【表紙】 【題簽】 《題:江戸名所図会  十》 【見返し】 【赤印】東京学芸図書 【左丁】 【赤四角印】尾崎蔵書 【赤丸印】しみづさい 【整理番号】東京学芸大学竹早分館蔵書 01391 291,36 Sa25 【本文】 武蔵野国総社六所明神社(むさしのくにさうしやろくしよみやうしん  ) 府中駅路(ふちゆうえきろ)の左側(ひたりかは)にあり延喜式内(えんきしきない)大(おほ)  麻止乃豆乃天神社(まとのつのてんしんのやしろ)是(これ)なり後世(こうせい)に至(いた)りて同く式内(しきない)小野神社(をのゝしんしや)を  合(あは)せ祭(まつ)る故(ゆゑ)に今(いま)両社(りやうしや)一 社(しや)の称(しよう)あり神主(かんぬし)は猿渡氏(さるわたりうち)其余(そのよ)社司(しやし)  社僧(しやそう)等(とう)奉祀(ほうし)す  本社祭神(ほんしやさいしん) 大已貴命(おほなむちのみこと)【注】 相殿(あひてん) 素盞嗚尊(そさのをのみこと) 伊弉冊尊(いさなみのみこと)  瓊々杵尊(にゝきのみこと) 大宮女大神(おほみやひめのおんかみ) 布留太神(ふるのおんかみ)《割書:以上(いしやう)六神(ろくしん)これを俗(そく)に|六所明神(ろくしよみやうしん)と称(しよう)せり》  天下春命(あまのしたはるのみこと) 瀬織津比咩命(せおりつひめのみこと) 稲倉魂大神(うかのみたまおんかみ)《割書:以上(いしやう)三神(さんしん)これを客来(きやくらい)|三所の御神と称(しよう)せり》  《割書:すへて九神 合(あは)せて共 六所宮(ろくしよのみや)と称(しよう)す此三神の事は一宮と小野神社(おのゝしんしや)との条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》  延喜式神名記曰 武蔵国多磨郡八座   大麻止乃豆乃天神社云々  武蔵国風土記曰 多摩郡   大麻止乃智天神 圭田六十七束六毛田   所祭大巳貴命【注】也安閑天皇乙卯始奠宮社花時以   花祭之新稲之時以新稲祭之云云  東鑑曰 治承六年八月十一日己酉及晩御台所有   御産気武衛渡御中略為御祈祷被立奉幣御使於   伊豆筥根両所権現并近国宮社 武蔵六所宮   葛西三郎云云 【注 「大已貴命」「大巳貴命」は「大己貴命」の誤】 【右丁】 府(ふ) 中(ちゆう) 六(ろく) 所(しよの) 宮(みや) 小野宮(おのゝみや)と分倍(ふんはい)の境(さかひ)府中(ふちゆう)  より関戸(せきと)へ行道(ゆくみち)は  往昔(むかし)奥州(あうしう)より鎌倉(かまくら)  への通路(つうろ)にしてこれを  陣海道(ちんかいたう)と称(しようし)はへる  は元弘(けんかう)より永享(えいきやう)  の間(あひた)屡(しは〳〵)戦争(せんさう)の地(ち)  にてありし  かはかくは  字(あざな)せる  と  なり 相州街道 【四角囲い文字】 けやき 銀杏 御宮 社家 本社 弁天 惣行寺 木馬 御供所 本地堂 拝殿 榊 みこし蔵 社家 【枠外】 十ノ冊 三ノ百七十七 【左丁】 此辺旅店 【四角囲い文字】 番や 注連樹 古仏阿弥陀 ごま堂 松尾 隺石 随身門 亀石 神主 【右丁】       当社(たうしや)随身門(すゐしんもん)より       外(そと)の列樹(れつしゆ)には鵜(う)       或は鷺(さき)其(その)余さま〳〵      の水禽(みつとり)巣(す)を作(つく)り 栖(すとつ)す日毎(ひこと)に品川等(しなかはとう)の海浜(かいひん) より其巣(そのす)へ運(はこ)ひ其雛(そのひな)を 育(いく)せり然(しか)れとも随身門(すゐしんもん)より 内(うち)へは一羽(いちは)といへとも入事(いること)なき を当社(たうしや)七 奇事(きじ)の一とす又 寒中(かんちゆう)に至(いた)れは一羽も宿(やど)る 事(こと)なく翌(あく)る年(とし)の寒明(かんあけ)に 至(いた)り 又 来(きた)つてねくらせり 甲州街道 【四角囲い文字】 土俵 宮之姫 祢冝 制札 二ノ鳥井 一ノ鳥井 【枠外】 三ノ百七十八 【左丁】  同書曰 寛喜四年二月二十四日武蔵国六所宮拝   殿破壊有修造之儀武蔵左衛門尉資頼奉行之云々  本地堂(ほんちたう)《割書:本社(ほんしや)の左(ひたり)にあり中尊(ちゆうそん)は釈迦如来(しやかによらい)左右(さいう)に正観音(しやうくわんおん)と地蔵尊(ちさうそん)とを安置(あんち)す|社僧(しやそう)六箇寺(ろくかし)にてこれをあつかる年中(ねんちゆう)恒例(かうれい)神事等(しんしとう)の節(せつ)は拝殿(はいてん)において》  《割書:大般若経(たいはんにやきやう)転読(てんとく)し此堂(このたう)に|おいても法楽(はうらく)修行(しゆきやう)せり》神輿庫(みこしくら)《割書:同(おな)し並(ならひ)にありて神輿(みこし)八 基(き)を収(をさ)む其内(そのうち)二 神(しん)|一 基(き)のものあり故(ゆゑ)に九 基(き)ならす社司([し]やし)神(しん)》  《割書:秘(ひ)と|す》阿弥陀如来鉄像(あみたによらいのてつさう)《割書:同左に並(なら)ふ高(たかさ)七尺はかりの座像(ささう)なり上に仮(かり)そめの雨(あま)|覆(おひ)の堂(たう)を建(たて)たり仏像(ふつさう)の肩(かた)に銘文(めいふん)あり文字(もんし)は高(たか)く鋳(ゐ)》  《割書:上(あけ)たり又同し膝(ひさ)に藤原氏(ふちはらうち)と二所まて同し文字(もんし)を鋳上(ゐあけ)にせり里諺(りけん)に云くむかし|秩父庄司(ちゝふのしやうし)重忠(しけたゝ)愛妓(あいき)の菩提(ほたい)の為(ため)に造立(さうりふ)するといひ傳(つた)へて其先(そのせん)《振り仮名:恋ゕ窪村|こひ  くほむら》の地(ち)今(いま)阿弥(あみ)|陀坂(たさか)といふにありしを後(のち)こゝにうつすと云(いふ)といへとも妄譚(まうたん)なり次(つき)に挙(あけ)たる銘文(めいふん)を読(よみ)|得(え)て重忠(しけたゝ)の造立(さうりふ)にあらさるをしるへし重忠(しけたゝ)は元久(けんきう)二年 武蔵国(むさしのくに)二俣河(ふたまたかは)において誅(ちゆう)に|伏(ふく)せり建長(けんちやう)五年は元久(けんきう)二年より四十八年を歴(へ)たる後(のち)の年号(ねんかう)なり證(しやう)とすへし又云 或(ある)|人(ひと)の説(せつ)に此(この)銅像(とうさう)は当国(たうこく)の国分(こくふん)寺に安置(あんち)のものにしてむかし賊(そく)の為(ため)に盗(ぬす)まれたりしを|此處(このところ)に捨置(すておき)たりしよりこゝに安置(あんち)すともいへり其文(そのふん)左(さ)の如(こと)し》   大勧進念阿弥陀仏明蓮大士藤原助近   右志者過去二親并行巌▢新発意乃至   法界衆生平等利益奉鋳一丈二尺仏身   也   建長五年癸丑二月十八日丙寅彼岸初日  護摩堂(こまたう)《割書:同(おな)し並(ならひ)にあり不動尊(ふとうそん)の像(さう)を|安置(あんち)す社僧(しやそう)明王院(みやうわうゐん)これをあつかる》御供所(こくうしよ)《割書:本社(ほんしや)の前(まへ)|右(みき)にあり》 東照大権現宮(とうしやうたいこんけんくう)《割書:本社(ほんしや)の右(みき)に安座(あんさ)す元和(けんわ)|四年戊午御 創建(さうこん)といふ》注連樹(しめき)《割書:本社(ほんしや)の後(うしろ)蒼林(さうりん)の中(うち)にあり欅(けやき)の|枯株(こちゆう)にして《振り仮名:数十囲|す ゐ》あり相傳(あひつた)ふ》 【右丁】  《割書:上古(しやうこ)国造(くにつくり)此所(こゝ)より社参(しやさん)ありし項(ころ)門戸(もんこ)のありし址(あと)|なる故(ゆゑ)に注連(しめ)を引(ひき)はへたりしよりかくは号(なつ)くといへり》随身門(すゐしんもん)《割書:櫛岩間戸命(くしいわまとのみこと)|豊岩間戸命(とよいわまとのみこと)》  《割書:の木像(もくさう)を|安置(あんち)せり》宮之姫社(みやのめのやしろ)《割書:随身門(すゐしんもん)の前(まへ)左の方の林間(りんかん)にあり祭神(さいしん)須勢理比咩(すせりひめの)|命(みこと)奇稲田比咩命(くしいなたひめのみこと)木花開耶比咩命(このはなさくやひめのみこと)以上(いしやう)三神(さんしん)にして》  《割書:本社(ほんしや)の后妃(きさき)の神なり例年(れいねん)七月十二日十三日 近邑(きんいう)の神職(しんしよく)来(きた)り集(あつま)りて社前(しやせん)に|おいて神楽(かくら)を奏(さう)すむかし鎌倉時世(かまくらしせい)頼朝卿(よりともきやう)下知(けち)ありてより此(この)神事(しんし)を執行(しゆきやう)すると|なり頼朝卿(よりともきやう)の下知状(けちしやう)は天正(てんしやう)の兵火(ひやうか)に亡(ほろ)ひたりといへり》  馬場(はゝ)《割書:二の華表(とりゐ)の内(うち)左右(さいう)森(もり)の外(ほか)にあり東(ひかし)の方の一條(いちてう)を《振り仮名:■馬|せんは》【注①】といひ西(にし)の方の|一条(いちてう)を欠馬(かけは)といふ又大門 甲州街道(かうしうかいたう)を隔(へた)てゝ北(きた)の方一の華表(とりゐ)の内(うち)の左右(さいう)》  《割書:にも二條(にてう)の馬場(はゝ)あり慶長年間(けいちやうねんかん)大坂(おほさか)御勝利(こしやうり)の後(のち)御寄附(こきふ)ありしより後世(かうせい)《振り仮名:■馬|せんは》|欠馬(かけは)等(とう)の馬場(はゝ)の地(ち)多(おほ)くは社司(しやし)の住居(ちゆうきよ)となりてわつかに其形(そのかたち)を存(そん)するのみされと|《振り仮名:■馬|せんは》欠馬(かけは)等(とう)の馬場(はゝ)の地(ち)は古(いにしへ)牧(まき)の駒(こま)をえらひたりし旧跡(きうせき)なりといふ》  馬市(うまいち)《割書:毎歳(まいさい)五月三日に始(はしま)りて九月 晦日(みそか)に終(をは)るを定規(ちやうき)とす社前(しやせん)大路(おほち)の傍(かたはら)に制(せい)|札(さつ)を建(たて)て以(もつて)警(けい)す此地(このち)の馬市(うまいち)はむかし国造(こくそう)の在(いま)せし頃(ころ)毎歳(まいさい)牧(まき)の馬(うま)を取(とり)》  《割書:其(その)良(りやう)二十五 匹(ひき)をえらひて是(これ)を 帝闕(ていけつ)に献(けん)すしかして後(のち)諸国(しよこく)より牽来(ひききた)る|所(ところ)の馬(うま)を集(あつめ)て人民(にんみん)市(いち)をなすとなり此(この)馬市(うまいち)享保年間(きやうほねんかん)に止(やみ)て其後(そのゝち)は江戸(えと)|浅草(あさくさ)の藪(やふ)の内(うち)と麻布十番(あさふしふはん)との二所へ引(ひか)れたり然(しか)りといへとも御佳例(こかれい)の馬市(うまいち)|なれはとて今(いま)も江戸 馬口労頭(はくらうかしら)高木(たかき)源兵衛 山本(やまもと)傳左衛門 毎年(まいねん)当社(たうしや)に|詣(まうて)此所(このところ)の馬場(はゝ)において給はる所の御 馬(うま)に乗(しやう)し旧式(きうしき)をなして後(のち)社内(しやない)に安座(あんさ)|なし奉(たてまつ)れる》 東照大権現宮(とうしやうたいこんけんくう)へ参詣(さんけい)す  制札(せいさつ)《割書:社前(しやせん)大路(たいろ)の入口(いりくち)にあり|慶長年間(けいちやうねんかん)に建(たて)らるゝと云》 【枠外】 三ノ百七十九 【左丁】 【制札の文】    掟 一此所において馬町立之事  五月三日駒くらへより初め  九月晦日を限るへし  称堅此おもむきを相守  へし若違背之輩  於有之者曲事たるへき  者也仍下知如件   月日   奉行 【本文】  競馬(くらへうま)《割書:毎歳(まいさい)五月三日の夜(よ)六所宮(ろくしよのみや)の御旅所(おんたひしよ)の前(まへ)甲州街道(かうしうかいたう)府中(ふちやう)番場宿(はんはしゆく)の大路(おほち)において|駒役(こまやく)の者(もの)十二 疋(ひき)の駒(こま)に乗(しやう)し燈火(ともしひ)を消(け)して後(のち)暗夜(あんや)に乗競(のりくら)ふ此夜(このよ)社家(しやけ)の》  《割書:輩(ともから)撿使(けんし)として御 旅所(たひしよ)の|傍(かたはら)なる仮屋(かりや)に伺候(しこう)す》神楽(かくら)《割書:同月四日 拝殿(はいてん)|に於(おい)て修行(しゆきやう)す》大神事(たいしんし)《割書:同五日に修行(しゆきやう)す当社(たうしや)の|御神(おんかみ)出現(しゆつけん)鎮座(ちんさ)の辰(しん)なる故(ゆゑ)に》  《割書:殊(こと)に恐(おそ)れかしこみ神官(しんくわん)各(おの〳〵)四月二十五日 品川(しなかは)の海浜(かいひん)に至(いた)りてみそきし其日(そのひ)より禁足(きんそく)|して斉(いみ)に籠(こも)る当日(たうしつ)は終日(しうしつ)神楽(かくら)を執行(しゆきやう)す黄昏(たそかれ)におよひ社家一統(しやけいつとう)神主(かんぬし)の宅(たく)に集会(しふくわい)す|其後(そのゝち)神殿(しんてん)に至(いた)り神勇(かみいさめ)の大祝詞(おほのつと)を捧(さゝ)け終(をはり)て燈火(ともしひ)を消(けし)暗(くらやみ)となして神輿(みこし)をわたし|奉(たてまつ)る神輿(みこし)八 基(き)の内(うち)七 基(き)は二の華表(とりゐ)の前(まへ)より甲州街道(かうしうかいたう)の大路(おほち)を西(にし)へ渡(わた)しまゐらす|一 基(き)は随身門(すゐしんもん)の前(まへ)より左(ひたり)にわかれ府中(ふちゆう)本町の方(かた)より出(いて)てともに番場宿(はんはしゆく)の角札|辻の御 旅所(たひしよ)へ遷(うつ)しまゐらす此間(このあひた)社家(しやけ)の輩(ともから)馬(うま)に乗(しやう)し下河原(しもかはら)に鎮座(ちんさ)の津保宮(つほのみや)に至(いた)り|深秘(しんひ)の神事(しんし)ありて大幣(おほぬさ)を捧(さゝ)け帰(かへ)り来(きたり)て御 旅所(たひしよ)に入(いり)奉幣(ほうへい)の式(しき)あり神事(しんし)終(をはし)て|神主(かんぬし)猿渡氏(さるわたりうち)農夫(のうふ)野口(のくち)といへるか家(いへ)に仮家(かりや)を■(まふけ)【注②】たるに至(いた)り古例(これい)の祝事(しゆくし)をなせり|相傳(あひつた)ふ此(この)野口(のくち)と称(とな)ふる家(かへ)は往古(そのかみ)大巳貴命(おほなむちのみこと)【注③】始(はしめ)て出現(しゆつけん)の時(とき)一夜(いちや)この家(いへ)にとゝまり|たまひしとなり又同し農家(のうか)岡野(をかの)といへるは其夜(そのよ)門戸(もんこ)を閉(とち)て深(ふか)く慎(つゝし)み居(ゐ)る事》 【注① ■は「糸+日」。「細」の誤ヵ】 【注② ■は「亻+設」。「儲」「設」の誤ヵ】 【注③ 「大己貴命」の誤】 【右丁】  《割書:旧例(きうれい)なり此家(このいへ)は大巳貴命(おほなむちのみこと)出現(しゆつけん)の時(とき)宿(やと)を求(もとめ)たまひしかと思(おも)ひの事ありて一家|穢(けか)れはへりしかは辞(し)し申せし事の古(ふる)き例(ためし)を改(あらため)すしてかくするといへり御 旅所(たひしよ)の|神事(しんし)旧式(きうしき)こと〳〵く終(をは)りて祢宜(ねき)本社(ほんしや)に帰(かへ)り還幸(くわんかう)の■(まうけ)【注】をなせり神主(かんぬし)は神馬(しんめ)に|乗(しやう)し御 旅所(たひしよ)の前(まへ)において流鏑馬(やふさめ)を行(おこな)ふ終(をは)りて太鼓(たいこ)を打(うち)ならせはすへて社壇(しやたん)|より市店(してん)に至(いた)る迄 一時(いちし)に燈火(ともしひ)を点(てん)する事 先(さき)の闇(くら)きに引(ひき)かへて尤(もつとも)めさまし神(かん)|主(ぬし)は馬上(はしやう)にて前驅(せんく)たり帰輿(きよ)に及(およ)むて二鳥居(にのとりゐ)の左右(さいう)と本社(ほんしや)の前(まへ)随身門(すゐしんもん)の前(まへ)西(にし)の》  《割書:馬場(はゝ)欠場(かけは)の方(かた)へ至(いた)るの間(あひた)等(とう)すへて四箇所(しかしよ)にて篝火(かゝりひ)を焚(たき)て白昼(はくちう)の|如(こと)し又(また)神輿(しんよ)供奉(くふ)の道路(たうろ)を照(てら)す所(ところ)の挑灯(ちやうちん)尤(もつとも)多(おほ)くして実(しつ)に壮観(さうくわん)たり》御田植神(おんたうゑのしん)  事(し)《割書:同六日に修行(しゆきやう)す祠後(ほこらのうしろ)百 歩(ほ)あまりを隔(へた)てゝ南(みなみ)の方(かた)の稲田(いなた)においてこれを|行(おこな)ふ此日(このひ)当国(たうこく)の人民(にんみん)当社(たうしや)に詣(まうて)神田(しんてん)の豊熟(ほうしゆく)我上におよはむ事を願(ねか)ふか》  《割書:故(ゆゑ)に秧(なへ)を持(し)し来(きた)りて田上に集(あつま)り一朝(いつちやう)に挿(うゑ)終(をは)りて後(のち)或(あるひ)は躍(おと)り或(あるひ)は角力(すまふ)を|催(もよほ)し其興(そのきやう)とり〳〵なり依(よつて)秧(なへ)こと〳〵く泥(とろ)に浸(ひた)すといへとも明旦(あした)に至(いた)れは勃然(ほつせん)として|起(おく)又(また)其種(そのたね)を異(こと)にすといへとも終(つひ)に穂(ほ)を同くし節(ふし)の進退(しんたい)により違(たかひ)あるも歳(とし)と|して順(しゆん)ならさる事なく水旱(すゐかん)蝗螟(くわうめい)の災(わさはひ)なし俗(そく)傳(つた)へて当社(たうしや)七 奇事(きし)の一とす》  天下泰平神事(てんかたいへいのしんし)《割書:六月廿日に修行(しゆきやう)す粟饙(あはのむらつひ)を供(くう)し神楽(かくら)を奏(そう)す康平(かうへい)五年|六月廿日 頼義(よりよし)義家(よしいへ)両公(りやうこう)奥州(あうしう)発向(はつかう)の時(とき)戦勝(せんしやう)ありしより》  《割書:此日(このひ)を以(もつ)て|祭(まつ)るといふ》小祭(こまつり)《割書:七月七日に修行(しゆきやう)す俗(そく)帷子祭(かたひらまつり)又は帷子市(かたひらいち)とも称(とな)ふるは古(いにしへ)此辺(このへん)多(おほ)く|麻布(あさのぬの)を製(せい)すを以(もつ)て産業(さんきやう)とす其頃(そのころ)此府(この’ふ)に出(いて)し国守(こくしゆ)の撰(えら[みヵ])ありて》  《割書:都(みやこ)に貢奉(みつきたてまつ)り其余(そのよ)のものをは此地(このち)にて交易(かうえき)せしなり中(なか)にも七月七日を専(もつは)らと》  《割書:せし故(ゆゑ)に此名(このな)|ありといへり》天下泰平神事(てんかたいへいのしんし)《割書:七月十二日十三日 両日(りやうしつ)の間(あひた)宮之姫社(みやのめのやしろ)と本社(ほんしや)とに|おいて神楽(かくら)を奏(さう)す前(まへ)の宮之姫の社(やしろ)の前(まへ)》  《割書:に詳(つまひらか)|なり》田面神事(たのものしんし)《割書:八月朔日 終日(しうしつ)神楽(かくら)を奏(さう)す参詣(さんけい)の輩(ともから)其年(そのとし)の豊熟(ほうしゆく)を|祈(いの)る此日(このひ)角力(すまふ)を興行(かうきやう)せり其余(そのよ)一 季(き)の間(あひた)の祭事(さいし)は尤(もつとも)多(おほ)く》  《割書:こと〳〵くこれを挙(あく)るに遑(いとま)あらすしてこゝに其(その)大概(たいかい)をしるすのみ》  社記曰(しやきにいはく) 景行天皇(けいかうてんわう)の四十一年辛亥五月五日 大巳貴命(おほあなむちのみこと)此(この)小野県(をのゝめゝく)に 【注 「亻+設」。