【表紙】 【題箋】 《題:江戸名所図会 十七》 【左丁】 下谷岡(したやのをか) すへて上野(うへの)のあたりを指(さし)ていふ《割書:小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の古文書(こもんしよ)に大谷(おほたに)十郎左衛門|江戸回(えとまはり)下谷(したや)にて菱野分(ひしのふん)の地(ち)を領(りやう)す》  武蔵国風土記残篇曰 豊嶋郡下谷岡貢鹿狐兎狸山鴒雉雀等又   貢薯蕷松脂《割書:云云》 五條天神宮(こてうてんしんくう) 東叡山(とうえいさん)の巽(たつみ)の麓(ふもと)瀬川氏(せかはうち)の地(ち)にあり祭神(まつるかみ)少彦名彦命(すくなひこなのみこと)  一坐(いちさ)《割書:本朝(ほんてう)医道(いたう)の祖神(そしん)に|して五條天神(こてうてんしん)と称(しよう)す》北野天満宮(きたのてんまんくう)を相殿(あひてん)とす《割書:菅神(かんしん)の像(さう)は寛永(くわんえい)十八年 慈眼(しけん)|大師(たいし)開眼(かいけん)ありて当社(たうしや)の相殿(あひてん)に》  《割書:鎮坐(ちんざ)|せしむ》当社(たうしや)はしめは東叡山(とうえいさん)のうちにありしか寛永寺(くわんえいし)草創(さう〳〵)の砌(みきり)御連(おれん) 歌師(かし)瀬川昌億(せかはしやうおく)か宅地(たくち)に遷(うつ)【迁は俗字】させらる《割書:菊岡沾涼(きくをかせんりやう)云(いふ)其(その)旧地(きうち)は上野(うえの)|御本坊(こほんほう)の辺(あたり)なりしと》毎歳(としこと)節分(せつふん) の夜(よ)白朮神事(をけらのしんし)を修行(しゆきやう)す  北国記行云 正月の末むさし野のさかい忍の岡に優遊しはへり鎮座の社     五條天神と申はへり折ふし枯たる茅原を焼はへり   契りをきてたれかは春の初草に忍ひの岡の露の下萌 堯恵 宝王山常楽院(はうわうさんしやうらくゐん) 長福寿寺(ちやうふくしゆし)と号(かう)す天台宗(てんたいしう)五條天神(こてうてんしん)の南(みなみ)忍川(しのふかは)の向(むかふ)  にあり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は行基大士(きやうきたいし)の作(さく)にして六阿弥陀(ろくあみた)第五番目な  り二月八月の彼岸中(ひかんちゆう)甚(はなはた)賑(にき)はへり 【右丁】  山(やま)  下(した)      見せ物    曲馬      浄るり     ちや屋 【左丁】           講尺  茶や      ものまね      茶や     茶や      あわもち      かるわざ 車坂           土弓   うなきや      啓運寺 【右丁】  其  二 五(こ) 条(てう) 天(てん) 神(しん) 祠(やしろ) 毎年(まいねん) 節分(せつふん) の夜(よ) 白朮の  神事(しんし) 修行(しゆきやう)  あり       こ       ま     浄             る             り   物   ま   ね          此辺          なら           茶           や        茶        や 【左丁】 上野                      五条天神     山王山        土弓 【右丁】  常楽院(しやうらくゐん)    六阿弥陀五番目    なり春(はる)秋(あき)二度    の彼岸中(ひかん  )賑(にき)はし 【左丁】                   養  東(とう)            玉  叡(えい)            院  山(さん)  坂(さか)     善  本(もと)     養  口(くち)     寺                 り                 通                 本                 坂              ゑ            車              む            坂              ま            下                           通                           り                   新門   上野 【右丁】 入谷(いりや)  庚申堂(かうしんたう)   喜宝院(きほうゐん)に安(あん)す   摂(せつ)の四天王寺(してんわうし)の   青面金剛(しやうめんこんかう)と   同作の霊像(れいさう)     なりと      いへり 【左丁】 金光山養玉院(こんくわうさんやうきよくゐん) 下谷坂本(したやさかもと)壱丁目の南(みなみ)にあり天台宗(てんたいしう)にして往昔(むかし)は今(いま)  の 御城内(こしやうない)大手(おほて)の辺(あた)りにありしと慶長(けいちやう)の頃(ころ)今(いま)の地(ち)に遷(うつ)させらる往(その)  古(かみ)は三藐院(さんみやくゐん)と号(かうし)けるを宝永(はうえい)年間 今(いま)の名(な)に改(あらたむ)るといへり当寺(たうし)に釈迦(しやか)  の涅槃像(ねはんさう)の画軸(くはちく)一幅(いつふく)を蔵(さう)す上(うへ)に慈眼大師(しけんたいし)の讃(さん)あり三国伝燈大(さんこくてんとうたい)  僧正天海書(そうしやうてんかいしよ)としるせり毎年(まいねん)二月十五日 是(これ)を拝(はい)さしむ 薬王山善養寺(やくわうさんせんやうし) 延寿院(えむしゆゐん)と号(かう)す同所 坂本(さかもと)壱丁目の左側(ひたりかは)にあり天台(てんたい)  宗(しう)にして本尊(ほんそん)は薬師如来(やくしによらい)を安(あん)す《割書:寺僧(しそう)云(いふ)此(この)本尊(ほんそん)は小野照崎明神(をのてるさきみやうしん)の本地仏(ほんちふつ)なり|このゆへに小野照崎明神(をのてるさきみやうしん)の社(やしろ)は遥(はるか)に此地(このち)を離(はな)るゝと》  《割書:いへとも当寺(たうし)薬師堂(やくしとう)に|相対(あひたひ)せりとなり》当寺(とうし)は天長(てんちやう) 年中 慈覚大師(しかくたいし)の草創(さう〳〵)本尊(ほんそん)も同(おなし)大師(たいし)  の作(さく)なりといへり額(かく)に円満(ゑんまん)の二字(にし)を刻(こく)す黄壁木庵老人(わうはくもくあんらうしん)の筆(ふて)また  境内(けいたい)に閻魔堂(えむまたう)あり閻王(えむわう)の像(さう)は運慶(うんけい)の作(さく)なり正月七月十六日 参(さん)  詣(けい)群集(くんしふ)す《割書:或人(あるひと)云く当寺(たうし)閻王(えむわう)の像(さう)は野州(やしう)足利学校(あしかゝかくかう)にありし|聖像(せいさう)なりしを故(ゆへ)ありて後世(かうせい)こゝにうつしたりと》 小野照崎明神社(をのてるさきみやうしん  ) 同所三丁目の右側(みきかは)にあり祭神(まつるかみ)参儀(さんき)【議】小野篁(をのゝたかむら)の  霊(れい)なりといへり社伝(しやてん)あれとも詳(つまひらか)ならす故(ゆへ)に姑(しはらく)こゝに略(りやく)す当社(たうしや)は坂(さか) 【右丁】  本(もと)の鎮守(ちんしゆ)にして八月十九日を以(もつ)て祭日(さいしつ)とす別当(へつたう)は天台宗(てんたいしう)にして  小野山嶺松院(をのさんれいしようゐん)と号(かう)す   《割書:或人(あるひと)云(いふ)当社(たうしや)は其先(そのさき)忍(しのふ)か岡(おか)に聖堂(せいたう)ありし頃(ころ)その傍(かたはら)にありて小野明神(をのみやうしん)と称(しよう)す小野篁(をのゝたかむら)ふ|かく儒教(しゆけう)を崇教(そうきやう)し野州(やしう)足利(あしかゝ)に学校(かくかう)を闢(ひら)く故(ゆへ)に其後(そののち)彼地(かしこ)にて聖堂(せいたう)の傍(かたはら)に篁(たかむら)の像(さう)を|安(あん)し祭祀(さいし)を執行(しゆきやう)すこゝにもまたかしこの例(れい)に準(しゆん)して忍(しのふ)か岡(をか)聖堂(せいたう)の傍(かたはら)に置(をき)けるを聖堂(せいたう)湯島(ゆしま)へ|遷(うつ)るの後(のち)今(いま)の地(ち)へ鎮坐(ちんさ)なしける又(また)云(いふ)当社(たうしや)の地主(ちしゆ)稲荷明神(いなりみやうしん)の使者(ししや)なりけるを白狐(ひやくこ)夜毎(よこと)に尾(お)の末(すへ)|照(てり)かゝやきて台嶺(たいれい)の松樹(まつ)に映(えい)しけれは尾(お)の先(さき)照(てる)といふ意(こゝろ)にて彼此(かれこれ)混(こん)し交(まし)へ小野照崎(をのてるさき)と|は号(なつ)けけるなりと云云》 仏迎山安楽寺(ふつかうさんあんらくし) 金杉(かなすき)にあり正保(しやうほ)年中 正蓮社意的和尚(しやうれんしやいてきおしやう)当寺(たうし)を創(さう)  立(りふ)す《割書:当寺(たうし)は知恩院宮尊朝法親皇(ちおむゐんのみやそんてうほふしんわう)|御閑居(おんかんきよ)の舊地(きうち)なりといへり》本尊(ほんそん)は宝冠(はうくはん)の阿弥陀如来(あみたによらい)なり洛陽(らくやう)  一心院(いつしんゐん)の末(まつ)にして捨世一派(しやせいいつは)の浄域(しやういく)たり昼夜(ちうや)不退(ふたい)念仏三昧(ねんふつさんまい)にし  て殊勝(しゆしやう)なり 宝鏡山円光寺(はうきやうさんゑんくわうし) 根岸(ねきし)の里(さと)にあり済家(さいか)の禅林(せんりん)にして釈迦如来(しやかによらい)を  本尊(ほんそん)とす当寺(たうし)庭中(ていちゆう)に紫藤(しとう)ありて花(はな)の頃(ころ)は一(いつ)奇観(きくはん)たり故(ゆへ)に俗(そく)  間(かん)これを藤寺(ふちてら)と称(しよう)せりまた堂前(たうせん)に鏡(かゝみ)の松(まつ)と唱(とな)ふる名樹(めいしゆ)あり  鎮守(ちんしゆ)の弁財天(へんさいてん)は弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)なりといへり 【左丁】 小野照崎明神社(をのてるさきみやうしん  ) いなり 【右丁】 金杉(かなすき)  安楽寺(あんらくし) 観音 鐘樓 【左丁】 本堂 方丈 俗に此小路を あんらあんらくじ横丁と云 【右丁】 根岸(ねきし)  円光寺(ゑんくはうし)   世俗 藤寺(ふちてら)   といふ  庭中(ていちう)架(か)を  繞(めく)らして是を  纏(まと)はしむ  朶(えた)の長(なか)さ  三四尺に充(みち)て  花色(くはしよく)最(もつとも)  艶美(えんひ)なり かゝみ松 【左丁】 弁天 【右丁】 時雨岡(しくれのをか) 同所 庚申塚(かうしんつか)といへるより三四丁 艮(うしとら)の方(かた)小川(をかは)に傍(そふ)てあり一株(いつちゆう)  の古松(こしよう)のもとに不動尊(ふとうそん)の草堂(さうたう)あり土人(としん)此(この)松(まつ)を御行(おきやう)の松(まつ)と号(なつく)来由(らいゆ)は  姑(しはら)くこゝに省略(もら)す《割書:一に時雨(しくれ)の|松ともよへり》 《割書: 回国雑記|》 忍ふの岡といへる所にて松原のありける      かけにやすみて   霜の後あらはれにけり時雨をは忍ひの岡の松もかひなし  道興准后    《割書:按(あんする)に忍(しのふ)の岡(をか)といへるは東叡山(とうえいさん)の旧名(きうめい)なり此(この)地(ち)も東叡山(とうえいさん)より連綿(れんめん)たれは回国雑記(くはいこくさつき)に出(いつ)る|ところの和哥(わか)の意(こゝろ)を取(とり)て後世(こうせい)好事(かうす)の人の号(なつ)けしならん歟(か)》 東陽山正燈寺(とうやうさんしやうとうし) 龍泉寺町(りうせんしまち)にあり妙心寺派(めうしんしは)の禅刹(せんせつ)にして承応(しようおう)三  年に愚堂和尚(くたうおしやう)草創(さう〳〵)す《割書:和尚(おしやう)は大円宝鑑国師(たいゑんはうかんこくし)と諡号(おくりな)す天性(てんせい)明敏(めいひん)にして大(おほい)に|禅海(せんかい)の俈儔(かうたう)を鼓起(くき)す宝鑑国師(はうかんこくし)の語録(ころく)につまひらかなり》当寺(たうし)  の後園(こうゑむ)楓樹(ふうしゆ)多(おほ)し《割書:其先(そのさき)山城(やましろ)高雄山(たかをさん)|の楓樹(ふうしゆ)の苗(なへ)を栽(うゆる)と云》晩秋(はんしう)の頃(ころ)は詞人(ししん)吟客(きんかく)こゝに群遊(くんいう)し  其(その)紅艶(こうえむ)を賞(しやう)す 真覚山西光寺(しんかくさんさいくわうし) 蓑輪新町(みのわしんまち)にあり浄土宗(しやうとしう)にして長和(ちやうわ)元年の草創(さう〳〵)  