【表紙】 【題箋は殆ど欠損】 □本【以下欠損】 【資料整理ラベル】 721.8 TAC 《割書:日本近代教育史| 資料》 【右丁 見返し】 絵本写宝袋 六 【左丁】 絵本写宝袋六之巻目録 晏平仲(あんへいちう)楚国(そこく)に使(つかひ)して斉(せい)を辱(はづか)しめざる図(づ) 晏子(あんし)之(の)御者(ぎよしや)が妻(つま)賢才(けんさい)にして夫(おっと)を諫(いさむ)る図 呉王(ごわう)闔閭(かつりよ)【ママ】使(して)_二孫氏武(そんしぶを)_一女兵(ぢよへい)を操(あやつ)らしむる図(つ) 呉王 夫差(ふさ)与(と)_二西施(せいし)_一 八景(はつけい)に遊(あそ)ぶ図 孔子(こうし)生智(せいち)萍実(へいじつ)を弁(べん)【左ルビ:ことわる】ずる図  《割書:并ニ》顔回(がんくわい)の仁(じん)廉節(れんせつ)を改(あらため)ざる図抄(づせう) 智伯(ちはく)が臣(しん)予譲(よじやう)漆(うるしして)_レ身(みに)欲(ほつする)_レ報【左ルビ:ほうぜんと】_二主君(しゆくんの)仇(あたを)_一之(の)図(づ) 【右丁】   孫臏(そんひん)法術(ほふじゆつ)を修(しゆ)し強盗(ごうどう)を伏(ふく)する図(つ) 孫臏(そんひん)魏(ぎ)に事(つかへ)て雨(あめ)を祈(いの)る図 孫臏(そんひん)以(もつて)_レ策(はかりことを)馬陵道(ばれうだう)に万弩(まんど)射(いる)_二龐涓(ほうけんを)_一図 藺相如(りんしやうちよ)秦(しん)に使(つかひ)する図  并 ̄ニ卞和(へんくわ)が夜光璧(やくわうのたま)の事 秦王(しんわう)与(と)_二趙王(てうわうと)会(くわい)_二澠池(めんちに)_一する図 藺相如(りんしやうぢよ)廉頗(れんは)が来(きたる)を見(み)て車(くるま)を避(さく)る図 【左丁】 絵本写宝袋六之巻   晏平仲(あんへいちう)楚(そ)に使(つかひ)して斉国(せいのくに)を辱(はづ)かしめざる事 斉(せい)の晏嬰(あんゑい)闘宝(とうほう)の事(こと)を謝(しや)せんがため楚国(そこく)に使(つかひ)す既(すで)に楚(そ) に至(いたつ)て国中の風景(ふうけい)を見るに地霊(ちれい)人傑(じんけつ)まことに江南(こうなん)の美(び) 地(ち)なり進行(すゝみゆき)てみれば一大 門(もん)有(あつ)て掩閉(おほひとさ)せり傍(かたはら)に小 門(もん)あり 甚(はなは)だ窄(せば)く矮(ひく)し楚国の奏者(そうしや)出 迎(むか)へ引(ひい)て小門より入らん とす晏子(あんし)心に我を慢(あなど)る事を知(しつ)てこれは狗竇(くとう)【左ルビ:いぬのあな】なり狗国(くこく) の使(つかひ)を待(まつ)て入よといひければ遂(つい)に大門より入る朝(てう)に至る に及(およん)で数(す)十人の儒臣(じゆしん)謀士(ばうし)左右(さゆう)に相(あい)列(つらなつ)てかわる〴〵出て なじるといへども晏子こと〴〵く返答(へんたふ)しければ皆(みな)閉口(へいこう)して 退(しりぞ)く楚(そ)の上軍(じやうぐん)太夫(たいふ)伍奢(ごしや)が曰(いわく)晏子は斉の賢士(けんし)何(なん)ぞこれを 慢(あなど)るやと引て霊王(れいわう)に見(まみ)ゆ王 橘(たちばな)を賜(たま)ふ晏子 皮(かわ)共に食(しよく)す楚王大に 笑(わら)ふ晏子が曰 臣(しん)聞(きく)君(きみ)果(このみ)を賜(たま)ふ刻(ときは)橘柑(きつかん)割(わら)ずと云へりと楚人 敢(あへ)て辱(はづか)しむること能(あた)はす遂(つゐ)に聘礼(へいれい)を収(おさ)め晏子を宴(もてな)して帰(かへ)らしむ 【両丁 挿絵のみ】 【右丁】 【上段挿絵の説明】 御者(ぎよしや)が妻(つま)  晏子(あんし)を見る 【下段】 晏平仲(あんへいちう)一日(あるひ)出(いて)行(ゆく)時 其(その)車(くるま)を御(ぎよ)する者(もの)の妻(つま) 門(もん)の間(ひま)よりこれを闚(うかゞひ) みれば夫(おつと)の御者(ぎよしや)大 蓋(がい) を擁(よう)し駟馬(しめ)に策(むち)うち 意気(いき)揚々(やう〳〵)として自(みづから) 得(ゑ)たるの様(さま)なり既(すで)に して家(いゑ)に帰(かへ)れば彼妻(かのつま) 去(いとまの)ことを請(こふ)御者その ゆへを問(とふ)妻の曰(いわく)主人(しゆじん)の 晏子(あんし)は長(たけ)五 尺(しやく)に満(みた)ず しかれども其身(そのみ)斉国(せいのくに) の相(しよう)として名(な)諸侯(しよこう)に 顕(あら)はれたまへり今日(けふ) わが夫(おつと)をみるに長(たけ)八 【左丁】 【上段挿絵の説明】 晏嬰(あんゑい) 御者(ぎよしや) 