【後筆書入分は後回し、本文のみ翻刻】 鴬宿雑記百九十九草稿    越後国大地震一件【文政三条地震】   越後国古志郡蒲原郡村〻地震ニて建家震潰   即死怪我人等之義ニ付御届書  村高壱万五千弐百五十八石九斗八升弐合六勺七才  村数五拾五ケ村 家数弐千百三軒之内 一潰家千三軒 内寺四ケ寺 社家一軒 一半潰家六百三拾四件 内寺十弐ケ寺 外ニ家四百八十弐軒症小破 一潰高札場弐ケ所    一潰郷蔵四ケ所 一同社弐ケ所      一同湯小屋壱ケ所 一即死人百九人《割書:男三拾八人|女七十壱人》 【後筆書入分】 本文越後大地震ノ一件写し置し後又北国の風俗口説とて風俗ニてか様之事等有之節ハ誠ノ戯ニ作リ児女子ノ唄コトノヨシ 是ハ其国風ニて是等ノ戯を以て此風俗ヲ御【ぎょす】其時々諸役人之風儀等迄天人を以いはしむるの【右に「の」と追記】諺を捨領分ノ方知尋拠て 賞罰ヲ行ハルヽコトトシテ今ニ上杦家此遺風アリテ善政ノ行ハルヽコトトヨテ越後口説トモ上杦口説トモ云コトト依テ見捨ニセンモ 惜ケレハ爰ニウツス置畢ぬ 越後口説今世ニ瞽女口説トテ江戸辺マテ門ニ立テ三弦ヲ以テ勧進スルハ是ナリ 天地開けてふしぎをいはゝ近江水海スルカノ冨士ハたんた一夜ニ出来たと聞たそれハ見もせぬむかしの事よ爰にふしきは越 後ノ地震いふもかたるも身の毛かよだつ頃文政十一年の時ハ霜月半の二日朝の後五ツとおぼしき頃にとんとゆりくる地震のさハきたはこ 一ふく落さぬうちに上ハ長岡新潟かけて中に三条今町見付つふす跡から一時のけふり夫に続てよ板やつはめ在の村々其数しれす 潰す屋しきは幾千万そさすや梁柱や桁に背骨かたこし頭をうたれ目鼻口より血を吐なからのかれ出んと狂気のことく もかきくるしミつい果絶【絶果か】る手負死人ハ書尽されす数も限りもあら情なや親は子をすて子は親をすてあかぬ夫婦の中をも いはす捨て逃出す其行先は炎をもえたつ大地かわれて砂を吹出し水もミ上て行にゆかれす彳む【たたずむ】内に風ハ烈しくうしろをミれハ 火のこ吹立火炎をかふりあつやせつなやくるしやこわや中にあはれは手足を挟ミにくをひしげれ骨打砕き泣つ叫つ助て呉 とよべと招とのかるゝ人も命大事と見向もやらす覚悟〳〵と呼ハりなから西よ東よ北南よと思ひ〳〵に逃行声は実や喚叫【叫喚か】大叫 喚の責も是にハよもおとらしよ見るも中々骨身に通る今ハ此の世かめつしてしまひみろく出世の世と成やらん又は奈落へ沈も するかいふもおろかやかたるも涙急に祈祷の湯の花抔とせつな念仏となへて見ても何のしるしもあらおそろしや昼夜うごきハ少しも やます凡七十余日【右に追記】か間きもゝ心もとふなる事と親子兄弟皃【かお】見合て共に溜息突いる斗御大名にハ村上しはた其外に御料御陣屋 旗本衆も思ひ〳〵に御手当あれと時か時とて空打くもり雪ハちら〳〵寒さハ増る外にいられす涙の中に一家親類寄集りて 大工いらすの掘立小屋につゝれかぶりて凌とすれとふゞき立込目も合されす殊にことしハ大悪作て米ハ高直諸色ハ高く 夫に前代未聞の変事是をつら〳〵考見るに士農工商儒仏も神も道をハすれて利欲に迷ひ上下ハかたぬ奢をきはめ 武家ハ武を捨十呂盤【そろばん】枕夫に習ふて地下役人も下をしへたけ己をおこり昔違作の年からあれハ葛を堀たり砂【磯】菜をひろい 夫て己か命をつなき収納作德立しと聞に今の百性ハ夫とハ違ひ少し違作の年からにても検見願ひの拝借なとゝ 上へ御苦労かけたる下たハ有の無のと親方マヘハ無勘定にて内證ておごり米の黒いハ大損なとゝみそハ三年たゝねハ 喰ぬ在郷村にも髪【髪結】風呂屋煮うり小見せの床前見ミれハ笛や三味せん大鼓をかざり紋日もの日の其時〳〵ハ若いもの 共寄あつまりておとりけいこの地芝居なとゝつかひちらして出所にこまり一ツ袷に縄をハかけてつゐにしまいハ 他国へ走るなこや水呑奉公人も羽おり傘たび塗下駄に下女や子共も盆正月ハいつちわるいかちりめん帯て銀のかんさし 鼈甲の櫛よ開帳参りの風俗見れハ旦那様より御供か りつハそれハまだしも大工の風義結城わた入はかたの帯に紺の股引白たびはいて朝ハおそふて休か長い作料まさねハ行 ことならぬ酒ハ一日二度出せ抔と天を恐れぬ我儘斗 日雇まて道理をわすれ 普請家作のはやるに任せ 出入旦那も御無沙汰斗下々ハ十日も先からたのミやつと一日顔出すさへもきけんとらねハ日中ハあそぶ夫に准して町家のふしん 互に美々敷せり合故か 二重たる木に銅巻て家ハのしふき柱のたけハ丁度むかしの二本の長さ樫木すくめの造作見るに御殿まがいか拝殿か地下の家 作とみられぬ仕懸前を通るも肩 身かすほるされと心ハけものおとるいかな困究【窮】の年からにても収納屋賃の用捨もあらす少しさがると店追立て田をハ 上ケよと小前を責 て慈悲の心はけし つふほともないハことわり浮世の道理深く考へしらさる世故そ世間豪家の家風を見るに古い持家ハ勘弁有て俄分 限ハ萬事かひとひわるひ 心ハ見習やすく 裏屋店かりぼてふり まても米か 安いとけんし き高く在郷ものをハ足下に見なし五十まうけりや口米あるといふにいはれぬ荒言はいて義太夫めりやす冨本なとゝ 一寸しやれにも 江戸まえはかり夫ハさて置此近年の儒者の風俗つく〳〵見るに黒羽織に大小帯し詩だの文たの講尺抔と鼻の高いハ天狗 もはたし銭の ないのハ乞食におとる昼夜大酒乞食におとる【以上十文字写し誤りカ】昼夜大酒どうらくつくし己斗か弟子共迄も金をつかふか風流人よ道を守か 俗物なとゝ冥利知 すの銭金蒔 て書物よミ〳〵 身上潰す分て近年寺衆の風儀聖祖禅寺と勿体らしく赤衣ハ白粉くさく光るおけさハさし身のかほり尼の三衣ハ 子持の匂ひ朝の勤ハお小僧斗宵の勤ハ鐘打斗 昼夜こめぐり慰斗祖師や御上の信を背き酒と 賭て寺役を わすれ居間の柱の 状さしミれハさまハ丸さま御存ゟとへたてのかいたるかな文斗門徒寺衆ハ利欲に迷ひ勧化一座にほふしやハ四五度 【本文】 一怪我人弐百卅九人内《割書:男百廿五人|女百十四人》 一馬拾三疋即死  松平越中守【桑名藩主】御預所越後国古志郡福道村【現長岡市】外壱ケ村  蒲原郡花見村【現燕市】外五十三ケ村当月【文政11年11月=1828年】十二日辰上刻大地震  ニて家作震潰即死幷怪我人等有之趣訴出候ニ付不取  敢為検使役人共罷出見分仕候処死失怪我人書面之通ニ  有之猶其節之時宜相尋候へハ折柄御年貢米選立最  中ニ付当十二日朝も疾起何れも朝飯後夫〻農事ニ取懸  罷在曇空ニて静成天気ニ御座候処辰之上刻乾之方ニ  当り大炮撃放候如き鳴音両度響候故如何成義ニ有之哉  不審ニ存罷在候内無間も家居震立候間一同打驚肝  を冷し親を懐き小児を抱ひ別間ニ罷在候兄弟姉妹等を呼立  一同逃出可申と存候内忽地裂熱き泥を吹出し柱梁等は  不及申家道具打砕ケひしと相潰皆人夢中の如く前後  を忘し家下ニ罷成居候処稀ニ残り候家のもの共外より  声を懸候ニ付漸正気付家下ニ罷在候旨答ニ応し家根を  取退助出呉候得は祖父母親兄弟等見不申外へ逃出候儀も  有之哉又ハ家下ニ相成居候哉と驚歎仕潰家内相尋見候  処梁下又ハ軒下ニ相果候為体天災とハ乍申誠ニ非命之次  第と相歎罷在候且又場所ニ寄建家有之候ても土台之  儘五寸或ハ壱尺余も前へ押し出し後へ引下げ地面高低出来候  程捻割枘折悉皆手入不仕候ては住居難成体相見申候前 【後筆書入分】 祖師の法事や自坊の法事畳屋根造作普請嫁をしつける継目をすると後生ハ此次先其事ニ旦那をせめて身勝手斗 奢り相談官金さべり法事仕廻の咄を聞ハ 此度法事ハ時節かわるい参詣不足祖師 の法事を商ひらしく人目恥すに咄を めさる後生しらすの邪見なものと金を 上れは信心しやとて住寺御寮のあしらへ ちこう何ぼ信 心りやうげ【了解】の 人も金を上ね ハ外道じや抔と 葬礼おさへる宗判 せぬと上を恐れぬ 法外はかり寺か寺 とて同行衆もお講 参の咄を聞ハ 舅小姑ハ嫁聟そしり 嫁や息子ハ舅の 讒訴そして近年 安じんまへもいたこ 長哥新内なとゝ ませて語らにや 参りかないとねても 起ても慾心斗 仏任せのぢいばゞ 達もどれか誠か 迷へははれぬ後生 大事ハ頼まず方 と進めなからも旦 那をよせて金の 無心ハお頼方よ 口へ出すハ自力 のたのミ口へ出さねハ かいげに背くお寄合【御寄講】 たの相続なとゝ しりもせぬ事う かめたやうにおのも【己も】 わからぬ後生を もだき果ハ互に いさかへはかりりやう と遣ひと名目付る 空か証か死ねハしれぬ わけて詰らぬ法花 のをしへ蓮花往 生てしくしりなから いまた迷ひの目か さめぬやら他宗 そしりて我宗自 慢余りおしへか 御大事故に広き 浮世を小狭くくらす 仏嫌ひな神道者も 和学神学六根 清浄払ひ玉へと 家財をはらへ清め 給へと身上を あらひ口の不浄ハ けかれたものを 呑ず喰ずハ言訳 たてと胸と心ハ 只もろ〳〵の欲と悪との不浄てそまる祢宜の社家しやの神主なとゝ神のみすへと身ハ高ふれと冨をするやらあやつり 【本文】 書之通古今未曾有之災事ニ御座候へ共此最寄一統之儀 ニて助合之儀も出来兼候体ニ御座候尤即死人ハ改之上葬 方手当申付怪我人共之儀者夫〻治療差加方申付且夫 喰日数を以手限ニ手当取計遣申候平年当国之儀は 此節深雪ニ御座候へ共当時雪無之追〻仮小屋等補理【しつらえ】 雨露之凌【しのぎ】方致手当候旨彼地ゟ申越候依て此段御届申上候 以上   十一月   帳面   古志蒲原両郡村〻地震潰家即死怪我人改帳   上書           子十一月  高九百五十五石六斗九升五合  家数百十七軒           蒲原郡 一潰家三軒 半潰廿軒 外九十四軒小破 矢作村【現弥彦村】 高九十七石弐升五合 家数九軒 一潰家壱軒 半潰七軒 外壱軒小破   田中新田【燕市】 高弐百弐石三斗八升六合 家数廿軒 一半潰五軒 外十五軒小破       庚塚新田【吉田町】 高六十七石三斗 家数八軒 一半潰弐軒 外六軒小破        平岡新田【燕市】 高四百五十三石六斗九升七合 家数四十八軒 一潰家三十九軒 半潰五軒内寺一軒   花見村【燕市】  即死人八人 怪我四人 外家四軒小破 高廿二石六斗三升四合  一潰家壱軒 外なし          与五左衛門新田【燕市】 高八百九十弐石弐斗四升四合 家数百十六軒 一潰家五十九軒 半潰廿八軒内寺弐軒  塚野目村【三条市】  即死人三人 怪我六人 外三十六軒小破 高四十石四斗三升弐合 家数三軒 一半潰壱軒 外弐軒小破     古料 塚野目村【三条市】 高百六十弐石八斗四升弐合 家数十八軒 一潰家十三軒 半潰五軒 怪我三人   鶴田村【三条市】  馬死壱疋 外家なし皆潰      【「鶴」は異体字「靏」】 高弐百六石四斗四升四合 家数廿八軒 一潰家廿弐軒 半潰六軒 即死四人怪我三人《割書:外家なし|皆潰》鶴田新田村【三条市】 【後筆書入分】 かふき山師集めて山事斗祈祷神楽も銭かきめる夫か神慮に叶ふかしらんわけてにくいハ医者衆てごさる隣村へも 馬駕籠もだき しれぬ病を呑込 皃に少し様体わる いとミれハ人に譲 りておのれハはつし 匕の伝より口先 上手しろ人【素人】たまし の手柄を咄し本二 ゑうりやく【要略】傷寒 論は若ひ時分二 習た斗たまに取 出しふく【復】してミても 闇のからすでわから ぬゆへにきかす さハらぬ薬の数を たんと呑せて 衣服をかさり 礼の多少て病気 を遣ひ病家見廻 もうけむけ【有卦無卦】たてゝ 裏屋せとやハ 十日に一度 金に成のハ毎日 四五度されハ 医師衆の 掟といふハ銭や 金には拘ハるましく 人を救ふか をしへのもとゝ 道のいましめ 守らぬわけハ 欲か深うて文 盲故に按摩 取迄夫見習 て近イ頃まて 上ミ下もんて 廿八文か通例成 にいつの頃にかいつく の町も頓て八文 増したるかハり力 いらすに手拍 子斗少し長い と仲間かにくむ 又ハ婚姻法事 の席へゆすり かましく大勢 つめて祝儀 供養の多 少のねたり ならぬ在家ハ 手余る噂去ハ 一々さかしてミれハ 士農工商儒 仏も神もくとく 詞に違ひハあ らし天のいましめ今より さとり忠と孝との二の道を己々か職分守り上を敬ひ下憐て常にけん約慈悲心深くおこる心を慎むむらハかゝる 【本文】 高八十弐石六斗弐合 家数十六軒        【↓三条市】 一潰家七軒 半潰五軒外四軒小破 即死壱人    白山新田 高百廿五石五斗弐升 家数廿弐軒        【↓三条市】 一潰家十六軒 半潰六軒外家なし皆潰       須戸新田 高四百三十弐石壱斗八升五合余 家数四十三軒 一潰家六軒内社家壱軒 半潰四軒外卅三軒小破   東保内村  即死弐人 同馬壱疋 怪我弐人        【三条市】 高四百三十八石七斗壱升六合余 家数四十八軒 一潰家十四軒 半潰四軒内寺一軒         西保内村  怪我弐人 外三拾壱軒小破          【三条市】 高六百四十五石五升三合 家数七十軒 一潰家六十八軒 半潰三軒内寺壱軒《割書:外家なし|皆潰》     中野中村  即死九人 怪我廿九人 即死馬五疋      【中之島町】 高五百七十六石弐斗五升壱合 家数七十壱軒 一潰家六十八軒 半潰三軒内寺壱軒《割書:内寺壱軒|外三軒小破》    中野東村  即死五人 怪我九人 即死馬壱疋       【中之島町】 高壱石三斗六升 家三軒            【↓中之島町】 一潰家弐軒 外壱軒小破 怪我壱人        栗林村 高四十四石弐斗五升弐合 家数十弐軒      【↓中之島町】 一潰家六軒 半潰六軒即死壱人怪我弐人《割書:外家なし|皆潰》   亀ケ谷新田 高廿三石壱斗七升壱合 家数十弐軒       【↓見附市】 一潰家七軒 半潰弐軒外三軒小破即死壱人怪我八人 三林村 高五十七石三斗八合 家数廿軒         【↓見附市】 一潰家十一軒 半潰八軒外壱軒小破怪我七人    小川新田 高四百十弐石七升三合 家数五十弐軒      【↓三条市】 一潰家八軒 半潰卅弐軒外拾二軒小破怪我三人   吉田村 高百八十七石四斗七升七合 家数四十七軒    【↓三条市】 一半潰家九軒 高札場潰外卅八軒小破怪我壱人   長嶺村 高五十壱石九斗四升弐合 家数六軒    【↓古料?三条市】 一潰家壱軒 半潰五軒外家なし 怪我弐人     吉田村 高六百四十七石七斗壱升弐合三勺七才家数八十九軒【↓中之島町】 一潰家八十壱軒《割書:内寺壱軒|社家壱軒》 半潰五軒外五軒小破    中野西村  社弐ケ所 即死七人同馬三疋 怪我三十六人 高百四十五石五斗七升弐合 家数廿五軒     【↓三条市】 一半潰六軒内寺一軒同湯小屋壱ケ所外廿軒小破   如法寺村 高弐百十四石三斗四升七合 家数三十六軒    【↓栄町】 一潰家廿壱軒内寺一軒 半潰十八軒内寺弐軒    矢田村  即死四人怪我五人外家なし皆潰 【後筆書入分】 かゝる困究有 まへものを神 も仏も天道様 も恵ミ給ひ て只世の中ハ 来世末代波風 たゝす四海 泰平諸色も 安く米も下直二 五穀もミのり 地震所の町在 共に子孫栄 行末繁昌の もとひ成へき 例しをあけて かゝる此身も つミふかき地震 つふれの掘立 小屋にしハし困 りて世の人々 の穴と癖と を書し印置 筆の命も やれおそろしや やんれ〳〵 喜二叟按るに 右のくどきハ 取にたらざる 戯れなれとも 凶災によつて 所の難別又 ハ善悪に付 人々の邪横 の事を書たれ ハいかにも江戸 抔からも天下の さハりと成へき 事なとハ風説 のことより其 筋のせんさく をする事と 是越後【口の右に追記】口説と 言て善悪 のせんさくを 是より顕ると いへることむへ也 高弐百六十弐石九斗壱升 家数四十三軒     【↓三条市】 一潰家廿弐軒 半潰廿一軒即死五人怪我七人《割書:外家なし|皆潰》  袋村 高千三十七石六斗四升六合 家数百廿一軒    【↓栄町】 一潰家八十九軒同郷蔵壱ケ所 半潰卅三軒《割書:内寺|壱軒》    北潟村  即死六人 怪我十三人 即死馬一疋外家なし皆潰 高廿五石壱斗四升六合 家数十七軒       【↓栄町】 一潰家六軒 半潰十壱軒 怪我五人《割書:外家なし|皆潰》      鬼木村 高七百七石壱升四合 家数四十四軒       【↓栄町】 一潰家四十四軒 即死十弐人怪我十三人《割書:外家なし|皆潰》    貝喰新田 高五百四十三石弐斗五升四合 家数九十八軒   【↓栄町】 一潰家六十一軒 半潰卅七軒即死八人怪我十八人《割書:  |皆潰》 吉野屋村 高三百四十四石四斗三升八合 家数五十軒    【↓三条市】 一潰家廿九軒 半潰廿壱軒即死五人怪我弐人《割書:  |皆潰》   東鱈田村 高百五十六石壱斗七升四合 家数廿壱軒     【↓三条市】 一潰家十八軒 半潰弐軒外壱軒小破         西鱈田村 高弐百廿六石八斗九合 家数三十軒       【↓栄町】 一潰家十壱軒 半潰十九軒即死壱人《割書:外家なし|皆潰》      小古瀬村 高九十弐石七斗七升七合 家数廿五軒      【↓栄町】 一潰家九軒 半潰拾四軒外二軒小破即死弐人      同新田 高百十壱石壱斗五升五合 家数三十壱軒     【↓栄町】 一潰家十五軒 半潰十四軒外弐軒小破        中興野新田 高百十壱石八斗七合 家数廿軒         【↓栄町】 一潰家六軒 半潰十四軒即死弐人怪我弐人《割書:外家なし|皆潰》   千把野新田 高百八十壱石九斗八升八合 家数五十四軒    【↓栄町】 一潰家廿五軒 半潰廿九軒即死壱人外家なし皆潰   善久寺新田 高九十九石四斗壱升五合 家数廿八軒      【↓栄町】 一潰家十九軒 半潰十三軒外四軒小破即死壱人    渡前新田 高百廿六石三斗七升三合 家数卅八軒      【↓栄町】 一潰家廿三軒 半潰十五軒即死弐人怪我弐人《割書:外家なし|皆潰》  中曽根新田 高百八石壱合 家数十九軒           【↓栄町】 一潰家八軒 半潰十壱軒外家なし皆潰        岩淵村 高百八十八石四斗三升九合 家数廿軒      【↓栄町】 一潰家十六軒 半潰四軒即死三人怪我八人《割書:外家無シ|皆潰》   戸口村 高四百廿四【?】石五斗四升五合 家数三十九軒 【↓栄町】 一潰家卅四軒同郷蔵壱ケ所 半潰五軒《割書:即死五人|怪我九人》皆潰茅原村 高三百三十四石弐斗五升三合 家数七十五軒   【↓栄町】 一潰家廿壱軒 半潰卅四軒《割書:内寺 外|壱軒 十八軒小破》即死壱人怪我七人 大面町 高九十六石弐斗四升 家数十四軒        【↓栄町】 一半潰五軒外九軒小破               高安寺村 高百十石弐斗五升 家数十五軒         【↓栄町】 一高札場壱ケ所潰 半潰八軒外五軒小破内寺壱軒   小滝村 高廿五石九斗八升 家数五軒          【↓見附市】 一潰家弐軒 半潰三軒外家なし皆潰         黒坂村 高四十九石壱斗壱升六合 家数七軒      【下鳥新田?↓見附市】 一潰家五軒 半潰弐軒 怪我五人外家なし皆潰        下鳥新村 高六百十一石四斗壱升九合 家数七十五軒        【↓見附市】 一潰家五十六軒 半潰廿軒《割書:内寺|壱軒》即死七人同馬壱疋怪我廿人皆潰  片桐村 高百廿九石八斗弐升八合 家数十四軒          【↓栄町】 一潰家三軒 半潰六軒 外壱軒小破              小谷内村 高五十七石三斗四升九合 家数十軒           【↓見附市】 一潰家三軒 半潰六軒 外壱軒小破              田ノ尻村 高七十壱石八斗六升 家数十八軒            【↓栄町】 一潰家弐軒 半潰六軒 外拾軒小破              前谷内村 高千六十四石三斗六升七合 家数百十五軒        【↓栄町】 一潰家十三軒郷蔵壱ケ所潰 半潰四十五軒          帯織村  即死弐人怪我弐人外五十七軒小破 高六百五十四石六斗八升四合 家数百弐軒        【↓長岡市】 一潰家十四軒同郷蔵壱ケ所 半潰卅壱軒         古志郡福道村  即死壱人 怪我弐人 外五十八軒小破内寺壱軒 高百十五石三斗七升六合 家十九軒           【↓長岡市】 一潰家三軒 半潰六軒 外十軒小破              南新保村  右寄高壱万五千弐百五十八石九斗八升弐合余  家数弐千百三軒之内  《割書:古志|蒲原》両郡五拾五ケ村   潰家千三軒《割書:内寺四軒|    》   半潰家六百卅四軒《割書:内寺十四軒|     》外家四百八十弐軒小破   潰高札場弐ケ所 同郷蔵四ケ所 同社弐ケ所   即死百九人内《割書:男卅八人|女七十壱人》怪我弐百卅八人内《割書:男廿弐人|女百十四人》潰湯小屋一軒  右御届下之由右之通ニ付御本領同様御手切日数廿日之  内男五合女三合即死壱人ニ付鳥目五百文ツヽ被下置候よし    御本領潰家即死怪我人             蒲原郡 一潰家五十七軒半潰三軒即死十七人怪我十壱人同馬弐疋  道金村【燕市】 一潰家七十七軒半潰六拾五軒即死十一人怪我拾人     小池村【燕市】 一潰家三十六軒半潰卅九軒即死一人馬壱疋        横田村【分水町】  是より三島郡分【?】 