「儲」「設」の誤ヵ】 【枠外】 三ノ百八十 【左丁】 五月 五日 六所(ろくしよの) 宮祭(みやさい) 礼之(れいの) 図(づ) 【幟旗】 六所宮御宝前 商人講中 六所宮 【提灯】 一宮 一宮 下村 下村 人見 下村 人見 【右丁】 【枠上】 其二 【提灯】 人具 上村 上村 下村 下村 【枠外】 三ノ百八十一 【左丁】 【提灯】 山 山 本 山 【右丁】 【枠上】 其三 【提灯】 六社御祭礼 【幟旗】 六所大明神 商人 講中 【枠外】 三ノ百八十二 【左丁】 【提灯】 二六 二六 あまみ 下の提灯 松 石原 石原 本若 花 本若 本若 【右丁】 六所宮(ろくしよのみや)   田植(たうゑ) 五月六日は御田植(おたうゑ) の神事(しんし)にて武蔵(むさしの) 国(くに)の人民(しんみん)早苗(さなへ)を 携(たつさ)へ来(きた)りて神田(しんてん)に 是(これ)を挿(はさ)めり郷童(きやうとう) 白鷺(しらさき)の形(かた)の造(つく)り 物(もの)ある盖鉾(かさほこ)をさゝ けてせんはいこうしの 傘(からかさ)と唄(うた)ひ舞(まへ)は又(また) さすものはこれもの と唄(うた)ひて今(いま)植並(うゑなら) 【枠外】 三ノ百八十三 【左丁】 し田(た)の中(なか)に下(くた)り立(たち)て 早苗(さなへ)を踏(ふみ)したきこひち にまみれて踊舞(をとりまふ)故(ゆゑ)に 有(あり)しにも似(に)すひちの 中(なか)にしつみはへるか一夜(いちや) のうちにいとめて度(たゝ)起(おき) 立(たち)て葉末(はすゑ)に露(つゆ)むすひ なんとしてうるはしき事     かきりなし 【右丁】  出現(しゆつけん)神託(しんたく)あるにより祠(やしろ)を経営(けいえい)して里人(りしん)崇敬(そうけい)し奉(たてまつ)る《割書:大麻止乃豆乃(おほまとのつの)|天神(てんしん)是(これ)なり》  《割書:延喜式(えんきしき)大麻止乃豆(おほまとのつ)とし風土記(ふとき)大麻止乃知(おほまとのち)とす知(ち)と豆(つ)は通音(つうおん)なり又 大(おほ)|麻止(まと)を以(もつ)て於保麻止とし或は布止麻止多麻止なとさま〳〵に称(とな)へたり》其後(そのゝち)  成務天皇(しやうむてんわう)五年乙亥 兄多毛比命(えたけひのみこと)をして此地(このち)に国造(くにのみやつこ)たらしむ  《割書:天穂日命(あまのほひのみこと)の孫(そん)出雲臣祖(いつものおみのおや)名(なは)二井(ふたゐの)|宇迦諸忍之神狭命(うかもろおしのかんさのみこと)十世の孫(そん)なり》因(よつ)て茲(こゝ)に府(ふ)を開(ひら)き給ふ《割書:武蔵国(むさしのくに)の国造(こくそう)の権輿(はしめ)|にして府中(ふちう)の発(おこ)るもとなり》  又(また)大巳貴命(おほなむちのみこと)【ママ】は此地(このち)出現(しゆつけん)の霊神(れいしん)なれは是(これ)を崇(たうと)み其(その)祖神(そしん)なるを以(もつて)  素盞嗚尊(そさのをのみこと)を合祭(かうさい)し《割書:兄多毛比命(えたけひのみこと)は出雲(いつも)の臣(おみ)の裔(えい)なるを以(もつて)の故(ゆゑ)にして当社(たうしや)|祭神(さいしん)の内(うち)殊(こと)に素盞嗚尊(そさのをのみこと)を崇尊(そうそん)する事 神秘(しんひ)ありと云》  相殿(あひてん)に伊弉冊尊(いさなみのみこと)瓊々杵尊(にゝきのみこと)大宮女命(おほみやめのみこと)布留大神(ふるのおほんかみ)等(とう)の四神(ししん)を配(はい)  祀(し)し新(あらた)に此地(このち)に宮祠(きうし)を経営(けいえい)ありて圭田(けいてん)を附(ふ)して以(もつ)て国社(こくしや)となし  此(これ)を称(しよう)して六所宮(ろくしよみや)大麻止乃知天神(おほまとのちのてんしん)と云 又(また)天下春命(あめのしたはるのみこと)《割書:一宮(いちのみや)の祭神(さいしん)なり|其(その)条下(てうか)に詳(つまひらか)也》  瀬織津比咩(せおりつひめ)《割書:小野神社(をのゝしんしや)の祭神(さいしん)なり|其(その)条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》倉稲魂大神(うかのみたまのおほんかみ)《割書:小野神社(おのゝしんしや)|相殿(あひてん)の神(しん)なり》以上(いしやう)の三(さん)  神(しん)を六所宮(ろくしよのみや)の相殿(あひてん)に遷座(せんさ)なして客来三所(きやくらいさんしよ)と称(しよう)し奉(たてまつ)り是(これ)を  祭(まつ)るに国社(こくしや)の礼(れい)を以(もつて)す爾来(しかりしより)大麻止乃知天神(おほまとのちのてんしん)小野神社(をのゝしんしや)二社(にしや)合(かう)  祀(し)の社(やしろ)とはなりたりしなり 安閑天皇(あんかんてんわう)乙卯年に至(いた)りては春冬(しゆんとう) 【枠外】 三ノ百八十四 【左丁】  二 時(し)の祭祀(さいし)を行(おこな)はるる由(よし)旧史(きうし)にみえたり然(しかる)に星霜(せいさう)を歴(へ)て康平(かうへい)  五年に至(いた)り源頼義(みなもとのよりよし)義家(よしいへ)両公(りやうこう)奥州(おうしう)安倍貞任(あへのさたたう)宗任(むねたう)一族(いちそく)征伐(せいはつ)  発向(はつかう)の時(とき)当社(たうしや)に詣(まうて)給ひ軍(いくさ)の勝利(しようり)を祈願(きくわん)ありて夷賊(いそく)平治(へいち)  凱歌(かいか)の時(とき)報賽(はうさい)として一華表(いちのとりゐ)の内(うち)左右(さいう)両辺(りやうへん)に槻(つき)数株(すちゆう)を種(うゑ)し  めて以(もつて)成功(せいこう)を謝(しや)し奉(たてまつ)る《割書:其(その)列樹(れつしゆ)今(いま)|猶(なほ)存(そん)す》治承(ちしやう)四年 右大将(うたいしやう)頼朝公(よりともこう)当社(たうしや)に  詣(まう)て請祷(しやうたう)し大(おほい)に戦勝(せんしよう)の功(こう)あり文治年間(ふんちねんかん)宮社(きうしや)を再興(さいかう)し又  寿永(しゆえい)年間(ねんかん)継嗣(けいし)を求(もと)め頼家公(よりいへこう)を■(まう)【注】く葛西三郎清重(かさいさふらうきよしけ)を  して神器(しんき)を献(けん)せしむ《割書:寛喜(くわんき)四年にも武蔵左衛門尉資頼(むさしさゑもんのしやうすけより)を|奉行(ふきやう)として当社(たうしや)破壊(はゑ)の修理(しゆり)を加(くは)へらる》命(めい)する  所(ところ)の祭祀(さいし)今(いま)に連綿(れんめん)として廃(はい)せす其後(そののち)足利家(あしかゝけ)に至(いた)る迠(まて)世々(よゝ)の  将軍家(しやうくんけ)相継(あひつい)て崇敬(そうけい)衰(おとろ)へす就中(なかんつく)御入国(こにふこく)に逮(およ)むて 御当家(こたうけ)より  尊信(そんしん)なし給ひ社領(しやりやう)五百石を附(ふ)し御祈祷(こきたう)の事(こと)を命(めい)せらる関原(せきかはら)  大坂(おほさか)の両役(りやうゑき)には当社(たうしや)の神主(かんぬし)猿渡左衛門佐盛道(さるわたりさゑもんのすけもりみち)をして御勝(こしやう)  利(り)の御祈祷(こきたう)を修(しゆ)せしめ給ひ御感状(こかんしやう)御直書(おんしきしよ)を給(たま)ふ其後(そののち)二代 【注 「亻+設」。「儲」「設」の誤ヵ】 【右丁】  将軍家(しやうくんけ)よりも又(また)御書判(こしよはん)の御直書(おんしきしよ)を給(たま)ふ殊(こと)に御在国(こさいこく)の  総社(さうしや)たるを以(もつ)て慶長年間(けいちやうねんかん)石見守(いわみのかみ)大久保(おほくほ)氏 某(それかし)をして神(しん)  殿(てん)を新(あらた)にし国家(こくか)の祀典(してん)に列(れつ)せしむ且(かつ)命(めい)を下(くた)して馬市(うまいち)の  法則(はふそく)を定(さため)給(たま)ふ其後(そののち)正保(しやうほ)三年 府中本町(ふちゆうほんまち)より火(ひ)出(いて)て当社(たうしや)神(しん)   領(りやう)の地(ち)に至(いた)る迄(まて)皆(みな)悉(こと〳〵)く焼亡(しやうほう)す依(よつ)て寛文(くわんもん)七年丁未 大和守(やまとのかみ)久世(くせ)  広之候(ひろゆきこう)をして造営使(さうえいし)となし給ひ宮社(きうしや)御再建(こさいこん)ありしなり  《割書:寛永(くわんえい)元年 註(しる)す所(ところ)の社記云(しやきにいはく)神主(かんぬし)猿渡三河守藤原盛正(さるわたりみかはのかみふちはらのもりたゝ)天正年間(てんしやうねんかん)北条陸奥守(ほうてうむつのかみ)|氏照(うちてる)の為(ため)に八王子(はちわうし)の城(しろ)に篭(こも)る此城(このしろ)没落(ほつらく)の時(とき)盛道(もりみち)こゝに戦死(せんし)す又(また)此(この)兵火(ひやうくわ)の災(わさはひ)に|かゝりて当社(たうしや)悉(こと〳〵)く灰燼(くわいしん)せり故(ゆゑ)に其頃(そのころ)世々(よゝ)将軍家(しやうくんけ)の證状(しやうしやう)或(あるひ)は秘蔵(ひさう)の神宝等(しんはうとう)|こと〳〵く亡(ほろ)ひたりとなり云々》 六所宮御旅所(ろくしよのみやおたびしよ) 六所明神(ろくしよのみやうしん)より一丁半はかり西(にし)の方(かた)府中番場宿(ふちゆうはんはしゆく)の  中程(なかほと)相摸街道(さかみかいたう)への岐道(えたみち)札(ふた)の辻(つし)の傍(かたはら)にあり毎歳(まいさい)五月五日 大祭(たいさい)の  辰(とき)其夜(そのよ)六所宮(ろくしよのみや)の神輿(みこし)をこゝに遷(うつ)し奉(たてまつ)る其式(そのしき)は前(まへ)の条下(てうか)に  詳(つまひらか)なり 御田(みた) 六所(ろくしよ)の宮(みや)の後(うしろ)の小径(こみち)を過(すき)て百歩(ひやくほ)はかりにあり豁然(くわつせん)たる稲(たう) 【枠外】 三ノ百八新所 【左丁】  田(てん)なり東(ひかし)は悠遠(いうゑん)にして眺望(てうはう)分明(ふんみやう)ならず南(みなみ)は多磨川(たまかは)の流(なかれ)を隔(へた)  てゝ長岡(なかをか)の上(うへ)に短松(たんしよう)の立(りつ)するを見る世(よ)に所謂(いはゆる)向(むか)ふか岡(をか)是(これ)なり此(この)  地(ち)北(きた)は府中(ふちゆう)の駅舎(ゑきしや)にして六所の林叢(りんさう)鬱然(うつせん)たり 《割書:御 田植(たうゑ)の神事(しんし)|の次第(したい)は前(まへ)の》  《割書:六所宮(ろくしよのみや)年中行事(ねんちゆうきやうし)の|下(しも)に詳(つまひら)かなり》 本覚山(ほんかくさん)玅光院(めうくわうゐん) 真如寺(しんによし)と号(かう)す府中本町(ふちゆうほんまち)の南(みなみ)の小路(こうち)にあり新義(しんき)の真(しん)  言宗(こんしう)にして花洛(くわらく)仁和寺(にんわし)の御門跡(こもんせき)に属(そく)す 清和天皇(せいわてんわう)の御宇(きよう)  貞観(ちやうくわん)紀元(きけん)の年(とし)真如法親王(しんによほふしんわう)の御願(こくわん)によりて慈斉僧正(しさいそうしやう)【注】創(さう)  建(こん)ありし佛刹(ふつせつ)たり行基大士(きやうきたいし)彫造(てうさう)の地蔵薩埵(ちさうほさつ)を本尊(ほんそん)とし  《割書:長五寸|五分》 若干(そこはく)の田園(てんゑん)を附(ふ)せらる然(しかる)に当寺(たうし)度々(たひ〳〵)の兵燹(ひやうせん)に罹(かゝ)り大(おほい)に  荒廃(くわうはい)なしたりしを永享(えいかう)十一年己未 法印宥源(ほふいんいうけん)《割書:長禄(ちやうろく)三年己卯|七月二十四日 寂(しやく)す》  再建(さいこん)して当寺(たうし)中興(ちゆうこう)の開山(かいさん)となれり《割書:天正(てんしやう)十九年辛卯 御当家(こたうけ)|より寺領(しりやう)を給ふといふ》本堂(ほんたう)  家帯(なけし)の額(かく)真如寺(しんによし)の三 大字(たいし)は勝仙院僧正日光(しようせんゐんそうしやうにつくわう)の筆(ふて)同し向拝(かうはい)  に掲(あく)る本覚山(ほんかくさん)の額(かく)は南山(なんさん)の沙門乗鎮(しやもんしやうちん)の書(しよ)裏門(うらもん)本覚山(ほんかくさん)の額(かく)は 【注 「慈斉」は「慈済」ヵ】 【右丁】 明光院(みやうくわうゐん) 安養寺(あんやうし) 【四角囲い文字】 安養寺 本堂 本堂 方丈 明光院 【左丁】 【四角囲い文字】 庫裡 二王門 観音 【右丁】  天漪(てんゐ)の筆(ふて)書院(しよゐん)無為心(むゐしん)の額(かく)は佐々木玄龍(さゝきけんりう)の書(しよ)なり観音堂(くわんおんたう)は  門(もん)の入口左の山の上にあり大悲殿(たいひてん)の額(かく)は僧禅大僧正覚眼筆(そうせんたいそうしやうかくけんのふて)と云(いふ)  本尊(ほんそん)十一面観音(しふいちめんくわんおん)の像(さう)は御長(みたけ)二尺五寸ありて聖徳太子(しやうとくたいし)の作(さく)といふ  当寺(たうし)什宝(しうはう)に北条氏照(ほうてううちてる)の書簡(しよかん)二 通(つう)を蔵(そう)す其余(そのよ)芦(あし)に鷺(さき)の画(くわ)  幅(ふく)は御筆(きよひつ)の物(もの)にして牡丹唐草(ほたんからくさ)に扇(あふき)を縫物(ぬひもの)したる五條(こてう)の袈裟(けさ)  と共(とも)に 御当家(こたうけ)より給(たま)ふところなりといへり  古磬(こけい)一 枚(まい)《割書:華物(くわもの)にして銅色(とうしよく)愛(あい)すへし台は|左甚五郎(ひたりしんこらう)か作(つく)る所(ところ)なりと云》 叡光山(ゑいくわうさん)安養寺(あんやうし) 妙光院(めうくわうゐん)の南(みなみ)の小路(こうち)を隔(へた)てゝ同(おな)し並(なら)びにあり《割書:此地(このち)の小(しやう)|名(みやう)を矢(や)の》  《割書:崎(さき)と|いふ》天台宗(てんたいしう)上州(しやうしう)世良田(せらた)の長楽寺(ちやうらくし)に属(そく)す本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は  座像(ささう)一尺六寸はかりあり作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす永仁年間(えいにんねんかん)尊海(そんかい)上人 中興(ちゆうこう)  開山(かいさん)たり近(ちか)き年(とし)地魚(ちきよ)の災(わさはひ)に罹(かゝ)りて旧記(きうき)を亡(ほろほ)すといへり 武蔵国造兄武日命殿館旧跡(むさしのくにのみやつこえたけひのみことてんくわんのきうせき) 妙光院(めうくわうゐん)の前(まへ)の岡(をか)を云(いふ)上古(しやうこ)国造居館(こくそうきよくわん)  の地(ち)なり 御入国(こにふこく)の後(のち)此(この)旧跡(きうせき)に省耕(せいかう)の御殿(こてん)を建(たて)させられしより 【枠外】 三ノ百八十七 【左丁】  大樹(たいしゆ)屡(しは〳〵)こゝに入(い)らせられたりしかとも正保(しやうほ)三年丙戌十月十二日 府中(ふちゆう)  本町(ほんまち)より出火(しゆつくわ)して此(この)御殿(こてん)焼亡(しやうほう)せり其後(そのゝち)は御再興(こさいこう)もなきにより享保(きやうほ)  年間(ねんかん)里民(りみん)に乞(こふ)に任(まか)せ陸田(りくてん)となし下(くた)さるゝとなり故(ゆゑ)に土人(としん)は御殿地(こてんち)  と称(しよう)せり此所(このところ)の眺望(ちやうほう)尤(もつとも)勝(すく)れたり    《割書:按(あんする)に国造(くにのみやつこ)は神武天皇( しんむてんわう)都(みやこ)を大倭国(やまとのくに)橿原(かしははら)に定(さた)め天皇(てんわう)の位(くらゐ)に卽(つき)給ふ時(とき)葛城(かつらきの)|国(くに)の造(みやつこ)を定(さた)め其余(そのよ)功(こう)ある者(もの)に国造を賜(たま)ひ又(また)県主(あかたぬし)を定(さた)め給ふよりこのかた|代々(よゝ)に任(にん)せられたり和銅(わとう)の比迠(ころまて)総任(さうにん)の国造百四十四 員(ゐん)あり皇朝(くわうちやう)上世は百四十|四 箇国(かこく)にて国毎(くにこと)に国造一人ッヽありて神祗祭祀(しんきさいし)を掌(にき)りかねて民事(みんし)を治(をさめ)|たりしなり《割書:嵯峨天皇より以後諸国に分割併省なしゆゑに六十|六国に壱岐対馬の二島辺要して六十八国なり》日本紀(にほんき)によつて考(かんか)ふるに|仁徳帝(にんとくてい)の御宇(きよう)に遠江国司(とほ〳〵とみのくにみこともち)又 崇峻帝(しゆしゆんてい)の御宇(きよう)に河内国司(かはちのくにみこともち)と云(いふ)事(こと)あり聖徳太子(しやうとくたいし)の|憲法(けんはふ)にも国 司(みこともち)国造の事みえたり天武紀(てんむき)に諸(もろ〳〵)の国司国造郡司およひ百姓等(ひやくしやうら)とあれは後(のち)又国|司を置(おき)給ひ尤(もつとも)国司は国造より位(くらゐ)高(たか)く権(けん)重(おも)き故(ゆゑ)に国司国造と次第(したい)して称(しよう)せられしとおほゆ|これより後(のち)世々(よゝ)の国史(こくし)にも往々(わう〳〵)国司国造の事を載(のせ)られたりされといつれの世(よ)に国造を罷(やめ)られ|しといふ事もなくいつしか廃(はい)せしと思はれたり》 是政村(これまさむら) 府中(ふちゆう)の南(みなみ)多磨川(たまかは)の北(きた)の岸頭(かんとう)にあり此地(このち)の里正(りせい)に井田氏(ゐたうち)の人(ひと)あり  其(その)家系(かけい)を按(あんする)に祖先(そせん)は畠山庄司重忠(はたけやましやうししけたゝ)の四男(よなん)井田四郎重忠(ゐたしらうしけまさ)の末葉(はつえう)にして  小田原北条家(をたはらほうてうけ)の臣(しん)井田攝津守是政(ゐたせつつのかみこれまさ)か子孫(しそん)なりと云(いふ)天正(てんしやう)十八年 小田原(をたはら)  没落(ほつらく)の頃(ころ)八王子(はちわうし)の城(しろ)敗(やふ)れしより後(のち)此地(このち)に住(ちゆう)す依(よつ)て是政村(これまさむら)の名(な)あり 【右丁】 悲願山(ひくわんさん)善明寺(せんみやうし) 圓養院(ゑんやうゐん)と号(かう)す府中本町(ふちゆうほんまち)より関戸(せきと)へ行道(ゆくみち)の右側(みきかは)に  あり《割書:相模街道(さかみかいたう)にして|古(いにしへ)の鎌倉通道(かまくらとほりみち)也》天台律院(てんたいりつゐん)にして常明院(しやうみやうゐん)に属(そく)す本尊(ほんそん)に阿弥(あみ)  陀如来(たによらい)の像(さう)を安(あん)す坐像(さそう)一丈六尺あり《割書:胎中(たいちゆう)に慈覚大士(しかくたいし)彫造(ちやうさう)の|弥陀如来(みたによらい)の像(さう)を安(あん)す》開創(かいさう)年  久く中古(ちゆうこ)寺院(しゐん)荒廃(くわうはい)して記録(きろく)を失(しつ)す然(しかる)に近来(きんらい)編無為解脱居士(へんむゐけたつこし)  《割書:俗称(そくしよう)依田伊織(よたいをり)|貞鎮(さたしけ)といふ》当寺(たうし)を再興(さいこう)ありて證海(しやうかい)上人を中興開山(ちゆうこうかいさん)とし田園(てんゑん)  等(とう)を寄附(きふ)せり故(ゆゑ)に居士(こし)の肖像(しやうさう)あり《割書:束帯(そくたい)の像(さう)なり側(かたはら)に|弟子(てし)證海(しやうかい)の像(さう)もあり》内陣(ないちん)の額(かく)に  毗尼蔵(ひにさう)とあるは准后公遵法親王(しゆこうこうそんほふしんわう)の真筆(しんひつ)なり解脱居士(けたつこし)の墓(はか)は  堂後(たうのうしろ)にあり彼岸山文庫(ひかんさんふんこ)は本堂(ほんたう)の右にあり庫中(こちゆう)収蔵(しゆさう)する所(ところ)の  書籍(しよしやく)は解脱居士(けたつこし)の蔵書(さうしよ)にしてすへて百二十二箱あり《割書:此(この)文庫(ふんこ)に収(をさ)むる所(ところ)の書(しよ)|籍目録(しやくもくろく)一冊(いつさつ)あり》 津保宮(つほのみや) 同所四丁はかり西南(にしみなみ)の方(かた)下河原(しもかはら)農民(のうみん)の地(ち)にあり当社(たうしや)は国造(くにのみやつこ)  の霊社(れいしや)なりといふ今(いま)纔(はつか)に茅祠(かやのやしろ)を存(そん)するのみされと毎歳(まいさい)五月五日 六所(ろくしよの)  宮(みや)大祭(たいさい)の節(せつ)は当社(たうしや)より六所宮(ろくしよのみや)へ奉弊使(ほうへいし)を立(たつ)る事(こと)旧式(きうしき)にして則(すなはち)六所(ろくしよの)  宮(みや)の神官(しんくわん)馬(うま)に乗(しやう)して是(これ)を勤(つと)む 【枠外】 三ノ百八十八 【左丁】 分倍河原(ふ[ん]はいかはら)   陣街道(ちんかいたう)    首塚(くひつか)    胴塚(とうつか) 【四角囲い文字】 首塚 天王森 小野宮村 胴塚 【右丁】    《割書:按(あんする)に津保(つほ)は壷(つほ)の謂(いひ)にしてつほきといふ意(こゝろ)ならん源氏物語(けんしものかたり)桐壺巻(きりつほのまき)におゝん|前(まへ)のつほせんさいのいとおもしろきさかりなるをこらんするやうにてと云々 河海抄(かかいしやう)に延喜(えんき)|元年に壷前栽(つほせんさい)に草(くさ)を植(うゑ)木(き)をくはへらるゝ由(よし)みえたり壷(つほ)とは家居(いへゐ)の建篭(たてこめ)たる中(なか)の庭(には)を|云なるへし当社(たうしや)もむかしの国造(こくそう)の庭(には)にありし宮居(みやゐ)なりし故(ゆへ)にかくは称(とな)ふるならん歟(か)》 分倍河原(ふんはいかはら) 同所の南(みなみ)代小川(しろこかは)を隔(へたて)たる耕田(かうてん)をいふ《割書:今(いま)下河原(しもかはら)中河原(なかかはら)抔(なと)と称(とな)ふ|太平記(たいへいき)鎌倉大草紙(かまくらおほさうし)南朝(なんちやう)》  《割書:紀伝(きてん)等(とう)分倍(ふんはい)に作(つく)る分梅(ふんはい)|に作(つく)るは其證(そのしやう)をしらす》正慶(しやうけい)二年の夏(なつ)新田義貞朝臣(につたよしさたあそん)鎌倉勢(かまくらせい)と合(かつ)  戦(せん)ありし地(ち) にして其時(そのとき)討死(うちしに)せし人の墓(はか)あり《割書:土人(としん)首塚(くひつか)胴塚(とうつか)なと称(とな)へて|今猶(いまなほ)此所(このところ)の田間(てんかん)に存(そん)す》  享徳(かうとく)四年の春(はる)も鎌倉成氏(かまくらしけうち)上杉房顕(うへすきふさあき)ならひに持朝(もちとも)と此地(このち)にて  争戦(さうせん)し大(おほい)に上杉勢(うへすきせい)敗北(はいほく)す又(また)享禄(かうろく)三年の夏(なつ)は北条氏康(ほうてううちやす)《振り仮名:向か岡|むかひ をか》の小沢(こさは)  の原(はら)に屯(たむろ)し上杉朝興(うへすきともおき)は多磨川(たまかは)を前(まへ)にあてゝ陣(ちん)をとる両軍(りやうくん)府中(ふちゆう)の駅(ゑき)  にて相戦(あひたゝか)ふ《割書:以上(いしやう)の合戦(かつせん)は大平記(たいへいき)鎌倉大草(かまくらおほさう)|紙(し)北条五代記(ほうてうこたいき)等(とう)に出(いて)て詳(つまひらか)なり》此余(このよ)も度々(たひ〳〵)血戦(けつせん)ありし地(ち)にして土人(としん)今(いま)も  遇(たま〳〵)此所(このところ)の田間(てんかん)を穿(うかち)て兵器(ひやうき)を得(う)るものあり《割書:此地(このち)小野宮(をのゝみや)内藤重喬(ないとうしけたか)といへる人 此地(このち)|にて一ッの矢(や)の根(ね)を得(え)て是(これ)を蔵(さう)す》    《割書:大サ図(づ)の如(こと)し| 桜(さくら)の花(はな)は| 透(すか)し| たるもの|   なり》【矢の根の図】 【枠外】 三ノ百八十九 【左丁】 三千人塚(さんせんにんつか) 《割書:六所宮(ろくしよのみや)より南(みなみ)の方(かた)十五六町 計(はかり)を隔(へた)てゝ道端(みちはた)にあり高(たか)さ三尺斗 方(はう)九|尺あまりの塚(つか)ありて上(うへ)に其巾(そのはゝ)二尺七八寸 土(つち)より上(うへ)に出(いつ)る所(ところ)二尺八九寸の青(あを)き》  《割書:板石(いたいし)の古碑(こひ)を建(たて)たり漸(やうや)く大(おほひ)なる梵字(ほんし)一 字(し)のみあらはれて其余(そのよ)は土中(とちやう)に埋(うつも)れて|其限(そのかきり)をしらず先(さき)の年(とし)県令(けんれい)の下知(けち)によりて此(この)石碑(せきひ)を堀出(ほりいた)したりしに三千人の亡骨(ほうこつ)|を埋蔵(まいさう)するよしの文字(もんし)を鐫(えり)てありしよし此地(このちの)里正の口碑(こうひ)に傳(つた)ふ按(あんする)に正慶(しやうけい)|享徳(かうとく)享禄(かうろく)等(とう)の合戦(かつせん)に分倍河原(ふんはいかはら)にて討死(うちしに)せし人の墓(はか)なるへし》 