なり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)開山(かいさん)は聖蓮社賢誉(しやうれんしやけんよ)上人たり 【左丁】 千束郷(せんそくのがう) 龍泉寺町(りうせんしまち)の辺(あたり)今(いま)僅(わつか)の地(ち)をいへり一(いつ)に篠堤(さゝつゝみ)と字(あさな)す菊岡(きくをか)  沾涼(せんりやう)の説(せつ)に此地(このち)を佐々津見(さゝつみ)の里(さと)とも号(なつ)くとあるは誤(あやまり)なりこの境(ち)に  叢祠(そうし)あり千束稲荷(せんそくいなり)と称(しよう)す   《割書:或人(あるひと)云(いふ)往古(むかし)は上下(かみしも)とわかれて浅草(あさくさ)天王町(てんはう  )の辺(あたり)より千住(せんしゆ)の橋際(はしきわ)迄(まて)をすへて千束郷(せんそくのかう)といひけると云|仍(よつ)て按(あんする)に浅草寺(せんさうし)至徳(しとく)四年の鐘(かね)の銘(めい)に武州(ふしう)豊島郡(としまこほり)千束(せんそく)の郷(かう)金龍山(きんりうさん)浅草寺(せんさうし)とあり又(また)同(おな)し|境内(けいたい)に西宮稲荷(にしのみやいなり)と称(しよう)するあり里老(りらう)伝(つた)へて是(これ)を上千束稲荷(かみせんそくいなり)と号(なつ)くると云 小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の|古文書(こもんしよ)に千束(せんそく)の内(うち)にて阿佐谷分(あさかやふん)三戸分(みとふん)石浜(いしはま)等(とう)の地(ち)を太田新六郎(おほたしんろくらう)同(おなしく)石浜(いしはま)惣領分(そうりやうふん)の地(ち)を太(おほ)|田大膳亮(たたいせんのすけ)同(おなしく)金杉分(かなすきふん)の地(ち)を飯倉弾正忠(いひくらたんしやうのちう)同 近藤分(こんとうふん)の地(ち)を島津弥七郎(しまつやしちらう)同 朝倉分(あさくらふん)の地(ち)を 江戸番匠(えとはんしやう)等(とう)領(りやう)すること見(み)へたりこゝにをひて其地(そのち)の広大(くわうたい)なることをしるへし》 木戸三河守源孝範弟宅旧跡(きへみかはのかみみなもとのたかのりていたくのきうせき) 伝云(つたへいふ)今(いま)三河嶋(みかはしま)と称(しよう)する地(ち)は三河守(みかはのかみ)居(きよ)  住(ちゆう)の旧跡(きうせき)なる故(ゆへ)にしか号(なつ)くるとそ《割書:或(あるひと)云(いふ)此地(このち)は細谷三河守(ほそやみかはのかみ)といふ人(ひと)の|領地(りやうち)なる故(ゆへ)にかく号(なつ)くるとも》  孝範家集云 むさしの国としまといふ郡に入江かけたる所に住はへりける   まへはよしあしなと茂りて鹿の常にたゝすみける山遠き所なればめつらしく   聞をるまゝに近きあたりに都人の下りて住けり夜ふけはめさまして聞たまへと   まうしつかはしたるに夜な〳〵枕をそはたてたれとも聞はへらす人の声   なとのとほきを聞なして申にやとかこちをこすとてみやこひとの哥  暁のふなもよひするあまの子のかひよといふをしかと聞らん    返し 【右丁】 呉竹(くれたけ)の根岸(ねきし)の里(さと)は 上野(うへの)の山蔭(やまかけ)にして 幽趣(いうしゆ)あるか故(ゆへ)にや 都下(とか)の遊人(いうしん)多(おほ)くは こゝに隠棲(いんせい)す花(はな)に なく鶯(うくひす)水にすむ 蛙(かはつ)もともにこの地(ち)に 産(さん)するもの其声(そのこへ)  ひとふしありて   世(よ)に賞愛(しやうあい)      せられ       はへり 【左丁 文字無し】 【右丁】  時雨岡(しくれのをか)   不動堂(ふとうたう) 【左丁】 回国雑記  霜の後   あらはれに      けり    時雨をは   忍ひの      岡の    松もかひ       なし      道興准后 【右丁】 正(しやう) 燈(とう) 寺(しの) 丹(もみ) 楓(ち) 【左丁】  庭中(ていちゆう)楓樹(ふうしゆ)㝡(いと)  おほくして  晩秋(はんしう)の紅錦(こうきん)は  海晏寺(かいあんし)の園林(ゑんりん)  にも劣(をと)る色(いろ)なく  実(しつ)に一時の     奇観(きくわん)       たり 【右丁】  軒近くしか立ならす宿とひて待し夜頃のかひよともきけ   梅 花無尽蔵云 木戸公号罷鈎【釣】翁保和歌之正脈     余在洛而𥹢厥声誉久之矣今也共寓武野之佳     境隅田之上流往還無虗月豈非天之至幸乎昨     賜詠歌三篇可謂暗投也聊奉攀未篇之韵脚云     二十六日《割書:文明十七年乙丑【注】|十月二十六日也》      雪月寧非老年伴  一吟聊答数篇韵      隅田春色浪如花  鳥若知都我細問     《割書:按(あんする)に孝範(たかのり)《振り仮名:家の集|いへのしふ》に武蔵国(むさしのくに)豊島(としま)といふ郡(こほり)に入江(いりえ)かけたる所(ところ)に住(すみ)はへりける前(まへ)はよし芦(あし)|なと茂(しけ)りてと云云 又(また)梅花無尽蔵(はいくはむしんさう)の詩(し)の序(しよ)に木戸公(きへこう)を罷釣翁(ひてうおう)と号(かう)し共(とも)に武野(ふや)の|佳境(かきやう)隅田(すみた)の上流(しやうりう)に寓(くう)すといへり合(あは)せ考(かんか)ふれは三河島(みかはしま)の地勢(ちせい)その旧跡(きうせき)に似(に)たり》  木戸孝範(きへたかのり)は従五位下(しゆうこいのけ)に叙(じよ)し前三河守(さきのみかはのかみ)と云(いふ)又(また)罷釣翁(ひてうおう)と号(かう)す今川(いまかは)  了俊(れうしゆん)の一族(いちそく)にして太田道潅(おほたたうくはん)東常縁(とうのつねより)及(およ)ひ正徹(しやうてつ)宗祗(そうき)心敬(しんきやう)万里(はんり)抔(なと)  と同(おなし)時世(しせい)の人(ひと)なり鎌倉大草子(かまくらおほさうし)に孝範(たかのり)は冷泉中納言持為卿(れいせいちゆうなこんもちためきやう)の  門弟(もんてい)にして無双(ふさう)の哥人(かじん)なりとあり同書(とうしよ)に長禄(ちやうろく)元年 関東(くはんとう)の乱(らん)に  付(つい)て京都(きやうと)将軍家(しやうくんけ)の舎弟(しやてい)左馬頭政智(さまのかみまさとも)関東将軍(くはんとうしやうくん)の宣旨(せんし)を蒙(かうむ)り  下向(けかう)あるといふ条下(てうか)に供奉(くふ)の人の中(うち)に此(この)孝範(たかのり)の名(な)あり《割書:家集(いへのしふ)に曽祖父(そそふ)|貞範(さたのり)建武(けんむ)二年》 【左丁】  《割書:蔵人(くらんと)になり左近将監(さこんのしやうけん)になりて奧陸(みちのく)の夷(えひす)を鎮(しつ)む其(その)賞(しやう)として昇殿(しようてん)をゆるさるゝよし記(しる)せりまた|鎌倉大草子(かまくらおほさうし)に永徳(えうとく)二年 氏満(うちみつ)小山義政(をやまよしまさ)退治(たいち)の為(ため)発向(はつかう)とある条下(てうか)に先手(さきて)の大将(たいしやう)の中(うち)に木戸将監(きへしやうけん)|範季(のりすへ)と云(いふ)名(な)を挙(あ)く同書 応永(おうえい)二十三年 憲基(のりもと)の旗下(きか)にありて伊豆国(いつのくに)国清寺(こくしやうし)にて討死(うちしに)の人の中(なか)に|木戸将監満範(きへしやうけんみつのり)といへる名(な)を註(ちゆう)せり何(いつ)れも其(その)氏族(しそく)の人(ひと)なるへけれともいまた系図(けいつ)を考(かんか)へす》 万里居士寓居地(はんりこしくうきよのち)《割書:前(さき)に記(しる)せしことく万里居士(はんりこし)木戸孝範(きへたかのり)と共(とも)に隅田河(すみたかは)の上流(しやうりう)に寓(くう)すとあ|れは万里居士(はんりこし)の住(ちゆう)せしもまた三河島(みかはしま)のあたりならん歟(か)されと今(いま)其地(そのち)》  《割書:さたか|ならす》万里居士(はんりこし)諱(いみな)は瑞九(すいきう)初(はしめ)花洛(みやこ)の万年寺(まんねんし)に入(いり)大圭和尚(たいけいおしやう)に従(したか)ふて其法(そのほふ)  を受(う)く禅機(せんき)文材(ふんさい)ありて名誉(めいよ)四方(しはう)に揚(あく)る応仁(おうにん)の乱(らん)を避(さけ)て江左(こうさ)濃尾(のうひ)の  間(あいた)に寓(くう)す後(のち)浮屠(ふと)の業(きやう)を廃(すて)て自(みつから)漆桶居士(しつとうこし)と号(かう)し又(また)一(いつ)に梅花無尽蔵(はいくはむしんさう)  と称(しよう)す文明(ふんめい)の末(すゑ)東武(とうふ)に遊(あそ)ふ太田道潅(おほたたうくはん)眷遇(けんくう)甚(はなはた)渥(あつ)し潅(くはん)歿(ほつ)して後(のち)濃(のう)  に帰(かへ)り老(おひ)を投(とう)す曽(かつ)て天下白(てんかはく)二十五 巻(くはん)を著(あらは)す文明(ふんめい)中(ちゆう)東遊(とういう)の詩文集(しふんしふ)  あり梅花無尽蔵(はいくはむしんさう)と号(なつ)く 熱田明神社(あつたみやうしん  ) 新鳥越(しんとりこえ)にあり祭(まつ)る所(ところ)日本武尊(やまとたけるのみこと)一坐なり当社(たうしや)は往古(むかし)元(もと)  鳥越(とりこえ)の地(ち)にありしか正保(しやうほ)年中(ねんちゆう)今(いま)の所(ところ)に移(うつ)れり例祭(れいさい)は隔年(かくねん)六月十五日  執行(しゆきやう)す 駿馬塚(しゆんめのつか) 同所 南側(みなみかは)何某(なにかし)か別荘(へつさう)の中(うち)にあり伝云(つたへいふ)康平(かうへい)中(ちう)源義家(みなもとのよしいへ)東征(とうせい) 【注 文明十七年は「乙巳」】 【右丁】 本社 【左丁】 山谷(さんや)  熱田明神社(あつたみやうしん  ) 神主 千住通り 【右丁】 駿馬塚(しゆんめのつか) 駿馬塚 【左丁】  の時(とき)愛(あい)する所(ところ)の青海原(あをうなはら)といへる駿足(しゆんそく)偶(たま〳〵)病(やまひ)してこゝに斃(へい)す公(こう)大(おほひ)に是(これ)を  傷(いた)みて朽骨(きうこつ)を駅路(ゑきろ)の傍(かたはら)に埋(うつ)め給ふとそ其後(そののち)里民(りみん)小祠(こほこら)を営(いとな)み  建(たつ)といへり又(また)近(ちか)き頃(ころ)其地(そのち)のあるし公(こう)の明徳(めいとく)を千歳(せんさい)の下(しも)に顕(あらは)さん  ことを欲(ほつ)して塚(つか)の側(かたはら)に石碑(いしふみ)を建(たて)て祠(ほこら)は其塚(そのつか)の東(ひがし)の方(かた)に遷(うつ)せり 飛鳥明神社(あすかみやうしん  ) 小塚原(こつかはら)にあり此地(このち)の産土神(うふすな)とす世人(せしん)混(こん)して蓑輪(みのわ)の  天王(てんわう)と称(しよう)せり別当(へつたう)は聖護院宮末(しやうこゐんのみやのまつ)にして荊石山神翁寺(けいせきさんしんをうし)と号(かう)す  祭神(まつるかみ)大己貴命(おほあなむちのみこと)《割書:日本紀(にほんき)古語拾遺(ここしふゐ)等(とう)に大己貴命(おほあなむちのみこと)は|素盞嗚命(そさのをのみこと)の御子(みこ)なりとあり》事代主命(ことしろぬしのみこと)《割書:古事記(こしき)に事代主命(ことしろぬしのみこと)は|大国主命(おほくにぬしのみこと)の御子(みこ)なりと云》  二坐なり社伝(しやてんに)曰(いはく)往古(むかし)延暦(えむりやく)年中 比叡(ひえ)の黒珍師(こくちんし)東国(とうこく)化度(けと)の砌(みきり)此地(このち)に  至(いた)るに小篠(をさゝ)の茂(しけ)りたる一堆(いつたい)の小塚(こつか)あり《割書:此塚(このつか)によりて此地(このち)を|小塚原(こつかはら)と号(かう)せり》其塚(そのつか)より夜(よ)な〳〵  瑞光(すいくわう)を現(けん)し白衣(ひやくえ)を着(ちやく)したる二人(ふたり)の翁(おきな)荊棘(うはら)生(おひ)たる石(いし)の上(うへ)に降臨(こうりん)あり  て黒珍師(こくちんし)に示(しめ)して曰(いは)く我(われ)は素盞嗚命(そさのをのみこと)の和魂 大己貴命(おほあなむちのみこと)なりと《割書:当社(たうしや)牛頭(こつ)|天王(てんわう)と称(しやう)》  《割書:するは|是(これ)なり》又(また)一人(ひとり)の翁(おきな)曰(いはく)我(われ)は事代主命(ことしろぬしのみこと)なりと《割書:是(これ)を飛鳥(あすか)|明神(みやうしん)と号(かう)す》云云 仍(よつ)て恐敬(きやうけい)謁(かつ)  仰(かう)し清浄(しやう〳〵)の地(ち)を撰(えら)むて此(この)神(かみ)を一社(いつしや)に奉(ほう)すと《割書:牛頭天王(こつてんわう)は毎歳(まいさい)六月三日より|同九日まて千住大橋(せんしゆおほはし)の南詰(みなみつめ)に》 