【下段】 尺ありといへども人の 僕御(ぼくぎよ)たり然(しか)も御身(おんみ)の 心みづから足(た)れりと思(おも) へり妾(われ)こゝを以(もつ)ていとま の事を云(いふ)ものなりと 御者(ぎよしや)大に恥(はぢ)てそれ より抑損(へりくだり)けるが晏子(あんし) あやしみてこれを問(と)へ ば御者ありのまゝに かたる晏平仲大きに 感(かん)じ遂(つゐ)にすゝめて 太夫(たいふ)とすといへり 晏子 姓(せい)は晏(あん)名(な)は嬰(ゑい) 字(あざな)は平仲(へいちう)斉(せい)の国(くに)の 相国(しやうこく)なり 【右丁】 【右から横書き】 呉(ご)王(わう)従(より)_二台(うたての)上(うへ)_一視(みる)_二女(ぢよ)兵(へいを)_一 【左丁】 【右から横書き】 孫(ソン)武(ぶ)女(ぢよ)兵(へい)を操(あやつる)図(つ)        二 妃(ひ)法(ほふ)に背(そむく)ゆへ        孫氏武(そんしぶ)これを斬(きる) 【右丁】    呉王(ごわう)夫差(ふさ)与(と)_二西施(せいし)_一遊(あそふ)_二 八 景(けいに)_一 呉王(ごわう)楚(そ)越(ゑつ)を従(したが)へ心を安(やすん)じて姑蘇台(こそたい)を建(たて)て遊覧(ゆうらん)に 備(そな)ふ其 高(たか)さ三百里を望(みる)べく寛(ひろ)さ六千人を容(いる)べし梁(うつばり)に 彫(ほりもの)し桷(たるき)に画(ゑか)き柱(はしら)を金にし欄干(らんかん)を玉(たま)にし庭(には)には美(うつくし) き草華(くさはな)を植(うへ)珍(めづら)しき鳥獣(とりけだもの)を放(はな)ち湖水(こすい)を引(ひい)て台(うてなの)前(まへ)に 環(めぐ)らし荘(かざ)れる舟を浮(うか)ふ左に香水溪(かうすいけい)あり右に百花洲(ひやくくわしう)有 四時(しいし)花(はな)の香(かうば)しき事 絶(たへ)ず此 台(うてな)三年の財(ものなり)を積五年の力(つとめ)を あつめて成就(じやうじゆ)せり王 日々(ひゞ)に此台に出てあそぶ数(す)十の美(ひ) 女(ぢよ)を座(ざ)の側(かたはら)に列(つらね)て歌(うたひ)舞(まは)しむ時に西施(せいし)其(その)第(だい)一たり美(うるはしき) 貌(かたち)たぐひなし王の寵愛(てうあい)后妃(きさき)に勝(まさ)る又 霊岩山(れいがんさん)に西施洞(せいしとう) を築(きつ)き玩花池(くわんくはち)を開(ほり)採香径(さいかうけい)を闢(ひら)き碧泉井(へきせんせい)を鑿(ほり)館娃宮(くわんあいきう) を建(たて)西施を挈(たづさ)へ妃嬪(ひひん)をして前後(せんご)を擁(かこま)しめ八 景(けい)に遊(あそ)ぶ《割書:八景は|姑蘇》 《割書:台。百花洲。香水溪。西施洞。玩花池。|採香径。碧泉井。館娃宮。なり》五十 歩(ほ)に一 亭(てい)八十歩に一 榭(しや)ありて 亭に逢(あふ)ごとに酒 宴(ゑん)をなし榭(しや)に遇(あふ)毎(ごと)に歌舞(うたひまふ)春(はる)は四方(よも)に百 花(くわ) 【左丁】 をたづね花の枝(ゑた)を折(おり)西施(せいし)が鬢(びん)【鬂は俗字】に插(さしはさ)みて曰(いわく)月夜(つきのよ)に百 花叢(くわそう)の 下(もと)に立ば孤(われ)花の貌(すがた)の子(なんじ)に類(るい)して子(し)が貌(かたち)の花(はな)に類する事を 知(し)らじと。夏(なつ)は数多(あまた)の船(ふね)に簫鼓(しやうこ)を載(のせ)西施と共に香水溪(かうすいけい)に蓮(はちす)を 賞(しやう)じ宮女(きうぢよ)に蓮(はちす)を採(とら)しむ西施も蓮花(はちす)をとらんとして誤(あやまつ)て 溪水(たにみづ)に溺(おぼ)る宮女あまた水に入て扶(たすけ)起(おこ)し王みづから舟中(しうちう)に 抱(いたき)入て曰(いわ)く西施が水に溺(おぼれ)たるありさまは落花(らくくわ)の水に随(たゞよふ)が如(こと) しと又 溪(たに)に白珠(しらたま)を布(しき)清水(しみづ)を引(ひい)て西施と共に浴(ゆあみ)し秋(あき)は 西施と共(とも)霊岩山(れいがんさん)に登(のぼ)り紅葉(もみぢ)をたづね館娃宮(くわんあきう)に処して 昼夜(ちうや)歌舞(かぶ)管絃(くわんけん)し冬(ふゆ)は霜(しも)の朝(あした)雪(ゆき)の夜(よ)王(わう)西施と共に狐(きつね)の 裘(かはころも)を着(き)て数(す)十の宮(きう)女をして車(くるま)を引(ひか)しめ梅花(ばいくわ)を尋(たづ)ね《振り仮名:従_レ此|これより》 呉王(ごわう)政事(まつりごと)を理(おさめ)ず昼夜(ちうや)酒宴(▢ゆゑん)淫楽(いんらく)を専(もつはら)にし給ふ国政(こくせい)みな 