《題:江戸名所図会 二十》 【挿し絵】 新宿(にゐしゆく) 渡口(わたしは)  松戸街道(まつとかいたう)  にして  川より  こなたへ  亀有(かめあり)と  いへり此  所(ところ)を流(なか)るゝ  は中川(なかかは)  にして  鯉魚(こい)を  産(さん)す  尤(もつとも)  美味(ひみ)   なり 【挿し絵】 夕(ゆふ) 顔(かほ) 観(くわん) 音(おん) 堂(たう) 【図中】 中川 【右頁】 夕顔(ゆふかほ)観音堂(くわんおんたう) 新宿(にゐしゆく)の渡口(わたしくち)より半道(はんみち)はかり西北(にしきた)の方(かた)中川(なかかは)の堤(つゝみ)  に傍(そひ)て飯塚村(いひつかむら)といふにあり本尊(ほん)聖観世音(しやうくわんせおん)は金像(こんさう)にして  御丈(おんたけ)五寸 計(はかり)ありと云(いふ)されとも深(ふか)く内龕(ないかん)に秘(ひ)して拝(はい)する事  をゆるさす別(へつ)に慈覚大師(しかくたいし)手刻(しゆこく)の観音(くわんおん)の木像(もくさう)を以(もつ)て龕前(かんせん)に  安(あん)す相伝(あひつた)ふ此地(このち)は昔(むかし)荘官(しやうくわん)関口氏(せきくちうち)某(それかし)か采地(さいち)なり《割書:江戸(えと)砂子(すなこ)に此地(このち)は|村岡(むらをか)五郎(こらう)平(たひらの)良文(よしふん)か》  《割書:墳墓(ふんほ)の旧址(きうし)なりと|あれとも拠(よりところ)なし》往古(そのかみ)関口氏(せきくちうち)此地(このち)に就(より)て熊野(くまの)権現(こんけん)及(およ)ひ水神(すゐしん)  等(とう)の社(やしろ)を創(さう)す《割書:此(この)叢祠(さうし)|今猶(いまなほ)存(そん)す》其(その)社前(しやせん)に老松(らうしよう)と榎樹(えのき)の二樹(しゆ)の雙立(さうりふ)する  あり春夏(はるなつ)は枝葉(しえふ)憔悴(せうすゐ)秋冬(あきふゆ)は翠色(すゐしよく)を増(ま)す人 以(もつ)て奇(き)なりとす  又 此(この)樹(しゆ)間(かん)時(とき)として光(ひかり)を発(はつ)し或(あるひ)は龍燈(りうとう)の梢(こすゑ)にかゝるをみるといふ  寛文(くわんふん)八年戊申 関口氏(せきくちうち)此地(このち)の医生(いせい)深谷氏(ふかやうち)と共(とも)に相謀(あいはか)りて此(この)  樹下(しゆか)を堀(ほり)しに一二の仏具(ふつく)を得(え)たり《割書:深谷氏(ふかやうち)は紀州(きしう)の産(さん)にして喜(き)兵衛と云|其頃(そのころ)齢(よはひ)七 旬(しゆん)媼(をうな)あり年(とし)相似(あひに)たり神(しん)》  《割書:祠(し)の傍(かたはら)に住(ちゆう)す翁媼(おきなをうな)素(もと)より信心(しん〳〵)にして日蓮(にちれん)の|弘法(くほふ)に帰(き)し常(つね)に妙(めう)経(きやう)唱題(しやうたい)懈怠(けたい)ある事なし》是(これ)必(かならす)古時(むかし)此地(このち)に有名(いうめい)の寺院(しゐん)  ありしならんと云(いひ)て竟(つひ)に同年六月六日 謹(つゝしん)て猶(なほ)此(この)土中(とちやう)を堀(ほり)しに                             七ノ百三十二 【左頁】  金像(こんさう)の大非(たいひ)の像(さう)一躯(いつく)を獲(え)たり《割書:仏像(ふつさう)背面(はいめん)に弘長(こうちやう)二年二月|造(つくる)といへる七 字(し)を刻(こく)せり》仍(よつて)直(すく)に  深谷氏(ふかやうち)の家(いへ)に移(うつ)し假(かり)に仏壇(ふつたん)に安(あん)す相好(さうかう)端厳(たんこん)実(しつ)に凡工(ほんこう)の  所造(しよさう)に出(いて)たる所(ところ)あり然(しかる)に其(その)前宵(せんせう)深谷氏(ふかやうち)老翁(おきな)媼(をうな)共(とも)に夢(ゆめ)の  応(さとし)あるを以(もつ)てます〳〵奇(き)なりとして竟(つひ)に此地(このち)を闢(ひらき)て草堂(さうたう)を  営(いとな)み此(この)霊像(れいさう)を迁(うつ)し奉(たてまつ)りけるとそ   按(あんする)に世(よ)に夕顔(ゆふかほ)観音(くわんおん)の像(さう)は瓠瓜(こくわ)の中(うち)より出現(しゆつけん)し給ふ故(ゆゑ)に此(この)称(しよう)ありとも云 或(あるひは)云   紫(むらさき)式部(しきふ)の念持仏(ねんちふつ)なりともいひ伝(つた)へり此地(このち)の縁起(えんき)に載(のす)る所(ところ)と異(こと)也 何(なに)の故(ゆゑ)に   夕顔(ゆふかほ)の称(しよう)あるにや其(その)よる所(ところ)をしらす 猿俣(さるかまた) 新宿(にゐしゆく)より北(きた)の方(かた)の邑名(いうめう)なり  神 鳳 抄 曰   下 総 国   葛 西    猿 俣 御 厨   百 八 十 丁 新 御 厨 在 之 云 云  北条家(ほふてうけ)永禄(えいろく)二年 所領(しよりやう)役帳(やくちやう)に窪寺(くほてら)大蔵丞(おほくらのしやう)といふ人 葛西(かさい)猿俣(さるかまた)四十九 貫文(くわんもん)の地(ち)を  領(りやう)すとあり葛西(かさい)今(いま)武蔵国(むさしのくに)に属(そく)すといへとも古(いにしへ)は下総国(しもふさのくに)なり古書(こしよ)に出(いつ)る所(ところ)みなかくの如し 和同寺(わとうし)廃址(はいし)同所(とうしよ)にあり仏生山(ふつしやうさん)と号(かう)したる真言(しんこん)の古藍(こらん)にして  和銅(わどう)年間(ねんかん)の草創(さう〳〵)なりしと云伝(いひつた)ふ中古(ちゆこ)迄(まて)も伽藍(からん)巍々(きゝ)たりしに  天文(てんふん)六年 国府台合戦(こふのたいかつせん)の時(とき)兵火(ひやうくわ)の為(ため)に灰燼(くわいしん)となりて 【挿し絵】 半田稲荷(はんたいなり)社  東葛西領(ひかしかさいりやう)  金町(かなまち)にあり  来由(らいゆ)は詳(つまひらか)  ならす拾(しふ)  遺(ゐ)に記(しる)す  へし 【図中】 狐穴 本社 別当 いなり 相居? 