【方角記号】【地図の題字】大阪/今昔(むかしよりいままで)四度の大火【四角で囲む】 【題名下】 火事の恐るべき事は誰も知らぬ者は無けれども消防機関の整はぬ昔は兎も角今日にては 水道あり蒸気ポンプあり決して火事は大きくならぬと枕を高ふするは誤りなり一朝風はげ しく水の手悪しければ今回の如き大惨狀を起すにゆめ〳〵用心にも用心をして火を麁 末にすべからず爰に今昔の大火事を封照して恐るべき大火災の惨狀を我人共に後々の心得 の篇にかくは記しぬ 【地図 右上から】 明治四十二年北区大火【四角で囲む】 享保九辰年大火【四角で囲む】《割書:金屋妙智|焼といふ》 天保八酉年大火【四角で囲む】《割書:大塩焼と|いふ》 文久三亥年大火【四角で囲む】《割書:新町橘より玉造まで焼ける|俗に新町焼と云ふ》【割書部朱書き】 【下段】 明治四十二年天満の大火 明治四十二年七月丗一日午前三時三十分頃大阪市北区空心町二丁目天満橋筋西側 莫大小製造商玉田より出火折節東北の大暴風加ふるに土用炎天纉きにてかわき切 つたる事なれば何狀たまるべき見る〳〵附近の松ヶ枝小學校を焼き拂ひ火勢西南 に延焼し第一の防火点たる堀川にて防ぎ得ず爰に於て火勢いよく猛悪となり南 は堂嶋一圓北は曾根崎及梅田附近を焼拂ひ上下福嶋迄延焼し翌八月一日午前五時 四十分頃終に鎮火せり其延長賽に一里半幅員十餘町なり焼失表左の如し 町数 百数十町 橋梁 十三ヶ所 戸数 一萬二千餘戸 劇場 五ヶ所 學校 八ヶ所 神社佛閣 二十ヶ所 第四師團全部消防に従事す 京都 神戸 東京 より消防隊應援す此人員約五千名 損害高 無慮壹億圓 【縦線】 享保九年の大火 享保九年辰三月丗一日(百八十六年前)のひる九ツ半時南堀江橘通り弐丁目金屋 妙智といふ人の宅より出火いたし南風はげしく新町へやけ出終に北野迄焼払西は あみた池迄東は木綿はし邊にて火鎮り西横堀北へ焼行博労町北がはへ火移り夫よ り北は船場のこらず焼失又天満へ飛火川崎迄中ノ島堂島西天満のこらず焼 失廿二日朝北東風になり上町へ飛火致追々北風はげしく上町一面に成それより高 津へ移り嶋ノ内一圓それより道頓ぼり芝居へ飛火いたし火先いくつにも相なり難 波新地長町不残焼失す  其節大阪四百八十余町之内四百丗町余実に大阪初マツテ の大火にて親子兄弟はなれ〴〵となり五畿内は勿論丹波丹後伊賀伊勢江州播磨淡 州等へにげ誠に其なんぎいわんかたなし かまど数 九萬八千七百余 土蔵 二千八百余 死人 凡三萬余人 けが人 十弐萬余 【縦線】 天保八年の大火 天保八年酉二月十九日(七十三年前)朝五ツ時天満より出火風はけしくして所々へ 飛火いたし上町御城邊まて焼失北せんば長者町大家處々焼失夫より南本町までや け然るに火事塲にて何物ともしれずあやしき風俗にて大阪市中あれ廻り人々の混 雑いわんかたなき次第それゆへ諸国在々へ逃る事実に蜘の子をちらすがごとくに て日本國中に其節は此大火の噂サばかりなり実に希代の大火大そうどふ也 町数 百十二丁 かまど数 一萬八千五百七十八軒 土蔵 四百十一ヶ所 穴蔵 百三十ヶ所 寺社 三十六ヶ所 死人怪我人 数しらず 【縦線】 文久三年の大火 文久三癸亥年十一月廿一日(四十七年前)夜五ツ時新町橋詰北へ入所より出火い だし候所西風はげしくして東へ一時に焼行夫より北西風になり巽へうつる又西南 に風かわり丑寅へやけゆく事はげしく夫より上町へ飛火にて火勢ます〳〵はげし くせんば上町とも一事にもへあがり誠に大阪中火となるやう相見へ候まことに老 若男女の驚き筆紙につくしがたし終には大阪東のはしまて焼失仕候見る人大 阪市中のそうどうさつし玉ふべし同月廿三日晝四ツ時火鎮り申候 町数 百五十二丁 竈数 二萬五千余 土蔵 三百二十余 神佛 八十余 死人 四十六人 けが人 数しれず 【縦線】 【紙面左側欄外】 複製 不許 明治四十二年八月七日印刷    大阪市東区糸屋町二丁目六〇 仝   年八月十一日発行  《割書:印刷兼|発行人》高橋五之助    東区松屋町博物場北ノ辻角 《割書:発売元》 家村文翫堂   東区南本町壹丁目 《割書:特約店》 西岡商店