《題:地災撮要《割書:地震之部|》十一、十二》 《題:地災撮要《割書:地震之部|》巻之十一》 【白紙】 地災撮要 《割書:地震之部》 巻之十一 一地震の来る其初神速甚し震動更になし唯一 丈許揚りて其まゝ落されたりと覚へしか直に 家居傾へたり故に人々戸を出る間なし偶々辛 ふして戸を出たるもの却て屋瓦の為に打たれ て創蒙りし多し且戸を出る頃は大方地震は止 みたりとそ其迅速想ふへし去年駿州にて地震 に逢へしものゝ話に地震の来るは海中にて大 濤の来るを見るか如しと云へしとそ 一地震あるや否井水皆増りて柄杓にて酌むへ 【右丁】 きほとになりて且臭氣ありて食にくし 一人家の中棚々江【「え」。助詞の「え」として仮名使用。】載せおきし什器類都て西方 なるは落たれ共東の方なるは落す地震の来る 西より東へゆれたるにやと或人語りぬ 一地割れて泥を吹きしは千住以南の事なりと いふ 七修類槀【稾の誤記】云菽園雜志載地震極大時最多然皆夜 也予年七十吾杭地動凡三次帷一次有聲亦皆夜 時豈非地乃属陰耶 【左丁】    按志疑記誤 【右丁】   地震行 安政乙卯十月二日 不_レ遇_二大災異_一。不_レ知_二眞敬戒_一。至_二其土裂其室焚_一。満者知_レ 損怠者勵。是歳十月之初夜二更驀忽大地聲奔騰。 億萬人家如_二朽壌_一。化手一弄皆分崩。堂襟不_レ見見_二堂 背_一。斷柱為_レ薪薪逾積。警鐘連發火四起。天地在_レ鎔金 赩赫。貴官徒歩不_レ問_レ馬。脱_レ身既難况滅_レ火。餘殃及_レ池 多_二頳魚_一。残㷔入_レ殿有_二赭瓦_一。耳聞走脚偕衝撞。眼看横 屍相疂䉶。極樂國俄變_二 地獄_一。休明世即如_二乱邦_一。天漸 曙時火漸熄。四顧惨澹凝_二愁色_一。餘怒未_レ霽時一震。貴 賤席_レ 地不_二寧息_一。我覓_二吾廬_一安在哉。五畒茫茫吹_二燼灰_一。 【左丁】 辛勤卅載付_二 一炬_一。残書破硯隨_二炎埃_一。依_二 人廡下一食_二 人 食_一。竟境何曽免_二偪仄_一。平生口體頗精养。到_レ此粗惡改_二 前轍_一。我聞明曆之火人死過_二 十萬_一。又聞元禄之震大 城橋板斷。今年之災人死卄萬城崩幾䖏。大震大火 併為_二皕年間一大患_一。剰見去歳東海海翻東土裂。數 百里田半陥没。相豆駿遠参五州。民力困兮民財竭。 吁嗟乎吾儕小人何說_レ艱。但願天下之志士開_二愁顔_一。 巢由不_三曽談_二経濟_一。自有_三■【䕫】龍列_二朝班_一。聊為_二家國_一越_レ爼 告。亦如_二老人結_レ草報_一。破_レ例正要濟時方。府庫未_三必就_二 虚耗_一。君不知周幽王二年。一時大震及_二 三川_一。是陽不 【右丁】 能_レ鎭_レ陰也。伯陽之議豈不_レ然。然則天意可知耳。以_レ德 庇_レ 下固其理。大贍_二斯民_一以_レ此伏_レ罪非_レ可_レ辤。韓韶不_レ云_二 乎含_レ笑入_一レ 地矣。今在_レ位者須_レ念_レ之。姝姝小惠何足_レ施。 人配_二 天命_一則轉_レ禍而為福。得_レ非_三大災以固_二太平基_一。       枕山人題扵三枚橋炎餘地 【左丁】   地震行          齊藤拙堂 天柱折地維裂城復隍陵變谷禍發関西及関東彼 蒼者天何太酷余寓江門觀此凶歳維乙卯月孟冬 百萬人家盡傾覆祝融佐霊燄上衝屍首縦横都下 偏載鬼百者弃幽竁生無室廬死無槥一死一生誰 弔唁貴賎糧食如臨軍上下東装如赴戰艸屋布障 庇凮雨陋如陣営孰擇便不似平生■【覺覮】豪奢彫刻粉 丹飾室家衣必綾羅食甘脆珠礫金塊俗相誇本是 忘乱狃至治㴞々天下人如醉一朝驚覚䌓蕐夢不 但地裂恐天墜杞人之言或省悟何知地妖非天意 【右丁】 君不見尭水湯昇亦天殃挽回天心致休祥即今只 要補天手轉禍為福豈無方嗚呼轉禍為福豈無方 【左丁】 井元行賢乎己云/黛(マユスミ)者新吉原街佐野槌樓名娼也 初称阿兼年甫二歳別父母受他人鞠育八歳被鬻 入娼家主人甚謹既長姿色艶發使見者魂蕩神迷 安政乙卯十月二日夜二更関東地大震江戸甚矣 至宇崩壊火後發殃及他魚壓死者以万数烏官■【茸ヵ】 厰使貧民居之免飢栖宿戴恩者数千名黛聞之鬻 首飾淂三十金貿行平/鐺(ナベ)千百六十餘箇施之扵厰 内其意出扵遇幼時所離之父母且修情客之冥福 烏非要名求報所為也事聞於官に乃賜銀二枚褒 之旌之扵是黛名動東都 【右丁】    記江都地震 断吾手断吾足梁棟壓身脱不猛火炎々咫尺逼甲 苐丙舍千万間礎飛碎崩如山烈火俱焚崑岳玉鉄 椎忽破斉后環夜深悲風吹不静行人䰟怯青燐影 ■【骨+夜】骼載出幾輀車街頭十日鬼氣冷君不見城中人 衆地難勝戴天履地ニ不手一朝發怒逞酷虐■【号+乕(=虎)=號】泣聞 天々亦驚叶嗟哉父表子に表母鬼哭声雜人哭声 【左丁】   地震行    釋清狂 名月性 周防人    或所著震災記曰大城譙門及櫓楼崩半藏    四谷諸門大破其他楼櫓雉堞悉剥落豪塹    石䂦崩者無慮数行又曰所在火起凡五十    八所又曰死亡者不下三十万人又曰深川    及小川坊夜既深有物啾々如泣如訴至暁    不絶人以為寃鬼哭声吉原之上多見陰燐    盖亦寃狂之氣所    結故詩亦及之 維歳安政乙卯冬十月二日夜二更武州江戸征夷 府地震延災及柳営城復千隍陵谷變梁木壊乎大 厦傾何者祝融来助虐煙㷔漲天ニ犳行君臣父子 不相救轉輾呼■【号+乕(=虎)=號】陥火阬壓死大凡三十万惨扵白起 坑降兵君不見昔時周室王綱弛蠻夷猾夏迫東京 【右丁】 天遣変災頻警戒皕𠦜二年幾変呈地震者五山崩 二聖人特茟載麟経今也四夷交侮我將軍猶未議 親征所以変災相継至山崩地震海波驚三四年間 十幾変天之警戒太分明■【亦+火=奕?】理陰陽任責者姑息和 戎飾太平堂ニ帝國征夷府甘與犬羊城下盟皇天 后土諸神祗赫斯震怒壤金城嗚呼退震災徒壓死 寧如進戦取功名縦使吾軍無大利一戦何傷卅万 生間説満城頽屋下碎首断臂乱縦横月黒天寒雨 雪夜到處啾々鬼哭聲 【左丁】 冨士降砂記 全在武江日告客云夫希有哉士峯去絶頂三千丈 林木陰欝處忽焼頺飛石砂於國郡旬餘田宅寺宇 深埋丈餘人民失居悉餓死而為荒村余同業所感 之其人也語畢涙沾巾客為謝云信希有哉士峯事 我生来好事有異必記未有如此異聞請師為我記 焉余不暇辞漫筆記云 夫雲居山乗光禅寺在于冨士之東數里之地余居 之于時宝永四年冬十有一月二十三日之暁大地 震動動揺響㔟倒門戸譬過海之舟如逢波濤之激楊 【右丁】 至辰時西南鳴動而如百千萬雷聲頃刻而黒雲覆 一天日中猶暗夜空中雨物大如蹴鞠落地破裂忽 出火㷔点灯燭見焉形如蛇骨黄色而有臭氣尚軽 或火㷔焼茅屋飛石殺人民信謂三哭壊空時到男 女老少㘴佛前髙聲唱佛名慇懃誦聖経唯要臨終 速至晡時雷声自東西至于中途鳴声甚如裂頭脳 聞之数十里之中唯如在已屋上弾指頃而亦東西 去頻雨冰石大如桃李耳之有塩味重如金鐵至二 十四之暁雨砂尚微而雷声亦微也仰天雲間初見 星光識天未落地雖然石砂埋屋棟縦使有天地人 【左丁】 民何以存生命猶欲速死至日中有微明猶月夜朦 ■【月+竜=朧】男女患飢渇要井邉難得臨大河要濁水潤口唇 至二十五日雨砂尚微少而捨燭視親子面前日行 他方者来告家人云士峯火災及困危鄰郡尚在平 安土地生民聞之蘓息捨家財不顧重噐佝僂提携 而走他邦欲存生命嗚呼哀哉禽獸也被打雨石無 可飛走飢渇斃至二十六日雲間現日光雨砂如微 塵間有李實斯日始看士峯焼灰積為一山至十二 月初八日雷声盡雨砂尚止天氣如故因降釣㑒吊 兆民鑺【钁ヵ】頭■【蜀+斤=斸?】