代小川(しろこかは) 府中(ふちゆう)の南(みなみ)を流(なか)る西(にし)の方(かた)二里あまりを隔(へた)てゝ青柳村(あをやきむら)より多麻(たま)  川(かは)の水(みつ)を分(わけ)て此辺(このへん)耕田(かうてん)の用水(ようすゐ)となせり或(ある)人云 古(いにしへ)此地(このち)を小川郷(をかはのかう)  と号(かう)す今(いま)の代小川(しろこかは)は即(すなはち)徃古(いにしへ)の小川の変称(へんしよう)ならん歟(か)といへりしかるや  いなやをしらす    《割書:按(あんする)に慶長年間(けいちやうねんかん)官府(くわんふ)より六所宮(ろくしよのみや)へ寄(よせ)たまひし書(しよ)の中(うち)に六所宮(ろくしよのみや)川端(かははた)にありと|註(しる)されたるは其頃(そのころ)多麻川(たまかは)の水流(すゐりう)数條(すてう)に分(わか)れて其(その)社辺(しやへん)をも流(なかれ)たりし故(ゆゑ)にしか|あるならんされと慶長(けいちやう)以後(このかた)樋(とひ)を製(せい)し川(かは)を埋(うつ)め墾田(こんてん)とせしより川(かは)漸(やうやく)減(けん)し今(いま)の|如(こと)き地勢(ちせい)となりしとおもはる依(よつて)再(ふたゝひ)按(’あんする)に今(いま)小野宮(おのゝみや)耕田(かうてん)をさして土人(としん)向田(むかひた)と|字(あさな)し同し南(みなみ)を中河原(なかかはら)と号(かう)する抔(なと)何(いつ)れも川(かは)を隔(へた)てし證(しやう)とす|へき歟(か)》 陣街道(ちんかいたう) 小野宮(おのゝみや)と分倍(ふんはい)との間(あひた)の耕田(かうてん)の地(ち)にして府中本町(ふちゆうほんまち)より関戸(せきと)へ  行道(ゆくみち)の名(な)とす昔(むかし)奥羽等(あううとう)の国々(くに〳〵)より鎌倉(かまくら)或(あるひ)は大磯(おほいそ)抔(なと)への往還(わうくわん)の  道(みち)にして鎌倉(かまくら)より北国(ほつこく)東国(とうこく)へ軍勢(くんせい)を向(むけ)らるゝ頃(ころ)の通路(つうろ)なりし 【右丁】  故(ゆゑ)にかく称(しよう)すといふ 小野宮村(をのゝみやむら) 陣街道(ちんかいたう)を隔(へた)てゝ分倍(ふんはい)より艮(うしとら)に当(あた)れる地(ち)をしかいふ《割書:府中本(ふちゆうほん)|宿(しゆく)の内(うち)》  《割書:僅(わつか)に家数(いへかす)三十 軒(けん)はかりの|間(あひた)をも小野宮(をのゝみや)とよへり》小野(をの)は上古(しやうこ)郡村(くんそん)定(さたま)らさる時(とき)よりの号(な)にして  小野県(をのゝあかた)と称(しやう)せしもの是(これ)なり今(いま)は府中(ふちゆう)の舊名(きうみやう)となれり和名類聚(わみやうるいしゆ)  抄(しやう)に多磨郡(たまこほり)小野(をの)乎乃(をの)とあり《割書:此地(このち)墾田(こんてん)となりしは元亀(けんき)天正(てんしやう)の頃(ころ)にして|小野宮(おのゝみや)の耕田(かうてん)をさして向田(むかひた)といふ田地(てんち)》  《割書:開発(かいほつ)の始(はしめ)は漸(やうやく)田数(たかす)五反(たん)程(ほと)ありしとて土人(としん)五反田(こたんた)と字(あさな)せりといふ又(また)小野宮(をのゝみや)の|北(きた)田間(てんかん)の塚(つか)は中古(ちゆうこ)の甲州街道(かうしうかいたう)府中(ふちゆう)より日野(ひの)へ往還(わうくわん)の一里塚(いちりつか)にして今(いま)も其(その)野径(のみち)を|古街道(こかいたう)と唱(とな)ふ》 小野神社舊址(おのゝしんしやきうし) 小野宮村(おのゝみやむら)陣街道(ちんかいたう)の右(みき)にあり今(いま)纔(わつか)に叢祠(さうし)を存(そん)するのみ  六所宮(ろくしよのみや)の条下(てうか)に詳(つまひらか)也 合(あは)せみるへし  武蔵国風土記曰 多磨郡 小川郷   小野神社 圭田五十六束三字田   所祭瀬織津比咩也   垂仁天皇三年甲午始行祭礼有神戸巫戸等云云  延喜式神名帳曰 多磨郡八座   小野神社云云  三代実録 光孝天皇紀   元慶八年七月十五日葵酉授武蔵国従五位上小   野神正五位上云云 【枠外】 三ノ百九十 【左丁】 小野神社(をのゝしんしや) 【四角囲い文字】 本社 みたらし いなり 【右丁】  社記云(しやきにいはく)当社(たうしや)祭神(さいしん)上古(しやうこ)は瀬織津比咩(せおりつひめ)一座(いちさ)なりしに一宮 下春命(したはるのみこと)を  遷座(せんさ)なし奉(たてまつ)り又(また)倉稲魂(うかのみたま)命を配祀(はいし)して小野神社(おのゝしんしや)を三神(さんしん)となしまゐ  らせし事は其(その)時世(しせい)しるへからす最(もつとも)舊社(きうしや)なるを以(もつ)て 成務天皇(しやうむてんわう)五年  乙亥の秋(あき)諸国(しよこく)に令(れい)して国郡(こくくん)に造長(みやつこをさ)を置(おき)給ふ時(とき)兄多毛比命(えたけひのみこと)も  詔(みことのり)を奉(うけたまは)り当国(たうこく)の国造(こくそう)として此地(このち)に至(いた)り小野県(おののあかた)に府(ふ)を闢(ひら)き給ひ  しより後(のち)崇敬(そうけい)厚(あつ)く再(ふたゝ)ひ当社(たうしや)の御神(おんかみ)を六所宮(ろくしよのみや)の相殿(あひてん)に遷(うつ)しまゐ  らせられたりとなり《割書:六所宮(ろくしよのみや)に客来三所(きやくらいさんしよ)と称(しよう)するものは即(すなはち)是(これ)なり下春命(したはるのみこと)は|後(のち)に遷座(せんさ)の御神(おんかみ)なれとも却(かへつ)て是(これ)を尊(たうと)み祭(まつり)しとおほしく》  《割書:六所宮(ろくしよのみや)にても客来三所(きやくらいさんしよ)の内(うち)|下春命(したはるのみこと)を弟(たい)【第】一とせり》しかありしより僅(わつか)に茅祠(かやのやしろ)一宇(いちう)を存(そん)して  其(その)舊址(きうし)を標(ひやう)するのみなりといへとも実(しつ)に千載(せんさい)の古(いにしへ)を想像(おもひやり)つへし  欅枯樹(けやきのこしゆ)《割書:社(やしろ)の後(うしろ)にあり今(いま)蟠根(はんこん)を存(そんす)るのみ周囲(めくり)十尋(とひろ)計(はかり)其(その)根上(ねのうへ)百人(ひやくにん)を座(さ)|せしむへし蘖(わかはへ)既(すて)に枝(えた)高(たか)く聳(そひ)へ天(てん)を摩(ま)し殆(ほとんと)二千 余歳(よさい)の想(さう)あり》 神道(しんたう) 多麻川(たまかは)の南(みなみ)一宮より此地(このち)小野神社(をのゝしんしや)へ通(つう)する田畒(てんほ)の径路(けいろ)を云  古(いにしへ)一宮(いちのみや)御神(おんかみ)より小野(をの)へ遷幸(せんかう)の時(とき)の旧路(きうろ)にして中古(ちゆうこ)迠(まて)は一宮(いちのみや)の祠官(しくわん)  此路(このみち)を経(へ)て小野社(をのゝやしろ)に至(いた)り然(しかう)して後(のち)六所宮(ろくしよのみや)へ来(きた)りしとなり其頃(そのころ)は一宮(いちのみや) 【枠外】 三ノ百九十一 【左丁】  より空輿(からこし)を舁来(かききた)れるにより小野宮邑(をのゝみやむら)の里民(りみん)挙(あけ)て多麻川(たまかは)の岸頭(かんとう)  まて送(おく)り迎(むかひ)せしよし一宮祠官(いちのみやしくわん)の口碑(こうひ)に伝(つた)ふ 小野牧(おのゝまき) 今(いま)いふ所(ところ)は府中(ふちゆう)の北(きた)国分寺(こくふんし)の辺(ほとり)より小川(をかは)砂川(すなかは)の間(あいた)の農(のう)  田(てん)となりし地(ち)其牧(そのまき)の旧跡(きうせき)なりと云傳(いひつた)ふ《割書:小野(をの)はすへて府中(ふちゆう)の惣称(そうしよう)にして|尤(もつとも)旧名(きうみやう)なり猶(なほ)前(まへ)の小野(をのゝ)宮 地(ち)》  《割書:名(めい)の条下(てうか)|に詳(つまひらか)なり》往古(そのかみ)当国(たうこく)の国造(こくそう)年々(とし〳〵)八月に至(いた)れは此地(このち)にて駒(こま)を撰(えらひ)て  鳳闕(ほうけつ)に獻(けん)しけるとなり公事根元(くしこんけん)に八月廿日 武蔵国(むさしのくに)小野(をのゝ)御馬(おんうま)  四十 疋(ひき)をひかるゝとあり《割書:六所宮(ろくしよのみや)馬市(うまいち)及(およ)ひ馬場(はゝ)の|条下(てうか)に詳(つまひらか)なり合(あは)せみるへし》  拾芥抄曰 年中行事部   八月二十日牽武蔵小野御馬云々  又同書  牧名   石川 田(由歟)比 立野 小野 秩父 己上武蔵  延喜式 左右馬寮式曰   御牧 武蔵国   石川牧 由比牧 小川牧 立野牧   右諸牧駒者毎年九月十日国司与牧監若別当人   等《割書:信濃甲斐上野三国仕|牧監武蔵国仕別当》臨牧撿印共署其帳簡繋   歯四歳己上所堪用者調良明年八月附牧監等貢   上若不中貢者便充駅伝馬《割書:下略》  又同書曰 【右丁】   凡年貢御馬者《割書:中略》武蔵国五十疋《割書:諸牧三十疋立|野牧二十疋》   凡諸国所貢繋飼馬牛者二寮均分検領訖移兵部   省其数《割書:中略》武蔵国馬十疋《割書:下略》  《割書:此余(このよ)北山抄(きたやまのしやう)西宮記(にしのみやのき)中右記(ちゆううき)猶(なほ)其外(そのほか)にも小野(をの)の牧(まき)の名(な)往々(わう〳〵)みえたり悉(こと〳〵)く挙(あく)るに|いとまあらす》  《割書:年中行事哥合》    むさし野をわけこし駒の幾かへてけふ紫の庭に出らん  頓阿    《割書:按(あんする)に延喜式(えんきしき)に小川牧(をかはまき)とあるものは則(すなはち)小野(をの)の牧(まき)の事(こと)なるへし小野(をの)は府中(ふちゆう)の|惣称(そうしよう)にして府中(ふちゆう)古(いにしへ)小川郷(をかはのかう)に属(そく)せし事 武蔵国風土記(むさしのくにふとき)にみえたり今(いま)小川(をかは)と|いふは《振り仮名:恋ゕ窪|こひ  くほ》の西北(にしきた)にありて漸(やうや)く小名(こな)に残(のこ)れり今(いま)小金井村(こかねゐむら)の上(うえ)の方(かた)を|小川新田(をかはしんてん)といふもその小川(をかは)より出(いて)たる名(な)なり》 諸源山(しよけんさん)称名寺(しようみやうし) 府中番場宿(ふちゆうはんはしゆく)北(きた)の横小路(よここうち)の右側(みきかは)にあり時宗(ししう)にして  相州(さうしう)藤沢(ふちさは)の清浄光寺(しやう〳〵くわうし)に属(そく)す本尊(ほんそん)には恵心僧都(ゑしんそうつ)彫造(てうさう)の阿弥(あみ)  陀如来立像(たによらいりふさう)三尺八寸あまりの霊佛(れいふつ)を安(あん)す此地(このち)は徃古(そのかみ)六孫王経基(ろくそんわうつねもと)  居舘(きよくわん)の旧跡(きうせき)なりと云伝(いひつた)ふ《割書:古(いにしへ)は六孫王山(ろくそんわうさん)経基寺(きやうきし)と号(かう)せしとなり|中古(ちやうこ)は正明(しやうみやう)に作(つく)る今(いま)称名(しようみやう)に改(あら)たむ》其後(そののち)  一光道和(いつくわうたうわ)上人 当寺(たうし)を草創(さう〳〵)す《割書:応永(おうえい)元年|三月七日 寂(しやくす)》後復(のちまた)遊行(ゆきやう)上人 当寺(たうし)を  再興(さいこう)ありしとなり当寺(たうし)に古(ふる)き太鼓(たいこ)の胴(とう)を収(をさ)む尤(もつとも)古物(こふつ)にして  内(うち)に年号等(ねんかうとう)を記(しる)すといへとも文字(もんし)読(よみ)得(う)へからす按(あんする)に往古(わうこ)の陣太鼓(ちんたいこ)ならん 【枠外】 三ノ百九十二 【左丁】 龍門山(りうもんさん)高安護国禅寺(かうあんここくせんし) 等持院(とうちゐん)と号(かうす)六所宮(ろくしよのみや)御旅所(おたひしよ)より九丁はかり  を隔(へた)てゝ西(にし)の方(かた)甲州街道(かうしうかいたう)の左側(ひたりかは)にあり洞家(とうけ)の禅宗(せんしう)にして多(た)  麻郡(まこほり)二 股(また)の海禅寺(かいせんし)に属(そく)す本尊(ほんそん)釈迦如来(しやかによらい)《割書:御丈一尺|五寸斗》脇士(けふし)文珠(もんしゆ)普(ふ)  賢(けん)の像(さう)賢俊法眼(けんしゆんほふけん)の作(さく)なりと云(いふ)当寺(たうし)は俵藤太秀郷(たはらとうたひてさと)の開基(かいき)  にして秀郷(ひてさと)の宅地(たくち)の旧跡(きうせき)なりといへり其後(そののち)足利将軍(あしかゝしやうくん)尊氏公(たかうちこう)  中興(ちゆうこう)あり故(ゆゑ)に尊氏公(たかうちこう)の法号(ほふかう)を採(とつ)て等持院(とうちゐん)と称(しよう)す則(すなはち)尊氏(たかうち)  将軍(しやうくん)の肖像(しやうさう)あり《割書:当寺(たうし)其先(そのせん)は市川山(しせんさん)見性寺(けんしやうし)と号(かう)せしと也 当寺(たうし)を秀衡(ひてひら)|居住(きよちゆう)の旧跡(きうせき)の故(ゆゑ)にしか呼(よ)ふと云(いふ)東西南(とうさいなん)の三方(さんはう)今(いま)も堀(ほり)を》  《割書:搆(かま)へたる|形(かたち)残(のこ)れり》開山(かいさん)は大徹心悟禅師(たいてつしんこせんし)と号(かう)す本堂(ほんたう)に武野禅林(ふやせんりん)の額(かく)あり  筆者(ひつしや)詳(つまひらか)ならす  藤原秀郷霊祠(ふちはらひてさとのれいし)《割書:境内(けいたい)坤(ひつしさる)の方(かた)にあり今(いま)稲荷明神(いなりみやうしん)に勧請(くわんしやう)す|此地(このち)は秀郷(ひてさと)の宅地(たくち)の旧跡(きうせき)なるによれり》  弁慶硯水井(へんけいすゝりみつのゐ)《割書:堂後(たうのうしろ)竹薮(たけやふ)にある所(ところ)の古井(ふるゐ)をいふ弁慶(へんけい)此井水を汲(く)んて硯(すゝり)の|水(みつ)とし大般若経(たいはんにやきやう)を書写(しよしや)せしといふ然(いか)れ共 其経(そのきやう)は焼失(しやうしつ)した》  《割書:りとて今(いま)はなし又(また)弁慶(へんけい)の画(ゑ)なりとて弁慶(へんけい)机(つくゑ)によりて経(きやう)を書写(しよしや)するさまを|畵(ゑか)きし掛幅(かけもの)あり絹地(きぬち)にして甚(はなはた)古雅(こか)なるものなり又こゝに西北(にしきた)の方(かた)甲州街道(かうしうかいたう)に|架(か)する所(ところ)の橋(はし)をも弁慶橋(へんけいはし)と号(なつ)け東(ひかし)の坂(さか)を弁慶坂(へんけいさか)と呼(よ)へりすへて弁慶(へんけい)に因(ちなみ)|ある事 而已(のみ)多(おほ)けれとも弁慶(へんけい)か事(こと)は水戸黄門光圀卿(みとくわうもんみつくにきやう)の撰(えらみ)給ひし大日本(たいにほん)》 【右丁】  《割書:史(し)にも除(のそ)き給ひしは名(な)ありて実(しつ)なく證(しやう)とすへき事(こと)なけれは|なるへし》  観音堂(くわんおんたう)《割書:表門(おもてもん)を入(いり)て正面(しやうめん)にあり本尊(ほんそん)正観音(しやうくわんおん)は木佛(もくふつ)立像(りふさう)七尺あり左右(さいう)|六 観音(くわんおん)の像(さう)は何(いつ)れも四尺五六寸あり作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす》  当寺(たうし)は足利家(あしかゝけ)の再興(さいこうに)より永徳(えいとく)元年 鎌倉(かまくら)左兵衛督氏満(さひやうゑのかみうちみつ)小山(こやま)  義政(よしまさ)退治(たいち)として発向(はつかう)ありし頃(ころ)も当寺(たうし)に陣座(ちんさ)を儲(まふ)けらる又(また)応永(おうえい)  六年には左兵衛督満兼(さひやうゑのかみみつかね)周防(すはう)の大内助義弘(おほうちのすけよしひろ)か京都(きやうと)に於(おい)て逆心(きやくしん)を  起(おこ)せし時(とき)同十一月廿一日 京都(きやうと)の手合(てあわせ)として当寺(たうし)に動座(とうさ)なし給ひ  同三十年癸卯 春(はる)も又 常陸国(ひたちのくに)の住人(ちゆうにん)小栗孫五郎平満重(をくりまここらうたいらのみつしけ)か謀反(むほん)に  より鎌倉(かまくら)より持氏公(もちうちこう)結城(いうき)へ発向(はつかう)同年八月 小栗(をくり)落城(らくしやう)の後(のち)同十六日  当寺(たうし)に帰座(きさ)同三十一年十月廿三日 当寺(たうし)炎上(えんしやう)ありしかは同十一月  十四日 持氏公(もちうちこう)鎌倉(かまくら)還御(くわんきよ)ありし等(とう)の事(こと)鎌倉大草子(かまくらおほさうし)に見え  たり《割書:当寺(たうし)什宝(しうほう)の中(うち)に往古(わうこ)尊氏公(たかうちこう)陣中(ちんちゆう)にて用(もち)ひられしと云 古(ふる)き銅鑼(とうら)一口あり|しか近頃(ちかころ)紛失(ふんしつ)なしたりとて今(いま)は見えす》 石上山(せきしやうさん)弥勒寺(みろくし) 般若院(はんにやゐん)と号(かう)す高安寺(かうあんし)より六町あまり西(にし)の方(かた)同し  街道(かいたう)の右側(みきかは)にあり真言宗(しんこんしう)にして府中(ふちゆう)の妙光院(めうくわうゐん)に属(そく)す開創(かいさう)の 【枠外】 三ノ百九十三 【左丁】  始(はしめ)久(ひさしう)して今(いま)しるへきにあらす永正(えいしやう)二年乙丑 権大僧都法印良尊(こんたいそうつほふゐんりやうそん)  中興(ちゆうかう)す本尊(ほんそん)大日如来(たいにちによらい)は一尺斗の座像(ささう)にして作者(さくしや)未詳(いまたつまひらかならす)当寺(たうし)に  津戸勘解由左衛門尉菅原規継(つとかけゆさゑもんのしやうすかはらののりつくの)墓(はか)あり   墓碑如図 【四角囲い墓碑】           津戸勘解由左衛               子尅死去          延文五年七月十日              沙弥道継           門尉菅原規継    《割書:按(あんする)に此(この)勘解由左衛門規継(かけゆさゑもんのりつく)は津戸三郎為守(つとさふらうためもり)の氏族(しそく)ならん為守(ためもり)の墓(はか)は八王(はちわう)|子(し)の観池山(くわんちさん)大善寺(たいせんし)にあり今(いま)八幡宿(やはたしゆく)の農民(のうみん)六右衛門(ろくゑもん)といへるものあり津戸氏(つとうち)|にして其(その)遠裔(ゑんえい)なりといふ》 谷保天神社(やふてんしんのやしろ) 同し街道(かいたう)西(にし)の方(かた)谷保村(やふむら)道(みち)より左側(ひたりかは)にあり《割書:此所(このところ)は分倍庄(ふんはいのしやう)|栗原郷(くりはらのかう)と云》  別当(へつたう)は安楽寺(あんらくし)と号(かう)す祭礼(さいれい)は毎歳(まいとし)二月と八月の廿五日又三月十五日  には開扉(かいひ)あり十一月三日は当社(たうしや)往古(そのかみ)天神島(てんしんしま)と称(とな)ふる地(ち)より今(いま)の  地(ち)に遷座(せんさ)なし奉(たてまつ)りし縁(えん)により此日(このひ)に小菜供(わかなのみけ)を献備(けんひ)するといへり  本社(ほんしや)祭神(さいしん)天満大自在天神(てんまんたいしさいてんしん)一座(いちさ)神躰(しんたい)は菅家(くわんけ)弟(たい)【第】三嗣(さんし)菅原道武(すかはらのみちたけ) 【右丁】 谷保天神(やふてんしん)社  社内(しやない)に常磐(ときは)の  清水(しみつ)と称(しよう)する  霊水(れいすゐ)あり 【四角囲い文字】 弁天 いなり 淡島 庵 観音 常磐清水 弁天 拝殿 【枠外】 三ノ百九十四 【左丁】 【四角囲い文字】 本社 いなり 太神宮 三郎殿 仮屋坂 安楽寺 【右丁】  清水立場(しみつたては) 甲州街道(かうしうかいたう)の立場(たては)に して此辺(このへん)こゝかしこに 清泉(せいせん)涌出(ゆしゆつ)する故(ゆゑ)に 清水村(しみつむら)の称(しよう)ありと 云此地に酒舗(しゆほ)あり て店前(てんせん)清泉(せいせん)沸(ほつ) 流(りう)す夏日(かしつ)は索麺(さうめん) を湛(ひた)して行人(かうにん)を饗(きやう) 応(をう)せり故(ゆゑ)に此地 往来(わうらい)の人こゝに 憩(いこ)ひて炎暑(えんしよ) を避(さけ)さるは なし 【品書き】 下り  そふめん  ところてん 【看板】  此むらや 【枠外】 三ノ百九十五 【左丁】  朝臣(あそん)の手刻(しゆこく)なり  額(かく)《割書:天満宮(てんまんくう)》後宇多天皇勅(こうたてんわうのちよく)世尊寺経朝卿筆(せそんしつねともきやうのふて)  《割書:額(かく)の裏(うら)に左の如(こと)きの二十四字を刻(こく)せり又(また)外(そと)に同(おな)し額(かく)の写(うつ)し一 枚(まい)あり水戸黄門(みとくわうもん)|光圀卿(みつくにきやう)これを奉納(ほうのう)なし給ひしとて裏書(うらかき)に元禄(けんろく)三年庚午 眉毛軒河埜門(ひもうけんかはのもん)|入敬彫(にふけいてう)とあり》  《割書:経朝卿(つねともきやう)の筆(ひつ)せられし額(かく)の背面(はいめん)に曰(いはく)》   建治元年己亥六月廿六日乙丑書也【注】            正三位藤原朝臣経朝  常盤清水(ときはのしみつ)《割書:裏門(うらもん)出口(てくち)道(みち)の端(はた)に小(ちひさ)き池(いけ)あり中島(なかしま)に弁財天(へんさいてん)を安置(あんち)す清泉(せいせん)湧出(ゆしゆつ)|する事 尤(もつとも)夥(おひたゝ)しく下流(かりう)水車(みつくるま)を■(まふけ)【儲】て日用(にちよう)の助(たすけ)とせり延宝年間(えんはふねんかん)筑(つく)》  《割書:紫(し)の僧(そう)某(それかし)当社(たうしや)へ詣(まふて)し頃(ころ)和哥(わか)を詠(えい)するより常盤(ときは)の清水(しみつ)と称(とな)ふるとなり》  