【表紙】 【題簽】 《題:江戸名所図会  九》 【見返し】 【赤印】東京學藝大學圖書 291,36 Sa25 【左丁】 【上部 赤四角印】尾崎蔵書 【赤丸印】志いさづみ【中央文字不明】 【四角印】東京学芸大学 竹早分館蔵書 01390 【本文】 四谷(よつや) 四谷御門(よつやこもん)の外(そと)より西(にし)の方(かた)内藤新宿(ないとうしんしゆく)のあたり迠(まて)の惣名(さうみやう)也 里(り)  老(らう)云(いふ)此地(このち)の四方(しはう)に谷(たに)あり故(ゆゑ)に四谷(よつや)と号(なつ)くると《割書:南向亭(なんかうてい)云く昔(むかし)麹町(かうしまち)|六七丁目の地(ち)と塩(しほ)町の》  《割書:地(ち)に谷(たに)有(あり)しが寛永(くわんえい)十三年 外廓(そとくるわ)営造(ゑいさう)の時(とき)御堀(おんほり)の揚土(あけつち)を以(もつ)て東西(とうさい)の両谷(りやうこく)を埋(うつ)め|たる故(ゆゑ)に平地(へいち)となりしかと旧名(きうみやう)はうしなはずして塩(しほ)町の入口を今も坂(さか)町と字(あさな)する其(その)|故(ゆゑ)也 又(また)古(いにし)へ坂(さか)にて有(あ)りし頃(ころ)は民家(みんか)一軒(いつけん)ありて夫婦(ふうふ)くらしの人 居住(きよちやう)せし故(ゆゑ)に夫婦(ふうふ)|坂(さか)と呼(よひ)しと云々|或人(ある人)云 御入国(こにうこく)の頃(ころ)は今(いま)の糀町(こうしまち)両側(りやうかは)番(はん)町 永田(なかた)町に至(いた)り本多弥(ほんたや)八郎 高木(たかき)九助 両家(りやうけ)|の下屋敷(しもやしき)として下(くた)し置(おか)れしか共 御城(おんしろ)近(ちか)かりしにより市谷(いちかや)の臺(たい)此原(このはら)を永代(えいたい)の|御諚(こちやう)にて下(くた)し給ふ表(おもて)四百八十間に只四人 指置(さしおか)かれしにより四家(よつや)といへりと》  此地(このち)は永禄(えいろく)の頃(ころ)霞村(かすみむら)とよひけると云傳(いひつた)ふ或(あるひは)云(いふ)往古(いにしへ)此地(このち)は武蔵(むさし)  野(の)に続(つゝ)きし曠原(くわうけん)にて此所彼所(こゝかしこ)に土民(とみん)の家(いへ)四家ありし故(ゆゑ)  四家(よつや)と云へり共いふ《割書:事跡合考(しせきかつかう)に往古(いにしへ)今(いま)の尾州公(びしうこう)御屋敷(おんやしき)表門(おもてもん)の地(ち)及(およ)ひ|坂(さか)町其余(そのよ)二所 共(とも)に民家(みんか)四軒(しけん)ありしにより鳴子(なるこ)》  《割書:高井戸(たかゐと)の方(かた)より四ッ家と称(しよう)して往来(わうらい)にやすらひたりとあり》 牛頭天王(こつてんわう)社 同所 伝馬(てんま)町一丁目二丁目の間(あいた)の左側(ひたりかは)の横小路(よここうち)を入(いり)て  二丁斗り西(にし)にあり《割書:故(ゆゑ)に俗(そく)字(あさな)して此(この)小(こう)|路(ち)を天王横町といふ》祭神(さいしん)素盏嗚尊(そさのをのみこと)《割書:本地佛(ほんちふつ)は薬師(やくし)|弘法作(こうはふさく)紫(むらさき)の一(ひと)》  《割書:本(もと)に四谷(よつや)の人家(しんか)開(ひら)けて|よりの産土神(うふすな)とすと》神主(かんぬし)は芝崎氏(しはさきうち)《割書:神田明神(かんたみやうしん)|の神主(かんぬし)也》別当(へつたう)を宝蔵院(はうさうゐん)と  号(かう)す《割書:真言宗(しんこんしう)中野(なかの)|宝仙寺末(はうせんしのまつ)》祭礼(さいれい)は毎歳(まいさい)六月十八日同所 石切町(いしきりまち)《割書:伝馬(てんま)町一丁目|の横町を云》の 【右丁】 四(よつ)谷(や)牛(こ)頭(つ)天(てん)王(わう)社(やしろ)【上部横書き】 【以下四角囲い文】 疱瘡神   みこし蔵  妙行寺 本社    秋葉 妙義 山神 愛宕 石尊 歳徳 天神 稲荷 水神 庚申 拝殿 不勤【動の誤ヵ】 いなり 春日 八まん    かくら所 【枠外】   九ノ冊 三ノ百三十四 【左丁】 【四角囲い文】 別当 【右丁】  旅所(たひしよ)へ神幸(しんかう)ありて廿一日 帰輿(きよ)す地主(ちしゆ)は稲荷(いなり)明神(みやうしん)にして  共(とも)に此地(このち)の産土神(うふすな)と崇(あか)む《割書:本地(ほんち)は十一 面(めん)観音(くわんのん)|行基大士(きやうきたいし)の作(さく)也》 鬼子母神(きしもしん) 同所 坂(さか)の下(した)南寺町(みなみてらまち)日蓮宗(にちれんしう)日宗寺(にちそうし)に安置(あんち)せり《割書:当寺(たうし)旧(むかし)|糀(かうし)町 清(し)》  《割書:水谷(みつたに)に在(あり)て乗蓮寺(しやうれんし)と号(かう)す此地(このち)へうつされて後(のち)藤堂大学頭高次(とうたうたいかくのかみたかつく)の室(しつ)高見院心(かうけんゐんしん)|月日宗大姉(かつにちそうたいし)の法号(はふかう)を採(とつ)て山(やま)を高見(かうけん)と号(かう)し寺(てら)を日宗と唱(とな)へ其家(そのいへ)より寺院(しゐん)》  《割書:再興(さいかう)あり|しとなり》本尊(ほんそん)鬼子母神(きしもしん)の像(さう)は日法(にちはふ)上人の彫像(てうさう)なり相傳(あひつた)ふ  文永(ふんえい)元年十月三日 日蓮(にちれん)上人《割書:四十|三才》母君(ふくん)を拝(はい)せんとし旧里(きうり)安房(あはの)  国(くに)小湊(こみなと)に帰(かへ)る母君(ふくん)悦(よろこひ)の余(あま)り頓死(とんし)す上人 大(おほひ)に歎(なけき)て生活(しやうくわつ)の祈(き)  念(ねん)をせんとして先(まつ)徒弟(とてい)日法(にちはふ)上人に命(めい)して此(この)本尊(ほんそん)を造(つく)らしむ依(よつて)  此(この)本尊(ほんそん)に祈願(きくわん)し奉(たてまつ)るに験(しるし)ありて其(その)暁(あかつき)蘇生(そせい)し給ふ後(のち)寿(ことふき)を保(たも)  つ事(こと)四年なり鎌倉住人(かまくらのちゆうにん)鎌田氏(かまたうち)某(それかし)此(この)霊像(れいさう)を伝来(てんらい)せしが本(ほん)  尊(そん)の霊尓(れいし)によりて享保(けうほ)十三年 当寺(たうし)に安(あん)し奉(たてまつ)るといへり 玅典山(めうてんさん)戒行寺(かいきやうし) 同所 南(みなみ)に隣(とな)る日蓮宗(にちれんしう)にして延山(えんさん)に属(そく)せり  寛永(くわんえい)の頃迠(ころまて)は糀町(かうしまち)一丁目の御堀端(おんほりはた)にありて常唱(しやうしやう)題目(たいもく) 【左丁】  修行(しゆきやう)の庵室(あんしつ)なりしか近隣(きんりん)宮重氏庵主(みやしけうちあんしゆ)と共(とも)に力(ちから)を合(あは)せて  遂(つひ)に一寺(いちし)とす當寺(たうし)の日貞師(にちていし)は山本勘助晴幸入道道鬼(やまもとかんすけはるゆきにうたうたうき)  斎(さい)か孫(まこ)にて延山(えんさん)日悦(にちゑつ)上人の徒弟(とてい)也《割書:寛保(くわんほ)中八十 余歲(よさい)|にして迁化(せんけ)せらる》當寺(たうし)は明(めい)  歷(りやく)に至(いた)り此地(このち)に迁(うつ)さる總門(さうもん)の額(かく)に妙典山(めうてんさん)と書(しよ)せしは朝鮮(てうせん)  國(こく)李彥(りけん)の書(しよ)也 此所(このところ)の坂(さか)を戒行寺坂(かいきやうしさか)又 其下(そのした)の谷(たに)を戒行(かいきやう)  寺谷(したに)と唱(とな)へたり  分身鬼子母神(ふんしんきしもしん)《割書:寺中(じちゆう)圓立院(ゑんりふゐん)に安置(あんち)す定朝(ちやうてう)の作(さく)也 始(はしめ)四谷北伊賀町(よつやき[た]いかまち)|永田安節(なかたあんせつ)といふ医師(いし)の家(いへ)に傳来(でんらい)す来由(らいゆ)は事(こと)長(なか)けれは》  《割書:爰(こゝ)に略(りやく)して記(しる)さす》 汐干観世音菩薩(しほひくわんせおんほさつ) 同所 南寺町(みなみてらまち)戒行寺(かいきやうし)の裏(うら)の坂口(さかくち)真言宗(しんこんしう)  錦敬山(きんけいさん)真成院(しんしやうゐん)にあり此(この)本尊(ほんそん)は越後國(ゑちこのくに)村上義清(むらかみよしきよ)か守佛(まもりふつ)に  して其(その)末流(はつりう)村上兵部入道道樂斎(むらかみひやうふにふたうたうらくさい)大坂御陣(おほさかこちん)の時(とき)上杉(うへすき)  景勝(かけかつ)に従(したか)ひ奥州(あうしう)米泽(よねさは)より彼地(かのち)に趣(おもむ)く後(のち)江戸(えと)に帰(かへ)り  當寺(たうし)に収(をさ)むるといへり《割書:或人(あるひと)云く此(この)本尊(ほんそん)を塩踏観世音(しほふみくわんせおん)とも号(なつ)く|村上天皇(むらかみてんわう)護身(こしん)の尊像(そんさう)なり依(よつ)て村上肥後守(むらかみひこのかみ)》  《割書:頼清(よりきよ)常(つね)に崇信(そうしん)し其後(そのゝち)堂宇(たうう)を造(つく)り安置(あんち)す大坂御陣(おほさかこちん)のみきり村上(むらかみ)》 【右丁】 日宗寺(につそうし) 戒行寺(かいきやうし) 汐干観音(しほひくわんおん) 【以下四角囲い文字】 汐干観音 聖天 観音坂 鬼子母神 日宗寺 本堂 【枠外 囲い文字】三ノ百三十六 【左丁】 【以下四角囲い文字】 妙見 戒行寺 本堂 鬼子母神 普賢 【右丁】  《割書:覚玄斉(かくけんさい)当寺(たうし)弟(たい)【第】三世 看心(かんしん)に|授与(しゆよ)し当寺(たうし)に安(あん)すといふ》  