地以量深浅近村遠郷平地山澤自有 【右丁】 浅深冨麓之一村者平地一丈二尺其山岸以人力 難量余寺者去冨麓村纔【わずか】三里亦去士峯焼穴九里 石砂深厚平地三尺五寸山岸深澤及一丈二丈五 丈七丈嗚呼士峯焼頺希有哉人民辛苦又大哉余 雜話而談人草書而示公九牛之一毛也到曲暢旁 通縦使孟軻氏之好辨班固氏之採筆何盡記焉哉 嗚呼士峯火災夫大哉 維時正德二年仲春龍雲比丘関叟明山重記焉 【左丁】 大久保家記曰宝永四年丁亥十一月廿三日冨士 山天火ノ災ニ依リテ頂上ヨリ燃上リ其焼砂凡 廿里四方ヘ降散ス十二月初旬ニ及マテ降継キ 又小田原領砂降積ル見分ノ次弟《割書:中畧》 北久原村《割書:砂三|尺斗》家々軒際マテ砂溜リ此ヨリ十里 新田マテ三里ホト十里木ヨリ冨士焼出ノ所マ テ二里ホトアリ佐野瀬木川ノ水御殿場二橋西 田中六十町ノ用水砂ニ埋リ水ナシ仁杉村《割書:砂七|尺溜》 百姓家軒マテ降積リ家ノ内一砂押込家二三軒 潰ル水土野新田《割書:砂七|尺》百姓家根斗少シ見ル須走 【右丁】 村《割書:砂一丈|溜ル》高札場砂ニテ埋マリ札覆ノ屋根斗少 シ見ル浅間御社鳥居半分過砂ニテ埋リ随身門 屋根斗少シ見一幣殿ハ砂ニテ埋リ見ヘス拜殿 ハ屋根斗少シ見ヘ御本社軒際マテ埋ル《割書:中畧》御 厨上郷ノ分砂強ク降溜ル所ハ青竹ノ葉少シモ 是レ無ク総シテ竹木莖斗ニ成リ砂多ク溜リ村 々水是ナク遠方ヨリ汲用ユ同五年正月小田原 領砂降夥シク田畑荒地トナルニ依テ願ノ如御 代官所ニ還シ替地ヲ賜フ高五萬六千三百石餘 《割書:下畧》 【左丁】 其蜩翁艸曰宝永四丁亥十一月廿日頃ヨリ江府 中天氣曇寒甚シク朦朧タリ廿三日午時分イヅ ク共ナク震動シ雷鳴頻ニテ西ヨリ南エ墨ヲヌ リタル如キ黒雲靉ヒキ雲間ヨリ夕陽移リテ物 スサマジキ氣色ナルガ程ナク黒雲一面ニ成リ 闇夜ノ如ク八時ヨリ鼠色ナル灰ヲ降ス江府ノ 諸人魂ヲ消シテ惑フ所ニ老人ノ曰三十八九年 以前カヤウノコトアリ是ハ定テ信州浅間ノ焼ル 灰ナラント云ヨツテ少シ心ヲ取直シケルニ段 々晩景ニ至リ夜ニ入ルニ随テ弥強ク降リシキ 【右丁】 リ後ニハ黒キ砂大夕立ノ如ク降来テ終夜震動 シ戸障子ナドモ響キ裂暗キ事昼夜ヲ分タズ物 ノ相色モ見ヱ分ネハ悉家々ニ燈ヲトボシ往来 モ絶々ニ適通行ノ人ハ此砂ニ觸レテ目クルメ キ怪我セシモ有トカヤ諸人何ノ所以ヲ知サレ バ是ナン世ノ滅スルニヤト女童ハ啼サケブ翌 日ニ及ヒ冨士山焼ノヨシ注進有テコソ始テ人 心地ハツキニケル砂降積ルコト凡七八寸所ニヨ リ一尺餘モ積リシトゾ畢テ砂ヲ掃除ストイヘ トモ板屋杯ハ七八年ノ後マテ風ノ折ニハ砂ヲ 【左丁】 吹落シ難義ナリシヨシ右ノ刻駿州冨士郡ヨリ 注進ノ趣  咋廿二日昼八時ゟ今廿三日迄之間地震間も  無く卅度程ゆり民家夥敷潰れ申候扨廿三日  昼四ッ時ゟ冨士山夥敷鳴出冨士郡一面に響渡男  女絶入仕者多候へとも死人は無御座候然處山上ゟ煙夥  く巻出し山大地共に鳴渡冨士郡中一面に煙渦  巻候故いか様之訳共不知人々十方を失ひ罷在候  昼之内は煙斗相見へ候處夜に入候はゝ一遍に火㷔に  相成候其以後いか様に成候哉不奉存候先石焼出之 【右丁】  節不取敢御注進之為罷越候故委細之儀は跡ゟ追々  可申上候 右注進ノ後弥火氣熾ニ成リ土砂石礫ヲ吹飛シ 近国廿里四方ヘ沙石ヲ降ラセ中ニモ伊豆相模 駿河ハ所ニヨリ二丈餘モ降積リ堂社民屋モ埋 レ田畑ノ荒アゲテカゾヘガタシ日ヲ経テ稍ク 焼鎭ヌ其土砂ヲ吹出セシ所穴トナリ其穴ノ口 ニ大ナル塊山ヲ生ス世俗呼デ宝永山ト號ス本 街道ヨリ眺レバ右流ノ半腹ニ彼塊出来テ瘤ノ 如シ三国無雙ノ名山ニ此時少キ瑕ノ出来シコ【ヿヵ】 【左丁】 恨ナレ 【右丁】        東京図書舘長手嶋氏ノ嘱託ニヨリ        写【冩】生に命シテ之ヲ謄写【冩】セシム時ニ        明治二十一年十一月                関【關】谷清景誌 【左丁 文字無し】 【白紙】 《題:地災撮要巻十二《割書:地震之部|》》 地震撮要    巻之拾二 岸岱(落款)(落款) 頃京師地大震而数日不止東隴庵主 人袖小記来而請余題言見其記今右 評説画挙此矣因写仁和年間之徴 以代題言聊塞其責云爾 文政十三年庚寅秋七月       卓堂岸岱    地震考 文政十三庚寅年七月二日申の時はかりに大に地 震ひ出 ておひたゝしくゆり動しけれは洛中の土蔵築地など大 にいたみ潰れし家居もあり土蔵の潰れしは数多ありて 築地高塀なとは大かた倒れ怪我せし人も数多なり昔 はありと聞けと近く都の土地にかくはけしきはなかり ければ人々驚きおそれてみな〳〵家を走り出て大路に 敷ものしき仮の宿りを何くれといとなみ二三日かほどは家 の内に寝る人なく或は大寺の境内にうつり或は洛外の 川原へうつり西なる野辺につどひて夜をあかしける かくて三日四日過ても猶其名残の小さき震ひ時々あ りてはしめは昼夜に二十度も有しが次第にしつまりて 七八度ばかり三四度になる事もあり然れともけふ既に廿 日あまりを経ぬれどなほ折々すこしづゝの震ひもやま で皆人々のまどひ恐るゝことなり世の諺に地震ははし めきひしく大風は中程つよく雷は末ほと甚しといへる 事をもてはしめの程の大震はなきことゝさとしぬれと なほ婦女子小児のたくひはいかゞとあんしわつらひてい かにや〳〵と尋ねとふ人のきはなれは旧記をしるして大 震の後小震ありて止ざるためしを挙て人のこゝろをや すくせんと左にしるし侍る 上古より地震のありし事国史に見えたる限りは類聚 国史一百七十一の巻災異の部に挙て詳なり 三代実録仁和三年秋七月二日癸酉夜地震《割書:中略|》 六日丁丑虹降_二 ̄ル東 ̄ノ宮_一 ̄ニ其尾 竟(ツク)_レ 天虹入_二内蔵寮(クラレウ)_一《割書:中略|》是 夜地震《割書:中略|》卅日辛丑 ̄ノ申時地大震動 経(ケイ)_二-歴(レキ)数刻_一 ̄ヲ震猶 不_レ止天皇出_二 ̄テ仁寿殿_一 ̄ヲ御_二紫宸殿(シシンテン)南庭(ナンテイ)_一 ̄ニ命_二 ̄シテ大蔵省(オホクラシヤウ)_一 ̄ニ立【二点脱】七 丈 ̄ノ幄(ヤク)_一 ̄ヲ為_二御在所_一 ̄ト諸司 舎屋(シヤオク)及 ̄ヒ東西京 盧舎(ロシヤ)往々 顛覆(テンフク) 圧殺(エンサツスル)者衆 ̄シ或有_二失神(コヽロマトヒ)頓(トン)死 ̄スル者_一亥 ̄ノ時亦 震三度五畿内 七道諸国同日 ̄ニ大震 官(クハン)舎(シヤ)多 損(ソンシ)海潮(カイテウ)漲_レ ̄リ陸 ̄クニ溺死(タヾヨヒ) ̄スル者不_レ 可_二勝(アゲテ)計(カゾフ)_一 《割書:中略|》八月四日乙巳地震五度是日 達(タツ)智(チ) ̄ノ門 ̄ノ 上有気如_レ ̄ニシテ煙非_レ ̄ス煙如_レ ̄ニシテ虹非_レ ̄ス虹 ̄ニ飛上 ̄テ属(ツケリ)天或人見_レ ̄テ之皆 曰是 羽(ハ)蟻(アリ)也《割書:中略|》十二日癸丑鷺一 ̄ツ集_二 ̄ル朝堂院 白虎(ヒヤクコ) 楼(ロヲ)豊(フ)楽(ラク)院 栖(セイ)霞(ア)楼 ̄ノ上_一 ̄ニ陰陽寮占 ̄テ曰当_レ ̄ヘシ慎_二 ̄ム失火之事_一 ̄ヲ十 三日甲寅地震有鷺集_二豊楽院南門 ̄ノ鵄(クツ)尾(カタ)上_一 十四日 乙卯 ̄ノ子時地震十五日丙辰未 ̄ノ時有鷺集_二豊楽殿 ̄ノ東 鵄尾 ̄ノ上_一 ̄ニ 《割書:下略|》 皇帝紀抄ト云文治元年七月九日未尅大地震洛 中洛外堂社塔廟人家大略顛倒樹木折落山川皆 変死 ̄スル者多 ̄シ其後連日不休四十余箇日人皆 為(ナシテ)_レ悩 ̄ミヲ心(コヽ) 神(ロ)如_レ ̄シ酔 ̄ルカ《割書:云々》 長明之方丈記に云元暦二年の頃大なゐふる事侍りき其 さまよの常ならす山くつれて川をしつみ海かたふきて陸 をひたせり土さけて水湧上りいはほわれて谷にまろひ 入諸て舟は【注】波にたゝよひ道ゆく駒は足の立とをまとはせ り況や都のほとりには在々所々堂舎塔廟一として不全 《割書:中略|》かくおひたゝしくふる所也はしばしにて止にしか 其名残しはらくは絶す尋常におとろくほとの地震二 三度ふらぬ日はなし十日廿日過にしかはやう〳〵間遠にな り或は四五度二三度もしは一日ませ二三日に一度なと 【『地震考』では「諸こく舟は」】  大かた其名残三月ばかりや侍けん云々  天文考要に云寛文壬寅五月幾内ノ地大ニ震フ  北江最甚シ余動屡発シ至_二 ̄ル於歳終_一 ̄ルマ  本朝天文志に云宝暦元年辛未二月廿九日大地  震 ̄フ諸堂舎破壊余動至_二 ̄テ六七月_一止 ̄マル  かく数々ある中にも皆はしめ大震して後小動は止さ  れともはしめのことき大震はなし我友広島氏なる人諸国に  て大地震に四たひ逢たり皆其くにゝ滞留して始末をよく  知れり小動は久しけれ共はしめ/の(如)ときは一度もなしと申  されける現在の人にて証とするに足れり ○地震之説  径世衍義孔鼂【墨誤カ】 ̄カ曰 ̄ク陽伏_二 ̄テ于陰下_一 ̄ニ見 迫(セマル)_二 ̄ヲ于陰_一 ̄ニ而不_レ能_レ ̄ハ升 ̄ルコト  以至_二 ̄ル於地震_一 ̄ニ と如_レ此陽気地中に伏して出んとす  る時陰気に抑(ナサ)へられて出る事能はず地中に激(ゲキ)  攻(コウ)して動揺するなり【注】国語の周語に伯(ハク)陽(ヤウ)父(フ)の言  なども如此古代よりみな此説をいふ  天経或門に言地は本気の渣(カ)滓(ス)聚(アツ)まつて形質(ケイシツ)を  なす元(ケン)気(キ) 旋(セン)転(テン)の中に束(ツカ)ぬ故に兀然として空に  浮んで墜(ヲチ)す四(シ)囲(ヰ)に竅有て相通ず或は蜂の巣の  ことく或は菌瓣(クサビラノスケ)のごとし水火の気其中に伏す蓋(ケタシ) 【『春秋明志録巻六』に「孔墨曰陽伏于隂下見逼于隂故不能升以至于地震」とある】  気噴盈して舒(ノヒ)んと欲してのふことを得す人身の  筋転して脈(ミヤク)揺(ウコク)かことし亦雷霆と理を同ふす北極  下の地は大寒赤道之下は偏熱にしてともに地  震少し砂土の地は気 疎にして聚まらず震少し  泥(デイ)土(ト)の地は空に気の蔵むことなし故に震少し湿【ママ】  煖之地多石の地下に空穴有て熱気吹入て冷気  のために摂(セツ)斂(レン)せられ極る則は舒(シヨ)放(ハウ)して其地を  激(ケキ)摶(ハク)すたとへは大筒石火矢などを高楼巨塔の  下に発せば其震 衝(シヨウ)を被らさること無きかことし然  れども大地通して地震する事なし震は各処各  気各動なりと唯一処の地のみなり其軽重に由  て色々の変あり地に新山有海に新島あるの類  ひ少なからす震後地下の燥気猛迫して熱火に  変して出れは則震停る也 ○地震之徴  震せんとする時夜間に地に孔(アナ)数も出来て細き  壌(つちくれ)を噴出して田鼠(タネツミ) 坌(ウコモツ)ことしと是土龍などの持上                 【ヲコロモチ】  る類ならん歟  又老農野に耕(タカヘ)す時に煙を生ることきを見て将  に震せんとするを知ると  又井水にはかに濁り湧も亦震の徴(シルシ)なり《割書:已上|天文考要》  又世に云伝ふは雲の近くなるは地震の徴なり  と是雲にはあらす気の上昇するにて煙のことく  雲のことく見ゆるなり  地震の和名をなゐと云和漢三才図絵にはなへ  とありなゐの仮名然るへからむ歟  季鷹翁の説になは魚にてゐはゆりの約(ツヾマ)りたる  にてなゐゆりといふ事ならむ歟魚の尾 鰭を動  かすことく動揺するを形容して名目とせるかな  ゐふるとは重言のやうなれともなゐは名目とな  れはなるへしと是をもて思へは誠に小児の俗  説なれとも大地の下に大なる鯰の居るといふ  も昔より言伝へたる俗言にや又建久九年の暦  の表紙に地震の虫とて其形を画き日本六十六  州の名を記(シルシ)したるもの有俗説なるへけれとも  既に六七百年前よりかゝる事もあれは鯰の説も  何れの書にか拠あらんか仏説には龍の所為と  もいへり古代の説は大やうかくのこときものな  るべし ○佐渡の国には今も常になゐふると言ならはせり  地震といへは通せす古言の辺鄙に残る事みるへ  し ○三代実録仁和三年地震之条に京師の人民出_二廬  舎_一 ̄ヲ居_二 ̄ル于衢-路_一 ̄ニ云々こたひの京師のありさまもか  くのことくいと珍らかなり ○地震に付て其応徴の事なとは漢書晋書の天文  志なとには其応色々記しあれとも唐書の天文  志よりは変を記して応を記さす是春秋の意に  本つくなり今太平の御代何の応か是あらむ地  震即災異にして外に応の有へきことなし人々こ  ゝろをやすんして各の務をおこたらされ   文政十三年寅七月廿一日  思斉堂主人誌 ○此地震考一冊は予か師涛山先生の考る所にし  てこの頃童蒙婦女或は病者なとさま〳〵の虚説  にまとひておそれおのゝきまた今に小動も止す  此後大震やあらんと心も安からされは歴代のためし  を挙て其まとひを解きこゝろをやすんせ■(本ノマヽ)らしむ  京師は上古より大震も稀なり宝暦元年の大震  より今年まて星霜八十年を経れは知る人すく なし此災異に係て命を損し疵をかうふる人数 多なり時の災難とはいへとも亦免かたしとも 言へからす常に地震多き国は倉庫家建も其心を 用ひ人も平日に心得たれは大震といへとも圧死す くなし和漢の歴代に記せし地裂山崩土陷島出 涛起等は皆辺土也阿含経智度論なとさま〳〵に 説て大地皆動くやうに聞えり 左にはあらす初 めにいへる如く震は各処各気各動也予天経或 問に拠て一図をまうけて是を明す  地球之図 地球一周九万里是を唐土の一里六町として日本の 一里三十六町に算すれは一周一万五千里となるし  かる時は地心より地上まて凡二千五百里なり此図  黒点の間凡一千里なり【注】今度の地震方二百里と見る  時は僅に図する所の小円の中に当れり是を以  て震動する所の徴少なると地球の広大なる事を  思ひはかるへし ○愚按するに天地の中造化皆本末あり本とは根本に  して心なり心とは震動する所の至て猛-烈なる所をさ  す其 心より四方へ散して漸々柔緩なるを末とすしかれ  は東より揺来るに非らす西より動き来るにあらす其心  より揺初て四方に至り其限は段々微動にて畢るならん  今度震動する所京師を心として近国に亘り末は東  武南紀北越西四国中国に抵る又京師の中にても西北  の方 心なりしや其時東山にて此地震に遇し人まつ西  山何となく気立升りて忽市中土煙をたてゝ揺来り  初めて地震なる事を知れりとなり ○又地震に徴ある事現在見し所当六月廿五日日輪西  山に没する其色血のことし同七月四日月没する其色亦  同し和漢合運云寛文二年壬寅三月六日より廿日まで日  朝夕如血月亦同五月朔日大地震五条石橋落朽木谷  崩土民死至七月未止たり広嶋氏の訳に享和三年十一月 【『地震考』では「一千五百里なり」】 諸用ありて佐渡の国 小木(ヲキ)といふ湊に滞留せしに同十五 日の朝なりしか同宿の船かゝりせし船頭とともに日和を 見むとて近辺なる丘へ出しに船頭のいはく今日の天気 は誠にあやしけなり四方 濛々として雲山の腰にたれ山の 半腹より上は峰あらはれたり雨とも見へず風になるとも 覚へす我年来かくのことき天気を見すと大にあやしむ此 時広島氏考て曰是は雲のたるゝにあらす地気の上昇す るならん予幼年のとき父に聞ける事有地気の上昇す るは地震の徴也と暫時も猶余有へからすと急き旅宿に帰 り主に其由をつけ此地後は山前は海にして甚危し又来 るにも暫時外の地にのかれんと人をして荷物なと先へ送 しをそこ〳〵に支度して立出ぬ道の程四里計も行とおも ひしが山中にて果して大地震せり地は浪のうつことく揺 て大木なと枝みな地を打ふしまろひなから漸くにのかれ て去りぬ此時 小木の湊は山崩れ堂塔は倒れ潮漲て舎屋 咸(ミナ)海に入大きなる岩海より海(ママ)出たり【注】それより毎日小動し て翌年六月に漸々止たりとなん其後同国金山にいたり し時去る地震には定めし穴も潰れ人も損せしにやと訪ひ しにさはなく皆いふ此地はむかしより地震は已前にしり ぬ去る地震も三日以前に其 徴を知りて皆穴に入らす用意せし 【『地震考』では「湧出たり」】  故一人も怪我なしとなり其徴はいかにして知るやと問しに  将に地震せんとする前は穴の中地気上昇して傍なる  人もたかひに腰より上は唯濛々として見へす是を地震  の徴とすといへり按るに常に地中に入ものは地気をよく  しる鳥は空中にありてよく上昇の気をしる今度地震せ  んとする時数千の鷺一度に飛を見る又或人六月廿七日  の朝いまた日も出ぬ先に虹丑寅の間にたつを見る虹は日  にむかひてたつは常なりいつれも常にあらさるは徴とやいは  ん ○又はしめにいへる地震の和名なゐふる季鷹大人なは魚な  りといふ説によりて古図を得て茲に出す是図こよみ  