一半潰七軒  砂子塚村【蒲原郡、現分水町】 一潰家三軒半潰六軒 野中才村【分水町】 一潰家二軒外小破数軒 五千石村【分水町】一潰家三軒半潰四軒《割書:小破|数軒》大川津村【大河津村、現寺泊町】 一潰家二軒半潰廿三軒 町軽井村【寺泊町】 一潰家壱軒山崩小破数軒 北野村【長岡市】 一山崩潰家壱軒《割書:小破|数軒》有信村【寺泊町】 一同上 田頭村【寺泊町】 一潰家壱軒半潰十五軒 刈羽郡之内長鳥村【柏崎市】  〆潰家百八十七軒半潰家百六十壱軒死人廿九人《割書:十人男|十八人女》【割書3行目】壱人僧   怪我人廿壱人 死馬四疋 山崩潰【痛ヵ】家三軒 堤破損六ケ所  右之通ニ付日数廿日之内男五合女三合死人一人ニ付五百文ツヽ被下置候由    御他領之分右【有ヵ】増 出雲崎御支配 一鬼木村【栄町】尾崎村【十日町市】皆潰 泉村同 芹山村【栄町】川西村【出雲崎町】加茂新田【加茂市】 一与板御領 与板御城下《割書:三分二潰|即死三十人余》野本村皆潰 平井村皆潰 中田村【与板町】中村【長岡市】槙野村【槙原村?】藤川村【三島町】中条村【三島町】王野村 皆潰 一長岡領 瓜生村【三島町】皆潰 下川根村【下河根川村?】中野村【吉田町】法華堂村【法花堂村、吉田町】  吉田町【吉田町】粟生津村【吉田町】高木村【吉田町】 一村上領 杉山村 杉名村【燕市】杉柳村【燕市】杉野新田 会【?】関村  太田村【吉田町】《割書:家四百軒之処|三分二潰》留木須村 井戸枚村【井土巻村?燕市】 地蔵堂町【分水町】 中嶋村【分水町】  熊ノ森村【分水町】 三条町《割書:凡家数三千軒程之処家六七十軒斗残り即死|七八百人余ニ有之趣怪我人不知数》 三条は市日ニて人立も多く店先に銭をつきなから相果又ハ 五ツ頃之事ニ付爐【いろり】の端ニ茶碗或ハ土瓶薬灌抔持なから即 死之分も有之痘瘡流行ニてある家ニて痘瘡子を中に 取囲ミ家内六人不残輪に成相果候よし右大地震ニて潰家 大造成事ニ付八方ゟ出火ニて中ニハ烟【けむり】ニ迷ひ煙死之分も有之  東本願寺へ懸所ニてハ願事参詣之者百人余も有候【之ヵ】処五十程は  即死寺中寺子共四五十人も即死又寺中の娘入口ニ倒居候て  助呉候様さけび候ニ付通懸りの者弐人ニて色々致候へ共不出候  ニ付右娘何卒殺し呉候様さけび候へ共刃物ハ無之色々と致候内  はや本家ゟ出火ニて出候事不相成たぶさを取出候処首引  ぬき候よし即死之分八百人余怪我数不知と申事ニ御座候 一新発田領 今井村 岡野村 丸山 中条村【中ノ島町】《割書:皆潰|  》中野新田【新津市】  下間村 西野村 島田村 今町《割書:皆潰|  》谷木村 一脇野町御支配 脇野町【長岡市】《割書:三分二潰|    》 新保村 一上野山領 上除 下除【長岡市】 一高崎領 抄木村【杣木村?燕市】 炭片村【灰方村?燕市】 大曲村【燕市】 一ノ木戸【燕市】《割書:皆潰|  》 一村松領 見付町【見附市】  右は三条辺最寄料〻にて外数百村有之候へ共未相知候     《割書:中野潟左衛門へ|清水源太夫ゟ》文通写  且又貴国之大変荒増申上候十一月十二日辰上刻大地震  町方初刈羽郡中不残大地割屋根石落二階落戸障  子柱折土台離【放ヵ】レ土蔵壁落北条ゟ塚野山への【之】馬  留顔出候由御陣屋内外共無別条越後一国之騒ニ御座候  得共御本領村々潰家死人格別之事ニも無之御無難同  様恐悦之事ニ御座候町方初刈羽郡中氏神へ祭礼いたし  祝いたし候 地震調出役《割書:御預所|蒲原郡》手塚甚大夫志田素蔵島潟許六 御本領《割書:刈羽郡|   》清水源大夫《割書:魚沼郡|   》竹内佐市《割書:三島郡|   》添田諸兵衛《割書:蒲原|郡 》《割書:斎藤伝兵衛|山崎差兵衛》 【上部追記】 乗邨云 北条より 塚野山ハ 魚沼郡 長岡小 千谷等の 海道也 右之通罷出候処十九日迄ニ追〻引取候調書上通り別紙上候間 御覧可被下候依之御本領御預所共ニ潰もの之家内日数廿日 之内男五合女三合ツヽ即死人壱人ニ五百文ツヽ御役所ゟ被下 置扨諸家様之騒出雲崎御支配長岡与板高崎新発 田村上池ノ端水原御支配椎谷脇ノ町御支配右之通ニ御座候 中にも高崎様村上様大分之御損毛ニ御座候由三条町人ハ哀 成事ニ御座候諸帳面等始着類諸道具等不残焼失誠ニ立 之儘【侭】ニて町中小路〳〵之死人ハ親子兄弟相分り不申未片付之 手当も無之小家懸之補理【しつらえ】も可致様なく鍋一ツ無之候へハ 食物拵手段無之右往左往にて生米を給【たべ】候由是ニハ役 所ニても御困之由三条町を中にして八里四方の内大地震余 【右丁頭注】「乗邨云/高崎は/上州高崎/領にて一ノ/木戸ニ陣/屋アリ/三条町ハ/村上領也」 は格別之事も無之候併何れも山之辺筋堤用水川大変ニ痛候 八里四方在〻町〻潰家即死人惣員数相知不申候追〻可申上候 多くハ 公儀御勘定方御見分御座候哉と風聞いたし候十二日ゟ 未タ少〻ツヽ之地震昼夜幾度と申事なく震申候前代 未聞之大変ニ御座候申上度事山〻ニ御座候へ共明日郷蔵所へ出 役あり取込大乱筆御高免可被下候下略   十一月廿一日 得左衛門様  源大夫 右本文之内有之別紙は前ニ有之と同事其内  一ノ木戸 右町御陣屋始皆潰死人余程之由未タ不数知  燕 町  右町皆潰死人三百人程  今 町  右町皆潰其上焼失 見付町 右町同上  脇野町 右町三分二潰 《割書:与板町|地蔵堂町》 同上 右大地震後越後ゟ参候ものゝ咄せしハ中〳〵右書面なとの様成事 にてハ無之所により地割之処へ家めり込候なとも有之一ノ木戸御陣 屋なとはハ年貢取立算入御役人不残出役之処俄家潰ニて御役人 始内実ハ即死も多有之由潰家ゟ之出火ハ村毎之様ニ有之 実ニ路頭ニ迷ひ往来之人ニ物を乞もの数不知中にハ富豪 と申位のもの共右之体ニ相成候もの有之由一国といへ共頚城 岩船両郡はさしたる地震ニも無之尤尋常の地震よりハ 強く有之候へ共家破損等も無之由左の絵図に有之朱点 之内通のミ誠ニ大地震にて人命ハ勿論家屋諸財之痛 捨たること事幾〳〵といふ数も不知よし希代の大変事也   別啓《割書:是越後長岡より一身田山内へ之文通之由坊官 長岡少進(服部逸八事)ゟ|石州殿へ参り小拙えも為見候様被申越候趣ニて石州殿ゟ被仰下【候ヵ】也》 其御地は昨年已来御別条も無之候哉委敷承度所希御座候 風聞ニて承候へ共【はヵ】九州辺幷三州辺等は余程変事有之候由随て 当越後国別て当長岡ゟ与板城下夫ゟ連〻下筋凡七八 里之間之場所旧冬十一月十二日辰ノ正上刻未曽有之大地震 ニて右七八里之間地所纔【わずか】弾指之間【だんしのあいだ=ごく短時間】ニ大地震動いたし所〻 之往来道筋によらす幅一尺位ゟ五六尺余ツヽ大地裂割候 其場所より赤き小砂又浅黄薄青色等之小砂或ハ泥土抔 地上へ二三尺ゟ五六尺又ハ八九尺一丈計も吹上ケ徃〻家〻の 井等ハ井底ゟ小砂泥土抔吹出し纔弾指之間に井の水 一滴も無之様ニ砂石等ニて埋り当日ゟ後十四五日又ハ所ニより廿日 位も其余爾今朝夕之呑水ニ困り居り候寒中殊ニ寒中井堀 直候仕合ニ也【てヵ】一同大困り之事ニ御座候田所なとハ元より低候故 水湛居候処傾【場ヵ】所ニより俄ニ高田と成り畑なとハ急ニ凹之様ニ低く 相成候処も致出来又ハ所ニより大地大ニ裂割長さ五七町も 其余も川筋之如く相成山崩等ハ申迄も無之長岡より追〻下 筋程夥敷地震ニて町〻在〻所ハ家立寺社所によらす又ハ潰 のミ又ハ潰之上出火ニて剰【あまつさえ】数百人潰家之出口を失ひ無是非 焼死之【候ヵ】族有之一昼夜之間ハ所〻方〻ニて火事有之誰有て 火を取鎮呉候族も無之戸〻之面〻只一同泣叫声のミ 天に響き誠ニ大乱世却来【きゃくらい】時至候と生居候人〻ハ肝を冷し恐惶 いたし候仕合ニ御座候扨又命を拾候族無難とハ乍申毎家ニ 柱之一二三本位又鴨居敷居等迦落町家ハ屋根石等ハ一ツも不残 実に雨を散〻降候如くに落屋根板皆〻振落候【しヵ】当夜に 至り少し雪降候処誰ニも致安眠候場所も無之且又辰上刻 程之大地震ニてハ無之候へ共当日ゟ五七日之内ハ地震の気更に 相止不申甚心遣ひ之事共故町屋始在方之家〻ニてハ夜ニ入 懸り候へハ誰一人とて家内ニ眠候族無之皆〻損候残之戸板 抔町中へ持出地上へ敷其上ニて夜を明し候仕合毎夜心を安シ 寝る族一人も無之有様ニ御座候拙寺抔ハ町家ゟ少しハ家作も 丈夫ニ有之候故夜分迚も表庭抔へは出不申家内不危場 所見立皆〻打寄相眠申候へ共塔中【たっちゅう】三ケ寺之族ハ五六日之間 ハ町家同様表庭ニ菰等之類相敷其上ニて雨雪降候節ハ 雨具等相用終夜を相送り候次第ニ御座候当城下ハ外ゟハ 少し軽き方ニて潰家等ハ聊【いささか】之事ニ御座候戸障子板戸等過半 用立不申様相摧【くだけ】候迄ニ御座候拙寺本堂抔漸一昨年立候処 屋根小破尤地形ハ余程裂割候右堂内之柱根ゆるミ随て 敷居抔用立兼候処も有之候へ共是等ハ中〳〵他之様子に対 てハ九牛の一毛申出も恥敷位之次第ニ御座候勝手住居向きハ壁 落申候柱等も少しハ傾き軒廻り附庇の辺ハ過半崩潰候へ共是 又他ニ比し申候へハ申迄も無之辱敷事ニ御座候土蔵ハ余程大損ニ候へ共 公儀へ書上候外ニて達し候迄も無之御座候も末寺ニ候中村慶 覚寺ハ本堂ハ大破ニ御座候勝手住居向ハ半潰ニて常時住居も 難自由之仕合ニ御座候故当城主ゟ御手当として御米頂戴百性【ママ】 家夫〻相潰之類又怪我人死人等〻は皆〻応分ニ御手当被下事ニて 一同難有奉存候右大変ゟ五三日之間ハ所〻方〻ニて無常之烟立上り 不尚も其砌【みぎり】纔【わずか】一日之内ニ母子両人ツヽ両所ニて両度致引導申候其 外其外【ママ】一人死之者ハ御門徒之内ニも六七人も御座候所〻村〻過半 潰即死多御座候所実ニ火葬所ハ毎日〳〵烟之絶間無御座夫ニ 寒初の窮【究ヵ】民別て村中過半余相潰候中にて相死候事故死骸 を沐浴致候処も行立不申剰【あまつさえ】棺等へも不入裸身ニて其儘【侭】筵【むしろ】 菰【こも】等に相纏申候て葬所へ相送申候此等の体故親類縁者迚 も近隣之族迚も誰一人野辺の送りいたし呉進【遣ヵ】し候人も無之只〻 施主家〻【之・のヵ】族と導師の者のミニて致送葬候有様ニ御座候葬 所へ至り見候へハ最早先ニ烟と立上り候死人数多有之一軒之家 にて二三人又四五人も致即死候誠ニ以目も当られ不申体筆談ニて 申上候も涙ニ咽候位ニ御座候然ル処当長岡町ハ先〻少しハ近在下 筋よりハ軽き方ニて拙山内一人も怪我いたし候族も無之只〻是 のミ難有大慶仕居候当所ゟ近在夫ゟ下筋ニ至り候程大変 ニて村〻里〻一軒も不残相潰又ハ消失等数多有之其辺ニて稀ニ 一命を免れ候族とても家財夜【?】具迄潰消【焼ヵ】失之之事故其砌ハ 食事等御【心ヵ】懸ニても一切無之皆〻五七日の間ハ餓果居命計之 有様実ニ餓飢道之苦痛も不外様子ニて実〻ニ恐しき事共ニて 御座候大変より十日計も相過漸地震之気味も失候半と少し 計安堵の意地ニ相成居候処如何様大地之気相成候哉其後夜と なく昼となく或ハ一日ニ一度又ハ夜中ニ両度位計ツヽ当正月廿日 時分迄時〻地震之気有之候故人〻大ニ心遣致し居漸正月 下旬ゟ当月今日迄是と申震動も無之罷在候へハ何レ是ゟ 追〻地気相定已前之地気ニ相直り可申哉と喜居申候右様 大変有之時ハ雪降不申物と誰申共なく流言いたし候事 故皆〻只夫のミ飲居候処去十一月末ゟ時〻少〻ツヽ降候へ共散積ル と申処へも多不参申罷在候処十二月下旬ニ至り廿六七日頃ゟ当正月 下旬頃迄手始共無之始終降積以之外大深雪と相成又〻家 潰候哉と一同心痛いたし候へ共先ニ正月来ゟ少しハ降も薄り【らヵ】き哉【此ヵ】 二三日は日輪の光も明かに拝し申悦入居申候上越後高田辺ハ当年 ハ大雪ニて昼夜埋ニて暮し居り候由ニ御座候へ共是ハ全体故大雪之処ニ 御座候去冬之地震ハ此辺ハ至極珍キ事ニ御座候初【旧ヵ】冬十一月十二日之大地 震は信州松本辺洗馬本山之辺ニても少し心計の気御座候由時刻 も同時也江戸表も同時ニ少し気味有之奥州二本松会津等ニても 地震之由ニ及承候乍去何レも当国ニハ及不申至て軽き事之風聞ニ 御座候種〻余事等是ニ付有之候へ共迚も筆力ニ及兼荒増御 話申上候間貴代御両所様始何方へも御同意ニ御吹聴可被下候尤左 之通之書上は当所ニて【重ヵ】役方ゟ借写し候【御ヵ?】供ニ入御覧候   私領分越後国長岡古志郡三島郡蒲原郡之内去月   十二日辰ノ上刻大地震ニて城内切破損幷領内潰家田畑破損   山崩死人怪我等之覚     本丸 一住居向大破  一三階櫓大破地形割レ       壱ケ所 一櫓大破地形割《割書:内壱ケ所地形割崩傾|         》           三ケ所 一多門大破   弐ケ所      一門大破    壱ケ所 一冠木門大破《割書:内壱ケ所石垣崩傾|        》弐ケ所  一塀倒《割書:卅七間|   》 一同大破百弐【二ヵ】間 一橋破損    壱ケ所      一橋詰石垣崩  壱ケ所 二ノ丸一櫓大破地形割傾 弐ケ所  一塀倒     七十四間 一塀破損    百卅九間     一門大破石垣崩 壱ケ所 三ノ丸一櫓大破地形割傾 壱ケ所  一同大破石垣崩 壱ケ所 一塀倒 九十間同大破二百八十七【五ヵ?】間 一土蔵大破   三戸前 東曲輪 一鎮守社破損  壱ケ所  一塀倒 廿一間同破損百廿六間 一冠木門大破石垣崩   壱ケ所  一柵大破    四十弐間 南曲輪 一門大破石垣崩傾壱ケ所  一塀大破    百八十間 一柵大破        拾八軒  一囲籾蔵破損  一棟 西曲輪 一御詰籾蔵破損 二棟   一門大破石垣崩袖塀傾三ケ所 一塀倒 百間同大破四百四十六間  一厩破損    一棟 外曲輪 一冠木門破損  五ケ所  一門大破石垣崩袖塀倒 壱ケ所 一塀倒 九十三間  一石垣崩五十七間   一柵倒廿弐間 一城内役所破損     五ケ所  一城内所〻地割《割書:但幅七八寸ゟ二三寸迄|        》 一城内住居破損     壱ケ所  一城外役所破損 三ケ所 一囲籾蔵潰       壱棟   一家中潰家   廿七軒 一家中大破家 百廿軒 同潰土蔵二戸前 同大破土蔵十六戸前 一足軽中間潰家百六十三軒     一同大破家   三十六軒 一社大破 三十四ケ所 一鳥居大破廿八ケ所《割書:内壱ケ所倒|     》 一潰社家 三軒 一大破社家三軒 一潰寺卅三ケ寺《割書:内壱ケ寺|焼失   》 一大破寺 四十三ケ寺 一城下町潰家十五軒 一同大破家四十四軒 一同大破土蔵 三百八十戸前   一蔵所大破    七ケ所 一番所大破  三ケ所        内潰米蔵   拾棟 一高札場大破 六ケ所        《割書:米蔵大破|潰役所》    《割書:八棟|二ケ所》 一同【郷ヵ】中潰家三千四百五十弐軒 《割書:内八軒|焼失 》  《割書:役所大破     二ケ所|潰蔵牢      二ケ所》 一同大破家四千四百三十九軒     同【門ヵ】大破  三ケ所 一同潰長屋 五棟 同潰土蔵 廿戸前 同大破土蔵十八戸前 一同大破新蔵 四十五戸前   一田畑荒所九百五十五町七反歩余 一道筋大破 二千七百卅三間余 一囲堤大破壱万四千二百九十六間 一樋水道大破  廿ケ所    一用水江埋壱万五千九十九間 一用水溜池大破 四十三ケ所  一山崩 六百六十五ケ所 一倒木 千八百四十六本    一落橋 五十五ケ所 一橋大破 七十壱ケ所     一信濃川岸港【隄?】崩八百十三間 一死人四百四十弐人内《割書:男百九十八人|女二百三十九人》【ママ】一怪我人 五百五十弐人 一斃馬 拾六疋        一怪我馬 四疋  右之通ニ御座候此外地裂砂埋山崩等ニて所〻変地仕収納不  相成場所も有之候へ共損毛高之儀は未相知不申間追〻可  申上候此段御届申上候以上     十二月  右は当城主ゟ 公儀へ御達書之写ニ御座候此外ニ与板城下  脇野町等始三条辺面立之場所等之大変極荒増之処写取  左ニ申上候与板城下町之分のミ左之通ニ御座候 一寺社大破 十一ケ所  一潰家二百六拾三軒《割書:内八十八軒焼失二ケ所ゟ出火|  》 一半潰家 八十六軒 一大破家 三百軒 一怪我人二百八十人 一死人  卅四人《割書:此外ニ与板領内所〻変易候へ共具ニハ承不申候故|不触其意候》      三条町 一潰家 千六百軒《割書:内千四百軒余焼失六ケ所ゟ出火此内一ケ所ハ当町に東|本願寺掛所御座候其本堂ゟ出火但本堂潰大地裂》 《割書:割其所より火気湧上り堂内ニ出し置候火鉢抔之火と相戦【?】申し本堂ハ|不申及惣して宝物類不残類焼参詣之人も何程死候哉不相知折節》 《割書:塔中之寺院ニてハ晨鐘之勤行最中にて別て参詣之仁多く有之候処寺|僧はしめ皆〻不残潰候上焼死申候其数等ハ他所之人も有之候事ゆへ》 《割書:しかと相知不申候|  》 一半潰家三拾軒《割書:当所ハ町家千七百軒|位之処ニて御座候》 一怪我人三百五十六人 一死人 三百八十五人《割書:右は当所之人数ニ御座候此外他所ゟ来懸り居候人〻何程|焼死候哉死人山之如くニてしかと相知不申候》      見付《割書:当国村松城主之領分ニて在町ニハ御座候へ共家数五百軒余|住候処ニて相応ニ賑申候場所ニ御座候》 一潰家 五百軒《割書:内二百軒余焼失|六ケ所より出火》 一半潰家 三十一軒 一怪我人 六十人 一死人 百拾弐人《割書:此内多分家潰出家ニて焼死之もの共|有之よし   ↑ママ》      中之島《割書:当国新発田城主領内在郷町ニ御座候|  》 一潰家 百九十軒 一半潰家廿軒 一怪我人 数千 一死人 卅三人      今町《割書:右同断家数四百軒余之在町ニ御座候|  》 一潰家 三百軒余《割書:内百六間焼失|  》 一半潰家十三軒死人十三人怪我数不知      脇野町《割書:御料所ニて当時桑名侯御借支配ニ御座候|  》 一潰家八十六軒 一半潰家大破共四百軒 一怪我人五人 一死人五人      加茂町《割書:新発田領在町ニ御座候|  》 一潰家 十七軒 一怪我人 十人余      大西《割書:右同断 乗邨按に大西ハ御料所也新発田領と書しハ誤り尤以|    前ハ新発田領ニて有之候  》 一潰家 十七軒 一半潰家十一軒 一怪我人四人 一死人壱人 右之通旧冬十二月朔日聞合候分著損如斯御座候此外ニ寺社等 之潰等も何程有之哉風便ニは右体相潰又ハ焼失等ニて死人 怪我人等数多御座候由申候此外に在郷家之儀何ケ村相潰相果 候哉惣して八里四方の大変ニ御座候故夫〻聞合ニ及受【急?】申候右之外 所〻之領分も入交り罷在候へ共迚も筆勢ニ尽兼候極荒増し 処右ニて其余之処ハ御推量可被下候已上 丑二月十三日  右之書ハ越国御来寺より当山へ参り余り仰山之儀ニ付一寸  借受早〻入御覧ニ急書故御推覧覚之扣【ひかえ】抔御見せ可被  下候恩遠にへも奉願上候以上 右文中九州辺幷参州辺等余程之天変有之由及承と有之は  左之書面共之事也聞及候斗を爰に贅す    松平肥前守様ゟ御届有之旨為御知之写しの由 一御高札場潰十四ケ所 一御居城向都而及大破幷外構倒五ケ所御役所潰拾三ケ所 一御番所潰拾三ケ所       一同半潰九ケ所 一田畑七千七拾壱町五反余水下  一同八千三百七十丁【右に追記】九段余潮下 一同三千七百六十五町四反余砂入 一川土居切所壱万六千九百九十三間 一同半崩弐万弐千六百四十間   一汐土居切所壱万弐千二百五十弐間 一同半崩五百廿八間       一道崩三千百五十間 一石搦崩壱万四千弐百十八間   一山崩八千三百拾八ケ所 一井堰崩弐千七百十三間     一樋崩千七拾弐ケ所 一橋落弐千五百壱ケ所      一地籠崩壱万弐千三百丗間 一堤崩弐千八百六十四間     一潰家三万五千三百六十四軒 一同半潰弐千五十七軒      一潰土蔵三百五十三軒 一籾米潰蔵三十四軒       一流家千五百拾弐軒 一鳥居倒千六百弐拾壱      一破船弐千八百三十弐艘 一流失船八百十三艘       一焼失家千六百四十七軒 一倒木数不知          一怪我人壱万千三百七十三人 一横死七千九百壱人       一溺死弐千弐百六十六人 一焼死百十五人         一怪我牛馬千弐百八十七疋 一斃牛馬八百五十三疋  右之通松平肥前守様御国五月以来八月九日十日大風雨  にて津波等古来不致見聞嵐之由御届有之為御知  之書付之写し也河村氏へ江戸より来候由借用うつし置    文政十一子年八月九日子ノ刻ゟ亥ノ刻迄尤巽之方ゟ吹出し候    筑後久留米御領内御役所書上申候通 一家吹倒壱万五千九百廿七軒  一家半崩四千六百廿五軒 一出火城下ゟ在中迄千廿五軒但津波家流《割書:若津町|新地/榎津町》【上記実際は三行】六百廿七軒 一死人千九拾六人       一怪我人四万人 一牛馬死五千廿疋    御国中御領内  肥後壱番 筑後弐番 筑前三番 肥前四番  豊前五番 豊後六番 日向大風 九州大荒  筑前出火 城下五ケ所 家吹倒弐万五千軒 死人弐千五百人  八月廿四日朝寅時ゟ卯時迄在内ニて高塩【潮】津波筑前  博多福岡大津波家土蔵入船湊懸り損候事数不知  濱辺船流レ行方不相知事ニ候  右は子十月六日大坂親類ゟ菰野屋清六方へ来状之趣但  田作四分畑作三分と申来ル《割書:鶯宿云此書面不分明なれ共本書之儘|うつし置》     唐津小笠原様藩中桑原左平次方ゟ渡部氏へ     到来之内 一去ル九日夜半頃ゟ大風雨ニて拙宅塀共破損致し候御城内外  損所多く在中潰家五百軒余に御座候田方も余程あたり  米弐万余も御損毛可有御座候様子彼是風損多く当  勤柄ニては別而致心配候米直段三斗俵ニて弐貫弐三百文  位ニ相成候此上引上可申と奉存候同国之内佐賀領なと別而  大風死失人数多候由長崎も大風人死多く肥後様御用  船破損三十六七人長崎間【巾の狭い湾】之内ニて死失当年入津候紅毛  船長崎間之内稲佐と申所へ吹付られ船底迄見候之よし  右之船は平日本ノマヽ【右に四字追記】沢山這入候中〳〵【々】船拵底之様子なと見候事  ハ不相成候所此度は船横ニ成り初而底迄見候趣承申候  大風之次第中々難尽筆紙荒増のミ早々申上候以上     