【右丁】 飛鳥社(あすかのやしろ) 小塚原天王宮(こつかはらてんわう  ) 茶や 千住海道 日慶寺 へん天 みたらし 茶や 瑞光石 【左丁】 いなり ちそう 本社 千住大はし 昔の奥州海道 御供所 【右丁】  《割書:仮(かり)に宮居(みやゐ)を設(まう)け旅所(たひしよ)としかしこに神幸(しんかう)ありこの祭礼(さいれい)の権輿(けんよ)は天文(てんふん)十年辛丑六月三日 此(この)荒川(あらかは)へ神輿(しんよ)|一基(いつき)流(なか)れよる故(ゆへ)に是(これ)より後(のち)は此日(このひ)をもつて祭日(さいしつ)とするといへり其(その)神輿(しんよ)を取揚(とりあけ)し地(ち)今(いま)猶(なを)存(そん)す》  《割書:又(また)旅所(たひしよ)の家根(やね)を葺(ふく)に彼地(かのち)に生(しやう)したる茅草(ちかや)を用(もち)ゆること|旧例(きうれい)なりとそ飛鳥明神(あすかみやうしん)の祭礼(さいれい)は毎歳(まいさい)九月十五日に執行(しゆきやう)す》瑞光石(すいくはうせき)《割書:本社(ほんしや)の右(みき)の方(かた)小塚(こつか)の上(うへ)に|あり又(また)荊石(けいせき)ともいへり往古(そのかみ)》  《割書:二神(にしん)老翁(らうをう)に化(け)しこの石上(せきしやう)に現(けん)したまふといへり考(かんか)ふるにこれおそらくは上古(しやうこ)の荒墓(あらはか)な|らんか》 豊徳山誓願寺(ほうとくさんせいくはんし) 恵心院(ゑしんゐん)と号(かう)す飛鳥明神(あすかみやうしん)の北(きた)にあり浄土宗(しやうとしう)にして  本尊(ほんそん)に阿弥陀如来(あみたによらい)を安(あん)す開基(かいき)は恵心僧都(ゑしんそうつ)なり  寺伝(してんに)曰(いはく)僧都(そうつ)顕密(けんみつ)の二教(にけう)を究(きは)め猶(なを)諸宗(しよしう)を渡(わた)り遂(つゐ)に弥陀(みた)の本願(ほんくはん)  に帰入(きにう)し往生要集(わうしやうえうしふ)等(とう)を著(あらは)して大(おほい)に自他(した)を化(け)せり《割書:今世(いまのよ)念仏(ねんふつ)|弘法(くほふ)の初(はしめ)なり》その頃(ころ)  僧都(そうつ)上足(しやうそく)の慶祐法師(けいいうほふし)に語(かた)りて曰(いは)く念仏(ねんふつ)の教(をしへ)いまた東国(とうこく)に弘(ひろ)まら  す汝(なんち)行(ゆき)て弘法(くほふ)すへしとなり仍(よつて)慶祐法師(けいいうほふし)命(めい)を受(うけ)東国(とうこく)に遊化(いうけ)し  此地(このち)に来(きた)り当寺(たうし)を建立(こんりふ)す《割書:宇治(うち)の恵心院(ゑしんゐん)に比(ひ)して|当寺(たうし)をも恵心院(ゑしんゐん)と号(かう)す》中古(ちうこ)頽破(たいは)せしを増上寺(そうしやう )  十八世(しふはつせ)了蓮社定誉上人(れうれんしやちやうよ    )随波大和尚(すいはたいおしやう)中興(ちゆうこう)せり《割書:塩尻(しほしり)といへる書(ふみ)に恵心僧都(ゑしんそうつ)の|母公(はゝきみ)より僧都(そうつ)のもとへ贈(おく)られ》  《割書:し戒(いましめ)の文(ふみ)をいたせり学仏(かくふつ)の徒(と)の教(をしへ)にもなれかしと思ひ得(う)るまゝこヽに記(しる)す其文(そのふん)に云(いは)く|》  《割書:恵心僧都(ゑしんさうつ)勅(ちよく)に依(よつ)て参内(さんたい)し称讃浄土経(しやうさんしやうときやう)を侍講(しこう)申(まう)されけれは叡感(えいかん)のあまり本尊(ほんそん)をよひ|御衣(きよい)を賜(たま)はりしかは古郷(ふるさと)なる母公(はゝきみ)の方(かた)へ御衣(きよい)を贈(をく)られし返事(かへりこと)に是(これ)を栄(えい)とし悦(よろこひ)とする》 【左丁】  《割書:心なくなか〳〵に恨(うらみ)られし其文(そのふみ)に|》   《割書:山(やま)へ登(のほ)せたてまつりて後(のち)はあけてもくれてもゆかしさは心をくたきけれともたふとき道人(たうにん)と|なしたてまつるうれしやとこそおもひしに大裡(おほうち)のましはりをし官位(くわんゐ)にすゝみ青甲(しやうかふ)紫甲(しかふ)に|衣(ころも)のいろをかへ君(きみ)にむかひたてまつり御経(おんきやう)講読(こうとく)し御布施(おんふせ)のものとりたまひ候 程(ほと)の名聞(みやうもん)利(り)|養(やう)のひしりとなりそこねたまふ口惜(くちをし)さよ唯(たゝ)命(いのち)を限(かき)りに樹下石上(しゆかせきしやう)のすまゐ草(くさ)とり木(もく)|食(しき)に身(み)をやつしはて木をこり落葉(おちは)をひろひ偏(ひとへ)に後世(こせ)たすからんとしたまへとこそこしらへたて|しにふたゝひさかゑいて王宮(わうきう)のましはりをし官位階(くわんゐかい)の品(しな)さま〳〵の袈裟(けさ)ころもにいてたちをかさり|名聞(みやうもん)の為(ため)に説法(せつほふ)し利養(りやう)の為(ため)の御布施(おんふせ)さらに出離(しゆつり)の御(おん)はたらきにあらすたゝ輪回(りんゑ)のおん身と|なりたまふそやあひかたきうとんけの仏教(ふつけう)にあひぬれはと思ひいりて後世(こせ)たすかりたまふへきに|かなしくも一旦(いつたん)の名利(みやうり)にほたされたまふ事(こと)をろかなる中の愚(をろか)なること殊(こと)に口(くち)をしき次第あさ|ましくこそ候へこれを面目(めんもく)とおもひたまふはいやしきまよひなるへし夢(ゆめ)の世(よ)におなしまよひにほた|されたる人〳〵に名をしられて何かはせん永(なか)き世にさとりをきはめて仏(ほとけ)の御前(おんまへ)にて名(な)を|あけさせたまへかし仏法(ふつほふ)をしらさる賢人(けんしん)さへ首陽山(しゆやうさん)にとりこもりて王命(わうめい)をはいなひまう|せしとかやいはんや剃髪染衣(ていはつせんえ)の御身にて捨身(しやしん)の行(きやう)におもむきたまひし山こもりのひしりの何(なん)|条(てう)さのみ勅定(ちよくちやう)にかゝつらひ男女(なんによ)雑居(さつきよ)の所へは出させたまふへきそまたたまはり候 御衣(きよい)はいかにし|たる御はからひそやすてに如法如説(によはふによせつ)のひしりさへ布施(ふせ)にうたれては地獄(ちこく)に焦(こか)さるゝとこそ申に|称讃浄土経(しようさんしやうときやう)講読(こうとく)の御布施(おんふせ)の御衣(きよい)此 尼(あま)とりて何(なに)とすへく候や後世(こせ)たすくるまてこそなくとも|かへりて三途(さんつ)に引落(ひきおと)したまふへきことあさましきとも申へきやうなくと耳(みゝ)にもふれしとおもへはこの|法師(ほふし)にかへし候云云   以上取意略文》  《割書:嗚呼(あゝ)賢(けん)なるかなこの老婆(らうは)かくてそ僧都(そうつ)も後世(こせ)を厭(いと)ふ事いやましに欣浄(こんしやう)の念(ねん)あつくして往生(わうしやう)|要集(えうしふ)を述(しゆつ)し自他(した)を利益(りやく)したまへり季世(きせい)の僧法師(そうほふし)権門勢家(けんもんせいか)にみつからちかつき諞(へつら)ひて名(な)を|もとめ利(り)をむさほるもの此(この)老尼(らうに)の筆(ふて)のあとをみはいかてか面(おもて)に汗(あせ)せすしてありなんや是(これ)に慙愧(さんき)の|こゝろなからんは禽獣(きんしう)にもをとりはへらん僧都(そうつ)もとより名利(みやうり)の人(ひと)ならすたゝ至孝(しいかう)のこゝろさしより|贈(をく)れる物(もの)をさへつれなき迄に返(かへ)しいましめられしは後人(こうしん)のをよふへくもなき所為(しよゐ)なりける云云》 【右丁】  千住川(せんしゆかは)   荒川(あらかは)の下流(かりう)   にて隅田川(すみたか[は])   浅草川(あさくさかは)の上(かみ)   なり  隅田川上流          千住大橋(せんしゆおほはし) 河原 山王 いなり 【左丁】 荒川 日慶寺 熊野 せいくわんし 【右丁】 熊野権現社(くまのこんけん ) 同 北(きた)の方 千住川(せんしゆかは)の端(はた)にあり祭神(まつりかみ)伊弉冊尊(いさなみのみこと)一坐 社伝云(しやてんにいはく)  永承(えいしやう)年中 義家朝臣(よしいへあそん)奥州征伐(あうしうせいはつ)の時(とき)此地(こゝ)に至(いた)り河(かは)を渡(わた)らんとするに  奇異(きい)の霊瑞(れいすい)あり故(ゆへ)に鎧櫃(よろひひつ)に安(あん)せし紀州(きしう)熊野権現(くまのこんけん)の神幣(みてくら)を此地(このち)に  とゝめて熊野権現(くまのこんけん)と斎(いつき)たてまつるといへり   《割書:按(あんする)に熊野権現(くまのこんけん)飛鳥明神(あすかみやうしん)何(いつ)れも紀州(きしう)に鎮坐(ちんさ)あり又 此地(このち)に両社(りやうしや)あるも所謂(いはれ)あるへきことなれとも今 伝(てん)|記(き)とり〳〵にして詳(つまひらか)なることを得(え)す余説(よせつ)を■(まうけ)【注①】むと欲(する)といへともしけきをいとひてこゝに略(りやく)す》 千住大橋(せんしゆのおほはし) 荒川(あらかは)の流(なかれ)に架(わた)す奥州海道(あうしうかいたう)の咽喉(いんこう)なり橋上(きやうしやう)の人馬(にんは)は絡繹(らくえき)  として間断(かんたん)なし橋(はし)の北(きた)壱弐町を経(へ)て駅舎(とまりや)あり此橋(このはし)は其(その)始(はしめ)文禄(ふんろく)三年  甲午九月 伊奈備前守(いなひせんのかみ)奉行(ふきやう)として普請(ふしん)ありしより今に連綿(れんめん)たり 甘露山延命寺(かんろさんえむめいし) 応味院(おうみゐん)と号(かう)す下沼田(しもぬまた)にあり真言宗(しんこんしう)の古刹(こせつ)にして  行基大士(きやうきたいし)の草創(さう〳〵)なり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)は同作(おなしさく)にして六阿弥陀第二番  目とす春秋(しゆんしう)二度(にと)の彼岸(ひかん)には参詣(さんけい)多(おほ)し 富士浅間祠(ふしせんけん ) 同所 川下(かはしも)の方 深林(しんりん)の中にあり土民(とみん)伝(つたへ)云(いふ)昔(むかし)此地(このち)に足立荘司(あたちしやうし)  にて宮城宰相(みやきさいしやう)といへる者(もの)あり一女子(ひとりのむすめ)をもてり名附(なつけ)て足立姫(あたちひめ)といふ《割書:六阿弥陀|第一番》 【左丁】  《割書:第四番 両縁起(りやうえんき)には豊島(としま)左衛門尉 清光(きよみつ)の女(むすめ)ともまた二番目 縁起(えんき)には沼田荘司(ぬまたのしやうし)の女(むすめ)とも|三番目五番目をよひ六番目 縁起(えんき)には足立従二位宰相藤原正成(あたちちゆうにゐさいしやうふちはらのまさしげ)の女(むすめ)ともあり》父母(ちゝはゝ)隣県(りんけん)の豊(と)  嶋(しま)左衛門尉なりける者(もの)のもとへ娥(か)【注②】せしめんとす《割書:六阿弥陀第一番 縁起(えんき)に足立少輔(あたちのせういふ)の|もとへ送(をく)ると又四番目五番目六番目》  《割書:縁起(えんき)には沼田少輔(ぬまたのせういふ)のもとへ送(をく)るとあり三番目 縁起(えんき)|余木(きあまり)の弥陀(みだ)等(とう)の縁起(えんき)上(かみ)におなし》されとも彼(かの)女子(むすめ)常(つね)に仏神(ふつしん)を敬(けい)するの  外(ほか)他(た)なし故(ゆへ)に是(これ)に随(したか)はす父母(ちゝはゝ)強(しゐ)て婚姻(こんいむ)を整(とゝの)ふといへとも猶(なを)此事(このこと)をふかく  患(うれ)へとし竟(つゐ)に荒川(あらかは)に入て死(し)す《割書:又 沼田川(ぬまたかは)とも云 千住川(せんしゆかは)の|上にて豊島川(としまかは)の事なり》侍女(ししよ)も又ともに身(み)を投(なけ)て死(し)  せり仍(よつて)荘司(しやうし)悲歎(ひたん)に絶(たへ)す又 村人(そんしん)彼(かの)女子(によし)等(ら)の行跡(きやうせき)のたゝならぬを称(しよう)し其日(そのひ)  六月朔日の事なれはとて其(その)霊(れい)を富士浅間(ふしせんけん)と称(しよう)して一社(いつしや)に奉(ほう)すといふとし  かれとも其(その)説(せつ)未詳(いまたつまひらかならす) 浅間淵(せんけんのふち) 同所の河淵(かはふち)をさしてしかいへり足立姫(あたちひめ)溺死(てきし)の所(ところ)なりといふ 十二天森(しふにてんのもり) 足立姫(あたちひめ)の侍女(ししよ)の死骸(なきから)を収(おさ)めて十二天(しふにてん)と称(しよう)す船方村(ふなかたむら)の鎮守(ちんしゆ)なり 余木阿弥陀如来(きあまりのあみたによらい) 