荒(すさめ)り伍子胥(ごししよ)表章(ひやうしやう)を具(ぐ)して諫(いさ)むれども全(まつた)く納(いれ)給はず子胥(ししよ) 出て歎(たん)じて曰(いわく)呉(ご)の末(すゑ)桀紂(けつちう)が世の如し安(いづくん)ぞ其(それ)亡(ほろ)びざるべけん やと後(のち)遂(つい)に越(ゑつ)王 句(こう)【勾】践(せん)のために滅(ほろぼ)されたり 【右丁】 呉王(こわう)与(と)西施(せいしと)雪夜(ゆきのよ) 西施洞(せいしとう)に遊(あそ)ぶ図(づ) 【左丁 挿絵のみ】 【右丁】 楚王(そわう)の使者(ししや)宗木(そうぼく) 孔子(こうし)に見(まみ)ゆる 【左丁】    孔子(こうし)萍実(へいじつ)【左ルビ:うきくさのみ】を弁(ことはり)たまふ 先聖(せんせい) 御 歳(とし) 六十三        子路(しろ) 回 若(わかふ)して 髪(かみ)鬚(ひげ)     顔回(がんくわい) みな 白(しろ)し   冉求(ぜんきう)           曽参(そうしん)               子貢(しこう) 【右丁】    孔子(こうし)萍実(へいじつ)を弁(べん)じ給ふ《割書:并》顔回(がんくわい)の仁(じん)廉(れん) 楚(そ)の昭(しやう)王 賢(けん)を尊(たつと)み士(し)を招(まね)き兵(へい)を利(り)して覇業(はぎやう)を振(ふる)はんこと を欲(ほつ)す其(その)臣(しん)諸梁(しよりやう)が曰(いわく)魯(ろ)の孔仲尼(こうちうじ)は当世(とうせい)の聖人(せいじん)なり昔日(そのかみ) 魯公(ろこう)これを用て魯国大に治(おさま)り斉(せい)より侵(おか)せる地(ち)を返(かへ)す今 列(れつ) 国(こく)に遊(あそん)で晋(しん)に在(あ)り大王 誠(まこと)に覇(は)をはかり給はゞこれを迎(むか)へ 国(くに)の政(まつりごと)を授(さづけ)給へ宗木(そうぼく)が曰 孔丘(こうきう)は迂儒(うじゆ)にして時務(じむ)に達(たつ)せずと昭(しやう) 王の曰(いわく)我 江洲(こうしう)に於(おい)て一 物(もつ)を拾(ひろひ)得(ゑ)たり群臣(ぐんしん)其名を知(し)る者(もの) なし聖人(せいじん)は心(むね)に竅(あな)有て人の識(しら)ざる事をしると云へば使臣(ししん)をし て彼(かの)一 物(もつ)の名(な)をたづねて試(こゝろ)みんとて則(すなはち)宗木に一物を持(もた)せ孔 子(し)に見(まみ)へて問(とは)しむ孔子其一物を見給ふに円(まるく)大にして光(ひかり)有 子(し)の曰(のたふまく)これ萍(うきくさ)の実(み)なり食(しよく)すれば味(あぢはひ)甜(あま)き事 蜜(みつ)のごとし宗木 拝辞(はいじ)してかへり昭王に告(もう)す王 割(わり)て群臣(ぐんしん)に賜(たま)ふこれを食(くらふ)に 蜜(みつ)のごとし昭王 即(すなはち)安車(あんしや)駟馬(しめ)を以(もつ)て孔子を迎(むか)へしむ孔子 楚(そ)に 赴(おもむ)き其 礼(れい)に答(こた)【ママ】んとて轡(くつわづら)を反(かへ)して進(すゝ)み給ふ陳蔡(ちんさい)の二 公(こう)相議(あいぎ) 【左丁】 して曰(いわ)く楚(そ)に孔子を用て覇(は)を振(ふる)はゝ我(わが)小国 危(あやふ)からんたゞ 孔子を防(ふせい)で楚に入るゝ事なかれとて忽(たちまち)兵を起(おこ)して孔子を囲(かこむ) 子路(しろ)怒(いかつ)て戈(ほこ)を挺(とつ)て戦(たゝか)はんとす子曰 君子(くんし)は己(おのれ)を咎(とがめ)て人を咎ず 焉(いづくん)ぞ仁義(じんぎ)を修(しゆ)して世俗(せぞく)と争(あらそひ)戦(たゝか)はんやとて琴(こと)を援(ひい)て歌(うた)ひ給ふ 陳蔡(ちんさい)の兵(へい)退(しりぞが)ざること七日 糧(かて)尽(つき)て弟子(ていし)餒(うへ)労(つか)る子貢(しこう)齎(つゝむ)ところの 貨(たから)を取出し窃(ひそか)に野人(やじん)に告(つげ)米(こめ)一 石(こく)を求(もとめ)得(ゑ)たり顔淵(がんゑん)これを 炊(かしく)に埃墨(ほこり)飯(いひ)中へ堕(おつ)る顔回取て食(くら)ふ子貢(しこう)井の辺(ほとり)よりこれを 見て窃食(ぬすみくら)へりと思ひ孔子に顔淵が飯(いひ)を食(くらふ)ことを告(つげ)て曰 仁人(じん〳〵) 廉士(れんし)も窮(きう)しては節(せつ)を改(あらたむ)るか孔子曰 吾(われ)回が仁を信(しん)ずること久し それ必(かならず)故(ゆへ)あらんとて顔回を召(めし)て曰 疇昔(きのふ)予(われ)夢(ゆめ)に先人(せんしん)を見る我 これを祭(まつ)らんとす子(なんぢ)炊(かしき)たる飯(いひ)を進(すゝめ)よ回の曰 向(さき)に埃墨(ほこり)飯(いひの)中に 