《題:地震考 全》 【付箋】 此頃地震止まさるに小児婦女あるひは病る人なとは 世上の虚談にまよひておちおそれ心をいたましむる人 多し故に地震のおこる所の古人の説をもらさす挙 又大震の後小動にて止むといふ歴代のためしをのせて 人 〻の心を安からしめんとす又地震せんとする前に 其しらせある現在の譚を出して用心のたよりとも なれかしと急に上木して四方の心友に贈る事しかる也 不与賈人 濤山先生筆記 《題:地震考》                  岸岱 (落款)(落款)【(注)】 【(注)江戸時代後期の絵師(ウィキペディア)】 頃京師地大震而数日不止東隴庵主 人袖小記来而請余題言見其記今■【右カ】 評説画挙此矣因写仁和年間之徴 以代題言聊塞其責云爾 文政十三年庚寅秋七月【(注)】       卓堂岸岱 (落款)(落款)  (朱角印)地 震 考 文政十三庚寅年七月二日申の時はかりに大に地 震(ふる)ひ出 ておびたゝしくゆり動(うごか)しけれは洛中の土-蔵築-地など 大にいたみ潰(つぶ)れし家居もあり土蔵の潰れしは数多 ありて築地高塀などは大かた倒(たふ)れ怪我(けが)せし人も数 多なり昔はありと聞けと近く都の土地にかくはげ しきはなかりければ人々驚きおそれてみな〳〵家 を走り出て大路に敷ものしき仮(かり)の宿りをつくれと 【(注)一八三〇年、十二月に天保へ改元】 いとなみ二三日かほどは家の内に寝る人なく或は大寺の境 内にうつり或は洛外の川原へうつり西なる野辺につど ひて夜をあかしけるかくて三日四日過ても猶其名残 の小さき震ひ時々ありてはしめは昼夜に二十度も 有しか次第にしづまりて七八度ばかり三四度になる事 もあり然れどもけふ既に廿日あまりを経ぬれどなほ 折々すこしつゝの震ひもやまて皆人々のまどひ恐るゝ ことなり世の諺(ことはざ)に地震ははじめきびしく大風は中程 つよく雷は末ほど甚しといへる事をもてはしめの程の 大-震はなきことゝさとしぬれとなほ婦女子小児の たぐひはいかゞとあんじわづらひていかにや〳〵と尋 ねとふ人のさはなれは旧記をしるして大震の後小 震ありて止(やま)ざるためしを挙(あげ)て人のこゝろをやすく せんと左にしるし侍る 上古より地震のありし事国史に見えたる限りは類 聚国史【(注)】一百七十一の巻 災異(さいい)の部に挙て詳(つまびらか)なり 【(注)菅原道真の編纂により、寛平四(八九二)年に成立した(ウィキペディア)】 三代実録仁-和三-年秋七月二日癸酉夜地震《割書:中略|》六日 丁丑 虹(にし)降(くたる)_二東 ̄ノ宮_一 ̄ニ其尾 竟(つく)_レ 天虹入_二内蔵寮(くられう)_一 ̄ニ 《割書:中略|》是 ̄ク夜地震 《割書:中略|》卅日辛丑 ̄ノ申時地大 ̄ニ震-動 ̄ス経(けい)_二-歴(れき) ̄シ数剋_一 ̄ヲ震猶不_レ止天皇出_二 ̄テ 仁寿(にんじゆ)殿_一 ̄ヲ御_二 ̄ス紫宸(しし)殿 ̄ノ南庭(なんてい)_一 ̄ニ命(めいして)_二大蔵省(おほくらしやう)_一立_二 七-丈 ̄ノ幄(やく)二_一 ̄ヲ為_二御在所_一 ̄ト 諸司(しよし)舎(しや)-屋(おく)及 ̄ヒ東西 ̄ノ京 盧(ろ)-舎(しや)往-々 顛(てん)-覆(ふく)圧殺(えんさつする)者衆 ̄シ或有_二失(こゝろ)- 神(まどひ)頓(とん)死 ̄スル者_一亥 ̄ノ時亦 震(ふるふ) ̄コト三度五-畿-内七-道諸-国同-日 ̄ニ大震 官(くはん) 舎(しや)多 ̄ク損(そんじ)海(かい)-潮(てう)漲(みなきり)_レ陸(りく) ̄ヲ溺死(たゝよし) ̄スル者不_レ可_二勝計(あげてかぞふ)_一 《割書:中略|》八月四日乙巳地 震五度是 ̄ノ日 達智(たつち)門 ̄ノ上 ̄ニ有_レ気如_レ ̄ニシテ煙(けふり) ̄ノ非_レ ̄ス煙 ̄ニ如_レ ̄ニシテ虹 ̄ノ非_レ ̄ス虹 ̄ニ飛上 ̄テ 属(つけり) 《割書: |レ》 天或人見_レ ̄テ之皆曰是 羽蟻(はあり)也《割書:中略|》十二日癸丑 鷺(さぎ)二 ̄ツ集_二朝(てう) 堂(たう)-院(ゐん)白(びやく)-虎(こ)-楼(ろう)豊(ふ)-楽(らく)-院 栖(せい)-霞(か)-楼 ̄ノ上_一 ̄ニ陰陽寮(おんやうれう)占 ̄テ曰 当(へし)_レ慎(つゝしむ)_二失 火 ̄ノ之事_一 ̄ヲ十三日甲寅地震有_レ鷺集_二 ̄ル豊楽院南門 ̄ノ鵄尾(くつかたの)上【一点脫】 十四日乙卯 ̄ノ子時地震十五日丙辰未 ̄ノ時有_レ鷺集_二 ̄ル豊楽殿 ̄ノ 東鵄尾 ̄ノ上_一 ̄ニ 《割書:下略|》 皇-帝紀抄に云文-治元年七月九日未剋大地震洛中洛- 外 ̄ノ堂-社塔廟人-家大略 顛(たふ)-倒(るゝ) ̄ス樹-木折落山-川皆-変死 ̄スル 者多 ̄シ其後連-日不_レ休 ̄ニ四十余箇日人皆 為(なして)_レ悩(なやみを)心(こゝろ)-神如_レ ̄シ酔(ゑへるが)云々 長明之方丈記に云元暦二年の頃大なゐふる事侍 りき其さまよの常ならず山くづれて川をうづみ海 かたふきて陸をひたせり土さけて水湧上りいはほ われて谷にまろひ入諸こく舟は波にたゝよひ道 ゆく駒は足の立とをまどはせり況や都のほとりには 在々所々堂舎塔廟一として不全《割書:中略|》かくおひたゝ しくふることはしばしにて止にしか其名残しばらく は絶ず尋常におとろくほとの地震二三十度ふらぬ 日はなし十日廿日過にしかばやう〳〵間遠になりて 或は四五度二三度もしは一日まぜニ三日に一度など 大かた其名残三月ばかりや侍けん云々 天-文-考-要に云寛文壬-寅五-月幾-内 ̄ノ地大 ̄ニ震 ̄フ北江最 甚 ̄シ余-動 屡(シハ〳〵)-発 ̄シ至_二 ̄ル於歳 ̄ヲ終_一 ̄ルニ 本-朝天-文-志に云宝暦元年辛未二月廿九日大地-震 ̄ス 諸堂舎破- 壊(ヱ)余-動至_二 ̄テ六七月_一 ̄ニ止 ̄マル   【クタケ】 かく数々ある中にも皆はじめ大震して後小動は止ま  ざれどもはじめのごとき大震はなし我友広嶋氏  なる人諸国にて大地震に四たび逢たり皆其くにゝ  滞留して始末をよく知れり小動は久しけれ共はし  めのごときは一度もなしと申されき是現在の人にて  証とするに足れり ○地震之説  径世衍-義 ̄ニ孔鼂【墨誤カ】 ̄カ曰 ̄ク陽伏_二 ̄テ于陰下_一 ̄ニ見_レ迫(せまる)_二 ̄ヲ于陰_一 ̄ニ而不_レ能_レ ̄ハ升 ̄ルコト以 ̄ニ  至_二 ̄ル於地震_一 ̄ニ と如_レ此陽気地中に伏して出んとする時陰気に   抑(おさ)へられて出る事能はず地中に激攻(げきこう)して動揺(どうえう)する  なり【注】国-語の周-語に伯(はく)-陽(やう)-父(ふ)の言なども如此古代よりみな  此説をいふ  天-経或-問に云地は本 ̄ト気の渣滓(かす)聚(あつ)まつて形質(けいしつ)をなす   元気(げんき) 旋転(せんてん)の中に束(つか)ぬ故に兀然(こつぜん)として空に浮んで墜(おち)ず   四囲(しゐ)に竅(あな)有て相通ず或は蜂の巣のことく或は菌瓣(くさしらのすち)の  ごとし水火の気其中に伏す蓋(けだし)気 噴盈(ふんえい)して舒(のび)んと欲  してのぶることを得ず人身の筋 転(てん)して脈揺(みやくうごく)がことし亦 【『春秋明志録』に「孔墨曰陽伏于隂下見逼于隂故不能升以至于地震」とある】   雷霆(らいてい)と理を同ふす北極下の地は大-寒赤道之下は偏(へん)   熱(ねつ)にしてともに地震少し砂土の地は気 疎(そ)にして聚(あつ)ま  らず震少し泥土(でいど)之地は空に気の蔵むことなし故に震      【とろ】  少し温煖(をんだん)之地多石之地下に空穴有て熱気吹入て冷  気のために摂斂(せつれん)せられ極る則は舒放(じよはう)して其地を激摶(げきはく)  すたとへは大-筒石-火矢などを高-楼 巨塔(きよたふ)の下に発せば  其 震衝(しんしよう)を被(かうふ)らざること無きがことし然れども大地通  して地震する事なし震は各-処各-気各-動なりと  唯一処の地のみなり其 軽重(けいちう)に由て色々の変あり地に  新山有海に新島あるの類ひ少なからず震後地下の燥気(さうき)   猛迫(まうはく)して熱火(ねつくは)に変して出れは則震 停(とま)るなり ○地震之徴  震せんとする時夜間に地に孔(あな)数々出来て細き壌(つちくれ)を   噴(ふき)出して田鼠 坌(うこもつ)ごとしと是土龍などの持上るの教    【たねつみ】    【をころもはな】  ならん歟  又老農野に耕(たがへ)す時に煙を生ずることきを見て将(まさ) に震せんとするを知ると 又井水にはかに濁り湧も亦震の徴(しるし)なり《割書:已上|天文考要》 又世に言伝ふは雲の近くなるは地震の徴なりと是雲 にはあらず気の上升するにて煙のごとく雲のごとく 見ゆるなり 地震の和名をなゐと云和漢三才図絵にはなへとあり なゐの仮名然るべからむ歟 季鷹翁の説になは魚にてゐはゆりの約(つゞま)りたるにて なゆりといふ事ならむ歟魚の尾 鰭(ひれ)を動かすごとく 動揺するを形容して名目とせるかなゐふるとは重 言のやうなれどもなゐは名目となれは守るべしと是 をもて思へは誠に小児の俗説なれども大地の下に大 なる鯰(なまづ)の居るといふも昔より言伝へたる俗言にや又 建久九年の暦の表紙に地震の虫とて其形を画 き日本六十六州の名を記したるもの有俗説なるべ けれども既に六七百年前よりかゝる事もあれば鯰  の説も何れの書にか拠あらんか仏説には龍の所為とも  