本尊(ほんそん)聖観音(しやうくわんのん)《割書:作者(さくしや)詳(つまひらか)ならす一尺斗の石(いし)の上(うへ)に立(たゝ)せ給ふ|此(この)臺石(たいいし)潮(しほ)の盈虚(みちひ)には必(かならす)湿(ぬ)るゝとなり》 忍原(おしはら) 同所 四谷通(よつやとほ)りの小名(しやうみやう)なり傳(つた)へ云(いふ)寛永(くわんえい)十年癸酉 武州(ふしう)  忍(おし)の城(しろ)を松平豆州侯(まつたいらつしうかう)に賜(たま)ふ其頃(そのころ)は御番城(こはんしやう)なりしかは  勤番(きんはん)の面々(めん〳〵)御家人(こけにん)を江戸(えと)へ召帰(めしかへ)され此地(このち)において宅地(たくち)を  賜(たま)ふされと其頃(そのころ)は広原(くわうけん)なりし故(ゆゑ)に字(あさな)の忍原(おしはら)とは呼(よひ)し  と也 忍川(おしかは)と唱(とな)ふる地(ち)は四谷(よつや)の通(とほ)り伝馬(てんま)町の西(にし)にあり 篠寺(さゝてら) 同所 塩(しほ)町三丁目の左(ひたり)の側(かは)に有(あ)り四谷山(しこくさん)長善寺(ちやうせんし)と  いへる禅林(せんりん)にして篠寺(さゝてら)は其(その)異名(いみやう)也 天正(てんしやう)三年乙亥の草創(さう〳〵)  にして開山(かいさん)は文叟憐学和尚(ふんそうりんかくおしやう)本尊(ほんそん)は釈迦如来(しやかによらい)脇士(けうし)は普賢(ふけん)  文珠(もんしゆ)也 傳(つた)へ云(いふ)当寺(たうし)は長善庵(ちやうせんあん)と呼(よ)ひ形(かた)はかりの草菴(さうあん)にて  満地(まんち)小篠(をさゝ)のみ繁茂(はんも)せり寛永(くわんえい)の比(ころ)  大樹(たいしゆ)此辺(このへん)御鷹狩(おんたかかり)のとき 厳命(けんめい)ありて篠寺(さゝてら)とよはせ 【枠外】     三ノ百三十七 【左丁】 篠寺(さゝてら)といへるは四谷塩(よつやしほ)町の 通(とほ)り道(みち)より左(ひたり)の傍(かたはら)にあり 長善禅寺(ちやうせんせんし)と号(なつ)く昔(むかし) 御放鷹(こはうえう)の頃(ころ)当寺(たうし)いさゝか の庵室(あんしつ)にて満庭(まんてい)小篠(をさゝ) のみ所(ところ)せく繁茂(はんも) せしかは篠寺(さゝてら)と よはせ給ひしより 字(あさな)とはなりぬる となり依(よつて)今(いま)も 堂前(たうせん)に方(はう)三尺 はかりの小篠(をさゝ)の 隅(くま)ありて  其證(そのしよう)を   永世(えいせい)に     標(ひやう)せり 【右丁】  給ひ此地(このち)を寺境(しけう)に給ふより後(のち)此名(このな)あり故(ゆゑ)に其證(そのしやう)として今(いま)も  堂前(たうせん)に方(はう)三尺斗の地(ち)に小篠(をさゝ)の隈(くま)あり総門(さうもん)の額(かく)に笹寺(さゝてら)と書(しよ)  せしは永平寺(えいへいし)承天和尚(しようてんおしやう)の筆(ふて)なり 四谷大木戸(よつやおほきと)《割書:又(また)大関戸(おほきと)|に作(つく)る》 甲州(かうしう)及(およ)ひ青梅(あをめ)への街道(かいたう)なり土俗(とそく)云(いふ)霞(かすみ)か関(せき)  或(あるひ)は旭(あさひ)の関(せき)共 云(いふ)とそ御入国(こにふこく)の頃迠(ころまて)は此地(このち)の左右(さいう)は谷(たに)にて  一筋道(ひとすちみち)なり此関(このせき)にて往還(わうくわん)の人を糾問(きうもん)せらる近頃迠(ちかころまて)江戸(えと)  より附出(つけいた)す駄賃馬(たちんうま)の荷物(にもつ)送状(おくりしやう)なきを通(とほ)さゝりしとなり  今(いま)も猶(なほ)駄賃馬(たちんうま)の荷鞍(にくら)なきをは江戸宿(えとやと)又は荷問屋(にとひや)等(とう)の手(て)  形(かた)を出(いた)して通(とほ)るは其(その)遺風(いふう)なり此故(このゆゑ)にやこゝの番屋(はんや)は町(まち)の  持(もち)なれ共 突棒(つくほう)指脵(さすまた)錑(もしり)等(とう)を飾置(かさりおけ)り是(これ)往古(そのかみ)関(せき)のありし時(とき)の  遺風(いふう)ならん又(また)同所 西(にし)の方(かた)の往還(わうくわん)の道(みち)を横(よこ)きりて石橋(いしはし)の  下(した)を右(みき)へ流(なか)るゝ小溝(こみそ)を桜川(さくらかは)とよへり 内藤新宿(ないとうしんしゆく) 甲州街道(かうしうかいたう)の官駅(くわんえき)なり《割書:此地(このち)は旧(いにしへ)内藤家(ないとうけ)の弟宅(ていたく)の地(ち)なり|しか後(のち)町屋(まちや)となる故(ゆゑ)に名(な)とす》 【右丁】 四(よつ) 谷(や) 大(おほ) 木(き) 戸(と) 五十にて  四谷を  みたり  花の   春  嵐雪 【左丁】 【高札】 開帳 【右丁】 四谷(よつや)  内藤新駅(ないとうしんしゆく) 節季候   の  来ては  風雅    を  師走    かな   はせを 【看板】 味噌 おろし 【枠外】   三ノ百四十 【左丁】 【桶覆い】 和国屋 【天水桶】 水 【右丁】  鎌倉仏師(かまくらふつし)の作(さく)なりといへり《割書:斎藤伊勢守(さいとういせのかみ)二 親(しん)菩提(ほたい)の為(ため)と記(しる)してありとそ|此(この)斎藤(さいとう)といへるは代(よ)々 鎌倉(かまくら)に仕(つか)へて斎藤禅門(さいとうせんもん)》  《割書:浄円(しやうゑん)か裔(えい)|なりといへり》門(もん)の内(うち)に沙門(しやもん)正元坊(しやうけんはう)か造立(さうりふ)する所(ところ)の銅像(とうさう)の地蔵尊(ちさうそん)あり  《割書:江戸六地蔵(えとろくちそう)の第(たい)二 番目(はんめ)なり》 護本山(こほんさん)天龍寺(てんりうし) 同所 追分(おひわけ)より南(みなみ)の方(かた)甲州街道(かうしうかいたう)の左(ひたり)にあり  済家(さいか)の禅崫(せんくつ)にして本尊(ほんそん)千手観音(せんしゆくわんのん)開山(かいさん)は舂屋和尚(きうおくおしやう)なり当寺(たうし)  其先(そのせん)は遠州(ゑんしう)の天竜川(てんりうかは)の辺(へん)にありしを後(のち)江戸(えと)に迁(うつ)し牛込(うしこみ)に  ありしか天和(てんわ)三年癸亥二月十六日 火災(くわさい)にかゝり竟(つひ)に此地(このち)に引(ひか)れ  たり《割書:延宝(えんはう)の江戸図(えとつ)に依(よつ)て考(かんか)ふるに今(いま)の牛込(うしこみ)御徒歩町(おかちまち)の|西(にし)馬場(はゝ)のある地(ち)其(その)旧跡(きうせき)にして今(いま)も元天龍寺前(もとてんりうしまへ)といへり》境内(けいたい)に地蔵(ちさう)  堂(たう)と観音堂(くわんおうたう)有(あ)り又(また)構(かまへ)の内(うち)に一里塚(いちりつか)有(あ)り 鮫河橋(さめかはし) 紀州公(きしうこう)御中館(おんなかやかた)の後(うしろ)西南(にしみなみ)の方(かた)坂(さか)の下(した)を流(なか)るゝ小溝(こみそ)に  架(わた)すを云(いふ)今(いま)此辺(このへん)の惣名(さうみやう)となれり里諺(りけん)に昔(むかし)此地(このち)海(うみ)につゝき  たりしかは鮫(さめ)のあかりしゆゑに名(な)とすといへ共 証(しやう)とするにたらす  《割書:或人(あるひと)云(いは)く天和(てんわ)二年 公家(くけ)の御記録(おんきろく)に上一木村(かみひとつきむら)鮫(さめ)か橋(はし)とありと云々 然時(しかるとき)は此(この)|辺(へん)も一木(ひとつき)の内(うち)なりとおほし又(また)佐目河(さめかは)に作(つく)る《振り仮名:千駄ケ谷|せんたかや》寂光寺(しやくくわうし)鐘(かね)の銘(めい)に鮫(さめ)か|村ともあり》 【枠外】     三ノ百四十一 【左丁】 鮫(さめ)か橋(はし) 鳥の跡 淋しさや  友なし   千鳥 声せすは  何に   心を なくさめ   か  はし   茂睦翁 【看板】 ■上■■ 【暖簾】 御誂向 ■■■    大のや 【右丁】  《割書:鳥の跡|  さひしさや友なしちとり声せすは何に心をなくさめかはし 茂睡》 永固山(えいこさん)一行院(いちきやうゐん) 鮫河橋(さめかはし)の西(にし)の方(かた)千日谷(せんにちたに)に在(あ)り浄土宗(しやうとしう)にして  開山(かいさん)は源蓮社本譽利覚和尚(けんれんしやほんよりかくおしやう)といふ慶長年間(けいちやうねんかん)草創(さう〳〵)す昔(むかし)は  僅(わつか)の草庵(さうあん)なりしを永井家(なかゐけ)開基(かいき)して一宇(いちう)の浄刹(しやうせつ)とす開(かい)  山(さん)利覚和尚(りかくおしやう)は則(すなはち)永井信濃守尚政(なかゐしなのゝかみなほまさ)に仕(つか)へけるか剃染(ていせん)して  此地(このち)に庵(あん)をむすひ千日(せんにち)の間(あひた)常行(しやうきやう)念仏(ねんふつ)をす結願(けちくわん)の時(とき)千日(せんにち)  不退転(ふたいてん)の回向(ゑかう)を勤(つと)む依(よつ)て道俗(たうそく)群集(くんしふ)せしより千日寺(せんにちてら)と  唱(とな)へ又(また)此所(このところ)を千日谷(せんにちたに)と呼(よ)ふとなり《割書:紫(むらさき)の一本(ひともと)といへる冊子(さうし)にさめか|橋(はし)を渡(わた)り信濃原(しなのはら)へ行(ゆく)谷(たに)を千(せん)》  《割書:日谷(にちたに)といふとあり永井家(なかゐけ)の屋敷(やしき)ある故(ゆゑ)なるへし今(いま)は信濃町(しなのまち)といひ又(また)永井原(なかゐはら)とも云と云々》 阿弥陀仏銅像(あみたふつとうさう) 