入たり是を置(をく)ときは潔(いさぎよ)からずこれを棄(すつ)れば惜(おしむ)べし故(かるがゆへ)に回 之(これ) を食ふ祭(まつる)べからず孔子の曰(のたまは)く然(しか)らば吾(われ)も亦(また)これを食はん回 出ぬ子(しのゝ)曰 吾(わ)が回を信(しん)ずる事 今日(けふ)のみに非(あら)ず子貢 之(これ)を聞(きい)て服(ふく)す 【右丁  挿絵の説明】          子貢(しこう)   顔淵(がんゑん) 【左丁 挿絵の説明】        冉求(ぜんきう)     曽子(そうし)                    子路(しろ) 孔子(こうし)           宗木(そうぼく) 【右丁 挿絵の説明】 趙無恤(てうぶじゆつ)錦(にしき)の衣袍(ゑぼう)を 脱(ぬい)で予譲(よじやう)に与(あた)ふ 【左丁 挿絵の説明】    予譲(よじやう)衣袍(ゑぼう)を斫(きつ)て主君(しゆくん)の     仇(あた)を報(ほう)ずる      心(こゝろ)をなす 【右丁】 趙無恤(てうぶじゆつ)智伯(ちはく)を殺(ころ)し其 頭顱(されかうべ)を漆塗(うるしぬり)にして洩便(いばり)の器(うつは)物とす 智伯(ちはく)が臣(しん)予譲(よじやう)其 仇(あた)を報(ほう)ぜんと短剣(たんけん)を懐(ふところ)にかくし潜(ひそか)に無恤(ぶじゆつ) が宮中(やかた)に入 詐(いつわ)りて役(やく)を勤(つとむ)る者(もの)となり泥(つち)を以(もつ)て厠(かわや)の壁(かべ)を塗(ぬ)り 近寄(ちかより)て刺(さゝ)んとす無恤しきりに心(むね)驚(をどろ)く急(きう)に捜(さが)さしむるに 智伯(ちはく)が臣(しん)予譲(よじやう)なり従士(じうし)これを殺(ころ)さんとす無恤が曰智伯 死(しゝ)て 子孫(しそん)なし而(しかる)にために仇(あた)を報(ほう)ぜんとす真(まこと)の義士(ぎし)なり我 謹(つゝしみ)て これを避(さく)べしとて遂(つい)にこれを赦(ゆる)す譲(じやう)亦 身(み)に漆(うるし)をぬり癩病(らいびょう) 人となり炭(すみ)を呑(のん)で啞(おし)となり乞食(こつじき)に皃(さま)をかへて無恤をねらふ 其(その)友(とも)の曰(いわく)子(し)が才(さい)を以(もつ)て無恤に臣(しん)とし事(つか)へば近(ちか)き幸(さいわひ)を得(う)べし と譲が曰 質(かたち)を委(ゆだ)ね臣と為(なり)て之(これ)を殺(ころ)すは二(ふた)心也とて板橋(いたばし)の 下に伏(ふ)して無恤が過(とを)るを待(まち)て刺(さゝ)んとす無恤が馬 悲(かなし)み嘶(いばふ)て 退後(あとすさり)す無恤あやしみ捜(さが)さしむるに果(はた)して予譲を曳(ひき)出す無恤 が曰 吾(われ)前(さき)に汝(なんぢ)を赦(ゆる)す所に亦(また)此(かく)のごとし今はゆるしがたしとて従士(じうし) を以て取 囲(かこ)ましむ譲が曰今我 再(ふたゝ)び生(しやう)を貪(むさぼ)らじ願(ねがはく)は君の衣袍(ゑぼう)を 【左丁】 賜(たま)はり是を刺(さし)て仇(あた)を報(ほう)ずる意(こゝろ)をなすべしと無恤すなはち錦(にしき)の 袍(ぼう)を脱(ぬい)与(あた)ふ譲(じやう)其袍を刺て後に自害(じがい)すそれより無恤 病(やまひ) に染(そみ)て終(つゐ)に死(し)す是 身(み)を舎(すて)義(ぎ)を重(おも)んずるなり    孫臏(そんひん)法術(ほふじゆつ)を修(しゆ)し賊(ぞく)を服(ふく)し雨(あめ)を請(こひ)謀(はかりこと)を以 龐涓(ほうけん)を討(うつ)事 孫臏(そんひん)は孫武子(そんふし)が子孫(しそん)なり嘗(かつ)て龐涓(ほうけん)と倶(とも)に水簾洞(すいれんとう)の鬼谷(きこく) 子(し)を師(し)として兵法(ひやうほふ)を学(まな)ぶ法術(ほうじゆつ)兵機(へいき)くわしく通達(つうたつ)す龐涓 は已(すで)に魏(ぎ)の将軍(しやうぐん)と為(な)る魏王又孫臏を召(め)す鬼谷子(きこくし)孫臏に告(つげ) て曰(いわ)く巍に龐涓あり二 子(し)並(ならび)立がたからん吾(われ)汝(なんぢ)がために災(わざわひ)を 除(のぞ)かんとて則(すなはち)法を行(おこなふ)て錦(にしき)の袋(ふくろ)を授(さづ)け危急(ききう)なる時是を折(ひらく)べし と臏(ひん)拝辞(はいじ)して山を下り黒陽山(こくやうざん)の下(もと)に至(いた)るに遠達(ゑんたつ)独孤陳(どくこちん) といふ二人の盗賊(とうぞく)数(す)十の賊を率(ひきひ)て路(みち)を遮(さへぎ)り路銭(ろせん)を乞(こふ)おの〳〵 剣戟(けんげき)を抜(ぬき)連(つれ)て害(がい)せんとす孫臏 