の初に出して次に建久九年《割書:つちのえ|むま》の暦凡《割書:三百五|十五ヶ日》とあり余  はこれを略す伊豆の国那珂郡松崎村の寺地ふるき唐  紙の中より出る摺まきの暦なりとそ 【右丁上側】 「△いるゝとも よもやぬけし のかなめいし かしまの神の あらんかき りは  かなめ石」 「東」 「十二月火神 とう春 よし 世の中 に分」 「  十一月 たいしやくとう 雨かせけんくわ」 【右丁題字】 「いせこよみ」 【右丁右側上から】 「  正月  火神 とう 十五日雨」 「  二月  龍神 とう上 十五日雨」 「南」 「  三月  大しやう とう 田はた吉」 「  四月  金神 とう大 兵らん」 【右丁下側】 「五月火神  とう   十五日    雨風」 「六月 金神とう うし 高  飛」 「西」 「 七月 龍神とう 水おゝし下  十五日ひてり」 【右丁左側下から】 「八月大神 けんわう  くわ多し」 「北」 「  九月龍  神とう大 雨をこります」 「十月火神 とううの 中よし」 【左丁】 槐記享保九年の御話に云く昔四方市といへる盲人は名 誉の調子聞にて人の吉凶悔吝を占ふに少しも違ふこと なし応山へは御心易く毎々参りて御次に伺候せしか晩年 に及ひて申せしは由なきことを覚えて甚くやし終日人に 交はる毎に其人の吉凶みな耳にひゝきていとかしましと 申けるよし去ほとに度々の高名挙てかそへかたし此四方朝 夙に起て僕を呼ひ扨々あしき調子なり此調子にては 大方京中は滅却すへきそ急き食にても認めて我を先 嵯峨の方へ誘ひゆけと云日頃の手きはともあれは早速西 をさして嵯峨に行嵐山の麓大井源【右訂「河」】原に着て暫く休 息して云やういまた調子なほらすあないふかし大方大 火事成へし人家有所をはなれて北へ越せしにいまた 同し調子なるは此も悪所と覚ゆ愛宕には知れる坊あり 是に誘ひゆけといふいさとて又登り〳〵て其坊に着く 坊主出て何とてかく早〳〵とは登山しけるよし申せしかは しか〳〵の事有と答ふこゝはいかにと問こゝも猶安からす 少しにても高き所へ参りたしと言其所に護摩堂あり此に 行れとありしかは此堂に入て大によろこひ扨々安堵に住 せり調子初て直りしとて唯いつまても此に居たき由申 せしか頓て地震ゆり出し夥しき事いふはかりなし《割書:世間|に云》 《割書:寅年大|地震》何とかしたりけむ彼護摩堂は架作(タナツクリ)にて頓て深谷へ 崩れ落て破損し四方市も空しくなる六十余計りにて も有へきか此一生の終りをして人の吉凶さへ姦きほと に知るものゝ己か終る所をしらさるのみ非す死場にて 安堵しける事こそ不審なれ吉の極る所は凶凶の極る所 は吉なれは成へし毎度無禅か物語なりと仰らる愚按に 四方市の占考著き事賞するに余り有既に天地の変異 を知りて愛宕山にのかれしとうへなるかな此山に至りて 調子直りしに其変もあんなれ共是は陰極りて陽に変 し陽極りて陰を生す楽極りて哀生すといふに同しか らむ其頃は京師一般の大変故震気充満して歩むに道 なく逃るに所なしと言時なれは四方市も身体茲に極る といふ処ゆゑ反て其音調の直りしも至極の事に覚へ 侍る素問五運行大論曰風勝則地動 怪異弁断曰 此説に随ふ時は地震は風気の所為也又曰地震に鯰 の説世俗に有仏説なるにや風を以て鯰としたるもの歟 魚は陰中の陽物なれは風にたとへ言るならん何れにて も正理には遠き説なり白石の東雅に言地震をなゐふる といふはないとは鳴なりふるとは動くなり鳴動の義なり 今俗になゐゆるともいふなりゆるも又動くなりゆるふと いひゆるかすなといふもまた同し上古の語にゆをかして なといふも即是なり愚案るに又なへふると北越辺土にい へり三才図会になへと出たるは何にもとつけるにやも しなへと言へはなへをつゝめはねとなるねは根にして地を いふ地震にて子細なし楊子言云東斉謂_レ根曰_レ土非専 指_二桑根白皮_一又日本紀神代巻に根之国と出たる は地をさす歟又或人云なゐゆるとはなみゆるなり 題地震考後 災異之可_レ ̄ル懼【注】 ̄ル莫_レ大_レ ̄ナルハ於_二 地震_一以雖其地 折(サケ)山陥海傾 ̄テ河 翻 ̄ルト不_上_レ ̄ヲ能_二 ̄ハ翰飛 ■(イタル)【疾ヵ】_一_レ 天 ̄ニ也然 ̄ルニ居_下 ̄ルニ夫 ̄ノ古今伝記 ̄ニ所_レ載 ̄スル及近時 邦国 更(カハルニル)有棟壊■【牆ヵ】倒傷_二-害 ̄スル人畜_一 ̄ヲ者人毎 ̄ニ邈然 ̄ト視_レ之 ̄コト徒 ̄ヲ 為一場竒譚 ̄ト及_二其実歴親履心■【駮駭ヵ】 ̄ヲ魂鎖_一 ̄ルニ而後 ̄ニ始回_二想 当時_一 ̄ヲ以知_レ ̄リ為_レ可_レ ̄ト懼已茲庚寅七月二日京地大震余 震 ̄フ于_レ ̄テ今 ̄ニ未_レ歇 ̄マ人心洶々言 ̄フ震若 ̄シ有_レ ̄ラハ甚_レ焉 ̄ヨリ将慿_レ ̄テ何 ̄ニ得_レ ̄ント免 ̄ルコトヲ 民之訛言 ̄モ亦孔 ̄タ之将 ̄ニ言 ̄フ其日時震甚 ̄シ又言 ̄フ其 ̄ノ事為_レ祟 ̄ヲ 又言 ̄フ其暴凮雨与_レ震並 ̄ニ臻 ̄ルト重 ̄ルニ以_二 ̄シ丙五棍賊之警_一 ̄ヲ人不_レ 知_レ所_二 ̄ヲ底 ̄リ止_一 ̄ル或 ̄ハ廃_レ ̄テ業 ̄ヲ舎_レ ̄キ務 ̄ヲ至_三携_レ ̄ヘ家 ̄ヲ逃_二 ̄ルヽニ震 ̄ヲ遠地_一 ̄ニ濤山先生 老 ̄テ益悃愊憫_二 ̄ミ其如_一レ ̄ヲ此為 ̄ニ録_二 ̄ヲ此言_一以 ̄テ喩_二 ̄トシ民心_一 ̄ヲ釈其惑_一 ̄ヲ故 ̄ニ 言辞不_レ飾 ̄ラ考徴 ̄モ亦不_レ務_レ ̄メ多 ̄ヲ東隴主人受而敷衍 ̄シ梓而 行_レ之 ̄ヲ請_三 ̄フ余識_二 ̄スコトヲ其由_一 ̄ヲ適 ̄ヒ有人為_レ余 ̄カ説_二其先人言_一 ̄フ云今人 家器用可_二以備_一レ ̄ヲ於_レ震者間存而 ̄ルニ人不_レ ̄ル悉_二 ̄ナニセ其用_一 ̄ヲ已蓋【注】宝 暦大震之後所_二慮而説_一 ̄スル至天明欝攸之後人不_レ知_二 震 之可_一レ懼 ̄ル今日之構造唯災 ̄ニ之 ̄レ備 ̄コト可_レ見_下非宝 親履_一 ̄ニ思 慮不_レ及与【注】_中 人心向背之速 ̄ナル如_上レ此因【注】 ̄テ並_二 ̄セ記此_一欲_下 人之觸_レ 類 ̄ニ而長_レ ̄シ之有所【二点脱ヵ】懲■【毖カ】_一 ̄スル有_上レ ̄コトヲ所【二点脱ヵ】備予_一 ̄スル 文政十三年庚寅秋八月上瀚三緘主人識       斉政館都講 【異字体(影印)ー正字体(翻刻)対応:愳ー懼、盖ー蓋、與(正字体)ー与(常用)、囙ー因】 【右丁】 小嶋氏藏板 【左丁】 愛知県ヨリ借受シテ謄写  伊豆国大島火山之記   訳安永中大島山火県令江川    上書等本末 臣江川  理所、隷豆州大島中三原山御洞方数 里、沙礫土、卉木不生処、今年、七月廿九日晡後洞中 俄出火、赤烟裊々衝天、爆声如雷、地数動、時飛妹絲 灰、長一寸至二三寸黒白色者、又交鉄液灰、本月六 日、大雨徹夜、炎気爆声稍猛、七日、特甚、地仍動、灰数 下、至十一日不止、男女、匈々廃業、島中父老間有記 天和中島火者、因例島民無男女、無穢者没海垢離、 諸村社、祈救命、島俗称山火如天和及今年者曰神 【上余白】 凡言分寸者 以曲尺為度 火、同日島長発書、十八日到府、敢以上言、安永六年【1】 丁酉、八月十九日、豆州総県令江川  誠惶誠恐 上会計総司府大衙内、        臣某奉対 下問三原山在大島正中、高十二里所、五村達山居 焉、天和中、神火時、三原巓為洞穴、今段神火亦自其 旧穴、謂之御洞、飛灰、鉄液者落二三村、蛛絲者周吾 村、多集如蛛巣、非如積雪爾、今来不来島吏、唯船長 之口拠、是以不能観縷、八月、某日臣江某 丁酉、九月十九日、臣江川某上言大島々正一人、本 月十二日出島、昨日上㟁入都、臣某間島火之状、島 正所対言如左 一三原山天和四年【2】、甲子、山巓出火、崩裂方一里有  半六十歩為洞穴、不知其深、不熸七年、至于元禄  三年庚午而熄、今年七月廿九日没、其洞穴出火  入夜炎気弥【3】天、画則唯望烟、時有濃淡、焼声已甚  