三千五百七拾
三 級(きう)生捕(いけどり)二百十二人なり。こゝにて釜山海(ふさんかい)の口(くち)一 番(ばん)に破(やぶ)れ近辺(きんへん)の老若男(らうにやくなん)
女(によ)おそれ悲(かな)しみ。おもひ〳〵に離散(りさん)する事(こと)只風(たゞかぜ)に木(こ)の葉(は)の散(ち)る如(ごと)く。其(その)
騒動(そうどう)大(おほ)かたならず。行長(ゆきなが)は。手合(てやはせ)の軍(いくさ)に打勝(うちかつ)て心地(こゝち)よしと大(おほい)に歓(よろこ)ひ暫時(ざんじ)
人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)め。扨(さて)生捕(いけどり)の狄鯷(てきてい)を呼出(よびいだ)し近辺(きんへん)の事(こと)を尋(たづ)ねけるに。通(つう)
辞(じ)共(ども)申けるは是(これ)より三十 里(り)乾(いねゐ)にあたつて。東萊(とくねき)と申 城(しろ)是(これ)あり李元翼(りげんよく)
兄弟(きやうだい)と。牛翼(ぎうよく)といふ大将(たいしやう)一万五千 余騎(よき)にてかため候といふ。行長(ゆきなが)聞(きい)て宗対(そうつし)
馬守(まのかみ)有馬修理太夫(ありましゆりだいふ)に向(むか)つて。今日(こんにち)は粉骨(ふんこつ)をつくして比類(ひるひ)なき働(はたら)きを以(もつ)

て大功(たいこう)をとぐる上(うへ)は。今夜(こんや)はこゝにて休息(きうそく)すべきなれども。釜山浦(ふさんかい)の城(しろ)破(やぶ)れ
ぬと聞(きこ)へなば。東萊(とくねき)にても聞(きゝ)おぢして居(を)るべし日数(ひかず)を経(へ)なば。敵(てき)にも防(ふせ)ぎ
の備(そな)ひをなすべし。此図(このづ)をぬかさず急(いそ)ぎ東萊(とくねき)を攻取(せめとり)。名誉(めいよ)をあらはさ
ん。多(おほ)くの首(くび)を日本(につほん)へ渡(わた)し将軍(しやうぐん)の御感(こかん)に預(あづか)らんはいかにと有(あり)ければ。宗(そう)有(あり)
馬(ま)も此義(このぎ)しかるべしと同(どう)じければ。急(いそ)ぎ家人(げにん)どもへ触(ふれ)てその用意(ようい)せよ
とて兵粮(ひやうらう)をつかひ。馬(うま)にもの飼(かい)し日(ひ)もやう〳〵未(ひつじ)のはじめに成(なり)にけり。諸(しよ)
人(にん)勇(いさ)み進(すゝ)みて軍馬(ぐんば)をはやめ。急(いそ)きし故(ゆゑ)日本道(につほんみち)六 里(り)なれば。二 ̄タ時半(ときはん)
に打(うつ)て東萊(とくねぎ)におし寄(よせ)ける。此城(このしろ)にも朝鮮人(てうせんじん)一万二千 余騎(よき)にて守(まも)りし
に。小西行長(こにしゆきなが)七千 余騎(よき)つゞく勢(せい)五千 余騎(よき)三 方(ばう)へわかれて攻(せめ)かゝる。釜山浦(ふさんかい)
の戦(たゝかひ)を聞(きゝ)ておそれ居(ゐ)し事(こと)なれば。大将(たいしやう)牛翼(きうよく)一 番(ばん)に落行(おちゆく)ゆゑ李元(りげん)

翼兄弟(よくきやうだい)も続(つゞい)て城(しろ)を落(おち)たりける。行長(ゆきなが)が舎弟(しやてい)小西主殿助長種(こにしとのものすけながたね)
ならびに。木戸作左衛門教重(きどさくざゑもんのりしげ)手勢(てせい)を引連(ひきつれ)追(おひ)かけたり。朝鮮(てうせん)の兵共(へいども)
攻立(せめたて)られて右往左往(うわうさわう)に乱(み)だれて逃散(にけちり)ける。主殿助(とのものすけ)作左衛門(さくざゑもん)敵(てき)を討(うつ)
こと九百七十五人 討取(うちとり)。つゐに東萊(とくねぎ)をも乗取(のつとり)ける。行長(ゆきなが)心地(こゝち)よき合(かつ)
戦(せん)を両度(りやうど)して。則(すなは)ちこゝに陣(ぢん)を取(とり)大篝(おほかゞり)をたきて。人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)め
ける。行長(ゆきなが)は通辞(つうじ)を呼(よ)んで是(これ)より何(いづ)れの所(ところ)に敵(てき)あるやと尋(たづ)ねけるに。通(つう)
辞(じ)は答(こたへ)て曰(いは)く是(これ)より都(みやこ)へは両道(りやうだう)に分(わか)る。城(しろ)もあまた候 中(なか)にもこゝを
去(さ)る事(こと)五百四十五 里(り)にして忠州(ちくしう)といへる名城(めいじやう)有(あつ)て。嶮岨第一(けんそだいゝち)の要害(やうがい)
にて牧使(ぼくし)の王僧林(わうそうりん)と。成允門(せいしやうもん)兄弟(きやうだい)并(ならび)に。防禦使(はうぎよし)の権應珠(けんおうしゆ)。右兵使(うへいし)の
金應端(きんおうずゐ)。京幾道(けいきだう)都躰察使(とていさつし)の柳成籠(りうせいらう)を大将(たいしやう)として。軍平(ぐんひやう)七万 余騎(よき)

にてこもり兵粮(ひやうらう)なども十分(じふぶん)に入おき王城(わうじやう)にても此城(このしろ)を頼(たのみ)と仕(つかまつる)由(よし)道(みち)
の程(ほど)は九日 路(ぢ)御座(ござ)候と云(いひ)ける故(ゆゑ)。さらば此所(このところ)を陣所(ぢんしよ)として後陣(ごぢん)の
続(つゞ)くをまつて押行(おしゆく)べしとて。東萊(とくねき)に陣(ぢん)を取(とつ)て後陣(ごぢん)のつゞくを待(まつ)
たりける。
   浮田秀家(うきだひでいえ)抜(ぬけ)がけして小西(こにし)を救(すく)はんとする事(こと)
   《割書:附(つけたり)|》加藤清正(かとうきよまさ)熊川(こもかい)に着事(つくこと)
小西行長(こにしゆきなが)は惣軍(そうぐん)に先達(さきだつ)て。釜山浦(ふさんかい)東萊(とくねぎ)の両城(りやうしやう)を攻落(せめおと)し。其勢(そのいきほ)ひ
破竹(はちく)の如(ごと)く猛威(まうい)を振(ふる)ふ事(こと)。あたかも項羽(こうう)が咸陽(かんやう)に入(いる)に似(に)たり。扨(さて)
また備前宰相(びぜんさいしやう)秀家(ひでいへ)は第八番(だいはちばん)の備(そなひ)に有(あり)けるが小西(こにし)が先陣(せんちん)に居(ゐ)
たりしが」抜(ぬけ)がけせしを心元(こゝろもと)なくおもはれ。家老(からう)戸川(とがは)肥後守(ひごのかみ)長船(おさふね)紀伊守(きいのかみ)

明石掃部(あかしかもん)等(とう)を呼(よび)て申されけるは。小西摂津守(こにしつのかみ)抜懸(ぬけがけ)なし敵地(てきち)へ打入(うちいり)
しなれば。若(もし)討死(うちじに)なす時(とき)は日本勢(につほんぜい)の弱(よは)みとなり。また不便(ふびん)の次第(しだい)な
れば我(われ)是(これ)より兵(へい)を進(すゝ)めて。行長(ゆきなが)を助(たす)くべしと有(あり)ければ。戸川(とがは)。長船(おさふね)。明(あか)
石(し)。の人々(ひと〳〵)承(うけ給は)り摂州事(せつしうこと)は。君(きみ)の御 ̄ン寄(よ)せ子(こ)にて他(た)に異(こと)なる義(ぎ)なれば。
御加勢(ごかせい)尤(もつとも)しかるべしと云(いひ)ける故(ゆゑ)。船奉行(ふなふぎやう)を呼(よひ)て密(ひそか)に此(この)みなとを忍(しの)
び出(いで)。釜山海(ふさんかい)へ急(いそ)ぐべしと軍法(ぐんはう)を定(さだ)め卯月(うつき)十四日の晩景(ばんけい)に。壱岐(いき)の風(かざ)
本(もと)を出帆(しゆつぱん)して対馬(つしま)の国(くに)をば横(よこ)に見(み)て。九十六 里(り)の渡(わた)りを打過(うちすぎ)て卯月(うつき)
十六日の東雲(しのゝめ)に釜山浦(ふさんかい)へぞ着(つき)にける。小西(こにし)が郎等(らうどう)結城弥平次(ゆうきやへいじ)。吉田(よしだ)
平内(へいない)。此城(このしろ)を守(まも)り居(ゐ)たりしが急(いそ)ぎ出向(いでむか)ひ。御渡海(ごとかい)目出度(めでたく)奉(そんじ)存(たてまつ)る旨(むね)
申ける時(とき)。秀家(ひでいへ)云(いふ)やう先(まづ)摂州(せつしう)の働(はた)らきのやうすを。具(つぶさ)に語(かた)り候 得(え)迚(とて)

有(あり)のまゝに語(かた)らせ聞(きい)て。秀家(ひでいへ)感涙(かんるい)を流(なが)し比類(ひるひ)なき働(はたら)き。当(たう)表(おもて)第一(だいゝち)の
功名(こうみやう)たるべし。我等(われら)加勢(かせい)に渡海(とかい)の旨(むね)を飛脚(ひきやく)をもつて。申つかはすべしと有(あり)
ける故(ゆゑ)。急(いそ)ぎ使(つかひ)を仕立(したて)東萊(とくねぎ)へぞつかはしける其文(そのぶん)に曰(いは)く。
    我等(われら)行列(ぎやうれつ)を破(やぶ)り渡海(とかい)いたし候義(ぎ)。手前(てまへ)心元(こゝろもと)なく存(ぞんじ)
    今朝(こんちやう)着岸(ちやくがん)せしめ候。釜山浦(ふさんかい)にて比類(ひるひ)なき働(はた)らき。御 ̄ン手(て)
    柄(から)誠(まこと)に   御当家(ごたうけ)無二(むに)の忠節(ちうせつ)に候。明日(みやうにち)其表(そのおもて)へ
    参着(さんちやく)せしむべき間(あひだ)万端(ばんたん)申 談(たんず)べく候 恐々謹言(きやう〳〵きんげん)
      四月十六日      備前宰相(びぜんさいしやう)秀家(ひでいゑ)

         小西摂津守(こにしせつのかみ)殿(どの)

小西摂津守行長(こにしせつゝのかみゆきなか)は。此書(このしよ)を披見(ひけん)しなゝめならず歓(よろこ)び。喜悦(きえつ)の眉(まゆ)をひらき誠(まこと)
に千 騎(き)万 騎(き)の加勢(かせい)より。大(おほい)に力(ちから)を得(え)たりとていよ〳〵猛勢(まうせい)を振(ふる)ひける。去程(さるほど)に加藤主(かとうか)
計頭清正(すへのかみきよまさ)は。小西行長(こにしゆきなが)に先(さき)を越(こ)されし事(こと)を無念(むねん)におもひ。行長(ゆきなが)が進(すゝ)みし
跡(あと)より進(すゝ)まんも心(こゝろ)うき事におもひ。四月十三日には釜山浦(ふさんかい)の外洋(そとうみ)より熊川(こもがい)
へ船(ふね)をつけ。陸路(くかぢ)に登(のほ)つて行長(ゆきなが)が軍功(くんこう)の大(おほい)なることを聞(きく)より。弥(いよ〳〵)。大(おほい)に怒(いか)つて今(こん)
日(にち)より以後(いこ)他人(たにん)をして先鋒(せんばう)となさしむべからず。我(われ)一人 是(これ)をなさんのみといふ
清正は余(あま)りに急(いそ)ぎて押(おし)わたるが故(ゆゑ)。馬(うま)を乗(のせ)たる後船(あとぶね)どもいまた着岸(ちやくがん)せざ
るによつて。馬(うま)に乗(の)らざる侍(さむらひ)とも五十人 余(あま)りにおよぶゆゑ。爰(こゝ)に後船(あとふね)をや。待(まつ)べき
又(また)駑馬(どば)なりとも尋(たつ)ね求(もと)めて。是(これ)を馳(は)せて乗(のる)べきやと評議(ひやうぎ)区々(まち〴〵)なるところ
に。船頭(せんとう)どもの申やうなか〳〵昨今(さくこん)の風波(かさなみ)にては。五七日の間(あひた)に後船(あとふね)ども湊(みなと)を

【右丁】   
小西与左衛門(こにしよざゑもん)
  釜山浦城(ふさんかいしやう)の猛将(まうしやう)
    孟明伯(まうめいはく)を討(うつ)

【左丁 絵画のみ】

出(いで)候はんこと存(そんじ)もよらざる義(き)に候。一向(いつかう)に先(さき)へ御 ̄ン急(いそ)ぎあらんこそよかるべけれといふ。
よつてさらばすゝむべし。去(さり)ながら侍(さむらひ)とも歩行(かち)にては叶(かな)ふべからずとて。在々所々(ざい〳〵しよ〳〵)へ
打入(うちいつ)て馬(うま)とつて乗(のら)んとするに。所(ところ)の者荷物(ものにもつ)を付(つけ)て自(みつか)らも打乗(うちのつ)て退(のき)つると見(み)へ
て。馬一疋(うまいつひき)もなかりけり所々(しよ〳〵)に有(ある)ものは。伴(つな)ぎ捨(すて)たる牛(うし)のみなるを見(み)て是(これ)を取(とり)
来(きた)り。歩行(かち)の達者(たつしや)ならぬ者(もの)は是(これ)に乗(のつ)て急(いそ)げとも。はかの行(ゆか)ぬぞ気(き)の毒(どく)なり
奉輩(ほうばい)中(ちう)の若殿原(わかとのばら)。口(くち)のわろきが集(あつま)りて時(とき)の座興(ざけふ)のやうに笑(わら)つていふ。方々(かた〳〵)は
今日(けふ)の体(てい)たらく騎馬(きば)の人(ひと)とは申されまし。騎牛衆(ききうしゆう)とや申さん何時(いつ)も馬(うま)
乗(のり)よりは気遣(きづかひ)なく。後(あと)にさがりて御座(おわ)すれんは左礼言(されこと)らしういふといへとも。
はじめは此方(こなた)も聞(きゝ)すてゝ行(ゆき)けるが。余(あま)り戯言(けげん)のすきぬれば牛乗(うしのり)とも腹(はら)を
立(たつ)て。さて各々(おの〳〵)は初(はじ)めよりさま〳〵の御 ̄ン なぶりを。左礼言(ざれこと)とのみ存(そん)ぜしが。実(じつ)に我(われ)

々(〳〵)を嘲(あざけ)らるゝとこそ聞(きこ)へたれ。誠(まこと)に左様(さやう)におもはれなばいで牛(うし)に乗(のへ)たるか遅(おそ)
きや。馬(うま)に乗(のり)たるが早(はや)きや乗(のり)くらべ致(いた)すべしと。既(すで)に闘諍(たうじやう)におよびなんとな
しけるにより。家(いゑ)の老臣(らうしん)これを聞付(きゝつけ)悪言(あくかう)云(いひ)たる者共(ものども)に。牛(うし)に乗(のり)たる者(もの)の方(かた)へ詫(わび)
言(こと)させやう〳〵無事(ぶじ)にすんたりける
   加藤清正(かとうきよまさ)慶州(けいしう)を攻落(せめおと)す事(こと)
加藤主計頭清正(かとうかすへのかみきよまさ)は。小西(こにし)に先(さき)を取(と)られし事(こと)を心(こゝろ)うくおもひ。如何(いか)にもして
敵(てき)に出合(いでやい)。小西(こにし)にまさる功名(こうみやう)なして此(この)無念(むねん)を散(さん)ぜんと。軍馬(ぐんば)を急(いそ)がせ七八十 里(り)
の道(みち)を四月十三日の暮合(くれやい)に。熊川(こもがい)を出(いで)。同(おなじく)十四日 辰(たつ)の刻(こく)に至(いた)り。爰(こゝ)にて見渡(みわた)せ
ば家数(いゑかず)二三万 軒(けん)もあらんとおぼへたる地(ち)に出(いで)。城郭(じやうくわく)雲(くも)にそびえて見(み)へければ
熊川(こもかい)にて生捕(いけどり)し朝鮮人(せうせんじん)に問(とひ)【ママ】ば。慶州(けいしう)と申してむかし高麗(かうらい)の王建(わうけん)か住(すみ)

し古都(ふるみやこ)なりといふ。清正(きよまさ)小踊(こおど)りして大(おほい)に歓(よろこ)びさらば攻落(せめおと)すへしと押行(おしゆく)ところに
慶州(けいしう)の東(ひがし)五 町(ちやう)余(あま)りに二 里(り)計(ばか)りつゞきたる松原(まつばら)あり。其所(そのところ)に籏(はた)百ながれ程(ほど)ひるかへり
て勢(せい)のほど。四五万もあらんとおぼへたる敵(てき)扣(ひか)へたるが。今(いま)清正(きよまさ)か押来(おしきた)るを見(み)て備(そなひ)
を出(いだ)してかゝり來る。清正(きよまさ)朝鮮人(てうせんじん)に問(とひ)は彼者(かのもの)答(こた)へて。是(これ)は此口(このくち)の番手(ばんて)にて五
人の大将(たいしやう)にて。権標(けんひやう)。李福男(りふくなん)。高彦伯(かうげんはく)。鄭紀龍(ていきりやう)。撲殿長(ぼくでんちやう)。の五人の兵(へい)に候はんと
いふ。清正(きよまさ)の先手(さきて)加藤清兵衛(かとうせいべい)。庄林隼人(しやうばやしはやと)。備(そなひ)を出(いだ)して弓(ゆみ)鉄炮(てつほう)を打(うち)かけ。戦(たゝか)
ひをはじむ。鍋島加賀守直重(なべしまかゞのかみなをしげ)が先備(さきそなひ)鍋島重左衛門(なべしまじふざゑもん)。同(おなじく)平五郎(へいごらう)。五千 余騎(よき)
にて左(ひだ)りの川(かは)を渡(わた)り。松原(まつばら)の橋(はし)を過(すぎ)て町口(まちぐち)押入(おしい)らんと。馬(うま)煙(けふ)りを立(たつ)て駈来(かけきた)
り。敵(てき)を右(みぎ)に見(み)て押廻(おしまは)さんとなしける時(とき)。朝鮮(てうせん)の高彦伯(かうげんはく)は無双(ぶそう)の剛将(がうしやう)なれ
は。手勢(てぜい)一万 余騎(よき)を下知(けち)して鍋島勢(なべしませい)にかけ合(あは)せ。半弓(はんきう)を雨(あめ)の如(ごと)くに射(ゐ)かけ

咄(とつ)と喚(おめい)て突(つき)かゝる。鍋島平五郎成證(なべしまへいごろうなりずみ)駈立(かけたて)られ。五 町(ちやう)ばかり敗走(はいさう)す朝鮮勢(てうせんせい)
勝(かつ)に乗(のつ)て追(おひ)かけ来(きた)る。清正(きよまさ)が左(ひだ)りの先手(さきて)加藤右馬允(かとううまのじやう)。九鬼四郎兵衛広(くきしろへゑひろ)
高(たか)等(ら)。弓(ゆみ)鉄炮(てつほう)をもつて陰(ゐん)にとぢ陽(やう)に開(ひら)きて。矢種(やだね)玉薬(たまくすり)をおしまず雨(あめ)の降(ふる)
如(こと)く散々(さん〴〵)に射(ゐ)けれども。朝鮮勢(てうせんぜい)は馬上(ばしやう)の達者(たつしや)の兵(へい)なれば。討(うて)ども射(ゐ)れ
とも事(こと)ともせず。真黒(まつくろ)になつて押(おし)かゝる此時(このとき)加藤清兵衛(かとうせいべゑ)は。あかねの切裂(きつさき)
のさし物(もの)にて。馬(うま)より飛下(とひお)り十文字(じふもんじ)の手鑓(てやり)を引(ひつ)さけ。真先(まつさき)に駈出(かけいだ)し驀地(まつしくら)
に突(つき)かゝり。人馬(にんば)のきらいなく翌横(じうおう)にかけ立(たて)。勇(ゆう)を振(ふる)ふて力戦(きりせん)す此(この)鑓先(やりさき)に
廻(まは)る者(もの)は。人馬(にんば)ともに助(たすか)るは稀(まれ)なりけり。庄林隼人(しやうはやしはやと)是(これ)を見(み)て。丹頂(たんてう)の立鶴(たちづる)の
書(かい)たる白七子(しろなゝこ)の陣羽織(ぢんばをり)を着(ちやく)し。かす毛(け)の馬(うま)に打乗(うちのり)手勢(てぜい)二十 騎(き)ばかりを。
真丸(まんまる)に備(そな)ひ群(むら)かり立(たつ)たる敵中(てきちう)へ。会釈(ゑしやく)もなく諸鐙(もろあぶみ)を合(あは)せ。一 文字(もんじ)に駈入(かけいり)

ける朝鮮方(てうせんがた)二方(にはう)へさつと別(わか)れて。半弓(はんきう)を雨(あめ)の降(ふる)如(こと)く射(ゐ)かくるといへども。庄林(しやうばやし)
隼人(はやと)は大剛(だいがう)の兵(へい)なれば少(すこ)しも恐(おそ)れず。高彦伯(かうげんはく)を討(うた)んと心(こゝろ)ざし東西(とうさい)に駈通(かけとほ)
り戦(たゝか)ひける程(ほど)に。既(すで)に間近(まちか)くなるとひとしく隼人(はやと)は馬(うま)をおどらせ馳(はせ)かゝり。高(かう)
彦伯(げんはく)に無手(むづ)と組(くん)で両馬(りやうば)か間(あひ)に摚(どう)と落(おち)上(うへ)を下(した)へともみ合(やい)ける。扨(さて)また山口(やまくち)
與惣右衛門(よそうゑもん)。大木土佐守(おほきとさのかみ)。加藤與左衛門(かとうよざゑもん)。三千 余騎(よき)一 度(と)にどつと駈入(かけい)るに大将(たいしやう)
清正(きよまさ)なにかはもつてこらゆべき。采幣(さいはい)をおさめ大長刀(おほなぎなた)を取(とつ)て先手(さきて)討(うた)すな続(つゞ)
けや者共(ものども)とて。自(みずか)ら真先(まつさき)に敵中(てきちう)へかけ入(いり)ければ。籏本(はたもと)の兵(へい)千 余騎(よき)主(しゆう)を討(うた)せじ
と喚(おめい)てこそはかゝりける。流(なが)るゝ血(ち)は池(いけ)をなし喚(おめ)く声(こゑ)は天地(てんち)をひゞかし。攻戦(せめたゝか)
ひける庄林隼人(しやうはやしはやと)は。つゐに高彦伯(かうげんはく)を取(とつ)ておさへ首(くび)を取(とつ)てさし上(あげ)しかば。加藤(かとう)
清兵衛(せいべゑ)も馬(うま)引(ひき)よせ両人(りやうにん)ともに打乗(うちのつ)て。清正(きよまさ)の籏本勢(はたもとぜい)へ馳加(はせくは)はる。扨(さて)清正(きよまさ)

は郭紀竜(ていきりやう)が勢(せい)と駈合(かけやはせ)戦(たゝか)ひしが。日本(につほん)無双(ぶそう)の清正(きよまさ)に何(なに)かはもつて敵(てき)すべき終(つゐ)
に打崩(うちくつ)され右往左往(うわうさわう)に散乱(さんらん)す。相良宮内少輔(さがらくないしやういふ)も八百 余騎(よき)にて。権標(けんひやう)が手(て)
を切崩(きりくづ)し。直(たゞち)に清正(きよまさ)が手(て)へ馳加(はせくは)はり逃(にぐ)るを追(お)ふて進(すゝ)みける。鍋島(なべしま)が先(さき)
手(て)も是(これ)に気(き)を得(え)て取(とつ)てかへしけるが。加賀守(かゞのかみ)も籏本(はたもと)をおし立(たて)黒煙(くろけふり)
をあげて進(すゝ)みける。慶州(けいしう)の町口(まちぐち)にて撲殿長(ぼくでんちやう)李福男(りふくなん)一万 計(ばかり)の勢(せい)をもつて。
踏(ふみ)とゞまり弓(ゆみ)の兵(へい)数十人(すじふにん)を家(いへ)の上(うへ)に登(のぼ)せ両方(りやうはう)より矢尻(やじり)を揃(そろ)へ散々(さん〴〵)に射(い)る。
加藤與左衛門(かとうよさゑもん)吉村吉右衛門(よしむらきちゑもん)。二千 余騎(よき)面(おもて)もふらず進(すゝ)みつゝ。鉄炮(てつはう)を先(さき)に
立(たて)て打(うち)すくめ色(いろ)めくところを。得(え)たりや応(おう)と加藤与左衛門(かとうよざゑもん)只(たゞ)一 騎(き)真先(まつさき)
に駈出(かけいで)。鑓(やり)を入(いれ)一 番(ばん)鑓(やり)と名乗(なのり)りて攻戦(せめたゝか)ふ。大将(たいしやう)かくの如(ごと)くなれば此手(このて)の兵士(へいし)
何(なに)かは少(すこ)しも猶予(ゆうよ)すべき。錣(しころ)をかたむけ一 度(ど)にどつと突(つき)かゝる。互(たが)ひに喚(おめ)く声(こゑ)

天地(てんち)にひゞき地煙(ちけふ)りを立(たて)て挑(いど)み戦(たゝか)ふ。清正(きよまさ)馬上(ばじやう)に立(たち)あがり大音(だいおん)あげ。清正(きよまさ)跡(あと)
につゞくぞ引(ひく)な人々(ひと〳〵)進(すゝ)めや面々(めん〳〵)と。鑓(やり)おつとりてたゝき立(たて)眼(まなこ)を怒(いか)らし下知(げぢ)し
ける。主計頭(かずへのかみ)にはげまされ死(し)を一 挙(きよ)に軽(かろ)んじ。曳(えい)や声(こゑ)を出(いだ)してもみ立(たて)しかば。一万
余騎(よき)の朝鮮勢(てうせんぜい)突立(つきたて)られて大手(おほて)の門際(もんぎわ)まで。七八丁のあひだ足(あし)をもためず突(つき)
立(たて)られ。我先(われさき)にと城(しろ)へ逃入(にけい)り上(うゑ)を下(した)へとかへし騒動(さうどう)なし。橋(はし)より落(おつ)る者(もの)数(かず)を
しらず。清正(きよまさ)が兵(へい)どもつゞゐて城(しろ)へ攻入(せめいり)しかば。撲殿長(ぼくでんちやう)。李福男(りふくなん)も防(ふせ)ぐに及(およ)はず
這々(はう〳〵)城(しろ)へ逃入(にけいり)門(もん)をも閉(とぢ)ず。狭間(はざま)配(くば)りもせず周章(しうしやう)して居(ゐ)ける時(とき)清正(きよまさ)艮(うしとら)
の角櫓(すみやぐら)へ雨(あめ)の降(ふ)る如(ごと)く火矢(ひや)を射(ゐ)かけたり折節(おりふし)風(かぜ)はげしく吹(ふき)かけたれば
忽(たちま)ち櫓(やぐら)へ火(ひ)うつり。所々(しよ〳〵)へもへつき炎(ほのふ)雲(くも)をまき東西(とうざい)へ焼(やけ)ひろかりければ。
城中(じやうちう)の兵共(へいども)こは何(なに)とせんと戦(たゝか)ふ兵(へい)一人もなく。唯(たゞ)身(み)をのがれんと先(さき)を争(あらそ)ひ。西(にし)

門(もん)より逃出(にげいづ)る事(こと)。さながら堤(つゝみ)の切(き)れて水(みづ)の出(いつ)るが如(こと)し。大将(たいしやう)は駿馬(じゆんめ)に乗(の)り
たれは乗(のり)ぬけ〳〵落(おち)たりしが。鄭記竜(ていきりやう)は追(おひ)かけられて嶮岨(けんそ)をつたひ左(ひだ)りの山(やま)
を志(こゝろさ)し落(おち)けるを。相良(さから)が家老(からう)犬鐘兵部少輔(いぬかねひやうぶしやういふ)おしならべて引組(ひつくみ)両馬(りやうば)が
間(あひ)に落重(おちかさ)なり上(うへ)を下(した)へと組合(くみあひ)けるが。鄭記竜(ていきりやう)大力(たいりき)にて兵部(ひやうふ)は下(した)に組(くみ)し
かれけるが兵部(ひやうぶ)もしれ者(もの)一 尺(しやく)ばかりの正宗(まさむね)の脇差(わきざし)をぬき。鄭記竜(ていきりやう)が鎧(よろひ)
のすき間(ま)を力(ちから)にまかせてしたゝかにさしければ。何(なに)かはもつてたまるべき了(さす)
得(が)の鄭記竜(ていきりやう)も眼(まなこ)くらみ。すこし力(ちから)のゆるむところを兵部(ひやうぶ)は得(ゑ)たりと。下(した)より
はねかへし鄭記竜(ていきりやう)が首(くび)を取(とつ)てさし上(あげ)たり。討取(うちと)る首(くび)数(かず)をかぞふるに
一千二百五十二なり。城中(じやうちう)城外(じやうくわい)の家(いゑ)に火(ひ)移(うつ)り。三万 軒(げん)に余(あま)る家数(いへかず)一日一
夜(や)に残(のこ)らず炎上(ゑんじやう)してけれは。清正(きよまさ)は総軍(そうぐん)をまとめ山(やま)にそふて陣(ぢん)を取(と)りて

【右丁 絵画のみ】
【左丁】
加藤主計頭(かとうかずへのかみ)
   清正(きよまさ)
黒田甲斐守(くろだかひのかみ)
   長政(ながまさ)
慶州(けいしう)の城(しろ)を
   攻落(せめおと)す

人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)めける。則(すなはち)秀吉公(ひでよしこう)へ此(この)おもむきを注進(ちゆうしん)申 上(あぐ)へきとて。箕(みの)
部金太夫(べきんだいふ)に命(めい)じ。合戦(かつせん)のあらましを認(したゝ)め鍋島加賀守(なべしまかゞのかみ)相良宮内少輔(さがらくないしやういふ)
等(ら)と連印(れんゐん)になし。家人(げにん)庄林喜右衛門(しやうはやしきゑもん)を使(つかひ)となして日本(につほん)へ行(ゆか)しむ庄林(しやうばやし)
喜右衛門(きゑもん)は急(いそ)ぎ支度(したく)をとゝのひ。注進状(ちゆうしんしやう)を箱(はこ)におさめ是(これ)を自(みづか)ら首(くび)に
かけ。両(りやう)三人の供人(ともびと)を連(つれ)釜山浦(ふさんかい)へ出(いで)。早船(はやふね)に打乗(うちのり)波(なみ)おし切(きつ)て船(ふね)を急(いそ)がせ。
ける波風(なみかぜ)の難(なん)なく肥前(ひぜん)の国(くに)へ着(つき)しかば。夫(それ)より京都(きやうと)をさして馳登(はせのほ)るところ
に。筑前国(ちくせんのくに)姪(めい)か浜(はま)にて秀吉公(ひでよしこう)名古屋(なごや)へおし出(いだ)し給ふに行逢(ゆきあひ)則(すなは)ち途中(とちう)
なから御 ̄ン供(とも)の御 側衆(そはしゆう)に附(つい)て。清正(きよまさ)の注進状(ちゆうしんじやう)をさす上(あぐ)るところに。小西摂津守(こにしせつゝのかみ)
行長(ゆきなが)方(かた)よりも。小西平左衛門(こにしへいさゑもん)を使(つかひ)として。釜山浦(ふさんかい)東莱(とくねぎ)両城(りやうじやう)を乗取(のつと)り
候 旨(むね)申 上(あげ)ければ。秀吉公(ひでよしこう)此(この)注進状(ちゆうしんしやう)を御覧(ごらん)あつて。御感悦(ごかんゑつ)浅(あさ)からず両人(りやうにん)の

使(つかひ)の者(もの)どもには。御《割書:ン》羽織(はをり)一ツ宛(つゝ)下(くだ)され。小西摂津守(こにしせつのかみ)此度(このたび)釜山浦(ふさんかい)東莱(とくねぎ)両所(りやうしよ)の
働(はたら)き。比類(ひるひ)なき次第(しだい)なりとて御感状(ごかんじやう)に。定俊(さだとし)の御《割書:ン》太刀(たち)栗毛(くりげ)の馬(うま)一 疋(ひき)相添(あひそ)へ
下(くだ)し賜(たま)はりけり。清正(きよまさ)には大体(たいてい)の御書(ごしよ)なり。扨(さて)清正(きよまさ)は慶州(けいしう)より蜜陽大(みつやうたい)
岳(かく)を経(へ)て全義館(せんぎくわん)【舘は俗字】へ打出(うちいで)。忠清道(ぢくせいたい)を平(ひら)おしにおして王城(わうじやう)へ攻入(せみい)らんと。士卒(しそつ)
をはげまし道(みち)を急(いそ)ぎて馳(はせ)たりける。
   是(これ)より黒田長政(くろだなかまさ)金海稷山(きんかいしよくざん)を攻(せめ)。後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)。伯子顔(はくしがん)を討取(うちとる)
   の働(はたら)き。栗山備後(くりやまひんご)一 番乗(ばんの)りの功名(こうみやう)。また加藤清正(かとうきよまさ)。小西行長(こにしゆきなが)先陣(せんぢん)
   争(あらそ)ひ。清正(きよまさ)龍津(りうしん)といへる大川(だいか)を越(こゆ)る條(くだり)は巻(まき)をかへてあらはしぬ。

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)初編巻之五《割書:終》

【白紙】

【白紙】

【白紙】

【白紙】

【裏表紙】

【表紙】

【見返し】
JAPONAIS
191

【白紙】

【白紙】

絵本朝鮮征伐記 《割書:前編 |》六

Japonais n-191  VIk

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之六
    目録
 一 黒田長政(くろだなかまさ)金海稷山城(きんかいしよくざんしやう)を攻(せめ)とる事(こと)
 一 小西行長(こにしゆきなが)忠州(ちくしう)を攻落(せめおと)す事(こと)
 一 朝鮮王(てうせんわう)都(みやこ)を落(おち)る事(こと)
 一 加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなが)先陣(せんぢん)を争(あらそ)ふ事(こと)
 一 王城(わうじやう)途中(とちう)群県(ぐんけん)を陥(おとしい)る事(こと)
 一 加藤清正(かとうきよまさ)龍津(りうしん)を越(こゆ)る事(こと)

【白紙】

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之六

  黒田長政(くろだながまさ)金海稷山城(きんかいしよくさんしやう)を攻(せめ)とる事(こと)

偖(さて)黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)は。加藤(かとう)小西(こにし)があとを詰(つめ)て進(すゝ)みし事(こと)故(ゆゑ)。珍(めづ)らしき
戦(たゝか)ひにも出合(いてあは)ず。将士(しようし)ともに無念(むねん)におもひいかにもして。敵(てき)を破(やぶ)つて功名(こうみやう)
を顕(あらは)さんとおもふて進(すゝ)み行(ゆく)ところに。東萊(とくねぎ)より北(きた)にあたつて金海城(きんかいじやう)と云
ところ有(あり)。朝鮮(てうせん)の兵馬使(へいばし)伯子顔(はくしがん)といへるを大将(たいしやう)として。多(おほ)くの敵兵(てきへい)こ
もるよし聞(きこ)えければ。大(おほい)に歓(よろこ)び手勢(てぜい)二万 騎(き)計(ばかり)金海城(きんかいじやう)へおし寄(よす)る。先(さき)
手(て)は栗山備後利安(くりやまびんごとしやす)なり。此(この)栗山(くりやま)はかくれなき勇将(ゆうしやう)なれば。金海城(きんかいしやう)へ寄(よす)る
とひとしく町々(まち〳〵)を押破(おしやぶ)り。風(かぜ)により火(ひ)をかけたりしかば。城中(じやうちう)よりも是(これ)を

見(み)て伯子顔(はくしがん)兵(へい)を引(ひい)て突(つい)て出(いで)。日本勢(につほんぜい)を追散(おひちら)さんと力(ちから)を尽(つく)して挑(いど)み戦(たゝか)
ふ。栗山(くりやま)が勢(せい)の中(うち)より村上彦右衛門(むらかみひこゑもん)と名乗(なの)りて一 番(ばん)に鑓(やり)を入(いれ)。朝鮮勢(てうせんぜい)を
四方(しはう)へ突倒(つきたふ)し八 方(はう)へ追(おひ)なびけ攻戦(せめたゝか)ふ故(ゆゑ)。朝鮮勢(てうせんぜい)四度路(しどろ)になつて見(み)へける
時(とき)。大将(たいしやう)伯子顔(はくしがん)大(おほい)に怒(いか)り東西(とうざい)にあたりて血戦(けつせん)し。士卒(しそつ)に下知(げぢ)して人数(にんず)
をまとめ。城中(じやうちう)へ引入(ひきい)らんとす栗山(くりやま)が兵(へい)は附入(つけいり)にせんと。あとにつゞいて押入(おしいる)
を伯子顔(はくしがん)は此所(このところ)を破(やぶ)られては叶(か)なはじと。一 世(せ)の勇(ゆう)をふるつて力戦(りきせん)す栗(くり)
山備後(やまびんご)は真先(まつさき)に進(すゝ)み。大太刀(おほだち)をさし翳(かざし)敵中(てきちう)へわつて入。千変万化(せんべんばんくわ)の手(て)を
くだき勇戦(ゆうせん)す。此時(このとき)後藤又兵衛基次(ごとうまたべゑもとつぐ)は長政(ながまさ)の籏本(はたもと)に有(あり)しが。先手(さきて)の
戦(たゝか)ひいかゞあらんと只(たゞ)一騎(いつき)にて。駈来(かけきた)りて戦(たゝか)ひの有(あり)さまを見(み)て居(ゐ)たりしが
今(いま)栗山(くりやま)一 番(ばん)に城中(じやうちう)へ乗入(のりいる)を見(み)て。何(なに)かは少(すこ)しもこらゆべき一 文字(もんじ)に馬(うま)を馳(はせ)

て城中(じやうちう)へ駈入(かけいり)当(あた)るを幸(さいは)ひ捲立(まくりたて)て攻付(せめつく)る。城将(じやうしやう)伯子顔(はくしかん)はとても叶(かな)はざると
おもひ。よき敵(てき)とさしちがひ討死(うちじに)せんと覚悟(かくご)をなし。死(しに)ものくるひに打廻(うちまは)る
基次(もとつぐ)此(この)有(あり)さまを見(み)て。此(この)敵(てき)を討(うつ)て籏本(はたもと)への土産(みやげ)にせんと。伯子顔(はくしがん)を目(め)が
けて進(すゝ)みよる。伯子顔(はくしがん)も基次(もとつぐ)が武者振(むしゃぶり)を見(み)て。馬(うま)を寄(よ)せ組(くま)んとす基次(もとつく)
も得物(えもの)投捨(なげすて)無手(むず)と組(くみ)しが。忽(たちま)ち両馬(りやうば)が間(あひ)に摚(どう)と落(おち)上(うへ)を下(した)へともみ合(あひ)し
が。基次(もとつぐ)面倒(めんだふ)なりと総身(そうしん)の力(ちから)を腕(うで)に入(いれ)。ヤツト声(こゑ)をかけ伯子顔(はくしかん)を引(ひき)かつぎ
力(ちから)にまかせて投出(なけいだ)せば。あはれむべし伯子顔(はくしがん)はかたはらなる石(いし)に当(あた)りて。脇腹(わきばら)を
強(つよ)く打(うち)ければその儘(まゝ)息(いき)はたへたりける。此(この)有(あり)さまに朝鮮人(てうせんじん)おどろき恐(おそ)れ。右(う)
往左往(わうざわう)に散乱(さんらん)す。黒田勢(くろだぜい)は城中(じやうちう)にこみ入(いり)即時(そくじ)に城中(しやうちう)へ火(ひ)をかけ焼(やき)たてける。
敵を討(うつ)こと大将 伯子顔(はくしがん)をはじめ。一千四十三人 首(くび)を取(とつ)たりける。今日(こんにち)栗山(くりやま)

備後(びんご)。粉骨(ふんこつ)をつくして此城(このしろ)を攻落(せめおと)しけるに。栗山(くりやま)が兜(かふと)の枇杷(びわ)の葉(は)の立物(たてもの)
の両方(りやうはう)へ。矢(や)三筋(みすぢ)射立(いたて)られ折(をり)かけたれば其(その)有(あり)さまゆゝしくぞ見(み)へたりける。扨(さて)討(うち)
取(とる)ところの首(くび)どもの鼻(はな)をそぎ。酒(さけ)にひたし日本(につほん)へ渡(わた)しければ秀吉公(ひてよしこう)御感(こかん)有
て。清正(きよまさ)行長(ゆきなが)同(どう)やうに首数(くびかす)至来(とうらい)大慶(たいけい)に思召(おほしめす)との御書(ごしよ)を下(くだ)されける。長(なが)
政(まさ)は金海(きんかい)に陣(ぢん)を取(とり)人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)め。扨(さて)後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)村上彦右衛門(むらかみひこゑもん)を呼(よび)
て申されけるは。其方(そのはう)ども手勢(てせい)を引(ひい)て船(ふね)に乗(のり)川上(かはかみ)へはたらき。川(かは)の近辺(きんへん)
なる在々(ざい〳〵)を放火(はうくわ)し候へと有(あり)ければ。両人共(りやうにんとも)命(めい)を請(うけ)四百 計(ばかり)の勢(せい)を卒(そつ)し
船(ふね)に乗(の)り。川上(かはかみ)へ至(いた)りて所々(しよ〳〵)を放火(はうくわ)しけるに川(かは)の西(にし)に一ツの砦(とりで)の城(しろ)見へたり。通(つう)
辞(じ)を呼出(よひいだ)し所(ところ)の者(もの)に問(と)へば。稷山(しよくざん)といへる城(しろ)なりといふ金海城(きんかいじやう)の落人(おちうと)も。
みな此(この)城(しろ)へ逃入(にげいり)候と云(いゝ)ければ。後藤(ごとう)村上(むらかみ)下知(げぢ)して鉄炮(てつはう)の兵(へい)を追手(おふて)へさし

向(むけ)きびしく打(うち)かけさせ。後藤(ごとう)村上(むらかみ)は強兵(がうへい)を引率(いんそつ)して。搦手(からめて)より攻入(せめいり)し
に中々(なか〳〵)防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふ兵(へい)なく。右往左往(うわうざわう)に落行故(おちゆくゆゑ)追討(おひうち)にして。敵兵(てきへい)三百 計(ばかり)
討取(うちとり)つゐに城(しろ)を乗取(のつとり)。此所(このところ)に陣(ぢん)を取(とり)足(あし)の早(はや)き者(もの)をつかはし。城(しろ)より一 里(り)
ばかり川下(かはかみ)【ママ】に高札(たかふだ)をたて。稷山城(しよくざんしやう)を黒田甲斐守内(くろだかいのかみうち)。後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)。村(むら)
上彦右衛門(かみひこゑもん)乗取(のつとり)篭(こも)り罷在(まかりあり)候と。書(かい)たりける黒田(くろだ)が斥候(ものみ)の兵(へい)来(きた)り
此札(このふだ)を見付(みつけ)て。馳帰(はせかへ)りて此由(このよし)を申ければ。長政(ながまさ)大(おほい)に歓(よろこ)びけるが小勢(こぜい)故(ゆゑ)
心元(こゝろもと)なしとて。長政(ながまさ)夜(よ)どふしに駈至(かけいた)りその功(こう)を賞(しよう)し。扨(さて)稷山(しよくざん)を放火(はうくわ)し
て再(ふたゝ)び金海(きんかい)へ引取(ひきとり)ければ。後藤(ごとう)村上(むらかみ)も長政(ながまさ)に従(したが)ひ金海(きんかい)へ引取(ひきとり)ける。かく
て一両日 人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)めけるうちに。島津薩摩守義弘(しまづさつまのかみよしひろ)。福島左衛門(ふくしまさゑもん)
太夫正則(たいふまさのり)。戸田民部少輔(とだみんふしやうゆう)等(とう)も。今日(こんにち)は着陣(ちやくぢん)いたすべきよし聞(きこ)へければ。長(なが)

政(まさ)。いざや後陣(ごぢん)のつゞかぬうち都(みやこ)へ打入(うちいり)功名(こうみやう)すべしと。士卒(しそつ)をはげませ進(すゝ)み入(いる)。
加藤(かとう)小西(こにし)に追(おひ)ちらされたる朝鮮人(てうせんしん)共(とも)。蒙露山(もうろざん)といふ山(やま)にたて籠(こも)り。
松(まつ)の木(き)のしげみに集(あつま)り居(ゐ)たりしが。長政(ながまさ)が霊原(れいげん)といへる一 里(り)計(ばかり)つゝきたる
松原(まつばら)を過(すぎ)て押行(おしゆく)ところに。蒙露山(もうろざん)より一 枚楯(まいだて)引(ひき)かつぎたる半弓(はんきう)の者(もの)ども。
二三千 出(いで)てさん〴〵に射(い)る。長政(ながまさ)が先手(さきて)は備後利安(びんごとしやす)なりしが。忽(たちま)ち備(そなひ)を立(たて)
鉄砲(てつぱう)の兵(へい)に下知(げぢ)して打(うた)しめけるに。敵兵(てきへい)色(いろ)めき立(たつ)て見(み)えけるを栗山(くりやま)すは
やかゝれと真先(まつさき)に駈出(かけいだ)す。此時(このとき)黒田(くろだ)が籏本(はたもと)より後藤(ごとう)村上(むらかみ)の両勇士(りやうゆうし)。一 文字(もんじ)
に駈来(かけきた)り無二無三(むにむさん)に敵中(てきちう)へ突(つい)て入(いり)。竪横(じふわう)に蒐立(かけたて)瞬(またゝ)くうちに。おの〳〵敵(てき)七八
騎(き)つゝ突(つい)て落(おと)す。栗山(くりやま)が兵(へい)五百 余人(よにん)切先(きつさき)を揃(そろ)へ捲立(まくりたて)て切立(きりたつ)れば。何(なに)かはもつて
たまるべき。人(ひと)なだれをなして逃(にげ)たりけるを。二 陣(ぢん)にひかへし黒田美作(くろだみまさか)。山(やま)の

尾筋(をすぢ)を取切(とりきり)落行先(おちゆくさき)をふさぎて攻(せめ)たりければ。敵兵(てきへい)は東西(とうざい)に逃(にげ)南北(なんぼく)に遁(のが)れ
落行(おちゆき)ける。敵(てき)を討事(うつこと)七百 余人(よにん)黒田勢(くろだぜい)は大(おほい)に勇(いさ)み。此(この)勇気(ゆうき)のぬけざるうち
都(みやこ)へ打入(うちいり)働(はたら)くべしと。清正(きよまさ)行長(ゆきなが)があとを追(お)ふて王城(わうじやう)へと急(いそ)ぎける。
    小西行長(こにしゆきなが)忠州(ちくしう)を攻落(せめおと)す事(こと)
扨(さて)も小西行長(こにしゆきなが)は東萊(とくねぎ)に陣(ぢん)して居(ゐ)たりしが。加藤清正(かとうきよまさ)。黒田長政(くろだながまさ)。大友義(おほともよし)
純(すみ)。島津義弘(しまづよしひろ)等(とう)をはじめ。日本(につほん)の諸大将(しよだいしやう)大(おほ)かた渡海(とかい)せしよし聞(きこ)へければ。
行長(ゆきなが)おもふやう後陣(ごぢん)の勢(せい)至(いた)りて打(うち)こみの軍(いくさ)は。さのみ功名(こうみやう)なるまじ急(いそ)ぎ
忠州城(ちくしうじやう)を攻落(せめおと)し。大功(たいこう)をたてんと五月二日の午(うま)の刻(こく)に東萊(とくねき)を打立(うちたち)。夜(よ)を
日(ひ)につゐで急(いそ)ぎけるほどに。五百四十 里(り)《割書:六丁|一り》を五日におして同(とう)月六日の夜(よ)丑(うし)の
刻(こく)に忠州城(ちくしうじやう)へ着(つき)にけり。此城(このしろ)は忠州府(ちくしうふ)をさる事(こと)三十里(り)なり。是(これ)は東萊(とくねぎ)ゟ(より)

【右丁】
金海城合戦(きんかいじやうかつせん)
 後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)
勇戦(ゆうせん)して城将(じやうしやう)
 伯子顔(はくしがん)を
 投(なげ)ころす

【左丁 絵画のみ】

押來(おしきた)る日本人(につぽんじん)の。府中(ふちう)へおし入(い)らん事(こと)を恐(おそ)れて要害(やうがい)の地(ち)なれば。此所(こゝ)に城(しろ)を
かまへたり。頃(ころ)は五月六日の事(こと)なれば月(つき)は宵(よひ)より入(いり)。目(め)ざしもしれぬ闇夜(あんや)な
れば案内者(あんないじや)を先(さき)に立(たて)。汗馬(かんば)に鞭(むち)を加(くわ)へし程(ほど)に鶏(とり)のなく声(こゑ)聞(きこ)ゆるころ。城(しろ)の
東門(とうもん)におし寄(よせ)先(まづ)手(て)わけをぞしたりける。宗對馬守(そうつしまのかみ)其勢(そのせい)五千 余騎(よき)城(しろ)の巽(たつみ)
の田(た)の中(なか)をまはり。南(みなみ)の山(やま)につきて細道(ほそみち)有(あり)けるを通(とほ)りて南(みなみ)の木戸(きど)へ向(むか)ふ。松浦(まつら)
重信法印(しげのぶほうゐん)三千 余騎(よき)にて。城(しろ)の艮(うしとら)の小川(おかは)を渡(わた)り菖蒲林(しやうぶはやし)を五町(ごちやう)ほど渡(わた)り。城(しろ)
の北門(ほくもん)につく。此城(このしろ)朝鮮(てうせん)の都(みやこ)をさる事(こと)わづか百八十 里(り)なれば。若(もし)王城(わうじやう)より後(うしろ)
巻(まき)あらんかとて。有馬修理太夫治郷(ありましゆりだいふはるさと)。大村新八郎豊成(おほむらしんはちらうとよなり)。五島若狭守近政(ごとうわかさのかみちかまさ)。
の人々(ひと〳〵)三千 余騎(よき)にて城(しろ)の西門(せいもん)より十町(じつちやう)ばかり押出(おしいだ)し。府中(ふちう)に向(むか)つて備(そな)ひたり行(ゆき)
長(なが)は手勢(てぜい)七千 余騎(よき)大手(おほて)へむかふ。扨(さて)緒手(しよて)一 度(ど)に鬨(とき)を作(つく)り。太鼓(たいこ)を打(うち)貝(かひ)を

ふき立(たて)鉄炮(てつはう)を打(うち)かけ攻(せめ)かゝる。城中(じやうちう)には七万 余(よ)の兵(へい)あれば大勢(たいぜい)をたのみ。又(また)釜山浦(ふさんかい)
より道(みち)の遠(とほ)きをたのみとしていさゝか油断(ゆだん)して居(ゐ)たれば。此音(このおと)におどろき如何(いかゞは)せんと
東西(とうざい)にさまよひ騒(さは)ぎ。親(おや)をも子(こ)をも顧(かへりみ)ず我先(われさき)にと遁(のが)れ行(ゆく)。大将王僧林(たいしやうわうそうりん)并(ならひ)に
柳成龍(りうせいりう)。金應陽(きんおうやう)。成允門(せいいんもん)。等(とう)鎧(よろひ)ばかりにて防戦(ばうせん)し。こゝを破(やぶ)られては後日(ごにち)人(ひと)
に面(おもて)を合(あは)されじと。七 顚(てん)八 倒(たふ)して戦(たゝか)ふといへども城中(じやうちう)の男女(なんによ)上(うへ)を下(した)へと騒動(そうどう)し。
防戦(ばうせん)の妨(さまた)げとなりと見(み)へたりける。小西(こにし)が兵(へい)日比左近右衛門(ひゞさこんゑもん)は赤(あか)だん〳〵の輪(わ)ぬけ
のさし物(もの)にて。櫓(やぐら)の上(うへ)へ乗上(のりあが)り大音(だいおん)に日比左近右衛門(ひゞさこんゑもん)一 番乗(ばんのり)ぞ。つゞけや〳〵と
名乗(なのり)つゝ飛(とび)こみしかば。小西(こにし)が兵共(へいども)我(われ)劣(おと)らじと乗入(のりいり)けるによつて。三の丸(まる)をば乗取(のつとり)
たり朝鮮勢(てうせんせい)はおもひ〳〵に落行(おちゆき)ける中(なか)より。成允門(せいいんもん)が弟(おとゝ)成義川(せいきせん)。柳成竜(りうせいりう)が嫡(ちやく)
子(し)柳延(りうゑん)等(とう)。逞兵(ていへい)五六千をはげまし取(とつ)てかへし。得物(えもの)を以(もつ)て防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふ有(あり)さま勇(ゆう)々

しくぞ見へたりける。行長(ゆきなが)はしは皮(かは)の鎧(よろひ)に銀(きん)にて鴛(おし)の裾金物(すそかなもの)を打(うつ)たるを。草槢(くさずり)
ながにゆりさげ鍬(くわ)がた打(うつ)たる唐(から)の頭(かしら)の兜(かぶと)を着(ちやく)し。銀(ぎん)の天月(てんけつ)出(いだ)したる母衣(ほろ)
をかけ将軍(しやうぐん)より賜(たま)はりたる。大黒(おほくろ)の馬(うま)に白泡(しらあは)かませ陣頭(ぢんとう)に進(すゝ)み勝負(しやうぶ)いかにと
見(み)て居(ゐ)たりしが。きつと心(こゝろ)づき伊賀(いが)のしのびの百人の内(うち)。二十人 計(ばかり)を呼出(よひいだ)し搦手(からめて)
へ廻(まは)し。風上(かざかみ)より火(ひ)をかけたりければ其煙(そのけふり)城中(しやうちう)に乱(みだ)れ入(いり)。ほのふを吹(ふき)かけたれば城(じやう)
兵(へい)何(なに)かは以(もつ)てたまるべき色(いろ)めき立(たつ)て騒動(そうどう)す行長(ゆきなが)は自(みづか)ら馬印(うましるし)を振(ふつ)て。すはや此図(このづ)をぬか
すな進(すゝ)め〳〵と下知(げぢ)をなし。総軍(そうぐん)一度(いちど)に大浪(おほなみ)のげきする如(ごと)く攻(せめ)かゝる。成義門(せいぎもん)柳延(りうえん)
等(ら)心(こゝろ)は剛(がう)にはやれども崩(くづ)れ立(たつ)たる味方(みかた)なれば。今(いま)は戦(たゝか)ふ力(ちから)なく成義門(せいぎもん)は自(みづか)ら剣(けん)【釼は辞書に無し】を
廻(まは)し。我(われ)いやしく国(くに)の臣(しん)として任(にん)をあづかるは只今(たゞいま)のためなりとて。四 方(はう)八 面(めん)に駈(かけ)
めぐり死(しに)ものぐるひに戦(たゝか)ひけるところに。小西(こにし)が兵士(へいし)竹内喜兵衛(たけうちきへゑ)。馳(はせ)かゝり。つゐに切

伏(ふせ)成義門(せいぎもん)を討取(うちとり)ける。柳廷(りうてい)是(これ)を見(み)て最早(もはや)是(これ)までなり。敵(てき)の手(て)に死(し)せん事 無念(むねん)
なりとて。剣(けん)【釼は辞書に無し】を取直(とりなほ)し自害(じがい)して死(しゝ)たりける従弟(いとこ)なりける。柳石虎(りうせきこ)。蘇源(そげん)も
一 方(はう)を打破(うちやぶ)りて落(おち)たりけるが。大村新八(おほむらしんはち)が勢(せい)に追(おひ)かけられ二人ともに討(うた)れたり。
残(のこ)る将士(しやうし)はみな皇城(くわうじやう)さして落(おち)にける。牧使(ぼくし)王僧林(わうそうりん)は大敵(たいてき)の中(なか)を切(きり)ぬけ。晋州(しんしう)
城(じやう)へぞ入(いり)にける。小西(こにし)が手(て)へ討取(うちとる)首數(くびかす)都合(つがふ)九千二百十三とぞ聞(きこ)へける。味方(みかた)にも
手負(ておひ)死人數(しにんす)百人と記(しる)したり。扨(さて)又(また)加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)は蜜陽(みつやう)大丘府(たいきうふ)をおし
て全義館(ぜんぎくわん)へ出(いで)。忠州府(ちくしうふ)に至(いた)るに此所(こゝ)もみな明(あき)のきたれば。残居(のこりゐ)たる朝鮮人(てうせんじん)を
生捕(いけどつ)て尋(たづ)ねけるは。是(これ)より奥(おく)へ日本勢(につほんぜい)討入(うちいり)たるやと問(とひ)けるにいまだ一人も通(とほ)ら
すと答(こた)へける。清正(きよまさ)左(さ)あらば此所(このところ)に陣取(ぢんとり)後陣(ごぢん)を待(まつ)べしとて。忠州府(ちくしうふ)に両日(りやうじつ)逗(たう)
留(りう)せられけるに。同(おな)じく八日の晩景(ばんけい)に小西行長(こにしゆきなが)が一 組(くみ)忠州城(ちくしうじやう)を出(いで)。府中(ふちう)に来(きたり)

清正(きよまさ)と一 手(て)になる。小西(こにし)が勢(せい)ども道(みち)〳〵乱妨(らんばう)なして取(とり)しと見(み)へて。木綿布(もめんぬの)など
数千反(すせんだん)牛馬(ぎうば)におはせて来(きた)りしを。清正(きよまさ)見(み)て大(おほい)に怒(いか)り大眼(だいがん)をもつて小西(こにし)をはつ
たと白眼(にらみ)。人(ひと)多(おほ)き中(なか)よりゑらみ出(いだ)され異国(ゐこく)の先手(さきて)を命(めい)ぜられし。貴殿(きでん)の軍(ぐん)
勢(せい)かゝる見(み)ぐるしき有(あり)さまや有(ある)べき。都(みやこ)へ入(い)らば綾羅(れうら)錦繍(きんしう)はいふにおよばず。金(きん)
銀(ぎん)財宝(ざいはう)充満(じうまん)たるべしかゝる木綿布(もめんぬの)などに。心(こゝろ)をかける兵士(へいし)にては此後(このご)の道(みち)の
妨(さまた)げとなりて戦(たゝか)ひの程(ほど)もおもひやらるゝなり。楚(そ)の項羽(こうう)が鉅鹿(きよろく)の戦(たゝか)ひに船(ふね)を
しづめ。釜瓶(ふへい)を破(やふ)り家財(かざい)をやき士卒(しそつ)に必死(ひつし)をしめしてこそ。戦(たゝか)ひ勝(かつ)つて王離(わうり)を
擒(とりこ)としたりと。史記(しき)にも見へて候へば今(いま)征伐(せいばつ)のはじめにかく乱妨(らんばう)を先(さき)だてたら
んば甚(はなは)だもつてしかるべからず。残(のこ)らず焼捨(やきすて)られよと云(いひ)ければ。行長(ゆきなが)も理(り)につめ
られ汗(あせ)を流(なが)して赤面(せきめん)し。二万 計(ばかり)の兵共(へいとも)道々(みち〳〵)奪(うば)ひ来(きた)りし品(しな)〳〵を。山(やま)の如(ごと)

く積置(つみおき)一時(いちし)に焼捨(やきすて)ければ。小西(こにし)が士卒(しそつ)は折角(せつかく)是(これ)まで持来(もちきた)りて焼捨(やきすて)らるゝのみ
ならず。清正(きよまさ)に笑(わら)はれしを無念(むねん)におもひそしらぬ者(もの)こそなかりける。扨(さて)清正(きよまさ)行長(ゆきなが)
は忠州府(ちくしうふ)に陣(ぢん)を取(とつ)て。後陣(ごぢん)のつゞくを待(まつ)ところに黒田長政(くろだながまさ)をはじめ。後陣(ごぢん)の面々(めん〳〵)
おひ〳〵に忠州(ちくしう)に着(ちやく)しける。此時(このとき)すでに朝鮮(てうせん)の平安(へいあん)黄海(ばかい)忠清(ちくせい)の三 道(とう)も破(やぶ)れ。
慶尚(けいしやく)全羅(せんら)の二 道(とう)も危(あやう)き事(こと)旦夕(たんせき)にあり。朝鮮(てうせん)八ケ道(どう)の貴賎(きせん)老若(らうにやく)上(うへ)を下(した)へ
と騒動(そうどう)し。過半(くわはん)落(おち)うせければ慶尚(けいしやく)全羅(せんら)の二 道(とう)にも兵(へい)の籠(こも)る城(しろ)とては十分(じうぶん)
一もなかりける。日本(につほん)の諸将(しよしやう)此(この)二道(にどう)へ軍(いくさ)を進(すゝ)めなば戦(たゝか)はずして味方(みかた)のものと成(なる)
へきを。日本勢(につほんぜい)はまづ王城(わうじやう)を取(とる)べしとて忠州(ちくしう)よりひら押(おし)に進(すゝ)みける。
    朝鮮王(てうせんわう)都(みやこ)を落(おつ)る事(こと)
扨(さて)また朝鮮(てうせん)の都(みやこ)にては所々(しよ〳〵)より注進(ちゆうしん)あつて。平安(へいあん)黄海(ばかい)忠清(ちくせい)の三 道(どう)も破(やぶ)れぬ

日本勢(につほんぜい)の矛先(ほこさき)強(つよ)くなか〳〵敵(てき)しがたしと聞(きこ)へければ。京都(きやうと)の民間(みんかん)我先(われさき)にと落行(おちゆき)
けるに。同(おな)じく朝鮮(てうせん)の王宮(わうきう)も惟(たゞ)に京都(きやうと)を開(ひら)くべきに。評議(ひやうぎ)まち〳〵にして大臣(だいじん)を始(はじめ)
としてみだりに慌(あは)つるばかりなり。是(これ)より先(さき)理馬(りば)金應壽(きんおうじゆ)首相(しゆしやう)某(それかし)等(ら)蜜々(みつ〳〵)【ママ】に相(さう)
談(だん)し。京都(きやうと)を落(おち)て王駕(わうが)を西(にし)に幸(みゆき)あるべしと定(さだ)め置(おき)。その事(こと)いまだ外朝(くわいてう)には誰(たれ)
も知(し)るものなかりしを。都承旨(としやうし)李恒福(りごうふく)等(ら)柳左相成龍(りうさしやうせいりう)が。忠州(ちくしう)の軍(いくさ)破(やぶ)れて
帰(かへ)りしよしを聞(きい)て成龍(せいりう)が方(かた)へ来(きた)り。首相(しゆしやう)某(それがし)国(くに)をあやまること如此(かくのごとく)なり請(こ)ふ
らくは御一族(ごいちそく)の衆中(しゆうちう)とともに奏聞(そうもん)し此(この)京城(けいじやう)を棄(すて)給へ。他所(たしよ)へ臨幸(りんこう)あるべきの
失策(しつさく)なることを諌(いさ)め奉(たてまつ)らんと云(いふ)ほどに。領府事(れうふじ)金貴栄(きんきえい)等(ら)中(なか)に於(おゐ)て憤(いきとほ)り
諸大臣(しよたいしん)とともに進(すゝ)んで請(こ)ふらくは京城(けいじやう)を固(かた)く守(まも)りて倭賊(わぞく)を防(ふせ)がんことを謀(はか)り
給へ。京城(けいじやう)を捨(すて)んと申す等(ともがら)は全(まつた)く是(これ)小人(しようじん)なり。かまへて其言(そのこと)を執(とり)たまふべからず

と皆(みな)一 口(こう)に諌(いさ)め奉(たてまつ)る。王李㫟(わうりえん)は一旦(いつたん)彼等(かれら)が意(こゝろ)をなだめんと。宗廟(そうべう)社稷(しやしよく)こゝに有(あり)
朕(われ)これをすてゝ将(まさ)に何方(いづかた)に往(ゆか)んや。心安(こゝろやす)くおもふべしとなだめらるゝに諸大臣(しようだいじん)一同(いちと)
に有難(ありがた)しとて退出(たいしゆつ)せり。此時(このとき)に京城(けいじやう)を警衛(けいえい)すべき人(ひと)なければ。里民(りみん)をかり立(た)
て諸役所(しよやくしよ)の小奉行人(こぶきやうにん)或(あるひ)は医官(ゐくわん)巫祝(ふしゆく)の輩(ともがら)までを相集(あひあつ)め。城堞(じやうてう)を分(わか)ち守(まも)らし
む。それさへ総人数(そうにんず)三 万余(まんよ)に過(すぎ)ざれば城(しろ)を守(まも)る人兵(にんべい)は。僅(わづか)に七千には足(た)らざり
ける。元(もと)より烏合(うがふ)の集(あつま)り勢(ぜい)闘戦(とうせん)に心(こゝろ)なく。間(ひま)をうかゞひ何(なに)とぞして城中(じやうちう)を逃(のが)れ
出(いで)んとおもふばかりの者共(ものども)なり。其中(そのなか)に官軍(くわんぐん)の歴々(れき〳〵)上士(じやうし)といへる輩(ともがら)は。此等(これら)が
隊(そなひ)の長(かしら)となつて有(あり)ながら。その下奉行(したぶぎやう)と云合(いひあは)せ金銀(きん〴〵)をいだす兵卒(へいそつ)あれば。ひそ
かにこれを放(はな)ちやるもまた多(おほ)かりける。軍政(ぐんせい)の懈(おこた)り弛(ゆる)べること如此(かくのことく)なる時節(じせつ)
にあたり。満城(まんじやう)の譟動(そうどう)大(おほ)かたならずして。しばしも座(ざ)をなす者(もの)もなし。扨(さて)五月

【右丁 籏に書かれた文字】
大持国天玉              大広目天玉
  《割書:南無十方三世一切諸|南無多宝如来南無    貝菩薩》天照大    《割書:伝教大師》
 南無妙法[蓮]  経 南無   菩薩
  《割書:南無釈迦牟尼仏|南無十方分身》 《割書:   
|日月天》八   《割書:大国天神》
大毘沙門天玉     大    大増長天玉


【右丁】
加藤清正(かとうきよまさ)
小西行長(こにしゆきなが)
 先陣(せんぢん)を
  争(あらそ)ふ

八日の初昏(しよこん)にあたつて。諸(もろ〳〵)の宰官大臣(さいくわんたいじん)を招集(めしあつ)め倭賊(わぞく)の寄来(よせきた)ること急(きふ)な
れば。一先(ひとまづ)京都(きやうと)を出(い)てひらいて重(かさ)ねて冠(あだ)を退(しりぞ)けんと。朝鮮王(てうせんわう)李㫟(りえん)は宮(きう)の東廂(とうしやう)
に出(いで)給へて地(ち)に座(ざ)せられ。灯燭(とうしよく)を張(は)りて詮議(せんぎ)ある一 族(そく)の人々(ひと〳〵)には。河源君(かけんくん)
河陵君(かりやうくん)。待座(じざ)したり時(とき)に大臣(だいじん)某(それがし)申すやう。事勢(じせい)すでにこゝに至(いた)れり恐(おそ)れ
ながら車馬(しやが)【駕の誤ヵ】。暫(しばら)く平譲(へくしやく)に出(いで)て幸(みゆき)まし〳〵。其後(そのゝち)大明(たいみん)の天朝(てんてう)へ兵軍(へいぐん)を請(こ)ひ
給へしかして国郡(こくぐん)を収(おさ)め給はんに何(なん)の子細(しさい)か候はんといふ。掌令(しやうれい)権悏(けんけふ)は進(すゝ)み出(いで)
大音聲(たいおんじやう)に呼(よば)はるやう。京城(けいじやう)を固(かた)く守(まも)るの外(ほか)量見(りやうけん)なかるべし。若(もし)京城(けやうじやう)を御《割書:ン》
ひらきあらんことは失策(しつさく)〳〵。と其詞(そのことば)はなはだかまびすし。其時(そのとき)柳成龍(りうせいりやう)これ
を静(しづ)めて危乱(きらん)の間(あいだ)と云(いへ)ども君臣(くんしん)の礼(れい)なんぞ乱(みだ)らん汝(なんぢ)が体(てい)しかるべかるず暫(しばらく)
退(しりぞい)て啓(けい)すべし。悏(けふ)呼(よば)はつて重(かさ)ねてのゝしり。左相(さしやう)もまた此言(このことば)を出(いだ)すやしからば

公(こう)もおなじく京城(けいじやう)を棄(すて)べき同意(とうい)にやと云(いふ)。柳相(りうしやう)云(いふ)やう権悏(けんけふ)が言(ことば)はなはだ以(もつ)て
忠義(ちうぎ)あり。しかしながら事(こと)の勢(いきほひ)に於(おゐ)てしからざるのことを得(え)ずしばらく京都(きやうと)を
御 ̄ン開(ひら)きあるべきか。其(それ)につゐて諸王子達(しよわうじたち)を諸道(しよたう)へ分(わか)ち遣(つかは)し。人数(にんず)をもてる
諸将(しよしやう)の鎮(しづ)めと定(さだ)めて。事(こと)急(きふ)なるにおよんで招集(めしあつ)め王事(わうじ)を勤(つと)め給ふべし。世子(せいじ)は
また御 ̄ン駕(か)にしたがつて御行啓(ごこうけい)あるべし。と奏(そう)するに評議(ひやうぎ)はじめて定(さだま)りけり
こゝにおゐて臨海君(けもかいくん)は咸鏡道(えあんたい)に行(ゆき)給へ。領府事(れうふじ)金貴栄(きんきえい)漆渓君(しつけいくん)尹卓然(いんたくせん)
これにしたがふ。順和君(じゆんわくん)は江原道(こうげんたい)にゆくべし長渓君(ちやうけいくん)。黄廷或(くわうていいく)。護軍(ごぐん)黄赫(くわうかく)同(おなしく)
知李墍(ちりき)等(ら)これにしたがふ。赫(かく)が娘(むすめ)は順和(しゆんわ)の夫人(ふじん)たり。李墍(りき)はまた原州(げんしう)の人(ひと)
たるゆゑ同(おな)じく是(これ)を遣(や)られける。時(とき)に柳相(りうしやう)は留将(りうしやう)として城(しろ)にのこれば。首将(しゆしやう)
をはじめ宰臣(さいしん)数十人(すじぶにん)。御 ̄ン駕(が)の御 ̄ン供(とも)なれど柳左相成龍(りうさしやうせいりやう)には。御 ̄ン供(とも)の命(めい)も出(いで)

ざるを政院(せいゐん)より啓(けい)して。今度(このたび)の御 ̄ン供(とも)に柳成龍(りうせいりう)なくんばあるべからずと申すにより
是(これ)も御 ̄ン供(とも)と定(さだま)りけり。内医(ないゐ)超英璇(てうえいせん)政院(せいゐん)の吏(り)申徳麟(しんとくりん)が等(ともがら)十 余人(よにん)の者共(ものども)
一 度(ど)に呼(よば)はつて大音(だいおん)あげ。京都(きやうと)をば棄(すつ)べからず〳〵と。しばしは鳴(なり)も静(しづ)まら
ず。かゝる所(ところ)へ又々(また〳〵)所々(しよ〳〵)より注進(ちゆうしん)あつて。日本(につほん)の軍勢(ぐんぜい)おひ〳〵人数(にんず)まして都(みやこ)へ責(せめ)
入(いる)よし聞(きこ)へければ。宮中(きうちう)また譟(さわ)ぎおのゝき廷内(ていだい)の衛士(えいし)ども。何(なに)ほどにか尽(こと〳〵)く
散(さん)じぬれば更漏(こうろう)も鳴(なら)さずところ〳〵の灯燭(とうしよく)も無(なか)りし故(ゆゑ)。やうやくに宣伝(せんでん)の
官庁(つかさ)より火炬(たいまつ)をもとめて。御 ̄ン駕(が)を出(いだ)さんとなすに禁軍(きんぐん)方々(はう〳〵)へ奔(はし)りかくれ。供(ぐ)
奉(ぶ)に備(そな)ふる人(ひと)もなし。上下(じやうげ)みだりに騒(さわ)ぎ立(たつ)て一向(ひたすら)に逃(に)げまどひ【ママ】ば。或(あるひ)は人(ひと)に衝(つき)
仆(たふ)され或(あるひ)は人(ひと)を蹈仆(ふみたふ)し。互(たがひ)に人々争(ひと〳〵あらそ)ひてみだりがはしき計(ばか)りなり。羽林衛(うりんえい)の池(ち)
貴壽(きじゆ)といへる者(もの)。御 ̄ン駕(が)の前(まへ)を過(すぐ)るを柳左相(りうさしやう)是(これ)をとゞめて。汝(なんぢ)が輩(ともがら)多年(たねん)朝(てう)

恩(おん)に浴(よく)する身(み)ながら危急(ききう)の時(とき)に至(いた)り。忽(たちま)ち君(きみ)に忠(ち[う])ある心(こゝろ)を忘却(ばうきやく)するやと
義(ぎ)を以(もつ)て是(これ)を責(せむ)れば貴壽(きじゆ)聞(きい)て大(おほい)に感(かん)じ。敢(あへ)て力(ちから)を尽(つく)さゞらんやと荅(こた)へしが
その辺(へん)をかけ走(はし)り同類(とうるひ)二人を呼来(よびきた)り供奉(ぐぶ)に備(そな)ひたり。すでに御 ̄ン駕(が)も景福(けいふく)
宮(きう)の前(まへ)を過(すぐ)るに。市街(ちまた)の両辺(りやうへん)の男女(なんによ)の哭声(なくこゑ)おびたゝしきは聞(きく)にたへざる哀(あは)
れさなり。承文院(しようふんゐん)の書員官(しよいんくわん)李守謙(りしゆけん)といへる者(もの)。柳左相(りうさしやう)が馬(うま)の鞚(おもつら)をひかへ
院中(ゐんちう)の文書(ぶんしよ)をば。当(まさ)に何(なに)とかいたすべしと問(と)ふ。其(その)きびしく閉(とざ)したる秘(ひ)すべき書(しよ)
のみ取(と)り来(きた)れ。と荅(こた)ふるに守謙(しゆけん)は涙(なみだ)ながらに馳(はせ)かへる。御 ̄ン駕(が)は程(ほど)なく敦義門(とんぎもん)
といへるを出(いで)て。沙峴(しやけん)にいたるころほひには既(すで)に東方(とうばう)も明(あけ)なんとするに。後(うしろ)の方(かた)
をかへり見れば。城中(じやうちう)の南大門(なんたいもん)の内(うち)大倉(おほくら)の有方(あるかた)に火煙(くわえん)おこつて焼(やけ)あがり。烟(けふり)は
すでに空(そら)にあがれり。是(これ)なんいまだ倭兵(わへい)の放火(はうくわ)するにはあらで。大倉(おほぐら)の秘(ひ)すべき物(もの)

を倭兵(わへい)の手(て)に渡(わた)すべからずと。守謙(しゆけん)等(ら)自焼(じしやう)するとこそしられける。沙峴(しやけん)を 
越(こ)えて石橋(せききやう)に至(いた)れる時雨(しぐれ)稍(やうや)くに降来(ふりきた)る。京畿監(けいきかん)権徴(けんてう)等(ら)も追付(おひつき)て御 ̄ン供(とも)に
したがふ。碧蹄駅(へきていえき)に至(いた)れる頃(ころ)雨(あめ)しきりに降(ふ)りければ。供奉(ぐぶ)の上下(じやうげ)一行(いちきやう)に沾濕(ぬれしめり)て
行(ぎやう)をすゝむべきやうなかりしかば。かくては叶(かな)ふべからずとてしばらく駅舎(えきしや)に入(いり)て
休息(きうそく)すれど。なか〳〵雨(あめ)の晴(はれ)べきやうなければまた御 ̄ン駕(が)をすゝめらるゝに。是(これ)より
衆官跡(しゆくわんあと)にとゞまり。都城(とじやう)に還(かへ)りけるも多(おほ)かりければ。その中(うち)に侍従台官(じじうだいくわん)の
官人(くわんにん)の。すべあるもの共(ども)も打(うち)まじわつて心(こゝろ)〳〵に逃出(にげいづ)るゆへ。供奉(ぐぶ)の族(ともがら)次第(しだい)〳〵に
減少(げんしやう)するこそうたてけれ。扨(さて)また順和君(じゆんわくん)も江原道(こうげんたい)へと落(おち)給へしが。是(これ)も同(おな)
じく御 ̄ン供(とも)の士(し)一人二人と遁(のが)れ行(ゆき)。今(いま)はやうやく十 余人(よにん)のみなれば。かくては道(みち)の程(ほど)
もおぼつかなしとて。道(みち)をかへて臨海君(りんかいくん)の落(おち)給へし咸鏡道(えあんたい)へと落(おち)給へける。

   加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなか)先陣(せんちん)を争(あらそ)ふ事(こと)
偖(さて)も日本(につほん)の諸将(しよしやう)は忠州(ちくしう)に会(くわい)して。是(これ)より朝鮮(てうせん)の都(みやこ)へ責入(せめいる)べき評議(ひやうき)なし
ける時(とき)清正(きよまさ)進(すゝ)み出(いで)て是(これ)より以後(いご)我(われ)必(かなら)ず先陣(せんちん)たらんといふ。行長(ゆきなが)あざ笑(わら)いて云(いふ)
朝鮮國(てうせんこく)の先陣(せんぢん)は巳(すで)に。日本(につほん)にて大将軍(たいしやうぐん)秀吉公(ひでよしこう)の御 定(さだめ)にて我等(われら)是(これ)を承(うけ給は)るとこ
ろなり今(いま)若(もし)私(わたくし)にこれを改(あらた)めんとせば秀吉公(ひてよしこう)の御 掟(おきて)を破(やぶ)るに同(おな)じ。我(われ)決(けつ)して相(あひ)
したがふ事(こと)を得(え)ずといふ。清正(きよまさ)重(かさ)ねて云(いふ)法令(はうれい)たとへ然(しか)りと云(い)ふとも。惟(こゝ)前陣(せんぢん)は
その武勇次第(ぶゆうしだい)に任(にん)ずべきか。行長(ゆきなが)怒(いか)つてまさなや清正(きよまさ)我(われ)と汝(なんぢ)と武勇(ふゆう)に於(おゐ)て
何(なん)ぞ劣(おと)るべき。此度(このたび)の先陣(せんちん)汝(なんぢ)が云(いふ)ところの武勇(ぶゆう)によつてなすならば。なして見(み)
給へと既(すで)に両将(りやうしやう)眼(まなこ)の色(いろ)かはつて憤気(ふんき)をなす。両手(りやうて)の諸士(しよし)左右(さいふ)に詰(つめ)よせ下知(げぢ)
あらば討(うつ)てかゝらんと。拳(こぶし)を握(にぎ)り手(て)ぐすね引(ひい)て眼(まなこ)をくばりて待(まち)かけたり。すはや

事(こと)の出来(いでき)ぬと見(み)つれば。黒田(くろだ)鍋島(なべしま)が輩(ともが)ら両方(りやうはう)にわかれて是(これ)を制(せい)し。松浦(まつら)
福島(ふくしま)長曽我部(ちやうそかべ)毛利(もうり)立花(たちばな)の諸将(しよしやう)。左右(さいふ)に和談(わだん)をなさしめたり。島津(しまづ)が輩(ともがら)
これを決(けつ)して。是非(ぜひ)ともに先陣(せんじん)は太閤(たいかふ)の御定(おんさだ)めなれば行長(ゆきなが)に定(さだ)めおいて。他人(たにん)の
争(あらそ)ふべき事(こと)にあらず。しかりとは云(いひ)ながら行長(ゆきなが)すでに所々(しよ〳〵)の城(しろ)を抜(ぬき)とられた
る上(うへ)は。其(その)手柄(てがら)抜群(ばつくん)なりしかれば今(いま)王城(わうじやう)に入(い)るの功(こう)におゐては。他(た)にゆずるともか
たきにあらず。これによつて我々(われ〳〵)の存(そん)ずるには清正(きよまさ)行長(ゆきなが)の両将(りやうしやう)相分(あひわか)れ。両道(りやうだう)
より兵(へい)を進(すゝ)めは可(か)ならんかと。道理(たうり)を告(つげ)て取(とり)あつかへば行長(ゆきなが)これに心服(しんふく)し。
此義(このぎ)最(もつとも)なる事(こと)我等(われら)なんぞ違背(ゐはゐ)申さん。さらば各々(おの〳〵)に御まかせ申べし。先(まづ)
これより王城(わうしやう)に至(いた)るに二ツの道(みち)あり。一ツは驪州(りしう)といふところを越(こ)ゆその道(みち)江(え)を
渡(わた)り。楊根(やうこん)と云(いふ)ところにより龍津(りうしん)といふ大河(たいか)を渡(わた)り。京都(きやうと)の東(ひがし)に出(いづ)る道(みち)

あり。一ツはまた竹山龍仁(ちくさんりうじん)といふところを経(て)て。漢江(かんこう)の南(みなみ)に出(いづ)るなり。また金海(きんかい)
より進(すゝ)むには星州(せいしう)茂渓縣(ぼけいけん)より江(え)を渡(わた)り。知礼(ちれい)金山(きんさん)の所々(しよ〳〵)を過(す)ぎ忠清道(ちくしやくたい)
永同(えいどう)なんどいふ所(ところ)をすぎ。京都(きやうと)に向(むか)ふ道(みち)もあり何(いづ)れなりとも清正(きよまさ)の量見(りやうけん)
次第(しだい)にいたし申さん。なれど南大門(みなみおゝもん)は道遠(みちとほ)く。東大門(ひがしだいもん)は道(みち)すこし近(ちか)けれど
大河(たいが)の津(わたり)ありて行難(ゆきがた)し。南(みなみ)の路(みち)すぢは遠(とほ)しといへども川(かは)なふして平地(へいち)なり。
兔(と)にも角(かく)にもその意(こゝろ)にまかせ給へといふ。
 一説(いつせつ)に南大門(みなみだいもん)に向(むか)ふ行程(こうてい)近(ちか)ふして河(かは)あり。東大門(ひがいたいもん)に向(むか)ふ道路(みち)すこし
 く遠(とほ)くして平土(へいど)といふ。しかしながら彼国(かのくに)の記(き)に述(のぶ)るところ。南方(なんはう)江辺(こうへん)
 に出(いで)て河津(かしん)なし。東方(とうばう)に出(いづ)る道(みち)江(え)を渡(わた)り津(しん)を渡(わた)るとある故(ゆゑ)に。彼(かの)
 書(しよ)したがつて東南道(とうなんみち)をかへて記(しる)す。

【右丁】
朝鮮王李㫟(てうせんわうりえん)
 京都(きやうと)を出(いで)給ふ
 おりふし雨(あめ)
 はなはだし
 嗚呼(あゝ)天(てん)なる哉(かな)

【左丁 絵画のみ】

鍋島直茂(なべしまなをしげ)等(ら)も。行長(ゆきなが)がいへるを聞(きい)て。此義(このぎ)しかるべしと有(あり)ける故(ゆゑ)。清正(きよまさ)も気(け)
色(しき)をなをし。我(われ)はたゞ其(その)行程(こうてい)の近(ちか)き方(かた)を進(すゝ)むべしといふにぞ。諸将(しよしやう)も歓(よろこ)び
扨(さて)こそ清正(きよまさ)は東大門(ひがしだいもん)と相定(あひさだま)る《割書:一 説(せつ)に南大門(みなみだいもん)に向(むか)ふといへども|右河(みぎかは)ある説(せつ)を用(もち)ひて東(ひが[し])とす》こゝにおゐて清正(きよまさ)は
京城案内(けうじやうあんない)のためにとて。通事(つうじ)一人を宗対馬守義智(そうつしまのかみよしとし)に請受(こひうけ)らる。義(よし)
智(とし)は行長(ゆきなが)の婿(むこ)たる故(ゆゑ)荷担(かだん)の意(こゝろ)ありけるにや。遂(つひ)に京都(きやうと)の道(みち)をもしら
ぬ剰(あまつさ)へ言葉(ことは)はどもりて。其言語(そのげんぎよ)さへたしかならぬ男(おとこ)をつかはす。其名(そのな)をば
徳右エ門(とくゑもん)とぞ呼(よび)ける。中流(ちうりう)に舟(ふね)を失(うしなひ)ば一 瓠(こ)も千金(せんきん)の価(あたひ)あるたとへにて。この
徳右衛門(とくゑもん)も通事(つうじ)なきにはまさるべしとて。此者(このもの)を先(さき)に立(たて)て朝鮮(てうせん)の王(わう)
城(じやう)さしてぞ駒(こま)を早(はや)めける。
   王城(わうじやう)途中(とちう)郡県(ぐんけん)を陥(おとしい)る事(こと)

既(すて)に日本の諸将(しよしやう)二手(ふたて)にわかつて王城(わうしやう)に責(せめ)入る家々(いへ〳〵)の旗(はた)馬印(うましるし)大 旆(まとひ)に旆(まとひ)
雲(くも)とともにひるがへり鉄砲(てつはう)のひゞきは雷声(らいせい)なりに相 聞(きこ)ゆ日本 勢(せい)の過(すぐ)る
ところは或(あるひ)は十里 或(あるい)は五六十 里(り)を見立(みたて)。その險岨(けんそ)に拠(より)順(したがつ)て陣営(ぢんえい)を
かまへ。壕(ほり)に柵(さく)をふりまはし兵(へい)をとゞめて番兵(ばんぺい)を入 置(おき)ぬ。その取得(とうへ)【ママ】たる
土地(とち)の通路(つうろ)を敵(てき)より奪(うば)ひ隔(へだ)てられしがためなり。清正(きよまさ)の一手の過(すぐ)る
ところ金山(きんざん)といへるは。要害(やうがい)堅固(けんご)の所(ところ)とて城郭(じやうくわく)を築(きつき)て。加藤与左衛(かとうよざへ)
門といふ者。其兵(そのへい)三千その外(ほか)組頭(くみかしら)三人相そへ。彼是(かれこれ)五千の人 数(ず)を籠置(こめおき)
その他(た)の諸将(しよしやう)もおの〳〵すぎ来(きた)るところ〳〵に番(ばん)手の兵(へい)をとゞめおかずといふ
ことなし。夜(よ)にもなれば火(ひ)を挙(あげ)て無為(ぶい)なることをしめす或(あるい)は事(こと)あらば寛(くわん)
急(きふ)によつて。約束(やくそく)の数(かず)を分(わか)ちて事(こと)を弁(わきま)ふ。是(これ)ぞ軍法(ぐんはう)に号(がう)する相 図(づ)の

火飛脚(ひびきやく)かゞりと云(いふ)ことなり。すでに主計頭(かずへのかみ)が人 数(ず)の先手(さきて)より龍津(りうしん)の南(みなみ)
岸(きし)に着(つき)たりけり。此(この)要害(やうがい)を固(かた)めたる朝鮮(てうせん)の大 将(しやう)は江原道(こうけんたい)の助防将(ぢよばうしやう)元豪(けんがう)
といふ者(もの)なるが。纔(わづか)に数百(すひやく)の人数(にんず)をもつて此所(このところ)を守(まも)りけるまことに敵(てき)の大 軍(ぐん)
には対(たい)すべき人数(にんず)にはあらねども。偏(ひとへ)に龍津(りうしん)の要害(やうがい)を頼(たの)むばかりの
意(こゝろ)なり。元豪(げんがう)こゝに謀(はかりこと)を設(まう)け津口(しんこう)の舟(ふね)とも。一 隻(そう)ものこらず近里(きんり)水村(すいそん)
を借集(かりあつ)め。凡(すべ)て舟(ふね)を北岸(ほくがん)にあつめたるは。敵(てき)にたやすく津(しん)を渡(わたら)せま
じきの謀計(ぼうけい)なりまた多(おほ)く人 数(ず)の備(そな)ひたる体(てい)を見せ。敵(てき)の気(き)を奪(うばわ)
んとや思(おも)ひけん。藁(わら)にて多(おほ)く人 形(ぎやう)を作(つく)らせ甲冑(かつちう)を着(き)せ。弓(ゆみ)をもたせ矢(や)を
はげさせ。或は多(おほ)く旌旗(せいき)を指(さ)し上(あ)げ。木の梢(こすへ)尾梁(おくりやう)の陰(かけ)より所々(ところ〳〵)に是(これ)
をひるがへすは。まことに多勢(たせい)の有(あり)さまなり。主計頭(かずへのかみ)が先(さき)手の兵(へい)此(この)有様(ありさま)

を遥(はるか)に見て大に驚(おどろ)きまた此津(このしん)を越(こえ)て行(ゆ▢)【「く」ヵ】へき舟(ふね)一 隻(さう)もあらざるゆへ。いかゞ
すべきとおもひ飽(あぐ)んで。清正(きよまさ)の旗本(はたもと)へ使番(つかひばん)をはしらせ先手(さきて)の諸隊(しよそなひ)は先高(まつこう)
明(めい)の所(ところ)に陣(ぢん)をとりて清正(きよまさ)の来(きた)れるを待居(まちい)たり
 一 説(せつ)に小西行長(こにしゆきなか)口 論(ろん)の意趣(いし)をふくむが故(ゆへ)木戸作左衛(きどさくざへ)門 日比左近(ひびさこん)
 右衛門(へもん)が等(ともがら)を密(ひそか) ̄ニ【蜜は誤】清正(きよまさ)より先(さき)へ廻(まは)し舟(ふね)尽(こと〳〵)く纜(ともづな)を切(きつ)て流(なが)
 すといふまた一 説(せつ)には此所(このところ)の防将(ばうしやう)元豪(げんごう)は胸(むね)に甲兵(かうへい)の機(き)ある者 故(ゆへ)この
 所(ところ)を防(ふせ)がんために。南(みなみ)の岸(きし)近辺(きんへん)の船(ふね)ども駆払(かりはら)つて北岸(ほくがん)に引付(ひきつけ)たると有
 何(いづ)れが是(ぜ)なるか。諸記(しよき)おの〳〵一 決(けつ)なし。されど凡(およ)そ敵(てき)を防(ふせ)ぐへき用(よう)
 心(しん)には舟(ふね)を焼(や)き。野(の)を清(きよら)す此(これ)らは兵(へい)の常談(じやうだん)たれば則(すなは)ち本文にあら
 はしぬ後観(こうくわん)の者の校正(かうせい)をまつ

   加藤清正(かとうきよまさ)龍津(りうしん)を越(こゆ)る事(こと)
すでに清正(きよまさ)の旗(はた)本 程(ほど)なくたう着(ちやく)すれば。清正(きよまさ)近習(きんしゆ)手廻(てまわ)りの人 数(ず)少々(しよふ〳〵)
召(めし)ぐし自(みづか)ら物見(ものみ)に出(いで)られ川の体(てい)を臨(のぞま)るゝに夥(おひたゞ)しき有さまや其 面(おもて)
凡(およそ)十四五町にあまりて。川 幅(はゞ)広(ひろ)きが碧流白浪(へきりうはくらう)を漲(みなぎ)らし湍(せ)の音(おと)の高(たか)き
ことどう〳〵聒々(くわつ〳〵)と鳴(な)り。人(ひと)の耳(みゝ)を驚(おどろか)す底(そこ)深(ふか)ふして石(いし)を泳(たゞよは)すは
たとへ舟(ふね)ありとも渡(わたり)やすからず北(きた)の岸(きし)には数(す)千 艘(そう)の舟(ふね)とも大小(だいしよふ)ひつしと
ならべ纜(つない)で。川端(かはばた)に臨(のぞ)んで敵渡(てきわた)らば防(ふせ)ぎ矢(や)射(いる)べき料(れう)と見へ。其(その)かず
しらぬ軍兵(ぐんぴやう)ども冑(かぶと)の星(ほし)をかゞやかし。弓(ゆみ)に矢(や)をさし加(くは)へて扣(ひか)へたりその間(あひだ)
に旌(せ)いきはまた白雲(はくうん)と色(いろ)を競(あらそ)ひ。川 風(かせ)に翩翻(へんほん)したるはまことに王城(わうしやう)の
堅固(かため)一防(ひとふせ)ぎなすべき処(ところ)とぞ見(み)えたりける。清正(きよまさ)はじめ此道(このみち)に向(むか)へること

近(ちか)きをもつて意(こゝろ)とし。半日(はんにち)なりとも王城(わうじやう)を人(ひと)より先(さき)に乗取(のつとる)べき量見(りやうけん)
なるに。おもひの外(ほか)の行路(こうろ)の難(なん)にてすゝみがたきゆゑに大(おほい)にその意(こゝろ)せはしく
なり先手(さきて)の兵(へい)に下知(げぢ)して近辺(きんへん)の在家(ざいけ)に込入(こみいり)。民家(みんか)をこぼち宦舎(くわんしや)を
破(やふ)り。材木(ざいもく)葺茅(ふきかや)をあつめからげて大筏(おほいかだ)に組(くま)せ天晴(あつはれ)早(はや)き渡(わた)りの具(く)と我(われ)
先(さき)にと打乗(うちの)り中流(ちうりう)に漕出(こぎいだ)すところに。おもひの外(ほか)に水勢(みつせい)つよくしていまだ半(なかは)
ばも渡(わた)らざるに。尽々(こと〳〵)く水(みつ)のために押(おし)きられ一ツの筏(いかだ)に乗(のつ)たる兵士(へいし)数十人(すじふにん)
河伯(かはく)の厨(くりや)を富(とま)しけるは是非(ぜひ)なかりける事(こと)どもなり。已(すで)に敵(てき)の筏(いかだ)にて渡(わた)
りをなすと見(み)るより北岸(ほくがん)より射出(ゐいだ)す矢(や)はさながら雨(あめ)より猶(なほ)繁(しけ)ければ
とても漫(みだ)りに渡(わた)りをなすこと叶(かな)ふべからずと。残(のこ)れる筏(いかだ)を引(ひき)かへし其日(そのひ)
はこゝにむなしき日(ひ)をぞ費(ついや)しける。かゝる処(ところ)に江原道(こうけんたい)の巡察使(しゆんさつし)より。羽(う)

檄(げき)を飛(とば)せ元豪(げんがう)を促(うなが)し。すでに王城(わうじやう)も虚城(くうじやう)となるとても叶(かな)ふべからざるの
防(ふせ)ぎなり。早(はや)く本道(ほんだう)にかへるべしと云(いひ)たるにぞ元豪(けんごう)も。その夜(よ)ひそかに河(か)
辺(へん)を去(さ)つて本道(ほんだう)にかへりける。偖(さて)も加藤清正(かとうきよまさ)はよしなきところに押(おし)とゞめ
られ。いたつらに数日(すじつ)をおくり其意(そのこゝろ)の急速(きふそく)なる憤怒(ふんど)。しきりに止(や)むべから
ず終宵(よもすから)【𫕟は誤】是(これ)をおもひなやむが故(ゆゑ)に。潛(ひそか)に河上(かじやう)の体(てい)をうかゞふに炬火(かゝりび)の光(ひか)り
立消(たちきえ)て。深行(ふけゆく)まゝに影(かげ)黒(くろ)く夜(よ)はほの〳〵と明(あけ)にけり。清正(きよまさ)これを遥(はるか)に見(み)如何(いか)
さまにも敵陣(てきぢん)に変(へん)ありて。守(まも)りを引払(ひきはら)ひたるにやあるらんと意(こゝろ)づき。再(ふたゝ)
び近従(きんじゆ)の士(し)を召具(めしぐ)し。水辺(すゐへん)に立出(たちいで)北岸(ほくがん)のやうを察(さつ)するに。河霧(かはぎり)の晴間(はれま)
を見(み)れば守(まも)りの兵陣(へいぢん)をつらね。旌旗(せいき)の影(かげ)さながらもとの如(こと)くなるに。不思議(ふしぎ)
や河瀬(かはせ)に集(あつま)る鴨鳬(あふふ)の類(るい)。南岸(なんがん)に向(むか)ふは一ツもなく。さしもに多(おほ)き守兵(しゆへい)共(ども)

の弓矢(ゆみや)をとつて水浜(すゐひん)に臨(のぞ)めるを。すこしもおどろく景色(けしき)なく。北岸(ほくがん)に近(ちか)
よつて游(およ)ぎ泳(くゞ)れるを見(み)て。清正(きよまさ)も直茂(なをしげ)もいよ〳〵あやしみながら渡(わた)り
なければ。如何(いか)んともすべきやうなきところに。紀伊国(きいのくに)の住人(しゆうにん)貴志佐助(きしさすけ)と
云(いふ)もの進(すゝ)み出(いで)。某(それがし)游(およ)ぎて敵(てき)の動静(やうす)をうかゞひ参(まゐ)り候はんといふ。清正(きよまさ)歓(よろこ)
びとく〳〵と申されければ。貴志(きし)は鎧(よろひ)をぬぎて川(かは)へ飛入(とびいり)游(およ)ぎけるに。水勢(すゐせい)
つよくして息切(いききれ)ておしながされ。浮(うき)ぬしづみぬ見へけるが三町ほど下(しも)へ
流(なが)れつき。半死半生(はんしはんしやう)にして此方(こなた)の岸(きし)へもどりける。清正(きよまさ)身(み)をもんで怒(いか)り
けれど詮方(せんかた)なし。其時(そのとき)越中国(えつちうのくに)となみの住人(ちゆうにん)曽根平兵衛(そねへいべゑ)が嫡子(ちやくし)にて
生年(しやうねん)拾(じふ)八 才(さい)なる。孫六(まごろく)といへる者(もの)進(すゝ)み出(いで)云(いふ)やう。某(それがし)およぎて渡(わた)し申
さん。本国(ほんごく)砥並川(となみがは)は是(これ)より水勢(みづせい)つよく候 得(え)ども。幼年(えうねん)の時(とき)より游(およ)き越(こし)

【右丁】
主計頭(かずへのかみ)
  清正龍津(きよまさりうしん)を
    渡(わた)る

【左丁 絵画のみ】

候 古主(こしゆう)川田豊前守(かはたぶぜんのかみ)は上杉景勝(うえすぎかげかつ)【杦は異体字】の家老(からう)にて。越後(えちご)春日山(かすがやま)へ折々(をり〳〵)参(まゐ)り
申候 時(とき)。某(それがし)十三の時(とき)より従(したが)ひ参(まゐ)り。越中(えつちう)。越後(えちご)のさかい川(かは)。山姥(やまうば)の出(いで)たる姫(ひめ)
はや川(かは)。四拾八 瀬(せ)なども游(およ)ぎこし候 得(え)ば。これほどの川。越後(えちご)にては溝(みぞ)も
同(どう)やうなりと。鎧(よろひ)をぬぎ捨(すて)下帯(したおび)計(ばかり)に太刀(たち)を背(せ)におひ。川(かは)へ飛入(とびいり)逆巻水(さかまくみづ)
を事(こと)ともせず。一 文字(もんじ)に向(むか)ふの岸(きし)に游(およ)ぎつき。大(おほい)なる家(いへ)に走(はし)り入(いり)て見(み)れば。
人(ひと)一人もなければ捨置(すておき)たる飯(めし)などを。おもひのまゝに食(しよく)し小船(こふね)一艘(いつそう)に打(うち)
乗(のり)。此方(こなた)の岸(きし)へ漕(こぎ)もどしければ。清正(きよまさ)大(おほい)に歓(よろこ)び是(これ)見(み)よや人々(ひと〳〵)。上杉家中(うへすきかちう)
の武勇(ぶゆう)のたしなみ。その心(こゝろ)がけの深(ふか)き事(こと)よとて。即座(そくざ)に五百 石(こく)の墨附(すみつき)
に肩白(かたしろ)の具足(ぐそく)兜(かふと)一 縮(しゆく)に。名(な)ぎりといへる名馬(めいば)に青貝(あをかひ)の鞍(くら)おいて。孫(まご)六に与(あた)
へける。扨(さて)かの小船(こぶね)に数人(すにん)打乗(うちのり)向(むか)ふへ渡(わた)り。数(す)十 艘(そう)の船(ふね)を取来(とりきた)つて一万

余(よ)の勢(せい)を渡(わた)しければ。鍋島(なべしま)相良(さがら)の人々(ひと〴〵)もつゞいて川(かは)を渡(わた)しける。此時(このとき)加藤(かとう)
家(け)名代(なだい)の勇士(ゆうし)。木村又蔵(きむらまたぞう)進(すゝ)み出(いで)。某(それがし)敵地(てきち)のやうす物見(ものみ)仕(つかま)つらんと。黒毛(くろけ)
の馬(うま)に打(うち)またかり。真一文字(まいちもんじ)に乗出(のりいだ)し。しばらくして馳戻(はせもと)りて云(いふ)やう。都(みやこ)は
最早(もはや)間(ま)ちかく候。数万軒(すまんけん)の家々(いへ〳〵)相見(あいみ)へ其中(そのうち)王城(わうじやう)とおぼしき所(ところ)は。少(すこ)し
高(たか)くして煙(けふり)見(み)へ候。丑寅(うしとら)の方(かた)の山(やま)には小西殿(こにしとの)の御 ̄ン旗(はた)おひたゞしく見え候と云(いひ)
ければ。清正(きよまさ)大(おほい)に歓(よろこ)び先手(さきて)の者共(ものとも)急(いそ)げ〳〵と。自(みづか)らも母衣(ほろ)の者(もの)阿波伊兵(あはいへ)エ(ゑ)
島川九平衛(しまかはくへゑ)祐筆(ゆうひつ)の下川兵太夫(しもかわへいたいふ)を召具(めしぐ)し。案内(あんない)には木村又蔵(きむらまたぞう)を
先(さき)に立(たて)小西(こにし)に先(さき)をせられぬ内(うち)と。もみにもんで馳(はせ)たりける

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之六《割書:終》

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之七
     目録
 一 小西行長(こにしゆきなが)朝鮮(てうせん)の都城(とじやう)に入(い)る事(こと)
 一 加藤清正(かとうきよまさ)都(みやこ)へ入(い)る事(こと)
 一 朝鮮王(てうせんわう)所々(しよ〳〵)艱難(かんなん)の事(こと)
 一 朝鮮王(てうせんわう)平壌(へくしやく)に入(い)る事(こと)
 一 戸川花房(とがははなぶさ)白光彦(はくくわうげん)李時禮(りじれい)を討事(うつこと)
 一 黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)武勇(ぶゆう)の事(こと)
 一 清正(きよまさ)王子(わうじ)を追(おひ)かくる事(こと)
 一 清正(きよまさ)克諴(こくかん)が軍(ぐん)を戦(たゝか)ひやぶる事(こと)

 一 清正(きよまさ)王子(わうじ)を執(とら)へ情(なさけ)ある事(こと)

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之七

  小西行長(こにしゆきなが)朝鮮(てうせん)の都城(とじやう)に入(い)る事(こと)
爰(こゝ)に朝鮮王城(てうせんわうじやう)の都元帥(とげんすゐ)金命元(きんめいけん)は。濟川亭(せいせんてい)といふ所(ところ)に人数(にんず)を揃(そろ)へて。日本(につほん)
勢(せい)を防(ふせ)がんと待居(まちゐ)たるに。日本(につぽん)の兵(へい)すでに間近(まちか)く寄来(よせきた)ると聞(きゝ)しかば。敢(あへ)
て合戦(かつせん)すべき志(こゝろ)もむなしくなり。悉(こと〳〵)く軍器(ぐんき)火炮(くわばう)弓矢(ゆみや)まで江(え)の中(なか)に没溺(ぼつでき)せ
しめて。其身(そのみ)は衣服(いふく)をかへて行衛(ゆくえ)もしらず逃(のが)れ行(ゆく)を。其(その)下司(したつかさ)なる従事官(じふじくわん)の
沈友正(ちんいうせい)一人のみ。是(これ)が下知(げぢ)にしたがはず猶(なほ)も城中(じやうちう)に回(かへ)り入(い)り。守城(しゆじやう)の大将(たいしやう)李陽(りやう)
元(げん)にしたがつて寄来(よせきた)る。倭賊(わぞく)を防(ふせが)んとしたりしに李陽元(りやうげん)もすでに。漢江(かんこう)の手(て)の
防守(ぼうしゆ)も其軍(そのぐん)自(みづか)ら散(さん)じ潰(つい)へぬと聞(きく)より。此城(このしろ)の守(まも)るべからざること察(さつ)し

是(これ)も同(おな)じく城(しろ)を出(いで)て揚州(やうしう)さして落行(おちゆき)ける。かくて行長(ゆきなが)が兵士(へいし)ども王城(わうじやう)に到(いた)
り着(つい)て。いかさまにも手痛(ていた)き一 戦(せん)もあるべきかと各々(おの〳〵)高名(かうみやう)を意(こゝろ)がけ我(われ)
先(さき)にと攻寄(せめよせ)る。実(まこと)に他(た)の府城(ふじやう)とは事(こと)かはつて。関門(くわんもん)牢(かた)く鎖(とざ)し石垣(いしがき)高(たか)
く聳(そび)へたり。門(もん)の高(たか)さは十 餘丈(よじやう)敢(あへ)てたやすく攀登(よぢのぼ)るべきやうもなし。
行長(ゆきなが)も門外(もんくわい)に暫(しばら)く馬(うま)をひかへて仰(おほ)き見(み)るのみなれば。諸備(しよそなひ)ともに馬蹄(ばてい)
をとゞめて。大将(たいしやう)の下知(げぢ)を待(まつ)ところに案内(あんない)のために。召捕(めしとり)し生口(いけどり)の申す
やう。なか〳〵此門(このもん)より入(いら)せ給はん事(こと)。関(くわん)ひらかずしては叶(かな)ふべからず。此門(このもん)
より東(ひかし)に当(あた)りて水門(すゐもん)あり。其(その)広(ひろ)さ方五尺(はうごしやく)鉄(てつ)の透(すか)し有(あり)これを推切(おしきつ)て
入給はゞ。たやすく御人数(ごにんず)入(いる)べしと教(おし)へければ。行長(ゆきなが)大(おほい)に歓(よろこ)びこれぞ屈竟(くつきやう)
の入場(いりば)なれ。さらば其(その)水門(すいもん)を打(うち)やぶれと云(い)へども。人夫共(にんぶども)はいまだ馳(はせ)つかず大(おほ)

槌(つち)なんども折(をり)ふしなかりしを。木戸作右衛門(きどさくゑもん)が才覚(さいかく)にて足軽(あしがる)に下知(げぢ)を加(くわ)
へ。鉄砲(てつはう)の台(たい)ともを脱(はづ)させ其筒(そのつゝ)をよき手子棒(てこぼう)となし。大勢(おほせい)門扇(とまへ)に立並(たちなら)び
一 声(せい)に。ゑいといふて推(おし)はなせばさしも丈夫(ぢやうぶ)に構(かま)へたる水門(すゐもん)なりといへとも。一 同(どう)に
ぐはら〳〵とこぢ放(はな)ちけるは。いさましくこそ見(み)えたりける。其勢(そのいきほ)ひを抜(ぬか)さず
行長(ゆきなが)馬上(ばしやう)に下知(げぢ)を加(くわ)へ。真先(まつさき)に乗(のり)こめば諸備(しよそない)たれが残(のこ)るべき。我先(われさき)に高名(かうみやう)せん
と撃入(うちいり)ける。おもひの外(ほか)矢(や)一 筋(すち)だに射出(ゐいだ)す者(もの)なきのみか。さしもに広(ひろ)き王城(わうじやう)に人(ひと)
といふもの隻字(せきし)もなし。人々(ひと〳〵)不審(ふしん)をなし事(こと)のやうすを尋(たづ)ねるに。朝鮮王(てうせんわう)
を始(はじ)め諸臣(しよしん)百 姓(しやう)に至(いた)るまで。三日 以前(いせん)に西(にし)の方(かた)へ落行(おちゆき)しと聞定(きゝさだ)め。行長(ゆきなが)は
先(まづ)軍中(くんちう)に法令(はうれい)を出(いだ)し。第一(だいゝち)に軍隊列(くんたいれつ)を混(みだ)して王宮(わうきう)に入(いる)べからず。濫(みだり)に民家(みんか)
に込入(こみいつ)て宝器(はうき)金銀(きん〴〵)を取(とる)べからず。酒家(しゆか)に入(いり)かたく是(これ)を飲食(ゐんしよく)すべからず。婦(ふ)

女(ぢよ)を侵(おか)すことなかれと。大目(たいもく)を定(さだ)めて列(れつ)をとゝのへ衆(しゆう)を警(いまし)め。偖(さて)その後(のち)に
手分(てわけ)をなし。遍(あまね)く王城(わうじやう)の内外(ないぐわい)まで尽(こと〳〵)く捜(さぐ)りもとむるに今(いま)は敵(てき)一人も
なきに極(きは)まり宮中(きうちう)までを清(きよ)く吟味(ぎんみ)し。其後(そのゝち)の者(もの)どもを四方(しはう)の門々(もん〳〵)
に分(わか)ち。きびしく是(これ)を守(まも)らせ後陣(ごぢん)の兵将(へいしやう)を待居(まちゐ)たるは。実(まこと)に勇々(ゆゝ)しき
有(あり)さまなり
   加藤清正(かとうきよまさ)都(みやこ)へ入(い)る事(こと)
扨(さて)また加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)は。此度(このたび)は人(ひと)より先(さき)に王城(わうじやう)を乗入(のりい)らんと。兵士(へいし)を
急(いそ)がせ馳(はせ)たりければ。漸(やうや)く王城(わうしやう)にも著(つき)ければ清正(きよまさ)が先手(さきて)。城門(じやうもん)を押(おし)ひらい
て入(い)らんとす。此時(このとき)小西(こにし)が兵(へい)門内(もんない)より云(いひ)けるは。当城(たうじやう)は小西行長(こにしゆきなが)昨日(さくじつ)入来(いりきた)
り我等(われら)に申 付(つけ)四門(しもん)を堅固(けんご)に相守(あひまも)りて。他(た)の人(ひと)をば禁(きん)ずべし。若(もし)諸大将(しよだいしやう)

よりの御 通路([つ]うろ)ならば五三人に涯(かぎ)るべし其外(そのほか)は内(うち)へ入 候事 無用(むよう)と大将(たいしやう)より
の下知(げじ)に候 得(え)ばゑこそ通(とほ)し申まじ御用(ごよう)あらば五三人は御入(おんいり)あれといふ清正(きよまさ)
が母衣(ほろ)の者(もの)阿波伊兵衛(あはいへい)島川九平衛(しまかはくへい)といへる者(もの)早々(さう〳〵)本陣(ほんぢん)に立(たち)かへりて
清正(きよまさ)にかくと告(つぐ)る。清正(きよまさ)大(おふい)に憤怒(ふんど)して口惜(くちおし)や今度(このたび)も小西(こにし)にまた先(さき)をせ
られたりぬよし〳〵今は人の乗取(のりとり)たる城(しろ)に入たるとて何(なに)の益(えき)かあらんと
先(まつ)城外(じやう▢▢)に軍(ぐん)を休息(きうそく)せしめ。家臣(かしん)どもを集(あつ)め評諚(ひやうき)しけるは。我志(わがこゝろざ)し先駆(さきかけ)
して都(みやこ)に入(い)らんとおもひばこそ。秀吉公(ひでよしこう)の制法(せいはう)を我儘(わかまゝ)に云破(いゝやぶ)りたれ我(われ)不仕(ふし)
合(あはせ)に出合(いであい)て大川(おゝかわ)に隔(へだて)られよしなき隙(ひま)をとり行長(ゆきなが)に又(また)此度(このたび)もおくれを
取(と)る事([こ]と)。我(わが)欝憤(うつぷん)大方(おふかた)ならず口惜(くちおしく)おもふところなり。何(なに)をもつて是(これ)を晴(はら)
さん。我(われ)こゝに思案(しあん)するに国王(こくわう)ならびに王子(おうし)の。落行(おちゆき)たる後(あと)を追(おひ)かけ行(ゆき)

押詰(おしつめ)て擒(とりこ)にせんこと安(やす)からん併(しかし)ながら事(こと)明日(めうにち)におよんでは其路(そのみち)はるかに隔(へだゝ)
りて。追(おひ)つかんこと叶(かな)ふべからずせんずるところ。今夜(こんや)亥(い)のこく速(すみやか)に我兵(わがへい)を進(すゝ)めん
ずるぞ各々(みな〳〵)其覚悟(そのかくご)をなすべしと云(いひ)ければ家(いへ)の軍(ぐん)兵 尽(こと〳〵)く馬(うま)に草飼(くさかい)兵(ひやう)
粮(らう)をつかふて。急(きふ)に其 支度(したく)をとゝのひける。しばらくあつて清正(きよまさ)は庄林隼人(▢▢▢ばやしはいと)
助(すけ)を召(めし)て密(ひそか)に云(いふ)やう。最早(もはや)手の者(もの)どもは兵粮(ひやうらう)をつかひたるや馬(うま)の腹(はら)を
ばやしなひたるか。庄林(しやうはやし)答(こたへ)て御意(ぎよい)のおもむき亥(い)の刻(こく)とは承(うけたまは)れど疾(すて)に飼(かい)
足(あし)のかためまて。総(そう)人 数(ず)調(とゝの)ひ申(もふ)すといふに鍋島(なべしま)にも云合(いひあは)せず。清(きよ)正一手の人
数(ず)をもつて汗馬(かんば)に鞭(むち)を加(くは)へて追行(おひゆき)けるが爰(こゝ)に幸(さいわひ)なることありて折(おり)ふし
一人の朝鮮通事(てうせんつうじ)をとらへ得(え)たりける。其名(そのな)をは倭学通事(わがくつうじ)咸廷虎(かんていこ)
といふ者(もの)なり。是(これ)がことを知(し)るの委曲(つぶさ)なること。徳(とく)右衛門が類(たく)ひにあら

ねばその姓名(せいめい)をたづぬるに某(それがし)は元(もと)日本(につほん)の産(さん)にて姓(せい)は後藤(ごとう)と申候 得(え)とも偽(いつは)
りて彼(かれ)にしたしみ命(いのち)を助(たすか)り候と申ける清正(きよまさ)大(おほい)によろこびすなはち名(な)を後藤(ことう)
二郎と改(あらた)め。諸事(しよじ)の通詞(つうじ)の手引(てびき)とはなしたりける。かくて日本(につほん)の諸将(しよしやう)は
おひ〳〵王城(わうじやう)へ打入(うちいり)評議(ひやうぎ)しけるに。清正(きよまさ)のみ国王(こくわう)王子(わうじ)を追(おひ)かけ行(ゆき)しよしを
聞(きい)て。彼(かれ)が先立(さきたて)るを打捨(うちすて)置(おか)ば彼軍(かのぐん)敵中(てきちう)深(ふか)く入(いつ)て。若(もし)不時(ふじ)の難事(なんじ)出来(いでき)なば
却(かへ)つて味方(みかた)の落度(おちど)たるべきと。中(なか)にも鍋島直茂(なべしまなほしげ)は清正(きよまさ)が相備(あひそなひ)たるによつ
て。急(きふ)につゞいて馬(うま)を急(いそ)がせ跡(あと)をしたふて馳(はせ)たりける。小西行長(こにしゆきなが)は元(もと)より一
方(はう)の前手(さきて)たるによつて。朝鮮王(てうせんわう)の落行方(おちゆくかた)を聞定(きゝさだ)め平安道(へいあんたい)へおもむきける。
其余(そのよ)の大名(たいみやう)黒田(くろた)小早川(こはやかは)が手(て)の軍平(ぐんひやう)ども。おもひ〳〵に打立(うちたつ)て押行(おしゆき)しは。
夥(おひたゞ)しき兵(へい)の形勢(ありさま)なり。

【右丁】
小西行長(こにしゆきなが)
 王城(わうじやう)に入(いる)

【左丁 絵画のみ】

   朝鮮王(てうせんわう)処々(しよ〳〵)艱難(かんなん)の事(こと)
朝鮮王(てうせんわう)李㫟(りえん)はすでに都城(とじやう)を没落(ぼつらく)まし〳〵。王子達(わうじたち)をば道(みち)をかへて落(おと)し
給へて後(のち)。御 ̄ン駕(ば)を急(いそ)がせ給ふといへども。猶(なほ)降来(ふりきた)る雨(あめ)のやまされば道(みち)のほども
はか〴〵しくなければ。左右(さいふ)に供奉(ぐぶ)したる官人(くわんにん)ども助(たす)けかゝへて。恵陰嶺(けいいんれい)を過(すぐ)
る時(とき)は。其日(そのひ)もすでに未(ひつじ)の刻(こく)ばかりになりにけり。雨(あめ)は猶(なほ)はげしうして注(そゝ)ぐが
如(ごと)くなりしかば。宮人達(きうじんたち)はやう〳〵に田家(でんか)の馬(うま)を求(もと)め乗(の)せたれども。雨(あめ)の降来(ふりきた)
るを凌(しの)ぐべきやうなき故(ゆゑ)。手に手に種々(しゆ〳〵)のものを以(もつ)て面(おもて)を蒙(おほ)ふて。まことに雨(あめ)
にそぼぬれたるは浅間(あさま)しき有(あり)さまなり。馬山駅(はさんえき)を過(すぐ)るときは田間(でんかん)に民(たみ)
ども多(おほ)く出(いで)て臨(のぞ)み痛哭(つうこく)し。国家(こくか)今(いま)我輩(わがともがら)を打捨(うちすて)て何方(いづかた)へか去(さ)り給ふ。
我輩(わがともがら)今(いま)より何(なに)をたのんでか。此(この)生涯(しやうがい)を立(たつ)べきぞと号(さけ)び呼(よば)ふ。そのあはれ云(いわ)

んかたなし臨津(りんしん)といふ渡(わた)りに至(いた)り給へども。雨(あめ)はしきりに強(つよ)くなり。李㫟(りえん)は
これより船(ふね)に召(めさ)され。首将軍(しゆしやうくん)柳左相成龍(しりうさしやうせいりう)なんども舟中(しうちう)に侍(はべ)りける。既(すで)に渡(わた)りを
過(すぐ)る時(とき)は其日(そのひ)も暮(くれ)にかゝつて。物(もの)の色(いろ)をも弁(わきま)へず臨津(りんしん)の南(みなみ)の岸(きし)には王朝(わうてう)より。
兼(かね)てたてかまへたる役所(やくしよ)のありしを。賊兵(ぞくへい)の後(あと)より追(おひ)かけ来(きた)り材木(ざいもく)を取(と)り
はなし。桴筏(いかだ)なんどに組(くま)れては悪(あし)かりなんと恐(おそ)るれば。李㫟(りえん)は左右(さいふ)に命(めい)じ火(ひ)
を放(はな)ち。尽々(こと〳〵)く焼(やき)はらひ給ふ其(その)火光(くわくわう)江北(こうほく)まで照(てら)しゝかば。なか〳〵今(いま)のためにし
ては明松(たいまつ)の光(ひか)りとなつて。落行(おちゆく)路(みち)のまどひもなく其夜(そのよ)の初更(しよこう)ばかりには。稍(やうや)
く東坡駅(とうはえき)といふ処(ところ)に著(つき)給ふ。坡州(はしう)の牧師(ぼくし)許晋(きよしん)長湍府使(ちやうたんふし)具孝淵(くかうえん)等(ら)相(あひ)
集(あつま)り。かたの如(ごと)くに御《割書:ン|》厨(くりや)の設(まうけ)をまかなひ御膳(ごぜん)を調進(ちやうしん)したりしに。警衛(けいえい)扈従(こしやう)
の御《割書:ン|》供(とも)の上下(じやうげ)。終日(しふじつ)食物(しよくもく)をばはか〴〵しくしたゝめねば。甚(はなは)だ以(もつ)て飢(うゑ)たるゆゑ厨(くりや)

の中(うち)に乱(みだ)れ入(いり)取(と)り奪(うは)ふてこれを喰(くろ)ふほどに。殆(ほとんと)御膳(ごぜん)を闕(かゝ)んとす許晋孝淵諸(きよしんかうえんもろ)
ともに。これを禁制(きんせい)しとゞむれども更(さら)に耳(みゝ)にも聞入(きゝいれ)ず。我(われ)がちに喰(くひ)けるを許(きよ)
晋(しん)孝淵(かうえん)かゝる体(てい)を見(み)るより。とても此(この)すへ頼(たの)みなしとやおもひけん。ともに
打(うち)つれ行方(ゆきがた)しらず落行(おちゆき)ける。五月八日の早朝(さうてう)には李㫟(りえん)不予(ふよ)の事(こと)ありて。一日
此所(このところ)に逗留(たうりう)あり日暮(ひくれ)て開城(かせん)に発向(はつかう)あらんとするに。京畿(けいき)の吏卒(りそつ)尽(こと〳〵)く逃(のが)
れ散(さん)じて。御《割書:ン|》供(とも)に警衛(けいえい)たるべき武士(ぶし)なかりしかば。かくては如何(いかゞ)なすべきと。諸(しよ)
大臣(だいしん)もあきれ果(はて)たるところに。黄海(はんはい)監司(かんす)趙仁得(てうじんとく)。たま〳〵本道(ほんたう)の兵(へい)を率(ひい)
てまさに京都(きやうと)の軍(ぐん)を援(たすけ)んとするに出会(いであひ)たれば。其(その)郡県(ぐんけん)に触状(ふれじやう)を廻(まは)し人(にん)
数(ず)を集(あつむ)る時(とき)。瑞興府使(ずゐこうふし)南嶷(なんき)先(ま)づ第一(だいゝち)に参(まい)りたるが。其兵(そのへい)数百人(すひやくにん)馬(うま)五六
十 疋(ひき)を引来(ひききた)りければ。此(この)人数(にんす)を警衛(けいえい)として御《割書:ン|》駕(が)をすゝむ。司鑰官(しやくくわん)崔彦(さいけん)

俊(しゆん)すゝみ出(いで)て申やう。宮中(きうちう)の嬪妃(ひんひ)昨日(さくじつ)終日(ひねもす)食(しよく)を断(た)ち。今日(こんにち)もいまだ食(しよく)
をなさねば。少(すこ)し米(こめ)を得(え)て飢(うへ)を養(やしな)ふて行(こう)をなすべしといへども。いかん
ともすべきやうもなきを。南嶷(なんき)が軍兵(ぐんひやう)の持(もつ)ところの粮(かて)大小の米(こめ)。わづか二
三 斗(と)ばかりのを雜(まじ)へあつめて奉(たてまつ)る。やう〳〵是(これ)をもつて宮人(きうじん)の飢(うゑ)を養(やしな)ひ。
午室招賢站(ごしつせうけんてん)と云(い)ふ処(ところ)に入(いり)し時(とき)。趙仁得(てうじんとく)も来朝(らいてう)し帳幕(ちやうまく)を路辺(ろへん)に
設(まう)けて。御《割書:ン|》駕(が)の人数(にんず)を待受(まちうけ)て饗応(きやうおう)をなしたるに。百 官(くわん)はじめて食(しよく)を
得(え)て生(いき)たる意(こゝろ)なり。此夕(このゆふべ)すでに開城府(かせんほ)に入(いら)せ給ふて。南門(なんもん)の中(うち)に御座(ござ)をすへ
らる時(とき)に。諌官(かんくわん)諸司(しよし)の輩(ともがら)章状(しやうじやう)を奉(たてまつ)り。今度(このたび)倭賊(わぞく)の難(なん)あつて一防(いつばう)の功(こう)も
なく。忽(たちま)ちに敗亡(はいばう)に至(いた)ること。日頃(ひごろ)に首相(しゆしやう)某(それがし)等(ら)が朝廷(てうてい)に徒党(ととう)をむすひ。平(へい)
生(ぜい)の政(まつりごと)最(もつと)もよろしからず。しかる時(とき)は首相(しゆしやう)某(それがし)をはじめ。此度(このたび)国(くに)を誤(あやま)るの

罪(つみ)を正(たゞ)し。早(はや)く是等(これら)を退(しりぞ)けらるべしと奏(そう)すれども。猶(なほ)これを許用(きよよう)なきを諫(かん)
官(くわん)御吏(きょし)の大臣(だいじん)とも。しきりに此事(このこと)を申 請(こふ)により。首相(しゆしやう)某(それがし)その官職(くわんしよく)をやめ
られければ。柳左相成龍(りうさしやうせいりう)首相(しゆしやう)となり。崔興源(さいこうげん)左相(さしやう)となり尹斗寿(いんとしゆ)右相(うしやう)と
なされけるところ。柳相(りうしやう)また罪(つみ)あるを以(もつ)て官(くわん)をやめられ。兪泓(ゆこう)を右相(うしやう)となし
崔興源(さいこうけん)首相(しゆしやう)にすゝみ。尹斗寿(いんとじゆ)左相(さしやう)にかはりけり。
   朝鮮王(てうせんわう)平壌(へくしやく)に入事(いること)
すでに五月十日には李㫟(りえん)は。其日(そのひ)の午(うま)の刻(こく)ばかりに。南城門(なんせいもん)の楼(らう)に登(のぼ)りて
人民(じんみん)を慰諭(いゆ)せらる。此日(このひ)感鏡北道(こんあんほくだう)兵使(へいし)申硈(しんきつ)も馳(はせ)まゐる。猶(なほ)今以(いまもつ)て
王城(わうじやう)へ敵兵(てきへい)の来(きた)りし沙汰(さた)なかりしかば。衆臣(しゆうしん)みな〳〵議(ぎ)して京畿(けいき)をみだ
りに遷幸(せんこう)ありしこと失策(しつさく)なりと云(いふ)について。承旨官(じやうじくわん)申磼(しんさふ)はかへり至(いた)り。

京畿(けいき)のやうを窺(うかゞ)ひ。其形勢(そのありさま)を察(さつ)し見(み)よとの仰(おほせ)をうけ。馬(うま)に鞭(むち)うつて
急(いそ)きしが程(ほど)なくかへり參(まゐ)りて。奏聞(さうもん)するやう。最早(もはや)賊兵(ぞくへい)京城(けいき)に入来(いりきた)り候。
留都(りうと)の将(しやう)李陽元(りやうげん)元帥(けんすゐ)金命元(きんめいげん)。とゝもにみな走(はし)るこれによつて敵兵(てきへい)一 戦(せん)
にもおよばずして。京城(けいき)へ三 道(だう)より打入(うちいつ)たり城中(しやうちう)の民(たみ)どもはみな。先立(さきたつ)て散(さん)
し去(さ)るゆゑに。是(これ)又(また)幸(さいは)ひに死命(しめい)にかゝる者(もの)もなしと云(いふ)。こゝに金命元(きんめいげん)も
既(すで)に漢江(かんこう)を逃(のが)れ去(さつ)て。李㫟(りえん)のおはします所(ところ)に向(むか)ひしが。漸(やうや)く臨津(りんしん)まて
遁(のが)れ来(きた)り。爰(こゝ)より奏啓(そうけい)を奉(たてまつ)りその軍(いくさ)の状(かたち)を申 述(のべ)たりしに。重(かさ)ねて
京畿(けいき)黄海(はんはい)の兵(へい)を集(あつ)めて。臨津(りんしん)を守(まも)るべきよし命(めい)ぜらる。又(また)申硈(しんきつ)に命(めい)
あつて同(おな)じく臨津(りんしん)を防(ふせ)ぎ守(まも)り。賊兵(ぞくへい)の西(にし)に下(くだ)るの道路(たうろ)をとゞめて戦(たゝか)ふ
べしと。謀計(ぼうけい)を示(しめ)されたり是日(このひ)車駕(しやが)開城(かせん)を発(はつ)して。金郊駅(きんかうえき)に御《割書:ン|》駕(が)を

やどし給ひ同月(どうげつ)十二日には。與義金巌(よぎきんがん)平山府(へいさんふ)なんどいへる所(ところ)を打(うち)すぎ。其(その)
日(ひ)は鳳山群(ほうさんぐん)に一 宿(しゆく)あり。夫(それ)より黄州(くわうしう)をすぎて十五日 申(さる)の刻(こく)ばかりに。中和(ちうくわ)な
んどいふ所(ところ)をすぎて。平壌(へいしやく)に入(いり)給ふしばらく爰(こゝ)をおはします所(ところ)となし給ひ
ける。
   戸川(とがは)花房(はなふさ)白光彦(はくくわうげん)李時禮(りじれい)を討事(うつこと)
かゝる処(ところ)に全羅道(せんらたい)の巡察使(しゆんさつし)。李光(りくわう)は本道(ほんだう)の兵(へい)を率(ひき)ひ。京城(けいき)に入(い)りて
援(たすけ)んとしたりし時(とき)車駕(しやが)すでに西(にし)に遷幸(せんこう)なり。京城(けいき)もはや落城(らくじやう)に及(およ)
んで敵(てき)の手(て)に陥(おちい)ると聞(きこ)へしかば。是非(ぜひ)におよばず全州(せんしう)にかへる処(ところ)に。李洸(りくわう)
がすでに戦(たゝか)ひをも為(なさ)ずして。州(しう)にかへるを其軍中(そのぐんちう)の兵士(へいし)憤(いきどほ)りを懐(いだい)て。不平(ふへい)
をおもふ輩(ともがら)も多(おほ)かりしかば。李洸(りくわう)もまた其心(そのこゝろ)安(やす)からず。此議(このぎ)を深(ふか)く恥(はち)思(おもひ)

て更(さら)に軍平(ぐんひやう)を調(とゝの)へて。忠清道(ちくしやくたい)の巡察使(しゆんさつし)尹国馨(いんこくけい)と諸(もろ)ともに。軍平(くんひやう)を一ツに合(がつ)し
て進(すゝ)まんとす。慶尚道(けくしやくたい)の巡察使(しゆんさつし)金晬(きんすゐ)もまた其(その)本道(ほんだう)より。官軍(くわんぐん)数(す)十人を
率(ひ)ひて来(きた)り会(くわい)し。総軍(そうぐん)五万人の兵士(へいし)となりぬ此兵(このへい)を卒(そつ)し。北斗門(ほくともん)の山上(さんじやう)
に登(のほ)りて見(み)れば。倭(わ)の軍平(ぐんひやう)を籠置(こめおき)たる小城(こしろ)のあるを見(み)すまし。勇士(ゆうし)白(はく)
光彦(くわうげん)李時禮(りじれい)といへる二人の者(もの)をつかはし。敵兵(てきへい)を甞(こゝろ)みせしむ此城(このしろ)は浮田(うきた)
秀家(ひていへ)が家臣(かしん)。戸川肥後守(とかはひごのかみ)。花房助十郎(はなぶさすけじふらう)と云者(いふもの)五六百人にて籠(こも)り居(ゐ)ける
が。光彦(くわうげん)等(ら)すでに。先鋒(せんばう)を率(ひい)て山上(さんじやう)に登(のほ)つて。城壘(じやうるい)に拒(いた)り近(ちか)づくこと十余町(じふよちやう)
ばかりにして。馬(うま)を乘(のり)はなち歩行立(かちだち)なつて矢(や)を発(はつ)すされども。戸川(とかは)花房(はなぶさ)与(よ)
力(りき)の者(もの)に下知(げぢ)をなし。堅(かた)く守(まも)りて音(おと)もせず静(しづ)まりかへつて出(いで)ざりけり。光(くわう)
彦(げん)等(ら)おもふやう。此城(このしろ)番手(ばんて)の小城(ごじろ)ゆゑ。城兵(じやうへい)最(もつと)も少(すく)なければおそれて出(いで)ぬ

【右丁 絵画のみ】
【左丁】
黒田長政(くろだながまさ)
朝鮮(てうせん)の大将(たいしやう)
利統制(りとうせい)を
大(おほい)にやぶる

ものなりと心得(こゝろえ)たる其意(そのこゝろ)の懈(おこた)る処(ところ)を。日本勢(につほんぜい)見(み)すまし太刀(たち)の切先(きつさき)を揃(そろ)へて。二百
ばかりの兵(へい)一 度(と)にどつと切(きつ)て出(いづ)れば。光彦(くわうげん)大(おほ)いに倉皇(あはて)馬(うま)に打乗(うちの)つて走(はし)らんとすれど
も叶(かな)はず既(すで)に倭兵(わへい)の近(ちか)づくを見(み)て光彦(くわうげん)時禮(じれい)日頃(ひごろ)勇士(ゆうし)の名(な)あるにや恥(はぢ)たり
けん踏(ふみ)とゞまつて戦(たゝか)ひしが二人ともに敵(てき)二三人に手(て)を負(おは)せ。其身(そのみ)もこゝにて討(うた)れ
けり。朝鮮(てうせん)の諸軍勢(しようぐんぜい)二人の勇士(ゆうし)敵(てき)のために。あへなく討(うた)るゝと聞(きく)より兔(と)角(かく)
和兵(わへい)は侮(あなど)りがたしと思(おも)ひけん。大(おほい)に震惧(おのゝきおそ)れける三巡察使(さんしゆんさつし)の輩(ともがら)はみな。文人(ぶんじん)
にしていまだ兵事(へいじ)に閑(ならは)ぬ者(もの)どもなりければ。軍兵(ぐんひやう)は多(おほ)しといへどもその号令(ごうれい)の
一ならず。其上(そのうへ)また險岨(けんそ)によつて兵(へい)の備(そなひ)を立設(たてまう)くるすべをもしらず。みだりに
敵(てき)を侮(あなど)り春遊(しゆんゆう)の如(ごと)くなる。其兵行(そのへいかう)なんぞ破(やぶ)れざるべきや。其(その)翌日(よくじつ)に至(いた)つ
て戸川(とがは)花房(はなふさ)の二人は。傍輩(はうばい)物頭(ものかしら)の面々(めん〳〵)を集(あつ)め朝鮮(てうせん)の兵卒(へいそつ)其数(そのかず)多(おほ)しと

いへどもすべて諸方(しよはう)の集(あつま)り勢(ぜい)と見(み)ゆれば。烏合(うがふ)の兵(へい)其(その)志(こゝろざし)一ならすとふものか。
ことに昨日(きのふ)味方(みかた)の働(はたら)きを見(み)るに付(つけ)ては。其(その)やう察(さつ)する処(ところ)定(さだ)めて惧(おそれ)て心(こゝろ)臆(おく)
せん。此方(こなた)よりかゝつて是(これ)を撃(う)ちらさんといへば。岡新之丞(おかしんのしやう)船越源左衛門(ふなこしけんさゑもん)松(まつ)
木清蔵(ぎせいざう)。なんといふ物頭(ものかしら)の面々(めん〳〵)其外(そのほか)若手(わかて)の侍(さむらひ)には。国分(こくふ)蠏原(かにはら)金田(かねた)白畠(しらはた)なん
とをはじめとし鑓先(やりさき)をならべて突(つい)て出(いで)。我(われ)と思(おも)はん者(もの)あらば出(いで)て勝負(しやうふ)をなさ
さるかと。おめき号(さけ)んで呼(よは)はれば朝鮮(てうせん)の軍将(くんしやう)大(おほい)に破(やふ)れくづれて。そのさけぶ声(こゑ)山を
崩(くず)すが如(こと)くなり。軍資(くんし)器械(きかい)を打捨(うちすて)たるは。足(あし)の踏処(ふむところ)もなかりけり是(これ)か為(ため)
に人馬(にんば)の路(みち)塞(ふさ)がつて暫(しばら)く通路(つうろ)を遮(さへ)ぎれば。戸川(とがは)等(ら)下知(げぢ)して盡(こと〳〵)く一所(いつしよ)に集(あつ)め
て焚(やき)すてたり。李洸(りくわう)は破(やふ)れて全羅(せんら)にかへれば。国馨(こくけい)は公州(こうしう)に走(はし)り。金晬(きんすい)は
慶尚(けいしやく)の右道(うだう)に引退(ひきしりぞい)て。やうやく残兵(ざんへい)をぞ聚(あつ)めける

   黒田甲斐守長政(くろだかひのかみながまさ)武勇(ぶゆう)の事(こと)
偖(さて)また日本(につほん)の諸将(しよしやう)は手分(てわけ)を定(さだ)めて押出(おし)いだ)す中(なか)にも小西行長(こにしゆきなか)は加藤清正(かとうきよまさ)王(わう)
城(じやう)へ入(い)らずして。国王(こくわう)王子(わうじ)を追行(おひゆき)しと聞(きゝ)しかば。心急(こゝろいそ)がれ。いかにもして清正(きよまさ)よ
り先(さき)へ朝鮮王(てうせんわう)が。または王子(わうじ)を擒(とりこ)となして清正(きよまさ)に鼻(はな)あかせんと。兵士(へいし)を急(いそ)がせ
進(すゝ)み行(ゆく)。其日(そのひ)は東坡駅(とうばえき)に陣取(ちんどり)し。あくれば十一日 開城(かせん)へ発向(はつかう)せんとて小西(こにし)が先(さき)
手(て)。日比左近右衛門(ひゞさこんゑもん)。小西若狭守(こにしわかさのかみ)。二 陣(ちん)は大村新八郎(おほむらしんはちらう)。宗(そう)対馬頭(つしまのかみ)。とだん〳〵
押行(おしゆく)ところに。朝鮮(てうせん)の船大将(ふなだいしやう)利統制(りとうせい)といふ者(もの)。開城府川(かせんふかは)に待(まち)かけ居(ゐ)しが。
小西(こにし)が勢(せい)の押来(おしきた)ると聞(きゝ)て。五千 余騎(よき)を下知(げぢ)し小西(こにし)が先手(さきて)へ無二無三(むにむざん)に打(うつ)
てかゝる。小西(こにし)が先勢(さきぜい)不意(ふい)を打(うた)れて色(いろ)めくところを。利統制(りとうせい)半弓(はんきう)を以(もつ)て
さしつめ引(ひき)つめさん〴〵に射(ゐ)る。日比左近右衛門(ひゞさこんゑもん)小西若狭守(こにしわかさのかみ)一(ひと)さゝへもせず。射(ゐ)

立(たて)られ二 陣(ぢん)の大村(おほむら)宗(そう)が備(そな)ひになだれかゝる。宗(そう)大村(おゝむら)が勢(せい)も先陣(せんぢん)の敗(はい)
兵(へい)に引立(ひきたて)られ。三 陣(ぢん)松浦(まつら)が陣(ぢん)へ崩(ぐづ)れかゝる是(これ)も同(おな)じく味方(みかた)の勢(せい)におし立(たて)
られ心(こゝろ)ならずも引退(ひきしりぞ)く。行長(ゆきなが)は味方(みかた)の崩(くつ)るゝを見(み)て兵(へい)に下知(げぢ)し南(みなみ)の
方(ほう)なる山(やま)のふもとに陣(ぢん)を取(と)り。戦(たゝ)かはんとなしたる時(とき)利統制(りとうせい)は小西(こにし)が先陣(せんぢん)
を追崩(おひくづ)し。勝(かつ)に乗(の)つて追来(おひきた)る折(おり)から後陣(ごぢん)に備(そなひ)たる。黒田甲斐守(くろだかひのかみ)は
生年(しやうねん)二十四才の若武者(わかむしや)なれば。なにかはもつて猶予(ゆうよ)すべき先(さき)手に下知(げじ)
して押出(おしいだ)しけるに。黒田(くろだ)が先鋒(せんばう)栗(くり)山 備後(びんご)。黒田美作(くろだみまさか)後藤又兵衛(ごとうまたべ)は
五千ばかりの兵(へい)を真丸(まんまる)になして。烈風(れつふう)の如(ごと)くに馳来(はせきた)り利統制(りとうせい)が横合(よこあい)
より一 文字(もんじ)に突(つき)かゝる利統制(りとうせい)少(すこ)し引色(ひきいろ)になりたるところへ。後藤又兵衛(ごとうまたべ)
基次(もとづぐ)と名乗(なのつ)て朝鮮勢(てうせんぜい)の中(なか)へ割(わつ)て入(はり)つゞひて。村上彦右衛門義清(むらかみひこへもんよしきよ)と呼(よば)

はり敵中(てきちう)へ馳入(はせいり)両勇士(りやうゆうし)四方(しはう)へ当(あた)りて戦(たゝ)かひば。此(この)二人が太刀先(たちさき)に向(むか)ふ者(もの)一人と
して。命(いのち)をたもつ者(もの)なく討(うた)れければ。朝鮮勢(てうせんぜい)忽(たちま)ち崩(くづ)れて散乱(さんらん)す。利統制(りとうせい)
も叶(かな)はざることを擦(さつ)し。元(もと)の陣所(ぢんしよ)へ引退(ひきしりぞ)く。此時(このとき)黒田長政(くろだなかまさ)なかりせば。
今日(こんにち)の軍(いくさ)難義(なんぎ)なるべかりしを。長政(なかまさ)利統制(りとうせい)を追退(おひしりぞ)けしは天晴(あつはれ)の働(はたら)き
なり。かくて行長(ゆきなが)諸将(しよしやう)を会(くわい)して評議(ひやうぎ)なして利統制(りとうせい)を討(うつ)て後(のち)兵(へい)を進(すゝ)
めんと有(あり)ける故(ゆゑ)。諸将(しよしやう)もしかるべしとて其(その)用意(ようゐ)をなしけるに。利統制(りとうせい)は其日(そのひ)
兵(へい)を引(ひい)て李㫟(りえん)のおはします。平壌(へくしやく)の地(ち)へ引退(ひきしりぞ)くゆへ平安道(へいあんたい)の路(みち)ひらけ
たり。されども開城府川(かせんふかは)に大(おほい)なる番船(ばんせん)数十艘(すしつさう)有(あり)しかば先(まづ)これを攻取(せめとる)べし
と有(あり)ける時(とき)。黒田長政(くろだながまさ)云(いひ)けるは今日(こんにち)の戦(たゝか)ひに。敵(てき)に一しほつけ候得ば某(それがし)が兵士(へいし)を
つかはし。其(その)番船(ばんせん)を乗取(のつとる)べしとて即時(そくじ)に村上彦右衛門義清(むらかみひこゑもんよしきよ)。衣笠久右衛(きぬがさきうゑ)

門助則(もんすけのり)に命(めい)してさしむける。村上(むらかみ)衣笠(きぬがさ)の両人(りやうにん)は東西(とうざい)へ兵(へい)を出(いだ)し船(ふね)をもとめ。
または筏(いかだ)などをこしらへ翌(よく)十二日の未明(みめい)に乗出(のりいだ)し数(す)十 艘(さう)かけならべたる敵船(てきせん)
の真中(まんなか)へ乗込(のりこみ)。鉄砲(てつはう)を打(うち)かけひるむところを十文字(じふもんじ)のうちかきにて。引(ひき)よせ〳〵
大船(たいせん)二 艘(さう)に乗(のり)うつり。敵兵(てきへい)あまた討取(うちとり)ければ朝鮮人(てうせんじん)大(おほい)におそれ。開城(かせん)を
さして逃行(にげゆき)ける。これによつて日本勢(につほんぜい)諸軍(しよぐん)をまとめて進(すゝ)み行(ゆく)
   加藤清正(かとうきよまさ)王子(わうじ)を追(おひ)かくる事(こと)
斯(かく)て加藤 主計頭清正(かずへのかみきよまさ)は。朝鮮国(てうせんこく)の王城(わうじやう)を起(た)つてより十三日の道程(だうてい)を
過(す)ぎ来(きた)り。咸鏡道(ゑあんだう)の境(さかひ)なる安辺府城(あへんふじやう)に到著(たうちやく)し。爰(こゝ)にてしばらく
人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)めける。扨(さて)また鍋島直茂(なべしまなほしげ)は江原府(こうげんふ)に打出(うちいで)て。此所(このところ)を
陥(おと)しいれ鍋島平五郎茂里(なべしまへいごらうしげさと)といへる者(もの)を。番手(ばんて)にさし置(おき)其外(そのほか)所々(しよ〳〵)

に多(おほ)くの艱難(かんなん)を經過(けいくわ)し。近郡(きんぐん)の敵兵(てきへい)を追討(おひうつ)ゆゑ清正(きよまさ)に後(おく)るゝ事(こと)。已(すで)
に十日におよびけるが。兵士(へいし)を急(いそ)がせ汗馬(かんば)に鞭(むち)を加(くわ)へて馳(はせ)けるほどに。五月廿
五日の午(うま)の刻(こく)ばかりに。鍋島(なべしま)が先手(さきて)清正(きよまさ)が陣所(ぢんしよ)に当着(たうちやく)す。つゞひて直茂(なほしげ)
も馳着(はせつき)二人の大将 対面(たいめん)あつて。いよ〳〵両手(りやうて)の兵(へい)を以(もつ)て朝鮮王(てうせんおふ)【ママ】《割書:并》に諸(しよ)
王子(おふし)【ママ】の行(ゆく)へを探(さぐ)り求(もとめ)んと。同月廿六日 両手(りやうて)の兵将(へいしやう)を促(うなが)し。それより廿
九日の晩(くれ)ほどに。永興府(えいこうふ)といふ所(ところ)に着(つき)たりけり。是(これ)ぞ俗(ぞく)に云(いふ)永橋(なかはし)なり此(この)
処(ところ)に高札(たかふた)をかゝげ臨海君(けもかいくん)。順和君(しゆんはくん)の両(りやう)王子 此道(このみち)より行啓(こうけい)なり忠義(ちうぎ)
をいだくの輩(ともから)早々(さう〳〵)人衆(にんず)を聚(あつめ)会(くわい)して供奉(ぐぶ)すべきの旨(むね)を書(しよ)し。太子(たいし)の
從臣(じふしん)金貴栄(きんきえい)が名(な)をしるす。清正(きよまさ)は此(この)高札(こうさつ)を取(とり)よせて美野辺金(みのべきん)
太夫(だいふ)といへる士(し)に。これを読(よま)せ大(おふ)に喜悦(きえつ)し両王子(りやうおふじ)はさすれば吾(われ)掌(たなごゝろ)

の中(うち)に入(いり)たるものよ是(これ)より北土地(きたとち)だにつゞかは虎狼(こらう)の穴鬼(あなおに)が島(しま)まで逃(にげ)給ふ
とも。遁(のが)しはせじと笑(えみ)をふくんで直茂(なほしげ)に此事(このこと)を談(だん)ぜらる。鍋島聞(なべしまきい)て云(いひ)
けるは。異国(いこく)の者(もの)は謀慮(ばうりよ)をもつて。敵(てき)をやぶるを専(もつはら)といたすなれば。計(はかりごと)を
もつて敵兵(てきへい)を深入(ふかいり)させ。切所(ぜつしよ)の死地(しち)に陥(おと)して伏兵(ふくへい)をかまへて。我々(われ〳〵)を打取(うちとら)ん
と存(ぞんず)るかも知(し)らず。浅(あさ)はかに是等(これら)の事(こと)を誠(まこと)とし不覚(ふかく)ばし得(え)給ふなよ。
其上(そのうへ)我等(われら)が手(て)の者(もの)どもは。王城(わうじやう)を出(いづ)るより十六日の炎熱(えんねつ)を侵(おか)し来(きた)る
のみならず。所々(しよ〳〵)のせり合(あひ)手(て)ひどき目(め)に出合(いてやひ)。切所(ぜつしよ)あまた越来(こえきた)れば上下(じやうけ)の草(くさ)
臥(ひれ)大(おほ)かたならず。余(あま)り不便(ふびん)の事(こと)にて候 此辺(このへん)は幸(さいわ)ひに。富饒(ふにやう)【冨は俗字】の土地(とち)にして百
姓(しやう)も肥(こへ)米大豆(こめだいづ)も沢山(たくさん)に見(み)へたれば。しばらく逗留(たうりう)せんと存(ぞん)ずるなり。貴(き)
方(はう)も我等(われら)が申(もふ)すところを承引(しやういん)あられ。都(みやこ)へ此趣(このおもむき)早々(さう〳〵)注進(ちゆうしん)の後(のち)次第(しだい)により

【右丁】
両兵(りやうへい)
 臨津(りんしん)に
  戦(たゝか)ふ

【左丁 絵画のみ】

一先(ひとまつ)此陣(このぢん)を引(ひき)かへし給ひなば。よろしかるべき謀慮(ばうりよ)ならんと申されける清(きよ)
正(まさ)聞(きい)て。此札(このふだ)を朝鮮人(てうせんじん)い立(たて)たると加州(かしう)には思召(おほしめす)や。我等(われら)はさやうには存(ぞん)ぜぬ
なり。即(すなは[ち])天照太神(てんしやうだいじん)八幡宮(はちまんぐう)の御。示(しめ)しと存(ぞん)ずれば。神慮(しんりよ)にまかせ押付(おしつけ)王(わう)
子(じ)を生捕(いけどり)て見(み)せ申さん。其内(そのうち)は此辺(このへん)にてゆる〳〵休息(きうそく)し給ひと。不興気(ふけふげ)
に云(いひ)はなし。兵士(へいし)に下知(げぢ)して打立(うちたち)ける。此時(このとき)清正(きよまさ)は安城(あんき)の郷民(がうみん)二人捕(とら)へ。これ
より北路(ほくろ)の案内(あんない)せよと云(いひ)ければ。二人の百 姓(しやう)云(いひ)けるは此所(こゝ)に久(ひさ)しく住(すむ)といへども。
是(これ)より北道(ほくたう)は終(つゐ)に通(とほ)らず候 得(え)ば。案内(あんない)なすべきやうなしと。中(なか)にも一人 口(くち)
強(こは)にあらそひけるを。清正(きよまさ)大(おほい)に腹(はら)を立(た)ち口(くち)の利(きゝ)たる奴(やつ)かなと。やがて切(きつ)て捨(すて)
させたりけるに。一人の百 姓(しやう)大(おほい)におそれ何卒(なにとぞ)命(いのち)を助(たす)けて給はり候へ。実(まこと)は案(あん)
内(ない)をは克(よく)存(ぞん)じたる事となげきける。清正(きよまさ)大(おほい)に打笑(うちわら)ひ左(さ)も有(ある)べし。さらば

ゆるして案内(あんない)させよ。導引(みちひき)あしくは切(きつ)て捨(すて)んと。眼(まなこ)をいからせしかり付(つけ)
前(まへ)に押立(おしたて)八千の人衆(にんしふ)を繅(く)り出(いだ)すは。雄々(ゆゝ)しかりける有(あり)さまなり。
   清正(きよまさ)克諴(こくかん)を戦(たゝか)ひ破(やぶ)る事(こと)
鍋島加賀守直茂(なべしまかゝのかみなほしげ)はこれより二手(ふたて)に分(わか)つて。咸興府(かんこうふ)を切(きり)したかひ此所(このところ)に陣(ぢん)
を定(さだ)めて。近(ちか)きあたりの郡県(ぐんけん)端川(たんせん)なんどいふ処(ところ)を制略(せいりやく)して。人馬(にんば)を
こゝに休(やす)めて居(い)たりける。清正(きよまさ)は彼(か)の案内(あんない)の百 姓(しやう)を真先(まつさき)に立(たて)。谷山(こくさん)の地(ち)
より老里峴(らうりけん)といふ所(ところ)を越(こえ)。鉄嶺(てつれい)の北辺(ほくへん)に出(いで)て日々(ひゝ)に行(ゆく)こと。数(す)百 里(り)
を過(すく)るにその勢(せい)の速(すみやか)なるは。風雨(ふうう)の来(きた)るより猶(なほ)急(きふ)なれば向(むか)ふところに
敵(てき)ぞなかりける。爰(こゝ)に朝鮮(てうせん)北道(ほくだう)兵使(へいし)韓克諴(かんこくかん)といへる者(もの)。六鎮(ろくちん)の兵馬(へいは)を
引率(いんそつ)して追来(おひきた)る敵(てき)を防(ふせ)がんとて。馳向(はせむか)ふに海汀倉(かいていそう)とて海辺(かいへん)運漕(うんそう)の

米穀(べいこく)をおさめ置(お)く湊(みなと)に出会(いであひ)たり。朝鮮(てうせん)の国内(こくない)にても北方(ほつはう)の兵士(へいし)は騎射(きしや)
の芸(げい)に達(たつ)したるに。此所(このところ)は平衍(へいゑん)の地形(ちけふ)にして騎(き)を馳(は)するに。其(その)駆引(かけひき)の自(じ)
由(ゆう)なるを。得(え)たりや応(おう)と左右(さいふ)迭(たがひ)にあらはれ。馳出(はせいた)し射出(ゐいだ)し働(はたら)きけるゆゑ
清正(きよまさ)が兵士(へいし)此勢(このいきほ)ひに対(たい)しがたく見(み)へければ。清正(きよまさ)下知(げぢ)して兵(へい)を退(しりぞ)け倉(くら)
ともの丈夫(ちやうふ)なるを。よき幸(さいわひ)の陣屋(ぢんや)とて其中(そのなか)に入たりける。すでに其(その)日も暮(くれ)
にかゝれば。朝鮮(てうせん)の兵将(へいしやう)ども今日(けふ)は日も暮(くれ)ぬ。しばらく兵士(へいし)の息(いき)をやすめ。明(みやう)
日(にち)賊(そく)の出(いづ)るを待(まつ)て戦(たゝか)はんと云(いひ)けるを。克諴(こくかん)これを聞用(きゝもち)ひず軍気(ぐんき)はその
勢(いきほ)ひに乗(の)るにしかずと其軍(そのくん)を揮(ふるひ)て囲(かこみ)を合(あは)せて攻立(せめたつ)る清正(きよまさ)諸手(もろて)の兵(へい)
に下知(げぢ)し倉中(そうちう)の米穀(べいこく)を取出(とりいた)し土手(とて)のかはりとなし米俵(こめたはら)のかけを小楯(こたて)に
とりて敵(てき)よりいかくる矢石(しせき)の防(ふせき)となし其下(そのした)に鳥鋭(てつはう)をひつしとならべ一ど

に放(はな)ちかくるに。克諴(こくかん)が軍兵櫛(ぐんひやうくし)の歯(は)をならべたるやうに立(たて)つらなりたる中(なか)へ。
つるへ打(うち)にこめかへ〳〵放(はな)ちかくれは。何(なに)かはもつてたまるべき一ツの玉(たま)にて五人三人
打斃(うちたふ)す。克諴(こくかん)が兵(へい)乱(みた)れ立(たつ)て敗走(はいそう)す克諴(こくかん)はやう〳〵兵(へい)を収(おさ)めて。軍(ぐん)を退(しりそ)け嶺(れい)
上(しやう)に屯(たむろ)をなす。すてに其夜(そのよ)も明(あけ)なんとする時(とき)に。再(ふたゝ)び備(そな)ひを立(たて)更(さら)に雌雄(しゆう)を
決(けつ)せんとしたりける。清正(きよまさ)はその夜(よ)深更(しんかう)におよんで潜(ひそか)に。木村又蔵(きむらまたぞう)。井上大(いのうへたい)
九朗(くらう)の両人(りやうにん)に兵(へい)をそへ。克諴(こくかん)が陣取(ぢんどり)し山(やま)の麓(ふもと)につかはし。草間(さうかん)に伏兵(ふくへい)を
置(おき)たりけり。今朝(けさ)はことに山間(やまあひ)の霧(きり)ふかく。物(もの)の色目(いろめ)も見(み)えざりけり克諴(こくかん)
が兵(へい)は。是(これ)をばしらず日本勢(につほんぜい)は猶山(なほやま)を隔(へだ)てゝ。倉(くら)の辺(ほとり)にのみ陣(ぢん)せりと
油断(ゆたん)して押出(おしいた)しけるところに。忽(たちま)ち響(ひゞ)く砲(はう)の音(おと)四面(しめん)より打立(うちたつ)て。大(おほい)に
叫(さけ)んで突出(つきいづ)る。克諴(こくかん)が兵(へい)大(おほい)におどろき此勢(このいきほ)ひに劈易(へきゑき)し。右往左往(うおうさおう)に

散乱(さんらん)し道(みち)を求(もと)めて逃(にげ)たりける。克諴(こくかん)はやうやく逃(のか)れて鏡城(けやうしやう)に入(いり)たるを。清(きよ)
正(まさ)が衆兵(しゆうへい)遂(つい)にゆるさず追討(おひうち)けるが。其中(そのなか)より黒糸(くろいと)おどしの鎧(よろひ)を著(き)たる武(む)
者(しや)。真先(まつさき)に馳出(はせいだ)し敗将(はいしやう)逃(にく)る事(こと)なかれ。斎藤立本(さいとうりうほん)汝(なんぢ)を生捕(いけどり)て。当国(たうごく)の案内(あんない)
をさすべきぞと云(いひ)ながら。近(ちか)つき来(きた)る克諴(こくかん)も遁(のが)れぬところと覚悟(かくご)をきはめ。
もつたる剣(けん)を取(とり)なをし戦(たゝか)はんとなしたる時(とき)立本(りうほん)はやくも馳(はせ)つき。弓手(ゆんで)さし
のべ馬上(ばじやう)ながらに擒(とりこ)になし。味方(みかた)の陣(ぢん)へ投(なげ)こみける。扨(さて)また臨海君(けもかいくん)順和君(じゆんわくん)の
両王子(りやうわうじ)は。初(はじ)め江原道(こうげんたい)に在(いま)せしが日本勢(につほんぜい)江原道(こうげんたいに)入(い)ると聞(きく)より。道(みち)を転(てん)
じて金貴栄(きんきえい)。黄廷或(くわうていいく)。黄赫(くわうかく)ならびに咸鏡道(ゑあんたい)の監司(かんし)。柳永立(りうえいりう)等(ら)を御《割書:ン》供(とも)にて
北道(ほくたう)にめぐりたり。清正(きよまさ)は勝軍(かちいくさ)の勢(いきほ)ひぬくべからずと。密(きび)しく王子(わうじ)を追(おつ)かけ
会寧府(ほれいふ)といふ所(ところ)まで追詰(おひつめ)たり。かゝる時(とき)に至(いた)つて頼(たの)みかたきは人心(ひとこゝろ)にて。

会寧(ほねい)の吏(り)鞠景仁(きくけいじん)忽(たまち)ち意(こゝろ)かはり。多(おほ)く同類(とうるひ)をかたらひ謀反(むほん)の色(いろ)を顕(あら)
はし。府城(ふじやう)の内(うち)に逼(せま)りかこみ置(おき)使(つかひ)を清正(きよまさ)の陣(ぢん)へつかはし王子(わうじ)を生捕(いけど)りて
降参(かうさん)すべき旨(むね)を云(いひ)つかはしける。
   清正(きよまさ)王子(わうし)を執(とらへ)情(なさけ)ある事(こと)
抑(そも〳〵)会寧府(ほねいふ)【注】と云ところは朝鮮(てうせん)の王城(わうしやう)よりは。北東(きたひかし)艮(うしとら)の方(かた)にあたり朝鮮(てうせん)の辺境(へんきやう)
たれば。我日本(わかにつほん)の八 丈(ぢやう)が島(しま)硫黄(いわう)が島(しま)の如(こと)くにして。遠流(をんる)の者(もの)も多(おほ)く入(いり)こむ所(ところ)な
れば。忠義(ちうぎ)の分(わけ)をもしらぬ輩(ともがら)なり今(いま)おもひもよらね大軍(だいぐん)押来(おしきた)りいまだ見(み)
も聞(きゝ)もせざる日本武士(につほんぶし)の。剛勇(こうゆう)なるに惧(おそ)れをなし鞠景仁(きくけいじん)をはじめとし。
不忠(ふちう)の心(こゝろ)を生(しやう)じ清正(きよまさ)が方(かた)へ使(つかひ)をつかはし。恩賞(おんしやう)をもとむかくて清正(きよまさ)は此使(このつかひ)
を得(え)て。大(おほい)に悦(よろこ)び恩賞(おんしやう)は。汝等(なんぢら)が望(のぞ)むことろにまかすべしと荅(こた)へられければ。府(ふ)

【注 305コマでは「ほれいふ」とある。】

城(じやう)の一 揆(き)ども大(おほい)によろこび。重(かさ)ねて書翰(しよかん)を送(おく)りて云(いふ)清正(きよまさ)直(すぐ)に城(しろ)に入(いり)て。王子(わうじ)
を受取(うけとり)給へ最(もつと)も大勢(おほぜい)は叶(かな)ふべからず。上下(じやうげ)十 余人(よにん)をもつて涯(かぎ)りとすべしと云(いひ)
おくる。清正(きよまさ)聞(きい)て其日(そのひ)の中(うち)に軍中(ぐんちう)に触(ふれ)させ。日頃(ひごろ)武士(ぶし)の馬(うま)を嗜(たしな)むはかゝる事(こと)
の為(ため)なるぞ。行列備(きやうれつそなひ)にも及(およ)ばず一 騎(き)がけに馳行(はせゆく)べし。早(はや)く駆(かけ)たらん者(もの)が手(て)
柄(から)なるべしと云捨(いひすて)其身(そのみ)は秘蔵(ひさう)のはね月毛(つきけ)の馬(うま)に打乗(うちのり)真先(まつさき)に馳出(はせいだ)せは。誰(たれ)
か一人 留(とゞま)るべき我(われ)劣(おと)らじと馬(うま)を飛(とば)せて。会寧府中(ほねいふちう)に入(いり)にける。其夜(そのよ)は城外(じやうぐわい)
にて夜(よ)を明(あか)し。翌朝(よくてう)卯(う)の刻(こく)ばかりに城中(しやうちう)へ入(い)らんとす。加藤家(かとうけ)の老臣(らうしん)諌(いさ)め
て云(いふ)案内(あんない)しらぬ異国(ゐこく)の城内(じやうない)へ。小勢(こぜい)にて御《割書:ン》入(いり)あらんこと其(その)謀計(ぼうけい)の遠慮(えんりよ)な
きと申さんか。万一 敵大将軍(てきたいしやうぐん)をあざむき。王子(わうじ)を餌(ゑば)にして擒(とりこ)にせん工(たく)みかも知(し)
るべからず。敵兵(てきへい)御《割書:ン》大将(たいしやう)を見(み)しらざるこそ幸(さいわ)ひ。誰(たれ)にても御名代(ごみやうだい)に清正(きよまさ)なり

と名乗(なのり)て王子(わうじ)を受取(うけとり)申さんといふ。清正(きよまさ)聞(きい)て最(もつと)も汝(なんぢ)が申ところ一 理(り)なきにもあらず。
去(さり)ながら我(われ)一 国(こく)の大将(たいしやう)たる身(み)として両国(りやうこく)の交(まじは)りのみならず。敵国(てきこく)の王子(わうじ)を生捕(いけど)る
節(せつ)に望(のぞ)み其信(そのしん)を守(まも)らず。おそれて其身(そのみ)を陰(かく)し家(いへ)の子(こ)を我(われ)ぞと名乗(なの)らせんは。
実(まこと)に武将(ぶしやう)の身(み)にとりて恥(はぢ)る所(ところ)なり。其上(そのうへ)我(われ)日本(につほん)を出(いで)しより屍(かばね)は朝鮮国(てうせんこく)の沙(しや)
石(せき)に曝(さら)さんこと。是(これ)我(わか)覺悟(かくご)せし処(ところ)なり。今(いま)是(これ)王子(わうし)を擒(とりこ)にするとて我(われ)に過(あやま)ちあ
ればとて何(なん)ぞ忠義(ちうぎ)の立(たゝ)ざある事(こと)かあらん何(なに)をか辞(じ)する事(こと)あらんやと。早天(さうてん)に城中(じやうちう)
に案内(あんない)すれば。鞠景仁(きくけいじん)が輩(ともから)大(おほい)に歓(よろこ)び城門(じやうもん)をひらいて清正(きよまさ)を内(うち)に入(いれ)。あとに
つゝひて加藤家(かとうけ)名代(なだい)の勇臣(ゆうしん)。五十 余人(よにん)まで込入(こみいつ)たり清正(きよまさ)は鞠景仁(きくけいじん)に案内(あんない)
させ。王子(わうじ)の居(ゐ)給ふ所(ところ)を取巻(とりまき)美濃部金太夫(みのべきんだいふ)を以(もつ)て云(いわ)せけるは。日本(につほん)の将(しやう)加藤(かとう)
清正(きよまさ)此所(このところ)まで追(おひ)かけ参(まゐ)り候。とてものがし奉(たてまつ)らず候 間(あひだ)。唯(たゞ)こなたの陣(ぢん)へ入ら

【右丁】
加藤主計頭(かとうかずへのかみ)
  清正(きよまさ)
両王子(りやうわうじ)に
  見(まに)ゆ

【左丁 絵画のみ】

せ給へと有(あり)ける時(とき)王子(わうし)の従臣(じふしん)金貴栄(きんきえい)出(いで)むかへ日本(につほん)の大将(たいしやう)。王子(わうじ)の御《割書:ン》命(いのち)を
助(たす)け奉(たてまつ)らば御《割書:ン》出(いで)あるべし。もし殺(ころ)し奉(たてまつ)るべくは此方(こなた)にて御《割書:ン》自害(じかい)ある
べしと荅(こたへ)ける。金大夫(きんだいふ)聞(きい)て其事(そのこと)は御《割書:ン》心(こゝろ)やすかれ。今(いま)清正(きよまさ)が軍門(ぐんもん)に御《割書:ン》入(いり)あら
は。日本国王(につほんこくわう)関白(くわんんはく)秀吉(ひでよし)へ申 達(たつ)し。必(かなら)ず御《割書:ン》命(いのち)を全(まつた)ふし其上(そのうへ)朝鮮(てうせん)と会盟(くわいめい)
なして好(よしみ)をむすばん事(こと)古(いに)しへの如(ごと)くたるべし。此度(このたび)当国(たうごく)へ軍馬(ぐんば)を向(むけ)る事(こと)
唯(たゞ)前年(せんねん)の書翰(しよかん)の。返事(へんじ)のなきをとがむるの外(ほか)他事(たじ)なしと。云(いひ)ければ。王子(わうし)を
始(はじ)め従臣(じふしん)等(ら)悦(よろこ)ぶ事(こと)なゝめならず。さらば此方(こなた)へ入(いり)給へとて広(ひろ)き馬場(ばゝ)の如(ごと)く
なる所(ところ)へ。臼(うす)を二ツ置(おき)其上(そのうへ)に門(もん)の戸(と)びらをしき。東(ひがし)の方(かた)を王子(わうじ)の座(ざ)と定(さだ)め西(にし)
の方(かた)に壘(たゝみ)をしき清正(きよまさ)の座所(ざしよ)と定(さだ)め。さて王子(わうじ)出(いで)給へば金貴栄(きんきえい)を始(はじ)め。従(じふ)
臣(しん)あまた左右(さいふ)にならびて著座(ちやくざ)なす。清正(きよまさ)は例(れい)の大兼光(おほかねみつ)の太刀(たち)を横(よと)たへ

二十 余人(よにん)の勇士(ゆうし)を従(したが)ひて座(ざ)に著(つけ)は両王子(りやうわうじ)礼(れい)をなし給へば。清正(きよまさ)も礼拝(れいはい)し
拝荅(はいたふ)の式(しき)おはつて。供御(くご)を両王子(りやうわうじ)にそなへ奉(たてまつ)る諸大臣残(しよだいじんのこ)らず。是(これ)をもてなす
酒(さけ)すでに三 献(こん)におよびける時(とき)。清正(きよまさ)が臣(しん)等(ら)肴(さかな)を出(いだ)さんとて立(たつ)を見(み)て。王子(わうじ)の従(じふ)
臣(しん)等(ら)俄(にはか)に騒(さわ)ぎ立(たち)すはや王子(わうじ)を殺(しゐ)【「弑」とあるところ】し奉(たてまつ)るぞと心得(こゝろえ)て。半弓(はんきう)取(とつ)て矢(や)をつがひ
清正(きよまさ)を目(め)かけ射(ゐ)かけんとす。清正(きよまさ)おどろきこはいかにと制(せい)すといへども。言語(ごんご)
通(つう)ぜずなを〳〵近(ちか)よりければ清正(きよまさ)きつと心(こゝろ)づき伝(つた)へ聞(きく)。異国(ゐこく)には印章(ゐんしやう)を
与(あた)へて約(やく)をなすといふ事(こと)あり。是(これ)こそ大事(だいじ)のところなりと腰(こし)につけたる巾(きん)
着(ちやく)より。印形(ゐんぎやう)を取出(とりいた)し紙(かみ)へおして王子(わうじ)の従臣(じふしん)へ一 枚(まへ)づゝ与(あた)ければ。王子(わうじ)
をはじめ従臣(しふしん)等(ら)大(おほい)に安堵(あんど)し。半弓(はんきう)を捨(すて)て座(ざ)したりけるま事(こと)に危(あやう)き
事(こと)どもなり。清正(きよまさ)戦場(せんじやう)へ出(いづ)る事(こと)数(かす)しれずといへとも。今日(けふ)の如(こと)き危(あやう)きこと

に出合(てあひ)しことなしと語(かた)られけるとなり。かくて清正(きよまさ)は臨海(けもかい)順和(しゆんは)の両王子(りやうわうし)を
受取(うけとり)日本(につほん)の陣(ぢん)へかへり。此時(このとき)国妃(こくひ)は侍婢(おもとひと)等(ら)多(おほ)からで。落人(おちうど)となり給ふが頸(くひ)
に一ッ物(もの)をかけ。面(おもて)を覆(おほ)ふに巾(きん)をもつて倭人(わじん)の追(お)ふに路(みち)にあへるを。清正(きよまさ)が
手(て)の者(もの)すでに是(これ)を追捕(おひとら)へしとしたりしに。清正(きよまさ)これを制禁(せいきん)し其顔面(そのがんめん)を見(み)
ることなかれ。侵(おか)し掠(かす)め汚(けが)すことなすべからすと下知(げぢ)をなし。飲食(いんしよく)を与(あた)へて意(こゝろ)
のまゝに逃(のが)れしむ。其頸(そのくび)にかけたるは牛(うし)の脯(ほしゝ)と聞(きこ)へける。清正(きよまさ)はその驍勇(きやうゆう)のみな
らで情(なさけ)まで深(ふか)き人(ひと)なるかなと感(かん)ぜぬ者(もの)は無(なか)りけり


朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之七《割書:終》

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之八
     目録
 一 清正(きよまさ)兀良哈人(おらんかいしん)【注】と合戦(かつせん)の事(こと)
 一 清正(きよまさ)安辺(あんへん)へかへる路軍(みちいくさ)の事(こと)
 一 秀吉公(ひでよしこう)加勢(かせい)を朝鮮(てうせん)につかはさるゝ事(こと)
 一 小西行長(こにしゆきなか)朝鮮勢(てうせんせい)を破(やぶ)る事(こと)
 一 李鎰(りいつ)行在所(あんざいしよ)に到(いた)る事(こと)
 一 李鎰義綂(りいつよしのり)が兵(へい)を防(ふせ)ぐ事(こと)
 一 遼東(れうとう)の李時孳(りじじ)朝鮮(てうせん)を窺見(うかゞひみ)る事(こと)

【注 315コマ参照】

【白紙】

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之八

  清正(きよまさ)兀良哈人(おらんかいじん)と合戦(かつせん)の事

清正(きよまさ)は既(すで)に両王子(りやうわうじ)を擒(とりこ)としければ早速(さつそく) 本朝(につほん)へ注進(ちゆうしん)をなさんとて足早(あしはや)
の者(もの)五人をゑらみ箕部金太夫(みのべきんだいふ)に命(めい)じ。注進状(ちゆうしんじやう)五通(こつう)書(かゝ)しめ秀吉公(ひでよしこう)の御(ご)
本陣(ほんちん)へおもむろしめけるに。五人の者(もの)どもつゝがなく名護屋(なごや)の御陣(ごぢん)へ到(いた)り。
浅野弾正少弼長政(あさのだんしやうしやうひつなかまさ)へ書状(しよじやう)をさし出(いだ)す。浅野長政(あさのなかまさ)秀吉公(ひてよしこう)の御前(こぜん)へ此書状(このしよじやう)
を披露(ひらう)におよびける。秀吉公(ひでよしこう)此注進(このちゆうしん)を聞召(きこしめし)御《割書:ン》よろこびまし〳〵。御前(ごぜん)に伺(し)
公(こう)せし 家康公(いゑやすこう)景勝(かげかつ)利家(としいへ)をはじめ老臣(らうしん)の面々(めん〳〵)へ仰(おほせ)けるは。注進状(ちゆうしんしやう)を見(み)
られ候へ。朝鮮(てうせん)の両王子(りやうわうじ)をはじめ従臣(じふしん)等(ら)。二百 余人(よにん)を生捕(いけどり)たるよし。扨(さて)も

気味(きみ)よき清正(きよまさ)が働(はたら)き。その戦(たゝか)ひのやうもおもひやらるゝなりと。御《割書:ン》喜(よろこ)びなゝめ
ならず。御前(ごぜん)に有(あり)ける人々(ひと〳〵)も感(かん)ぜぬ者(もの)こそなかりける。秀吉公(ひでよしこう)自(みづか)ら御《割書:ン》筆(ふて)を
取(とり)給へて御感状(ごかんじやう)を遊(あそ)ばされ。吉光(よしみつ)の御《割書:ン》脇差(わきざし)ならびに黄金(わうごん)五千 両(りやう)そへて。清(きよ)
正(まさ)へ下(くだ)されけるとなん。扨(さて)又(また)加藤主計頭清正(かとうかずへのかみきよまさ)は王子(わうじ)をはじめ生捕(いけどり)の朝鮮(てうせん)
人(じん)を引(ひい)て。安辺(あんへん)の陣所(ぢんしよ)へかへらんとなしけるところに。兀良哈(おらんかい)の夷(ゑびす)ども数万(すまん)
人(にん)起来(おこりきた)ると聞(きこ)へしかば。生捕(いけどり)の者(もの)をば庄林隼人(しやうはやしはやと)加藤清兵衛(かとうせいべゑ)の両人(りやうにん)に。兵(へい)
六百余人をそへて守(まも)らしめ。清正(きよまさ)は兀良哈(おらんかい)の案内(あんない)のため会寧府(ほれいふ)の降人(かうにん)。
鞠景仁(きくけいじん)が徒党(ととう)の者(もの)ども。五百 余人(よにん)を一 隊(そなび)となし南無妙法蓮華経(なむみやうほうれんげきやう)と
書(かい)たりける。笠印(かさしるし)を一 様(よう)に付(つけ)させて押行(おしゆく)ほどに。兀良哈(おらんかい)の兵(へい)に出合(いであひ)互(たがひ)に矛(ほこ)を
まじへて合戦(あひたゝか)ふ。兀良哈(おらんかい)の夷(ゑびす)どもは元来(もとより)勇(ゆう)ある強人(きやうじん)にして。騎(き)を馳(は)せ射(や)を

放(はな)ち少(すこ)しもひるむ気色(けしき)なきを。清正(きよまさ)の兵士はみな〳〵精兵(せいへい)卓然(たくぜん)たる者(もの)なれ
ば。鉄砲(てつほう)をきびしく下知(げぢ)して打(うち)かけさせ。火花(ひばな)を散(ちら)して攻戦(せめたゝか)ひいつ勝負(しようぶ)あ
らんとおもはれける時(とき)飯田角(いへたかく)兵衛といへる清正(きよまさ)の勇臣(ゆうしん)花色(はないろ)おどしの鎧(よろい)
を着(ちやく)し。頭(づ)なりに鹿(か)の角(つの)の前立物(まへだてもの)打(うつ)たる甲(かぶと)を頂(いたゞ)き。赤根(あかね)の陣羽織(ぢんばをり)を
着(き)て群集(むらがる)敵(てき)の真中(まんなか)へ。只(たゞ)一 騎(き)馳(はせ)入 大手(おふて)をひろげて駈巡(かけめぐ)り。手 當(あた)り次第(しだい)
に引(ひき)つかみ投付(なげつく)るゆゑ。是(これ)がために敵(てき)二三人づゝ打倒(うちたふ)され。狼破(うろたへ)まはるを味(み)
方(かた)の兵(へい)。どつと㗲(おめ)いて突(つき)入ゆゑ兀良哈人(おらんかいしん)つゐに戦(たゝか)ひやぶれて引退(ひきしりそく)を。清正(きよまさ)
その図(づ)をぬかさず追撃(おひうち)に進(すゝ)み行(ゆき)しに一 城(じやう)の地(ち)に押(おし)つめたるところ後(うしろ)は深山(しんざん)
を堅固(けんご)にとり。前(まへ)には濠深(ほりふか)く壘石(いしがき)を高(たか)くして。たやすく寄(よら)ん気色(けしき)もなし
清正(きよまさ)下知(げぢ)して会寧府(ほれいふ)の者(もの)に。手の者(もの)をさしそへ前(まへ)より攻(せめ)させ自(みづか)ら木(き)

村又蔵(むらまたぞう)をはじめその外(ほか)日本無双(につほんぶそう)の勇士(ゆうし)をしたがひ。後(うしろ)の山(やま)に打登(うちのぼ)り高(かう)
山(さん)の巓(いたゞき)より。凡(およそ)五六十人にても動(うごか)しがたき大石(たいせき)を。二三人ツヽ力(ちから)を合(あは)せ堀(ほ)り
起(おこ)し。かさより真下(まつくだ)しに墜(おと)しかくれば。何(なに)かはもつてこらゆべき山下(さんか)に多(おほ)く作(つく)
りならべたる家(いゑ)どもを。片(かた)はしより打崩(うちくづ)す城兵(じやうへい)ども大(おほい)に騒動(そうどう)するところ
へ。清正(きよまさ)得(え)たりと足軽(あしがる)に下知(げぢ)し。鉄砲(てつはう)をつるべ打(うち)に一 度(ど)にどつと打(うち)かけつゝ。続(つゞ)
ひて内(うち)に殺(き)り入(い)れば。城兵(じやうへい)今(いま)は戦(たゝか)ふ力(ちから)なく右往左往(うわうざわう)に逃(に)げ走(はし)り。手(て)に立者(たつもの)
もなかりければ。忽(たちま)ち城(しろ)を乗取(のつとり)ける。其(それ)よりつゞひて城数(しろかず)以上(いじやう)十三まで攻取(せめとる)
兀良哈人(おらんかいじん)を撃取(うちとる)事。七百 余人(よにん)味方(みかた)の討死(うちじに)は纔(わづか)に侍(さむらひ)七人。雑兵(ぞうひやう)ともに二十
七人と聞(きこ)えける。其中(そのなか)に清正(きよまさ)の愛臣(あひしん)貴田孫兵衛(きだまこべゑ)といへる勇士(ゆうし)。今度(このたび)い
さぎよく討死(うちじに)したる。子細(しさい)を委(くわ)しく尋(たづね)るに。傍輩(ほうばい)なる森本義太夫(もりもとぎだいふ)と

いへる者(もの)と去(さんぬ)る夜(よ)のことなるに清正(きよまさ)の前(まへ)におゐて。女真国(おらんかい)へ攻寄(せめよす)る前陣(せんぢん)の
ことを云(いひ)つのり。互(たがひ)に過言(くわごん)におよんで既(すで)に撃果(うちはた)すべき気色(けしき)なりしを。清正(きよまさ)
中(なか)に入(いり)互(たがい)に無異(ふゐ)をつくろはるゝといへども心(こゝろ)に遺趣(いしゆ)は残(のこ)りけるこゝに意(い)
丹城(たんじやう)といへるを攻(せめ)ける時(とき)義太夫(ぎだいふ)は腰兵粮(こしひやうらう)の類(るい)までしづかにこれを調(とゝの)ひ。未(いま)だ夜(よ)
の明(あけ)ざるに。諸隊(しよたい)に先立(さきだち)て唯(たゞ)一騎(いつき)馬(うま)を追手(おほて)の門前(もんぜん)に乗(の)りかけしところへ。孫兵(まこべ)
衛(ゑ)もつゞひて馬(うま)を馳来(はせきた)る。森本(もりもと)は貴田(きだ)に向(むか)つて只今(たゞいま)まで遅参(ちさん)におよぶ者(もの)は
孫兵衛(まごべゑ)にはあらざるや。貴田(きだ)聞(きい)ていかにも我(われ)は孫兵衛(まごべゑ)なり。互(たがひ)にこゝにて高(かう)
名(みやう)せんと云棄(いひすて)て。追手(おほて)の門(もん)へかけ入(い)らんとせしところへ。城内(じやうない)より二人の男(おとこ)駈(かけ)
出(いで)て。一人は義太夫(ぎだいふ)に渡(わた)り合(あひ)しがやにはに二人 引組(ひきくみ)けるが。義太夫(ぎだいふ)力(ちから)や勝(まさ)り
けん彼男(かのおとこ)を組仆(くみたふ)し。首(くび)とつて立(たち)あがる。孫兵衛(まごべゑ)は今(いま)一人の敵(てき)と戦(たゝか)ひけるが

其長(そのたけ)八 尺(しやく)ばかりの大男(おほおとこ)にて。頬鬚(ほゝひげ)左右(さいふ)にわかち鉄(くろがね)の針(はり)をのべたるが如(ごと)くなる
が。両眼(りやうがん)大(おほい)にしてさながら鈴(すゞ)を張(は)るに異(こと)ならず。その声(こゑ)大鉦(おほどら)の如(ごと)くなるが喚(おめ)
きさけんで孫兵衛(まこべゑ)と。剣(けん)【劔は俗字】を合(あは)せ踊躍(おどりおど)つて斬合(きりあひ)たりしが。孫兵衛(まごべゑ)は元来(もとより)剣術(けんじゆつ)【劔は俗字】
巧者(こうしや)の早業(はやわさ)なれば。蝶(てう)鳥(とり)の如(ごと)く飛(とび)めぐり彼男(かのおとこ)の真向(まつかう)を。冑(かぶと)の上(うへ)より割(わり)
つけ鼻柱(はなはしら)まで切(きり)こんたるに。何(なに)かはもつてころぶべきうんと云(い)つて仆(たふ)れながら。持(もつ)
たる剣(けん)【劔は俗字】を孫兵衛(まこべゑ)に拋(な)げ付(つけ)たり。運(うん)の極(きは)めのかなしさは孫兵衛(まごべゑ)が。左(ひだり)の小脇(こわき)
に当(あた)り。痛手(いたて)なれば遂(つひ)にたまらず死(しゝ)たりける
  一説(いつせつ)に意丹城攻(いたんじやうせめ)の時(とき)義太夫(ぎだいふ)。孫兵衛(まごべゑ)先陣(せんぢん)を争(あらそ)ひぬけがけして。敵城(てきじやう)へ
  打入(うちい)らんとせし時(とき)。城内(じやうない)より雨(あめ)の如(ごと)く半弓(はんきう)を射出(ゐいだ)すといへども。両人(りやうにん)少(すこ)し
  もひるまず打入(うちい)らんとせし時(とき)鉄木舌(てつほくせつ)といへる兀良哈人(おらんかいじん)駈出(かけいで)やにはに

  義太夫(ぎたいふ)と引組(ひきくん)たり鉄木舌(てつぼくぜつ)は大力(だいりき)にて忽(たちま)ち義太夫(ぎだいふ)を取(とつ)て押(おさ)へける時(とき)義(ぎ)
   太夫(だいふ)は心(こゝろ)はやき者(もの)なれば下(した)よりわきざしをもつて鉄木舌(てつほくぜつ)が脇腹(わきばら)を
  力(ちから)にまかせてさし通(とほ)すさしもの大力(たいりき)も少(すこ)しひるむ所(ところ)を義太夫(ぎだいふ)下(した)
  よりはねかへし押(おさ)へて首(くび)を取(とつ)たりける貴田孫兵衛(きだまごべゑ)も兀良哈人(おらんかいしん)の
  穀々賀(こく〳〵が)といへる者(もの)と 組(くん)だりけるが穀々賀(こく〳〵が)は八 尺(しやく)に余(あま)る大男(おほおとこ)にて
  二王(にわう)の如(ごと)くなる者(もの)なれば孫兵衛(まこべゑ)が着(ちやく)したる兜(かぶと)の唐(から)の髪毛(かみげ)を引(ひき)
  つかみ押(おさへ)つくるゆゑ孫兵衛(まこべゑ)わきざしをぬかんとせしに寸(すん)のびたる故(ゆゑ)
  ぬけざれば心(こゝろ)いらだち敵(てき)の上帯(うはおび)に手(て)をかけ矢声(やごゑ)をかけ力(ちから)にまかせて捻(ねぢ)
  倒(たふ)しけれども穀々賀(こく〳〵か)はつかみし兜(かぶと)の毛(け)をはなさず二三 度(ど)上(うへ)になり
  下(した)になりてもみ合(あふ)ところへ穀々賀(こく〳〵か)の弟(おとゝ)穀々理(こく〳〵り)といへる者(もの)馳来(はせきた)り忽(たちま)

【右丁】
飯田角(いひたかく)兵衛
力戦(りきせん)して
穀々理(こく〳〵り)を
  生捕(いけど)る

【左丁 絵画のみ】

  ち孫兵衛(まこへゑ)を引仆(ひきたふ)し剣(けん)【劔は俗字】をもつて突殺(つきころ)しけるあはれむへし孫兵衛(まこへゑ)は
  生年(しやうねん)三十三才にて討死(うちじに)なしたりける義太夫(ぎたいふ)救(すく)はんとなしけれども敵(てき)のた
  めに隔(へだ)てられ救(すく)ふことあたはずとなんかくて清正(きよまさ)は孫兵衛(まこべゑ)の討死(うちじに)をしら
  ず居(い)られしが阿波伊兵衛(あはいへゑ)といふ者(もの)清正(きよまさ)へかくと告(つげ)ければ清正(きよまさ)大(おほい)になげ
  き早速(さつそく)人(ひと)をつかはし孫兵衛(まごべゑ)の死骸(しがい)を取(とり)よせ我膝(わがひざ)へ首(くび)をのせさせむ
  なしき額(ひたい)をなで涙(なみた)をながし云(いひ)けるは朝鮮(てうせん)の都(みやこ)へ討入(うちいり)の時(とき)秀吉公(ひでよしこう)へ注(ちゆう)
  進(しん)の使者(ししや)を命(めい)ぜしに都城(とじやう)の軍(いくさ)大事(だいじ)なれば此使(このつかひ)は他人(たにん)へ申 付(つけ)くれよ
  とありしかど大事(だいじ)の使者(ししや)ゆへ弁舌(べんせつ)よく場(ば)なれたる者(もの)ならでは申 付(つけ)
  がたしとさま〳〵すかして遣(つかは)せしに滞(とどこふり)なくかへり来(きた)りし時(とき)我尋(われたづね)けるは日(につ)
  本(ほん)へ参(まゐ)りしつひで汝(なんぢ)が老母(らうぼ)に対面(たいめん)せしかと申せし時(とき)母(はゝ)の方(かた)へは使(つかひ)をつか

  はし候まてにて立寄(たちより)申さずと。潔(いさき)よく荅(こた)へしが其後(そのゝち)また母(はゝ)は無事(ぶじ)に
  てありしかと尋(たづ)ねけるに。左(さん)候 使(つかひ)の者まゐりし時(とき)門(かど)まで立出(たちいで)申けるは。我(われ)は無(ぶ)
  事(じ)にてあれば決(けつ)して心(こゝろ)にかくることなかれ。我(わ)がことをおもふて未練(みれん)の働(はたら)
  きをなしなば。生々世々(しやう〳〵せゝ)口おしかるべし只(たゞ)弓矢(ゆみや)とる身(み)は。名(な)こそおしく
  候へ明日(あす)をもしらぬ老(おひ)の身(み)なれば。かまへて我有(われあり)とおもふべからず名(な)を揚(あ)げ
  高名(かうみやう)をあらはすべしと申候よし。使(つかひ)の者(もの)かへり語(かた)り候と荅(こたへ)し折(をり)。両眼(りやうがん)に涙(なみだ)
  をうかめ語(かた)りしが。嘸(さぞ)母(はゝ)のこと心(こゝろ)にかゝるべし。なれども清正(きよまさ)かくてあらん
  限(かぎ)りは。汝(なんぢ)が母(はゝ)は我(われ)太切(たいせつ)に養(やしな)ふべければ少(すこ)しも心(こゝろ)かくることなかれと。生(いき)たる
  人(ひと)に云(いふ)ごとく申(もう)されければ。側(そば)に聞居(きゝゐる)勇士(ゆうし)をはじめ心(こゝろ)なき兵卒(へいそつ)まで。鎧(よろい)
  の袖(そて)をぬらしける。かくて清正(きよまさ)は孫兵衛(まこべゑ)が討死(うちじに)を無念(むねん)におもひ。当(たう)の敵(てき)な

  れば穀々賀(こく〳〵が)兄弟(けうだい)を討(うつ)て追善(つひせん)に手向(たむけ)べしと。自(みつか)ら意丹城(いたんじやう)の追手(おふて)へ馳到(はせいた)り
  真先(まつさき)に進(すゝ)み乗入(のりい)らんとせし時(とき)。城中(じやうちう)よりも討(うつ)て出(いで)こゝを大事(たいじ)と防(ふせ)ぎける
  時(とき)。穀々賀(こく〳〵か)は剣(けん)【釼は俗字】を廻(まわ)し群集(むらかる)日本勢(につほんぜい)の真中(まんなか)へ馳入(はせいり)。竪横(じふわう)に当(あた)りて戦(たゝか)ひける
  を清正(きよまさ)が兵(へい)。見知(みし)りし者有て穀々賀(こく〳〵が)なるよしを告(つげ)ければ。清正(きよまさ)大(おほい)に歓(よろこ)ひて
  一 文字(もんじ)に馬(うま)を駈寄(かけよせ)討(うつ)てかゝる。穀々賀(こく〳〵が)も心得(こゝろえ)たりと二(ふ) ̄タ打(うち)三打(みうち)うち合(あひ)けるが。穀(こく)
  々賀(こくが)は大力無双(たいりきぶそう)の者(もの)なれば。組(くん)で勝負(しやうぶ)を決(けつ)せんと無二無三(むにむざん)に組付(くみつき)けるを。清(きよ)
  正(まさ)少(すこ)しもひるまず組合(くみあひ)しが。忽(たちま)ち首筋(くびすぢ)へ手をかけ力(ちから)にまかせてしめつくるゆゑ
  さすがの穀々賀(こく〳〵が)も働(はたら)きえず。清正(きよまさ)は其(その)まゝ曳(えい)と声(こゑ)かけ馬上(ばじやう)より投出(なげいだ)せば。
  従兵(じうへい)忽(たちま)ち馳寄(はせより)生捕(いけどり)にこそなしたりける。是(これ)を見るより穀々理(こく〳〵り)兄(あに)を奪(うば)ひかへ
  さんと。八 尺(しやく)余(あま)りの棒(はう)を打振(うちふ)り日本勢(につほんぜい)を或(ある)ひは薙伏(なぎふせ)あるひは打倒(うちたふ)して。

  働(はたら)きける故(ゆゑ)日本勢(につほんぜい)忽(たちま)ち十五六人 打倒(うちたふ)され。四方(しはう)へさつと開(ひら)きけるこれを。
  見(み)るより飯田角兵衛(いゝだかくべゑ)大(おふ)いに奮発(しんぱつ)し驀地(まつしぐら)に馳来(はせきた)り。大手(おほで)をひろげ
  て立向(たちむか)ふ。穀々理(こく〳〵り)は是(これ)を見(み)て只(たゞ)一 打(うち)に打殺(うちころ)さんと棒(ぼう)振上(ふりあげ)力(ちから)をきはめて打(うち)おろ
  すを。角兵衛(かくへゑ)心得(こゝろえ)たりと身(み)をかはしそのまゝ馳寄(はせより)。穀々理(こく〳〵り)の肩(かた)のあたりに
  手(て)をかけ引(ひき)よする。敵(てき)も得(え)たりと組付(くみつく)を角兵衛(かくべゑ)敵(てき)の上帯(うはおび)を持(もち)。力(ちから)にま
  かせて引(ひき)かつぎ。真一文字(まいちもんじ)に馳出(はせいだ)し味方(みかた)の陣(ぢん)へ駈戻(かけもど)り。ヤト声(こゑ)かけて投付(なげつく)れ
  は是(これ)も同(おな)じく味方(みかた)の兵士(へいし)駈寄(かけよつ)て。つゐに縄(なは)をぞかけたりける。清正(きよまさ)は大(おほい)に歓(よろこ)び
  穀々賀兄弟(こく〳〵がきやうだい)を引出(ひきいだ)し。首(くび)を刎(はね)孫兵衛(まごべゑ)が亡體(なきがら)に手向(たむ)けらけると
  なり是(こ)は孫兵衛(まごべゑ)が討死(うちじに)の説(せつ)を聞傳(きゝはべ)る故(ゆゑ)こゝにしるしぬ。いづれが是(ぜ)なるや
  尚(なほ)後人(こうじん)の評(ひやう)を待(まつ)のみ

   清正(きよまさ)安辺(あんへん)へかへる路軍(みちいくさ)の事(こと)
扨(さて)清正(きよまさ)はすでに兀良哈(おらんかい)の城塁(じやうるい)を攻墜(せめおと)し。朝鮮路(てうせんみち)に引返(ひきかへ)しけるが。其夜(そのよ)は川(かは)の
上流(じやうりう)に野陣(のぢん)を張(は)つて若(もし)又(また)狄人(てきじん)の後(あと)より追来(おひきた)る事(こと)もあらんかと。其用意(そのようゐ)を
なして待(まち)けるに。其夜(そのよ)は何(なん)の子細(しさい)もなく夜(よ)も明(あけ)ければ総軍(そうぐん)へ下知(げち)して押出(おしいだ)し。
すでに打立(うちたゝ)んとなしけるところへ。女真国(おらんかい)の者(もの)ども是(これ)を喰止(くひと)めんとやおもひけん。其兵(そのへい)
幾千万(いくせんまん)といふ数(かず)をしらず起(おこ)り来(きた)り。清正(きよまさ)の本陣(ほんぢん)へ無二無三(むにむざん)に衝(つ)きかゝるは。夥(おびたゝ)しき形(あり)
勢(さま)なり清正(きよまさ)も侮(あなと)るべき事(こと)にあらずと。自(みづか)らばれんの馬印(うましるし)を振廻(ふりまは)して下知(げぢ)し
けるに。幕本(はたもと)の士卒(しそつ)も手を碎(くだ)きこゝをせんどゝ戦(たゝか)ひける。清正(きよまさ)大音声(だいおんじやう)にて鳴(なり)わめ
き。首(くび)をば取(とる)な切(きり)すてよ組打(くみうち)するな太刀(たち)にて切(き)れと下知(げぢ)すれば。物(もの)なれたる士卒(しそつ)共(とも)
大将(たいしやう)の下知(けぢ)に勇気(ゆうき)をそへ。狄人(てきじん)を斬(き)り殺(ころ)すは青蕪(あをな)を刈(か)るが如(ごと)くにすれども。敵猛(てきまう)

勢(ぜい)なれば切(き)をも突(つく)をも事(こと)ともせず手 負(おひ)死人(しにん)の玫越(のりこへ)躍(かれ)こへ戦(たゝか)へける。此時(このとき)
狄兵(てきへい)とも兼(かね)て用意(ようゐ)をなしたりけるが。多(おゝ)くの焼草(やきぐさ)を持(もち)来り風上(かさかみ)より火(ひ)
を放(はな)ち。倭兵(わへい)の方(かた)へ投(なげ)かけ〳〵なしける故(ゆゑ)さしもに猛(たけ)き日本勢(につほんぜい)も戦(たゝか)ひ悪(あぐ)【僫は悪の俗字】みて
見(み)へたる時(とき)清正(きよまさ)は馬上(ばじやう)にて兜(かふと)をぬき。天照皇大神宮(てんせうくはうだいじんぐう)其外(そのほか)日本(につほん)の諸神(しよじん)を祈(いの)り別(わけ)て弓矢(ゆみや)八幡
照覧(せうらん)あれ只今(たゝいま)清正(きよまさ)敵(てき)と戦(たゝか)ひ難義(なんぎ)に及(およ)び。味方(みかた)の兵(へい)ほと〳〵危(あやう)しあはれ神力(しんりき)を
添(そへ)給へて。味方(みかた)の兵士(へいし)を救(すく)ひ給へと念(ねん)じおはりて。兜(かぶと)を着(ちやく)し鎗(やり)おつ取(とつ)て自(みづか)ら敵(てき)
中(ちう)に馳入(はせいり)当(あた)るを幸(さいわ)ひ打倒(うちたふ)し薙伏(なぎふせ)働(はたら)きける。折(をり)ふし今(いま)まで北風(きたかせ)にて味方(みかた)の方(かた)へ
吹(ふき)かけし煙(けふり)忽(たちま)ち南風(なんふう)とかはりて敵(てき)の方(かた)へ吹(ふき)かけける故(ゆゑ)清正(きよまさ)が兵士(へいし)是(これ)に力(ちから)を得(へ)
て命(いのち)を羽毛(うもう)の軽(かろ)きに比(ひ)し。喚(おめ)き呼(さけ)んで戦(たゝか)ひけれども敵(てき)は目(め)に余(あま)る大 軍(ぐん)なれば
いつ果(はつ)べしとも見(み)へざりける。此時(このとき)清正(きよまさ)が運(うん)や強(つよ)かりけん。又(また)は日本(につほん)の諸神(しよじん)応護(おうご)を

【右丁 絵画のみ】

【左丁】
斉藤立本(さいとうりうほん)女真国(おらんかい)
の猛将(もうしやう)と組(くみ)打して差(さし)
添(そえ)なければ詮方(せんかた)なく
必死(ひつし)をきわめて咽(のど)ふへ
に喰付(くひつき)殺(ころ)す狄人(てきじん)
悪鬼(あくき)のおもひをなし
戦慄して敗(やぶ)る

たれ給へけん大(おほい)に暴雨(ばうう)降來(ふりきた)り。南(みなみ)より吹(ふき)かくる風(かぜ)つよく狄兵(てきへい)ども。眼(まなこ)を開(ひら)かんやう
なきゆゑ少(すこ)し足立(あしだち)まばらになるを。清正(きよまさ)の兵士(へいし)得(え)たりや応(おう)と捲立(まくりたつ)て戦(たゝか)ふ程(ほと)
に。狄兵(てきへい)大(おほい)に乱(みだ)れて引退(ひきしりぞ)けば清正(きよまさ)はおもふやう。此(この)敵兵(てきへい)もとよりも撃(うち)たやすべき
敵(てき)にあらずとおもひて。相引(あひびき)にこそ引(ひき)たりけるが。尚(なを)したひ来(きた)る事(こと)もやとおもひけれ
ば。齋藤伊豆入道立本(さいとういづにうだうりうほん)。井上大九郎(いのうへたいくらう)の両人(りやうにん)に命(めい)じ後殿(しんがり)をなさせ総軍(そうぐん)をまとめ
安辺(あんへん)さして押行(おしゆき)けるところに。また〳〵女真国(おらんかい)の兵(へい)五千三千つゝ。所々(ところ〳〵)より打(うつ)て出(い)て
道(みち)の妨(さまた)げをなしけるを大九郎(だいくろふ)立本(りうほん)の両人(りやうにん)打散(うちちら)し〳〵通(とほ)りけるが。こゝに女真国人(おらんかいしん)
の中(なか)より。七 尺余(しやくよ)の大 男(おとこ)二三 千計(ばかり)の兵(へい)を引(ひい)てしたひ來(きた)りて戦(たゝか)ひをいどみければ。井上(いのうへ)齋(さい)
藤(とう)も引(ひつ)かへし戦(たゝか)ひけるに此兵(このへい)すこぶる強勇(がうゆう)にしてなか〳〵切崩(きりくづ)しがたく見(み)えけれ
ば。両人(りやうにん)轡(くつはみ)を双(なら)べ敵中(てきちう)へ切(きつ)て入(いり)。四方(しはう)八面(はちめん)に当(あた)りて血戦(けつせん)す。敵兵(てきへい)の中(なか)より真黒(まつくろ)に鎧(よろ)ふたる

兀良哈人(おらんかいじん)身(み)の丈(たけ)七 尺余(しやくあま)りなるが。剣(けん)【釼は俗字】を廻(まわ)して打(うつ)てかゝるを。立本(りうほん)蒐合(かけあはせ)て一上(いちじやう)
一下(いちげ)落花未塵(らくくわみぢん)【未は微とあるところ】と戦(たゝか)ひけるが。立本(りうほん)面倒(めんだふ)なりと太刀(たち)投捨(なげすて)むづと組付(くみつけ)ば。敵(てき)も心(こゝろ)
得(え)たりと互(たがひ)に捻合(ねぢあひ)。両馬(りやうば)が合(あひ)に摚(どう)と落(おち)上(うへ)を下(した)へと組合(くみあひ)けるが。両人(りやうにん)ともに雨降(あめふり)
に組合(くみあひ)けるゆゑに。傍(かたはら)の深田(ふかだ)の中(なか)へすべり落(おち)たりしが。立本(りうほん)やがて上(うへ)になり力(ちから)をきは
めて取(とつ)て押(おさ)へ。首(くひ)をかゝんとさし添(ぞへ)を探(さぐ)りけるに。組合(くみあひ)し折(をり)落(おと)しけるにやあらざれ
ば。いかゞはせんとしばし躊躇(ためろふ)とき敵(てき)は刎(はね)かへさんと掙扎(もかく)ゆゑ必死(ひつし)をきはめて咽吭(のとふへ)
へ喰付(くひつき)しかば何(なに)かはもつてたまるべき七転(しちてん)八 倒(たふ)して死(しゝ)たりける立本(りうほん)はなんなく敵(てき)を
喰殺(くひころ)し深田(ふかだ)の中(なか)より這上(はひあが)り大手(おほで)をひろげて敵中(てきちう)に駈入(かけいれ)ば此(この)有(あり)さまに恐(おそれ)をなし兀良(おらん)
哈人(かいじん)右往左往(うわうさわう)に散乱(さんらん)し四方(しはう)へさつと退(のひ)たりける扨(さて)又(また)井上大九郎(ゐのうへたいくらう)は立本(りうほん)の勝負(しやうぶ)い
かゞとあんじ敵(てき)を八方(はつはう)へ切散(きりちら)し人(ひと)なき所(ところ)を行如(ゆくごと)く働(はたら)きけるところに身(み)の丈(たけ)七 尺(しやく)

五六 寸(すん)もあらんかとおもふ大男(おほおとこ)面(おもて)は真黒(まつくろ)にして。さながら悪鬼(あくき)の如(ごと)くなる者(もの)丈(たけ)五 尺計(しやくばかり)
にして。握(にき)り太(ふと)なる鉄(てつ)の棒(ばう)を麻殻(おがら)の如(ごと)く打振(うちふ)り。大九郎(だいくらう)を目(め)かけて打(うつ)てかゝる。大九郎(だいくらう)
立向(たちむか)ひ四 尺(しやく)五 寸(すん)の大太刀(おほだち)にて秘術(ひしゆつ)を尽(つく)して戦(たゝか)ひども。たやすく討取(うちとり)がたくおもへければ大(だい)
九郎(くらう)あしらひかねたる体(てい)にもてなし。馬(うま)をかへして逃出(にけいづ)れば敵(てき)は大(おほい)に怒(いか)り鐘(つりがね)の如(ごと)き声(こゑ)
を発(はつ)して。驀地(まつしぐら)に追(おひ)かけ来(きた)るを大九郎(たいくらう)仕済(しすま)したりと急(きふ)にふりかへり。大太刀(おほだち)にて横(よこ)
さまに薙(なぎ)たりければ。敵(てき)は不意(ふい)を討(うた)れ左(ひだ)りの肩(かた)より胸(むね)のあたりまて切付(きりつけ)られ。馬(うま)よ
り下(した)へ落(おち)けるを。大九郎(たいくらう)すかさず馬(うま)より飛下(とびお)り押(おさ)へて首(くび)をぞ掻(かい)たりけり。こゝに於(おゐ)
て敵(てき)は四方八方(しはうはつはう)へ逃散(にげちる)を。加藤勢(かとうぜい)追詰(おひつめ)〳〵敵(てき)を討(うつ)ことその数(かず)しれず。扨(さて)斎藤(さいとう)井(ゐの)
上(うへ)は長追(なかおひ)悪(あし)かるべしと人数(にんず)をまとめ。清正(きよまさ)の跡(あと)をしたふて馳(はせ)たりける。かくて清正(きよまさ)は
安辺(あんへん)へと急(いそ)がれしが。後殿(しんがり)の味方(みかた)狄兵(てきへい)と戦(たゝか)ひ。二時計(ふたときばかり)もおくれければ心易(こゝろやす)からずおも

ひて木村又蔵(きむらまたぞう)に人数(にんす)五百を添(そへ)てつかはしけるが。途中(とちう)にて逢互(あひたがひ)に歓(よろこ)び打連(うちつれ)かへり来(きた)れ
ば。清正(きよまさ)も其働(そのはたら)きを感(かん)じそれより安辺(あんへん)へと引取(ひきと)られける。
    秀吉公(ひでよしこう)加勢(かせい)を朝鮮(てうせん)につかはさるゝ事(こと)
こゝに秀吉公(ひてよしこう)日本(につほん)の軍勢(ぐんぜい)すでに朝鮮(てうせん)の王城(わうしやう)まで責破(せめやぶ)るといへども。大明(たいみん)の援(ゑん)
兵定(へいさだ)めて来(きた)り助(たす)けずんば有(ある)べからず。其(その)多勢(たぜい)なること必定(ひつぢやう)せりしかる時(とき)には。我兵(わがへい)
のすでに渡海(とかい)する処(ところ)十 余万(よまん)なりといへども。なか〳〵以(もつ)て敵(てき)しかたからんか重(かさ)ねて
兵士(へいし)を遣(つかは)すべしと。増田右衛門尉長盛(ましだゑもんのしやうながもり)其兵(そのへい)二千。石田治部少輔三成(いしだじぶしやういふみつなり)其兵(そのへい)二
千。大谷刑部少輔吉隆(おほたにぎやうぶしやういふよしたか)その兵(へい)二千五百。前野但馬守長康(まへのたしまのかみながやす)その兵(へい)千 凡(すべ)て一万七
千二百人を以(もつ)て一 列(れつ)となしたりけり。浅野左京太夫幸長(あさのさきやうたいふゆきなが)その兵(へい)三千。南條左衛門(なんでうさゑもん)
尉(しやう)その兵(へい)一千五百人。中川右衛門太夫秀政(なかがはゑもんたいぶひでまさ)その兵(へい)三千。凡(すべ)て一万五千五百人を一 列(れつ)とす。

岐阜少将(ぎふしやう〳〵)その人数(にんず)八千。羽柴丹後少将(はしばたんごしやう〳〵)その兵(へい)三千五百人。長谷川藤五郎秀一(はせがはとうこらうひてかず)
その手勢(てぜい)五千人。木村常陸介(きむらひたぢのすけ)その兵(へい)三千五百。糟屋内膳正(かすやないせんのかみ)その兵(へい)二百。片桐東市(かたきりとういち)
正直盛(のかみなをもり)その兵(へい)二百。凡(およそ)二万五千五百人を以(もつ)て一 列(れつ)となす。こゝに伊達政宗(だてまさむね)は浅野弾(あさのだん)
正長政(じやうながまさ)によつて。同(おな)じく今度(こんと)の人数(にんず)に召加(めしくは)へられ。朝鮮渡海(てうせんとかい)のことを請(こ)ふ。秀吉(ひでよし)
公(こう)これを聞(きこ)し召(めし)。その意(い)にまかせてこれを許(ゆる)され。浅野幸長(あさのゆきなが)に相備(あひそなひ)として渡海(とかい)の
儀(ぎ)をなさしめたり。長盛(ながもり)三成(みつなり)吉隆(よしたか)の三人 秀吉公(ひでよしこう)の御書(ごしよ)をもつて。朝鮮(てうせん)の王城(わうじやう)に至(いた)
りて在陣(ざいぢん)の諸将達(しよしやうたち)にこれを示(しめ)せり。その趣(おもむき)は軍兵(ぐんひやう)を進退(しんたい)することいよ〳〵今春(こんはる)
命(めい)ずるところの如(ごと)くにして。先陣(せんぢん)は清正(きよまさ)行長(ゆきなが)相代(あひかは)つてこれを勤(つと)むべし。其余(そのよ)の法(ほう)
令(れい)先立(さきだつ)て定(さだ)むる処(ところ)相違(さうゐ)有(ある)べからす。凡(すべ)ての諸将士(しよしやうし)少(すこ)しも怠惰(たいだ)の意(こゝろ)を生(しやう)せず。朝(てう)
鮮(せん)大明(たいみん)の間(あひだ)に横行(おうきやう)し。その軍法(ぐんほう)を正(たゞ)しくして武備(ぶひ)に油断(ゆだん)すべからす。夫(それ)大明(たいみん)は衣(い)

裳(しやう)文字(もんじ)のみ事(こと)として武備(ぶび)へ油断(ゆだん)のところと聞(きく)。諸将(しよしやう)の勇猛(ゆうまう)なるを以(もつ)て彼国(かのくに)に攻(せめ)
入(い)らんこと。何(なん)の遠慮(ゑんりよ)も無(な)き事(こと)なれば我意(わがこゝろ)安堵(あんど)せしむる処(ところ)なるが。委細(いさゐ)は
石田(いしだ)等(ら)其旨(そのむね)を伝(つた)ふべき由(よし)をぞ書(しる)されける。此時(このとき)秀吉公(ひでよしこう)は名護屋(なごや)海辺(かいへん)の風(ふう)
興(けう)面白(おもしろ)き地(ち)を撰(えら)んで。広(ひろ)さ六七 間(けん)長(なが)さ数(す)百 間(けん)におよびたるを造作(ざうさく)し。畳(たゝみ)
の座(ざ)板敷(いたしき)一所々々(いつしよ〳〵)を十 間(けん)に涯(かぎ)りて。厨(くり)や竈爐(かまど)の手遣(てづかひ)よく器皿(きへい)薪炭(しんたん)精米(しらけごめ)
塩梅(しをうめ)の類(たぐ)ひまで。こと〳〵くこれを備(そな)ひ置(おゐ)てその後(のち)近郷(きんごう)の海濱(かいひん)より。漁夫(ぎよふ)蜑郎(あま)【延+女を一字と見るとそれは誤ヵ】
どもを招集(めしあつ)め。此澳(このおき)にし【「し」の横に句点あるは「て」の下の付間違いヵ】て大網(おほあみ)を引(ひか)せつゝ名護屋(なごや)に居住(きよぢゆう)の諸国(しよこく)の軍兵(ぐんひやう)共(ども)。
なが〳〵の在陣(ざいぢん)にてその気(き)の退屈(たいくつ)せんをなぐさめんとのことなりけり。かゝり
しかば其(その)触(ふれ)にしたがつて。相集(あひあつま)るところの漁猟(ぎよれう)の師(し)凡(すべ)て数(す)百人におよびけるが。
遥(はるか)に小船(こふね)どもを漕出(こぎいだ)し。大網(おほあみ)を遠(とほ)くより巻(ま)き寄(よせ)たり。さしもに広(ひろ)き蒼(さう)

海(かい)に人(ひと)ならぬところもなし。かくて取集(とりあつ)めたるところの漁蝦(きよか)海物(かいぶつ)浜砂(すなご)の上(うへ)に
引上(ひきあげ)たれば。溌活(おどりはね)ては沫(あは)を噴(は)き喁(くちさし)つとふ鱗(うろくず)共(ども)見(み)なれぬ鬐尾(はたひれ)の。数(かず)をつくし
て恰(あたか)も阜山(おかやま)の如(ごと)く積上(つみあげ)たるは。何(なに)にたぐへんやうもなく目(め)をおどろかす有(あり)さまなり。
第一(だいゝち)に大(おほい)なる赤鯛(あかたい)一千 尾(び)をゑらみて。是(これ)を塩(しを)に淹(ひた)し早飛脚(はやびきやく)をもつて禁中(きんちう)
に献上(けんじやう)ある。其外(そのほか)は大庁所(おほまんところ)を始(はじ)めとし親王(しんわう)公家(くげ)の所々(ところ〳〵)まで。不残(のこらず)贈(おく)り賜(たまは)り
けり。その余(よ)は在陣(ざいぢん)の大名(だいみやう)より以下(いか)の軍兵(ぐんひやう)。諸士(しよし)の族(ともがら)に至(いた)るまで意(こゝろ)にまかせて
食(しよく)せしむ。さればにやさしもに広(ひろ)き仮屋(かりや)〳〵に居(ゐ)あまつて。木(き)の陰(かけ)岩(いわ)の上(うへ)までも
人(ひと)ならずと云(いふ)所(ところ)もなく。おもひ〳〵に料理(れうり)して膾(なます)灸(あぶりもの)炰煎(つゝみやき)品(しな)をつくし。調味(てうみ)せ
ずといふことなし。呉江(ごこう)の鱸(すゞき)丙穴(へいいけつ)の鮮味(うをのあぢ)といふとも。此外(このほか)はあるべからずとて各々(おの〳〵)
歓喜(くわんぎ)の興(きやう)を催(もよほ)し。諸将(しよしやう)以下(いか)の士卒(しそつ)まで在陣(ざいぢん)のおもひを忘(わす)るれば。君恩(くんおん)の辱(かたじけ)

なきを感(かん)し。秀吉公(ひてよしこう)はまた諸大名(しよたいみやう)の中(なか)に雜(ましは)り出(いで)て笑物語(わらひものがたり)などし。酒茶(しゆちや)の
遊(あそひ)をなし軍士(くんし)の窮(きう)をなぐさめ給ふは。実(じつ)に英雄(えいゆう)名大将(めいたいしやう)の手段(しゆだん)とこそ聞(きこ)へけれ。
    小西行長(こにしゆきなか)朝鮮勢(てうせんぜい)を破(やふ)る事(こと)
かくて小西行長(こにしゆきなが)は第一(だいゝち)の先陣(せんぢん)なれば。朝鮮王(てうせんわう)の行在所(あんさいしよ)へ押詰(おしつめ)諸将(しよしやう)に増(まさ)りし
功(こう)を顕(あら)はさんと。勇(いさ)み進(すゝ)んで押行(おしゆき)すでに臨津(りんしん)をはなれて五里計(ごりはかり)も行(ゆき)たりけん
とおもふ時。朝鮮の将(しやう)申硈(しんきつ)を先鉾(せんほう)として都元帥(とけんすゐ)金命元(きんめいけん)京畿監司(けいきかんし)権徴(けんてつ)【ママ コマ339では「けんてう」とす。】等(ら)
五万 余(よ)の軍(ぐん)を引(ひい)て。臨津(りんしん)にて倭兵(わへい)を防(ふせが)んと押来(おしきた)るにはしなく出合(いてあひ)たり。双方(さうはう)
陣(ぢん)を張(はり)戦(たゝかひ)をいどみけるに。朝鮮勢(てうせんせい)は土地(とち)の案内(あんない)くわしけれはこゝかしこより
討(うつ)て出(いで)て。小西(こにし)が兵(へい)をなやませける故(ゆゑ)行長(ゆきなが)大(おほい)に心(こゝろ)をくるしめ。いく〳〵工夫(くふう)をめ
ぐらし一ツの手術(てたて)をなし。陣頭(ぢんとう)に進(すゝ)んで味方(みかた)に下知(げぢ)して戦(たゝ)かはしむ申硈(しんきつ)は元来(もとより)

【右丁】
小西行長(こにしゆきなが)
  臨津(りんしん)に
朝鮮(てうせん)の兵(へい)を
  大(おほ)いにやぶる

【左丁 絵画のみ】

謀(はかりごと)のなき者(もの)なれば咄(とつ)と喚(おめい)て突(つき)かゝる。日本勢(につほんぜい)もしばしは挑(いど)み戦(たゝか)ひけるが。行長(ゆきなが)は
兵(へい)に下知(げぢ)して引退(ひきしりぞ)く。申硈(しんきつ)は勝(かつ)に乗(のり)備(そな)ひを乱(みだ)して追進(おひすゝ)む。二 陣(ぢん)に有(あり)ける権徴(けんてう)
応寅(おうゐん)も兵(へい)を進(すゝ)めて追(おひ)かけけるを。金命元(きんめいげん)是(これ)を制(せい)しけれども耳(みゝ)にもかけす馳出(はせいだ)
す故(ゆゑ)一人にして禁(きん)することあたはず。こゝに応寅(おうゐん)が引率(いんそつ)したりし兵(へい)は常(つね)に北虜(ほくりよ)と
戦(たゝか)ひをなし。軍(いくさ)の虚実(きよじつ)謀(はかりごと)などをもすこしは知(し)りたる者(もの)ともなれば。応寅(おうゐん)に告(つげ)て
云(いふ)やう味方(みかた)の軍士(くんし)今(いま)急(きふ)に追討(おひうつ)こと謀(はかりごと)の可(よ)からざるところあり。よく〳〵敵(てき)の動静(とうせい)
を観察(くわんさつ)して後(のち)に進(すゝ)み戦(たゝか)ひ給へといふ。応寅(おうゐん)これを悪(あし)ざまに聞(きゝ)なし。惟(ひと)へに士卒共(しそつとも)
の戦労(せんらう)をいとふて。言(ことば)をこゝにかこつけて戦(たゝか)ひをとゞむるとおもへは。何(なん)の遠慮(ゑんりよ)にも及(およ)
ばず其(その)頭取(とうどり)となつて。口(くち)をきゝたる者(もの)を捕(とら)へ三人までぞ斬(きり)たりける。金命元(きんめいけん)また
是(これ)をも最(もつと)もよからずとはおもひながら。此(この)応寅(おうゐん)は朝廷(てうてい)より加勢(かせい)として来(きた)りし者(もの)

にて。自己(じこ)の武威(ぶゐ)を立(たて)んとおもひ。なか〳〵他(ひと)の節制(せつせい)を承(うく)べき者(もの)にもあらじと
おもへば。敢(あへ)て一 言(ごん)の異見(ゐけん)をも云(いは)ざりけり。又(また)応寅(おうゐん)が別将(べつしやう)劉克良(りうこくりやう)といふ者(もの)は。年(とし)
すでに老(らう)して兵(へい)に習(なら)へる者(もの)なりしが。つとめて異見(ゐけん)し軽々(かる〳〵)しく進(すゝ)むべからず
と云(い)へるを。申硈(しんきつ)これをとらへて下知(げぢ)を違背(ゐはい)して。妄(みだ)りに言(こと)をなす悪(にく)き者(もの)の
しかたかなと。すでに罪(つみ)して是(これ)を切(き)らんとす。克良(こくりやう)云(いふ)やう我(われ)髪(かみ)を結(むす)んでより幾(いく)
回(たび)【囘は古字】か軍(ぐん)にしたがふ身(み)の。豈(あに)今更(いまさら)に死(し)を避(さく)るのゆゑを以(もつ)て心(こゝろ)とせんや。如此(かくのごとく)に争(あらそ)ふ
者(もの)は恐(おそら)くは国事(こくじ)をよしなく誤(あやまら)んとする故(ゆゑ)なるのみと。憤(いきどほ)りを含(ふく)んでそれより
己(おの)が兵(へい)を引(ひい)て真先(まつさき)に馳出(はせいだ)す。申硈(しんきつ)等(ら)も人数(にんず)を引(ひい)て日本勢(につほんぜい)を追(おひ)かくる。小西(こにし)
が兵(へい)どもは兼(かね)て相図(あひづ)のことなれば。敵(てき)の追来(おひきた)るを見(み)るよりわざと取物(とるもの)もとり
あへず。冑(かぶと)を落(おと)し兵器(へいき)を打棄(うちす)て乗(のつ)たる馬(うま)に鞭(むち)うち。逸足(いちあし)を出(いだ)して逃(のが)れ行(ゆく)

申硈(しんきつ)等(ら)この体(てい)を見(み)るより。実(じつ)に逃(にぐ)ると心得(こゝろえ)れば何(なん)の思案(しあん)もなく備(そな)ひを混(みた)
して追(おひ)かけたり。既(すで)に両山(りやうさん)相聳(あひそび)へわづかに一條(ひとすじ)の広路(ひろみち)ある所(ところ)を。はや五六 町(ちやう)ほども
行過(ゆきすぎ)ぬらんとおもふ時(とき)。兼(かね)て小西(こにし)が先(さき)だつて宗義智(そうのよしとし)と。己(おの)が舎弟(しやてい)主殿助(とのものすけ)木(き)
戸作右衛門(とさくゑもん)の三人 兵(へい)を二 手(て)となして。左右(さいふ)の山(やま)に伏兵(ふくへい)となつて隠(かく)れ居(ゐ)たるが。
今(いま)敵(てき)すでに此所(このところ)を過(すぐ)ると見(み)るより時分(じぶん)はよしと。貝金太鼓(かいがねたいこ)を一 度(ど)にならし
鉄炮(てつはう)の筒先(つゝさき)を揃(そろ)へて打(うち)かけ。左右(さいふ)より起(おこ)り一 手(て)は山路(やまぢ)の敵(てき)を後(うしろ)よりとゞめ。
一 手(て)は朝鮮(てうせん)後軍(ごぐん)のつゞくを立切(たちきつ)てこれを討(うち)。はじめ敗(はい)せし小西(こにし)が兵(へい)も頓(やが)
て備(そな)ひをもりかへし。朝鮮(てうせん)の兵(へい)を中(なか)に取(とり)こめ責立(せめたつ)れば。朝鮮勢(てうせんぜい)大(おほい)に驚(おどろ)き
崩(くづ)れ立(たつ)を。劉克良(りうこくりやう)はすこしも譟(さわ)がず馬(うま)より下(くだ)つて。吾死(わがし)すべきのところ
爰(こゝ)にありとつぶやきながら。矢束(やづか)を解(とい)て推乱(おしみだ)し弓(ゆみ)の弦(つる)噛湿(くひしめ)しさしとり

引(ひき)つめ日本勢(につほんぜい)を射斃(ゐたふ)しける。此時(このとき)小西主殿助(こにしとのものすけ)馳寄(はせより)克良(こくりやう)を討(うた)んとす。
克良(こくりやう)是(これ)を見(み)て十分(じふぶん)に引(ひき)しぼり。切(きつ)て放(はな)ては主殿助(とのものすけ)が胸金物(むなかなもの)にはつしと当(あた)る。
されども鎧(よろい)の札(さね)やよかりけん。裏(うら)かくまでには有(あら)ざりける。克良(こくりやう)二の矢(や)をつかへ
んとなしけるところへはやくも主殿助(とのものすけ)駈寄(かけより)兜(かふと)の天返(てつへん)をしたゝかに切付(きりつけ)たれば。何(なに)
かはもつてたまるべきつゐに爰(こゝ)にて討(うた)れける。朝鮮(てうせん)の後軍(ごぐん)討(うち)もらされの者(もの)どもは。
かへし合(あは)せて敵(てき)をさゝへ大将(たいしやう)の死(し)を援(すく)はんとする心(こゝろ)なく。惟(たゞ)はしりに走(はし)りて右往(うわう)
左往(ざわう)に遁(のが)れ去(さ)り。日本勢(につほんぜい)に討(うた)るゝ者(もの)数(かず)しれず。申硈(しんきつ)も今(いま)は叶(かな)はぬところと覚悟(かくご)
なし。剣(けん)【釼は俗字】を振(ふり)て日本勢(につほんせい)の中(なか)へ切(きつ)て入(いる)しばしがほどは。戦(たゝか)ひしが乱軍(らんぐん)の中(なか)にて討(うた)れ
ける。また命元(めいげん)応寅(おうゐん)は此有(このあり)さまを見(み)るより大(おほい)に英気(えいき)を喪(うしな)ふて。顔色(かんしよく)春菜(あをな)の
如(こと)くになり。如何(いかゞ)はせんと詮方(せんかた)尽(つき)て居(ゐ)たりける時(とき)。折(をり)ふし商山君(せうさんぐん)朴忠侃(はくちうかん)といへる

大臣(たいじん)も適(たま〳〵)来(きた)つて陣中(ぢんちう)に在(あ)りけるが。かゝる有(あり)さまを見(み)るよりも大(おほい)に驚(おどろ)き。馬(うま)に打乗(うちのり)
走(はし)り行(ゆく)を軍兵(くんびやう)どもは。只(たゝ)金命元(きんめいけん)が走(はし)るぞと見(み)るより元帥(げんずゐ)すでに走(はし)り給ふに。
みな〳〵逃(にげ)よといふを聞(きく)より朝鮮勢(てうせんぜい)。誰(たれ)か一人とゝまるべき我先(われさき)にと散乱(さんらん)し
ければ。金命元(きんめいけん)応寅(おうゐん)も今(いま)は是(これ)までなりと。是非(ぜひ)なく朝鮮王(てうせんわう)の行在所(あんざいしよ)をさして
走(はし)りける。又(また)京畿監司(けいきかんし)権徴(けんてう)は加平郡(かへいくん)に入(いつ)て乱(らん)を避(さ)けたり。日本(につほん)の軍将(ぐんしやう)こゝに
おゐて勝(かつ)に乗(のり)西(にし)の方(かた)に下(くだ)り伐(うつ)。その勢(いきほ)ひまことにもつて竹(たけ)をわるが如(こと)くに見(み)へにける。
    李鎰(りいつ)行在所(あんざいしよ)に到(いた)る事(こと)
扨(さて)また李鎰(りいつ)は忠州(ちくしう)に有(あり)けるに。日本勢(につほんぜい)のために忠州(ちくしう)の軍(いくさ)破(やぶ)れければ。是非(ぜひ)なく江(え)を
渡(わた)り江原(こうけん)の堺(さかひ)に到(いた)り。其(それ)より道(みち)を転(めぐ)りて行在所(あんざいしよ)に至(いた)りける。此時(このとき)朝鮮(てうせん)の諸将(しよしやう)
どもみな〳〵南方(なんばう)に馳向(はせむか)つて敵(てき)を防(ふせ)ぎたりけるに。或(あるひ)は討(うた)れあるひは又(また)逃(のが)れ走(はし)

り今(いま)は一 人(にん)として御 ̄ン駕(かこ)に相(あひ)したがふの者(もの)なかりしに日本(につぼん)の兵将(へいしやう)は日々(ひゞ)に盛(さか)んにして
今(いま)にも押寄(おしよせ)なんと。譟動(さうどう)するの折(をり)なりければ人心(しんしん)まさに驚(おどろ)きおそれ。頼(たの)みなき
折(をり)に当(あた)り李鎰(りいつ)がこゝにかへり至(いた)るに。李鎰(りいつ)はもとより武将(ぶしやう)の中(なか)にも重名(おもきな)のある
者(もの)なる故(ゆゑ)。破(やぶ)れ奔(はしり)し後(のち)とはいへども人々(ひと〳〵)そのかへり来(きた)ると聞(きく)よりも。忽(たちま)ちに意(こゝろ)つ
よくなりみな〳〵大(おほい)に歓(よろこ)びける。李鎰(りいつ)しば〳〵軍(いくさ)に打負(うちまけ)て逃奔(とうほん)したりし其後(そのゝち)
は。昼(ひる)は荊棘(けいきよく)の中(なか)にかくれて倭人(わじん)の多(おほ)き目(め)をふせぎ。捕(とら)へられじと忍路(しのびぢ)の風雨(ふうう)を
凌(しの)ぐ便(たより)に。平涼子(けかし)一ツを頭(かうべ)に戴(いたゝ)き身(み)には白布(はくふ)の衫(ころも)を着(ちやく)し。草履(くさのくつ)の穿(かけ)たるを
やう〳〵に足(あし)に著(つ)け。形容(けいよう)憔悴(しやうすゐ)せる有(あり)さまにてやう〳〵に。敵中(てきちう)多(おほ)くの艱難(かんなん)を逃(のが)れ
来(きた)る物(もの)がたりを、涙(なみた)ながらに語(かた)るを聞者(きくもの)嘆息(たんそく)し。まことに此比(このころ)は君(きみ)一人より民(たみ)百
姓(しやう)まで。身(み)の変改(へんかい)の憂(うれ)ひにあふ定(さた)めなき世(よ)のならひかなと。打驚(うちおどろ)かぬ人(ひと)もなし柳(りう)

成龍(せいりゆう)は李鎰(りいつ)に向(むか)ひ。只今(たゞいま)こゝに集会(しふくわい)の貴賎(きせん)いづれもともに君(きみ)に依(より)てたのみをかけ
鉄楯(くろがねのたて)をつきたるおもひをなせるに。如此(かくのことく)枯槁(ここう)衰体(すゐたい)の風情(ふぜい)にては何(なん)ぞ衆人(しゆうじん)の志(こゝろざし)を
しつめ堅(かた)むることを得(う)べきやと成龍(せいりう)藍色(あいいろ)なる紗衣(うすものゝきぬ)を取出(とりいだ)してこれに与(あた)ふ
ればこゝに於(おゐ)て一 座(ざ)の諸大臣(しよだいじん)もあるひは騣笠(けかさ)をあたへ。或(あるひ)は銀頂子(きんのびやううつ)彩纓(たまかむりもの)をあ
たふる者(もの)も有(あつ)て。当面(まのあたり)衣服(いふく)の飾(かざり)をあらため換(かへ)ひとへに。新粧(しんそう)の大将軍(たいしやうぐん)とはなり
たれども。靴(くわ)一 色(いろ)を与(あたふ)るものゝなき故(ゆゑ)に。猶(なほ)も単(ひとへ)の履(くつ)をつけたりける成龍(せいりう)笑(わら)
つて。錦衣(きんい)を着(ちやく)せる大臣(たいじん)として草履(くさくつ)をはけることの称(かな)はずやと云(いひ)ければ。満座(まんざ)
笑(わら)ひどよめきしばしの憂(うさ)を忘(わす)れける。
   李鎰(りいつ)義統(よしのり)【綂は俗字】が兵(へい)を防(ふせ)ぐ事(こと)
こゝに碧潼(へきとう)の兵士(へいし)任旭景(じんきよくけい)あはたゞく来(きた)り報(はう)じて。倭賊(わぞく)すでに鳳山(ほうさん)まで至(いた)る

といふ柳成龍(りうせいりゆう)は尹相(いんしやう)にむかひ。倭賊(わぞく)の物見(ものみ)すでに江外(こうくわい)に至(いた)るといへば。定(さだ)めて方々(はう〳〵)の渡(わたり)
場(ば)までも穿鑿(せんさく)せんにはきはまりたり。それにつゐては此間(このあひだ)詠帰楼(ゑいきろう)の下(した)なる江水(こうすゐ)
の水岐(みつまた)わかれて。二《割書:タ》すじとなつて流(なが)る故(ゆゑ)に此所(このところ)水浅(みつあさく)して渉(わた)りやすかるべし。万(まん)
一 賊兵(ぞくへい)我民(わかたみ)をとらへて得(え)て案内者(あんないじや)となし。暗(あん)にこゝを渡(わた)りてにはかに至(いた)るほど
ならば。此城(このしろ)もつとも危(あやう)かるべし急(きふ)に李鎰(りいつ)をつかはし。往(ゆ)き向(むか)つて浅瀬(あさせ)の
ところを防(ふせ)かせ。もつて不測(ふしぎ)の憂(うれ)ひを警(いまし)め備(そな)ひさらんやと云(い)ひければ。尹公(いんこう)も
是(これ)を然(しか)りとし。即(すなは)ち李鎰(りいつ)をつかはすべきに定(さだま)りて是(これ)をやる。李鎰(りいつ)が率(ひき)いる
ところの江原(こうけん)の軍兵(ぐんひやう)わづかに数(す)十 余人(よにん)有(あり)けるに。他(た)の軍兵(ぐんひやう)七百 余人(よにん)をさし添(そへ)
たり。李鎰(りいつ)はすでに含毬門(かんきうもん)の外(そと)に座(ざ)し。兵士(へいし)の点撿(てんけん)をなしたりけるが。如(い)
何(かゞ)意(こゝろ)の臆(おく)したりけん。遅々(ちゝ)におよび行列(ぎやうれつ)をすゝめかねて居(ゐ)たりしを。柳成(りうせい)

【右丁 絵画のみ】

【左丁】
黒田(くろだ)
 大友(おほとも)の
 両将(りやうしやう)平壌(へくしやく)に
   至(いた)る

龍(りやう)は事(こと)急(きう)なりとおもひし故(ゆゑ)。人(ひと)をつかはして李鎰(りいつ)が軍(いくさ)は発(はつ)したりや。見(み)て
来(きた)れと云(いひ)ければ使者(ししや)は命(めい)をうけて出行(いでゆき)しが。直(たゞち)に馳戻(はせもど)りて云(いふ)やういまだ門上(もんじやう)の
矢倉(やぐら)の上(うゑ)にありと云(いふ)。柳成龍(りうせいりやう)はしきりに心(こゝろ)をいらだて。尹斗寿(いんとしゆ)へ此旨(このむね)を告(つげ)やり
て急(きふ)に李鎰(りいつ)を催促(さいそく)せしむ。李鎰(りいつ)すでに行(きやう)を発(はつ)すといへども道(みち)の案内(あんない)しらざ
るゆゑ。その方角(はうかく)をあやまつて江西(こうさい)の方(かた)に馳向(はせむか)ふ。中途(ちうと)にして平壌城(へくしやくじやう)の番兵(ばんへい)の
座頭(さがしら)金胤(きんいん)といへる者(もの)が。外(ほか)より来(きた)るに出会(いであひ)てその道(みち)を問(とひ)ければ。金胤(きんいん)聞(きい)て
これは方角(はうがく)ちがひたり。此方(こなた)へ馳(はせ)られ候 得(え)とて真先(まつさき)に馬(うま)を馳(は)せ。その道筋(みちすぢ)を案(あん)
内(ない)なしける故(ゆゑ)李鎰(りいつ)が人数(にんず)馬(うま)に鞭(むち)をくわへて馳(はせ)たりければ。すでに万頂臺(はんけうだい)の
下(した)に至(いた)りたり。平壌城(へくしやくじやう)をはなるゝ事(こと)わづかに十 余里(より)ばかりにして。江南(こうなん)の岸頭(がんとう)
を望(のそ)み見(み)れは。早(はや)日本(につほん)の兵将(へいしやう)数(す)百 騎(き)馬(うま)に白泡(しらあは)はませて駈来(かけきた)る。此筋(このすぢ)へ馳(はせ)

向(むか)ふは大友(おほとも)黒田(くろだ)の両手(りやうて)の兵(へい)なり。江中(こうちう)の小島(こじま)に居(きよ)をなせる村民(そんみん)ども日本人(につほんじん)
の寄(よ)するを見(み)るより。慌(あは)て譟(さは)ぎ呼(よび)なげきて我先(われさき)にと落失(おちうせ)けり。李鎰(りいつ)は是(これ)
を見(み)るよりも。精兵(せいへい)の射手(ゐて)二十 餘人(よにん)をすぐりて早(はや)く島中(とうちう)に入(いれ)。これを速(すみやか)に射(ゐ)
立(たて)よと下知(げぢ)すれば。軍士(ぐんし)ども日本勢(につほんぜい)の猛勢(まうせい)なるに。おそれをなして進(すゝ)みかね
たりしかば。李鎰(りいつ)は大(おほい)に怒(いか)り憤勇(ふんゆう)の相(さう)をあらはし。腰(こし)なる剣(けん)【釼は俗字】をするりと
抜(ぬい)て一人を斬(き)らんとすれば。兵士(へいし)とも大(おほい)におどろき我先(われさき)にとすゝみ行(ゆき)。島上(とうじやう)に
駈上(かけあが)り矢先(やさき)を揃(そろ)へて。一 度(ど)に射立(ゐたて)すき間(ま)あらせず防(ふせ)ぎけるゆゑ。義統(よしのり)が先(さき)
手(て)の兵(へい)ども六七 騎(き)。馬(うま)より下(した)へ射倒(ゐたふ)されければ。日本勢(につほんぜい)も此勢(このいきほ)ひに辟易(へきゑき)
し。つゐに岸頭(がんとう)をば引退(ひきしりぞ)きたり。李鎰(りいつ)はこの一軍(ひといくさ)に勝(かち)を取(とり)たる心地(こゝち)して。弥(いよ〳〵)
兵士(へいし)をはげまして此所(このところ)を守(まも)りける。

   遼東(れうとう)の李時孳(りじじ)朝鮮(てうせん)を窺見(うかゝひみ)る事(こと)
大明(たいみん)遼東(れうとう)の都司官(としくわん)李時孳(りじじ)は。朝鮮王(てうせんわう)倭国(わこく)の難(なん)をうくる事(こと)既(すで)に急(きふ)也(なり)
と聞(きこ)えけれども。いまだ大明(たいみん)の朝廷(てうてい)より兵(へい)を出(いだ)すべきの。命令(めいれい)の到(いた)らざれども
朝鮮国(てうせんこく)よりは。天朝(たんてう)の援兵(ゑんへい)を乞(こふ)ことしきりにして。又(また)遼東(れうとう)へもこの事(こと)を
急々(きふ〳〵)になげき告報(つけはう)ずること。数度(すど)におよべど大明(たいみん)の命令(めいれい)もなくては。兵(へい)を出(いだ)す
ことかなはねば。兼(かね)てその仕度(したく)をば調(とゝの)へおきて。その一 左右(さう)を待(まち)たりけるがそれに就(つき)
ては。先立(さきたつ)て日本人(につほんじん)の情(じやう)をも捜(さぐ)り見(み)。戦(たゝか)ひの虚実(きよじつ)をも計(はか)りしるべきためぞと
て。鎮撫官(ちんぶくわん)林世禄(りんせいろく)といへる者(もの)をして平壌城(へくしやくじやう)へつかはして。朝鮮(てうせん)の君臣(くんしん)の動静(どうせい)
を窺(うかゞ)はしむ。朝鮮国(てうせんこく)李㫟(りえん)はいそぎ林世禄(りんせいろく)を。大同館(だいどうくわん)にこれをむかへて早速(さつそく)
対面(たいめん)ある。此時(このとき)に柳成龍(りうせいりやう)は去(さん)ぬる五月よりして。左承相(さしやう〳〵)の官(くわん)をやめられたり

しか彼(かれ)が忠心(ちうしん)の違(たが)はざるに依(よつ)て。再(ふたゝ)び官(くわん)に叙(しよ)せられ此日(このひ)に当(あた)りて。大明(たいみん)の将(しやう)を
馳走(ちさう)する役人(やくにん)たらしむ。遼東(れうとう)の都官(とくわん)倭人(わじん)の来(きた)つて朝鮮(てうせん)を犯伐(ほんばつ)することあり
と先(さき)たつて聞(き)けりといへどもその月日(つきひ)を重(かさ)ぬる事(こと)。未(いま)だ久(ひさ)しき事(こと)ならねば
急(きふ)なりといへども猝遽(にはか)にして如此(かくのごとく)なるべしとはおもはざりしに。京都(きやうと)の守(まも)り
つゐにかなはず。王(わう)の駕(か)こゝに西(にし)に遷(うつ)ると告(つぐ)るのみか。既(すで)に日本(につほん)の兵(へい)はや平壌(へくしやく)
の境内(きやうない)に入(い)りぬといへるを聞(きゝ)て。甚(はなは)だ是(これ)を疑(うたが)ひその疑心(きしん)の余(あま)りには。或(あるひ)は朝鮮(てうせん)
かへつて倭(わ)の導引(みちひき)たれども。大明(たいみん)の聞(きく)を憚(はゞか)り倭兵(わへい)のために寇(あだ)せられて。偽(いつは)りて
没落(ぼつらく)せりといへるは。皆(みな)是(これ)謀計(ばうけい)たらんなどゝいふ族(やから)も多(おほ)かりける故(ゆゑ)に。世禄(せいろく)一人
使(つかひ)として今(いま)来(きた)れるは。そのやうすを窺(うかゞ)はんためなりけりと聞(きこ)へける。柳成龍(りうせいりやう)は
馳走人(ちさうにん)の役(やく)たれば世禄(せいろく)ともろともに。練光亭(れんくわうてい)の上(うへ)に登(のほ)り敵(てき)の形勢(ありさま)を望(のぞ)み。