隠(ひそか)に法 術(じゆつ)を修(しゆ)し馬を馳(はせ)て林(はやしの) 中に入二 賊(ぞく)馬を双(ならべ)てすゝみ至る所に忽(たちま)ち空(そら)昏(くも)り日(ひ)暗(くら)くなり て樹(じゆ)木こと〴〵く将卒(しやうそつ)と成て金(かね)鼓(つゞみ)天に振(ふる)ふ賊党(ぞくとう)くるしみ迷(まよふ)て 【右丁 挿絵の説明】 孫子(そんし)遠達(ゑんたつ) 独孤陳(どくこちん)の 二 賊(ぞく)を伏(ふく)す            孫臏(そんひん) 法(ほふ)を修(しゆ)す 【左丁 挿絵のみ】 【右丁】 せんすべしらず声(こゑ)を揚(あげ)て一 命(めい)をゆるし給へと云孫臏 則(すなはち)法を 念(ねん)ずれば天(そら)晴(はれ)草木(さうもく)元(もと)のごとし二 賊(ぞく)跪(ひざまづい)て辞(じ)し去(さ)る孫臏又 其夜(そのよ)賊 来(きた)らん事を察(さつ)し石(いし)を以(もつ)て八 陣(ぢん)を布(しく)二賊 案(あん)のごとく 来(きた)り石陣(せきぢん)に入て出る事 能(あた)はず孫臏又是をゆるす次の夜(よ)又 賊来る孫臏 兼(かね)て索(なわ)をもつて縦横(たてよこ)に布列(しきつらね)しかば二賊 彼(かの)索(なわ) にかゝりて綑(からめ)倒(たを)され手足(てあし)働(はたらく)ことあたはず遂(つゐ)に伏従(ふくじう)しける 孫臏(そんひん)魏(ぎ)に入て恵王(けいわう)に見(まみ)ゆ王 喜(よろこん)で中軍太夫(ちうぐんたいふ)に封(ほう)じ龐涓(ほうけん) と相対(あいたい)して覇(は)を興(おこ)さんことを図(はか)らしむ此時 国中(こくちう)大に旱(ひでり)して 草木(さうもく)焦(こがれ)黄(きばみ)て百姓(はくせい)哀(かなし)み苦(くるし)む臏(ひん)よく風(かぜ)を呼(よび)雨(あめ)を喚(よぶ)の術(じゆつ)を 得(ゑ)たりければ龐涓魏王に奏(そう)し孫臏をして雨(あめ)を祈(いの)らしむ 臏 命(みことのり)を承(うけ)て斎戒(ものいみし)沐浴(ゆあひし)【注】し髪(かみ)を散(さば)き宝剣(ほうけん)を取て壇(だん)に登(のぼ)り 法を行(おこな)ふに須臾(しばらく)して雲(くも)起(おこ)り風(かぜ)生(しやう)じ大雨(たいう)淋々(りん〳〵)と遍(あまね)く満(みち) て百姓(くにたみ)大に悦(よろこ)ぶ魏王大に感(かん)じ孫臏を封(ほう)じて鎮魏(ちんぎ)大 国師(こくし) 兼(けん)参軍務事(さんぐんむじ)とす龐涓みづから孫臏に及(およば)ざることを知(しつ)て之(これ)を 【注 早稲田大学本 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_01293/bunko06_01293_0006/bunko06_01293_0006_p0015.jpg には振り仮名に「し」は無し。】 【左丁】 妬(ねた)み謀(はかりこと)を以て其 両足(りやうあし)を断(きつ)てこれを黜(しりぞ)く此時 斉(せい)の使(つかひ)淳于(じゆんう) 髠(こん)来て隠(ひそか)に孫臏を車(くるま)に乗(のせ)て窃(ぬす)み帰(かへ)る斉(せい)の威王(いわう)兵法を問(とふ) てこれを師(し)とす其後 魏軍(ぎぐん)韓(かん)を伐(うつ)韓 救(すく)ひを斉(せい)に請(こふ)威(い)王 則(すなはち) 田忌(でんき)を将とし孫臏を元帥(げんすい)として韓(かん)を援(すくは)しむ孫臏田忌と 議(ぎ)して直(たゞち)に魏の都(みやこ)大 梁(りやう)を攻(せむ)魏の将(しやう)龐涓これを聞て韓を 去(すて)て大 梁(りやう)に帰(かへ)る斉の田忌出て戦(たゝか)はんとす孫子が曰(いわく)兵法に 云(いわく)百 里(り)にして趨(わしる)こと利者(ときもの)は上将を蹶(とりひし)ぐと云(い)へり魏兵(ぎへい)みづから 驍勇(ぎようゆう)なりとして毎(つね)に斉を軽(かろ)んず今我 柔弱(じうぢやく)を以て勝(かつ)べし とて夜(よる)密(ひそか)に詐(いつわつ)て師(いくさ)を班(まと)む龐涓兵を率(ひきい)て斉の陣(ぢん)にうつ入 其 竈(かまと)を数(かぞ)ふるに十万あり龐涓が曰十万の竈 焉(いづくん)ぞよく遠(とを)く 粮(かて)を継(つゞけ)んやとて兵(つわもの)を催(もよふ)して急(きう)に追(お)ふ明日孫臏 退(しりぞく)こと五十里 にして陣(ぢん)を取り五万の竈(かまど)を為(な)して去(さ)る龐涓すゝみ至て竃の 減(げん)ずるを見て大に喜(よろこ)んて斉軍われを怯(おそ)れて士卒(しそつ)亡(おつる)者 過半(くわはん) なりと乃(すなはち)歩軍(かちむしや)を棄(すて)て騎馬(きば)の兵を率(ひき)ひ又 