本地堂(ほんちたう)《割書:本社(ほんしや)の右(みき)の岡(をか)にあり本尊(ほんそん)十一面(しふいちめん)|観音(くわんおん)の像(さう)は慈覚大師(しかくたいし)の作(さく)と云》道武朝臣霊社(みちたけあそんのれいしや)《割書:本社(ほんしや)の後(うしろ)に|あり土人(としん)三郎(さふらう)》  《割書:殿(との)と称(しよう)す》  社伝云(しやてんにいはく)昌泰(しやうたい)四年 菅公(くわんこう)筑前(ちくせん)の太宰府(たさいふ)へ左遷(させん)の時(とき)御三男(こさんなん)菅原(すかはらの)  道武朝臣(みちたけあそん)も又(また)此地(このち)に流(なか)されさせ給ひ三年の星霜(せいさう)を経(へ)給ひしに  延喜(えんき)三年二月二十五日 父君(ふくん)菅公(くわんこう)筑紫(つくし)にて亡(ほろひ)給ひぬときゝ悲歎(ひたん)の  あまり配所(はいしよ)の徒然(つれ〳〵)に父君(ふくん)の御像(おんさう)を手親(てつから)摸刻(もこく)し給ひ旦暮(たんほ)在(います)か 【注 建治元年は乙亥】 【右丁】  如(こと)く事(つか)へ孝道(かうたう)の誠(まこと)を尽(つく)され給ひしを後(のち)に一社(いつしや)に奉(ほう)しまゐらす  となり《割書:昔(むかし)は大社(たいしや)にて僧房(そうはう)も多(おほ)かりしとなり桜本坊(さくらもとはう)邑盛坊(いうせいはう)尊住坊(そんちゆうはう)梅本(うめもと)|坊(はう)松本坊(まつもとはう)《振り仮名:滝の坊|たき  はう》以上 六坊(ろくはう)中古(ちゆうこ)迠(まて)も猶(なほ)残(のこ)りてありしに夫(それ)さへ廃(すた)れて》  《割書:今(いま)は《振り仮名:滝の院|たき  いん》と号(かう)する一 宇(う)|のみ存(そん)せり是(これ)古(いにしへ)の《振り仮名:滝の坊|たき  はう》なり》天暦(てんりやく)に至(いた)りては 村上帝(むらかみてい)狛犬(こまいぬ)一双(いつさう)を寄附(きふ)なし  給ふ《割書:今(いま)猶(なほ)存(そん)せり甚(はなはた)の古物(こふつ)|にして寄(き)【奇ヵ】なりとす》又(また)大般若経(たいはんにやきやう)四巻を収(をさ)む源義経朝臣(みなもとのよしつねあそん)の  奉納(ほうのう)なりと云《割書:伊勢三郎(いせのさふらう)亀井六郎(かめゐのろくらう)及(およ)ひ弁慶(へんけい)等(とう)の|四人 書写(しよしや)する所(ところ)の経巻(きやうくわん)なりといへり》 菅原道武朝臣旧館地(すかはらみちたけあそんきうくわんのち) 同所二丁 許(はかり)南(みなみ)にあり空堀(からほり)城門(しやうもん)の跡(あと)と覚(おほ)し  き所(ところ)も見えて四方二町あまりの封境(ほうきやう)なり土人(としん)三郎殿屋敷跡(さふらうとのやしきあと)と称(しやう)  す相伝(あひつた)ふ三郎道武(さふらうみちたけ)此地(このち)に住(ちゆう)し当地(たうち)の県主(あかたぬし)上平太貞盛(しやうへいたさたもり)の女(むすめ)を娵(めと)り  一子(いつし)を得(え)たり其子(そのこ)を菅原道英(すかはらみちふさ)と号(かうす)夫(それ)より六世(ろくせ)の孫(そん)を津戸三郎(つとさふらう)  為守(ためもり)と号(なつ)くると《割書:津戸為守(つとためもり)の事(こと)は安(あん)|楽寺(らくし)の条下(てうか)に詳(つまひらか)也》或云(あるひはいふ)此地(このち)は貞盛(さたもり)旧館(きうくわん)の地(ち)なり  とも《割書:道武(みちたけ)主(ぬし)貞盛(さたもり)の女(むすめ)を|娵(めと)りたる等(とう)の事(こと)は未考(いまたかんかへす)》 仮屋坂(かりやさか) 同所 安楽寺(あんらくし)の門前(もんせん)百歩(ひやくほ)計(はかり)街道(かいたう)の西(にし)の方(かた)へ向(むか)ひて上(のほ)る坂(さか)を  云(いふ)建治(けんち)二年 奉幣使(ほうへいし)此(この)谷保天神(やふてんしん)の宮(みや)へ下向(けかう)し給ひし頃(ころ)仮(かり)に旅(りよ) 【枠外】 三ノ百九十六 【左丁】  館(くわん)を■(まう)【儲】けし旧跡(きうせき)なる故(ゆゑ)に此号(このな)ありと云 梅香山(はいかうさん)安楽寺(あんらくし) 松寿西院(しようしゆさいゐん)と号(かう)す天神社(てんしんのやしろ)より一町半あまり西北(にしきた)の方(かた)  街道(かいたう)より右側(みきかは)にあり天台宗(てんたいしう)にして東叡山(とうえいさん)に属(そく)せり当寺(たうし)は  天満宮(てんまんくう)の別當寺(へつたうし)にして天暦年間(てんりやくねんかん)法円大僧正(ほふゑむたいそうしやう)開創(かいさう)せりと云  中興(ちゆうこう)は津戸三郎為守(つとさふらうためもり)尊願(そんくわん)なり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は法然(ほふねん)上人の  作(さく)にして座像(ささう)一尺五寸 計(はかり)あり仏躰(ふつたい)の中(うち)に為守(ためもり)注(ちゆう)する所(ところ)の血文(けつふん)を  収(をさ)むると云 其余(そのよ)什宝(しふはう)に為守(ためもり)の太刀(たち)一振(ひとふり)同 画像(くわさう)一幅(いつふく)同 甲冑(かつちゆう)の  中(うち)に篭(こめ)たりと云 薬師佛(やくしふつ)あり傳教大師(てんけうたいし)の作(さく)と云 像材(さうさい)は沈香(ちんかう)に  して十二 神将(しんしやう)の像(さう)迠(まて)悉(こと〳〵)く高(たか)サ一寸 斗(はかり)の厨子(つし)の内(うち)に造(つく)り篭(こめ)られ  たり《割書:津戸三郎為守(つとさふらうためもり)の墓(はか)は八王子(はちわうし)の市中(しちゆう)観池山(くわんちさん)大善寺(たいせんし)といふ十八 檀林(たんりん)の|浄刹(しやうせつ)にあり寛保(くわんほ)壬戌五百年の遠忌(ゑんき)により其(その)後裔(こうえい)津戸(つと)六郎右衛門 法名(ほふみやう)》  《割書:順譽(しゆんよ)といへる者(もの)造立(さうりふ)せる所の石碑(せきひ)なり又 為守(ためもり)か住(すみ)たりし地(ち)は同所(とうしよ)多麻川(たまかは)の南(なん)|岸(かん)石田(いした)といふ地(ち)にあり今(いま)も八幡宿(やはたしゆく)の中(うち)に其(その)子孫(しそん)連綿(れんめん)として相続(さうそく)せり津戸(つと)三郎|為守(ためもり)は法名(ほふみやう)を尊願(そんくわん)と号(かう)す文章博士(もんしやうはかせ)菅原孝標(すがはらのたかすゑ)常陸介(ひたちのすけ)に任(にん)し下国(けこく)の時(とき)武蔵(むさしの)|国(くに)の総追補使(さふついふし)秩父権守平重総(ちゝふこんのかみたいらのしけふさ)か娘(むすめ)に嫁(か)して一子(いつし)を生(しやう)す名(な)を津戸次郎為広(つとしらうためひろ)|といふ其(その)三男(さんなん)為守(ためもり)なり為守(ためもり)生年(しやうねん)十八 歳(さい)にして治承(ちしやう)四年八月 石橋山(いしはしやま)の合戦(かつせん)に|馳参(はせさん)して頼朝公(よりともこう)の旗下(きか)に属(そく)し度々(たひ〳〵)軍(いくさ)に忠(ちゆう)を顕(あらは)し名(な)をあけすといふ事》 【右丁】 日野津(ひのゝつ) 【暖簾】 江戸 一 高崎      近藤 【枠外】 三ノ百九十七 【左丁】  《割書:なし建久(けんきう)六年二月 南都(なんと)東大寺(とうたいし)供養(くやう)の為(ため)将軍(しやうくん)上洛(しやうらく)の事ありしにも為守(ためもり)|供奉(くふ)して同三月 洛(みやこ)に入(いる)同し廿一日 法然(ほふねん)上人の庵(あん)に参(まい)り念仏往生(ねんふつわうしやう)の道(みち)を承(うけたまは)りて|の後(のち)は念仏(ねんふつ)の行者(きやうしや)となり建保(けんほ)七年 竟(つひ)に出家(しゆつけ)をとく其先(そのせん)上人より贈(おく)らるゝ所(ところ)の|法名(ほふみやう)をつきて尊願(そんくわん)と号(かう)す仁治(にんち)三年十月廿八日より三七日の間(あひた)如法念仏(によほふねんふつ)を修(しゆ)す|同十一月十八日 結願(けちくわん)の夜(よ)穢土(ゑと)の住居(ちゆうきよ)無益(むゑき)なりと高声(かうしやう)に念仏(ねんふつ)しひそかに自(みつから)腹(はら)かき|切(きり)五臓六腑(こさうろくふ)を取出(とりいた)し練(ねりの)大口(おほくち)に包(つゝみ)忍(しの)ひて後(うしろ)の河(かは)へ捨(すて)させにけれとも夜陰(やいん)の事|なれば人 更(さら)に知(し)る事なしされとも苦痛(くつう)もなく十九日に至(いた)りても猶(なほ)臨終(りんしう)の心地(こゝち)な|かりければ息男(そくなん)民部太夫守朝(みんふのたいふもりとも)に此(この)事を告(つけ)けるにより始(はしめ)て人もしりける翌(あく)る四年の|正月十三日の夜(よ)夢(ゆめ)に来(き)たる十五日 午剋(うまのこく)に迎(むか)ふへき由(よし)上人 告(つけ)給ふとみる覚(さめ)て後(のち)件(くたん)の|日に至(いた)り上人より給ふ所の袈裟(けさ)をかけ念珠(ねんしゆ)をもちて西(にし)に向(むか)ひ端座(たんさ)合掌(かつしやう)して|高声(かうしやう)に念仏(ねんふつ)し午(うま)の正中(たゝなか)に息(いき)絶(たえ)ぬ紫雲(しうん)空(くう)に靉霴(あいたい)【靆】し異香(ゐかう)室(しつ)にみつ腹切(はらきり)て後(のち)水(すい)|漿(しやう)を断(たち)て五十七日 気力(きりよく)常(つね)の如(こと)くして往生(わうしやう)をとけけるも甚(はなはた)奇(き)にして殆(ほとんと)信(しん)をとり|かたしといへとも彼(かの)子孫(しそん)上人の御消息(おんせうそく)ならひに念珠(ねんしゆ)袈裟(けさ)等(とう)を相伝(さうてん)して披露(ひろう)|する事 世(よ)以(もつ)てかくれなし唯(たゝ)是(これ)尊願(そんくわん)か不思議(ふしき)の奇特(きとく)を載(のす)るのみ《割書:以上円光大師行状翼賛|の要を摘採す》》 玄武山(けんむさん)普済禅寺(ふさいせんし) 日野渡口(ひのわたしくち)より此方(こなた)の岸頭(きし)を右へ十丁斗入て芝崎(しはさき)  村(むら)と云にあり《割書:此所(このところ)を立川(たてかは)と云 昔(むかし)の郷(かう)の|名(な)なり今(いま)は小名となれり》済家(さいけ)の禅林(せんりん)にして相州(さうしう)鎌倉(かまくら)の  建長寺(けんちやうし)に属(そく)せり開山(かいさん)は真照大定禅師物外可什和尚(しんせうたいちやうせんしもつけかしふおしやう)と号(かう)す《割書:貞(てい)|治(ち)》  《割書:二年癸卯十二月八日 寂(しやく)す|禅師(せんし)の墳墓(ふんほ)及(およ)ひ肖像(しやうさう)あり》本尊(ほんそん)は正観世音座像(しやうくわんせおんささう)二尺 斗(はかり)あり左右(さいう)に  十六 阿羅漢(あらかん)十大弟子 等(とう)の木像(もくさう)を安(あん)す共(とも)に作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす中(ちゆう)  興大檀那(こうたいたんな)は立川宮内大輔(たてかはくないのたいふ)と称(しよう)す法名(ほふみやう)は宝山道貴大禅定門(はうさんたうきたいせんちやうもん)と 【右丁】 芝崎(しはさき)  普済寺(ふさいし)   境内(けいたい)に延文(えんふん)   年間(ねんかん)に制(せい)する   所(ところ)の六面(ろくめん)の   石塔(せきたふ)を存(そん)せり 【四角囲い文字】  裏門  有慶庵  城跡  庫裡  六角塔  本堂  客殿  中門 【枠外】 三ノ百九十八 【左丁】 【四角囲い文字】  かね  弁天  いなり  仏殿  総門  多摩川  青梅道 【右丁】  いふ《割書:霊牌(れいはい)は当寺(たうし)にあれとも|其(その)墳墓(ふんほ)の所在(しよさい)をしらす》  仏殿(ふつてん)惣門(さうもん)の内(うち)にあり本尊(ほんそん)は釈尊(しやくそん)にして座像(ささう)三尺 計(はかり)あり脇士(けふし)  文殊(もんしゆ)普賢(ふけん)二尺斗 共(とも)に作者(さくしや)をしらす《割書:此(この)本尊(ほんそん)の胎中(たいちゆう)に立川氏(たてかはうち)の家(か)|譜(ふ)其余(そのよ)の古文書(こもんしよ)を篭(こむ)ると》  《割書:いふ其記(そのき)に平重能(たいらのしけよし)平義親(たいらのよしちか)|平高親(たいらのたかちか)等(とう)の名(な)を記(しる)せりといふ》  五十嵐市左衛門感状曰   景虎御出陣之砌三田弾正忠政定先陣而大幡々   陣所八王子城主北条氏照与及一戦没落之所五十   嵐市左衛門竹田新八郎ト云武士ヲ討取二番着到   賞功不跡時芝崎三十貫文所ヲ被仰下者也   依而如件   永禄三庚申年三月七日              立川宮内重能 在判  開山大定禅師真像座下之記曰   彩色啓端造立助縁芳衛辨翁啓範宗来啓一宗華 【枠外】 三ノ百九十九 【左丁】   宗義啓端宗順啓勝宗範啓寿寿性了宗宗快翁   塗師行盛仏師上総法橋朝宗幹縁比丘啓達   応安三年戌十二月三日敬記  当寺(たうし)境内(けいたい)北(きた)の方(かた)は往古(そのかみ)立川宮内大輔(たてかはくないたいふ)某(それかし)の宅地(たくち)たりしとなり  数年(すねん)合戦(かつせん)の地(ち)にして今猶(いまなほ)林中(りんちゆう)に首塚(くひつか)と称(しよう)するものあるは其謂(そのいはれ)なり  と云《割書:今(いま)も隍(ほり)の跡(あと)と覚(おほ)しき地(ち)存(そん)して山中(さんちゆう)折(をり)として矢(や)の根(ね)の類(たくひ)武器(ふき)を得(う)る事|ありといへり又 慶長(けいちやう)の頃(ころ)立川承賀(たてかはしやうか)なといへる人ありこゝに云 宮内大輔(くないのたいふ)》  《割書:何(いつ)れも其(その)|一族(いちそく)なるへし》豊太閤(はうたいかう)の朱章(しゆしやう)あるを以(もつ)て当寺(たうし)天叟宗祐和尚(てんさうしういうおしやう)  御開国(こかいこく)の砌(みきり)寺領(しりやう)を乞(こひ)奉(たてまつ)り朱璽(しゆし)をたまふ又(また)宮内大輔(くないのたいふ)為討伐(ちうはつとして)  仏閣(ふつかく)を放火(はうくわ)なし給ひ静謐(せいひつ)の後(のち)は修理(しゆり)すへきとある證状(しやうしやう)を給ふ  其後(そののち)住持(ちゆうち)覚栄宗理(かくえいしうり)《割書:天叟(てんさう)の|弟子(てし)》其事(そのこと)を愁訴(しうそ)する故(ゆゑ)に御加増(こかさう)あるへき  旨(むね)被仰下(おほせくたさる)といへとも遅々(ちゝ)するか故(ゆゑ)に先栄和尚(せんえいおしやう)改衣(かいえ)の為(ため)上京(しやうきやう)なし  途中(とちゆう)遷化(せんけ)せり其後(そののち)久(ひさ)しく無住(むちゆう)の寺(てら)となり朱章(しゆしやう)を欠(かく)と云 然(しか)るに  寛永(くわんえい)の末(すゑ)住持(ちゆうち)大年(たいねん)といへる僧(そう)当寺(たうし)に住(ちゆう)せしか故(ゆゑ)ありて広福寺(くわうふくし)  といへるに退去(たいきよ)せられ什宝(しふはう)の古文書(こもんしよ)古器(こき)の類(たくひ)悉(こと〳〵)く持(ち)し去(さ)れり 【右丁】  と云て今(いま)は寺(てら)の朱章(しゆしやう)を傳(つた)へ存(そん)するのみ  日本年代配合鈔曰   永正元年甲子九月廿五日立河原於山内顕定扇   谷上杉朝義合戦 ̄ス朝義軍敗 ̄テ太田下野守 ̄ヲ為_レ始多兵   死 ̄ス  《割書:南朝紀傳(なんちやうきてん)康正(かうしやう)元年己亥【註1】正月廿一日 鎌倉成氏(かまくらなりうち)と房顕(ふさあき)は定政(さたまさ)上杉長尾景中(うへすきなかをかけなか)【註2】と|武州(ふしう)立川原(たてかはら)にて合戦(かつせん)云々》  《割書:小田原記(をたはらき)云 永正(えいしやう)元年甲子九月廿七日 駿河(するか)今川氏輝(いまかはうちてる)并 小田原(をたはら)の松田(まつた)左衛門 頼重(よりしけ)はせ|加(くはゝ)りけれは此勢(このせい)を合(あは)せて《振り仮名:扇ゕ谷|あふき やつ》の五郎 頼良(よりよし)大将軍(たいしやうくん)として武州(ふしう)立河原(たてかはら)へ陣営(ちんえい)を|布(しき)山内(やまのうち)の管領(くわんれい)上杉民部大輔可淳入道(うへすきみんふのたいふかしゆんにふたう)并に当(たう)屋形(やかた)憲房(のりふさ)東八州(とうはつしう)の軍兵(くんへう)を|催(もよほ)し押寄(おしよせ)たゝかふたり夜(よ)に入(いり)けれは山内(やまのうち)の加勢(かせい)として越後(ゑちこ)の軍勢(くんせい)はせ来(きたり)けれは|朝良(ともよし)あら手(て)にかけたてられて河越(かはこえ)の城(しろ)に落延(おちのひ)梅酸(うめす)の渇(かつ)をやすむるよし|みえたり》  六面塔(ろくめんたふ)《割書:卵塔(らんたふ)の中(うち)にあり高(たか)さ六尺はかり一片の幅(はゝ)一尺五寸あまりありて|六面(ろくめん)の石(いし)は一片々に葢石(ふたいし)と台石(たいいし)とを穿(うか)ちて立合(たてあは)せたるものなり》  《割書:前面(せんめん)の二 枚(まい)には金剛(こんかう)密迹(みつしやく)の二王(にわう)を彫刻(てうこく)し後面(こうめん)左右(さいう)の四枚(しまい)は四天王(してんわう)の像(さう)を刻(こく)|せり上の方は何(いつ)れも宝尽(たからつくし)の如(こと)きものを鐫(えり)て其(その)ありさま尋常(よのつね)の石工(せきかう)の手(て)に出(いつ)るもの|にあらす極(きは)めて妙作(みやうさく)なり増長天(そうちやうてん)の一片(いつへん)に年号(ねんかう)等(とう)を刻(こく)せり其文(そのふん)左(さ)の如(こと)し》   延文六季年辛丑七月六日      施財性了立                      道圓刊   《割書:按(あんする)に前(まへ)に挙(あく)る所(ところ)の開山(かいさん)大定禅師(たいちやうせんし)肖像(しやうさう)座下(さか)の記文(きふん)に性了(しやうりやう)の名(な)あり六面(ろくめん)|塔(たふ)の財主(さいしゆ)性了(しやうりやう)一(いつ)なるへし延文(えんふん)六年は康安(かうあん)と改元(かいけん)の年(とし)也 応安(おうあん)三年に至(いた)り|わつかに十年なり然(しか)れはいよ〳〵此人なるへし》 【枠外】 三ノ二百 【左丁】 普済寺境内六角古碑(ふさいしけいたいろくかくのこひ) 《割書:高サ五尺二寸 巾一尺四寸計》 那羅延堅固(ならえんけんご) 密迹金剛(みつしやくこんがう) 増長天王(ぞうちやうてんわう) 【註1  康正元年は乙亥】 【註2  正しくは景仲】 【右丁】 多聞天王(たもんてんわう) 持国天王(ぢこくてんわう) 広目天王(くわうもくてんわう) 【枠外】 三ノ二百一 【左丁】  当寺(たうし)境内(けいたい)の地(ち)は多磨川(たまかは)の流(なかれ)に臨(のそ)み勝景(しようけい)の地(ち)なり富士(ふし)箱根(はこね)秩(ちゝ)  父郡(ふこほり)の遠嶂等(ゑんしやうとう)一望(いちはう)に遮(さへき)り尤(もつとも)幽趣(いうしゆ)あり北(きた)の方(かた)は往古(いにしへ)立川宮内大輔(たてかはくないたいふ)  某(それかし)か城営(しやうえい)の旧址(きうし)にして其(その)形勢(かたち)を存(そん)し懐旧(くわいきう)の情(しやう)を催(もよほ)さしむ又 小田(をた)  原(はら)の北条(ほうてう)幕下(はくか)なりし五十嵐小文治(いからしこふんち)といへる人(ひと)も此地(このち)にありし由(よし)  土人(としん)云傳(いひつた)へたり前(さき)に顕(あらは)せし永禄(えいろく)三年の感状(かんしやう)にも五十嵐市左衛門(いからしいちさゑもん)  といへる名(な)を注(ちゆう)したり何(いつ)れも其(その)氏族(しそく)の徒(ともから)なるへし此故(このゆゑ)に今(いま)も此地(このち)に  五十嵐氏(いからしうち)の人(ひと)尤(もつとも)多(おほ)し《割書:按(あんする)に五十嵐(いからし)小文治は和田合戦(わたかつせん)に朝比奈(あさひな)|義秀(よしひて)に討(うた)れたる人なり是(これ)を混(こん)して土人(としん)》  《割書:あやまり傳(つた)へたる歟(か)》 八幡宮(はちまんくう) 同所二町はかり北(きた)の方(かた)にあり神主(かんぬし)宮崎氏(みやさきうち)奉祀(はうし)す祭神(さいしん)  本多別命(ほんたわけのみこと)一座(いちさ)相伝(あひつたふ)建長(けんちやう)四年癸子八月十五日 勧請(くわんしやう)せりと云  本地佛(ほんちふつ)は阿弥陀如来(あみたによらい)にして黄金佛(わうこんふつ)御丈(みたけ)四寸八分ありて弘法(こうほふ)  大師(たいし)の作(さく)なりといへり《割書:背面(はいめん)は仮面(かめん)の如(こと)く凹(くほか)にして甚(はなはた)古色(こしよく)なり|按(あんする)に世俗(せそく)後光佛(こくわうふつ)と称(しよう)するもの是(これ)なり》然(しか)るに  天正年間(てんしやうねんかん)野火(のひ)の為(ため)に神殿(しんてん)烏有(ういう)となれり此時(このとき)に至(いた)り本尊(ほんそん)失(うせ) 【右丁】 立川(たてかは)  八幡宮(はちまんくう)  諏訪社(すはのやしろ)  満願寺(まんぐわんじ) 【四角囲い文字】 立川村 すは 【枠外】 三ノ二百二 【左丁】 【四角囲い文字】 かね 八まん 満願寺 太子 【右丁】  給ひて其(その)所在(しよさい)を知(し)る人なし仍(よつて)此地(このち)の領主(りやうしゆ)立川宮内(たてかはくない)某(それかし)の室(しつ)  此事(このこと)を深(ふか)く歎(なげ)き思(おも)ひ新(あらた)に弥陀像(みたのさう)一躯(いつく)を鋳(い)て當社(たうしや)に収(をさめ)らるゝと  