察(さつ)するに一人の日本(につほん)の兵卒(へいそつ)。江東(こうとう)の林木(りんぼく)の間(あひだ)より忽(たちま)ちあらはれ。又(また)乍(たちま)ち隠(かく)れて
遥(はるか)に城(しろ)のやうすを窺(うかゞ)ひしが。しばらくあれば同(おな)じく倭(わ)の兵(へい)二三人。跡(あと)よりつゞひて
あらはれ出(いで)。あるひは座(ざ)し或(あるひ)は立(たつ)てその意(こゝろ)安閑(あんかん)たる風情(ふぜい)をなすは。さながら行(みち)
路人(ゆくひと)の休足(きうそく)するに異(こと)ならず。柳成龍(りうせいりやう)は林世禄(りんせいろく)に対(たい)して。あれ御覧(ごらん)ぜよ倭軍(わぐん)よ
りさしつかはすところの斥候(ものみ)の者(もの)なり。日本人(につほんじん)の意(こゝろ)もとより巧(たく)み詐(いつは)り多(おほ)くして。大(たい)
兵(へい)後(あと)にありといへども。先立(さきたて)るに物見(ものみ)の者(もの)をもつて遠(とほ)くすゝませ。敵(てき)の動静(やうす)を窺(うかゞ)
はすに。その人数(にんず)二三人の間(あひだ)にすきず是(これ)を小物見(こものみ)といふといへり。若(もし)彼等(かれら)少(すこ)しき
兵(へい)とて敵(てき)の方(かた)に油断(ゆだん)すれば。後(あと)より大兵(たいへい)つゞき来(きた)りて攻撃(せめうつ)ことをなせりと。
かや。実(まこと)にゆるがせにすべからず。偏(ひとへ)に天朝(てんてう)の援兵(ゑんへい)を給(たま)はらんこと是(これ)願(ねが)ふところ
なりと。憂(うれ)ひ訟(うつた)ふれば林世禄(りんせいろく)もこれを最(もつとも)と同(どう)じ。急(いそ)ぎかへりて天朝(てんてう)に訟(うつた)んと

急(いそ)ぎ馬(うま)に鞭(むち)うつて遼東(れいとう)さしてかへりける。すでに日本勢平壌(につほんぜいへくしやく)の境内(きやうない)に入(いる)
のよし聞(きこ)へければ。平壌(へくしやう)の守(まも)りのため左相尹斗壽(さしやういんとじゆ)に命(めい)じ。都元帥金命元巡(とけんすゐきんめいけんじゆん)
察使李元翼等(さつしりげんよくとう)の令(れい)して。府城(ふじやう)の守(まも)りとなさしめたり是(これ)より數日前(すじつまへ)に。平壌(へくしやう)
城中(じやうちう)に籠(こも)るところの人民倭兵(じんみんわへい)の責來(せめきた)ると聞(きゝ)て。車駕他所(しやがたしよ)に遷(うつ)らんとすと
いふよりおの〳〵我先(われさき)にと遁(のが)れ散(さん)ずれば。閭里(むらさと)の民人家(みんしんいへ)を明(あ)けほとんと今(いま)は虚(むな)
しき村落(むくらい)とならんとす。朝鮮王李㫟(ていさんわうりえん)は太子(たいし)に命(めい)おへて大同館(たいどうくわん)の楼門(らうもん)に登(のぼ)
り。城中(じやうちう)の父老(としより)どもを召(め)され此城(このしろ)を明(あ)け他(た)へまた臨幸(りんこう)あらんとは。誰(た)がかく云出(いひいだ)
したりしことなるぞ。嘗(もと)よりかゝる御沙汰(ごさた)はなし。只何日(たゝいつ)までも此城(このしろ)をかたく
守(まも)り給(たま)はんとも。上(かみ)の御 心(こゝろ)なれば意(こゝろ)やすく存(ぞん)じ候へと示(しめ)し給(たま)へば。父老(としより)どもは館下(くわんか)
に進(すゝ)みすゝんで。東宮(とうぐう)の仰(おほ)せばかり承(うけ給は)りては。民(たみ)の心(こゝろ)よくもこれを信(しん)し申すまじ。必(かなら)ず

聖上(せいしやう)の親(みづか)ら御 出(いて)あつて勅命(ちよくめい)なくば叶(かな)ふべからずと。口(くち)を揃(そろ)へて奏(そう)する故(ゆゑ)是非(せひ)
なく。朝鮮王(てうせんわう)館門(くわんもん)に登(のぼ)らせ給ひて承旨(ぢやうじ)の官(くわん)をして此(この)むねを仰(おほ)せらるゝに
父老(としより)ども数(す)十人 堂下(とうか)に拝伏(はいふく)して。勅命(ちよくめい)を畏(かしこま)りて退(しりそ)きける。この故(ゆゑ)に平壌(へくしやく)の
者(もの)ども大(おほい)に歓(よろこ)び。それより方々(はう〳〵)に人(ひと)をつかはし老若男女(らうにやくなんによ)山谷(さんこく)の間(あひた)に隠(かく)れ居(ゐ)たる
者(もの)どもを。招(まね)き集(あつ)め。こと〳〵く城内(じやうない)に入(いり)たれば又(また)城中(じやうちう)に人(ひと)満(みち)て。元(もと)の人居(じんきょ)となりに
ける。しかるに日本(につほん)の斥候(ものみ)時々(とき〳〵)大同江(たいとうこう)辺(へん)に形(かた)ちをあらはしけるよし。潜言(ひそめく)を聞(きく)
より諸臣(しよしん)惧(おそれ)を生(しやう)じ。宰臣(さいしんか)盧稷等(ろしよくら)廟中(へうちう)の神主(じんしゆ)なんどを取(とり)もち。己(おのれ)が同志(どうし)の
者(もの)ともを引(ひき)つれ。道(みち)を求(もと)めて落行(おちゆか)んとす城中(じやうちう)の民(たみ)ども是(これ)を見(み)て。大(おほい)に怒(いか)り刃(やいば)を
取(とつ)て盧稷等(ろしよくら)が遁(のかれ)んとする路頭(ろとう)を遮(さへき)り。おもひ〳〵に打(うち)たゝきすでに廟社(べうしや)の神(じん)
主(しゆ)をも地上(ちしやう)にたゝき墜(おと)され逃行(にげゆき)ける。また堂上(とうしやう)に向(むか)つて大音(だいおん)に罵(のゝじ)りけるは。汝等(なんぢら)

平生(へいせい)国(くに)の禄(ろく)を食(しよく)しながら。その政(まつりごと)をも正(たゞ)しうせず如此(かくのごとく)に国(くに)を誤(あやま)る。今(いま)また民(たみ)
を欺(あさむ)きてかたく此城(このしろ)を守(まも)らんとすと云(いひ)たるに。間(ま)もなく落行(おちゆか)んと欲(ほつ)するやと云(い)ひ
詈(のゝし)り怒(いか)り。兵杖(へいぢやう)をもつて人(ひと)に遇(あは)ば人(ひと)をたゝき貴人(きにん)高官(かうくわん)と見(み)るときは。なほ〳〵強(つよく)
くこれを打(うち)婦女(ふぢよ)幼稚(えうち)の輩(ともがら)まで。みな〳〵怒髪(いかるかみ)さか立(たち)號(さけ)びけるは。かく城(しろ)を棄(すて)んとせ
んに。何故(なにゆゑ)我等(われら)を欺(あざむ)き呼(よ)んで城(しろ)に入(いれ)賊(ぞく)の手(て)に殺(ころ)さしめんとはかれるやと。声々(こゑ〳〵)に呼(よば)はり
ける故(ゆゑ)諸大臣(しよだいじん)みな〳〵色(いろ)を失(うしな)ひ。これを禁(きん)ずれども更(さら)に止(やむ)ことなし柳成龍(りうせいりやう)おもふ
やう此(この)有(あり)さまにては乱民(らんみん)どもの庭中(ていちう)まで押入(おしい)らんかと心(こゝろ)をいため門外(もんくわい)の階(きさばし)の上(うゑ)に
立出(たちいて)て。その中(なか)をつく〳〵見(み)れば年(とし)長(ちやう)じて髯(ひけ)多(おほ)き男(おとこ)のあり如何(いか)にも此(この)乱民(らんみん)どもの
頭(かしら)と見(み)へける故(ゆゑ)成龍(せいりやう)乃(すなは)ち手(て)をあげて是(これ)を招(まね)けば其男(そのおとこ)乃(すなは)ち進(すゝ)み来(きた)るこれは此(この)
ところの下役人(したやくにん)と聞(きこ)へける成龍(せいりやう)此者(このもの)に諭(さと)して云(いふ)汝等(なんちら)如此(かくのことく)に憤(いきどほ)りを発(はつ)するは実(まこと)に

忠義(ちうぎ)の志(こゝろざし)と云(いゝ)つべし感心(かんしん)なきにあらず。しかるに是(これ)によつてかへつて乱(らん)をなし宮内(きうない)をお
どろかし擾(みだ)すに至(いた)れる条(でう)。甚(はなは)だ以(もつ)て相違(あひたがひ)駭入(おどろきいつ)たることどもなり。主上(しゆじやう)すでに汝等(なんぢら)が為(ため)
に籠城(らうじやう)のことを以(もつ)て許(ゆる)され給ふ上(うへ)は。何(なん)の違(たが)ひかあらん早(はや)く此(この)趣(おもむ)きを以(もつ)て。衆人(しゆうじん)に
諭(さと)し此(この)譟動(さうどう)をしづむべし。若(もし)また退(しりそ)かずんば汝(なんぢ)か輩(どもから)重罪(ぢゆうざい)なれば赦(ゆる)すべからずと。
云(い)ひければ彼男(かのおとこ)持(もつ)たる矛(ほこ)を打捨(うちすて)て手(て)をおさめつゝしんで云(いふ)。小民(しやうみん)等(ら)城(しろ)を棄(すつ)るの説(せつ)を
聞(きい)てその憤(いきどほ)りしのびかたく。妄(みだ)りに動(うご)くこと如此(かくのごとく)なり今(いま)大臣(だいじん)の言(ことは)を承(うけ給は)る。小人(しやうじん)まことに
理(り)をしらぬ者(もの)たりと申(まう)せども。心中(しんちう)安堵(あんと)仕(つかまつ)りたりと大(おほい)に悦(よろこ)べる顔色(かんしよく)して。衆人(しゆうじん)を引(ひい)
て退(しりぞ)きたり。されども猶(なほ)朝臣(てうしん)は日本勢(につほんぜい)の来(きた)らんことをおそれ。出(いで)て走(はし)らんといふより
外(ほか)の量見(りやうけん)もなかりけり。中(なか)にも寅城府院君(いんじやうふゐんくん)鄭徹(ていてつ)しきりに城(しろ)を棄(すて)て。他(た)へ遷幸(せんこう)あ
らんことを相議(あひはか)る。柳成龍(りうせいりやう)さま〳〵理(り)をつくして是(これ)を止(とゞ)め。しばし籠城(らうしやう)する内(うち)には

大明(たいみん)よりの援兵(ゑんへい)も来(きた)らん。今(いま)城(しろ)を棄(すて)て落(おち)給はんには。是(これ)より義州(ぎしう)の地(ち)に至(いた)るまで
更(さら)に拠(よ)るべき地(ち)なくして。其勢(そのいきほ)ひ必(かなら)ず国(くに)を亡(ほろぼ)すに至(いた)らんといへば。左相(さしやう)尹斗壽(いんとじゆ)は此議(このぎ)に
同(どう)じぬ。柳成龍(りうせいりやう)また鄭徹(ていてつ)にむかひ平生(へいぜい)常(つね)におもひしは。公(こう)慷慨(かうがい)の慍(いきどほり)を発(はつ)し難易(なんい)を
避(さ)けず。国家(こくか)のために身(み)を殺(ころ)して。冠(あだ)を防(ふせ)ぐべきの器量(きりやう)なりとおもひつるに。豈(あに)思(おも)は
んや今更(いまさら)その議(ぎ)の如此(かくのごとく)ならんとはと。はげませども一 言(ごん)の返荅(へんたふ)をもなさばこそ。また
尹斗壽(いんとじゆ)は彼(かの)文山(ふんさん)が詩(し)を吟詠(ぎんゑい)し。我欲(われほつす)_三借(かりて)_レ剣(けんを)斬(きらんと)_二佞臣(ねいしんを)_一といふを聞(きゝ)。鄭徹(ていてつ)はつゐに
その座(ざ)にたまらず。大(おほい)に怒(いか)り顔色(がんしよく)して袂(たもと)を奮(ふる)つて立去(たちさ[り])けり


朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之八《割書:終|》

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之九
     目録
 一 清正(きよまさ)征東使(せいとうし)伯寧将軍(はくねいしやうぐん)を擒(とりこ)にする事(こと)
 一 東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)両王子(りやうわうし)にまみゆる事(こと)
 一 黒田長政(くろだながまさ)が先勢(さきぜい)狼川(らうせん)にて軍(いくさ)の事(こと)
 一 小早川隆景(こはやかはたかかげ)普州城(しんしうじやう)をかこむ事(こと)
 一 行長(ゆきなが)書(しよ)を朝鮮王(てうせんわう)へ贈(おく)る事(こと)
 一 行長(ゆきなが)数度(すど)和議(わき)を欲(ほつ)する事(こと)

【白紙】

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之九
   
   清正(きよまさ)征東使(せいとうし)伯寧将軍(はくねいしやうぐん)を擒(とりこ)とする事(こと)

かくて加藤主計頭清正(かとうかすべのかみきよまさ)は。兀良哈人(おらんかいじん)を打破(うちやぶ)り安辺(あんへん)ちかく引上來(ひきあげきた)りける処(ところ)
に朝鮮四道(てうせんしどう)の元帥(げんすい)征東使(せいとうし)伯寧将軍(はくねいしやうぐん)といへる者(もの)。此道(このみち)へ落來(おちきた)り瓶愈浦(へいゆうほ)
といふところに隠居(かくれゐ)て。しきりに軍兵(ぐんひやう)を集(あつ)め清正(きよまさ)の帰路(きろ)をさへぎらんとする
よし聞(きこ)へければ。清正(きよまさ)おもふやう味方(みかた)の兵(へい)にくらぶれば。敵(てき)は自国(じこく)のことゆゑ定(さだめ)て
大勢(たいぜい)ならん。兵(へい)の少(すくな)きを見(み)すかされなば戦(たゝか)ひ難義(なんぎ)なるべし。敵(てき)より寄(よせ)ざる
先(さき)に此方(こなた)より押寄(おしよせ)。打散(うちちら)さんにしかじと思慮(しりよ)をなし。諸将(しよしやう)へ其旨(そのむね)をしめし夫(それ)より
所(ところ)の者(もの)を案内者(あんないじや)となし。先陣(せんぢん)は鵤平治(いかるがへいぢ)。井上大九郎(ゐのうへだいくらう)。小代下総守(こしろしもふさのかみ)の三人

相備(あひそなひ)となし征東使(せいとうし)が籠(こも)りたる。島鶏館(とうけいくわん)といへる山(やま)へ押寄(おしよす)る此時(このとき)兀良哈人(おらんかいしん)
月縁(げりす)といふ者(もの)。伯寧(はくねい)が催促(さゐそく)によつて兵(へい)を引(ひい)て島鶏館(とうけいくわん)へ来(きた)りけるが。今(いま)日(につ)
本勢(ほんぜい)の押(おし)かゝるを見(み)て。横合(よこあひ)よりかゝり来(きた)る清正(きよまさ)が家老(からう)。加藤与左衛門(かとうよざゑもん)黒(くろ)
革威(かはおど)しの腹巻(はらまき)に。中二段(なかにだん)紫糸(むらさきいと)にておどしたる大袖(おほそで)つきの鎧(よろひ)を着(ちやく)し。刃(は)
渡(わた)り一 尺九寸(しやくくすん)の菊(きく)一 文字(もんじ)の長刀(なぎなた)を取(とつ)て。手勢(てぜい)二百人 余(あま)りを下知(げぢ)し向(むか)ひ合(あは)せて
突(つき)かゝる。兀良哈人(おらんかいじん)半弓(はんきう)をきびしく射(ゐ)かくるゆゑ。味方(みかた)の兵(へい)すゝみかねて見(み)へたり
ける時(とき)。赤星太郎兵衛(あかぼしたろべゑ)手勢(てぜい)を引(ひい)て馳来(はせきた)り。此体(このてい)を見(み)るより鉄砲(てつほう)を四五十 挺(てう)
つるべ打(うち)に放(はな)ちかくれば。先(さき)に進(すゝ)みし兀良哈人(おらんかいじん)三十四人やにはに打倒(うちたふ)され。色(いろ)めき立(たつ)
て見(み)へけるに。加藤勢(かとうぜい)得(え)たりや応(おう)と無二無三(むにむさん)に突(つき)かゝる故(ゆゑ)。つゐに追立(おひたて)られ引退(ひきしりぞ)
く其中(そのなか)より。大将(たいしやう)月縁子(げりす)は矛(ほこ)を打振(うちふり)取(とつ)てかへし戦(たゝか)ひけるが。加藤与左衛門(かとうよさゑもん)は

是(これ)そ此中(このうち)の大将(たいしやう)と見(み)てけれは。馬(うま)を馳寄(はせよせ)渡(わた)り合しばし互(たかひ)に挑(いど)み戦(たゝか)ひけるが。双方(さうはう)
ふみ込(こみ)相突(あひつき)にしたりしに。与左衛門(よさゑもん)か長刀(なきなた)月縁子(げりす)が内甲(うちかふと)を突(つい)たり月縁子(げりす)が矛(ほこ)
は与左衛門(よさゑもん)が鼻紙入(はなかみいれ)の上(うへ)に当(あた)りたり。されども具足(くそく)つよくして裏(うら)かゝず。月縁子
は内甲(うちかふと)を突(つか)れて馬(うま)より落(おつ)るところを。与左衛門(よさゑもん)長刀(なぎなた)を取直(とりなほ)し丁(てう)と切(き)れば。左(ひだ)り
の股(もゝ)をしたゝかに切込(きりこん)だりければ何(なに)かはもつてたまるべき大地(だいち)へ摚(どう)と倒(たふ)れけるに
加藤(かとう)が郎等(らうとう)はしり寄(より)押(おさへ)て首(くび)を掻(かい)たりける。残(のこ)る敵(てき)は散々(さん〳〵)になつて逃行(にげゆく)を
赤星太郎兵衛(あかぼしたろべゑ)与左衛門(よさゑもん)追(おひ)かけ敵(てき)を討(うつ)こと二百三十一人と記(しる)したり扨(さて)又(また)島鶏(とうけい)
館(くわん)へ向(むか)へたる。井上 大九郎(たいくらう)鵤平治(いかるかへいち)小代下総守(こしろしもふさのかみ)の三人は勇(いさ)み進(すゝ)んで攻(せめ)かゝる清正
は籏本(はたもと)の勇兵(ゆうへい)に鉄砲(てつはう)を取持(とりもた)せ歩行立(かちたち)となして後(あと)を誥(つ)め。曳々(えい〳〵)声(こゑ)を出(いた)して攻(せめ)
入(い)らんとす征東使(せいとうし)伯寧(はくねい)はいまだ催促(さいそく)の兵(へい)も来(きた)らず。一万 余(よ)の兵(へい)を下知(けぢ)して

爰(こゝ)を大事(たいし)と防(ふせ)き戦(たゝか)ふ。清正(きよまさ)は自(みつか)ら陣頭(ちんとう)に馬(うま)を乗出(のりいだ)し兼(かね)て命(めい)じ置(おい)たる
鉄砲(てつはう)の兵に下知(げぢ)し。一 度(と)に打(うち)かけさせつゞいてどつと押(おし)かゝり。塀(へい)を二三 間(げん)打破(うちやふ)りて
喚(おめ)きさけんで突入(つきいり)ければ征東使(せいとうし)今は叶(かな)はじと剣(けん)を振(ふり)かざし一 方(はう)の血路(けつろ)を開(ひら)き
鶏関(けいくわん)の方(かた)へ逃(にげ)たりけるを小代 下総守(しもふさのかみ)。鵤平治(いかるかへいち)。井上大九郎(ゐのうへたいくらう)追(おひ)かけつゐに伯寧(はくねい)
を生捕(いけどり)縄(なは)をかけ清正(きよまさ)が前(まへ)へ引来(ひきゝた)れは清正大に歓(よろこ)ひ。扨(さて)討取(うちとる)ところの首(くび)ともを
実撿(しつけん)し人馬(にんば)の息(いき)を休(やす)めけるところに。兀良哈人(おらんかいしん)不骨木(ふこつほく)といへる者(もの)五万 余(あま)りの
兵(へい)を引。半弓(はんきう)五千 張(ちやう)を先(さき)に立(たて)是(これ)も伯寧(はくねい)が催促(さいそく)にしたがひ来(きた)りける。道(みち)にて合(かつ)
戦(せん)のよしを聞(きゝ)急(いそ)ぎ馳来(はせきた)りしが。伯寧(はくねい)擒(とりこ)となりけるを聞(きく)といへども元来(くわんらい)剛強(かうきやう)の
勇兵(ゆうへい)なればすこしもおそれず。日本人(につほんしん)を討取(うちとつ)て味方(みかた)の仇(あた)を報(ほう)せんと。八 尺(しやく)九尺に余(あま)
る大男共(おほおとことも)真黒(まつくろ)になつて寄来(よせきた)る。加藤勢(かとうぜい)是(これ)を見(み)てとても遁(のか)れぬとこと覚(かく)

悟(ご)をきはめ先(まづ)手配([て]くば)りをぞなしたりける。先手(さきて)は加藤与左衛門(かとうよざゑもん)。水野三郎衛門(みづのさふらうさゑもん)。
原田五郎左衛門(はらだこらうざゑもん)。天野助左衛門(あまのすけざゑもん)。其勢(そのせい)二千 余騎(よき)にて鎗(やり)を小膝(こひざ)にのせて。敵(てき)かゝらば
突崩(つきくづ)さんと敵陣(てきぢん)を白眼(にらん)で扣(ひか)へたり。次(つぎ)に加藤清兵衛(かとうせいべゑ)。小代下総守(こしろしもふさのかみ)。近藤四郎(こんとうしらう)
右衛門(ゑもん)。安田善助(やすだせんすけ)。に五百 余騎(よき)の先手(さきて)崩れなば入かはらんと。勇気(ゆ[う]き)をふくんで扣(ひか)へ
たり。左(ひだ)りの山(やま)の尾(を)さきには山口与惣右衛門(やまくちよそうゑもん)。斎藤立本(さいとうりうほん)。大脇治部右衛門(おほわきじぶゑもん)二千 余(よ)
人にて横槍(よこやり)を入(いれ)て敵(てき)を切崩(きり[く]つ)さんと待(まち)うけたり。三 陣(ぢん)は清正(きよまさ)の本陣(ほんぢん)なれは妙法(みやうほう)
の籏(はた)を山風(やまかぜ)に吹(ふき)なびかせ。銀(ぎん)のばれんの馬印(うましるし)を日(ひ)にかゞやかし其下(そのもと)に清正は
銀(ぎん)三 尺(じやく)の立帽子(たてえぼし)の兜(かふと)を着(ちやく)し。大兼光(おほかね[み]つ)の太刀(たち)を横(よこ)たへ例(▢▢)の大十文字(▢ほじふもんじ)の鑓(やり)を
持(もつ)ては八方(はつはう)へ眼(まなこ)を配(くば)つて扣(ひか)へたり。左右(さいふ)には木村又蔵(きむらまたぞう)なんどといへる一 騎当千(きとうせん)の勇士(ゆうし)。
二百 余人(よにん)得物(えもの)〳〵を持(もつ)て大将(たいしやう)を守護(しゆご)する有(あり)さま。実(まこと)に勇々(ゆゝ)にしくぞ見(み)へたりける

兀良哈(おらんかい)の勢(せい)五万 余人(よにん)真黒(まつくろ)になつて押(おし)かゝるを。加藤与左衛門(かとうよざゑもん)兵(へい)に下知(げぢ)して曰(いは)く。
敵(てき)を間(ま)ぢかく引寄(ひきよせ)一 度(ど)に鎗(やり)を入(いれ)よとて。備(そな)ひを真丸(まんまる)にして半弓(はんきう)を防(ふせ)ぐ用意(ようゐ)を
なして。しづまりかへつて待(まち)かけたり。其時(そのとき)左(ひだ)りの山(やま)の尾(を)ざきに扣(ひか)へたる。斎藤立本(さいとうりうほん)
山口与惣右衛門(やまくちよそうゑもん)。大脇治部右衛門(おほわきちぶゑもん)。はや合戦(かつせん)をはじめ鉄砲(てつほう)を打(うち)かけ。煙(けふり)の下(した)より
斎藤立本(さいとうりうほん)大長刀(おほなぎなた)を打振(うちふり)真先(まつさき)に馳入(はせいり)縦横(じふおう)にかけ立(たて)血戦(けつせん)す。山口(やまくち)大脇(おほわき)も続(つゞひ)て
蒐入(かけいり)相戦(あひたゝか)ふ是(これ)を見(み)て。加藤与左衛門(かとうよさゑもん)味方(みかた)に下知(けぢ)して敵中(てきちう)へ乗込(のりこみ)。勇(ゆう)を振(ふる)つて
戦(たゝか)ひける。敵(てき)は目(め)に余(あま)る大軍(だいぐん)なれば切(き)れども突(つけ)どもことともせず戦(たゝか)ふ程(ほど)に二 陣(ぢん)の
大将(たいしやう)加藤清兵衛(かとうせいへゑ)。小代下総守(こしろしもふさのかみ)も味方(みかた)をたすけて突(つい)て入(いる)。此時(このとき)清正(きよまさ)は木村又蔵(きむらまたざう)
井上大九郎(いのうへだいくらう)飯田角兵衛(いひだかくべゑ)。の三人に下知(けぢ)して。右(みき)の方(かた)にすこし小高(こだか)き所(ところ)へつか
はし。敵(てき)の横合(よこあひ)より鉄砲(てつはう)を打(うち)かけ〳〵拳下(こぶしさが)りに打(うた)せける故(ゆゑ)。兀良哈(おらんかい)の兵(へい)少(すこ)し

しらけて見へける時(とき)。清正(きよまさ)時分(じぶん)はよしと自(みづか)ら真先(まつさき)に。馬(うま)を馳(はせ)て敵中(てきちう)へ駈入(かけいり)
当(あた)るを幸(さいわ)ひ打倒(うちたふ)し。突倒(つきたふ)し働(はたら)きければ味方(みかた)の兵(へい)。何(なに)かは少(すこ)しも猶余(いうよ)す
べき我劣(われおと)らじと。八 方(はう)へ当(あた)りて戦(たゝか)ひば木村(きむら)井上(ゐのうへ)飯田(いひだ)の輩(ともがら)。是(これ)を見(み)て大将(たいしやう)
に先(さき)を越(こさ)れて残念(ざんねん)なりと。轡(くつばみ)をならべて同(おな)じく敵中(てきちう)へわつて入(いり)。兀良哈勢(おらんかいせい)日本(につほん)
にても名高(なだか)き加藤(かとう)の勇臣等(ゆうしんら)に捲立(まくりたて)られ。瞬(またゝ)くうちに五六百人 討(うた)れしかば今(いま)
は総崩(そうくづ)【惣】れとなつて引退(ひきしりぞ)くを。味方(みかた)は勝(かつ)に乗(のつ)て追討(おひうち)けるを。清正(きよまさ)は是(これ)を制(せい)し
人馬(にんば)ともに労(つか)れたれば。長追(なかおひ)なすべからずとて人数(にんず)をまとめて休息(きうそく)なして。其(その)
夜(よ)は此所(このところ)に野陣(のぢん)を張(はり)翌日(よくじつ)早天(さうてん)に手負(ておひ)たる者(もの)を中(なか)にかこひ。勢(いきほ)ひ摚々整々(とう〳〵せい〳〵)
として陣払(ぢんばらひ)をなし打立(うちたゝ)んとす此(この)瓶愈浦(へいゆほ)といへる所(ところ)は。日本(につほん)より乾(いぬゐ)に当(あた)りて雲(くも)
晴(はれ)日和(ひより)よき時(とき)は。日本(につほん)の富士山見(ふじさんみ)ゆる。此所(このところ)人家(じんか)の屋根(やね)などはみな昆布(こんぶ)にて

【右丁 籏の文字】
無妙法蓮華経

【左丁】
加藤主計頭(かとうかずへのかみ)
清正(きよまさ)兀良喰(おらんかい)に
いりて遥(はるか)に
富嶽(ふじ)を
遠望(ゑんぼう)して
衆軍(しゆうぐん)ともに
故郷(こけふ)をおもふ

こしらひ有(あり)けるなり。清正(きよまさ)は兀良哈人(おらんかいじん)の生捕(いけどり)を案内者(あんないじや)となし。近道(ちかみち)へ入(い)りて
沙塞(しやさい)といへる大川(だいが)にかゝる。此川(このかは)の向(むか)ふは兀良哈(おらんかい)の地(ち)にして后虹(こう〴〵)といふ家数(いへかず)四五百 軒(けん)
有(あり)。其村(そのむら)より大勢(おほぜい)の人(ひと)立出(たちいで)日本人(につほんじん)を見物(けんぶつ)なして居(ゐ)たりしが。其中(そのなか)より三人 進(すゝ)み
出(いで)日本勢(につほんぜい)の方(かた)をさしまねき。尻(しり)をまくりたゝきつゝ一 度(ど)にどつと笑(わら)ひけり。清正(きよまさ)
大(おほい)に腹(はら)を立(たち)。アレ射殺(ゐころ)せと下知(げぢ)すれば馬上(ばじやう)の侍(さむらひ)十 騎(き)計(ばかり)下(お)り立(たち)て。鉄砲(てつほう)を打(うち)かけ
しかども其間(そのあひ)はるかに隔(へだ)たりける故(ゆゑ)当(あた)らざれば。清正(きよまさ)案内者(あんないじや)を近(ちか)く呼(よび)此川(このかは)の
渡(わた)る瀬(せ)を聞(きゝ)。総軍(そうぐん)【惣】に下知(げぢ)して一度に川(かは)へ乗込(のりこみ)さか巻(まく)水(みず)を事(こと)ともせず。鬨(とき)を揚(あげ)
て渡(わた)しければ。兀良哈人(おらんかいじん)此(この)有(あり)さまに驚(おどろ)き蜘(くも)の子(こ)を散(ちら)すが如(ごと)く。后虹村(こう〳〵むら)へ逃込(にげこみ)
ければ清正(きよまさ)は通辞(つうじ)をつかはして言(いは)せけるは。此兀良哈(このおらんかい)の地(ち)は日本国(につほんごく)へ対(たい)し何(なん)の意(い)
趣(しゆ)もなきといへども。朝鮮(てうせん)の王子(わうじ)落来(おちきた)り給ふゆゑ追(おひ)かけ来(きた)りて。此(この)国風(こくふう)を聞(きく)に人(ひと)

強(がう)にして弓(ゆみ)をよくすといふにより。日本(につほん)の弓矢(ゆみや)のほどをを此国(このくに)へしらせんと是迄(これまで)
攻入(せめいり)。数度(すど)の合戦(かつせん)に打勝(うちかち)今 朝鮮国(てうせんこく)へかへらんとなすところ。此地(このち)の者(もの)ども大勢(おほぜい)立出(たちいで)
尻(しり)をまくりて嘲(あざけ)り笑(わら)ふこと。其(その)不 礼(れい)ゆるしがたし右三人を捕(とら)へ此方(こなた)へ渡(わた)すべし。若(もし)
渡(わた)すこと出来(いでき)ざるにおゐては。是(これ)より廿日 路(ぢ)が間(あひだ)堅横(しうおう)に責(せめ)なびけ。在々所々(さい〳〵しよ〳〵)一 宇(う)
も残(のこ)らず焼払(やきはら)ひ。一人も残(のこ)らず打殺(うちころ)すべしと云(いは)せければ。后虹(こう〳〵)の者(もの)ども大(おほい)におそれ
大勢(おほぜい)にて。彼(かの)三人を捕(とら)へ来(きた)り清正(きよまさ)の前(まへ)へ引出(ひきいだ)し。大(おほい)なるまな板(いた)に彼(かの)三人が首(くび)を
のせ。剣(けん)をあてゝ槌(つち)を振上(ふりあげ)力(ちから)にまかせて打(うつ)たりけるに。三人の首(くび)は一度(いちど)に一 間(けん)ばかり
飛(とん)だりけり。かくて此所(このところ)の老人(らうじん)とも数(す)十 人(にん)出(いで)て清正(きよまさ)を拝(はい)し羊(ひつじ)の皮(かは)百 枚(まい)進(しん)上
して不礼(ふれい)のほどを詫(わび)けれは。清正(きよまさ)大(おほい)に気色(けしき)をなをし川を渡(わた)りて。元(もと)の道(みち)に
かゝり夫(それ)より道(みち)を急(いそ)ぎて東泉城(とうせんじやう)へとかへりける。

    東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)両王子(りやうわうじ)にまみゆる事(こと)
かくて清正(きよまさ)は十月九日の晩景(ばんけい)に。東泉城(とうせんじやう)へ着(つき)しかば田守久太夫(たもりきうだいふ)前野助兵(まへのすけべ)
衛(ゑ)むかひとして出来(いできた)り。死(しゝ)たる人に逢(あふ)如(ごと)く互(たがひ)に歓(よろこ)び先(まづ)城(しろ)に案内(あんない)し。其(その)軍(ぐん)
労(らう)をなぐさめける。清正(きよまさ)はこゝにて将卒(しやうそつ)ともに鎧(よろひ)をといて休足(きうそく)なし。両王子(りやうわうじ)に
対面(たいめん)し東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)を擒(とりこ)となしたるよしを語(かた)り。召出(めしいだ)して両王子(りやうわうじ)にま
みえしむ。伯寧(はくねい)は地上(ちしやう)にひれふし涙(なみた)をながし。何(なに)かいろ〳〵と言葉(ことば)を発(はつ)す
といへども。清正(きよまさ)にはすこしもわからねば通辞(つうし)に是(これ)を尋(たづ)ねけるは自害(じがい)にても願(ねが)ふ
ことにやと問(とふ)。通辞(つうし)荅(こたへ)て左(さ)にあらず此(この)東征使(とうせいし)伯寧(はくねい)は元(もと)身(み)いやしき者なりしが
朝鮮王(てうせんわう)の御《割書:ン》ゑらみによつて大国(たいこく)を下(くだ)し給はり。武官(ぶくわん)となりて朝鮮(てうせん)八 道(だう)の
内(うち)。江原(こうげん)。黄海(ばはい)。平安(へあん)。咸鏡(はみきやん)。四 道(たう)の大将(たいしやう)を命(めい)ぜられしに。其(その)甲斐(かひ)もなく一 戦(せん)に打

まけ王子(わうし)を始(はじ)め后宮(こうくう)をやみ〳〵と。敵(てき)の手へ渡(わた)し我身(わがみ)までかく虜(とりこ)となりて。
再(ふたゝ)び龍顔(りうがん)を拝(はい)し奉ること生前(しやうぜん)の恥(はぢ)この上(うへ)なし。倭将(わしやう)少(すこ)しおそく寄(よ)せ来(きた)ら
ば触(ふれ)つかはせし。人数(にんず)を集(あつ)めて戦(たゝか)ふ程(ほど)ならばかくもろくは負(まけ)まじきに。行長(ゆきなが)清(きよ)
正(まさ)すき間(ま)なく取(とり)かけし故(ゆゑ)。かく敗軍(はいぐん)におよびしこと生々世々(しやう〳〵よゝ)の意恨(いこん)たり。せめて
討死(うちじに)なさば今 此(この)恥辱(ちじよく)はあるまじきに口おしき次第(しだい)なりと。声(こゑ)をあげて歎(なげ)
きかなしみければ。両王子(りやうわうじ)も聞召(きこめし)御 ̄ン衣(ころも)の袂(たもと)を御 ̄ン顔(かを)にあてゝ。御なみだにむせび玉
ふ。朝鮮(てうせん)の大臣(だいじん)はいふにおよばず清正(きよまさ)をはじめ。百万 騎(ぎ)の敵(てき)をもものともせぬ加(か)
藤家(とうけ)の勇士(ゆうし)どもゝ。伯寧(はくねい)が云(いふ)ところ理(ことは)りなりとて涙(なみだ)をながさぬは無(な[か])りける。かゝ
るあはれなる中(なか)に。阿波伊兵衛(あはいへゑ)。九鬼四郎兵衛(くきしろべゑ)。二人は少(すこ)しも涙(なみだ)を浮(うか)めもせず。
常(つね)の如(ごと)くにて有(あり)しかば人々(ひと〳〵)是(これ)を見て。あはれをしらぬ荒夷(あらゑびす)かなと申あへりける

時(とき)側(そば)なる者(もの)云(いひ)けるは左様(さやう)に云(いひ)給ふる。此両人(このりやうにん)は狼眼(らうがん)といふて何(なに)ほど哀(あはれ)な事にて
も。涙(なみだ)は出(いで)ぬ生(うま)れつきなり心(こゝろ)には哀(あはれ)なる事(こと)は。人々(ひと〳〵)も同(おな)じ事(こと)なりと云(いひ)ける。此後(このゝち)
朝鮮(てうせん)在陣中(ざいぢんちう)。哀(あは)れなる事三 度(ど)あつて清正(きよまさ)も涙(なみだ)を落(おと)されしかども。此両人(このりやうにん)は
少(すこ)しも落涙(らくるい)せず。こゝにおゐて人々扨(ひと〳〵さて)は狼眼(らうがん)にて有(あり)しかと。若(わか)き人々(ひと〳〵)は笑(わら)ひける
となん。去程(さるほと)に清正(きよまさ)は十月十二日 両王子(りやうわうじ)ならびに后達(きさきたち)を始(はじ)め。大臣(だいじん)都合(つがふ)二百 余(よ)
人を引(ひい)て。吉州(きつしう)まで来りて蓮下(れんが)といへるところに宿陣(しゆくぢん)せり。かゝる所(ところ)に梅天(はいてん)といふ
者(もの)二万 余騎(よき)にて梁養山(りやうやうざん)に陣(ぢん)して。外(ほか)に一万の勢(せい)をもつて清正(きよまさ)がかへる道(みち)をさへぎ
つて討(うた)んとなすよし聞(きこ)へければ清正(きよまさ)が兵士(へいし)。なが〳〵の旅(たび)には労(つか)れ殊(こと)に度々(たび〳〵)の戦(たゝか)ひ
に。手負(ておひ)は多(おほ)くいかゞはせんと評議(ひやうぎ)しける時(とき)。清正(きよまさ)は少(すこ)しもひるまず云(い)はれけるは。
明朝(みやうてう)の合戦(かつせん)には我(われ)先手(さきて)を勤(つと)むべし。横槍(よこやり)は吉村吉右衛門(よしむらきちゑもん)。出田宮内少輔(いづたくないしやういふ)。

森本義太夫(もりもとぎだいふ)仕(つかまつ)るべし。二 番備(ばんそなひ)は加藤清兵衛(かとうせいべゑ)。山口与惣右衛門(やまぐちよそうゑもん)。加藤美作(かとうみまさか)
守(のかみ)。長尾安右衛門(ながをやすゑもん)。片岡右馬允(かたおかうまのじやう)。庄林隼人(しやうはやしはやと)三 番(ばん)の陣(ぢん)は小代下総守(こしろしもふさのかみ)。佐々平左(さゝへいざ)
衛門(ゑもん)つとむべし。其外(そのほか)は両王子(りやうわうし)を警固(けいご)すべしと。手配(てくばり)をさだめける時(とき)吉村吉(よしむらきち)
左衛門(ざゑもん)進(すゝ)み出(いで)云(いひ)けるは。明日(みやうにち)の合戦(かつせん)に御 ̄ン先手(さきて)を御自身(ごじしん)になし給はんこと。御尤(ごもつとも)には候
得(え)ども昔(むかし)より大将(たいしやう)の。自(みづか)ら軍(いくさ)の荒(あら)こなしをなし給ひしこと承(うけ給)はらず。万々一(まん〳〵いち)御 ̄ン あやま
ちにても有時(あるとき)は。第一(だいゝち)日本(につほん)の弱(よわ)みとなつて渡海(とかい)の諸将(しよしやう)戦(たゝか)ひ難義(なんぎ)ならん。此義(このぎ)は決(けつし)て
しかるべからず。某(それかし)御 ̄ン先手(さきて)を蒙(かうふ)り敵兵(てきへい)何万騎(なんまんき)来(きた)るとも。弓矢八幡(ゆみやはちまん)照覧(しやうらん)あれ打(うち)
散(ちら)し申さんと。勇気(ゆうき)りん〳〵として見(み)へければ清正(きよまさ)大(おほい)に歓(よろこ)び。左(さ)らば肥前守(ひぜんのかみ)を添(そへ)
て両人(りやうにん)にてつとむべしとて。夫(それ)より兵粮(ひやうらう)などの用意(ようい)をなし。将卒(しやうそつ)ともに支度(したく)を
とゝのへ明(あく)れば十月廿日の早天(さうてん)に。備(そな)ひを乱(みだ)さず押出(おしいだ)し梁養山(りやうやうさん)近(ちか)く来(きた)りける

に案(あん)の如(ごと)く梅天(ばいてん)二万 余騎(よき)をしたがひ。別(べつ)に一万 計(ばかり)の兵(へい)を孟武伯(もうぶはく)といへる者(もの)につ
けて。日本人(につほんじん)の来(きた)る道筋(みちすぢ)へ出(いだ)し置(おき)日本勢(につほんぜい)の帰路(きろ)を留(とゝ)めしむ。孟武伯(もうぶはく)は一万 余(よ)
騎(き)を三 手(て)に分(わ)け。半弓(はんきう)千五百ほど真先(まつさき)に出(いだ)し備(そな)ひを乱(みだ)さずかゝり来(きた)る。加(か)
藤(とう)が先陣(せんぢん)吉村(よしむら)は少(すこ)しも騒(さわ)がず。鉄砲(てつほう)の兵(へい)を先(さき)に出(いだ)し敵(てき)より射(い)かくる矢(や)を
しころを傾(かたむ)けてしのぎ。敵(てき)を間近(まちか)く引寄(ひきよせ)一 度(ど)にどつと放(はな)ちかくれば。群衆立(むらがりたつ)
たる敵兵(てきへい)ども。忽(たちま)ち二三百人 打倒(うちたふ)す朝鮮勢(てうせんぜい)色(いろ)めき立(たつ)て見(み)へける時(とき)。吉村(よしむら)は
時分(じぶん)はよきぞ槍(やり)を入(いれ)よと下知(げぢ)をなし。自(みつか)らも真先(まつさき)に馳入(はせいり)八 方(はう)に当(あた)りて戦(たゝか)ひは
其手(そのて)の兵士(へいし)。何(なに)かは少(すこ)しも猶予(いうよ)すべき黒煙(くろけふり)を踏立(ふみたて)血戦(けつせん)す。朝鮮勢(てうせんぜい)大軍(たいぐん)な
りといへども加藤が兵(へい)のために捲(まく)り立られ。四五町 計(ばかり)追(おひ)立られける時。清正(きよまさ)は
馬上(ばしやう)に立上(たちあが)り大音(だいおん)あげ。此図(このづ)をぬかすな者共(ものども)と采(さい)打振(うちふつ)て下知をなす。吉(よし)

村吉右衛門(むらきちゑもん)はいかにもして大将(たいしやう)に組(くま)んと。東西(とうざい)に馳廻(はせまは)り南北(なんほく)に駈通(かけとほ)りて戦(たゝか)
ひける折柄(をりから)。朝鮮人(てうせんじん)の中(なか)より山春(さんしゆん)といへる者(もの)追来(おひく)る。日本人(につほんしん)を打払(うちはら)ひ突払(つきはら)ふ
て退(しりぞく)を。吉村(よしむら)きつと見(み)て能敵(よきてき)こそと一 文字(もんじ)に馳来(はせきた)り打(うつ)てかゝる。山春(さんしゆん)も勇(ゆう)を
振(ふる)つて戦(たゝか)ひしが互(たがひ)に面倒(めんだふ)なりと。得物(えもの)を投捨(なげすて)引組(ひきくみ)しが忽(たちま)ち両馬(りやうば)か間(あひ)に摚(どう)
と落(おち)。上(うへ)を下(した)へと捻合(ねぢあひ)けるところへ。阿波伊兵衛(あはいへゑ)駈来(かけきた)りつゐに山春(さんしゆん)が首(くび)を
打落(うちおと)しける。此時(このとき)梅天(ばいてん)が二万 騎(き)山(やま)の上(うへ)より烈風(れつふう)の如(ごと)くにおとし来(きた)り。加藤(かとう)
勢(ぜい)に突(つき)かゝるを。横合(よこあひ)に備(そな)ひたる山岡肥前(やまおかひせん)。森本義太夫(もりもとぎだいふ)。出田宮内少輔(いづたくないしやういふ)。是(これ)
を見(み)て急(いそ)ぎ備(そな)ひを操出(くりいだ)し。鉄砲(てつはう)を百 余挺(よてう)つるべ打(うち)に放(はな)ちかけ。煙(けふり)の下(した)より
どつと喚(おめい)て駈入(かけいれ)ば。二 陣(ぢん)なりける加藤清兵衛(かとうせいべゑ)。庄林隼人(しやうばやしはやと)。山口与惣右衛門(やまくちよそうゑもん)。長尾(ながを)
安右衛門(やすゑもん)。加藤美作(かとうみまさか)。片岡馬允(かたおかうまのじやう)。梅天(はいてん)が横合(よこあひ)より無二無三(むにむさん)に鑓(やり)を入(いれ)たりける。

【右丁】
吉村吉(よしむらきち)《振り仮名:右エ門|ゑもん》
朝鮮(てうせん)の勇将(ゆうしやう)
山春(さんしゆん)と組打(くみうち)
して両馬(りやうば)が間(あひ)
に摚(どう)とおつ
阿波伊兵衛(あはいへゑ)
駈来(かけきた)つて
 山春(さんしゆん)をうつ

【左丁 挿絵だけ】

これによつて朝鮮勢(てうせんぜい)大軍(たいぐん)なりといへども。加藤勢(かとうぜい)の必死(ひつし)の太刀先(たちさき)に捲(まく)り立(たて)
られ。色(いろ)めき立(たつ)て見(み)へける時(とき)三 陣(ぢん)にひかへし。小代下総(こしろしもふさ)。佐々平左衛門(さゝへいざゑもん)。轡(くつばみ)をな
らべて突(つい)て入(いり)。清正(きよまさ)が旗本(はたもと)よりも木村又蔵(きむらまたぞう)。赤星太郎兵衛(あかぼしたろべゑ)。飯田角兵衛(いひだかくべゑ)な
どゝいへる一 騎(き)當千(たうせん)の勇士(ゆうし)。得物(えもの)〳〵を振(ふる)つて敵中(てきちう)へ駈入(かけいり)。当(あたる)をさいわひしのぎを
削(けづ)り火花(ひばな)をちらして戦(たゝか)ふほどに。梅天(はいてん)が二万 余騎(よき)竪横(しふおう)に駈立(かけたて)られ。討(うた)るゝ者(もの)多(おほ)
かりければつゐにかなはず。梁養山(りやうやうさん)の上(うへ)へ逃上(にげあが)る。加藤勢(かとうせい)続(つゞひ)て追(おひ)あがらんとなし
けるを。清正(きよまさ)これをかたく制(せい)し。加藤与左衛門(かとうよざゑもん)。天野助左衛門(あまのすけざゑもん)。を後殿(しんがり)となし
てしづ〳〵と物(もの)わかれして橘州(きつしう)の城(しろ)へと進(すゝ)みけるに。永興府(えいきやうふ)にのこり居(ゐ)し鍋(なべ)
島加賀守(しまかゞのかみ)。相良宮内少輔(さがらくないしやういふ)一万五千 余騎(よき)にて此橘州(このきつしう)まで。迎(むか)ひとして出張(しゆつちやう)し
て居(ゐ)たりけるが。今(いま)清正(きよまさ)がかへり来(きた)ると聞(きゝ)て大(おほい)に歓(よろこ)び。早速(さつそく)城(しろ)に入(い)れて互(たかひ)に

手(て)に手(て)を取(とり)かはし涙(なみた)をながして鍋島(なべしま)申されけるは御辺(ごへん)と永興(えいきやう)に別(わか)れ
しより四ヶ月(げつ)が間(あひだ)行衛(ゆくゑ)しれず音信(おとづれ)もなければ扨(さて)は討死(うちじに)なし給へけるかと
明暮(あけくれ)案事(あんじ)わづらひしに先達(さきだつ)て兀良哈(おらんかい)にて両王子(りやうわうじ)をはじめ多(おほ)くの大臣(だいじん)を
生捕(いけとり)給へしとの日本(につほん)へ御注進(ごちゆうしん)の使(つかひ)に承(うけ給は)り漸々(やう〳〵)案心(あんしん)いたしたりさるにても此(この)
度(たび)彼地(かのち)にての御戦功(ごせんこう)天晴(あつばれ)さぞかしとおもひやらるゝなりと歓(よろこ)ばれければ清正(きよまさ)も
兀良哈(おらんかい)表(おもて)の合戦(かつせん)よりして両王子(りやうわうじ)を擒(とりこ)となしたることなどを語(かた)り両王子(りやうわうじ)に
鍋島(なべしま)相良(さがら)の両将(りやうしやう)を謁(ゑつ)せしめければ両将(りやうしやう)も清正(きよまさ)が働(はたら)きを感(かん)じ扨(さて)両将(りやうしやう)清正(きよまさ)に
向(むか)ひ御《割書:ン》身(み)を入(いれ)まゐらせんために一ッの城(しろ)をきづき置(おき)候へば夫(それ)へ御《割書:ン》入(いり)あつて御休足(こきうそく)あ
るへしとて家来(けらい)に案内(あんない)させければ清正(きよまさ)は大(おほい)に歓(よろこ)び其意(そのい)にまかせ兵(へい)を引(ひい)て
新城(しんじやう)に入(いつ)て長途(ちやうど)の労(つか)れを休(やす)めける此地(このち)は殊(こと)の外(ほか)豊饒(ぶにやう)の地(ち)にして洛陽(らくやう)にも

おとらぬ地(ち)なれば此所(このところ)より案辺(あんへん)まで十三日 路(ぢ)が間(あひた)清正(きよまさ)が所領(しやうりやう)として米(へい)
穀(こく)などをはこばせ。軍用(くんよう)に備(そな)ふ扨(さて)まだ所々(しよ〳〵)に城(しろ)をかまへて是(これ)を守(まも)らしむ先(まづ)
橘州(きつしう)《割書:揚(やう)州の|ことなり》の城(しろ)には。加藤清兵衛(かとうせいべい)片岡右馬允(かたおかうまのしう)加藤伝蔵(かとうでんさう)永野三郎左衛門(ながのさふろさへもん)
原田五郎右衛門(はらだころへもん)天野(あまの)助 左衛門(さゑもん)山口(やまち)与 惣右衛門(そうへもん)。七人を大将(たいしやう)として兵千
五百人 入置(いれおき)たり蔵荘(ぞうしやう)には近藤四郎左衛門(こんどうしろざもん)岡田善右衛門(おかだぜんへもん)佐々平左衛門(さゝへいざへもん)
に五百 余(よ)人を添(そへ)て守(まも)らしむ。金(きん)山には加藤与左衛門(かとうよさへもん)出田宮内少輔(いづたくないしよふ)井上大(いのう[へ]たい)
九郎五百 余騎(よき)にて是(これ)を守(まも)る律貢(りつこう)といへる所には。小代下総(こしろしもふさ)大脇次郎左衛門(おゝはきしろざへもん)
長尾安(なかおやす)右衛門に五百人の兵(へい)をさづけて守(まも)らしむ。鳳井(ほうせい)には吉村吉右衛門(よしむらきちへもん)堤権(つゝみごん)右
衛門(へもん)。手勢(てせい)を引て是(これ)を守(まも)る。清正(きよまさ)は蝗承(こうしやう)の地に城(しろ)を構(かま)へて在陣(ざいぢん)す。鍋島(なべしま)もと
原分(げんふん)水。高原(こうけん)。永興定平(えいきやうていへい)。供原(こうげん)。咸興(はみほん)等(とふ)へ家臣(かしん)を分(わ)けて守(まも)らしむ。扨(さて)清正(きよまさ)は

人数配(にんすくば)りも終(おは)りければ。文禄(ふんろく)二 年(ねん)二月 下旬(げじゆん)までは。此所(このところ)に有(あつ)て遠近(ゑんきん)に威(ゐ)を
ふるひ民(たみ)に仁(じん)を施(ほどこ)しけば。人民(しんみん)大(おほい)になつきける事(こと)。是(これ)みな清正(きよまさ)仁義(じんき)を守(まも)る
徳(とく)にして。人(ひと)のおよばざるところなり。
   黒田長政(くろだながまさ)が先勢(さきぜい)狼川(らうせん)にて軍(いくさ)の事(こと)
黒田甲斐守長政(くろたかひのかみなかまさ)は小西行長(こにしゆきなが)が後(あと)を詰(つめ)。葛原(かつげん)といへる所(ところ)に陣(ぢん)を取(とり)。小西(こにし)に続(つゞひ)
て平壌城(へくしやくじやう)へ乗入(のりい)らんとひかへたり。長政(ながまさ)が先手(さきて)栗山備後(くりやまびんご)。後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)。黒田(くろた)
惣右衛門(そうゑもん)。衣笠因幡(きぬがさいなば)等(とう)その勢(せい)二千七百 余騎(よき)にて。狼川(らうせん)といふ所(ところ)に陣屋(ぢんや)をしつら
ひ。総大将(そうたいしょう)【惣】の下知(げぢ)を待(まつ)たりける。此時(このとき)朝鮮國王(てうせんこくわう)の命(めい)を受(うけ)。忠清道(ちくしやくたい)の節度使(せつとし)李(り)
時言(じげん)といへる者(もの)。平安(へあん)咸鏡(はみきやん)両道(りやうだう)の落武者(おちむしや)なんどを集(あつ)め。兵(へい)五万 計(ばかり)を引(ひい)て狼(らう)
川(せん)に陣(ぢん)したる。長政(ながまさ)が先勢(さきぜい)を討散(うちゝら)さんと。六月二日の夜(よ)ひそかに川(かは)を越(こえ)。翌(よく)三

日(か)の東雲(しのゝめ)に老翁山(らうおうざん)を打越(うちこし)て。狼川(らうせん)さして押寄(おしよす)る。黒田(くろだ)が勢(せい)大(おほい)におどろきて
敵(てき)の有(あり)さまを見(み)てけるに。李時言(りじげん)が四万 余騎(よき)の軍勢(ぐんぜい)。大浪(おほなみ)のわくが如(ごと)くに押(おし)
来(きた)る。黒田勢(くろだぜい)はわづか二千七百 余騎(よき)にて。此大軍(このたいぐん)に蒐合(かけあは)せべきやうなければ。早(はや)く
長政(ながまさ)へ注進(ちゆうしん)なして援兵(ゑんへい)を乞(こは)んと。衣笠因幡(きぬかさいなば)。黒田惣右衛門(くろだそうゑもん)。など相談(さうだん)なして連(れん)
状(じやう)をしたゝめ。早走(はやはし)りの者(もの)五人を撰(ゑら)み出(いだ)し。此状(このじやう)を葛原(かつげん)へ持参(ぢさん)すべしと命(めい)じ。
けるが。未(いま)だ栗山備後(くりやまびんご)。後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)。の両人勢(りやうにんせい)の手配(てくば)りを下知(げぢ)して居(ゐ)たるゆゑ。
印形(ゐんぎやう)をすへざれは。栗山備後(くりやまびんご)の方(かた)へ連状(れんじやう)を持(もた)せつかはし。印形(ゐんぎやう)すへらるべしと云(いは)せ
ければ。備後(びんご)承知(しようち)せりとて其状(そのじやう)を開(ひら)き見(み)るに。
     急度(きつと)注進(ちゆしん)仕(つかまつり)候 敵(てき)夜中(やちう)に川(かは)を越(こし)此方(こなた)の陣所(ぢんしよ)へ取懸(とりかゝ)り申候 間(あひだ)
     少々(しやう〳〵)御人数(ごにんず)出(いだ)され後詰(ごづめ)《振り仮名:被遊可被下|あそばされくたさるべく》候 恐惶謹言(きやうくわうきんげん)

とぞ書(かい)たりける故(ゆゑ)。栗山是(くりやまこれ)にては文言(もんごん)あしく候へば。書直(かきなを)し申べしとて其状(そのじやう)をかへ
しければ。衣笠(きぬがさ)等(とう)しからば其方(そなた)にて書(かき)給へと有(あり)しかば。備後(びんご)は床几(しやうぎ)にかゝりながらに
筆(ふで)を取(とつ)てしたゝめける。其文(そのぶん)にいはく
    急度(きつと)申 上(あげ)候 敵(てき)夜中(やちう)に川(かは)を越(こえ)此方(こなた)の陣(ぢん)へ取懸(とりかゝ)り申候 乍併(しかしながら)
    此地(このち)の義(ぎ)は御《割書:ン》意安(こゝろやす)く思召(おぼしめさ)るべく候 恐惶謹言(きやうくわうきんげん)
と書(かき)なをしみな〳〵連印(れんゐん)して葛原(かつげん)の本陣(ほんぢん)へつかはし。扨(さて)二千七百 余騎(よき)を二
備(そなひ)となし。一 手(て)は栗山(くりやま)。衣笠(きぬがさ)。大将(たいしやう)となり一 手(て)は。後藤(ことう)。毛利(もり)。是(これ)を司(つかさど)り将卒(しやうそつ)とも
に討死(うちじに)と覚悟(かくご)をなし。敵(てき)の大軍(たいぐん)に少(すこ)しもおそるゝ色(いろ)なく。李時言(りじげん)の寄(よす)るを
待(まち)かけたり。朝鮮勢(てうせんぜい)は日本勢(につほんぜい)のすくなきを見(み)て。大(おほい)にあなどり備(そなひ)も立(たて)ず
どつと喚(おめい)て突(つき)かゝるを。黒田勢(くろだぜい)は兼(かね)て期(ご)したる事(こと)なれば。五百 挺(てう)の鉄砲(てつぱう)をつるべ

打(うち)に放(はな)ちかくれば先(さき)に進(すゝ)みし朝鮮勢(てうせんせい)やにはに四五百人 打倒(うちたふ)され進(すゝ)み兼(かね)て
見(み)へたるところへ後藤(ごとう)が一 手(て)の勢(せい)横合(よこあひ)より備(そなひ)を操出(くりいだ)し是(これ)も同(おな)じく鉄砲(てつはう)を
放(はな)ちかくれば李時言(りじけん)が兵(へい)的(まと)になつて打倒(うちたふ)されける故(ゆゑ)四度路(しどろ)になつて崩(くづ)れかゝる
栗山(くりやま)衣笠(きぬがさ)得(え)たりや応(おう)と敵中(てきちう)へ駈入(かけいれ)は後藤(ことう)毛利(もり)が勢(せい)も何(なに)かは以(もつ)て猶予(いうよ)すべき
我(われ)劣(おと)らじと突(つい)て入(いり)右(みぎ)に当(あた)り左(ひだり)を突(つい)て千変万化(せんへんばんくわ)に手(て)を砕(くだ)き𨭚(しのぎ)を削(けづ)り命(いのち)を
羽毛(うまう)の軽(かろ)きに比(ひ)し只討死(たゞうちじに)と覚悟(かくご)をなし血戦(けつせん)す李時言(りじげん)大軍(たいぐん)なりといへども
馬(うま)の足(あし)を立(たて)兼(かね)けるを栗山(くりやま)後藤(ごとう)は大軍(たいぐん)の中(なか)を東西(とうざい)に駈廻(かけまは)りひとへに大将(たいしやう)に組(くま)んと
働(はたら)きけるに了得(さすが)の大軍(たいぐん)も是(これ)がために捲(まく)り立(たて)られ惣崩(そうくづ)れとなつて散乱(さんらん)し大川(おほかは)
へ追(おひ)ひたされ命(いのち)を落(おと)す者(もの)数(かず)しれず李時言(りじげん)も崩(くづ)るゝ味方(みかた)に引立(ひきたて)られ川(かは)を
越(こえ)て遁(のが)れ行(ゆく)黒田勢(くろだぜい)勝(かつ)に乗(のつ)つて追(おひ)かけけるを栗山(くりさま)【ママ】後藤(ことう)これを制(せい)し大軍(たいぐん)は

追(お)ふことなかれとて。軽(かる)く兵(へい)を引上(ひきあげ)もとの陣所(ぢんしよ)へ引取(ひきとり)ける。今日(こんにち)の合戦(かつせん)大敵(たいてき)といひ
つゞく味方(みかた)はなし。万死一生(ばんしいつしやう)の大事(だいじ)なりしを。栗山(くりやま)。後藤(ごとう)。衣笠(きぬがさ)。毛利(もり)。黒田(くろだ)。が輩(ともがら)手(て)
を碎(くだ)き大軍(たいくん)を切崩(きりくづ)しけること。比類(ひるひ)なき働(はたら)きなりと感(かん)ぜぬ者(もの)はなかりける。栗山備(くりやまびん)
後(ご)は。左(ひだ)りの高股(たかもゝ)右(みぎ)の小臂(こひぢ)内甲(うちかぶと)四ヶ所(しよ)ほど手(て)を負(おひ)たり。其外(そのほか)将卒(しやうそつ)ともに三四ヶ所(しよ)づゝ
手(て)を負(おは)ざるはなかりける。かくて又(また)黒田長政(くろだながまさ)は葛原(かつげん)に陣(ぢん)して居(ゐ)られけるところに。狼川(らうせん)
よりの注進(ちゆうしん)を聞(きく)とひとしく。兵(へい)を引率(ゐんそつ)し揉(もみ)にもんで馳着(はせつき)きかど。早(はや)合戦(かつせん)もすみて味(み)
方(かた)の手負(ておひ)などを療治(れうぢ)なして居(ゐ)たるところなれば。大(おほい)に歓(よろこ)び直(たゞち)に栗山(くりやま)が陣所(ぢんしよ)に入(い)りて
申されけるは。何(なに)とて卒爾(そつじ)に合戦(かつせん)を好(この)み候やと云(いは)れける時(とき)。備後(びんご)は手負(ておひ)たる故(ゆゑ)
傍(かたはら)に寄(より)かゝりて居(ゐ)たりしが。眼(まなこ)を怒(いか)らしながら。敵(てき)押寄(おしよせ)候につき合戦(かつせん)仕(つかまつり)候と返(へん)
荅(たふ)し。不興氣(ふけうげ)なる体(てい)なりけるに長政(ながまさ)涙(なみだ)をながし。左様(さやう)に立腹(りつふく)は尤(もつとも)ながら卒(そつ)

【右丁】
黒田長政(くろだながまさ)
味方(みかた)の手負(ておひ)を
見廻(みまは)りて
あはれむ図(づ)

【挿絵中の文字】
正八幡大菩薩

【左丁 挿絵 文字無し】

爾(じ)の合戦(かつせん)なして。万一(まんいち)其方(そのほう)ども討死(うちじに)などなすならば此(この)長政(ながまさ)を誰(たれ)か補佐(ほさ)すべき夫(それ)
ゆゑに申せしなり。四 万(まん)に余(あま)る大敵(たいてき)を纔(わづか)に二千 余(よ)の小勢(こぜい)にて打破(うちやぶ)りたる働(はたら)き。今(いま)
にはじめぬ事(こと)ながら比類(ひるひ)なき手柄(てがら)なり。必(かなら)ず長政(ながまさ)か言葉(ことば)を心(こゝろ)にかくることなかれ
とて。それより手負(ておひ)の小屋(こや)〳〵を見廻(みまは)りて。また栗山(くりやま)が小屋(こや)へかへられける時(とき)。先手(さきて)
の将(しやう)みな〳〵来(きた)りて合戦(かつせん)の物語(ものがた)りなどしけるに。黒田惣右衛門(くろだそうゑもん)注進状(ちうしんじやう)書(かき)なをしの
ことを申 出(いだ)しければ。長政(なかまさ)何故(なにゆゑ)書(かき)なをし候やと尋(たつね)られけるに。栗山(くりやま)さん候 敵(てき)は四 万(まん)に
余(あま)る大軍(たいぐん)。味方(みかた)は二千 計(ばかり)の小勢(こぜい)ゆゑなか〳〵勝(かつ)べき戦(たゝか)ひならねば。只(たゞ)討死(うちじに)と覚悟(かくご)
をなし候へば。あと〳〵にて黒田(くろだ)の者(もの)ども死(し)すべき軍(いくさ)に。加勢(かせい)をたのみしなどゝ云(いは)れ
んことの口(くち)おしさに。したゝめなをし此地(このち)の事(こと)は御《割書:ン》心(こゝろ)やすかるべしと申上候。また仮令(たとへ)君(きみ)
加勢(かせい)をなし給はんにも。此所(このところ)より葛原(かつげん)まて九 里(り)の行程(ぎやうてい)を注進(ちゆうしん)なし。夫(それ)より御人(こにん)

数(ず)を出(いだ)し給ひて。また九 里(り)の道(みち)を駈着(はせつき)給はり。往返(おうへん)十八 里(り)の道(みち)を馳(はせ)る間(ま)もあれば時(じ)
刻(こく)うつりて。なか〳〵合戦(かつせん)の間(ま)に合(あひ) 申さゞれば右(みぎ)の如(ごと)く申上しなりと云(いひ)けれは。長政(ながまさ)を始(はじ)
め将卒(しやうそつ)ともにみな感涙(かんるい)をながしける。此度(このたび)の戦(たゝか)ひに栗山(くりやま)が家人(げにん)。山本甚太夫(やまもとぢんたいふ)。津(つ)
田才蔵(ださいざう)栗山甚太郎(くりやまぢんたらう)。池田久兵衛(いけだきうべゑ)。などをはじめ十二三人 多(おほ)くの敵(てき)を討取(うちとり)。手柄(てがら)を
なす後藤又兵衛(ごとうまたべゑ)が家人(げにん)にも。古沢(ふるさは)。金馬(かなま)。等(とう)八九人も高名(かうみやう)をなしければ。それ〳〵
に褒美(ほうび)を与(あた)へられて。その軍労(ぐんらう)をなぐさめられける。
   小早川隆景(こはやかはたかゝげ)晋州城(しんしうじやう)をかこむ事(こと)
爰(こゝ)に又(また)小早川隆景(こはやかはたかゝげ)は。朝鮮(てうせん)の王城(わうじやう)に入(いつ)て諸将(しよしやう)と会(くわい)し。評定(ひやうちやう)の上(うへ)平壌(へくしやく)へ打入(うちい)らん
と其(その)用意(ようい)なしける時(とき)。晋州(しんしう)へ籠(こも)りたる王僧林(わうそうりん)多(おほ)くの兵(へい)を集(あつ)め。釜山浦(ふさんかい)の日本(につほん)
勢(せい)を攻(せめ)んとするよし聞(きこ)へければ。さらば先(まづ)晋州城(しんしうじやう)を責(せむ)べしとて。総大将(そうたいしやう)【惣】毛(もう)

利輝元(りてるもと)申 渡(わた)され。目付(めつけ)として糟谷内膳生(かすやないぜんのかみ)。新庄新三郎(しんじやうしんさふらう)。太田飛彈野守(おほたひだのかみ)。をさし添(そへ)
られ。小早川隆景(こはやかはたかゝけ)。立花宗茂(たちはなむねしげ)。久留米侍従秀包(くるめじじうひでかね)。高橋筑前(たかはしちくせん)。二万五千 余騎(よき)各(おの〳〵)
手勢(てぜい)を引(ひい)て。晋州城(しんしうじやう)へと進(すゝ)みける小早川(こはやかは)は諸将(しよしやう)に先立(さきたち)。汗馬(かんば)を早(はや)め急(いそ)きけり。
かくて牧使(ほくし)王僧林(わうそうりん)は。金山(きんさん)の麓(ふもと)に柵(さく)をふりて一万 余(よ)の勢(せい)を引(ひい)て。此(この)ところに出張(しゆつちやう)し
て待(まち)かけける。小早川(こはやかは)が先手(さきて)高山主殿助(たかやまとのものすけ)。栗谷四郎兵衛(くりやしろべゑ)。三千 余騎(よき)にて進(すゝ)みけるが。
はしなくこゝへ来(き)かゝりければ。牧使(ぼくし)が兵(へい)は待(まち)もふけたることなる故(ゆゑ)。所々(ところ〳〵)に立(たち)わかれて
矢(や)だねをおしまず。さし詰(つめ)引(ひき)つめ散々(さん〳〵)に射(ゐ)る。高山(たかやま)。栗谷(くりや)が兵(へい)はかゝることゝは夢(ゆめ)
にもしらざれば。色(いろ)めき立(たつ)て騒(さは)ぐところを。一万 余人(よにん)の牧使(ぼくし)が兵(へい)咄(どつ)と喚(おめい)て切(きつ)て入(いり)
日本勢(につほんぜい)しばしが程(ほど)は戦(たゝか)ひしが。大軍(たいぐん)に揉立(もみたて)られ一 度(ど)に崩(くづ)れて引退(ひきしりぞ)く。牧使(ぼくし)が勢(せ▢)【せいヵ】
勝(かつ)に乗(のつ)て追来(おひきた)る事(こと)甚(はなは)だ急(きふ)なれば。味方(みかた)多(おほ)く討(うた)れける故(ゆゑ)。栗谷(くりや)が勢(せい)の中(なか)より野(の)

島掃部(じまかもん)白母衣(しろほろ)かけて。大鍬形(おほくわかた)打(うつ)たる兜(かぶと)を着(ちやく)し大身(おほみ)の鎗(やり)を携(たづさ)へ取(とつ)てかへし。追来(おひく)
る敵(てき)を忽(たちま)ち五六 騎(き)突殺(つきころ)し。勇(ゆう)を振(ふる)つて防(ふせ)ぎ戦(たゝか)ふ野島(のじま)を討(うた)せじと。村上河内守(むらかみかはちのかみ)。木(き)
梨平左衛門(なしへいざゑもん)。同(おな)じく返(かへ)し合(あは)せ防戦(ぼうせん)す。されども敵(てき)は大軍(たいぐん)味方(みかた)は小勢(こぜい)にて。殊(こと)に崩(くづ)
れ立(たつ)たることなれば。右往左往(うわうさわう)に敗走(はいさう)す野島(のじま)。村上(むらかみ)。木梨(きなし)の三人。三四 度(たび)かへし合(あは)せて
引退(ひきしりぞ)く。高山(たかやま)栗谷(くりや)も是非(ぜひ)なく五六 町(ちやう)退(しりぞい)て主従(しゆう〴〵)六 騎(き)にて馬(うま)より下(お)り立(たち)。急(いそ)ぎ本陣(ほんぢん)
へ注進(ちゆうしん)す。隆景(たかゝけ)すこしも騒(さは)かず兵(へい)に下知(げぢ)して。汗馬(かんば)に鞭(むち)を加(くわ)へて馳(はせ)ける故(ゆゑ)。御《割書:ン》横目(よこめ)太(おほ)
田(た)。糟谷(かすや)。新庄(しんしやう)も馬(うま)を馳(はせ)て進(すゝ)みける故(ゆゑ)。王僧林(わうそうりん)は遥(はるか)にこれを見(み)て。急(いそ)ぎ兵(へい)をまとめ
て金山(かなやま)へ引返(ひきかへ)しける。隆景(たかゝけ)が旗本(はたもと)の先手(さきて)。井上五郎兵衛(ゐのうへころべゑ)備(そなひ)を乱(みた)さず鬨(とき)を作(つく)り。
鉄砲(てつはう)を打(うち)かけ責登(せめのぼ)る。隆景(たかゝけ)は旗本勢(はたもとせひ)【「せい」とあるところ】を引(ひい)て小山(こやま)の有(あり)けるを幸(さいわ)ひと。是(これ)に上(あが)りて
陣(ぢん)を取(とり)。敵(てき)山(やま)を下(くだ)らば其後(そのうしろ)を討(うた)んとひかへたり。太田飛騨守(おほたひだのかみ)。新庄(しんじやう)。糟谷(かすや)は。西(にし)の方(かた)の

横合(よこあひ)より責登(せめのぼ)る。王僧隣(わうさうりん)が勢(せい)も必死(ひつし)となつて追下(おひくだ)し追上(おひあげ)られて戦(たゝか)ふこと夥(おひたゞ)
し。井上(ゐのうへ)か勢(せい)の中(なか)より深野平右衛門(ふかのへいゑもん)。佐世勘兵衛(さよかんべゑ)。尾島丹治(おじまたんぢ)。早見式部(はやみしきぶ)。等(とう)各(おの〳〵)
得物(えもの)〳〵を携(たづさ)へ。喚(おめ)き叫(さけ)んで突登(つきのほ)る此時(このとき)栗谷五郎兵衛(くりやごろべゑ)。高山主殿助(たかやまとのものすけ)の両人(りやうにん)は
主従(しゆう〳〵)纔(わづか)七八 騎(き)なれども。はじめの合戦(かつせん)に負(まけ)しことを無念(むねん)におもひ。いかにもして牧使(ぼくし)
の旗本(はたもと)へ切入(きりいり)。王僧隣(わうそうりん)と組(くま)んと主従(しゆう〳〵)心(こゝろ)を一ツにして。牧使(ほくし)が旗本(はたもと)を目(め)がけ轡(くつはみ)を双(なら)べ
死(しに)ものくるひに切(きつ)て入(いり)。当(あた)るを幸(さいわ)ひ切伏(きりふせ)薙伏(なぎふせ)七 転(てん)八 倒(たふ)して働(はたら)きける。是(これ)によつて牧使(ほくし)
が旗本(はたもと)四度路(しとろ)になつて見(み)へける時(とき)。隆景(たかゝげ)味方(みかた)に下知(げぢ)して総(そう)【惣】かゝりに攻(せめ)かゝる。こゝに
おゐて朝鮮勢(てうせんぜい)つゐにかなはずして。総(そう)【惣】崩(くづ)れとなつて敗走(はいそう)す。栗谷四郎兵衛(くりやしろへゑ)は牧(ぼく)
使(し)に逢(あは)んと敵中(てきちう)を駈廻(かけまは)りけれとも出合(いであは)す。逃(にぐ)る敵(てき)を追(おひ)かけ東(ひがし)の峯(みね)へ来(きた)りしに。百
人 計(ばかり)の朝鮮人(てうせんじん)。一 ̄ト かたまりになつて落行(おちゆく)を四郎兵衛(しろべゑ)。これを見(み)て牧使(ぼくし)ならんかと

心(こゝろ)に歓(よろこ)び驀地(まつしくら)に馳出(はせいだ)し。敵中(てきちう)へ切(きつ)て入(いり)敵(てき)四五人 切(きつ)て落(おと)し王僧隣(わうそうりん)をさがしけれども
此中(このうち)に有(あら)ざれば詮方(せんかた)なく主従(しゆう〴〵)六 騎(き)敵(てき)數多(あまた)討取(うちとつ)て隆景(たかゝげ)の手(て)へ引退(ひきしりぞ)きける。扨(さて)も
隆景(たかゝげ)は備(そなひ)を乱(みだ)さず金山(かなやま)へ押上(おしあが)りける故(ゆゑ)。朝鮮勢(てうせんぜい)つゐに打負(うちまけ)晋州(しんしう)さして引退(ひきしりぞ)く
続(つゞい)て攻入(せめいる)べしと勇(いさ)みけるを。隆景(たかゝげ)は智勇兼備(ちゆうけんび)の老将(らうしやう)なればかたく制(せい)して。大(たい)
嶮(けん)を経(へ)ての合戦(かつせん)は実(じつ)に大事(だいじ)の勝負(しやうぶ)ゆゑ。深入(ふかいり)して味方(みかた)を損(そん)ずべからすとて。
陣(ぢん)を張(は)り物見(ものみ)を出(いだ)して晋州城(しんしうじやう)の動静(やうす)を聞(きか)しむるに五万 余(よ)の大軍(たいぐん)にて用(よう)
心(じん)きびしく守(まも)りけるよしなれば。隆景(たかゝげ)も陣(ぢん)をかたくなして日々(ひゞ)城下近辺(じやうかきんへん)を
放火(はうか)して。兵威(へいゐ)をしめし対陣(たいぢん)して有(あり)けるに。王城(わうじやう)に有(あり)ける総(そう)【惣】大将(たいしやう)秀家(ひでいへ)三 奉行(ぶぎやう)
より使(つかひ)来(きた)りて。晋州表(しんしうおもて)を引払(ひきはら)ひ王城(わうじやう)より五 里(り)隔(へだ)たる。開城府(かせんふ)といへる所(ところ)に戸田(とだ)
民部少輔(みんふしやういふ)在城(ざいじやう)しけるが。入(い)りかはり申べきよし云越(いひこし)けるにつき。隆景(たかゝげ)は兵(へい)をまとめ

て引退(ひきしりぞ)き開城府(かせんふ)へ至(いた)りて戸田(とだ)と入(いり)かはり。此所(このところ)を守(まも)りて近辺(きんへん)の一 揆(き)をしつめて
武威(ぶゐ)をふるはれける。
   行長(ゆきなが)書(しよ)を朝鮮王(てうさんわう)におくる事(こと)
小西摂津守行長(こにしつのかみゆきなが)は数度(すど)の軍功(くんこう)を著(あらは)すといへども。王子(わうじ)を捕(とら)へざる事(こと)に
おゐて甚(はなは)だもつて恨(うら)みとせり。此(この)ゆゑに清正(きよまさ)と其間(そのあひだ)むつましからず。遂(つゐ)に心(こゝろ)の
隙(ひま)をなす。まことに古(いにしへ)より両雄(りやうゆう)はかならず争(あらそ)ふならい有(あり)と云置(いひおき)しは。さる事(こと)
と聞(きこ)へけり。行長(ゆきなが)もすでに平壌(へくしやく)の境内(きやうだい)に打入(うちい)り。兵共(つはもの)をしはらく屯(たむろ)し止(とゝ)めたる
に。大明(たいみん)の援兵(ゑんへい)の来(きた)れる事(こと)も近(ちか)きにありと風聞(ふうぶん)すれば。大明(たいみん)の兵(へい)来(きた)るにおゐて
は一 戦(せん)に功(こう)を成就(じやうじゆ)するが。または奮(ふる)ひ戦(たゝか)つて討死(うちじに)し。残(のこ)る名(な)を千古(せんこ)に留(とゞむ)るかの
此(この)二のものにおゐて。其運命(そのうんめい)を極(きわ)めんとおもひ定(さだ)めて。人(ひと)を王城(わうじやう)につかはし諸(しよ)

将(しやう)の方(かた)へ述(のふ)るやう。是(これ)より段々(だん〳〵)攻討(せめうつ)て鴨緑江(あふりよくこう)を打渡(うちわた)り直(たゞち)に大明(たいみん)へ打入(うちい)らん
こと最(もつと)も容易(たやす)かるべきことなり。諸将(しよしやう)もし後援(こつめ)をなし給はゝ。吾(われ)必(かなら)ず前鋒(せんほう)たら
んと云(いひ)やりける。諸将(しよしやう)は行長(ゆきなか)が使者(ししや)に対(たい)し。慶尚(けくしやく)全羅(てるら)の両道(りやうたう)の残城(さんしやう)とも固(かた)く
守(まも)りていまだ降(くだ)らす。是(これ)大敵(たいてき)前(まへ)にあるを打捨(うちすて)て。今(いま)軽々(かる〳〵)しく鴨緑江(あふりよくこう)を渡(わた)らん
とせんこと。最(もつと)も危(あやう)き事(こと)なるべししかれば籌(はかりごと)を帷幄(ゐあく)の中(うち)に運(めぐ)らして先(まづ)全羅(てるら)
道(たう)に打入(うちい)りて。これを全(まつた)く取(と)り収(おさ)めんにはと云(いひ)やりけり。行長(ゆきなか)はこれを聞(きく)より大(おほい)に怒(いか)り。
所詮(しよせん)しからば和儀(わき)をなし。朝鮮王(てうせんわう)を和談(わたん)せしめて自己(じこ)の巧作(こうさ)になすべしとて僧(そ▢)
玄蘓(げんそ)をつかはし朝鮮王(てうせんわう)李㫟(りゑん)に書(しよ)を贈(おく)り此事(このこと)をなさんとしたりける。玄蘓(げんそ)は乃(すなは)
ち行長(ゆきなが)が命(めい)に応(おう)じ。平壌(へくしやく)の北岸(ほくかん)にぞ急(いそ)ぎける。扨(さて)また平壌府(へくしやくふ)の城内(じやうない)には。倭軍(わぐん)
すでに境内(きやうだい)に攻寄(せめよ)せ。纔(わつか)に一 江(こう)の水(みつ)を隔(へた)てゝ居(ゐ)ける故(ゆゑ)諸臣(しよしん)いよ〳〵恐懼(きようく)に偪(せま)りて。ひ

【右丁】
小西《振り仮名:摂津守|つのかみ》行長(ゆきなが)
一人 諸将(しよしやう)に抜(ぬき)んじて
自己(じこ)の功(こう)を立(たて)んと
僧(そう)の玄蘓(げんそ)を使(つかひ)と
して朝鮮王 李㫟(りえん)に
書をおくり和議(わぎ)を
なさんとはかる

【左丁 挿絵のみ】

とへに王(わう)を始(はし)め大臣(たいしん)も逃仕度(にけしたく)の外(ほか)は更(さら)になかりける。咸鏡道(ゑあんたい)は加藤清正(かとうきよまさ)鍋島(なへしま)
直茂(なをしげ)等(ら)が手(て)にて。既(すで)に攻破(せめやぶ)りたりといふ事(こと)をしらずして。咸鏡(ゑあん)に落行(おちゆく)べき僉(せん)
議(き)一(いつ)にきはまれば。同知官(とうちくわん)李希得(りきとく)が曽(かつ)て永興府使(えいきやうふし)となつて。民(たみ)に恵(めくみ)ある政(まつりこと)を
なしたりし故(ゆゑ)今(いま)に国人(くにたみ)の心(こゝろ)を取得(とりえ)たりと云(いふ)をもつて。再(ふたゝ)ひ咸鏡道(ゑあんたい)の巡撿使(じゆんけんし)とな
し。兵曹郎(へいそうらう)金義元(きんきけん)を従事官(じふじくわん)となして。北道(ほくたう)に行(ゆか)しめ皇妃(くわうひ)をはじめ内々(ない〳〵)の女(ちよ)
官(くわん)以下(いけ)まで。先立(さきたつ)て北(きた)に向(むか)ひて落(おと)し行(ゆか)しめける。柳成龍(りうせいりやう)は固(かた)く此義(このぎ)を警(いまし)めて
車駕(しやか)始(はしめ)より西(にし)の方(かた)に臨幸(りんこう)なさるゝの議(ぎ)は。もと天兵(てんへい)《割書:大明(たいみん)の|こと也》の援(たす)けを頼(たの)んで再(ふたゝ)
び。国(くに)を奪(うば)ひ復(かへ)さんとする故(ゆゑ)なり。すでに軍兵(ぐんひやう)を天朝(てんてう)に請(こひ)たれば。近(ちか)きに当(あた)り
て定(さだ)めて援兵(ゑんへい)も来(きた)りぬべしそれを待(また)ずして反(かへ)つて深(ふか)く北道(ほくたう)に入(い)らんとし給ふ
此(これ)より後(のち)其間(そのあひた)を敵兵(てきへい)のために隔(へだ)てられなば。天朝(てんてう)の通路(つうろ)も断絶(だんぜつ)して。音問(おんもん)を

も聞(きく)ことなからん。ましてや国家(こくか)を恢復(くわひふく)するの勢(いきほ)ひあらんや。其上(そのうへ)敵兵(てきへい)すでに
諸道(しよだう)に人数(にんず)を散(さん)じたりと聞(きこ)ゆれば。北道(ほくだう)も必(かなら)ず敵兵(てきへい)の無(なく)てや有(ある)べき。若(もし)不幸(ふこう)に
して賊兵(ぞくへい)の中(うち)に落入(おちいり)。後(うしろ)より賊兵(そくへい)に追(おは)るゝほどならは。再(ふたゝ)び他(た)に往(ゆく)の道(みち)とては只(たゞ)
に北(きた)の虜(ゑひす)のあるのみなり。何(いづ)れの所(ところ)をか依(よ)りたのまん。其(その)危(あやう)きこと又(また)甚(はなはだ)しからず
やといへども。朝廷(てうてい)にあるところの臣(しん)の家属(かぞく)ども落行(おちゆき)て。多(おほ)くは北道(ほうだう)にある故(ゆゑ)を
もつて。妻子(さいし)の行衛(ゆくゑ)の覚束(おほつか)なさに北道(ほくだう)とのみおもひ立(たつ)とは聞(きこ)へけり。柳成龍(りうせいりやう)は
これをのみ独(ひとり)つぶやき。臣(しん)が老母(らうぼ)といへども京城(けいじやう)を落去(おちさ)つて。東(ひがし)に出(いで)しと聞(きく)なれ
ば定(さだ)めて江原(こうけん)咸鏡(ゑあん)の間(あひだ)にあらん。其(その)行方(ゆきがた)をしらずして母子(ぼし)の情(じやう)の覚束(おぼつか)なきは
元(もと)より人(ひと)と同(おな)じけれと。豈(あに)私(わたくし)の計(はかりこと)をもつて公(おほやけ)の義(ぎ)を害(がい)せんやと。懇(ねんごろ)にこれを奏(さう)
しければ。李㫟(りえん)はこれを痛(いたま)しく聞(きゝ)給へど。知事官(ちしくわん)韓準(かんしゆん)また独(ひとり)進(すゝ)み出(いで)て。北(きた)

に向(むか)ふの是(ぜ)なること申すにより。兔(と)に角(かく)咸鏡道(ゑあんだう)へ臨幸(りんこう)あるべきとて。其(その)落支度(おちしたく)
を急(いそ)ぎしこそははかなけれ。
    行長(ゆきなが)数度(すど)和議(わぎ)を欲(ほつ)する事(こと)
倭兵(わへい)すでに大同江(たいとうこう)まで入(い)り臨(のぞ)んで。今(いま)にも江(え)を渡(わた)りて責入(せめい)らん勢(いきほ)ひなれば。柳成(りうせい)
龍(りやう)が輩(ともがら)練光亭(れんくわうてい)の上(うゑ)に在(あ)つて。渡(わた)り場(は)の方(かた)を遥(はるか)に見(み)るに。一人の倭人(わびと)紙(かみ)と見(み)へたる
ものを以(もつ)て。木(き)の梢(こずへ)に挟(さしはさ)み江紗(こうしや)の上(うへ)に立置(たておき)て。此方(こなた)に向(むか)ひ扇(あふき)を上(あげ)て招(まね)くの体(てい)なり。柳(りう)
成龍(せいりやう)はこれを見(み)て火炮(くわはう)の匠(たくみ)金生麗(きんせいれい)といへる者(もの)を召来(めしきた)して。倭人(わびと)の招(まね)くは如何(いか)さま
にも此方(こなた)の人(ひと)に諸用(しよよう)ありと見(み)へたるそ。汝(なんぢ)早速(さつそく)行向(ゆきむか)つて是(これ)を取(と)り来(きた)れといへば。金(きん)
生麗(せいれい)はそれより小舟(こふね)に打乗(うちのり)楫取(かぢとり)一人 召具(めしぐ)して向(むか)ふの岸(きし)に漕付(こぎつけ)て陸(くが)にあかれば。彼(かの)
倭人(わひと)兵具(へいぐ)を調(ととの)へず。常(つね)の衣(きぬ)着(き)て生麗(せいれい)に立向(たちむか)ひ。其手(そのて)を握(にぎ)り背(せ)を拊(なで)て。極(きは)めて款(ねんころ)【欵は款の俗字】

狎(な)るやうにもてなし。一 封(ほう)の書(しよ)を懐中(くわいちう)より取出(とりいた)してこれを与(あた)ふれは。金生麗(きんせいれい)は是(これ)を
請取舟(うけとりふね)に乗(の)りて帰(かへ)り来(きた)り。書(しよ)を尹斗壽(いんとしゆ)に相渡(あひわた)す尹相(いんしやう)は此書(このしよ)受取(うけとり)内証(ないしやう)にて
開(ひら)くべきこと如何(いかゞ)あらんと。思案(しあん)にわたるを柳成龍(りうせいりやう)云(いふ)やう。是(これ)を啓(ひら)くとも何(なん)
の子細(しさい)かあらんぞ。早(はや)く封(ふう)をきつて見(み)給へといふに。尹相(いんしやう)これに同(どう)じて封(ふう)を啓(ひら)けば。朝(てう)
鮮国(せんこく)礼曹判書(れいそうはんしよ)李公閣下(りこうかつか)に上(たてまつ)ると書(しよ)したるは。これ李徳馨(りとくけい)に与(あた)ふるところの書(しよ)
にして。平(たいら)の調信(しげのぶ)と僧(そう)玄蘇(けんそ)とが贈(おく)れるところなり。其(その)大概(たいかい)は小西行長(こにしゆきなが)が意(こゝろ)を
伝(つた)へ我国(わがくに)と和議(わき)をなさんと欲(ほつ)するには過(すぎ)ざるのみ。抑(そも〳〵)朝鮮国(てうせんこく)の諸臣(しよしん)の中(うち)其名(そのな)
を知(し)るの人(ひと)も多(おほ)かるべき。に李徳馨(りとくけい)を宛(あて)として此書(このしよ)を贈(おく)るぞと。其(その)由来(ゆらい)を
尋(たづね)るに小西(こにし)平(たいら)の行長(ゆきなが)が。去(さん)ぬる頃(ころ)尚州(しやくしう)の城(しろ)を攻破(せめやぶ)る時(とき)倭学通事(わがくつうし)景應舜(けいおうしゆん)と
いへる者(もの)。李鎰(りいつ)が軍中(ぐんちう)に在(あ)りけるが敵(てき)の為(ため)に虜(とりこ)となりし時(とき)平(たいら)の行長(ゆきなが)應舜(おうしゆん)が

擒(とりこ)を許(ゆる)し。書(しよ)一 封(ふう)を与(あた)へて贈(おく)り来(きた)せる其文(そのふん)にいはく。東萊(とうねき)に在(あり)し時(とき)蔚山(うるさん)の群守(ぐんしゆ)
李彦誠(りげんせい)を生(いき)ながら得(え)たりし時(とき)。彼(かれ)を免(ゆる)して帰(かへ)らしむる刻(きざみ)一 封(ふう)を贈(おくる)といへども。
今(いま)におゐてその返報(へんほう)も到来(とうらい)せず。朝鮮(てうせん)今(いま)我(われ)と和睦(わほく)せんと欲(ほつ)するならば。早(はや)く
李徳馨(りとくけい)をして当月(たうげつ)廿八日までに。行長(ゆきなが)と忠州(ちくしう)に会(くわい)せしめよと書(かき)たるける是(これ)は
過(すき)つる四月の事(こと)なりける。又(また)李彦誠(りげんせい)は倭兵(わへい)の蔚山(うるさん)を攻(せめ)つる時(とき)敵(てき)のために生捕(いけとら)れ
すでに殺(ころ)さるべかりしを。行長(ゆきなが)和睦(わぼく)を欲(ほつ)する故(ゆゑ)彦誠(けんせい)を免(ゆる)してそれを便宜(びんぎ)とし
て。書状(しよじやう)を贈(おく)りたれども李彦(りげん)は敵中(てきちう)に生捕(いけと)られたるその科(とが)を恐(おそ)るゝの意(こゝろ)より。
軍(いくさ)すでに戦(たゝか)ひ破(やぶ)れて惟(たゞ)一 人やう〳〵に逃来(にげきた)ると号(がう)して。その書状(しようじやう)をば遂(つゐ)に隠(かく)し
たる故(ゆゑ)今(いま)までも猶(なを)知(し)れる人(ひと)の無(なか)りしを。行長(ゆきなが)が再(ふたゝ)ひ景應(けいおう)を免(ゆる)しかへすと云(いふ)
により。始(はし)めて是(これ)をしりたりける。此時(このとき)はいまだ王李㫟(わうりえん)京城(けいしやう)に在(あり)し時(とき)なれは早(さつ)

速(そく)に李徳馨(りとくけい)に命(めい)ぜられ。景應舜(けいおうしゆん)をさし添(そへ)て行長(ゆきなが)が方へつかはしける。徳馨(とくけい)
は去(さん)ぬる年(とし)宗義智(そうのうよしとし)等(ら)が使(つかひ)として来(きた)りし時(とき)。馳走人(ちさうにん)にて出合(いてあひ)たるゆゑに行(ゆき)
長(なが)も。其名(そのな)を知(し)るかゆゑ今度(このたび)も彼(かれ)をさして状(じやう)をも贈(おく)れるなり。李徳馨(りとくけい)
等(ら)はその時(とき)途中(とちう)まで出(いで)たるに忠州城(ちくしうじやう)もはや陥(おちい)ると聞(きこ)へたれば。如何(いかゞ)あとへや
還(かへ)らんかと思案(しあん)する。折(をり)から加藤清正(かとうきよまさ)が兵(へい)に出遇(いであひ)應舜(おうしゆん)は討(うた)れければ。
徳馨(とくけい)もやう〳〵に逃(に)げ回(かへ)【囘は古字】り王城(わうじやう)に入(い)らんとするにはや李㫟(りゑん)平壌(へくしやく)に落行(おちゆき)
給ふにより。直(たゞち)に行在所(あんざいしよ)に至(いた)つて此事(このこと)を奏聞(そうもん)したりけり。これによつて和睦(わぼく)の
儀(ぎ)も久(ひさ)しくこと止(や)んで其(その)沙汰(さた)もなかりしに兔(と)角(かく)につゐて行長(ゆきなが)はじめより和(わ)
議(ぎ)をおもふの志(こゝろざし)止(やま)ざりしゆゑ。今(いま)また如此(かくのごとく)の書(しよ)を贈(おく)りて。和睦(わぼく)をなさんと欲(ほつ)す
る下意(したこゝろ)とは見(み)へたりける。行長(ゆきなが)一己(いつこ)の功(こう)をたてんと思(おも)ひ。はじめ李彦誠(りけんせい)を免(ゆる)し

書(しよ)を贈(おく)り次(つぎ)に景應舜(けいおうしゆん)をして書(しよ)をつかはし。今(いま)また僧玄蘇(そうげんそ)をもつて和議(わき)
をなさんとす。都合(つがふ)三度(ど)におよひけるとなん




朝鮮征伐記(てうせんせいはつき)巻之九《割書:終|》

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之十
     目録
 一 李徳馨(りとくけい)僧(そう)玄蘇(げんそ)等(ら)に会(くわい)する事(こと)
 一 小西行長(こにしゆきなが)平壌城(へくしやくしやう)東岸(とうがん)に寄(よす)る事(こと)
 一 朝鮮(てうせん)の軍兵(くんひやう)浅灘(あさせ)に備(そな)ふ事(こと)
 一 朝鮮王(てうせんわう)嘉山(かさん)に留(とゞま)る事(こと)
 一 高彦伯(かうげんはく)小西行長(こにしゆきなが)が陣(ぢん)へ夜討(ようち)の事(こと)
   《割書:并(ならびに)|》倭兵(わへい)江(え)を渡(わた)る事(こと)
 一 平壌(へくしやく)落城(らくじやう)の事(こと)
 一 柳成龍(りうせいりやう)粮米(らうまい)を防(ふせ)ぐ事(こと)

 一 柳成龍(りうせいりやう)兵粮(ひやうらう)を聚(あつむ)る事(こと)
 一 遼東(れうとう)の祖承訓(そしようくん)遊撃将軍(ゆうげきしやうぐん)史儒朝鮮(ししゆてうせん)を援事(すくふこと)
 一 小西行長(こにしゆきなが)祖承訓(そしようくん)と戦(たゝか)ふ事(こと)
 一 祖承訓(そしようくん)遼東(れうとう)に走(はし)る事(こと)
 一 元均(げんきん)李舜臣(りしゆんしん)をまねぐ事(こと)

朝鮮征伐記(てうせんせいばつき)巻之十

 李徳馨(りとくけい)僧(そう)玄蘇(げんそ)等(ら)に会(くわい)する事(こと)

こゝに行長(ゆきなが)が和睦(わぼく)の議(ぎ)を。欲(ほつ)する其(その)おもむきを聞(きか)んため。此旨(このむね)を李徳馨(りとくけい)
に命(めい)ぜらる。徳馨(とくけい)命(めい)を承(うけ給は)り急(いそ)ぎ扁舟(へんしう)に竿(さほ)さゝせ。江中(こうちう)に出向(いてむか)ひば平(たいら)の調信(しげのぶ)
僧(そう)の玄蘓(げんそ)も。東岸(とうかん)より舟(ふね)を漕出(こきいだ)し舟(ふね)をならべて参会(さんくわい)せり。その情(じやう)平生(へいぜい)の
慇懃(ゐんぎん)を尽(つく)し。扨(さて)僧(そう)玄蘓(けんそ)云(いひ)けるやう日本(につほん)より貴国(きこく)の道(みち)を借(かり)。中原(ちうけん)に至(いた)らん
とするを許(ゆる)さゞるが故(ゆゑ)により。事(こと)まさに如此(かくのごとく)の大兵(たいへい)に及(およ)ぶなり。併(しかし)ながら猶(なほ)今(いま)
とても中国(ちうごく)への一 條(すぢ)の路(みち)を開(ひらい)て。日本勢(につほんぜい)を中国(ちうごく)へ至(いた)らしむるに於(おゐ)ては。貴方(きはう)の亡(ほろび)
んことは遁(のが)るべきなりといふ。徳馨(とくけい)聞(きい)て兼(かね)て和睦(わぼく)すべきとは云(いひ)ながら。みだりに

兵(へい)を進(すゝ)むること是(これ)約(やく)をそむくといふものなり。しかれば今(いま)も我国(わがくに)と和(わ)せんとお
もはゞ。先(まづ)其兵(そのへい)を退(しりそ)けよ其後(そのゝち)和解(わかい)をなさんといふ。調信(しげのぶ)これを聞(きい)て貴方(きはう)我(われ)
等(ら)が言(いふ)ところを用(もちひ)ずして。郛郭(しろくるは)を完(まつ)とふして民人(みんじん)を聚(あつ)め我兵(わがへい)をいよ〳〵
拒(ふせ)がんとおもはゞ。これを拒(ふせ)ぎて見(み)よ汝(なんぢ)の大王(たいわう)。何(なに)ほどの兵数(へいすう)を聚(あつ)め鴨緑江(あふりよくこう)を
隔(へだて)にとりてさゝへんと欲(ほつ)すとも。我将士共(わかしやうしとも)鼓(つゞみ)【皷は俗字】をならしてこゝをもやすく攻破(せめやぶら)ん
ぞ。此上(このうへ)は速(すみやか)に和(わ)を請(こふ)ともまた防(ふせ)ぐとも。汝等(なんぢら)が意次第(こゝろしだい)なり。斯(かく)言(いふ)を聞(きか)ずして
後悔(こうくわひ)すとも益(えき)あらじと云(いひ)すてゝ。互(たがひ)に舟(ふね)を乗別(のりわけ)てこそかへりけれ。こゝにおゐて
遂(つひ)に和睦(わぼく)のこともやぶれたり。されは調信(しげのぶ)等(ら)行長(ゆきなが)の陣所(ぢんしよ)に至(いた)り。此(この)おもむき
を語(かた)りけるに小西(こにし)は聞(きい)て大(おほい)に怒(いか)り我(われ)彼国(かのくに)を亡(ほろぼ)さんことの本意(ほんい)なさに。兼(かね)
てさま〳〵の言(ことは)を尽(つく)させ。善(ぜん)を告(つぐ)れば却(かへつ)てこれを聞(きか)ず。此上(このうへ)は速(すみやか)に江(え)を渡(わた)り

朝鮮王(てうせんわう)を獲(とりこ)にして。秀吉(ひでよし)公の御 感(かん)に預(あづか)んずぞと。義智(よしとし)等(ら)が兵士を合(あは)せて
江東(こうとう)の岸(がん)上に押寄(おしよ)せて陣列(ぢんれつ)をぞなしたりける
   小西行長(こにしゆきなが)平 壌城(しやくしやう)東岸(とうがん)に寄(よす)る事
平壌(へくしやく)の城(じやう)中には敵(てき)すでに江東(こうとう)に陣(ぢん)を結(むす)んで。江(え)を渡(わた)らんとなす有(あり)さまを
見(み)るより。上 官(くわん)下部(しもべ)に至(いた)るまで大(おふ)に惧(おそ)れ早(はや)く御 駕(が)を出(いた)されよと。寧辺(ねいへん)の
路(みち)に向(むか)ふ。大臣(たいじん)には崔興源(さいこうげん)愈泓(ゆこう)鄭徹(ていてつ)等(ら)を始(はじめ)として。王駕(わうか)の御供奉(こくふ)にしたがひば
左相(さしやう)尹斗壽(いんとじゆ)。金元帥(きんけんすゐ)李元翼(りげんよく)等(ら)は。留(とゞめ)て平壌(へいじやく)の府城(ふじやう)を守(まも)るの役(やく)人たり柳(りう)
成龍(せいりやう)は。大 明(みん)の大将(たいしやう)を待受(まちうく)るの役(やく)として。同(おな)じく府城(ふじやう)に留(とゝま)りけり。是(これ)ぞ八月十二日
の事(こと)なり早朝(さうてう)より日本の諸勢(しよぜい)小西(こにし)黒田(くろだ)宗(そう)の輩(ともがら)兵(へい)を合(あは)せて。城(しろ)を責(せめ)ん
と巻(まき)よせ東岸(とうがん)に打望(うちのぞ)み。江水(こうすゐ)を早(はや)く渡(わた)らんとこそ議(ぎ)したりける。左相(さしやう)尹(いん)

斗壽(とじゅ)。金元帥(きんげんすゐ)李元翼(りげんよく)。柳成龍(りうせいりやう)とともに練光亭(れんくわうてい)に陣(ぢん)をなす。平壌(へいしやく)の本(ほん)
道(だう)の監司(かんす)の官(くわん)宋言慎(そうけんしん)は。大 同城(とうしやう)を守(まも)りたり門楼兵使(もんらうへいし)李潤徳(りしゆんとく)は。浮碧楼(ふへきらう)
より以上(いじやう)の江灘(こうだん)を守り。慈山郡守(しさんくんしゆ)尹裕俊(いんようしゆん)等(ら)は長慶(ちやうけい)門を守(まも)りたり。城(じやう)中の士(し)
卒(そつ)民夫(みんふ)を合(あわ)せて。纔(わづか)に三四千には過(すぎ)ざりける。城堞(しやうてう)を分(わか)ち配(くば)りて是(これ)を守(まも)るし
かれども。元(もと)より軍法(ぐんはう)正(たゞ)しからざる故(ゆゑ)其部(そのぶ)の人衆(しんしゆ)を立(たつ)ること一ならで或(あるひ)
は間数(まかず)の少(すこし)き所(ところ)を大勢(おふせい)にて守(まも)るによつて。かへつて混雑(こんさつ)におよぶも有(あり)或(あるひ)は間(ま)
数(かず)の遠(とほ)き所(ところ)を小勢(こぜい)にて防(ふせ)ぐが故(ゆゑ)。数間(すけん)の垜(とて)に一人の兵士(へいし)の守(まも)れる者の無(なき)
も有(あり)て。其所(そのところ)をばやう〳〵に人の衣服(いふく)をといて。松(まつ)の木(き)などにかけつらねて偽兵(ぎへい)
と名付(なつけ)。これを以(もつ)て和兵(わへい)の心(しん)を人(ひと)ありと疑(うたが)はしめんと謀(はか)りける。偖(さて)又こゝに
江(え)を隔(へだて)て敵兵(てきへい)の動静(やうす)を望(のぞ)み見(み)るに。おもひの外(ほか)に多(おほ)からず。又 東大院(とうたいいん)の岸上(がんしよふ)

に一 文字(もんじ)に陣(ぢん)を張(はり)たるは。紅白(こうはく)の旗旌(きせい)をたてつゝけたり。その備(そなひ)の内(うち)よりも十
余(よ)の馬武者(うまむしや)を出(いた)して。羊角島(ようかくとう)の方(かた)に向(むか)つて江中(こうちう)に乗(のり)入。馬(うま)の太腹(ふとばら)の没(した)るばかり
に成(なり)ぬれば皆々(みな〳〵)轡(くつばみ)を扣(ひか)へ。馬(うま)の首(かしら)を双(なら)べまさに渡(わた)らんとするの勢(いきほひ)をぞ示(しめ)しける
その余(よ)の兵士(へいし)も江上(こうじやう)に馬(うま)を乗(のり)入。勇威(ゆうい)をしめす体(てい)なるは。是(これ)ぞ乃(すなは)ち小西(こにし)黒(くろ)
田(た)等(とう)の手(て)の者(もの)なり。かゝる所(ところ)へ小西(こにし)が陣(ぢん)より又(また)六七人の兵士(へいし)鳥鋭(てつほう)【銃の誤ヵ】を打(うち)かたげ
て江辺(こうへん)に到(いた)ると見えしが。城(しろ)に向(むか)つて放(はな)ちたてたるその響(ひゞ)き忽(たちま)ちに雲雷(うんらい)
の起(おこ)るが如(ごと)くなり。さしもに広(ひろ)き大江(たいこう)を打越(うちこえ)て大 同館(とうくわん)の内(うち)に入(いり)。屋瓦(おくくわ)の上(うへ)に
落散(おちち)ること其間(そのあひだ)幾(いく)百 間(けん)といふことなし。或(あるい)は城楼(しやうらう)の柱(はしら)に中(あた)つて深(ふか)く入(は[い])ること
五六寸に至(いた)れるは。其数(そのかず)しらぬことどもなり。其中(そのうち)に緋縅(ひおどし)の鎧(よろひ)を着(ちやく)せる武者(むしや)
一 騎(き)。中(なか)にもすぐれて其術(そのじゆつ)を得(え)たりと見(み)へたるが。遥(はるか)に練光亭(れんくわうてい)の上(うへ)を望(のぞ)み朝(てう)

鮮國(せんこく)の大将共(たいしやふども)の並居(なみゐ)たるを見(み)て。惟者(たゞもの)ならずとやおもひけん鳥鋭(てつほう)【銃の誤ヵ】を小脇(こわき)に
かひこみ。邪睨(ながしめ)に楼上(らうしやう)を見(み)上たるが少(すこ)し町間(てうけん)の延(のび)たりとや計(はか)りけん。沙渚(すさき)の上(うへ)
に進(すゝ)みよりて引金(ひきかね)を切(きつ)て放(はな)せば。何(なに)かはもつてたまるべき亭上(ていしやう)に座(ざ)したりし。二
人の官(くわん)人を打仆(うちたふ)す。是(これ)二ツ丸(たま)とはしられけるされども其(その)丁間(てうけん)の遠(とほ)き故(ゆゑ)を以(もつ)て
傷(きづさき)やふるとはいへども薄(うす)き疵(きづ)なれば死(し)におよばず。諸(もろ〳〵)の官(くわん)人ども大(おふい)に色(いろ)を失(うしな)
ひしが。中にも柳成龍(りうせいりやう)は軍官(ぐんくわん)の姜士益(きやうしえき)といふ者(もの)。強弓(つよゆみ)の男(おとこ)なるを早(はや)く下知(げじ)
して。防牌(もちだて)の陰(かげ)より射(い)させける。元来(ぐわんらい)手だれの精兵(せいへい)なるゆゑ。射(い)出すところ
の二三 箭(せん)沙上(しやしやう)遥(はるか)に絃音(つるおと)して並(なら)び居たりし小西(こにし)が兵の中にも大 筒(つゝ)をかゝへ
たる兵(へい)をやにはに撞(どう)と射仆(いたふ)したれば。残(のこ)りの兵士(へいし)とも不覚(ふかく)とやおもひけん。皆(みな)々
東岸(とうがん)にかけ上(あか)る。金元帥(きんけんすゐ)は是(これ)を見(み)るより弓(ゆみ)をよく射(いる)兵(へい)を選(えら)み出(いだ)し。船(ふね)に

打乗(うちの)せ江(え)の中流(ちうりう)まで漕出(こぎいだ)し。倭軍(わぐん)の兵船(へいせん)を射立(ゐたて)つゝ稍(やうや)く東岸(とうがん)に近(ちか)づけ
ば。倭軍(わぐん)はすでに射(ゐ)しらまされて引退(ひきしりぞ)く。朝鮮(てうせん)の船中(せんちう)より玄字鋭(げんじえい)と名付(なつけ)
たる。大箭(おほや)の椽(たるき)の如(ごと)くなるを発(はつ)すを見(み)て。日本(につほん)の兵士共(へいしども)此(この)大箭(おほや)を取上(とりあげ)大(おほい)に
肝(きも)をつぶさずといふ者(もの)なし。依茲(こゝにより)倭(わ)の軍兵(ぐんひやう)ども此所(このところ)は安(やす)く攻破(せめやぶ)りかたし
とて。暫(しばら)くこゝを引退(ひきしりぞひ)てぞひかへたり。
   朝鮮(てうせん)の軍兵(ぐんひやう)浅灘(あさせ)に備(そな)ふ事(こと)
其頃(そのころ)日(ひ)を経(へ)て雨(あめ)降(ふ)らざりし故(ゆゑ)によつて。江水(こうすゐ)日々(ひゞ)に縮(ちゞま)りければ城中(じやうちう)是(これ)を
憂(うれ)ひ苦(くるし)み。一人の大臣(だいじん)を差遣(さしつかは)し雨(あめ)を求(もと)めて檀君(だんくん)箕子(きし)東明王(とうめいわう)の廟(びやう)に祷(いの)ら
せけれども。雨(あめ)は猶(なほ)少(すこ)しも降(ふ)らず柳成龍(りうせいりやう)は尹斗壽(いんとじゆ)に向(むか)つて云(いふ)。此所(このところ)水(みず)深(ふか)ければ
歩渡(かちわた)りせんこと最(もつと)もかなふべき所(ところ)にあらず。其上(そのうへ)漕(こぐ)べき船(ふね)一 艘(さう)もなければ倭(わ)

【右丁】
練光亭(ちんくわうてい)【「れんくわうてい」の誤】の
楼上(らうしやう)へ
小西(こにし)が兵士(へいし)
鳥銃(てつほう)を
打(うち)かけ
官人(くわんにん)を
 打仆(うちたふ)す

【左丁 挿絵】

兵(へい)遂(つゐ)に是(これ)より越(こ)す事(こと)なりがたからん。さりながら流(ながれ)の上(かみ)の所々(ところ〳〵)浅灘(あさせ)多(おほ)く有(あり)
なれば。定(さだ)めて倭兵(わへい)の是(これ)を尋(たづ)ねて早晩(いつしか)渡(わた)るべし。若(もし)兵(へい)の此所(このところ)をだに渡(わた)りおふ
せは。此城(このしろ)如何(いかゞん)ぞ守(まも)るに堪(たえ)んや早(はや)く人(ひと)をつかはして。浅(あさ)かるべき所々(ところ〳〵)をなど防(ふせ)が
しめざるぞと云(いひ)けれども。金元帥(きんげんすゐ)はその生(うま)れつき裕寛(ゆうくわん)に緩(ゆる)ふして。物(もの)こと急(いそ)ぐ
に意(こゝろ)なし。たゞ云(いひ)けるは李潤徳(りじゆんとく)をしてこれを守(まも)らしむれば。何(なん)の気遣(きつかひ)なることなし
といふ。柳成龍(りうせいりやう)はこれを聞(きゝ)潤徳(しゆんとく)が助(たす)けともなるべきために。弥(いよ〳〵)別将(べつしやう)をつかはして
こそよかるべけれと。再三(さいさん)すゝめ即(すなは)ち李巡察(りじゆんさつ)を指(さし)て云(いふ)。公等(こうら)一 處(しよ)に会合(くわいがふ)し酒(しゆ)
宴(ゑん)なんどの座(ざ)の如(ごと)く。無益(むえき)に日々(ひゞ)暮(くら)すこと是(これ)何(なん)のためなるぞ。早(はや)く往(ゆき)て江灘(こうだん)を
守(まも)らざるやと云(いひ)ければ。李元翼(りげんよく)是(これ)を聞(きゝ)て各々(おの〳〵)の仰付(おほせつけ)られ有(あ)らば。我(われ)何(なん)そ其(その)涯分(かいふん)
を尽(つく)さゞらんやと答(こた)へける。尹斗壽(いんとじゆ)さらば早(はや)くおはせよと李元翼(りけんよく)をつかはし

けり。柳成龍(りうせいりやう)は又(また)大明(たいみん)の軍(いくさ)に相接(さうせつ)するの役人(やくにん)たれか。守防(しゆぼう)の軍務(ぐんむ)には預(あづか)らざ
るが黙念(もくねん)として。此有(このあり)さまを考(かんが)ふるに。兔角(とかく)に此城(このしろ)も持(もつ)こらゆべき体(てい)にあら
ず。早(はや)く大明(たいみん)の将(しやう)を迎(むか)ひ来(きた)り一 時(じ)も速(すみやか)に来(きた)り救(すく)ふがまさるべきかと。日暮(ひぐれ)に及(およ)
んで従事官(じふじくわん)洪宗禄(こうそうろく)辛慶晋(しんけいしん)の二人と打(うち)つれ。城(しろ)を出(いで)それより馬(うま)に鞭(むち)うつて馳(はせ)
たるに。其夜(そのよ)深更(しんかう)におよんで順安(じゆんあん)の路中(ろちう)に。李陽元(りやうげん)。従事官(じふじくわん)金廷睦(きんていほく)の二人が軍(いくさ)
破(やぶ)れて准陽(わいやう)より来(きた)るに逢(あ)ふ。李陽元(りやうげん)は柳成龍(りうせいりやう)と見(み)るより馬(うま)をとゞめて云(いふ)。既(すで)
に倭賊(わぞく)の兵(へい)《割書:加藤(かとう)鍋島(なべしま)|が兵なり》鉄嶺(てつれい)に至(いた)れり。其勢(そのいきほひ)中々(なか〳〵)もつて当(あた)るべからずと云(いひ)てわかれける。
柳成龍(りうせいりやう)は其翌日(そのよくじつ)肅川(しゆくせん)を過(す)ぎ安州(あんしう)に至(いた)るのところに。遼東(れうとう)の鎮撫(ちんぶ)林世禄(りんせいろく)再(ふたゝ)
び至(いた)りて軍(いくさ)のやうを咨(とひ)はかり。大明(たいみん)の大兵(たいへい)も程(ほど)なく到(いた)り会(くわい)すべきの旨趣(ししゆ)を告(つぐ)
れば。早(はや)く朝鮮王(てうせんわう)の行在(あんざい)へ人(ひと)を馳(はせ)て是事(このこと)を申すにより。車駕(しやが)すでに寧辺(ねいへん)を意(こゝろ)

かけ博川(はくせん)を過(すぎ)給ふと聞(きこ)ゆる故(ゆゑ)。柳成龍(りうせいりやう)も馬(うま)を急(いそ)がせ馳(はせ)ける程(ほど)に。やう〳〵博川(はくせん)
に到(いた)り著(つ)く。李㫟(りえん)は時(とき)に柳成龍(りうせいりやう)を召(めし)見(まみ)へて。平壌(へくしやく)府城(ふしやう)その守備(しゆび)何(なに)とか有(あ)ら
んと問(とは)はれければ。成龍(せいりやう)荅(こた)へて人心(じんしん)頗(すこぶ)る一 図(づ)に固(かた)し。其(その)城(しろ)守(まも)るべきに似(に)たるが
但(たゝ)し援兵(ゑんへい)なくんばかなふまじ。此故(このゆゑ)臣(しん)今(いま)こゝに来(きた)り天兵(てんへい)を。一 時(じ)も早(はや)く迎(むか)ひ
速(すみやか)に馳(は)せて。平壌(へくしやく)を援(すく)はんと存(ぞん)ずるに。今(いま)に天兵(てんへい)の至(いた)るを見(み)ざるこそ此(これ)を以(もつ)て
憂(うれひ)となし申なりと奏(さう)すれば。李㫟(りえん)は即(すなは)ち平壌(へくしやく)の守将(しゆしやう)。尹斗壽(いんとじゆ)が方(かた)より来(きた)
るところの状(じやう)を取出(とりいだし)。柳成龍(りうせいりやう)に示(しめ)して昨日(きのふ)すでに平壌(へくしやく)の城中(じやうちう)より。老弱(らうじやく)の輩(ともから)
をばこと〳〵く出(いだ)して落(おと)したりといへり。是(これ)人心(じんしん)の動揺(どうえう)するにあらざんや。
しかるに汝(なんぢ)何(なに)を以(もつ)てよく守(まも)らんとは云(い)へるぞや。成龍(せいりやう)荅(こた)へて此状(このじやう)を見(み)る時(とき)は誠(まこと)
に聖慮(せいりよ)の如(ごと)くなり。併(しかしなが)ら臣(しん)が彼城(かのしろ)に有時(あるとき)は。かゝる事(こと)いまた候(そうら)はず。大概(だいがい)其趣(そのおもむ)

きを察(さつ)すれば。敵兵(てきへい)かならず浅灘(あさせ)の所(ところ)より渡(わた)りたらば。平壌(へくしやく)を保(たも)たんとする
に堅(かた)からんか。よろしく菱(ひし)鉄をもつて水中(すゐちう)に布(し)き植(うゑ)させて。備(そなひ)をなすにはしか
ずと申に。李㫟(りえん)重(かさね)て此縣中(そのけんちう)にもまた菱(ひし)鉄の有(ある)べきや。しからば早(はや)く布(しか)せよ
と命(めい)あるに。成龍(せいりやう)は承(うけ給は)り此縣中(このけんちう)にも凡(およそ)数千(すせん)の菱(ひし)鉄は候べし。また平壌(へくしやく)
より西(にし)の地(ち)。江西(こうせい)の龍岡(りうこう)。甑山(そうざん)。咸徒(かんと)等(とう)の邑々(むら〳〵)の倉中(さうちう)につめるところの穀(こめ)多(おほ)く。人(じん)
民(みん)もまた多(おほ)し。しかるに倭賊(わぞく)の兵(へい)近(ちか)づきぬと承(うけ給)はらば。かならず民間(みんかん)おどろき
騒(さわ)きて方々(ほう〳〵)へ散乱(さんらん)せん。急(きふ)に近侍(きんじ)の臣(しん)一人を撰(えら)ばせ給へ。これより馳(は)せて其民(そのみん)
人(じん)をしづめ撫(なで)させ。且(かつ)また兵士(へいし)を集(あつ)め収(おさ)めて平壌(へくしやく)の継援使(けいゑんし)となし給はゞ。
よろしからんかと奏(そう)するに。李㫟(りえん)はこれに最(もつとも)と同じ給へければ。即(すなは)ち兵曹(へいそう)
正郎(せいらう)李幼證(りようせう)。その器量(きりやう)謀計(ばうけい)の有(ある)ものなりと。此事(このこと)を命(めい)じ急(きふ)に馳駆(ちく)し

て少(すこ)しの遅滞(ちたい)あるべからずと有(あり)ければ。成龍(せいりやう)は幼證(ようしやう)に王命(わうめい)を伝(つた)へける。李(り)
幼證(ようしやう)大(おほい)に驚(おどろ)き東南北(とうなんぼく)ともに敵兵(てきへい)の集会(しふくわい)せる中(なか)へ。如何(いかん)ぞ我(われ)一人進(すゝ)むべ
きと辞退(じたい)する顔色(がんしよく)あり。成龍(せいりやう)これを辱(はつかし)めて禄(ろく)を食(はむ)て臣(しん)たる身(み)。其君(そのきみ)
の難(なん)あるを見(み)ながら。その身(み)を顧(かへ)りみるの道(みち)やある。国事(こくじ)今(いま)危急(ききふ)の場所(ばしよ)
たとへ湯火(とうくわ)といふとも。何(なん)ぞ是(これ)を避(さく)べきぞと。責(せめ)られて幼證(ようしやう)は黙然(もくねん)と首(こうべ)をさげ。
其理(そのり)には伏(ふく)しながら恨(うら)める色(いろ)は見(み)へにけり。
   朝鮮王(てうせんわう)嘉山(かさん)に留(とゞま)る事(こと)
扨(さて)も成龍(せいりやう)は李㫟(りえん)の旅館(りよくわん)に来(きた)り。拝辞(はいじ)して一 時(じ)も早(はや)く大明(たいみん)の軍兵(ぐんひやう)を迎(むかへ)ん
と。大定(たいてい)の江辺(こうへん)に出(いで)たるに其(その)日(ひ)もすでに西(にし)に傾(かたふ)きぬ。遥(はるか)に広通院(くわうとうゐん)の方(かた)を顧(かへりみ)れば。
軍(いくさ)破(やぶ)れて討(うち)もらされの兵士(へいし)と見(み)へ。打続(うちつゞひ)て落来(おちきた)るは是(これ)早(はや)平壌(へくしやく)の守(まも)り破(やぶ)れて。

遁(のが)れ來(きた)る敗兵(はいへい)と見(み)てければ。早(はや)くこれを留(とゞめ)てそのやうすを問(とふ)べしと。軍官(ぐんくわん)
数人(すにん)を追(おひ)かけさせ馬(うま)を馳(はせ)て見(み)せしむるに。散卒(さんそつ)十九人を伴(ともな)ひ来(きた)る是乃(これすなは)ち
義州(ぎしう)。龍州(りやうしう)等(ら)の所々(ところ〳〵)より平壌(へくしやく)の堅(かた)めとし。江灘(こうだん)を守(まも)りたる者(もの)どもなり。
彼等(かれら)が言(こと)をくわしく聞(きけ)ば。昨日(きのふ)倭賊(わぞく)小西行長(こにしゆきなが)が兵馬(へいば)王城灘(わうじやうたん)より江(こう)を渡(わた)る
によつて。江上(こうじやう)に備(そなひ)たりし味方(みかた)の兵将(へいしやう)各軍(かうぐん)大(おほい)に潰(やぶ)れ。兵使(へいし)李潤徳(りしゆんとく)は遁(のが)れ走(はし)りて
跡方(あとかた)なし。これによりて我々(われ〳〵)も皆(みな)本軍(ほんぐん)に罷(まか)りかへるといふ。柳成龍(りうせいりやう)此事(このこと)を
聞(きく)より大(おほい)に惧(おそ)れ。十九人の兵士(へいし)をば成龍(せいりやう)が幕下(ばつか)にとめ置(おき)。軍官(くんくわん)崔允元(さいゐんけん)をし
て急(いそ)ぎ李㫟(りえん)に報(はう)ぜしむ。車駕(しやが)此時(このとき)すでに敵兵(てきへい)の北道(ほくだう)をも全(まつた)く陥(おちい)るの説(せつ)を
聞(きく)。道(みち)よりして再(ふたゝ)び博川(はくせん)に回(かへ)【囘は古字】り至(いた)りてすゝめざるに。通川(つうせん)の郡守(ぐんしゆ)鄭述(ていじゆつ)は使者(ししや)を
もつて。王李㫟(わうりえん)に食膳(しよくぜん)をすゝめければ。爰(こゝ)にてしばらく今日(こんにち)の労(らう)を休息(きうそく)なし給ふ

ところへまた。柳成龍(りうせいりやう)が使者(ししや)をはじめとして。平壌(へくしやく)の府城(ふじやう)すでに陥(おちい)りたりとも
告(つ)げ来(きた)り。或(あるひ)は其(その)危(あやう)き事(こと)旦暮(たんぼ)にありども報(はう)じて。兔(と)角(かく)によろしき沙汰(さた)はなし。
しかれば御《割書:ン》駕(か)の臨幸北(りんこうきた)に向(むく)こともかなはず。又(また)平壌(へくしやく)へ還幸(くわんこう)あるべきやうもなければ。
暫(しばら)く此辺(このへん)のよろしき方(かた)を行在所(あんざいしよ)と定(さだ)め。大明(たいみん)の援兵(ゑんへい)を待(まつ)より外(ほか)の議(ぎ)有(ある)まじ。
とて。車駕(しやが)をば嘉山(かざん)にとゞめ東宮(とうぐう)は廟社(ひやうしや)の主(しゆ)を奉(ほう)じて博川(はくせん)より。再(ふた)び山群(さんぐん)に入(いり)
給ふべきに定(さだま)りけり。
   高彦伯(こうげんはく)小西行長(こにしゆきなが)が陣(ぢん)へ夜討(ようち)の事(こと)
   《割書:并(ならびに)|》倭兵(わへい)江(え)を渡(わた)る事(こと)
偖(さて)又(また)小西摂津守行長(こにしつのかみゆきなが)。宗對馬守義智(そうつしまのかみよしとも)。黒田甲斐守長政(くろだかひのかみなかまさ)。大友豊後守義(おほともふんこのかみよし)
統(すみ)【綂は俗字】。久留米侍従秀包(くるめしじふひでかね)。小早川隆景(こはやかはたかゝけ)等(とう)の諸将(しよしやう)次第(しだい〳〵)に陣(ぢん)をすゝめ。江沙(こうしや)の上(うへ)に手(て)

配(くば)りをなし草(くさ)を結(むす)んで陣(ぢん)を取(とり)。軍営(くんゑひ)を連(つら)ねたり凡(およそ)数(す)十人の大将(たいしやう)。家々(いへ〳〵)の
幕(まく)の紋(もん)其(その)染色(そめいろ)の品(しな)をまじへて。昼(ひる)は旌旗(せいき)大旆(まとい)の影日(かけひ)に照(てら)されておびたゞしく
夜(よ)はまた焼(たき)つゞけたる炬火(かゝりひ)に江淵(こうゑん)の魚(うを)もおどろくへし。かくて累日(るいしつ)を経(ふる)といへ
ども。朝鮮(てうせん)の兵士(へいし)命(いのち)を捨(すて)て是(これ)を防(ふせ)けば。一 端(たん)にしてはなか〳〵もつて安(やす)く渡(わた)りを
なし得(う)べきやうもなし。また遠矢(とほや)の軍(いくさ)ばかりにてははか〴〵しき勝負(しやうふ)なければ
今(いま)は攻(せむ)るに力(ちから)もつき日本(につほん)の兵士(へいし)退屈(たいくつ)し。其(その)警(いましめ)も怠(おこた)りがちになりたりける。金(きん)
命元(めいけん)等(ら)は平壌城(へくしやくじやう)より遥(はる)かに是(これ)を望(のぞ)み見(み)て。諸将(しよしやう)とはかつて云(いひ)けるやう倭賊(わぞく)の
体(てい)をかんがふるに。其勢(そのいきほ)ひ始(はしめ)とちかひ大(おほい)に怠惰(たいだ)して相見(あひみ)ゆるは。此城(このしろ)まさに江(え)を
隔(へだて)て。その守(まも)りも最(もつと)も強(つよ)きによつて全(まつた)くこれを攻(せめ)あぐみ。退屈(たいくつ)すると覚(おぼ)えたり
いざや此夜深更(このよしんこう)に精兵(せいへい)をゑらんで。一 夜討(ようち)して味方(みかた)の兵士(へいし)の勢(いきほ)ひをつくべしと

【右丁 挿絵】

【左丁】
高彦伯(こうけんはく)
 行長(ゆきなが)の
 陣(ぢん)へ無法(むほう)に
 夜討(ようち)
 して
 敗軍(はいくん)
 なして
 浅瀬(あさせ)を
  しらる

有(あり)ける時(とき)高彦伯(こうげんはく)一 列(れつ)の中(うち)を進(すゝ)み出(いて)。我等(われら)こそ今夜(こよひ)の大将(たいしやう)を承(うけ給)はらんと云(いひ)け
れば。左(さ)らば其用意(そのやうい)をなすべしと有(あり)ける故(ゆゑ)。早速(さつそく)浮碧樓(ふへきらう)より綾羅渡(れうらと)を下(くだ)
り。潜(ひそか)に船(ふね)を出(いだ)して軍(ぐん)を渡(わた)す。精兵(せいへい)ゑらんで七百人二 手(て)となつて押寄(おしよせ)けるが
始(はし)め約(やく)して今夜(こよひ)三 更(こう)に事(こと)を挙(きよ)すべしと云(いひ)たりけるに。江上(こうしやう)の船(ふね)とも遅速(ちゝそく)最(もつと)も
同(おな)しからず。これによつて其(その)時刻(じこく)相違(さうゐ)してすてに渡(わた)り終(おは)るの時(とき)は。昧爽(あげかた)ちかく成(なり)
にけり。こゝに於(おい)て日本勢(につほんぜい)の体(てい)を窺(うかゞ)ふところに。未(いま)だ諸軍(しよくん)の備(そなひ)ともに猶(なを)眠(ねむ)れる
の時(とき)なりけり。すでに時分(じぶん)は遅(おそ)しといへどもおもひもふけし事なれば。第(だい)一 番(ばん)の陣(ぢん)
中(ちう)へおめきさけんで切(きつ)て入(いり)是(これ)は小西行長(こにしゆきなが)が陣営(ぢんゑひ)なりしが。おもひもよらぬ夜討(ようち)
をうたれ。陣中大(ぢんちうおほい)におどろき乱(みた)れ鎧(よろひ)を着(き)れば槍(やり)をわすれ。弓(ゆみ)をとれば箙(ゑひら)を
捨(す)つ朝鮮(てうせん)の軍兵(ぐんひやう)はいよ〳〵是(これ)に力(ちから)を得(え)。勝(かつ)に乗(じやう)して切伏(きりふせ)突伏(つきふせ)するほどに。倭兵(わへい)

の騒動(そうどう)大(おほ)かたならず。平壌(へくしやく)の住人(ぢゆうにん)仼旭景(わうきよくけい)一 番(ばん)に先登(せんとう)し。力戦(りきせん)して日本勢(につほんぜい)
数人(すにん)を斬仆(きりたふ)す。されども日本(につほん)の勇兵(ゆうへい)等(ら)に取(とり)こめられ。遂(つゐ)にこゝにて討(うた)れける。倭(わ)
軍(ぐん)の馬(うま)を奪(うば)ふこと三百 余匹(よひき)におよびける。黒田(くろだ)が陣(ぢん)の軍兵(ぐんひやう)ども。小西(こにし)が陣(ぢん)へ夜(よ)
討(うち)の入(いり)しと聞(きく)より人数(にんず)を備(そなひ)て。大浪(おほなみ)の起(おこ)るが如(ごと)く朝鮮勢(てうせんぜい)へ突(つき)かゝる。こゝに於(おゐ)
て朝鮮勢(てうせんぜい)かなはじとやおもひけん。我先(われさき)にと走(はし)りかへりて船(ふね)に乗(の)らんとしたり
けるに。船手(ふなて)に残(のこ)る朝鮮人(てうせんじん)日本勢(につほんぜい)の興(おこ)つて後(うしろ)より迫(せま)り来(きた)るを見(み)るより。中流(ちうりう)
に棹(さほ)をとゞめおそれて岸(きし)に船(ふね)を寄(よせ)ねば。岸(きし)に臨(のぞ)める夜討(ようち)の者共(ものとも)前(まへ)に乗(のる)へき船(ふね)
はなく。後(しりへ)に迫(せま)る敵(てき)多(おほ)ければ今(いま)はすべきやうなくて。江中(えちう)に飛入(とびいり)〳〵する程(ほど)に。
水練(すゐれん)をしらざる者(もの)は溺(おぼ)れて死(し)する者 多(おほ)ければ。生(いき)たる者(もの)は残(のこ)りすくなくなりに
けり。夫(それ)夜討(ようち)の法(ほう)といふは厚(あつき)に討(うつ)て薄(うす)きに出(いで)。送(おく)り備(そなひ)に待備(まちそなひ)。摚(どう)と討(うつ)てはさつと

引(ひ)き敵(てき)の不意(ふい)を伺(うかゞ)ひ。したるく矛(ほこ)を合(あは)せざる。其(その)さま〳〵の大事(だいじ)有(ある)を。元(もと)より
しらぬ朝鮮人(てうせんしん)其術(そのじゆつ)なふして人(ひと)の陣(ぢん)をみだりに侵(おか)すおろかさよ。又(また)小西(こにし)が陣中(ぢんちう)
兼(かね)てより夜討(ようち)の入(いる)へき用心(ようじん)なく。油断(ゆだん)に寝入(ねいり)たるに此時(このとき)若(もし)敵(てき)の中(なか)に其術(そのしゆつ)し
れる者(もの)あらば。危(あや)ふかるべきことなりと識者(しきしや)は是(これ)を難(なん)じける。かくて朝鮮(てうせん)の
討(うち)もらされ。我先(われさき)に西岸(せいがん)に落行(おちゆか)んとおもふばかりの意(こゝろ)なれば。何(なん)の量見(りやうけん)にか
わたるべき。今(いま)までは倭軍(わぐん)に渡(わた)りを知(し)らせしと。心(こゝろ)をつくしてかくし守(まも)れる浅(あさ)
灘(せ)へ。憖(なましい)【愗は誤】に案内(あんない)しれるが害(がい)となつて。我(われ)も〳〵と走(はし)り行(ゆき)流(なかれ)を乱(みだし)て渡(わた)り行(ゆく)を。小西(こにし)
黒田(くろだ)が兵士(へいし)是(これ)を見(み)るより。こゝぞ浅灘(あさせ)と見(み)へたるぞ。敵(てき)の渡(わた)るを嚮道(みちひき)にし
越(こせ)や面々(めん〳〵)渡(わた)せや諸将(しよしやう)と。行長(ゆきなが)諸軍(しよぐん)の真先(まつさき)に下知(げぢ)をなして。王城(わうしやう)灘(だん)を向(むか)ふ
さまに。波(なみ)おしきつて西(にし)なる岸(きし)に打(うち)あがるは蟻蜂(ぎほう)なんどの集(あつま)るが如(ごと)くなり。

灘(なだ)を守(まも)れる防(ふせ)ぎの兵(へい)。此勢(このいきほひ)におそれをなし一 矢(し)を射出(ゐいだ)す者(もの)もなく。我先(われさき)
にと走(はし)りける。小西(こにし)等(ら)はこと〳〵く西北(せいほく)の岸上(がんじやう)に打上(うちあが)るとはいへども。城中(じやうちう)猶(なほ)
いまだ其備(そのそなひ)あらんかと憚(はばか)るゆゑ。其日(そのひ)は終日(ひめもす)岸上(がんじやう)に陣(ぢん)取(と)りて。しばらく城(しろ)の
動静(やうす)を窺(うかゞ)ひける。
   平壌(へくしやく)落城(らくじやう)の事(こと)
平壌府(へくしやくふ)の城内(しやうない)にはすでに。灘頭(だんとう)の防(ふせ)ぎも破(やぶ)れ日本(につほん)の兵士(へいし)。城(しろ)を囲(かこま)んとす
と聞(きこ)へければ。尹斗壽(いんとじゆ)金命元(きんめいげん)を始(はじめ)とし。諸将(しよしやう)は一 処(しよ)に相集(あひあつま)り此城(このしろ)今(いま)は保(たも)ち
かたければ。今宵中(こよひちう)に逃(のが)れ退(しりぞ)くべしと城門(しやうもん)を開(ひらい)【閧】て。尽々(こと〳〵)く城中(じやうちう)に取入(とりいれ)たる民人(みんじん)
兵士(へいし)に至(いた)るまで。一人も残(のこ)らず是(これ)を出(いだ)し軍器火炮(ぐんきくわはう)の類(たぐ)ひはみな。風月楼(ふうけつらう)の池(いけ)
水(みづ)の中(なか)にこれを沈(しづ)【沉は俗字】め。その後(のち)斗壽(とじゆ)等(ら)は普通門(ふつうもん)より打出(うちいで)て順安(じゆんあん)の方(かた)に落行(おちゆき)

けるされども。後(うしろ)より日本勢(につほんぜい)の追(おひ)かくる者(もの)もあらざれは。意(こゝろ)やすく逃(のが)れける。従(じふ)
事官(じくわん)金信元(きんしんげん)一人は。如何(いか)なる思案(しあん)かありたりけん諸将(しよしやう)とは同道(とう〴〵)せず。大同門(だいどうもん)
に立出(たちいで)て船(ふね)をもとめて流(ながれ)にしたがひ。西(にし)の方(かた)へぞ逃(のが)れける既(すて)に其夜(そのよ)もほの〳〵
と明(あけ)わたれば。小西(こにし)が軍兵(ぐんひやう)漸々(せん〳〵)に城外(じやうくわい)に巻(まき)よせ。しばらく牧舟峰(ほくしうほう)に打上(うちあか)り城(じやう)
内(ない)のやうを良(やゝ)久(ひさ)しく観望(くわんばう)するに。竈煙(かまどのけふり)の立(たつ)こともなく樹頭(しゆとう)に野鳥(やてう)あつまり
て。人(ひと)をおそれるゝ体(てい)も見(み)へねばさては城中(じやうちう)人(ひと)なきに極(きはま)れりとて。小西(こにし)が兵(へい)ども我先(われさき)
にと城内(じやうない)へ乗(のり)こみける。王(わう)李㫟(りえん)はじめ平壌(へくしやく)に至(いた)り給へし時(とき)朝廷(てうてい)の大臣(だいじん)評議(ひやうぎ)
をなし。此(この)城内(じやうない)粮餉(かて)の少(すくな)き事(こと)を憂(うれひ)とせしかば。尽(こと〴〵)く近(ちか)きあたりの別邑(べつゆう)の
田税貢(ねんぐ)を運漕(うんさう)せしめ。平壌(へくしやく)にあつめける此日(このひ)城(しろ)の陥(おちい)るにおよんで見(み)れば。城中(じやうちう)
に元(もと)より積(つ)めるところの倉穀(さうこく)を取集(とりあつめ)。都合(つがふ)十 余万(よまん)にあまる米粮(ひやうらう)なるが

今(いま)みな日本勢(につほんぜい)の手(て)に落(おち)て。軍中(ぐんちう)の助(たす)けをなすこそ口(くち)おしけれ。此日(このひ)巡察使(しゆんさつし)李(り)
元翼(げんよく)従事官(じふじくわん)李好閔(りこうびん)等(ら)。平壌(へくしやく)より遁(のが)れかへり行在所(あんざいしよ)に到(いた)り。平壌(へくしやく)すでに
倭兵(わへい)に陥(おとしいれ)られたるよしを奏(そう)する故(ゆゑ)。こゝにも御 ̄ン駕(が)をとゞむべきやうなく。御 ̄ン駕(が)
内宮(ないきう)をはじめ嘉山(かさん)におゐて世子(せいし)に命(めい)じ。廟社(びやうしや)の神主(しんしゆ)を奉(ほう)じ他(た)の路(みち)にし
たがひて。四方(しはう)の人数(にんず)を召収(めしおさ)め再(ふたゝ)び国(くに)を取(とり)かへすべき。手立謀計(てだてぼうけい)を尽(つく)さるべ
きの命(めい)あれば。世子(せいし)は即(すなは)ち是(これ)より別(わか)れ給ふとぞ哀(あは)れなれ。太子(たいし)に従(したが)ふ大(だい)
臣(じん)には。領議政(れいぎせい)の官(くわん)崔興源(さいこうげん)これは太子(たいし)の御後見(ごかうけん)と聞(きこ)へたり。右議政官(うぎせいくわん)
兪泓(ゆこう)も。また自(みづか)ら太子(たいし)に御 ̄ン供(とも)して参(まゐ)らんと一向(ひたすら)に乞(こ)ひ奉(たてまつ)りて。御前(ごぜん)へ此事(このこと)を
申 出(いづ)れど。朝鮮王(てうせんわう)如何(いか)なる意(こゝろ)やおはしけん。一 言(ごん)の答(こたへ)もなしされども兪泓(ゆこう)
は。私(わたくし)に後(あと)を追(お)ふて太子(たいし)の方(かた)へ行(ゆき)たりけり。時(とき)に尹相(いんしやう)は未(いま)だ平壌(へくしやく)より回(かへ)【囘は古字】り至(いた)ら

さるの折(をり)なれば御 ̄ン供(とも)に参(まゐ)る大臣(だいじん)もなかりけり。惟(たゞ)鄭徹(ていてつ)一人御 ̄ン駕(が)に供奉(ぐぶ)して
すでに嘉山(かさん)を出(いづ)る時(とき)は。五更(ごかう)の比(ころ)と聞(きこ)へける車駕(しやが)は定洲(ていしう)に至(いた)り。しばらくこゝの
旅館(りやくわん)に次(やど)りて御座(おはしま)すこそ哀(あは)れなりける有(あり)さまなり。
   柳成龍(りうせいりやう)粮米(らうまい)を防(ふせ)く事(ごと)
御 ̄ン駕(が)始(はじめ)て平壌(へくしやく)を出(いで)給ふより。人心(じんしん)こと〳〵く崩(くづ)れやぶれ所々(しよ〳〵)の国民(こくみん)乱(らん)をなし。
倉庫(さうこ)に入(いり)ては穀物(こくもつ)を奪(うば)ひ掠(かす)むれば。順安(じゆんあん)肅川(しくせん)安州(あんしう)寧辺(ねいへん)博川(はくせん)等(ら)の地(ち)に至(いた)
るまで。次第(しだい)にみな責破(せめやぶ)る御 ̄ン駕(が)のすでに嘉山(かさん)を発(はつ)するにおよびて。郡主(ぐんしゆ)沈信(ちんしん)
謙(けん)は柳成龍(りうせいりやう)に博川(はくせん)に会(くわい)して云(いふ)。此郡(このぐん)の粮穀(らうこく)まことに優(ゆたか)に候なり。今(いま)すでに官(くわん)
所(しよ)に納(おさ)むる白米(はくまい)も一千 石(こく)余(よ)有(あり)。是等(これら)をもつて天兵(てんへい)《割書:大明(たいみん)|の兵(へい)》の兵粮(ひやうらう)ともいたすべ
く存(ぞん)ずれども。かやうに乱民(らんみん)多(おほ)くして防(ふせ)くべきにも兵卒(へいそつ)なし。何卒(なにとぞ)柳公爰(りうこうこう)

にとゞまり此(この)乱民(らんみん)の取掠(とりかす)むるを鎮(しづ)め定(さだ)めて給(たま)はれかし。左(さ)あらば邑人(ゆうしん)の譟(そう)
動(どう)もやみなんか。我等(われら)不幸(ふこう)にして其下(そのしも)を令(れい)するに聞(きゝ)したがふ者(もの)なし。まさに
今(いま)は海辺(かいへん)にかくれ避(さけ)んと存(ぞん)ずといふ。柳成龍(りうせいりやう)是(これ)を聞(きゝ)実(げに)もと是(これ)ほどに優(ゆたか)
なる米穀(べいこく)を儲(たくは)へ置(おく)ことなれば。大明(たいみん)の援兵(ゑんへい)の粮米(らうまい)も不足(ふそく)なからんを。乱民(らんみん)
の為(ため)に奪(うは)はれんは口惜(くちおし)きことどもなり。しばらく是(これ)を制(せい)して見(み)んと。引率(いんそつ)し
たる軍官(ぐんくわん)六人に途中(とちう)にて収(おさ)め得(え)たる兵卒(へいそつ)十九人に下知(げぢ)を加(くわ)へ。各(おの〳〵)弓箭(きうせん)を
取(とり)もたせ左右(さいふ)に是(これ)を立(たて)ならべて。官所(くわんしよ)の大門(たいもん)にひかへたるが其日(そのひ)もすでに午(うま)
の刻(こく)に過(すぎ)たりけり。柳成龍(りうせいりやう)熟々(つく〳〵)こゝにおもひ廻(まは)すに。我(われ)君命(くんめい)を蒙(かうふ)り大明(たいみん)の
軍(ぐん)を待受(まちうけ)。一 時(じ)もはやく倭兵(わへい)を退(しりぞ)くべきの役人(やくにん)として。如何(いか)に米穀(べいこく)を乱(らん)
民(みん)の為(ため)に掠(かす)めとらるゝが惜(おし)きとて。久(ひさ)しくこゝに有(ある)べきやうなし。早(はや)く行(ゆく)には

【右丁】
国民(こくみん)
 みだれて
 粮米(らうまい)を
 うぼふ
柳成龍(りうせいりやう)
 これを防(ふせ)
がんと欲(ほつ)
 すれども
およばずして
暁星嶺(きやうせいれい)に
 いたる

【左丁 挿絵だけ】

しかずとおもひければ。遂(つゐ)に信謙(しんけん)と別(わか)れをなし暁星嶺(けうせいれい)を越(こ)ゆるとて。嘉(か)
山(さん)の方(かた)を回顧(かへりみ)れば。早(はや)郡中(ぐんちう)の乱(みだ)れたると見(み)へ。倉穀(さうこく)のある方(かた)は人多(ひとおほ)く郡(むらが)り騒(さう)
動(とう)のやうすなり。此時(このとき)信謙(しんけん)もつゐにこれを制(せい)しとゞむる事(こと)叶(かな)わずして。尽(こと〳〵)
く倉穀(さうこく)を失(うしな)ひて其身(そのみ)は遁(のが)れ去(さ)りたりとなん。翌日(よくじつ)に至(いた)れば御 ̄ン駕(が)また定州(ていしう)
を出(いで)たり。宣州(せんしう)に向(むか)ひけり柳成龍(りうせいりやう)定州(ていしう)に至(いた)つて見(み)れば。州人(くにひと)已(すで)に四方(しはう)に散(さん)し
て乱(らん)を避(さけ)老(おひ)たる奉行役人(ぶぎやうやくにん)に。白鶴松(はくくわくしやう)が等(ともがら)纔(わづか)に数人(すにん)ならでは。城中(じやうちう)にとゞま
る者(もの)もなし。柳成龍(りうせいりやう)は御 ̄ン駕(が)の出(いづ)るを送(おく)り別(わか)れをなし奉(たてまつ)り涙(なみだ)をながして
御 ̄ン後(あと)にとゞまつて。延薫楼(ゑんくんらう)の下(もと)に座(ざ)したるに引率(いんそつ)したる軍官(ぐんくわん)と。途中(とちう)に得(え)たる
十九人は猶(なほ)落行(おちゆく)べき気色(けしき)もなく。乗(のり)たる馬共(うまども)を路辺(ろへん)の柳(やなぎ)に繋(つな)ぎとゞめて
すでに今日(けふ)も晩(くれ)かゝるに。門外(もんくわい)より多(おほ)く乱民(らんみん)ども。城内(しやうない)の米穀(べいこく)を掠(かす)めんと皆々(みな〳〵)

倉(くら)の下(もと)に集(あつま)る者(もの)数(す)百人になりければ。柳成龍(りうせいりやう)おもふやう彼(かれ)と争(あらそ)ひ戦(たゝか)ふ時(とき)は。我(われ)
率(そつ)したる兵(へい)小勢(こぜい)なれば叶(かな)ふまじ。こゝには謀慮(はうりよ)の有(ある)べきところと城門(しやうもん)の方(かた)を窺(うかゞ)
ひ見(み)るに。人数(にんず)少(すくな)く弱(よは)げに見(み)ゆるの有(あり)けるを。士卒(しそつ)に下知(げぢ)をなし押(おし)かゝりて是(これ)を
捕(とら)へさすれば。彼者(かのもの)ども惧(おそ)れて四方(しはう)へ逃散(にげちる)を。つゐに追(おひ)つめ九人まで生捕(いけどり)ける。柳成(りうせい)
龍(りやう)即(すなは)ち彼(かの)九人の乱民(らんみん)を縛(しば)りくゝりて。倉(くら)の辺(へん)の道路(だうろ)を引廻(ひきまは)し。十 余人(よにん)の
軍官(ぐんくわん)是(これ)につき添(そへ)。米穀(べいこく)を掠(かす)むる盗賊(とうぞく)をかくの如(ごと)くに行(おこな)ふ者(もの)なりと。触廻(ふれまは)
り首(くび)を切(きつ)て倉(くら)の下(もと)に梟(かけ)たるにぞ。城中(じやうちう)の乱民(らんみん)おそれおどろき。倉(くら)の辺(ほと)り
に集(あつま)りたりし乱民(らんみん)ともゝ。こと〳〵く西門(せいもん)より逃(のが)れ去(さ)つて。其後(そのゝち)は米穀(べいこく)を掠(かす)
めんとする者(もの)なかりける。茲(これ)により龍川(りうせん)宣川(せん〳〵)鉄山(てつさん)等(とう)の米穀(べいこく)を。掠(かす)め盗(ぬす)める
者(もの)なきは。偏(ひとへ)に柳成龍(りうせいりやう)が働(はたら)きゆゑと聞(きこ)へけり。尹左相(いんさしやう)金元帥(きんげんすゐ)武将(ふしやう)李薲等(りひんら)【注】も。

【注 「𦿜は」辞書に見当たらず】

みな平壌(へくしやく)より落來(おちきた)りて。定州(ていしう)に相集(あひあつま)る尹斗壽(いんとじゆ)は。日本勢(につほんぜい)の間(ま)ぢかきを恐(おそ)るゝ
ゆゑ。此所(このところ)を守(まも)り得(え)ず御 ̄ン駕(が)を追(お)ふてしたひ行(ゆく)。金命元(きんめいけん)李薲等(りひんら)【注】は跡(あと)にしばらく
とゞまり。定州(ていしう)を守(まも)りける御 ̄ン駕(が)は此時(このとき)龍川(りやうせん)の地(ち)に入(いり)給ふとぞ聞(きこ)えける。
    柳成龍(りうせいりやう)兵粮(ひやうらう)を聚(あつむ)る事(こと)
偖(さて)また大明(たいみん)の軍兵(ぐんひやう)すでに日(ひ)を経(へ)て。鴨緑江(おうりやくこう)にも近(ちか)づきなんとする由(よし)。先立(さきたつ)て李㫟(りゑん)
の行在所(あんさいしよ)義州(ぎしう)の地(ち)にも聞(きこ)へければ。柳成龍(りうせいりやう)は頃日(このころ)病気(びやうき)に臥(ふし)て有(あり)けれども。臣(しん)すでに
明将(みんしやう)を相接(あひせつ)すべき役(やく)として。怠(おこた)るべきにあらずとて強(しい)て行(ゆか)んことを乞(こひ)申にぞ。
李㫟(りえん)もこの義(ぎ)を許(ゆる)されける。兼(かね)て亀城(きじやう)の従事官(じふじくわん)洪宗禄(こうそうろく)をもつて。粮米(らうまい)転(てん)
運(うん)のことを諭(さと)し告(つげ)て。亀城(きじやう)優福(ゆうふく)なる邑里(むらさと)につかはしたれば。成龍(せいりやう)も又(また)此事(このこと)
を弁(べん)せんため。所串駅(しよさんゑき)といふところの間(あひだ)まで行到(ゆきいた)るといへとも。役人(やくにん)も民人(みんじん)も尽(こと〳〵)

【注 「𦿜」こは辞書に見当たらず。】

く山谷(さんこく)に逃(のが)れ去(さり)て一人の形(かたち)も無(なか)りけるゆゑ。軍人(ぐんじん)ともを村居(むらゐ)の間(あひた)にさし遣(つかは)して。
これ等(ら)をさがしもとめさすれば。やう〳〵に役人(やくにん)数人(すにん)を尋(たづ)ね出(いだ)して連来(つれきた)る。柳成(りうせい)
は彼(かの)者(もの)どもに向(むか)つて汝等(なんぢら)平生(へいぜい)上(かみ)の御恩(ごおん)を身(み)にうけ。妻子(さいし)を養育(やういく)したる身(み)の今(いま)
に至(いた)つて何(なん)ぞ。主恩(しゆうおん)を忘(わす)れ果(はて)て身(み)をかくしけるや。大明(たいみん)の大兵(たいへい)すでに近日(きんじつ)にこの
国(くに)に到著(たうちやく)すと聞(きこ)へたれば。国家(こくか)の急事(きふじ)まさに此時(このとき)なり。又(また)賊(ぞく)を退(しりぞ)け大平(たいへい)の日(ひ)
を得(え)んことも。今(いま)にあり汝(なんぢ)が輩(ともがら)大功(たいこう)を立(たて)んことも。かまへて又(また)此時(このとき)なるぞと云(いひ)さと
し。彼等(かれら)が心(こゝろ)を励(はげま)さんためなれば。一ツの帳面(ちやうめん)を作(つく)り只今(たゞいま)功(こう)ある輩(ともがら)をば。此(この)帳(ちやう)に
しるして重(かさ)ねて働(はたら)きの多少(たしやう)を論(ろん)じ。賞禄(しやうろく)を与(あた)ふべし若(もし)また。その力(ちから)を尽(つく)さ
ず。惰(おこたり)ある者(もの)あらば常刑(じやうけい)をもつて罸(はつ)せんと云(いひ)ければ。此(この)ことを聞伝(きゝつた)へ多少(そくばく)の人民(じんみん)
出来(いできた)り。其(その)姓名(せいめい)を訴(うつた)ふるに。一々(いち〳〵)に彼(かの)帳面(ちやうめん)に書記(かきしる)し。後日(こにち)に事(こと)を正(たゞ)さんとす。成龍(せいりやう)

此有(このあり)さまを見(みる)につけ人心(じんしん)の合(かな)へるところを知(しる)がゆゑ。所々(ところ〳〵)へ移文(ふくらしふみ)【注】を廻(まは)し功(こう)ある者(もの)
をば賞(しよう)すべし。早(はや)く來(きた)つて大明(たいみん)の兵(へい)の待受(まちうけ)に其(その)支度(したく)をつとむべしと。触(ふれ)を廻(まは)し
たりけるに其(その)令(れい)を聞(きく)の民人(みんじん)。何方(いづく)より集(あつま)るともしれず方々(はう〳〵)より馳来(はせきた)り。争(あらそ)ひ出(いで)
て柴(しば)を荷(にな)ひ草(くさ)を刈(か)り室屋(しつおく)の造作(ざうさく)し。釜鍋(かまなべ)の類(るひ)まで調(とゝの)へ設(まう)けたりけるゆゑ。
数日(すじつ)を経(へ)ずして凡(すべ)ての事(こと)を弁(べん)じたり。柳成龍(りうせいりやう)はこゝにおゐて其功(そのこう)あるを点検(てんけん)し。
彼(かの)帳面(ちやうめん)に其(その)労力(らうりよく)の次第(しだい)を追(おつ)て書記(かきしる)し又(また)乱離(らんり)にあへるの民人(みんじん)急(きふ)に調(とゝの)へかたし
とおもふが故(ゆゑ)。たゞ至誠(しせい)の理(り)を尽(つく)し彼等(かれら)が意(こゝろ)を暁(さと)し諭(さと)して。つかひければ一人の者(もの)
をも鞭打(むちうつ)ことなくして。自己(じこ)の下知(げぢ)に相(あひ)したがつて定州(ていしう)の地(ち)までに至(いた)る。かゝる処(ところ)へ
洪宗禄(こうそうろく)も。またこと〳〵く亀城(きしやう)の人(ひと)を催促(さいそく)し馬(うま)の豆(まめ)粮米(らうまひ)をはこばせ。定州(ていしう)
の地(ち)嘉山(かさん)に到(いた)るもの遂(つゐ)に二千 余石(よこく)に及(およ)べり。かくても猶(なほ)安州(あんしう)以後(いご)の粮米(らうまい)迄(まで)も

【注 「めくらしふみ」の誤ヵ】

其(その)憂(うれひ)をなさんかとおもふところに。適(たま〳〵)忠清道(ちくしくたい)牙山倉(かざんさう)の税米(ねんぐ)一千二百 余石(よこく)を
船(ふね)に載(のせ)て到(いた)り来(きた)りて。行在所(あんざいしよ)に行(ゆか)んとするが定州(ていしう)の立岩(りうがん)といふところに到(いた)り
泊(とま)るを。柳成龍(りうせいりやう)大(おゝゐ)に歓(よろこ)び行在所(あんざいしよ)へ此趣(このおもむき)を申(もうし)たつすば。遠方(ゑんほう)の米穀適(べいこくたま〳〵)こゝに到(いた)
れること。兼(かね)て約束(やくそく)あるが如(こと)くなるはまことに天(てん)より我国(わがくに)を賛(たすけ)て中興(ちうかう)の
運(うん)を開(ひらか)んとするに似(に)たるか。請(こふ)らくは此米(このこめ)をもつて軍(くん)の粮(かて)の不足(ふそく)なる処(ところ)
を補(おきな)はんかと奏(そう)しさて又(また)守門(しゆもん)の将(しやう)姜士雄(きやうしゆう)を立岩(りうがん)に馳(は)せ遣(つかは)し。二百 石(こく)を
ば定州(ていしう)の城(しろ)に入(いれ)二百 石(こく)をば嘉山(かざん)に入(いれ)八百 石(こく)をば安州(あんしう)に入(いれ)たりける。安州(あんしう)は已(すで)に
倭軍(わぐん)に近(ちか)きによりしばくら船(ふね)を河中(かちう)にとゞめさせて倭兵(わへい)の退(しりぞ)かんを待居(まちい)た
り扨(さて)又(また)宣沙浦(せんしやぼ)僉使官(けんしくわん)張佑成(てうゆうせい)に令(れい)して大定江(たいていこふ)の浮橋(うきはし)を作(つく)らしめ。老江(らうこふ)僉(せん)
使官(しくわん)閔網仲(いんけいちう)には。晴川江(せいせんこふ)の浮橋(うきはし)を作(つく)らしめ大明(たいみん)の軍兵(ぐんへい)の至(いた)るを相待(あいまち)て

是(これ)を渡(わた)さんとこそ計(はか)りける。此時(このとき)倭将(わしやう)小西(こにし)が等(ともから)平壌(へくしやく)の府城(ふじやう)に入(いり)。大明(たいみん)へ
兵(へい)を進(すゝ)めんか如何(いかゞ)あらんと。諸将(しよしやう)の評議(ひやうぎ)一 決(けつ)せざりし折(をり)なれば。平壌(へくしやく)より
西北(せいほ[く])はおのづから日本勢(につほんぜい)の難(なん)をばうけざりける。巡察使(しゆんさつし)李元翼(りげんよく)と兵使(へいし)
李賓(りひん)は。順安城(しゆんあんじやう)に逼(せま)り都元帥(とげんすい)金命元(きんめいけん)は肅州(しゆくしう)に相待(あひまて)ば。柳成龍(りうせいりやう)は安(あん)
州(しう)に出(いで)て大明(たいみん)の兵軍(へいぐん)の来(きた)るを遅(おそ)しと待居(まちゐ)たり。
   遼東(れうとう)祖承訓(そしようくん)遊撃将軍(ゆうげきしやうぐん)史儒(しじゆ)朝鮮(てうせん)を援事(すくふこと)
大明国(たいみんこく)には李㫟(りえん)がすでに。幾度(いくたび)となく援兵(ゑんへい)を乞(こひ)て已(や)むることなく。殊(こと)には
日本勢(につほんぜい)国(くに)に入(いる)こと最(もつと)も深(ふか)きよし。告報(つけほう)ずるによりてこゝに於(おゐ)て遼東巡按(れうとうしゆんあん)李(り)
時孳(しじ)。遼東(れうとう)の守道官(しゆたうくわん)荊州狻(けいしうしゆん)に命(めい)じて。朝鮮国(てうせんこく)の援兵(ゑんへい)を出(いだ)すべき旨(むね)あれ
ば。二人の官人(くわんにん)畏(かしこま)りて即(すなは)ち遼東(れうとう)の大将(たいしやう)。祖承訓(そしようくん)遊撃将軍(ゆうげきしやうくん)史儒(しじゆ)の二人を

両将(りやうしやう)として精兵(せいへい)三千人を引率(いんそつ)し。朝鮮(てうせん)の国境(くにさかへ)鴨緑江(わうりよくこう)を渡(わた)りて。平壌(へくしやく)を
責(せめ)んとするよし聞(きこ)へけり。爰(こゝ)に日本(につほん)の先鋒(せんばう)小西摂津守行長(こにしせつのかみゆきなが)は。平壌(へくしやく)の府城(ふじやう)の
手勢(てぜい)二万の兵士(へいし)を手配(てくば)りをして。此城(このしろ)を保(たもた)んと欲(ほつ)するに平壌(へくしやく)より王城(わうしやう)の間(あいだ)ま
で道(みち)のり遥(はる)かに遠(とお)くして味方(みかた)の弁利(べんり)悪(あし)かりける故 其(その)間々(あひだ〳〵)に城を構(かま)へ諸将(しよしやう)に是(これ)を
守(まも)らしめ。其(その)急(きう)を告(つげ)互(たがひ)に援(すく)ふの便(たより)となすべしと。各(おの〳〵)相談(さうだん)極(きは)まれば先(まつ)大友義綂(おほともよしむね)は。
鳳山(ほうざん)に在城(さいしやう)す是(これ)よりして平壌(へくしやく)までは日本道(につほんみち)十四里 余(あま)りと云伝(いひつた)ふ。龍川(りやうせん)の南(みなみ)白(しら)
川の城(しろ)には黒田長政(くろだながまさ)在城(さいじやふ)す。是(これ)より鳳山(ほうさん)の城(しろ)までは七里ばかりの道路(たうろ)なり。それ
よりして小早川隆景(こはやかはたかゝげ)。久留米秀包(くるめひでかね)の諸将(しよしやう)。相つゝひて在 城(じやう)をぞなしたりける。
大将 祖(そ) 承訓(しようくん)が兵士(へいし)もすでに。義州(ぎしう)に到着(たうちやく)すこゝにおゐて各(おの〳〵)備定(そなひさだ)めの謀計(ぼうけい)を
なし即(すなは)ち史儒(ししゆ)遊撃(ゆうげき)を先鋒(せんほう)となして進(すゝ)みける。祖承訓(そしようくん)は乃(すなは)ち遼東(れうとう)の名(めい)

【右丁】
小西行長(こにしゆきなが)
 大明(たいみん)の援兵(えんへい)
 祖承訓(そしやうくん)を
  大(おほい)に
   やぶる

【左丁 挿絵のみ】

ある勇将(ゆうしやう)にして。是(これ)より先(さき)北荻(ほくてき)の虜(ゑひす)と戦(たゝか)つてその功(こう)多(おゝ)く取(とり)たる者(もの)なりければ。
此度(このたひ)日本勢(につほんぜい)を侮(あなど)り必(かなら)ず彼軍(かのいくさ)と戦(たゝか)ふほどならば勝(かち)を取(とる)べきものとおもひ侈(おこ)
りける故(ゆへ)に。既(すで)に嘉山(かさん)に至(いた)りて朝鮮人(てうせんじん)に問(とふ)て。平壌(へくしやく)の日本勢(につほんせい)はいまだ走(はし)り退(しりぞ)か
ずやと云ければ。朝鮮(てうせん)の者(もの)どもなか〳〵左(さ)やうのことにあらず形勢(きやうせい)甚(はな[は])だ強(つよ)しと
答(こた)ふ。承訓(しようくん)は是(これ)を聞(きゝ)天(てん)に仰(おほい)て手を合(あは)せ祝言(のつと)をなして云(いふ)。倭賊(わぞく)猶(なを)こゝに在(あり)天(てん)必(かなら)ず
我(われ)をして大 功(こう)を成(な)さしめんと欲(ほつ)するは有(あり)がたきことなりと大(おほい)に歓(よろこ)ひて一 両日(りふにち)は爰(こゝ)
に人馬(にんば)の足(あし)を休(やす)めつゝ。平壌(へくしやく)を責破(せめやぶ)るべき其(その)支度(したく)をこそ成(なし)にける。
   小西行長(こにしゆきなが)祖承訓(そしようくん)と戦(たゝか)ふ事
明(あく)れば同月廿八日 大明(たいみん)の総(そう)大将。祖承訓(そしようくん)は順安(しゆんあん)より陣営(ぢんえい)を打立(うちたつ)。其夜(そのよ)の三 更(こふ)
に馬(うま)を馳(はせ)同廿九日の朝(あさ)まだきより。平壌(へくじやく)の府城(ふじやう)小西行長(こにしゆきなが)宗義智(そうよしとし)が立籠(たてこも)り

たるをぞ攻(せめ)たりける。祖承訓(そしようくん)は元(もと)より遼東(れうとう)の騎馬(きば)に狎(なれ)たる者(もの)にして
日本人(につほんじん)と戦(たゝか)ふの手段(しゆだん)を知(し)らず。折(おり)ふし此頃(このごろ)降(ふり)つゞけたる五月雨(さみだれ)の強(つよ)き
によりて。山水(やまみづ)俄(にはか)に漲(みなぎ)り来(きた)りて陸地(くがち)も川波(かはなみ)を漂(たゞよ)はするの時(とき)なるに。数日(すじつ)馬(ば)
足(そく)を泥土(でいど)に浸(ひた)したれば。馬蹄(ひづめ)たゞれて馳駆(ちく)するに便(べん)ならず殊(こと)には平壌(へくしやく)嶺(れい)
頭(とう)聳(そび)へて城内(じやうない)道(みち)狭(せば)きところなるに。祖承訓(そじよふくん)元(もと)より地(ち)の利(り)を諳(そらん)ぜず徒(たゞ)に
順安(じゆんあん)より夜通(よどほ)しに押(おし)よせて。思(おも)ひもよらず攻(せめ)たりける城中(じやうちう)の者(もの)どもは。此程(このほど)
の長雨(ながあめ)に敵(てき)よも急(きふ)に寄来(よせきた)らじとおもふ折(をり)ふしなれば日本勢(につほんぜい)も其防(そのふせ)ぎ
怠(おこた)るところへ。大明(たいみん)の兵(へい)きびしく殺(きつ)て入(いり)ければ小西(こにし)が兵士(へいし)意(こゝろ)あはて。総門(そうもん)を一 叚(だん)【ママ】に攻(せめ)
やぶられ二の木戸(きど)へ引(ひゐ)て入(いり)祖承訓(そじよふくん)が騎馬(きば)ども勝(かつ)に乗(じよう)じて息(いき)をもあらせず
七 星門(せいもん)より攻入(せめいり)たりされども。城内(じやうない)路(みち)狭(せま)くしてことに長雨(ながあめ)に道(みち)あしく。馬足(ばそく)の

進退(しんたい)自由(じゆう)ならず。又(また)小西(こにし)が兵士(へいし)ども城塁(じやうるい)の険難(けんなん)なる要害(やうがい)に引(ひき)うけて。鳥鋭(てつぽう)
を矢狭間(やざま)にならべ石打棚(いしうちたな)より。大石(たいせき)大木(たいぼく)を投(なげ)かくれば史儒(しじゆ)遊撃(ゆうげき)が先手(さきて)の勢(せめ)
進(すゝ)むべきやうなく已(すで)に崩(くづれ)かゝらんとするところを遊撃(ゆうげき)大(おゝゐ)に怒(いか)り麾(ざい)を取(とり)
て進(すゝ)めかゝれど下知(げじ)を加(くは)ふる故(ゆへ)遼東勢(れうとうせゐ)大将(たいしやう)の下知(げぢ)を違(そむ)くべきやうなく。狭(せば)き
道(みち)を強(しひ)てすゝまんとするほどに。小西(こにし)が兵卒(へいそつ)が打下(うちくだ)す鉄炮(てつほう)に当(あた)りて。人馬(じんば)共(とも)
に打斃(うちたほ)ざるゝ者(もの)其数(そのかず)をしらざりけり。斯(かく)ても猶(なほ)寄手(よせて)退(しりぞ)くべきやうもなか
りし処(ところ)に。遊撃(ゆうげき)余(あま)りに士卒(しそつ)に先立(さきだつ)て進(すゝ)みける故(ゆへ)城上(じやうしやう)より打出(うちいだす)【「す」衍】す鳥鋭(てつほう)の
丸(たま)に当(あた)つて。忽(たちま)ち馬上(ばしやう)より打落(うちおと)されて死(しゝ)たりける。是(これ)によつて此手(このて)の人数(にんず)味(み)
方(かた)の後陣(ごじん)へ崩(くづ)れかゝれば。城中(じやうちう)より是(これ)を見(み)て木戸作左衛門(きどさくざへもん)丸茂新五郎(まるもしんごらう)臼田(うすだ)
清兵衛(せいべい)。荒木図書(あらきづしよ)なんどゝといへる。小西(こにし)が手(て)にて一 騎当千(きたうせん)と呼(よば)れたる勇士(ゆうし)木(き)

戸(と)を開(ひらい)て切(きつ)て出(いづ)るに。崩(くづ)れ立(たて)たる遼東勢(れうとうぜい)右往左往(うわうさわう)に乱(みだ)れ立(たち)。後陣(ごぢん)の兵(へい)も先手(さきて)
の備(そなひ)の崩(くづ)れかゝるに。■■に同(おな)じく押立(おしたて)られ総崩(そうくづ)れとなつて敗走(はいそう)す。祖承訓(そしやうくん)麾(ざい)を
打(うち)ふり是(これ)を制(せい)しとゞむといへども。崩(くづ)れ立(たつ)たる癖(くせ)として誰(たれ)かは耳(みゝ)にも聞入(きゝいる)べ
き。あまりに慌(あは)てゝ逃(のが)るゝとて泥潦(たまえりみづ)に墜入(おちいり)り馬足(ばそく)を没(ぼつ)する者(もの)は。是非(ぜひ)なく敵(てき)
と撃合(うちやい)て討(うた)るゝ者(もの)数(かず)しれず。祖承訓(そしようくん)も今(いま)はすべきやうなくして。漸々(せん〳〵)に残(ざん)
兵(へい)を引(ひき)まとひ。平壌(へくしやく)の安定館(あんていくわん)まで引退(ひきしりぞ)く。されども小西(こにし)が兵士共(へいしとも)みだりに
敵地(てきち)へ深入(ふかいり)せざるの法(はう)をもつて追討(おひうち)せざれば。遼東勢(れうとうぜい)やう〳〵命(いのち)を助(たすか)りける。
小西行長(こにしゆきなが)宗(そう)の義智(よしとし)の両将(りやうしやう)は。大明(たいみん)の兵(へい)と手合(てあはせ)の合戦(かつせん)に大(おほい)なる勝(かち)を得(え)つれば
大明勢(たいみんぜい)の分劑(ぶんさい)これもおそるゝに足(た)らずとして。其翌日(そのよくしつ)城(しろ)をは宗義智(そうよしとし)か兵(へい)
を分(わ)け。同名(どうみやう)主殿頭(とのものかみ)等(ら)をさし添(そへ)て是(これ)を守(まも)らせ。行長(ゆきなが)は自(みづか)ら精兵(せいへい)すぐつて三

千 計(ばか)りの人数(にんず)をもつて安定館(あんていくわん)におし寄(よせ)たり。日本勢(につほんぜい)の鎧甲(よろひかぶと)旗旌物(はたさしもの)馬面(ばめん)
等(とう)に至(いた)るまで。見(み)なれぬ物(もの)のかず〳〵におどろき起(おこ)つて。大明人(たいみんじん)の乗(のつ)たる馬(うま)とも尻(しり)
ごみして進(すゝ)まぬを。さらばもどかし歩行立(かちだち)になつて戦(たゝか)ふべしと。馬(うま)どもを乗放(のりはな)
ち戦(たゝか)ふといへども。元(もと)より足(あし)だちあしければ泥土(でいど)の中(うち)に仆(たふ)れまろび戦(たゝか)ふべきやうも
なきを。小西(こにし)が兵(へい)ども時分(じぶん)を見合(みあは)せ一 度(と)にどつと打(うつ)てかゝつて。透間(すきま)もあらせず
責(せめ)たつるに。遼東(れうとう)の兵士(へいし)ども大(おほい)に敗軍(はいぐん)におよんで我先(われさき)にとぞ落行(おちゆき)ける。
   祖承訓(そしようくん)遼東(れうとう)に走(はし)る事(こと)
祖承訓(そしようくん)は二 度(ど)のかけ合(あはせ)に。味方(みかた)の兵士(へいし)こと〳〵く日本勢(につほんぜい)に討破(うちやぶ)られ。余兵(よへい)を
集(あつ)めて是非(ぜひ)なく逃(のが)れ走(はし)りて。順安(しゆんあん)肅州(しゆくしう)を打過(うちすぎ)夜中(やちう)しばらく安州(あんしう)の城外(じやうぐわい)に
馬(うま)をひかへて。朝鮮(てうせん)の通事官(つうじくわん)朴義儉(ぼくぎけん)といふ者(もの)を呼来(よびきた)らしめ。吾軍(わかぐん)今日(こんにち)多(おほ)

く賊(ぞく)を切(き)らんとしたるに。不幸(ふこう)にして史(し)遊撃(ゆうけき)討死(うちじに)すしかも天(てん)の時(とき)如此(かくのことく)なる故(ゆゑ)に。
おもひの外(ほか)に戦(たゝか)ひ利(り)あらず賊(ぞく)を討(うつ)こと延引(ゑんいん)せり。我(われ)まさに兵馬(へいば)を添来(そへきた)り更(さら)に
進(すゝ)んで征討(せいとう)すべきのこと。汝(なんぢ)が宰相(さいしやう)に語(かた)るべし。必(かなら)ず上下(しやうげ)譟動(そうどう)をなすべからず。浮橋(うきはし)
をも撤(すつ)べからずと云(い)ひ畢(おは)り。軍(ぐん)を控江亭(くうこうてい)にとゞめたり。抑(そも〳〵)承訓(しやうくん)が此度(このたび)のなす
ところを考(かんが)へ見(み)るに。おもひの外(ほか)の一 戦(せん)にこと〳〵く敗(はい)を取(とり)。おそらくは日本勢(につほんせい)の追(おひ)
討(うた)んことの急(きふ)ならんかと。これによりて二 江(こう)を隔阻(へだて)て防(ふせが)んとおもふによりて。如此(かくのごとく)の
手段(しゆだん)なり。柳成龍(りうせいりやう)は兼(かね)てより大明(たいみん)の軍将(くんしやう)の馳走人(ちそうにん)たるにより。従事官(じふしくわん)を
つかはしてこれを慰(なくさ)めしむ。粮米(らうまい)なとを送(おく)るか故(ゆゑ)祖承訓(そしやうくん)も控江亭(くうこうてい)に逗留(とうりう)
すること二日なり。連日(れんじつ)昼夜(ちうや)の小(こ)やみなく大雨(たいう)しきりに降(ふり)たりければ。諸軍(しよぐん)
野中(のなか)に陣(ちん)をなす故(ゆゑ)に。着(き)たるところの甲冑(かつちう)こと〴〵くぬれて。兵士(へいし)の苦(くる)しみ大(おほ)

方(かた)ならず。其上(そのうへ)承訓(しようくん)か節制(せつせい)のよからぬ事(こと)を恨(うら)み謗(そし)りて。戦(たゝか)ふ心(こゝろ)なきゆゑ
承訓(しようくん)もいよ〳〵速(すみやか)に陣(ぢん)を拂(はら)つて。遼東(れうとう)にこそかへりける。柳成龍(りうせいりやう)はこゝに
おゐて人心(じんしん)の動揺(とうえう)せんことをおそるゝ故(ゆゑ)。乃(すなは)ち奏(そう)して安州(あんしう)にとゞまりて明兵(みんへい)後(ご)
軍(ぐん)の至(いた)るを相待(あひまち)。民心(みんじん)を静(しづ)むる手段(しゆたん)をなしたりける。
   元均(けんきん)李舜臣(りしゆんしん)をまねく事(こと)
こゝに全羅水軍節度使(てるらすゐぐんせつとし)李舜臣(りしゆんしん)と。慶尚右水使(けくしやくうすゐし)元均(げんきん)。全羅右水使(てるらうすゐし)李億(りおく)
稘(き)等(ら)。水軍(すゐぐん)を大(おほい)に起(おこ)して日本(につほん)船手(ふなて)の勢(せい)を押止(おしとゞめ)んと議(ぎ)したりける。さても去(さん)
ぬる四月 日本勢(につほんせい)。はじめて朝鮮国(てうせんこく)に軍兵(ぐんひやう)を出(いだ)し押寄(おしよせ)来(きた)ると聞(きこ)へければ。慶(けく)
尚右水使(しやくうすゐし)元均(げんきん)等(ら)は。唐崎表(からさきおもて)巨済(こさい)といふ所(ところ)に番船(ばんせん)を出(いだ)して。是(これ)を防(ふせい)で戦(たゝか)はんと
せしとき。藤堂(とう〴〵)。加藤(かとう)。脇坂(わきざか)が諸船(しよせん)に抜(ぬき)ん出(で)。粉骨(ふんこつ)を尽(つく)して戦(たゝか)ふにより。朝鮮(てうせん)

の水軍(すゐぐん)大(おほい)に破(やぶ)れ多(おほ)くの番船(ばんせん)を日本勢(につほんせい)に奪(うば)はれたりけるが。元均(げんきん)は今(いま)は敵(てき)の強(つよ)き
におそれとても対敵(たいてき)すべきこと叶(かな)ふましとやおもひけん。自(みづか)ら乗(のり)たる百 余艘(よそう)の戦(たゝかひ)船(ふね)并(ならひ)
に火砲(くわほう)軍器(ぐんき)の類(るい)まで。尽(こと〳〵)くこれを海中(かいちう)に沈(しづ)め或(あるひ)は焼捨(やきすて)て。独(ひと)り手下(てした)の裨将(ひしやう)
李英男(りえいなん)李雲龍(りうんりやう)といへる等(ともがら)を引具(ひきぐ)し。纔(わづか)に四 艘(さう)の船(ふね)に取乗(とりのり)昆陽海口(こんやうかいこう)に至(いた)り陸(くが)に
登(のぼ)りて。倭軍(わぐん)を避(さけ)んとしたりける。元均(けんきん)が兵(へい)万余人(まんよにん)有(あり)けれども大将(たいしやう)の心(こゝろ)すでに
如此(かくのごとく)臆病神(おくひやうがみ)の付(つい)たるを見(み)るより。大(おほい)に潰(ついえ)たり。英男(ゑいなん)は元均(げんきん)に向(むか)つて諌(いさ)めて云(いふ)。尊(そん)
公(こう)まことに君命(くんめい)を受(うけ)水軍(すゐぐん)の節度(せつと)となりし身(み)として。軍(ぐん)をすて陸(くが)に登(のぼ)りて落行(おちゆか)ん
とき。朝廷(てうてい)罪(つみ)を吟味(きんみ)して公(こう)を罪(つみ)せんとする時(とき)は。何(なに)を以(もつ)てか自(みづか)ら云(いひ)わけをなし給はん
同(おな)じくは全羅道(てるらたう)に請(こひ)もとめ人兵(じんへい)を合(あは)せて戦(たゝか)ひ給はゝ。国家(こくか)のためなるべし其上(そのうへ)にて
戦(たゝか)ひ破(やぶ)るゝ時(とき)は是非(せひ)もなし。逃(のが)れ走(はし)るとも何(なん)ぞ遅(おそ)きことかあらんと云(いひ)けれは

元均(げんきん)もこゝに感悟(かんご)し。乃(すなは)ち英男(えいなん)を使者(ししや)として舜臣(しゆんしん)が方(かた)に遣(つかは)し。援兵(ゑんへい)を出(いだ)し
てともに志(こゝろざし)を合(あは)せ。日本勢(につほんせい)を退(しりぞ)くべきことを乞望(こひのぞ)むといへとも。舜臣(しゆんしん)は此(この)ことを辞(じ)
退(たい)して。人々(ひと〳〵)みな其守(そのまも)るへきの分境(ふんきやう)の限(かき)り有(あり)。朝廷(てうてい)の令(れい)なふして豈(あに)擅(ほしまゝ)に自(みづか)ら
境(さかい)を越(こゆ)るの義(ぎ)あらんやといふを。元均(げんきん)猶(なほ)やまずして強(しい)て是(これ)を求(もとむ)ること。凡(およ)そ往(おう)
返(はん)五六 度(と)に及(およ)ぶといへともやますして。英男(えいなん)をさし遣(つかは)す英男(えいなん)が空(むな)しくかへること
に。船(ふね)の頭(かしら)に座(ざ)をなし遥(はる)かに是(これ)を望(のぞ)み見(み)て。痛哭(つうこく)せずといふことなし舜臣(しゆんしん)も
かたく辞(じ)すといへども。元均(けんきん)が誠(まこと)あるしひてもとむるの志(こゝろざし)にめで乃(すなは)ち水(すゐ)
軍(ぐん)を起(おこ)し四十 艘(そう)を率(ひきい)て巨済(きよさい)に到着(たうちやく)すれば。元均(げんきん)大(おほい)に歓(よろこ)び謀略(ほうりやく)を相定(あひさだ)めてすでに
兵船(へいせん)を調(とゝの)へ。日本勢(につほんぜい)と戦(たゝか)はんとぞなしたりける
朝鮮征伐記(てうせんせいはつき)巻之十《割書:終|》

【白紙】

【白紙】

【見返し 白紙】

【裏表紙】

BnF.

【表紙】

JAPONAIS
185

【文字無し】

【文字無し】

【表紙】
【題箋】
扶桑皇統記図会《割書:後編》一上
【貼紙】
7 Vols CY/N
1956
【貼紙下】
Japonais No 185
【下に】1

【表紙裏文字無し】

【次コマ裏】

浪蕐好華堂主人著編
同柳斎重春先生画図

       後編
扶桑皇統記図会 全七冊

浪蕐書肆《割書:岡田群玉堂|岡田群鳳堂》

扶桑皇統記図会後編叙
本朝 天武帝の古昔より。今に至りて
千有余年。聖賢の君易に。御代知し
召て民を撫。天地と倶に悠久にて。さゞれ
石の巌となる。悦びのみある 皇国と
いへども。天地或ひは風雲あり。時ならず
して氷雪を飛し。地震ひて山を崩し。

日輪竝び出るなんど。これ其時日の変
にして。漢土にも往々是等の変あり。されば
治まる聖代にも。国を蠱するの人民出て。
王位を望み富貴を慮ひ。良すれは
乱を起し。兵革闘諍の衢となりて。
天日霎時暗きに至るはこれも所謂
時日の変のみ。是等の事は 本朝の。

歴史に載て昭々たれども。童男稚女には読
易からず。因て野亭子新にものして。国字
書になし出像を加へ。天武帝の御時より。
称徳帝の御宇に至り。初輯と号て嚮に
出しつ。今また嗣編は 光仁帝より。
朱雀帝の御宇に畢る。是より以来上世は。
神武の御世に遡り。下は 後陽成帝の

御宇まで。都ては二千有余年の。治
乱得失人臣の。善悪邪正はいふも更にて。
天変地妖も正史にあるをば。洩さず載て
大成せむと。既にその草を起すもの
から。僅二輯にして大志を果さず。空く
宗下の鬼と成ぬ。然るに這回刻成て。世に
公になすに至り。書肆来つて序辞を余に請。

余はかの野亭と国を隔て。いまだ一面の
識こそなけれ。その志は一なるものから。聊
遅らせず需に応じ。其概略を巻端に
述て。四方の雅君の机下に捧ぐといふ
 于時嘉永庚戌春三月
     東都
      松亭主人題【印 金水】

委_二-任梱外機-
密_一爰整_二
其-旅_一東-征
薄-伐
以斥_二蝦-狄_一
旋奏_二奥-
羽清-平_一

さかのうへたむら
   まろ【囲み】
     坂上
      田村
       麻呂【囲み】

こんがうほう
 くふかい
     金剛峯
      空海【以上右下囲み】

  入定の後四日を過て
  太上皇弔の書を
  降し給ふ其書
     にいはく
真-言洪-匠密-教宗-師
邦-家憑_二其-護持_一動-植【注①】
荷_二其徳恵_一豈図
崦-嵫【注②】未_レ逼無-常遽-侵速
馳_二草-書_一弔_二-慰大-定_一
          元享釈書第一巻に見たり

【注① 「其-護持」は「其護-持」の誤】
【注 「崦嵫(エンジ)」は山の名】

うらしまたらう
    浦島【嶌】
     太郎【以上囲み】
万葉
とこよへに
 あるへき
     ものを
  つるきたち
なかこゝろ
    から
  おそや
   この君

ふぢはらの
       こう
  ときひら
     藤原
     時平公【以上囲み】

誇_二君-寵_一亡_二賢-臣_一
暫-時雖_下在_二其-位_一
暉_中其-威_上 天責_二
其悪_一罹_二異病_一
両-耳青-蛇浄-
蔵持-念所_レ伝_二
世-俗_一不_レ知_二信-偽_一

黄門行平
忽起_二心兵_一
戯言出_レ思
和歌
 発_レ情
不_レ邪
 不_レ婬
有_レ才有_レ名
 絵島風韻
   全非_二鄭声_一
【以下囲み】
まつ   むらさめ
 かせ
      松風
       村雨

つり   きさき
  どのゝ
      釣
       殿
        后【以上囲み二つ】
陽成帝の
愛嬪也
妬婦奸計
一朝露
 御製
筑波根之
峰従
落流水
無能川
恋曽積而
渕止成
   奴留

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)巻中総摽目後篇
      巻 之 一《割書:上下》
《割書:一ノ上》 光仁天皇(くわうにんてんわう)御治世(ごちせい)       奥州兵乱(おうしうへうらん)征将(うつて)下向條(げかうのこと)
   金窪(かなくぼ)膽沢(いさは)強勇力戦(がうゆうりきせん)      大泮益立(おほともましだち)敗軍(はいぐん)之条【注①】
   於阿隈河(あふくまがはに)宦軍(くわんぐん)《振り仮名:与_二夷賊_一摂戦|いぞくとせつせんす》  大泮益立(おほともましだち)不覚(ふかく)之条
   金窪(かなくぼ)兵太勇(へうだゆう)を揮(ふる)つて京軍(きやうぐん)を責破(せめやぶ)る図(づ)
《割書:一ノ下》 金窪(かなくぼ)義心(ぎしん)《振り仮名:贈_二于敵冑_一|てきにかぶとをおくる》     瑞雲禅師(ずいうんぜんじ)《振り仮名:化_二度安達_一|あだちをけどす》条【注②】
   桓武天皇(くわんむてんわう)御即位(ごそくゐ)        苦肉(くにくの)計略(けいりやく)安達(あだち)《振り仮名:焼_二敵柵_一|てきさくをやく》条
   安達八郎(あだちはちらう)忍術(にんじゆつ)を以(もつ)て牢獄(らうごく)を破(やぶ)り却(かへつ)て敵方(てきがた)に降参(こうさん)する図(づ)
   東征使(とうせいし)凱陣(かいぢん)賞罸(せうばつ)       不破内親王(ふはないしんわう)母子(ぼし)流罪(るざい)条
   宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)託宣(たくせん)并(ならびに)神伝(しんでん)   蝦蟇合戦(かわづがつせんの)怪異(けい)之条
   山城国(やましろのくに)長岡(ながおかの)都(みやこ)経営(けいゑい)     早良親王(さうらしんわう)謫罪(てきざい)憤死(ふんし)条
   早良親王(さうらしんわう)の命(めい)を受(うけ)て継人(つぐひと)竹良(たけよし)密(ひそか)に種継(たねつぐ)を射(い)る図(づ)
   《振り仮名:築_二再新都_一|ふたゝびしんとをきづき》《振り仮名:造_二営大内裡_一|だいりをぞうゑいす》  釈(しやくの)最澄(さいてう)《振り仮名:開_二基延暦寺_一|えんりやくじをかいきす》条【注②】
      巻 之 二
   山城国(やましろのくに)鞍馬寺(くらまでら)開基(かいき)      峰延法師(ほうえんほふし)《振り仮名:退_二治大蛇_一|だいじやをたいぢす》条【注②】

【注① 「大泮」は「大伴」の誤記・本文(34コマ目以降)は「大伴」】
【注② 「化度」「造営」「開基」「退治」は「-(合符)」脱】

   奥州(おうしうの)夷賊(いぞく)蜂起(ほうき)宦軍(くわんぐん)敗績(はいせき)  重而(かさねて)東征使(とうせいし)下向(げかふ)条
   鞍馬(くらま)の峰延(ほうえん)法力(ほふりき)をもつて大蛇(だいじや)を退治(たいぢ)する図(づ)
   《振り仮名:感_二霊夢_一大養得_二奇子_一|れいむをかんじておほかひきしをうる》    坂上田村丸(さかのうえのたむらまる)《振り仮名:遇_二延鎮_一|えんちんにあふ》条
   宦軍(くわんぐん)《振り仮名:与_二夷賊_一于奥州合戦|いぞくとおうしうにかつせんす》   田村丸(たむらまろ)武勇(ぶゆう)《振り仮名:討_二大熊丸_一|おほくまゝるをうつ》条
   田村丸(たむらまろ)明智賊(めいちぞく)の幻術(げんじゆつ)を挫(くじ)き賊将(ぞくしやう)大熊丸(おほくまゝる)を討(うつ)図(づ)
   毘沙門地蔵(びしやもんぢぞう)の二尊(にそん)雲中(うんちう)に顕(あら)はれ田村丸(たむらまろ)が軍(いくさ)を援(すくひ)給ふ図(づ) 其二
   延鎮(えんちん)《振り仮名:語_二両脇士奇特_一|わきしのきどくをかたる》     田村丸(たむらまろ)《振り仮名:建_二立清水寺_一|せいすいじをこんりうす》条【注①】
   乾臨閣(けんりんかく)御遊(ぎよゆう)諸継(おつぎ)昇進(しやうしん)    老人(らうじん)寿星(じゆせい)出現(しゆつげん)大赦(たいしや)事【注②】
   平城天皇(へいぜいてんわう)御即位(ごそくゐ)《割書:并》譲位(じやうゐ)   嵯峨天皇(さがてんわう)受禅(じゆぜん)南都(なんと)擾乱(じやうらん)
   天皇(てんわう)賀茂斎院(かものさいいんへ)御幸(みゆき)     有智子斎院(うちしさいゐん)詩作(しさくの)条(くだり)
   浅山玄吾(あさやまげんご)《振り仮名:遭_二盗難_一入水|とうなんにあふてじゆすい》   漁父(ぎよふ)兵太(ひやうだ)《振り仮名:湖上助_二浅山_一|こじやうにあさやまをたすく》事
   浅山玄吾(あさやまげんご)湖水(ごすい)に陥(おちい)り漁舟(ぎよしう)の為(ため)に一命(いちめい)を助(たす)かる図(づ)
      巻 之 三
   浅山(あさやま)《振り仮名:過入_二隠室_一遭_二危難_一|あやまつていんしつにいりきなんにあふ》  悪僧(あくそう)《振り仮名:伏_レ刑|けいにふくし》浅山青雲条(あさやませいうんのくだり)
   无頼(ぶらい)の悪僧(あくそう)隠室(いんしつ)を見(み)られ浅山(あさやま)を擒(とりこ)にする図(づ)
   釈(しやくの)空海(くうかい)幼稚(ようち)奇行(きかう)      阿波(あはの)大滝山(おほだきさん)土佐(とさの)室戸崎(むろどのさき)苦行(くぎやう)事

【注① 「建立」「-(合符)」脱】
【注② 「諸継」は「緒継」ヵ】

   室戸(むろど)の庵室(あんしつ)に悪龍(あくりやう)現(げん)じ空海(くうかい)を試(ため)す図(づ)
   空海師(くうかいし)入唐(につとう)求法(ぐほふ)         《振り仮名:以_二 五筆_一書_レ詩水上題_レ詩|ごひつをもつてしをかきすいしやうにしをだいす》条
   文珠(もんじゆ)童子(どうじ)に現(げん)じて空海(くうかい)に奇瑞(きずい)を見(み)せしめ給ふ図(づ)
   空海師(くうかいし)帰朝(きてう)《振り仮名:鎮_二難風_一|なんふうをしづむ》       投筆(なげふで)《割書:并》《振り仮名:隔_レ溪書_レ額|たにをへだてゝがくをしよす》条
   東大寺(とうだいじ)蜂怪(はちのくわい)南円堂(なんゑんどう)建立(こんりう)     高野山(かうやさん)開発(かいほつ)伽藍(がらん)造立(ざうりう)事
   清滝川(きよたきがは)を隔(へだて)て空海(くうかい)額(がく)の文字(もんじ)を書(かく)図(づ)
   《振り仮名:東寺賜_二空海_一西寺賜_二守敏_一|とうじをくうかいにたまひさいじをしゆびんにたまふ》    空海(くうかい)守敏(しゆびん)法力(ほふりき)優劣(ゆうれつの)条(くだり)
   嵯峨天皇(さがてんわう)御譲位(ごじやうゐ)         守敏(しゆびん)空海(くうかい)《振り仮名:祈_レ雨争_二行力_一|あめをいのつてぎやうりきをあらそふ》条
   女人禁制(によにんきんぜい)を犯(おか)して空海(くうかい)の母(はゝ)種々(しゆ〴〵)の怪異(くわいゐ)にあふ図(づ)
   母公(はゝぎみ)阿刀氏(あとし)《振り仮名:望_レ登_二高野山_一|かうやさんへのぼらんとのぞむ》    山中(さんちう)怪異(けい)慈尊院(じそんいん)之条(のこと)
      巻 之 四
   《振り仮名:放_二巨亀_一浦島到_二蓬莱_一|おほがめをはなしてうらしまほうらいにいたる》      《振り仮名:開_二玉手筥_一|たまてばこをひらいて》浦島老死(うらしまらうしす)条
   浦島(うらしま)が子(こ)蓬莱(ほうらい)に至(いた)り遊宴(いうえん)歓楽(くわんらく)を極(きは)むる図(づ)
   仁明天皇(にんみやうてんわう)御即位(ごそくゐ)大礼(たいれい)       小野篁(おのゝたかむら)流罪(るざい)之条(のこと)
   伊勢斉宮(いせのさいぐう)及(および)《振り仮名:建_二野々宮_一|のゝみやをたつる》      恒貞親王(つねさだしんわう)隠謀(いんばう)露顕(ろけんの)条(こと)
   小野篁(おのゝたかむら)夢(ゆめ)に閻羅王宮(ゑんらわうきう)へ到(いた)る図(づ)  《振り仮名:従_二豊後国_一献_二自亀_一|ぶんこのくによりはくきをけんず》【「自」は「白」の誤記ヵ】

   良峰宗貞(よしみねむねさだ)詠哥(えいか)遁世(とんせい)条   深草(ふかくさ)の帝(てい)の陵(みさゝき)へ諸人(しよにん)群参(ぐんさん)の図(づ)
   文徳天皇(もんとくてんわう)御即位(ごそくゐ)      位(くらゐ)争(あらそひ)名虎(なとら)良雄(よしを)角觝(すまふの)条(こと)
   惟喬(これたか)惟仁(これひと)の御位争(みくらゐあらそ)ひにより大内(おほうち)相撲(すまふ)の図
   清和天皇(せいわてんわう)御即位(ごそくゐ)      伴義雄(とものよしを)《振り仮名:犯_レ罪|つみをおかし》流刑(るけい)の条(こと)
      巻 之 五
   陽成院(やうぜいゐん)御即位(ごそくゐ)       菅家(かんけ)系譜(けいふ)角觝(すまふ)濫觴(はじまり)之条(のこと)
   野見宿祢(のみのすくね)当麻蹶速(たへまのくゑはや)と力競(ちからくら)べの図(づ)
   春彦(はるひこ)是善(これよし)俱(ともに)《振り仮名:感_二奇夢_一|きむをかんず》   《振り仮名:於_二良香宅_一菅公試_レ射|よしかのたくにかんかうしやをこゝろむ》条
   陽成院(やうぜいゐん)《振り仮名:恋_二釣殿君_一|つりとのゝきみをこふ》御製(ぎよせい)  狂病(きやうびやう)乱行(らんげう)閉居(へいきよの)条(こと)
   異形(いぎやう)のものを並(なら)べて釣殿(つりどのゝ)【「の」衍】の后(きさき)を魘(おそ)ふ図(づ)
   光孝天皇(くわうかうてんわう)御即位(ごそくゐ)      行平(ゆきひら)《振り仮名:詠_二述懐歌_一被_レ為_レ謫|じゆつくわいのうたをよみててきせらるゝ》条
   行平(ゆきひら)須磨(すま)の浦(うら)にて松風(まつかぜ)村雨(むらさめ)に戯(たはふ)ふるゝ図(づ)
   清和上皇(せいわじやうかう)御登霞(ごとうか)      禁庭(きんてい)種々(しゆ〳〵)怪異(けいい)の条(くだり)
   都良香(とりやうけう)《振り仮名:得_二鬼神奇句_一|きしんにきくをうる》    菅公(かんこう)一時(いちじに)《振り仮名:作_二 十詩_一|じつしをつくる》条
   羅生門(らしやうもん)に於(おい)て鬼神(きしん)都良香(とりやうけう)が詩(し)を嗣(つ)ぐ図(づ)
   醍醐天皇(だいごてんわう)御即位(ごそくゐ)      時平(ときひら)乱行(らんぎやう)《振り仮名:奪_二叔父妻_一|おぢのさいをうばふ》条

      巻 之 六
   朱雀院(しゆじやくいん)朝覲(てうきんの)御幸(みゆき)      時平(ときひら)光(ひかる)等(ら)《振り仮名:謀_レ黜_二菅公_一|かんこうしりぞけんとはかる》条
   三善清行(みよしきよゆき)《振り仮名:贈_二菅公諫書_一|かんこうにかんしよをおくる》   菅公(かんこう)《振り仮名:得_レ𥦱被_レ謫_二西府_一|べんをえてざいふにてきせらる》条【注】
   三善清行(みよしきよゆき)天象(てんしやう)を見(み)て菅公(かんこう)に書(しよ)を奉(たてまつ)る図(づ)
   仁和寺(にんなじ)の法皇(ほふわう)主上(しゆじやう)を諫(いさ)め給はんと宮門(きうもん)に立(たゝ)せ給ふ図(づ)
   菅公(かんこう)《振り仮名:遺_二于道明寺木像_一|どうみやうじにもくぞうをのこす》    播州(ばんしう)曽根(そね)手枕松(たまくらのまつ)の事(こと)
   菅公(かんこう)《振り仮名:於配所詠_二詩歌_一|はいしよにおいてしいかをえいず》    太宰府(だざいふ)飛梅(とひうめ)追松(おひまつ)の条(くだり)
   菅公(かんこう)天拝山(ていはいざん)祈願(きくわん)《割書:并》薨去(かうきよ)    渡会春彦(わたらへはるひこ)忠実(ちうじつ)死去(しきよ)条
   寛平法皇(くわんへいほふわう)《振り仮名:築_二双岡_一|ならびがおかをきづく》     法性坊(ほふしやうばう)《振り仮名:夢謁_二菅公亡霊_一|ゆめにかんこうのぼうれいにえつす》条
   菅公(かんこう)筑紫(つくし)天拝山(てんぱいざん)にて祈願(きぐわん)し給ふ図(づ)
   洛中(らくちう)天変(てんへん)内裡(だいり)雷災(らいさい)      奸徒(かんと)雷死(らいし)法性坊(ほふしやうばう)行力(ぎやうりき)条
   時平(ときひら)《振り仮名:患_二奇病_一薨去|きびやうをやみてかうきよ》      光(ひかる)定国(さだくに)菅根(すがね)変死(へんし)洛中(らくちう)洪水(かうずい)条
   太宰府天満(だざいふてんまん)天神(てんじん)宮居(みやゐ)の図(づ)
   菅公(かんこう)贈宦(ぞうくわん)《振り仮名:賜_二神号_一|しんがうをたまふ》      延喜帝(えんぎてい)御譲位(ごじやうゐ)四海大平(しかいたいへいの)条(こと)
      通計七十一条総摽目畢

【注 「𥦱」は辞書に見当たらず。「冤」の誤記ヵ・振り仮名「べん」は不明】

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之壱上下目録
《割書:一ノ上》光仁天皇(くわうにんてんわう)御治世(ごちせい)     奥州(おうしう)兵乱(へいらん)征将(うつて)下向(げかふの)条(こと)
  金窪(かなくぼ)胆沢(いさは)強勇(がうゆう)力戦(りきせん)    大伴益立(おほともましだち)敗軍(はいぐん)の条
  《振り仮名:於_二阿隈河_一宦軍与_二夷賊_一摂戦|あふくまがはにくわんぐんいぞくとせつせん》 大伴益立(おほともましだち)不覚(ふかく)の条
  金窪(かなくぼ)兵太勇(ひやうだゆう)を揮(ふる)つて京軍(きやうぐん)を敗(やぶ)る図(づ)
《割書:一ノ下》金窪(かなくぼ)義心(ぎしん)《振り仮名:贈_二于敵冑_一|てきにかぶとをおくる》   瑞雲禅師(ずゐうんぜんじ)《振り仮名:化_二度安達_一|あだちをけどす》条【注】
  桓武天皇(くわんむてんわう)御即位(ごそくゐ)      苦肉(くにくの)計略(けいりやく)安達(あだち)《振り仮名:焼_二敵柵_一|てきさくをやく》条

【注 「化度」は「-(合符)」脱】

  安達八郎(あだちはちらう)忍術(にんじゆつ)を以(もつ)て窂獄(ろうごく)を破(やぶ)り却(かへつ)て敵方(てきがた)へ降参(かうさん)する図(づ)
  東征使(とうせいし)凱陣(かいぢん)賞罰(しやうばつ)     不破内親王(ふはないしんわう)母子(ぼし)流罪(るざい)条
  宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)託宣(たくせん)《割書:并(ならびに)》神伝(しんでん) 蝦蟇合戦(かわづかつせん)怪異(けい)の条
  山城国(やましろのくに)長岡都(ながおかのみやこ)経営(けいえい)   早良親王(さうらしんわう)謫罪(てきざい)憤死(ふんし)条
  早良親王(さうらしんわう)の命(めい)を受(うけ)て継人(つぐんど)竹良(たけよし)密(ひそか)に種継(たねつぐ)を射(い)る図(づ)
  《振り仮名:築_二再新都_一造_二営大内裡_一|ふたゝびしんとをきづきだい〴〵りをぞうえいす》 釈(しやく)最澄(さいてう)《振り仮名:開_二基延暦寺_一|えんりやくじをかいきす》条【注】
       目 録 終

【注 「開基」は「-(合符)」脱】

扶桑(ふそう)皇統記(くわうとうき)図会(づゑ)後編(こうへん)巻之壱上
             浪華 好華堂野亭参考

   光仁天皇(くわうにんてんわう)御治世(ごちせい)  奥州(おうしう)兵乱(へいらん)征将(うつて)下向(げかふの)条(こと)
人皇(にんわう)四十九代の聖主(せいしゆ)光仁天皇(くわうにんてんわう)と申(まうし)奉(たてまつ)るは。天性(てんせい)帝徳(ていとく)を備(そなへ)給ひ。先朝(せんてう)の《割書:称|徳》弊(へい)
政(せい)を改(あらため)。賢(けん)を挙(あげ)不肖(ふせう)を退(しりぞ)け。絶(たへ)たるを興(おこ)し廃(すたれ)たるを立(たて)。万民(ばんみん)を子(こ)の如(ごと)く撫恤(なでめぐみ)
給ひしかば。宇宙(あめがした)昇平(おだやか)にて四海(よつのうみ)波(なみ)静(しづか)なりけるに。世(よ)に止(やみ)がたきは女色(によしよく)の惑(まどひ)にて一女子(いちによし)の
故(ゆへ)より。東国(とうごく)に忽(たちま)ち不時(ふじ)の兵革(へいかく)起(おこ)りけり。其(その)濫觴(らんぢよう)を尋(たづぬ)るに。宝亀(ほうき)十年に紀(きの)
広純(ひろずみ)といふ人。陸奥守(むつのかみ)に任(にん)ぜられて奥州(おうしう)へ下(くだ)り。国(くに)の政道(まつりごと)を執行(とりおこな)ひけるが。此(この)広純(ひろずみ)は
大納言(たいなごん)兼(げん)中務卿(なかつかさけう)の孫(まご)従四位上(じふしゐのじやう)紀宇美(きのうみ)の息男(そくなん)たれば権勢(けんせい)重(おも)く国人(くにんど)も厚(あつ)く
敬(うやま)ひ尊(たつと)びけるに。広純(ひろずみ)元来(ぐわんらい)徳(とく)を脩(おさめ)ず。権威(けんい)を専(もつぱら)にして我意(わがまゝ)の裁判(さいばん)多(おほ)く。且(そのうへ)色(いろ)
を好(この)む癖(くせ)あり。然(しかる)に奥州(おうしう)の住人(ぢうにん)に伊治呰麻呂(いちのしまろ)といふ者(もの)ありて。其本(そのもと)は蝦夷(ゑぞ)の島夷(しまゑびす)の

種類(しゆるい)なりけるが。生質(せいしつ)剛勇(がうゆう)なる上 頗(すこぶ)る胆略(たんりやく)有(あり)ければ。麾下(きか)に属(ぞく)する者 追々(おひ〳〵)多(おほ)
くなりて数郡(すうぐん)を領(れう)し勢(いきほひ)強(つよ)かりける。此(この)呰麻呂(しまろ)兼(かね)て心をかけて忍(しの)び通(かよ)ふ女あり。其(その)
容色(ようしよく)衆(しゆう)に勝(すぐ)れ。都(みやこ)恥(はづか)【耻は俗字】しき風姿(すがた)なりけるを。広純(ひろずみ)伝聞(つたへきゝ)て見ぬ恋(こひ)にあくがれ。度(たび)
々(〳〵)文(ふみ)を贈(おくつ)て口説(くどき)けれども。女は呰麻呂(しまろ)が思(おも)はんところを憚(はゞか)りて一 度(ど)も返事(かへりこと)をせず。難面(つれなく)
てのみ過(すご)しければ。広純(ひろずみ)弥(いよ〳〵)心を悩(なや)まし。是(これ)呰麻呂(しまろ)が有(ある)ゆへに靡(なび)かぬなるべしとて。家(け)
人(にん)に命(めい)じて一夜(あるよ)暗(ひそか)に女が宿(やど)へ潜入(しのびいら)せ。有無(うむ)を言(いは)せず理(わり)なく女を奪(うばひ)とらせ。我館(わがやかた)【舘は俗字】へ
迎(むか)へて百般(さま〳〵)言(ことば)を尽(つく)しかき口説(くどき)けるにぞ。流石(さすが)浅(あさ)はかなる女心(をんなごゝろ)とて。さしも年月(としつき)契(ちぎり)し
呰麻呂(しまろ)の事を打忘(うちわすれ)広純(ひろずみ)の心に従(したが)ひけるにより。広純(ひろずみ)大いに悦(よろこ)び女を寵愛(てうあい)する事
他(た)に異(こと)なりけり。呰麻呂(しまろ)は最愛(さいあい)の通妻(かよひづま)を奪取(ばいとら)れて心(むね)を燃(もや)し怒憤(いかりいきどふ)れども。国司(こくし)の
威勢(いせい)に圧(おさ)れて奪返(ばひかへ)す事 能(あた)はず。よく〳〵時節(じせつ)を窺(うかゞ)ひ此怨(このうらみ)を報(ほふ)ぜんものと
無念(むねん)を隠(かく)して色(いろ)にも見(あらは)さず。多(おほ)くの賄賂(まいなひ)を広純(ひろずみ)に贈(おく)り。詳(わざ)と媚諛(こびへつら)ひけれ

ば広純(ひろずみ)実(まこと)に伏従(ふくじふ)せしぞと思(おも)ひ。心うち解(とけ)て万端(よろづ)隔(へだて)なく呰麻呂(しまろ)と商議(しやうぎ)し聊(いさゝか)
も疑心(ぎしん)なく。何(なん)の要慎(ようじん)をもせざりけり。呰麻呂(しまろ)は広純(ひろずみ)を誑(あざむ)きすまして独(ひとり)笑(ゑみ)【咲は笑の古字】し。時(とき)を
窺(うかゞ)ふ中(うち)に一時(あるとき)広純(ひろずみ)が麾下(きか)の諸士(しよし)国政(こくせい)に就(つい)て諸方(しよはう)の郡県(ぐんけん)へ別(わか)れ赴(おもむ)き。広純(ひろずみ)の
館(やかた)【舘】はなはだ無人(ぶにん)なりければ。呰麻呂(しまろ)須波(すは)待設(まちまふけ)たる時節(じせつ)ごさんなれと。兼(かね)て随身(ずいしん)
せし野武士(のぶし)胆沢悪太郎(いざはあくたらう)金窪兵太(かなくぼひやうだ)なんど。強勇(がうゆう)の溢者(あぶれもの)を先(さき)として究竟(くつけう)の者(もの)二
百 余人(よにん)に武具(ものゝぐ)させ夜中(やちう)前後(ぜんご)二隊(ふたて)に分(わか)れ広純(ひろずみ)が館(やかた)【舘】へひた〳〵と押寄(おしよせ)先(まづ)表門(おもてもん)へ向(むか)
ひたる胆沢(いざは)悪(あく)太郎。二百人に下知(げぢ)を伝(つた)へ倉卒(にはか)に松明(たいまつ)を点(とも)し連(つれ)一斉(いつせい)に喊(とき)を撞(どつ)とあげ【注】
表門(おもてもん)を打破(うちやぶつ)て我先(われさき)にと乱(みだ)れ入ければ。広純(ひろずみ)が家人(けにん)們(ら)思(おもひ)もよらぬ不意(ふい)の夜討(ようち)に大に
周障(しうせう)騒動(そうどふ)し。太刀(たち)よ弓(ゆみ)よと犇(ひしめ)き上(うへ)を下(した)へとぞ反(かへ)しける。広純(ひろずみ)も仰天(ぎやうてん)しながら必定(ひつでう)野武(のぶ)
士(し)山賊(さんぞく)の属(たぐひ)ならめ。何程(なにほど)の事かあらん蹴散(けちら)せよと下知(げぢ)しけるにぞ。折節(をりふし)在番(ざいばん)の武士(ぶし)無(ぶ)
人(にん)にて在合(ありあは)せたる衛士(ゑいし)五十 余人(よにん)。主(しゆう)の下知(げぢ)を承(うけ)て太刀先(たちさき)を揃(そろ)へ。打入者(うちいるもの)を散々(さん〴〵)に切払(きりはら)ひ

【注 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/771530/1/145を参照す】

門外(もんぐわい)へ追出(おひいだ)す。胆沢(いざは)悪(あく)太郎も味方(みかた)を励(はげま)し。また切進(きりすゝ)んで敵(てき)を門内(もんない)へ追込(おひこみ)如此(かくのごとく)互(たがひ)に
追(おつ)つ返(かへ)しつ討(うつ)つ討(うた)れつして挑(いど)み戦(たゝか)ひける内(うち)。呰麻呂(しまろ)は金窪(かなくぼ)以下(いげ)百余人にて裏門(うらもん)を
打破(うちやぶ)り。松明(たいまつ)揮立(ふりたて)て乱入(みだれいり)ければ。女(をんな)童(わらべ)は泣叫(なきさけ)んで逃迷(にげまよ)ふを情(こゝろ)なき荒夷(あらゑびす)ども当(あた)るを
幸(さいは)ひに此所(こゝ)彼所(かしこ)に切伏(きりふせ)ける。呰麻呂(しまろ)諸卒(しよそつ)に下知(げぢ)し。彼(かの)奪(うばは)れし女を生捕(いけどれ)よと命(めい)じ
けるにより。兵士(へいし)ども館(やかた)【舘】の間毎々々(まごと  〳〵 )を尋捜(たづねさが)し。遂(つひ)に彼女(かのをんな)を搦捕(からめとり)ける。広純(ひろずみ)は表(おもて)に在(あつ)て
味方(みかた)の士卒(しそつ)に下知(げぢ)を伝(つたへ)て在(あり)けるに。裏門(うらもん)よりも賊兵(ぞくへい)乱入(らんにふ)せりと聞(きい)て再(ふたゝ)び駭(おどろ)き。十人
余(あまり)の家士(いへのこ)を従(したが)へて奥(おく)へ引返(ひつかへ)すところに。端(はし)なく呰麻呂(しまろ)と往合(ゆきあふ)たり。呰麻呂(しまろ)広純(ひろずみ)
と見るより眼(まなこ)を瞋(いから)し大音(だいおん)に。いかにや広純(ひろずみ)你(なんじ)此国(このくに)の守(かみ)たる大任(たいにん)を蒙(かふむ)りながら。仁(じん)
義(ぎ)を旨(むね)とせず貪戻(たんれい)を専(もつはら)として国人(くにたみ)を虐(しへた)げ苦(くるし)め剰(あまつさ)へ我 愛妾(あいせう)を奪(うばひ)取(とつ)て婬楽(いんらく)
を恣(ほしいまゝ)にする不義(ふぎ)無道(ぶどう)言語同断(ごんごどうだん)なり。故(かるがゆへ)に国人(くにたみ)恨(うらみ)背(そむ)き我に勧(すゝめ)て今夜(こんや)你(なんじ)を討(うた)
しむる所(ところ)なり。己(おのれ)が罪(つみ)己(おのれ)を責(せむ)ると観念(くわんねん)し。我(わが)一刀(いつとう)を受(うけ)て冥府(めいふ)へ赴(おもむけ)よと詈(のゝし)りければ

広純(ひろずみ)聞(きい)て大いに怒(いか)り。恩(おん)を見て恩を知(しら)ざる人面(にんめん)獣心(じふしん)天罸(てんばつ)の程(ほど)を思(おも)ひしらせんと
太刀(たち)抜插(ぬきかざ)して撃(うつ)てかゝるに。呰麻呂(しまろ)も望(のぞ)む所の妻敵(めがたき)と。同(おなし)く太刀(たち)を揚(あげ)て一 往(わう)一 来(らい)し
戦(たゝか)ふ事二十 余合(よがふ)。いまだ雌雄(しゆう)を決(けつ)せざる所(ところ)に。金窪兵太(かなくぼひやうだ)弓矢(ゆみや)つがへて兵(ひやう)ど切(きつ)
て放(はな)しければ過(あやま)たず広純(ひろずみ)が胸板(むないた)より背(そびら)へつと射通(ゐとふ)したり。大事(だいじ)の手(て)なれば暫(しばし)も
堪(こらへ)ず苦(あつ)と叫(さけ)んで仰反(のけぞり)に仆(たをれ)けるを。呰麻呂(しまろ)透(すか)さず走寄(はしりよつ)て首(くび)をぞ掻(かい)たりける
主(しゆう)を討(うた)せて残(のこ)る郎党(らうどう)們(ら)。今(いま)は誰(た)が為(ため)にか命(いのち)を■(かば)【貝+宇】【貯ヵ】ふべきと。銘々(めい〳〵)賊兵(ぞくへい)にわたり合(あひ)
刺違(さしちがへ)て死(し)するも有(あり)或(あるひ)は自身(じしん)腹(はら)掻切(かききつ)て死(し)する有(あり)て。主従(しゆう〴〵)六十 余人(よにん)同(おな)じ枕(まくら)に
討死(うちじに)しけるぞ哀(あは)れなる。賊兵(ぞくへい)も五十余人 討(うた)れ手負(ておい)は算(かぞふ)るに遑(いとま)なけれど。夜討(ようち)
には全(まつた)く勝(かち)ければ。賊徒們(ぞくとら)大いに悦(よろこ)び倉稟(くら〴〵)に乱入(みだれいつ)て金銀(きん〴〵)財宝(ざいほう)絹布(けんふ)を尽(こと〴〵)く奪(うば)ひ
掠(かす)め館(やかた)【舘】に火(ひ)を掛(かけ)て焼立(やきたて)勝鬨(かちどき)を揚(あげ)てぞ引退(ひきしりぞ)きける。是(これ)に依(よつ)て諸民(しよみん)大いに駭(おどろ)き
騒(さは)ぎ東西(とうざい)南北(なんぼく)逃走(にげはし)り泣叫(なきさけ)ぶ声(こゑ)四竟(しけう)に震(ふる)ふ許(ばかり)なり。是(これ)より呰麻呂(しまろ)は勢(いきほ)ひ壮(さかん)

になり尚(なを)も野武士(のぶし)山賊(さんぞく)を招(まね)き聚(あつ)め。要害(ようがい)の地(ち)に柵(さく)を構(かまへ)て楯籠(たてこも)り郡郷(ぐんけん)を
犯(おか)し掠(かす)め恣(ほしいまゝ)に横行(わうぎやう)して威(い)を国中(こくちう)にぞ奮(ふる)ひける。是(これ)に依(よつ)て隣国(りんごく)の守護(しゆご)国司(こくし)
大いに駭(おどろ)き都(みやこ)へ飛馬(はやむま)を立(たて)て急(きう)を告(つぐ)る事 櫛(くし)の歯(は)を挽(ひく)が如(ごと)し。時(とき)に呰麻呂(しまろ)は彼(かの)
旧(もと)の愛妾(あいせう)を牢獄(ろうごく)より縛索(いましめ)のまゝ曳出(ひきいだ)させ。眼(まなこ)を瞋(いから)して盵(はた)【ママ 𥃳の誤記ヵ】と睨(にら)み。やおれ婬婦(いんふ)
你(なんじ)年来(としごろ)の我(わが)恩義(おんぎ)を忘(わす)れ。よくも広純(ひろずみ)が心に従(したが)ひけるな。世(よ)の諺(ことはざ)にも言(いは)ずや。己(おのれ)人
に難面(つれな)ければ人また己(おのれ)に難面(つれなし)と。始(はじめ)不便(ふびん)を加(くは)へしに今日(けふ)は百 倍(ばい)して憎(にく)しと罵(のゝし)り。太刀(たち)を
抜(ぬい)て心下(こゝろもと)を刺串(さしつらぬき)ければ。女は天(てん)に叫(さけ)び地(ち)に叫び。七䡩(しつてん)【轉の誤記ヵ】八倒(ばつとう)してぞ死(し)したりける。此(し)【呰の誤記】麻呂(まろ)は
是(これ)を快(こゝろよ)しと打咲(うちわら)ひ。其屍(そのしがい)を野外(やぐわい)に捨(すて)させ。其後(そのゝち)国中(こくちう)の美色(びしよく)ある女は人の妻妾(さいせう)
とも言(いは)せず奪取(うばひとつ)て己(おの)が側室(そばめ)とし。恣(ほしいまゝ)に婬楽(いんらくし)て上見ぬ鷲(わし)のごとく。不義(ふぎ)の歓楽(くわんらく)を
ぞ究(きは)めける。去程(さるほど)に都(みやこ)には東国(とうごく)より急馬(はやむま)の来(きた)る事 引(ひき)も切(きら)ず。伊治呰麻呂(いちのしまろ)国司(こくし)紀(きの)
広純(ひろずみ)を攻殺(せめころ)し国中(こくちう)を犯(おか)して逆威(ぎやくい)を奮(ふるふ)よし訟(うつたへ)けるにぞ。光仁天皇(くわうにんてんわう)駭(おどろ)かせたまひ

文武(ぶんぶ)の百 官(くわん)を召(めさ)れて御 評議(ひやうぎ)の上。中納言(ちうなこん)継縄(つぐなは)を征東大使(せいとうたいし)とし大伴益立(おほとものましたち)紀古佐(きのこさ)
美(み)を副将軍(ふくしやうぐん)として軍勢(ぐんぜい)凡(およそ)九千 余騎(よき)を授(さづ)けられ。奥州(おうしう)の賊徒(ぞくと)を征伐(せいばつ)せしめたまひ
又 安部家麻呂(あべのいへまろ)を鎮狄将軍(ちんてきしやうぐん)とし出羽国(ではのくに)を守(まも)らしめられける斯(かく)て東征(とうせい)の将軍(しやうぐん)定(さたま)り
ければ継縄(つぐなは)益立(ましだち)古佐美(こさみ)等(とう)を朝廷(てうてい)へめ召(めさ)れ。右大臣(うだいじん)を以(もつ)て詔命(みことのり)を伝(つたへ)しめ給ふやう。今般(こんはん)
奥州(おうしう)の兇賊(けうぞく)国司(こくし)を殺(ころ)し。郡県(ぐんけん)を侵(おか)して国中(こくちう)を擾乱(じやうらん)す。你等(いましら)疾(はや)く東国(とうごく)へ進発(しんばつ)し
て賊徒(ぞくと)を刈(かり)【苅は俗字】夷(たいら)げ一国(いつこく)を平定(へいでう)せしむべし。忠戦(ちうせん)を励(はげ)み軍功(ぐんかう)を立(たつ)る輩(ともがら)【軰は俗字】は悉(こと〴〵)く記(き)
録(ろく)して捧(さゝげ)よ。平定(へいでう)の後(のち)其功(そのかう)に応(おふ)じて賞禄(せうろく)を与(あたふ)べしとなり。三 将(せう)此(この)倫命(りんめい)を奉(うけたま)はり
て廷上(ていせう)に拝伏(はいふく)し臣們(しんら)勅命(ちよくめい)を首(かうべ)に頂(いたゞ)きて東国(とうごく)に馳向(はせむか)ひ一 命(めい)を拋(なげうつ)て軍戦(ぐんせん)を励(はげ)み不(ふ)
日(じつ)に勝軍(かちいくさ)を奏(そう)し奉るべしと啓奏(けいそう)し。禁廷(きんてい)を退出(まかんで)て列位(おの〳〵)私邸(やしき)に皈(かへ)り。出陣(しゆつぢん)の准備(ようい)
を整(とゝのへ)て。宝亀(ほうき)十一年四月 下旬(げじゆん)。各将(おの〳〵)軍装(ぐんそう)花麗(はなやか)に飾(かざ)り都(みやこ)を発足(ほつそく)して東国(とうごく)へ下(くだ)
りければ。禁廷(きんてい)よりは東(とう)八ヶ 国(こく)へ。奥州(おうしう)へ兵糧米(ひやうらうまい)を運送(うんそう)すべしとぞ触(ふれ)つたへさせ給ひける

     金窪(かなくぼ)胆沢(いさは)強勇(がうゆう)力戦(りきせん)   大伴益立(おほともましだち)敗軍(はいぐん)之条
伊治呰麻呂(いちのしまろ)は征東(せいとう)の宦軍(くわんぐん)下向(げかう)するよしを聞(きい)て。徒党(ととふ)の者(もの)どもを聚(あつめ)て軍議(ぐんぎ)を
なし。宦軍(くわんぐん)の寄来(よせきた)るべき路条(みちすじ)の悪所(あくしよ)難所(なんじよ)に柵(さく)を構(かま)へ。其(その)往来(わうらい)の路(みち)を塞(ふさ)ぎ。民(みん)
家(か)を毀(こぼち)て楯(たて)を造(つく)り。富(とめ)る者(もの)の米麦(こめむぎ)を奪取(ばいとつ)て兵糧(ひやうらう)に宛(あて)。京軍(きやうぐん)寄来(よせきた)らば微(み)
塵(ぢん)にせんと待(まち)うけたり。就中(なかんづく)白河(しらかは)の関(せき)の柵(さく)には。呰麻呂(しまろ)が両翼(りようつばさ)と憑切(たのみきつ)たる。金窪兵太(かなくぼひやうだ)胆(い)
沢(ざは)悪(あく)太郎 両人(りようにん)を主将(しゆせう)とし。七百余人を籠置(こめおき)【篭は俗字】ける。抑(そも〳〵)金窪(かなくぼ)胆沢(いざは)両人(りようにん)はいづれも身材(みのたけ)
六尺七八寸にて力量(りきれう)万人(ばんにん)に勝(すぐ)れ奔馬(はしるむま)をも抑止(おさへとめ)。鹿角(しかのつの)をも曳裂(ひきさき)。しかも弓馬(ゆみむま)打者(うちもの)
の達者(たつしや)なれば要害(ようがい)第(だい)一の柵(さく)を固(かた)めさせけるなり。去程(さるほど)に官軍(くわんぐん)は五月 上旬(じやうじゆん)奥州(おうしう)に
下著(げちやく)し。陣営(ぢんゑい)を構(かまへ)て三日(みつか)の間(あいだ)軍馬(ぐんば)を休(やす)め。偖(さて)軍(いくさ)の評議(ひやうぎ)し大伴益立(おほともましだち)を先陣(せんぢん)とし
紀古佐美(きのこさみ)を二 陣(ぢん)とし。三 陣(ぢん)は大将(たいせう)藤原継縄(ふぢはらのつぐなは)と定(さだ)めたり。斯(かく)て兵馬(へいば)とも十 分(ぶん)疲(つかれ)を休(やすめ)けれ
ば。先陣(せんぢん)大伴益立(おほともましだち)一千 騎(ぎ)にて押出(おしいだ)すに。軍(いくさ)珍(めづら)しき若殿(わかとの)們(ばら)逸(はや)り立(たち)寄合勢(よりあひぜい)の野武士(のぶし)

野盗(やとう)の奴(やつ)ばら何程(なにほど)の事か有(ある)べき只(たゞ)一揉(ひともみ)に踏破(ふみやぶ)れよと。飽(あく)まで敵(てき)を謾(あなど)り。勇(いさ)み進(すゝ)んで敵(てき)
の柵(さく)へ押寄(おしよせ)見るに。逆茂木(さかもぎ)間粗(まばら)に結(ゆひ)所々(ところ〴〵)に大石(たいせき)を捨散(すてちら)し。墓々(はか〴〵)しき備(そなへ)も無(なき)体(てい)なるゆへ
さればこそ思(おもひ)しに違(たが)はず。あら不便(ふびん)の夷賊(いそく)どもかな。由(よし)なき支(さゝ)へ立(だて)して鏖(みなごろし)にならん事の
哀(あはれ)さよと一笑(いつせう)し。後陣(ごぢん)の続(つゞ)くをも待合(まちあは)さずひた〳〵と押寄(おしよせ)鯨波(とき)を発(つく)り楯(たて)をも衝(つか)
ず馳寄々々(よせつけ〳〵)逆茂木(さかもぎ)抜捨(ぬきすて)。已(すで)に門際(もんぎは)へ逼(せま)り打破(うちやぶら)んとす。此時(このとき)まで賊兵(ぞくへい)は態(わざ)と鳴(なり)を鎮(しづ)
めて居(ゐ)たりけるが。敵(てき)の近(ちか)く寄(よせ)たるを見すまし。忽(たちま)ち柵門(さくもん)を八 文字(もんじ)に開(ひら)き。金窪兵太(かなくほひやうだ)二
百 騎(き)の士卒(しそつ)を率(ひい)て撃(うつ)て出(いづ)る。兵太(ひやうだ)が其日(そのひ)の軍装(いでたち)には黒革威(くろかはおどし)の大鎧(おほよろひ)を着(ちやく)し鍬形(くはがた)
打(うつ)たる三 枚兜(まいかぶと)の緒(を)を締(しめ)四尺 余(よ)の野太刀(のだち)に三尺二寸の太刀(たち)十 文字(もんじ)に帯添(はきそへ)長(たけ)八寸に余(あま)る鹿(か)
毛(げ)の駒(こま)の太(ふと)く逞(たくま)しきに鏡鞍(かゞみぐら)置(おい)てゆらりと跨(またが)り一 丈(じやう)余(あまり)の鉄鋲(てつびやう)しげく打(うつ)たる棒(ばう)を真向(まつかう)
に揮插(ふりかざ)し。真先(まつさき)に立(たつ)て大喝(たいかつ)し寄兵(よせて)に撃(うつ)てかゝるにぞ。従(したが)ふ兵卒(へいそつ)も喊(とき)を発(つく)り得物(えもの)を
携(たづさへ)て我先(われさき)にと切立(きりたつ)る。思(おもひ)がけなき寄兵(よせて)大いに周障(しうせう)し急(きう)に退(しりぞ)いて備(そなへ)を立(たて)んとする間(ま)も

なく兵太(ひやうだ)馬(むま)を躍(おどら)して敵中(てきちう)へ割(わつ)て入。当(あたる)を幸(さいは)ひ寄(よる)を不運(ふうん)と撃(うつ)て落(おと)すにぞ。或(あるひ)は首(かうべ)を
胴(どう)へ撃入(うちこま)れ。或(あるひ)は肩背(かたせ)の骨(ほね)を碓(くだ)かれ。一人も命(いのち)を全(まつた)ふするはなし。主将(しゆせう)如此(かくのごとく)なれば従卒(じふそつ)も是(これ)
に励(はげ)まされ。曵々(ゑい〳〵)声(ごゑ)して京軍(きやうぐん)を薙立(なきたて)ける。官軍(くわんぐん)多勢(たせい)なれども金窪(かなくぼ)が強勇(がうゆう)に辟易(へきゑき)し
始(はじめ)の広言(くわうげん)も似(に)ず散々(さん〴〵)に乱立(みだれたち)多(おほ)く兵(へい)を折(くじ)きて這々(はふ〳〵)益立(ましだち)の陣(ぢん)へ逃帰(にげかへ)りければ。金窪は
手始(てはじめ)よしとて手勢(てぜい)を引(ひい)て柵(さく)へ退(しりぞ)き入にけり。益立(ましたち)は先手(さきて)の敗北(はいぼく)を見て大いに怒(いか)り。新兵(あらて)
を入替(いれかへ)再(ふたゝ)び柵(さく)を攻(せめ)んと押寄(おしよする)ところに。白河(しらかは)の城戸(きど)を開(ひらい)て只(たゞ)一騎(いつき)馬(むま)を乗(のり)出(いだ)す敵(てき)
あり京軍(きやうぐん)其(その)軍装(いでたち)を見れば。藤縄目(ふぢなはめ)の鎧(よろひ)に獅子(しゝ)の前立物(まへだてもの)打(うつ)たる兜(かぶと)を猪首(ゐくび)に
着(き)なし。鷲(わし)の羽(は)の征箭(そや)山の如(ごと)く刺(さい)たる箙(えひら)を負(おひ)黒漆(こくしつ)の長き太刀(たち)に同(おな)じく短刀(たんとふ)佩添(はきそへ)
握太(にぎりぶと)なる重藤(しげどふ)の弓(ゆみ)小脇(こわき)に搔込(かいこみ)八寸(やき)に余(あま)る奥州黒(おうしうくろ)の駒(こま)に鋳掛地(いかけぢ)の鞍(くら)置(おい)て
打乗(うちのつ)たり。京軍 彼(かれ)は誰(たれ)なるらんと見るに。彼(かの)武者(むしや)大音(だいおん)に。是(これ)へ出(いで)たる某(それがし)は胆沢(いざは)悪(あく)
太郎と呼(よば)れて坂東(ばんどう)八ヶ国(こく)にては三才の小児(せうに)までも名(な)を知(しら)れたる者ながら。京方(きやうがた)の

人々(ひと〴〵)はいまだ名(な)を知(しら)れまじ今度(こんど)京軍(きやうぐん)下向(げかふ)あるにつき。伊治呰麻呂(いちのしまろ)に頼(たの)まれ金窪(かなくぼ)と
某(それがし)此(この)白河(しらかは)の柵(さく)を預(あづか)つて固(かた)め候なり。某(それがし)們(ら)が命(いのち)有(あら)ん限(かぎ)りは。たとへ何(なん)十万 騎(ぎ)の御勢(おんせい)
なりとも得(え)こそ通(とふ)し候はじ。手並(てなみ)の程(ほど)を御覧(ごらん)に入んため。奥州(おうしう)鍛治(かぢ)が鍛(きた)ひたる鏑(かぶらや)一(ひと)
筋(すじ)進(まいら)せ候べし。我(われ)と思(おも)はん人は出(いで)て受(うけ)て見給へとぞ呼(よば)はりける。京軍(きやうぐん)是(これ)を聞(きい)て悪(にく)
き敵(てき)の広言(かうげん)かなと思(おも)へども。前(さき)の金窪(かなくぼ)が勇鋭(ゆうゑい)に聞怖(きゝおぢ)して我(われ)立向(たちむかは)んといふ者(もの)なく少(し)
時(ばらく)鳴(なり)を鎮(しづめ)て在(あり)けるところに。稲城早手(いなぎのさで)といふ者 極(きはめ)て矢取疾(やとりばや)の達人(たつじん)なれば。諸人(しよにん)を
押分(おしわけ)て陣頭(ぢんとう)へ馬(むま)を乗出(のりいだ)し高声(かうしやう)に。嗚呼(おこ)がましき大言(たいげん)かな。你們(なんじら)ごとき島夷(しまゑびす)の猟矢(さつや)は鳩(はと)
雀(すゞめ)の類(たぐひ)にこそは立(たて)真(まこと)の武士(ぶし)の身(み)には立(たゝ)じ矢種(やだね)の有(あら)ん限(かぎ)り射(い)よ我(われ)悉(こと〴〵)く手(て)に採(とり)て見
すべしと言返(いひかへ)しければ悪(あく)太郎大いに怒(いか)り重(かさね)て問答(もんどふ)にも及(およは)ず。七人 張(はり)の強弓(つよゆみ)に笛竹(ふえたけ)の
ごとき尖矢(とがりや)打番(うちつがへ)て。忘(わする)るばかり曳絞(ひきしぼつ)て兵(ひやう)ど切(きつ)て放(はな)し直(すぐ)に二の矢(や)をはげて切(きつ)て放(はな)しける
其(その)矢次早(やつぎばや)なる事 更(さら)に見留(みとめ)る間(ひま)もなかりけり。稲城(いなぎ)は絃音(つるおと)を聞(きい)て飛(とびく)る矢(や)を早(はや)く右手(めて)

に握(にぎ)り留(とめ)けるに間(ま)もなく二の矢(や)飛来(とびきた)つて胸板(むないた)の正中(たゞなか)を背骨(せぼねへ)かけて射通(いとふし)□【けヵ】るにぞ。何(なに)かは
以(もつ)て堪(くらふ)べき忽(たちま)ち馬(むま)より真逆(まつさかしま)に噇(どう)ど落(おち)二 言(ごん)と言(いは)ず死(し)したりける。是(これ)を見て京軍(きやうぐん)
の中(うち)より平群(へぐりの)武(たけし)。槙田郡司(まきたぐんじ)。十石勇夫(といしのいさを)といへる者 当(とう)の敵(かたき)遁(のが)さじと三士(さんし)ひとしく馬(むま)を拍(うつ)
て駈出(かけいだ)し胆沢(いざは)一人を三 方(ばう)より取籠(とりこめ)【篭は俗字】て撃(うつ)てかゝりければ。悪(あく)太郎 心得(こゝろえ)たりと弓(ゆみ)投捨(なげすて)て
太刀(たち)抜插(ぬきかざ)し三人を対手(あいて)にとり。右(みぎ)に撃(うち)左(ひだり)に払(はら)ひ秘術(ひじゆつ)を尽(つく)して挑(いど)み戦(たゝか)ひけり柵(さく)より
是(これ)を見て胆沢(いざは)討(うた)するとて城門(きど)を開(ひらい)て二百人 計(ばかり)打(うつ)て出(いづ)るを見 京軍(きやうぐん)も五百 余騎(よき)にて
かけ向(むか)ひ喚(おめき)叫(さけん)で攻(せめ)戦(たゝか)ふ此内(このうち)に胆沢(いざは)は平群(へぐり)武を一刀(いつとう)に斬(きつ)て落(おと)し反(かへ)す刀(かたな)に槙田(まきた)を続(つゞい)て討(うた)
んとするを。郡次(ぐんじ)もしたゝか者(もの)なれば急(きふ)に身(み)を沈(しづ)めけるにぞ胆沢(いさは)余(あま)り強(つよ)く打(うつ)て空(くう)を
切(きり)馬(むま)の戻(もぢり)に余(あま)されて平頸(ひらくび)を越(こし)大地(だいち)へ倒(とう)ど落(おち)たりけり郡次(ぐんじ)。勇夫(いさを)得(え)たり賢(かしこし)と同(おなし)く馬(むま)
より飛下(とびおり)。卸重(おりかさなつ)て押(おさ)へて首(くび)を掻(かゝ)んとするところに。胆沢(いざは)刎(はね)反(かへ)して起立(おきたち)両人(りようにん)を両手(りようて)に抓(つかみ)
力(ちから)に任(まか)して敵中(てきちう)へ噇(どう)ど投(なげ)やりければ。勇夫(いさを)は士卒(しそつ)二人を撃仆(うちたを)し片足(かたあし)を折(くじい)てよふ〳〵に

逃延(にげのび)て命(いのち)ばかりは助(たすか)りけり。郡司(ぐんじ)は投(なげ)られて落(おち)さまに首(くび)の骨(ほね)を突折(つきをつ)て即死(そくし)したり誠(まこと)
に胆沢(いさは)が挙止(ふるまひ)人間業(にんげんわざ)とはみ見えざりけり。悪(あく)太郎は馬(むま)に打乗(うちのり)太刀を電光(でんかう)のごとく打閃(ひらめ)
かして敵中(てきちう)を縦横(じふわう)無尽(むじん)に蒐回(かけまは)り敵(てき)を討(うつ)事 数(かづ)をしらず。是(これ)に依(よつ)て京軍(きやうぐん)胆沢(いざは)一
人に斬立(きりたて)られ隊(そなへ)粉々(ふん〳〵)と乱(みだ)れ浮足(うきあし)になりければ。賊軍(ぞくぐん)は勢(いきほ)ひを増(まし)驀地暗(まつしくら)に蒐立(かけたて)
ける大伴益立(おほともましだち)は先隊(さきて)の戦(たゝか)ひ難義(なんぎ)なりと聞(きゝ)是(これ)を救(すくは)んと残(のこ)る五百 騎(き)を一隊(ひとそなへ)とし
押出(おしいだ)さんとする所(ところ)に思(おもひ)もよらぬ山蔭(やまかげ)より金窪兵太(かなくぼひやうだ)三百 騎(き)にて殺出(さつしゆつ)す益立(ましだち)が勢(せい)は
不意(ふい)の敵(てき)に周障(しうせう)し先隊(さきて)を救(すく)ふ遑(いとま)なく金窪(かなくぼ)が勢(せい)と喚(おめき)叫(さけ)んで戦(たゝか)ふたり。此時(このとき)賊方(ぞくがた)
は敵(てき)の後陣(ごぢん)に鯨波(ときのこゑ)の聞ゆるを以(もつ)て金窪(かなくぼ)の勢(せい)の敵(てき)の後陣(ごぢん)へ伐入(うちいり)しを知(しり)柵(さく)に残(のこ)る
二百人も伐(うつ)て出(いで)胆沢(いざは)が勢(せい)と一隊(いつて)に成(なつ)て敵(てき)を追捲(おひまく)るにぞ。いとゞ浮立(うきたち)し京軍(きやうぐん)揕(こらへ)かね
て敗走(はいそう)し益立(ましだち)か陣(ぢん)へなだれかゝる。益立(ましだち)は是(これ)を敵軍(てきぐん)襲(おそ)ひかゝるぞと心得(こゝろえ)。今は叶(かな)はじとて
一 番(ばん)に馬(むま)を拍(うつ)て逃出(にげいだ)しけるにより。従卒(じふそつ)も是(これ)に誘(さそ)はれ総敗(そうやぶれ)と成(なつ)て散々(さん〴〵)に落行(おちゆく)を賊(ぞく)

軍(ぐん)は勝(かつ)に乗(のつ)て追伐(おひうち)し思(おも)ひ〳〵に分取(ぶんとり)高名(かうめう)しけり。宦軍(くわんぐん)の二 陣(ぢん)紀古佐美(きのこさみ)は先陣(せんぢん)より
遙(はるか)に後(おく)れて押出(おしいだ)しけるに。大伴益立(おほともましだち)初(しよ)度(ど)【注➀】の合戦([か]つせん)に伐負(うちまけ)しと聞(きい)て半途(はんと)に勢(せい)を
止(とゞ)め先陣(せんぢん)の動止(ようす)を聞合(きゝあは)さしむるに。益立(ましだち)が勢(せい)総敗軍(そうはいぐん)に及(および)しと回報(かへりほう)ずる間(ま)もな
く早(はや)先陣(せんぢん)の敗卒(はいそつ)追〱(おひ〳〵)敗来(にげきた)りけるゆへ。古佐美(こさみ)勢(せい)を左右(さいう)へ引分(ひきわけ)て逃来(にげく)る味方(みかた)
を通(とふら)しめ。敵(てき)追来(おひきた)らば横矢(よこや)に射(い)んと。精兵(せいびやう)を揃(そろ)へ矢襖(やぶすま)を造(つくつ)て待(まち)かけたりされども
賊方(ぞくがた)は敵(てき)の新兵(あらて)左右(さいう)に分(わか)れて隊(そなへ)しは謀(はかりこと)有(ある)なるべし長追(ながおひ)なせそと敵(てき)を追捨(おひすて)て手(て)
軽(がる)く柵(さく)へ引入(ひきいり)ける此日(このひ)賊方(ぞくがた)へ討取(うちとる)首(くび)二百 余級(よきう)に及(およ)びければ。手始(てはじめ)よしと悦(よろこ)びて勝鬨(かちどき)を
発(つく)り京軍(きやうぐん)は兵(へい)を多(おほ)く折(くじ)き手負(ておひ)数多(あまた)にて大いに軍威(ぐんい)をぞ損(おと)しける
    《振り仮名:於_二阿猥河_一宦軍与_二夷賊_一摂戦|あふくまがはにくわんぐんいぞくとせつせんす》【注②】 大伴益立(おほともましだち)不覚(ふかく)之条
大伴益立(おほともましだち)敵(てき)を軽(かろ)んじて不覚(ふかく)の敗軍(はいぐん)しければ。大将(たいせう)継縄(つぐなは)気色(けしき)を損(そん)じ。益立(ましだち)を呼(よび)
出(いだ)して軍慮(ぐんりよ)の足(たら)ざるを責(せめ)叱(しか)り。又両三日 軍儀(ぐんぎ)に日を送(おく)り。此度(このたび)は紀古佐美(きのこさみ)に一千五
【注① 国立国会図書館デジタルコレクション『扶桑皇統記図会』による。】
【注② 「猥」は「隈」の誤記か】