権太原(こんたはら)浄家(しやうけ)長禅寺(ちやうせんし)境内(けいたい)に在(あ)り高(たか)さ五尺  はかり仏像(ふつさう)の脊(せ)に応永(おうえい)十四年丁亥八月廿五日と彫付(ほりつけ)てあり  旧(むかし)東本願寺(ひかしほんくわんし)の仏(ほとけ)にて大坂(おほさか)の御城内(こしやうない)にありしを寛永(くわんえい)の頃(ころ)  江戸(えと)に移(うつ)し当寺(たうし)に安置(あんち)せり 【枠外】   三ノ百四十二 【左丁】 権太原(こんたはら)  長禅寺(ちやうせんし) 【四角囲い文字】 本堂 【右丁】 千駄谷(せんたかや)  大神宮(たいしんくう)  寂光寺(しやくくわうし) 【四角囲い文字】 神主 【枠外】 三ノ百四十三 【左丁】 【四角囲い文字】 拝殿 神馬 神楽殿 本社 遊女松 かね 本堂 ゑんま 【右丁】   《割書:按(あんする)に応永(おうえい)十四年は足利将軍(あしかゝしやうくん)義持(よしもち)の時世(しせい)佛躯(ふつく)こゝかしこに穴(あな)あり疑(うたか)ふ|らくは昔(むかし)兵乱(ひやうらん)の時(とき)に損(そん)せしめものならん歟(か)》 吾妻堤(あつまひ[つヵ]ゝみ) 同所(とうしよ)にあり往古(いにしへ)の街道(かいたう)の余波(なこり)なりとて堤(つゝみ)の形(かたち)今(いま)も  僅(わつか)に残(のこ)れり 太神宮(たいしんくう) 同所御 焔硝倉(ゑんせうくら)の西(にし)の方(かた)に有(あ)り相伝(あひつた)ふ萬治年間(まんちねんかん)  関東(くわんとう)大(おほい)に疫疾(ゑきしつ)流行(りうかう)す富士(ふし)の根方(ねかた)より神送(かみおく)りして此地(このち)に  祭(まつ)りぬ然(しかる)に其(その)神輿(みこし)の中(うち)に太神宮(たいしんくう)の御祓(おんはらひ)有(あ)り依(よつ)て此地(このち)  鎮護(ちんこ)の為(ため)同所 八幡宮(はちまんくう)の地(ち)に祠(やしろ)を建(たて)て是(これ)を勧請(くわんしやう)す《割書:後(のち)此(この)|地(ち)に》  《割書:うつすといへり神主(かんぬし)は小川氏(をかはうち)なり》 遊女(いうちよ)の松(まつ) 同所 西(にし)に隣(とな)る天台宗(てんたいしう)寂光寺(しやくくわうし)の境地(けいち)に有(あ)り  《割書:当寺(たうし)昔(むかし)は麹町(かうしまち)の貝塚(かいつか)の地(ち)にありしか御城廓(おんしやうくわく)御造営(こさうえい)の時(とき)此地(このち)に|うつさるゝとなり始(はしめ)は日蓮宗(にちれんしう)なりしか元禄(けんろく)の頃(ころ)天台宗(てんたいしう)に改(あらた)む今(いま)の|開基(かいき)は自證大僧都円雄師(ししやうたいそうつゑんいうし)なり》  相伝(あひつた)ふ此地(このち)は往古(いにしへ)の奥州街道(あうしうかいたう)にして広豁(くわうくわつ)の原野(けんや)なりしに  此(この)松樹(しようしゆ)の鬱蒼(うつさう)として栄茂(えいも)し遠(とほ)く見(み)え渡(わた)りし故(ゆゑ)に霞(かすみ)の  松(まつ)と号(なつけ)しか寛永(くわんえい)の頃(ころ) 大樹(たいしゆ)此地(このち)に御放鷹(こはうよう)の時(とき)御 鷹(たか)翦(それ)て 【枠外】   三ノ百四十四 【左丁】  御気色(おんけしき)あしかりしか此松(このまつ)にありて御拳(おんこふし)に止(とゝま)る故(ゆゑ)に御褒賞(こほうしやう)  として其(その)御鷹(おんたか)の名(な)を此松(このまつ)に命(めい)せられ遊女(いうちよ)と唱(とな)へしめ  給ふとなり 新日暮里(しんひくらしのさと) 同所二丁はかり西南(にしみなみ)の小川(をかは)を隔(へた)てゝ法雲山(はふうんさん)仙寿(せんしゆ)  院(ゐん)といふ日蓮宗(にちれんしう)の寺(てら)の庭(には)をしかよへり此辺(このへん)の地勢(ちせい)をよひ寺(し)  院(ゐん)の林泉(りんせん)の趣(おもむき)谷中(やなか)日暮里(ひくらしのさと)に似(に)て頗(すこふ)る美観(ひくわん)たり故(ゆゑ)に日暮(ひくらしの)  里(さと)に相対(あひたい)して仮初(かりそめ)に新日暮(しんひくらし)と字(あさな)せり弥生(やよひ)の頃(ころ)爛漫(らんまん)たる  花(はな)の盛(さか)りには大(おほい)に群衆(くんしゆ)せり当寺(たうし)は紀州公(きしうこう)御母堂(こほたう)養珠(やうしゆ)  院日心大姉(ゐんにつしんたいし)正保(しやうほ)紀元(きけん)甲申 草創(さう〳〵)あり当寺(たうし)の鬼子母神(きしもしん)は  同 大姉(たいし)甲の延嶺(えんれい)にして霊尓(れいし)を感(かん)し大野(おほの)の辺(へん)の土中(とちゆう)に  得(え)られて後(のち)当寺(たうし)開創(かいさう)落成(らくせい)の日(ひ)安置(あんち)ありしとなり同所  一町はかり東南(とうなん)竜岩寺(りうかんし)といへる済家(さいけ)の禅宗(せんしう)の寺(てら)の庭中(ていちゆう)に  笠松(かさまつ)と称(しよう)するあり枝(えた)のわたり三間(さんけん)あまりあり 【右丁】 仙寿院(せんしゆゐん)  庭中(ていちゆう) 【四角囲い文字】 惣門 中門 鐘 人丸 【枠外】 三ノ百四十五 【左丁】 【四角囲い文字】 本堂 新日暮里 鬼子母神 大こく 花山明神 いなり 芭蕉塚 弁天 【右丁】 竜岩寺(りうかんし)  庭中(ていちゆう) 【四角囲い文字】 笠松 【枠外】 三ノ百四十六 【左丁】 【文字なし】 【右丁】 《振り仮名:千駄ヶ谷観音堂|せんたかやくわんおんたう》 寂光寺(しやくくわうし)より二町はかり西北(にしきた)の方(かた)にあり観(くわん)  谷山(こくさん)聖輪寺(しやうりんし)と号(なつ)くる真言宗(しんこんしう)の寺(てら)に安置(あんち)す  本尊(ほんそん)如意輪観音(によいりんくわんおん)は当寺(たうし)開山(かいさん)行基大士(きやうきたいし)の彫像(てうさう)にして御丈(おんたけ)  三尺五寸あり世俗(せそく)目玉(めたま)の観音(くわんおん)と字(あさな)し奉(たてまつ)る《割書:往古(そのかみ)慶長(けいちやう)三年の|春(はる)盗賊(とうそく)来(きた)り此(この)本(ほん)》  《割書:尊(そん)の御 双眼(さうかん)は精金(いんす)なりと聞傳(きゝつた)へ鑿(ゑり)とりて去(さら)んとせしか冥罰(みやうはつ)にやよりけん|自(みつか)ら持(もて)る所(ところ)の刃(やいは)に貫(つらぬか)れて死(し)せり此地(このち)の高橋氏(たかはしうち)某(それかし)目(ま)のあたり是(これ)をみて|驚歎(きやうたん)し堂宇(たうう)を再興(さいかう)す此故(このゆゑ)に里民(りみん)目玉(めたま)の観音(くわんおん)と字(あざな)したてまつるよし|本尊縁起(ほんそんえんき)にみゆ菊岡沾凉翁(きくをかせんりやうをう)の説(せつ)に江戸寺院(えとしゐん)の中 千有余歳(せんいうよさい)を歴(へ)たる|ものは浅草寺(あさくさてら)と|当寺(たうし)也といへり》  縁起曰(えんきにいはく)神亀(しんき)二年乙丑 行基大士(きやうきたいし)東国(とうこく)遊化(いうけ)の頃(ころ)同年(とうねん)初夏(しよか)  に暫(しはら)く此地(このち)に息(いこ)ひ給ふ時(とき)に如意輪観世音(によいりんくわんせおん)傍(かたはら)の谷(たに)より  出現(しゆつけん)し給ひ大士(たいし)に霊尓(れいし)あり依(より)て佛意(ふつい)に応(おう)しかしこにあり  し古株(こちゆう)を佛材(ふつさい)として此(この)本尊(ほんそん)を彫刻(てうこく)し奉(たてまつ)る故(ゆゑ)に観谷聖輪(くわんこくしやうりん)  の号(な)ありといへり 《振り仮名:千駄ヶ谷八幡宮|せんたかやはちまんくう》 同所一丁許 西(にし)にあり此辺(このへん)の惣鎮守(さうちんしゆ)にして 【枠外】 三ノ百四十七 【左丁】  例祭(れいさい)は九月廿七日なり別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)高雲山(かううんさん)瑞円寺(すゐゑんし)  と号(なつ)く  鈴懸松(すゝかけまつ)《割書:門前(もんせん)に松(まつ)の老樹(らうしゆ)有(あ)り寛永(くわんえい)の頃(ころ) 大樹(たいしゆ)此地(このち)に御放鷹(こはうよう)の時(とき)|御 鷹(たか)の鈴(すゝ)此松(このまつ)の枝(えた)にかゝりしとなり故(ゆゑ)に名(な)とすと》  社記云(しやきにいはく)往昔(むかし)此地(このち)深林(しんりん)の中(うち)に時(とき)として瑞雲(すゐうん)現(けん)しける又(また)  或時(あるとき)碧空(へきくう)より白気(はくき)降(くた)りて雲上(うんしやう)に散(さん)す村民(そんみん)怪(あやし)むて彼(かの)  林(はやし)の下(した)に至(いた)るに忽然(こつせん)として白鳩(しらはと)数多(あまた)西(にし)をさして飛(とひ)されり  依(よつ)て其(その)霊瑞(れいすゐ)を称(しよう)し小祠(しやうし)を営(いとな)み名(な)つけて鳩森(はとのもり)といふ貞観(ちやうくわん)  二年 慈覚大師(しかくたいし)東国(とうこく)遊化(ゆふけ)の頃(ころ)村民等(そんみんら)大師(たいし)に鳩森(はとのもり)の神(しん)  躰(たい)を乞求(こひもと)む依(より)て宇佐八幡宮(うさはちまんくう)城州(しやうしう)鳩(はと)の嶺(みね)に移(うつ)り給ふ  古(いにしへ)を思(おも)ひて神功皇后(しんこうくわうこう)応神天皇(おうしんてんわう)春日明神(かすかみやうしん)等(とう)の尊躰(そんたい)を  作(つく)り添(そへ)て正八幡宮(しやうはちまんくう)と崇(あか)め給ふ遙(はるか)に後(のち)久寿年間(きうしゆねんかん)渋谷(しふや)  