宮城村(みやきむら)龍燈山(りうとうさん)性翁寺(しやうをうし)に安(あん)す往古(そのかみ)行基大士(きやうきたいし)六体(ろくたい)の阿(あ)  弥陀如来(みたによらい)の像(さう)を彫刻(てうこく)ありしその余材(よさい)を以(もつ)て是(これ)を造(つく)りたまひ草堂(さうたう)の  中(うち)に安置(あんち)ありしを遥(はるか)に後(のち)明応(めいおう)の頃(ころ)正誉龍呑和尚(しやうよりようとんおしやう)改(あらため)て一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)となし 【注① ■は「亻+設」 「儲」の誤】 【注② 「娥」は「嫁」の誤】 【右丁】  光茶銚(ひかりちやかま) 千住(せんしゆ)の駅(しゆく)はなれ 道(みち)の左側(ひたりかは)にあり 土人(としん)は耆老茶(ちゝかちや) 屋(や)とも呼(よひ)あへり むかし此店(このみせ)の茶(ちや) 銚(かま)の光沢(ひかり)の殊(こと) に勝(すくれ)たりしを 重(おも)き御感賞(こかんせう)に あつかりしより 此(この)茶銚(ちやかま)竟(つゐに) 名物(めいふつ)となりて 其名さへ  世に  光(かゝやく)事   とは   なりぬ 【右丁】 春秋(はるあき)二度の彼岸(ひかん) には六阿弥陀廻(ろくあみためくり)とて 日かけの麗(うらゝか)なるに 催(もよほ)され都下(とか)の貴賤(きせん) 老(おい)たる若(わか)き打群(うちむれ)つゝ 朝(あさ)とく宅居(いへゐ)を出ると いへとも行程(みちのり)遠(とほ)けれは 遅々(ちゝ)たる春(はる)の日も 長(なか)からす秋(あき)はことさら  暮(くれ)やすう   おもはる      へし 【右丁】  て此地(このち)に住(ちゆう)し給へり則(すなはち)此寺(このてら)の開祖(かいそ)たり当寺(たうし)に足立姫(あたちひめ)の墳墓(ふんほ)と称(しよう)するもの  あれとも詳(つまひらか)ならす 五智山総持寺(こちさんそうちし) 西新井村(にしあらゐむら)にあり真言宗(しんこんしう)にして遍照院(へんせうゐん)と号(かう)す弘法大師(こうほふたいし)の  草創(さう〳〵)にして本尊(ほんそん)弘法大師(こうほふたいし)の霊像(れいさう)も同作(おなしさく)なり霊験(れいけん)著(いちしる)く毎月廿一日には  開帳(かいちやう)ありて参詣(さんけい)頗(すこふる)おほし《割書:或人云 当寺(たうし)弘法大師(こうほふ    )の霊像(れいさう)はそのかみ北総(ほくそう)真間山弘法寺(まゝさんくほふし)に安置(あんち)|ありしが日蓮宗(にちれんしう)に転(てん)したりし頃 此像(このさう)をは当寺(たうし)に遷(うつ)すとなり》【注】  阿伽井(あかゐ)《割書:本堂の左の傍(かたはら)にあり則 弘法大師(こふほふたいし)の加持水(かちすい)なり洗目(せんもく)服薬(ふくやく)に用るに|其(その)応験(しるし)あり此井に依て地名を西新井と称(しよう)すといへり》 八幡宮(はちまんくう) 六月村(ろくくはつむら)にあり別当(へつたう)を炎天寺(えむてんし)と号(かう)す伝云(つたへいふ)八幡太郎義家朝臣(はちまんたらうよしいえあそん)  奥州征伐(あうしうせいはつ)の時(とき)此国(このくに)の野武士(のふし)とも道(みち)を遮(さへき)る其時(そのとき)六月 炎天(えむてん)なりければ味方(みかた)の  勢(せい)労(つかれ)て戦(たゝかは)むとする気色(けしき)もなかりしにより義家朝臣(よしいへあそん)心中(しんちゆう)に鎌倉八幡宮(かまくらはちまんくう)を  祈念(きねん)ありしかは不思儀(ふしき)に大陽(たいやう)繞(めくる)か如く光(ひか)りを背(せ)に受(うけ)けれは敵(てき)の野武士等(のふしら)日(ひ)  にむかふ故(ゆへ)に眼(まなこ)くらみ大(おほひ)に敗北(はいほく)しぬ依(よつ)て此地(このち)に八幡宮(はちまんくう)を勧請(くはんしやう)ありしとそ此(この)  故(ゆへ)に村(むら)を六月(ろくくはつ)といひ寺(てら)を炎天(えむてん)と称(しよう)し又 幡正山(はんしやうさん)と号(かう)すとなり 白籏塚(しらはたつか) 伊興(いかう)村田(むらた)の中(なか)にあり伝云(つたへいふ)往古(そのかみ)八幡太郎義家朝臣(はちまんたろうよしいへあそん)奥州征伐(あうしうせいはつ)の時(とき) 【左丁】  此地(このち)に白籏(しらはた)を建(たて)凱哥(かいか)を唱(とな)へしより此名(このな)ありとそ近頃迄(ちかころまて)此(この)塚上(ちよしやう)に小祠(こほこら)あり  其傍(そのかたはら)へ立寄(たちよる)ものあれは崇(たゝり)【祟】ありし故(ゆへ)社(やしろ)荒廃(くはうはい)にをよひけれとも其侭(そのまゝ)に再建(さいこん)も  せさりしとて今(いま)塚(つか)はかりを存(そん)せり《割書:今も此塚(このつか)の上(うへ)に|登(のほ)る事(こと)を禁(きん)す》此辺(このあたり)の田面(たのも)を白籏耕地(しらはたかうち)と  いふ又 兜塚(かふとつか)と称(しよう)するもの五箇所(こかしよ)あり《割書:兜首(かふとくひ)実撿(しつけん)ありし後(のち)其|首を埋(うつ)めたる所とそ》 萬徳山明王院(まんとくさんみやうわうゐん) 梅林寺(はいりんし)と号(かう)す梅田村(むめたむら)にあり新義(しんき)の真言宗(しんこんしう)にして本尊(ほんそん)に  地蔵菩薩(ちさうほさつ)を安(あん)す寺記云(しきにいはく)当院(たうゐん)開基(かいき)志太三郎先生義広(したのさふらうせんしやうよしひろ)は八幡太郎義家(はちまんたらうよしいへ)  の孫(まこ)六条判官為義(ろくてうはんくわんためよし)の三男(さんなん)なり《割書:始(はしめ)常陸国(ひたちのくに)伊出(いて)に住(ちゆう)し後(のち)同国 志太村(したむら)にありける|故(ゆへ)に志太(した)を以て家号(かかう)とす八坂本平家物語(やさかほんへいけものかたり)志田(した)に作(つく)る》初(はしめ)武州(ふしう)  榎戸(えのきと)に一院(いちゐん)を創基(さうき)し祈願所(きくわんしよ)とす《割書:当院(たうゐん)是(これ)なり昔(むかし)は|同所 榎戸(えのきと)にありしなり》是(これ)より先(さき)治承(ちしよう)の頃(ころ)頼朝(よりとも)初(はしめ)  て義兵(きへい)を起(おこ)すの時(とき)義広(よしひろ)自立(しりふ)の志(こゝろさし)ある故(ゆへ)に頼朝(よりとも)に随(したか)はす却(かへつ)て小山小四郎朝(をやま      とも)  政(まさ)が為(ため)に敗(やふ)らる其後(そのゝち)同左馬介義純(        よしすみ)《割書:義広(よしひろ)三代|の孫なり》蟄居(ちつきよ)して此(この)梅田村(むめたむら)に住(ちゆう)す《割書:今(いま)寺(てら)の|惣門(そうもん)の》  《割書:外(そと)右(みき)の方(かた)を廓(くるは)と字(あさな)するは往古(そのかみ)|義純(よしすみ)の第宅(ていたく)の地(ち)なりといへり》其裔(そのえい)常陸介久広(ひたちのすけひさひろ)《割書:義純(よしすみ)より|三代の孫也》当院(たうゐん)の傍(かたはら)に始(はしめ)て天満宮(てんまんくう)  を勧請(くはんしやう)し鎮守(ちんしゆ)とせり又(また)神告(しんこう)に仍(よつて)姓(せい)を梅田(むめた)と改(あらた)め小太郎と号(かう)す又 遥(はるか)に後(のち)  永正(えいしやう)年間 関東(くはんとう)大(おほひ)に乱(みた)る同太郎左衛門 久義(ひさよし)《割書:小太郎久広(      ひさひろ)より十六代の孫同 帯刀(たてわき)|久光(ひさみつ)の子なり後(のち)左馬介と号(かう)す》是(これ)を 【迁は俗字】 【右丁】 西新井(にしあらゐ)  大師堂(たいしたう)    《割書:毎月廿一日|開扉(かいひ)あり》 茶や 樓門 【左丁】 方丈 こま堂 本堂 加持水 【右丁】 梅田天神祠(むめたのてんしん  )  不動堂(ふとうたう)  別当明王院(へつたうみやうわうゐん) てん神 不動堂 【左丁】 弁天 別當 【右丁】  厭(いと)ひ丹州(たんしう)島村城(しまむらのしろ)に移(うつ)り住(ちゆう)し又同国 峯山城(みねやまのしろ)に移(うつ)るといへとも遂(つゐ)に敵(てき)の  為(ため)に生害(しやうかい)す《割書:長子(ちやうし)久頼(ひさより)をよひ久友(ひさとも)|続(つゝひ)て峯山(みねやま)に住(ちゆう)せり》其後(そののち)国民(こくみん)当院(たうゐん)に乱入(らんにう)し遂(つゐ)に破壊(はゑ)にをよひ  しを慶長(けいちやう)の頃(ころ)頼専坊(らいせんはう)《割書:久義(ひさよし)の|舎弟》今(いま)の地(ち)に遷(うつ)して寺院(しゐん)を再興(さいこう)し真知法印(しんちほふゐん)を  以(もつ)て中興開山(ちゆうこうかいさん)とす又(また)寛永(くはんえい)二十年の春(はる)  大樹(たいしゆ)   御放鷹(こはうよう)のみきり立(たち)  よらせ給ひ辱(かたしけなく)も当院(たうゐん)の来由(らいゆ)を聞(きこ)し召(めさ)れ寺領(しれう)等(とう)を附(ふ)せらる  不動堂(ふとうたう)《割書:本堂右の方にあり本尊 不動明王(ふとうみやうわう)は弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)にして覚鑁上人(かくはんしやうにん)根来伝法院(ねころてんほふゐん)草創(さう〳〵)ありし頃(ころ)|護摩堂(こまたう)の本尊(ほんそん)に安置(あんち)ありしを天正(てんしやう)三年 故(ゆへ)ありて花洛(みやこ)歌中山(うたのなかやま)清閑寺(せいかんし)に移(うつ)し奉(たてまつ)り又 寛保(くはんほ)元年》  《割書:不思儀(ふしき)の霊感(れいかん)あるに仍(よつ)て|終(つゐ)に当寺(たうし)に安置(あんち)せしとなり》  天満宮祠(てんまんくう  )《割書:不動堂(ふとうたう)の後(うしろ)の方 小(すこし)き丘(をか)の上(うへ)なる古松(こしよう)の|下(もと)にあり来由(らいゆ)は寺記(しき)の中(うち)につまひらかなり》 正一位鷲大明神社(しやういちゐわしたいみやうしん  ) 花亦村(はなまたむら)にあり此地(このち)の産土神(うふすな)とす祭神(まつるかみ)詳(つまひらか)ならす本地(ほんち)は釈(しや)  迦如来(かによらい)にして鷲(わし)に乗(しやう)する体相(ていさう)なり別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして正覚院(しやうかくゐん)と号(かう)す  毎歳十一月 酉日(とりのひ)を以(もつ)て祭日(さいしつ)とせり縁起(えむきに)曰(いはく)本地(ほんち)釈迦牟尼如来(しやかむにによらい)は新羅三郎(しんらさふらう)  義光(よしみつ)崇教(そうきやう)の霊像(れいさう)にして天喜(てんき)の昔(むかし)奥州(あうしう)安倍貞任(あへのさたたう)叛逆(ほんきやく)を企(くはたつ)るの時(とき)本尊(ほんそん)の  示現(しけん)によりて其軍(そのいくさ)勝利(しようり)ありし由(よし)を記(しる)せとも其(その)説(せつ)詳(つまひらか)ならす 【左丁】   《割書:按(あんする)に当社 鷲大明神(わしたいみやうしん)は土師大明神(はしたいみやうしん)なるへしはとわの仮名(かな)の転(てん)せしより謬(あやま)り来(きた)れる歟当社を世俗(せそく)浅(あさ)|草観音(くさくはんおん)の奥院(おくのゐん)と称(しよう)す是に因(よつ)てこれを考(かむか)ふるに浅草寺(せんさうし)縁起(えむき)のうちに土師臣中知(はしのおみなかとも)をよひ檜前浜成(ひのくまのはまなり)》   《割書:竹成(たけなり)といへる漁者(きよしや)主従(しゆう〳〵)三人の名(な)を挙(あけ)たり日本紀(にほんき)に垂仁天皇(すいにんてんわう)三十二年 野見宿称(のみのすくね)にはしめて土部臣(はしのおみ)|の姓(せい)を賜(たま)ふとあれはこの中知(なかとも)も其 遠裔(えむえい)なるへし《割書:野見宿称は天穂日命十四世の孫なり古事記に天穂日命は|出雲臣武蔵国造土師の連等か遠祖なりとあり》又 続日本紀(そくにほんき)》   《割書:曰(いはく)檜前舎人直由加麻呂(ひのくまのとねりあたへゆかまろ)といへるはむさしの国(くに)加美郡(かみこほり)の人にして土師姓(はしせい)と祖(そ)を同すとあれは此 浜成(はまなり)竹成(たけなり)も武蔵国(むさしのくに)|の人にして主従(しゆう〳〵)三人ともに姓(せい)は土師(はし)なるへし古事記(こしき)に天菩比命(あまのほひのみこと)の子(こ)に建比良鳥命(たけひらとりのみこと)といへる神(かみ)あり此神(このかみ) は土師姓(はしせい)の祖(そ)》   