百 騎(き)を授(さづけ)て先陣(せんじん)を定(さだ)め大伴益立(おほともましだち)に一千五百 騎(き)を授(さずけ)て二 陣(ぢん)とし謀(はかりこと)を定(さだ)めて五
月十三日の未明(みめい)より打立(うちたつ)て。金鼓(きんこ)【皷は俗字】を鳴(なら)し喊(とき)を造(つく)り軍威(ぐんい)を示(しめ)して押寄(おしよせ)ければ敵(てき)も
柵(さく)の櫓(やぐら)より防矢(ふせぎや)を射下(いおろ)し茲(こゝ)を大事(だいじ)と禦(ふせぎ)ける。されども京軍(きやうぐん)は兼(かね)て手筈(てはづ)を定(さだ)め一隊(いちのて)労(つか)
るれば二隊(にのて)入替(いれかは)り。二隊(にのて)疲(つか)るれば三隊(さんのて)入替(いれかは)り漸々(しだい)に新兵(あらて)を以(もつ)て息(いき)をも吐(つか)ず射(い)れ
ども打(うて)ども些(ちつ)とも痓(ひる)まず攻立(せめたて)ければ。賊方(ぞくがた)は小勢(こぜい)といひ矢種(やだね)尽(つき)力(ちから)労(つか)れけるゆへ
京軍(きやうぐん)遂(つひ)に城門(きど)塀(へい)を打破(うちやぶ)り大水(おほみづ)のこみ入 如(ごと)く攻入(せめいり)けるにぞ。二 陣(ぢん)の大伴益立(おほともましだち)が一千
五百 騎(き)も同(おな)じく続(つゞい)て攻入(せめいり)けるにぞ。賊将(ぞくせう)金窪(かなくぼ)胆沢(いざは)も其(その)防(ふせ)ぎがたきを知(しり)手勢(てぜい)を引(ひい)
て柵(さく)の後門(からめて)より落(おち)ける。是(これ)に依(よつ)て紀古佐美(きのこさみ)白河(しらかは)の柵(さく)を乗取(のつとり)勝喊(かちどき)を発(つく)りて
大いに勇(いさ)み大将(たいせう)の本陣(ほんぢん)へ斯(かく)と報(ほう)じけるにぞ。継縄(つぐなは)大いに悦(よろこ)び。総勢(そうぜい)を率(ひい)て柵(さく)へ入
古佐美(こさみ)が手柄(てがら)を賞美(せうび)し其日は白河(しらかは)に宿陣(しゆくぢん)し。翌日(よくじつ)柵(さく)を焼払(やきはらひ)て打立(うちたち)味方(みかた)は不案(ふあん)
内敵(ないてき)は地理(ちのり)を知(しり)たれば。伏兵(ふくへい)を以(もつ)て不意(ふい)を伐(うた)んとすまじきにあらずとて。行前(ゆくさき)へ物(もの)

見(み)を出(いだ)し総勢(そうぜい)八千 余騎(よき)を十隊(とそなへ)とし。首尾(しゆび)相佐(あひたすく)る備(そなへ)をなして国府(こくふ)まで押到(おしいた)り玉(たま)
造(つくり)に館城(やかたじろ)【舘は俗字】を構(かまへ)て本陣とし賊徒(ぞくと)誅伐(ちうばつ)の謀(はかりこと)をぞ商議(しやうぎ)しける。賊将(ぞくせう)呰麻呂(しまろ)京軍(きやうぐん)
玉造(たまつくり)に城(しろ)を構(かまへ)て籠(こも)るよしを聞(きゝ)。さらば釣出(つりいだ)して一当(ひとあて)あて味方(みかた)の武勇(ぶゆう)を示(しめ)せよとて
金窪兵太(かなくぼひやうだ)。栗原源三(くりはらげんざう)両人(りようにん)に五百人を授(さづけ)て先陣(せんぢん)とし。胆沢(いざは)悪(あく)太郎。松前荒鰐(まつまへあらわに)二人
に五百人を授(さづけ)て二陣(にぢん)とし賊将(ぞくせう)呰麻呂(しまろ)は一千人を従(したが)へて三 陣(ぢん)に進(すゝ)み。別(べつ)に田理(わたり)五郎と
いふ者(もの)に五百人を授(さづけ)て遊軍(ゆふぐん)となし。合戦(かつせん)の汐合(しほあひ)を見(み)て敵(てき)の本陣(ほんぢん)を却(おびや)かし大将(たいせう)継縄(つぐなは)
を討取(うちとうちとれ)よとて間道(かんどう)より向(むかは)せけり。斯(かく)手賦(てくばり)し賊軍(ぞくぐん)隊伍(たいご)を整(とゝの)へ。六月五日の朝(あさ)柵(さく)を打(うち)
立(たつ)て玉造(たまつくり)へぞ向(むか)ひける。宦軍方(くわんぐんがた)にも疾(とく)より敵(てき)の軍立(いくさたて)を洩聞(もれきい)て其(その)准備(ようい)をなし。然(しか)も
六月五日は往亡日(わうもうにち)なるに賊徒(ぞくと)是(これ)を不知(しらす)出張(しゆつてう)するは己(おのれ)と滅亡(めつぼう)を求(もとむ)る前表(ぜんへう)也(なり)と怡(よろこ)び
紀古佐美(きのこさみ)に一千五百人を授(さづけ)て先陣(せんぢん)とし二 陣(ぢん)は大伴益立(おほともましだち)一千五百人 大将(たいせう)継縄(つぐなは)は二千
余騎(よき)を領(れう)して三 陣(ぢん)となり。残(のこ)る二千 騎(ぎ)は玉造(たまつくり)の城(しろ)に遺(のこ)して留守(るす)を衛(まもら)ら【「ら」は衍ヵ】せける。去(さる)

程(ほど)に両陣(りようぢん)押進(おしすゝみ)て阿隈川(あふくまがは)にて互(たがひ)に往合(ゆきあひ)川を隔(へだて)て倶(とも)に屯(たむろ)を立(たて)鉦(かね)太鼓(たいこ)【皷は俗字】を打(うち)螺(ほら)を吹(ふい)て
双方(そうはう)軍威(ぐんい)を示(しめ)し合(あひ)。両陣(りようぢん)喊(とき)を発(つく)り矢合(やあはせ)の鏑(かぶら)を射違(いちが)へ矢軍(やいくさ)を始(はじめ)ける。されば敵(てき)味(み)
方(かた)の飛箭(ひぜん)は横(よこ)しぶく雨(あめ)のごとく矢叫(やさけび)の声(こゑ)は山河(さんか)に響(ひゞ)きすさましなんども疎(おろか)なり。京(きやう)
方(がた)の逸雄(はやりを)の《振り仮名:面ヽ|めん〳〵》。斯(かく)目倦(まだる)き業(わざ)して何時(いつ)まで矢種(やだね)を費(ついや)すべき。川を渡(わた)して雌雄(しゆう)を決(けつ)
せよやと口々(くち〴〵)に呼(よば)はり。打物(うちもの)の兵(へい)三百余人。川を颯(さつ)と渡(わた)しおつと喚(おめい)て切(きつ)てかゝる。金窪(かなくぼ)が勢(せい)
得(え)たりや応(おふ)と。迎(むか)へ合(あは)して切結(きりむす)び追(おつ)つ返(かへ)しつ挑(いど)みあふ。紀古佐美(きのこさみ)是(これ)を見て味方(みかた)討(うた)すな
続(つゞけ)やと下知(げぢ)するに従(したが)ひ残(のこ)る一千二百人 一同(いちどう)に川へ飛入々々(とびいり〳〵)大浪(おほなみ)の打(うつ)ごとく川を渡(わた)し。陸(くが)へ上(あが)
るや否(いな)敵軍(てきぐん)に伐(うつ)てかゝる。其(その)勢(いきほ)ひ猛烈(もうれつ)なりければ。元(もと)より小勢(こぜい)の賊兵(ぞくへい)三 増倍(ぞうばい)の大軍(たいぐん)に
捲(まく)り立(たて)られあしらひ兼(かね)て二三 町(てう)引退(ひきしりぞ)くにぞ京軍(きやうぐん)勝(かつ)に乗(のつ)て追立々々(おつたて〳〵)切進(きりすゝ)みける敵兵(てきへい)
は野武士(のぶし)山賊(さんぞく)の集勢(あつまりぜい)にて。兇勇(けうゆう)なれども軍(いくさ)の進退(かけひき)不鍛錬(ふたんれん)なれば。足並(あしなみ)揃(そろ)はず隊伍(たいご)を
乱(みだ)し弥(いよ〳〵)敗色(まけいろ)に見へける。然(しかる)に。金窪兵太(かなくぼひやうだ)は京将(きやうせう)古佐美(こさみ)を討(うた)んと百人 計(ばかり)を従(したが)へて路(みち)を

【挿絵中の囲み文字】
呰麻呂(しまろ)が賊将(ぞくしやう)
金窪兵太(かなくぼへうだ)
 勇(ゆう)を揮(ふる)つて
  京軍(きやうぐん)を
   責破(せめやぶ)る

廻(まは)つて古佐美(こさみ)が旗本(はたもと)へ馬(むま)を躍(おどら)せて撃(うつ)てかゝり。例(れい)の条鉄棒(すじがねばう)を打揮(うちふつ)て人とも馬(むま)とも
嫌(きら)ひなく撃(うち)殺すにぞ古佐美(こさみ)が勢(せい)大いに駭(おどろ)き只(たゞ)一人に打悩(うちなやま)され死亡(しぼ[う])の者 数(かづ)しらず
開(ひら)【鬨は誤記ヵ】き靡(なびい)て乱(みだ)れ立(たつ)古佐美(こさみ)も金窪(かなくぼ)が饒勇(けうゆう)に敵(てき)しがたく馬を拍(うつ)て避(さけ)退(しりぞ)き精兵(せいびやう)の射人(いて)
に命(めい)じて矢襖(やぶすま)に射立(いたて)させけれども。兵太(ひやうだ)事(こと)ともせず。錣(しころ)を傾(かたふ)けて尚(なほ)も縦横(じふわう)に蒐廻(かけまは)りて
敵(てき)を打殺(うちころ)す事十七八 騎(き)に及(およ)びけるに。忽(たちま)ち流箭(なかれや)飛来(とびきた)つて兵太(ひやうだ)が咽輪(のどわ)にくつきと立(たつ)大(だい)
事(じ)の手(て)なれば。尋常(よのつね)の者(もの)ならば其侭(そのまゝ)落馬(らくば)すべきに。無双(ぶそう)の剛兵(かうへい)なれば猶(なを)も痓(ひる)まず敵(てき)
軍(ぐん)を滅多打(めつたうち)に撃(うち)廻(まは)る。是(これ)に依(よつ)て京軍(きやうぐん)鬼神(おにかみ)のごとく怖(おそれ)て皆(みな)遠(とふ)く逃散(にげちり)今は手(て)に立(たつ)敵(てき)一
人もなし。茲(こゝ)に於(おい)て兵太(ひやうだ)一息(ひといき)ふと吐(つく)に。矢疵(やきず)の痛(いたみ)堪(たへ)がたければ郎党(らうどう)添川鬼麻太(そへかはきまた)といふ者(もの)
に佐(たすけ)られて戦場(せんぢよう)をぞ退(しりぞ)きける。大将(たいせう)如是(かくのごとく)なれば残兵(ざんへい)們(ら)騒(さは)ぎ立(たち)右往左往(うわうざわう)に敗走(はいそう)せり
京方(きやうがた)の二 陣(ぢん)大伴益立(おほともましだち)は遙(はるか)の川下(かはしも)より渡(わたし)て敵(てき)の後(うしろ)より撃(うち)ければ。栗原源三(くりばらげんざう)前後(ぜんご)の敵(てき)に
途(ど)を失(う[し]な)ひ進退(しんたい)究(きはまり)てあはや討(うた)るべく見えけるに。賊方(ぞくがた)二 陣(ぢん)胆沢(いざは)悪(あく)太郎五百 余騎(よき)を

魚鱗(ぎよりん)に備(そな)へ煙嵐(ゑんらん)を巻(まい)て駈来(かけきた)り悪(あく)太郎 真先(まつさき)に馬(むま)を進(すゝ)めて益立(ましだち)が勢(せい)に会釈(ゑしやく)もなく
撃(うつ)てかゝり当(あた)るを幸(さいはひ)に切(きつ)て落(おと)すにぞ。麾下(きか)の士卒(しそつ)們(ら)も是(これ)に励(はげ)まされて敵(てき)を打立(うちたて)ける
是(これ)に駭(おどろ)きて益立(ましだち)が勢(せい)騒(さは)ぎ立(たち)ければ栗原(くりはら)蘇(よみがへ)りたる心地(こゝち)し胆沢(いざは)と一隊(いつて)に成(なつ)て敵(てき)に
あたるに依(より)京軍(きやうぐん)足場(あしば)を追捲(おひまくら)れしらけ渡(わたつ)て見えたりける。大将(たいしやう)継縄(つぐなは)は敵方(てきがた)の旗(はた)
色(いろ)の整(なを)りしを見て心 怒(いか)り。斯許(かばかり)の小敵(せうてき)に勝得(かちえ)ざる事やあると。隊(そなへ)を押出(おしいだ)さんとする
ところに。賊方(ぞくがた)の遊軍(ゆうぐん)田理(わたり)五郎 何国(いづく)より廻(まは)りけん五百 余騎(よき)にて継縄(つぐなは)が陣(ぢん)の後(うしろ)より
伐(うつ)てかゝる。継縄(つぐなは)駭(おどろ)きながら士卒(しそつ)を下知(げぢ)して是(これ)を防(ふせ)がせ国岳源吾(くにおかげんご)同苗(どうめう)六郎に一千
騎(ぎ)を授(さづけ)て先陣(せんぢん)の味方(みかた)を佐(たすけ)しめ。自身(みづから)は一千騎にて田理(わたり)が勢(せい)と挑(いど)み戦(たゝか)ひけり。国岳(くにおか)は
兄弟(きやうだい)二人心を一致(いつち)にし。一千 騎(ぎ)を引率(いんぞつ)し馬(むま)を真先(まつさき)に進(すゝめ)て川を渡(わた)し。味方(みかた)の勢(せい)に
馳加(はせくは)はりければ古佐美(こさみ)。益立(ましだち)が勢(せい)是(これ)に気(き)を整(なを)し。又 敵(てき)を追立(おつたて)ける。元来(ぐわんらい)小勢(こぜい)の賊(ぞく)
軍(ぐん)数剋(すこく)の戦(たゝか)ひに疲(つか)れし上(うへ)敵(てき)に新兵(あらて)加(くは)はりしかば散々(さん〴〵)に撃(うち)立(たて)られ手負(ておひ)戦死(うちじに)数(かづ)

しらず戦(たゝか)ひ十 分(ぶん)難義(なんぎ)なりけるに。賊方(ぞくがた)の大将(たいせう)伊治呰麻呂(いちのしまろ)一千 騎(ぎ)の新兵(あらて)を丸隊(まるぞなへ)とし
土煙(つちけふり)を揚(あげ)て駈来(かけきた)り敗来(にげく)る味方(みかた)の士卒(しそつ)を左右(さいう)へ打払(うちはら)はせ。大いに喊(とき)を発(つくつ)て襲来(おそひく)る
京軍(きやうぐん)にわたり合(あひ)。呰麻呂(しまろ)先(さき)に立(たつ)て四尺三寸の太刀(たち)を電光(でんくわう)のごとく閃(ひらめ)かし。敵(てき)を斬事(きること)草(くさ)を
薙(なぐ)如(ごと)くなれば。京軍(きやうぐん)其(その)太刀(たち)風(かぜ)に辟易(へきえき)し又二三 段(だん)引退(ひきしりぞ)く。去程(さるほど)に敵味方(てきみかた)入乱(いりみだ)れ此処(こゝ)
に乗(のり)ちがへ彼所(かしこ)に追回(おひまは)し。敵陣(てきぢん)は味方(みかた)の陣(ぢん)となり。討(うつ)討(うた)れつ戦(たゝか)ふ程(ほど)に川原(かはら)の四(し)
面(めん)は一 場(ぢよう)の修羅道(しゆらどう)となり。馬煙(むまけふり)は天を曇(くもら)し足音(あしおと)は地(ち)に轟(とゞろ)き。敵味方(てきみかた)の死尸(しかばね)は
累々(るい〳〵)として屠所(としよ)の肉(にく)のごとく流(なが)るゝ血汐(ちしほ)は滔々(とう〳〵)として紅葉(もみぢ)を浮(うか)めしに異(こと)ならず誠(まこと)に
厲(はげ)しき摂戦(せつせん)なり此時(このとき)総大将(そうたいせう)継縄(つぐなは)は田理(わたり)五郎が勢(せい)を難(なん)なく捲(まく)り立(たて)敵将(てきせう)五
郎を討取(うちとり)ければ残卒(ざんそつ)は八 方(はう)へ敗走(はいそう)し手(て)に立(たつ)敵(かたき)も無(なく)なりけるゆへ。此勢(このいきほ)ひに川を渡(わた)
して味方(みかた)に力(ちから)を添(そへ)んとせしところに。大伴益立(おほともましたち)は呰麻呂(しまろ)が為(ため)に散々(さん〴〵)に伐立(うちたて)られ馬(むま)を拍(うつ)
て川を越(こし)継縄(つぐなは)の陣(ぢん)へ駈戻(かけもど)りて大将(たいせう)に向(むか)ひ。日もはや夕陽(せきやう)に及(およ)び味方(みかた)の手負(ておひ)戦(うち)

死(じに)も多(おほ)く戦(たゝか)ひ疲(つかれ)て候へば合戦(かせん)は是迄(これまで)にして軍(いくさ)を収(おさ)め給へ強(あなが)ち今日(けふ)に限(かぎ)る戦(たか)ひにて
も候まじ。夜に入(いり)なば敵(てき)は地理(ちのり)に精(くは)しければ。恐(おそ)らくは退口(のきぐち)難義(なんぎ)に候べしと言(いひ)ければ継(つぐ)
縄(なは)勃然(ぼつぜん)として大いに怒(いか)り。是(こ)は臆病(おくびやう)未煉(みれん)なる申され条(でう)かな。合戦(かせん)は已(すで)に味方(みかた)の勝色(かちいろ)
なり今(いま)賊軍(ぞくぐん)の疲(つかれ)を伐(うた)ずんば。何日(いつ)か勝利(しやうり)を得(う)る期(とき)あらん。卑怯(ひけう)の挙止(ふるまひ)なせられ
そと叱(しか)り恥(はづか)【耻は俗字】しめけるにぞ。益立(ましだち)赤面(せきめん)して口(くち)の裡(うち)につぶやき。戦場(せんぢよう)へも向(むか)はず鈍々(おめ〳〵)玉造(たまつくり)へ
ぞ引取(ひきとり)ける。此時(このとき)賊方(ぞくがた)は大軍(たいぐん)の京勢(きやうぜい)に■(あぐ)【䜑ヵ】み已(すで)に敗色(まけいろ)見えけるに。益立(ましだち)が手勢(てぜい)は主将(しゆせう)
の見えざるに周障(しうせう)し。主人(しゆじん)は如何(いかに)。もし戦死(うちじに)したまひしに非(あらざ)るかと。敵(てき)に向(むか)はんともせず
騒立(さわぎたち)ける呰麻呂(しまろ)胆沢(いざは)栗原(くりばら)以下(いげ)是(これ)を見るより味方(みかた)を励(はげま)し須波(すは)敵(てき)は引色(ひきいろ)なる
ぞ此(この)機(き)を㢮(ゆるべ)ず伐(うて)やと呼(よば)はり。宗徒(むねと)の者(もの)ども真先(まつさき)に立(たつ)て。狼狽(うろたゆ)る大伴(おほとも)が勢(せい)を落花(らくくは)
微塵(みぢん)に打立(うちたて)ければ戦(たゝか)ひ疲(つか)れし賊兵(ぞくへい)是(これ)に機(き)を整(なを)して勢(いきほ)ひを生(せう)じ倶(とも)に敵(てき)を追捲(おひまく)る
にぞ。益立(ましだち)が手(て)の者(もの)いよ〳〵騒(さは)ぎ乱(みだ)れ散々(さん〴〵)に敗走(はいそう)し我先(われさき)にと川を逃渡(にげわた)りけり是(これ)に

依(よつ)て残(のこ)る京軍(きやうぐん)も倶(とも)に臆病神(おくびやうがみ)に誘(さそ)はれ崩立(くづれたつ)て引(ひき)けるゆへ賊兵(ぞくへい)は倍(ます〳〵)勇(いさ)み立(たち)追立(おつたて)
々々(〳〵)思(おも)ひ〳〵に敵(てき)を討(うち)高名(かうめう)を顕(あらは)しけり。古佐美(こさみ)国岳(くにおか)兄弟(きやうだい)は身(み)をあせつて味方(みかた)を
制(せい)し留(とめ)んとすれど。大軍(たいぐん)の引立(ひきたち)しならひ。更(さら)に耳(みゝ)にもかけず敗走(はいそう)す。其間(そのあいだ)に古佐美(こさみ)は敵卒(てきそつ)
に取囲(とりかこ)まれ已(すで)に討(うた)るべかりしを。古佐美(こさみ)が宗徒(むねと)の郎党(らうどう)引返(ひつかへ)して敵(てき)を追払(おつはら)ひ辛(からう)して
主(しゆう)を助(たす)け引行(ひきゆき)ける。大将(たいせう)継縄(つぐなは)は味方(みかた)の敗軍(はいぐん)を見て歯(は)を切(くひしば)り。是(これ)益立(ますだち)【ママ】が不覚(ふかく)より
勝(かつ)べき軍(いくさ)に負(まけ)たるぞ安(やす)からねと怒(いか)られけれども今更(いまさら)奈何(いかん)とも為(せん)かたなく。無念(むねん)ながら
ともに玉造(たまつくり)へぞ引(ひか)れける。此日(このひ)の戦(たゝか)ひに宦軍(くわんぐん)の戦死(うちじに)一千 余人(よにん)矢疵(やきず)太刀疵(たちきず)を受(うけ)あるひは
手脚(てあし)を折(くじ)きたる者(もの)千二百 余人(よにん)に及(およ)びければ。三軍(さんぐん)大いに鋭気(ゑいき)を屈(くつ)し。皆(みな)是(これ)大伴(おほとも)
益立(ましだち)が臆病(おくびやう)より事(こと)起(おこ)れりと訕(そし)らぬ者はなかりけり。呰麻呂(しまろ)は軍(いくさ)に打勝(うちかつ)て大いに
勇(いさ)み勝喊(かちどき)三 度(ど)揚(あげ)て己(おの)が柵(さく)へ凱陣(かいぢん)し軍(ぐん)を点検(てんけん)するに。田理(わたり)五郎を先(さき)として戦死(うちじに)
四百余人 手負(ておひ)三百余人と記(しる)しけれども。敵(てき)の首(くび)を得(う)る事一千 級(きう)に向(なん〳〵)たれば京軍(きやうぐん)

恐(おそ)るゝに足(たら)ずと心(こゝろ)驕(おごり)し大いに酒宴(しゆえん)を摧(もよほ)して勝軍(かちいくさ)をぞ祝(しゆく)しける



扶桑皇統記後編巻之一上終

【白紙】

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之壱下
   金窪(かなくぼ)義心(ぎしん)《振り仮名:贈_二于敵冑_一|てきにかぶとをおくる》 瑞雲禅師(ずいうんぜんじ)《振り仮名:化_二度安達_一|あだちをけどす》条
宦軍(くわんぐん)は昨日(きのふ)の軍(いくさ)に数多(あまた)士卒(しそつ)を亡(うしな)ひ手負(ておひ)多(おほ)ければ再(ふたゝ)び敵(てき)を伐(うつ)べき義勢(ぎせい)なく兵(ひやう)
糧(らう)も乏(とも)しかりければ京都(きやうと)へ飛馬(はやうま)を立(たて)て益立(ましだち)が不覚(ふかく)を訟(うつた)へ加勢(かせい)及(およ)び兵糧(ひやうらう)を乞(こひ)ける
然(しか)るに賊方(ぞくがた)の勇将(ゆうせう)金窪兵太(かなくぼひやうだ)は戦場(せんぜう)にて咽(のんど)に流箭(ながれや)を受(うけ)我陣(わがぢん)に帰(かへり)て矢疵(やきず)を療(れう)
ぜしむれども急所(きうしよ)なれば痛(いたみ)甚(はなはだ)しく。命(いのち)生(いく)べしとも覚(おぼ)へざれば。兵太(ひやうだ)士卒(しそつ)に命(めい)じて昨(さく)
日(じつ)抜取(ぬきとり)し矢(や)をとり寄(よせ)て見るに。漆(うるし)を以(もつ)て大和国(やまとのくに)の住人(ぢうにん)広瀬(ひろせの)八郎 勇(いさむ)と記(しる)したり
兵太(ひやうだ)嘆息(たんそく)し。此矢(このや)の主(ぬし)の剛臆(かうおく)は知(しら)ざれども金窪(かなくぼ)程(ほど)の勇士(ゆうし)に矢(や)を射中(いあて)たるは武運(ぶうん)
に叶(かな)ひし者(もの)なり。矢束(やつか)を見(み)れば小兵(こひやう)とも思(おも)はれず。あたら高名(かうめう)を人にしらせざるも残(ざん)
念(ねん)なりとて。其矢(そのや)に我(わが)着(ちやく)したる冑(かぶと)を添(そへ)て。郎党(らうどう)の中(うち)に心利(こゝろきゝ)たる者(もの)に持(もた)せ如此々々(かやう〳〵)
言(いへ)とて玉造(たまつくり)の敵陣(てきぢん)へぞ遣(つかは)しける。其者(そのもの)京方(きやうがた)の陣(ぢん)へ往(ゆき)案内(あんない)を乞(こふ)て大将(たいせう)継縄(つぐなは)の前(まへ)

に出(いで)某(それがし)は金窪兵太(かなくぼひやうだ)が組下(くみした)の者にて候。主将(しゆせう)兵太(ひやうた)義(ぎ)昨日(さくじつ)戦場(せんぜう)にて咽(のんど)に流矢(ながれや)を受(うけ)矢(や)
を検(あらた)め候に広瀬(ひろせ)八郎 勇(いさむ)と記(しる)しあり。依(よつ)て金窪(かなくぼ)程(ほど)の者(もの)にだい大事(だいじ)の手(て)を負(おは)せる高
名(めう)を世上(せじやう)へ知(しら)せざるも残念(ざんねん)に候へば。御賞翫(ごせうくわん)には候まじけれども。名(な)を惜(をし)む武士(ぶし)の本意(ほんい)
に任(まか)せ受(うけ)たる矢(や)に着(ちやく)せし兜(かぶと)を添(そへ)て贈(おくり)候なり此由(このよし)御申あつて其主(そのぬし)へ御 渡(わた)し給(たま)はる
べしと慇懃(いんぎん)に相演(あいのべ)ければ。継縄(つぐなは)大いに感(かん)じ。東夷(あづまゑびす)は義(ぎ)も恥(はぢ)【耻は俗字】も知(しら)ずと聞(きゝ)つるに流石(さすが)
名(な)に負(おふ)勇士(ゆうし)とて。かへす〴〵優(やさし)き志(こゝろざし)感(かん)ずるに余(あまり)あり。武士(ものゝふ)たらん者は尤(もつと)も斯(かう)こそ有(あり)
たけれとて。即剋(そくこく)【尅は俗字】古佐美(こさみ)が麾下(はたした)に属(ぞく)せし広瀬(ひろせ)八郎を召出(めしいだ)して。金窪(かなくぼ)が志(ころざし)を言(いひ)聞(きか)
せ。矢(や)と兜(かぶと)を渡(わた)し使者(ししや)には引出物(ひきでもの)を与(あた)へまた兵太(ひやうだ)へとて金瘡(きんさう)の膏薬(くすり)を渡(わた)して帰(かへ)
されけり。其後(そのゝち)矢(や)と冑(かぶと)を取寄(とりよせ)て見らるゝに。実(げに)も篦深(のぶか)に射(い)たりと見えて矢篦(やの)血(ち)に
染(そみ)たり。次(つぎ)に冑(かぶと)を提(ひつさ)げて見らるゝに。大 剛(がう)の者の着(ちやく)せし兜(かぶと)とて甚(はなは)だ斤目(きんめ)重(おも)く容易(たやすく)は
揚(あげ)がたかりければ。愈(いよ〳〵)感心(かんしん)ありて広瀬(ひろせ)には褒賞(ほうび)として太刀(たち)一振り(ひとふり)与(あた)へられければ。八郎 押頂(おしいたゞき)

て涙(なみだ)を流(なが)し。金窪(かなくぼ)は万夫不当(ばんぶふとう)の剛(かう)の者(もの)とは承(うけたま)はり候へども。斯程(かほど)まで武道(ぶどう)の義(ぎ)を重(おも)ん
ずる者とは思(おもひ)候はず。其身(そのみ)の仇(あだ)たる某(それがし)の高名(かうめう)を人に知(しら)せんとて。此(この)二品(ふたしな)を贈(おくり)し心の清(すゞ)し
さ真(しん)の大丈夫(だいじやうぶ)と申は金窪(かなくぼ)の事(こと)にて碌々(ろく〳〵)たる某(それがし)なんどの不及(およばぬ)ところに候。されば此二品(このふたしな)は
子孫(しそん)へ語草(かたりぐさ)【艸】の種(たね)に申 請(うけ)候べし。御褒美(ごほうび)の御 太刀(たち)は恐(おそれ)ながら御返進(ごへんしん)し奉り候 其故(そのゆへ)は
全(まつた)く某(それがし)金窪(かなくぼ)を目当(めあて)に射(い)たる矢(や)にても無之(これなく)只(たゞ)敵(てき)の襲(おそ)ひ来(きた)るを防(ふせ)がんため放(はなし)候ひ
し矢(や)が不測(ふしぎ)に金窪(かなくぼ)に中(あたり)候ひしにて偶然(まぐれあたり)の手柄(てがら)にて候へば真(まこと)の高名(かうめう)とは申がたしとて
辞退(じたい)して退(しりぞ)きけり此 広瀬(ひろせ)も又心ある武士(ぶし)なりと皆(みな)倶(とも)に感(かん)じけり。大将(たいせう)継縄(つぐなは)は今(こん)
度(ど)の敗軍(はいぐん)に就(つい)て熟(つら〳〵)思惟(しゆい)せられけるは。何分(なんぶん)敵(てき)は地理(ちのり)に精(くわし)く。味方(みかた)は土地(とち)不案内(ふあんない)に
て奇兵(きへい)を用(もちゆ)るに不便(ふべん)なれば。何卒(なにとぞ)心(こゝろ)利(きゝ)たる国人(くにんど)を召抱(めしかゝへ)ばやと。専(もつは)ら其人(そのにん)をぞ求(もと)め
られける。茲(こゝ)に奥州(おうしう)の産(さん)に安達(あだち)八郎といへる強盗(がうどう)有(あり)けり。元(もと)は当国(とうごく)信夫郡(しのぶごふり)の農民(のうみん)の
子(こ)なりけるが生得(しやうとく)力(ちから)飽(あく)まで強(つよ)く腕立(うでだて)を好(この)み。心 放蕩(ほうたう)にて農業(のうぎやう)を嫌(きら)ひ。十四五才

の頃(ころ)より父母(ふぼ)の家(いへ)を出(いで)て悪徒(あくと)の群(むれ)に入あらゆる悪業(あくげう)をなしけるが強力(がうりき)なる上(うへ)弓(きう)
馬(ば)打物(うちもの)の業(わざ)にも達(たつ)しければ。悪徒(あくと)ども八郎に伏従(ふくじふ)する者 多(おほ)く。八郎 遂(つひ)に強盗(がうどう)の
巨魁(かしら)となり。諸方(しよはう)の富家(ふか)へ推入(おしいつ)て金銀(きん〴〵)財宝(ざいほう)を奪掠(ばひかす)め。深山(しんざん)に巣穴(すみか)を構(かまへ)て
住居(ぢうきよ)しける。其名(そのな)隣国(りんごく)まで隠(かくれ)なかりければ。伊治呰麻呂(いちのしまろ)安達(あだち)を度々(たび〳〵)味方(みかた)に招(まね)け
ども八郎 是(これ)に応(おふ)ぜず。只(たゞ)刧盗(がうどう)を事(わざ)として世(よ)を恣(ほしいまゝ)に送(おく)りけるに。一時(あるとき)配下(てした)の賊徒(ぞくと)を
将(ひきつれ)て信夫郡(しのぶごほり)山村(やまむら)の郷(さと)なる豪民(がうみん)の宅(たく)へ押入(おしいり)けるに。此家(このや)の主(あるじ)は所(ところ)の吏官(だいくわん)の縁者(えんじや)
なりけるゆへ其方(そのかた)へ人を走(はしら)せ盗賊(とうぞく)の押入(おしいつ)たる由(よし)を告(つげ)ければ。吏官(だいくわん)即時(そくじ)に下吏(したやくにん)及(およ)び村(むら)
の腕立(うでだて)を好(この)む若者(わかもの)大 勢(ぜい)駆集(かりあつめ)て駈着(かけつけ)折(をり)しも十五 夜(や)にて月(つき)明(あきらか)なれば諸人(しよにん)に下知(げぢ)
して盗賊(とうぞく)を追払(おつはら)はんとしけるに。安達(あだち)八郎は小高(こだか)き所(ところ)に床机(しやうぎ)を立(たて)て腰(こし)打(うち)かけ螺(ほら)
を吹(ふか)せ太鼓(たいこ)を打(うた)せ。其身(そのみ)は採(ざい)を揮(ふつ)て小賊(せうぞく)に令(げぢ)を伝(つたふ)る事 恰(あたか)も老煉(らうれん)の軍師(ぐんし)の士(し)
卒(そつ)を指指(しき)【ママ】するに異(こと)ならず進退(しんたい)よく法(のり)に合(かなひ)て間(ま)に髪(はつ)を容(いれ)ざれば吏官(だいくわん)の手(て)の

者(もの)《振り仮名:散〱|さん〴〵》に捲(まく)り立(たて)られ。這々(はふ〳〵)の体(てい)にて逃退(にげしりぞ)く内(うち)に八郎は十 分(ぶん)に財宝(ざいほう)を奪取(ばひとり)一 声(せい)の
螺(かい)を吹鳴(ふきならす)を相図(あひづ)として群賊(ぐんぞく)を班(まど)め徐々(しづ〳〵)と引取(ひきとつ)て己(おの)が栖(すみか)へ帰(かへ)りけるは。誠(まこと)に世(よ)
に希(まれ)なる強盗(がうどう)なりけり。茲(こゝ)に奥州(おうしう)の国府(こくふ)に近(ち▢)き所(ところ)に観音寺(くわんおんじ)と号(がう)する梵(て)
宇(ら)有(あり)けるが其(その)住侶(ぢうりよ)を瑞雲禅師(ずいうんぜんじ)と呼(よび)て道徳(どうとく)高(たか)き僧(そう)なれば諸人(しよにん)信仰(しんかう)し。藤(ふぢ)
原継縄(はらのつぐなは)も在陣中(ざいぢんちう)折〱(をり〳〵)観音寺(くわんおんじ)へ参詣(さんけい)し。瑞雲禅師(ずいうんぜんじ)の教化(きやうけ)を聞(きゝ)深(ふか)く尊信(そんしん)
せられけり。然(しかる)に瑞雲和尚(ずいうんおしやう)一夜(あるよ)書見(しよけん)して居(ゐ)られけるに。一個(いちにん)の大漢(おほをのこ)入来(いりきた)り和尚(おしやう)に向(むか)
ひ礼(れい)をなし。明日(めうにち)は某(それがし)が亡父(ぼうふ)の二十五 回忌(くわいき)の忌日(きにち)に当(あたり)候へば。何卒(なにとぞ)御 弔(とふらひ)【吊は俗字】に預(あづか)りたしと
て従者(とも)に持(もた)せたる裹(つゝみ)とり寄(よせ)十 両(りよう)許(ばかり)の砂金(しやきん)と絹布(けんふ)五 端(たん)を布施物(ふせもつ)にとてさし
出(いだ)しければ和尚(おせう)是(これ)を見て心中(しんちう)に。此男(このをとこ)の風体(ふうてい)にて斯(かく)過分(くわぶん)の布施(ふせ)を引(ひく)は其意(そのい)を
得(え)ず。もし盗賊(とうぞく)などにやと疑(うたが)ひながら色(いろ)にも見(あらは)さず。其(それ)はいと殊勝(しゆしやう)なる事かな。僧(そう)
の役(やく)なれば弔(とふらひ)て進(しん)ずべし。但(たゞ)し亡者(もうじや)の法名(ほふめう)は何(なに)と影向(えかう)し。施主(せしゆ)の名(な)は何(なに)と記(しる)すべき

やと問(とは)れけるに。否(いな)亡父(ぼうふ)の法名(ほふめう)を某(それがし)は知(しり)候はず。子細(しさい)有(あつ)て若年(じやくねん)の頃(ころ)父母(ふぼ)の家(いへ)を出(いで)て
其(その)死期(しご)をも不知(しらず)こ今年(ことし)二十五年の年忌(ねんき)に当(あた)るまで。いまだ亡父母(なきふぼ)の冥福(めうふく)を弔(とふら)【吊は俗字】
ひし事も候はず然(しかれ)ども星霜(せいさう)押移(おしうつ)り身(み)も初老(しよらう)の齢(よはひ)に及(およぶ)につき。父母(ふぼ)の恩義(おんぎ)を
思(おも)ひ。今までの不孝(ふかう)は悔(くひ)て反(かへら)ず。せめて其(その)年忌(ねんき)を弔(とむら)はんため。和尚(おせう)の高徳(かうとく)を聞伝(きゝつたへ)
今夜(こんや)御 頼(たのみ)申さんため推参(すいさん)し候なりと語(かたり)ける。禅師(ぜんじ)聞(きい)て。然(さら)ば御 身(み)の名(な)計(ばかり)なり
とも度帖(どてう)に記(しる)し申さばやと言(いは)れければ大漢(おほおのこ)暫時(しばらく)思惟(しあん)し。さらば安達謀(あだちなにがし)と記(しる)
し給(たま)はるべしと言(いひ)けるにぞ。禅師(ぜんじ)。されば社(こそ)凡庸(たゞもの)ならじと思(おもい)しに果(はた)して国中(こくちう)に隠(かく)れ
なき劫盗(がうどう)安達(あだち)八郎にて有(あり)けりと覚(さとり)ながら左(さ)あらぬ体(てい)にて施物(せもつ)を収(おさ)め本堂(ほんどう)へ
伴(ともな)ひ悃(ねんご)ろに経(きやう)を読誦(どくじゆ)し弔(とむら)ひの仏事(ぶつじ)終(をは)りて後(のち)。方丈(はうぜう)へ請(しやう)じて湯漬(ゆづけ)を進(すゝ)めなど
し談話(だんわ)の序(ついで)に禅師(ぜんじ)安達(あだち)に向(むか)ひ。貧道(ひんどう)は出家(しゆつけ)の義(ぎ)なれば万事(ばんじ)心 置(おき)なく物語(ものがた)り
給へ御 身(み)の風体(ふうてい)武家(ぶけ)とも見えず。市人(てうにん)農民(ひやくせう)とは尚(なを)思(おも)はれず由(よし)ある方(かた)にこそ。今は

包(つゝま)ず御 名(な)を名告(なの)られ候へと申されければ。大漢(おほをのこ)が曰。某(それがし)幸(さいは)ひ有(あつ)て今夜(こんや)善(ぜん)知識(ちしき)に見(まみへ)
奉る上は。罪障(ざいせう)懺悔(さんげ)のため名告(なのり)候べし。実(まこと)は安達(あだち)八郎と申 不良(よからぬ)業(わざ)を為(なす)者(もの)に候
穴賢(あなかしこ)他(た)の人に謀(それがし)が名(な)を漏(もら)し給ふまじと口止(くちどめ)しける。禅師(ぜんじ)点首(うなづき)争(いかで)か余人(よじん)にも洩(もら)し候べ
き拙僧(せつそう)も安達謀(あだちなにがし)と申されし時(とき)より夫(それ)と推量(すいりやう)いたせり。此仏場(このぶつぜう)へ来(きた)られしは仏縁(ぶつえん)の
深(ふか)きところなれば拙僧(せつそう)の愚案(ぐあん)を演(のべ)候べし凡(およそ)世上(せじやう)の人に初(はじめ)より不善人(ふぜんにん)はなし皆(みな)若(わか)
年(げ)の血気(けつき)に任(まか)せ悪(あし)き友(とも)に交(まじは)り其(その)所為(しわざ)に做(なら)【注】ひて何(いつ)しか悪道(あくどう)へ入 無量(むりやう)の罪(つみ)をも
造(つく)るなり。人間(にんげん)の一 生(せう)に百 才(さい)を保(たもつ)は稀(まれ)なり僅(わづか)なる夢(ゆめ)の世(よ)を送(おくら)んとて。あたら英雄(ゑいゆう)の
身(み)を狗党(くとふ)の群(むれ)に沈(しづ)め。人を殺(ころ)し火(ひ)を放(はな)ちて暴悪(ばうあく)の名(な)を遺(のこ)されん事かへす〴〵も
朽惜(くちをし)けれ。御辺(ごへん)の勇智(ゆうち)を以(もつ)て公(おゝやけ)に事(つか)へ国家(こくか)の為(ため)に忠戦(ちうせん)を励(はげ)まれなば。帝王(ていわう)の為(ため)
には忠臣(ちうしん)と賞(せう)せられ。父母(ふぼ)先祖(せんぞ)の為(ため)には孝道(かうどう)立(たち)ぬへし。美玉(びぎよく)を泥土(でいど)に埋(うづ)むは最(いと)惜(をし)
かるべき事ならずやと理(り)を竭(つく)して教化(きやうけ)ありければ。八郎 感伏(かんふく)し。実々(げに〳〵)難有(ありがたき)御教示(ごけうじ)

【注 「做」は「作」の俗字にて語義も「作」に同じ。ここの文脈においては「傚」か「倣」が妥当と思われる。】

に預(あづか)り迷(まよひ)の雲(くも)霧(きり)霽(はれ)候。某(それがし)若年(じやくねん)の頃(ころ)何(なん)の弁(わきま)へもなく。放逸(はういつ)憍奢(けうしや)を好事(よきこと)と思(おもひ)
親(おや)の諫(いさ)め世(よ)の誹(そしり)をも厭(いとは)ず悪友(あくゆう)に誘(さそ)はれて窃盗(せつとう)を業(わざ)とし。遂(つひ)に其(その)巨魁(かしら)となり
人の財宝(ざいほう)を奪(うばひ)掠(かす)めて僅(わづか)に口腹(かうふく)を富(とま)せし事 今更(いまさら)慚愧(ざんぎ)に不堪(たへず)候。されども今は
偸盗(ちうとう)の名(な)を遁(のが)るゝに道(みち)なく奈何(いかん)とも致(いた)し難(がた)ければ。悪(あく)と知(しれ)ども悪(あく)をなし。只(たゞ)刃(やいば)
の首(かうべ)に望(のぞむ)を待(まつ)のみに候。もし和尚(おせう)の大 慈悲(じひ)に因(よつ)て公儀(おやけ)の下吏(しもべ)にも用(もち)ひらるゝ道(みち)候
はゞ。犬馬(けんば)の労(らう)を辞(じ)せず奉公(はうこう)いたすべく候と。誠心(せいしん)面(おもて)に見(あら)はれて言(いひ)けるにぞ。禅師(ぜんじ)大いに
感(かん)じ。さる存念(ぞんねん)ならば万事(ばんじ)拙僧(せつそう)に任(まか)され候へ。為(ため)悪(あし)く計(はから)はじ。先(まづ)暫時(しばらく)当寺(このてら)に身(み)
を忍(しの)びて居(ゐ)らるべしとて。夫(それ)より安達(あだち)を舎蔵(かくまひ)置(おき)翌日(よくじつ)征東使(せいとうし)継縄(つぐなは)の陣所(ぢんしよ)へ
到(いた)り密(ひそか)に対面(たいめん)して。当国(とうごく)に隠(かくれ)なき安達(あだち)八郎と申 強盗(がうどう)の首領(かしら)の候が。亡父(ぼうふ)の弔(とふら)ひ
を頼(たのま)んと拙寺(せつじ)へ参(まい)り候ゆへ。其(その)器量(きれう)を試(ため)し見候に。人表(じんへう)衆(しゆう)に勝(すぐ)れ胆略(たんりやく)また秀(ひいで)。中々(なか〳〵)
窃盗(とうぞく)をなすべき者(もの)ならず候。依(よつ)て種々(さま〴〵)教化(けうけ)し候へば。渠(かれ)も生涯(せうがい)狗党(くとう)の群(むれ)に朽(くち)

果(はて)ん事を厭(いと)ひ。今までの悪業(あくげう)を悔(くや)み。もし罪(つみ)を赦(ゆる)し召抱(めしかゝゆ)る主君(しゆくん)あらば犬馬(けんば)の労(らう)をも
辞(じ)せず奉公(はうこう)すべきよし申候。君(きみ)兼(かね)て当国(とうごく)の地理(ちのり)に熟(じゆく)せし者あらば。召抱(めしかゝへ)たきよし
御申なれば。彼(かの)安達(あだち)を扶知(ふち)し給へ。渠(かれ)は偸盗(ちうとう)を業(わざ)とし候ひしゆへ。当国(とうごく)は申に及(およば)す近国(きんごく)
の地理(ちのり)にも達(たつ)し。然(しか)も智勇(ちゆう)を兼備(けんび)せし者にて候へば。自然(しぜん)軍功(ぐんかう)を立(たて)給ふべき便(たより)と
も成(なり)候べしと勧(すゝ)めければ。継縄(つぐなは)大いに悦(よろこび)。是(これ)予(よ)が兼(かね)て望(のぞ)む所(ところ)なり。其者(そのもの)先非(せんひ)を改(あらため)て
予(よ)に奉公(はうこう)するぞならば。予(よ)また其功(そのかう)に従(したが)ひ追々(おひ〳〵)執立(とりたて)遣(つか)はすべしと言(いは)れけるにぞ。和(お)
尚(せう)怡(よろこ)び立帰(たちかへつ)て安達(あだち)に右(みぎ)の由(よし)を告(つげ)夜中(やちう)に伴(ともな)ひて継縄(つぐなは)の陣館(ぢんや)へ赴(おもむ)き八郎を見(めみ)へさ
せければ。継縄(つぐなは)安達(あだち)が堂々(どう〳〵)たる骨柄(こつがら)を見て深(ふか)く悦(よろこ)び主従(しゆう〴〵)の契約(けいやく)せられけるゆへ。安達(あだち)
三 拝(はい)して恩(おん)を謝(しや)し。山塞(さんさい)より老母(らうぼ)を迎(むかへ)とり小賊(てした)の中(なか)にて物(もの)の役(やく)に立(たつ)べき者は呼(よび)とりて
家人(けにん)とし。是(これ)より非(ひ)を改(あらた)め。家人(けにん)を以(もつ)て近郷(きんがう)の盗賊(とうぞく)を防(ふせ)がせけるにぞ。国府(こくふ)の近辺(きんへん)は
盗難(とうなん)の患(うれ)ひなく諸人(しよにん)大いに心を安(やす)んじてぞ悦(よろこ)びける

     桓武天皇(くわんむてんわう)御即位(ごそくゐ)  苦肉(くにくの)計略(けいりやく)安達(あだち)《振り仮名:焼_二敵柵_一|てきさくをやく》条
宝亀(ほうき)十二年 皇都(みやこ)には伊勢(いせ)の神官(じんくわん)より表(へう)を捧(さゝ)げ当春(とうしゆん)より斎宮(さいぐう)の社(やしろ)の上(うへ)に五(ご)
彩(しき)の雲(くも)現(あら)はれ四 方(はう)の天(そら)に燿(かゝや)き候と奏上(そうぜう)しければ。帝(みかど)叡慮(ゑいりよ)麗(うるは)しく百宦(ひやくくわん)を召集(めしつどへ)玉
ひ。今般(こんはん)伊勢(いせ)の斎宮(さいぐう)に五色(ごしきの)雲(くも)現(あら)はるゝ事 是(これ)天(てん)より祥瑞(しやうずい)を示(しめ)し給ふところなれば
年号(ねんがう)を改(あらた)め天応元年(てんおふぐわんねん)と改元(かいげん)すべし。然(しから)ば五 穀(こく)もよく登(みの)り東国(とうごく)の賊徒(ぞくと)も程(ほど)な
く誅(ちゆう)に伏(ふく)すべし。然(しか)し此議(このぎ)如何(いかゞ)有(ある)べきと勅問(ちよくもん)給ひければ。左右(さいう)の大臣(だいじん)を先(さき)とし一 座(ざ)
の月卿(げつけい)雲客(うんかく)冠(かむり)を傾(かたむ)けて一 同(どう)に拝賀(はいが)し。陛下(へいか)徳(とく)を脩(おさ)め万民(ばんみん)を恤(めぐみ)給ふにより。天
より祥瑞(しやうずい)を示(しめ)し給ふなれば。年号(ねんがう)改元(かいげん)の議(ぎ)誠(まこと)に宜(よろし)く候と回奏(くわいそう)しけるにより。帝(みかど)も御(ご)
喜悦(きえつ)在(ましま)し即(すなは)ち宝亀(ほうき)十二年正月に天応(てんおふ)元年(げんね)と改(あらた)め玉(たま)ひ天下(てんか)に大赦(だいしや)行(おこな)はれ囚獄(とらはれ)を
赦(ゆる)し放(はな)し遠島(ゑんとう)配流(はいる)の者を徴還(めしかへ)されけるにぞ。万民(ばんみん)皆(みな)君(きみ)の御 仁徳(じんとく)を感悦(かんゑつ)し世上(せじやう)何(なに)
となく賑(にぎは)ひける。時(とき)に帝(みかど)又 群臣(ぐんしん)を召集(めしあつ)め詔(みことのり)在(あり)けるは。昨年(さくねん)奥州(おうしう)より加勢(かせい)并(ならび)に兵糧(ひやうらう)

を乞(こひ)けるゆへ兵糧(ひやうらう)の議(ぎ)は東(とう)八ヶ国(こく)へ触渡(ふれわた)し。加勢(かせい)は藤原小黒麻呂(ふぢはらのをくろまろ)に命(めい)じ三千 余騎(よき)を
授(さづ)けて東国(とうごく)へ下(くだ)しけれども。小黒麻呂(をくろまろ)途中(とちう)にて病(やまひ)に染(そみ)引(ひつかへ)せしゆへ別(べつ)に加勢(かせい)の大将(たいせう)たるべ
き人を択(えらめ)ども。いまだ其機(そのき)に当(あたる)べき者を得(え)ず。且(かつ)は朝務(てうむ)繁(しげ)く空(むな)しく時日(じじつ)を移(うつ)
せり然(しかる)に小黒麻呂(をぐろまろ)疾病(しつへい)平愈(へいゆ)せし由(よし)なれば再(ふたゝ)び小黒麻呂(をぐろまろ)に節(せつ)を持(もた)せ三千 騎(ぎ)を授(じゆ)
与(よ)して奥州(おうしう)へ下向(げかう)せしめ。坂東(ばんどう)八ヶ国(こく)へも兵糧(ひやうらう)運送(うんそう)の遅滞(ちたい)を責(せめ)。急々(きう〳〵)兵糧(ひやうらう)を送(おく)る
べきやう申 渡(わた)すべしとなり。諸(しよ)臣下(しんか)謹(つゝしん)で勅詔(ちよくぜう)を奉(うけたま)はり。即(すなは)ち藤原小黒麻呂(ふじはらのをぐろまろ)を重(かさね)て
時節(じせつ)征東大使(せいとうたいし)とし三千 余騎(よき)を授(さづ)けければ。小黒麻呂(をぐろまろ)奉(うけたま)はりて天応(てんおふ)元年二月 都(みやこ)を発(ほつ)
足(そく)して東国(とうごく)へぞ下向(げかう)しける。禁廷(きんてい)よりは東(とう)八ヶ国(こく)へ昨年(さくねん)の怠(おこた)りを咎(とが)め。火急(くわきう)に奥州(おうしう)へ兵(ひやう)
糧(らう)を送(おく)るべしと触渡(ふれわた)されけるゆへ。八ヶ国(こく)の輩(ともがら)大いに恐(おそれ)て此度(このたび)は急(きう)に兵糧(ひやうらう)をとり調(しらべ)
国々(くに〴〵)より奥州(おうしう)へ運送(うんそう)したりけり。斯(かく)て都(みやこ)には光仁(くわうにん)天皇天 応(おふ)元年三月 初(はじめ)の頃(ころ)より少(すこ)し御(ご)
不例(ふれい)にわたらせ給ひければ。朝政(てうせい)を聞食(きこしめす)も懶(ものう)く思召(おぼしめし)三公(さんこう)九卿(きうけい)と御 評議(ひやうぎ)ありて宝(みくら)

位(ゐ)を皇太子(くわうたいし)山部親王(やまのべしんわう)に譲(ゆづ)らせ給ひけり。是(これ)を人皇(にんわう)五十代の天子(てんし)桓武天皇(くわんむてんわう)と申(まうし)
奉(たてまつ)る即(すなは)ち御即位(ごそくゐ)の大礼(たいれい)を執行(とりおこな)はれ。伊勢太神宮(いせだいじんぐう)へ勅使(ちよくし)を立(たて)給ひ御 受禅(じゆぜん)の儀(ぎ)を
告(つげ)させられ。御 弟皇子(おとゝみこ)早良親王(はやよししんわう)を太子(たいし)に立(たて)給ひ内大臣(ないだいしん)藤原魚名(ふじはらのうをな)を左大臣(さだいじん)に転(てん)
じ給ふ此頃(このころ)は左右(さいう)の大臣(だいじん)を並(なら)べおかれず。左大臣(さだいじん)か右大臣か一人にて政(まつりごと)を執行(とりおこな)ひ大(だい)
納言(なごん)たる人 是(これ)に相副(あひそふ)て政事(せいじ)を佐(たすく)るならひ也(なり)。抑(そも〳〵)桓武天皇(くわんむてんわう)と申(まうし)奉るは御 諱(いみな)は日本(やまと)
根子皇統珍照尊(ねこすべらぎたからてるのみこと)光仁天皇(くわうにんてんわう)第(だい)一の皇子(わうじ)にて御 母(はゝ)は高野夫人(たかのゝぶにん)と申。高野乙継(たかのゝをとつぐ)の
女(むすめ)なり。桓武天皇(くわんむてんわう)は天性(てんせい)御 孝心(かうしん)深(ふか)く。又 儒学(じゆがく)を尊(たつと)び仏法(ぶつほふ)信(しん)じ給ひ。然(しか)も御大量(ごたいりやう)
にて勇気(ゆうき)厲(はげし)く武臣(ぶしん)を誡(いましめ)て弓馬(きうば)兵法(へいほふ)を励(はげ)み学(まなば)しめ給ひ。其(その)進(すゝ)む者(もの)を登用(とうよう)し其(その)
怠(おこた)る者を黜(しりぞ)け給ひける。かゝる名君(めいくん)なれば奥州(おうしう)在陣(ざいぢん)の諸将(しよせう)の怠謾(たいまん)を責(せめ)。火急(くわきう)に功(かう)
を立(たつ)べきよしの勅書(ちよくしよ)を。征東使(せいとうし)へぞ下(くだ)されける。却(かへつて)説(とく)奥州(おうしう)在陣(ざいぢん)の諸将(しよせう)は都(みやこ)より加勢(かせい)を
も下(くだ)されず兵糧(ひやうらう)をも送(おく)られざるゆへ。如何(いか)なる故(ゆへ)にやとて時々(より〳〵)集会(しうくわい)し評議(ひやうぎ)するのみ

にて賊徒(ぞくと)誅伐(ちうばつ)の議(ぎ)は須臾(しばらく)見合(みあはせ)けるにぞ。呰麻呂(しまろ)は京軍(きやうぐん)恐(おそ)るゝに不足(たらず)と心(こゝろ)矜(おごり)し。日夜(にちや)徒(と)
党(とふ)の悪徒(あくと)に指揮(さしづ)して近郡(きんがう)遠郷(ゑんけう)を侵(おか)し掠(かす)めさせ。己(おのれ)は美女(びぢよ)を近着(ちかづけ)酒宴(しゆえん)遊興(ゆふけう)に
耽(ふけ)り憚(はゞか)る所(ところ)なく歓楽(くわんらく)を究(きはめ)ける。去程(さるほど)に宝亀(ほうき)十一 年(ねん)も暮(くれ)明(あく)れば改元(かいげん)あつて天
応(おふ)元年(ぐわんねん)となり。三月 下旬(げじゆん)に藤原小黒麻呂(ふぢはらのをぐろまろ)加勢(かせい)として三千 騎(き)を将(ゐ)て着到(ちやくとう)し。東(とう)
八ヶ国よりは追々(おひ〳〵)兵糧(ひやうらう)を送(おく)りけるにより。諸大将(しよたいせう)士卒(しそつ)まで大いに勇(いさ)み悦(よろこ)び鋭気(ゑいき)を
生(せう)ぜざる者(もの)なく。此上(このうへ)は一 命(めい)を拋(なげうつ)て賊徒(ぞくと)を誅伐(ちうばつ)し大君(おほきみ)の宸襟(しんきん)を安(やす)んじ奉らんと
改(あらた)めて軍勢(ぐんぜい)を調煉(てうれん)し。日々(にち〳〵)集会(しふくわい)して専(もつぱ)ら合戦(かつせん)の評議(ひやうぎ)なす所(ところ)同四月 中旬(ちうじゆん)桓(くわん)
武天皇(むてんわう)の勅書(ちよくしよ)を捧(さゝげ)て勅使(ちよくし)下着(げちやく)有(あり)ければ諸大将(しよたいせう)謹(つゝしん)て是(これ)を迎(むかへ)請(せう)じける。勅使(ちよくし)先(まづ)
新帝(しんてい)御 即位(そくゐ)の嘉儀(かぎ)を演(のべ)次(つぎ)に詔書(せうじよ)を出(いだ)して読聞(よみきか)しめける其文(そのもん)に曰(のたまはく)
  征東使(せいとうし)に勅(ちよく)すらく。使等(しら)延遅(えんち)して既(すで)に時宜(しぎ)を失(うしな)ひ。将軍等(せうぐんら)発起(はつき)して
  久(ひさ)しく日月(じつげつ)を経(ふ)る。集(あつま)る所(ところ)の歩騎(ほき)数(すう)千 余人(よにん)加旃(しかのみならず)【㫋は旃の俗字】賊地(ぞくち)に入期(いるとき)上奏(じやうそう)する

  事(こと)度(たび)多(おほ)し計(はかりこと)已(おは)らば狂賊(けうぞく)平(たいらげ)殄(つく)すべし。而(しかる)に夏(なつ)は草(くさ)茂(しげ)り征討(せいとう)すべからず
  といひ冬(ふゆ)は雪(ゆき)深(ふか)く誅伐(ちうばつ)しがたしといふ。然(しから)ば則(すなは)ち何(いづれ)の日か賊(ぞく)を誅(ちう)し国(くに)を復(ふく)せん
  方(まさ)に将軍等(せうぐんら)賊(ぞく)の為(ため)に欺(あざむ)かれ緩怠(くわんたい)して此(この)逗留(とうりう)を致(いた)す。人馬(じんば)痩(やせ)て何(なに)を
  以(もつて)か敵(てき)に対(たい)せん。良将(りようせう)の策(はかりこと)豈(あに)如此(かくのごとく)ならんや。宜(よろし)く教喩(きやうゆ)を加(くは)へ意(こゝろ)を征討(せいとう)
  に存(そん)せよ若(もし)今月(こんげつ)を以(もつ)て賊徒(ぞくと)を殺(ころし)尽(つく)す事 能(あたは)ずんば退(しりぞい)て多賀(たが)玉造(たまつくり)の
  要害(ようがい)に篭(こも)り能(よく)防禦(ほうぎよ)を加(くは)へ兼(かね)て戦術(せんじゆつ)を練(ねる)べしと云々
勅使(ちよくし)勅書(ちよくしよ)を読終(よみをはり)ければ。継縄(つぐなは)以下(いげ)深(ふか)く愧(はぢ)恐(おそ)れ詔命(みことのり)畏(かしこま)り奉(たてまつ)り候 此(この)上は軍略(ぐんりやく)を
定(さだ)め不日(ふじつ)に賊徒(ぞくと)を征伐(せいばつ)し勝軍(かちいくさ)を奏(そう)し奉るべく候 間(あいだ)此旨(このむね)御 皈洛(きらく)の上(うへ)回奏(くわいそう)なし給へ
と申されければ勅使(ちよくし)承諾(せうだく)し。玉造(たまつくり)を立(たつ)て都(みやこ)へぞ上(のぼ)られける。斯(かく)て継縄(つぐなは)小黒麻呂(をぐろまろ)と軍(ぐん)
議(ぎ)を定(さだ)め。近日(きんじつ)出陣(しゆつぢん)すべしとて其(その)手賦(てくばり)をなしけるに。忽(たちま)ち不時(ふじ)の故障(こしやう)出来(しゆつらい)しける
其(その)根元(こんげん)を尋(たづぬ)るに。彼(かの)賊首(ぞくしゆ)安達(あだち)八郎。継縄(つぐなは)に奉公(はうこう)して初(はじめ)の程(ほど)は身(み)を謙(へりくだ)り詞(ことば)を

卑(いやし)うして諸事(しよじ)慎(つゝしみ)がちに勤(つと)めければ。継縄(つぐなは)を首(はじめ)とし諸士(しよし)も是(これ)を誉(ほめ)けるにその
頃(ころ)継縄(つぐなは)の武庫(ぶこ)に蔵(おさめ)たる金造(こがねづくり)の太刀(たち)并(ならび)に秘蔵(ひさう)の甲冑(かつちう)等(とう)紛失(ふんじつ)しけるにぞ。勤(きん)
番(ばん)の者(もの)大いに駭(おどろ)き主君(しゆくん)へ斯(かく)と訟(うつた)へければ。継縄(つぐなは)其(その)怠(おこた)りを叱り(しかり)こらし。偖(さて)言(いひ)けるは是(これ)外(そと)
より賊(ぞく)の窃入(しのびいつ)て盗取(ぬすみとり)しにはあらざるべし。予(よ)が麾下(はたした)の者(もの)の所為(しわざ)に疑(うたが)ひなし内々(ない〳〵)に穿(せん)
鑿(さく)すべしと命(めい)し。又 国岳源吾(くにおかげんご)に内穿鑿(ないぎんみ)の事(こと)を命(めい)じける。依(よつ)て源吾(げんご)種々(さま〴〵)手(て)を
廻(まは)して其(その)盗(ぬすみ)し者を穿鑿(ぎんみ)すれども。誰(た)が所為(しわざ)とも知(しれ)ざりけり。然(しかる)に安達(あだち)八郎が家(け)
人(にん)一日(あるひ)大いに酒(さけ)を過(すご)し醉狂(すいきやう)して不法(ふほう)の義(ぎ)をなしけるゆへ。八郎大いに怒(いか)り散々(さん〴〵)に打(うち)
懲(こら)し衣服(いふく)を剥(はぎ)赤裸(あかはだか)にして白昼(はくちう)に追出(おひいだ)しけり。其者(そのもの)大いに怨(うら)み。其侭(そのまゝ)国岳源吾(くにおかげんご)
が許(もと)へいたり。内々(ない〳〵)申入たき事の候と言(いひ)けるにより源吾(げんご)立出(たちいで)て見れば。下郎(けらう)と覚(おぼ)しき者
髪(かみ)を乱(みだ)し赤裸(あかはだか)にて肩背(かたせ)血(ち)ばしり撃痕(うちきず)ありければ甚(はなは)だ訝(いぶか)り子細(しさい)を問(とふ)に。顕(あらは)には
申がたし密(ひそか)に申上べしと言(いふ)にぞ弥(いよ〳〵)異(あやし)み人を払(はら)ひて何事(なにごと)にやと問(とひ)ければ其者(そのもの)声(こゑ)を低(ひそめ)

先達(さきだつ)て紛失(ふんじつ)いたせし御 太刀(たち)甲冑(よろひかぶと)等(とう)は安達(あだち)八郎が盗取(ぬすみとつ)て候なり。此義(このぎ)我(われ)より外(ほか)に
知者(しるもの)なし子細(しさい)有(あつ)て訴人(そにん)仕(つかまつ)るなりと言(いひ)けるにぞ。源吾(げんご)駭(おどろ)き先(まづ)其者(そのもの)を留置(とめおき)急(いそ)ぎ
継縄(つぐなは)の前(まへ)へ出(いで)て右(みぎ)訴人(そにん)の言(いひ)し趣(おもむき)き【衍】を訟(うつた)へければ。急(いそ)ぎ其者(そのもの)を呼寄(よびよせ)よとて召出(めしいだ)し
継縄(つぐなは)自(みづか)ら訴人(そにん)に向(むか)ひ。你(なんじ)は何者(なにもの)にて八郎が武器(ぶき)を盗(ぬすみ)しといふや。其(その)証拠(しやうこ)ばしあり
やと尋(たづね)られければ。彼者(かのもの)答(こたへ)て。小吏(やつかれ)は安達(あだち)八郎が手(て)の者(もの)に候 彼(かの)八郎 御内人(みうちびと)に召抱(めしかゝ)へ
られ表(おもて)は忠実(ちうじつ)の体(てい)に見せ候へども内心(ないしん)は尚(なを)以前(いぜん)の賊情(ぬすみごゝろ)止(やま)ず且(かつ)強酒(がうしゆ)美食(びしよく)を好(このみ)候ゆへ
御 扶知方(ふちかた)にては雑費(ざつひ)足(たら)ず。さるゆへ忍術(にんじゆつ)を以(もつ)て武庫(ぶぐぐら)へ窃入(しのびいり)太刀(たち)武具(ぐそく)等(とう)を盗(ぬす)み取(とり)敵(てき)
方(がた)の者(もの)に売渡(うりわた)し候を小吏(やつかれ)よく見届(みとゞけ)おき候と申ける。継縄(つぐなは)誠(まこと)しからず思(おもへ)ども。斯(かく)慥(たしか)に申
上はとて先(まづ)訴人(そにん)は物蔭(ものかげ)に忍(しのば)せおき。安達(あだち)が方(かた)へ使(つかひ)を立(たて)。軍務(ぐんむ)に就(つい)て急(きう)に商議(しやうぎ)すべ
き事(こと)あり只今(だたいま)【濁点の位置誤記】来(きた)るべしと言(いは)せられければ。八郎 承(うけたま)はり候とて即剋(そくこく)【尅は俗字】使者(ししや)と同道(どう〴〵)し。大(たい)
将(せう)の陣(ぢん)へぞ参(まい)りける。継縄(つぐなは)安達(あだち)に向(むか)ひ。予(よ)が武庫(ぶこ)へ忍入(しのびいり)秘蔵(ひさう)の太刀(たち)甲冑(かつちう)を盗取(ぬすみとり)

しは你(なんじ)なりと慥(たしか)なる訴人(そにん)あり。你(なんじ)身(み)に覚(おぼへ)ありやと糺問(きうもん)せられければ。八郎 少(すこ)しも動(どふ)ずる色(いろ)な
く。是(こ)は思(おもひ)もよらぬ御掟(ごでう)かな。某(それがし)旧(もと)は盗賊(とうぞく)の業(わざ)をなし候へども。観音寺(くわんおんじ)の長老(てうらう)の教化(きやうけ)に
預(あづか)り先非(せんひ)を改(あらた)め君(きみ)に御 奉公(はうこう)いたし。過分(くわぶん)の御扶知(ごふち)を頂戴(てうだい)仕(つかまつ)り候へば。何(なん)の不足(ふそく)有(あつ)てか
君(きみ)の御秘蔵(ごひさう)の武器(ぶき)を盗(ぬす)み候べき。もし財宝(ざいほう)を得(え)んと欲(ほつ)し候はゞ。富有(ふゆう)の民家(みんか)へ忍(しの)び
入て思(おも)ふ侭(まゝ)に盗取(ぬすみとら)ん事いと易(やす)く候へども一旦(いつたん)非(ひ)を改(あらため)候上は。偸盗(ちうとう)の業(わざ)は敢(あへ)て仕(つかまつ)らず候
と明白(めいはく)に陳謝(いひひらき)しけるにぞ。継縄(つぐなは)さも有(ある)べしと思(おも)はれけれども。彼(かの)訴人(そにん)が申 所(ところ)も拠(よりところ)なきに
あらずとて。八郎を留置(とめおき)数人(すにん)の武士(ぶし)を八郎が部家(へや)へ遣(つかは)し。器物(きぶつ)どもを尽(こと〴〵)く捜(さが)し撿(あらた)
めさせしむるに。果(はた)して冑(かぶと)を裹(つゝみ)し絹(きぬ)太刀(たち)の袋(ふくろ)など有(あり)けるゆへ。即(すなは)ち取(とつ)てかへり継縄(つぐなは)に呈(てい)
しける継縄(つぐなは)駭(おどろ)き斯(かく)ては訴人(そにん)の申 如(ごと)く八郎が盗取(ぬすみとり)しに疑(うたがひ)なしとて。帷幕(いばく)の蔭(かげ)に力士(りきし)。
を隠(かく)し置(おき)偖(さて)安達(あだち)を呼出(よびいだ)し。右の証迹(せうぜき)を出(いた)して詰問(きつもん)せられければ。八郎大いに駭(おどろ)きし
体(てい)にて赤面(せきめん)し。いふ詞(ことば)もなくさし免首(うつむき)けるにぞ。継縄(つぐなは)扇(あふぎ)を投(なげ)て相図(あひづ)をなしけるに。幕(まく)の

【両丁挿絵 右丁の囲み文字】
安達八郎(あだちはちらう)忍(にん)
術(じゆつ)を以(もつ)て牢(らう)
獄(ごく)を破(やぶ)り
  却(かへつ)て敵(てき)に
   降参(かうさん)す

蔭(かげ)より十余人の力士(りきし)顕(あらは)れ出(いで)。八郎を捕(とり)て伏(ふせ)高手(たかて)にぞ縛(しば)りける。継縄(つぐなは)怒(いかつ)て八郎を礑(はた)【口+當は誤記】と
睨(にら)みやおれ八郎。你(なんじ)先非(せんひ)を改(あらた)めしといふを以(もつ)て予(よ)が家人(けにん)に召抱(めしかゝへ)いまだ寸功(すんかう)もなきに過(くわ)
分(ぶん)の扶知(ふち)を与(あた)へしに其(その)恩義(おんぎ)をも不顧(かへりみず)予(よ)が重器(ちようき)を偸取(ぬすみとつ)て賊軍(ぞくぐん)の手(て)へ売渡(うりわた)し剰(あまつ)
さへ横舌(わうぜつ)を翻(ひるがへ)して予(われ)を欺(あざむか)んとする条(でう)言語道断(ごんごどうだん)の曲者(くせもの)なり。今 此(この)証拠(しやこ)を見(み)ても尚(なを)
陳謝(ちんしや)の詞(ことば)ありやと。詈(のゝし)り有合(ありあふ)弓杖(ゆんづえ)を把(とつ)て面部(めんぶ)肩背(かたせ)の分(わか)ちなく。力(ちから)に任(まか)して散々(さん〴〵)に
撃(うち)ければ。忽(たちま)ち小鬢(こびん)の上 裂(さけ)て鮮血(せんけつ)迸(ほどばし)り流(なが)れける。継縄(つぐなは)尚(なを)も勃怒(いきどふり)止(やま)ず。渠奴(しやつ)今(いま)
誅戮(ちうりく)すべきなれども。近日(きんじつ)賊徒(ぞくと)征討(せいとう)の出陣(しゆつぢん)すべければ。其時(そのとき)軍神(ぐんじん)の血祭(ちまつり)に首(かうべ)を刎(はぬ)べし
それ迄(まで)は獄屋(ごくや)へ繋(つな)ぎ置(おき)厳(きびし)く番(ばん)を付(つけ)て守(まもら)しめよと命(めい)ぜられければ。力士們(りきしら)命(めい)を領(れう)し
安達(あだち)を曳立(ひつたて)て牢獄(ろうごく)へ入(いれ)おき。両(りよう)三人の番(ばん)を付(つけ)てぞ守(まも)らせける。安達(あだち)八郎は元来(もとより)忍術(にんじゆつ)を
熟煉(じゆくれん)しけるゆへ。其夜(そのよ)丑満頃(うしみつごろ)幻術(げんじゆつ)を行(おこな)ひて番卒(ばんそつ)を悉(こと〴〵)く眠(ねむ)らせ牢(ろう)を押破(おしやぶ)り跡(あと)
暗(くらま)して逃失(にげうせ)けり。夜明(よあけ)て番卒(ばんそつ)ども眠(ねむり)を覚(さま)し獄中(ごくちう)を見れば。格子(かうし)破(やぶ)れ八郎は早(はや)

抜出(ぬけいで)しと覚(おぼ)しく影(かげ)だも見えざれば大いに駭(おどろ)き。大将(たいせう)へ斯(かく)と訴(うつたへ)ければ。継縄(つぐなは)大いに怒(いか)り。疾(とく)に
も誅戮(ちうりく)すへかりし奴(やつ)を。手延(てのび)にして逃失(にげうせ)させしぞ安(やす)からね。此上(このうへ)は渠(きやつ)が老母(らうぼ)を搦捕(からめとつ)て
来(きた)れよとて武士(ぶし)数人(すにん)遣(つかは)されけるに。早(はや)老母(らうぼ)も逃退(にげのき)て行方(ゆきがた)知(しれ)ざるゆへ。手(て)を空(むなし)うして馳(はせ)
かへり其由(そのよし)言上(ごんぜう)しける。継縄(つぐなは)倍(ます〳〵)怒(いか)り。安達(あだち)八郎を生捕(いけどる)か又は討取(うちとつ)て首(くび)をさし出(いだ)す者(もの)
には重(おも)く賞金(ほうび)を与(あた)ふべしと高札(かうさつ)に記(しる)して所々(ところ〴〵)に立 厳(きびし)く其(その)所在(ありか)を穿鑿(ぎんみ)せられ
けり。却説(さてまた)安達(あだち)八郎は。獄屋(ごくや)を破(やぶり)抜出(ぬけいで)て。其夜(そのよ)老母(らうぼ)を將(つれ)て立退(たちのき)母(はゝ)を知音(ちいん)の者(もの)に
預(あづ)けおき己(おのれ)は伊治呰麻呂(いちのしまろ)が柵(さく)へいたり対面(たいめん)を乞(こひ)て曰(いはく)。某(それがし)は安達八郎と呼(よば)るゝ者(もの)にて
候が子細(しさい)有(あつ)て京方の大将(たいせう)継縄(つぐなは)が招(まね)きに応(おふ)じ。新(あらた)に其 麾(はた)下に属(ぞく)し候ところ。此頃(このごろ)武(ぶぐ)
庫(ぐら)の太刀 甲冑(かつちう)等(とう)紛失(ふんじつ)せしを讒者(ざんしや)の口にかけられ。継縄(つぐなは)不明(ふめい)にて理不尽(りふじん)に某(それがし)が盗(ぬすみ)取し
に定(さだ)め。御覧(ごらん)の如(ごと)く面上(めんぜう)に疵(きず)を負(おは)すまで打擲(てうちやく)し。已(すで)に獄(ごく)に下し斬罪(ざんざい)せんとせしを
忍術(にんじゆつ)を以(もつ)て牢(ろう)を抜出(ぬけいで)。継縄(つぐなは)を討(うつ)て無念(むねん)を晴(はら)さんと思(おも)ひ候へども障(さはり)有(あつ)て本意(ほんい)を

遂(とげ)ず所詮(しよせん)自力(じりき)にては討(うち)がたければ御 手(て)に加(くわ)はり近日(きんじつ)京軍(きやうぐん)の押寄(おしよせ)候はんとき魁(さきがけ)して
継縄(つぐなは)を討(うち)鬱憤(うつふん)【欝は俗字】を散(さん)じて推参(すいさん)いたし候なり。是(これ)まで度々(どゝ)の御 招(まね)きに応(おふ)ぜざる
罪(つみ)を御 赦免(しやめん)有(あつ)て歩軍(ほぐん)の末(すへ)に加(くは)へ玉はらば犬馬(けんば)の労(らう)を竭(つく)し忠戦(ちうせん)を励(はげ)むべく候
と詞(ことば)を卑(さげ)て頼(たの)みければ。呰麻呂(しまろ)は片腕(かたうで)と頼(たのみ)し金窪兵太(かなくぼひやうだ)は矢痕(やきず)のために死亡(しぼう)し
胆沢悪(いざはあく)太郎は此頃(このごろ)瘧疾(ぎやくしつ)にて引籠(ひきこもり)けるゆへ。力(ちから)となるべき勇士(ゆうし)もがなと思(おも)ふ折(をり)
しも多年(たねん)懇望(こんまう)せし安達(あだち)八郎 自身(みづから)幕下(ばつか)に属(ぞく)せんと望(のぞみ)けるゆへ大いに悦(よろこ)び一 議(ぎ)に
も及(およば)ず降(かう)を容(ゆる)し酒宴(しゆえん)を催(もよほ)して重(おも)く管待(もてな)【注】し。偖(さて)京軍(きやうぐん)の強弱(かうじやく)を問(とひ)ければ安達(あだち)
答(こたへ)て京軍(きやうぐん)は昨年(さくねん)阿隈川原(あふくまがはら)の一 戦(せん)に打負(うちまけ)多(おほ)く兵(へい)を折(くじい)て御 勢(せい)の武勇(ぶゆう)に怖(おそ)れ
再(ふたゝ)び戦(たゝか)ふ義(ぎ)勢(せい)なく。其上(そのうへ)長陣(てうぢん)に退屈(たいくつ)し只(たゞ)帰京(ききやう)せん事をのみ思(おも)ひて戦場(せんでう)へ向(むかは)ん
事を望(のぞ)む者十が二もなく候。然(され)ども当年(とうねん)都(みやこ)より加勢(かせい)として藤原小黒麻呂(ふぢはらのをぐろまろ)三千 騎(ぎ)
を将(ひい)て馳(はせ)加(くは)はり候へば。近々(きん〳〵)一軍(ひといくさ)せんと押寄(おしよせ)候べし。然(しかれ)ども大将(たいせう)は皆(みな)公家(くげ)長袖(ながそで)にて

【注 「竹冠+宦」は官と宦の混用、「侍」は「待」の誤記と思われる。】

兵学(へいがく)は机(つくえ)の上(うへ)にて閲(けみ)せしのみ戦場(せんぢよう)の場数(ばかづ)を踏(ふみ)しにもあらず。軍勢(ぐんぜい)とても普代(ふだい)恩(おん)
顧(こ)の者は鮮(すくな)く多(おほく)く【語尾の衍】は公(おゝやけ)の募(つのり)に応(おふ)じし集勢(あつまりぜい)にて。命(いのち)を拋(なげう)ち敵(てき)に向(むかは)んとする程(ほど)の
士卒(しそつ)は稀(まれ)に候しかも地理(ちのり)を知(しら)ざれば。奇兵(きへい)を以(もつ)て是(これ)を伐(うた)んに勝(かた)ずといふ事 有(ある)べから
ずと。弁舌(べんぜつ)淀(よど)みなく説(とき)ければ。呰麻呂(しまろ)深(ふか)く悦(よろこ)び再(また)難得(なきもの)と思(おも)ひ当座(とうざ)の引出物(ひきでもの)と
して太刀(たち)甲冑(よろひかぶと)引馬(ひきむま)等(とう)を与(あた)へ。是(これ)より軍議(ぐんぎ)の片相手(かたあひて)とし。万事(ばんじ)安達(あだち)と商議(しやうぎ)しをぞ
なしにける。宦軍(くわんぐん)の大将(たいせう)継縄(つぐなは)小黒丸(をぐろまる)は。賊徒(ぞくと)征伐(せいばつ)の軍議(ぐんぎ)を定(さだ)め。今度(このたび)は大手(おほて)搦手(からめて)
両方(りようはう)より攻立(せめたて)一挙(いつきよ)に揉破(もみやぶら)んと。大手(おほて)は大伴益立(おほともましだち)を先陣(せんぢん)とし小黒丸(をぐろまろ)後陣(ごぢん)となり総(そう)
勢(ぜい)五千余 騎(き)。搦手(からめて)へは紀古佐美(きのこさみ)を先陣(せんぢん)とし。継縄(つぐなは)後陣(ごぢん)となり。同(おな)じく総勢(そうぜい)五千余
騎(き)天応(てんおふ)元年(ぐわんねん)九月十二日 未明(みめい)より玉造城(たまつくりじやう)を打立(うちたち)呰麻呂(しまろ)が柵(さく)へ押寄(おしよせ)けり。呰麻呂(しまろ)
も疾(とく)より京軍(きやうぐん)の軍立(いくさだて)を知(しり)ければ。二千五百余人を大手(おほて)搦手(からめて)に分(わけ)大手(おほて)の防(ふせぎ)は大将(たいせう)呰麻(しま)
呂(ろ)栗原源(くりばらげん)三一千三百余人にて固(かた)め。搦手(からめて)は安達(あだち)八郎 松前荒鰐(まつまへあらはに)一千二百余人にて

守(まも)りけり。素(もとよ)り切所(ぜつしよ)【注】の山上(さんじやう)に構(かまへ)し柵(さく)にて左右(さいふ)は老樹(らうじゆ)鬱茂(うつも)【欝は俗字】として狐免(こと)も駈(かけ)りがたく大手(おほて)
搦手(からめて)には櫓(やぐら)高(たか)く建(たて)ならべ大木(たいぼく)大石(たいせき)を積(つみ)貯(たくは)へて旗(はた)の手(て)を風(かぜ)に靡(なびか)し究竟(くつけう)の射人(いて)鏃(やじり)
を揃(そろ)へ敵(てき)寄来(よせきた)らば微塵(みぢん)にせんと待(まち)かけたり。去程(さるほど)に宦軍(くわんぐん)は大手(おほて)搦手(からめて)一斉(いつせい)に金鼓(きんこ)【皷は俗字】
を鳴(なら)し喊(とき)を発(つくり)曵々(ゑい〳〵)声(ごゑ)して攻登(せめのぼ)る。先(まづ)大手(おほて)の坂手(さかて)よりは大伴益立(おほともましだち)が先駈(さきて)五百人
持楯(もちだて)を被(かづ)き連(つれ)て柵際(さくぎは)近(ちか)く攻寄(せめよせ)けるに。賊軍(ぞくぐん)も鬨(とき)を発(つくり)矢(や)を射下(いおろ)す事 雨(あめ)の如(ごと)
くまた大木(たいぼく)大石(たいせき)を鉤瓶(つるべ)【鈎は俗字】かけて投落(なげおと)しければ。寄手(よせて)是(これ)に辟易(へきえき)し人(ひと)頽(なだれ)して引退(ひきしりぞ)く。時(とき)
に柵門(さくもん)をさつと開(ひら)き栗原源三(くりはらげんざう)三百 騎(き)を卒(そつ)して撃(うつ)て出(いで)噇(どう)と喚(おめい)て打(うつ)て下(くだ)る
にぞ。大伴(おほとも)が勢(せい)弥(いよ)崩立(くずれたつ)て坂下(さかした)まで逃下(にげくだ)りける。賊兵(ぞくへい)はしたゝか敵(てき)を伐(うち)悩(なやま)し手軽(てがる)
く勢(せい)を引上(ひきあげ)て柵中(さくちう)へ引入(ひきいり)けり。大伴益立(おほともましだち)大いに怒(いか)り小勢(こぜい)の敵(てき)に後(うしろ)を見する事
や有(ある)と新兵(あらて)を入替(いれかへ)て攻登(せめのぼ)りけれども賊軍(ぞくぐん)木石(ぼくせき)を投下(なげおろ)し矢(や)を茂(しげ)く射下(いくだ)し
寄兵(よせて)痓(ひる)めば伐(うつ)て出(いで)嵩(かさ)より捲(まく)り落(おと)しけるゆへ京軍(きやうぐん)兵(へい)を折(くじ)くのみにて何(なん)の

【注 字面の訓みは「せっしょ」。切所は地勢がけわしい所に設けた砦のことなので、高い崖などによって道の絶えたところを言う絶所(ぜつしょ)と懸けた表現か。】

仕出(しいだ)したる事もなく攻(せめ)■(あぐ)【「䜑」或は「𦗂ヵ」 注】んで見えたりけり。偖(さて)また搦手(からめて)へ向(むかひ)し古佐美(こさみ)継縄(つぐなは)が
勢(せい)も。五百 騎(き)七百 騎(き)番手(ばんて)を定(さだ)め喊(とき)を発(つくつ)て攻寄(せめよせ)けれども。安達(あだち)八郎 松前(まつまへ)の
荒鰐(あらわに)木石(ぼくせき)を投(なげ)矢(や)を射下(いおろ)して敵(てき)を防(ふせ)ぐ事 大手(おほて)と等(ひとし)く寄兵(よせて)疲(つか)るれば伐(うつ)て出(いで)
て駈落(かけおと)し。敵(てき)退(しりぞ)けば長追(ながおひ)せず柵(さく)へ引(ひき)とり城門(きど)を固(かため)て守(まも)りけるゆへ。此手(このて)も京軍(きやうぐん)
手負(ておひ)死亡(しぼう)の者のみ多(おほ)く敢(あへ)て攻入(せめいる)事 能(あた)はず猶予(ためらふ)て在(あり)けるに申剋(さるのこく)過(すぐ)る頃(ころ)
忽(たちま)ち呰麻呂(しまろ)が柵(さく)の内(うち)に黒煙(くろけむ)り蝸(うづ)巻上(まきあが)り火(ひ)の手(て)起(おこ)りて柵中(さくちう)に騒動(そうどふ)の声(こゑ)大(おほい)
に聞(きこ)えけるにぞ。搦手(からめて)の大将(たいしやう)継縄(つぐなは)大 音(おん)に須波(すは)攻入(せめいれ)よと下知(げぢ)しければ一千五百 騎(き)の
寄兵(よせて)一斉(いつせい)に喊(とき)を発(つくつ)て攻登(せめのぼる)に賊兵(ぞくへい)防(ふせが)んともせず却(かへつ)て城門(きど)を開(ひら)きけるゆへ
官軍(くわんぐん)潮(うしほ)の湧(わく)が如(ごと)く攻込(せめこみ)ける。賊軍(ぞくぐん)は俄(にはか)の出火(しゆつくわ)に駭(おどろ)き防(ふせ)ぎ消(けさ)んと騒(さは)ぐ内(うち)に早(はや)
敵勢(てきせい)攻入(せめいる)にぞ倍(ます〳〵)駭(おどろ)き。偖(さて)は反忠(かへりちう)の者 有(あつ)て敵(てき)を引入(ひきいれ)たるぞと騒立(さはぎたち)周章(しうせう)転倒(てんどう)
して敵(てき)を防(ふせが)んとする者なく煙(けむり)に噦(むせ)火(ひ)に燋(やか)れて狼狽(うろたへ)惑(まどふ)を京軍(きやうぐん)撫切(なできり)に切(きつ)て

【注 国立国会図書館デジタルコレクション『扶桑皇統記』版本は「捲」と記す。】

回(まは)る事 草(くさ)を薙(なぐ)が如([ご]と)し。大手(おほて)の寄兵(よせて)益立(ましだち)小黒丸(をくろまる)も敵柵(てきさく)の火(ひ)の手(て)を見て敵方(てきがた)に
内変(ないへん)あるを察(さつ)し同(おな)じく一千五百 騎(き)を進(すゝ)めて攻登(せめのぼ)り。城門(きど)を打破(うちやぶつ)て大浪(おほなみ)のごとく
 込入(こみいり)けり。元来(ぐわんらい)此日(このひ)の反忠(かへりちう)は別人(べつしん)ならず。安達(あだち)八郎が反間(はんかん)の謀計(はかりこと)にて。継縄(つぐなは)と示合(しめしあは)
し賊情(ぞくじやう)の事を以(もつ)て継縄(つぐなは)の咎(とがめ)を受(うけ)。牢獄(ろうごく)を抜出(ぬけいで)て呰麻呂(しまろ)に降参(かうさん)し。よき時(じ)
分(ぶん)に陣小屋(ぢんごや)に火(ひ)をかけ寄兵(よせて)を引入(ひきいれ)けるを。京軍(きやうぐん)といへども余人(よじん)は更(さら)に知(しら)ざりけり去(さる)
程(ほど)に賊兵(ぞくへい)は前後(ぜんご)より攻入(せめいり)し敵(てき)に途(ど)を失(うしな)ひ素(もとよ)り欲心(よくしん)の為(ため)に一 味(み)せし野武士(のぶし)
山賊原(さんぞくばら)なれば義(ぎ)を知(しり)恥(はぢ)を知(しつ)たる者は一人もなく。途(みち)を奪(うばふ)て逃(にげ)んとして討(うた)れ或(あるひ)
は手(て)を束(つがね)て降参(かうさん)するも有(あり)又は生捕(いけどら)るゝも多(おほ)く辛(からう)して柵(さく)を逃下(にげくだり)し者(もの)も梺(ふもと)に屯(たむろ)
せし官軍(くわんぐん)に鈍々(おめ〳〵)と擒(とりこ)にせられける。賊将(ぞくせう)呰麻呂(しまろ)は味方(みかた)の内変(ないへん)を見て大いに怒(いか)り
大太刀(おほだち)抜插(ぬきかざ)し馬(むま)を跳(おどら)して群(むらが)る京軍(きやうぐん)を縦横(じうわう)無尽(むじん)に斬(きつ)て回(まは)り敵(てき)を斬事(きること)数(かづ)を
しらず。果(はて)は太刀(たち)も刀(かたな)も撃折(うちをり)大手(おほで)を広(ひろ)げて近付者(ちかづくもの)を掻抓(かいつかん)で人 礫(つぶて)に打荒(うちあれ)に

あれて悪戦(あくせん)しけるが已(すで)に馬(むま)も射(い)すくめられて斃(たをれ)ければ跣立(かちだち)になり猶も敵(てき)中を
駈回(かけまは)りて士卒(しそつ)を打悩(うちなやま)し其身(そのみ)も矢疵(やぎす)【ママ 濁点の位置の誤記】太刀疵(たちきず)数多(あまた)受(うけ)今は是までなりと鎧(よろひ)を
解(とい)て腹(はら)十 文字(もんじ)に掻切(かききり)けるところへ。安達(あだち)八郎 駈来(かけきたつ)て終(つい)に首(くび)をぞ揚(あげ)にける此余
栗原源三(くりはらげんさう)松前荒鰐(まつまへあらはに)以下(いげ)の宗徒(むねと)の者も乱軍(らんぐん)の中に戦死(うちじに)し。呰麻呂(しまろ)が妻妾(さいせう)女(をんな)
童(わらべ)は火中(くわちう)に投(とう)じ又は刃(やいば)の下(した)に命(いのち)を落(おと)し。士卒等(しそつら)も或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は虜(とりこ)となり手(て)に
立(たつ)敵(てき)一人もなくなりければ。諸勢(しよぜい)に火(ひ)を防(ふせ)ぎ消(けさ)せ勝喊(かちどき)を揚(あげ)討(うち)とりし首(くび)を点検(てんけん)
するに一千二百 余級(よきう)に及(および)虜(いけどり)九百十 余人(よにん)焼死(せうし)の者は数(かづ)しらず。さしも去年(きよねん)より
官軍(くわんぐん)を悩(なやま)し威(い)を国中(こくちう)に奮(ふるひ)し呰麻呂(しまろ)も運(うん)尽(つき)ぬれば戦場(せんぢよう)の露(つゆ)と消(きえ)堅固(けんご)に
構(かまへ)し要害(ようがい)も一 時(じ)の煙(けふり)と成(なり)けるぞ哀(あはれ)なりける。是(これ)偏(ひとへ)に継縄(つぐなは)の智謀(ちばう)と安達(あだち)
が働(はたらき)に依(よる)ところなり。斯(かく)て兇敵(けうてき)亡(ほろ)びしかば。継縄(つぐなは)小黒丸(をくろまる)軍卒(ぐんそつ)を分(わけ)て所々(しよ〳〵)に逃隠(にげかくれ)
し残党(ざんとう)を捜(さが)し出(いだ)して搦(からめ)捕(とら)せ。罪(つみ)の軽重(けいぢう)に依(よつ)て死刑(しけい)または追放(つひほう)し。賊将(ぞくせう)呰麻(しま)

呂(ろ)が股肱(こかう)と頼(たのみ)し胆沢悪(いざはあく)太郎をも搦捕(からめとつ)て首(くび)を刎(はね)宗徒(むねと)の者の首(くび)を梟木(けうぼく)に
かけ一 国(こく)平定(へいでう)せしかば。十月 上旬(じやうじゆん)征東使(せいとうし)の面々(めん〳〵)諸軍(しよぐん)を率(ひい)て都(みやこ)へ凱陣(かいぢん)せられけり
    東征使(とうせいし)凱陣(かいぢん)賞罰(せうばつ)  不破内親王(ふはのないしんわう)母子(ぼし)流罪(るざい)条
征東大使(せいとうたいし)藤原継縄(ふぢはらのつぐなは)同 藤原小黒丸(ふぢはらのをくろままろ)其余(そのよ)の諸将(しよせう)路次(ろし)障(さはり)なく帰京(ききやう)して
参内(さんだい)し賊徒(ぞくと)を伐亡(うちほろぼ)し奥州(おうしう)平均(へいきん)せし趣(おもむ)きを奏聞(そうもん)しければ桓武天皇(くわんむてんわう)大いに叡(ゑい)
感(かん)在(ましま)し継縄(つぐなは)小黒丸(をぐろまろ)古佐美(こさみ)等(とう)に忠賞(ちうせう)を賜(たま)はり。安達(あだち)八郎にも奥州(おうしう)の中(うち)にて
菜地(さいち)を給(たま)はり。今度(こんど)忠戦(ちうせん)の功(かう)を賞(せう)し給ふ。独(ひとり)大伴益立(おほともましだち)は軍戦(ぐんせん)の期(き)を愆(あやま)【𠍴は俗字】りて
寸功(すんかう)なきを咎(とがめ)給ひ其(その)官位(くわんゐ)を削(けづ)り給ひける。去程(さるぼ[と])に奥州(おうしう)の国乱(こくらん)平定(へいでう)し諸(しよ)
人(にん)心を安(やす)んじけるに。又(また)都(みやこ)に不時(ふじ)の珍事(ちんじ)出来(しゆつらい)し。延暦(ゑんりやく)元年(ぐわんねん)《割書:天 応(おう)二|年改元》壬戌(みづのへいぬ)閏(うる)正月に
因幡守(いなばのかみ)氷上川継(ひのかみのかはつぐ)陰謀(いんばう)を企(くはだて)其義(そのぎ)露顕(ろけん)し召捕(めしとら)れて遠島(ゑんとう)へ謫(てき)【「たく」とあるところ】せられけり
其(その)旨趣(ししゆ)を尋(たづぬ)るに。氷上川継(ひのかみのかはつぐ)といふは天武帝(てんむてい)の曽孫(ひまご)に当(あた)れり。天武帝(てんむてい)の皇(み)

子(こ)に新田部皇子(にいたべのわうじ)と申あり。其(その)御 子(こ)を塩焼皇子(しほやきのわうじ)と申せしが。去(さん)ぬる天平宝字(てんへいほうじ)八
年 恵美押勝(ゑみのおしかつ)謀叛(むほん)して。塩焼皇子(しほやきのわうじ)を取立(とりたて)て新帝(しんてい)と▢(かしづ)【注】き。後楯(うしろだて)となして軍(ぐん)
勢(ぜい)を駆(かり)催(もよほ)しけれども。遂(つひ)に合戦(かせん)に打負(うちまけ)押勝(おしかつ)討(うた)れけるゆへ。塩焼皇子(しほやきのわうじ)も連(まき)
累(ぞへ)の罪(つみ)にて誅(ちう)せられ給へり。其砌(そのみぎ)り塩焼皇子(しほやきわうじ)の簾中(れちちう)【ママ】は称徳帝(せうとくてい)の御 妹(いもと)にて不(ふ)
破内親王(はのないしんわう)と申。其(その)御 腹(はら)に出生(しゆつせう)せしは即(すなは)ち川継(かはつぐ)なり。其節(そのせつ)はいまだ幼稚(ようち)といひ母(はゝ)は
天皇(てんわう)の御 妹(いもと)なれば。母子(ぼし)とも罪科(ざいくわ)の御 沙汰(さた)もなく。都(みやこ)を退去(たいきよ)して在(あり)けるに川継(かはつぐ)
漸(よふや)く成長(せいてう)し。其母(そのはゝ)と心を合(あは)し内々(ない〳〵)謀叛(むほん)を企(くはだて)神社(しんじや)仏閣(ぶつかく)へ暗(ひそか)に称徳帝(せうとくてい)を咒(しゆ)
咀(そ)する願文(ぐわんもん)を収(おさ)め。朝家(てうか)を乱(みだ)さんとせしに。其(その)隠謀(いんばう)露顕(あらはれ)母公(ぼこう)は押籠(おしこめ)られ
川継(かはつぐ)は土佐国(とさのくに)へ流(なが)されけり。然(しかる)に川継(かはつぐ)身(み)の非義(ひぎ)を改(あらため)んともせず。本意(ほんい)を達(たつ)せ
ざるを無念(むねん)に思(おも)ひ。あはれよき時節(じせつ)もがなと待(まち)けるに。光仁天皇(くわうにんてんわう)年号(ねんがう)改元(かいげん)に就(つい)
て天下(てんか)に大赦(だいしや)を行(おこな)ひ給ひし時(とき)。川継(かはつぐ)も流罪(るざい)恩免(おんめん)あつて都(みやこ)へ召還(めしかへ)されければ。川(かは)

【注 「𦣧」或は「冊」と思われる。『日本国語大辞典』による。】

継(つぐ)君恩(くんおん)を忝(かたしけな)しとも思(おも)はず猶(なを)も帝(みかど)を傾(かたむ)け奉り。己(おのれ)王位(わうゐ)を践(ふま)んとおぼろげならぬ
大望(たいもう)を企(くはだて)酒宴(しゆえん)遊興(ゆふけう)に托(ことよ)せて月卿雲客(げつけいうんかく)を我(わが)邸舎(やしき)へ招(まね)き。其(その)心腹(しんふく)を試(ため)して
一 味(み)荷担(かたん)させ。兼(かね)て召抱(めしかゝへ)し家人(いへのこ)に大和乙人(やまとのおとんど)とて無双(ならびなき)忍術(しのび)の名人(めいじん)あり。其者(そのもの)を
内裡(だいり)へ潜入(しのびいら)せ。軍勢(ぐんぜい)をかたらひて不意(ふい)に宮門(きうもん)押寄(おしよす)るとき。喊(とき)の声(こゑ)を相図(あひづ)に内(うち)より御(ご)
門(もん)を開(ひら)かせんとて入込(いりこま)せけり。乙人(をとんど)は忍術(にんじゆつ)の達人(たつじん)なれば。二三日 以前(いぜん)より太刀(たち)刀(かたな)を帯(はい)
て。さしも衛護(まもり)厳(きび)しき禁闕(きんけつ)へ潜入(しのびいり)けるに見咎(みとがむ)る者もなかりければ。仕(し)すましたり
と独(ひとり)咲(ゑみ)し。回廊(くわいらう)の蔭(かげ)に身(み)を潜(ひそ)めて相図(あひづ)を待(まち)けるに。天の君(きみ)を謀(はか)り奉らんとする
天 罸(ばつ)にや頻(しきり)に咳嗽(せき)出(いで)けるゆへ。強(しい)て咳(せき)を抑(おさ)へ止(とめ)んとすれども咳(せき)止(とま)らず。堪(こらへ)かねて
我(われ)しらず数声(すせい)咳嗽(しはぶき)けるにぞ。禁中(きんちう)夜回(よまは)りの衛士(ゑじ)是(これ)を聞咎(きゝとが)め。只今(たゞいま)の咳嗽(しはぶき)は正(まさ)
しく廊下(らうか)の辺(ほとり)に聞(きこ)えたり。此辺(このへん)に人の居(ゐ)るべきやうなしとて。松明(たいまつ)を揮立(ふりたて)て其辺(そのへん)を
尋(たづね)捜(さが)しけるに。果(はた)して廊下(らうか)の下(した)の隅(すみ)に怪(あやし)き人 影(かげ)見えければ。須波(すは)や曲者(くせもの)こそ

あれとて。夜回(よまは)りの武士們(ぶしら)曳出(ひきいだ)して搦捕(からめとら)んと犇(ひしめ)きける。乙人(をとんど)今は逃(のが)れぬところと心(むね)を
定(さだ)め帯(はい)たる太刀(たち)抜持(ぬきもつ)て挑(おと)り出(いで)。先(さき)に立(たつ)たる武士(ぶし)を礑(はつた)【噹は誤記】と斬(きる)。何(なに)かは以(もつ)て堪(たゆ)るべき。真(まつ)
向(かう)より切割(きりわら)れて噇(どう)ど倒(たを)れ伏(ふし)けるにぞ。是(こ)は狼藉(らうぜき)なりと残(のこ)る武士(ぶし)ども太刀(たち)抜連(ぬきつれ)
て切(きつ)てかゝる。乙人(をとんど)は死物狂(しにものぐるひ)と働(はたら)きて又一人を切仆(きりたを)し二人に手(て)を負(おは)せたり。されども己(おのれ)も
二ヶ 所(しよ)手(て)を負(おひ)て踉(よろめ)くところを。大勢(おほぜい)前後(ぜんご)より取囲(とりかこ)み。太刀(たち)を撃落(うちおと)し両脚(もろずね)を薙仆(なぎたを)
しており重(かさな)り。遂(つひ)に高手(たかて)に縛(しば)り上(あげ)。有司(ゆうし)の庁所(くじば)へ曳行(ひきゆき)有(あり)し始末(しまつ)を訟(うつた)へければ。有司(ゆうし)
駭(おどろ)き即剋(そくこく)拷(がう)【足+考は誤記ヵ】問(もん)に及(およ)びけるに。始(はじめ)の程(ほど)は左右(とかく)言紛(いひまぎら)して白状(はくでう)せざりけるが。度(ど)〱(ゝ)の呵(か)
責(しやく)の苦痛(くつう)に堪(たえ)かねて口(くち)を上(あげ)。某(それがし)誠(まこと)は氷上川継(ひのかみかはつぐ)殿(どの)に奉公(はうこう)する者にて候が。川継殿(かはつぐどの)
当今(とうぎん)を傾(かたむ)け奉らんと謀叛(むほん)を思立(おもひたゝ)れ。明(めう)十日の夜(よ)一 味(み)合体(がつたい)の人々(ひと〴〵)と多勢(たせい)にて御(ご)
所(しよ)の北門(きたもん)より襲(おそ)ひ入んとの手筈(てはづ)にて。某(それがし)は忍術(にんじゆつ)に達(たつ)して候へば。兼(かね)て御所中(ごしよちう)へ潜(しの)び入
相図(あいづ)次第(しだい)に御門(ごもん)を内(うち)より開(ひら)けよとの下知(げぢ)に従(したが)ひ。潜入(しのびいつ)て廊下(らうか)の下(した)に隠(かく)れ居(ゐ)候なり

と巧(たくみ)の次第(しだい)残(のこ)らず白状(はくでう)にぞ及(および)ける。是(これ)に依(よつ)て有司(ゆうし)具状(くちがき)を以(もつ)て右の一件(いつけん)を奏(そう)し
ければ。桓武帝(くわんむてい)甚(はな)はだ逆鱗(げきりん)在(ましま)し。先(まづ)急(きう)に四方(しはう)の禁門(きんもん)を固(かため)させ。防禦(ふせぎ)の備(そなへ)を厳重(げんぢう)
になさせ給ひ。偖(さて)何気(なにげ)なき体(てい)にて官使(くわんし)を川継(かはつぐ)の方へ遣(つかは)し給ひ。俄(にはか)に評議(ひやうぎ)すべき
事あれば疾(とく)〱(〳〵)参内(さんだい)すべしと言(いは)しめ給ふに。川継(かはつぐ)は御使(つかひ)の来(きた)りしを見て何(なに)となく心(むね)騒(さは)
ぎ。是(これ)必定(ひつでう)乙人(をとんど)が事を仕損(しそん)じ密謀(みつばう)露顕(ろけん)せしゆへ成(なる)べしと早(はや)く推察(すいさつ)し官使(くわんし)に
は領掌(れうぜう)せし旨(むね)を言(いひ)て返(かへ)し。母公(はゝ)と俱(とも)にとる物(もの)も採(とり)あへず後門(うらもん)より落(おち)行(ゆか)んとす
るに兼(かね)て朝廷(てうてい)より。自然(しぜん)川継(かはつぐ)が逃(にげ)失(うせ)んとする事もやとて。其(その)宿所(しゆくしよ)の四 方(はう)に大 勢(ぜい)の
官兵(くわんへい)を伏(ふせ)おき給ひければ。川継(かはつぐ)母子(おやこ)遂(つひ)に鈍(おめ)〱(〳〵)と虜(とりこ)となり。有司(ゆうし)の庁(てう)へぞ曳(ひか)れける
禁廷(きんてい)には乙人(をとんど)を拷(がう)【足+考は誤記ヵ】問(もん)して荷担(かたん)の輩(ともがら)を逐(ちく)一に白状(はくでう)させ。其(その)詞(ことば)に付(つい)て宇治王(うぢわう)を先(さき)
とし公家(くげ)武家(ぶけ)とも川継(かはつぐ)に合体(がつたい)せし輩(ともがら)を悉(こと〴〵)く召捕(めしとら)せ給ひ。帝(みかど)群臣(ぐんしん)を召集(めしあつめ)て
勅詔(ちよくぜう)し給ふらく。川継(かはつぐ)義(ぎ)先年(せんねん)隠謀(いんばう)を企(くはだて)事(こと)発覚(はつかく)して流刑(るけい)に行(おこな)はれしところ

先帝(せんてい)格別(かくべつ)の仁恕(じんしよ)を以(もつ)て大赦(だいしや)を行(おこな)ひ給ひし砌(みぎり)川継(かはつぐ)母子(ぼし)が罪(つみ)を赦(ゆる)して召還(めしかへ)し玉
ひしに。其(その)天恩(てんおん)を忘却(ぼうきやく)し。今般(こんはん)また隠謀(いんばう)を企(くはだて)朕(ちん)に寇(あだ)せんとせし条(でう)重々(ぢう〳〵)の罪科(ざいくは)
軽(かる)からず。急度(きつと)厳科(げんくわ)に行(おこな)ふべき者なれども。先帝(せんてい)崩御(ほうぎよ)在(ましま)しいまだ陵(みさゝき)の土(つち)乾(かはか)ず
朕(ちん)また哀戚(あいせき)に堪(たへ)ず諒闇(りようあん)に籠(こも)る折(をり)なれば死刑(しけい)の沙汰(さた)をなすに忍(しの)びず。依(よつ)て川(かは)
継(つぐ)が死罪(しざい)一 等(とう)を宥(なだ)め伊豆国(いづのくに)へ流罪(るざい)に処(しよ)すべし。其母(そのはゝ)不破内親王(ふはのないしんわう)は女の身(み)にて
一 度(ど)ならず二 度(ど)まで川継(かはつぐ)に逆意(ぎやくい)を勧(すゝ)めし条(でう)。是(これ)また重罪(ぢうざい)なれば死刑(しげい)に行(おこな)ふ
べきなれども。川継(かはつぐ)が死罪(しざい)をなだめ宥(なだむ)る上は其母(そのはゝ)も死刑(しけい)を免(ゆる)し。川継(かはつぐ)が姉妹(あねいもと)とともに
淡路国(あはぢのくに)へ配流(はいる)し。其余(そのほか)川継(かはつぐ)が隠謀(いんばう)に荷担(かたん)せし者ども罪(つみ)の軽重(けいぢう)に因(よつ)て配所(はいしよ)
の遠近(ゑんきん)を定(さだ)め流罪(るざい)に処(しよ)すべしと宣(のたま)ひければ。諸(しよ)臣下(しんが)領掌(れうぜう)し奉り。誠(まこと)に川継(かはつぐ)
母子(おやこ)が二 度(ど)の大 罪(ざい)重(おも)く刑罰(けいばつ)あるべきに。母子(おやこ)とも死罪(しざい)を宥(ゆる)し給ふ事。実(げに)有(あり)がたき
御仁政(ごじんせい)かなと感嘆(かんたん)し。川継(かはつぐ)を首(はじめ)とし一 味(み)の輩(ともがら)を皆(みな)それ〳〵に流刑(るけい)に行(おこな)ひ。彼(かの)乙人(をとんど)は

衛士(ゑじ)二人を殺害(せつがい)し其余(そのよ)の者(もの)にも手(て)を負(おは)しければとて首(くび)をぞ刎(はね)られける。噫(あゝ)愚(おろか)なる【注】
かな川継母子(かはつぐぼし)。聖王(せいわう)の御仁恩(ごじんおん)をも顧(かへりみ)ず。再度(さいど)及(およ)ばざる企(くはだて)をなし。数月(すげつ)心を竭(つく)
せし隠謀(いんばう)一時(いちじ)に露顕(ろけん)し再(ふたゝ)び配所(はいしよ)の一卒(いつそつ)となり遂(つひ)に死亡(しぼう)して汚名(おめい)を万(ばん)
代(だい)に遺(のこ)せしは。偏(ひとへ)に天命(てんめい)に逆(そむ)き明君(めいくん)を謀(はかり)奉らんとせし冥罸(みやうばつ)とぞ知(しら)れける
    宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)託宣(たくせん)并(ならびに)神伝(しんでん)  蝦蟇(かわづ)合戦(がせんの)怪異(けい)之条
延暦(えんりやく)三年 夏(なつ)五月 豊前国(ぶぜんのくに)宇佐宮(うさのみや)の社司(しやし)皇都(みやこ)へ上(のぼ)り。参内(さんだい)して奏聞(そうもん)しける
には。先頃(さいつころ)八幡宮(はちまんくう)の御 神託(しんたく)に我(われ)一切衆生(いつさいしゆぜう)の苦(くるしみ)を抜(ぬき)楽(たのしみ)を与(あたへ)んと欲(ほつ)す。今より
我名(わがな)を八幡大自在王菩薩(はちまんだいじざいわうぼさつ)と称(となへ)べし宣(のたま)ひ候。依(よつ)て願(ねがは)くは御託宣(ごたくせん)の趣(おもむ)きを
勅許(ちよくきよ)なし給(たま)はり候やう仰(あふ)ぎ願(ねが)ひ奉り候とて。奏状(そうぜう)を捧(さげ)けるにぞ。帝(みかど)叡聞(ゑいぶん)なし
玉ひ。公卿(こうけい)百官(ひやくくわん)を召(めさ)れて御 評議(ひやうぎ)の上 則(すなは)ち勅免(ちよくめん)なし給ひけり。是(これ)に因(よつ)て社司(しやし)は
帝恩(ていおん)を拝謝(はいしや)し奉り豊前(ぶぜん)へ下(くだ)りける。是(これ)より八幡武太神(はちまんぶだいじん)を改(あらた)め八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)

【注 国立国会図書館デジタルコレクション『扶桑皇統記図会』より補填。】

と称(となへ)奉る事とはなりけり。抑(そも〳〵)八幡宮(はちまんぐう)と申奉るは。人皇(にんわう)十六代の帝(みかど)応神天皇(おふじんてんわう)の御
事なり。則(すなは)ち仲哀天皇(ちうあいてんわう)第(だい)四の皇子(みこ)にて。御 母(はゝ)は神功皇后(じんぐうかうぐう)にて在(ましま)せり。皇后(かうぐう)皇子(みこ)
を孕(みごも)り給ひながら三 韓(かん)を御 征伐(せいばつ)あり。御 凱陣(かいぢん)の后(のち)庚辰(かのへたつ)の冬(ふゆ)十二月 筑紫(つくし)の
蚊田(かだ)にて平易(やす〳〵)と皇子(わうじ)を産(うま)せ給へり。其(その)生(あれ)ませし初(はじめ)より御 腕(うで)の上に完(しゝむら)生(おひ)て形(かたち)
鞆(ほんだ)のごとくなりしゆへ誉田天皇(ほんだてんわう)とも申奉りけり。是(これ)即(すなは)ち応神天皇(おふじんてんわう)にて在(ましま)せり御 治(ち)
世(せい)四十一年 宝算(ほうさん)百十一才にて庚午年(かのへむまのとし)二月十五日 大和国(やまとのくに)軽島豊明宮(かるしまとよあけのみや)にて崩御(ほうぎよ)
なし給ひ。河内国(かはちのくに)古市郡(ふるいちごほり)長野山(ながのやま)に葬(ほふむ)り奉る。其後(そのゝち)人皇(にんわう)三十代 欽明天皇(きんめいてんわう)の御宇(ぎよう)
に初(はじめ)て御廟(ごべう)を立(たて)給ふ。今の河内誉田八幡宮(かはちほんだはちまんぐう)是(これ)なり。同(おなじく)欽明天皇(きんめいてんわう)三十一年の冬(ふゆ)豊(ぶ)
前国(ぜんのくに)菱形(ひしがた)の池(いけ)の辺(ほとり)なる民家(みんか)の小児(せうに)にうつりまして神託(しんたく)ありけるは。我(われ)は是(これ)人皇(にんわう)十六代
誉田八幡丸(ほんだやはたまろ)なり。普(あまね)く諸国(しよこく)に垂跡(すいしやく)し。今また此地(このち)に住(すむ)べきなりとあり。是(これ)に依(よつ)て
右の旨(むね)を都(みやこ)へ奏聞(そうもん)に及(およ)びければ。即(すなは)ち勅使(ちよくし)を立(たて)られ豊前国(ふぜんのくに)に八幡宮(はちまんぐう)の宮社(みやゐ)を建(たて)

給ふ宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)是(これ)なり。又 其比(そのころ)筑前国(ちくぜんのくに)那珂郡(なかごほり)筥崎(はこざき)に白幡(しらはた)四流(よながれ)赤幡(あかはた)四流(よなかれ)天
より降(くだ)り土地(とち)の童女(どうによ)に神託(しんたく)ありて。我(われ)は八幡丸(やはたまる)なり。此地(このち)に鎮座(ちんざ)すべしとありし
ゆへ其地(そのところ)に松(まつ)を植(うえ)て宮殿(みやゐ)を造(つく)らる筥崎(はこざき)の八幡宮(はちまんぐう)是(これ)なり。又 山城国(やましろのくに)男山(をとこやま)岩清(いはし)
水八幡宮(みづはちまんぐう)は人皇(にんわう)五十六代 清和天皇(せいわてんわう)の御宇(ぎよう)奈良(ならの)大安寺(だいあんじ)の僧(そう)行教(ぎやうけう)といふ人 俗姓(ぞくせう)は
紀氏(きうじ)にて武内宿祢(たけうぢのすくね)の後胤(こういん)なりければ。常(つね)に八幡宮(はちまんぐう)を信仰(しんかう)し奉り。貞観(ていくわん)元年に豊(ぶ)
前(ぜん)の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)に参篭(さんろう)し一夏(いちげ)九十日 昼(ひる)は大乗経(だいぜうけう)を読誦(どくじゆ)し夜(よる)は密咒(みつじゆ)を唱誦(せうじゆ)
して一 心(しん)に渇仰(かつがう)しけるに。一夜(あるよ)の夢(ゆめ)に八幡太神(はちまんだいじん)告(つげ)て宣(のたま)はく。我(われ)和僧(わそう)の法施(ほふせ)を久(ひさ)しく
受(うけ)たれば師(し)に別(わか)るゝに忍(しの)びず。師(し)都(みやこ)へ皈(かへら)ば我(われ)も都(みやこ)へ上(のぼ)り帝都(ていと)の側(かたはら)に鎮座(ちんざ)し皇祚(くわうそ)
を守(まも)るべしと。正(まさ)しく示現(じげん)し給ふと見て夢覚(ゆめさめ)たり。行教(ぎやうけう)感涙(かんるい)に堪(たへ)ず。頓(やが)て榊(さかき)の
枝(えだ)に御影(みえい)を移(うつ)し。清浄(しやう〴〵)の袈裟(けさ)に裹(つゝ)み頸(くび)にかけて都(みやこ)へ上(のぼ)りけるに。城州(じやうしう)山崎(やまざき)の宿(しゆく)に
やどりける夜(よ)の夢(ゆめ)に。八幡宮(はちまんぐう)現(あらは)れ給ひ。師(し)我(わが)鎮座(ちんざ)する地(ち)を見(み)よと神勅(しんちよく)を蒙(かふむ)る

とひとしく夢覚(ゆめさめ)たり行教(ぎやうけう)奇異(きい)の思(おもひ)をなし宿(やど)を立出(たちいで)て四方(よも)を臨(のぞ)み見るに。東(ひがし)の方(かた)男(をとこ)山
鳩峰(はとのみね)にあたつて光輝(ひかり)燦然(さんぜん)とし四竟(あたり)を照(てら)しけるにぞ行教(ぎやうけう)信心(しん〴〵)肝(きも)に銘(めい)じ其(その)暁(あかつき)光(ひかり)を
目当(めど)として尋(たづね)到(いた)り見るに実(げに)世(よ)に勝(すぐ)れたる霊地(れいち)なり余(あま)りの難有(ありがた)さに二 度(ど)の神託(しんたく)を
記録(きろく)し表(へう)を上(たてまつ)りて朝廷(てうてい)へ奏(そう)しければ帝(みかど)御感(ぎよかん)浅(あさ)からず。即(すなは)ち木工寮(もくれう)権允(ごんのすけ)【ママ】橘良基(たちばなのよしもと)
に詔命(みことのり)ありて豊前(ぶぜん)宇佐(うさ)の宮式(きうしき)に准(じゆん)【準】じ鳩峰(はとのみね)に新(あらた)に宮殿(みやゐ)を造(つく)らしめ給ひ。八(はち)
幡宮(まんぐう)の神霊(みたま)を遷(うつ)し奉り。本朝(ほんてう)第(だい)二の《割書:第一は伊|勢宮也》宗廟(そうべう)と仰(あふ)ぎ給ひ源氏(げんじ)の氏神(うじかみ)と
崇(あが)め給ふ。是(これ)清和天皇(せいわてんわう)は源家(げんけ)の祖(そ)たるゆへなり。おしなめては弓矢(ゆみや)の守神(まもりがみ)にて在(ましま)
せり。さればとり分(わけ)て武夫(ものゝふ)の武威(ぶい)を祈(いの)るに感応(かんおふ)あらずといふ事なし。誠(まこと)に尊(たうと)かりし
御事なり。是(これ)は且(しばらく)おき。茲(こゝ)に奇怪(きくわい)【恠は俗字。女+在は誤字】の一 事(じ)有(あり)けり。延暦(えんりやく)三年五月 上旬(じやうじゆん)摂州(せつしう)天王寺(てんわうし)
の寺内(じない)に五月七日の東雲(しのゝめ)の頃(ころ)西南(にしみなみ)の叢(くさむら)より長(たけ)四五寸 許(ばかり)なる蝦蟇(ひきかいる)幾千(いくら)とも
しらず這出(はいいで)段々(だん〳〵)に列(つらな)り。天王寺(てんわうじ)の境内(けいだい)へ入ける。其(その)蝦蟇(かいる)の色(いろ)黒(くろ)く班(まだら)にて中にも

巨魁(かしら)とおぼしきは色(いろ)赤(あか)く篆書(てんしよ)の如(ごと)き紋(もん)ありて肥大(ひだい)なり。偖(さて)漸々(ぜん〴〵)に数(かづ)多(おほ)く出来(いできた)
りて幾万(いくまん)といふ数(かづ)をしらず。始(はじめ)は見る人も無(なか)りけるに三人五人と寄聚(よりあつま)り果(はて)は老若(らうにやく)
男女(なんによ)群集(くんじゆ)して是(これ)を見物(けんぶつ)し百般(さま〴〵)説(せつ)を立(たて)てながむる内(うち)に。又 東南(ひがしみなみ)の叢(くさむら)よりも同(おな)
じく無数(むすう)の蝦蟇(がま)追々(おひ〳〵)出来(いできた)りて境内(けいだい)に入 東西(とうざい)にわかれて列(れつ)を立(たつ)る事。さながら
陣(ぢん)を張(はり)屯(たむろ)をなすに異(こと)ならず。凡(およそ)二三丁の間(あいだ)東西(とうざい)の蝦蟇(かいる)六七万に充満(みち〳〵)たり。斯(かく)て
諸人(しよにん)目(め)も離(はな)さず見物(けんぶつ)するうちに。東西(とうざい)の蝦蟇(がま)声(こゑ)を揚(あげ)て飛寄(とびより)〳〵入乱(いりみだれ)て咬(くひ)
合(あふ)程(ほど)にあるひは手脚(てあし)を咬(かま)れて血(ち)に染(そみ)。弱(よは)り果(はて)這(はふ)事も叶(かな)はざるは他(ほか)の蝦蟇(がま)来(きた)り
て背(せ)に負(おひ)叢(くさむら)へ入もあり。あるひは其場(そのば)にて噛殺(くひころ)さるゝも有(あり)互(たがひ)に咬合(くひあひ)てともに死(し)す
るもありて。一向(ひたすら)軍兵(ぐんびやう)の血戦(けつせん)するに一般(さもに)たり。諸人(しよにん)始(はじめ)は世(よ)に沈珍(めづら)しき事におもひてながめ
入けるが。後(のち)には見る目(め)も痛(いた)ましく袖(そで)を覆(おほ)ふて見(み)得(え)ざるも多(おほ)かりけり去程(さるほど)に東(とう)
西(ざい)の蝦蟇(がま)の咬合(くひあふ)こと二 時(とき)ばかりにして漸々(しだい)に別(わか)れ引退(ひきしりぞ)き果(はて)は一 疋(ひき)も残(のこ)らず無(なく)

なりけり衆人(みな〳〵)不思議(ふしぎ)の事におもひ。末代(まつだい)はしらず前代(ぜんだい)いまだ聞(きか)ざる珍事(ちんじ)かな所(ところ)
こそ多(おほ)きに。仏法(ぶつほふ)最初(さいしよ)の道場(どうぜう)現世(このよ)の極楽浄土(ごくらくじやうど)と唱(となふ)る御寺(みてら)に。かゝる奇怪(きくわい)
ある事。何(いか)さま兵乱(ひやうらん)などの発(おこ)る前表(ぜんへう)にやととり〳〵に評論(ひやうろん)し。また翌日(あす)も蝦(が)
蟇(ま)の闘(たゝか)ひやあると。聞伝(きゝつたへ)たる徒(ともがら)早朝(さうてう)より天王寺(てんわうじ)へ群聚(くんじゆ)する事 前日(ぜんじつ)に十 倍(ばい)し
終日(しうじつ)待暮(まちくら)せども。其後(そのゝち)は蝦蟇(かいる)一 疋(ひき)も出来(いできた)らず。其辺(そのへん)の叢(くさむら)を捜(さが)し尋(たづぬ)れども
蛙(かはづ)一 疋(ひき)だも居(ゐ)ざりけるぞ不測(ふしぎ)といふも疎(おろか)なりける
    山城国(やましろのくに)長岡都(ながおかのみやこ)経営(けいゑい) 早良親王(さうらしんわう)謫罪(てきざい)憤死(ふんし)条
桓武天皇(くわんむてんわう)平城(なら)の都(みやこ)を山背国(やましろのくに)に遷(うつ)【迁は俗字】さまほしく思召(おぼしめし)中納言(ちうなごん)藤原小黒丸(ふぢはらのをぐろまる)従(じふ)三
位(み)藤原種継(ふぢはらのたねつぐ)両人(りやうにん)に命(めい)ぜられ。帝城(ていじやう)とすべき良地(よきち)を択(えら)ませ給ふ。両卿(りやうけう)勅命(ちよくめい)
を奉(うけたま)はり山背国(やましろのくに)へ立超(たちこへ)東西南北(あなたこなた)を巡見(めぐりみ)らるゝに乙訓郡(おとぐんのこほり)長岡(ながおか)の地(ち)こそ他所(たしよ)
に勝(すぐ)れたれば。此所(このところ)こそ皇都(みやこ)となすに最上(さいじやう)なるべしとて。地図(ちづ)を写(うつ)して立皈(たちかへ)り

帝(みかど)の睿覧(ゑいらん)に備(そなへ)られければ。君(きみ)御覧(ごらん)ありて睿慮(ゑいりよ)に合(かな)ひ。急(いそ)ぎ其地(そのち)に宮闕(きうけつ)を
経営(けいゑい)すべしと勅詔(みことのり)下(くだ)りけるにより。両卿(りようけう)より木工頭(もくのかみ)修理職(しゆりしよく)へ申 渡(わた)し六月 中旬(ちうじゆん)
より五 幾(き)【畿とあるところ】七 道(どう)の人夫(にんぶ)を召聚(めしあつ)め土(つち)を運(はこ)び石(いし)を曳(ひき)良材(りようざい)諸物(しよぶつ)を集(あつめ)て日夜(にちや)を
分(わか)たず修理(しゆり)を励(はげ)み造営(ぞうゑい)を急(いそ)ぎける程(ほど)に。冬(ふゆ)十月に及(およ)びて早(はや)くも宮闕(きうけつ)殿宇(でんう)成(じやう)
就(じゆ)しけるゆへ其由(そのよし)奏聞(そうもん)しける。帝(みかど)睿慮(ゑいりよ)麗(うるは)しく。参議(さんぎ)近衛中将(こんゑのちうせう)紀船守(きのふなもり)を勅(ちよく)
使(し)として山背国(やましろのくに)賀茂(かも)上下の神社(しんじや)へ幣(みてくら)を奉(たてまつ)り遷都(せんと)の義(ぎ)を明神(みやうじん)に告(つげ)させ給ふ
是(これ)賀茂(かも)の神社(しんしや)は山背国(やましろのくに)鎮護(ちんご)の神(かみ)なる故(ゆへ)とかや。斯(かく)て奉幣(はうへい)相(あい)すみければ同年(どうねん)
十一月 最上(さいじやう)吉日を択(えら)み桓武天皇(くわんむてんわう)女御(にようご)后妃(こうひ)諸親王(しよしんわう)公卿(こうけい)百官(ひやくくわん)を将(つれ)て平城(なら)の都(みやこ)を
御 発駕(ほつか)在(ましま)し長岡(ながおか)の新都(しんと)へ臨幸(りんかう)なし給ひ。遷都(せんと)の規式(ぎしき)を執行(とりおこな)はせ給ひけり。是(これ)
に依(よつ)て百司(ひやくし)百官(ひやくくわん)をはじめとし。士農工商(しのうかうせう)も大半(たいはん)平城(なら)より新都(しんと)へ居(きよ)を移(うつ)しけり。然(しかる)に
忽(たちま)ち不時(ふじ)の騒動(そうどう)起(おこ)りける。其(その)乱根(らんこん)を尋(たづぬ)るに。今度(こんど)新都(しんと)の地形(ちぎやう)を見立(みたて)たる中(ちう)




納言(なごん)種継(たねつぐ)といへるは。前左大臣(さきのさだいじん)良継(よしつぐ)の嫡男(ちやくなん)正(せう)三 位(み)宇合(のきあひ)の孫(まご)にて系図(けいづ)といひ家柄(いへがら)
といひ。君(きみ)の御 覚(おぼへ)他(た)に越(こへ)て芽出(めで)たく。権勢(けんせい)肩(かた)を並(ならぶ)る人もなかりけり。然(しかる)に帝(みかど)は常(つね)に
遊猟(ゆふれう)を好(この)ませ給ひ。朝廷(てうてい)の政務(まつりごと)は多(おほ)くは皇太子(くわうたいし)早良親王(はやよししんわう)に委(ゆだね)給ひける。然(され)ども
種継(たねつぐ)は帝(みかど)の寵臣(てうしん)なれば平日(へいじつ)君(きみ)に昵近(ぢつきん)し奉り。内外(ないぐわい)の政事(せいじ)を執奏(しつそう)し。威勢(いせい)猶(なを)早(さう)
良(ら)太子(たいし)に踰(こえ)たれば。早良親王(さうらしんわう)甚(はな)はだ心に種継(たねつぐ)を忌(いみ)給ひ。彼(かれ)が君寵(くんてう)に誇(ほこ)り我意(わがまゝ)の
行条(ふるまひ)多(おほ)きを嫉(にく)み憤(いきどふ)り給ひ。隙(ひま)もあらば種継(たねつぐ)を追(おひ)退(しりぞけ)んものと時(とき)を窺(うかゞ)ひ給ひける
に。其頃(そのころ)佐伯今毛人(さいきいまげんど)といふ者。親王(しんわう)に阿(おもね)り諛(へつら)ひ御意(みこゝろ)にとり入ければ。親王(しんわう)も今毛人(いまげんど)を
贔屓(ひいき)に思召(おぼしめし)彼(かれ)を参議(さんぎ)の官(くわん)に任(にん)ぜんと。其由(そのよし)を帝(みかど)へ奏(そう)し給ひけるに。種継(たねつぐ)是(これ)を
遮(さへぎ)り抑(おさ)へ。佐伯氏(さいきうじ)は参議(さんぎ)に昇進(せうしん)すべき家柄(いへがら)にあらず。此義(このぎ)は勅許(ちよくきよ)なし給ふべから
ずと奏(そう)しけるゆへ。帝(みかど)も尤(もつとも)の義(ぎ)に思召(おぼしめさ)れ。今毛人(いまげんど)参議(さんぎ)に昇進(せうしん)の義(ぎ)然(しか)るべからざる
旨(むね)親王(しんわう)へ勅詔(ちよくぜう)なし給ひけり。是(これ)に依(よつ)て親王(しんわう)の思召(おぼしめし)齟齬(くひちがひ)本意(ほんい)を失(うしな)ひ給ひ。是(これ)皆(みな)

種継(たねつぐ)が申 妨(さまたぐ)るところなりとて御 悪(にく)しみ益(ます〳〵)強(つよ)く如何(いかに)もして種継(たねつぐ)を追(おひ)退(しりぞけ)んと人を以(もつ)
て種々(さま〴〵)讒(ざん)をかまへ悪(あし)さまに奏聞(そうもん)させられけれども。帝(みかど)更(さら)に信用(しんよう)し玉はず。剰(あまつさ)へ是(これ)より
朝政(てうせい)を太子(たいし)に任(まか)せ玉はず。種継(たねつぐ)と商議(しやうぎ)し給ひて。万機(ばんき)の政事(まつりごと)を定(さだ)め給ふにぞ。親(しん)
王(わう)の御 勢(いきほ)ひ追々(おひ〳〵)薄(うす)らぎ。種継(たねつぐ)が権勢(けんせい)は日々(ひゞ)に増長(ぞうとう)【ママ】しける。親王(しんわう)いよ〳〵無念(むねん)に思(おぼし)
召(めし)旦夕(あけくれ)憤怒(ふんど)のおもひに心(むね)を焦(こが)し給ひけるに。延暦(えんりやく)四年八月 桓武天皇(くわんむてんわう)奈良(なら)の旧都(きうと)
へ御幸(みゆき)なし給ふ事 有(あり)ければ。早良親王(さうらしんわう)是(これ)ぞ究竟(くつけう)の時節(じせつ)よとて。兼(かね)て同意(どうい)の
公卿(くげう)大伴継人(おほとものつぐんど)大伴竹良(おほとものたけよし)二人を密(ひそか)に招(まね)き。此時(このとき)を過(すご)さず種継(たねつぐ)を討(うつ)て捨(すて)よと命(めい)じ
給ふ。両人(りようにん)仰(あふせ)【「おほせ」とあるところ。】を承(うけたま)はりて。弓矢(ゆみや)を携(たづさ)へ種継(たねつぐ)の邸舎(やしき)へ暗(ひそか)に潜入(しのびいり)ける。其頃(そのころ)は遷都(みやこうつ[り])の砌(みぎり)
にて公卿(くげう)の家造(やづくり)も皆(みな)いまだ間疎(まばら)なりければ。両人(りようにん)裏(うら)の塀(へい)を乗踰(のりこえ)て易々(やす〳〵)と忍(しの)び入
陰(ひそか)に種継(たねつぐ)が居間(ゐま)へ忍(しの)び行(ゆき)窺(うかゞ)ひ見れば。種継(たねつぐ)はかやうに刺客(しかく)の忍(しの)び入べしとは努(ゆめ)にも
しらず。灯(ともしび)の下(もと)に書(しよ)を開(ひら)きて熟見(よみいつ)て居(ゐ)けるゆへ。仕(し)すましたりと継人(つぐんど)竹良(たけよし)とも弓(ゆみ)

矢(や)うち番(つがひ)て同時(どうじ)に切(きつ)て放(はな)しけるに過(あやま)たず種継(たねつぐ)の咽輪(のどわ)と胸(むね)の正中(たゞなか)をひとしく射(い)
串(とふ)しける。二所(ふたところ)とも急所(きうしよ)の手(て)なれば何(なん)ぞ堪(こらふ)べき。苦(あつ)と一声(ひとこゑ)叫(さけ)びし侭(まゝ)にて免首(うつぶき)に
倒(たを)れ伏(ふし)けるゆへ両人(りようにん)とも心 悦(よろこ)び逸足(あしばや)に逃退(にげのき)立去(たちさり)けり。種継(たねつぐ)が妻(つま)は斯(かく)ともしらず
何事(なにごと)にや人の叫(さけ)びし声(こゑ)の聞(きこ)えしを怪(あやし)み行(ゆき)て見るに。夫(をつと)種継(たねつぐ)は急所(きうしよ)に二筋(ふたすじ)の矢(や)を射(い)
付(つけ)られ免首(うつむき)に伏居(ふしゐ)たりけるにぞ。是(こ)はいかにと大いに駭(おどろ)き。急(きう)に家内(かない)の男女(なんによ)を呼集(よびあつ)め
先(まづ)夫(をつと)を扶(たす)け起(おこ)し矢(や)を抜捨(ぬきすて)て介抱(かいほふ)しけれども大事(だいじ)の手(て)【注】なれば言句(ごんく)を発(はつ)する事も
能(あた)はず。其夜(そのよ)の暁頃(あけがた)に終(つひ)に空(むな)しく成(なり)にける。年齢(ねんれい)四十九才なりけり。妻子(さいし)親族(しんぞく)寄(より)
集(あつま)りて悲歎(ひたん)する事 限(かぎり)なく。何(いか)なる悪党(あくとう)の所為(しわざ)なるぞと穿議(せんぎ)すれども更(さら)に
敵(かたき)を知(しる)べき便(たより)もなく。先(まづ)帝(みかど)へ奏(そう)せずんば有(ある)べからずと。平城(なら)へ急馬(はやうま)を立(たて)て種(たね)
継(つぐ)の横死(わうし)せし趣(おもむ)きを奏(そう)しければ。帝(みかど)大いに駭(おとろ)かせ給ひ。急(きう)に宝輦(ほうれん)を長岡(ながおか)の新(じん)
都へ還(かへ)し給ひ。寵臣(てうしん)の種継(たねつぐ)なれば御哀悼(ごあいたう)の勅使(ちよくし)を遣(つかは)され。せめて亡魂(ぼうこん)を慰(なぐさ)

【注 大事の手=ひどい手傷。一命にかかわるような重傷。】

【右丁 挿絵中の囲み文字】
継人
竹良

【右丁 挿絵中の囲み文字】
種継

早良親王(さうらしんわう)の
命(めい)を受(うけ)て
継人(つぐんど)竹良(たけよし)
 密(ひそか)に種継(たねつぐ)
  を射(い)る

むる為(ため)にと正(しやう)一 位(ゐ)左大臣(さだいしん)に贈官(ぞうくわん)し給ひ。偖(さて)何者(なにもの)の所為(しわざ)なるぞと緊(きび)しく穿議(せんぎ)し給ふ
に初(はじめ)は曽(かつ)て知(しれ)ざりけれども。種継(たねつぐ)が負(おひ)たる矢(や)に証(しるし)ありて大伴継人(おほとものつぐんど)同(おなじ)く竹良(たけよし)が所(しよ)
為(ゐ)なる事 露顕(ろけん)し即時(そくじ)に官吏(くわんり)に命(あふせ)て両人(りようにん)を搦捕(からめとら)せ給ひ強(つよ)く糺問(きうもん)させ給ふ
に。両人(りようにん)陳(ちん)ずる詞(ことば)なく遂(つひ)に早良太子(さうらたいし)の御 頼(たのみ)によつて種継(たねつぐ)を射殺(いころ)したる趣(おもむ)きを
白状(はくでう)しけり。帝(みかど)甚(はな)はだ逆鱗(げきりん)在(ましま)し即(すなは)ち早良親王(さうらしんわう)を首(はじめ)とし其余(そのほか)一 味(み)の輩(ともがら)数(す)十
人 同時(どうじ)に召捕(めしとら)せ給ひ悉(こと〴〵)く糺問(きうもん)させ給ふに。全(まつた)く親王(しんわう)御謀叛(ごむほん)の企(くはだて)在(ましま)し。先(まづ)種継(たねつぐ)
を誅(ちう)し給ひし由(よし)を白状(はくでう)しけるにより。太子(たいし)の罪命(ざいめい)甚(はな)はだ軽(かる)からず。因(よつ)て継人(つぐんど)竹良(たけよし)
二人を斬罪(ざんざい)して首(くび)を梟木(けうぼく)に肆(さら)し。早良親王(さうらしんわう)を淡路国(あはぢのくに)へ流(なが)され。其余(そのよ)の輩(ともがら)も
罪(つみ)の軽重(けいぢう)に因(よつ)て或(あるひ)は死罪(しざい)。あるひは流罪(るざい)に行(おこな)はるゝ者六十 余人(よにん)にぞ及(およひ)ける。偖社(さてこそ)
天王寺(てんわうじ)の蝦蟇(がま)の奇怪(きくわい)はかゝる騒乱(そうらん)の前表(ぜんへう)なりけりと諸人(しよにん)はじめて覚(さと)りける。斯(かく)て
早良太子(さうらたいし)は追立(おつたて)の官人(くわんにん)に送(おく)られ
て淡路(あはぢ)の配所(はいしよ)へ赴(おもむ)き給ひけるが路上(みち〳〵)帝(みかと)を恨(うらみ)憤(いき)

怨(どふり)給ひ食事(しよくじ)を断(たつ)て淡路(あはぢ)へいたり給はぬ途中(とちう)にて飢死(うえじに)し給ひけり。されども王法(わうぼふ)なれ
ば其(その)御 屍(しがい)を淡路(あはぢ)へ送(おく)り葬(ほふむ)り進(まい)らせ給ひけり。然(しかる)る【衍】に太子(たいし)の悪霊(あくれう)の所為(しわざ)にて
都(みやこ)に種々(いろ〳〵)の怪異(けい)あらはれ諸人(しよにん)其(その)ために魘(おそ)はれ。あるひは病着(やみつき)。あるひは死亡(しぼう)する
者 夥(おびたゝ)しかりければ。皆(みな)早良太子(さうらたいし)の怨霊(おんれう)のなすところなりと言触(いひふら)し上下 恐惑(おそれまど)ひ
都鄙(とひ)の謳歌(とりさた)喧(かまび)しかりければ。帝(みかど)も是(これ)を患(うれ)ひ給ひ。諸寺(しよじ)の僧綱(そうかう)に詔(みことの)りを下(くだ)し給ひ
太子(たいし)の怨霊(おんれう)を鎮(しづ)めさせ給へども。更(さら)に其(その)験(しるし)なく倍(ます〳〵)奇怪(きくわい)の事のみ多(おほ)かりける
斯(かく)て年月(ねんげつ)推移(おしうつ)り。延暦(えんりやく)六年の冬(ふゆ)より雨(あめ)降(ふら)ず翌(あくる)七年の五月 迄(まで)も猶(なを)雨(あめ)一 滴(てき)
も降(ふら)ざれば川々(かは〴〵)水(みづ)沽(かれ)【涸の誤記ヵ】池(いけ)溝(みぞ)も水 竭(つき)て農民(ひやくせう)耕作(かうさく)する事を得(え)ず斯(かく)ては百草(ひやうさう)枯(かれ)
果(はて)五穀(ごこく)を植(うゆ)べき便(たより)なしとて万民(ばんみん)の歎(なげ)き大方ならず。米(こめ)麦(むぎ)豆(まめ)粟(あは)の価(あたひ)追々(おひ〳〵)
高価(たかく)なり世(よ)の困窮(こんきう)言(いは)んかたなし。是(これ)も早良太(さうらたい)子の悪霊(あくれう)の祟(たゝり)【崇は誤記】
なるべしと言合(いひあひ)
けり。帝(みかど)再(ふたゝ)び睿慮(えいりよ)を悩(なやま)し給ひ。五幾(ごき)【ママ】内(ない)の霊仏(れいぶつ)霊社(れいしや)へ宣命(せんめう)を下(くた)され雨(あめ)の祈(いのり)

を修(しゆ)せしめ給へども敢(あへ)てその功(かう)なく弥(いよ〳〵)雨(あめ)降(ふら)ず田畑(てんばた)ともに乾(かは)き割(われ)生民(せいみん)渇魚(かつぎよ)の轍(わだち)の水(みづ)
に息(いき)つくがごとし。帝(みかど)深(ふか)く歎(なげ)かせ給ひ。群臣(ぐんしん)を召(めさ)れて勅詔(ちよくぜう)なし給ふやう。昔(むかし)殷(いん)の湯王(とうわう)
の代(よ)に七年が間(あいだ)年毎(としごと)に旱(ひでり)して五 穀(こく)登(みの)る事なく。天下(てんか)飢饉(きゝん)に困(くるし)み餓死(がし)する者 多(おほ)
かりければ。湯王(とうわう)是(これ)を歎(なげ)き。自(みづか)ら桑林(そうはん)【「は」は「り」の誤記ヵ】の野外(やぐわい)にいたり。薪(たきゞ)を積(つん)で其中(そのなか)に車(くるま)を立(たて)六ッの
罪(つみ)をかぞへ。身(み)にとりて天意(てんい)に逆(そむ)くところあらば。朕身(わがみ)を牲(にえ)にとり雨(あめ)を降(ふら)して辜(つみ)な
き民(たみ)を救(すく)ひ給へと祈(いの)り。積(つみ)たる薪(たきゞ)に火(ひ)をかけさせられければ。天(てん)其(その)誠心(せい[し]ん)を感(かん)じ給ひ。火(ひ)
いまだ薪(たきゞ)に燃(もえ)うつらざる以前(いぜん)に忽(たちま)ち大雨(たいう)降(ふつ)て旱魃(かんはつ)の患(うれひ)を救(すく)ひしとぞ。我朝(わがてう)の古(いにしへ)も
文武天皇(もんむてんわう)彼(かの)湯王(とうわう)にならひ。自身(みづから)雨(あめ)を祈(いのり)て万民(ばんみん)を救(すく)ひ給へり。今(いま)天下(てんか)旱(ひでり)して生霊(せいれい)悩(なや)
み困(くるし)む事。早良太子(さうらたいし)の怨霊(おんれう)のなす所(ところ)なりと風説(とりさた)すれども。恐(おそ)らくは朕(ちん)が不徳(ふとく)を天(てん)
より責(せめ)給ふところなるべし。依(よつ)て朕(ちん)も文武帝(もんむてい)の先蹤(せんしやう)を追(おひ)て雨(あめ)を祈(いのら)ら【衍】んと思(おも)へり。卿(けい)
等(ら)其儲(そのまうけ)をなせよと詔命(みことのり)ありければ。諸臣下(しよしんか)君(きみ)の御 仁徳(じんとく)を感(かん)じ奉り領掌(れうぜう)して

急(いそ)ぎ禁中(きんちう)の庭上(ていしやう)に祈雨(あまごひ)の霊壇(れいだん)を築(きづ)き注連(しめ)を張(はり)四手(しで)を切(きり)■【注】け四 方(はう)に四 神(じん)の旗(はた)を
立(たて)其余(そのよ)種々(しゆ〴〵)の供物(くもつ)を調(とゝの)へ用意(ようい)全(まつた)く備(そな)はりければ。帝(みかど)浄衣(じやうえ)を着(めさ)れ宝冠(ほうくわん)を正(たゞ)
して壇上(だんじやう)に登(のぼ)り給ひ。上天(しやうてん)を拝(はい)し丹誠(たんせい)を凝(こら)して雨(あめ)を祈(いのり)給ふ。壇下(だんか)の庭(には)には三公(さんこう)九(きう)
卿(けい)はじめ諸卿(しよけう)百官(ひやくくわん)列座(れつざ)して。ともに天(てん)を拝(はい)して雨(あめ)を祈(いのり)けるに。天感(てんかん)空(むな)しからず半(はん)
日(じつ)ばかり過(すぎ)て。見る〳〵密(みつ)【蜜は誤記】雲(うん)東西(とうざい)より起(おこ)り。一天 須臾(しばらく)のうちにかき曇(くも)り一 陣(ぢん)の風吹
発(おこ)るとひとしく。膏雨(かうう)大いに降出(ふりいだ)して盆(ぼん)を傾(かたむく)るが如(ごと)くなれば帝(みかど)竜顔(りうがん)麗(うるは)しく天
恩(おん)を拝謝(はいしや)し給ひ宮中(きうちう)へ還(かへ)らせ給へば。群臣(ぐんしん)みな万歳(ばんぜい)を唱(となへ)慶賀(けいが)し奉りて退(たい)
出(しゆつ)したりけり。斯(かく)て大雨(たいう)降事(ふること)三 日(じつ)三 夜(や)小止(をやみ)もなかりければ。沽(かれ)【涸の誤記ヵ】たる井泉(いづみ)も湧上(わきあが)り竭(かはき)
たる河水(かはみづ)も漲(みなぎ)り流(なが)れ。諸国(しよこく)の乾地(かんち)潤(うるほ)はずといふ所(ところ)なければ。万民(ばんみん)跳(おど)り舞(まひ)て大いに
悦(よろこ)び。帝(みかど)の聖徳(せいとく)を仰(あふ)ぎ尊(たうと)み。此君(このきみ)の御 寿命(じゆめう)百千年(もゝちとせ)も久(ひさ)しかれとぞ祈(いのり)ける。去程(さるほど)に
旱魃(かんはつ)の患(うれ)ひ止(やみ)ければ。帝(みかど)また臣下(しんか)に勅(ちよく)し給ひて早良親王(さうらしんわう)に崇道天皇(すどうてんわう)と謚(おくりな)を

【注 国立国会図書館デジタルコレクション『扶桑皇統記』版本に「か」とあり。】


賜(たま)ひ一 社(しや)の神(かみ)に鎮祭(しづめまつり)給ふ。是(これ)も御霊(ごれう)八 社(しや)の中(うち)の一 社(しや)なり。かゝりければ親王(しんわう)の怨霊(おんれう)
も帝恩(ていおん)の厚(あつ)きを感(かん)じ給ひけん。其後(そのゝち)は怪異(けい)の事も止(やみ)ければ諸人(しよにん)漸(やうや)く心を安(やす)
んじ是(これ)偏(ひとへ)に帝(みかど)の御恩沢(ごおんたく)なりと弥(いよ〳〵)君徳(くんとく)を仰(あふ)ぎけり。朝廷(てうてい)には帝(みかど)諸臣下(しよしんか)と御
評議(ひやうぎ)有(あつ)て春宮(とうぐう)なくんば有(ある)べからすとて第(だい)二の皇子(みこ)安殿親王(やすどのしんわう)を皇太子(くわうたいし)に立(たて)玉ひける
    《振り仮名:築_二再新都_一造_二営大内裏_一|ふたゝびしんとをきづきだい〳〵りをぞうゑいす》 釈最澄(しやくのさいてう)《振り仮名:開_二基延暦寺_一条|えんりやくじをかいきす》
桓武天王(くわんむてんわう)平城(なら)の都(みやこ)を山背国(やましろのくに)長岡(ながおか)に移(うつ)し遷都(せんと)【迁は俗字】なし給ひけるに。此地(このち)も尚(なを)土(と)
地(ち)狭(せま)く不便(ふべん)の事 多(おほ)ければ。大納言(だいなごん)藤原継縄(ふぢはらのつぐなは)。大納言 小黒丸(をくろまる)等(とう)に詔(みことの)り在(あつ)て
再(ふたゝ)び山背国(やましろのくに)にて新内裡(しんだいり)を造営(ぞうゑい)すべき地(ち)を択(えら)ませ給ふ。両卿(りようけう)勅命(ちよくめい)を奉(うけたまは)
り諸所(しよしよ)を巡見(めぐりみ▢)【注】に同国(どうこく)葛野群(かどのごほり)宇多村(うだむら)こそ新都(しんと)とすべき最勝(さいしやう)の地(ち)なる
べしとて即(すなは)ち地図(ちづ)を写(うつ)して立帰(たちかへ)り。帝(みかど)の睿覧(ゑいらん)に備(そなへ)られければ。帝(みかど)御覧(ごらん)あり
て。さらば朕(ちん)も其地(そのち)を見んと宣(のたま)ひ公卿(こうけい)数人(すにん)を将(ひきい)て葛野群(かどのごほり)宇田村(うだむら)へ御幸(みゆき)

【注 国立国会図書館デジタルコレクション『扶桑皇統記』版本、並びに法政大学 国際日本学研究所所蔵資料アーカイブス『扶桑皇統記図会』(筆写体本)(以後「別本」とする。)に「みる」とあり。】






なし給ひ地形(ちぎやう)を遍(あまね)く巡覧(じゆんらん)在(ましま)し睿感(ゑいかん)ありて宣(のたまは)く。誠(まこと)に此地(このち)こそ帝城(ていじやう)を経(けい)
営(えい)するに最勝(さいしやう)の地(ち)なり。北は衆山(しゆうざん)環(めぐ)り連(つらな)り《振り仮名:鍾_レ霊毓_レ秀|れいをあつめしうをそす》是(これ)迺(すなは)【廼は俗字】ち玄武(げんむ)の
象(かたち)なり。左(ひだり)には鴨(かも)川の清流(きよきながれ)あり是(これ)則(すなは)ち青龍(せいりう)の象(かたち)あり。右(みぎ)に千本の長道(ながきみち)あ
るは是(これ)迺(すなは)ち白虎(びやくこ)の象(かたち)なり。南は地勢(ちせい)広(ひろ)く闊(ひろ)【濶は俗字】し。是(これ)則(すなは)ち朱雀(しゆじやく)の象(かたち)にて将(まさ)に
四神相応(しゞんさうおう)の霊地(れいち)なり。日本(につほん)広(ひろし)といへども恐(おそ)らくは此地(このち)に優(まさ)る勝地(しやうち)有(ある)べからず
実(じつ)に万代(ばんたい)不易(ふえき)の皇都(みやこ)と謂(いふ)べし。急(いそ)ぎ宮闕(きうけつ)を営造(いとなみつくれ)よと勅詔(ちよくぜう)なし給ひけるに
ぞ。諸臣下(しよしんか)奉(うけたま)はり。帝(みかど)を還御(くわんぎよ)なし奉りて後。木工寮(もくれう)修理職(しゆりしよく)に造営(ぞうえい)の義(ぎ)を命(めい)
じける。帝(みかど)また賀茂明神(かもみやうじん)へ奉幣使(はうへいし)を立(たて)られ新都(しんと)経営(けいえい)の義(ぎ)を神(かみ)に告(つげ)玉ふ
斯(かく)て同年(どうねん)六月より工匠(かうせう)造営(ざうえい)を励(はげ)み宮殿(きうでん)を営(いとな)み建(たつ)る。其(その)体方(ひろさ)六 里(り)四方(しはう)に十二門
を建(たつ)る。先(まづ)西南は殷富門(いんふもん)。南東(みなみひがし)は美福(びふく)門正北は偉監(いかん)門。北西(きたにし)は達知(たつち)門。北東(きたひがし)は安(あん)
嘉(か)門。正西(まにし)は藻壁(そうへき)門。西北(にしきた)は談天(だんてん)門。正東(まひがし)は待賢(たいけん)門。東北(ひがしきた)は陽明(やうめい)門。東南(ひがしみなみ)は郁芳(いくはう)

門 正南(まみなみ)は朱雀(しゆじやく)門。南東(みなみひかし)は皇嘉(くわうか)門なり。去程(さるほど)に諸(しよ)職人(しよくにん)精根(せいこん)を尽(つく)し経営(けいえい)を急(いそ)
ぐ程(ほど)に十月に至(いたつ)て新内裡(しんだいり)成就(じやうじゆ)しければ。帝(みかど)御喜悦(ごきえつ)斜(ななめ)ならず。博士(はかせ)に命(あふせ)て
吉日(きちにち)良辰(りようしん)を卜(うらな)はせ給ひ。十二月二十一日 長岡(ながおか)の王宮(わうきう)を出(いで)給ひ。宇多村(うだむら)の新内裡(しんだいり)へ
遷幸(せんかう)なし給ふ。其(その)儀式(ぎしき)いと厳重(げんぢう)に伶人(れいじん)音楽(おんがく)を奏(そう)し百官(ひやくくわん)警蹕(けいひつ)の声(こゑ)豊(ゆたか)
に万歳(ばんぜい)を唱(となふ)る声(こゑ)揚々(やう〳〵)とし月卿(げつけい)雲客(うんかく)今日(けふ)を曠(はれ)と装(よそほ)ひて鳳輦(ほうれん)に随逐(ずいちく)し
君(きみ)を入御(じゆぎよ)なし奉りけるは芽出度(めでた)かりし御事なり。帝(みかど)新都(しんと)へ入御給ひて諸所(しよ〳〵)を
睿覧(ゑいらん)在(ましま)すに。殿閣(でんかく)門楼(もんろう)百(ひやく)工手(かうて)を尽(つくし)て。善(ぜん)尽し美尽(びつく)し。諸司(しよし)八省(はつせう)にいたる迄(まで)
荘麗(そうれい)を極(きはめ)けるにぞ。殊更(ことさら)に御感(ぎよかん)在(ましま)し卿相(けいせう)に詔命(みことのり)し給ふやう。抑(そも〳〵)此都(このみやこ)の地は
四 霊(れい)其所を得(え)山河(さんか)自然(しぜん)に城(しろ)を成(なせ)り因(よつ)て今より山背(やましろ)を革(あらため)て山城国(やましろのくに)と称(となふ)
べし。また末代(まつだい)皇孫(わうぞん)此都(このみやこ)に住(ぢう)せば。君(きみ)平(たいらか)に民(たみ)安(やす)かるべければ。平安城(へいあんじやう)と号(がう)す
べきなり。もし末代(まつだい)に悪王(あくわう)出(いで)て此都(このみやこ)を他所(たしよ)に遷(うつさ)【迁は俗字】んとせば即(すなは)ち悪王(あくわう)を誅伐(ちうばつ)すべき

ため鎮護(ちんご)の神人(しんじん)を置(おく)べしとて其長(そのたけ)七尺の神人(しんじん)を造(つく)らせ。鉄(くろがね)の甲冑(かつちう)を着(き)せ太刀(たち)刀(▢▢▢)【別本に「かたな」】
を帯(はか)せ鉄(くろがね)の弓箭(ゆみや)を持(もた)せて。東山(ひがしやま)の峰(みね)を堀穿(ほりうが)ち西(にし)に向(むけ)て埋(うづみ)収(おさめ)しめ給ふ。是(これ)万代(ばんたい)の
末(すへ)まで王城(わうじやう)鎮護(まもり)の為(ため)とかや。世(よ)に将軍塚(しやうぐんつか)と称(せう)するは是(これ)なり。今以(いまもつ)て円山(まるやま)の頂(いたゞき)に
あり。実(げに)も桓武天皇(くわんむてんわう)の聖慮(せいりよ)を籠(こめ)給ひし神像(しんぞう)なれば。遙(はるか)後世(こうせい)にいたる迄(まで)天下に変(へん)
有(あら)んとすれば此塚(このつか)必(かなら)ず鳴動(めいどふ)して其(その)凶変(けうへん)を示(しめ)す其(その)霊験(れいげん)諸人(しよにん)の知(しる)ところなり。茲(こゝ)に
王城(わうじやう)の艮(うしとら)に当(あたつ)て一 座(ざ)の霊山(れいざん)あり日枝山(ひえざん)と号(がう)せり。桓武(くわんむ)天皇の御 皈依僧(きえそう)釈最澄(しやくのさいてう)
法師(ほふし)帝(みかど)に奏(そう)すらく。夫(それ)日枝山(ひえのやま)は王城(わうじやう)の東北(きもん)に当(あたつ)て峙(そはだ)ち候は将(まさ)に帝都(ていと)の艮(きもん)を鎮(しづめ)
護(まもる)べき霊山(れいざん)にて候。つら〳〵平安城(へいあんじやう)の地勢(ちせい)を見(み)候に。衆山(もろ〳〵のやま)悉(こと〴〵)く内(うち)に向(むか)ひ候へども只(たゞ)日枝(ひえの)
山(やま)のみ外(ほか)に向(むか)ひ候。是(これ)中華(もろこし)金陵(きんれう)の牛首山(ぎうしゆざん)の独(ひとり)金陵(きんれう)に背(そむき)候が如(ごと)し四 方(はう)の山 悉(こと〴〵)く内(うち)に向(むかふ)
ときは地気(ちき)を洩(もら)す所(ところ)なく四 方(はう)相生相克(さうぜうさうこく)の理(り)に合(かなは)ず。其故(そのゆへ)奈何(いかん)となれば。先(まづ)東方(とうばう)震(しん)
の木(き)より東南(とうなん)巽(そん)の木へ向(むかふ)は木旺木(もくわうもく)と旺(わう)し。東南巽(たつみのそん)の木より南(みなみ)離(り)の火(ひ)へ向(むかふ)は木生火(もくせうくわ)なり南(みなみ)

離(り)の火(ひ)より西南(せいなん)坤(こん)の土(つち)へ向(むかふ)は火生土(くわせうど)なり。西南(ひつじさる)坤(こん)の土(つち)より西兌(にしだ)の金(かね)へ向(むかふ)は土生金(どせうごん)なり西兌(にしだ)の
金(かね)より西北(せいぼく)乾(けん)の金(かね)へ向(むかふ)は金旺金(きんわうきん)西北(いぬゐ)乾(けん)の金(かね)より北方(ほつはう)坎(かん)の水(みづ)へ向(むかふ)は金生水(きんぜうすい)なり。偖(さて)北(きた)坎(かん)の
水より東北(うしとら)【左ルビ:きもん】艮(ごん)の土(つち)へ向(むかふ)は土剋水(どこくすい)と相剋(さうこく)す。余(よ)の三 方(ばう)は皆(みな)相生(さうぜう)し又は旺(わう)ずるに。艮(ごん)一 方(はう)のみ相(さう)
剋(こく)さるは是(これ)一 方(はう)を欠(かく)の理(り)にて四 方(ばう)八 隅(ぐう)自然(しぜん)の勢(いきほ)ひ如是(かくのごとし)艮(ごん)は東(ひがし)へも北(きた)へも相生(さうぜう)せず相(さう)
剋(こく)するを以(もつ)て古(いにしへ)より艮(きもん)の方位(はうゐ)を慎(つゝし)み恐(おそ)れ候。今日 日枝山(ひえざん)の王城(わうぜう)に背(そむき)候も右の理(り)に合(かなひ)て
誠(まこと)に万代(ばんだい)不易(ふゑき)の帝城(ていじやう)と申べし。勿論(もちろん)日枝山(ひえざん)は王宮(わうきう)の艮(きもん)に当(あたり)候へば。慎(つゝし)み恐(おそれ)給ふべきの
地位(ちゐ)にて候 拙僧(せつそう)彼(かの)山に仏場(ぶつぢよう)を開(ひら)き。永(なが)く法灯(ほふとう)を灯(かゝげ)て王城(わうぜう)の艮(きもん)を鎮(しづ)め。皇家(わうか)を
守護(しゆご)し度(たく)候と。表(へう)を捧(さゝげ)て願(ねが)はれければ。帝(みかど)睿感(ゑいかん)浅(あさ)からず。即(すなは)ち勅許(ちよくきよ)在(あり)て日枝山(ひえざん)
を最澄(さいてう)に給(たま)はり急(いそ)ぎ伽藍(がらん)を草創(さう〳〵)すべしとの宣旨(せんじ)を下(くだ)し給ひけり。最澄(さいてう)大いに
悦(よろこ)び倫旨(りんし)を頂戴(てうだい)して退出(たいしゆつ)し。それより日枝山(ひえのやま)を開(ひら)き工匠(かうせう)に委(ゆだね)て先(まづ)根本中堂(こんほんちうどう)を建(たて)
自作(じさく)の等身(とうしん)の薬師如来(やくしによらい)の像(ぞう)を安置(あんち)し其他(そのほか)の堂塔(どうたう)造立(ぞうりう)尽(こと〴〵)く成就(じやうしゆ)しければ

即(すなは)ち一乗止観院(いちぜうしくわんいん)と号(がう)し。始(はじめ)て天台宗(てんだいしう)を立(たて)られ是(これ)より日枝山(ひえざん)を改(あらた)め比叡山(ひゑいざん)と号(なづ)け
られける。是(これ)叡慮(ゑいりよ)に比(くらぶ)るとの義(ぎ)をとれるなりとぞ。後年(こうねん)最澄(さいてう)入寂(にふじやく)の後(のち)弘仁(かうにん)十四年
額(がく)に往昔(そのかみ)の年号(ねんがう)の字(じ)を勅免(ちよくめん)あつて寺号(じがう)を延暦寺(えんりやくじ)とぞ号(なづけ)給(たま)ひけり。此山(このやま)中華(もろこし)
の天台山(てんだいさん)四明(しめい)が洞(ほら)に似(に)たりとて。天台山(てんだいさん)とも。又 四明(しめい)が洞(ほら)とも呼(よび)けり。東塔(とうたふ)西塔(さいたふ)横河(よかは)を三
塔(たふ)と号(がう)し。又 西塔(さいたふ)に双輪撐(そうりんたふ)【𢴤は俗字】を建(たて)しは。是(これ)妙輪(めうりん)を転(てん)じ迷路(めいろ)を開(ひら)謂(いはれ)にて。仏法(ぶつほふ)
守護(しゆご)の表(しるし)とかや抑(そも〳〵)釈最澄法師(しやくのさいてうほふし)と申は。俗性は三津氏(みつうし)にて父(ちゝ)は近江国(あふみのくに)滋賀郡(しがごほり)の
人なり其(その)曩祖(おほせんぞ)は後漢(ごかん)の献帝(けんてい)の末裔(ばつゑい)なり。献帝(けんてい)は魏(ぎ)の曹丕(そうひ)のために弑(しい)せられ玉
ひ。其(その)子孫(しそん)流落(りうらく)して日本(につほん)へ渡(わたり)しを。人皇(にんわう)十六代 応神天皇(おふじんてんわう)。渠(かれ)が王孫(わうぞん)にて零落(れいらく)せし
を憐(あはれ)み給ひ。江州(がうしう)滋賀郡(しがごほり)にて采地(さいち)を給(たま)はりしより。其地(そのち)に居住(きよぢう)し代々(だい〳〵)滋賀(しが)の郷士(がうし)也
最澄(さいてう)が父(ちゝ)を三津百枝(みつのもゝえ)と呼(よび)頗(すこぶ)る学才(がくさい)ありて。仏書(ぶつしよ)儒書(じゆしよ)を歴覧(れきらん)して博識(はくしき)なり
ければ。里俗(ところのもの)甚(はな)はだ百枝(もゝえ)を尊敬(そんけい)しけり。然(しかる)に百枝(もゝえ)五十才に過(すぐ)るまで一 子(し)なきを歎(なげき)

日枝山(ひえざん)の梺(ふもと)の神社(しんじや)に一七日 参籠(さんろう)し。丹誠(たんせい)を凝(こら)して一 子(し)を授(さづけ)給へと祈(いのり)けるに。其(その)誠(せい)
心(しん)を神明(しんめい)感納(かんのふ)し給ひけん。程(ほど)なく其(その)妻(つま)妊娠(にんしん)し。称徳(せうとく)天皇の神護景雲(しんごけいうん)元年(ぐわんねん)
丁未(ひのとひつじ)三月 男子(なんし)を生(うめ)り。是(これ)則(すなは)ち最澄(さいてう)なり。小児(せうに)の頃(ころ)より智才(ちさい)尋常(よのつね)の小児(せうに)に勝(すぐ)れ
七 歳(さい)より仏書(ぶつしよ)儒書(じゆしよ)に渉猟(せうれう)し。仏法(ぶつほふ)を慕(した)ひて十二才の時(とき)。大安寺(だいあんじ)の行表法師(ぎやうへうほふし)
を戒師(かいし)とたのみ。剃髪(ていはつ)して法名(ほふめう)を最澄(さいてう)と呼(よば)れ。唯識(ゆいしき)を学(まな)び華厳経(けごんきやう)。起信論(きしんろん)等(とう)
を学(まな)び究(きはめ)稍(やゝ)博識(はくしき)の聞(きこ)え高(たか)く。桓武(くわんむ)天皇の御 皈依(きえ)に預(あづか)り比叡山(ひゑいざん)を開基(かいき)し天台(てんだい)
宗(しう)の始祖(しそ)となりけるなり。最澄(さいてう)曽(かつ)て鑑真禅師(かんしんぜんじ)の伝(つたへ)たる玄義(げんぎ)。文句(もんぐ)。止観(しくわん)。四教義(しけうぎ)。
維摩経(ゆいまけう)の疏(そ)等(とう)を閲(けみ)して歓喜(くわんき)し。猶(なを)一 切衆生(さいしゆぜう)を化導(けどう)せんには。深理(しんり)明師(めいし)の伝授(でんじゆ)無(なく)
ては意(い)の如(ごと)くならじとて。入唐(につとう)の望(のぞみ)を起(おこ)し帝(みかど)へ歎奏(たんそう)しければ。即(すなは)ち勅許(ちよくきよ)ありて延暦(えんりやく)
二十一年 遣唐使(けんとうし)藤原葛野麻呂(ふぢはらのかどのまろ)の船(ふね)に。釈空海(しやくのくうかい)《割書:弘法(かうぼふ)|大師》とともに同船(どうせん)して唐土(とうど)へ
わたり。台州(たいしう)の天台山(てんだいさん)に登(のぼ)り国清寺(こくせいじ)の道邃法師(どうすいほふし)に相見(しやうけん)して一心(いつしん)三観(さんくわん)の玄旨(げんし)を

授(さづか)り且(かつ)菩薩(ぼさつ)三 聚(じゆ)の大戒(だいかい)を付嘱(ふぞく)せられ。其(それ)より天台山(てんだいさん)の西南(にしみなみ)仏隴寺(ぶつろうじ)の行満(ぎやうまん)
座主(ざす)に見(まみへ)て仏法(ぶつほう)の問答(もんだふ)ありしに。行満(ぎやうまん)大いに感じ。昔(むかし)智者大師(ちしやだいし)徒弟(とてい)に語(かたつ)て
曰(いはく)我(わが)滅後(めつご)二百 余歳(よさい)の後(のち)東海(とうかい)の国(くに)に生(むま)れ彼(かの)土(ど)に仏法(ぶつほふ)を興立(かうりう)せんと遺訓(ゆいくん)
有(あり)しと伝聞(つたへきゝ)しが。果(はた)して今 最澄(さいてう)三 蔵(ざう)を相見(あひみる)事よと悦(よろこ)びて六祖(ろくそ)妙楽大師(めうらくだいし)
より代々(だい〳〵)秘蔵(ひさう)せる経論(きやうろん)書巻(しよくわん)を惜(をし)まず尽(こと〴〵)く最澄(さいてう)に付与(ふよ)し。汝(なんじ)此(この)法文(ほふもん)を
日本(につほん)へ持還(もちかへ)り法灯(ほふとう)を挑(かゝ)け一 宗(しう)の祖師(そし)となるべしと示(しめ)されけり最澄(さいてう)其後(そのゝち)越州(えつしう)の
竜興寺(りうかうじ)へいたり順暁阿闍梨(じゆんけうあじやり)に対面(たいめん)して三 部潅頂(ぶくわんでう)の密教(みつけう)を受(うけ)又 唐興(とうかう)
県(けん)の沙門(しやもん)翛然(しゆくねん)に謁(えつ)して達磨(だるま)の一派(いつぱ)牛頭山(ごづせん)の法(ほふ)を受(うけ)伝(つたへ)られけり。素(もとよ)り最澄(さいてう)
日本にて行表和尚(ぎやうへうおせう)より北宗(ほくそう)神秀(しんしう)の禅法(ぜんほふ)を学(まなび)得(え)しゆへ翛然(しゆくねん)と問答(もんどふ)にて禅(ぜん)
の要義(ようぎ)を尋(たづね)求(もと)め頗(すこぶ)る領解(れうげ)する所(ところ)多(おほ)く悦(よろこ)ばれけり斯(かく)て其次(そのつぎ)の年 遣唐使(けんとうし)
帰朝(きてう)あるにより同船(どうせん)して出帆(しゆつはん)せられける。此時(このとき)空海(くうかい)は猶(なを)唐土(とうど)に留(とま)られけり。偖(さて)延暦(えんりやく)

二十四年の夏(なつ)帰朝(きてう)し。八月に京師(みやこ)へ入 参内(さんだい)ありて竜顔(りうがん)を拝(はい)し唐土(とうど)にて得(う)る所(ところ)
の経論疏記(きやうろんそき)二百三十 余部(よぶ)并(ならびに)五百 巻(くわん)また金字(きんじ)の法華経(ほけきやう)は金剛般若経(こんがうはんにやけう)
智者大師(ちしやだいし)の禅鎮(ぜんちん)。白角如意(はくかくのによい)等(とう)を献(けん)じられければ。帝(みかど)大いに睿感(ゑいかん)在(ましま)し最(さい)
澄(てう)が入唐(につとう)して天台(てんだい)の諸(しよ)典藉(てんせき)を授(さづか)りて帰(かへり)しは。仏法(ぶつほふ)興行(かうげう)にとりて比類(ひるい)なき勲(くん)
功(かう)なりとて国師号(こくしがう)を給(たま)はり。彼(かの)諸(しよ)典籍(てんせき)は天下に流布(るふ)すべきため禁中(きんちう)の上紙(じやうし)を
給(たま)はりて和気弘世(わけのひろよ)に命(めい)ぜられ学生(がくせい)の能書(のふじよ)を集(あつめ)て写(うつ)させ給ひけり。斯(かく)て最澄(さいてう)は
倍(ます〳〵)丹誠(たんせい)を凝(こら)して天台派(てんだいは)を世(よ)に弘(ひろ)め後(のち)。嵯峨(さが)天皇の弘仁(かうにん)十三年二月 帝(みかど)の御(ご)
宸翰(しんかん)にて伝灯法師(でんとうほふし)の記を賜(たまは)り。同年(どうねん)六月 遷化(せんげ)せられけり。寿(ことぶき)五十六才也
最澄(さいてう)著述(ちよじゆつ)の書(しよ)多(おほ)し。人皇(にんわう)五十六代 清和(せいわ)天皇の貞観(でうぐわん)八年八月 伝教大師(でんぎやうだいし)
と謚号(おくりがう)を賜(たまは)りけり。天台宗(てんだいしう)の末世(まつせ)まで繁昌(はんじやう)するは。偏(ひとへ)に此大師(このだいし)の法徳(ほふとく)による所(ところ)なりけり
扶桑皇統記後篇巻之一終






扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之二目録
 山城国(やましろのくに)鞍馬寺(くらまてら)開基(かいき)      峰延法師(ほうえんほふし)《振り仮名:退_二治大蛇_一|だいじやをたいぢす》条
 奥州(おうしうの)夷賊(いぞく)蜂起(ほうき)宦軍(くわんぐん)敗績(はいせき)   重而(かさねて)東征使(とうせいし)下向(げかふ)条
 鞍馬(くらま)の峰延(ほふえん)法力(ほふりき)を以(もつ)て大蛇(たいしや)を退治(たいぢ)する図(▢)
 《振り仮名:感_二霊夢_一大養得_二奇子_一|れいむをかんじておほかいきしをうる》     坂上田村丸(さかのうへのたむらまる)《振り仮名:遇_二延鎮_一伝|えんちんにあふでん》
 宦軍(くわんぐん)《振り仮名:与_二夷賊_一于_二奥州_一合戦|いぞくとおうしうにかつせんす》  田村丸(たむらまる)武勇(ぶゆう)《振り仮名:討_二大熊丸_一|おほくまゝるをうち》条
 田村丸(たむらまる)明智(めいち)賊(ぞく)の幻術(けんじゆつ)を挫(くじ)き賊将(ぞくしやう)大熊丸(おほくまゝる)を討(うつ)図

 毘沙門(びしやもん)地蔵(ぢざう)の二尊(にそん)雲中(うんちう)に顕(あらは)れ田村丸(たむらまる)が軍(いくさ)を援(たすけ)給ふ図(づ)其二
 延鎮(えんちん)《振り仮名:語_二両脇士奇特|りやうわきしのきどくをかたる》【恃は誤記】 田村丸(たむらまる)《振り仮名:建_二立清水寺_一|せいすいじをこんりうす》条
 乾臨閣(けんりんかく)御遊(ぎよいう)緒継(をつぎ)昇進(しやうしん)        老人星(らうじんせい)出現(しゆつけん)大赦(たいしや)事
 平城天皇(へいぜいてんわう)御即位(ごそくゐ)《割書:并》譲位(じやうゐ)       嵯峨天皇(さがてんわう)受禅(じゆぜん)南都擾乱(なんとじやうらん)
 天皇(てんわう)加茂(かもの)斎院(さいゐんへ)御幸(みゆき)         有智子(うちし)斎院(さいゐん)詩作(しさく)条
 浅山玄吾(あさやまげんご)《振り仮名:遭_二盗難_一入水|とうなんにあふてじゆすいす》      漁父(ぎよふ)兵太(ひやうだ)湖上(こじやう)《振り仮名:助_二浅山_一|あさやまをたすく》事【一点脱】
 浅山玄吾(あさやまげんご)湖水(こすい)に陥(おちい)り漁父(ぎよふ)の為(ため)に一命(いちめい)を助(たすか)る図(づ)       終

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之二
            浪華 好華堂野亭参考
     山城国(やましろのくに)鞍馬寺(くらまでら)開基(かいき)  峰延法師(ほうえんほふし)《振り仮名:退_二治大蛇_一|だいじやをたいじす》条
粤(こゝ)に大中(だいちう)大夫(たいふ)藤原伊勢人(ふじはらのいせんど)といふ人あり。仏道(ぶつどう)に皈依(きえ)して深(ふか)く観音菩薩(くわんおんぼさつ)を
信仰(しんかう)し。何卒(なにとぞ)一個(いつこ)の霊地(れいち)を得(え)て仏堂(ぶつどう)を建立(こんりう)し。観音(くわんおん)の尊像(そんぞう)を安置(あんち)せば
やと多年(たねん)心(こゝろ)に思暮(おもひくらし)けるに。延暦(えんりやく)九年 冬(ふゆ)十月 頃(ころ)一夜(あるよ)の夢(ゆめ)に。偶然(ぐうぜん)として洛北(らくほく)の
山中(さんちう)へ行(ゆき)しところ。白髪(はくはつ)の老翁(らうおう)一人 出来(いできた)り伊勢人(いせんど)に告(つげ)て曰(いはく)。此(この)山は天下 無双(ぶそう)の
霊地(れいち)にて。山の形(かたち)三 鈷杵(こしよ)に似(に)て常(つね)に五 色(しき)の雲(くも)靉靆(たなひけ)り。你(なんじ)此地(このち)に仏場(ぶつぢよう)を開(ひらか)
ば其(その)利益(りやく)広大(くわうだい)にて福(さいはひ)を得(うる)事 無量(はかりなかる)べしと示(しめ)しけるにぞ伊勢人(いせんど)大いに怡(よろこ)び
再拝(さいはい)して尊翁(そんおう)は何人(なにびと)にて在(ましま)すやと問(とひ)けるに。翁(おきな)答(こたへ)て。予(われ)は是(これ)王城(わうぜう)の鎮守(ちんじゆ)貴(き)
船(ぶね)明神(めうじん)なりと告(つげ)給ふと見て夢(ゆめ)は覚(さめ)ける。伊勢人(いせんど)霊夢(れいむ)の御 告(つげ)を感悦(かんえつ)する

といへども。其夢(そのゆめ)に見し山は何所(いづこ)なる事を記憶(おぼへ)ず。是(これ)に依(よつ)て思煩(おもひわづら)ひけるが。つく
〴〵思惟(しあん)【「しゐ」或は「しい」とあるところ】し。それ馬(むま)は霊獣(れいじう)にてよく路(みち)を知(しる)とかや。我(わが)騎(のる)ところの白馬(はくば)はよく我(わが)心(こゝろ)に
合(かなひ)し名馬(めいば)なり。渠(かれ)を追放(おひはな)して夢(ゆめ)に見し霊地(れいち)を尋(たづね)しめば。若(もし)くは彼地(かのち)を知事(しること)も
有(あら)んかとて。件(くだん)の白馬(はくば)を曳出(ひきいだ)し。鞍(くら)を置(おき)轡(くつわ)を噛(かま)せ。偖(さて)馬(むま)に向(むか)ひ古(いにしへ)の《振り仮名:[竹+宦]|くわん》仲(ちう)が馬(むま)
は雪中(せつちう)に路(みち)を知(しつ)て諸軍(しよぐん)を導(みちび)き帰(かへり)しとぞ。你(なんじ)も我(わが)夢(ゆめ)に見(み)し山中(さんちう)を尋(たづ)ねて
知(しら)しめよと言聞(いひきか)せ。一人の童子(どうじ)を馬(むま)に随(したが)はしめて追放(おいはな)しけるに。白馬(はくば)は京城(みやこ)の北(きた)へ
走(はし)り遙(はる)〱(〴〵)と川(かは)を渡(わた)り谷(たに)を過(すぎ)て一 座(ざ)の山に到(いた)り。叢(くさむら)の中(うち)に留(とゞま)りて数声(すせい)嘶(いなゝ)き
けるゆへ童子(どうじ)其地(そのち)に標(しるし)を立置(たておき)馬(むま)を曳(ひい)て立(たち)かへり。伊勢人(いせんど)に斯(かく)と告(つげ)ければ。大いに
怡(よろこ)び童子(どうじ)を引路(あない)として其地(そのち)へいたり四辺(あたり)を巡見(めぐりみる)に。恰(あたか)も夢(ゆめ)に見(み)たるところと些(すこし)も
違(たが)はず。伊勢人(いぜんど)白馬(はくば)の霊識(れいしき)を感(かん)じ。山中(さんちう)を徘徊(はいくわい)するに。草茅(くさはら)の中(なか)に於(おい)て毘沙(びしや)
門天(もんでん)の像(ぞう)を拾(ひろひ)得(え)たり。伊勢人(いせんど)奇特(きどく)の事に思(おも)ひ立帰(たちかへつ)て工匠(かうせう)に命(めい)じ彼地(かのち)に一

宇(う)の寺(てら)を建立(こんりう)し。拾(ひらひ)得(え)たる毘沙門天(びしやもんてん)の像(ぞう)を安置(あんち)し。鞍(くら)置(おき)たる馬(むま)の知(しら)せし地(ち)なれ
ばとて鞍馬寺(くらまでら)と号(がう)しける《割書:獅子頭(しゝづさん)とも|又松尾山とも云》然(しかる)に伊勢人(いせんど)思(おも)ひけるは。我(われ)多年(たねん)観音(くわんおん)の像(ぞう)
を安置(あんち)せん志願(しぐわん)なりけるに。毘沙門天(びしやもんでん)の像(ぞう)を得(え)しを以(もつ)て一 寺(じ)を建立(こんりう)するといへ
ども。いまだ旧(もと)の宿願(しゆくぐわん)を果(はた)さずと。心 満足(まんぞく)せざるところに。其夜(そのよ)の夢(ゆめ)に天童(てんどう)一人 出(しゆつ)
現(げん)し你(なんじ)毘沙門天(びしやもんでん)を得(え)ていまだ念願(ねんぐわん)を果(はた)さずと思(おも)へども。観音(くわんおん)と毘沙門(びしやもん)名(な)は
異(こと)なれども其本(そのもと)同一体(どういつたい)なれば。你(なんじ)が念願(ねんぐわん)已(すで)に満足(まんぞく)せりと告(つげ)るとひとしく夢(ゆめ)覚(さめ)たり
伊勢人(いせんど)是(これ)によりて疑心(ぎしん)忽(たちま)ち解(とけ)悦(よろこぶ)こと限(かぎり)なし。然(され)ども後日(ごにち)に別(べつ)に一 寺(じ)を建立(こんりう)して
観音大士(くわんおんだいし)の像(ぞう)を安置(あんち)しける。今 鞍馬寺(くらまでら)の西(にし)なる観音院(くわんおんいん)是(これ)なり。斯(かく)て後(のち)諸(しよ)
人(にん)鞍馬寺(くらまでら)の多門天(たもんでん)を信(しん)じ祈(いの)るに霊験(れいげん)灼然(あらた)なる事 響(ひゞき)の物(もの)に応(おふ)ずるが如(ごと)く祈(き)
願(ぐわん)として成就(じやうじゆ)せずといふ事なく。殊更(ことさら)富貴(ふうき)を与(あたへ)給ふ事 端的(たんてき)なれば貴賎(きせん)の参詣(さんけい)日(にち)
〱(〳〵)に絶(たゆ)る事なし。後年(こうねん)峰延法師(ほうえんほふし)とて勇猛(ゆうみやう)精進(しやうじん)の僧(そう)鞍馬寺(くら▢▢ら)【▢部は虫食い 注】に住侶(ぢうりよ)しけるに

【注 別本に「くらまでら」。】

其比(そのころ)後(うしろ)の山の溪間(たにま)に大蛇(だいじや)栖(すん)で時々(をり〳〵)寺僧(じそう)土民(どみん)を呑喰(のみくらひ)其(その)害(がい)に遭(あふ)者(もの)少(すくな)からざれ
ば僧俗(そうぞく)とも大いに是(これ)を愁(うれ)ひける。峰延(ほうえん)此(この)妖㜸(ようけつ)を退(しりぞけ)んと六月廿日 後堂(こうどう)に於(おい)
て大護摩(だいごま)を修(しゆ)せられけるに。日中(につちう)の比(ころ)暴風(ぼうふう)俄(にはか)に吹起(ふきおこ)り北嶺(きたのみね)より件(くだん)の大蛇(だいじや)岩(いは)を
動(うごか)し樹(き)を仆(たを)して出来(いできた)りぬ。其(その)体(てい)眼(まなこ)は鏡(かゞみ)の如(ごと)く紅(くれない)の舌(した)は火焔(くわゑん)に一般(さもに)たり。侍者(ぢしや)の
僧(そう)大いに駭(おどろ)き恐(おそ)れ師(し)を捨(すて)て逃走(にげはし)り仆伏(たをれふす)。峰延(ほうえん)些(ちつ)とも動(どう)ぜず頻(しきり)に毘沙門天(びしやもんでん)
の真言(しんごん)を誦(じゆ)せられければ不思議(ふしぎ)や一天に黒雲(くろくも)群(むらが)り起(おこ)り怒風(どふう)砂石(しやせき)を吹捲(ふきまく)と
ひとしく彼(かの)大蛇(だいじや)忽(たちま)ち叚々(ずだ〳〵)【注】に斬(きら)れて死(し)したりけり。其後(そのゝち)諸人(しよにん)馳(はせ)集(あつま)りて見るに。血(ち)は
流(なが)れて河水(かはみづ)のごとく切(きら)れし肉(にく)は岳(おか)の如(ごと)し。是(これ)偏(ひとへ)に峰延和尚(ほうえんおしやう)の行力(ぎやうりき)にて毘沙門天(びしやもんでん)
の威(い)神力(じんりき)を顕(あらは)し玉ふところなると。諸人(しよにん)感(かん)じ怡(よろこ)びける。偖(さて)土人(どじん)四五十人 寄(より)大蛇(だいじや)の
死肉(しにく)を静原山(しづはらやま)へ運(はこ)ひ棄(すて)けり。それより其地(そのち)を大虫峰(おほむしのみね)とぞ称(せう)しける。今にいたる
まで六月廿日に竹切(たけきり)といへる行事(ぎやうじ)を修(しゆ)するは彼(かの)大蛇(だいじや)を斬(きり)し遺意(いい)也(なり)とかや

【注 「段々」の誤記ヵ。別本に「段々」とあり。】

     奥州(おうしうの)夷賊(いぞく)蜂起(ほうき)宦軍(くわんぐん)敗績(はいせき)  重而(かさねて)東征使(とうせいし)下向(げかう)条
桓武天皇(くわんむてんわう)平安城(へいあんぜう)の新宮(しんきう)に遷幸(せんかう)【迁は俗字】なし給ひし後(のち)菅原真道(すがはらのまみち)。藤原葛野麻呂(ふぢはらのかどのまろ)等(ら)に
命(あふせ)【「おほせ」とあるところ】て。新都(しんと)の内(うち)に於(おい)て公卿(こうけい)百宦(ひやくくわん)の宅地(たくち)を割定(わりさだめ)て領(りうち)与(あたへ)させ給ふにより。百宦(ひやくくわん)百
司(し)大いに悦(よろこ)び各(おの〳〵)居宅(きよたく)を構(かまへ)て移住(いぢう)しければ。奈良(なら)長岡(ながおか)等(とう)の士農工商(しのうかうせう)も同(おな)じく
我先(われさき)にと新都(しんと)へ引移(ひきうつ)りけるゆへ。都(みやこ)の繁昌(はんじやう)たとへなく。最(いと)賑(にぎは)しく穏(おだやか)なりけるに。忽(たちま)
ち東国(とうごく)より急馬(はやむま)追々(おひ〳〵)に蒐着(かけつけ)。奥州(おうしう)に大熊麻呂(おほぐままろ)と申 夷賊(いぞく)蜂起(ほうき)して郡県(ぐんけん)を刧(おびや)
かし掠(かす)め。其(その)逆威(ぎやくい)猛烈(もうれつ)なるがゆへ国司(こくし)も制(せい)する事 能(あた)はず一 国(こく)の騒動(そうどふ)以(もつて)の外(ほか)にて
候 間(あひだ)急(いそ)ぎ征討(うつて)の大将(たいせう)を下(くだ)し給(たま)はるべしとぞ訴(うつた)へける。帝(みかど)大いに駭(おどろ)かせ給ひ。群臣(ぐんしん)を
召(めさ)れて御 評議(ひやうぎ)の上 参議(さんぎ)紀古佐美(きのこさみ)を征東大将軍(せいとうたいせうぐん)に任(にん)じて節刀(せつとう)を賜(たまは)り高(たか)
田道成(たみちなり)を副将軍(ふくせうぐん)とし。池田真牧(いけだままき)を中軍(ちうぐん)の別将(べつせう)とし安倍墨縄(あべのすみなは)を先陣(せんぢん)と定(さだ)
め宦軍(くわんぐん)一万 騎(ぎ)を授(さづ)け給ひけり。是(これ)に依(よつ)て諸将(しよせう)勅命(ちよくめい)を奉(うけたま)はり花(はな)やかに軍装(ぐんそう)を

【両丁挿絵】
【右丁 囲み中の文字】
鞍馬(くらま)の
峰延(ほうえん)法力(ほうりき)
 をもつて
大蛇(だいじや)を
  退治(たいぢ)す


     峰延

整(とゝの)へ節刀使(せつとし)の大旗(おほばた)を真先(まつさき)に押立(おしたて)東(ひがし)に向(むかふ)て首途(かどで)の鏑(かぶらや)三 度(ど)放(はな)して意気(いき)
揚々(やう〳〵)として都(もやこ)を進発(しんばつ)しけるは。さも勇(いさ)ましく見えにける。斯(かく)て宦軍(くわんぐん)奥州(おうしう)に下(げ)
着(ちやく)し国人(くにんど)に案内(あない)させ。衣川(ころもがは)の此方(こなた)に陣営(ぢんゑい)を構(かまへ)賊軍(ぞくぐん)を一 戦(せん)に蹴散(けちら)さんと軍(いくさ)
立(だて)を定(さだ)め四五日 兵馬(へいば)の疲労(ひらう)を休(やす)め已(すで)に三 軍(ぐん)労(つかれ)を忘(わすれ)ければ。さらば明日(めうにち)一 戦(せん)
を催(もよほ)さんと宵(よひ)より準備(ようい)【准は俗字】をなし暁方(あかつき)に兵糧(ひやうらう)をつかひ。朝霧(あさぎり)いまだ霽(はれ)ざるうち
より先陣(せんぢん)二 陣(ぢん)段々(だん〴〵)に押出(おしいだ)し衣川(ころもがは)の岸(きし)までいたり川向(かはむかふ)を見わたせば。賊軍(ぞくぐん)已(すで)に
出張(しゆつてう)せしと覚(おぼ)しく。川霧(かはぎり)深(ふか)く立籠(たてこめ)【篭は俗字】たる中(うち)より。楯(たて)を敲(たゝ)き箙(ゑびら)を鳴(なら)して喊(とき)を
噇(どつ)とぞ発(つくり)ける宦軍(くわんぐん)是(これ)を聞(きゝ)偖(さて)は賊徒(ぞくと)北岸(ほくがん)へ出張(しゆつてう)せしぞ一 戦(せん)に蹴散(けちら)せよと
いまだ大将(たいせう)の下知(げぢ)もなきに。逸雄(はやりを)の若者(わかもの)ども同(おなじ)く鬨(とき)を合(あは)し。川岸(かはぎし)に立並(たちなら)んで
鏃(やじり)を揃(そろへ)て雨(あめ)のごとく矢(や)を射(い)ければ賊方(ぞくがた)よりも矢(や)を射返(いかへ)し互(たがひ)に矢軍(やいくさ)に時(とき)を
うつす内(うち)霧(きり)しだひに霽(はれ)わたりけるゆへ。先陣(せんぢん)墨縄(すみなは)の麾下(はたした)会津壮麻呂(あいづのさかりまる)大伴(おほとも)

五百継(いほつぐ)等(ら)何時(いつ)まで矢種(やだね)を費(ついや)すべき。只(たゞ)打渡(うちわたつ)て蹴散(けちら)せよと犇(ひしめ)き三百 騎(き)
五百 騎(き)追々(おひ〳〵)に川を渡(わた)り太刀(たち)抜連(ぬきつれ)喊(とき)を発(つくつ)て打てけれども楯(たて)の蔭(かげ)にひかへし
賊軍(ぞくぐん)鬨(とき)をも合(あは)さず静(しづま)り反(かへつ)て在(あり)ければ。宦軍(くわんぐん)も敵(てき)に謀計(はかりこと)ありやと疑(うたか)ひ少時(しばらく)
猶予(ためらひ)ける。元来(くわんらい)賊将(ぞくせう)大熊丸(おほくままる)の幕下(ばつか)に智才(ちさい)の者(もの)有(あつ)て。京軍(きやうぐん)を欺(あざむ)かんと多(おほ)く
藁(わら)木偶(にんぎよ)を造(つく)り。紙(かみ)にて甲冑(かつちう)を作(こしらへ)て着(きせ)旌(はた)旗(のぼり)も紙(かみ)を以(もつ)てし。大 勢(ぜい)屯(たむろ)せし体(てい)に
もてなし。其後(そのうしろ)に二百人ばかりの士卒(しそつ)をおき。仮(かり)に喊(とき)を発(つく)り矢(や)を射(い)させたるにて。京
軍(ぐん)の川をわたる時分(じぶん)は。賊兵(ぞくへい)皆(みな)退(しりぞ)き。山蔭(やまかげ)杜中(もりのうち)などに埋伏(まいふく)せしなり。宦軍(くわんぐん)は
敵(てき)にかゝる偽(いつはり)の計(はかりこと)ありともしらず。よしや敵(てき)に少(せう)〱(〳〵)の謀計(ばうけい)ありとも何程(なにほど)の事か有(ある)
べき。かゝれや伐(うて)やと呼(よば)はり勢(いきほ)ひ猛(たけ)く鋒(きつさき)を揃(そろへ)て打(うつ)てかゝれば。素(もとよ)り藁(わら)木偶(にんぎよ)のこと
ゆへ。太刀(たち)の当(あた)らぬさきに。ばらり〳〵と仆(たを)れけるにぞ。京軍(きやうぐん)是(これ)をよく〳〵見れば皆(みな)藁(わら)
土偶(にんぎよ)なり。是(これ)によりて衆卒(みな〳〵)大いに腹(はら)を立(たて)悪(にく)き賊徒(ぞくと)の謀計(ばうけい)かなとて蹴散々々(けちらし〳〵)

かけ抜(ぬけ)て向(むかふ)を見れば。山根(やまぎは)に旌旗(せいき)を飜(ひるがへ)して賊軍(ぞくぐん)屯(たむろ)せし体(てい)なれば。あれ伐散(うちちら)せよ
と駈(かけ)り行(ゆく)先陣(せんぢん)の大将(たいせう)墨縄(すみなは)も賊(ぞく)に欺(あざむか)れしを憤(いきどふ)り。味方(みかた)に続(つゞい)て馳(はせ)いたりけるに。是(これ)
もまた空陣(くうぢん)なりければ。衆兵(みな〳〵)惘(あきれ)はて。長途(てうど)を励(はげ)しく駈(かけ)て人も馬(むま)も疲(つか)れけるゆへ
勢(せい)を立(たて)て少時(しばらく)息(いき)を休む(やすむ)るところに思(おも)ひもよらぬ山蔭(やまかげ)より一千 騎(き)余(あまり)の賊兵(ぞくへい)殺(さつ)
出(しゆつ)し衣川(ころもがは)の北岸(ほくがん)に群(むらが)り京軍(きやうぐん)の帰(かへ)る路(みち)を切塞(きりふさぎ)けるにぞ。京軍(きやうぐん)駭(おどろ)き須波(すは)敵(てき)は
彼所(かしこ)へ出(いで)て帰(かへ)る路(みち)を塞(ふさぎ)しぞ。憎(にく)さも憎(にく)し一人も余(あま)さず鏖(みなごろし)にせよと呼(よば)はり駈向(かけむか)は
んとする内(うち)に此所(こゝ)彼所(かしこ)の杜(もり)林(はやし)竹藪(たけやぶ)なんどより。二百 騎(き)三百 騎(き)の賊兵(ぞくへい)追々(おひ〳〵)に起(おこ)
り立(たち)労(つかれ)果(はて)て隊(そなへ)も立(たて)ざる宦軍(くわんぐん)に矢(や)を射(い)かけ喊(とき)を発(つくつ)て伐(うつ)てかゝる宦軍(くわんぐん)又 是(これ)に
駭(おどろ)きながら物々(もの〳〵)しやと敵(てき)にわたり合(あひ)鎬(しのぎ)を削(けづ)つて戦(たゝか)ふといへども。不意(ふい)を打(うた)れて心 周(あは)
障(て)隊(そなへ)乱(みだ)れて見えける所(ところ)に。又 賊将(ぞくせう)大熊丸(おほくまゝる)一千 騎(ぎ)将(ひい)て山 蔭(かげ)より殺出(さつしゆつ)し宦(くわん)
軍(ぐん)を中(なか)にとり籠(こめ)雨(あめ)の如(ごと)く矢(や)を射(い)かけ喚(おめ)き叫(さけ)んで攻立(せめたて)けるにぞ。宦軍(くわんぐん)弥(いよ〳〵)戦(たゝか)ひ難(なん)








義(ぎ)となり隊(そなへ)散乱(さんらん)して手負(ておひ)戦死(うちじに)数(かづ)をしらず。会津壮丸(あひづのさかりまる)。大伴五百継(おほとものいほつぐ)を先(さき)として究(くつ)
竟(けう)の勇士(ゆうし)十 余(よ)人 戦死(うちじに)し墨縄(すみなは)も矢(や)を二筋(ふたすじ)射付(いつけ)られ這々(はふ〳〵)の体(てい)にて敗走(はいそう)しける。賊軍(ぞくぐん)
は勝(かつ)に乗(のつ)て八 方(ぱう)より揉立(もみたて)けるにぞ。宦軍(くわんぐん)は総敗軍(そうはいぐん)となり。恥(はぢ)【耻は俗字】を知(しつ)たる武士(ぶし)は乱(らん)
軍(ぐん)の中に戦死(うちじに)し。或(あるひ)は敵(てき)と刺違(さしちがへ)て死(し)し。言甲斐(いひがひ)なきは敵(てき)に追捲(おひまく)られ川水(かはみづ)に溺(おぼ)
れ淵(ふち)に沈(しづ)んで死亡(しぼう)するも多(おほ)かりけり。二 陣(ぢん)の池田真牧(いけだまゝき)も先陣(せんぢん)を救(しくは)んと川岸(かはきし)迄(まで)
かけいたりしところ。北岸(ほくがん)の賊兵(ぞくへい)の為(ため)に散々(さん〴〵)に射痓(いすくめ)られ。且(かつ)敵(てき)の伏兵(ふくへい)起(おこ)りて不意(ふい)に
伐立(うちたて)けるゆへ此隊(このそなへ)も散々(さん〴〵)に敗軍(はいぐん)し。三 陣(ぢん)の高田道成(たかだみちなり)是(これ)を救(すくは)んとて駈付(かけつけ)同(おな)じく賊軍(ぞくぐん)
の伏兵(ふくへい)に囲(かこ)まれ主将(しゆせう)道成(みちなり)戦死(せんし)し士卒(しそつ)も多(おほ)く討(うた)れて敗走(はいそう)しけり。総大将(そうたいせう)紀古佐美(きのこさみ)
味方(みかた)の敗軍(はいぐん)を聞(きい)て是(これ)を救(すくは)んとするに。早(はや)追(おひ)〱(〳〵)味方(みかた)の敗卒(はいそつ)逃来(にげきた)り。味方(みかた)総敗軍(そうはいぐん)
となりし事なれば。今は御 皈陣(きぢん)あるべしと言(いひ)けるにより敗軍(はいぐん)を収(おさめ)て国府(こくふ)まで退(しりぞ)き勢(せい)
を点検(てんけん)するに。死亡(しぼう)の者二千五百 余(よ)人 手負(ておひ)千二百余人に及(およ)び。敵(てき)の首(くび)を討取(うちとる)事

百五十 級(きう)にも足(たら)ざりければ。三 軍(ぐん)大いに気(き)を屈(くつ)し。再(ふたゝ)び戦(たゝか)ふ義勢(ぎせい)もなく二十日(はつか)許(ばかり)引(ひき)
籠(こも)りて徒(いたづら)に軍(いくさ)の評議(ひやうぎ)にのみ日(ひ)を送(おく)りければ。賊徒(ぞくと)は京軍(きやうぐん)を謾(あなど)り軽(かろ)んじ恣(ほしいまゝ)に横行(わうげう)
して郡郷(ぐんけう)を刧(おびやか)し掠(かす)めけるゆへ日(にち)〱(〳〵)宦軍(くわんぐん)の陣(ぢん)へ訟(うつたへ)る者 絶間(たへま)なし。是(これ)に依(よつ)て古佐美(こさみ)
諸将(しよせう)と商議(しやうぎ)し出陣(しゆつぢん)して戦(たゝか)ひを挑(いど)むといへども。毎度(まいど)賊(ぞく)の謀計(ばうけい)に陥(おちい)りて敗軍(はいぐん)し
只(たゝ)兵(へい)を折(くじ)くのみなれば。終(つひ)に奥州(おうしう)の在陣(ざいぢん)叶(かな)はず。すご〳〵と京都(きやうと)へ逃(にげ)上(のぼ)りける。帝(みかど)大に
逆鱗(げきりん)在(ましま)し大将軍(たいせうぐん)古佐美(こさみ)を召出(めしいだ)されて。軍慮(くんりよ)拙(つたな)く見苦(みぐるし)き敗軍(はいぐん)して多(おほ)く兵(へい)を
折(くじ)きたる罪(つみ)を責(せめ)給ひけるに。古佐美(こさみ)恐入(おそれいり)先陣(せんぢん)墨縄(すみなは)敵(てき)を軽(かろ)んじ。慮(おもんはか)りなく敵(てき)の
謀計(ばうけい)に中(あた)り兵士(へいし)を多(おほ)く折(くじ)きしゆへ。味方(みかた)鋭気(ゑいき)を屈(くつ)し其(それ)より兵勢(へいせい)弱(よは)り敗績(はいせき)せし
趣(おもむ)きを奏(そう)しけるにより。帝(みかど)漸(よふや)く古佐美(こさみ)が罪(つみ)を宥(ゆる)して閉居(へいきよ)せしめ給ひ。真牧(まゝき)墨縄(すみなは)の
両人(りやうにん)が宦(くわん)を剥(はい)で追放(ついほう)させ給ひけり。其後(そのゝち)又 文武(ぶんぶ)の諸臣(しよしん)を召集(めしあつめ)給ひて東夷(とうい)を征(せい)
伐(ばつ)せしむべき大将(たいせう)を誰彼(たれかれ)と御 評議(ひやうぎ)あり。衆議(しゆうぎ)に依(よつ)て。大伴弟麻呂(おほとものおとまろ)を征東大(せいとうたい)

将軍(しやうぐん)に任(にん)じ。百済王(くだらわう)俊哲(しゆんてつ)。藤原真鷲(ふぢはらのまわし)。坂上田村麻呂(さかのうへたむらまる)三人を副将軍(ふくせうぐん)と定(さだ)め給ひ
宦軍(くわんぐん)一万二千 騎(ぎ)を授(さづ)け急(いそ)ぎ奥州(おうしう)へ馳(はせ)下(くだ)り兇徒(けうと)を不日(ふじつ)に誅伐(ちうばつ)すべしとの宣命(せんじ)
を下され。猶(なを)また東海(とうかい)東山(とうさん)両道(りようどう)の国司(こくし)守護人(しゆごにん)へ。軍兵(ぐんびやう)を出(いだ)して東使(とうし)に加勢(かせい)す
べき旨(むね)を命(めい)じ給ひけり。大伴弟麻呂(おほともおとまろ)。俊哲(しゆんてつ)。真鷲(まわし)。田村丸(たむらまる)の四将(しせう)勅命(ちよくめい)を奉(うけたま)はりて
軍装(ぐんそう)美々(び〳〵)しく整(とゝの)へ。都(みやこ)を進発(しんばつ)して奥州(おうしう)へ揉(もみ)にもんでぞ下(くだ)りける
    《振り仮名:感_二霊夢_一大養得_二奇子_一|れいむをかんじておほかいきしをうる》 坂上田村丸(さかのうへたむらまる)《振り仮名:遇_二延鎮_一|えんちんにあふ》条
抑(そも〳〵)今度(こんど)東夷(とうい)征伐(せいばつ)の副将軍(ふくせうぐん)に任(にん)ぜられたる中(うち)の一人 坂上田村丸(さかのうへたむらまる)といへるは。従三位(じふさんみ)右(ゑ)
衛門督(もんのかみ)坂上苅田丸(さかのうへかりたまる)の嫡男(ちやくなん)正四位上(せうしゐのぜう)大養(おほかひ)の子(こ)なり。大養(おほかい)年(とし)四 旬(じゆん)を超(こゆ)るまで一
子(し)なきを歎(なげ)き。夫婦(ふうふ)初瀬(はせ)の観音(くわんおん)に祈誓(きせい)をかけ七日(なぬか)参籠(さんろう)して。万望(なにとぞ)一子(いつし)を授(さづけ)
給へと信心(しん〴〵)を凝(こら)して祈(いの)りけるに。便生(べんせう)端正(たんせう)福徳(ふくとく)智恵(ちゑ)之男(しなん)の誓願(せいぐわん)空(むな)しからず
七日(なぬか)満(まん)ずる夜(よ)の暁(あかつき)の夢(ゆめ)に金甲(こがねのよろひ)を着(ちやく)し戟(ほこ)を携(たづさ)へし神人(しんじん)出現(しゆつげん)し大養(おほかい)の妻(つま)の

口中(かうちう)へ飛入(とびいり)給ふと見て夢(ゆめ)覚(さめ)けり。夫妻(ふさい)ひとしく夢(ゆめ)を語(かたり)合(あふ)にともに同(おな)じ夢(ゆめ)を見
しゆへ奇異(きい)の思(おも)ひをなし。是(これ)正(まさ)しく観音(くわんおん)薩垂(さつた)我徒(われ〳〵)の祈願(きぐわん)を納受(のふじゆ)在(ましま)し
一 子(し)を授(さづ)け給ふにこそと最(いと)頼母(たのも)しく思(おも)ひ。夫婦(ふうふ)仏前(ぶつぜん)に額着(ぬかづき)て。仏恩(ぶつおん)を拝謝(はいじや)
して下向(げかふ)しけるに。果(はた)して程(ほど)なく妻女(さいぢよ)妊娠(にんしん)し。十月(とつき)満(みち)て平(たいら)かに玉(たま)の如(ごと)き男子(なんし)
出生(しゆつせう)しける大養(おほかひ)夫婦(ふうふ)大いに怡(よろこ)び掌中(せうちう)の玉(たま)と鍾愛(いとをしみ)荒(あら)き風(かぜ)にも中(あたら)せじと慈(いつくし)み
育(そだて)けるに嬰児(みどりこ)の頃(ころ)より普通(ふづう)の小児(せうに)よりは大体(おほがら)にて常(つね)の児(こ)のごとく啼事(なくこと)なく
敢(あへ)て物(もの)駭(おどろき)せず無病(むびやう)にて健(すぐやか)に生立(おひたち)。六七才の頃(ころ)より手跡(しゆせき)を習(なら)ひ儒書(じゆしよ)を
読(よむ)に記憶(ものおぼへ)よく。一 度(ど)聞(きい)ては忘(わす)るゝ事なく才機(さいき)衆童(しゆうどう)に勝(まさ)り。且(かつ)又(また)力(ちから)甚(はな)はだ強(つよ)
く。七八才の頃(ころ)より血気(けつき)の若者(わかもの)も転(まろば)しかぬる大石(たいせき)を。小腕(こうで)にてよく持運(もちはこぶ)に更(さら)に
重(おも)げなる色(いろ)も見えざれば。諸人(しよにん)驚嘆(きやうたん)し奇童(きどう)なりと称(せう)しける。父(ちゝ)大養(おほかひ)も奇(き)
なりと感(かん)ずる事 度々(どゝ)有(あり)けるゆへ。実(げに)も観音(くわんおん)の授(さづけ)給ひし子(こ)なれば。尋常(よのつね)の小(せう)

児(に)とは異(こと)なるべしと思(おも)ひ。いよ〳〵寵愛(てうあい)し大切(たいせつ)にぞ育(そだて)ける。然(しかる)に一時(あるとき)大養(おほかひ)の許(もと)へ
興福寺(かうぶくじ)の僧(そう)来(きた)りて。田村丸(たむらまる)の人相(にんさう)骨法(ほねぐみ)を見 甚(はな)はだ奇(き)として。大養(おほかひ)に語(かたつ)て曰(いはく)。御(ご)
賢息(けんそく)の人相(にんさう)を看(み)候に。大いに好(よき)相(さう)あり後年(こうねん)必(かなら)ず天下に名(な)を轟(とどろ)かす名将(めいせう)と成(なり)
給ふべしと賞美(せうび)しければ。大養(おほかひ)深(ふか)く怡(よろこ)び謝(しや)して曰(いはく)。渠(かれ)は初瀬(はせ)の観音(くわんおん)に祈願(きぐわん)
をこめ授(さづか)りたる告児(まうしご)にて。其時(そのとき)の夢(ゆめ)に金(こがね)の甲冑(かつちう)を着(つけ)戟(ほこ)を持(もち)たる神人(しんじん)愚妻(ぐさい)の
口中(かうちう)へ飛入(とびいり)給ふと見(み)て程(ほど)なく妊胎(にんたい)し出生(しゆつせう)いたせしなりと語(かた)りけるに。僧(そう)聞(きい)て感嘆(かんたん)し
さればこそ普通(よのつね)の小児(せうに)とは異(こと)に見え給ふも理(ことは)りなり。其(その)神人(しん〴〵)は多聞天(たもんでん)にて即(すなは)ち観(くわん)
音(おん)三十三 身(しん)の中(うち)なる神将(しんせう)なりとて。田村丸(たむらまる)を礼拝(らいはい)して帰(かへ)られける。是(これ)より誰(たれ)いふとも
なく田村丸(たむらまる)を毘沙門天(びしやもんでん)の再誕(さいたん)なりと言触(いひふら)しけり。斯(かく)て田村丸(たむらまる)成長(せいてう)して年(とし)十八才
に及(およ)び身材(みのたけ)六尺三寸 胸板(むないた)の厚(あつさ)一尺二寸 鼻(はな)隆準(たかく)して眼光(めのひかり)星(ほし)の如(ごと)く。声(こゑ)鐘(つりがね)の如(ごとく)にて
十 里(り)に響(ひゞ)き。膂力(ちから)は底(そこ)をしらず。弓馬(きうば)打物(うちもの)の技(わざ)はいふも更(さら)なり。兵書(へいしよ)に通(つう)じ陣(ぢん)

法(ほふ)に精(くはし)く。殊(こと)に不測(ふしぎ)なるは身(み)を重(おも)くせんと欲(ほつ)する時(とき)は二百 斤(きん)《割書:三十二|貫目》に余(あま)り。軽(かる)くせんと
欲(ほつ)する時(とき)は六十 斤(きん)《割書:九貫|目》にも足(たら)ず。軽重(けいぢう)意(こゝろ)の欲(ほつ)する侭(まゝ)になり。眼(まなこ)瞋(いから)し気(き)を励(はげま)
して向(むか)ふ時(とき)は猛獣(もうじふ)も怖(おそれ)伏(ふし)。色(いろ)を和(やはら)げ咲(わらひ)語(かた)る時(とき)は小児(せうに)も馴親(なれしたし)みぬ。誠(まこと)に古今(こゝん)稀(まれ)
なる英雄(ゑいゆう)なれば。朝廷(てうてい)の御 覚(おぼへ)も他(た)に異(こと)にて。常(つね)に内裡(だいり)へ召(めさ)れて衛護(ゑいご)させ給ひけ
り。田村丸(たむらまる)は智勇(ちゆう)衆(しゆう)に秀(ひいで)たるのみならず。仏法(ぶつほふ)をも信仰(しんかう)し。殊更(ことさら)観音(くわんおん)を深(ふか)く
尊信(そんしん)せられけるに。一年(ひとゝせ)都(みやこ)の東山(ひがしやま)に遊猟(かりぐら)し。身体(しんたい)稍(やゝ)疲(つか)れければ。山中(さんちう)に一 軒(けん)の草(さう)
菴(あん)ありけるゆへ立入(たちいつ)て憩(いこ)はれしところ。菴主(あんしゆ)と覚(おぼ)しく一人の老僧(らうそう)経文(けうもん)を読誦(どくじゆ)して居(ゐ)
けるが。田村丸(たむらまる)の立入(たちいり)腰(こし)打(うち)かけらるゝを見て。経巻(けうくわん)をさし置(おき)。湯(ゆ)を汲(くみ)菓(このみ)を出(いだ)し懇(ねんごろ)に管(もて)
侍(なし)ける。田村丸(たむらまる)其(その)志(こゝろざ)しを感(かん)じ謝(しや)して。そも御僧(おそう)はかゝる人跡(じんせき)絶(たへ)たる山中(やまなか)に只(たゞ)一人 行(おこな)
ひすまし給ふ事いとも殊勝(しゆせう)の事かな。何国(いづく)の人にて在(ましま)すやと問(とは)れければ。老僧(らうそう)答(こたへ)て
拙僧(せつそう)は河内国(かはちのくに)の産(さん)にて法名(のりのな)を延鎮(えんちん)と号(がう)し候が。先年(せんねん)不思議(ふしぎ)の霊夢(れいむ)を感(かん)じ

淀川(よとかは)を泝(さかのほ)【沂は誤記】りて行(ゆき)候ひしに一 流(▢う)の枝河(えだがは)あり。是(これ)を望見(のぞみみ)候に水上(みなかみ)に金色(こんじき)の光(ひかり)粲然(さんせん)た
れば異(あやし)くおもひ。光(ひかり)を目当(めと)として流(ながれ)に添(そひ)遠(とふ)く山路(やまぢ)を分登(わけのぼ)り終(つひ)に当山(このやま)の滝(たき)泉
の下(もと)へ来(きた)り候に。側(▢▢▢▢)【別本に「かたはら」】に草(くさ)を結(むすび)たる菴(いほり)有(あつ)て一人の老翁(らうおう)身(み)に白衣(はくえ)を着(ちやく)し端座(たんさ)せり
其体(そのてい)頗(すこふ)る凡庸(たゝびと)ならず見え候ひしゆへ。拙僧(せつそう)其(その)姓名(せいめい)を尋(たづね)問(とひ)候ひしに。翁(おきな)答(こたへ)て。我(われ)は行(げう)
睿(ゑい)居士(こじ)といふ者なり。往年(そのかみ)より此(この)山間(さんかん)に隠栖(かくれすむ)こと年(とし)久(ひさ)しく。常(つね)に千手(せんしゆ)千眼(せんげん)の神咒(しんじゆ)を
称(となふ)るのみにて。世上(せじやう)の変(うつり)易(かはる)をしらず。我(われ)に一個(ひとつ)の願望(ぐわんまう)有(あつ)て你(なんし)を待(まつ)事 多年(たねん)なり。今(いま)
奇縁(きえん)熟(しゆく)して相会(あひあふ)事を得 怡悦(よろこび)に堪(たへ)ず。我(わが)宿願(しゆくぐわん)と謂(いつ)ぱ別(べつ)の義(き)ならず。当山(とうざん)
は観音(くわんおん)の道場(どうでう)となるべき無比(むひ)の霊地(れいち)なり。又 彼処(かしこ)に生(おひ)し老樹(らうしゆ)は無双(ぶそう)の霊
木(ぼく)なれば。彼木(かのき)を以(もつ)て観音の像(ぞう)を彫(きざ)まばやと思(おもへ)り。然(しか)るに我(▢れ)【わヵ】さる子細(しさい)有(あつ)て東(とう)
国(ごく)へ下(くだ)らで不叶(かなはさる)要務(ようむ)あり。依(より)て你(なんじ)我(われ)に代(かはり)て此(この)菴室(あんしつ)に住(すみ)観音(くわんおん)の道場(とうでう)を開(ひら)く
べき准備(こゝろ▢▢へ)【注】せよ我(▢▢)も程(ほと)なく帰(かへ)るべし。されども若(もし)我(わか)帰(かへ)る事 遅(おそ)くば你(なんじ)先(まづ)事を成(なし)

【注 別本に「こころがまへ」。】

始(はじめ)よと言終(いゝおは)り。翁(おきな)は別(わかれ)を告(つげ)て東方(とうばう)へ行去(ゆきさり)候ひき其(それ)より拙僧(せつそう)此(この)菴(あん)に住(ぢう)し春秋(はるあき)を
送(おく)る事二年に及(およべ)とも彼(かの)行睿(げうゑい)居士(こじ)敢(あへ)て帰(かへり)きたらず候ゆへ。余(あまり)に待(まち)わび所々(しよ〳〵)を尋
廻(めぐ)り候ひしに山(やま)科の東 牛尾(うしのを)山にて巌(いはほ)の上に老翁(らうおう)の履(はき)し沓(くつ)有(ある)を認(みとめ)候。茲(こゝ)に於(おいて)拙(せつ)
僧(そう)つら〳〵考(かんか)へ候は彼(かの)行睿居士と名告(なのり)し翁(おきな)は。観音(くわんおん)薩垂(さつた)【埵とあるところ】化身(けしん)にて。我に此
土地(とち)に道場(とうじやう)を開(ひら)【注①】かせ玉はんとの方便(はうべん)なりけりと始て悟(さと)り。此庵室へ立帰(たちかへ)り教(をしへ)に
任(まか)せ仏像(ふつそう)を刻(きざ)み寺院を建立(こんりう)せんと欲(ほつ)すれども。見給ふ如く年歴(としふり)たる老樹(らうじゆ)拙
僧が自力(じりき)に及(およぶ)べくもあらず。地形(ちげう)もまた樹木(じゅもく)陰森(いんしん)とし岩石 屹立(とがりたつ)【矻は誤記】て奈何(いかん)
ともする事 能(あた)はず只(たゞ)期(とき)のいたるを待んより外に施(ほどこ)すべき方便もなく。一向(ひたすら)に
観音経(くわんおんけう)と千手陀羅尼(せんじゆだらに)を誦(じゆ)して日を送り候ひしに。前夜(ぜんや)大いに風(かぜ)吹(ふき)強雨(がうう)降(ふり)
山(やま)鳴(なり)溪(たに)応(こたへ)震(しん)【注①】動(どう)する事 終夜(よもすがら)不止(やまず)暁方(あけがた)に漸(よふや)く風(かぜ)止(やみ)雨(あめ)収(おさま)り物音 静(しつま)り候
ゆへ今朝(こんてう)起出(おきいで)て見【注①】候へば樹木(じゆもく)悉(こと〴〵)く抜(ぬけ)仆(たを)れ。岩石(がんぜき)裂(さけ)碓(くたけ)【注②】て土地(とち)平面(たいらか)になり

【注① 文字の薄く消えている部分は別本により補填。】
【注② 碓は「うす」の意でくだける意はないが、「うす」からきた縁語で「くだける」意を連想したものか】

堂塔(どうたう)を建(たつ)る便(たよ)りを得(え)て候。是(これ)仏堂(ぶつどう)を造立(そうりう)すべき時節(じせつ)来(きた)り観音(くわんおん)の妙智(めうち)
力(りき)を以(もつ)て樹(き)を抜(ぬき)岩(いは)を頽(くづ)し給ひしならめと思(おも)ひ。山中(さんちう)を見巡(みめぐ)り候に巌(いはほ)の蔭(かげ)
に巨(おほい)なり【ママ 「る」とあるところか。 注】鹿(しか)一頭(いつひき)斃死(たほれし)して候ひき是(これ)前夜(せんや)観(くわん)【注】世音(ぜおん)の命(あふせ)を承(うけ)て樹(き)を抜(ぬき)岩(いは)を
頽(くづ)して労(つか)れ斃(たをれ)候ひしならめと思(おも)ひ彼所(かしこ)に埋(うづん)み印(しるし)に石(いし)を建(たて)《割書:今有 鹿(しか)|間塚(まづか)是也》置(おき)候と
いと長々(なか〳〵)と物語(ものがたり)ければ。田村丸(たむらまる)始終(しゞふ)を聞(きい)て深(ふか)く感(かん)じ。我(われ)も多年(たねん)観音(くわんおん)を
信仰(しんかう)し。土地(とち)を択(えら)み一 宇(う)の観音堂(くわんおんどう)を建立(こんりう)せんとおもふ事 久(ひさ)しけれども。いまだ其(その)
宿願(しゆくくわん)を遂(とげ)ず。然(しかる)に今日(けふ)不計(はからず)狩(かり)に出(いで)て此(この)山中(さんちう)に入。御僧(おそう)に面会(めんくわい)して右の物語(ものがたり)
を聞(きく)事 。偏(ひとへ)に観世音(くわんぜおん)の導(みちび)き遇(あは)しめ給ふところ成(なる)べし。我(われ)御僧(おそう)に力(ちから)を添(そへ)倶(とも)に
観音堂(くわんおんどう)を建立(こんりう)すべし。我(われ)皈宅(きたく)せば工匠(かうせう)人夫(にんぶ)を招(まね)き集(あつ)め。明日(めうにち)当山(とうざん)へさし越(こさ)
ん間。御僧(おそう)指揮(さしづ)して其(その)霊木(れいぼく)を伐(きら)せ。先(まづ)観音(くわんおん)の霊像(れいぞう)を彫(きざ)み給へと申されけるに
ぞ。延鎮(えんちん)大いに歓喜(くわんぎ)し。如斯(かくのごとく)なれば拙僧(せつそう)が年来(ねんらい)の願望(ぐわんもう)成就(じやうじゆ)せん事 何(なん)の疑(うたがひ)か

【注 国立国会図書館デジタルコレクション本には「る」とある。】
【文字の薄れた部分は別本により補填。】





あらんとゝ【注①】拝謝(はいじや)しければ。田村丸(たむらまる)堅(かた)く契約(けいやく)して私宅(したく)へ帰(かへ)り。其(その)翌日(よくじつ)多(おほ)くの工(かう)
匠(せう)人夫(にんぶ)并(ならび)に糧(かて)金銀(きんぎん)等(とう)を音羽山(おとはやま)の延鎮(えんちん)に送(おく)りけるにより。延鎮(えんちん)怡(よろこ)びに堪(たへ)
ず。彼(かの)老樹(らうじゆ)を伐(きら)せ。其(その)材(さい)を以(もつ)て御長(みたけ)八 尺(しやく)千手(せんじゆ)【千は手の誤記】千眼(せんげん)の観音(くわんおん)の霊像(れいぞう)を彫(てう)【ちに見えるは誤記 注②】
刻(こく)にぞかゝりける。然(しかる)に田村丸(たむらまる)今度(こんど)東夷(とうい)征伐(せいばつ)の副将軍(ふくせうぐん)の任(にん)を蒙(かふむ)りて大に悦(よろこび)
是(これ)先祖(せんぞ)の名(な)を引興(ひきおこ)し子孫(しそん)繁昌(はんぜう)の基(もとゐ)を開(ひら)く端(はし)なり。然(しかれ)ども仏(ぶつ)菩薩(ぼさつ)の加護(かご)を
祈(いのら)ずんば全(まつた)き勲功(くんかう)は立(たて)がたかるべしと思(おも)ひ。音羽山(おとはやま)なる延鎮(えんちん)の菴(いほり)へ詣(まうで)けるに。早(はや)
千手観音(せんじゆくわんおん)の像(ぞう)大半(たいはん)成就(ぜうじゆ)しければ。田村丸(たむらまる)大いに怡(よろこ)び延鎮(えんちん)に向(むか)ひ。我(われ)今般(こんはん)勅命(ちよくめい)に
依(よつ)て東夷(とうい)征伐(せいばつ)の副将軍(ふくせうぐん)の任(にん)を賜(たま)はりたり。師(し)我(わ)が為(ため)に観世音(くわんぜおん)に祈誓(きせい)して
味方(みかた)の利運(りうん)を祈(いの)り給へ。我(われ)も自([み]づから)願(ねが)はんとて。過半(くわはん)彫(きざみ)【注③】たる仏像(ぶつぞう)に向(むか)ひ礼拝(らいはい)し。願(ねかはく)は
大 慈(し)大 悲(ひ)観世音菩薩(くわんぜおんぼさつ)大威(い)神力(じんりき)を加(くはへ)て東夷(とうい)を安(やす)く夷(たいらげ)しめ給へ凱陣(かいぢん)の後(のち)は
堂塔(どうたふ)を建立(こんりう)し永(なが)く此地(このち)に鎮座(ちんざ)なし奉らんと。丹誠(たんせい)を凝(こら)して祈念(きねん)し。延鎮(えんちん)に

【注① 国立国会図書館デジタルコレクション本には「あらんとて」。】
【注② 国立国会図書館デジタルコレクション本には「てう」。】
【注③ 別本にて補填。】




別(わかれ)を告(つげ)て立帰(たちかへ)り。出陣(しゆつぢん)も用意(ようい)を整(とゝの)へ諸大将(しよだいせう)とともに東国(とうごく)へぞ下(くだ)られける
     宦軍(くわんぐん)《振り仮名:与_二夷賊_一于奥州合戦|いぞくとおうしうにかつせんす》  田村丸(たむらまる)武勇(ぶゆう)《振り仮名:討_二大熊丸_一|おほくまゝるうつ》条
去程(さるほど)に征東大使(せいとうたいし)大伴弟麻呂(おほとものおとまろ)。副将軍(ふくせうぐん)百済王(くだらわう)俊哲(しゆんてつ)。藤原真鷲(ふぢはらのまわし)。坂上田村(さかのうへたむら)
麻呂(まろ)等(とう)奥州(おうしう)を望(のぞ)んで下向(げかう)せられけるに。東海(とうかい)東山(とうせん)両道(りようどう)の軍勢(ぐんぜい)追々(おひ〳〵)に馳(はせ)加(くは)はり
陸奥(むつの)国府(こくふ)へ着到(ちやくとう)せらるゝ頃(ころ)は三万 余騎(よき)に及(および)ければ。諸大将(しよだいせう)大いに勇(いさ)み。要害(ようがい)の
地(ち)に数個所(すかしよ)の陣営(ぢんえい)を構(かま)へ逆茂木(さかもぎ)を植(うえ)兵糧(ひやうらう)を運(はこ)ばせ。今度(このたび)こそ夷賊(いぞく)の根(ね)
を断(たち)葉(は)を枯(からさ)んととり〴〵に軍議(ぐんぎ)をなし攻伐(かうばつ)の準(よう)【准】備(い)を急(いそ)がれける。時(とき)に射賊(いぞく)の首(かし)
領(ら)大熊丸(おほくまゝる)は去年の軍(いくさ)に打勝(うちかつ)てより。宦軍(くわんぐん)恐(おそ)るゝに不足(たらず)と慢(あなど)り軽(かろ)んじ。己(おの)が一時(いちじ)の
虎威(こい)を恃(たの)【特は誤記】みて州郡(しうぐん)を犯(おか)し掠(かす)め。驕奢(けうしや)を恣(ほしいまゝ)にし淫酒(いんしゆ)に長(てう)じて。傍若無人(ばうじやくぶにん)に挙止(ふるまひ)
けるに。又 蝦夷(ゑぞ)の島夷(しまゑびす)の巨魁(かしら)に高麻呂(たかまろ)。悪路王(あくろわう)といふ曲者(くせもの)二人ありて。幕下(ばつか)に属(ぞく)
する夷賊(いぞく)一万 余人(よにん)を従(したが)へ是(これ)も奥州(おうしう)へ乱入(らんにふ)して郡県(ぐんけん)を刧(おびやか)し掠(かす)め。大熊丸(おほぐままる)と一 手(て)

になり。いよ〳〵逆威(ぎやくい)を逞(たくま)しうし。其(その)勢(せい)凡(およそ)二万 騎(ぎ)に余(あま)り。然(しか)も悪路王(あくろわう)は霧(きり)を降(ふら)し
雲(くも)を起(おこ)す怪(あやし)き邪術(じやじゆつ)をさへ行(おこな)ひければ。たとへ京勢(きやうぜい)百万 騎(ぎ)ありとも。只(たゞ)一戦(いつせん)に蹴(け)
散(ちら)さん事いと易(やすし)と侮(あなど)り誇(ほこ)り。己(おの)が柵(さく)を出(いで)て宦軍(くわんぐん)の陣営(ぢんゑい)に向(むか)ひ広野(ひろの)に数(す)
箇所(かしよ)の屯(たむろ)をぞ構(かまへ)ける。宦軍(くわんぐん)の大将(たいせう)大伴弟麻呂(おほとものおとまろ)是(これ)を見て。悪(にく)き夷賊(いぞく)の挙止(ふるまひ)かな
味方(みかた)の猛勢(もうぜい)を見ば旗(はた)を伏(ふせ)冑(かぶと)を脱(ぬい)で降参(かうさん)するか。または遠(とふ)く逃退(にげしりぞ)くべきに。尚(なを)
も来(きた)つて虎(とら)の鬚(ひげ)を引(ひか)んとするぞ奇怪(きつくわい)なれ。早(はや)く馳(はせ)向(むか)ひ一 戦(せん)に伐散(うちちら)せよといき
まきけるを田村丸(たむらまる)諫(いさめ)て曰(いはく)。軍法(ぐんほう)にも小敵(せうてき)とて慢(あなど)るへからずと謂(いへ)り。増(まし)て賊兵(ぞくへい)小勢(こぜい)
にあらず。然(しか)も地(ち)の理(り)に委(くは)しければ軽(かろ)んじがたし。味方(みかた)は敵軍(てきぐん)より多勢(たせい)なれども。申
さば諸国(しよこく)の寄合勢(よりあひぜい)といひ。地(ち)の理(り)を委(くはし)く知(しら)ざれば。軽々(かる〴〵)しく軍(いくさ)を仕(し)かけなば。恐(おそ)ら
くは却(かへつ)て敗軍(はいぐん)し鉾先(ほこさき)に疵(きず)を付(つく)るに到(いた)り候べし。只(たゞ)陣営(ぢんゑい)を固(かた)く守(まも)り能(よく)〱(〳〵)敵(てき)の
虚実(きよじつ)を探(さぐ)り謀(はかりこと)を定(さだめ)て後(のち)彼(かれ)を伐(うた)んこそ上策(ぜうさく)にて候はんと制(せい)せられければ。弟麻(おとま)

呂(ろ)嘲(あざ)わらひ。貴殿(きでん)は名に聞えたる武勇(ぶゆう)の人と思(おも)ひしに案(あん)の外(ほか)臆病(おくびやう)柔弱(にうじやく)なる
事を申さるゝかな。軍法(ぐんほふ)にも先(さき)んずる時(とき)は人を制(せい)し。先んぜらるゝ時は人に制(せい)せら
るゝと謂(いは)ずや。去年(きよねん)墨縄(すみなは)古佐美(こさみ)が輩(ともがら)貴殿(きてん)の如(ごと)く敵(てき)を恐(おそ)れ長評議(ながひやうぎ)に
日を送(おく)りて一 度(ど)も勝利(しやうり)なく。大いに兵(へい)を折(くじ)き見苦(みぐるし)く都(みやこ)へ逃上(にげのぼ)りて宦軍(くわんぐん)の威(い)を
損(おと)し。其(その)身(み)は君(きみ)の御 不興(ふけう)を蒙(かうむ)れり。是(これ)臆病(おくびやう)未煉(みれん)より事(こと)発(おこ)れるなり。予(われ)
苟(いやしく)も帝(みかど)の御 択(えらみ)にあづかり。征東大使(せいとうたいし)に任(にん)ぜられて下向(げかふ)せし上は片時(へんし)も猶予(ゆうよ)すべ
きにあらず。王威(わうい)を首(かうべ)に頂(いたゞ)きて賊徒(ぞくと)を一 戦(せん)に伐夷(うちたいら)げ君(きみ)の宸襟(しんきん)を安(やす)んじ奉(たてま)
つらん事 方寸(はうすん)の内(うち)にあり。貴殿(きでん)は後陣(ごぢん)に在(あつ)て予(わ)が武略(ぶりやく)のほどを見物(けんぶつ)せらるべ
しと。飽(あく)まで大言(たいげん)しければ。田村丸(たむらまる)其(その)諫(いさめ)がたきを知(しつ)て再(ふたゝ)び言(いは)ず。口を憩(つぐみ)て退(しりそ)かれける。弟(おと)
麻呂(まろ)は百済王(くだらわう)俊哲(しゆんてつ)に八千 余騎(よき)を授(さづ)けて先陣(せんぢん)に進(すゝま)せ。藤原真鷲(ふぢはらのまわし)に八千 余騎(よき)を
授(さづ)けて二 陣(ぢん)とし。其(その)身(み)は一万五千 余騎(よき)を領(れう)して三 陣(ぢん)となり。田村丸(たむらまる)に鼻(はな)明(あか)せんと

【両丁 挿絵】
【右丁】
田村丸(たむらまる)明智(めいち)
 賊(ぞく)の幻術(げんじゆつ)を
     挫(くじ)き
 賊将(ぞくしやう)大熊丸(おゝくままる)
      を
    討(う)つ


 田村丸

【左丁】

  大熊丸

血気(けつき)に任(まか)せ前後(ぜんご)の思慮(しりよ)もなく。延暦(えんりやく)十二年八月七日の未明(みめい)より三 軍(ぐん)に兵粮(ひやうらう)を
つかはせ金鼓(きんこ)を鳴(なら)し螺(ほら)を吹(ふい)て押出(おしいだ)しけり。田村丸(たむらまる)は弟麻呂(おとまろ)敵(てき)を慢(あなど)り必定(ひつでう)敗軍(はいぐん)
すべしと思ひ。もし味方(みかた)の戦(たゝか)ひ難義(なんぎ)に及(およ)ばゝ是(これ)を救(すくは)んと。一万 余騎(よき)にて後陣(ごぢん)
に備(そな)へ。合戦(かせん)のやうをぞ見物(けんぶつ)せられける。去(さる)程(ほど)に宦軍(くわんぐん)の先陣(せんぢん)百済王(くだらわう)俊哲(しゆんてつ)八千
余騎を魚鱗(ぎよりん)に隊(そなへ)貝鉦(かいがね)を鳴(なら)し喊(とき)を発(つくつ)て。賊将(ぞくせう)大熊丸(おほぐままる)が陣(ぢん)へ押寄(おそよせ)ける賊(ぞく)
方も兼(かね)て宦軍(くわんぐん)の押寄(おしよする)を知(しり)たれば。大熊丸(おほぐまゝる)五千 余騎(よき)にて押出(おしいだ)し両勢(りようぜい)暫(しばら)く矢(や)
合(あはせ)し頓(やが)て抜連(ぬきつれ)て相(あひ)がゝりに掛(かゝ)つて打 戦(たゝか)ふ。此時(このとき)宦軍(くわんぐん)の二 陣(ぢん)藤原真鷲(ふぢはらのまわし)は
八千余騎を丸隊(まるぞなへ)とし。路(みち)を横切(よこぎつ)て賊将(ぞくせう)高丸(たかまる)が七千余騎にて屯(たむろ)せし陣(ぢん)へ向(むか)ひ
ければ。高丸(たかまる)も勢(せい)を出(いだ)して迎(むか)へ戦(たゝか)ふ程(ほど)に両所(ふたところ)の敵(てき)味方(みかた)の喚(おめき)叫(さけぶ)声(こゑ)馳(はせ)ちがへる馬(ば)
啼(てい)の音(おと)四竟(しけう)に響(ひびい)て凄(すさま)じく烟塵(ゑんぢん)天(てん)を曇(くもら)しけり。然るに賊軍(ぞくぐん)は宦軍(くわんぐん)の鉾先(ほこさき)
に当(あたり)かねしか。又は思(おも)ふ旨(むね)有けるか漸々(しだい〳〵)に引退(ひきしりぞ)くにぞ。宦軍(くわんぐん)得(え)たりと勢(いきほ)ひ猛(たけ)く

伐(うて)や進(すゝ)めと呼(よば)はり〳〵。勇(いさ)み立(たつ)て追(おひ)進(すゝ)む。賊兵(ぞくへい)は倍(ます〳〵)色(いろ)めき立て崩(くづ)れ退(ひく)にぞ。三 陣(ぢん)の
大伴弟麻呂(おほともおとまろ)大いに勇(いさ)□【み 注】。□(す)【須 注】波(は)軍(いくさ)に勝(かつ)たるぞ。□(この)□【此隊(このて) 注】も進(▢▢)【▢部「すゝ」 注】んで味方(みかた)に力(ちから)を併(あは)し敵(てき)を
鏖(みなごろし)にせよと下知(げぢ)しければ。一万五千 騎(ぎ)の新兵(あらて)の京勢(きやうぜい)大浪(おほなみ)の如(ごと)く喊(とき)を発(つくつ)て馳行(はせゆき)
けるに忽(たちま)ち森(もり)の裡(うち)より一発(いつぱつ)の狼煙(らうゑん)を揚(あぐ)ると比(ひと)しく此所(こゝ)彼所(かしこ)の森林(しんりん)藪蔭(やぶかげ)より
賊方(ぞくがた)の伏兵(ふくへい)起(おこ)り立(たち)。凡(およそ)一万四五千 騎(ぎ)弟麻呂(おとまろ)が勢(せい)を前後(ぜんご)左右(さいう)より取囲(とりかこ)み矢(や)を射(い)
かけ喊(とき)を発(つくつ)て揉立(もみたて)ける。京軍(きやうぐん)是(これ)に一 驚(きやう)を喫(きつ)しながら大軍(たいぐん)といひ新兵(あらて)なれば。勢(せい)を
分(わけ)て相(あひ)当(あた)り火(ひ)水(みづ)に成(なつ)て挑(いど)み戦(たゝか)ひけり。此時(このとき)迄(まで)は逃足(にげあし)なりし大熊丸(おほくまゝる)高丸(たかまる)が勢(せい)忽(たちま)ち
足並(あしなみ)を整(なを)し盛返(もりかへ)して攻進(せめすゝ)み曳々(ゑい〳〵)声(ごゑ)して打立(うちたつ)るにぞ。京軍(きやうぐん)案(あん)に相違(さうい)しながら
三 将(せう)三 方(はう)に分(わか)れて下知(げち)をなし。爰(こゝ)を大事(だいじ)と摂戦(せつせん)するところに俄然(がぜん)として悪風(あくふう)吹起(ふきおこ)
りて土砂(どしや)を吹立(ふきたつ)るや否(いな)や朦朧(もうろう)【𪱨は俗字】と霧(きり)降(ふり)出(いだ)し。見る〳〵四方(しはう)冥々(めい〳〵)として咫尺(しせき)の間(あいだ)も
見えわかずなりければ。京軍(きやうぐん)大いに駭(おどろ)き敵味方(てきみかた)を弁(べん)ずる事を得(え)ず。周障(あはて)騒(さは)ぎ

【注 紙面の破損。法政大学 国際日本学研究所所蔵資料アーカイブス(筆記体本)を参照す。】

悶着(もんちやく)す。素(もと)是(これ)悪路王(あくろわう)が邪術(じやじゆつ)を以(もつ)て降(ふら)せし霧(きり)なれば。賊兵(ぞくへい)は霧(きり)のために眼(まなこ)の
かすむ事なければ。狼狽(うろたへ)騒(さは)ぐ京軍(きやうぐん)を択(えら)み討(うち)に討(うち)けるにぞ。宦軍(くわんぐん)手負(ておひ)陣没(うちじに)数(かづ)
をしらず。只(たゞ)路(みち)を求(もとめ)て逃(にげ)んとすれども。霧(きり)と土煙(つちけふり)に眼(まなこ)眩(くら)みて東西南北(ほうがく)を分(わか)たず
さながら盲人(もうじん)の杖(つえ)を失(うしな)ひし如(ごと)くなりけり。時(とき)に坂上田村丸(さかのうへたむらまる)は後陣(ごぢん)に備(そなへ)て。先隊(さきて)の合(か)
戦(せん)の体(てい)を見物(けんぶつ)して居(ゐ)られけるに。敵軍(てきぐん)偽(いつは)り敗(まけ)て退(しりぞく)を。味方(みかた)是(これ)を誠(まこと)に敗(はい)して逃(にぐ)
ると心得(こゝろえ)て追行(おひゆく)を見(み)。是(これ)必(かなら)ず敵(てき)の謀計(ばうけい)に中(あた)るべしと思(おも)はれけるに果(はた)して敵(てき)の伏(ふく)
兵(へい)起(おこ)り。加之(しかのみ)ならず俄(にはか)に雲霧(うんむ)の起(おこ)りければ。田村丸(たむらまる)馬(むま)の鞍(くら)を扣(たゝ)き。偖(さて)こそ賊将(ぞくせう)の
中(うち)に幻術(げんじゆつ)を行(おこな)ふ者 有(あり)と覚(おぼへ)たり。昔(むかし)蜀(しよく)の孔明(かうめい)南蛮(なんばん)の孟獲(もうかく)を征伐(うち)し時(とき)敵(てき)幻術(げんじゆつ)
を以(もつ)て雲中(うんちう)より魔軍(まぐん)を降(くだ)し蜀兵(しよくへい)を悩(なやま)せしとき。孔明(かうめい)其(その)邪術(じやじゆつ)なるを知(しり)獣類(じうるい)の
生血(せいけつ)をとりて魔軍(まぐん)に洒(そゝ)ぎかけしかば。幻術(げんじゆつ)破(やぶ)れて軍馬(ぐんば)と見えしは藁木偶(わらにんぎよ)なりしと
かや。今も其理(そのり)にならひ。馬(むま)の血(ち)をとり器(うつわ)に入て。魔術(まじゆつ)を折(くじ)く用意(ようい)せよと下知(げぢ)せられ