子ノ八月廿三日認    豊前小倉大風之噺 一文政十一子年八月九日夕方ゟ雨風強く東南風之処同夜寅ノ  下刻頃南風ニ相成夫ゟ至而列【烈カ】敷雨中ニ大ニ光西空中を  飛廻り小倉御城高塀大かた堀内へ打倒し近年御普請  有之候高矢倉馬返しニ相成外側は勿論御本丸共大破  損御城並木松悉く倒木枝折ニ相成枝折之分杭を  立たる如くニ相見へ候御城内御家中屋敷微塵に吹飛し  跡方不相見分凡四百軒余倒家八分通右倒家ゟ出火  所々燃上り鎮守石灯籠迄風ニて転候由猶又海中之儀  は大小之船碇綱一同ニ打切大浪ニ連レ陸地へ打上其辺之  人家も共ニ打砕凡船数三百余艘其外沖手之方なる船  其上ニ打重り共々微塵ニ相成候由人命之儀ハ数多之失ニ  及候趣人数不相分翌日江戸表へ早追御飛脚差出可有  之処近辺とても同様ニて船壱艘も無之俄ニ造作被仰付  漸早飛脚御差立ニ相成候由町家之義は瓦屋根之分無  難之趣勿論御城之儀は海辺へ築出し有之ニ付格別烈く  相当り候由承り申候翌十日午刻より町家之者火消組之  もの大勢入込殿様御通り筋御役所向道筋等取片付申候   先月十二日頃米直段壱升二百文之由ニて十日巳刻風和候よし  右は小倉御家中細野角左衛門と申仁昨朔日上下四人引戸  駕籠一挺鑓挟箱為持候て本町松本屋杢兵衛方泊ニて  承り申候小倉表を出立は先月十三日之由 一芸州広嶋辺同月同夜風雨ニて家中町家之儀板屋  藁屋之分不残破損併為差荒所も出来不申候よし  右は芸州様御飛脚より承知仕候由松本屋杢兵衛書付に見へ申候 一豊後杵築松平河内守様昨廿七日御止宿之処御同勢之  内ニて西国筋風雨損候所之儀承合申候処八月八日御国  許より御乗船九日御城下近辺ニ日和御見合候処同日夕方  より大風雨十日之朝風和【サンズイ有】候ニ付御出帆有之守江湊と申  所ニて順風御待合漸十六日同所御出帆廿一日大坂表へ御  着船御坐候よし 一七月二日大風雨ニて右御領分三万石余之処壱万石程田畑  水損猶又当八月九日夕かた大風雨ニて残り之分過数損  失いたし候様ニ被申候尤此段大坂表ニて御聞合候由猶又  中国路播州辺迄同様ニ荒所出来候由被申聞候 一中国筋海上ニて大船小船数艘破船いたし船人往来之旅  人類数多溺死いたし候由船中ニて被及聞候由 一所々湊ニて潰家及見殊ニ播州明石領分之湊にてニて芝居  小屋倒居候を及見被申候由  右之通承り申候尤御国元より乗船候儀ニて陸路之儀ハ慥ニ  存不被申候由被申聞候筑州様御飛脚ニ承候処長門下の  関湊ニて大船四十艘余も破船いたし人数百人程溺死  いたし候由小倉之儀及御聞有之候へ共委しくハ御咄無御座候  豊後杵築御領分七月風雨前は米一升五十弐文位之所  次第ニ相場上り御出立前にハ八拾文位ニ相成候由被申候  右之通承合申候ニ付此段奉申上候已上    文政十戊子年八月廿七日      問屋     中国路風損 以下△印迄大塚與六郎より見せ候書付也 一小倉様御国八月九日夕ゟ辰巳之風強く子刻前東風ニ吹  替り爆風次第ニ烈敷寅刻ゟ南風と相成厳敷事空  中ニ火の玉飛めくり御城高塀堀へ向ケ吹落候御高櫓  馬かへしニ成其外土蔵大損し瓦等吹上御城内松杦之類  倒木多く漸無事成ハ枝悉く折誠ニ杭を立るかことく  大破損場所多く御家中方数百軒程微塵ニ空へ吹天む  ら〳〵と飛めくる方半時斗卯刻ニ至り漸吹鎮り凡一時斗之  処歩行も難成子供老年之者即死多し町家板屋藁屋之  類は吹取餘は無別条湊ニもやい候大舟小舟悉く陸へ吹  付大破ニ打上り候ニ付綱なと押切猶々沖之方之舟共陸へ向  弥上ニ押重り微塵ニ相成候付陸ニ有之候人家数百軒同断  微塵ニ相成申候即死之類多く前代未聞之大風也小倉大守  公より江戸表へ御注進可有之処大小之舟悉く打砕御間ニ  合不申依之急ニ船造作被仰付右之船ニて御飛脚大坂へ渡  海有之候由同日長州下之関之湊大破損もやい候大船  悉く陸へ押付微塵ニ相成船頭遊女なと凡千人余も溺  死人家夥敷崩申候芸州様御国為差事なし木の  実類木の葉等悉く吹取候よし因州様御国無事  越前様大風破損中国筋破損多西国筋さしたる事なし    同廿四日西国筋風損 一長崎ニ掛り居候唐船三艘大津波ニて陸へ押上壱艘ハ山之  手へ波ニて巻上ケ巌ニて真中をつらぬき居候よし寺  院一里斗野間へ其儘もて行候由出嶋砂糖唐物  囲ひ土蔵悉く沖へ高波ニてもて行此外肥前佐賀  薩州大破損多し西国以之外風損有之由前文九日  大風中国筋ゟ西国へ向ケ何れと申事なく大津波来る  抔申出候俄ニ山へかけ上り候事度々人気立大騒動のよし      東国筋洪水 一六月晦日ゟ大風雨候処岡崎矢作橋上手堤百間斗  朔日卯刻押切人家六七十軒人数四五十人流失矢作  橋三十間程落申候 一安部川晦日大洪水ニてみろくと申候処人家多く流失往来へ  水上り府中宿大洪水先年薩州様御普請有之候場  所切込町中不残安部川ケ【々?】中多く人家流失 一大井川壱升七合目之大洪水金谷宿水上り八軒家出口  堤三ヶ所切込川越候共家数四五十軒流失村々大破損  何れにや山崩半途に止り居候よし 一澳津【興津?】宿沖の方高波打上り家宅捨置一同山へ逃登り  之由海辺続き村方同様併無別条東海道筋土橋板  橋悉く落幷松木倒多し吉田大橋斗無別条  天竜川東之方堤押切見附宿西中泉池田村へ向ケ  平一面ニ海のことく人家多く流失大破損切所多く往来    万能村より南之方笹原と申所へ舟ニて森下村へ向ケ乗  廻し小川伝へ池田村へ凡一里半程船路通行   乗邨之【云?】前ノ△印より是迄大塚與六郎より見せ候書付也   此後江戸往来及見聞候ものゝ噺を聞に中々此書   付なとよりハ大造の天変に聞之候予か桑名へ引越   之節未八月十七日江戸を立候か高輪あたりより大風雨   にて道中大難義なから其日ハ戸塚まて着たりしか其夜   甚之大風雨ニて宿中潰家抔も有之駅亭のものも   深く案し《割書:かまくらや|安行ゟ》立退呉之様ニ申しけるかかゝる風雨立退   とていつ方へ立退くやと尋けれハ土蔵之内へ入呉候様よ   もや土蔵ハ潰申間敷抔いふ内極先庭より見上る処に   鎮守の禿倉或ハ数寄屋抔ありしが極先へ吹落候其外   大木の椎の木なと吹折て予が宿したりし座敷の軒へ   かゝるなといかにも危き事なれハ家内も着替なとし予も   踏込着用立退可申段ニ成風も和らきし故立退もせさ   りしか翌朝は往来松並木数十本吹倒候前後へ往   来成立無拠滞留せしか戸塚ゟ藤沢まて二里の間   に弐百十本吹倒候御届せしと語りしか是は枝折レ甚し事   と見候予か数へ見候に吹倒候大松四十六本二里之間に   見へ候か大造成る松故人馬共に往来ならす漸二日めニ人足   のミ通るやうに成し馬駕籠は横道へ入漸藤沢へ出たり   しか馬入川酒匂川洪水ニて藤沢大磯も滞留やう〳〵   江戸を立九日目に小田原へ着たり其筋荒も大荒ニて   箱根山中ゟ伊豆へかけ夥敷人家潰道損候も有之   道中筋橋々ハ多分落たりしか今度の荒ハ駿州ゟ   三州まてハ又其時之荒よりハ甚しかりしと見ゆ間もなく   かゝる荒にて人家田畑の損失思ひやらるゝ事也 一文政十二年丑三月廿一日江戸大火之次第方角場所付   合印 御上屋敷□ 御中屋敷△ 飛火〇    土蔵之数凡八百二三十ケ所橋之数凡八十五ケ所程    御救小屋常盤橋外ニ一ケ所神田橋御門外弐ケ所    数寄屋橋御門外壱ケ所幸橋御門外壱ケ所八丁堀二ケ所  見て猶咄ニ聞さへさも恐きハ去三月廿一日朝四ツ半頃より西北  之風烈しく空一面物すこき折から外神田橋辺ゟ出火和泉  橋落土手下佐野様富田様細川様九軒町大和町豊嶋町  久右衛門町白川町橋本町岩井町松枝町馬喰町塩町横山  町吉川町米沢町同朋町柳橋両国辺不残橘町久松町辺  矢の倉山伏井戸濱町△小笠原様松平伯耆守様佐竹様  水野様幷御旗本様方不残外〇お玉か池小柳町平永町紺や  町地く本之マヽ【四字右に追記】岩元町冨山町一橋様□此通御旗本様方町家不残  小伝馬町牢御屋敷大伝馬町通り旅籠町大丸焼油町大門  通人形町通り長谷川町此辺不残〇と【右に追記】堀留堀江町小舟町小  網町通新材木町杦森稲荷乗物町冨沢町高砂町難波  町住吉町堺町中村座吹や町市村座人形芝居共葭町     泉町甚左衛門町銀座松嶋町△水野壱岐守様松平越前守様室  賀様戸田様近藤様牧野様本多肥後守様□酒井伊賀守様  横山様△酒井様横瀬様安藤様□戸田様松越中様とう  かん堀行徳河岸永久橋焼落△土井様松平伊豆守様久  世大和守様箱崎町北新堀御舟手御組屋敷此時永代橋危し  湊橋乙女橋落る大川橋濱町白銀町新川橋河岸川口町  此時風弥強く霊岸嶋一面ニ火さかんにて逃場ニ迷ひ難  儀なる事言語ニ述かたし誠ニ哀也同刻越前様御中屋敷  御舟手組御屋敷焼稲荷橋落鉄砲洲稲荷社より河岸通  本湊町△松平阿波守様□細川様松平内匠様同前舟松町  十軒町明石町向佃嶋不残幷大船五六艘小船数数しれす  〇東北風強く西神田須田町新石町鍋町鍛治町松田町  白壁町鎌倉川岸豊嶋屋迄焼龍閑橋松町冨永町【永冨町】  主水河岸今川橋白銀町向旗社十軒店石町本町瀬戸物  町本舟町安針町小田原町駿河町越後屋店不残宝町金  吹町両替町金座さや町釘店日本橋江戸橋焼落四日市  土手藏西河岸青物町萬町呉服町平松町音羽町通町  白木屋焼本材木町新橋此辺不残中はし南伝馬町大工町  桶町五郎兵衛町鍛冶町よしき町ときハ町柳町具足町  金六町竹町此辺不残京橋四方店白魚屋敷三十間堀  太刀【右に追記】売町弓町観世新道西紺屋町肴町弥左衛門町数寄屋  河岸京橋より通ハ銀座町尾張町布衣屋恵比須や不残  焼竹川町出雲町金春屋敷新橋ニて留る〇鍋町瀧山町  宗十郎町山王町さへき町かゝ町八けん【見?】町九や町此町家山下町  より土橋町迄西側残る□海賊橋落□牧野様九鬼様  小濱様坂本町かやは町薬師堂八丁堀□松平越中守様  幷御組屋敷不残焼北嶋町亀嶋町日比谷町同河岸古  着店幸町岡崎町松屋町松屋橋弾正様本八丁ほり  不残南八丁堀土佐様藏屋敷□本多下総守様 松平右近  将監様井伊掃部様中川修理大夫様□松平遠江守様小笠  原様△奥平様脇坂様築地柳原同朋町小田原町本  郷町寒橋△堀田様松平安芸様一橋様越中様南八  丁堀様□伊達紀伊守様新庄様松村町木挽町荒居  きの国橋紀州様御藏屋敷△松平周防様板倉様能登様  曲渕様狩野様□諏訪様△大久保様□柳生様仙石様  △本多様△溝口様田沼様□奥平大膳大夫様垣留芝口  西側通町家脇坂中務大輔様御用【?】屋敷ニて留ル又築地   △松平土佐様松下様松平飛騨様桑山様青山様稲葉様  本多弾正様秋田様木下様亀井様畠山様△朽木様  西尾様津田様戸川様□永井様三浦様△松平内藏様  此辺御旗本様方不残西本願寺御坊地中不残焼向築地  阿部様村垣様□稲葉様二軒共尾州様御藏屋敷ニて留ル  扨去ル廿一日朝巳之刻ゟ出火翌廿ニ日巳ノ刻迄焼殊ニ風烈く  人々東西南北を取失ひ親を捨子ニ放レ哀成事筆紙  に尽くしかたし末代之咄の種しるすもの也   町数凡千弐百町程死人凡一万余人之よし 一右の火事さまを北村季文様御よミなされ候よし   吹風の上にこかるゝおもひやなひくけふりの末の里人 一此度大火之書上候由只今披見仕候ニ付御咄之種ニ懸  御目申候 【本文上部の注記三行】 乗邨按ニ 是ハ芝牛町より 出候火事也   〇文化三寅年三月四日大火《割書:長サ弐リ半|幅 七丁》      此坪数弐百廿六万八千坪   〇文政十二丑年三月廿一日大火《割書:長サ壱里|巾 廿町》      此坪数弐百五十九万弐千坪     差引三拾弐万四千坪多し 一大名屋敷四十七ケ所   一御目見以上屋敷弐万丗八軒 一御家人 五万六十八軒  一表裡町人十七万七十五軒 一神主  三十九軒    一寺 三ヶ所 一土蔵焼失町方斗千三百廿九ケ所但武家屋敷除 一旅宿 三百五十弐軒   一橋数四十九ケ所 一町数惣〆三百九十弐町  一辻書所廿五ケ所 一非人小屋千七百十九軒 一焼死人引取無之候分九百余人 但武家屋敷除 右は此度御町奉行所御改書上之由水死人不数知  此書付ハ河村氏へ江戸より来りうつし置 右の大火災之事ハ誠烈敷事之由中々書付抔ニて見候様 なることにてハ無之既此度右大火災に逢し人々桑名へ引越 にて聞伝る咄しより事の大こと之成ハ此火災にや随分手当 宜しき土蔵まても武家町家共にあまた落たりとそ既 御屋敷にても八丁堀築地両御屋敷内ニて土蔵七八ケ所も 落殊更に御武器蔵辺且御小納戸蔵等も落御長器【?】之類も 多分御焼失候由  守国院様御高名ニて御集め被遊し御 道具類も多分焼候と承りいたましさの甚しき也御家中も 八分通りハ丸焼にて少しも残りしハ稀のよし当御屋敷は享 保のはしめ御類焼有之より是まて御火災無之他よりも此方 様ハ焼ぬもの様に申ならハし既火事の時ハ御屋敷前へ 道具をはこひ置すなりしにいかなる時か来りけん四御屋敷 共におなし春の内に焼侍るハ誠に時節到来共いふへしや され共かゝることハ外御屋敷にハ毎度聞しことなれハ我御屋敷 のミとハ思はましけれとも  守国院様御病気御大患 中といひ無是非次第也     御惣容様あたこ下隠州様 御屋敷へ御立退夫より隠州様三田御屋敷御借受 若殿様にハ薩州様高輪御屋敷御借受にて御夫婦様 共に入しをられしか九月丗日にハ又三田へ入しをられしとそ 一旦ハ御家中家内四家内も五家内も相宿にて実に詞 にも述かたき艱難にて有之ともよく〳〵の事にや三田 御屋敷へ      少将様初て被為入御屋敷御廻之節  男子七ツ八ツ位迄御長屋へ罷【?】出居候よし    御意之御趣意 一統さも〳〵難渋ニ候半色々配慮もいたし候へ共大勢之事 故存候様にも不行届家内共ハ別而難渋致し候半 何分ニも辛抱致し呉候様頼候病人共手当も申 付候得共是以思ふ様ニも不行届其内ニは追々普請 も出来候へは又本之様ニ入て可遣随分辛抱いたし呉候 様頼候疾ニも見廻遣し度存候へ共御看病中故延引 いたし候漸今日参り見廻事ニ候 四月十四日 右之通冥加恐しき難有 御意之趣にて子共へハ夫々 御菓子なと下し置れ候由会津様綱坂屋敷松平紀伊 守様三田御屋敷御借用最初ハ真田様御屋敷御借用にて 御家中夫々分数住居之処又候赤坂辺ゟ出火ニて真田様 溜池御屋敷も御焼失右御屋敷へ参候分ハ二度之類焼 にて八丁堀築地にて焼残り候分を又焼候ものも有之 誠ニ時節到来とハいへとも無是非次第也四御屋敷御焼失 といふハ【右に追記】当丑二月十六日大塚御屋敷も御焼失ニて有之其火 事ハ左之通のよし飛脚屋ゟ注進書 丑二月十六日申ノ中刻頃関口台町豆腐屋ゟ出火折ふし 大南西風ニて同所松平大炊頭様御屋敷不残焼失夫ゟ 音羽町三丁目台へ飛火有之音羽町五丁めゟ一丁目迄不残 両側護国寺門前通青柳町東西不残焼失夫ゟ大塚 坂本町両側同所波功不動寺通玄院同仲町本伝寺横 本伝寺焼失 御当家大塚御屋敷幷松平大学頭様御下 屋敷池田甲斐守様御屋敷夫ゟ安藤対馬守御中屋敷夫ゟ 氷川台巣鴨火番町武家御屋敷町屋共此辺不残同所 稲荷横町大原町同所稲荷前通り永岸寺稲荷社共 不残焼失夫よりすかも御かこ町通り松平加賀守様御中 屋敷前通り大久保加賀守様加納大和守様御屋敷駒木根様 御屋敷藤堂和泉守様御下屋敷西福寺向寺町通り焼失 夫ゟ西ケ原六あミた無量院同所御用屋敷宮下当村 廿軒斗焼失平塚明神飛田村百姓家焼失凡一り半程 焼同夜子ノ刻頃火鎮り候事のよし去子年ハいか成ル悪年 に歟西国筋をはしめ東国北国大風津波大地震等にて 国々損地夥敷事のよし然るに尾勢辺ハ餘国にかハり 作物も豊饒ニ聞へ候当春四御屋敷共御焼失ハ御領地の 津波大破損にハ引くらへてハまだしもよろしかるへきにや去今の 天災いつ方も逃れさることゝいふへし    植木うへやうの伝 木を切るに多きなる根ハ切ても害なし細根ハ少しにても切へ からす根のまハり太とく広く堀へし小根をきらせじとなり 尤根髭を切る勿れ凡木を堀にも奴僕に任すへからす 自見て教へし然らされハ根を多く切ゆへ木いたむ植る時ハ 土をつく事実ならずして枯やすし根盤の土なきハたとへ ハ其形蜘蛛の足のことし其下必虚也植る時に根の下に 棒にて土を能入へししからされハ根の下空虚にして土なしいまた 植さる前に堀たる処に水を多くそゝきて土を潤して実 にすへし根の先のさかる様に植へしあがるはあし也【?】只根の性に 従ふへし植終りて土を半くたしまハりを能つきかためて 後又土を置へし必す根盤の宿土をつく事勿れ踏ことなかれ 植て後水をそゝくへし初めより水植にするもよし植おはりて まハりに竹木を深くたて縄にて結付へし風に動かしむへから す長き木ハ二三所結付へし風にうこかされハ大木も付安し 風にうこけハ小木も枯安し又枝葉の多きをいむ枝葉 少なけれハ養ふ所多からすして根の生気達しやすく且又 風にうこかす根きれて梢高き木ハ梢を悉く切捨へし  惜へからす大木を植るにハ其根盤を大にし其枝梢を尽  く去て植へしつき安し植て後二三日に一度水をそゝくへし  半月にしてやむ春植たる木ハ当年の夏覆をししば〳〵  水をそゝぐへし然らされハ枯安し花ある時に木を移し栽  る事なかれ枯やすし 一父曰凡果木を栽るにハ先九月中の後樹のまハりを堀て  縄を以てまハりをからけ堀たる跡にハ肥土を入水をそゝくへし  次の年正二月移し栽へし植る処広く深くほりよき頃にたゝ  しくうへ土を半入る時棒を以て土をかたくすへし上に和ら  か成土を加へ地面より二三寸高くすへし土を木の根に  甚高く置へからす雨ふらさる時ハ毎朝水をそゝき半  月にてやむ又曰凡菓樹を移すには穴を広く深く堀先  乾糞と土とを水にとゝのへてうゆ次日又土を根に覆へし  若根に宿土なきをハ深泥の中にうへて引あけて能ころに  栽れハ其根のひて付やすし必又ニ三日の後に水をそゝ  くへし木を動かすことなかれ 一凡諸木を栽るに下弦の後上弦の前よし《割書:下弦ハ廿二三日なり|上弦ハ七八日なり》  地気【右に追記】ハ月に隨盛也潮を見て知へし気盛なる時木の生気  全く枝葉にありかるかゆへに移せハ其性をやふるつく時は  其気を失ふ凡そ樹を植るに根盤の土多く付たるか花よし  土をおひすして根のあらハれたるハ堀て其根に風日のあたら  さるやうにしてはやく植へし付安し若風日あたり堀て久く  置根かは付はハ生かたし又其地にあらすして是を栽れハ生せ  すといへり凡樹を栽るに其土地に宜しきと不宣とを詳  にすへし此土地によろしからさる木を栽れハ長茂せす長して  花咲ず実のらず実あれ共早く落山中ハ柿栗柚梅  林檎等によろし橘柑よろしからす海辺及砂地にハ蜜かん  金柑梨花柚等よろし柿栗柚なと不宜山によ  ろしき物ハ砂地によろしからす砂地によろしき物は山中によ  ろしからす松梅ハいつくの地にもよろし橘の類及蘇鉄ハ  寒国に宜しからすして暖国によろし信濃にハ茶なく  竹なし北国にも茶なし竹ハ有といへ共甚だ少したち花  くねんほの類北国になし是寒国によろしからされハなり 【右行上部に以下六行の注記あり】 乗邨按二 北国に茶 なしといへとも 越後にハ こと〳〵く茶を産すしかもその国の水によくあへり出羽にハ今に茶なしと聞侍り  春夏植る木は根少し切たりといへ共其根早く生し安し発生の  気盛なる故也秋冬栽る木ハ陽気少なき故きれたり所  の根生せす枯安し常に葉ある冬木ハ夏うゆるもよし南  より北に移せハ多くハかる移して後猟月根のかたハらの  土を去麦ハらを厚く覆ひて火をつけてわらを焼本  のことく土を厚く加ふへし移して三年も過すして実なる  若年々此法を用れハ南北ことならすたとへハ人の身に灸す  るかことし又木をわかちうゆるに八九月の間本根のそばか  二三年に成新木あるを其根の土をかきのけ竹刀二て  其本根につゝきたる根を切へし鉄刀を用へからす又其  根の髭を損ふへからす肥土黄土に移し植へし又曰木を  分ち植るにハ樹木の根に小珠を生するを本根につゝき  たる所を切たちて其儘置へし先堀移すへからす次年に移  し栽へし活安し盆に花草をうゆるに下の穴を広く  穿つへし狭けれハ水湿留まりて花草栄へす或は枯  安し蘭ハことに湿を恐る底に小石或ハ河ノ砂を入へし  水湿もれ安し草花の根を分ち栽るにも正月よし  たゝ牡丹芍薬のミ秋うゆへし凡草花の白きと赤とハ  一所に栽まじゆへからす別所に植へし一所にまじへ植れは  白きハ必枯るゝ也蓮杜若あやめ けい(本ノマゝ)なとの紅白ある  花ミなしかり 一石灰にて小池を作る法庭中水なき所に小蓮池を    作るにハ唐臼土《割書:能干て細かにふるひて一斗是稲の籾をする臼に用る|ねば土なりぎち土ともいふ》  石灰《割書:若所によりて石灰なくんハ蛤粉もよしふるいて一斗但石灰尤よし|蛤粉ハはまくりのからをやきたる也かきからも用るなり》  白砂《割書:こまかなるをふるひて三升或ハ|水にて洗ひこして用ゆ》塩弐升右四種一に合せよくま  ぜてふるひ合せ大桶の内に入湯をかけてこね少しやハらか  成程にして間二日程をきて少しヅヽ臼に入能つき交和合  さすへし其こねかげんハうとんの粉をこぬるかことくこねてよし  但こねて三日の後ぬるへし即時にぬれハ和合せすして破れ  安し故に初めハ和らかにこねて三日の後しめりあひて右の加  減に成かよし先池をほりてまハりと底とを能たゝきかため  其上を赤土にてぬる赤土ハ性ねバりを用ゆ赤土も細か  に砕き水少しくわへてかたく和すへししるけれハ干破てあし也  赤土も水をかけて俄にぬるハあし也水に和して後二三日も  よくしめり合て後ぬるへしよきころにこねて池の内二寸  斗しきまハし又能たゝき付て其上を右の石灰を合せたる  土を以てぬる其厚さ一寸以上よし薄けれハ損し安し蓮  池ハ深さ二尺余杜若くわいを植るにハ一尺二三寸二てよし  或は泥の上に水を深くたくハへて魚を養ふにハ二尺五  六寸よし既に石灰にてぬりて鏝を不用上に日覆して  置其即日か翌日か少しかたまりたる時水を池に十分に満  るほと入置五六日過て水を去り新水を入又十日程過  て後水を替新水を入凡三度水をかへ塩気尽る時水ヲ  去泥を入て蓮杜若あやめ葛賊なとを植水を入或は    魚を放へし池のめくりにハ石を置て石灰を石にぬりかけ  てよし北ふさかり南に向へる所よしはけしき寒風にあたれ  は石灰崩れ安し 一樹木の種を植るによく熟して実の入たるを用へし垣の下の  陽に向へる段なる処に深く広く穴を堀牛馬の糞と  土と等分に合せ穴の底に平に敷実のとかりを上にして  うへ又右の糞土を以て上を覆ふへし一切草木の種子よく  実のいり能熟したるを取てふくべ或ハ瓶に入て高き所に  懸置へし凡草木菜蔬皆種をまく時に及て遅からし  むることなかれ又甚早きもあし也種を蒔処ハ高きかよし種  をまく時ハ必空晴たる時よし雨中宜しからす三五日の後雨  をうるをよしとす種まきて後日照れハ生せすしきりに水をそゝく  へし種子をうゆるハいまた植さる前に地を堀返熟耕し  うねおもてを平直にして塊を細かに砕き慢種するには  糞を慢散して乾し粗其上を浅く耕すか如くにして  種をうふ漫種せすして溝種するにハすちを浅くほりて  其溝に糞を敷然して後植てよしいつれも種に糞土  をませてうゆ或物によりて其上に少土をおほふへし種を  まきて生しかたき物は盆に細土を入て植へし土を多くお  ほふへからす生長して後移し栽へし実の細かなる物ハ土を少し  もおほふへからす種をまく所のまハりに草木なきかよし 一挾枝とり木の法樹さし木をするにハ正月の末尤よし二月も又    可也物によりて萌芽の遅く出る木ハ三月もよしめたちの前  よし先肥土を和らかに細がにして畦をなすへし或ハ田土赤土  のねはきハ尤よし凡こえてねはき土の少湿有所よし小石  と土くれをさるへし水をかけて地をさため木の芽初て生せん  とする時梢の肥てうるハしき小枝を長さ一尺余に切て本  末を馬の耳のことく片そきにそきて先別の小枝をもつて  土をさす事さゝんとする枝の半分過さして其跡にさすへし  其後土を置まハりをかたくつくへし毎穴相去事一尺  はかり上に棚をかけこもをおきて日を覆へし又折塩【樹陰?】