進(すゝむ)こと一日孫子其行 【両丁 挿絵のみ】 【右丁 挿絵の説明】 龐涓死此樹下 【左丁 挿絵の説明】 魏(ぎの)大将(たいしやう)龐涓(ほうけん) 【旗の文字】龐将軍 【右丁】 程を度(はか)り暮(くれ)に馬陵(ばれう)に至るべし此所道 狭(せばく)嶮(けわしく)して林樹(りんじゆ)叢密(しげりあひ) たり則(すなはち)両 傍(はう)に善(よく)射(ゆみいる)者を撰(ゑら)ひ万 弩(ど)【左ルビ:いしゆみ】を備(そなへ)て伏置(ふせをき)又大 樹(じゆ)を砍(きり) 仆(たを)し道を塞(ふさ)ぎ其木を 斫(けづ)り白して龐涓此 樹下(きのもと)に死(し)せんと 書(かき)て伏勢(ふせゞい)に下地(げぢ)して曰(いわ)く日 暮(くれ)て此 樹下(きのもと)に火(ひ)の光(ひかり)を挙(あぐ)るを見ば 一同に弓弩(きうど)を発(はなつ)べしとて又三万の竈を作(なし)て退(しりぞ)く龐涓 連(しきり)に追(おふ) て馬陵道(ばれうだう)の口(ほとり)に至る時天日 已(すで)に昏(くれ)たり斉軍の竈 次第(しだい)に減(げん) ずるを見て悦(よろこ)び前(すゝ)む諸将(しよしやう)咸(みな)曰 前(さき)に馬陵の嶮岨(けんそ)ありて馬 進(すゝみ) がたし又 恐(おそ)らくは埋伏(まいふく)あらん姑(しはら)く明日を待(まつ)て追給へと龐涓 叱(しかり)て 曰 今夜(こんや)追(おふ)こと卅里にして孫臏(そんひん)を虜(とりこ)にすべき事 目前(もくぜん)にあり馬 通(とを)らずんば歩立(かちだち)になつて追べしとて難所(なんじよ)を越(こへ)て追至る所に前(さき) 軍(て)回(かへり)来て前(さき)に大 木(ぼく)道を塞(ふさき)て通路(つうろ)を遮(さへぎ)り一行の文字(もんじ)有 昏(くらく) して弁(わきまへ)がたしと云龐涓 松明(たいまつ)を照(てら)し白書(はくしよ)をよみ心中大に驚(おどろ) き我 刖(あしきられ)夫が謀(はかりこと)に中(あた)れり速(はや)く軍(いくさ)を回(かへ)すべしと云事いまだ畢(おわら) ざるに斉(せい)の軍(ぐん)万 弩(ど)を倶(とも)に発(はな)つ其 箭(や)雨(あめ)の下(ふる)がごとし魏軍(ぎぐん)大に 【左丁】 乱(みだ)れ敗(やぶ)る龐涓 痛手(いたで)負(おふ)て智(ち)窮(きわま)り遂(つゐ)に豎子(じゆし)が名を成(な)せりと 云てみづから剄(くびはね)て死(し)す斉軍 勝(かつ)に乗(のつ)てこと〴〵く魏軍を破(やぶ)り 魏(ぎ)の太子(たいし)申(しん)を虜(とりこ)にして帰(かへ)る此(こゝ)を以て孫臏が名(な)天下にあらはれ 世(よゝ)其 兵法(ひやうほふ)を伝(つた)ふ然(しか)れ共 臏(ひん)其 恩賞(おんしやう)を受(うけ)ず冠帯(くわんたい)を解(とき)て雲夢(うんほう)に帰(かへる)    藺相如(りんしやうぢよ)之(が)智勇(ちゆう)《割書:并》卞和(へんくわ)が玉の事 藺相如(りんしやうぢよ)は趙(ちやう)の官者(くわんしやの)令繆賢(れいぼくけん)が舎人(しやじん)なり趙王(ちやうわう)嘗(かつ)て夜光(やくわう)の 璧(たま)を得(ゑ)給ひけるを秦(しん)の昭(しよう)王 伝聞(つたへきゝ)て趙の恵文王(けいぶんわう)に書(しよ)を 送(おく)り願(ねかはく)は秦(しん)の十五 座(ざ)の城(しろ)を以て璧(たま)に易(かへ)給はらんと云 趙王 群臣(ぐんしん)と議(ぎ)して曰(いわく)若(もし)これを与(あたへ)ば定(さだめ)て城(しろ)を得ずして 空(むなし)く欺(たばから)れん若(もし)又 与(あたへ)ずんば秦 兵(へい)我(わが)国を攻撃(せめうつ)べしと藺相(りんしやう) 如(じよ)が曰く臣(しん)璧(たま)を持(もち)て秦に使(つかひ)すべし必ず玉を秦に留(とゞ)めば 十五城を趙に入べし若(もし)城を得ずんば玉を全(まつたう)して趙に帰(かへる)べし と爰(こゝ)に於(おい)て相如(しやうぢよ)をして璧を奉(さゝげ)て秦に往(ゆか)しむ相如秦に 至て昭王(しようわう)に見(まみ)へ寡君(わがきみ)秦趙の好(よしみ)を絶(たゝ)ん事を恐(おそ)れて明珠(めいしゆ)を 【右丁】                     御史(ぎよし)    字書(ジシヨノ)註(チウ)ニ盆(ボン)也 缻(ホトギ)【左ルビ:フ】土制(ツチニテツクル)鉢(ハチ)ナリ    藺相如(リンシヤウヂヨ)秦王(シンワウ)ニ       秦王(しんわう)    之(コレ)ヲ撃(ウタ)シムト 【左丁】 翼図解 ̄ニ云 瑟(ヒツ)【左ルビ:コト】長(タケ)  藺相如(りんしやうぢよ) 八尺一寸 広(ハヾ)一尺八  寸 