ければ馬廻(むままはり)の士(し)。令(れい)に従(したが)ひ馬(むま)を刺(さし)て其血(そのち)を多(おほく)の器(うつは)に受(うけ)溜(ため)是(これ)を携(たづさへ)ける。斯(かく)準備(ようい)【准】調(とゝの)
ひければ。田村丸(たむらまる)態(わざ)と五百 余騎(よき)の小勢(こぜい)を引率(いんそつ)し。疾風(しつふう)のごとく戦場(せんぢよう)へ駈(かけ)いたり。用意(ようい)の
馬血(ばけつ)を空中(くうちう)へ蒔(まき)散(ちら)させけるに。案(あん)の如(ごと)く悪路王(あくろわう)の幻術(げんじゆつ)破(やぶ)れ。風(かせ)止(やみ)霧(きり)霽(はれ)て旧(もと)
の白日(はくじつ)と成(なり)けるにぞ。宦軍(くはんぐん)夜(よ)の明(あけ)たる心地(こゝち)し。大いに怡(よろこ)び又 隊(そなへ)を整(なを)して敵(てき)に相(あひ)当(あた)り
ける。田村丸(たむらまる)は馬(むま)を跳(おどら)して。会釈(ゑしやく)もなく村雲立(むらくもだつ)たる敵中(てきちう)へ割(わつ)て入。長(たけ)五尺三寸 斤(めか)
目(た)六十 斤(きん)に余(あま)るお大太刀(おほだち)を電光(でんくわう)の激(げき)する如(ごと)く閃(ひらめ)かし。勝誇(かちほこつ)たる賊兵(ぞくへい)を馬武者(むまむしや)
歩卒(ほそつ)の分(わか)ちなく。当(あたる)を幸(さい▢ひ)と斬(きつ)て落(おと)す。此(この)太刀(たち)下(した)に臨(のぞ)む者は冑(かぶと)も甲(よろひ)も溜(たまら)ら【衍】ず
こそ。一太刀(ひとたち)に二人三人 切(きつ)て落(おと)され一瞬(またゝく)中(うち)に三十五六人 命(めい)を損(おと)し手負(ておひ)の者は数(かづ)しら
ず。夷賊(いぞく)此(この)饒勇(けうゆう)に戦(ふるひ)慄(おのゝ)き。是(こ)はそも鬼(おに)か神(かみ)か人間業(にんげんわざ)にはよもあらじと胆(きも)を
消(けし)我先(われさき)にと味方(みかた)を押仆(おしたを)し。八 方(はう)へ開(ひら)き靡(なび)いて敗走(はいそう)す。田村丸(たむらまる)は倍(ます〳〵)勇力(ゆうりよく)加(くは)はり敵中(てきちう)
を縦横(じふわう)する事人なき街(ちまた)を往(ゆく)が如(ごと)く。弥(いよ〳〵)勇(ゆう)を奮(ふる)ひ敵(てき)を討(うつ)事 草(くさ)を薙(なぐ)が如(ごと)し。強(がう)

将(せう)の下(した)に弱卒(じやくそつ)無(なき)ならひ従(したが)ふ五百 騎(き)の兵士(へいし)も主将(しゆせう)の勇鋭(ゆうゑい)に励(はげ)まされ素(もとよ)り新(あら)
兵(て)の事なれば太刀(たち)鋒尖(さきするど)く敵(てき)を切立(きりたて)分外(ぶんぐわい)の勇戦(ゆうせん)しけるにより。さしも多勢(たせい)の賊(ぞく)
軍(ぐん)も田村丸(たむらまる)が一隊(いつて)の小勢(こぜい)に捲(まく)り立(たて)られ足並(あしなみ)支度路(しどろ)に乱(みだ)れ立(たち)けり。是(これ)によつて
始(はじ)め敗色(まけいろ)を見せたる俊哲(しゆんてつ)。真鷲(まわし)。弟麻呂(おとまろ)が勢(せい)も。色(いろ)を整(なを)し鋭気(ゑいき)を復(かへ)して
敵(てき)を追立(おつたつ)るにぞ。賊軍(ぞくぐん)いよ〳〵しらけ反(かへつ)て見えにける。賊将(ぞくせう)大熊丸(おほぐままる)は鹿角(しかのつの)をも引(ひき)
裂(さく)怪力(くわいりよく)強勢(がうせい)の曲者(くせもの)なれば。田村丸(たむらまる)のために切靡(きりなび)けられしと憤(いきどふ)り。悪(にく)き京将(きやうせう)の腕立(うでだて)
かな。いで我(われ)討留(うちとめ)て味方(みかた)の弱卒(じやくそつ)們(ばら)の眠(ねむり)を覚(さま)させんと。馬上(ばしやう)に甲(よろひ)をゆり整(なを)し一 丈余(じやうよ)
の大鉞(おほまさかり)【金+越は俗字】を軽(かる)〱(〴〵)と打揮(うちふり)。田村丸(たむらまる)を目(め)ざして駈寄(かけより)ければ。田村丸 完示(くわんじ)として。先剋(せんこく)よ
り手(て)に立(たつ)敵(かたき)なくて腕(うで)たるく思(おも)ひしに。望(のぞ)むところの敵(てき)よと同(おなじ)く馬(むま)を駈(かけ)よせて已(すで)に
両馬(りようば)行合(ゆきあふ)程(ほど)に大 熊(ぐま)丸 一言(いちごん)の言闘(ことばだゝかひ)にも及(およば)ず大 鉞(まさかり)【金+越は俗字】を揚(あげ)て撃(うつ)てかゝる。田村丸(たむらまる)も大(おほ)
太刀(だち)を插(かざ)し一 往(わう)一 来(らい)して戦(たゝか)ふ事十 余(よ)合(がふ)に及(およ)び。大 熊(ぐま)丸が磐石(ばんじやく)も碓(くだけ)よと打下(うちくだ)す鉞(まさかり)を

田村丸(たむらまる)早(はや)く身(み)をかはして是(これ)を避(さけ)るとひとしく。鉞(まさかり)【金+越は俗字】の柄(え)を左手(ゆんで)に掴(つかん)でつと曳寄(ひきよす)る
に。金剛力(こんがうりき)に曳(ひか)れて大 熊(ぐま)丸。覚(おぼ)へず馬(むま)もろともに曳寄(ひきよせ)られけるを田村丸(たむらまる)片手(かたて)討(うち)
に噹(はつた)と斬(きる)。何(なに)かは以(もつ)て堪(たまる)べき。さしも兇勇(けうゆう)の大熊丸も。甲(よろひ)ながら肩尖(かたさき)より切下(きりさげ)られ
苦(あつ)とも言(いは)ず二叚(ふたつ)に成(なつ)て死(し)してんげる。賊卒(ぞくそつ)們(ばら)頼(たの)み切(きつ)たる巨魁(たいせう)を討(うた)れ其(その)猛勇(もうゆう)
に辟易(へきえき)して。蜘(くも)の子(こ)を散(ちらす)がごとく八方へ敗走(はいそう)す高丸(たかまる)悪路王(あくろわう)も幻術(げんじゆつ)は破(やぶ)られつ
多勢(たせい)の宦軍(くわんぐん)に揉立(もみたて)られ。戦(たゝか)ひ已(すで)に難義(なんぎ)に及(および)し上(うへ)。大 熊(ぐま)丸さへ討(うた)れしと聞(きい)て力(ちから)
を落(おと)し。今は是(これ)までと馬(むま)引返(ひつかへ)して逃走(にげはしり)けるゆへ。増(まし)て賊兵(ぞくへい)は隊(そなへ)を乱(みだ)して弊(ついへ)走(はしり)
けるを。宦軍(くわんぐん)勝(かつ)に乗(のつ)て追討(おひうち)し思(おも)ひ〳〵に敵(てき)を討(うちとり)分取(ぶんとり)高名(かうめう)を顕(あらは)しける。田村(たむら)
丸 味方(みかた)を制(せい)し。不知(ふち)案内(あない)の敵地(てきち)を長追(ながおひ)は無用(むよう)なりと退鉦(ひきがね)を鳴(なら)して勢(せい)を班(まとめ)
けるにぞ。弟麻呂(おとまろ)以下(いげ)の三 将(しやう)も手勢(てぜい)を集(あつ)め。総軍(そうぐん)一 同(ど)に勝喊(かちどき)を発(つく)り一勢(いつせい)々(〳〵)隊(そなへ)
を立(たて)て凱陣(かいぢん)しける。誠(まこと)に田村丸(たむらまる)の援兵(すくひ)無(なく)んば大 敗軍(はいぐん)に及(およぶ)べかりしに思(おもひ)の外(ほか)なる

勝利(しやうり)を得(え)しは全(まつた)く田村丸(たむらまる)の助力(ぢよりき)によるところなりと。弟麻呂(おとまろ)始(はじめ)の過言(くはごん)を悔(くやみ)て其(その)
労(らう)を謝(しや)し。陣営(ぢんゑい)に皈(かへ)りて軍勢(ぐんぜい)を点撿(てんけん)するに。三 将(しやう)の麾下(はたした)に戦死(うちじに)の者(もの)三千
余人(よにん)手負(ておひ)千二百余人。敵(てき)の首(くび)を得(うる)事千三百 余級(よきう)とぞ記(しる)しける。田村丸(たむらまる)は五百余
人の勢(せい)一人も死亡(しぼう)の者(もの)なく手負(ておひ)わづかに五十余人。敵(てきの)首(くび)を得(うる)事(こと)七百 余級(よきう)生捕(いけどり)の
者二百余人に及(および)けり。時(とき)に弟麻呂(おとまろ)。俊哲(しゆんてつ)。真鷲(まわし)の三 将(せう)田村丸の高名(かうめう)を賞(せう)して後(のち)
再(ふたゝ)び賊徒(ぞくと)征討(せいとう)の軍議(ぐんぎ)するに田村丸が曰(いはく)。賊軍(ぞくぐん)は軍(いくさ)の進退(かけひき)法度(ほふど)なく陣立(ぢんだて)とても
厳重(げんぢう)ならざれば打破(うちやぶら)ん事 難(かた)からざれども。夷賊(いぞく)の中(うち)に幻術(げんじゆつ)を以(もつ)て霧(きり)を降(ふら)す者 有(あり)
しゆへ将軍(しやうぐん)等(ら)案外(あんぐわい)の敗(やぶれ)をとり給へり。夷狄(いてき)の国(くに)には古(いにしへ)より怪(あやし)き術(じゆつ)を行(おこな)ふ者 有(あり)
と聞(きゝ)及(およ)び候。然(しかれ)ども争(いかで)か久(ひさ)しく王威(わうい)に敵(てき)する事を得(え)候べき。某(それがし)皇天(くわうてん)の佐(たすけ)を得(え)て
僥倖(さいはひ)に勝利(しやうり)を得(え)一人の賊首(ぞくしゆ)を討取(うちとり)候へば。残(のこ)る夷賊(いぞく)を誅伐(ちうばつ)せん事 難(かた)からず。敵(てき)
に臆病(おくびやう)風(かぜ)のさめぬうち機(き)を弛(ゆる)べず征伐(せつばつ)し候べしと申されければ。三 将(せう)然(しかる)べしと

同意(どうい)し。翌日(よくじつ)斥候(ものみ)【侯は誤記】を出(いだ)して敵(てき)の動静(どうせい)を窺(うか[ゞ])はしむるに。賊将(ぞくせう)高丸(たかまる)。悪路王(あくろわう)昨日(きのふ)の軍(いくさ)
に多(おほ)く士卒(しそつ)を折(くじ)かれ残党(ざんとう)を駆(かり)集(あつめ)神楽岡(かぐらおか)の東(ひがし)なる大川(だいが)に大船(たいせん)を浮(う[か])べてとり乗(のり)
夷賊(いぞく)を招(まね)き聚(あつめ)て後(のち)再(ふたゝ)び一 戦(せん)に及(およば)んと。専(もつは)ら士卒(しそつ)を駆(かり)募(つの)るよし回(かへ)り報(ほふ)じけるゆへ
さらば敵(てき)に勢(せい)の付(つか)ざる内(うち)に伐平(うちたいらげ)んと。弟麻呂(おとまろ)は一昨日(おとゝひ)の合戦(かつせん)に金瘡(てきず)を受(うけ)て進退(しんたい)
意(こゝろ)に任(まか)せざれば出陣(しゆつぢん)を止(とゞ)まり田村丸 仮(かり)に征東使(せいとうし)となり。真鷲(まわし)。俊哲(しゆんてつ)とともに
二万五千 余騎(よき)を引率(いんぞつ)して神楽岡(かぐらおか)へぞ出張(しゆつてう)しける。去程(さるほど)に夷賊(いぞく)は初度(しよど)の軍(いくさ)に京(きやう)
軍(ぐん)を多(おほ)く討取(うちとり)けれども。又 田村丸(たむらまる)の為(ため)に多(おほ)く手勢(てぜい)を折(くじ)かれ離散(りさん)せし者(もの)も多(おほ)く
剰(あまつさ)へ大 熊丸(ぐままる)さへ討(うた)れければ上下(じやうげ)皆(みな)田村丸の武勇(ぶゆう)を恐(おそ)れけるに。京軍(きやうくん)多勢(たせい)にて
攻来(せめきた)るよし追々(おひ〳〵)聞(きこ)えければ。船中(せんちう)の賊兵(ぞくへい)大いに戦慄(ふるひわなゝ)き恐怖(きやうふ)の色(いろ)を表(あらは)しけるを。高(たか)
丸(まる)悪路王(あくろわう)是(これ)を制(せい)し。田村丸(たむらまる)一人 勇(ゆう)なりとも何(なん)ぞ怖(おそる)るに足(たる)べき。我(われ)妙術(めうじゆつ)を【注】施(ほどこ)して
敵(てき)を拉(とりひし)がん事 方寸(はうすん)の内(うち)にあり敵(てき)に神楽岡(かぐらおか)を超(こえ)させては悪(あし)かりなん。早(はや)く味方(みかた)神(かく)

【注 別本を参照す。】

神(ら)【楽の誤記】岡(おか)へ馳登(はせのぼ)り切所(ぜつしよ)に支(さゝへ)て敵(てき)を眼下(めのした)に直下(みおろ)し。大木(たいぼく)大石(たいせき)を投落(なげおと)し。又は下拳(さがりこぶし)に
矢(や)を射(い)るならば。敵(てき)大軍(たいぐん)なりとも漂(たゞよ)ひ乱(みだ)るべし其(その)弊(ついへ)に乗(ぜう)じて伐(うつ)て下り追散(おつちらさ)ん
に勝(かた)ずといふ事 有(ある)べからずとて。船中(せんちう)には大墓王(おほはかわう)盤具王(ばんぐわう)。などいふ宗徒(むねと)の夷賊(いぞく)に二千
余騎(よき)を授(さづけ)て留守(るす)を護(まもら)せ。高丸(たかまる)悪路王(あくろわう)は八千 騎(ぎ)を卒(そつ)して神楽岡(かぐらおか)へ出張(しゆつてう)し。高丸(たかまる)
は三千 騎(ぎ)にて梺(ふもと)に屯(たむろ)し。悪路王(あくろわう)は五千余騎(よき)にて山上(さんじやう)へとり登(のぼ)りて陣(ぢん)を構(かま)へ木石(ぼくせき)を積(つみ)
貯(たくは)へ矢束(やたばね)解(とい)て待(まち)かけたり。斯(かく)て宦軍(くわんぐん)一万五千騎を三隊(みて)に分(わけ)先陣(せんぢん)は百済王(くだらわう)俊(しゆん)
哲(てつ)。二 陣(ぢん)は藤原真鷲(ふぢはらまわし)三 陣(ぢん)は坂上田村丸(さかのうへたむらまる)一勢(いつせい)〳〵旌旗(はたさしもの)を。飜(ひるがへ)し。隊(そなへ)を整(とゝのへ)て神楽(かぐら)
岡(おか)へ押到(おしいた)りて臨(のぞみ)見るに。賊徒(ぞくと)山上(さんぜう)に屯(たむろ)して多(おほ)く旌旗(はたのぼり)を風(かぜ)に吹靡(ふきなびか)し戦(たゝか)ひを待(まつ)体(てい)
なり。神楽岡(かぐらおか)といへばさのみ高山(かうざん)にてもあらざるべしと思(おも)ひの外(ほか)。峰(みね)高(たか)く坂(さか)急峻(きうしゆん)に
して容易(たやすく)登(のぼり)がたきに。賊軍(ぞくぐん)山上(さんぜう)に充満(じうまん)したれば。軽忽(かる〴〵しく)攻登(せめのぼら)んやうもなく。俊哲(しゆんてつ)真(ま)
鷲(わし)田村丸(たむらまる)に面会(めんくわい)して軍議(ぐんぎ)するに。田村丸が曰(いはく)。味方(みかた)は地理(ちのり)を知(しら)ざれば。先(まづ)山上(さんぜう)の地(ち)

勢(せい)を探(さぐり)聞(きゝ)し上にて軍略(ぐんりやく)を定(さた)むべしとて。兵士(へいし)の中(うち)の国人(くにんど)を招寄(まねきよせ)山上(さんぜう)の地理(ちり)を問(と)
はれけるに。其者(そのもの)が曰(いはく)此岡(このおか)さのみ大山(たいさん)と申ほどにも候はねども。此方(こなた)より登(のぼり)候には路(みち)
狭(せま)く嶮(けはし)くして。然(しか)も檜(ひのき)多(おほ)く生(おひ)茂(しげ)り候へば。容易(ようい)には攻登(せめのほり)がたく候べし。只(たゞ)敵(てき)を釣(つり)
下(おろ)して伐(うち)給ふこそ然(しか)【注】るべく候はんとぞ申ける。田村丸(たむらまる)聞(きい)て。你(なんじ)がいふ所(ところ)理(ことは)りなれども。敵(てき)は
険阻(けんそ)を恃(たの)【特は誤記】みて屯(たむろ)すれば。釣下(つりおろ)すともよも下(くだ)るまじ。よし〳〵施(ほどこ)すべき手段(てだて)【叚は誤記】こそ有(あれ)
とて。急(きう)に攻登(せめのぼら)んともせず野陣(のぢん)【注】を張(はつ)て守禦(しゆぎよ)の備(そなへ)をなし。偖(さて)士卒(しそつ)を多(おほ)く出(いだ)し
て芦萱(あしかや)を数多(あまた)刈(かり)【苅は俗字】とらせ手頃(てごろ)に束(つがね)させて積(つみ)貯(たくは)へ。安閑(あんかん)として日を送(おく)りけるゆへ俊(しゆん)
哲(てつ)。真鷲(まわし)其意(そのい)をしらず。已(すで)に十日ばかりの日を歴(へ)ければ。堪(こらへ)かねて田村丸(たむらまる)に向(むか)ひ。そも
何(いづ)れの日か賊軍(ぞくぐん)を攻伐(かうばつ)すべきやと催促(さいそく)しけるに。田村丸 打(うち)わらひ。近日(きんじつ)山上(さんぜう)へ攻登(せめのぼり)
候べし。今(いま)暫(しばら)く待(まち)給へとて猶(なを)徒(いたづら)に打過(うちすぎ)また三 日(じつ)を送(おく)りけるに九月十九日の午(ひる)過(すぐ)る頃(ころ)
より西風(にしかぜ)吹出(ふきいだ)し日の暮(くる)るに従(したが)ひ《振り仮名:漸〱|しだい》に強(つよ)く吹(ふき)けるにぞ。田村丸 士卒(しそつ)に命(めい)じて積(つみ)貯(たくはへ)

【注 振り仮名は別本を参照す。】

たる枯草(かれくさ)に悉(こと〴〵)く火薬(くわやく)を洒(そゝ)がせ你們(なんじら)此枯草(このかれくさ)を一人に四五 杷(わ)づゝ携(たづさ)へて神楽岡(かぐらおか)へ夕闇(よひやみ)
の内(うち)に暗(ひそか)に潜(しのび)登(のぼ)り如此(かよう)々々(〳〵)はからへよと謀(はかりこと)を言含(いひふくめ)て。凡(およそ)二百人ばかり山(やま)へ登(のぼ)らせ。偖(さて)真(ま)
鷲(わし)。俊哲(しゆんてつ)を招(まね)き。今夜(こんや)敵(てき)の山陣(さんぢん)へ夜討(ようち)をかくべきなり。各位(おの〳〵)出陣(しゆつぢん)の準備(ようい)【准】し給へ
と申されければ。両将(りようせう)心中(しんちう)は。不知(ふち)案内(あんない)の敵地(てきち)といひ。殊更(ことさら)嶮岨(けんそ)の山坂(やまさか)を夜中(やちう)に
攻登(せめのぼら)ん事 如何(いかゞ)あらんと危(あやぶ)みながら。仮(かり)にも征東大使(せいとうたいし)の下知(げぢ)なれば領掌(れうぜう)して。士卒(しそつ)に
兵粮(ひやうらう)をつかはせ初更(しよかう)過(すぎ)る頃(ころ)出陣(しゆつぢん)の準備(ようい)【准】全(まつた)く調(とゝの)ひけるゆへ田村丸に斯(かく)と達しける
是(これ)によりて田村丸(たむらまる)隊賦(てくばり)し。自身(みつから)先陣(せんぢん)となり二 陣(ぢん)は俊哲(しゆんてつ)三 陣(ぢん)は真鷲(まわし)と定(さだ)め。夜(よ)
討(うち)のならひなれば袖符(そでじるし)を付(つけ)相詞(あひことば)を定(さだ)め一隊(いつて)々々(〳〵)押出(おしいだ)し。人は枚(はい)を含(ふく)み馬(むま)は轡(くつわ)を
縛(しばつ)て潜々(ひそ〳〵)と坂道(さかみち)を押登(おしのぼ)りけり。是(これ)より前(さき)に田村丸(たむらまる)が山路(やまぢ)へ上(のぼ)らせし士卒(しそつ)は山(さん)
中(ちう)の樹林(じゆりん)の中(うち)へ潜(くゞ)り入。彼(かの)枯草(かれくさ)を此所(こゝ)彼所(かしこ)に積(つみ)おき。相図(あいづ)をなして二百余人 一同(いちと)
に焼草(やきくさ)に火(ひ)をさしければ。忽(たちま)ち焔々(えん〳〵)と燃立(もえたち)折(をり)しも秋(あき)の末(すへ)にて黄(きば)み枯(かれ)たる樹木(じゆもく)

多(おほ)く。しかも檜山(ひのきやま)なれば火(ひ)の燃(もえ)移(うつ)る事 早(はや)く荒吹(あらぶく)西風(にしかぜ)に吹立(ふきたて)られて暫時(ざんじ)が程(ほど)に半(はん)
山(ざん)の樹木(じゆもく)炎々(ゑん〳〵)と燃(もゆ)るにぞ。二百人の士卒(しそつ)は平場(ひらば)に寄集(よりあつま)り一 斉(せい)に喊(とき)を噇(どつ)と発(つくり)ける
此時(このとき)田村丸(たむらまる)が勢(せい)は坂(さか)を半(なかば)上(のぼ)りけるゆへ。山上(さんぜう)の火光(ひのて)と鯨波(ときこゑ)を相図(あひづ)とし同(おなじ)く大いに喊(とき)を
発(つく)り勇(いさ)み進(すゝ)んで攻登(せめのぼ)りければ。二 陣(ぢん)三 陣(ぢん)も是(これ)に機(き)を得(え)。先陣(せんぢん)に引続(ひきつゞい)て攻登(せめのぼ)
りけり。賊方(ぞくがた)の陣(ぢん)には京軍(きやうぐん)久(ひさ)しく攻上(せめのぼ)らざるゆへ油断(ゆだん)を生(しやう)じ。今夜(こんや)押寄(おしよす)べしとは
思(おもひ)もよらぬ所(ところ)に。俄(にはか)に山中(さんちう)の樹木(じゆもく)燃立(もへたち)間近(まぢか)く喊(とき)の声(こゑ)の震(ふる)ひ起(おこ)るに仰天(げうてん)し須波(すは)や
敵軍(てきぐん)寄(よせ)たるぞ弓(ゆみ)よ太刀(たち)よと犇(ひしめ)きて騒動(そうどふ)鼎(かなへ)の粟(あわ)の沸(わく)がごとく。加之(しかのみ)ならず。檜(ひのき)の
燃立(もへたつ)事なれば梢(こずえ)より梢(こずえ)に火(ひ)伝(つた)ひ。火(ひ)の屑(こ)の落(おつ)る事 火(ひの)雨(あめ)の降(ふる)が如(ごと)くなれば。周障(しうせう)
狼狽(らうばい)して誰(たれ)か敵(てき)を支(さゝへ)んとする者なく我先(われさき)にと東(ひがし)の坂(さか)へぞ敗走(はいそう)しける。宦軍(くわんぐん)は火光(くはかう)を
力(ちから)に《振り仮名:追〱|おひ〳〵》山上(さんぜう)へ攻上(せめのぼ)り周障(あはて)迷(まよ)ふ賊軍(ぞくぐん)を追(おつ)かけ追詰(おつつめ)討(うつ)程(ほど)に。夷賊(いぞく)討(うた)るゝ者 数(かづ)知(しら)
ず或(あるひ)は逃(にげ)んとして谷(たに)へ落(おち)重(かさな)りて死(し)する者も多(おほ)かりけり。大将(たいせう)悪路王(あくろわう)も心 駭(おどろ)きながら

味方(みかた)を制(せい)して敵(てき)を防(ふせ)がんと声(こゑ)を涸(から)して下知(げぢ)すれども崩(くづ)れ立(たつ)たる勢(せい)のならひ耳(みゝ)に
聞入(きゝいれ)る者(もの)もなく梺(ふもと)の高丸(たかまる)の陣(ぢん)をさして敗(にげ)下(くだ)りけるゆへ。悪路王(あくろわう)も力なくともに敗(にげ)往(ゆく)
味方(みかた)に誘(さそ)はれ同(おな)じく高丸が陣(ぢん)へぞ落(おち)行(ゆき)ける。高丸の陣(ぢん)には山上(さんぜう)の大光(ひのて)と鯨波(ときのこゑ)に驚(おどろ)
き。是(こ)は何事(なにごと)の起(おこり)しやとて。追々(おひ〳〵)斥候(ものみ)【侯は誤記】を出(いだ)すうち。早(はや)山上より逃(にげ)下(くだり)し賊兵(ぞくへい)高丸(たかまる)の
陣(ぢん)へなだれかゝるにぞ。梺(ふもと)の賊軍(ぞくぐん)も周章(あはて)騒(さは)ぎ京軍(きやうぐん)の夜討(ようち)に寄(よせ)しと心得(こゝろえ)同士(どし)
討(うち)して悶着(もんちやく)しけり。田村丸(たむらまる)は諸軍(しよぐん)を励(はげま)し。此(この)勢(いきほ)ひを弛(ゆるべ)ず梺(ふもと)の敵(てき)を伐散(うちちら)せよと
下知(げぢ)せらるゝにより。勝誇(かちほこつ)たる宦軍(くわんぐん)破竹(はちく)の勢(いきほ)ひをなし。十九 夜(や)の月(つき)は冴(さへ)たり。喚(おめ)き
叫(さけ)んで太山(たいさん)の崩(くづ)るゝ如(ごと)く坂(さか)を落(おと)し。高丸(たかまる)が陣(ぢん)へ伐(うつ)てかゝる。さなきだに騒(さはぎ)乱(みだれ)し賊(ぞく)
兵(へい)此(この)強勢(がうせい)に恐怖(きやうふ)し一 合(がふ)も支(さゝ)へず川辺(かはべ)の方(かた)へ敗走(はいそう)すさしもの悪路王(あくろわう)も心 騒(さはぎ)て
幻術(げんじゆつ)を行(おこな)ふ遑(いとま)もなく馬(むま)を拍(うつ)て敗(にげ)落(おちる)。高丸は宦軍(くわんぐん)に取囲(とりかこ)まれ已(すで)に討(うた)るべかりし
に。部下(てした)の士卒(しそつ)大 勢(ぜい)引返(ひつかへ)し。よふ〳〵血路(けつろ)を切開(きりひら)きて救(すく)ひ出(いだ)しけるに依(より)。万死(ばんし)を

免(まぬか)れ是(これ)も味方(みかた)の船陣(ふなぢん)さして敗走(にげはしり)けり。主領(しゆれう)の二人さへ如斯(かくのことく)なれば。其余(そのよ)の敗(はい)
卒(そつ)們(ら)は八 方(はう)へ散乱(さんらん)し己(おの)がさま〴〵落行(おちゆく)を。宦軍(くわんぐん)是(これ)を追討(おひうち)し或(あるひ)は生捕(いけどり)《振り仮名:各〱|おの〳〵》
分外(ぶんぐわい)の高名(かうみやう)を顕(あらは)しける。田村丸(たむらまる)は地理(ちのり)を不知(しらぬ)敵地(てきち)を長追(ながおひ)せば過(あやま)ちあらん
と。退鉦(ひきがね)を鳴(なら)して勢(せい)を班(まと)め。大いに凱歌(かちどき)を発(つくつ)て軍威(ぐんい)を示(しめ)し。其夜(そのよ)は山下(さんか)に
陣(ぢん)をとり軍馬(ぐんば)の疲労(つかれ)を休(やす)め。討取(うちとり)し首(くび)を点撿(てんけん)せしむるに。首(くび)八百五十 余級(よきう)
生捕(いけどり)二百七十余人とぞ記(しる)しける。去程に賊主(ぞくしゆ)高丸(たかまる)悪路王(あくろわう)は神楽岡(かぐらおか)の一 戦(せん)に
大いに兵を折(くじ)き。今(いま)は勢(いきほ)ひ極(きはま)り宦軍(くわんぐん)に拒敵(てきたい)せん事も叶(かな)はざれば高丸(たかまる)大いに力(ちから)を
屈(くつ)し。悪路王(あくろわう)大墓(おほはか)盤具(ばんぐ)們(ら)と議(ぎ)しけるは。敵将(てきせう)田村丸(たむらまる)勇(ゆう)にして且(かつ)能(よく)兵(へい)を用(もち)ひ
奇計(きけい)を以(もつ)て大いに味方(みかた)の兵士(へいし)を折(くじ)けり。されば一 旦(たん)敵(てき)の鋭気(ゑいき)を避(さけ)て蝦夷地(ゑぞち)へ退(しりぞ)
き。島人(しまびと)を駆聚(かりあつ)め。京軍(きやうぐん)都(みやこ)へ凱陣(かいぢん)せし後(のち)再(ふたゝ)び此国(このくに)へ乱入(らんにふ)して一 国(こく)を伐取(きりとら)んは
如何(いかに)と言(いひ)けるに悪路王(あくろわう)首(かうべ)を揮(ふり)。否々(いな〳〵)勝敗(せうばい)は兵家(へいか)の常(つね)なり。一 両度(りようど)の敗軍(はいぐん)に

気(き)を屈(くつ)するは大丈夫(たいじやうぶ)の所業(しよぎやう)にあらず。今 味方(みかた)三千の軍兵(ぐんびやう)あり暫(しばら)く此(この)船陣(ふなぢん)を守(まも)
りて鋭気(ゑいき)を養(や[し]な)ふ内(うち)には。散乱(さんらん)せし兵卒(へいそつ)も追々(おひ〳〵)に馳(はせ)帰(かへ)るべし。其間(そのあひだ)には京軍(きやうぐん)長陣(てうぢん)
に退屈(たいくつ)し勇気(ゆうき)の抜(ぬけ)るを待(まち)。一 戦(せん)を催(もよほ)し。我また妙術(めうじゆつ)施(ほどこ)して敵(てき)を拉(とりひし)ぐなら
ば。田村丸(たむらまる)を虜(とりこ)にせん事 難(かた)からずといふにぞ。大墓王(おほはかわう)盤具王(ばんぐわう)等もとも〴〵に諫(いさめ)
ける。是(これ)に依(よつ)て高丸(たかまる)も其詞(そのことば)に従(したが)ひ退去(たいきよ)を止(とゞ)まり。船陣(ふなぢん)を守(まも)り離散(りさん)せし
士卒(しそつ)を招(まね)き集(あつ)めけるに。神楽岡(かぐらおか)の敗軍(はいぐん)に逃(にげ)散(ちり)し夷賊(いぞく)追々(おひ〳〵)に皈聚(かへりあつま)り又四
千 余騎(よき)にぞ成(なり)たりける。田村丸(たむらまる)俊哲(しゆんてつ)真鷲(まわし)の三 将(せう)は賊軍(ぞくぐん)に勢(いきほ)ひの付(つか)ざる内(うち)
に伐(うち)平(たいら)げんと。川辺(かはべ)まで押出(おしいだ)して屯(たむろ)を張(はり)川面(かはづら)を見わたせば。川の広(ひろ)き事一 里(り)
に余(あま)り水勢(すいせい)岩石(がんぜき)を流(なが)す許(ばかり)に疾(はや)く。川の上下(かみしも)には小船(こぶね)一 艘(そう)もなく。賊徒(ぞくと)は大船(たいせん)
八九 艘(そう)にとり乗(のつ)て東岸(ひがしのきし)に屯(たむろ)したり。田村丸(たむらまる)水煉(すいれん)の者に命(めい)じて川の瀬(せ)ぶみせし
むるに。深(ふか)き事 底(そこ)をしらず。しかも水勢(せいせい)【ママ】矢(や)を射(い)る如(ごと)くなれば。船(ふね)筏(いかだ)にて渡(わた)る

とも櫓(ろ)櫂(かい)水棹(みざを)の立(たゝ)んやうもなく候と申にぞ。急(きう)に征伐(せいばつ)せんやうもなく軍議(ぐんぎ)区々(まち〳〵)にし
て日を送(おく)るうち。弟麻呂(おとまろ)も金瘡(きんそう)平愈(へいゆ)し。来(きた)り加(くは)はりて敵(てき)を征伐(せめうつ)の商議(しやうぎ)をなし
けるところに。賊軍(ぞくぐん)は軍勢(ぐんぜい)皈(かへ)り増(まし)て五千 余騎(よき)になりければ。さらば敵(てき)を一当(ひとあて)〱(あて)て
先敗(せんはい)の恥辱(ちじよく)【耻は俗字】を雪(すゝが)んと十月十日に五六 艘(そう)の艨艟(いくさぶね)を乗出(のりいだ)し宦軍(くわんぐん)の陣(ぢん)へ打向(うちむか)ひ
ける。宦軍(くわんぐん)の諸大将(しよだいせう)是(これ)を見て。船(ふね)と陸(くが)との合戦(かせん)は利(り)あらじ敵(てき)を陸(くが)へ鉤上(つりあげ)【鈎は俗字】て伐(うた)
んと二 里(り)計(ばかり)退(しりぞい)て屯(たむろ)しければ。案(あん)のごとく賊兵(ぞくへい)四千五百 余騎(よき)陸(くが)へかけ上りて隊(そなへ)を
立(たて)喊(とき)を発(つく)り鉦(どら)鼓(つゞみ)【皷は俗字】を鳴(なら)して宦軍(くわんぐん)の陣(ぢん)へかけ向(むか)ひ矢(や)を射(い)かけて攻(せめ)進(すゝ)む。宦軍(くわんぐん)
は待(まち)設(もうけ)たる事なれば。同(おな)じく喊(とき)を合(あは)し矢(や)を射(い)かへし。逸雄(はやりを)の若者(わかもの)どもは早(はや)抜(ぬき)
つれて打(うつ)てかゝり。敵(てき)味方(みかた)わたり合(あひ)て追(おつ)つ返(かへ)しつ火花(ひばな)を散(ちら)して戦(たゝか)ひける。悪路(あくろ)
王(わう)は戦(たゝか)ひの汐合(しほあひ)を見て馬上(ばせう)に咒文(じゆもん)を唱(とな)へ幻術(げんじゆつ)を行(おこな)ふとひとしく。今まで晴(はれ)し
天(そら)俄(にはか)にかき曇(くも)り冥々(めい〳〵)と暗(くら)くなり。悪風(あくふう)吹起(ふきおこ)りて土砂(どしや)を捲上(まきあげ)且(かつ)朦々(もう〳〵)と霧(きり)

降起(ふりおこつ)て物(もの)の黒白(あいろ)も見え分(わか)たず成(なり)ければ。宦軍(くわんぐん)大いに駭(おどろ)き須波(すは)また例(れい)の幻術(げんじゆつ)よと
騒(さは)ぎ惑(まど)ひ隊(そなへ)を乱(みだ)して騒立(さはぎたつ)賊兵(ぞくへい)得(え)たりと総軍(そうぐん)一 度(ど)に打進(うちすゝ)み無(む)二 無(む)三に切捲(きりまく)
るにぞ。宦軍(くわんぐん)倍(ます〳〵)周障(しうせう)【陣は誤記】して討(うた)るゝ者 数(かづ)をしらず。田村丸(たむらまる)は兼(かね)てかゝる事も有(あら)んかと
獣類(じふるい)の血(ち)を多(おほ)くとりて用意(ようい)しければ。此時(このとき)士卒(しそつ)に命(めい)じて空中(くうちう)へ蒔(まき)散(ちら)させけるに
例(れい)の如(ごと)く風(かぜ)止(やみ)霧(きり)霽(はれ)けれども賊軍(ぞくぐん)は倍(ます〳〵)勢(いきほ)ひ猛(たけ)く打立(うちたて)けるにぞ。崩立(くづれたち)たる京軍(きやうぐん)
足並(あしなみ)を立(たて)整(なを)しかね支度路(しどろ)に成(なつ)て見えけるに。何国(いづく)より来(き)しともしらず。一人の沙(しや)
門(もん)と烏帽子(ゑぼし)浄衣(じやうえ)を着(き)たる社人(しやにん)忽然(こつぜん)と顕(あらは)れ出(いで)追来(おひく)る賊軍(ぞくぐん)に向(むか)ひ袖(そで)を以(もつ)
て打払(うちはら)ひければ忽(たちま)ち大風(おほかぜ)吹出(ふきいだ)し賊軍(ぞくぐん)を吹倒(ふきたを)す事 将棋(しやうぎ)の駒(こま)を倒(たを)すが如(ごと)し是(これ)
に依(よつ)て田村丸(たむらまる)真鷲(まわし)俊哲(しゆんてつ)弟麻呂(おとまろ)。銘々(めい〳〵)味方(みかた)を励(はげま)し須波(すは)賊徒(ぞくと)は引色(ひきいろ)に成(なり)たる
ぞ返(かへ)せ〳〵と下知(げぢ)をなす。此(この)号令(がうれい)に機(き)を整(なを)し。宦軍(くわんぐん)一 同(ど)に盛返(もりかへ)して切進(きりすゝ)めば。又
賊兵(ぞくへい)捲(まく)り立(たてら)れて足場(あしば)を敗退(にげしりぞ)きける悪路王(あくろわう)大いに怒(いか)り再(ふたゝ)び咒文(じゆもん)を唱(とな)へて邪(じや)

術(じゆつ)を行(おこな)ひけれども何(いか)なるゆへにや敢(あへ)て悪風(あくふう)起(おこ)らず霧(きり)降(ふら)ざるゆへ心中(しんちう)訝(いぶか)りながら
射人(いて)に命(めい)じて京軍(きやうぐん)に向(むか)ひ雨(あめ)のごとく矢(や)を射(い)させけるに。彼(かの)沙門(しやもん)宮司(みやつこ)側(かたへ)の岳(おか)に立(たつ)て
袖(そで)を打振(うちふり)ければ。賊方(ぞくかた)より射(い)る矢(や)飛反(とびかへつ)て賊徒(ぞくと)の方(かた)へ向(むか)ひ。却(かへつ)て賊兵(ぞくへい)を射(い)けるゆへ
是がため射仆(いたを)さるゝ者 多(おほ)く。賊軍(ぞくぐん)大いに駭(おどろ)きこ是(これ)凡事(たゞごと)ならずと恐(おそれ)惑(まど)ひ倍(ます〳〵)乱(みだ)れて
弊(ついへ)走(はし)るにぞ。宦軍(くわんぐん)は弥(いよ〳〵)勇(いさ)み立(たち)大軍(たいぐん)潮(うしほ)の涌(わく)が如(ごと)く追進(おいすゝ)む。其(その)勢(いきほ)ひ決然(けつぜん)として
当(あたり)がたく風(かぜ)は頻(しきり)に強(つよ)く吹(ふき)けるにより。大墓(おほはか)盤具(ばんぐ)高丸(たかまる)等(ら)も敗(にげ)る味方(みかた)に誘(さそは)れて己(おの)が船(ふな)
陣(ぢん)を臨(のぞ)んて敗走(はいそう)しける。然(しか)るに悪路王(あくろわう)は如何(いかゞ)しけん意(こゝろ)昏迷(こんめい)して途方(とはう)を失(うしな)ひ己(わ)が
船陣(ふなぢん)へは退(ひか)ず却(かへつ)て宦軍(くわんぐん)の方(かた)へ馬(むま)を駈(かけ)入(いれ)けるを。田村丸(たむらまる)が麾下(はたした)の勇士(ゆうし)ども追取(おつとり)こめ
て馬(むま)より曳落(ひきおと)しおり重(かさなつ)てぞ虜(とりこ)にしける。たむら田村丸(たむらまる)大いに悦(よろこ)び。此機(このき)に乗(ぜう)じて浜手(はまて)迄(まで)
追詰(おつつめ)よと下知(げぢ)を伝(つた)へ自身(みづから)真先(まづさき)に馬(むま)を駈(かけ)させければ。弟麻呂(おとまろ)以下(いげ)の三 将(せう)も諸勢(しよぜい)を
励(はげま)し。ともに浜手(はまて)へぞ追進(おひすゝ)みける。賊将(ぞくせう)高丸(たかまる)大墓(おほはか)盤具(ばんぐ)等(ら)は敗卒(はいそつ)と倶(とも)に浜手(はまて)へ

【右丁 下部囲みの中】
毘沙門天(びしやもんてん)
 地蔵(ぢさう)の二尊(にそん)
雲中(うんちう)に顕(あら)はれ
田村丸(たむらまる)が軍(ぐん)を
  援(たす)け
     給ふ

【左丁 挿絵中の囲み文字】
田むら丸
ぢざう尊
毘沙門天

【右丁】
其二

【左丁 文字無し】

逃(にげ)着(つき)船(ふね)にとり乗(のつ)て陸(くが)を漕(こぎ)放(はな)るゝところに。早(はや)田村丸(たむらまる)が一 軍(ぐん)かけ来(きた)り船(ふね)を臨(のぞ)んで
散々(さん〴〵)に矢(や)を射(い)かけければ賊軍(ぞくぐん)駭(おどろ)き急(きう)に東岸(ひがしのきし)へ漕(こぎ)去(さら)んとするに。彼(かの)沙門(しやもん)と宮(みや)
司(つこ)西岸(せいがん)に立(たつ)て虚空(こくう)を麾(さしまね)けば。忽(たちま)ち逆風(ぎやくふう)大いに吹起(ふきおこ)り船(ふね)を吹戻(ふきもど)し逆浪(さかなみ)を
揚(あげ)て船(ふね)を淘上(ゆりあげ)淘下(ゆりおろ)すにぞ。賊兵(ぞくへい)また大いに恐(おそ)れ騒(さは)ぎ。船子(ふなこ)們(ら)は舳艫(ともへ)にあせ
つて櫓櫂(ろかい)を弄(つか)ひ船(ふね)をと東岸(とうがん)へ漕着(こぎつけ)んとす。高丸(たかまる)も駭(おどろ)きながら船櫓(ふなやぐら)に立(たつ)て船(ふな)
子(こ)に下知(げぢ)を伝(つたへ)て在(あり)けるを。田村丸(たむらまる)陸(くが)より遙(はるか)に見て五人 張(ばり)の弓(ゆみ)に矢(や)を打番(うちつがへ)。南無(なむ)
観世音菩薩(くわんぜおんぼさつ)。此(この)賊将(ぞくせう)を射(い)さしめ給へと祈念(きねん)し。ねらひを固(かた)め彎絞(ひきしぼつ)て兵(へう)ど放(はな)す
に。其間(そのあはひ)百間(ひやくけん)ばかり隔(へだて)ながら。過(あやま)たず高丸(たかまる)が胸板(むないた)の正中(たゞなか)を背(せ)まで突(つ)と射通(いとふ)したり
さしも兇(けうゆう)の曲者(くせもの)も。急所(きうしよ)の痛手(いたで)に堪(たまり)もあへず川中(かはなか)へ真逆(まつさかさま)に落(おち)底(そこ)の水屑(みくず)と
成(なり)にける。賊徒(ぞくと)は頼(たの)み切(きつ)たる首領(たいせう)を討(うた)れ大いに気力(きりよく)を落(おと)せし上(うへ)。逆風(ぎやくふう)逆浪(げきらう)の為(ため)
に船(ふね)を浪間(なみま)に覆(くつがへ)されて溺死(できし)し。あるひは西岸(せいがん)へ吹着(ふきつけ)られて官軍(くわんぐん)に討(うた)るゝも有(あり)

擒(とりこ)となるも多(おほ)かりけり。賊方(ぞくがた)の旗頭(はたがしら)大墓王(おほはかわう)。盤具王(ばんぐわう)は勢(いきほ)ひ究(きはま)りて士卒(しそつ)五百人を引(ひい)
て。冑(かぶと)を脱(ぬぎ)弓(ゆみ)を折(をつ)て田村丸(たむらまる)の手(て)へ降参(かうさん)しける。征東使(せいとうし)弟麻呂(おとまろ)副将(ふくせう)俊哲(しゆんてつ)。真鷲(まわし)が
勢(せい)も追々(おひ〳〵)に馳来(はせきた)り。賊徒(ぞくと)を討取(うちとり)生捕(いけどつ)て今は手(て)に立(たつ)敵(てき)もなくなりければ。残(のこ)る賊船(ぞくせん)
を悉(こと〴〵)く焼捨(やきすて)。水煉(すいれん)の者に下知(げぢ)して。高丸(たかまる)が屍(しかばね)を尋(たづね)求(もとめ)させて首(くび)を刎(はね)。三 軍(ぐん)大いに勝(かち)
喊(どき)を造(つく)り諸軍(しよぐん)を班(まと)めけるに。彼(かの)沙門(しやもん)と宮司(みやつこ)は何地(いづち)へ往(ゆき)けん更(さら)に行方(ゆきがた)知(しれ)ざれば衆人(しゆうじん)
奇異(きい)の事に思(おも)ひ各々(おの〳〵)不審(ふしん)は晴(はれ)ざりけり。斯(かく)て軍馬(ぐんば)を休(やす)め敵(てき)の首(くび)を点撿(てんけん)するに
二千三百 級(きう)に余(あま)り生捕(いけどり)と降参(かうさん)の者是また千余人とぞ記(しる)しける。去程(さるほど)に兇徒(けうと)亡(ほろ)
び尽(つき)しかば。翌日(よくじつ)陣払(ぢんばら)ひし生捕(いけどり)降人(かうにん)を曳(ひか)せて国府(こくふ)へ帰陣(きぢん)し。賊魁(ぞくくわい)悪路王(あくろわう)を引(ひき)
出(いだ)して誅(ちう)し。大熊丸(おほくままる)。高丸(たかまる)が首(くび)とともに梟木(けうぼく)にかけ。高札(たかふだ)を建(たて)て国民(くにたみ)を安撫(あんぶ)し。軍(ぐん)
卒(そつ)を諸方(しよはう)へ分(わけ)遣(つかは)して残党(ざんとう)を悉(こと〴〵)く搦(からめ)捕(とら)せ。偖(さて)田村丸(たむらまる)は同国(どうこく)胆沢郡(いさわごほり)に八 幡宮(まんぐう)の
社(やしろ)を建(たて)高丸(たかまる)を射(い)たる弓箭(ゆみや)を奉納(はうのふ)し。又 達谷窟(たがや)に都(みやこ)の鞍馬寺(くらまでら)を模(うつ)して一 寺(じ)を

建立(こんりう)して毘沙門天(びしやもんでん)の像(ぞう)を安置(あんち)し両所(りようしよ)を奥州(おうしう)鎮護(ちんご)の宮寺(みやてら)とし。偖(さて)国中(こくちう)の政(せい)
事(じ)を執治(とりおさ)め万端(ばんたん)滞(とゞこふ)りなく調(しらべ)糺(たゞ)し。遂(つひ)に征東使(せいとうし)弟麻呂(おとまろ)副使(ふくし)の三 将(せう)と倶に
諸軍(しよぐん)を従(したが)へ降人(かうにん)の重立(おもだち)し者を率(ひい)て十一月上 旬(じゆん)奥州(おうしう)を発足(ほつそく)し都(みやこ)へぞ凱陣(かいぢん)せ
られける。誠(まこと)に田村(たむら)丸の智謀(ちばう)武勇(ぶゆう)前代(ぜんだい)いまだ例(ためし)を聞(きか)ず古今(こゝん)独歩(とつほ)の名将(めいせう)
かなと東(とう)八ヶ 国(こく)の貴賎(きせん)老若(らうにやく)とも知(しる)もしらぬも感賞(かんせう)せざるはなかりけり。斯(かく)て
征東使(せいとうし)の諸将(しよせう)十二月上 旬(じゆん)に都(みやこ)へ皈着(きちやく)し。直(たゞち)に参内(さんだい)して夷賊(いぞく)誅(ちう)に伏(ふく)し奥州(おうしう)
一 円(ゑん)に平鈞(へいきん)せし旨(むね)を奏聞(そうもん)せられければ。帝(みかど)睿感(ゑいかん)浅(あさ)からず軍功(ぐんかう)を深(ふか)く御 賞(せう)
美(び)在(ましま)し。疲労(ひらう)を休(やす)むべしとて。御 暇(いとま)を給(たま)はりて退出(たいしゆつ)せしめ給ひ。其後(そのゝち)諸将(しよせう)の
強弱(きやうじやく)を聞糺(きゝたゞ)させ給ふに。大伴弟麻呂(おほともおとまろ)敵(てき)を軽(かろ)んじて初度(しよど)の軍(いくさ)を仕損(しそん)じ寸功(すんかう)も
なく。俊哲(しゆんてつ)。真鷲(まわし)両人(りようにん)は田村丸(たむらまる)の令(げぢ)に順(したが)ひ粗(ほゞ)戦功(せんかう)を立(たて)。就中(なかんづく)田村丸は軍略(ぐんりやく)を
回(めぐら)し武勇(ぶゆう)を逞(たくまし)うして戦(たゝかふ)毎(ごと)に勝(かち)。夷賊(いぞく)の張本(てうぼん)大 熊(ぐま)丸。悪路王(あくろわう)。高丸(たかまる)の三 兇賊(けうぞく)

悉(こと〴〵)く手づから討取(うちとり)国中(こくちう)の政事(せいじ)まで調(しらべ)糺(たゞ)せし事 比類(ひるい)なき勲功(くんかう)なるよし睿聞(ゑいぶん)に達(たつ)し
ければ御感(ぎよかん)斜(なゝめ)ならず。則(すなは)ち田村丸(たむらまる)を召(めさ)れて東征(とうせい)の軍功(ぐんかう)を御 褒美(ほうび)在(ましま)し従(じふ)
三 位(み)に叙(じよ)し征夷大将軍(せいいたいせうぐん)に任(にん)じ給ひ。加増(かぞう)の采地(さいち)をぞ賜(たまは)りける。田村丸大いに怡(よろこ)
び厚(あつ)く君恩(くんおん)を拝謝(はいじや)し奉りて退出(たいしゆつ)せられけり。次(つぎ)に藤原真鷲(ふぢはらのまわし)百済王(くだらわう)俊哲(しゆんてつ)
を召(めさ)れて忠賞(ちうせう)を下(くだ)され。独(ひとり)大伴弟麻呂(おほともおとまろ)は微功(びかう)なきを以(もつ)て御恩賞(ごおんせう)の御 沙(さ)
汰(た)なく閉居(へいきよ)すべき由(よし)の詔命(みことのり)下(くだ)りける。田村丸(たむらまる)表(へう)を奉(たてまつ)り。今度(こんど)奥州(おうしう)の降人(かうにん)た
る大墓(おほはか)盤具(ばんぐ)両人(りようにん)は夷賊(いぞく)の種類(しゆるい)ながら見所(みどころ)ある者に候へば。渠(かれ)們(ら)両人(りようにん)を助命(じよめい)せ
られ小宦(せうくわん)を授(さづけ)給ひて奥州(おうしう)に住居(ぢうきよ)させ玉はゞ。重(かさね)て夷賊(いぞく)の乱妨(らんばう)せんとき取鎮(とりしづめ)るに
大いに湎便(たより)と成(なり)候べしと奏聞(そうもん)せられければ。帝(みかど)此議(このぎ)如何(いかゞ)あるべきと群臣(ぐんしん)を召(めさ)れて
勅問(ちよくもん)ありけるに。公卿(くげう)の中(うち)に大伴弟麻呂(おほともおとまろ)が縁者(えんじや)有(あつ)て。今度(こんど)の御 沙汰(さた)に弟麻呂(おとまろ)が寸功(すんかう)
なきを以(もつ)て閉居(へいきよ)仰(あふ)せ付(つけ)られしを悔(くや)み。田村丸(たむらまる)が抜群(ばつぐん)の昇進(せうしん)を妬(ねた)みて。降人(かうにん)を助命(じよめい)

せんと願(ねがふ)を言(いひ)妨(さまたげ)んと御 評議(ひやうぎ)の席(せき)に進(すゝ)み出(いで)。彼(かの)降参(かうさん)せし夷賊(いぞく)御助命(ごじよめい)の議(ぎ)は
御 無用(むよう)たるべく候はんか。其故(そのゆへ)は元来(ぐわんらい)夷賊(いぞく)は禽獣(きんじふ)にひとしく多欲(たよく)残忍(ざんにん)にて信義(しんぎ)
を知(しら)ざれば。天恩(てんおん)を忘却(ぼうきやく)して虎狼(こらう)の心を生(しやう)ぜん事 治定(ぢでう)に候。渠們(かれら)を奥州(おうしう)へ放ち
皈(かへ)し玉はんは。虎(とら)を山林(さんりん)に放(はなつ)がごとく。却(かへつ)て後(のち)の害(がい)を遺(のこ)す理(り)にて候へば。只(たゞ)誅(ちう)し給ふ
こそ然るべく候と申ければ。帝(みかど)も理(ことは)りに思召(おぼしめし)遂(つひ)に誅戮(ちうりく)在(ある)べきに定(さだ)まり。大墓(おほはか)
盤具(ばんぐ)とも河内国(かはちのくに)杉山(すぎやま)に於(おい)て死罪(しざい)に行(おこな)はれ。其余(そのよ)の降人(かうにん)は田村丸(たむらまる)の乞(こふ)に任(まか)せ悉(こと〴〵)
く助命(じよめい)ありて奥州(おうしう)へ放(はな)ち帰(かへ)させ給ひけり
     延鎮(えんちん)《振り仮名:語_二両脇士奇特_一|りようわきしのきどくをかたる》  田村丸(たむらまる)《振り仮名:建_二立清水寺_一|せいすいじをこんりうす》条
坂上田村丸(さかのうへたむらまる)は東夷(とうい)征伐(せいばつ)の大功(たいかう)に因(よつ)て。官位(くわんゐ)昇進(せうしん)し御 加増(かぞう)を給(たまは)り。家(いへ)繁栄(はんゑい)
の時(とき)を得(え)られしかば喜悦(きゑつ)限(かぎ)りなく。是(これ)併(しかし)ながら観音大士(くわんおんだいし)の加護力(かごりき)に因(よる)所(ところ)なりと
て東山(むがしやま)【ママ】の延鎮(えんちん)が菴(いほり)へ到(いた)られけるに。延鎮(えんちん)は已(すで)に観音(くわんおん)の像(ぞう)及(およ)び腋立(わきだち)地蔵(ぢざう)多(た)

聞(もん)【注】の像(ぞう)をも彫刻(てうこく)し畢(おは)り田村丸(たむらまる)の皈洛(きらく)あるを待居(まちゐ)ければ。大いに悦(よろこ)びて迎請(むかへせう)じ無(ぶ)
事(じ)に凱陣(きぢん)ありしを賀(が)しけるに。田村丸 延鎮(えんちん)に向(むか)ひ。今度(こんど)奥州(おうしう)の夷賊(いぞく)を伐(うち)平(たいら)げ。君(きみ)
の御感(ぎよかん)に預(あづか)り宦位(くわんゐ)昇進(せうしん)し面目(めんほく)を世(よ)に施(ほどこ)せしは。全(まつた)く我力(わがちから)にあらず。帝(みかど)の御 威光(いくわう)
と観世音(くわんぜおん)の加護力(かごりき)に因(よる)ところなり。それに就(つき)て不思議(ふしぎ)の一 義(ぎ)あり。我(われ)奥州(おうしう)に於(おい)て
夷賊(いぞく)と合戦(かせん)に及(および)しところ。何国(いづく)よりともしらず一人の沙門(しやもん)と一人の社人(しやにん)と覚(おぼ)しき人 出(いで)
来(きた)り。忽(たちま)ち大風(おほかぜ)を起(おこ)して賊軍(ぞくぐん)を吹仆(ふきたを)し。又 袖(そで)を振(ふれ)ば敵(てき)より射(い)かくる矢(や)悉(こと〳〵)く飛反(とびかへり)
て却(かへつ)て敵軍(てきぐん)を射(い)しゆへ。賊軍(ぞくぐん)大いに恐(おそ)れて弊(ついへ)走(はし)り。浜手(はまて)なる己(おの)が船(ふね)へ逃(にげ)乗(のり)し
を。味方(みかた)是(これ)を追(おふ)て大川(たいが)のほとりへ到(いたり)しかば。夷賊(いぞく)は船(ふね)を漕(こぎ)去(さら)んと已(すで)に中流(ちうりう)まで到(いたり)
しに。件(くだん)の沙門(しやもん)宮司(みやつこ)また忽然(こつぜん)と現(あらは)れ出(いで)。手(て)を以(もつ)て虚空(こくう)を麾(さしまね)けば再(ふたゝび)暴風(はやて)吹起(ふきおこ)
り逆浪(さかなみ)立(たつ)て賊船(ぞくせん)を漂(たゞよは)しぬ。是(これ)に依(よつ)て我(われ)賊主(ぞくしゆ)を射落(いおと)し夷賊(いぞく)を伐(うち)平(たいら)ぐる事
を得(え)。軍勢(ぐんぜい)を班(まど)めて彼(かの)沙門(しやもん)と宮司(みやつこ)を尋(たづね)捜(さが)さしむるに。何地(いづち)へ往(ゆき)けん更(さらに)その行(ゆき)

【注 多聞天の略】

方(がた)をしる者(もの)なし。倩(つら〳〵)思(おも)へば是(これ)神仏(しんぶつ)の応化(おふけ)にてや在(おは)しけん。最(いと)不思議(ふしぎ)の事ならずや
と語(かた)られければ。延鎮(えんちん)聞(きい)て膝(ひざ)を拍(うつ)て感嘆(かんたん)し。実(げに)難有(ありがたき)御 事(こと)かな。御 物語(ものがたり)に就(つい)て思(おもひ)
合(あは)す事こそ候へ。拙僧(せつそう)御助情(ごじよせい)に依(より)て観世音(くわんぜおん)の像(ぞう)を刻(きざ)み。余(あま)れる材(ざい)を以(もつ)て御 脇(わき)
立(だち)の地蔵(ぢざう)多聞(たもん)二 像(ぞう)を刻(きざ)み候ひき。然(しかる)に一日(あるひ)地蔵(ぢざう)多聞(たもん)の二 像(ぞう)を拝(おが)み候に。いかなる
事にや両像(りようぞう)とも御足(みあし)泥(どろ)に染(そみ)たり。依(よつ)て不審(ふしん)晴(はれ)ず候ひしが。今の御 物語(ものがたり)を承(うけたま)はり
始(はじめ)て疑(うたが)ひの心(むね)を開(ひら)き候。其時(そのとき)の沙門(しやもん)は此(この)地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)。宮司(みやつこ)は此(この)多聞天(たもんでん)なりと。仏(ぶつ)
間(ま)を開(あけ)て両(りやう)脇立(わきだち)を見せ。偖(さて)再(また)曰(いはく)。此(この)二尊(にそん)はともに観世音(くわんぜおん)の化身(けしん)にて最(もつとも)利益(りやく)多(おほ)し
公(きみ)の信心(しんじん)通(つう)じて二 尊(そん)遠(とふ)く奥州(おうしう)まで到(いたり)給ひ。公(きみ)の軍(いくさ)を佐(たす)け朝敵(てうてき)を降伏(かうふく)し給ひし
ゆへ。偖(さて)こそ木像(もくぞう)の御足(みあし)泥(どろ)に塗(まみ)れ給ふにこそと。感涙(かんるい)とともに語(かたり)けるにぞ。田村丸(たむらまる)信心(しん〴〵)
肝(きも)に銘(めい)じて観音(くわんおん)至及(および)地蔵(ぢざう)毘沙門(びしやもん)を恭敬(くげう)礼拝(らいはい)して仏恩(ぶつおん)を謝(しや)し奉(たてまつ)り。延鎮(えんちん)の
彫刻(てうこく)の至妙(しめう)を賞美(せうび)あり。此上(このうへ)は仏恩(ぶつおん)報謝(ほうしや)のため堂塔(どうとふ)を造立(ぞうりう)すべしと契約(けいやく)し

て帰館(きくわん)【舘は俗字】あり。普(あまね)く良材(りようざい)を買聚(かひあつめ)て音羽山(おとはやま)へ運送(うんそう)させ。財物(ざいもつ)を悋(をしま)ず百工(ひやくかう)をは励(はげま)して
堂塔(どうとふ)舞台(ぶたい)楼門(ろうもん)坊舎(ぼうしや)鎮守(ちんじゆ)の社殿(しやでん)にいたるまで。玉(たま)を磨(みが)きて巍々(ぎゝ)たる大伽藍(だいがらん)を
建立(こんりう)し。千手(せんじゆ)千眼(せんげん)の観世音(くわんぜおん)を本尊(ほんぞん)とし。地蔵尊(ぢざうそん)多聞天(たもんでん)を両脇士(りようわきし)として安置(あんち)せ
られ山上(さんぜう)より清浄(しやう〴〵)なる《振り仮名:飛泉|たき》 流(なが)れ落(おつ)るを以(もつ)て音羽山(おとはざん)清水寺(せいすいじ)と号(がう)し。延鎮(えんちん)を
以(もつ)て開基(かいき)とせられける。然(しか)ありしより以来(このかた)一千 有余年(ゆうよねん)の今にいたる迄(まで)堂塔(どうたふ)の壮麗(そうれい)
古(いにしへ)に変(かは)らず。法灯(ほふとう)永(なが)く無明(むみやう)の闇(やみ)を照(てら)し。利生(りせう)千古(せんこ)一 如(によ)にして。当寺(とうじ)の本尊(ほんぞん)に
祈誓(きせい)する人 御利益(ごりやく)を蒙(かふむ)らざるはなく。感応(かんのう)ある事 響(ひびき)の物(もの)に応(おふ)ずるが如(ごと)し。誠(まこと)
に観世音(くわんぜおん)大 慈(じ)大 悲(ひ)の誓(ちかひ)何(い▢[づ])れに疎(おろか)はなしといへども。殊(こと)に清水寺(せいすいじ)の観音薩垂(くわんおんさつた)
は霊験(れいげん)あらたなる本尊(ほんぞん)なれば。都鄙(とひ)の貴賎(きせん)歩(あゆみ)を運(はこぶ)事 日夜(にちや)絶間(たへま)はなかりけり
    乾臨閣(けんりんかく)御遊(ぎよゆふ)緒継(をつぎ)昇進(しやうしん)  老人(らうじん)寿星(じゆせい)出現(しゆつげん)大赦(だいしや)事
星霜(せいさう)おし移(うつ)り延暦(えんりやく)二十一年 壬午年(みづのへむまどし)の六月。例(れい)よりは暑気(しよき)皓(はなは)だしかりければ桓武(くわんむ)

天皇(てんわう)群臣(ぐんしん)を将(ひきい)て神泉苑(しんせんえん)に御幸(みゆき)在(ましま)し。納涼(すゞみ)の御遊(ぎよゆふ)を催(もよほ)され御 入興(じゆけう)あらせられけり
  因(ちなみ)に曰(いふ)天子(てんし)の御 遊行(ゆふかう)を御幸(みゆき)と申は古(いにしへ)は君王(くんわう)御遊行(ごゆふかう)ある所(ところ)の人民(にんみん)にそれ〳〵
  禄(ろく)を与(あた)へ賑(にぎ)はし給ふゆへ民(たみ)悦(よろこ)びて君王(くんわう)の光臨(くわうりん)し給ふを幸(さいはい)とするに基(もと)づき
  て天子(てんし)の御出遊(ごしゆつゆふ)を御幸(ごかう)と唱(となへ)しより此称(このせう)始(はじま)れり。天子(てんし)の御 出遊(しゆつゆふ)を御幸(ごかう)と
  書(かき)仙洞(せんとう)の御 出遊(しゆつゆふ)を行幸(ぎやうかう)と書(かく)。ともに和訓(わくん)にはみゆきと読(よめ)り
抑(そも〳〵)神泉苑(しんせんえん)と申は平安城(へいあんじやう)始(はじめ)て成就(じやうじゆ)せし時(とき)周(しう)の文王(ぶんわう)の霊囿(れいゆう)に准(なぞら)へて八 町(てう)四 方(はう)の
池(いけ)を堀築(ほりきづ)き池中(ちゝう)に社檀(しやだん)を営造(ゑいぞう)して八大 龍王(りうわう)を鎮(しづめ)祭(まつり)給ふ故(かるがゆへ)に旱魃(かんはつ)のとし
には神泉苑(しんせんえん)にて雨(あめ)を祈(いの)るに必(かなら)ず霊験(れいげん)あり。偖(さて)池辺(ちへん)に殿閣(でんかく)を建(たて)乾臨閣(けんりんかく)と号(がう)し
給へり。是(こ)は且(しばらく)おいて。帝(みかど)は諸臣下(しよしんか)を従(したがへ)て乾臨閣(けんりんかく)へ登(のぼ)らせ給ひ御遊宴(ごゆふえん)を催(もよほ)し給ひ
題(だい)を賜(たまは)りて公卿(くげう)に詩歌(しいか)を詠唫(えいぎん)させられ。其後(そのゝち)管絃(くわんげん)を催(もよほ)し給ひて。臣下(しんか)の中(うち)
に堪能(かんのふ)の人をえらび。それ〳〵の役(やく)を命(めい)じ給ふ。茲(こゝ)に藤原百川(ふぢはらのもゝかは)が男(なん)に従(じふ)四位下(しゐのげ)藤(ふぢ)

原緒継(はらのをつぐ)といふ人ありて。和琴(わごん)の役(やく)にあたり即(すなは)ち和琴(わごん)を弾(たん)じけるに。元来(ぐわんらい)緒継(をつぐ)は双(ならび)
なき和琴(わごん)の名人(めいじん)なりければ。其(その)爪音(つまおと)殊(こと)に妙(たへ)にして。満座(まんざ)の人々 心耳(しんに)を澄(すま)して聞(きゝ)。感(かん)
嘆(たん)せざるはなかりけり。帝(みかど)も緒継(をつぐ)の和琴(わごん)を深(ふか)く御 賞美(せうび)在(ましま)して。天機(てんき)麗(うるは)しく興じ
させ給ひ。管絃(くわんげん)畢(おは)りて後(のち)。再(ふたゝ)び御 酒宴(しゆえん)を隆(さかん)になし給ひて諸(しよ)臣下(しんか)へ天盃(てんぱい)を給(たま)はり
ければ。列位(おの〳〵)大いに悦(よろこ)び難有(ありがたく)頂戴(てうだい)しいづれも醉(ゑひ)帯(おび)られけり。時(とき)に帝(みかど)群臣(ぐんしん)に宣(のたま)ひける
は。朕(ちん)いまだ皇子(わうじ)たりし時(とき)。先帝(せんてい)立太子(りうたいし)の御 評議(ひやうぎ)在(あり)しに。是(これ)なる緒継(をつぎ)が父(ちゝ)故(こ)百川(もゝかは)
朕(ちん)を太子(たいし)に立(たて)んと奏(そう)しけるを。諸大臣(しよたいじん)朕(ちん)が母(はゝ)の素姓(すぜう)卑(いやし)きを以(もつ)て是(これ)を遮(さへぎ)り妨(さまたげ)たり
然(しかれ)とも百川(もゝかは)度々(どゝ)の評定(ひやうでう)に志(こゝろざし)を屈(くつ)せず。五十日が間(あいだ)殿中(でんちう)を退(しりぞ)かず。昼夜(ちうや)睡眠(すいみん)する
事なく歎奏(たんそう)せしゆへ。先帝(せんてい)其(その)忠胆(ちうたん)の撓(たゆま)ざるを睿感(ゑいかん)在(あり)て。遂(つひ)に百川(もゝかは)が願(ねがひ)に任(まか)せ
朕(ちん)を太子(たいし)に立(たて)給へり。朕(ちん)不徳(ふとく)の身(み)を以(もつ)て今日(こんにち)まで帝祚(ていそ)を受今 此(この)歓楽(くわんらく)をなす
も偏(ひとへ)に百川(もゝかは)が賜(たまもの)なり。もし其時(そのとき)百川(もゝかは)無(な)かつせば豈(あに)事 茲(こゝ)に及(およば)んや。されば朕(ちん)を生(うむ)

者(もの)は父母(ふぼ)にて朕(ちん)を達(たつ)する者は百川(もゝかは)ならずや。茲(こゝ)を以(もつ)て朕(ちん)片時(へんし)も百川(もゝかは)が元功(げんかう)を忘(わす)れ
ず。今 緒継(をつぎ)若年(じやくねん)たりといへども。父(ちゝ)が忠勤(ちうきん)の故(ゆへ)を以(もつ)て今より参議(さんぎ)に任(にん)するなり卿(けい)
們(ら)朕(ちん)を異(あやし)む事(こと)勿(なか)れと宣(のたま)ひ。即座(そくざ)に緒継(をつぎ)を参議(さんぎ)に任(にん)じ給ひけり。緒継(をつぎ)此時(このとき)
二十九才なり。父(ちゝ)の余功(よかう)に依(よつ)て俄(にはか)に高宦(かうくわん)に昇進(せうしん)し一 座(ざ)に美目(びもく)を施(ほとこ)し大いに怡(よろこ)び
厚(あつ)く帝恩(ていおん)を感拝(かんはい)し奉りけり。去程(さるほど)に日(ひ)暮(くれ)夜(よ)にもなりければ。殿中(でんちう)に玉灯(ぎよくとう)数(あ)
多(また)点(てん)じ名香(めいかう)を多(おほ)く薫(くゆ)らさせ給ひければ。金殿(きんでん)玉灯(ぎよくとう)の影(かげ)に耀(かゝや)き。蘭奢(らんじや)公(こう)
卿(けい)の衣紋(えもん)に芳(かほ)り君臣(くんしん)ともに楽(たのし)み興(けう)じ給ひ。御遊(ぎよゆう)数剋(すこく)に及(およ)び遂(つひ)に涼風(りやうふう)に乗(ぜう)
じて大裡(だいり)へ還御(くわんきよ)なし給ひけり。同年(どうねん)十一月 朔日(ついたち)冬至(とうじ)に相(あひ)値(あたり)しかば百宦(ひやくくわん)百司(ひやくし)大(おほ)
内(うち)へ参内(さんたい)し。表(へう)を上(たてまつ)りて朔旦(さくたん)の冬至(とうし)を慶賀(けいが)し奉りける。それ十一月 朔日(ついたち)に冬至(とうじ)の
値(あた)るはいとも芽出度(めてたき)事にて。漢土(かんど)にも古(ふる)くより是(これ)を賀(が)せり。殊更(ことさら)此頃(このころ)天に老(らう)
人(じん)寿星(じゆせい)現(あらは)れければ。傍(かた〴〵)天下 太平(たいへい)の祥瑞(しやうずい)なりと。臣下(しんか)一 同(どう)に万歳(ばんぜい)をぞ唱(となへ)ける

帝(みかど)も大いに睿感(ゑいかん)在し天機(てんき)殊(こと)に麗(うるは)しく詔(みことの)りを下(くだ)して宣(のたまは)く
  天地(てんち)覆寿(ふくじゆ)時(とき)に順(したが)ひ気(き)を播(ほどこ)して皇王(くわうわうを)享育(かういく)し。物(もの)を利(り)し仁(じん)を弘(ひろ)む
  朕(ちん)寡昧(くはまい)を以(もつ)て鴻基(かうき)に嗣(つぎ)登(のぼ)り万類(ばんるい)を撫養(ぶやう)す。政道(せいとう)洽(あまね)きこと無(な)し
  方(まさ)に思(おも)ふ南薫(なんくん)恵沢(けいたく)未(いま)だ淳(あつ)からず。尚(なを)東戸(とうこ)に慙(はづ)比(このごろ)有司(ゆうし)奏称(そうしやう)すらく
  老人星(らうじんせい)見(あらは)ると。又 今年(こんねん)十一月 朔旦(さくたんの)冬至(とうじ)也(なり)と。百宦(ひやくくわん)表賀(へうがし)て曰(いはく)。軒轅(けんゑん)之(の)年(とし)宝(ほう)
  鼎(てい)祉(あと)を呈(あらは)し。陶唐之世(たうとうのよ)金精(きんせい)図(と)を表(あらは)す稽之(これをかんがふる)に天之祐(てんのたすく)る所(ところ)古今(こゝん)寧(ねい)
  殊(しゆ)なり《振り仮名:可_レ久|ひさしかるべ》く《振り仮名:可_レ長|ながかるべ》きの功(かう)《振り仮名:不_レ召而|まねかずして》方(まさ)に至(いた)り。太平(たいへい)太同之化(だいどうのくわ)《振り仮名:不_レ言|いはずして》自成(みづからなる)朕(ちん)
  慙(はづ)思(おもふ)て凱沢(かいたく)を施(ほどこ)し難(がた)きを。以(もつ)て天情(てんじやう)に答(こたへ)《振り仮名:自_二延暦二十二年昧爽_一|えんりやくにじうにねんのそうまい【ママ】より》以(い)
  前(ぜん)の徒罪(とざい)以下(いか)《振り仮名:無_二軽重_一|けいぢうとなく》悉(ことごとく)皆(みな)赦(ゆるし)除(のぞ)く。八虐(はちぎやく)故殺(こさつ)強窃(ごうせつ)の二(ふたつ)を犯(おか)し私(わたくし)
  に銭(ぜに)を鋳(いる)常赦(じやうしや)の《振り仮名:所_レ不_レ免|ゆるさゞるところ》の者(もの)は赦(しや)の限(かぎり)に《振り仮名:不_レ在|あらず》と《割書:云々》
右(みぎ)の詔書(せうしよ)を普(あまね)く諸国(しよこく)へ巡(めく)らされ天下に大赦(だいしや)をぞ行(おこな)ひ給ひける是(これ)に依(よつ)て諸州(くに〴〵)の

罪囚(つみんど)牢獄(ろうこく)を出(いだ)し赦(ゆる)され悦(よろこ)ぶ事大 方(かた)ならず。皆(みな)帝(みかど)の御仁徳(ごじんとく)を称(せう)し先非(せんひ)を
改(あらた)め正路(しやうろ)に皈(かへ)りける。故(かるがゆへ)に御世(みよ)益(ます〳〵)泰平(たいへい)にて万民(ばんみん)業(ぎやう)を楽(たのし)み。日月(しつげつ)相(あひ)照(てら)し五穀(ごゝく)豊(ほう)
熟しけり。斯て年月(ねんげつ)推移(おしうつ)り。延暦(えんりやく)二十四年の春(はる)となりけるに。二月の比(ころ)より帝(みかど)御(ご)
不例(ふれい)にわたらせ給ひければ。諸卿(しよけう)百宦(ひやくくわん)大いに心(むね)を痛(いた)め。和気(わけ)丹波(たんば)の医宦(いくわん)に命(めい)じて良(りよう)
方(はう)を撰ませて霊薬(れいやく)を献(たてまつ)らしめ。神社(しんじや)へは奉幣使(はうへいし)を立(たて)仏院(ぶついん)には御悩(ごのふ)平愈(へいゆ)の大法(だいほふ)
秘方(ひはう)を修(しゆ)せしめられける。然(しかる)に陰陽(おんやう)の博士(はかせ)勘文(かんもん)を上(たてまつ)り。今度(こんど)の御悩(ごのふ)は死霊(しれう)の為(なす)
ところにて候と奏(そう)しけるにぞ。諸卿(しよけう)商議(しやうぎ)ありて。偖(さて)は尚(なを)早良(さうら)太(たい)子の怨霊(おんれう)の祟(たゝ)【崇は誤記】り
なるべし。其(その)憤霊(ふんれい)を鎮(しづめ)んと区々(まち〳〵)に議(ぎ)せられけるを。帝(みかど)聞(きこし)食(めし)て大臣(だいじん)を召(めさ)れて宣(のたま)
ひけるは。朕(ちん)が今般(このたひ)の違例(ゐれい)を早良(さうら)太子(たいし)の怨霊(おんれう)の祟(たゝり)【崇は誤記】なりと議(ぎ)するよし。是(これ)以(もつて)の
外(ほか)の僻事(ひがこと)なり。彼(かの)太子(たいし)の憤霊(ふんれい)は。已(すで)に先年(せんねん)一 社(しや)の神(かみ)に鎮(しづめ)祭(まつ)り。其(その)霊(れい)を宥(な)めてより
以来(このかた)絶(たへ)て祟(たゝり)【崇は誤記】をなさず。然(しかる)に年月(ねんげつ)久(ひさ)しく立(たつ)て。今また朕(ちん)に祟(たゝり)【崇は誤記】をなす謂(いはれ)あらんや。由(よし)

なき議(ぎ)に国(くに)の財(たから)を費(ついや)さんより。鰥寡(くわんくわ)孤独(ことく)の窮民(きうみん)に米銭(べいせん)を与(あた)へ施(ほどこ)すべしと
勅詔(ちよくぜう)在(あり)ければ。大臣(だいじん)達(たち)大いに感伏(かんふく)し奉り。其(その)勅詔(みことのり)のおもむきを諸司(しよし)百宦(ひやくくわん)へ云渡(いひわた)
し普(あまね)く鰥寡(くわんくわ)孤独(こどく)の者(もの)に米銭(こめぜに)を施(ほどこ)されける。其(その)御仁徳(ごじんとく)による所(ところ)にや日(ひ)を追(おふ)
て御悩(ごのふ)平愈(へいゆ)ならせ給ひければ上下 皆(みな)万歳(ばんぜい)を唱(となへ)てぞ悦(よろこ)びける。其(その)翌年(よくねん)延暦(えんりやく)二
十五年 丙戌(ひのへいぬ)の春(はる)帝(みかど)七 旬(じゆん)にならせ給ふに御 老年(らうねん)ゆへにやさして御悩(このふ)と申ほど
の御事もなく。只(たゞ)仮初(かりそめ)に打臥(うちふし)給ひしに。三月十七日 遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)なし給ひけり。親(しん)
王(わう)女御(にようご)諸(しよ)臣下(しんか)はいへば更(さら)なり。此君(このきみ)の化沢(くわたく)を蒙(かふむ)りし天(あめ)が下(した)の万民(ばんみん)皆(みな)赤子(せきし)の父(ふ)
母(ぼ)を亡(うしな)ひたることく涕泣(ていきう)せざるはなかりけり。斯(かく)て尊骸(そんがい)を玉棺(ぎよくくわん)に収(おさ)め山城国(やましろのくに)紀伊郡(きいこほり)
柏原(かしはばら)の山陵(みさゝき)に葬(ほふむ)り奉られける。御在位(こざいゐ)二十五年 宝算(ほうさん)七十 歳(さい)とぞ聞(きこ)えさせ
給ひけり。皇子方(わうじがた)百宦(ひやくくわん)百司(ひやくし)末々(すへ〴〵)の輩(ともがら)まで諒闇(りようあん)に篭(こも)り。御忌(おんいみ)明(あき)て。后(のち)諸卿(しよけう)詮(せん)
議(ぎ)ありて皇太子(くわうたいし)安殿(やすどの)親王(しんわう)を帝位(ていゐ)に即(つけ)奉られけり。平城天皇(へいぜいてんわう)と申は此君(このきみ)なり

     平城天皇(へいぜいてんわう)御即位(ごそくゐ)《割書:并(ならびに)》譲位(じやうゐ)  嵯峨天皇(さがてんわう)受禅(じゆぜん)南都(なんと)擾乱(じやうらん)
人皇(にんわう)五十一代 平城天皇(へいぜいてんわう)と申奉るは。桓武天皇(くわんむてんわう)第(だい)一の皇子(みこ)にて。御 諱(いみな)は日本根子天(やまとねこあめ)
排国高彦尊(ひらけくにたかひこのみこと)又の御 名(な)は安殿(やすどの)親王(しんわう)御 母(はゝ)は藤原乙牟漏(ふぢはらのをとむろ)と申奉り。藤原(ふぢはら)の冬(ふゆ)
継(つぐ)公(こう)の御 女(むすめ)なり。御 即位(そくゐ)の大礼(たいれい)を行(おこな)はれ延暦(えんりやく)二十五年を改(あらた)め大同(だいどう)元年(ぐわんねん)と暦号(れきかう)
を改元(かいけん)あり御 弟宮(おとゝみや)神野(かうのゝ)親王(しんわう)を春宮(とうぐう)に立(たて)給ひ。御 外祖(ぐわいそ)内大臣(ないだいじん)藤原冬継(ふちはらのふゆつぐ)公(こう)に
正(しやう)一 位(ゐ)太政大臣(だじやうだいじん)を贈(おく)り給ひけり。此(この)帝(みかど)は天性(てんせい)儒学(じゆがく)を好(このま)せ給ひ。又 詩文(しぶん)に長(てう)じ給へば
御 践祚(せんそ)の始(はじめ)より大学寮(だいかくれう)を儲(まうけ)て諸(しよ)皇子(わうじ)及(およ)ひ五位(ごゐ)以上(いじやう)の子息(しそく)十才に成(なり)ぬれば
学校(がくかう)へ入(いら)せ経学(けいがく)させ給ひ。又 有司(ゆうし)に詔命(みことのり)を下して宣(のたまは)く。今 世上(せぜう)に妖僧(ようそう)奸巫(かんふ)の徒(ともがら)
多(おほ)くして。神託(しんたく)占文(せんもん)に托(たく)して妄(みだり)に福(ふく)を説(とき)禍(くわ)を唱(とな)へ。愚昧(ぐまい)の庶民(しよみん)婦女(ふぢよ)の徒(ともがら)を
惑(まとは)し財帛(ざいはく)を貪(むさぼ)り取(とる)。故(かるがゆへ)に愚不肖(ぐふせう)の者 妖僧(ようそう)奸巫(かんふ)の言(ことば)を信(しん)じて国風(こくふう)を損(そん)じ正道(しやうどう)
を不知(しらず)甚(はなは)だ以(もつ)て然(しかる)べからず自今(いまより)以後(のち)妖僧(ようそう)奸巫(かんふ)の徒(ともがら)を堅(かた)く禁(きん)ずべしと命(めい)じ

給ふ。また六道(ろくどう)の諸国(しよこく)に観察使(くわんさつし)を定(さた)め給ひ。守護(しゆご)国司(こくし)諸官吏(しよぐにん)の私曲(しきよく)悪政(あくせい)を緊(きびし)
く誡(いまし)めさせ玉ひけり。先(まつ)東海道(とうかいどう)は参議(さんぎ)従(しふ)三 位(み)藤原葛野丸(ふぢはらのかどのまろ)西海道(さいかいどう)は参議(さんぎ)従(じふ)
三 位(み)藤原綱主(ふぢはらのつなぬし)。山陰道(さんいんどう)は参議(さんぎ)従四位(しふしゐ)藤原緒継(ふちはらのをつぐ)。山陽道(さんやうどう)は参議(さんぎ)正四位下(しやうしゐのげ)皇(かう)
大弟傅(たいていのふ)藤原園人(ふぢはらのそのんど)。北陸道(ほくろくどう)は従(じふ)四 位下(ゐのげ)杉篠安人(すぎしのゝやすんど)南海道(なんかいどう)は従(じふ)四 位下(ゐのげ)吉備朝(きびのあ)
臣泉(そみいづみ)等(とう)なり。如此(かくのごとく)万機(ばんき)の政道(まつりごと)正(たゞ)しく三 綱(かう)五 常(じやう)の道(みち)を推弘(おしひろ)め給へば万民(ばんみん)悦伏(ゑつふく)し
て四海(しかい)波(なみ)静(しづか)にいと昌平(しやうへい)の御代(みよ)なりけるに。忽(たちま)ち不時(ふし)の珍事(ちんじ)出来(しゆつらい)しけり。其故(そのゆへ)を探(さぐ)
り聞(きく)に。帝(みかど)の御 弟(おとゝ)伊予親王(いよのしんわう)と申は。先帝(せんてい)《割書:桓|武》の第(だい)四の宮(みや)にて父(ちゝ)帝(みかど)殊更(ことさら)御 寵愛(てうあい)の
宮なれば。其(その)御威光(ごいくわう)皇太子(くわうたいし)にもおさ〳〵劣り玉はず。諸人(しよにん)尊敬(そんけう)して常(つね)に諸方(しよはう)の
使者(ししや)門前(もんぜん)に市(いち)をなし。目出度(めでたく)富栄(とみさかへ)給ひけるに。先帝(せんてい)崩御(ほうぎよ)なし給ひし後(のち)は日々(ひゞ)に御
威勢(いせい)衰(おとろ)へ伺候(しかう)する公卿(くげう)も次第(しだい)に減(げん)し万事(よろづ)寂寥(ものさびし)く成行(なりゆき)けるにぞ。伊予親王(いよのしんわう)
御心(みこゝろ)快々(こゝろ〳〵)として楽(たのし)み玉はず。諸事(しよじ)衰微(すいひ)するに就(つけ)て往日(そのかみ)の威勢(いせい)隆(さか)んなりし事を

思(おも)ひ出(いだ)され御 母(はゝ)藤原吉子(ふぢはらのよしこ)とともに。移(うつ)り変(かは)る世(よ)を恨(うら)み帝(みかど)の御 威光(いかう)を羨(うらや)く【ママ】妬(ねたみ)
母子(ぼし)とも心頭(しんとう)を燃(もや)されけるが。憤念(ふんねん)積(つも)りておぼろげならぬ大望(たいもう)も思(おも)ひ立(たち)給ひ帝(みかと)
を傾(かたむ)け奉(たてまつ)り。我(われ)万乗(ばんせう)の位(くらゐ)を践(ふま)はやと不軌(ふき)の企(くはだて)を心に生(しやう)ぜられけれども。大切(たいせつ)の義(ぎ)
成れば猥(みだ)りに口外(かうくわい)もし玉はず。其事(そのこと)となく時々(より〳〵)諸卿(しよけう)の心を引試(ひきため)して是彼(これかれ)と荷(か)
檐(たん)の人をかたらひ給ひける。其中(そのなか)に藤原宗成(ふぢはらのむねなり)といふ人あり。生得(しやうとく)多欲(たよく)にて他人(たにん)の
富貴(ふうき)を妬(ねた)み其身(そのみ)の威権(いけん)を隆(さか)んにせんとおもふ事 多年(たねん)なりしに。此頃(このころ)伊予親王(いよのしんわう)
の為体(ていたらく)。大事(だいじ)を思(おぼし)立(たつ)べき機(き)あるを察(さつ)し是(これ)究竟(くつけう)の事よと思(おも)ひ詐(わざ)と親(した)しく
親王(しんわう)の起居(ききよ)を訪(とふら)ひ進(まい)らせ。物語(ものがたり)の端(はし)には先帝(せんてい)の御代(ごよ)にはさしも時(とき)めき栄(さかへ)給ひしに
今の帝(みかど)の御代(みよ)となりて君(きみ)の御 威光(いかう)は漸々(しだい)に薄(うす)らぎ。伺候(しかう)する公卿(くげう)も稀々(まれ〳〵)に成(なり)
行(ゆき)候事の御 痛(いた)はしさよ。先帝(せんてい)は皇子(みこ)あまた御座在中(おはしますうち)にも。とり分(わけ)君(きみ)を御 寵愛(てうあい)
在(ましま)し。皇太子(かうたいし)にも立(たて)給ふべき叡慮(ゑいりよ)にておはしけるを内大臣(ないだいじん)冬継(ふゆつぐ)其身(そのみ)外戚(くわいせき)と

成(なつ)て威(い)を震(ふるは)んと帝(みかど)を申 惑(まど)はし。我女(わがむすめ)の腹(はら)に出生(しゆせう)在(あり)し安殿親王(やすどのゝしんわう)を皇太子(かうたいし)に定(さだめ)
給へと勧(すゝ)め奉しゆへ帝(みかど)も冬継(ふゆつぐ)の詞(ことば)になづませ給ひ。安殿皇子(やすどのゝみこ)を儲君(まうけのきみ)となし給ひし也
先帝(せんてい)の睿慮(ゑいりよ)の侭(まゝ)ならず。君(きみ)こそ九五(きうご)の位(くらゐ)を践(ふそ)【ママ 「ふみ」とあるところか】給ひさこそ芽出度(めでたく)おはしますべ
きになんどゝ。御謀叛(ごむほん)を思(おぼし)立(たち)給へと言(いは)ぬばかりに申事 度々(どゝ)に及(および)ければ伊予親王(いよのしんわう)は
渡(わたり)に船(ふね)を得(え)たるごとく大いに悦(よろこ)び給ひ遂(つひ)に心術(しんじゆつ)を明(あか)し給ひて宗成(むねなり)と密謀(みつばう)を示(しめ)
し合(あは)し給ひ内々(ない〳〵)にて甲冑(かつちう)弓矢(ゆみや)を取寄(とりよせ)。忍々(しのび〳〵)に諸国(しよこく)の武士(ぶし)をかたらひ給ひけるに好(かう)
事(じ)門(もん)を出(いで)ず悪事(あくじ)千里(せんり)を走(はし)るならひ。早(はや)其(その)風説(とりさた)所々(しよ〳〵)に謳歌(いひふら)しけるを。右大臣(うだいじん)
内麻呂(うちまろ)洩(もれ)聞(きい)て是(これ)は一 大事(だいじ)の義(ぎ)かなとおど駭(おどろ)かれけれども。いまだ実否(じつふ)をも聞(きゝ)糺(たゞ)さずして
奏達(そうたつ)せんも如何(いかゞ)と。猶(なを)口外(かうぐわい)もせず世上(せじやう)の風聞(ふうぶん)を窺(うかゞ)はれけるに。内麻呂(うちまろ)の縁体(えんてい)なる
播磨国(はりまのくに)の武士(ぶし)何某(なにがし)。親王(しんわう)より味方(みかた)に頼(たの)み給ふよしを書(かき)たる宗成(むねなり)が密状(みつぜう)を持参(じさん)
して密(ひそか)に内麻呂(うちまろ)に呈(てい)しければ。偖(さて)は世上(せじやう)の風説(とりさた)疑(うたが)ふべきにあらずとて。急(きう)に参内(さんだい)

して伊予親王(いよのしんわう)隠謀(いんばう)を企(くはだて)給ふよしを奏聞(そうもん)ありければ。帝(みかど)大いに駭(おどろ)かせ給ひ。然(さら)ば先(まづ)宗(むね)
成(なり)を賺(すか)し寄(よせ)て搦(からめ)捕(とり)糺問(きうもん)すべしと宣(のたま)ふにぞ。内麻呂(うちまろ)領掌(れうぜう)し宗成(むねなり)が方(かた)へ使者(ししや)
を遣(つか)はし。朝廷(てうてい)の政事(せいじ)に就(つい)て急(きう)に命(めい)ぜらるゝ義(ぎ)あり急(いそ)いで参内(さんだい)あるべしと云(いは)せ
けるに天命(てんめい)の尽(つく)るところにや。宗成(むねなり)は己(おの)が密謀(みつばう)の洩(もれ)しとは努(ゆめ)にもしらず。誠(まこと)の御(お)
召(めし)と心得(こゝろえ)何心(なにごゝろ)なく参内(さんだい)しけるを。兼(かね)て屏風(べうぶ)の蔭(かげ)に隠(かく)れ居(ゐ)たる武士(ぶし)ども顕出(あらはれいで)
矢庭(やには)に捕(とつ)て伏(ふせ)犇々(ひし〳〵)と搦(から)め。右大臣(うだいじん)へ斯(かく)と言上(ごんぜう)しければ。即(すなは)ち有司(ゆうし)の手(て)へ曳(ひき)わた
させ緊(きび)しく糺問(きうもん)させられけるにぞ。宗成(むねなり)陳謝(ちんじや)の詞(ことば)なく遁(のが)れがたしと覚期(かくご)し伊予(いよの)
親王(しんわう)の御 頼(たのみ)に依(よつ)て已事(やむこと)を得(え)ず荷檐(かたん)せし旨(むね)を白状(はくぜう)し。自余(じよ)の一 味(み)の輩(ともがら)の名(な)
まで逐一(ちくいち)に申ける。是(これ)に依(よつ)て先(まづ)宗成(むねなり)を禁獄(きんごく)し。親王(しんわう)を擒(とりこ)にせんとて。左中将(さちうぜう)
安部是雄(あべのこれを)。左兵衛督(さひやうゑのかみ)巨勢野足(こせののたる)両人(りようにん)に宦兵(くわんへい)百五十 余(よ)人を差添(さしそへ)親王(しんわう)の御(ご)
所(しよ)を取囲(とりかこま)せける。親王(しんわう)斯(かく)と聞(きゝ)給ひて大いに駭(おどろ)き玉ひ。内々(ない〳〵)の隠謀(いんばう)早(はや)露顕(ろけん)せし

ならめと騒(さは)ぎ惑(まど)ひ。是(こ)は如何(いかゞ)せんと躊躇(ちうちよ)し玉ふうち。武士(ぶし)ども追々(おひ〳〵)こみ入 親王(しんわう)并(ならび)に
御 母(はゝ)吉子(よしこ)を虜(とりこ)にし。館(やかた)【舘は俗字】の男女(なんによ)も残(のこら)ず召捕(めしとり)有司(ゆうし)の庁(てう)へぞ曳(ひき)にける。斯(かく)て帝(みかど)は
群臣(ぐんしん)を召(めさ)れて御 詮議(せんぎ)あり。親王母子(しんわうおやこ)を川原寺(かはらでら)の一房(ひとま)に押籠(おしこめ)厳(きびし)く監卒(ばんにん)を
置(おい)て守(まも)らせ給ひ。偖(さて)藤原宗成(ふぢはらのむねなり)は逆意(ぎやくい)を勧(すゝ)めし大罪(だいざい)あれば。誅戮(ちうりく)させ給ふべ
きなれども。先帝(せんてい)崩御(ほうぎよ)なし給ひていまだ幾程(いくほど)もあらざればとて。死罪(しざい)一等(いつとう)を宥(ゆるし)
佐渡国(さどのくに)へ流罪(るざい)にせられ。其余(そのほか)一 味(み)の輩(ともがら)も罪(つみ)の軽重(けいぢう)に従(したが)ひ流刑(るけい)または追放(ついほう)し
給ひけり。偖(さて)も親王母子(しんわうぼし)は密謀(みつばう)の露顕(ろけん)せしを恨(うら)み憤(いきどふ)り給ひ。倶(とも)に飲食(いんしい)を断(たち)
終(つい)に母子(ぼし)とも川原寺(かはらでら)にて餓死(がし)したまひける。噫(あゝ)愚(おろか)なるかな伊予親王(いよのしんわう)近(ちか)く早(さう)
良太子(らたいし)の例(ためし)を知(しり)もいながら人倫(じんりん)の道(みち)を弁(わきま)へず天の容(ゆるさ)ぬ王位(わうゐ)を望(のぞ)み。御 身(み)のみ
ならず。母堂(ぼどう)を先(さき)とし親族(しんぞく)他人(たにん)にまで禍(わざはひ)を及(およぼ)し。不弟(ふてい)不義(ふぎ)の悪名(あくみやう)を遺(のこ)し千
載(ざい)の青史(せいし)を汚(けが)し給ふ事 自業自得(じがうじとく)とは言(いひ)ながら浅猿(あさま)しかりし事なりけり去程(さるほど)

に叛逆(ほんぎやく)の徒(ともがら)亡(ほろ)び尽(つき)て都(みやこ)の騒動(そうどう)も静(しづま)りければ。帝(みかど)は朝政(てうせい)に心を委(ゆだね)給ひて諸(しよ)
国(こく)より訟(うつたふ)るところの訴訟(そしやう)まで尽(こと〴〵)【盡は旧字】く御身(おんみ)自(みづから)判断(はんだん)なし給ひ。罪(つみ)を軽(かる)くし賞(せう)を
重(おも)くなし給ひけるゆへ。都鄙(とひ)の人民(にんみん)挙(こぞつ)て帝徳(ていとく)を賛美(さんび)しける。大同(だいどう)三年 医官(いくわん)出(いづ)
雲広貞(ものひろさだ)大同類聚方(だいどうるいじゆはう)百 巻(くわん)を撰(えらん)で上(たてまつ)りけり。日本医書(につほんいしよ)の始(はじめ)なり。帝(みかど)大いに睿感(ゑいかん)
在(ましま)し重(おも)く賞禄(せうろく)を給(たま)ひぬ。然(しかる)に伊予親王(いよのしんわう)の怨霊(おんれう)頻(しきり)に祟(たゝり)【崇は誤記】をなし種々(しゆ〴〵)の怪(け)
異(い)を見(あらは)し人民(にんみん)を悩(なやま)しければ。諸人(しよにん)是為(このため)に死亡(しぼう)する者 多(おほ)く。皆(みな)大いに怖(おそ)れ愁(うれひ)ける
大 同(どう)四年の正月(しやうぐわつ)より帝(みかど)も親王(しんわう)の憤霊(ふんれい)の祟(たゝり)【崇は誤記】にて御悩(ごのふ)度々(たび〳〵)に及(およ)ばせ給ひ。天下(てんか)の
政事(せいじ)を裁判(さいばん)なし給ふも懶(ものう)く思召(おぼしめし)遂(つひ)に宝位(みくらゐ)を下(すべ)らせ給ひ。帝祚(ていそ)を春宮(とうぐう)神野(かうのゝ)
親王(しんわう)に譲(ゆづら)せ給ひけり。御 在位(ざいゐ)僅(わづか)に四年なり。偖(さて)神野太子(かうのゝたいし)御 即位(そくゐ)在(ましま)し大礼(たいれい)
を執行(とりおこな)はせ給ふ。此君(このきみ)を人皇(にんわう)五十二代 嵯峨天皇(さがてんわう)と申奉れり。桓武天皇(くわんむてんわう)第(だい)二の皇(わう)
子(じ)にて御 母(はゝ)平城(へいぜい)天皇と同母(どうぼ)なり。御 践祚(せんそ)の後(のち)先帝(せんてい)《割書:平|城》に太上天皇(だじやうてんわう)の尊号(そんがう)

を奉(たてまつ)り給ひ大同四年を改(あらた)め弘仁(こうにん)元年と改元(かいげん)ありける其年(そのとし)の秋(あき)太上天皇(だじやうてんわう)の御
望(のぞみ)によつて奈良(なら)の旧都(きうと)に宮室(きうしつ)を造営(ぞうゑい)あらんとて。諸国(しよこく)より工匠(かうせう)および諸職人(しよしよくにん)
二千五百人を召上(めしのぼ)され。坂上田村丸(さかのうへたむらまる)藤原冬継(ふぢはらのふゆつぐ)を造営使(ぞうゑいし)とし藤原仲成(ふぢはらのなかなり)を
奉行(ぶぎやう)として経営(けいゑい)を急(いそ)がせ給ひければ。宮殿(きうでん)速(すみやか)に成就(じやうじゆ)し同年(どうねん)十一月 太上皇(だじやうかう)平城(なら)
の新宮(しんきう)へ遷幸(せんかう)【迁は俗字】なし給ふに就(つき)院参(いんざん)の公卿(くげう)皆(みな)供奉(ぐぶ)せられけり。其後(そのゝち)嵯峨天皇(さげてんわう)も
平城(なら)の新宮(しんきう)へ鳳輦(ほうれん)を環(めぐら)し給ひて。宮室(きうしつ)の成就(じやうじゆ)を賀(が)し給ふ。是(これ)朝覲(てうきん)の御幸(ごかう)の
起源(はじまり)なり。此年 右大臣(うだいじん)内麻呂(うちまろ)に紫(むらさき)の朝服(てうふく)を勅許(ちよくきよ)ありける。是(これ)大臣(だいじん)紫服(しふく)を着(ちやく)
する始(はじめ)なり。然(しかる)に太上天皇(だじやうてんわう)はさしも聖明(せいめい)の君(きみ)にておはしましけるに。伊予親王(いよのしんわう)の怨霊(おんれう)
障碍(せうげ)をなしけるゆへにや。平城(なら)の仙洞(せんとう)へ遷(うつ)【迁は俗字】り給ひし後(のち)は放心(ほうしん)し玉【「ひ」脱ヵ】しごとく。御 僻事(ひがこと)
多(おほ)く以前(いぜん)の明徳(めいとく)薄(うす)らぎ給ひ。御 在位(ざいゐ)の時(とき)より寵愛(てうあい)なし給ふ藤原仲成(ふぢはらのなかなり)が妹(いもと)の尚(せう)
侍(し)薬(くすり)子とて容顔(ようがん)美麗(びれい)なる婦人(ふじん)有(あり)けるが。此(この)薬子(くすりこ)面貌(めんほう)は衆(しゆ)に勝(すぐれ)けれども性(せい)

質(しつ)佞奸(ねいかん)【侫は譌字】にて己(おのれ)に劣(おと)れるは侮(あなど)り。己(おのれ)に勝(まさ)れるは妬(ねた)み。奸智(かんち)逞(たくま)しければ。言(ことば)を巧(たくみ)にし色(いろ)を
令(よく)して帝(みかど)に媚(こび)。御 寵愛(てうあい)に誇(ほこり)て万事(ばんじ)を口入(くにふ)し。仙洞(せんとう)の御 政事(せいじ)は大小となく薬子(くすりこ)が心
任(まか)せになりて非義(ひぎ)の事のみ多(おほ)けれども。君(きみ)の御(ぎよ)意に叶(かなひ)し女なれば。否難(ひなん)をいふ人もな
く。却(かへつ)て院参(いんざん)の公卿(くげう)は皆(みな)薬子(くすりこ)に賄賂(まいなひ)を贈(おく)り其(その)心に合(かな)はん事を欲(ほつ)しけるゆへ。薬子(くすりこ)の
威勢(いせい)追々(おひ〳〵)盛(さかん)になり。さながら中宮(ちうぐう)女御(にようご)の如(ごと)し。加之(しかのみ)ならず薬子(くすりこ)が兄(あに)の仲成(なかなり)もまた邪智(じやち)
奸曲(かんきよく)の佞人(ねじけびと)【侫は譌字】にて。妹(いもと)の権威(けんい)を借(かつ)て身(み)を驕(たかぶ)り。諸人(しよにん)を土芥(ちりあくた)の如(ごと)く直下(みくだ)し。己(おのれ)に阿(おもね)る者は
君前(くんぜん)を善(よき)やうに申なし。己(おのれ)に諛(へつら)はざるは君(きみ)に讒(ざん)して宦位(くわんゐ)を損(おと)し偏(ひとへ)に唐(とう)の揚国忠(やうこくちう)が所(しよ)
行(ぎやう)に異(こと)ならず。されども太上皇(だじやうかう)是(これ)を咎(とが)め玉はず。忠臣(ちうしん)なりとのみ思召(おぼし)けるぞ薄情(うたて)
かりける。仲成(なかなり)曽(かつ)て民部大夫(みんぶのたいふ)江人(えひと)といふ人の女(むすめ)を娶(めとり)て妻室(さいしつ)としけるに。其(その)妻(さい)の姨(おば)に
狭衣(さごろも)とて容顔(ようがん)麗(うるはし)き女ありて。或(ある)公卿(くげう)に嫁(とつぎ)て在(あり)けるを。仲成(なかなり)一 度(ど)狭衣(さごろも)を見(み)て懸想(けさう)し
夫(をつと)ある女とも憚(はばか)らず。数通(すつう)の艶書(ゑんじよ)を贈(おく)り。又は対面(たいめん)する折(をり)は打(うち)つけにかき口説(くどき)けれ

ども狭衣(さころも)は夫(をつと)ある身(み)といひ貞操(みさを)正(たゞ)しき女なれば更(さらに)承引(うけひか)ず難面(つれなく)てのみぞ打過(うちすぎ)ける。仲(なか)
成(なり)果(はて)は堪(こらへ)かね。一日(あるひ)狭衣(さごろも)が我(わ)が館(やかた)【舘は俗字】へ来(きた)りけるを強(しい)て一室(ひとま)へ伴(ともな)ひ行(ゆき)百般(いろ〳〵)口説(くどき)けれども。女
は猶(なを)も辞(いな)みければ。仲成(なかなり)怒(いかつ)て女を引伏(ひきふせ)。乗(のり)かゝつて刀(かたな)を抜(ぬき)其胸(そのむね)にさし当(あて)。你(なんじ)我(わ)が斯(か)
程(ほど)まで口説(くどく)に。猶(なを)も心に従(したが)はずんば。今 一刀(いつとう)に刺殺(さしころ)し。你(なんじ)が夫(をつと)をも君(きみ)に讒(ざん)して重(おも)く刑(つみ)に
行(おこな)ふべしと言刧(いひおど)しけるにぞ。女は只(たゞ)泣沈(なきしづ)み左右(とかう)の答(いらへ)もなさで在(あり)けるを仲成 理不尽(りふじん)に
婬(おか)し辱(はづか)しめ其儘(そのまゝ)【侭は略字】留(とゞ)め置(おき)遂(つひ)に己(おの)が妾(おもひもの)にぞしける。狭衣(さごろも)の夫(をつと)は是(これ)を聞(きい)て深(ふか)く
仲成(なかなり)を恨(うら)み憤(いきどふ)れども。君(きみ)の御意(ぎよい)に入し薬子(くすりこ)が兄(あに)なれば論(ろん)じ立(だて)せば却(かへつ)て讒害(ざんがい)せら
れん事を慮(おもんはか)り。無念(むねん)ながら其儘(そのまゝ)【侭は略字】になし置(おき)けり。是等(これら)の悪行(あくげう)の外(ほか)不義(ふぎ)私曲(しきよく)の所(しよ)
行(げう)度重(たびかさな)りければ。諸人(しよにん)内々(ない〳〵)薬子(くすりこ)兄妹(おとゞい)を忌(いみ)悪(にくま)ぬはなかりける。然(しかる)に嵯峨天皇(さがてんわう)は
いまだ春宮(とうぐう)にて在(ましま)しける頃(ころ)より薬子(くすりこ)が奸佞(かんねい)【侫は譌字】なるをよく知召(しろしめし)ければ。渠(かれ)が如(ごと)き婬(いん)
悪(あく)の妬婦(とふ)を君(きみ)の御 側(かたはら)に侍(はべら)しめては始終(しじふ)の御 為(ため)宜(よろ)しからずとて折節(をりふし)には諫奏(かんそう)

し給ひけれども。帝(みかど)は最愛(さいあい)の薬子(くすりこ)なれば御 許容(きよよう)し給はざりけり。薬子(くすりこ)は此事(このこと)を
知(しり)て春宮(とうぐう)を深(ふか)く恨(うら)み。折(をり)もあらば君(きみ)に讒奏(ざんそう)して春宮(とうぐう)を追退(おひしりぞけ)んものと巧(たく)みけるに
却(かへつ)て帝(みかど)宝位(みくらゐ)を下(すべ)らせ給ひ。春宮(とうぐう)帝位(ていゐ)に即(つき)給ひしかば。案(あん)に相違(さうゐ)し。平城(なら)の新(しん)
宮(きう)へ移(うつ)りて後(のち)は。兄(あに)仲成(なかなり)と心を合(あは)し。太上皇(だじやうかう)と帝(みかど)の御中を不和(ふわ)にし。遂(つひ)には太上皇(だじやうかう)
に重祚(ちようそ)を勧(すゝめ)奉(たてまつ)り嵯峨(さが)天皇の御位(みくらゐ)を奪(うばは)んと。恐(おそれ)多(おほ)き大望(たいもう)を企(くはだて)専(もつは)ら君(きみ)に媚(こび)て
其御心(みこゝろ)を蕩(とかう)し。此所(こゝ)には池(いけ)を堀(ほら)せ給へ。彼所(かしこ)には台(うてな)を建(たて)給へと勧(すゝ)め申。四季(しき)折々(をり〳〵)
に婬楽(いんらく)憍奢(けうしや)の御遊(ぎよゆふ)をなさせ奉りけるゆへ。財宝(ざいほう)の費(ついへ)夥(おびたゝ)しく。偏(ひとへ)に殷(いん)の紂王(ちうわう)
周(しう)の幽王(ゆうわう)の奢(おごり)に比(ひと)しく。京都(きやうと)よりの御 賄金(まかなひきん)も数百万両(すひやくまんれう)に及(およ)び大いに都(みやこ)の御 手支(てづかへ)と
なり。後(のち)には平城(なら)より言遣(いひつか)はさる金銀(きん〴〵)も滞(とゞこふ)りがちにぞなりける。是(これ)に依(よつ)て薬子(くすりこ)又
帝(みかど)の御事を上皇(じやうかう)へ讒(ざん)しけるは。今の帝(みかど)いまだ春宮(とうぐう)にておはしける時(とき)。妾(わらは)に懸想(けさう)し玉
ひ度々(たび〳〵)文(ふみ)を賜(たま)はり又は人伝(ひとづて)に口説(くどき)給ひしかども妾は君(きみ)の御恩(ごおん)を蒙(かうむ)れば。争(いかで)か春(とう)

宮(ぐう)の御心(みこゝろ)に従(したがひ)操(みさを)を汚(けが)しはべるべき。されば只(たゞ)難面(つれなく)聞捨(きゝすて)侍(はべり)しゆへ春宮(とうぐう)深(ふか)く妾(わらは)
を恨(うら)み悪(にく)み給へりと承(うけたま)はれり。此比(このごろ)此御所(このごしよ)より御 賄(まかな)ひの事を京都(きやうと)へ申 遣(つか)はせど
も十が一なしでは贈(おく)り給はず。皆(みな)是(これ)妾(わらは)を憎(にくみ)給ふゆへにてはべるべし。願(ねがは)くは君(きみ)再(ふたゝ)び
御位(みくらゐ)に復(かへり)給ひて此地(このち)を旧(もと)のごとく都(みやこ)とし。万機(ばんき)の政事(まつりごと)を行(おこな)ひ給へかし。然(しから)ば何(いか)なる御(ぎよ)
遊(ゆふ)も御意(みこゝろ)に任(まか)せはべるべし。此事(このこと)もし睿慮(ゑいりよ)に任(まか)せ玉はずば。兄(あに)仲成(なかなり)に宣旨(せんじ)を給(たま)
はりて近国(きんごく)の武士(ぶし)をかたらはせ給ひ。京都(きやうと)を攻(せめ)て帝(みかど)を廃(はい)し給へと時々(より〳〵)に勧(すゝ)め奉
りければ。上皇(じやうかう)は薬子(くすりこ)の愛(あい)に溺(おぼ)れ給へば。其(その)蜜言(みつげん)に御意(みこゝろ)蕩(とろ)け。遂(つひ)に重祚(ちやうそ)の
御心(みこゝろ)生(せう)じ数通(すつう)の院宣(いんぜん)を遊(あそば)し仲成(なかなり)に給はり。近国(きんごく)の武士(ぶし)をかたらはせ給ひけり。噫(あゝ)悲(かなし)
いかなさしもの明君(めいくん)も蛾眉(がび)佞奸(かんねい)【侫は譌字】の巧言(かうげん)に迷(まよ)ひ給ひ前車(ぜんしや)の覆(くつがへ)りし誡(いましめ)を打忘(うちわす)れ
給ふぞ薄情(うたて)かりき。仲成(なかなり)は君(きみ)の密詔(みつぜう)を奉(うけたま)はりて大いに悦び。須波(すは)青雲(しゆつせ)の期(とき)来(きた)れり
上皇(じやうかう)重祚(ちようそ)し玉はゞ。妹(いもと)薬子(くすりこ)は女御(にようご)となり我(われ)は摂政(せつしやう)の極宦(ごくくわん)に登(のぼ)り。数多(あまた)の国(くに)を

領(れう)し栄曜(ゑいよう)歓楽(くわんらく)を心の儘(まゝ)【侭は略字】にし。子孫(しそん)の後栄(こうゑい)を計(はか)らんものと。天の照覧(せうらん)を不顧(かへりみず)し
て。密(みつ)〱(〳〵)に近国(きんごく)の武士(ぶし)に院宣(いんぜん)を伝(つた)へ上皇の御 味方(みかた)に招(まね)きけるぞ愚(おろか)なる。それ隠(かくれ)
たるより顕(あらは)なるはなしとの諺(ことはざ)宜(むべ)なるかな。上皇(じやうかう)御 隠謀(いんばう)の密事(みつじ)誰(たれ)か洩(もら)しけん。早(はや)
くも平安城(へいあんじやう)の帝厥(ていけつ)へ聞(きこ)えければ。帝(みかど)大いに駭(おどろ)かせ給ひ。急(いそ)ぎ坂上田村丸(さかのうへたむらまる)を召(めさ)れ。火(くわ)
急(きう)に平城(なら)の旧都(きうと)へ馳向(はせむか)ひ。上皇(じやうかう)に御 謀叛(むほん)を勧(すゝ)め申せし奸徒(かんと)を。悉(こと〴〵)く搦捕(からめとつ)て立(たち)
皈(かへ)るべしと詔命(みことのり)ありけるにぞ。田村丸(たむらまる)領掌(れうぜう)し。参議(さんぎ)文屋綿丸(ぶんやのわたまる)を副将(ふくせう)とし宦兵(くわんへい)
二千 余騎(よき)を引率(いんぞつ)し都(みやこ)を発足(ほつそく)せられけり。帝(みかど)は上皇(じやうかう)に弓(ゆみ)彎(ひき)奉らん事を歎(なげ)かはし
く思召(おぼしめし)。去年(きよねん)唐(とう)より帰朝(きてう)せし釈空海(しやくのくうかい)は二なき御 皈依僧(きえそう)なれば。空海(くうかい)を召(めさ)れて
今度(こんど)の擾乱(じやうらん)速(すみやか)に平定(へいでう)すべきため。東寺(とうじ)に八 幡宮(まんぐう)の社檀(しやだん)を建(たて)捆(ねんごろ)【裍は捆の譌字】に祈(いの)り奉る
べしと命(めい)じ給ひければ。空海(くうかい)勅命(ちよくめい)を奉(うけたまは)り即(すなは)ち東寺(とうじ)に社殿(しやでん)を建(たて)八 幡宮(まんぐう)を勧(くわん)
請(ぜう)し朝敵(てうてき)降伏(がうぶく)の秘法(ひほふ)をぞ修(しゆ)せられける。今の東寺(とうじ)の八幡宮(はちまんぐう)是(これ)なり。去程(さるほど)に

田村丸(たむらまる)は武略(ぶりやく)に穎(さと)き大将(たいせう)なれば。もし太上皇(だじやうかう)奸徒(かんと)に勧(すゝめ)られ給ひ。他国(たこく)へ
落(おち)させ給ふ事もやと慮(おもんはか)り。途中(とちう)より軍勢(ぐんぜい)を分(わけ)て淀(よど)八幡(やはた)山崎(やまざき)宇治(うぢ)初瀬(はせ)其(その)
余(ほか)切所(ぜつしよ)毎(ごと)に差遣(さしつかは)し自身(じしん)は綿丸(わたまる)と倶(とも)に揉(もみ)にもんで平城(なら)へぞ進発(しんばつ)せられ
ける。此義(このぎ)早(はや)く平城(なら)へ聞(きこ)えければ。上皇(じやうかう)大いに転動(てんどう)し給ひ。いまだ味方(みかた)の武士(ぶし)
来(き)たらざるに。敵(てき)を此(この)宮門(きうもん)へ引受(ひきうけ)ては。防禦(ぼうきよ)せん事 叶(かなふ)まじ。是(こ)は如何(いかゞ)すべき
とて。急(きう)に仲成(なかなり)を召(めさ)れて御 商議(しやうぎ)あるに。仲成(なかなり)もかほど火急(くわきう)に密事(みつじ)露顕(ろけん)
すべきとは思(おも)はざりしかば。頗(すこぶ)る心 周障(あはて)ながら君(きみ)に向(むか)ひ。如是(かくのごとく)に候へは君(きみ)は一旦(ひとまづ)近(あふ)
江路(みぢ)へ落(おち)させ給ひ。それより伊勢(いせ)へいたらせ給へ其間(そのあいだ)に臣(しん)味方(みかた)の武士を招(まね)き集(あつ)
め旗(はた)を飜(ひるが)へして京軍(きやうぐん)と一 戦(せん)し。聖運(せいうん)を開(ひら)かせ奉らんと落着(おちつき)皃(がほ)に奏(そう)しける
上皇(じやうかう)其(その)詞(ことば)に従(したが)ひ給ひ薬子(くすりこ)及(およ)び女宦(によくわん)どもを召具(めしぐ)し取物(とるものも)とりあへ玉はず宿衛(しゆくゑい)
の武士(ぶし)少(せう)〱(〳〵)召連(めしつれ)給ひ竜駕(りようが)を促(うなか)して宮中(きうち)を出(いで)川口の路(みち)より近江路(あふみぢ)をさして

落(おち)給ひけり。仲成(なかなり)も有合(ありあふ)手勢(てぜい)七八十 騎(き)を従(したが)へ。武具(ものゝぐ)に身(み)を固(かた)め。是(これ)も平城(なら)を打(うち)
立(たつ)て東国(とうごく)へ下らんと馬(むま)を逸(はや)め馳行(はせゆき)けるに。程(ほど)なく田村丸(たむらまる)一 軍(ぐん)を率(ひい)て追蒐(おつかけ)来(きた)り
十 里(り)に響(ひゞ)く大音(だいおん)を上(あげ)奸賊(かんぞく)仲成(なかなり)走(はし)る事 勿(なか)れ坂上田村丸田村丸(さかのうへたむらまる)勅命(ちよくめい)に依(よつ)て向(むかふ)たり
と呼(よば)はりける。其声(そのこゑ)雷霆(らいてい)の如(ごと)くなりければ。馬(むま)は此声(このこゑ)に怖(おそ)れて駈(かけ)り得(え)ず立痓(たちすくみ)
に成(なつ)て嘶(いばへ)けり。仲成(なかなり)も頭上(づしやう)より雷(いかづち)の落(おち)かゝる如(ごと)く覚(おぼ)へ馬上(ばしやう)に戦慄(ふるひわなゝ)きながら馬(むま)
を拍(うつ)て逃(にげ)んと身(み)を揉(もむ)うちに早(はや)田村丸(たむらまる)は駒(こま)を早(はや)めて追(おひ)近着(ちかづく)にぞ仲成(なかなり)が手(て)
の者(もの)主(しゆう)を落(おと)さんと廿 騎(き)ばかり抜連(ぬきつれ)て打(うつ)てかゝる。田村丸 勃然(ぼつぜん)として例(れい)の大太刀(おほだち)
抜(ぬき)そばめ電光(でんかう)の如(ごと)く閃(ひら)【閦は誤記】めかして一太刀(ひとたち)に二人三人 薙居(なぎすへ)ければ。残(のこ)る兵士(へいし)等(ら)大いに
怖(おそ)れ蜘(くも)の子(こ)を散(ちらす)ごとく。主(しゆう)を捨(すて)て逃散(にげちり)けり。其隙(そのひま)に仲成(なかなり)はよふ〳〵馬(むま)を駈(かけ)さ
せて逃(にげ)けるを田村丸(たむらまる)馬(むま)を飛(とば)して追着(おつつき)猿臂(ゑんひ)を伸(のば)して小児(せうに)のごとく掻抓(かいつか)み大地(だいち)へ
噇(どう)と投(なげ)けるに余(あま)り強(つよ)く投(なげ)しゆへにや。五体(ごたい)砕(くだ)け其儘(そのまゝ)血(ち)を吐(はい)てぞ死(し)し

たりけり。主(しゆう)を討(うた)れて郎党(らうどう)等(ら)は皆(みな)散々(ちり〴〵)に落失(おちうせ)ければ田村丸(たむらまる)は仲成(なかなり)が屍(しがい)を馬(むま)
に結付(ゆはひつけ)て曳(ひか)せ仙洞御所(せんとうごしよ)へぞ引返(ひつかへ)しける。且(かつ)また上皇(じやうこう)は和州(わすう)添上郡(そへかみこほり)まで到(いたり)給ふ所(ところ)
に前路(ゆくさき)には右近衛(うこんゑ)住吉豊継(すみよしとよつぐ)一 軍(ぐん)を屯(たむろ)して道(みち)を遮(さへぎ)り塞(ふさ)ぎけれは進(すゝ)み給ふ事
能(あたは)ず笠置(かさぎ)の方(かた)にも敵(てき)有(あり)と聞(きこ)え。其余(そのほか)四方(しはう)の出口(でくち)悉(こと〴〵)く敵軍(てきぐん)固(かた)めたるよしなれ
ば。力(ちから)なく又すご〳〵と平城(なら)へ環(かへ)らせ給ふに已(すで)に京軍(きやうぐん)充満(じうまん)し諸卿(しよきやう)諸宦人(しよくわんにん)みな
虜(とりこ)にせられし由聞えけるにより。上皇(じやうかう)途方(とはう)に昏(くれ)給ひけるを。田村丸(たむらまる)輿(こし)を以(もつ)て迎(むか)へ
奉り。薬子(くすりこ)と倶(とも)に常(つね)の御殿(おまし)へ押籠(おしこめ)まいらせ番兵(ばんへい)に四方を衛護(まもら)せ。隠謀(いんばう)の
余党(よとふ)を緊(きびし)く尋(たづね)捜(さが)しける。上皇(じやうかう)は今更(いまさら)御 後悔(こうくわい)在(ましま)し陳謝(いひわけ)し給ふべき御 詞(ことば)も
おはしまさねば。俄(にはか)に御髪(みぐし)を剃払(そりはら)はせ給ひ御 出家(しゆつけ)の体(てい)にならせ給ふぞ御 厭(いた)
はしかりける。奸婦(かんふ)薬子(くすりこ)は此御有さまを見て我身(わがみ)の罪科(ざいくわ)免(のが)れがたき事を
察し遂(つひ)に自(みづか)ら刃(やいば)に串(つらぬ)かれて死(し)したりける天罸(てんばつ)の程(ほど)ぞ浅猿(あさまし)き。斯(かく)て田村丸(たむらまる)綿丸(わたまる)

以下(いげ)の諸将(しよせう)諸軍(しよぐん)に虜(とりこ)を曳(ひかせ)仲成(なかなり)が屍(しがい)を舁(かゝ)せて京都(きやうと)へ凱陣(かいぢん)し事の始末(しまつ)を
奏聞(そうもん)しければ。帝(みかど)諸将(しよせう)の勲功(くんかう)を御 賞美(せうび)在(ましま)しそれ〳〵に忠賞(ちうせう)を給(たま)はり。虜(とりこ)の
輩(ともがら)を糺問(きうもん)し給ふに。今度(こんど)御 謀叛(むほん)を勧(すゝ)め奉りしは。薬子(くすりこ)仲成(なかなり)が所為(しよゐ)なるよし皆(みな)白状(はくぜう)
し衆口(しうかう)同(おな)じかりければ。仲成(なかなり)が首(くび)を刎(はね)させて梟木(けうぼく)に肆(さら)させ。薬子(くすりこ)の屍(しかばね)は野外(やぐわい)に
捨(すて)させ給ひ。其余(そのよ)檎(とりこ)の輩(ともがら)は罪(つみ)の軽重(けいぢう)に従(したが)ひ。或(あるひ)は死刑(しけい)。また流刑(るけい)追放(つひほう)等(とう)に行(おこな)は
せ給ひけり。春宮(とうぐう)高岳親王(たかおかしんわう)は一 点(てん)の罪(つみ)もおはしまさねども。上皇(じやうかう)の皇子(みこ)なれば。御
身(み)を愧(はぢ)給ひ。位(くらゐ)を辞(ぢ)し御 出家(しゆつけ)ありて。空海(くうかい)和尚(おせう)の徒弟(でし)となり法名(ほうめう)を真如(しんによ)とぞ
改(あらた)め給ひける。是(これ)に依(よつ)て桓武天皇(くわんむてんわう)第(だい)三の皇子(みこ)大伴(おほとも)親王(しんわう)を春宮(とうぐう)に立給ひけり
後(のち)に淳和天皇(じゆんわてんわう)と申奉るは此君(このきみ)なり。抑(そも〳〵)藤原仲成(ふぢはらのなかなり)は大職冠(たいしよくくわん)鎌足(かまたり)公(こう)の後胤(こういん)にて
正(しよう)三 位(み)藤原宇合(ふちはらののきあひ)の曽孫(ひまご)贈太政大臣(ぞうだじやうだいじん)維継(これつぐ)の嫡男(ちやくなん)にて氏素性(うじすぜう)正(たゞ)しき名家(めいか)の
種(たね)なりけるに。一 時(じ)の虎威(こい)に乗(ぜう)じ及(およ)ばぬ望(のぞみ)を起(おこ)し。君(きみ)に隠謀(いんばう)を勧(すゝ)め
奉(たてまつ)り兄妹(おとゞい)

とも天年(てんねん)を終(おへ)ず首(かうべ)を梟木(けうぼく)に掛(かけ)られて鳶(とび)烏(からす)に啄(ついば)まれ。屍(かばね)を野外(やぐわい)に捨(すて)られて狗(いぬ)狐(きつね)
の餌(ゑば)となり。臭名(しうめい)を万代(ばんだい)に遺(のこ)せるも其身(そのみ)の不良(ふりよう)より起(おこ)る所(ところ)なり慎(つゝしむ)へし恐(おそ)るべし
     天皇(てんわう)賀茂斎院(かものさいいんへ)【齊は誤記ヵ】御幸(みゆき)  有智子斎院(うちしさいいん)詩作条(しさくのくだり)
弘仁(かうにん)二年 嵯峨天皇(さがてんわう)の皇女(くわうによ)有智子内親王(うちしないしんわう)を以(もつ)て賀茂斎院(かものさいいん)となし。伊勢斎宮(いせのさいぐう)
に准(じゆん)じ給ふ。是(これ)賀茂(かも)に斎院(さいいん)を置(おき)給ふ始(はじめ)なり此うち有智子内親王(うちしないしんわう)と申は女儀(によぎ)ながらも
御 幼少(ようせう)の時(とき)より文学(ぶんがく)を好(この)み給ひ御 年若(としわか)く在(ましま)す頃(ころ)已(すで)に和漢(わかん)の書籍(しよじやく)に通(つう)じ給ひ
兼(かね)ては詩文(しぶん)を善(よく)したまひけるゆへ。御 父帝(ちゝみかど)殊更(ことさら)鐘愛(せうあい)し給ひけり。後年(こうねん)にいたり弘仁(かうにん)
十四年の春(はる)帝(みかど)賀茂(かも)の斎院(さいいん)【斉】の山荘(さんそう)へ御 幸(ゆき)在(ましま)し。花(はな)の宴(えん)を催(もよほ)し給ひ春日山荘(しゆんじつさんそう)といふ
題(だい)を出(いだ)され供奉(ぐぶ)の月卿雲客(げつけいうんかく)に詩(し)を賦(ふ)せ給ふ。是(これ)に依(よつ)て列位(おの〳〵)韻(いん)を探(さぐ)り礎(そ)を定(さだめ)
けるに有智子斎院(うちしさいいん)も塘光行蒼(とうくわうぎようさう)の四字(よじ)を探得(さぐりえ)給ひ少時(しばらく)のうちに七 言律(ごんりつ)の
詩(し)を賦(ふ)し給ひ即時(そくし)に箋(せん)を払う(はらひ)て毫(ふで)を染(そめ)給ふ。一 座(ざ)の公卿(こうけい)其(その)速(すみやか)なるを駭(おどろ)き感(かんじ)

ける帝(みかど)も竜(りょう)【龍】顔(がん)麗(うるはし)くとり寄(よせ)て御 覧(らん)あるに其(その)御 詩(し)に曰
     春日山荘(しゆんじつの)山荘(さんそう)
   寂々(せき〳〵たる)幽荘(ゆうそう)《振り仮名:迷_二樹裏_一|じゆりにまよふ》  仙輿(せんよ)一降(ひとたびくだる)一池塘(いつちとう)
   棲林孤鳥(そうりんのこてう)《振り仮名:識_二春沢_一|しゆんたくをしり》  隠澗寒花(いんかんのかんくわ)《振り仮名:見_二日光_一|ひのひかりをみる》
   泉声近(せんせいちかく)報(ほうじて)新雷(しんらい)響(ひゞき)  山色(さんしよく)高晴(たかくはれて)旧雨(きうう)行(ゆく)
   《振り仮名:従_レ此|これより》更知(さらにしる)恩顧渥(おんこのあつきことを)  生涯(しやうがい)何以(なにをもつて)《振り仮名:答_二穹蒼_一|きうさうにこたへん》
時(とき)に有智子(うちし)公主(こうしゆ)十七才にぞおはしける。帝(みかど)再三(さいさん)吟(ぎん)じ給ひて甚(はな)はだ御 賞美(せうび)なし
給ひ御感(ぎよかん)のあまり宸翰(しんかん)を渾(ふるひ)給ひ懐(おもひ)を書(しよ)して公主(こうしゆ)に給(たま)ふ其(その)御製(ぎよせい)に曰
   恭(うや〳〵しく)《振り仮名:以_二文章_一著_二国家_一|ぶんしやうをもつてこくかにあらはす》 《振り仮名:莫_下将_二栄楽_一負_上_二煙霞_一|ゑいらくをもつてゑんかをおふことなかれ》
   即今(そくこん)永(ながく)抱(いだく)幽貞意(ゆうていのい)  《振り仮名:無_レ事終須_レ遺_二歳華_一|ことなうしてつひにすべからくせいくわをおくるべし》【「べし」は「華」の左に傍記】
此日(このひ)公主(こうしゆ)に三 位(み)の位(くらゐ)を授(さづけ)給ひ百戸(ひやくこ)の采地(さいち)を進(まいら)せ給ひけり。其後(そのゝち)天 長(てう)十年に一 位(ゐ)

に叙(じよ)し給ひ。其後(そのゝち)斎院(さいいん)を下(おり)給ひて嵯峨(さが)に静雅(せいが)の山荘(さんそう)を営(いとな)みそれへ移住(うつりすみ)給ひ。閑(しづか)【注】
に風月(ふうげつ)を翫(もてあそ)び給(たまひ)しに。承和(しやうわ)十四年に春秋(しゆんじう)四十一才にて薨去(かうきよ)し給ひけり御 遺言(ゆいごん)には
葬(ほふむり)を薄(うす)うし無益(むえき)の事に世(よ)の財(たから)を費(つひや)す事 勿(なか)れとくれ〴〵宣(のたま)ひしとぞ。誠(まこと)に至尊(しそん)
の皇女(くわうによ)には和漢(わかん)例(ためし)少(まれ)なる賢女(けんぢよ)にてぞおはしける。却(かへつ)て説(とく)弘仁(かうにん)二年の夏(なつ)大納言(だいなごん)右(う)
大将(だいせう)正三位(しやうさんみ)坂上大宿祢田村丸(さかのうへおほすくねたむらまる)粟田(あはた)の別荘(べつそう)に於(おい)て薨去(かうきよ)有けり邁齢(まいれい)五十四才
なり。帝(みかど)甚(はな)はだ惜(をし)ませ給ひ。勅使(ちよくし)を立(たて)絹布(けんふ)米銭(べいせん)等を若干(そこばく)給(たま)はりけり。又 勅詔(ちよくぜう)あり
て其(その)亡骸(なきがら)に甲冑(かつちう)を着(き)せ剣(けん)【劔は俗字】鉾(ほこ)弓箭(ゆみや)等(とう)を添(そへ)て棺(ひつぎ)に収(おさ)め宇治郡(うぢごほり)小栗栖野(をぐるすの)に
於(おい)て。王城(わうじやう)の方(かた)へ向(むか)はしめて葬(ほふむ)らせ給ひけり。是(これ)其(その)威霊(いれい)に永(なが)く帝都(ていと)を護(まもら)せ給ふ
との睿慮(ゑいりよ)とぞ聞えける。前(まへ)にも説(とく)ごとく此(この)田村丸は古今(こゝん)独歩(とつぽ)の人傑(じんけつ)にて智(ち)仁(じん)
勇(ゆう)の三 徳(とく)兼備(けんび)せし朝廷(てうてい)の名臣(めいしん)と称(せう)せり。さしも強大(きやうだい)なりし奥州(おうしう)の夷賊(いぞく)を一 戦(せん)に
伐平(うちたいら)げ。其(その)以後(いご)も奥州(おうしう)及(およ)び東国(とうごく)に反賊(はんぞく)ある度(たび)毎(ごと)に田村丸 勅命(ちよくめい)を奉(うけたま)はりて馳(はせ)

【別本にて確認】

向(むか)はるゝに賊軍(ぞくぐん)田村丸(たむらまる)が下向(げかう)すると聞ては。其(その)叶(かな)ひがたきを知(しつ)て戦(たゝかは)ざる以前(いぜん)に退(しりぞ)き
去(さり)或(あるひ)は降参(かうさん)し。適(たまたま)拒敵(てきたふ)者は滅亡せざるはなかりき。一年(ひとゝせ)上皇(じやうかう)御謀叛(ごむほん)の砌(みぎり)にも藤(ふぢ)
原仲成(はらなかなり)を追蒐(おつかけ)て一声(ひとこゑ)呼(よば)はりしかば。其声(そのこゑ)に恐(おそ)れて仲成(なかなり)が馬(むま)痓(すく)み主(ぬし)は戦慄(おのゝき)て働(はたら)
く事 能(あた)はざりしを以(もつ)て其(その)威武(いぶ)を知(しる)べし。昔(むかし)晋(しん)の世(よ)に蔡裔(さいえい)といふ豪傑(がうけつ)ありて
力量(りきれう)胆略(たんりやく)衆(しゆう)に勝(すぐ)れ。声(こゑ)雷(らい)の如(ごと)くなりけるが。蔡裔(さいえい)衮州(こんしう)の刺吏(しし)【史の誤記ヵ】となりける比(ころ)天(てん)
下(か)に名(な)を得(え)たる強盗(がうどう)二人 蔡裔(さいえい)が家(いへ)へ窃入(しのびいり)て貨財(たから)を偸取(ぬすみとら)んと梁(うつばり)の上に身(み)を
潜(しの)び窺(うかゞ)ひ居(ゐ)けるに。蔡裔(さいえい)是(これ)を知(しつ)て床(ゆか)を拊(うつ)て大音(だいおん)に。鼠賊(そゞく)大胆(だいたん)にも我(わが)財(たから)を偸(ぬすま)
んとするやと呼(よば)はりければ。二賊(にぞく)其声(そのこゑ)に駭(おどろ)きて梁(うつばり)の上より下へ倒(どう)ど落(おち)忙然(ぼうぜん)として
起(たつ)事(こと)能(あた)はず。蔡裔(さいえい)大いに笑(わら)ひ。偖(さて)も臆病(おくびやう)なる賊(ぬすびと)どもかな。今は一 命(めい)を助(たす)け帰(かへ)し
得(え)さすべし。再(ふたゝ)び我家(わがや)へ忍入(しのびいる)事 勿(なか)れ疾々(とく〳〵)帰去(かへりされ)よと言(いひ)けれども。二人とも脚(すね)痿(なへ)て立去(たちさり)
得(え)ず蠢(うごめ)きけるにぞ。蔡裔(さいえい)見かねて二人を狗子(いぬのこ)なんどの如(ごと)く両手(りやうて)に抓(つかみ)提(さげ)て門外(もんぐわい)へ

投出(なげいだ)しければ。二人の強盗(がうどう)は頭(かしら)をかゝへ後(あと)をも見ずして逃帰(にげかへ)りけるとぞ。されども
是(これ)ぞといふ程(ほど)の勲功(くんかう)も聞(きこ)えず田村丸(たむらまる)の神武(しんぶ)には尚(なを)及(およ)ばざるべし
     浅山玄吾(あさやまげんご)《振り仮名:遭_二盗難_一入水|とうなんにあふてじゆすいす》  漁夫兵太(ぎよふひやうだ)《振り仮名:湖上助_二浅山_一|こじやうにあさやまをたすく》事
先帝(せんてい)《割書:平|城》の御宇(ぎよう)に妖僧(ようそう)奸巫(かんふ)の愚民(ぐみん)を惑(まどは)す義(ぎ)を緊(きび)しく誡(いまし)め禁(とゞめ)給ひしかば
其後(そのゝち)は暫(しばら)く止(やみ)けるに。嵯峨天皇(さがてんわう)御即位(ごそくゐ)の後(のち)。また〳〵諸方(しよはう)に破戒(はかい)無慙(むざん)の僧(そう)
尼(に)有(あつ)て。往(わう)〱(〳〵)尾籠(びろう)の行条(ふるまひ)有(ある)よし睿聞(ゑいぶん)に達(たつ)し。弘仁(かうにん)三年五月 有司(ゆうし)へ詔命(みことのり)在(あり)
けるは。此比(このごろ)僧尼ども僧法(そうほふ)を慎(つゝし)まず。犯戒(ぼんかい)邪婬(じやいん)の聞(きこ)えありて説法(せつほふ)々談(ほふだん)に托(たく)し
俗家(ぞくか)の男女(なんによ)を寺院(じいん)へ引入(ひきいれ)右(みぎ)等(とう)の不法(ふほふ)を行(おこな)ふよし以(もつて)の外(ほか)の曲事(くせごと)なり。外見(よそめ)は殊勝(しゆせう)
の体(てい)に見せ。実(じつ)は清浄(せう〴〵)の道場(どうぢやう)を汚(けが)す事 甚(はなは)だ然(しかる)べからず自今(いまより)以後(のち)男子(なんし)は猥(みだり)に
尼寺(あまでら)へ入事(いること)を禁(きん)じ女子(によし)は無故(ゆへなく)して僧坊(そうぼう)へ入事を堅(かた)く停止(ちようじ)せしむべし若(もし)尚(なを)掟(おきて)を
守(まも)らず。破戒(はかい)侵犯(しんぼん)の僧尼(そうに)は尽(こと〴〵)く召捕(めしとり)罪(つみ)の軽重(けいぢう)を糺(たゞ)しそれ〳〵罪科(ざいくわ)に行(おこな)ふべし

【右丁 囲みの中】
浅山玄吾(あさやまけんご)
 湖(こすい)に陥(おちい)り
漁舟(りようせん)のために
 命(いのち)を助(たすけ)
    らる



藤島兵太

【左丁】
浅山玄吾

との事なれば。有司(ゆうし)の輩(ともがら)勅命(ちよくめい)を畏(かしこま)り宦吏(やくにん)を分(わか)つて洛中(らくちう)洛外(らくぐわい)の僧坊(そうばう)尼寺(あまでら)の
僧尼(そうに)の行条(ぎやうでう)を分聞(きゝ)糺(たゞ)し破戒(はかい)の者八百五十 余人(よにん)を召捕(めしとり)皆(みな)其罪(そのつみ)の軽重(けいぢう)に依(よつ)て
追放(ついほう)。流罪(るざい)。死刑(しけい)。等(とう)に行(おこな)ひけり。其(その)中に稀有(けう)の悪僧(あくそう)三人 有(あつ)て厳科(げんくわ)に所(しよ)せられ
けり。其(その)犯戒(ぼんかい)の始末(しまつ)を尋(たづぬ)るに。加賀国(かがのくに)金沢(かなざは)の産(さん)に浅山玄吾(あさやまげんご)といへる者あり生年(せうねん)
二十六才。先祖(せんぞ)は系図(けいづ)正(たゞ)しく小地(せうち)をも領(れう)せしに。子孫(しそん)の世(よ)となりて漸次(しだい)に衰微(すひび)し
所領(しよれう)の采地(さいち)をも估却(うりはら)ひ幽(かすか)に暮(くら)しけるが。玄吾(げんご)が父母(ふぼ)は早(はや)く死去(しきよ)し。玄吾(げんご)は独(どく)
身(しん)となり。いまだ妻(さい)をも迎(むか)へざれば玄吾(げんご)つら〳〵思惟(しゆい)し。かゝる扁鄙(かたいなか)にて碌々(ぐづ〳〵)と一 生(せう)を
過(すご)さんより。京師(みやこ)へ上(のぼ)り芸能(げいのふ)を習(ならひ)覚(おぼへ)。それを言立(いひたて)何方(いづかた)の公卿(くげう)へなりとも奉公(はうこう)せばや
と思立(おもひたち)家宅(かたく)私財(しざい)を売(うり)て些少(すこし)の路銀(ろぎん)を得(え)。住馴(すみなれ)し古郷(ふるさと)を立出(たちいで)只(たゝ)一人 都(みやこ)を
志(こゝろざ)して旅立(たびだち)し往々(ゆき〳〵)て近江路(あふみぢ)へ出(いで)つゝ。名(な)に負(おふ)琵琶湖(びわこ)の風景(ふうけい)に目(め)を悦(よろこ)ばせ。湖辺(こへん)を
歩(あゆみ)て行ほどに志賀(しが)の里(さと)も近(ちか)くなる頃(ころ)日(ひ)は已(すで)に黄昏(たそかれ)に及(およ)び。往来(ゆきゝ)の人も稀(まれ)〱(〳〵)に成(なり)

ければ玄吾(げんご)は宿(やど)を求(もとめ)んと急(いそ)ぐ折(をり)しもあれ忽(たちまち)山下(さんか)の茂林(もりん)の内(うち)より四五人の盗賊(とうぞく)顕(あらは)
れ出(いで)。玄吾を取囲(とりかこみ)て有無(うむ)をも言(いは)せず。理不尽(りふじん)に衣服(いふく)を剥取(はぎとり)路銀(ろぎん)をも奪(うばひ)
とり。赤裸(あかはだか)になして猶(なを)踏(ふん)づ蹴(け)つ打擲(てうちやく)し。何国(いづく)ともなく逃去(にげさり)ける。玄吾(げんご)は夢(ゆめ)に夢(ゆめ)
見し心地(こゝち)し。杖柱(つえはしら)とも憑(たのみ)し路銀(ろぎん)は一 銭(せん)も残(のこ)らず奪(うば)はれ。衣服(いふく)さへ引剝(ひきはが)れて犢(ふ)
鼻褌(どし)一ッと成(なり)。ひたと惘(あき)れ忙然(ぼうぜん)たりしが。夜嵐(よあらし)の身(み)にしむに付(つけ)心に思(おも)ひけるは
我(われ)都(みやこ)に親類(しんるい)縁者(えんじや)もなく。朋友(ほうゆう)知音(ちいん)もあらざるに。かく赤裸(あかはだか)になりて上(のぼ)るとも。乞(こつ)
食(じき)せんより外(ほか)にせんすべなし。なま中なる望(のぞみ)を発(おこ)し事(こと)茲(こゝ)に及(およ)べるは。身(み)の宿運(しゆくうん)の
尽(つき)しなるべし今は中(なか)〱(〳〵)世(よ)の人に恥(はぢ)【耻は俗字】を肆(さら)さんも朽惜(くちをし)。所詮(しよせん)此(この)湖水(みづうみ)に身(み)を沈(しづ)めて死(しな)
んものと。涙(なみだ)ながら仏名(ぶつめう)を唱え(となへ)つゝ合掌(てをあは)して湖(みづうみ)の中へざんぶとぞ飛込(とびこみ)ける。然(しかる)に玄吾(げんご)が
命数(めいすう)いまだ尽(つき)ざるにや。折(をり)よく一 艘(そう)の漁船(りようせん)漕来(こぎきた)り。人の捨身(みなげ)せしを見ると比(ひと)しく。其儘(そのまま)【侭は略字】
水中(すいちう)へ飛込(とびこみ)。玄吾(げんご)を右手(めて)の小脇(こわき)に抱(かゝ)へ立游(たちおよぎ)して我舟(わがふね)へかき上(あが)り。頓(やが)て玄吾(げんご)が水(みづ)を吐(はか)し

耳(みゝ)に口を寄(よせ)て数声(すせい)呼(よび)活(いけ)けるにぞ。いまだ入水(じゆすい)して幾程(いくほど)も間(あいだ)なければ。頓(やが)て息(いき)吹(ふき)かへし
蘇(よみがへ)りける。漁夫(れうし)は舟(ふね)を小者(こもの)に漕(こが)せ。其身(そのみ)は用意(ようい)の薬(くすり)を採出(とりいだ)して玄吾(げんご)に服(ふく)さしめ
湯(ゆ)を【別本による】与(あた)へて介抱(かいほう)し。さるにても如何(いか)なる事にて捨身(みなげ)せられしやと問(とふ)に。玄吾 涙(なみだ)ながら
国(くに)を出(いで)て都(みやこ)へ上(のぼら)んとし。盗賊(とうぞく)に遭(あふ)て衣服(いふく)金子(きんす)を奪(うば)はれ為方(せんかた)なさに投身(みなげ)せしまで一五(いちぶ)
一十(しゞふ)を語(かたり)ければ漁夫(れうし)は其(その)薄命(ふしあはせ)を哀(あはれ)み。偖々(さて〳〵)それは懊悩(きのどく)なる事かな。此比(このごろ)此辺(このへん)の山下(さんか)に
盗賊(とうぞく)隠(かくれ)栖(すん)で毎夜(まいよ)旅人(たびびと)を剥取(はぎとる)との噂(うはさ)にて黄昏(たそがれ)よりは往来(ゆきゝ)する人もなし。和殿(わどの)は
遠国(おんごく)より来(きた)り。さる事もしらず通(とふ)られしゆへ盗賊(とうぞく)に剥(はが)れしならめ。左(さ)有(あれ)ばとて財(たから)は
世(よ)の廻(まは)り物(もの)なり。身(み)を投(なげ)て死(しす)る事や宥(ある)べき先(まづ)我家(わがや)へ来(きた)り。気(き)を鎮(しづめ)て保養(ほやう)せられ
よ。左(と)も右(かく)もして京(きやう)へ奉公(はうこう)せらるゝやうに計(はか)らひ進(まいら)すべしと。世(よ)に頼母(たのも)しく言(いひ)けるゆへ。玄(げん)
吾(ご)は地獄(ぢごく)にて菩薩(ぼさつ)に遇(あひ)し如(ごと)く大いに悦(よろこ)び。其(その)深情(しんせう)をくれ〴〵礼謝(れいしや)しける。漁夫(れうし)は玄(げん)
吾(ご)に苫(とま)を身(み)に纏(まと)はせ火(ひ)にあたらせなどするうち。船(ふね)は堅田村(かたゝむら)なる漁夫(ぎよふ)の家(いへ)の裏(うら)へぞ

着(つき)けり。斯(かく)て小者(こもの)は船(ふね)を繋(つな)ぎ漁(れう)せし魚籠(うをかご)と網(あみ)とを携(たづさ)へ漁夫(れうし)は櫓(ろ)櫂(かい)をかたげ
玄吾(げんご)を伴(ともな)ひて。後戸(せど)を開(あけ)て我家(わがや)へ入に。女主(をんなあるじ)の見えざるは鰥夫(やもめ)なるべし。偖(さて)主翁(あるじ)は
小者(こもの)に命(めい)じて竈(かまど)の下を焚(たか)せ。其身(そのみ)は古(ふる)絮衣(ぬのこ)をとり出(いだ)して玄吾(げんご)に着(き)せ。囲炉裡(ゐろり)
に柴(しば)打(うち)たきて倶(とも)に火(ひ)にあたり。偖(さて)も和殿(わどの)の生国(しやうこく)は何国(いづく)にて何(なに)のため京(きやう)へ上(のぼ)らるゝやと
問(とひ)ければ。玄吾(げんご)答(こたへ)て。我(われ)は加州(かしう)金沢(かなざは)の産(さん)にて浅山玄吾(あさやまげんご)と呼(よば)るゝ者にて候。先剋(せんこく)も
告(まうす)ごとく。若年(じやくねん)にて父母(ふぼ)は死去(みまかり)扁鄙(かたいなか)の住居(すまゐ)も懶(ものう)く。都(みやこ)へ上(のぼ)り何(なに)の芸(げい)なりとも
習(なら)ひ相応(さうおふ)の奉公(はうこう)をせんため。家宅(かたく)調度(てうど)を估却(うりはらひ)て路銀(ろぎん)とし。都(みやこ)を志(こゝろざ)して此国(このくに)ま
で来(きた)り。計(はか)らず盗賊(とうぞく)に遭(あひ)て此(この)時宜(しぎ)に及(およ)び候と語(かたり)ける。主翁(あるじ)聞(きゝ)て其(それ)は難渋(なんじふ)なる
事ながらさのみ愁(うれひ)とせられな。見らるゝ如(ごと)く浅猿(あさまし)き漁夫(れうし)なれども。我(われ)も以前(いぜん)藤島(ふぢしま)
兵太(ひやうだ)とて武士(ぶし)の切米(きりまい)をも喰(はみ)し者なるが。主家(しゆか)退転(たいてん)の後(のち)は浪々(らう〳〵)して産業(たつき)なき儘(まゝ)【侭は略字】
此浦(このうら)へ来(きた)り漁(すなどり)を業(わざ)として露命(ろめい)を繋(つな)ぐうち。妻(さい)は四年(よとせ)以前(いぜん)に死去(みまかり)一人の女(むすめ)は

去々年(おとゞし)京都(きやうと)へ奉公(はうこう)に上(のぼ)し。身(み)は鰥(やもを)にて死期(しご)の来(きた)るを待(まつ)のみなり。世渡(よわたり)の産業(たつき)
とは言(いひ)ながら老年(おひとし)よりて旦夕(あけくれ)鱗虫(うろくず)の命(いのち)を取(とる)は。罪(つみ)深(ふか)き事(わざ)かなと。心に悔(くや)まぬ日
とてもなし。然(しかる)に不計(はからず)和殿(わどの)の命(いのち)を助(たす)けしは。身(み)にとりて善(よき)滅罪(つみほろぼし)なり。些少(すこし)ながら
路銭(ろせん)も借(かす)べし。又 京(きやう)には知音(しるべ)の者(もの)もあれば。其者(そのもの)の方(かた)へ進(しん)ずべきあいだ
彼者(かのもの)の方(かた)へ往(ゆき)て奉公(はうこう)の義(ぎ)を商議(だんかふ)せられよと。最(いと)懇切(ねんごろ)に諫(いさ)め諭(さと)し。湯(ゆ)も沸(わき)たり
とて玄吾(げんご)に麦飯(ばくはん)を勧(すゝ)め。其身(そのみ)も小者(こもの)もともに食(しよく)し。釣(つり)たる鮒(ふな)を炙(あぶりもの)として酒(さけ)をも飲(のま)
しめ。其夜(そのよ)は主客(しゆかく)三人 枕(まくら)を交(まじへ)て歇(やす)みけり。玄吾(げんご)枕(まくら)に着(つけ)ども多(おほ)く心神(しん〴〵)を労(らう)したれ
ば更(さら)に夢(ゆめ)も結(むす)び得(え)ず。寐(ね)られぬ儘(まゝ)【侭は略字】に来(き)し方(かた)行末(ゆくすへ)を左(と)や右(かく)惟(おも)ひつゞくるうち。夜(よ)
は仄々(ほの〴〵)と明(あけ)わたりければ。主翁(あるじ)も起(おき)て小者(こもの)を呼(よび)覚(さま)し。朝餉(あさげ)の粥(かゆ)を煮させけるに程(ほど)
なく粥(かゆ)も熟(むめ)けるゆへ三人 是(これ)を食(しよく)し畢(おは)り。偖(さて)主翁(あるじ)は些(ちと)の銀銭(ぎんせん)をとり出(いだ)して玄吾(げんご)
に与(あた)へ。また一 通(つう)の文書(てがみ)をしたゝめて渡(わた)し。此(この)文書(てがみ)を懐中(くわいちう)して京(きやう)へ上(のぼ)り北白川(きたしらかは)へ尋(たづね)行(ゆき)

彼者(かのもの)にわたして身(み)の在着(ありつき)を求(もと)めらるべしと。残(のこ)るところなく言(いひ)教(をしへ)ければ。玄吾(げんご)は
数度(あまたゝび)推(おし)いたゞき誠(まこと)に御 身(み)なかりせば底(そこ)の水屑(みくづと)なるべきに不測(ふしぎ)に一 命(めい)を助(たすけ)たまはり
再生(さいせい)の大 恩(おん)のみならず。前夜(よべ)よりの御 介抱(かいほう)といひ衣服(いふく)路銀(ろぎん)まで借(かし)給(たま)はる御 厚志(かうし)
礼謝(れいしや)は詞(ことば)に尽(つ[く])し難(がた)し。御 深情(しんじやう)に依(よつ)て身(み)の在着(ありつき)定(さだ)まり候はゞ。早速(さつそく)御 礼(れい)申上候べし
と厚(あつ)く恩(おん)を謝(しや)し礼(れい)を演(のべ)遂(つひ)に辞(いとま)を告(つげ)て立出(たちいで)堅田村(かたゝむら)を後(あと)に見て。京都(きやうと)を志(さし)
て上(のぼ)り。往々(ゆき〳〵)て北白河(きたしらかは)へいたり。兵太(ひやうだ)が知音(ちいん)の者を尋(たづぬ)るに。左右(さう)なく相(あひ)知(しれ)けるゆへ門(あ)
呼(ない)を乞(こふ)て対面(たいめん)し。兵太が文書(てがみ)を出(いだ)し身上(みのうへ)の義(ぎ)を頼(たの)みければ。此男(このをとこ)も貧人(ひんじん)とは
見えながら律気(りちぎ)なる男(をとこ)にて文書(てがみ)を読(よん)で快(こゝろよ)く肯(うけが)ひ。和殿(わどの)は書(もの)をかゝるゝやと問
により。玄吾(げんご)答(こたへ)て。手跡(しゆせき)は幼少(ようせう)の時(とき)より好(この)み。拙(つたな)けれども少々(すこし)は書(かき)候といふにぞ。其(それ)は幸(さいわひ)の
事なり。近村(きんそん)に楞厳院(れうごんいん)といへる大梵刹(おほてら)あり。其(その)寺中(じちう)に物書(ものかく)家僕(けらい)の欲(ほし)きよし。我(わが)知(しる)
音(べ)の者 頼(たの)まれ。我(われ)へも其(その)話(はなし)ありき。和殿(わどの)は人品(ひとがら)も卑(いやし)からざれば。彼(かの)寺(てら)へ奉公(はうこう)せられんは

如何(いかゞ)ぞと問(とふ)。玄吾(げんご)謝(しや)して。身(み)の難渋(なんじふ)の秋(とき)なれば何方(いづかた)にても苦(くる)しからず。万望(なにとぞ)管(せわ)【𬋩は異体字】なし
て給はり候へと頼(たのみ)けるゆへ。主(あるじ)の男(をとこ)点首(うなづき)。然(さら)ば少時(しばらく)待(また)れよとて外(と)の方(かた)へ走出(はしりいで)けるが。半(はん)
時(とき)ばかり有(あつ)て一人の男(をとこ)を伴(ともな)ひかへり。玄吾(げんご)に向(むか)ひて。奉公(はうこう)の管媒(きもいり)【𬋩は異体字】せらるゝは此人(このひと)なり
同道(どう〳〵)往(ゆか)るべしと言(いふ)にぞ。玄吾(げんご)は主(あるじ)の好意(かうい)を謝(しや)し。彼男(かのをとこ)に従(したが)ひて楞厳院(れうごんいん)へ
到(いたり)て見るに。堂塔(どうとふ)巍々(ぎ〱)たる大寺(たいじ)にて。寺中(じちう)に僧坊(そうばう)数軒(すけん)あり。其(それ)が中の普賢院(ふけんいん)
と標札(へうさつ)打(うち)し房(ばう)へ伴(ともな)ひ入。住僧(ぢうそう)と何(なに)か談(だん)じ。玄吾(げんご)を呼(よび)て住僧(ぢうそう)に目見(めみへ)させける。此(この)僧(そう)を
清真(せいしん)と号(がう)せり。玄吾(げんご)が人品(ひとがら)卑(いやし)からざるを見て。国所(くにところ)姓名(せいめい)を問(とひ)書(しよ)をかゝせ見るに。殊(こと)
の外(ほか)達筆(たつぴつ)なれば。清真(せいしん)の意(い)に適(かな)ひ。記録郎(ものかき)に抱(かゝ)ゆべきよし言(いひ)けるゆへ。玄吾(げんご)怡(よろこ)びて
恩(おん)を謝(しや)し管媒人(せわにん)の男(をとこ)は立帰(たちかへ)りけり。其(それ)より玄吾(げんご)は身(み)収(おさま)りければ安堵(あんど)の思(おもひ)をなし
万端(ばんたん)に心を用(もち)ひて勤(つと)めけるにより。清真(せいしん)も好(よき)家人(けにん)を得(え)たりと心 怡(よろこ)びける

扶桑皇統記後篇巻之二終

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之三目録
 浅山(あさやま)《振り仮名:過入_二隠室_一遭_二危難_一|あやまつていんしつにいりきなんにあふ》  悪僧(あくそう)《振り仮名:伏_レ刑|けいにふくし》浅山(あさやま)青雲(せいうんの)条(くだり)
 无頼(ぶらい)の悪僧(あくそう)隠室(いんしつ)を見られ浅山(あさやま)を檎(とりこ)にする図
 釈空海(しやくのくうかい)幼稚(ようち)奇行(きこう)      阿波(あはの)大滝山(おほだきざん)土佐(とさの)室戸崎(むろどのさき)苦行(くぎやう)事
 室戸(むろど)の菴室(あんしつ)に悪竜(あくれう)現(げん)じ空海(くうかい)をし試(ため)す図(づ)
 空海師(くうかいし)入唐(につとう)《振り仮名:求_レ法|ほふをもとむ》      《振り仮名:以_二 五筆_一書_レ詩水上題_レ詩|ごひつをもつてしをしよしすいしやうにしをだいす》条
 文珠(もんじゆ)童子(どうじ)に現(げん)じて空海(くうかい)に奇瑞(きずゐ)を見(み)せしめ給ふ図(づ)

 空海師(くうかいし)帰朝(きてう)《振り仮名:鎮_二難風_一|なんふうをしづむ》     投筆(なげふで)《割書:并》《振り仮名:隔_レ溪書_レ額|たにをへだてゝがくをしよす》条
 東大寺(とうだいじ)蜂怪(はちのくわい)南円堂(なんゑんだう)建立(こんりう)   高野山(かうやさん)開発(かいほつ)伽藍(がらん)造立(ざうりう)事
 清滝川(きよたきがは)を隔(へだて)て空海(くうかい)額(がく)の文字(もんじ)を書(かく)図(づ)
 《振り仮名:東寺賜_二空海_一西寺賜_二守敏_一|とうじをくうかいにたまひさいじをしゆびんにたまふ》 空海(くうかい)守敏(しゆびん)法力(ほふりき)優劣(ゆうれつ)条
 嵯峨天皇(さがてんわう)御即位(ごそくゐ)         守敏(しゆびん)空海(くうかい)《振り仮名:祈_レ雨争_二法力_一|あまごひほふりきをあらそふ》条
 女人禁制(によにんきんぜい)を犯(おか)して空海(くうかい)の母(はゝ)種々(しゆ〴〵)の怪異(けい)にあふ図(づ)
 母公(ぼこう)阿刀氏(あとし)《振り仮名:望_レ登_二高野山_一|かうやさんにのぼらんとのぞむ》  山中(さんちう)怪異(けい)慈尊院(じそんゐん)の条(くたり)《割書: |終》

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之三
            浪華 好華堂野亭 参考
   浅山(あさやま)《振り仮名:過入_二隠室_一遭_二危難_一|あやまつていんしつにいりきなんにあふ》  悪僧(あくそう)《振り仮名:伏_レ刑|けいにふくし》浅山(あさやま)青雲(せいうんの)条(くだり)
浅山玄吾(あさやまげんご)は普賢院(ふげんいん)の記録(ものかき)郎となりて諸事(しよじ)に気(き)を働(はたらか)して執(とり)賄(まかな)ひけるにより
住僧(ぢうそう)清真(せいしん)の適意(こゝろにかなひ)情(め)をかけて召使(めしつか)ひ。玄吾(げんご)が物語(ものがたり)に勤学(きんがく)の望(のぞみ)あるよしを聞(きゝ)
それは易(やす)き事(こと)なり。当院(とういん)へも禁宦(きんくわん)の儒(じゆ)先生(せんせい)多(おほ)く来(きた)り給へば。何(いづ)れの儒家(じゆか)の門(もん)
生(せい)にならんとも心(こゝろ)任(まか)せなり先(まづ)四書(ししよ)の如(ごと)きは我(われ)教導(をしへ)得(え)さすべしとて。寺務(じむ)の暇(いとま)
ある折々(をり〳〵)は素読(そどく)の指南(しなん)しけるに。玄吾(げんご)好(この)む道(みち)なれば。昼夜(ちうや)を捨(すて)ず励(はげ)み学(まな)び
ける程(ほど)に生質(うまれつき)記憶(ものおぼへ)よく秀才(しうさい)の玄吾(げんご)ゆへ追々(おひ〳〵)学業(がくぎやう)進(すゝ)み。清真(せいしん)も感(かん)じて或(ある)儒(じゆ)
宦(くわん)に頼(たの)み玄吾(げんご)を入門(にふもん)させける。玄吾(げんご)大いに怡(よろこ)び弥(いよ〳〵)切磋琢磨(せつさたくま)の功(かう)を積(つみ)詩(し)を賦(ふ)
し文(ぶん)を綴(つゞ)る事(わざ)を粗(ほゞ)会得(ゑとく)し。儒宦(じゆくわん)の書生(しよせい)にも知音(ちいん)多(おほ)くなり。折節(をりふし)は詩会(しくわい)の席末(せきまつ)

に連(つらな)るやうになり。和韻(わいん)贈答(ぞうとふ)などして楽(たのし)み。凡(およそ)普賢菴(ふげんあん)に勤仕(きんし)する事一年 余(あまり)に
及(およ)び寺中(ぢちう)の和尚(おせう)にも皆(みな)面(おもて)を知(しら)れ。何(いづ)れの房(ばう)へも親(した)しく立入(たちいり)しけるが。一時(あるとき)住侶(ぢうりよ)清(せい)
真(しん)は檀越(だんおつ)の仏事(ぶつじ)に招(まね)かれて留守(るす)なりければ。玄吾(げんご)徒然(とぜん)なる儘(まゝ)【侭は略字】同(おな)し寺中(じちう)の文珠(もんじゆ)
菴(あん)の住侶(ぢうりよ)を為空(ゐくう)と呼(よび)て常(つね)に玄吾(げんご)を招(まね)き囲碁(ゐご)の対手(あひて)としけるゆへ為空(ゐくう)を訪(とむら)
はんと文珠菴(もんじゆあん)へいたりけるに。是(これ)も他出(たしゆつ)せしにや。厨所(だいどころ)には小僧(こぞう)両人(りようにん)机(つくへ)に倚(もたれ)て睡(ねむ)り居(ゐ)
るのみにて音(おと)なへども答(ことふ)る人もなし。偖(さて)は為空(ゐくう)和尚(おせう)も留守(るす)にやと望(のぞみ)を失(うしな)ひながら
いまだ当院(とういん)の泉載(せんざい)を一見(いつけん)せざれば。幸(さいはひ)の折(をり)からなり子細(しさい)に見ばやと。思(おも)ひ露路(ろぢ)より
後園(こうゑん)にいたりて見るに泉水(せんすい)築山(つきやま)樹木(じゆもく)の植(うえ)ざまいと面白(おもしろ)く覚(おぼ)へ興(けう)に乗(ぜう)じて橋(はし)を
わたり山に登(のぼ)り。渓(たに)へ下(くだ)り流(ながれ)を歩(あゆ)み。いつしか奥(おく)深(ふか)く行(ゆき)けるに。樹林(じゆりん)の裡(うち)に楼(たかどの)見へ
て隠然(かすか)に双六(すごろく)の筒(つゝ)を揮(ふる)音(おと)聞(きこ)えければ。偖(さて)は為空(ゐくう)和尚(おせう)は遊客(ゆふかく)など有(あつ)て彼(かの)楼(ろう)
にて双六(すごろく)を打楽(うちたのし)まるゝにこそ。羨(うらやま)しき竟界(けうがい)かなと独言(ひとりごち)茂林(もりん)の裡(うち)へ行(ゆき)て見るに

果(はた)して一亭(いつてい)有(あり)けるにぞ。何心(なにごゝろ)なく立入(たちいり)梯(はしご)を登(のぼ)り見るに。豈(あに)はからん為空(ゐくう)はあらで容(みめ)
貌(かたち)美麗(うるはしき)女二人さし向(むか)ひて双六(すごろく)を打(うち)居(ゐ)けるが。玄吾(げんご)を顧(かへりみ)て二 女(ぢよ)とも大いに駭(おどろ)きし
面色(めんしよく)にて。御身(おんみ)は何人(なにびと)なれば此(この)楼(にかい)は来(きた)り給ひしやと咎(とがめ)ければ。玄吾(げんご)答(こたへ)て。我(われ)は普賢菴(ふげんあん)
に勤仕(きんし)する者にて候が。為空(ゐくう)和尚(おせう)に内用(ないよう)ありて参(まい)り候ところ。厨所(だいどころ)には見え玉はず。もし
後園(つぼのうち)にや御坐(おはす)らんと庭前中(ていぜんぢう)を尋(たづ)ね候ひしに。此所(このところ)に双六(すごろく)の筒音(つゝおと)の聞え候ゆへ。偖(さて)は此(この)
楼(たかどの)に客人(きやくじん)などゝ楽(たのし)み給ふにこそと推量(すいりやう)し。何心(なにごゝろ)なく立入(たちいり)候なり無礼(ぶれい)の罪(つみ)は恕(ゆる)し給へと
謝(わび)けるに。一人の女 声(こゑ)を低(ひそ)めて曰(いはく)御 身(み)はいまだ此(この)楼(にかい)の巨細(わけ)を知(しり)玉はぬならめ。此所(こゝ)は寺(じ)
中(ちう)の僧(そう)の隠(かく)れ遊(あそ)ぶ所(ところ)にて。もし他(た)の人過(あやまつ)て此楼(このにかい)へ登(のぼ)るを寺僧(じそう)見付(みつけ)なば。有無(うむ)を
言(いは)せず逼(せま)り殺(ころ)す怖(おそ)ろしき所(ところ)なり。疾々(はや〳〵)帰(かへ)り給へと色(いろ)を変(かへ)ていふにぞ。玄吾(げんご)心 訝(いぶか)り
偖(さて)は御 身(み)達(たち)は住僧(ぢうそう)の梵妻(かくしづま)にておはすにや。さもあれ此楼(このろう)へ他(た)の人の登(のぼる)を見る時(とき)は
逼(せま)り殺(ころ)すとのたまふは心得(こゝろえ)がたし。我(われ)は寺中(じちう)に勤仕(はうこう)する者なればさる事も候まじ。先(まづ)

御 身(み)方(がた)は何国(いづく)の人にて。かゝる寺院(じいん)の梵妻(かくしづま)となり給ふにやと問(とふ)に。女 答(こたへ)て。妾(わらは)は近江(あふみ)なる
堅田村(かたゝむら)に住(すむ)藤島兵太(ふぢしまのひやうだ)と呼(よば)るゝ者の女(むすめ)松(まつ)が枝(え)といふ者にて。去々年(おとどし)より此都(このみやこ)へ奉公(はうこう)に
出(いで)或(ある)公家衆(くげしゆ)の館(やかた)【舘は俗字】に奉公(みやづかへ)して侍(はべり)しに。此寺(このてら)の住僧(ぢうそう)に瞞(あざむ)【𥈞は略字】かれて此(この)楼(にかい)へ押籠(おしこめ)【篭は略字】られ候也
又 是(これ)なるは都(みやこ)の街(まち)の絹(きぬ)賈(あきびと)の妻(つま)にておはするを覚浄(かくじやう)といふ僧(そう)勾引(かどはかし)て此所(こゝ)へ連来(つれきた)り
一寸も此楼(このろう)を下(くだ)る事を許(ゆる)さず。強(しい)て逼(せま)り辱(はづか)しめ。辞(いな)といへば縊(くび)り殺(ころ)さんと詈(のゝし)るが
恐(おそ)ろしさに為方(せんかた)なくて剣(つるぎ)の中に住(すみ)はべるなり。先頃(さいつころ)此寺(このてら)へ立入(たちいり)する人 過(あやまつ)て此楼(このろふ)へ
登(のぼ)りしを住僧(ぢうそう)見付(みつけ)。三 僧(そう)よりて縊殺(くびりころ)し後(うしろ)の山へ埋(うづみ)隠(かく)しはべりし。其(それ)を目前(まのあたり)に見し
妾(わらは)們(ら)が恐(おそ)ろしさ悲(かな)しさは何(いか)ばかりならん推量(おしはかり)給へ。御 身(み)もまたさる無慚(むざん)なる事(わざ)に
遇(あひ)玉はぬうちに疾(はや)く遁(のが)れ去(さり)給へと涙(なみだ)ながらに語(かたり)ける。玄吾(げんご)は聞(きく)毎(ごと)に駭然(がいぜん)としながら
曰(いはく)。偖(さて)も不測(ふしぎ)の事も候かな。我(われ)素(もと)は加賀国(かがのくに)の者に候が有着(ありつき)を求(もとめ)んため。国(くに)を立(たつ)て都(みやこ)
へ上(のぼ)る途中(とちう)。近江路(あふみぢ)にて盗賊(とうぞく)のために衣服(いふく)路銀(ろぎん)を奪(はれ)はれ為方(せんかた)なさに湖水(みづうみ)へ身(み)

を投(なげ)しを御 身(み)の親父(ちゝご)兵太(ひやうだ)殿(どの)に助(たす)け上(あげ)られ種々(いろ〳〵)教訓(きやうくん)の上(うへ)衣服(いふく)路銀(ろぎん)を借(かし)たま
はり猶(なを)【注】また有着(ありつき)の管媒(おんせわ)【𬋩は管の異体字】までに預(あづか)り当(この)寺中(じちう)普賢院(ふげんいん)へ住込(すみこみ)候なり。其節(そのせつ)一人の
息女(そくぢよ)を都(みやこ)へ奉公(はうこう)に出(いだ)せしと仰(あふせ)ありしが御 身(み)が恩人(おんじん)兵太(ひやうだ)殿(どの)の御 息女(そくちよ)にて候ひける
かや。然(しから)ば活命(くわつめい)の恩返(おんがへし)に此所(こゝ)を救(すく)ひ出(いだ)し進(まいら)する方便(てだて)もがなと。思惟(しあん)する間(ま)もなく
住僧(ぢうそう)為空(ゐくう)楼(にかい)へ上(のぼ)り来(きた)り。玄吾(げんご)を見て打(うち)駭(おどろ)きしが。又 面色(めんしよく)を和(やは)らげ。御辺(ごへん)は何用(なによう)有(あり)て
此楼(このろふ)へ上(のぼ)られしやと問(とふ)。玄吾(げんご)詞(ことば)を卑(さげ)。其事(そのこと)に候。今日(こんにち)主人(しゆじん)清真(せいしん)仏事(ぶつじ)に参(まい)られ。留守(るす)
中(ちう)徒然(とぜん)なる儘(まゝ)。【侭は略字】先日(せんじつ)の碁(ご)の勝負(しやうぶ)を仕(つかまつ)らんため。貴院(きいん)へ推参(すいさん)いたせしに。厨所(だいどころ)には見え
玉はず後園(つぼのうち)などに御坐(おはす)るやと尋(たづね)廻(まは)り。はからず此所(このところ)へ参(まい)りし無礼(ぶれい)の罪(つみ)は免(ゆる)し給へ
さるにてもかゝる風流(ふうりう)の御 楽(たのし)みを。今まで隠(かく)し給ひしぞ御 恨(うらみ)【眼は誤記】なれと戯事(たはふれごと)のやうに
言(いひ)けれども。為空(ゐくう)は答(いらへ)をもせず。先(まづ)此方(こなた)へ来(きた)り候へとて。玄吾(げんご)を伴(ともな)ひて楼(ろふ)を下(くだ)り一 室(しつ)の
内(うち)へ入しめて外(そと)より戸(と)を礑【噹は誤記】としめ。鎖(でう)をおろす音(おと)聞(きこ)えけるゆへ。玄吾(げんご)心中(しんちう)安(やす)からず。偖(さて)

【注 法政大学 国際日本学研究所、所蔵資料アーカイブス扶桑皇統記図会を参照】

は松(まつ)が枝(え)が物語(ものがたり)のごとく。我(われ)をも逼(せま)り殺(ころ)さん巧(たく)みなるべし。始(はじめ)より斯(かく)としらば飛(とび)かう
て為空(ゐくう)を捉(とら)へ左(と)も右(かく)もせんずるものを。賺(すか)して此場(このば)を遁(のが)れ公庁(おゝやけ)に訴(うつた)へんと
思(おも)ひ手延(てのび)にして却(かへつ)て死穴(しけつ)に陥(おちいり)しとぞ悔(くや)しけれと。後悔(こうくわい)臍(ほぞ)を噛(かむ)【歯は誤記】ばかりなり。程(ほど)なく
為空(ゐくう)は覚浄(かくじやう)といへる同僚(どうれう)の悪僧(あくそう)を伴(ともな)ひ来(きた)り。鎖(でう)を開(あけ)て内(うち)に入 玄吾(げんご)を見て眼(まなこ)
を瞋(いから)し。你(なんじ)妄(みだり)に我徒(われ〳〵)が密遊(みつゆふ)の楼(ろう)へ上(のぼり)しは天命(てんめい)の尽(つく)る所(ところ)なり。今は覚期(かくご)して速(すみや)
かに自滅(じめつ)せよと詈(のゝし)り。懐中(くわいちう)より細索(ほそびき)と短刀(たんとう)と一 貼(てう)の毒薬(とくやく)とを出(いだ)して玄吾(げんご)が前(まへ)に
ならべ置(おき)。此(この)三品(みしな)の中(うち)你(なんし)が欲(ほつ)する品(しな)にて死(し)を急(いそげ)よ。もし猶予(ゆうよ)に及(およ)ばゝ我徒(われ〳〵)両人(りようにん)し
て縊(くび)り殺(ころ)すべしと言(いふ)尾(を)に付(つき)覚浄(かくじやう)も悪(にく)さげに疾々(とく〳〵)せよと急立(せきたて)けり玄吾(げんご)は恐怖(きやうふ)し
て騒(さは)ぐ心(むね)を押鎮(おししづ)め。是(こ)は日来(ひごろ)の御好意(こかうい)にも似(に)ざる仰(あふせ)かな下僕(やつかれ)は御 寺中(じちう)に住者(すむもの)に
て所謂(いはゆる)同(おな)じ穴(あな)の狐(きつね)に比(ひと)しければ。何(なん)ぞ和尚方(おせうがた)の密事(みつじ)を他(た)に洩(もら)し候べき。如何(いか)なる誓(せい)
詞(し)神文(しんもん)をも書(かき)候べし。此度(このたび)のみは一 命(めい)を助(たす)けたまへと。詞(ことば)を竭(つく)して謝(わび)頼(たのみ)けれども。為空(ゐくう)嘲(あざ)

わらひ你(なんじ)布留那(ふるな)の弁(べん)を借(かる)とも助命(じよめい)思(おもひ)もよらず。我徒(われ〳〵)が兼(かね)ての誓盟(かため)に。剃髪(ていはつ)染衣(ぜんえ)
の者(もの)は隠宅(いんたく)を知(しる)とも是(これ)を恕(ゆる)し。有髪(うはつ)俗体(ぞくたい)の者は親(おや)同袍(きやうだい)朋友(ほうゆう)たりとも決(けつ)して死(し)を
許(ゆる)さず。況(いはん)や無縁(むえん)の你(なんじ)に於(おいて)おや。詮(せん)なき事(こと)を言(いは)んより疾(とく)寂滅(じやくめつ)せよと睨(にらみ)すえて
言(いひ)けるに。玄吾(げんご)また曰(いはく)。然(しから)ば僕(やつかれ)も剃髪(ていはつ)得道(とくどう)して御 弟子(でし)となり。犬馬(けんば)の労(らう)を尽(つく)して
仕(つか)へ奉るべし万望(なにとぞ)御 慈悲(じひ)を以(もつ)て御助命(ごじよめい)給(たま)はるべしと涙(なみだ)とともに願(たのめ)ども。両(りよう)悪僧(あくそう)は馬(ば)
耳風(にふう)と聞(きゝ)流(なが)し。覚浄(かくじやう)玄吾(げんご)に打(うち)向(むか)ひ你(なんじ)日来(ひごろ)の常語(いひぐさ)に。学業(がくげう)上達(しやうたつ)せば宦家(くわんか)へ仕(し)
宦(くわん)せんと言(いひ)しに非(あらず)や。然(しかる)に今事の叶(かな)ひがたきに望(のぞん)で。俄(にはか)に剃髪(ていはつ)を望(のぞ)むとも何(なん)ぞ許(ゆる)す
べき。你(なんじ)を生(いけ)置(おき)ては我徒(われ〳〵)枕(まくら)を高(たか)うしがたし。いざ〳〵死(しね)よ遅滞(ちたい)せば手(て)を下(おろ)さんと。玄吾(げんご)を
中に挟(はさ)【狭は誤記】み已(すで)に逼(せま)り殺(ころ)さんとす。其体(そのてい)牛頭(ごづ)馬頭(めづ)の罪人(ざいにん)を呵責(かしやく)するに一 般(はん)たり。玄吾(げんご)は
其勢(そのいきほ)ひの遁(のが)れがたきを見て施(ほどこ)すべき方便(てだて)なく。然(しか)仰(あふ)する上(うへ)は力(ちから)なし潔(いさぎよ)く刃(やいば)に伏(ふし)て
死(し)し候べし。但(たゞ)し主人(しゆじん)清真(せいしん)御房(ごばう)には此(この)年来(としごろ)高恩(かうおん)を受(うけ)且(かつ)申 遺(のこ)したき緊要(かんじん)の

【右丁 囲み記事】
无頼(ぶらい)の
 悪僧(あくそう)隠室(いんしつ)
を見られ
 浅山(あさやま)を
  檎(とりこ)にす

【左丁】
浅山玄吾

事も候へば。生前(せうぜん)に一目(ひとめ)逢(あは)しめ給へ。然(しから)ば甘心(とくしん)して快(こゝろよ)く自害(じがい)し候べしと言(いひ)ければ。為空(ゐくう)が
曰。你(なんじ)清真(せいしん)に逢(あひ)て助命(じよめい)を乞(こは)んため対面(たいめん)を望(のぞ)むなるべけれども。清真といへども我們(われら)
と同意(どうゐ)なれば敢(あへ)て你(なんじ)を助(たすく)べからず。然(しかれ)ども日来(ひごろの)好染(よしみ)に対面(たいめん)は許(ゆる)し得(え)さすべし
とて覚浄(かくじやう)とともに玄吾(げんご)を緊(きびし)く縛(しば)り。然(しかふ)して覚浄に清真(せいしん)を呼来(よびきたら)しむるに。間(ま)も
なく覚浄(かくじやう)清真(せいしん)を同道(どふ〴〵)してかへり来(きた)りける偖(さて)清真(せいしん)は玄吾(げんご)が縛(しば)られたるを見て駭(おどろ)き
ながら。玄吾(げんご)に向(むか)ひ你(なんじ)我(わ)が留守(るす)を守(まも)らず妄(みだり)に外出(ぐわいしゆつ)して我徒(われ〳〵)が隠所(かくしところ)を見しは你(なんじ)が不覚(ふかく)
なり。年来(としごろ)信(まめ)やかに勤(つとめ)し你(なんじ)ながら。此(この)一 条(でう)のみは見遁(みのが)しがたし。是(これ)全(まつた)く你(なんじ)が前生(ぜんせう)の悪業(あくがう)
爰(こゝ)に報(むく)ひしなり。然(され)ども暫(しばら)くにても主従(しゆふ〴〵)となりし好染(よしみ)を以(もつ)て逼(せま)り殺(ころ)す事は免(ゆる)し
得(え)さすべし。只(たゞ)此(この)三品(みしな)を何(いづ)れなりとも欲(ほつ)する品(しな)を用(もち)ひて自殺(じさつ)せよ亡骸(なきから)は我(われ)埋葬(まいそう)し
懇(ねんごろ)に跡(あと)を弔(とふら)【吊は俗字】ひ得(え)さすべしと言聞(いひきか)せ。偖(さて)為空(ゐくう)覚浄(かくじやう)に向(むか)ひ。我徒(われ〳〵)三人が手(て)にて渠(きやつ)一人
を逼(せま)り殺(ころ)さんは安(やす)けれども。流石(さすが)此(この)年月(としつき)召使(めしつかひ)し者なれば。手(て)を下(くだ)すに不忍(しのびす)。此(この)室(しつ)に

閉籠(とぢこめ)【篭は略字】おけば隠形(おんきやう)の術(じゆつ)を得(え)たりとも遁(のが)れ出(いで)ん事 能(あたふ)べからず今日(こんにち)死(し)せずんば明(みやう)
日(にち)。明日(みやうにち)死(し)せずんば明後日(めうごにち)。よも五日(いつか)とは過(すご)さじ。よし五日(いつか)を過(すご)しても死(しに)かねなば。其時(そのとき)
に我(われ)手(て)づから縊(くび)り殺(ころ)すべし。只(たゞ)暫(しばら)く渠(かれ)が自滅(じめつ)するを待(また)るべしと宥(なだ)めけるにより。両人(りやうにん)
もやう〳〵納得(なつとく)し。さらばとて三 僧(そう)とも外(そと)へ出(いで)。堅(かた)く鎖(でう)をおろして己(おの)が随意(じゝ)立別(たちわかれ)
ける。玄吾(げんご)は思(おも)ひもよらぬ大難(だいなん)に遭(あひ)。今は遁(のが)るゝに道(みち)なく。三 僧(そう)の隠悪(いんあく)を悪(にく)み憤(いきどふ)
り。我身(わがみ)の薄命(ふしあはせ)を悲(かなし)み胸(むね)を燃(もや)し腸(はらわた)を劈(つんざか)るゝ心地(こゝち)しながら今は助(たすか)るまじき命(いのち)な
れば死(し)して一 念(ねん)の怨鬼(ゑんき)となり三 僧(そう)を魅殺(とりころ)して此(この)仇(あだ)を報(ほう)ぜんものと心(むね)を定(さだ)め。そも
縊(くびれ)てや死(し)すべき刃(やいば)にや伏(ふす)べきと。索(なわ)をとり上 短刀(たんとう)を採(とつ)て見(み)千思万慮(せんしばんりよ)すれども更(さら)
に心(こゝろ)決(けつ)せず忙然(ぼうぜん)として途方(とはう)に昏(くれ)けり。然(しか)るに楼上(ろうせう)には松(まつ)が枝(え)玄吾(げんご)が寺僧(じそう)の為(ため)に
逼(せま)り殺(ころ)されん事を哀(あはれ)み。父(ちゝ)兵太(ひやうだ)がさしも慈善(じぜん)の心を以(もつ)て命(いのち)を助(たすけ)し者を。又 悲命(ひめい)の
死(し)をなす事の便(びん)なさよと心中(しんちう)に深(ふか)く嘆(なげき)しに。清真(せいしん)が宥(なた)めしに依(より)下(した)なる一室(ひとま)に押(おし)

籠(こめ)【篭は略字】自殺(じさつ)せしむるよしを窺(うかゞ)ひ聞(きゝ)少(すこ)しは心(むね)を安(やす)んじ。如何(いかに)も救(すくは)んものと今一人の女とも
商議(だんかふ)し遁(のが)れ出(いづ)べき手段(てだて)を微細(こま〴〵)と書(かき)したゝめて笄(かんざし)に堅(かた)く巻(まき)畳(たゝみ)を上(あげ)て板敷(いたじき)
の透間(すきま)より下(した)へ落(おと)しやりける。玄吾(げんご)は死覚期(しにかくご)の思惟(しあん)に迷(まよ)ひ。手(て)を拱(こまぬい)て黙然(もくねん)と坐(ざ)し
居(ゐ)けるに。忽(たちま)ち上(うへ)より落(おつ)る音(おと)せしに訝(いぶか)り。首(かうべ)を上(あげ)て左右(あたり)を見れば。果(はた)して一 物(もつ)あり
手(て)に把(とり)て見れば竹(たけ)の笄(かんざし)に巻(まき)たる文(ふみ)なり。急(いそ)ぎ巻戻(まきもど)して読(よみ)て見れば。松(まつ)が枝(え)が手跡(しゆせき)
と覚(おぼ)しく室中(しつちう)を遁(のが)れ出(いづ)べき手段(てだて)を記(しる)し。身(み)を遁(のか)れ出(いで)なば宦(おゝやけ)に訟(うつた)へ妾(わなみ)們(ら)をも
救(すく)ひ給へとの文意(ぶんい)なり。玄吾(げんご)大いに怡(よろこ)ひ海月(くらげ)の骨(ほね)を得(え)たる思(おも)ひし。文(ふみ)の教(をしへ)のごとく
苧索(ほそびき)の端(はし)に短刀(たんとう)を結付(むすびつけ)て梁(うつばり)を打越(うちこさ)せ。其索(そのなは)を手繰(たぐり)上(のぼ)り辛(から)うして梁(うつばり)にとり付(つき)。身(み)
を匍匐(はらばひ)て屋根際(やねぎは)の壁(かべ)を短刀(たんとう)にて切破(きりやぶ)り。よふ〳〵と潜(くゞ)り出(いで)て見れば。早(はや)日(ひ)は黄昏(たそかれ)過(すぎ)
にて仄暗(ほのくら)かりけるゆへ天(てん)の佐(たすけ)と怡(よろこ)び下(した)へ飛(とび)下(お)り後(うしろ)の山より無(む)二 無(む)三に身(み)を遁(のが)れ。万(ばん)
死(し)を出(いで)て一 生(せう)をぞ得(え)たりける。斯(かく)て其(その)翌日(よくじつ)にもなりければ。三人の悪僧(あくそう)集会(しふくわい)し。今は

彼者(かのもの)自滅(じめつ)せしならめ。死骸(しがい)を埋(うづ)み隠(かくさ)んと楼(たかどの)の下(した)の室(しつ)にいたり。鎖(でう)をあけて立入(たちいり)見るに
豈(あに)はからん玄吾(げんご)の屍(しがい)は影(かげ)も見えざれば。三 僧(そう)とも愕然(がくぜん)として大いに駭(おどろ)き。斯(かく)鉄桶(てつとう)の如(ごと)
く堅固(けんご)に建(たて)し板屋(いたや)を如何(いかに)して抜出(ぬけいで)けんと評議(ひやうぎ)し所々(ところ〴〵)を見撿(みあらため)るに屋根際(やねぎは)の壁(かべ)を
人の潜(くゞ)るほど切破(きりやぶ)り有(あり)けるにぞ。偖(さて)は彼所(かしこ)より遁(のが)れ出(いで)しに疑(うたが)ひなし。先日(せんじつ)逼(せまつ)て縊(くび)り
殺(ころ)すべき奴(やつ)を清真(せいしん)の詞(ことば)によつて猶予(ゆうよ)し。捉逃(とりにが)せしぞ一 大事(だいじ)なれと足摺(あしずり)して悔(くや)めども
其(その)詮(せん)なし。為空(ゐくう)面色(めんしよく)如菜(あをざめ)。渠奴(きやつ)身(み)を全(まつた)うせば有司(ゆうし)の庁(てう)へ訟(うつたへ)るは治定(ぢでう)なり。我徒(われ〳〵)
僧法(そうほふ)を犯(おか)して隠妻(かくしづま)を養(やしな)ひ人を殺(ころ)せし事 露顕(ろけん)せば必(かならず)宦吏(やくにん)召捕(めしとり)に来(きた)るべし。噫(あゝ)
是(こ)はそも如何(いかに)すべきと。三人 面(おもて)を見合(みあは)し日来(ひごろ)は奸智(かんち)にたけたる悪僧(あくそう)們(ばら)も眉(まゆ)を焼(やく)の危(き)
急(きう)に及(およ)び。更(さら)に分別(ふんべつ)も出(いで)ず惘(あきれ)【忄+岡は誤記】果(はて)て痴人(ちじん)【癡は旧字】の如(ごと)し。清真(せいしん)よふ〳〵心(むね)を鎮(しづ)め今更(いまさら)過(すぎ)たる
事を千度(ちたび)悔(くひ)ても反(かへる)へきにあらず。二人の女は今宵(こよひ)他国(たこく)へ落(おと)しやりて身(み)を隠(かく)させ。我徒(われ〳〵)は雲(うん)
水(すい)修行(しゆげう)と言立(いひたて)暫(しばら)く影(かげ)を隠(かく)さんは如何(いかに)と言(いひ)ければ。為空(ゐくう)覚浄(かくじやう)実(げに)もと同意(どうい)し。先(まづ)

日(ひ)の暮(くれ)るまでは二人の女を後(うしろ)の山 深(ふか)く身(み)を隠(かく)させ。女の調度(てどうぐ)遊戯(ゆふげ)の諸器(うつわども)はこと〴〵く
後園(こうゑん)の井中(ゐど)へ沈(しづ)め隠(かく)しなどしつゝ。狼狽(うろたへ)騒(さは)ぎて。手(て)の舞(まひ)足(あし)の踏(ふみ)を知(しら)ず。己々(おのれ〳〵)
は貪(むさぼ)り貯(たくは)へし金銀(きん〴〵)を肌(はだ)に着(つけ)専(もつは)ら落支度(おちじたく)をぞとり急(いそ)ぎける。是(これ)より以前(いぜん)に浅山(あさやま)
玄吾(げんご)は左右(とかく)してよふ〳〵楞厳隠(れうごんいん)の山を超(こえ)て身(み)を遁(のが)れ。年来(としごろ)懇意(こんい)の学友(がくゆうの)許(もと)へゆき
楞厳院(れうごんいん)の寺僧(じそう)が奸悪(かんあく)の条(くだり)を逐(ちく)一に告(つげ)ければ。聞(きく)者(もの)皆(みな)歯(は)を切(くひしばつ)て悪(にく)み憤(いきどふ)らざるは
なし。依(よつ)て玄吾(げんご)は学友(がくゆう)と倶(とも)に訴状(そうぜう)を書記(したゝめ)て有司(ゆうし)の庁(てう)へ訴(うつた)へけるにより。即(すなは)ち玄吾(げんご)に巨(こ)
細(さい)を聞(きゝ)糺(たゞ)し。寺僧(じそう)の悪行事(あくげうこと)明白(めいはく)なれば。追捕(とりて)の宦吏(やくにん)数(す)十人をさし遣(つかは)されける。去(さる)
程(ほど)に宦吏(やくにん)の面(めん)〱(〳〵)楞厳院(れうごんいん)へ馳(はせ)到(いた)り。房(ばう)毎(ごと)に踏込(ふんごみ)寺内(じない)の僧俗(そうぞく)を悉(こと〴〵)く搦捕(からめとり)ける
にぞ。為空(ゐくう)清真(せいしん)覚浄(かくじやう)三 僧(そう)は本堂(ほんどう)の内陣(ないぢん)に寄集(よりあつまり)て旅支度(たびじたく)を整(とゝの)へ居(ゐ)けるに
早(はや)宦吏(やくにん)向(むか)ふたりと聞(きゝ)以(もつて)の外(ほか)に仰天(げうてん)し。須弥壇(しゆみだん)の下 仏像(ぶつぞう)の影(かげ)などへ這隠(はひかく)れ。仏(ぶつ)
名(めう)を唱(とな)へ慄(おのゝ)き居(ゐ)けるを。宦吏(くわんり)来(きた)りて捜(さが)し出(いだ)して搦捕(からめとり)。二人の梵妻(かくしづま)を尋(たづぬ)るに更(さら)

に在所(ありしよ)しれざれば。三 僧(そう)を曳(ひき)居(すへ)糺問(きうもん)するに。左右(とかく)陳(ちん)じて白状(はくぜう)せざるゆへ強(つよ)く■(がう)【足+考 注】【拷の誤記ヵ】問(もん)し
ければ苦痛(くつう)に堪(たへ)かね。遂(つひ)に後(うしろ)の山に隠(かく)したる由(よし)白状(はくぜう)しける。是(これ)に依(よつ)て後(うしろ)の山を尋(たづ)ね
二人の女とも搦捕(からめとり)以上(いじやう)三十 余人(よにん)を曳(ひき)て有司(ゆうし)の庁(てう)へかへり斯(かく)と言上(ごんしやうし)けるにぞ。悉(こと〴〵)く獄中(ごくちう)
へ入 置(おき)。中にも悪僧(あくそう)三人を水火(ひみづ)の責(せめ)にかけて■(がう)【足+考 注】【拷の誤記ヵ】問(もん)せられけるに。己(おの)が悪行(あくげう)を尽(こと〴〵)く白状(はくぜう)
に及(およ)びける。有司(ゆうし)甚(はなは)だ悪(にく)み。僧徒(そうと)の身(み)として他人(たにん)の女(むすめ)妻妾(さいせう)を勾引(かどはか)し。剰(あまつさ)へ隠所(いんしよ)を
見(み)し者(もの)を逼(せま)り殺(ころ)せし条(でう)言語同断(ごんごどうだん)の重罪(ぢうざい)なりとて大路(おほぢ)に肆(さら)し重(おも)く死刑(しけい)に行(おこな)はれ
其余(そのよ)の者は侵犯(しんぼん)の科(とが)なしといへども。三 僧(そう)の奸悪(かんあく)邪婬(じやいん)を知(しり)ながら疾(はやく)訴(うつた)へざる罪(つみ)に依(よつ)て
重(おも)きは流罪(るざい)軽(かる)きは追放(つひはう)に行(おこな)はれけり。次(つぎ)に二人の女は悪僧(あくそう)どもに勾引(かどはか)され已事(やむこと)を得(え)ず
寺中(じちう)に押籠(おしこめ)【篭は略字】られ住(ぢう)せし趣(おもむ)きなれば罪(つみ)なしとて。其(その)親(おや)夫(をつと)を召出(めしいだ)して引渡(ひきわた)され玄吾(げんご)
は訴人(そにん)の褒賞(ほうび)として金子(きんす)を給(たま)はり。楞厳院(れうごんいん)の一 件(けん)落着(らくぢやく)し愈(いよ〳〵)僧尼(そうに)の不法(ふほふ)を
禁(きん)じられける。浅(あさ)山 玄吾(げんご)は三 僧(そう)の死刑(しけい)に行(おこな)はれしを見て憤(いきどふり)を晴(はら)し。且(かつ)宦(おゝやけ)より

【注 辞書に見えず】

御 褒美(ほうび)をさへ給(たま)はり怡(よろこ)ぶ事 限(かぎ)りなく。心に思(おも)ひけるは。我(われ)両度(りようど)の大 危難(やくなん)を免(まぬか)れ
しは藤島(ふぢしま)父子(おやこ)の厚(あつ)き情(なさけ)に倚(よる)ところなれば。恩(おん)を謝(しや)せずんば有(ある)べからずとて堅(かた)
田村(たむら)なる兵太(ひやうだ)が家(いへ)にいたり。父子(おやこ)が再度(さいど)の鴻恩(かうおん)を礼謝(れいしや)し謝義(しやぎ)のため一裹(ひとつゝみ)の金(きん)
子(す)を呈(てい)しけるに。兵太(ひやうだ)固(かた)く辞(じ)して押返(おしかへ)し。玄吾(げんご)が高運(かううん)を賀(が)し。今度(こんど)の訴訟(そせう)に
依(よつ)て女(むすめ)松(まつ)が枝(え)も無難(ぶなん)にかへりしを悦(よろこ)び。玄吾(げんご)を家(いへ)に留(とゞめ)悦(よろこ)びの酒(さけ)を酌(くみ)かはしけるが。松(まつ)が
枝(え)はいまだ定(さだ)まる夫(をつと)もなく年齢(としばへ)も似合(にあは)しければ。遂(つひ)に玄吾(げんご)を婿(むこ)となして娶(めあは)せけるに
ぞ。玄吾(げんご)大いに悦(よろこ)び。京都(きやうと)へ出(いで)て医業(いげう)を始(はじめ)けるに。追(おひ)〱(〳〵)繁昌(はんぜう)し。兵太(ひやうだ)をも呼(よび)とりて
夫婦(ふうふ)孝養(かうやう)を竭(つく)し。安楽(あんらく)に老(おひ)を養(やしな)はしめけるは偏(ひとへ)に隠徳(いんとく)の陽報(やうほふ)なりけり
    釈空海(しやくのくうかい)幼稚(ようち)奇行(きかう)  阿波(あはの)大滝山(おほたきざん)土佐(とさの)室戸崎(むろどのさき)苦行(くぎやう)事
嵯峨天皇(さがてんわう)の御 皈依僧(きえそう)に釈空海(しやくのくうかい)と申 本朝(ほんてう)無双(ぶそう)の名僧(めいそう)在(おはし)けり。其(その)系譜(けいふ)を
尋(たづぬ)るに。父(ちゝ)は讃岐国(さぬきのくに)多度郡(たどがふり)屏風(べうぶ)が浦(うら)の住人(ぢうにん)佐伯氏(さいきうじ)母(は)は阿刀氏(あとし)なり。抑(そも〳〵)佐伯(さいき)

氏(し)の先祖(とふつおや)は景行天皇(けいかうてんわう)の皇子(みこ)稲脊入彦命(いなせいりひこのみこと)と申人 日本武尊(やまとだけのみこと)に随(したが)ふて東夷(とうい)
を征伐(せいばつ)し頗(すこぶ)る勲功(くんかう)有(あり)しかば。其(その)恩賞(おんせう)として讃岐国(さぬきのくに)にて地(ち)を班(わか)ち給(たま)はりし
より屏風(べうぶ)が浦(うら)を居所(きよしよ)とし。稲脊入彦命(いなせいりひこのみこと)の孫(まご)阿良都別命(あらとわけのみこと)の男(なん)豊島(とよしま)と云(いふ)
人 孝徳(かうとく)天皇の御宇(ぎよう)に佐伯直(さいきあたひ)と姓(せい)を給ひ。後(のち)直(あたひ)を略(りやく)して佐伯氏(さいきし)と名乗(なのり)ぬ
其(その)子孫(しそん)の佐伯某(さいきなにがし)伊予親王(いよのしんわう)の学師(がくし)従(じふ)五 位下(ゐのげ)阿刀宿祢(あとのすくね)大足(おほたる)の姉(あね)を娶(めとつ)て
妻(さい)とす。然(しかる)に佐伯氏(さいきし)初老(しよらう)の比(ころ)まで一子(いつし)無(なき)を歎(なげ)き。三 宝(ぼう)に祈誓(きせい)して一 子(し)を授(さづけ)
給へと丹誠(たんせい)を凝(こら)し祈(いのり)ければ。其(その)信心(しん〴〵)を諸仏(しよぶつ)も感納(かんのふ)在(ましま)しけん一夜(あるよ)の夢(ゆめ)に一人の
聖僧(せいそう)端厳(たんごん)微妙(みめう)なるが。妻(つま)阿刀氏(あとし)の懐中(くわいちう)に飛入(とびいる)と見て夢(ゆめ)は覚(さめ)けり。偖(さて)夫婦(ふうふ)
夢(ゆめ)を語合(かたりあふ)にともに同(おな)じ夢(ゆめ)なりけるゆへ奇異(きい)の思(おもひ)をなしける内(うち)。程(ほど)なく阿刀氏(あとし)妊(にん)
娠(しん)し。十二 月(つき)めに平(たいら)かに男子(なんし)を生(うめ)り。是(これ)光仁天皇(かうにんてんわう)五年六月十五日なり。父母(ふぼ)の怡(よろこ)び
斜(なゝめ)ならず。霊夢(れいむ)を感(かん)じて儲(まうけ)し子(こ)なればとて。稚名(おさなゝ)を貴物(たときもの)と呼(よび)寵愛(てうあい)すること

掌(てのうち)の玉(たま)のごとし。此児(このこ)四五才の比(ころ)より尋常(よのつね)の児(こ)と交(まじは)り遊(あそ)ばず。只(たゞ)土(つち)を塊(つがね)て仏(ぶつ)
像(ぞう)の形(かたち)を作(つく)り。或(あるひ)は竹木(ちくぼく)を以(もつ)て堂舎(どうしや)の体(てい)を摸(うつ)し。礼拝(らいはい)供養(くやう)するを遊戯(あそびごと)
として楽(たのし)みけるにぞ。父母(ふぼ)相語(あひかたり)て此児(このこ)成長(ひとゝなる)の後(のち)は出家(しゆつけ)得道(とくどう)すべしと申され
ける。然(しかる)に貴者(たときもの)六才の年(とし)夢(ゆめ)に諸(もろ〳〵)の仏(ぶつ)菩薩(ぼさつ)八 葉(よう)の蓮花(れんげ)の上に座(ざ)して説法(せつほふ)
し玉ふと見たり。されども稚心(おさなごゝろ)にも深(ふか)く秘(ひ)して父母(ちゝはゝ)にも夢(ゆめ)の事を語(かた)らず。内心(ないしん)には
仏門(ぶつもん)に入んとの志願(しぐわん)是(これ)より起(おこ)りけり。斯(かく)て後(のち)は弥(いよ〳〵)三 宝(ぼう)を崇(あが)め菓(このみ)餅(もちゐ)なんどを得(える)
ときは先(まづ)仏前(ぶつぜん)に供(そなへ)て供養(くやう)し。其後(そのゝち)ならでは食(しよく)する事なし。八 才(さい)の年(とし)都(みやこ)の巡察使(じゆんさつし)
讃州(さんしう)へ下向(げかう)有(あり)ければ。国中(こくちう)の男女(なんによ)老少(らうせう)路(みち)の両辺(りようへん)に群(むらが)りて其(その)行列(ぎやうれつ)を見物(けんぶつ)しけるに
貴者(たときもの)も衆人(しゆうじん)に雑(まじ)りてともに見物(けんぶつ)しけるに。巡察使(じゆんさつし)貴者(たときもの)を見て俄(にはか)に馬(むま)より下(おり)て
礼拝(らいはい)し其所(そのところ)を過(すぎ)てまた馬(むま)に乗(の)られけるにぞ。衆人(みなひと)不審(ふしん)晴(はれ)ず。そも何(なに)ゆへやら
んと私語(さゝやき)合(あひ)ける。杳(はるか)【杏は誤記】に行(ゆき)すぎて巡察使(じゆんさつし)の従者(じふしや)主(しゆう)に向(むか)ひ。今 彼所(かしこ)にて下馬(げば)し

礼拝(らいはい)し給ひしは如何(いか)なる故(ゆへ)に候やと問(とひ)けるに巡察使(じゆんさつし)が曰(いゝく)【ママ。「いはく」とあるところ。】。你們(なんじら)見ずや彼所(かしこ)に居(ゐ)たる
小児(せうに)凡人(ぼんにん)ならず。四天王(してんわう)天蓋(てんがい)を捧(さゝげ)て守護(しゆご)し給へり。我(われ)何(なん)ぞ下馬(げば)せざらんと語(かた)り
けるにより。是(これ)より貴者(たときもの)を誰(たれ)いふとなく佐伯氏(さいきし)の子(こ)は神童(しんどう)なりとぞ言触(いひふら)しける。其(その)
後(のち)貴者(たときもの)十二才になり。いよ〳〵才智(さいち)万人(ばんにん)に勝(すぐ)れ行迹(かうせき)長者(ちようしや)も及(およば)ず。三 宝(ぼう)を崇(あがむ)る
事(こと)倍(ます〳〵)深(ふか)かりければ。一時(あるとき)父(ちゝ)我子(わがこ)に向(むか)ひ。你(なんじ)は父(ちゝ)の家督(かとく)を嗣(つぎ)て先祖(せんぞ)を燿(かゝやか)し一 国(こく)を治(おさ)
めんとおもふや。また出家(しゆつけ)得道(とくどう)して仏(ぶつ)菩薩(ぼさつ)に仕(つかへ)んとおもふやと問(とひ)けるに。貴者(たときもの)答(こたへ)て
それ武士(ものゝふ)となりて一 国(こく)の政事(まつりごと)をよく治(おさむ)るとも。纔(わづか)に一 国(こく)の人民(にんみん)を安穏(あんおん)ならしむのみ
出家(しゆつけ)して仏道(ぶつどう)を修行(しゆぎやう)し普(あまね)く末世(まつせ)の衆生(しゆじやう)を済度(さいど)せんこそ広大(くわうだい)の功徳(くどく)に候と曰(いひ)
けるにぞ。父(ちゝ)も理(り)に伏(ふく)して再(ふたゞ)ひ【注】言(ことば)を発(はつ)する事 能(あた)はず。然(しかる)に外戚(おほぢ)阿刀大足(あとのおほたり)来(きた)りて佐(さ)
伯氏(いきし)に曰(いはく)。子息(しそく)已(すで)に十二才に及(およべ)ばよろしく大学(だいがく)に入しめ経史(けいし)を学(まな)ばしむべし。我(われ)都(みやこ)
へ将(つれ)て上(のぼ)り教導(きやうどう)すべしと曰(いひ)ければ。父母(ちゝはゝ)とも怡(よろこ)び其(その)詞(ことば)に順(したが)ひ。貴者(たときもの)を大足(おほたり)に預(あづ)け

【注 濁点の位置の誤記】

けるゆへ大足(おほたり)貴者(たときもの)を将(つれ)て都(みやこ)へ上(のぼ)り大学(だいがく)に入しめ読書(とくしよ)を指南(しなん)するに。天性(てんせい)凡人(ぼんにん)
ならぬ奇童(きどう)なれば。一 度(ど)読(よめ)ば暗記(そらん)じ二 度(ど)読(よめ)ば理(り)に通(つう)じけるにぞ。大足(おほたり)も大に
感(かん)じ。我(われ)此児(このじ)に不及(およばざる)こと遠(とふ)しとぞ驚歎(きやうたん)しける。斯(かく)て貴者(たときもの)は大足(おほたり)の許(もと)に留学(りうがく)して
蛍雪(けいせつ)の功(かう)を積(つむ)こと三年。普(あまね)く諸経(しよけい)を学(まな)び究(きは)め。十五才の年 学士(がくし)浄成(きよなり)に随(したが)ひ
毛詩(もうし)尚書(せうじよ)易経(えきけう)等(とう)を学(まな)び。十八才にして又 岡田(おかだ)の博士(はかせ)に就(つい)て春秋左伝(しゆんじうさでん)を学(まな)
び。其余(そのよ)の書典(しよてん)渉猟(しやうれう)せざる隈(くま)もなく。皆(みな)其(その)深理(しんり)縕奥(うんおう)を究(きは)め。手跡(しゆせき)また無双(ぶそう)の
能書(のふじよ)なりければ。いまだ成童(せいどう)にして博学(はくかく)能書(のふじよ)の名(な)世(よ)に高(たか)し。然(しかれ)ども貴者(たときもの)儒道(じゆどう)
に心を留(とゞ)めず心中(しんちう)に想謂(おもへらく)。今まで学(まな)びたる典籍(てんせき)は只(たゞ)眼前(がんぜん)の理(り)のみにして一 期(ご)の
後(のち)の利(り)弼(ひつ)なし。不如(しかじ)誠(まこと)の福田(ふくでん)を求(もとめ)んにはとて。岩淵(いはぶち)の贈僧正(ぞうそうじやう)勒操(ろくそう)の弟子(でし)となり
て仏道(ぶつどう)を学(まな)び。切磋琢磨(せつさたくま)して大 虚空蔵(こくうざう)ならびに能満虚空蔵(のふまんこくうざう)の法(ほふ)を授(さづか)
りけり。此法(このほふ)は往昔(そのかみ)大 安寺(あんじ)の道慈(どうじ)律師(りつし)大唐(たいとう)に渡(わた)り諸法(しよほふ)を学(まなび)しときに。善(ぜん)

无畏(むい)三 蔵(ざう)に逢(あひ)て其(その)奥旨(おうし)を授(さづ)かり。帰朝(きてう)の後(のち)大 安寺(あんじ)の善儀(ぜんぎ)に伝(つた)へ。善儀又 勒(ろく)
操(そう)に授けたる大 秘密(ひみつ)の法(ほふ)なり。去程(さるほど)に貴者(たときもの)法名(ほうめう)を无空(むくう)と改(あらた)め仏道(ぶつどう)修行(しゆぎやう)に
丹誠(たんせい)を凝(こら)し三教指帰(さんけうしき)といふ書(しよ)を編(あみ)延暦(えんりやく)十六年十二月 初(はじめ)の日 草稿(さうかう)成就(しやうじゆ)せり
其 文意(ぶんい)は俗(ぞくきやう)の益(えき)なき事を述(のべ)られし也。書の略(りやく)に曰(いゝく)【ママ】朝市(てうし)の栄花(えいぐわ)は念々(ねん〳〵)に是(これ)を
いとひ。巌薮(がんすう)の烟霞(ゑんか)は日夕(につせき)に是をねがふ。軽肥(けいひ)流水(りうすい)を見ては即(すなは)ち電幻(でんげん)の歎(なけ)き
忽(たちま)ちに起(おこ)り支離(しり)懸鶉(けんじゆん)を見ては則(すなは)ち因果(いんぐわ)のあはれ日毎(ひごと)に深(ふか)し。目(め)にふれて我(われ)
を勧(すゝ)む。誰(たれ)か風(ふう)を繋(つなが)む。茲(こゝ)に一多(いつた)の親戚(しんせき)あり我(われ)を縛(しば)るに五常(ごじやう)の索(なは)を以(もつ)てし我
を断(ことは)るに忠孝(ちうかう)に背(そむ)くといふを以てす。予(よ)思(おもへ)らく物(もの)の心一にあらず飛沈性(ひちんせい)皆(みな)異(こと)也  
このゆへに聖者(しやうしや)の人を得(うる)に教網(きやうもう)に三 種(しゆ)あり。所謂(いはゆる)。釈(しやく)。李(り)。孔(かう)なり。浅深(せんしん)隔(へだて)有(あり)といへ
ども並(ならび)に皆(みな)聖説(せいせつ)なりもし一(ひとつ)の羅(あみ)に入(いり)なば。何(なん)ぞ忠孝に背かん《割書:云(しか)々》此書一 部(ふ)三 巻(ぐわん)
始(はじめ)は聾瞽(ろうこ)指帰と題(だい)せられしを。後に三教指帰と改(あらた)められたり。今も世(よ)に伝(つたは)り

普(あまね)く緇素(しそ)賞覧(せうらん)せり。斯(かく)て无空は仏道修行のため普く山林(さんりん)難所(なんじよ)を渉(しやう)
覧(らん)して修練(しゆれん)の為(ため)に身命(しんみやう)を拋(なげう)たれければ。師(し)勒操(ろくそう)僧正(そうじやう)その苦行(くぎやう)をあはれみて
无空の十九才の年《割書:延暦|十二年》和泉(いづみの)国 槙尾山(まきのをざん)の中山西宝寺(なかやまさいほうじ)《割書:今は絶|たり》に於(おい)て剃髪(ていはつ)せし
め沙弥(しやみ)の十 戒(かい)七十二の威儀(いぎ)を授(さづ)け法名を教海(きやうかい)と改めらる。後に又 如空(によくう)と称(しやう)せ
られけり延暦十四年四月九日 東大寺(とうだいじ)に於て唐僧(とうそう)泰信(たいしん)律師(りつし)を伝戒(でんかい)の導師(どうし)
とし勝伝(しやうでん)豊安(ほうあん)以下(いげ)とともに比丘(びく)の具足戒(ぐそくかい)を受(うく)。此時また名(な)を空海(くうかい)と改め
らる是より戒珠(かいしゆ)を胸(むね)の間(あいだ)にかゝやかし。徳瓶(とくへい)を掌(たなごゝろ)の中(うち)に携(たづさ)へ。いよ〳〵俗塵(ぞくぢん)をいとひ
倍(ます〳〵)幽閑(ゆうかん)をしたひ。山より山に入 峯(みね)より峯にうつり練行(れんぎやう)日(ひ)を重(かさ)ね薫修(くんしゆ)年を
送(おく)り煙霞(ゑんか)を嘗(なめ)て飢(うえ)を忘(わす)れ鳥獣(てうじふ)に馴(なれ)て友(とも)とす。或時(あるとき)阿波(あはの)国 大滝(おほたき)の嶽(だけ)に
登(のぼ)り虚空蔵(こくざう)の法(ほふ)を修行(しゆぎやう)せられけるに忽(たちま)ち一 振(ふり)の宝剣(ほうけん)壇上(だんじやう)へ飛来(とびきた)りて虚空
蔵 菩薩(ぼさつ)の霊威(れいい)を顕(あらは)しける。件(くだん)の宝剣は大滝が獄【嶽】の不動(ふどう)の崛(いはや)に今 尚(なを)納(おさま)れり

とぞ。其後(そのゝち)土佐国(とさのくに)室戸崎(むろどのさき)にいたられけるに。此地(このち)南海(なんかい)前(まへ)に湛(たゝ)へ高巌(かうがん)側(かたはら)に峙(そばだ)ち【注】
松(まつ)を払(はらふ)嵐(あらし)は旅人(りよじん)の夢(ゆめ)を破(やぶ)り。苔(こけ)をつたふ谷(たに)の水(みづ)は隠士(いんし)の耳(みゝ)を洗(あらふ)べき幽邃(ゆうすい)の地(ち)
なれば。是(これ)を愛(あい)して草菴(さうあん)を結(むす)び。それに住居(ぢうきよ)【注】して求聞持(くもんぢ)の法(ほふ)を修(しゆ)し観念(くわんねん)せられ
けるに。明星(みやうぜう)口中(かうちう)に散(さん)じ入て仏力(ぶつりき)の奇異(きい)を現(あら)はしける。空海(くうかい)即(すなは)ち口中(かうちう)の明星(みやうぜう)を海(かい)
中(ちう)に向(むか)ひて吐出(はきいだ)されければ。其光(そのひかり)水(みづ)に沈(しづ)み末世(まつせ)の今にいたる迄(まで)闇夜(やみのよ)には海底(かいてい)に星(ほし)の
光(ひかり)粲然(さんぜん)たり。不思議(ふしぎ)といふも疎(おろか)なり。斯(かく)て室戸の菴室(あんじつ)に行(おこな)ひ澄(すま)して在(おは)
しける
に遠近(えんきん)の里人(さとびと)空海師(くうかいし)の道徳(どうとく)を慕(した)ひ訪(とふら)ひきたる人 多(おほ)かりければ。空海(くうかい)は
却(かへつ)て是(これ)を煩(わづ)らはしく物(もの)騒(さはが)しき事に思(おも)はれ一時(あるとき)の歌(うた)に
  法性(ほふしやう)のむろ戸(ど)ときけど我(わが)住(すめ)ば有為(うゐ)の波風(なみかぜ)寄(よせ)ぬ日(ひ)ぞなき
と詠(えい)じられける。此(この)室戸(むろど)の海(うみ)に悪龍(あくりょう)在(あつ)て空海師(くうかいし)の行法(ぎやうほふ)を妨(さまたげ)んと種(さま)々の
形(かたち)に変(へん)じて出現(しゆつげん)しけれども。空海(くうかい)公然(こうぜん)として少も怖(おそ)れず真言(しんごん)を唱(とな)へ唾(つばき)を吐(はき)

【注 法政大学 国際日本学研究所所蔵資料アーカイブスの別本にて補填。】

【右丁】
空海

【左丁 囲みの中】
室戸(むろと)の
 菴室(あんしつ)に悪(あく)
龍(りよ)妖魔(ようま)に
現(げん)じ空海(くうかい)
 を試(こゝろみ)す

かけられけるに其(その)光(ひかり)散(さん)じて衆(もろ〳〵)の星(ほし)の闇(やみ)を射(い)るが如(ごと)し。是(これ)に依(よつ)て毒龍(どくれう)恐(おそれ)を
なし退散(たいさん)して再(ふたゝ)び障碍(せうげ)をなす事 能(あた)はず。右の唾(つは)海浜(うみはた)の沙石(すないし)にとゞまり
て。今 猶(なを)夜光(やくわう)の珠(たま)のごとく昏(くら)き夜(よ)には光(ひかり)を放(はな)つとかとかや。室戸(むろど)の崎(さき)より卅 余町(よてう)
を隔(へだて)て一箇(いつこ)の勝地(しやうち)あり。空海師(くうかいし)其地(そのち)に一 宇(う)の伽藍(がらん)を建(たて)金剛定寺(こんがうでうじ)と号(なづ)け
られける。然(しかる)に其(その)辺(ほとり)の魔魅(まみ)仏法(ぶつほふ)を障碍(さまたげ)んと。異類(いるい)異形(いぎやう)の姿(すがた)を現(あらは)しけるを
空海(くうかい)即(すなは)ち結界(けつかい)して魔縁(まえん)と問答(もんどふ)し。我(われ)此所(こゝ)に在(あら)ん限(かぎ)りは你們(なんじら)此寺(このてら)へ来(きた)る
べからずとて。年歴(としふる)大木(たいぼく)の楠(くすのき)に自身(みづから)の像(ぞう)を彫付(ゑりつけ)置(おか)れければ。魔類(まるい)其後(そのゝち)は
形(かたち)を現(あらは)し得(え)ざりけり。その其後(そのゝち)空海師(くうかいし)諸国(しよこく)を経暦(けいれき)して難山(なんざん)切所(せつしよ)の人も通(かよ)は
ぬ所(ところ)の道(みち)を踏開(ふみひらか)るゝ事 数(かづ)しれず。播磨国(はりまのくに)にては老女(らうぢよ)の菴(いほり)の柱(はしら)に天(てん)地(ち)合(がふ)の三
字(じ)を書付(かきつけ)られしに其(その)筆痕(ふでのあと)深(ふか)く木(き)に入(いり)て削(けづ)れども失(うせ)ず。瘧疾(おこり)流行病(はやりやまひ)を受(うけ)し
者は件(くだん)の文字(もじ)を水(みづ)にうつして飲(のめ)ば立所(たちどころ)に愈(いえ)けるとなん。伊豆国(いづのくに)桂谷(かつらだに)にては

虚空(こくう)へ大般若経(だいはんにやきやう)の魔事品(まじほん)の文(もん)を書(かき)て永(なか)く魔障(ましやう)をはらひ。其他(そのほか)諸国(しよこく)にて【注】
悪魔(あくま)毒蛇(どくじや)を降伏(がうぶく)して人民(にんみん)の害(がい)を除(のぞ)く事 数(かづ)しらず。実(じつ)に不可思議(ふかしぎ)の名(めい)
僧(そう)かなと。貴賎(きせん)となく其(その)法徳(ほふとく)を尊信(そんしん)せざるはなかりけり
    空海師(くうかいし)入唐(につとう)求法(くほふ)  《振り仮名:以_二 五筆_一書_レ詩水上題_レ詩|ごひつをもつてしをかきすいしやうにしをたいす》条
空海師(くうかいし)は仏法(ぶつほふ)弘通(ぐづう)の為(ため)に諸国(しよこく)を廻(めぐ)り。遍(あまね)く諸宗(しよしう)の碩徳(せきとく)に就(つい)て諸経(しよきやう)の縕(うん)
奥(おう)を問究(とひきは)められけれども。三 乗(じやう)五 乗(じやう)十二 部(ふ)の経(きやう)猶(なを)心底(しんてい)に疑(うたが)ふところ有(あつ)て決(けつ)
する事 能(あた)はざりければ。仏前(ぶつぜん)に於(おい)て誓願(せいぐわん)を起(おこ)し。あはれ願(ねか[は])くは三 世(せ)十 方(ほう)の諸(しよ)
仏(ぶつ)薩垂【埵とあるところ】我(われ)に不二(ふに)の要旨(ようし)を示(しめ)して疑(うたが)ひを解(とか)しめ給へと。一 心(しん)に祈(いの)られけるに一夜(あるよ)の
夢(ゆめ)に神人(しん〴〵)ありて告(つげ)て曰(いはく)。大和国(やまとのくに)高市郡(たけごほり)久米(くめ)の道場(どうぢやう)の東塔(とうとふ)の本(もと)に妙経(めうきやう)あり
大毘盧遮那経(だいびるしやなきやう)と号(なづ)く。是(これ)往古(そのかみ)中天竺(ちうてんぢく)の善无畏(ぜんむい)三 蔵(ざう)此(この)日本(につほん)へ渡(わた)り彼(かの)道場(どうでう)
に収(おさ)めおくところなり。早(はや)く彼所(かしこ)に到(いた)り右の妙経(めうけう)を閲(けみ)して疑(うたが)ひを解(とく)べしと告(つぐ)る

と見て夢(ゆめ)覚(さめ)たり。空海師(くうかいし)大いに歓喜(くわんぎ)ありて。急(いそ)ぎ和州(わしふ)久米(くめ)の道場(どうぢやう)へいたり東(とう)
搭(とふ)の内陣(ないぢん)に入て求(もとめ)らるゝに。果(はた)して大 毘盧射遮那経(びるしやなきやう)と題(たい)せし経巻(きやうくわん)有(あり)けるゆへ
頓(とみ)に緘(ひも)を解(とい)て閲(けみ)せられけるに猶(なを)も疑(うたが)ひの解(とけ)ぬ所(ところ)ありければ。今は本朝(ほんてう)にて
疑惑(ぎはく)を問(とひ)明(あきら)むべき方(かた)もなし。此上(このうへ)は唐土(とうど)へ渡(わた)りて名僧(めいそう)を尋(たづね)求(もとめ)胸中(けうちう)の
疑(うたが)ひを解(とか)んものと。始(はじめ)て入唐(につとう)の望(のぞみ)をぞ発(おこ)されける。扨(さて)二十四才の年 三教指皈(さんけうしき)
の清書(せいしよ)をせられ二十七才にて阿州(あしう)大滝山(だいりうざん)を開基(かいき)ある。其後(そのゝち)三十一才の時(とき)桓武(くわんむ)
天皇(てんわう)藤原葛野丸(ふぢはらのかどのまる)を遣唐使(けんとうし)に立(たて)給ふ。副使(ふくし)は石川道益(いしかはみちます)判官(はんぐわん)は菅原清(すがはらのきよ)
公(とも)録事(ろくじ)は浅野鹿取(あさのかとり)なり是(これ)に依(よつ)て空海師(くうかいし)求法(ぐほふ)の為(ため)に入唐(につとう)せまほしき旨(むね)
を願(ねが)はれけるに。則(すなは)ち勅許(ちよくきよ)ありけるゆへ葛野丸(かどのまる)の船(ふね)に同船(どうせん)ありけり。此時(このとき)に釈(しやくの)
最澄(さいてう)《割書:伝教(でんげう)|大師》学士(がくし)橘逸成(たちばなのはやなり)も同船(どうせん)を願(ねが)ひ入唐(につとう)せられける。時(とき)に延暦(えんりやく)二十三年六
月上旬(じやうじゆん)遣唐使(けんとうし)以下(いげ)の船(ふね)肥前国(ひぜんのくに)松浦(まつら)より出帆(しゆつはん)し。海上(かいしやう)障(さはり)なく八月十日に唐(もろ)

土(こし)の港(みなと)へ着岸(ちやくがん)しけるに。唐帝(とうてい)の観察使(くわんさつし)済美(さいび)といふ者(もの)。和国(わこく)の使者(ししや)を疑(うたが)ふて船
より上(あが)らしめず。十月十三日まで船中(せんちう)に置(おき)ければ。遣唐使(けんとうし)葛野丸(かどのまる)大いに退屈(たいくつ)し空(くう)
海師(かいし)を招(まね)きて書牘(しよどく)を作(つくら)しめて其(それ)を済美(さいび)が方(かた)へ達(たつ)せしめけるに。済美(さいび)其(その)文章(ぶんしやう)
の奇絶(きぜつ)なるを感(かん)じ遂(つひ)に疑念(ぎねん)を晴(はら)して遣唐使(けんとうし)以下(いげ)を船より上(あが)らせ長安(てうあん)の
都(みやこ)へ送(おく)りけり《割書:空海師の文は委は|年譜に載たれは略》斯(かく)て空海師(くうかいし)は翌年(よくねん)《割書:三十|二才》唐(とう)の西明寺(さいみやうじ)の永(ゑい)
忠和尚(ちうおせう)の故院(こいん)に逗留(とうりう)し。其比(そのころ)唐土(とうど)にて碩徳(せきとく)の聞(きこ)え高(たか)き青龍寺(せいりようじ)の慧果(けいくわ)
阿闍梨(あじやり)の許(もと)にいたり始(はじめ)て謁見(えつけん)ありけるに。慧果(けいくわ)満顔(まんがん)に喜色(よろこびのいろ)を表(あらは)し。我(われ)你(なんじ)を
待事(まつこと)久しとて旧(ふるき)相識(なじみ)のごとく言談(ごんだん)し。懇(ねんごろ)に管侍(もてなし)法義(ほふぎ)を議論(ぎろん)して諸(もろ〳〵)の秘法(ひほふ)
を授(さづ)けらるゝ。中(なか)にも五部(ごぶ)の灌頂三密加持(くわんでうさんみつかじ)の法(ほふ)を伝授(でんじゆ)し。大悲胎蔵曼陀(だいひたいざうまんだ)
羅(ら)の灌頂(くわんでう)を打(うた)しめられけるに。空海師(くうかいし)華(はな)を拋(うつ)て毘盧遮那如来(びるしやなによらい)の身上(しんぜう)に著(あらは)
されければ。慧果阿闍梨(けいくわあじやり)大いに是(これ)を賞讃(せうさん)有(あり)けり。同年(どうねん)七月に空海師(くうかいし)又 金剛(こんがう)

曼荼羅(まんだら)に臨(のぞ)み五 部(ぶ)の灌頂(くわんでう)を受(うけ)華(はな)を拋(うつ)て再(また)毘盧遮那仏(ひるしやなぶつ)の身上(しんじやう)に著(あら)は
されければ阿闍梨(あじやり)また大いに賞嘆(せうたん)あり。一 度(ど)ならず二 度(ど)まで毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)
に拋(うち)得(え)る事 古今(こゝん)いまだ例(れい)を聞ず子(し)は誠(まこと)に凡夫(ぼんぶ)にあらず。昔(むかし)釈尊(しやくそん)秘密(ひみつ)真(しん)
言(ごん)の印(いん)を金剛薩垂(こんがうさつた)に付属(ふぞく)し給ひ。薩垂(さつた)それを龍猛菩薩(りうみやうぼさつ)に伝(つた)へ。それより
展転(てん〴〵)して不空三蔵(ふくうさんざう)に伝(つた)はり不空(ふくう)また我(われ)に授(さづ)けられたり。你(なんじ)を見るに秘密(ひみつ)大(だい)
根器(こんき)あり。依(よつ)て我(わが)金胎二部(こんたいりやうぶ)の大法(だいほふ)秘法(ひほふ)諸(もろ〳〵)の印信(いんしん)及(およ)び金剛頂(こんがうてう)瑜伽(ゆが)五 部(ぶ)の
真言(しんごん)を悉(こと〴〵)く授(さづく)べしとて。懇(ねんごろ)に伝授(でんじゆ)し你(なんじ)此(この)金剛乗経(こんがうぜうきやう)および。三 蔵(ざう)の所付供(しよふく)
養付物(やうふもつ)を以(もつ)て本国(ほんごく)へ帰(かへ)り諸州(くに〴〵)に真言(しんごん)秘密(ひみつ)の法(ほふ)を弘(ひろ)めよ。しからば四海大平(しかいたいへい)に
て万民(ばんみん)豊饒(ふねう)なるべしとて。諸(もろ〳〵)の経論(きやうろん)ならびに健陀国(けんだこく)より伝(つた)はれる袈裟(けさ)同 珠(じゆ)
数(ず)等(とう)を与(あた)へ遍照金剛(へんぜうこんがう)とぞ号(なづ)けられければ。空海師(くうかいし)歓喜(くわんぎ)踊躍(ゆやく)に堪(たへ)ず深(ふか)
く師恩(しおん)をぞ謝(しや)せられける。其後(そのゝち)慧果阿闍梨(けいくわあじやり)は入寂(にふじやく)の期(ご)近(ちか)きを知(ち)

覚(かく)ありて空海師(くうかいし)を招(まね)き。我(わが)徒弟(でし)数多(あまた)ありといへども。皆(みな)其(その)器量(きりやう)狭(せま)く根気(こんき)
薄(うす)くして仏法(ぶつほふ)の蘊奥(うんおう)を悉(こと〴〵)く譲(ゆづ)り授(さづ)くるに足(たら)ず。然(しかる)に你(なんじ)遠(とふ)く此国(このくに)に来(きた)り
師弟(してい)の契約(けいやく)をなし我(わが)秘訣(ひけつ)を尽(こと〴〵)く伝授(てんじゆ)し今は望(のぞみ)足(た)れり。我(われ)已(すで)に現世(このよ)の化(け)
縁(えん)尽(つき)なんとす。久(ひさ)しく留(とゞま)るべからず。前(さき)に経論(きやうろん)仏具(ぶつぐ)あらかじめ譲(ゆづ)り与(あたへ)たれども。尚(なほ)又(また)
遺(のこ)る宝器(ほうき)を譲(ゆづ)り与(あた)ふべしとて。仏舎利(ぶつしやり)八十 粒(りう)《割書:中に金色(こんじき)の|舎利一粒有》白緤(びやくでふ)の大 曼陀羅(まんだら)
五 宝(ほう)の三 昧耶金剛(まやこんがう)及(およ)び種々(しゆ〴〵)の霊器(れいき)を悉(こと〴〵)く授(さづ)け。懇(ねんごろ)に遺言(ゆいごん)ありて程(ほど)な  
く病床(びやうしやう)に打臥(うちふし)。遂(つひ)に唐(とう)の永貞(えいてい)元年(ぐわんねん)十二月十五日 手(て)に密印(みついん)を結(むす)び眠(ねむる)がごとく
遷化(せんげ)せられけり。諸(もろ〳〵)の徒弟(とてい)の悲歎(ひたん)はしばらくおき。空海師(くうかいし)はわきて歎(なげき)の色(いろ)深(ふか)
く紅涙(かうるい)に三 衣(え)の袂(たもと)を絞(しぼ)り追恋(ついれん)の念(おもひ)またやるかたもなかりけり。則(すなは)ち師(し)の墓(はか)に
碑(いしふみ)を建(たて)。自身(じしん)碑文(ひぶん)を作(つく)り慧果阿闍梨(けいくわあじやり)一 代(だい)の道徳(どうとく)を綴(つゞ)り著(あらは)されける。其(その)
文辞(ぶんじ)絶妙(ぜつめう)にして。唐朝(とうてう)の鴻儒(かうじゆ)碩徳(せきとく)も是(これ)を賞美(せうび)し。人口(じんかう)に鱠炙(くわいしや)しけり

空海師(くうかいし)また不空(ふくう)三 蔵(ざう)の高徳(かうとく)を慕(した)ひ其(その)住所(ぢうしよ)へ尋(たづね)行(ゆき)て相見(しやうけん)せられければ不空(ふくう)
大いに怡(よろこ)び。我(われ)幼若(ようじやく)の昔(むかし)より仏門(ぶつもん)に入 普(あまね)く五 天竺(てんぢく)を経歴(けいれき)修行(しゆぎやう)し。此(この)唐土(とうど)へわたりて
法(ほふ)を弘(ひろ)め更(さら)に海(うみ)に泛(うか)んで日本(につほん)へ渡り弘法(ぐほふ)せんと欲(ほつ)すれども。期(とき)いまだ熟(じゆく)せず身(み)
已(すで)に老(おひ)たり。然(しかる)に你(なんじ)に逢(あふ)は我(わが)宿願(しゆくぐわん)の達(たつ)すべき時(とき)なり。依(よつ)て我(わが)訳(やく)せし華厳(けごん)六
波羅(はら)密教(みつきやう)および秘密(ひみつ)の経論(きやうろん)を授(さづ)くべし。我(われ)に交(かはり)て倭国(わこく)に法(ほふ)を弘(ひろ)めよと申
されけるにぞ。空海師(くうかいし)歓(よろこ)びに堪(たへ)ず即(すなは)ち止宿(ししゆく)して諸経(しよきやう)の秘訣(ひけつ)を悉(こと〴〵)く学究(まなびきはめ)幾(いく)
干(ばく)ならずして悉(こと〴〵)く其(その)玄旨(げんし)に通達(つうだつ)せられけり。不空(ふくう)其(その)俊才(しゆんさい)を深(ふか)く感賞(かんせう)し。南(なん)
天竺(てんぢく)龍猛菩薩(りうみやうぼさつ)より伝来(でんらい)せし三股杵(さんこしよ)及(およ)び諸(もろ〳〵)の経巻(きやうくわん)を尽(こと〴〵)く附属せられ
ける。空海師(くうかいし)大いに怡(よろこ)び拝受(はいじゆ)して恩(おん)を謝(しや)し。辞(いとま)を告(つげ)て旧(もと)の西明寺(さいみやうじ)の故院(こいん)へ帰(かへ)
り住(すま)れけるに。唐(とう)の帝(みかど)憲宗皇帝(けんそうくわうてい)空海師(くうかいし)の博才(はくさい)法徳(ほふとく)を睿聞(ゑいぶん)あつて宮(きう)
中(ちう)へ召(めさ)れ。諸経(しよけう)の文義(ぶんぎ)を問(とひ)給ふに。空海師(くうかいし)悉(こと〴〵)く言下(ごんか)に答(こたへ)らるゝ事 響(ひゞき)の物(もの)



に応(おふ)ずるが如(こと)くなれば憲宗帝(けんそうてい)其(その)剛記(かうき)能弁(のふべん)を大いに感賞(かんせう)ありて重(おも)く饗応(きやうおふ)
し絹帛(けんはく)珠玉(しゆぎよく)を賜(たま)ひ。宮中(きうちう)に留(とゞ)めて種々(さま〴〵)管侍(もてな)し給ひけるが。宮中(きうちう)に三間(みま)の張壁(はりかべ)
ありて晋(しん)の右将軍(うしやうぐん)王羲之(わうぎし)の手跡(しゆせき)をとゞめけるに。年(とし)経(へ)て破壊(はゑ)せしかば。今(この)
般(たび)二間(ふたま)を修理(しゆり)させられ。いまだ筆(ふで)を下(くだ)すべき程(ほど)の能書(のふじよ)を得(え)られず其儘(そのまま)にて有(あり)
ければ。憲宗帝(けんそうてい)くう空海和尚(くうかいおしやう)に対(むか)ひ。師(し)は能書(のふじよ)の聞(きこ)え高(たか)し。此壁(このかべ)に一筆(いつひつ)を渾(ふるひ)候へと
仰(あふせ)けるに。師(し)すこしも辞(じ)する色(いろ)なく左右(さいう)の手足(てあし)に筆(ふで)を執(とり)また口(くち)に筆(ふで)を含(ふく)み五(いつ)
所(ところ)に五 行(ぎやう)の書(しよ)を同時(どうじ)に書(かゝ)れける。其(その)筆勢(ひつせい)墨色(ぼくしよく)殊絶(しゆぜつ)にて龍牙(りうげ)虎爪(こそう)ともいふ
べく古(いにしへ)の王羲之(わうぎし)王献之(わうけんし)といへども猶(なを)及(およ)ばざる計(ばかり)なり。今 一間(ひとま)には墨(すみ)を盥(たらひ)に入(いれ)壁(かべ)
に向(むか)ふてそゝぎかけられけるに。自然(しぜん)と樹(じゆ)の字(じ)になり上下 左右(さいう)の位置(ゐち)正(たゞ)しかり
ければ。帝(みかど)も諸臣下(しよしんか)も是(これ)を見る人 驚嘆(きやうたん)せざるはなかりけり。帝(みかど)睿感(ゑいかん)のあまり
勅(ちよく)して五筆和尚(ごひつおしやう)といふ号(がう)をぞ下されける。誠(まこと)に前代(ぜんだい)例(ためし)を聞(きか)ず後代(こうだい)又 有(ある)まじき

能書(のふじよ)にて敢(あへ)て凡庸(ぼんよう)の及(およ)ばざる所(ところ)なり。唐帝(とうてい)は空海和尚(くうかいおしやう)を深(ふか)く尊信(そんしん)ありて。願(ねがは)
くは師(し)永(なが)く朕(ちん)が国(くに)に留(とゞま)り候へ。朕(ちん)が師(し)と仰(あふ)ぎ大寺(たいじ)を建立(こんりう)して住(ぢう)せしむべしと宣(のたま)ひ
けれども。空海和尚(くうかいおしやう)承伏(せうふく)の色(いろ)なく。君命(くんめい)誠(まこと)に忝(かたしけ)なく候へども。拙僧(せつそう)身(み)を忘(わす)れ命(いのち)を
拋(なげう)つて遠(とふ)く蒼溟(そうめい)を渡(わた)り貴国(きこく)に来(きた)り候は。仏道(ぶつどう)を倭国(わこく)に弘(ひろ)め普(あまねく)衆生(しゆぜう)を
化度(けど)せんためにて候へば。恐(おそれ)ながら王命(わうめい)に応(おふ)じ奉り難(がた)しと辞(じ)し申されけるにぞ。唐(とう)
帝(てい)も抑留(よくりう)し玉ふ事 能(あた)はず。さらば現世(このよ)の契(ちぎり)は薄(うす)くとも。来世(らいせ)は師(し)の教化(きやうけ)を永(ながく)
受(うく)べき証(しるし)にとて宝庫(ほうこ)に秘置(ひめおか)れたる菩提子(ぼだいし)の珠数(じゆず)を給(たま)はり其余(そのほか)等々(かづ〳〵)の
宝器(ほうき)を下(くだ)されければ。和尚(おしやう)大いに怡(よろこ)び謹(つゝし)んで頂戴(てうだい)ありけり。右の念珠(ねんじゆ)は今 猶(なを)東(とう)
寺(じ)の宝蔵(ほうざう)に納(おさまり)有(あり)とかや其後(そのゝち)空海和尚(くうかいおしやう)城中(じやうちう)の東西南北(こゝかしこ)を巡(めぐ)りて遊覧(ゆふらん)有(あり)ける
所(ところ)に一流(ひとながれ)の㵎河(たにがは)ありければ。少時(しばらく)停立(たゝずみ)水相(すいさう)を観(くわん)じて在(おはし)けるに。忽(たちま)ち一人の童子(どうじ)
飄然(へうぜん)として出来(いできた)れり。空海和尚(くうかいおしやう)つら〳〵童子(どうじ)の体(てい)を見らるゝに。蓬(よもぎ)の髪(かみ)は乱(みだれ)て

肩(かた)にかゝり。身(み)に着(き)たる藤(ふぢ)の衣(ころも)は破(やぶ)れて。膝(ひざ)も見(あらは)なり。時(とき)に童子(どうじ)空海和尚(くうかいおしやう)に向(むか)
ひ師兄(しひん)【「すひん」とあるところ】は倭国(わこく)の五 筆和尚(ひつおしやう)にて在(ましま)すかと問(とふ)。師(し)しかりと答(こたへ)られければ。童子(どうじ)が曰(いはく)
然(しか)らば此(この)流(ながる)る水(みづ)の面(おも)に字(じ)を書(かき)て見せ給へとて何所(いづこ)よりか筆(ふで)硯(すゞり)をとり来(きた)りて和(お)
尚(しやう)の前(まへ)にさし置(おき)けり。空海師(くうかいし)いと安(やす)き義(ぎ)なりとて。筆(ふで)を執(とり)水面(すいめん)に清水(せいすい)を讃(ほむ)る
詩(し)を書(かゝ)れけるに。文点(ぶんてん)少(すこし)も乱(みだれ)ず鮮(あざやか)に文字(もんじ)浮(うか)みて流(なが)れ下(くだ)りけるにぞ。童子(どうじ)は
屢(しば〳〵)感賞(かんせう)し。師(し)に作(なら)【做は作の俗字】ひて我(われ)も一 字(じ)を書(かき)て試(こゝろみ)候べしと。筆(ふで)を執(とつ)て同(おな)じく水面(すいめん)に草(さう)
書(しよ)の龍(りよう)といふ字(じ)を書(かき)けるに。是(これ)も水(みづ)に浮(うか)みて筆勢(ひつせい)みだれず又 流(なが)るゝ事なし。然(しかる)
に龍(りよう)の字(じ)に右の点(てん)をうたざりければ。空海師(くうかいし)童子(どうじ)に向(むか)ひ何(なに)ゆへ小点(せうてん)をうたざるや
と問(とは)れけるに。童子(どうじ)完示(くわんじ)として。実(げに)忘(わす)れ候ひしと言(いひ)さま。筆(ふで)を執(とつ)て点(てん)をうつとひとしく
忽(たちま)ち山河(さんか)鳴動(めいどう)し。水面(すいめん)の龍(りよう)の字(じ)は真(まこと)の龍(りよう)と変(へん)じ光(ひかり)を放(はな)ち鱗角(りんかく)を鳴(なら)し雲(くも)を
呼起(よびおこ)して虚空(こくう)へ飛昇(とびのぼ)りけり。其時(そのとき)童子(どうじ)も身(み)を躍(おどら)して龍(りよう)の背(せ)に乗(のり)うつるよと見(みへ)