地震頻、雨蛛絲灰鉄液灰、迄八月廿七八日焼声  地震皆止、灰亦不下、廿九日、北風【3】雨、洞火還熾、至  于九月六日昧爽特甚炎気益猛、爆声如雷、地比  動、八日九日大風雨、及暮風雨共止、火声両益甚、  至于十二日同状、而不飛灰、石砂乗風【3】下、此時火 【1、一七七七年】 【2、一六八四年、二月に貞享へ改元】 【3、異字体(影印)ー常用漢字(翻刻)対応、彌ー弥、凬ー風】    気弥島中、故天晴則熱猶夏之候  一神火之発也、男女駭震廃業、日久稍馴、又乏給食   是以爆声少弱、則入圃堀芋剥薩薯、随麓薪蒸、時   為鰘猟之最、然山火之響海魚遠潜、数漁不獲一   鱗  一島中無田、唯山圃耳、冬芸麦【麥】、夏■【稷ヵ】粟樹芋、既而収   粟、方今在圃者、芋与薩薯也、火勢侵土、焼石焼沙   埋塢、故茎葉焦卒而尽、楰根土中、若獲之、枯燥不   実、不得已以禦食而已、  一自八月中旬至本月中旬、不発島舟者、非拠山火   也、為無順風之故也、  一踰月無渡海之便、亦少艱食、島吏等督責島民、浜   海握栄螺操海老、為庶艱之助、  一父老等伝言、天和之火、似勝於今段之火、然無記   録可以徴之、天和之時唯書 官給之数、  一三原山高十二里許、艸木在山足、去麓稍高、則巌   砂之赭山、故火炎山岡、不焚艸木、不焼民屋、天和   之火亦然云 ○戊戌、三月、某日、臣江某上言、前月十一日大島吏出  府曰、島火之状無異前報、去歳十月廿九日已来鳴  動炎勢特猛、今年正月中旬火気炎々、下旬稍属熸、 ○三原之火、漸々且熸、九月八日且復烈、島吏之報前  月廿四日達之大衙、向也、火発中野沢、今也已熄、三  原之坤、山岡焼裂、火下赤沢、日夜火熾、烟気衡天、通  夜照海、爆声特甚、如大石落自千仭壑之音、地動亦  大、赤沢在差木地村埜増村之中間、広不能二丈、深  一丈有半、長至于海浜十八里所、大石崩裂従横沢  辺、艸木枯凋、野増村圃中之物皆乾死、焼石重畳、絶  二村之通、木葉成灰飛周五村、島民大驚未明集浜  浴水新社、島報復至、具沢辺延焼図、謹以上言、戊戌  十月六日臣江某 ○臣江某言、本月六日上島報之後、島吏之書復来、大  島泉沢村東乙里許曰塵沢、々中出火、塵沢下流曁  海長十八里、而今延焼者延袤各六里、侵海戦潮六  十歩、広六里許、大石焼爛者磊々埋海、炎勢如迅雷、  不分画【昼誤ヵ】夜、土中咆吼之音最甚、夜裏烟光赫々、島民、  不為所為、但水浴祷社耳、具図録上、右九月廿七日  之報也、戊戌十月十三日臣江某 ○臣江某言、本月六日十四日之報前已達于大府、爾  後島火土中之響啓々雷同、至于十七日夜、炎勢益  熾、響動亦強大、又廿一日々中、三原山下十八里泉  沢村中葉池釜之池燃、村民告之島吏、廿一日島吏  発書以告、戊戌十一月臣江某 ○県令臣江某理所、隷豆州大島山火、丁酉七月廿九  日炎光始見、時有強弱、連綿不止、本年九月十八日  廿六日火勢藉甚、島吏之報比至、前已上達、大衙特  命差人点検、即今遣幣府之史某々等巡視島中、具  状与図呈上、概略如左  一発火処新旧凡七号、 天和四年甲子二月十六   日三原山御洞 同年三月八日御洞下寅方六   里許小釜瀧 山下海厓稍新築者、 安永六年   丁酉七月廿九日御洞 七年戊戌三月廿二日   御洞六里中野沢、広六丈、深十丈許、延焼者、 九   月十八日御洞九里赤沢、広五丈許、深十八丈延   焼者、 廿七日御洞十八里塵沢、広百八十余歩   深二丈許、  右大島三原山御洞去秋七月廿九日始発火、山中  鳴動、火気接天、天雨黒砂、灰錯、今春三月、御洞之火  発中野沢、至仲夏火勢少衰、洞上唯見黒烟島民荀安、  比及仲秋之初、入山伐木、又仲秋之末洞火復熾、九 月十八日、火発赤沢、廿六日発塵沢、今也赤塵二沢 之火猶熾、前奉大衙命、令府史問島吏、問対者如左、 一問、即今島火之状、何村最熾、 対、御洞之大、東西  半里、南北二里六十歩、其中暗黒冥々、雖島民平  常馴険者、莫能知深浅、島中尊御洞称三原大明  神、為島之宗社、天和四年甲子、洞中発火、時雖有  強弱、不熄七年、至元禄三年庚午而熸、伝在口碑、  然去歳七月廿九日洞中火発、已後亦有強弱、于  今未熄、中野沢火既熄、赤塵二沢猶炎、洞中烟気  裊々未止、不至村里■【蒙ヵ】沙灰之甚也、凡発火之所  近者、去民居九里、遠者十八里、 一問、中野沢、赤沢既発火、塵沢又炎、三火各処烈、則  非村里絶通不能相扶持乎、 対、本年三月廿二  日御洞嶺西北方焼崩、火下中沢、至泉津村東而  火画、是采薪之路也、去民家三里而遠、九月十八  日御洞西南岡焼崩、火下赤沢々在野増差木地  二村之中間、去二村六里許、沢火稍属熄、故沢下  曁海浜路既通、島中得相扶持、廿七日御洞東北  岡火下塵沢及海磯、焦石埋海、長六十歩、広六百  歩而長、高於海水五六歩、浜海烟気尚見、此地也  島背且嶮而無村居、唯有泉津村伐木一線道耳、 一問、稍遠炎気之地、有田圃之実乎、有雑艸可供糧  食者乎、猶獲海漁之利乎、采薪之業無廃乎、 対、  島中無田、唯有歳易山圃耳、島中凡五村、新島岡  田二村稍遠火道、是以芋及薩薯皆熱成、又有軟  艸可伴糧者、居常利山海之業、然発火已来、魚鼈  遠遯、漁猟之業空、唯伐山運送東都、荀以足助生  産、野増泉津差木地三村不習海利、山圃之獲亦  不及前二村、伐山之利是専自有発火之灾、圃中  芋薯僅々可数、焦石塞于、険路、伐木之業弥困、 一問、即今火熾之地蓋無人郷云、於村居遠近如何、  対、御洞発火之地、違民居近九里許、遠十八里許、 一問、地中之火若或歘然発村里不亦畏乎、抑有救  急之備乎、 対、新島岡田二村以寄腰之山為蔽、  在三原西北、不待不虞之備、野増泉津差木地三  村異于是、違御洞不太遠、然山火稍乖熄、当于此  時、移居二村、似 国家之大恵、実失居民之産業  臨急、咄々遷於新島村未為緩、若或当路火発而  絶道、以新島回船漁船遷之、亦不難、既為之備自  古称山火曰神火未曽有延焼民屋者、神之恵云、  是以皆有年寧処之意、   府史自諭島吏云、山火或迫民居、舟遷于利島   新島、《割書:是自一島異于|大島中新島村》至于豆州下田港、同州稲   取村相州三崎浦亦可、随風至于他港亦所以   不禁也、急以羽書随便報東都、若韮山府、勿令   流人出島、善為足食之計、《割書:大島至于利島四十|二里于新島六十里》   《割書:于下田一百八里許、于稲取四十八里、于三崎|一百八里、于東都二百十六里、島中新島岡田》   《割書:二村即今所在大舟五|六艘漁舟三十余艘云、》 一問、島中男女二千余口、回船僅二十艘、当有急難、  乃能得進退之便否、 対、前条既已奉対、二村有  寄腰之屏而隔山火、三村若有急、則移其民于二  村耳、或難道路之通、以猶在五六回船、伝送二村  亦不難、既与島民等計較、 一問、大島来去東都諸港便船、雖火急中得無技牾  乎、対、島船二十隻中、以運送薪材交易五穀来  往東都諸港者十五六隻、出入如織、通便何難之  有、况又常在島港者如五六隻前対、漁舟数十亦  可禦不虞之用也、 右奉大衙之命、差府史面対島吏等者、且云、島火漸 々熸、御洞烟気未捨昼夜、沢火概熄、赤沢尚見烟、而 火止村路之上、無絶通之難、塵沢延焼及海表、素無 人之郷、無通塞之論、然以沢火之余勢焦石充塞於 山谷也、泉津差木地野増三村食于伐木折薪者束 乎、新島岡田二村舟主転送以生理者失利鳥、挙島 廃漁猟之業、亦乏生之一端、然丁酉十一月至今年 五月仰県官之給、不知飢餓、皆称洪恩之厚、共同感 激之辞、島中圃実亦不至全荒、足以禦冬矣、仍具国 籍上達大衙、附呈島中戸口生理之概略、戊戌十一 月某日、臣江某 上会計総司府大衙内、大島東西  十五里、南北三十里、自東都海程二百十六里、自   相州三埼一百八里、   戸五百十八、 口   男女二千二百九十八、外流人幷孥五人、 神   廟三十七、 仏寺三、 堂四、 伐木折薪運送   東都五村之生業、 芋、薩摩薯、五村糧食、 粟、   