《割書:なれは彼三人の漁者の輩なと是等の神を崇まつりしものならん歟当社に毎歳十一月酉の日 祭(まつり)あり世に|酉(とり)のまちと云まちは祭(まつり)の略語(りやくご)なり此日(このひ)近郷(きんかう)の農民(のうみん)家鶏(にはとり)を奉納(ほうのう)す翌日(あくるひ)納(おさむ)る所の家鶏(にはとり)をこと〳〵く浅草寺(せんさうし)》   《割書:観音(くわんおん)の堂前(たうせん)に放(はな)つを旧例(きうれい)とすこれ又より処ある歟 猶(なを)後人(こうしん)の考(かんかへ)を待(まつ)のみ》 石浜(いしはま) 今(いま)橋場(はしは)といふ義経記(きけいき)に治承(ちしやう)四年九月十一日《割書:東鑑(あつまかゝみ)に頼朝(よりとも)隅田川(すみたかは)を越(こえ)て武蔵国(むさしのくに)に|入(い)るを十月二日とす九月十一日と記(しる)せしは》  《割書:あやまり|なるへし》右大将(うたいしやう)頼朝卿(よりともきやう)下総国(しもつふさのくに)より武蔵国(むさしのくに)へ打越(うちこえ)給ふとある条下(てうか)に石浜(いしはま)と申(まうす)  処(ところ)は江戸太郎(えとのたらう)か知行所(ちきやうしよ)なりと云云《割書:按(あんする)に同書に江戸太郎重長(えとたらうしけなか)は八箇国(はつかこく)の大福長者(たいふくちやうしや)とあり則(すなはち)|重長(しけなか)は畠山庄司重忠(はたけやましやうししけたゝ)の一族(いちそく)にして其頃 豊島郡(としまこほり)江戸(えと)の地(ち)》  《割書:も一円(いちゑむ)に所領(しよりやう)のうち|なりしと見えたり》其後(そののち)千葉家(ちはけ)の所領(しよりやう)となり代々(よゝ)是(これ)を知行(ちきやう)せしなり《割書:永禄(えいろく)二年|小田原(をたはら)北(ほふ)》  《割書:条家(てふけ)の古文書(こもんしよ)に太田新六郎(おほた     )同 大膳亮(たいせんのすけ)所領(しよりやう)の中(うち)に千束(せんそく)石浜(いしはま)の名(な)を加(くは)へたり又 木内宮内少輔(きうちくないのせういふ)石浜(いしはま)の今津(いまつ)|を領(りやう)し或(あるひ)は会下寺(ゑかてら)の領(りやう)にも附(ふ)するよし記(しる)せり会下寺(ゑかてら)は総泉寺(そうせんし)の事也 木内宮内少輔(きうちくないのせういふ)此地を領(りやう)せしことは 石浜城址(いしはましやうし)の|許(もと)につまひらかなり》 石浜城址(いしはまのしろあと) 其地(そのち)今(いま)さたかならす事跡合考(しせきかつかう)に神明宮(しんめいくう)の北(きた)の方(かた)なりとあり《割書:按(あんする)に|亀戸(かめ[い]と)》  《割書:普門院(ふもんゐん)洪鐘(こうしよう)の銘(めい)隅田川(すみたかは)《振り仮名:鐘ゕ淵|かね  ふち》の事(こと)を挙(あけ)たる文中(ふんちゅう)に普門院(ふもんゐん)古(いにしへ)は隅田川(すみたかは)三胯(みつまた)の城中(しやうちゆう)にありと云云 普門院(ふもんゐん)は|則(すなはち)千葉自胤(ちはよりたね)創立(さうりふ)の梵刹(ほんさつ)にして三胯(みつまた)の地(ち)も又 千葉家(ちはけ)の所領(しよりやう)たりし事は小田原(をたはら)北条家(ほふてうけ)の古文書(こもんしよ)に詳(つまひらか)なり》  《割書:三胯(みつまた)と唱(とな)ふる地は荒川(あらかは)綾瀬川(あやせかは)の下流(かりう)隅田川(すみたかは)に落合(おちあふ)川股(かはまた)の所(ところ)故(ゆへ)にかく名(な)つくるといへり|然(しか)る時(とき)は事跡合考(しせきかつかう)に記(しる)せし如く神明宮(しんめいくう)の北(きた)の方(かた)その城址(しろあと)なるへき歟》鎌倉大草子(かまくらおほさうしに)云(いはく) 【左記は、振り仮名表記の異常の確認のため、暫時表記】 太田(おほた)新六郎 太田新六郎(おほた     ) 太田新六郎(おほた ) 太田新六郎(おほた) 《振り仮名:太田   |おほた     》 《振り仮名:親文字|右ルビ|左ルビ》 親文字(右ルビ|左ルビ) 振仮名(ふりがな) (ふりがな) (ふりがな) 【右丁】 鷲大明神社(わしたいみやうしん  ) 【幟】 正一位鷲大明神 【左丁】 かくら所 弁天 未【末】社 とり 本社 【右丁】  千葉介胤直(ちはのすけたねなを)上杉憲忠(うへすきのりたゝ)に談(かたら)はれ父子(ふし)兄弟(きやうたい)共(とも)に一味(いちみ)して成氏(しけうち)に背(そむ)く《割書:成氏(しけうち)は将軍(しやうくん)|左馬頭(さまのかみ)なり》  こゝにまた故(こ)千葉大助(ちはのたいすけ)《割書:満|胤》か二男 陸奥守入道常輝(むつのかみにうたうしやうき)父子(ふし)《割書:其子を|孝胤(たかたね)と云》下総国(しもつふさのくに)馬加(まくはり)の城(しろ)  より打(うつ)て出(いて)成氏(しけうち)の味方(みかた)となりて合戦(かつせん)す竟(つゐ)に享徳(かうとく)四年三月廿日 胤直(たねなを)敗北(はいほく)し  其子(そのこ)胤宣(たねのふ)をよひ千葉入道常瑞(ちはにうたうしやうすい)舎弟(しやてい)中務入道了心(なかつかさにうたうれうしん)等(とう)悉(こと〳〵)く切腹(せつふく)すよつて  陸奥守(むつのかみ)は千葉(ちは)へ移(うつ)り千葉(ちは)の跡(あと)を継(つき)ける然(しか)るに上杉(うへすき)よりは中務入道了心(なかつかさにうたうれうしん)の子息(しそく)  実胤(さねたね)自胤(よりたね)二人を取立(とりたて)下総国(しもつふさのくに)市川(いちかは)の城(しろ)に楯籠(たてこもる)こゝにをひて千葉家(ちはけ)二流(  りう)となり  総州(そうしう)大(おほひ)に乱(みた)る其頃(そのころ)京都(みやこ)より東下野守常縁(とうのしもつけのかみつねより)陸奥守(むつのかみ)退治(たいち)として馬加(まくはり)の城(しろ)へ馳(はせ)  向(むか)ひ攻戦(せめたゝか)ふ陸奥守(むつのかみ)かなはすして千葉(ちは)へ引退(ひきしりそ)く《割書:常縁(つねより)は千葉介常胤(ちはのすけつねたね)の六男 東(とうの)六郎太夫|胤頼(たねより)十世の孫(そん)なり時(とき)に美濃国(みのゝくに)郡上の城主(しやうしゆ)》  《割書:たり京都将軍(きやうとしやうくん)の命(めい)を|受(うけ)て下総(しもつふさ)に下向(けかう)す》康正(かうしやう)二年の正月 成氏(しけうち)市川(いちかは)の城(しろ)を囲(かこ)む同く十九日 落城(らくしやう)して  実胤(さねたね)は武州(ふしう)石浜(いしはま)へ落行(おちゆき)自胤(よりたね)は同 赤塚(あかつか)へ移(うつ)りける其後(そののち)上杉家(うへすきけ)より胤直(たねなを)の一(いつ)  跡(せき)として実胤(さねたね)を千葉介(ちはのすけ)に任(にん)せしむされと成氏(しけうち)陸奥守(むつ[の]かみ)の子(こ)孝胤(たかたね)を贔屓(ひいき)あ  りて千葉(ちは)に居置(すへをか)れける間《割書:孝胤(たかたね)は其父(  ちゝ)陸奥守入道常輝(むつのかみにうたうしやうき)と共に故(こ)胤直(たねなを)兄弟(きやうたい)を亡(ほろほ)し|成氏(しけうち)へ奉公(ほうこう)の人にして故(こ)成氏(しけうち)より千葉(ちは)の跡(あと)を賜(たまは)りしなり》実胤(さねたね)は  城(しろ)へ入る事かなはすして武州(ふしう)石浜(いしはま)葛西(かさい)辺(へん)を知行(ちきやう)し時(とき)を待(まち)て居(ゐ)たりしか世(よ)の 【左丁】  鷲大明神祭(わしたいみやうしんまつり)    毎年十一月酉の日に    修行(しゆきやう)す世に酉(とり)の    まちといへり此日    近郷(きんかう)の農民(のうみん)家鶏(にはとり)を    献(けん)す祭(まつり)終(をは)るの後(のち)    悉(こと〳〵)く浅草寺観音(せんさうしくわんおん)    の堂前(たうせん)に放(はな)つを    旧例(きうれい)とす 【右丁】  中(なか)を述懐(しゆつくはい)し濃州(のうしう)に閑居(かんきよ)す依(よつ)て上杉家(うヘすきけ)より実胤(さねたね)の跡(あと)を兄(あに)の自胤(よりたね)に賜(たまは)り千葉介(ちはのすけ)  に任(にん)す是を武州(ふしう)の千葉(ちは)と号(かう)す《割書:以上鎌倉大草紙の|意を採る》  南朝紀伝(なんてうきてんに)云(いはく)丙子(ひのへね)康正(かうしやう)二年三月 千葉(ちは)の家(いへ)も成氏(しけうち)と上杉(うへすき)と相論(あいろんする)によつて  二(ふたつ)にわかれ惟胤(これたね)と園城寺(おんしやうし)の某(それかし)武州(ふしう)に趣(おもむ)く云云  梅  花 無 盡 蔵 文 明 丙 午 隅 田 河 詩 註 云   隅 田 在 武 蔵     下 総 両 国 之 間 路 傍 小 塚 有 柳 道 灌 公 為 攻 下 総 之     千 葉 構 長 橋 三 條 云云  同  書   便 面 題 詩 註 云   八 景 或 雪 讃 献 千 葉 蓋 上 総     下 総 千 葉 所 管 也 今 寓 武 州 者 与 上 下 総 之 千 葉 矛     盾 一 門 分 為 二 灌 公 ■ 在 武 者       雪 月 碧 湖 煙 雨 後   漁 歌 鐘 色 送 飛 鴻       片 帆 千 里 売 花 市   上 下 総 帰 君 握 中     蓋 祱 寓 武 之 千 葉 惟 種 也 云云  《割書:又 関東古戦録(くはんとうこせんろく)小田原実記(をたはらしつき)等(とう)の書(ふみ)に千葉大助満胤(ちはのたいすけみつたね)の庶子(そし)北総(ほくそう)馬加(まくはり)の城主(しやうしゆ)陸奥守康胤(むつのかみやすたね)異母弟(いとこ)惟胤(これたね)|と家督(かとく)をあらそひ康胤(やすたね)打勝(うちかつ)て総領(そうりやう)を持(たも)てり依(よつ)て宿老(しゆくろう)の園城寺(ゑんしやうし)左馬介次郎 惟胤(これたね)をいさなひ江戸城(えとしやう)|にいたり太田道灌(おほたたうかはん)に庇院(ひいん)を頼(たのみ)けれは道灌(たうくはん)かれる高家(かうけ)にて微力(ひりき)なるをあはれみ石浜(いしはま)の砦(とりて)をさつけて是を守(まも)|らしむ其後 惟胤(これたね)身まかり其子 次郎胤利(    たねとし)しはらく上杉朝興(うへすきともおき)に仕(つか)へけるかまた南方(なんはう)の為(ため)に追(をは)れて江戸(えと)の|城(しろ)を退去(たいきよ)し後(のち)北条氏康(ほふてううちやす)の旗下(きか)に属(そく)して石浜(いしはま)近辺(きんへん)の所領(しよりやう)を安緒(あんと)【堵ヵ】し跡(あと)を胤宗(たねむね)に譲(ゆつ)れりされと天正(てんしやう)元年|癸酉十一月 古河(こか)の御所(こしよ)義氏(よしうち)下総関宿(しもつふさせきやと)の城(しろ)を攻(せむ)る頃(ころ)胤宗(たねむね)討死(うちしに)す依(よつ)て其後は石浜(いしはま)の千葉家(ちはけ)に女子(によし)のみにて|男子(なんし)なかりしにより氏政(うちまさ)の下知(けち)として北条常陸介氏繁(    ひたちのすけうちしけ)の三男を養子(やうし)として彼(かの)女子(によし)に妻合(めあは)せ次郎胤村(    たねむら)と名乗(なのら)|せ千葉の遺跡(ゆいせき)相続(さうそく)なさしむしかれともいまた幼少(えうせう)なれはとて木内上野(きうちかうつけ)といへる者に預(あつけ)らる上野(かうつけ)討死(うちしに)の後は其子|宮内省輔(くないのせういふ)支配(しはい)ありて其頃(  ころ)は石浜領(いしはまりやう)四千貫文なりしなり然るに千葉 成人(せいしん)の後(のち)石浜(いしはま)を返(かへ)したまはるへきむね》 【左丁】  《割書:度々(たひ〳〵)まうするゝといへとも木内(きうち)か家老(からう)宇月内蔵介(うつきくらのすけ)といへる者(もの)主人(しゆしん)上野(かうつけ)ならひに宮内少輔(くないのせういふ)ともにしは〳〵高名(かうみやう)|勲功(くんこう)あけて数(かそ)ふへからす依(よつ)て石浜(いしはま)改易(かいえき)は難有(ありかたき)事なかるへしと云て延引(えむいむ)しける間(あひた)千葉次郎の内に須藤何某(すとう   )とかや|いひし者 主(しゆう)の所望(しよまう)むなしき事を無念(むねん)に思(おも)ひ彼(かの)宇月(うつき)をねらひ石浜(いしはま)の総泉寺(そうせんし)といふ会下寺(えかてら)にて指違(さしちかへ)て死(し)し|けるかこの由 小田原(をたはら)へ聞(きこ)へけれはさためて千葉次郎の所行(わさ)なるへしとて石浜領(いしはまれう)をは終(つゐ)に返(かへ)されすとあり》   