コロリ病は極めて恐るべき急病なれば  亦 火急(くはきう)に療治を加へざる時は治すべき  者も忽ち死に至る実に歎(なげく)べき事なり且  此病流行の節医師早速 間(ま)に合ぬ事多し  故に医師を待の間素人 預(あらかじ)め心得置て其  期(ご)に臨(のぞ)みて狼狽(らうはい)すること無く十分に手当  を尽すへき方法を詳(つまびらか)に記録し済世(よをすくふ)の一  助たらん事を欲すと云爾 《題:暴瀉(コロリ)【左ルビ「コレラ」】病手当素人心得書》 此書は独逸(どいつ)国の医師大学士「オシ ヤンデル」《割書:人|名》の撰ひたる民間医療【左ルビ「ホルクスゲネース」】 重宝記【左ルビ「キユンデ」】《割書:我安政元寅年彼一千八|百五十四年 第五板》中 のコロリ病の条を抜書翻訳し板 行する者なり  文久三年癸亥晩秋  官許  尾張 伊藤圭介識 暴瀉病手当素人心得書  暴瀉(コロリ)病《割書:痧秒|コレラモルビュス《割書:又》亜細亜霍乱》 此病は恐るべきものにして暫時(しばらく)の間に斃(たふる) る者もある程の毎時(いつも)甚た危き症なれば最(もつとも) 急卒(きうそつ)に良医(よきいしや)の療治を乞ふべし決して等閑(なほざり) にすべからず 〇不時に此病を発して直ちに良医の療治 を受る都合を得ざる事あり又此病は甚だ 簡便(ことすくな)の薬方を用ひてその増進を屡(しば)〳〵防き 得べき事あれば此病症を能く弁へ知るべ きは切要の事なるに諸人之を弁へずして 空く危篤(きとく)に至らしむる事あり豈に歎(なげ)くべ きにあらずや故に此病症を明白に告示(つげしめ)し 且医師の来るを待つの間に能く用ゆべき 薬法を預(あらかじ)め素人に心得させ置べきことを我 徒勘考に及へり是実に肝要の事なり 〇此病の発するや或はその前兆(まへびろ)の症候(やうだい)あ るものあり然れども数(しば)〳〵この症候無くし て卒然(にはかに)来る者も亦あり 〇前兆の症候は次に列挙(つらねあぐる)が如し 〇 総身(そうしん)労倦(つかれ)を覚へ不寝(ねられず)、眩暈(めまい)、頭痛(づつう)胃部痞(むなさきつかへ)重(おもく)、 悪心(むかつけ)、嘔吐(はき)、舌卜 黄色(きいろ)又 灰白(うすしろく)或は粘滑(ねまり)の胎(たい)あ り食進まず或は全く不食(ふしよく)、腹(はら)雷鳴(なり)、或は腹(はら)痛(いたみ)、 大便(だいべん)数行(かずまし)、漸次(しだい)に下利(くだり)となり兼て戦栗(ふるひ)、或は 腓転筋(こむらかへり)を起(おこ)し手足 厥冷(ひゆる)等なり 〇此諸症の稽留(うちつゞく)の時限長短定まらずして 後此症終に減却して次に挙る病態(びやうたい)を発す るあり又斯の如き一二の前兆の症候も無 くして暴発(ぼうはつ)する者 屢(しば)〳〵あり 〇 総身(そうしん)の肌膚(はだへ)此病 固有(ありまへ)の一種の汚色(けがれたるいろ)を現 はし其 弾力(だんりき)減じ皮膚を撮(つまみ)て皺襞(しわひだ)を作り見 るに其 痕(あと)暫時(しばらく)故(もと)に復(ふく)すること無し、身温(しんうん)の度(ど) 減ず四肢(てあし)の末殊に然り、眼目 陥(おちい)り、眼瞼半閉(まぶたなかばとぢ) て多少 淡青色(うすあをいろ)なる輪廓(まるきわ)を眼に廻(めぐ)らし舌胎(したのたい) 尚温にして潤(うるほ)ひ、大便 褐黄(かばき)色、或は既に鹸滓(うすきしる) 