【頭部枠外】文久三年癸亥十一月大新板 火之用心【黒地に白抜き文字】 大阪/今昔(むかしよりいままで)三度の大火【表題 四角い枠取り】 【上段】文久三亥年大火【四角で囲む】 細見/本(ほん)/調(しらべ)【四角い枠取り】 天保八酉年大火《割書:大坂焼と|いふ》【四角で囲む】嶋ノ内ノ部【四角で囲む】 享保九辰年大火《割書:金屋妙智|焼といふ》【四角で囲む】 【中段】心得の為 世に火はおそろしきものとは しりなから足にてふみけす人 多し 大に心得ちかひなり 火は陽にして木火土金水の 司なり火は実に有用の随一 にして勿体なきものなり ただ大切にして火に礼をいふ 心得にて始末をすればた【起」ヵ】る 火災をまぬがるべし よくゝ人々の心を合せて 火を用ひ給ふべし火災は ただ火を麁末にするもの を天よりいましめ給ふなり よく〳〵心得給ふべし むかしより今年にいたる迄 かゝる大火は三ヶ度之ゆへに 今三ツを図して出すものなり 【下段】【一番右】 文久三癸亥年十一月廿一日 夜五ツ時新町橋東詰北入所より 出火いだし候所西風はげしく して東へ一時に焼行夫より北西風に なり巽【東南】へうつる又西南に風かわり 丑寅へやけゆく事はげしく夫より 上町へ飛火にて火勢ますゝはげしく せんば上町とも一事にもへあがり誠に 大坂中火となるやう相見へ候まことに 老若男女のおどろき筆紙につくし がたし終には大坂東のはしまて焼失仕候 見る人大坂市中のそうどふさつし給ふべし 同月廿三日昼四ツ時に火鎮り申候   町数 百五十二丁   家数 四千七百余   竈数 二万五千余   土蔵 三百二十余 神仏 八十余 死人四十六人 けが人数しれず 【右から2番目】 住吉より大坂にてはかゝる大火めづ らしき事也依而後世咄しの種且は 火の元心得のためにもならんか【本文では歟。「や」の読みもある】と 一紙に図して諸人の見覧にそなへ たてまつる 【右から3番目】 天保八酉二月十九日朝五ツ時 天満より出火風はけしくして 所ゝ々へ飛火いたし上町御城辺まて 焼失北せんば長者町大家 処々焼失夫より南え【(助詞の)江】本町まで やけ燃【然】るに火事場にて何者とも しれずあやしき風俗にて大坂市中 あれ廻り人々の昆【ママ】雑いわんかたなき 次第それゆへ諸国在々へ逃【迯】る事 実に蜘の子をちらすがごとく にて日本国中に其節は此大火の 噂さはかりなり 実に希代の大火大そうどふ也  町数  百十二丁  家数  三千三百八十九軒  かまど 一万八千五百七十八軒  土蔵  四百十一ヶ所  穴蔵  百三十ヶ所  寺社  三十六ヶ所  死人 怪我人数しらず 【右から4番目】 享保九年辰三月廿一日之ひる 九ツ半時南堀江橘通り弐丁目 金屋妙智といふ人の宅より出火いたし 南風はげしく新町へやけ出終に北野迄 焼抜【祓の俗用】西はあみた池迄東は木綿はし辺 にて火鎮り西横堀北へ焼行博労町 北がはへ火移り夫より北は船場のこらず 焼失又天満へ飛火川崎迄中ノ嶋  堂嶋西天満東天満のこらず焼失 廿二日朝北東風になり上町へ飛火致 追々北風はげしく上町一面に成それより 高津へ移り嶋ノ内一円【円(の旧字体)】それより道頓ほり 芝居へ飛火いたし火先いくつにも相なり 難波新地長町不残焼失す 其節大坂四百八十余町之内四百丗町余 実に大坂初《割書:マッテ|》の大火にて親子兄弟 はなれ〴〵となり五畿内は勿論丹波 丹後伊賀伊勢江州播磨淡州等へ        にけ誠に其なんぎいわんかたなし  家数  弐万八千余  かまど 九万八千七百余  土蔵  弐千八百余  死人  凡三万余人  けが人 十二万余