にも  さすへし日にあたるをいむさして後四五日に一度必ず水を注くへし  一月の後はまれに水をそゝくも害なし冬ハ霜覆をすへし  長するを待て移し栽へし又二月の雨降とき萬の木の枝  をさせは生す又二月上旬に諸の菓木等の枝を芋か  大根蕪にさして地に埋めハ生す子をうふるにまされり 一樹の枝をさす法枝のもとを馬耳のことくそきて白斂  の末と黒土とをすり合せそきたる処にぬりてさすへし  先下に石を敷其上に土を置さして後まハりを土二て  つき立へし必活く凡そさし木ハふか深く土中に入へし土より  上の枝長けれハ生しかたし土より上を短くすへし枝葉多  けれハあし也樹枝をさすに枝のきハにこぶのことくなる所あり  其所を用てきりてさせは其こふより根出て必活く梅【桜?】  にことに多しかやうにすれハ梅もさしてよく活く 一さし木の土拵やう赤土黒土沙焼酒の粕右等分に和  合し水にてこねて是にさし三四日に一度水をそゝくへし  早く根生す又木をさすに三月上旬菓木の直成よき枝  手の大指の大さの如く成を長さ五寸斗に切て芋頭に  さして土にうゆ或ハ大きなる蕪の根にさすもよし又春花  半開く時枝を切て大根にさして土を花盆の内にみてゝ是  をうへ時々水を澆花過れハ別根生す 一壓條ハ本樹の下枝の土に近きを半分切て引たわめ木  風釣子をかけ置其枝の高下に随て肥土をよせ其枝  上にも土を五指のふかさほとかけ枝の本の半分にハ土を  かけ末のかた半分にハ土をかけすしてあらはし置へし肥水を  時々其枝の土に澆くへし梅雨の時枝葉茂りて其枝に  も根必す生す次年春葉はしめて萌とき本根に連  なる処を切て九月中の後移栽へし 一又春分已後木をつぐへからす夏至已後木を栽へからす  又正月上旬梅桃杏梨李棗栗柿楊梅をつぐ  べし二月上旬橙蜜柑柑柚を接へし金橘尤遅き  かよし今案するに木をつぐに時節是を守るへし凡木  をつくにハ花の前と芽の前をよしとす木を接に生意【=生気】  既に動きていまたかたち出さる時先たゝす後れすして  つき安し老木大なるハ高く切て接へし小きハひきく  継へしつがんとする時つぎほを口中にふくミあたゝめて  生気を助くへし 一接木の臺高きハつきほ長く切て其本をさし木のことく土に  さして末をつくへし 一或人曰木を継に成程臺をひきく切てつき客木の隠  るゝほと土に埋てよし 一桑の木に揚梅をつけハ不酸又桑に梅を接は酢から  すくわに梨をつけハ甘美なり 一胡桃͡の枝を楊の臺につけハつき安くはやく実のる  春の社日にくた物の木の下をつきかたむれハ実なりて  落す又みのらざるもかやうにすれハみのる 一花の多からんことを求めは十一二正月の間そのきのねに肥  土を三寸か五寸か培ふへし睦月ハ土かふへからす 一凡そ草木に虫の付たるにハうなぎの煮汁を澆くへし又よし  ミ桑といふ木の葉をせんしてそゝくへし又黄樹下に蚓穴  あらハあひるの糞或ハ灰水をそゝくへし 一樹の虫を殺すには硫黄を能細末して河泥少し斗和して  虫の穴をあまねくふさくべし又硫黄雄黄を用て烟と  なして是をふすへてよし或桐油の紙を用いて火に燃し  て是をふすふへし木に其虫を生するハなまくさき  魚の洗汁を根にそゝぎ或ハかいこの糞を根に  埋むへし或ハいりこを木の枝にかくれハ虫死す 一桃の臺に杏をつけハ実をむすふ事紅にして大なり  この木命長し桃にハ似す 一春の中節ある枝を打て肥土にさせハつく又実をまくへし  はやく長して花咲実のる 一滓水をそゝけは来春花盛也高き梢にハ多くハ実  のらす花さかず枝をたハめ石を多くくゝり付て枝  ひきくなれハ実のる下枝を切へからす尺にして花咲さ  るハ切て継へし 一又曰牡丹を継法芍薬の根肥大にして蘿蔔のことく成  によき杜木の枝に芽の有をとりて三四寸に切けつり  てのミのかたちの如くにして芍薬の根の口をわりひらき  さしはさみ肥たる泥土を以てきひしく培ふ事一二寸成へし  則つく又法ひとへのほたんの根上二寸斗枝にうへより切よき小  刀にて半分そきさりよきほたんの若き枝にめたち出  へき所三五あるを一枝是又半分をそき去右の臺と  一に結合せ麻にてかたくからけ泥を以て麻の上をぬり外  にハ瓦を二たて合せかこミ其内に土をうつミ来年に至り  て瓦をさりこもを以てつゝむへし是牡丹をつぐ法也  又牡丹冬ハ菰を以ておほふへし冬至の前後生乳粉と  硫黄とを末にし根を堀ひらきてまハりに置へし来春  花盛也栽る時ハ白斂の末を土にませてよし虫くはず  虫くひたる穴にハ硫黄の末を椙の木を釘のことく削てさし  置へし虫死す穴ある所より折て虫を取へし地肥たる所  ならハ糞を置へからす又油かす抔置へからす麝香桐油漆気  なとを嫌ふ根のまハりに草あることをいむ又まはりを踏へからす  又つぐにハ八月社日後重陽の前よし植るにハふる土を  さりあたらしき細土を用ゆ一枝より数花生するハ小を  えらひてさり只一二花をとゝむ花落てはやかて其茎を  切去て子をむすばしむる事勿れ老安きをおそる  ひとへの牡丹の臺に千葉の牡丹を継へし又曰根下白斂  の末をつけて虫を去虫穴の中に硫黄を入れハ虫を  殺すいかのこふを其葉にはさみ必枯る竹木を植る  にハいつれも古土を付てよし只牡丹ハ古土をとゝむへから  す秋冬の間肥土を用ひて根のまハりの宿土にかへて 【参考:洛陽牡丹記】  よし如斯すれハ来春花多くして盛也芍薬も同し 一牡丹の実を植る法先五六月の間兼て日かけの肥たる地  を拵へ置七月已後能牡丹の実熟してからのさけんと  する時取て地に早くまくしけく蒔へし実を取て日  をへたて蒔へからす実かはきて黒く成たるを蒔ハ百  一も生せす蒔て後時々水をそゝくへし糞をいむ  又和俗の説に九月に地上に牡丹子を二つならへ置其  上にかはらけを一つ覆へしいくらもか様にすへし来春  白根出芽生する時かはらけを去へし十に八九ハ必す  生す又七月初の頃実の熟したる時取即直に蒔へし  一粒ツヽならへて其上に大きなる蛤のからをおほひ置二月    の中頃はまくりのからを去へし蚫のからもよし春つほミの  付たる時始より目きゝして十の内三四ハ花開かさるあり  夫をはやくつミ去へし残れる花の勢力をうはハすして  よし芍薬もおなし牡丹の莟多く付たる時其中の  かしけたるを去るにハつほミの上の方を半切去へし  つほミを全く切へからす精気のほらす大網とす其  うち品色多くして数百種あり 一つゝしのさし様林下の木のはのくさりたる処の肥土を取て細末  しふるひにてふるひつゝしの枝を三四寸程にきりて右の  土にさすへししば〳〵水をそゝぐべし日覆し或ハ日影に  さす必活く又田土を用て日かけにさすも可也五月雨の  中に日影にさすへし八月に日かけにさせハ必活く来春芽  を生す又新芽の長してのひたる時よし  又当年の新枝を短く切てさすへし節気の遅速に依  て五月の半或は下旬六月上旬なるへしふる枝あし也 一白芨紫と白と一所に植れハ白ハ枯るゝ別所に植へし  秋の頃分ち植へし小便をそゝくへし陰地を嫌はす  樹下にもよし一所に多く植てよし 一石竹去年うへし古根よりする生するハ三四月に花開き古根  三年に至れハ栄えす多くハ枯る年々蒔てよし種を  まくにハ二三月の頃和らか成地に砂に寄てうすく蒔  へし苗茂くハはぶき去へし肥の上にまけハ生す唯  やはらか成熟土に蒔へし後に移し植へし春種を蒔ハその  年に花ひらく但し春蒔ハ苗生して多く蠹食す  六月の末七八月に蒔ハ蠹なき故長し安しそれは来年  三四月に花ひらく凡石竹ハ実のりて後茎のいまた枯  さる時に刈されハ其根かれす若茎枯ハ根も又多くは  かるゝ故に早く刈へし刈て後苗生せは十二月の頃又刈  去へし来春の苗盛也毎年必根を分て改うゆへし茂  生す春より毎月まけハ秋の末まて花たへすこやしハ  泥水小便なとよろし春苗長してみたれやすし籬を  ゆひてはやく扶立てすへし遅けれハ茎花乱雑なり  盆にうふるもよし 一芍薬を植るにハ八月に根をおこし土をさり竹刀二てわり  細根をやふる事なかれよくありつきて後人糞を澆  ハ来春花盛也三年に一度分つへし又十一ニ月に鶏  糞に土を加て培へし花のとき筿竹を立て扶くへし  傾き倒るゝか為也雨ふらハ簾を以て覆へし花速かに  落す花落て後茎を切去て元気を根にかへらしむへし 一芍薬春は糞を置へからす又霜ふらんとする前にて糞  にひたりたるわらを上にかくれハ霜に痛ます茎多きハ  痩たる故也肥れハ茎少し茎多きハはやく切去て減  すへし花多し又花繁くハつミ去へし不然ハ花よからす  花下の小枝を多くつミ去へし精力を分つへからす花  落て後細刀にて茎を切へし如此すれハ根に精気早く  収まりて来年栄へ花さく花過て茎をねちてまけ  置へし芍薬ハ甚湿をいむ又鉄をいむ茎を切には  鉄を用へからす根まハりを掘に鍬の根に当たらさるかよし 一石楠花肥る事を好む糞を澆へし実を結ハざる  にハ木の股或ハ根に石を置へしさす法直なる枝指  の大さの如くを長一尺斗に切下二寸をやき穴をふ  かくつきてさすへし枝の頭を二寸程出してさして後  水を澆へし 一百合二月にうゆ蒜を種【植カ】ることくすへし鶏糞宜し  居家必用云うゆる時行をなしならへうふへし糞を  置水を澆へし五寸に一科後にしげくハ別畦に移し  うふへし乾かハ水をそゝく三年の後大さ盞のことし年々  つゐてをなしてうふへし絶しむへからす毎_レ坑ふかさ五六寸子  を取てうふるもよし四辺の草をさるへし或ハ三年に一度  堀出し所を替てよし緋百合なと年々土を替て改植へし  然らされハきゆるひゆりの種をまく法地をかたくして其上に  実をしき上に土をおほふへからす土をおほへハ生せす風の吹  散さんことを恐れハ上にわらをおほふへし凡此類の実  をうゆる法皆是におなし 一前に秋羅嵯峨の仙翁寺ゟ出たる故に名くといふ秋  花咲がんひよりまされり此品類も又近年多し世人  賞す毎年土をかへて改植へし然らすハ栄へす消安し日影を  好ミ糞を恐る肥土にて塩水を澆くへし鶏糞にて  こやすへし又樹下に植てよろし小便をそゝくへし 一秋海棠子をうへて糞をかくれハ当年に花咲宿根ゟ  生するハ茎大也うゆるに毎本折さる事一尺斗成へし  又陰所によろし一たひ日をミれハ色則変す 一鶏頭華小枝をつミ去て木すえの一花を残すへし  秋後花漸大也冬に至るまて久に耐る物なり 一菊にハ六月前に糞を置へからす六月に一度根廻りを  堀て雨の前に糞を置へし七月に一度雨の前に  糞を置へし雨のまえに前に置ハ根によくしミ通る糞を  置て日にあたれハ根かたまりていたむ其茎長く共其心  を折へからす脇枝ハ長くてもしんとするに悪し又長き  を嫌ひて茎を折もありからの菊をうふる法凡菊を  うゆるに六事あり一にハ貯_レ土 ̄ヲ肥土をえらひ冬至の後  糞をかけこほりて乾くを待て其土の 浮鬆(ウキヤハラカ)成ものを  とりて場地におき再糞をかけ乾きて後室中に  おさめ置春分の後出して日にさらし数度かへし其虫  蟻と草の稉を去若さらすハむしてくさり紅虫きり  むし蚯蚓なと生して菊の害をなす也土を清く  しておさめ置て菊をうへて後此土を用へし菊を植て  三日已上の雨にあいて土かたく根あらハれハ此土を以て  根を覆ふへし如此すれハ旱をふせき雨の潤ひをおさめ  て其根くさらすニにハ留_レ種 ̄ヲ冬の初めに菊の茎をさり  其幹を五六寸留置猟月にこき糞をそゝく事  数度如此すれハ煖にして氷らす為て菊の本を壮にす  へし寒をふせき為て潤沢にして枯燥にいたらす三にハ  分_レ秧 ̄ヲ春分の後菊苗を分る時根に髭多くして  土中の茎黄白色なるを用髭少くして白きを用へから  す新にすきたる鬆地にうゆへし太肥によろしからす  天気くもりたる日菊を分植へし晴天の日分つへからす  根乾きて活かたしうゆる地ハ其宿土をこと〳〵く去るへし  然らされハ虫の害ありうへて後菰を以て日覆にすへし  日にあつる事なかれ毎朝水をかけ晩にもそゝくへし曇  たる日ハ水を澆くへからす苗の心はへ出たる時日覆を去へし  先半糞の水又肥水を用ひて澆_レ之葉の上に糞を  澆らへからすあと井戸の水をましゆへからす井水ニても河水  にても純水を用へし四にハ登_レ盆 ̄ニ立夏の時分苗五  六寸許なる時盆に上すへし其前数日水を澆くへからす  則苗堅老にして在 ̄テ_レ盆 ̄ニ可_二以耐_一_レ日根土を必広大に掘へ  し猟【臘?】前こしらへたる糞土を培へし陰晴を見て水を  澆くに増減すへし葉生して後肥水を澆くへし久雨には  猟土を以てうるおすへし植やう浅けれハ日にいたむ深けれハ  水にいたむ凡そ菊の根上にうきやすし故に常に土を覆へし  五にハ理緝菊一尺斗成とき長をしめんと思ハヽ脇枝  を去へし短からしめんと思ハヽ其正枝を去へし花の枝ハ  其大小を見て残すへし大者ハ四五蘂次ハ七八又其次は  十餘小者ハ廿余蘂寒菊ハ一もとにして千花あり去へから  す六にハ護養菊やう〳〵長する時竹を立てゆひ付風ニ  揺さしむへからす菊のかたハしに蟻多くハどふかめのからをそば  に置ハ蟻必其鼇甲に集るを他所に移すへし夏至  の前後菊虎とて黒色なる虫晴暖成時飛出て  苗を損ふ出る時を待て除くへし菊すいの傷りし処  手にて少しつゝ打て其毒を去へし秋後に又虫生す多く  しけりやすき新菊を廻りに植へし凡菊ハ香ある故に  蟻上て糞をして虫を生す虫長し蟻食へハ菊長せす  此虫白虱のことししゆろ箒を作りて取へし蟻糞の跡  に青色にて菊の葉の色のことく成虫あり葉の底上ニ  生す半月ハ上にあり半月ハ下にあり又きくを植るには  去年のふる土をいむ若旧地に植ハ上土三寸を去て他土ヲ  置へし菊根ハ土皮にはひこりて深く入らす故に土をふ  かくほりやハらかにする事悪しふかく堀て土やはらかなれハ  水をたもたすして枯れやすし又糞気も底へもれてあし也【?】  只地上より三寸の間を和かにして植へし凡花草ハ皆湿を  嫌ふこと更菊ほたん甚し又春苗尺斗の時其顛を  つミ去数日にして両枝分れ土又つミさることに又出来る  秋に至て一本より出る枝甚多し人力【?】つとめ土又膏沃  花又落て変す三月菊苗を分ち植んとする地の旧土  を四五寸除て正月より乾し置たる新土を旧土より少し高く  置て苗を植日おほひをし苗もし早く長せハ一度つミ  折猶長し過ハふたゝひつミ折若苗甚かしけハ白水と  小便と等分にませたる水をかくるかじけさるにハ不用  秋の節に入て白水小便等分の水を二三日ことにしは〳〵  澆き他の糞を不用つほミ付て後ハ小便を減し米泔  二分小便一分を合す不然ハ根より生する子苗いたむ  花のひらく時まて右の水を用れハ花の勢盛也また  菊を植るにハ黒土よし田土 河(本ノ)つ(マヽ)土をましへよく日にほし  細かに打くたき末してよしかねてより糞を小便にて和  し薄くして別の土にかけ其上にふるむしろをおほひ  くさらかして後日にほしこまかにくたき梅雨の後少  しツヽ菊の根に置へし五月より八九月のころ迄二三  度右の土を置へし多きハあし也【?】五月より前に糞を置  ハいたむ根むしと節虫とを去へし節虫の去やう  虫あり所の茎を半削去て竹をわり少にして茎の  うちにある虫を殺すへし削りたる処はやがていゑしゝ  出来るもの也但し枝をそたつるハ根のかたに近き所  よりはやくそたつへし梢の方にて枝多く付てハ茎の  精気よはくして花よからす精気盛なるハ五枚まてハよし 一松雨を見かけてうゆへし雨前に栽れハ活やすし春分の前  秋分の後土をおひ雨に先たつてうゆれハ多くハ活く  盆松を養ふ法春めたちを折る時節ハ松の芽出る時  みとりの本一分程おき折てつむへし後に生する芽を  そだつへし夏のはげしきひにあつへからへからす秋の頃葉のひ  たるハ葉をつミさるへし冬寒き時ハ毎日少し水を  かくるされとも雪雨降ときハ土のしめりある故二日三日  にも水を澆くへし春夏ハ四日五日にそゝく餘り水  過れハいたむ少ツヽ澆くへし葉に青く小さき虫付やす  し心かけて是を取へししけれる松の下成木ハいたむ 一枸杞からやまと二種ありからをよしとすうへて籬とす  其実秋冬にいたりて紅にして愛すへし薬となして  精気を補ひ目を明らかにす其葉茹となして  味よしほしても食す又わかき時よりあふりて茶と  すへし正月に枝をきりて日あてにさすへしにらをかる  かことく時々かりて取へし葉に虫多し時々是を  取去へし其根の皮を地骨皮といふ     右植木栽やうの伝書ハ静軒子秘め置れしか予か   草木の花を愛せハとて見せられしかハ頓にうつして   かへし奉る文政十二己丑年十月廿日  鶯宿 【シール番号】 238 577 1 【表題】 鶯宿雑記 【鶯宿雑記. 巻199-200」の「コマ55~82(2行目迄)」翻刻は不要ではないかと考えました】 【なぜならこの部分は、「群書類従」にあるためです。(群書類従は全巻過去に活字化されているそうです)】 【限られたリソースを、翻刻済みのものに割くのはもったいないと思いました】 【詳しくは以下のとおりです】 【「鶯宿雑記. 巻199-200」の「コマ55~79右」は】 【https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559229】 【の「コマ128~160左」に相当】 【同「コマ79左~82(2行目迄)」は】 【https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559231】 【の「コマ50左~53右(最終行迄)」に相当】 【以上私が調べた限りですので、外にも重複する部分があるのかもしれません】 【活字になったもの自体は未確認です】 【追記:活字になったものはこちらで確認できました】 【https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879799】 【前者は「コマ205」、後者は「コマ257」です】 【右記門田さまの注記がありますが、内容と共に文字を判読する練習にもなりますので敢えて翻刻します。ご教示いただいた資料は自身の難読箇所の参考にさせていただきます。実際には違いが散見されます。】 