いへり《割書:其(その)佛躰(ふつたい)の背面(はいめん)に鐫所(いるところ)の文(ふん)次(つき)に記(しる)せり按(あんする)に新像(しんさう)の膝(ひさ)に梅鉢(うめはち)の紋(もん)あり|疑(うたか)ふらくは立川氏(たてかはうち)の家(いへ)の紋(もん)ならん歟(か)或(あるひ)は其室(そのしつ)の家(いへ)の紋(もん)ならん歟(か)》  其後(そののち)宝永年間(はうえいねんかん)宮社(きうしや)を造立(さうりふ)せんとせし時(とき)境内(けいたい)松(まつ)の枯株(こちゆう)の根(ね)を  穿(うか)ちて鋤下(しよか)に失(うしな)ふ所(ところ)の本地佛(ほんちふつ)金像(こんさう)の弥陀如来(みたによらい)を得(え)たり《割書:其時(そのとき)|の鋤(すき)》  《割書:の刃(は)の跡(あと)尊像(そんさう)の|御胸(おんむね)に印(いん)せり》又(また)安永(あんえい)五年の夏(なつ)賊(そく)の為(ため)に奪(うは)はるゝといへとも霊威(れいゐ)あるを  以(もつて)同年(とうねん)八月四日 再(ふたゝひ)当社(たうしや)に還座(くわんさ)なし給ふとな  天正年間新造立所之本地佛之銘曰   武州多東郡立河郷芝崎村八幡本地并興願主   立河宮内お称か   干時天正拾四甲戌年三月十五日               本願大夫式部               大工椎名土佐守  後光鏡之銘曰   武州多磨郡立河郷芝崎村八幡宮 鏡一面   為家内安全     五十嵐与八郎   元文四年己未八月 【枠外】 三ノ二百三 【左丁】 医王山(ゐわうさん)萬願寺(まんくわんし) 同所 南(みなみ)の方(かた)四十歩 計(はかり)を隔(へた)つ黄檗派(わうはくは)の禅崫(せんくつ)  にして銕牛禅師(てつきうせんし)居住(きよちゆう)の草庵(さうあん)の旧跡(きうせき)なりしを後(のち)に一宇(いちう)の蘭若(れんにや)と  なせしといふ本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)は座像(ささう)三尺 計(はかり)恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)にして  脇士(けふし)に日光(につくわう)月光(くわつくわう)十二神将(しふにしんしやう)等(とう)の像(さう)を安(あん)せり  額(かく)《割書: 本堂(ほんたう)| 向拝(かうはい)》 医  額(かく)《割書: 堂内(たうない)| 家帯(なけし)》 東  聯(れん)《割書: 左右(さいう)| の柱(はしら)に》 願広悲深尽大地無非薬艸  《割書:に掲(か)く南(なん)|岳悦山筆(かくゑつさんのふて)》 王   《割書:に掲(かく)る当(たう)|寺(し)中興(ちゆうこう)別(へつ)|》 光  《割書:掛(かく)る黄檗(わうはく)|高泉(かうせん)の》  塵空垢浄遍法界悉是瑠璃       山   《割書:峯旦筆(ほううたんのふて)》 院  《割書:筆(ふて)なり》 諏訪(すは)社 八幡宮(はちまんくう)より六十歩計 東(ひがし)にあり祭神(さいしん)建御名方命(たけみなかたのみこと)一 座(さ)相(あひ)  伝(つた)ふ弘仁(こうにん)二年辛卯七月廿一日に勧請(くわんしやう)せしといふ当社(たうしや)も宮崎(みやさき)  氏(うち)兼帯(けんたい)奉祀(はうし)す 多磨川(たまかは) 当国(たうこく)第(たい)一の勝槪(しようかい)とす《割書:和名類聚抄(わみやうるいしゆしやう)多磨(たま)に作(つく)り太婆(たは)と訓(くん)す|万葉集(まんえふしふ)多麻(たま)に从(したか)ひ武蔵国風土記(むさしのくにふとき)残(さん)》  《割書:篇(へん)多摩(たま)とす後世(かうせい)玉(たま)に作(つく)るものは山城(やましろ)摂津(せつつ)およひ紀伊(きい)近江(あふみ)陸奥(むつ)等の国(くに)々にある|所(ところ)の玉川(たまかは)と共(とも)にあはせて六玉川(むたまかは)と称(しよう)せしよりかく文字(もんし)をあらためたりしなるへし|此川(このかは)は武甲(ふかふ)の堺(さかひ)丹波山(たはやま)に発(はつ)し多摩郡(たまこほり)の丹波村(たはむら)に添(そふ)て流(なか)るゝ故(ゆゑ)に多波川(たはかは)とは|いひたるなり日蓮(にちれん)上人 註画讃(ちゆうくわさん)大士(たいし)臨終(りんしう)の時(とき)池上(いけかみ)に移(うつり)給ふ条(てう)に武蔵国(むさしのくに)田波河(たはかは)》 【註「萬願寺」は「満願寺」の誤】 【右丁】 多磨川(たまかは)  六玉川(むたまかは)のひとつ  にて今(いま)多磨(たま)を  玉(たま)に作(つく)る 【四角囲い文字】 和泉 高尾山 猪の方 矢の口渡 中の島 菅村 【枠外】 三ノ二百四 【左丁】 【四角囲い文字】 菅生 登戸 【右丁】 其二 【四角囲い文字】 大山 長尾山 宿河原 【枠外】 三ノ二百五 【左丁】 玉川(たまかは)は砂場(すなは)広(くわう) 豁(くわつ)にして其(その)流(なか)れ 一 帯(たい)にあらす多(おほ)く 雨後抔(うこなと)には渡口(わたりくち) 移転(ゐてん)して定(さたま)る事 なし西北に秩父(ちゝふ) をよひ甲州(かうしう)の緒(しよ)【註】 山(さん)を望(のそ)み東南は 堤塘(つゝみ)の斜(なゝめ)に連(つらな)る を見(み)る鮎(あゆ)を此川 の産(さん)とす夏秋(なつあき)の 間(あひた)多(おほ)し故(ゆゑ)に常(つね) に漁人(きよしん)絶(たえ)す 【四角囲い文字】 堰村 駒井 【註 「緒」「諸」の誤】 【右丁】 玉(たま) 川(かは) 猟(あゆ) 鮎(かり) 【枠外】 三ノ二百六 【左丁】 夫木  禖子内    親王   家哥合  笧【註】炎の   影にそ    しるき   玉川の    鮎ふす   瀬    には  光   そひ    つゝ 【「笧(しがらみ)」は「篝(かがり)」の誤】 【右丁】 拾遺愚草  たつくり【註】     や   さらす    垣ねの  朝露を   つらぬき    とめぬ  玉川の     里    定家 【枠外】 三ノ二百七 【左丁 文字なし】 【註 「たつくり」は「てつくり」の誤】 【右丁】  《割書:の辺(へん)にして滅(めつ)を尓(しめ)すへしともみえ又(また)北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)にも多波川(たはかは)とあり》  水源(みなもと)は甲州(かうしう)丹波山(たはやま)に発(はつ)し《割書:田澤義章(たさはよしあきら)の武蔵野地名考(むさしのちめいかう)に|此(この)丹波(たは)山を武蔵(むさし)とせしは誤(あやまり)なり》当国(たうこく)多摩郡(たまこほり)に  入ては日原(ひはら)川も会流(くわいりう)す《割書:多麻郡(たまこほり)日原山(ひはらやま)小菅山(こすけやま)等(とう)|の山谷(さんや)より発(はつ)すと云》御嶽山(みたけさん)の麓(ふもと)を経(へ)て  青梅(あをめ)の南(みなみ)に傍(そひ)羽村(はむら)《割書:四谷上水(よつやしやうすい)の|掛口(かけくち)あり》及(およ)ひ福生(ふつさ)拝島(はいしま)等(たう)の地(ち)に至(いた)る又(また)此地(このち)  にて秋川(あきかは)の流(なかれ)も落会(おちあ)ひ《割書:甲州境(かふしうさかひ)の地(ち)より発(はつ)して多磨郡(たまこほり)伊奈村(いなむら)五日 市(いち)|村(むら)等(とう)の辺(へん)に傍(そふ)て流(なか)るゝもの秋川(あきかは)なり》  又(また)石田(いした)と云(いふ)に至(いた)り浅井川(あさゐかは)も合(かつ)し《割書:八王子(はちわうし)の山間(やまあひ)|より出(いて)たり》和泉村(いつみむら)中島村(なかしまむら)等(とう)の  地(ち)より末(すへ)は多麻(たま)荏原(えはら)橘樹(たちはな)三郡(さんくん)の間(あひた)を東流(とうりう)し海(うみ)に会(くわい)せり《割書:橘樹郡(たちはなこほり)|の方(かた)は》  《割書:登戸(のほりと)二子(ふたこ)小杉(こすき)平間(ひらま)河崎(かはさき)等(とう)の地(ち)に傍(そ)ひ荏原郡(えはらこほり)は瀬田(せた)等々力(とゝろき)下丸子(しもまりこ)矢口(やくち)八幡塚(はちまんつか)|羽田(はねた)等(とう)の地(ち)に傍(そふ)て流(なか)れたり甲州国境(かうしうくにさかひ)より当国(たうこく)多磨郡(たまこほり)羽村迠(はむらまて)十 余里(より)羽村(はむら)より|六郷迠(ろくかうまて)十六 里(り)と云 武蔵野地考名(むさしのちめいかう)に周流(しうりう)する事 凡(およそ)四十里とあるは水源(みなかみ)よりの行程(きやうてい)なるへし》  万葉十四   多麻河泊尓左良須氐豆久利佐良左良尓奈仁曽(たまかはにさらすてつくりさらさらになにそ)   許能児乃己許太可奈之伎(このこのここたかなしき)   《割書:此詠(このえい)を拾遺集(しふゐしふ)恋(こひ)の四にはよみ人しらすとありて玉川(たまかは)にさらす手(て)つくり|さら〳〵にむかしの人の恋(こひ)しきやなそとあり又 六帖(ろくてふ)には昔(むかし)の今(いま)に恋(こひ)し|きやなそともあり》  拾遺愚艸   調布やさらす垣ねの朝露をつらぬきとめぬ玉川の里  定家 【枠外】 三ノ二百八 【左丁】  建保名所百首   玉河にさらすてつくり更に世を頼む日かけのあはれ過行 家隆  武蔵国風土記曰 多磨郡 多磨河   出諸鱗及鵰鴴鵢等亦里人作調布納内蔵寮云々  東鑑曰 仁治二年辛丑十月二十二日丙子以武蔵   野可被闢水田之由儀定訖就之可被懸上多磨河   水之間可為犯土之儀歟云々   《割書:按(あんする)に武蔵野(むさしの)に水田(みつた)を闢(ひら)き又 多磨川(たまかは)の水(みつ)を用水(ようすゐ)に引(ひき)たりし権輿(はじめ)なるへし》  此河(このかは)は武蔵野(むさしの)の勝概(しようかい)にして日野津(ひのゝつ)より以西は水石(すゐせき)の美(ひ)奇絶(きせつ)最(もつとも)  多(おほ)し以東は平地(へいち)といへとも長流(ちやうりう)の経(ふ)る所(ところ)往々(わう〳〵)観(くわん)を改(あらた)め亦(また)勝景(しようけい)なきに  あらす鮎(あゆ)を以(もつ)て此川(このかは)の名産(めいさん)とす故(ゆゑ)に初夏(しよか)の頃(ころ)より晩秋(はんしう)の頃迠(ころまて)  都下(とか)の人(ひと)遠(とほ)きを厭(いと)はすしてこゝに来(きた)り遊猟(いうりやう)せり 高幡山(たかはたさん)金剛寺(こんかうし) 高幡邑(たかはたむら)にあり《割書:東鑑(あつまかゝみ)に高幡三郎(たかはたさふらう)と云(いふ)人(ひと)の|名(な)あり此所(このところ)より出(いつ)る歟(か)》新義(しんき)の真言宗(しんこんしう)  にして花洛(くわらく)三宝院御門跡(さんはうゐんこもんせき)に属(そく)す大宝(たいはう)より以前(いせん)の開創(かいさう)にして  其後(そののち)弘法大師(こうほふたいし)再興(さいこう)あり又(また)慈覚大師(しかくたいし)再興(さいこう)すといふ本尊(ほんそん)不動(ふとう)  明王(みやうわう)は《割書:古佛(こふつ)にして|作不祥(さくつまひらかならす)》座像(ささう)一丈 餘(あまり)あり《割書:炎光(えんくわう)に布字(ふし)十有九を刻(こく)し利益(りやく)|無辺(むへん)自心(ししん)堅固(けんこ)の相(さう)をあらはせり》  脇士(けふし)二童子(にとうし)化人(けにん)の作(さく)なりといふ《割書:寺記云(しきにいふ)或時(あるとき)忽然(こつせん)として化僧(けそう)一人 来(きた)り|告(つけ)て云く此(この)本尊(ほんそん)に二童子(にとうし)なきは不可(ふか)》 【右丁】 【四角囲い文字】 庫裡 ふくいし かね 本堂 あたこ 大師 不動尊 弁天 【枠外】 三ノ二百九 【左丁】 高幡(たかはた)  不動堂(ふとうたう) 【四角囲い文字】 神楽殿 二王門 長徳寺 【右丁】  《割書:なり予(よ)是(これ)を作(つく)るへしと住持(ちゆうち)諾(たく)す依(よつて)化僧(けそう)は一室(いつしつ)に入(いつ)て戸(と)を閉(とち)敢(あへ)て戸外(とくわい)に出(いつ)る事(こと)なし|不日(ふしつ)にして造功(さうこう)畢(をはん)ぬ竟(つひ)に異僧(ゐそう)は去(さつ)て其(その)行方(ゆくへ)をしらすと云々 其室(そのしつ)の地(ち)に稲荷(いなり)を勧請(くわんしやう)す》  古鰐口(こわにくち)一口《割書:不動堂(ふとうたう)に懸(かけ)たり径(わたり)一尺九寸 文字(もんし)|九十四 字(し)を刻(こく)す其銘(そのめい)左(さ)のことし》  敬白    奉懸  右尋当寺者慈覚大師建立清和天皇御願所弟【注】二建  立斗円陽成天皇  彼時頼義朝臣自於登山奉崇八幡弟【注】三建立永意得  行■两檀   大檀那美作助真并記氏一宮田人鍋師源恒有  文永十年癸酉五月廿日           銀念西守氏 鑯青蓮  服石(ふくいし)《割書:不動堂(ふとうたう)の後(うしろ)愛宕祠(あたこのやしろ)の傍(かたはら)にあり巾(はゝ)六尺はかり高(たか)サも五六尺はかりあり|あるもの此石(このいし)を拝(はい)すれは穢(けかれ)に触(ふ)れすといふ故(ゆゑ)に忌明(きめい)の時(とき)土人(としん)此石(このいし)に詣(まう)て|後(のち)諸(もろ〳〵)の佛神(ふつしん)に参詣(さんけい)すといへり》  二王門(にわうもん)《割書:左右(さいう)に金剛(こんかう)密(みつ)|迹(しやく)の像(さう)を置(おき)たり》額(かく)《割書:高幡山》僧正(そうしやう)泊如筆(はくによのふて)  惣門(さうもん)《割書:二王門(にわうもん)の|左(ひたり)に並(なら)ふ》額(かく)《割書:高幡山》僧(そう)浩然筆(こうねんのふて)  鼻井(はなゐ)《割書:庫裡(くり)の前(まへ)左(ひたり)の方(かた)の山(やま)の裾(すそ)にあり広(ひろ)サ七尺斗の井泉(せいせん)を云(いふ)相伝(あひつたふ)建武(けんむ)二年乙亥八月|四日の夜(よ)大風(たいふう)発(おこ)り御堂(みたう)忽(たちまち)に顛倒(てんたう)す故(ゆゑ)に平地(へいち)に引下(ひきくた)すといへり其頃(そのころ)本尊(ほんそん)の》  《割書:御首(みくし)の堕(おち)たる所(ところ)に清泉(せいせん)涌出(ゆしゆつ)す後(のち)鼻井(はなゐ)と称(しよう)し阿伽(あか)とす諸人(しよにん)寒熱(かんねつ)の二病(にひやう)腫物(はれもの)眼疾(かんしつ)|等(とう)其余(そのよ)諸病(しよひやう)ともに或(あるひ)は飲(のみ)或は其(その)痛所(いたむところ)に塗(ぬ)りて平愈(へいゆ)せすといふ事なしといへり》  鎌倉大草紙曰(かまくらおほさうしにいはく)享徳(かうとく)四年正月廿一日 武州(ふしう)府中(ふちゆう)分倍川原(ふんはいかはら)へ寄来(よせきた)る 【枠外】 三ノ二百十 【左丁】  成氏(なりうち)五百余騎(こひやくよき)にて馳出(はせいて)短兵急(たんへいきう)にとりひしき火(ひ)出(いつ)る程(ほと)に攻戦(せめたゝか)ひける  間(あひた)上杉方(うへすきかた)の先手(さきて)の大将(たいしやう)右馬助入道憲顕(うまのすけにふたうのりあき)深手(ふかて)負(おふ)て引(ひき)かねけるか  高籏寺(たかはたてら)にて自害(しかい)す鎌倉勢(かまくらせい)も勝軍(かちいくさ)はしかれとも石堂(いしたう)一色(いつしき)以下百五  十人 討死(うちしに)して戦(たゝか)ひつかれ分倍河原(ふんはいかはら)に陣(ちん)を取(とる)云々《割書:高籏寺(たかはたてら)といふは当寺(とうし)|の事(こと)をいふなるへし》  縁起曰(えんきにいはく)平山武者所季重(ひらやまむしやところすゑしけ)幼(をさなき)より当寺(たうし)の不動尊(ふとうそん)を崇敬(そうきやう)し世(よ)に強(かう)  勇(ゆう)の名(な)を顕(あらは)せり治承(ちしやう)の頃(ころ)平家(へいけ)追討(つゐたう)の時(とき)も鎌倉(かまくら)の右大将家(うたいしやうけ)に  属(そく)し義経(よしつね)に随(したか)ひて西国(さいこく)に趣(おもむ)き《振り仮名:一の谷|いち  たに》に勇(ゆう)を輝(かゝやか)し武名(ふめい)世(よ)に  明(あき)らけし故(ゆゑ)に其後(そのゝち)当山(たうさん)の頂(いたゝき)に此(この)本尊(ほんそん)の御堂(みたう)を建立(こんりふ)す然(しかる)に建(けん)  武(む)二年乙亥八月四日 暴風(はうふう)の災(わさはひ)に罹(かゝ)りて殿堂(てんたう)破壊(はゑ)す依(よつて)後(のち)平(へい)  地(ち)にうつせり其頃(そのころ)の財主(さいしゆ)は平助綱(たひらのすけつな)およひ大中臣女等(おほなかとみのむすめとう)なりといふ  尓来(しかりしより)天下(てんか)風水(ふうすゐ)或(あるひ)は疫癘等(えきれいとう)の諸災(しよさい)あらんとする時(とき)は佛躰(ふつたい)汗(あせ)を生(しやう)  し給ふとなり其(その)威霊(ゐれい)は枚挙(まいきよ)すへからす 木切沢(ききりさは)《割書:金剛寺(こんかうし)より半町はかり西(にし)の方(かた)の谷(たに)を云(いふ)平季重(たいらのすゑしけ)御堂(みたう)建立(こんりふ)|の時(とき)此所(このところ)より堂材(たうさい)を伐出(きりいた)したる旧跡(きうせき)なりと云傳(いひつた)ふ》 【「弟」は「第」の誤】 【右丁】 番匠谷(はんしやうかやつ)《割書:同しく一町はかり西(にし)へ入(いる)谷(たに)を云(いふ)是(これ)も季重(すゑしけ)御堂(みたう)|建立(こんりふ)の時(とき)番匠(はんしやう)の削彫(さくてう)の地(ち)なりといひ傳(つた)へり》 別旅明神(わかたひみやうしん) 金剛寺(こんかうし)より三町はかり東(ひかし)の方(かた)別旅邑(わかたひむら)にありて此地(このち)の産(うふ)  土神(すな)とす則(すなはち)金剛寺(こんかうし)奉祀(ほうし)の宮社(きうしや)たり傳(つた)へ云 金剛寺(こんかうし)の本尊(ほんそん)不動(ふとう)  明王(みやうわう)の脇士(けうし)二童子(にとうし)を彫刻(てうこく)せし異僧(ゐそう)その像(さう)を造(つく)り終(をは)るの後(のち)立去(たちさ)  らんとす近里(きんり)の道俗(たうそく)喜悦(きえつ)のあまり其跡(そのあと)に随(したか)ひて此地(このち)まて来(き)たり  けるに件(くたん)の異僧(ゐそう)は忽(たちまち)にみえすなりぬ貴賤(きせん)奇異(きゐ)とし此地(このち)に一社(いつしや)を  建立(こんりふ)し別旅明神(わかたひみやうしん)と称(しやう)す地名(ちめい)も又(また)別旅邑(わかたひむら)といふとそ 平惟盛之墓(たひらのこれもりのはか) 金剛寺(こんかうし)より一町はかり西南(にしみなみ)平村(たひらむら)《割書:平山村(ひらやまむら)に|隣(とな)れり》農民(のうみん)又右衛門(またゑもん)  といへる人(ひと)の搆(かまへ)の中(うち)にあり青(あを)き一片(いつへん)の板石(いたいし)にして高(たか)サ七尺五寸あまり  巾(はゝ)二尺 程(ほと)厚(あつ)サ二寸 斗(はかり)あり上(うへ)の方(かた)にきりく字(し)を彫(ほり)下(しも)に文永(ふんえい)八年辛未  中冬(ちゆうとう)日とあり土人(としん)相伝(あひつた)へて平惟盛(たひらのこれもり)の碑(ひ)なりと云(いふ)往古(わうこ)此地(このち)に平助綱(たひらのすけつな)  と云(いふ)武士(ふし)住(すめ)り平氏(へいし)の遠裔(ゑんえい)なれは惟盛(これもり)の菩提(ほたい)を吊(とむら)はんか為(ため)に是(これ)を  造(つく)るか《割書:年歴(ねんれき)尤(もつとも)|不審(いふか)し》或(あるひ)は又(また)助綱(すけつな)か墓(はか)なりとも云(いふ)同し南(みなみ)の方(かた)二町はかり山(やま)を 【枠外】 三ノ二百十一 【左丁】 平村(たひらむら)  平惟盛(たひらこれもり)   古墳(こふん) 【板碑文】 文永八年辛未 中冬日 【注 文中「惟盛」は「維盛」の誤】 【右丁】  登(のほ)りて中腹(ちゆうふく)に又(また)古碑(こひ)あり剥落(はくらく)して読(よむ)へからす只■【平ヵ】の一字(いちし)のみ  鮮明(あさやか)なり高(たか)サ六尺 余(あま)り巾(はゝ)二尺はかり下は土中(とちゆう)に埋(うつ)む其余(そのよ)古石塔(こせきたふ)  二基(にき)何(いつ)れも高(たか)サ四尺はかりあり土人(としん)平山季重(ひらやますゑしけ)或又(あるひはまた)平氏(へいし)の人(ひと)の墳墓(ふんほ)  とも云傳(いひつた)へて分明(ふんみやう)ならす《割書:此所(このところ)は農民(のうみん)平氏(へいし)某(それかし)の家(いへ)累世(るゐせい)の|塋域(えいいき)なり康正年号(かうしやうねんかう)の碑(ひ)等もあり》此地(このち)邑名(いうみやう)を平(たひら)  と称(しよう)し殊(こと)に平氏(へいし)の人(ひと)多(おほ)し里正(りしやう)平氏(たいらうち)の家(いへ)に小田原(をたはら)北条氏直(ほうてううちなほ)の下(くた)し  文(ふみ)ありといへり 慈岳山(しかくさん)松蓮寿昌禅寺(しようれんしゆしやうせんし) 高幡(たかはた)より十二町 斗(はかり)東南(とうなん)の方(かた)百草邑(もくさむら)にあり  《割書:昔(むかし)は茂草(もくさ)に作(つく)る八幡宮社地(はちまんくうしやち)に源頼義(みなもとのよりよし)義家(よしいへ)兄弟(けうたい)奥州(あうしう)|征伐(せいはつ)凱陣(かいちん)の時(とき)山号(さんかう)升井(ますゐ)を改(あらため)て増威(ますゐ)とすと云々》黄檗派(わうはくは)の禅林(せんりん)に  して江戸(えと)白銀(しろかね)の瑞聖寺(すゐしやうし)に属(そく)せり昔(むかし)は天台宗(てんたいしう)にして増井山(そうせゐさん)と号(かう)す  天平年間(てんへいねんかん)道璿(たうせん)の高弟(かうてい)釋(しやく)道広(たうくわう)大勧進(たいくわんしん)し始(はしめ)て七堂(しちたう)全備(せんひ)の精舎(しやうしや)を  創建(さうこん)す其後(そのゝち)康平(かうへい)五年 伊予守頼義(いよのかみよりよし)奥州(あうしう)下向(けかう)の時(とき)此地(このち)をよきり  給ひ松蓮寺(しようれんし)に投宿(たうしゆく)し八幡宮(はちまんくう)を再興(さいこう)ありて朝敵(てうてき)追罰(つゐはつ)の御祈願(こきくわん)  あり又(また)建久年間(けんきうねんかん)頼朝卿(よりともきやう)以来(このかた)源家(けんけ)累代(るゐたい)の祈願所(きくわんしよ)に定(さため)られ建長(けんちやう) 【枠外】 三ノ百十二 【左丁】  七年 当寺(たうし)の住持(ちゆうち)祐慶(いうけい)相州(さうしう)より琳長師(りんちやうし)を請(しやう)して禅院(せんゐん)に改(あらた)むると  いふ慶長(けいちやう)十五年 松蓮寺(しやうれんし)方丈(はうちやう)建営(こんえい)の棟札(むねふた)あり本尊(ほんそん)釈迦佛(しやかふつ)座(さ)  像(さう)三尺斗あり脇士(けふし)は阿難(あなん)迦葉(かせう)の立像(りふさう)三尺なり仏師(ふつし)藤村中円(ふちむらちゆうゑん)  彫造(てうさう)する所(ところ)なりと云《割書:中円(ちゆうゑん)は華人(くわしん)にして肥前(ひせん)|長崎(なかさき)にありしとな り》中興開山(ちゆうかうかいさん)は慧極和尚(ゑきよくおしやう)と  号(かう)せり《割書:享保(きやうほ)六年辛丑|八月廿四日 尓寂(ししやく)》享保(きやうほ)二年丁酉 大久保加賀守忠英矦(おほくほかゝのかみたゝてるかう)の  夫人(ふしん)寿昌院殿慈岳元長尼(しゆしやうゐんてんしかくけんちやうに)中興開基(ちゆうかうかいき)たり《割書:元長尼(けんちやうに)は享保(きやうほ)六年 薙染(ちせん)し|て寿昌院慈岳(しゆしやうゐんしかく)と称(しよう)す常(つね)に》  《割書:三宝(さんはう)を恭敬(くぎやう)し竟(つひ)に当寺(たうし)を再興(さいこう)|せらる当寺(たうし)に四十五才の木像(もくさう)あり》本堂(ほんたう)内陣(ないちん)の額(かく)松蓮寿昌禅寺(しようれんしゆしやうせんし)の六(ろく)  大字(たいし)及(およ)ひ総門額(さうもんのかく)慈岳山(しかくさん)等(とう)は何(いつ)れも中興開山(ちゆうかうかいさん)明 慧極(ゑきよく)【注】の筆(ふて)なり  本尊(ほんそん)の前(まへ)に揚(あけ)たる紫金光(しこんくわう)の額(かく)は隠元禅師(いんけんせんし)の書(しよ)なり  経筒(きやうつゝ)三箇(さんか)其(その)銘文(めいふん)左(さ)の如(こと)し一は銅(あかゝね)を以(もつて)製(せい)す長(なかさ)九寸二分口  広(ひろ)さ四寸五分  長寛元年《割書:大歳|癸未》十月十三日《割書:庚|午》         工匠藤原守道 【注 「明慧極」は「道明慧極」ヵ。