黍、歳易山圃耕作生業少小者、 虎杖、野老、薯   蕷、藤根、阿志多馬、五村婦女春時為業、 堅魚   新島岡田二村夏漁釣之、 鰘、鰱、二村秋漁為   貢者、 海苔、波無馬、二村婦女出中磯取為糧   食之伴、  四季光景略無異于他邦、風多偏吹、 新島村岡田村島民土姓者、二村多業、不乏生産 野増村差木地村泉津村不比于前二村、多窮民 差木地泉津二村不剃髪、     島中無業 医者、    島中多鳶、烏、雀、所々見鴫、 野馬千余頭、 野牛二百余頭、 羊千余頭、  以上 北東ハ山ナリト云ヘトモ 其麓ニモ平地アリテ民 家アリ北ハ江戸ニ当リ 東ハ安房ニアタル 【右丁 文字無し】 【左丁】 鰱(レン)タカベ 本藩新軍郎平明公熙所記《割書:附録|  》 豆州郡宰江川太郎左衛門上書、言大島中火発状、 其文粗曰、其火出石焼、菜蔬死而民尚無恙予聞大 島在豆州南、如遠近大小則未有聞之、予求之所識 則坊間有蔵南海港道図而甚秘焉者、就請而竊写 之、旧図大島延袤若千里云、此百四五十年時所歩、 似与今上書之文不合、又索之於所識医師中橋中 村宗厳、言隣里之際有工平五郎大島人、頗諳大島 之風土、宜諮問、予依宗厳召之、平五郎所言同本州 之俗其名物無文字、而邦言島語相半、至若其業有 【右丁】 難暁者、不堪以辞【辤】飾之、乃以国【國】字伝【傳】其真尓【爾】、 平五郎言す【もうす】大島は臣等在所にて候臣十三の時に島より 渡り候へは、深き事は覚へす候、其後親類故旧【舊】【旧知】なと島よりわたり 次第に承り、折には嶌へも細々参り覚へ候、島の事伊豆浦 を去こと十三里と仰せ候へとも、申上候里数はむかしのこと にて、其後広【廣】かり候哉、若は又嶋の者とも、勝手よきに随ひて、 本の里数をは申上ぬ御事にて候ひしや、其実【實】は七里わつ かもあるよしに候、水の上の事に候えは、いつれをまことゝも 申難く候、広【廣】さのこと十里四方も候半歟にて候、是も書上は狭 き由にて候、其土地は黒 墳(ボコ)にて候、南方うちひらき、西の 【左丁】 方これに次き候、北と東は山にて候、磬を布きたることく に候、松柏おひしけり樹木甚多く候、そのうち、杜鵑花【つつじ】多 く、四月時分は山々一面に紅になり候、見事にて候、梅桜なと 花うるはしきやうに候、されとも山にはなく候、皆人の家園 に有之候、島のなり【形状】、北東は山にて候へとも、中央の処【處】最高く 候、こゝを御原(ミハラ)と申候、御原大明神と申て、霊(アラタカ)なる神おは しまし候、神主をは藤井采女と申候、其父をは内蔵介と申 候、江戸にては三千石以上のくらしにて候へとも、内々殷富【いんぷ=さかんで富む】に て、万【萬】石以上の権【勢い、ちから】召し候、此人を地頭さまと申候、嶋始ま り候時より、此島に住居せられ候人と聞へ候、御原の御神 【右丁】 にかしつき参らせ、幾世をかかさねさせ候、此島は神島 にて、此明神の御島にて候、もし島をはなれて余所へ渡 り、若はわけなふ島を出遊ひ候ものへは、かん【神】たゝりまし 〳〵て、命もつきかたく候、とふとくおそろしき神にて候、 年の六月朔日といふには島の人大方に参り候、それも七 日か程は斎【ものいみ】いたし候てまいり候もしものいみもいたさね は、神たゝりまし〳〵て、一命をとり給ふ、あらたにおそろし き神さまにて候藤井の君のすまわせ候囲【圍】は、ひろき事いふ はかりなく候、庭なとは上野の御山ほとも候半歟、其奥にはか んさまし〳〵、巓【いただき】には木もなく、はけ山にて候、きやう【仰】に高く 【左丁】 候、その中央に穴洞(アナホラ)候、からあなにて候、人間はのそき候事 ならす、もしも破り、しゐて臨之候得は、帰るほとにはたゝ りをかうむり、いける人はすくなく候、かやうに現霊のま しませは、島中うやまひ申さぬ事はなく候、昔は罪あ る人をは、此島へと流され候ひしよし、今はたえて罪人ま いることはなし、北をは岡田村と申候、東をは野増村と云候 南は新島村、西を泉津村と云、其間にさしぎし村あり さしぎしは藤井殿の持伝【傳】へ給ひし村にて候や、 公用の御事にはあつかり申さす、残る四村は各に軒はか り、すこしの金納あり、又村里のほとりは、川は無之候、池一 【右丁】 ツ有之候、それとも水の手都合もよろしき島にて候、 但南方は海におもてして打ひらけ、暖かに平かにて、四 時穏に、冬寒き事なく、中人よりかみの人は綿入を着候 得共、常の人はわたいれをきる人なし、民薪をきりて、江 戸へ舟まはし致候を、渡世といたし、又夏はかつほ、余【餘】は もろあちをとり、ひものにいたし候、島中に稲田なく、わ たものにて耕をいたし候、但浦賀の津ちかく候へは、米も うらかにて買候江戸にて米をかふよりやすく候、御年貢 には、彼是うりたる価【價】をもて金納と定められ候得共、一 人の出す所は、至てすくなく候児孫はその年貢ある事 【左丁】 をしらす候、薪をきり是を泉津の辺【邊】へはこひて、浜【濱】に積 おきて、北風の吹ける時刻には、島中の人出て、舟に薪をつ み入候、たれかれと申事もなく嶋中は一島一魂となり、一家 内の兄弟のことくにて、互に手間あたひなとはとらす候、そ れも北風よはきうちの事にて候、最早風の強くならんと おもふ前には、積む事もやめて、舟のよそほひを勤め候 北風やう〳〵つよくなれは、船たちまち磯を離れ、しはし 出たらん頃、南の風をとして、此舟直に江戸下着【げちゃく】候、何時 も江戸へおこし候舟は、この通りにて候、但南風も吹ける刻 は、舟を磯より上け、高浪を凌き候、もしいそにありて風 【右丁】 に逢ける刻は、舟岩にあたりてわるゝ故にて候、其舟を陸 に上けける頃にも、島中の人はせ参り、拱はかりの綱もて、 舟を引揚候、かはりたる事には、亀と陸に上り子を産し 申ものにて候、ちとも【少しも】岡高く上り候をおそれ候、是は陸に 子をうみ付、秋の高潮をまち候に、亀高く丘に上り候時 は、必秋のあらしつよく候故に、亀の磯近く参らさるをは、 あきの用心をいたし候、凡何そし得るところ鯵をは養(ヒモノ)【「鱶」の偏を略したものと思われる】に いたし、常の生産となり、薪とこれとを生産とは致し候、又 夏は■(カツホ)【魚に松、鰹の別称松魚】をとり候、これは牛の角の先を切り、両方へ鳥の羽 をさし、蜻蜓【ヤンマ】のなりのことくして、かついほの潮に乗り 【左丁】 候頃、其上にてふり候時、■【魚偏に松で鰹の別称松魚】は鰯と心得、その牛角に くひ付しを、あけさま舟の内へおとしため候、食くふ 程には、舟一杯になり候、これを押送り【「押送り船」の略称。生魚を主に塩魚・干し鰯などを魚市場に運送した快速の鮮魚船】にもいたし、又は節 にもいたし候、然れとも島中より出候舟は、唯三艘有之 候野増村と泉津村とのみにて候、其外は鰤しひ【しび(鮪)】まく ろなと多く候へとも、捕やうを存せす、今まてとり候事 もなく候、島人は大嶋に不限亀をたへ候、大方は一間以 上の亀にて候、其捕るやうの事、籍(モリ)に六尺はかりの樫 の棒をさしこみ、空になけ、亀の甲にたち候時は、樫の 柄ぬけ候て、もりのつな残り候を曳よせ、舟にとりあけ 【右丁】 仰け入れ候、尾は見へす候うまきものにて候、人に益も候 由、島中に余【餘】の獣はなく候牛馬羊多く候、羊は享保中 御はなさせにて候、夥敷有之候、白き厘毛【りんもう=ほんの少し】まだら何にても 有之候、作物をあらし百姓ともこまり申候、牛馬の事、牛 は牛つれ、馬は馬つれ群り候、子供なと山へ参り候へは、 つれ立まいりておとし候、篠なとふりおとし候へは、皆 にけかへり候、凡牛馬をつかね【「束ね」=一つにまとめたばねる】候には、其牛馬をとらへ参 り、用につかゐ、又山へ返し候、細々人の用をつとめ候牛 馬は、間にあひ候、あしたなるは不調法にて候、人の家 にかひ候牛馬も、同しものをとらへ、屋内に繫ぐにて候 【左丁】 子を生しとも、売【賣】買に成申さす、たかひにもらいなといた