鶯宿雑記巻二百草稿    中原高忠軍尋陣聞書目録《割書:群書類従四百十九武家部|廿ノ内二見之たり》 一出陣時祝次第同可酌事      一軍陣にて弓可持次第事 一軍陣にて乗替之馬に鞍置てひかせへき事 一菖蒲革前緒後緒の事       一をひ征矢之事 一軍陣の鞭乃事        一旗の事《割書:同幡竿の事同幡袋事|同幡さすへき次第之事》 一日本にて弓のおこりの事     一御たらしといふ事 一弦の【右に追記】事弦巻の事  一弓の鳥打の事 一矢ほろの事           一扇の事 一具足の毛の事          一産引目可射事 一夜引目可射次第事        一鳴弦事    一公方様御首途事        一矢たはねの事 一頭を鞍のとつ付に付事     一同頭可懸御目事    軍陣聞書 出陣幷帰陣時祝者次第酌以下事 【上図】        七も             五も      かちくり           よろこふ        五も             三も  前 出陣之時 へいかう          三      打あはひ《割書:五本も|三本も》 【下図】           蚫《割書:五本も|三本も》     五も                     よろこふ                       三も 帰陣之時 へいかう                 前        七も      かちくり        五も 一肴をハかんなかけの上にめゝか つ(くか)【注記】におしきにすゆる也へいかうハめゝ  かくに折敷にハはすへぬ也其外三種をハ折敷に居へき也三度呑  くふ也出る時ハ先一番に蚫の広き方の先より中程迄口を付て尾の  方ゟ広き方へ少くひて酒を呑へし其次二献めにかち栗を一ツ  喰て酒を呑へき也其次三献めにこふの両方のはしを切のけて  中を喰て酒を可呑也毎度軍配の的ハ蚫かち栗こふ此三色  たるへき也我家にして軍配を祝ふにハしゆてんの九間にて南向  て祝也家の造り様によりて南へ向難くハ東へも向へき也  東南ハ陽の方也其謂也 一酌すへき様の事一人してすへし初献ハそひ〳〵はひと三度入てさて  二献のハそひと一度入て左へまハりてくわへて又そひはひと二度  入也三献めハそひそひはひと三度入る也以上九度也盃を人  にのませぬ也祝ひてやかて肴をくつしてあけへし酌ハ諸膝を  立てつくはひてすへしくわへる時も其外仮初にも後へしさる間敷  也そひと入ハ酒をそと入也是ハ鼠の尾の心也はひと入ハ酒を  多く永く入る也是ハ馬の尾のこゝろ也陰陽の儀なり 一軍はいに不限兵具ふせひの事さたする時ハ東南可然也西北  ハ不可然陰の方なる謂也何時にても軍配の盃を人に呑  せぬ事也只我獨祝也呑はてハ後は肴を惣をひとつにく  つして人の見知ぬ様にする事也はしをハ置ぬ也盃はへいかう  ならてハすましき也但時としてなくハ何をもする也こふ五きれの  時ハ一チ下にニツつゝ重てならへて其中の上に可置也三の時ハ二ツ  ならへて其中の上に可置也かち栗蚫例式の如くたるへし打蚫ハ  出陣の時ハ細き尾の方をくいての右へ成へき也広きかしらの  方に口を付そめて尾の細き方より広き方へ喰ふ也末広く成心也如  此祝をして出る共しち有て心に懸る事あらハ祝なをすへし軍  はいをハ具足をきても着さる時も又旅へ立時も祝ふ也 一帰陣して祝の時ハ初献にかち栗を喰て酒を呑也ニ献めに  蚫の広き方の先をちと切て折敷に置てその切目より細き尾  の方をくひて酒を飲也三献めにハこふの両方の端を切のけ〳〵  中をくひて酒を可呑也蚫のくひやうハ出陣と帰陣と替也 一蚫と栗とハ出陣帰陣と置様かハる也蚫ハ出る時ハ左也こふハ毎度  置處替ましき也 一蚫五本の時ハこふ五きれ勝栗七ツたるへし蚫五本ハ御本意を被達と【「と」不要カ】  と云心也又蚫三本の時ハこふ三かち栗五たるへし御所様御祝にハ  蚫二本也日本を打蚫といふこと心也又大将の御肴一人はかりならて  ハか様にハ有間敷也何時も蚫昆布かち栗三色たるへき也但  時として肴なき時ハかうのものからしかつをなとをも出す也肴  三色の一色二色なき時ハ此色々ませてもくむ也俄事にて  此色々なき時ハ此内一色にてもする也 一大将ハ三の盃を初献に一ツニ献めに一ツ三献めに一ツ以上三なから呑へき也 一大将出陣の時ハ九間にて祝也出陣の時ハ中門の妻戸をしゆてんの  九間のあはひに本妻戸有也このあはひの妻戸をとをりて中  門の妻戸を出へし中門のさいの内にてもあれ又しゆてんと  中門のあはひの妻戸にてもあれ両所の内いつれにてもさいのうちに  包丁刀をはを外へ先を左へ成て置て先左のあしにてさい友に  刀を越てさて右の足を越へしさて刀を人に取せて其儘可出成又帰  陣之時ハ刀の先さいよりそとへ置て先左の足にてさいともに刀を  越てさて右の足をこし内へ入て刀を人にとらせへし出陣帰陣の時  ハ車よせの妻戸へ出入【或本では可出入】也さる間しゆてんと中門のあはひに妻  戸一ツありあひた妻戸二ツを出入する也 一小具足出立の時より征矢可負也昔は靭なかりし間今人の  常に靭付る如くやををひたる也但今は素袍小袴の時ハおふましき也 一矢をおふ事ハ太刀をはきて後におふ也 一軍陣に出さまに弓を可持事弦を下へなして左の手にひつ  さけて可持立て物言時ハ弦を先へなして弓杖をつきて物を  言也弓杖のつき様左にても右にてもつくへし又人に立あふて物  をいふ時ハ諸手にて弓杖をつきて弦を外へなして言へく弓の取様  右の手ハ上左の手ニて下を持へし又畏て物をいふ時ハ数塚につく  はいたる時の如く弓を持へし弓のうらはす人に向る事ある間敷  也弓を人にあてぬ様に可持也馬上ニて弓を持様の事犬笠掛  射時の如く可持但弦を内へなして持事もあり是ハはや合  戦にも及ふ時の儀也 一大将に物申さむ時ハ弓の弦内へなして外【右に追記】竹を下へ成て弓を伏て畏  て可申弓を持て 時ハ左の手ニて提て弦を下へ成て持てよるへき也 一征矢おひてよき程にてハ弓を人にも持せ又よせかけ置こと有間敷  也自然陣やの内二ても持なから可座也弓物にもあたらハ側に立て  可置さ様の時ハ外にて人に持せもすへき也我座する側二ても 【下記一行抜けカ。群書類従より補記:あれ下に横にふせて置事あるましきなり】 一出さまに弦打をする也南の方二ても東の方ニても向て一ツ打へし人打と  いふ儀也一打ニて弦に手を懸る也一打に打納る心也 一馬の嘶事厩又は引出て乗ぬ已前に嘶事吉也はや鐙に足を懸て  嘶こと凶也其時ハ弓を脇はさみて上帯をも結直し腹帯をも〆直す也 一鼻をひ馬の身ふるひする事落馬いつれも凶也上帯をも  しめなをし腹帯をもしめ直すへし 一軍陣へ出る時三ツ忘れよといふ事の第一家を忘れ妻子を忘るゝ事  第二合戦場にて命を忘るゝ事第三打勝て忠節を忘る事肝要儀也 一軍陣へ出立時は乗替の馬に鞍置て引するにハ鞍覆をすへき  也鞍覆ハ鹿の皮敷皮をする事軍陣に不限本儀也鞍覆  ハ鹿皮本也女鹿の皮ハ略儀也鞍覆するにハ白毛先へなるなり  鞍の前輪の方へ白毛なすへし出陣の時如此可有也又帰陣の時ハ如  例式白毛左へなすへし手縄にて鞍覆をからむへしからミ様の  事手縄をニツに取て鞍の前輪の右の塩手に尻かへしかくる  如くからミてつほの方を塩手の右の方へちと出して置てさて左  のしほてを通してさて後ろの右の塩手をとをし前輪の右へ出  る手縄のつほへ入てほとき安きやうにとむる也 一しやうふ革の事よこ菖蒲といふハ駒のもんにましりたるをいふ也  是を前緒と云也敷皮のへりをさす時ハくしかミより左へ成  方を前緒にてさす也又たて菖蒲と云ハしやうふ斗有を云也  是を後緒と云也敷皮のへりをさす時ハくしかミより右へなる  方をうしろ緒にてさす也是ハさうなく人無故知事也 一おひ征矢の事十六矢廿五矢是を用也但昔ハ六々丗六も箙に指  たる也征矢の拵様上帯の引様の事家々によりて替る也 一高忠家に代々相伝の上帯の引やう別たる秘説也不及注置  矢ハ十六矢ニても廿五矢にニても其身の儘たるへし其外箙のおもて  にぬためのかふらや一手さす也人の物きたる如く雁股を打  ちかひてさすへしかふらの拵様前紙に注し置也自小笠原  殿口伝申かふら同からのこしらへ様おなし事也 一十六矢ハ九曜の星と七星をかたとる也以上十六也 一征矢をおひてハ必鞭をさし添へし鞭の拵やうの事二尺八寸也熊  柳を可用熊柳をハ勝弦と云也神功皇后異国退治の御時  勝弦を鞭に拵てさゝるへしとて諸神さゝれたり夫より今に      用来る事也勝弦とハ秘事たるによりて人しらす熊柳と申来る  也二尺八寸ハ廿八宿也とつか六寸にとふをつかふ也六寸のうち五分  先を残して穴を明緒を通して鞭むすひに腕の入ほとに結  ふなり緒の革は二尺八寸ハ手にて取へし 一具足のかさしるしをハ具足きてハやかてとく也 一旗の拵様の事長さ一丈二尺本也たかはかりの定白き布二の  を縫合せてすへき也布のはたはり一尺二寸本也幡三分一すそ  をハ縫ましき也是を幡の足といふ也ぬひはつに西に黒革  にて菊とちを付る也大小不定ほころはさしか為也義家  貞任と御合戦の時前九年後三年十二月三日也然に其幡  すそ破れはつれたる間後三年にハすそ二尺切結へりさる間  一丈に成りたりその已後ハ一丈にもせられたり又すゝしのきぬにて  もせられたる也きぬハ唐きぬを可用也 一幡に紋をかくにハ三ツに折て上の一の内に折めのきハへさけてすミ  にて書て其上に漆を薄くひく也其上にハ八幡大菩薩氏神其外  信仰の佛神を勧請申也手付さをハ勝軍木を削て黒革ニて  縫くゝミて手をつくる也但勝軍木はかりハ弱き間いかにも性の  よき竹を削そへて黒革に縫くゝむへし又黒かねを薄く打も  そゆる也折さしか為也手とハ幡の上に付る緒をいふ也手をも黒  革を左縄に索て付る也手の長さいか程とハ不定也竿に付て  能程にすへし手付竿とハ幡の上に横様に革にてぬひくゝむを手 一侍大将なとさす幡半幡共云也又射手幡共云也布二の也  長サハ六尺也是も三ツに折て上一の内に折めのきハへさけて紋を書  へし是も紋の上に佛神を勧請申也此時ハ幡竿の長さ一丈  二尺にもする也吉日吉時を撰ミ東南陽の方へ向てすへき也 一幡をしたつる時ハ同日仕立る也裁【建の誤カ】時ハ柳のかき板に幡の布を  置て其上に張弓を置弓を左へ弦を右になしてうら筈を  先へなして置て腰刀ニて弓と弦とのあはひよりさきへ成て建る也  たつ時ハ九字の文摩利支天の眞言を唱へし印あり 一幡の縫様の事初きたるやうに左を前へ打ちかへて幡の上より下へ縫  也先一通り先へ縫へし針をかへして跡へ縫はぬ事也先へ縫て能  留て置へし又已前の如く上より下へ又一通り二通りならへて縫也  幡の下へ成方を幡の足と云也陽の方へ向て馬の年の男糸をも  えり縫もする也本命星破軍星謂也 一幡篙の事根ほり竹を可用惣の長さ一丈六尺根ほりの名をハのそく  節ハてう也切勝々々とかそふる也篙の一二の節【よの誤カ。節の意味と読んだのかも】を一とをして  上より手一束ハ置て穴を明て其穴へ黒革をくけて二に取て  つほの方三ふせを計穴へ可出そのつほをハ花くりと云也花  くりに幡を付る也幡付の緒共云也つほの残の革にて一上の  節の切目にとうほう結をして置也とうほう前に可向又さ  ほのすゑ一尺二寸斗黒革にてくゝむ事有畧儀也 一幡付の緒を通す穴より竹のよの中へ五大尊の種字と摩  利支天の眞言を■【かさ】て納る也かへて 一出陣の時幡を出す時はしゆてんの九間ニて大将幡指に渡す也幡  さし受取て中門の妻戸としゆてんとの間の妻戸を通りて中門の  妻戸を通り庭へ出へし同幡さほ中門の妻戸より先を物に  あてぬ様に持て先幡竿の先の方より可出也受取て中間に  可渡やかて合戦も有つへくハ吉方へ向て幡を袋より取出し  篙幡に可付つくる時印真言有へし 一幡袋の事錦たるへし絹ニても布ニても裏をうつへし色ハ何色も不  苦幡のゆる〳〵と入やうに可拵本末もなく縫て両の端をくミ  ニてゆひ脇に懸さすへし又陣屋ニてハ敵陣に向て懸て可置也  篙をハ幡さしの中間に可持也さほ持たる中間ハ幡指より先へ可行也 一自然陣中へ我信仰の仏神ゟ巻数抔来らハ幡竿に結付て可持也合戦の時も如行也 一幡指幡をさす時ハ左の手ニて指也馬上ニて幡を可納時是唐笠のえ  立の如くに拵る也いため革ニても牛の角ニても竹ニてもすへき也  鞍の前わの左の塩手に可付也 一幡竿に幡を付て已後幡指の馬なと通りえさる堀川有て跡へ帰  まいる事あらハかち人に幡をさゝせて直に通して先ニて受取て  可指但難所にてかち人も通りえさる処ニては不及力事也 一幡差たる時風強く吹て幡を吹ちきりつへき時ハ幡の足を幡竿  に取添て可指也跡の方へ幡の足吹かくる時はハ風吹共竿に不取添して可指也 一大将と幡さしと相生を可用也 一幡さしの出立ハ其大将と相生の色 一野具足を着へし馬の毛おなし相生を可用 一幡指ハ幡さゝぬ時ハ弓をハ持ぬ也矢斗ぬきて持也弓を下人に持する也 一入乱たる合戦の時敵味方見分さる時ハ依其時宜幡斗ひつときて  相引へ押入て戦ふ也合戦の時宜によるへき也 一合戦の 遇(過か)て我宿所へ帰て其日より三日幡を付なから置也  たとへ我在所ならす何方に有共うち帰りたる在所に三日付なから  置へし但三日め悪日ならは二日めも又三日より以後成共吉日を以て  幡を可納也   右連々相伝之分悉委注置訖於幡儀者秘説不可過之   聊不可有外見者也  寛正二年四月日 【頁上方の注記六行】 乗頓云此条 之処ニ一又 中原忠高 軍陣聞書 トアリ疑ウハ 原本二冊ナルカ 一又【?】弓の弭虵の頭に似たり是を恐れ思召今のはすに造りなされたり虵  の舌に表すへしとて筈をなかく出して弦を懸けられたるにより    今の世迄も如斯也黒き虵を表するによりて弓ハ黒木を本とす  る也其後とうをつかふる虵の色々に表する也かふら藤ハ虵の形  也末筈本筈ハ虵の頭也口の色ハ赤きとて朱をさすへき事  本儀也故豊後守高長 普(義教)広院殿山門御退治の時興雲  寺殿御供申出陣いたす時重藤の弓を持末筈本筈に朱をさし  持たる也知ぬ人ハ不審する也小笠原備前守持長法名浄元帰陣  の時見物有て御褒美有たる也其時高長おひたる矢切符廿五矢也 一一ふくらといふ事ハ弓一張のこと也二ふくらといふハ二張の事也 一弓を御たらしといふ事ハ只の人の弓ハ申ましき也公方様の御弓をハ  可申也御矢をハ御てうとゝ可申也是も公方様の御矢ならてハ申間しき也 一とうハ白き本也ぬりこめ藤といふハ重藤の上を赤漆にてぬりたる  をいふ也惣して漆にて藤の上をぬる事略儀也 一武田小笠原両家に限りて弓の拵やう替也 一しきの弓の弦ハ巻弦也ぬりやう巻弦とハ常の弦の上をゝにて太  刀の柄巻如くちかひて巻をせき弦といふ也又一方へ能巻事も有  夫を巻弦と云也それは略儀也巻弦をハ先能々射ならして後巻て塗也 一弦巻ハえひらの脇皮に付て刀の鞘へ引通して矢をおふ也弦巻の  付やう口伝有大小ハ好によるへき也中の丸さハ刀の鞘へくつ〳〵と通る  程に拵へき也弦巻をはむかしハわらすへにてもしたる也近年  つゝらにてするを被用也何にてするか本とハ不定也 一弓の鳥打といふ事子細有なゝし鳥を打殺したるたると也なゝし鳥とハ  雉子のおん鳥の事也 一矢ほろの事十六矢ハ二はたはり也廿矢廿五矢にハ二はたはりに  わりのを可入打たれハ一尺二寸也たかはかりの定めうつたれ一尺  二寸の分をハぬうましき也但わりのゝ分をハかた〳〵へ縫付へし  すそのくゝりの分斗也矢にかゝる分の長さ打たれをのけ  て矢つかの長さにする也矢にあてかいて拵へし但廿矢廿五矢  の時ハ矢のはつの方広く有間みしかくつまりて見ゆ也  少しハ長くして矢にかゝりてゆる〳〵と見よき程にすへし打たれ  の分をハくミにて女結ひに結て五分斗かしらのきハにて  引しめしめてさす一の矢にからミてとむへしうち打たれのきははかりをハ  黒革と赤革と合せて赤革を下に重る女結にして切也  又我家の紋を付る時ハ打たれにても羽の通りにても可付又引両  と紋と二色付る時ハ紋をハ打たれに付てひきりやうをハ羽の  とをりに付へし又無文にもすへし色不定也 一弓袋矢ほろ其外何にても軍はい方の物仕立るに先ツさ  きへ刀をやりて建なりかき板にハ柳を可用陽の木成故也 一万の革のさきをハとんほうかしらにする也とんほうハ先へ  行て跡へかへらぬ物也それによりたる儀也 一具足きて可持扇の事面ハ地を紅に日を円く地にはゝかる  程に可出日の大小不定金箔也裡ハ地を青く月を円く  可出大小不定月ハ白はく也地ハ空色也月の方の地にハ星を  出すへし星の数七又十二也星ハ白箔也星の大小不定円く小さく  月の両方に可出七ツの時ハ扇夜遣ふ時さきへ三ツ身よりに四ツ成  やうに可付又十二の時ハ一方に六一方に六以上十二也星の置処不定  見斗ひて置へし面ハ昼の容也裏はよるの体也骨ハ黒骨也  数ハ十二ねこまさしほ手たるたるへし例式の扇よりハまひろかるへし広き  不定要をハかねにても革にてもする也何れニても此二色の内を  可用但かねハよかるへしかねニてするハかた〳〵にかしらをしてしんを  通してかた〳〵に座を円くしてとおりたるしんの先を返して抜  ぬやうにする也扇の長さ一尺二寸金の定たるへし 一扇のねこまにすかすもんの事謂尋申処昔より如斯しき  たる也何の謂とハ無存知と被仰也 一具足の上に扇さす時ハ相引にさすへし昼ハ日の方を面へ成  てさす也夜ハ月の方面へなしてさす也 一扇の遣い様の事昼ハ日の方を面へなして骨を六ツ開きて六を  畳ミてつかふへし夜ハ月の方を面へなして骨を六ひらきて六  をハたゝミてつかふへし勝いくさ軍して後ハ皆広けてつかふへし 一悪日に合戦する時ハ昼ハ月の方を面へなしてつかふへし夜ハ日  の方を面へなしてつかふへし 一鉢巻の事布たるへし色ハ白を本とする也広さ長さ不定也但赤黒もする也 一具足の毛の色の事白糸本也其謂ハ白糸根本の色也こと色  ハ色々に白糸を染たる色也白糸ハ人のいろはぬ様本の色成  によりて白糸を本とする也又白色ハ陽也 一黒糸黒革おとし賞玩の色也是もかちんといふ色成に依て別而用之也は 一御きせなかと申事御所様の御具足ならてハ申間敷也公方    様の御小袖是御きせなかの本也此御きせなか毛ハ糸也此色卯  花おとしと申也卯花威ハかつ色の事也かつ色とハ白糸の事  なり色糸にていろへたる也 一鳴弦する時弓ハぬり弓也同弦もぬり弦也 一産の時の引目可射次第同様引目等の事弓ハ塗弓たる  へし同弦もぬり弦なり 一矢ハ白篦に鶴の羽を付る也はぎやうハ白きえり糸にてもはく  へしかハはきも不苦但略儀也糸のえりやう秘事也筈巻と  かみはきを左えりの糸にてはくへしもとはきハ右えりの糸にて  はく也箭をハ三ツ拵へし二ツハ用意の為也三ツの内二ツをハ外  面の羽を付へし一ツハ内向の羽を可付射る時ハ外向の矢にて可射  也引目ハ犬射引目赤漆にぬるへしひしきめ有へかたす 一射手の出立の事白き小袖に白きうら打の直垂也ゆかけハ例  式の革の指懸たるへし右斗にさすへしえほしかけをすへし 一射やうの事産所の家をたきて畏て例式直垂の紐を  納てひとり弓の足ふミをしてかたぬきて紐袖をおさめて  可射也但北の方へハ射ぬ事なり也し白へりの畳の裏を西へなして  人二人に両方の端をとらへさせて裏を射也一ツ射てかたを入  て畏て射たる矢を取よせて又其箭にて立てかたぬきて  可射さてかたを入て畏て二射たるよりも少あはひを置て又一  可射女子ならは二ツの儘ニて射ましき也矢ハ内矢にて射へし度毎に  かたを入て畏也矢取ハ殿原たるへしすあふき也畳ハ産所に  敷たる白へりの畳一てうこひ出て可射也秘説也 一射様ハさし矢に可射打上てハ弓を引へからすこふし落させしか為なり  弓かへし弓たをしすへからす惣して産所の引目にかきらす引目  射時打上弓返し弓たをし弓有へからす 一弓立と畳立たるあひの事弓杖五杖斗也 一矢取は前に座すへし前より射手の後をとをりて可出 一夜引目の事おの子の時ハ夜引目の数三ツ少あひを置て二射て  又少あひを置て三可射三二三なり以上八なり宵夜中暁三  度可射也女の時ハ二三二と以上七よひ暁二度七ツゝ可射但  男子の時ハ宵に三夜中に三暁三も射也女子の時ハ宵に二  夜中三暁二以上七を一夜に射也是ハ略儀也 一鳴弦の事男子の時ハ引目の数の如く三二三と以上八也宵夜中  暁三度する也度毎に八ツヽ弦を打也女子の時ハ宵暁二度  也これも夜引目の数の如く二三二以上七打也宵暁二度七ツヽ  弦打をする也男女共に弦打てやかて手をそゆる也度毎に  納る弦打也但是も引目射如く男子の時ハ宵に三夜中に二  暁三以上八なり女子の時宵に二夜中に三暁に二以上七弦  打をする也是ハ略儀也 一生る子の湯あふる時鳴弦とて弦打をする事秘説也三々三一  十度打也是も一打て少あひを置て打々する也度毎に  十度なから手をそゆる也男女にかハりハなき也諸事祝の時  又ハ祈禱の時弦打如此十度打也 一八幡殿義家鳴弦する事三ケ度也と申ハ弓の握を取て一度打  て少間を置て又一度打又少し間を置て一度已上三度打  給ふ也初め一度ハ弦に手を不添して三度めの時に手を添  給ふ是を鳴弦する事三度也と申来る也魔縁のもの  邪気退治なとの時儀也 一魔縁化生のものなと有て夜引目むねこしの引目なと射時ハ  畏て立時ハ右の足より踏出て三足踏て可射射果てハ例  式中に立時の足踏の如たるへし秘説也聊爾に伝事なかれ 一狐狸其外魔縁の者なと射時ハ右の足を前へ一足踏出して  射也急成時ハ足踏の不可及沙汰矢ハとかり矢にて可射也  鷹の羽山鳥の尾ニて矧たる矢にて右の足を踏出して魔縁の  ものを射るにしりそかすといふ事なし大成秘説也 一出陣其外何事ニてもあれ座して居たる人立時ハ左の足を踏立る  也又立て射たる人歩ひ出る時も左の足よりあゆひ出る也常  に座敷に居たる時も左の膝を上に成て居て左の足より  踏て立なり祝言の時用足なり 一公方様御出一番の御盃ハ勢州へ給二度目御幡指三度め御甲の役者被給也 一具足を人の前へかきて出る時ハ前ハ下手跡ハ上手也かきてかへる時  も具足もまはるへからすむすふとてわろき事也 一矢たはねの革の事黒革本也革の広さ五分也金の定め長  さ不定矢に依るへし三巻まきて面にひほ結ふ如くゆふへし革の  先とんほうかしらに切也矢たはねの高さの事根のさしきハより    上へ一尺二寸置て矢配りの上をゆふと日本紀にあれ共それハあまりに  