【右丁 囲みの中の文字】
文殊(もんじゆ)。童子(どうじ)に
現(げん)じて
 空海(くうかい)に
奇瑞(きずい)を見せ
 しめ給ふ

【同 囲み文字】
空海

【左丁 囲み文字】
文じゆ化身

けるが忽然(こつぜん)として端厳(たんごん)微妙(みめう)の法相(ほふさう)と化(け)し。予(われ)は是(これ)文珠菩薩(もんじゆぼさつ)なりと宣(のたま)ふ御
声(こゑ)もろともに虚空(こくう)に上(あが)らせ給ひけり。是等(これら)の奇特(きとく)を首(はじめ)として百般(さま〴〵)の不思議(ふしぎ)を
現(あらは)し給ふ事 限(かぎり)なかりければ。唐朝(とうてう)の君臣(くんしん)及(およ)び下々(しも〴〵)の万民(ばんみん)まで活仏(いきぼとけ)の如(ごと)く尊(たつと)びけり
    空海師(くうかいし)帰朝(きてう)《振り仮名:鎮_二難風_一|なんふうをしづむ》  投筆(なげふで)并(ならびに)《振り仮名:隔_レ溪書_レ額|たにをへだてゝがくをしよす》条
去程(さるほど)に空海和尚(くうかいおしやう)は慧果(けいくわ)不空(ふくう)両知識(りやうちしき)及(およ)び唐土(とうど)の名僧(めいそう)に悉(こと〴〵)く謁見(えつけん)して求法(ぐほふ)
残(のこ)る所(ところ)なく学究(まなびきは)め。在唐(ざいとう)已(すで)に三年におよびければ。今は帰朝(きてう)せんと思(おも)はれける折柄(をりがら)
学士(がくし)橘逸成(たちばなのはやなり)も勤学(きんがく)畢(おは)り帰朝(きてう)せんと申されけるゆへ。幸(さいはひ)の船連(ふなつれ)よとて唐帝(とうてい)に
帰国(きこく)の義(ぎ)を願(ねが)ひ其比(そのころ)倭国(わこく)の使者(ししや)高階真人(たかしなまびと)の船(ふね)唐土(とうど)へ来(きた)りければ空海(くうかい)
逸成(はやなり)其船(そのふね)に便船(びんせん)を乞(こひ)。遂(つひ)に唐(とう)の元和(げんわ)元年(ぐわんねん)《割書:本朝 大(だい)|同(どう)元年》八月 上旬(じやうじゆん)に纜(ともづな)を解(とい)
て出帆(しゆつはん)し。順風(じゆんふう)に任(まか)して船(ふね)を走(はしら)せける程(ほど)に。其(その)疾(はや)き事 矢(や)を射(いる)がごとく三四日の
間(うち)に数百里(すひやくり)を過(すぎ)ける所(ところ)に。忽(たちま)ち日和(ひより)変(かは)り東南(とうなん)の空(そら)に一朶(いちだ)の黒雲(くろくも)起(おこ)るよと見

る間(ま)もなく。俄然(がぜん)として悪風(あくふう)大いに吹出(ふきいだ)し。逆浪(さかなみ)山(やま)のごとく起(おこ)りて天を漫(ひた)し。船(ふね)を淘(ゆり)
上(あげ)淘下(ゆりおろ)すにぞ。水主(すいしゆ)楫取(かんどり)大いに駭(おどろ)き。急(きう)に帆(ほ)を下(おろ)し地方(ぢかた)へ寄(よせ)んと働(はたら)けども叶(かなは)
ばこそ。船(ふね)は悪風(あくふう)のために吹舞(ふきまは)され。今や此船(このふね)海底(かいてい)に沈(しづ)むべく見えけるにぞ。船中(せんちう)
の上下 顔色如菜(いろをうしなひ)あはや底(そこ)の水屑(みくず)と成(なる)らんと騒(さは)ぎ惑(まど)ひ生(いき)た心地(こゝち)はなかりけり。されども
空海和尚(くうかいおしやう)はさしもの難風(なんふう)逆浪(げきらう)をも恐(おそ)れず。手(て)に密印(みついん)を結(むす)び端坐(たんざ)して。自若(じじやく)と
して御坐(おはし)けるが。衆人(もろびと)の悶悲(もだへかなし)むを見(み)て哀愍(あいみん)の心(こゝろ)禁(きん)じがたく稍(やゝ)座(ざ)を起(たつ)て船(ふね)の艗(へさき)
に立出(たちいで)給ひ高声(かうしやう)に。何(いか)に八大 龍王(りうわう)よく聞(きゝ)給へ。我(われ)遠(とふ)く求法(ぐほふ)のために入唐(につとう)せしは一身(いつしん)の
成仏(じやうぶつ)得脱(とくだつ)を求(もとめ)ん為(ため)ならず。普(あまね)く人天(にんてん)禽獣(きんじふ)虫魚(ちうぎよ)にいたる迄(まで)甘露(かんろ)の法味(ほふみ)を得(え)さ
しめ末代(まつだい)濁世(じよくせ)の一切(いつさい)衆生(しゆじやう)をも済度(さいど)せん大願(だいぐわん)なり。伝聞(つたへきく)八才の龍女(りうによ)は世尊(せそん)の妙文(めうもん)を
聞(きゝ)て成仏(じやうぶつ)し永劫(えうがう)末世(まつせ)まで仏法(ぶつほふ)を守護(しゆご)せんと誓願(せいぐわん)を立(たて)しとや。然(しから)ば其(その)誓(ちかひ)の如(ごと)く
此船(このふね)を過(あやま)ちなく本国(ほんごく)へ着(つか)【著】しめ給へ。我(われ)無事(ぶじ)に帰朝(きてう)せば国家(こくか)鎮護(ちんご)の為(ため)一大 伽藍(がらん)

を建立(こんりう)し衆生(しゆじやう)済度(さいど)の法灯(ほふとう)を灯(かゝぐ)べしと誓(ちかひ)給ひ不空禅師(ふくうぜんじ)より授(さづか)り給ひし南天(なんてん)
竺(ぢく)龍猛菩薩(りうみやうぼさつ)伝来(でんらい)の三股杵(さんこしよ)を取出(とりいだ)し。心中(しんちう)に祈念(きねん)し此(この)宝器(ほうき)の留(とゞま)る処(ところ)に伽藍(がらん)を造(ぞう)
立(りう)せんと。天に向(むか)ひて拋(なげう)ち給へば。不思議(ふしぎ)なるかな三 股杵(こしよ)は飛鳥(ひてう)のごとく空(そら)を翔(かけ)りて杳(はるか)【杏は誤記】
東方(ひがしのかた)へ飛去(とびさり)。今まで荒吹(あらぶき)し悪風(あくふう)漸(しだ)〱(い)に吹(ふき)止(やみ)高浪(たかなみ)鎮(しづま)りて船(ふね)穏(おだや)かに成(なり)ければ。真人(まひと)逸(はや)
成(なり)を首(はじめ)とし船中(せんちう)の諸人(しよにん)蘇生(よみがへり)し心地(こゝち)して。是(これ)ひとへに空海上人(くうかいしやうにん)の法徳(ほふとく)に依(よつ)て。万死(ばんし)を免(まぬか)
れ一 生(しやう)を得(え)たりと怡(よろこ)び。一 同(どう)に合掌(がつせう)し空海和尚(くうかいおせう)をぞ礼拝(らいはい)しける。斯(かく)て風浪(ふうらう)収(おさま)りまた
追風(おひて)吹(ふき)て船(ふね)平(たいら)かに大洋(たいよう)を走(はし)り。平城(へいぜい)天皇 大同(だいどう)元年十月十三日 筑紫(つくし)大宰府(だざいふ)に着(ちやく)
船(せん)しければ。真人(まびと)。遠成(とふなり)即(すなは)ち空海(くうかい)。逸成(はやなり)を大宰府(だざいふ)へ請(しやう)じ入(いれ)て船中(せんちう)の労(つかれ)を休(やすめ)しめ。其身(そのみ)は
唐帝(とうてい)の回報(くわいほう)を都(もいやこ)へ奏聞(そうもん)せんため出立(しゆつたつ)しければ。空海和尚(くうかいおしやう)唐土(とうど)にて授(さづか)りたる経巻(きやうくわん)仏具(ぶつぐ)
を一 巻(くわん)に記録(きろく)し。真人(まびと)遠成(とふなり)に言伝(ことづて)て都(みやこ)へ上(のぼ)されけり。斯(かく)て翌年(よくねん)大同(だいとう)二年正月 空海(くうかい)
和尚(おせう)橘逸成(たちばなのはやなり)と倶(とも)に大宰府(だざいふ)を発足(ほつそく)して都(みやこ)へ上(のぼ)り禁廷(きんてい)へ参内(さんだい)ありて帰朝(きてう)せし旨(むね)

を奏聞(そうもん)し。前(さき)に記録(きろく)を奉りし如(ごと)く唐土(とうど)にて得(え)たる所(ところ)の。新 訳(やく)の経巻(きやうくわん)一百四十二部。梵(ぼん)
字 真言(しんごん)の讃(さん)等(とう)四十二部。論章(ろんせう)三十二部。仏 像(ぞう)十 軀(く)。仏器(ぶつき)九 種(しゆ)。慧果阿闍梨(けいくわあじやり)
より付属(ふぞく)の宝物十三 種(しゆ)。いづれも金襴(きんらん)【注】の縹(へう)。珠玉(しゆぎよく)の軸(ぢく)に荘厳(せうごん)を尽(つく)せしを奏献(そうけん)
ありければ。平城天皇(へいぜいてんわう)大いに睿感(ゑいかん)在(ましま)し。無事に帰朝(きてう)し多(おほ)くの重宝(ちようほう)を献(けん)ぜし義
を御褒賞(ごほうせう)ありて種々(しゆ〴〵)の賞物(せうもつ)を賜(たま)はり。伝来(でんらい)の真言密乗(しんごんみつじやう)を天下に流通(るつう)すべ
きよしの宣旨(せんじ)を下され。高雄(たかを)の神護(じんご)寺を給(たま)ひて住侶(ぢうりよ)せしめ給ひけり。此時 橘逸成(たちばなはやなり)
にも入唐(につとう)勤学(きんがく)の功(かう)を御 賞美(せうび)ありて。是(これ)又(また)種々(しゆ〴〵)の御 恩賞(おんせう)を下されけり。去程(さるほど)に空(くう)
海和尚(かいおしやう)は高雄(たかを)神護(じんご)寺に住(ぢう)し専(もつは)ら諸弟子(しよでし)を教(をしへ)厲(はげま)し。天下に真言宗(しんごんしう)を流通(るつう)せ
んと昼夜(ちうや)心神(しん〴〵)を凝(こら)し給ひけり。然(しかる)に朝廷(てうてい)には平城(へいぜい)天皇 御多病(ごたびやう)に依(よつ)て宝位(みくらゐ)を
春宮(とうぐう)に譲(ゆづ)らせ給ひ。平城(なら)の旧都(きうと)へ遷(うつ)【迁は俗字】り給ひ世は嵯峨(さが)天皇の御宇(ぎよう)となり。年号(ねんがう)も弘(かう)
仁(にん)元年と改(あらた)まり。内裡(だいり)の諸(しよ)門を悉(こと〴〵)く修理(しゆり)せられ。工匠(かうせう)の功(かう)已(すで)に畢(をはり)ければ。東西の門

【注 襴、史料の字面が糸扁は誤】

の額(がく)は嵯峨天皇(さがてんわう)御 手(て)づから龍管(りうくわん)を揮(ふる)ひて宸筆(しんひつ)を下(くだ)し給ひ。北方(ほつほう)の額(がく)は橘(たちばな)の大(だい)
夫(ぶ)逸成(はやなり)に勅(ちよく)して書(かゝ)せ給ひ。南面(なんめん)三 門(もん)ならびに応天(おうてん)門の額(がく)は空海(くうかい)に書(しよ)せしむべし
と勅詔(ちよくぜう)下(くだ)りければ。空海和尚(くうかいおせう)謹(つゝし)んで勅命(ちよくめい)に応(おう)じ。筆(ふで)を染(そめ)て四面(しめん)の額(がく)を書(かき)給ふ
に。其(その)筆勢(ひつせい)鸞鳳(らんほうの)碧落(へきらく)に翔(かけ)るがごとく龍螭(りうちの)蒼海(さうかい)に游(およぐ)に似(に)て。張芝(てうし)。義氏(ぎし)【羲之とあるところ】も
妙(めう)を奪(うば)はれ鐘繇(しようよう)。蔡邕(さいゆう)【「さいよう」とあるところ】も愧(はぢ)を懐(いだく)べくぞ見えける。然(しかる)に如何(いか)なる事にや応(おう)
天門の額(がく)をうちて後(のち)諸人(しよにん)是(これ)を見れば。応(おう)の字(じ)の上の円点(ゑんてん)を書落(かきおと)されたりけれ
ば。諸人(しよにん)密(ひそか)に私語(さゝやき)空海(くうかい)ほどの能書(のふじよ)も応(おう)の字(じ)の点(てん)を落(おと)されたり。空海(くうかい)も筆(ふで)の誤(あやま)
りありと誹謗(ひはう)しけるにぞ。和尚(おしやう)の弟子達(でしたち)聞(きゝ)づらく思(おも)ひ。師(し)に向(むか)ひて応天(おうてん)門の応(おう)
の字(じ)に点(てん)を打(うち)給はざりしは御所存(こしよぞん)ありての御事(おんこと)にやと問(とひ)ければ。空海師(くうかいし)微笑(びしやう)し
給ひ何(なに)の所存(しよぞん)もあらず。後(あと)より点(てん)を加(くはへ)んと思(おもひ)しにはたと失念(しつねん)せしなり。されども已(すで)
に掛(かけ)たる額(がく)をとり卸(おろ)させんも煩(わづら)はし。其儘(そのまゝ)【侭は略字】にて点(てん)を加(くはふ)べしとて。硯(すゞり)筆(ふんで)を持(もた)しめて

応(おう)天門の方へ行(ゆか)れけるにぞ。諸弟子達(しよでしたち)不審(ふしん)し。梯子(はしご)などかけて点(てん)を加(くは)へ給ふにや
と後(あと)に従(したが)ひ行(ゆき)て見るに空海和尚(くうかいおしやう)は従容(じふよふ)として門の辺(ほとり)へ立寄(たちより)給ひ筆(ふで)を執(とつ)て墨(すみ)
を含(ふくま)せ。高(たか)く門上(もんじやう)の額(がく)を臨(のぞ)んで筆(ふで)を擲(なげう)ち給ひけるに。毫釐(がうり)も狂(くる)はず応(おう)の字(じ)
の上(うへ)に円点(ゑんてん)を墨黒(すみぐろ)に打(うち)筆(ふで)は其儘(そのまゝ)【侭は略字】下へ落(おち)。いとゞ筆勢(ひつせい)ぞ加(くは)はりける。是(これ)を見物(けんぶつ)せ
し弟子達(でしたち)其余(そのよ)の諸人あつと計(ばかり)に感嘆(かんたん)し。実(げに)も不思議(ふしぎ)の名僧(めいそう)かなとぞ賞(せう)し
ける。此義(このぎ)睿聞(ゑいぶん)に達(たつ)し。今に始(はじめ)ぬ空海(くうかい)が神(しん)筆かなと深(ふか)く睿感(ゑいかん)在(ましま)し。即(すなは)ち宮(きう)
中へ召(めさ)れ御 賞美(せうび)の上 多(おほ)くの被物(かづけもの)を給(たま)はりけり。後(こう)代まで弘法(かうぼふ)の投(なげ)筆と称(しやう)するは
此事なり。和漢(わかん)両朝(りやうてう)に能(のふ)書 多(おほ)しといへども。空海和尚(くうかいおしやう)のごとく五(ご)筆を揮(ふる)ひて一 時(じ)に
五行(ごぎやう)の書(しよ)をなし。或(あるひ)は水面(すいめん)に詩(し)を書(しよ)し。今また筆(ふで)を投(なげ)て点(てん)を加(くはゆ)る等(とう)の奇(き)事は
前代未聞(ぜんだいみもん)と謂(いひつ)べし。後代(こうだい)にいたりて紀百枝(きのももえ)といふ人 空海和尚(くうかいおしやう)の書給ひし皇嘉(くわうか)
門の額(がく)を見て。其(その)筆法(ひつほふ)力士(りきし)の跋扈(ふんばたかる)に似(に)たりと誹謗(ひはう)しければ。其夜の夢(ゆめ)に二三 頭(とう)

羅刹(らせつ)来り権者(ごんじや)の筆跡を訕(そしり)し罪人(ざいにん)を罰(ばつ)せよとて百枝(もゝえ)を鉄(くろがね)の索(なわ)にて強(つよ)く
縛(しば)り笞(しもと)を揚(あげ)て散々(さん〴〵)に撃(うち)けるにぞ。百枝(もゝえ)苦痛(くつう)に堪(たへ)かね罪(つみ)を懺悔(さんげ)し。免(ゆる)し給へ
と泣謝(なきわび)ければ。鬼(おに)どもよふ〳〵笞(しもと)を止(とゞ)め索(なわ)を解(とき)赦(ゆる)して何国(いづく)ともなく立去よと思(おもへ)ば
忽(たちま)ち夢(ゆめ)は覚(さめ)けるが。其(それ)より後(のち)は五体(ごたい)痺(しびれ)て生涯(しやうがい)癈人(はいじん)と成けるとぞ。又 小野道風(おのゝとうふう)
は空海和尚(くうかいおしやう)の書(かき)給ひし朱雀(しゆじやく)門の額(がく)ならびに大極殿(たいきよくでん)の額(がく)の文字を見て。朱雀(しゆじやく)
門にはあらで米雀(べいじやく)門大 極殿(きよくてん)かと見れば火極殿(くわきよくでん)なりと誹(そし)り笑(わら)はれければ。忽(たちま)ちに左
右(いう)の腕(うで)痿(なえ)痺(しび)れ。それより筆を執(とつ)て書(しよ)をかくに自在(じざい)ならず成(なり)けり。然(され)ども絶世(ぜつせい)の能(のふ)
書(じよ)なれば慄(ふる)ひながら書(かゝ)れける手跡(しゆせき)以前(いぜん)よりは却(かへつ)て筆勢(ひつせい)奇絶(きぜつ)に見えけるゆへ。世(よ)
の人 道風(とうふう)の慄筆(ふるひふで)と賞美(せうび)せしとかや。彼(かの)世尊寺(せそんじ)藤原行成(ふぢはらのかうぜい)卿(けう)は。空海和尚(くうかいおしやう)の手(しゆ)
跡(せき)を深(ふか)く尊敬(そんけう)して其(その)書風(しよふう)を学(まな)び遂(つひ)に日本三 跡(せき)の一人と異国(いこく)までも筆の名
誉(よ)を伝(つた)へ。また菅原道真(すがはらのみちざね)公(こう)も空海和尚(くうかいおせう)の筆法(ひつほふ)を慕(した)ひ学(まな)び給ひて。是(これ)また能(のふ)

書(じよ)の誉(ほまれ)を世(よ)に高(たか)うし給ひけり是(こ)は且(しばらく)おきて空海和尚(くうかいおせう)は高雄寺(たかをでら)の幽静(ゆうせい)なるを愛(あい)
し給ひ。内裡(だいり)に法務(ほふむ)あるの余日(よじつ)は高雄寺(たかをでら)にのみ住(ぢう)し給ひけるが。元来(ぐわんらい)高雄寺(たかをでら)は和気(わけの)
朝臣(あつそん)清麻呂(きよまろ)宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の神勅(しんちよく)を蒙(かふむ)りて建立(こんりう)する所(ところ)の道場(どうぢやう)にて神願寺(しんぐわんじ)と
号(がう)せしを後(のち)に神護寺(しんごじ)と改(あらた)められける。然(しかる)に空海和尚(くうかいおせう)帰朝(きてう)在(あり)て後(のち)和気清麻呂(わけのきよまろ)
の息男(そくなん)真綱大夫(まづなのたいぶ)空海和尚(くうかいおせう)を深(ふか)く信仰(しんかう)し。高雄寺(たかをでら)の住侶(ぢうりよ)とせまほしく思(おも)ひ其(その)
由(よし)を朝廷(てうてい)へ願(ねが)ひければ。即(すなは)ち勅許(ちよくきよ)ありて。偖(さて)こそ高雄(たかを)神護寺(しんごし)を空海和尚(くうかいおせう)に給(たま)はり
しなり。然(しかる)に寺門(じもん)の額(がく)いまだ旧(もと)の額(がく)を改(あらた)めざれば。真綱(まづな)新(あらた)に額(がく)を造(つくり)高雄寺(たかをでら)へ寄(き)
付(ふ)せんと朝廷(てうてい)へ其旨(そのむね)を奏達(そうたつ)し。額面(がくめん)の書(しよ)は空海和尚(くうかいおせう)の染筆(ぜんひつ)を願(ねがは)んと新額(しんがく)を従(じふ)
者(しや)に齎(もたら)し高雄寺(たかをでら)へ赴(おもむ)きけるに。折(をり)しも大雨(たいう)の後(のち)にて清滝川(きよたきがは)の水(みづ)漲(みなぎ)り溢(あぶ)れ渓川(たにがは)の橋(はし)
流(なが)れ落(おち)渡(わた)るべき便(たより)なく。如何(いかゞは)せんと猶予(ためらひ)けるに。空海和尚(くうかいおせう)は高雄寺(たかをてら)に
在(いまし)て暗(あん)に
真綱(まつな)が額面(がくめん)の書(しよ)を望(のぞ)む意(い)を知覚(ちかく)し給ひ弟子僧(でしそう)に筆(ふで)硯(すヾり)を持(もた)せて坂(さか)の半途(はんと)迄(まで)

下(くだ)り真綱(まづな)に向(むか)ひ高声(たからか)に。貴卿(きけい)当寺(このてら)へ新額(しんがく)を寄付(きふ)せられんと是(これ)まで持参(じさん)せられ
し段(だん)怡入(よろこびいり)候。然(しかる)に㵎河(たにがは)の橋(はし)落(おち)たれば渡(わた)り給はん事も煩(わづら)はしかるべし。空海(くうかい)是所(こゝ)より
額面(がくめん)に拙筆(せつひつ)を揮(ふる)ひ候はんあいだ。其(その)額(がく)を高(たか)くさし上て持(もた)せ給へと仰(あふせ)ければ。真綱(まづな)は空(くう)
海師(かいし)の。額(がく)の文字(もじ)を望(のぞ)む意(い)を早(はや)く察知(さつち)せられしを驚嘆(きやうたん)しながら。此処(こゝ)と彼所(かしこ)とは㵎(たに)
一ツを隔(へだて)たるに。彼所(かしこ)より額(がく)の文字(もんじ)を書(かゝ)んとは。如何(いか)なる方便(はうべん)にやと不審(いぶかり)ながら。権者(ごんじや)の詞(ことば)
なればとて。従者(じふしや)に命(めい)じ額(がく)を高(たか)く指上(さしあげ)させてぞ待居(まちゐ)ける。空海和尚(くうかいおせう)は谷川(たにがは)を隔(へだて)其(その)間(あい)
遙(はるか)なる坂(さか)の巌(いはの)頭(うへ)に立(たち)給ひ。徒弟(とてい)に持(もた)せたる筆(ふんで)を執(とり)て墨(すみ)を含(ふくま)せ。額面(がくめん)に向(むか)ひて毫(ふで)を
揮(ふる)ひ給ふに。不思議(ふしぎ)や其(その)墨(すみ)雲(くも)霧(きり)のごとく空中(くうちう)を飛(とび)到(いたり)て。額(がく)の面(おもて)に神護(しんご)国祚(こくそ)真言(しんごん)
寺(じ)と墨黒(すみぐろ)に著(あらは)れ筆勢(ひつせい)類(たぐひ)なく書(かき)給ひけるにぞ。真綱(まづな)を先(さき)とし在合(ありあふ)輩(ともがら)噫(あつ)と計(ばかり)
感嘆(かんたん)する声(こゑ)㵎(たに)の水音(みづおと)に雑(まじ)りて少時(しばし)は鳴(なり)も止(やま)ざりけり。真綱(まづな)は眼前(がんぜん)の奇特(きどく)を見
て屢(しば〳〵)讃美(さんび)し。かゝる不思議(ふしぎ)の御 墨跡(ぼくせき)天覧(てんらん)に備(そなへ)て後(のち)寄付(きふ)し候べしとて。拝辞(はいじ)し

て都(みやこ)へ帰(かへ)り参内(さんだい)して在(あり)し次第(しだい)を奏(そう)し額(がく)を睿覧(ゑいらん)に備(そなへ)ければ。帝(みかど)御驚嘆(ごきやうたん)ま
し〳〵先達(さきだつ)ての投筆(なげふで)といひ今度(こんど)また谷川(たにがは)を隔(へだて)て書(しよ)を揮(ふるふ)事 更(さら)に凡夫(ぼふぶ)の及(およ)ぶ所(ところ)
にあらず。実(じつ)に仏(ぶつ)菩薩(ぼさつ)の再誕(さいたん)ありしなるべしと。弥(いよ〳〵)御 信仰(しんかう)を増(まし)給ひける。斯(かく)て
真綱(まづな)は件(くだん)の額(がく)を再(ふたゝ)び高雄寺(たかをでら)へ持参(じさん)して寄付(きふ)しけり《割書:今猶右の額高雄寺の宝|蔵に秘置什宝の第一とせり》
去程(さるほど)に空海和尚(くうかいおせう)は高雄寺(たかをでら)に於(おい)て諸弟子(しよでし)を教導(をしへみちび)き給ふ程(ほど)に各(おの〳〵)稍(やゝ)金胎両(こんたいりよう)
部(ぶ)の深理(しんり)に達(たつ)せられければ。今は天下に真言宗(しんごんしう)を弘通(ぐづう)せんと弘仁(かうにん)元年《割書:三十|七才》の春(はる)参(さん)
内(だい)ありて真言宗(しんごんしう)流通(るつう)の義(ぎ)を願(ねが)ひ。即身成仏(そくしんじやうぶつ)の理(り)を奏聞(そうもん)し給ひければ。帝(みかど)其(その)法(ほふ)
を尊(たつと)び給ひながら猶(なを)も諸宗(しよしう)の高僧(かうそう)を召集(めしあつ)め給ひ。空海(くうかい)が願(ねがふ)ところの真言密(しんごんみつ)
乗(ぜう)の宗派(しうは)の義(ぎ)可否(かひ)如何(いか)有べきと勅問(ちよくもん)せさせ給ふ。是(これ)に依(よつ)て諸宗(しよしう)の碩徳達(せきとくたち)清(せい)
涼殿(りようでん)に居流(ゐながれ)て空海和尚(くうかいおしやう)一人を対人(あひて)にとり。抑(そも〳〵)欽明(きんめい)天皇の御宇(ぎよう)に仏教(ぶつきやう)初(はしめ)て我朝(わがてう)
に渡(わた)り。聖徳太子(しやうとくたいし)隆(さか)んに仏法(ぶつほふ)を弘通(ぐつう)し給ひしより以来(このかた)代々(よゝ)の賢哲(けんてつ)入唐(につとう)渡天(とてん)

し各(おの〳〵)仏法(ぶつほふ)の真理(しんり)を学(まなび)究(きは)め七 宗(しう)の行果(ぎやうくわ)を本朝(ほんてう)に伝(つた)ふといへども。未(いま)だ即身成仏(そくしんじやうぶつ)
の法(ほふ)を説(とき)しを聞ずと銘々(めい〳〵)学力(がくりき)を尽(つく)し弁舌(べんぜつ)浪(なみ)を起(おこし)論難(ろんなん)刃(やいば)を研(とぎ)て法論(ほふろん)しけるに
空海和尚(くうかいおせう)少(すこ)しも屈(くつ)し玉はず。一々 其(その)難問(なんもん)を言解(いひほどき)給ふ事 詞義(しぎ)明(あきらか)にて弁舌(べんぜつ)懸河(けんが)の 
の【衍】ごとく一 言(ごん)半句(はんく)も滞(とゞこふ)りなければ。満座(まんざ)の衆僧(しゆうそう)理(り)に圧(おさ)れて口(くち)を憩(つぐ)み玉簾(ぎよくれん)の
内(うち)に睿聞(ゑいぶん)在(ましま)す帝(みかど)を首(はじめ)奉り並居(なみゐ)る月卿雲客(げつけいうんかく)まで空海和尚(くうかいおせう)の博識(はくしき)名(めい)
弁(べん)を感嘆(かんたん)し満殿(まんでん)少(しば)し寂寥(ひつそ)と静(しづ)まりける。時(とき)に空海和尚(くうかいおせう)は南方(なんはう)に向(むか)ひて契(けい)
印(いん)を結(むすび)真言(しんごん)を誦(じゆ)して秘観(ひくわん)を凝(こら)し給へば肉身(にくしん)忽(たちま)ち毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)の尊容(そんよう)と
変(へん)じて八 葉(よう)の白蓮(びやくれん)の上に坐(ざ)し給ひ白毫(びやくがう)より赫(かく)〱(〳〵)たる光明(かうみやう)を放(はな)し給ふにぞ殿(でん)
中(ちう)さながら▢▢(はり)【玉+波・玉+梨】の妙界(めうかい)のごとく光(ひかり)輝(かゝや)き名香(めいかう)復郁(ふくいく)【馥とあるところ】と薫(くん)じわたりけるゆへ数多(あまた)の
僧綱(そうこう)大いに駭(おどろ)き各(おの〳〵)陛下(かいか)へ走(はし)り下(くだ)り。首(かうべ)を低(たれ)身(み)を平伏(ひれふし)て敬礼(けうらい)し。帝(みかど)を先とし奉り
並居(なみゐ)る諸卿(しよけう)も思(おも)はず合掌(がつせう)礼拝(らいはい)ありける。少時(しばらく)ありて空海和尚(くうかいおせう)結(むすび)し印(いん)を

解(とい)て本相(ほんさう)に還(かへ)り再(ふたゝ)び生仏(せうぶつ)無二(むに)の真理(しんり)を説(とき)給ひければ。衆僧(しゆそう)も感伏(かんふく)して即身(そくしん)
頓悟(とんご)の疑(うたがひ)を解(とき)。君(きみ)も御感(ぎよかん)斜(なゝめ)ならず遂(つひ)に真言宗(しんごんしう)流通(るつう)勅免(ちよくめん)の倫旨(りんし)を給(たま)はりけれ
ば空海和尚(くうかいおせう)大に怡(よろこ)び謹(つゝし)んで頂戴(てうだい)し給ひけり。是(これ)より君(きみ)の御信仰(ごしんかう)以前(いぜん)に十 倍(ばい)し
女御(にようご)宮妃(きうひ)諸(しよ)宮方(みやかた)公卿(こうけい)大夫(たいふ)まで真言宗(しんごんしう)を尊(たつと)び袈裟(けさ)衣(ころも)仏具(ぶつぐ)其余(そのほか)財帛(ざいはく)
を寄付(きふ)する人 日夜(にちや)絶間(たへま)なく一 宗(しう)の繁昌(はんぜう)天下の耳目(じもく)を駭(おどろ)かしけり
    東大寺(とうだいじ)蜂怪(はちのくわい)南円堂(なんゑんどう)建立(こんりう)  高野山(かうやさん)開発(かいほつ)伽藍(がらん)造立(ぞうりう)事
南都(なんと)東大寺(とうだいじ)は聖武天皇(せうむてんわう)の御 建立(ごんりう)にて重(おも)き勅願所(ちよくぐわんしよ)なれば。代々(だい〴〵)高徳(かうとく)の僧(そう)を択(えら)み
て別当(べつとう)とせられ寺中(じちう)の学寮(がくれう)に勤学(きんがく)する僧(そう)多(おほ)く天下に双(ならび)なく繁昌(はんぜう)の大 伽藍(がらん)
なりけるに。弘仁(かうにん)二年の比(ころ)大(おほ)いさ四五寸 許(ばかり)なる山蜂(やまばち)幾百(いくひやく)ともしらず出来(いできた)
りて寺中(じちう)の僧俗(そうぞく)を螫(さし)けるにぞ。螫(さゝ)れし者は忽(たちま)ち大いに脹(はれ)て痛疼(うづき)堪(たへ)
がたく総身(そうしん)【惣は譌字】大 熱(ねつ)出(いで)て煩悶(はんもん)し。終(つひ)に死亡(しぼう)に及(およ)ぶ者 数(す)十人にいたれば。諸人(しよにん)肝(きも)

を消(けし)種々(さま〴〵)に追払(おひはら)へども却(かへつ)て其(その)徒(ともがら)に逆(さか)ひて螫(さし)ける程(ほど)に。もてあまして逃(にげ)
退(しりぞ)き。家(いへ)に引籠(ひきこも)【篭は略字】り昼(ひる)は出(いづ)る事なく夜(よる)のみ出(いで)て諸用(しよよう)を弁(べん)じけるに。後(のち)に
は家々(いへ〳〵)に乱(みだ)れ入(いり)て螫(さし)けるゆへ。今は蜂(はち)を防(ふせ)ぐべき術(じゆつ)なく僧俗(そうぞく)とも寺中(じちう)を
逃去(にげさつ)【迯は俗字】て他所(たしよ)に移住(うつりすみ)。邂逅(たまさか)じ寺法(じほふ)を守(まも)る僧(そう)は命(いのち)を拋(なげうつ)て残(のこ)り留(とゞ)まるといへ
ども。それさへ蜂の害(がい)を防(ふせ)ぎかね学業(がくぎやう)漸(よふや)く癈(すた)れて法脈(ほふみやく)まさに絶(たへ)なん
としけるにぞ。皆(みな)此寺(このてら)衰滅(すいめつ)すべき大 魔縁(まえん)なりと歎(なげ)きあへり。帝(みかど)其(その)由(よし)を聞(きこ)
召(しめし)て宸襟(しんきん)安(やす)からず。空海和尚(くうかいおせう)を召(めさ)れて。你(なんじ)東大寺(とうだいじ)に移(うつ)り住(すみ)て悪虫(あくちう)の
災害(わざはひ)を退(しりぞ)け候へとて。即(すなは)ち東大寺(とうだいじ)の別当(べつとう)に任(にん)じ給ひけり。是(これ)に依(よつ)て空海和(くうかいお)
尚(せう)東大寺(とうだいじ)にいたりて住(すみ)給ひければ。不思議(ふしぎ)なるかなさしも夥(おびたゝ)しく群(むらが)り出(いで)し
大 蜂(ばち)一 疋(ひき)も出(いづ)る事なく。蜂(はち)の禍(わざは)ひ忽(たちま)ちに止(やみ)けるにぞ。諸人(しよにん)奇異(きい)の思(おも)ひをな
し。是(これ)ひとへに空海和尚(くうかいおせう)の法威(ほふい)によるところなりと感(かん)じ退散(たいさん)せし僧俗(そうぞく)

また寺中(じちう)へ還(かへ)り住(すみ)けり空海和尚(くうかいおせう)東大寺(とうだいじ)に住職(ぢうしよく)の間(あいだ)に種々(しゆ〴〵)の法事(ほふじ)を定(さだ)
め置(おき)給ひけり。今の西室(にしむろ)南院(なんいん)等(とう)其(その)旧跡(きうせき)なり。茲(こゝ)に大職冠(たいしよくくわん)鎌足(かまたり)公(こう)の裔孫(えいそん)に
左近衛大将(さこんゑのだいせう)正四 位(ゐ)藤原冬嗣(ふぢはらのふゆつぐ)公(こう)と申は。空海和尚(くうかいおせう)の道徳(どうとく)を崇(たつと)び師檀(しだん)の
契(ちぎ)り浅(あさ)からざりしが。興福寺(かうぶくじ)は淡海(たんかい)公(こう)の建立(こんりう)にて藤原(ふぢはら)の氏寺(うじでら)と定(さだ)められ
たれば。猶(なを)も家門(かもん)繁栄(はんゑい)の為(ため)にとて空海和尚(くうかいおせう)と相議(あひはか)り弘仁(かうにん)四年 興福寺(かうぶくし)
の寺中(じちう)に地(ち)を見立(みたて)八 角(かく)の円堂(ゑんどう)を営(いとな)み建(たて)空海和尚(くうかいおせう)直作(じきさく)の三 目(もく)六 臂(ひ)不(ふ)
空羂索(くうけんさく)の観音(くわんおん)の像(ぞう)を安置(あんち)して修行(しゆぎやう)持念(じねん)せられける。今の南円堂(なんゑんどう)是(これ)也
右の南円堂(なんゑんどう)修造(しゆぞう)のうち人夫(にんぶ)の中に一人の老翁(らうおう)有(あり)けるが一 首(しゆ)の歌(うた)を詠(えい)ず
  補陀洛(ふだらく)のみかみの岸(きし)に堂(どう)たてゝ今ぞ栄(さか)へん北(きた)の藤波(ふぢなみ)
とよみ其後(そのゝち)行方(ゆきがた)しらず成(なり)けり。空海和尚(くうかいおせう)冬嗣(ふゆつぐ)公(こう)に語(かた)りて。件(くだん)の翁(おきな)は春(かす)
日(が)大 明神(めうじん)かりに姿(すがた)を現(あらは)し藤氏(とうし)の繁昌(はんじやう)すべき義(ぎ)を告(つげ)給ひしなりと

仰(あふ)せけるにぞ冬嗣公(ふゆつぐこう)大いに喜悦(きゑつ)ありて春日明神(かすがめうじん)へ幣(みてぐら)を捧(さゝ)げ神恩(しんおん)を謝(しや)し
給ひけるが。果(はた)して子孫繁昌(しそんはんじやう)し家門(かもん)富栄(とみさかへ)けるぞ芽出度(めでた)かりける。去程(さるほど)
に空海和尚(くうかいおせう)は祈願(きぐわん)の如(ごと)く真言宗(しんごんしう)天下に流通(るつう)しければ望(のぞ)み足(たん)ぬと歓(よろこび)玉ふ
事 限(かぎ)りなく。其(それ)に就(つき)ても帰朝(きてう)の砌(みぎ)り船中(せんちう)にて難風(なんふう)に遭(あひ)伽藍(がらん)を建立(こんりう)せん
と誓(ちか)ひ。三 股杵(こしよ)を拋(なげう)ちし事を昼夜(ちうや)忘(わす)れ玉はずといへども弘法(ぐほふ)の繁務(はんむ)に
暇(いとま)なく空(むな)しく数年(すねん)を過(すご)し給ひけるに。今 已(すで)に宗派(しうは)成就(じやうじゆ)しければ。いでや彼(かの)宝(ほう)
器(き)の留(とゞ)まる地(ち)を尋(たづね)んと。畿内(きない)近国(きんごく)を経歴(けいれき)し給ひけるに。大和国(やまとのくに)宇智郡(うちこほり)に於(おい)
て一人の猟夫(かりうど)に往逢(ゆきあひ)給ひ其(その)人表(ひとがら)を見給ふに骨相(ほねぐみ)異形(ことやう)にて尋常(よのつね)ならず身(みの)
材(たけ)高(たか)く筋骨(きんこつ)逞(たくま)しく。面色(おもてのいろ)黒(くろ)く両眼(りようがん)尖(するど)く光(ひか)り身(み)に藤織(ふぢおり)の衣(ころも)を着(ちやく)し脚(あし)
に革袴(かはばかま)をはきて。太刀(たち)を帯(さし)弓矢(ゆみや)を手挟(てばさ)み黒白(こくびやく)二 疋(ひき)の猟狗(かりいぬ)を率(ひき)たり。空海(くうかい)
師(し)御 覧(らん)じて猟夫(れうし)に対(むか)ひ。其許(そのもと)には旦夕(あけくれ)深山幽谷(しんざんゆうこく)を馳廻(はせめぐ)り山々(やま〳〵)峯々(みね〳〵)の案内(あんない)

よく知(しり)つらめ。我(われ)は釈空海(しやくのくうかい)とて霊場(れいぢよう)を求(もと)め伽藍(がらん)を造立(ぞうりう)すべき大 願(ぐわん)あり。もし近(きん)
国(ごく)に然(しかる)べき霊山(れいざん)あらば教(をしへ)くれられ候へと仰(あふせ)ければ。猟夫(かりうど)答(こたへ)て曰(いはく)。仰(あふせ)のごとく我(われ)は紀伊(きの)
国(くに)の猟夫(かりうど)にて此(この)年来(としごろ)近国(きんごく)遠国(ゑんごく)の高山(かうざん)深山(しんざん)分(わけ)登(のぼ)らざる所(ところ)もなく候。其中(そのなか)に最上(さいじやう)
の名山(めいざん)の候。所(ところ)は紀伊国(きのくに)伊都郡(いとごほり)の南(みんなみ)に当(あたつ)て。三 面(めん)に山 列(つらな)り巽(たつみ)に開(ひら)けて一 流(りう)の渓水(たにみづ)東(ひがし)
に流(なか)れ。峰(みね)聳(そびへ)渓(たに)深(ふか)けれども。羊腸(さかみち)さのみ嶮岨(けんそ)ならず諸虫(しよちう)人を螫(さゝ)ず猛獣(もうじふ)人を
害(がい)せず。絶頂(ぜつてう)にいたれば広々(くわう〳〵)たる平地(へいち)ありて白日(ひる)は紫(むらさき)の雲(くも)靉靆(たなびき)夜陰(よる)は霊光(れいくわう)四(よ)
方(も)に耀(かゝや)けり。伽藍(がらん)を。建立(こんりう)し玉ふには誠(まこと)に究竟(くつけう)の名山(めいざん)なり和尚(おせう)もし彼山(かのやま)を開(ひら)き伽(が)
藍(らん)を造立(ぞうりう)あらば恐(おそ)らくは日本(につほん)第一(だいゝち)の仏場(ぶつぢよう)となり候べし。我(われ)もまた多年(たねん)殺生(せつせう)せし
滅罪(つみほろぼし)のため一臂(いつひ)の力(ちから)を助(たす)けまさん。さもあれ和尚(おせう)は彼地(かのち)の案内(あんない)を知(しり)給ふまじければ。我(わが)
此(この)二 疋(ひき)の犬(いぬ)を貸(かし)まゐらすべし。此犬(このいぬ)よく山路(やまぢ)の導引(あんない)をしり候へば。率連(ひきつれ)給へとて猟(かり)
狗(いぬ)を貸(かし)けるにぞ。空海師(くうかいし)深(ふか)く怡(よろこ)び給ひ厚(あつ)く礼謝(れいしや)を述(のべ)て犬(いぬ)を借(かり)給ひければ猟夫(かりうど)は

【右丁】
清滝川(きよたきがは)を隔(へだて)て             《割書:此壱葉》
 空海(くうかい)額(がく)の                柳川重信画
  文字(もんじ)を書(しよ)ス

【左丁 絵画のみ】

再会(さいくわい)を約(やく)して別去(わかれさり)けり。空海師(くうかいし)はそれより二 疋(ひき)の狗(いぬ)を先(さき)に立(たて)て犬(いぬ)の生方(ゆくかた)へ歩往(あゆみゆき)給ふ
に両狗(ふたつのいぬ)は野(の)を過(すぎ)里(さと)を越(こえ)山を分(わけ)渓(たに)を廻(めぐ)り遂(つひ)に一 座(ざ)の高山(かうざん)へ登(のほ)り平 原(げん)の地(ち)に脚(あし)を
止(とゞ)めけり。空海師(くうかいし)犬(いぬ)の挙動(ふるまひ)を感(かん)じ給ひ実(げに)も猟男(さつを)の言(いひ)し如(ごと)く。畜生(ちくせう)ながら山路(やまぢ)に
馴(なれ)てかゝる高山(かうざん)の路(みち)をよく知(しり)けるぞ殊勝(しゆしやう)なれとて。二 疋(ひき)の犬(いぬ)を賞(せう)し。偖(さて)山中(さんちう)の四方(よも)
を眺望(てうぼう)し給ふに。実(げに)猟夫(れうし)が申せしごとく葱嶺(そうれい)銀漢(ぎんかん)をさしはさんで白峯(はくほう)碧落(へきらく)につ
けり。東西(とうざい)は龍(りよう)の臥(ふせ)るが如(ごと)く南北(なんほく)は虎(とら)の踞(うづくま)るに似(に)て。浮査(ふさ)に乗(のら)ざれども忽(たちま)ちに天河(てんが)に
入。仙薬(せんやく)を嘗(なめ)ざれとも暗(あん)に神窟(しんくつ)を見る心地(こゝち)し。峰(みね)の松風(まつかぜ)は煩悩(ぼんのふ)の塵(ちり)をはらひ。林(はやし)
の鳥(とりの)声(こゑ)は无明(むめう)の睡(ねむり)を覚(さま)し。真(まこと)に修禅(しゆぜん)相応(さうおう)の霊地(れいち)。仏法(ぶつほふ)弘通(ぐづう)の聖跡(せいせき)此地(このち)に勝(まさ)
る所(ところ)や有(ある)べきとて。只管(ひたすら)嘆美(たんひ)し給ひ。ほとりの巌(いはほ)に目標(めじるし)のため一 字(じ)の秘符(ひふ)を印(かき)
書(つけ)此上(このうへ)は都(みやこ)へ上(のぼ)り当山(とうざん)開基(かいき)の義(ぎ)を願(ねが)はんとて下山(げさん)し給ふに。二 疋(ひき)の犬(いぬ)は何地(いづち)行(ゆき)けん
影(かげ)だも見えず。是(これ)また不思議(ふしぎ)の事(こと)かなと心中(しんちう)訝(いぶか)り給ひながら。山を下(くだ)りて都(みやこ)へ還(かへ)り

上(のぼり)給ひ弘仁(かうにん)七年六月十七日 表(へう)を奉(たてまつ)りて紀伊国(きいのくに)伊都郡(いとこほり)の南(みなみ)の山を入定(にふでう)の地(ち)に下(くだ)し給(たま)
はらん事を願(ねがい)給ひけるに。天聴(てんてう)滞(とゞこふ)りなく七月八日 勅許(ちよくきよ)の宣旨(せんじ)を下(くだ)し給はりけり。是(これ)に
依(よつ)て空海和尚(くうかいおせう)徒弟(とてい)泰範(たいはん)。実恵(じつゑ)等(とう)を従(したが)へて彼(かの)山(やま)に赴(おもむ)き官符(くわんふ)を以(もつ)て人夫(にんぶ)を募(つの)
り山を開(ひら)かせらるゝに。以前(いぜん)の猟夫(れうし)も来(きた)りて人夫(にんぶ)とともに草(くさ)を苅(かり)樹(き)を伐(きり)。土(つち)をならし石(いし)を
運(はこ)びて夫力(ぶりき)を助(たす)けければ。空海和尚(くうかいおせう)其(その)労(らう)を謝(しや)し且(かつ)霊地(れいち)を指示(さししめ)したる礼謝(れいしや)を述(のべ)
給ふに猟師(れうし)も当山(とうざん)開発(かいほつ)の義(ぎ)を悦(よろこ)び黄昏(たそかれ)におよびて別(わかれ)を告(つげ)去(さり)けるが。其夜(そのよ)空海(くうかい)
和尚(おせう)の夢(ゆめ)に件(くだん)の猟夫(れうし)有(あり)し姿(すがた)に引(ひき)かへて衣冠(いくわん)正(たゞ)しく威儀(いぎ)刷(かいつくろ)ひて出現(しゆつげん)あり。空海和(くうかいお)
尚(せう)に向(むか)ひ。善哉(よきかな)々々(〳〵)師。信力(しんりき)堅固(けんご)に仏法(ぶつほふ)弘通(ぐづう)あるがゆへ。我(われ)仮(かり)に猟夫(れうし)の姿(すがた)となりて此(この)
霊山(れいざん)を教示(をしへしめ)したり真(まこと)は此山(このやま)の梺(ふもと)天野(あまの)に鎮座(ちんざ)ある丹生津比咩命(にふつひめのみこと)の子(こ)高野明神(かうやめうじん)
なりと告(つげ)給ひ光(ひかり)を放(はなつ)て立去(たちさり)給ふと見て夢(ゆめ)覚(さめ)ければ。空海師(くうかいし)感涙(かんるい)に衣(ころも)の袖(そで)を沾(ぬら)し
給ひ。さればこそ彼(かの)猟夫(りやうし)は凡人(ぼんにん)ならじと思(おも)ひけるに果(はた)して。此(この)山の守護神(しゆごじん)にて在(ましま)しけり迚(とて)

其(その)跡(あと)を礼拝(らいはい)し神恩(しんおん)を謝(しや)し給ひ。是(これ)より山を高野山(かうやさん)と号(なづ)け南山(なんざん)に一 社(しや)を立(たて)て高(かう)
野大明神(やだいめうじん)を鎮(しづめ)祭(まつ)り。又 麓(ふもと)の天野(あまの)に丹生津姫命(にふつひめのみこと)を鎮(しづめ)祭(まつ)り給ひ。倶(とも)に高野山(かうやさん)の鎮(ちん)
守(じゆ)の神(かみ)と崇(あがめ)給ひけり。然(しか)るに又 不思議(ふしぎ)なるは山中(さんちう)を切(きり)払(はら)はせられける樹木(じゆもく)の中に一 株(ちう)
の松(まつ)ありて。先年(せんねん)帰朝(きてう)の節(せつ)拋(なげう)ち給ひし龍猛菩薩(りうみやうぼさつ)伝来(でんらい)の三鈷(さんこ)儼然(げんぜん)として懸(かゝ)
りけり。空海和尚(くうかいおせう)是(これ)を見給ひて愕然(がくぜん)とし感涙(かんるい)にむせ給ひ。偖(さて)は此(この)霊器(れいき)疾(とく)より此(この)山
に留(とゞま)り伽藍(がらん)を建(たつ)べき地(ち)を卜(しめ)給ふにこそ。彼(かの)高野明神(かうやめうじん)猟夫(れうし)と化(け)して我(われ)に此(この)山を指(さし)
教(をしへ)給ひし時(とき)昼(ひる)は紫雲(しうん)たなびき夜(よる)は霊光(れいかう)耀(かゝや)けりと告(つげ)給ひしも此(この)霊器(れいき)のある
奇特(きどく)にていよ〳〵秘教(ひきやう)相応(さうおう)の霊地(れいち)なる事 是(これ)を以(もつ)てしるべしとて歓喜(くわんぎ)踊躍(ゆやく)に
堪(たへ)玉はず。三 股杵(こしよ)を取(とつ)て三度(みたび)押(おし)頂(いたゞ)き給ひけり。即(すなは)ち今 猶(なを)高野山(かうやさん)の宝蔵(ほうざう)に納(おさま)り。松(まつ)は
三 鈷(こ)の松(まつ)と号(がう)して今の世(よ)までも繁茂(はんも)せり。斯(かく)て草菴(さうあん)成就(じやうじゆ)しければ空海和尚(くうかいおせう)大に
怡(よろこ)び給ひ。是(これ)より都(みやこ)の法務(ほふむ)の暇(いとま)ある時(とき)は高野山(かうやさん)の菴室(あんじつ)に住(すみ)て行(おこな)ひ澄(すま)し給ひけり

其後(そのゝち)弘仁(かうにん)十年 嵯峨天皇(さがてんわう)御悩(ごのふ)に染(そみ)給ひければ医官(いくわん)の面々(めん〳〵)肺肝(はいかん)をくだき良方(りようはう)を考(かんがへ)【別本による】
て御薬(みくすり)を勧(すゝ)め奉(たてまつ)りけれども更(さら)に其(その)験(しるし)なかりければ。空海和尚(くうかいおせう)を召(めさ)れて加持(かぢ)させ給ふ
に立所(たちどころ)に御悩(ごのふ)平痊(へいゆ)在(ましま)しけり。是(これ)に依(よつ)て睿感(ゑいかん)斜(なゝめ)ならず其(その)御恩賞(ごおんせう)として高野(かうや)
山(さん)の伽藍(がらん)を速(すみやか)に建立(こんりう)し得(え)さすべしと勅詔(ちよくぜう)を下(くだ)し給ひけるにより。諸卿(しよけう)倫命(りんめい)【綸命とあるところ】を奉(うけ給)
はり番匠(ばんじやう)冶工(やかう)数百人(すひやくにん)の人夫(にんぶ)をさし遣(つか)はし奉行(ぶぎやう)頭人(とうにん)諸(しよ)職人(しよくにん)を励(はげま)し昼夜(ちうや)を捨(すて)ず
堂舎(どうしや)の経営(けいえい)を急(いそ)がしけるゆへ工匠(かうしやう)業(ぎやう)をはげみ堂塔(どうとふ)楼閣(ろうかく)房舎(ばうしや)にいたる迄(まで)玉(たま)を磨(みが)
きて造営(ざうえい)し。空海和尚(くうかいおせう)の指揮(さしづ)に従(したが)ひ南天竺(なんてんぢく)の鉄塔(てつとふ)に擬(ぎ)して高(たか)さ十六丈の多(た)
宝(ほう)の浮屠(とふ)【「ふと」の誤記】を建(たて)ける。されば一層(いつそう)の甍(いらか)は霞(かすみの)中(うち)に輝(かゝや)き。九重(くぢう)の輪(りん)は雲外(うんぐわい)に鮮(あざやか)か【衍】なり塔(とふ)
の中(なか)には一丈四尺の大日如来(だいにちによらい)の仏像(ぶつぞう)を安置(あんち)し其余(そのほか)八尺五寸の菩薩(ぼさつ)の像(ぞう)四軀(しく)を居置(すえおき)
猶(なを)また山の奥(おく)深(ふか)く入て一 院(いん)を建(たて)入定(にふでう)の室(むろ)と定(さだ)め給ふ。今の奥(おく)の院(いん)の御 影堂(えいどう)是(これ)也(なり)
凡(およそ)高野山(かうやさん)開発(かいほつ)は弘仁(かうにん)七年七月より山を開(ひら)かれ同(おなじ)く十年の夏(なつ)仏閣(ぶつかく)僧坊(そうばう)鐘楼(しゆろう)鼓(こ)【皷は俗字】

楼(ろう)大塔(だいとふ)山門(さんもん)にいたるまで尽(こと〴〵)く成就(しやうじゆ)しければ。同年(どうねん)五月三日 落慶(らくけい)の法事(ほふじ)を執行(とりおこな)はれ
高野山金剛峯寺(かうやさんこんがうぶじ)と号(がう)し日本第一(につほんだいゝち)の名刹(めいさつ)と成(なれ)り。誠(まこと)に一 度(ど)参詣(さんけい)する輩(ともがら)は十 悪(あく)五
逆(ぎやく)の罪(つみ)も滅(めつ)し三 悪道(あくどう)の苦患(くげん)を免(まぬか)れ成仏(じやうぶつ)得脱(とくだつ)する事 疑(うたが)ひなしとかや
 因(ちなみ)に曰 高野山(かうやさん)の伽藍(がらん)修造(しゆそう)のせつ地(ち)を堀(ほり)平(たいら)げしとき一ツの石龕(せきがん)を掘出(ほりいだ)し内(うち)を
 撿(あらた)め見られしに長(ながさ)五尺 幅(はゞ)一寸八 歩(ぶ)の宝剣(ほうけん)を蔵(おさめ)たり。空海和尚(くうかいおせう)是(これ)を得(え)て深(ふか)く
 感駭(かんがい)し給ひ。此(この)山 素(もとよ)り古仙(こせん)の遊(あそび)し所(ところ)なる事 此(この)宝剣(ほうけん)を以(もつ)て知(しる)べしとて剣(けん)を
 秘蔵(ひさう)し給ひけり。後年(こんねん)【ママ】勅命(ちよくめい)に依(よつ)て天覧(てんらん)に備(そなへ)られしに。其儘(そのまゝ)朝廷(てうてい)に留(とめ)置(おか)せ給ひける
 然(しかる)に頻(しきり)に怪異(けい)の事 打続(うちつゞき)ければ博士(はかせ)に占(うらな)はせ給ひしに。高野山(かうやさん)の剣(けん)【劔は俗字】の祟(たゝり)なるよし
 奏聞(そうもん)申けるゆへ銅(あかゞね)の筒(つゝ)に納(おさ)め旧(もと)のごとく高野山(かうやさん)へ返(かへ)し給ひしと《割書:云| 云》
    《振り仮名:東寺賜_二空海_一西寺賜_二守敏_一|とうじをくうかいにたまひさいじをしゆびんにたまふ》  空海(くうかい)守敏(しゆびん)法力(ほふりき)優劣(ゆうれつの)条(くだり)
弘仁(かうにん)十四年正月 大納言(だいなごん)正(せう)三 位(ゐ)兼(けん)右近衛(うこんゑ)良房(よしふさ)を以(もつ)て空海和尚(くうかいおせう)に洛(らく)の東寺(とうじ)を給(たま)

はりけり。同時(どうじ)に南都(なんと)の守敏僧都(しゆびんそうづ)に洛(らく)の西寺(さいじ)を給(たま)はり抑(そも〳〵)東寺(とうじ)西寺(さいじ)は古(いにしへ)の鴻(かう)
臚館(ろくわん)【舘は俗字】にて唐土(もろこし)より来朝(らいてう)する使者(ししや)を侍饗(もてなし)する旅館(りよくわん)【舘は俗字】なりけるを桓武天(くわんむてん)
皇(わう)の御宇(ぎよう)に寺(てら)となし給ひて東寺(とうじ)西寺(さいじ)と号(なづけ)られたり。是(これ)平城(なら)の東大寺(とうだいじ)西大(さいだい)
寺(じ)に准(じゆん)ぜられしなり。空海和尚(くうかいおせう)東寺(とうじ)を拝領(はいりやう)ありて則(すなは)ち寺中(じちう)に灌頂院(くわんてういん)を建(たて)
て唐土(とうど)の青龍寺(せいりうじ)の法式(ほふしき)に効(なら)ひ毎歳(まいさい)二序(にじよ)灌頂(くわんでう)の法事(ほふじ)を執行(とりおこな)はれ恵果(ゑくわ)
禅師(ぜんじ)より付嘱(ふぞく)せられたる健陀国(けんだこく)の穀子(こくし)の袈裟(けさ)同(おなじ)く念珠(ねんじゆ)唐帝(とうてい)より拝受(はいじゆ)の
珠数(じゆず)唐土(とうど)より請来(しやうらい)の一百 余部(よぶ)の金剛乗(こんがうでう)の法文(ほふもん)三 国(ごく)相承(さうぜう)の仏舎利(ぶつしやり)仏像(ぶつぞう)
等(とう)を尽(こと〴〵)く大経蔵(たいきやうざう)に納(おさ)め永(なが)く当寺(とうじ)の什宝(ぢうほう)とぞせられける。凡(およそ)真言(しんごん)三 部(ぶ)の秘経(ひきやう)
の中(なか)に東寺(とうじ)は金剛頂経(こんがうてうけう)《割書:金剛頂経を|教王経とも云》の道場(どうぢよう)となして専(もつぱ)ら金剛界(こんがうかい)の法(ほふ)を修(しゆ)し
秘密(ひみつ)曼荼羅(まんだら)および。空海和尚(くうかいおせう)自作(じさく)の仏像(ぶつぞう)二十一 軀(く)を安置(あんち)し給ふ。かるがゆへに
秘密(ひみつ)伝法(でんほふ)弥勒山(みろくざん)【勤は誤】普賢(ふげん)惣持院(そうじいん)金光明(こんこうめう)四天王(してんわう)教主(けうしゆ)護国寺(ごこくじ)と号(がう)せられける

是(これ)より空海和尚(くうかいおせう)は一時(あるとき)は高雄(たかを)に住(ぢう)し。一時(あるとき)は高野山(かうやさん)に行(おこな)ひ。一時(あるとき)は東寺(とうじ)に在(いまし)て。弟子(でし)
を導(みちび)き衆生(しゆぜう)を化益(けやく)し給ひけり。是(こ)【別本による】は且(しばら)くおいて空海和尚(くうかいおせう)と同時に西寺(さいじ)を給(たま)はりたる
守敏僧都(しゆびんそうづ)も法力(ほふりき)勝(すぐ)れし知識(ちしき)なりければ。嵯峨天皇(さがてんわう)常(つね)に宮中(きうちう)へ召(めさ)れ経論(けうろん)を講(かう)
ぜさせて御聴聞(ごてうもん)遊(あそば)され空海和尚(くうかいおせう)に劣(おとら)ず御 皈依(きえ)在(あり)けるが一時(あるとき)御手(おんて)を浄(きよめ)給はん
とて湯(ゆ)を召(め)させ給ひしに殊(こと)の外(ほか)の沸湯(ふつたう)にて余(あま)り熱(あつ)かりければ。御 手(て)をさし兼(かね)給ふ
折(をり)しも。守敏僧都(しゆびんそうづ)参内(さんだい)して御前(ごぜん)に居合(ゐあは)され此体(このてい)を見て袖(そで)の中(うち)に灑水(しやすい)の印(いん)を結(むすば)
れけるにぞ。さしもの熱湯(あつゆ)忽(たちま)ち冷水(れいすい)となりける。帝(みかど)駭(おどろ)かせ給ひ。是(こ)は何(いか)なるゆへぞと
御 不審(ふしん)ありける時(とき)守敏(しゆびん)完示(につこ)【ママ 注】とわらひ。御 湯(ゆ)のあまりに熱(あつ)く見えさせ給ひしゆへ拙(せつ)
僧(そう)水印(すいいん)を以(もつ)て冷(ひや)し奉り候なりと奏(そう)せられける。帝(みかど)大いに感(かん)じ給ひ法力(ほふりき)の勝(すぐれ)たるを
御 賞美(せうび)在(ましま)しけり。其後(そのゝち)また一時(あるとき)守敏(しゆびん)参内(さんだい)せられけるに。時(とき)しも極寒(ごくかん)の節(せつ)にて
其日(そのひ)は殊更(ことさら)寒気(かんき)厳(きび)しかりければ。御 火鉢(ひばち)を多(おほ)く召寄(めしよせ)給ひ御座(ござ)の四隅(よすみ)に置(おか)せ

【注 「莞爾」或は「莞尓」とあるところ】

給ひて守敏(しゆびん)と御 物語(ものがたり)なし給ふに大なる火鉢(ひばち)に炭(すみ)を山のごとく積(つみ)たるを数多(あまた)並(ならべ)
おきたれば。火気(くわき)熾(さか)んにて恰(あたか)も五六月の暑気(しよき)のごとく。帝(みかど)御 額(ひたへ)に汗(あせ)を流(なが)し給ひ
守敏(しゆびん)に向(むか)はせ給ひて。此(この)火気(くわき)をも鎮(しづめ)る法(ほふ)やあると勅問(ちよくもん)ありけるに。僧都(そうづ)答(こたへ)て。いと
易(やす)き御 事(こと)にて候。即時(そくじ)に火気(くわき)を鎮(しづめ)候はんとて。例(れい)のごとく袖中(そでのうち)にて又 水印(すいいん)を結(むすび)けれ
ば。今まで烈々(れつ〳〵)と燃(おこり)立(たち)し紅炭(かうたん)皆(みな)消然(せうぜん)として一 同(ど)に冷炭(れいたん)となり忽(たちま)ち火気(くわき)散(さん)
じて旧(もと)の寒冷(かんれい)とぞなりにける。帝(みかど)甚(はな)はだ睿感(ゑいかん)在(ましま)し。守敏(しゆびん)の法力(ほふりき)を御 賞美(せうび)ありて
数々(かづ〳〵)の被物(かつけもの)を給(たま)はり弥(いよ〳〵)御 皈依(きえ)在(ましま)しけり。然(しかる)に其(その)翌日(よくじつ)空海和尚(くうかいおせう)参内(さんだい)ありて御(ぎよ)
簾(れん)間近(まぢか)く伺候(しかう)せられければ。帝(みかど)平日(つね)のごとく四方八方(よもやま)の御 物語(ものがたり)のはしに。守敏僧都(しゆびんそうづ)
が両度(りようど)法力(ほふりき)を顕(あらは)せし義(ぎ)を語(かたら)せ給ひけるに。空海和尚(くうかいおせう)微笑(びせう)し。仏道(ぶつどう)を修行(しゆぎやう)し候
者(もの)左程(さほど)の義(ぎ)は奇(き)とするに足(たり)候はず。只(たゞ)小児(せうに)の戯(たはむれ)にひとしき事に候。遮莫(さもあれ)空海(くうかい)御 殿(でん)
中(ちう)に侍(さふら)はゞ守敏(しゆびん)といへども其(その)法力(ほふりき)は施(ほどこ)され候まじと申されけるゆへ。帝(みかど)御心(みこゝろ)に疑(うたが)はせ給ひ

空海(くうかい)が殿中(でんちう)に在(あれ)ばとて守敏(しゆびん)の法力(ほふりき)の行(おこな)はれざる事(こと)や有(ある)べき。此上(このうへ)は両僧(りようそう)が法力(ほふりき)
の勝劣(しやうれつ)を試(ため)し見んと思召(おぼしめし)空海(くうかい)に向(むか)ひ給ひ。然(さら)ば和僧(わそう)は彼所(かしこ)の簾内(れんない)に隠(かくれ)てうかゞ
ひ候へ。守敏(しゆびん)を召寄(めしよせ)て法力(ほふりき)を施(ほどこ)さしめんと詔(みことのり)ありて。即剋(そくこく)【尅は俗字】宦人(くわんにん)に命(めい)じ給ひ守敏僧(しゆびんそう)
都(づ)をぞ召(めさ)れける。是(これ)に依(よつ)て空海和尚(くうかいおせう)は側(かたへ)の御簾(みす)の内(うち)に身(み)を隠(かく)して守敏(しゆびん)の参内(さんだい)
あるを待(まち)給ふに。時(とき)計(ばかり)ありて守敏僧都(しゆびんそうづ)参内(さんだい)せられければ。帝(みかど)は詳(わざ)と是(これ)を知召(しろしめさ)ぬ御
風情(ふぜい)にて浄手(てうづ)の湯(ゆ)を持(もて)よと宣(のたま)ふに。兼(かね)て内勅(ないちよく)を奉(うけたま)はりし内侍典(ないしのすけ)角盥(つのだらひ)に湯玉(ゆだま)の
立(たつ)ばかりの熱湯(にえゆ)を汲湛(くみたゝへ)て捧(さゝ)げ出(いで)君(きみ)の御前(ごぜん)へさし上ければ。帝(みかど)御覧(ごらん)じ。是(こ)は殊(こと)の
外(ほか)湯(ゆ)の熱(あつ)きぞと宣(のたま)ひながら守敏(しゆびん)を御覧(みそなはし)給ひ。和僧(わそう)は何時(いつ)のほどに来(きた)りしや。幸(さひはひ)の
折(をり)からなり。此湯(このゆ)を冷(さま)し得(え)させよと勅(ちよく)し給ふ。僧都(そうづ)唯(はつ)と領掌(れうぜう)し袖(そで)の中(うち)に水印(みづのいん)を結(むすび)
けれども更(さら)に湯(ゆ)は冷(さめ)ざりけり。守敏(しゆびん)是(こ)は如何(いかに)とて。再(ふたゝ)び咒語(じゆご)を唱(とな)へ印(いん)を結(むすび)なをせども
尚(なを)少(すこ)しも冷(さめ)ざれば。帝(みかど)局(つぼね)を召(めし)て水(みづ)を入させ給ひて御 手(て)を浄(きよ)め給ひ。又 昨日(きのふ)のごとく火鉢(ひばち)

に紅炭(すみび)を堆(うずた)かく積(つみ)たるを数多(あまた)召寄(めしよせ)給ひ玉座(ぎよくざ)の両辺(ほとり)に置(おか)せて守敏(しゆびん)と御 物語(ものがたり)在(ある)
うち火気(くわき)宮中(きうちう)に充(みち)て帝(みかど)御 額(ひたへ)に汗(あせ)を流(なが)し給ふにぞ。守敏(しゆびん)先(さき)にも懲(こり)ず又 袖中(そでのみち)【「うち」の誤ヵ】水(すい)
印(いん)を結(むすび)けれども火気(くわき)消(せう)せず倍(ます〳〵)熾(さか)んになりけるにぞ。守敏(しゆびん)は二 度(ど)の不覚(ふかく)に心中(しんちう)安(やす)から
ず是(こ)は何(いか)なるゆへにやと。我(われ)ながら不審(ふしん)晴(はれ)やらず忙然(ぼうぜん)として惘果(あきれはて)【忄+岡は誤記】ける時(とき)しも。側(かたへ)の翠(み)
簾(す)の内(うち)より空海和尚(くうかいおせう)従容(じふよう)として立出(たちいで)給ひ守敏(しゆびん)に向(むか)ひて。如何(いかに)や僧都(そうづ)名月(めいげつ)の前(まへ)に
は星辰(せいしん)光(ひかり)を施(ほどこ)しがたしと仰(あふせ)ければ。守敏(しゆびん)大いに赤面(せきめん)し一 言(ごん)も答(こたふ)る事 能(あた)はず。手(て)もち
悪(あし)げに御前(ごぜん)を退出(たいしゆつ)せられけるが。心中(しんちう)には空海和尚(くうかいおせう)を深(ふか)く恨(うら)み。西寺(さいじ)へ帰り(かへり)ても心 怏々(わう〳〵)
として楽(たのしま)ず。何卒(なにとぞ)空海(くうかい)に恥辱(ちじよく)【恥は俗字】を与へ此恨(このうらみ)を晴(はら)さんものと𠹤(しん)怒(ど)の焔(ほむら)に心(むね)を焦(こが)され
ける。是(これ)ぞ両僧(りようそう)遺恨(いこん)の始(はじめ)とはしられけり
    嵯峨天皇(さがてんわう)御譲位(ごじやうゐ)  守敏(しゆびん)空海(くうかい)《振り仮名:祈_レ雨争_二行力_一|あまごひぎやうりきをあらそふ》条
弘仁(かうにん)十四年の夏(なつ)嵯峨(さが)天皇 右大臣(うだいじん)藤原冬嗣(ふぢはらのふゆつぐ)を召(めさ)れ詔(みことのり)し給ひける。朕(ちん)已(すで)に年(とし)老(おひ)

て朝政(てうせい)を聴(きく)に懶(ものう)し。依(よつ)て帝位(ていゐ)を太子(たいし)に譲(ゆづら)んと思(おも)へり。卿(なんじ)よろしく譲位(じやうゐ)の義(ぎ)を執(とり)
はからひ候へと宣(のたま)ひければ。冬嗣公(ふゆつぐこう)謹(つゝし)んで奉(うけたま)はり給ひ古(いにしへ)より聖人(せいじん)は聖人(せいじん)を知(しる)と申せり
今 陛下(へいか)仁徳(じんとく)唐尭(とうげう)にも優(まさ)らせ給ひ。皇太子(くわうたいし)大伴親王(おほともしんわう)また虞舜(ぐしゆん)の聖徳(せいとく)にもおさ
〳〵劣(おとり)玉はざれば万機(ばんき)の政務(まつりごと)を付託(ふだく)させ給ふ事 誠(まこと)に天(あめ)が下(した)の慶幸(よろこび)何事(なにごと)か是(これ)に過(すぎ)候
べき然(しかれ)ども近年(きんねん)諸国(しよこく)凶作(けうさく)続(つゞ)き万民(ばんみん)飢餓(きが)の患(うれひ)に苦(くるし)み候 時節(じせつ)にて候へば。上皇(じやうかう)《割書:平|城》
在(ましま)す上(うへ)に君(きみ)また太上天皇(だじやうてんわう)とならせ玉はゞ。恐(おそ)らくは士民(しみん)の貢物(みつぎもの)嵩(かさみ)て民(たみ)の歎(なげ)きとや成(なり)
候べき。俯(ふし)て願(ねがは)くは今 暫(しばら)く年(とし)の豊熟(ほうじゆく)するを待(また)せ給ひて後(のち)御 譲位(しやうゐ)なし給はゞ万(ばん)
民(みん)の大幸(たいかう)たるべく候。素(もとよ)りいまだ御 衰老(すいらう)と申御 齢(よはひ)にてもわたらせ玉はねば。御 譲位(じやうゐ)
の御事さのみ晩(おそ)しと申にても候まじと啓奏(けいそう)ありけるを。帝(みかど)聞召(きこしめし)卿(なんじ)が諫(いさめ)も一 理(り)有(あり)と
いへども。太子(たいし)の賢明(けんめい)朕(ちん)にはるか勝(まさ)れば。帝位(ていゐ)を伝(つたふ)るは万民(ばんみん)の為(ため)をおもふゆへなり。近年(きんねん)五(ご)
穀(こく)不熟(ふじゆく)なるは朕(ちん)が徳(とく)の薄(うす)きゆへなれば。太子(たいし)位(くらゐ)に即(つか)ば年(とし)豊饒(ぶねう)に皈(き)すべし朕(ちん)が心

已(すで)に決(けつ)せりとて敢(あへ)て諫(いさめ)を用(もち)ひ玉はざれば。冬嗣公(ふゆつぐこう)も此上(このうへ)力(ちから)なしとて。群臣(ぐんしん)に君(きみ)の勅詔(みことのり)を
つたへ遂(つひ)に皇太子(くわうたいし)大伴親王(おほともしんわう)を十 善(ぜん)の宝位(みくらゐ)に即(つけ)奉り人皇(にんわう)五十三代の聖主(せいしゆ)と仰(あふ)ぎ
奉(たてまつ)らる。此君(このきみ)を淳和天皇(じゆんわてんわう)と称(たゝへ)奉れり。即(すなは)ち桓武(くわんむ)天皇 第(だい)三の皇子(みこ)にて御 母(はゝ)は皇太(くわうたい)
后(こう)旅子(たびこ)と申 藤原百川(ふぢはらのもゝかは)の女(むすめ)にて在(ましま)しけり。御 即位(そくゐ)の大礼(たいれい)を執行(とりおこな)はれ平城帝(へいぜいてい)を前(さき)の
太上(だじやう)天皇と申 嵯峨帝(さがてい)を後(いま)の太上(だじやう)天皇と尊号(そんがう)し奉り給ひ。年号(ねんがう)を改(あらた)め天長(てんてう)元(ぐわん)
年(ねん)と改元(かいげん)ありけり。偖(さて)嵯峨(さが)天皇の皇子(わうじ)正良親王(まさよししんわう)を春宮(とうぐう)に立(たて)給ふ。其年(そのとし)の九月
に後(いま)の太上(だじやう)天皇 嵯峨(さが)の離宮(りきう)へ遷(うつ)り玉はんとて中納言(ちうなごん)藤原三守(ふぢはらのみつもり)を以(もつ)て其義(そのぎ)を淳(じゆん)
和(わ)天皇へ奏聞(そうもん)させ給ひければ。新帝(しんてい)勅許(ちよくきよ)在(ましま)し有司(ゆうし)に勅詔(みことのり)を下(くだ)し給ひ宝輦(みくるま)及(およ)び
供奉(ぐぶ)の公卿(くげう)前随(ぜんずい)後従(ごじふ)の武士(ぶし)を定(さだ)め行幸(みゆき)の儀式(ぎしき)厳重(げんぢう)に整(とゝの)へべしと仰出(あふせいだ)され
けるを上皇(じやうかう)固(かた)く御 辞退(じたい)なし給ひければ。主上(しゆじやう)再三(さいさん)勧請(すゝめこひ)給へども承引(うけひき)玉はす。遂(つひ)に
前駈(ぜんく)兵杖(へいぢよう)【仗とあるところ】の儀式(ぎしき)を差止(さしやめ)られ御 馬(むま)に召(めさ)れ供奉(ぐぶ)の宦士(くわんし)少々(せう〳〵)召連(めしつれ)給ひ密(ひそか)に嵯(さ)

峨(が)の離宮(りきう)へ遷(せん)【迁は俗字】幸(かう)なし給ひける。是(これ)ひとへに倹約(けんやく)を民(たみ)に示(しめ)し奢移(おごり)【侈とあるところ】を誡(いまし)め玉はんための
御 事(こと)とぞ聞(きこ)えし。誠(まこと)に難有(ありがたき)聖君(せいくん)にてぞおはしける。斯(かく)て其年(そのとし)も暮(くれ)明(あく)る天長(てんてう)二
年の春(はる)より夏(なつ)にかけ三月(みつき)の間(あいだ)雨(あめ)曽(かつ)て降(ふら)ず。諸国(しよこく)とも旱魃(かんばつ)して農民(のうみん)們(ら)耕種(うえつけ)す
べき水(みづ)の便(たより)を失(うしな)ひ大いに困窮(こんきう)におよびければ淳和(じゆんわ)天皇 宸襟(しんきん)を悩(なやま)し給ひ。群臣(ぐんしん)を
召(めさ)れて御 評議(へうぎ)あり。此上(このうへ)は行徳(ぎやうとく)勝(まさ)れし僧綱(そうかう)に命(めい)じ雨(あめ)を祈(いのら)せよと勅詔(ちよくぜう)在(あり)ける
を西寺(さいじ)の守敏僧都(しゆびんそうづ)早(はや)くも洩聞(もれきゝ)て急(いそ)ぎ参内(さんだい)して奏(そう)しけるは。貧道(ひんどう)守敏(しゆびん)多年(たねん)
身命(しんめい)を拋(なげう)つて仏道(ぶつどう)の奥義(おうぎ)をが学(まな)び究(きは)め。就中(なかんづく)祈雨(あまこひ)の法(ほふ)に熟(じゆく)し候へば。此度(このたび)の祈雨(あまごひ)を
拙僧(せつそう)に命(めい)じ玉はるべしとぞ願(ねがひ)ける。是(これ)空海和尚(くうかいおせう)へ勅命(ちよくめい)の下(くだ)らぬ前(さき)に祈雨(あまごひ)して。雨(あめ)を
降(ふら)して空海師(くうかいし)に鼻(はな)あかせ。先年(せんねん)の遺恨(いこん)を晴(はら)さんとの心 巧(たく)みなり。執奏(しつそう)の公卿(くげう)其旨(そのむね)を
奏聞(そうもん)におよびければ。帝(みかど)も御 信仰(しんかう)の守敏(しゆびん)が願(ねがひ)ゆへ。しからば守敏(しゆびん)に雩法(あまごひ)の義(ぎ)を命(めい)ず
べしとの宣旨(せんじ)を下(くだ)し給へり。守敏(しゆびん)大いに悦(よろこ)び謹(つゝし)んで勅命(ちよくめい)を奉(うけたま)はり。一 七日(しちにち)を出(いで)ず大雨(たいう)を

降(ふら)せ候はんと大言(たいげん)し帝闕(ていけつ)の大庭(おほには)に祈雨(あまごひ)の檀(だん)を構(かま)へ種々(しゆ〴〵)の供物(くもつ)を調(とゝの)へ丹誠(たんせい)を凝(こら)して祈(いの)
りけるに。実(げに)も其(その)詞(ことば)のごとく。七日めの朝(あさ)より密雲(みつうん)四方(よも)に起(おこ)りて洛中(らくちう)闇(くら)き事夜のごとく。雷(らい)
電(でん)鳴(なり)ひらめき大雨(たいう)降出(ふりいだ)し車軸(しやぢく)を流(なが)す如(ごと)くなれば。上(かみ)帝王(ていわう)より下 庶民(しよみん)にいたる迄(まで)其(その)
法力(ほふりき)を感(かん)じあへり斯(かく)て二時(ふたとき)ばかり雨(あめ)降(ふり)て天(そら)霽(はれ)ければ。帝(みかど)有司(ゆうし)に命(めい)じて雨(あめ)の霑(うるほ)す処(ところ)を
撿見(あらためみ)せしめ給ふに。漸(よふや)く東西(とうざい)両京(りようきやう)のみにて近国(きんごく)までは雨(あめ)及(およ)ばされば。有司(ゆうし)の徒(ともがら)立(たち)かへりて
其由(そのよし)をぞ奏(そう)しける。帝(みかど)聞召(きこしめし)斯(かく)ては普(あまね)く耕作(かうさく)を助(たすく)るには足(たり)がたしとて。再(ふたゝ)び空海和尚(くうかいおせう)
へ祈雨(あまごひ)すべしとの宣旨(せんじ)を下されけり。守敏(しゆびん)是(これ)を伝聞(つたへきい)て心中(しんちう)安(やす)からず思(おも)ひ。西寺(さいじ)に於(おい)て
内々 秘法(ひほふ)を修(しゆ)し大に諸(もろ〳〵)の雨龍(うりよう)を一箇(ひとつ)の瓶子(へいし)の中(うち)へ駆籠(かりこめ)【篭は略字】秘符(ひふ)を以(もつ)て封(ふう)じ籠(こめ)再(ふたゝ)び雨(あめ)
の不降(ふらざる)やうに巧(たく)みける嫉妬(しつと)の邪念(じやねん)ぞ恐(おそろ)しき。空海和尚(くうかいおせう)は禁廷(きんてい)より祈雨(あまごひ)すべしとの詔(みこと)
命(のり)を給(たま)はりけるにより。謹(つゝし)んで奉(うけたま)はり給ひ。高弟(かうてい)真雅(しんが)。実恵(じつゑ)。真暁(しんけう)。真然(しんねん)等(とう)を率(ひい)て神泉(しんせん)
苑(えん)に檀(だん)を儲(もう)け。斎戒(さいかい)して身(み)を浄(きよ)め檀上(だんじやう)へ登(のぼり)て肝胆(かんたん)を砕(くだ)き雨(あめ)を祈(いのり)給ふに。何(いか)なるゆへ

にや一七日に満(まん)ずれども一 滴(てき)の雨も降(ふら)ざりければ。大いに訝(いぶか)り給ひ素(もとよ)り天文(てんもん)易術(えきじつ)に達(たつ)し給へ
ば袖中(しゆちう)卦(くわ)を立(たて)天眼通(てんがんつう)の法(ほふ)を以(もつ)て見(み)給ふに雨(あめ)の不降(ふらざる)も理(ことは)り守敏(しゆびん)諸龍(しよりよう)を駆(かつ)て瓶(へい)
中(ちう)に封(ふう)じ籠(こめ)【篭は略字】しゆへなりければ。空海師(くうかいし)守敏(しゆびん)が悪念(あくねん)を憎(にく)み徒弟(とてい)に告(つげ)て曰(のたま)はく。我(われ)丹誠(たんせい)を凝(こら)
し雨(あめ)を祈(いの)れども。雨(あめ)の不降(ふらざる)は守敏法師(しゆびんほふし)其身(そのみ)の修法(しゆほふ)普(あまね)く雨(あめ)を降(ふら)す事 不能(あたはざる)を恥(はぢ)【耻は俗字】
ず却(かへつ)て此(この)空海(くうかい)を妬(ねた)【姤は誤】みて。雨竜(うりょう)を駆(かつ)て封(ふう)じ籠(こめ)雨(あめ)を降(ふら)さじと巧(たく)みたり。昔(むかし)天竺(てんぢく)の一角(いつかく)
仙人(せんにん)も龍神(りうじん)を恨(うら)み瓶中(へいちう)に封(ふう)じ籠(こめ)て世(よ)を旱魃(かんはつ)せしめけるが。美人(びじん)の色(いろ)に眼(まなこ)を奪(うば)はれ
酒(さけ)を盛(もら)れて法力(ほふりき)破(やぶ)れ。却(かへつ)て龍神の為(ため)に祟(たゝり)【崇は誤】を受(うけ)て死(し)せりとかや。守敏(しゆびん)かゝる例(ためし)を知(しり)
ながら一 時(じ)の妬心(としん)より空海(くうかい)に恥辱(ちじよく)【耻は俗字】を取(とら)せんと諸龍(しよりよう)を封(ふう)じて雨(あめ)を止(とゞ)むる偏執(へんしう)の念(ねん)こそ
浅猿(あさまし)けれ。抑(そも〳〵)天子(てんし)恐多(かしこく)も空海(くうかい)をして雨(あめ)を祈(いの)らせ給ふは。敢(あへ)て御 戯(たはふれ)にあらず。天下万民(てんかばんみん)
の困苦(こんく)を救(すく)はせ玉はんとの聖慮(せいりよ)にて在(ましま)すものを。私(わたくし)の遺趣(いしゆ)を以(もつ)て上(かみ)一人より下(しも)億兆(おくてう)
の歎(なげき)を顧(かへり)みざる事 天下(てんか)の罪人(つみんど)仏法(ぶつほふ)の悪魔(あくま)なり。それ天(てん)に向(みかひ)て唾(つ)を吐(はき)天を汚(けが)さんと

欲(ほつ)すとも天(てん)を汚(けが)す事 能(あた)はず。却(かへつ)て其身(そのみ)を汚(けが)すとは将(まさ)に守敏(しゆびん)が謂(いひ)なり。其(その)罪(つみ)己(おのれ)に皈(き)
するのみ。渠(かれ)に龍(りよう)を封(ふう)ずる力あれば我(われ)また雨(あめ)を呼(よぶ)法力(ほふりき)なからずやは。此(この)神泉苑(しんせんえん)の池中(ちゝう)
には善女龍王(ぜんによりうわう)とて阿耨達池(あのくだつち)の龍王の御 女(むすめ)にて。守敏(しゆびん)なんどの行力(ぎやうりき)にては駆(かる)事 能(あた)はず
始(はじめ)より守敏(しゆびん)がさる巧(たく)みを為(なす)事をしらば。疾(とく)にも善女龍王(ぜんによりうわう)を請詔(しやうぜう)して雨を乞(こは)んもの
を。不知(しらず)して空(むな)しく日を重(かさね)たり。見よ〳〵一両日を過(すご)さず膏雨(かうう)を降(ふら)して普(あまね)く万民(ばんみん)の歎(なげ)
きを怡(よろこ)びに反(かへ)し得(え)さすべしとて。朝廷(てうてい)へは二日の日延(ひのべ)を願(ねがひ)給ひ茅(ちがや)を結(むす)んで一ツの蛇(じや)
形(ぎやう)を造(つく)り池辺(ちへん)の檀(だん)上に祭(まつ)りて再(ふたゝ)び真言(しんごん)秘密(ひみつ)の雩法(あまごひ)を修(しゆ)し。丹誠(たんせい)を抽(ぬきん)でゝ祈(いのり)
玉ふ事一日一 夜(や)に及(およ)びければ。忽(たちま)ち池中(いけのうち)より其(その)長(たけ)八寸ばかりの金色(こんじき)の小蛇(せうじや)出現(しゆつげん)し。檀(だん)
上の龍(りよう)の形代(かたしろ)《割書:長サ|一丈》の頭(かしら)の上(うへ)に乗(のり)給ふ。真雅(しんが)実恵(じつゑ)以下(いげ)の高弟(かうてい)の眼(め)には見えけれども
其余(そのよ)尋常(よのつね)の僧(そう)または守護(しゆご)の公卿(こうけい)武士(ぶし)などは是(これ)を見る事 能(あた)はず空海和尚(くうかいおせう)は神(しん)
龍(りよう)の出現(しゆつげん)を見給ひて大いに歓喜(くわんぎ)あり。倍(ます〳〵)精神(せいしん)を励(はげま)して祈(いのり)給へば神蛇(しんじや)は首(くび)を伸(のば)して

虚空(こくう)に向(むかふ)とひとしく俄(にはか)に風(かぜ)颯(さつ)と吹(ふき)下(おろ)し密雲(あまぐも)山の端(は)より湧起(わきおこ)ると比(ひと)しく一 声(せい)の雷(らい)
鳴(めい)天外(てんぐわい)に轟(とゞろ)き見る〳〵黒雲(くろくも)一天に充満(じうまん)し風勢(ふうぜい)倍(ます〳〵)強(つよ)く雷電(らいでん)弥(いよ〳〵)厲(はげ)しくして暴雨(ばうう)
盆(ぼん)を傾(かたむく)るが如(ごと)く降出(ふりいだ)しけるにぞ。檀(だん)の周(めぐり)に扣(ひかへ)し僧俗(そうぞく)ども雀躍(こおどり)して悦(よろこ)ばざるはなし
此時(このとき)西寺(さいじ)には守敏(しゆびん)が秘封(ひふう)破(やぶ)れて瓶中(へいちう)の諸竜(しよりよう)虚空(こくう)に飛登(ひとう)しともに膏雨(かうう)を
降(ふら)しけるゆへ雨勢(うせい)以前(いぜん)に十 倍(ばい)し。洛中(らくちう)洛外(らくぐわい)の貴賎(きせん)老若(らうにやく)我(われ)を忘(わすれ)て踊(おどり)舞(まひ)怡(よろこ)びうたふ
声(こゑ)雨(あめ)の音(おと)に雑(まじ)りて揚(やう)〱(〳〵)たり。空海和尚(くうかいおせう)は念願(ねんぐわん)満足(まんぞく)せりとて檀(だん)を下(おり)給ひ徒弟(でしたち)を
従(したが)へて禁廷(きんてい)へ参(まいり)給へば。帝(みかど)大いに睿感(ゑいかん)在(ましま)し大 僧都(そうづ)に任(にん)ぜられ若干(そこばく)の采地(さいち)を給(たまは)り
けるを空海和尚(くうかいおせう)再(さい)三 辞退(じたい)し給へども勅許(ちよくきよ)なけ【ママ 衍ヵ】れは已事(やむこと)を得(え)ず拝受(はいじゆ)ありて天恩(てんおん)
を厚(あつ)く謝(しや)し給ひ欣然(きんぜん)として東寺(とうじ)へ帰院(きいん)し給ひけり。去程(さるほど)に甘雨(かんう)降(ふる)事三日三夜
に余(あま)りければ五 畿(き)七 道(どう)雨(あめ)のいたらぬ里(さと)もなく涸(かれ)たる池(いけ)も水 溢(あぶ)れ旱割(ひわれ)たる赤土(せきど)
も潤地(じゆんち)となりけるにぞ。万民(ばんみん)腹皷(はらつゞみ)を打(うつ)て怡(よろこ)び勇(いさ)み。空海和尚(くうかいおせう)の法力(ほふりき)を聞(きゝ)つたへて

当世(いまのよ)の活如来(いきによらい)と尊(たつと)み真言宗(しんごんしう)に皈依(きえ)する者 幾億万(いくおくまん)の数(かづ)限(かぎり)もなく。愈(いよ〳〵)空海和尚(くうかいおせう)
の法義(ほふぎ)世(よ)に盛(さか)んにぞなりける。是(これ)には相反(ひきかへ)て西寺(さいじ)の守敏僧都(しゆびんそうづ)は。空海和尚(くうかいおせう)に不覚(ふかく)を
取(とら)せんと諸龍(しよりよう)を瓶裡(へいり)に駆(かり)封(ふう)じけるに。善女龍王(ぜんによりうわう)の威力(いりき)にて忽(たちま)ち秘封(ひふう)破(やぶ)れ。さしも
の計巧(たくみ)画餅(むだごと)となり。空海和尚(くうかいおせう)の法徳(ほふとく)を知(しる)も不知(しらぬ)も讃美(さんび)しければ。守敏(しゆびん)は憤怒(ふんど)の
念(おもひ)心(むね)に満(みち)腸(はらはた)も劫火(かうくわ)のために燃(もゆ)るがごとく嗔(しん)𠹤(い)の焔(ほむら)消(きへ)がたければ。よし〳〵此上(このうへ)は空海(くうかい)を
咒咀(のろひ)殺(ころ)し鬱憤(うつふん)【欝は俗字】を散(さん)ぜんものと。一時(いちじ)の嗔怒(しんど)より大 悪念(あくねん)を生(しやう)【別本より】じ寺中(じちう)に一 場(ぢよう)の護摩(ごま)
檀(だん)を構(かま)へ上檀(じやうだん)には孔雀明王(くじやくめうわう)を祭(まつ)り藁(わら)の人形(ひとかた)を造(つく)りて前(まへ)に立 注蓮(しめ)を張(はり)供物(くもつ)
を調(とゝの)へ護摩(ごま)を焼立(やきたて)念珠(ねんじゆ)揉立(もみたて)。水穀(すいこく)を断(たつ)て一心不乱(いつしんふらん)に祈(いの)りければ。護摩(ごま)の煙(けふり)は空(くう)
中(ちう)に渦巻(うづまき)上(のぼ)り咒文(じゆもん)を唱(となふ)る声(こゑ)は冥衆(みやうじゆ)を駭(おどろか)す許(ばかり)にて物凄(ものすごく)も恐(おそ)ろしかりけり。空(くう)
海和尚(かいおせう)は斯(かく)とも知(しろ)し召(めさ)ず一朝(あるあした)庭前(ていぜん)へ出(いで)て四方(よも)の天(そら)を見給ふに。西寺(さいじ)の方(かた)にあたつて
怪(あや)しき煙(けふり)立上(たちのぼ)り。風(かぜ)に逆(さかふ)て東(ひがし)へ向(むか)ひ靡(なび)きけるにぞ。心 訝(いぶか)り給ひて。私房(へや)にかへりて占(うらなひ)

【右丁 囲み記事】
女人禁制(によにんきんぜい)を
 犯(をか)して
  空海(くうかい)の
母(はゝ)種々(しゆ〴〵)の
 怪(くわい)異にあふ

【囲み文字】
空かい

【左丁 囲み文字】
空海母

給ふに。守敏僧都(しゆびんそうづ)の御 身(み)を咒咀(しゆそ)調伏(てうぶく)する護摩(ごま)の煙(けふり)なる事 顕然(げんぜん)たれば。さらば我(われ)
も災害(さいがい)滅除(めつぢよ)の法(ほふ)を修(しゆ)せんと徒弟(とてい)に命(めい)じて祈(いのり)の檀(だん)を設(もふけ)させ不動明王(ふどうめうわう)の尊影(そんえい)
を祭(まつり)注蓮(しめ)幣串(へいぐし)種々(しゆ〴〵)の供物(くもつ)にいたるまで法(ほふ)の如(ごと)く調(との)へさせ。檀上(だんじやう)に坐(ざ)を構(かまへ)て護摩(ごま)
を焼立(やきたて)水晶(すいしやう)の珠数(じゆず)おしもみて不動(ふどう)の真言(しんごん)を唱(とな)へ丹誠(たんせい)を凝(こら)してぞ祈給ひける。され
ば当時(とうじ)天下に名高(なだか)き権者(ごんじや)と名僧(めいそう)の行力(ぎやうりき)競(くらべ)にて多年(たねん)修学(しゆがく)の功(かう)を尽(つく)し肝胆(かんたん)
を砕(くだ)き祈(いの)り合(あは)れける程(ほど)に。西寺(さいじ)の護摩(ごま)の煙(けふり)は東寺(とうじ)へなびき東寺の黒烟(くろけふり)は西寺(さいじ)
へ向(むか)ひ双方(そうはう)の煙(けふり)雲(くも)のごとく虚空(こくう)に翻満(へんまん)し。凡夫(ぼんぶ)の眼(め)にこそ遮(さへぎ)らね双方(そうはう)の天部(てんふ)万(まん)眷属(けんぞく)
東西(とうざい)の雲中(うんちう)に充満(じうまん)して互(たがひ)に射違(いちがふ)る飛箭(ひせん)は雨(あめ)の脚(あし)より繁(しげ)く昼(ひる)は日(ひ)の影(かげ)を曇(くも)らし
夜(よる)は月(つき)の光(ひかり)も朦朧(もうろう)として。伝聞(つたへきく)帝釈(たいしやく)修羅(しゆら)の闘(たゝか)ひも斯(かく)やと見えて凄(すさま)しかりけり。去
程(ほど)に両僧(りようそう)一七日が間(あいだ)息(いき)をも吐(つが)ず祈(いのり)合ける程(ほど)に更(さら)に勝劣(しやうれつ)分(わか)らず何時(いつ)果(はつ)べしとも見
えざりければ。空海和尚(くうかいおせう)心中(しんちう)に盵(きつ)と一 計(けい)を案(あん)じ出(いだ)し給ひ。鱅魚(このしろ)といふ魚(いを)を多(おほ)く取寄(とりよせ)さ

せ寺内(じない)の庭(には)にて焼立(やきたて)させ給ふに。其(その)嗅気(しうき)さながら死人(しにん)を焼(やく)が如(ごと)し。空海和尚(くうかいおせう)また風(かぜ)
を呼(よぶ)法(ほふ)を修(しゆ)し給へば忽(たちま)ち東風(とうふう)吹発(ふきおこつ)て魚嗅(ぎよしう)を西(にし)へ吹送(ふきおく)りけるにぞ。西寺(さいじ)の守敏(しゆびん)
此(この)嗅気(にほひ)を嗅(かき)て。偖(さて)は空海(くうかい)我(わが)行法(ぎやうぼふ)の為(ため)に落命(らくめい)し今 火葬(くわそう)にしけるならんと大いに怡(よろこび)
慢心(まんしん)生(しやう)じて精神(せいしん)㢮(たゆ)み少時(しばらく)珠数(じゆず)を揉止(もみやみ)一息(ひといき)吻(ほ)と吐(つき)けるに忽(たちま)ち呼吸(こきう)の息(いき)断(たへ)悶(もん)
絶(ぜつ)辟地(びやくち)して其儘(そのまゝ)祈(いのり)の檀上(だんじやう)に斃(たをれ)死(し)したりけり。されば今(いま)の世(よ)まで鱅魚(このしろ)を家内(やのうち)
にて焼(やく)まじき事とは言(いひ)伝(つたへ)けり。嗟乎(あゝ)愚(おろか)なるかな守敏(しゆびん)一 朝(てう)の妬心(としん)より多年(たねん)練修(れんしゆ)
せし仏道(ぶつどう)の本意(ほんい)を忘(わす)れ。空海和尚(くうかいおせう)の如(ごと)き善知識(ぜんちしき)を咒咀(しゆそ)せんとし却(かへつ)て其身(そのみ)
を亡滅(ほろぼせ)る事 所謂(いはゆる)咒咀(しゆそ)諸(しよ)毒薬(どくやく)還著(げんぢやく)於本人(おほんにん)の経文(きやうもん)の如(ごと)し是(これ)しかしながら一ツは
諸龍(しよりよう)を封(ふう)じ困(くるし)めし祟(たゝり)【崇は誤】なるべし。慎(つゝし)むべきはし嗔(しん)𠹤(い)なり。偖(さて)も守敏(しゆびん)の弟子(でし)僧(そう)等(ら)は
師匠(しせう)が檀上(だんじやう)にて頓滅(とんめつ)せしを見て大いに駭(おどろ)き薬(くすり)よ水(みづ)よと立騒(たちさは)ぎ左右(とかく)して介抱(かいほう)し
けれども再(ふたゝ)び蘇生(よみがへる)こともなかりければ為方(せんかた)なく屍(むくろ)を収(おさ)めて守敏(しゆびん)が死没(しもつ)せし義(ぎ)を朝(てう)

廷(てい)へ奏聞(そうもん)し遂(つひ)に荼毘(だび)の煙(けふり)とぞなしける。是(これ)より西寺(さいじ)は漸々(しだい)に衰微(すいび)し東寺(とうじ)は追々(おひ〳〵)
繁栄(はんえい)して末代(まつだい)の今まで堂塔(どうとふ)巍々然(ぎゝぜん)たるは全(まつた)く空海和尚(くうかいおせう)の法徳(ほふとく)による所(ところ)なり
其後(そのゝち)空海和尚(くうかいおせう)は和州(わしふ)室生山(むろふざん)を先(さき)とし東国(とうごく)北国(ほくこく)南海(なんかい)四国(しこく)九州(きうしう)の津々浦々(つゝうら〳〵)まで
経歴(けいれき)して霊場(れいぢよう)を開(ひら)き給ひ。人の通(かよ)はぬ深山(しんざん)高山(かうざん)の道(みち)を通(つう)じ。渉(わたり)がたき大河(たいが)には橋(はし)
を掛(かけ)水脈(みづのて)あしき田畑(でんばた)には水を引(ひき)専(もつは)ら万民(ばんみん)の助(たすけ)をなし給ひけるゆへ。諸国(しよこく)の人民(にんみん)倍(ます〳〵)皈(き)
依(え)し空海和尚(くうかいおせう)の御 加持(かじ)を受(うく)る者(もの)は。躄(いざり)も起(たち)聾(みゝしい)も聞(きこ)え瘖(おし)も能(よく)言(いひ)盲(めしい)も目(め)を
明(あき)年(とし)旧(ふる)き難病(なんびやう)業病(がうびやう)も治(ぢ)せざるはなし。生霊(せいれい)すら如此(かくのごとく)なれば増(まし)て況(いはん)や九泉(よみぢ)の
下(した)に迷(まよ)ふ亡霊(ぼうれい)の成仏(じやうぶつ)得脱(とくだつ)する事は推(おし)て知(しる)べし真(まこと)に奇代(きたい)の知識(ちしき)にてぞ在(おは)しける
    母公(はゝぎみ)阿刀氏(あとし)《振り仮名:望_レ登_二高野山_一|かうやさんへのぼらんとのぞむ》  山中(さんちう)怪異(けい)慈尊院(じそんいん)之(の)条(こと)
空海和尚(くうかいおせう)一年(あるとし)高野山(かうやさん)に御 在中(ざいぢう)の時(とき)御 母(はゝ)阿刀氏(あとし)久(ひさ)しく師(し)に御 対面(たいめん)なきを以(もつ)
て恋(こひ)しく思召(おぼしめし)久々(ひさ〴〵)の御 向顔(かうがん)なさまほしく。又は名(な)に高(たか)き高野山(かうやさん)の堂塔(どうとふ)をも

拝(おがま)んと男女(なんによ)数人(すにん)の従者(ずさ)を将(つれ)て。讃州(さんしう)屏風(べうぶ)が浦(うら)を立(たつ)てはる〴〵紀伊国(きのくに)へいたり給ひ。高(かう)
野山(やさん)の梺(ふもと)に着(つき)て先(まづ)使(つかひ)を空海和尚(くうかいおせう)の本坊(ほんばう)へ遣(つかは)し。登山(とうざん)すべきよしを通(つう)ぜしめられ
ければ。師(し)打駭(うちおどろ)き給ひ。我(わが)母公(はゝ)遠(とふ)く此(この)山へ来(きた)らせ給ふ御 志(こゝろざし)はいとも忝(かたしけな)けれども。当山(とうざん)
は開発(かいほつ)の始(はじめ)より固(かた)く女人結誡(によにんけいかい)の地(ち)と定(さだ)めたれば。母(はゝ)といへども登山(とうざん)あらん事 諸仏(しよぶつ)諸(しよ)
神(じん)へ恐(おそれ)あり。暫時(ざんじ)待(まち)給ふやう申せよ。我(われ)今(いま)些(すこし)の法要(ほふよう)なし果(はて)頓(やが)て下山(げさん)して母公(はゝぎみ)に御 対(たい)
面(めん)なし進(まいら)すべしとて使(つかひ)の武士(ぶし)を返(かへ)し給ひけるに。母公(ぼこう)は使者(ししや)の還(かへ)るを待(まち)わび給ひ
男女(なんによ)の従者(じふしや)を将(つれ)て早(はや)花坂(はなざか)にかゝり羊腸(ようちよう)たる山路(やまぢ)を剽(たどり)て分(わけ)登(のぼり)給ふ所(ところ)に俄然(がぜん)とし
て一 陣(ぢん)の魔風(まふう)吹起(ふきおこ)り。樹木(じゆもく)を動揺(どうよう)させ砂石(しやせき)を飛(とば)し。土煙(つちけふり)朦朧(もうろう)と立(たつ)て前路(ゆくさき)も見
え分(わか)ず成(なり)ければ。母公(ぼこう)をはじめ随従(つき〴〵)の男女(なんによ)も是(こは)けしからぬ山 風(かぜ)かなとて。側(かたへ)の木陰(こかげ)に
立寄(たちより)少時(しばし)休(やす)らひけれども。風(かぜ)は倍(ます〳〵)烈(はげ)しく剰(あまつさ)へ暴雨(ばうう)降出(ふりいだ)し雷電(らいでん)凄(すさま)じく鳴(なり)閃(ひらめ)きて。山 鳴(なり)
谷(たに)答(こた)へ震動(しんどう)する事 夥(おびたヾ)し。されども母公(ぼこう)は年(とし)老(おひ)ながら気丈(きじやう)の性(さが)にて少(すこ)しも恐(おそれ)れず

雷雨(らいう)を犯(おか)して分(わけ)登(のぼ)り給ふ随従(ずいじふ)の者(もの)は天変(てんべん)に恐(おそ)れ歩(あゆみ)かねて地(ち)に葡匐(はらばふ)もあり。又は梺(ふもと)
へ逃下(にげくだ)るも有(あり)て。果(はて)は一人も母公(ぼこう)に従(したが)ふ者なし。母公(ぼこう)は一足(ひとあし)歩(あゆみ)ては三足(みあし)吹戻(ふきもど)され二足(ふたあし)歩(あゆ)み
ては五足(いつあし)跡退(あとしざり)しながら尚(なを)も登(のぼ)らんとし給へども。大雨(たいう)弥(いよ〳〵)車軸(しやぢく)流(なが)すがごとく登(のぼ)り兼(かね)
給ふ所(ところ)へ使者(ししや)に立(たち)し武士(ぶし)混沾(ひたぬれ)に成(なつ)て走(はし)り来(きた)り。此体(このてい)を見て母公(ぼこう)を押止(おしとゞ)め大 僧都(そうづ)
の仰(あふせ)には。当山(とうざん)は女人禁制(によにんきんぜい)にて候へば登山(とうざん)なし給ふ事 能(あたは)ず。頓(やが)て僧都(そうづ)御 下山(げさん)あり
て御 対面(たいめん)なし玉はん間(あいだ)梺(ふもと)に待(また)せ給へとの御 事(こと)なり。先剋(せんこく)より雷雨(らいう)れ烈(はげ)しく山の荒(あれ)候は
女性(によせう)の御 身(み)にて登山(とうざん)し給ふを山神(さんじん)の咎(とがめ)給ふにて候べし。早(はや)く梺(ふもと)へ御 下(くだり)あつて待(まち)
給ふべしと諫(いさめ)けれども母公(はゝぎみ)敢(あへ)て承引(しよういん)なく。かゝる高山(かうざん)なれば天狗(てんぐ)魔縁(まえん)の類(たぐひ)も栖(すみ)
ぬべし自余(ほか)の女人(によにん)は登山(とうざん)不叶(かなはず)とも。此(この)山は我子(わがこ)の開(ひら)きたる仏場(ぶつぢよう)なり。然(しかる)に其母(そのはゝ)たる妾(わらは)
が登山(とうざん)するを妨(さまたぐ)る魔障(ましやう)はよもあらじ雷雨(らいう)は時(とき)の天変(てんべん)のみ何(なん)ぞ異(あやし)とするに足(たる)べき
とて武士(ぶし)が留(とゞ)むる袖(そで)を振切(ふりきり)心(こゝろ)強(つよく)も登(のぼ)らるゝに。又も山上(さんぜう)より暴風(ばうふう)強(つよ)く吹(ふき)颪(おろ)し母公(ぼこう)

を㵎(たに)へ吹(ふき)落(おと)さんとするにぞ。母公(ぼこう)は落(おと)されじと側(かたへ)の巌(いはほ)の尖(とがり)を両手(りようて)にとらへて踏止(ふみとま)り給ふ
に一 念力(ねんりき)のなす処(ところ)にや思(おも)はず岩(いは)の尖(とがり)を捻(ねぢ)られけり。今も存(そん)して捻岩(ねぢいは)と称(しやう)するは是(これ)なり
かゝる天変(てんべん)にも母公(ぼこう)猶(なを)登山(とうざん)せんとの念(ねん)止(やま)ず却(かへつ)て心中(しんちう)に嗔(いかり)を生(せう)じ。たとひ此身(このみ)は微塵(みぢん)
になるとも登山(とうざん)せでは止(やま)じと悪風(あくふう)雷雨(らいう)にも屈(くつ)せず。衣服(いふく)は寸々(ずん〴〵)に裂(さけ)破(やぶ)れ。白髪(はくはつ)散々(さん〴〵)に
打乱(うちみだれ)ながら下折(したをれ)の枝(えだ)を杖(つえ)とし。身命(しんめう)を拋(なげう)つて登(のぼ)られけるに。不思議(ふしぎ)や忽(たちま)ち降(ふり)しぶく雨(あめ)は
火焔(くわえん)となり面(おもて)を向(むく)べきやうもなければ。さしもの母公(ぼこう)も惘果(あきれはて)【旁の岡は誤】あはや火雨(ひのあめ)の為(ため)に焼(やき)殺(ころ)され
んとし給ふ所(ところ)に。空海和尚(くうかいおせう)走来(はせきた)り給ひて。路(みち)の側(かたへ)なる大 盤石(ばんじやく)を片手(かたて)にて押上(おしあげ)母公(はゝご)を
巌(いはほ)の下(した)へ押入(おしいれ)給へば母公(ぼこう)は其儘(そのまゝ)悶絶(もんぜつ)し給ひけり。花坂(はなざか)に名高(なだか)き押上岩(おしあげいは)是(これ)なり。空海(くうかい)
和尚(おせう)は母公(はゝご)の絶死(ぜつし)を御覧(ごらん)じ口中(くちのうち)に真言(しんごん)の秘文(ひもん)を唱(となへ)給へば頓(とみ)に風雨(ふうう)雷電(らいでん)収(おさま)り
母公(ぼこう)は息(いき)を吹返(ふきかへ)し。四辺(あたり)を見廻(みまは)し空海和尚(くうかいおせう)の御 皃(かほ)を見 上(あげ)給ひて。掌(たなごゝろ)を合(あは)し伏(ふし)拝(おがみ)給ひ
妾(わらは)五 障(しやう)の罪(つみ)深(ふか)き身(み)を顧(かへりみ)ず。愛着(あいぢやく)の絆(きづな)に曳(ひか)れ霊場(れいぢよう)を強(しい)て穢(けがさ)んとし。已(すで)に

火(ひ)の雨(あめ)に焼殺(やきころ)されんとし其後(そのゝち)は夢(ゆめ)とも現(うつゝ)とも分(わか)ず広々(ひろ〴〵)と暗(くら)き道(みち)に立迷(たちまよ)ひしに
いと恐(おそ)ろしき鬼(おに)出来(いできた)り妾(わらは)を引立(ひつたて)行(ゆか)んとせしに端厳(たんごん)微妙(みめう)の如来(によらい)光明(かうめう)を放(はな)つて出(しゆつ)
現(げん)し給ひければ。鬼(おに)は妾(わらは)を離(はな)し何国(いづく)ともなく行去(ゆきさり)如来(によらい)妾(わらは)に宣(のたま)ひけるは。汝(なんじ)女人(によにん)の身(み)とし
て結界(けつかい)の霊山(れいざん)へ登(のぼら)んとせしゆへ諸天(しよてん)怒(いかり)を発(はつ)し已(すで)に你(なんじ)が命(いのち)を滅(めつ)せしめんとせりされ
ども你(なんじ)が子(こ)の空海(くうかい)が法徳(ほふとく)によりて予(われ)你(なんじ)が命(いのち)を助(たす)け再(ふたゝ)び娑婆(しやば)世界(せかい)へ帰(かへら)しめんあいだ
此後(このゝち)嗔(しん)𠹤(い)の心を慎(つゝし)み仏道(ぶつどう)不可思議(ふかしぎ)の理(り)を疑(うたが)ふ事なかれ。你(なんじ)空海(くうかい)を我子(わがこ)なり
と思(おも)へども元(もと)は仏(ぶつ)菩薩(ぼさつ)の応化(おうげ)にて。暫(しばら)く你(なんじ)が腹(はら)を借(かり)しのみなり。必(かなら)ず我子(わがこ)とな
思(おも)ひそと教愉(をしへさと)【諭或は喩とあるところ】し給ひ。妾(わらは)の手(て)をとりて旧(もと)の路(みち)へ導(みちび)き給ふとおもへば。夢(ゆめ)の覚(さめ)たるごとく
蘇生(よみがへり)たり。あな尊(たうと)の我子(わがこ)やとて感涙(かんるい)を流(なが)し。地(ち)に跪(ひざまづ)きて礼拝(らいはい)し給ふにぞ。師(し)急(きう)に
扶(たす)け起(おこ)し給ひ。我(わが)此(この)山は始(はじめ)より女人禁制(によにんきんぜい)と定(さだ)め候へば御 登山(とうざん)御 無用(むよう)たるべしと使(し)
者(しや)に申てかへし。我(われ)下山(げさん)して御 対面(たいめん)なし奉らんと思(おも)ひ少(すこ)しの法務(ほふむ)をなし果(はて)て。下山(げさん)し候ひ

しに。早(はや)くも御 登山(とうざん)ありて。暫時(しばらく)にても憂苦(うきめ)を見せまゐらせしは空海(くうかい)が遅参(ちさん)の罪(つみ)
なり恕(ゆる)し給へと謝(わび)給ひければ。母公(はゝぎみ)も懺悔(さんげ)ありて。妾(わらは)一時(いちじ)の我慢心(がまんしん)に仏神(ぶつじん)の御 怒(いかり)を
惹出(ひきいだ)せしこそ罪(つみ)深(ふか)けれ。露(つゆ)御 身(み)の科(とが)ならじとて互(たがひ)に辞譲(じじやう)あり。相伴(あひともなふ)て下山(げさん)し給ひ
けるに。随従(つき〴〵)の男女(なんによ)は梺(ふもと)に待(まち)て母公(ぼこう)の恙(つゝが)なきを賀(が)し随遂(おんとも)せざる罪(つみ)を謝(わび)けるにぞ
母公(ぼこう)も衆人(みなひと)の無事(ぶじ)を怡(よろこ)び主従(しゆうじふ)打連(うちつれ)て天野(あまの)の菴(いほり)に着(つき)給ひけり。空海和尚(くうかいおせう)は母(ぼ)
公(こう)と別後(べつご)の御 物語(ものがたり)をなし給ひ。此(この)年来(としごろ)御 側(そば)に在(あつ)て事(つかへ)奉らざる不孝(ふかう)の罪(つみ)は免(ゆる)し
給へと謝(わび)給ひ。仏法(ぶつほふ)の功徳(くどく)の広大(くわうだい)なる事をくれ〴〵と御 教化(きやうけ)ありければ。母公(ぼこう)は感涙(かんるい)を止(とゞめ)
かね給ひ身(み)の罪障(ざいしやう)消滅(せうめつ)のため尼(あま)にならまほしき由(よし)を願(ねがひ)給ひけるゆへ。師(し)も御 喜悦(きゑつ)
ありて即時(そくじ)に戒(かい)を授(さづ)け給ひけり。母公(ぼこう)御 怡(よろこ)び限(かぎり)なく。遂(つひ)に髻(もとゞり)をはらひ尼(あま)となり玉
ひければ召使(めしつかひ)の男女(なんによ)みな諸(もろ)ともに剃髪(ていはつ)の義(ぎ)を願(ねがひ)けるに。空海(くうかい)曰(のたま)はく尼 公(こう)の御 介抱(かいほふ)
には女人(によにん)こそよけれ。男子(なんし)は入道(にふどう)無用(むよう)たるべしとて女子(によし)許(ばかり)剃髪(ていはつ)を許(ゆる)し給ひ男子(なんし)の分(ぶん)は

悉(こと〴〵)く差止(さしとめ)て讃州(さんしう)へ帰(かへ)らしめ給ひ。偖(さて)幽静(ゆうせい)の地(ち)をえらみて菴室(あんじつ)を建(たて)御 母尼(はゝに)
公(こう)を住(すま)しめ給ひける。是(これ)より尼公(にこう)は仏道(ぶつどう)に心を傾(かたむ)け給ひ。昼夜(ちうや)二六 時中(じちう)勤行(ごんげう)
怠(おこた)り玉はず。終(つひ)に七十八才にて大 往生(わうじやう)し給ひけり。空海和尚(くうかいおせう)其(その)亡骸(なきから)を菴室(あんじつ)の
側(かたはら)に葬(ほふむ)り御 跡(あと)懇(ねんごろ)に弔(とふら)【吊は俗字】ひ給ひ。菴室(あんじつ)を仏堂(ぶつどう)となし給ふ慈尊院(じそんいん)是(これ)なり
其砌(そのみぎり)に不動坂(ふどうざか)の上に女人堂(によにんどう)を建(たて)給へり。偖(さて)五十九才の御 年(とし)藤原某(ふぢはらそれ)卿(きやう)の志(し)
願(ぐわん)に依(よつ)て万灯会(まんどうゑ)を修(しゆ)せられければ。空海和尚(くうかいおせう)深(ふか)く御 賞美(せうび)在(ましま)し灯明(とうめう)の徳(とく)は
日月(じつげつ)の光(ひかり)に嗣(つぎ)無明(むめう)の闇(やみ)を照(てら)すを以(もつ)て仏前(ぶつぜん)に一 灯(とう)を供(くう)ずるさへ其(その)功徳(くどく) 莫(ばく)
大(たい)なり。況(いはん)や万灯(まんどう)供養(くやう)に於(おいて)おや。現当(げんとう)二 世(せ)安楽(あんらく)は申に及(およば)ず子孫(しそん)繁昌(はんじやう)の祈祷(きとう)
何事(なにごと)か是(これ)に勝(まさ)るべきとぞ仰せ(あふせ)られける。斯(かく)て年月(ねんげつ)押移(おしうつ)り空海和尚(くうかいおせう)六十一才に
なり給ふ年(とし)の十一月十五日。諸(もろ〳〵)の高弟(かうてい)達(たち)に告(つげ)て曰(のたまは)く。我(われ)予(かね)ては一百才まで世(よ)に住(ぢう)し
て教法(きやうほふ)を守(まも)らむ所存(しよぞん)なりしが。思(おも)ふ子細(しさい)あれば明年(みやうれん)【ママ 「れ」は誤ヵ】三月 入定(にふでう)し都卒天(とそつてん)に往(わう)

生(ぜう)し五十六 億(おく)七千万 歳(ざい)の後(のち)龍華(りうげ)三 会(ゑ)の暁(あかつき)弥勒仏(みろくぶつ)出世(しゆつせ)の時(とき)を待(まつ)て我(われ)又 此(この)
娑婆世界(しやばせかい)へ生(せう)を託(たく)し一 切(さい)衆生(しゆぜう)を化度(けと)すべし。高野山(かうやさん)は真然(しんね[ん])に付属(ふぞく)し。東寺(とうじ)は
実恵(じつゑ)に預(あづ)け弘福寺(くふくじ)は真雅(しんが)。神護寺(じんごし)は真済(しんせい)に授(さつく)べしと御 遺言(ゆいごん)有(あり)ければ高弟(かう[て]い)
達(たち)大いに駭(おどろ)き。是(こ)は何(いか)なる御事ぞや。今 幾年(いくとし)御 在世(ざいせ)なし給ひて我(わが)徒(ともがら)に教示(きやうじ)せさせ 
給へと願(ねがひ)けれども敢(あへ)て御 承引(しやういん)なく猶(なを)後(のち)の事を御 教誡(きやうかい)有(あり)けるが。程(ほど)なく其年(そのとし)も
暮(くれ)明(あく)れば仁明天皇(にんみやうてんわう)の承和(しやうわ)二年 乙卯(きのとう)三月廿一日 寅剋(とらのこく)【尅は俗字】本坊(ほんばう)にて結跏趺座(けつかふざ)し給ひ
御 弟子(でし)達(たち)に仰(あふせ)けるは我(わが)眼(め)を閉(とづ)るを入定(にふでう)の期(ご)とし奥(おく)の院(いん)の室(むろ)へ送(おく)るべしとて。大日如(だいにちによ)
来(らい)の秘印(ひいん)を結(むす)び終(つひ)に禅定(ぜんでう)に入給ひけり。春秋(しゆんじふ)六十二才にぞ在(おは)しける。御 弟子(てし)達(たち)は囲(ゐ)
繞(ねう)して弥勒菩薩(みろくぼさつ)の宝号(ほうがう)を唱(となへ)て居(ゐ)られけるが。已(すで)に空師(くうし)御 眼(め)を閉(とぢ)給ひければ。各(おの〳〵)
悲哀(ひあい)の涙(なみだ)に三 衣(え)を絞(しぼ)らぬはなく偏(ひとへ)に釈尊(しやくそん)の入滅(にふめつ)を悲(かなし)みし諸(しよ)羅漢(らかん)に異(こと)ならず。然(され)
ども斯(かく)て有(あり)果(はつ)べきにあらざれば泣々(なく〳〵)御 輿(こし)に乗(のせ)まゐらせ実恵(じつゑ)真雅(しんが)真如(しんにょ)真済(しんせい)

真紹(しんぜう)真然(しんねん)是(これ)を舁(かい)て奥(おく)の院(いん)へ移(うつ)し奉り。七日々々(なぬか〳〵)の御 斎忌(さいき)厳重(げんぢう)に執行(とりおこな)ひ
御 弟子(てし)達(たち)七日(なぬか)毎(ごと)に奥(おく)の院(いん)参詣(さんけい)ありて拝(おが)み奉(たてまつ)らるゝに。神色(しんしよく)少(すこ)しも変(へん)じ玉はず
御 髪(かみ)鬚(ひげ)漸々(ぜん〳〵)に長(なが)く伸(のび)させ給ふぞ奇特(きどく)なりける。斯(かく)て空海(くうかい)大 僧都(そうづ)入定(にふでう)なし
玉ひし趣(おもむ)きを朝廷(てうてい)へ奏聞(そうもん)ありければ帝(みかど)《割書:仁明(にんめう)|天皇》も上皇(じやうかう)《割書:淳|和》も御 悼(いたみ)大方(おほかた)ならず。恐(おそれ)
多(おほく)も帝(みかど)は是(これ)がために。政事(まつりこと)を廃(はい)し給ふこと三日に及(および)玉ひけり同廿五日 勅使(ちよくし)を以(もつ)て御 袈(け)
裟(さ)座具(ざぐ)如意(によい)香炉(かうろ)水瓶(すいへう)湯器(たうき)等(とう)を贈(おく)り給(たま)はり。上皇(じやうかう)よりも院使(いんし)を立(たて)給ひ宸翰(しんかん)
の御 弔書(とふらひふみ)并(ならひ)に種々(しゆ〴〵)の御 贈物(おくりもの)有(あり)けり。天下の人民(にんみん)空師(くうし)御入定(ぎにふでう)ありしと伝聞(つたへきゝ)貴(き)と
なく賎(せん)となく悼(いたみ)惜(をしま)ざるはなし。後年(こうねん)文徳(もんとく)天皇の天安(てんあん)二年十月十七日大 僧正(そうせう)の宦(くわん)を
贈(おく)り給ひ。又 貞観(でうぐわん)六年二月十六日 法印(ほふいん)大 和尚(くわせう)に叙(しよ)し給ひ。醍醐天皇(だいごてんわう)の延喜(えんぎ)二十
一年十月廿七日 弘法大師(かうぼふだいし)と謚(おくりな)を賜(たま)はりける。誠(まこと)に本朝(ほんてう)無双(ぶそう)の名僧(めいそう)にて末世(まつせ)の今に
扶桑皇統後編巻之三畢    いたる迄御 利益(りやく)端的(あらた)なる事申も中々(なか〳〵)疎(おろか)也

【白紙 文字無し】

【白紙 文字無し】

【見返し 文字無し】

【裏表紙】

【背表紙】
FU-SO
KWAU TO KI
 DZU-YE.
   1.


【資料整理ラベル】
JAPONAIS
 185

【表紙】

【見返し】
【資料整理ラベル】
JAPONAIS
 186

【白紙 文字無し】

【白紙 文字無し】

【題箋】
《題:扶桑皇統記図会《割書:後編》四》

【資料整理番号の筆記】
Japonais n、186

【筆記メモ】
1956
7Vols CY/N
 【記号】

【文字無し】

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之四目録
 《振り仮名:放_二巨亀_一浦島到_二蓬莱_一|おほがめをはなしてうらしまほうらいにいたる》  《振り仮名:開_二玉手筥_一浦島老死|たまてばこをひらきてうらしまらうしす》条
 浦島(うらしま)が子(こ)蓬莱(ほうらい)に至(いた)り遊宴(いうえん)歓楽(くわんらく)を極(きはむ)る図(づ)
 仁明天皇(にんみやうてんわう)御即位(ごそくゐ)大礼(たいれい)    小野篁(おのゝたかむら)流罪(るざい)の条(こと)
 伊勢斎宮(いせのさいぐう)及(および)《振り仮名:建_二野々宮_一|のゝみやをたつる》
 恒貞親王(つねさだしんわう)隠謀(いんばう)露顕(ろけん)の条(こと)
 小野篁(おのゝたかむら)夢(ゆめ)に閻羅王宮(えんらわうきう)に到(いた)る図(づ)

 《振り仮名:従_二豊後国_一献_二白亀_一|ぶんごのくによりはくきをけんず》    良峯宗貞(よしみねのむねさだ)詠歌(えいか)遁世(とんせい)条
 深草(ふかくさ)の帝(みかど)の陵(みさゝき)へ諸人(しよにん)群参(ぐんさん)の図(づ)
 文徳天皇(もんとくてんわう)御即位(ごそくゐ)     位争(くらゐあらそひ)名虎良雄(なとらよしを)角觝(すまふの)条(こと)
 惟喬(これたか)惟仁(これひと)の御位(みくらゐ)争(あらそ)ひにより大内(おほうち)相撲(すまふ)の図(づ)
 清和天皇(せいわてんわう)御即位(ごそくゐ)    伴善雄(とものよしを)《振り仮名:犯_レ罪|つみをおかし》流刑(るけい)の条(こと)

      目 録 終

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづえ)後編(こうへん)巻之四
               浪華 好華堂野亭参考

   《振り仮名: 放_二巨亀_一浦島到_二蓬莱_一|おほがめをはなしてうらしまほうらいにいたる》  《振り仮名:開_二玉手筥_一浦島老死|たまてばこをひらいてうらしまらうしす》条
丹後国(たんごのくに)余社郡(よさごほり)管川(つゝかわ)といふ所(ところ)に水江浦島(みづえのうらしま)某(それがし)と呼(よぶ)漁師(りやうし)ありけるに。今よりは三百
余年(よねん)以前(いぜん)人皇(にんわう)二十二代 雄略天皇(ゆふりやくてんわう)二十二年の秋(あき)七月 漁(いさり)に出(いで)しまゝにて何国(いづく)へか往(ゆき)
けん其(その)まゝ家路(いへぢ)に帰(かへら)ざれば。親属(しんぞく)朋友(ほういう)所々(しよ〳〵)を尋(たづね)捜(さが)しけれども曽(かつ)て行方(ゆくへ)知(しれ)ざれば。海(かい)
上(しやう)にて難風(なんふう)などに遭(あひ)吹流(ふきなが)されしか。又は悪魚(あくぎよ)の為(ため)にとられしならめとて打捨(うちすて)おきけるに
遙(はるか)に星霜(せいさう)歴(へ)て今年(ことし)天長(てんちやう)二年八月に故郷(こけう)水江(みづえ)へ立帰(たちかへ)り老死(らうし)せり年暦(ねんれき)を算(かぞふ)るに三百二
十二年に及(およ)べり。あまりに不測(ふしぎ)なる事ゆへ都(みやこ)へ奏聞(そうもん)しければ。朝廷(てうてい)にも未曾有(みぞう)の珍事(ちんじ)なりと
て是(これ)を記録(きろく)に載(のせ)給ひけり。其義(そのぎ)を委(くはし)く尋(たづぬ)るに。彼(かの)浦島(うらしま)某(なにがし)一日(あるひ)漁舟(いさりぶね)に乗(のつ)て沖(おき)へ出(いで)。鉤(つり)【鈎は俗字】
を垂(たれ)て大いなる亀(かめ)を鉤得(つりえ)たり。浦島(うらしま)心におもひけるは。亀(かめ)は四霊(しれい)の一ツにて甲(かう)ある者(もの)三百六

十の長(おさ)にて齢(よはい)万年(まんねん)を保(たもつ)といひ。いとも芽出度(めでたき)ものなるに。僅(わづか)の餌(えば)を貪(むさぼ)りて鉤(つり)【鈎は俗字】にかゝりしぞ
便(びん)なかれ自余(じよ)の者(もの)の針(はり)にかゝらば。あたら命(いのち)をやとられなん。我(われ)は漁(すなどり)を業(ぎやう)とすれどもさる残(ざん)
忍(にん)なる事を好(この)まず。放(はな)ち還(かへ)らしめんあいだ。此後(このゝち)敢(あへ)て鉤(つり)【鈎は俗字】の餌(えば)を喰(くらふ)こと勿(なか)れと言聞(いひきか)せ。針(はり)
を離(はな)して海中(かいちう)へ放(はな)ちやりければ。亀(かめ)は其(その)恩(おん)をや感(かん)じけん。二三 度(ど)浮(うか)み出(いで)て浦島(うらしま)を顧(かへり)み
其後(そのゝち)海底(かいてい)へ沈(しづ)みけり。浦島(うらしま)はそれより常(つね)のごとく魚(うを)を鉤(つり)【鈎は俗字】夕暮(ゆふぐれ)の比(ころ)我家(わがや)へ帰(かへり)けるに
夜半(やはん)の比(ころ)戸(と)を打叩(うちたゝ)く者(もの)あり。誰(た)そやと応(いらへ)て戸(と)を開(ひら)けば一人の女(によし)入来(いりきた)りける浦島(うらしま)瞳(ひとみ)
を定(さだめ)てつら〳〵見るに容色(ようしよく)美麗(びれい)なる事たとふるに者(もの)なく身(み)に見も馴(なれ)ぬ羅綾(らりよう)の
衣服(いふく)を着(ちやく)しさながら描(ゑがけ)る天人(てんにん)のごとくなるが浦島(うらしま)を拝(はい)して礼(れい)をなし。妾(わらは)は此国(このくに)の側(かたはら)に
住者(すむもの)の女(むすめ)にて候が。いまだ夫(をつと)に嫁(とつが)ず。然(しかる)に世(よ)の人の噂(うはさ)に水江(みづえ)の浦島(うらしま)某(なにがし)こそ正路(しやうろ)を
守(まも)り隠徳(いんとく)を好(この)む善人(ぜんにん)なりといへるを以(もつ)て妾(わらは)が父母(ちゝはゝ)御 身(み)を婿がねにせまほしく思(おも)
ひ妾(わらは)に命(めい)して御 身(み)を迎(むか)へさせ給ふなり依(よつ)て今宵(こよひ)御 迎(むかへ)にまいりぬ願(ねがは)くは妾(わらは)と伴(とも)に

父母(ちゝはゝ)の家(いへ)へ来(きた)り給はり候へと言(いひ)けるにぞ。浦島(うらしま)は女の容貌(みめかたち)に心 動(うご)きし事なれば。大いに悦(よろこ)
び前後(ぜんご)の思慮(しりよ)にも及(およ)ばず頓(とみ)に承引(うけひき)て。女に伴(ともな)はれて浜辺(はまべ)へ到(いた)りけるに。女 浦島(うらしま)に対(むか)ひ
君(きみ)しばらく目(め)を閉(とぢ)給ひ妾(わらは)がしらせ候まで目(め)を開(あ)き給ふ事 勿(なか)れと曰(いふ)より。浦島(うらしま)其(その)詞(ことば)
に順(したが)ひ目(め)を閉(とぢ)けるに。船(ふね)に乗(のり)海上(かいしやう)をわたり行(ゆく)よとおもふ事 半時(はんとき)ばかりにして。女 声(こゑ)をか
け。今は我(わが)栖家(すみか)に着(つき)はべり目(め)を開(あき)給へといふにつき。浦島(うらしま)眼(め)を開(あき)てあたりを見るに一宇(いちう)
の大廈(たいか)【厦は俗字】ありて。軒(のき)高(たか)く門(もん)闊(ひろ)く。甍(いらか)は玉(たま)の如(ごと)く見(み)も馴(なれ)ざる草木(さうもく)生(おひ)て香気(かうき)馥郁(ふくいく)【「復」の旁+阝(おおざと)は誤記】と芳(かうば)し
く鼻(はな)を穿(うがつ)にぞ。浦島(うらしま)心 駭(おどろ)き此国(このくに)にもかゝる所の有(あり)けるかと不審(いぶかり)ながら。女の引路(あない)に従(したが)ひ
て門内(もんない)へ入 歩(あゆ)み往(ゆく)に所々(ところ〳〵)に楼閣(ろうかく)ありて。荘厳(しやうごん)悉(こと〴〵)く金銀(きん〴〵)珠玉(しゆぎよく)を鏤(ちりば)め。綾(あや)の帳(とばり)錦(にしき)の
幕(まく)を垂(たれ)たり。偖(さて)瑠璃(るり)の橋(はし)をわたり珊瑚(さんご)の牀(ゆか)に上(のぼ)りて繍(ぬいもの)【綉は俗字】の茵(しとね)の上に坐(ざ)しければ。風姿(すがた)艶(うるは)
麗(しげ)なる女 数(す)十人 出来(いできた)り。各(おの〳〵)玉(たま)の觴(さかづき)琥珀(こはく)の盤(ばん)其余(そのほか)種々(いろ〳〵)の器(うつわ)捧出(さゝげいづ)るに。悉(こと〴〵)く光輝(ひかりてり)
透徹(すきとふら)ざるはなきに。佳菓珍菜(かくわちんさい)を盛(もり)て席中(せきちう)にならべければ。浦島(うらしま)を伴(ともな)ひ来(きた)りし女

先(まづ)卮(さかづき)【巵は俗字】を採(とつ)て酒宴(しゆえん)をはじめ浦島(うらしま)にさしければ。浦島(うらしま)は夢(ゆめ)に夢(ゆめ)見し心地(こゝち)しながら玉(たまの)
卮(さかづき)をとりて酒(さけ)を引受(ひきうけ)喫(きつ)するに其味(そのあぢは)ひ天(てん)の甘露(かんろ)ともいふべく数々(かづ〳〵)の佳肴(さかなもの)一ツとして
美味(びみ)ならざるはなく。しかも多(おほ)くの美女(びぢよ)は琴(こと)琵琶(びわ)を弾(ひき)笛(ふえ)鼓(つゞみ)を調(しらべ)て舞(まひ)諷(うた)ひ興(けう)を添(そへ)
けるゆへ大いに興(けう)に入。しば〳〵卮(さかづき)【巵は俗字】を重(かさ)ね稍(やゝ)酩酲(めいてい)におよびける時(とき)。女は浦島(うらしま)が手(て)を携(たづさ)へて
錦帳(きんてう)の中(うち)へ伴(ともな)ひ入。七宝(しつほう)の枕(まくら)をならべて雲雨(うんう)のかたらひをなしけり。是(これ)より浦島(うらしま)は旦夕(あけくれ)
女と膝(ひざ)を交(まじへ)へて遊楽(ゆうらく)し。所々(しよ〳〵)の殿閣(でんかく)高楼(かうろう)へいたり見るに。其(その)壮観(そうくわん)言語(ごんご)に絶(ぜつ)し。庭前(ていぜん)
に植(うえ)ならべたる梅(むめ)桃(もゝ)を先(さき)として。色々(いろ〳〵)の珍花(ちんくわ)一日の中(うち)に花(はな)咲(さき)菓(み)のり風(かぜ)和(やはら)かに吹(ふき)て暑(あつ)
からず寒(さむ)からず二三月 頃(ごろ)の時候(じかう)のごとく。諸(もろ〳〵)の鳥(とり)翼(つばさ)も色(いろ)美(うるは)しく音(こゑ)鮮(あざや)かに囀り(さへづ)りけた
ひ面白(おもしろ)き事 喩(たとへ)ん方なく。喜見城(きけんじやう)の栄花(ゑいぐわ)といふとも是(これ)にはよも勝(まさ)るべからずと思(おも)ふばかり
なれば浦島(うらしま)は百念(ひやくねん)を忘(わす)れ。昼夜(ちうや)珍饌(ちんせん)美菜(びさい)に飽(あき)て楽(たのし)み暮(くら)す事 凡(およそ)三年 余(よ)に及(およ)
びければ。不斗(ふと)故郷(こけう)の事を思(おも)ひ出(いだ)し。一日(あるひ)女に向(むか)ひ。我(われ)你(おこと)に誘(いざな)はれて此(この)館(やかた)【舘は俗字】へ来り早(はや)三年(みとせ)

を過(すご)したり。一度(ひとたび)親族(しんぞく)の安否(あんひ)を訪(とは)んため故里(ふるさと)へ帰(かへ)り。再(ふたゝ)び此所(このところ)へ来(きた)り永(なが)く夫婦(ふうふ)の契(ちぎ)
りをなすべし。暫時(しばし)の暇(いとま)をゆるし候へと言(いひ)ければ。女が曰(いはく)。のたまふ所 理(ことは)りながら。此所(こゝ)は蓬莱(ほうらい)
の都(みやこ)とて容易(たやすく)人間(にんげん)の来(きた)る事 能(あた)はざる仙境(せんけう)なり。然(しかれ)ども君(きみ)は隠徳(いんとく)によりて妾(わらは)此都(このみやこ)
へ伴(ともな)ひ進(まいら)せたり。今は故郷(ふるさと)の事を思(おもひ)捨(すて)て此(この)宮中(きうちう)に留(とゞま)り妾(わらは)と長(とこしな)へに契(ちぎり)をなし給へと諫(いさめ)
留(とゞ)めけれども。浦島(うらしま)は只管(ひたすら)故郷(こけう)を思(おも)ふ念(ねん)禁(きん)じがたく。強(しい)て暇(いとま)を望(のぞみ)けるゆへ。女も為方(せんかた)なく
一ツの手筥(てばこ)を採出(とりいだ)して浦島(うらしま)に与(あた)へて曰(いはく)。是(こ)は玉手筥(たまてばこ)と号(なづけ)て此都(このみやこ)に二ツとなき宝(たから)にてはべり
是(これ)を御 身(み)に進(まい)らせ候あいだ携(たづさ)へて古郷(ふるさと)へ帰(かへ)り。再(ふたゝ)び此都(このみやこ)へ来(きた)り給へ。決(けつ)して此(この)筥(はこ)の蓋(ふた)を
開(ひらき)給ふ事 勿(なか)れ。もし過(あやま)つて蓋(ふた)を開(あけ)玉はゞ再(ふたゝ)び此所(このところ)へ帰(かへ)り給ふ事 能(あた)はず。却(かへつ)て御 身(み)に大
なる禍(わざはひ)あるべし。能々(よく〳〵)慎(つゝし)み努々(ゆめ〳〵)此(この)詞(ことば)を忘(わす)れ給ふなとくれ〴〵と言(いひ)教(をしへ)ければ。浦島(うらしま)諾(うべな)いて
玉手筥(たまてばこ)を受収(うけおさ)め多(おほ)くの侍女(こしもと)們(ら)に送られて海岸(かいがん)にいたり。衆(もろ〳〵)の女の教(をしへ)にまかせ。又 目(め)を
閉(とぢ)て何(なに)にか乗(の)り海中(かいちう)を渡(わた)るとおもふ事 須臾(しばらく)にして岸(きし)に着(つき)たり。此時(このとき)陸(くが)に上り目(め)を開(ひらき)

【右丁】
         乙姫
龍宮
         浦しま太郎

【左丁 囲み記事】
浦島(うらしま)
 蓬莱(ほうらい)に
  至(いた)り
遊宴(ゆうえん)歓楽(くわんらく)
 を極(きは)むる

て見れば乗(のつ)たる船(ふね)と思(おもひ)しは大なる亀(かめ)にて。其儘(そのまゝ)海底(かいてい)に沈(しづ)み行方(ゆくへ)しれずぞなりにける
浦島(うらしま)奇異(きい)のおもひをなし。土地(とち)の野山(のやま)を見れば故郷(こけう)管(つゝ)の浦(うら)なりけるゆへ心 安堵(おちゐ)て我(わが)
家(や)へ往(ゆき)て見るに家(いへ)の建(たて)ざま異(かは)りて不知(しらぬ)人(ひと)の住(すむ)体(てい)なり。偖(さて)は三年(みとせ)が程(ほど)帰(かへ)らざりしゆへ
に他人(たにん)の住(すむ)なるべし。さらば親族(しんぞく)何某(なにがし)の方(かた)へ往(ゆか)めと其家(そのいへ)へ往(ゆき)見れば。是(これ)も家造(やづくり)有(あり)しに
変(かは)りて住人(すむひと)も異(こと)なり。是(こ)は如何(いかに)とて又 余(ほか)の親類(しんるい)朋友(ほういう)の家(いへ)を尋(たづね)往(ゆけ)ども悉(こと〴〵)く家居(いへゐ)の
さま変(かは)り尋(たづぬ)る人は在(あら)ざるゆへ余(あまり)の不審(ふしん)さに地方(ところ)の人に如此々々(かやう〳〵)の人や有(ある)と尋(たづぬ)れども
更(さら)に不知(しらず)と答(こたふ)。また余人(よじん)に問(とへ)ども同(おな)じく不知(しらざる)よしなれば。倍(ます〳〵)心得(こゝろえ)がたく一村(ひとむら)の人 毎(ごと)に尋(たづぬ)れ
ども知(しり)たる者一人もなきに。杖(つえ)にすがりて腰(こし)二重(ふたえ)になりたる八旬(はちじう)ばかりなる翁(おきな)の来(きた)りける
ゆへ浦島(うらしま)其(その)翁(おきな)を呼(よび)とめ。此所(このところ)に水江(みづえ)の浦島(うらしま)某(それがし)の親族(しんぞく)なる者(もの)を知(しら)れずやと問(とひ)けるに
翁(おきな)不審(いぶかし)げなる面色(おもゝち)にて浦島(うらしま)を左見右見(とみかうみ)奇(めづら)しき事を問(とは)るゝかな。我們(われら)が幼(いとけな)き頃(ころ)祖(ぢ)
父(い)なる者の話(はなし)に。遙(はるか)昔(むかし)此(この)管(つゝ)の浦(うら)の水江(みづえ)てふ所(ところ)に浦島(うらしま)某(なにがし)といふ漁夫(りようし)有(あり)しに一夜(あるよ)何国(いづく)

ともなく出行(いでゆき)其儘(そのまゝ)にて不帰(かへらず)親類(しんるい)朋友(ともだち)十日余(とふかあまり)も所々(しよ〳〵)方々(はう〴〵)を尋(たづね)けれども所在(ありか)しれず
夜鉤(よづり)【鈎は俗字】に出(いで)て悪魚(あくぎよ)にとられしか。難風(なんふう)にて異国(ことくにへ)吹流(ふきなか)されしものならんとて偖(さて)止(やみ)けりと。古(こ)
老(らう)の物語(ものがたり)に言伝(いひつたへ)たりと言(いは)れしが。其時(そのとき)よりさへ七十 余年(よねん)を経(へ)たり。然(しかれ)ば彼(かの)浦島(うらしま)が行方(ゆきがた)
しらずなりしは何百年(なんびやくねん)昔(むかし)の事とも計(はかり)しられず。其許(そこもと)は何(なに)ゆへさる往古(おほむかし)の事を問(とは)るゝやと言(いひ)
けるにぞ。浦島(うらしま)聞(きい)て以(もつて)の外(ほか)に駭(おどろ)き。我(われ)こそ其(その)水江(みづえ)の浦島(うらしま)候よ。一夜(あるよ)一人の美女(びぢよ)来(きた)り如此々々(かやう〳〵と)
言(いひ)しゆへ伴(ともな)はれて蓬莱(ほうらい)の都(みやこ)とやらんへ到(いた)り凡(およそ)三年(みとせ)が程(ほど)彼所(かしこ)に在(あり)しが。余(あま)り故郷(こけう)のなつか
しく。今 蓬莱(ほうらい)より立帰(たちかへり)たるに。御身(おんみ)の物語(ものがたり)にては数(す)百年 昔(むかし)の事とや。是(こ)は何(いか)なる事ぞ
更(さら)に不審(ふしん)はれずと。猶(なを)翁(おきな)に根問(ねどひ)葉問(はどひ)すれども。同(おな)じ答(こたへ)なれば為方(せんかた)なく。素(もとよ)り親類(しんるい)の端(はし)
も無(な)ければ。誰(たれ)にたよらん方(かた)もなく。今は旧(もと)の蓬莱宮(ほうらいきう)へ還(かへ)らんと思(おも)へども。何方(いづれ)の路(みち)より往(ゆく)ぞ
とも弁(わきま)へざれば。彼方(かなた)へ走(はし)り此方(こなた)へ戻(もど)り。只(たゞ)忙然(ぼうぜん)として心も空(そら)になり放心(きぬけ)せしごとく。さしも仙(せん)
女(ぢよ)の誡(いましめ)をも打忘(うちわす)れ。懐中(くわいちう)より彼(かの)玉手筥(たまてばこ)をとり出(いだ)し蓋(ふた)を開(ひら)き見れば。内(うち)より煙(けふり)の如(ごと)き白(はく)

気(き)空(そら)へ立昇(たちのぼる)と等(ひとし)く。今まで若(わか)く艶(つや)やかに見えし浦島(うらしま)忽(たちま)ち白髪(はくはつ)衰老(すいらう)の翁(おきな)と
変(へん)じ脚(あし)痿(なへ)腰(こし)痺(しびれ)て地上(ちじやう)へ噇(どう)ど仆(たを)れけるが。其(そのまゝ)朝日(あさひ)に雪(ゆき)の消(きゆ)るがごとく死(し)したり
けるぞ不測(ふしぎ)なりける。されば歌(うた)にも逢夜(あふよ)の明(あく)るを浦島(うらしま)が子(こ)の玉手(’たまてばこ)に寄(よせ)てあけて
悔(くや)しきなど詠(よめ)り。国初(こくしよ)より以来(このかた)いまだ例(ためし)なき奇事(きじ)なりけり。異国(いこく)にも是(これ)に似(に)たる事
あり。後漢(ごかん)の明帝(めいてい)の永平年中(えいへいねんぢう)に。揚州(ようしう)の剡県(せんけん)といふ所(ところ)に。劉晨(りうしん)。阮肇(げんでう)とて二人の者
あり。平日(つねに)相伴(あひともな)ふて山に入 薬草(やくさう)を採(とり)。市(いち)に売(うり)て産業(なりわひ)としけるが。一日(あるひ)両人(りようにん)例(れい)の如(ごと)く相(あひ)
伴(ともな)ひて台州府(たいしうふ)の天台山(てんだいさん)へ登(のぼ)り薬草(やくさう)【艸】を採(とり)けるに。奈何(いかゞ)しけん二人とも路(みち)に踏迷(ふみまよ)ひ往(ゆけ)ど
も〳〵本(もと)の路(みち)へ出(いで)ず。已(すで)に空腹(くうふく)に及(およ)びければ。桃(もゝ)の菓(み)を把(とり)て食(しよく)し少(すこ)し餓(うえ)を忘(わす)れ。㵎川(たにがは)へ
下(お)り水を手(て)に掬(すくひ)て飲(のみ)けるに。㵎河(たにがは)の水源(みなかみ)より一枚(ひとつ)の卮(さかづき)【巵は俗字】流(ながれ)きたりけるゆへ。二人 相語(あひかたつ)て曰(いはく)
此(この)卮(さかづき)の流来(ながれきたる)を以(もつ)て推量(おしはかれ)ば人里(ひとざと)ありと覚(おぼ)ゆ。いざや其(その)里(ところ)へ往(ゆき)て食(しよく)をも乞(こひ)路(みち)を尋(たづね)んと
打連(うちつれ)て流(ながれ)に添(そひ)尋(たづね)往(ゆき)けるに。漸(よふや)く一 里(り)許(ばかり)過(すぐ)れば聳(そびへ)たる巌(いはほ)有(あり)けるゆへ。其(その)巌(いはほ)を挙(よぢ)

登(のぼ)り山を越(こへ)往(ゆけ)ば大いなる渓間(たにま)へ出(いで)たり然(しか)る所(ところ)に風姿(すがた)嬋娟(たをやか)なる女二人 出来(いできた)り徐(しづか)に劉(りう)
晨(しん)。阮肇(けんでう)に向(むか)ひ旧識(なじみ)のごとく馴々(なれ〳〵)しく詞(ことば)をかけ。二人が名(な)を呼(よび)て君等(きみたち)は何(なに)ゆへ来(きた)り玉ふ
事の遅(おそ)かりしや。疾々(とく〳〵)妾(わらは)が家(いへ)へ来(きた)り給へとて二人を誘(いざな)ひけるゆへ。二人は路(みち)を問(とは)んと心 悦(よろこ)び
女に従(したが)ひ往(ゆく)に。程(ほど)なく巍々(ぎゝ)たる大廈(たいか)にいたり。女の引路(あなひ)に就(つき)て屋中(いへのうち)に入て見るに室中(しつちう)
の結構(けつかう)珠玉(しゆぎよく)を磨(みが)き錦繍(きんしう)【綉は俗字】目(め)も文(あや)なりければ。両人(りようにん)頗(すこぶ)る心に駭(おどろ)く内(うち)数多(あまた)の侍女(こしもと)
各(おの〳〵)羅綾(られう)の袂(たもと)を列(つら)ねて杯盤(はいばん)を捧(さゝ)げ出(いで)。酒宴(しゆえん)を促(うなが)し胡麻飯(ごまはん)を勧(すゝめ)ける両人(りようにん)酒(さけ)を
飲(のみ)胡麻飯(ごまはん)を食(しよく)するに何(いづ)れも甘美(かんび)なる事 言語(ごんご)に絶(ぜつ)したり。かゝる所(ところ)に又 錦繍(きんしう)【綉は俗字】の
衣裳(いせう)を着飾(きかざり)たる仙女(せんぢよ)多(おほ)く入来(いりきた)り女婿(むこぎみ)を慶賀(よろこび)すとて玉(たま)の器(うつわ)に桃実(もゝのみ)李菓(すもゝ)を
盛(もり)て贈(おく)り倶(とも)に酒宴(しゆえん)をなし。琵琶(びは)を弾(しらべ)琴(こと)を皷(ひき)或(あるひ)は諷(うた)ひ或は舞(まひ)て日の夕陽(せきやう)に傾(かたむ)く
まで興(けう)じ楽(たのし)み女客(をんなぎやく)は皆(もな)醉(ゑひ)を尽(ちく)して帰去(かへりさり)ければ。二人の仙女(せんぢよ)は劉晨(りうしん)。阮肇(げんてう)を錦(きん)
帳(てう)の内(うち)へ伴(ともな)ひて夫婦(ふうふ)の交(まじは)りをなし。是(これ)より日々(にち〳〵)百般(さま〴〵)の珍味(ちんみ)に飽(あか)し種々(いろ〳〵)の技芸(げい)を

なして両人(りようにん)を慰(なぐさ)めけるゆへ。二人は遊興(ゆうけう)に余年(よねん)を忘(わす)れ思(おも)はず半年(はんねん)ばかり逗留(たうりう)
しけるに常(つね)に三月 比(ごろ)のごとく更(さらに)寒(さむ)からず暑(あつ)からず。また哀愁(かなしみうれふ)る事もなく恐懼(おそれおどろく)事
もなし。然(しかる)に一時(あるとき)両人とも故郷(こけう)の親(おや)兄弟(きやうだい)の待(まち)わびん事をおもひ一度(ひとたび)故里(ふるさと)へ帰(かへ)り
たきよし望(のぞみ)けるに。二女が曰(いはく)君等(きみたち)前世(ぜんせ)の冥福(みやうふく)に因(よつ)てかゝる仙竟(せんけう)へ来(きた)る事を得(え)給ふは
再(また)なき幸福(さいはひ)なり故郷(ふるさと)の事を思(おも)はず永(なが)く這里(このところ)に居(ゐ)給へと詞(ことば)を竭(つく)して抑留(おさへとゞめ)けれ
ども。両人(りようにん)は頻(しきり)に故郷(こけう)恋(こひ)しくおもひ。強(しい)て辞(いとま)を乞(こひ)けるゆへ。二女(にぢよ)歎息(たんそく)し公等(きみたち)未(いま)
だ塵世(ぢんせ)の俗(ぞく)根滅(こんめつ)せず再(ふたゝ)び汚濁(おぢよく)の人間界(にんげんかい)へ帰(かへら)ん事を欲(ほつ)するは為方(せんかた)なしとて
よふ〳〵に承諾(せうだく)し。諸(もろ〳〵)の仙女(せんぢよ)を呼(よび)集(あつめ)て大いに酒宴(しゆえん)をなし。別(わかれの)杯(さかづき)を汲(くみ)かはし音楽(おんがく)歌(か)
舞(ぶ)をなして後(のち)。二人を門外(もんぐわい)へ送(おく)り出(いだ)し帰(かへ)るべき路(みち)を精(くはし)く教示(をしへしめ)しけるゆへ両人 悦(よろこ)び
教(をしへ)のごとく行(ゆく)に果(はた)して常(つね)に通(かよ)ひし路(みち)へ出(いで)己々(おのれ〳〵)が家路(いへぢ)へ帰(かへり)見るに。家(いへ)のさま有(あり)しに
は違(たが)ひ。万事(ばんじ)目馴(めなれ)ぬ事(こと)のみなれば。不審(いぶかり)ながら我家(わがや)とおもふ屋(いへ)へ立入(たちいり)見るに不知(しらぬ)人(ひと)

にて取敢(とりあへ)ねば為方(せんかた)なくて立出(たちいで)所々(しよ〳〵)を尋(たづね)さまよひ漸(よふ〳〵)七世(ひちせ)の孫(まご)に尋(たづね)あたりて事(こと)
問(とふ)に。其者(そのもの)が曰。昔(むかし)先祖(せんぞ)なる者 天台山(てんだいさん)に入て薬(くすり)を採(とり)しに其儘(そのまゝ)帰(かへら)ずと聞(きけ)り。今
よりは二百 余年(よねん)昔(むかし)の事なりと語(かたり)けるにぞ。劉晨(りうしん)阮肇(げんでう)駭然(がいぜん)として大いに驚(おどろ)き忽(たちま)
ち緑(みどり)の髪(かみ)も白髪(はくはつ)となり若(わか)やかなりし面(おもて)も老翁(らうおう)と変(へん)じ。両人(りようにん)とも地(ち)に仆(たほれ)て泣(なき)悲(かなし)
みけるが其後(そのゝち)行方(ゆきがた)しれずなりけるとぞ。是(これ)誠(まこと)に倭国(わこく)の浦島(うらしま)と同日(どうじつ)の談(だん)にて
和漢(わかん)とも怪(あや)しき事も絶(たへ)てなしとも言(いひ)がたかりけり
    仁明天皇(にんめうてんわう)御即位(ごそくゐ)大礼(たいれい)  小野篁(をのゝたかむら)流罪(るざい)の条(こと)
天長(てんてう)十年二月 淳和(じゆんわ)天皇 帝位(みくらゐ)を春宮(とうぐう)正良親王(まさよししんわう)に譲(ゆづ)らせ給ひ。御 身(み)は西院(さいいん)に
遷(うつ)り住(すま)せ玉へり。正良親王(まさよししんわう)登極(とうきよく)し給ひ此君(このきみ)を仁明(にんめう)天皇と申(まうし)奉(たてまつ)る是(これ)嵯峨(さが)天
皇(わう)第(だい)二の皇子(みこ)にて。御 母(はゝ)は檀林皇后(だんりんかうごう)嘉智子(かちし)とて橘諸兄(たちばなのもろえ)卿(けう)の苗裔(べうえい)太政大臣(だじやうだいじん)
清友(きよとも)公(こう)の御 女(むすめ)なり。先帝(せんてい)《割書:淳|和》の皇子(わうじ)恒貞親王(つねさだしんわう)を春宮(とうぐう)に立(たて)給ひ。嵯峨(さが)天皇を前(さきの)

太上(だじやう)天皇と申 淳和(じゆんわ)天皇を後(のち)の太上(だじやう)天皇と崇(あがめ)奉り給ふ。左大臣(さだいじん)藤原緒嗣(ふぢはらのをつぎ)右大(うだい)
臣(じん)清原夏野(きよはらのなつの)両公(りようこう)万機(ばんき)の政(まつりごと)を補佐(ほさ)し奉り。天皇の外舅(ぐわいきう)参議(さんぎ)橘氏公(たちばなのうじとも)卿(けう)右大将(うだいせう)
を兼(かね)て武宦(ぶくわん)を掌(つかさ)どらる。天長(てんてう)十一年 大嘗会(だいぜうゑ)を行(おこな)はれ。悠紀殿(ゆきでん)。主基殿(すきでん)の旗(はた)の
紋(もん)に梧桐鳳凰(きりにほうわう)日月慶雲(じつげつけいうん)西王母(せいわうぼ)の桃(もゝ)連理(れんり)の呉竹(くれたけ)麒麟(きりん)亀龍(きりよう)の飾(かざり)鮮明(あざやか)に
大礼(たいれい)の儀式(ぎしき)殊更(ことさら)厳重(げんぢう)に執行(とりおこな)はせ給ひけり。其年(そのとし)の冬(ふゆ)初(はじめ)て撿非違使(けびゐし)の庁(てう)を置(おか)
れ参議(さんぎ)文屋秋津(ぶんやのあきつ)を別当(べつとう)となし給ふ。是(これ)漢土(もろこし)の例(れい)に准(なぞら)はせ給ふなり。此職(このしよく)は非常(ひじやう)
を誡(いまし)め正法(せいほふ)に背(そむ)く族(やから)を穿鑿(せんさく)し糺(たゞ)す役(やく)なり。漢土(かんど)唐虞(とうぐ)の世(よ)には理宦(りくわん)と云(いひ)周(しう)には
大司寇(たいしかう)【𡨥は俗字】と云。秦(しん)には廷尉(ていゐ)と云。漢には大理(たいり)と云。隋(ずい)には大理寺(たいりじ)と称(しやう)し。唐(とう)の世(よ)にもまた大
理寺(りじ)云(いへ)り。皆(みな)吾朝(わがてう)の撿非違使(けびゐし)と一般(おなじこと)なり。後年(こうねん)朝廷(てうてい)次第(しだい)に此職(このしよく)重(おも)くなりて
左京(さきやう)右京(うきやう)の大夫(だいぶ)是(これ)を掌(つかさど)り。京中(きやうぢう)宅地(たくち)の事も弾正台(だんじやうたい)の掌(つかさど)る不法(ふほふ)糾断(きうだん)の事も刑(ぎやう)
部省(ぶせう)の掌(つかさど)る訴訟(そしやう)判断(はんだん)断獄(だんごく)刑罰(けいばつ)の事も左右(さいう)衛門府(ゑもんのふ)の掌(つかさど)る悪党(あくとふ)追捕(つひほ)の役(やく)

も皆(みな)合(あは)せて撿非違使(けびゐし)是(これ)を掌(つかさど)るやうに成行(なりゆき)歴代(れきだい)重職(ちようしよく)とす。撿非違使(けびゐし)の下(した)に看(か)
督長(とのおさ)といふ役(やく)を六十六人に命(あふせ)て六十六ヶ国(こく)へ一人ヅヽ分(わか)ち遣(つか)はされ其(その)国々(くに〴〵)の非法(ひほふ)を糺(きう)
明(めい)させ給へり。是(こ)は且(しばら)く於(おき)。天長(てんてう)十一年に改元(かいげん)ありて承和(しやうわ)元年とぞ申ける。其(その)正月七日に
豊楽殿(ぶらくでん)にて初(はじめ)て白馬(はくば)の節会(せちゑ)を行(おこな)はる是(これ)より永世(えいせい)恒例(がうれい)となれり。同三年二月 遣唐(けんとう)
使(し)を渡(わた)されんとて其人(そのひと)を選挙(えらみあげ)給ひ。正使(せいし)は藤原常嗣(ふぢはらのつねつぐ)副使(ふくし)は学士(がくし)小野篁(をのゝたかむら)と定(さだ)め
玉ふ。則(すなは)ち常嗣(つねつぐ)篁(たかむら)を紫宸殿(ししんでん)へ召(めさ)れて御宴(ぎよえん)を賜(たま)はり。時(とき)の文人(ぶんじん)詩客(しかく)に命(あふせ)て餞別(せんべつ)
の詩文(しぶん)を作(つくら)せられ忝(かたしけな)くも両(りよう)遣唐使(けんとうし)に天杯(てんはい)を下(くだ)され。砂金(しやきん)絹布(けんふ)等(とう)を給はりけり。此(この)とき
往昔(いにしへ)より入唐(につとう)し彼地(かのち)にて死没(しもつ)せし輩(ともがら)八人に各(おの〳〵)位階(ゐかい)を贈(おくり)玉へり。其(その)輩(ともがら)は藤原清川(ふぢはらのきよかは)。
安部仲丸(あべのなかまる)。石川道益(いしかはみちます)。紀馬主(きのうまぬし)。甘南備言影(かんなびときかげ)。紀三演(きのみつのぶ)。掃守宿祢明(かもりのすくねあかし)。田口年富(たぐちとしとみ)以上(いぜう)八
人なり。斯(かく)て常嗣(つねつぐ)篁(たかむら)御 暇(いとま)給(たま)はりて退出(たいしゆつ)し各(おの〳〵)旅装(たびよそひ)を整(とゝのへ)て承和(しやうわ)三年四月に都(みやこ)を
啓行(かしまだち)しけるが。小野篁(をのゝたかむら)は当時(とうじ)双(ならび)なき博学(はくがく)俊才(しゆんさい)の人にて。殊(こと)に詩歌(しいか)の達人(たつじん)なれば

今度(このたび)の遣唐使(けんとうし)の正使(せいし)は我(われ)こそと思(おも)はれけるに。藤原常嗣(ふぢはらのつねつぐ)は家系(かけい)正(たゞ)しく富貴(ふうき)の人なれ
ば朝廷(てうてい)の宦人(くわんにん)多(おほ)く賄賂(まいない)を得(え)て君(きみ)へよきやうに奏(そう)しけるゆへ正使(せいし)に定(さだ)めけるを篁(たかむら)心中(しんちう)に
不平(ふへい)の思(おもひ)を懐(いだ)き常嗣(つねつぐ)の下風(かふう)に立(たつ)を快(こゝろよ)からずおもふと雖(いへども)【虽は略字】已(すで)に勅命(ちよくめい)下(くだ)りし上は力(ちから)なく不(ふ)
本意(ほんい)ながら倶(とも)に発足(ほつそく)して同七月 筑前国(ちくぜんのくに)松浦(まつら)に着(つき)乗船(じやうせん)して纜(ともづな)を解(とき)けるに。海(かい)
上(しやう)へ乗出(のりいだ)し幾干(いくばく)も行(ゆか)ずして俄(にはか)に風(かぜ)変(かは)り逆浪(さかなみ)起(おこ)つて正使(せいし)副使(ふくし)判官(はんぐわん)録事(ろくじ)四 艘(そう)の
船(ふね)を淘上(ゆりあげ)淘下(ゆりおろ)し就中(なかんづく)正使(せいし)常嗣(つねつぐ)の船(ふね)は檣(ほばしら)折(をれ)楫(かぢ)摧(くだけ)あはや覆(くつがへ)らんとせしを船子(ふなこ)ども
命(いのち)を拋(なげうつ)て働(はたら)きよふ〳〵旧(もと)の礒(いそ)へ乗着(のりつけ)けり。残(のこ)る三 艘(ぞう)の船(ふね)も辛(から)うして風難(ふうなん)を免(まぬか)れ港(みなと)
へ吹戻(ふきもど)されけるが。四 艘(そう)とも大いに破損(はそん)しければ。斯(かく)ては入唐(につとう)せん事 叶(かな)はず一旦(ひとまづ)帰京(ききやう)すべし
とて遣唐使(けんとうし)四人いづれも都(みやこ)へ還(かへ)り上(のぼ)り破船(はせん)のおもむきを睿聞(ゑいぶん)に達(たつ)しければ今年(ことし)は
はや年(とし)の暮(くれ)近(ちか)く寒冷(かんれい)の砌(みぎり)なれば入唐(につとう)の義(ぎ)延引(えんいん)すべしと仰(あふ)せ付(つけ)られける。偖(さて)其(その)
翌年(よくねん)《割書:承和|四年》三月 再(ふたゝ)び勅命(ちよくめい)下(くだ)りけるゆへ遣唐使(けんとうし)の面々(めん〳〵)都(みやこ)を立(たつ)て太宰府(だざいふ)へくだり

破船(はせん)の修覆(つくろひ)も整(とゝの)ひければ各(おの〳〵)乗船(ぜうせん)しけるに。其期(そのご)に及(およ)び常嗣(つねつぐ)の船(ふね)は去年(きよねん)難風(なんふう)の節(せつ)
大いに破損(はそん)しけるゆへ。修覆(しゆふく)は加(くはへ)たれども猶(なを)海上(かいせう)にて過(あやま)ち有(あら)ん事を危(あや)ぶみ。篁(たかむら)の船(ふね)を
俄(にはか)に正使(せいし)の船(ふね)とし正使(せいし)の船(ふね)を副使(ふくし)の船(ふね)としければ。篁(たかむら)心中(しんちう)大いに憤(いきどふ)り。常嗣(つねつぐ)が我(わが)
意(まゝ)の行条(ふるまひ)を悪(にく)み。素(もとより)快(こゝろよ)からぬ中なれば。急(きう)に病気(びやうき)と称(しやう)して乗船(じやうせん)せず都(みゃこ)へ還(かへ)りける
にぞ。常嗣(つねつぐ)は已(すで)に出船(しゆつせん)の期(ご)に臨(のぞみ)たれば。篁(たかむら)の代(かへり)を都(みやこ)へ申 下(くだ)さんも迂(まはり)遠(どふし)とて。従事(じふじ)判(はん)
宦(ぐわん)を副使(ふくし)として出帆(しゆつばん)せられけり。此時(このとき)睿山(ゑいざん)の僧(そう)円仁(ゑんにん)も《割書:後に慈(じ)|覚(か[く])大師》同船(どうせん)して入唐(につとう)せられける
去程(さるほど)に小野篁(をのゝたかむら)は帰京(ききやう)して私宅(したく)に閉居(へいきよ)し。西道謡(さいどうよう)と題号(だいがう)せし文章(ぶんしやう)を綴(つゞ)りて常(つね)
嗣(つぐ)の行条(ぎやうでう)を誹謗(ひはう)しけるに。其文(そのぶん)の中に朝廷(てうてい)を軽(かろ)んずる文意(ぶんい)有(あり)ければ。嵯峨上皇(さがのじやうかう)大
いに逆鱗(げきりん)在(ましま)し使庁(しのてう)に命(めいじ)て篁(たかむら)を召捕(めしとら)せ給ひ。其罪(そのつみ)を緊(きびし)く糾明(きうめい)させ給ふに。篁(たかむら)陳(いひ)
謝(ひらき)の詞(ことば)なく罪(つみ)に伏(ふく)しけり。是(これ)に依(よつ)て死刑(しけい)にも行(おこな)はせ玉ふべきなれども流石(さすが)博識(はくがく)多(た)
能(のふ)の上 筆道(ひつどう)の達者(たつしや)詩哥(しいか)の名人(めいじん)なればとて。死罪(しざい)一 等(とう)を宥(なだめ)られ承和(しやうわ)五年十一月 隠(お)

岐国(きのくに)へぞ流罪(るざい)に行(おこな)はれける。篁(たかむら)京師(みやこ)を出(いで)て物憂(ものうき)配所(はいしよ)へ赴(おもむ)く途中(とちう)にて謫行(てきかう)【ママ】の吟(ぎん)七
十 韻(いん)を賦(ふ)し。出雲路(いづもぢ)より船(ふね)にて隠岐国(おきのくに)へ渡(わたり)けるが。船中(せんちう)にて一 首(しゆ)の和哥(わか)を吟(ぎん)じ
都(みやこ)の友人(ゆうじん)のもとへ遣(つかは)しける其(その)哥(うた)に曰
  和田(わだ)のはら八十島(やそしま)かけて漕出(こぎいで)ぬと人には告(つげ)よ海士(あま)のつり船(ふね)
斯(かく)て隠岐(おき)の配所(はいしよ)に著(つき)憂(うき)島守(しまもり)となりて日を送(おく)りける徒然(つれ〴〵)に
  おもひきや鄙(ひな)のわかれにおとろへて海士(あま)の縄(なは)たき漁(いさり)せんとは
など打歎(うちなげ)きて配所(はいしよ)に明(あか)し暮(くら)しけるに。承和(しやうわ)七年二月 都(みやこ)より流罪(るざい)恩免(おんめん)の宣旨(せんじ)
を下されけるゆへ。篁(たかむら)大いに怡(よろこ)び同六月 帰洛(きらく)し参内(さんだい)して流罪(るざい)御 免(めん)の御 礼(れい)を申上
奉られける同八年の七月 本爵(もとのくらゐ)《割書:正五|位下》に復(かへ)され。同九年六月 陸奥(むつのく)の守護(しゆご)に任(にん)ぜられ
同八月 都(みやこ)へ還(かへ)り春宮(とうぐう)の学士(がくし)となり式部(しきぶ)の少輔(せうゆう)を兼(かね)。同十二年正月 従(じふ)四 位下(ゐのげ)を授(さづか)
り同十四年正月 参議(さんぎ)に叙(じよ)せられ。嘉祥(かじやう)元年 信濃守(しなのゝかみ)を兼(かね)仁寿(にんじゆ)元年の春 近(あふ)

江守(みのかみ)を授(さづけ)らる。時(とき)に篁(たかむら)病(やまひ)に臥(ふし)て参内(さんだい)する事 能(あたは)ざりければ。文徳(もんとく)天皇 深(ふか)く矜(あは)
憐(れみ)給ひ。婁(しば〳〵)勅使(ちよくし)を以(もつ)て病(やまひ)を訪(とは)せ給ひ。金銭(きんせん)米穀(べいこく)を給(たま)はり。其年(そのとし)の十月 疾病(やまひ)
いまだ瘳(いえ)ざるゆへに勅使(ちよくし)を以(もつ)て従三位(じふさんみ)を授(さづけ)たまひ。仁寿(にんじゆ)二年十二月 遂(つひ)に病死(びやうし)せ
り寿(ことぶき)五十一 歳(さい)なり。上(かみ)天子(てんし)より下(しも)庶民(しよみん)にいたるまで其(その)秀才(しうさい)を惜(をし)まざるはなかりけり。抑(そも〳〵)
篁(たかむら)は敏達(びたつ)天皇の苗裔(べうえい)参議(さんぎ)正四位下(しやうしゐのげ)岑守(みねもり)の嫡男(ちやくなん)たり。岑守(みねもり)弘仁(かうにん)の初(はじめ)に陸(む)
奥守(つのかみ)に任(にん)ぜられて奥州(おうしう)へ下(くだ)りける折(をり)篁(たかむら)も父(ちゝ)に従(したが)ひ下りけるが。岑守(みねもり)任(にん)満(みち)て都(みやこ)へ
帰(かへる)におよびて篁(たかむら)学業(がくぎやう)を好(この)まず弓馬(きうば)の技(わざ)をのみ励(はげ)み学(まなび)ければ。嵯峨(さが)天皇 聞(きこし)食(めし)
你(なんじ)博学(はくがく)の岑守(みねもり)が子(こ)として学業(がくぎやう)を勉(つとめ)ず却(かへつ)て弓馬(きうば)の士(し)となるは奈何(いかに)と難(なん)じ玉
ひけるにぞ。篁(たかむら)勅言(ちよくげん)に深(ふか)く慚(はぢ)て初(はじめ)て学(がく)に志(こゝろざ)しけるに。天性(てんせい)の秀才(しうさい)なれば追々(おひ〳〵)学(がく)
業(ぎやう)上達(しやうたつ)し。弘仁(かうにん)十三年に甲科(かうくわ)の及第(きうだい)し。天長(てんてう)十年 春宮(とうぐう)の学士(がくし)となれり。元来(ぐわんらい)篁(たかむら)は
其(その)才(さい)衆(しゆう)に勝(すぐ)れ。手跡(しゆせき)を習(ならふ)に其(その)師(し)より遙(はるか)に勝(まさ)る筆勢(ひつせい)を顕(あらは)し。文字(もんじ)を読(よむ)に教(をしへ)を

待(また)ずしてよく其(その)音訓(おんくん)を弁(べん)ず。篁(たかむら)いまだ十才の頃(ころ)或人(あるひと)其(その)才(さい)を試(こゝろみ)んとて子(し)の字(じ)十 字(じ)
書(かき)て。是(これ)は何(なに)と訓(よむ)べきやと問(とひ)けるに。篁 少(すこし)も思惟(しあん)する体(てい)もなく子子(ねこの)子(この)子子子(こねこ)子子(しゝの)子(この)
子子子(こじし)を訓(よみ)ければ其人(そのひと)驚歎(きやうたん)し此児(このじ)後年(こうねん)必(かなら)ず天下(てんか)の博士(はかせ)と成(なる)へしと舌(した)を捲(まい)て怕(おそ)れ
けるとなり。果(はた)して其(その)詞(ことば)のごとく成長(ひとゝなり)て博学(はくがく)能書(のふじよ)の誉(ほまれ)高(たか)し。一時(あるとき)篁(たかむら)一睡(いつすい)の夢(ゆめ)の内(うち)
に一 位(にん)の宦人(くわんにん)来(きた)り篁(たかむら)に向(むかひ)て曰。我(われ)は冥府(めいふ)の焰魔大王(ゑんまだいわう)【焔は俗字】の臣(しん)なり。我王(わがわう)新(あらた)に額(かく)を造(つく)り
公(きみ)を請(しやう)じて額面(がくめん)の書(しよ)を乞(こは)んとす。願(ねがは)くは労(らう)を辞(じ)せず来駕(らいが)なし給へと促(うなが)しけるゆへ
篁(たかむら)諾(だく)して宦人(くわんにん)に従(したが)ひ冥府(めいふ)に到(いた)り。森羅殿(しんらでん)に昇(のぼり)て焰魔王(ゑんまわう)【焔は俗字】に謁(えつ)し。其(その)需(もとめ)に応(おう)じて
額(がく)を書(かく)と見て夢(ゆめ)覚(さめ)たり。篁(たかむら)奇異(きい)の夢(ゆめ)を見けるかなとおもふ所(ところ)に。朱雀(しゆしやく)なる焰魔堂(ゑんまどう)
の住僧(ぢうそう)一 面(めん)の額(がく)を持来(もちきた)りて書(しよ)を乞(こひ)けるにぞ篁(たかむら)不思議(ふしぎ)に思(おも)ひ即(すなは)ち書(かき)て与(あたへ)けると
ぞ。元享釈書(けんかうしやくしよ)には此義(このぎ)を付会(ふくわい)して小野篁(おのゝたかむら)は千 本(ぼん)の焰魔堂(ゑんまどう)より冥途(めいど)へ通(かよ)へりと書(かけ)
り其実(そのじつ)は右に述(のぶ)るが如(ごと)し。是(これ)しかしながら篁(たかむら)の手跡(しゆせき)を鬼神(きしん)も感(かん)ぜし証(しるし)なるべし

又 世上(せじやう)に篁(たかむら)の歌字(うたじ)尽(づくし)といへる書(しよ)あるは子子子(ねこのこの)子子子(こねこ)と訓(よみ)しに思(おもひ)寄(よせ)て後人(こうじん)の
偽作(ぎさく)せし物(もの)なるべし。篁(たかむら)の作(さく)とは思(おも)はれぬ俗字(ぞくじ)多(おほ)し。然(しかれ)ども是(これ)また容易(ようい)の案(あん)に
あらず。日本地理志(につほんちりし)に曰。小野篁(をのゝたかむら)下野国(しもつけのくに)の任(にん)を蒙(かふむ)りて下(くだ)り住(ぢう)せし比(ころ)足利郷(あしかゞのさと)にて
国人(くにんど)に書経(しよけい)を教授(きやうじゆ)し孔子(かうし)の像(ぞう)を祭(まつり)しと。今の足利(あしかゞ)の学校(がくかう)は篁(たかむら)住居(ぢうきよ)の地(ち)なり
とぞ。又 文徳実録(もんとくじつろく)に篁(たかむら)は親(おや)に孝心(かうしん)深(ふか)かりし由(よし)を審(つまびらか)に載(のせ)たり。篁(たかむら)身材(みのたけ)六尺二
寸 弓馬(きうば)の道(みち)も暗(くら)からず頗(すこぶ)る勇敢(ゆうかん)の人にて。其(その)家(いへ)貧(まづ)しけれども栄利(えいり)を求(もと)めず
朝廷(てうてい)より金銀(きん〴〵)米穀(べいこく)を給(たま)はる時(とき)は親族(しんぞく)朋友(ほうゆう)の貧(まづし)き者(もの)に分(わか)ち与(あた)へ自己(みづから)清貧(せいひん)を楽(たのし)
み文章(ぶんしやう)詩歌(しいか)に懐(おもひ)を述(のべ)ぬ。誠(まこと)に吾朝(わがてう)の名士(めいし)儒臣(じゆしん)の最(さい)第(だい)一ともいふべき人傑(じんけつ)なり
しに惜(をしい)かな耳順(にじゆん)の齢(よはひ)をも待(また)ず逝去(せいきよ)せられし事 吁(あゝ)それ天(てん)か命(めい)か
    伊勢斎宮(いせのさいぐう)及(および)《振り仮名:建_二野々宮_一|のゝみやをたつる》  恒貞親王(つねさだしんわう)隠謀(いんばう)露顕(ろけんの)条(こと)
却説(かへつてとく)承和(しやうわ)元年八月 皇女(くわうによ)久子内親王(ひさこないしんわう)を以(もつ)て伊勢(いせ)の斎宮(さいぐう)に立(たて)玉ふべきよし勅詔(ちよくぜう)あり

【右丁】
小野(おのゝ)
 篁(たかむら)
夢(ゆめ)
 に

【左丁】
閻羅(えんら)
 王(わう)
  宮(きう)
   へ
 いた
   る

けり。抑(そも〳〵)勢州(せいしう)度会郡(わたらへこほり)五十鈴川(いすゞがは)の内宮(ないくう)御 鎮座(ちんざ)は人皇(にんわう)十一代 垂仁(すいにん)天皇二十五年三
月 初(はじめ)て天照皇太神(てんせうかうだいじん)の神霊(みたま)を鎮(しづめ)祭(まつ)らせ給ひ。皇女(ひめみこ)倭媛命(やまとひめのみこと)を以(もつ)て彼(かの)宮(みや)につかへ
奉(たてまつ)らせ給ふ。是(これ)を伊勢(いせ)の斎宮(さいぐう)と申せり。然(しかる)に其後(そのゝち)代々(よゝ)の帝(みかど)姫御子(ひめみこ)在(ましま)さず。或(あるひ)は
四海(しかい)穏(おだや)かならずして何(いつ)しか中絶(ちうぜつ)し。桓武(くわんむ)天皇の御宇(きよう)にいたり伊勢(いせ)の斎宮(さいぐう)を立(たて)まく思(おぼし)
召(めし)けれども。此(この)御代(みよ)にも遷都(みやこうつし)の事および朝廷(てうてい)の政務(まつりごと)繁(しげ)くして睿慮(ゑいりよ)に任(まか)せ玉はず
打過(うちすぎ)させ給ひ。其後(そのゝち)嵯峨(さが)天皇 平安城(へいあんじやう)万代(ばんだい)不易(ふえき)の祈祷(きとう)のため皇女(くわうによ)有智子内(うちしない)
親王(しんわう)を賀茂明神(かもみやうじん)へ初(はじめ)て斎院(さいいん)に立(たて)て神威(しんい)を仰(あふ)ぎ奉り給ひ。而(しかふ)して后(のち)伊勢斎宮(いせのさいぐう)
の義(ぎ)を頻(しきり)に御 沙汰(さた)ありけれども。時(とき)尚(なほ)いまだ至(いたら)ざるにや其(その)義(ぎ)を果(はた)し玉はず。然(しかる)
を淳和(じゆんわ)天皇 先帝(せんてい)の御 志(こゝろざし)を嗣(つが)せ給ひ。偖(さて)こそ久子内親王(ひさこないしんわう)を伊勢(いせ)の斎宮(さいぐう)に立(たて)
玉はんとの睿慮(ゑいりよ)定(さだ)まり給ひけり。是(これ)に依(よつ)て先(まづ)一千日 祓い(はらひ)させ玉はんとて。嵯峨野(さがの)に野々(の)
宮(みや)を立(たて)入(いれ)奉り給ふ。其(その)御 宮造(みやづくり)質素(しつそ)を本(もと)として黒木(くろぎ)の華表(とりゐ)小柴垣(をしばがき)を用(もち)ひられ御(ご)

殿(てん)も仮屋(かりや)に模(も)し汚穢(おゑ)不浄(ふじやう)を忌(いま)せ給ふ。唯(ゆい)一 不(ふ)二の神所(かみどころ)なれば内外(ないげ)七言(なゝこと)忌言(いみことば)
を定(さだ)め左右(さいう)に侍(はべ)る女宦(によくわん)にまで言習(いひならは)せ給ふ内七言(うちなゝこと)の忌言(いみことば)は
 仏(ほとけ) ̄ヲ中子(なかご) 経(きやう) ̄ヲ染紙(そめがみ) 塔(とふ) ̄ヲ あらゝぎ 寺(てら) ̄ヲ瓦葺(かはらぶき) 僧 ̄ヲ髪長(かみなが) 尼(あま) ̄ヲ女髪長(めかみなが)
 斎(とき) ̄ヲ片勝(かたじき)《割書:勝(じき)ハ猶《割書: |シ》|_レ食 ̄ノ》  外(そと)の七 言(こと)の忌言(いみことば)は 死(しぬる) ̄ヲ なほる 病(やまひ) ̄ヲ やすみ
 哭(なく) ̄ヲ しほたるゝ 血 ̄ヲ汗(あせ) 打(うつ) ̄ヲ撫(なでる) 肉(にく) ̄ヲ菌(くさびら) 墓(はか) ̄ヲ壌(つちくれ)
抑(そも〳〵)伊勢(いせ)の斎宮(さいぐう)賀茂(かも)の斎院(さいいん)等(とう)を神(かみ)の后(きさき)に立(たゝ)せ玉ふやうに思(おも)ふ人あれども左(さ)には非(あら)ず
是(これ)神(かみ)の侍従(じじふ)の義(ぎ)にて神明(しんめい)に奉公(みやづかへ)させ給ふ義(ぎ)なり。全(まつた)く国土安全(こくどあんせん)万民安穏(ばんみんあんおん)の祈(いのり)
の為(ため)なればいとも畏(かしこま)るべき御事なりけり。偖(さて)春秋(しゆんじふ)推移(おしうつ)り承和(しやうわ)も七年になりけるに
其年(そのとし)の五月 後太上(のちのだじやう)天皇《割書:淳|和》崩御(ほうぎよ)なし給ひけり。宝算(ほうさん)五十二才と聞(きこ)え給ふ此帝(このみかど)おり
ゐさせ給ひてより。淳和院(じゆんわいん)に住(すま)せ給ひしゆへ淳和(じゆんわ)天皇と御 謚(おくりな)し奉り玉へりそれ淳(じゆん)
和院(わいん)は大内(おおうち)の西(にし)に有(ある)を以(もつ)て西院(さいいん)ともいへり。依(よつ)て西院(さいゝん)の帝(みかど)と申奉り。伊勢物語(いせものがたり)にも西院(さいゝ[ん])

の帝(みかど)と書(かき)しは淳和天皇(じゆんわてんわう)の御事なり。桓武(くわんむ)天皇 平安城(へいあんじやう)を開(ひらき)給ひ大 内裡(だいり)を草創(さう〳〵)
し玉ひし時(とき)皇子(わうじ)公卿(こうけい)の子息(しそく)に学業(がくぎやう)を勤(つとめ)しめんため勧学院(くわんがくいん)を建(たて)給ひけるが。猶(なほ)
も後代(こうだい)勤学(きんがく)の便(たより)にとて大内(だいり)の東西(とうざい)に淳和院(じゆんわいん)奨学院(しやうがくいん)を建(たて)給ひ。両院(りよういん)ともに博(はく)
学(がく)多才(たさい)の人を択(えら)みて宿(やどら)しめ給ひ。書生(しよせい)を教導(きやうどう)させられ。其(その)別当(べつとう)は大宦(たいくわん)高貴(かうき)の人
を置(おき)給へり。是(こ)は且(しばらく)おき。同九年七月に前太上(さきのだじやう)天皇《割書:嵯|峨》崩御(ほうぎよ)なし給ふ宝算(おんとし)五十七才
とぞ聞(きこ)えし。此君(このきみ)はおりゐさせ玉ひてより嵯峨(さが)の離宮(りきう)に住(すま)せ給ひしゆへ。御 謚(おくりな)を嵯峨(さが)
天皇と申奉れり。かやうに前(さき)の太上皇(だじやうくわう)登霞(とうか)なし給ひて幾年(いくとし)も経(へ)ざるに。又 後(いま)の
上皇(じやうかう)雲隠(くもかぐれ)玉ひ。諒闇(りやうあん)打続(うちつゞき)ければ。上(かみ)天子(てんし)より下(しも)万民(ばんみん)まで哀動(あいどう)せざるはなかりけ
り。然(しかる)に忽(たちま)ち不測(ふしぎ)の珍事(ちんじ)出来(しゆつらい)しける。其(その)乱根(らんこん)を尋(たづぬ)るに。淳和帝(じゆんわてい)の皇子(みこ)恒(つね)
貞親王(さだしんわう)西院(さいいん)に在(ましま)しけるを。春宮(とうぐうの)帯刀(たてわき)伴健岑(ばんのこはみね)。但馬守(たじまのかみ)橘逸勢(たちばなのはやなり)の輩(ともがら)天晴(あはれ)
此君(このきみ)を取立(とりたて)まいらせ帝位(ていゐ)に即(つけ)奉り己々(おのれ〳〵)が権威(けんい)を振(ふる)はんと内々(ない〳〵)隠謀(いんばう)を企(くはだて)

是彼(これかれ)一 味(み)の武士(ぶし)をかたらひ時節(じせつ)を窺(うかゞ)ひけるに。淳和帝(じゆんわてい)崩御(ほうぎよ)なし給ひければ。今は
事(こと)を発(はつ)せばやと思(おも)ひけれども。恒貞親王(つねさだしんわう)の御 伯父(おぢ)たる嵯峨(さが)の上皇(じやうかう)猶(なほ)世(よ)に在(ましま)せば
是(これ)を憚(はゞか)り大事(だいじ)を思立(おもひたつ)事もなかりしに。今年(ことし)嵯峨帝(さがてい)晏駕(あんが)なし給ひければ。今は
誰(たれ) 憚(はゞか)る所(ところ)なしと一 味(み)の族(やから)を招(まね)き集(あつ)め主上(しゆじやう)《割書:仁|明》を傾(かたむ)け奉らんと謀(はかり)けるぞ恐(おそれ)多(おほ)け
れ。昔(むかし)後漢(ごかん)の世(よ)に王密(わうみつ)という者 謀叛(むほん)を企(くはだて)けるが。楊震(やうしん)といふ人をかたらはずんば此(この)
大望(たいもう)成就(じやうじゆ)せじと。夜(よる)密(ひそか)に金(こがね)十 斤(きん)を懐(ふところ)にして楊震(やうしんが)許(もと)へいたり。金(かね)を与(あたへ)て大望(たいもう)
一 味(み)の事を頼(たのみ)ければ。楊震(やうしん)金(かね)を押戻(おしもど)し。此(この)隠謀(いんばう)四(よつ)の知者(しるもの)あり。決(けつ)して成就(じやうじゆ)すべからず
思止(おもひとま)り給へと諫(いさめ)ける。王密(わうみつ)不審(いぶかり)時(とき)今 深夜(しんや)にて更に知者(しるもの)なし。然(しかる)に四(よつ)の知者(しるもの)あり
とは如何(いかに)と難(なん)じけるに。楊震(やうしん)が曰。已(すで)に天知(てんしる)。地知(ちしる)。我知(われしる)。足下知(そくかしる)。是(これ)四(よつ)の知者(しるもの)有(ある)にあら
ずやと。王密(わうみつ)返(かへ)す詞(ことば)なく赤面(せきめん)して帰(かへり)りしゆへ。楊震(やうしん)隠謀(いんばう)に一 味(み)せず賢士(けんし)の誉(ほまれ)を
遺(のこ)せりとぞ。かゝる例(ためし)も有ものを。健岑(こはみね)。逸勢(はやなり)猶(なを)覚(さとら)ずして。おぼろげならぬ大望(たいもう)

を企(くはだて)て一 味(み)をかたらひ阿保親王(あぼうしんわう)《割書:行平(ゆきひら)業(なり)|平(ひら)の父》をも味方(みかた)に勧(すゝめ)んと密(ひそか)に企(くはだて)の次第(しだい)を告(つげ)て
荷担(かたん)の義(ぎ)を頼(たのみ)けるに阿保親王は忠貞(ちうてい)廉直(れんちよく)の人なれば大いに駭(おどろ)き其(その)座(ざ)は能(よき)
やうに言(いひ)なし。急(いそ)ぎ嵯峨(さが)の皇太后(かうたいこう)に斯(かく)と言上(ごんじやう)せられければ。太后(たいこう)御 駭(おどろき)太方(おほかた)ならず
右大臣(うだいじん)藤原良房公(ふぢはらのよしふさこう)に就(つい)て。恒貞親王(つねさだしんわう)隠謀(いんばう)の由(よし)を奏聞(そうもん)し給ひけるゆへ主上(しゆじやう)も
御 驚(おどろき)斜(なゝめ)ならず。甚(はなは)だ逆鱗(げきりん)まし〳〵。急(いそ)ぎ健岑(こはみね)。逸勢(はやなり)を召捕(めしとる)べしと撿非違(けびゐ)
使(し)の庁(てう)へ宣下(せんげ)し給ふ。是(これ)に依(よつ)て堂上(どうせう)堂下(どうか)以(もつて)の外(ほか)に騒動(そふどふ)しける。然(しかる)に健岑(こはみね)逸勢(はやなり)は
天罸(てんばつ)の報(むくふ)ところか。此義(このぎ)を務(ゆめ)にもしらず。健岑(こはみね)は逸勢(はやなり)が邸舎(やしき)にて囲碁(ゐご)を打(うち)て
居(ゐ)たりけるに。早(はや)く宦兵(くわんへい)押し寄せ押寄(おしよせ)力者(りきしや)ども乱入(みだれいり)四方(しはう)より取囲(とりかこ)み遂(つひ)に両人(りようにん)を虜(とりこ)にぞし
たりける。逸勢(はやなり)は抜群(ばつぐん)の強力(がうりき)なれば。近付者(ちかづくもの)を二三人 抓(つか)んで投(なげ)やりけれども大勢(おほぜい)おり
重(かさな)り抑(おさ)へて縄(なは)を掛(かけ)けるに。逸勢(はやなり)片手(かたて)に有合(ありあふ)碁石(ごいし)を摑(つか)み。あら朽惜(くちをし)やと罵(のゝし)り眼(まなこ)
を瞋(いから)し拳(こぶし)を強(つよ)く握(にぎ)りければ。碁石(ごいし)尽(こと〴〵)く砕(くだけ)て掌中(てのうち)よりこぼれ落(おち)けり。誠(まこと)にいかめ

しき大力(だいりき)なりけり。抑(そも〳〵)逸勢(はやなり)は最澄(さいてう)《割書:伝|教》空海《割書:弘|法》と倶(とも)に入唐(につとう)し広(ひろ)く書経(しよけい)を学究(まなびきはめ)
博才(はくさい)なる上(うへ)双(ならび)なき能書(のふしよ)といひ膂力(ちから)さへ衆(しゆう)に勝(すぐれ)たるに。由(よし)なき隠謀(いんばう)を思(おもひ)たちて
縲紲(るいせつ)の辱(はづかしめ)を蒙(かうむ)り配流(はいる)の身(み)となりけるは。天魔(てんま)の所為(しよゐ)かとぞ疑(うたが)はれける。去程(さるほど)に
健岑(こはみね)逸勢(はやなり)召捕(めしとら)れければ。其(その)一族(いちぞく)家人(けにん)等(ら)大いに周障(しうしやう)し立騒(たちさはぎ)けるを。宦吏(やくにん)悉(こと〴〵)く
搦捕(からめとり)。使(し)の庁(てう)へ曳(ひき)けるゆへ。猶(なほ)同類(どうるい)や有(ある)と緊(きびし)く糺問(きうもん)せられけるに。逸勢(はやなり)は拷問(がうもん)【足+考は誤ヵ】に
屈(くつ)せず一 言(ごん)も白状(はくじやう)せざれども。健岑(こはみね)は苦痛(くつう)に堪(たえ)かねて白状(はくでう)す。是(これ)に依(よつ)て大納言(だいなごん)
愛発(ちかはる)。中納言(ちうなごん)吉野(よしの)。文屋秋津(ぶんやのあきつ)等(とう)を召捕(めしとり)糺明(きうめい)の上(うへ)宦(くわん)を剥(はい)で都(みやこ)を追放(ついほう)し。逸(はや)
勢(なり)健岑(こはみね)は隠謀(いんばう)の長本(てうぼん)なれば死罪(しざい)に極(きはま)りけるを。帝(みかど)格別(かくべつ)の御 仁心(じんしん)を以(もつ)て両人(りようにん)
の死罪(しざい)を宥(なだ)め給ひ。健岑(こはみね)は隠岐国(おきのくに)逸勢(はやなり)は伊豆国(いづのくに)へぞ流罪(るざい)に行(おこな)ひ給ひける
恒貞親王(つねさだしんわう)は初(はじめ)より隠謀(いんばう)の義(ぎ)務々(ゆめ〳〵)知召(しろしめさ)ざるよし陳謝(ちんしや)し給ふ。其(その)御 詞(ことば)偽(いつはり)ならず
聞えければ。其儘(そのまゝ)御 咎(とがめ)もなかりけれども。猶(なほ)も御疑(うたがひ)を晴(はら)し奉らんとや思召(おぼしめし)けん

御 髪(かざり)をおろし出家(しゆつけ)し給ひ法諱(のりのいみな)を恒寂(かうじやく)と名乗(なのり)給ひけり。世(よ)の転変(てんべん)は常(つね)
の事ながら痛(いた)はしかりし御事なりけり。偖(さて)また橘逸勢(たちばなのはやなり)は隠謀(いんばう)露顕(ろけん)の事を
深(ふか)く憤(いきどふ)り。配所(はいしよ)へ謫(てき)せられても憤念(ふんねん)猶(なを)止(やま)ず。終(つひ)に配所(はいしよ)にて病死(びやうし)しけるが。その
悪霊(あくれう)都(みやこ)に現(あら)はれ種々(さま〴〵)祟(たゝり)【崇は誤】をなし貴賎(きせん)を悩(なやま)しけるゆへ御霊八社(ごれうはつしや)の中(うち)の神(かみ)に
鎮祭(しづめまつ)り給ひける。是(これ)に依(よつ)て其(その)祟(たゝり)【崇は誤】も鎮(しづま)りけり
    《振り仮名:従_二豊後国_一献_二白亀_一|ぶんごのくによりはくきをけんず》  良岑宗貞(よしみねのむねさだ)詠歌(えいか)遁世(とんせい)条
承和(しやうわ)十二年 乙丑(きのとうし)に文章博士(もんじやうのはかせ)参議(さんぎ)菅原是善(すがはらのこれよし)卿(けう)の北堂(きたのかた)男子(なんし)を生(うみ)給ひける幼(よう)
名(みやう)を三(さん)と号(なづけ)また阿子(あこ)とも呼(よび)給ひけり。後(のち)に菅原道真(すがはらのみちざね)公(こう)と申は是(これ)なり。御一代の
御事は次(つぎ)の巻(まき)に委(くはし)く記(しる)せば茲(こゝ)に略(りやく)す。同(おなしく)十五年 戊辰(つちのへたつ)の六月 豊後国(ぶんごのくに)より白(しろき)
亀(かめ)を献(けん)じければ。帝(みかど)御感(ぎよかん)浅(あさ)からず。それ亀(かめ)は四 霊(れい)の一ツにて万年(まんねん)の寿(じゆ)を保(たも)つ目(め)
出度(でたき)ものなれば。元正(げんしやう)天皇の霊亀(れいき)の年号(ねんがう)を始(はじめ)とし聖武(しやうむ)天皇の神亀(しんき)光仁(かうにん)天皇

の宝亀(ほうき)も皆(みな)亀(かめ)を献(たてまつ)りしに因(よつ)て改元(かいげん)有(あり)けり。其(その)先例(せんれい)に任(まか)せ改元(かいげん)すべしと勅詔(ちよくぜう)
ありけるにより。諸卿(しよけう)評議(ひやうぎ)の上(うへ)嘉祥元年(かじやうぐわんねん)とぞ改元(かいげん)有(あり)ける。此(この)前年(まへのとし)入唐(につとう)せし
叡山(えいざん)の円仁(えんにん)帰朝(きてう)し横河(よがは)に中堂(ちうどう)を建立(こんりう)せられけり。偖(さて)嘉祥(かじやう)三年 庚午(かのへむまの)二月
主上(しゆじやう)御悩(ごのふ)に染(そま)せ給ひければ皇后(かうぐう)宮方(みやがた)公卿(こうけい)百宦(ひやくくわん)大いに驚(おどろ)き。典薬寮(てんやくれう)の医(い)
宦(くわん)は肺肝(はいかん)を砕(くだ)き霊方(れいはう)を考(かんがへ)て御薬(みくすり)を捧(さゝげ)奉(たてまつ)れども露(つゆ)其(その)効(しるし)なく。諸社(しよしや)諸寺(しよじ)の
神宦(じんくわん)僧綱(そうかう)は丹誠(たんせい)を凝(こら)して捆祈(こんき)【祵は捆の譌字】すれども御悩(ごのふ)は倍(ます〳〵)重(おも)らせ給ひ。陰陽(おんやう)の博士(はかせ)が
占文(せんもん)も頼(たのみ)少(すくな)く聞(きこ)えけるが。終(つひ)に嘉祥(かじやう)三年三月に崩御(ほうきよ)なし給ひけり。宝算(ほうさん)僅(わづか)
に四十一才にてぞ在(おは)しける。近代(きんだい)明君(めいくん)続(つゞき)給へども。此君(このきみ)は就中(なかんづく)寛仁(くわんじん)大度(たいど)の聖主(せいしゆ)にて
御 孝心(かうしん)深(ふか)く文学(ぶんがく)筆道(ひつどう)を好(この)ませ給ひ。万民(ばんみん)を子(こ)のごとく撫(なで)恤(めぐみ)給ひしかば。女御(にようご)
諸(しよ)宮方(みやがた)百宦(ひやくくわん)及(およ)び諸国(しよこく)の人民(にんみん)嬰児(みどりこ)の母(はゝ)を喪(うしなひ)しが如(ごと)く哀(かなしみ)慟(いたみ)悲泣(なきなげか)ざるはなし
尊骸(そんがい)は御 遺勅(ゆいちよく)に任(まか)せ深草山(ふかくさやま)へ葬(ほふむ)り奉(たてまつ)られけり。日来(ひごろ)恩寵(おんてう)を蒙(かうむ)りし公(く)

卿(げう)御 冢(つか)の上(ほとり)に菴(いほり)を結(むす)び陵(みさゝき)を守(まも)り諒闇(りやうあん)満(みち)て列位(おの〳〵)都(みやこ)へ還(かへ)られけるに独(ひとり)良(よし)
岑左少将宗貞(みねのさせうしやうむねさだ)のみ猶(なを)都(みやこ)へ還(かへら)ず冢(つかの)上(ほとり)に留(とゞま)り喪(も)に籠(こも)【𠖥は誤記ヵ】りけるが哀悼(あいたう)【左ルビ:かなしみ】のあまり
に一首(しゆ)の和哥(わか)を詠(えい)じける其歌(そのうた)に曰
  深草(ふかくさ)の野辺(のべ)のさくらし心あらば此春(このはる)ばかり墨染(すみそめ)にさけ
斯(かく)詠(えい)じければ不思議(ふしぎ)なるかな年々(ねん〳〵)雪(ゆき)を欺(あざむ)くばかり白妙(しろたへ)に咲(さき)し桜花(さくらばな)其年(そのとし)
は薄墨色(うすずみいろ)に咲(さき)けり。実(げに)や和哥(わか)の徳(とく)は天地(あめつち)を動(うごか)し眼(め)に見えぬ鬼神(おにかみ)をも感(かん)
ぜしむると古今(こきん)の序(じよ)に書(かき)しも宜(むべ)なるかな。草木(さうもく)非情(こゝろなし)といへども。宗貞(むねさだ)が忠誠(ちうせい)と
詠哥(よみうた)の至妙(しめう)なるに感(かん)じて天性(てんせい)の本色(ほんしよく)を変(へん)じ墨染色(すみぞめいろ)に咲(さき)けるぞやさしかりける
是(これ)より其(その)桜(さくら)を世人(よのひと)墨染桜(すみぞめざくら)と呼(よび)地名(ちめい)をも墨染(すみぞめ)の里(さと)と号(がう)しけり。昔(むかし)唐山(もろこし)
尭帝(ぎやうてい)の二人の皇女(かうによ)娥皇(がくわう)。女英(ぢよえい)姉妹(おとゞい)は舜帝(しゆんてい)の后(きさき)に備(そな)はり瀟湘(しやう〳〵)といふ所(ところ)に離宮(りきう)を
建(たて)住(すみ)玉ひけるに。虞舜(ぐしゆん)崩御(ほうぎよ)在(あり)しかば。二人の后(きさき)泣悲(なきかなしみ)給ひける其涙(そのなみだ)の。園(その)の

竹(たけ)に灑(そゝぎ)かゝり緑(みどり)の竹(たけ)班(まだら)に染(そま)り班竹(はんち[く])となりしとかや。倭(やまと)漢国(もろこし)異(こと)に古今(こゝん)時(とき)同(おな)じから
ずといへども。人心(じんしん)の誠(まこと)を草木(さうもく)の相感(あひかん)ずる理(り)は一 般(ばん)たり。偖(さて)も良岑宗貞(よしみねのむねさだ)は花(はな)の色(いろ)の
墨染(すみぞめ)に咲(さき)しを見て感涙(かんるい)を流(なが)し。いよ〳〵無常(むじやう)を観(くわん)じ遂(つひ)に髻(もとゞり)を剃払(そりはらひ)ける其時(そのとき)に
  たらちねのかゝれとてしも烏羽玉(うばたま)の我(わが)黒髪(くろかみ)は撫(なで)ずやありけん
と詠(えい)じ遂(つひ)に僧(そう)となりける。法名(ほふめう)を遍照(へんぜう)と号(がう)し仏道(ぶつどう)を修行(しゆぎやう)して諸国(しよこく)を行脚(あんぎや)
し後(のち)に洛東(らくとう)花頂山(くわてうざん)に菴(いほり)を結(むす)び行(おこな)ひ澄(すま)して有(あり)けるに。朝廷(てうてい)へ其(その)道徳(どうとく)聞(きこ)えければ
文徳天皇(もんどくてんわう)睿感(ゑいかん)在(ましま)し僧正宦(そうじやうくわん)を授(さづ)け給ひしゆへ。世(よ)に花山(くわさん)の僧正(そうじやう)とも又 僧正遍(そうぜうへん)
照(ぜう)とも称(しやう)しける。抑(そも〳〵)吾朝(わがてう)の世々(よゝ)の帝(みかど)いづれに愚(おろか)は在(ましま)さゞれども。分(わき)て嵯峨(さが)淳和(じゆんわ)仁明(にんめう)
の三 帝(てい)は御 仁徳(じんとく)尭舜(ぎやうしゆん)にも劣(おと)り玉はず。三 綱(かう)五 常(じやう)の道(みち)正(たゞ)しく朝政(てうせい)明(あきらか)におはしまし
八島(やしま)の果(はて)までも豊(ゆたか)に治(おさま)りければ。後代(こうだい)の亀鑑(かゞみ)にとて。其(その)御 代(だい)毎(ごと)の事実(じじつ)を記(しる)し留(とゞ)め
三代 実録(じつろく)と題(だい)して今の世(よ)までも伝(つた)はりけるは難有(ありがた)かりし御 事(こと)なりけり

【右丁 挿絵 文字なし】
【左丁】
【囲みの中】
深草(ふかくさ)の
 帝(みかど)の陵(みさゝき)へ
  諸人(しよにん)
   群(ぐん)
  参(さん)の図(づ)

【挿絵中の囲み文字】
墨染さくら

    文徳天皇(もんどくてんわう)御即位(ごそくゐ)  位(くらゐ)争(あらそひ)名虎良雄(なとらよしを)角觝(すまふの)条(こと)
仁明天皇(にんみやうてんわう)已(すで)に登霞(とうか)なし給ひければ。春宮(とうぐう)道康親王(みちやすしんわう)宝祚(ほうそ)を嗣(つぎ)給ふ此君(このきみ)を人(にん)
皇(わう)五十五代の帝(みかど)文徳(もんとく)天皇と申奉れり則(すなは)ち仁明帝(にんめうてい)の皇子(わうじ)にて御 母(はゝ)は左大臣(さだいじん)冬(ふゆ)
嗣公(つぐこう)の女(むすめ)五条后(ごでうのきさき)順子(じゆんし)と申せり。承和(しやうわ)九年 皇太子(くわうたいし)に立(たち)給ひ今年(こんねん)嘉祥(かじやう)三年四月
帝位(ていゐ)に即(つき)玉ふ。然(しかれ)ども先帝(せんてい)の諒闇(りようあん)の中(うち)なれば。御 即位(そくゐ)の大礼(たいれい)は御 延引(えんいん)有(ある)べきやう
勅詔(ちよくぜう)ありけれども。御 祖母(そぼ)嵯峨(さが)の皇大后(かうたいくう)御 老体(らうたい)にて御悩(ごのふ)しば〳〵発(おこら)せ給ひければ
当帝(とうてい)御即位(ごそくゐ)の大礼(たいれい)を御覧(ごらん)ありたく思召(おぼしめし)早(はや)く大嘗会(だいぜうゑ)を執行(とりおこなふ)べきよし頻(しきり)に申(もう)
させ玉ふにより。月(つき)を以(もつ)て年(とし)に易(かへ)日(ひ)を以(もつ)て月(つき)に易(かへ)。登極(とうきよく)の大礼(たいれい)厳重(おごそか)に執行(とりおこな)はせ玉
ひけり。皇大后(かうたいくう)は此(この)御 儀式(ぎしき)を御覧(みそなは)して御 安意(あんい)在(ましま)しけるが御悩(ごのふ)は猶(なほ)弥増(いやまし)同年
五月 終(つひ)に薨御(かうぎよ)なし給ひけり。此(この)皇后(かうごう)は深(ふか)く仏道(ぶつどう)に皈依(きえ)し給ひ。嵯峨(さが)に檀林寺(だんりんじ)を御
建立(こんりう)ありけるゆへ。世(よ)に檀林皇后(だんりんかうぐう)とは申せり。又 曽(かつ)て禅法(ぜんほふ)に御心(みこゝろ)を傾(かたむ)け給ひ恵萼(ゑがく)

といふ僧(そう)を唐土(もろこし)へ渡(わた)され禅宗(ぜんしう)を求法(ぐほふ)させしめ給ひ。九相(きうさう)といふ事を観念(くわんねん)し玉ひて
兼(かね)ては御 終焉(しうえん)の後(のち)は屍(しかはね)を其儘(そのまゝ)野辺(のべ)に捨置(すておく)べしと御 遺言(ゆいごん)有(あり)けれども今年(ことし)
先帝(せんてい)《割書:仁|明》崩御(ほうぎよ)の砌(みぎり)尼(あま)に成(なり)給ひしゆへ。其義(そのぎ)に及(およば)ず厚(あつ)く葬(ほふむ)り奉り給ひける。然(しかる)
に後世(こうせい)杜撰(づさん)の僧徒(そうと)。檀林皇后(だんりんかうぐう)九相(きうさう)の図(づ)と号(がう)して図画(とぐわ)に摸(も)し世(よ)に流布(るふ)するは
所謂(いはゆる)絵虚言(ゑそらごと)なり。九相(きうさう)とは人 死(し)して七日々々(なぬか〳〵)に其相(そのさう)変(へん)じ浅猿(あさまし)き姿(すがた)と成(なる)事なり
其(その)名目(めうもく)は 新死(しんし) 肪脹(ばうちよう) 血塗(けつと) 蓬乱(はうらん) 噉食(がんしよく) 青瘀(せいを) 白骨連(はつこつれん)
     骨散(こつさん) 古墳(こふん)  以上(いじやう)を九相(きうさう)といふ
嘉祥(かじやう)三年 改元(かいげん)あつて仁寿元年(にんじゆぐわんねん)とし給ふ。然(しかる)に文徳(もんどく)天皇御 性質(せいしつ)御 多病(たびやう)に
てしば〳〵御悩(ごのふ)にかゝづらはせ給ふゆへ仁寿(にんじゆ)三年に齊衡(さいかう)と改元(かいげん)あり。齊衡(さいかう)三年
にまた天 安(あん)元年と改元(かいげん)ありけり。抑(そも〳〵)文徳(もんどく)天皇に皇子(みこ)あまた御坐(おはし)ます中にも
第(だい)一の皇子(わうじ)を維高親王(これたかしんわう)と申。御 母(はゝ)は従四 位下(ゐのげ)佐兵衛佐(さへいのすけ)紀名虎(きのなとら)が女(むすめ)にて

静子(しづこ)と申せり。第(だい)二第三は姫宮(ひめみや)にて第(だい)四の皇子(みこ)を維仁親王(これひとしんわう)と申奉り御 母(はゝ)は大
政大臣(じやうだいじん)藤原良房(ふぢはらのよしふさ)公(こう)の御 女(むすめ)明子(あきこ)と申 即(すなは)ち文徳帝(もんどくてい)の后(きさき)に立(たゝ)せ給ふ。後(のち)に染殿(そめどの)の
后宮(こうぐう)と申は此后(このきさき)なり。時に第(だい)一の皇子(わうじ)維高親王(これたかしんわう)は天 性(せい)温順(おんじゆん)柔和(にうわ)にて。且(かつ)又 聡明(そうめい)
睿敏(ゑいびん)に在(ましま)しければ。帝(みかど)の御 寵愛(てうあい)他(た)に勝(まさ)り。此(この)皇子(みこ)を春宮(とうぐう)に立(たて)まほしく思召(おぼしめし)け
るに。紀名虎(きのなとら)また我孫(わがまご)の事なれば一の宮(みや)を太子(たいし)に立(たて)給へと頻(しきり)に内奏(ないそう)しけるにより。帝(みかど)は
いよ〳〵御心(みこゝろ)傾(かたふ)き。已(すで)に維高君(これたかぎみ)を春宮(とうぐう)に立べきよし其(その)御 沙汰(さた)有(あり)ければ。源信(みなもとののぶみ)。諫(いさめ)て
奏聞(そうもん)せられけるは。一の宮は名虎(なとら)の女(むすめ)の生(うみ)奉る所(ところ)にて。落胤腹(らくいんばら)にて在(ましま)せば。立太子(りうたいし)の
睿慮(ゑいりよ)恐(おそれ)ながら然(しかる)べからず候。第(だい)四の宮 維仁親王(これひとしんわう)こそ正(まさ)しく后腹(きさきばら)に生(うま)れ給へば。此(この)
皇子(みこ)を春宮(とうぐう)に立(たて)た玉ふ事 正理(しやうり)にて候と申さるゝにぞ。帝(みかど)も信(のぶみ)が諫奏(かんそう)一 理(り)あれば強(しい)て
一の宮を太子(たいし)に定め給ふ事も能(あた)はせ玉はず。殆(ほとん)ど睿慮(ゑいりよ)を定(さだめ)かね給ひ。群臣(ぐんしん)を召集(めしつどへ)て
両王子(りやうわうじ)の中(うち)何(いづ)れをか春宮(とうぐう)に立(たつ)べきやと勅問(ちよくもん)させ給ふに。列位(おの〳〵)其身々々(そのみ〳〵)の贔屓(ひいき)に

引付一の宮を太子(たいし)に立(たて)玉ふが順道(じゆんどう)にて候と申もあれば。否々(いな〳〵)一の宮は母(はゝ)卑(いやし)ければ后腹(きさきばら)
に御 誕生(たんぜう)ありし四の宮を春宮(とうぐう)に立(たて)給へと奏(そう)するも有(あり)て評議(ひやうぎ)更(さら)に一 決(けつ)せざれば君(きみ)
も困(こう)じ果(はて)給ひ。此上(このうへ)は神慮(しんりよ)に任(まか)せて春宮(とうぐう)を定(さだめ)んとて。八幡(やはた)の八幡宮(はちまんぐう)に於(おい)て臨事(りんじ)の祭(まつり)
をなさしめ。十 番( ばん)の競馬(けいば)を摧(もよほ)させて。其(その)勝劣(しやうれつ)を以(もつ)て太子を定んと勅詔(ちよくぜう)ありけるに
依(よつ)て勅命(ちよくめい)の如(ごと)く社頭(しやとう)に於(おいて)競馬(けいば)をなしけるに。四番は一の宮方 勝(かち)五番は四の宮方 勝(かち)
今一 番(ばん)は持(じ)にて勝負(しやうぶ)分(わか)たざるを。名虎(なとら)強(しい)て一の宮方の勝(かち)にせんと種々(いろ〳〵)故障(こしやう)を申
立けるゆへ遂(つひ)に勝負(しやうぶ)互角(ごかく)になりける。されば何(いづ)れの皇子(みこ)を春宮(とうぐう)に立給ふべきやう
もなく。諸卿(しよけう)また〳〵評議(ひやうぎ)し。此上(このうへ)は禁廷(きんてい)に於(おい)て相撲(すまふ)の節会(せちゑ)を行(おこな)はれ其(その)勝負(しやうぶ)
に依(よつ)て儲君(ちよくん)を定(さだめ)給ふべしと奏聞(そうもん)申ければ。帝(みかど)御許容(ごきよよう)在(ましま)しさらば。角觝(すまふ)にて定(さだめ)
よと勅詔(ちよくぜう)ある。是(これ)に依(よつ)て定日(ぢようじつ)を極(きは)め。火急(くわきう)に諸国(しよこく)の相撲男(すまふとり)を召上(めしのぼ)し一の宮四の宮方
と分(わか)ち。相撲(すまふ)の関(せき)は維高方(これたかがた)は紀名虎(きのなどら)。維仁方(これひとがた)は伴良雄(とものよしを)とぞ定(さだ)まりける。紀名虎(きのなどら)は

年齢(ねんれい)五十七才 稍(やゝ)老年(らうねん)に及(およべ)ども天性(てんせい)無双(ぶそう)の大 兵(ひやう)にて身材(みのたけ)七尺 力(ちから)は六十人が力(りき)を
兼(かね)たる強力(がうりき)なれば望(のぞ)んで今度(こんど)の頭(とう)に立(たち)たり。伴良雄(とものよしを)は生年(しやうねん)二十一才 身材(みのたけ)五尺
六七寸 力(ちから)も尋常(よのつね)ながら。生得(しやうとく)相撲(すまふ)を好(このみ)て野見宿祢(のみのすくね)より定(さだめ)たる投(なげ)。繋(かけ)。捻(ねぢ)。䇍(そり)
等四十八 手(て)の裏表(うらおもて)をよく熟煉(じゆくれん)しければ。名虎(などら)何(なに)ほどの大 力(りき)なりとも何程(いかほど)の事か
あらんとて。是(これ)も望(のぞん)で頭(とう)に立(たち)たりけり。抑(そも〳〵)角觝(すまふ)は天 竺(ぢく)震旦(しんだん)とも其(その)起源(きげん)あり。吾(わが)
朝(てう)にては建御雷神(たけみかづちのかみ)建御名方神(たけみなかたのかみ)力競(ちからくらべ)の事 旧事記(くじき)に見えたり。是(これ)角力(すまふ)の起(お)
源(こり)とや謂(いふ)べき。人皇(にんわう)にいたりて八十一代 垂仁天皇(すいにんてんわう)七年七月 大和国(やまとのくに)の住人(ぢうにん)当麻蹶(たへまのけ)
速(はや)と出雲国(いづものくに)の住人(ぢうにん)野見宿祢(のみのすくね)始(はじめ)て力競(ちからくらべ)をなす。是(これ)人代(にんだい)相撲(すまふ)の濫觴(はじまり)なり
しかありしより以来(このかた)禁廷(きんてい)に相撲(すまふ)の節会(せちゑ)行(おこな)はれ。武家(ぶけ)町家(てうか)農家(のうか)にももつぱら
此 技(わざ)を好者(このむもの)多(おほ)し。是(こ)は且(しばらく)おき。維高(これたか)維仁(これひと)両親王(りやうしんわう)方(がた)には今般(このたび)の角力(すまふ)こそ。王位(わうゐ)を
定(さだ)むる大事(だいじ)なれば等閑(なほざり)にては叶(かな)はず。仏力(ぶつりき)㢕護(おうご)【注】を頼(たの)むには不如(しかじ)と一の宮(みや)の御方

【注 㢕は廱に同じで、これは雍に通じ、さらに擁に通じるという。】

には柿本紀僧正真済(かきのもとのきそうぜうしんせい)を祈(いのり)の師(し)と頼(たの)まれ。四の宮(みや)の御 方(かた)には。延暦寺(えんりやくし)の恵亮和尚(ゑりやうおせう)は
良房公(よしふさこう)と兼(かね)て師檀(しだん)の睦(むつ)び深(ふか)ければ。今度(こんど)の祈(いのり)の師(し)と頼(たのま)れたり。是(これ)に依(よつ)て恵亮(ゑりやう)
は睿岳(ゑいがく)西塔(さいとふ)の宝幢院(ほうとういん)に檀(だん)を構(かまへ)て大 威徳(いとく)の法(ほふ)を修(しゆ)せられ。真斉(しんせい)は東寺(とうじ)に檀(だん)
を設(もうけ)て降三世(がうざんぜ)の法(ほふ)を行(おこな)ひ。両僧(りようそう)とも多年(たねん)修行(しゆぎやう)の法力(ほふりき)を尽(つく)し。護摩(ごま)の煙(けふり)につゝ
まれて肝胆(かんたん)を碓(くだ)き祈(いの)られけり。去程(さるほど)に相撲(すまふ)の定日(でうじつ)にもなりければ。朝廷(てうてい)紫宸殿(ししんでん)の
前(まへ)に角力(すまふ)の場(には)をかまへ。御門(ごもん)の東西(とうざい)の回廊(くわいらう)に五彩緞子(ごしきのどんす)の幕(まく)打回(うちまは)して力者(りきしや)の面々(めん〳〵)
幕(まく)の内外(うちそと)に陳(つらな)り坐(ざ)す《割書:今の角力溜(すまふだま)りは|此 遺風(いふう)なり》
 因(ちなみ)に曰。力者(りきしや)の勝(すぐ)れたる者は幕(まく)の内(うち)に坐(ざ)し。次(つぎ)なる者は幕(まく)の外(そと)に坐(ざ)すなり
 今 上八枚(かみはちまい)の力者(りきしや)を幕内(まくうち)といふは古(いにしへ)の幕(まく)の内(うち)に坐(ざ)したる例(れい)を以(もつ)ていふなり
偖(さて)帝(みかど)は紫宸殿(ししんでん)の上座(たかみくら)に出御(しゆつぎよ)なし給ひて御簾(ぎよれん)の内(うち)より睿覧(ゑいらん)あれば。左右(さいう)の大
臣(じん)はじめ月卿雲客(げつけいうんかく)は左右(さいう)の陛下(かいか)【ママ】に参列(さんれつ)して見物(けんぶつ)し。維高(これたか)維仁(これひと)両親王(りようしんわう)は桟(さん)








敷(じき)を構(かま)へ御随臣(みずいしん)の面々(めん〳〵)を従(したが)へて御 着座(ちやくざ)あり。其外(そのほか)武士(ぶし)下宦(したづかさ)にいたるまで庭上(ていしやう)
に扣(ひかへ)て見物(けんぶつ)せり。斯(かく)て相撲(すまふ)の節会(せちゑ)の儀式(ぎしき)旧例(きうれい)に依(よつ)て厳重(げんぢう)に構(かま)へ陣(ぢん)の座(ざ)よ
り三 通(つう)の皷(つゞみ)を打鳴(うちなら)すを相図(あいづ)とし立会(たちあは)せの宦人(くわんにん)《割書:今の|行司》左右(さいう)の力者(りきしや)を呼出(よびいだ)し頓(やが)
て相撲(すまふ)を競(とり)はじめける。堂上(どうしやう)堂下(どうか)の諸見物(しよけんぶつ)いづれが勝(かち)いづれが負(まく)るやと片唾(かたづ)を
呑(のみ)息(いき)を詰(つめ)て瞬(またゝき)もせず見る内(うち)に。一の宮(みや)四の宮(みや)の御内人(みうちびと)は睿山(ゑいざん)。東寺(とうじ)へ人梯(ひとばしご)を掛(かけ)
てい一 番々々(ばん〳〵)の勝負(しやうぶ)を祈(いのり)の師(し)へ注進(ちうしん)す。去程(さるほど)に或(あるひ)は左(ひだり)《割書:一の宮|方》勝(かち)あるひは右(みぎ)《割書:四の宮|方》かち
または持(じ)となるも有(あり)て勝負(しようぶ)交(こも〴〵)なる中に一の宮方(みやがた)の勝(かち)多(おほ)かりければ。其方(そのかた)ざまの
人々(ひと〴〵)は心 勇(いさ)み最(いと)頼母(たのも)しくぞ思(おも)はれける。斯(かく)て三十 番(ばん)の勝負(しやうぶ)終(おは)り。已(すで)に頭(とう)の角力(すまふ)となり
ければ。須驚(すはや)天下 分目(わけめ)の勝負(しやうぶ)此一番(このいちばん)に止(とゞま)れりと。帝(みかど)を始(はじめ)奉り殿上(でんしやう)殿下(でんか)の看宦(けんぶつ)
鳴(なり)を鎮(しづめ)て見る所(ところ)に左(ひだり)の陣(ぢん)の幕(まく)の内(うち)より左兵衛佐(さひやうゑのすけ)紀名虎(きのなどら)。犢鼻褌(とくびこん)の上に白(しろ)き
狩衣(かりぎぬ)に葵(あふひ)の仮花(つくりばな)付(つけ)たるを着(ちやく)し。例(れい)なれば石(いしの)帯(おび)をつけて大太刀(おほだち)を鴎尻(かもめじり)に帯(はき)なし

冠(かむり)を高(たか)く被(き)なし鵬(おほとり)の歩(あゆむ)が如(ごと)く動(ゆる)ぎ出(いづ)る。其(その)身材(みのたけ)七尺 余(ゆたか)にて眼(まなこ)の光(ひかり)星(ほし)のごとく
観骨(ほうぼね)高(たか)く口 方(けた)にて虎鬚(とらひげ)腮(あぎと)の左右(さいう)に狼藉(らうぜき)と生(おひ)。手脚(てあし)の筋(すぢ)節(ふし)くれ立(だち)古木(こぼく)
に葛(ふぢ)の捲(まき)しが如(ごと)く。黒髭(くろひげ)繁(しげ)く生(おひ)たるは左(さ)ながら金剛神(こんがうじん)に彷彿(はうほつ)【注①】としてさも怕(おそろ)
しくぞ見えたりける。斯(かく)て名虎(などら)意気(いき)揚々(やう〳〵)として設(まうけ)し左の掾座(わらうざ)の上(うへ)にむんづと
坐(ざ)しければ。頓(やが)て右の幕(まく)の内(うち)より少将(せうしやう)伴善雄(とものよしを)【注②】同(おなじ)く犢鼻褌(とくびこん)の上に。白(しろ)き狩衣(かりぎぬ)
に夕皃(ゆふがほ)の仮花(つくりばな)付(つけ)たるを着(ちやく)し。例(れい)なれば石(いしの)帯(おび)を着(つけ)ず。太刀(たち)を左手(ゆんで)に把(とつ)て小脇(こわき)に
掻籠(かいこみ)徐々(しづ〳〵)と立出(たちいで)たり。身材(みのたけ)五尺七八寸 色(いろ)白(しろ)く柔和(にうわ)の面貌(おもざし)威(い)有(あつ)て猛(たけ)からず
是(これ)も右に設(まうけ)たる掾座(えんざ)の上に坐(ざ)しけり。偖(さて)両人(りようにん)君(きみ)の玉座(ぎよくざ)に向(むか)ひて礼(れい)をなし。双方(そうはう)
立上(たちあが)り狩衣(かりぎぬ)を脱(ぬい)で掾座(えんざ)の上に置(おき)。其上(そのうへ)に太刀(たち)を置(おい)て。犢鼻褌(とくびこん)のみにて裸(あかはだか)と
なり。互(たがひ)に相撲場(すまふぢよう)へ立入(たちいり)中央(ちうわう)へ歩寄(あゆみより)面(おもて)を見合(みあは)し一 揖(ゆう)して中腰(ちうごし)につくばいければ
立合(たちあは)せの宦人(くわんにん)金(きん)の幣(へい)を採(とつ)て。是(これ)も御簾(ぎよれん)に向(むか)ひ低頭(ていとう)して相撲場(すもふば)へ歩入(あゆみいり)両人(りようにん)の

【注① 「はうほつ」は法政大学 国際日本学研究所所蔵資料の『扶桑皇統記図会』にて確認。】
【注② 329コマには「良雄」としている】

間(あはひ)に立(たち)双方(そうはう)の息(いき)ざしをぞ見合(みあはせ)ける。諸看宦(しよけんぶつ)は息(いき)を詰(つめ)鳴(なり)を鎮(しづめ)て左右(さいう)の為体(ていたらく)
を見るに。名虎(などら)は老年(らうねん)なれども大兵(だいひやう)といひ骨組(ほねぐみ)荒(あれ)て相貌(さうぼう)猛(たけ)く善雄(よしを)は若(わか)けれ
ども小兵(こひやう)たる上 柔弱(にうじやく)なれば。吁(あゝ)此(この)相撲(すまふ)千に一ツも四の宮(みや)の方(かた)勝(かつ)べきやうなし。憐(あはれ)む
べし善雄(よしを)よしなき勝負(しやうぶ)を乞(こひ)望(のぞみ)て。今や名虎(などら)に投殺(なげころ)されんことの便(びん)なさよと思(おも)
はぬ人こそなかりけり。増(まし)て況(いはん)や維仁(これひと)君(ぎみ)の御 桟敷(さんじき)に相詰(あひつめ)し人々(ひと〴〵)は。前(ぜん)三十 番(ばん)の相(す)
撲(まふ)多(おほ)く一の宮(みや)方(がた)へ勝(かち)を取(とら)れ。何(なに)となく気力(きりよく)を落(おと)しけるに今 名虎(などら)と善雄(よしを)が剛(かう)
弱(じやく)を見て弥(いよ〳〵)心(こゝろ)も心ならず急(きう)に睿山(ゑいざん)の恵亮(ゑりやう)の許(もと)へ急馬(はやうま)を立(たて)。位定(くらゐさだめ)の頭(とう)の角力(すまふ)
只今(たゞいま)なり。一しほ丹誠(たんせい)を抽(ぬきんで)て祈(いの)らるべしと告(つげ)させける。恵亮(ゑりやう)は是(これ)を聞(きい)て今般(このたび)不覚(ふかく)を
とらば永(なが)く山門(さんもん)の恥辱(ちじよく)【耻は俗字】を遺(のこ)すべし。四の宮(みや)帝位(ていゐ)に即(つき)玉はずんば。命(いのち)生(いき)て何(なに)かせんと
憤怒(ふんぬ)の思(おもひ)胸(むね)に充(みち)炉檀(ろだん)に立(たて)たる白刃(はくじん)を把(とつ)て自己(みつから)額(ひたい)を突傷(つきやぶ)り其(その)鮮血(せんけつ)を柴(しば)に
そゝぎかけて護摩壇(ごまだん)へ打くべ。いら高(たか)珠数(じゆず)を断(きれ)るばかりに押(おし)もみ帰命頂礼(きめうてうらい)

西方(さいはう)大威徳明王(だいいとくめうわう)仰(あふ)ぎ願(ねがは)くは善雄(よしを)に力(ちから)を添(そへ)相撲(すもふ)に勝(かた)しめ給へと。明王(めうわう)の真(しん)
言(ごん)を唱立(となへたて)黒汗(くろあせ)を流(なが)して祈(いの)られければ。生仏(しやうぶつ)もとより隔(へだて)なく恵亮(ゑりやう)が信力(しんりき)本尊(ほんぞん)
にや通(つう)じけん。大威徳(だいいとく)の乗(のり)玉へる画図(ぐわと)の水牛(すいぎう)忽(たちま)ち眼(まなこ)を瞋(いから)し大いに声(こえ)を発(はつ)
して吼(ほえ)たりける。其声(そのこえ)遠(とふ)く大内(おほうち)まで聞(きこ)えけるとぞ。恵亮(ゑりやう)は此(この)奇特(きどく)を見て大に
勇(いさ)み弥(いよ〳〵)真言(しんごん)を高声(かうしやう)に唱(とな)へ身命(しんみやう)を拋(なげう)つてぞ祈(いの)られける。是(これ)より前(さき)に禁廷(きんてい)に
は立合(たちあはせ)の宦人(くわんにん)よきしほに指(さい)たる幣(へい)を引(ひき)ければ。名虎(なとら)善雄(よしを)やつとかけ声(ごゑ)とともに
立合(たちあひ)少時(しばらく)は手先(てさき)にて挑(いど)み合(あひ)けるに。名虎(などら)疾(はや)く善雄(よしを)が腕首(うでくび)とつて曳(ひき)よせ
直(すぐ)に犢鼻褌(とくびこん)の結目(ゆひめ)掻掴(かいつか)み。目(め)より高(たか)く指揚(さしあげ)曳(ゑい)やと言(いひ)さま一 丈(じやう)許(ばかり)空(そら)さま
に投揚(なけあげ)けるにぞ。上下の看宦(けんぶつ)あはや四の宮(みや)方(がた)負(まけ)けりとおもふ所(ところ)に。左(さ)はなくて善(よし)
雄(を)は宙(ちう)にて閃(ひら)りと反(かへ)り。地上(ちじやう)に落(おつ)るとひとしくすつくと立(たつ)たり。諸人(しよにん)是(これ)を見てあつと
感(かん)じ誉(ほむ)るうち。名虎(などら)は憤然(ふんぜん)として再(ふたゝ)びつと寄(より)肩口(かたぐち)を掴(つか)んで投(なげ)んとするを

善雄(よしを)早(はや)く身(み)を捻(ひね)りて抜(ぬけ)名虎(なとら)が背(うしろ)へ廻(まは)り双腕(もろうで)の力(ちから)を究(きはめ)て突倒(つきたほ)さんと押立(おしたて)
けれども。名虎(などら)は地(ち)より生抜(はへぬき)たる大 盤石(ばんじやく)のごとく一寸も動(うご)かず。大手(おほで)を背(せ)へ廻(まは)して
善雄(よしを)が首筋(くびすじ)を鷲掴(わしつかみ)にし我前(わがまへ)へ曳廻(ひきまは)し金剛力(こんがうりき)を出(いだ)し肩骨(かたぼね)を抓(つか)み拉(ひしが)んと
す。されども善雄(よしを)は抜群(ばつぐん)の角力(すまふ)の達人(たつじん)なれば。大木(たいぼく)に藤(ふぢ)の捲付(まきつき)しごとく取付(とりつい)て
内(うち)がらみ。外(そと)がらみ。大渡繫(おほわたりがけ)。小渡繫(こわたりかけ)。左手(ゆんで)に廻(まは)り右手(めて)に廻(めぐ)り。或(あるひ)は離(はな)れあるひは寄(よせ)
虚々(きよ〳〵)実々(じつ〳〵)の妙手(めうしゆ)を尽(つく)して繰(あやど)りける是(これ)や昔(むかし)より角力(すまふ)の上手(じやうず)と名(な)に高(たか)き品治(ほんぢ)の
北男(きたを)。佐伯希雄(さいきまれを)。紀(き)の勝岡(かつおか)なんども。善雄(よしを)が早業(はやわざ)には争(いかで)か勝(まさ)るべきと。諸人(しんにん)感(かん)
嘆(たん)し弥(いよ〳〵)目(め)を離(はな)さず片唾(かたづ)を呑(のん)で見るうちに。名虎(などら)は善雄(よしを)が為(ため)に繰(あやどら)れて大い
に精力(せいりき)を労(つから)し勢(いきほ)ひ稍(やゝ)衰(おとろ)へ息(いき)づかひ早鐘(はやがね)を撞(つく)が如(ごと)くなりける所(ところ)に忽(たちま)ち艮(うしとら)の
方(かた)より。彼(かの)大威徳明王(だいいとくめうわう)の水牛(すいぎう)の吼(ほゆ)る声(こゑ)聞(きこ)えて。名虎(などら)が耳(みゝ)に入とひとしく俄(にはか)に放(ほう)
心(しん)せしごとく忙然(ぼうぜん)として我(われ)を忘(わす)れ双腕(もろうで)も痺(しび)れるごとくぞ覚(おぼへ)ける。善雄(よしを)はまた水牛(すいぎう)

の声(こゑ)を聞ていよ〳〵勇気(ゆうき)を増(まし)名虎(などら)が下手(したて)に入(いつ)て押立々々(おしたて〳〵)と犢鼻褌(とくびこん)に両手(もろて)をかく
るぞと見る間(ま)もなく曳(ゑい)やと言(いひ)さまはづみを打(うつ)て倒(どう)ど投付(なげつけ)ければさしもの名虎(などら)其儘(そのまゝ)
血(ち)を吐(はい)て起(おき)も得(え)上(あが)らず仆伏(たほれふし)ける。是(これ)を見て堂上(どうせう)堂下(どうか)に群(むらが)りし雑人(ぞうにん)にいたる迄(まで)
仕(し)たりや〳〵と誉(ほむ)る声(こゑ)四竟(しけう)に響(ひゞ)きて少時(しばし)は鳴(なり)も止(やま)ざりけり。立合(たちあはせ)の宦人(くわんにん)は持(もち)たる
幣(へい)を善雄(よしを)に授(さづけ)ければ。善雄(よしを)は幣(へい)を受(うけ)て推頂(おしいたゞ)き。欣然(きんぜん)として玉座(ぎよくざ)に向(むか)ひ拝(はい)をなし
て旧(もと)の掾座(えんざ)へかへり。宦人(くわんにん)們(ら)は四五人 立(たち)かゝりて名虎(などら)を扶(たす)け起(おこ)し。幕(まく)の内(うち)へ連行(つれゆき)輿(こし)に
乗(のせ)て其儘(そのまま)館(やかた)へ送(おく)りけるが。三日 許(ばかり)病牀(びやうせう)に病臥(やみふし)只(たゞ)無念(むねん)や朽惜(くちをし)やと詈(のゝし)り叫(さけび)【叶は誤】
て終(つひ)に空(むな)しく成(なり)にける。朝廷(てうてい)には四の宮(みや)勝負(しやうぶ)に勝(かち)給へばとて維仁親王(これひとしんわう)へ立太子(りつたいし)の
宣旨(せんじ)を下(くだ)され。維高親王(これたかしんわう)は十二月二日 君(きみ)の御 前(ぜん)にて御 元服(げんぶく)あり。理髪(りはつ)は中納言(ちうなごん)
長良(ながよし)加冠(かくわん)は左大臣(さだいじん)信公(のぶみこう)なり。斯(かく)て其(その)翌年(よくねん)天安(てんあん)二年八月 帝(みかど)御悩(ごのふ)頻(しきり)にて遂(つひ)
に崩御(ほうぎよ)なし給ひければ。皇后(かうぐう)宮方(みやがた)公卿(こうけい)諸宦人(しよくわんにん)に至(いた)るまで深(ふか)き歎(なげき)に沈(しづ)みながら

【右丁】
伴ノ吉雄

【左丁】
惟喬(これたか)惟仁(これひと)
の位(くらい)争(あらそひ)に
   より
大内(おゝうち)相撲(すもふ)
   の図(づ)

紀ノ名虎

偖(さて)有果(ありはつ)べき事ならねば。御 遺勅(ゆいちよく)に任(まか)せ尊骸(そんがい)を収(おさめ)奉り。山城国(やましろのくに)葛野郡(かどのごほり)真(ま)
原(ばら)のさん山陵(さんれう)に葬(ほうむ)り奉られけり。此君(このきみ)も先々(せん〴〵)の帝(みかど)の御 仁徳(じんとく)に劣(おと)らせ玉はず御即(ごそく)
位(ゐ)の初(はじめ)より朝政(てうせい)に睿慮(ゑいりよ)を委(ゆだね)玉ひ。万民(ばんみん)を恤(めぐ)み育(そだて)給ひ。四海(しかい)穏(おだや)かなりけるに。御 在(ざい)
位(ゐ)わづか九年にて登霞(とうか)まし〳〵ける。宝算(ほうさん)三十二才とぞ。最(いと)惜(をし)かりし御 事(こと)也けり
    清和天皇(せいわてんわう)御即位(ごそくゐ)  伴義雄(とものよしを)《振り仮名:犯_レ罪流刑之条|つみをおかしるけいのこと》
先帝(せんてい)《割書:文|徳》已(すで)に崩御(ほうぎよ)なし給ひければ。朝廷(てうてい)の群臣(ぐんしん)評議(ひやうぎ)の上 春宮(とうぐう)維仁親王(これひとしんわう)を
宝位(みくらゐ)に即(つけ)奉(たてまつ)る。此君(このきみ)を人皇(にんわう)五十六代 清和(せいわ)天皇と申(まうし)奉れり。御 年(とし)九才 吾朝(わがてう)
幼帝(ようてい)の始(はじめ)なり。則(すなは)ち文徳(もんどく)天皇 第(だい)四の皇子(みこ)にて御母は太政大臣(だじやうだいじん)藤原良房(ふぢはらのよしふさ)公(こう)
の御 女(むすめ)染殿皇后(そめどのゝかうぐう)なり。此時(このとき)外祖(ぐわいそ)良房公(よしふさこう)を摂政(せつしやう)とせらる。是(これ)藤原氏(ふぢはらうじ)摂政(せつしやう)の
初(はじめ)なり即(すなは)ち良房公(よしふさこう)の計(はか)らひとして伊勢太神宮(いせだいじんぐう)を先(さき)とし諸大社(しよたいしや)へ奉幣使(はうへいし)
を立(たて)幼主(ようしゆ)御 即位(そくゐ)の義(ぎ)を告(つげ)られ。年号(ねんがう)を貞観(でうぐわん)元年と改元(かいげん)ありけり。然(しか)れども

年始(ねんし)の節会(せちゑ)および諸(もろ〳〵)の儀式(ぎしき)は諒闇(りやうあん)の憚(はゞか)りにて行(おこな)はれず。よふ〳〵冬(ふゆ)にいたり十
一月に大嘗会(だいぜうゑ)の大礼(たいれい)を執行(とりおこな)はれけり。此君(このきみ)は勝(すぐ)れて聡明(そうめい)睿智(ゑいち)に在(ましま)し御 幼(よう)
少(せう)より学問(がくもん)を好(この)ませ給ひ。大学博士(だいがくのはかせ)春日雄継(かすかのをつぎ)に孝経(かうきやう)を受(うけ)玉ひ自今(いまより)
以後(のち)帝王(ていわう)たる人は必(かなら)ず読書(とくしよ)する始(はじめ)には先(まづ)孝経(かうけう)を読(よむ)べきなりと勅詔(みことのり)なし
玉ひけり。諸(しよ)臣下(しんか)奉(うけたま)はりて幼主(ようしゆ)には似合(にあは)せ玉はぬ。いと賢(さかし)き倫言(りんげん)かなと皆(みな)舌(した)
を巻(まい)てぞ恐入(おそれいり)奉りける。されば末代(まつたい)まで帝王(ていわう)の御 読書始(とくしよはじめ)に孝経(かうけう)を読(よみ)給ふ
は此帝(このみかど)の勅詔(ちよくぜう)に因(よる)ところとかや。斯(かく)聖智(せいち)の君(きみ)なれば貞観(でうくわん)三年 辛巳(かのとみ)十二才
にて自(みづから)周易(しうえき)を講(かう)じ給ふ。相国(しやうこく)良房公(よしふさこう)を首(はじめ)とし月卿雲客(げつけいうんかく)参列(さんれつ)して拝聴(はいてう)
し奉らるゝに。偏(ひとへ)に菅家(かんけ)。江家(かうけ)の博士(はかせ)の講(かう)ずるに異(こと)ならずと感(かん)じ奉らざ
る人もなし。其後(そのゝち)も論語(ろんご)。五経(ごきやう)。群書治要(ぐんしよちよう)等(とう)交々(かはる〴〵)講(かう)じ給ひければ。近代(きんだい)の
天子(てんし)みな明君(めいくん)にてわたらせ給へども。いまだ此君(このきみ)のごとく御 幼稚(ようち)より御 才弁(さいべん)とも