【挿し絵】 松戸(まつと)の里(さと) 【図中】 樋の口 金町 とね川 松戸 本河岸  寺僧(しそう)も悉(こと〳〵)く追散(おひちら)されて終(つひ)に廃寺(はいし)ちなりけるとて今(いま)其号(そのかう)  のみを伝(つた)ふ 松戸津(まつとのつ) 常陸街道(ひたちかいたう)にして駅舎(えきしや)あり更級日記(さらしなにき)に鏡(かゝみ)の瀬(せ)松里(まつさと)の  津(つ)にとまりてとあるは此地(このち)の事(こと)をいふならん歟(か) 《割書:義経記(きけいき)に治承(ちしやう)四年|九月十一日 武蔵(むさし)と下(しも)》  《割書:総(ふさ)の境(さかひ)なる松戸(まつと)の庄(しやう)市河(いちかは)といふ所(ところ)に着(つき)給ふとありむかしは松戸(まつと)の庄(しやう)の名(な)にて|ありしならん歟(か)》 松戸堤(まつとつゝみ) 同所 新利根川(しんとねかは)の堤(つゝみ)をいふ鴻台戦記(こうのたいせんき)に天文(てんふん)六年十月  北条氏綱(ほふてううちつな)小弓御所義明(おゆみこしよよしあきら)を攻(せむ)る頃(ころ)其月(そのつき)四日の夜(よる)氏綱(うちつな)夜半(やはん)に  まきれて浅草川(あさくさかは)を打越(うちこえ)おほつの宿(しゆく)を夜深(よふか)に通(とほ)り過(すき)松戸(まつと)の堤(つゝみ)  にて軍議(くんき)ありし事(こと)を載(のせ)たり 《割書:おほつの宿(しゆく)いつれの地(ち)にや今(いま)しるへからす按(あんする)に|葛西(かさい)に青戸村(あをとむら)あり土人(としん)青戸(あをと)をあふとと》  《割書:唱(とな)ふ又 津(つ)と戸(と)とは通音(つうおん)なれは或(あるひ)は青戸(あをと)を云(いふ)ならん今戸八幡宮(いまとはちまんくう)の社記(しやき)に今戸(いまと)旧(もと)は|今津(いまつ)といひしとあるも同(おな)し例(れい)なるへし》 相模台(さかみたい) 松戸(まつと)の駅(えき)より東(ひかし)の方(かた)の台(たい)をいふ其広(そのひろさ)南北(なんほく)五百歩(こひゃくほ)はかり  東西(とうさい)四百 歩(ほ)にあまれり鴻台戦記(こうのたいせんき)天文(てんふん)六年十月 国府台合戦(こふのたいかつせん)の  条下(てふか)に松戸(まつと)の川(かは)を打越(うちこえ)御所陣(こしよちん)の内(うち)よりも椎津(しゐつ)村上(むらかみ)堀江(ほりえ)鹿島(かしま)を  始(はしめ)として五十 騎(き)はかり相模台(さかみたい)に打揚(うちあけ)敵(てき)の人数(にんす)を見合(みあは)すとあり 小弓御曹子墓(おゆみおんそうしのはか) 鴻台戦記(こうのたいせんき)義明(よしあきら)滅亡(めつほう)の条下(てうか)に乳母(にうほ)レンセイといひ  ける女房(にようはう)御曹子(おんそうし)の亡屍(なきから)を見(み)むとて人目(ひとめ)を忍(しのひ)此(この)相模台(さかみたい)に来(きた)り  其(その)墓所(はかしよ)に詣(まひ)る由(よし)記(しる)せとも今(いま)其墓(そのはか)の旧跡(きうせき)さたかならす 行徳船場(きやうとくふなは) 行徳(きやうとく)四丁目の河岸(かし)なり土人(としん)新河岸(しんかし)と唱(とな)ふ旅舎(りよしや)あり  て賑(にき)はへり江戸(えと)小網(こあみ)町三丁目の河岸(かし)より此地(このち)迄(まて)船路(ふなち)三 里(り)八町  あり此所(このところ)はすへて房総(はうさう)常陸(しやうりく)等(とう)の国々(くに〳〵)への街道(かいたう)なり 弁財天(へんさいてん)祠 同所四五町下の方 湊村(みなとむら)にあり昔(むかし)は潮除堤(しほよけつゝみ)の松林(まつはやし)の  下(もと)にありしとなり 《割書:其(その)旧地(きうち)を弁天山(へんてんやま)と|号(かう)して石の小祠(こほこら)あり》 今は円妙院(ゑんみやうゐん)に移(うつ)す正徳年間(しやうとくねんかん)  江戸(えと)青山(あをやま)梅窓院(はいさうゐん)の順誉(しゆんよ)唯然和尚(ゆゐねんおしやう)此神(このかみ)の霊爾(れいし)により享保(きやうほ)  三年戊戌 宮居(みやゐ)を建立(こんりふ)ありしといふ祭(まつ)る所(ところ)は芸州(けいしう)厳島(いつくしま)の御神(おんかみ)  に同(おな)しく市杵島姫神(いつきしまひめのかみ)にして海神村(わたつみむら)の阿諏訪神(あすはのかみ)は男神(をとこかみ)当社(たうしや)は 【挿し絵】 行(きやう) 徳(とく) 船(ふな) 場(は) 江戸(えと)小網(こあみ)町三丁目 行徳河岸(きやうとくかし)といへる より此地(このところ)まて船路(ふなち) 三里八丁あり房(はう) 総(さう)の駅道(むまやち)にして 旅亭(はたこや)あり故に 行人(かうしん)絡繹(らくえき)として 繁昌(はんしやう)の地なり 殊更正五九月は 成田不動尊(なりたふとうそん)へ 参詣(さんけい)の人 夥(おひたゝ)しく 賑(にきわ)ひ大方   ならす 【図中】 名物 さゝや うん  とん 本行徳 四丁目 