高くて八寸の方すはりて悪き也吉程に見斗ひてゆふへし  板め革にて矢配をして其上を結へしえひらしこ何にも  一番にさす矢一ツを黒皮を細く裁ていかにもよく引て箙に可結付  結やう女結ひ也付事肝要也事外成秘説也 一頭を鞍のとつ付に付る事大将の首をハ左に付る也葉武者の  頭をハ右に付る也たふさをちかへて其たふさにとつ付の緒を  通して可付法師の首をハ口の内よりとつ付の緒を腮へ通して  可付頭ハ四より多くハ付られぬ也とつ付の緒の長さ一尺二寸本也 一軍陣にて頭を懸御目時ハへりぬりをきて鉢巻きをして鎧  きたる時ハ脇楯をして太刀佩て矢負て可懸御目事本儀也  略儀ニて懸御目時に具足にへりぬりきて太刀斗はいて懸御目也 一頭を合戦場にて懸御目時もへりぬりをきへき事本也なき  に至てハ結かミにても懸御目也合戦の庭にて俄に懸御目  時ハ頭すゆる䑓の不及沙汰右の手にて髻をさけて頭の切口  に鼻紙抔ほとに帋を畳てあてゝ左の手にて切口を抱て  懸御目て左へまハりてたつ也 一入道の頭をハ左右の手に持て大指にて左右の耳を抱て残の  指にて切口を持て懸御目也 一頭を懸御目已前にすなかちとてすな取て少頭へまきかけて可  懸御目砂のなき在所にてハ土にてもする也是ハましなひ也 一公方様の御敵をもする程の人の大将の頭を懸御目時ハ裡打  の直垂にゑほしかけをして懸御目也頭をハ䑓にすへへきなり䑓ハ  檜の板の厚四五分広さ六寸よほう斗にすへし足ハさんあしニて  打足の高さ一寸斗頭を可持やうハ大指にて耳を抱へ惣の  指にて䑓を持御前にて両の膝を立畏て䑓にすへなから  地に置て扨髻を右の手にて取てひつさけて左の手を頭の  切口にあてゝ公方様の御顔をきと見申て頭の少し左の方を  懸御目て如元䑓に置て扨如已前左右の手にて䑓と共に  頭を持て左へまハりて可立也法師頭をも䑓と共に土に  置て左右の手にて頭の切口へ四の指を入て左右の大指にて  耳を抱て懸御目て如元䑓に置て左へまハりて可立也如此有  事なれ共御前にて首をとかく拵事不可然とて前に記する  如く䑓に居て御前へ持て参て畏て䑓なから中に持て其儘  懸御目て左へまハりて立也頭をハ真向にハ御目にかけぬ事也  右のかたの顔を被御覧様に懸御目也 一去嘉吉之年赤松大膳大夫満祐法師頭慶雲院殿様御  実検の時ハ伊勢守殿宿所西向にて御実検有其時当方  侍所也多賀出雲入道所司代職相抱時出雲入道子左近  将監に令指南懸御目也其時の懸御目様うら打の直垂  にえゑほしかけして股立を取て以前に注す如く䑓にすへて持  御前へ参りて頭を其儘中に持右の方を卒度懸御目左へ  廻りて立也頭を臺に置時より直にをかて右の方を御覧  せらるゝ如く臺の上に少しすちかへて置也 一頭のかしら結ひやうの事昔ハ常のゆひ処より高くゆひて手一束程  に髪を巻あけてひつさけて持やすき様に結也但それは髻を  取てひつさけて懸御目間取能ためにたかくゆひあけたる也 一夜引目可射事祈祷の時の夜引目用心の時の夜引目ハ三々三  と是を用已上九也引目を三ツ持て可射例式の如くつくはひ  て紐をおさめて足ふミをひとり弓の足踏をしてはたぬきて  袖をおさめて三ツ射て間を少おき置て又三可射如此三々三以上九  射也引目ハ犬射引目たるへしひしきめのなき引目にて射也 一むねこしの引目の事引目を三ツ持て三ツ可射也北へ不可射同日  東南へ引目を向たらハ能るへし西へ向て射も不苦病者抔の祈祷に  射にハ主の居たる家の棟を横さまに可射越引目ハ犬射引目たるへし  射様ハ三の引目を二をハ側に置て一ツを弓に取添てつくはひて  紐を納て独弓の足踏をしてかたぬきて袖を納めて可射引  目の落所ハ屋根又ハいつくへ落たり共不苦其人の棟を射  こすへし足踏はたけて射時前の左の足上て矢はなして後  足をしかと土へふミ付へし是ハ棟越の引目射時はかりに  限りたる事也異秘説也 一はなす弦打納る弦打とて二色在納る弦打とは常にする如く  弦打をしてやかて弦に手をかくる事を納る弦打といふ也  惣して弦打を何度もせよ後にしはつる時のをハ納る弦打と  いふ也又放す弦打とハ弦打をして手をかけすして其儘置ことを云也 一用心の時の弦打ハ四二三也先四打て少しあはひを置て二三打  也四二三已上九也何とも九ツヽ打也弦打の度ことに弦に手をかく  る也二打少しあひを置 一愁の時の弦打ハ三々三一以上十度也是も三ツつゝけて打て少し  間を置て打也愁にハ弦打て度こと三の内初二ハ手をそへぬ  也三度めをハ手をそゆる也十度めのをも手をそゆる也愁とハ  邪気退治なとの時の事也十度めの弦打をは納る弦打也 一 右此一帖豊後守高忠連々記置以證本令書寫者也    永正八年六月日  小八木若狭守忠勝判     築城記 同上      用害之事  山城ノ事可然相見也然共水無之ハ無栓候間努々水ノ手  遠くハ不可拵又水の有山をも  尾ツヽキを堀切水ノ近所の大木        カフキノ  ヲ切て其後水の留事有之       表   木戸ナリ  能々水を試て山を可拵也  人足等無体にして聊爾に取  懸り不可然返々出水の事肝要二候条可有分別末代人数の  命を延す事ハ山城の徳と申也城守も天下の覚を蒙也  日夜辛労を積て可拵事肝心也 一堀の高さ五尺二寸計サマノ長さ三尺二寸斗サマノ口の広さぬ  りたて七寸斗サマのカトを能おろして矢の出よき様に可拵也 一サマノ数は一町の西に三十ト申四町に百廿斗可然と也然共数之事  様体に依へし矢出て敵いたむへき処を見斗ひて多も可切也又  身とをりのさまなとゝ云て昔ハきらす候事候然共不入サマ  をハさまふたをしてふさく事なれハサマ多して不苦口伝多之 一矢蔵は堀のムねよりも二尺高く揚る也弓一張タツ程可然矢  蔵数多候事ハ可然候大にあけ【?】へからす小矢倉ハ七尺四寸斗可然候也 一矢クラノサマハ三尺斗口六寸斗サマの下八寸はかりたるへし 一弓かくしハ三尺はかり莚なと可然候口伝アリ 一木戸ハ柱間七尺柱ハいか程も太くて可然候寸法ハ不可有之候也 一木戸ハ凡如此一カイ有木ヲ十六角斗に削り候くわんの木  をして内よりさす横ニ木ヲ渡也シヲリ内へ明る也  片開きハ左へヒラク也 【図の説明】           ぬきと云也   木戸柱ナリ      是ハカフキニ           下ノ横木ヲハ      アラス              車ツキト云也 【本文】 一ノロシハ篝ヲ焼如く木をつミて置也用ノ時火を付ル狼ノ  糞ヲくふる也狼烟けふり上へ能立のほる也 一カヽリ焼ハ干タル木を長くつミ風面より火を付る也又生木をハ  多く積て消さる様に焼也何も木多くつミ火フトク強く見候様ニ焼也 一平城ハ始て拵候時先縄打をする也必土居出来て内狭く成候  土居の広さなと能分別して縄打にて広くもせはくも成也  地わりとハ云へからす縄うちといふへき也 一追手の口ハ土橋可然也自然板はしなとハ火を付る事有也  切て出てよき方を土橋にする也 一カラメ手の口かけ橋も不苦但様体によるへし 一木戸柱の口ノ広さ九尺はかり長ハ土の上一丈はかり一方に一本  両方ニ二本也柱ハ面を広四角に作りて可立地へハいか程も  深く入て能也クヽリ木戸ハ右ノ方に有へし 一木戸ハ内へ入てカマへ候也土居二ても石くらにても塀にても透の  なきやうに立る也 一城の戸口をハ内の見えぬ様に右カマヘにひつゝめて外より内の見  えさる様に拵也又城のトヨリ内ノ少広く成様に可心得也 一城の木戸ト家の間ハ鑓を二タン三タン斗にツクル様ニ可心得也 一追手へ大手共敵ツク時ハ搦手より切て出る様ニ可拵也 一大手の口にサシ出候て半町はかりに内に塀四五間斗付外ニ  カヽリを焼也是をタヽラ塀と云也又出はりの塀共云也  此うちにカヽリ焼者居也 一城ノ戸ヲ内二間斗塀付る事アリ是を構塀と云也不入事か 一城ノ内も見えす又土居も高く家も見えさるを黒構と云也 一城ノ口より家も見え又土居もサクをフリ内の見ゆるをハ透構と云也 一サクノ木ノ長さ土ヨリ上六尺余たるへし凡一間の内に五本斗    可立但木ノ大小ニヨリ心得有へし人ノクヾラザル程に立へし横フ  チハ内ニアツヘシフチ四有へし下ノフチ膝のとをりにゆふへき也  縄の結めハ外に有様にゆふへし又外に横フチを結もあり  但それハやかて塀を可付心得也サクも塀の如く所々うちへ折  てゆふかツヨク能也又塀にするサクハ縄ゆいめ内に有へし  又山城の時ハ塀ひきく有へし 一モガリ竹ハ枝をソキてもくましき也又處々木の柱を立る也 一土居にさかもかりをゆふくゐをうち横木をゆひそれへ折かけ  ゆふ也又陸地にゆふハ竹の先を腰のとをりにあるほとに  本をひきくくゐをうちよこ木をゆふ也 一塀サクノ木モカリ何もすみをまハしてゆふ也角より敵ツクに  より如斯云々口伝アリ 一城との上を武者のかけ通る様に橋を広く強くかけて面ニ  板を打矢サマヲ切又足ダサマヲ切ヘシ足ダサマトハ板にサ  マヲキ切テ其サマフタニとつての様にして足にて開キ入ヲ云也 一ハシリ矢クラハ常の矢蔵の如くこしらへ塀の中に広くあけ  てサマをあまた切てはしり廻りているを云也 一ダシ矢蔵カキ矢クラと云ハかきてありく也出矢蔵も此心得あり 一セイロウヲ上ルハ先スソ斗に柱をふんはらせツヨク立也一重  あくるハサマを下にて切て面の方を先トク上ヘキ也一重の時も  上へあけかさぬる様に柱の心えをしてあくる也又夜中にあく  るか能也敵へ近くあくる時如此昼ハ敵見すかし矢を射あ  けにくき也面に矢をふせく用意をしてあくる也此時の  たてこしらへやう可有之 一ヒラ城の塀ハ高さ六尺二寸サマのたけ三尺五寸はかりたるへし 一折塀ハ二間すくに付て一間可折之折目にサマ一ツ切て両方  にサマ二ツ有へし 一塀ノ刀竹二とをりに内に可有之 一弓カクシハ三尺ハかりに可有之いなはき莚先ハ可然候 一矢クラハ塀の上二尺余サマ面の方二ツ可然サマの戸ハ  前へ引ヒラキ候シトミの如く外へをし出も有之所によるへし 一矢蔵ハ塀より二尺斗内へ入て明る事也是ハかいたてに  射付候矢をかき落へいの内にて取へき為也又塀に  かゝハり候はて可然候 一やくら板をハに横に敷也スノコも横竹也たつハすへりてわろき也 一城戸ノわきに  自然よこさまを  切候はゝ内の左に可  有候大事のサマにて候  一二在之又よこさまを  切處に横板を打て  其より鑓を出也 一土居ノ塀ヨリ内ハ武者走ト  云也外ハ犬走りと云塀  ノ縄打の時犬ハシリ一尺五寸  をきて可然候武者ハシリ  ハ三間はかり可然候 一城の外に木ヲ  植ましき也土ゐの  内の方に木を植て  可然也 一山城ニハタツ堀  可然候 一平城ハ城ノ  ウシロニ勢  タマリ有様ニ  可拵なり 【図の説明】                横サマ長さ二尺三寸斗                広さ七寸斗 【本文】   右此一巻者朝倉殿家中窪田三郎兵衛尉無隠依為射   手従朝倉殿窪田方ニ被相伝之然於若州武田殿ニ窪   田長門守と申人体有之三郎兵衛尉親類也然間相伝   之条種々令懇望写之者也可秘々々如件    于時永禄八十月廿七  河村入道 誓真 花押     見聞諸家紋《割書:群書類従ノ四百廿四武家部ノ廿五ノ内ニ見エタリ紋ヲ尽|寫サンモ煩也シケハ巻頭【?】ノ二三ノ譜委キ計ヲウツス》      二引両       源姓八幡太郎童名不動丸或源太        従四位下陸奥守号金伽羅殿鎮守府       将軍後冷泉院依勅父頼義隨兵       奥州之安陪貞任誅其弟宗任為降人       攻戦間九ケ年其後藤武衡家衡與       攻戦時三ケ年康平治暦其間十二年也       合戦討勝首級得一万五千余天喜中  上洛為褒美依勅命五七桐紋免許故當家御紋五  七桐ニ引両云々桐者根本安家之紋也八幡殿貞任御退  治以後御上洛之時依被望申下賜此桐紋云々    一姓  吉良 義氏之次男義継号東條三男長氏号西條  渋河 泰氏之次男義顕之孫  石橋 泰氏之嫡流自五世孫和義号石橋    以上三家号下馬衆  斯波 泰氏之孫家氏次男宗家号斯波  細川 義実次男義季号細川  畠山 義兼嫡子義純号畠山義兼者義清弟也    以上三管領也  上野 泰氏四男義有号上野  一色 泰氏五男宮内卿法印公深一色之祖也  山名 重国嫡男重村号山名  新田 重国次男義俊大嶋鳥山祖也三男義兼号新田  大館 義兼四世孫基氏弟家氏号大館  仁木 義実嫡子実国号仁木  今川 吉良西条長氏次男国氏号今川  桃井 義兼三男義胤号桃井此義兼者非新田義     兼矢田判官義清之舎弟也  吉見 義朝五男範頼子法師範円吉見祖    桔梗但幕者無紋水色     土岐         頼光四世孫国房之末国房者頼政之         叔父也 童名文殊丸正四位下摂津守         鎮守府将軍  土岐市本出于源姓故其為紋者一変白色及以為水  色昔時唯用焉是又所以貴其先也後也有野戦  時取桔梗花挿于其冑以大得利矣因為之例遂  置之水色之中以為之定紋然不記其年月又其不  知何人始為之也源頼光為紋末裔用之故不得  堅取其説暫依其所聞以書寫而已    松皮菱     武田      頼義男新羅三郎義光之末孫従四位下      伊予守鎮守府将軍童名千手丸      永承五年後冷泉院依勅奥州安倍ノ      頼時 ̄ヲ攻是時詣住吉社祈平復夷賊      于時有神託賜旗一流鎧一領昔神功      皇后征三韓用 ̄ヒシ也神功皇后鎧脇楯者      住吉之御子香良大明神之鎧袖也此裙      之紋割菱也三韓皈【帰】国後鎮坐於攝津      国住吉以奉納于宝殿矣今依霊神之      感応于源頼義賜之可謂希代世頼義三男新羅      三郎義光雖為季子依父鍾愛伝之即旗楯無  是也旗者白知地無紋鎧有松皮菱故義光末裔当家  爲紋 【注記:二行に亘るが、割書とせず記述する】乗頓云是ヨリ下ハ是迄ノ如譜不委紋ノ下ニ其家々有ノミ乍去古キヲ知ル ニハ能証本ナレトモ【𪜈:合字】紋ヲウツスコト【ヿ:合字】ノ六ケシケレハ爰ニ筆ヲ閣ク遺【?】念不少     並合記【下に注書】乗頓按頭書誤写多キ様【?】読カタキ処多シ其侭ウツシ置  応永四丁丑年世良田大炊助政義《割書:弥三郎|満義子》桃井右京亮宗綱  《割書:実三州額田郡吉良弥三郎有信|子也母桃井駿河守義繁女》ト相議シテ妙法院宗良親王ノ御子  兵部卿尹良ヲ上野国ニ迎奉ル此尹良親王ハ遠江国井伊谷ノ  館ニテ誕生アリ御母ハ井伊谷ノ井伊助道通政女也其先延元々丙  子年《割書:吉野年号也建|武三年ニ当ル》尹良ノ御父宗良親王ヲ井伊道政主君ト  崇奉リ遠州ニ迎へ旗ヲ上テ京都ノ将軍《割書:足利|尊氏》ト相戦フ折  節尹良ハ大和国吉野ニ御座シテ【乄:合字】御元服ノ后正二位中納言一品  征夷大将軍右大将兵部卿親王ニ成セ玉フ元中三年《割書:吉野年号|也至徳三》  《割書:年ニ|当ル》丙寅八月八日源姓ヲ受サセ玉フ然ルヲ新田世良田桃井等其  外遠江参河ノ宮方与力ノ者相議シテ【乄:合字】桃井和泉守貞職《割書:桃井伊豆|守定綱》  《割書:ニ男|ナリ》ヲ以テ吉野ヨリ上野国ヘ移シ奉ル吉野ヨリ供奉ノ武士   大橋修理大夫定元岡本左近将監高家山川民部少輔重祐   恒川左京大夫信矩 吉野ヨリ供奉公家之庶流   堀田尾張守正重平野主水正業忠服部伊賀守宗純   鈴木右京亮重政真野式部少輔道資光賀大膳亮為長   河村相模守秀清 前四人ヲ新田家ノ四家伝也又後ノ七人  ヲ公家七名字ト号ス合テ十一家ト称セリ或吉野十一尚黒トモ【𪜈:合字】唱フ  故ニ宮方ノ武士トモ【𪜈:合字】申也何レモ二心ナク尹良君ヲ守護シ奉ル井伊  谷ノ井伊助秋葉ノ天野民部少輔遠幹ヲ初其外西遠江ノ兵 【四行目からの上方の追記】 李花集曰延元四年春 住居遠州井伊谷城 庸按ニ実 此時也又第 ニ巻中曰 宗良親王 在遠州而 丹氏相叛 於爰平【?】 参州重春 請奉移 参州足助 御王嗟而 不従乃躬 移駿州 丹土狩野介 貞長入江 蒲原【右に追記】無二服 従而無餘 残力遂遁 信州入御大 河原郡高 坂宗復又 考南朝記 事興国二 年辛巳 北朝暦応 四年頃事欲 暮頃丹右祖 軍有啓王事 事間潜適 越中国名黒 之許而逢勅 使来朝上吉 野庸謂此 後■【上部に「本ノマヽ」と注記あり】還大 河原知者 記事曰 正平廿四年 己酉北朝 応安二年 三月十一日 北帝第二 代後村上帝崩  トモ【𪜈:合字】旅行ヲ守リテ冨士谷ノ宇津野ニ移シ田貫次郎カ館ニ入  奉ル此田貫次郎ト申者ハ元来冨士浅間ノ神主也神職ヲ嫡  子左京亮ニ譲リ宇津野ニ閑居ス次郎カ女ハ新田義助ノ妾也  其好ミニヨリ宮ヲ受取奉ル井伊助ハ親王ヲ字津野ニ入奉リテ  兵トモ【𪜈:合字】ヲハ残テ其身ハ国ニ皈ル冨士十二郷ノ者ハ新田義助ノ厚恩  ヲ受シ者共也其中ニ鈴木越後后守正茂同左京亮正武井出  弾正忠正房下方三郎宇津越中守ヲ始我劣シト尹良ヲ响応シ奉ル 同五戌寅年ノ春宇津野ヲ出御アリ上野国ニ至リ玉ハントシ玉フ処ニ  鎌倉ノ兵トモ【𪜈:合字】宮ヲ襲奉ル十二郷ノ兵共柏坂ニテ防戦フ尹良ハ  越后守カ館丸山ニ入セ玉フ寸桃井和泉守ヲ四家七党守護  シ奉ル敵数日館ヲ囲ミ攻ルト云トモ【𪜈:合字】宮方四方ヨリ起リ出テ鈴木  二加勢ノ兵多カリシ故和泉守丸山ヲ出テ鎌倉ノ大将上杉三郎 重方嶋崎大炊助カ陣ニ掛テ主従百五キ上杉カ備タル真中ヘ 切テ掛ル上杉カ兵五千余キ桃井ニ追立ラレ上杉カ郎等長野安 房守討レシカハ兵トモ【𪜈:合字】我ヲ失ヒ戦労シテ引退ク和泉守追討 テ行処ヲ嶋崎ハ踏止リテ桃井カ追行其跡ヲ取切ント備ヲ右ニ ナス桃井是ヲ見テ我勢ヲ二手ニ成シテ【乄:合字】一手ハ島崎カ三百キニ指向ケ タル勢ヲ以テ上杉ヲ追フ処ニ大橋岡本堀田天野等都合三百余 キ島崎ニ向テ戦ナル島崎モ前后ヲ取巻シナハ悪カリナント思 テ勢ヲ段々ニ引テ一騎モ討レス山浪迄引ニケル上杉ハ二百余キ打 レテ其夜ハ上ノ一色ニ陣スルトカヤ桃井モ勢ヲ引テ皈ケリ其寸ニ 井出弾正正忠鈴木越后守ニ申ケルハ新田ノ一族ノ御働不珎候ヘ 【本文上方・行間への追記】 宇良親王自信州上吉野吊先帝上風一首於今上帰大河原其後有夏四月二日之記然則王以三月中下旬自 信往自芳 皈也又日其 年王拠大河 原城高坂 高宗木曽 上杦等奉 従十月至 下旬ゟ【?】関 東軍戦 時信州大 雪寒気 甚■両 軍発兵 東還帰 東王復上 芳都 庸 以此後 王還信 州知者 文中三年 甲寅北朝 応安七 年記曰冬宗良親王自大河原上芳都乙卯天授元年丙辰七年丁巳三年猶在芳都冬下旬信州 於長谷寺薙【雉ヵ】供天授六年庚申夏後信州右祖軍皆叛但有高坂不改初心王大去信州屛居河州山田 已上 然ニ兵家 茶話第三 引信州宮 記曰其後 亦復下于 遠州終 薨キ井伊 谷王齢七 十三方広 寺無文和 尚《割書:王|弟》為送 葬佛事 号冷湛 寺殿是 王也 或説曰元 中二年八月 十日王薨 当北朝至 徳二年乙丑 已上 又引天野 信景説曰後醍醐天皇元子一品将軍宗良親王於遠州井伊谷薨号冷湛寺殿是取載旧記也 龍譚寺與  トモ【𪜈:合字】今日ノ御合戦ハ某ヲ始十二郷ノ兵トモ【𪜈:合字】皆目ヲ驚シ候ト申ス  鈴木カ曰老テハ何コト【ヿ:合字】ヲ申トモ【𪜈:合字】御免ヲ蒙ンカ大事ノ前ノ小事ニテ  候君ノ御供大事ノ前ニテ候ヘハ必ス道スカラ御合戦ニ危キ  御働ハ御無用ト社存候ヘ今日ノ御合戦モ長追ニテ候ト云  貞職カ曰鈴木殿ノ仰肝ニ入候君ノ御供申テハ合戦ハ無益  ニテ候ヘトモ【𪜈:合字】鎌倉ノ者トモ【𪜈:合字】桃井カ供奉ニテ候ニ何ノ沙汰ナシニ  過ケルナト申サンモ無念ニ存シ其上逃ルカ面白サニ追申候ト  笑ナカラニ語ケル鈴木モ路次ノ警固ニ宇津野越中守下  方三郎鈴木左京亮高橋太郎此四人ニ二百八十キヲ差副テ  送奉ル尹良ハ丸山ヨリ甲斐国ニ入セ玉ヘハ武田左馬助信長我  館ニ請シ奉リ数日御滞留アリ同八月十三日ニ上野国寺尾ノ  城ニ移リ御坐ス新田世良田其外ノ一族等皆寺尾ノ城ニ馳集ル  同十九年壬辰四月廿日上杉入道憲定兵ヲ上野国寺尾ニ発シ  世良田太郎左衛門尉政親ヲ攻ケル寸政親防戦コト【ヿ:合字】数日ニ及ヒ疵  ヲ蒙リ今日ハ如何ニ思フトモ【𪜈:合字】叶フマシトテ長楽寺ニ入終ニ自害ス  法名俊山ト号ス次郎三郎親氏勇力ヲ励シ敵陣ヲ切抜ニ后  新田ニ赴ク同六月七日木賀彦六左エ門尉入道秀澄カ兵廿五キ  ヲ農人ニ出立セ新田相模守義則カ底倉ニ蟄居セシヲ夜  ニ紛レ彦六カ兵トモ【𪜈:合字】新田カ家ヲ取巻鬨ヲトツト揚ケレハ義則進  ミ出テ戦シカ戦ヒ疲レテ終ニ討死ス 同廿三年丙申八月十九日名月ニ事寄テ上杉入道禅秀鎌倉ノ  新御堂満隆ヘ往テ謀反ヲ進メ回文ヲ以テ武蔵上野下野ヘ 【本文上方・行間への追記】 冷湛寺佞音相近疑黙宗以冷湛寺号改其文字者歟寺僧今不知宗良野之故而徒詣井伊氏之事 而己其龍 泰寺之旧 称俗取記 伝実冷 湛寺歟 【十五行目より本文上方への追記】 義則若依 南朝記事 作義陸《割書:義治|ノ男》 又曰命満足【兼の誤りカ。足利満兼】 安藤隼人 底倉湯 所討之若 依右今治 乱記巻 第五葉 新田義則 被討之條 下曰応安 元年自六 月上旬新 田武蔵守 義宗 左エ門 佐義治 於越後 上野信濃 所夫界号三国其■接城ゟ鎌倉衆戦而彼【?】