兼備(かねそな)はり給ふ君(きみ)は在(ましま)さずと申あへり。貞観(でうぐわん)六年正月 元日(ぐわんじつ)に天皇(てんわう)御 元服(げんぶく)なし給ふ
御 年(とし)十五才にならせ給へり。同八年 丙戌(ひのへいぬ)閏(うる)三月十日の夜(よ)内裡(だいり)の応天門(おうてんもん)放火(はうくわ)の
ために焼失(しやうしつ)しけるゆへ諸卿(しよけう)大に駭(おどろ)き其(その)犯人(ぼんにん)を鑿穿(せんさく)あるに更(さら)に知(しれ)ざりけるが
後(のち)に訴人(そにん)あつて大納言(だいなごん)伴義雄(とものよしを)が所為(しわざ)なるよし顕(あらは)れ。即時(そくじ)に召捕(めしとら)れける。其(その)
根(ね)を糺(たゞ)し聞(きく)に伴義雄(とものよしを)は去(さん)ぬる天安(てんあん)元年 位定(くらゐさだめ)の角力(すまふ)に勝(かち)たるを以(もつ)て相国(しやうこく)良(よし)
房公(ふさこう)殊更(ことさら)に贔屓(ひいき)ありて善雄(よしを)を重(おも)んじ。追々(おひ〳〵)宦位(くわんゐ)を増(まし)遂(つひ)に大納言(だいなごん)に任(にん)ぜ
られける。然(しかる)に彼(かの)紀名虎(きのなどら)は前(さき)に述(のべ)し如(ごと)く曠(はれ)の角力(すまふ)に負(まけ)たるを深(ふか)く遺恨(いこん)に思(おも)ひ
気病(きびやう)を発(はつ)して遂(つひ)に病床(びやうせう)に憤死(ふんし)しけるが。其(その)悪霊(あくれう)の祟(たゝり)【崇は誤】にや。伴義雄(とものよしを)は天性(てんせい)慎(つゝしみ)
深(ふか)き人なりけるに。何時(いつ)しか憍慢(きやうまん)の心 萌(きざ)し。身(み)の行跡(かうせき)以前(いぜん)に変(かはり)て荒々(あら〳〵)しく家士(いへのこ)
奴婢(ぬひ)を科(とが)なきに笘打(むちうち)。または人の貧賎(ひんせん)を嘲(あざけ)り。人の富貴(ふうき)を妬(ねた)みけるゆへ。諸人(しよにん)善雄(よ[し]を)
を憎(にく)み疎(うと)んずるやうに成行(なりゆき)けれども。それらの事にも心付(こゝろつか)ず。あはれ大臣(だいじん)の高宦(かうくわん)に昇進(せうしん)

せばやと非分(ひぶん)の望(のぞみ)を起(おこ)し自己(みづから)つら〳〵思(おも)ひけるは。当寺(とうじ)左大臣(さだいじん)は源信(みなもとののぶみ)右大臣は藤(ふぢ)
原良相(はらのよしすけ)なり。我(われ)手段(てだて)を迴(めぐら)し信(のぶみ)を罪(つみ)に落(おと)さば良相(よしすけ)を左大臣(さだいじん)に転(てん)ぜられ。右大(うだい)
臣(じん)はさしづめ我(われ)を任(にん)ぜらるべしと。身勝手(みがつて)の了簡(りやうけん)を定(さだ)め。浪士(らうにん)大宅鷹取(おほやのたかとり)といへる嗚(お)
呼(こ)の曲者(くせもの)をかたらひ暗(ひそか)に内裏(だいり)の応天門(おうてんもん)に火(ひ)をさゝせけるに忽(たちま)ち焰々(ゑん〳〵)と燃上(もえあが)りける
是(これ)に依(よつ)て衛府(ゑふ)の宦人(くわんにん)下司(したづかさ)等(ら)大に駭(おどろ)き。馳聚(はせあつまつ)て火(ひ)を消(けさ)んと働(はたら)けども。火勢(くわせい)強(つよ)く
遂(つひ)に応天門(おうてんもん)焼失(せうしつ)しけり。然(しかれ)ども自余(じよ)の殿宇(でんう)は幸(さいはひ)に別条(べつでう)なし。撿非違使(けびゐし)の別当(べつとう)
事(こと)の体(てい)をよく〳〵撿(あらたむ)るに。正(まさ)しく犯人(ぼんにん)有(あつ)て火(ひ)をさしたるに紛(まぎれ)なければ。是(これ)隠謀(いんばう)を企(くはだつ)る
族(やから)の所為(しよゐ)なるべしと。人夫(にんぶ)を四方へ配(くば)り洛内(らくちう)洛外(らくぐわい)とも厳(きびし)く鑿穿(ぎんみ)しけれども何者(なにもの)
の所為(しわざ)とも敢(あへ)て分明(ふんめう)ならざりける。善雄(よしを)は仕(し)すましたりと悦(よろこ)び一日(あるひ)右大臣(うだいじん)良相(よしすけ)の館(やかた)へ
到(いた)り。対面(たいめん)して声(こゑ)を低(ひそ)め。応天門(おうてんもん)に火(ひ)をさしたる犯人(ぼんにん)を誰(たれ)なるらんと思(おも)ひ候ひしに。豈(あに)
はからん左大臣(さだいじん)信(のぶみ)の所業(しわざ)なりと告(つぐ)る者あり。察(さつ)するに彼人(かのひと)謀叛(むほん)を企(くはだて)帝(みかど)を傾(かたむ)け奉(たて)

まつらんためなるべし。急(いそ)ぎ宦吏(やくにん)を差向(さしむけ)召捕(めしとら)せて糺明(きうめい)あるべしと。天逆(あまさかさ)まに誠(まこと)しく
告(つげ)けるにぞ。良相(よしすけ)偽言(いつはり)とは務(ゆめ)にもしらず。以(もつて)の外(ほか)に駭(おどろ)き。能(よく)こそ告知(つげしら)されたりと。一 応(おう)
の思慮(しりよ)にも及(およば)ず。善雄(よしを)と同道(どう〳〵)して陣(ぢん)の座(ざ)へ行(ゆき)我婿(わがむこ)。たる参議中将(さんぎちうじやう)基経(もとつね)を呼(よび)
出(いだ)し。左大臣(さたいじん)信(のぶみ)逆謀(ぎやくばう)を企(くはだて)応天門(おうてんもん)を焼(やき)たるよし其(その)聞(きこ)えあり。急(いそ)ぎ宦吏(くわんり)をさし
向(むけ)搦捕(からめとら)せ候へと命(めい)ぜられけるに。基経(もとつね)は若年(じやくねん)なれども思慮(しりよ)深(ふか)き人なれば。暫(しばら)く考(かんがへ)
て曰(いはく)。此義(このぎ)相国(しやうごく)良房公(よしふさこう)は知(しり)給へりやと問(とは)れければ。良相(よしすけ)答(こたへ)て。否(いな)良房公(よしふさこう)は此程(このほど)
一向(ひたすら)仏道(ぶつどう)を皈依(きえ)ありて朝廷(てうてい)の政務(まつりごと)を聞(き[ゝ])玉はず。さるに依(よつ)ていまだ告知(つげしら)さずと申
されける。基経(もとつね)色(いろ)を正(たゞ)し。是(こ)は麤忽(そこつ)【麁は俗字】なる仰(あふせ)かな。火災(くわさい)の義(ぎ)は小事(せうじ)たりといへども。左大臣(さだいじん)
たる人を召捕(めしとり)候は天下の大事(だいじ)なり。然(しかる)に摂政(せつしやう)たる人にも告(つげ)ず宦吏(くわんり)を差向(さしむけ)る法(ほふ)や
候べき小臣(それがし)相国(しやうごく)に言上(ごんしやう)し候べしとて。直(たゞち)に良房公(よしふさこう)の館(やかた)へ推参(すいさん)し。右の由(よし)を言上(ごんぜう)せられ
ければ。良房公(よしふさこう)大いに駭(おどろ)かれ。先帝(せんてい)一の宮(みや)と四の宮(みや)を何方(いづれ)をか太子(たいし)に立(たつ)べきと群臣(ぐんしん)に問(とは)

せ給ひし時(とき)諸卿(しよけう)多分(たぶん)は一の宮(みや)を太子(たいし)に立(たて)給へと奏(そう)しけれども。彼(かの)信(のぶみ)一人は后腹(きさきばら)と外(げ)
戚腹(しやくばら)の理(り)を論(ろん)じて強(しゐ)て今の帝(みかど)を太子(たいし)に立(たて)給へと諫(いさめ)られしゆへ遂(つひ)に四の宮(みや)へ立太子(りうたいし)の宣(せん)
旨(じ)を下され。先帝(せんてい)崩御(ほうぎよ)なし給ひし後(のち)も諸卿(しよけう)詮議(せんぎ)し。四の宮(みや)春宮(とうぐう)にて在(ましま)せども御幼(ごよう)
稚(ち)と申 兄皇子(あにみこ)を超(こえ)て御 即位(そくゐ)なし玉はんは如何(いかゞ)あらんと諷評(ふうひやう)せし折(をり)も信(のぶみ)一人のみ道理(どうり)
を演(のべ)て幼君(ようくん)を帝位(ていゐ)に即(つけ)奉(たてまつ)りし程(ほど)の忠臣(ちうしん)。何(なん)ぞ逆意(ぎやくい)を企(くはだつ)つる事か有べき。当時(とうじ)
信(のぶみ)に増(まし)たる正直(せいちよく)の功臣(かうしん)なし。近頃(ちかごろ)麤忽(そこつ)【麁は俗字】の申され事(ごと)右大臣(うだいじん)には似合(にあは)ざる義(ぎ)なり。極(きはめ)て
讒者(ざんしや)の虚言(きよごん)なるべし。克々(よく〳〵)理非(りひ)を糺(たゞ)さるべしと申されよと有(あり)けるゆへ。基経(もとつね)左(さ)も有べしと
承服(しやうふく)し。立(たち)かへりて良相(よしすけ)善雄(よしを)に相国(しやうごく)の申されし趣(おもむ)きを言聞(いひきか)せければ。良相(よしすけ)は理(り)に伏(ふく)して
赤面(せきめん)し。善雄(よしを)は何(なに)となく底気味(そこきみ)あしく。よき程(ほど)に言紛(いひまぎら)して立帰(たちかへ)りけり。其後(そのゝち)も朝廷(てうてい)より
放火(はうくわ)の犯人(ぼんにん)を探(さぐ)り尋(たづね)らるゝ事 緊(きび)しかりけれども。猶(なを)曽(かつ)て知(しれ)ざりけるに。月日(つきひ)遙(はる)に推移(おしうつ)りて
同年(どうねん)八月三日 右大臣(うだいじん)良相(よしすけ)の館(やかた)へ夜中(やちう)に怪(あや)しの下郎(げらう)一人 入来(いりきた)り。執達(とりつぎ)の役人(やくにん)に就(つい)て申

けるは。当館(とうやかた)の殿(との)へ直(じき)に言上(まうしあぐ)べき一 大事(だいじ)の候御 対面(たいめん)なし玉はり候やう申入下され候へと
事 有(あり)げなる詞(ことば)に。執達(とりつぎ)の士(し)訝(いぶか)りながら。主君(しゆくん)へ其(その)旨(むね)言上(ごんぜう)しければ。良相(よしすけ)も怪(あや)しまれ
何分(なんぶん)子細(しさい)有(ある)べしとて。白砂(しらす)へ廻(まは)らせ対面(たいめん)ありて。一大 事(じ)とは如何(いか)なる義(ぎ)にやと問(とは)れける
に。下郎(げらう)答(こたへ)て一大 事(じ)と申は別義(べつぎ)にも候はず。当(とう)春(はる)応天門(おうてんもん)を放火(はうくは)して焼(やき)しは。伴善(とものよし)
雄殿(をどの)にて候と言上(ごんぜう)しけるにぞ。良相(よしすけ)駭(おどろ)きながら誠(まこと)なりとせず。彼(かの)善雄(よしを)は主上(しゆぜう)を先(さき)
とし奉り。相国(しやうごく)良房公(よしふさこう)も御 贔屓(ひいき)厚(あつ)く追々(おひ〳〵)宦禄(くわんろく)を増(ま)し給ふに。何(なん)ぞさる大 罪(ざい)を
犯(おか)すべき。是(こ)は你(なんじ)善雄(よしを)に恨(うらみ)あつて彼人(かのひと)を無実(むしつ)の罪(つみ)に陥(おとしい)れん巧(たく)みなるべしと申され
ければ。下郎(げらう)重(かさね)て一 応(おう)の御 不審(ふしん)御 尤(もつとも)に候へども。実(まこと)は某(それがし)は大宅鷹取(おほやのたかとり)と呼(よば)るゝ浪人(らうにん)
にて候が此(この)春(はる)善雄殿(よしをどの)某(それがし)を招(まね)かれ。酒食(しゆしよく)に飽(あか)しめ金銀(きん〴〵)を給(たま)ひ。你(なんじ)人しれず内裡(だいり)の
応天門(おうてんもん)に火(ひ)をさして焼(やき)なば千 金(きん)を与(あたへ)んと。誓(ちかひ)を立(たて)て頼(たのま)れ候ゆへ。欲心(よくしん)に引(ひか)れ頼(たのみ)の
ごとく禁門(きんもん)に火をさして焼(やき)候ひしに。善雄殿(よしをどの)事(こと)を左右(さいう)に托(よせ)て約定(やくでう)の賞金(ほうび)を与(あたへ)

られず候ゆへ度々(たび〳〵)催促(さいそく)し候に。我(われ)いまだ望(のぞみ)を遂(とげ)ず。左大臣信(さだいじんのぶみ)を罪(つみ)に陥(おと)し我(われ)右大臣(うだいじん)
に昇進(しやうしん)せば。契約(けいやく)の金子(きんす)を与(あたふ)べしと申されしゆへ。夏(なつ)果(はつ)る頃(ころ)まで待(まち)候へども何(なん)の沙(さ)
汰(た)もなく候ゆへ又々(また〳〵)頻(しきり)に催促(さいそく)し候ひしかば。さらば賞金(ほうび)を与(あた)ふべしとて。偽(いつはつ)て先(まづ)酒(さけ)を
多(おほ)く強(しい)。某(それがし)が熟酔(じゆくすい)せし油断(ゆだん)を見(み)すまし。力士(りきし)に命(めい)じて無体(むたい)に縛(しば)らせ牢(ろう)へ打(うち)こみ
飲食(いんしよく)とも与(あた)へず餓死(がし)せしめんとせられ候ところ。昨夜(さくや)人(ひと)定(しづまつ)て後(のち)何国(いづく)よりとも不知(しらず)さも
怕(おそろ)しげなる人 牢内(ろうない)へ来(きた)り某(それがし)に向(むか)ひ。你(なんじ)此(この)牢内(ろうない)を出(いで)て右大臣家(うだいじんけ)へいたり善雄(よしを)が犯罪(ぼんざい)
を訴(うつた)へよと言(いひ)つゝ。さしも緊(きびし)く固(かため)し牢(ろう)の戸(と)を安々(やす〳〵)と開(あけ)某(それがし)を脇挟(わきばさ)み邸(やしき)の門塀(もんへい)を
飛踰(とびこへ)て助出(たすけいだ)し候ゆへ。御 身(み)は何人(なにびと)にて某(それがし)を救(すく)ひ出(いだ)し玉はり候やと問(とひ)候へば。我(われ)は紀名虎(きのなどら)
が亡霊(ぼうれい)なり。善雄(よしを)のために位定(くらゐさだめ)の角力(すまふ)に負(まけ)無念(むねん)の魂魄(こんぱく)陽土(このよ)に残(のこ)り。善雄(よしを)を放(はう)
心(しん)させて。非分(ひぶん)の望(のぞみ)を起(おこ)し禁門(きんもん)を焼(やか)せしも皆(みな)我(わが)劫通力(がうづうりき)を以(もつ)てする処(ところ)なり。你(なんじ)早(はや)く
右大臣家(うだいじんけ)へ到(いた)り善雄(よしを)が罪(つみ)を訴訟(そしやう)し渠(かれ)を罪(つみ)に陥(おと)し。我(わが)無念(むねん)を晴(はら)させよと

言(いひ)て雲(くも)霧(きり)のごとく消失(きへうせ)候ゆへ。亡霊(ぼうれい)の教(をしへ)に任(まか)せ斯(かく)訴人(そにん)に出(いで)候なり。可憐(あはれ)此(この)御恩賞(ごおんせう)に
は某(それがし)が一 命(めい)を御助下さるべしと。微細(みさい)に白状(はくぜう)しけるにぞ。右大臣(うだいじん)も名虎(などら)が執着(しうぢやく)を深(ふか)く
怖(おそ)れ毛孔(みのけ)も堅(よだつ)ごとく思(おも)はれ。此上(このうへ)は基経(もとつね)と商議(しやうぎ)し善雄(よしを)父子(ふし)を召捕(めしとら)んと。鷹取(たかとり)は
証人(しやうにん)のため一室(ひとま)に隠(かく)し置(おい)て番人(ばんにん)を以(もつ)て守(まも)らせ。夜中(やちう)ながら使者(ししや)を立(たて)て婿(むこ)基経(もとつね)を
招(まね)き対面(たいめん)の上 鷹取(たかとり)が訴(うつた)への趣(おもむ)きを語(かた)られければ。基経(もとつね)眉(まゆ)をひそめ。古(いにしへ)より執着(しうぢやく)
深(ふか)き者(もの)の怨鬼(えんき)恨(うらみ)を報(むくひ)し例(ためし)和漢(わかん)とも少(すくな)からず。然(しかれ)ば名虎(などら)が亡霊(ぼうれい)善雄(よしを)に放心(ほうしん)
させて罪(つみ)を犯(おか)させし義(ぎ)も無(なき)例(ためし)とは申 難(がた)しといへども。言(いは)ば匹夫(ひつふ)の訴人(そにん)一 応(おう)にて其(その)
詞(ことば)を信(しん)ずるも慮(おもんはか)りの不足(たらざる)に似(に)たり。小臣(それがし)今一 応(おう)其者(そのもの)に対面(たいめん)し実否(じつふ)を糺(たゞ)し候べし
とて。鷹取(たかとり)を呼出(よびいだ)し自身(じしん)糺明(きうめい)あるに鷹取(たかとり)が白状(はくぜう)良相(よしすけ)の申されし趣(おもむ)きと一 句(く)も
違(たがは)ず其(その)五音(ごいん)虚言(いつはり)ならず聞えしかば。此上(このうへ)は善雄(よしを)を召捕(めしとり)罪(つみ)の虚実(きよじつ)を糺(たゞ)さんと
良相(よしすけ)に辞(いとま)を告(つげ)て私宅(したく)へ帰(かへ)られけるに。夜(よ)も早(はや)明(あけ)わたりければ。火急(くはきう)に南淵年名(みなぶちとしな)

藤原善縄(ふぢはらのよしなは)両人(りようにん)を呼寄(よびよせ)。伴義雄(とものよしを)父子(ふし)大 罪(ざい)を犯(おか)せり急(いそ)ぎ馳向(はせむかふ)て召捕(めしとり)候へとて。宦(くわん)
兵(へい)二百 余(よ)人を授(さづ)けければ。両人(りようにん)領掌(れうぜう)し宦兵(くわんへい)を卒(そつ)して善雄(よしを)が邸舎(やしき)へ馳到(はせいた)りまだ
卯(う)の剋(こく)の早天(さうてん)に表門(おもてもん)裏門(うらもん)を取囲(とりかこ)み。逸男(はやりを)の力者(りきしや)我(われ)後(おくれ)じと前後(ぜんご)の門(もん)を打破(うちやぶつ)てぞ
みだれ入ける。善雄(よしを)はいまだ寝所(しんじよ)に臥(ふし)て在(あり)けるが。俄(にはか)に宦卒(くわんそつ)のこみ入(いる)に駭(おどろ)き。是(こ)は何事(なにごと)の
起(おこり)しぞとて。岸破(がば)と刎起(はねおき)太刀(たち)追(おつ)とる間(ま)もなく十 余(よ)人の力者(りきしや)寝所(しんじよ)へ踏込(ふんごみ)おり重(かさな)つ
て難(なん)なく縄(なは)を掛(かけ)たりけり。善雄(よしを)が嫡男(ちやくなん)善佐(よしすけ)は早(はや)密謀(みつぼう)洩(もれ)たりと察(さつ)し。家士(いへのこ)四五
人を引将(ひきつれ)太刀(たち)を揮(ふり)矛(ほこ)を揚(あげ)て表門(おもてもん)へ突出(とつしゆつ)し。宦兵(くわんへい)を斬散(きりちら)さんと働(はたら)けども年名(としな)大
勢(ぜい)に下知(げぢ)し八 方(はう)より攻立(せめたて)させければ。善佐(よしすけ)が郎党(らうどう)或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は重手(おもで)を負(おひ)けるにぞ。善(よし)
佐(すけ)叶(かな)はじと再(ふたゝ)び館(やかた)へ引退(ひきしりぞ)き。自害(じがい)せんとしける内(うち)に宦兵(くわんへい)引続(ひつつゞい)てこみ入(いり)。手(て)とり脚(あし)とり
して是(これ)も安々(やす〳〵)搦捕(からめとり)ける。館(やかた)の女(をんな)童(わらべ)は泣叫(なきさけ)びて逃(にげ)さまよひ。男子(なんし)たる者も火急(くわきう)の変(へん)に
周障(あはて)狼狽(うろたへ)途(ど)を失(うしな)ひけるを。年名(としな)。善縄(よしなは)諸卒(しよそつ)に令(げち)して尽(こと〴〵)く搦捕(からめとら)せ。善雄(よしを)父子(ふし)と







ともに史庁(しのてう)へぞ曳(ひい)てかへりける。基経(もとつね)。善雄(よしを)父子(ふし)を庭上(ていしやう)に曳居(ひきすへ)させ。放火(はうくわ)の𥝒(とが)を糺明(きうめい)
せられけるに。善雄(よしを)務々(ゆめ〳〵)覚(おぼへ)なきよし陳謝(いひひらき)しけるに依(より)。彼(かの)鷹取(たかとり)を曳出(ひきいだ)させて対論(たいろん)させ
ければ。善雄(よしを)忽(たちま)ち言句(ごんく)に詰(つま)り終(つひ)に罪(つみ)に伏(ふく)しけるにより。緊(きびし)く禁獄(きんごく)させ。偖(さて)相国(しやうこく)良(よし)
房公(ふさこう)へ斯(かく)と言上(ごんじやう)しければ。兼(かね)て贔屓(ひいき)の善雄(よしを)が義(ぎ)なれば。相国(しやうごく)は大いに駭(おどろ)かれ。彼(かの)仁(じん)は生得(しやうとく)
忠直(ちうちよく)の性(さが)なるに。何(なに)ゆへさる大 罪(ざい)を犯(おか)しけるぞと当惑(とうはく)ありけれども我(われ)と白状(はくぜう)せし上(うへ)は奈(い)
何(かん)ともしがたく。大切(たいせつ)なる禁門(きんもん)に火(ひ)をかけし大罪(だいざい)なれば死刑(しけい)に極(きはま)るといへども。帝(みかど)に功(かう)あるを
以(もつ)て相国(しやうごく)種々(さま〴〵)基経(もとつね)を説(とき)宥(なだ)められ。死罪(しざい)一 等(とう)を宥(ゆる)し。善雄(よしを)は伊豆国(いづのくに)。善佐(よしすけ)は讃岐国(さぬきのくに)へ
流罪(るざい)にし其余(そのよ)の一 族(ぞく)十 余人(よにん)も尽(こと〴〵)く流刑(るけい)に所(しよ)せられ家士(いへのこ)も罪(つみ)の軽重(けいぢう)に依(よつ)てそれ〳〵
に刑法(しおき)を定(さだ)め就中(なかんづく)浪士(らうにん)鷹取(たかとり)は。善雄(よしを)が頼(たのみ)とはいへども。御門(ごもん)に火(ひ)をさしたる大罪(だいざい)の上
己(おの)が欲心(よくしん)を遂(とげ)ざるを以(もつ)て訴人(そにん)に出(いで)し条(でう)。不義(ふぎ)表裏(へうり)の国賊(こくぞく)なりとて重(おも)く死刑(しけい)にぞ行(おこな)
はれける。誠(まこと)に今度(このたび)の珍事(ちんじ)の起(おこり)は名虎(などら)が憤霊(ふんれい)の祟(たゝり)【崇は誤】也と諸人(しよにん)挙(こぞつ)て怕(おそれ)ざるは無(なか)りけり

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之五目録
 陽成院(やうぜいゐん)御即位(ごそくゐ)      菅家(かんけ)系譜(けいふ)角力(すまふ)濫觴(らんじやう)条
 野見宿祢(のみのすくね)当麻蹶速(たへまのくへはや)と力競(ちからくらべ)への図
 春彦(はるひこ)是善(これよし)倶(ともに)《振り仮名:感_二奇夢_一|きむをかんず》  《振り仮名:於_二良香宅_一菅公試_レ射|よしかのたくにかんこうしやをこゝろむ》条
 陽成院(やうぜいゐん)《振り仮名:恋_二釣殿君_一御製|つりどのゝきみをこふぎよせい》 狂病(きやうびやう)乱行(らんこう)閉居(へいきよの)条(こと)
 異形(いぎやう)のものを並(ならべ)て釣殿(つりどの)の后(きさき)を魘(おそ)ふ図(づ)
 光孝天皇(くわうかうてんわう)御即位(ごそくゐ)     行平(ゆきひら)《振り仮名:詠_二述懐歌_一被_レ為_レ謫|じゆつくわいのうたをよみててきせらるゝ》条

 行平(ゆきひら)須磨(すま)の浦(うら)にて松風(まつかぜ)村雨(むらさめ)に戯(たは)ふるゝ図(づ)
 清和上皇(せいわじやうくわう)御登霞(ごとうか)   禁廷(きんてい)種々(しゆ〴〵)怪異(けゐ)の条(くだり)
 都良香(とりようかう)《振り仮名:得_二鬼神奇句_一|きしんのきくをうる》  菅公(かんこう)一時(いちじ)《振り仮名:作_二 十詩_一|じつしをつくる》条
 羅生門(らしやうもん)に於(おい)て鬼神(きしん) 都良香(とりようかう)が詩(し)を嗣(つ)ぐ図(づ)
 醍醐天皇(だいごてんわう)御即位(ごそくゐ)    時平(ときひら)乱行(らんかう)《振り仮名:奪_二叔父妻_一|おぢのさいをうばふ》条

     目 録 終

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之五
            浪華 好華堂野亭参考

    陽成院(やうせいいん)御即位(ごそくゐ)  菅家(かんけ)系譜(けいふ)角觝(すまふ)濫觴(はじまりの)条(こと)
貞観(でうくわん)十一年に大納言(だいなごん)藤原氏宗(ふぢはらのうじむね)。参議(さんぎ)大江音人(おほえのおとんど)。刑部卿(ぎやうぶけう)菅原是善(すがはらのこれよし)三人
貞観(でうくわん)格(かく)を撰(えらん)で奉(たてまつ)りけり。列位(おの〳〵)当時(とうじ)の博識(はくしき)なり。同十三年八月 源融(みなもとのとふる)を左(さ)
大臣(だいじん)とし藤原基経(ふぢはらのもとつね)を右大臣(うだいじん)とせられける。此(この)基経(もとつね)と申は。前条(まへ)に述(のぶ)るごとく藤原(ふぢはらの)
良相(よしすけ)の婿(むこ)にて双(ならび)なき智能(ちのふ)の人なり。則(すなは)ち藤原寺平(ふぢはらのしへい)の父(ちゝ)にて薨去(かうきよ)の後(のち)昭宣(せうせん)
公(こう)と謚(おくりな)せられし名臣(めいしん)なり。又 源融(みなもとのとふる)と申は嵯峨(さが)天皇の皇子(わうじ)にて人臣(じんしん)に下(くだ)り給へり
嵯峨源氏(さがげんじ)の鼻祖(びそ)にて。此(この)大臣(おとゞ)陸奥(みちのく)松島(まつしま)の千賀(ちが)の浦(うら)の風景(ふうけい)を愛(あい)して六条院(ろくでうのいん)に
千賀(ちか)の浦(うら)の地景(ちけい)を摸(うつ)し。大いなる池(いけ)を湛(たゝへ)て摂州(せつしう)難波(なには)の浦(うら)より毎日(ひごと)多(おほ)くの潮(うしほ)を都(みやこ)
へ運(はこば)せ。六条院(ろくでうのいん)の池(いけ)に溜(ため)汐(しほ)焼(やく)蜑乙女(あまおとめ)に汐(しほ)を汲(くま)せて楽(たの)しまれけり。因(よつ)て六条院(ろくでうのいん)を川(かは)

原院(らのいん)ともいひ。大臣(おとゞ)を川原左大臣(かはらのさだいじん)と称(せう)せり。源氏物語(げんじものがたり)に何(なに)がしの院(いん)と書(かき)しも此川(このかは)
原院(らのいん)の事なり。同十八年十一月 清和(せいわ)天皇 宝祚(みくらゐ)を春宮(とうぐう)貞明親王(さだあきらしんわう)に譲(ゆづ)り給ひ。御
身(み)は仙洞(せんとう)へ入せ給ふ。後(のち)に水尾山(みづのをやま)へ入(いつ)て仏道(ぶつどう)御 修行(しゆぎやう)ありしゆへ水尾帝(みづのをのみかど)と申奉れり
御 在位(ざいゐ)十八年なり。貞明親王(さだあきらしんわう)御 年(とし)八才にて帝位(ていゐ)に即(つき)給ふ此君(このきみ)を五十七代の帝
陽成院(やうぜいいん)と申奉(たてまつ)る。即(すなは)ち清和(せいわ)天皇の皇子(わうじ)にて御 母(はゝ)は皇太后(くわうたいこう)藤原高子(ふぢはらのたかこ)と申 故(こ)
中納言(ちうなごん)長良卿(ながよしけう)の女(むすめ)にて右大臣(うだいじん)基経(もとつね)の妹(いもと)なり。世(よ)に二条后(にでうのきさき)と申は是(これ)なり。陽成帝(やうぜいてい)は
貞観(でうくわん)十年に降誕(かうだん)在(ましま)し同十一年 春宮(とうぐう)に立(たち)玉へり。偖(さて)宝祚(ほうそ)を嗣(つぎ)給ひし頃(ころ)は太極(たいきよく)
殿(でん)焼失(せうしつ)せし後(のち)なれば。いまだ修理(しゆり)成就(じやうじゆ)せざるを以(もつ)て豊楽殿(ぶらくでん)に於(おい)て大嘗会(だいぜうゑ)の大礼(たいれい)
を執行(とりおこな)はせ給ひける。暦号(れきがう)を元慶(げんけい)元年と改元(かいげん)ありけり。同二年 出羽国(ではのくに)に夷賊(いぞく)蜂(ほう)
起(き)しければ征東使(せいとうし)を下され。同三年 夷賊(いぞく)誅(ちう)に伏(ふく)し逆乱(げきらん)平定(へいでう)しける故(ゆへ)征東使(せいとうし)都(みやこ)
へ凱陣(かいぢん)す。同四年 太上天皇(だじやうてんわう)《割書:清|和》丹波国(たんばのくに)水尾山(みづのをやま)へ入(いり)玉ふ。同五年 在原業平(ありはらのなりひら)卒去(そつきよ)す

此人(このひと)は阿保親王(あほしんわう)の二男(じなん)中納言(ちうなごん)行平(ゆきひら)の舎弟(しやてい)にて。美男(びなん)の聞(きこ)え高(たか)く歌道(かどう)の達人(たつじん)なり
邁齢(まいれい)五十七才なり。同十一月 右大臣(うだいじん)基経(もとつね)を摂政(せつしやう)に任(にん)ぜらる。同七年正月 渤海国(ぼつかいこく)
の使者(ししや)裴頲(はいてい)といふ人来朝(らいてう)しけるゆへ鴻臚館(かうろくわん)へ入(いら)しめられ。此頃(このごろ)菅原道真卿(すがはらのみちざねけう)
は文章博士(もんじやうはかせ)たれども。唐使(とうし)と応対(おうたい)する程(ほど)の才能(さいのふ)の無(なき)を以(もつ)て道真卿(みちざねけう)を仮(かり)
に治部太輔(ぢぶのたゆう)とせられ裴頲(はいてい)の接伴使(せつばんし)となし給ひけり。治部(ぢぶ)は異国(いこく)の事を掌(つかさど)る
宦(くわん)なるゆへなり。されば道真卿(みちざねけう)接伴使(せつばんし)となりて裴頲(はいてい)と詩(し)の贈答(ぞうとふ)などをなし
給ひけるに裴頲(はいてい)其(その)俊才(しゆんさい)髙作(かうさく)を見て。唐(とう)の白楽天(はくらくてん)の風韻(ふうゐん)有(あり)とぞ感(かん)じける
裴頲(はいてい)と道真卿(みちざねけう)との贈答(ぞうとふ)の詩(し)数多(あまた)なる中に殊(こと)に其(その)聞(きこ)え高(たか)かりしは
      《振り仮名:贈_二酔中脱_レ衣裴大使_一|すいちうころもをぬぎてはいだいしにおくる》       道真(みちざね)
  呉花(ごくわ)越鳥(ゑつてう)織(おること)初(はじめて)成(なる) 本(もと)自(おのづから)同衣(どうい)豈(あに)浅情(せんじやうならんや) 座客(ざかく)皆(みな)《振り仮名:為_二|きみが》
  《振り仮名:君後進_一|こうしんたり》 任将(さもあらばあれ)領袖(りやうしう)《振り仮名:属_二裴生_一|はいせいにぞくすることを》

其余(そのよ)は是(これ)を略(りやく)す。裴頲(はいてい)は道真卿(みちざねけう)と心偎(こゝろぐま)なく睦(むつ)び交(まじは)りけるが。一時(あるとき)道真公(みちざねこう)に向(むか)
ひ予(われ)熟(つら〳〵)公(こう)の相貌(さうぼう)を見るに大(おほい)に貴相(たつときさう)あり必(かなら)ず三 公(こう)の位(くらゐ)に昇(のぼり)給ふべし。然(しかれ)ども久(ひさ)
しく高宦(かうくわん)に居(ゐ)玉はゞ遂(つひ)には御 身(み)に禍(わざはひ)及(およ)ぶ事あらん。されば宦位(くわんゐ)昇進(せうしん)し玉ふとも早(はや)く
宦位(くわんゐ)を辞(じ)して其(その)禍(わざはひ)を避(さけ)給へと申ければ。道真卿(みちざねけう)承引(しやういん)ありて其(その)厚情(かうじやう)を謝([し]や)し給ひ
けるが。後年(こうねん)果(はた)して裴頲(はいてい)の先見(せんけん)違(たがは)ざりけり。斯(かく)て裴頲(はいてい)は内裏(だいり)へ召(めさ)れ御 饗応(きやうおう)
ありて後(のち)御 暇(いとま)を給(たま)はりて帰国(きこく)しけり。抑(そも〳〵)菅原道真卿(すがはらのみちざねけう)と申は文章博士(もんじやうのはかせ)刑部卿(ぎやうぶけう)
菅原是善(すがはらのこれよし)の御息男(ごそくなん)にて。其(その)先祖(とふつおや)は神代(じんだい)天穂日命(あまのほひのみことの)御子(おんこ)天夷鳥命(あまのひなとりのみこと)より出(いで)たり
天夷鳥命(あまのひなとりのみこと)《割書:一名 武日(たけひ)|照命(てるのみこと)と云》出雲国(いづものくに)に天降(あまくだり)給ひ。天(あめ)より齎(もたら)し給ふ所の神宝(かんたから)を杵築(きつき)の神宮(じんぐう)
に納(おさめ)給ふ《割書:杵築神宮(きつきのじんぐう)は今の|出雲(いづも)の大社(おほやしろ)なり》其(その)十二 世(せ)の孫(そん)を鸕濡渟命(うかつくのみこと)と申せり。是(これ)を出雲(いづも)の国造(こくそ)
と定(さだめ)らる鸕濡渟命(うかつくのみこと)の弟(おとゝ)を甘実乾飯根命(うましほしいねのみこと)と申せり。其子(そのこ)を野見宿祢(のみのすくね)と云(いひ)て
天性(てんせい)智才(ちさい)秀(ひいで)また。親(しん)に事(つかへ)て孝心(かうしん)深(ふか)く。然(しか)も力量(りきりやう)衆(しゆう)に勝(すぐれ)たり。曽(かつ)て幼年(ようねん)の頃(ころ)父(ちゝ)

に後(おくれ)成長(ひとゝなる)に随(したが)ひ母(はゝ)に事(つかへ)て至孝(しいかう)なり。同郷(おなじさと)に小勝間太鳧(こかつまのたける)【鳬は鳧の俗字】と呼(よべ)る壮士(そうし)あり。是(これ)も野見(のみの)
宿祢(すくね)に劣(おとら)ぬ力士(りきし)にて。生得(しやうとく)義(ぎ)を好(この)み宿祢(すくね)と莫逆(ばくげき)の友(とも)にて。同胞(きやうだい)のごとく睦(むつ)び交(まじは)りける
其頃(そのころ)は人皇(にんわう)十一代 推仁(すいにん)【垂仁の誤】天皇の御宇(ぎよう)にて纏向(まきむくの)珠城宮(たまきのみや)に皇居(かうきよ)なし給ふに。禁門(きんもん)の衛護(まもり)
のためとて天下(てんか)の力者(りきしや)を捽(すぐ)り御門(ごもん)を固(かため)しめ給ひける。其中(そのなか)に大和国(やまとのくに)の住人(ぢうにん)に当麻蹶速(たへまのけばや)
といへる大力(だいりき)の者(もの)ありて。誰(たれ)あつて蹶速が力量(りきれう)に及(およ)ぶ者(もの)なし。是(これ)に依(よつ)て禁廷(きんてい)へ召(めさ)れ御
門(もん)の固(かため)となし給ひて多(おほ)くの食田(しよくでん)を賜(たまは)りけるに。蹶速は己(おの)が力(ちから)の勝(すぐれ)たるを慢(まん)じ。天(あめ)が下(した)に
我(われ)に敵(てき)する者なしと誇(ほこ)り。朝廷(てうてい)の高位(かうゐ)の人々(ひと〴〵)をも小児(せうに)のごとく欺(あざむ)き慢(あなど)り頗(すこぶ)る無礼(ぶれい)の行条(ふるまひ)
多(おほ)けれども。公卿(くげう)も渠(かれ)が力量(りきし[ママ]やう)に怖(おそ)れ。誰(たれ)咎(とがむ)る人もなく其儘(そのまゝ)にさしおかれければ。蹶速(けばや)は愈(いよ〳〵)
我慢(がまん)に募(つの)り。朝廷(てうてい)に人なきが如(ごと)く動止(ふるまひ)ける。其義(そのぎ)後(のち)には睿聞(ゑいぶん)に達(たつ)し帝(みかど)も蹶速を憎(にくみ)
疎(うと)んじ給へども。渠(かれ)を故(ゆへ)なく追退(おひしりぞ)けなば乱(らん)を起(おこ)さん事を慮(おもんぱか)らせ給ひて睿慮(ゑいりよ)を煩(わづら)はし
給ひ。臣下(しんか)を召集(めしつどへ)られて勅詔(みことのり)し給ふやうは。諸国(しよこく)の中(うち)にて力量(りきれう)強(つよ)き者(もの)を召上(めしのぼ)し蹶速(けばや)と力(ちから)

競(くらべ)をさせ其者(そのもの)に蹶速(けばや)負(まけ)なばそれを名(な)として渠(かれ)を追退(おひしりぞ)けよとなり。諸(しよ)臣下(しんか)奉(うけたま)はり
諸国(しよこく)へ触(ふれ)わたし普(あまね)く力者(りきしや)をぞ召募(めしつの)られける。然(しかれ)ども皆(みな)蹶速が怪力(くわいりよく)に聞怖(きゝおぢ)して。我(われ)召(めし)
に応(おう)ぜんといふ者(もの)なき処(ところ)に。彼(かの)野見宿祢(のみのすくね)朝廷(てうてい)の御 触渡(ふれわたし)を承(うけたま)はりて思(おもへ)らく。そも当(たへ)
麻蹶速(まのけばや)何者(なにもの)なればさほど朝廷(てうてい)の君臣(くんしん)を煩(わづら)はし奉るや。我(われ)君(きみ)の為(ため)彼(かの)蹶速(けばや)と力競(ちからくらべ)
し。渠奴(きやつ)を投殺(なげころ)して帝(みかど)の宸襟(しんきん)を安(やす)んじ奉り度(たく)はあれど。如何(いかに)せん今 我母(わがはゝ)患病(いたつき)有(あつ)
て病臥(やみふし)給へば。是(これ)を見捨(みすて)て召(めし)に応(おう)ぜんも不孝(ふかう)なりと思(おもひ)煩(わづら)ひけるに。忽(たちま)ち朋友(ほうゆう)の小(こ)
勝間太鳧(かつまたける)来(きた)りて宿祢(すくね)に向(むか)ひ。今度(こんど)都(みやこ)より諸国(しよこく)の力者(りきしや)を召(めさ)れ。当麻(たへまの)蹶速に勝事(かつこと)
を得(え)ば召抱(めしかゝへ)て食禄(しよくろく)を賜(たまは)らんとの御 触(ふれ)なり。我們(われら)斯(かく)片鄙(かたいなか)の国(くに)に住(すみ)て徒(いたづら)に草木(さうもく)
と倶(とも)に朽果(くちはて)んよりは。召(めし)に応(おう)じて都へ上(のぼ)り。彼(かの)蹶速(けはや)と力競(ちからくらべ)せばやとおもふは如何(いかに)といひ
ければ。宿祢(すくね)聞(きい)て。我(われ)も疾(とく)より其(その)心(こゝろ)なれども。我母(わがはゝ)病(やまひ)に染(そみ)給へば意(い)に任(まか)せず。足下(そこ)には
両親(りようしん)もなき身(み)なれば疾(とく)召(めし)に応(おう)じ。蹶速(けはや)と力を競候へ。運(うん)よく渠(かれ)に勝(かち)なば身(み)の青(しゆつ)

雲(せ)といひ第(だい)一は帝(みかと)の宸襟(しんきん)を安(やす)んじ奉る忠勤(ちうきん)なり。急(いそ)ぎ思(おも)ひ立(たゝ)れよと勧(すゝめ)ければ。太(た)
鳧(ける)悦(よろこ)び宿祢(すくね)に別(わかれ)を告(つげ)て。出雲(いづも)を発足(ほつそく)して都(みやこ)へ上(のぼ)り。朝廷(てうてい)の宦人(くわんにん)に就(つい)て蹶速(けはや)と競(ちから)
力(くらべ)したきよし願(ねが)ひければ早速(さつそく)宦人(くわんにん)より其旨(そのむね)を奏聞(そうもん)し。勅許(ちよくきよ)有(あり)しにより大内(おほうち)の庭上(ていせう)
に相撲(すまふ)の場(には)をかまへ。蹶速 太鳧(たける)両人(りやうにん)を呼出(よびいだ)して競力(ちからくらべ)すべきよしを命(めい)ぜられけるに。蹶
速は聞(きい)て心中(しんちう)に嘲(あざ)わらひ。此奴(こやつ)出雲(いづも)より遙々(はる〴〵)と死(し)を望(のぞん)で上りけるぞ不便(ふびん)なれ。見よ
〳〵一脚(いつきやく)に蹶殺(けころ)し得(え)させんと飽(あく)まで誇(ほこ)り。裸(あかはだか)になり犢鼻褌(とくびこん)の紐(ひも)曳(ひき)しめて角力(すもふ)の
場(には)へ立出(たちいで)ければ。太鳧(たける)も同(おなじ)く裸(はだか)になりて立出(たちいで)ける。堂上(どうしやう)には帝(みかど)出御(しゆつぎよ)在(ましま)し御簾(ぎよれん)を垂(たれ)
て勝負(しやうぶ)を睿覧(ゑいらん)なし給ひ。簾外(れんぐわい)には大臣(だいじん)小臣(せうしん)位陛(ゐかい)に依(よつ)て列座(れつざ)し。堂下(どうか)には諸士(しよし)下(した)
宦(づかさ)群(むらが)りて見物(けんぶつ)す。先(まづ)蹶速(けはや)が体(てい)を見るに。身材(みのたけ)七尺五六寸にして色(いろ)飽(あく)まで黒(くろ)く眼(まなこ)
星(ほし)のごとく光(ひか)り鼻(はな)隆準(たかく)鬼鬚(おにひげ)腮(あぎと)のめぐりに茂(しげ)く生(はへ)。手脚(てあし)の毛(け)は熊(くま)のごとく。所々(ところ〴〵)に力瘤(ちからこぶ)
むら〳〵と節立(ふしだち)。さながら金剛力士(こんがうりきし)の怒(いか)れるが如(ごと)し。又 小勝間太鳧(こかつまのたける)は身材(みのたけ)六尺四五寸にて

色(いろ)浅黒(あさぐろ)く。鼻(はな)高(たか)く眼(め)秀(ひいで)。満身(まんしん)肥(こへ)太(ふと)りて是(これ)も手脚(てあし)に力瘤(ちからこぶ)あまた顕(あらは)れ。天晴(あつはれ)の
力者(りきしや)と見えたり。上下の看宦(けんぶつ)何方(いづれ)が勝(かち)何方(いづれ)が負(まく)べきと片唾(かたづ)を呑(のみ)息(いき)を詰(つめ)て見る内(うち)
に頓(やが)て両人(りようにん)互(たがひ)に立上(たちあが)り寄(よせ)つはなれつ暫(しば)し手先(てさき)にて争(あらそ)ふよと見る間(ま)もなく。双方(そうはう)
無手(むづ)と引組(ひつくみ)押(おし)つ戻(もど)しつ揉合(もみあふ)程(ほど)に。両士(りやうし)とも希代(きたい)の力者(りきしや)なれば。大地(だいち)をどう〳〵と踏鳴(ふみなら)
し互(たがひ)の汗(あせ)は滝(たき)のごとく曳(ゑい)や声(こゑ)を出(いだ)し半時(はんとき)ばかり挑(いど)み合(あひ)けれども。いまだ勝負(しやうぶ)分(わか)ざり
ければ。諸人(しよにん)酔(ゑゝ)るがごとく手(て)に汗(あせ)握(にぎつ)て瞬(またゝき)もせず見る所(ところ)に。太鳧(たける)が運(うん)や尽(つき)たりけん。蹶(け)
速(はや)の腕(かいな)を捆(はかみ)し片腕(かたうで)汗(あせ)に辷(すべ)りてほぐれをとり。思(おもは)ずよろめく所を早(はや)く蹶速は付入(つけいり)て。雙(そう)
身(しん)の力(ちから)を腕(うで)に入(いれ)。大喝(たいかつ)して噇(どう)ど突(つき)ければ。さしもの小勝間(こかつま)二三 間(げん)後(うしろ)へ飜(ひるが)へり仆(たをれ)けるにぞ。蹶(け)
速(はや)透(すか)さず飛(とび)かゝり。鉄脚(かなずね)を揚(あげ)て太鳧(たける)が脇肚(ひはら)を続(つゞけ)さまに三脚(みあし)ばかり踏(ふみ)ける程(ほど)に。何(なに)
かは以(もつ)て堪(たま)るべき。忽(たちま)ち肋骨(あばらぼね)を踏(ふみ)砕(くだ)かれ。太鳧は其儘(そのまゝ)二 言(ごん)とも言(いは)ず庭上(ていせう)にて死(し)したり
けり。帝(みかど)は是(これ)を睿覧(ゑいらん)在(ましま)し。憎(にく)しと思召(おぼしめす)蹶速 勝負(しやうぶ)に勝(かち)しかば。睿慮(ゑいりよ)悦(よろこ)び給はず

御 不興気(ふけうげ)に入御(じゆぎよ)なし給ひ。諸卿(しよけう)とても蹶速(けばや)を忌(いみ)疎(うとん)じければ。天晴(あはれ)小勝間(こかつま)勝(かて)よ
かしと祈(いの)らぬ人もなかりけるに。案(あん)に相違(さうゐ)して蹶速(けはや)勝(かち)をとりしゆへ。列位(おの〳〵)望(のぞみ)を失(うしな)
ひ誰(たれ)一人 蹶速(けはや)が勝(かち)を誉(ほめ)る者(もの)もなく。堂上(どうせう)堂下(どうか)しらけ反(かへ)り。太鳧(たける)が屍(むくろ)をとり
收(おさめ)させ其日の角力(すまふ)は偖(さて)止(やみ)けり。それより蹶速(けはや)は愈(いよ〳〵)慢心(まんしん)増長(ぞうてう)し朝廷(てうてい)の公卿(くげう)に非(ひ)
礼(れい)をなす事 以前(いぜん)に十 倍(ばい)しけるゆへ。満朝(まんてう)の百司(ひやくし)百宦(ひやくくわん)末々(すへ〴〵)の下郎(げらう)にいたるまで。渠(かれ)を
疫病神(やくびやうかみ)のごとく忌(いみ)悪(にく)みける。去程(さるほど)に小勝間太鳧(こかつまたける)蹶速(けはや)が為(ため)に角力(すまふ)に負(まけ)其場(そのば)にて
落命(らくめい)せし事 諸国(しよこく)に隠(かくれ)なく。出雲国(いづものくに)へも聞(きこ)えければ。野見宿祢(のみのすくね)大いに駭(おどろ)き太鳧(たける)
が死(し)を悼(いた)み蹶速(けはや)が挙動(ふるまひ)を憤(いきどふ)れども。母(はゝ)の病(やまひ)いまだ平愈(へいゆ)せざれば牙(きば)を咬(かん)でぞ日(ひ)を
送(おく)りける。然(しかる)に宿祢(すくね)が母(はゝ)は日々(ひゞ)に患病(いたつき)薄(うす)らぎければ。一日(あるひ)我子(わがこ)を呼(よび)て申されけるは。先頃(さいつころ)
より人々(ひと〴〵)の風説(とりさた)【凬は古字】には你(なんじ)が友(とも)の小勝間太鳧(こかつまたける)都(みやこ)にて当麻蹶速(たへまのけはや)といへる人と競力(ちからくらべ)をし
対手(あいて)に負(まけ)て命(いのち)を亡(うしな)ひしとや。いとも便(びん)なき事なり。你(なんじ)と太鳧(たける)とは兄弟(きやうだい)よりも交(まじは)り深(ふか)

かりしに其(その)仇(あだ)をも復(かへ)さず他(よそ)に聞捨(きゝすつ)るは義(ぎ)に疎(うと)きに似(に)たり。且(かつ)は太鳧(たける)が妻(つま)及(およ)び渠(かれ)が
親族(うらから)【ママ 注】も你(なんじ)を言甲斐(いひがひ)なしと怨(うら)むべし。此頃(このごろ)我(わが)患病(いたつき)日々(ひゞ)に怠(おこた)り。今は平愈(へいゆ)するに
程(ほど)もあらじ。されば我病(わがやまひ)を念(ねん)にかけず。一日も早(はや)く都(みやこ)へ上(のぼ)り。彼(かの)蹶速(けばや)と競力(ちからくらべ)をなして
太鳧(たける)がために仇(あだ)を復(かへ)せよ。最(もつと)も勝負(しやうぶ)は時(とき)の運(うん)によれば。你(なんじ)彼(かの)蹶速のために力競
に負(まけ)て命(いのち)を落(おと)すとも朋友(ほうゆう)の信(しん)は立(たつ)べし。疾々(とく〳〵)思立(おもひたち)候へと。義(ぎ)を勧(すゝ)め励(はげま)しければ
宿祢(すくね)大に怡(よろこ)びて拝謝(はいじや)し。是(こ)は難有(ありがたき)御 教訓(きやうくん)を蒙(かふむ)り候ものかな。某(それがし)素(もとよ)り一 命(めい)を
拋(なげうつ)て太鳧(たける)が為(ため)に讎(あだ)を復(かへさ)まほしくおもひ候へども。我母(わがはゝ)患病(やまひ)に染(そみ)給ふを見捨(みすて)
奉るは子(こ)たるの道(みち)にあらず。朋友(ほうゆう)の信(しん)も孝道(かうどう)には換(かへ)がたく。今日(こんにち)まで黙止(もだし)候ひ
しに。母(はゝ)の病(やまふ)追々(おひ〳〵)怠(おこた)り給ふ上。今また御 暇(いとま)を給(たま)はり候上は。都(みやこ)へ上(のぼ)り蹶速(けはや)と力(ちから)を
競(くらべ)候べしとて。俄(にはか)に発足(ほつそく)の准備(こゝろがまへ)し。親族(しんぞく)家僕(いへのこ)などに母(はゝ)の身(み)の上を悃(ねんごろ)にたのみ
おき。老母(らうぼ)に辞(いとま)を告(つげ)て邸舎(やしき)を立出(たちいで)。勇(いさ)み進(すゝ)んで都(みやこ)を望(のぞ)み路(みち)を急(いそ)ぎつゝ。往(ゆき)

【注 法政大学 国際日本学研究所所蔵資料アーカイブスの『扶桑皇統記図会』は「うらから」。国立国会図書館デジタルコレクション『扶桑皇統記図会』は「はらから」。普通「親族」は「うから」或は「うがら」かと。】

〱(〳〵)て浪速国(なみはやのくに)《割書:今の|摂津》にも著(つき)しかば。当国(とうごく)に跡(あと)を垂(たれ)給ふ住吉明神(すみよしみやうじん)へ参詣(さんけい)し。老母(らうぼ)の
無事(ぶじ)を祈(いの)り。且(かつ)は今度(こんど)都(みやこ)にて蹶速(けはや)との競力(ちからくらべ)に勝事(かつこと)を得(え)さしめ給へと。丹誠(たんせい)
を凝(こら)して祈念(きねん)し。それより大和国(やまとのくに)珠城(たまき)の都(みやこ)へ上(のぼ)り宦人(くわんにん)に就(つい)て。是(これ)は出雲国(いづものくに)の住人(ぢうにん)
野見宿祢(のみのすくね)と呼(よば)るゝ者(もの)にて候。当麻蹶速(たへまのけはや)と力(ちから)を競(くらべ)たく遙々(はる〴〵)上(のぼ)り候 間(あいだ)万望(なにとぞ)此旨(このむね)を
奏聞(そうもん)なし玉はるべしと願(ねがひ)ければ。執奏(しつそう)の宦人(くわんにん)承諾(しやうだく)し。右の由(よし)奏聞(そうもん)しけるに。即(すなは)ち
勅許(ちよくきよ)ありけるゆへ。宦人(くわんにん)蹶速(けはや)を召出(めしいだ)し宿祢(すくね)と競力(ちからくらべ)すべきよし言渡(いひわた)しければ蹶(け)
速(はや)一 議(ぎ)にも及(およば)ず領掌(れうぜう)して退(しりぞ)き心中(しんちう)に独(ひとり)笑(ゑみ)し。野見宿祢(のみのすくね)とやらん彼(かの)太鳧(たける)が我(わが)
一 脚(きやく)の下(した)に命(めい)を落(おと)せしを不知(しらざり)けん。我(われ)と力(ちから)を競(くらべ)ん事を望(のぞむ)は。火(ひ)に入 夏(なつ)の虫(むし)にひとしく
好(この)んで其身(そのみ)を亡(ほろぼ)さんとする愚(おろか)さよと。己(おのれ)も思(おも)ひ人にも言(いひ)誇(ほこり)て。其日(そのひ)遅(おそ)しとぞ待(まち)
にける。斯(かく)て禁廷(きんてい)には先例(せんれい)のごとく殿前(でんぜん)の大庭(おほには)に競力(ちからくらべ)の場(ば)を構(かま)へ帝(みかど)は高座(たかみくら)に出御(しゆつぎよ)
在(ましま)し百司(ひやくし)百宦(ひやくくわん)は堂上(どうせう)堂下(どうか)に参列(さんれつ)し。事(こと)已(すで)に整(とゝの)ひければ。宦人(くわんにん)蹶速(けはや)宿祢(すくね)両人(りやうにん)を

呼出(よびいだ)し力(ちから)を競(くらぶ)べき由(よし)を命(めい)ず。両人(りやうにん)低頭(ていとう)して令(げぢ)を受(うけ)。倶(とも)に退(しりぞ)きて衣服(いふく)を
脱(ぬぎ)赤裸(あかはだか)になりて立出(たちいづ)る。蹶速(けはや)が人表(じんへう)は前(さき)に述(のべ)たればいふに及(およば)ず。人々(ひと〴〵)野見宿祢(のみのすくね)は如(い)
何(か)なる人品(じんひん)ぞと見(みる)に。身材(みのたけ)六尺七八寸。色(いろ)白(しろ)く目(め)秀(ひいで)。手脚(てあし)の力瘤(ちからこぶ)節立(ふしだち)彼(かの)太鳧(たける)
に比(ひ)すれば一 段(だん)勝(まさり)し壮士(ますらを)なり。されども蹶速(けはや)に比(くらべ)ては尚(なを)見劣(みおとり)せられけるにぞ。諸人(しよにん)心(しん)
中(ちう)に危(あやぶ)み勝負(しやうぶ)如何(いかゞ)あらんと手(て)に汗(あせ)握(にぎつ)て見物(けんぶつ)せり。去程(さるほど)に両雄(りやうゆう)互(たがひ)に一 揖(ゆう)し。やと
かけ声(ごゑ)するや否(いな)倶(とも)に寄合(よせあは)して刎合(はねあひ)追廻(おひまは)し。組(くん)づ解(ほど)いつ争(あらそ)ふたり。蹶速(けはや)は十 分(ぶん)
に対人(あひて)を見慢(みあなど)り。一揉(ひともみ)に拉付(ひしぎつけ)んとすれど。宿祢(すくね)は天性(てんせい)径捷(はやわざ)【揵は誤】の達人(たつじん)なる上 才機(さいき)人
に勝(すぐ)れたる壮士(そうし)なれば。対人(あいて)の虚実(きよじつ)を考(かんがへ)呼吸(こきう)を量(はか)り。或(あるひ)は透(すか)し或(あるひ)は立廻(たちまは)りて千(せん)
変万化(べんばんくわ)の手(て)を碓(くだ)き蹶速(けはや)が疲(つか)るゝをぞ待(まち)にける。案(あん)のごとく蹶速(けはや)は只(たゞ)一挙(いつきよ)に勝(かち)を
とらんと思(おも)ひの外(ほか)。宿祢(すくね)がために繰(あやど)られて六七分の精力(せいりき)を労(つから)し。大いに怒(いか)りて面(めん)
色(しよく)火(ひ)のごとくなり。頭上(づじやう)に煙(けふり)を立(たて)叫(さけ)び吼(たけ)りて掴(つか)みかゝるを。宿祢(すくね)は尚(なを)も繰(あやど)り透(すか)し

前(まへ)に在(ある)かと見れば忽焉(こつえん)として後(しりへ)に廻(まは)り。左(ひだり)に在(ある)かと見れば忽(たちま)ち右(みぎ)に出(いで)。其(その)疾(はや)き事
蝶(てふ)鳥(とり)のごとくなれば。蹶速(けはや)さらに見(み)留(とむ)る事 能(あた)はず。弥(いよ〳〵)精神(せいしん)疲(つか)れ呼吸(いきざし)已(すで)に早鐘(はやがね)
を撞(つく)が如(ごと)し。宿祢(すくね)は蹶速(けはや)が力(ちから)の撓(たゆみ)しを察(さつ)して。一 点(てん)の透間(すきま)を付入(つけこみ)総身(そうしん)の力(ちから)を
腕(うで)に入(いれ)大喝(たいかつ)一声(いつせい)曳(えい)やと言(いひ)さま蹶速(けはや)が胸板(むないた)を噇(どう)ど衝(つき)ければ。さしもの大の漢(をのこ)屏風(べうぶ)
を倒(たを)すがごとく仰(のけ)さまに噹(はた)と仆(たをれ)けるを。宿祢(すくね)は透(すか)さず走(はしり)かゝり。力(ちから)脚(あし)を揚(あげ)て蹶速(けはや)
が肋骨(あばらぼね)を続(つゞけ)さまに蹴(ける)事(こと)四五 脚(きやく)。然(しか)のみならず敵(てき)の胸板(むないた)を臨(のぞ)み磐石(ばんじやく)も碓(くだけ)よと
力(ちから)を究(きはめ)て噇々(どう〳〵)と踏(ふみ)ければ。何(なに)かは以(もつ)て堪(こらふ)べき。蹶速(けはや)は胸骨(むなぼね)肋骨(あばらぼね)を踏折(ふみをら)れ叫(さけ)び苦(くる)
しみ目(め)口(くち)より鮮血(なまち)を吐(はい)て手脚(てあし)を張(はり)其儘(そのまゝ)息(いき)は絶(たへ)にける。是(これ)を見て堂上(どうせう)堂下(どうか)の
公卿(こうけい)大夫(たいふ)下宦(したづかさ)にいたる迄(まで)。したりやしたりと誉(ほむ)る声(こゑ)遠近(ゑんきん)に震(ふる)ひて少時(しばし)は鳴(なり)も止(やま)
ず下郎(げらう)の輩(ともがら)は日来(ひごろ)悪(にく)しとおもふ蹶速(けはや)が負(まけ)たるを嬉(うれし)みて庭上(ていせう)に躍(おどり)舞(まふ)もあり。其(その)
屍(むくろ)の際(きは)へ走寄(はせよつ)て土砂(どしや)を蹴(け)かくるもあり。唾(つ)を吐(はき)かくるも多(おほ)かりけり。宿祢(すくね)は念願(ねんぐわん)の如(ごとく)

【右丁】
              野見宿祢

【左丁】
野見宿祢(のみのすくね)
 当麻(たへまの)
  蹶速(けはや)
 力競(ちからくらべ)
  の図(づ)
                  当麻蹶速

太鳧(たける)の仇(あた)を復(かへ)して心中(しんちう)大いに怡(よろこ)び殿上(てんぜう)の御簾(ぎよれん)の方(かた)を三 拝(はい)し徐々(しづ〳〵)とぞ退(しりぞ)きける
帝(みかど)甚(はな)はだ睿感(ゑいかん)在(ましま)し。改(あらため)て宿祢(すくね)を階下(かいか)へ召(めさ)れ。以後(いご)は禁門(きんもん)守護(しゆご)の役(やく)を勤(つと)むべき
よしの宣旨(せんじ)を下され。執政(しつせい)の大臣(だいじん)に蹶速(けはや)が一 族(ぞく)を追払(おひはら)ひ。其(その)所領(しよれう)の地(ち)を悉(こと〴〵)く宿祢(すくね)
に与(あた)ふべしと勅詔(ちよくぜう)なし給ひける。是(これ)に依(よつ)て宿祢(すくね)は思(おもひ)もよらぬ朝廷(てうてい)の臣下(しんか)となり
多(おほ)くの采地(さいち)を得(え)て怡(よろこ)ぶ事 限(かぎり)なく。深(ふか)く君恩(くんおん)を謝(しや)し奉りけり蹶速(けはや)が宿祢(すくね)の為(ため)
に其(その)腰骨(こしぼね)を踏折(ふみをら)れたるを以(もつ)て当麻(たへま)の田地(でんち)を。諸人(しよにん)腰折田(こしをれた)と言(いひ)なしけるとなん
宿祢(すくね)と蹶速(けはや)が競力本朝相撲(ちからくらべほんてうすまふ)の起源(はじまり)となりて。其後(そのゝち)朝廷(てうてい)へ折々(をり〳〵)諸国(しよこく)の力者(りきしや)を
召(めさ)れ競力(ちからくらべ)をさせて興(けう)ぜさせ給ふ事とは成(なり)けり。然(しかれ)どもいまだ定(さだま)りたる式法(しきほふ)とても
なかりけるを。野見宿祢(のみのすくね)時々(より〳〵)に考(かんが)へて相撲(すまふ)の式(しき)を定(さだ)め。又 角力(すまふ)の手(て)を定(さだめ)ける。所(いは)
謂(ゆる)投(なげ)。緊(かけ)。捻(ひねり)。䇍(そり)。の四手(よて)なり。一 手(て)に各(おの〳〵)十二手づゝの変化(へんくわ)ありて四十八 手(て)となる。是迄(これまで)の
競力(ちからくらべ)は力量(りきれう)の強弱(かうじやく)を競(くらぶ)るのみにして。稍(やゝ)もすれば対人(あいて)を投殺(なげころ)し蹴殺(けころ)しなど

しけれども斯(かく)て闘争(とうじやう)の基(もとゐ)となりて人を損(そん)ずれば甚(はな)はだ宜(よろ)しからずとて対人(あいて)を殺(ころす)
事を堅(かた)く禁(きん)じけり。されば其(その)以後(いご)は角力(すまふ)に対人(あいて)を殺(ころ)す事 止(やみ)たり。此(この)野見宿祢(のみのすくね)が
則(すなは)ち菅家(かんけ)の鼻祖(とふつおや)にて相撲(すまふ)の祖神(そじん)と仰(あふ)がれ。出雲(いづも)の大社(おほやしろ)の末社(まつしや)の中(うち)に祭(まつ)られ。亦(また)
泉州(せんしふ)石津(いしづ)の社(やしろ)の摂社(せつしや)にも大野見宿祢命(おほのみのすくねのみこと)と崇(あがめ)祭(まつ)れり角力道(すまふどう)に依(よる)人(ひと)は必(かなら)ず
尊信(そんしん)すべき神(かみ)なり
 因(ちなみ)に曰 朝廷(てうてい)相撲(すまふ)の節会(せちゑ)は人皇(にんわう)四十五代 聖武天皇(しやうむてんわう)の御宇(ぎよう)神亀(じんき)三年七月
 二十八日 初(はじめ)て諸国(しよこく)の力者(りきしや)を召上(めしのぼ)されて。禁廷(きんてい)に於(おい)て角觝(すまふ)をとらせ給ふ。是(これ)角力(すまふ)の
 節会(せちゑ)の起源(おこり)なり。是(これ)より年中行事(ねんぢうぎやうじ)の一ツとなり。朝廷(てうてい)より諸国(しよこく)へ力者(りきしや)を召抱(めしかゝへ)に
 遣(つかは)し給ふ宦人(くわんにん)を部頭使(ことりづかひ)と謂(いへ)り。猶(なを)相撲(すまふ)の式別(しきべつ)に一 書(しよ)を著(あらは)し委(くはし)く述(のぶ)べけれ
 ば茲(こゝ)に略(りやく)す
偖(さて)も野見宿祢(のみのすくね)は故郷(こけう)の老母(らうぼ)を迎(むかへ)とりて孝養(かうやう)を尽(つく)し。勿論(もちろん)朝家(てうか)に事(つかへ)て忠勤(ちうきん)を

尽(つく)しければ帝(みかど)の御 覚(おぼへ)も他(た)に勝(すぐ)れ追々(おひ〳〵)宦位(くわんゐ)を進(すゝ)め給ひけり。然(しかる)に禁廷(きんてい)には皇(くわう)
后(ぐう)日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)崩(かくれ)させ給ひければ大和国(やまとのくに)狭々城(さゝき)の盾列(たてなみ)の池前(いけのまへ)の陵(みさゝき)に葬(ほうむ)り
奉るべしと定(さだめ)給ひけるが。此(この)頃(ころ)までは殉葬(じゆんそう)とて上古(じやうこ)の悪(あし)き風義(ふうぎ)遺(のこ)り。帝(みかど)または
女御(にようご)に御 身(み)近(ちか)く事(つかへ)奉りし公卿(こうけい)女宦(によくわん)は。其帝(そのみかど)其女御(そのにようご)崩(ほう)じ玉へば生(いき)ながら御 葬(ほうむ)
りに殉(したが)ふならはしなり。帝(みかど)《割書:垂|仁》此(この)殉葬(じゆんそう)の義(ぎ)を深(ふか)く悼(いた)ませ給ひ。此義(このぎ)を相止(あひやむ)べき
やうや有(ある)と群臣(ぐんしん)を召(めし)て勅問(ちよくもん)ありけるに。往古(いにしへ)より為(なし)きたれる式法(しきほふ)なれば今更(いまさら)奈(い)
何(かん)とも転(てん)ずべきやうもなしとて。満座(まんざ)の公卿(くげう)冠(かむり)を傾(かたむ)け誰(たれ)か一人 勅答(ちよくとふ)言上(まうしあぐ)る人も
なし。時(とき)に野見宿祢(のみのすくね)階下(かいか)に参候(さんかう)して先剋(せんこく)より諸(しよ)臣下(しんか)の勅答(ちよくとふ)を如何(いかゞ)奏聞(そうもん)有(ある)
やと耳(みゝ)を傾(かたふけ)て聞居(きゝゐ)られけるに一人も言(ことば)を発(はつ)する人なきを見(み)かね。堪(こらへ)かねて言(ことば)を発(はつ)し
小臣(せうしん)の愚見(ぐけん)いとも憚(はばかり)あれども。心中(しんちう)に存(ぞん)ずる旨(むね)を啓奏(けいそう)せざるは忠勤(ちうきん)にあらず。依(よつ)て
愚案(ぐあん)の趣(おもむ)きを述(のべ)候べし。抑(そも〳〵)殉葬(じゆんそう)の事 往古(わうご)よりの式法(しきほふ)とは申せども。陵(みさゝき)に生(いき)

ながら人を埋(うづ)め殺(ころさ)んは不仁(ふじん)の甚(はなは)だしき義(ぎ)と申べし。卑臣(ひしん)が愚見(ぐけん)に依(よら)ば埴土(はにつち)を以(もつ)て
殉葬(じゆんそう)せらるべき程(ほど)の土偶(ひとがた)を造(つく)りそれを殉葬(じゆんそう)に象(かた)どりて陵(みさゞき)に埋(うづめ)られ。其人(そのひと)
々(〴〵)には御 暇(いとま)を給(たま)はり宮中(きうちう)を出(いだ)し玉はゞ。殉葬(じゆんそう)の式法(しきほふ)も相立(あひたち)数(す)十人の人を埋(うづ)め殺(ころ)
さるゝにも及(およば)ず。後代(こうだい)まで勤仕(みやづかへ)する人の大患(うれひ)を除(のぞ)き仁恕(じんじよ)の道(みち)を推弘(おしひろめ)給ふ一 端(たん)と
も成(なり)候はんかと言上(ごんじやう)しければ諸卿(しよけう)実(げに)もと心付(こゝろづき)帝(みかど)へ斯(かく)と執奏(しつそう)せられけるに。帝(みかど)聞召(きこしめし)
て御感(ぎよかん)斜(なゝめ)ならず。実(げに)いしくも申せしかな。如此(かくのごとく)んば朕(ちん)また何(なに)をか患(うれ)ふべき急(いそ)ぎ宿祢(すくね)に
命(めい)じて殉葬(じゆんそう)すべき男女(なんによ)の形(かたち)及(およ)び牛馬(ぎうば)を。土(つち)を以(もつ)て造(ちく)らせよと勅詔(みことのり)なし給ふ。執奏(とりつぎ)の公(く)
卿(げう)王命(わうめい)を奉(うけたま)はり宿祢(すくね)へ宣旨(せんじ)を申 聞(きか)されけるにぞ。宿祢(すくね)領掌(れうぜう)し。宿所(しゆくしよ)へ帰(かへ)り出雲(いづも)へ
飛馬(はやむま)を立(たて)て土師(はにし)三百人を呼上(よびのぼ)し。自己(みづから)指揮(さしづ)して多(おほく)の人形(ひとがた)牛馬(うしむま)諸(もろ〳〵)の調度(てうど)まで
不日(ふじつ)に造立(つくりたて)。それを朝廷(てうてい)へ献(たてまつ)りければ。帝(みかど)睿覧(ゑいらん)在(ましま)して御 欣(よろこ)び浅(あさ)からず。此物(このもの)を
葬(ほうむ)りに殉(したが)はせ埋(うづ)むときは先格(せんかく)を失(うしな)はず又 生(いけ)る者(もの)を埋殺(うめころす)に及(およば)ず一 挙両得(きよりようとく)のはか

らひ仁道(じんどう)是(これ)に過(すぎ)たるはなしと御 賞美(せうび)在(ましま)し御 葬送(そう〳〵)の式(しき)滞(とゞこふ)りなく相(あひ)済(すみ)けり
今度(こんど)殉葬(じゆんそう)に預(あづか)るべき公卿(くげう)女宦(によくわん)は今や生(いき)ながら埋葬(うづみほうむ)らるゝかと歎(なげ)き悲(かなし)みける
に野見宿祢(のみのすくね)が妙案(めうあん)に依(よつ)て殉葬(じゆんそう)を免(まぬ)かれ。皆(みな)死(し)したる身(み)の蘇(よみがへり)し心地(こゝち)し悦(よろこぶ)こと限(かぎり)
なく衆人(みな〳〵)蔭ながら野見宿祢(のみのすくね)を伏拝(ふしおが)み神(かみ)のごとくにぞ尊(たうと)みける
 因(ちなみ)に曰 右(みぎ)殉葬(じゆんそう)に当(あた)りし男女(なんによ)は命(いのち)を助(たすか)るといへども一 旦(たん)葬(ほうむり)に殉(したが)ひし体(たい)なれば宮中(きうちう)
 に召使(めしつか)はれん事も触穢(じよくゑ)の憚(はゞか)り有(あり)とて悉(こと〴〵)く御 暇(いとま)を給(たま)はり。別(べつ)に一村(ひとむら)を与(あた)へて住(すま)しめ
 給ひけり。是(これ)を尸村(しゝむら)と称(となへ)て上古(じやうこ)の人は是(これ)と婚姻(こんいん)せず火(ひ)を倶(とも)にせざりしとぞ。今の
 宿(しゆく)といひて穢村(ゑそん)のごとく卑(いやし)むる者は古(いにしへ)の尸村(しゝむら)なるべしと云々
偖(さて)も帝(みかど)は野見宿祢(のみのすくね)が今度(このたび)の功績(いさほし)を深(ふか)く御 賞誉(せうよ)在(ましま)し御 恩賞(おんせう)として大和(やまと)の国(くに)
菅原(すがはら)伏見(ふしみ)の里(さと)を賜(たま)はり。土師(はにし)の職(しよく)に任(にん)ぜられ土師(はじ)の姓(せい)をぞ賜(たまは)りける。是(これ)に依(よつ)て野(の)
見宿祢(みにすくね)は世(よ)に美目(びもく)を施(ほどこ)し。菅原(すがはら)の里(さと)に移住(いぢう)し。野見(のみ)の姓(せい)を改(あらため)て土師臣(はじのおみ)と自称(なのり)

朝廷(てうてい)の御 葬式(そうしき)の事をぞ掌(つかさど)りける
 評(ひやう)に曰。孔子(かうし)曰(のたまは)く傭(よう)を作(つく)る者(もの)は夫(それ)後(のち)亡(なから)んかと是(これ)其(その)人に類(るい)する者(もの)を作(つく)るを以(もつ)て
 なり。然(しかれ)ども宿祢(すくね)の如(ごとき)は是(これ)と日(ひ)を同(おなじ)うして論(ろん)ずべからず。埴物(はにもの)を造(つく)りて殉葬(じゆんそう)に
 換(かへ)幾干(いくばく)の生霊(せいれい)を助(たすく)る事 莫大(ばくたい)の仁徳(じんとく)なり。先哲(せんてつ)も是(これ)を仁者(じんしや)の勇(ゆう)と謂(いゝつ)
 べしと誉(ほめ)置(おか)れたり。宜(むべ)なるかな其(その)裔孫(えいそん)代々(よゝ)朝廷(てうてい)の臣下(しんか)に列(れつ)し今 猶(なを)連綿(れんめん)と
 昌(さかへ)給ふ事 是(これ)天(てん)の報応(ほうおう)と可謂(いふべき)已而(のみ)と云々
    春彦(はるひこ)是善(これよし)倶(ともに)《振り仮名:感_二奇夢_一|きむをかんず》  《振り仮名:於_二良香宅_一菅公試_レ射|よしかのたくにかんこうしやをこゝろむ》条
土師臣(はじのおみ)より十四 世(せ)の末孫(ばつそん)を従(じふ)五 位下(ゐのげ)遠江介(とふ〳〵みのすけ)土師古人(はじのふるんど)と謂(いへ)り。然(しかる)に古人(ふるんど)つら〳〵
思(おも)はれけるは。先祖(せんぞ)たる野見宿祢(のみのすくね)埴土(はにつち)を以(もつ)て土偶(ひとがた)を造(つく)り殉葬(じゆんそう)の生霊(せいれい)を助(たすけ)しを以(もつ)
て土師(はじ)の姓(せい)を賜(たまは)り我世(わがよ)に至(いたる)といへども。今の世(よ)土師(はじ)は葬送(そう〳〵)に預(あづか)る者(もの)の名(な)にて心に快(こゝろよ)から
ず。不如(しかじ)居住(きよぢう)の地名(ちめい)を姓(せい)にせんにはとて。一 通(つう)の告状(かうじやう)を造(つく)り。時(とき)の帝(みかど)光仁天皇(くわうにんてんわう)に捧(さゝげ)

て土師(はじ)の姓(せい)を改(あらた)め菅原(すがはら)を姓(せい)に賜(たまは)らん事を願(ねが)はれければ。即(すなはち)勅許(ちよくきよ)ありけるゆへ古人(ふるんど)
怡(よろこ)び。其(それ)より土師(はじ)を改(あらた)めて菅原(すがはら)とぞせられける《割書:時に天|応元年》偖(さて)古人(ふるんど)の子息(しそく)を菅原清公(すがはらのきよとも)
といへり。博学(はくがく)多才(たさい)なるを以(もつ)て大学頭(だいかくのかみ)に任(にん)ぜらる。清公(きよとも)の子息(しそく)を是善(これよし)と申せり。是(これ)
また学才(がくさい)秀(ひいで)ければ文章(もんじやう)の博士(はかせ)大学士(だいがくし)に任(にん)ぜられけり。是善卿(これよしけう)曽(かつ)て妻(つま)伴氏(ばんし)を
娶(めと)られ夫婦(ふうふ)の中 睦(むつま)じけれども如何(いか)なる事にや年(とし)を重(かさ)ぬれども懐妊(くわいにん)の沙汰(さた)もなかり
ければ。是善卿(これよしけう)是(これ)を愁(うれ)ひ給ひ。伊勢太神宮(いせだいじんぐう)の神宦(しんくわん)山田(やまだ)の渡会春彦(わたらゑはるひこ)《割書:従五|位下》は代々(だい〳〵)
菅家(かんけ)の御師(おし)なるを以(もつ)て内外(ないげ)両宮(りやうぐう)へ世継(よつぎ)の男子(なんし)を授(さづ)け給ふやう祈祷(きとう)させんと。家士(かし)
嶋田忠遠(しまだたゞとふ)といへる武士(ぶし)を使者(ししや)として。勢州(せいしう)山田(やまだ)へ下らせ。春彦(はるひこ)に世継(よつぎ)の男子(なんし)祈願(きぐわん)の
義(ぎ)を頼(たの)み遣(つかは)されければ。春彦(はるひこ)謹(つゝしん)で領掌(れうぜう)し。其日(そのひ)より沐浴(もくよく)斎戒(さいかい)して両宮(りようぐう)を私宅(したく)
へ勧請(くわんぜう)し。宦家(かんけ)世継(よつぎ)の義(ぎ)を丹誠(たんせい)を凝(こら)し祈(いの)りけるに。七日(なぬか)満(まん)ずる夜(よ)の暁(あかつき)に春(はる)
彦(ひこ)不思議(ふしぎ)の霊夢(れいむ)を見ける。所(ところ)は高天(たかま)が原(はら)と覚(おぼ)しく。多(おほ)くの諸神(かみ〴〵)在(いま)せる中より

六七才 許(はかり)の神童(しんどう)立出(たちいで)て春彦(はるひこ)に向(むか)ひ。你(なんじ)菅家(かんけ)のために世継(よつぎ)を祈(いの)る事 悃(ねんごろ)なる
ゆへ天帝(てんてい)其(その)丹誠(たんせい)を感(かん)じ給ひ。丸(まろ)を以(もつ)て菅家(かんけ)の世嗣(よつぎ)となし給ふなり。丸(まろ)彼(かの)家(いへ)に
生(うま)れなば旦暮(あけくれ)你(なんじ)と睦(むつ)び交(まじは)るべしと告(つげ)玉ふと見て夢(ゆめ)は覚(さめ)けり。春彦(はるひこ)大に
怡(よろこ)びて想(おもへ)らく。夢(ゆめ)は臓気(ざうき)の二ツよりなす事(わざ)にて。思夢(しむ)とて思事(おもふこと)を夢(ゆめ)に見る
事ありといへども。是(これ)は神明(しんめい)我(わ)が誠心(せいしん)を感納(かんのう)在(ましま)し託(たく)し玉ふところの正夢(まさゆめ)に疑(うたが)ひなし
とて。両宮(りやうぐう)を拝(はい)し祈願(きぐわん)成就(じやうじゆ)の悦(よろこ)びの祝詞(のつと)を上(あげ)。霊夢(れいむ)の事(こと)を菅家(かんけ)へ言上(まうしあげ)んと承(しやう)
和(わ)十一年 夏(なつ)のはじめ。山田(やまだ)を発足(ほつそく)して都(みやこ)へぞ上(のぼ)りける。然(しかる)に菅原是善(すがはらのぜゝん)卿(けう)は世嗣(よつぎ)祈(き)
願(ぐわん)の義(ぎ)を渡会春彦(わたらへはるひこ)に頼(たの)み。自身(みづから)も朝夕(てうせき)伊勢(いせ)両皇太神宮(りやうかうだいじんぐう)を心中(しんちう)に祈念(きねん)せ
られけるに。承和(じやうわ)十一年 夏(なつ)四月 上旬(じやうじゆん)一夜(あるよ)の夢(ゆめ)に。館(やかた)【舘は俗字】の庭中(ていちう)を逍遥(せうよう)せられけるところ
遣水(やりみつ)の上(うへ)なる巌(いはほ)の肩(かた)に年(とし)の頃(ころ)五才ばかりなる位高(けだか)き童子(どうじ)の容貌(みめ)美麗(うるはし)きが忽(こつ)
然(ぜん)と停立(たゝずみ)居(ゐ)けるゆへ是善卿(ぜゝんけう)夢心(ゆめごゝろ)に不思議(ふしぎ)に思(おも)はれ你(おこと)は何国(いづく)より来(き)給へる。父母(ちゝはゝ)

は何国(いづく)の誰(た)そと問(とは)れけるに。童子(どうじ)袖(そで)をかき合(あは)せ。丸(まろ)には父(ちゝ)もなく母(はゝ)もなし。君(きみ)の子(こ)と
ならまほしく此処(こゝ)へ来(きた)れり。冀(こひねがは)くは子(こ)となし玉ひて慈愛(いつくしみ)を垂(たれ)給へと。いと長者(おとな)しく答(こたへ)
けるにぞ。是善卿(ぜゝんけう)大いに怡悦(いゑつ)あり。是(これ)天(てん)より此(この)一子(いつし)を授(さづけ)我(わが)家名(かめい)を相続(さうぞく)せしめ玉ふ
ならんと打(うち)点首(うなづき)。よくこそ来(きた)り給ひしかな予(よ)も家(いへ)を嗣(つが)すべき男子(なんし)なければ。今より
你(おこと)を子(こ)とすべしと。抱(いだ)きとりて館(やかた)【舘は俗字】へかへると思(おも)はるれば。忽(たちま)ち眼(め)覚(さめ)て一 場(ぢよう)の夢(ゆめ)なりけ
り。是善卿(ぜゝんけう)大いに望(のぞみ)を失(うしな)はれ。偖(さて)は予(われ)年来(としごろ)世嗣(よつぎ)を得(え)ん事を欲(ほり)せしゆへかゝる思夢(しむ)を
見たりと本意(ほい)なくおもひて一 両日(りやうにち)を過(すご)されけるに。かの渡会春彦(わたらゑはるひこ)勢州(せいしう)より上(のぼ)り
来(きた)り。是善卿(ぜゝんけう)に謁(えつ)して霊夢(れいむ)を蒙(こふむ)りしよしを語(かた)りけるにぞ。是善卿(ぜゝんけう)奇異(きい)の思(おもひ)を
せられ。斯(かく)ては予(わが)先夜(ぜんや)見しも思夢(しむ)にはあらで正夢(まさゆめ)なりけりといと頼母(たのも)しくおもひ。春彦(はるひこ)
には多(おほく)の引出物(ひきでもの)を与(あたへ)て帰(かへら)しめられけるが。果(はた)して北堂(きたのかた)伴氏(ばんし)其月(そのつき)より妊娠(にんしん)ありければ
是善卿(ぜゝんけう)怡(よろこ)び斜(なゝめ)ならず。胎養(たいやう)遺(のこ)る方(かた)なく心を添(そへ)月(つき)の満(みつ)るを指(ゆび)を算(かぞへ)て待(また)れけるに

程(ほど)なく其年(そのとし)も暮(くれ)て。明(あく)れば承和(しやうわ)十二年 乙丑(きのとうし)正月 北堂(きたのかた)聊(いさゝか)も産(さん)の悩(なやみ)なく平(たいらか)に玉(たま)
のごとき男子(なんし)降誕(かうたん)ありける。是善卿(ぜゝんけう)の御 悦(よろこび)はいへば更(さら)なり館(やかた)の上下 勇(いさ)み怡(よろこ)ばずと
いふ者(もの)なく一 門(もん)縁体(えんてい)の人々(ひと〴〵)より慶賀(けいが)の使者(ししや)門前(もんぜん)に市(いち)をなしけり。是善卿(ぜゝんけう)は望(のぞみ)の如(ごと)
く世嗣(よつぎ)の男子(なんし)を儲(まうけ)し事 偏(ひとへ)に渡会春彦(わたらへはるひこ)が祈祷(きとう)の丹誠(たんせい)に因(よる)ところなりとて。平産(へいさん)
の事を。使者(ししや)を以(もつ)て勢州(せいしう)山田(やまだ)の春彦(はるひこ)が方(かた)へ告知(つげしら)されければ。春彦(はるひこ)も大いに悦(よろこ)び使者(ししや)
と同道(どう〳〵)して祝(しゆく)しの為(ため)都(みやこ)へ上(のぼ)りけり。然(しかる)に菅家(かんけ)には誕生(たんじやう)の若君(わかぎみ)何(いか)なるゆへにや出生(しゆつせう)の
後(のち)昼夜(ちうや)啼(なき)むつかりて止(やみ)玉はず。是善卿(ぜゝんけう)御夫婦(ごふうふ)是(これ)を厭(いと)はれ薬湯(やくたう)を用(もち)ひ或(あるひ)は神(かみ)の
守札(まもり)仏(ほとけ)の咒符(じゆふ)などを掛(かけ)させ。百般(さま〴〵)手(て)を竭(つく)されけれども曽(かつ)て其(その)験(しるし)もなく啼(なき)むつかる
事 止(やま)ざりければ。皆(みな)殆(ほとん)どもてあまされけるに。渡会春彦(わたらへはるひこ)は使者(ししや)と同伴(どうばん)して京着(きやうちやく)し
菅家(かんけ)へ参上(さんじやう)して若君(わかぎみ)の御 誕生(たんじやう)を慶賀(けいが)し。おもふ旨(むね)あれば是善卿(ぜゝんけう)へ願(ねが)ひ北堂(きたのかた)の丙舎(へや)
へ参(まい)り若君(わかぎみ)の御 皃(かほ)を見まいらすに誠(まこと)に玉(たま)のごとき御 男子(なんし)にて然(しか)も先年(せんねん)夢(ゆめ)に見たりし

神童(しんどう)の面貌(おもざし)に露(つゆ)違(たが)はざれば。心中(しんちう)奇異(きい)の思(おも)ひをなすうち。若君(わかぎみ)は例(れい)のごとく頻(しきり)に啼(なき)玉
ふにより。春彦(はるひこ)其(その)ゆへを問(とへ)ば。乳人(めのと)答(こたへ)て。御 誕生(たんじやう)ありてより以来(このかた)昼夜(ちうや)とも啼(なき)むつかり
給へば医薬(いやく)加持(かぢ)祈祷(きとう)百般(いろ〳〵)手(て)を尽(つく)せども啼止(なきやみ)玉はざるよしを語(かたり)けるにぞ。春彦(はるひこ)懊悩(きのどく)
におもひ。試(こゝろみ)に乳人(めのと)が抱(いだき)たる若君(わかぎみ)を抱(だ)きとりけるに。若君(わかぎみ)は春彦(はるひこ)の面(おもて)を見玉ひて忽(たちま)
ち啼止(なきやみ)給ひ完示々々(にこ〳〵)笑(ゑ)ませ給ひければ。北方(きたのかた)を先(さき)とし乳人(めのと)侍女(こしもと)們(ら)も。是(こ)は不測(ふしぎ)なる
事(こと)かなとて乳人(うば)侍女(こしもと)們(ら)の手(て)へ抱(だき)とれば又 啼出(なきだ)し給ひ。春彦(はるひこ)が抱(いだき)まゐらすれば啼(なき)
止(やみ)給ふゆへ是善卿(ぜゝんけう)も不審(ふしん)の事に思(おも)はれ春彦(はるひこ)を館(やかた)【舘は俗字】に留(とゞめ)て若君(わかぎみ)を守傅(もりかしづ)かせたまひ
ける。春彦(はるひこ)も若君(わかぎみ)の斯(かく)馴添(なづさひ)給ふに付(つき)て御 側(そば)を離(はなれ)まゐらすに不忍(しのびず)山田(やまだ)の私宅(したく)には子(し)
息(そく)春躬(はるみ)在(あつ)て家務(かむ)を脩(おさむ)るに事(こと)足(たれ)ば。身(み)は菅家(かんけ)に留(とゞま)り家士(いへのこ)の如(ごと)く昼夜(ちうや)とも若君(わかぎみ)の
側(かたはら)を去(さら)ず守傅(もりかしづ)きけり此(この)春彦(はるひこ)は若冠(じやくくわん)の頃(ころ)より白髪(しらが)多(おほ)く生(はへ)三十才 過(すぎ)てよりは頭髪(づはつ)
尽(こと〴〵)く白(しろ)く成(なり)けるゆへ世人(よのひと)皆(みな)白太夫(しらたいふ)と異名(いみやう)しける。菅家(かんけ)の若君(わかきみ)を稚名(おさなゝ)を阿子(あこ)《割書:又三|とも云》と呼(よび)

けるが三才にならせ給ふ頃(ころ)よりは春彦(はるひこ)を白大夫(しらたいふ)〳〵と呼(よび)給ひて弥(いよ〳〵)まはし馴(なれ)睦(むつび)給ひけり。然(しかる)
に一時(あるとき)白太夫(しらたいふ)若君(わかぎみ)を負(おひ)まいらせ乳人(めのと)侍女(こしもと)も付添(つきそひ)て物詣(ものまうで)し。其(その)帰路(かへるさ)内裏(だいり)の談天文(だんてんもん)の辺(ほとり)
を通(とふ)りけるに若君(わかぎみ)春彦(はるひこ)に負(おは)れながら門(もん)の額(がく)をつく〴〵とながめ給ひしに館(やかた)【舘は俗字】へ帰(かへ)り給ひて
後(のち)自(みづか)ら小(さゝ)やかなる手(て)に筆(ふで)を執(とり)紙(かみ)をのべて談天(だんてん)の二 字(じ)を書(かき)給ふ。其(その)筆勢(ひつせい)自然(おのづから)空海(くうかい)和(お)
尚(しやう)の筆意(ひつい)に似(に)たりければ。是善卿(ぜゝんけう)を首(はじめ)とし春彦(はるひこ)乳人(めのと)其余(そのよ)の輩(ともがら)も驚嘆(きやうたん)し。此(この)若君(わかぎみ)
漸(よふや)く三才(みつ)になり給ひ。いまだ手習(てならひ)もし玉はざるに。内裏(だいり)の門(もん)の額(がく)を一目(ひとめ)見て早(はや)く其(その)文字(もんじ)を記(お)
憶(ぼへ)給ひて書(かき)給ふのみならず。筆勢(ひつせい)墨色(すみいろ)凡(たゞ)ならざるは凡人(ぼんにん)にては在(ましま)さず。後世(こうせい)恐(おそ)るべしと
衆人(みな〳〵)舌(した)を巻(まい)て恐(おそ)れ感(かん)じ。是善卿(ぜゝんけう)御 夫婦(ふうふ)も是(これ)を奇(き)とし倍(ます〳〵)御 寵愛(てうあい)深(ふか)く。是(これ)より
若君(わかぎみ)を菅秀才(かんしうさい)とぞ申ける。斯(かく)て七才になり給ふ春(はる)其頃(そのころ)博学(はくがく)宏才(くわうさい)の聞(きこ)え高(たか)き都(みやこ)の
良香(よしか)《割書:世(よ)に都(と)|良香(りやうけう) ̄ト云》といふ人の許(もと)へ入門(にふもん)させられ筆道(ひつどう)文学(ぶんがく)を学(まな)ばせられけるに。一を聞(きい)て十を知(しる)の
俊才(しゆんさい)なれば。師(し)の良香(よしか)も驚嘆(きやうたん)せらるゝ事 数度(あまたゝび)に及(およ)びけり。斯(かく)て文徳天皇(もんどくてんわう)の齊衡(さいかう)二

年(ねん)菅秀才(かんしうさい)十一才になり給ふ。其(その)正月の半(なかば)の頃(ころ)春(はる)の夜(よ)の空(そら)快(こゝろよ)く霽(はれ)庭前(ていぜん)の梅花(ばいくわ)も
咲(さき)匂(にほ)ひ梅月(ばいげつ)姸(けん)【妍は略字】を争(あらそ)ひて限(かぎり)なく面白(おもしろ)き景色(けしき)なりければ是善卿(ぜゝんけう)飽(あか)ぬながめに興(けふ)
を催(もよほ)され菅秀才(かんしうさい)に向(むか)ひ你(なんじ)良香(よしか)に就(つき)て物(もの)学(まな)びすれば詩作(しさく)の事(こと)をも少(すこし)は聞(きゝ)つら
め。今宵(こよひ)の風情(ふぜい)を詩(し)に作(つくり)てんやと戯(たはむれ)に問(とは)れけるに。菅秀才(かんしうさい)唯々(いゝ)として少(すこ)しも辞(じ)
する色(いろ)もなく筆紙(ひつし)を執(とり)て月夜即事(げつやのそくじ)と題(だい)し更(さら)に案(あん)を練(ねり)給ふ体(てい)もなく
 月輝(つきのひかりは)《振り仮名:如_二晴雪_一|はれたるゆきのごとく》 梅花(ばいくわは)《振り仮名:似_二照星_一|てれるほしににたり》 《振り仮名:可_レ憐|あはれむべし》金鏡転(きんけうのてんじて) 庭上(ていせうに)玉芳(ぎよくはうの)馨(かうばしきを)
と一 首(しゆ)を賦(ふ)してさし出(いだ)し給ひける是(これ)菅公(かんこう)詩(し)を作(つくり)給ふ初(はじめ)なり。是善卿(ぜゝんけう)大いに駭(おどろ)き感(かん)
ぜられ。你(なんじ)いまだ成童(せいどう)の年(とし)にだも至(いたら)ずしてかゝる佳句(かく)を吐(はく)事(こと)予(われ)も猶(なを)及(およば)ずと御 賞美(せうび)
あり。我家(わがいへ)を興(おこ)すべき者(もの)は此児(このじ)なりと心中(しんちう)に末(すへ)頼母(たのも)しくぞ思(おも)はれける。其後(そのゝち)天安(てんあん)二
年(ねん)十四才にて臘月(らうげつ)に独興(どくけう)の詩(し)を賦(ふ)せられける。其詩(そのし)に曰(いはく)
 玄冬(げんとう)律迫(りつせまり)正(まさに)《振り仮名:堪_レ嗟|なげくにたへたり》  還(かへつて)喜(よろこぶ)《振り仮名:向_レ春不_二敢賖_一|はるにむかふにあへてはるかならす》  《振り仮名:欲_レ尽|つきんとほつする》寒光(かんかう)休(やすむこと)幾干(いくばくぞ)

 将(まさに)来(きたらんとする)暖気(だんき)《振り仮名:宿_二誰家_一|たがいへにしゆくす》  《振り仮名:氷対_二水面_一聞無_レ浪|こほりすいめんにたいしてきくになみなく》  《振り仮名:雪点_二林頭_一見有_レ花|ゆきりんとうにてんじてみるにはなあり》
 《振り仮名:可_レ恨未_レ知_レ勤_二学業_一|うらむべしいまだがくぎやうをつとむるをしらず》  《振り仮名:書斎窓下過_二年華_一|しよさいそうかねんくわのすぐることを》
と作(つく)り給ひければ都良香(とりようけう)大いに駭(おどろ)き且(かつ)感(かん)ぜられ。菅秀才(かんしうさい)の才機(さいき)我(われ)に勝(まさ)る事 遠(とふ)
し。我(われ)是(これ)が師(し)たる事 愧(はづ)るに絶(たへ)たりと。自己(みづから)慚愧(ざんぎ)し是善卿(ぜゝんけう)の館(やかた)【舘は俗字】へいたり対面(たいめん)ありて
賢息(けんそく)菅秀才(かんしうさい)の御事。智才(ちさい)当世(とうせい)其(その)右(みぎ)に立者(たつもの)なし。良香(よしか)ごとき者(もの)の門下(もんか)に膝(ひざ)を
屈(くつ)すべき人にあらず。願(ねがは)くは余人(よじん)に就(つい)て学(まなば)しめ給へと辞退(じたい)せられけれども。是善卿(ぜゝんけう)敢(あへ)て
承引(しやういん)なく何条(なんでう)さる事の候べき。唯(たゞ)いつ迄(まで)も門弟(もんてい)となして教導(をしへみちび)きたび給へと強(しい)て頼(たの)まれ
けるゆへ。良香(よしか)も已事(やむこと)を得(え)ず此上(このうへ)は師弟(してい)の名(な)を除(のぞ)き学友(がくいう)と成(なり)てともに文道(ぶんどう)を修(しゆ)
行(ぎやう)し候べしとて帰(かへ)られ。其後(そのゝち)は心中(しんちう)に菅秀才(かんしうさい)を学(まなび)の友(とも)とおもひ愈(いよ〳〵)懇(ねんごろ)に交(まじは)られけると
なん。偖(さて)清和天皇(せいわてんわう)貞観(でうぐわん)元年 菅秀才(かんしうさい)十五才になりて元服(げんぶく)し給ひ。諱(いみな)を道真(みちざね)と呼(よば)
れ玉ふ。是善卿(ぜゝんけう)の御 怡(よろこび)は申に及(およば)ず北堂(きたのかた)伴氏(ばんし)も斜(なゝめ)ならず嬉(うれし)み給ひ鶴亀(つるかめ)の千世(ちよ)万世(よろづよ)を

かけて菅公(かんこう)の初冠(うゐかむり)を祝(しゆく)し一 首(しゆ)の哥(うた)を詠(ゑい)ぜられける其(その)哥(うた)に曰
   久(ひさ)かたの月(つき)のかつらもをるばかり家(いへ)のかぜをも吹(ふか)せてしかな
其後(そのゝち)同四年十八才にて進士(しんし)に及第(きうだい)し文章生(もんじやうせい)に補(ほ)せられ。同六年二十才にて従(じふ)六 位下(ゐのげ)に
叙(じよ)し。同九年二十三才にて文章得業生(もんじやうとくげうせい)に補(ほ)せられ玄番助(げんばのすけ)に進(すゝ)み。同十二年二十五才にて
正(しやう)六 位上(ゐのぜう)に昇進(せうしん)し。同十三年 少内記(せうないき)に任(にん)ぜられ給ふ。御 年(とし)二十六才なり。其年(そのとし)の春(はる)の。比(ころ)都良(とりよう)
香(けう)の館(やかた)【舘は俗字】にて若(わか)き殿上人(てんじやうびと)們(ら)聚(あつま)り弓(ゆみ)を射(い)て興(けう)じ合(あひ)けるところへ菅公(かんこう)至(いた)り給ひしかば人々(ひと〴〵)耳(さゝ)
語(やき)あひ。道真(みちざね)は儒家(じゆか)に生立(おひたち)常(つね)に扉(とぼそ)を閉(とぢ)閫(しきみ)を出(いで)ず。学(まなび)の窓(まど)に蛍雪(けいせつ)を集(あつめ)。もつぱら学(がく)
業(げう)に心を委(ゆだね)らるれば。弓矢(ゆみや)などは手(て)にとりたる事も有(ある)まじく本末(もとすへ)をだも知(しら)れざるべし毎度(まいど)
手跡(しゆせき)詩文(しぶん)などにて我徒(わがともがら)彼人(かのひと)に後(おくれ)を取(とり)し返報(へんぱう)に弓(ゆみ)一手(ひとて)所望(しよもう)して恥辱(ちじよく)【耻は俗字】をとらせばやと
談合(だんかう)しあひ。菅公(かんこう)の来(きた)り給ふを待受(まちうけ)口々(くち〴〵)に。春日(はるひ)の閑(のどか)なるまゝ弓(ゆみ)彎(ひき)て戯(たはむ)れ候なり。公(こう)
も慰(なぐさめ)に一手(ひとて)彎(ひき)給へとて弓箭(ゆみや)をさし付(つけ)ければ。菅公(かんこう)早(はや)く其(その)詰(なじ)る意(い)を察(さつ)し。少(すこ)しも辞(じ)

する色(いろ)なく。是(こ)はよき折(をり)に参(まい)り逢(あひ)たり。いで我(われ)も一手(ひとて)仕(つかまつ)らんとて弓場(ゆば)に立出(たちいで)弓箭(ゆみや)打(うち)つがへ
て的(まと)に向(むか)ひ給ふ有(あり)さま。体(たい)よく治(おさま)り整(とゝの)ひて。射術(しやじゆつ)鍛煉(たんれん)の士(し)の身(み)の備(そなへ)も斯(かく)やとおもふ許(ばかり)なり人(ひと)
々(〳〵)案(あん)に相違(さうゐ)しながら。猶(なを)形容(けいよう)ばかり賢々(さか〳〵)しくとも真(まこと)の事(わざ)は争(いかで)かと。息(いき)を詰(つめ)て見(み)居(ゐ)たる
うち。菅公(かんこう)はねらひを定(さだ)めて兵(ひやう)ど切(きつ)て放(はな)し給ふに。其矢(そのや)過(あやま)たず的(まと)の真中(たゞなか)に発止(はつし)と中(あたり)ける
是(これ)を始(はじめ)として十 枝(し)の矢(や)一枝(ひとすじ)も空矢(あだや)なく尽(こと〴〵)く的(まと)に射中(いあて)給ふ事。誠(まこと)に百発百中(ひやくはつひやくちう)とも謂(いひ)つ
べき手煉(しゆれん)なりけるにぞ衆人(みな〳〵)惘(あきれ)果(はて)我(われ)を忘(わす)れて■(あつ)【「口+一+中」は辞書に無し。「呀」ヵ】と感ずるばかりなり。都良香(とりやうけう)先(せん)
剋(こく)より物蔭(ものかげ)に在(あり)て見物(けんぶつ)せられけるが。感嘆(かんたん)のあまり立出(たちいで)て大いに賞美(せうび)し。種々(しゆ〴〵)の引出物(ひきでもの)
を進(まいら)せ酒宴(しゆえん)を催(もよほ)して管侍(もてなさ)れけり。其後(そのゝち)元慶(げんきやう)四年に御 父(ちゝ)是善卿(ぜゝんけう)薨去(こうきよ)ありける菅(かん)
公(こう)御年三十六才なり。其(その)翌年(よくねん)正月 加賀権守(かゞごんのかみ)を兼(かね)て加州(かしう)へ任国(にんこく)に赴(おも[む])き給ひ。次(つぎ)の年(とし)任(にん)
満(みち)て都(みやこ)へ皈(かへ)り給ひ。則(すなは)ち其年(そのとし)渤海(ぼつかい)の裴頲(はいてい)来朝(らいてう)しけるゆへ権(かり)に治部太輔(ぢぶのたゆう)となりて存問(そんもん)
使(し)とはなり給ひしなり。誠(まこと)に本朝(ほんてう)の名臣(めいしん)とは菅公(かんこう)の御 身上(みのうへ)を申べしと云々

  猶(なを)菅公(かんこう)神(かみ)と崇(あがめ)祭(まつ)られ給ふ迄(まで)の御 事跡(じせき)は次(つぎ)の巻(まき)に委(くわし)く記(しる)す
    陽成院(やうぜいいん)《振り仮名:恋_二釣殿君_一|つりどのゝきみをこふ》御製(ぎよせい)  狂病(きやうびやう)乱行(らんげう)閉居(へいきよの)条(こと)
陽成院(やうぜいいん)の帝(みかど)御 成長(せいちやう)なし給へば。朝廷(てうてい)の公卿(こうけい)稍(やゝ)心を安(やすん)じけるに。不図(ふと)御 狂病(きやうびやう)発(はつ)して百(さま)
般(〴〵)乱行(らんぎやう)なし給ふにぞ。女宦(によくわん)近臣(きんしん)們(ら)大にもてあましける。其(その)根元(こんげん)を尋(たづぬ)るに色情(しきじやう)の事より
起(おこ)れり其故(そのゆへ)は。其頃(そのころ)釣殿(つりどの)の君(きみ)とて世(よ)に双(ならび)なき美人(びじん)在(ましまし)けり。是(これ)は仁明天皇(にんみやうてんわう)第三の皇(み)
子(こ)時康親王(ときやすしんわう)《割書:後に光(くわう)|孝(かう)天皇》第(だい)一の姫宮(ひめみや)にて御座(おはし)ませば。陽成帝(やうぜいてい)の御 為(ため)には従叔母(いとこおば)にて御
年(とし)も主上(しゆぜう)よりは遙(はるか)に長(ちよう)じ給ひけるに。帝(みかど)一度(ひとたび)垣間見(かいまみ)給ひて深(ふか)く懸想(けさう)し給ひ千束(ちつか)の
御 文(ふみ)を通(かよ)はせ給へども。釣殿(つりどの)の君(きみ)は正(まさ)しく御 甥(おひ)の帝(みかど)に馴添(なづさひ)玉はんも流石(さすが)つゝましく愧(はづ)
かしき事に思召(おぼしめし)て一 度(ど)も御 返(かへ)しの文(ふみ)をも奉り玉はず。難面(つれなく)てのみ過(すご)させ給ひければ帝(みかど)
はいよ〳〵浮岩(あくがれ)給ひ。一時(あるとき)一首(いつしゆ)の御製(ぎよせい)を遊(あそ)ばされ。彼(かの)陸奥(みちのく)の錦木(にしきゞ)ならで。千束(ちつか)に余(あま)る文(ふみ)
の数(かづ)を。封(ふう)だに切(きら)で返(かへ)し給ふ難面(つれな)さをくれ〴〵も怨(ゑん)じ。今は玉の緒(を)も絶(たゆ)るばかりに物(もの)思(おも)ふ

なんど物(もの)あはれにしたゝめ玉ひし御 玉章(たまづさ)の奥(おく)に書(かき)てぞ贈(おくり)給ひける其(その)御製(ぎよせい)は
  筑波根(つくばね)の峯(みね)よりおつるみなの川 恋(こひ)ぞつもりて淵(ふち)となりぬる
とあり御 哥(うた)の意(こゝろ)は常州(じやうしう)筑波山(つくばやま)は此面(このも)彼面(かのも)の蔭(かげ)滋(しげ)く。㵎々(たに〳〵)より流出(ながれいづ)る水(みづ)美奈野川(みなのがは)
といふ川へ落合(おちあひ)ては底(そこ)しらぬ淵(ふち)となるごとく。朕(ちん)も君(きみ)を恋(こふ)る心の積々(つもり〳〵)て深(ふか)き思(おもひ)に沈(しづ)むぞ
との御製(おんうた)なり。実(げに)や倭哥(やまとうた)の徳(とく)は猛(たけ)き武士(ものゝふ)の心をも慰(なぐさ)め男女(をとこをんな)の中(なか)をも和(やはら)ぐると書(かき)し
ごとく。釣殿(つりどの)の君(きみ)も此(この)御製(ぎよせい)を唫(ぎん)じ給ひて感情(かんじやう)を催(もよほ)し給ひ。かほどにまで浅(あさ)からず思(おぼし)
召(めす)をさのみは争(いかで)難面(つれなく)て止(やみ)奉るべきと御心 解(とけ)遂(つひ)に稲船(いなぶね)のいなにはあらぬよし御 返事(かへりこと)の
文(ふみ)を奉り給ひければ。帝(みかど)大いに御 欣(よろこび)あり。頓(やが)て迎(むかへ)とり給ひて。錦帳(きんてう)の内(うち)に玉(たま)の枕(まくら)をならべ
玉ひ。偕老(かいらう)の御 契(ちぎり)深(ふか)く。是(これ)より釣殿(つりどの)の君(きみ)を片時(へんし)も御 側(そば)を放(はな)ち玉はず。今まで君寵(くんてう)を
蒙(かうむ)り給ひし女御(にようご)宮妃(きうひ)は閨(ねや)の巣守(すもり)となりて。枕(まくら)の塵(ちり)と倶(とも)に積(つも)る怨(うらみ)のやる方(かた)なく。各(おの〳〵)心(むね)を合(あは)し
て釣殿(つりどの)の君(きみ)を咒咀(のろひ)。または帝(みかど)の御 行迹(ふるまひ)を悪(あし)さまに風説(とりさた)し。正(まさ)しく叔母君(おばぎみ)を玉体(ぎよくたい)近(ちか)く召(めし)

【左丁】
釣殿后

【右丁】
異形(いぎやう)の
 ものを
造(つく)り並(なら)べ
    て
釣殿(つりどの)の
  后(きさき)を
 魘(おそ)ふ図

寄(よせ)て幸(さいは)ひし給ふは世(よ)の乱(みだ)るゝ端(はし)なりなどゝ言触(いひふら)し。或(あるひ)は釣殿(つりどの)の君(きみ)の帝(みかど)の寝殿(しんでん)へ通(かよ)ひ
給ふ廊下(らうか)に種々(さま〴〵)怪(あやし)き姿(すがた)の者を造(つくり)置(おき)て怕(おど)しなんどしければ。素(もとよ)り心弱(こゝろよは)き御 本性(ほんぜう)の釣(つり)
殿(どの)の君(きみ)。度々(たび〳〵)魘(おそは)れ給ひ遂(つひ)に重(おも)き患病(いたつき)に打臥(うちふし)給ひける。帝(みかど)大いに駭(おどろ)かせ給ひ。典薬(てんやく)の医(い)
宦(くわん)に委(ゆだね)諸寺(しよじ)諸社(しよしや)に勅詔(みことのり)して加持祈祷(かじきとう)させ給へども。露(つゆ)ばかりの験(しるし)もなく終(つひ)に空(むな)しく
成(なり)給ひけるにぞ。帝(みかど)の御 悲歎(ひたん)限(かぎ)りなく。李夫人(りふじん)に別(わか)れし漢王(かんわう)の悲(かなし)み。楊貴妃(やうきひ)に後(おくれ)し
唐帝(とうてい)の歎(なげ)きも。今は御 身(み)の上(うへ)となり。哀涙(あいるい)に御衣(ぎよい)の袂(たもと)を朽(くた)し給ひ。是(これ)より何(なに)となく発(ものぐ)
狂(るは)しくならせ給ひ。局々(つぼね〳〵)の女房(にようばう)の寐(いね)たる処(ところ)へ忍(しの)んで渡御(とぎよ)なし給ひ。其(その)黒髪(くろかみ)を根(ね)より弗(ふつ)
々(〳〵)と剪捨(きりすて)。また弓(ゆみ)の鉾(ほこ)を以(もつ)て寐(いね)たる宮女(きうぢよ)の陰所(いんしよ)を突(つい)て殺(ころ)し給ふ時(とき)もあり。一時(あるとき)は近侍(きんじ)
の臣下(しんか)を科(とが)もなきに御剣(ぎよけん)にて御 手討(てうち)になし給ひ。聊(いさゝか)にても御意(ぎよい)に叶(かなは)ざる事あれば。男(なん)
女(によ)の差別(しやべつ)なく御 太刀(たち)を抜(ぬき)給ひて追廻(おひまは)し斬殺(きりころ)し給ふもあり。傷(きずつ)け給ふも少(すくな)からず。彼(かの)釣(つり)
殿(どの)を咒咀(しゆそ)せし女宦(によくわん)は悉(こと〴〵)く御 手討(てうち)に遭(あひ)けるゆへ。誰(た)がいふとなく帝(みかど)の御 狂乱(きやうらん)は釣殿(つりどの)の

亡魂(ぼうこん)の為(なす)業(わざ)なりと言出(いひいだ)し。また夜陰(やいん)におよべば。長陛中殿(ながはしちうでん)などにて釣殿(つりどの)の君(きみ)の
痩細(やせほそ)り白(しろ)き衣(きぬ)の上(うへ)に丈(たけ)なる黒髪(くろかみ)を振乱(ふりみだ)し。さも物凄(ものすご)き面皃(おもざし)にて停立(たゝずみ)給ふを見受(みうけ)
怕(おそ)れ魂断(たまぎり)て悶絶(もんぜつ)し。それより心神(しん〴〵)悩乱(のふらん)し病(やみ)困(くるし)む女房(にようばう)達(たち)も多(おほ)かりけり。帝(みかど)は御 狂病(きやうびやう)
愈(いよ〳〵)厲(はげ)しく。一時(あるとき)は寮(れう)の御馬(おむま)に駕(めさ)れて庭上(ていせう)より御殿(ごてん)へ騎上(のりあげ)宮女(きうぢよ)宦人(くわんにん)們(ら)を駈(かけ)仆(たを)し
給ひ。又 一時(あるとき)は宦女(くわんぢよ)を裸体(あかはだか)にして庭上(ていせう)へ追下(おひくだ)し。犬(いぬ)を闘(たゝか)はせて怕(おそ)れ惑(まどふ)を興(けう)じ給ひ。或(あるひ)は
地下(ぢげ)の男女(なんによ)を捉(とらへ)て樹(き)の末(そら)へ上(のぼ)らせ。下(した)より戟(ほこ)を以(もつ)て突殺(つきころ)し。或(あるひ)は蛙(かはづ)を多(おほ)く取寄(とりよせ)させて
蛇(へび)に呑(のま)せ。犬(いぬ)と猿(さる)とを噛合(かみあは)させ給ふなんど。偏(ひとへ)に殷(いん)の紂王(ちうわう)の行迹(ふるまひ)に異(こと)ならざれば。後々(のち〳〵)
は女房(にようばう)諸臣(しよしん)も忌怖(いみおそれ)て御前(ごぜん)に参仕(まいりつかふ)る者一人もなく。斯(かく)ては帝位(ていゐ)に在(ましま)さん事 奈何(いかゞ)有(あら)
んと危踏(あやぶま)ぬ人もなかりけり。然(しかる)に摂政(せつしやう)基経公(もとつねこう)思慮(しりよ)を回(めぐ)らされ。一時(あるとき)君(きみ)の御前(ごぜん)へ伺候(しかう)
し。頃日(このごろ)は御 徒然(とぜん)に見えさせ給へば。明日(みやうにち)臣(しん)が邸舎(やしき)にて三十 番(ばん)の競馬(けいば)を催(もよほ)し睿覧(ゑいらん)に
典(そな)へ奉り候はんあいだ御幸(みゆき)なし給(たま)はり候へと奏(そう)せられければ。帝(みかど)は御生得(ごせうとく)馬(むま)を駈(かく)る事を好(この)

ませ玉ふ上御 徒然(つれ〴〵)の折(をり)なれば大いに悦(よろこ)ばせ給ひ。子細(しさい)なく勅許(ちよくきよ)ありけるにぞ。基経公(もとつねこう)は疾(とく)
より二 条(でう)陽成院(やうぜいいん)の殿中(でんちう)に一 室(しつ)を構(かま)へ四 方(はう)に蜘手(くもで)を入 如何(いか)なる怪力(くわいりよく)勇悍(ゆうかん)の者(もの)なりとも
押破(おしやぶり)がたきやうにしつらひ置(おき)幄(たれぬの)を垂(たれ)て是(これ)を隠(かく)し。翌日(よくじつ)早旦(さうたん)に御 迎(むかへ)のため参内(さんだい)あり
ければ。帝(みかど)は欺謀(たばかる)とは露(つゆ)知(しり)玉はず宝輦(ほうれん)に乗(めし)て出御(しゆつぎよ)なし給ひけり。基経公(もとつねこう)は御随臣(みずいしん)
駕輿丁(かよてう)們(ら)に密意(みつい)を言含(いひふくめ)足早(あしばや)に陽成院(やうぜいいん)へ渡御(とぎよ)なし進(まいら)せ。暗(ひそか)に御剣(ぎよけん)を奪(ばひ)とり
件(くだん)の一室(ひとま)へ入奉り。外面(そとも)より扉(とぼそ)を固(かた)く鎖(とざ)されければ。帝(みかど)大いに駭(おどろ)かせ給ひ。是(こ)は如何(いかゞ)計(はか)らひ
ぬるやと問(とひ)給ふに。基経公(もとつねこう)威儀(いぎ)を正(たゞ)され。恐(おそれ)ながら君(きみ)御 狂病(きやうびやう)募(つの)らせ給ひ。科(とが)なき者を
数多(あまた)傷(そこな)はせ給ふがゆへ天照皇太神(あまてらすおゝんかみ)への畏(かしこま)りに御位(みくらゐ)を下(おろ)し奉り。此御所(このごしよ)にて御 保養(ほやう)させ
進(まい)らせ候なり。願(ねがは)くは御心(みこゝろ)を鎮(しづめ)給ひ静(しづか)に御 養生(やうぜう)なし給ふべしと奏聞(そうもん)ありければ帝(みかど)大いに
泣悲(なきかなし)み給ひ。さま〴〵に謝(か?び)【「わ」の誤ヵ】給へども叶(わ?な)【「か」の誤ヵ 注】はせ玉はず。遂(つひ)に閉居(へいきよ)の御 身(み)とならせ給ふぞ力(ちから)なき。基(もと)
経公(つねこう)は禁廷(きんてい)へ帰(かへ)られ。火急(くわきう)に使者(ししや)を廻(まは)して諸卿(しよけう)を集(つど)へ。主上(しゆぜう)御 狂病(きやうびやう)頻(しきり)なるゆへ

【注 「わ」と「か」の振り仮名の打ち間違いではと思われる。】

宝位(みくらゐ)をすべらせ奉(たてまつ)れり。此上(このうへ)は何(いづ)れの宮(みや)をか王位(わうゐ)に即(つけ)奉るべきと評議(ひやうぎ)ありけるに。衆(みな)
其身(そのみ)々々(〳〵)の贔屓(ひいき)の宮方(みやがた)を勧(すゝ)めて群議(ぐんぎ)さらに一 決(けつ)せず。左大臣(さだいじん)融公(とふるこう)は正(まさ)しく嵯峨天皇(さがてんわう)
の皇子(わうじ)なれば。我(われ)こそ帝位(ていゐ)を践(ふむ)べけれと其(その)色(いろ)を仄(ほの)めかされけれども。基経公(もとつねこう)承引(せういん)せ
られず一 旦(たん)人臣(じんしん)に列(つらな)りたる人 践祚(せんそ)ありし例(れい)なしとて。故(こ)仁明(にんみやう)天皇 第(だい)三の皇子(みこ)の時康(ときやす)
親王(しんわう)仁徳(じんとく)を備(そな)へ節倹(せつけん)を守(まも)り己(おのれ)を小(せめ)人(ひと)を礼(うやま)ふ賢君(けんくん)なれば。此君(このきみ)を九五(きうご)の位(くらゐ)に即(つけ)
奉るに如(しく)べからずとて時康親王(ときやすしんわう)を五十八代の帝(みかど)となし奉らんと定(さだ)められければ。大納言(だいなごん)藤(ふぢ)
原良世(はらのよしよ)同(おなじく)冬緒(ふゆを)中納言(ちうなごん)在原行平(ありはらのゆきひら)同 源能有(みなもとのよしあり)を首(はじめ)として満座(まんざ)の公卿(こうけい)面(おもて)を見合(みあは)し
彼(かの)時康親王(ときやすしんわう)は行迹(かうせき)正(たゞし)き君(きみ)ながら。御 年(とし)已(すで)に五十五才にて余(あま)りに年(とし)闌(たけ)給ひ且(かつ)先達(さきたつ)て
薨去(こうきよ)ありし釣殿(つりどの)の君(きみ)の御 父(ちゝ)なり。彼(かの)釣殿(つりどの)の死霊(しりやう)ゆへに先帝(せんてい)狂病(きやうびやう)を発(はつ)し給へりと世(よ)
に風説(とりさた)すれば上皇(ぜうかう)の御 憤(いきどふ)りも量(はかり)がたく。又御 舅(しうと)同前(どうぜん)の宮(みや)を帝位(ていゐ)に即(つけ)られん事 如何(いかゞ)
あらんと思(おも)はれけれども。当時(とうじ)権勢(けんせい)肩(かた)を並(ならぶ)る人なき摂政(せつしやう)の詞(ことば)なれば。誰(たれ)か一 言(ごん)を発(はつ)する

人も無(なか)りければ。左大臣(さだいじん)融公(とほるこう)堪(こらへ)かねて進出(すゝみいで)。摂政(せつしやう)の詞(ことば)ながら。時康親王(ときやすしんわう)を帝位(ていゐ)に即(つけ)
られんは余(あま)りに似気(にげ)なき事ならんか。再応(さいおう)思慮(しりよ)を加(くはへ)らるべしと難(なん)ぜられける。是(これ)を聞(きい)
て諸卿(しよけう)双方(そうはう)の皃(かほ)をながめ。片唾(かたづ)を呑(のん)でひかへ居(ゐ)るところに。末座(ばつざ)より藤原諸葛(ふぢはらのもろかつ)
とて勇悍(ゆうかん)強勢(がうせい)の人 位陛(ゐかい)を進(すゝ)み出(いで)。衛府(ゑふ)の太刀(たち)の柄(つか)を砕(くだく)るばかりに握詰(にぎりつめ)満座(まんざ)
を盵(きつ)と見廻(みまは)し。誰(たれ)か太政大臣(だじやうだいじん)の命(あふせ)を背(そむ)く人やあると呼(よば)はりて。眼(まなこ)を瞋(いから)し二 言(ごん)と言(いは)ば斬(きり)
もかくべき勢(いきほ)ひを示(しめ)しけるにぞ。融公(とほるこう)も諸葛(もろかつ)が強勢(がうせい)に怕(おそ)れ。其後(そのゝち)は詞(ことば)を発(はつ)せられず
口を憩(つぐ)んでひかへられけり。是(これ)に依(よつ)て遂(つひ)に時康親王(ときやすしんわう)を帝位(ていゐ)に定(さだ)むる議(ぎ)に評定(ひやうでう)一 決(けつ)し
列位(おの〳〵)其日(そのひ)は退出(たいしゆつ)せられけり。抑(そも〳〵)基経公(もとつねこう)数多(あまた)在(ましま)す宮々(みや〳〵)の中(うち)に。年(とし)闌(たけ)給ひし時康親(ときやすしん)
王(わう)を吹挙(すいきよ)し帝位(ていゐ)に定(さだ)められしは。深(ふか)き故(ゆへ)ありて全(まつた)く和哥(わか)の徳(とく)に因(よる)ところなり。其(そ)を奈(い)
何(かん)といふに。去年(きよねん)正月 時康親王(ときやすしんわう)野外(やぐわい)に出(いで)て自身(みづから)野辺(のべ)の若菜(わかな)を摘(つみ)給ひ。摂政(せつしやうの)基経公(もとつねこう)
の許(もと)へ贈(おく)り給ひけるに。折(をり)ふし余寒(よかん)強(つよ)く若菜(わかな)の葉(は)に雪氷(ゆきこほり)つきたれば一 首(しゆ)の哥(うた)を添(そへ)給ふ

  君(きみ)がためはるの野(の)に出(いで)てわか菜(な)つむ我(わが)衣手(ころもて)にゆきは降(ふり)つゝ
と詠(えい)じ給ひしかば。基経公(もとつねこう)右(みぎ)の御 哥(うた)を吟(ぎん)じて大いに感情(かんぜう)を催(もよほ)され。厚(あつ)く御 礼(れい)を申上
られけるが。其時(そのとき)より時康親王(ときやすしんわう)を贔屓(ひいき)におもふ心 起(おこ)れり。素(もとよ)り親王(しんわう)の御 為性(ひとゝなり)篤実(とくじつ)
貞正(ていせい)の君(きみ)なれば。旁(かた〴〵)以(もつ)て今般(このたび)帝位(ていゐ)に進(すゝ)められたるなり。時康親王(ときやすしんわう)は仁明帝(にんみやうてい)の皇子(みこ)
ながら。文徳(もんどく)清和(せいわ)陽成(やうぜい)三 帝(てい)の御 世(よ)を経(へ)て。世(よ)に埋(うづ)もれいとも邃(かすか)に暮(くら)し給ひ。世(よ)の人
一品式部卿親王(いつほんしきぶけうしんわう)と称(しやう)し。参(まい)り仕(つかふ)る人もなかりけるに思(おもひ)もよらず今度(こんど)十 善(ぜん)の帝祚(ていそ)
に定(さだ)まり給へば。古骨(こゝつ)再(ふたゝ)び脂(あぶら)づき。枯木(かれき)に花(はな)の咲(さき)しごとく。貴賎(きせん)とも目覚(めさま)しき事におもひ
けり。平城(へいぜい)嵯峨(さが)淳和(じゆんわ)の三 帝(てい)は専(もつぱ)ら詩文(しぶん)を好(この)ませ給ひしゆへ。朝廷(てうてい)の公卿(こうけい)皆(みな)詩賦(しふ)
作文(さくぶん)に心を寄(よせ)けるに。時康親王(ときやすしんわう)一 首(しゆ)の哥(うた)の徳(とく)にて王位(わうゐ)に即(つか)せ玉ひしかば。是(これ)より
諸人(しよにん)歌道(かどう)に心を傾(かたふ)け。和哥(わか)の道(みち)大いに興(おこ)り。追々(おひ〳〵)名人(めいじん)も出来(でき)たりけり。誠(まこと)に倭哥(やまとうた)
神代(かみよ)より伝(つた)はる皇国振(みくにぶり)にて其徳(そのとく)測(はかり)なし。最(もつと)も男女(なんによ)とも心 掛(がく)へき道(みち)なりけり

    光孝天皇(くわうかうてんわう)御即位(ごそくゐ)  行平(ゆきひら)《振り仮名:詠_二述懐歌_一彼_レ為_レ謫|じゆつくわいのうたをよみててきせらる》条
時康親王(ときやすしんわう)は基経公(もとつねこう)の吹挙(すいきよ)に依(よつ)て遂(つひ)に人皇(にんわう)五十八代の帝(みかど)と崇(あが)められ給ふ。是(これ)を
光孝天皇(くわうかうてんわう)と申 奉(たてまつ)れり則(すなは)ち仁明天皇(にんみやうてんわう)の皇子(わうじ)にて御 母(はゝ)は贈太政大臣(ぞうだじやうだいじん)総継公(ふさつぐこう)の
女(むすめ)沢子(たくし)と申せり。先年(さきつとし)渤海国(ぼつかいこく)の使者(ししや)王文矩(わうぶんき)といふ者 時康親王(ときやすしんのう)を相(さう)して
此皇子(このみこ)大いに貴相(きそう)あり後年(こうねん)必然(かならず)天位(てんゐ)に即(つき)玉ふべしと言(まうし)けるを。其(その)砌(みぎり)は諸人(しよにん)信(しん)ぜ
ず。王文矩(わうぶんき)相法(さうほふ)に疎(うと)【踈は譌字】しと誹謗(そしり)けるが。其言(そのことば)のごとく今 晩年(ばんねん)にして帝祚(ていそ)を践(ふみ)たまひ
けるにぞ。諸人(しよにん)初(はじめ)て王文矩(わうぶんき)が先見(せんけん)の明(あきら)かなるを感(かん)じけり。又 藤原仲実(ふぢはらのなかざね)といふ人よく
人を相(さう)しけるが。密(ひそか)に其(その)舎弟(しやてい)宗直(むねなほ)に向(むか)ひ。你(なんじ)時康親王(ときやすしんわう)によく〳〵心を小(せめ)て仕(つか)へ奉れよ
彼君(かのきみ)の骨格(こつかく)尋常(よのつね)にあらず。後(のち)必(かなら)ず帝王(ていわう)にならせ給ふべしと言(いへ)り。是(これ)また王文矩(わうぶんき)
に劣(おとら)ざる相法(さうほふ)の達人(たつじん)といふべし。去程(さるほど)に光孝(くわうかう)天皇 元慶(げんけい)八年二月三日に御 即位(そくゐ)在(まし)
まし同年(どうねん)十一月 大嘗会(だいぜうゑ)を執行(とりおこな)はれ。翌年(よくねん)正月 仁和元年(にんわげんねん)【ママ】と改元(かいげん)あり。先帝(せんてい)《割書:陽|成》に太上(だしやう)

天皇(てんわう)の尊号(そんがう)を贈(おく)り玉ひ。基経公(もとつねこう)の摂政(せつしやう)を止(やめ)られ関白(くわんばく)となし給ふ。是(これ)本朝(ほんてう)関白(くわんばく)の権与(はじめ)
なりそれ摂政(せつしやう)は摂(おさ)め統(すぶ)るの義(ぎ)にて帝(みかど)御 幼稚(ようち)に在(ましま)すか或(あるひ)は女帝(によてい)か。若(もし)くは先帝(せんてい)の如(ごと)
く睿慮(ゑいりよ)不正(ふせい)の君(きみ)か。御 病身(びやうしん)にて朝政(まつりごと)を聴(きゝ)給ふ事 能(あた)はざる時(とき)の宦職(くわんしよく)なり。関白(くわんばく)は
後漢(ごかん)の代(よ)より始(はじま)りすなはち関白(あづかりまうす)と訓(よむ)字義(じぎ)にて。是(これ)君(きみ)の裁判(さいばん)し給ふ事を関白(あづかりまう)して
下(しも)へ通達(つうたつ)する宦職(くわんしよく)なり。主上(しゆぜう)光孝(くわうかう)天皇は基経公(もとつねこう)より御 年(とし)長(てう)じ給へば。摂政(せつせう)は無用(むよう)の
宦名(くわんみやう)ゆへ是(これ)を止(やめ)られ関白(くわんばく)とはなし玉へり其後(そのゝち)関白基経公(くわんばくもとつねこう)に摂津国(せつつのくに)の内(うち)にて遊猟(ゆふれう)の地(ち)
を賜(たまは)り剰(あまつさ)へ基経公(もとつねこう)の五十の賀(が)を禁中(きんちう)にて執行(とりおこな)はせ給ひ。基経公(もとつねこう)の御子 時平卿(ときひらけう)十六才
に成(なら)れけるをも。禁中(きんちう)にて元服(げんぶく)させ給ひ。主上(しゆぜう)御 手(て)づから冠(かむり)を加(くは)へ給ひけり。誠(まこと)に前代(ぜんだい)いまだ例(ためし)
なき義(ぎ)と諸人(しよにん)羨(うらや)み思(おも)はざるはなかりける。同年(どうねん)十二月 仁寿殿(にんじゆでん)に於(おい)て僧正(そうぜう)遍照(へんぜう)に七十の賀(が)
を給(たま)ひけり。是(これ)は遍照(へんぜう)いまだ良峯宗貞(よしみねのむねさだ)と言(いひ)し頃(ころ)彼(かの)渤海(ぼつかい)の使者(ししや)王文矩(わうぶんき)が来朝(らいてう)せし
時(とき)宗貞(むねさだ)其(その)饗応(けうおう)の役(やく)を勤(つと)め。時康親王(ときやすしんわう)とも同席(どうせき)して睦(むつま)じく交(まじは)り進(まい)らせし御 好身(よしみ)を

思召(おぼしめし)ての故(ゆへ)とかや。去程(さるほど)に帝(みかど)は御 博識(はくしき)なる上御 年闌(としたけ)給へば万機(ばんき)の政(まつりごと)を聴召(きこしめす)に御 裁判(さいばん)
明(あきら)かにて仁政(じんせい)を専(もつはら)とし給ひ。小松(こまつ)の宮(みや)に在(いま)せし時(とき)市民(てうにん)どもなどに金銀(きん〴〵)を借用(しやくよう)なし給ひ
しをも。今度(こんど)悉(こと〴〵)く召出(めしいだ)され。利足(りそく)を加(くは)へて償(つくの)ひをなし玉ひけるゆへ。下々(しも〴〵)の人民(にんみん)帝徳(ていとく)を讃(さん)
美(び)し天晴(あつはれ)名君(めいくん)かなとて大いに悦伏(ゑつふく)し。四海(しかい)波(なみ)静(しづか)にぞ治(おさま)りける。時(とき)に帝(みかど)御 生得(せうとく)遊猟(かりくら)
を好(この)ませ給ひ神泉苑(しんせんえん)に御幸(みゆき)し給ひては。鷹(たか)を放(はな)たせて池(いけ)の鳥(とり)をとらしめ。其(その)他(ほか)所々(しよ)へ
御狩(みかり)の御幸(みゆき)ありけるが。仁和(にんわ)二年十二月四日 芹川(せりかは)へ御狩(みかり)の御幸(みゆき)なし玉はんとて。或(ある)臣下(しんか)の
申に任(まか)せ。中納言(ちうなごん)在原行平(ありはらのゆきひら)を大鷹(おほたか)の鷹飼(たかかひ)にぞ宣下(せんげ)し給ひける。抑(そも〳〵)在原行平(ありはらのゆきひら)と申は
平城(へいぜい)天皇の皇子(わうじ)阿保親王(あほしんわう)の嫡男(ちやくなん)にて業平(なりひら)の舎兄(しやきやう)なれば。王氏(わうし)を出(いで)て遠(とふ)からず。弘仁(かうにん)
九年に誕生(たんぜう)せられしを伊都内親王(いとないしんわう)養子(やしなひこ)となし給へり。天性(てんせい)明敏(めいびん)聡慧(そうけい)にて幼年(ようねん)より
経史(けいし)を学(まな)び才機(さいき)諸人(しよにん)に勝(すぐ)れ。天長(てんちよう)三年 在原(ありはら)の姓(せい)を賜(たまは)り。承和(しやうわ)二年 蔵人頭(くらふどのかみ)に補(ほ)
せられ斉衡(さいかう)二年 従(しふ)四 位(ゐ)に叙(じよ)し因幡守(いなばのかみ)に任(にん)ぜられて其(その)任国(にんこく)へ赴(おもむ)く折(をり)京(きやう)を出(いづ)るとて

忍(しの)びて通(かよ)ふ女のもとへ一 首(しゆ)の哥(うた)を詠(よみ)てつかはしける其歌(そのうた)に曰
  立(たち)わかれいなばの山の峯(みね)におふるまつとし聞(きか)ば今(いま)かへりこん
此哥(このうた)勝(すぐ)れたる秀逸(しういつ)なりと世人(よのひと)賞美(せうび)しあひ。貫之(つらゆき)も古今集(こきんしう)に加(くは)へけり。斯(かく)哥道(かどう)
にも達(たつ)し博学(はくがく)宏才(かうさい)にて経済(けいざい)の道(みち)にも賢(さか)しく。国益(こくえき)に成(なる)べきこと事をも是彼(これかれ)計(はかり)定(さだ)
められければ元慶(げんきやう)六年 中納言(ちうなごん)に任(にん)ぜられけり。行平(ゆきひら)また鷹(たか)を使(つかふ)事に妙(めう)を得(え)られし
かば卿相(けいせう)の中(うち)に。行平(ゆきひら)に遺恨(いこん)ある人 君(きみ)に勧(すゝ)め奉り。行平(ゆきひら)に鷹飼(たかかひ)の役(やく)を命(めい)じ玉はゞ
一(ひと)しほ御 得物(えもの)多(おほ)く候べしとぞ奏(そう)しける。是(これ)行平(ゆきひら)に恥辱(ちぢよく)【耻は俗字】を与(あたへ)んとの巧(たく)みなりけるを。君(きみ)
は何(なん)の御心(みこゝろ)もつかせ玉はず。鷹飼(たかかひ)の宣下(せんげ)ありしなり。行平(ゆきひら)右の倫命(りんめい)を奉(うけたま)はりて大いに
不興(ふけう)し。我(われ)王氏(わうし)の末葉(ばつよう)たる上 中納言(ちうなごん)に任(にん)ぜられ。知命(ちめい)の齢(よはひ)をも過(すご)せしに。かゝる卑劣(ひれつ)の
役義(やくぎ)を蒙(かふむ)るこそ安(やす)からねと憤(いきどう)りけれども倫言(りんげん)なれば辞退(じたい)せんやうもなく已事(やむこと)を得(え)
ず渋々(しぶ〳〵)に領掌(れうぜう)はしながら。心(こゝろ)怏々(わう〳〵)として楽(たのし)まず。疾(とく)にも致(つかへを)仕(かへさ)ばかゝる恥辱(ちじよく)は蒙(かうむ)る

まじきものをとて。意(こゝろ)に浮(うか)むまゝ述懐(じゆつくわい)の哥(うた)を詠(えい)じ一際(ひときは) 花麗(くわれい)なる狩衣(かりきぬ)の袖(そで)に書付(かきつけ)
てそれを着(ちやく)し御狩(みかり)の供奉(ぐぶ)に従(した)がはれける其(その)哥(うた)に曰
  翁(おきな)さび人なとがめそ狩(かり)ころもけふばかりとて田鶴(たづ)もなくなる
哥(うた)の意(こゝろ)は我(われ)かく年(とし)闌(たけ)て若々(わか〳〵)しき狩衣(かりぎぬ)を着(き)たるを老(おひ)て花美(くわび)【芲は俗字】を飾(かざ)ると諸人(もろびと)咎(とが)め
わらふ事なかれ。是(これ)も今日(けふ)ばかりぞ明日(あす)は宦職(くわんしよく)を辞(じ)する身(み)なりとなり。翁(おきな)さびとは老(おひ)
たる身(み)に伊達(だて)を飾(かざ)る事なり。凡(すべ)て翁(おきな)さび小女(をとめ)さびなど詠(よめ)るは爽(さはやか)か【衍】なる事にてやつれ
寂(さび)たる意(い)には非(あら)ず。神(かみ)さびたりといふも社(やしろ)の巍々(ぎゝ)として尊(たうと)げに見(み)こみ有(ある)事をいふなり
然(しかる)に帝(みかど)路次(ろし)にて不斗(ふと)行平(ゆきひら)の狩衣(かりぎぬ)の哥(うた)を御覧(ごらん)ありて大いに逆鱗(げきりん)まし〳〵。彼(かれ)が哥(うた)は
我(われ)王孫(わうぞん)にて宦(くわん)中納言(ちうなごん)に任(にん)ぜられ殊更(ことさら)年(とし)闌(たけ)たるに。何(なに)ゆへかゝる卑劣(ひれつ)の役(やく)を命(めい)じけるぞ明(あ)
日(す)は仕(つかへ)を辞(じ)して退隠(たいいん)の身(み)と成(なる)べしとの意(こゝろ)を一 首(しゆ)の中(うち)にこめ。人な咎(とが)めそとよみけふ計(ばかり)
とて田鶴(たづ)も啼(なく)なるとつらねしは。朕(ちん)を恨(うら)み不徳(ふとく)の君(きみ)なりと世人(よのひと)に諷聴(ふうてう)する詠哥(えいか)なり

急(いそ)ぎ追返(おつかへ)し。彼(かれ)が宦爵(くわんしやく)を削(けづり)て摂州(せつしう)須磨(すま)へ流罪(るざい)に行(おこな)ふべしと宣旨(せんじ)下(くだ)りければ即(すなは)ち
勅詔(みことのり)を申 聞(きか)せ。途中(とちう)より行平(ゆきひら)を追返(おつかへ)して蟄居(ちつきよ)させ。主上(しゆぜう)還御(くわんぎよ)まし〳〵て後(のち)。摂州国(つのくに)須(す)
磨(ま)の浦(うら)へぞ左遷(させん)【迁は俗字】せられける。行平(ゆきひら)は思(おもひ)がけなき罪(つみ)を得(え)て。近流(きんる)ながら謫行(たくかう)の身(み)となり
力(ちから)なく住馴(すみなれ)し宿所(しゆくしよ)を出(いで)て津(つ)の国(くに)須磨(すま)へ流(なが)され。配所(はいしよ)のならひいと矮(わび)しき仮屋(かりや)に入
て見るに。前(まへ)は海(うみ)後(うしろ)は山にて只(たゞ)往反(ゆきかふ)者(もの)とては漁(すなどり)する漁人(りやうし)汐汲(しほくむ)蜑小女(あまおとめ)のみにて。礒(いそ)の松(まつ)
吹(ふく)風(かぜ)の音(おと)も寂(さび)しく。友(とも)呼(よび)かはす千鳥(ちどり)の声(こゑ)も哀(あはれ)にて。小夜(さよ)の枕(まくら)も寐覚(ねざめ)がちに。見る物(もの)聞者(きくもの)
腹(はら)を断(たゝ)ざるはなければ。一 首(しゆ)を詠(えい)じて都(みやこ)の友人(ゆうじん)へぞ贈(おく)られける其哥(そのうた)に曰
  わくらはに問(とふ)ひとあらば須磨(すま)のうらに藻汐(もしほ)たれつゝわぶとこたへよ
斯(かく)て憂(うき)配所(はいしよ)に明(あか)し暮(くら)されけるに。一日(あるひ)の朝(あさ)後(うしろ)の山より鄙(ひな)びたる声々(こゑ〴〵)に何(なに)か諷(うたひ)つれて。数(す)
十人の海士小女(あまおとめ)浜辺(はまべ)を望(のぞん)で来(きた)る有(あり)さま。将(まさ)に一 行(かう)の斜鴈(しやがん)雲(くも)に連(つらな)り。半天(はんてん)の雲霓(うんげい)地(ち)
に移(うつ)るともいふべく。行平(ゆきひら)渠們(かれら)を見らるゝに。其(その)群(むれ)の中に容貌(みめかたち)鄙(ひな)めかず由(よし)ありげなる

二人の小女(をとめ)余(よ)の蜑(あま)們(ら)よりは後(おく)れて歩(あゆ)み疲(つか)れし体(てい)に見えければ。行平(ゆきひら)家士(いへのこ)生田庄司(いくたせうじ)に
向(むか)ひ彼(あの)後(おくれ)たる二人の蜑小女(あまをとめ)を是(これ)へ呼(よび)来(きた)れよと命(めい)ぜられけるにより。庄司(せうじ)領掌(れうぜう)して走(はし)り
出(いで)二人の小女(をとめ)を将(ゐ)てかへり。主君(しゆくん)の目前(めどふり)へ連出(つれいで)て坐(すは)らせける。二人の女はいと畏(おそれ)入(いつ)たる体(てい)に
て蹲(うづくま)り居(ゐ)たり。行平(ゆきひら)詞(ことば)をかけ。你(なんじ)們(ら)は何国(いづく)の者にて何方(いづれ)の里(さと)に住(すみ)けるぞと問(とは)れけれ
ば一人の年長(としてう)じたりと覚(おほ)しき女。庄司(せうじ)に料紙(れうし)を乞(こひ)一 首(しゆ)の哥(うた)を手早(てばや)く書(かき)て。つゝまし
げにさし出(いだ)しけるゆへ。行平(ゆきひら)興(けう)ある事に思(おも)はれ手(て)に取上(とりあげ)て見らるゝに其哥(そのうた)に曰
  しら浪(なみ)のよする渚(なぎさ)に世(よ)をすごす蜑(あま)の子(こ)なれば宿(やど)もさだめず
と書(かき)たり手跡(しゆせき)も無下(むげ)に拙(つたな)からざれば大いに感(かん)ぜられ。偖々(さて〳〵)優(やさ)しき者どもかな。実(まこと)の
住所(ぢうしよ)を告(まうせ)よと再三(さいさん)問(とは)れけるに。哥(うた)書(かき)たる女 答(いらへ)けるやう。我々(われ〳〵)姉妹(おとゞい)はもと讃岐国(さぬきのくに)の者
にてさむらひしに。縁故(ゆへよし)ありて今は此(この)後(うしろ)の山の奥(おく)なる。田井畑(たゐのはた)の長(てう)が許(もと)に召使(めしつか)はれ侍(はべ)
りと申ける。行平(ゆきひら)聞(きい)て庄司(せうじ)に向(むか)ひ你(なんじ)彼(かの)田井畑(たゐのはた)とやらんへ往(ゆき)其(その)長(てう)とかいふ者に対面(たいめん)

し此(この)二人の女を予(よ)が洒掃(めしつかひ)に得(え)させよと乞(こひ)来(きた)り候へと命(めい)ぜられければ。庄司(せうじ)唯(いゝ)々とて
座(ざ)を起(たち)田井畑(たゐのはた)へぞ赴(おもむ)きける。行平(ゆきひら)は二人の小女(をとめ)に何是(なにくれ)と事(こと)問(とひ)て配所(はいしよ)の徒然(つれ〴〵)を慰(なぐさ)
めらるゝうち。其日(そのひ)の黄昏(くれがて)に生田庄司(いくたのせうじ。)田井畑(たゐのはた)の長(てう)を同道(どう〳〵)して立帰(たちかへ)り行平(ゆきひら)の面前(めどふり)
へ伴(ともな)ひ出(いで)ける。行平(ゆきひら)に向(むか)ひ。是(これ)なる二人の女 容儀(ようぎ)卑(いや)しからず。汐汲(しほくむ)業(わざ)をさせんも便(びん)
なき事なれば。予(よ)が配所(はいしよ)の洒掃(めしつかひ)にせまほしく思(おもふ)なり。されば予(よ)に得(え)させよ。二人の女
の語(かた)るを聞(きけ)ば。元(もと)は讃州(さんしう)の産(さん)なるよし。如何(いか)なる故(ゆへ)に你(なんじ)が方(かた)へ召抱(めしかゝへ)しや。子細(しさい)あら
ば物語(ものがたれ)よと問(とは)れけるに。長(てう)は低頭(ていとう)し。数(かづ)ならぬ賎(しづ)の女(め)を由(よし)ある者(もの)と御覧(ごらん)ありし
御 目鑑(めがね)こそ難有(ありがた)けれ。此(この)二人の小女(をとめ)の身上(みのうへ)にはいとも哀(あは)れなる物語(ものがたり)の候 事(こと)長(なが)けれども
御 尋(たづね)ゆへ語(かたり)候べし。抑(そも〳〵)此(この)二人の者(もの)は。讃州(さんしう)の住人(ぢうにん)塩飽大領(しあくのだいれう)と申者の女(むすめ)にて候に。姉は
七才 妹(いもと)は五才の頃(ころ)母(はゝ)は死亡(みまかり)後(のち)二年立て父(ちゝ)大領(だいれう)後妻(のちぞひ)を呼迎(よびむか)へ程(ほど)なく一人の男子(なんし)
出生(しゆつせう)し名(な)を后丸(のちまる)と呼(よび)て大領夫婦(だいれうふうふ)の寵愛(てうあい)大方(おほかた)ならず。然(しかる)に彼(かの)後妻(のちぞひ)初(はじめ)の程(ほど)は二人

の継子(まゝこ)を所生(うみのこ)のごとく慈愛(いつくしみ)候ひしに。后丸(のちまる)が出生(しゆつせう)せし後(のち)は。二人の継子(まゝこ)を憎(にく)み。万事(ばんじ)難面(つれなく)て
のみ過(すぎ)候へども。大領(だいれう)は後妻(のちぞひ)の色(いろ)に溺(おぼ)れて是(これ)を悟(さとら)ず。姉妹(おとゞい)の者(もの)は憂苦(ゆうく)を堪忍(たへしの)び継母(まゝはゝ)
によく仕(つか)へ候に継母(けいぼ)は猶(なほ)も二人を憎(にく)み。夫(をつと)大領(だいれう)に百般(さま〴〵)讒言(ざんげん)し。此(この)両女(りようぢよ)を追亡(おひうしなは)んと謀(はかり)候ゆへ
両人(りようにん)とも堪(こらへ)かねて館(やかた)【舘は俗字】を抜出(ぬけいで)大領(だいりよう)が家長(いへのおさ)牟礼兵衛(むれひやうゑ)なる者の方(かた)へ至(いた)り。尼法師(あまほふし)とも
なり亡(なき)実母(じつぼ)の後跡(あと)を弔(とむら)【吊は俗字】ひたきよし告(まうし)けるに。兵衛(ひやうゑ)は主人(しゆじん)の女(むすめ)といひ。いまだ若(わか)き姉妹(おとゞい)を尼(あま)
法師(ほふし)にせんもいとをしく。八島(やしま)の里(さと)に住居(すまゐ)し候一 族(ぞく)高松何某(たかまつなにがし)と呼(よば)るゝ者の方(かた)へ二人の者を
預置(あづけおき)候ひしに。彼(かの)継母(けいぼ)是(これ)を聞付(きゝつけ)て又 大領(だいれう)へ讒言(ざんげん)し。牟礼(むれ)。高松(たかまつ)両人(りようにん)姉妹(おとゞい)の女(むすめ)を舎蔵(かくまひ)
て己々(をのれ〳〵)が側室(めかけ)とし。御 身(み)死亡(しぼう)し給ふ後(のち)は。后丸(のちまる)を害(がい)して塩飽(しわく)の家督(かとく)を押領(おうれう)せんと巧(たく)み
候よし妾(わらは)に告(つぐ)る者の候と実(まこと)しやかに告(つげ)けるを大領(だいれう)其(その)讒(ざん)を信(しん)じ。後添(のちぞひ)の勧(すめ)に任(まか)せ牟礼兵(むれひやう)
衛(ゑ)を館(やかた)へ呼寄(よびよせ)物蔭(ものかげ)に力士(りきし)を隠(かく)し置(おき)。牟礼(むれ)が油断(ゆだん)を見すまし。力士(りきし)に相図(あいづ)して不意(ふい)
に虜(とりこ)にし牢獄(ろうごく)へ入 置(おき)しを後妻(のちぞひ)暗(ひそか)に食(しよく)の中に鴆毒(ちんどく)を加(くは)へて遂(つひ)に兵衛(ひやうゑ)を毒殺(どくさつ)し

猶(なを)また己(おの)が兄(あに)の阿波介(あはのすけ)なる者に命(めい)じ高松何某(たかまつなにがし)謀叛(むほん)の聞え隠(かくれ)なし急(いそ)ぎ馳向(はせむかひ)
て誅伐(ちうばつ)すべしと告(つげ)けるにより。元来(もとより)無道(ぶどう)の阿波介(あはのすけ)一 議(ぎ)にも及(およ)ばず三百余人の兵卒(へいそつ)を
率(ひい)て高松(たかまつ)が宿所(しゆくしよ)へ寄付(よせつけ)無(む)二無(む)三に攻立(せめたて)けるゆへ。高松(たかまつ)は思(おもひ)がけなき不意(ふい)を伐(うた)れ
防戦(ばうせん)已(すで)に難義(なんぎ)に及(およ)びしかば。両人(りようにん)の小女(をとめ)に対(むか)ひ。弓矢(ゆみや)とる身(み)はかゝる折(をり)に命(いのち)を惜(をし)まぬ
ならひなれば。某(それがし)は敵中(てきちう)に斬入(きりいつ)て思(おも)ふ程(ほど)敵(てき)を悩(なやま)し斬死(きりじに)し候べし。御 身(み)たちは我知己(わがしるべ)
の者 津国(つのくに)須磨(すま)の後(うしろ)なる田井畑(たゐのはた)の長(てう)が許(もと)へ落行(おちゆき)彼者(かのもの)に身(み)を寄(よせ)て命(いのち)を全(まつた)うし時節(じせつ)
を待(まつ)て父(ちゝ)大領殿(だいれうどの)に身(み)に罪(つみ)なき事(こと)を訴(うつた)へ再(ふたゝ)び父子(ふし)和順(わじゆん)の期(とき)を得(え)給へと諫(いさめ)けるに
是(これ)に候 姉妹(おとゞい)の者(もの)は杖柱(つえはしら)とも頼(たのみ)たる牟礼(むれ)には後(おく)れ。高松(たかまつ)さへ討死(うちじに)せんといふにいたく力(ちから)を
落(おと)し。泣々(なく〳〵)高松(たかまつ)に向(むか)ひ。妾(わらは)姉妹(おとゞい)ゆへに御 身(み)を戦死(うちじに)させ何(なん)の面目(めんぼく)ありてか世(よ)に存命(ながらへ)侍(はべ)る
べき。ともに自害(じがい)し同じ道(みち)に往(ゆか)んと言(まうし)けるを。高松(たかまつ)種々(さま〴〵)諫(いさめ)すかし。従者(ずさ)を添(そへ)て後門(うらもん)より落(おと)
し其身(そのみ)は遂(つひ)に敵軍(てきぐん)の中へ馳入(はせいり)おもふ儘(まゝ)に敵(てき)を切(きり)悩(なやま)し斬死(きりじに)し候とぞ。此(この)両女(ふたり)は船(ふね)にて

【右丁】
          むらさめ
                  松かせ
    中納言行平

【左丁】
行平(ゆきひら)
 須磨(すま)の浦(うら)
    にて
松風(まつかせ)
  村雨(むらさめ)に
 戯(たは)ふるゝ
                田井畑の長

我方(わがかた)へ落来(おちきた)り今 語(かた)り候おもむきを逐一(ちくいち)に語(かた)り高松(たかまつ)が書信(てがみ)をさし出(いだ)し身(み)の上(うへ)を
泣々(なく〳〵)頼(たの)み候ゆへ。便(びん)なくおもひ召抱(めしかゝへ)て今日(こんにち)まで養(やしな)ひ置(おき)候なりと。一五十(いちぶしゞう)を落(おち)もなく
長々(なが〳〵)と語(かたり)けるにぞ。姉妹(おとゞい)の小女(をとめ)は懐旧(くわいきう)の涙(なみだ)にくれて伏沈(ふししづみ)ける。行平(ゆきひら)聞毎(きくごと)に感慨(かんがい)し
昔(むかし)も今も継母(けいぼ)の讒害(ざんがい)こそ薄情(うたて)けれ。さればこそ二人の女の由(よし)有(あり)【注】げに見えしも理(ことはり)
なり。予(われ)此(この)配所(はいしよ)に在(あら)んほどは召使(めしつか)ひ。勅勘(ちよくかん)御免(ごめん)を蒙(かうむ)り帰洛(きらく)せば。可然(しかるべく)はからひ得(え)さす
べし。予(よ)年闌(としたけ)て若(わか)き女を左右(てまはり)に召使(めしつかふ)を好色(すき)がましく思(おも)ふ者も有(ある)べけれども左(さ)に非(あら)
ず。只(たゞ)配所(はいしよ)の徒然(とぜん)を慰(なぐさ)めんためのみなりとて。長(てう)には二女の身(み)の代(しろ)として多(おほ)くの金(こがね)を
与(あた)へられければ。長(てう)は大いに悦(よろこ)び拝謝(はいしや)してぞ立帰(たちかへり)ける。斯(かく)て行平(ゆきひら)は二人の小女(をとめ)を洒帚(めしつかひ)とせられ
けるが。唐山(もろこし)吾朝(わがてう)にても閑居(かんきよ)する身(み)は松風(せうふう)村雨(そんう)を友(とも)とするならひなればとて。其(それ)に準(なぞら)へ
姉(あね)を松風(まつかぜ)と呼(よび)妹(いもと)を村雨(むらさめ)と号(なづけ)て。憂(うき)を慰(なぐさ)む便(よすが)とせられけり。其后(そのゝち)三年(みとせ)立(たつ)て流罪(るざい)恩(おん)
免(めん)の宣旨(せんじ)を蒙(かうむ)り皈洛(きらく)ありし折(をり)松風(まつかぜ)村雨(むらさめ)には数多(あまた)の引出物(ひきでもの)を与(あたへ)られければ二女(にぢよ)は

【注 振り仮名が「あけ」に見えるが誤記と思われる】

大いに余波(なごり)を惜(をし)み泣々(なく〳〵)御 見送(みおくり)をなして後(のち)姉妹(おとゞい)ともに髻(もとゞり)をはらひて尼(あま)となり
亡母(なきはゝ)及(およ)び牟礼(むれ)高松(たかまつ)の後世(ごせ)を悃(ねんごろ)に弔(とふら)【吊は俗字】ひけるとなん
    清和上皇(せいわじやうくわう)御登霞(ごとうか)  禁廷(きんてい)種々(しゆ〴〵)怪異(けい)之(の)条(くだり)
前太上天皇(さきのだぜうてんわう)は《割書:清|和》陽成上皇(やうぜいぜうかう)の御 狂病(きやうびやう)を歎(なげ)き給ひ。是(これ)朕(ちん)が兄宮(このかみ)惟喬親王(これたかしんわう)に一 旦(たん)の
辞譲(じぜう)もなく帝位(ていゐ)に即(つき)しを天照太神(てんせうだいじん)の咎(とがめ)給ふなるべしなどゝ迄(まで)思召(おぼしめし)悔(くや)ませ玉ひ
遂(つひ)に御 落飾(らくしよく)在(ましま)し。斗薮行脚(とそうあんぎや)のためとて。近江(あふみ)丹波(たんば)摂津(せつつ)等(とう)の山々(やま〳〵)寺々(てら〴〵)を順拝(じゆんはい)
なし玉ひける。是(これ)偏(ひとへ)に後太上天皇(のちのだぜうてんわう)の御 狂病(きやうびやう)御 平愈(へいゆ)のためとぞ聞えし。然(しかれ)ども至(し)
尊(そん)の御 身(み)として軽々(かる〴〵)しく諸国(しよこく)へ行幸(みゆき)なし玉ひ更(さら)に其(その)御 在所(ざいしよ)をも定(さだ)め玉はざれば。主上(しゆぜう)も
是(これ)を患(うれ)ひ給ひ。前上皇(さきのぜうかう)に近侍(きんじ)し奉(たてまつ)る公卿(くげう)も行幸(みゆき)の度(たび)毎(ごと)に東西南北(あなたこなた)へ走(はし)りて殆(ほとん)ど
迷惑(めいわく)しけり。一時(あるとき)関白(くわんばく)基経公(もとつねこう)上(ぜう)皇を種々(さま〴〵)諫奏(かんそう)し奉られけるに。太上皇(だぜうかう)仰(あふせ)けるやう朕(ちん)
近国(きんごく)の霊場(れいぢやう)を拝(おが)み巡(めぐ)る事。朕(ちん)が身(み)の後世(ごせ)仏果(ぶつくわ)の為(ため)にあらず。後(のち)の太上皇(だぜうかう)の狂病(けうびやう)平(へい)

愈(ゆ)を祈(いの)らんためなり。朕(ちん)近国(きんごく)を巡(めぐ)るとも敢(あへ)て他所(たしよ)を尋(たづぬ)るに及(およ[ば)]ず。丹州(たんしう)水尾山(みづのをやま)の
奥(おく)なる古木(こぼく)の檜(ひのき)の下(もと)を朕(ちん)が居所(きよしよ)とおもひ。要用(よう〳〵)あるときは右の檜(ひのき)の下(もと)に到(いたり)て待(まち)候へ朕(ちん)
たとへ他所(たしよ)へ往(ゆく)とも遂(つひ)には水尾山(みづのをやま)へ還(かへ)るなりと宣(のたま)ひけるゆへ。基経公(もとつねこう)も諸(しよ)臣下(しんか)の人
々も漸(よふや)く心をぞ安(やす)んじける。其後(そのゝち)又 例(れい)のごとく仮初(かりそめ)のやうに出御(しゆつぎよ)なし給ひ更(さら)に還御(くわんぎよ)な
し玉はざれば。臣下(しんか)の面々(めん〳〵)さらば丹州(たんしう)へ御 迎(むかひ)に参(まい)れよとて衆人(みな〳〵)水尾山(みづのをやま)へ分登(わけのぼ)り見るに
果(はた)して年経(としふる)檜(ひのき)の一 大樹(たいじゆ)ありて樹下(じゆか)に一塊(ひとつ)の岩(いは)あり。其上(そのうへ)に上皇(ぜうかう)の御 座具(ざぐ)有(あり)ければ。扨(さて)
は兼(かね)ての勅詔(ちよくぜう)のごとく此所(このところ)へ還御(くわんぎよ)なし給ふべしとて。一日(ひとひ)二日(ふたひ)と待(まち)奉りけるに。更(さら)に還(かへ)らせ
玉はず。余(あま)りに待(まち)わびもし山 奥(おく)などに御座(おはす)る事もやとて一 山(さん)残(のこ)る所(ところ)なく尋(たづね)奉れども
更(さら)に見え玉はず。是(こ)は不審(ふしん)なりとて都(みやこ)へ人を走(はしら)せ関白殿(くわんばくどの)に斯(かく)と訴(うつた)へければ。自余(じよ)の公(こう)
卿(けい)も追々(おひ〳〵)水尾(みづのを)山へ馳着(はせつけ)群集(くんじゆ)して丹波(たんば)一 国(こく)の山々(やま〳〵)を尋(たづね)捜(さが)し奉れども猶(なを)御在所(ございしよ)相知(あいしれ)
ず諸卿(しよけう)手(て)を空(むなし)うして忙然(ぼうぜん)と惘果(あきれはて)けるに。一人の臣下(しんか)。彼(かの)岩上(いはのうへ)の御 座具(ざぐ)の以(もつて)の外(ほか)薫(かを)り

ぬるは如何(いかに)といふにぞ。列位(おの〳〵)気(き)を鎮(しづ)め鼻息(はないき)を引(ひい)て嗅(きく)に。実(げに)も御 座具(ざぐ)の香気(かうき)伽(きや)
羅)(ら)沈香(ぢんかう)にも勝(まさ)りて馨(かうば)しく。後(のち)には漸々(しだい)に香気(かうき)高(たか)くなり余熏(よくん)山中(さんちう)に満(みち)わたりける
人々(ひと〴〵)奇異(きい)の思(おもひ)をなし議(ぎ)して曰。昔(むかし)天智天皇(てんちてんわう)は崩御(ほうぎよ)の後(のち)御 棺(ひつぎ)に御 沓(くつ)のみ遺(のこ)り
有(あつ)て尊骸(そんがい)無(なか)りしかば。登天(とうてん)し玉へりと謂(いへ)り。今 上皇(じやうかう)も正(まさ)しく昇天(しやうてん)し給ふなるべし。然(しから)
ば何時(いつ)まで此所(こゝ)にて待(まち)奉るとも其(その)詮(せん)有(ある)べからず。不如(しかじ)都(みやこ)へ還(かへ)り此(この)趣(おもむ)きを奏(そう)せん
にはと衆議(しゆうぎ)一 致(ち)し。御 座具(ざぐ)をとりて皆(みな)都(みやこ)へ還(かへ)り。有(あり)し次第(しだい)を奏聞(そうもん)しければ帝(みかど)頗(すこぶ)る
御 駭(おどろ)きあつて。普(あまね)く日本(につほん)国中(こくちう)山の奥(おく)浦(うら)の端(はし)まで宣旨(せんじ)を伝(つたへ)られ。前太上皇(さきのだぜうかう)の御 行(ゆく)
方(ゑ)を尋(たづね)捜(さが)させ給へども。終(つひ)に見(み)えさせ玉はず。偖(さて)は弥(いよ〳〵)昇天(せうてん)し給ひしに事(こと)極(きはま)れりとて即(すなは)
ち水尾山(みづのをやま)を陵(みさゝき)とし。清和天皇(せいわてんわう)と謚(おくりな)を奉(たてまつ)り給ふ。時(とき)に宝算(おんとし)三十一才にならせ給へり。水(みづの)
尾山(をやま)を常(つね)に愛(あい)し給ひしゆへ水尾帝(みづのをのみかど)とも申奉れり。実(まこと)に不思議(ふしぎ)の御事なりけり。其後(そのゝち)
主上(しゆぜう)御 方違(かたたがひ)の御幸(みゆき)在(ましま)しける夜(よる)の路次(ろし)にて盲人(もうじん)数(す)十人 打連(うちつれ)だちたるが警(けい)𧫤(ひつ)【ママ】の

宦吏(やくにん)に追立(おつたて)られ。大いに周障(あはて)途(ど)に迷(まよ)ひけるを。主上(しゆぜう)宝輦(ほうれん)の内より御覧(ごらん)在(ましま)し。不便(ふびん)の
事(こと)に思召(おぼしめし)還御(かんぎよ)の後(のち)御 沙汰(さた)ありて洛中(らくちう)左牝牛(さめうし)といふ街(まち)にみせや店屋(てんおく)を建(たて)させ無縁(むえん)の盲(もう)
人(じん)を其所(そのところ)にて養(やしな)ひ住(すま)せ給ひ。且(かつ)また盲人(もうじん)の宦楷(くわんかい)を定(さだ)め玉へり其(その)上座(せうざ)する盲人(もうじん)を座(ざ)
頭(とう)と言(いひ)ならはせけり。実(まこと)に盲人(もうじん)たる者は此君(このきみ)の御 哀憐(あいれん)を仰(あふ)ぎ尊(たうと)むべき御事なり。後(こう)
年(ねん)帝(みかど)《割書:光|孝》崩御(ほうぎよ)在(ましま)して後(のち)諸国(しよこく)より盲人(もうじん)們(ども)都(みやこ)へ上(のぼ)り光孝天皇(くわうかうてんわう)の御 忌日(きにち)をとむら弔(とふら)【吊は俗字】ひ奉(たてまつ)
るとて三 条(でう)四条の川原(かはら)に群集(くんじゆ)し七月廿日より同廿六日まで御追福(ごつひふく)の法事(ほふじ)をなす事
年々(とし〴〵)恒例(がうれい)となしけり。諸人(しよにん)是(これ)を見んとて川原(かはら)へ群集(くんじゆ)す。残暑(ざんしよ)の節(せつ)なれば是(これ)を納涼(すゞみ)
と謂(いへ)り。但(たゞ)し御 正忌(しやうき)は八月なれども。御 法事(ほふじ)を七月に執行(とりおこなふ)ものは。于蘭盆会(うらぼんゑ)【ママ】を兼行(かねおこなふ)意(こゝろ)
とかや。今の世(よ)盲人(もうじん)の宦位(くわんゐ)を久我家(こがけ)より免(ゆる)し授(さづ)けらるゝも。久我(こが)は光孝天皇(くわうかうてんわう)の御末(みすへ)
華族(くわぞく)たる故(ゆへ)なり。盲人の宦位(くわんゐ)の名目(みやうもく)は。右 川原(かはら)の御 弔(とふら)ひに四ケ 度(ど)上(のぼ)りたる者を四分(しぶん)と号(がう)し
八ケ 度(ど)上(のぼ)りたるを四度(しど)と号(がう)し。十二ケ度上りしを勾当(こうとう)と号(がう)し。十六ケ度上りし者を撿挍(けんぎやう)

と号(なづけ)盲人(もうじん)の極宦(ごくくわん)とす。凡(すべて)盲人は疑(うたが)ひ深(ぶか)き者にて己們(おのれら)同士(どし)集会(しうくわい)するにも座席(ざせき)の
上下を争(あらそ)ひて稍(やゝ)もすれば闘諍(とうじやう)に及けるに。斯(かく)宦楷(くわんかい)の掟(おきて)定(さだ)まりてよりは其(その)諍(あらそ)ひの止(やみ)けるも
偏(ひとへ)に光孝(くわうかう)天皇の御 仁恵(じんけい)に因(よる)ところにて難有(ありがた)かりし仁君(じんくん)なりけり
 因(ちなみ)に曰。今 京都(きやうと)の做(なら)はしに六月の祇園会(ぎおんゑ)より四 条川原(でうがはら)へ諸人(しよにん)群集(くんじゆ)するを納涼(すゞみ)と
 称(せう)するは右の盲人の川原にて法事(ほふじ)をなすを。見に集(あつま)りし遺風(いふう)なり
時(とき)に仁和(にんわ)二年の冬(ふゆ)より三年の春(はる)へかけて大裏(おほうち)に種々(しゆ〴〵)のかい怪異(あやしみ)あり。其(その)一二をいはゞ一日(あるひ)
禁廷(きんてい)に大いなる蟇(がま)の集(あつま)る事 幾百千(いくひやくせん)といふ数(かづ)しれず。其形(そのかたち)常(つね)の蟇(ひきかいる)とは大いに異(こと)にて。腹(はら)
大いに脹(ふく)れ。眼(め)の玉も大にして黒(くろ)く光(ひか)り。皮膚(ひふ)の斑文(まだらのもん)五色(ごしき)にて見に穢(けがら)はしく。這事(はふこと)甚(はな)はだ
徐(しづか)にて啼(なく)声(こゑ)長(なが)く悲(かな)し。衛士(ゑじ)の輩(ともがら)大いに怪(あやし)み。多人数(たにんじゆ)にて是を門外(もんぐわい)へ追出(おひいだ)さんとする
に逃(にげ)る事もまたいと徐(しづか)にて。よふ〳〵御門外(ごもんぐわい)へ出(いづ)るかと見る間(ま)もなく。又 跡(あと)より忽然(こつぜん)と数多(あまた)
這(はひ)出(いで)更(さら)に際限(さいげん)なし。衛士(ゑじ)ども大いに困(こま)り果(はて)。攫(さらへ)を以て搔(かき)捨(すつ)れば。又 其(その)あとより現出(あらはれいで)

後々(のち〳〵)に大床(おほゆか)へ這上(はひのぼ)るに御殿(ごてん)の簀子(すのこ)の下より長大(おほい)なる蛇(へび)数千(すせん)這(はひ)出て。上(のぼ)り来(く)る蟇(ひき)
を呑(のま)んとす衛士(ゑじ)ども又是を怪(あやし)みながら。攫退(さらへのけ)るにもて余(あま)せし蟇(かいる)なれば。却(かへつ)て僥倖(さいはひ)の
事よと攫(さらへ)を止む(とめ)てながめ居けるに。尋常(よのつね)は蛇(へび)が蛙(かいる)を呑(おむ)ならひなるに。其(それ)とは事 変(かは)りて
蟇(かいる)ども口を張(はつ)て蛇(へび)を呑(のみ)ける。其(その)勢(いきほ)ひ甚(はな)はだ恐(おそろ)しく。或(あるひ)は蛇(へび)の首(くび)より呑もあり。或(あるひ)は蛇(へび)を二
に噛切(かみきつ)て呑(のむ)もあり。其他(そのほか)種々(さま〴〵)にして遂(つひ)に蛇(へび)を呑(のみ)尽(つく)し。蟇(かいる)は勝鬨(かちどき)を揚(あぐる)がごとく一 斉(せい)に
鳴(なき)て人も追(おは)ざるに御門(ごもん)の外へ這出(はひいで)悉(こと〴〵)く消失(きえうせ)ける。諸人(しよにん)評(ひやう)して曰。是は先帝(せんてい)《割書:陽|成》蛙(かはづ)を集(あつめ)
蛇(へび)に呑(のま)せて興(きやう)じ給ひし其酬(そのむく)ひを示(しめ)すならんと言合(いひあへ)り。また一時(あるとき)は御坪(みつぼ)の内の松(まつ)の上に
異形(いげう)の人立て。手(て)に弓矢(ゆみや)を携(たづさ)へ矢を放(はな)つ事 毎夜(まいよ)止(やま)ず。其矢(そのや)の落(おつ)る所(ところ)をいかに捜(さがせ)ども
敢(あへ)てしれず。直宿(とのゐ)の衛士(ゑじ)樹上(じゆせう)に怪(あやし)き者を弓矢(ゆみや)もて射(いる)に矢(や)の中(あた)る時(とき)は消失(きえうせ)て間(ま)
もなく又 現(あらは)れ。矢の中(あたら)ざる時(とき)は噇(どつ)とわらふ。其(その)笑声(わらふこゑ)は数(す)十人の声のごとくなれども。現(あらは)れし
者は一人なり。是も諸人(しよにん)の評(ひやう)には。先帝(せんてい)罪(つみ)なき者を樹頭(きのそら)へ上(のぼ)らせて射殺(いころ)し給ひし。其(その)怨(おん)

霊(れう)の所為(わざ)なるべしと沙汰(さた)しけり。右(みぎ)等(とう)の事を先(さき)として。或(あるひ)は血(ち)に染(そみ)裸体(あかはだか)なる女の停立(たゝずみ)たる
を見し者もあり。或(あるひ)は無首(くびなき)骸(むくろ)の歩行(ほかう)するを見し者もあり。其(その)風説(とりさた)宮中(きうちう)宮外(きうぐわい)に隠(かくれ)なく
女房(にようばう)達(たち)は怕(おそれ)惑(まど)ひ帝(みかど)も睿聞(ゑいぶん)在(ましま)して患(うれ)ひ給ひけるに。仁和(にんわ)三年 秋(あき)の初(はじめ)より重(おも)き御悩(ごのふ)に
染(そま)せ給ひけり。百宦(ひやくくわん)百司(ひやくし)大いに駭(おどろ)き。諸寺(しよじ)諸社(しよしや)に命(めい)じて加持(かじ)祈祷(きとう)を修(しゆ)せしめ和気丹(わけたん)
波(ば)の医宦(いくわん)は良剤(りようざい)を捽(すぐつ)て御薬(みくすり)を調進(てうしん)し献(たてまつ)れども更(さら)に其(その)験(しるし)なく。遂(つひ)に八月廿六日 宝(おん)
算(とし)五十八才にて崩御(ほうぎよ)なし給ひけるぞ哀(かな)しけれ。御 在位(ざいゐ)僅(わづか)三年なり。女御(にようご)宮妃(きうひ)諸(しよ)皇子(わうじ)
姫宮(ひめみや)の御 歎(なげき)申も更(さら)なり。公卿(こうけい)大夫(たいふ)の愁傷(しふせう)大方(おほかた)ならず。下(しも)市人(てうにん)農民(ひやくせう)まで悲泣(ひきう)せざ
るはなかりけり。然(しかれ)どもさて有(あり)果(はつ)べきにあらざれば。御 葬送(そう〳〵)の儀式(ぎしき)を整(とゝの)へ葛野郡(かどのこほり)立(たち)
屋(や)の里(さと)小松原(こまつばら)なる田邑(たむら)の陵(みさゝき)に葬(ほふむ)り奉(たてまつ)りける。其後(そのゝち)諒闇(りようあん)も畢(おはり)て仁和(にんわ)三年 丁未(ひのとひつじ)十一
月十七日。春宮(とうぐう)定省親王(さだみしんわう)を関白(くわんばく)基経公(もとつねこう)大極殿(たいきよくでん)へ誘(いざな)ひ奉り。五十九代の帝位(ていゐ)に即(つけ)
奉(たてまつ)らる。宇多(うだ)天皇と申奉るは此君(このきみ)にて在(ましま)せり。御 母(はゝ)は皇后(くわうぐう)班子(はんし)と申 仲野親王(なかのしんわう)の御 女(むすめ)

なり。此君(このきみ)は光孝帝(くわうかうてい)第七(だいひち)の皇子(みこ)にて此時(このとき)二十一才にならせ給へり。先帝(せんてい)《割書:光|孝》皇子(みこ)数多(あまた)在(おはし)
ましけるが。いまだ親王(しんわう)にて小松宮(こまつのみや)におはしける時。(とき)是忠(これたゞ)。是定(これさだ)。定省(さだみ)の三人の皇子(みこ)を召(めさ)れ
御 戯(たはむ)れに。もし自然(しぜん)予(われ)帝位(ていゐ)に登(のぼら)ば你(いまし)達(たち)何事(なにごと)を望(のぞみ)候やと問(とは)せ給ひしに。御 嫡子(ちやくし)是(これ)
忠(たゞ)は筑紫(つくし)を賜(たまは)り候へと仰(あふせ)られ。御 二男(じなん)是定(これさだ)は東国(とうごく)を賜(たま)はり候へと曰(のたま)ひ。御 三男(さんなん)定省(さだみ)は春(とう)
宮(ぐう)に立(たゝ)まほしとぞ曰(のたま)ひける。さるに依(よつ)て先帝(せんてい)御 即位(そくゐ)在(ましま)して後(のち)定省親王(さだみしんわう)を太子(たいし)に立(たて)
給ひしゆへ。今度(こんど)万乗(ばんぜう)の宝位(みくらゐ)に即(つか)せ給ひけるぞ芽出度(めでた)かりき。此君(このきみ)兼(かね)て内々(ない〳〵)王位(わうゐ)を践(ふま)
ずやとの御 望(のぞみ)まし〳〵けるゆへ。いまだ侍従(じじふ)にておはしける頃(ころ)より。時々(より〳〵)賀茂社(かものやしろ)へ御 社参(しやさん)
ありて祈願(きぐわん)を籠(こめ)給ひけるを。世人(よのひと)更(さら)に知(しら)ざりしに。君(きみ)登極(とうきよく)の後(のち)寛平(くわんへい)元年と改元(かいげん)させ
給ひ。其年(そのとし)の十一月御 祈願(きぐわん)成就(じやうじゆ)せし御 欣悦(よろこび)に因(よつ)て。賀茂社(かものやしろ)に初(はじめ)て臨時(りんじ)の祭(まつり)を執(とり)
行(おこな)はせ給ひ。神慮(しんりよ)を清(すゞ)しめ給ひけり。其外(そのほか)正月 元旦(ぐわんたん)に四方拝(しはうはい)の儀式(ぎしき)も此(この)帝(みかど)より始(はじめ)たまひ
同月(どうけつ)七日に七種(なゝぐさ)の御粥(みかゆ)を献(けん)ずる事も此君(このきみ)の御宇(ぎよう)よりぞ始(はじま)りける。主上(しゆぜう)また諸(しよ)臣下(しんか)

に忠勤(ちうきん)を励(はげま)す為(ため)にとて。南殿(なんでん)の庇(ひさし)の障子(しやうじ)に唐土(もろこし)代々(よゝ)の功臣(かうしん)の画像(ぐわぞう)を。絵所(ゑどころ)
巨勢金岡(こせのかなおか)に命(あふせ)て描(ゑがゝ)しめ玉ふ。是(これ)を賢聖(けんしやう)の障子(しやうじ)と称(しやう)せり。南殿(なんでん)左右(さいう)の庇(ひさし)に建(たて)ら
る。東西(とうざい)各(おの〳〵)十二 枚(まい)ヅヽにて都合(つがう)二十四 枚(まい)なり。其(その)東方(とうばう)の障子(しやうじ)には殷(いん)の伊尹(いいん)。周(しう)の太(たい)
公望(こうぼう)漢(かん)の蕭何(しやうが)。曹参(そうさん)。灌嬰(くわんえい)。傅寛(ふくわん)。王陵(わうれう)。唐(とう)の杜如晦(とじよくわい)。房玄齢(ばうげんれい)。虞世南(ぐせいなん)。魏徴(ぎてう)
長孫無忌(てうそんぶき)。以上(いぜう)十二人なり。西(にし)の方(かた)の障子(しやうじ)には殷(いん)の傅説(ふえつ)。周(しう)の周公旦(しうこうたん)。漢(かん)の霍公(くわくこう)。
魏相(ぎしやう)。蘇武(そぶ)。劉禹(りうう)。杜茂(とも)。唐(とう)の姚思廉(ようしれん)。孔穎達(かうゑいだつ)。陸徳明(りくとくめい)。褚亮(ちよりやう)。許敬宗(きよけいそう)以上(いぜう)十二
人なり。抑(そも〳〵)巨勢金岡(こせのかなおか)と呼(よば)れし画工(ぐわかう)は。其頃(そのころ)無双(ぶそう)の名人(めいじん)にて。曽(かつ)て大内(おほうち)の萩(はぎ)の戸(と)に
馬(うま)を描(ゑが)きけるに。其(その)画(ゑの)馬(うま)毎夜(よな〳〵)抜出(ぬけいで)て御坪(みつぼ)の萩(はぎ)を喰(くら)ひしとぞ。かゝる名画工(めいぐわかう)の丹(たん)
誠(せい)を凝(こら)して面貌(めんぼう)佩帯(はいたい)それ〳〵の伝(でん)を勘考(かんがへ)。写(うつ)し出(いだ)せし画(ぐわ)なれば。左(さ)ながら活(いけ)るが
如(ごと)く。言語(ものいふ)その声(こゑ)の聞(きこ)えざるは我(わが)耳(みゝ)の聾(しい)たるかと疑(うたが)ふばかりなれば。君(きみ)を首(はじめ)とし奉り。群臣(ぐんしん)
其(その)精密(せいみつ)なるを感歎(かんたん)せずといふ人なし。後年(こうねん)延喜(えんぎ)の帝(みかど)の御宇(ぎよう)に小野道風(をのゝとうふう)に命(あふせ)て

此(この)人物(じんぶつ)の讃(さん)を書(かゝ)しめ給ひ弥(いよ〳〵)潤色(じゆんしよく)せしも此(この)障子(しやうじ)なり。如此(かくのごとく)聖明(せいめい)の君(きみ)にて在(ましま)す上(うへ)に
関白(くわんばく)基経公(もとつねこう)。藤原良世卿(ふぢはらのよしよけう)。菅原道真卿(すがはらのみちざねけう)なんどの良臣(りようしん)補佐(ほさ)し奉られければ万機(ばんき)
の政(まつりごと)正(たゞ)しく四海(しかい)昇平(せうへい)にて。万民(ばんみん)業(げう)を楽(たのし)み戸(と)ざゝぬ御代(みよ)とぞ称(たゞへ)ける
    都良香(とりようけう)《振り仮名:得_二鬼神奇句_一|きしんにきくをうる》  菅公(かんこう)《振り仮名:一時作_二 十詩_一|いちじにじつしをつくる》条
宇田天皇(うだてんわう)を補佐(ほさ)し奉る名臣(めいしん)の中にも菅原道真卿(すがはらのみちざねけう)は前(さき)にも説(とき)しごとく凡人(ぼんにん)にては
在(いま)さず。不測(ふしぎ)の事ども多(おほ)かりける。其中(そのなか)にも殊(こと)に奇異(きい)なるは彼(かの)都良香(とりようけう)一時(あるとき)初春(しよしゆん)の
頃(ころ)。まだ冴(さへ)かへる正月(むつき)の夜半(よは)ながら。朧(おぼろ)に霞(かす)む月の面白(おもしろ)きまゝ興(けう)に乗(ぜう)じて邸舎(やしき)を
立出(たちいで)其所(そこ)ともなく逍遥(せうよう)し。覚(おぼへ)ず東寺(とうじ)の羅生門(らせうもん)の辺(ほとり)へいたり。柳(やなぎ)の風(かぜ)に吹(ふき)乱(みだ)さるゝ
を見て。不斗(ふと)心頭(しんとう)に浮(うか)むまゝ 気(き)霽(はれては)《振り仮名:風梳_二新柳髪_一|かぜしんりうのかみをけづる》 といふ一 句(く)を得(え)心中(しんちう)
に。是(こ)は我(われ)ながら名句(めいく)を得(え)たり。此句(このく)に相応(さうおう)すべき対句(ついく)もがなと。稍(やゝ)停立(たゝずみ)て案(あん)
を煉(ねら)れけれども。是(これ)ぞと思(おも)ふ対句(ついく)も浮(うか)まざりけるに。忽(たちま)ち羅生門(らせうもん)の棟(むね)に其(その)形(さま)

怕(おそ)ろしき鬼神(きじん)現(あらは)れ出(いで)高声(かうしやう)に 氷(こほり)消(きへては)波(なみ)《振り仮名:洗_二旧苔鬚_一|きうたいのひげをあらふ》 と唫(ぎん)じける。良香(よしか)大(おほ)
いに駭(おどろ)き我句(わがく)に対(つひ)して吟(ぎん)じ見るに。天晴(あつはれ)秀逸(しういつ)の。対句(ついく)なりければ斜(なゝめ)ならず悦(よろこ)び。是(これ)
鬼神(きしん)我(われ)を佐(たすけ)て此(この)金玉(きんぎよく)の佳句(かく)を給(たま)へりと拝謝(はいじや)して。心も勇(いさ)み欣然(いそ〳〵)として我(わが)邸舎(やしき)へ
帰(かへ)られけるが。翌日(よくじつ)道真卿(みちざねけう)入来(じゆらい)ありければ。良香(よしか)右の二 句(く)を書(かい)てさし出(いだ)し昨夜(さくや)此(この)
一 聯(れん)の句(く)を得(え)候。高判(かうはん)をなし玉はるべしと言(まうさ)さ【語尾の衍ヵ】れけるにぞ。道真卿(みちざねけう)手(て)にとりて押頂(おしいたゞ)き
先(まづ)上(かみ)の句(く)を吟(ぎん)じ。次(つぎ)の句(く)を見(み)て何(なに)とか思(おも)ひ給ひけん。扇(あふぎ)を開(ひらい)て居置(すへおき)座(ざ)を立(たつ)て手(て)
を洗(あら)ひ浄(きよ)め装束(しやうぞく)【𫌏は辞書に無し】を刷(かいつくろ)ひて正(たゞ)しく坐(ざ)し給ひしかば。良香(よしか)は心中(しんちう)に。此人(このひと)暫(しばら)くにても我(われ)
に物(もの)学(まなび)せられしゆへ。師弟(してい)の礼義(れいぎ)を重(おも)んぜらるゝ成(なる)べしと思(おも)ひ。是(こ)は慇懃(いんぎん)なる御
事かな。それには迨(およ)び申さゞるにと申さるゝに道真卿(みちざねけう)答(こたへ)て。否(いな)左(さ)には候はず。前句(ぜんく)は
御 自作(じさく)にて候べけれども。後(あと)の句(く)は人間(にんげん)の作(さく)ならず。必定(ひつぢやう)鬼神(きしん)の句(く)にて候べければ。一(ひと)
しほ敬(うやま)ひ候なりと仰(あふせ)けるにぞ。良香(よしか)仰天(ぎやうてん)して心中(ころのうち)に此(この)人は凡人(ぼんにん)ならず神(しん)に通(つう)ぜられ

【右丁 絵画のみ】
【左丁】
羅生門(らしやうもん)に
  おいて
鬼神(きじん)
都良香(とりよけう)が
 詩を嗣(つ)ぐ

けりと驚嘆(きやうたん)し。自作(じさく)なりと言(いひ)し事の今更(いまさら)恥(はずか)【耻は俗字】しく後悔(こうくわい)して。誠(まこと)に卓見(たくけん)の程(ほど)怕(おそれ)
入候なり。実(じつ)は如是々々(かやう〳〵)にて候と。有(あり)し次第(しだい)を語(かたら)れければ。道真卿(みちざねけう)も微笑(びせう)し玉ひ
実(げに)さる事にて候べし御 作(さく)の絶妙(ぜつめう)なるに感(かん)じ鬼神(きしん)対句(ついく)を吐(はき)しなるべければ。両句(りようく)とも
御 自作(じさく)同然(どうぜん)に候とて返(かへ)されけるとぞ。其後(そのゝち)寛平(くわんへい)二年の春(はる)讃岐守(さぬきのかみ)に任(にん)ぜられ任国(にんこく)に
赴(おもむ)き給ひ一 国(こく)の政務(せいむ)を裁判(さいばん)あり。南条郡(なんでうごほり)滝(たき)の宮(みや)の宦府(やくやしき)に住(ぢう)し給ひて暮春(ぼしゆん)の比(ころ)松(まつ)
山に遊(あそ)び風景(ふうけい)を眺望(てうぼう)し給ひ。入興(じゆけう)のあまりに二 句(く)の詩(し)を賦(ふ)し給ふ其(その)詩(し)に曰
   《振り仮名:低_レ趐|つばさをたるゝ》沙鴎(しやわうは)潮(しほの)落(おつる)暁(あかつき)  《振り仮名:乱_レ糸|いとをみだす》野馬(やばは)草(くさの)【艸】深(ふかき)春(はる)
然(しかる)に其年(そのとし)の四月より七月にいたるまで雨(あめ)降(ふら)ず旱(ひでり)続(つゞ)き農民(のうみん)大いに困窮(こんきう)しければ
道真卿(みちざねけう)是(これ)を憐(あはれ)み給ひ。城(しろ)の山の神(かみ)に祈誓(きせい)し祈雨(あまごひ)の壇(だん)を築(きづ)き是(これ)に登(のぼ)りて
丹誠(たんせい)を凝(こら)し雨(あめ)を祈(いのり)給ひしに。第三日目(だいみつかめ)より大雨(たいう)降出(ふりいだ)しさながら盆(ぼん)を傾(かたむく)るがごとく
三日三夜 小止(をやみ)もなく降徹(ふりとふ)しけるにぞ。市人(てうにん)農民(ひやくせう)腹皷(はらつゞみ)を打(うつ)て躍(おど)り舞(まひ)怡(よろこ)ぶ事

限(かぎ)りなく一 国(こく)の人民(にんみん)皆(みな)道真卿(みちざねけう)の盛徳(せいとく)を深(ふか)く感(かん)じ。此(この)殿(との)永(なが)く此国(このくに)に在(いませ)かしと祈(いのり)けり
 因(ちなみ)に曰 讃州(さんしう)滝(たき)の宮(みや)の里人(さとびと)は今 以(もつ)て七月二十五日。例年(れいねん)滝(たき)の宮(みや)にて踏哥(とうか)をなし
 天満宮(てんまんぐう)を祭(まつ)り奉る。俗(ぞく)是(これ)を滝(たき)の宮(みや)踊(おどり)と称(しやう)すと《割書:云々》
斯(かく)て道真卿(みちざねけう)は翌(よく)寛平(くわんへい)三年 任(にん)満(みち)都(みやこ)へ還(かへ)り給ひ。式部少輔(しきぶのせうゆう)に任(にん)ぜられ左中弁(さちうべん)を兼(かね)
給ひ。程(ほど)なく蔵人頭(くらうどのかみ)に進(すゝ)み給ふ。又 曽(かつ)て宇田(うだ)天皇の勅命(ちよくめい)に依(よつ)て類聚国史(るいじゆこくし)といへる
書(しよ)を撰(えらみ)給ひけるが。今年(こんねん)落成(らくせい)して献(けん)じ給ふ二百 巻(くわん)の大 典(てん)にて本朝(ほんてう)にいまだ。斯程(かほど)の大(たい)
部(ぶ)の書籍(しよじやく)有(ある)事なし。是(これ)日本書紀(にほんしよき)より以下(このかた)の暦史(れきし)の事を集(あつ)め部類(ぶるい)を分(わか)ち人の考(かんがへ)
見(みる)に便(たより)よきやうになし給へり。帝(みかど)大いに睿感(ゑいかん)在(ましま)し其(その)功労(かうらう)を御 賞美(せうび)ありて多(おほく)御 褒(ほう)
賞(せう)を賜(たま)はりけり。今年(ことし)関白太政大臣(くわんばくだぜうだいじん)基経公(もとつねこう)癰(よう)といへる悪瘡(あくさう)を患(やみ)給ひ漸々(しだい)に重(おも)り
終(つひ)に薨去(かうきよ)ありける。邁齢(まいれい)五十三才なり。帝(みかど)深(ふか)く惜(おし)ませ給ひ。照宣公(せうせんこう)と謚(おくりな)を給(たま)はり
御 子息(しそく)時平(ときひら)を参議(さんぎ)に任(にん)じ給へり同四年 菅原道真(すがはらみちざね)卿(けう)参議(さんぎ)に任(にん)ぜられ給ふ。同

五年 第(だい)一の皇子(みこ)敦仁親王(あつひとしんわう)を春宮(とうぐう)に立(たて)玉へり。此時(このとき)帝(みかど)の睿慮(ゑいりよ)を以(もつ)て時平(ときひら)の妹(いもと)を
以(もつ)て春宮(とうぐう)敦仁親王(あつひとしんわう)の御息所(みやすどころ)に立(たて)給ひ。道真卿(みちざねけう)の御 女(むすめ)を以(もつ)て二の宮(みや)斉世親王(ときよしんわう)の
御息所(みやすどころ)となし給へり。同年(どうねん)九月 道真卿(みちざねけう)古歌(こか)三百 首(しゆ)を撰(えらみ)出(いだ)し。新選万葉集(しんせんまんようしう)と
題(だい)し給ふ。上下二 巻(くわん)なり。哥(うた)一 首(しゆ)毎(ごと)に御 自作(じさく)の詩(し)を副(そへ)給へり。詩数(しすう)また三百 首(しゆ)也
同六年八月 遣唐使(けんとうし)を立(たて)られんとて菅原道真卿(すがはらのみちざねけう)を大使(たいし)とし。紀長谷雄(きのはせを)を副使(ふくし)
と定(さだ)めて入唐(につとう)させられんと。専(もつぱ)ら其(その)准備(ようい)をなさせ給ひけるに。其頃(そのころ)唐朝(とうてう)には叛臣(はんしん)有(あつ)
て兵革(へいかく)起(おこ)り。唐(とう)の代大いに乱(みた)れし由(よし)聞(きこ)えければ。遣唐使(けんとうし)の義(ぎ)を止(やめ)給ひけり。同七年に
左大臣(さだいじん)源融公(みなもとのとふるこう)薨去(かうきよ)有(あり)けり。寿(ことぶき)七十三才なり。然(しかる)に帝(みかど)は御 生得(せうとく)御 多病(たびやう)に在(ましま)せば
朝政(てうせい)を聴(きか)せ給ふも懶(ものう)く思召(おぼしめし)一時(あるとき)道真卿(みちざねけう)を召(めさ)れ。朕(ちん)が身(み)多病(たびやう)にて朝政(まつりごと)を聴(きく)も
怠(おこた)りがちなれば。万民(ばんみん)の訴訟(そせう)滞(とゞこふ)りて恐(おそ)らくは世(よ)の憂愁(うれひ)となるべし。されば帝位(ていゐ)を太
子(し)に譲(ゆづら)んとおもふは如何(いかに)と勅問(ちよくもん)ありけるに。道真卿(みちざねけう)色(いろ)を正(たゞ)し給ひ。是(こ)は勅詔(ちよくぜう)にて候へ

ども恐(おそれ)ながら君(きみ)いまだ御 老年(らうねん)と申にも候はず。春宮(とうぐう)は猶(なを)御 幼年(ようねん)にわたらせ玉へは。御位(みくらゐ)
を譲(ゆずら)せ玉はん事 然(しか)るべからず候。君(きみ)御多病(ごたびやう)にて在(ましま)すとも。朝政(てうせい)の義(ぎ)は臣(しん)等(ら)ともかくも執(とり)
計(はか)らひ候べし。今しばらく世(よ)を治(おさめ)させ給へと諫奏(かんそう)ありけるにより。帝(みかど)勅許(ちよくきよ)在(ましま)して御譲(ごじやう)
位(ゐ)の御 沙汰(さた)は止(やみ)にけり。今年(こんねん)六月 道真卿(みちざねけう)五十才にならせ給へば。其(その)御 年賀(ねんが)を祝(しゆく)し
進(まいら)せんとて門人(もんじん)達(たち)貴(たかき)も賎(いやしき)も吉祥院(きちじやういん)といふ寺に参会(さんくわい)し。詩哥(しいか)の題(だい)を探(さぐ)りて慶賀(けいが)
の意(い)を述(のべ)。酒宴(しゆえん)を催(もよほ)して延年(えんねん)を賀(が)しけるに。一人の老翁(らうおう)藁沓(わらぐつ)はき行纏(はゞき)しめたるが一裹(ひとつゝみ)
の沙金(しやきん)と文(ふみ)とを持来(もちきた)り。賀莚(がえん)の文台(ぶんだい)の上に置(おき)何(なに)とも言(いは)で立去(たちさり)けるにぞ。人々(ひと〴〵)不審(ふしん)に
おもひ道真卿(みちざねけう)に斯(かく)と達(たつ)しければ。即(すなは)ち其(その)文(ふみ)を披(ひら)き見給ふに。其(その)文辞(ふみのことば)に。菅家(かんけ)の門人(もんじん)們(たち)
師(し)の知命(ちめい)を賀(が)せらるゝよし。因(よつ)て此(この)沙金(しやきん)を贈(おく)るなり。金(こがね)は思(おも)ふ心の軽(かる)からぬを表(へう)し。沙(いさご)は
寿(ことぶき)の数(かづ)限(かぎ)りなからん事を祈(いの)るしるしなりとあり。誰(た)が所為(しわざ)とも不知(しれざり)しが。後日(ごにち)に帝(みかど)の御
所為(しよゐ)なる事 相知(あひしれ)けり。誠(まこと)に御 贔屓(ひいき)の睿慮(ゑいりよ)の程(ほど)ぞ難有(ありがた)かりける。時(とき)に春宮(とうぐう)敦仁(あつひと)君(ぎみ)は








御 幼稚(ようち)の御 時(とき)より学問(がくもん)を好(この)ませ給ひ万(よろづ)賢々(さか〳〵)しく御座(おはしまし)けるが。一時(あるとき)道真卿(みちざねけう)へ令旨(れうし)を
下され。我(われ)聞(きく)唐土(もろこし)は一日に百首(ひやくしゆ)の詩(し)を作(つくり)し人 是(これ)彼(かれ)数人(すにん)有(あり)と聞(きけ)り。卿(なんじ)は幼少(ようせう)の時(とき)より能(よく)
詩(し)を作(つく)り。況(いはんや)今 文学(ぶんがく)に富(とみ)。才智(さいち)其(その)右(みぎ)に出(いづ)る者なし。彼(かの)一日に百詩(ひやくし)を賦(ふ)せしは物(もの)かは。七(ひち)
歩(ほ)に奇句(きく)を吐(はき)し才(さい)にも劣(おとる)べからず。依(よつ)て一時(ひとゝき)の内(うち)に十 首(しゆ)の詩(し)を作(つくり)て見すべしとて題(だい)
を給(たま)はりければ。道真卿(みちざねけう)少(すこし)も辞(じ)し玉はず領掌(れうぜう)ありて。其日(そのひ)の酉(とり)の剋(こく)より戌(いぬ)の剋(こく)の初(はじめ)まで
に安々(やす〳〵)と十 首(しゆ)の詩(し)を賦(ふ)して献(たてまつ)り給ひけり。其(その)中(なか)にも殊(こと)に秀逸(しふいつ)と聞(きこ)えしは
     《振り仮名:送_レ春不_レ用_レ動_二舟車_一|はるをおくるにしうしやをうごかすことをもちひす》   唯(たゞ)《振り仮名:別_三残鴬與_二落花_一|ざんわうとらくくわとにわかる》
     若(もし)《振り仮名:使_三韶光知_二我意_一|せうかうとしてわがこゝろをしらしめば》    今宵旅宿(こよひのりよしゆくは)《振り仮名:在_二詩家_一|しかにあらん》
右の詩(し)は後年(こうねん)大納言(だいなごん)公任(きんとう)朗詠集(らうゑいしう)を撰(えらび)し時(とき)加(くは)へられけり。其次(そのつぎ)の年(とし)道真卿(みちざねけう)春(とう)
宮(ぐう)の御所(ごしよ)へ参(まい)られけるに。敦仁親王(あつひとしんわう)仰(あふせ)けるは。去年(きよねん)一 時(じ)に十 首(しゆ)の詩(し)を作(つくり)しを以(もつ)て卿(なんじ)の宏才(くわうさい)
を知(しる)に足(たれ)りといへども。試(こゝろみ)に今 二時(ふたとき)の中(うち)に二十 首(しゆ)の詩(し)を作(つくり)てんやと望(のぞみ)給ひければ。いと安(やす)き

御 事(こと)に候とて更(さら)に辞(じ)し給ふ色(いろ)もなく。酉(とり)の二 剋(こく)より戌(いぬ)の二 剋(こく)まで。只(たゞ)一時(ひとゝき)の中(うち)に二十 題(だい)の
詩(し)を作(つくり)て献(たてまつ)り給ひけるにぞ。親王(しんわう)も臣下(しんか)達(たち)も其(その)達才(たつさい)を感(かん)じ。前代(ぜんだい)未(いま)だ例(ためし)を聞(きか)
ず後世(こうせい)亦(また)有(ある)まじき才機(さいき)かなと賞美(せうび)せられしとぞ。右の詩(し)三 首(しゆ)は失(うせ)て十七 首(しゆ)は菅家(かんけ)
詩集(ししう)に見えたり。同九年の春(はる)藤原時平(ふぢはらのときひら)を大納言(だいなごん)に任(にん)じ左大将(さだいしやう)を兼(かね)しめられ菅(すが)
原道真卿(はらのみちざねけう)を権大納言(ごんたいなごん)に任(にん)じ右大将(うだいしやう)を兼(かね)させ給へり。斯(かく)て春過(はるすぎ)夏(なつ)にもなりけるに
帝(みかど)は度々(どゝ)御 不例(ふれい)にかゝづらはせ給ふにより。又 道真卿(みちざねけう)を召(めさ)れ。春宮(とうぐう)へ御 譲位(じやうゐ)ありたき旨(むね)を
勅詔(みことのり)し給ひければ。道真卿(みちざねけう)奉(うけたま)はり給ひ。春宮(とうぐう)已(すで)に十三才にならせ給ひ。殊更(ことさら)聡明(そうめい)睿(ゑい)
智(ち)の聖君(せいくん)にて在(ましま)せば御譲位(みくらゐゆづり)の義(ぎ)誠(まこと)に可然(しかるべく)候とちょく勅答(ちよくとふ)ありけるにぞ。帝(みかど)御 欣悦(きんえつ)在(ましま)し
同年七月十三日 春宮(とうぐう)敦仁親王(あつひとしんわう)に御 元服(げんぶく)させ進(まいら)せて万乗(ばんぜう)の宝位(ほうゐ)を禅(ゆづ)り給ひ。御
身(み)は御飾(おんかざり)を落(おろ)させ給ひて朱雀院(しゆじやくいん)へ入せ給ひけり。しかありしより亭子院(ていしいん)の君(きみ)とも申
又 寛平法皇(くわんへいほうわう)とも申奉れり。吾朝(わがてう)に法皇(ほうわう)の尊号(そんがう)有(ある)は此帝(このみかど)より始(はじま)りけり

    醍醐天皇(だいごてんわう)御即位(ごそくゐ)  時平(ときひら)乱行(らんげう)《振り仮名:奪_二叔父妻_一|おぢのさいをうばふ》条
春宮(とうぐう)敦仁親王(あつひとしんわう)人皇(にんわう)六十代の帝祚(ていそ)に即(つき)給ひ。此君(このきみ)を醍醐(だいご)天皇と申奉る。即(すなは)ち先(せん)
帝《割書:宇|田》第(だい)一の皇子(みこ)にて御 母(はゝ)は歓修寺(くわんじゆじ)内大臣(ないだいじん)高藤公(たかふぢこう)の御 女(むすめ)胤子(いんし)と申。世(よ)に承香殿(しやうけうでん)
の女御(にようご)と申奉れり。寛平(くわんへい)五年 春宮(とうぐう)に立(たゝ)せ給ひ。同九年十三才にて登極(とうきよく)し給へり
年号(ねんがう)を昌泰(しやうたい)元年と改元(かいげん)ありて。先帝(せんてい)に太上(だじやう)天皇の尊号(そんがう)を奉(たてまつ)り給ひ藤原時(ふぢはらのとき)
平(ひら)と菅原道真卿(すがはらのみちざねけう)と両卿(りようけう)相(あい)並(なら)んで朝政(てうせい)を執行(とりおこなは)せ給ふ。其義(そのぎ)大臣に准(じゆん)ぜらる
是(これ)当時(とうじ)大臣(だいじん)の宦(くわん)なきゆへなり。抑(そも〳〵)道真卿(みちざねけう)は御 年(とし)五十四才 天(てん)の生(なせ)る英才(ゑいさい)にて和(わ)
漢(かん)の経史(けいし)に渉(わたり)玉はぬ隈(くま)もなく。博学(はくがく)多聞(たぶん)なる上 忠直(ちうちよく)篤行(とくかう)の君子(くんし)なり。又 時(とき)
平(ひら)は照宣公(せうせんこう)の嫡男(ちやくなん)にて。其(その)家系(かけい)に於(おいて)は双者(ならぶもの)なき貴族(きぞく)たれども。生年(しやうねん)よふやく二十
七才 然(しか)も好色(かうしよく)放蕩(はうとう)なるのみならず。己(おのれ)を慢(まん)じ能(のふ)を妬(ねた)む性(さが)なれば。道真卿(みちざねけう)とは
天地(てんち)雲壌(うんじやう)の違(たがひ)なり。時平(ときひら)が乱行(らんげう)の第(だい)一は一時(あるとき)時平(ときひら)我館(わがやかた)【舘は俗字】へ日来(ひころ)阿(おもね)り諛(へつら)ふ徒(ともがら)を

聚(あつめ)て酒宴(さかもり)をし雑談(ぞうたん)せられける中に当時(とうじ)世(よ)に勝(すぐれ)たる美人(びじん)といふは誰(たれ)なるらんと問(とは)れ
ければ平貞文(たいらのさだぶん)といふ者 答(こたへ)て。当世(とうせい)一の美人(びじん)と申は。君(きみ)の御 伯父(おぢ)大納言(だいなごん)国経卿(くにつねけう)の北堂(きたのかた)
に勝(まさ)る女姓(によせう)はなく候と言(いひ)けるを。時平(ときひら)耳(みゝ)に留(とめ)。其夜(そのよ)の酒宴(しゆえん)果(はて)て皆(みな)退散(たいさん)したりけり
翌日(よくじつ)叔父(おぢ)国経(くにつね)の許(もと)へ使者(ししや)を立(たて)。子細(しさい)有(あつ)て一 夜(や)貴館(きかん)【舘は俗字】へ方違(かたゝがひ)に参(まいり)たき由(よし)言(いは)せけれ
ば。国経(くにつね)は我甥(わがおひ)ながら当時(とうじ)権勢(けんせい)肩(かた)を並(ならぶ)る人もなき時平(ときひら)の頼(たのみ)なれば一 議(ぎ)にも
及(およば)ず承引(せういん)の旨(むね)返答(へんとふ)して使者(ししや)を返(かへ)し。俄(にはか)に山海(さんかい)の珍味(ちんみ)を取寄(とりよせ)させ。邸中(ていちう)を掃浄(はききよめ)
しめて饗応(けうおう)の准備(ようい)【淮は誤】を調(とゝのへ)相(あい)待(また)れけるに其夜(そのよ)時平(ときひら)意(こゝろ)に適(かなひ)し輩(ともがら)を同伴(どうはん)して叔(しゆく)
父(ふ)の館(やかた)【舘は俗字】へ到(いた)りければ。国経(くにつね)大いに尊敬(そんきやう)して客殿(きやくでん)へ請(しやう)じ。頓(やが)て酒宴(しゆえん)をはじめ善美(ぜんび)
を尽(つく)して饗応(もてな)し。管絃(くわげん)を奏(そう)し歌舞(かぶ)をなさせて興(けう)を添(そへ)られける。偖(さて)酒宴(しゆえん)も
半酣(たけなは)に及(およ)びける頃(ころ)国経(くにつね)秘蔵(ひさう)の琵琶(びは)を取出(とりいだ)して引出物(ひきでもの)とし。時平(ときひら)へ進(しん)ぜられける
に。時平(ときひら)謝(しや)して。此(この)賜(たまもの)も忝(かたしけ)なけれども。今宵(こよひ)の御 饗応(もてなし)には北堂(きたのかた)の見参(げんざん)に入(いら)まほしく

こそ候へと望(のぞ)まれければ国経(くにつね)は何(なん)の気(き)も付(つか)ず。夫(それ)こそ最(いと)安(やす)き御事なりとて。北堂(きたのかた)
を呼出(よびいだ)し時平(ときひら)を拝(はい)せしめ。和琴(わごん)を弾(たん)ぜさせられける元来(ぐわんらい)国経(くにつね)は年(とし)稍(やゝ)闌(ふけ)て北(きたの)
堂(かた)はいまだ若(わか)かりければ。平生(つね)に夫(をつと)を厭(いとふ)意(こゝろ)ありけるとかや。時平(ときひら)は初(はじめ)て叔父(おぢ)の妻(つま)を
見らるゝに。貞文(さだぶん)が言(いひ)しにも十 倍(ばい)増(まし)たる佳人(かじん)にて。窈窕(ようてう)たる顔(かんばせ)は桃李(とうり)【挑は誤】のごとく。嬋(せん)
娟(けん)たる姿(すがた)は楊柳(やうりう)に似(に)て。羅綺(らき)にだも堪(たへ)ざる風情(ふぜい)艶(ゑん)にあてやかなるのみならず。春笋(しゆんそう)【「しゅんじゅん」とあるところ】の
ごとく細(ほそ)き手(て)にて掻鳴(かきなら)す和琴(わごん)の音色(ねいろ)妙(たへ)なるに。諷声(うたふこゑ)また新鴬(しんわう)の囀(さへづ)るが如(ごと)く。人
をして襟(ゑり)もとを寒(さむ)からしむるにぞ。色好(いろごのみ)の時平(ときひら)忽(たちま)ち眼(め)を奪(うば)はれ魂(たましい)を蕩(とらか)し。頻(しきり)
に目(め)を以(もつ)て情(じやう)を送(おく)り。あたし心を仄(ほの)めかされければ。北堂(きたのかた)も折々(をり〳〵)時平(ときひら)の方(かた)を見られけるゆへ
時平(ときひら)倍(ます〳〵)心 動(うご)き。左右(とやかく)いひて国経(くにつね)に多(おほ)く酒(さけ)を勧(すゝ)め酖䤄(ちんめん)させんと巧(たく)まれける。国経(くにつね)は
時平の心術(しんじゆつ)を知(しら)れず。強(しい)らるまゝ数杯(すはい)【盃は俗字】を傾(かたむ)け。果(はて)は前後(ぜんご)を忘(わする)までに酖酔(ちんすい)せら
れけるを。時平(ときひら)よく見(み)すまして叔父(しゆくふ)に向(むか)ひ。今宵(こよひ)の饗応(もてなし)は誠(まこと)にまた遭(あひ)がたき盛饌(ちそう)なり

庶幾(こひねがはく)は今宵(こよひ)の御 引出物(ひきでもの)に北堂(きたのかた)を我(われ)に賜(たまは)らんやと傍若無人(ばうじやくぶじん)に所望(しよもう)せられけるに。国(くに)
経(つね)は大いに酔(ゑひ)しれたる折(をり)なれば只(たゞ)是(これ)当座(とうざ)の戯言(たはむれ)なりと心得(こゝろえ)何(なん)の思慮(しりよ)もなく。御所望(こしよもう)と
あらば国経(くにつね)が命(いのち)をも進(まいら)すべし。増(まし)て況(いわんや)賎妻(せんさい)に於(おいて)おや。具(ぐ)して還(かへり)給へともつれ舌(した)に答(こたへ)其
儘(まゝ)席上(せきぜう)に酔伏(ゑひふさ)れける。時平(ときひら)仕(し)すましたりと独(ひとり)笑(ゑみ)し北堂(きたのかた)を無体(むたい)に引立(ひつたて)。席を立(たつ)て玄関(げんくわん)へ出
婦人(ふじん)を我車(わがくるま)へ抱(いだ)き乗(のせ)。其身(そのみ)もともに乗(のり)て我館(わがやかた)【舘は俗字】へぞ還(かへ)られける。誠(まこと)に乱行(らんげう)とも無道(ぶどう)とも
論(ろん)ぜんやうなき行条(ふるまい)なりけり。国経(くにつね)は夜風(よかぜ)の身(み)に寒(しむ)に酔(ゑひ)醒(さめ)て眼(め)を覚(さま)し。座辺(あたり)を見れば
時平(ときひら)以下(いげ)は已(すで)に還(かへ)られしと覚(おぼ)しく。只(たゞ)杯盤(はいばん)【盃は俗字】器皿(きべい)の狼藉(らうぜき)たる計(ばかり)成(なれ)ば。近侍(きんじ)の女房(にようはう)に北堂(きたのかた)の
義(ぎ)を問(とは)れけるに女房(にようばう)答(こたへ)て。前(さき)に時平(ときひら)の君(きみ)御台所(みだいどころ)を引連(ひきつれ)て立(たち)給ひしゆへ。何方(いづれ)へ伴(ともな)ひ玉ふ
やと問(とひ)奉り侍(はべり)しに。叔父君(おぢぎみ)の我(われ)に賜(たまは)りしゆへ将(い)て帰(かへ)るなりと曰(のたま)いて。御車(みくるま)に乗(のせ)まいらせ御身(おんみ)
もともに乗(めし)て帰(かへ)り玉へりと言(まうし)けるにぞ。国経(くにつね)以(もつて)の外(ほか)に駭(おどろ)き我(われ)酩酊(めいてい)して何事(なにごと)を言(いひ)しか更(さら)に
覚(おぼへ)ず時平(ときひら)にも酒興(しゆけう)に乗(ぜう)じ。当座(とうざ)の戯(たはむ)れに将(つれ)て帰(かへ)られしならめ。急(いそ)いで迎(むかひ)を遣(つか)はせよと

使者(ししや)を時平(ときひら)の館(やかた)【舘は俗字】へ走(はし)らせ。先剋(せんこく)は光駕(こうが)を曲(まげ)られ忝(かたしけな)く候。但(たゞ)し御 座興(ざけう)に愚妻(ぐさい)を召連(めしつれ)
御 帰(かへり)有しよし。国経 酖醉(ちんすい)【耽は誤】して御 見送(みおくり)仕らず失敬(しつけい)の罪(つみ)を免(ゆる)され賎妻(せんさい)を帰(かへ)し給(たま)はるべしと
申 遣(つかは)されけるに。時平 執奏(とりつぎ)の青侍(わかさむらひ)を以(もつ)て。先剋(さきに)は種々(しゆ〴〵)奔走(ほんそう)に預り怡(よろこび)に不堪(たへず)候。其 砌(みぎり)北堂
を御 引出(ひきで)物に賜(たまは)りしゆへ。辞退(じたい)に及(およば)ず具(ぐ)して還(かへ)り候。然(しかる)上は今 更(さら)返(かへ)し進(まいら)せがたく候と言(いは)
せ敢(あへ)て返(かへ)されざりければ。使者(ししや)も為方(せんかた)なく立 帰(かへつ)て。主人(しゆじん)に時平の返答(へんとふ)の趣(おもむ)きを告(つげ)ける
にぞ。国経(くにつね)惘果(あきれはて)【旁の「岡」は誤】最愛(さいあい)の妻(つま)を奪(うば)はれし事なれば身を燃(もや)して恨(うら)み憤(いきどふ)られけれども。当時(とうじ)執政(しつせい)
の時平(ときひら)なれば奈何(いかん)とも仕(し)がたく。無念(むねん)ながら其 儘(まゝ)さし置(おか)れけり。時平は彼(かの)婦人(ふじん)を奪(うばひ)とり
てより昼夜(ちうや)側(そば)を放(はな)さず寵愛(てうあい)し。遂(つひ)に一 子(し)を儲(まうけ)られたり。後(のち)に中 納言(なごん)敦忠(あつたゞ)と申は是(これ)なり
此 北堂(きたのかた)は在原業平(ありはらのなりひら)の子息(しそく)棟梁(むねやな)の女(むすめ)也とぞ。是(これ)に依(よつ)て世人(よのひと)知(しる)も不知(しらぬ)も時平の不義(ふぎ)我(わが)
意(まゝ)を爪弾(つまはぢき)して憎(にく)み訕(そし)れども。其 権勢(けんせい)に怕(おそ)れ。誰(たれ)か一人 表向(おもてむき)にて諫言(かんげん)する人も無(なか)りけり
斯(かく)て昌泰(しやうたい)二年 己未(つちのとひつじ)【注】の二月。帝(みかど)の睿慮(ゑいりよ)にて時平(ときひら)を左大臣(さだいじん)に任(にん)じ給ひ。道真卿(みちざねけう)を右大

【注 昌泰二年は「己未」なので「つちのへ」は誤】

臣(じん)に任(にん)じ給へり。此時(このとき)より道真公(みちざねこう)を世人(よのひと)管丞相(かんせう〴〵)と称(せう)しけり。丞相(せう〴〵)は大臣(だいじん)の唐名(からな)なるゆへなり
又 此時(このとき)帝(みかど)の外祖(ぐわいそ)藤原高藤(ふぢはらのたかふぢ)。仁明帝(にんみやうてい)の皇子(みこ)たる源光(みなもとのひかる)二人ともにいまだ大納言(だいなごん)たりしかば
菅公(かんこう)心中(しんちう)に思召(おぼしめし)けるは。時平(ときひら)は照宣公(せうせんこう)の子息(しそく)にて代々(だい〳〵)大臣(だいじん)の家柄(いへがら)なれば。左大臣(さだいじん)に任(にん)じ給ふ
事 理(り)の当然(とうぜん)なれども。我(われ)は儒宦(じゆくわん)の卑(いやし)きより起(おこ)りて。家(いへ)に例(ためし)なき右大臣に登用(とうよう)せられ。其(その)位(くらゐ)貴(き)
族(ぞく)たる高藤(たかふぢ)光(ひかる)等(とう)の人々(ひと〴〵)より上(かみ)に立(たつ)事(こと)憚(はゞか)りあり。先年(せんねん)渤海(ぼつかい)の使者(ししや)裴頲(はいてい)。我(われ)を相(さう)し位(くらゐ)
三 公(こう)に昇(のぼる)るべけれども。久(ひさ)しく高宦(かうくわん)に居(ゐ)ば身(み)に災害(わざわひ)及(およぶ)べしと言(いひ)し先見(せんけん)符節(ふせつ)を合(あは)すが如(ごと)し
尤(もつとも)国家(こくか)の為(ため)を存(ぞん)し。身(み)に禍(わざはひ)の及(およぶ)は忠臣(ちうしん)たる者の厭(いとふ)べきにあらざれども。貴族(きぞく)を乗踰(のりこえ)て
其上(そのかみ)に立(たゝ)んは高天(かうてん)へ畏(おそれ)ありとて。表(へう)を奉(たてまつ)りて再三(さいさん)宦位(くわんゐ)を辞(じ)し給へども。主上(しゆぜう)も上皇(ぜうかう)も敢(あへ)
て勅許(ちよくきよ)なし玉はず。時平(しへい)いまだ若冠(じやくくわん)なれば。彼(かれ)を佐(たすけ)て朝政(てうせい)を正(たゞ)しうすべしとの倫命(りんめい)なれ
ば已事(やむこと)を得(え)ず其儘(そのまゝ)に過(すぎ)させ給ひけり。斯(かく)て時平(しへい)と菅公(かんこう)は月(つき)交(かはり)に朝政(てうせい)【「せうせい」は誤】を聴(きか)れけるに
時平(しへい)は毎度(まいど)依怙贔屓(えこひいき)の裁許(さいきよ)多(おほ)ければ。諸人(しよにん)怨(うら)み誹(そし)り。其(その)当番(とうばん)の月は訴訟人(そせうにん)多(おほ)く

【頭部欄外 縦書き題箋を左頭にして横に置いた形】
《題:扶桑皇統記図会《割書:後編》五》

【本文】
菅公(かんこう)は裁判(さいばん)正(たヾ)しく然(しか)も仁恕(じんじよ)を旨(むね)として訴(うつたへ)を聴(きゝ)給ふ我(われ)猶(なほ)人の如(ごと)くなるゆへ裁断(さいだん)少(すこし)も
滞(とゞこふ)りなきを以(もつ)て諸人(しよにん)悦伏(ゑつふく)し。御 当番(とうばん)の月は自然(おのづから)訴人(そにん)少(すくな)く。衆人(しゆうじん)菅公(かんこう)明断(めいだん)を感(かん)じ
賞美(せうび)するに付(つき)ては。時平(しへい)の不決断(ふけつだん)薄徳(はくとく)を誹(そしら)ぬ者はなかりけり。左府(さふ)《割書:時平|の事》いつしか此事(このこと)
を聞(きゝ)て菅公(かんこう)の名誉(めいよ)を妬(ねた)み。君(きみ)に讒奏(ざんそう)して宦位(くわんゐ)を削(けづり)落(おと)さんと思(おも)はれけれども。素(もとよ)り
忠正(ちうせい)の菅公(かんこう)一 点(てん)の御 過失(あやまち)も無(な)ければ。讒奏(ざんそう)すべき種(たね)もなく。あはれ事がな出来(いでこ)よかしと
思(おも)はれけるに。彼(かの)源光(みなもとのひかる)は菅公(かんこう)に位階(ゐかい)を超(こえ)られたるを無念(むねん)に思(おも)ひ。時平(しへい)に阿(おもね)り諂(へつら)ひて
倶(とも)に菅公(かんこう)を退(しりぞけ)んと謀(はか)り。加之(しかのみ)ならず泉大将(いづみのだいせう)定国(さだくに)。大納言(だいなごん)清貫(きよつら)。右中弁(うちうべん)希世(まれよ)。藤菅(とうのすが)
根(ね)。平貞文(たいらのさだぶん)。紀蔭連(きのかげつら)なんど。日来(ひごろ)左府(さふ)に阿諛(あゆ)する輩(ともがら)菅公(かんこう)を妬(ねた)み時々(より〳〵)時平(しへい)の館(やかた)【舘は俗字】
に会合(くわいがふ)し。専(もつぱ)ら菅公(かんこう)を追退(おひしりぞ)くべき邪謀(じやばう)をぞ商議(しやうぎ)しける


扶桑皇統記図会後編巻之五畢

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之六目録
 朱雀院(しゆじやくゐん)朝覲(てうきんの)御幸(みゆき)    時平(ときひら)光(ひかる)等(ら)《振り仮名:謀_レ黜_二菅公_一|かんこうをしりぞけんとはかる》条
 三善清行(みよしきよゆき)《振り仮名:贈_二菅公諫書_一|かんこうにかんしよをおくる》 菅公(かんこう)《振り仮名:得_レ冤被_レ為_レ謫_二西府_一|べんをえてさいふにてきせらる》条
 三善清行(みよしきよゆき)天象(てんしやう)を見て菅公(かんこう)に書(しよ)を奉(たてまつ)る図(づ)
 仁和寺(にんわじ)の法皇(ほふわう)主上(しゆじやう)を諫(いさ)め給はんと宮門(きうもん)に立(たゝ)せ給ふ図(づ)
 菅公(かんこう)《振り仮名:遺_二于道明寺木像_一|だうみやうじにもくざうをのこす》  播州(ばんしう)曽根(そね)手枕松(たまくらのまつ)の事(こと)
 菅公(かんこう)《振り仮名:於_二配所_一詠_二詩歌_一|はいしよにおいてしいかをえいず》  大宰府(だざいふ)飛梅(とびうめ)追松(おひまつ)の条(こと)

 菅公(かんこう)天拝山(てんはいざん)祈願(きぐわん)《割書:并》薨去(こうきよ) 渡会春彦(わたらへのはるひこ)忠実(ちうじつ)死去(しきよ)条
 寛平法皇(くわんへいほふわう)《振り仮名:築_二双岡_一|ならひがおかをきづく》  法性坊(ほつしやうばう)《振り仮名:夢謁_二菅公亡霊_一|ゆめにかんこうのぼうれいにゑつす》条
 菅公(かんこう)筑紫(つくし)天拝山(てんぱいざん)にて祈願(きぐわん)し給ふ図(づ)
 洛中(らくちう)天変(てんへん)内裡(だいり)雷火(らいくわ)   奸徒(かんと)雷死(らいし)法性坊(ほつしやうばう)行力(ぎやうりき)条
 時平(ときひら)《振り仮名:患_二奇病_一薨去|きびやうをやみてこうきよ》   光(ひかる)定国(さだくに)菅根(すがね)変死(へんし)洛中(らくちう)洪水(こうずい)条
 大宰府(だざいふ)天満(てんまん)天神(てんじん)宮居(みやゐ)の図(づ)
 菅公(かんこう)贈宦(ぞうくわん)《振り仮名:賜_二神号_一|しんがうをたまふ》   延喜帝(えんぎてい)御譲位(ごじやうゐ)四海太平(しかいたいへいの)条(こと)

扶桑皇統記図会(ふそうくわうとうきづゑ)後編(こうへん)巻之六
            浪華 好華堂野亭参考

    朱雀院(しゆじやくいん)朝覲(てうきんの)御幸(みゆき)  時平(ときひら)光(ひかる)等(ら)《振り仮名:謀_レ黜_二菅公_一|かんこうをしりぞけんとはかる》条
左大臣(さたいじん)時平(ときひら)の不徳(ふとく)に引替(ひきかへ)て。右大臣(うだいじん)道真公(みちざねこう)は。朝家(てうか)を重(おも)んじ忠勤(ちうきん)を励(はげ)み給ひける
により。上皇(じやうかう)《割書:宇|多》殊更(ことさら)に菅公(かんこう)を御 贔屓(ひいき)に思召(おぼしめし)常(つね)に朱雀院(しゆじやくいん)へ召(めさ)れて政事(せいじ)等(とう)を
談(だん)じ給ひけり。一年(ひとゝせ)菅公(かんこう)いまだ右大臣(うだいじん)に昇進(せうしん)し玉はざる以前(いぜん)。昌泰(しやうたい)元年(ぐわんねん)上皇(ぜうかう)奈良(なら)へ
行幸(みゆき)し給ひし時(とき)菅公(かんこう)供奉(ぐぶ)し給ひ。手向山(たむけやま)《割書:東大寺|の内に有》を通(とふ)り給ひし時(とき)の御 哥(うた)に
  此(この)たびはぬさもとりあへず手向山(たむけやま)もみぢの錦(にしき)神(かみ)のまに〳〵
と詠(えい)じ給へり。歌(うた)の意(こゝろ)は旅(たび)をするには道々(みち〳〵)の神(かみ)に手向(たむけ)る袚帛(ぬさ)【秡は誤】とて五色(ごしき)の帛(きぬ)を裁(たち)て用(よう)
意(い)すべきなれども。此度(このたび)は大切(たいせつ)なる太上天皇(だぜうてんわう)の供奉(ぐぶ)なれば。道真(みちざね)が私(わたくし)の袚帛(ぬさ)は用意(ようい)し候
はず。此山(このやま)の紅葉(もみぢ)を道祖神(みちのかみ)の御 随意(こゝろまかせ)に道真(みちざね)が手向(たむけ)奉る袚帛(ぬさ)と覧(み)給ひて納受(のふじゆ)させ

給へとなり。是(これ)片時(へんし)も君(きみ)の守護(しゆご)を怠(おこた)り玉はぬ忠勤(ちうきん)の意(い)を一 首(しゆ)の中(うち)に籠(こめ)給ひし御
歌(うた)なれば上皇(じやうかう)も深(ふか)く感(かん)じ思召(おぼしめし)いよ〳〵道真公(みちざねこう)を愛(あい)し給ひ主上(しゆじやう)に御 勧(すゝめ)有(あつ)て丞相(しやう〴〵)の位(くらゐ)
に進(すゝ)め給ひしなり。斯(かく)て昌泰(しやうたい)三年正月三日 主上(しゆぜう)朱雀院(しゆじやくいん)へ朝覲(てうきん)の御幸(みゆき)なし給ひ。左(さ)
大臣(だいじん)時平(ときひら)右大臣(うだいじん)道真公(みちざねこう)其余(そのよ)の臣下(しんか)も供奉(ぐぶ)せられける。上皇(じやうかう)御 怡(よろこび)斜(なゝめ)ならず。主上(しゆぜう)と
御 土器(かはらけ)をとりかはさせ給ひ御 酒宴(しゆえん)ありて睦(むつま)じく御 物語(ものがたり)なし給ひける序(ついで)に上皇(じやうかう)宣(のたま)ひける
やう。当時(とうじ)左大臣(さだいじん)時平(ときひら)と右大臣(うだいじん)道真(みちざね)と。相並(あいならん)で朝政(てうせい)を執行(とりおこな)はせ給ふは好(よき)に似(に)たれども
遂(つひ)にはきしらひ逆(さか)ふ事 出来(いでく)べく思(おも)はれ候。時平(ときひら)は子故(こ)基経(もとつね)の子(こ)ながら。年(とし)若(わか)く才(さい)短(みぢか)き上
不良(よからぬ)行(おこな)ひ有(ある)よし其(その)聞(きこ)えあり。道真(みちざね)は年(とし)高(たか)く当時(とうじ)の俊才(しゆんさい)にて天晴(あつぱれ)棟梁(とうれう)の臣(しん)と謂(いひつ)べし
されば時平(ときひら)が執政(しつせい)の職(しよく)を止(やめ)道真(みちざね)に関白(くわんばく)の職(しよく)を授(さづ)け一人にて万機(ばんき)の政(まつりごと)を執行(とりおこな)はせ玉はゞ
天(あめ)が下(した)永(なが)く太平(たいへい)なるべしと仰(あふせ)けるにぞ。主上(しゆぜう)実(げに)もと思召(おぼしめし)菅公(かんこう)一人を御前(ごぜん)へ召出(めしいだ)し給ひ。以後(いご)
は卿(なんじ)一人にて朝政(てうせい)を執行(とりおこな)ひ四海(しかい)の安寧(あんねい)をはかり候へと。両君(りようくん)ひとしく勅詔(みことのり)なし給ひ。関白(くわんばく)の

職(しよく)に任(にん)ずべきよし宣(のたま)ひければ。菅公(かんこう)大いに驚(おどろ)き玉ひて御 身(み)に冷汗(ひやあせ)を流(なが)され御 心中(しんちう)には
我(われ)譜代(ふだい)の権臣(けんしん)時平(ときひら)を超(こえ)て関白職(くわんばくしよく)とならば。必(かなら)ず亢竜(こうりよう)の悔(くひ)有(ある)べしとて。君前(くんぜん)に低頭(ていとう)し
給ひ。君命(くんめい)誠(まこと)に忝(かたしけ)なく候へとも。臣(しん)儒宦(じゆくわん)の卑(いやし)き家(いへ)より出(いで)て右大臣(うだいじん)の高位(かうゐ)を汚(けが)し候さへ恐(おそ)
れあれば。三度(みたび)表(へう)を奉(たてまつ)りて宦(くわん)を解(とか)せ玉はん事を願(ねが)ひ奉れども許(ゆる)し玉はざるさへ天道(てんとう)へ
畏(おそれ)憚(はゞかり)候に況(いはんや)関白職(くわんばくしよく)を賜(たまは)らんとの勅詔(ちよくぜう)は存(ぞん)じもよらぬ御事にて候 斯(かく)ては左府(さふ)を先(さき)とし
歴々(れき〳〵)の貴族達(きぞくたち)君を恨(うら)み奉り。朝廷(てうてい)の乱(みだれ)の端(はし)とも成(なり)候べし。此義(このぎ)は幾重(いくえ)にも勅免(ちよくめん)な
し玉はるべしと。固(かた)く御 辞退(じたい)なし給ひけるにぞ。主上(しゆぜう)も上皇(じやうかう)も本意(ほい)なく思召(おぼしめせ)ども。迚(とて)
も承引(うけひく)まじき色目(いろめ)なれば。関白(くわんばく)任宦(にんくわん)の義(ぎ)は止(やめ)給ひける。道真公(みちざねこう)両君(りようくん)へ奏(そう)し給ひけるは。只今(たゞいま)
臣(しん)一人を召(めさ)れし事を。左府(さふ)以下(いげ)の人々(ひと〴〵)異(あやし)み疑(うたが)はれ候べければ。其(その)疑念(ぎねん)を解(とか)せ玉はんため
詩(し)の御 題(だい)を給(たまは)るべしと願(ねが)ひ給ひけるにより。主上(しゆぜう)実(げに)もと思召(おぼしめし)《振り仮名:春生_二柳眼中_一|はるはりうがんのうちにせうず》といふ
題(だい)をぞ給(たま)はりける。菅公(かんこう)右の御題(ごだい)を頂戴(てうだい)ありて君前(くんぜん)を退(しりぞ)き公卿(こうけい)の詰所(つめしよ)へ立(たち)皈(かへ)り

給ひ今日(こんにち)道真(みちざね)を召(めさ)れしは詩(し)の御 題(だい)を給(たまは)らんとの御事なり。列位(おの〳〵)此(この)御 題(だい)にて詩(し)を
作(つく)り天覧(てんらん)に具(そなへ)らるべしとて。右の題(だい)を披露(ひろう)ありければ。偖(さて)は其(その)御事にて候やとて
皆詩(し)を賦(ふ)して睿覧(ゑいらん)に備(そなへ)られけり。此日(このひ)公卿(こうけい)の面々(めん〳〵)へ禄(ろく)を下されけるが。菅公(かんこう)へは別(べつ)
に例禄(れいろく)の外(ほか)両皇(りようかう)并(ならび)に后宮(こうぐう)よりも御衣(ぎよい)を被(かづ)け給へり。時平(しへい)是(これ)を見て深(ふか)く菅(かん)
公(こう)を妬(ねた)みいよ〳〵腸(はらわた)を燃(もや)されける。同年(どうねん)八月 菅公(かんこう)祖父(そふ)清公卿(きよともけう)父(ちゝ)是善卿(ぜゝんけう)の文(ぶん)
章(しやう)を集(あつめ)御 自作(じさく)の文章(ぶんしやう)をも加(くは)へ三代の家集(いへのしふ)都(すべ)て二十八 巻(くわん)《割書:清公集六巻是善集|十巻菅公集十二巻也》
是(これ)を編(あみ)て朝廷(てうてい)へ献(けん)じ給ひければ。帝(みかど)睿覧(ゑいらん)なし給ひて御感(ぎよかん)の余(あま)りに御製(ぎよせい)の
詩(し)をぞ賜(たま)はりける其(その)御 詩(し)に曰
 門風(もんふう)《振り仮名:自_レ古|いにしへより》是(これ)儒林(じゆりん) 今日(こんにちの)文華(ぶんくわ)皆(みな)悉(こと〴〵く)金(きん) 唯(たゞ)《振り仮名:詠_二一聯_一知_二気味_一|いちれんをえいじてきみをしる》
 況(いはんや)《振り仮名:連_二 三代_一飽_二清唫_一|さんだいをつらねてせいぎんにあくをや》 《振り仮名:琢_二磨寒玉_一声々麗|かんぎよくをたくましてせい〳〵うるはしく》 《振り仮名:裁_二製余霞_一句々侵|よかをさいせいしてくゝしんす》
 更(さらに)《振り仮名:有_三菅家勝_二白様_一|かんかのはくやうにまされるあり》 《振り仮名:従_レ茲拋却匣塵深|これよりちようきやくしてけうぢんふかし》








帝(みかど)如是(かくのごとく)菅公(かんこう)を重(おも)んじ御 賞美(せうび)在(ましま)すに付(つけ)て。左大臣(さだいじん)方(がた)の人々は愈(いよ〳〵)妬(ねた)み憎(にく)まれ
ける。昌泰(しやうたい)二年十月十四日 上皇(ぜうかう)には仁和寺(にんわじ)の益信僧都(やくしんそうづ)を戒師(かいし)として御 髻(かざり)を落(おろ)
させ給ひ。法(のり)の御 諱(いみな)を空理(くうり)と号(がう)し給ひて。即(すなは)ち仁和寺(にんわじ)に御 室(しつ)を建(たて)させ入御(じゆぎよ)
ありて専(もつは)ら真言(しんごん)の法(ほふ)を行(おこな)ひすまし給ひけり。是(これ)より世人(よのひと)仁和寺(にんわじ)をさして御室(おむろ)と
ぞ称(しやう)しける。抑(そも〳〵)仁和寺(にんわじ)と申は宇多上皇(うだじやうかう)いまだ御 在位(ざいゐ)の時(とき)御 父(ちゝ)光孝(くわう〳〵)天皇の御(ご)
菩提(ぼだい)の為(ため)大内山(おほうちやま)の麓(ふもと)に一 寺(じ)を御 建立(こんりう)ありて光孝帝(くわうかうてい)の御宇(ぎよう)の年号(ねんがう)を以(もつ)て
仁和寺(にんわじ)と寺号(じがう)し給ひ。益信僧都(やくしんそうづ)を住侶(ぢうりよ)とし真言宗(しんごんしう)を立給へり。去程(さるほど)に
帝(みかど)は御 年(とし)の長(ちよう)じ給ふに随(したが)ひ万機(ばんき)の政(まつりごと)正(たゞ)しく。臣下(しんか)を恤(めぐ)み万民(ばんみん)を撫育(なでそだて)給ふ事
母(はゝ)の子を安(やす)んずるが如(ごと)くなれば。四海(しかい)穏(おだや)かにして逆乱(げきらん)の浪(なみ)起(おこ)る事なし。一年(ひとゝせ)冬(ふゆ)の
頃(ころ)寒風(かんふう)殊更(ことさら)に厲(はげ)しければ。女宦(によくわん)別(べつ)に綿(わた)厚(あつ)き御衣(おんぞ)を献(たてまつ)りけるに。帝(みかど)曽(かつ)て着(めし)
玉はず。世(よ)の中の貧(まづし)き民(たみ)は。かゝる寒夜(かんや)にも衣(きぬ)薄(うす)く凌(しの)ぎかぬべし。朕(ちん)今 帝位(ていゐ)を

践(ふむ)といへども独(ひと)り衣(い)を襲(かさね)て身(み)を温(あたゝか)にすべきにあらずとて御簾(ぎよれん)の外へ出(いだ)し
玉ひ一 首(しゆ)の御製(ぎよせい)を詠(えい)じ給へり。其(その)御製(ぎよせい)に曰
  おほふべき袖(そで)こそなけれ世(よ)の中(なか)の寒(さむ)けき民(たみ)の冬(ふゆ)の夜(よ)な〳〵
かく難有(ありがたき)仁君(じんくん)なれば末代(まつだい)までも延喜(ゑんぎ)の聖帝(せいてい)とは申せり。然(しかれ)ども帝(みかど)尚(なを)御 年(とし)若(わか)
く御座(おはし)ければ定国(さだくに)菅根(すがね)們(ら)の佞臣(ねいしん)君(きみ)に勧(すゝ)め奉りけるやう。古(いにしへ)の賢王(けんわう)は巡狩(じゆんしう)と
号(がう)し春秋(しゆんじふ)に田猟(でんりやう)し民(たみ)の艱苦(かんく)を察(さつ)し行旅(かうりよ)の難易(なんい)を量(はかり)給ふとかや。君(きみ)も万(ばん)
民(みん)を撫育(ぶいく)せんと思食(おぼしめさ)ば。宮中(きうちう)にのみ御座(おはし)まさんより。折々(をり〳〵)は山野(さんや)へ御狩(みかり)の御(み)
幸(ゆき)なし給ひ農民(のうみん)們(ら)が耕耘(たがへしくさぎ)る辛苦(しんく)をも睿覧(ゑいらん)なし給ふべしと言(ことば)を巧(たくみ)にして
奏(そう)しければ。睿知(ゑいち)の帝(みかど)も両人(りようにん)が不正(ふせい)に引入(ひきいれ)奉らんと謀(はか)る侫言(ねいげん)なりとは知食(しろしめさ)ず
実(げに)もと思召(おぼしめし)。定国(さだくに)菅根(すがね)希世(まれよ)以下(いげ)を召具(めしぐ)し給ひて神泉苑(しんせんえん)へ鷹狩(たかがり)の御幸(みゆき)
なし給ひ鷹(たか)を放(はな)させ鳥(とり)をとらせて御入興(ごじゆけう)あり。御 酒宴(しゆえん)を催(もやほ)し給ひける所(ところ)に