様(やう)の物となり此中に凝(こ)り固(かたま)りたるもの交 るもあり、或は腹(はら)雷鳴(なり)能く外に聞へ、悪心(むかへけ)、嘔(は) 吐(き)を発し、初は食物又 胆汁様(たんじふやう)のもの若くは 他物、後 斑点(まだらなるもの)を雑ふる水様の汁を吐逆す、胃(むな) 部(さき)痞(つかへ)重(おもきこと)増し、小便 短少(すくなく)、後全く癃閉(つうせず)甚だしき 煩躁(もだへ)苦悶(くるしみ)に堪へず、臂(うで)、臑(かいな)殊に腓(こむら)の筋(すじ)転筋(こむらかへり)し 陰嚢(いんのう)までも痙攣(ひきつり)をなすこと稀ならず、斯の如 き二三の症或尚多くの諸症を発すれば既 に暴瀉(コロリ)病なること疑(うたがひ)を容(い)るべからず《割書:按に此|外 声(こへ)嗄(かるゝ)》 《割書:等の症|あり》 〇 症候(やうだい)漸次(しだい)に増加し顔貌(かほつき)は此病 固有(ありまへ)の状(すがた) を現(あら)はし甚▢く消削(やせ)、鉛色(なまりいろ)となり、眼は深く 眼窩(がんくは)中に陥没(おちこみ)、鼻(はな)、顋(あぎと)、耳、手、足 厥冷(ひへ)、且 呼吸(いき)まで も冷ゆるを覚え、手足の指は肌(はだへ)淡青色(うすあをいろ)とな り皺(しわ)みて手を久しく水中に入れ居たる人 の如し脉動(みやくのうち)をも診(うかゞ)ひ得ず只此病人その微(かひ) 弱(なく)なりたる呼吸(いき)、手足の痙攣(ひきつけ)、且尚 知覚(おほえ)ある の外には殆んど屍体(しかばね)と之を弁別(わかち)難きに至 るものなり 〇この病者一二日又 暫時(しばらく)の間にも能く死 に至る故に薬用は一瞬(またゝく)の間も等閑(なほざり)に過し 難し左の箇条の内考へ施すべきなり 治法 其一 前兆の説に挙たる若干(そこばく)の症 襲(おそ)ひ来る 時は加密列(カミルレ)或は接骨木花(セツコツボククハ)【左ルビ「にはとこのはな」】に「コロイスミュン ト」《割書:按に此品未た本邦に無しおら|んだはくかを代用しても宜し》或は薄荷(ハクカ) 少許(すこしばかり)を加へ泡剤(ふりだし)となし用ゆべし《割書:按にこの|其一其二》 《割書:等は斯の如き次第に用ゆべしと云ふには|あらず此内を見計ひ治を施すべきなり》 其二 菩提樹花(ボダイジユクハ)【左ルビ「ほたいじゆ又しなのきのはな」】の泡剤(ふりだし) 其三 橙花(トウクワ)《割書:たうみかん、くねんぼ、だ|い〴〵等の花にて宜し》の泡剤(ふりだし) 其四 丁子(てうじ)壱弐粒を嚙(か)み食ふ事 其五 温(あたゝか)なる常の茶を飲む事 其六 水に乳汁を交せ用ゆる事 其七 温湯に浴(よく)し後温めたる臥床(ねどこ)に入り夜 具を温め覆ひ又温めたる毛布(けおり)類の切(きれ)等に て注意(きをつけ)て能く包むべし若し臥床を出ると も冷気に触(ふる)ること勿れ 其八 其後施すべきは手又は温めたる毛布 類の切を用ひて身体を直ちに乾摩(からすり)すべき 事但夜具の内にて之を施し冷気を避くべ し 其九 温湯を徳利(とくり)又は硝子罎(ふらすこ)に全く充(みて)て両(りやう) 脇腹(わきはら)又 腰(こし)の廻(まわ)りに置く事又は砂或は糠(もみ▢ら)を 温め熱(あつく)▢▢嚢(ふくろ)に納(い)れ同様に用ゆるも宜し 其十 加密列(カミルレ)、接骨木花(セツコツボククハ)「シトルーンコロイド」 「コロイスミュント」薄荷(ハクカ)を嚢に充(み)て温めて前 