面(コウ)底(ウラ)皆(ミナ)用(モチユ)_二  梓木(アツサノキヲ)_一絃(イト)ハ  古制(イニシヘハ)五十 絃(ケン)  今(イマ)用(モチユ)_二廿五絃 ̄ヲ_一     趙王(ちやうわう)              御史(ぎよし) 【右丁 挿絵の説明】 廉頗(れんは)が来るを見て藺相如(りんしやうぢよ) 車(くるま)をわき道(みち)へ引返(ひつかへ)す 【左丁 挿絵のみ】 【右丁】 献(けん)上す秦(しん)王 璧(たま)を観(み)て真(まこと)に天下 無双(ぶさう)の至宝(しいほう)なりとて璧を得て も城をわたす事を云はず藺相如(りんしやうぢよ)近付(ちかつぎ)【ママ】前(すゝん)で秦王(しんわう)に告(つげ)て曰(いわく)。此 璧(たま)美(び)なりといへども微(すこし)瑕(きず)あり。臣(しん)是を大王に示(しめ)さん。秦王(しんわう)璧(たま)を藺(りん) 相如(しやうぢよ)に授(さづ)く。藺相如(りんしやうぢよ)玉を得て退(しりぞ)き。殿(てん)の柱(はしら)に寄立(よりたち)いかれる髪(かみ) 立て冠(かんふり)を衝(つ)き。秦王(しんわう)を倪(にらん)でいわく。大王 書(しよ)を我国(わがくに)に送(をくり)て玉の 代(かはり)に十五城をあたへんとなり。爰(こゝ)におゐて我王 斎(ものいみ)する事五日 にして玉を送(をく)る。大王 臣(しん)に見(まみ)ゆる時はなはだ倨(おご)れり。其上城を 償(つくな)ふこゝろなきを見る所以(このゆへ)に璧(たま)を取復(とりかへ)せり。大王 威勢(ゐせい)を以て 臣を挟(さしはさ)まば臣(しん)が頭(かうべ)玉と共に此 柱(はしら)に撃砕(うちくだく)べしと云。秦王(しんわう)玉を 破(わら)ん事を恐(をそ)れて藺相如(りんしやうぢよ)に謝(しや)して我誠に過(あやま)れり。かならず 十五城を趙に入べしと藺-相-如 度(はかる)に是 璧(たま)を得んとて欺(あざむ)くなり と思ひければ此 卞和(へんくは)が玉は天下の至宝(しいほう)なり。大王五日の 斎(ものいみ)して九賓(きうひん)の礼(れい)を設(もふけ)たまはゞ。臣(しん)玉を上(たてまつ)るべしといふ。秦王(しんわう)藺(りん) 相如(しやうぢよ)が形勢(ありさま)権威(けんゐ)を以て劫(おびや)かしがたき事を知(しつ)て藺相如(りんしやうぢよ)を伝舎(でんしや) 【左丁】 に館(くわん)せしむ。藺-相-如は従者(じうしや)李文(りぶん)といふ者(もの)に玉を懐(ふところ)にし径(こみち)より 趙に帰らしむ。秦王 斎(ものいみ)すること五日にして藺-相-如を召(めし)璧(たま)を もとむ。藺相如(りんしやうぢよ)昭王(しようわう)に謂(いつ)ていわく。秦(しん)の繆公(ぼくこう)より以来(このかた)二十 余(よ) 君(くん)いまだ嘗(かつて)約束(やくそく)を堅(かた)くする人なし。今(いま)若(もし)大王に欺(あざむか)れて趙 に帰らば何 ̄ン の面目(めんぼく)有てか我が王にまみへん大王かならず璧(たま)を得 ̄ン とおもひ給はゞ。先(まづ)城(しろ)を趙(ちやう)に入たまへ然るときは趙王何 ̄ン ぞ玉 を留(とゞめ)て罪(つみ)を大国に得んや秦(しん)の臣(しん)等(ら)大にいかり。藺相如(りんしやうぢよ) を殺(ころ)さんといふ王のいはくこれを殺(ころ)せり共 終(つい)に璧(たま)を得(う)ること 能(あた)はじ只(たゞ)厚(あつ)く遇(ぐう)して帰らしめば趙王 豈(あに)一 璧(へき)を以て秦 を欺(あざむ)かんやと遂(つい)に藺-相-如を款待(もてなし)て帰らしむ。藺-相-如趙に 帰れば趙王大に喜(よろこ)び藺-相-如を封(ほう)じて上 太夫(たいふ)とす  抑(そも〳〵)此 夜光(やくわう)の璧(たま)と申 ̄ス は昔年(そのかみ)楚人(そひと)に卞和(へんくわ)と云 者(もの)あり  楚(そ)の荊山(けいざん)に於(おゐ)て一つの璞(あらたま)を得て楚(そ)の厲王(れいわう)に奉る。厲  王 玉人(ぎよくじん)に見せしむるに玉にあらず石なりといふ王 詐(いつは)れり 【右丁】  として卞和(へんくわ)が左の足(あし)を刖(あしき)る。又 楚(そ)の武王(ぶわう)に献(たてまつ)る。武王  数多(あまた)の玉工(たまつくり)に見せしむるに皆(みな)石なりといふ。武王又 卞和(へんくわ)  が右の足(あし)を刖(き)る。卞和 血(ち)に哭(なき)ていはく。世(よ)に明珠(めいしゆ)を知(し)る  者(もの)なく貞士(ていし)を以て詐(いつは)りとすと璞(あらたま)を抱(いだき)て荊山(けいざん)の下(もと)に  隠(かく)る。其後また楚(そ)の文王(ぶんわう)に奉(さゝ)ぐ。