神明宮 八まん宮 八はた舟はし街道 新河岸  女神(めかみ)と称(しよう)す神田(しんてん)あり弁天免(へんてんめん)と唱(とな)ふ  船霊宮(ふなたまのみや) 《割書:画像(くわさう)一幅(いつふく)探信(たんしん)の筆(ふて)なりといふ古(いにしへ)此地(このち)大船(たいせん)|入津(にふしん)の湊(みなと)なりし故(ゆゑ)此神(このかみ)を崇(あか)むるといへり》 古鈴一口(これいいつく) 湊村(みなとむら)青暘山善照寺(せいやうさんせんせうし)といへる浄刹(しやうせつ)に収蔵(しゆさう)せり芝(しは)増上(そうしやう)  寺(し)に属(そく)す開山(かいさん)は覚誉(かくよ)上人と号(かう)す慈覚大師(しかくたいし)彫像(てうさう)の観音(くわんおん)湛慶(たんけい)  の作(さく)の焔王(えんわう)又 法然(ほふねん)上人 鑑御影(かゝみのみえい)と称(しやう)するものあり   斤量(おもさ)五十二 銭(せん)目(め)余(よ)   唐銅(からかね)の如(こと)くにて甚(はなはた)古色(こしき)なり   総長(さうなか)さ三寸二 分(ふ)剣(けん)の裏延板(うらのへいた)   鈴(すゝ)大さ三寸回(はま)り内(うち)に小石(こいし)一つ宛(つゝ)   あり鈴(すゝ)の口(くち)一寸八分 剣先(けんさき)より   元(もと)まて二寸三分 【挿し絵】   一寸三分   輪長九分   広七分余   三分   五分【挿し絵ここまで】 行徳八幡宮(きやうとくはちまんくう) 本 行徳(きやうとく)三丁目 道(みち)より右側(みきかは)にあり別当(へつたう)は同所(とうしよ)一丁  目 自性院(ししやうゐん)兼帯(けんたい)す此地(このち)の鎮守(ちんしゆ)にして毎歳(まいさい)八月十五日 祭祀(さいし)を  行(おこな)ふ 神明宮(しんめいくう) 同所一丁目 街道(かいたう)の左側(ひだりかは)にあり此地(このち)の鎮守(ちんしゆ)とす別当(へつたう)は  真言宗(しんこんしう)にして自称院(ししやうゐん)と号(かう)す毎歳(まいさい)九月十六日を以(もつ)て祭祀(さいし)の  辰(しん)とす其(その)祭(まつ)る所(ところ)は伊勢内宮(いせないくう)の土砂(としや)を遷(うつ)して内外両皇大神(ないけりやうくわうたいしん)  宮(くう)を勧請(くわんしやう)し奉(たてまつる)相伝(あひつた)ふ当社(たうしや)昔(むかし)は川向(かわむかふ)中洲(なかす)と云(いふ)地(ち)にあり  しを後(のち)此所(このところ)へ遷(うつ)すとなり又 此地(このち)を金海(きんかい)の森(もり)と号(なつ)く慶長(けいちやう)十九年  甲寅 金海法印(きんかいほふいん)といへる沙門(しやもん)此地(このち)に一宇(いちう)の寺院(しゐん)を開創(かいさう)して  金剛院(こんかうゐん)と号(かう)す依(よつ)て金海(きんかい)の森(もり)といふと 《割書:金剛院(こんかうゐん)今(いま)は|廃(はい)せり》 《割書:  按(あんする)に葛西志(かさいし)といへる書(しよ)に行徳(きやうとく)は金剛院(こんかうゐん)の開山(かいさん)某(それかし)|  行徳(きやうとく)の聞(きこ)え高(たか)かりし故(ゆゑ)に地名(ちめい)とする由(よし)記(しる)せり》 金剛院(こんかうゐん)廃止(はいし) 当寺(たうし)より南(みなみ)の方(かた)にあり御行屋敷(こきやうやしき)と字(あさな)せり是(これ)  則(すなはち)先(さき)にいへる処(ところ)の金剛院(こんかうゐん)の旧地(きうち)なり金剛院(こんかうゐん)は羽州羽黒山(うしうはくろさん)法(ほふ)  漸寺(せんし)に属(そく)すといへり其昔(そのむかし)行徳(きやうとく)有験(うけん)の山伏(やまふし)住(すみ)たりしにより  竟(つひ)に此(この)地名(ちめい)となるよし云(いひ)伝(つた)ふ 海巌山徳願寺(かいかんさんとくくわんし) 本 行徳(きやうとく)の駅中(えきちゆう)一丁目の横小路(よここうち)船橋間道(ふなあしかんたう)の 【挿し絵】 行徳(きやうとく)  徳願寺(とくくはんし) 【図中】 本堂 方丈 庫裡 ゑんま 大徳寺 神明 水神 かね 自姓院 妙応?寺 長勝寺  左側(ひたりかは)にあり浄土宗(しやうとしう)にして鴻巣(こうのす)の勝願寺(しようくわんし)に属(そく)す当寺(たうし)往古(いにしへ)は  普光庵(ふくわうあん)といへる草庵(さうあん)なりしか慶長(けいちやう)十五年庚戌 開山(かいさん)聰蓮社(さうれんしや)  円誉(ゑんよ)不残(ふさん)上人 寺院(しゑん)を開創(かいさう)して阿弥陀如来(あみたによらい)の像(さう)を本尊(ほんそん)とす  《割書:丈(たけ)三尺|二寸あり》仏工(ふつこう)運慶(うんけい)の作(さく)なり往古(そのかみ)鎌倉(かまくら)二 位(ゐ)禅尼(せんに)政子(まさこ)の命(めい)に  より是(これ)を造(つく)る遥(はるか)の後(のち)天正(てんしやう)十八年に至(いた)り一品(いつほん)大夫人(たいふしん)崇源院殿(すうけんゐんでん)  鎌倉(かまくら)より移(うつ)し給ひ御持念(こちねん)ありしか後(のち)大超(たいてう)上人に賜(たま)はり又  当寺(たうし)第(たい)二世 正蓮社(しやうれんしや)行誉(きやうよ)忠残(ちゆうさん)和尚(おしやう)当寺(たうし)に安置(あんち)なし奉(たてまつ)ると  なり《割書:十七世 晴世(せいよ)上人 殊(こと)に道光(たうくわう)普(あまね)く|四方(よも)に溢(あふ)れ信心(しん〳〵)の徒(ともから)多(おほ)かりしと也》境内(けいたい)閻王(えんわう)の像(さう)は運慶(うんけい)の彫像(てうさう)  なり座像(ささう)にして八尺あり《割書:毎年(まいねん)正月七月の十六日|には参詣(さんけい)群集(くんしゆ)す》当寺(たうし)十月は十夜法(しうやほふ)  会(ゑ)にて最(もつとも)賑(にき)はし山門(さんもん)額(かく)海厳山(かいかんさん)の三大 字(し)は縁山(えんさん)前大僧正(さきのたいそうしやう)  雲臥(うんくわ)上人の真蹟(しんせき)なり 塩浜(しほはま) 同所 海浜(かいひん)十八箇村(かむら)に渉(わた)れりと 云 風光(ふうくわう)幽趣(いうしゆ)あり土人(としん)去【ママ。