「道明」は「慧極(道号)」の法諱。通常は「慧極道明」と呼称】 【右丁】 茂草(もくさ)  松蓮寺(しようれんし) 【四角囲い文字】 裏門 【枠外】 三の二百十三 【左丁】 【四角囲い文字】 庫裏 書院 本堂 かね 観音 あきは かさもり 拝殿 本社 【右丁】       ■ 大勧進聖人僧辨豪  ■■■■■    結縁者僧玄久       ■ 如法書冩 僧観賢  奉納妙法蓮華経     僧定円       ■      僧瑞久  ■■■■■       僧定阿       ■      僧尭尊              僧辨意              駈仕僧楽西  同一箇(おなしくいつか)《割書:銅(あかゝね)を以(もつ)て製(せい)す長(なかさ)七寸五分 口広(くちひろ)さ|渡(わた)り四寸一分 其文(そのふん)左(さ)の如(こと)し》   大勧進      僧尭尊      大檀主藤原氏満貞刋      永萬元年九月十七日天   其蓋裏曰      大勧進所百草村            松連寺【ママ】 【枠外】 三ノ二百十四 【左丁】  同一箇(おなしくいつか)《割書:金銅(こんとう)を以(もつて)製(せい)す長(なかさ)五寸 口渡(くちわた)り|三寸一分 其文(そのふん)左(さ)の如(こと)し》   承   釣命  祈   日本幕下        一宮別当   建久四年 松連寺【ママ】      八月   修之         八幡宮(はちまんくう)本地佛(ほんちふつ)阿弥陀如来像(あみたによらいのさう)金銅(こんとう)一尺四寸あり土中(とちゆう)出現(しゆつけん)の物(もの)に  して佛躰(ふつたい)の脊(せ)に鐫所(ゑるところ)の銘文(めいふん)あり左(さ)の如(こと)し   敬白冶磨金銅影像法体弥陀座光三尺六寸  奉為皇帝 日本主君 当国府君 地頭名主  御願円満 安穏泰平 信心法主 子孫平安  悉地成就 師長父母 二親巨魂 助成合力  同共往生 乃至法界 平等利益 建長二年  大歳庚戌 孟夏之天 七日壬子 南閻浮提  日本武州 多西吉冨 真慈悲寺 施主源氏  願主佛子 慶祐敬白   《割書:按(あんす)るに当寺(たうし)の弥陀佛(みたふつ)脊面(はいめん)の銘文(めいふん)に真慈悲寺(しんしひし)の号(かう)を註(ちゆう)せり東鑑(あつまかゝみ)文治(ふんち)|二年二月三日の条下(てうか)に武蔵国(むさしのくに)真慈悲寺(しんしひし)は御祈祷(こきたう)の霊場(れいちやう)なり然(しか)りといへ》 【■は梵字】 【右丁】   《割書:ともいまた荘園(しやうゑん)寄附(きふ)なきにより仏(ほとけ)は供具(くく)の備(そなへ)なく僧(そう)は衣鉢(えはつ)の貯(たくはへ)を失(うしな)ふ|爰(ここ)に僧(そう)あり今日(こんにち)参上(さんしやう)して当寺(たうし)に一切経(いつさいきやう)を安置(あんち)し破壊(はゑ)を修理(しゆり)すへきの旨(むね)|申請(まふしこふ)の間(あひた)院主職(ゐんしゆしよく)に補(ほ)せらるゝとあり又(また)同書(とうしよ)建久(けんきう)三年五月八日の条下(てうか)にも|法皇(ほふわう)四十九日の御仏事(おんふつし)を南御堂(みなみみたう)に於(おい)て修(しゆ)せられ百僧供(ひやくそうく)あり僧衆(そうしゆ)は真慈(しんし)|悲寺(ひし)より三口とあり又(また)同書(とうしよ)治承(ちしやう)五年四月廿日の条下(てうか)に小山田三郎友成(をやまたさふらうともなり)多(た)|摩郡内(まこほりのうち)由冨(よしとみ)並(ならひに)一宮(いちのみや)蓮光寺(れんくわうし)等(とう)の地(ち)を自(みつから)の所領(しよれう)に註(ちゆう)し加(くは)ふる抔(なと)あるによれは|吉冨(よしとみ)は此辺(このへん)なりとおほしされとも真慈悲寺(しんしひし)いつの頃(ころ)廃(はい)せしや今(いま)は其(その)旧跡(きうせき)さへさ|たかならす》  《割書:八幡社記曰(はちまんしやきにいはく)建久(けんきう)四年 鎌倉(かまくら)右大将家(うたいしやうけ)法華経(ほけきやう)を書写(しよしや)し金壺(きんこ)に入(いれ)て当社(たうしや)に納(をさめ)|給ふ其(その)書写(しよしや)する所(ところ)の竹紙(ちくし)法華経(ほけきやう)の文字(もんし)多(おほ)くは朽敗(きうはい)して僅(わつか)に残(のこ)るのみ》  升井(ますゐ)《割書:本堂(ほんたう)の後山麓(うしろやまのふもと)にあり寺中(しちゆう)|常(つね)に是(これ)を掬(きく)す尤(もつとも)清泉(せいせん)也》  八国見(やくにみ)《割書:本堂(ほんたう)の後(うしろ)の山(やま)の上(うへ)にあり此所(このところ)に登(のほ)れは八箇国(はつかこく)の|山(やま)々みえわたる故(ゆゑ)に此号(このかう)ありといへり》 二王塚(にわうつか)《割書:松蓮寺(しようれんし)より東南(とうなん)五丁はかり隔(へた)てたる山間(やまあひ)の少(すこ)しく小高(こたか)き所(ところ)に松樹(しようしゆ)十|株(ちゆう)あまり繁茂(はんも)せし地(ち)をさしてしか称(しよう)す此下(このした)を新堂(しんたう)と字(あさな)するは古(いにしへ)堂宇(たうう)》  《割書:のありし地(ち)なる故(ゆゑ)に名(な)とす又(また)宝蔵(はうさう)と唱(とな)ふる地(ち)もありて今猶(いまなほ)礎石(いしすゑ)こゝかしこに|存(そん)せり古(いにしへ)大伽藍(おほからん)ありしなるへし今(いま)松蓮寺(しようれんし)に収(をさむ)る所(ところ)の経筒(きやうつゝ)およひ自然銅(しねんとう)一寸|八分の観音(くわんおん)の像(さう)ならひに石瓶(いしかめ)朽壊(きうゑ)の刀剣(とうけん)数(す)十 柄(へい)華皿(はなさら)等(とう)のたくひは此所(このところ)|を穿(うか)ちて得(え)たりといふ》 百草八幡宮(もくさはちまんくう) 松蓮寺(しようれんし)より西(にし)の方(かた)山(やま)の中腹(ちゆうふく)にあり則(すなはち)松蓮寺(しようれんし)奉祀(ほうし)の  宮(みや)たり八月十五日を以(もつ)て祭辰(さいしん)とす本社(ほんしや)向拝(かうはい)の額(かく)八幡宮(はちまんくう)の三  字(し)は梅小路大納言定福卿(うめのこうちたいなこんさたよしきやう)【注】の筆(ふて)なり寺僧曰(しそういはく)正殿(しやうてん)に安置(あんち)する所(ところ)の 【枠外】 三ノ百十五 【左丁】  神躰(しんたい)は八幡宮(はちまんくう)神宮(しんくう)王仁(わうにん)津戸明神(つとみやうしん)武内大臣(たけのうちたいしん)義家公(よしいへこう)等(とう)の木像(もくさう)  なりと云(いふ)相伝(あひつたふ)康平(かうへい)五年 源頼義(みなもとのよりよし)義家(よしいへ)両公(りやうこう)奥州(あうしう)の夷賊征伐(いそくせいはつ)の時(とき)  山城国(やましろのくに)男山正八幡宮(をとこやましやうはちまんくう)の社檀(しやたん)の土(つち)を穿(うか)ちて石瓶(いしかめ)に盛(もり)来(きたつ)て一宇(いちう)の  社(やしろ)を造営(さうえい)して此地(このち)に勧請(くわしやう)なし奉(たてまつ)り願書等(くわんしよとう)を収(をさ)めらる其後(そのゝち)凶(けう)  徒(と)悉(こと〳〵)く平(たひら)け凱哥(かいか)の時(とき)再(ふたゝひ)此地(このち)に至(いた)り給ひ金銅(こんとう)の観世音(くわんせおん)の像(さう)  をも安置(あんち)し永(なか)く祭祀(さいし)を不朽(ふきう)に伝(つた)へんとす《割書:此(この)観音(くわんおん)の事(こと)は松蓮寺(しようれんし)の|下(しも)に詳(つまひらか)なり又(また)此時(このとき)五百》  《割書:石(こく)の祭田(さいてん)を寄附(きふ)|の事(こと)ありしと云》且(かつ)両将軍(りやうしやうくん)の随兵等(すゐへうら)も各(おの〳〵)軍功(くんこう)を祈(いの)り帯(たい)する処(ところ)の  刀杖(とうちやう)を収(をさ)め神徳(しんとく)を謝(しや)す尓来(しかりしより)鎌倉(かまくら)頼朝卿(よりともきやう)当社(たうしや)の神(かみ)を崇敬(そうきやう)なし  給ひ建久(けんきう)四年 法華経(ほけきやう)を書写(しよしや)し給ひ金壺(きんこ)に入(いれ)て奉納(ほうなう)ありしかとも  星霜(せいさう)を経(へ)て件(くたん)の宝器(はうき)散失(さんしつ)せしを正徳年間(しやうとくねんかん)二王塚(にわうつか)の地(ち)を穿(うかち)て  再(ふたゝ)ひ是(これ)を得(え)たりといふ寺僧云(しそういふ)当社(たうしや)境内(けいたい)の樹木(しゆもく)枯(か)るゝ後(のち)は悉(こと〳〵)く  奥州(あうしう)の方(かた)へ向(むかひ)て倒(たを)るゝ事 昔(むかし)より今(いま)に至(いた)りてしかり是(これ)当社(たうしや)の  一奇叓(いつきし)たりと云(いふ) 【注 「定福」は「さたとみ」ヵ】 【右丁】 一宮大明神(いちのみやたいみやうしん)社 百草八幡宮(もくさはちまんくう)より十五六町 北(きた)の方(かた)多麻川(たまかは)の南岸(なんかん)一宮(いちのみや)  村(むら)にあり《割書:六所宮(ろくしよのみや)よりは西南(にしみなみ)|一里(いちり)あまりを隔(へた)つ》祠宦(しくわん)新田氏(につたうち)大田氏(おほたうち)両家(りやうけ)より奉祀(ほうし)す祭(さい)  神(しん)は天下春命(あまのしたはるのみこと)なり後(のち)瀬織津比咩(せおりつひめ)及(およ)ひ稲倉魂(うかのみたま)大神を合祭(かふさい)して  三神(さんしん)一社(いつしや)三扉(さんひ)とす《割書:祭神(さいしん)今(いま)は小野(をのゝ)|神社(しんしや)に同し》奮事本記(くしほんき)に饒速日命(にきはやひのみこと)《割書:地神(ちしん)二代(にたい)天忍(あまのおし)|穂耳尊(ほみゝのみこと)の子(こ)也》  此(この)葦原(あしはら)の中津国(なかつくに)に降臨(かうりん)し給ふ時(とき)輔佐(ほさ)として随駕(すゐか)し給へる  三十二 神(しん)の其(その)一神(いつしん)にして即(すなはち)三十二 国(こく)に分降(わけくたり)給ふ其時(そのとき)信濃国(しなのゝくに)へは  天表春命(あまのうははるのみこと)武蔵国(むさしのくに)へは天下春命(あまのしたはるのみこと)降臨(かうりん)なし給ひ国(くに)を開(ひら)き給ふ  と見えたり  《割書:社司(しやし)相伝(あひつたふ)神代(しんたい)の昔(むかし)当社(たうしや)下春命(したはるのみこと)此地(このち)に止(とゝま)り給ひし歟(か)或(あるひ)は又(また)国(くに)の祖(そ)の神(かみ)なれは|後(のち)に国(くに)つ神(かみ)たちこれを祀(まつ)り給ひし歟(か)今(いま)しるへきにあらす社伝(しやてん)に一宮(いちのみや)下春(したはるの)|命(みこと)小野宮村(をのゝみやむら)小野神社(をのゝしんしや)へ遷座(せんさ)ありて倉稲魂(うかのみたま)命を配祀(はいし)なし小野神社(をのゝしんしや)三神(さんしん)となせしは|其(その)時世(しせい)詳(つまひらか)ならす然(しかる)に 成務天皇(しやうむてんわう)の御宇(きよう)国造(こくそう)兄多毛比命(えたけひのみこと)武蔵国(むさしのくに)多麻(たま)の地(ち)に府(ふ)を|開(ひら)きたまひし後(のち)一宮(いちのみや)は開国(かいこく)の祖神(そそしん)小野宮(をのゝみや)は同郷(とうかう)の旧社(きうしや)なれは国造(こくそう)崇敬(そうきやう)ありて倉稲(うかの)|魂(みたま)命と共(とも)に合(あは)せて再(ふたゝ)ひ六所(ろくしよ)の宮(みや)の相殿(あひてん)に遷(うつ)しまゐらせこれを祀(まつ)るに国社(こくしや)の礼(れい)を|儲(まふ)けられしとなり又(また)毎歳(まいさい)五月五日 六所宮(ろくしよのみや)大祭(たいさい)の辰(しん)当社(たうしや)の祠官(しくわん)府中(ふちゆう)に至(いた)り一宮(いちのみや)小野(おの)|三所(さんしよ)の神輿(みこし)を供奉(くふ)しまゐらせ御旅所(おんたひしよ)において捧(さゝく)る所(ところ)神幣(みてくら)を持(ち)し神輿(みこし)帰社(きしや)の折(をり)も|又(また)供奉(くふ)して六所宮(ろくしよのみや)に至(いた)り神事(しんし)終(をは)るの後(のち)件(くたん)の神幣(みてくら)を守護(しゆこ)して直(たゝち)に一宮(いちのみや)に帰(かへ)り当(たう)|社(しや)の内殿(ないてん)に収(をさめ)粢盛(しせい)を供(く)し祭奠(さいてん)をなすを旧礼(きうれい)とするは元(もと)つ社(やしろ)なれはなりといへり》 【枠外】三ノ二百十六 【左丁】 一宮大明神(いちのみやたいみやうしん)社 【右丁】  《割書:按(あんする)に当社(たうしや)一宮(いちのみや)の事 旧史(きうし)に所見(しよけん)なしといへとも既(すて)に地名(ちめい)を一宮と号(かうし)祠(やしろ)をも一宮と|称(しよう)したるは開国(かいこく)の祖神(そしん)弟(たい)【第】一に鎮座(ちんさ)なし給ふか故(ゆゑ)にかく一宮とは称(しよう)したりしと|おほしく旧祠(きうし)なる事 疑(うたかふ)へくもあらさるへし依(よつて)考(かんか)ふるに東鑑(あつまかゝみ)治承(ちしやう)五年四月二十日 小(を)|山田三郎重成(やまたさふらうしけなり)平太弘貞(へいたひろさた)か所領(しよれう)を自(みつから)の所領(しよれう)に註(ちゆう)し加(くは)ふると云(いふ)条下(てうか)には多磨郡(たまこほり)の内(うち)|吉富(よしとみ)ならひに一宮(いちのみや)蓮光寺(れんくわうし)等(とう)の地名(ちめい)を載(の)せ百草村(もくさむら)松蓮寺(しようれんし)所蔵(しよさう)の建久(けんきう)四年の経(きやう)|筒(つゝ)には一宮(いちのみや)別当(へつたう)松蓮寺(しようれんし)と銘(めい)せりしかる時(とき)は建久(けんきう)のむかし松蓮寺(しようれんし)当社(たうしや)の別当(へつたう)たり|し歟(か)又(また)高幡村(たかはたむら)金剛寺(こんかうし)に存(そん)する所(ところ)の文永(ふんえい)十八年の鰐口(わにくち)の銘(めい)にも一宮田人 鍋師(なくし)源経有(みなもとのつねあり)|と有て一宮の地名(ちめい)往々(わう〳〵)見(み)あたれり》 一本榎(いつほんえのき) 一宮(いちのみや)より南(みなみ)の方(かた)半町(はんちやう)はかりを隔(へた)てゝ耕田(かうてん)の中(うち)にあり樹(き)の本(もと)に  注連(しめ)を繞(めく)らせり土人(としん)百草八幡宮(もくさはちまんくう)の一鳥居(いちのとりい)の旧跡(きうせき)なりと云《割書:此所(このところ)より百草(もくさ)の八幡宮(はちまんくう)へは其間(そのあひた)|》  《割書:凡(およそ)十町は|かりあり》 横溝八郎墳墓(よこみそはちらうのふんほ) 小山田旧関(をやまたのきうくわん)の地(ち)より一町あまり西南(せいなん)道(みち)より右(みき)の方(かた)畑(はたけ)の  中(うち)にあり塚上(ちやうしやう)松(まつ)槻(つき)等(とう)の老樹(らうしゆ)繁茂(はんも)せり太平記(たいへいき)に正慶(しやうけい)二年五月十六日  新田左中将義貞公(につたさちゆうしやうよしさたこう)武州(ふしう)分倍河原(ふんはいかはら)へ押寄(おしよす)るといふ条下(てうか)に四郎左近太夫(しらうさこんのたらふ)  入道(にふたう)《割書:相模入道(さかみにふとう)の舎弟(しやてい)|にして慧性(ゑしやう)と号(かう)す》大勢(おほせい)なりといへとも三浦(みうら)か一時(いちし)の謀(はかりこと)に破(やふ)られて落行(おちゆく)  勢(せい)は散々(さん〳〵)に鎌倉(かまくら)をさして引退(ひきしりそ)く討(うた)るゝ者(もの)は数(かす)を不知(しらす)大将(たいしやう)左近入道(さこんにふたう)も  関戸辺(せきとへん)にて已(すて)に討(うた)れぬへく見(み)えけるを横溝八郎(よこみそはちらう)踏止(ふみとゝま)りて近付(ちかつく)敵(てき)二十 【枠外】 三ノ二百十七 【左丁】  三 騎(き)時(とき)の間(ま)に射落(ゐおと)し主従(しゆう〳〵)三 騎(き)討死(うちしに)す安保入道道堪(あほにふたうたうかん)父子(ふし)三人  相随(あひしたか)ふ兵(へい)百余人(ひやくよにん)同枕(おなしまくら)に討死(うちしに)す其外(そのほか)譜代奉公(ふたいほうこう)の良従(らうしう)一言芳恩(いちこんはうおん)の  軍勢共(くんせいとも)三百 余人(よにん)引返(ひきかへ)し討死(うちしに)しける間(あひた)に大将(たいしやう)四郎左近入道(しらうさこんにふたう)は其身(そのみ)  恙(つゝか)なくして山内迠(やまのうちまて)引(ひか)れけるとあり《割書:阿保入道(あほにうたう)父子(ふし)の墓(はか)も此辺(このへん)近(ちか)きにあるへ|けれとも今(いま)しりかたし関戸(せきと)入口(いりくち)相澤氏(あひさはうち)の》  《割書:搆(かまへ)の中(うち)に古墳(こふん)あり上(うへ)に榧(かや)の古樹(こしゆ)茂(しけ)りてありされとも何人(なにひと)の墓(はか)の印(しるし)なる事|しるへからす相澤氏(あひさはうち)の説(せつ)に阿保入道(あほにふたう)の墳墓(ふんほ)ならん歟(か)といへとも今(いま)是非(せひ)としるへきにあらす》 小山田関旧址(をやまたのせききうし) 今(いま)関戸(せきと)と称(しよう)するところ則(すなはち)これなり《割書:或人云(あるひといふ)此地(このち)熊野社辺(くまのしやへん)|左右(さいう)高札場(かうさつは)の地(ち)其関(そのせき)の》  《割書:旧址(きうし)なりと云(いふ)按(あんする)に此地(このち)に天守台(てんしゆたい)と云(いふ)所(ところ)あり此頂(このいたゝき)より眺望(てうはう)すれは|眼下(かんか)に玉川(たまかは)の流(なかれ)を平臨(へいりん)し又(また)遥(はるか)に上下野州迠(しやうけやしうまて)一望(いちはう)に入(い)りぬ》多麻川(たまかは)の  南岸(なんかん)にそひて古(いにしへ)府中(ふちう)より帝都(ていと)及(およ)ひ鎌倉(かまくら)への街道(かいたう)なり東奥(とうあう)  北越(ほくゑつ)の二道共(にたうとも)に此地(このち)を往還(わうくわん)せさるはなし《割書:小山田(をやまた)は荘(しやう)の名(な)にして此(この)|地(ち)も昔(むかし)は同(おな)し庄内(しやうない)にて》  《割書:ありしなり今(いま)は邑名(いうみやう)にのみ残(のこ)りて此所(このところ)より二里はかり南(みなみ)の方(かた)に小山(をやま)|田村(たむら)と称(しよう)するこれあり》  夫木抄   逢事を苗代水に任せてそこさむこさしは小山田の関 《割書:或為世|よみ人|不知》  六百番哥合   あふ事は苗代水に引とめてとほしいてぬや小山田の関 顕昭  東鑑曰 治承五年  四月廿日  小山田三郎 【右丁】 小山田旧関(をやまたのきうくわん)   関戸惣図(せきとのさうつ) 【四角囲い文字】 秩父 天守台 【左丁】 六百番哥合  あふ事は   苗代水に  引とめて   とほし   いてぬや   小山田    の     関    顕昭 【四角囲い文字】 大くり川 【右丁】   重成聊背御意之聞成怖畏篭居是以武蔵国多摩   郡内吉富并一宮蓮光寺等註加所領之内去年東   国御家人安緒本領之時同賜御下文訖而為平太   弘貞領所之旨捧申状之間糺明之處無相違仍被   付弘貞也云云  同書曰 建暦三年  十月十八日  以宗監孝   尚為武蔵国新関実撿被遺図書允清定奉行云云   