正俊(まさとし)領地(りやうち)に鎮座(ちんさ)の御神(おんかみ)なるを以(もつ)て金王丸(こんわうまる)生前(しやうせん)随身(すゐしん)の  本尊(ほんそん)恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)の弥陀如来(みたによらい)の像(さう)を本地佛(ほんちふつ)とし社(やしろ)を 【右丁】 千駄谷(せんたかや)  観音堂(くわんおんたう) 【四角囲い文字】 別当 弘法大師 【枠外】 三ノ百四十八 【左丁】 【四角囲い文字】 不動 かね 本堂 すは 【右丁】 千駄(せんた)か谷(や)  八幡宮(はちまんくう) 【四角囲い文字】 いなり 富士 かくら殿 浅間社 表門 【枠外】 三ノ百四十九 【左丁】 【四角囲い文字】 鈴かけ松 いなり 神輿蔵 白山 本社 【右丁】  造営(さうえい)して此地(このち)の生土神(うふすな)と称(しよう)し奉(たてまつ)りしより霊応(れいをう)は照々(せう〳〵)として  日(ひゝ)新(あらた)なり《割書:南向亭云(なんかうていのいは)く当社(たうしや)の前路(せんろ)は鎌倉街道(かまくらかいたう)の旧跡(きうせき)にして今(いま)も|鎌倉路(かまくらみち)と字(あさな)せり青山(あをやま)の原宿(はらしゆく)より此地(このち)をへて大窪(おほくほ)へかゝり》  《割書:し也とそ北条家分限帳(ほうてうけふんけんちやう)島津孫四郎(しまつまこしらう)|所領(しよれう)の中(うち)に《振り仮名:千駄ヶ谷|せんたかや》の名(な)有(あ)り》 《振り仮名:代々木野八幡宮|    きのはちまんくう》 同 西(にし)の方(かた)代々木野(よゝきの)にあり《割書:此野(このの)も武蔵(むさし)|野(の)の中(うち)なり》祭礼(さいれい)は  九月廿三日に修行(しゆきやう)す別当(へつたう)は天台宗(てんたいしう)にして宝珠山(ほうしゆさん)福泉寺(ふくせんし)智(ち)  玅院(みやういん)と号(かう)す《割書:古(いにしへ)は智明(ちみやう)|に作(つく)る》  相傳(あひつた)ふ当社(たうしや)は往古(いにしへ)源頼家公(みなもとのよりいへこう)の籏下(はたした)なりける近藤三郎(こんとうさふらう)  是茂(これもち)の家人(けにん)荒井外記智明(あらゐけきともあきら)といへる者(もの)故(ゆゑ)ありて相州(さうしう)を退(しりそ)き  此(この)代々木野(よゝきの)に蟄居(ちつきよ)し宗友(むねとも)と名(な)を改(あらた)め年月(としつき)を送(おく)れり八幡(はちまん)  宮(くう)は本国(ほんこく)の産土神(うふすな)たるにより常(つね)に尊信(そんしん)怠(おこた)る事なし  然(しかる)に建暦(けんりやく)二年八月十五日の夜(よ)夢中(むちゆう)に《振り仮名:鶴ヶ岡八幡宮|つるかをかはちまんくう》の  霊尓(れいし)ありて宝珠(ほうしゆ)の如(こと)き鏡(かゝみ)を感得(かんとく)す依(よつ)て同九月廿三日  此地(このち)を求(もとめ)めて荊棘(けいきよく)を払(はら)ひ小祠(しやうし)を営(いとな)むて初(はしめ)て《振り仮名:鶴ヶ岡|つるかおか》 【枠外】  三ノ百五十 【左丁】  八幡宮(はちまんくう)を勧請(くわんしやう)し奉(たてまつ)るとなり 鞍懸松(くらかけまつ) 同所の岡(をか)に在(あ)り傳(つた)へ云(いふ)源義家朝臣(みなもとのよしいへあそん)奥州征伐(あうしうせいはつ)の  頃(ころ)此地(このち)に陣(ちん)を取(とり)此(この)松樹(しようしゆ)の枝(えた)に鞍(くら)をかけられしより此(この)  名(な)ありといふ《割書:江戸鹿子(えとかのこ)といへる冊子(さうし)|には是(これ)を頼朝卿(よりともきやう)とす》 代太橋(たいたはし) 甲州街道(かうしうかいたう)萩窪(はきくほ)の立場(たては)より三丁あまり先(さき)の方(かた)松(まつ)  原(はら)赤堤(あかつゝみ)泉(いつみ)廻(めく)り代太等(たいたとう)の五箇村(こかむら)入合(いりあひ)の辻(つち)にありて曲折(きよくせつ)する  所(ところ)の道路(たうろ)を横切(よこきり)て流(なか)る小川(をかは)に架(か)す《割書:此所迠(このところまて)は道(みち)より左(ひたり)に添(そひ)て|流(なか)る橋(はし)より右(みき)に添(そひ)て流(あが)れ》  《割書:橋下(きやうか)にて水流(すゐりう)|左右(さいう)に替(かは)れり》橋上(きやうしやう)に土(つち)を覆(おほ)ふ故(ゆゑ)に其形(そのかたち)顕(あらは)れす《割書:此(この)橋下(きやうか)を流(なか)るゝは|多磨川(たまかは)の上水(しやうすゐ)也》 高井戸(たかゐと) 此所(このところ)も甲州街道(かうしうかいたう)にして駅舎(えきしや)あり《割書:《振り仮名:四ッ谷|よつや》内藤新宿(ないとうしんしゆく)より|此所(このところ)迠一里廿五丁 上石原(かみいしはら)》  《割書:へは二里一丁あり八王(はちわう)|子(し)へも此所を行(ゆけ)り》此所(このところ)は下高井戸(しもたかゐと)にして上高井戸(かみたかいと)は此所(このところ)より  西(にし)にあり小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)に大橋氏(おほはしうち)某(それかし)の所領(しよれう)に  無連高井堂(むれたかゐたう)とあり《割書:無連(むれ)は無礼(むれ)高井堂(たかゐたう)は此地(このち)の事(こと)いふ道興准后(たうこうしゆかう)の|回国雑記(くわいこくさつき)に堀兼(ほりかね)の井(ゐ)見にまかりて詠(よめ)る今(いま)は》  《割書:高井戸(たかゐと)といふとありて和歌(わか)あれとも堀兼(ほりかね)の井(ゐ)此地(このち)にありや今(いま)しるへからす|其(その)和歌(わか)は《振り仮名:第四巻|たい くわん》堀兼井(ほりかねのゐ)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり》 【右丁】 代(よ) 々(よ) 木(き) 八(はち) 幡(まん) 宮(くう) 【四角囲い文字】 天神 本社 いなり かくら所 別当 かね 【枠外】 三ノ百五十一 【左丁】 【四角囲い文字】 観音 【右丁】 代太橋(たいたはし) 【枠外】 三ノ百五十二 【左丁】 鬼子母神(きしもしん) 下高井戸(しもたかゐと)の道(みち)清月山(せいけつさん)覚蔵寺(かくさうし)といへる日蓮宗(にちれんしう)の  寺(てら)に安置(あんち)す鬼子母神(きしもしん)の霊像(れいさう)は宗祖大士(しうそたいし)の作(さく)にして仏(ふつ)  像(さう)の脊(せ)に建長(けんちやう)五年癸丑八月八日 日蓮刻之(にちれんこれをきさむ)とあり  《割書:縁起曰(えんきにいはく)文永(ふんえい)八年九月十二日 日蓮(にちれん)大士 相州(さうしう)龍口(たつのくち)において誅(ちう)に伏(ふく)さんとせられ|給ひし頃(ころ)一人の老女(らうちよ)ありて胡麻(こま)の餅(もち)を供養(くやう)せり大士 歓喜(くわんき)のあまり建長(けんちやう)|五年の夏(なつ)始(はしめ)て妙法蓮花経(みやうほふれんけきやう)の首題(しゆたい)を唱(とな)へ始(はし)め給ひし時 広宣流布(くわうせんるふ)の祈願(きくわん)の|為(ため)自(みつから)彫造(てうさう)ありし法流守護(はうりうしゆこ)の鬼子母神(きしもしん)の霊像(れいさう)を彼(かの)老女(らうちよ)に授与(しゆよ)し給ふ然(しかる)に|鎌倉(かまくら)福田村(ふくたむら)といへる地(ち)に安田武左衛門(やすたふさゑもん)といへる農民(のうみん)あり則(すなはち)老女(らうちよ)か裔(えい)にして家(いへ)に|此(この)霊像(れいさう)を傳(つた)ふ時(とき)に享保(きやうほ)十八年癸丑五月 此(この)尊像(そんさう)俗家(そくか)にありて法味(ほふみ)に乏(とほ)し|きか故(ゆゑ)に出家(しゆつけ)の許(もと)に贈(おく)るへき旨(むね)霊尓(れいし)あり依(よつて)当寺(たうし)第(たい)十世の住侶(ちゆうりよ)日曜師(にちようし)|鎌倉(かまくら)松葉谷(まつはかやつ)妙法寺(みやうほふし)に在(いま)せし頃(ころ)彼(かの)武(ふ)左衛門 此(この)尊像(そんさう)を携(たつさ)へ来(きた)り来由(らいゆ)を告(つけ)て|日曜師(にちようし)に附属(ふそく)せり然(しかる)に日曜師(にちようし)当寺(たうし)の破壊(はゑ)を歎(なけ)き寺院(しゐん)再興(さいこう)の為(ため)爰(ここ)に移(い)|住(ちゆう)せられし頃(ころ)当寺(たうし)へ遷(うつ)しまゐらせしと云々》 布多里(ふたのさと) 今(いま)所謂(いはゆる)布田邑(ふたむら)是(これ)なり《割書:布田(ふた)或(あるひは)布多(ふた)に作(つく)る此地(このち)布多天神社(ふたてんしんのやしろ)の|御制札(こせいさつ)には補陀郷(ふたのかう)とあり》  此地(このち)は甲州街道(かうしうかいたう)にして上下(かみしも)と分(わか)れたり《割書:石原(いしはら)上下 国領(こくりやう)等(とう)を合(あはせ)て|布田五宿(ふたこしゆく)と称(とな)ふ》  武蔵国風土記曰 多磨郡   爾布田或新田公穀三百七十二束三字田仮粟    二百十三丸三字田    貢薇蕨諸草菜及禽魚等   尓布田川 出鮎鮊鮒等云々 【右丁】  和名類聚抄曰   武蔵国 多磨郡 新田 《割書:尓布多云々》   《割書:按(あんする)に風土紀(ふとき)に出(いつ)る所(ところ)の爾布田(にふた)及(およ)ひ和名抄(わみやうしやう)に載(のす)る所(ところ)の新田(にふた)共(とも)に此地(このち)の|事(こと)を云(いふ)ならん後世(かうせい)上略(しやうりやく)して尓布多(にふた)を布田(ふた)とはかり唱(とな)ふる歟(か)又(また)風(ふ)|土紀(とき)に尓布田川(にふたかは)の名(な)あれとも今(いま)しるへからす》  