し候、価【價】はとりやりなく候、やとにつなき候とも牧にて候、 たま〳〵やとにつなき候は、主人の物すきにて候、山に居 候獣は鼷鼠(イタチ)有之候て、人を誘ひたまして、山に引つ れ、其時は金太鼓なとうちてさかし候、鴫雉有之候 故、人々わなをかけとり候、必いたち参り人より先へぬす み候、又鴻雁此島へまいらす、鶯なとよくさへつり候島 はたゝ男女とも身なりあしく、男やら女やら取おさめ ぬ【整った状態にせぬ】なりにて候、島中蠶【かいこ】も出来候、みな大方は伊豆の通 りにて候、今度山焼と申は、此御原の御穴にて候、石やけ 【右丁】 火の粉になり、空を飛ひちりも候よし、此間渡海のもの申候、   安永戊戌十二月三日平明識 一はふの池は神池にて、穢す事を禁す 一島より徒り候事を改候は、流人の子孫を改られ候 一山背の在所は井戸はなく、山のしみつを用ひ候間、水  は乏しく候、 一こかひ【蚕飼ひ】を致候へとも、八丈のやうにはなく、自身の着候  まての事候、桑も沢【澤】山には植申さす候、 一嶋よりうつり江戸に居候ものゝ、島へ通ひ候者又島  より江戸通候ものも、舟中は皆養を致し、何のあた 【左丁】  ひもとり不申候 一一頃【ひところ】島御代官の様なる役人御坐候処【處】、今は又昔にか  へり、藤井殿総司にて候、下は庄屋名主はかりに候 一寺は三軒有之候、禅寺浄土寺法算寺のみに御座候、 一惣して嶋一同互にむつましく候故に、盗人なとは更  になきことに候、それ故昼夜戸さし錠まへと申も  何も無御坐候、 右譯江県【縣】尹達会【會】計総【緫】司書、附平公凞異問、甞【かつて】聞諸 人云、有加賀美某者謂丁酉七月十六日夜、大島山 火始見、其光赤而青、海上及豆州之地往々視之、見 【右丁】 山土中鉄【銕】気【氣】鬱蒸、與硫黄相戦【戰】而生火也、宝永中、大 島火発【發】、明年富士岡大炎、両沙東海諸州、鑠石雑沓 之余【餘】作瘤、是為宝永山、因是観之、亦可推知耳、忝【「桼」とあるは「忝」の誤記と思われる】曰、 明和丁亥冬、余之豆州、養疴【やまい。「痾」に同じ】熱海温泉、一日舟遊初 島々長進藤八郎兵衛指示所謂隷豆州七島、三宅 八丈二島遥不可望、乃言、客歳【昨年】三宅島神火発【發】数処【處】、 島民不寧居、六七月之交、舶海遁八丈島、其中数十 艘遇颶漂流、近繫真鶴崎余以帰途過崎也、寓目視 之、被髪【髪を結ばず振り乱している】之男女、或群或友、皆語島火之難、後三年、甲寅 七月二十八日、北海炎気【氣】直立、高数十尋、広【廣】数百歩、 【左丁】 始以日出、蹔【しばらく】炎鋒十数條衝天、碧丹色、円【圓】光乱飛條 間、酉而起、丑而散、吾人未曽有之異也、又三年、壬辰 二月廿九日至三月三日、東都大火、四十里之都大 半焦土、 両宮不罹災為幸、明年己巳八月二日初 夜西南風猛烈、邸第垣墻【えんしょう】悉倒、火起数十所、火々相 望、都外数百里之地、城屋崩、大木抜、今也大島火発【發】、 東都違島四百里、猶且日夜望余【餘】炎、時若地動数刻、 至于 東都城直宿者終夜不寝【寐】而怪之、島中之烈可 知己矣、吾藩之都狭小不能方二十里、厪【きん=小さい家】可以比大 阪之都者、今年失火数十度、亦所稀有也、於是前後 【右丁】 彼是相考、東海一帯之地、火運之動漸焉、雖然天地 造化之妙、豈人間所能知乎、窃【竊】以 国【國】家宜危懼修 政、而挙【擧】賢良方正能直言之士、以対【對】越天地不言之 戒矣、是亦聖人之教焉尓【爾】、  安永七年戊戌十二月   《割書:尾張世臣》 人見 桼 【左丁】 明治五年  上野国【國】利根郡荒山噴火一件 天明三年  信濃国【國】浅間山噴火一件 【右丁 文字無し】 【左丁】   上州利根郡東小川村地内荒山煙立候儀   ニ付申上候書付 上州利根郡東小川村地内荒山唱候者同村人家 ヨリ五里程相隔テ両野ノ国【國】境ニテ東西者野州中禅 寺同国【國】ニテハ白根山ト唱西面者則荒山ニテ郡中第 一之高山候処【䖏】当四月上旬ヨリ煙相立折々鳴動致 シ候ニ付右村ハ勿論同山ヨリ流水相成候トモ品川通リ 両縁村々者恐怖苦情相唱候趣相聞候間本月七 日捕亡手ノモノ両人取締旁為見分差遣候処【處】見分 之始末別紙書付并麁絵【繪】図面之通ニテ其中村役人 【右丁】 ヨリモ訴出候間尚相糺候処【處】従前煙相立候儀見聞不 致今般之儀モ四月八日頃ヨリ煙ノ相立候ヲ見付候儀 ニテ何月頃ヨリ右之次第ニ候哉不分明之趣申之元来同 山者焼山ニテ山六七分ヨリ上者草木共更ニ不生立麓ハ 野州中禅寺上州東小川村共温泉有之儀ニ付硫黄ノ 火気充満焼出シ土中石間ヨリ煙吹出シ候儀ト存候 間出役捕亡吏ニモ篤ト相尋候処【處】鳴動ト申程之儀ニモ 無之先ツ当【當】分之内異変等有之間敷見体ニ者候得共 是迄村老始煙相立候儀者見聞不致場所右之次 第故浅間ケ嶽天明度之変ヲ伝【傳】聞候ヨリ一同心痛罷 【左丁】 在候趣ニ御坐候依之見聞始末書訴書麁絵【繪】図【圖】面并煙 吹出シ口ヨリ持参之石相添此段申上候也    壬申六月十四日                沼田                  支庁【廳】      本県【縣】        御中 上州利根郡東小川村地内荒山焼ケ候趣ニ付巡村 旁出役被仰付罷越相尋候処【處】同村ヨリ五里程東ニ当【當】 リ荒山ト申候山当四月八九日頃ヨリ焼ケ出シ候ニ付役人 【右丁】 共甚心配之余【餘】実否可相糺ト存同村百姓倉田五郎宮田 権六両人為見届差出候処【處】全ク焼ケ候模様ニ付御届 可申ト存役人共評議之内為巡村相越候ニ付訴出候間 則為見分相越可申候ニ付道案内壱人差出候様相達候 処【處】元戸長副新井伊一郎百姓代千明新平組小役八 五郎百姓倉田権六義村内一同甚タ心配仕居候間 同道罷越見届申度旨申出候間尤ニ存召連篤ト見 分仕候処【處】全ク別紙麁絵【繪】図【圖】面之通山ノ西南中腹縦横 百五拾間余【餘】之場所石間ヨリ煙リ吹出シ全ク硫黄ノ 気【氣】ニテ相焼候儀ニ有之候間右石カケ相添此段申 【左丁】 上候以上  壬申六月十日          笠原宣喜                  中澤清久   旧【舊】群馬県ヨリ吏官大蔵省ヘ届写 当管下上野国【國】利根郡東小川村地内荒山西面山 腹ヨリ硫黄気【氣】燃立候趣別紙之通図【圖】面并焼場石 共相添届出候ニ付直ニ官員指遣し【「シ」とあるところ】見分為致候処【處】 右届之通相違無之ニ付此数御届仕候也 【右丁】 壬申六月             群馬県【縣】   吏官御中   大蔵省御中 【左丁 絵図面】 【右丁 文字無し】 【左丁】   天明三年浅間山大変記ぬきかき 一天明三癸卯のとし四月九日より山やけはしめそ  れより日に〳〵やすむことなく灰砂ふれり 一同年七月三日四日ことにはけしく碓氷群【郡の誤記】さか本松  井田群馬郡高崎其外信州佐久郡軽井沢【澤】武州  榛沢【澤】郡にいたるまて三拾四五里の間灰砂地をうつ  ること三四尺わけて碓氷郡さゝか方ふけ【地名と思われるが理解不能】なとは五尺  の余【餘】にもおよひ人馬の通路なりかたく大小名の往来  はみな路を甲州にとりたるほとなり 一碓氷郡の熊野の社最拾四軒信州軽井沢【澤】の駅家 【右丁】 三拾軒はかり火石ふりて焼失せり近きわたり【漠然と広い地域を指す。一帯。辺。】