云 の誤りか】  此(この)塩浜(しほはま)の権輿(けんよ)は最(もつとも)久(ひさしう)して其(その)始(はしめ)をしらすといへりし然(しかる)に天正(てんしやう)  十八年 関東(くわんとう)  御入国(こにふこく)の後(のち)南総(なんさう)東金(とうかね)へ御(こ)遊猟(いうれう)の頃(ころ)此(この)し塩浜(しほはま)を見(み)そなはせ  られ船橋(ふなはし)御殿(こてん)へ塩焼(しほやき)の賤(しつ)の男(を)を召(め)し制作(せいさく)の事を具(つふさ)に聞(きこ)し  召(めさ)れ御感悦(こかんゑつ)のあまり御金(おんかね)若干(そこはく)を賜(たまは)り猶(なほ)末永(すゑなか)く塩竃(しほかま)の煙(けふり)   絶(たえ)す営(いとなみ)て天(あめ)か下(した)の宝(たから)としすへき旨(むね) 鈞命(きんめい)ありしより以来(このかた)  寛永(くわんえい)の頃迄(ころまて)は  大樹(たいしゆ) 東金(とうかね)御遊猟(こいうれう)の砌(みきり)は御金抔(おんかねなと)賜(たまは)り其後(そのゝち)風浪(ふうらう)の災(わさはひ)ありし  頃(ころ)も修理(しゆり)を加(くは)へ給はるといへり《割書:事跡(しせき)合考(かつかう)に云(いはく)此地(このち)に塩(しほ)を焼事(やくこと)は凡(およそ)一千|有余年(いうよねん)にあまれりと又 同書(とうしよ)に天正(てんしやう)十八年》  《割書:御入国(こにふこく)の後日(のちひ)あらす此(この)行徳(きやうとく)の塩浜(しほはま)への船路(ふなち)を|開(ひら)かせらるゝ由(よし)みゆ今(いま)の小奈木川(をなきかは)是(これ)なり》  此地(このち)の塩鍋(しほなへ)は其製(そのせい)他(た)に越(こえ)堅強(けんかう)にして保事(たもつこと)久(ひさ)しとそひが東(とう)八 州(しう)  悉(こと〳〵)く是(これ)を用(もち)ひて食料(しよくれう)の用(よう)とす 甲宮(かふとのみや) 行徳(きやうとく)入口(いりくち)の縄手(なはて)にあり其(その)来由(らいゆ)今知(いましる)へからす土人(としん)或(あるひは)伝(つた)へて  伝(いふ)国府台(こふのたい)合戦(かつせん)の時’(とき)某(それかし)の兜(かふと)を祀(まつ)るとさもあらん歟(か) 行(きやう) 徳(とく) 汐(しほ) 浜(はま) 【図中】 安房 上総 船橋 行徳(きやうとく)  鹽竈(しほかま)之図(のつ) 行(ぎやう) 徳(とく) 鵆(ちとり)  当社(たうしや)は行徳(きやうとく)八幡宮(はちまんくう)の  別当(べつたう)兼帯(けんたい)奉祀(ほうし)す 円光(ゑんくわう)大師(たいし)鏡(かゝみの)御影(みえい) 行徳(きやうとく)の東(ひかし)の海浜(かいひん)高谷村(たかやむら)浄土宗(しやうとしう)了楽寺(れうらくし)  に安(あん)す円光(ゑんくわう)大師(たいし)鏡(かゝみ)を照(てら)して自己(しこ)の姿(すかた)をうつし画(ゑか)き給ふ  御影(みえい)なりといへり《割書:土俗錦(とそくにしき)の御|影(えい)とも称(しやう)せり》当寺(たうし)に大僧正(たいそうしやう)祐天(いうてん)和尚(おしやう)真筆(しんひつ)の  塔婆(たふは)あり《割書:寄特(きとく)ありとて|諸人(しよにん)渇仰(かつこう)》 長島(なかしまの)湊(みなと) 葛西(かさい)長島(なかしま)と一双(いつさう)の地(ち)なり《割書:昔(むかし)此地(このち)に長島(なかしま)殿(との)と称(しよう)せし領主(りやうしゆ)| ありて此地(このち)に住(ちゆう)せしとなり》  《割書:梵音寺(ほんおんし)といへる観音(くわんおん)|霊蹟(れいせき)の廃址(はいし)あり》相伝(あひつた)ふ太田(おふた)道灌(たうくわん)の頃(ころ)は国府台(こくふのたい)の湊(みなと)に船(ふね)を  泊(はく)す其後(そのゝち)野州(やしう)奥州(あうしう)常州(しやうしう)総州等(さうしうとう)の国々(くに〳〵)高瀬舟(たかせふね)の便利(へんり)よき  を用(もち)ゆる事となりしより行徳(きやうとく)へ運送(うんさう)する事とはなれりといふ  永禄(えいろく)二年 小田原(をたはら)北条家(ほふてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)に太田(おほた)新六郎(しんろくらう)所領(しよりやう)の中(うち)に葛西(かさい)長島(なかしま)高(たか)  城(き)と云々 新利根川(しんとねか)《割書:万葉集(まんえふしふ)刀禰(とね)に作(つく)り活字版(くわつしはん)|源平盛衰記(げんへいせいすゐき)利根(とね)に作(つく)れり》旧名(きうみやう)を太井河(ふとゐかは)といふ《割書:此合(このかう)更級(さらしな)日記(にき)および|東鑑等(あつまかゝみとう)の書(しよ)に見え》  たり又清輔(きよすけ)奥義抄(あうきしゃう)云 