万葉   多麻河泊尓左良須氐豆久利佐良左良尓奈仁(タマカハニサラステツクリサフサラニナニ)   曽許能児乃巳許太可奈之伎(ソコノコノココタカナシキ)  家集   手作やさらす垣根の朝露をつらぬきとめぬ玉河の里  定家   《割書:按(あんする)に万葉集(まんえふしふ)多磨(たま)を多麻(たま)に作(つく)り布田(ふた)も又 古(いにしへ)は布多(ふた)とす往古(そのかみ)麻(あさ)の布(ぬの)を|多(おほ)く産(さん)せしにより仮字(かな)にはあれと其意(そのい)を含(ふく)みて麻(あさ)には作(つく)るならん歟(か)當(たう)|国(こく)の府(ふ)は此地(このち)より西南(にしみなみ)にありて其間(そのあいた)遠(とほ)からす古(いに)しへ毎国(くにことに) 朝廷(ちやうてい)へ調布(つきのぬの)|を貢(みつき)せし事 国史等(こくしとう)に詳(つまひらか)なり風土記(ふとき)多麻川(たまかは)の条下(てうか)に里人(りしん)調布(つきのぬの)を作(つく)り|内蔵寮(くらのりやう)に納(をさむる)とあり然(しか)れは此国(このくに)より貢奉(みつきたてまつ)る処(ところ)の調布(つきのぬの)は當国(たうこく)に産(さん)するものを|集(あつ)めて此(この)川辺(かはへ)にて晒(さら)ししかして府(ふ)に携(たつさ)へ国司(こくし)の許(もと)へ出(いた)せしなるへし|依(よつて)多麻川(たまかは)の水流(すゐりう)を考(かんか)ふるに府中(ふちゆう)の辺(へん)より水源(みなかみ)は河瀬(かはせ)狭(せは)くして巨石(こせき)|多(おほ)く布多(ふた)より下流(かりう)は漸(やうやく)海(うみ)に近(ちか)きか故(ゆゑ)に潮(しほ)の盈虚(えいきよ)ありて調布(つきのぬの)に便(たよ)り|よろしからすたゝ此(この)布田(ふた)の辺(へん)のみ河瀬(かはせ)の広狭(くわうさ)水流(すゐりう)の滔々(たう〳〵)たる実(しつ)に布(ぬの)を|さらすによろしと思(おも)はる故(ゆゑ)に合(あは)せ考(かんか)ふれは此辺(このへん)其(その)実跡(しつせき)なるへからん又云 毎(まい)|歳(さい)三月の頃(ころ)より七八月に至(いた)り此辺(このへん)の童子等(とうしら)唄(うた)諷(うた)ひ躍(おと)り歩行(あるく)事(こと)あり|其(その)形勢(きやうせい)及(およ)ひ唄(うた)ひ物(もの)の言葉(ことは)にも調布(つきのぬの)の事(こと)を専(もつはら)とす其唄(そのうた)に云(いは)く》 【枠外】 三ノ百五十三 【左丁】 布多(ふた)  天神(てんしん)社 【四角囲い文字】 別宮 天神 【右丁】   《割書: 此川(このかは)の流(なかれ)のすへは とこま(何処迄也)て布(ぬの)を流(なか)さは海(うみ)まて》   《割書:又云| あの子(こ)は《割書:ヤレ》紅屋(へにや)の子(こ)《割書:ヤレ》いつもかはらぬ紅絞(へしほ)りさらし手(て)ぬくひ| いつ染(そめ)たさむひ瀬(せ)につくもさらすも皆(みな)おわかしゆか見(み)たさに| 御若衆(おわかしゆ)か見(み)たいまゝとて春(はる)の月夜(つきよ)を思(おも)ひそよ》   《割書:又云| 鎌倉(かまくら)の鶴(つる)か二三 羽(は)まひ日(にち)ひにち通(かよ)ひやる山越(やまこえ)て山(やま)越(こえ)て| こゝな川瀬(かはせ)に何(なに)の用(よう)さらしあけたうつくしき布(ぬの)とおわか| しゆ見たさに》   《割書:此唄(このうた)ひもの其古(そのいにしへ)をおもひあはするに足(た)れり附(つけ)て云(いふ)此地(このち)より西 府中(ふちゆう)まての|間(あひた)に染屋邑(そめやむら)と称(しよう)する地(ち)あり是(これ)も古(いにしへ)紺(こん)かきの家(いへ)多(おほ)くありて調布(つきのぬの)を染(そめ)た|りし故(ゆゑ)に此名(このな)あるならん按(あんす)るに東鑑(あつまかかみ)建久(けんきう)六年七月廿八日の条下(てうか)に武蔵国(むさしのくに)|染殿別当事(そめとのへつたうのこと)安房上野局(あはかうつけのつほね)に仰付(おほせつけ)らる糸所別当(いとところへつたう)の事(こと)は近瀬局(ちかせのつほね)これを奉(うけたまは)ると|あるも此辺(このへん)の事(こと)をいふならん歟(か)又云 和名抄(わみやうしやう)白絲布(しらいとのぬの)を天都久利乃沼乃(てつくりのぬの)|と訓(くん)す同書(とうしよ)に今(いま)按(あんする)に俗(そく)に手作布(てつくりのぬの)の三 字(し)を用(もち)ゆると云々 調布(つきのぬの)は和名(わみやう)|抄(しやう)に豆岐(つき)の沼能(ぬの)とありて貢(みつき)になす布(ぬの)の事(こと)をいへり》 布多天神(ふたてんしん)社 上布多駅舎(かみふたえきしや)の辺(へん)より右の方四丁はかりにあり別当(へつたう)は  真言宗(しんこんしう)にして広福山(くわうふくさん)栄法寺(えいほふし)と号(かう)す《割書:浅尾王禅(あさをわうせん)|寺(し)に属(そく)す》祭礼(さいれい)は隔年(かくねん)  九月二十五日に修行(しゆきやう)す当社(たうしや)祭神(さいしん)詳(つまひらか)ならす今(いま)菅神(かんしん)を相殿(あひてん)に  勧請(くわんしやう)して二 座(さ)とす当社(たうしや)昔(むかし)は多磨川(たまかは)の岸頭(かんとう)にありしか洪水(こうすゐ)の 【枠外】 三ノ百五十四 【左丁】  難(なん)に罹(かゝ)るの後(のち)今(いま)の地(ち)へ遷(うつ)すとあり《割書:今(いま)も其地(そのち)に元天神(もとてんしん)と称(しよう)して|小祠(しやうし)を存(そん)せりといへり》  延喜式神名記曰 武蔵国多磨郡   布田天神社云々 虎柏神社(とらかしはのしんしや) 同所 北(きた)の方十丁 計(はかり)を隔(へた)てゝ佐須村(さすむら)にあり《割書:佐須(さす)は古(いにしへ)|当社(たうしや)の神(かん)》  《割書:主(ぬし)の姓(せい)なりしを後(のち)地名(ちめい)に呼(よび)たりしとなり今(いま)も|その遠裔(ゑんえい)此地(このち)の里正(りせい)にして連綿(れんめん)たり》社前(しやせん)に古松(こしよう)二株(にちゆう)鬱叢(うつさう)と  聳(そひえ)たり九月十三日を以(もつ)て祭祀(さいし)の辰(しん)とす  武蔵国風土記曰 武蔵国多磨郡狛江郷   虎柏神社 圭田七十三束 所祭大歳御祖神也   崇峻天皇二年己酉八月始祭事有之云云  延喜式神名記曰 武蔵国多磨郡   虎柏神社云云   《割書:按(あんする)に深大寺縁起(しんたいしえんき)に満功(まんかう)上人の祖母(そほ)の名(な)虎(とら)と祖父(そふ)の住(すみ)たりし柏野(かしはの)の|里(さと)の名(な)とによりて虎柏(とらかしは)の神社(しんしや)ありといへるは其(その)是非(せひ)をしらす柏字 古(いにしへ)は犬(いぬ)に|从(したが)ひ狛に作(つく)りたるを後世(こうせい)字形(しきやう)相似(あひに)たるを以(もつて)今(いま)は木(き)に从(したが)ひ柏に誤(あやま)れるならん|歟(か)又 当社(たうしや)の南(みなみ)にある所(ところ)の耕田(かうてん)は古(いにしへ)社領(しやれう)なりしとて今(いま)も宮田(みやた)と称(とな)へたり|風土記(ふとき)に挙(あく)る七十三 束(そく)の圭田(けいてん)是(これ)ならん歟(か)》 虎柏山(こはくさん)祗園寺(きおんし) 同所三丁はかり東(ひかし)の方(かた)にあり日光院(にいくわうゐん)と号(かう)す天台(てんたい)  宗(しう)深大寺(しんたいし)に属(そく)せり当寺(たうし)は天平勝宝(てんへいしようはう)二年庚寅 深大寺(しんたいし)の満功(まんかう)  上人 開創(かいさう)する所(ところ)の佛域(ふついき)なりといへり本尊(ほんそん)には立像(りふさう)二尺計の弥陀(みた) 【右丁】 青渭社(あをゐのやしろ) 虎狛社(とらかしはのやしろ) 【四角囲い文字】  青渭  虎狛 【枠外】 三ノ百五十五 【左丁】  如来(によらい)の木佛(もくふつ)を安置(あんち)す《割書:作者|未詳》本堂(ほんたう)の向拝(かうはい)に掲(かく)る所(ところ)の虎柏山(こはくさん)の  三 大字(たいし)は筆者(ひつしや)をしらす  薬師堂(やくしたう) 本堂(ほんたう)の前(まへ)右(みき)の方(かた)にあり薬師佛(やくしふつ)は立像(りふさう)御 長(たけ)一尺  はかりありて行基大士(きやうきたいし)の彫造(てうさう)なりといへり《割書:佛龕(ふつかん)の内(うち)に弘法大師(こうほふたいし)の|真跡(しんせき)の般若心経(はんにやしんきやう)を収(をさ)む》  此(この)堂宇(たうう)二百 有余年(いうよねん)はかり前迠(まへまて)は此地(このち)より東南(とうなん)の方(かた)三四十  歩(ほ)を隔(へた)てゝ耕田(かうてん)の中(うち)にありしとなり《割書:今(いま)に古薬師堂(ふるやくしたう)と|いへる地(ち)是(これ)なり》其頃(そのころ)屢(しは〳〵)  賊(そく)の為(ため)に佛器(ふつき)の類(たく)ひを奪(うは)はれしかは終(つひ)に祗園寺(きおんし)の境内(けいたい)に  遷(うつ)せしとなり《割書:今(いま)薬師堂(やくしたう)より一丁 程(ほと)南(みなみ)に薬師堂面(やくしたうめん)と字(あさな)して一反(いつたん)六 畝(せ)は|かりの除地(ちよち)あり鎌倉時世(かまくらしせい)より前(まへ)に附(ふ)する所(ところ)なるよし土人(としん)》  《割書:いひ傳(つた)へたり》 狛江入道旧館地(こまえにふたうきうくわんのち) 