《割書:按(あんする)に馬加陸奥守(まくはりむつのかみ)を鎌倉大草紙(かまくらおほさうし)に常輝(しやうき)とし関東古戦録(くはんとうこせんろく)に康胤(やすたね)とす千葉系譜(ちはけいふ)を考(かむか)ふるに康胤(やすたね)入道(にうたう)|して常輝(しやうき)と号(かう)す大介満胤(たいすけみつたね)の二男なり又 梅花無盡蔵(はいくわむしんさう)の註(ちゆう)に惟種(これたね)とあるも胤(たね)を書誤(かきあやま)れり南方紀伝(なんほうきてん)を證(しよう)と|すへし惟胤(これたね)は実胤(さねたね)の孫(まこ)にして守胤(もりたね)の子(こ)なりすへて実胤(さねたね)より惟胤(これたね)まて相つゝいて此城(このしろ)に居住(きよちゆう)し文明(ふんめい)に至(いた)りて|再(ふたゝ)ひ戦争(せんしやう)にをよひしならん永禄(えひろく)二年 小田原(をたはら)北条家(ほふてふけ)の古文書(こもんしよ)に江戸(えと)赤坂(あかさか)六箇村おなしく新倉(にゐくら)小机(こつくへ)の|上丸子(かみまるこ)葛西(かさい)の上平井(かみひらゐ)下足立(しもあたち)の淵江(ふちえ)伊興寺(いこうてら)信内(のふうち)野郷(のゝかう)太多窪(おほたくほ)沼田(ぬまた)保木曽(ほきそ)三俣(みつまた)大窪(おほくほ)以上 千葉殿(ちはとの)所領(しよりやう)と|云云又 按(あんする)に此(この)石浜(いしはま)の城(しろ)は天正(てんしやう)に至(いた)り千葉(ちは)の一跡(いつせき)絶(たへ)たりしより後 廃(はい)せしなるへし》 橋場(はしは) 今(いま)神明宮(しんめいくう)の辺(あたり)より南(みなみ)の方(かた)今戸(いまと)を限(かき)り橋場(はしは)と称(しよう)す旧名(きうめい)は石浜(いしはま)  なり《割書:事跡合考(しせきかつかう)にいはく石浜(いしはま)の|地(ち)今(いま)は汐入(しほいり)と唱(とな)ふると云云》義経記(きけいき)に治承(ちしよう)四年庚子九月十一日《割書:東鑑(あつまかゝみ)に同年十月二日|頼朝(よりとも)太井(ふとゐ)隅田(すみた)の両河(りやうか)を》  《割書:済(わた)るゝとあり太井(ふとゐ)は刀袮川(とねかは)の|事にて更級記(さらしなのき)にも出(いて)たり》頼朝公(よりともこう)隅田川(すみたかは)を越(こえ)て下総国(しもつふさのくに)より武蔵国(むさしのくに)へ赴(おもき)き給ふ  時(とき)二三日の雨(あめ)に洪水(こうすい)岸(きし)を浸(ひた)し軍勢(くんせい)を渡(わた)し兼(かね)たりけれは武衛(ふゑい)江戸太郎(えとのたらう)  重長(しけなか)に仰(おほせ)て浮橋(うきはし)を係(かけ)しめむとす重長(しけなか)あへて諾(うけか)はす依(よつ)て千葉介(ちはのすけ)《割書:常|胤》葛西(かさい)  兵衛(ひやうゑ)《割書:清|重》両人(りやうにん)江戸太郎(えとのたらう)を助(たすけ)むとて知行所(ちきやうしよ)今井(いまゐ)栗川(くりかは)かめなしうしまとゝいふ  より《割書:栗川かめなしうし|まと共に詳(つまひら)ならす》海人(あま)の釣舟(つりふね)を数多(あまた)登(のほ)せ江戸太郎(えとのたらう)が知行所(ちきやうしよ)なりける  石浜に折節(おりふし)西国船(さいこくふね)の着(つき)たるを数千艘(すせんさう)集(あつ)め三日の中(うち)に浮橋(うきはし)を組(くみ)てけれは 【右丁】 石浜(いしはま)  神明宮(しんめいくう) 隅田川西岸 天神 あはしま きんけい石 大こく 山王 水神 本社 真崎稲荷祠(まさきいなりやしろ) 【左丁】 何の  葉か こゝにも  一木  落葉    哉   芭蕉 稲荷 茶や 文塚 天王 手置■【帆】負命 彦狭知命 ゑま所 神主 狐崫 茶や 【右丁】  其  二 思川 茶や 【左丁】 うき旅の   みちに  流るゝ    おもひ      河 泪の   袖や  水の   みな     かみ  道興准后            思河(おもひかは)            橋場渡(はしはのわたし) この所  すみた   河の  わたし     場 茶や 船番所 【右丁】 総泉寺(そうせんし) 砂尾不動(すなをふとう) 同 薬師(やくし) 方丈 客殿 砂尾 不動 【左丁】    総泉寺    大門        此辺         別荘         おほし  其  三 【右丁】 妙亀明神社(みやうきみやうしん  ) 《振り仮名:浅茅か原|あさち  はら》 玉姫稲荷(たまひめいなり)      其      四               人めさへ                 かれて               淋しき                夕まくれ               浅茅か                原の               霜を                わけ                 つゝ                道興准后 此辺  別荘  おほし 【左丁】 浅茅か  原にて あたし  野や 焼もろ  こしの   かは はかり  其角 玉姫いなり 妙亀堂 妙亀庵 浅茅か原 【右丁】 法源寺(ほふけんし) 《振り仮名:鏡か池|かゝみ いけ》 かゝみか池 法源寺 古碑  其  五 【左丁】  佐殿(すけとの)神妙(しんめう)なるよし仰(おほせ)られ太井(ふとゐ)隅田(すみた)を打越(うちこえ)て板橋(いたはし)に着(つき)給ふとあり《割書:隅田河(すみたかは)古(いにしへ)|海(うみ)につゝき》  《割書:海村(かいそん)なりし事は義経記(きけいき)の|文義(ふんき)にてもしるへし》  《割書:夫木抄|》   隅田河むかしはきかす今こそは身を浮橋のある世なりけれ   光俊  《割書:其(その)言葉書(ことはかき)にいはく此哥(このうた)は康元(こうけん)元年 鹿島社(かしまのやしろ)にまうてけるに角田川(すみたかは)の渡(わたり)をみれは彼(かの)わたり今は浮橋(うきはし)を|わたしたりけれはとあり又》  梅  花 無 盡 蔵 詩 註 云   隅 田 在 武 蔵 下 総 両 国 之 間 路     傍 小 塚 有 柳 道 灌 公 為 攻 下 総 千 葉 構 長 橋 三 条 云云   《割書:按(あんする)に源平盛衰記(けんへいせいすいき)をよひ光俊(みつとし)鹿島記行(かしまきこう)等(とう)の書(ふみ)に載(のす)るものは仮初(かりそめ)にまうくる所の橋(はし)なるへし源平盛衰記|をよひ太平記(たいへいき)等(とう)其余の書(ふみ)にも橋場(はしは)の名(な)みへす橋場(はしは)の号(な)をそらくは道灌(たうくわん)下総(しもつふさ)の千葉家(ちはけ)を攻(せむ)る頃(ころ)|より発(おこ)るならん南向亭(なんかうてい)云く隅田川(すみたかは)の渡場(わたしは)より一町はかり川上(かはかみ)にむかしの橋(はし)の古杭(ふるくい)水底(みなそこ)にのこりて|舟(ふね)筏(いかた)のゆきゝにさはり侍(はへ)るよしされと其(その)橋(はし)いつれの頃(ころ)のものにやと云云 依(よつ)て考(かんか)ふれは今のわたし場(は)より|一町はかり川上(かはかみ)神明宮(しんめいくう)の大門(たいもん)の通(とほ)り其 旧跡(きうせき)なるへき歟また里老(りろう)伝(つた)へいふ此地(このち)法源寺(ほふけんし)大門(たいもん)の通(とほ)りをよひ|今のわたし場(は)より南(みなみ)の方(かた)鑒船所(ふなはんしよ)のあたり共(とも)にむかしの橋場(はしは)の旧跡(きうせき)なりといへり然(しか)る時(とき)は三所(みところ)共(とも)に橋(はし)を|かくるに似(に)たりこれによつて考(かんか)ふれは梅花無尽蔵(はいくはむしんさう)に所謂(いはゆる)長橋(なかはし)三条(さんてう)を構(かま)ふとある意(こゝろ)に協(かな)へるならん》 朝日神明宮(あさひしんめいくう) 橋場(はしは)にあり石浜神明(いしはましんめい)とも《割書:或人(あるひと)の説(せつ)に此地(このち)に神明宮(しんめいくう)ある|故(ゆへ)に上古(むかし)伊勢浜(いせはま)と唱(とな)へしと云云》或(あるひは)俗(そく)に橋場(はしは)  神明(しんめい)とも号(なつ)く祭神(まつるかみ)伊勢(いせ)に同(おな)しく内外両皇太神宮(うちとりやうくわうたいしんくう)を斎(いつき)まつる社伝(しやてん)に云  人皇四十五代 聖武天皇(しやうむてんわう)の御宇(きよう)神亀(しんき)元年甲子九月十一日 鎮坐(ちんさ)と云云  牛頭天王(こつてんわう)社《割書:本社の左(ひたり)の方にあり橋場(はしは)の鎮守(ちんじゆ)にして祭礼(さいれい)は毎歳六月十五日なり世に汐入(しほいり)の押合(をしあい)|祭(まつり)とて神輿(みこし)今戸橋(いまとはし)をわたらせらる氏子(うちこ)の輩(ともから)こと〳〵く神輿舁(みこしかき)に出(いつ)るに其 神輿(みこし)に》 【右丁】  角田河渡(すみたかはのわたし) 名にし  おはゝ   いさ  こと    問ん   都鳥 【左丁】  我    思ふ   ひとは  ありや   なし    や    と    在原業平 【右丁 文字無し】 【左丁】               正平(しやうへい)七年               隅田川合戦之図(すみたかはかつせんのつ) 【右丁】  其  二 【右丁】  《割書:手(て)を附(つく)る事なく各(をの〳〵)肩(かた)はかりにて押合(をしあひ)〳〵行事(ゆくこと)なり此故(このゆへ)に押合祭(をしあひまつり)と云よし事跡合考(しせきかつかう)に見(み)えたり当社(たうしや)|に古(ふる)き神輿(みこし)壱基(いつき)あり家根(やね)の裡(うち)に天正(てんしやう)十五年丁亥四月 山城住人(やましろのちうにん)高須美作(たかすみまさか)拵之(これをこしらゆる)又同 棟札(むなふた)に同年 鈴木三郎(すゝき   )|冠者(くはんしや)家平(いへひら)とあり是は則 当社(たうしや)|神主(かんぬし)の名(な)にして代々 鈴木氏(すゝき  )なり》  天満宮(てんまんくう)《割書:本社の右の方にあり神像(しんさう)は菅神(かんしん)の真作(しんさく)にして明和(めいわ)四年丁亥六月五日 高辻前大納言家長卿(たかつちさきのたいなこんいへなかきやう)|勧請(くはんしやう)ありしとなり額(かく)は天満宮(てんまんくう)とありて高辻式部大輔世長朝臣(たかつちしきふたいふひさなかあそん)の筆(ふて)也其余 末社(まつしや)多(おほ)けれとこゝに省略(もら)す》  当社(たうしや)は建久(けんきう)正治(しやうち)の頃(ころ)繁昌(はんしやう)の地(ち)なりしとそ其頃(そのころ)は大社(たいしや)にて関東(くはんとう)の諸民(しよみん)伊勢(いせ)  に参宮(さんくう)せん事なりかたき輩(ともから)は当社(たうしや)に詣(まう)て祓(ぬさ)を受(うけ)たりといへり殊(こと)に千葉(ちは)  宇都宮(うつのみや)等(とう)の輩(ともから)尊信(そんしん)し神田(しんてん)等(とう)を寄附(きふ)す此地(このち)昔(むかし)は奥州街道(あうしうかいたう)にして文治(ふんち)  の頃(ころ)は鎌倉右大将家(かまくらうたいせうけ)も当社(たうしや)に参詣(さんけい)ありしとなり境内(けいたい)樹木(しゆもく)多(おほ)く鬱蒼(うつさう)として  上久(かみさひ)たり毎歳(としこと)六月晦日 名越祓(なこしのはらひ)を修行(しゆきやう)す祭礼(さいれい)は九月十六日なり《割書:此日(このひ)社地(しやち)にをひて生(しやう)|姜(か)を鬻(ひさ)く故(ゆへ)に》  《割書:俗間(そくかん)是(これ)を生姜(しやうか)|祭(まつり)と唱(とな)えたり》 真先稲荷明神社(まつさきいなりみやうしん  ) 同所 隅田河(すみたかは)の流(なかれ)に臨(のそ)む祭神(まつるかみ)倉稲魂(うかのみたま)一坐(いちさ)なり社伝(しやてん)云  久代(そのかみ)千葉介兼胤家(ちはのすけかねたねのいえ)に霊珠(れいしゆ)を伝(つた)ふ此(この)霊珠(れいしゆ)の加護(かこ)にや数度(すと)の戦場(せんちやう)に  先登(さきかけ)の誉(ほまれ)あり同 守胤(もりたね)の代に至(いた)り此(この)石浜(いしはま)の城主(しやうしゆ)たりしかは城内(しやうない)の鎮守(ちんしゆ)  として彼(かの)宝珠(ほうしゆ)をもて稲荷(いなり)に勧請(くはんしやう)し真先稲荷明神(まつさきいなりみやうしん)と号(かう)すと云云《割書:往年(いんしとし)本社(ほんしや)|造営(さうえい)の頃(ころ)》 【左丁】  《割書:社(やしろ)の軒端(のきは)神木(しんほく)の榎(ゑのき)に支(さゝへ)られて心(こゝろ)の儘(まゝ)ならさりしかは後(うしろ)の方(かた)の地を穿(うか)ちけるとき件(くたん)の霊珠(れいしゆ)を得(え)たりといへり|依(よつ)て今は神殿(しんてん)に収(おさ)め有信(うしん)の輩(ともから)には毎月午日 此 