いへり古代の説は大やうかくのごときものなるべし ○佐渡の国には今も常になゐふると言ならはせり地震と  いへは通ぜす古言の辺鄙に残る事みるべし ○三代実録仁和三年地震之条に京師の人民出_二盧舎_一 ̄ヲ  居_二 ̄ル于衢 ̄ヒ路 ̄ニ云々こたひの京師のありさまもかくのごとく  いと珍らかなり ○地震に付て其応-徴の事などは漢書晋書の天文志  などには其 応(おう)色々記しあれども唐書の天文志よりは  変を記して応を記さず是春秋の意に本づくなり  今太平の御代何の応か是あらむ地震即 災異(さいい)に  して外に応の有べきことなし人々こゝろをやすんじ  て各の務(つとめ)をおこたらざれ   文政十三年      寅七月廿一日    思斉堂主人誌 ○此地震考一冊は予か師涛山先生の考る所にしてこの  頃童蒙婦女或は病者などさま〳〵の虚説にまど  ひておそれおのゝきまた今に小動も止ず此後大震  やあらんと心も安からざれは歴代のためしを挙(あげ)て其  まとひを解(と)きこゝろをやすんぜさらしむ京師は上古  より大震も稀なり宝暦元年の大震より今年まで  星霜八十年を経れは知る人すくなし此災異に係(かゝり)  て命を損し疵をからふる人数多なり時の災難とは  いへども亦免かたしとも言べからす常に地震多き国  は倉庫家建も其心を用ひ人も平日に心得たれは大-  震といへども圧死(あふし)すくなし和漢の歴代に記せし地  裂山-崩土-陷島-出涛-起等は皆辺土なり阿含経智度  論などさま〳〵に説て大地皆動くやうに聞えり左に  はあらず初めにいへる如く震は各-処各-気各-動也予  天経或問に拠て一図をまうけて是を明す 地球之図  地球一周九万里是を唐土の一里六町として日本の一里  三十六町に算すれは一周一万五千里となるしかる時は  地心より地上まで凡二千五百里なり此図黒点の間凡  一千五百里なり今度の地震方二百里と見る時は僅に  図する所の小円の中に当れり是を以て震動する  所の徴少なると地球の広大なる事を思ひはかるべし ○愚按するに天地の中造化皆本末あり本とは根本に  して心(しん)なり心とは震動する所の至て猛-烈なる所を                 【はけし】  さす其 心(しん)より四方へ散して漸く柔緩(ゆるく)なるを末とすし  かれば東より揺(ゆり)来るに非らす西より動(うご)き来るにあらず  其 心(しん)より揺(うごき)初て四方に至り其限は段々微動にて畢る  ならん今度震動する所京師を心(しん)として近国に亘(わた)り  末は東武南紀北越西四国中国に抵(いた)る又京師の中に  ても西北の方 心(しん)なりしや其時東山にて此地震に遇し  人まづ西山何となく気立升りて忽市中土煙をたてゝ  揺来り初めて地震なる事を知れりとなり ○又地震に徴(しるし)ある事現在見し所当六月廿五日日輪西  山に没する其色血のごとし同七月四日月没する其色亦  同じ和漢合運云寛文二年壬寅三月六日より廿日まで日  朝夕如_レ血月亦同五月朔日大地震五条石橋落朽-木-谷崩  土民死至_二 ̄ラ七月_一 ̄ニ未_レ止出たり広嶋氏の譚(はなし)に享和三年十一月  諸用ありて佐渡の国 小木(ヲギ)といふ湊に滞留せしに同十五日  の朝なりしか同宿の船かゝりせし船頭とゝもに日和を見  むとて近辺なる丘(をか)へ出しに船頭のいはく今日(けふ)の天気は 誠にあやしげなり四方 濛々(もう〳〵)として雲山の腰にたれ山 半腹より上は峰あらはれたり雨とも見へず風になる とも覚へず我年来かくのごとき天気を見ずと大に あやしむ此時広嶋氏考て曰是は雲のたるゝにあらず 地気の上升するならん予幼年のとき父に聞ける事 有地気の上升するは地震の徴(しるし)なりと暫時も猶余(ゆうよ)有 べからずと急ぎ旅宿に帰り主に其由をつげ此地後は山 前は海にして甚 危(あやう)し又来るとも暫時外の地にのがれん と人をして荷物など先へ送らせそこ〳〵に支度して 立出ぬ道の程四里計も行とおもひしが山中にて果し て大地震せり地は浪のうつことく揺(ゆり)て大木など枝み な地を打ふしまろびながら漸にのがれて去りぬ此時 小(を) 木(ぎ)の湊は山崩れ堂塔は倒れ潮漲(うしほみなぎり)て舎屋(いへ)咸(みな)海に入 大きなる岩海より涌出たりそれより毎日小動して翌 年六月に漸く止たりとなん其後同国金山にいたりし 時去る地震には定めし穴も潰(つぶ)れ人も損ぜしにやと  訪ひしにさはなく皆いふ此地はむかしより地震は已前  にしりぬ去る地震も三日以前に其 徴(しるし)を知りて皆穴  に入らず用意せし故一人も怪我なしとなり其徴は  いかにして知るやと問しに将に地震せんとする前は穴の中  地気上升して傍(かたはう)なる人もたがひに腰より上は唯濛々と  して見へず是を地震の徴とすといへり按るに常に地  中に入ものは地気をよくしる鳥は空中にありてよく上  升の気をしる今度地震せんとする時数千の鷺一度  に飛を見る又或人六月廿七日の朝いまだ日も出ぬ先に  虹丑寅の間にたつを見る虹は日にむかひてたつは常なり  いづれも常にあらざるは徴とやいはん ○又はじめにいへる地震の和名なゐふる季鷹大人なは  魚なりといふ説によりて古図を得て茲に出す是図こ  よみの初に出して次に建久九年《割書:つちのえ|むま》の暦凡《割書:三百五|十五ヶ日》と  あり余はこれを略す伊豆の国那珂郡松崎村の寺  誠ふるき唐紙の中より出る摺まきの暦なりとぞ 【右丁上側】 ▲ゆるへとも よもやぬけし のかなめいし かしまの神の あらんかき りは  かなめ石 十二月火神 とう麦 よし 世の中 に分    十一月   たいしやくとう  雨かせけんくわ 【右丁題字】いせこよみ 【右丁右側上から】    正   月火  神とう 十五日雨   二月  龍神    とう 上十五日雨 南    三   月大  しやく とう 田はた吉    四   月金  神とう 大兵らん 【右丁下側】 五月火神  とう   上十五日    雨風 六月 金神  とう うし  馬  下ね 西  七月 龍神とう  水をたし   下十五日ひてり 【右丁左側下から】 八月火神    とう  けん   くわ多し 北   九月龍  神とう大 雨をこりはや 