祗園寺(きおんし)より艮(うしとら)の方(かた)六七町を隔(へた)てゝ二百 歩(ほ)あまり  の岡(をか)なり空堀(からほり)の形(かたち)なと厳然(けんせん)として残(のこ)れり此地(このち)に入道(にふたう)崇(あか)むる  所(ところ)の稲荷(いなり)の小祠(しやうし)あり土人(としん)里(さと)の稲荷(いなり)と称(しよう)す祠前(しせん)樫(かし)の老(らう)  樹(しゆ)一 株(ちゆう)六 圍(ゐ)にあまるもの存(そん)せり《割書:東鑑(あつまかゝみ)の承元(しやうけん)二年戊辰七月十五日|狛江入道増西(こまえにふたうそうさい)悪党(あくたう)五十余人を率(ひき)》  《割書:ゐて武蔵国(むさしのくに)威光寺(ゐくわうし)領内(れうない)に乱入(らんにふ)し田(た)を刈(かり)狼籍(らうしせき)に及(およ)ふ由(よし)院主(ゐんしゆ)の僧(そう)円海(ゑんかい)》 【右丁】  《割書:訴出(うつたへいつ)るといふ事を挙(あけ)たり刊本(かんほん)柏江(かしはえ)に作(つく)るは狛江を誤(あやま)りたるものならん又云|こゝに狛江 入道(にふたう)と云 傳(つた)ふるも此(この)増西(そうさい)の事(こと)をいふなるへし又 同書(とうしよ)に建久(けんきう)元年庚戌|十一月七日 二品入落供奉(にほんしゆらくくふ)の人名の内(うち)に駒江(こまえ)平四郎といふ名(な)を注(ちゆう)す》   《割書:按(あんする)に続日本後紀(そくにほんかうき)に 仁明天皇(にんみやうてんわう)の承和(しやうわ)十一年甲子五月 武蔵国(むさしのくに)多磨郡(たまこほり)狛江(このえの)|郷(かう)より節婦(せつふ)を出(いた)す事を載(のせ)られたり刊本(かんほん)猪江に作(つく)るは狛を誤(あやま)れる事 必(ひつ)|せり武蔵国風土記(むさしのくにふとき)残編(さんへん)にも多磨郡(たまこほり)の内(うち)に狛江郷(こまえのかう)といへる地名(ちめい)を出(いた)したり|和名類聚抄(わみやうるいしゆしやう)にも同(おな)し郡(こほり)の郷名(かうみやう)に狛江とありて古乃江(このえ)と訓(くん)すされと此(この)|地(ち)を今(いま)は佐須村(さすむら)と称(とな)ふしかるに多磨川(たまかは)の北(きた)宇奈根村(うなねむら)に隣(とな)りて駒井邑(こまゐむら)と|呼(よ)ふ地(ち)あり恐(おそ)らくは狛江(このえ)の郷(かう)の轉訛(あやまり)ならん北条家分限帳(ほうてうけふんけんちやう)に多波川(たはかは)の北(きた)|駒井(こまゐ)本郷(ほんかう)太田新(おほたしん)六郎 知行(ちきやう)の内(うち)にあり此所(このところ)駒井(こまゐ)の旧地(きうち)なる事しるへし》 青渭神社(あをゐのしんしや) 虎柏神社(とらかしはのしんしや)より北(きた)の方(かた)深大寺村(しんたいしむら)の中(うち)にあり土人(としん)  此地(このち)を字(あさな)して天神(てんしん)か谷戸(やと)といへり祭神(さいしん)詳(つまひらか)ならす世(よ)に  青波天神(あをはてんしん)とも称(しよう)せり相傳(あひつた)ふ古(いにしへ)は社前(しやせん)に湖水(こすゐ)ありし故(ゆゑ)  青波(あをは)の称(しよう)ありと社前(しやせん)槻(つき)の老樹(らうしゆ)あり数百余霜(すひやくよさう)を経(へ)たる  ものなり  延喜式神名帳曰  武蔵国多磨郡   青渭神社云々   《割書:按(あんする)に神名帳(しんみやう)に青渭(あおゐ)とあるを今本 阿遠伊(あをい)と訓(くん)す土人云(としんいふ)古(いにしへ)当社(たうしや)の前(まへ)は湖(こ)|水(すゐ)満(みち)たゝへたり故(ゆゑ)に青波(あをは)の称(しよう)ありといへり今(いま)青波(あをは)に作(つく)り阿遠葉(あをは)と訓(くん)するは|拠(よりところ)あるに似(に)たり猶(なほ)同巻 青沼明神(あをぬまみやうしん)の条下(てうか)と応照(てらしあはせ)てみるへし》 【枠外】 三ノ百五十六 【左丁】 狛江入道(こまえにうたうの) 旧跡(きうせき) 祇園寺(きをんし) 【四角囲い文字】 いなり ゑんま 庫裡 本堂 やくし 【右丁】 青渭堤(あをゐつゝみ) 青渭神社(あをゐのしんしや)の辺(へん)なり古(いにしへ)は青渭(あをゐ)の湖水(こすゐ)湛(たゝへ)たりしを後(かう)  世(せい)堤(つゝみ)を切開(きりひら)きて水(みつ)を乾(かわか)し耕田(かうてん)となすといへり故(ゆゑ)に今(いま)此所(こゝ)  彼所(かしこ)に六七 歩(ほ)或(あるひ)は十 歩(ほ)にあまれる塚(つか)の如(こと)きもの残(のこ)り存(そん)して  草樹(そうしゆ)繁茂(はんも)せるは其堤(そのつゝみ)の旧跡(きうせき)なりといふ 浮岳山(ふかくさん)深大寺(しんたいし) 昌楽院(しやうらくゐん)と号(かう)す深大寺邑(しんたいしむら)にあり《割書:此所(このところ)も佐須村(さすむら)|と云(いふ)昔(むかし)は柏野(かしはのゝ)》  《割書:里(さと)と号(かう)せ|しとなり》太古(たいこ)は法相宗(ほつさうしう)なりしか恵亮和尚(ゑりやうくわしやう)以来(このかた)天台宗(てんたいしう)に改(あらた)む  本尊(ほんそん)は宝冠(はうくわん)の阿弥陀如来(あみたによらい)恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)なりといふ当寺(たうし)は  福満童子(ふくまんとうし)の宿願(しゆくくわん)によりて天平(てんへい)五年癸酉に草創(さう〳〵)する所(ところ)の  佛域(ふついき)なり《割書:日本年代配合鈔(にほんねんたいはいかふしやう)に曰(いはく)天平勝宝(てんへいしようはう)|二年庚寅 深大寺(しんたいし)建立(こんりふ)云々》四十七代 廃帝御宇(はいていのきよう)  に勅願所(ちよくくわんしよ)と定(さため)られしより平城(へいしやう)清和(せいわ)両朝(りやうちやう)も又(また)勅願所(ちよくくわんしよ)と  なし給ひしと云  元三大師堂(くわんさんたいしたう)《割書:本堂(ほんたう)の前(まへ)左(ひたり)に傍(そひ)てあり寺記(しき)に云(いふ)応和(おうわ)四年 慈恵大師(しゑたいし)|叡山(えいさん)に於(おい)て自(みつから)彫刻(てうこく)なし給ひし霊像(れいさう)なりしを慈忍(しにん)》  《割書:和尚(くわしやう)と恵心僧都(ゑしんそうつ)と心(こゝろ)をひとつにし武蔵国(むさしのくに)深大寺(しんたいし)は代々(よゝ)の帝(みかと)勅願(ちよくくわん)の地(ち)にして|尤(もつとも)灵跡(れいせき)たり永(なか)く此(この)影像(えいさう)を遷(うつ)し奉(たてまつ)りて関東(くわんとう)の群生(くんしやう)を化益(けやく)せんとて正暦(しやうりやく)二》 【枠外】 三ノ百五十七 【左丁】  《割書:年の春(はる)こゝに安置(あんち)なす尓来(しかりしより)霊応(れいをう)いちしるく月毎(つきこと)の三日十八日 殊(こと)に正五九月|の十八日には別業(へつきやう)護摩供(こまく)を修行(しゆきやう)あるか故(ゆゑ)に近郷(きんかう)の人 群参(くんさん)せり此日(このひ)門(もん)|前(せん)に市(いち)を立(たて)る》  降魔尊像(かうまのそんさう)《割書:先(さき)の霊像(れいさう)と共(とも)に叡山(えいさん)より当寺(たうし)に遷座(せんさ)|なしまゐらすと云 灵験(れいけん)尤(もつとも)著(いちしる)し》五大尊石(こたいそんせき)《割書:大師堂(たいしたう)の北(きた)の|山際(やまきは)清泉(せいせん)の》  《割書:中(うち)にあり此水(このみつ)旱魃(かんはつ)にも減(けん)する事なしといへり土人(としん)旱魃(かんはつ)の|年は此所(このところ)に来(きた)り此水(このみつ)を汲干(くみほさ)んとす果(はた)して膏雨(かうう)ありとなり》要石(かなめいし)《割書:同(おな)し泉水(せんすゐ)の|中島稲荷(なかしまいなり)の》  《割書:宮(みや)の傍(かたはら)にあり昔(むかし)此山(このやま)崖(きし)なと崩(くつ)るゝ事 屡(しは々)なりしかは|其頃(そのころ)の寺主(ししゆ)祈念(きねん)して此石(このいし)を建(たて)て要石(かなめいし)と号(なつ)くと云》鐘楼(しゆろう)《割書:大師堂(たいしたう)の後(うしろ)の|山上(やまのうへ)にあり》  武蔵国多東郡深大寺    奉治鋳槌鐘 長四尺三寸 口二尺三寸   右伏以当山蒲牢開基以来革更其数不一或雖冶   鋳有破裂而無声或雖討得有薄畧而不鳴爰緇素   数輩競勠力廼命鳬氏遂鋳鴻鐘当知三宝埀感諸   天降臨仰顛 皇風永煽佛日弥明伽藍鎮静法輪   常転更乞諸檀施主二世善願一切成就仍昭銘功   徳其辞曰   寺号深大 山名浮岳 新鋳鳬鐘 声形卓犖   百千万劫 定期渺邈 驚起塵夢 消除煩濁   滅罪生善 令人正覚   永和二年丙辰八月十五日 大工山城守宗光         大行事院主法印権少僧都辨運       別当前大僧正法印大和尚位守慧  亀島弁財天(かめしまへんさいてん)祠《割書:門前(もんせん)左(ひたり)の方(かた)の池(いけ)の中島(なかしま)にあり縁起(えんき)に所謂(いはゆる)福満童子(ふくまんとうし)を|脊負(せおふ)て渉(わた)せし霊亀(れいき)をして後(のち)に満功(まんかう)上人 弁天(へんへん)【ママ】に崇(あかめ)られたりと云》 【右丁】 深(しん) 大(たい) 寺(し) 四角囲い文字 庫裡 本堂 五大尊石 鐘 吉祥天 いなり 要石 大師堂 【枠外】 三ノ百五十八 【左丁】 【四角囲い文字】 山王二十一社 【赤印】 ■■■■■■圖書 毘沙門大こく 深砂天王 福満 弁天 【右丁】  