《割書:按(あんする)に東鑑(あつまかゝみ)に載(のす)る所(ところ)の武蔵国(むさしのくに)の新関(しんせき)其(その)地名(ちめい)を注(しる)さす恐(おそ)らくは此(この)小山田(をやまた)の|関(せき)も其(その)一ならん歟(か)小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の所領役帳(しよれうやくちやう)に小山田弥三郎(をやまたやさふらう)小山田庄(をやまたのしやう)にて|成瀬(なるせ)《振り仮名:高ヶ坂|たかかさか》森町田(もりまちた)真光寺(しんくわうし)鶴間(つるま)大谷(おほたに)広胯(ひろまた)小川(をかは)木曽(きそ)山崎(やまさき)《振り仮名:直ヶ谷|なほかや》黒川(くろかは)|金森(かなもり)金井(かなゐ)大倉(おほくら)等(とう)の地(ち)を領(れう)する由(よし)注(ちゆう)せり又(また)同書(とうしよ)に松田左馬助(まつたさまのすけ)およひ布施(ふせ)|善三(せんさ)なと小山田庄内(をやまたしやうない)小野地(をのゝち)ならひに粟飯原(あはいひはら)四ヶ村(むら)落合(おちあひ)なとありて小山(をやま)|田庄(たのしやう)の広豁(くわうくわつ)なる事をしるへし武蔵国(むさしのくに)の図(つ)を以(もつ)て考(かんか)ふるに此(この)関戸(せきと)は|小山田庄(をやまたのしやう)の咽喉(いんこう)の地(ち)なり故(ゆゑ)に小山田(をやまた)の関(せき)の称(しよう)ある歟(か)関戸(せきと)の里正 相澤氏(あひさはうち)某(それかし)の|家(いへ)に古文書(こもんしよ)を蔵(さう)す一は天文(てんもん)二十四年 関戸宿(せきとしゆく)商人(あきうと)の問屋免許(とひやめんきよ)盛秀(もりひて)判形(はんきやう)|の證状(しやうしやう)なり二は関戸郷(せきとのかう)中河原(なかかはら)の内(うち)正戒塚(しやうかいつか)に有山源右衛門(ありやまけんゑもん)新宿(しんしゆく)立込辺(たてこめへん)の|芝原(しははら)田地(てんち)となすへきの由(よし)申出(もふしいつ)るによりて七年 芝野(しはの)に定置(さためおか)るゝ由(よし)岡谷(おかのや)某(それかし)の證文(しやうもん)|又(また)三は関戸郷(せきとのかう)市(いち)の定日(ちやうしつ)ならひに濁酒(にこりさけ)塩(しほ)あい物役(ものやく)赦免(しやめん)等(とう)岩本(いはもと)某(それかし)の證文(しやうもん)又其四は|関銭(せきせん)五貫文 有山源右衛門(ありやまけんゑもん)へ申付(もふしつく)る旨(むね)の證文(しやうもん)なり》    其地関之儀如前之可置候少も私曲之筋目    自横合聞届候に付而其可為曲事者也仍如件 【枠外】 三ノ二百十九 【左丁】    《割書:子》九月廿三日         憲秀《割書: |花押》        有山源右衛門との  此地(このち)は昔(むかし)鎌倉時世(かまくらしせい)関(せき)を居(すゑ)られける旧跡(きうせき)にして建久(けんきう)の頃(ころ)ゟ鎌倉(かまくら)の  右大将家(うたいしやうけ)浅間(あさま)三原(みはら)及(およ)ひ入間野(いるまの)等(とう)へ御狩(みかり)其余(そのよ)陸奥(みちのく)上毛(かうつけ)信濃(しなの)越(ゑち)  後(こ)等(とう)へ軍(くん)を発(はつ)し給ふ時(とき)は必(かならす)しも関戸口(せきとくち)の大将(たいしやう)を定(さため)られし事 諸(しよ)  書(しよ)の載(のせ)たり太平記(たいへいき)に正慶(しやうけい)二年 合戦(かつせん)の条下(てうか)に義貞(よしさた)数箇度(すかと)の戦(たゝか)  ひに打勝(うちかち)給ひぬと聞(きこ)えしかは東八箇国(とうはつかこく)の武士(ふし)とも順付事(したかひつくこと)雲霞(うんか)の  如(こと)く関戸(せきと)に一日(いちにち)逗留(とうりう)ありて軍勢(くんせい)の著到(ちやくたう)を着(つけ)られけるに六十萬七  千 余騎(よき)とそ注(しるし)けるとあるも此所(このところ)の事(こと)なり 延命寺(えんめいし) 寿徳寺(しゆとくし)より三四町 南(みなみ)の方(かた)道(みち)より右側(みきかは)にあり地蔵院(ちさうゐん)と号(かうす)  時宗(ししう)にして相州(さうしう)藤沢(ふちさは)の清浄光寺(しやう〳〵くわうし)に属(そく)す本尊(ほんそん)地蔵尊(ちさうそん)は立像(りふさう)一尺  五寸はかりあり作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす開山(かいさん)を普国上人(ふこくしやうにん)と号(かう)す門(もん)の入口(いりくち) 【右丁】 関戸(せきと)  天守台(てんしゆたい) 【四角囲い文字】 府中 たま川 関戸 【枠外】 三ノ二百二十 【左丁】 【四角囲い文字】 こんひら 神楽殿 仁王つか 【右丁】  右(みき)の方(かた)畑(はたけ)の傍(かたはら)に榛木(はしはみのき)の老樹(らうしゆ)を以(もつて)印(しるし)とする古塚(ふるつか)あり正慶(しやうけい)二年  武蔵野合戦(むさしのかつせん)に討死(うちしに)せし四百 余人(よにん)の墓(はか)なりといへり 城山(しろやま) 延命寺(えんめいし)の後(うしろ)の山続(やまつゝき)をいふ土中(とちゆう)稀(まれ)に古瓦(こくわ)を得(う)る事ありされとも  其(その)城主(しやうしゆ)及(およ)ひ時世等(しせいとう)詳(つまひらか)ならす土人云(としんいふ)昔(むかし)小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の幕下(はくか)関戸(せきと)  駿河守(するかのかみ)といへる人(ひと)こゝにありとも又(また)は永禄(えいろく)の頃(ころ)佐伯市助道永(さへきいちすけみちなか)といへる  武士(ふし)小田原(をたはら)の北条家(ほうてうけ)に仕(つか)へ此地(このち)に住(ちゆう)するともいへり《割書:故(ゆゑ)に此所(このところ)を佐伯谷(さへきたに)|とも号(なつ)けたり》  明徳(めいとく)元年庚午 念阿護法入道(ねんあこほふにふたう)此地(このち)に一寺(いちし)を創建(さうこん)ありて吉祥山(きちしやうさん)  寿徳寺(しゆとくし)と云(いふ)禅院(せんゐん)を再興(さいかう)す 《割書:此寺(このてら)は関戸入口(せきといりくち)道(みち)|より右側(みきかは)にあり》道永(みちなか)自(みつか)ら中興(ちゆうかう)開基(かいき)と  なり日舜宗恵大和尚(につしゆんそうゑたいおしやう)を請(しやう)して中興(ちゆうかう)開山(かいさん)とす《割書:市助(いちすけ)法名(ほふみやう)を道永(たうえい)|庵(あん)と称(しよう)す永禄(えいろく)十二》  《割書:年己巳二月三日 陸奥(みちのく)に戦死(せんし)す道永(たうえい)の子孫(しそん)三河守道也(みかはのかみみちなり)和泉守道安(いつみのかみみちやす)同 隼人(はやと)|筑後(ちくこ)抔(なと)いへる人等(ひとら)皆(みな)此地(このち)に住(ちゆう)し終(つひ)に民間(みんかん)に下(くた)りしとなり》 天守台(てんしゆたい) 同(おな)し山続(やまつゝき)西(にし)の方(かた)にあり城山(しろやま)の半腹(はんふく)より曲折(きよくせつ)して山頂(さんちやう)に至(いた)る  まて老松(らうしよう)繁茂(はんも)す此所(このところ)より四望(しはう)するに尤(もつとも)絶景(せつけい)なり《割書:近頃(ちかころ)山頂(さんちやう)|に金毘羅(こんひら)》  《割書:権現(こんけん)の宮(みや)を|営建(えいけん)せり》 【枠外】 三ノ二百二十 【左丁】 沓切坂(くつきりさか) 下関戸(しもせきと)の宿(しゆく)の南(みなみ)の坂(さか)を云(いふ)坂(さか)の上(うへ)を古市場(ふるいちは)と唱(とな)ふ昔(むかし)商戸(しやうと)  駅舎(えきしや)等(とう)ありし地(ち)なり天正已来(てんしやうこのかた)此地(このち)の古道(こたう)廃(はい)して今(いま)は名(な)のみとな  れりされとも府中(ふちゆう)より横切(よこきり)て相州(さうしう)矢倉沢(やくらさは)大磯(おほいそ)等(とう)への官用(くわんよう)の次(つき)  場(は)なり《割書:今(いま)も相州(さうしう)大山石尊(おほやませきそん)富士詣(ふしまふて)抔(なと)|常州(しやうしう)野州(やしう)辺(へん)より此道(このみち)にかゝれり》相伝(あひつたふ)正平(しやうへい)七年壬二月八日 武蔵野(むさしの)  合戦(かつせん)の時(とき)新田義貞公(につたよしさたこう)脇屋義治公(わきやよしはるこう)纔(わつか)に二百 余騎(よき)に討(うち)なされ御方(みかた)の  勢(せい)も散々(さん〳〵)に行方(ゆきかた)しらすなりしかは迚(とて)も討死(うちしに)すへき命(いのち)なれは鎌倉(かまくら)へ  打入(うちいり)て足利左馬頭基氏(あしかゝさまのかみもとうち)に逢(あふ)て命(めい)を失(うしな)はやと夜半(やはん)過(すく)る頃(ころ)関戸(せきと)を  過(すき)給ひけるに石堂入道(いしたうにふたう)三浦介(みうらのすけ)等(とう)の五六千 騎(き)の勢(せい)に出逢(いてあひ)給ひ神(か)  奈川(なかは)を経(へ)て鎌倉(かまくら)へ打入(うちいり)勝利(しようり)を得(え)給ふ頃(ころ)此坂(このさか)より馬(うま)の沓(くつ)をとり  はたせにて打(うち)給ふと依(よつ)て名(な)とすといふ 赤坂台(あかさかたい) 関戸(せきと)より十六七町 東(ひかし)の方(かた)蓮光寺村(れんくわうしむら)を横(よこ)きりて赤坂(あかさか)と号(なつ)  く坂(さか)を登(のほ)れは赤坂台(あかさかたい)なり一里 半斗(はんはかり)を経(へ)て河原谷(かはらたに)と云(いふ)地(ち)あり 平台(ひらたい) 赤坂台(あかさかたい)の東(ひかし)の続(つゝき)をいふ此所(このところ)に三圍(みかゝへ)にあまれる老松(らうしよう)一株(いつちゆう)あり 【右丁】  土人(としん)甚兵衛松(しんひやうゑまつ)と字(あさな)す此地(このち)は《振り仮名:矢の口|や   くち》に属(そく)す 騰雲山(とううんさん)明覚寺(みやうかくし) 《振り仮名:矢の口村街道|や   くちむらかいたう》より南(みなみ)の横(よこ)にあり《振り仮名:渡し場|わた  は 》の南(みなみ)拾五町  あまりあり臨済派(りんさいは)の禅林(せんりん)にして鎌倉(かまくら)建長寺(けんちやうし)に属(そく)す本尊(ほんそん)釈迦如来(しやかによらい)は  唐佛(たうふつ)にして座像(ささう)八寸はかりあり当寺(たうし)は往古(いにしへ)足利義晴公(あしかゝよしはるこう)建立(こんりふ)なし給ふ  佛刹(ふつせつ)にして其後(そのゝち)廃寺(はいし)となりしを慶長年間(けいちやうねんかん)加藤太郎左衛門(かとうたらうさゑもん)再興(さいかう)  して菩提寺(ほたいし)となすと云(いふ)中興開基(ちゆうかうかいき)は揚雲和尚(やううんおしやう)《割書:永禄(えいろく)四年に|中興(ちゆうかう)す》と号(かうす)当寺(たうし)に  長坂血鎗九郎(なかさかちやりくらう)陣中守護(ちんちゆうしゆこ)の為(ため)鎧(よろひ)の中(うち)に篭奉(こめたてまつ)りしといふ伽羅(きやら)の正(しやう)  観音(くわんおん)を安置(あんち)せり立像(りふさう)三寸はかり弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)といふ今(いま)は一尺/斗(はかり)の  正観音(しやうくわんおん)を彫造(てうさう)して其(その)躰中(たいちゆう)に秘安(ひあん)せり 小沢小太郎居宅旧地(こさはこたらうきよたくのきうち) 当寺(たうし)境内(けいたい)の辺(へん)を云(いふ)今猶(いまなほ)馬場(はゝ)の旧跡(きうせき)なりと  称(しよう)する地(ち)あり又(また)当寺(たうし)の前(まえ)に小高(こたか)き岡(をか)ありて蔵地下(くらちけ)と号(なつ)く其頃(そのころ)  兵粮(ひやうらう)を収(をさめ)たる倉(くら)の跡(あと)なりと云《割書:次(つき)の小沢(こさは)の城址(しろあと)の条下(てうか)にも小沢(こさは)某(それかし)の名(な)有て|是(これ)を云伝(いひつた)ふこゝに小太郎といへるも其(その)氏族(しそく)の人(ひと)なるへし》 艸原山(さうけんさん)威光寺(ゐくわうし) 同所(とうしよ)明覚寺(みやうかくし)より道(みち)を隔(へた)てゝ一丁/斗(はかり)向(むか)ふ側(かは)二丁斗/左(ひたり)へ 【枠外】 三ノ二百二十二 【左丁】  入(いり)てあり新義真言宗(しんきしんこんしう)にして坂浜(さかはま)高勝寺(かうしようし)に属(そく)す本尊(ほんそん)は大日如来(たいにちによらい)  座像(ささう)三尺はかりあり当寺(たうし)は穴澤天神(あなさはてんしん)の別当(へつたう)なり《割書:天明年間(てんめいねんかん)火災(くわさい)に|罹(かゝ)りて殿堂(てんたう)僧房(そうはう)》  《割書:悉(こと〳〵)く焼亡(しやうほう)して|旧記(きうき)を亡(ほろほ)せり》  東鑑曰 治承四年庚子十一月十五日   武蔵国威光寺者依為源家数代御祈祷所院主僧   僧同相承之僧坊寺領如元被奉免之《割書:云云》  同書曰 元歴二年  四月十三日   武蔵国威光寺院主長栄懇祈日夜不怠然平家滅   亡畢有御感沙汰之處為小山太郎有高被押領寺   領之由捧去年九月所給御下文所訴申也《割書:下略》  同書曰 文治元年  九月五日   小山太郎有高押妨威光寺領之由寺僧捧解状仍   令停止其妨任例可経寺用若有由緒者令参上政   所可言上子細之旨被仰下惟宗孝尚橘判官代以   広藤判官代邦道等奉行之《割書:下略》  同書曰 承元二年戊辰七月十五日   武蔵国威光寺院主僧円海参訴曰柏江入道増西   去月廿六日率五十余人悪党乱入寺領及苅田狼   藉《割書:下略》   《割書:按(あんする)に江戸(えと)雑司谷(さうしうかや)鬼子母神(きしもしん)の別当(へつたう)威光山(ゐくわうさん)法明寺(ほふみやうし)を以(もつ)て東鑑(あつまかゝみ)に載(のす)る所(ところ)の威(ゐ)|光寺(くわうし)なる由(よし)其寺(そのてら)に云伝(いひつた)ふるといへとも恐(おそ)らくは誤(あやまり)なるへし東鑑(あつまかゝみ)にも狛江(こまえ)|入道増西(にふたうそうさい)五十 余人(よにん)の悪党(あくたう)を率(ひき)ゐて当寺(たうし)の寺飯(しはん)の田(た)を苅(かり)狼藉(らうせき)に及(およ)ふなと|あり狛江 入道(にふたう)は多麻郡(たまこほり)狛江郷(こまえのかう)の主(ぬし)なり今(いま)同郡(とうくん)佐須村(さすむら)に其(その)旧館(きうくわん)の地(ち)と》 【右丁】 国安宮(くにやすのみや) 威光寺(ゐくわうし) 【四角囲い文字】 かね 明覚寺 【枠外】 三ノ二百二十三 【左丁】 【四角囲い文字】 威光寺 社人 仮殿 国安社 【右丁】   《割書:称(しよう)するものありて此地(このち)より程遠(ほととほ)からす東 鑑(かゝみ)刊本(かんほん)に柏江(かしはえ)に作(つく)るは誤(あやまり)なり|江戸(えと)の雑司谷(さうしかや)は其間(そのあひた)七里 隔(へた)つへしされとも当寺(たうし)は天明年間(てんめいねんかん)の火災(くわさい)に旧記(きうき)亡(うしな)ひ|たりとてさらに古(いにしへ)を考(かんか)へ合(あは)すへきたよりなし猶(なほ)多日(たしつ)訂正(ていせい)すへきのみ》 国安明神(くにやすみやうしん)祠 威光寺(ゐくわうし)の南(みなみ)五十 歩斗(ほはかり)を隔(へた)てゝ同(おな)し側(かたはら)左(ひたり)の小道(こみち)を三十歩  斗入てあり神主(かんぬし)山本氏(やまもとうち)奉祀(ほうし)す神躰(しんたい)は左(さ)の如(こと)きものにして世(よ)に云(いふ)所(ところ)の  鋳形(ゐかた)の神像(しんさう)なり相伝(あひつた)ふ往古(いにしへ)小沢左衛門尉国高(こさはさゑもんのしやうくにたか)といへる人(ひと)此地(このち)を  領(れう)す国高(くにたか)此地(このち)に逍遥(しやうえう)ありし頃(ころ)松樹(しようしゆ)の下(もと)に白髪(はくはつ)の老翁(らうさう)現(けん)し尓(しめ)【示ヵ】   して曰(いは)く我(われ)は大国主神(おほくにぬしのかみ)なり此地(このち)に崇祀(あかめまつ)らは万民(はんみん)国安(くにやす)かるへしと云々  国高(くにたか)奇異(きい)の思(おも)ひをなし宮居(みやゐ)を営(いとな)んてたゝちに国安明神(くにやすみやうしん)と崇(あか)め  祭(まつ)り社領(しやれう)の地(ち)八百五十 坪(つほ)を寄附(きふ)ありて武運(ふうん)長久(ちやうきう)ならん事を祈(き)  念(ねん)すといふ   《割書:按(あんする)に小澤左衛門尉国高(こさはさゑもんのしやうくにたか)は東鑑(あつまかゝみ)に挙(あく)る所(ところ)の小澤次郎重政(こさはしらうしけまさ)同 左近将監(さこんしやうけん)|信重(のふしけ)なとの氏族(しそく)の人(ひと)ならん其(その)時世(しせい)今(いま)しるへからす》  国安神像(くにやすのしんのさう)   《割書:銅物(とうふつ)わたり六寸四分はかり上(うへ)に天蓋(てんかい)なと付(つけ)たりしと覚(おほ)しき跡(あと)あり下の方にも》 【枠外】 三ノ二百二十四 【左丁】   《割書:花瓶(くわひん)の如(こと)きものありて|上の方に口あり神躰(しんたい)は|僧形(そうきやう)にして宝珠(はうしゆ)と| 劔(けん)とを持(ち)し給ふ|  形(かたち)なり》 【図中】    本願主      山本権律師■信    応安六年辰八月十一日 穴沢天神社(あなさはてんしんのやしろ) 谷口邑(やのくちむら)威光寺(ゐくわうし)より東北(とうほく)の方(かた)三町斗を隔(へた)てゝ同(おな)し往還(わうくわん)  右(みき)の方(かた)小道(こみち)を入てあり社(やしろ)は山(やま)の中腹(ちゆうふく)にあり此辺(このへん)を《振り仮名:小沢ゕ原|こさは  はら》と唱(となふ)今(いま)  祭神(さいしん)詳(つまひらか)ならす後世(かうせい)菅神(くわんしん)を合祭(かふさい)せり祭礼(さいれい)は七月廿五日なり又同日  神楽(かくら)を修行(しゆきやう)し九月廿五日に獅子舞(しゝまひ)を興行(こうきやう)す別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして  居光寺(ゐくわうし)と号(かう)す  延喜式神名帳曰  武蔵国 多磨郡   穴沢天神社云 【■は「礻+厶」 「弘」の誤ヵ。穴沢天神社の里神楽は、応安年間に初代山本権律師弘信が創始したとの記事あり。】 【右丁】 谷之口(やのくち)  穴沢天神社(あなさはてんしんのやしろ)   此辺(このへん)傍(かたはら)を《振り仮名:小沢ゕ原|をさは  はら》と号(なつ)く   当社(たうしや)の後(うしろ)の山頂(さんちやう)は小沢次郎   重政(しけまさ)か住(すみ)たりし城趾(しろあと)にして   文明(ふんめい)の頃(ころ)も金子掃部助(かねこかもんのすけ)   此城(このしろ)に楯籠(たてこも)りたるを   吉里宮内(よしさとくない)左衛門尉   以下 横山(よこやま)より   打(うつ)て出(いて)此城   を責落(せめおと)   す由   鎌倉(かまくら)   大草(おほさう)   紙に   みえ    たり 【四角囲い文字】 巌崫【窟】 水車 【枠外】 三ノ二百二十五 【左丁】 【四角囲い文字】 穴沢天神 【右丁】  武蔵国風土記残編曰 武蔵国 多磨郡   穴沢天神 圭田三十六束三毛田 考安天皇   四年壬辰三月所祭少名彦神也云々  当社(たうしや)の麓(ふもと)を澗水(かんすゐ)流(なか)れて多麻川(たまかは)に合(かつ)す其流(そのなかれ)を隔(へた)てゝ山岨(さんそ)に一の  巌崫(かんくつ)【注】あり故(ゆゑ)に穴沢(あなさは)の名(な)あり昔(むかし)の巌洞(かんとう)は崩(くつ)れたりとて今(いま)新(あらた)に掘(ほり)  穿(うか)てる洞穴(ほらあな)あり洞口(ほらくち)は一にして内は二つに分(わけ)てあり《割書:内(うち)に種々(しゆ〳〵)の神仏(しんふつ)の|石像(せきさう)を造立(さふりふ)す》 小沢城址(こさはのしろあと) 谷口天神(やのくちてんしん)の山続(やまつゝき)浅間山(せんけんやま)の西(にし)に並(なら)へり東鑑(あつまかゝみ)に元久(けんきう)《振り仮名:二|■》年《割書:乙| 丑》六月  廿三日/稲毛入道(いなけにふたう)大河戸三郎(おほかはとさふらう)か為(ため)に誅(ちゆう)せらる子息(しそく)小沢次郎重政(こさはしらうしけまさ)は宇佐美与一(うさみよいち)  是(これ)を誅(ちゆう)すと又(また)同書(とうしよ)に同年十一月三日/小沢左近将監信重(こさはさこんのしやうけんのふしけ)綾小路三位師季(あやのこうちさんゐもろすへ)の  息女(そくちよ)を相伴(あひともなふ)ふて京都(きやうと)より参着(さんちやく)す行光(ゆきみつ)を以(もつて)事(こと)の由(よし)を尼御台(あまみたい)に啓(まう)す《割書:下略》又  同月四日/夜(よ)に入(いり)綾小路(あやのこうち)の姫君(ひめきみ)尼御台所(あまみたいところ)の御/亭(てい)に参(まゐ)らる御猶子(こいうし)たるへきの儀(き)なり  武蔵国(むさしのくに)小沢郷(こさはのかう)《割書:稲毛入道(いなけにふたう)|遺領(ゆゐれう)なり》知行(ちきやう)せらるへきの由(よし)仰(おほせ)らるゝとあり鎌倉大草(かまくらおほさう)  紙(し)に文明(ふんめい)九年/長尾四郎左衛門尉景春(なかをしらうさゑもんのしやうかけはる)山内上杉(やまのうちうへすき)の家務職(かむしよく)を承(うけたまは)ら  さるを憤(いきとほ)り逆心(きやくしん)を企(くはたて)顕定(あきさた)を亡(ほろほ)さんとて武州(ふしう)相州(さうしう)の内(うち)一味(いちみ)同心(とうしん)の 【枠外】 三ノ二百二十六 【左丁】  兵(へい)を催(もよほ)し上杉家(うへすきけ)を襲(おそ)ふといへる条下(てうか)に金子掃部助(かねこかもんのすけ)は小沢(こさは)と云(いふ)  城(しろ)に楯籠(たてこも)る間(あひた)太田左衛門入道(おほたさゑもんにふたう)下知(けち)として扇谷(あふきかやつ)より勢(せい)を遣(つかは)し同  