板城義宗戦死義治斬死脱敵地適羽州隠三嶋競而不知必居  触ニケル新田世良田千葉岩松小田等ノ一族時ヲ待ケル兵トモ【𪜈:合字】思  々ニ旗ヲ上ル桃井宗綱禅秀ニ加リ鎌倉ヲ攻江戸近江守ヲ  国清寺ニ於テ討捕ル宗綱頓テ近江守カ首ヲ武州荏原  郡矢口村ノ川端ニ梟シテ【乄:合字】高札を立ツ   今度攻相州鎌倉於国清寺討捕江戸近江守奉為新田   義興主仍如行     応永廿三年丙申十月十日   桃井左京亮宗綱 トソ書ニケル近江守ハ義興ヲ矢口ノ渡ニテ船ノ中ナルノミヲ抜テ  河水ニ溺シ殺シケル江戸遠江カ子ナリ 同廿四年丁酉正月十日満隆持仲ノ親族上杉禅秀カ家来百  七十人戦ヒ破レテ悉ク自害ス 同五月十三日岩松治部大輔武州入間川ニテ中村弥五郎時貞ニ生捕レ  誅セラル桃井宗綱ハ薙髪シテ【乄:合字】下野入道宗徹ト号ス 同卅年癸卯小栗孫次郎満重鎌倉ヲ背キ下総国ニ下リ  結城ニ楯コモル下野入道幷ニ宇津宮左エ門尉持綱真壁新七  郎茂成佐々木隠岐守入道等小栗ニ一味シテ【乄:合字】合戦ス桃井ハ八月  十三日下野国落合ニコソ皈リケレ 同卅一甲辰年 新田小三郎義一世良田大炊助政義同修理亮親秀  同万徳丸政親 桃井入道宗徹 大江田安房守  羽河安芸守景庸 羽河安房守景国    宇都宮之一類  大岡次郎重宗 宇津越中守道次 大庭雅助景平 【本文上方・行間への追記】 其処又有一族有新田相模守義則旱躬耕耘或曰受庄宮等価䕴于木状于肩而臝為有膐力 則不甚 労其匿 于相州底 倉庄有 古河彦六 朝秋入道 聞之応永 十二年三月 十七日夜襲 義則其日鎌 倉右馬允 辛崎八郎従 為斬伏三人傷于 六人而彦六命奴僕 放火彼家彦六 取右三人 看送于 鎌倉云也 元帥左典 厩 満重 賞彦六 賜底倉 【本文二十四行目上方からの注記】 政義庸考 永亨七年乙卯 三月朔忠矢浪 合 政親庸考政義 次男復檎又逃為僧 示寂上州万徳寺 宗徹応永廿一 年八月望戦死于大河原   熊谷小三郎直郷  児玉庄左エ門尉定政  酒井與四郎忠則   鈴木三郎兵エ政長 天野民部少輔遠幹   天野対馬守遠貞   十田弾正忠宗忠  大草三郎左エ門尉信長 布施孫三郎重政   千村対馬守家通  石黒越中守      上野主水正   山内太郎左エ門  土肥助次郎      小山五郎左エ門尉  等幷ニ四家七党已下ノ兵トモ【𪜈:合字】尹良ヲ供奉シ上野国ヲ出御有テ  同四月七日信濃国諏訪ノ住人千野六郎頼憲カ嶋崎ノ城ニ入  御坐ス又同国ノ住人小笠原七郎政秀木曽カ郎等二千久四  郎祐矯幷高坂渋谷カ一族等千野カ城ニ来テ尹良君ヲ慰  メ奉リ旅行御疲シヲ休メ奉ル寸ニ世良田桃井其外十一党ノ者  重テ相議シ尹良ノ御子良王君ヲハ一先島崎ヨリ下野国落  合ノ城ニ皈シ奉ル四家七名字幷桃井貞職世良田政親熊谷弥次  郎同弥三郎桃井左京亮宇佐美左エ門尉某開田上野天野  土肥上田小山等御供ニテ七月十八日ニ落合ニ皈城アリ尹良ハ千  野カ城ヲ八月十日ニ御立有テ三河国ニ赴キ給シト有シ𣆅【日扁に乏:「時」の異体字】ニ   左迂の身にし有なハ住も果むとまり定めぬ憂旅の空  ト書セ玉ヒテ千野伊豆守ニ給リケル後ノ世迄千野カ家ノ重宝  ト成トカヤ偖尹良ハ三河ニ渡御アリ吉良ノ西郷弾正左エ門尉正庸  其外挑井義繁カ厚恩セシ者多カリシカハ此者トモ【𪜈:合字】ヲ御頼アリ而  後上野ニテハ時ヲ待新田世良田ノ一族ヲ催シ再ヒ旗ヲアケ落合  ニ御坐ス良王ト牒シ合宮方ノ残兵ヲ集以テ合戦可然ト相談  一決シテ【乄:合字】嶋崎ノ城ヲ出御アリ三河国ヘ赴キ玉フ寸三州ヨリ御迎トシテ【乄:合字】 【本文上部の注記】 定政庸考 後為僧最 後改奥平監物  久世土屋等多ク参リケル同十三日飯田ヲ立セ玉フ処ニ杖突峠ニ  テ賊卒道ヲ塞テ財宝ニ心ヲカケ奪取ント馳集リ此ノ山彼  ノ谷ヨリ矢ヲ放ツ小笠原千久カ兵トモ【𪜈:合字】防戦テ賊ヲ征ス同十五  日飯田ヨリ三河国ニ向フ大野邑ヨリ雨夥ク降テ道路大河  ノ如シ未刻ヨリ風雨猶烈ク十方暗夜ニ等シ時ニ野武士トモ【𪜈:合字】  又俄ニ起テ駒場小次郎飯田太郎ト名乗テ尹良君ヲ襲奉  ル下野入道宗徹世良田次郎義秋羽河安芸守景庸同  安房守景国一宮伊与守酒井七郎貞忠同六郎貞信熊  谷弥三郎直近大庭治部大輔景景郷本多武蔵守忠弘以下  防キ戦ヒ賊ヲ討トモ【𪜈:合字】切トモ【𪜈:合字】賊ハ元来案内ヲ能知タリ彼ニ集リ爰  ヨリ駈出テ水陸ヲ走リ畦岸ニ聚テ散々ニ矢ヲ放ツ味方  天難逃レ難ク襄運是ニ極テ大井田一井ノ賊ノ為ニ襲ハレサセ玉  フ下野入道幷政満ハ小山ノ麓ノ在家ニ主君子尹良ノ御輿  ヲ舁入サセ御自害ヲ勧奉ル宮ハ残ル人々ヲ召日頃懇ニ忠義  ヲ致セシ者トモ【𪜈:合字】後ノ世迄不可有御忘トテ甲斐〳〵布モ御生害  有ケレハ入道ヲ始メ主従廿五人思々ニ自殺シ家ニ火ヲ掛悉  ク燋爛セシコソ悲シケレ政満ハ御遺言ヲ守リ此難ヲ免レテ  上野国ヘソ帰リケル時ハ応永卅一年八月十五日所ハ信州大河原也  宮ノ御腹ヲ召レシ処ヲ所ノ人ハ宮ノ原ト云【ト云:合字】也又其寸討死セシ  人々ノ死骸ヲ埋テ一堆ノ塚トナシ是ヲ千人塚ト云【ト云:合字】也石塔ハ則  信州並合ノ聖光寺ニアリ此時ノ合戦ニ討死セシ人々ノ法名   大龍寺殿一品尹良親王尊儀《割書:是後醍醐天皇ノ御孫|ナリ》   大円院長譽宗徹大居士  桃井宗綱入道宗徹   知真院浄譽義親大居士  羽河安芸守景庸   依正院義伝道伴大居士  世良田三郎義秋     良王君伝  御父ハ兵部卿尹良親王御母儀ハ世良田左馬助政義ノ女也応永  廿ニ乙未年於上野国寺尾城誕生アリ正長元戌申年四月寺  尾ノ城ヨリ下野国三河村落合城ニ入セ玉フ《割書:此寸良王|十四才》永亨五癸  丑年野州ヲ出テ信州ニ赴玉フ寸十九歳笛吹峠ニテ上杉  カ兵トモ【𪜈:合字】駈来テ戦フ此寸良王君ハ木戸河内守カ城へ入玉フ同年  五月十二日木戸カ城ヲ辞シテ【乄:合字】木曽カ所領金子ノ館ニ移玉フ  千久五郎金子ヨリ我館へ迎ヒ奉ル同年ノ冬世良田政義  桃井伊豆守貞綱等良王君ヲ尾張国海東郡津島ニ移  奉リ可然トテ四家七名字其外ノ兵共ニ触テケリ 同七年乙卯十二月朔日三河国ヲ打越ントテ並合ト云処ニ至リ玉フ  然ル処に先年一宮伊予守ニ討レシ飯田太郎カ一族宗綱ニ  討レシ 駒塚(本ノマヽ)小次郎カ弟某其外彼是【等カ】カ親族トモ【𪜈:合字】宮方ハ親  兄ノ敵ナレハ此所ヲハ通スマシ討取テ彼孝養ニセヨヤトテ大  勢是ニ馳集リ良王ヲ取囲ントスル処ニ桃井貞綱世良田政  親児玉貞広已下並合ノ森ノ陰ヨリ討掛リ賊徒百卅余人  ヲ討取ル同日酉ノ刻ヨリ亥ノ刻マテ防キ戦フ其間ニ良王ヲ  ハ十一党宇都宮宇佐美天野上田久世土屋佐浪等合ノ山迄  退奉ル貞綱貞広ヲ始メ野田彦次郎加治監物已下十一騎 【本文上部四行目よりの注記】 庸考良王 九歳喪 父乃是 応永卅一 年甲辰 ナリ 【本文上部十七行目よりの注記】 庸考尹良 王薨大河 原応永卅 一年甲辰 八月十五日 永亨七年 乙卯十二月一日 浪合事 自応永甲 辰第十一 行後ナリ  討死ス同三日桃井満昌合ノ山ニテ童トモ【𪜈:合字】ニ向テ汝等ハ何レノ里  ノ者ソ昨日並合ノ合戦ノ紛レ【?異本では「終り」】ノ様子ハ聞スヤト問ハ童トモ【𪜈:合字】七八  人ノ内一人答テ云我等ハ並合近キ村ノ者ニテ候昨日並合ノ  町口家ニ大勢ノ武士押入テ腹切テ候ヨシ又大将モ御腹メ  サレ候由承候ト申ス満昌又問テ云其腹切タル者トモノ【𪜈:合字】死骸ハ  如何ト童答テ云腹切寸家ニ火ヲ放テ候シカ折節風烈ク  吹テ並合ノ町悉ク消失ス何者カハ不知一文字ノ笠印一番  ノ笠印竪木瓜ノ紋付タル兵トモ【𪜈:合字】今暁焼跡ヲ捜シ鎧太刀  抔ノ焼タルヲ拾ヒ候ヲ見テ通リ侍リシカ偖哀ナルコト【ヿ:合字】トモ【𪜈:合字】ニテ候ト  語ル満昌之ヲ聞テ良王君ニ告テ申セハ頓テ大橋修理太  夫定元ヲ召テ満昌ニ差添ラレテ平谷ヨリ並合ニ遣シ討死  ノ者トモ【𪜈:合字】吊ハシム一文字ノ笠印ハ世良田一番ハ山川木瓜ハ堀田也何  レモ満昌定元ニ逢テ共ニ涙ヲ流シケリ偖世良田政義ハ辞  世ノ和歌有テ或家ノ蔀ニ書置コソハカナケレ斯テ定元ハ討  死セシ人々ノ焼骸ヲ採集テ並合ノ西ノ方ニアル寺ノ僧ヲ  頼ミ葬事ヲ営ミ満昌ハ野武士等カ首ヲ梟シ同日ノ暮  程ニ連テ平谷ノ陣所ニ社ハ帰リケル良王君政義カ残セシ  辞世ノ和歌ヲ御記有テ御袖ヲウルホシ玉フ其 ニ(本ノマヽ)   おもひきや幾瀬の淀をしのきゝて此なみ合に沈へしとは  此後ハ御供ノ士卒皆此ニ跼シ彼ニ蹐リ天地モ広カラヌ  心地シテ【乄:合字】同五日三河国鳴瀬村ニ至リ又里人疑テ入サレハ満  昌カ祖父所領ナル板井ノ郷ニ行テ正行寺ヲ頼ム《割書:或説ニ|作手ノ》  《割書:正行寺村ニ入御ト云々|然ハ板井郷ニハアラス》正行寺ハ満昌カ親戚下妻カ知人ナレハ良  王此処ニ四五日御滞留有テ尾州津島《割書:海東|郡》ノ大橋定省  カ奴野ノ城ニ入玉フ  同廿九日《割書:永亨七年|十二月》良王君尾州津島ニ入御四家七名家宇  佐美開田野々村宇都宮等十五人御供ス時ニ糧絶タリ一会  村ヨリ米五十石余ヲ献ス其米ヲ十五人ヘ分チ玉フ 同八年丙辰正月二日ヨリ亦復糧絶ス時ニ日置村ヨリ米廿石  余ヲ進ス其ヲモ前ノ如ク分チ給フ其ヨリ十五家ニテ毎年正月  二日ニハ必米ヲ舂コト【ヿ:合字】アリ蓋是ヨリ始レリ津島ニテ年始ノ嘉例  トスルコト【ヿ:合字】不然ヤ偖良王君尾州ニ隠レ玉ヒテ后ハ宮方ノ武士諸  国ニ蟄居ス其大概左ノ如シ   桃井大膳亮満昌   《割書:住三州吉良之大河内○大河内坂本之祖也|称三州桃井是ナリ》   大庭雅楽助景平   《割書:住三州額田郡深溝〇稲吉之祖》   熊谷小三郎直郷   《割書:住三州高力村世ニ称三州熊谷是ナリ》   児玉庄左エ門尉貞政 《割書:住三州奥平世称奥平祖》   酒井與四郎忠則   《割書:住三州鳴瀬後蟄居於大濱之下宮》   成瀬七郎忠房    《割書:居正行寺村》同太郎左エ門忠親    《割書:此三人兄弟也乃是新田一族大館苗裔大館太郎兵衛|親氏之男ナリ》   大岡忠次郎重宗   《割書:住三州渥美郡大草村是大江田苗裔也》   鈴木三郎兵エ尉政長 《割書:住三州碧海郡矢矧村》   大草三郎左エ衛門尉信長《割書:信州小笠原七郎政季弟八郎政億[後豊後守]之子|遠州有玉居住高村善八郎政親ノ弟ナリ》   天野民部少輔遠幹  《割書:住遠州秋葉城乃是対馬遠定ノ父也永亨七|年十二月遠幹持秋葉山獲兎就于冨樫介贈于三》             《割書:州元政親是ナリ》 【本文上部拾十四行目よりの注記】 庸考後為 僧最後改 大河内式部 少輔 【本文上部二十四行目よりの注記】 庸考兵家茶 話第四巻載 天野信景説曰天野下野守景隆   布施孫三郎重政  《割書:小笠原郎等也始従信州供奉良王君赴|于三州後住野呂村》   宇津十郎忠照   《割書:住三州前木其旧駿州冨士郡人宇津越中守|次男〇桐山〇和田〇大久保之祖》   宇都宮甚四郎忠成 《割書:住三州大久保村》   熊谷越中守直房  《割書:住江州伊吹山麓塩津為雨森之一族世ニ|称江州熊谷是ナリ》   土肥助次郎氏平  《割書:住尾州愛智郡北一色村土井三郎左エ門尉友平|之男ナリ》   長谷川大炊助重行 《割書:住尾春日井郡如意村石黒越中守重之[越中]|[州名子貴船山城主ナリ]之子也》   矢田彦七郎之泰  《割書:住尾州春日井郡矢田村堀田之一類也》  此外諸氏所々潜居者猶多不逞尽記    永亨七年十二月二日吊戦死者法号如左   貞綱院義切鉄柱居士 桃井貞綱   天光院真誉紅月居士 世良田政義    右良王君在津嶋奴野城吊先年戦死者之故令霊其時之号也     供奉良王之僧   蓮台寺弘阿 相州《割書:高坐郡|藤沢村》藤沢山浄光寺《割書:正中元年始|建第一代一》    《割書:遍上|人》遊行之徒第供奉良王住津島建蓮台寺  自吉野供奉尹良親王僧明星院実相院宝寿院  観音院此四院主君祈願師子良王于吉野于上毛于津  嶋所従于津島建四院乃為天王之社僧    尹良親王《割書:一品征夷大将軍》祠廟幷法号  応永卅一年八月十五日於信州大河原薨諡大龍寺殿《割書:大龍|寺所》  《割書:在与在津島同事乃是|尹良親王之廟所》又祭子津嶋境内新宮是也《割書:津島在|于尾州》  《割書:海東郡門真庄也又作亦在門真庄|葉栗郡未知其地何是》永亨八年六月十五日十一 【本文上部の注記】 奉崇良王令■【㫖(旨)に⻏カ】安芸守景則対馬守遠貞後移三州額田郡中山庄遠貞以来居宿戸村 岩戸村正蔵 寺天野院 天野孫右エ門 正家建為 寿正上人《割書:正|家》 《割書:ノ|弟》始祖有天 岩戸三蓋松 天野氏幕 紋筒松樹 也寺西手丁 可有天野 宅 △兵家茶話 曰差載 長㟢人 説曰長 谷川大炊 助重行本氏 石黒応永卅年 隠于尾州山田 郡神戸今 春日井郡 ■走村【碵走村カ。一方で「兵家茶話」この箇所には「春日井郡妙意村」と、「兵家茶話抜書」には「春日井郡山田庄妙意村」となっている】是也 此越中王党有忠信濃王利仁将軍之裔 越中国貴船山 城石黒氏母所 可也宮崎氏 同宗氏族也  党者建祠廟所祭也   良王祠廟法号幷略履歴政親満昌貞政捉取々事  明応元年三月五日七十八歳薨諡瑞泉寺殿三年甲寅  三月五日建居祠致祭於天王境内又諡御前大明神先是  永亨【享カ】七年十二月廿九日良王入御津島天王神主之家七名字  者奏神楽令曰自今以徃以為嘉例八年丙辰正月朔進  雑煮於良王時毎魚肉以伊勢蛤以羹其食半白米其  菜ハ尾張菜菔【=大根】ノ輪截鱠小鰯乾タルニ菜菔ノ削リヲ入タ  ル也此年ヨリ御流労ナシ其年二月十一日奉公方家命平賀  加賀守広利三千ノ兵ヲ率シ京都ヨリ来テ三遠ノ間ニ於テ  新田ノ餘族ヲ捜シ求ケル寸ニ故右京亮政義次男万徳丸  政親称蔵人三州松平村ニ隠レ居タルヲ生捕梅原肥前守ニ  預ケ桃井満昌ヲ正行寺ニテ捉ヘ沢田八郎カ《割書:居江州|志賀》預テ遂ニ  京都ニヒキ井【ヰカ】室町ノ獄舎ニ入ケルカ五月三日ニハ三条河原ニ於  テ誅セラルヘキニ定リシヲ広利情有モノニテ其頃遊行上人ノ在  京ナルヲ幸ト思ヒ彼道場ニ徃テ密ニ面謁シケルハ上人ノ御了  簡ニテ何卒彼三人ノ命ヲ助ケ玉ハリ候ヘト頼ケレハ上人モ哀  ナルコト【ヿ:合字】ニ思ヒ則領掌シテ【乄:合字】弘阿弥ヲ以テ将軍《割書:義教》ヘ被申上ハ  三州ニテ召捕レ候三人ノ者近日御刑罰可有由承ス就夫  申上候古例ニハ同氏朝敵ノ首ヲハ朱塗ニシテ【乄:合字】梟スルトカヤ昔  頼朝卿ノ弟其外同志ノ者ノ首ヲ藤沢ニ梟セラレシ寸  モ朱塗ニセント伝承リ候ヘハ今度モ如右例セサセ玉ヒテ 【本文上部の注記(系図は文字のみ記述)】 拠兵家茶 話講異 宇良親王 興良親王  無品号  遠江守 尹良親王  宇都峯王  賜源姓    源 良王  大納言 神主【「兵家茶話抜書」では神王(ミワキミ)と記す】  後称大橋   和泉守  信重母ハ  大橋修理  亮貞之女 良新  津島祠戢固■【以上三字?「兵家茶話」は「津島社務/称氷室」のみ記す】地称氷室〇庸按新疑親字又考無子而卒王種於是二十絶焉  可然ト有ケレハ将軍聞召尤也其上朱ニテ塗ハ早ク腐マシ  トテ広利ヲ召テ彼三人ノ首ヲ刎テ朱塗ニシテ【乄:合字】獄門ニ掛ヘシ  ト被命広利承リ軈テ三人ヲ集愁囚ヨリ出シ己カ宿所ニ  迎ヘ賀茂静原ノ梅谷修理亮カ家ニ潜シ置獄舎ノ内  ニテ彼三人ノ年来二似タル罪人三人ヲ誅シテ【乄:合字】其首ヲ朱ニテ塗  梟木ニコソ掛タリケレ其后彼三人ハ遊行ノ弟子トナリ剃髪シ  従ヒテ回国ニ出ケルカ将軍《割書:義教》赤松満祐カ為ニ弑セラレ玉ヒ  テ後ハ世間モ広クナリテ三州ニ帰リ大河内ニ住シ満昌ハ大  カワ河内式部少輔ニ改メ貞政モ三州作手ニ住シ奥平監物ト  改メ政親計ハ改テ阿弥陀仏ト号シテ【乄:合字】上州ノ満徳寺ニ入  テ行ヒスマシテ【乄:合字】居タリシカ後文正元年丙戌示寂スト云     洞院大納言付松平 泰親(冨永御所)之事  永亨【享カ】十一年己未洞院大納言実熈卿《割書:後称東山左府叙従一位|康正三年【以下割書】[此年九月十八日有改/元為長祐元年]》  《割書:法名元鏡博学|宏才ノ人ナリ》三州ニ流サレテ大河内ニ居住シ玉フカ嘉吉三年  癸亥帰洛有テ後内大臣ニ任セラル其帰洛ノ寸松平太郎  左エ門泰親ハ冨祐ナル者ニテ金銀ヲ借シテ【乄:合字】帰洛ヲ賑シテ【乄:合字】実  熈ニ相従フ京都ニ上ル故ハ如何ントナレハ泰親カ女ハ実熈ノ妾  ナリ一人ノ男子ヲ生テ冨永五郎実興ト称ス世ニ富永御所ト  云《割書:三州加|茂郡》是三州山本尾崎山崎ノ祖ナリ      津島祠祭礼由来之事  尾州津島天王祠祭礼ノ儀式ハ船十一艘ヲ飾テ十一党ノ者  各其家ノ紋ヲ付タル幕ヲソレ〳〵ノ舟ニ張ナリ此舟祭ノ始ル  コト【ヿ:合字】ハ同国佐屋村ニ台尻大隅守ト云【ト云:合字】剛ノ者アリ良王ノ讎敵也  天王ノ神託ニ依テ大隅守ヲ討ヘキ計策有テ斯ハスルナリ  偖十一党ノ者ハ台尻カ船一艘ニ己カ族ヲ悉ク乗テ天王ノ  祭礼ヲ観ニ来ルト聞テ十艘ハ津島ニヲキ大隅舟ヲ盪  出スヘシト互ニ相図ヲ定メ閣テ津島ニアル十艘ノ舟ヲ推出シ  大隅守カ船ニ漕ヨセテ彼船ノ前后ヨリ取巻討取ヘシト相  議シ大隅守カ舟津島ノ方ニ漕来ルヲ伺フニ大隅ハ此謀  ヲ不知一族悉ク一艘ニ乗来ル折コソヨシト十一艘取巻テ  鬨ヲ上テ大隅カ舟ヲ忽ニ水中ニ撃沈ム其一族トモ【𪜈:合字】或ハ討レ  或ハ溺レ不残爰ニテ亡ホサルトナリ宇佐美宇津宮開田  野々村ハ態ト陸ニ扣居テ水ヲ游キ上ラントスルヲ討取其    例ニ固テ佐津田野ノ四家ハ末代迄モ出サスナリ大矢部主税助  ハ大隅カ一味ノ者成シカ良王ニ内通シ大隅カ船ノ幕ヲ取テ  船中ノ能見ユルヤウニ致セリ是故ニ大矢部ハ命ヲ助ルノミ  ナラス将賞ヲ授ラレテ天王拝殿ノ番ニ加ラル偖又十一党其  外一味ノ人々神託ニ依テ大隅ヲ容易討亡シタリト喜勇  ムコト【ヿ:合字】ヲ祭ノ囃子詞ニシタル故ニ後世迄モ此祭ノ寸ハ吉例  トシテ【乄:合字】今日ノ如ク囃スヘシトノ命ヲ仰クヘシトカヤ又大隅ヲ討シ  八十四夜也又十一党ノ乗タル船ニハ一類一党ノ者ノ外固ク  禁メテ乗セス若他家ヲ乗ル寸ハ四家七名字ノ者装束  ヲ麁ニシテ【乄:合字】乗スル也是ヲ主達衆ト号ク又良王自ラ神家  ヲ継テ天王境内ニマシ〳〵四家ハ奴野ノ城ニ居テ詞殿ヲ  守護ス七名字ハ毎晨祠殿ニ出仕シテ【乄:合字】社僧ノ徃古  ヨリ執行シ来ル処ノ神事祭典ハ酒掃以下無怠慢可相  勤ノ下知ヲスル役人トナリ佐津田野ハ津島五ケ村ノ町人  百姓其外他国参詣ノ武士ヲ改ル役人ナリ     津嶋天王略伝  牛頭天王ハ欽明天皇御宇海東郡中島ニ光現セリ見  レハ柳竹ニ白幣アリ神託曰我ハ素盞烏尊也此所産  ヲシメテ日本惣鎮守ト成ヘシトノ御告ニ依テ祠ヲ建テ  崇メ来ル始現テ柳竹鎮座シ玉フ故柳竹ヲ守トハ号ス  ルナラン其始天暦二年《割書:村上天皇|御宇》勅使至建祠《割書:或説曰中島郡|王ノ村太神宮》  《割書:同体|云々》今柏森ノ地也トモ【𪜈:合字】建德《割書:南朝後村|上年号》元年《割書:当北朝|応安二年》正月  廿五日授正一位号日本惣社弘和《割書:南朝|年号》元年辛酉《割書:当北朝永|徳元年》  冬後亀山帝《割書:南|朝》ノ勅令ヲ方奉テ大橋三河守定有  造営今祠境也正平《割書:南朝|年号》元年丙戌《割書:北当朝貞|和二年》七月十三日  佐太彦祠《割書:今弥五|郎殿ト云》幷武内大臣祠《割書:共平定経祠相合シテ【乄:合字】二坐𦒳【「老」の異体字】|也定経ハ地三神者也》  堀田弥五郎正泰《割書:後叙従五位下|任左エ門佐》奉旨崇祭世以願主称  呼之弥五郎殿其本祠牛頭天八王子一王子之謂尾州  津島三祠    奴野城之事  正慶元年壬申大橋三河守定高始テ築其前ハ城ナシ此城  尾州海東郡門真庄ニアリ此庄ハ曩祖大橋肥後入道  平貞能ニ平家没後頼朝卿ヨリ隠退ノ耒【?】地トシテ【乄:合字】永代賜  ル所ナリ定省カ時ニ良王ヲ津島ニ隠スト云トモ【𪜈:合字】京都ヨリ何ノ  子細モ無リシトソ偖肥後守貞能ハ文治ノ頃ヨリ津島居住  ス其子貞経ハ肥後ニ住セリ貞経カ子大橋貞広三州  額田郡ニ来テ住ス故ニ其所ヲ大橋ト号ス《割書:大河内中根大橋|此三村ハ北隣ナリ》  尹良親王ノ御女桜姫君ト申ハ大橋定有ニ嫁シ数多ニ  男子ヲ生メリ修理亮定元三河守信吉等也是ヨリ先平  家没落ノ後曩祖貞能肥後国大橋ト云処ニ蟄居シ  其後宇津宮ニ仕テ野州ニ赴キ出家ス又三州ニ移リテ  モ其所ヲ大橋ト云【ト云:合字】尾州熱田ニ潜居スル寸ニ農家ノ女二人  ヲ妾トシ各二女ヲ生ム斯テ頼朝卿貞能ヲ尋求シムルニ  尾州原大夫亮春カ扶助スル由聞エケレハ梶原源太景  季ニ命シテ【乄:合字】原カ居城ヲ攻シム貞能自ラ景季カ陣ニ行テ  捕レシ故ニ景季鎌倉ニ将ヰ帰リ比企谷ノ土ノ罕ニ入タリ  然ル処ニ貞能カ妻肥後州ニテ生シ長男一妙丸《割書:後改|貞経》  ヲ知ン為鎌倉ニ下リ鶴岡八幡宮ニ毎日毎夜詣テ高  声ニ法華経ヲ読誦シ父カコト【ヿ:合字】ヲ祈ルコト【ヿ:合字】数月ニ及ヒヌ彼カ  容色 直人(タヽウト)トハ見ヘス皆人 奇異(アヤシメリ)頼朝卿ノ御台所聞食  テ卿ヘ斯ト語リ玉ヘハ即召テ其意赴ヲ問ハシメラル彼泣々  父カコト【ヿ:合字】ヲ申セシカハ卿哀ニ思召テ貞能カ命ヲ助ケ安堵ノ下  文ヲ賜リテ九州ニ帰サル是大友ノ始祖也貞能カ子大橋太郎  貞経カ後裔世々尾三ニ住ス貞能尾州ニテ得タリシ四女《割書:二人ノ|妾各》  《割書:生二女同|月同日》ヲ頼朝卿鎌倉ヘ召一人ヲハ三浦佐原太郎平景連 【本文二十一行目上部からの注記】 或曰源一 法師貞 能カ家ヲ ツク  ニ嫁サシメ《割書:真野五郎|胤連ノ母》一人ハ佐々木三郎兵エ尉盛綱《割書:法名|西念》ニ嫁サ  シム《割書:小三郎盛|季ノ母也》一人ハ芸州二住スル羽山宗春ニ賜ハル一人ハ  大友四郎大夫経家ニ与ヘラル《割書:豊前守|能直ノ母也》彼四女ノ生レシ里ヲ末  代迄ノ験トテ四女子村ト号ク四女子ノ母ヲハ神ニ崇テ祠  アリ人誤テ頼朝ノ祠ト呼ハ可笑   長亨【「享」の誤】二年戊申九月十九日   天文二年癸巳三月五日所写不許他見   享保九年甲辰閏四月廿五日所写近江源氏苗裔《割書:谷口酉四郎重堅》   享保十七年壬子閏五月二日武州豊島郡牛込神楽坂松源寺第七   世第五与庸【唐?】