法の如く入れ置くべき事《割書:按に「シトルーン|コロイド」は和産》 《割書:無し「コロイスミュント」は前に註せり右等の|品缺るとも妨けなし接骨木花薄荷等何れ》 《割書:の品にても有合せの|物を用ひて事足れり》 其十一 石を焼き熱くし之を酢(す)に浸(ひた)したる毛 布類の切に包みて前の如く入れ置くべき 事 其十二 毛布類の切を温めたる酢に浸して腹(はら) 就中(なかんづく)胃部(むなさき)を摩擦(する)べき事 其十三 酒亦前法の如く用ゆ 其十四 羯布羅精(カンフラセイ)《割書:樟脳(しやうのう)を焼酒(せうちう)に|浸したるもの》同上 其十五 又 同部(おなじところ)に発泡膏(はつほうかう)或は芥子泥(かいしてい)を貼(はる)事《割書:按|に》 《割書:芥子泥は麦粉十二部芥子末三部酢六部|右調和す或は芥子末に酢を和し用ゆ》 其十六 背に芥子泥を貼(はる)も亦甚しき困苦(くるしみ)煩悶(もたへ) を緩(ゆるむ)る事屢々あり 其十七 発汗(あせ)始りたらば前に挙たる泡剤(ふりだし)温(あたゝか)な る飲液(のみもの)等を与(あた)へて猶更その汗を保護(たもち)置く べき事 其十八 腓転筋(こむらかへり)屢(しば)々 劇(はげし)く発する時は固く持て 手又は毛布類の切にて能く摩擦(する)べき事 其十九 温湯に浸したる手巾(てぬぐひ)にて脚(あし)を膝以下 総て包み之を換(かふ)る毎(ごと)に他の温かなるもの を引かへ用ゆべき事 其二十 次に挙る薬方を以て腓(こむら)に擦(すりこむ)べき事      亜麻油(アマユ)《割書:或は》阿利襪油(ホルトガルノアブラ)《割書:十六匁》      磠砂精(ドウシヤセイ)《割書:二匁》  阿芙蓉丁幾(アフヤウチンキ)《割書:四匁》 其二十一 発汗(はつかん)を保(たも)つ為には温(あたゝか)なる飲料(のみもの)を与(あたふ)る を勿論宜しとす然れども冷水を好むの情 切なるは多く此病人の癖(くせ)なれば只甚しき 煩渇(はんかつ)を少しく止むべきに因て水も亦時々 少許(すこしばかり)を許(ゆる)すべし劇(はげし)き嘔吐を稍(やゝ)鎮(しづ)むること稀 ならず 其二十二 若其頃得べきならば一片の氷を釆り て口中に含(ふく)ましむるも良し渇(かわき)を制すること 屢(しば)々なり 〇 暴瀉(コロリ)病を治するに極めて世に賞用する 薬方 仮令(たとへ)は越里幾矢爾(エリキシル)剤又苦味の諸品等 は之を経験するに其良効を得ざること明な り 預防法 其二十三 此病の流行する時節に当りて深く恐 るゝこと勿れ心之を恐怖(きやうふ)して早く此症に罹(かゝる) ものあり是 実験(じつけん)に因て観る所なり 其二十四 食養生(しよくやうじやう)を適宜(ほどよく)し一度に甚た多量の 食物を用ゆること勿れ一日に一両度《割書:按に其|国俗習》 《割書:に因て差別|あるべし》軽き食物を用ゆべし朝は食せ ざる已前に慎んで冷気に触る事勿れ 其二十五 魚肉を多分に食ふこと勿れ又 蔬菜(やさい)菓物(くだ▢の) の水気多くして其性冷なるもの或は大便 通利を増すものを食すべからす 其二十六 硬(かた)くして膨脹(ふくれ)ざる《割書:按に軽虚な|らざるを云》粉類の 食物《割書:団子|の類》十分に焼(やけ)ざる麵包(パン)又獣肉魚肉の 乾物(かんぶつ)塩漬(しほづけ)の品は此時格別に害あり 其二十七 獣肉又鳥類の鷄(にはとり)、鳧(かも)、雁(がん)等を食するには 