毘沙門天吉祥天(ひしやもんてんきちしやうてん)社《割書:昔(むかし)は各(おの〳〵)別社(へつしや)にてありしを後(のち)弁天(へんてん)の相殿(あひてん)に合祭(かふさい)すと|いふ福満童子(ふくまんとうし)は毘沙門天(ひしやもんてん)の化身(けしん)吉祥天(きちしやうてん)は縁起(えんき)に出(いつ)る》  《割書:所(ところ)の童女(とうによ)をあかめ祭(まつ)る所(ところ)なりといへり》  深砂大王(しんしやたいわう)社《割書:大門並木(たいもんなみき)に相対(あひたい)す縁起曰(えんきにいはく)天平(てんへい)五年癸酉 満功(まんかう)上人 此地(このち)に当社(たうしや)を|営(いとな)みて深大(しんたい)の二 字(し)を採(とり)て寺号(しかう)とし一宇(いちう)を草創(さう〳〵)せらるゝと》  《割書:いふ 東照大権現宮(とうしやうたいこんけんくう)及(およ)ひ八幡(はちまん)|八劔権現(やつるきこんけん)等(とう)を相殿(あひてん)とす》深砂大王影向池(しんしやたいわうえうかういけ)《割書:社(やしろ)の後(うしろ)にあり往古(そのかみ)深砂(しんしや)|大王(たいわう)影向(えうかう)ありし旧跡(きうせき)と》  《割書:云傳(いひつた)へて池中(ちちやう)一ッの霊石(れいせき)あり》  劔立石(けんたちいし)《割書:同(おな)し池(いけ)のもとにあり往古(そのかみ)恵亮和尚(ゑりやうくわしやう)当国(たうこく)に勝地(しようち)を求(もと)め給はんとして|当国(たうこく)の国分寺(こくふんし)に至(いた)り不動(ふとう)の利釼(りけん)を虚空(こくう)に投(なけ)給ひしに其釼(そのつるき)此(この)石(せき)》  《割書:上(しやう)に立(たち)しとなりしかありしに|より此号(このかう)ありといひ傳(つた)ふ》福満童子(ふくまんとうし)祠《割書:深砂大王(しんしやたいわう)の祠前(しせん)|右(みき)の方(かた)にあり》仁王塚(にわうつか)《割書:同所(とうしよ)|社前(しやせん)》  《割書:の道(みち)を一丁 斗(はか)り西(にし)へ登(のほ)る坂(さか)を塔坂(たふさか)とよへり往古(いにしへ)塔(たふ)なとありしならん歟(か)其辺(そのへん)を|二王塚(にわうつか)と字(あさな)す相傳(あひつた)ふ昔(むかし)何某(なにかし)の一子(いつし)当寺(たうし)二王門(にわうもん)の辺(へん)に遊(あそ)ひてありしか忽(たちまち)に|姿(すかた)を見失(みうしな)ふ人々 驚(おとろ)き一山(いつさん)大(おほい)に騒動(さうとう)すしかるに当寺(たうし)二王門(にわうもん)の二王尊(にわうそん)の唇(くちひる)に|其児(そのちこ)の常(つね)に着(ちやく)する所(ところ)の衣服(いふく)残(のこ)りとゝまりて児(ちこ)を吞(のみ)たるに似(に)たり依(よつ)て里民(りみん)此(この)二(に)|王(わう)の像(さう)をこほちて門(もん)を破却(はきやく)し土中(とちゆう)に埋(うつ)めたりしより二王塚(にわうつか)の号(かう)ありと|いひ傳(つた)ふ》  縁起曰(えんきにいはく) 聖武天皇(しやうむてんわう)の御宇(きよう)武蔵国(むさしのくに)多磨郡(たまこほり)柏野村(かしはのむら)に猟師(れうし)あり  《割書:柏野村(かしはのむら)今(いま)佐(さ)|須村(すむら)といふ》名(な)を右近(うこん)といふ年頃(としころ)山(やま)に入(いり)水(みつ)を臨(のそ)むて殺生(せつしやう)を業(なりはひ)とす  ある時(とき)やむことなき女(をんな)来(きた)りて妻(つま)となる名(な)を虎(とら)といへり此妻(このつま)  常(つね)に夫(をつと)をいましめて殺生(せつしやう)をとゝむ右近(うこん)は妻(つま)のいふに随(したか)ひ竟(つひ)に 【枠外】 三ノ百五十九 【左丁】  狩漁(すなとり)を止(とゝ)む其後(そのゝち)一人の娘(むすめ)をまうけいつきかしつく事(こと)大(おほ)かたならす  早(はや)く生長(せいちやう)なれり然(しかる)に福満(ふくまん)と唱(とな)ふる童子(とうし)ありて此娘(このむすめ)に逢初(あひそめ)に  けれは父母(ふほ)大(おほい)に怒(いかり)かはりり賤(いや)しき人(ひと)にあはせん事(こと)本意(ほい)ならす  とて二人(ふたり)の中(なか)をさけ娘(むすめ)をは此里(このさと)の池(いけ)の中島(なかしま)に家(いへ)を営(いとな)みかしこに  居(を)らしむ福満(ふくまん)は日毎(ひこと)に岸(きし)に至(いたり)て是(これ)を歎(なけ)くといへともかひなし昔(むかし)  もろこしの玄奘三蔵(けんしやうさんさう)渡天(とてん)の時(とき)流砂川(りうさかは)に至(いた)りて仏(ほとけ)を念(ねん)せしかは  深砂王(しんしやわう)現(あらは)れ給ひ川(かは)を渉(わた)し給ひし事(こと)を思(おも)ひて一心(いつしん)に念(ねん)しけれは  一の霊亀(れいき)浮(うか)み出(いて)ぬ福満(ふくまん)其甲(そのかう)に乗(のり)て島(しま)に至(いた)り娘(むすめ)にあふ事(こと)を  得(え)たり父母(ふほ)後(のち)に此事(このこと)を聞(きゝ)て神明(しんめい)の冥助(みやうちよ)ある事(こと)を知(し)り随喜(すゐき)  して娘(むすめ)を福満(ふくまん)に妻(め)あはせけれは竟(つひ)に一人の男子(なんし)をまうく父母(ふほ)の  願(ねかひ)によりて此児(このちこ)出家(しゆつけ)し満功(まんかう)上人といふ其後(そのゝち)もろこしに渡(わた)り大乗(たいしやう)  法相(ほつさう)の旨(むね)を傳(つた)へて帰朝(きちやう)し天平(てんへい)五年癸酉 父(ちゝ)の本誓(ほんせい)により  深砂大王(しんしやたいわう)の社(やしろ)を建立(こんりふ)し当寺(たうし)を創(さう)す其時(そのとき)神霊(しんれい)水中(すゐちゆう)の岩(かん) 【右丁】 深大寺蕎麦(しんたいしそは) 当寺(たうし)の名産(めいさん) にして 味(あちは)ひ尤(もつとも) 佳(か)なり 都下(とか)に 称(しよう)して 深大寺(しんたいし) 蕎麦(そは) といふ 【枠外】  三ノ百六十 【左丁 文字なし】 【右丁】  上(しやう)に現(あらは)れ給ふ上人 其(その)尊容(そんよう)を摸(うつ)しとゝめんとするに御衣木(みそき)なし  然(しかる)に七月七日 玉川(たまかは)に霊木(れいほく)の流(なか)れ漂(たゝたよ)ふあり則(すなはち)是(これ)を得(え)て薬師(やくし)  佛(ふつ)三躰(さんたい)を彫刻(てうこく)し一 躰(たい)を当社(たうしや)に納(をさ)む《割書:余(よ)二躰(にたい)は下野国(しもつけのくに)日光(につくわん)|山(さん)及(およ)ひ出羽国(ではのくに)にあり》此由(このよし)  叡聞(えいふん)に達(たつ)しけれは 廃帝(はいてい)の御宇(きよう)勅願所(ちよくくわんしよ)に定(さため)られ浮岳山(ふかくさん)深(しん)  大寺(たいし)と震翰(しんかん)【宸翰】を灑(そゝ)き扁額(かく)を給ふ又(また)貞観年間(ちやうくわんねんかん)武蔵国司(むさしのこくし)蔵(くら)  宗卿(むねきやう)叛逆(ほんきやく)す叡山(えいさん)の恵亮和尚(ゑりやうくわしやう)に仰(おほせ)て乱賊降伏(らんそくかうふく)を祈(いの)らしめ  給ふ和尚(くわしやう)当国(たうこく)の国分寺(こくふんし)に至(いた)り不動(ふとう)の利釼(りけん)を虚空(こくう)に投(なけ)給ひ  隕(おち)る所(ところ)の勝地(しようち)を道場(たうちやう)とせむと誓(ちか)ひ給ふに遙(はるか)に飛(とん)て当寺(たうし)井泉(せいせん)  の辺(へん)の石上(せきしやう)に隕(おち)ぬ此石(このいし)を劔立(けんたち)の石(いし)と云(いふ)依(よつて)五大尊(こたいそん)を勧請(くわんしやう)し此(この)  地(ち)に於(おい)て秘法(ひはふ)を修練(しゆれん)せられしに行力(きやうりき)空(むなし)からす逆徒(きやくと)悉(こと〳〵く)降伏(かうふく)せり  依(よつて)叡感(えいかん)のあまり当寺(たうし)を恵亮(ゑりやう)に賜(たま)ひ此所(このところ)にて七邑(なゝむら)の地(ち)を寄付(きふ)  なし給ふ《割書:是(これ)を深大寺(しんたいし)の|七邑(なゝむら)と唱(とな)ふ》しかありしより法相宗(ほつさうしう)を転(てん)し台宗(たいしう)にあら  ためられ護国安民(ここくあんみん)の秘法(ひはふ)怠(おこた)る事(こと)なく関東(くわんとう)第(たい)一の密場(みつちやう)と 【枠外】 三ノ百六十一 【左丁】  なれり《割書:昔(むかし)は十二 宇(う)の塔頭(たつちう)ありて大伽藍(たいからん)なりしか|とも度(たひ)々の兵火(ひやうくわ)に亡(ほろ)ひて今(いま)は昔(むかし)に違(たか)へり》其後(そのゝち)野火(やくわ)の災(わさはひ)に罹(かゝ)  りて灰燼(くわいしん)となりしを世田谷(せたかや)の吉良家(きらけ)深(ふか)く尊信(そんしん)して再(ふたゝ)ひ  堂宇(たうう)を営(いとな)み波平行安(なみのひらゆきやす)の刀等(かたなとう)を寄附(きふ)す《割書:無銘(むめい)長四尺|五寸あり》  絵巻物(えまきもの)《割書:并》詞書(ことはかき)二 巻(くわん)参議右中将(さんきうちゆうしやう)藤原好公尹卿筆(ふちはらのきんまさきやうのふで)  抑(そも〳〵)当寺(たうし)は関東(くわんとう)融通念仏(ゆつうねんふつ)最初弘通(さいしよくつう)の道場(たうちやう)にして慈眼(しけん)  大師(たいし) 大猷公(たいいうこう)の 上聞(しやうふん)に達(たつ)し奉(たてまつ)り融通念仏(ゆつうねんふつ)百遍(ひやくへん)を  受(うけ)させ賜(たま)ひ忝(かたしけなく)も結縁(けちえん)の名帳(めいちやう)に御諱(おんいみな)を記(しる)させ給ひぬる事は  