同禅余閣筆於修史亭下   寛政元年己酉七月念五日於武州和田倉写芙園【?】主人   同年十一月十五日於武州愛宕下写之寺島重寛   文政十二年己丑七月廿七日桑名文庫中ヨリ拝借於梅軒写畢 木崎原合戦記序  かゝる目出度御代なれは国々所々に至るまて千代の春千歳の  秋と楽む也皆是君の恵みの深き故そと弥仰き奉る  思ひゝの殿作り甍をならへ軒をつらねていろめくは高殿  楼閣をかまへつゝ朝日の光月の影うつる光のかゝやくは事も  愚に思はれて庭には金銀の砂を敷四方の囲も夥しく  不老門を出入人の皆袖をつらねて色めくは是や名にあふ  華衣着てみぬ人の心やなとふりてん【刀利天】喜見城の都もかくや  あらんとかほと治る御代なれは雨風まても枝をならさしと  いへは又人として君か代を萬代まていのらんはなかりけり    《割書:乗頓按此序巻中の趣意にかゝる事なし文も又拙なけれは後人の|書添たることのにやしらす》     木崎原合戦事 一倩世間の現相を観するに積善の家には余慶有積悪の  家には余殃有尤可慎は此道也爰に大隅薩摩日向三ケ  国の大守島津修理大夫義久公とも申奉るは忝も清和天皇の  御苗裔鎌倉の征夷大将軍源頼朝公御子左衛門尉忠久  公より十七代の嫡孫也文武二道の名将にて上を敬ひ下を  撫仁義正しくましませは靡ぬ草木はなかりけり御舎弟兵庫頭  忠平左衛門尉歳久中務大輔家久迚何も文武の名将たり  家の子郎等にいたる迄誠に忠勤を励ませは古今稀なる御果  報也近国のもの迄も羨さらんは無りけり是は扨置是に大  職冠鎌足の御末伊豆国の住人伊東入道寂心の末孫に  伊東左原大夫義祐とて弓取一人おはします日向国 都(ト)ノ郡に住給ふ  其心飽まて不敵にして仁義の道を学はす下を憐む心なく我  心に任せてふるまへは恐れんものともなかりけりされは古への詞に  も君臣を見る事手足の如くする時は臣君を見る事  腹心のことくす又曰義に隨ふ時は聖也君に隨ふ時は賢也  然るに義祐道にたかひし有様を譜代よしみの家臣共諫言  するといへ共曽て用る事もなく却て疎み遠さかる心の内等  も浅間しけれ大欲心の余りにや大隅薩摩に発向し我三ケ国  の主と成り子孫の栄花に盛へんと明暮方便をめくらし給  へと飯野の城には兵庫頭智仁勇の三徳を兼備堅く  警固をし給へは小勢にては中々叶へき様はなかりけりさらは求  摩の相良に加勢を請んと家の子に伊東加賀守祐安を近  付事の子細を言含め相良か方へと遣しける求摩にもなれは此由  斯と申ける相良頓て対面し必加勢申さんと左も御早く  返答し先首途に祝んと酒を様々に進め金作の太刀を  一振加賀守にそ引たりける祐安悦喜限りなく約束かたく相  極日向をさしてそ帰ける義祐大に悦て家の子郎等相集め  評定取々也爰に野尻の城主福永丹波守祐朝といふ者有  仁義を守勇士にて少しも憚る処なく進出て申けるは誠に  愚案をめくらし候に嶋津殿と申奉るは忝も清和天皇の御  末多田満仲より以来弓箭の家に誉を取政道かしこくまし  ませは御家の家臣に至迄数代好身を不忘皆忠勤を  励し心を変さる者とては稀にも不聞処也大敵の強敵也御当家  の兵共と申は譜代の士少して皆方々の仮武者也誠に相良の  何某は人かはしらぬ心の表裏人と承る無二の味方と云かたし  小勢を以て強敵の国に働給はん事蟷螂の斧を以て立車  に向うの譬也事新敷申事には候へ共御先祖祐高公は嶋  津の豊久を御聟に取給ひ其御威光を以日向土党を  討平けか様に栄花に盛り給ふ是偏に島津殿の御恩  也恩を得て恩を知んは木石にも相同しさそ佛神三宝  もにくしと思しめさるへし我々共か所存の処は島津殿の御旗  下に成給て九州不残嶋津殿の御手に入へき御計策を  被成先陣の御働忠義を尽させ給ひなは二ケ国も三ケ国も  嶋津殿より賜らせ給ふへし左有時は御家長久御子孫繁昌たる  へき事何の疑か候へき是福永か道に当り謀と存也先此  度の御合戦思召留り給へひらに〳〵と申ける義祐元より無道  の佞人以の外腹を立今に勤ん福永か賢人たてのおかしさよ  理非はともあれ角もあれ求摩に約束する上は用意せよや  者共とあはてふためき勢揃伊東加賀守同名所次郎大将  にて七百余キを相添て先陣に差遣し我身も弐千余人  を引具し二陣に頒て出給ふ天理に背き此度の合戦危  しといはん者こそなしとにもかくにも義祐の心の内おろか成共  申斗は無りけり 一去間飯野に御座す兵庫頭忠平は智恵第一の人なれは兼  てより伊東方に忍を入置給う故早彼事を聞召方々の味方〳〵  に飛脚を越て告給ふ菱刈表の兵共は勇進て人数を揃  爰かしこに手配し今や〳〵と待掛る忠平も川上三河守忠朝  上原長門守を初究竟の兵共三千余人相勝り木崎原の  関所に伏伊東勢を菱刈表に遣り過し跡を取切悉く  打亡さんと巧れけり是は不知伊東勢賀藤【加久藤・覚頭】迄発向す願ふ  所の幸と菱刈表の兵共五十騎百騎爰の峯かしこの谷の  つまり〳〵に馳せ集り時の声を造り懸弓鉄炮を放懸喚き  叫て責戦ふ伊東勢は小勢にて求摩の加勢を待れしか相  良何とか思ひけん一騎も勢を出さねは前後の敵に取囲れ  十方に暮ておはします爰に義祐の郎等に柚木埼丹後守政  家と云文武二道の侍有黒糸威の鎧きて卅六さしたる大中黒  の征矢を負三人張の塗こめ藤の弓持て鹿毛成駒に乗  たるか進み出て申けるは人の心と川の瀬は一夜に替る習也  覚悟の前にて候へ共可驚事にてなしかゝる時に命をおしみ  生んとすれは必す死す思切て一方打破り通るへしと諸軍勢  に下知をなし小林さして引て行破れ軍の習にて我先にと  足を乱して逃けれは跡より敵は群りて時の声を作り懸  しけくしたふて追懸る丹後守は是を見て斯ては不可叶某一人  踏止りて防矢を射て落し申さんと後陣遥に引下り彼政家  と申は近国に隠なき強弓の精兵矢継早の手利也大音上て  呼はるは爰に扣しは丹後守と言者也日頃音にも聞つらん    今近付て我をしれ矢先に敵は嫌ふましと指取引取射る程に死生  は不知廿八人射伏たり此勢ひに恐れをなし追て懸りし諸軍勢  しとろに成て勇えす漸引て行程に木崎原にも成ぬれは  忠平の御手一度に鬨を上にける伊藤【「東」の誤カ】勢は是を見て爰を  破られては叶ましとや思ひけん面もふらす責戦ふ未時を移  さんに川上三河守同助七大将にて物に馴たる究竟の兵を  五百余人引分とある木影に馳廻り義祐の旗本へ真しく  らに馳入縦横無尽に切て廻れは思寄さる伊東勢四方へばつと  散にける屋形の兵共勝に乗て前後ゟ引包み追伏〳〵打  捨る伊東に名有侍五百余人時刻を不移討れけり其外  恥をしらぬ雑兵共爰彼に追詰られ討るゝ者は数しらす  かゝる処に伊藤【「東」の誤りカ】祐安大勢に押立られ心ならす五町斗落たりしか  とある高みに懸上り臆病至極の奴原共何方迄逃るそと  味方の勢を励ましかへせ〳〵と呼りけれ共引立たる勢の癖なれ  は耳にも更に不聞入我先と引て行祐安心に思ふ様賤しくも  伊藤【「東」の誤カ】殿ゟ先陣の大将給り一軍も利を得す何の面目有  てか人々に対面せんいさ討死と思ひ切駒の手綱を引かへし  大音上て名乗様是は伊東の家の子に加賀守祐安といふ  者也軍の恩を報せん為討死するそ我とおもはん者あらは  懸れ〳〵と呼はりける爰に渋谷上総介国重此言葉を聞付あら  やさしくも帰させ給ふ物哉是は克【=重責を担う?】北原か郎等渋谷上総介迚音に  聞せ給ふらん参候と云侭に何れも馬より飛て下り打物抜て  戦ける国重か郎等主を打せしと弓手馬手ゟつつと寄むすと  組て上を下へとかへしける祐安元より大力二人の者をかひつかんて  かしこへ投捨国重と組て取て押へ首を掻んとする処を国重か  弟軍八国猶落重て柄も挙も通れ〳〵と三刀指て弱る  処をはねかへし終に首を打落ししすましたりといふ儘に勝鬨  とつと上陣所をさしてそ引にける此人々の手柄のほと天  晴味方の勢ひやと皆々打寄て盛しけり 一去間加賀守か郎等一人討洩され新次郎に近付てか様〳〵と告け  れは新次郎是を聞て扨は祐安討死とや両大将の者共か一人  残り古郷に帰り詮もなし附隨ふ者共一人も不残落行て  義祐の御先途を見継へし暇取する是迄と取てかへし大勢  の中に割て入面も不振戦しか余多の敵を伐落し我身も  数か所の疵を蒙りけれは是迄と思ひ切馬ゟ下に飛て  下り自害せんとする処に敵の兵透間もなく馳来る心得  たりといふ儘に真先に進む兵の諸脚薙て切伏せ二  番に続く兵と引組て刺違て共に空敷成にけり爰に柚  木崎丹後守は一人跡へ踏止り大音上て呼りける是は義祐の  郎等に柚木崎丹後守政家と申者也忠平の御内に名  ある侍しはし申入度子細有是へ〳〵と招きける勝に乗る  雑兵共耳にも更に不聞入我討取んとひしめきける丹後  守は是を見て理非をもしらぬ奴原哉そこ立退という儘  に遮る敵を弓手馬手に切て捨て忠平の旗本に真一文字  に駈来り忠平其由御覧して是は名有侍と聞子細を聞と宣へは  旗本の兵共丹後守を中に取込丹後守馬ゟ飛て下り打物  からりと捨いかにかた〳〵聞給へ我等か主の義祐は嶋津殿の御  恩を蒙り栄花に盛し人なれ共逆心を企天命に背申候故  此度の合戦悉く敗軍し家の滅亡不遠嶋津殿の御家に  降参申度は候へ共賢臣二君に不仕といふ本文の詞に恥只今討  死仕幼少の一子候を忠平様に奉り哀高きも賤も子を  思ふ道に迷事押はかり給へし此事申さんか為に是迄参候也  今は思ふ処なし首をめされ候へと甲を脱て彼所へ捨もんじん【(問訊=合掌低頭)】  してこそ【強調】居たりける忠平此由聞召哀成事共哉一子の事は  扨置汝も降参仕れひらに〳〵と宣へは丹後此由承りこは  難有御意哉左あらは暇を申して腰の刀を引抜て咽のくさりを  掻放し朝の露と消にけり此上は力なしと首を打落す御  大将を初として見る人聞人おしなへて袖を濡さん者はなし  か様に皆打死仕あなたこなたの時刻を延る其隙を大将  義祐は乕【虎=異体字】口の難を遁れ都の郡に落らるゝ忠平此よし  御覧して勝に乗て長追は悪かるへし先引取やもの共と下知を  し成て引給ふ去程に兵庫頭忠平は伊東勢に討勝飯野の城  に引かへし定て義祐今度の恥を清めん為二度討て懸るへし  油断するなと宣ひて遠見を出し忍を入御用心は隙もなし  川上上原を初として家老の面々申様臆病神の付たる伊東  勢何ほとの事か仕出へし此勢ひに境目を打越御働候はゝ  手に立ものは候ましと勇進て申ける忠平此由聞召此義尤乍去  困犬虎を喰究鼠却て猫を嚙と云事あり伊東も名に  有兵也侮ては悪かるへし縦亡といふ共味方大勢討るへし時  節を待と宣ひて境目堅く相守月日を送せ給ひけり  是は扨置伊藤【「東」の誤カ】義祐は木崎原の合戦に家子郎等不残  打せつゝ今一度境目を打越あまたの城を攻落し会稽  の恥を雪んと種々の智略をめくらせ共味方の臆病神  に迷はされ妻子を隠し色めきて落支度をそしたりける  野尻の城主福永丹波守は此由を熟しと見て伊東殿  御家滅亡すへき時節此節也度々諫言しけれ共禁言耳  に逆ふ習にて義祐大に腹を立物毎つらく振舞三年か  間無対面福永心に思ふ様我苟しも人界に生を受君臣  の義を違へす君を諌る甲斐もなし却て不興を蒙る事  無念至極に思へ共是も先世の事なれは悔も更 不残/(本ノマヽ)【四字右に注記】伝へ  聞は伊東殿は未先非を悔給はす今一度境目を打越  発向せんと企有よしを聞御家の滅亡不遠君辱しめらるゝ  時は臣死すといふ事あり家臣として今一度諌さらんも恥  辱の至成へしと一通の諌言状を認め態と名字は書さり  けり夜半に紛れて伊東殿の館へ忍行門前に立置宿  所をさしてそ帰けるとにもかくにも此福永の所存のほと  天晴なる勇士やと誉んものこそなかりけり 一去間夜もほの〳〵と明けれは番の者共是を見て伊東殿に    参らす義祐披て熟々見て是は定て福永か仕業也と覚たり去は  社とよ福永は決定逆心と覚たり我三ケ国を打平け栄花に  盛んと思ひ立合戦に種々の手便【?】をめくらし押留んとの心中は  返す〳〵も気遣也定て義久方へも内通したるへし時刻不移  討て捨よと下知をなす稲津左衛門川崎民部を大将にて  究竟の兵五百余人差遣す爰に内山の城主野村備中守  重綱と云は福永か為には少し親類なれは中々心を置恨られ  ては叶まし大将に頼んと此由斯と触けれは畏 り隠【住ヵ】/(本ノマヽ)【四字右に注記】城し五常  の道をむねとして仮にも非義を不行主君の悪逆有時は  己か身の上をも不顧諌をなす忠人也然るに依て三年か程  不興蒙り閉門す今更か様に誅伐を蒙る是偏に唐の  比干か諌に相同し伊東か家の滅亡疑なし殊に義祐の御子  義益は義久向退治の御立願の其為に岩崎の稲荷の宮  に籠せ給ふか神も非礼を受給はす社頭にて頓死して失  給ふ是一ツの瑞相也然時は此度の御合戦千に一ツも勝利を  得給ふ事あらし諸軍もいかて勇むへき皆敵に降参せんは  必定也我々とても未頼むへき身にはあらす此事福永に告  知せ落さはやと思ひつゝ文こま〳〵と書認福永へそ送ける  我身居館に引籠り世間の様を聞居たり福永熟々と  見て覚て拵たる事なれは驚くへき事にてなし討手向ん  其先に妻や子共を刺殺し腹切んと思ひしか待しはし我心  今日此頃と申は親は子をたはかれは子は又親に楯を突欲心    深き世中に野村とても頼れす渠か館へ打越直に対面し心の  内を興/(本ノマヽ)【四字右に注記】して知り身の行衛を究んと郎等に早瀬兵部左衛門  恒高とて大剛の兵を近付か様〳〵の次第にて野村か館に打  越か自然の事の有ならは妻子を害し焼払跡を清め  て得さすへし今生の対面是迄と鬼も欺く福永か泪と  共に立出る早瀬も涙をおし留御心易思召某斯て有上は  千騎万騎と思召縦寄来る者迚も軍は花を散すへし浮世の  名残是迄と門の戸をさし固め残し兵相添寄来る敵を今  や〳〵と待居たり是は扨置討手の大将稲津川崎野村か館  へ使を立時刻移りて叶まし早打立給へと申ける野村此由  を聞よりも俄に急病に犯され前後不覚候へは中々叶まし  福永分際思ふに左こそ有へし時刻相延しても何程の事か仕出す  へきと大様に返答す稲津川崎是を聞頓て心得たり福永は  親類の事なれは同意すると覚たり二心有奴原を一刻も助け  置方々引合募りてはことの大事たるへし先んする時は人をせいす  とは此時成へし早打立や者共と取ものも取あへす野尻の城に  押寄二重三重におつ取巻鬨の声上にけり鬨静れは恒  高矢倉に馳上り何者なれは狼藉や名のれ聞んと申ける  寄手の方より声々に福永叛反隠なし無用の事をいはん  より腹を切とそ申ける恒高から〳〵と打笑我等か館の福永  は旁か知る如く仁義を守る勇士にて伊東の御家に二人共  なき忠臣也逆心なとゝいふ事は不思寄次第也おゝやかて心  得たり飯野にまします兵庫頭忠平は智恵深き人なれは先福  永を退治して其後伊東殿御家を安々と亡さんする其為の  謀と覚たり敵の謀を不知して亡給はん義祐の御運の程こそ  然し【=なるほどそうだ】けれ危しや世中後先立人間の老少不定さためなけれは  こそ誠なれ何事も徒事に方々よみし物と思ひなは念仏  申てたひ給へ恒高か手并【手並の意?】の程今日あらはして見せ申さん  と弓鉄砲を放かけ少時ときを移しける表に進む兵百  人余り射しらまされて少し色めく処に一度にとつと切て出  火花を散し戦ける実も寄手は大勢にて荒手を入かへ  責けれは城の兵共残少なく討れける恒高此由見るよりも今  は防に叶ましと城の中につつと入嫡子兵太経房を近付  は物を能聞や世の有様能見るに伊東の御家終に滅亡被成  へし嶋津殿御家は末盛へき御仕置鏡に懸て覚たり  福永殿御家此節滅せん事無念さに御台若君の  御供し薩摩方へ降参し主君の御跡滅却せんやうに方々  落よと言けれは恒房【前コマでは経房】聞てこは仰共覚えぬ物かな福永  殿も内山に御越有定て切腹可被成主君と親を見捨  つゝ敵の方へ降参せは屍の上の恥也共に打死究んと落る  気色は無りけり恒高大に腹を立こは心得ぬ所存哉汝か  名利を思ふて主君の御家断絶せん事不忠の至是也其上  親の命を背ん事不忠の科を如何せんとかく利口をいはぬ  より急け〳〵と左もあらけなく申ける恒房泪をおさへ此上は  力なし契朽せす候はゝ後の世も廻り合可申と泪と共に御台若  君の御供し忍ひて城を落行恒高今はかく【斯く=これまで】と思ひ是迄  と残たる兵共を近付いかに旁最後の合戦未練すな  敵味方に笑はるゝなとて城中に火を懸天か霞と煙立る  本より恒高大力四尺斗の大太刀抜て真向に差かさし  門外に走出大音上て名乗福永か郎等早瀬兵部恒高  とて大剛一の兵也我と思はん者あらは早打捕て高名せよ  そこを引なといふ儘に大勢に割て入西から東北南蜘手  かくなは十文字八ツ華形といふ儘にさん〳〵に薙伏る実も敵は  堪兼風に木のはの散ことく村々ばつと逃にける爰に寄手の  方より村山源次奥野々藤太とて日頃手柄を顕し荒言吐たる  兵有目と目をきつと見合こは無念の次第かな恒高壱人に切立  られ足をためす見くるしや鬼神にてもあらはあれ余すな  といふ儘に二人の者共真しくらに打てかゝるを恒高きつと見  て大勢の其中に方々の残り留るは類ひ少き兵哉いさや  勝負を決せんと二人を左右に相受て追つ巻つ戦けるか奥  野々藤太太刀を打折て怪む処をつと入て真向二ツ割に  そしたりける源次透さす丁度と打ひらりと逃【迦ヵ=外】しそふなく諸  膝なひて切落されかしこへとうと倒れける二人か首を打落し  太刀の先に貫き軍はかくこそする物よ掛れ〳〵と呼はりける  左右な近付そ遠矢にそ射たりける恒高も心は猛く勇め共  其身鉄石にあらされは数ケ所の疵を蒙りて遁んもの故に腹  一文字にかき切て朝の露と消にけるかの恒高か手柄のほと皆  感せぬものは無りけり 一去間野村備中守重綱は忍の者共都の郡に附置ける無程  馳来り稲津川崎大将にて福永館へ大勢取掛し由申  ける野村聞てとやせん角やあらましと案し煩居たりしか只  世の行末を見る時は今日は人の身の上明日は我か身の上そかし  迚も死すへき露の身を義理を守福永と共に腹をかき切  て死出の山路を諸共に手に手を取て打越て立反【たちかえる】も難面【つれなく】も  物語して慰んと我と思はんものあらは供して来れと云儘に  立出んとしたりしか実誠忘れたり妻や子共を残し置人手  に掛んも無念也差殺さんと思ひつゝ常の所に立帰り女  房を近付てか様の次第にて福永館へ打越る是を最期と  思ふ也我等討れて有ならは敵是へ乱入浮めを見せんは必定也  如何せんと泪に咽ひたり女房聞て是は夢かや現かやと少時  消入泣給ふやう〳〵心を取直しこは浅間敷次第也弓矢の  家に生るゝ者か様の事有へきとは覚て覚悟もしたる事なれ  は先ツみつからを御害し二人の若共御手に掛させ給へかし死  出の山三途の川を御心安く越給へと潔くは言けれとも  花の様成若共を只今殺さん恩愛の別れ羈強くして  倒れふして我身の上はしらすしてなふ何方に行給ふそや母をも  我をも連させ給はんはてはやらじと泣さけふ袂にすがり留れ  はさしも猛き重綱も心も乱肝消てあゝ口惜や我日ころ  余多の敵に掛合度々高名はしけれ共四方も晴て覚るにかゝる  哀は身に染て骨髄に通り刀及ぬ次第也夫仏経にも恩  愛の妻子は三界の枷と御戒め今身の上に知られたりと  思へ共更に罪なくそゞろに泪を流しける斯て不可叶と眼  を開き牙をかくし刺殺さんとする処に老母走来り浅ま  しやと取付て絶焦れて泣給ふ先母上をや殺し申さむ  如何せんと思ひつゝ前後左右も弁へす心体爰に極つて  そゝろに時刻も移しける乳房の母を情なく我手に掛  て殺しなは左こそ仏神三宝もにくしと思しめさるへしと  左あらぬ体にもてなして家に伝はる郎等に竹部与市  を近付か様〳〵の次第也母や妻子を汝か手に掛害しつゝ  跡を隠して得さすへし萬事頼むと言置て把る袂引分  馬牽寄て打乗て跡をも不見して馳て行与市御  諚承りつく〳〵物を案するに野村の家を此時に絶し  給はん事共を御先祖に対しても不孝の至りと存る也  未幼少の人々にて御恥辱共不覚共誰かは謗り可申  落はやと老母をはしめ親子の人々相具して行方不知  成にける扨も野村か館へと急ける道にて行逢互に馬  より下り野村始終を言語り泣より外の事はなし野村  申ける様只爰許にて闇々と腹切んもいひかひなし討手  の勢を待かけ手柄のほとを尽して戦か又都の郡一行  討死するか如何あらんと言けれは福永つく〳〵と思案して    討手の勢と申すも昨日けふ肩をならへて膝を組し傍輩也  争ふへき恨なし主君伊東殿へは恨は数々多けれ共君々  たらすといへ共臣以臣たらすは不可有と聞時は弓を引も  仇言也死を一挙に定は安し謀を萬代に残すは怪し  先かたはらに忍ひつゝ世の有様を伺ふへし先此方へと申  けれは野村聞て命惜に似たれともいはれを聞は理り也  去なから此姿にては叶まし出家を遂んと言けれは福永  か譜代の郎等に渋谷権之尾【?】とて大剛の者有けるか進  出て申けるはこは浅間しき御事かないかに命おしきとて  出家に成法や有某一人有うちは千騎万騎と思し召  是より紙屋の里に無二の知人候へは彼方へ落させ給ひつゝ  時節を待せ給へとて紙屋の方へそ急ける此事隠あらされは  忠平頓て聞し召願所の幸と大勢を催し境目を打  越てこゝやかしこへ火の手をあけ敵の陣所を焼払ひ  今は本望遂たりと御悦はかきりなく屋形をさして  帰陣有こそめてたけれ   乗邨云原本誤写多し其儘うつし置もの也