神宝(しんほう)の霊珠(れいしゆ)を拝(はい)さしむ》  本社(ほんしや)の額(かく)に真崎稲荷大明神(まつさきいなりたいみやうしん)とあるは神祇伯(しんきはく)卜部朝臣兼雄卿(うらへのあそんかねをきやう)の筆(ふて)なり  神木榎(しんほくゑのき)《割書:本社の前(まへ)にありて軒(のき)を覆(おほ)ふ中間(ちゆうかん)の虚(うつろ)より霊泉(れいせん)涌出(ゆしゆつ)す|病(やまひ)あるもの服飲(ふくいん)してしるしを得(う)るといへり》  此(この)社前(しやせん)は名(な)にしあふ隅田河(すみたかは)の流(なかれ)溶々(よう〳〵)として昼夜(ちうや)を捨(すて)す食店(りやうりや)酒肆(さかや)の軒端(のきは)  は河面(かはつら)に臨(のそ)むて四時(しいし)の風光(ふうくわう)を貯(たくは)ふ殊更(ことさら)夏(なつ)の日(ひ)は杯(さかつき)を流(なかれ)に洗(あら)つて炎暑(えんしよ)を  洒(そゝ)き秋(あき)の夜(よ)は中流(ちゆうりう)に棹(さほ)さして月(つき)を掬(きく)す春(はる)の夕(ゆふへ)妖艶(えうえむ)たる須田堤(すたつゝみ)の花盛(はなさかり)よ  り皚々(かい〳〵)たる白髭(しらひけ)木母寺(もくほし)の雪(ゆき)の朝(あした)の眺望(てうまう)も共(とも)に奇々(きゝ)として実(しつ)に遊宴(いうえむ)の勝(しよう)  地(ち)なり 思川(おもひかは) 稲荷(いなり)の前(まへ)より橋場(はしは)の渡場(わたしは)へ行道(ゆくみち)を横(よこ)きれる汐入(しほいり)の小溝(こみそ)をいふ治承(ちしよう)  四年庚子 鎌倉将軍(かまくらしやうくん)頼朝卿(よりともきやう)此地を過(よき)り給ひ河水(かはみつ)にて駒(こま)を洗(あら)はしむ故(ゆへ)に  駒洗川(こまあらひかは)とも号(なつ)くる由(よし)里民(りみん)云伝(いひつた)ふ   《割書:按(あんする)に東鑑(あつまかゝみ)に治承(ちしやう)四年庚子十月廿七日 佐竹冠者秀義(さたけくはんしやひてよし)追討(ついたう)の為(ため)に頼朝(よりとも)みつから進発(しんはつ)ありて同年十一月|四日 常陸国府(ひたちのこくふ)に着(つき)給(たま)ふよし見(み)えたり其頃(そのころ)の事ならんか又 北条(ほうてう)九代記に文治(ふんち)五年七月十九日 奥州(あうしう)|泰衡(やすひら)追討(ついたう)の首途(かといて)に頼朝(よりとも)隅田河(すみたかは)をわたらるゝ事を載(のせ)たりこのあたり往古(むかし)の奥州海道(あうしうかいたう)なれはさも|ありなんかし》 【右丁】  《割書:回国雑記 おもひ川にいたりてよめる》   うき旅の道になかるゝ思ひ川涙の袖や水のみなかみ 道興准后    《割書:かくて隅田河のほとりにいたると云云》 隅田河渡(すみたかはのわたし) 橋場(はしは)より須田堤(すたつゝみ)のもとへの古(ふる)き渡(わたり)なり今は橋場(はしは)の渡(わたし)と  唱(とな)ふ《割書:元禄(けんろく)開板(かいはん)の江戸鹿子(えとかのこ)といへる草紙(さうし)にむかしの渡(わたし)は今(いま)のところよりすこし川上(かはかみ)なりと所(ところ)のふるき|人は物語(ものかたり)するなりとありむかしは須田(すた)の渡(わたり)ともいひけるにや夫木抄(ふほくせう)に経兼(つねかね)の詠(えい)あり》  《割書:次(つき)にしるす》  《割書:古今集 むさしの国としもつふさの国とのなかにあるすみた河のほとりにいたりて都(みやこ)のいと》   《割書:こひしうおほえけれはしはし河のほとりにおりゐて思(おも)ひやれはかきりなく遠(とほ)くも来(き)に|けるかなとおもひわひてなかめをるにわたし守(もり)はや舟(ふね)にのれ日も暮(くれ)ぬといひけれは舟にのりて|わたらむとするにみな人物わひしくて都(みやこ)に思(おも)ふ人なくしもあらすさるおりに白(しろ)き鳥(とり)のはしと|あとあかき河のほとりにあそひけり京(みやこ)には見えぬ鳥(とり)なりけれはみな人見しらすわたし守に|是は何鳥(なにとり)そと問(とひ)けれは是なむ都鳥(みやことり)といひけるをきゝてよめる》  名にしおはゝいさ事とはむ都鳥我思ふ人はありやなしやと  《割書:吾妻の道の記 角田河(すみたかは)ちかしときゝて見にゆく今(いま)も船(ふね)に| のれといふはこのわたし守のくせにやあらん》  これそこのあつまち遠く思ひこしすみた河原の渡なりける      長嘯  とはてたゝそれとたのまむすみたかはむれゐる鳥はあらぬ名もこそ  同   《割書:かへりくる道(みち)にあさくさの観音(くわんおむ)とて国(くに)ゆすりてもてなす|仏(ほとけ)おはす云云》 【左丁】  《割書:夫木抄》  夕霧に須田のわたりは見えねとも舟人よはふ声聞ゆなり  経兼 石浜古戦場(いしはまこせんちやう) 橋場(はしは)の地(ち)すへて石浜(いしはま)といへるに似(に)たり《割書:新安手簡(しんあんしゆかん)に白石先生(はくせきせんせい)石浜(いしはま)の|考(かんかへ)ありこゝに略(りやく)す》  太平記云(たいへいきにいふ)正平(しやうへい)七年壬辰閏二月《割書:北朝(ほくてう)の観応(くはんおう)三年にして|文和(ふんわ)と改元(かいけん)の年なり》故(こ)新田義貞(につたよしさた)の次男(しなん)左兵  衛佐 義興(よしをき)三男 少将(せうしやう)義宗(よしむね)従父兄弟(いとこ)左衛門 義治(よしはる)義兵(きへい)を起(をこ)し其勢(そのせい)十万(  まん)  余騎(よき)にて武蔵国(むさしのくに)へ打越(うちこえ)たりこれに依(よつ)て将軍(しやうくん)尊氏(たかうち)も鎌倉(かまくら)を進発(しんはつ)し  敵(てき)を道(みち)に待(まち)て戦(たゝかひ)を決(けつ)せむと同十六日 僅(わつか)に五百余騎(  よき)にて武蔵国(むさしのくに)へ発(はつ)  向(かう)あり追々(をひ〳〵)に馳集(はせあつま)る勢(せい)すへて八万余騎なりしかは同廿日 武蔵野(むさしの)の  小手指原(こてさしはら)へ打(うつ)て出(いて)新田(につた)足利(あしかゝ)の両勢(りやうせい)二十万騎(   まんき)入乱(いりみたれ)て大(おほい)に戦(たゝか)ひけるに足利方(あしかゝかた)  の先陣(せんちん)急(きふ)に敗(やふ)れて引退(ひきしりそ)きけれは後陣(こちん)進(すゝ)む事(こと)能(あた)はす大(おほい)に敗走(はいそう)す義宗(よしむね)  自(みつから)諸軍(しよくん)を牽(ひきゐ)て大(おほい)に呼(よばつ)て云(いわく)天下(てんか)の為(ため)には朝敵(てうてき)なり我為(わかため)には父(ちゝ)の讐(あた)なり  此戦(このたゝかひ)にあたつて尊氏(たかうち)の首(くひ)を見(み)すむは何(いつれ)の時(とき)をか期(こ)すへきとて只(たゝ)二引両(ふたつひきりやう)の  大旗(おほはた)の引(ひく)に付(つき)て小手指原(こてさしはら)より石浜迄(いしはままて)坂東道(はんとうみち)既(すて)に四十六里を片時(かたとき)か間(あひた)  に追付(をひつき)たり此時(このとき)将軍(しやうくん)は石浜(いしはま)を打渡(うちわたり)虎口(ここう)を遁(のか)る《割書:天正本(てんしやうほん)には|隅田川(すみたかは)とあり》猶(なを)将軍(しやうくん)の兵(へい) 【右丁】  士(し)残(のこ)り止(とまつ)て先途(せんと)を支(さゝへ)たる間(あひた)に日も既(すて)に酉(とり)の下(さか)りになりて河(かは)の渕瀬(ふちせ)も見(み)え  わかされは義宗(よしむね)は続(つゝひ)てわたすにもあらす又 後(あと)よりつゝく味方(みかた)もなけれはやす  からぬものかなと牙(きは)をかむて本陣(ほんちん)へ引帰(ひきかへ)さるゝとあり《割書:以上太平記|の意を採る》 砂尾不動院(すなをふとうゐん) 橋場寺(はしはてら)と号(かう)す渡場(わたしは)の少(すこ)し南(みなみ)の方(かた)道(みち)より右(みぎ)にあり天台宗(てんたいしう)  にて浅草寺(せんさうし)に属(そく)せり《割書:往古(そのかみ)は法相宗(ほつさうしう)なりしか住持(ちゆうち)教圓師(けうゑむし)の代|長寛(ちやうくわん)癸未歳より宗風(しうふう)を転(てん)すといふ》宝亀(はうき)四年癸丑 良弁僧都(らうへんそうつ)  の上足(しやうそく)寂昇(しやくしよう)上人 当寺(たうし)を開基(かいき)し本尊(ほんそん)に不動明王(ふとうみやうわう)の像(さう)を安(あん)す  縁起曰(えむきにいはく)本尊(ほんそん)不動明王(ふとうみやうわう)は良弁僧都(らうへんそうつ)相州(さうしう)大山寺(おほやまてら)にありし頃(ころ)彫刻(てうこく)ありし  三体(さんたい)の一(いつ)にして彼寺(かのてら)の本尊(ほんそん)と同木同作なり僧都(そうつ)一時(あるとき)上足(しやうそく)寂昇師(しやくしようし)に告(つけ)  て云(のたまは)く三体(さんたい)のうち一体(いつたい)は此山(このやま)にとゝめ一体(いつたい)はみつから持念(ちねん)す残(のこ)る所(ところ)の一体(いつたい)  は汝(なんち)に附属(ふそく)すへし何方(いつかた)にても有縁(うえむ)の地(ち)に安(あん)すへしとなり仍(よつ)て僧都(そうつ)化寂(けしゆく)  の後(のち)《割書:宝亀(ほうき)四年歳|八十二にして寂(しやく)せり》寂昇(しやくしよう)上人 上総(かつさ)の方(かた)へ赴(おもむ)く道(みち)の次(ついて)適(たま〳〵)此地(このち)に至(いた)り霊告(れいかう)を  得(え)て有縁(うえむ)の地(ち)たる事(こと)をしりこゝに安(あん)し則(すなはち)村老(そんろう)野人(やしん)にかたらひて草堂(さうたう)  を営(いとな)み砂尾不動尊(すなをふとうそん)と号(かうす)云云 砂尾薬師如来(すなをやくしによらい)寺内(しない)にあり本尊(ほんそん)は 【左丁】  恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)なり《割書:南向亭茶話(なんかうていさわ)に云(いは)く或説(あるせつ)に此処(このところ)に往古(むかし)砂尾修理太夫(すなをしゆりのたいふ)といふ人ありて|太田道灌(おほたたうくわん)と合戦(かつせん)すこれを石浜(いしはま)の戦(たゝかひ)といふ則(すなはち)砂尾氏(すなをうち)建立(こんりう)せし寺(てら)あり》  《割書:天台宗(てんたいしう)にて砂尾山不動院(すなをさんふとうゐん)と云(いふ)と云云されと当寺(たうし)伝記(てんき)に修理太夫(しゆりのたいふ)の事(こと)を載(のせ)すまた道灌(たうくわん)と戦(たゝか)ふこと|諸書(しよしよ)に見あたらす猶(なを)考(かんか)ふへし》 妙亀山総泉寺(めうきさんそうせんし) 曹洞派(さうとうは)の禅林(せんりん)にして江戸三箇寺(えとさんかし)の一員(いちゐむ)たり開山(かいさん)は噩叟(かくそう)  宗俊和尚(そうしゆんおしやう)と号(かう)す当寺(たうし)は千葉家(ちはけ)の香花院(かうけゐん)なり《割書:永禄(えいろく)二年 小田原(おたはら)北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)に|武州(ふしう)石浜(いしはま)の会下寺(ゑかてら)とあるは当寺(たうし)》  《割書:の事(こと)を云(いふ)|なるへし》  千葉氏墓(ちはうちのはか)《割書:境内(けいたい)卵塔(らんたふ)のうちにあり長(なかさ)三尺はかりの青石(あをいし)に梵字(ほんし)のみを鐫(ちりはめ)めて年号(ねんかう)法名(ほふみやう)等(とう)|を註(ちゆう)せす当寺(たうし)に大檀那(たいたんな)千葉介守胤(ちはのすけもりたね)の霊牌(れいはい)と称(しよう)するものあり総泉寺殿長山(そうせんしてんちやうさん)》  《割書:昌燉大居士(しやうとんたいこし)とあり寺僧(しそふ)云く守胤(もりたね)は弘治(こうち)三年丁巳十一月八日 卒去(そつきよ)すとされと守胤(もりたね)卒去(そつきよ)の時世(しせい)すこふる|たかひあるに似(に)たり又 江戸惣鹿子(えとそうかのこ)に千葉介常胤(ちはのすけつねたね)の墓碑(ほひ)には春浄院殿貞心居士(しゆんしやうゐんてんていしんこし)同 千葉介貞胤(ちはのすけさたたね)の|墓碑(ほひ)には即心自風流(そくしんしふうりう)とあるよし記(しる)せとも|今 所在(しよさい)をしらす猶(なを)他日(たしつ)考(かんか)ふへきのみ》  宇津宮弥三郎入道墓(うつのみややさふらうにうたうのはか)《割書:同 卵塔(らんたふ)のうちにあり青石(あをいし)の碑(ひ)二枚(にまい)其一(そのいつ)は正安(しやうあん)元年|十一月廿一日 其一(そのいつ)は徳治(とくち)二年丁未二月七日とあり》   《割書:按(あんする)に当寺(たうし)にいひつたふる所(ところ)の宇津宮弥三郎(うつみやや   )は頼綱入道実信坊(よりつなにうたうしつしんはう)か事(こと)なるへし又の号(な)を蓮生(れんしやう)と唱(とな)ふ|源空上人(けんくう    )の法(ほふ)を聴(きい)て後(のち)善恵上人(せんゑ   )に就(つい)て出家(しゆつけ)す正元(しやうけん)元年己未十一月 京師(けいし)に寂(しゆく)し遺言(ゆいけん)により墳(はか)を師(し)|の石塔(せきたふ)の傍(かたはら)に儲(まうく)るよし西山上人(せいさん    )の伝(てん)に見(み)えたり其地は則 京師(けいし)西山三鈷寺(にしやまさんこし)の東(ひかし)の坂(さか)なり依(よつ)て考(かんか)ふる|に当寺(たうし)にある所のものはむかし其 支族(しそく)なと此 辺(ほとり)にありて写(うつ)し建(たつ)る所の墓碑(ほひ)ならん歟されと正安(しやうあん)|徳治(とくち)いつれも正元(しやうけん)に後(をく)るゝ事四十有|余年なり最(もつとも)不審(ふしん)少(すくな)からす》  抑(そも〳〵)当寺(たうし)は正法眼蔵(しやうほふけんさう)の妙理(めうり)をしめし実相無相(しつさうむさう)の心印(しんゐん)をひらく向上(かうしやう)の一路(いちろ) 【右丁】  には着相実有(ちやくさうしつう)の草(くさ)を払(はら)ひ言下(こんか)の一喝(いつくはつ)には異学執解(いかくしうけ)の塵(ちり)を■(とは)【飛ヵ】す公案(こうあん)  の床(ゆか)の前(まへ)には一千七百の則(そく)を重(かさね)て以心伝心(いしんてんしん)を伝(つた)へ坐禅(させん)の衾(ふすま)のもとには朝三(てうさん)  暮四(ほし)の助(たすけ)を得(え)て文字言句(もんしこんく)の話頭(くわつたう)を離(はなれ)たり 浅茅原(あさちかはら) 総泉寺(そうせんし)大門(たいもん)のあたりをいふ  《割書:回国雑記  浅茅かはらといへる所にて》   人めさへかれて淋しき夕まくれ浅茅かはらの霜をわけつゝ  道興准后 妙亀塚(めうきつか)《割書:同所にあり梅若丸(むめわかまる)の母公(ほこう)妙亀尼(めうきに)の墳墓(ふんほ)なりといひつたふ小高(こたか)きところに草堂(さうたう)を建(たて)て|妙亀大明神(めうきたいみやうしん)と称(しよう)せり》  古墳一基(こふんいつき)《割書:妙亀堂(めうきたう)の下(もと)にあり青(あを)き一片(いつへん)の石(いし)にして長(たけ)二尺あまり碑面(ひめん)蓮花(れんけ)の上(うへ)円相(ゑむさう)の中(うち)法阿(ほふあ)と|云 号(な)をちりはめ下(した)に弘安(こうあん)十一年正月廿二日と彫付(ほりつけ)てあり《割書:此年四月正応|と改元あり》円光大師(えんくわうたいし)行状翼賛(きやうしやうよくさん)》  《割書:巻第四十二に云く嘉禄(かろく)三年六月廿二日《割書:此年十二月安貞|と改元あり》山門(さんもん)の衆徒(しゆと)奏聞(そうもん)を経(へ)て大谷源空(    けんくう)の墳墓(ふんほ)を破却(はきやく)せん|とす其夜(そのよ)法蓮坊(ほふれんはう)覚阿坊(かくあはう)潜(ひそか)に上人の櫃(ひつぎ)を堀出(ほりいた)し蓮生坊(れんしやうはう)《割書:宇津宮|弥三郎》信生坊(しんしやうはう)《割書:塩谷|入道》法阿坊(ほふあはう)《割書:千葉六郎太夫入道此人は|東氏の祖従五位下》|道遍坊(たうへんはう)《割書:渋谷七郎|入道》西仏坊(さいふつはう)《割書:頓宮兵衛|入道》の輩(ともから)出家(しゆつけ)の身(み)なりといへとも法衣(ほふえ)に兵杖(ひやうちやう)を帯(たい)し是(これ)を供奉(くふ)し広隆寺(くわうりうし)の来(らい)|迎坊円空(かうはうゑむくう)か許(もと)にうつすよしを記(しる)せり按(あんする)にこの法阿(ほふあ)は千葉六郎太夫胤頼(            たねより)か事なるへし胤頼(たねより)は常胤(つねたね)の子にして国(こ)|府六郎胤道(ふの    たねみち)の弟(をとゝ)なりこの古墳(こふん)恐らくは|この法阿(ほふあ)の墓碑(ほひ)ならんか》 《振り仮名:鏡か池|かゝみ いけ》 同所 西南(せいなん)の方(かた)にあり伝(つた)へ云 妙亀尼(めうきに)梅若丸(むめわかまる)の跡(あと)をしたひ京(みやこ)より  さまよひ来(きた)りしか梅若丸(むめわかまる)身(み)まかりし事(こと)を聞(きゝ)て此池(このいけ)に身(み)を投(なけ)てむなしく  なりぬとそ《割書:元禄(けんろく)開板(かいはん)の江戸鹿子(えとかのこ)といへる草紙(さうし)にむかしは|此池(このいけ)を泪(なみた)の池(いけ)と名(な)つけしとあり》傍(かたはら)に鏡池庵(きやうちあん)と号(なつく)る小庵(せうあん)あり 【左丁】  弁財天(へんさいてん)を安(あん)す是(これ)も妙亀尼(めうきに)をまつる所(ところ)なりといへり 袈裟懸松(けさかけまつ)《割書:池(いけ)の傍(かたはら)にあり一名(いちみやう)を衣(きぬ)かけ松(まつ)ともいへり妙亀尼(めうきに)この松(まつ)の枝(えた)に衣(きぬ)をかけ置(をき)てむなしく|なりしといへり旧樹(きうしゆ)枯(かれ)て今は若木(わかき)を栽(うへ)たり》 采女塚(うねめつか)《割書:同所にあり寛文(くわんふん)の頃(ころ)吉原町(よしはらまち)にうねめといへる遊女(いうしよ)はへりしか故(ゆへ)ありて夜(よ)にまきれてこゝに|来(きた)り池中(ちちゆう)に身(み)をなけてむなしくなりぬ夜明(よあけ)てのちあたりの人こゝに来(きた)りけるにかたはらの松(まつ)》  《割書:に小袖(こそて)をかけて一首の哥(うた)をそへたり|》   名をそれとしらすともしれ猿沢のあとをかゝみか池にしつめは  《割書:かくありしにより采女(うねめ)なる事をしりけれは人あはれみて塚(つか)をきつきけるといへり|》 東野先生之墓(とうやせんせいのはか)《割書:同所 橋場(はしは)の通(とほ)り福寿院(ふくしゆゐん)といへる禅林(せんりん)にあり先生は下野(しもつけ)の人 諱(いみな)は燠図(くはんと)【注】東壁(とうへき)は字(あさな)|仁右衛門と称(しよう)す安藤(あんとう)は養家(やうか)の姓(せい)にして本姓(ほんせい)は奈須氏(なすうち)なり徂徠先生(そらいせんせい)に就(つい)て大(おほひ)に》  《割書:古文(こふん)を誦(しゆ)し共(とも)に復古(ふくこ)の学(かく)を唱(とな)ふ墓碑(ほひ)の銘(めい)は|南郭服(なんくはくふく)夫子(ふうし)述(のふ)る所なり其文(そのふん)こゝに略(りやく)す》 帰命山法源寺(きみやうさんほふけんし) 無量寿院(むりやうしゆゐん)と号(かう)す浄業(しやうこふ)の古刹(こさつ)にして総泉寺(そうせんし)の南(みなみ)に隣(とな)る  宝亀(はうき)元年庚戌の春 智海法印(ちかいほふゐむ)始(はしめ)て此地(このち)に大日堂(たいにちたう)を建立(こんりふ)す其後(そののち)延暦(えむりやく)  三年甲子の秋 村里(そんり)の人民(しんみん)力(ちから)を合(あはせ)て一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)とし砂尾(すなを)石浜(いしはま)の道場(たうしやう)  と号(なつ)く《割書:開山(かいさん)大僧都(たいそうつ)智海法印(ちかいほふゐむ)は大同(たいとう)元年丙戌三月十四日 化寂(けしやく)二世 権大僧都(こんたいそうつ)了海法印(れうかいほふゐむ)は天長(てんちやう)七年庚戌四月|十五日 帰寂(きしやく)し三世 恵海法印(けいかいほふゐむ)は斉衡(さいかう)元年甲戌四月十五日帰寂す各(をの〳〵)墳墓(ふんほ)あり》  隆性院従二位藤原朝臣四辻有理卿墓碑(りうしやうゐんしゆにいふちはらのあそんよつつちありよしきやうほひ)《割書:当寺(たうし)境内(けいたい)にあり再校江戸砂子(さいかうえとすなこ)に延暦(えむりやく)八乙巳【注】|天六月廿七日としるせりまた南向亭(なんかうてい)云く青石(あおいし)》  《割書:の碑(ひ)あり漸(やうやく)みるに四辻家(よつつちけ)の姓名(せいめい)三人の官名(くはんみやう)実名(しつみやう)あれともたしかにしれす|其 来由(らいゆ)もまたしれかたしと云云 寺伝(してん)もともにつまひらかならす》 【注 「燠図」は「煥図」の誤】 【注 「乙巳」は「己巳」の誤】   《割書:按(あんする)に知譜拙記(ちふせつき)に西園寺大政大臣公経卿(さいをむしたいしやうたいしんきんつねきやう)の四男(よなん)四辻権大納言正二位実藤卿(よつつちこんたいなこんしやうにゐさねふちきやう)より十五世の孫(そん)権大納言(こんたいなこん)正二位 公理(きんよし)|延宝(えんはう)五年丁巳六月廿七日 薨(こう)す六十八とあり実藤卿(さねふちきやう)は安貞(あんてい)より永仁(えいにん)の間(あひた)の人(ひと)にして四辻家(よつつちけ)の祖(そ)なり延暦(えむりやく)とは時世(しせい)|大(おほひ)にたかへり恐らくは従二位(しゆにゐ)は正二位(しやうにゐ)有理(ありよし)は公理(きんよし)延暦(えむりやく)は延宝(えむはう)八年は五年己巳は丁巳の誤(あやまり)なるへき歟 薨去(こうきよ)の月日(つきひ)|附合(ふかう)せりされと文字(もんし)剝欠(はくけつ)して読(よむ)へからす猶(なを)後(のち)の考(かんかへ)をまつのみ》  斎藤別当実盛墓(さいとうへつたうさねもりのはか)《割書:同所にあり石塔(せきたふ)は僧形念珠(そうきやうねんしゆ)を持(ち)したる像(さう)を彫(きさ)み裏(うら)に篠原院(せふけんゐん)前左金吾(さきのさきんこ)|従五位徳山覚道真阿大居士(しゆこゐとくさんかくたうしんあたいこし)寿永(しゆえい)二癸卯年五月七日と刻(こく)しまた当寺(たうし)七世の住(しゆう)》  《割書:侶(りよ)法誉上人(ほふよ    )元泰和尚(けんたいおしやう)元禄(けんろく)七年甲戌五月廿一日 夜(よ)霊夢(れいむ)を感(かん)し孫(まこ)兵庫助信利(ひやうこのすけのふとし)是(これ)を建立(こんりふ)するよしを誌(しる)せり|法誉上人(ほふよ    )は実盛(さねもり)の氏族(しそく)なるよし南向亭茶話(なんかうていさわ)にみえたり法名(ほふみやう)は其頃(そのころ)新(あらた)に命(めい)したるとそ実盛(さねもり)は寿永(しゆえい)二年五月|賀州(かしう)篠原(しのはら)に|戦死(せん  )す》  鎌倉権太夫景道石塔(かまくらこんのたいふかけみちのせきたふ)《割書:同所にあり碑面向(ひめんかう)阿弥陀仏堪楽(あみたふつたんらく)延久(えむきう)二庚戌年十月廿二日とありて五輪(こりん)の石塔(せきたう)|婆(は)なり法名(ほふみやう)をよひ歿卒(ほつそつ)の年月いまた考(かんか)へす是も恐らくは後世その一族(いちそく)の人》  《割書:なとの造立(さうりふ)せしならん歟 景道(かけみち)は鎮守府将軍良兼(ちんじゆふしやうくんよしかね)四代の孫(そん)左衛門尉 致経(ともつね)の二男 村岡小五郎忠道(むらおか     たゝみち)の子なり|其余 当寺(たうし)歴代(れきたい)住侶(しゆうりよ)の石塔(せきたう)また仁寿(にんしゆ)昌泰(しやうたい)正暦(しやうりやく)寿永(しゆえい)康元(かうけん)文永(ふんえい)弘安(こうあん)正安(しやうあん)嘉元(かけん)正和(しやうわ)文応(ふんおう)正慶(しやうけい)文正(ふんしやう)等の年(ねん)|号(かう)を刻(こく)せし古墳(こふん)いつれも散失(さんしつ)して多(おほ)からす》  当寺(たうし)は天台宗(てんたいしう)の古跡(こせき)にして保元(はうけん)年間 中興(ちゆうこう)して保元寺(はうけんし)と号(なつけ)しか遥(はるか)の後(のち)  大(おほひ)に荒廃(くはうはい)せり妙蓮社(みやうれんしや)聡誉上人(そうよ   )酉仰和尚(いうかうおしやう)の時(とき)より台宗(たいしう)を改(あらた)めて浄家(しやうけ)  に転ず其時(そのとき)より文字(もんし)も法源(ほふけん)にあらため寺院(しゐん)再興(さいこう)ありしと云/漢字(ふりがな)《割書:当寺(たうし)中古(ちゆうこ)用(もち)ひ|たりしとて 古(ふるき)木印(もくいむ)》  《割書:を蔵(さう)す今猶 伝(つた)へてありその文字(もんし)保元寺(はうけんし)に作(つく)る又 境内(けいたい)に弥陀(みた)勢至観音(せいしくわんおん)一光(いつくわう)三尊(さんそん)の像(さう)を刻(こく)し下(した)に妙具(めうく)|色林即(しきりんそく)の五字(こし)をちりはめ裏(うら)に康平(かうへい)二年 武州(ふしう)保元寺(はうけんし)とある古墳(こふん)あり證(しよう)とすへし》 深栄山長昌寺(しんえいさんちやうしやうし) 法源寺(ほふけんし)の南(みなみ)に隣(とな)る当寺(たうし)は御府内(こふない)日蓮宗(にちれんしう)の古跡(こせき)にして延山(えむさん) 【左丁】  に属(そく)せり