三月十八日/溝呂木(みそろき)の城(しろ)を攻落(せめおと)す同日に磯(いそ)の要害(えうかい)を責(せめ)らる一日/防(ふせき)  戦(たゝか)ひ夜(よ)に入(いり)けれは越後五郎四郎(ゑちここらうしらう)かなはすして城(しろ)を渡(わた)し降参(かうさん)す夫(それ)より  小沢城(こさはのしろ)へ押寄(おしよせ)攻(せめ)けれとも城(しろ)難所(なんしよ)にて落(おち)かたし《割書:中|略》景春(かけはる)一味(いちみ)の宝相(はうさう)  寺(し)ならひに吉里宮内左衛門尉(よしさとくないさゑもんのしやう)以下(いけ)小沢(こさは)の城(しろ)の後詰(こつめ)として横山(よこやま)より  打出(うちいて)当国(たうこく)府中(ふちゆう)に陣(ちん)を取(とる)《割書:中|略》同年四月十八日/金子掃部助(かねこかもんのすけ)か籠(こも)りける  小沢(こさは)の城(しろ)も責落(せめおと)すとあり 《振り仮名:向の岡|むかひ をか》 今(いま)向岡(むかひのをか)と称(しよう)する地(ち)は多麻川(たまかは)を北(きた)に帯(おひ)て西(にし)は関戸(せきと)より発(おこつ)て  東(ひかし)は末長(すゑなか)に終(をは)るもの是(これ)なり連岡(れんかう)の長(なかさ)凡(およそ)六里あまりあり   《割書:或(あるひ)は云(いふ)今(いま)《振り仮名:向の岡|むかひ をか》と称(しよう)する連岡(れんかう)《振り仮名:向の岡|むかひ をか》にはあらさる歟(か)武蔵国風土記(むさしのくにふうとき)残篇(さんへん)により|て考(かんか)ふれは多磨郡(たまこほり)北(きた)は《振り仮名:向の岡|むかひ をか》に限(かき)るとあるを以(もつ)ても此地(このち)にあらさる事|しるへしと然(しかる)に同郡(とうくん)狭山(さやま)は南北東西五里/尾引山(をひきやま)より八国山(はちこくやま)にいたり東|西二十里の連岡(れんかう)なり四方(しはう)共(とも)に武蔵野(むさしの)にして何(いつ)れの方(かた)よりも岡(をか)に相対(あひたい)する|故(ゆゑ)に《振り仮名:向の岡|むかひ をか》の名(な)ありといへり依(よつ)て今(いま)《振り仮名:向の岡|むかひ をか》と称(しよう)する地(ち)は《振り仮名:都筑ゕ岳|つつき  をか》として佳(か)|ならんとしかるや否(いなや)はしらされとも暫(しはら)く是(これ)をこゝに挙(あく)るのみ》 【注 「崫」は「窟」の誤記】 【右丁】  武蔵国風土記残編曰   多磨郡東限草窪岡西限金川南限華田浦北限向   岡《割書:云云》  新勅撰    武蔵野の向の岡の草なれはねを尋てもあはれとそおもふ  小町  続古今    朝な〳〵よそにやはみる十寸鏡向の岡につもるしらゆき  知家  玉葉    秋霧の絶間をみれは朝つく日むかひの岡は色つきにけり  後一条                                 入道  同     ゆふつく日向の岡の薄もみちまたき淋しき秋の色かな   定家  夫木    もと茂き向の岡の菊のえに交りて青き花の下草      為家  御家集    いつのまに向の岡の小松原月もるまてになりにけるかな  後鳥羽院  哥林名所考    夕日さす向の岡の時鳥雲のはたてにをりはへてなく    隆源 《振り仮名:都筑の岳|つつき  をか》《割書:綴喜(つゝき)或(あるひは)綴(つゝ)|幾(き)に作(つく)る》小仏(こほとけ)の嶺(みね)より小山田里迠(をやまたのさとまて)は多磨郡(たまこほり)に属(そく)せり平山(ひらやま)或(あるひ)は  横山(よこやま)なといひ既(すて)に古哥(こか)にも《振り仮名:玉の横山|たま  よこやま》と詠(えい)せる皆(みな)此間(このあひた)にあり又(また)官林(くわんりん)の  案内山(あんないやま)と云(いふ)より神奈川迠(かなかはまて)の間(あひた)は都筑郡(つつきこほり)に属(そく)せり南北(なんほく)に高低(かうてい)なく  坂東路(はんとうち)凡(およそ)百里あまりあり続(つゝ)く故(ゆゑ)につゝきの岳(をか)の名(な)ありといへり 【枠外】 三ノ二百二十七 【左丁】 青沼明神(あをぬまみやうしん) 同所(とうしよ)長沼村(なかぬまむら)八王子通道(はちわうしとほりみち)の傍(かたはら)にあり祭神(さいしん)大田命(おほたのみこと)猿田彦(さるたひこ)  大神(たいしん)二神(にしん)なり勧請(くわんしやう)の初(はしめ)をしらすといふ社司(しやし)福島氏(ふくしまうち)奉祀(ほうし)す祭礼(さいれい)は  八月十五日なり《割書:太平記(たいへいき)に正平(しやうへい)七年閏二月/小手差原合戦(こてさしはらかつせん)の条下(てうか)に将軍(しやうくん)の御陣(こちん)へ|馳参(はせまゐ)る人々の中(なか)に長沼判官(なかぬまはんくわん)といふ名(な)みえたり此地(このち)より出(いて)たる人(ひと)歟(か)》   《割書:按(あんする)に当社(たうしや)は延喜式内(えんきしきない)青渭神社(あをゐしんしや)ならん歟(か)土人(としん)相伝(あひつた)ふ往古(いにしへ)此地(このち)は大(おほひ)なる沼(ぬま)のありし地(ち)|なる故(ゆゑ)に長沼(なかぬま)の号(かう)ありと云されはにや今(いま)も此辺(このへん)地(ち)を掘穿(ほりうか)つときは土中(とちゆう)悉(こと〳〵)く沼(ぬま)土(つち)|なりと和名類聚抄(わみやうるいしゆしやう)に武蔵国(むさしのくに)比企郡(ひきこほり)に渭後(ぬまのしり)といへる地名(ちめい)を載(のせ)て沼乃之利(ぬまのしり)と訓(くん)す|然(しか)る時(とき)は当社(たうしや)を以(もつて)延喜式内(えんきしきない)の青渭神社(あをゐのしんしや)とするも拠(よりところ)あるに似(に)たり猶(なほ)後人(かうしん)の考(かんかへ)を俟(まつ)のみ》 仙谷山(せんこくさん)寿福禅寺(しゆふくせんし) 《振り仮名:谷の口|や  くち》の東(ひかし)の山続(やまつゝき)《振り仮名:矢の口渡場|や  くちわたしは》より十三町 東南(とうなん)の方(かた)  菅村(すけむら)にあり《割書:此地(このち)は多磨郡(たまこほり)後(のち)橘樹郡(たちはなこほり)に|属(そく)せり此辺(このへん)を小沢郷(こさはのかう)ともいへり》推古天皇(すゐこてんわう)六年戊午 聖徳太子(しやうとくたいし)草(さう)  創(さう)なし給ふ佛刹(ふつせつ)なりといふ昔(むかし)は天台宗(てんたいしう)たり建長寺(けんちやうし)の大安禅師(たいあんせんし)の時(とき)  より禅林(せんりん)とす今(いま)は曹洞派(さうとうは)となりて越前(ゑちせん)の永平寺(えいへいし)に属(そく)す  本堂本尊十一面観世音(ほんたうほんそんしふいちめんくわんせおん)《割書:相伝(あひつた)ふ鳥仏師(とりふつし)の雕刻(てうこく)或云(あるひはいふ)和州(わしう)長谷寺(はせてら)の像(さう)と同木(とうほく)|同雕(とうてう)なりといふ大会堂(たいゑたう)と号(なつ)く当寺(たうし)十 境(けう)の一なり》  鐘(かね)《割書:右(みき)にあり井田六郎右衛門尉(ゐたろくらうゑもんのしやう)某(それかし)応永(おうえい)七年庚辰 当寺(たうし)住持(ちゆうち)の沙門(しやもん)比丘(ひく)宗円(そうゑん)の頃(ころ)半(はん)|鐘(しやう)を寄進(きしん)す破裂(はれつ)によりて寛文(くわんふん)二年 鋳改(ゐあらたむ)るよし当寺(たうし)住持(ちゆうち)比丘(ひく)融峯(いうほう)の文(ふん)にみえたり》  阿弥陀堂(あみたたう)《割書:同(おな)し左(ひたり)にあり善応殿(せんおうてん)と号(かう)す本尊(ほんそん)は座像(さそう)四尺五|六寸 作者(さくしや)不知(しれす)左右(さいう)に地蔵(ちさう)多門等(たもんとう)の像(さう)を安(あん)す》鎮守宮(ちんしゆのみや)《割書:門(もん)の左(ひたり)にあり|八幡(はちまん)稲荷(いなり)》  《割書:大黒(たいこく)弁天(へんてん)の四 座(さ)をまつる擁護廟(おうこひやう)|と号(かう)す当寺(たうし)十 境(けう)の一なり》指月橋(しけつきやう)《割書:当寺(たうし)門外(もんくわい)の流(なか)れに架(か)する板橋(いたはし)を|号(なつ)く是(これ)も十 境(けう)の一なり》 【右丁】 【絵】 【四角囲い文字】 方丈 弁天 書院 くり 本堂 かね 土蔵 【枠外】 三ノ二百二十八 【左丁】 寿福寺(しゆふくし) 【四角囲い文字】 阿弥陀 表門 裏門 庵 指月橋 八幡 【右丁】  餐霞谷(そんかこく)《割書:同所の庫裡(くり)の後(うしろ)の谷(たに)を云(いふ)道教(たうきやう)の旧跡(きうせき)なり故(ゆゑ)に今(いま)|此地(このち)を字(あさな)して仙谷(せんこく)と号(なつ)く是(これ)も当寺(たうし)十/境(けう)の一なり》採薬阜(さいやくふ)《割書:秦徐福(しんのちよふく)|日本(にほん)に》  《割書:来(きた)り仙薬(せんやく)を|採(とる)と云々》攫霧松(かくむしよう)《割書:同所/関(せき)の左(ひたり)にありしか今(いま)は枯(かれ)たり土俗(とそく)道祖神松(たうそしんのまつ)と云(いふ)一根(いつこん)五|枝(し)にして霧(きり)を攫(つかむ)か如(こと)き故(ゆゑ)に名(な)とす当寺(たうし)十/境(けう)の一なり》  方丈(はうちやう)《割書:晩成室(はんせいしつ)といふ|十/境(けう)の一なり》  大般若経(たいはんにやきやう)六百/巻(くわん)《割書:梵函(ほんかん)に収蔵(しゆさう)す紙(かみ)は黄色(きいろ)にして薄(うす)し上古(しやうこ)名緇(めいし)高素(かうそ)の毫痕(かうこん)|なり其中(そのうち)源義経(みなもとのよしつね)と弁慶(へんけい)か筆跡(ひつせき)なりと称(しよう)するもの四巻(しくわん)ありて》  《割書:其名(そのな)を註(ちゆう)せり相伝(あひつた)ふ文治年間(ふんちねんかん)源義経(みなもとのよしつね)と弁慶(へんけい)暫(しはらく)此地(このち)に憩(いこ)ひ曽祖(そうそ)の例跡(れいせき)を追(お)ひ当(たう)|寺(し)観音(くわんおん)の尊前(そんせん)に恢復(くわいふく)の応験(おうけん)を祈(いの)り特(こと)に大会堂(たいゑたう)に入て文治年間(ふんちねんかん)経巻(きやうくわん)の闕(かけ)たるを|繕冩(せんしや)す永徳(えいとく)壬戌/鎌倉(かまくら)左兵衛督氏満(さひやうゑのかみうちみつ)師(し)の徳(とく)を慕(した)ひ参謁(さんえつ)の次(つひて)再(ふたゝ)ひ此経(このきやう)の蠹損(こそん)を修(しゆ)|補(ほ)する由(よし)縁起(えんき)にみえたり》   夫仙谷山寿福寺者推古天皇六代戊午年聖徳皇   太子就于高橋妃之亡妣入阿弥尼公終焉之地剏   建七区練若以資薦冥福之奮趾也盖山曰仙谷者   有仙人道鏡者栖遅于此山錬行修身積有年矣故   亦曰道鏡谷也今古怪異之事甚多矣是仙人所為   也寺曰寿福者曾芟搸【榛ヵ】夷地之時得虚空蔵薩埵之   像因摽【標ヵ】福一満之聖號以祱【祝ヵ】寺之遠大而安今號焉   後建長曜侍者謄虚空蔵経一軸而乞石室玖禅師   之手墨鋟梓寄焉寺像十一面観自在薩埵者権化   之人晡時来手彫刻焉自尓以来霛感滋衆矣或曰   和州長谷寺之像同木同雕也康平年中八幡太郎   義家欲排付奥州逆徒出陣之時中路而宿于茲竭   帎【忱ヵ】祈開運於斯像後果獲遇感矣在昔小沢小太郎 【枠外】 三ノ二百二十九 【左丁】   重政毎晨旋歩像前勉於晨香夕燈修現当之善因   矣梵函大般若経者名𦃓【緇ヵ】高素之毫痕也文治年中   源義経泊弁慶暫憩行於此地追曾祖之例跡祈恢   復之応験特復繕写経之闕而今尚現存矣雖然間   遭兵災寺既敗壊年久矣爰有前住建長大安禅師   大方慶和尚卓錫此地力与荒廃始振禅風僧俗雲   集永徳壬戌年鎌倉左兵衛督氏満號永安寺殿壁   山全公雅慕師之徳操而参謁之次再修補此経之   蠧損覃造営三個殿宇既而安十一面大悲像於大   会堂安弥陀善逝像於善応殿奉請弁財尊天大黒   尊天八幡大菩薩稲荷大明神於擁護庿繇是仰皇   図之鞏固祈仏運之紹隆而亹々不怠焉   応永十四丁亥稔六月十八日               沙門宗圓敬記焉  《割書:|》相伝(あひつたふ)推古天皇(すゐこてんわう)六年戊午 聖徳皇太子(しやうとくくわうたいし)高橋(たかはし)の妃(ひ)の亡妣(はうひ)入阿弥尼公(にふあみにこう)  終焉(しうゑん)の地(ち)に就(つい)て七区(しちく)の練若(れんにや)を剏建(さうけん)し以(もつ)て冥福(めういく)を資(たすくる)の奮跡(きうせき)なり  山(やま)を仙谷(せんこく)といふは仙人(せんにん)道鏡(たうきやう)なる者(もの)此山(このやま)に隠栖(いんせい)し練行(れんきやう)修身(しゆしん)事(こと)積(つもり)て  年(とし)あり故(ゆゑ)に亦(また)道鏡谷(たうきやうたに)ともいへり《割書:今古(こんこ)怪異(くわいい)の事(こと)甚(はなはた)多(おほ)し是(これ)|仙人(せんにん)の所為(しよゐ)なりと云々》寺(てら)を寿福(しゆふく)といふは  曾(かつ)て芟(かり)_レ榛(はんを)夷(たひらくる)_レ 地(ちを)の時(とき)虚空蔵薩埵(こくうさうほさつ)の像(さう)を得(え)たり因(よつ)て福一満(ふくいちまん)の聖号(しやうかう)を 【右丁 絵のみ】 【枠外】 三ノ二百三十 【左丁】 吐(と) 玉(きよく) 水(すゐ) 【右丁】  標(ひやう)して以(もつ)て寺(てら)の遠大(ゑんたい)を祝(しゆく)す《割書:後(のち)建長(けんちやう)曜侍者(ようししや)虚空蔵経(こくうさうきやう)一軸(いちちく)を■(とう)【謄ヵ】するのみ|石室(せきしつ)善形禅師(せんきやうせんし)の手墨(しゆほく)鋟梓(しんし)して寺(てら)に寄(よ)す》  康平年間(かうへいねんかん)八幡太郎義家(はちまんたらうよしいへ)奥州征伐(あうしうせいはつ)出陣(しゆつちん)の時(とき)中路(ちゆうろ)茲(こゝ)に宿(しゆく)す其頃(そのころ)当(たう)  寺(し)本尊(ほんそん)に開運(かいうん)を祈(いの)る後(のち)果(はた)して感遇(かんにあふこと)を獲(え)たり昔(むかし)小沢小太郎重政(こさはこたらうしけまさ)毎(まい)  晨(しん)歩(あゆみ)を像前(さうせん)に旋(めくら)して現当(けんたう)の善因(せんいん)を修(しゆ)す然(しかる)に兵災(ひやうさい)に遭(あひ)て寺宇(しう)既(すて)に  敗壊(はいゑ)する事(こと)年久(としひさ)し爰(こゝ)に鎌倉(かまくら)建長寺(けんちやうし)の大安禅師大方慶和尚(たいあんせんしたいはうけいおしやう)此地(このち)に  卓錫(たくしやく)し荒廃(くわうはい)を興(おこ)し始(はしめ)て禅風(せんふう)を振(ふる)ふか故(ゆゑ)に僧俗(そうそく)雲集(うんしふ)す《割書:或云(あるひはいふ)建長寺(けんちやうし)|八十四世/法慶(ほふけい)》  《割書:和尚(おしやう)是(これ)なり大方慶(たいはうけい)|といふは誤(あやまり)なり》然(しかる)に永徳(えいとく)二年壬戌/鎌倉(かまくら)左兵衛督氏満師(さひやうゑのかみうちみつし)の徳操(とくさう)を  慕(した)ひて参謁(さんえつ)するの次(ついて)三個(さんこ)の殿宇(てんう)を造営(さうえい)せられたりとなり《割書:三個(さんこ)とは所謂(いはゆる)|大会堂(たいゑたう)善応(せんおう)》  《割書:殿(てん)擁護(おうこ)|廟(ひやう)是(これ)也(なり)》 展翼峰(てんよくほう) 寿福寺(しゆふくし)の左(ひたり)に続(つゝ)きたる山(やま)を云(いふ)俗(そく)に神明山(しんめいやま)といふその形(かたち)鳥(とり)の翼(つはさ)を  展(ひろけ)たるか如(こと)し故(ゆゑ)に号(かう)とす相伝(あひつたふ)当社(たうしや)神明宮(しんめいくう)は昔(むかし)小机(こつくゑ)より飛来(とひきたり)こゝに  鎮座(ちんさ)なしたまひたりと云(いふ)《割書:寿福寺(しゆふくし)十|境(けう)の一なり 》 浅間山(あさまやま)同(おな)し山続(やまつゝき)にして山頂(いたゝき)に浅間(せんけん)の小祠(やしろ)ある故(ゆゑ)に名(な)とす土人(としん)は城(しろ)の浅間山(せんけんやま) 【枠外】 三ノ二百三十一 【左丁】  と云/是(これ)も寿福寺(しゆふくし)十/境(けう)の一にして光照崖(くわうしやうかい)と号(かう)す荊棘(むはら)をひき小(を)  篠(さゝ)をわけ登(のほ)る事《振り仮名:数十歩|す ほ》絶頂(せつちやう)に至(いた)り崖(きし)に臨(のそ)みて眺望(てうはう)すれは眼界(かんかい)  蒼茫(さうはう)として山水(さんすゐ)の美(ひ)筆端(ひつたん)に尽(つく)しかたし《割書:浅間(せんけん)の祠(ほこら)ある所(ところ)より少(すこ)し|下(さか)りて小沢(こさは)の城跡(しろあと)と称(しよう)する》  《割書:地(ち)あり小沢(こさは)の城(しろ)|の下に詳(つまひらか)なり》 吐玉泉(ときよくせん) 寿福寺(しゆふくし)より後(うしろ)の方(かた)の谷(たに)を隔(へたて)て西(にし)の山際(やまきは)農民(のうみん)の地(ち)にあり水源(みなかみ)  白砂(はくしや)を吹出(ふきいた)す故(ゆゑ)に号(な)とす昔(むかし)は小沢(こさは)の白清水(しらしみつ)といふ是(これ)も寿福寺(しゆふくし)  十/境(けう)の一なり 大谷山法泉寺(たいこくさんほふせんし) 吉祥院(きちしやうゐん)と号(かう)す寿福寺(しゆふくし)の南(みなみ)十町はかりを隔(へた)てゝ菅村(すけむら)の  内(うち)府中道(ふちゆうみち)の右(みき)にあり《割書:稲毛領(いなけれう)にして|小沢郷(こさはのかう)に属(そく)す》天台宗(てんたいしう)にして深大寺村(しんたいしむら)の深大寺(しんたいし)に  属(そく)せり阿弥陀如来(あみたによらい)を本尊(ほんそん)とす  薬師堂(やくしたう)《割書:寺(てら)より西(にし)の後(うしろ)一町半はかりにあり毎歳(まいさい)八月十二日/獅子舞(しゝまひ)ならひに弓(ゆみ)を携(たつさ)へ|て踊事(をとること)あり又(また)縁日(えんにち)は九月八日十二日にて此日(このひ)もすこふる賑(にき)はへり》  本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)の像(さう)は慈覚大師(しかくたいし)彫造(てうさう)し給ふといふ相伝(あひつたふ)左馬頭義朝(さまのかみよしとも)の  御台所(みたいところ)常盤御前(ときはこせん)護持(こち)の霊像(れいさう)たり文治(ふんち)三年丁未八月/叡山(えいさん)の文(ふん) 【右丁】 法泉寺(ほふせんし) 【四角囲い文字】 くり 本堂 【枠外】 三ノ二百三十二 【左丁】 【四角囲い文字】 根上明神 みたうし 天王 弁天 福昌寺 【右丁】  顕阿闍梨(けんあしやり)此地(このち)の領主(れうしゆ)稲毛三郎重成(いなけさふらうしけなり)と共(とも)に謀(はか)り当山(たうさん)を闢(ひら)き  一/宇(う)の梵刹(ほんせつ)とし此(この)霊像(れいさう)を安置(あんち)せらる後(のち)平政子御前(たひらのまさここせん)崇敬(そうきやう)あり  其頃(そのころ)頼朝卿(よりともきやう)よりも香花(かうけ)の資料(しれう)として当国(たうこく)高麗郡(こまこほり)の地(ち)を寄(き)  附(ふ)せらる建久(けんきう)八年丁巳/頼朝卿(よりともきやう)当寺(たうし)へ詣(けい)し給ふ又/康元(かうけん)二年丙辰  五月/頼嗣公(よりつくこう)頼経公(よりつねこう)の菩提(ほたい)のため御堂(みたう)再興(さいかう)なし給ひしより大伽(たいか)  藍(らん)となりしか正慶(しやうけい)建武(けんむ)の兵乱(ひやうらん)に廃壊(はいゑ)せしより後(のち)旧貫(きうくわん)に復(ふく)する  事なしといへり鎧兜(よろひかふと)唐木小机(からきのこつくゑ)等(とう)の二品は頼朝卿(よりともきやう)の寄附(きふ)なりと云(いひ)  伝(つたへ)て当寺(たうし)の什宝(しふはう)とす 江戸名所図絵天璣之巻 畢 【枠外】 三ノ二百三十三 【左丁】 江戸名所図会全部廿巻目次 壱之巻三冊《割書:日本橋本町通神田小川町飯田町両国霊巌島八町堀築地|鉄炮洲芝口愛宕下西久保赤羽根三田魚籃白銀芝浦》    出版 二之巻三冊《割書:品川駅大井鈴ヶ森池上矢口大森蒲田八幡六郷川崎鶴見|生麦神奈川本牧程ヶ谷杉田金沢》 三之巻四冊《割書:外桜田霞関永田馬場平川溜池麻布広尾青山目黒碑文谷北沢|世田ヶ谷渋谷四谷千駄ヶ谷代々木高井戸武蔵野府中玉川向ノ岡》 発行 四之巻三冊《割書:市谷牛込小石川大窪柏木成子堀之内中野小金井築土高|田大塚雑司ヶ谷巣鴨板橋練馬大宮野火止》 五之巻二冊《割書:湯島上野日暮根津谷中三崎駒込王子川口豊島川| 》      未春 六之巻二冊《割書:浅草下谷根岸山谷橋場千住西新井| 》 七之巻三冊《割書:深川本所亀戸押上柳島隅田川木下川松戸行徳国府台|八幡舩橋》     発行 天保五年甲午孟春 《割書:日本橋通壱丁目  須原屋茂兵衛|浅草茅町二丁目  須原屋伊三郎》 【右丁】           《割書:京都寺町通松原下ル》             勝村治右衛門           《割書:大坂心斎橋筋唐物町》             河内屋太助           《割書:大坂心斎橋筋安堂寺町》             秋田屋太右衛門           《割書:江戸両国吉川町》             須原山田佐助           《割書:江戸神田鍛冶町二丁目》 三都発         北島順四郎           《割書:江戸浅草新寺町》             和泉屋庄次郎           《割書:江戸芝神明前》 行書林         岡田屋嘉七           《割書:江戸日本橋通二丁目》             山城屋佐兵衛           《割書:江戸日本橋通二丁目》             小林新兵衛           《割書:江戸日本橋通四丁目》             須原屋佐助           《割書:江戸南伝馬町壱町目》             須原屋文助           《割書:江戸神田通新石町》             須原屋源助 【見返し】 【丸印】 【角印】 豊田家蔵 【裏表紙】