下総国(しもふさのくに)かつしかの郡(こふり)の中(うち)に大河(たいか)ありふと井といふ河(かは)の東(ひかし)をは葛東(かとう)の  郡(こほり)といひ河(かは)の西(にし)をは葛西(かさい)の郡(こほり)といふとあり證(しやう)とすへし私に云 此河(このかは)より西(にし)は葛西(かさい)と称(しよう)して  今(いま)武蔵国(むさしのくに)に属(そく)す又北条(ほうてう)五代 記(き)国府台(こふのたい)合戦(かつせん)の条下(てうか)にはからめき川といふよし見えたり  世 俗(そく)坂東(はんとう)太郎(たらう)と称(しよう)し或(あるひ)は文巻川(ふみまきかは)又かつしかの河(かは)とも唱(とな)へたり  行徳(きやうとく)を流(なか)るゝ故(ゆゑ)に行徳川(きやうとくかは)とも号(なつ)く水源(みなもと)は上野国(かみつけのくに)利根郡(とねこほり)文珠(もんしゆか)  嶽(たけ)の幽谷(いうこく)より発(はつ)し高科川(たかしなかは)吾妻川(あつまかは)烏川(からすかは)碓井川(うすゐかは)及(およ)ひ信州(しんしう)の  国郡(こくくん)より出(いつ)る所(ところ)の諸流(しよりう)合(かつ)し武州(ふしう)幡羅(はら)郡(こほり)に至(いた)り一河(いちか)となる 又 上州(しやうしう)渡良瀬川(わたるせかは)も利根(とね)に落会(おちあひ)栗橋(くりはし)より分流(ふんりう)してい一 流(りう)は北総(ほくさう)に  入 関宿(せきやと)木颪(きおろし)等(とう)の地(ち)に傍(そひ)て東流(とうりう)し銚子(てうし)に至(いた)り海(うみ)に帰(き)す是(これ)を  利根川(とねかは)と号(なつ)く《割書:坂東太郎(はんとうたらう)|と字(あさな)す》一 流(りう)は武蔵(むさし)下総(しもふさ)の間(あひた)を南(みなみ)へ流(なか)れ国府(こふの)  台(たい)の下を行徳(きやうとく)の方へ曲流(きよくりう)し海水(かいすゐ)に帰(き)せり《割書:是(これ)を新利根(しんとね)|川と称(しよう)す》   按(あんする)に侍中(しちやう)郡要(くんえう)に散位(さんゐ)を刀祢(とね)とよめり西宮(せいきう)抄(しやう)に大節(たいせつ)には太夫(たいふ)を刀祢(とね)と称(しよう)す   と云々 公事(くし)根源(こんけん)云 大節(たいせつ)に刀祢(とね)めせと仰(おふす)るは刀祢(とね)は六位(ろくゐ)を云とあれとも古(いにし)へに   刀祢(とね)といふは五位(こゐ)以上にもわたれる名目(みやうもく)なり又 朝野(てうや)群載(くんさい)に検非違使庁(けひゐしてう)下(か)刀(と)   祢(ね)職事(しよくし)と見えまた補任(ほにん)の事を挙(あけ)たり李部王記(りほうわうき)に百官(ひやくくわん)主典(しゆてん)以上を刀祢(とね)と   称(しよう)すとあり是(これ)はもろ〳〵の長上(ちやうしやう)の官(くわん)をいへるにて主典(しゆてん)以上はみな長上の官(くわん)なり   延喜(えんき)祝祠式(しゆくししき)倭国(やまとのくに)の六御縣(むつのかあかた)能(の)刀祢(とね)男女(おとこをんな)尓(に)至万氐(いたるまて)下界かくあるは百姓(ひやくしやう)なとを   いふならんすへて蜑(あま)のとね里(さと)とねまた庭訓往来(ていきんわうらい)に淀河尻(よとかはしり)の刀祢(とね)ともありて   里長(りちやう)防令(はうれい)なとをも刀祢(とね)といへる事は古今著聞集(ここんちよもんしふ)にも見えたり播州(はんしう)日岡(ひのをか)明(みやう)   神(しん)に毎歳(まいさい)正月 初午日(はつうまのひ)大頭(たいとう)といふ事を勤(つと)む郷刀祢(さとのとね)と称(しよう)して旧家(きうか)三十六人の   内(うち)より是(これ)をつとむ各(おの〳〵)六位(ろくゐ)にて明神(みやうしん)の供奉職(くふしよく)たり其(その)日射(ひしや)あり又五節(こせつ)の式(しき)   ありて悉(こと〳〵)く刀祢(とね)の役(やく)なり其余(そのよ)山城(やましろ)の賀茂(かも)およひ鞍馬(くらま)の靭(ゆき)天神(てんしん)の神職(しんしよく)   等(とう)をも刀祢(とね)とよへり後拾遺集(こしふゐしふ)雑神祇部(さうしんきのふ)藤原長能(ふちはらのなかよし)の哥(うた)の詞書(ことはかき)にも里(さと)の   とね宣旨(せんし)にて祭(まつり)つかうまつるへきをとあり刀祢(とね)はすへて物(もの)の冠(くわん)たるを称(しよう)   揚(しやう)する辞(ことは)なる事なり是等(これら)によりてあきらかなりと知(し)るへしされは此川(このかは)も   関東(くわんとう)第(たい)一の洪河(こうか)なる故(ゆゑ)に関東(くわんとう)の河(かは)の冠(くわん)たる意(ゐを)もて刀祢(とね)とは号(なつけ)たりしなる   へし世俗(せそく)筑後川(ちくこかは)を西国(さいこく)太郎(たらう)といひ此河(このかは)を坂東(はんとう)太郎(たらう)ととなへ皇朝(くわうてう)一双(いつさう)の大河(たいか)   を称(しよう)するも其意(そのい)同(おな)しかるへし或人(あるひと)云 利根川(とねかは)は上野国(かうつけのくに)利根郡(とねこほり)文珠嶽(もんしゆたけ)より発(はつ)す   故(ゆゑ)に文珠(もんしゆ)の智恵(ちゑ)利根(りこん)の意(い)をとると是(これ)大(おほい)なる附会(ふくわい)の説(せつ)なるへし皇朝(くわうてう)文字(もし)を借(かり)   用(もちひ)る事 往(わう)々 其例(そのれい)あれは刀祢(とね)を利根(とね)に作(つく)るともあやしむへからす 万葉集   刀(ト)禰(ね)河(カ)泊(ハ)乃(ノ)可(カ)波(ハ)世(セ)毛(モ)思(シ)良(ラ)受(ス)多多(タタ)和多里奈(ワタリナ)美(ミ)   爾安布能須安埤敝伎美可母(ニアフノスアヘルキミカモ) 神楽註秘抄       篠  本   此さゝは  万葉集   可豆思賀能(カツシカノ)麻万能(ママノ)手児奈家(テコナカ)安里之可婆(アリシカハ)麻末(ママ)   乃(ノ)於須比爾(オスヒニ)奈美毛(ナミモ)登杼呂爾(トヽロニ) 真間継橋(まゝのつきはし) 弘法寺(くほふし)の大門(たいもん)石段(いしはし)の下 南(みなみ)の方の小川(をかは)に架(か)す所(ところ)の  ふた川の橋(はし)の中(なか)なる小橋(こはし)をさしていへり 《割書:或人(あるひと)いふ古(いにし)へは両岸(りやうかん)より板(いた)をもて|中梁(なかはり)にて打(うち)かけたる故(ゆゑ)に継(つき)はしとは》 《割書: いふなりとさもあるへきにや|》  万葉集   安(ア)能(ノ)於(オ)登(ト)世(セ)受(ス)由(ユ)可(カ)牟(ム)古(コ)馬(マ)母(モ)我(カ)可都思加乃(カツシカノ)麻(マ)   末(マ)乃(ノ)都芸波志(ツキハシ)夜麻受(ヤマス)可欲波牟(カヨハム)  新勅選   勝鹿や昔のまゝの継橋をわすれすわたる春かすみかな 慈円  風雅集   五月雨に越行波はかつしかやかつみかくるゝ真間の継橋 雅経  同   かつしかのまゝの海風吹にけり夕波越るよとのつきはし 朝村     按(あんする)に朝村(ともむら)の和歌(わか)によとのつきはしとあるは水(みつ)の澱(よとみ)にかけたりといふ意(い)にて     山城(やましろ)の淀(よと)とは異(こと)なり     入重玄門修凡事の意を   こゝに人を渡しはてんとせし程に我身はもとのまゝの継橋 日蓮  真間(まゝの)手児名(てこなの)旧蹟(きふせき) 同所 継橋(つきはし)より東(ひかし)の方(かた)百歩(ひやくほ)はかりにあり手児(てこ)  名(な)か墓(はか)の跡(あと)なりといふ後世(こうせい)祠(ほこら)を営(いとな)みてこれを奉(ほう)し手児名明神(てこなみやうしん)  と号(かう)す婦人(ふしん)安産(あんさん)を祈(いの)り小児(しように)疱瘡(はうさう)を患(ふれ)ふる類(たく)ひ立願(りうくわん)して其(その)  奇特(きとく)を得(うる)といへり)祭日(さいしつ)は九月九日なり 《割書:伝(つた)へ云 文亀(ふんき)元年辛酉九月九日 此(この)|神(かみ)弘法寺(くほふし)の中興(ちゆうこう)第七世 日与(にちよ)上人に》 《割書: 霊告(れいこう)ありよつてこゝに崇(あか)め奉(たてまつ)るといへり春台文集(しゆんたいふんしふ)継橋記(つきはしのき)に手児名(てこな)の事を載(のせ)たりといへとも|其説(そのせつ)里諺(りけん)によるのみにして証(しやう)とするに足(た)らす》  清輔奥義抄(きよすけあうきしやう)云 是(これ)は昔(むかし)下総国(しもつふさのくに)勝鹿(かつしか)真間野( まゝの)の井(ゐ)に水汲(みつくむ)下女(けちよ)  なりあさましき麻衣(あさきぬ)を着(き)てはたしにて水(みつ)を汲(くむ)其(その)容貌(ようほう)妙(たへ)にして  貴女(きちよ)には千倍(せんはい)せり望月(もちつき)の如(こと)く花(はな)の咲(ゑめる)か如(こと)くにて立(たて)るを見(み)て人々(ひと〳〵)  相競(あひきそ)ふ事 夏(なつ)の虫(むし)の火(ひ)に入(いる)か如(ことく)湊入(みなといり)の船(ふね)の如(こと)くなりこゝに女(をんな)思(おも)ひ  あつかひて一生(いつしやう)いくはくならぬよしを存(そん)して其身(そのみ)を湊(みなと)に投(とうす)中略  又かつしかのまゝのてこなともよめり真間(まゝ)の入江(いりえ)真間(まゝ)の  継橋(つきはし)真間(まゝ)の浦(うら)真間井(まゝのゐ)真間(まゝ)の野(の)なとよめるみな此所(このところ)なり  云々  万葉集 過勝鹿真間娘子墓時作歌 山部宿禰赤人   古昔(イニシヘニ)有(アリ)家武(ケム)人(ヒト)之(ノ)倭(シ)文(ツ)幡(ハタ)乃(ノ)帯(オヒ)解(トキ)替(カヘ)而(テ)廬(フセ)屋(ヤ)立(タテ)妻(ツマ)   問(トヒ)為(シ)家武(ケム)勝(カツ)牡(シ)鹿(カ)乃(ノ)真間(ママ)之(ノ)手児名(テコナ)之(ノ)奥(オク)槨(ツキ)乎(ヲ)此(コ)   間(コ)登(ト)波(ハ)聞(キケ)杼(ト)真(マ)木(キノ)葉(ハ)哉(ヤ)茂(シケク)有(アル)良武(ラム)松(マツ)之(カ)根(ネ)也(ヤ)遠(トホク)久(ヒサシ)   寸(キ)言(コトノ)耳(ミ)毛(モ)名(ナ)耳(ノミ)毛(モ)我(ワレ)者(ハ)不所忘(ワスラエナクニ)    返歌   吾(ワレ)毛(モ)見(ミ)都(ツ)人(ヒト)爾毛(ニモ)将(ツケ)告(ム)勝(カツ)牡(シ)鹿(カ)之(ノ)間間能(ママノ)手児名(テコナ)   之(カ)奥(オキ)津(ツ)城(キ)処(トコロ)    詠勝鹿真間娘子歌    高橋連虫麻呂   鶏(トリ)鳴(ナク)吾妻(アカツま)之(ノ)国(クニ)爾(ニ)古昔(イニシヘ)爾(ニ)有(アリ)家留(ケル)事(コト)登(ト)至(イマ)今(マテニ)不絶(タエス)   言(イヒ)来(クル)勝(カツ)牡(シ)鹿(カ)之(ノ)真間乃(ママノ)手児奈我(テコナカ)麻衣(アサキヌ)爾(ニ)青(アウォ)衿(フスマ)着(キテ)   直(ヒタ)佐麻乎(サヲヲ)裳(モニ)者(ハ)織(オリ)服而(キテ)髪(カミ)谷(タニ)母(モ)掻(カキ)者(ハ)不梳(ケトゥラス)履(クツ)乎(ヲ)谷(タニ)   不(ハカ)看(テ)雖行(ユケトモ)錦(ニシキ)綾(ア7ヤ)之(ノ)中(ナカ)丹(ニ)裹有(ツヽメル)斎児(イハヒコ)毛(モ)妹(イモ)爾(ニ)将(シカ)及哉(メヤ) 【虫麻呂の歌には続きがあるが、この資料では乱丁で隅田河が挿入されている> https://dl.ndl.go.jp/pid/2559059/1/31 】 【左ページは乱丁で、本来ここに綴じられるものではない。