十月火神 とうよの 中よし 槐記享保九年の御話に云く昔四方市といへる盲人は名 誉の調子聞にて人の吉凶悔吝を占ふに少しも違ふこと なし応山へは御心やすく毎々参りて御次に伺候せし か晩年に及ひて申せしは由なきことを覚えて甚くや し終日人に交はる毎に其人の吉凶みな耳にひゞきて いとかしましと申けるよし去ほどに度々の高名挙て かぞへかたし此四方市朝夙に起て僕を呼ひ扨々 あしき調子なり此調子にては大方京中は滅却すべき ぞ急ぎ食にても認めて我を先嵯峨の方へ誘ひゆけ と云日頃のて手ぎはどもあれは早速西をさして嵯峨に行 嵐山の麓大井源原に着て暫く休息して云やういまだ調 子なほらずあないぶかし大方大火事成べしと人家有所 をはなれて北へ越せしにいまだ同し調子なるは此も悪所 と覚ゆ愛宕には知れる坊あり是に誘ひゆけといふいさ とて又登り〳〵て其坊に着く坊主出て何とてかく早く は登山しけるよと申せしかはしか〳〵の事有と答ふこゝはいかに と問こゝも猶安からす少しにても高き所へ参りたしと云其所 に護摩堂あり此に行れよとありしかは此堂に入て大によろ こび扨々安堵に住けり調子初て直りしとて唯いつまで も此に居たき由申せしか頓て地震ゆり出し夥しき事 いふはかりなし《割書:世間に云寅|年大地震》何とかしたりけむ彼護摩堂は架作(たなつくり)にて 頓て深谷へ崩れ落て破損し四方市も空しくなる六十余 りにても有べきか此一生の終りをして人の吉凶さへ姦きほどに 知るものゝ己か終る所をしらざるのみに非ず死場にて安堵し ける事こそ不審なれ吉の極る所は凶凶の極る所は吉なれは成べし 毎度無禅か物語なりと仰らる愚按るに四方市の占考 著(いちじる)き事 賞するに余り有既に天地の変異を知りて愛宕山にのかれしと うへなるかな此山に至りて調子直りしに其変もあんなれ共是は 陰極りて陽に変し陽極りて陰を生す楽極りて哀生ず といふに同じからむ其頃京師一般の大変故震気充満して歩 むに道なく逃るに所なしと云時なれは四方市も身体茲に極ると いふ処ゆゑ反(かへつ)て其音調の直りしも至極の事に覚へ侍る 素問五運行大論 ̄ニ曰風勝 ̄オハ則地ー動 ̄ク怪異弁断 ̄ニ曰 此説に随ふ時は地震は風気の所為也又曰地震に鯰の 説世俗に有仏説なるにや風を以て鯰としたるもの歟 魚は陰中の陽物なれは風にたとへ言るならん何れにて も正理には遠き説なり白石の東雅に云地震をな い(ママ)ふ るといふはないとは鳴なりふるとは動くなり鳴動の義なり 今俗にないゆるともいふなりゆるも又動くなりゆるふと いひゆるがすなどいふもまた同じ上古の語にゆをにて などいふも即是なり愚按るに又なへふると北越辺土 にいへり三才図会になへと出たるは何にもとづけるにや もしなへと言へはなへをつゞめはねとなるねは根にして地 をいふ地震(ちふる)にて子細なし楊子方言云東斉謂_レ根曰_レ ̄ク土 非_三専指_二 ̄スニ桑根白皮_一又日本紀神代巻に根之国と出た るは地をさす歟又或人云なゐゆるとはなみゆるなり なみのうへ如くゆるをいう矣            洛東  東隴庵主人誌 題地震考 ̄ノ後 災異之可_レ ̄ル愳【懼の異体字】 ̄ル莫_レ大_レ ̄ナルハ於_二 ̄リ地震_一以_下雖_二其地 折(さけ)山陥 ̄リ海 傾 ̄キ河翻_一 ̄ルト不_上_レ ̄ヲ能_二 ̄ハ翰飛 ̄シ戻(いたる)_一_レ 天 ̄ニ也然 ̄ルニ若_下 ̄キモ夫 ̄ノ古今伝 記 ̄ニ所_レ載 ̄スル及近時邦国 更(かはるみる)有棟壊 ̄レ■【牆カ】倒 ̄レ傷_二- 害 ̄スル人畜_一 ̄テ者_二 ̄ノ人毎 ̄ニ邈然 ̄ト視【一点脱】_レ之 ̄ヲ徒 ̄ニ為_二 一場竒譚_一 ̄ト 及_二其実歴親履心駮 ̄キ【駭ヵ】魂鎖_一 ̄ルニ而後 ̄ニ始 ̄テ回_二-想 ̄シ当 時_一 ̄ヲ以 ̄テ知_レ為_レ ̄ユルヲ可_レ ̄ト愳已茲庚寅 ̄ノ七月二日京地大 震 ̄ス余震于_レ ̄テ今 ̄ニ未_レ歇 ̄マ人心洶々言 ̄フ震若 ̄シ有_レ ̄ラハ甚_レ ̄キ 焉 ̄ヨリ将 ̄タ慿_レ ̄テ何 ̄ニ得_レ ̄ント免 ̄ルコトヲ民之訛言 ̄モ亦孔 ̄タ之将 ̄ニ言 ̄フ其 日-時震甚 ̄シ又言 ̄フ其 ̄ノ事為_レ祟 ̄ヲ又言 ̄フ其 ̄ノ日暴凮 雨与_レ震並 ̄ヒ臻 ̄ルト重 ̄ルニ以_二 ̄シ丙王棍賊之警_一 ̄ヲ人不_レ知_レ所_二 ̄ヲ 底 ̄リ止_一 ̄ル或 ̄ハ廃_レ ̄テ業 ̄リ舎_レ ̄キ務 ̄ヲ至_三携_レ ̄ヘ家 ̄ヲ逃_二 ̄ルヽニ遠地_一 ̄ニ 濤山先生老 ̄テ益 ̄セ悃愊憫_二 ̄ミ其如_一レ ̄ヲ此 ̄ノ為 ̄ニ録_二 ̄メ此言_一 ̄ヲ 以 ̄テ喩_二 ̄トシ民心_一 ̄ヲ釈_二 ̄ントス其惑_一 ̄ヲ故 ̄ニ言辞不_レ飾 ̄ラ考徴 ̄モ亦 不_レ務_レ ̄メ多 ̄ヲ東隴主人受而敷衍 ̄シ辞而行_レ ̄フ之 ̄ヲ 請_三 ̄フ余 ̄ニ識_二 ̄スコトヲ其由_一 ̄ヲ適 ̄ヒ有_三 人為_レ ̄ニ余 ̄カ説_二 ̄ク其先人之言_一 ̄ヲ 云 ̄ノ如_二 ̄キ其 ̄ノ什器_一 ̄ノ今人不_レ悉(つまひらかに)_二其用_一 ̄ヲ注々 ̄ニ以為_二不便_一 ̄ト不_レ 知方_二 ̄リ其大震_一 ̄ニ掩_レ ̄ヒ此 ̄ヲ庇_レ ̄スレハ身 ̄ヲ雖_二棟壊 ̄レ牆倒_一 ̄ルト保_二 ̄ス其 無_一レ ̄ヲ恙又如_下 ̄キヒ今灯架 ̄ニ説_中 ̄ル承_一 ̄ル【二点誤カ】蝋炬_一 ̄ヲ者_上 ̄ヲ亦皆震之 備 ̄ニ蓋【注】宝暦大震之余所_二慮 ̄リ而説_一 ̄タル至_二 天明 欝攸之後_一 ̄ニ人不_レ知_二 震之可_一レ ̄ヲ愳 ̄ル今日之構造 唯災 ̄ニ之 ̄レ備 ̄コト可_レ見_下非_二 ̄レハ宝暦親履_一 ̄ニ思慮不_レ及 亦人心向背之速 ̄ナルコト如_上レ ̄ヲ此 ̄ノ因【注】 ̄テ並 ̄ニ記_レ ̄シ此 ̄ニ欲_下 人之■【觸カ】_レ ̄レ 類 ̄ニ而長_レ ̄シ之 ̄ヲ毎 ̄ニ有_レ所_二懲■【毖カ】_一 ̄スル有_上レ ̄ンコトヲ所_二備預_一 【(注)「盖」は「蓋」の異字体、「囙」は「因」の異字体。森安彦監修「古文書を読む必携」三省堂編集部編】 文政十三年庚寅秋八月上瀚       三誠主人織 (落款)   斉政館都講    小嶋氏蔵板 (角印)         不 与(ともに)買人 【裏表紙】