殊更に気を付くべし若其物 異常(つねならぬ)の死を得 て様子の異(こと)なるものは之を用ゆること勿れ 其二十八 峻烈(つよき)飲料(のみもの)《割書:焼酒(せうちう)|類》を不適宜(ほどのよからず)に飲むことは平 生 忌(い)むべき事なれども此時節に当りては 殊に戒むべし是に耽(ふけ)る輩は毎常(いつも)病に侵(おかさる) るものなり然れども過飲(のみすごす)と適宜(ほどよく)用ゆると は大に差別(ちがい)あり故に一二盃の好(よき)赤葡萄酒(ぶだうしゆ) 又は少許(すこしはかり)の杜松酒(としやうしゆ)【左ルビ「ゼネーフル」】或は焼酒(せうちう)を毎日用ゆる は害(がい)よりは却て益あるべし此類を不断(ふだん)飲 み慣(なる)る人には猶更の事なり 其二十九 酢(す)、焼酒(せうちう)或は酒を交るに非されは一味 の冷水は用ゆること少許に過(すぐ)べからす或は 之を飲ざるを良(よし)とす 其三十 酪(ボートル)を取たる跡の乳汁 酸味(すきあぢはひ)の新酒又は 同様なる麦酒を用ゆること勿るべし 其三十一 寒冷に触る事を忌む身体(しんたい)始終(しぢう)一様の 温(あたゝかさ)を保ちて俄に寒冷を受ざる様に心を用 ゆべし腹と手足を冷気に触るは殊に避く べし此故に寒冷を冒すに因て継発(ついておこり)たる腹(ふく) 痛(つう)下利(くだり)を屢々患ふる輩には毛布類の腹帯(はらおび) を巻(まき)温むべし且足を湿(うるほ)すこと又 冷(ひや)すことを避(さく) べし且その人身住処共に極めて清浄にし て家室は毎日 適宜(ほどよく)之を開きて新しき空気 を通(かよは)すべし又清水を用て拭ひ潔(いさぎよ)くすべし 但是亦多きに過(すぐ)べからず湿気(しつき)多ければ却 て害あればなり 暴瀉病手当素人心得書《割書:終》 快復(なほる)に至るべし 右の法 普済(ひとだすけ)の妙法なれば人々是 全ならむ事をねがふといふ 安政五戌午年八月        深川 森田立斉 暴瀉病手当素人心得書《割書:終》 一 此頃(このころ)はやる悪厲病(ころり)は其症甚だにわかにして治(なほ)  るもの至てまれなりされば預(まへかた)そのあしき気を  ふせくを第一とす   清水《割書:一盃》 上品醋(よきす)《割書:一 匕(すくひ)》 砂糖《割書:同》  右かきまぜ毎朝 食前(めしまへ)に小茶碗(こちやわん)に一杯つゝ飲むべ  し其外 居間(ゐま)を清浄(きれい)にし時々 杜松子(としやうし)。焰焇(ゑんしやう)。砂  糖。を薫(たく)べし其他 丁子(てうじ)。竜脳(りうのう)。の類を少しつゝ口に  ふくみ冷水(ひやみづ)を以てたび〳〵漱(うがひ)する時は厲気(ころり)の  伝染(うつる)事なし  若(も)し万一この病をうけたる時は西洋(おらんだ)にてあらた  に考(かんか)へたる奇功(ふしぎ)の妙薬(みやうやく)あり  胡麻(ごま)の油(あぶら)二合ほど火にあたゝめ布(ぬの)につけ目を除(よけ)て  其外 全身(からだぢう)にはやくつよく頻(しきり)にぬりつけべし尤其  時は戸(と)障子(しよふじ)をしめて内にて杜松子と砂糖を然(くる)也  ず▢▢▢べて重被(かさねぎ)して汗(あせ)を▢▢時はかならず  快復(なほる)に至るべし  右の法 普済(ひとだすけ) の妙法なれば人々是を用ひて安  全ならむ事をねがふといふ  安政五戌午年八月        深川 森田立斉印施 【裏表紙】