文王 玉工(きよくこう)を撰(ゑらん)で磨(みが)かし  むるに果(はた)して光明(くわうみやう)を出し暗夜(あんや)を照(てら)す事日中のごとし。故(かるかゆへ)に  名(な)付て楚(そ)の夜光(やくわう)の璧(たま)といふ趙の恵文(けいぶん)王 諸侯(しよこう)を会(くわい)せし  時 楚王(そわう)より是を得たり。後に秦(しん)天下を一 統(とう)にして帝位(ていゐ)に  即(つき)此 璧(たま)を以て伝国(でんこく)の玉璽(ぎよくし)と云は此玉のことなり 秦王(しんわう)又 趙(ちやう)王と西河(せいが)の澠池(めんち)に会(くわい)せん事を願(ねが)ふ。趙(ちやう)王 藺相如(りんしやうぢよ) を従(したが)へ澠池(めんち)に至(いたつ)て秦王(しんわう)と会(くわい)す秦王 酒(さけ)数盃(すはい)に及(をよび)醉(ゑひ)て曰 寡人(くわじん)趙(ちやう)王の音楽(おんがく)を好(この)めることを聞今日 願(ねが)はくは趙瑟(ちやうしつ)を鼓(く) して楽(がく)を奏(そう)したまへ趙王 辞(じ)することあたはず琴(こと)【注】を鼓(ひ)く 秦(しん)の御史(ぎよし)筆(ふで)を取て某(それがし)の年月日 秦王(しんわう)澠池(めんち)の会に趙王(ちやうわう)に 【注 資料では琴の下部が「女」となっている】 【左丁】 琴(こと)【注】を鼓(ひか)しむと書(かき)て趙王を辱(はづか)しむる。 藺相如(りんしやうぢよ)すゝみ出て曰 趙王すでに琴(こと)【注】を鼓(ひき)たり秦王も又 缻(ほとぎ)を撃(うつ)て秦(しん)の音声(おんせい)を 歌(うた)ひたまへ。秦王 怒(いかつ)て従(した)がはず。藺-相-如 近寄(ちかより)て缻(ほとぎ)を進(すゝ)め秦王(しんわう) の前(まへ)に跪(ひざま)づいていはく。大王 若(もし)缻(ほとぎ)を撃(うち)給はずんば立(たち)どころに 臣(しん)が頭(かうべ)の血(ち)を以て大王に濺(そゝ)がん。秦王 已事(やむこと)を得ずして缻(ほとぎ)を 撃(うつ)て歌(うた)ふ。藺-相-如 趙(ちやう)の御史(ぎよし)を召(よん)で某(それがし)の年月日趙王 澠池(めんち) の会(くわい)に秦王 ̄ニ缻(ほとぎ)を撃(うつ)て歌(うた)はしむと書記(かきしる)さしむ。秦王つゐに 趙に勝事(かつこと)なく酒宴(しゆえん)罷(やん)で趙王 国(くに)に帰り秦王の仇(あた)せん ことを恐(おそ)れて兵を設(もうけ)て相待(あいまつ)といへとも。秦さらに兵を動(うごか)す 事なし。ひとへに藺-相-如が功(こう)の大なるを拝(はい)して上 卿(けい)とし くらゐ廉頗(れんは)が上に処(おら)しむ廉頗(れんば)がいはく。我趙の大将として 城を攻(せめ)野(や)に戦(たゝか)ひ身体(しんたい)を労(らう)して大 功(こう)あり。藺-相-如は徒(たゞ)口舌(べんぜつ)を 以て位(くらゐ)我(わが)上に処(しよ)す。其上藺-相-如は素(もと)繆賢(ぼくけん)が家人なり 吾是が下に処(お)らん事を羞(はづ)。我藺-相-如に逢(あは)ば。かならず之(これ)を 【右丁】 辱(はづ)かしめんと藺-相-如聞て肯(あへ)て与(とも)に会(くわい)せず廉頗(れんば)朝(ちやう)する 毎(ごと)に藺-相-如は病(やまひ)と称(しやう)じて廉頗(れんば)と列(れつ)をあらそはず一日 藺(りん) 相如(しやうぢよ)出るに廉頗(れんば)が来(きた)るを見て車を引て避(さけ)匿(かく)る。藺相(りんしやう) 如(ぢよ)が家人(けにん)等(ら)諫(いさめ)ていはく臣(しん)等(ら)君に事(つかゆ)ることは君が高義(かうぎ)を 慕(したふ)がゆへなり。今 廉頗(れんば)悪言(あくごん)をなすに君 避(さけ)匿(かく)れて恐(おそ)るゝ 事の甚(はなはだ)しきは何ぞや。藺-相-如がいはくわれ秦王にさへ臆(をく)せず 其 君臣(くんしん)を辱(はづ)かしめたり。何ぞ今 廉将軍(れんしやうぐん)を畏(をそ)れんや。我思ふに 強秦(きやうしん)の兵(へい)を趙にくはへざるは廉頗(れんば)と我と有 ̄ル を以てなり。今両 人 闘(たゝか)ひ争(あらそ)はゞ其 勢(いきほ)ひともに死(し)なん我かくのごとくする事は国家(こくか) の急(きう)を先(さき)にして私(わたくし)のあたを後にするなりと廉頗(れんば)是を伝(つた)へ 聞て大に慚(はぢ)藺-相-如が門に至り自(みづから)はだへをあらはし鞭(むち)をおふ て罪(つみ)を謝(しや)し遂(つい)に相(あい)ともによろこんで生死(しやうし)をひとしくするの まじはりをなせり                       六巻終 【左丁 見返し 白紙】 【裏表紙】