鷺(さぎ)一 羽(は)飛来(とびきた)りて池(いけ)へ下(お)り魚(うを)を求食(あさり)ければ。帝(みかど)甚(はな)はだ興(けう)ぜさせ給ひ。左右(さいう)の近臣(きんしん)に
彼(あの)鷺(さぎ)を捉(とらへ)よと命(あふせ)けるにぞ。臣下(しんか)勅詔(ちよくぜう)を奉(うけたま)はり両(りよう)三人 庭(には)へおり立。洲崎(すさき)の岩蔭(いはかげ)に
隠(かく)れてうかゞひ寄(より)鷺(さぎ)を捉(とらへ)んとせしに鷺(さぎ)はおどろき池(いけ)の深(ふか)みへ游(およ)ぎ行(ゆき)更(さら)に手(て)の届(とゞ)
かざる迄(まで)に遠去(とふざかり)已(すで)に羽(は)づくろひして飛去(とびさら)んとしける故一人の臣下(しんか)声(こゑ)をかけ。やよ鷺(さぎ)よ
勅命(ちよくめい)なるぞ立去(たちさる)事(こと)勿(なか)れと言(いひ)ければ。不思議(ふしぎ)や立(たゝ)んとせし鷺(さぎ)忽(たちま)ち汀(みぎは)へ游(およ)ぎもどり
手近(てぢか)くよりけるにより。宦人(くわんにん)安々(やす〳〵)と捉(とら)へて。帝(みかど)の玉座(ぎよくざ)近(ちか)く参(まい)りて睿覧(ゑいらん)にぞ供(そな)へける
君(きみ)深(ふか)く愛(めで)させ給ひ鷺(さぎ)に五 位(ゐ)の位(くらゐ)を賜(たま)はりけり。是(これ)より世人(よのひと)五位鷺(ごゐさぎ)と称(となへ)初(そめ)しと
かや。然(しか)る折(をり)しも菅公(かんこう)入来(いりきた)り給ひければ。帝(みかど)竜顔(りうがん)麗(うるは)しく玉座(ぎよくざ)近(ちか)く召(めさ)れ。只今(たゞいま)鷺(さぎ)の
勅命(ちよくめい)なりと言(いひ)しを聞(きゝ)て己(おのれ)と捉(とらへ)られし趣(おもむ)きを語(かた)り給ひけるに。菅公(かんこう)色(いろ)を正(たゞ)し給ひ。誠(まこと)
に一天の君(きみ)の勅詔(みことのり)は鳥類(てうるい)までも畏(かしこま)り奉る事 是(かく)の如(ごと)し。況(いはん)や万民(ばんみん)に於(おい)て君(きみ)の竜駕(りうが)の
向(むか)ふ所(ところ)の者(もの)は恐(おそれ)み畏(かしこ)みて農民(のうみん)は耕(たがやし)を止(やめ)旅人(りよじん)は杖(つえ)を止(とゞ)め自然(おのづから)下々(しも〴〵)の障(さゝは)りとなり患(うれひ)

を生(しやう)ずる基(もとゐ)にて候。勿論(もちろん)昨年(さくねん)殺生(せつしやう)を禁(きん)じ。田猟(でんれう)を止(とゞめ)給ひしに。今年(こんねん)鳥獣(てうじふ)に
何(まん)の科(とが)の候や。一 旦(たん)出(いだ)し給ひし倫言(りんげん)は汗(あせ)の如(ごと)く再(ふたゝ)び反(かへら)ず候。鳥類(てうるい)たりとも不信(ふしん)を示(しめ)
し給ふべからず。以後(いご)は御狩(みかり)の御幸(みゆき)を御 止(とま)り有(ある)べしと諫奏(かんそう)し給ひければ。帝(みかど)理(り)
に責(せめ)られて赤面(せきめん)し給ひ。御 酒宴(しゆえん)をも止(やめ)給ひて還御(くわんぎよ)なし給ひける。定国(さだくに)菅根(すがね)等(ら)
案(あん)に相違(さうゐ)し。又々(また〳〵)左大臣(さだいじん)の館(やかた)【舘は俗字】へ集会(しふくわい)し。兔(と)にも角(かく)にも道真(みちざね)在(あつ)ては事の妨(さまたげ)なり如何(いかに)
もして追退(おひしりぞけ)んと奸計(かんけい)を商議(しやうぎ)しけれども。是(これ)ぞと思ふ謀(はかりこと)も案(あん)じ得(え)ざれば。此上(このうへ)は陰(おん)
陽寮(やうりやう)の輩(ともがら)に咒咀(のろひ)殺(ころ)させんと。勅宣(ちよくせん)なりと偽(いつは)り財宝(ざいほう)を多(おほ)く与(あた)へ。所有(あらゆる)冥衆(みやうじゆ)を
祭(まつ)らせ。菅公(かんこう)の形代(かたしろ)を作(つくり)て王城(わうぜう)の八 方(はう)に埋(うづ)ませなどし。専(もつは)ら調伏(てうぶく)させけれども。神(かみ)は
非礼(ひれい)を受(うけ)玉はざれば。咒咀(しゆそ)の術(じゆつ)も更(さら)に其(その)験(しるし)なかりけり
    三善清行(みよしきよゆき)《振り仮名:贈_二菅公諫書_一|かんこうにかんしよをおくる》  菅公(かんこう)《振り仮名:得_レ冤被_レ謫_二西府_一|べんをえてさいふにてきせらる》条
昌泰(しやうたい)三年 秋(あき)七月 彗星(はゝきぼし)現(あらは)れければ。諸人(しよにん)仰(あふ)ぎ見て大いに駭(おどろ)き此星(このほし)出(いづ)る時(とき)は兵革(へいかく)

起(おこ)ると謂(いへ)り。此頃(このごろ)左大臣殿(さだいじんどの)と右大臣殿(うだいじんどの)と御中 睦(むつま)じからずと風説(とりさた)せり。是(これ)らの事
より世(よ)の騒(さは)ぎ出来(いでく)べき前表(せんへう)にやと危(あやぶ)み合(あひ)けり。茲(こゝ)に文章(もんじやう)の博士(はかせ)三善清行(みよしきよゆき)と云(いふ)
人あり。先祖(せんぞ)は百済王(はくさいわう)の後胤(こういん)にして僧(そう)浄蔵貴所(じやうざうきしよ)の父(ちゝ)なり。清行(きよゆき)博学(はくがく)多識(たしき)なる
上(うへ)天文暦道(てんもんれきどう)にも達(たつ)せし名士(めいし)なりけるが。彗星(けいせい)を望(のぞみ)見て門人(もんじん)に謂(いつ)て曰(いはく)。今 彗星(はゝきぼし)現(あら)
はるゝを以(もつ)て世人(せじん)兵乱(へいらん)の起(おこ)るべき凶兆(けうてう)ならんと疑(うたが)ひ危(あや)ぶむといへども非(ひ)なり。彗星(けいせい)は其(その)
年(とし)に因(よつ)て吉凶(きつけう)定(さだ)めがたし。今年(こんねん)の彗星(けいせい)は兵革(へいかく)の兆(しるし)には非(あら)ず。恐(おそら)くは是(これ)朝廷(てうてい)の大臣(だいじん)に禍(わざは)
ひある兆(しるし)なるべし。夫(それ)に就(つい)て熟考(つら〳〵かんがふ)るに。今 右大臣(うだいじん)道真公(みちざねこう)儒家(じゆか)より抽(ぬきん)でられて三 公(こう)
の高位(かうゐ)に登用(とうよう)せられ給ふは。素(もとよ)り其身(そのみ)の賢徳(けんとく)に因(よる)ところなれども。左大臣(さだいじん)時平公(ときひらこう)其身(そのみ)
の不徳(ふとく)を顧(かへりみ)ず。平日(つね)に菅公(かんこう)を忌(いみ)嫉(ねた)む色(いろ)あり。斯(かく)ては菅公(かんこう)終(つひ)に佞臣(ねいしん)の讒舌(ざんぜつ)の
ために災害(わざはひ)御 身(み)に及(およ)ぶべし。当時(とうじ)主上(しゆぜう)聖智(せいち)に在(ましま)せども。いまだ御 若年(じやくねん)なり。もし
菅公(かんこう)朝廷(てうてい)を退(しりぞ)けられ玉はゞ朝家(てうか)危(あやふ)かるべし。我(われ)菅公(かんこう)と深(ふか)く交(まじは)るにもあらざれども

【右丁】
三善清行(みよしきよゆき)
天象(てんせう)を
 見(み)て
菅公(かんこう)に書(しよ)を
 奉(たてま)つる

【左丁 絵画のみ】

賢相(けんしやう)の危(あやふ)きを他(よそ)に見んは忠臣(ちうしん)の所行(しよげう)にあらず。依(よつ)て一 書(しよ)を菅家(かんけ)へ贈(おくり)我(わが)素意(そい)
を表(あらは)さんとて。自身(みづから)文章(ぶんしやう)を綴(つゞ)り門人(もんじん)を以(もつ)て菅家(かんけ)へ贈(おく)られける其文(そのぶん)に曰
 交(まじはり)浅(あさ)うして語(ご)深(ふか)きは妄(ぼう)也(なり)今(こん)に居(ゐ)て来(らい)を語(かたる)は誕(えん)也(なり)妄誕(ぼうえん)の責(せめ)は素(もとよ)り能(よく)
 知(しる)といへども。心に思(おも)ふ事を述(のべ)ざるは不信(ふしん)也(なり)清行(きよゆき)少(すこし)く天文(てんもん)を窺(うかゞふ)事を得(え)候が
 今年(こんねん)彗星(けいせい)の現(あらはる)るは朝家(てうか)の大臣(だいじん)に禍(わざはひ)有(ある)べき凶兆(けうてう)也(なり)且(かつ)明年(みやうねん)は辛酉(かのととり)にして天(てん)
 命(めい)を革(あらた)むる年(とし)なり。されば朝廷(てうてい)にも物(もの)革(あらたま)る事候べし。最(もつとも)天文(てんもん)は幽微(ゆうび)にして誰(た)
 が身(み)に禍(わざは)ひ有(ある)べしとも定(さだ)め難(がた)けれども尊君(そんくん)は翰林(かんりん)より挺(ぬきんで)られて今 槐位(くわいゐ)に昇(のぼり)
 皇孫(くわうそん)外戚(ぐわいせき)の上(かみ)に立(たち)給ふ事。古(いにしへ)より吉備大臣(きびだいじん)の外(ほか)有事(あること)なし。夫(それ)高木(かうぼく)は風(かぜ)に悪(にく)
 まるゝならひ。疾(はや)く丞相(しやう〴〵)の宦(くわん)を辞(ぢ)し。光(ひかる)定国(さだくに)等(ら)の下位(かゐ)に就(つき)て其(その)禍(わざはひ)を避(さけ)玉はゞ
 朝家(てうか)の幸福(さいはひ)何事(なにごと)か是(これ)に過(すぎ)候べき。伏(ふし)て願(ねがは)くは某(それがし)が微情(びじやう)を察(さつ)し給へ恐惶(きやうかう)
稽首(けいしゆ)とぞ書(かい)たりける。菅公(かんこう)清行(きよゆき)が諫書(かんしよ)を披見(ひけん)ありて其(その)深情(しんじやう)を怡(よろこ)び給ひけれ

ども。如何(いかゞ)思召(おぼし)けん宦(くわん)を辞(じ)せんともしたまはず其儘(そのまゝ)に打過(うちすぎ)給ひけり。是(これ)より前(さき)に左大(さだい)
臣(じん)方(がた)の侫臣(ねいしん)們(ら)は菅公(かんこう)を咒咀(しゆそ)調伏(てうぶく)しけれども其(その)験(しるし)なければ。又々(また〳〵)光(ひかる)。定国(さだくに)。菅根(すがね)等(ら)
侫舌(ねいぜつ)を逞(たくまし)うして帝(みかど)へ讒奏(ざんそう)しけるは。道真(みちざね)義(ぎ)己(おの)が女(むすめ)の婿(むこ)たる斉世親王(ときよしんわう)を帝位(ていゐ)に
即(つけ)。其身(そのみ)外戚(ぐわいせき)の威(い)を震(ふる)ひ富貴(ふうき)を極(きはめ)んと。上皇(じやうかう)にとり入 專(もつは)ら君(きみ)の御 行跡(かうせき)を悪様(あしさま)
に讒(ざん)し候事 隠(かくれ)なく候。道真(みちざね)が斉世親王(ときよしんわう)を世(よ)に立(たて)んと思(おも)ふ望(のぞみ)は一 朝(てう)一 夕(せき)の事(こと)には候はず
上皇(じやうかう)いまだ御 在位(ざいゐ)の時(とき)。春宮(とうぐう)たる君(きみ)へ宝祚(みくらゐ)を譲(ゆづ)り玉はんと道真(みちざね)へ御 内勅(ないちよく)ありし
節。道真(みちざね)遮(さへぎつ)て是(これ)を止(とゞ)め奉りしゆへ上皇(じやうかう)も渠(かれ)が邪弁(じやべん)に惑(まどは)され給ひ。御 譲位(じやうゐ)の義(ぎ)を
止(とゞま)り玉へり。是(これ)婿(むこ)の斉世(ときよ)の君(きみ)を帝位(ていゐ)に即(つけ)まゐらせんとの下心(したごゝろ)なる事 顕然(げんぜん)たり。然(しかれ)ども
其後(そのご)群臣(ぐんしん)に御 譲位(じやうゐ)の義(ぎ)を問(とは)せ給ひしに。春宮(とうぐう)御 受禅(じゆぜん)あるべき事 理(り)の当然(とうぜん)にて
候と群臣(ぐんしん)一 同(どう)に啓奏(けいそう)しけるゆへ。道真(みちざね)も申(まうし)妨(さまたぐ)る事 能(あたは)ず。倶(とも)に衆議(しゆうぎ)に順(したが)ひ君へ御譲(ごじやう)
位(ゐ)なし給ふべしと奏(そう)せしかども。其(その)内心(ないしん)は深(ふか)く憤(いきどふ)り。内々(ない〳〵)君を調伏(てうぶく)し奉り候よし風(ほのか)【ママ】に風(ふう)

説(ぜつ)も聞え候なんどゝ跡形(あとかた)もなき事を交々(かはる〴〵)奏(そう)し。加之(しかのみ)ならず后皇(こうぐう)は時平(しへい)の妹(いもと)にて在(ましま)
せば。左府(さふ)局長(つぼねがしら)に多(おほ)く賄賂(まいない)を与(あた)へ。如是々々(かやう〳〵)申せよと命(めい)ぜられければ。局長(つぼねがしら)は身(み)に
得(とく)の付(つく)を悦(よろこ)び密(ひそか)に后皇(こうぐう)に讒言(ざんげん)しけるやうは。右大臣殿(うだいじんどの)の御事 婿君(むこぎみ)たる斉世親王(ときよしんわう)を
天位(みくらゐ)に即(つけ)まゐらせんため。帝(みかど)を咒咀(のろひ)崩御(ほうぎよ)なさせ奉らんと巧(たく)み給ふよし。急(いそ)ぎ帝(みかど)へ其由(そのよし)
を奏(そう)し給へと。信(まこと)しやかに言上(まうしあげ)けるにぞ。后皇(こうぐう)は御 年(とし)若(わか)く素(もとよ)り弁(わきま)へなき女性(によせう)の御事 成(なれ)
ば大きに駭(おどろ)き給ひ。帝(みかど)へ局(つぼね)の申せし趣(おもむ)きを内奏(ないそう)あり。右大臣(うだいじん)を退(しりぞ)け給へと時々(より〳〵)に御 勧(すゝめ)
ありけり。如此(かくのごとく)内外(ないぐわい)の讒奏(ざんそう)度(たび)重(かさな)りければ。さしも聖明(せいめい)の帝(みかど)も始(はじめ)は信(しん)じ玉はざりけれども
後々(のち〳〵)は少(すこ)し御 疑(うたが)ひの睿慮(ゑいりよ)を生(しやう)じ給ひ。且(かつ)は御 遊興(ゆふけう)御狩(みかり)などに付(つき)ても菅公(かんこう)度々(どゝ)諫(いさめ)
給ひしゆへ菅公(かんこう)を疎(うと)み給へり。されども御 慎(つゝしみ)深(ふか)き御 本性(ほんぜう)なれば。猶(なを)色(いろ)にも露(あら)はし玉はず
何(なん)の御 沙汰(さた)もなかりければ。時平(しへい)を首(はじめ)とし一 味(み)合体(がつたい)の侫臣(ねいしん)們(ら)は沓(くつ)を隔(へだて)て足(あし)を掻(かく)心地(こゝち)
しけり。斯(かく)て昌泰(しやうたい)三年も暮(くれ)明(あく)る四年に改元(かいげん)ありて延喜(えんぎ)元年と暦号(れきがう)し給ふ其年(そのとし)

の正月 元日(ぐわんじつ)に日蝕(につしよく)しけるにぞ。左府(さふ)時平(しへい)及(およ)び光(ひかる)定国(さだくに)以下(いげ)大いに悦(よろこ)び。須波(すは)道真(みちざね)を退(しりぞ)
くべき時節(じせつ)至来(とうらい)せりと。兼(かね)て巧(たく)み設(もうけ)たる主上(しゆぜう)調伏(てうぶく)の形代(かたしろ)を納(おさめ)たる筥(はこ)を。東山(ひがしやま)の将(しやう)
軍塚(ぐんづか)の辺より堀出(ほりいだ)し所(ところ)の者より訴(うつた)へ出(いで)しと偽(いつは)り。帝(みかど)の睿覧(ゑいらん)に入 讒奏(ざんそう)しけるは
東山(ひがしやま)よりかゝる咒咀(しゆそ)の形代(かたしろ)を堀出(ほりいだ)し候とて彼所(かしこ)の里民(りみん)より差出(さしいだ)し候ゆへ。撿見(あらためみ)候へば、恐(おそれ)
多(おほく)も君(きみ)を調伏(てうぶく)し奉る由(よし)の願書(くわんしよ)を籠(こめ)候 最(もつとも)誰(たれ)とも姓名(せいめい)は不記(しるさず)候へども。必定(ひつでう)道真(みちざね)か
所為(しわざ)にて候べし。前(まへ)以(もつ)て道真(みちざね)が野心(やしん)を企(くはだて)候 義(ぎ)を奏聞(そうもん)に及(およ)び候へども。君(きみ)いまだ信(しん)じ
給はず。已(すで)に当(とう)元日(ぐわんじつ)に日蝕(につしよく)し候も。天より凶変(けうへん)を示(しめ)し給ふ所(ところ)にて。陰陽寮(おんやうれう)の者の勘(かん)
文(もん)にも。元日の日蝕(につしよく)は大臣(だいじん)君(きみ)を侵(おか)す凶兆(けうてう)にて候へば。天子(てんし)の御 身(み)に深(ふか)き御 慎(つゝし)み在(ましま)す
べきよし奏達(そうたつ)仕(つかまつ)り候。此上(このうへ)は早(はや)く道真(みちざね)を退(しりぞ)け給ひて災害(わざはひ)を禳(はら)ひ給ふべしと弁(べん)
舌(ぜつ)巧(たくみ)に奏(そう)しけるにぞ。帝(みかど)は先頃(せんころ)より侫臣(ねいしん)の讒奏(ざんそう)にて御 疑念(ぎねん)を生(しやう)じ給ひし上(うへ)女御(にようご)
よりも時々(より〳〵)菅公(かんこう)を退(しりぞ)け給ふべきよし内奏(ないそう)ありけるにより。浸潤之譖(しんじゆんのしん)遂(つひ)に行(おこな)はれ。膚(ふ)

受(じゆ)の愬(そ)忽(たちま)ちに成(なり)。さしも明智(めいち)の帝(みかど)も。元日(ぐわんじつ)の日蝕(につしよく)といひ調伏(てうぶく)の形代(かたしろ)を御 覧(らん)ありて
睿慮(ゑいりよ)暗(くら)みて大いに逆鱗(げきりん)在(ましま)し。然(しか)る上は道真(みちざね)及(およ)び四人(よにん)の男(せがれ)の宦(くわん)を損(おと)して遠島(ゑんとう)へ
流罪(るざい)せしめ。斉世(ときよ)をも落飾(らくしよく)せしめよと倫命(りんめい)をぞ下(くだ)し給ひける。時平(しへい)奉(うけたまは)り事成(しすました)り
と独(ひとり)笑(ゑみ)して君前(くんぜん)を退(しりぞ)き。光。定国(さだくに)。菅根(すがね)。清貫(きよつら)。希世(まれよ)等(とう)の奸徒(かんと)に勅詔(ちよくぜう)の趣(おもむ)きを申
聞(きか)せ。ともに笑坪(ゑつぼ)に入。急(きう)に宣命(せんみやう)を書記(したゝめ)させて。大納言(だいなごん)清貫(きよつら)を勅使(ちよくし)とし。解宦(げくわん)謫罪(てきざい)
の旨(むね)を菅家(かんけ)へ申 遣(つかは)しけるぞ無道(ぶどう)なりける。時(とき)に菅公(かんこう)はかゝる凶変(けうへん)有(あり)とも知(しり)玉はず
御 参内(さんだい)あらんとて已(すで)に衣冠(いくわん)を着(つけ)給ひし所(ところ)に。俄(にはか)に大納言(だいなごん)清貫(きよつら)宣命(せんみやう)を捧(さゝげ)て入来(いりきた)
りければ。菅公(かんこう)訝(いぶか)り給ひ。俄(にはか)の宣旨(せんじ)何事(なにごと)にやと御 不審(ふしん)晴(はれ)玉はねども。早速(さつそく)客殿(きやくでん)へ
請(しやう)じ。入来(じゆらい)の旨(むね)を問(とひ)給ひけるに。清貫(きよつら)菅公(かんこう)に対(むか)ひ。主上(しゆぜう)貴卿(きけい)に御 不審(ふしん)の義(ぎ)御座(おはし)
まして。右大臣(うだいじん)の宦位(くわんゐ)を剥(はぎ)。太宰権帥(だざいごんのそつ)【師は誤】に任(にん)ぜられ筑紫(つくし)へ左遷(させん)【迁は俗字】させられ。并(ならび)に四人の子(し)
息(そく)達(たち)も解宦(げくわん)して遠島(ゑんとう)へ移(うつ)すべしとの勅詔(みことのり)なり最(もつとも)格別(かくべつ)の御 仁心(じんしん)を以(もつ)て女性(によせう)方(がた)に

御 咎(とがめ)なし難有(ありがたく)倫命(りんめい)の趣(おもむ)きを拝聴(はいちよう)せられよとて。宣命(せんみやう)を捧(さゝ)げ読(よむ)其(その)文意(ぶんい)は
右大臣(うだいじん)菅原道真(すがはらのみちざね)義(ぎ)莫大(ばくだい)の朝恩(てうおん)を忘却(ぼうきやく)し。我(わが)婿(むこ)たる斉世(ときよ)を帝位(ていゐ)に即(つけ)其(その)
身(み)外舅(ぐわいきう)の威(い)を恣(ほしいまゝ)にせん為(ため)隠謀(いんばう)を企(くはだて)朕(ちん)を調伏(てうぶく)せんと謀(はか)る。其罪(そのつみ)死刑(しけい)にも行(おこな)ふ
べきなれども。先帝(せんてい)の御 愛臣(あいしん)たるを以(もつ)て死罪(しざい)一 等(とう)を免(ゆる)し。右大臣(うだいじん)の宦位(くわんゐ)を削(けづ)り
太宰権帥(だざいごんのそつ)【師は誤】とし筑紫(つくし)へ左遷(させん)【迁は俗字】せしむる者(もの)なり。并(ならび)に長男(ちようなん)右大弁(うだいべん)高恒(たかつね)は土佐国(とさのくに)次(じ)
男(なん)式部大丞景行(しきぶのだいぜうかげつら)は佐渡国(さどのくに)。三男(さんなん)蔵人(くらんど)景茂(かげしげ)は讃岐国(さぬきのくに)。四男(よなん)秀才(しうさい)敦茂(あつしげ)は伊予国(いよのくに)。各(おの〳〵)
解宦(げくわん)し配流(はいる)せしむべしとなり菅公(かんこう)大いに駭(おどろ)き給ひ。是(これ)左大臣(さだいじん)及(およ)び光(ひかる)定国(さだくに)等(ら)が
讒奏(ざんそう)に依(よつ)て。さしも聰敏(そうびん)の明君(めいくん)も侫舌(ねいぜつ)に惑(まど)はされ給ひ。辜(つみ)なき道真(みちざね)に罪名(ざいめい)を給ふ
なるべし。是(これ)天(てん)なり命(めい)なりと歎息(たんそく)し給ひて。為方(せんかた)なく宣旨(せんじ)の趣(おもむ)き奉(うけたまは)り候と領掌(れうぜう)
ありけるにぞ。清貫(きよつら)はしたり皃(かほ)に。罪名(ざいめい)極(きはま)る上(うへ)は疾々(とく〳〵)配所(はいしよ)へ赴(おもむ)く准備(ようい)せらるべしと憎(にく)さげ
に言捨(いひすて)笑(ゑみ)を含(ふくん)でぞ立(たち)かへりける。其(その)後(あと)にて菅公(かんこう)の御台所(みだいどころ)を先(さき)とし御 子息(しそく)達(たち)姫君(ひめぎみ)

女房(にようばう)達(たち)家士(かし)島田忠臣(しまだたゞおみ)。田口辰音(たぐちたつおと)。渡会春彦(わたらへはるひこ)なんど。夢(ゆめ)に夢(ゆめ)見し如(ごと)く。是(こ)は如何(いか)なる
勅詔(ちよくぜう)ぞや。一 点(てん)も曇(くもり)なき御 身(み)にかゝる無実(むしつ)の罪(つみ)を負(おふ)せ給ふ恨(うら)めしさよと。泣悲(なきかなし)む声(こゑ)館(やかた)【舘は俗字】
の内(うち)に充満(みち〳〵)たり。忠臣(たゞおみ)。辰音(たつおと)。春彦(はるひこ)等(ら)は堪(こらへ)かねて菅公(かんこう)に向(むか)ひ。君(きみ)聊(いさゝか)の御 過(あやまち)も在(まし)まさぬ
に。かゝる無実(むしつ)の罪命(ざいめい)を称(となへ)られ給ふは讒者(ざんしや)の所為(しわざ)なる事 鏡(かゞみ)にかけざれども顕然(げんぜん)たり。何(なに)
ゆへ一 応(おう)も再応(さいおう)も御 陳謝(まうしひらき)なし玉はざる。疾々(とく〳〵)御 参内(さんだい)ありて御 身(み)に罪 無(なき)よしを歎(たん)
奏(そう)なし給ふべし。某(それがし)們(ら)随従(おんとも)し。若(もし)讒人(ざんにん)們(ばら)妨(さまた)げなし候はゞ一々に斬(きつ)て捨(すて)。不敬(ふけい)の罪(つみ)を身(み)
に引受(ひきうけ)其場(そのば)にて自殺(じさつ)仕(つかまつ)るべしと言上(まうしあげ)けるを。菅公(かんこう)制(せい)し給ひ。予(われ)素(もとよ)り讒者(ざんしや)の所為(しわざ)也(なり)
とは疾(とく)知(しる)といへども。倫言(りんげん)は汗(あせ)の如(ごと)く出(いで)て再(ふたゝ)び反(かへ)るべきにあらず。道真(みちざね)が無失(むしつ)の罪(つみ)に淪(しづ)
む事。奸徒(かんと)の讒奏(ざんそう)に依(よる)ところ也(なり)といへども是(これ)定業(でうがう)なり。其(その)故(ゆへ)は往年(そのかみ)渤海使(ぼつかいし)裴(はい)
頲(てい)予(よ)を相(さう)して曰(いはく)。後年(こうねん)必(かなら)ず位(くらゐ)三公(さんこう)に進(すゝむ)べし。然(しかれ)ども久しく高位(かうゐ)に居(ゐ)なば。禍(わざは)ひ其身(そのみ)に
及(およぶ)べしと。果(はた)して其(その)言(ことば)の如(ごと)く。不肖(ふせう)の道真(みちざね)先帝(せんてい)の睿慮(ゑいりよ)に協(かな)ひ追々(おひ〳〵)に位階(ゐかい)を進め

給ひて遂(つひ)に三 台(たい)の高宦(かうくわん)を授(さづけ)給へり。予(われ)君命(くんめい)の忝(かたしけな)きを以(もつ)て一 旦(たん)槐位(くわいゐ)を汚(けが)せども。相者(さうしや)の
誡(いましめ)を想(おも)ひ。一 月(げつ)立(たつ)て三度(みたび)まで表(へう)を奉りて宦(くわん)を辞(じ)したれども。主上(しゆぜう)も上皇(じやうかう)も敢(あへ)て許(ゆる)し
玉はず。さるに依(よつ)て。末(すへ)終(つひ)に禍(わざは)ひの身(み)に及(およ)ばん事を知(しる)といへども。君忠(くんちう)を重(おも)んじて今日(こんにち)まで
三 公(こう)の高位(かうゐ)に居(おれ)り。去年(きよねん)三善清行(みよしきよゆき)天文(てんもん)を考(かんが)へ予(よ)が災害(さいがい)に遭(あは)ん事を先知(せんち)し。諫(かん)
書(しよ)を贈(おくつ)て宦位(くわんゐ)を辞(じ)せよと勧(すゝめ)しかども。已(すで)に先年(せんねん)三度(みたび)辞表(じへう)を奉(たてまつ)れども勅免(ちよくめん)なき
上(うへ)は。今更(いまさら)身(み)の禍(わざは)ひを免(まぬか)れんとて。君忠(くんちう)を顧(かへりみ)ず身の安逸(あんいつ)を計(はかる)は忠臣(ちうしん)にあらずと
所存(しよぞん)を定(さだ)め。清行(きよゆき)が諫(いさめ)をも聞捨(きゝすて)しぞかし。此身(このみ)の無実(むしつ)の罪(つみ)に沈(しづ)む事は素(もとよ)り定(さだま)
れる天命(てんめい)なれば。誰(たれ)をか怨(うら)み誰(たれ)をか悪(にく)むべき。もし道真(みちざね)無実(むしつ)の罪(つみ)に淪(しづ)むべき
天数(てんすう)なくんば。讒者(ざんしや)蘇秦(そしん)。張儀(ちようぎ)の舌(した)を借(かつ)て君(きみ)に讒愬(ざんそ)すとも。何(なん)ぞ道真(みちざね)を配(はい)
所(しよ)の新島守(にいしまもり)となす事を得(え)んや。文王(ぶんわう)も羐里(ゆうり)【羑は俗字】に七年 囚(とら)はれ。孔子(かうし)も三 月(げつ)陳蔡(ちんさい)に囲(かこ)
まれ玉へり。聖人(せいじん)さへ時(とき)の不肖(ふせう)は免(まぬか)れ玉はず況(いはん)や凡庸(ぼんよう)の道真(みちざね)に於(おいて)おや。你(なんじ)達(たち)が忠(ちう)

義(ぎ)の志(こゝろざ)しは喜(うれし)けれども。右(みぎ)申聞すごとくなれば。参内(さんだい)して歎奏(たんそう)する所存(しよぞん)なしと悟(さと)り
きり玉ひし御一 言(ごん)に。島田(しまだ)。田口(たぐち)。渡会(わたらへ)はじめ。其余(そのよ)の誰々(たれ〳〵)も。反(かへ)し奉るべき詞(ことば)もなく。皆(みな)
無念(むねん)の涙(なみだ)にくれてぞ居(ゐ)たりける。去程(さるほど)に同年(どうねん)正月廿五日。上卿(じやうけい)には大納言(だいなごん)菅根(すがね)識事(しよくじ)【職の誤ヵ】
には右中弁(うちうべん)希世(まれよ)時平(しへい)の下知(げぢ)を受(うけ)撿非違使(けひゐし)の下司(したつかさ)。看督長(かとのゝおさ)に異(あやし)の張輿(はりごし)五挺(いつかた)舁(かゝ)せ
菅家(かんけ)に到(いた)りて発足(ほつそく)をせり立(たて)ける。菅公(かんこう)は兼(かね)て期(ご)し給ひし事なれば。右大臣(うだいじん)の衣(い)
冠(くわん)を脱捨(ぬぎすて)白(しろ)き狩衣(かりぎぬ)烏帽子(えぼし)を着(めし)て。御台(みだい)御子息(ごしそく)方(がた)姫君(ひめぎみ)達(たち)と別離(わかれ)の土器(かはらけ)を酌(くみ)
かはし給ひけるが。流石(さすが)無実(むしつ)の罪(つみ)に沈(しづ)み恩愛(おんあい)の妻子(つまこ)と生別(いきわかれ)し給ふを悲(かなし)み給ひ一 首(しゆ)の
和歌(わか)を詠(えい)じ給ひ。渡会春彦(わたらへはるひこ)を御 使(つかひ)にて。仁和寺(にんわじ)に在(ましま)す法皇(ほふわう)に献(たてまつ)【ママ】給ふ御 歌(うた)に曰
  ながれ行(ゆく)わが身(み)藻屑(もくず)となりぬとも君(きみ)柵(しがらみ)となりてとゞめよ
春彦(はるひこ)是(これ)を給(たま)はりて泣々(なく〳〵)仁和寺(にんわじ)の御所(ごしよ)へ赴(おもむ)きけり。菅公(かんこう)は島田忠臣(しまだたゞおみ)に御台所(みだいどころ)姫(ひめ)
君(ぎみ)達(たち)の御 介抱(かいほう)の義(ぎ)を託(たく)し給ひ。御 身(み)は田口辰音(たぐちたつおと)を随従(おんとも)とし張輿(はりこし)に乗(めし)給ひければ

四人の御 子息(しそく)も愁然(しほ〳〵)として各(おの〳〵)張輿(はりごし)へ乗(のり)給ひける。是(これ)を見(み)給ひ御台(みだい)姫君(ひめぎみ)声(こゑ)を放(はなつ)て
よゝと泣伏(なきふし)給ひ。女房(にようばう)達(たち)諸士(しよし)奴隷(しもべ)婢女(はしため)にいたる迄(まで)御 別(わかれ)を悲(かなし)みて哀慟(あいどう)しける。実(げに)や別(べつ)
離(り)の中に生別(しやうべつ)ほど悲(かな)しきはあらずと古人(こじん)の言(いひ)けんも。今 人々(ひと〴〵)の身(み)の上(うへ)に思(おも)ひ合(あは)され。心なき下(した)
宦(づかさ)駕輿丁(かよてう)も不覚(すゞろ)に袂(たもと)を沾(ぬら)しける。増(まし)てや菅公(かんこう)の御 心(むね)の中(うち)さこそ悲(かな)しみ給ふべけれども
さり気(げ)なき御 顔色(がんしよく)にて涙(なみだ)の色(いろ)も見せ玉はぬ御心中を推量(おしはか)り泣(なか)ぬ人こそ無(なか)りけり
斯(かく)て駕輿丁(かよてう)【「与」は当て字】們(ら)思(おも)ひ〳〵に五挺(ごてう)の張輿(はりごし)を舁上(かきあげ)て館(やかた)【舘は俗字】の門を立出(たちいで)ければ。菅根(すがね)希世(まれよ)は左(さ)
大臣(だいじん)の館(やかた)【舘は俗字】へ帰(かへ)り五挺(いつかた)の輿(こし)も五方(ごはう)に別(わか)れて舁行(かきゆき)けり。されば菅公(かんこう)御 左遷(させん)【迁は俗字】の憂情(ゆうじやう)を
述(のべ)給ひし二十八 韻(いん)の御 詩(し)の中にも聞人(きくひと)腸(はらはた)を断(たつ)想(おもひ)せしは
     《振り仮名:自_二従勅使駈将去_一|ちよくしにかられてまさにさりしより》  父子(ふし)一時(いちじに)五所(ごしよに)離(はなる)
     口(くち)《振り仮名:不_レ能_レ言|いふことあたはず》眼中(がんちうは)血(ち)  俯仰(ふけうす)天神(てんじん)与(と)地祇(ちぎと)
啞(あゝ)悼(いたま)しいかな仁明(にんみやう)文徳(もんどく)陽成(やうぜい)光孝(くわうかう)宇多(うだ)の五 帝(てい)に事(つか)へ忠勤(ちうきん)怠(おこたり)なく。朝政(てうせい)の為(ため)に

哺(ほ)を吐(はき)給ひし忠臣(ちうしん)も忽(たちま)ち讒舌(ざんぜつ)の為(ため)に無辜(つみなう)して左遷(させん)【迁は俗字】の客(かく)と成(なり)給ふこそ是非(ぜひ)なけれ
実(げに)や古人(こじん)も叢蘭(そうらん)茂(しげら)んとすれば秋風(しうふう)是(これ)を破(やぶ)り。日月(じつげつ)明(あきらか)ならんとすれば浮雲(ふうん)是(これ)を掩(おほふ)
と賦(ふ)し。又 人君(じんくん)治(おさめ)んと事を願(ねがへ)ば侫臣(ねいしん)是(これ)を乱(みだ)すと言(いひ)けんも。今 延喜(えんぎ)の御代(みよ)に思(おも)ひ
合されける。菅公(かんこう)無実(むしつ)の罪(つみ)を得(え)給ひて左遷(させん)【迁は俗字】せられ給ふ事を洛中(らくちう)洛外(らくぐわい)の人民(にんみん)聞伝(きゝつたへ)て
大いに駭(おどろ)き今の世(よ)菅(かん)丞相(しやう〴〵)居(ゐ)玉はずんば。朝廷(てうてい)の政(まつりごと)乱(みだ)れ世(よ)は暗闇(くらやみ)に等(ひとし)しかるべしとて
貴賎(きせん)老若(らうにやく)とも騒(さは)ぎ惑(まど)ひ。左大臣(さだいじん)は止(とゞま)り右大臣は流(なが)され給ふ以(もつ)て右流左止(うるさし)〳〵とぞ言(いひ)
詈(のゝし)りける今の世(よ)まで心に憂(うし)とおもふ事を右流左止(うるさし)といへるは此言(このことば)の遺(のこ)れるなり。誠(まこと)に
末代(まつだい)まで賢王(けんわう)と称(しやう)せられ給ふ延喜(えんぎ)の帝(みかど)も。菅公(かんこう)を左遷(させん)【迁は俗字】し給ひしは御(ご)一 代(だい)の御
過(あやまり)にて在(ましま)しけり。是(こ)は且(しばらく)おき菅公(かんこう)は二月 朔日(ついたち)に住馴(すみなれ)し館(やかた)【舘は俗字】を出(いで)給ひ夢路(ゆめぢ)を剽(たど)る
御 心地(こゝち)にて駕(めし)も馴(なれ)玉はざる張輿(はりごし)に淘(ゆら)れ。都(みやこ)の街(まち)通(とふ)らせ給ふを。老若(らうにやく)男女(なんによ)路(みち)の両(りやう)
辺(へん)に充満(じうまん)して御 余波(なごり)を惜(をし)み涕泣(なきかなし)む声(こゑ)街(ちまた)に充(みて)り。情(なさけ)をしらぬ下吏(したやくにん)們(ら)妨(さまたげ)に成(なる)

者を苔懲(うちこら)し追(おつ)はらひ已(すで)に五条(ごでう)坊門(ばうもん)西洞院(にしのとういん)を通(とふ)りけるに。此所(このところ)に紅梅殿(かうばいどの)とて菅家(かんけ)
御 別館(しもやかた)【舘は俗字】有(あり)ければ。菅公(かんこう)看督長(かとのおさ)を召(めさ)れ苦(くる)しからずば少時(しばし)別館(しもやかた)【舘は俗字】へ立寄(たちよら)まほしき
よし仰(あふせ)けるに。長(おさ)は情(なさけ)ある者(もの)にて領掌(れうぜう)し。都(みやこ)をば子剋(ねのこく)《割書:夜の|九ツ》限(かぎ)りに出(いだ)し進(まい)らせよとの命(あふせ)
令(わたさ)れにて候へば。宵(よひ)の程(ほど)は苦(くる)しかるまじく候とて。輿(こし)を舁居(かきすへ)て入奉りけるにぞ。菅公(かんこうい)大に
御 喜悦(きえつ)あつて打通(うちとふ)らせ給ひけるに。思(おもひ)もよらず御台所(みだいどころ)姫君(ひめぎみ)達(たち)も。今 一度(ひとたび)の御 対面(たいめん)
を願(ねがは)んとて。昼(ひる)より紅梅殿(かうばいどの)へ来(きた)り給ひ。御 通行(つうかう)を待(まち)とり給ひし事なれば。転(まろ)び出(いで)て公(こう)
の御 狩衣(かりぎぬ)にとり搥(すが)り左右(とかう)の御 言(ことば)もなく面々(めん〳〵)に声(こゑ)を放(はなつ)て泣(なき)給ふ。菅公(かんこう)駭(おどろ)き給ひ急(きう)に
制(せい)し給ひて。思(おも)ひきや你達(なんたち)に此所(こゝ)にて再(ふたゝ)び対面(たいめん)せんとはとて。今更(いまさら)心(むね)塞(ふさが)る心地(こゝち)し給ひ何(なに)
是(くれ)と御 物語(ものがたり)ありて不覚(おぼへず)時(とき)を移(うつ)し給ひけり。然(しかる)に不思議(ふしぎ)なりけるは。洛中(らくちう)の寺院(じいん)の僧(そう)
徒(と)。菅公(かんこう)今夜(こんや)九ッ時(どき)限(かぎり)に帝都(ていと)を出(いで)給ふと伝聞(つたへきゝ)。誰(たれ)言合(いひあは)さねども九ッの鐘(かね)を撞(つか)ず加(しか)
之(のみ)ならず御 名残(なごり)惜(をし)さに八ツ七ツの鐘も撞(つか)ざりければ。警固(けいご)の宦人(くわんにん)們(ら)も夜(よ)の更(ふく)るを

しらず皆(みな)何心(なにごゝろ)なく坐睡(ゐねふり)て在(あり)けるに。六 角堂(かくどう)東寺(とうじ)などに晨朝(じんでう)の鐘(かね)を撞鳴(つきなら)しけるに
打駭(うちおどろ)き眼(め)を覚(さま)して天(そら)を見れば。早(はや)東雲(しのゝめ)の頃(ころ)なるにぞ。大いに駭(おどろ)いて田口辰音(たぐちたつおと)を呼出(よびいだ)し
少時(しばし)の内(うち)に仰(あふせ)けるゆへ。私(わたくし)に此館(このやかた)へ入(いれ)進(まい)らせ候ひしに。早(はや)夜(よ)も明方(あけがた)になり候。疾々(とく〳〵)出(いで)させ給ふ
やう言上(まうしあげ)玉はれと言(いひ)けるにぞ。辰音(たつおと)諾(だく)して菅公(かんこう)へ右の由(よし)申上ければ。公(こう)も鐘声(かねのこゑ)御 心(むね)に徹(てつ)
し。夜(よ)明(あけ)なば人目(ひとめ)も恥(はづか)【耻は俗字】しとて。御 名残(なごり)は尽(つき)せねども心強(こゝろづよ)く立出(たちいで)給ふ。御台(みだい)姫君(ひめぎみ)達(たち)は今(いま)
更(さら)御 別(わかれ)の悲(かな)しさに声(こゑ)を惜(をしま)ず泣沈(なきしづみ)給ひ。七ッ五ッの幼(いとけな)き姫君(ひめぎみ)は父君(ちゝぎみ)の袂(たもと)に搥(すが)り裾(すそ)に纏(まつは)
りて泣叫(なきさけび)給ふ。目(め)も当(あて)られぬ風情(ふぜい)なり。公(こう)は是等(これら)をも振払(ふりはら)ひ給ひて立出(たちいで)給ふに早(はや)明方(あけがた)の
仄明(ほのあか)きに御 愛樹(あいじゆ)の紅梅(かうばい)今を盛(さかり)と咲乱(さきみだれ)しを御 覧(らん)じ。是(これ)ぞ都(みやこ)の春(はる)の名残(なごり)と思召(おぼしめし)
  東風(こち)ふかば匂(にほ)ひをこせよ梅(うめ)のはな主(あるじ)なしとて春(はる)なわすれそ
と詠(えい)じ給ひまた桜(さくら)を御 覧(らん)あるにまだ花(はな)は咲(さか)ざれども終(つひ)の盛(さかり)を思(おぼ)しやりて
  さくら花(ばな)ぬしを忘(わす)れぬものならば吹(ふき)こん風(かぜ)にことづてはせよ

時(とき)を感じては花(はな)も涙(なみだ)を灑(そゝ)ぎ別(わかれ)を惜(をしみ)ては鳥(とり)も心を驚(おどろか)すならひ見物(みるもの)皆(みな)御心を悼(いた)ま
しめざるはなし。春(はる)の曙(あけぼの)の艶(ゑん)なるもかゝる謫行(てきかう)の折(をり)からなれば。哀(あは)れに物悲(ものがな)しく覚(おぼへ)給ひ
平日(つね)に菅公(かんこう)を敬(うやま)ひ。親(したし)み睦(むつ)びたる人々(ひと〴〵)も。今般(このたび)の御 左遷(させん)【迁は俗字】を歎(なげ)き朝廷(てうてい)を恨(うら)み訕(そし)れども
流石(さすが)左大臣家(さだいじんけ)の咎(とがめ)を怕(おそ)れてや御 見送(みおくり)に参(まゐ)る人も少(すくな)くすご〴〵と紅梅殿(かうばいどの)を出(いで)給ふ
 因(ちなみ)に曰。北野(きたの)天満宮(てんまんぐう)御 造営(ぞうえい)の後(のち)。六 角堂(かくどう)東寺(とうじ)などに晨朝(あけむつ)の鐘(かね)を撞(つけ)ば神殿(しんでん)
 大いに鳴動(めいどう)しけるゆへ其後(そのゝち)は六 角堂(かくどう)東(とう)寺とも明(あけ)六(むつ)の鐘(かね)を撞(つか)ずとかや
斯(かく)て菅公(かんこう)上鳥羽(かみとは)まで到(いたり)給ふ所。此所(こゝ)より御 船(ふね)に乗(めし)給ふべきよし申。船(ふな)がりの宦(くわん)
人(にん)へ曳渡(ひきわた)し都(みやこ)の宦人(くわんにん)は皆(みな)帰(かへ)り。菅公(かんこう)を御 見送(みおくり)の御 親族(しんぞく)御 門人(もんじん)達(たち)も皆(みな)涙(なみだ)の袖(そで)
を別(わか)ちて帰(かへ)られける。其中(そのなか)に御台所(みだいどころ)より御 見送(みおくり)の使者(ししや)を返(かへ)し給ふとて
  君(きみ)がすむやどの木末(こずえ)をゆく〳〵も隠(かく)るゝまでにかへり見しかな
と詠(えい)じて御台所(みだいどころ)へ贈(おくり)給ひけり。然(しか)る所(ところ)に渡会春彦(わたらへはるひこ)喘々(あへぎ〳〵)走来(はしりきた)りければ。菅公(かんこう)御

覧(らん)じて近(ちか)く召(めさ)れ。いかにや春彦(はるひこ)法皇(ほふわう)の御所(ごしよ)へ参(まい)り予(よ)が歌(うた)を献(たてまつ)りしやと問(とひ)給ふ。春(はる)
彦(ひこ)砂地(すなち)に跪(ひざまづ)き。さん候 御室(おむろ)御所(ごしよ)へ参上(さんぜう)し。御 短冊(たんざく)を差上(さしあげ)候ところ。法皇(ほふわう)以(もつて)の外(ほか)に驚(おどろ)
かせ給ひ。主上(しゆぜう)御 年若(としわか)くして讒者(ざんしや)の詞(ことば)に惑(まどは)され給ひ。朝廷(てうてい)の忠臣(ちうしん)たる道真(みちざね)を無罪(つみなき)に
左遷(させん)【迁は俗字】し給ふこそ薄情(うたて)けれ。今の世(よ)に道真(みちざね)なくんば万民(ばんみん)の歎(なげ)き世(よ)の騒(さはぎ)と成(なり)ぬべし。帝(みかど)
とは申せども我子(わがこ)なり。参内(さんだい)して諫(いさ)め道真(みちざね)が流罪(るざい)を申 宥(なだ)むべし。你(なんじ)我(われ)に随(したが)ひ来(きたれ)よ
と宣(のたま)ひ御 輿(こし)にも乗(めし)玉はず御 草履(ざうり)を履(はい)て大内(おほうち)へ行幸(みゆき)なし給ひ。上西門(じやうさいもん)より入御(じゆぎよ)あり
清涼殿(せいれうでん)に近着(ちかつき)給ひ。開門(かいもん)せよと宣(のたま)へども。左大臣殿(さだいじんどの)の計(はから)ひと相見(あいみ)へ敢(あへ)て御 門(もん)を開(ひら)く
人もなく。増(まし)て御 執奏者(とりつぎのもの)も候はねば。法皇(ほうわう)甚(はな)はだ憤(いきどふ)らせ給ひ。我(われ)に何(なに)の咎(とが)ありて参(さん)
内(だい)を拒(こば)むや。門(もん)を開(ひら)かずんば開(ひら)くまで待(まつ)べしと宣(のたま)ひ。大庭(おほには)の椋樹(むくのき)の下(もと)に停立(たゝずみ)給ひ。日(ひ)
の暮(くれ)るをも厭(いと)ひ玉はず待(また)せ給ふうち。仁和寺(にんわじ)より御 輿(こし)を舁(かき)て大 勢(ぜい)参(まい)られ還御(くわんぎよ)
勧(すゝ)め奉れども。法皇(ほふわう)更(さら)に用(もち)ひ玉はず。余寒(よかん)厲(はげ)しき終夜(よもすがら)。あやなき闇(やみ)に卯(う)の剋(こく)まで

待(まち)給ひけれども。遂(つひ)に御門 開(ひらか)ず執奏(とりつぎ)し奉る人も候はねば。法皇(ほふわう)も御 力(ちから)なくすご〳〵と還(くわん)
御(ぎよ)なし給ひしは誠(まこと)に恐(おそれ)多(おほ)き御事にて候ひし。小宦(やつかれ)は君(きみ)の随遂(おんとも)申 筑紫(つくし)へ下り候よしを
言上(まうしあげ)御暇(おんいとま)を願(ねが)ひ是(これ)まで馳(はせ)参(まいり)候と。事の始末(はじめをはり)を委(くわし)く言(ごん)上しけるにぞ菅公(かんこう)御 落涙(らくるい)に
狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)を浸(ひた)し給ひ。法皇(ほふわう)数(かづ)ならぬ臣(しん)が左遷(させん)【迁は俗字】を憐(あはれ)み給ひ。至尊(しそん)の御 身(み)に泥土(でいど)を
踏(ふま)せ給ひ。剰(あまつさ)へ春寒(しゆんかん)の御 膚(はだへ)を犯(おか)し奉るをも厭(いと)はせたま玉はず。終夜(よもすがら)玉体(ぎよくたい)を苦(くるし)め奉りしは
偏(ひとへ)に道真(みちざね)が罪(つみ)なりとて仁和寺(にんわじ)の方を遥拝(ようはい)し給ひける。船方(ふなかた)の宦人(くわんにん)們(ら)は。時剋(じこく)移(うつ)り候
あいだ疾(とく)御 船(ふね)に乗(めし)給へと急(いそ)がし奉りければ。菅公(かんこう)春彦(はるひこ)に仰(あふせ)けるやう。今 聞(きく)ごとくなれば
予(われ)は乗船(じやうせん)し筑紫(つくし)へ赴(おもむ)けば。今生(こんじやう)にて再会(さいくわい)せん事も預(あらかじ)め定(さだめ)がたし。你(なんじ)は故郷(こけう)へ帰(かへ)
り。心 長閑(のどか)に老(おひ)を養(やしな)ひ候へと言捨(いひすて)船(ふね)に乗(のら)んとし給ふを。春彦(はるひこ)忙(いそが)しく御 裾(すそ)を曳(ひき)とめ
是(こ)は何(いか)なる仰(あふせ)にて候や。抑(そも〳〵)君(きみ)御出生(ごしゆつせう)の昔(むかし)より今日(こんにち)にいたる迄(まで)。一日も御 館(やかた)【舘は俗字】を去(さら)ず重(ぢう)
代(だい)の主君(しゆくん)と思(おも)ひ事(つか)へ奉り候ひしに。斯(かく)左遷(さすらへ)【迁は俗字】の御 身(み)と成(なり)給ひ。遠(とふ)く配所(はいしよ)へ赴(おもむ)き給ふを

【右丁】
仁和寺(にんわじ)の
法皇(ほうわう)主上(しゆじやう)を
諫(いさ)め玉はんと
宮門(きうもん)に立(たゝ)せ
  給ふ図(づ)

【左丁 絵画のみ】

争(いかで)か見捨(みすて)奉り候べき。小宦(やつかれ)当年(とうねん)八十才。翌日(あす)をもしらぬ露命(ろめい)をかばひ。故郷(こけう)へ帰(かへ)る存(ぞん)
心(しん)毛頭(もうとう)候はず。老(おひ)に耄(ほれ)て御 脚手(あして)纏(まとひ)と思召(おぼしめし)筑紫(つくし)の随従(おんとも)に召連(めしつれ)玉はずば。生(いき)て中(なか)
々 物思(ものおも)ひし候はんより。此(この)水底(みなそこ)へ身(み)を没(とう)じ候べしとて。已(すで)に川へ飛入(とびこま)んとするにぞ田(た)口 辰音(たつおと)慌(あはて)
て抱(いだ)きとめ。老人(らうじん)の斯程(かほど)まで思詰(おもひつめ)候へば。万望(なにとぞ)随従(おんとも)に召連(めしつれ)させ給へと願(ねが)ひけるにぞ。公(こう)も
御 承引(せういん)在(ましま)し。さらば兔(と)【兎は俗字】も角(かく)もとて御 船(ふね)に乗(のり)給ふ。春彦(はるひこ)大いに怡(よろこ)び辰音(たつおと)が好意(なさけ)を謝(しや)し
ともに船(ふね)へ乗移(のりうつ)りけるにより。宦人(くわんにん)船子(ふなこ)に纜(ともづな)を解(とか)せ。西を臨(のぞ)んで船(ふね)を走(はし)らせける
     菅公(かんこう)《振り仮名:遺_二于道明寺木像_一|どうみやうじにもくぞうをのこす》  播州(ばんしう)曽根(そね)手枕松(たまくらのまつ)之(の)事(こと)
斯(かく)て御船(みふね)は追風(おひて)に従(したが)ひ八幡(やはた)山崎(やまざき)をも走過(はしりすぎ)けるに。日和(にわ)変(かはり)て雨(あめ)そぼ〳〵と降出(ふりいだ)し漸(しだ)
々(い)に降増(ふりまさ)りて苫(とま)洩(もる)雫(しづく)も紡績(いぶせ)かりければ。船子(ふなこ)も御 痛(いた)はしく思(おも)ひ。河内国(かはちのくに)佐田(さだ)の里(さと)
へ御 船(ふね)を着(つけ)雨(あめ)の霽(はれ)るを待(まち)けるに当所(とうしよ)の長(おさ)真木某(まさきそれがし)菅公(かんこう)御 船(ふね)なるよし聞(きゝ)て。御
船(ふね)へ参(まい)り。余(あま)りの大雨にて候 程(ほど)に某(それがし)が茅屋(ばうおく)へ入せ給ひ。今宵(こよひ)は草(くさ)の蓆(むしろ)に一夜を明(あか)させ

給へと言上(まうしあげ)ければ。菅公(かんこう)怡(よろこ)ばせ給ひ警固(けいご)の宦人(くわんにん)に此義(このぎ)如何(いかゞ)あるべきと問(とは)せ給ふに苦(くる)しからず
候よし申により。辰音(たつおと)春彦(はるひこ)宦人(くわんにん)等(ら)を召連(めしつれ)給ひ。真木(まき)に郷導(あない)させて其家(そのいへ)へ到(いた)り給ふ。真(ま)
木(き)は大いに尊敬(そんけう)して御 土器(かはらけ)を献(たてまつ)り餉(かれいひ)を勧(すゝめ)まいらせなどして管侍(もてなし)ければ。公(こう)其(その)深情(しんじやう)を謝(しや)
し給ひ。そも当所(とうしよ)は何と申 里(さと)ぞと問(とひ)給ふに。家翁(あるじ)答(こたへ)て。河内国(かはちのくに)佐田(さだ)と呼(よび)候と言上(まうしあげ)ける。然(しから)
ば此里(このさと)より当国(とうごく)道明寺(どうみやうじ)へは程(ほど)遠(とふ)きや否(いな)やと問(とひ)給ふ。家翁(あるじ)また答(こたへ)て道明寺(どうみやうじ)へは凡(およそ)
五 里(り)ばかりもや候べきと言上(まうしあげ)ける菅公(かんこう)曰(のたまは)く。道明寺(どうみやうじ)の住侶(ぢうりよ)覚寿尼(かくじゆに)と申は予(よ)が伯母御(おばご)
前(ぜん)なり都(みやこ)に在(あり)し時(とき)は公務(こうむ)繁(しげ)く訪(とふら)ひ進(まいら)す暇(いとま)もなかりき。今 左遷(さすらへ)【迁は俗字】の身(み)となりて程(ほど)
遠(とふ)からぬ此里(このさと)へ来(き)しは不設(まうけぬ)僥倖(さいはひ)なり。日(ひ)もいまだ黄昏(くれがて)なれば伯母(おば)許(がり)訪(とふら)ひたし。此事ゆるし
てんやと警固(けいご)の武士(ぶし)に願(ねが)ひ給ひければ。今夜(こんや)の内(うち)ばかりの御事ならば苦(くる)しかるまじく候 未(み)
明(めい)には還(かへら)せ給ふべしと御承(おうけ)申により。菅公(かんこう)怡(よろこ)び給ひ辰音(たつおと)と警固(けいご)の武士(ぶし)を召連(めしつれ)給ひ
御 身(み)は賎(しづ)の竹駕(たけかご)に乗(めし)長(てう)に郷導(あない)させ道(みち)を逸(はや)めさせて道明寺(どうみやうじ)へ到(いた)り給ふに四ッ半(はん)

頃(ごろ)にぞ着(つき)給ひける。是(これ)より以前(いぜん)に覚寿尼公(かくじゆにこう)は。菅公(かんこう)左遷(させん)【迁は俗字】の御 身(み)成(なり)給へりと聞(きゝ)玉ひて
大いに駭(おどろ)き歎(なげ)き給ひ。旦夕(あけくれ)紅涙(かうるい)に法衣(ころも)の袖(そで)を浸(ひた)し給ひけるに。今宵(こよひ)はからず光臨(くわうりん)なし
給ひければ。夢(ゆめ)かと許(ばかり)怡(よろこ)び給ふ中にも。菅公(かんこう)の御 顔(かほ)を見給ふに付(つけ)て。言葉(ことば)より先(まづ)御 涙(なみだ)ぞ
先立(さきだち)ける。菅公(かんこう)は伯母(おば)尼公(にこう)に御 対面(たいめん)ありて其(その)御 無事(ぶじ)を祝(しゆく)し給ひ。配流(はいる)の身(み)と成(なり)候へ
ば再(ふた)の拝顔(はいがん)も期(ご)しがたく。今生(こんじやう)の御 暇乞(いとまごひ)のため参(まいり)候と仰(あふせ)ければ。尼公(あまぎみ)雨々(さめ〴〵)と泣(なき)たまひ
彼(かの)唐土(もろこし)の屈原(くつげん)とやらんが讒言(さかしら)の為(ため)君(きみ)に疎(うと)まれ。江潭(えのほとり)にさまよひしは。見(み)ぬ唐国(からくに)の昔語(むかしがたり)と
のみ思(おも)ひはべりしに。豈(あに)おもひきや今(いま)御 身(み)左遷(さすらへ)【迁は俗字】客(ひと)と成(なり)玉はんとはとて。人の難面(つらさ)世(よ)の憂(うさ)を
算(かぞへ)たて。悔(くや)み恨(かこち)給ひけるが。涙(なみだ)かきはらひて又 曰(のたま)はく。素(もとよ)り過(あやま)ちなく辜(つみ)なき御 身(み)なれば大(おほ)
君(きみ)も程(ほど)なく御 後悔(こうくわい)在(ましま)し。皈洛(きらく)勅免(ちよくめん)の詔命(みことのり)下(くだ)り。芽出度(めでたく)旧(もと)の位(くらゐ)に還(かへり)給ふべき期(ご)も
侍(はべ)るべけれども。尼(あま)は年(とし)いたう老(おひ)て翌日(あす)の命(いのち)も頼(たの)まれず。願(ねが)はくは御 姿(すがた)を絵(ゑ)に写(うつ)しなり
とも木(き)に刻(きざみ)なりともして此寺(このてら)に遺(のこ)し給へ。帰洛(きらく)在(ましま)す迄(まで)の御 筐(かたみ)に。朝夕(あさゆふ)に見(み)まいらせて老(おひ)

の心を慰(なぐさ)め侍(はべ)るべしと望(のぞ)み給ふにぞ。菅公(かんこう)有合(ありあふ)木(き)を以(もつ)て御 手(て)づから御 身(み)の像(ぞう)を刻(きざ)み
給ひけるに。いまだ粗造(あらづくり)の内(うち)に早(はや)八声(やこゑ)の雞(とり)の音(ね)聞(きこ)えければ警固(けいご)の武士(ぶし)駭(おどろ)き已(すで)に暁(あかつき)に
及(およ)び雨(あめ)も疾(とく)霽(はれ)候御 名残(なごり)は尽(つき)すまじく候へども。今は御 船(ふね)へ還(かへら)せ給へと言上(まうしあげ)けるゆへ。菅公(かんこう)も為(せん)
方(かた)なく荒木造(あらきづくり)のまゝ尼公(にこう)へ進(まい)らせ給ひ。御 別(わかれ)を告(つげ)玉ひて立出(たちいて)給ふとて
  啼(なけ)ばこそわかれを急(いそ)げ雞(とり)の音(ね)の聞(きこ)えぬ里(さと)のあかつきもがな
と詠(えい)じ給ひ終(つひ)に道明寺(どうみやうじ)を出(いで)給ひ佐田(さだ)の里(さと)へぞ還(かへ)らせ給ひける。此(この)御 哥(うた)より今 以(もつ)て
河州(かしう)土師村(はじむら)には雞(にはとり)を飼(かは)ずとかや。斯(かく)て佐田(さだ)より又 船(ふね)に乗(のり)給ひ。流(ながれ)に順(したが)ひて摂州(せつしう)渡(わた)
辺(なべ)福島(ふくしま)まで下(くだ)り給ひけるに。西風(にしかぜ)強(つよ)く吹出(ふきいだ)しければ。斯(かく)ては御 船(ふね)を下(くだ)し難(がた)しとて福島(ふくしま)へ
船(ふね)を着(つけ)風(かぜ)の和風(なぐ)を相待(あひまち)ける。其(その)風待(かざまち)の内(うち)に菅公(かんこう)陸(くが)へ上(あが)らせ給ひ。其所(そこ)此処(こゝ)と逍遥(せうよう)し
給ひ融(とふる)の大臣(おとゞ)の都(みやこ)へ潮(うしほ)を運送(うんそう)させられし古邸(ふるやしき)を御 覧(らん)じ其辺(そのほとり)の森蔭(もりかげ)を通(とふ)り玉ひ
けるに。松(まつ)の葉(は)の露(つゆ)風(かぜ)に吹(ふか)れて降落(ふりおち)御 狩衣(かりぎぬ)にかゝりければ菅公(かんこう)とりあへず

  露(つゆ)と散(ちる)涙(なみだ)に袖(そで)は朽(くち)にけり都(みやこ)のことを思(おも)ひいづれば
と詠(えい)じ給へり。後(のち)に此所(このところ)に天満宮(てんまんぐう)を造営(ざうゑい)し露(つゆ)の天神(てんじん)と称(しやう)し奉るも此(この)御 哥(うた)に依(よつ)て号(なづけ)
し所(ところ)なり《割書:俗におはつ|天神といへり》又 風待(かざまち)に御 船(ふね)を着(つけ)し福島にも御社(みやしろ)を建(たて)けり《割書:上中下|三社有》去程(さるほど)に両日(ふつか)許(ばかり)
立(たつ)て西風(にしかぜ)止(やみ)ければ纜(ともづな)を解(とい)て御船を出(いだ)しけるに。是(これ)より追風(おひて)吹続(ふきつゞ)きて摂津路(せつつぢ)を過(すぎ)急(いそ)
ぐともなきに。御船 明石(あかし)の浦(うら)に着(つき)けり。当所(とうしよ)の駅(えき)の長(てう)は。菅公(かんこう)先年(せんねん)讃岐(さぬき)の任(にん)に下(くだ)り給ひし
節(せつ)長(てう)が許(もと)に宿(やど)らせ給ひ。御懇(ごねんごろ)の御 詞(ことば)を下されけるにより。駅長(ゑきてう)忝(なかたしけ)なく思(おも)ひ。重(おも)く尊敬(そんけう)
し種々(しゆ〴〵)管侍(もてな)し奉りしゆへ。今度(このたび)も船(ふね)を下(おり)させ給ひて長(てう)が許(もと)へ入せ給ひけり。駅長(ゑきてう)は菅公(かんこう)の
御 左遷(させん)【迁は俗字】の義(ぎ)を疾(とく)より伝聞(つたへきゝ)。大いに駭(おどろ)き愁(うれ)ひ歎(なげ)きけるに。今 立寄(たちよら)せ給ひしをせめてもの
幸(さいはひ)と深(ふか)く悦(よろこ)び。席(せき)を掃浄(はらひきよめ)て御座(ござ)を設(まうけ)請(しやう)じ入奉り。尊顔(そんがん)を拝(はい)して不覚(ふかく)の涙(なみだ)に
くれ。畳(たゝみ)に額(ひたい)を付(つけ)少時(しばし)頭(かしら)を上(あげ)かねけるが。稍(やゝ)有(あつ)て面(おもて)を起(おこ)し。不慮(ゆくりなし)御左遷(ごさせん)【迁は俗字】を御 悔(くやみ)申上
流涕(りうてい)に膝(ひざ)を浸(ひた)しければ。菅公(かんこう)駅長(えきてう)を制(せい)し玉ひ。一 聯(れん)の句詩(くし)を吟(ぎん)じ給ふ其(その)御 詩(し)に曰

  駅長(えきちよう)《振り仮名:莫_レ驚時変改|おどろくことなかれときのへんじあらたまるを》  一栄(いちゑい)一落(いちらく)是(これ)春秋(しゆんじふ)
駅長(えきてう)是(これ)を拝聴(はいてう)して深(ふか)くか感慨(かんがい)し涙(なみだ)を落(おと)しける。然(しかる)に其夜(そのよ)より大いに逆風(ぎやくふう)吹出(ふきいだ)しけれ
ば順風(じゆんふう)に吹(ふき)なほるまでとて。長(てう)が許(もと)に逗留(とうりう)し給ふ事三日にして漸(よふや)く風(かぜ)追風(おひて)に
なりけるゆへ。船子(ふなこ)より其(その)よし言上(まうしあげ)けるにより。菅公(かんこうい)長(てう)に別(わかれ)を告(つげ)て御 船(ふね)にぞ乗(めさ)れ
ける。駅長(えきてう)は逆風(むかふかぜ)の十年(とゝせ)廿年(はたとせ)吹続(ふきつゞけ)かしと祈(いのり)し甲斐(かひ)なく。今更(いまさら)別(わか)れ奉るを悲(かなし)
み船中(せんちう)の御 慰(なぐさめ)にとて種々(くさ〴〵)の物(もの)を献(たてまつ)り涙(なみだ)ながら御 見送(みおくり)をなし奉りける。物(もの)の哀(あはれ)を
しらぬ船子(ふなこ)ども。早(はや)纜(ともづな)を解(とい)て漫々(まん〳〵)たる海上(かいせう)へ乗出(のりいだ)し帆(ほ)を曳揚(ひきあげ)て追風(おひて)を孕(はらま)せ
御船(みふね)を走(はしら)せけるにぞ。駅長(えきてう)は御 船影(ふなかげ)の見えぬ迄(まで)足(あし)を翹(つまだて)て見送(みおく)り進(まい)らせ泣々(なく〳〵)家(いへ)
路(ぢ)へ帰(かへ)りけり。去程(さるほど)に菅公(かんこう)は所(ところ)狭(せまき)御 船(ふね)の中(うち)より浦山(うらやま)の景色(けしき)を御 覧(らん)ずるにも。一年(ひとゝせ)
讃岐(さぬき)の任(にん)に下(くだ)り給ひし時(とき)は。風景(ふうけい)を翫(もてあそ)び詩歌(しいか)の御 詠吟(えいぎん)有(あり)しに。今は夫(それ)には相反(ひきかへ)て。東(あづま)の
旅(たび)に赴(おもむき)し彼(かの)業平(なりひら)にあらねども。沖(おき)の鴎(かもめ)や都鳥(みやこどり)にいざ事(こと)問(とは)ん便(よすが)もなく。胡地(こち)にさまよふ

蘇武(そぶ)はしらず。雲井(くもゐ)を皈(かへ)る鴈(かり)【注】がねに文(ふみ)言伝(ことづて)ん術(てだて)もなく。岩(いは)に碓(くだく)る浪(なみ)の音(おと)に御心を痛(いた)
ましめ。沖(おき)に汐(しほ)吹(ふく)亀(かめ)の音(おと)に御 魂(たましい)を寒(さむ)からしめ給ひ。泉郎(あま)の呼声(よびこゑ)漁火(いさりび)の影(かげ)見物(みるもの)聞物(きくもの)
御 涙(なみだ)の種(たね)ならぬはなく。都(みやこ)に残(のこ)り給ふ御台(みだい)姫君(ひめぎみ)達(たち)の御 歎(なげ)き。又は国々(くに〴〵)へ流(なが)され給ひし
御 子息(しそく)方(がた)の御 物思(ものおもひ)を推量(おしはか)らせ給ひ。袖(そで)の干(ひ)る間(ま)もなく。御 鬱陶(うつとう)の余(あま)りに御 船(ふな)
心 生(しやう)じて伏悩(ふしなや)ませ給ひ。御 食事(しよくじ)も進(すゝ)み玉はねば。春彦(はるひこ)辰音(たつおと)大いに駭(おどろ)き。警固(けいご)の武士(ぶし)
と商議(しやうぎ)し。暫(しばら)く陸地(くかぢ)を歩(あゆま)せ奉らば御 心地(こゝち)も整(なを)らせ給ふべしとて。播州(ばんしう)印南郡(いなみごほり)
曽根(そね)へ船(ふね)を着(つけ)て陸(くが)へ下(おろ)し奉り。駅馬(えきば)を求(もとめ)て乗(のせ)まいらせ。春彦(はるひこ)辰音(たつおと)宦人(くわんにん)も随従(おんとも)
して行(ゆき)ければ。遠近(おちこち)の里民(りみん)菅公(かんこう)を拝(はい)せんとて。老(おひ)たるを扶(たす)け幼(いとけな)きを負(おひ)て路(みち)の傍(かたはら)に
群(むらが)り涙(なみだ)を流(なが)さぬは無(なか)りけり。菅公(かんこう)馬上(ばせう)にて松(まつ)の枝(えだ)を折取(をりとり)給ひ。予(われ)此度(このたび)勅勘(ちよくかん)を
蒙(かうむ)る事。身(み)に犯(おか)せる罪(つみ)無(なく)んば此(この)松根(まつね)を生(せう)じて栄(さか)ゆべし。もし又 犯(おか)せる罪(つみ)あらば
其(その)まゝ枯(かれ)ぬべしとて。馬(うま)より下(おり)給ひて路(みち)の辺(ほとり)にさし給ひて往過(ゆきすぎ)給ひけるに。後(のち)果(はた)し

【注 鳫は、鴈の古字「𩾦」の略字】

て根(ね)を生(せうじ)枝葉(えだは)年々(とし〴〵)に繁茂(はんも)し播州(ばんしう)第(だい)一の名木(めいぼく)と成(なれ)り。曽根(そね)の松(まつ)是(これ)なり。後々(のち〳〵)は枝(えだ)
長(なが)く這(はひ)けるゆへ杖(つえ)を多(おほ)く衝(つか)せさながら手枕(たまくら)せし如(ごと)くなれば。曽根(そね)の手枕(たまくら)の松(まつ)とも呼(よび)
名(な)しける。菅公(かんこう)陸路(くがぢ)を両三日 経(へ)給ひて御 心地(こゝち)も平日(つね)に復(かへ)らせ給ひければ。又御 船(ふね)に
めされ日(ひ)を歴(へ)て豊後国(ぶんごのくに)三井田(みゐた)の浦(うら)へ御 船(ふね)を着(つけ)たり。菅公(かんこう)少時(しばらく)陸(くが)へ下(おり)まほしと仰(あふせ)ける
ゆへ船長(ふなおさ)船(ふね)の綱(つな)を綰(わげ)て円座(ゑんざ)とし御座(ござ)を設(まうけ)ければ。公(こう)其(それ)に坐(ざ)し給ひて沖(おき)の景色(けしき)を
御覧(ごらん)じ旅鬱(りようつ)を慰(なぐさ)め給ひけり。世(よ)に綱敷(つなしき)の天神(てんじん)と申奉るは此時(このとき)の御影(みえい)なり。斯(かく)て
又御 船(ふね)に乗(めし)八重(やえ)の汐路(しほぢ)に淘(ゆら)れ給ひ。筑前国(ちくぜんのくに)博多(はかた)なる袖(そで)の浦(うら)に御 船(ふね)を着(つけ)是(これ)
より陸路(くがぢ)を守護(しゆご)しまいらせ。同国(どうこく)御笠郡(みかさごほり)太宰府(だざいふ)の郡司(ぐんじ)。秦民部時員(はだのみんぶときかづ)が邸舎(やしき)
へ入奉りけり。民部(みんぶ)は兼(かね)て都(みやこ)より下知(げぢ)を承(うけ)四方(しはう)に堤(つゝみ)を築(きづ)き其内(そのうち)へ高塀(たかへい)をかけ館(やかた)【舘は俗字】
を造設(つくりまうけ)て待受(まちうけ)奉りけるゆへ即(すなは)ち其館(そのやかた)へ入奉り監卒(ばんにん)を付(つけ)て厳(きびし)く御門(ごもん)を衛(まも)らせける
    菅公(かんこう)《振り仮名:於_二配所_一詠_二詩歌_一|はいしよにおいてしいかをえいず》  太宰府(だざいふ)飛梅(とびうめ)追松(おひまつ)之(の)条(くだり)

菅公(かんこう)已(すで)に配所(はいしよ)の館(やかた)【舘は俗字】へ入せ給ひければ。都(みやこ)の宦人(くわんにん)下吏(したづかさ)們(ら)は御 暇(いとま)を願(ねが)ひて京(きやう)へ帰(かへ)り。跡(あと)に残(のこ)
り留(とゞま)る者とては田口(たぐち)渡会(わたらへ)其余(そのよ)は言甲斐(いひがひ)なき下郎(げらう)三人のみにて。いとゞ寂莫(ものさびし)く思召(おぼしめし)御 館(やかた)【舘は俗字】と
ても壁(かべ)浅間(あさま)に板間(いたま)も間粗(まばら)にて。透間(すきま)洩(もる)汐風(しほかぜ)もいとゞ御 身(み)に染(しみ)ければ一時(あるとき)の御 詩(し)に
 《振り仮名:離_レ家|いへをはなれて》三四 月(げつ)  落涙(らくるい) 百千 行(かう)  万事(ばんじ)皆(みな)《振り仮名:如_レ夢|ゆめのごとし》  時々(じゝ)《振り仮名:仰_二彼蒼_一|ひそうをあふぐ》
と賦(ふ)し給へり宰府(さいふ)は人も多(おほ)く折(をり)には御 訪(とふら)ひに来(きた)る人も有(あれ)ども。墓々(はか〴〵)しく物(もの)も言(のたま)はず
多(おほ)くは御 対面(たいめん)もなし玉はで。引籠(ひきこもり)【篭は俗字】がちにて唯(たゞ)異国(いこく)へ推移(おしうつ)されたる心地(こゝち)し給ひ。事訪(こととひ)
皃(がほ)なる鵆(ちどり)鴎(かもめ)の声々(こゑ〳〵)も御 夢(ゆめ)を破(やぶ)る媒(なかだち)となり。音信(おとづれ)めく軒(のき)の松風(まつかぜ)も却(かへつ)て御 涙(なみだ)を誘(さそふ)
種(たね)となり。万事(よろづ)都(みやこ)に変(かはり)たる事のみ多(おほ)くして。旦夕(あけくれ)ながめがちに過(すぎ)させ給ひ一時(あるとき)遠方(おちかた)に立(たつ)
煙(けふり)を御 覧(らん)じ
  夕(ゆふ)ざれは野(の)にも山にもたつ煙(けふり)なげきよりこそもえまさりけれ
また雲(くも)の浮立(うきたち)たゞよふを見給ひて都(みやこ)の空(そら)のみなつかしく思召(おぼしめし)

  山わかれとびゆく雲(くも)のかへりくる影(かげ)見るときは猶(なほ)たのまれぬ
世(よ)は憂(うき)ものと思捨(おぼしすて)ながら猶(なを)皈洛(きらく)の期(とき)もやと思(おもひ)給ふなるへし雨(あめ)の降(ふり)ける日
  あめのした隠(かく)るゝ人のなければやきてしぬれぎぬひるよしもなき
月(つき)の明(あか)かりける夜(よ)の御 哥(うた)に
  うみならずたゝへる水の底(そこ)までも清(きよ)き心は月ぞてらさん
    野(の)を詠(えい)じたまふ
  つくしにも紫(むらさき)おふる野(の)べはあれどなき名(な)かなしむ人ぞ聞(きこ)えね
    道(みち)を詠じ玉ふ
  苅萱(かるかや)の関(せき)もりとのみ見えつるは人もゆるさぬ道(みち)べ成(なり)けり
    山を詠じたまふ
  あし曳(びき)のかなたこなたに道(みち)はあれど都(みやこ)へいざといふ人のなき

    鴬(うぐひす)を詠じたまふ
  渓(たに)ふかみ春(はる)のひかりのおそければ雪(ゆき)につゝめる鴬(うぐひす)のこゑ
    有明月(ありあけづき)を詠じ玉ふ
  宵(よひ)の間(ま)やみやこの空(そら)にすみもせで心づくしの有明(ありあけ)の月
    誠(まこと)といふ意(こゝろ)を詠じ給ふ
  心だにまことの道(みち)にかなひなば祈(いのら)ずとても神(かみ)や守(まも)らん
右の御 哥(うた)の意(こゝろ)は天道(てんとう)は善(ぜん)に福(さいはひ)を与(あた)へ悪(あく)に禍(わざはひ)を下(くだ)すの理(り)を一 首(しゆ)の中(うち)に述(のべ)給へ
り此(この)一 首(しゆ)の御 詠唫(えいぎん)を心に持(たもつ)人は貪欲(とんよく)非分(ひぶん)の望(のぞみ)を発(おこ)す事なき難有(ありがたき)御 哥(うた)にて
邪欲(じやよく)の為(ため)に神(かみ)を祈(いの)る愚昧(ぐまい)の族(やから)を誡(いましめ)給ふ神詠(しんえい)なり又 一時(あるとき)の御口ずさみに
  見(み)る石(いし)のおもての塵(ちり)もふかざりき節(ふし)の楊枝(やうじ)もつかはざりしを
是(これ)は京童(きやうわらべ)の言草(ことぐさ)【艸】に。竹(たけ)の楊枝(やうじ)をつかふ者 硯(すゞり)の塵(ちり)を吹(ふく)者は無実(むしつ)の難(なん)を受(うく)るといへ

るを以(もつ)て。御 身(み)に犯(おか)し給ふ罪(つみ)はなけれども。讒者(ざんしや)の舌頭(ぜつとう)にかゝり斯(かく)左遷(させん)【迁は俗字】の客(かく)となる事よ
と歎息(たんそく)し給ひての御 哥(うた)なり又 一日(あるひ)旅鴈(かりがね)【注】のわたるを御 覧(らん)じ賦(ふ)し給ふ御 詩(し)に曰
  我(われは)《振り仮名:為_二遷客_一|せんかくたり》汝(なんじは)来賓(らいひん)   共(ともに)是(これ)蕭々(しやう〳〵たる)旅漂(りよへうの)身(み)
  《振り仮名:欹_レ枕|まくらをそばだてゝ》思量(しれうす)帰去(かへりさらん)日(ひ)  我(われ)知(しる)何歳(いづれのとし)汝(なんじは)明春(みやうしゆん)
斯(かく)詩歌(しいか)を詠(えい)じ給ふに付(つけ)ても御 身(み)の不運(ふうん)を悔(くや)み給ふぞ痛(いた)はしかりける。去程(さるほど)に月
日(ひ)に関守(せきもり)なく。御憂愁(ごゆふしふ)の中にも春(はる)去(さり)夏(なつ)過(すぎ)て秋(あき)も稍(やゝ)立(たち)九月十日にもなりければ。去(いぬ)る
昌泰(しやうたい)三 年(ねん)九月十日の夜(よ)清涼殿(せいりようでん)にて菊花(きくくわ)の御 宴(えん)ありし時(とき)菅公(かんこう)も御座(ござ)に列(つらなり)給ひ
献(けん)じ給ひし詩(し)に曰
  君(きみは)《振り仮名:富_二春秋_一|しゆんじふにとみ》臣(しんは)漸(よふやく)老(おひたり)   思(おもひ)《振り仮名:無_二涯岸_一|がいがんなく》報(ほうずること)猶(なを)遅(おそし)
帝(みかど)右の詩を睿覧(ゑいらん)なし給ひて。御感(ぎよかん)の余(あま)りに御衣(ぎよい)を脱(ぬぎ)給ひて被(かづけ)させ給ひしを。菅公(かんこう)
舞踏(ぶとう)して拝領(はいりやう)し給ひけるが。其(その)御衣(ぎよい)を筑紫(つくし)までも持(もた)せ給ひ。君(きみ)の御 記念(かたみと)て常(つね)に上段(ぜうだん)

【注 鳫は、鴈の古字「𩾦」の略字】

の笥(はこ)に納(おさ)め朝夕(あさゆふ)に拝礼(はいれい)し給へり。此(この)一 条(でう)を以(もつ)ても菅公(かんこう)帝(みかど)を聊(いさゝか)も恨(うら)み玉はざる事を知(しる)に
足(たれ)り。然(しかる)に今九月十日なれば。去年(きよねん)の今宵(こよひ)の事を思(おも)ひ出(いだ)し給ひ。誠(まこと)に人界(にんがい)の栄枯(ゑいこ)定(さだめ)
なく盛衰(せいすい)掌(てのひら)を覆(かへす)が如(ごと)くなるを長歎(てうたん)し給ひて作(つく)らせ給ふ御 詩(し)に曰
  去年(きよねん)今夜(こんや)《振り仮名:侍_二清涼_一|せいりようにじし》  秋思(しふしの)詩篇(しへん)独(ひとり)断腸(だんちよう)
  恩賜(おんしの)御衣(ぎよい)今(いま)《振り仮名:在_レ此|こゝにあり》  捧持(ほうじして)毎日(まいじつ)《振り仮名:拝_二余香_一|よかうをはいす》
誠(まこと)に懐旧(くわいきう)の御 愁情(しふじやう)の程(ほど)ぞ悼(いた)ましかりける。さらぬだに秋(あき)の物悲(ものかな)しき。荻(おぎ)の上風(うはかぜ)萩(はぎ)の下(した)
露(つゆ)籬(まがき)にすだく虫(むし)の音(ね)も何(いづ)れ御 涙(なみだ)の種(たね)ならぬはなし。程(ほど)なく九月十五 夜(や)にもなり
一 天(てん)雲(くも)なく霽(はれ)て月(つき)清朗(せいらう)と澄(すみ)昇(のぼり)けるを御 覧(らん)ずるにも。都(みやこ)に在(いま)せし時(とき)殿上(てんぜう)の月見(つきみ)の
御宴(ぎよえん)に侍(じ)し給ひて。詠哥(えいか)詩作(しさく)に懐(おもひ)を述(のべ)興(けう)じ楽(たのし)ませ給ひしも。今は盧生(ろせい)が夢(ゆめ)と成
て事訪(こととひ)奉る者(もの)とては沖津(おきつ)汐風(しほかぜ)のみなれば。独(ひとり)御心を友(とも)として七 言律(ごんりつ)の詩(し)を賦(ふ)し給ふ
  黄(きばみ)萎(しぼめる)顔色(がんしよくの)白霜頭(はくそうとう)  況(いはんや)復(また)千余里(せんより)外(ぐわいに)投(とうぜらるゝをや)

  昔(むかしは)《振り仮名:被_二栄花_一|ゑいぐわをかうむりて》簪纓(さんゑいを)縛(まとひ)   今(いまは)《振り仮名:為_二敗謫_一|はいてきとなつて》草莱(さうらいに)由(よる)
  月光(けつくわう)《振り仮名:似_レ鏡無_レ明_レ罪|かゞみににたれどもつみをあきらむるなし》  風気(ふうき)《振り仮名:如_レ刀不_レ断_レ愁|とうのごとくなれどもうれひをたゝず》
  《振り仮名:随_レ見随_レ聞|みるにしたがひきくにしたがひ》皆(みな)惨慓(しんへうたり)   此(この)秋(あき)独(ひとり)《振り仮名:作_二我身秋_一|わがみのあきとなる》
斯(かく)御 物(もの)おもひがちに月日(つきひ)を送(おくり)給ふぞ御 痛(いた)はしかりける。抑(そも〳〵)太宰府(だざいふ)には都府楼(とふろう)とて
天智天皇(てんちてんわう)の御宇(ぎよう)に建(たて)られし宦舎(くわんしや)有(あり)又同じ帝(みかど)の勅願(ちよくぐわん)にて御 建立(こんりう)有(あり)し観音寺(くわんおんじ)
といふ梵刹(てら)もあり。菅公(かんこう)は兼(かね)て観音(くわんおん)を御 信仰(しんかう)在(ましま)し。和州(わしふ)初瀬寺(はせでら)の縁起(えんぎ)をも自(じ)
筆(ひつ)に書(か[ゝ])せ給ひし程(ほと)の御事なれば。御 参詣(さんけい)も有(ある)べきなれども。不出門(ふしゆつもん)とて門(もん)を出(いで)
じとの誓(ちかひ)を立(たて)給へば都府楼(とふろう)へも登(のぼり)玉はず。観音寺(くわんおんじ)へ御 仏詣(ぶつけい)もなく。只(たゞ)余所(よそ)にのみ
見(み)なし給ひ一時(あるとき)不出門(ふしゆつもん)といふ題(だい)にて作(つく)らせ給ふ詩に曰
  《振り仮名:一従_三謫居就_二柴荊_一|ひとたびてききよしてさいけいにつきしより》  万死(ばんし)兢々(けう〳〵)跼蹐(きよくせきの)情(じやう)
  都府楼(とふろうは)纔(わづかに)《振り仮名:看_二瓦色_一|かはらのいろをみ》   観音寺(くわんおんじは)只(たゞ)《振り仮名:聴_二鐘声_一|かねのこゑをきく》

  中懐(ちうくわい)好(よく)《振り仮名:逐_二孤雲_一去|こうんをおふてさり》  外物(ぐわいぶつ)相逢(あひあふて)満月(まんげつを)迎(むかふ)
  此地(このち)《振り仮名:雖_三身無_二撿繫_一|みにけんけいなしといへども》  何為(なんそれぞ)寸歩(すんほも)《振り仮名:不_二出行_一|しゆつかうせざる》
就中(なかんづく)都府楼(とふろう)観音寺(くわんおんじ)の一 聯(れん)は。唐(とう)の白楽天(はくらくてん)が。遺愛寺(いあいじの)鐘(かねは)《振り仮名:欹_レ枕|まくらをかたげて》聴(きく)香炉(かうろ)
峰(ほうの)雪(ゆきは)《振り仮名:撥_レ簾|れんをかゝげて》看(みる)と賦(ふ)せし対句(ついく)にも勝(まさ)れりと。其頃(そのころ)の博士(はかせ)も感賞(かんせう)せしとかや
斯(かく)て配所(はいしよ)に幽居(ゆうきよ)し給ふ所(ところ)に。其年(そのとし)の冬(ふゆ)の首(はじめ)庭前(ていぜん)に一 夜(や)の内(うち)に一株(ひともと)の楳樹(むめのき)生出(おひいで)
たり。辰音(たつおと)春彦(はるひこ)等(ら)庭(には)を浄(きよ)むる奴僕(しもべ)の斯(かく)と告(つげ)けるに依(よつ)て。両人(りようにん)訝(いぶか)り打連立(うちつれだつ)て
庭前(ていぜん)へいたり見るに。実(げに)も昨日(きのふ)まで無(なか)りし梅樹(むめのき)兼(かね)てより生(はへ)し如(ごと)く更(さら)に今 植(うえ)し
樹(き)とは見えず。已(すで)に毎枝(えだごと)に莟(つぼみ)を生(せう)じたり。辰音(たつおと)春彦(はるひこ)奇異(きい)の思ひをなし。菅公(かんこう)
に斯(かく)と言上(まうしあげ)ければ。公(こう)も不審(ふしんし)給ひて見(み)給ふに両人(りようにん)の詞(ことば)のごとくなれば不測(ふしぎ)に思召(おぼしめし)
熟然(つら〳〵)と見給ふに将是(まさしく)都(みやこ)の紅梅殿(かうばいどの)に植(うえ)給ひし御 愛樹(あいじゆ)の紅梅なりければ
膝(ひざ)を拍(うつ)て歎息(たんそく)し給ひ。是(こ)は我(われ)都(みやこ)にて多年(たねん)愛(あい)せし楳樹(うめのき)なり。是(これ)に就(つい)て

思(おも)ひ出(いだ)せし事(こと)あり。予(われ)都(みやこ)を出(いで)し折(をり)から紅梅殿(かうばいどの)へ立寄(たちより)しに。此梅(このうめ)盛(さかり)なりしゆへ都(みやこ)
の春(はる)の余波(なごり)をしく。東風(こち)吹(ふか)ば匂ひをこせよと戯(たはむれ)に口号(くちずさみ)しに。其歌(そのうた)にや感(かん)じけん
山海(さんかい)数百里(すひやくり)を隔(へだて)たる此(この)筑紫(つくし)まで飛来(とびきた)りし事 不思議(ふしぎ)の中の不思議(ふしぎ)なり
草木(さうもく)非情(こゝろなし)といふべからず。仮初(かりそめ)の歌(うた)に感(かん)じ主(ぬし)を慕(した)ひて来(きた)りし優(やさ)しさよ。構(かまへ)て
小枝(こえだ)をも折取(おりとる)事(こと)勿(なか)れと曰(のたま)ひ都(みやこ)を出給ひしより今日(けふ)まで一 度(ど)も笑(ゑま)せ給ひし事 無(なか)
りしに。此時(このとき)始(はじめ)て笑(ゑま)せ給ひ御 欣悦(よろこび)の色(いろ)あらはれける辰音(たつおと)春彦(はるひこ)も公(きみ)の御 詞(ことば)に
就(つい)て梅樹(うめのき)を立周(たちめぐり)て左見右看(とみかうみる)に。実(げに)も紅梅殿(かうばいどの)の梅(うめ)に紛(まが)ふ方(かた)なければ感歎(かんたん)して
止(やま)ず。心なき下僕(しもべ)までも感涙(かんるい)をぞ流(なが)しける。是(これ)より菅公(かんこう)以前(いぜん)に倍(ばい)して愛(あい)し
給ひ。御 薨去(かうきよ)の後(のち)神(かみ)に鎮祭(しづめまつら)れ給ひしに或人(あるひと)此梅(このうめ)の枝(えだ)を折(をり)しかば御 神託(しんたく)に
  なさけなく折(をる)人つらしわが宿(やど)の主(あるじ)わすれぬ楳(うめ)のたち枝(え)を
と詠(えい)じさせ給ひし太宰府(だざいふ)の飛梅(とびうめ)是(これ)なり。其後(そのゝち)都(みやこ)の言便(つて)に。紅梅殿(かうばいどの)の御 愛(あい)

樹(じゆ)の内(うち)梅(うめ)は一 夜(や)の中(うち)に誰(た)が抜取(ぬきとり)けん影(かげ)だに見えずなり桜(さくら)は枯果(かれはて)残(のこ)るは只(たゞ)松(まつ)のみ
なりと聞(きこ)えしかば。菅公(かんこう)嗟歎(さたん)し給ひ。詠(えい)じ給ふ御 歌(うた)に曰
  梅(うめ)はとびさくらは枯(かる)る世(よ)の中に松(まつ)ばかりこそつれなかりけれ
斯(かく)詠(えい)じさせ給ひけるに。其(その)翌朝(よくてう)庭前(ていぜん)に一木(ひとき)の松(まつ)生(おひ)出たり辰音(たつおと)春彦(はるひこ)以下(いげ)の
人々又大いに怪(あやし)みよく〳〵見るに是も都(みやこ)紅梅殿(かうばいどの)の御 愛樹(あいじゆ)の松に幹(みき)も枝(えだ)ぶりも
彷彿(さもに)たれば菅公(かんこう)へ言上(まうしあげ)けるにぞ。公(こう)立(たち)出て見(み)給へば将是(まさしく)紅梅殿の松に見粉(みまが)ふ
べくもなければ奇異(きい)の思(おも)ひをなし給ひ。梅(うめ)とともに朝夕(あさゆふ)目(め)がれせず愛(あひ)【「あい」とあるところ】し給ひて
配所(はいしよ)の徒然(つれ〴〵)を慰(なぐさ)め給ひけり公(こう)の御 跡(あと)を追来(おひきたり)しを以て追松(おひまつ)と呼(よび)給ひしを後(のちの)
世(よ)にいたり何時(いつし)か老松(おひまつ)と文字を換(かへ)ける。斯(かく)て延喜(えんぎ)三年正月の末(すへ)つかたより菅公
御 異例(いれい)に染(そみ)させ給ひければ。辰音(たつおと)春彦(はるひこ)大いに駭(おどろ)き郡司(ぐんじ)秦民部(はだのみんぶ)と商議(しやうぎ)し
遠近(ゑんきん)に良医(りようい)を求(もとめ)て御 薬(くすり)を勧(すゝめ)奉り。神仏(しんぶつ)に祈誓(きせい)して日夜(にちや)御 本復(ほんぶく)を祈(いの)り

けれども墓々(はか〴〵)しく其(その)験(しるし)も見え玉はざりけり然(しかる)に二月の上旬(はじめ)に。都(みやこ)に留(とゞめ)置(おき)給ひし島(しま)
田忠臣(だたゞおみ)下向(げかふ)して配所(はいしよ)参上(さんぜう)しければ。菅公(かんこう)近(ちか)く召(めさ)れ珍(めづら)しや忠臣(たゞおみ)予(よ)が都(みやこ)を出し後(のち)
朝廷(てうてい)に変(かはり)し義(ぎ)はなきか主上(しゆぜう)は御 安体(あんたい)に在(ましま)すやと問(とは)せ給ふ忠臣(たゞおみ)はつと御 答(いらへ)し
畳(たゝみ)に平伏(ひれふし)て少時(しばらく)涙(なみだ)にくれ居(ゐ)たりけるが。稍(やゝ)有(あつ)て頭(かしら)を上(あげ)。帝(みかど)は御 安寧(あんねい)にわたらせ
給へども。左大臣殿(さだいじんどの)一人 政(まつりごと)を執行(とりおこな)はれ候ゆへ僻事(ひがこと)多(おほ)く。万事(ばんじ)の訴詔(そせう)滞(とゞこふ)りがちにて
都鄙(とひ)の人民(にんみん)歎(なげ)かずといふ者(もの)なく候。我君(わがきみ)都(みやこ)を出(いで)給ひし後(のち)。左大臣殿(さだいじんどの)の命(めい)として御
門人方(もんじんがた)をも流刑(るけい)に行(おこなは)んと沙汰(さた)ありけれども。左府(さふ)の御 舎弟(しやてい)大納言(だいなごん)忠平殿(たゞひらどの)《割書:貞信|公なり》是(これ)
を諫(いさめ)止(とめ)られ候ひしゆへ其議(そのぎ)は止(やみ)候へども。御門人(ごもんじん)達(たち)も其(それ)より後難(こうなん)を怕(おそ)れられてや。御(み)
台(だい)姫君(ひめぎみ)の御 訪(とふらひ)に参(まい)らるゝ人々も希々(まれ〳〵)になり行(ゆき)。只(たゞ)彼(かの)大納言(だいなごん)忠平殿(たゞひらどの)のみ折節(をりふし)に
音信(おとづれ)の使者(ししや)をさし越(こさ)れ候。御台所(みだいどころ)には君(きみ)に御 別(わかれ)ありてより。昼夜(ちうや)御 歎(なげ)き深(ふか)く
終(つひ)に御 患病(いたつき)にかゝづらひ給ひ。良医(りようい)の配剤(はいざい)も其(その)験(しるし)なく。去(さん)ぬる正月十三日の夜(よ)某(それがし)

を御 枕頭(まくらべ)へ召(めさ)れ。御 香炉(かうろ)香裹(かうづゝみ)等を把出(とりいだ)させ給ひ。筑紫(つくし)に在(ましま)す我君(わがきみ)へ。妾(わらは)が
記念(かたみ)に御覧(みそなは)せよと申せと曰(のたま)ひ。姫君(ひめぎみ)達(たち)の御事をもそれ〳〵に御 遺言(ゆいげん)なしたまひ
其(その)暁(あかつき)終(つひ)に眠(ねむり)給ふごとく御 終焉(しふえん)なし給ひ候。それゆへ御 葬式(そうしき)をなし果(はて)姫君(ひめぎみ)達(たち)を御(ご)
一 門(もん)方(がた)へ預(あづ)けまゐらせ。漸(よふ〳〵)都(みやこ)を発足(ほつそく)仕(つかまつ)り。只今(たゞいま)参着(さんちやく)いたし候と言上(まうしあげ)涙(なみだ)ながら御 遺(かた)
物(み)の品々(しな〴〵)を呈(てい)しければ。菅公(かんこう)御 覧(らん)じ愁然(しふぜん)として御 落涙(らくるい)まし〳〵けるを忠臣(たゞおみ)。辰(たつ)
音(おと)。春彦(はるひこ)們(ら)見奉り御心(ごしん)中を推量(おしはかり)進(まい)らせ声(こゑ)を呑(のん)でぞ悲泣(ひきう)しける。菅公(かんこう)気(き)を厲(はげま)し
給ひ。你(なんじ)們(ら)愁傷(しふしやう)する事 勿(なか)れ。生死(しやうじ)素(もとよ)り天数(てんすう)なり。妻(つま)の死没(しもつ)も悔(くやむ)に足(たら)ず只(たゞ)歎(なげ)かは
しきは主上(しゆぜう)御 年(とし)若(わか)く侫臣(ねいしん)の言(ことば)を信(しん)じ給ひ。左府(さふ)時平(ときひら)に政柄(せいへい)を執(とら)せ給ふ事。下民(かみん)
の愁(うれ)ひ朝家(てうか)の衰(おとろへ)とや成(なり)なん。古人(こじん)も謂(いは)ずや悪人(あくにん)は国(くに)の害(がい)浅(あさ)く。侫臣(ねいしん)は国害(こくがい)深(ふか)
しと。さしも聖明(せいめい)の君(きみ)も時平(しへい)に政(まつりごと)を委(ゆだね)玉はゞ。遂(つひ)には不徳(ふとく)の君(きみ)とや称(となへ)られ玉はん。噫(あゝ)
是(これ)も天なり命(めい)なり。人力(じんりき)の私(わたくし)を以(もつ)て奈何(いかん)ともすべからず已乎々々(やんなん〳〵)とて忠臣(たゞおみ)向(むか)ひ給ひ

你(なんじ)は辰音(たつおと)と倶(とも)に都(みやこ)へ帰(かへ)り。残(のこ)る女(むすめ)どもの介抱(かいほう)せよ。且(かつ)此(この)一 綴(とぢ)は予(よ)が配所(はいしよ)にて唫(ぎん)ぜし詩(し)
文(ぶん)なり持(もち)かへりて中納言(ちうなごん)長谷雄(はせを)に達(たつ)せよ。即(すなは)ち長谷雄(はせを)へ遣(つか)はす消息(せうそく)。入道(にふどう)し給ひ
し斉世(ときよ)の宮(みや)大納言(だいなごん)忠平(たゞひら)へ呈(てい)する書翰(しよかん)をも封中(ふうちう)に籠(こめ)たりとて。差出(さしいだ)し給ひければ
忠臣(たゞおみ)も辰音(たつおと)も大いに駭(おどろ)き。忠臣(たゞおみ)先(まづ)申けるは。御掟(ごでう)反(かへ)し奉り候は恐(おそれ)多(おほ)く候へども。御台(みだい)
所(どころ)御逝去(ごせいきよ)まし〳〵けるゆへ。姫君(ひめぎみ)達(たち)は御親族(ごしんぞく)方(がた)へ預置(あづけおき)某(それがし)は君(きみ)の御先途(ごせんど)を見届(みとゞけ)
奉らんため下向(げかう)仕(つかまつ)り候へば。此(この)御使(おんつかひ)は余人(よじん)に命付(あふせつけ)られ某(それがし)は御 膝下(ひざもと)にて召使(めしつかは)せ給ふべしと
願(ねがふ)にぞ。辰音(たつおと)も言(ことば)を発(はつ)し。某(それがし)身(み)不肖(ふせう)に候へども。君(きみ)都(みやこ)を出(いで)給ひし時(とき)より随従(おんとも)仕(つかまつ)り今(こん)
日(にち)まで仕(つか)へをり候に。君(きみ)先頃(せんけう)より今(いま)以(もつ)て御 不例(ふれい)にわたらせ給ふを見捨(みすて)奉り。争(いかで)か都(みやこ)へ
帰(かへ)り候べき。只(たゞ)此儘(このまゝ)にて召使(めしつか)はせ給へと歎(なげ)き願(ねがひ)けれども。敢(あへ)て許(ゆる)し玉はず。你(なんじ)們(ら)が申 処(ところ)理(ことはり)に
似(に)たれども。予(よ)が病(やまひ)も今は稍(やゝ)怠(おこた)りて治(ぢ)するに程(ほど)あらじ。閑暇(かんか)の配所(はいしよ)給仕(きうじ)は春彦(はるひこ)一人にて
事(こと)足(たり)なん。数多(おほく)の女(むすめ)ども母(はゝ)を亡(うしな)ひて便(たより)なくぞ思(おも)ふらめ。されば忠臣(たゞおみ)一人にては事(こと)不足(たらざる)べし

もし此詞(このことば)を用(もちひ)ぬに於(おいて)は永(なが)く主従(しゆうじふ)の義(ぎ)を断(たつ)べしと。平日(つね)は温順(おんじゆん)柔和(にうわ)の菅公(かんこう)も言(ことば)厲(はげ)
しく曰(のたま)ひければ。両人(りようにん)とも其(その)厳威(げんい)に怕(おそ)れ。再(ふたゝ)び御辞退(ごじたい)申上る事(こと)能(あた)はず。不本意(ふほんい)ながら
已事(やむこと)を得(え)ず領掌(れうぜう)しける。菅公(かんこう)色(いろ)を和(やはら)げ給ひ。御一 門(もん)方(がた)姫君(ひめぎみ)達(たち)への御 伝言(ことづて)を言(いひ)
含(ふくめ)給ひ御 暇(いとま)を給(たび)けるゆへ島田(しまだ)。々(た)口(ぐち)は拝辞(はいじ)して春彦(はるひこ)に後(あと)の事どもをよく〳〵頼(たのみ)おき
御 封物(ふうもつ)を持(ぢ)して遂(つひ)に力(ちから)なく筑紫(つくし)を立(たつ)て都(みやこ)へぞ上(のぼ)りける
 因(ちなみ)に曰 此時(このとき)両人(りようにん)に渡(わた)し給ひし御 草稿(さうかう)は。昌泰(しやうたい)三年八月 家集(いへのしう)を献(たてまつ)り給ひ
 し後(のち)配所(はいしよ)におはしける時(とき)までの御 詩集(ししふ)なり。菅家後集(かんけこうしふ)とも。菅家後(かんけこう)
 草(さう)とも号(なづけ)て一 巻(くわん)あり。其中(そのうち)三十八 首(しゆ)は筑紫(つくし)へ赴(おもむ)き給ふまでの御 作(さく)なり
    菅公(かんこう)天拝山(てんぱいざん)祈願(きぐわん)《割書:并(ならびに)》薨去(かうきよ)  渡会春彦(わたらへはるひこ)忠実(ちうじつ)死去(しきよ)条
島田忠臣(しまだたゞおみ)。田口辰音(たぐちたつおと)已(すで)に筑紫(つくし)を立(たつ)て都(みやこ)へ上(のぼ)りける後(のち)は。菅公(かんこう)御 居室(ゐま)に籠(こもり)
給ひ。何(なに)かはしらず細密(こま〴〵)と一 書(しよ)を書記(したゝめ)給ひ。春彦(はるひこ)に命(あふせ)て彼(かの)飛梅(とびうめ)の新枝(ずはえ)を一 枝(えだ)

折(をり)とらせ其(それ)に右(みぎ)の書物(かきもの)を插(さしはさ)み給ひ。偖(さて)一七日(いつしちにち)が間(あいだ)斎(ものいみ)し給ひて後(のち)春彦(はるひこ)に向(むか)ひ。予(われ)深(ふか)
き心願(しんぐわん)有(あつ)て。是(これ)より近(ちか)き山に登(のぼ)り。一七日の間(うち)天に祈(いのら)んと欲(ほつ)せり。最(もつとも)一七日が間(あいだ)は断食(だんじき)
なれば食物(しよくもつ)を運(はこぶ)に不及(およばず)敢(あへ)て你(なんじ)山へ登(のぼり)来(きた)る事 勿(なか)れと仰(あふせ)ければ。春彦(はるひこ)大いに駭(おどろ)きて
申やう。御掟(ごでう)にては候へども。時(とき)今(いま)二月の半(なかば)にて。然(しか)も余寒(よかん)強(つよ)く候に。御不例(ごふれい)の御 身(み)にて一七
日の内(うち)断食(だんじき)し給ひて山中(さんちう)に御 籠(こもり)あらん事。御 身(み)だめ宜(よろ)しかるまじく候。何事(なにごと)の御 祈願(きぐわん)
かは存(ぞん)じ候はねども。今(いま)暫(しばら)く春暖(しゆんだん)の時節(じせつ)に及(およ)び候まで待(また)せ給へ。其内(そのうち)に御 患病(いたつき)も治(じ)し
給ふべしと諫(いさめ)奉りけれども。菅公(かんこう)敢(あへ)て用(もち)ひ玉はず。是(これ)你(なんじ)が知所(しるところ)にあらず。満願(まんぐわん)の後(のち)子細(しさい)
を語(かた)り聞(きか)すべし。祈願(きくわん)の内(うち)は決(けつ)して登山(とうざん)を不許(ゆるさず)。もし此言(このことば)を用ひず登山(とうざん)せば予(よ)が苦(く)
心(しん)画餅(むだごと)となり願望(ぐわんもう)不叶(かなはず)。然(しかる)ときは予(われ)山中(さんちう)の岩(いは)に首(かうべ)を触(ふれ)て死すべし。構(かまへ)て予(よ)が言(ことば)を
忘却(ぼうきやく)する事 勿(なか)れと強(つよ)く誡(いまし)め給ひけるにぞ。春彦(はるひこ)深(ふか)く恐(おそ)れ。然(しか)曰(のたま)ふ上は御願(ごぐわん)の満(みち)候まで
登山(とうざん)致(いた)すまじく候と領掌(れうぜう)申上ける。菅公(かんこう)今(いま)は心 易(やす)しと思召(おぼしめし)浄衣(じやうえ)を着換(めしかへ)給ひて。件(くだん)の

新枝(ずはへ)を携(たづさ)へ給ひ配所(はいしよ)を立出(たちいで)給ふにぞ。春彦(はるひこ)は覚束(おぼつか)なさに其(その)山の麓(ふもと)まで召連(めしつれ)給へと
て強(しい)て随従(おんとも)したりける。菅公(かんこう)は一 座(ざ)【注】の高山(かうざん)の梺(ふもと)へ到(いた)り給ひ。春彦(はるひこ)を顧(かへりみ)給ひて。你(なんじ)は是(これ)
より還(かへ)り予(よ)が留守(るす)を衛(まもれ)よ。先(さき)にも申 聞(きか)せしごとく。七日(なぬか)満(まん)ずるまで登山(とうざん)なせそと誡(いまし)め給ひ
袂(たもと)を分(わか)ちて只(たゞ)御一人(ごいちにん)山路(やまぢ)を分(わけ)登(のぼ)り給ひけり。春彦(はるひこ)は御 背影(うしろかげ)の見(み)ゆる限(かぎ)り見送(みおく)り進(まいら)
せ心 恍惚(くわうこつ)として山上(さんぜう)を見 上(あげ)停立(たゝずみ)けれども。御 誡(いましめ)強(つよ)ければ山へ登(のぼ)る事 能(あたは)ず為方(せんかた)なくて
心ならずも配所(はいしよ)へ帰(かへ)るといへども。君(きみ)の御 身(み)の上を煩想(おもひわづらひ)て起居(ききよ)安(やす)からず。夜(よる)も枕(まくら)に就(つけ)ども
目(め)も合(あは)ず終夜(よもすがら)鬱々(うつ〳〵)【欝は俗字】として夜(よ)を明(あか)し。明(あく)れば又 彼山(かのやま)の梺(ふもと)へ到(いた)りもし御 姿(すがた)の見ゆる事も
やとて。東西南北(あなたこなた)と路(みち)も無(なき)山下(さんか)を回(めぐ)り見れども。御 姿(すがた)を幽(かすか)にも見奉る事 能(あたは)ず十 計(けい)尽(つき)て
配所(はいしよ)へ還(かへ)り。又 気遣(きづかは)しさに山の梺(ふもと)へ到(いた)り。如此(かくのごとく)七日が間(あいだ)往反数回(ゆきつもどりつ)心をぞ労(らう)しける。去程(さるほど)に
菅公(かんこう)は険陖(けんしゆん)たる羊腸(さかみち)を分(わけ)登(のぼ)り。辛(からう)して山頭(さんとう)へ到(いた)り給ひ。一 塊(くわい)の巌(いはほ)の有(あり)ければ其上(そのうへ)へ登(のぼり)
給ひて携(たづさ)へ給ふ所(ところ)の新枝(ずはへ)に插(はさみ)し願書(ぐわんしよ)を天に捧(さゝげ)給ひ御 足(あし)の左右(さいう)の大 指(ゆび)ばかりにて翹(つまだち)たまひ

【注 法政大学 国際日本学研究所所蔵資料アーカイブス、『扶桑皇統記図会』を参照す。】

暫(しばら)く天を拝(はい)し給ひ。其後(そのゝち)は御 眼(め)を閉(とぢ)一心不乱(いつしんふらん)に祈(いのり)給ふは。何事(なにごと)の御願(ごぐわん)かはいざ不知(しらね)ども。そも
菅公(かんこう)は天性(てんせい)虚弱(よは〳〵し)く在(ましま)せるに。断食(だんじき)不飲(ふいん)にて。しかも巌頭(がんとう)に翹(つまだ)ち七日(なぬか)七夜(なゝよ)が間(あいだ)刹那(せつな)も
懈怠(けだい)なく祈(いのり)給ふ事(こと)実(じつ)に難中(なんちう)の難(なん)にて勇猛(ゆうもう)強勢(がうせい)の荒行者(あらぎやうじや)たりとも半日(はんじつ)も堪(たゆ)る事
難(かた)かるべし。かゝる丹誠(たんせい)を高天(かうてん)も感(かん)じ給ひけん七日(なぬか)満(まん)ずる暁(あかつき)天地(てんち)俄(にはか)に震動(しんどふ)して雷電(らいでん)
鳴(なり)閃(ひらめ)くと等(ひとし)く一 陣(ぢん)の旋風(つじかぜ)吹発(ふきおこ)り。捧(さゝげ)給ふ告文(かうぶん)を天上(てんぜう)遙(はるか)に吹上(ふきあげ)御 手(て)には梅(うめ)の新枝(づはへ)のみ
ぞ残(のこ)りける。菅公(かんこう)御喜悦(ごきゑつ)斜(なゝめ)ならず。今(いま)こそ道真(みちざね)が大 願(ぐわん)を皇天(くわうてん)納受(のふじゆ)し給へりとて。天(てん)
に向(むか)ひて九拝(きうはい)し給ひ。巌(いはほ)を下(お)り梺(ふもと)へ下(くだ)り給ひけるに。山下(さんか)には渡会春彦(わたらへはるひこ)疾(とく)より待(まち)うけ
し事なれば大いに怡(よろこ)び其(その)御安体(ごあんたい)を賀(が)し奉り。随従(おんとも)して配所(はいしよ)へ還(かへ)り御 湯漬(ゆづけ)などを勧(すゝ)め
奉れども。菅公(かんこう)些(すこし)も用(もち)ひ玉はず。御 褥(しとね)の上に臥(ふし)給ひけるが忽然(こつぜん)として眠(ねむる)がごとく薨去(かうきよ)なし玉
ひける。時(とき)は是(これ)延喜(えんぎ)三年二月二十五日なり。春彦(はるひこ)は斯(かく)ともしらず御 疲労(つかれ)にて御寝(ぎよしん)なり
しと心得(こゝろえ)其儘(そのまゝ)御 傍(かたはら)に直宿(とのゐ)しけるに。日(ひ)も暮(くれ)夜(よ)も初更(しよかう)に及(およ)べども起(おき)玉はざれば余(あま)りに

不審(ふしん)たち怕(おそ)る〳〵御 枕頭(まくらべ)へ膝行(しつかう)して窺(うかゞ)ふに。御 寐息(ねいき)もしたまはず。大いに訝(いぶか)りそつと
御 手(て)を採(とつ)て胗脈(しんみやく)【胗は診の誤ヵ】するに。御 手(て)氷(こほり)のごとく冷(ひえ)きり六脈(りくみやく)已(すで)に絶(たへ)玉へり。茲(こゝ)に於(おい)て駭然(がいぜん)とし
て驚(おどろ)き騒(さは)ぎ。急(きう)に下僕(しもべ)を呼(よび)て郡司(ぐんじ)民部(みんぶ)が邸舎(やしき)へ走(はし)らせ斯(かく)と報(ほう)ぜしめければ。民部(みんぶ)
も大いに駭(おどろ)き医師(いし)を引将(ひきつれ)て馳参(はせまい)り薬湯(やくたう)を用(もち)ひなどして百般(さま〴〵)扱(あつか)ひ奉れども。再(ふたゝ)び蘇(よみ)
生(がへり)給ふべくもあらざれば。衆(みな)一 同(どう)に涕泣(ていきう)の涙(なみだ)を灑(そゝ)ぎ只(たゞ)歎息(たんそく)するばかりなり。分(わき)て春(はる)
彦(ひこ)は月日(つきひ)とも憑(たの)み奉りし公(きみ)に別(わか)れ進(まい)らせ愁傷(しふしやう)一方(ひとかた)ならず我(われ)を忘(わす)れ声(こゑ)を放(はなつ)て慟哭(どうこく)し
けるを民部(みんぶ)是(これ)を諫(いさめ)喩(さと)し。先(まづ)急使(はやづかひ)を仕立(したて)て菅公(かんこう)御薨去(ごかうきよ)の由(よし)を都(みやこ)へ註進(ちうしん)し。偖(さて)御 屍(むくろ)
を棺(ひつぎ)に收(おさ)め御 葬式(そうしき)を整(とゝの)へ。御 棺(ひつぎ)を車(くるま)に乗(のせ)奉り御 葬(ほうむり)の地(ち)は太宰府(だざいふ)の四堂(よつどう)の側(かたはら)と
定(さだ)め。配所(はいしよ)を出(いだ)し奉り。御 車(くるま)には春彦(はるひこ)付添(つきそひ)四人(よにん)の下僕(しもべ)是(これ)を押(おし)。民部(みんぶ)時員(ときかづ)は多勢(たせい)
にて御 車(くるま)の前後(ぜんご)を警固(けいご)し。四堂(よつどう)を臨(のぞん)で送(おく)り奉る。然(しかる)に菅公(かんこう)薨去(かうきよ)し給ひし事を誰(た)
が言伝(いひつたふ)るともなく遠近(おちこち)の人民(にんみん)聞(きゝ)知(しつ)て悲泣(ひきう)せざる者なし。御葬式(ごそうしき)を拝(はい)せんとて路(みち)の

両側(りようかは)に群集(くんじゆ)し涙(なみだ)を流(なが)し仏名(ぶつみやう)を称(となへ)て拝(はい)しける。斯(かく)て御車(みくるま)を押往(おしゆく)ところに。途中(とちう)に於(おい)
て御 車(くるま)止(とま)りて些(ちつ)とも動(うご)かず是(こ)は何(いか)なるゆへにやと。多勢(たせい)の者(もの)力(ちから)を併(あは)して押(おせ)ども〳〵。大(だい)
磐石(ばんじやく)の地(ち)より生(はへ)しごとく。一寸も動(うごか)ざれば春彦(はるひこ)民部(みんぶ)と相議(あいぎ)し。御車(みくるま)の此地(このち)に止(とゞ)まりしは
此地(このち)に葬(ほうむ)れよとの御事なるべしとて。遂(つひ)に御 車(くるま)の止(とま)りし地(ち)にぞ葬(ほうむ)り奉りける。今の
神廟(しんべう)【庿は廟の古字】の地(ち)是(これ)なり。斯(かく)て御 葬式(そうしき)も相済(あいすみ)ければ。民部(みんぶ)は従卒(じふそつ)を将(つれ)て帰(かへ)り。菅公(かんこう)に従(したが)
ひ奉りて筑紫(つくし)へ下(くだり)し四人の下僕(しもべ)も己々(おのれ〳〵)が故郷(こけう)へ帰(かへ)りけるに。只(たゞ)春彦(はるひこ)のみ御 墓(はか)の側(かたはら)
に菴(いほり)を営(いとな)み。喪(も)に籠(こも)りて朝夕(あさゆふ)御 墓(はか)を掃浄(はききよ)め。水(みつ)を手向(たむけ)花(はな)を供(くう)じ。死(し)に事(つかへ)る事(こと)
生(せい)に事(つかふ)るが如(ごと)し。郡司(ぐんじ)民部(みんぶ)其(その)誠心(せいしん)を感(かん)じ。米(こめ)薪(たきゞ)を贈(おく)りて飢渇(きかつ)を扶(たす)けけり。か彼(かの)孔門(かうもん)
の子貢(しこう)は孔子(かうし)の冢(つか)を守(まも)りて冢の上(ほとり)に廬(いほり)する事六年。我朝(わがてう)の良岑(よしみね)宗貞(むねさだ)も仁明帝(にんめうてい)
陵墓(みさゝき)を守(まも)る事三年 人(ひと)以(もつ)て其(その)忠悌(ちうてい)を賞美(せうび)せり。渡会春彦(わたらゑはるひこ)も是等(これら)の先哲(せんてつ)に劣(おとら)
ず。其身(そのみ)菅家(かんけ)普代(ふだい)の臣(しん)にもあらざれど。菅公(かんこう)御 誕生(たんぜう)の始(はじめ)より筑紫(つくし)にて御 薨去(かうきよ)ありし

まで昼夜(ちうや)勤仕(きんし)し猶(なほ)御 墓(はか)を守(まも)りて廬(ろ)する事一 年(ねん)延喜(えんぎ)四年二月二十五日。菅公(かんこう)
一 周忌(しうき)の御 命日(めいにち)に当(あたつ)て。さして病(やまふ)に染(そま)るともなく。沐浴斉戒(もくよくさいかい)し中臣(なかとみ)の祓(はらひ)を誦(じゆ)し
安然(あんぜん)として卒去(そつきよ)しける行年(ぎやうねん)八十五才とぞ聞(きこ)へし。後(のち)神(かみ)に祝(いはひ)こめ菅神(かんじん)の摂社(せつしや)としる
白太夫(しらたいふ)の宮(みや)は此(この)春彦(はるひこ)が事なり。誠(まこと)に希代(きたい)の一人なりけり
 因(ちなみ)に曰 菅公(かんこう)の天(てん)を拝(はい)し給ひし山を土人(どじん)天拝山(てんはいさん)と号(なづけ)彼(かの)岩(いは)を天拝岩(てんはいがん)と謂(いへ)り
    寛平法皇(くわんへいほふわう)《振り仮名:築_二双岡_一|ならびがおかをきづく》  法性坊(ほふしやうばう)《振り仮名:夢謁_二菅公亡霊_一|ゆめにかんこうのぼうれいにえつす》条
惜(おしひ)哉(かな)北闕(ほくけつ)の春(はる)の花(はな)不帰(かへらざる)水(みつ)に従(したがふ)て流(ながれ)奈何(いかんか)西府(さいふ)の夜(よる)の月(つき)不霽(はれず)して虚名(きよめい)
の雲(くも)に入(いる)。さしも朝廷(てうてい)の忠臣(ちうしん)と呼(よば)れ給ひし右大臣(うだいじん)菅原道真公(すがはらのみちざねこう)五十九才にして如月(きさらぎ)の
梅花(ばいくわ)と倶(とも)に散(ちつ)て西府(さいふ)の土(つち)に帰(かへり)給ひし事。早(はや)く都(みやこ)に聞(きこ)えしかば。姫君(ひめぎみ)達(たち)の御 愁傷(しうしやう)は
申も中々(なか〳〵)疎(おろか)にて御一 門(もん)を首(はじめ)無縁(むえん)の月卿(げつけい)雲客(うんかく)数(かづ)ならぬ市人(てうにん)農民(ひやくしやう)まで老(らう)となく
少(せう)となく。惜(をし)み歎(なげ)かざるは無(なか)りけるに。只(たゞ)時平(しへい)方(がた)の輩(ともがら)は菅公(かんこう)もし左遷(させん)【迁は俗字】恩免(おんめん)の詔命(みことのり)を

皈洛(きらく)あらば讒奏(ざんそう)の罪(つみ)露見(ろけん)し。如何(いか)なる御 咎(とがめ)を蒙(かふむ)らんも量(はかり)がたしと。皆(みな)安(やす)き心もなかり
けるに。已(すで)に筑紫(つくし)にて薨去(かうきよ)ありしと聞(きゝ)。時平(しへい)はじめ光(ひかる)。定国(さだくに)以下(いげ)の奸徒(かんと)。目(め)の上の瘤(こぶ)を除(のぞき)
し心地(こゝち)して大いに怡(よろこ)び始(はじめ)て枕(まくら)を高(たか)うし各(おの〳〵)参会(さんくわい)して酒宴(しゆえん)を摧(もよほ)し賀(よろこび)を演(のべ)てぞ楽(たのしみ)ける
茲(こゝ)に寛平法皇(くわんへいほふわう)《割書:宇|多》は先(さき)に菅公(かんこう)の左遷(させん)【迁は俗字】を申 宥(なだめ)んと。御 輿(こし)にも乗(めさ)ず御 参内(さんだい)なし給ひしに
奸臣(かんしん)們(ら)に妨(さまた)げられ給ひて。本意(ほい)なく還御(くわんぎよ)なし給ひし後(のち)は世(よ)を憂(うき)ものに思召(おぼしめし)けるところ
菅公(かんこう)終(つひ)に薨去(かうきよ)ありしと聞(きか)せ給ひて。恐(おそれ)多(おほく)も御 衣(ころも)の袖(そで)を哀涙(あいるい)に浸(ひた)し給ひ。いとゞ時平(しへい)
以下(いげ)の讒者(ざんしや)を恨(うら)み悪(にくみ)給ひ。都(みやこ)の方(かた)を見(みる)も嗔(しん)𠹤(い)の種(たね)なりと思召(おぼしめし)仁和寺(にんわじ)の前(まへ)に山を築(きづ)
かせ給ひけり。其(その)築山(つきやま)二峰(ふたみね)なるを以(もつ)て。世(よ)に双(ならび)か岡(おか)とぞ呼名(よびな)しける。是(これ)仁和寺(にんわじ)より都(みやこ)の
見えざる為(ため)の目隠(めがく)しなり。斯(かく)て法皇(ほふわう)は御室(おむろ)に閉籠(とぢこもり)給ひ。朝夕(てうせき)菅公(かんこう)の菩提(ぼだい)を弔(とふら)【吊は俗字】はせ玉
ひ御 座(ざ)の側(かたはら)には菅家(かんけ)詩歌(しいか)の書物(しよもつ)を置(おか)せ給ひて御徒然(ごとぜん)の折々(をり〳〵)は是(これ)を御覧(ごらん)じ。菅公(かんこう)
に御 対面(たいめん)なし給ふ御 心地(こゝち)にて御心(みこゝろ)を慰(なぐさめ)給ふも難有(ありがた)かりし御事なり。菅公(かんこう)の御霊(みたま)も

さこそ忝(かたじけ)なく思召(おぼしめす)らんとぞ覚(おぼ)へはんべる。菅家(かんけ)の御 書物(しよもつ)と申は
  菅家家集(かんけいへのしう)《割書:和哥(わか)|一部》 菅家文章(かんけぶんさう)《割書:詩文(しぶん)|十二巻》 同 後草(こうさう)《割書:配所御作(はいしよごさく)|詩一巻》
  菅家 万葉集(まんようしう)《割書:古哥(こか)ニ御 自作(じさく)ノ|詩ヲ合サル二巻》 文徳実録(もんどくじつろく)《割書:一部》
  類聚国史(るいじゆこくし)《割書:二百巻》 文選文集(もんぜんぶんしう)《割書:菅公加点(かんこうかてん)|一部》 以上
其後(そのゝち)法皇(ほうわう)は朱雀天皇(しゆじやくてんわう)の承平(しやうへい)元年七月十九日 仁和寺(にんわじ)に於(おいて)崩御(ほうぎよ)なし給ひけり
崩御(ほうぎよ)の後(のち)は世人(よのひと)御室御所(おむろごしよ)の事を御門跡(ごもんぜき)と申奉りける。是(これ)は御門跡(みかどのあと)と言(まうす)事(こと)なり
 因(ちなみ)に曰 後代(こうだい)に至(いたり)ては門跡(もんぜき)を宦名(くわんみやう)の如(ごと)く言(いひ)なし後年(こうねん)追(おひ)〳〵門跡(もんぜき)と称(しやう)する宮方(みやがた)
 数(かづ)増(まし)たり其(その)大略(たいりやく)は
   叡山(ゑいざん)三 門跡(もんぜき)  妙法院宮(めうほういんのみや)  青蓮院宮(せうれんいんのみや)  梶井宮(かぢゐのみや)
   三井寺三門跡  聖護院宮(しやうごいんのみや)  円満院宮(ゑんまんいんのみや)  実相院宮(じつさういんのみや)
   東大寺門跡(とうだいじもんぜき)   勸修寺宮(くわんじゆじのみや)

   興福寺門跡(かうぶくじもんぜき)  一 乗院宮(じやういんのみや)  大 乗院宮(じやういんのみや)
   醍醐寺門跡(だいごじもんぜき)  三 宝院宮(ぼういんのみや)
   右の外(ほか) 大 覚寺宮(かくじのみや)  安居(やすゐの)宮  竹内(たけうちの)宮  知恩院(ちおんいんの)宮
   関東(くわんとう)日光宮(につくわうのみや) 等(とう)其余(そのよ)数多(あまた)有(あり)又 准門跡(じゆんもんぜき)と称(しやう)するも多(おほ)けれども略之(これをりやくす)
菅公(かんこう)御 薨去(かうきよ)ありて後(のち)天神(てんじん)地祇(ぢぎ)朝廷(てうてい)の忠臣(ちうしん)の冤死(べんし)【寃は冤の俗字】を怒(いか)り給ひけん。洛中(らくちう)洛外(らくぐわい)
厄難(やくなん)数度(すど)に及(およ)びけり。古語(こゞ)にも一夫(いつふ)怨(うらめ)ば三年 登(みのら)ず。一婦(いつふ)恨(うらめ)ば百日 雨(あめ)降(ふら)ずと謂(いへ)り
是(これ)万物(ばんもつ)の長(おさ)たる生霊(せいれい)を苦(くるし)ましむる事を。天地(てんち)ともに怒(いか)り給ふ故(ゆへ)なり。増(まし)て況(いはん)や菅公(かんこう)の
如(ごと)き大 賢人(けんじん)を困(くるし)め進(まいら)せしに於(おいて)おや。先(まづ)其(その)初(はじめ)は延喜(えんき)七年八月九月 両月(りようげつ)に洛中(らくちう)洛外(らくぐわい)の
神社(しんじや)仏閣(ぶつかく)の境内(けいだい)に植(うえ)たる梅(うめ)桜(さくら)桃(もゝ)海棠(かいどう)を首(はじめ)とし。山吹(やまぶき)杜若(かきつばた)以下(いげ)の草花(さうくわ)にいたる迄(まで)悉(こと〴〵)く
花(はな)咲(さき)ければ是(こ)は珍(めづら)しき事かなとて。貴賎(きせん)とも老若(らうにやく)男女(なんによ)の差別(しやべつ)なく群集(くんじゆ)して是(これ)を見(み)
回(めぐ)りけるに。心ある輩(ともがら)は眉(まゆ)を顰(ひそ)め。例年(れいねん)皈咲(かへりざき)といふは平素(つね)の事なれど。是(これ)は夫(それ)とは事(こと)

【右丁】
菅公

【左丁】
菅公(かんこう)
 筑紫(つくし)
天拝山(てんはいざん)
  にて
祈願(きぐわん)し
 給ふ図(づ)

変(かは)り秋(あき)の半(なかば)に諸(もろ〳〵)の草木(さうもく)一 同(どう)に花咲(はなさく)事 前代未聞(ぜんだいみもん)の珍事(ちんじ)なり。此末(このすへ)何(いか)なる世(よ)になり
往(ゆく)らんと私語(さゝやき)合(あひ)けり。帝(みかど)も駭(おどろ)き給ひ。天文博士(てんもんのはかせ)陰陽博士(おんやうのはかせ)等(とう)に考(かんがへ)させ給ふに何方(いづれ)
も重(おも)き御 慎(つゝしみ)にて殊(こと)に公卿(こうけい)の中(うち)に凶変(けうへん)の候べしと。勘文(かんもん)を上(たてまつ)りて奏聞(そうもん)しければ主上(しゆぜう)
深(ふか)く怕(おそれ)給ひ宸襟(しんきん)安(やす)からず。諸寺(しよじ)諸社(しよしや)に詔命(みことのり)ありて災変(さいへん)を禳(はらふ)べき加持祈祷(かぢきとう)
を修(しゆ)せしめ給ひけり。其中(そのなか)にも睿山(ゑいざん)の法性坊(ほふせうばう)尊意僧正(そんいそうぜう)と申は。智徳(ちとく)兼備(けんひ)の名(めい)
僧にて天台止観(てんだいしくわん)の奥旨(おうし)を究(きはめ)三 学(がく)三 論(ろん)はいふに不及(およばず)一 切諸経(さいしよきやう)の深理(しんり)に通(つう)ぜざる所(ところ)
も無(なか)りければ一山(いつさん)の僧徒(そうと)推尊(おしたつと)み。山門(さんもん)の学頭(がくとう)とし。帝(みかど)も深(ふか)く御 信仰(しんかう)在(ましま)し天台座(てんだいざ)
主(す)に任(にん)じ給へば。今度(このたび)第(だい)一 番(ばん)に消災(せうさい)の加持(かぢ)を修(しゆ)すべしとの宣旨(せんじ)を下(くだ)されける。此(この)僧正(そうぜう)は
菅公(かんこう)とは師檀(しだん)の睦(むつ)び深(ふか)く。公(こう)の御 在勤中(ざいきんちう)は互(たがひ)に往反(ゆきかひ)して詩(し)を作(つくり)かはし書籍(しよじやく)の討論(とうろん)
など仕合(しあひ)給ひければ。菅公(かんこう)の左遷(させん)【迁は俗字】せられ給ひしを旦夕(あけくれ)歎(なげ)き給ひ何卒(なにとぞ)折(をり)を得(え)ば帝(みかど)を
申 宥(なだ)め菅公(かんこう)の左遷(させん)【迁は俗字】恩免(おんめん)を願(ねが)ひ奉らんと思(おも)ひ給へども讒者(ざんしや)朝廷(てうてい)に充満(みち〳〵)て其(その)

便(たより)を得(え)給はず徒(いたづら)に年月(ねんげつ)を送(おく)らるゝ内(うち)終(つひ)に菅公(かんこう)薨去(かうきよ)し給へりと聞(きこ)えしかば。僧正(そうぜう)哀悼(あいとう)の
涙(なみだ)に三衣(さんえ)の袖(そで)を絞(しぼり)給ひ会者定離(ゑしやでうり)の理(ことは)りを観(くわん)じ。せめては亡跡(なきあと)を弔(とふら)【吊は俗字】ひ進(まいら)せんと朝夕(てうせき)
妙経(めうけう)を読誦(どくじゆ)し給ひけるに。禁廷(きんてい)より災厄(さいやく)消滅(せうめつ)の加持(かぢ)を修(しゆ)すべしとの倫命(りんめい)下(くだ)りし
かば僧正(そうぜう)勅命(ちよくめい)に従(したが)ひ別所(べつしよ)の菴室(あんしつ)に閉籠(とぢこも)り丹誠(たんせい)を抽(ぬきん)でゝ加持(かぢ)の修法(しゆほふ)を行(おこな)ひ清(すま)
して御座(おはし)ける所(ところ)一夜(あるよ)菴(いほり)の扉(とぼそ)を打敲(うちたゝ)く人あり。僧正(そうぜう)数珠(じゆず)の手(て)を止(とめ)て誰(た)そやと応(こた)へ
扉(とぼそ)を開(ひら)きて月影(つきかげ)に其(その)人を見給へば豈(あに)はからん去(い)ぬる延喜(ゑんぎ)さん三年二月。西府(さいふ)にて薨去(かうきよ)し
給ひしと聞(きこ)えし菅丞相(かんしやう〴〵)。衣冠(いくわん)正(たゞ)しく笏(しやく)を把(とつ)て停立(たゝずみ)玉へり。其(その)顔色(がんしよく)は稍(やゝ)憔悴(せうすい)して
見え給ふにぞ。僧正(そうぜう)甚(はなは)だ訝(いぶか)り給ひ。思(おも)ひよらずよ道真公(みちざねこう)御身(おんみ)は五年(ごねん)以前(いぜん)筑紫(つくし)にて
薨(かう)じ給ひしと伝聞(つたへきく)素(もとよ)り師檀(しだん)の契(ちぎり)深(ふか)かりし御 事(こと)なれば悲哀(かなしみ)に堪(たへ)ず。せめては後(ご)
世(せ)仏果(ぶつくわ)を得(え)給ふやう。朝暮(てうぼ)御 跡(あと)を弔(とふら)【吊は俗字】ひ候に。在(あり)しに変(かは)らぬ対顔(たいがん)をなし奉る不(ふ)
思議(しぎ)さよ。先々(まづ〳〵)此方(こなた)へと請(しやう)じ入(いれ)。賓主座(ひんしゆざ)定(さだ)まりて有合(ありあふ)柘榴(ざくろ)を出(いだ)し湯(ゆ)を進(まい)らせ

られ偖(さて)今宵(こよひ)は何(なに)のため光臨(くわうりん)なし給ふやと咨(とひ)給ふに。菅公(かんこう)答(こたへ)給ふらく。誠(まこと)は弟子(ていし)道真(みちざね)無(む)
実(しつ)の虚名(きよめい)晴(はれ)ず五 年(ねん)以前(いぜん)西府(さいふ)の雲(くも)と消(きえ)。五 温(うん)の形(かたち)は土中(どちう)に朽果(くちはつ)れども。一 念(ねん)の霊(れい)は尚(なほ)
陽土(やうど)に遺(のこ)れり。抑(そも〳〵)道真(みちざね)不敏(ふびん)なりといへども。君王(くんわう)の御 為(ため)豪髪(がうはつ)も私(わたくし)を存(そん)せず。心(こゝろ)を小(せめ)
己(おのれ)に克(かつ)て。御代(みよ)をして尭舜(ぎやうしゆん)の化(くは)に比(たぐへ)んと。肺肝(はいかん)を碓(くだき)し其(その)甲斐(かひ)なく。讒舌(ざんぜつ)の為(ため)に叛逆(ほんぎやく)の
汚名(おめい)を称(となへ)られ無辜(つみなう)して父子(ふし)五所(ごしよ)に謫(てき)せらるゝ事。其(その)怨(うらみ)無(なき)にあらざれども。是(こ)は時(とき)の不(ふ)
肖(せう)身(み)の不運(ふうん)に拠(よりどころ)なれば露(つゆ)許(ばかり)も君(きみ)を怨(うらみ)奉る心は候はず。然(しかれ)ども時平(ときひら)以下(いげ)の讒徒(ざんと)。君(きみ)を
言(まうし)惑(まどは)し道真(みちざね)を退(しりぞけ)し罪(つみ)を。天帝(てんてい)敢(あへ)て恕(ゆる)し玉はず。遠(とふ)からずして帝闕(ていけつ)に災厄(さいやく)を降(くだ)し
侫臣(ねいしん)們(ら)を罰(ばつ)し玉はんとなり。然(しかれ)ば王宮(わうきう)に天災(てんさい)の及(およ)ぶ期(ご)に臨(のぞ)み。其(その)災変(さいへん)を禳(はらは)んと。朝家(てうか)よ
り尊師(そんし)を召(めさ)るゝ事候べけれども。願(ねがは)くは事を左右(さいう)に托(たく)して下山(げさん)なし給はず。天威(てんい)に逆(さか)ひ給ふ
事 勿(なか)れ。此義(このぎ)を告(つげ)奉らんため仮(かり)に形(かたち)を現(あらは)し尊顔(そんがん)に向(むか)ひ候なりと曰(のたま)ひければ。僧正(そうぜう)聞(きゝ)給ひ
て仰(あふせ)らるゝ所(ところ)理(り)の至極(しごく)に候。天帝(てんてい)侫臣(ねいしん)を罰(ばつ)し給ふと候へば。君(きみ)より貧道(ひんどう)を召(めさ)るゝとも二 度(ど)

までは堅(かた)く辞(じ)して下山(げさん)仕(つかまつ)るまじ。されども普天(ふてん)の下(した)王土(わうど)に非(あらざ)るはなく卒土(そつと)の賓(ひん)王(わう)の民(たみ)に非(あらざ)るは
なし。【注】且(そのうへ)我(わが)山は王城(わうぜう)鎮護(ちんご)の為(ため)に立置(たておか)るゝ所(ところ)なれば。勅使(ちよくし)三度(さんど)に及(およ)びては召(めし)に応(おう)ぜざる
事 能(あた)はず。斯程(かほど)の理(り)は凡庸(ぼんよう)の徒(ともから)も弁(わきまへ)知(しり)候べし。況(いはん)や貴卿(きけい)に於(おいて)おやと仰(あふせ)けるにぞ。菅公(かんこう)
再(ふたゝ)び仰(あふせ)らるゝ御 言(ことば)なく。勃然(ぼつぜん)として気色(けしき)を損(そん)ぜられ。菓子台(くわしだい)の柘榴(ざくろ)を採(とつ)て噛(かみ)くだき給ひ
妻戸(つまど)に。はつと吐(はき)かけ給へば。柘榴(ざくろ)は忽(たちま)ち猛火(みやうくは)となり。妻戸(つまど)に燃付(もえつき)焰々(ゑん〳〵)と燃上(もえあが)りけるを。僧(そう)
正(ぜう)は公然(こうぜん)として騒(さは)ぎ玉はず。手(て)に灑水(しやすい)の印(いん)を結(むす)び給ふと等(ひとし)く。今まで燃立(もえたち)し妻戸(つまど)の火(ひ)
消然(せうぜん)として消(きえ)。其(その)煙(けふり)に紛(まぎ)れ菅公(かんこう)の姿(すがた)消失(きえうせ)給ふと思(おも)ひ給へば俄然(がぜん)として御 眼覚(めさめ)是(これ)
一場(ぢよう)の夢(ゆめ)にぞ有(あり)ける。僧正(そうぜう)奇異(きい)の思(おもひ)をなし給ひ。我(われ)菅丞相(かんしやう〴〵)を追慕(つひぼ)する心 深(ふか)きゆへ
かゝる奇怪(きくわい)の夢(ゆめ)を見たり是(これ)思夢(しむ)なるべし。然(しかれ)ども内裏(だいり)の天災(てんさい)を示(しめ)し下山(げさん)を止(とめ)
られしを以(もつ)て考(かんがふ)ればもし実夢(じつむ)にやと。虚実(きよじつ)両端(りようたん)を定(さだ)めかね玉ひ又 加持(かじ)をぞ修(しゆ)せられける
  貝原(かいばら)先生(せんせい)の著(あらは)されし太宰府天満宮故実記(だざいふてんまんぐうこじつき)に曰。菅公(かんこう)の霊(れい)睿山(ゑいさん)の法性坊(ほふせうばう)の許(もと)

【注 詩経、小雅に「率土之浜、莫_レ非_二王臣_一」とあるによるか】

  にいたり。我(われ)天帝(てんてい)の免(ゆるし)を受(うけ)て雷神(らいじん)となり。内裏(だいり)へ落(おち)て讒奏(ざんそう)せし徒(ともがら)を摑殺(つかみころさ)んと欲(ほつ)
  す内裏(だいり)より召(めさ)るゝとも師(し)下山(げさん)し給ふ事 勿(なか)れと申されけるに。法性坊(ほふせうぼう)勅使(ちよくし)三 度(ど)に及(およ)ばゝ
  辞(じ)する事 能(あたは)ざるよし答(こたへ)られしかば。菅霊(かんれい)怒(いか)りて柘榴(ざくろ)の晡(ほ)を妻戸(つまど)に吐(はき)かけられけれ
  ば妻戸(つまど)燃立(もえたち)けるを。師(し)灑水(しやすい)の印(いん)を結(むす)んで是(これ)を消(けさ)れたりと古(ふる)くより書伝(かきつたへ)たれど
  甚(はなは)だ信(しん)じがたき説(せつ)にて恐(おそ)らくは後世(こうせい)の虚誕(きよたん)【左ルビ:うそ】なるべし。菅公(かんこう)冤(むしつ)のために左遷(させん)【迁は俗字】せられ給へ
  ども天命(てんめい)なるを悟(さとり)給ひて聊(いささか)も君(きみ)を怨(うらみ)給ふの言(ことば)なし。然(しかる)に何(なん)ぞ死(し)して雷神(らいじん)邪神(じやしん)と成(なり)
  玉ふべき。是(これ)菅公(かんこう)を余(あまり)に崇(あがめ)んとして種々(しゆ〳〵)の妄説(もうせつ)を設(もう)け邪神(じやしん)となし奉る事 却(かへつ)て神(しん)
  威(い)を損(おと)す理(り)にて最(いと)も恐(おそれ)ある事なり。内裏(だいり)の三 度(ど)炎焼(ゑんしやう)し時平(ときひら)以下(いけ)の死(し)を善(よく)せざり
  しは。天道(てんとう)菅公(かんこう)の忠誠(ちうせい)を感(かん)じ。冤(むしつ)を雪(すゝ)ぎ無辜(つみなき)を露(あらは)さんため。怕(おそろ)しき天災(てんさい)を降(くだ)し給ふ
  所(ところ)にて。敢(あへ)て菅公(かんこう)のなし給ふには非(あらざ)るべし。讒者(ざんしや)の徒(ともがら)雷(らい)に撃(うた)れ或(あるひ)は凶死(けうし)せしも天道(てんとう)
  悪(あく)に殃(わざはひ)し給ふ理(り)にて。忠臣(ちうしん)無二(むに)の菅公(かんこう)を讒奏(ざんそう)せし罪(つみ)大いにして天誅(てんちう)に遭(あへ)るなり

  是(これ)自業自得(じがうじとく)といふべきのみ。心ある人はよく〳〵弁(わきま)へ給ふべき事にこそ《割書:云々》此説(このせつ)誠(まこと)
  に公論(こうろん)と謂(いふ)べし。世上(せじやう)に菅公(かんこう)は雷神(らいじん)に成(なり)給へりと思(おも)ふ人 多(おほ)し。甚(はなは)だしき僻事(ひがこと)なり
  予(よ)素(もとよ)り貝原翁(かいばらおう)の卓見(たくけん)に伏(ふく)すといへども。茲(こゝ)に柘榴天神(ざくろてんじん)の一 条(でう)を載(のす)るものは。古(ふる)
  くより書伝(かきつた)へ人々の能(よく)知(しり)給ふ説(せつ)なれば是(これ)を捨(すて)ず。只(たゞ)夢(ゆめ)に托(たく)して識者(しきしや)の責(せめ)を塞(ふさぐ)のみ
    洛中(らくちう)天変(てんべん)内裏(だいり)雷災(らいさい)  奸徒(かんと)雷死(らいし)法性房(ほふしやうばう)行力(ぎやうりき)条
延喜(えんぎ)七 年(ねん)も暮(くれ)同(おなしく)八年の春(はる)になりけれども何(なん)の異変(いへん)もなかりければ。是(これ)全(まつた)く加持祈祷(かじきとう)の
功力(くりき)による所(ところ)なりと上(かみ)一人より下(しも)万民(ばんみん)まで心を安(やす)んじけるに其年(そのとし)の秋(あき)八月十六日 俄(にはか)に暴風(ぼうふう)【凬は古字】吹(ふき)
出(いだ)し。洛中(らくちう)洛外(らくぐわい)とも大木(たいぼく)を根(ね)ながら吹仆(ふきたほ)し。堂社(どうしや)人家(じんか)の屋根(やね)を吹捲(ふきまく)り。端(はし)〱(〳〵)の小家(こいへ)は吹(ふき)
倒(たを)さるゝも。多(おほ)し。加之(しかのみ)ならず大雨(たいう)降出(ふりいだ)して賀茂川(かもがは)に洪水(かうずい)溢(あぶ)れ川下(かはしも)の人家(じんか)百四五十 軒(けん)忽(たちま)
ち水(みづ)のために押流(おしなが)され溺死(できし)する者 夥(おびたゝ)しく。牛馬(ぎうば)雞犬(けいけん)の水死(すいし)するは幾千(いくせん)とも数(かづ)しれず。是(これ)
をさへ希代(きたい)の大 変(へん)かなと上下(しやうげ)顔如菜(いろをうしなひ)怕(おそれ)惑(まど)ふ所(ところ)に午過(ひるすぎ)頃(ごろ)より雷電(らいでん)凄(すさま)じく鳴(なり)閃(ひらめ)き白(はく)

昼(ちう)さながら暗夜(あんや)のごとく風雨(ふうう)倍(ます〳〵)厲(はげ)しく成(なり)ければ貴賎(きせん)とも魂(たましい)を消(け)し女 童(わらべ)は泣叫(なきさけび)今(いま)や
世界(せかい)も滅(めつ)し尽(つく)るかと危(あやぶ)みけり。殊更(ことさら)内裏(だいり)には雷鳴(らいめい)わきて夥(おびたゝ)しく雷(かみなり)の落(おつ)る事 幾所(いくところ)とも
数(かづ)しらず。誰(た)が言出(いひいだ)せしか。此(この)天変(てんべん)は無罪(つみなき)右大臣殿(うだいじんどの)を左遷(させん)【迁は俗字】し給ひしゆへ。菅公(かんこう)の怨霊(おんりよう)の
祟(たゝり)【崇は誤】をなし給ふ所(ところ)なりと言(いひ)詈(のゝし)り。百司(ひやくし)百宦(ひやくくわん)君(きみ)を守護(しゆご)し奉らんともせず。周障(あはて)狼狽(うろたへ)て逃(にげ)
騒(さは)ぎけり。中にも大納言(だいなごん)清貫(きよつら)は菅霊(かんれい)の祟(たゝり)【崇は誤】なりと聞(きい)て大いに恐怖(きやうふ)し。主上(しゆぜう)の御座(おはしま)す常(じやう)
寧殿(ねいでん)へ逃(にげ)避(さけ)んと後涼殿(こうりようでん)の廊下(らうか)を走(はし)りけるに。眼前(めさき)へ一 団(だん)の雷火(らいくわ)噇(どう)ど落(おち)けるにぞ。清(きよ)
貫(つら)わつと魂断(たまぎり)て尻居(しりゐ)にはつたと仆(たをれ)ける。其内(そのうち)に水干(すいかん)の袖(そで)に雷火(らいくわ)燃付(もえつき)ければ益(ます〳〵)駭(おどろ)き周(あは)
障(て)火(ひ)を消(けさ)んと廊下(らうか)を転(ころ)び回(まは)り。救(すく)へ〳〵と叫(さけぶ)所(ところ)へ再(ふたゝ)び霹靂(へきれき)大いに震鳴(ふるひなり)清貫(きよつら)が五 体(たい)
の上に落(おち)たりけり。何(なに)かは以(もつ)て堪(たま)るべき首(くび)も手脚(てあし)も切々(きれ〴〵)に成(なり)燻(ふすぼ)り反(かへつ)て死(し)しけるは目(め)も当(あて)
られぬ風情(ふぜい)なり。右中弁(うちうべん)希世(まれよ)は周障(あはて)騒(さは)ぎ大庭(おほには)へ逃下(にげおり)けるに。雷火(らいくわ)のために皃(かほ)を焼(やか)れて仆(たをれ)
死(し)し。貞文(さだぶん)は勇気(ゆうき)を以(もつ)て難(なん)を遁(のが)れんと弓(ゆみ)に矢(や)を番(つが)へ引張(ひきはつ)て逃行(にげゆく)を雷神(らいじん)近付(ちかづい)て

蹴殺(けころ)しけり。紀蔭連(きのかげつら)は焰(ほのふ)にむせて死亡(しぼう)し。其余(そのほか)時平(しへい)に一 味(み)せし輩(ともがら)は悉(こと〴〵)く雷(らい)の為(ため)に撃(うた)
れ死(し)しけるゆへ。弥(いよ〳〵)菅公(かんこう)の祟(たゝり)【崇は誤】也と恐(おそれ)惑(まど)ひける。左大臣(さだいじん)時平(ときひら)も今度(こんど)の天災(てんさい)は菅公(かんこう)の祟(たゝり)【崇は誤】
なりと一 途(づ)に思(おも)ひこみ恐懼(きやうく)しながら奸智(かんち)を回(めぐら)し。光(ひかる)定国(さだくに)菅根(すがね)等(ら)に向(むか)ひ。菅丞相(かんしやう〴〵)在(ざい)世の
時(とき)は帝(みかど)を重(おも)んじ敬(うやま)ふ事人に過(すぎ)たれば。其(その)亡霊(ぼうれい)も玉体(ぎよくたい)に近付(ちかづく)事はよもあらじ。君(きみ)に引(ひつ)そひ
て居(ゐ)なば雷難(らいなん)を遁(のが)るべしと言(いは)れけるにぞ。皆(みな)尤(もつとも)と同意(どうい)し。帝(みかど)の御座(ござ)へ参(まい)り玉体(ぎよくたい)を
守護(しゆご)し奉るといふを名(な)とし。四人(よにん)とも御衣(ぎよい)にとり付(つい)て戦慄(ふるひわなゝき)ける。素(もとよ)り雷災(らいさい)は菅公(かんこう)の霊(りよう)
の為(なす)ところならざれども。流石(さすが)十 善(ぜん)の天子(てんし)の威(い)に恐(おそ)れ玉体(ぎよくたい)に咫尺(ちかづく)事なかりければ。讒者(ざんしや)の
面々(めん〳〵)も僥倖(さいはひ)に雷難(らいなん)を免(まぬかれ)けり。されども風雨(ふうう)雷電(らいでん)は尚(なを)止(やま)ず。日(ひ)は已(すで)に暮(くれ)けれども灯燭(とうしよく)を点(てん)
ずる人もなく。宮殿(きうでん)皆(みな)暗闇(くらやみ)にて。只(たゞ)透間(すきま)なく閃(ひらめ)く電光(いなびかり)の影(かげ)凄(すさま)じく。此所(こゝ)彼所(かしこ)に泣叫(なきさけ)ぶ女房(にようばう)
上童(うへわらは)の声(こゑ)叫喚(けうくわん)大叫喚(だいけうくわん)の地獄(ぢごく)も斯(かく)やと怪(あや)しまれけり。左府(さふ)時平(ときひら)心 付(つき)帝に向(むか)ひ奉り。睿(ゑい)
山(ざん)の座主(ざす)尊意僧正(そんいそうじやう)を召(めさ)れ加持(かじ)させ玉はゞ。天変(てんべん)の止(やみ)候事も候べしと奏(そう)しければ。帝(みかど)実(げに)

も其(その)義(ぎ)を忘(わす)れたり急(いそ)ぎ勅使(ちよくし)を立(たて)尊意(そんい)を招(まね)き寄(よせ)よと詔命(みことのり)ありけるゆへ。左府(さふ)奉(うけたまは)り
心(こゝろ)利(きゝ)たる人を択(えら)み勅使(ちよくし)として山門(さんもん)へ馳(はせ)いたらしめける。此時(このとき)夜(よ)は暁(あかつき)になりにけり。時平(ときひら)又 思惟(しあん)し
もし勅使(ちよくし)途中(とちう)にて遅滞(ちたい)する事もやとて。又 続(つゞい)て二 番手(ばんて)の勅使(ちよくし)を立(たて)られ。それにても尚(なを)
心 安堵(おちい)ず。又々 引続(ひきつゞい)て三 番手(ばんて)の勅使(ちよくし)をぞ馳向(はせむかは)しめられける。去程(さるほど)に一 番(ばん)の勅使(ちよくし)は風雨(ふうう)
を犯(おか)し飛馬(ひば)に鞭(むち)を加(くはへ)て飛(とぶ)が如(ごと)く睿山(ゑいざん)へ蒐着(かけつけ)法性坊(ほふせうばう)へいたり勅命(ちよくめい)を述(のべ)て急(いそ)ぎ参内(さんだい)
あるべしと急(いそ)がしける。是(これ)より前(さき)に尊意僧正(そんいそうぜう)は洛中(らくちう)の天変(てんべん)を聞(きい)て去年(こぞ)の夢(ゆめ)を思(おも)
ひ合(あは)され。斯(かく)て禁廷(きんてい)より勅使(ちよくし)を来(きたら)して召(めさ)るべし。然(しかれ)ども夢中(むちう)ながら菅公(かんこう)につがいし
詞(ことば)もあれば一 応(おう)の御 召(めし)ならば辞退(じたい)して下山(げさん)すまじと。菴室(あんしつ)に閉籠(とぢこもり)て御座(おはし)けるに果(はた)し
て其(その)翌朝(よくてう)遽(あはたゞ)しく勅使(ちよくし)入来(じゆらい)ありて火急(くわきう)に参内(さんだい)し天変(てんべん)の鎮(しづま)るやう加持(かぢ)せらるべしと
倫命(りんめい)を伝(つたへ)て下山(げさん)を促(うなが)しける故(ゆへ)僧正(そうぜう)応(こたへ)て。老僧(らうそう)頃日(このごろ)所労(しよらう)にて此(この)菴室(あんしつ)に引籠(ひきこもり)候へは下(げ)
山いたし難(がた)く候。然(され)ども勅命(ちよくめい)を黙止(もだす)べきにあらざれば。此(この)菴室(あんしつ)にて雷雨(らいう)を鎮(しづめ)る秘法(ひほふ)を修(しゆ)

し候べし此旨(このむね)回奏(くわいそう)して玉はり候へと申されければ。勅使(ちよくし)推反(おしかへ)し。御所労(ごしよらう)と候へば一 応(おう)の御
辞退(じたい)さる事に候へども。今度(こんど)の天災(てんさい)は尋常(よのつね)の義(ぎ)ならず。筑紫(つくし)にて薨(かう)ぜられし菅公(かんこう)
の祟(たゝり)【崇は誤】なれば。自他(じた)とも僧正(そうぜう)を伴(ともな)ひかへれよとの勅詔(みことのり)に候。御 労煩(らうはん)ながら是非(ぜひ)ともに
御 参内(さんだい)あれと乞(こは)れけるに。僧正(そうぜう)猶(なを)辞(じ)して申さるゝやう。菅公(かんこう)の祟(たゝり)【崇は誤】にもあれ。天帝(てんてい)の咎(とがめ)にも
あれ。拙僧(せつそう)が修法(しゆほふ)にて止(やむ)べくば。内裏(だいり)にて修(しゆ)するも当山(とうざん)にて修(しゆ)するも同(おな)じ理(り)なり
先(まづ)〱(〳〵)御 還(かへり)有(あつ)て可然(しかるべく)奏聞(そうもん)し給へとて。敢(あへ)て下山(げさん)すべき体(てい)見え玉はざれば。勅使(ちよくし)惘(あきれ)【旁の「岡」は誤】はて
是(こ)は奈何(いかゞ)すべきと当惑(とうわく)ある内(うち)。又二 番手(ばんて)の勅使(ちよくし)混沾(ひたぬれ)に成(なつ)て駈着(かけつけ)参内(さんだい)を促(うなが)す事
以前(いぜん)の如(ごと)し。されども僧正(そうぜう)先(さき)のごとく曰(のたまひ)て下山(けさん)を固辞(こじ)せらるゝ内(うち)。間(ま)もなく三 番手(ばんて)の勅(ちよく)
使(し)息(いき)を切(きつ)て蒐着(かけつけ)参内(さんだい)を乞(こふ)事 頻(しきり)なり。僧正(そうぜう)も勅使(ちよくし)三 度(ど)に及(およ)ぶ上は辞(じ)するに詞(ことば)なく
此上(このうへ)はとて先(まづ)三人の勅使(ちよくし)を先(さき)に立(たて)其身(そのみ)は車(くるま)に乗(のつ)て睿岳(ゑいがく)を押下(おしくだ)らせ。鴨川(かもがは)まで一 散(さん)に
押行(おしゆか)し給ひけるに。早(はや)鴨川(かもがは)は洪水(かうずい)漲(みなぎ)り。水勢(すいせい)岩(いは)をも流(なが)すばかりにて。白浪(しらなみ)立(たち)し有様(ありさま)

は船(ふね)にても猶(なを)渉(わたり)がたく見えたり。増(まし)て馬(うま)車(くるま)にて越(こさ)ん事 能(あたふ)べきやうなければ三人の勅(ちよく)
使(し)も惘然(もうぜん)【旁の「岡」は誤】として手綱(たづな)をひかへ。車(くるま)を推(おす)人夫(にんぶ)も水勢(すいせい)に辟易(へきえき)し。互(たがひ)に面(おもて)を見合(みあは)して如何(いかに)せん
とぞ鬩(ひしめ)【䦧は俗字】きける。僧正(そうぜう)御 覧(らん)じて些(すこし)も怕(おそれ)給ふ色(いろ)なく人夫(にんぶ)們(ら)に向(むか)ひ你(なんじ)等(ら)患(うれふ)る事 勿(なか)れ。我(われ)路(みち)
を開(ひら)き得(え)さすべし。只(たゞ)水中(すいちう)へ車(くるま)をやり候へ。三 使(し)も車(くるま)の後(あと)に続(つゞ)き給へとて。車(くるま)の内(うち)にて咒(しん)
語(ごん)を唱(とな)へ印(いん)を結(むすび)給へば。奇(き)なるかなさしも漲(みなぎ)り溢(あふれ)し川水(かはみづ)忽(たちま)ち両段(りようだん)に分(わか)れ。中に一条(ひとすじ)の
陸路(みち)開(ひら)けたり。衆人(しゆうじん)是(これ)を見て噫(あつ)と感賞(かんせう)し。実(げに)も奇特(きどく)の法力(ほふりき)かな。帝(みかど)の御 信仰(しんかう)在(ましま)
すも理(ことは)りなりとて。勇(いさ)みを生(しやう)じ車(くるま)を押立(おしたて)けるにぞ。勅使(ちよくし)感嘆(かんたん)し続(つゞい)て駒(こま)を進(すゝ)め。上下とも
安々(やす〳〵)川を越果(こへはて)ければ。後(あと)は旧(もと)の大川(だいが)となり白浪(しらなみ)高(たか)くぞ立(たち)にける。斯(かく)て僧正(そうぜう)は御 参内(さんだい)ありて
玉座(ぎよくざ)近(ちか)く膝行(しつかう)し。先(まづ)玉体(ぎよくたい)の御 安泰(あんたい)を祝(しゆく)し奉られ。頓(やが)て水晶(すいしやう)の珠数(じゆず)おしもみ大威徳(だいいとく)の
法(ほふ)を修(しゆ)し給へば。不思議(ふしぎ)や今 迄(まで)鳴閃(なりひらめ)きし雷電(らいでん)忽(たちま)ち遠去(とふざか)り。遙(はるか)に紫宸殿(ししんでん)の上に鳴(なり)
轟(とゞろ)きける。是(これ)に依(よつ)て主上(しゆせう)少(すこ)【注】し睿慮(ゑいりよ)を安(やす)んじ給ひ。時平(しへい)以下(いげ)も溜息(ためいき)吐(つい)て蘇生(よみがへり)たる心地(こゝち)

【注 好華堂野亭 著『扶桑皇統記図会』,誾花堂,明19.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/771530 (参照 2023-12-02)による。】

せられけり。去程(さるほど)に尊意(そんい)僧正(そうぜう)猶(なを)も雷災(らいさい)を鎮(しづめ)んと紫宸殿(ししんでん)へいたりて祈り(いのり)給へば。雷(かみなり)また清涼(せいりよう)
殿(でん)の上(うへ)に鳴(なり)清涼殿(せいりようでん)に移(うつ)りて修法(しゆほふ)あれば。梅壺(うめつぼ)梨壺(なしつぼ)に鳴(なり)轟(とゞろ)き七十二 殿(でん)十二 坊(はう)を追(おひ)
回(めぐ)り〳〵根(こん)限(かぎり)にぞ祈(いの)り給ひける。主上(しゆぜう)は菅公(かんこう)を左遷(させん)【迁は俗字】し給ひし事を深(ふか)く御後悔(ごこうくわい)在(ましま)し菅(かん)
丞相(しやう〴〵)及(およ)び子息(しそく)達(たち)の左遷(させん)【迁は俗字】一 件(けん)の書物(かきもの)を取出(とりいだ)させて悉(こと〴〵)く焼捨(やきすて)させ給ひ。謫罪(てきざい)恩免(おんめん)の
勅宣(ちよくせん)を下(くだ)され。且(かつ)左大臣(さだいじん)に増宦(ぞうくわん)なし給ふべき倫旨(りんし)を賜(たま)はりければ。雷神(らいじん)も是(これ)に依(よつ)て怒(いかり)
を和(やはら)げたりけん漸々(しだい)に風雨(ふうう)収(おさま)り雷鳴(らいめい)も止(やみ)けるにぞ。君(きみ)を首(はじめ)奉り公卿(こうけい)大夫(たいふ)下宦(したつかさ)まで漸(よふ〳〵)
心を安(やす)んじ。互(たがひ)に恙(つゝが)なきを相賀(あひが)しけり。尊意(そんい)僧正(そうぜう)は猶(なを)も災変(さいへん)を禳(はらは)んと内裡(だいり)に留(とゞま)り
て祈(いのり)の檀(だん)を設(もう)け一七日が間(あいだ)秘法(ひほふ)の加持(かじ)をぞ修(しゆ)せられける
    時平(ときひら)《振り仮名:患_二奇病_一薨去|きびやうをやみてかうきよ》  光(ひかる)定国(さだくに)菅根(すがね)変死(へんし)洛中(らくちう)洪水(かうずい)条
本院(ほんいん)の大臣(おとゞ)《割書:時|平》を先(さき)とし。光(ひかる)。定国(さだくに)。菅根(すがね)等(とう)の輩(ともがら)已(すで)に天雷(てんらい)の為(ため)に撃殺(うちころ)さるべかりしに。主(しゆ)
上(ぜう)に咫尺(しせき)し奉りしに依(よつ)て不思議(ふしぎ)の命(いのち)を助(たすか)り。且(かつ)法性坊(ほうせうばう)の行力(ぎやうりき)左遷恩免(させんおんめん)【迁は俗字】の勅詔(ちよくぜう)等(とう)にて

天変(てんべん)鎮(しづま)りしかば。列位(おの〳〵)安堵(あんど)の思(おも)ひをなし今更(いまさら)菅霊(かんれい)を宥(なだめ)んため。帝(みかど)に奏(そう)して菅家(かんけ)四
人の子息(しそく)達(たち)の流罪(るざい)を恩免(おんめん)在(あつ)て都(みやこ)へ徴還(めしかへ)し給へと勧(すゝめ)奉りければ。即(すなは)ち左遷(させん)【迁は俗字】の国々(くに〴〵)へ罪(つみ)
恩免(おんめん)の宣旨(せんじ)をぞ下されける。然(しかる)に土佐国(とさのくに)へ左遷(させん)【迁は俗字】せられ給ひし長男(ちようなん)右大弁(うだいべん)高恒(たかつね)佐渡国(さどのくに)へ流(なが)
され給ひし式部大丞(しきぶのだいぜう)景行(かげつら)讃岐国(さぬきのくに)へ流(なが)され給ひし三 男(なん)蔵人(くらんど)景茂(かげしげ)以上(いじやう)三人は皆(みな)其(その)国々(くに〴〵)の
配所(はいしよ)にて御 逝去(せいきよ)ありけるゆへ本宦(ほんくわん)に還(かへ)し猶(なを)宦(くわん)一 陛(かい)を加(くは)へ給ふ。只(たゞ)伊予国(いよのくに)へ流(なが)され給ひし四(よ)
男(なん)秀才(しうさい)敦茂(あつしげ)のみ存生(ぞんじやう)にて皈洛(きらく)あり。菅原(すがはら)の名跡(みやうせき)を嗣(つぎ)給ひけり。斯(かく)て其年(そのとし)も暮(くれ)明(あく)る
延喜(えんぎ)九年(くねん)三月 本院(ほんいん)の左大臣(さだいじん)不斗(ふと)奇病(きびやう)に染(そみ)次第(しだい)に疾病(やまひへい)となり。昼夜(ちうや)悩(なや)み苦(くる)しみ
悶(もだへ)られければ。御台所(みだいどころ)を首(はじめ)とし。御内人(みうちびと)親族(しんぞく)方(がた)も大いに駭(おどろ)かれ良医(りようい)に委(ゆだね)て医療(いりよう)手(て)を
尽(つく)し諸社(しよしや)の神宦(じんくわん)諸山(しよさん)の僧(そう)に命(めい)じて加持祈祷(かじきとう)遺(のこ)る所(ところ)なく修(しゆ)せしめらるれども露計(つゆばかり)
も験(しるし)なく漸々(ぜん〳〵)に形容(けいよう)痩衰(やせおとろ)へ果(はて)は発狂(ものぐるはし)くなり。須波(すは)また菅丞相(かんしやう〴〵)が来(きた)りて予(われ)を將行(つれゆか)んと
するぞ。噫(あゝ)今 雷神(らいじん)が予(われ)を曳裂(ひきさか)んとするはなんどゝ詈(のゝし)り殿中(でんちう)を東西(あなた)南北(こなた)と逃(にけ)回(まは)り狂(くる)ひ

回(まは)られける。是(これ)真(まこと)の菅公(かんこう)の霊(れい)の祟(たゝり)【崇は誤】をなし給ふにはあらず自身(みづから)我(われ)を求(もと)めし奇病(きびやう)なり
其故(そのゆへ)は去年(きよねん)大内(おほうち)雷災(らいさい)の砌(みきり)一心(いつしん)に菅公(かんこう)の祟(たゝり)【崇は誤】なりと思(おも)ひこみ恐怖(きやうふ)の念(ねん)骨髄(こつずい)に徴(とふ)
り。其後(そのゝち)は昼夜(ちうや)菅霊(かんれい)を怕(おそ)るゝ念(ねん)止(やむ)時(とき)なく。遂(つひ)に奇病(きびやう)と成(なり)けるなり。彼(かの)盃中(はいちう)に蛇(じや)有(あり)と
思(おも)ひしより心(むね)に病(やまひ)を生(しやう)じ。角弓(かくきう)の蒔絵(まきゑ)の影(かげ)なりと聞(きい)て宿病(しゆくびやう)忽(たちま)ち愈(いえ)しと同(おな)じ理(り)也(なり)
然(しかれ)ども自身(みづから)も想(おもひ)より生(しやう)ぜし病(やまひ)なるを覚(さとら)ず。増(まし)て余人(よしん)は猶(なを)以(もつ)て菅公(かんこう)の祟(たゝり)【崇は誤】なりと思(おも)ひ
詰(つめ)。此上(このうへ)は当時(とうじ)無双(ぶそう)の験者(げんじや)と聞(きこ)えし浄蔵貴所(じやうざうきしよ)を請(しやう)じて加持(かじ)させ玉はゞ怨霊(おんれう)の退(たい)
散(さん)する事も有(ある)べしとて。浄蔵貴所(じやうざうきしよ)を招(まね)き請(しやう)じ。左府(さふ)の奇病(きびやう)平愈(へいゆ)の加持(かし)をぞ修(しゆ)
せしめける。此(この)浄蔵貴所(じやうざうきしよ)と申は三善清行(みよしきよゆき)の息男(そくなん)にて。幼稚(ようち)の時(とき)より仏法(ふつほふ)に心を傾(かたふ)け
出家(しゆつけ)して普(あまね)く経論(けうろん)を学(まな)び究(きは)め行徳(ぎやうとく)衆(しゆう)に勝(すぐ)れ。一年(ひとゝせ)都(みやこ)八坂(やさか)の大 塔(とふ)歪(ゆがみ)ければ浄(じやう)
蔵(ざう)毘沙門天(びしやもんでん)の法(ほふ)を修(しゆ)して是(これ)を祈(いの)られけるに。一 夜(や)の内(うち)に搭(とふ)の歪(ゆがみ)整(なを)りけるゆへ世人(せじん)挙(こぞつ)
て其(その)法力(ほふりき)を感賞(かんせう)しける。かゝる名僧(めいそう)の丹誠(たんせい)を抽(ぬきんで)て加持(かじ)せられけるゆへ。大臣(おとゞ)の狂病(けうぶやう)

次第(しだい)に鎮(しづま)り狂(くる)ひ回(めく)らるゝ事 止(やみ)ければ。館(やかた)【舘は俗字】の上下 稍(やゝ)心を安(やす)んじ。浄蔵(じやうざう)の行力(ぎやうりき)を最(いと)頼(たの)も
しくぞ思(おもひ)ける。されども天の責(せむ)る所の患病(くわんびやう)なれば。左府(さふ)は身体(しんたい)痩衰(やせおとろ)へ飲食(いんしよく)倶(とも)に癈(すた)
り病床(びやうしよう)に打臥(うちふし)瘂(おし)の喚(うめ)く如(ごと)く喘(すだ)かれける。浄蔵(じやうざう)は昼夜(ちうや)加持(かじ)の檀(だん)に在(あつ)て法華経(ほけきやう)を読(どく)
誦(じゆ)せられけるに余(あま)り舌(した)の乾(かは)きければ。湯(ゆ)を飲(のま)んと暫(しばら)く経(きやう)を読(よみ)止(やま)れける。時(とき)に。大臣(おとゞ)の左(ひだり)の耳(みゝ)
の孔(あな)より青色(あをきいろ)の小蛇(こへび)三寸 許(ばかり)首(くび)を出(いだ)し。舌(した)を閃(ひらめ)かして座中(ざちう)を見回(みまは)しける。是(これ)を見て侍病(かいほふ)に
侍(はべ)る女房(にようばう)近習(きんじゆ)們(ら)大いに駭(おどろ)き。皆(みな)身(み)の毛(け)を堅(よだて)二目(ふため)とも見る者(もの)なく。《振り仮名:兔首|うつむき》に成(なつ)て戦慄(ふるひわなゝき)
けり。浄蔵(じやうざう)も駭然(おどろき)ながら。道徳(どうとく)勝(すぐ)れし勇猛(ゆうみやう)の僧(そう)なれば。些(ちつと)も怖(おそれ)ず又 法華経(ほけきやう)を
読誦(どくじゆ)せられければ。蛇(へび)は耳孔(みのあな)へ退入(ひつこみ)けり。是(これ)より浄蔵(じやうざう)一口(ひとくち)にても読誦(どくじゆ)を止(やめ)らるれば件(くだん)の
青蛇(せいじや)耳孔(みゝのあな)より首(くび)を出(いた)し座中(ざちう)を見回(みまは)す事 以前(いぜん)のごとく。経(きやう)を読(よめ)ば退入(ひつこみ)誦(じゆ)し止(やめ)ば出(いで)ける
にぞ。さしもの浄蔵(じやうざう)も■(あぐみ)【「忄+悪」は辞書に見当たらず。 注】果(はて)根気(こんき)を疲(つから)してもてあましけるに。遂(つひ)に時平(しへいの)大臣(おとゞ)蛇(へび)の出初(いでぞめ)
し日より第(だい)三日めに。大いに煩悶(はんもん)し虚空(こくう)を摑(つかん)で狂死(くるひじに)せられける。天罸(てんばつ)の程(ほど)ぞ恐(おそろ)しかりける

【注 好華堂野亭 著『扶桑皇統記図会』,誾花堂,明19.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/771530 (参照 2023-12-03)では(活字本)「困」になっている。】



時(とき)に年齢(ねんれい)三十九才とぞ聞(きこ)えし。御台(みだい)側室(そばめ)の悲歎(ひたん)はいへば更(さら)なり。子息(しそく)八条大将(はちでうのだいせう)保忠(やすたゞ)
同 中納言(ちうなごん)敦忠(あつたゞ)其余の一 族(ぞく)縁者(えんじや)の人々(ひと〴〵)悔(くや)み歎(なげ)けども帰(かへ)るべき道にあらざれば。泣々(なく〳〵)屍(むくろ)を
棺(ひつぎ)に収(おさ)め送葬(そうさう)の営(いとなみ)を執行(とりおこな)ひ一 堆(たい)の塚(つか)の主(ぬし)とぞなしにける。斯(かく)て初(しよ)七日にも成ければ。御(み)
台所(だいどころ)を先とし子息(しそく)保忠(やすたゞ)。敦忠(あつたゞ)其余(そのほか)の女房 達(たち)雑掌(ざつせう)一門の人々にいたる迄(まで)廟参(べうさん)【庿は古字】せら
れけるに。墓(はか)の上(うへ)に五尺余の青蛇(あをへび)蟠(わだかま)り居て人々の面(おもて)をながめうなづき咲(わら)ふ体(てい)なりけれ
ば。女流(ぢよりう)の輩(ともがら)は。あなやと玉(たま)ぎりて袖(そで)を覆(おほふ)て逃出(にげいづ)るもあり伏転(ふしまろぶ)もあり。保忠(やすたゞ)敦忠(あつたゞ)以(い)
下(げ)も大いに駭(おどろ)き惘(あきれ)【旁が「岡」は誤】惑(まど)へり。只(たゞ)時平(しへい)の舎弟(しやてい)大納言(だいなごん)忠平(たゞひら)のみ勇気(ゆうき)ある人にて些(ちつと)も
動(どう)ぜず武士(ぶし)に指揮(さしづ)して蛇(へび)を取捨(とりすて)させんとせられけるに。蛇(へび)は己(おのれ)と這去(はひさつ)て更(さら)に行方(ゆきがた)をしら
ずなりけり。是(これ)に依(よつ)て各(おの〳〵)廟拝(べうはい)【庿は古字】し終(おは)り館(やかた)【舘は俗字】へ帰(かへ)られけるが。二七日に及(およ)びて又 皆(みな)打揃(うちそろひ)廟参(べうさん)【庿は古字】
せられけるに。此度(このたび)も墓上(はかのうへ)に蛇(へび)の在事(あること)前(さき)のごとく。しかも先日(せんじつ)よりは稍(やゝ)長大(ちようだい)になりて蟠(わだかま)り
居(ゐ)けるにぞ。女性(によせう)の面々(めん〳〵)は以前(いぜん)に倍(ばい)して駭(おどろ)き怕(おそ)れ。此後(このゝち)は廟参(べうさん)【庿は古字】する女性(によせう)はなかりけり

男子(なんし)の分(ぶん)は流石(さすが)女々(めゝ)しく廟参(べうさん)【庿は古字】せざるも人聞(ひとぎゝ)悪(わる)しとて恐怖(きやうふ)を懐(いだき)ながら七日々々(なぬか〳〵)に廟参(べうさん)
するに。いつも塚上(つかのうへ)に蛇(へび)在(あつ)て取捨(とりすて)んとすれば己(おのれ)と去(さり)。参詣(さんけい)する度(たび)に蛇(へび)あらずといふ事なけ
れば。大いに困(こま)り果(はて)。後(のち)には墓所(むしよ)の四方に高塀(たかへい)を造(つく)り。厳(きびし)く門を構(かまへ)て小虫(こむし)も這入(はいり)がた
きやうにしつらひ。監卒(ばんにん)を付(つけ)て守(まも)らせ。然(しかう)して参詣(さんけい)せらるゝに。天より降(くだる)か地より生(わく)か。蛇(へび)は
尚(なを)廟上(べうしやう)に在(あり)けるぞ不思議(ふしぎ)なりける。人々もてあまし奈何(いかゞは)せんと商議(しやうぎ)するに。一人(あるひと)の曰(いはく)名(めい)
香(かう)を不断(たへず)炷(たく)ときは蛇(へび)来(きた)るまじ。是(これ)諸虫(しよちう)は香気(かうき)を嫌(きらへ)ばなりと。実(げに)もとて巨大(おほい)なる香(かう)
炉(ろ)に火を不断(たやさず)して。伽羅(きやら)沈香(ぢんかう)白檀(びやくだん)の類(るい)を堆高(うづたか)く盛上(もりあげ)て炷(たか)しめければ。其(その)香気(かうき)遠近(ゑんきん)
に薫(くん)じて得(え)も不言(いはれ)ぬばかりに馨(かうば)しけれども。件(くだん)の蛇(へび)は猶(なほ)廟上(べうしやう)に在(あり)けるにぞ。是(これ)も徒事(いたづらごと)と成(なり)
けり。又 一人(あるひと)の曰(いはく)。蟇目(ひきめ)鳴弦(めいげん)の法(ほふ)を行(おこな)はしめば。邪魅(じやみ)怕(おそ)れて近寄(ちかよる)べからずといふにより。射術(しやじゆつ)の
達人(たつじん)に命(めい)じて。廟所(べうしよ)に於(おい)て蟇目(ひきめ)の法を行(おこな)はしむるに。其(その)絃音(つるおと)に応(おう)じて大勢(おほぜい)鬨(とき)を発(つくる)が如(ごとく)
なる声(こゑ)を発(はつ)し遠近(ゑんきん)に震(ふる)ひ聞(きこ)え。蛇(へび)は曽(かつ)て出(いで)止(やま)ず是(これ)も其詮(そのせん)なしとて相止(あひやめ)。道徳(どうとく)の

聞えある僧綱(そうかう)に法華経(ほけきやう)を読誦(どくじゆ)させ。神宦(しんくわん)に祝詞(のつと)を上させなんどし。百般(さま〴〵)にして除(のぞか)んと
すれども蛇(へび)は退(しりぞ)かず。尽(じん)七日の頃(ころ)には長(たけ)一 丈(じやう)余(よ)太(ふと)き事 大竹(おほだけ)にも増(まさり)紅井(くれなゐ)の舌(した)長(なが)く閃(ひらめ)かして諸(しよ)
人を見けるにぞ。怕(おそれ)ずといふ者(もの)なし。今は百計(ひやくけい)尽(つき)て塚(つか)の上に一箇(ひとつ)の社(やしろ)を建(たて)。よしや彼(かの)蛇(へび)来(きたる)
とも此社(このやしろ)の内(うち)へ入ずんば霊位(れいゐ)汚(けがれ)じとて緊(きびし)く鎖(とざ)し固(かため)ける。今の世(よ)塚(つか)に卵塔(らんとふ)を立(たつ)るは是(これ)
より始(はじま)りしとかや。斯(かく)ても廟参(べうさん)【庿は古字】の毎度(たびごと)に蛇(へび)は塚上(つかのうへ)に在(あり)けるゆへ。男子(なんし)とといへども後々(のち〳〵)は怕(おそれ)
て参詣(さんけい)する人も無(なか)りけり。去程(さるほど)に延喜(えんぎ)十年にも成(なり)けるに。其年(そのとし)の春(はる)大納言(だいなごん)源光(みなもとのひかる)悪瘡【左ルビ:あくさう】
を患(やみ)て。医療(いりよう)手(て)を尽(つく)せども不治(ぢせず)。果(はて)は面部(めんぶ)四肢(てあし)腐爛(ふらん)して遂(つひ)に逝去(せいきよ)せられけり。又 其次(そのつぎ)
の年(とし)和泉大将(いづみのだいしやう)定国(さだくに)俄(にはか)に発狂(ものぐるは)しくなり。自己(みづから)太刀(たち)を抜(ぬい)て我身(わがみ)を突串(つきつらぬき)て狂死(くるひじに)し
藤原菅根(ふぢはらすがね)は菅霊(かんれい)の祟(たゝり)【崇は誤】を怕(おそ)れ身(み)の無事(なきこと)を祈(いのら)んと馬(うま)に駕(のり)て賀茂(かも)へ社参(しやさん)し
けるに途中(とちう)にて乗馬(じやうめ)狂(くる)ひ刎(はね)けるゆへ。菅根(すがね)鞍(くら)に堪(こらへ)得(え)ず横(よこ)さまに落馬(らくば)し馬(うま)の為(ため)
に踏殺(ふみころ)されけり。箇様(かやう)に菅公(かんこう)を讒言(ざんげん)せし人々 悉(こと〴〵)く変死(へんし)しけるゆへ。天の罰(ばつ)する

【右丁 挿絵中の囲み文字】
              双りんとふ
                        べんてん  御花畑
御本社
          とびうめ
                  白太夫

                     人丸


                                  渡唐天神
 ほうまん山
         大日如来             あいそめ川

【左丁 同】
    御宝ざう

  御供所                 文珠堂

               あみだ堂

                 くわんおん搭

        あんらく寺

筑(つく) 紫(し)
太宰府(だざいふ)
天満宮(てんまんぐう)
図(づ)

ところとは不知(しらず)世人(せじん)皆(みな)菅公(かんこう)の祟(たゝり)【崇は誤】なりと思(おも)ひ舌(した)をふるはして怕合(おそれあひ)けり。加之(しかのみ)ならず時平(ときひら)の
子息(しそく)保忠(やすたゞ)敦忠(あつたゞ)両人(りようにん)も奇病(きびやう)を患(やみ)て死(し)し。尚(なを)また時平(ときひら)の妹(いもと)たる女御(にようご)隠子(おんし)も患病(いたつき)
に依(よつ)て薨(こう)じ給ひ。打続(うちつゞい)て春宮(とうぐう)保明親王(やすあきらしんわう)《割書:時平|の甥》も病死(びやうし)なし給ひけるにぞ。帝(みかど)の御 歎(なげ)き
大方ならず。是(これ)も菅霊(かんれい)の所為(なすところ)なりと思召(おぼしめし)返(かへ)す〴〵も菅公(かんこう)を左遷(させん)【迁は俗字】し給ひし事を御(ご)
後悔(こうくわい)在(ましま)し。筑紫(つくし)へ勅使(ちよくし)を下(くだ)され。菅公(かんこう)の霊(れい)を宥(なだめ)られんため正(しやう)二 位(ゐ)の宦(くわん)を贈(おく)り給ひ。神(かみ)に
鎮祭(しづめまつ)り大富天神(たいふてんじん)と神号(しんがう)をさへ賜(たまは)りけり。然(しかれ)ども天帝(てんてい)の怒(いかり)尚(なを)止(やま)ざりけん。延喜(えんぎ)十四年
甲戌(きのへいぬ)三月 下旬(げじゆん)洛中(らくちう)に火災(くわさい)発(おこ)り。上(かみ)は一 条(でう)より下(しも)は五 条(でう)まで。東(ひがし)は川原(かはら)より西(にし)は大宮通(おほみやどふり)まで
一 円(ゑん)に焼亡(しやうもう)し僅(わづか)に内裏(だいり)は焼残(やけのこり)けれども内裏(だいり)より上(かみ)の人家(じんか)も残(のこり)少(すくな)に類焼(るいせう)し。三日三夜の
間(あいだ)火(ひ)鎮(しづま)らず。さしもに広(ひろ)き平安城(へいあんじやう)も忽(たちま)ち赤土(せきど)となり。公卿(くげう)殿上人(てんぜうびと)も住家(すみか)なく。ましてや
武士(ぶし)市人(てうにん)は山林(さんりん)へ逃入(にげいり)。あるひは近国(きんごく)へ逃行(にげゆく)も多(おほ)く。親(おや)を失(うしな)ひ子(こ)をはぐらかし。夫(をつと)を見 失(うしな)ひ
妻(つま)に別(わか)れ。尋(たづ)ね迷(まよ)ひ呼(よび)さまよふ光景(ありさま)阿鼻(あび)焦熱(せうねつ)の地獄(ぢごく)も斯(かく)やと怪(あや)しまれける。是(これ)を

さへ希代(きたい)の大 変(へん)かなと怖(おそ)るゝ所(ところ)に同年(どうねん)六月 初旬(はじめごろ)より大雨(たいう)降続(ふりつゞ)き白昼(はくちう)も黄(たそ)
昏(かれ)の如(ごと)く。市街(まち〳〵)はいまだ春の火災(くわさい)に家造(やづくり)も間粗(まばら)の仮住居(かりずまい)なれば。雨(あめ)の不洩(もらざる)家(いへ)も
なく。大いに困(こま)り果(はて)けるに稍(よふや)く中旬(ちうじゆん)後(ご)に雨(あめ)止(やみ)天(そら)霽(はれ)けるゆへ少し心を安(やすん)ずる間もなく
忽(たちま)ち賀茂 桂(かつら)等(とう)の大川より洪水(かうずい)溢(あぶれ)て。洛中(らくちう)水の深(ふか)き事八尺 余(よ)に及(およ)び水 勢(せい)家(いへ)
を漂(たゞよ)はし材木(ざいもく)竹 等(など)を押流(おしなが)し。水の来る事いふ許(ばかり)なく疾(はや)かりければ。牛馬(ぎうば)雞犬(けいけん)は
いへば更(さら)なり。老人(らうじん)女 小児(せうに)の們(ともがら)は水に漂(たゞよ)ひ流(なが)れ溺死(できし)する者(もの)何(いく)百千の数(かづ)をしらず
野武士(のぶし)強盗(がうどう)は混雑(こんざつ)騒動(そうどふ)の紛(まぎれ)に乗(じやう)じ。金銀(きん〴〵)財宝(ざいほう)衣服(いふく)等(とう)を奪(うば)ひ掠(かすめ)て逃走(にげはし)り
宦(おほやけ)よりはさる狼藉(らうぜき)をも防(ふせ)ぎ給ふ暇(いとま)もなく。其(その)錯乱(さくらん)筆紙に尽し難(がた)し。適(たま〳〵)水に流(なが)れ
ざる家々(いへ〳〵)も床(ゆか)より上へ四五尺も水 築(つき)たれば。屏風(べうぶ)襖(ふすま)も沾(ぬれ)爛(たゞ)れ障子(せうじ)も壁(かべ)も骨(ほね)
ばかりと成(なり)。家内の男女は屋根(やね)の上へ逃上(にげあが)り炎(えん)天に照蒸(てりむさ)れて大いに苦(くるし)み。暑(しよ)に中(あたり)
て疾(やまひ)を発(はつ)するも少(すくな)からず。春の火災(くわさい)といひ又 此(この)水難(すいなん)に遭(あふ)事前代 未聞(みもん)凶変(けうへん)かな

そも如何(いかに)成行(なりゆく)世の中ぞや。かゝる時(とき)に古(いにしへ)の空海和尚(くうかいおしやう)の如(ごと)き名僧(めいそう)あらば。火災(くわさい)洪(かう)水
をも法(ほふ)力を以(もつ)て鎮(しづ)め玉ふべきに。今の世の僧(そう)は宦位(くわんゐ)衣服(いふく)は尊(たうと)げに見ゆれと。凶変(けうへん)を
祈(いのり)防(ふせ)ぐ程(ほど)の名僧(めいそう)もなしと呟(つぶや)き合(あひ)けるに遂(つひ)に其 風説(とりさた)大内(おほうち)へ聞え。空海(くうかい)が著述(ちよじゆつ)せし
書籍(しよじやく)何(なに)によらず宦庫(くわんこ)へ納(おさ)むべしと勅詔(みことのり)下(くだ)りけるゆへ。臣下(しんか)奉(うけたま)はり東寺(とうじ)の僧侶(そうりよ)
に宣旨(せんじ)の趣(おもむ)きを伝(つた)へければ。一山 挙(こぞつ)て喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開(ひら)き。真言宗(しんごんしう)の美目(びもく)是(これ)に過(すぎ)
ずとて倉廩(さうりん)を捜(さぐ)り。空海師(くうかいし)十八才の時(とき)述作(じゆつさく)有(あり)し三 教指帰(けうしき)を先(さき)として一代
の著書(ちよしよ)は玉造(たまつくり)と題(だい)せし仮名草子(かなざうし)まで輯(あつめ)て是(これ)を献(たてまつ)りける。依(よつて)其書(そのしよ)を尽(こと〴〵)く
朝廷(てうてい)の宦庫(くわんこ)へ納(おさ)めしめ玉ひけり。吾朝(わがてう)に名僧(めいそう)多(おほ)き中にも如此(かくのごとく)上天子より下万民(ばんみん)
にいたる迄(まで)末世(まつせ)の今も猶(なを)尊信(そんしん)する空海和尚(くうかいおしやう)の法徳(ほふとく)こそ又 類(たぐ)ひなかりける
    菅公(かんこう)贈宦(ぞうくわん)《振り仮名:賜_二神号_一|しんがうをたまふ》  延喜帝(えんぎてい)御譲位(こじやうゐ)四海太平(しかいたいへいの)条(こと)
延喜帝(えんぎのみかど)菅霊(かんれい)の祟(たゝり)【崇は誤】を鎮(しづめ)玉はん為(ため)に。空海和尚(くうかいおしやう)の策文(さくぶん)を不遺(のこらず)大内(おほうち)の文庫(ぶんこ)に

納(おさ)めしめ給ひけれども。猶(なを)世上(せじやう)穏(おだやか)か【衍】ならざりければ。延喜(えんぎ)二十一年に空海和尚(くうかいおしやう)に弘法(かうぼふ)大
師(し)と謚(おくりな)を賜(たまは)り年号(ねんがう)も延長(えんてう)元年と改元(かいげん)し給ひけり然(しかる)に同年(どうねん)三月 洛中(らくちう)に大地震(おほぢしん)
し就中(なかんづく)五 条(でう)より下は南北(なんぼく)三十 余町(よてう)東西(とうざい)二十 余町(よてう)が間(あひだ)人家(じんか)を揺崩(ゆりくづ)し。神社(しんじや)仏閣(ぶつかく)を
傾覆(けいふく)せしめける。按(あんづ)るに是(これ)先年(せんねん)の火災(くわさい)の時(とき)焼残(やけのこり)し所(ところ)なるも不思議(ふしぎ)なり。其(その)物音(ものおと)の
凄(すさま)じき事 世界(せかい)も滅却(めつきやく)するかと疑(うたが)はれ。老人(らうじん)小児(せうに)婦女(ふぢよ)の逃後(にげおくれ)し輩(ともがら)は圧(おし)に撃(うた)れ棟柱(むなぎはしら)
の倒(たほれ)かゝるに中(あたり)て死亡(しばう)する者 凡(およそ)三千 余(よ)人に及(およ)び少々(せう〳〵)の疵(きず)を蒙(かうむ)る者は幾万人(いくまんにん)といふ際限(さいげん)
なし。是(これ)も菅丞相(かんしやう〴〵)の怨霊(おんりやう)の祟(たゝり)【崇は誤】なりと言触(いひふら)しければ。主上(しゆぜう)また勅使(ちよくし)を筑紫(つくし)太宰府(だざいふ)
へ下(くだ)し給ひ菅廟(かんべう)を新(あらた)に修理(しゆり)させ給ひ。八月四日 初(はじめ)て祭礼(さいれい)を執行(とりおこなは)しめ給ひて。此(この)以後(いご)例(れい)
年(ねん)懈怠(けだい)なく祭礼(さいれい)を執行(とりおこなふ)べきよし勅詔(ちよくぜう)ありけるゆへ。此年(このとし)を始(はじめ)として例年(れいねん)怠(おこた)らず執(とり)
行(おこな)はれける。時(とき)に勅使(ちよくし)神殿(しんでん)に昇(のぼり)て拝礼(はいれい)し敬(つゝし)んて宣命(せんみやう)を読上(よみあげ)られけるに。其夜(そのよ)の中(うち)に社(しや)
前(ぜん)に一 面(めん)の瑞石(ずいせき)現(あらは)れ。面(おもて)玉盤(ぎよくばん)のごとく石面(せきめん)に七 言絶句(ごんぜつく)の詩文字(しもんじ)鮮(あざやか)に見えたり。社司(みやづかさ)大

いに駭(おどろ)き勅使(ちよくし)に斯(かく)と言上(まうしあげ)ければ。勅使(ちよくし)も奇異(きい)の思(おも)ひをなし社参(しやさん)して是(これ)を読(よみ)見らるゝに
  昨(きのふは)《振り仮名:為_下北闕被_レ悲士_上|ほくけつにかなしみをかふむるしたり》   今(けふは)《振り仮名:作_下西都雪_レ恥尸_上|せいとにはぢをきよむるしかばねとなる》
  生恨(いきてのうらみ)死歓(しゝてのよろこび)其(それ)《振り仮名:奈_レ我|われをいかん》  今(いまは)《振り仮名:須_下望足護_上_二皇基_一|すべからくのぞみたんぬくわうきをまもるべし》
とあり。勅使(ちよくし)此(この)奇瑞(きづい)を見て感涙(かんるい)を流(なが)し偖(さて)は菅霊(かんれい)怒(いかり)を鎮(しづめ)給へりと深(ふか)く神徳(しんとく)を仰(あふ)
ぎ敬(けい)して都(みやこ)へぞ還(かへり)上(のぼ)られけり
 因(ちなみ)に曰。其後(そのゝち)一 条院(でうのいん)の御宇(ぎよう)正暦(しやうりやく)年中(ねんぢう)に菅原為理(すがはらのためよし)を勅使(ちよくし)として菅公(かんこう)に正(しやう)一 位(ゐ)
 太政大臣(だじやうだいじん)の宦(くわん)を贈(おくり)給ひ。天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)と神号(しんがう)賜(たま)はり二十二 社(しや)の数(かづ)に入給ひけり。是(これ)
 より諸国(しよこく)とも漸々(ぜん〴〵)に社(やしろ)を建(たて)木像(もくぞう)を彫(きざ)み或(あるひ)は画(ゑが)きなどして敬(うやま)ひ祭(まつ)る所 数(かづ)しら
 ず。都(みやこ)北野(きたの)の天満宮(てんまんぐう)は其(その)始(はじめ)天慶(てんげう)五年七月十二日 西(にし)の京(きやう)七 条(でう)に住(すみ)し綾子(あやこ)といふ
 女に菅神(かんじん)御 託宣(たくせん)まし〳〵。予(われ)昔(むかし)世(よ)に在(あり)しとき。しば〳〵北野(きたの)右近(うこん)の馬場(ばゝ)に遊(あそび)き
 洛(みやこ)の中(うち)に閑(しづか)に勝(すぐれ)たる地(ち)彼所(かしこ)に如(しく)はなし。勅勘(ちよくかん)を受(うけ)西府(さいふ)の雲(くも)と消(きゆ)るといへども

 一 念(ねん)の霊(れい)は折々(をり〳〵)筑紫(つくし)より彼(かの)所(ところ)へ行通(ゆきかよ)ひて心を慰(なぐさ)めり。右近(うこん)の馬場(ばゝ)に社(やしろ)を営(いとな)み
 て立寄(たちよる)便(たより)を得(え)せしめよと告(つげ)給ひしかば。綾子(あやこ)難有(ありがたき)事に思(おも)へども。其身(そのみ)賎(いやし)く貧(まづ)し
 ければ右近(うこん)の馬場(ばゝ)に御社(みやしろ)を建(たつ)る事 能(あた)はず。只(たゞ)柴(しば)の菴(いほり)のほとりに小(さゝ)やかなる祠(ほこら)を営(いとな)
 み瑞籬(みづがき)を結(むす)び五年(いつとせ)が間(あいだ)崇祭(あがめまつ)りけり。其間(そのあいだ)に菜種(なたね)を供物(くもつ)に献(たてまつ)りし事 有(あり)。それゆへ
 今 以(もつ)て例年(れいねん)二月二十五日に菜種(なたね)の御供(ごくう)の神事(じんじ)あり。其後(そのゝち)天 慶(けう)九年 江州(がうしう)平野(ひらの)
 社(やしろ)の神職(しんしよく)の男(せがれ)太郎丸(たらうまる)といへる者に菅神(かんじん)御 託宣(たくせん)まし〳〵。都(みやこ)北野(きたの)右近(うこん)の馬場(ばゝ)の辺(ほとり)に
 一 夜(や)に千本(せんぼん)の松(まつ)生(しやう)ずべし。是(これ)予(わ)が住(ぢう)すべき地(ち)なり。你(なんじ)都(みやこ)西(にし)の京(きやう)なる綾子(あやこ)と呼(よべ)る女
 に力(ちから)を添(そへ)彼所(かしこ)に社(やしろ)を建(たて)よと告(つげ)給ひけるゆへ。太郎丸(たらうまる)が父(ちゝ)不思議(ふしぎ)に思(おも)ひ都(みやこ)へ上(のぼ)りて右(う)
 近(こん)の馬場(ばゝ)へいたり見るに。土人(どじん)群集(くんじゆ)し。此地(このち)前宵(よべ)一 夜(や)の中(うち)に松(まつ)千本(せんぼん)生出(おひいで)たり。世(よ)にも不(ふ)
 思議(しぎ)な事かなとて。とり〳〵に噂(うはさ)しけるにぞ。太郎丸(たらうまる)が父(ちゝ)託宣(たくせん)の著明(いちじなき)を感(かん)じ。西(にし)の京(きやう)
 なる綾子(あやこ)が住家(すみか)へ尋(たづね)行(ゆき)対面(たいめん)して互(たがひ)に神託(しんたく)の趣(おもむ)きを語合(かたりあひ)ともに相議(あひはかり)て大内(おほうち)へ菅(かん)

 神(じん)の御 託宣(たくせん)の始終(はじめをはり)を奏聞(そうもん)しければ。帝(みかど)睿感(ゑいかん)まし〳〵。右近(うこん)の馬場(ばゝ)に御社(みやしろ)を御 造(ぞう)
 営(えい)在(あつ)て綾子(あやこ)が家(いへ)の小社(ほこら)を遷(うつ)【迁は俗字】し奉り玉へり。今の北野(きたの)の天満宮(てんまんぐう)是(これ)なり。彼(かの)一 夜(や)の中(うち)に
 千 本(ぼん)の松(まつ)生(しやう)ぜし地(ち)を今小 千本(せんぼん)と謂(いへ)り。又 浪速(なには)天満(てんま)の天神(てんじん)の御社(みやしろ)も村上天皇(むらかみてんわう)の
 天暦(てんりやく)年中(ねんぢう)菅神(かんじん)の御 神託(しんたく)に依(よつ)て社(やしろ)を御 造営(ぞうゑい)あり。河州(かしう)道明寺(どうみやうじ)の天満宮(てんまんぐう)も同
 じ頃(ころ)御社(みやしろ)を建(たて)られ其他(そのほか)諸国(しよこく)津々(つゝ)浦々(うら〳〵)まで此神(このかみ)を崇(あがめ)祭(まつら)ざる所もなく。神威(しんい)
 の灼然(いやちこ)なる事 誠(まこと)に日(ひゞ)に新(あらた)に日々(ひゞ〳〵)に新(あらた)にして上(かみ)天子(てんし)より下(しも)億兆(おくてう)の庶民(しよみん)まで尊信(そんしん)し
 奉らざるはなく。祈願(きぐわん)として成就(じやうじゆ)せずといふ事なし。仰(あふ)くべし尊(とうと)むべし
去程(さるほど)に勅使(ちよくし)は太宰府(だざいふ)を立(たつ)て帰洛(きらく)し。参内(さんだい)して太宰府(だざいふ)の神前(しんぜん)に磐石(ばんせき)の詩(し)出(しゆつ)
現(げん)せし奇瑞(きずい)を奏聞(そうもん)せられければ。帝(みかど)睿感(ゑいかん)斜(なゝめ)ならず思召(おぼしめさ)れ。倍(ます〳〵)菅神(かんじん)を御 信仰(しんかう)
在(まし〳〵)けり。斯(かく)て後(のち)は天神(てんじん)地祇(ぢぎ)も怒(いかり)を和(やはら)げ給ひけん世上(せじやう)穏(おだやか)になりければ。上下 心(むね)を安(やす)
んじけり。然(しかる)に延長(えんてう)三年六月 主上(しゆじやう)御 疱瘡(ほうさう)を患(やま)せ給ひければ。諸王(しよわう)公卿(こうけい)大いに

駭(おどろ)き是(これ)も又 菅霊(かんれい)の祟(たゝり)【崇は誤】にはあらざるやとて。和気(わけ)丹波(たんば)の典薬(てんやく)に委(ゆだ)ね。諸寺(しよじ)諸社(しよしや)には
御 平愈(へいゆ)の加持(かじ)祈祷(きとふ)を修(しゆ)せしめ。尚(なを)また陰陽頭(おんやうのかみ)に卜筮(うらなは)しめられけるに占文(せんもん)吉(きつ)なれ
ば程(ほど)なく御 快復(くわいぶく)なさせ給ふべきよし奏(そう)しけるにより列位(おの〳〵)力(ちから)を得(え)られけるが、果(はた)して
医薬(いやく)效(かう)を奏(そう)し。主上(しゆぜう)御 本復(ほんぶく)在(ましま)しけり。是(これ)に仍(よつ)て諸王(しよわう)公卿(こうけい)はいへば更(さら)なり洛中(らくちう)
洛外(らくぐわい)の人民(にんみん)まで皆(みな)万歳(ばんぜい)をぞ唱(うたひ)ける。其(その)翌年(よくねん)延長(えんてう)四年 大和国(やまとのくに)多武峯(たふのみね)の社(やしろ)を
御 造営(ぞうえい)在(あり)ける。是(これ)大職冠(たいしよくくわん)鎌足公(かまたりこう)の廟所(びようしよ)【庿は古字】なり。鎌足公(かまたりこう)在世(ざいせ)の砌(みぎり)【注】深(ふか)く仏法(ぶつほふ)に
皈依(きえ)在(あつ)て当所(とうしよ)に一基(いつき)の多宝塔(たほうたふ)を建立(こんりう)し。念持(ねんじ)の舎利(しやり)を安置(あんち)し十二の僧坊(そうばう)
を建(たて)られけるを以(もつ)て搭(たふ)の峯(みね)と呼(よび)けるを後(のち)多武峯(たふのみね)と文字(もんじ)を書更(かきあらため)たり。鎌足公(かまたりこう)又
曽(かつ)て我像(わがぞう)を描(ゑがゝ)せ将来(ゆくすへ)朝家(てうか)及(および)我子孫(わがしそん)の中(うち)に変事(へんじ)あらば。予(あらかじめ)告知(つげしら)しめんと誓(ちか)
ひ額(ひたひ)の血(ち)をとりて絵具(ゑのぐ)に摺交(すりまぜ)開眼(かいげん)の儀式(ぎしき)厳(おごそか)に営(いとなみ)て一社(いつしや)に納(おさめ)られけり。その霊(れい)
威(い)あらたにて末代(まつだい)にいたる迄(まで)国家(こくか)に凶事(きよじ)有(あら)んとする時(とき)は件(くだん)の画像(ぐわぞう)己(おのれ)と破裂(やぶれさけ)

【注 法政大学 国際日本学研究所所蔵資料アーカイブス『扶桑皇統記図会』にて確認】

一山鳴動(いつさんめいどう)して其(その)凶変(けうへん)を告知(つげしら)し。変事(へんじ)治(おさま)る時(とき)は画像(ぐわぞう)の破裂(やぶれ)自然(おのづから)愈合(いえあひ)て旧(もと)の如(ごと)
し。かゝる奇特(きどく)の霊像(れいぞう)なれば。朝廷(てうてい)にも御 崇敬(そうけう)在(あつ)て今度(こんど)社(やしろ)及(および)諸堂(しよどう)を修理(しゆり)し
金銀(きん〴〵)珠玉(しゆぎよく)を鐫(ちりばめ)られ其(その)荘厳(せうごん)眼(め)を驚(おどろか)さぬ者は無(なか)りけり。同五年 大納言(だいなごん)忠平(たゞひら)延(えん)
喜式(ぎしき)六十二 巻(くわん)を献(たてまつ)られける。是(これ)は左大臣 時平(ときひら)菅公(かんこう)を擯(しりぞけ)し後(のち)我(われ)も菅家(かんけ)に劣(おとら)ぬ文(ぶん)
才(さい)有(あり)と世上(せじやう)へ知(しら)しめん為(ため)。紀長谷雄(きのはせを)を相談(そうだん)対人(あいて)にして延喜式(えんぎしき)を撰(えらま)れけるが。半途(はんと)に
て時平(ときひら)薨去(かうきよ)せられ長谷雄(はせを)も死没(みまかり)けるゆへ。時平(ときひら)の舎弟(しやてい)忠平(たゞひら)兄(このかみ)の志(こゝろさし)を継(つい)で残(のこれ)
るを撰(えら)み全部(ぜんぶ)して献(けん)ぜられける也(なり)。同六年に風土記(ふうどき)《割書:六十|六巻》を撰(えらま)せ給ひ。同七年 小(を)
野道風(のゝとうふう)に勅(ちよく)して先年(せんねん)巨勢金岡(こせのかなおか)が画(ゑがき)し賢聖(けんしやう)の障子(しやうじ)に其(その)銘(めい)を書(かゝ)せ給ひけり
同八年九月 主上(しゆぜう)御 不例(ふれい)に依(よつ)て帝位(ていゐ)を春宮(とうぐう)寛明親王(ひろあきらしんわう)に禅(ゆづり)給ふ。此君(このきみ)を朱雀院(しゆじやくいん)
と申奉り御 幼稚(ようち)ながら賢君(けんくん)にて然(しか)も藤原忠平(ふぢはらのたゞひら)《割書:時に|左大臣》補佐(ほさ)せられければ四海太平(しかいたいへい)
皇統記図会後編巻之六大尾      にて皇統(くわうとう)愈(いよ〳〵)万代(ばんだい)不易(ふゑき)と祝(しゆく)し奉(たてまつ)りけり

       京都寺町通仏光寺   河内屋藤四郎
       江戸日本橋通壱丁目  須原屋茂兵衛
  書    同    弐丁目   山城屋佐兵衛
       同    弐丁目   須原屋新兵衛
       同本石町十軒店    英  大 助
       同浅草茅町弐丁目   須原屋伊 八
  林    同芝 神 明 前   岡田屋嘉 七
       同神田旅籠町壱丁目  紙 屋徳 八
       大阪心斎橋通博労町角 河内屋茂兵衛
       同 心斎橋通本町角  河内屋藤兵衛

【白紙】

【白紙】

【裏表紙の見返し】

【裏表紙の見返し】

【裏表紙】

【背】
 FU-SO
KWAU TO KI
 DZU-YE.
   2.

【資料整理ラベル】
JAPONAIS
 186

BnF.

BnF.