巻之19のコマ13とまったく同内容である。> https://honkoku.org/app/#/transcription/346016D3BD3173DEAE979A550AD63DF7/14/ 】 【左ページの挿し絵は乱丁。巻の19のコマ14と同じものである。> https://honkoku.org/app/#/transcription/346016D3BD3173DEAE979A550AD63DF7/15/ 】 【この資料では、左ページの前に、「真間の井」「挿し絵:梨園」が欠けている】 【真間井を以下より補う > https://dl.ndl.go.jp/pid/2559059/1/31 】 真間井(まゝのゐ) 同所 北(きた)の山際(やまきは)鈴木院(れいもくゐん)といふ草庵(さうあん)の傍(かたはら)にあり手児奈(てこな)か  汲(くみ)ける井(ゐ)なりと云伝(いひつた)ふ中古(なかむかし)此井(このゐ)より霊亀(れいき)しゆつけん)せし故(ゆゑ)に亀井(かめゐ) 【挿し絵:梨園を以下より補う > https://dl.ndl.go.jp/pid/2559059/1/32】  梨園(なしその) 真間(まゝ)より八幡(やはた)へ 行道(ゆくみち)の間(あひた)に あり二月(きさらき)の 花盛(はなさかり)は雪(ゆき)を 欺(あさゆく)に似(に)たり 李太白(りたいはく)の詩(し) に梨(り)花(くわ)白雪(はくせつ) 香(かうはし)と賦(ふ)したる も諾(うへ)なり     かし 【左ページ、真間の井の続き】  ともいふとなり 《割書:此(この)鈴木院(れいほくいん)と云は北条家(ほうてうけ)の臣(しん)にして俗称(そくしやう)を鈴木修理(すすきしゆり)と云けるよし|此人(このひと)の造立故(さうりうゆゑ)に鈴木と号(かう)す又 此庵(このいほり)の傍(かたはら)に其(その)祖先(そせん)鈴木近江守(あふみのかみ)の》 《割書: 石塔(せきたふ)ありこれも同(おなしく)修理(しゆり)と云人 造立(さうりふ)せしなり|  按(あんする)に寛文(くわんふん)八年戊申 相州鎌倉(さうしうかまくら)鶴(つる)か岡(をか)修造(しゆさう)の時(とき)の工匠(たくみ)を鈴木修理長常(すゝきしゆりなかつね)といふ》 《割書:  然時(しかるとき)は番匠(はんしやう)の家(いへ)ならん歟(か)鶴(つる)か岡(をか)梁牌(りやうはい)にかく載(のせ)たれとも又 別(へつ)の人にや猶(なほ)考(かんかふ)へし| 万葉集》   勝(カツ)牡鹿(シカ)之(ノ)真間之井(ママノイ)見(ミレ)者(ハ)立(タチ)乎(ナラ)之(シ)水(ミトゥ)挹(クマシ)家牟(ケム)手児(テコ)   名(ナ)之(シ)所思(オモホユ)   かつしかやまゝの井つゝのかけはかりさらぬ思ひのあとを恋つゝ 《割書:光明密寺|入道摂政》 葛飾八幡宮(かつしかはちまんくう) 真間(まゝ)より一里(いちり)あまり東(ひかし)の方 八幡村(やはたむら)にあり 《割書:常陸并房総|の街道にして》  《割書:駅なり鳥居は|道はたにあり》 別当(へつたう)は天台宗(てんたいしう)にして八幡山法漸寺(やはたさんほふせんし)と号(かう)す本地堂(ほんちたう)  には阿弥陀如来(あみたによらい)を安置(あんち)し二王門(にわうもん)には表(おもて)の左右(さいゆ)に金剛密迹(こんかうみつしやく)乃  像(さう)裏(うら)には多聞(たもん)大黒(たいこく)の二天(にてん)を置(おき)たり神前(しんせん)右(みき)の脇(わき)に銀杏(いてう)の大樹(たいしゆ)  あり神木(しんほく)とす 《割書:此樹(このき)のうろの中(なか)に常(つね)に小蛇(しやうしや)棲(す)めり毎年(まいねん)八月十五日 祭礼(さいれい)の時(とき)音楽(おんかく)|を奏(そう)す其時(そのとき)数万(すまん)の小蛇(しやうしや)枝上(ししやう)に顕(あらは)れ出つ衆人(しゆうしん)見(み)てこれを奇(き)なりとす》 古鐘(こしやう)一口 《割書:寛政年間(くわんせいねんかん)枯木(かれき)の根(ね)を穿(うかつ)とて是(これ)を得(え)たり其丈(そのたけ)三尺七寸あまり竜頭(りうつ)の|側(かたはら)に応永(おうえい)二十一年午三月廿一日と彫付(ほりつけ)てあり》 《割書:  按(あんする)に応永(おうえい)は鐘(かね)の銘(めい)にしるす所(ところ)の元亨(けんかう)元年よりは凡(およそ)九十 有余(いうよ)年 後(のち)の年号(ねんかう)なり|  もしくは応永(おうえい)の頃(ころ)乱世(らんせい)を恐(おそ)れて土中(とちゆう)へかくし埋(うつ)めける時(とき)其(その)年号(ねんかう)月日を刻(こく)》 【挿し絵】 八幡不知森(やはたしらすのもり) 八幡(やはた)  八幡宮(はちまんくう) 【図中】 八幡 不知 森 弁天 観音 天神 神木 別当 本社 松尾 本地堂 みこしくら いなり 御宮 山王   するにや   奉冶鋳銅鐘   大日本国東州下総第一鎮守葛飾八幡是大菩薩   伝聞寛平宇多天皇勅願社壇建久以来右大将軍   崇敬殊勝天長地久前横巨海後連遠村京䖝【虫】性動   