の 野山のさまは青き葉もなくてさなから冬のおもか けなり 一四日の夜はけしくふきいてたり火石の烟にま しりたるは手鞠のとふかことくにて山の上より五拾 丈あまりもふきあけて地上は砂ふること雨の如し 碓氷郡群馬馬【「郡」の誤記か】およひ武州榛沢【澤】郡児玉郡なとは 白昼も夜のことく人家は行燈を照らし旅人は提 灯をとりて往来せり 一五日の朝より関八州はまうすにおよはす信州加賀 【左丁】 能登越中出羽奥州越後まても白き毛ふれり其長三 寸五分よりなかきと壱尺もありしといふ 一七日は山なる【鳴る】ことつよく天地も振動するはかりにて 人家の戸障子まてもから〳〵ひゝきていかにもおそろ しきありさまなり山の北かわくつれて石留まて 三度もおしいたせり鎌原郡にては先年《割書:慶安三年|の噴火な》 《割書:るへ|し》の石とまり故それより下へおしいたすことはあら しとてたゝ火石のふることをのみ案して人々土蔵や いわあななとへかくれゐたり 一七日のくれより黒烟おこりて近きわたりの山々 【右丁】 にたなひき火炎東西にひらめき人のかたなせるあ やしきものゝ草津白根満坐等の山にとひわたれりな といひて人々奇異のおもひをなし神仏【佛】に祈祷 するなといとはかなきありさまなり 一八日四時山いたくなりて大地をとゝろかし砂を とはしなみをまきて吾妻の川通に押いたしかま 原郡より大前村を始めとしてかはつき【川沿い】の村々家 かこひ其外の数る年をへたたる老木みなおしぬけ【押抜け】 りしはらくありて泥と火とをふきいたし山の上【山の山」と書き、下の「山」を見せ消ちにして右横に「上」と列記】百 丈はかりあかりて一時はかりはすへてやみ夜のことく 【左丁】 火の光り天をつきひゝき雷のほせる【ほぜる=ほじる=穿る】か如く田はた 平坦のところたちまちにして一面の泥の海となれ りふかきところは壱丈二尺あさきところも五尺七尺 をふりつめたりそのなかに火石ましりて焼るゝも 三十日あまりにもおよへりとそ 一吾妻川かわつきの村々おされおほれて死する人 甚夥しくところ〳〵の寺にて供養ありありけるはあ はれなることなりけり 一川筋村々田畠人馬流死之次第 一大笹郡《割書:荒地|少々》  一大前村《割書:家百軒人三十|四人馬八疋》 【右丁】 一赤羽根村《割書:荒地|少々》  一鎌原村《割書:家悉皆流失|人四百八十四人》 一西宮村《割書:家二十一軒|人四十弐人》  一中井村《割書:家拾弐軒|人三十六人》 一芦生田村《割書:家悉皆人|弐十三人》  一羽根尾村《割書:家五十一軒|人廿人馬九疋》 一今井村《割書:荒地|少々》  一小宿村《割書:家人悉皆|女壱人残る》 一袋倉村《割書:人十|壱人》  一半手村《割書:家悉皆人|十七人》 一小笹村《割書:家悉皆人|三十三人》  一立石村《割書:家三|軒》 一河原畑村《割書:地七十三石流れ三名|残る人死者七人》  一松尾村《割書:家三|軒》 一長野原村《割書:家二百十軒|人五十五人》  坪井村《割書:地三十壱石|人八人》 一横壁村《割書:地三町三反|三畝十五歩》  一岩下村《割書:家廿九軒|人二人》 一河原湯村《割書:人十|七人》  一矢倉村《割書:家廿九軒|地百余名》  一林村《割書:家十|四軒》 【左丁】 一三島村《割書:地二百七十石家五十|七軒人十六人馬八疋》  一郷原村《割書:地二十|石余》 一横谷村《割書:地九十石余人十|一人馬廿六疋》  一原町《割書:地二百十六石余|家十六軒》 一原田村《割書:地九十石余人|七人馬四疋》  一川戸村《割書:地百十三石余|家十軒人十人》 一金井村《割書:地四畝八歩林|三反四畝十九歩》  一岩井村《割書:地八畝|人一人》 一植栗村《割書:地二|町余》  一小泉村《割書:地同|上》  一泉沢村《割書:地壱石|五斗》 一新巻村《割書:地壱町|四反余》  一奥田村  一吾町田村 一箱島村  一祖母嶌村《割書:家二十|八軒》  一中条村《割書:地二十壱|町余》 一伊勢町《割書:地廿五町家二軒|人壱人馬壱疋》  一村上村《割書:地百八十石|家十七軒》 一川島村《割書:家五十軒|人百廿人》  一小野子村《割書:家十七軒人|一人馬六匹》  一小牧村 一金井宿  一渋川宿  一中村  一南牧村《割書:人百|三人》 【右丁】 一大崎村  一半田村  一白井村  一阿久津村 一漆原村  一河原島村    荒高  一高壱萬九百八拾五石九斗七升弐合七夕《割書:吾妻郡二|十八 ̄ケ村》  一高三千五百五拾三石四斗五升五合  《割書:群馬郡|四 ̄ケ村》   此段別四百九拾四町三段弐畝拾三歩  一流死人九百三拾四人《割書:男四百四拾三人|女四百九十壱人》  一馬三百八拾五疋  一家九百三拾軒  一村々餓死人三千百五拾弐人《割書:男千七百七拾六人|女千三百七十六人》 【左丁】  一吾妻郡川付私領之村々流家二百五拾九軒   吾妻郡御領私領合千百九拾四軒流失   同      流死人千三百七拾三人   同      同馬五百七疋    異変微段之事 一同年正月頃より鶏はおとをなさす時をつくら  す 一梨の花さく 一五六月之間群馬郡上小野子本宿山吾妻郡三原  辺【邊】にて鹿なく 【右丁】 一七月三日の朝出羽奥州にて日輪二面見ゆると  いふ 一七月四日八月五日のあさ日色紅のことし 一八月奥州雹ふるも九尺または弐尺または壱尺七  寸におよへり 一九月碓氷郡のうち柿の花さく 一十月武州榛沢【澤】郡の内桑の実なる 一吾妻郡にて麦のほいつる 一十一月群馬県三倉室田中村のうち武州児玉郡渡  瀬村のうち躑躅花さく 【左丁】     飢饉の事 一同年七月中物価【價】 百文ニ付米壱升五合〇小麦  壱升八合〇大豆弐升壱合〇小豆壱升九合〇麦両  ニ付弐石三斗  同八月中 百文ニ付白米壱升〇大豆壱升四合  〇小豆壱升三合〇麦麺三百弐拾目〇麦両ニ付壱  石六斗  同九月中 百文ニ付米壱升〇小麦壱升三合〇  小豆壱升弐合〇大豆壱升三合〇麦麺三百目〇麦  両ニ壱石四斗 【右丁】  翌四年辰二月中 百文ニ付米七合〇小麦六合  五夕〇大豆七合〇小豆五合〇余【餘】米四合〇素麺弐百  目〇麦両ニ四斗八升  同三月中  百文ニ付米四合〇素麺百八拾目〇稗  八合〇粟八合〇麦両ニ四斗  如此物価貴騰するに順し于菜壱連百文といふ  にいたれりすへて関東筋はわら粉を食とし山  かたは木の根草の根をほりつくしたりといふ 一村々餓死するもの其数しれす食物つゝきかたく  葛の根。藤の根。ところ【ヤマノイモ科の蔓草】。松の木のかは。木のほや【宿木】。白牛 【左丁】  ひら。わらひの根。にれのは。そはからの粉。稗から  の粉なとを食ふにいたれり日本四拾二国【國】の飢饉な  りといふ 【右丁 文字無し】 【左丁】 第十九号   野州白根山ニ方リ振動等有之候儀御届申上 当三月十二日午後三時頃日光黒髪山続キ成其白 根山ニ方リ俄ニ砂烟ヲ瓢【「飃」は「瓢」に同じ】揚シ蒼天モ黒色ト変シ端ナク 振動相発リ其響キ軽雷ノ如クナレトモ天地ニ轟キ硫黄 ノ臭気アル灰ヲ雨下スルコト六時間ニテ人々驚愕屈在候 越其節白根山ノ景況【情況】烟花ノ如ク相見ヘ候由当【當】管下 野州都賀郡蓮花石村ヨリ届出申候猶詳細之義 ハ実地取調之上可申上候得共不取敢此段御届申上候 以上 【右丁】            栃木県七等出仕 柳川安尚 明治六年三月     栃木県参事   藤川為親            栃木県令    鍋島 幹  大蔵大輔井上馨殿      本文猶詳細ト有之候得共其後為差動揺      モ無之再申不致ニ付附箋ヲ以御断候也   【右二行の行頭を「[」で括りその上に附箋と記載】 【左丁】     乍恐以書付御届奉申上候 第二大区九小区戸長副奉申上候当三月十二日午後 三時頃より日光中宮司山続戌亥之方白根山ノ方ニ当 リ俄ニ空合砂烟リノ如ク相見へ候中大成物音天地ニ轟 キ砂子降出シ硫黄之匂ひ甚敷人々恐畏致居候処【處】同九 時頃ニ至リ漸ク右物音砂降リ共相鎮リ一同安堵ノ思ヲ 致シ候得共右白根山之方烟リ花ノ如クニ相見へ未曾有 之珍事ニ御坐候間猶実地見届之上巨細御届万申上候 得共不取敢此段御届奉申上候以上          第二大区九小区 【右丁】               都賀郡蓮花石村                右区                副戸長 明治六年三月十四日         船越言平               同                鉢石宿                戸長                   後藤半四郎  栃木県令鍋島幹殿 【左丁 文字無し】 【文字無し】 【文字無し】 【裏表紙 文字無し 帝国図書館藏の押圧文字あり】