【表紙 資料整理番号のラベル】
JAPONAIS
 4520

【表紙裏(見返し) 題名を書いた紙を貼付(逆さま)】
仮名本朝孝子伝
【資料整理番号のラベル】
JAPONAIS
 4520

【資料整理番号のラベル】
JAPONAIS
 4520

【白紙】

【白紙】

【銀杏の押し葉】

【銀杏の押し葉】

仮名本朝孝子伝序
此ころたそや我 朝の孝子伝つくりいてゝ
世のおやもたる人のもてあそびぐさと
なせりやくなきにあらずされどまんなに
ものしてからのふみめきたれは文字しらぬ
児女のわらはなどのこれをよみがてにするを
あかぬ事となんおもほす人もおほかり常
にむつれきこゆるふたりみたり又しか
おもへりこゝにやつかれ【自分の謙遜。わたくしめ】みづからのつたなきを

わすれひそかに彼ふみをまきかへしをよそ
なゝそぢあまりひとりが孝のよつかす【世付かず】めで
たきありさまともつく〳〵と見そなはし【見そこなはしの転。=ごらん遊ばす】
わかやまとことのはの今の世にいひならはし
てあやしの【見苦しい】しづ【賎=身分の低い者】山がつ【山中に生活する身分の卑しい人】といへどきゝたどる
まじきをみてつゐに飜訳(ほんやく)の筆にならひ侍る
さりとて字ことにうつし句ごとにかへて本書
のことばをさとさむとにはあらず諸伝たゝ
そのおほむねをのへてよみ見ん人の心に心をつ

たへむ事をこひねがふのみならし賛(さん)はかんなの
まねぶべきものならねばもらす論もかならず
しもそのもとによらずとるとすつるとくはふる
とそぐとすべてをのが臆裁(おくさい)にまかす其事
しりやすくそのむね得やすからしめんとて
なりこれみな本書に罪をえぬへきことは
しれど幼蒙獃癡(ようもうがいち)のためとなんおもへばかく
はからざることをえずねがはくはゆるされむ
歳ひのえとらにやどるそれの月のそれの

日それの野に年ふるおきな筆を浅
茅が露にすゝぎ侍る

書題
ある人われにかたりていはくわが 国は神国なり
わが道は神道なり今この孝子の伝を作りて
ちはやふる神代の事より端をおこさゞるは
是もとをうしなへり真字(まんな)のほんはすでに成ぬ
此ふみなとて本によらざるいはゆる本とは
あまてるおほん神は人にさとしてとをつみお
やの止由氣(とよけ)のおほん神【豊受大神】を丹波の国より伊勢に
むかへてあがめまつらしめ給ふ事代主(ことしろぬし)の神は

その父おほなむちのみことをいさめ給ふてこの
御国を天孫(あめみま)にゆづりて父の御身をやすく
たもたしめ給ふ木花開耶姫(このはなさくやひめ)は大山 衹(ずみ)の神の
御むすめなりて孫見たまひて妻とせんとのた
まひけるをやつこ父あり問たまへとてとみには【頓には】
うけひき【聞き入れ】給はす父のおほせをうけて天孫
にちぎりたまひにけりこれみな孝の
御心せち【切】なるにあらずやされば孝は神代より
かくめてたくおこなはれて千世よろづ代

我国民のそのかぞいろ【父母】につかふまつれる心の水の
みなもとなればながれきよくて孝なる人は
その心神の御心にかなひていみじきさいはひ
をうけたもちにごりて孝ならざる人は其心
神の御心にたがひておそろしきわざはひに
あふ事それまた影ひゞきのことし人しらで
やはあるべきねがはくはとく是をしるせと
なんいへり此こと誠にたうとし我すなはち
こゝにしるして巻をひらくの第一義と

せりよみ見ん人それつゝしめやこれに継て
本文の天子公卿士庶婦女今世五しなの孝に
こゝろをとゞめたかきいやしき身におこなはば
つゐに比屋(ひをく)【やなみ】封ずべくなりて唐虞(たうぐ)はさながら
この 御世の天が下なるへし

仮名本朝孝子伝上目録
 天子
 《割書:一》仁徳天皇    《割書:二》顕宗天皇
 《割書:三》仁明天皇    《割書:四》後三条院
 公卿
 《割書:一》久我太政大臣  《割書:二》帥内大臣
 《割書:三》小松内大臣   《割書:四》藤原吉野
 《割書:五》小野篁     《割書:六》藤原道信
 《割書:七》藤原良仁    《割書:八》藤原衛

 《割書:九 》 山田宿祢古嗣   《割書:十》藤原良縄
 《割書:十一》藤原岳守    《割書:十二》紀夏井
 《割書:十三》大江挙周    《割書:十四》日野阿新丸
 《割書:十五》藤原長親    《割書:十六》北条泰時

仮名本朝孝子伝上
 天子
  仁徳天皇(にんとくてんわう)
天皇は応神(おうじん)天皇の第四の御子にてつねに父
みかとへ御孝行におはしまし何事もたゝ其御
心にしたがはせたまふ天皇の御兄に大山守のみこと
と申奉るありけりある時父みかど大山守のみことゝ
天皇とをめしてなんちら子を愛(あい)するやとゝはせ
給ふみことも天皇もひとしく子を愛すとなん

こたへ給ふ父みかど又とはせ給ふいとけなきと年たけ
たるといつれかいといとおしきとみこと年たけ
たるかいとおしとこたへ給ふ天皇は年たけたるは
すでに人となれりたゞおさなきがいとおしと
のたまふ是は父みかど御位を第五の皇子宇治
のわかいらつこにゆづりまいらせられたき御心
のおはしますをおしはからせ給てその御心に
かなはせたまはむ御ためにこたへまいらさせ給ふ
なりけり父みかど此御こたへをふかくよろこばせ給て

終に宇治のわかいらつこを太子にたてをかせ給ひ
あけの年かくれさせ給ひぬ時に太子御位につかせ
たまはずしてはやく天皇にゆつらせ給ふ天皇は
父の御心ざしにたがひ給はん事をふかくおそれて
うけひき給はず太子は天皇のひしりの君に
まします事をしらせ給へは国のため民(たみ)のため
に御位につかせたまへとあながちにゆづらせ給へど
天皇きこしめしも入られずすでに三とせに
なりにければ太子ちからをよばせたまはてみづ

から御身をはからひてうせさせ給ひぬ天皇是
をなげかせ給ふ事まねぶにことばなしさりと
てあるべき事ならねば人々おして天皇を御
位につけたてまつるそのゝち世の中ゆたかにて
雨風時にしたがひけふりとほしき民のかまと
にきはらぬ所もなくて御世をたもたせ給ふこと
八十七年となむしるせり御孝行の冥加(みやうが)まことに
いとめてたからずや
   論

  をよそ人のおや其兄なる子にはゆつらて
  弟なる子に家をさづくれは兄なる子父を
  うらみ弟をねたまざるはまれなり天皇
  さる御身ながら露も父みかどをうらみまいらせ
  らるゝ御心なく宇治の皇子におゐても御いと
  おしみふかし父かくれさせ給て後なを其
  御志にたかはむ事をおそれおぼしめして
  御位つゐにうけさせ給まじき御けしきを
  皇子見うけさせ給てみづから御身をやぶりて

  うせさせ給ふ天皇孝の御心皇子御はらからの
  道いづれもためしすくなからずや本論に
  おもへらく応神天皇の御時くたらより王仁と
  いふ物しりをめしてわか御国の人々にはしめて
  堯舜周孔(げうしゆんしうこう)の道まなばしめ給ふとなむされは
  天皇皇子の御徳 義(ぎ)かくいみじかりつるも
  学問の御ちからそはせ給ふゆへなるべければ
  人はたかきもいやしきも学問の道ばかり
  あらまほしきわさはあらじ

【絵画 文字無し】

二 顕宗(けんそう)天皇
天皇は履(り)中天皇の御孫にして市辺押盤(いちべをしはの)皇
子の御子なり父の皇子雄略天皇にころされ
させ給ひける時天皇いとけなく【幼く】て御兄 億計(をけ)
の君とつれていなかへのがれ出給ひこゝかしこ
おちぶれさせ給て清寧(せいねい)天皇の御時都に帰り
いらせ給ひしがみかどに御子ましまさねは御よろ
こびあさからでやがて億計の君をまふけの
君となし給ひみかどは程なくかくれさせ給ひに

けりしかる処に億計の君天皇に御いさおし【功績】ある
によりて御位を天皇にゆづらせ給ふ天皇は
御弟なれはさるまじき御事とたび〳〵かへさひ【辞退】申
させ給へと億計の君いたくゆつらせ給てみづから
はなを坊に居たまふ爰に天皇おほせごとありて
のたまはくむかし父の皇子 難(なん)にあひ給ふ時われ
兄弟いはけなく【年はがいかず】てにげかくれし故に御から【亡がら】をおさ
めし所をだにしらず今これをもとむれども
しれる人なしいかゞすべきとて御涙せきあへ

させたまはず其後あまねくたずねとひ給けれ
ばひとりのおうなこれをしりてつげ奉るあふみ
のくにくだわたの蚊屋(かや)野の中にありとなん天皇
よろこび給ひ億計の君とともにその所にみゆき
ありてはたして尋え給ひ御 墓(はか)をひらき御
骨(こつ)を見たまひてなけきかなしませ給ふことたとへ
むかたもおはしまさず終にいみじくその所に
あらためはふむらせ給ひけるとそ
   論

  やけば灰(はい)うづめば土なるものをとて親はらから
  の葬(はふむり)にきはめておろそかなる人あり又国
  をさり境(さかい)をへだてて父母の墓をそこと
  しもしらずあるひはしりても問尋ねぬ人
  ありかゝる人々もし此天皇の御代にあり
  て此御有さまを見聞侍らはいかばかりか
  くゐ恥んむかしもろこし晋(しん)の代に孫法宗(そんはうそう)と
  いふ人あり隋(ずい)の末に王少 玄(げん)と云人ありみな
  むまれていく程なくてその父いくさに

  死しかばねをおさむる事もなかりしに
  法宗少玄年十あまりに成て父の遺骨(ゆいこつ)を
  えたく思ひて先その死せし所をよく〳〵
  人に問きゝてその所に行ておほくの白骨
  の中になきしほれ居たりけるにある人おし
  へていはく父の骨をしらんとならばなんぢの
  身より血(ち)を出してこゝらの骨にそゝき見よ
  その血ほねにしみとほるあらばなんぢの父の
  骨としるへしと少玄よろこびてわが身を

  こゝかしこつきさし血を出して骨にそゝきける
  に十日あまりにして血のしみとほる骨をえ
  て大によろこびて家に帰て葬礼をまふけ
  けり法宗は枯骨を見ては血を出してそゝき
  見る事十年にあまりしかど終にその骨
  をえざりしとなんあはれにかなしきわざ
  ならずや此二人が事をのづからわが顕宗天
  皇の御孝行に似まいらせける事の有
  がたさよ

【絵画 文字無し】

三 仁明(にんみやう)天皇
天皇御母 檀林皇后(たんりんくはうごう)のおはしましける冷然(れいぜん)院に
入らせ給ふには常(つね)に御階(みはし)にとをくて鳳輦(ほうれん)よりおり
させたまひ出させ給ふ時も又とをくてめしけり
嘉祥(かしやう)三年の春れいの入らせ給ふに大后我ふかき
宮の内にありて終に君の出入せ給ふよそひ
を見ず今日出給はゞ階のもとより鳳輦にめし
てその儀式を見せ給へとのたまふ天皇御 辞退(じたい)
ふかゝりけれと大后ゆるしたまはず藤原の良房(よしふさ)

なとにいかゞすべきとはからせ給へばたゞ大后の
おほせのまゝにとなん申す力およばせ給はて御階の
もとよりめして出させ給ひにけりその御うやま
ひのふかきが御かたちにあらはるゝを見奉る人々
はみな涙をおとしけるとそ
   論
  人の子のその父母をたうとむへきことはりから
  の文に見えたるはしはらくをきぬわが立田明神
  の託宣(たくせん)し給へるは人の両親はすなはち是内 宮(くう)

  外宮の神明なりなんぢらよくこれにつかへず
  して外に祈りもとむるかと又三 島(しま)明神の
  のたまふは人の家たかきいやしきかならず内外両
  宮の神ましますよくつかへて崇敬(そうけう)をつくさは天神
  地 祇(ぎ)ひるよるその家に降臨(がうりん)し給はむと是皆
  人の二親を伊勢両大神宮になぞらへ奉りて
  たうとみ申へしとおしへさせ給ふなりけりむへ
  こそ天皇の冷然院のみはしより鳳輦には
  めしかねさせ給ひつれ

【絵画 文字無し】

四 後(ご)三条院
此みかど東(とう)宮におはしましけるころ成尊(じやうそん)僧 都(づ)常
に御 祈祷(きたう)にまいれりある時僧都 北斗(ほくと)をおかませ
給ふにやと問たてまつりければみかどのたまひ
けるは月ごとにこれをおがむされど身のさい
はひをもとめんとにはあらず心の内におそるゝ事
ありてなりおそるゝ事他にあらずわれ坊に
あらん程は主上の御 在位(さいゐ)千世もとこそ祈りて
やむべきをやゝもすればわが即(そく)位のことの

おもはれぬるを罪(つみ)ふかくおぼえてさる心なか
らんやうにとてそ北斗をはおがむとなんのたまふ
成尊うけたまはりもあへず感涙をながしける
とそ
   論
  たゝ人にていはく家の内の事わが世となり
  なばとせんかくせむと思ふばかりは罪とも咎(とが)とも
  みづからはしるまじきを此君御即位のことのかね
  て御心にあるをあながちにあるまじき

  ことゝおほしめし入せ給へる御心の内の有かた
  さよされは年たけたる子その親の家はやく
  得まほしとおもふはみな不孝の子ぞかし本論
  におもへらくいにしへは妻をむかふる家には三日
  音楽をせざりしとなんその故はわれ妻を
  むかふる程のよはひとなれは父母の老おとろへて
  家ゆつり給ふへきころちかづけりそれをかな
  しと思ふほどに音楽などして祝ふべき心は
  なきとなり人の子ふかく此心をしれや

【絵画 文字無し】

 公卿
一 久我(こがの)太政大臣
大臣は六条の右大臣 顕房(あきふさ)の嫡(ちやく)子 雅実(まささね)公なり母は従
□位 隆子(隆子)となん申す大納言源の隆俊の女なり顕房
ある時隆俊と大内【内裏】を見めくり給ふ事ありけり大内
には子孫の殿上人を具(ぐ)して沓(くつ)の用意せざる人は
はだしにて庭をあゆむ所のあるを顕房隆俊
さる用意もなかりけるに雅実公まだいとけなか
りしころ沓を二そくひそかにふところにし来り

てかしこにいたりてとりいでて両人にはかせまいら
せられけり父なれば顕房へはさもあるべし隆俊へも
おなじさまに心をつけられし事のいみじ【すばらし】さよ隆俊
感涙をながしてよろこばれけるとなんしりぞき
て隆子のもとに行て公のいとけなくてをのれまで
に孝のをよべる事をいひて又もろともによろ
こばれけるとそ
   論
  ある人問ていはく雅実公いとけなくての孝心ま

  ことに有かたし年たけ給ていかゞおはせしや答ふ
  いまだかんがへずされど本論におもへらく此公
  内大臣の左大将たりし時伊勢の奉幣使(はうへいし)うけ
  たまはりて物いみにこもりておはせしにある
  夜の夢のうちに神のあらはれさせ給て此ところ
  仏経(ぶつきやう)ありはやく他所にうつすべしとつげ給ふと
  見てうち驚きてこの所いかで仏経のあ
  らんとはおもほしながらこゝかしこくまなく
  尋させ給ひければ何人の置けるにやなげしの

  上に仏経見えけりいそぎこれをとり捨て川原
  に行てはらへし給ふとなん伊勢勅使部類記と云
  ふみにしるせりされは仏経のけがれをのがれて
  御使の事をまたくせさせ給ふこと神の御めぐみ
  ふかきが故ならすや公の孝のいたれるをしるべし
  いはく神の御めぐみに孝のいたれるをしれる
  其理いかむいはく考なる人の家にはひるよる
  天神地 祇(ぎ)くだりのぞませ給ふとなむ三島明神の託宣(たくせん)
  し給ふこと前の論に見えずやあやしむ事なかれ

【絵画 文字無し】

二 帥(そつの)内大臣
一条院の御時内大臣伊周公あやまちありて
播磨(はりま)の国にながされ給ふ母の高階(たかしな)氏いたくなげ
きやがて病にいねてあやうかりけりたゞそゞろ
ごと【うわごと】し給ふにも大臣にあひ見ん事をのみいへり
大臣 配所(はいしよ)にて聞たまひてたとひこれより
をもき罪(つみ)にはしづむとも母を一目見ずしては
えたふまじくおぼしなりてひそかに配所を出て
忍びて京にのぼられけるが母のいまだ事きれ

ざる内にのぼりつきてたいめんし給ひけるとなん
母いかばかりよろこび給ひけんやがて事もれけ
れは罪いよ〳〵をもしとて此たびはつくしの
大宰府(ださいふ)にぞ流されさせ給ひける
   論
  ある人のいはく伊周公はもとよりよからぬ人
  なるうへ御ゆるされもなきにをして配所より
  のぼられたるは誠に罪ふかゝらずやいかで
  此ふみにはとれる答ふよからぬことをよしと

  してとるにはあらず母のをのれをこひてしぬ
  ばかりやめるを聞て身にかへてのぼられ
  ける心のうち孝にあらずと云べからず此
  外はわがしる所にあらず

【絵画 文字無し】

三 小松内大臣
大臣名は重盛平相国(しげもりへいしやうこく)の嫡(ちやく)子なり相国おごりをきは
め君をなみし【軽んずる】事ことによこ紙をさかれ【無理を押し通す】しを此
おとゞふかくうれへさま〴〵にいさめたゞして終に
大逆をなさしめ給はす孝まことにふかゝらずや
事は平家物語盛衰記にくはしけれは略す
   論
  親あしとてつよくいさむるはさかひてわろし
  たゞわれをつくしてをのづからあらたまる

  やうにすべしととく人もあれどあしきに
  軽重ありかろきはさもすべしをもきはすみ
  やうにいさむべししからざれはちゝ母を人
  にそしらせわらはせあるひは罪をおほや
  けにえせしむることありつとめていさめ
  さるべけんやさりとて気をくだし声をやは
  らげかほばせをよろこばしむる事をわする
  べからすわが子か友かをせむるやうに木折【きをり=気が強くて愛想のないさま】
  には申ましき也しからば此おとゞのいさめは

  すこしつよきに過るにやいはくしからず清
  盛位きはめてたかく行ひきはめてあしく
  いさめもしゆるくは国みだれ天下うごかんなみ〳〵
  の人のあしきには似るべからずおとゞも又時の大臣也
  つよくいさめさる事をえたまはんやまさに
  つよかるへくしてつよし又これ孝なり

【絵画 文字無し】

四 藤原吉野(ふちはらよしの)
吉野は参議(さんぎ)正三位兵部卿 綱継(つなつき)の子也学問してざえ【才】
かしこしつかへて中納言にいたれり父母をやし
なふて孝なりある時家にあざらけき【新鮮な】肉(にく)あり
綱継人をつかはしてわかちとらしむ折節吉野
は参 内(だい)していまだかへられずくりや人その肉
をおしみてわかたず後に吉野これを聞て涙
おとしてくりや人をせめそれよりなかく肉食
せられさりしとなん

   論
  くりや人おろかにして肉をわかたで父の心に
  そむきし事のうたてさにさる肉を見るも
  うるさくやおもはれけむ後つゐに肉食せられ
  さりしと也これにてをして思ひ見るに
  この人一生何事をかちゝ母の心にそむかるへ
  きいみしき孝子なりけんかし

【絵画 文字無し】

五 小 野(の) 篁(たかむら)
篁は参議 岑守(みねもり)の子也天長九年父にをくれて【先立たれて】かな
しみふかくやせつかれたり又よく母につかふ承和(せうわ)
五年もろこしに使するとて船をあらそひて
心のごとくならざれは病にかこちてゆかざりし
時もこゝに篁水をくみ薪をとりて匹夫(ひつふ)【身分の低い男】孝を
いたすべしといへりすゝむにもしりぞくにも
孝を忘れざるを見るべしつかへて参議にいた
り従三位に叙せらる

   論
  たかむらは物しりにて歌などもよくよむ
  人とは誰もしれどかゝる孝子なりとはしらず
  又 下野(しもつけ)の国 足利(あしかゞ)の学校(がつかう)は此人のふみよまれし
  所といひつたへて今も経(けい)書おほく聖像(せいざう)も
  おはしませば知恵もおこなひも世にすぐれて
  我 国の大 儒(じゆ)なりし事うたがひなし墓(む)所
  は都の北 雲林院(うぢゐ)にありちかごろ我ゆきて
  尋侍りしに雲林院の民居【民家】より辰巳にあたれ

  る田の中のほそき道のちまたに土のすこし
  高き所をそ篁の塚(つか)なりとそのあたりの
  人はおしへ侍る物まなびするともからは心
  してすぐへし

【絵画 文字無し】

六 藤原 道信(みちのぶ)
道信は左近の中将にて九条大相国 為光(ためみつ)公の子なり
正暦三年父みまかり給ふ道信かなしみにたへず月日
へていよ〳〵せちなりしかれども世のならはし
父の喪はむかはり月【迎はり月…一周忌】にしてやめばひとり其なら
はしにそむくこともえせで心より外に服衣(ぶくゑ)を
ぬぐとてなく〳〵思ひつゝけられける
 かぎりあればけふぬぎ捨つ藤衣はてなきものは
なみだなりけり

   論
  我此うたをすんし【ずんじ=誦じ】て其心ををしはかるにもし
  三とせの喪をゆるさば此人かならずおこなひてん
  世のならはし誠にかなしある人のいはく三年
  の喪は聖人さだめ給ふといへと時も所もみな
  ことなれば今こゝもとにて沙汰することには侍らし
  いかんいはく本論におもへらく父母の喪はこれ天地
  の常経(じやうけい)古今の通義(とうぎ)とて今もむかしもやまと
  もからもいさゝかあらためかふべからざるの大礼

  なり他の礼儀法度の時により所にした
  がひてかけひきすへきがごときにはあらず
  となむされば三年の喪おとろへたりと
  いへどせんとおもふ人はみな是をせり趙宋(てうそう)
  は三代よりは千数百年へだてたれと諸
  儒の古礼によりしはかぞへもつくすべからず
  大 明(みん)の世にいたりてもその人おほし時に
  よりてあらためざるを見るべし宋の徽(き)
  宗といひしみかどは金と云えびすの国にて

  うせ給へりその臣 司馬朴(しばはく)朱弁(しゆべん)なといふ人君の
  喪を法のごとくとらんとおもへど金の国にせざる
  法なれはいかゞすべきとて朱弁ためらひけるを
  司馬朴をしてつとめければ金の人々もかへりて
  みな感しにけり朝鮮などにもちかき世に
  河陽(かやう)の尹仁厚(いんじんこう)鎮川(ちんせん)の金 徳崇(とくそう)なと云人古法に
  よりて喪をおこなひて人是をたうとびけり
  所によりてあらためざるを見るべししかれば
  此ころこゝもとの人の喪はみじかきかよろし

  きぞと力をきはめてをしへらるゝは是一人の
  私言(しげん)なるべし天下の公論にはあらじある人又
  いはくたとひ三年の喪をとれりといふともその心
  誠すくなくたゞ力をもておこなひなさば誠有
  人のみしかき喪にはかへりておとり侍らんかいはく
  しからず喪は我身心をつくして父母 養育(やういく)の恩(おん)に
  むくふる也たとへは臣下が君のあやうきにのぞ
  みて心の内にはやるかたもなく君をいとおし
  とおもひながら力を出してたゝかはざる人と

  さばかりはおもはざれとも身をすてゝたゝかふ
  人といつれかよく御恩を報すとはせんかの父
  母に喪する人もいかに内に誠ありとても両
  三月をだにへずして酒をのみに肉を食して
  よろづ常のまゝならば何をもつてか恩に
  むくゐん人の子これにしのびんや孔子のた
  まへりなんぢにおゐてやすきかなんぢやすく
  はこれをせよ

【絵画 文字無し】

七 藤原 良仁(よしひと)
良仁は贈(ぞう)太政大臣正一位冬 嗣(つぐ)朝臣の第七の子也その
心いたりて孝なり母にをくれてかなしみなきて
血(ち)をはき息(いき)たえ一時ばかりありてよみがへられし
が猶其なげきにたへずつゐに病にをかされて
みまかられけり年四十二
   論やせて
  ある人とふ喪にゐてやせて死にいたるは不孝
  にひとしとこそうけ給はれ良仁をはなど此ふみ

  につらねらるゝやいはく此事ありされどまめ
  やか【誠実】に喪をおこなひて身のそこぬるもしらぬ
  人を不孝とするには忍ひざるにや世々の
  喪にたへざる人おほやう【大様=大体】孝をゆるされけり
  その姓(せい)名本論にあきらけし此ふみに
  この人をとれるより所なきにあらず

【絵画 文字無し】

八 藤原 衛(まもる)
衛は贈左大臣従一位 内麻呂(うちまろ)公の第十人にあたれる
子にて正四位下右京大夫たり此人二歳の時母に
をくれて五歳にして母いかにと問てそのなきをかな
しめる事年たけたる人のしたひなげくが
ごとし大臣これをあやしとしてふかく愛し
たまひけるが終にたてゝ嗣(つぎ)とし給へりされば
年十八にして文学人にすぐれてざえかしこかり
つれは世の人 漢(かん)の賈(か)【商人】長 沙(しや)になぞらへけるとそ

   論
  本論におもへらく世の一二歳にて母にをくるゝ
  ものおほしいやしき家の子はそのおきねくひ
  物をのが心のまゝならぬにつけて五六歳にも
  いたりぬれは人の母あるをうらやみわが母なき
  をかなしむ事をしるもあれどやんごとなき
  きはゝ事みな心のごとくなれば十歳といへど
  猶なき母をしたひなげくはまれなり衛わつ
  かに五歳大家にやしなはれてあかぬことなかる

  べきをかくばかりなき母の世をいたみかなし
  めるこれ誠にたぐひまれなる孝心な
  らずやそれ孝は万事の紀(き)なれはひとつ
  をとりて百善いたるといへりむべこそ大臣
  のこの人をたてゝ嗣とはしたまへれ

【絵画 文字無し】

九 山田 宿祢(のすくね)古 嗣(つき)
古嗣は西京の人なり心きよくことばすくなしいと
けなくて母をうしなひおばなる人につゝしみ
つかへたり孝行殊にあつしある時ふるき文よみ
て木しづかならんとすれど風やまず子やしなは
むとすれど親いまさずと云ことばにいたりて
かなしみにたへず文どもみな涙にぬらしけり
父みまかりけるときもそのなげきせちにし
て形やせおとろへぬとなん

   論
  をよそ人のふるき文よめる口にてよめるあり
  心にてよめるあり口にてよめるは鴉(からす)の
  なき蝉(せみ)のさはぐにことならずといへり心にて
  よめるそ誠によむなる古嗣の風木の
  ことばをよめるがごとき是なりしかれば
  孝のかたどるべきのみならずふみよむも又
  此人をまねばんか

【絵画 文字無し】

十 藤原 良縄(よしなは)
良縄は正五位下備前守大津か子なり斉衡(せいかう)元年大津
備前の国にして病にいねてあやうし良縄きゝも
あへずはやく国にくだらむとしけれど御ゆるされ
なくてたゆたふ程に大津うせぬとつぐ良縄い
といたふなげき血をはきてたえ入時をうつしていき
出ぬそのころは参議なりしが職をさりて喪に
をれり貞観(じやうぐはん)三年母の紀(き)氏また病あつし良縄
ふかくいたはりて目をもあはせず【眠らず】帯をもとかで

ひるよるあつかひきこえけれと母つゐに身まか
りにければ父にはなれし時のごとくになげき
つかれやせおとろへて心地しぬべくなんおほゆ

【絵画 文字無し】

十一 藤原 岳守(をかもり)
散位(さんゐ)従四位下藤原の岳守父みまかりて喪にをれ
りそのつとめ法にすぎてしぬばかりになんやせ
つかれけり天長七年の事なりけるとそ
   論
  ある人とふ良縄岳守が喪にをれる幸(さいはひ)に
  死にいたらずといへどあやうし過たるに
  あらずや答ふそこの此心たとへば人の人と
  たゝかふとていまだ刀もぬきあはぬ内に

  にげ道をはかり取さへ【仲裁する】の人をまつがごとし
  いかにとなれは喪にゐてしぬばかりなるは
  孝子の常なり礼記(らいき)に死を思ふは生を欲(ほつ)せ
  ざるがごとくすといへるのたくひみるべしさば
  かりなげきつかれて実(じつ)に死せんとする時に
  人にたすけられて飲食をも口にいれさ
  すがに死せざるやうにする事にてこそ
  あれその愁嘆はあさくして先わが身の
  やまずしなざるやうにのみするを交(まじはり)ふかき

  友などの是をばしらで心もとなしとてくひ物
  もちて行てとふらふにそのすこやかなること
  日ごろにかはるかたもなければうちいでむ
  言の葉もなくて帰るもありけり其さま
  誠に人のたゝかひてしなんとすと聞て棒(ぼう)ち
  ぎりきたづさへ行て二人がやゐばをへだて
  命たすけんとてうちあつまりたるにさは
  なくて刀をもぬかでにげ道にのぞみ居たれば
  此とりさへの人々手をむなしくして帰るに似ざるべきや

【絵画 文字無し】

十二 紀夏井(きのなつゐ)
夏井は従四位下紀 善岑(よしみね)の子なり心きよくざえかし
こし仁寿のみかどにつかへて右(う)中 弁(べん)にいたれり母を
やしなふて孝なり母みまかれり夏井かなし
みしたひて尸骸(しがい)を野辺にをくらずあらたに堂
ひとつをつくりて其内におさめ置てあした夕
これに入て母につかふることいける世にかはらず
三年ををへてやみぬるとそ
   論

  世の人父母のいける世には孝順に見ゆるも
  おほかれど既になくなり給へはふた夜三夜とも
  とゞめをかずさながらうるさきものをはらひ
  やるやうに野にまれ【~であっても】山にまれ送りすて
  てあながちに【ひたむきに】したひきこゆるさまも見
  えずいにしへもちかき世にも死して日を
  へて又いき出たるためしからやまとに
  すくなからねばもし久しくとゞめ置なば
  さることもやあらんにと思ひやるもいとかなし

  夏井すみやかに送りすつるに忍ひず三とせ
  までとゞめをかれし事まことにいみじ
  き孝行ならずや

【絵画 文字無し】

十三 大江 挙周(のたかちか)
式部(しきぶの)権 ̄の大輔挙周朝臣は大江の匡衡(まさひら)の子にて母は赤染
乃右衛門にてぞありける挙周をもきやまひに
いねてたのみ【望み】すくなかりけれは赤染そのおもひ
にたへず住吉にまふでて七日こもりて挙周
此たひたすかりがたくはすみやかにわが命に
めしかふべしと申て御幣(ごへい)のしでに
 かはらむと祈るいのちはおしからでさても
わかれんことぞかなしきとかきつけてたてまつり

けるに御納受やありけむ挙周病 癒(いへ)たり赤染ふか
くよろこびてひそかにわが死するをぞ待居ける
挙周是を聞ておどろきなげきをのれも又住吉
にまふでゝ申けるはさきにわが死ぬるいのちたすけ
させ給ふは誠にありがたく思ひたまへられ侍れど
母の命にかへていき侍りては何のいさみか侍らむ
あふぎねがはくは母ながらへてわが病はしめのごとく
ならむとなんふかく祈りこふて京にかへりのぼり
にけりしかれどもその身ふたゝびやまず母も又つゝ

がなしおや子の孝 慈(じ)のやんごとなさを明神のあはれ
させ給ふにこそと人みな申き
   論
  ある人とふ人のかなしみ老て子を先だつるに
  しくなし赤染むへこそ挙周にかはらん事を
  祈りつれもし引かへて挙周死せば赤染のなげ
  きいふはかりなかるへし死は中〳〵にやすかり
  なんしかれば挙周の祈り必しも孝にあら
  ざる歟いはくかくのごとく穿鑿(せんさく)せされたゞ母

  の身を殺(ころ)してわか命いくるには忍びずと
  のみしりてやむべしもし忍ひばこれ禽獣(きんじう)
  のみちなり孝と不孝との沙汰には及ばず

【絵画 文字無し】

十四 日野(ひの)阿新(くまわう)丸
阿新丸は日野中納言 資朝(すけとも)卿の子なり後醍醐(ごだいご)天皇
鎌倉(かまくら)の北条(ほうでう)がおごりをにくませ給ひほろぼさせ
給べき御くはたてありて資朝卿とはからせ給ふ
を北条ふかくうらみたてまつりて先この卿をとらへ
佐渡(ざど)の国にながし其国しれる本間(ほんま)山 城(しろ)入道に
あづけぬ阿新年十三母と都の内をのがれて
仁和(にんわ)寺のわたりにうち忍びてあられけるが父の
卿ちかき内にうしなはれ給ひぬべしと人のいひさは

ぐを聞て心も心ならでたゞいかにもして佐渡と
やらんにたつね行て父もろともにうしなはればや
と思ひたゝれけることのいたはしさよ母にいとま
をこはれしに母おもひもよらずとてゆるさるべき
けしきもなきを父を一目見まいらせてやがて
帰りのぼり侍らむなとさま〴〵にいひなぐさめて
わりなく【仕方なく】家を立出られし心の内おもひやるべし
父の卿ものゝふどもにとられて佐渡におもむかれ
しころ家のたからみなちりぼひまどひて母と

阿新との朝夕のけふりもたえまがちなれは旅の
ようひも何かはなしえむたゞしもべひとりを
ぐしてありしまゝにて都を出て心ばかりは
いそぐとすれどありきもならはぬ足に血ながれ
目にはひまなく涙のうかびぬれば行さきくらき
やうにのみおほえてすゝみもやらずされど十日あ
まりにして越前の国なるつるがと云ところにいたり
それよりあき人【商人】の船にたよりをえてからう
して佐渡にくだりつきてげ【ママ】りやがて本間が

館(たち)【「舘」は「館」の俗字】にあないしてかくといひきこえもあへずたゝはやく
父を見ばやとねがはれければ本間もいといたう
あはれとはおもひながら鎌倉にきこえてをの
がためいかならむとしばしためらふほどに
催促(さいそく)の使来りて元徳(げんとく)二年五月それの日資朝
つゐにうしなはれぬ入道が家の子本間三郎と
云ものぞ資朝のくびをばきりける入道は
阿新の心の内いたはしとおもひければ僧をまね
きて資朝の尸骸を荼毘(だび)し骨をひろひて

阿新にあたへぬ阿新この骨をむねにあてゝ
やがてたえ入られしが久しうしていきいでら
れけれと猶うつし心【正気で理性ある心】もなし見る人みな泪にくれ
けりそのゝち阿新おもへるやう入道がなさけな
くわが父のいけるかほたゞ一目見せざりしことよ
このうらみむくひでたゞにやみなんやいかにもしてかれ
をころして我もしなばやとなん思ふほとに夜ふか
く人しづまりてひそかにうかゞひくありといへど
入道がいねしあたりには尋もあたらで本間三郎

が一間なる所にふしたるを見つけぬこれ入道に
あらずといへともたゞちに我父のくびきりし
ものなればこれをころすも又かたきをうつなり
とおもひさためてやをらちかづきよりて
まづ足にて枕をけてうちおどろかしとみに【早急に】
刀をぬきてむねさしつらぬき咽(のど)たちきりぬ
三郎たちまち死す人いまだ是をしらず阿新
しりぞきて今は望(のぞみ)たりぬみづからしなばやとお
もはれけるが又おもひかへして母をばやしなは

ざらめや君にはつかへざらめや父のこゝろざしつが
ざらめや人にころされんは力なしのがるべき道
あらばのがれもせばやと思はれければこゝかしこ道
もとめられけれど門はかたくとざしぬふかき池
よもにめぐりたればもりて【漏りて=隙間を通り抜けて】出べき方なし池
のほとり竹おひたり阿新こゝろみに大なる竹一もと
にのぼりてつとめてうれ【先端】にいたりたればその竹
池の上にふして身はをのづからかなたの岸(きし)にちかづ
きぬ終に汀(みきは)におりてしばらく心をおさめそれより

湊(みなと)のかたへとあゆみ行にみじか夜はやく明てその道
猶はるかなり追(をひ)手もやゝ近づきぬらむいかゞすべ
きと思ひわづらはれけるにひとりの山ぶし行あひ
たりつく〳〵と阿新を見てうるはしのちごや
さて是はいづこよりいづこにゆかせ給ふととへは
阿新ありしまゝにかたりきこえられければ
この山ぶしうちなきてわれ此人をすくはずは行法
それ何にかせむとて阿新をせなかにかきおひて
口には陀羅尼(だらに)をとなへいととくはしり行けるが

程なく湊につきて船かりてもろともにのりぬ
本間が館には日たけて三郎が死せるを見つけ
てこれ何人のしけるにやとみな人あきれまどひ
たりしが程へて阿新のわざなる事をしりて
ものゝふあまたをひ来りたれど船はとく出してげれ
ば阿新はつゝがもなくて京にぞ帰りのぼられける
天地 神明(しんめい)の孝子を加護(かご)しましますにあらずは
この人いかで身をまたくせむ
   論

  ある人いはく資朝をころすものは高時なり
  阿新入道をねらひ三郎をころすみなあたら
  ざるかごとしいかむいはく阿新家は千里をへだて
  身は敵国(てきこく)にとらはれひとりありける従者(じうざ)さへ
  まづかへしのぼせたりたのむ所たゞ親と身
  とのみつく〴〵とおもひみるに武将(ぶしやう)の家にむま
  れ明暮弓矢とりならひてよはひさかりなる
  人と云ともこゝにありてはいさましからじを
  衣冠(いくはん)の中におふしたてられつねはあらき風

  にもあたらず其年わづかに十あまりにして
  はるかなる海山をこえたけくおそろしき
  ものゝふをころす事て手にたらざるがごとし
  誠にためしすくなからずやわれ此人の
  身をすてゝ孝をなし勇(ゆう)力かくのごとく
  なるに感じて入道をねらひ三郎をころすが
  あたるあたらざるははかるにいとまなし後
  の日をまちて論ぜん

【絵画 文字無し】

十五 藤原 長親(ながちか)
長親は南朝につかへて右近の大将にいたれる人也父の
三年の喪にゐていまだをはらず又主上かくれ
させ給ふによめる
 三とせまでほさぬなみだの藤衣こはまた
いかにそむる袂(たもと)ぞ
   論
  世にこの大将を三年の喪つとめし人といひつたふ
  るは此歌によりてなるべしされと新葉和歌

  集の詞書を見るに妙光寺内大臣みまかりて
  後三年の服(ぶく)いまだはてざりけるに又 後村上(ごむらかみの)
  院(ゐん)の素服(そふく)を給はりて思ひつゞけゝるとあり
  歌と此詞がきのみにては三年の喪の礼の
  そなはれる所もつとも信じがたしといへど
  世の人のいひつたふるにまかせかつはこの歌
  のあはれにもよほされてしばらくこゝにつら
  ぬるよし本論にもいへり

【絵画 文字無し】

十六 北条泰時(ほうでうやすとき)
泰時は武蔵(むさし)守にて鎌倉の執権(しつけん)北条 陸奥守平(むつのかみたいら)
の義(よし)時の太郎がねなり義時みまかられて後
泰時事をとれり義時子おほし愛せらるゝ事みな
泰時にこえたり泰時父の心をもて心としてつねに
弟たちにあつし父みまかられて後いよ〳〵むつまし
所 領(りやう)をわかちとらるゝも弟たちにおほくえさせて
みづからうくる所かへりてすくなしかくのごとくせ
ざれば父の志(こゝろざし)にあらずとおもへり其いまだわかた

ざる前に先わかつべき領地のほど〳〵をかき
しるして二位のあまの政(まつりごと)きけるころなりけれ
ばあま君へみせたてまつらるあま君うちおどろき
てそこにうくる所かくすくなかるべからずさらに
はかるべしとてゆるされざりければ泰時われ
おろかなりといへども御政をたすくる人の数にいれり
いかで所領の事におゐてきそひのぞむ所あらんや
たゞ弟妹(ていまい)をよろこばしめむ事わがねがひに侍る
となん申さるあま君感して泪おとして猶ゆるし

もやられざるに泰時しゐて申こふて家に帰り
て弟たちをあつめ配分(はいぶん)のほどをいひきこえて
これあま君のおほせぞとてをのれははじめより
この事しらざるがごとしはらからみなよろこび
ほこりにけり是を聞つたふる諸国の武将(ぶしやう)心の
うちにふかく恥(はぢ)て孝友(かうゆう)のみちにすゝみけるとそ
   論
  ある人とふ泰時は父の嫡(てき)長にして時の執(しつ)
  権(けん)なりその禄(ろく)かろかるべからす父の志にした

  がへばとて諸弟にわかつ所かくおほきは
  事におゐて過たるにあらずや答ふ人の
  子父母の心ざしにしたがふの道そのつくさるゝ
  かぎりつくすをあたれりとす過るといふ
  事あるべからず本論あきらかに是をこと
  はれりされば伯夷は国をうけず泰伯は天
  下をゆづり給へりいにしへの人是を過たり
  といはず今やす時はその所領またくゆ
  づられしにもあらずかくほど〳〵にわかち

  あたへられたれば過たるにはあらじ父母の
  ためには身をやぶり子をうづみし人だに
  あり是なん過ぬといはんとすればもろこし
  の孝子伝には猶のせてたうとべりいかなる
  をか過たりとはせんされど泰時のこの事
  世の中 庸(よう)を口にしきてつねにひかへて
  すぐさゞる人は過たりと思ふもまたつき
  なからず

【絵画 文字無し】

【銀杏の押し葉】

【銀杏の押し葉】

明治十年丑二月日小原日仙求
       妙笑庵主人

【左上のラベル】
《割書:正|価》1-141 三冊  
     金一円
       五十銭

【白紙の右隅に手書きメモ】
個【?】カトミ

【白紙】

【白紙】

仮名本朝孝子伝中目録
 士庶
《割書:一》養老孝子    《割書:二》伴宿祢野継
《割書:三》丸部臣明麻呂  《割書:四》矢田部黒麻呂
《割書:五》伴直家主    《割書:六》風早審麻呂
《割書:七》財部造継麻呂  《割書:八》丹生弘吉
《割書:九》秦豊永     《割書:十》丈部三子
《割書:十一》信州孝児   《割書:十二》随身公助
《割書:十三》曾我兄弟   《割書:十四》鎌倉孝子

《割書:十五》大蔵右馬頭頼房 《割書:十六》楠帯刀正行
《割書:十七》本間資忠    《割書:十八》左衛門佐氏頼
《割書:十九》武州孝子    《割書:二十》養母孝僧

仮名本朝孝子伝中
 士庶(ししよ)
一 養老(やうらうの)孝子
元(げん)正天皇の御時 美濃(みの)の国にまづしくいやしき
おのこあり老たる父をもたり常は山の木草
をとりてうりて其あたひをえて父をやし
なひけり父あながちに酒をほしがりければ
なりひさごと云ものを腰(こし)につけて酒うる家に
のぞみて常に是をこひて父にあたへ【「ゆ」にも見えるが「へ」とあるところ】けるある

とき又山に入て薪(たきゞ)をこらむ【樵らむ】とするに莓(こけ)ふかき
石にすべりてうつぶしにまろびたりけるに
酒の香(か)のしけれはいとあやしくてそのあたり
を見るに石の中より水ながれ出る所あり汲(くみ)
てなむればめでたき酒なりいとうれしく
てとりて帰て父にすゝむ父よろこべることはな
はだしそのゝち日ごとにこれを汲ておもふ
さまにぞ父をやしなひけるみかど此事をきこ
しめして霊亀三年九月それの日その所に

みゆきして酒 泉(せん)を叡覧(ゑいらん)ありて是すなはち
かれが孝ふかきゆへに天神地 祇(ぎ)あはれみ給ふ
てその徳をあらはし給ふとふかく感ぜさせ
たまひやがてかれを美濃の守になされ其
酒の出る所を養老の瀧(たき)と名づけ年 号(がう)をも
養老とあらためさせ給ひけるとなむ
   論
  ある人とふ孝に吉 瑞(ずい)のいたれるはわが養老
  のみならずもろこしにもおほしと見ゆ不孝

  にわざはひのあらはるゝ事まのあたりそれ
  と思ひよそへらるゝはあれど文などに
  しるし置てその跡のあきらかなるをば
  いまだ見ること侍らずねがはくは是をき
  かんいはく本論に迪(てき)吉録と云ふみを引て
  かきのせたる事どもありみなおそろし
  いで【さあ】そのあらましをかたらむもろこし宋(そう)
  の大 観(くわん)のころにや 羅鞏(らげう)といふ人学問して
  都にありしが夢の内に神のつげありて

  いはく汝(なんぢ)罪あり必死せんすみやかに国にかへ
  るべしと羅鞏申す我つねに大なるあや
  まちなしねがはくは罪をうるゆへをきかん
  と神また父母死して久しくはふむらず
  是その罪なりとのたまふと見て夢さ
  めぬもろこしには人死すといへどまづしく
  てはふむるへき地をもえず金銀をも
  もたざればその尸骸(しがい)を棺(くはん)におさめてあま
  たの年月過るまてはふむらざるものおほし

  孝子は身をうり田をうりてもはふむるべき
  時はふむる事なるを此羅鞏はふる郷に
  兄ありそれをたのみてはふむりを心とせず
  学問のみして居たりされとも兄は学問もせで
  こゝろくらき人なれば罪かろし羅鞏は学者
  にて義理をあきらめたれば罪をもし其
  年羅鞏つゐに死す又 明(みん)の嘉靖(かせへ)のころ通道(つうたう)
  縣(けん)と云所の鄭文献(ていふんけん)と云人母死していまた十日
  も過さるに及第(きうだい)といふ事せんとて都にのほり

  常徳 堤(てい)といふところまて行つきて船にとま
  りし夜俄に雷電(らいでん)おびたゝしくして文献
  をふれころしぬ郭監生(くはくかんせい)といふ友おなし船に
  ありつれどいさゝかも害(かい)なかりけり又 順(じゆん)天 府(ふ)
  と云所の民その母わづらひければいのこの肉(にく)を
  買(かい)て是をてうし【調じ=調理し】て母にすゝめよと妻にいひ
  つけゝり妻その時しも子をうみたりしが
  かの肉をばをのれくらひて母にはそのうみたる
  子の胎衣(ゑな)を煮(に)ていのこぞといひてすゝめぬ

  しかるにいづこよりともなくあかきへび
  ひとつ来りて妻が口におどり入てその尾を
  三四寸ばかり口より外にあませりちから
  をきはめてひけどもぬけず是を聞つた
  ふる人遠きもちかきもあつまりつゝ見る
  に年老たるものゝ見るにはへびうごく
  事なしわかき女の見けるときは尾をつ
  よくうごかして妻か面(おもて)をひだり右にうち
  たゝきけり妻やがて死しぬ又順 義(ぎ)と云

  所に程(てい)を氏なる人あり母をやしなひて
  きはめて不孝也子あり母それをいだき
  居けるがあやまりて土におとしてひたい
  すこしやぶれにけり程氏大きにいかり刀
  をとりて母をさゝむとせしがいかゞしたり
  けん母の身にはあたらでをのがはらにたち
  てその疵(きづ)にてしにけるとなむいはく是
  誠におそろしされとみな人の国のふる  
  ことなりわが御国にもさるためしありや

  いはくこれあり日本善悪 霊異(れいい)記といふ
  ふみに見えたりむかし難波の宮の御時
  大和の国 添(そふの)上郡に瞻保(みやす)といふ人ありけり母に
  孝なし常はやしなふ事もせされば母せん
  かたなくてよねを瞻保にかりてみづから
  かしきて日をおくりけるに瞻保その
  よねをかへせと母にこひはたり【催促する】けり母
  瞻保にむかひてわが乳(ち)ぶさを出して我
  これにて汝をやしなひて人となしぬ汝

  よねをかへせといはゞ我も又乳のあたひをは
  たらん【徴らん=取り立てる】といふ瞻保ことばなくして入けるが
  程なく物にくるひ出てこゝかしことまどひ
  ありきぬ其家には火おこりて妻子はみなやけ
  しにけり瞻保は終にうへてしにけるとぞ
  又ふるき都のある人の妻きはめてその母
  に不孝なり母世をわたるべきたつきも
  なくていとけなき子ひとりをぐしてむすめ
  のかたへ行てくひ物こひけるに折ふしくひ物

  こそなけれとてあたへざれば母ちからなく
  わが住家へ帰けるに道におち物のありけ
  るをひろひて見れば物につゝみたる飯(いゐ)なり
  けり母よろこびてかのいとけなき子とともに
  是をくひてその日のうへをしのぎ家に入て
  打ふしけるに夜なかばかりに人来りて
  汝のむすめにはかにわづらひてむねに針(はり)
  さすといひてしぬべくなん成ぬとつげゝれど
  身いたくつかれて行もやらざりける内に

  むすめははやみまかりにけり又 聖武(しやうむ)天皇の御
  世にむさしの国 多摩(たま)郡に吉志火麻呂(きしひまろ)と云人
  ありけりいかなる故やありけん母をにくみ
  てころさばやとおもひいつはりいざなひて
  ふかき山につれゆき刀をぬきてきらんとせし
  にそのふめる所の土たちまちにさけて火麻
  呂が身おち入けるを母その髪(かみ)をとりて天
  にあふぎて是たすけさせ給へといへど髪ばかり
  手にのこりて火麻呂はふかく土に入てしにけるとなん

【絵画 文字無し】

二 伴宿祢野継(とものすくねのつき)
野継は伴のすくね益(ます)立が子也益立 宝亀(ほうき)十一年に征(せい)
夷持節副(いしせつふ)使となり従四位下に叙せらる後に人
にしこぢ【讒言する】られてその爵(しやく)をうばはれぬ野継心を
くだき身をつくしてしば〳〵父がためにうたへ【訴え】終に
その無実(むしつ)をはらし恥(はぢ)をきよめて父をもとの
位にかへしぬ
   論
  よき人の讒(ざん)にあへるばかりうたてし【恐ろし】きこと

  はあらし親はらからしたしき友ちからを
  きはめてすくふといへどおほやう【大様=大方】はぬれ衣
  ぬぎもえず或は遠き国にながされあるひ
  はいのちをうしなはるかなしからずや益立も
  さりぬべかりしを野継いかばかりの事をか
  なしけん終にその無実をあきらめ【明らめ】其位
  にさへかへしぬ孝のふかく誠のいたれる
  にあらずしてこれをえんや

【絵画 文字無し】

三 丸 部臣明麻呂(べのをんあけまろ)
明麻呂は讃岐の国三野の郡 戸主(こしゆ)外従八位 己西成(こせなり)が
子なり承(ぜう)和のころにや年十八にして都にのぼり
朝(てう)につかへて力をつくせりその功によりて三野の
郡のつかさとなさるされどもその職(しよく)を父の己西
成にゆづりてをのれはすなはち父がたすけと
なりぬそのゝち己西成 齢(よはひ)かたぶきて職をやめて
隠居すその所明麻呂が家とはそこばく【多少】の道を
へだてたるに明麻呂あさゆふ行かよひ父母に

つかへてひとひも【一日も】をこたらず郡中みな感し
ていはくむかしの曽(そう)子のみ賢(けん)者にはあらずと
   論
  わか官職をわたくしに父にゆづるひがこと【間違い】
  にあらずやいはく本論にいへるやうに
  明麻呂が郡にかへりし時己西成なを年老
  ずして政務(せいむ)のざえ人にこえたれは明麻呂
  朝(てう)に申て大領(だいりやう)の官をゆつりてをのれはその
  事をたすけたるらむ私にはいかでゆづる

  べきそも〳〵あちはひよき食物かろく
  あたゝかなる衣類をえてだにをのれはくは
  ずきずしてもたゞ是をちゝ母にと思ふは
  人の子の常の心なりまして父よりたかき
  職をうけてゆづらでやむに忍びんや
  明麻呂が此心人の子たれかなかるべき

【絵画 文字無し】

四 矢田部黒(やたべのくろ)麻呂
黒麻呂はむさしの国入間郡の人なり父母に孝
ふかしおもゝちつねにうらやかにしてうちよろ
こひてつかへやしなへり父母うせければその
うれへにたへずやせおとろえてしたひかなしみ
十六年があいださうじ物【精進物】のあしきくひてぞ
居けるその有さま都にきこえみかどふかく
感しおほしめしてかれがゑだち【役立ち=強制の労役や兵役】をゆるし孝
行をあらはし給ひにけり宝亀年中の事となむ

【絵画 文字無し】

五 秦豊(はだのとよ)永 【注】
豊永は美作(みまさか)の国久米の郡の人なりしがむまれ
なからの孝子にていはけなきよりよく父母に
つかへ父母みまかりにければねんごろにこれを
はふむりおさめ常にその墓(はか)をまぼり【守り】居
けるとなんつねにまほるとしるしをければ
其久しさははかりしるべしこれもみや都に聞こえ
位三階をたまはりゑだちをゆるし門にしるし
たてゝあまねく国にしらしめ給ふ貞観年中

【注 コマ120の「目録」には九番目に登場する人物。従って登場人物の順番が後ろにずれる】

の御事とかや
   論
  父母の喪(も)のことちかき世は四十九日を限(かぎり)とす
  たゞしもし三 箇(が)月にわたれば身つきと
  いふことばをいみて其日数をさへそぎて
  三四十日あまりにしてもやむと見えたり
  かなしきかなやをのが身のつきむ事は
  おそるれども父母の恩を報(ほう)ぜんとはせず
  さやうの人の必おもへるは喪に久しきは

  わか国の事にあらずとされど此黒麻呂豊永
  もろこしの人にもあらず又宝亀貞観の
  みかどわか国にてすまじきことせりとものたま
  はず何にはゞかりてさはおもひけるに
  や浅まし

【絵画 文字無し】

六 伴直家主(とものあたひやかぬし)
安房の国 奏(そう)して申さく当国安房の郡伴直
家主父母につかへて常に孝なり父母をはりに
ければ口にこきあぢはひをたちて久しく
なげき居たりけるが猶したはしさのあまり
父母のすがたを作りて堂をたてゝ是をあがめ
四の時の供養(くやう)をこたらず誠にいけるにつかふる
がごとしとなん勅して位二階にすゝめながく年 貢(ぐ)
所当をゆるしかねて門 閭(りよ)にあらはせ給ふ 

【絵画 文字無し】

七 風早審(かさはやのあき)麻呂
天長十年十月十日安芸の国申す賀茂の郡の
民風早審麻呂身のおこなひもとよりたゞしく
二親につかへて殊にあつし父うせければ口に
あぢはひある物をたち喪のわざよくつゝしみ
てしたひなげく事久しくやまず母なく
なりけるときも又しかりとなん勅して三階
に叙し年貢所当をゆるしたまふ

【絵画 文字無し】

八 財部造継(たからべのみやつこつぎ)麻呂
継麻呂は加賀の国 能美(のみ)の郡の人なり父母あり
ける程は朝夕のつかへに其身をつくしうせける
後も猶その心をかへずしたひかなしみてやむ
ときなしその里人見な感じて京に申
のぼせてければこれも位をたまひみつきを
ゆるされけるとなん承(ぜう)和四年の冬の事
なりし

【絵画 文字無し】

九 丹生弘(にふのひろ)吉
弘吉は若狭の国 遠敷(をにふ)のこほりの民なりいと
けなくて父にはをくれ母と居て孝をつくせり
其さま人の及ぶところにあらず外に出れば必まづ
父が墓(はか)にゆきて心のかぎりかなしみなげき
経(きやう)なとよみてさりぬさればその里なりはひ
あしき年も此人の作れる田のみ雨風にもそこ
なはれず日でりにもかはかず虫なども入えざり
ければこれ明かに神明の孝にめでさせ給ふ故

ぞと里人みな感じあへり事やがて上にもれて
位二階に叙せられぬ貞観十二年の事となん
   論
  人あり問ていはく家主以下の四人その身いや
  しき民なりといへどいつれもいみじき孝子
  なれば人の子たるものはたれも〳〵かた
  どらまほし【真似て欲し】きをある儒者のいへるはをよそ
  民家は田つくりこがひ【蚕飼い】するにいとまなけれは
  かく身をつくして父母にはつかふまじき也

  たゞよくわざをつとめて其心に孝の本を
  うしなはざればすなはち是孝子なりもし
  本なくは小学の書にしるせる孝行ども
  ひとつもかけず身よりなせるともたゞそれ
  孝子のまねの狂言なるべしとなん此論の
  ごとくならば家主 等(ら)四人の孝も必しも民家
  のまねぶへき所にあらさるかいはくこの儒者
  の論を思ふに内その誠なくて外のみつとめ
  て孝行せんよりはたゞ外をやめて内を

  つとめむにはしかじとおもへりその理なきに
  あらず然れどもこれたゞ内をつとめ本を
  たうとむ事をしりて内外本末もとより
  ふたつなきの理をしらずあはれむべし
  されは聖賢の人の子ををしへ給へる必そこ
  ばく【いくらか】の法をたてゝそれにしたがひよらしめ
  給ふ孝はたゞ本をえてやみねと説たまふ
  事はなし本だにあれは孝道たりぬとおも
  へる人のためにかたらば昔ある人父母

  の住ける家のほとりに火おこりたりと聞
  てあまりの心もとなさに諸神諸仏にねがひ
  をたてゝ父母の息災をいのりすましてさて
  行てすくはんとしける内に父母ははや
  やけしににけり内の誠は有がたけれど
  外にすべきことをそなはりたればなり
  本をつとむる人かくおろかなるべしといふ
  にはあらねどつゐへゆかば此たぐひにもや
  似むことさらちかき世は人のならはしうすく

  をのが身をたつるわざには懈(をこたり)もなくて父母
  にはおほやううとししかるを今それに
  をしへてもはら力を農桑(のうさう)につくして
  父母にはさのみつかへずともといはゞいか
  なる世にか成行はべらむおそろし

【絵画 文字無し】

十 丈部(はせかべの)三子
元正天皇の御時 漆(うるし)のつかさの令史(さくはん)はせかべの
路(みち)の忌寸石勝(いんきいはかつ)つかへのよぼろ【注】秦(はだの)犬麻呂二人漆
をかすめたりとて遠き国へながさるべきに
さだまりぬ石勝三人のおのこあり太郎 祖父(そふ)麻
呂年十二次郎 安頭(あんづ)丸こゝのつ三郎 乙(をと)麻呂七
になんなりけるともに父が流罪(るざい)をかなしみうち
つれて官所にまいりわれら三人ながく官の
やつことなりて父が罪をあがなはんといひて

【注 「よほろ(丁)」のこと。古代国家のために徴発されて使役された人民】

せちにおもひ入たるさまなり人々是を奏(そう)せら
れしにみかどふかくあはれませ給ひて士(し)の百
行たゞ孝 敬(けい)を先とすかれら孝なり其ねがひ
にまかせて石勝か罪をなたむ【寛大に処する】べしとなんおほ
せ出されければ犬麻呂ばかりそ配(はい)所には赴(おもむき)
ける
   論
  むかしもろこし梁(りやう)の世に吉 翂(ふん)といへるわら
  はべあり父罪にかゝりて官にとらはれ居ける所に

  行て父にかはりてしなんとなむいふ人のをしへて
  いはせけるにやと人々うたがひて罪人をせむる具(ぐ)
  おほく取ならべて吉翂に見せけるにさらにおそ
  るゝけしきなければみかども是をあはれがり給て
  父子ともにゆるし給ふとなん吉翂はこの時十五
  なりし祖父丸【「麻呂」】兄弟わつかに十二九つ七つにて
  君にも臣にも露うたがはれまいらせずたゞ
  一言の下に父子が罪をゆるされけるは何ぞや
  その孝の誠いたればなるべし

【絵画 文字無し】

十一 信州(しんしうの)孝児
しなのゝ国の何がしとかや年ころの妻にやをくれ
けん京にのほりし比女をおもひてぐして国に
くだりけるに此女京に見し人ありて折々
文かよはすなるをある人ほのきゝて何がしに
つげしらせけり何がしひまをうかゞひてさる
べきふみあまたもとめえてけれどをのれは
物もえかゝざればよむ事かなはで思ひわづら
ひてわがはやうもちたりし子の戸がくし山

に手【文字を書くこと】ならひてありけるをとみ【差し迫った状況】の事ありとて
よびくだして彼文どもよませけり児これを
ひらき見れば誠によのつねのふみにはあらず
児おもひけるは是をありのまゝによみなば
まゝ母かならず父のためにうしなはれんしからば
父の心もいかでやすからんたゞ事なからむやう
にと思ひけるほどに文の詞(ことば)みなかへてつねの
事によみなしけり父きゝてうちよろこびかへ
りてつげしらせし人のことはうきたり【不確かである】と思へり

されば児をば山にかへし女にももとのことくあひ
なれけり女うれしさのあまりにいたゐけし
たるものどもとりぐして児のもとへ文やるとて
  信濃(しなの)なる木曽路(きそぢ)にかゝる丸木ばしふみ見し
ときはあやうかりしをとなんかきつけてつかはし
ければ児の返しに
 しなのなるそのはらにしもやどらねどみな
はゝきゞとおもふばかりそ
   論

  ある人いはく淫(いん)なれはすつとこそ礼経(れいきやう)にも
  見え侍れまゝ母人と文かよはす此児などて
  まことをつげて父にはからはしめざるや
  いはく父をふかく愛する人はかならず後
  の母にあつし罪あれどもあらはさず父の
  心をやすからしめんがためなりむかし
  晋(しん)の太子 驪姫(りき)かためにしこぢ【讒言する】られて身
  あやうし人みな驪姫がつみあらはし給へと
  いへば太子いへらくわが父老たまひて驪姫な

  ければやすからずもしかれが罪をあらはさば父
  いかりてかれをすてむ我しのびずとなん
  いひて終にをのれころされ給ひぬ後の
  是を議する人道理にあたらずなどいへ
  どその孝心はまことに有がたしと信州
  のこのちごを見るに晋の太子と事はかは
  れどその父の心をやすめ母にもゆへ
  なからしむることはすなはち相似たり
  孝子にあらずやまゝ母も人なり児か心

  にはぢ悔(くゐ)てそのあやまちをあらため
  ざらめやいかで害(がい)せしむるにいたらん

【絵画 文字無し】

十二 隨身公助(ずいじんきんすけ)
公助は東三条太政大臣の御 鷹飼(たかかひ)随身 武則(たけのり)が子也
つねに父に孝なり右近(うこん)の馬 場(ば)の賭(のり)弓公助わろ
くつかうまつりたりとて父いかりてはれなる
所にて公助をうちけるににげのく事もせて
しばしか程うたれにけり人々いかでにげざりし
ぞととへば公助がいはくもしにげなば父をひなん
をひてはたふれなどし侍らばきはめて不便なり
ぬべければ心なぐばかりうたれ侍るなりと申き

きく人いみしき孝子なりといひつたふるほどに
世のおぼへもこれよりぞいできにける
   論
  むかし曽(そう)子父にうたれてたふれて絶入ぬ
  すでにさめたればさらぬさまにて猶父につかへ
  しりぞきては琴かきならし歌うたへり
  これはそのうたれし所いたみもなくわづらは
  しからずと父にしられんとおもひてなり
  孔(こう)子これを聞ていかり給て舜(しゆん)の瞽瞍(こそう)に

  うたれさせ給ふにその杖(つえ)ちいさやかなれば
  うたれて父の心をなぐさめ杖大きなれば
  必のかれにげ給ふ今曽 参(しん)父にうたれ大杖
  をさけずしてたふれてたえいれりこれ
  父を不義におとしいる不孝いづれか是より
  大ならん参もし来らば門にいるゝ事なかれ
  となむのたまひしとぞ是によりておもひ
  見るに杖すこしくはにげざるもよしもし
  大杖ならましかは公助もまた不孝におち

  いりぬべしにげたらむがまさるまじきや
  いはく舜曽の御事はしばらくをきぬ公助が
  父老て腹あしくにげば必をはんをはば必たふれ
  て其身をやぶらむ公助是を思へばにぐるに空
  なし杖の大小も見るにいとまあらず人のおほく
  て恥がましきもおぼえず今その心ををしはかれ
  ば涙おちむねふさがりてわれらが親に
  うすかりしこそくゐかなしまれ侍れかれが
  不孝におちいるべきことはえしもしり侍らず

【絵画 文字無し】

十三 曾我(そが)兄弟
兄は十郎 祐(すけ)成弟は五郎時宗伊豆の国伊藤次郎
祐 親(ちか)が孫(まご)にして祐 重(しげ)が二人の子なり祐重 工藤(くどう)祐 経(つね)
にころされし時祐成いつゝ時宗三つに成けるか母に
したがひて曾我と云所にありけれは曾我とは
名のりけるなり兄弟すこし物の心しれるより
後は父の仇(あた)をむくひて敵(てき)とともに死なんと思ふ
より外なし母ふかくこれをうれへてまつ時
宗を箱(はこ)根山にのぼせて法師とならしむ時宗

母の命(めい)にそむかず行て山にありといへとも露心
ざしをかへずある時師の僧をのれを得度(とくど)せん
といふをきゝてにげて曾我に帰りぬ母いかり
て相見ず時宗よるかよるかたなし祐成わが住ける
屋にかくし置て衣食(いしよく)をともにせり時宗打
なげきていはく母の心にそむかじとすれば父
に孝なし我にふたつの身なきをいかんと時に
建(けん)久四年なり右大将家しなのゝ浅間 下野(しもつけ)の
奈須野に狩(かり)す工藤これにしたがへり兄弟ひそか

に行て隙をうかゞひけれとかなはず又冨士に狩
あり工藤したがひぬ此たびは兄弟死をきはめ
て出立けりしかるに時宗母ににくまれ久し
くあひ見ずして死なん事をいといたふかなし
とおもひけれはをして母のもとにゆきて時
宗こそ十郎殿と冨士の御狩見にまかで侍べれ
ねかはくはしばしの御ゆるされをえてたゝ一目
見たてまつりてゆかばやとなん人していはせ
けるに母なをいかりてきゝ入べくもなし時宗泪

にむせびあはれたゞけふはかりはゆるされま
いらせたくこそといへどこたへず祐成も来り
てさま〴〵に侘あへれどゆるさず祐成心に
おもへるやうわれ兄弟冨士にて必しぬべき
事を露はかりもらしなば母いかで時宗を
見たまはさらむされはとてつげまいらすべき
にあらずたゞたばかり奉りて時宗を
一目見せまいらせ時宗にもこの世のねがひ
みてしめはやとおもひければわざと言葉をあ

らゝけて時宗かくまで母ににくまれまいらせて
世にありて何かはせんいで祐成 殺害(せつがい)して御
心にかなひ侍らむといひて刀(かたな)に手をかけてたちぬ
母うち驚きてやゝ祐成ゆるすぞといへは祐成
かぎりなくよろこぼひ【すっかり喜び】てやかて時宗をぐして
母のまへに出ぬ時宗なきはらしたる目ふり
あげていとうれしげに母をぞまぼり居たり
ける鬼(おに)をも神をもあざむくばかりたけきおの
この母ならでたれにかかくはしほれむとありけ

る人々みな涙おとしにけりかはらけ【素焼きの盃】めぐりて
後おの〳〵よろこひをつくしいとまをこひて出ぬ母
見をくりて御狩をはらばすみやかに帰るべし
時をすぐすなといへるをきける兄弟か心の内
おもひやるべし兄弟冨士野につきて工藤があり
ける所よくあなゐしをきて一夜のいたうふけ
ゆくほどらうして忍び入ぬ昼(ひる)狩くらしてつかれ
たれば人みないぎたなし【寝汚し】されど工藤はこゝになし
兄弟せんすべしらずあきれまどひて立ける処に

人ありてさゝやきて工藤ふし所をかへぬこなたへと
いひて道ひき行てまことにいねし所をぞをし
へにける兄弟神の御めぐみとよろこびやをら
すべり入て工藤かいねしさまを見ればうかれめ
ともにふしたり時宗まづ女を床より引くだし
声なたてそといひてすなはち工藤が跡にせま
れり祐成は枕にたてり兄弟面を見あひて
相よろこべるさまたとへをとるに物なし祐成
工藤にふれおどかして曾我の祐成時宗父の

あたをむくふわとの【吾殿=おまえ】いかでふせがざるやと工藤
きゝもあへすをのが刀をぬきて起(をき)あがらむと
せしを祐成きりぬ時宗も又きりぬいつゝみつ
の年より何事をかねがひつるとておどりはね
てきりけるまゝに工藤が身いくきだ【注】になりてか
しにけむちかくふしたる王藤内もきられぬ
そのゝち目をさましたる家の子ども夜うち
ぞといひさはけば此たび右大将家にしたがひ
来し諸国の武士いであつまりて兄弟とたゝかふ

【注 物の切れ・刻み目を数える語】

兄弟心のまゝにきりめぐりけるあいだに祐成
まつうたれにけり時宗は猶しなざれば頼朝と
ても祖父(おほぢ)祐親か仇(あた)なりうらむまじき人にも
あらずさいはひに近づきたらば一太刀こそうた
めとおもふ程にをして頼朝の館(たち)に入ぬある
つはもの女のさましてたばかりよりて終に
とりこにしてけり其しばりくゞむるやう
殊にきびし小川三郎祐 貞(さだ)と云ものありて
これ強盗姦賊(がうどうかんぞく)にもあらずつながすとも

にぐべからずなどかばかりにはといへば時宗
きゝてよくこそいへれされどわが此縄は孝行
によりてつきたればこの縄すなはち父のため
によむ所の経のひぼ【紐】ぞかし何かはやましから
むといひてうちわらひつゝ行て松が崎と云
ところにてきられぬ年わづかに二十祐成は
二十二なりし見と見きくときく【注】人これをあは
れまずと云ことなし事のはじめをはり世の
人みなこまやかにかたりつたへ侍ればたゞ其おほ

【注 「見る」「聞く」を重ねて強調した表現】

やうをしるすになん
   論
  ある人とふかたきうつ人をばからやまと是
  をころさず右大将家などて時宗を殺(ころ)すや
  いはくわれむかし曾我物語見侍しに
  頼朝は時宗をふかくかなしとおもへり後に
  母にろく給ふてごせ【後世】とはせ給へるを見て
  しるべししかはあれどありし夜かれがため
  に疵(きづ)をかふむり身をころすものあまた也

  工藤が門 族(ぞく)又おほしたすけをくともすゑ
  とげずはかれに益なきのみならず国も
  おだやかなるべからずしかじたゞうし
  なはんにはとおもへるなるべしせんかたなき事
  なめり又とふ兄弟五七歳より後は仇とゝも
  に天をいたゞかじのおもひ誠にいたりつくせり
  となんしからばもはら薪(たきゞ)にふし胆(たん)をなめ
  し跡をこそしたふべきに旅屋【旅宿】にかよひて
  うかれを愛せし事はいかんいはく旅屋は

  敵(かたき)の行かふあたりなれは事をあそびによせ
  てたよりをやうかゞひけむされど兄弟
  がこのあそびたからの珠(たま)の瑕(きづ)とやせん是に
  よりて身をあやぶめしこともおほかり
  つればかの一大事のほいとげしは大なる幸
  なりかしもし兄弟をまなぶ人あらば必
  これをいましめていたく絶(たえ)ずはあるべから
  ず

【絵画 文字無し】

十四 鎌倉(かまくら)孝子
鎌倉の相(さう)州禅門のさふらひ何がしとかや母あり
きはめて腹あしくある時いかりて何かしを
むちうたむとしてあやまりてたふれて身
すこしいたみければいよ〳〵腹たつまゝに禅門
の前に出てわが子こそ我をうちてつ土にたふれ
しめ侍れといへば禅門おどろきて何かしをめし
てとはれけるにたれかさは申つるととへばなんぢ
が母のいへるなりとこたへらる何がし口をとぢ

ぬ禅門おもへらく此不孝のもの近づくべからずと
終に流罪(るざい)にさだめらる母これを聞てむねう
ちさはぎ又禅門の前に出てさきには我いかり
のためにみだられてあらぬ事申つる也まことは
わが子我をうたず我かれをうたんとしてあや
まりてたふれて腹たちければ物にくるひ侍し
なりわが子 咎(とが)なし流罪をなだめさせ給へと
いひて泪をしのごひけれは禅門うちわらひて
又何がしをめしてなんぢ母をうたずいかでさきに

さはいはざりしぞととはれければ何かしこたへて
いはく母すでに我にうたれぬと申けるをさには
あらずと申さば母をいつはれりと人のいひお
もはんがかなしくおもひたまへられ侍りて申さ
ざりつるとなむいへば禅門ふかくこれを感嘆(かんたん)
し所領などましあたへてよき人えたりとよろ
こばれけるとなむ
   論
  忠臣は孝子の門にもとむといへばむべこそ禅門

  のこの人をよろこび所領をまして賞せられ
  けれこれを見きく人忠孝にすゝむまじ
  きや忠孝の人家におほくはその国たいらか
  なるまじきや北条氏の代をかさねて天が
  下まつり ごち(ごとせヵ)【「ごち」の左に「◦」を傍記】しは誠にその故なきにあらず

【絵画 文字無し】

十五 本間資忠(ほんますけたゞ)
源内兵衛資忠は相模の国の人本間九郎資 貞(さだ)
が子なり正慶みつのと【癸】の酉のみだれに赤(あか)坂の城
せめんとて鎌倉より八万余のつはものはせのぼり
けるとき此おや子ものぼりてすでに天王寺に
たむろせしが大将あその何がし赤坂へはあさて【明後日】
ばかりよすべしとなんいひふれけり資貞
いかゞ思ひけんそのふれにしたがはず人見四郎
入道 恩阿(をんあ)と云ものとつれてひそかに天王寺を

【120コマの目録には「本間資忠」は十七番目になっている。「本間」が先に入ったことによって、番が一つ後ろにずれていく】

出てたゞ二 騎(き)赤坂にむかひてたゝかひてしに
けり資忠これを聞て父がをのれをゐてゆ
かざりし事をうらみて追(をふ)てかしこにしな
むとおもへりある人そのありさまを見て
いさめていへらくをよそ士(さむらい)の人に先だち
てうちじにするもみつからその義をおこな
ふのみにあらずそも〳〵子孫のさかへをおもふ
なり資貞のそこにつけずして死せる心なき
にあらじもし又行て死せば大きに父の志に

そむくべきぞといへば資忠うちうなづきて
其人をかへし鎧(よろい)うちき太刀かたなとりてまづ
上 宮(ぐう)太子の影堂(ゑいだう)にまいり冥途(めいど)にてはかならず
父にめくりあはせ給へと祈誓(きせい)しやがて赤坂
へおもむきけるが石の鳥居を過るとて
 まてしばし子をおもふ闇(やみ)にまよふらむ六の
地またの道しるべせむとよみてゆびくひきり
その血して鳥居にかきつけさがみの国の住人
本間九郎資貞が子源内兵衛資忠年十八父

がかばねを枕としておなじく戦場(せんじやう)に死しをはん
ぬとかきそへ馬引よせてうちのりしばしが
程に赤坂につきて城の木戸うちたゝきて
我はこれ今朝この城に死せし本間九郎が子也
父われにしらせざりつれば今まではをくれ
侍るねがはくははやく死して追(をひ)つきて父に
冥途につかへ侍らむ木戸ひらかせ給へとなんいふ
人々城より見るにたゞ一騎にして跡もつゞかね
ば木戸あけていれぬ資忠よろこびてふかく

入こゝらのつはものとたゝかひ終に父が死せし所
にしておなじさまにしにけるとそ
   論
  資忠をいさめし人のことばあたれりなか
  らへて家をつぎ祭をもたゝざるこそ父
  が志にもかなひていみじかるべけれ其死
  むやくならずやいはくしかりされと父
  とともにいくさの陣(ぢん)にありて父死して
  わかれとゞまるに忍びずゆきて幽途に

  つかへむとおもふも又孝心ならざるにはあらず
  もろこしにも此たぐひおほしおほやう
  孝を称せられたり本論にその人を出
  せり大抵本朝の士のたゝかひに死せる君
  のためにするはいたりておほく父のために
  するはきはめてすくなし君のためにす
  るは或は名をおもふ父のためにするは
  誠のみ孝なるかな資忠

【絵画 文字無し】

十六 大蔵右馬頭 頼房(よりふさ)
文和それの年 将軍(しやうぐん)尊氏 新田(につた)義宗義 興(おき)と
むさしの国に相たゝかふ石 堂(だう)四郎入道それがし
将軍の手にありながら三浦 葦(あし)名二 階(かい)堂 等(ら)と
ともにほこをさかしま【矛を倒さまにする=裏切る】にせんとはかりあすのたゝ
かひに必ほいとげんと定めあひけりその夜石堂
わが子の大蔵右馬のかみ頼房をよびてひそかに
此事をつげたり頼房大きにおどろきさま〳〵
にいさめけれど父きゝ入べくもなければせんかた

なくてしりぞき出てたゞちに将軍にまいり三
浦葦名 等(ら)君にそむく頼房が父も又是にくみせり
はやくこれかそなへをなしたまへ頼房ふかく
不孝の罪ををそるといへど又申さでやむべき
にはあらずもしかくつげ奉る事をいさゝか忠
ありとし給はゞさいはひに頼房がねかひをみ
て給へねかふところ他にあらずはやく頼房が
くびきらせ給ひて父がいのちをたすけたまへ
いかなる御恩にもましぬべしといへば将軍つく

づくときゝて涙おとして汝(なんぢ)か此忠わが世はをき
ぬ子孫にいたりても忘るべからず父入道の事心に
かけざればいかでかうしなふべきといひてすみ
やかにつはものをつかはし三浦葦名等か陣をや
ぶりて石堂をば問れずそのゝち頼房 仁(につ)木義
長をもて将軍に申す君頼房が父をころさず
恩にむくふるに道なしねがはくは頼房みづから
死して父が罪をあがなはむと将軍これをきゝ
給ひてあるへくもなしあなかしこいさひとゞむべしとぞ

義長におほせける世の中しづまりて後石堂父
子ともにつゝがなし
   論
  私恩(しおん)をもつて公義を害(かい)せさるはかたし私恩
  をもつて公義を害せずして私恩も又やぶ
  るゝことなきはいよ〳〵かたし伊藤九郎祐清松
  田左馬助がともからのごときは私恩をもつて
  公義を害せざる事はしれりかくのごとき人
  猶えつべし頼房がこときは誠に得やす

  からず祐清がともからの及ふべからざるのみ
  ならずもろこし楚(そ)の弃疾唐(きしつたう)の李璀(りさい)といへ
  ど又及はずわが国の人あるを見るべしたれ
  かいふ忠孝ふたつながらまたくしがたしと
  頼房これ其人なりある人いはく頼房
  がことはさらなり君のおほせには父をもころ
  すといひならはせば源の義朝(よしとも)の為義を
  はからへるがごときはかへりて義に害なきや
  いなやいはく人の禄(ろく)をうくる人その君のため

  に父をわするゝことはあるべしすなはち
  弃疾李璀かたぐひなりさはいへど義朝が
  ことのごときは人たるものゝすべきわざに
  あらず不義のいたりふ不孝のきはまれる
  なりいかにとなれば保元(ほうげん)のみたれ義朝 功(こう)
  あり身にかへてこひもとむる事この頼房
  のごとく相似ば為義の罪いかで御ゆるされ
  もなからむたゞをのが軍功の賞をのみむさ
  ぼり父を見る事道ゆく人のごとし終にころ

  して君にこびたりその罪 逆(ぎやく)たとふるに物なし
  されば天はかならず罪あるを討(たう)せることはり
  なれば父死していまだいく程あらざるに
  かれ平氏とたゝかふてかたずにげて尾張
  の国にいたりて郎等(らうとう)忠 致(むね)にころされ頸(くび)を
  京都にさらさるその子義平朝長義圓範
  頼義経かともから一人のその死をえたるなし
  女子におゐても又しかりひとり頼朝さいはひ
  に志をえられけれど世につたへて云その終り

  をよくせられずと東鑑(あつまかゞみ)に逝(せい)去の月と所
  とをしるさずはふむりをいはず是を證と
  すべし又百錬抄といふふみには正治元年
  正月十一日頼朝所労によりて出家せられ
  十三日におはらるとしるせりかく終焉(しうゑん)の
  すみやかなるも又一證とすべきか頼朝の
  子頼家その弟実朝のためにころされ実
  朝又その姪(めい)公 暁(けう)にさゝれ公暁もすなはち
  死してつゐに藤氏にその家をつがるされば

  聖人は俑(よう)つくるものをだに後なかるべし
  とのたまへり義朝が子孫のこゝにいたれる
  あやしむにたらむや人それこれをお
  もへ

【絵画 文字無し】

十七 楠帯刀(くすのきたてわき)正 行(つら)
正行は河内の判官くすのき正 成(しげ)が長子なり建武(けんむ)
丙子の五月尊氏都をせむへしとて関より西の
つはものいく万騎にやあらんみづからひきゐて
すてに津の国にいたれり新田左中将これに対
しぬ主上正成にみことのりして中将をたすけしむ
正成かねてたゝかひかたざらむ事をしりて
死をきはめてかしこに赴(おもむ)く正行年十三父
とともに京を出て桜井のやどりにつきぬ

正成これより正行を河内に帰らしむるとて
かきくどきをしへけるは異国(いこく)の獅子(しし)といふけだ
ものはむまれて三日にしてよくその父をまな
ぶとなん汝すでに十にあまれりわがこの
ことばをこゝろにしめてしばらくも忘るべからず
われもし死せば尊氏の世となるべしさあらむ
とき身をたもたんとてかれにくだるべからず
たゞ義あるいくさををこしていのちを君に
いたすべし是汝が大孝ぞといひてなきてわかれ

ぬおなし月の下の五月に正成終に兵庫(ひやうご)にて
うたれぬ尊氏むかしのちなみわすれずいと
あはれにおもはれけれは正成がくびを妻子の
もとへをくらる正行父がくびをみ見て母とともに愁嘆
せしがそのかなしみにたへすやありけん刀をぬき
て身をやふらむとす母いだきとゞめていはく
いで汝あやまてり判官なんぢを桜井よりかへ
されしは何のためとかしるや幸に人とならば
朝 敵(てき)をうちていのちを君にさづけまいらせよと

はいはずやもし然らでいたづらにしなば不孝何
事かこれにまさんと正行うけたまはりぬとて刀
をばおさめけりそれより後はつねのあぞびたは
むれにもたゞ太刀はき矢おひていくさのかけひ
きをまねぶより外なかりけりやう〳〵年もかさ
なりぬればまづ家の子五百余騎をゐて住吉天王
寺のわたりにいくさだち【出陣】しぬそのいくさののり
いといみじくて父のしわざにもおさ〳〵おとらず
すでにすゝみて細(ほそ)川むつの守 顕(あき)氏が三千のつは

ものを藤井寺にうちて大にかちぬ又山名伊 豆(づ)
のかみ時氏 等(ら)か六千騎にもかちぬ尊氏おそれ
て高(かう)の師直(もろなを)師 泰(やす)におほせて正行をうたし
むそのつはものゝ数八万なりとぞ正行三千騎を
ゐて四条縄手にむかへたゝかふつはもの数すく
なしといへどそのいきほひはなはだたけし
むかふ所まへなし秋山大草居野なといふ勇士(ゆうし)も
正行とたゝかふてはやくうたれぬ次に武(たけ)田が
七百余騎又おほやううたる次に細川清氏が

五百余騎次に仁木 頼章(よりあきら)が七百余騎次に千 葉(ば)宇
津 ̄の宮が五百余騎次に細川 讃岐(さぬき)のかみ頼春が
七千騎おの〳〵馬にあせしほこさきをくだく正
行物のかすともせず鷹(たか)のごとくにあかり虎(とら)の
ごとくにたけし師直が陣さゝへ【支え=応戦して食い止める】ずにげて八幡(やはた)
をすぎ京に入もおほかり師直あやうし上山
六郎と云もの正行をあざむきてわれ師直ぞと
いひてうたれぬ師直があやうきをすくひてなり正
行まことの師直ぞと思ひ上山かくびをとりていと

いたうよろこびけるが師直猶ありと聞ていかりて
又すゝみけるに高の播磨(はりま)のかみがつはもの五十余人た
ちまちに死す師直いよ〳〵あやうしこゝにつくし
人の中に弓に名をえし須(す)々木の何かしありてし
きりにはなちて矢五つまでそ正行に射(ゐ)たてけ
る正行心たけしといへど身その矢にたへずかなしき
かないたましきかな弟の正時と心ゆくばかりさしちがへ
てふしぬ年わづかに二十五正平四年の春正月五日
なり天下しるとしらざるとあはれ父が志を

つぎけりとぞ感しあへる
   論
  ある人いはく正成のこゝろざしたゞ将軍家
  をほろぼして南帝を世にたて奉るに
  あり正行はかりことをめぐらしつはものを
  あつめ時を待て其功をたつべきを力し
  かざるにはやりてたゝかひやくもなき
  しにしけるは父の志をつぐものにあらすいかん
  いはく天下はいきほひのみといへり正行いき

  ほひをいかゞせんそのかみ尊氏 威(い)勢日 々(”)に
  まう【猛】なり南朝これにあたるべからず
  いはんや君のあきらかならず臣も才なし
  世の武士心を南方によするもの十がひとつ
  ふたつなるをやたとひ年をかさねよは
  ひをつむともいかでなしうるときのあらん
  そのうへ其身病おほし不幸にして床に
  ふさばくふともかひあらじたゞ父の遺(い)命
  にしたがひてはやくたゝかひに死せんには

  しかじとおもふなるべしこれ正行が正行
  なるところなりつく〳〵とおもひ見るに
  正成兵庫の志には身をもて道ひけるなり
  正行四条縄手のたゝかひはその道をゆける
  なり志をつぐにあらずして何そやある
  人の物がたりにみかどある時 弁内侍(べんのないし)とき
  こゆる優(ゆう)なる女房を正行に給はんとのみ
  ことのり有ければ正行
   とても世にながらふべくもあらぬ身のかり

  の契をいかてむすばんとよみて奉りてかた
  く辞(じ)し申けるよし吉野拾遺といふふみ
  に見えたりとなんこれを見ても正行が父
  の遺言露わするゝひまなかりしことを
  しるべし

【絵画 文字無し】

十八 左衛門 ̄の佐 氏頼(うぢより)
氏頼は尾張修理(おはりしゆりの)大夫入道道朝か嫡(ちやく)子なり孝順
にして学問をこのみつはものゝ道にもくらからず
将軍これををもくせられ世の人もほめきこえ
けりたゞ父の入道のみひとへに庶子(そし)の治部(ぢぶの)太輔
義將(よしまさ)を愛してをのれにかはりて政とらし
めむと思ひける程に常に氏頼を将軍に
さゝへけり氏頼これをしるといへど心にも色に
もをこさで日ころ過けるかある時したしき

人々をわか館(たち)にまねき何となくかたり出ける
はわれ忠孝をはげまして君と父とのよろ
こびをえんとしけれどざえつたなくてなす
事もなし昔より子をしるは父□【「に」ヵ】しくなしと
いひつたへたれば入道のわれを愛せざる誠に
そのことはりあり今より後もし大なるあや
まちあらば入道をはづかしめ先 祖(ぞ)の名をもくた
すべければしかしたゞ仏道に入てふかき山にも
すまんにはとおもふぞとなんいへりそのゝちいく

程もなくて家をいで髪(かみ)をそり衣をそめて名
を心勝とあらため紀(き)の高野山に入て住けり時に
年三十四その妻は佐々木入道道誉がむすめ
にて子三人あり氏頼みなすてゝかへりみす
将軍ふかくおしみ給ひしは〳〵使を山につかはし
その心をなくさめられけり立かへりつかへむ
事をねがひて也氏頼これをわづらはしとして
ひそかに高野山を出て下野の国くろかみ山に
かくる将軍なを打をき給はず鎌倉の基(もと)氏朝

臣におほせて立かへりつかへん事をすゝめられけれ
どきゝ入へくもなししかるに世こぞりて氏頼
が山を出ざるは父道朝が悪 逆(ぎやく)をにくみてなりと
云を氏頼つたへ聞ていといたう是をうれへわが出
さるが故に父此そしりをうくわか罪ふかし
いかで出ざらむやとおもへど我出てむかしの
ごとくならば義將がためうしろめたくや父の
思はんとまづ基氏をたのみて我出ぬとも官禄をた
まひ政をきかしめ給ふべからずと将軍に申し將

軍これをゆるし給ふて後ぞ山をば出けるよりて
京につきける後も京にのみはあらでともす
れば若 狭(さ)の国に行て居けりこれ又父の心の
やすき様にとはかりてなるべしさればかく
俗(ぞく)にかへりしやうなりつれどうち〳〵終に僧
律(りつ)をやぶらず後に又山に入しとなんいひつたふ
   論
  仏法わが 国にありてより世をそむき山
  にいる人その道によらずと云ことなし既に

  よれは父をも母をも忘はてゝひたみち【ひたすら】に
  仏につかふるをいみじとおもへりしからされば
  道心ならずとてみつからもはぢ人もわら
  へりさるゆへ一たび世をそむき山に入て
  なれは恩愛たちかたくて父母をしたふ心
  の出くる時もつとめてそれをはらひすてゝ
  もはら空寂(くうじやく)におぼるかなしからずや氏頼
  すなはち其人にして今かへりて父のため
  にたやすく山を出きたるはいかにそれ人

  愛すべきを愛するは天命の性なりさらに
  私心にあらずつとめてそれをさるはかへりて
  性をくらますなり氏頼 釈(しやく)門にかくるといへ
  どさいはひにいまだかの天性をくらましは
  てず猶父を愛する心ふかしいかで彼くらまし
  はてゝ父兄の難ありといへど山をでる心な
  き人にならはんやすでに出て官禄をうけず
  政をとらず僧律をやぶらず是を見てもかれ
  誠に父のために出ける外また思ひなきをしるべし

【絵画 文字無し】

十九 武州孝子
昔むさしの国なにがしの里に二人ありひとり
はとみひとりはまづしその交(まじはり)あさからずとも
に身まかりぬ二人が子又したしある夜まづし
き家の子夢のう内に父来りてわれいける世に
とめる家の物そこばく【数量の多いこと】ばかりをかりてかへさず
してをはりぬ心におゐてやすからずねがはくは
汝はやく是をつくのへ【償え】といへり夢さめてむね
うちさはぎわれ父の此おひめある事をしらて

いままて御心をやすめざることの罪ふかさよとて
すみやかにその物をいとなみもとめてとめる家
にをくりて夢のつげかくのことくなればとぞ
いひやりけるとめる家の子きゝもあへすわが
父世にありしほと此事をいはずそのこゝろざし
しりがたし今父 冥途(めいど)にありわれ行てとふべ
からず又此物をちゝがもとにをくるに道なくわれ
みづからほしゐまゝにこれを家にもちゆべから
ずしかれば我これをうけてせんすべをしらず

これによりてうけずとなんいひてかへせりまづしき
家の子是をなげきてわが父のおほせ也まげてう
け給ひてよとあながち【一途】に侘あへれどきかずすべ
きやうなかりければ鎌倉に行て官所に申て
是をわか友それがしにうけしめて亡(ばう)父か心
をやすめさせ給へといへり官所すなはちかの
とめる家の子をめしてしか〳〵といひきこゆ
ればとめる家の子ことば前のごとくにして
いさゝかうくべきけしきもなしまづしき家

の子 泣(なき)てしゐぬ此あらそひを見る人みな泪を
ぞながしにけるしからば二人をなじく此物
を用ひて仏事をなして二人の父が冥福(みやうふく)を
たすくべしとぞ官よりは下知せられにける
   論
  ある人いはく夢ははかなしまことゝするに
  たらず武州の孝子まどへるに近(ちか)からずや
  いはく夢まことゝすべきあり殷(いん)の高宗 周(しう)
  の武王孔子の見たまへる所のごときこれ也まこと

  とすべからざるあり邯鄲槐安(かんたんくはいあん)のたぐひ是也
  されどそれにはかゝはるべからずまこともあれ
  まことならずもあれうせし親のうれへよろこ
  びを見て夢なればとて我うれへよろこぶ
  まじきやねがひあらばかなへまいらすまじき
  やむかし大江の佐(すけ)国が子それがしすけ国身
  まかりて後 蝶(てふ)となりて来りて花にたはふ
  ると夢見しより日ごとに蜜(みつ)といふものを花に
  そゝきて蝶のあそぶをもてなしけりなき

  親の事となればかゝるはかなきわざをだにし
  けり是をまどへりと笑へる人は見る所は
  たかゝるべけれと孝子の心をばしらざらむ
  かしいさゝかの事を忍ふより終には大なる
  不孝にもおちいるぞかしよりてこゝに
  思ふことあり友のこかねをかりてかへさで死
  する人いかにもしてはやく返すべしと
  その子にいひをけれど子それをかへさずかし
  たる人の子しきりにこふて中あしくなる

  ともがら世におほかり遺言(ゆいごん)は夢にはあらね
  どまことゝせざればすべきやうなしさる人の
  まなこより見ばこの武州の孝子が事いかば
  かりもどかしからむ

【絵画 文字無し】

二十 養(やしなふ)_レ母孝僧
白川院の御時にや京ちかき所に住ける僧の老たる
母をやしなへるありこの母 魚(うを)なければ物をくは
ざりけり僧人目もつゝましくくりやもまづし
かりけれともとかくいとなみて常に魚をすゝ
めけるに一とせ天が下 殺生禁断(せつしやうきんだん)のみことのり
くたりて世に魚鳥のもとむべきなし僧せん
かたなくてうほ【ママ】をそなへざれば母やゝ食をたて
り日数ふるまゝによはりゆきて今はたのむかた

なく見えけり僧かなしさのまゝにかなたこな
たはしりまどひて魚をもとむといへどもえず
おもひあまりてつや〳〵【全然】うほとるすべもし
らねどもみつから川のほとりにのぞみてころ
もに玉だすき【たすきの美称】して魚のたよりをうかゞひ居ける
がとかくしてはへと云ちいさきうほひとつふたつ
とりえたり友人これを見つけてやがて僧を
からめとり院の御所にゐてまいりぬ殺生禁断
世にかくれなしいはんや法師の身にて此おかし【犯し=罪科】を

なすこと一かたならぬ科(とが)なりとにくまぬ人なしさて
子細をとはれけるに僧涙をながして申けるは天下此
禁断の御時法師の身にてかゝるふるまひあるべ
きことかはたゞしわれ老たる母あり我一人のほか
たのめるものなしかれ魚なければ物をくはず今天
下うほをもとむるによしなくて母すてに食をた
てりわれ心の置ところなく思ひあまりて川にのぞ
みてからふして此魚をえたり罪におこなはれんことは
あん【案=考え】の内に侍りされど此とる所のうほ今ははなつともいきじ

母のもとへ是ををくりて今一たびあざらけき【新鮮な】あぢはひ
をすゝめて後此身いかにも成侍らは何のおもひかの
こり侍らむといへばきく人みな泪をおとす院き
こしめしてふかく感せさせ給ひて罪をゆるさせた
まふのみならすさま〳〵の物を車につみて給はせ寺に
かへし給ひにけり猶やしなひにとぼしき事あらば
かさねて申べきよしをぞ仰下されける
   論
  客あり此ふみをよみてこゝにいたりてよろこび

  ずしていはくそれ孝はよく父母につかふるの名
  なりその文字をつくれるも老の字のかたへ【一部分】
  をはぶきて子の字をそへたり老たる父母
  のかたはらに子ありてよくつかふるを孝とす
  るのいはれなりしかるに釈氏(しやくし)【僧侶】は家をいで
  親をわするゝを道とすたま〳〵忘れはて
  ざるもあらめど畢竟(ひつきやう)これ棄恩(きおん)の人也いかで
  此ふみにはとれるやあるじこたへていはく
  なへて釈氏の恩をすつるはうけたまはりぬ

  此孝僧にありてはたゞよくやしなひ
  よく愛するのみならず母のためにその
  身をわすれ死にのぞみて志をかへずいま
  その人を思ひその心をたづぬればおぼえず
  涙ころもをうるほしかつわか不孝をくゐ
  はづるにたへず誰も〳〵かくこそあらめ
  しかれば此僧身は方外【浮世の外】にありといへどまこと
  は孝門の先達ぞかしいかで此ふみにとること
  なからむ恩をすつるをゆるすにはあらず

【絵画 文字無し】

【本文覧白紙 左欄外】
明治十年丑二月吉祥日
       小原日仙求

【白紙】

【白紙】

仮名本朝孝子伝下目録
 婦女       《割書:一》兄媛
 《割書:二》佐紀民直    《割書:三》波自采女
 《割書:四》難波部安良売  《割書:五》橘氏妙沖
 《割書:六》薩州福依売   《割書:七》請僧孤女
 《割書:八》供衣貧女    《割書:九》南築紫女
 《割書:十》舞女微妙    《割書:十一》坂東僧女
 今世
 《割書:一》大炊頭好房    今泉村孝子

 《割書:三》雲州伊達氏   《割書:四》中江惟命
 《割書:五》川井正直    《割書:六》絵屋
 《割書:七》神田五郎作   《割書:八》柴木村甚介
 《割書:九》西六条院村孝孫 《割書:十》横井村孝農
 《割書:十一》赤穂惣大夫  《割書:十二》由良孝子
 《割書:十三》芦田為助   《割書:十四》安永安次
 《割書:十五》大矢野孝子  《割書:十六》中原休白
 《割書:十七》鍛匠孫次郎  《割書:十八》三田村孝婦
 《割書:十九》小串村孝女  《割書:二十》宍栗孝女

仮名本朝孝子伝下
 婦女
一 兄媛(ゑひめ)
応(をう)神天皇二十二年の春の末つかた難波(なには)にみゆき
したまひたかき屋にのぼりてとをくのぞませ
給ふ兄媛ちかく侍り西のそらながめやりて
大になげく天皇問給ふ何ぞやなんぢがなけく
ことのはなはだしきこたへて申さく此ころ父母
をおもふ事ふかし西にのぞむによりてことに

なげかしねがはくはしばらく国に帰てち□□【「ゝ母」ヵ】
見侍らんかと天皇兄媛が孝ふかきに感ぜさせ
給ひてしばらく国にかへることをゆるさせ給ふ
国は吉備(きび)なり淡路(あはぢ)の御原の浦人あまためし
て船子としてはやく吉備に送らせ給ひ織部(をんべ)
のあがたをぞ所領にたまはりける
   論
  をよそ女子の国をへだてゝ人にゆくとき
  その父母となきてわかれざるはまれなり

  すでにゆきてその家に相 馴(なれ)ぬれはさきに
  なきしことをくゐさるも又まれ也たゞ人
  とすむたにしかりしかるを此人大内【内裏】にさい
  はひせられまいらせてよろづたゞ心のごと
  くなるべきをつねに父母を忘ることなく
  そのしたひかなしめるさまはじめてわか
  れし時のごとくなれば今みかどゝ西をのぞ
  むによりておほえず大になげゝるならし
  有かたき孝心ならずやみかど感し□□

  めして御船にて送らせたまひ湯沐の
  ところ【「湯沐の邑」のこと】ひろく給りし事みな孝行の
  冥加(めうが)なるべし

【絵画 文字無し】

二 佐紀民直(さきのたみのあたひ)
民直は大和の国 添下(そふのしも)郡佐紀といふ所の民直氏の
女なりをなし郡の倭(やまと)の忌寸果(いんきはた)安か妻となれり
しうとしうとめにつかへて孝の名ありおとこ死し
てかたく志をまもり家をおさめてをのが子と
こと腹【異腹】の子とすべて八人ありけるをなでやしなひ
あはれめるさまいさゝかわくかたもなく【「分く方も無く」=分け隔てなく】見る
をのれむめるがごとし孝 慈(じ)のいたり人みなほ【「し」が脱落ヵ】
感(かん)しけるとそ

   論
  この人たうとむべき道一かたならず舅姑(しうとしうとめ)によ
  ろこびらるゝなりおとこ死して志をまもるなり
  こと腹の子をのが子をわかずしてよくはぐゝめる
  なりされば続(ぞく)日本紀にこれをのせて世につたへ
  給ふ事も後代の人の妻のしうとしうとめにわ
  ろくまゝ子をにくみおとこ死して後又人にあふ
  事を恥(はぢ)しめ給はんためなるまじきやたか
  きいやしきこれをおもひたまへ

【絵画 文字無し】

三 波自采女(はじのうねめ)
采女は対馬(つしま)島の上県(かみあがた)郡の人なりおとこ死して志を
あらためず父みまかりてその墓(はか)にいほりす島の
民みなその孝義に感して上に申ければみつき【税】をゆる
され門にしるされて名を世にあげしとそ称徳(せうとく)天
皇の御時なり
   論
  墓にいほりして住けること女の身にては
  ことにしがたきわざなめり孝の□□□□

  がゆへなるべしある人とふうねめおとこの
  墓にはいかで庵(いほり)【注】せざるいはくしりがた
  しされどこゝにおもふ事ありいにしへは
  人死して妻などのなげきはさもあらで
  賢(かしこ)き友たゞしき臣下(しんか)などのふかくした
  ひかなしめるを死せる人の面目(めんぼく)とすさる
  ゆへに心ある女はおとこの死をかなしめる
  ことわか親や子にはおよばず魯(ろ)の敬姜(けいきやう)
  が穆伯(ぼくはく)の喪にはひるのみ哭(こく)し文伯の喪に

【注 「庐」は「廬」の俗字。ここでは常用漢字の「庵」を使用】

  はひるよる哭せしたぐひを見るべし
  うねめ父の墓に庵しおとこのにはしか
  せさるももしかゝる心やありけん

【絵画 文字無し】

四 難波部安良売(なにはべのやすらめ)
安良売は筑(ちく)前の国の人にていとけなきよりよく父
母につかふまつれりちゝ母はやくうせぬ安良売朝な
ゆふな墓にまふでゝしたひかなしめるさまいとこよ
なし【格別である】年十六にして宗像(むなかた)の郡の大 領(りやう)外正七位上宗
像朝臣秋 足(たり)にむかへられけりされど秋足世をはやう
してやもめにて年へにければ此人をげさう【「けさう(懸想)」ヵ。】していひ
わたるものおほかりけれどちかひてふたゝび人に
ゆかず終に志をとげゝり天長の御時これをきこしめし

て従二 級(きう)を給はりみつきをゆるさせ給ふとなむ
   論
  をよそ親に孝なればかならず君に忠也忠の
  みにはあらず五のともからにおゐて皆そののりを
  うると見えたりされば女の其父母に孝にしておとこ
  に義ならざるはすくなし安良売を見てもしるべし
  よりて思ふに世のめをめとる人その女の心のよし
  あしをえらはばまづ孝なりやいなやを問て其
  縁(えん)をさだむべしかならずのちの悔(くゐ)なけん

【絵画 文字無し】

五 橘(たちはな)氏 妙沖(めうちう)
妙沖は橘の逸勢(まさなり)がいとけきむすめなり承和九
年逸勢つみありて伊 豆(づ)の国にながさるむすめ
わかるゝに忍ひずなく〳〵跡をしたひてゆく
逸勢をぐしてゆく人々しかりてをさへとゞむと
いへどむすめひるはとゞまれるやうにしてよる〳〵【毎夜毎夜】
追(をひ)つきつゝ行て終に父にはなれず逸勢 遠江(とをとふみ)
の国 板築(いたつき)のやどりにつきてみまかりぬむすめ是
をはふむりてやがてその墓(はか)にいほりし尼とさへ

なりてみづから妙沖と名づくあけ暮なげきかなしみ
ていほりにある事十とせに及べり道ゆく人これがため
に泪をながさゞるはなし嘉祥(かじやう)三年みことのりあり
て逸勢に正五位下を追贈(ついぞう)して本土にかへしはふ
むらしめ給ふ妙沖大きによろこびてやがて父が
ひつきをおひて京にぞ帰のほりにける時の人
こぞりて孝女とよへり
   論
  鳴呼(ああ)【「烏呼」の誤記ヵ】妙沖何それ人ぞや官禄(くはんろく)の家にむまれ

  軽暖(けいだん)の衣につゝまれふかき閨(ねや)におふしたてら
  れし身のまだいはけなき【物心がつかない】程に父にとをつ
  国にしたかひ父うせければ墓にいほりし
  人にそこなはれずけがされず十とせかあいだ
  身をまたくして終に父のひつきを負(おひ)て京に
  かへり入ける事あやしと云もおろかならずや
  その辛苦(しんく)又いくそばく【幾そばく=どれほど】ぞたけきますらお
  といふともたやすくはえたふべからずこれに
  よりてつら〳〵おもふに人の辛苦にたへざる

  は皆その志かたからざればなり志かたくは
  たへぬ辛苦もあらじ人のつまやむすめいとくる
  しとおもふとき世には妙沖もありし物をと
  思ひいでゝよ必その辛苦をわすれん孝のみ
  称(せう)してやむべからず

【絵画 文字無し】

六 薩州 福依売(ふくよめ)
福よめはさつまの国のいやしき民のむすめなりちゝ母
老ておのこなしたゞ此むすめのみありて父やまひ
にさへふしたれば家のまづしさ思ひやるべし
福よめつねに人にやとはれていさゝかの物をえて
ちゝ母をぞやしなひけるその辛苦にたへず
さかりなるかたちもいたうおとろへかしけ【やつれる】に
ければ人みなあはれと見けり父年八十やまひは
いへざれとも猶しなざりけり福よめこれがため

に薬を求(もとめ)すゝむることをよそ二十年なり母にも又
ふかくいたはりつかへけり殊にいみじかりしは
其身のいやしきにも似ずちゝ母につかふるさま
やんごとなき人のその親をうやまひ給ふが□□【「ごと」ヵ】し
常におもゝちたゞしくしてかりにもたはれ【色恋に溺れる】
たる色なし同し里の人々有かたき事になん
思ひて終に上に奏(そう)してげ【ママ】ればやがて位三 級(きう)を
たまひ門 閭(りよ)にあらはさせ給ひけるとぞ仁 寿(しゆ)
三年のすゑの夏の事なりし

   論
  人ありいはくむかし衣縫造(きぬぬひのみやつこ)金 継(つぎ)と云ものの
  むすめ年十二父にをくれていたくなげゝり服(ぶく)【服喪】
  はてゝその母かれがためによるへもとめんとしければ
  ひそかにのがれて父が墓にいほりし朝夕
  したひかなしみて更に家に帰らず母かれ
  が志をしりて二たび人に見すべき事をいは
  ず其後家に帰りふかく仏をたふとびて
  常は母とともに経(きやう)うちよみてゐたりとなん

  続(ぞく)日本 後記(こうき)に見えたり是いたれる孝なるべし
  此ふみいかでこの人をすてゝたゞ妙沖福よめ
  のみをとるやこたへていはく衣縫氏まことに孝
  なるに似たりしかれとも人 倫(りん)をやぶる母
  のよろこひうへからずなでう【どうして】此文にはとらむ
  いはく人にゆかざるを云か妙沖福依売も人
  にゆかずいはく妙沖福よめが人にゆかざるは
  やむことをえずして也衣縫氏か故なくてゆ
  かざるには似るべからずいはく人にゆかざる

  をふかくにくめる故ありやいはく故ありを
  よそ天地のあいだにおふる物は天地をのり
  とせざるべからず天に地あり日に月あり
  春に秋あり二気相あふてよろづのもの
  いでくされば人より鳥けだもの草木にいた
  るまてにめとおとありて物を生じて天地に
  のとらずと云ことなししばらくもしからざれ
  ば天地ふさがり人 物(ぶつ)たゆこゝにしれや人の
  親の男をむめばすなはち妻あらん事を思ひ

  女をむめばすなはち家あらんことをおもふ
  これ天の理のまさに然るへきところにして
  またく人の情の私にはあらずしかるにめに
  しておなくおにしてめなきは天地の道にそむき
  父母の心にもとる其つみかろからず衣縫氏がともがら
  のごときにくまざるべけんや按ずるに列女(れつじよ)伝に名
  をかけし婦女三百人にあまれり其内 夭殤(ようしやう)【わかじに】
  殺死(さつし)をのぞきて一人の人にゆかざるなし人
  倫のやぶるべからざるを見るべし

【絵画 文字無し】

七 請(しやうする)_レ僧 ̄を孤(こ)女
此女何氏の子なる事をしらずはやく父母をうし
なひて家これがためにやつ〳〵し【非常にみすぼらしい】ある時おや
の跡とふべき日いたりぬればひとりの僧をまね
きうけて読経(どきやう)せさす僧来りて家を見れば
ことのほかにあれまとひてはか〳〵しき人も見え
ず斎(とき)なといとなみいづべきさまにもあらねば
僧も心ありて法事をいそぎてはやく立出
けるに簾(すだれ)のうちより女手づからきぬひとつと

まきゑの手箱とをさし出して布施(ふせ)としけり
僧これをうけて帰りて手ばこの内を見れば歌をかき
て入たりそのうたは
 玉くしげかけご【掛子】にちりもすへざりしふた
おやながらなき身とをしれ

【絵画 文字無し】

八 供(そなふる)_レ衣 ̄を貧(ひん)女
七月十五日はなき人のくる日とて人みな父母先 祖(そ)
のために仏を供養(くやう)すこれをたままつりと云ある
所のまづしき女まつらんとするに物なしたゞあや
のきぬひとつありそのうらをときすてゝ小が
めの内に入てはちす葉をうへにおほひみづから
たづさへて寺にゆきこれを仏にそなへうち
なきて帰りぬ見ればはちす葉の上に歌かき
つけたりそのうたは

 たてまつるはちすの上の露ばかりこれをあは
れとみよの仏に
   論
  おやの跡とふ事をわするゝ人はなけれとも
  家きはめてまづしければ心の外に過ゆく
  こともあるを此二人の貧女を見ればたゞ
  いま僧にほどこし仏にそなへしものゝ外
  更に物なかるべしあすをはからずして
  けふをいとなみ身をわすれて恩(おん)にむくへり

  ありがたき孝心にあらずやされば貧はめで
  たきもの也 汝(なんぢ)を玉にすとぞ先儒もいへる此
  人々もし富貴栄耀(ふつきゑよう)の家にあらましかば
  たとひ大なるまつりすとも心その心に
  あらでおや先祖の霊(れう)もうけよろこぶまじ
  く又たれありていひつたへて今の世まで
  に人を感ぜむ貧をうれふる人これをお
  もへ

【絵画 文字無し】

九 南 ̄み築紫(づくしか)女
承保(せうほう)のころにやつくしに何がしとかやいひてとみさかへ
たる民(たみ)ありけりある時ふと世の常(つね)なさをおもひ
とり家をすてゝひそかにのがれまづ京のかたへ
と行けるをあひしれる人の見つけて其家に
つげゝれば家こぞりて追ゆきける程にやがて
をひつきぬむすめひとりあり父がたもとをとり
てあらかなしいづこへとてかゆかせ給ふたゞとゞ
まらせ給へといへば父たもとを引さけてわが志

汝がためにさまたげられんやといひて刀(かたな)をぬきて
みづからもとゞりきりてさりぬむすめ立わかるゝ
に忍ひず父が跡をしたひつゝゆくに父は紀(き)の国の
高野(かうや)の山に入て僧となりてなにがしの院に
おこなひすましてゐたり人みな南つくし上人と
よべりむすめなれぬる国をもわすれとみ
さかへたる家をもすてゝひたすら父をのみ
したひ来けるがかの山は女をいめばおなし庵に
はえすまでふもとにありて尼(あま)となりて父が

事をつとめけるとそ
   論
  ある人とふ父子の愛は天性なりともに断(たち)
  がたししかるにむすめはかばかりしたひて
  父のいがて【「いかで」とあるところか】なさけなかりしいはく父子の
  愛は天性なりむすめはその性にしたがへり父
  は利心のためにおほはる利心とは何ぞいはく
  わが死後にくるしみあらむ事をおそれ
  てつとめてその安 樂(らく)をもとむることいきて

  富貴をむさぼるかごとしこれをもとむるが
  はなはだしきにいたりては妻子はいふにや及ぶ
  父母をすて君をもわすれてたゞ仏にのみ
  へつらひつかへ戒(かい)などうけたもちてはひとつ
  の虫をも愛してそこなはずあやまりて
  そこなふ事あればふかくいたみかなしめり
  彼すてられたる父母のよるかたもなきは飢(うへ)
  て死するもなとかなからむ父母の飢て死する
  はかへりも見でひとつの虫のそこなはるゝを

  身にしめてかなしと思ふさかさま事にあら
  ずやみなこれをのが身ひとつの安楽をえ
  むがために父も君も目にだに見えず是いは
  ゆる利心なり利は義と対(たい)すその心義
  なきを見るべしいはく義あらばいかゞ心う
  べきいはくたとへばたゞいま牛頭馬頭(ごづめづ)の
  鬼(おに)が火の車引来て君父をすてゝ仏を
  たのめさらずはこの車にのせ行て億劫(をくこう)【長い時間】
  があいだせむべしと云ともしばらくも

  君父をすてゝ身の安楽をばもとめじ是
  義なり君父をえすてざりしがために
  火の車にのりたらば火のくるまいかば
  かり涼(すゝ)しからむ

【絵画 文字無し】

十 舞女微妙(ふじよみめう)
微妙は京の名をえし舞(まひ)ひめ也後にゆきて
かまくらにあり将軍 頼(より)家その舞を比企(ひき)の判官能(はんくはんよし)
員(かず)か館(たち)に見て大によろこべり能員いはく此
女とをく京よりくだる心にねがひなからめ
やと将軍みづからかれが願(ねが)ひをとはる微妙な
きていひやらず将軍しば〳〵問給ひてのち
なみだをおさへていひ出けるはわらはが父右兵
衛尉 為成(ためなり)人に讒(ざん)せられて罪にしづみ終に

みちの国にをはれ侍る母はそのかなしみにたへず
してみまかりぬわらは年わづかに七したしきものひと
りもなしたゞ影のかたちにそふのみなれば明くれ
たゞ父をしたひなげくといへどおとづれすべき
やうもあらずさらば舞まふ事をまなびて
人になれより侍らば父がつてきく道もや
あると思ひより侍しよりかゝる身とはなり
侍りぬねがふ所外になしたゞ父がゆくゑのきか
まほしさにといひもはてず又なみだにぞむせ

かへりけるこゝらありける人々もみな心をいこま【射こま】し
めけり将軍はやく使を奥州(おふしう)につかはして微妙
が父をもとめらる二位の尼君かれが孝を感した
まひていといたうあはれめり後はつかばかり
にやかの使かへりていはく微妙が父為成奥州に
死せりと微妙きゝもあへずなきしづみ給入て
久しくしていきいでけるがやかて寿福(じゆふく)寺に行
てかざりおろして名を持蓮(ぢれん)とぞあらため
ける二位のあま君いよ〳〵あはれみて家をふか

沢(さは)の里にたまふて仏につかへしめ給ひにけり
   論
  ある人いはく微妙孝なりといへとそのわざ
  身をはづかしむるにあらずやいはく跡(あと)は
  誠にしかり其心いかむと見よ心と跡と
  ふたつなしといへど花のもとにねむれ
  る猫(ねこ)はこゝろ胡蝶(こてふ)にありて花にあるに
  あらずかれ父死せりと聞てすみやかに
  尼となりてあひ見し古郡保忠(ふるこほりやすたゞ)ともそ

  れよりたえはてけるを見るに何事も
  たゞ父を見んためのはかりことなるべし
  此あはれみすぐしかたくてこゝにはつらね
  侍る也しらびやうしとなるをゆるすには
  あらず

【絵画 文字無し】

十一 坂東(ばんどう)僧 ̄の女
あづまのある山寺に住持(ぢうじ)せる上人老て智徳(ちとく)あり
久しくやまひにいねて弟子(でし)ともあつかひ侘
ける比をんなのげしうはあらぬがふと入来て
上人久しくやみ給へるとなんうけ給るもし女
にて御寺にある事をゆるし給はゞ御かたはら
に侍りてつかへ奉りたくこそといへば弟子ども
をのがつかれやすめむとみなよろこぼひてゆ
るしにけり此をんな心をくだき身をつくして

上人の病をいたはることいひやらんかたなしいか
なる人にておはしますぞととへど道にまよひ
きたれり人にしられまいらすべきほどの
ものにも侍らずとのみいへりある時上人女に
いへるは我久しくやみてしにもやらねば仏法
世法の恩(をん)ふかき弟子だにもおほやううち捨て
侍るをかくねんころに物し給ふ事しかるべき
前世(ぜんぜ)のちきりにこそと有がたくおもひたまへ
られ侍るにいたくかくさせたまふことのいぶせ

さ【胸のふさがる思い】よそも〳〵いかなる人にておはしますぞと
あながちにとはれければ女うちなきて今は
申侍らむ上人わかくおはしましゝ比おもほし
かけぬ縁(えん)にあはせ給ひて何がし氏の女人を
御らんじけることのありしとなん何がし氏われ
をむめり上人はかくともしらせたまふまじ
きを母なん汝(なんぢ)はかゝる事ぞとつげしらせて
侍ればすこしおとなびてより後は心のしたふ
まゝにあはれいかにもしてかくとしらせ奉り

見もし見えまいらせずやと年ごろ心にかけて
わするゝ時もなかりつれどかゝる御身にはゞかり
ありてむなしく月日をすぐし侍しに此ころ例(れい)
ならずわづらはせ給ひめしつかひの人もおほから
ずなどつたへうけたまはりて心も身にそひ侍
べらねばをしておもひたちてまいりて候といへ
ば上人も泪おとして思ひのほかなる孝養(けうやう)をこそ
うけ侍れとて浅からずぞよろこびける女は猶
つとめてやまず上人をはりとれるまて心の

かぎりつかへけるとそ
   論
  をよそ父母の子をあはれめる余所(よそ)より見
  ては軽重(きやうじう)なからずその子はかりにも軽重
  に目をかくへからずたゞ子はまさに父母に孝
  すべしとのみしりて力をきはめてつかふまつ
  るべしもし父母の恩の軽重を見てをのが
  孝に斟酌(しんしやく)をなさば是ものをうりかふ人の心
  にしてまたく父子のおもひにはあらず尤いやし

  むべし此あづまの女恩は云にや及ぶをのれむ
  まれて世にありともしられざりつる父を
  こひてけうとき【気疎き】山寺にたづね入あらぬまじ
  はりに月日ををくり身をくるしめて孝を
  つくせり誠にありがたき志なりかしかの
  恩の軽重を見て孝に斟酌するともがら
  あらば此人に恥(はぢ)ざらめや

【絵画 文字無し】

 今世
一 大炊頭好房(おほゐのかみよしふさ)
弘文(こうぶん)院の学士此人の行状つくれりその中にて孝
にあづかるべき事どもぬきいでゝ本書にしる
せるを見れば好房姓は源氏 参河(みかは)の国松平家の
一 流朝散(りうてうさん)大夫殿中 監(かん)忠 房(ふさ)の嫡(ちやく)子なり江戸にむま
れひとゝなれりいとけなきよりさとくさがし
く孝の心いとふかし出る時はかならず申しかへ
れば又かならずまみゆ常に父母のまします

かたへあしをのべずめづらかなるものを人にえて
は必まづ父母にたてまつり父母物をたまへば
つゝしみてうけ愛してうしなはず父母文をた
まふ事あればいたゞきてひらきよみ又いたゞきて
おさむ父母のおほせひとつとしてそむかずめし
つかひの人と物いひてそのことば父母の事におよへ
ばふすといへども必をきてたゞしく坐して
これをきけりあるひは母のかたはらにはべり
てさざやか【細やか】なるやゐば針錐(はりきり)のたぐひあるをみては

必てづからとりおさむあやまりて母のこれにふれたま
はん事をおそれて也以上はみないとけなくての孝
のさまなりやゝおとなびてこと所にうつろひすま
れし後はあしたにかへりみゆふべにしつめてひ
とひもおこたらず月花の折おかしければ父母を
わが方におはしまさせて心のかぎりなぐさめ
まいらせみづからも興(けう)に入ぬ父母病あれば其かたは【この頁の左下部、紙が斜めに欠損していて読めず】
はなれず薬かならずまづなめ粥(かゆ)かならず【以下欠損】
見てなんすゝめらる父母うれへにあ【以下欠損】

をつくしてなぐさめさとし其かなしみをゆるべられ
けり年すでに十五のほどよりはをごりをにくみ
倹約(けんやく)をまもることをしりていさゝかもその志をはふら
さず父その封邑(ほうゆう)【封ぜられた領地】におはして江戸にあられざる程は留守
のことよくつとめて母につかへていよ〳〵つゝしめり
いさむ【諫む】べき事あれば声をやはらげてつぶさに
申し母の心にかなはずとしればみづからかへりみみつから
くゐて心をつくさずといふ事なしそのよろこへる
色を見ざればしりぞかずいとまある日はまこ

としきふみよみならひ又わが国の草子どもこの
みてよみて其中にて忠孝のせちなる跡(あと)に
あへばふかく心に感し面にもあらはれけりよ
ろづにかくいみじかりけれどむまれながらに
病おほかりければ常にみづから父母のうれへ
をなさん事をおそれて身をふかくつゝしまれ
けるが終にはをもくわづらひてあやうし父母ゆ
きて見給ふことにくるしさたふべくもあらねど
しゐてをきゐてま見え病いかにととひ給へば

やすしとのみぞこたへられけるかなしきかな
いたましきかな寛文九年それの月それの日世
のはかなくつねなきならひにむかしかたりと
なしはてにけりあはれと云もおろかならずや年
ははたちにひとつををなんあませり学士のつく
れるふみのすゑにもし孝子伝あむ事あらば
此人もらすべからずとあればむべこそ本書に
はとりてげれ
   論

  ある人とふ孝子大ていいやしきが中にはえやす
  くてたかき家にえがたきは何ぞやいはく人
  富貴なれば従者(じうざ)おほく用事たるされば
  父も子にもとめなく子も父になれつかふる
  に及ばずたゞ父子の礼儀をつくしめるのみな
  れば礼儀かちて愛たらず愛たらされは
  したしからずよりて孝子すくなきかいやしき
  はこれにことなり父子相たすけされば
  ひとひもたゝずあしき子はいふべきなしおほ

  やうはしたしめり孝子おほきいはれなり
  いはくしからば好房のしたしかりしはいかん
  いはく愛たればなるべしいかにすれば愛たる
  やいはく誠のいたれば歟

【絵画 文字無し】

二 今 泉(いづみ)村孝子
孝子は中村氏にして五郎右衛門となんよばる駿河(するが)の
国 冨士(ふじ)郡今泉村に世をかさねたる民也よく
父母につかへてそのよろこひをえたり父母を
愛する心ををして其里人にをよぼして里人
みなよろこべり父老てやみければよろづの事
心にいれずたゞその病をのみうれへさま〳〵に
あつかひきこえてすでに身まかりにければいた
みかなしめる事いたりてふかく父が住ける

屋にこもり居てをのが方へは帰ることなく人を
も見ずしてぞありける母やみてしにける時も
又しかりしば〳〵仏事をなしてたからをおし
まずあるひは里人のきはめてまづしきをにぎ
はしあるひはよるべなきものゝうへこゞへをすくへ
りみなうせし父母が後世(ごせ)の安楽をいのりてなり
世の人つたへていふ冨士のいたゞきにのぼりいたれば
現当(げんとう)【現世と来世】二世の利益(りやく)ありとこれによりて年〳〵夏
の日をまちてのぼる人おほかり此孝子のぼらん

とては必まづ父母の霊(れう)につげてふたつの位牌(いはい)をよ
くしたゝめてみづから負(おひ)てぞ出行ける是も又
その冥福(みやうふく)をたすけむがためならし従者(じうざ)かはりて
後位牌を負て道のつかれやすめんとすれどしば
らくも身をはなさず孝状おほやうかくのごとし
天和みづのえいぬの春事あづまの都にもれて
台聴(たいてう)【「てい」と見えるが「てう」とあるところ】をうごかしたてまつりめされてまいりて
いともかしこき 鈞命(ぎんめい)をうけたまはりぬ
御教(みげう)書ありひだりのごとし

駿河国冨士郡今泉村五郎右衛門父母に孝をつ
くし行跡よろしく村中のたすけをなすのよし
国 廻(まはり)のともから是を演説(ゑんぜつ)す是に依て其作り
来る所の田畑九十石の事【「㕝」は「事」の古字】永代五郎右衛門に下し
授(さづく)る条 収(しゆ)納すべきもの也
   論
  ひそかにおもひみるに天の孝子にさいはひし
  給ふばかりあきらけき事はあらじかゝる
  下ざまのひとのしわざ

 上(かみ)の御こゝろをうごかし奉りあつき御めぐみをうけ
  て其名をあめが下にひびかすこれ人のちから
  のよくする所ならめや詩にいへらく孝なら
  ざる事あることなくしてみづからこのさい
  はひをもとむと誠なるかな

【絵画 文字無し】

三 雲(うん)州 伊達(だて)氏
寛永のはじめつかた出雲(いづも)の国松江に伊達治左衛門と
いふ人ありけり物よくかきて国のかみ堀尾氏のため
に筆をとれり二親家にあり心をつくしてこれに
つかふその禄(ろく)うすしといへど父母にすゝむる物はほど
に過てゆたか也あしたゆふべ必みづからその
あぢはひをとゝのへけり従者(じうざ)はをのがこゝろを
つくすにをよばしとおもへばなりつかへのいとま
ありける日はさらにあざらけき魚など求(もとめ)て

父母につげてけふは幸に此物を人にえたりいかゞ
調(てう)しはべらんといへば父はいはくあぶりものとせよ
母はいはくあつものにつくれこのむ所つねにこと
なりかれそのこのみのごとくにしてをの〳〵す
すめけりならひてつねとす父母あるひはをのが
すむ方に来りあそばんといへばまづ飲(いん)食を
あつくまふけて父のまへに来りわが力のこは
きほどこゝろみさせたまへといひてかき負(おひ)て
出ぬ母にも又しかすかく力こはく年もさかり

なるおのこなれど二親につかふるすがたありさ
まはまだ世をしらぬ女子のごとし父母かれをつかふ
に心なき事つねに下部(しもべ)をつかふにをなじ身を
をふるまでしかり堀尾公これらの孝行をきゝ
給ひてふかく感じてしば〳〵よき飲食をもて
後父母にたまひしとなん人みないへり国に孝子
なきにあらずたゞ伊達なしと
   論
  人の二親につかふる愛かてばうやまひたらずうや

  まひかてば愛たらず愛かちてなるゝはうるさし
  うやまひかちてうときはすさまじ愛かつに
  似てかたずうやまひたゝざるに似てたれるは
  此伊達氏ならんかしまことに孝子といひつへし
  ことにしがたかるべきは父母をのれをつかふに
  心なき事しもべをつかふにひとしかりしと
  云にぞありける

【絵画 文字無し】

四 中江 惟命(これなが)
中江与右衛門惟命はあふみの国高島の郡小川といふ
所の人なりけりはやうよりふみよむ事をこ
のみて終に王氏の学を世におこせり母あり
是に孝なり一とせ加藤氏に伊予の国大 洲(ず)の城
につかへて母をその所にむかへやしなはんとせり
母のいはく婦人はさかいを越ずとこそきけね
がはくは是をまもらむと惟命さかはずすなはち
つかへをやめて国にかへらんとこへり加藤氏その

ざえをおしみてゆるされず惟命うちなげきて
われ不孝なりといへど禄(ろく)のためにつなかれて母
に定省(ていせい)【親孝行】をかゝめやいひて文かき置てひそかに
のがれ小川にかくれ住て母のよろこびをえたり時
に年二十八寛永それの年月なりとそ
   論
  ある人とふ中江氏その門下にをしへていはく自(じ)
  己(こ)の徳 性(せい)すなはちこれ父母の天 真(しん)【生まれつきの本性】なりさ
  ればわが性をやしなふは親をやしなふ

  いはれなり孝これより大なるなしちかくなれ
  つかふまつるとしからざるとにかゝはる事なかれ
  とこの語意(ごい)母のために禄をいなみて【拒否して】帰りやし
  なはれけると相そむけるがごとしいかんいはく
  此人けだしおもへらく性をやしなひ親をやし
  なふ二あるにあらずよく性をやしなふ人いか
  て親にうすからんとされば此人は誠にこれ
  をふたつにせず身と言(ことば)とそむくに似て実
  はそむかじ是をまねぶ人にいたりては思ひ

  たがへてかの浮屠が恩をすてゝ性を見む事を
  もとむる方にながれ入らんがおそろしきなり
  いはく其をしへの流(ながれ)さるおそろしきわざあら
  ばいかで此ふみに此人をとれるやいはく世の儒者
  口には一日のやしなひ三公にかへずとときて身は遠つ
  国にあそび冨(とみ)をもとむるに心のいとまなくて
  帰りやしなふことは忘はつるもおほかりこれを
  もて中江氏を見れば孝子なる事うたがひ
  なしすでに是孝子也いかで此ふみにとらざらむ

【絵画 文字無し】

五 川井 正直(まさなを)
正直は洛陽二条の室町に住て布袋屋与左衛門と
よばる物をあきなふて家とめりわかくして身の
をこなひよからず年五十にちかづきて物まなびに
こゝろざし小学といふふみよみてはじめて孝道
の人にをいていたりてをもきことをしりて過こし
かたのやしなひのうすかりしことをくゐなげき身を
つゝしみ用をはぶきてもはらちゝ母のたのしみを
なんもとめける正直わかきより酒にふける父母是

をうれふこゝにいたりてのまずをよそをのがすき
好みて父母にいまれし事ともこと〳〵くやめて二たひ
なさず父母大によろこべり正保ひのとの亥の春父病に
ふしぬ正直かたはらをはなれずひるよる力をつくし
薬も粥(かゆ)もをのれこれをすゝめずと云ことなくおき
ねたち居もをのれこれをたすけずと云ことなしあつ
き日寒きあした雨に風にしはらくもをこたらず
心のかぎりあつかひきこえけれどいたく老ぬる身に
病もあつしう成行ければつちのとの丑のむつきの

それの日父つゐに身まかりぬ正直なべてならざる【普通ではない】
なけきに物をだにくはず家の内の事みな妻と子と
にまかせきこえてをのれはかくろへ【隠ろへ=人目を避ける】たる所にたゞ
ひとりこもり居つゝ父が霊(れい)位に物そなふるをのみ
ぞ事とはしけるゆきて母にま見ゆるならで其
所をでることなしかくて十月あまりこゝの月をへて
母またやみてうせぬ正直かなしみ父にひとしく身の
やせくろめる事更にくはへぬ是よりして又三年の
喪をとりける程に前とあはせて四とせはかりぞこ

もりゐにけるそのあいだふかくいためるいろ
つゐに面(おもて)をさらず人みなあはれと見けりはじめ
父うせける時父の友あつまりつどひて火 葬(さう)に
せんとはかる正直ひとより儒礼をたうとみけれ
ばふかくこの事をうれへてよるひそかにひつき
をかきて黒谷といふ山の奥に入て手づから埋(うづみ)て
そ帰りにける母をはふむれるも又おなし喪礼かくて
時のならはしにしたがはざる事をそしりにくめ
る人もおほかりけれど正直それを心とせず終に

ほいのことくしけり後に商(しやう)家をいとひ京をしりぞ
きてかの黒谷の山のふもとに田つくりてぞ居
ける時に年むそぢにこえけれど父母をしたへる
心ます〳〵せちなり常に我とひとしき友にいへる
はわが物まなび他のおもひなし父母のこさ
れしわが体なればよろづにたゞいさゝかもこの
身をけがしはづかしめじとつとむるのみなりされ
ば大なるあやまちなしとぞ又いはく人のよし
あししることはかたしされど其人の父母を愛する

と愛せざるとをもて見侍ればおほやうはたがはす
と又人の子や弟来りま見ゆる事あればかな
らず孝梯の道をかたるにきく人心を動かさ
ずと云事なし人と対してその物がたりわが考(ちゝ)
妣(はゝ)の事にをよべばかならず泪おとしにけり延宝
五年の春の末より正直こゝちわづらはしくて
はつ秋風のおとづるゝ程しばしをこたりにけれ
ば是をよろこべる色ふかし人ありとふていはく
翁(おきな)のやまひまたくいゆるにもあらずなどかばかり

はよろこべるや正直こたふ此月のそれの日はわが
母の忌日なりおもはずにながらへゐて此日にあふ
ことをよろこぶになん命のびん事をおもふには
あらずとかれその身ををふるまでに父母をした
ひてやまさる事これらを見てしりぬべしおなじ
年の冬をはりぬ年七十七子なる正俊(まさとし)に遺言(ゆいごん)し
て黒谷にしてその父母の墓ちかき所にぞはふ
むられける
   論

  後鳥羽院の御時左衛門尉藤原 ̄の朝綱(ともつな)といふ人
  ありていはく二親なしといへどわが身すな
  はち遺体(いてい)にて一言一行こと〳〵くこれ父母の
  言行なればわがこゝろにまかせてする
  事なしとなんこの事やまと論語と
  いふふみに見え侍る正直が父母ののこし
  をかれしわが身よろづにたゞいさゝかも
  けがしはづかしめじなどいひしと符合(ふがう)
  しけるを見れば朝綱も又そのかみのやん

  ことなき孝子なるべし今その跡つぶさに
  しるし置たる文見侍らねば此書には
  つらねずしばらく此 詞(ことば)をこゝにつけてしれ
  る人をまたんとすとそ

【絵画 文字無し】

六 絵(ゑ)屋
寛永の比にや京都小川の町出水といふわたりに
一人あり衣裳(いしやう)に絵かくるをわざとしければ絵屋
勘兵衛とぞいひける老たる父をやしなふて
孝なり父酒をこのむ絵屋夫婦しば〳〵買(かい)てす
すむしかれども父その家のまづしきをしりて
げればのめども心たのしまずあるひはのまず絵
屋これをうれへ夫婦ひそかにはかり年のくれ
ゆく程こがね入べき箱ひとつもとめいでゝ石かはら

を内に見てゝよくしたゝめ夫婦これをかきて父が
前に出てすぎし年まふけし物いつにもまして
侍れば債(おひめ)などみなつくのひ【償い】て是ほどがあまり
侍るこれを酒のあたひとなさばいきてまします
ほどはえもつくし給はじといへば父うちおどろ
きてよろご【ママ】ひにたへずそれよりこそおもふさま
に酒をばのみけれ老くちてしにけるまでに
まことにとめりとのみおもひけるほどにいさゝかうれ
ふる色なかりしとそ

   論
  人はかりにもそらごと【嘘】すべからずよろづの道
  是をいましめたりたゞし老たる父母の心をな
  ぐさめうれへをとゞめんとてはやむことをえずし
  てそらごとする時もあるべしそらごとせぬに
  ほこりて父母のうれへおそるべき事をも口に
  まかせていひちらすは人の子の心にはあらず
  絵屋がそらごとそれむへならすやそら
  ことによりて誠あらはる

【絵画 文字無し】

七 神田(かんだ)五郎作
明暦それの年江戸神田 鍛冶(かぢ)町の五郎兵衛と云
もの罪ありてとらはれにつき事をとはれてうきめ
見けりその子五郎作 官府にまいりて申す
わが父すでに老たりもしくるしみにたへずし
て死せば何事をか問給はんたゞ父にかへて
我をせめさせ給へしる事あらば申べしといへど
人々猶父をぞせめける五郎作天によばひ地
にたふれてなげきかなしみければ人皆涙

をぞもよほしけるその比まつりごととらせたまへる
阿部の前の豊後の太守これをあはれみ給ひて五郎
作をしばらく父にかへしめやがて又その罪の死にいたる
まじきほどをたゞしあきらめて父子ともに
ゆるし給ひけるとなん
   論
  しなんとしていくるも天なりいきんとして死ぬ
  るも天なり善悪の報応(ほうおう)こゝにあらはる善は
  孝より先なるはなし悪は不孝より大なるは

  なししかれば此人父にかはりて死なんとして
  いきたるこれたま〳〵しかるにはあらじ昔
  もろこしにしても宋(そう)の鮑寿孫(はうじゆそん)と云ものゝ父
  盗賊(とうそく)のためにころされんとせしに寿孫かはりて
  死なんとこひければ賊ともあはれがりて父子ともにゆ
  るしぬ衛(ゑい)州の陳顔(ちんがん)といひし人も父罪ありてせめ
  くるしめられけるを見てかなしみなげきてかはらん
  とこへばゆるしぬ孝の天を感じ人をうごかせる
  からもやまともかはる所なきを見るべし

【絵画 文字無し】

八 柴木村甚介
甚介は備中の国浅口のこほり柴木村と云ところ
の民なり母につかへてきはめて孝なり兄あり
といへど母それとをる事をよろこびず常に
甚介がもとにのみ居けり甚介心をつくしてやし
なふあさ夕のくひ物母いまだくはざればをのれも
くはずしゐてくはざるにはあらず母のくはざる程は
をのづから飢(うへ)をおぼえず母のくへるを見れば我
もくふべき心のいできてくふなり母いねんとすれ

ば甚介みづからむしろをのべて冬はあたゝかにし
夏はすゞしくせりいねていねいらざる程はをの
れもねむらずしゐてねむらさるにはあらすをの
づからねむたからず夜いたくふけ過るといへど
猶かたはらにありて物いひなぐさめいたむ所あれ
ばさすりかゆき所あればかくやゝあけほのゝ空
にもなれば必みづから茶をせんじ座をはらひて
母のをき出るをまつ家にしく物はみなわらむしろ
なりけれどたゞ母の居ける所のみ藺(い)のむしろを

しけり母むしろにつけば甚介その前にありて
すゝむもしりぞくもたつも居るもたゞ母の心のまゝ
なり事ありて府にいり市にゆけば必あざら
けき魚めづらかなるくだ物などかひもとめて帰
りてすなはち母にすゝむ母年やそぢにいたり
ぬれど其かほばせ六十の人のごとし人その故を
とへば母こたふ甚介われをやしなふてわか心のごと
くならざることなしやむごとなき人の母うへと
いふとも我心ばかりはよもたのしからじさればにや

形(かたち)もおとろへずとぞいふめる【「める」の左に小さな◦を傍記】甚介か父しにけるとき
甚介はらからに其田をわかちあたへたりこゝら
年へて後兄甚介にいひけるはわが田やせて汝が
田こゑたりさるゆへに我まつししばらくかへてつくり
なんと甚介すなはち兄が心にまかす然れども其
田おの〳〵かりおさむるにいたりては甚介がよね
兄がうる所よりもおほし里人みなおもへらく
これ孝と不孝とのしるしならんとある時甚介
胡麻(ごま)といふ物を畑(はたけ)にうふるに時すこしはやかり

ければ里人みなあやまてりとす後はをのれも
しか思へりうへし時はやかりつればおさむることも
又はやしすでにおさめていく程もなくて長雨ふ
りて水ひたゝけ【ひたひたと打ちつけること】一(ひと)里の胡麻こと〳〵くなかれちり
ぬれくちてたゝ甚介が家のみ胡麻にとめりまた
日てりて水かれあるひは風のため虫のために
ひと里の田おほやうそこなはるゝ時も隣(となり)をさかひて
甚介が田はさかへうるほへりすべてこれ孝徳の
まねきひく所とぞ人はみなほめたうとびける

れいの兄一とせみつきをかきて罪をえたりみづから
人に物かりて是をつくのはんとすれと人した
がはす甚介ふかくうれへて先をのがたくはへし
かきり出しつくしてそのたらざるがほどを人に
かりければ人みなよろこびて甚介に力をあはせ
ける程に兄やがて罪をまぬかれぬかゝる事ども
いはゞつきめや過し承応の比にや備前の府君(ふくん)
羽林次將(うりんじしやう)松平公是をきゝ給ひ備中の浅口もわがみ
ざうなりければ甚介をめしてたいめんたまはり母

に孝をつくせるのみならず兄にも悌(てい)なる事をくり
返しほめ給ひてかれがもとよりつくりきたれる
田はたけみなながら子むまごまでにその租税(そぜい)を
ぞゆるされけるある人柴木村の人にあひて甚介田
はたけたまはれりなんぢらうらやまずやといへば村の
人きゝもあへず甚介が孝まねぶへからずわれら
いかでうらやみ侍らむとなん云一さとの人のことば皆
同じ

【絵画 文字無し】

九 西(にし)六条院村孝 孫(そん)
西六条院村も又備中の国浅口郡にありそこなる民
ふたりの子もたり兄を惣十郎といひ弟を市助と
名づく兄弟はやく父をうしなひておほち【祖父(おおじ)】なる
おきなと田つくりて居たりけるが不幸にしておほぢ
耳(みゝ)つぶれ目しゐてあし手もかなひがたし兄弟
母あり母子三人みな此おほぢにつかへて孝なりおほ
ぢ茶をこのみ酒をすけり兄弟まつしといへと
しばらくもこれをかゝず農(のう)の事いとまあれば薪を

山にとりてひさきて茶酒の料(れう)とせりもし
料たらずして人にもとめかる【借る】事あれば人みな
おほぢがためにしてをのが身のためにあらざる
事をしりてこふにしたがひてかしけりあさ
夕のくひ物おほちにすゝむるはくはしく母子三人
がくへるはあらしおほぢ物くふごとに母 箸(はし)をとり
てくゝむ【口に含ませる】その目しゐ手しひれたるが故なりけが
れのうつはものも母と兄弟日ごとに是をとれり
その足なへてかはやにも行えざれば也冬の夜の

いたうさむきには兄弟かはる〳〵おほぢが跡に
ふしぬその足をあたゝめんがため也夏の夜のあつく
いぶせきにも兄弟かたはらにありていねすして
蚊(か)をはらへりはりぬべき帳なければ也よろづにかく
孝なりけれど母なをかれらがたゆまん【気持ちがゆるむこと】ことをおそ
れて折〳〵にをしへていはくおほぢの世におはし
まさん事今いくばくの日とかしるやなんぢらをこ
たることなかれいさゝかもをこたりなはおはしまさ
ざらむ世にくふともかひあらめやと兄弟つゝしみ

うけたまはりていよ〳〵孝行をそはげみけるおほぢ
母にいひけるはそこの孝徳まことにいひやらんかた
なし徳必むくひあり惣十郎市助が妻あらむ時
その妻そこに孝なる事必そこの我をあはれめる
がごとくなるべしとおほぢ惣十郎に妻もとめしむ
惣十郎うけ給りぬやかてこそむかへ侍らめといひて
もとめずおほぢのやみけがれたるさましたしから
ぬ人に見えむがつゝましければ也かくて日数ふる
まゝにおほぢのやまひ様(やう)かはりて物ぐるはしく

なりぬ此時しも市助は人につかへて外にありけり
家にはたゞ母と惣十郎とのみありてひるよるまぼり
居てうちもねず母子が心ぐるしさおもひやるべし
それより又二とせばかり過ておほぢをはりぬ母
と惣十郎となげきかなしみ衣をうりて葬祭(はふむりまつり)を
つとめいとなみけるとなん惣十郎が父の跡とふべき
月日此時しもめぐり来ぬされども家に物なければ心
にもまかせざりしをその年みのらずとて国主 倉(くら)を
ひらき給ひて国たみをにぎはされければ惣十郎其

よねをうけていさゝかもをのが用とはなさで父をと
ふらふわざになんつくしにけり市助も又外にあり
といへと物を送りて祭をたすけ母のやしなひ
に力をそへけりそのゝち惣十郎妻をむかへて
あひともに母につかへぬつねに妻にいひけるやう
はなんぢざえなきはわがとがむる所にあらず
もしわづかにも不孝ならばすみやかに出しやらん
われ此ことばをたがへじとなむよりて妻も
よくつゝしめりされと猶家の内の事ひとつと

して夫婦が心にまかせず事ごとに母にとひてその
云ところのまゝにす田はおほぢが病にまぎれて
久しく力もいれざりければ今年はことになり
はひもあしかるべくおもひ居けるにさはなくて
よくみのりて人の田にははるかにましたり是
天地神明の孝にめでさせ給ふ故とぞ人は
みな申あひける国主もふかく感じ給ふて母にも
子にも物たまひけり

【絵画文字無し】

十 横井(よこゐ)村孝 農(のう)
備前の国津高郡 横(よこ)井村といふ所にひとりの民
あり太郎左衛門とよべりその父母をやしなふて
よくおしみよくうやまへりかれ父と田にあり
てかれいゐ【飯】すゝめんとおもふときはまづ草葉の
露うちはらひおほく刈(かり)とりて土の高き所に
のべしき父を其うへにをらしめをのれは下に
ひざまづきゐてつゝしみていゐをすゝめ父のくひ
はてぬるを見ざればをのれはくはずならひて

是を常とす父がこの人を見るも礼儀なきに
あらずさればその家に有けるおとこ女すべて
これにならひてうや〳〵しからずと云ことなし
ひとさとの民みな是を見てわらふをのが父
母と居ていたうをこたれるにさまかはりたれ
はなりをよそ貧 賎(せん)のその親をやしなへるを
見るにいとおしみはふかきもあれどうやまひは
必たらずこの人誠にえがたし国主もあやし
とし給ひてあつく賞 賜(し)せられけるとそ

【絵画 文字無し】

十一 赤穂(あかほ)惣太夫
備前の国 岡(おか)山 紺(こう)屋町のこうかき【紺掻き=紺屋】何がし一とせ妻子
をゐて【率て】播磨(はりま)の国にうつり住て赤穂(あかほ)といふ所にて
死けりその子惣太夫母をやしなふて孝なり妻も
又よくつかふ母の云ところうけしたがはずといふことなし
母つねにいふ備前の岡山はわがふる郷なりねがはく
は汝(なんぢ)夫婦と帰りすまむと惣太夫うけたまはりぬと
て其いとなみし侍れど家きはめてまづしければ
かてをつゝむべきよすがもなくて心ならず過ゆく

ほどに母ふと旅のよそひしてけふなん岡山に帰ると
いひて出ければ惣太夫夫婦物もとりあへでぞした
がひゆきける母あしたゆげ【弛げ=だるそうなさま】なれば惣太夫おひぬ
ありく時は妻その手をひくくひ物たらざれば
夫婦(ふうふ)はくふまねのみしてくはずたゞ母にのみすゝめ
けりすでにして備前の内かぐと村といふ所につき
てかて絶(たえ)ぬ母も妻もいたうつかれにければすべき
やうあらであたり近き福岡村の実教(じつきやう)寺といふ
寺に入てくひ物こひけりあるじの僧かれがあり

さまを見て孝子なる事をしりてはやくその
飢(うへ)をすくひ寺のかたへにやどし置て朝夕の食をく
りやにうけしむ是によりて母子三人食物は
たり侍れどやゝ冬ふかく成ゆくまゝに母の衣の
うすきをかなしみよる〳〵【毎夜毎夜】は夫婦ひそかにをのが
衣をひとへづゝぬぎていねし母が身にくはへけり
これをきく人あはれがりてよね一たはらとら
せければいといたうよろこぼひて衣を買(かい)て母に
きせけり母うけずしていはくわが衣さいはひに

うすからずよめが衣やぶれてうすしはやく
是をきすべしとよめがいはくわれとしわかく
身すこやかなりさむくともやまひはせじしう
とめもし是をき給はずは必わづらひたまふべし
たゞはやくき給へと母なをきずしていへるやう
我はかく老おとろへぬ病もおそるゝにたらずしぬる
もおしまずたゞねがはくはなんち夫婦つゝがなか
らん事をいはんや我さむからずいかで此衣をかさ
ねんといひて手をだにふれずよめも猶ゆづりて

【銀杏の押し葉】

【銀杏の押し葉】

きざりければ此ころもいたづらにぞ有ける人又
これを聞てさらに衣ひとつを母にあたへければ
よめもはじめてさきの衣をきけりかゝる事
ども先だちて岡山にきこえければ府君ふかく
感し給ふてかれ夫婦をあはれめるのみならず
実教寺のあるしが慈悲ふかゝりしことをほめて
よねを寺によせられしとそ
   論
  国いつれか国ならざる民いつれか民ならざる

  たゞ備前の前代のみ孝子おほく忠臣義人も
  すくなからざるは何ぞやいはく国の先主少将
  の君いにしへを好みたまひ学 舎(しや)をたてゝ人
  ををしへらるよりてひじりの道をこりてこと
  なるはしやゝやみぬいはんやひとりも孝なる
  子悌なる弟ありといへば必それを讃歎して
  物たまはらずといふ事なし忠義の人を見るも
  又おなじさればそのいまだ孝ならずいまだ
  悌ならずいまだ忠義ならざるものも是に

  よりてはぢくゐてうつりあらたまらざ
  るはまれなりこれその人のおほきいはれ歟
  我幸に孝子がありさまこれかれ人に
  聞侍てこゝにつゞりつけ侍る柴木村より
  下四人と巻の末なる二女これなり外はすべ
  て後の人のえらびにゆづりきこゆるとぞ
  本論に見えたる

【絵画 文字無し】

十二 由良(ゆら)孝子
淡路(あはぢ)の国の由良といふ所に久左衛門といふ民あり
父を愛する事人に過たり出て田をたがへす
といへど父を思ふことあれば鋤(すき)をすてゝしばらく
帰り父を見て又ゆく人にやとはれつかへて外に
ありける日も俄に雨風あれておそろしげ
なればそのわざををへずしてはしりかへり父を
まもりなぐさめていでずいでざれば物をえず
出れば値つくといへど更にかへり見ずこれ父をま

もりなぐさめんとのみにもあらずをのが雨風に
をかされん事を父やうれへむとおそれて也けり
父出てをのがつくる田みんといへばすなはち父を
背(せなか)におひて行めぐり或はくろ【畔】におろし置て
その心をなぐさめけり後は父おとろへつかれて
出てもえ見ざりければいなぼつみとりてもち来
りて見せけるにもしをのがつくる田よからざれ
ば人の田にもとめてきはめてよきいなぼを
とりてぞみせける父をよろこばしめんとてなり

冬の夜ことさらに寒さおぼゆる時はよるか
暁(あかつき)ともいはずおきて衣(ころも)をもとめて行て父が
ふすまにくはふ父目さめてわがふすまうすから
ずむまご【孫】らがいねし衣にくはへてよといへばさも
こそし侍らめといひてしりぞきちごどもには
きせず父がねむりいれるを待て二たびもち行
てぞきせけるかれが父を愛せるさまおほやう
此たぐひなるべしその里人みなほめきこえければ
国の事あづかりきける稲(いな)田の何がしかれをめし

てなんぢか孝行のありさまかたれといへば人は
さもこう申侍れどわれ更に孝ならずとなん
こたふそのさまいさゝかこと葉つくる道しるべくも
あらずをのれまことに孝ならずと思ふなるべし
稲田又とふなんぢ父につかへて力をつくせりされど
なを心にあかぬ事ありやといはくわが母うせし
とき父いまだおとろへずわれのちの母もとめんとし
侍れど父ゆるさず終にやもお【妻のない男】にして老ぬよりて
今老をたすくる人にとぼし是なん常に心に

うらむる所に侍ると又とふなんぢ今日こゝに来
れる事父しれるやいはくよのつね家を出るに
は必そのことのまことをつげ侍れど今日はしからず
たゞ此わたりの市にあそぶとなん申つるといはく
いかでまことをばつげざりしいはくおほやけのめし【召し】
ありときかば此事なめりとしらざらむほとは心
もとなくおもひたまへ侍るべければわざとつげ申さ
ざりしとぞいへる稲田うちなげきてその孝心を
感じ物くはせろくかづけて由良にかへしけるとなん

   論
  孝はたゞ父母の志をやしなふをいたれりと
  す味をとゝのへあたゝかなるをきせてその
  体(たい)をやしなふ事をつとむとも心をやすむ
  る事なくは孝行にはあらざるべし由良の
  孝子いやしといへどその孝たゞ志をやしなふ
  にありたうとまざるべけんやある人のいはく
  かれ孝なることは誠に孝なり我その人を
  見しにをよそびとの中にも誠にしなくだり

  心くらし孝は人にをいていみじき徳性
  なりすでに孝なる人いかでかばかりは
  つたなきやいはく人の心あきらかなる筋(すぢ)
  ありくらき筋ありすべて明かなるはひじり
  なりおほやう明かなるはかしこき也ひとつ
  ふたつ明かなる筋あるを筋ごとにをし
  ひろむるはその次なり由良のおのこたゞ
  孝一すぢに明かにしてこと筋にをしひ
  ろむる事をしらずされば其孝はめでたし

  其人はつたなしいはくかれがこときもをし広
  むることをえんやいはくえぬべし烏獺(うたつ)もその
  あきらかなる一筋はあれど物なるか故に
  をすには及ばす人は物のおさにして郷(きやう)人より聖
  人にいたると云もをせばひろまるが故にあら
  ずやいはく何にたよりてかをすいはく学(がく)なり
  たかきいやしきよく学びてをしひろめえざるは
  あらじさればにやいにしへは王 宮(きう)国都より閭巷(りよこう)
  に及ぶまで学あらずと云ことなかりき

【絵画 文字無し】

十三 芦田為(あしだため)助 《割書:本書の此伝は弘文院|春斉翁つくれり》
丹波の国 天田(あまだ)郡 土師(はじ)村の孝子は芦田七左衛門為助
とそいひける家まつしけれどあつく父母をやし
なへり父母のいふ所したがはずと云ことなし寒き
夜父母いねむとすればまづをのがはだへ【皮膚の表面】をもて
其むしろをあたゝめて後父母をいねしめあるひ
は父母の足ををのがふところに入てあたゝむ
すでにしりぞきては又ゆきてやすくいぬるや
さらずやとうかゞひ見る事夜ごとに二たび三たび

にいたれり夏の日いたうあつきにはすゞしげ
なる木かげをえらびて床をかまへ父母をいざな
ひ行てひねもすその心をたのしめ暮ればともに
かへり枕をあふぎてぞふさしめける衣食たらず
といへどとかくいとなみて父母には常にあまり
あるやうにのみおもはせけり更にをのれがとぼし
きをしらしめず母いかづちをおそるよりてかみ
なる日にあへばことにそのかたはらをはなれず出て
外にありといへどもすみやかに帰りてうちそひ

居けり為助妻をまふく【設く…持つ】その妻又孝なり父母とも
に足なへて道ゆく事かなはずゆかんともとむる
かたあれば夫婦かならずいだきおふて出けり
万治三年の夏母みまかりぬ年八十寛文六年の春
父死す年八十三為助かなしみにたへずしたひてやま
ずをのか家ちかき所に葬(はふむ)り日ごとに墓にまふでぬ
かみなる声いさゝかも耳(みゝ)にいればかならず母の墓
に行てなみ泪おとしてまぼり居けりかゝる孝行ども
ちかき里〳〵にかくれなかりければやがて福智山

にきこえて城主(じやうしゆ)松平氏 忠房(たゞふさ)ふかくかれが孝志に
感じ物たふで褒賞(ほうしやう)し給ひぬ為助其たまはりし
物を兄それがしにあたへけり兄これをうけずはら
から相ゆづりてやまず終にその物をつゝみおさめ
て家のをもき宝(たから)とせり城主かさねてみつきを
ゆるしゑだち【役立ち=強制の労役や兵役】をのぞかれけるとなん論ありいはく
人のおこなひ孝より先なるはなしされば孝なれ
ばいやしきがいたりといへど人なり孝ならされ
ばいとやんごとなききはといへど人ならず舜(しゆん)の聖(ひじり)

なる曽(そう)子のかしこきみな孝にもとづき給はずや
孔子のたまふわがおこなひ孝経(けうきやう)にありと孝経
さいはひに家〳〵にありて人ことによめりよめ
とも孝ならされば鴉(からす)のなき蝉(せみ)のさはぐにこと
ならずしかるを此為助其やしなひやんごとなき
人にもまさりそのつかへ文よむともがらにも
こえたりたれか是をほめざらむ妻もよくした
がひ兄もゆづれり為助がよきにならへば也かれら
為助にならふだにその家みなよし国郡(くにこほり)しらせ

給ふ人もし身をもて先だちたまはゞいかばかりの
人かそのよきにならひてめでたからむしからざる
事のうたてさよそも〳〵いにしへは孝子あれば
下かならず上にまふし上それをあらはしたまふ
近き世はしからず今福智山の城主下のつぐるを
よろこびて芦田を賞ぜらるゝ事誠にこれすた
れたるをおこすのひとつのはしにあらずやこれ
を国〳〵につたへて人の子の志をすゝめまほしき
事にぞ有ける

【絵画 文字無し】

十四 安永(やすなか)安次 《割書:本書の此伝は林|春常丈つくれり》
肥前の国島原に加津佐村の津波見名といふ所あり
そこなる民久右衛門氏は安永名は安次とそいふ
なる父母につかへて孝なり父名は安平いまたいた
くは老ざれとも安次ふかくいたはりて常(つね)に身を
やすくのみあらしめてたゞをのればかりそ耕(かう)作
をばつとめける安平ある時安次が田作りていといたう
くるしめるを見て我いまだ力おとろへず折〳〵は
草をもとりて汝が手すこしやすめんといへば

安次をのれ更につかれ侍らずいかで今さらさる
事はしたまふべきといひて耕作の具(ぐ)手にも
とらせず年ごとにをのが田そこばくをわかちて
心をもちゐて作りなしてこれを父母がわたくしの
用にそなへけりをのれきはめてとぼしき事あれ
ども此父母か用にそなへしよねをば外のことには
露もちひず年みのらずして物なけれとも猶父
母にはゆたかなりとのみいひきこえけりあしたに
かへりみ夕にしづめ夜なかあかつきとなく安否(あんふ)を

とふ事つねにをこたらず雨の日など父母の住ける
所いと物さひしげなれば必をのが方にいざなひ来
て子むまこさしつどへて其つれ〳〵をそなぐ
さめける事ある時もつげざれば外にいでずかへ
ればまづ面を見せずと云ことなし市にあそぶ
事あればかならず食物のよきをもとめて帰り
てすゝむ人に物えたる時もまづ父母にすゝめて
あまらざればをのれは用ひず父母ともに仏
をたうとみてしば〳〵寺院にあそふ安次いとま

ある時にわらぐつおほくつくり置て父母が寺
院に行ごとに必そのふるきくつをすてゝあたら
しきをなんはかせけり心をもちゆるのせちなる
おほむね此たぐひなりかれか一 族(ぞく)ならびにその里
の人々此ありさまをしたひまねぶもおほかり事
つゐに太守にきこえければ物たふでその孝をほめ
戸租丁役(こそていゑき)みなゆるされけり太守とは誰を
かいふ島原の城主 尚舎奉御(しやうしやほうきよ)源の忠房也忠房
むかし丹波の国 福智(ふくち)山をおさめ給へるころ孝

子あり芦田(あした)為助がこときものなり今また安次
がともがらありこれ太守のその親にあつくし
てたみ仁におこれるものか

【絵画 文字無し】

十五 大矢(おほや)野 ̄の孝子 《割書:本書の此伝は人見|友元老つくれり》
肥後の国 天草(あまくさの)郡大矢野の今泉村と云ところに喜左衛門
となんいひてよく父母につかふる民あり妻も又しうと
しうとめに孝なりもとより家まづしきにちかごろ
しきりに年あれければをのれ夫婦はくふべき
物もなけれどちゝ母の食物のみはとかくしていとなみ
出ぬかのとの酉の年国又大きに飢饉(ききん)す喜左衛門
父母にこひて長尾といふ山にうつろひ住て薪(たきゝ)を
とりて人にひさきくづわらびをほりて食とすをなし

年の夏父やまひにふしてあざらけき魚(うほ)をねがへり
ふかき山の奥(おく)にしあればもとめ出べきやうあらて
いかゞすへきとおもひわつらひけるに妻ひそかに山をくだ
りて海のほとりをまよひありき人に釣竿(つりざほ)かりて
つりたれければやがて魚こそかゝりにけれ見れば
鯛(たい)と云うほのごとく【濁点の位置の誤記と思われる】にしてその色くろしよろこびて
是をもてかへり喜左衛門にとらせけり喜左衛門すなは
ちてうして【調じて=調理して】父にすゝむ父ねがひみてけりとゑみ
まげてそ悦びけるおのこだに手なれざれは釣え

がたきを女のあからさまにしづめしつりはりに
やがて此うほののぼり来けるも不 思議(しぎ)なりまことの
ふかきがいたすところ歟父つゐにみな月の廿日あ
まりにみまかりぬ喜左衛門妻とともになげきかなし
むこと浅からずしばしは物をだにくはざりけり
すでにはふむりて後はいはゐを家にまふけ朝な
ゆふな物をそなふる事いける日のごとし母は老の
のち目しゐたり喜左衛門夫婦これにつかへて殊に
つゝしめり母わがしたしきものゝ方にあそび或は

仏にまふでけるときは喜左衛門又は妻かならずおひ
てぞ行ける其道十四五町もありけりとなん此天草
のこほりと云も肥前の国の島原の城主松平氏かね
おさめ給へる所なればかの喜左衛門を島原にめし
て夫婦が孝をほめて白銀そこばくをぞたま
はりける喜左衛門家に帰りてしたしきものどもを
あつめてともに此たまものをいただきこれを
うくるも又父の故にしあればいさゝかも他の事に
用ひば誠に罪ふかゝるべしたゝ父の跡とふ料(れう)と

のみこそなし侍らめといへば人いよ〳〵感しあへり
   論
  右三の伝ひとつの論は二林人見三名 儒(じゆ)の筆作
  なれば此ふみの本書つくりし伊 蒿(かう)子とかや
  その文字ひとつをもたがへずしてうつしのせ
  侍けるを我今かんなにかへんとするに筆つた
  なければをのづから本文にたがふ方やおほからん
  其 事実(じじつ)もまたいさゝかはぶけり罪まことに
  恐るべし伊蒿子又三伝をすべて論ずること

  ばあり是ももらしがたければそのおほむねを
  こゝにあらはすむかし揚雄(やうゆう)かの法言【書名。儒教の書】つくりし
  とき蜀(しよく)の国のとめる人あし十万をおくりて
  名を法言にのせられん事を求(もと)む揚雄ゆるさ
  ずしていはく冨(とみ)て仁義なきはおりの中のけも
  のゝごとしいかでしるしはのすべきとなん今此
  為助安次大矢野の人はみなきはめてまづし
  くいやしければ一銭をもをくる事をうべからず
  しかるを時の名家のためにかくいみじき伝(でん)

  つくられ孝の名をながき世につたふかの蜀の
  とめる人とそのめいぼく【面目】いつれぞやたゞに
  富貴をのみしたひて仁義忠孝のおこなひ
  なき人いかで是をおもはざる城主尚舎君
  しきりに孝子をあらはし給ふがたうとむ
  べき事は三儒の筆につぶさなれば
  われら又何をかのべむ

【絵画 文字無し】

十六 中原休白(なかはらきうはく)
休白は筑前の国 遠賀(をんか)郡中原といふ所の人なりみづ
からその姓氏をあらはさずたゞ中原の何かしとなん
よばる中原にはうらかたを業(わざ)とする人おほし
休白も其ひとりにしてかねて農耕(のうかう)をそつとめ
ける人からいとまめ〳〵し里人みなつゝしみした
がへり父につかへて孝なり父もまたせちに
休白を愛す休白いとけなかりしよりはじめの
老の坂(さか)うちこえていそぢのなみのよせくるまでに

しばしが程も父とすみかをことにせずえさらぬ事
ありて外に出るはさらなり家にだにあれば
つねにかたはらにのみ打そひて事ごとにした
がひつかへけりそのさまさながらうなひ子の母にむつ
るゝがごとし夜のほどゝいへどしば〳〵をきて
父がふしどにいり耳をかたふけていきのとき【疾き】
ゆるきを聞ていぬる事のやすきくるしきをうか
がひ父目さむればさむさあつさうへかはきをとふ
てつゝしみて其心のごとくにしてしりぞくあるひは

又父外にいでゝあそばんといへば野にもあれ山にも
あれ必したがひ行て相たのしみて日ををへ身の
いとなみのかくるをしらずある年のさ月の事にや
休白けふは田をうふべしとて朝とくをき出人あ
またやとひもてきて時をきざみていそぎける
に父その日しも豊前の国の小倉(こくら)といふ所に行て
あそばんと思ひ立て休白にいへるは我よのつね
出てあそべば汝(なんぢ)かならずしたがひきたるけふは田の
事かくのごとくなれば汝したがひきたるべからず

小倉道ちかしやがてこそ帰らめとて出ぬ休白手
にある物をすてゝ足かきあらひ父に追つきつゝ
をのれ家にあらねども田の事さまたげるき
よしをつぶさにのべてうちしたがひゆけるさま
露もかへりみおもふ所なきがごとし見る人みな
感嘆(かんだん)しけり休白つねにおもへらくをよそ事をの
が身に利あらむとて父の志にたがはゞ悪(あく)いづれか
是より大ならんと又いへらく父の志にしたがひ
父のよろこびをうるわがたのしみ是よりふかきは

なしとその孝心はかり見るべし父いたく老てしぬ
べくなりぬ休白ちからをつくしてそのことぶきをもと
めけれど終にかひなかりければなげきかなし
める事いたりてふかく一さとの人の心をいたまし
めけるとなん
   論
  うらかたをわざとするものは人みなこれを
  いやしむわざはいやしむべきにあらねと
  その人おほやう誠すくなくて人をあざむく

  事おほければなり休白はしからず父に孝
  なる事かく誠ふかゝりければうらもて他
  人をあざむくことも必なかるべしおもひみる
  に此人一生のおもひたゝ父を愛(あひ)するにあり
  さればその孝 始(はしめ)もなく終(をはり)もなし世のおさなく
  てはひたすら父母をしたひすこしおとなび
  ぬれば色などに心をよせて父母には日ゝにう
  とくなる人休白にはづる事をしれや

【絵画 文字無し】

十七 鍛匠(たんしやう)孫次郎
孫次郎は肥後の国山 鹿(が)の郡 湯(ゆ)町の鍛工(かぢ)なりわざ
つたなくしてうられず家きはめてまづしよはひ
五十にいたれどもいまだめとる事をえず父は
はやく死して母とをれり孝心ことにふかしわが
身には常にまたき衣だになくて母のやしなひは
ほどに過てあつし母酒をこのめりわづかにもあし
あれば必かひてすゝむ酒うる家かれが孝ふかきに
感じて酒をあたへてあしをとゞめざればかれよろ

こびずしていはくかくのごとくなれはそこに我母
に酒をすゝめらるゝ也わかすゝむるにはあらずねが
はくはわが酒をこそすゝめまほしけれとてさり
てこと所にかひけり酒うる家〳〵後はかれが志を
しりてあしはかへさゞれどもあたひをはぶきてぞ
うりける一さとの人つどひあつまりて物くひ酒のむ
事あれば孫次郎もゆきてまじはりけるによき
酒さかなあればをのれは用ひずしてたづさえかへ
りてかならす母にすゝむ後は人々これをあは

れみて母にすゝむべきをばさらにあたへけり里に
出湯(いでゆ)あり母これにゆあぶることをこのみ又しげく仏
寺にまふでんことをねがふされどやそちの後のおひ
人にて道ゆく事かなはざれはかれ日ゝにいだき
おひてぞ行けるある時母かれにいへらく汝(なんぢ)とし
五十わかきにもあらずわれにつかへてかくくるしめり
わが心にをいてやすからすと孫次郎こたへて
いはくわが身もとよりこはく力も人にすぎ侍る
又道ゆく事をこのめり今母とともにゆく何のたの

しみか是にまさり侍らん我常にやんことなき
人の出給ふを見るに輿(こし)あり馬ありわが母まづし
くしてこれなし幸にひとりのおのこ持たまへりこは
き事馬にもましぬわが母これにのれり更に何をか
うらやみ給はんといひてせなかさしむけておひぬおひ
て家を出るにいたりてかへりみて母にたはふれて
いはくこの馬のときをそきたゞ母の心のごとくなら
むとすでにしてはしりすゝみあるひはとゞまり
てやすらひ足(あし)をはねかうべをふりてまことの馬の

いきほひをなす母大にわらふ里人の是をみるもの
先わらひて後はみなうちなげきてその孝心をぞ
ほめける母すでに出湯にいればをのが身にて母の
衣をあたゝめてまち夏はその身をあふぎて涼
しむ寺にゆきても又ひとへに母の心のごとくせり
冬れいよりも寒しと思ふ夜はをのがよるの衣を
ぬぎて母のふすまにくはへをのれはやをらすべり
いでゝ身を出湯にうちひてゝ【浸して】その夜のさむさを
ふせぎやゝ明がたにぞ家には帰りける母やまひ

にふしぬかれ身ををくに所なげなり母のくふべき
ほどの物ちからをきはめていとなみそなへ母の衣
けがれぬれば皆みづからすゝぎてきよくすすで
にみまかりければなく〳〵ちかき野べにをくりはふ
むり事をはりぬれどとみには帰りもやらず終に
かへりて家にありといへど猶日ごとに行てなげき
かなしみけりことにあはれふかゝりしはいはふべき
日にあへばまづ母が墓にゆきて泪をしのごひ【押拭う】
ていくとせか此日を家にむかへていゐはあはけれど

母とともにあき【満足し】酒はうすけれど母とともにゑひた
ればわが心あかぬ事やはありし今母を捨てこの
野にありたとひ郡司(ぐんじ)のとみをうるとも又はた我
何にかせんやあゝわが母いかで帰りきたらざる
やといひてなきまどへるさまたとへむ物なし是
を見る里人なみだをおとさざるはまれなり寛文
のはじめつかた国主 細(ほそ)川公つぶさにかれがありさま
を聞給ひてろくをもくたふで国府にうつろひ
すましめ給ふとなん云

   論
  いにしへにいはく五十はじめておとろふとあがり
  ての世すでにしかりいはんや今の人をや孫次郎
  はしめておとろふるの後にして日ごとに母をお
  ひて行めぐれりいとたへがたからざらめやたゞ母
  のをのれをいたはらむ事をおそれてみづから
  身のこはきにほこり心にもあらぬたはふれ事
  して母の心をやすめなぐさめ母の身ををふ
  るまでにいさゝかも辛苦(しんく)の色を見せずたれか

  これをかたしとせざらん其身は下が下に
  してかくばかりいたりつくせる孝の心の
  ありがたさよ孟子のたまふ五十にしてしたふ
  ものはわれ大 舜(しゆん)にをいてこれを見る
  と人老て父母をしたふ事のかたき此ことば
  を見てもしるべし孝なるかなこの人

【絵画 文字無し】

十八 三田(みた)村孝婦
孝婦は備中の国 窪屋郡(くぼやくん)三田村の民久兵衛と
いふものゝ妻なり久兵衛父ありきはめてかたくな
なり孝婦をつかふてわづかにも心にかなはざる事
あればすなはちうちたゝきけりしかれども孝婦
是を心とせずふかくその罪をうけてさかは【さかふ=おのずから逆らう】ず
つかへてをこたらずしうと年八十その脚(あし)よはし
孝婦これがき起居(たちゐ)をたすけてよるひるをわかずある
夜孝婦つかれふしてしうとがをくるをしらず

しうといかりて孝婦が日々に物つくなる臼(うす)の内に
ゆばり【尿】す孝婦目さめてこれしるといへど露
いろにあらはさずいたくをのがいぎたな【前後不覚にぐっすり眠ること】かりし
ことをはぢらひしうとがいかりとくるを待て何と
なくしりぞき出てかの臼をあらひけりそのやはらき
したがへるさまよろつにかくのごとしさればかばかり
あしきしうとなりつれど終には孝婦が志に感じ
まへのひが事をくゐあらためけりその比しも国
のなりはひ見めくりける人かれが門を過けるに

しうと出てま見えて孝婦□【「か」或は「が」ヵ】孝のいみじき事どもかき
くづしかたりきこえにければその人やがて国主に申
孝婦にろくたまはせけるとそ
   論
  ちゝはゝ我を愛し給ふは誠によろこふへし
  されどわれ力を用るところなし父母われをつ
  かひ給ふに折〳〵はひが事おはしますこそわれ
  力を用る所はありけれ是もまたよろこふべし
  となんある人いへりいとよしこの婦かたくな

なるしうとにつかへてをのか力をほどこす道
えたりとよろこべるがごとし孝なるかな孝な
るかな世には人のよめとしてわづかにしうと
しうとめのいかりにあへばしばらくもえたへで
なきておとこにかこち或はをのがおやのがり行
て我にはとがなししうとしうとめのわろさよなど
口にまかせていひのゝしるもおほかるをいかなれば
此婦かくまては孝順なりしやその心のうちお
もひやればすゞろに泪ぐまれ侍る

【絵画 文字無し】

十九 小 串(ぐし)村孝女
孝女は備前の国 児島(こしま)郡小串村に住ける七郎
兵衛と云ものゝむすめ也家もとよりまづしければ
孝女もいとけなきほどより人につかへて外にあり
けるが年へて家に帰りけるに父いたく老たり
母はのちのおやなりけるがこれもやゝおとろへぬ
子ももたらずたゞ此むすめひとりのみぞ有ける
よりてしたしき辺のあひはかりむことりて父母
をやしなはしめんとしけるに孝女いなひて【辞退して】いはく

人の心しりがたしわがおとことなるものもしわが
父母によからずはくふるともかひあらめやしかし
たゞはじめよりさる人なからんにはわれ女なりと
いへどたゞふたりある親にしあればともかふも
やしなひてこそ見侍るべけれとてみづから田つくる事
に心をもちゐ身をつくしけり人みなしゐてむこのこといへ
ど終にうけひく【承け引く=承諾する】けしきもなしたへがたきわざにもよく
たへ忍ひて力のかぎりつとめけるほどに父もまゝ母も
よろづにとぼしからであけくれよろこび居けるとなん

【絵画 文字無し】

二十 宍栗(しさう)孝女
播磨(はりま)の国宍栗こほり三方(みかた)町といふ所にひとりの
女子あり紀伊(きい)と名づく母はうせぬ父はやみて
足たらずはらからもなくゆかりもなし家きは
めて貧(まづ)しければあさ夕のけふりも絶(たゆ)るばかり
なるを紀伊さま〳〵にいとなみはかりてちゝがやし
なひをばかゝざりけりその辛苦(しんく)いふもおろかなり
あるとき其となりなる人紀伊にをしへていはく
なんぢ孝にしてざえありよくくるしきにたゆ

もし人にゆきてその家をおさめば必よろこび
られぬべししからばなんぢの父をやしなふもさばかり
はくるしまじいかでさはせざるといへば紀伊こたふ
人にゆけば身をその人の心にまかす既(すで)にその人の
心にまかせて又わが父の心のごとくする事をえん
や思ひもよらずとなんいへりきく人みな感じあへ
りそのころ此郡おさめ給へりし松だいら備後(ひんご)の
太守かれが孝行を聞てふかくあはれみて
年ごとによねたまはりければ後はこゝろやすく

てぞ父をやしなひをはりにける
   論
  飲食(いんしよく)男女は人の大 欲存(よくそん)すとてのみくふ物と
  おとこ女のちぎりとは人のねかひのおほかる
  中にことにせちにいたりてをもし是さだ
  まれることはり也しかるを小串村三方町両所
  の孝女人にあふことをかくいとへるは何そや
  いとへるにはあらず親をいとおしと思へるこゝろ
  その欲にかてばなり又有がたき孝心なら

  ずや世の男女の欲(よく)にひかれてよからぬ事など
  しいだし【し始める】をのれは云にや及ぶ父母の面(おもて)をけが
  しあるひは老たる親を捨(すて)てはしりまどひ
  にげかくれてあらぬかたにさすらふるたぐひ
  もおほかりもし此ふたりの孝女よりその
  ともがらを見ばさながら畜類(ちくるい)のごとくならむ

【絵画 文字無し】

 追加
一 志村(しむら)孝子
築後の国下 妻(つま)のこほり志村といふ所の里のおさは
市右衛門となんいひけりかれ父母をやしなひて孝
なり父はひが〳〵しくあやまちおほきものにて一類【一族】
にもしたしまれすその子むまごといへど皆うとく
てありけるをたゞ市右衛門のみぞふかく愛して
よくつかへける母はちかごろやまひにいねていとあや

うかりけるが市右衛門かたはらをはなれずひるよる
いねず心のかぎりあつかひきこえてからうじて
ながらへしめたりこれにつかふるさま殊にせち
なりよろづの事たゞ母の心のことくせすといふ
ことなし母つねにたばこといふ物をこのめり市右ヱ門
よるといへともしば〳〵おきて母のふし所にいり
寒温(かんうん)をとひたばこをすゝむ日と夜もかゝず又母
外にあそびあるひは寺にまふでんといへば
ずざ【従者】ありといへどそれを用ひず市右衛門かならず

みづから負(おひ)て行かへれり市右衛門あねありやも
めにして事なし母その家にあらんことをねがふ
市右衛門さかはずはやくあねのもとにすましめ
日ごとにゆきてつかふるさまをのが家にありし
時にかはらずさればひと里の人みな感じあひ
□□【「て人」ヵ】の子のおやにつかふる市右衛門をもてのり【範】と
せずはあるべからずといへり貞享のはじめつかた
事つゐに城府にきこふ府の君有馬公ふかく
感ぜさせたまふて物おほくたふでかれが孝行

を賞し母にもたへなる薬(くすり)などあたへて病のあた
りをくすさしめ給ふ
二 対馬(つしま)太田氏
太田氏は対馬の国の士人なにかし正次かむすめなりし
がおなし国のあき人嘉瀬成元といふものゝ妻とな
れりかれ成元が家によろしくしうとめにつかへて
孝なり延宝三年の夏成元やみて死ぬ太田氏かなし
みにたへずおなし道にとおもひ入けるを人々いさめて
いひけらく成元死して老母ありこれをやしなふに

人なし身をまたくしてこれをやしなはゞ成元草の
かげながらいかばかりよろこびんと太田氏いさめに
したがひてそれよりもはらしうとめをやしなふこと
をなん事とはしける時に年二十六なり父正次かれ
が年わかく子なくしてはやくやもめなる事を
いたみてあらためて人に見せむとす太田氏うけひか
ずもししゐてのたまはゞふかき淵(ふち)にもと思ひとり
侍るといへば正次かさねていひもいてず心にまかせて
しうとめをぞやしなはせける成元死して後いつと

なく家の内まづしく成もてゆけば太田氏うみ【績み】つ
むぎ【紡ぎ】おり【織】ぬふ【縫う】わざをしてやしなひのよすがと
せり人そのみさほに感じて物をおくりて衣食(いしよく)
をたすけむとすれはいさゝかもそれをうけ
ずしていはく故なくして人のほどこしをうけは
心におゐてやすからめやわがちからわづかに
しうとめをやしなふにたれり何をもとめてか
心にこゝろよからざることをせんやと成元死して
十とせあまり露もそのかたちをかざらす髪(かみ)は

月ごとにたちてながゝらしめず成元か牌主(はいしゆ)につかへ
て猶いけるにつかふるがごとしかゝる事とも太守に
きこえけれはふかくその貞節(ていせつ)を賞してよねお
ほくたまひにけり貞享二年の秋の事とそ
三 神(かう)山孝女
すぎし寛文のころにや津の国能勢の郡神山と
いふ所に并河(なびか)道悦といふものありけりくすしをわざ
とせり心ざまもあしからさりしがさいはひなく
てつみにおち入その太郎なる子とともにひとやの

内にとらはれてあしかせなどいふ物に身をくるしめ
居けり道悦むすめあり名をは亀(かめ)となんいひて
年は十にふたつばかりぞあまれる父か此こと
をいたうなげきそのくるしみをおもひやりて
身ををくに所なげなり夏は蚊のこゑのしげくわつ
らはしきに母とはらからは帳(ちやう)はりていぬる【寝ぬる】ををの
れはひとり帳の外(と)にのみいねて父のひとや【牢獄】の内に
おはしてい【寝】をやすくもしたまふまじきをわれ家に
ありていかでゆたかにはいぬ【寝ぬ】べきといへりみ山も

さやぐ霜夜には又さよのころも【夜着】をかさねずして
かのひとやの内いかばかりさむからんにわれさむから
てやはいぬべきと思へりちかき山のふかくしげれる
方にいにしへより観音(くはんおん)の堂(だう)ありけり亀なげきのあ
まりにかの堂にまふでゝ父かわざはひにまぬかれん
ことをいのる堂は里とははるかの道をへだてゝ
けうとき【気疎き】山のおくなりけれは年たけたるおのこだ
にいと物すごくおもへりそのうへたけきけだものな
どもすみて折ふしは人をそこなふ事もあるを

亀いさゝかいとはずおそれず夜なかあかつきにも行
かよひてもしあやしきけだものにあへば我はかゝる
ねがひありて観音にまふでくるものぞけだ
物といふとも心あらは此身をそこなはてよといへ
はちかづきよるけだものもなし人みなこれを
あやしみけりさてもかのひとやの内にはつまや
子のゆくゑもしらずたゞ身のくるしきにたへかね
てのみ月日へにけるがある夜何ゆへともなくあ
しかせゆるびたるやうにてふたつの足(あし)こゝろ

のまゝなり道悦よろこびにたへずされどまもる
人の見てとがめんがうるさければつねは猶あり
しまゝに足さし入てぞ居けるそれを聞つたふ
る人はあきらかにこれ神山の観音大 慈(じ)の亀が
心をかなしませ給ひてせさせ給ふらむとぞいへる
かくて六とせばかりありて道悦ゆるされて帰り
ぬ亀よろこべることかぎりもなし父もありし
事ともおち〳〵とひ聞てなきみわらひみ【「…み…み」と重ねた形で「…したり…したり」の意を表す】よろこび
あへりそのころは亀もやう〳〵をよすげ【成長する】ねひま

さり【ねびまさり=成熟の度が際立つ】たれば父母さるべき人にも見せてさかゆ
く【ますます栄えて行く】末をまたはやといへは亀おもひもよらすとなん
云を父母あやしみてとへはわれ父のわざはひを観
音にいのり申し時父故なくは我いけるあひだ
おとこを見侍らしとちかごと【誓言】し侍りぬしかるを
たゝいま其ことはにたがへさせ給はゞわが身の
事はいふにやをよぶ父のさためもいかならむ
とおそろしたゞ此まゝに候はんこそあらまほし
う候へといふ父はゝせんかたなくておもひわづらひ

けるか亀やかてちゝ母にこひて尼となりて名を
智信(ちしん)とあらためけりその後いく程もなくて病に
おかされて年二十三にしてうせぬとなん
  右三人の孝状誠(かうしやうまこと)にあはれふかしことにその
  国〳〵の人のかたりきこえていさゝかうき
  たる事にあらねば聞(きゝ)すてかたく覚え侍
  りて筆のつゐでにかきくはへ侍る此のち
  猶このたぐひあらはたれも〳〵しるしそへ
  給へ人の善をおほはざるのみにあらず人の

  子を感激(かんけき)して孝道(かうだう)を世にひろむるのわざ
  何事か是にすくへき
仮名本朝孝子伝大尾


貞享四年丁卯五月    梓 行


明和七年庚寅三月  平安  石田氏門人藏版

【左欄外 朱書き】
明治十年丑二月 小原日仙求

【白紙】

【裏表紙】

【和綴じ本の背の写真】

【書物の天或は地の写真】

【書物の小口の写真】

【書物の天或は地の写真】

【葉の模様の中の白抜き字】
特製

【本文】
防虫薫
  非売品

此の防虫薫は書画幅及書
籍等の虫害を防くに特効
あり当店多年の経験に依
り精製せしものにて毎年一度
御取換あらは最も有効なり
  大阪 山中箺篁堂

.

【表紙 文字無し】

異国物語合巻

持ち主  越後
     □□
     □□

春もやう〳〵くれゆき。五月雨(さみだれ)の比(ころ)になり
ぬ。雨中(うちう)つれ〳〵なるに。友(とも)とする人
きたり。世中(よのなか)のよしなき事 共(ども)うらなく
かたるこそおかしけれ。おなし人間(にんげん)に貴(き)【左側に「たつとき」と傍訓】賤(せん)【左側に「いやしき」と傍訓】
賢(けん)【左側に「かしこき」と傍訓】愚(ぐ)【左側に「おろかなる」と傍訓】有。又 姿(すがた)言葉(ことば)もさま〳〵ありとかたる
或(ある)人云姿言葉の。ちがひしことは。もろこし
なるへしと云。何(なに)の国(くに)には。人のかたちかく
有などかたりけるに。かたはらいたくおもし
ろし。いかで。かの国の風俗(ふうぞく)しれるや。いつは
りならんと云。井(ゐ)の内(うちの)蛙(かはず)なるべし
三 才図絵(さいずゑ)にくわしくありと云。これを

見るに。初心(しよしん)の人。めやすからす。みるにせん
なし。あさきより。ふかきに入なれば。他(た)の
あざけりもあらんなれど。仮名(かな)になをし
つれ〳〵のなぐさみとせしなり。およそ
一百四十余ケ国有めつらしくちかひしこと
なりと云爰によそ人すなはち異国(ゐこく)物語
と名つくるのみ

異国物語上
日本国(につほんこく)則(すなはち)和国(わこく)なり。新羅国(しんらこく)の東南(たつみ)大 海(かひ)のうちに有。
山嶋(さんとう)【「嶋」の左側に「しま」と傍訓】によつてすみかとす。この国九百 余里(より)。もつは
ら武勇(ぶゆう)をこのみ。中国にしたがわず。国をおかし。
うばはんとす。此ゆへに中国是をおそれて常(つね)に
倭寇(わたい)名づく。又は神国(しんこく)と云(いひ)。天神(てんじん)七 代(だい)地神(ぢじん)五代
より。人 王(わう)の今(いま)にいたり。まつり事たゞしく。儒(しゆ)。釈(しやく)。
道(どう)。詩哥(しいか)。管弦(くわんげん)。文武(ぶんふ)。医薬(いやく)。其 道(みち)をまなび。上下 万(ばん)
民(みん)。まことをさきとし。国の制度(せいと)明(あきらか)なり。しかあれ
ば。四海(しかい)【左側に「よつのうみ」と傍記】をだやかに。諸(しよ)国【左側に「もろ〳〵のくに」と傍訓】にすぐれたり。是に
より。万国(はんこく)。日本にしたがわすといふことなし

【絵画 表題として】
大日本国

高(かう)
麗(らい)
国(こく)

いにしへは鮮卑(せんひ)
と名(な)づく。周(しう)の
武王(ぶわう)のとき。箕(き)
子(し)を其国に封(ほう)
じてより。朝鮮(てうせん)
国(こく)と名づく
中 国(ごく)の礼(れい)楽(がく)詩(し)書(しよ)医薬(いやく)うらかた【占形】にいたるまでみな
此国につたはりて官制(くわんせい)こと〴〵くあきらかなり。
国の制度(せいたく)皆(みな)儒道(じゆどう)之 風(ふう)にしたがひて。又 悪殺(あくさつ)【さつ】のい
ましめなし。人みな君化(くんくわ)にかなひて。四夷(ゐ)の中に
ひとり高麗(かうらい)をすぐれたりとす。たゞ礼義(れいぎ)のおこな

はるゝかたち。中国にたがふ事有。其(その)国に。良馬(りやうば)白石(はくせき)
なし。ともし火(ひ)に黒麻(こくま)をもちひ。布(ぬの)をもてあきな
ふ。国のかたち東西(とうざい)二千 里(り)南北(なんぼく)一千五百里なり。
都(みやこ)は開州(かいしう)にあり。名づけて開城府(かいぜひふ)と云。北京(ほつきん)の
城(みやこ)にいたる事其道三千五百里なり


扶(ふ)
桑(さう)
国(こく)

此国は大 漢(かん)国の
東に有。板屋(いたや)を
つくりてすみか
とす。さらに城郭(じやうくはく)
なし。武帝(ぶてい)の時
罽賓(けいひん)の人その

国にいたりてみるに。国人 常(つね)に鹿(ろく)【左に「しかの事也」と傍記】をかふて牛(うし)の
ごとくにつかふ。又其 乳(にう)【左に「ちの事」と傍記】を取 ̄ル をもつてわざとすと也
大(たい)
流(りう)
球(きう)

此国 建安(けんあん)より水を
行事五百里也
其国に玉石(ぎょくせき)【左に「たまいし」と傍記】お
ほし。中国の制(せい)
度(たく)にしたがひて
朝覲(てうごん)みつぎもの
をたてまつる。みな時にかゝはらず。王子(わうじ)およひ
陪臣(ばいしん)の子は。みな大 学(かく)に入て書をよむ。礼義(れいぎ)
はなはだあつし

小(せう)
琉(りう)
球(きう)
国(こく)

其国 東南海(とうなんかい)にち
かし。地(ち)より玻瓈(はり)
名香(めいかう)其外(そのほか)もろ〳〵
のたからを生(しやう)ず



女(ぢよ)
真(しん)
国(こく)

其国 契丹(けいたん)国の
東北(うしとら)【「ひがしきた也」と左側に傍訓】の方(かた)長白(ちやうはく)山
のもとに有。鴨(かう)
緑水(りよくすい)のみなも
と。古粛慎(こせうしん)の地
なり。其さき完(くわん)

顔氏(がんし)と云(いふ)もの有。つみをのがれて。此国にかくれたり。其
地(ち)に金(こかね)【「きん」と左側に傍訓】おほし。此ゆへに。国の名(な)として。金(きん)国と云。阿(あ)国と
云人より。みづから帝王(ていわう)と号(がう)す。国人 鹿皮(ろくひ)【「しかかわ」と左側に傍訓】魚皮(きよひ)【「うを」と左側に傍訓】を
衣(ころも)としたり又 野人(やしん)皆(みな)利刀(りたう)を帯(たひ)し。死(し)をかろくして
命(いのち)をしまず。男子(なんし)皆(みな)其 面(おもて)に黥(すみ)入たり


暹(せん)
等(ら)


其国 濱海(ひんかい)【「はまうみ」と左側に傍訓】に有
男子はかならず其
陽(やう)をさく。宝物(たからもの)
をたくはへて。ふうきを。へつら
ふ。しからざれば

女家(ちよけ)これに妻(つま)あわさず。此国に□(□□□)おほし


匈(けう)
奴(と)
韃(たつ)
靼(たん)

此国人 五 種(しゆ)有
一 種(しゆ)は身の毛(け)黄(き)【「きイろ」と左側に傍訓】
なり是山 鬼(き)と
黄特牛(あめうし)との生
ずる所也一 種(しゆ)は
くびみじかくおほ
きなるもの有。すなはち獲狡(くわくかう)と野猪(やちよ)との生(しやう)する所(ところ)
なり。一種は髪(かみ)くろく身の色(いろ)白(しろき)は則(すなはち)是。唐(もろこし)の
李請(りせい)か兵(つはもの)の末孫(ばつそん)【「すえまご」と左側に傍訓】也一種は突獗(とつけつ)なり。其さ支(き)は
則(すなはち)射摩舎利海神(しやましやりかいしん)のむすめと金角(きんかく)の白鹿(はくろく)【「しゝ」と左側に傍訓】と

ましはり感(かん)じて生(しやう)ず此国の主(しゆ)【「ぬし」と左側に傍訓】として民(たみ)みな
したがふ白鹿(はくろく)の生ずる廿五 世(せ)を貼木真(てうほくしん)と名づく
是大 蒙古(もうご)と云(いふ)。ひそかに帝王(ていわう)と称(せう)す。是より
四 世(せ)の孫(そん)【「まこ」と左側に傍訓】忽必烈(こつひつれつ)【「れツ」と左側に傍訓】すでに。中国の天子(てんし)となれり
国人つねに猲(かつ)をこのみて。羊馬野鹿(やうはやろく)【「ひつしむま しか」と左側に傍訓】の皮(かわ)を
衣(ころも)とす

巴(は)
赤(せき)
国(こく)

此国人
つねに林(はやし)木(き)のうち
に住(すまい)して。田をつ
くる。又馬をいだし
あきなふ。応天府(おうてんふ)
よりゆく事一年
にして此国に
     いたる

黒(こく)
契(けい)
丹(たん)
国(こく)

此国ゆたかにして
城池(しやうち)有 家(いへ)あまた
つくりならべ。人 煙(ゑん)【「けむり」と左側に傍訓】
たえず。金国(きんごく)の人
此国にいたり行。応
天府よりゆく事一年
にしていたる


土(と)
麻(ま)
国(こく)

此国ゆたかに家作(いへつくり)
して人煙たへず
国の風俗また
韃靼(たつたん)国に似(に)たり
応天府より行事
七ヶ月にしていたる

阿(あ)
里(り)
車(しや)
廬(ろ)

其国 皆(みな)山林(さんりん)【「はやし」と左側に傍訓】に
よりて城(しやう)をかま
へ家(いへ)を作(つくり)又 田(た)有
応天府より行
事一年に
していたる


女(ちよ)
暮(ほ)
楽(ら)
国(こく)

其国 城池(しやうち)人 煙(ゑん)
おほし。人 皆(みな)鹿(ろく)
皮(ひ)を衣(ころも)として
牛羊(うしひつし)をやし
なふ国のならひ
人皆ゆたか也 韃靼(たつたん)
国の人と通(つう)して
あきなふ

烏(う)
衣(ゑ)


其人 常(つね)に烏(くろき)
衣(ころも)を着(き)たりか
しらに大被(おおひれ)を
かづくそのながさ
膝(ひさ)をかくし腕(うて)
をかくす漢人(かんひと)
をみるときは則(すなはち)そむき行て其かほをみせし
めず。もししゐてそのかほをみるときは則(すはなち)是
をころす。いわく。わがおもては人に見せしめす
と。則(すなはち)又 草(くさ)をもつて其(その)死(し)人におほふ。物をあき
なふに又かけ物をもつてせり。もし。そのあたひ

すくなき時(とき)は。又も人をころす


老(らう)
過(くわ)
国(こく)

此国
安南(あんなん)国の西北(いぬい)の
かたに有いにしへ
越裳(ゑつしやう)国の人其
性(しやう)狼戻(らうらい)にして
たゞ人とまじ
はらずひそか
に弓(ゆみ)を引(ひき)て是を射(ゐ)ころす。もし又 他国(たこく)の人
をとらへては。足のうらをすりて。其 皮(かわ)をはぐ。此
ゆへに行事あたはず。其国より象牙(ざうげ)金銀(きんぎん)をい
だす。をよそ食(しよく)物は口(くち)よりくらひ水酒(みつさけ)は鼻(はな)よりのむ

虼(きつ)
魯(ろ)


此国 木魯(ほくろ)国と
おなし風俗(ふうぞく)也
応天府(おほふてんふ)より行(ゆく)
事七ヶ月にして
いたる


乞(きつ)
黒(こく)
国(こく)

其国 城池(しやうち)なし
羊(ひつし)と馬(むま)とをい
だしあきなふ
国の風俗(ふうぞく)韃靼(たつたん)
国におなし応天
府より行事
七ヶ月にしていたる

占(せん)
城(しやう)
国(こく)

其国みな林(はやし)の内(うち)
をすみかとす
安南国(あんなんこく)より見(み)
つきものをたて
まつる広州(くわうしう)より
舩(ふね)をいだし順(じゆん)
風(ふう)八日にしていたる。国の内(うち)名香(めいこう)犀象(さいざう)をいだす。又
田をたがやしてくらふ海浜(かいひん)【「うみはま」と左側に傍訓】に鰐(わに)の魚(いを)あり。も
し国人とがのうたがわしき時(とき)は鰐(わに)に。あ
ふたるに。とがなきものはくらはずと
いふ

深(しん)
烈(れつ)
大(たい)
国(こく)

其国人 韃靼(たつたん)国と
風俗(ふうぞく)をおなじく
せり。応天府(おうてんふ)
より行(ゆく)事六ヶ
月にしていたる


波(は)
利(り)
国(こく)

其国 林木(はやしき)おほし
田をうへて。なり
はひとす。城池(しやうち)
なし。家(いへ)おほく
作(つくり)ならべたり。韃(たつ)
靼(たん)国に通(つう)ず。応
天府より行事一年
にしていたる

鉄(てつ)
東(とう)
国(こく)

其国よりよく逸(いち)【「はしる」と左側に傍訓】
物(もつ)【「むま也」と左側に傍訓】の馬(むま)をいだす
応天府(おうてんふ)より行(ゆく)
事二ヶ月にして
いたる


訛(くわ)
魯(ろ)
国(こく)

其国人まなこふ
かくおちいりて
かしらのかみ黄(き)【「きはだ」と左側に傍訓】
なり木(き)をかさね
たてゝ家(いへ)とせ
り。応天府より行
事一年半に
していたる

木(ほく)
思(し)
奚(けい)
徳(とく)

此国の風俗(ふうしよく)【ママ】又 韃(たつ)
靼(たん)におなじ。応
天府より行事
七ヶ月にして
いたる


方(ほう)
連(れん)
魯(ろ)
蛮(はん)

其国人ものいふ
ことばあきらめが
たし。田をつくり
て。なりはひとす
馿馬(ろば)をいだしあ
きなふ。応天府
より行こと一年
にしていたる

昏(こん)
吾(こ)
散(さん)
僧(そう)

其国 山林(やまはやし)おほし
人みな田を作(つくり)
て食(しよく)をたくはふ
応天府より行事
九ヶ月にしていたる


大(たい)
漢(かん)
国(こく)

此国に兵戈(ひやうくわ)なし
又 合戦(かせん)する事
なし紋身国(もんしんこく)
と通(つう)じて。物をあ
きなふ。たゞ其
言葉(ことば)ひとつ
ならずと也

爪(さう)
哇(あ)
国(こく)

東南海(とうなんかい)の嶋(しま)の
うちに有 則(すなはち)是
いにしへ闍婆城(しやばじやう)と
名(な)づくる所(ところ)なり
泉州路(せんしうろ)より舩(ふね)
を出(いだ)して一月
にしていたるべし。其国 冬夏(ふゆなつ)のへだてなく。常(つね)に
あつくして霜雪(しもゆき)なし。其 地(ち)より胡椒(こせう)蘇方(すはう)をいだす
武勇(ぶよう)をもつて賞(しやう)にあづかる。飲食(いんしゐ)【「のみくひ」と左側に傍訓】は木葉(このは)にもりて
くらふ。およそ。あらゆる虫(むし)のたぐひみな是を煮(に)て
食(しよく)す男(おとこ)死(し)する時(とき)は其 妻(つま)十日を過(すご)して又人めとる

擺(ひ)
里(り)
荒(くわう)
国(こく)

其国 北海(きたうみ)にち
かし風俗(ふうぞく)また
韃靼(たつたん)国におなじ
応天府より行事
六ヶ月にしていたる


後(こう)
眼(がん)
国(こく)

其国人うしろの
かたうなじに一
目(もく)有。国(くに)のあり
さま。韃靼(たつたん)国にお
なじ。むかし良(りやう)
河(か)の人。此国に
行(ゆき)てたちまちに
此人をみて大におそ
れたり

大(たい)
羅(ら)
国(こく)

此国の風俗(ふうぞく)また
韃靼(たつたん)国におなじ
応天府より行事
四ヶ月にしていたる


不(ふ)
刺(し)
国(こく)

此国 西蕃(せいばん)にかゝ
れり常(つね)に馬(むま)
羊(ひつし)をやしなひ
て是をあきな
ふ応天府(おうてんふ)より
行(ゆく)事一年八ヶ
月にしていたる

三(さん)
仏(ぶつ)
斎(せい)
国(こく)

此国 南海(なんかい)【「みなみうみ」と左側に傍訓】のうち
にあり広州(くわうしう)より
舟をいたして南
北の風十五日に
していたるへし
惣門(さうもん)より入(いり)て五
日にして其国
中にゆく木(き)をもつて柵垣(ませがき)を作りて城(しろ)とす国
人よく水(みつ)にうかぶ。其人みな薬(くすり)を服(ぶく)するさらに
矢(や)もたゝず。かたなもやぶらず。此ゆへに諸国(しよこく)に覇(は)
たり。其国の地に穴(あな)あり牛(うし)数万(すまん)わき出(いつ)る人是
を取て食(しよく)とす。後の人其 穴(あな)に垣(かき)をゆふより又うし

わきいでずといふ


近(きん)
仏(ひつ)
国(こく)

此国東南海のほ
とも【「り」の誤記ヵ】に有。此国
野嶋(のしま)の蛮賊(ばんぞく)
おほし麻羅奴(もらと)と
名(な)つく商人(あきんど)の
舟(ふね)其国にいたり
ぬれば。国人むら
がりあつまりて。是をとりこにし。大なる竹(たけ)をも
つつ【「つ」の重複ヵ】てさしはさみて。やきころしくらふ。人のかし
らを食物(しよくもつ)のうつはものとす。父母(ちちはは)死(し)する時(とき)は。一 類(るひ)
あつまりて。鼓(つゝみ)をうち。ともに其(その)肉(にく)をくらふ。是

非(ひ)【「あらす」と左側に傍訓】人(にん)の類なり



闍(しや)
婆(ば)
国(こく)

莆家龍(ほけれう)国の
ほとりに有。中
国より順風(じゆんふう)八
日にしていたるべし
むかし雷(いかづち)此国ニ
おちて。大石(たいせき)【「いし」と左側に傍訓】さけ
くだけ。其 石(いし)のうちより。一人 出生(しゆつしやう)せる。是を立(たて)て。
国の大 王(わう)とす。此国より生(しやう)ずるもの。青塩(せいえん)【「あおきしほ」と左側に傍訓】および
綿(わた)あふむ鳥(てう)【「とり」と左側に傍訓】其(その)外(ほか)。たからの玉(たま)あり。又其国に
飛頭(ひとう)の人あり《割書:樚䡎首(ろくろくび)と|いふものなり》其 民(たみ)是を名づけて

虫落民(ちうらくみん)といふ



婆(は)
羅(ら)
国(こく)

此国 男女(なんによ)ともに
かたなをおびて
道をゆく。又人と
ちなみ。したし
まず。人をころし
て。他国(たこく)にはしり
廿日をすぐれば。其とがをかうふらず。他国(たこく)の人其
妻(つま)をぬすむ事あれば。わが妻(つま)かたちすぐ
れて。人のために愛(あい)せらるゝと云(いひ)て。其おとこ
をころし。其女をむかへて。是をやしなふ。た

がふことあれば。皆(みな)ころすをもつて国風(こくふう)とす


沙(しや)
弼(ひつ)
荼(だ)

此国むかしより
このかた人のいたる
事なし。たゞ
聖(せい)人 徂葛尼(そかつけい)
と云人のみ。此国
にわたりて。文
字(じ)ををしへらる。其国は。西荒(せいくわう)のきわまりにして
日輪(にちりん)西(にし)に入(いる)時(とき)日(ひ)のめぐるこゑ。いかづちのひびくがご
とし。国王(こくわう)つねに城(しろ)の上(うへ)に数(す)千人をあつめて。角(かく)
をふき。かねをならし。太鼓(たいこ)をうちて。日(ひ)のめぐる

こゑにまぎらかす。しからざれば。小児(せうに)婦人(ふじん)
みな。おそれて。死(し)【「しぬる」と左側に傍訓】すとなり


斯(し)
伽(きや)
里(り)
野(や)
国(こく)

芦眉(ろひ)国にちかし。
山の上に穴(あな)あり。
四季(しき)のうち。火の
もえいづる事
常(つね)也。国人大 石(せき)
を其 穴(あな)にとり
ふさぐ事 数(す)千 斤(きん)。又 穴(あな)の内(うち)になげいるゝに。し
ばらくのうちに。みな。やけくだく。五年に一たひ
づゝ。火もえあがりて。家(いへ)も林(はやし)も石も。ともに火に

やかれ。人みな死(し)すと云


崑(こん)
崙(ろん)
層(そう)
期(き)

此 国(くに)西南海(せいなんかい)のほ
とりにあり。此
嶋(しま)の上に大 鵬(ほう)と
云(いふ)鳥(とり)有。此 鳥(とり)の
とぶ時(とき)は両(りやう)の
つばさ九 万里(まんり)也
よく駱駝(らくだ)の馬をくらふむかし人其鳥の羽(は)を。ひ
ろふて。其 茎(くき)をもつて。水桶(みつおけ)につくるよし。又野人
有。身くろき事うるしのごとし。他国(たこく)の商(あきん)
人(ど)のために奴(やつこ)となりてあきなふ

采(さい)
牙(け)
金(きん)
彪(ひう)

この国 西蕃(せいはん)の
木波(ほくは)国にちかし
応天府(おうてんふ)より行
事五ヶ月にし
ていたる

獦(らつ)【ママ】
獠(りやう)


𨋽軻(しやうか)に有。其国
人 婦人(ふじん)みなは
らむこと七月
にして子を生(しよう)
ず。国人 死(し)する
時(とき)は竪棺(しゆくわん)【縦棺】にし
て是をうづむ




瓠(こ)
犬(けん)


此国むかし帝(てい)誉(??)
高辛氏(かうしんし)のとき。
宮中(きうちう)に老女(らうぢよ)有
耳(みゝ)のうちより
蚕(かいご)のまゆのごとく
なるものを生(しやう)ず。
瓠(ふくへ)に入てをくに化(け)して犬(いぬ)となる。其 色(いろ)五 色(しき)【「いろ」と左側に傍訓】也
名づけて瓠犬(こけん)と云時(いふとき)に呉将軍(こしやうくん)むほんをおこす。
瓠犬(こけん)ひそかに。呉将(こしやう)が首(くび)をくわへてかへる。帝(みかど)よ
ろこひて。宮女(きうちよ)を給(たま)ふ。犬(いぬ)女(をんな)をつれて。南山(なんさん)に入。
三年のうちに男子(なんし)十二人を。うむ。みな是人也

みかど長 沙(さ)の武陵蛮(ふれうばん)の主(ぬし)とせり。其子。わが父(ちゝ)
の犬(いぬ)なることをはぢて。ひそかにはかつて。是
をころせり。今 瓠犬(こけん)の国そのすゑなり


紅(かう)
夷(ゐ)
国(こく)

此国 安南(あんなん)のみなみ
のかたに有。其国
人 衣(ころも)をつくる事
なし。綿(わた)をもつ
て身にまとへり。
くれなゐのきぬを
かしらにまとへり。其かたち回々国(くわい〳〵こく)の人のごとし。国に
塩(しほ)なし。交趾(かうち)の人 塩(しほ)をもつて。此国にあきなふ也

天(てん)
竺(ちく)
国(こく)

此国大 秦(しん)にちかし
良馬(りやうは)おほし。国
人 皆(みな)両鬂(りやうひん)【「鬂」は「鬢」の俗字】を。た
れくだし。綿(わた)を
もつてかしらを
つゝみ。きぬをも
つて。したうずとせり。国のうちに泉(いづみ)あり。商人(あきんと)
瑠璃(るり)の瓶(へい)に。此 水(みつ)をいれて。ふねのうちにたくは
ゑ。もし風あらく。なみたかきとき。この水を
海(うみ)にそそぐに。風波(ふうは)【「かせなみ」と左側に傍訓】立(たち)どころにとどまるなり

交(かう)
脛(けい)


此国人 両(りやう)のあし
もぢれ。まはれり。
そのはしる事
風のごとしとなり


阿(あ)
黒(こく)
驕(きやう)


此国人 家(いへ)おほし。林(はやし)
木(き)のあひだにあり
国人 鹿皮(しかのかわ)を衣(ころも)とし
馬に乗(のり)て弓(ゆみ)を引(ひく)
たはふれに。人を射(いる)。
死(し)する時(とき)には。その
せなかをうつにす
なはちよみがへる
となり

蘇(そ)
門(もん)
答(とう)
刺(し)

此国田。かたふして
五 穀(こく)すくなし
中にも位(くらゐ)たかき
人。物をおさめ長(ちやう)【「つかさどる」と左側に傍訓】
ずる也。国人一日の
間(あひた)に身の色(いろ)かならず。三度(みたび)かわる。其色 或(あるひ)は黒(くろく)。或は黄(き)。
あるひは赤(あかし)。としごとに。かならず十 余(よ)人をころして。
其 血(ち)を取りて。あぶるときは。その年 病(やまひ)をしやうぜす。
これにより。民(たみ)皆おそれて都(みやこ)につきしたがふ。しか
ればすこし死(し)のなんをのがるとなり

火(くわ)
州(しう)

此国 城(しろ)も田(た)もおほくあり。男子は腰(こし)にばかり衣(ころも)をき
て。長(たけ)高(たかく)かみをくみて。首(くび)にたれ。婦(ふ)人はぼうしを
いたゞいて。居(ゐ)るなり。きわめて。楽(がく)をすく也。琵琶(ひわ)
ふえをもち。あそぶ也男子は。馬にのり弓を射(ゐ)て
たわふれとする也

交(かう)
趾(ち)
国(こく)

交趾(こうち)国。又は安南(あんなん)
と名づく。其国
もとこれ。漢(かん)の
馬援(ばゑん)か兵(へい)の子孫(しそん)【「すへまこ」と左側に傍訓】
なり。国人おや子
一 所(しよ)に住(ぢう)せず。妻(つま)
をむかふに。媒(なかだち)をもちひず。男子(なんし)は盗賊(とうぞく)【「ぬすみ」と左側に傍訓】をわざとす。
女子(によし)は。はなはだ。淫乱(いんらん)なり。古城(こせい)の王(わう)。其 少子(せうし)をつ
かはして。中国の妻(つま)をよみ。道(みち)をおこなふ。国人是に
そむく。漢の中国これをおさむ交州(かうしう)の刺史(しし)を
たつ。後漢(ごかん)のとき。又そむく馬援(ばゑん)これをしつむ

五 代(だい)のすゑにあたつて。節度使(せつとし)呉昌(こしやう)文 初(はじ)めて。ひ
そかに。王(わう)の号(な)をたつる。其後(そのゝち)皆(みな)王の名を称(せう)す
欽(きん)より西南(ひつじさる)のかた。舟をもつてわた□【「る」ヵ】事一日に
していたるへし


黒(こく)
蒙(もう)
国(こく)

此国 城池(しやうち)有(あり)。家(いへ)
づくりあり。国
人田をつくり
てなりはひとす
天気(てんき)常(つね)に熱(ねつ)
して人の身 焼(やく)
がごとく也人 皆(みな)五
色(しき)のにしきをはかまとせり。応天府より行(ゆく)事

一年にしていたるなり


婆(は)
登(とう)
国(こく)

林邑(りんいう)の東(ひかし)に有
西(にし)の方(かた)迷蒭(めいすう)国
にちかく。南の方
阿陵(あれう)国にかゝれ
り。稲(いね)を。うゆる
月ごとに。一たひじ
ゆくす。文字(もんじ)あり。貝葉(はいえう)にかく。もし。死(し)すれば。金銀(きんぎん)
をもつて。四 肢(し)をつらぬきて。後(のち)に婆律膏(はりつかう)。およ
び。沈檀(ちんたん)龍脳(りうなう)をくわへて。薪木(たきゞ)をつみて。これを
火葬(くわぞう)すとなり

無(ぶ)
腹(ふく)


此国 海(うみ)の東南(とうなん)に
あり。国人 男女(なんによ)
ともに。みな腹(はら)
なし


聶(しよう)
耳(じ)


此国無 腹(ふく)国の東(ひがし)に有
国人 身(み)はとらの紋
ありて。耳(みゝ)ながき
事ひざをすぎたり
ゆくときは。その
耳(みゝ)をさゝげて
ゆくといふなり


身(しん)


此国 鑿歯(せんし)【資料の字は「鑿」の異体字と思われる】国の
東(ひかし)にあり其人
かしらひとつにして
身はみつあり


蜒(たん)【字面からは「蜓(てい)」に見える】

蛮(ばん)
国(こく)

此国人 船(ふね)をもつて
家(いへ)とす。きわめて
まづし。冬(ふゆ)にいたる
にも。身に一 衣(ゑ)なし。
魚(うを)を取(とり)て。食(しよく)とす
妻子(さいし)共(とも)に舟(ふね)に
のり。ゆくさきに
とゞまるなり。

木(もく)
蘭(らん)
皮(ひ)
国(こく)

此国大 食(しよく)国の西(にし)
に大 海(かい)有。海(うみ)の
西(にし)に国(くに)有。其 数(かず)
かぎりなし。其中
に木蘭皮国(もくらんひこく)ま
では人みな。いた
るべし。むかし陀盤(たはん)の地(ち)より舩(ふね)をいだして西(にし)に行(ゆく)事
百日にして。一ツの小(せう)舩(せん)【「ふね」と左側に傍訓】をみる。舟(ふね)のうちに。数(す)百人のりて
酒(さけ)さかな。もろ〳〵のうつはもの有。其国の生(しやう)する
所(ところ)。麦(むぎ)一 粒(りう)のたけ三寸。瓜(うり)の大さめぐり四五尺也
柘榴(しやくろ)一 顆(くわ)。おもさ五 斤(きん)。桃(もゝ)は二斤。菜(な)のたけ三四

尺(しやく)井(ゐ)をほる事。深さ百 丈(ちやう)にして水あり。羊(ひつし)のた
かさ三四尺 春(はる)は腹(はら)をさきて。あぶらをとる事
数(す)【「かず」と左側に傍訓】十 斤(きん)二(ふた)たび其(その)疵(きず)をぬふて。よく又よみがへら
しむ。これぬふ所(ところ)の糸(いと)にくすりをぬると云


賓(ひん)
童(とう)
龍(りう)

此国もと占城(せんじやう)国
の貴(き)人。国のあるじと
なれり。道(みち)ゆく
時は象(ざう)にのり
馬(むま)にのる。つきし
たがふもの。数(す)百
人 皆(みな)手(て)ごとに盾(たて)をもてり。あかき。かさをさす。其

従者(じうしや)木(こ)の葉(は)に食(しよく)をもり。椰子酒(やししゆ)と米(べい)酒とをもつ
て。みち〳〵たてまつる。ある人のいわく。仏書(ぶつしよ)に
いへる。王舎城(わうしやじやう)は。すなはち。この地(ち)なり。今(いま)。目連(もくれん)
舎利弗(しやりほつ)の塚(つか)ありと云


骨(こつ)
利(り)
国(こく)

此国 回鶻(くわいこつ)の北(きた)大 海(かい)
のほとりに有。名(めい)
馬(ば)をいだしあき
なふ。其国。昼(ひる)な
がく。夜は。みじ
かし。日くれての
ち。天(てん)の色(いろ)くろし。
羊(ひつじ)を煮(に)て。□(じやく)
するとき。夜あけて。日いづると云

頓(とん)
遜(そん)


此国むかし梁(りやう)の
武帝(ふてい)のとき。み
つぎものをたて
まつる。其国 海(かい)【「うみ」と左側に傍訓】
嶋(とう)【「しま」と左側に傍訓】の上(うへ)にあり。其
国人。まさに。死(し)
すれば。親族(しんぞく)こと〴〵く。歌舞(かぶ)【「うたひまふ」と左側に傍訓】して。野(の)にをくる。又【右側に小字で挿入】 鳥(とり)有。
其かたち。あひるのごとし。数(す)万とひきたる。親族(しんそく)
みなかたはらに立(たち)よる。其 鳥(とり)。死(し)人の肉(にく)を。食(しよく)し
つくす。すなはち。其ほねを火葬(くわそう)にしてかへる。こ
れを鳥葬(てうさう)と名づくなり

狗(こう)
骨(こつ)


此国人 皆(みな)人の身(み)
にして。犬(いぬ)のかしら
なり。身になが
き毛(け)ありて。又 衣(ころも)
を着(き)ず。ものいふ
こと葉(ば)。犬(いぬ)のほゆ
るがごとし。其つまは。皆(みな)人にして。よく。漢語(かんご)に通(つう)ず。
貇鼡皮(りつすのかわ)【振り仮名は「りつす」で「りす(栗鼠)」のことと思われるが、上の字「貇」に迷います。】を衣(ころも)とし。犬人と夫婦(ふうふ)として。穴(あな)にすめ
り。むかし中国の人。其国にいたる。犬人の妻(つま)。其人
をにげかへらしむ。犬人これををふとき。帯(おび)十
余(よ)筋(すし)をおとす。犬人是をくわへて。穴(あな)にかへり此内に

のがれかくりぬと云。応天府より行事二年二月にいたる


長(ちやう)
人(じん)
国(こく)

此国の人たけ
三四 丈(じやう)なり。むかし
明州(みやうじう)の商人(あきんと)海(うみ)
をわたる時(とき)。雰(きり)ふ
かく風あらくして
舟のむかふかたを
わきまへず。やう〳〵雰(きり)はれ。風やみてのち。ひとつの
嶋(しま)につく。ふねよりあがりて。薪木(たきゞ)をとらんとす
るに。たちまちに。ひとりの長(ちやう)【「なが」と左側に傍訓】人をみる。其 行(ゆく)
こと。飛(とふ)がごとし。あき人おどろき。おそれて。にげ

まとひ。ふねにかへる。長人この人をおふて。海(うみ)にか
けいる。舩(ふな)人 強弩(ぎやうと)の大弓をはなつにのがるゝ事
をえたり


蒲(ほ)
□(かん)


犬理(けんり)国より五 程(てい)
にして。其国に
いたる。黒水(こくすい)と
淤泥河(おでいが)とを。へだ
てゝ。しかも難所(なんじよ)
なるをもつて。西(せい)
蕃(はん)の。諸国 通路(つうろ)
なし。其国の王(わう)は金銀の冠(かふり)をいたゝき金銀をもつて
家(いへ)をかざりちりばめ錫(からかね)をもつて瓦(かはら)をつくり
てふくといふなり

婆(は)
羅(ら)
遮(しや)

此国 男女(なんによ)ともに
いぬのかしらをいた
だき。猿(さる)のおもて
をかけ。日夜(にちや)まひ
あそぶなり


五(ご)
渓(けい)


此国人 父母(ちちはは)死(し)する
時は鼓(つゞみ)をうち歌(うた)
をうたひ親属(しんぞく)酒(しゆ)
ゑんして舞(まひ)あそぶ
山にほぶり【文意からは「葬る」=「はぶる」とあるところ。「ほぶる」は屠る意】て其子
三年の内(うち)塩(しほ)を
くらはず

哈(かふ)
密(みつ)


此国 西蕃(せいはん)のうちに
有。火州(くわしう)の東なり
国の風俗(ふうぞく)は 回々(くわい〳〵)国
と韃靼(たつたん)国に同じ


撒(さん)
馬(は)
兒(げい)
罕(かん)

此国 哈刺国(かふしこく)の東に
有。もと是 西蕃(せいはん)
の内なり。山川(さんか)【「やまかは」と左側に傍訓】の景(けい)
物(ふつ)すこぶる中国に
同じ。あきなふ物
は皆(みな)国中の銭(ぜに)
をもちゆとなり

孝(かう)
臆(い)


此国のめぐり三千
余里(より)平沙(へいさ)のうち
にすめり。木を
もつて柵垣(ませがき)を
つくる。柵(ませ)のうち
めぐり十 余(よ)里。其
内に人家(じんか)二千 余(よ)あり。気候(きこう)常(つね)にあたゝかにして。草
木。冬もしぼまず。国人 皆(みな)長(たけ)ながく。大鼻(ひ)【「はな」と左側に傍訓】にして。ま
なこあをく。かみ黄(き)なり。其おもて血(ち)のごとく。つねに
かみをゆふことなし。五こくゆたかに金鉄(きんてつ)【「こかねくろかね」と左側に傍訓】おほく
麻布(あさぬの)を衣(ころも)とす。商(しやう)敗(■■)のあきなひものなし。道

ゆくときは。男女(なんによ)ともに。其おやをつるく【「ゝ」ヵ】。孝道(かうだう)の
国なり。馬羊(うまひつじ)をやしなふをわざとせり


繳(けき)
□(□)


此国 永昌郡(ゑいしやうくん)の南
の方一千五百里
にあり。国人みな
尾(お)あり。座(ざ)せんと
する時は。先(まづ)地(ち)を
ほりて穴(あな)をつくり
其 尾(お)。おきて。のちにざす。もしあやまりて。其 尾(お)
をうちおるときは。すなはち死(し)すとなり

的(てき)
刺(し)
普(ふ)
刺(し)

此国 皆(みな)城池(しやうち)家井(いへい)
あり。田をつくる。
又 明珠(めいしゆ)をいだす
其 玉(たま)ひかりあり。
又もろ〳〵の宝石(ほうせき)【「たからいし」と左に傍記】
おほし。応天府
よりゆく事二年一
ヶ月にしていたる



首(しゆ)
国(こく)
此国むかし夏(か)
侯(こう)の時に有。一身
にしてみつのかし
らあり

真(しん)
臘(らう)
国(こく)

此国 広州(くわうしう)より舩(ふね)
をいだして。北風(きたかせ)
十日にして。此国に
いたるべし天気(てんき)
さらにさむき事
なし。妻(つま)をめど
るには。男(おとこ)まづ。女の家(いへ)にゆくとなり。国人もし女子(むすめ)を
生(しやう)ずれば。九 才(さい)のときに僧(そう)を。よびて経(けふ)をよまし
め。其女子の身より。血(ち)をいだし。其ひたいに黥(すみ)
す。しからざれば。国人めどらず。もし人の妻(つま)。他(た)人
と通(つう)ずれば其男 大(おほき)によろこびていわく。我妻(わがつま)

かたちうつくし。此ゆへに人のために愛(あひ)せらると
て。さらにとがむることなし。もし盗(ぬす)人あれば。其 手(て)
足(あし)をきる。火印(くわゐん)をもつて。其かほにしるしをつくる
と也。国人のとがををかせば。金(きん)をいだしてあかなふ。
金(こがね)なければ身をうるとなり


道(とう)
明(めい)
国(こく)

此国の人。身に衣(ころも)を
着(ちやく)せず。もし人の
衣を着(ちやく)せるをみて
は則(すなはち)是をわらふ。
国に塩(しほ)と。くろがね
なし。竹をもつて
弓矢(ゆみや)につくり。鳥(とり)
を射(ゐ)て食(しよく)とす


蕃(はん)


此国山をたがへし
田をつくる駝牛(だぎう)【「うし」と左側に傍訓】
をいだしてあきなふ
なり


猴(こう)
孫(そん)


此国一には抹利刺(まりし)
国と云(いふ)若(もし)他国(たこく)
より。此国をとらんと
すれば。数(す)万の猿(さる)
ありてふせぎ
かへす。応天府より
行(ゆく)事三年に
していたるとなり

勿(ふつ)
斯(し)
里(り)
国(こく)

此国 白達(はくだつ)国に属(そく)
す国人七八十 歳(さい)
まで。雨(あめ)をみざる
ものあり。大なる
江(え)ありて。其みな
もとをしらず。大
水(みつ) 田(た)をひたす。
水のうちより神人いでゝ石(いし)の上に座(ざ)す。国人是を
礼(れい)して。年の吉凶(きつけう)【「よしうれへ」と左側に傍訓】をとふに。
神人わらふ時は吉也
うれへ有時は。わざはひ有。国人山の上に廟(べう)を
たてゝ是をまつる。廟(へう)の上に大 鏡(かゝみ)あり。他(た)国より
其国にわざはひせんとするときは。かゞみにうつ

りてまづみゆと云なり


馬(ば)
香(こう)
国(こく)

此国の風俗(ふうそく)正月
元日二日八日は婆(は)
摩遮(ましや)のまつり
三月十五日は遊(ゆう)
林(りん)のまつり五月
五日は弥勒(みろく)下生(げしやう)
の日七月七日は先祖(せんぞ)のまつり十月十日には国 王(わう)
より首領(しゆりやう)の臣(しん)をいだし。両部(りやうぶ)の兵をわかち。甲胄(かつちう)を
きせて。石をうち杖(つえ)をもつてたゝかふ《割書:今いふ印地(いんち)|なるへし》
たがひに死(し)するをまちてとゞむとなり

瑞(ずい)
国(こく)

此国人ひつじを
やしなひ。田をつ
くる人家(じんか)おほし


亀(きう)
茲(じ)
国(こく)

此国 牛馬(きうは)のたゝ
かふをもつてた
はふれとし。七日
のうちにせうぶ
を見て。その年
の牛馬(うしむま)の吉凶(きつきやう)
をみると云

丁(ちやう)
霊(れい)
国(こく)

此国 海内(かいたい)にあり
国人ひざより下
に毛(け)を生(しやう)じて
足(あし)は馬(むま)のごとく
よくはしるにみ
づから其 足(あし)に鞭【「ふち」と左側に傍訓】
うつ一日に三百 里(り)
を行(ゆく)へし応天府
より行(ゆく)事二年にいたる


野(や)
人(じん)


此国 山林(さんりん)【「やまはやし」と左側に傍訓】おほし人
皆(みな)木(き)のはをくらふ
国人たつたん国と
たゝかふにまけず
となり

蔵(ざう)


此国 城池(しやうち)人家(じんか)有
国のうちに大なる
柳(やなき)の木おほし応天
府よりゆく事一年
三ヶ月にしていたる


點(もく)
伽(きや)
臘(ろう)
国(こく)

此国 城池(じやうち)人家有
国主(こくしゆ)有て。人これ
にしたがふ。大海(たいかい)より
珊瑚樹(さんごしゆ)をいだす。
国人くろかねのあみ
ををろし。さんこ
をとるといへる。此
国のことなるへし

奇(き)
肱(こう)
国(こく)

此国人よく飛車(ひしや)【「とぶくるま」と左側に傍訓】
をつくりて風に
したがひて。遠(とおく)
ゆく。むかし殷(いん)の
湯王(たうわう)の時 奇肱(きこう)国
の人。くるまにのり
て。西風によつて予州(よしう)にきたる湯王(たうわう)其車を。やぶ
りて。国民(たみ)にみせしめす。そのゝち。十年をへて。
東風(とうふう)吹(ふく)とき。奇肱(きこう)の人またくるまをつくりて
かへる。其国 玄玉門(けんぎよくもん)の西一万里にあり

無(ぶ)
□(けい)


此国人 腹(はら)のうちに
膓(わた)なし。土(つち)を食(しよく)
として。穴(あな)にすむ
男女死するもの。
みな土(つち)にうづむ
そのこゝろくち
ずして。百年ののち。又 化(くわ)して人となる。其 肺(はい)の
臓(ざう)くちずして百二十年に又 化(くわ)して人となる
其 肝(かん)の臓(さう)くちずして。八十年に人となる
其国三 蛮(ばん)国におなじとなり


食(しよく)
勿(ふつ)
斯(し)
離(り)

此国 秋(あき)の露(つゆ)を
うけて。日にさら
すに雨(あめ)となる。あ
ぢはひまことに
甘露(かんろ)なり。山の
上(うへ)に天正樹(てんしやうじゆ)有
木(こ)のみ。栗(くり)のごとし。蒲芦(ほろ)と名づく。国人とりて食(しよく)
す次(つぎ)のとし。又生(しやう)ずるを麻茶(まちや)といふ。三年に
して生(しやう)ずるを没石子(ほつせきし)といふ。又 桃(もゝ)。柘榴(じやくろ)くるみ等(とう)
あり。木蘭皮(もくらんひ)国とおなじくゆたかなり

木(ほく)
直(ちよく)
夷(ゐ)
国(こく)

此国 獦獠(かつりやう)国の西にあり。鹿(しゝ)の角(つの)をもつてうつ
はものとし。国人 死(し)するときは。くゞめて。これを
火葬(くわさう)にす。その人いろくろき事うるしの
ごとし。ふゆにいたれば。沙(すな)のうちにとゞ
まりて。其かしらをいだすとなり


臂(ひ)


此国人一 目(もく)一孔一
手(しゆ)【「て」と左側に傍訓】一 足(そく)【「あし」と左側に傍訓】半躰(はんたい)にし
て相(あい)ならびて行(ゆく)
西海(さいかい)の北(きた)にあり


乾(けん)
陀(だ)
国(こく)

此国むかし。尸毘王(しびわう)
の庫(くら)火のため
やかれて。こがれた
る米(こめ)。今(いま)にあり。人
一 粒(りう)を食(しよく)する時
は身ををふる
までやまひなし
となり

長(ちやう)
毛(もう)


応天府(おうてんふ)よりゆく事二年十ヶ月にして
いたる国人 皆(みな)其 身(み)に長毛(ながきけ)あり城池(じやうち)人家 田(でん)
畠(ばた)【「はたけ」と左側に傍訓】あり。其国人はなはた短少(たんせう)【「みじかく」と左側に傍訓」
也 晋(しん)の永嘉(やうか)
四年。中国にきたれり

昆(こん)
吾(こ)


此国よりからかねをいだす。かたなにつくるに
玉をきる事 泥(どろ)よりもやすし。其国 塹( つち)を
かさねて浮屠(ふと)をつくる。屍(しかはね)をおさめまつりて
哭(こく)するを孝行(かう〳〵)とす

黙(もく)
伽(きや)
国(こく)

此国 荒郊(くわうかう)にかゝ
れり。もと人家
なし。むかし犬食(けんしい)
国の莆羅(ほら)𠰢(はん)と
云人 妻(つま)をめどり
て荒郊(くわうかう)に住(ぢう)す。すでに又一 男子(なんし)をうめり。其所に
水(みつ)なし。其子を地(ち)におきて。水をたづぬるに是
なし。其子あしをもつて地(ち)を擦(かく)に。きよき。いづ
みたちまちにわき出(いで)たり。つゐに。大なる井(ゐ)と
なる。ひでりにもかわかず。此 所(ところ)人 皆(みな)かんじて家(いへ)

づくりすとなり


注(ちう)
輦(れん)
国(こく)

此国 西蕃(せいはん)の南に
有 則(すなはち)南天(なんてん)ぢく
の内(うち)也。此国に大
象(ざう)六万あり皆(みな)
其(その)せなかに。家(いへ)
をつくりてのせ
たり。其 家(いへ)のうちに武勇(ふゆう)の兵(つはもの)をこめて。いきの
そなへとす。金銀(きんぎん)を銭(ぜに)としてあきなふ。国人の性(しやう)其
こゝろひとしからず。食物(しよくふつ)およびうつはものみな
別(べつ)々にしてもちゆとなり

集(しう)
利(り)


此国一 目(もく)国の水(すい)
辺(へん)にあり。其人
ひざ。うしろへま
がりくぶし又うし
ろにむかひて一 手(しゅ)【「て」と左側に傍訓】
一 足(そく)【「あし」と左側に傍訓】


波(は)
厮(し)
国(こく)

此国人身の色(いろ)く
ろき事うるし
のごとし。金花(きんくわ)【「こがねはな」と左側に傍訓】
をもつて身に
まとへり国に

城池(しやうち)なし国王(こくわう)はとらの皮(かわ)をもつて。かしらに
かづく。みちをゆくときは籠(かご)にのり。あるひは象(ざう)
にのり肉(しゝ)【「にく」と左側に傍訓】餅(べい)をくらふ。あやしき。たから。もろ〳〵
の薬(くすり)をいだしあきなふなり


南(なん)
尼(けい)

羅(ら)

此国に三 重(じう)の城(しろ)
あり。国人 皆(みな)牛(うし)をたうとみて。
四 方(はう)の家壁(かへき)【「いへかべ」と左側に傍訓】に
牛(きう)【「うし」と左側に傍訓】糞(ふん)をぬるを
上とす。壇(だん)をつ
きてまつる。また牛(ぎう)ふんをぬり花(はな)をたて。香(こう)をもる

あき人を門(もん)のうちにいれず。門外(もんのそと)にしてものを
おぎのるとなり


西(せい)
洋(や)
古(こ)
里(り)

此国南海の浜(はま)に
ちかし蘇枋(すはう)胡(こ)
椒(しやう)珊瑚(さんご)宝石(ほうせき)
おほし。つねに
木綿(もめん)ををりいだ
す。その色(いろ)あざ
やかに。紙(かみ)のごとし。其国人しろき布(ぬの)をもつて其
かしらをつゝみ。金(こかね)を銭(ぜに)としてあきなふ
となり


目(もく)


北海の外(ほか)に人有
一 目(もく)【左に「め」と傍訓】ありて其
おもての中に
つけり其 外(ほか)は
つね人のごとし


義(ぎ)
渠(きよ)
国(こく)

此国大 秦(しん)の西に
あり。其 親属(しんぞく)
死(し)する時は。柴(しば)
をあつめて。是
を火葬(くわさう)し煙(けふり)

立(たち)て雲井(くもゐ)にのぼるを合烟霞(かふえんか)と名づくまた
卒哭(そつこく)【「なく事なし」と左側に傍訓】することなし


懸(けん)
渡(と)


此国 鳥(てう)ほう山(さん)の
西にあり谷(たに)ふ
かくひろくして
他国(たこく)より通(つう)ぜず
但(ただし)縄(なは)を引(ひき)て
わたると也国民
皆石のうへに田つくる又 石(いし)をたゝみて家(いへ)とす。手
をもつて水をのむに。たがひにあひひく。いは
ゆる猿引(さるひき)といふものなり
\f

長(ちやう)
脚(きやく)
国(こく)

此国長 臂(ひ)国と
其 道(みち)ちかし。其
国の人つねに。長ひ
国の人ををふて
海(うみ)に入て。魚(うを)を
取(とる)其 足(あし)ながさ
一 丈(じやう)ありとなり



臂(ひ)


此国大海の東(ひかし)に
あり国人 手(て)を
たるればながく
して地(ち)にいたる。む
\f

かし一人あり海中(かいちう)【「うみのなか」と左側】にしてひとつの布衣(ほい)【「ぬのころも」と左側に傍訓】をひろふ
其たけ一 丈(しやう)にあまる是 長臂国(ちやうひこく)人の衣(ころも)なりといふ


羽(は)
民(みん)
国(こく)

海の東南に羽(う)
民(みん)の国有。岸(がん)
崖(かい)の間に住(ぢう)し
て。まなこあかく。
かしらしろく。手(て)
足(あし)。人のことくにして。其 身(み)に毛(け)あり。又ふたつの
つばさ有て。よく飛(とふ)にとをき事あたはず
子を生(しやう)ずるに卵(かいご)なり

沙(しや)
花(くわ)
公(こう)

此国東南海の中
に有。其人 常(つね)に
大海に出(いて)て闍(しや)
沙国(しやこく)のあき人を
おびやかしうは
ひ取(とる)をわさとす


都(と)
播(はん)
国(こく)

此国 草(くさ)をむすび
て庵(いほり)として。又
かうさくをしら
ず。国のうちに
百合(ゆり)草おほし

つねにとりて粮(かて)とす。鹿皮(ろくひ)鳥(とり)の羽(は)を衣(ころも)とす。
国に刑(けい)の法なし。若(もし)ぬすひとあればぬすみ物
に一 倍(ばい)してあかなふと也


白(はく)
達(たつ)
国(こく)

此国の大 王(わう)は弗必(ほつひ)
烈勿(れつもつ)の子孫(しそん)也
諸(しよ)国より。おし
よせ。此くにをう
たんとするに。
さらにおかされ
ず。この地(ち)もろ〳〵のたからおほし。酥酪(そらく)を食(しよく)とし
少魚(せうぎよ)【「ちいさきうを」と左側に傍訓】をくらふ。しろきぬのをもつてそのかしらをまとふ也

巣(そう)
魯(ろ)
果(くわ)
国(こく)

此国 城池(しやうち)人家(じんか)
有ごこくをうへ
良馬(りやうば)をいだす
応天府よりゆく事
一年七ヶ月にして
いたる


結(きつ)
賓(ひん)
郎(らう)
国(こく)

此国城池人家有
田をうへてなり
はひとす其国
人かしらのかみ
黄(き)にして身の

色(いろ)あかし応天府よりゆく事三年にしていたる


眉(ひ)
路(ろ)
骨(こつ)

此国 内(うち)に城(しろ)あり
七 重(ちう)なり黒光(こくくわう)【「くろひきかり」と左側に傍訓】
の石(いし)をもつて砌(みきり)
とす。番人(ばんひと) あり。
塚(つか)二百 余(よ)ヶ所有。
胡(こ)に是を塔(たう)と
名づく。一 所(しよ)のたかさ八十 丈(しやう)なり。又三百六十 坊(ぼう)あり
国人。皆 毛段(もうたん)を衣(ころも)とし肉麪(にくめん)を食(しよく)とす。金銀お
ほし砂摩挲石(しやましやせき)をいだしあきなふなり

穿(せん)
胸(けう)


此国 人 皆(みな)むねに
あな有くらゐ
たかき者(もの)は棍(つゑ)を
其むねにとをし
いやしきもの。こ
れをかきてゆく
となり


女(によ)



此国東北海のす
みに有国のうち
に男子(なんし)なし。若(もし)
男子ゆく時はか

ゑさず。女みな井(ゐ)の水(みつ)に影(かけ)をうつしてすなはち
はらむ。また女子をうむといふなり


西(せひ)
蕃(はん)
国(こく)

此国一には鬼方(きはう)国と
名づく武丁(ぶてい)す
てに鬼方国を
うつに二【或は「三」ヵ】年に
してたいらけ
たりと云(いふ)。国の
うちに城池(しやうち)なし山林(さんりん)の内(うち)に住(ぢう)す。よく人の
食□をくらふ応天府よりゆく事三ヶ月にし
ていたるなり

可(か)
只(し)
国(こく)

此国 西(せい)蕃のう
ちにあり。もろ
〳〵のたからを
いだしあきなふ


烏(う)
萇(ちやう)
国(こく)

此国人 若(もし)死罪(しざい)
あるときに。こ
ろす事なし。
くすりをあたへ
てのましむるに。
其とがあきら
かにあらはる。其

ことにしたがひて此人をながすとなり


溌(はつ)
枚(はい)
力(りよく)

此国南 海(かい)のうち
にあり国人つ
ねに肉(にく)をくら
ふ又 牛(うし)に針(はり)
をさし其血(ち)を
とりて。乳(にう)にか
きまぜて。これをのむ。其身に衣(ころも)なし腰(こし)より
したにひつじの皮(かわ)をもつておほひとせ
り。此国のならひなり

鳩(きう)
□(けい)
羅(ろ)

此国また西蕃(せいはん)
のうちにあり
宝石(ほうせき)【「たからいし」と左側に傍訓】をいだす


晏(あん)
陀(だ)
蛮(はん)
国(こく)

此国 藍無里(らんぶり)国
より細蘭(さいらん)国に
いたる。其国ざかひ
に有。国人 身(み)の色(いろ)
くろくしてしかも
くろき毛(け)を生(しやう)
ず。又衣なし白布(はくふ)【「ぬの」と左側】
をもつて腰(こし)に
まとふとなり

回(くわひ)
々(くわひ)


此国 城池(しやうち)人 家(か)【「いへ」と左側に傍訓】
あり田をうへて
食(しよく)す市(いち)ありて
あきなふ江淮(こうわい)の
風俗(ふうそく)のごとし


阿(あ)
陵(れう)


真臘(しんろう)国の南に
有人家はなはた
大なり。しゆろの
かわをもつて上
をおほふ象牙(さうげ)
をもつて床(ゆか)とし
柳花(りうくわ)【「やなきはな」と左側に傍訓】をもつて

酒(さけ)につくる。手をもつて物を食(しよく)す。国人の身に
毒(どく)有て。他国の人おなじく宿すれは其 身(み)に
かさを生(しやう)ず。もし女人と交合(かうかふ)する時(とき)はかならず
死(し)すとなり


不(ふ)
死(し)
国(こく)

此国 穿胸(せんけう)国の
東にあり。其人
身くろくしてう
るしのごとく。い
のちながくして
死(し)することなし
つねに丘土(きうど)【「おかつち」】に住(ぢう)
す樹(き)有不 死樹(しじゆ)と名づく是を食するにいのち

ながし又赤泉(せきせん)【「あかきいつみ」と左側に傍訓】あり是をのむに老(らう)【「おひ」と左側に傍訓】せす


登(とう)
流(りう)
眉(ひ)

此国 真臘(しんらう)国に
しよくす。人をえ
らびて。国のあるじ
とす。其国人
みな帛(わた)をもつ
てもととりを
まとふ。又其身に衣(ころも)なしおなじくわたをもつては
だへをかくす。国主(こくしゆ)【「くにぬし」と左側に傍訓】出(いで)て座(ざ)す。登場(とうぢやう)と云 従者(じうしや)皆(みな)
礼(れい)するに手をまじへ。両(りやう)のかたをいだく中国の
刃手(しやしゆ)【「叉手」の誤記と思われる】のごとし

悄(せう)
国(こく)

此国 西蕃(せいはん)に有
国人つねに乳(にう)
を食(しよく)とす人を
ころして又よく
よみがへらしむ

吐(と)
蕃(はん)
国(こく)

吐蕃の名(な)は西(せい)
蕃(はん)をかりて号(がう)
するところ。も
とは。西羗属居(せいきやうしよくきよ)
のもの西蕃(せいはん)より
其ほどちかく。こゑ

をあぐれば。きこゆるがゆへに。国の名(な)とす姓(しやう)は勃窣(ぼと)
野(や)といふ。其 民(たみ)もつとも。勇(ゆう)をこのみて。其中に
すぐるゝものを賛太夫(さんたいふ)と云

回(くわい)
鶻(こつ)
国(こく)

偉元郎回訖(ゐけんらうくわいこつ)
そのさきはもと
匈奴(けうと)なり。大 業(けう)
中にみづから
回訖子(くわいこつし)を名づ
けて。菩薩(ぼち) 突(とつ)
獗(けつ)と云 唐(たう)の徳宗(とくそう)のとき。諸易(しよえき)をたてたり其
本地(ほんち)は哈刺和林(かうしくわりん)にありといふ則(すなはち)今の和寧路(くわねいろ)也

鳥(てう)
孫(そん)
国(こく)

此国人 皆(みな)三 爪(さう)に
して鳥(とり)のごとし
身(み)にながき毛(け)
あり田をうへて
食(しよく)とす

吉(き)
慈(し)
厄(やく)
国(こく)

此国のめくり皆(みな)大
山なり山によつ
て城(しろ)をかまへたり
金銀(きんぎん)にしき等(とう)。
おほし民(たみ)みなゆた
かにして楼閣(ろうかく)

きれいなり。おほく駝馬(だば)をやしなふ。国のうち。きわ
めてさむく。春(はる)のゆき夏(なつ)にいたりてきえず

大(たい)
秦(しん)


西方(さいはう)諸国の中(なか)
に尤(もつとも)すぐれたり
番国(ばんこく)のあき人
此国を麻羅弗(もらほつ)
と名づく布帛
をもつて金字(きんし)
の錦(にしき)ををりいだす。地(ち)より珊瑚碼碯真珠(さんごめなうしんじゆ)等(とう)
のたからを生(しやう)ずなり

印(ゐん)【字面は「卯」に見える】
都(と)
丹(たん)
国(こく)

此国つねに熱(ねつ)し
て冬(ふゆ)をしらず
天に雲(くも)なし。人
の身くろし応天府よりゆく事
一年二ヶ月にいたる

紋(もん)【「ふん」に見えるが誤記と思われる】
身(しん)
国(こく)

此国人身に文(もん)有
て。豹(へう)のごとし。と
をくゆくときに
糧(かて)をたくはへず
居(こ)【左に「ゐる」と傍訓】する所(ところ)金玉(きんきよく)

をかざる市(いち)に出(いつ)る時(とき)は。珍宝(ちんほう)【「宝」字の左に「たから」と傍訓】をもつてあきなふ

莆(ほ)
家(け)
龍(れう)

此国東南海のほ
とりにあり。広(くわう)
州(しう)より船(ふね)をいだし
てゆく事。一月に
していたるべし
国(くに)の大 王(はう)は。もとゞりをとり。かみをけづる。国民(たみ)はみ
な。かしらをそりて法師(ほうし)のごとし。椰子酒(やししゆ)其色あ
かく。あぢはひきわめて佳(か)なり。其国より胡椒(こせう)
沈檀(ちんたん)【ぢんたん=沈香と白檀】丁香(ちやうかう)【「丁子」のこと】白豆蔲(はくつく)を生す

氐(さい)
人(しん)


此国 建木(けんほく)国の西
にあり其国人
おもては人にして
手(て)も又人のごとし
むねより上(かみ)は人
なりといへともそ
れより下は魚(うを)の
      ことし

東(とう)
印(ゐん)
度(と)

此国 西蕃(せいばん)にちかし
国人の性(しやう)きわめ
て勇(ゆう)なりいくさ
にむかひて死(し)する

を利(り)とす。むかし老子(らうし)この国にいたりてひろく道(みち)を
おしゆとなり。応天府よりゆく事五ヶ月にし
ていたるとなり

小(せう)



此国 東方(とうばう)に小(せう)【左に「ちいさき」と傍訓】
人(しん)国あり人の
たけ。わづかに
九寸。海鶴(かいくわく)【左に「うみつる」と傍訓】常(つね)
にかけり【空を飛び廻る】てやゝ
もすれば。人を
くらふ。このゆへに。国人ゆくときは。大 勢(せい)むらがり
つれてゆくと云(いふ)なり

擔(せん)
波(は)


此国 内(うち)に人家城(じんかじやう)
地(ち)あり。田(た)をつ
くりて食(しよく)す。天
気(き)つねに熱(ねつ)し
て地(ち)に草木(さうもく)な
し黒獅子(こくしゝ)【左に「くろきしゝ」と傍訓】をい
だす応天府より
一年一月にして
いたるなり

西(せい)
南(なん)
夷(ゐ)

此国西南の五 姓(せい)
宜州(きしう)より其国
さかひにいたる。国

人かみをけづることなく。足(あし)を跣(はだし)【左に「すあし」と傍訓】にしてゆく。斑(はん)花の布(ぬ▢)
を衣(ころも)としかたなををひて。弓(ゆみ)をたいしてゆく

蘇(そ)
都(と)
勿(ふつ)
匿(とく)

此国 皆(みな)穴(あな)にすむ
あなの口(くち)に家作(いへつくり)
して。戸(と)をかたく
とぢたり。他(た)国
の人其□【「穴」ヵ】の口(くち)に
いたる。あなより
けぶりいづる。こ
れにふるれば。かならず死(し)す。其あなの深浅(しんせん)【左に「ふかきあさき」と傍訓】を
しらすといふなり

鳥(てう)
伏(ふく)
部(ぶ)
国(こく)

此国むかし大に疫(えやみ)す山神(さんじん)【左に「やまかみ」と傍記】これをあわれみて
孔雀(くじやく)を化(け)して。三たび其 地(ち)をついばむに。泉(いづみ)
わきいでたり。人これをのみて。そのやまひ
みないえたりとなり

三(さん)
伏(ふく)
駄(だ)

此国 交趾(かうち)の南に
あり山有 挿(さう)
流(りう)と名(な)つくめ
ぐり数(す)百里なり
其山はなはだ。か
たくして。くろがねのごとし。さらにやぶるべからず。
一方にひとつの穴(あな)あり。これより出入(いでいり)して交趾(かうち)
に通(つう)ず。山のうちみな良田(りやうてん)なり。かうちより此
国をとらんとせし事。度(たび)〳〵(〳〵)なれども其国人
つよくしてとる事あたはず

䫘(けつ)
祭(さい)
国(こく)

此国 皆(みな)平地(ひらち)にして。山なし林木(りんほく)【左に「はやしき」と傍訓】おほし。又田をうへ
てなりはひとす。家(いへ)おほし。国のうちに良馬(りようば)を
いだす。かしらにつねに衣(ころも)をかうふる。応天府(おうてんふ)より
ゆくこと一年にしていたるなり

浮(ふ)
泥(でい)


此国 板(いた)をもつて城(しろ)
とする也王の居(ゐ)
所(しよ)のやねをたら
葉(よう)【多羅樹の葉】をもつてふき。
民(たみ)のいゑをば。草
をもつてふく也。此国に薬樹(やくじゆ)【左に「くすりのき」と傍訓】有。其 根(ね)を凡てせんじて
膏(こう)とし服(ぶく)す。又身にもぬる。しかる時(とき)はたとひ兵刃(へいじん)【「刃」の左に「やひば」と傍訓】
にやぶられても。死(し)なざるなり。死(しゝ)たる時(とき)は棺(くわん)に入て
山中にうづみおさむるなり。二月にそのまつりを
する也七年こえて後(のち)は。まつらず。俗共(ぞくとも)おごり〳〵て

かみに五色(こしき)にいろどりたるわたをもつてかさり。腰(こし)
に花にしきにてかざる也。さて海(うしほ)を煮(に)て塩(しほ)とし。
もみをかもして。酒とす。十二月七日を。正月とす
およそしゆえんの会(くわひ)。つゞみをならし。ふえをふき。鈴(れい)を
かけて舞(まふ)也是をたのしみとす。食物(しよくもつ)をもる器(うつはもの)も
なきにより。竹(たけ)にて。たらよう【多羅葉】をあみ。食(しよく)をもり。中国の
人をあひけいする。酒(さけ)にゑひたるものを見るたびに
すなはちたすけてかへるなり

【蔵板仮名本抜書目録を三段に枠取りして記載あるもここでは一段ごとに編集】
  菊華堂蔵板仮名本抜書目録 《割書:寺町通松原上 ̄ル町西側》            
               菊屋七郎兵衛板元
【上段】
一休目無草《割書:一休和尚|水鑑註》 全
     《割書:さとりの書》
同哥笑記 《割書:新左衛門ト|問答ノ書》六冊
同噺本      五冊
同一代記 《割書:年譜》  二冊
同骸骨  《割書:さとりの書|哥絵入》全
同水鑑  《割書:さとりの書》全
同二人比丘尼《割書:さとりの書》全
山家一休 《割書:烏鶏問答|絵入》 四冊
將棋力草 《割書:作物》  三冊

【中段】
立花大全 《割書:花ノ立様》 全
同 便蒙 《割書:仏前花ノ|立様》 全
同訓蒙図彙《割書:百瓶ノ図|并生花入》 六冊
同時勢粧 《割書:桑原仙渓|筥入》 八冊
《割書:拋|入》立花道しるべ《割書:生花指南|本ナリ》二冊
商人平生記《割書:常ニ心得ノ|事ヲ記ス》全
商人黄金袋《割書:心得ノ事|并故事入》 全
万世家宝 《割書:四民ノ心得ヲ|記ス》四冊
諸礼教訓鑑《割書:小笠原|躾方入》  全
 
【下段】
料理節用大全《割書:料理仕様|并切形能毒入》全
同切形秘伝抄    全
算法重法記《割書:開平其外|割物委ク入》 全
     《割書:小本》
算法闕疑抄《割書:諸物割物|其外不残有》 五冊
改算智恵車《割書:諸商売 大冊|品割塵劫記也》全
万福塵劫記《割書:近道早算|新板》 全
万海塵劫記《割書:早割|割物委く》 全
世宝塵劫記《割書:随分見安く》全
茶湯真臺子《割書:茶湯稽古ノ書也》五冊

【上段】
同指南抄《割書:作物》 三冊
将棋経抄《割書:作物|指方》 二冊
同評判《割書:上手評判入》二冊
同指覚大成《割書:指方上手分》五冊
中古将棋記《割書:駒組結手|小本》一冊
中将棋初心抄《割書:指方駒ノ|行様》一冊
碁立初心抄《割書:初心稽古本》二冊
諸葛孔明風雨考《割書:雨降晴占|折本小本》一冊
夢相善悪霊府《割書:夢善悪占|小本》一冊
呪咀重法記《割書:まじなひ|小本》一冊

【中段】
同筆記 《割書:諸礼躾方|一まき委記》五冊
諸礼当用集《割書:当流諸礼|悉集》三冊
男重法記《割書:諸礼躾方|其外重法集》全
和字大勧抄《割書:仮名つかひノ|書ナリ》二冊
定家仮名遣   全
手尓葉紐【注①】鏡《割書:てには遣ひ様|折本》全
滝本管書帖《割書:正筆》 全
同 消息 《割書:正筆》 全
朝鮮人行列記《割書:品々》全
朝鮮年代記《割書:絵入》 三冊

【下段】
𠌶【「華」の本字】夷通商考《割書:異国行程人物土産|物異魚異獣等委ク》
     《割書:記ス   五冊》
異国物語《割書:外国ノ人物|註釈ヲ加》三冊
高仜【注②】伝 《割書:馬乗様ノ書》二冊
楠一生記《割書:正成一生ノ事ヲ記|絵入》十二冊
本朝諸士百家記《割書:諸国敵討其外|実説ヲ記》十冊
       《割書:ゑ入》
本朝藤隠比事《割書:諸公古人捌方書》七冊
日本鹿子《割書:諸国名所旧跡神社|仏閣道程委クスル》十二冊
奈良名所記《割書:名所旧跡小本|委ク集》全
京之図 《割書:懐中本》 全
大坂之絵図《割書:懐中本|新改正》全

【注① 「紉(音ヂン・ニン)は「糸を合せる。縄をなう」の意があることから、「紐」の意で用いられていると思われる。】

【注② 「仜(音コウ・グ)」は「龓(音ロウ・ル)」に通じる字だそうで、龓の意に「馬に乗る。又牽く」とあることからこの本の内容「馬乗様ノ書」に合致します。】










【上段】
女庭訓御所文庫《割書:躾方用文|重法入》 一冊
女重法記諸礼鑑《割書:躾方女要用ノ事|悉ク集》一冊
女今川 《割書:大字手本》 二冊
同姫鏡《割書:女躾方重法文章|其外委ク記》一冊
女用躾今川《割書:躾方首書入》一冊
女教補談袋《割書:百人一首用文章|躾方消息入》一冊
女用文殊鑑《割書:小野おつう筆》一冊
尊円百人一首《割書:大字ゑ入》全
百人一首大成《割書:註入首書|哥仙ゑ入》全
花林百人一首《割書:女重法品々入》全

【中段】
婦人寿草《割書:婦人一生ノ心得|并養生薬方》六冊
    《割書:等委ク入》
女筆君か世《割書:長谷川妙貞筆|大字手本》三冊
女蒙求艶詞《割書:口上 ̄ニ云様 ̄ニ用文を書|外しつけ方重法入》全
男女口上律《割書:童女諸事口上ノ|云やうを記す》全
     《割書:ゑ入小本》
伊勢物語《割書:首書伝受入|大字》二冊
つれ〳〵草《割書:巻事註入》二冊
万宝福寿往来《割書:庭訓商売往来|古状揃其外品々》全
      《割書:重法入大字大冊》
寺子節用福寿海《割書:大字ゑ入》全
庭訓抄 《割書:平かな付註入|講釈本也》三冊
式目抄 《割書:平かな付註入|講釈本也》二冊

【下段】
絵本倭比事《割書:西川筆手本画|人物草花其外》十冊
     《割書:品々》
謡曲画誌 《割書:諷の絵本也|註入》十冊
絵本初心柱立《割書:草花獣魚鳥|貝虫ノ手本画也》三冊
同写生獣図画《割書:獣物ばかりの|絵也》二冊
合類絵本鑑《割書:武者仙人|唐子唐人》五冊
     《割書:女絵》
世の中百首《割書:守武教訓哥也》三冊
絵本武勇力草《割書:長谷川光信画|武者絵也》三冊
同士農工商《割書:西川筆|四民ノ絵》三冊
同七福対 《割書:福人絵本也》三冊
訓蒙図彙《割書:天地人万物ノゑ本也|但首書註釈入》八冊


【上段】
君か世百人一首《割書:品々重法并|廿四孝入》全
婚礼仕用罌粟袋《割書:婚礼一式心得|諸事悉記ス》二冊
和国玉葛 《割書:賢女かゝみ|ゑ入》 五冊
三味線手引書《割書:三味せん引やう|けいこ本》一冊
      《割書:小本》
源吾秘訣【注】《割書:源氏物かたりノ内|秘事を記》全
諸人一代八卦《割書:年八卦其外|一代ノ事委ク入》二冊
正対霊符占《割書:うらなひの本也|とはすして其品々をさし》一冊
     《割書:寿妙の占の書也小本》
天真坤元霊符伝《割書:生ル年より第七ツ目|支の利生書本也》全
       《割書:外 ̄ニ霊符有》
竹馬八卦抄《割書:平かな八卦本也》二冊
長明道之記《割書:鴨長明》一冊

【注 「决」は「決」の俗字。「決」と「訣」は通ず。】

【中段】
弘法大師一代記《割書:行状をくわしく記|平かな》三冊
水波問答《割書:禅宗さとりノ書》全
一休妻鑑 《割書:さとりノ書》全
大原談義 《割書:平仮名本》二冊
因果物語 《割書:ゐんぐは咄|正三作》三冊
廿三問答    全
浄土座敷法談《割書:平仮名》二冊
西方発心集《割書:源空作|安心ノ書》全
円光大師法語《割書:平かな》全
長明海道記《割書:鴨長明》二冊

【下段】
禅宗法語 《割書:大燈国師法語|平仮名》全
聖一国師法語  全
月庵法語    全
沢庵法語    全
《割書:|塩山》
祓随法語    全
大智偈頌    全
四部彔【録】  全
句双紙葛藤抄《割書:句双紙註也》四冊
矢数年代記《割書:前代よりノ矢数年代|名所年迄委ク記》全
     《割書:卅三間堂図入》
俳諧摺火打《割書:季寄四季絵抄入|小本》全

【左側欄外】
右之通書物何方之本屋にも有之候間御求可被下候其外本類御用被仰付被下候様奉願上候


京都書林
 天明七年【手書き】
   寺町通松原上 ̄ル町西側
         菊屋七郎兵衛
             板行

【左側上の手書き】
丁【?】
  七月四日

【左側欄外】
両六八 ウロナ

【裏表紙】

【冊子の背の写真】

【冊子の天或は地の写真】

【冊子の小口の写真】

【冊子の天或は地の写真】

BnF.

BnF.

【表紙題箋】
風流美人草 西川筆
【番号】266

《印:林忠正》
JAPONAIS 266
衣(そ)通(とをり)姫(ひめ)

しるしも
我かせこか
 くへき
  よひ
   なり
  さゝかにの
蜘の
  ふる
    まひ
  かねて
【フランス語書き込み:1er tirage de kamatsuhara?】



小町
理りや日本なれは
てりもせん
さり
とては又あめか
下とは

もの
思へは
 沢の
ほたる
  も
我ケ
 身
  より
あく
 かれ
  出る
 たま
  かとそ
    見る      和泉(いづみ)
             式部(しきぶ)   

紫式部(むらさきしきぶ)



石山寺に
 こもり
   居て
   げん
    じ
  もの
   がたり
      を
   うつ
    し
   給ひし
     なり


ふけ
 は

 きつ
  しら波
   たつた山
夜半にや
   君か
 ひとり
  ゆく
   らん
【右頁人物】
業(なり)
 平(ひら)

【左頁人物】
井筒(いづゝの)
   前(まへ)

【右頁人物】
山路(さんろ)
【左頁人物】
玉よの姫

【右頁人物】
浄(じやう)るり
 御前(ごぜん)

【左頁】
牛若丸(うしわかまる)
   琴(こと)の
      音(ね)
        を
      笛(ふえ)にて
      あわ
        し
        たまふ

   

【右頁人物】
西行(さいぎやう)法師(ほうし)
【左頁人物】
江口ノ(えぐちの)
  君(きみ)

【背表紙左下にシール】
JAPONAIS
266

【側面の画像か】

【側面の画像か】

【側面の画像か】

【側面の画像か】

BnF.

SMITH - LESOUËF
JAP
141

  松田緑山鐵筆
《割書:銅版|新鎸》極細書畫便覧
  皇都    玄々堂發行 【印】《割書:玄々堂|緑山印》

【横文字の書入・蔵書印・タグなどの入力をどうしましょう】

【見返し 文字無し】

○御内裏図

今都ハ人皇五十代
桓武天皇延暦十三甲戌長岡ノ
宮ヨリ此平安城ニウツサセタマフ
紫宸殿○清涼殿○建礼門○
建春門○宜秋門○承【u23d0e】明門〇
日花門○月花門○内侍所ニハ
三種ノ神祇ヲ納奉ル金玉ノ
鈴ノ声人心ヲ澄無情ノ草
木枝ヲタレ葉ヲシク況ヤ人倫ニ
於ヲヤ○祚年始ノ御儀式
元日四方拜ニ朝拜二日三日ノ
御祝七日ハ七種ノ御粥
白馬ノ御節會十六日
踏歌ノ御節會十九日
舞御覧紫宸殿ノ
前ニヲイテ舞楽アリ
同ツルノ包丁アリ廿日
六十六本ノ左儀長
三月三日御トリ合
四月中酉ノ日賀茂
神社ヘ御葵マツリ
六月十六日嘉祥
七月七日梶ノ御鞠
飛鳥井難波両
家ニアリ同十四日
御燈籠八朔日従

公方様ヨリ
御馬御
献上
九月十一日
伊勢奉幣ハ
吉田神前ニ於テ
是行十月亥日
亥猪十一月廿八日
春日御祭時々
節々御政嘉
□【齢の異体字か 嘉齢延年の語あり】延年ノ
御儀式
ナリ

玄〃堂
 緑山製

【下部書入あり】palace de Mikado Kioto

春の初のけさう文【①】その売声をきゝてさへよならす吉事
ありといへりまして此文をもとめて見る人は其年のやくを
はらひ開運はんしやう【繁昌】家内和順の守と成へしまた
女子は此文を求てひめ置給へは愛敬の守と成て宜敷縁を
結ひ給ふへしとく〳〵求てよき幸を得玉ふへし
大平の御代に出たるけさうふみ

【左の枠内】
鳥も【りヵ】鳴あつまのそらのあかつきにほふ
初日もいとのとやかにたるい【注②】の氷もふとけ
てそよはる風の音つくるにはこす【小簾】の外【と】【注⑨】こ
もる梅か薫け【気:匂い】も得ならぬ【注⑩】心地し侍る
  春日野ゝ雪まかくれの初若な【注③】
   つみて千とせのすへを契らん
きのふまて冬こもりしてなには津のうたも
けふなむくちひるをひらきそめ【初め】ぬれは天下
なへてのはるよとももいわひせつくもうくひ
すの声をもろともに君か八千代をしたひ
参らせつゝ七草のかす〳〵をおもふこゝろは
ふしのねにふりつむゆきのたゆるとき
なくむさしのゝ霞のかきりを知らされは
まさきのかつら【注④】長くちきりてむといのり
ぬるをあさ沢水【注⑤】のあさ〳〵と【注⑥】思し給はて
とくかへりこと【注⑦】をまつ【松】たてる門に鶴亀の
よはひをそへてまうさせ給へかしく
  む月けふ
よつのとき【注⑧】さかえ   八束穂の
  させ給ふ君へ        よね雅ゟ
      まいる


【注① 懸想文=江戸時代、正月の元日から一五日の間に京都の町などで売られたおふだ。洗い米二、三粒を包んだ紙、または花の枝につけた紙に、恋文に似せて縁談、商売、寿命などの縁起を祝う文が書いてある。】
【注② 垂氷=つらら】
【注③ 初若菜=初めて摘み取った若菜】
【注④ 「かづら」は蔓草の総称。「まさき(柾)の蔓」は「ていかかずら」または「つるまさき」の異名。ここでは「長く」を導く序詞】
【注⑤ 浅沢水=川の浅瀬。ここでは「あさあさ」を導く序詞。】
【注⑥ あっさりとして軽いさま。】
【注⑦ 返答.返書。返歌など。】
【注⑧ 春夏秋冬の四時】
【注⑨「こす(小簾)のと(外)=御簾の外。】
【注⑩ 得ならぬ=一通りでない。なみなみでなく優れている。】




初子之日
野外
御遊之圖

むかし初春(はつはる)の子の日(゛)には大内(おほうち)の北の野に
みゆきまし〳〵て小松をひきわかなを
つみて御遊(ぎよゆう)ありしなり
公事(くじ)根源(こんげん)に曰く
朱雀院(しゆしやくゐん)圓融院(ゑんゆうゐん)三條院などの御時
にも此御遊はありけるにや中にも
圓融院の子ノ˝日【注】させたまひけるは
寛和(くわんわ)元年二月十三日の事なり路(みち)の
ほどは御車なりしが紫野(むらさきの)ちかく
成(なり)て ゛上【注】皇(くわう)は御馬にめされ奉り
左右大臣以下皆 直衣(なをし)にて殿(てん)゛上【注】人には
布衣(ほい)なり幄(あく)の屋(や)をまうけ幔(まん)を
引めぐらし小 庭(には)となして小松を
ひしと植(うへ)られたり籠物(こもの)折(をり)びつ桧破子(ひわりご)
やうの物を奉る人ゝ和哥(わか)を献(けん)ず《割書:下畧|》
或曰子は北方に配して一 陽(やう)来復(らいふく)乃
候(こう)とし又 釈氏(しやくじ)に北倶廬(ほくくる)【庐は俗字】州(しう)の人の
千歳(せんさい)を経(ふ)るといへる説によりてまづ
大君(おほきみ)に其(その)齢(よは)ひをあやからせ奉らん
為此日の御遊を催(もよほ)されしになん

 ねのひしにしめつる野への
     ひめ小まつひかてやちよの
   かけをまたまし   清正

  みゆきせし北野の春の
          植小まつ
    引もかしこき
     ためしなりけり     千蔭

【注 子ノ日の「日」や「上」に濁点「゛」がふられています。閲覧ではうまく表示されず残念。「子の日」は「ねのび」ともいうので濁って読ませたくて漢字の方に濁点をつけたものと思われる。「゛上」も同じ。】

                    春燈齊 鐫

高砂
能之
  圖

【下部に薄くアルファベットの書入あり】

                  安宅能之圖
                      春燈齊鐫

       春燈齊 鐫

猪の子餅の由來
摂津國(せつつのくに)能勢郡(のせごほり)木代(きしろ)切畑(きりばた)の両村(りやうそん)より毎年(まいねん)
禁庭(きんてい)へ調進(てうしん)し奉(たてまつ)るこれを御玄猪餅(おげんちよもち)の調貢(てうぐ)
といふ伝(てん) ̄ニ曰 ̄クむかし 神功皇后(じんくうくわうこう)三 韓(かん)を征(せい)し
御 凱陣(かいちん)のとき 皇太子(くわうたいし)《割書:応神(わうしん)|天皇》を供奉(ぐぶ)し給ふ
こゝに香阪(かうはん)王《割書:麛阪(かこざか)王|ならんか》といふ無道(むとう)人あり国家(こくか)を
奪(うばゝ)んとて軍勢(くんぜい)を催(もやふ)し 皇后を滅(ほろぼ)さんとて所々にて挑【左ルビ:いと】みたゝかひ此山
中に追駆(をいかけ)奉り既(すて)に害(がい)し奉らんとする所に猪(ゐのしゝ)多く出て香阪王を喰殺(くひころ)し
永く怨敵(をんてき)亡(ほろ)びけるこゝに於て 皇后太子ともに危難(きなん)を免(まぬか)れさせ給ふ天下 静(しづ)
まりて後(のち) 応神天皇の御代(みよ)より毎歳(まいさい)亥月亥日を祝(しゆく)し給ひ吉例として長く
御亥猪餅(おけんぢよもち)の供御(ぐご)を調貢(てうぐ)すべき詔(みことのり)ありて代々の 帝へ変らず三ツの亥共に捧(さゝ)げ
奉る也然るに中比に至り兵乱(へうらん)に依(よつ)て中絶(ちうぜつ)しけるを百八代 後陽成(ごやうぜい)帝の文禄
二年 再貢(さいぐ)ありて先規(せんき)の如く今に於てかはらずと□□
拾芥抄曰十月亥 ̄ノ日食_レ ̄ヘバ餅 ̄ヲ除_二 ̄ク萬病_一 ̄ヲ 下学集云 豕(いのこ)は毎年十二 子(し)を産(うむ)閏月 ̄ニハ
十三子を産故に女人 羨(うらやみ)_レ之 ̄ヲ 十月 豕(ゐ) ̄ノ日を祝(しゆく)すゆへに豕子と名づく十月を用るは
豕(ゐ)の月なるゆへに此月此日を用ゆ 委くは摂津名所図会 ̄ニ見へたり

BnF.

【表紙】
【題箋】
《題:抱一珍画集》

【資料整理ラベル 上部】
3
【同 下部】
JAPONAIS
 610

【右丁】
【『古今集』巻第十の歌】
    やまし        平あつゆき
時鳥みねの雲にやましりにしありとはきけと見るよしも
                       なし
    からはき       よみ人しらす
うつせみのからはきことにとゝむれと玉のゆくゑを見ぬそかな
                          しき
    かはなくさ【「く」の左肩に朱の濁点】  ふかやふ
うは玉の夢になにかはなくさまんうつゝにたにもあかぬ心を
    さかりこけ【「か」の右肩と「こ」の左に朱の濁点】  たか む(ン)こ(ス)【「スは朱】のと し(利春)はる《割書:高向氏》
花の色はたゝひとさかりこけれともかへす〳〵そ露はそめける
    にかたけ【「か」の右肩に朱の濁点】  しけはる
命とて露をたのむにかたけれは物わひしらに鳴のへの虫

【左丁】
【題箋】
《題:抱一珍画集》

【資料整理ラベル】
【上部】
3
【下部】
JAPONAIS
 610

【白紙に資料整理ラベル】
JAPONAIS
 610

【右下に朱印】

【白紙 上部に手書きメモ】
Japon 610【下に波ガッコあり】

【雷神 絵】

      抱一筆【陽刻落款印】雨華庵主

      抱一筆【陽刻落款】雨華庵主

【風神 絵】

雨花抱一筆【陽刻落款印】

     【鶉 絵】

【公卿としもべ図】
     【陽刻落款印】

抱一筆【陽刻落款印】雨華庵主
【おかめ風女性の図】

【騎乗の貴人と童の図】
抱一筆【陰刻落款印】軽挙

【蛙の図】
【陽刻落款印】抱弌之印

【鶏の図】
 一年之謀在元日
 一日之謀在雞鳴
初とりや先金遣ふ
    はかり事

    抱一書画【陰刻瓢形落款印】雨華

【紅葉の図】
      抱一筆【陽刻落款印】雨華庵主

【騎乗の武人の図】
    抱一筆【陰刻落款印】軽挙

【禽鳥図】
     【陽刻落款印】雨華道人【衟は道の古字】

【竹に雀図】
     抱一筆【陰刻瓢形落款印】雨華

【干し柿図】
   抱一筆【陰刻瓢形落款印】雨華

【樹木図】
  【陽刻落款印】抱弌之印

【布袋図】
    抱一筆【陰刻瓢形落款印】雨華

【大国図】
   抱一筆【陰刻瓢形落款印】雨華

          【陽刻落款印】





このうちも
  猶
   うらやまし
    やまからの身
        のほと
       かくす
      夕かほのやと

【果物図】
   【陽刻落款】

【猫之図】
    【陽刻落款印】

【植物図】

      雨花抱一筆【陽刻落款印】暉真

【水仙図】

       倣
       趙子固法 抱一【陽刻落款印】抱弌
                      之印

【陽刻落款印】抱弌
        之印

うこかぬも動も
おのかこゝろかな
まさしく澄る
水のうへの月

       抱一兼併詠【陰刻瓢形落款印】雨華

【白紙】

【右丁 赤色紙 文字無し】
【左丁 『古今集』巻第十の歌】
    かつらのみや       源ほとこす 《割書:忠|》【朱字】
秋くれと【ママ】月のかつらのみやはなる光を花とちらすはかり【下部欠損】
    百和香(ハクワカウ)【振り仮名は朱字】  よみ人しらす
花ことにあかすちらしゝ風なれはいくそはくわかうしと【下部欠損】
    すみなかし        しけはる
春かすみ なかし(中之非_レ長非_レ汝)【「なかし」の文字中に朱点三つ】かよひちなかりせは秋くるかりはかへらさらま【下部欠損】
    をき ’火【火の肩の点を朱にて濁点に】  みやこのよしか 《割書:都良香》
なかれいつるかたゝに見えぬ涙川をきひ【「をきひ」の文字中に朱点三つ】んときやそこはしら【下部欠損】
    ちまき          大江千里
のちまきのをくれておふるなへなれ は(と)【「は」の左に見せ消ち線】あたにはならぬたのみ【下部欠損】

【裏表紙】

BnF.

【表紙】


【右肩にペンで番号】
No 6

【中央に仏語内容メモ】
No 6【見せヶち注記を書きます】
Siki mon dsau..e【織文圖會】
Dessins de modèles
1818 4 vol. gr 8è(?)
N° 6a Itaballements de chasfe (
N° 6b Cérémonie
N° 6c Etoffes de soie faconnée et ……..(….?)
N° 6dIt…..de … pour dames.



【左に題箋】

織文圖画會 《割書:狩衣》【図書館印】迦地

【白紙】

【白紙】

【白紙】

禮服之𩔫
織文圖會
本間氏蔵

【白紙】

【上段の圖會】
   狩衣之部

文紗《割書:地薄ク文厚キヲ云|又唐ノケン文紗ヲ用|シ㕝モアリ》


【下段の圖會】

顕文紗《割書:地厚ク文薄キヲ云|此文シヤケン文紗ノ|㕝説【言+兊】アリトイヘトモ|今暫俗称ニ随フ也》

【上段の圖會】

綾《割書: 生糸ニテ織練テ染也》


【下段の圖會】


浮線綾《割書:経?【糸+坚】生緯練文蝶丸也|或ハ染テ着スルモアリ|又縮線綾?【糸+麦】熟線綾?【糸+麦】等|ノ名アリ》