鳬鐘暁声人戦眠覚金啓夜響永除煩悩能証菩提   元享元年辛酉十二月十七日         願主右衛門尉丸子真吉         別当    法印智圓  筒粥神事(つゝかゆのしんし) 《割書:毎歳(まいさい)正月十五日の朝(あさ)此神事(このしんし)あり|其年(そのとし)の豊凶(ほうきやう)をしるとて参詣(さんけい)多(おほ)し》 放生会(はうしやうゑ) 《割書:八月十五日に修行(しゆきやう)す|此日(このひ)神輿(しんよ)渡(わたら)せらる》 《割書: 又同日 津宮(つく)といふ事あり夕七 時(とき)頃(ころ)当社(たうしや)の社人等(しやにんら)集(あつま)り華表(とりゐ)の前(まへ)に檣(なき)の如(こと)く長(なか)き| 柱(はしら)に白布(しろぬの)を巻(まき)たるを建(たて)上の方にて其(その)白布(しろぬの)を結(むす)ひ合(あは)せて足(あし)をかくる代(しろ)とす念願(ねんくわん)》 《割書: ある人 身軽(みかる)になり件(くたん)の楹(はしら)の上へ登(のほ)り四 方(はう)を拝(はい)し社(やしろ)の方を拝(はい)し終(おはり)て下る此(この)行事(きやうし)は| 相州(さうしう)日向(しうか)薬師(やくし)にもありてかしこにては推登(すゐとう)といへり其(その)趣(おもむき)相似(あひに)たり又 其(その)津宮(つく)柱(はしら)の》 《割書: 下に楽屋(らくや)をまうけ神輿(しんよ)帰社(きしや)におよふ時(とき)獅子(しゝ)猿(さる)大鳥(おほとり)の形(かたち)を数(よそ)ひて此(この)楽屋(らくや)より出(いて)て| 笛(ふへ)太鼓(たいこ)に合(あは)せて舞(ま)ふ事あり同十四日より十八日 迄(まて)の間(あひた)生姜(しやうか)の市(いち)あり故(ゆえ)に土俗(とそく)生姜(しやうか)》 《割書: 祭(まち)と唱(とな)ふマチは祭(まつり)の縮語(しゆくこ)なり|》  当社(たうしや)は宇多天皇(うたてんわう)の勅願(ちよくくわん)にして寛平(くわんへい)年間(ねんかん)石清水正八幡宮(いはしみつしやうはちまんくう)を勧(くはん)  請(しやう)せし宮居(みやゐ)なり遥(はるか)の後(のち)建久(けんきう)に至(いた)り鎌倉(かまくら)将軍(しやうくん)頼朝卿(よりともきやう)再(ふたゝ)ひ朽(きう)  傾(けい)の社壇(しやたん)を修営(しゆえい)ありしより封域(ほういき)広(ひろ)くして壮麗(さうれい)たりしか又(また)星(せい)  霜(さう)を歴(へ)て今(いま)は老樹(らうしゆ)鬱蒼(うつさう)として上久(しやうきう)たる神垣(かみかき)となれり 《割書:  按(あんする)に当社(たうしや)は国分寺(こくふんし)に同(おな)しく一国一宮(いつこくいちのみや)の八幡宮(はちまんくう)にして往古(そのかみ)府中(ふちゆう)に置(おか)れし|  もの是(これ)なるへし》 八幡不知森(やはたしらすのもり) 同所 街道(かいたう)の右(みき)に傍(そひ)て一つの深森(しんりん)あり方(はう)二十 歩(ほ)に過(すき)  す往古(そのかみ)八幡宮(はちまんくう)鎮座(ちんさ)の地(ち)なりと云伝(いひつた)ふ即(すなはち)森(もり)の中(なか)に石(いし)の小祠(こほこら)あり里老(りらう)  云人 謬(あやまち)て此中(このうち)に入時(いるとき)は必(かならす)神(かみ)の祟(たゝり)ありとて是(これ)を禁(いまし)む故(ゆゑ)に垣(かき)を繞(めく)  らしてあり 《割書:或云むかし平親王(へいしんわう)将門(まさかと)平貞盛(たいらのさたもり)か矢(や)にあたり秀郷(ひてさと)か為(ため)に討(うた)れ後(のち)|六人の近臣(きんしん)と称(しよう)する輩(ともから)其(その)首級(しゆきう)を慕(した)ひ此地(このち)に至(いた)りし頃(ころ)此森(このもり)を踏者(ふむもの)あれは》 《割書: 必(かならす)たゝりありとて大(おほひ)に驚怖(きやうふ)するといへり又 或(ある)人いふ此森(このもり)回帯(めくり)はこと〳〵く八幡(やはた)の地(ち)に| して森(もり)の地(ち)はかりは行徳(ちやうとく)の持分(もちふん)なりと此故(このゆゑ)に八幡村(やはたむら)の中(うち)に入会(いりあふ)といへとも他(た)の村(むら)の》 《割書: 地なる故(ゆゑ)に八幡(やはた)の八幡(やはた)しらすとは字(あさな)せしとさもあらん歟(か)|》 《割書:  因(ちなみ)に按(あんする)に八幡(やはた)はむかし荘(しやう)の号(かう)なり中山什宝(なかやましうはう)の内(うち)応永(おうえい)二十七年 千葉介(ちはのすけ)兼胤(かねたね)の|  証文(しやうもん)に下総国(しもつふさのくに)八幡庄(やはたのしやう)本妙寺(ほんめうし)法華寺(ほつけし)弘法寺(くはうし)三ヶ所寺務職(しむしよく)云々同庄(とうしやう)曽谷(そたにの)》 《割書:  郷(かう)田畠在家(たはたさいけ)云々かくの如(こと)く記(しる)せり証(しやう)とすへししかあれは真間(まゝ)のあたり曽谷(そたに)|  ともに八幡(やはた)の荘(しやう)に属(そく)せしとしられたり》 曽谷妙見尊(そたにめうけんそん) 曽谷村(そたにむら)長谷山安国寺(ちやうこくさんあんこくし)に安置(あんち)せり当国(たうこく)千葉寺(ちはてら)妙(めう)  見尊(けんそん)と同木(とうほく)にして其(その)末木(まつほく)を以(もつ)て彫刻(てうこく)すといふ当寺(たうし)境内(けいたい)に王(わう)  義之宮(きしのみや)あり華表(とりゐ)の額(かく)に晋王公廟(しんのわうこうのひやう)とあり烏石葛辰(うせきかつしん)の筆(ふて)にして