当寺(たうし)融通念仏(ゆつうねんふつ)の縁起(えんき)に詳(つまひらか)なり《割書:此(この)念仏(ねんふつ)は大原(おほはら)の良忍(りやうにん)上人 現(まのあたり)に|如来(によらい)の尓教(しきやう)を得(え)て弘通(くつう)し給ふ》  《割書:所(ところ)也 此法(このはふ)や或(あるひ)は十 返(へん)百 返(へん)乃至(ないし)千 返(へん)万 返(へん)を日課(につくわ)とし我(わか)唱(とな)ふる所(ところ)の称名(しようみやう)の功徳(くとく)をは|他(た)の人(ひと)の為(ため)とし他(た)の人の唱(とな)ふる所(ところ)の称名(しようみやう)をは自(みつか)らの為(ため)として互(たかひ)に融通(ゆつう)し自他(した)|平等(ひやうとう)に修(しゆ)するか故(ゆゑ)に其(その)功徳(くとく)広大無辺(くわうたいむへん)にしてはかるへからす昔(むかし)鞍馬山(くらまさん)の毘沙門(ひしやもん)|天王(てんわう)もこの念仏(ねんふつ)の結縁(けちえん)に入給ひし事ありし由(よし)其(その)縁起(えんき)にみえたり》 深大寺蕎麦(しんたいしそは)《割書:当寺(たうし)の名産(めいさん)とす是(これ)を産(さん)する地(ち)裏門(うらもん)の前(まへ)少(すこ)しく高(たか)き畑(はたけ)に|して纔(わつか)に八 反(たん)一 畝(せ)程(ほと)のよし都下(とか)に称(しよう)して佳品(かひん)とす然(しか)れ共》  《割書:真(しん)とするもの甚(はなはた)少(すくな)し今(いま)近隣(きんりん)の村里(そんり)より産(さん)するものおしなへて此名(このな)を冠(かうむ)らし|むるといへとも佳(か)ならす》 難波田弾正城跡(なんはたたんしやうしろあと) 深大寺(しんたいし)大門(たいもん)松列樹(まつなみき)の東(ひかし)の方(かた)の岡(おか)を云(いふ)土人(としん)は 【右丁】  城山(しろやま)と呼(よへ)り今(いま)は麦畑(むきはたけ)となるといへとも此所彼所(こゝかしこ)に湟池(ほりいけ)の形(かたち)  残(のこ)れり此地(このち)は往古(そのかみ) 清和帝(せいわてい)の御宇(きよう)蔵宗卿(くらむねきやう)武蔵国司(むさしのこくし)  たりし時(とき)こゝに住(ちゆう)せられたりし旧館(きうくわん)の跡(あと)にして天文(てんふん)の頃(ころ)上杉(うへすき)  朝定(ともさた)の家臣(かしん)難波田弾正忠広宗(なんはたたんしやうのちうひろむね)松山(まつやま)の城(しろ)の出張(てはり)としてこゝに  城廓(しやうくわく)を搆(かま)へたりしと也  《割書:北条五代記曰(ほうてうこたいきにいは)く上杉修理太夫朝興(うへすきしゆりのたいふともおき)の嫡男(ちやくなん)五郎朝定(こらうともさた)生年十三 歳(さい)にして家(いへ)を|継(つく)武州(ふしう)深大寺(しんたいし)といへる古城(こしやう)を再興(さいこう)し北条氏綱(ほうてううちつな)に向(むか)ひ弓矢(ゆみや)の企(くはたて)専(もつは)らなり|といへる条下(てうか)に《割書:此軍は天文六年|七月廿日なり》されはたけき中(うち)にやさしきありその日(ひ)のいくさ大将(たいしやう)|難波田(なんはた)あやなくうしろを見せ松山(まつやま)さして落行(おちゆく)を北条方(ほうてうかた)に山中主膳(やまなかしゆせん)駒(こま)かけ|よせ一首(いつしゆ)はかくそきこえける|  あしからしよかれとてこそたゝかはめなと難波田のくつれ行らむ|と俳諧躰(はいかいてい)によみかけしに難波田(なんはた)もさすかよしある武士(ものゝふ)にてくつはみいさゝか引(ひき)かへし|  君を置てあたし心を我もたは末の松山浪もこえなむ|我(われ)作(つく)りかほに古今集(こきんしふ)の哥(うた)をとりあはせて返答([へ]んたふ)ありていそかはしく駒(こま)のあしはやめて|過行(すきゆき)ぬけにさもありぬへし主君(しゆくん)朝定(ともさた)を館(やかた)に残(のこ)し置(おき)難波田(なんはた)かたれなは松山(まつやま)は寄(よ)せくる|浪(なみ)もこえぬへし身(み)を全(まつたふ)して君(きみ)につかふるを忠臣(ちゆうしん)の法(はふ)といふ事あり作者(さくしや)といひ功者(かうしや)といひ|かけひきしれる勇者(いうしや)とそみな人申はへりき云々》 深大寺城跡(しんたいしのしろあと) 深大寺(しんたいし)仏堂(ふつたう)の後(うしろ)の方(かた)の山続(やまつゝき)にして其間(そのあひた)六七丁を  隔(へたて)たり空堀(からほり)或(あるひ)は柵門抔(さくもんなと)ありしと覚(おほ)しき形(かたち)今猶(いまなほ)厳然(けんせん)たり 【枠外】 三ノ百六十二 【左丁】  北条五代記(ほうてうこたいき)に大永(たいえい)四年の頃(ころ)氏綱(うちつな)江戸(えと)の城(しろ)を襲(おそ)ふ上杉(うへすき)  匠作(しやうさく)はいまた河越(かはこえ)の城(しろ)に引篭(ひきこも)り十 余年(よねん)の春秋(しゆんしゆう)を送(おく)り迎(むか)へ  ぬいつよりか例(れい)ならす心(こゝ)ちそこなひて天文(てんふん)六年の卯月(うつき)下旬(けしゆん)  世(よ)を早(はや)く去(さつ)て嫡男(ちやくなん)五郎朝定(こらうともさた)生年十三 歳(さい)にして家(いへ)を継(つき)  給ひぬていれは七々ヶ日の服忌(ふくき)さへ経(へ)すして道(みち)をあらため兵(へい)を  起(おこ)し深大寺(しんたいし)といふ古城(こしやう)を再興(さいこう)し氏綱(うちつな)へ向(むかひ)て弓矢(ゆみや)の企(くはたて)専(もつは)ら  なりとあるは則(すなはち)此所(このところ)の事(こと)なり 医王山(ゐわうさん)国分寺(こくふんし) 最勝院(さいしようゐん)と号(かうす)国分寺村(こくふんしむら)にあり府中(ふちゆう)より北(きた)の  方(かた)十八町を隔(へた)つ当寺(たうし)は天平年間(てんへいねんかん)行基菩薩(きやうきほさつ)草創(さう〳〵)する所(ところ)に  して 聖武天皇(しやうむてんわう)の勅願所(ちよくくわんしよ)なり中開山興(ちゆうこうかいさん)を教心阿闍梨(きやうしんあしやり)と号(かうす)  今(いま)は新義(しんき)の真言宗(しんこんしう)なり  薬師堂(やくしたう) 本尊(ほんそん)薬師如来(やくしによらい)《割書:脇士(けうし)日光(につくわう)月光(くわつくわう)十二 神将(しんしやう)の像(さう)は共(とも)に|開山(かいさん)行基大士(きやうきたいし)の作(さく)なり》  額(かく)《割書:金光明四天(きんくわうみやうしてん)|王護国(わうここく)之寺》深見玄岱筆(ふかみけんたいのふて) 【右丁】 国(こく) 分(ふん) 寺(し) 【四角囲い文字】 弁天 庫裡 観音 薬師 庵 本堂 【枠外】 三ノ百六十三 【左丁】 【四角囲い文字】 裏門 毘沙門 いなり 秋葉 ごうりやう 八まん 御たけ 疱瘡神 仁王門 【右丁】 国分寺(こくふんし)  伽藍旧跡(からんのきうせき) 【枠外】 三ノ百六十四 【左丁 文字なし】 【右丁】  二王門(にわうもん)《割書:石階(せきかい)の中腹(ちゆうふく)にあり金剛密迹(こんかうみつしやく)の二 像(さう)を置(おく)作者(さくしや)未詳(いまたつまひらかならす)|堂材(たうさい)は古(いにしへ)のことにして旧地(きうち)は半丁あまり南(みなみ)にあり》  続日本紀聖武紀曰 天平十九年十一月己卯詔天   下諸国国別令造金光明寺法華寺下畧  延喜式弟【第】二十六巻曰 武蔵国正税公廨各四十万   束国分寺料五万束薬師寺料四万二十束梵釈四   王料七千七百束云々  東鑑曰 建久五年  十一月二十七日  近国   一宮并国分寺可修復破壊の旨被仰下云々  同書曰 寛喜三年  五月五日  任綸旨於国   分寺可転読最勝王経之由被仰下関東御分国々   行然奉行之云々   《割書:たのもしな世を祈れとて定めつゝ国を分てる寺の数〳〵 称名院》  二王門旧跡(にわうもんのきうせき)《割書:寺前(しせん)半町あまりを隔(へた)てゝ南(みなみ)の方(かた)の|畑(はた)の中(うち)に其(その)礎石(いしすゑ)を存(そん)せり》  層塔旧跡(そうたふきうせき)《割書:国分寺(こくふんし)の少(すこ)し東南(ひかしみなみ)半丁あまりを隔(てた)てゝあり草樹(さうしゆ)繁茂(はんも)する|所(ところ)の少(すこ)しの岡(をか)なり方九尺はかり六 角(かく)に礎(いしすゑ)を居(すゑ)たり往古(そのかみ)其塔(そのたふ)》  《割書:の中真(ちゆうしん)を収(をさめ)たるものなりとて中(うち)に径(わたり)三尺はかり石(いし)にて畳(たゝみ)たる空穴(くうけつ)ありて|内(うち)に水(みつ)をたゝへたり》  古瓦(こくわ)《割書:二王門旧跡(にわうもんきうせき)の辺(あた)り数百歩(すひやくほ)の間(あひた)往(いにしへ)の古瓦(ふるかはら)の破砕(はさい)せるものあり皆(みな)堅密(けんみつ)|にして形(かたち)全(まつた)からすといへとも文綵(ふんさい)奇(き)にして国分寺(こくふんし)の古(いにしへ)大伽藍(たいからん)なり》   《割書:し事 想像(おもひやる)にたれり其地(そのち)にして得(え)たる古瓦(こくわ)の中(うち)武蔵国郡(むさしのこくくん)の名(な)を|印(いん)せしものこゝに其形(そのかたち)を挙(あけ)て證(しよう)とす》 【枠外】 三ノ百六十五 【左丁】 那珂郡(なかこほり)   秩父(ちゝふ)郡    比企(ひき)郡 榛沢(はんさは)郡    大里(おほさと)郡 【右丁】 豊島郡(としまこほり)   荏原(えはら)郡 埼玉(さいたま)郡      男衾(をふすま)郡    旛羅(はたら)郡 【枠外】 三ノ百六十六 【左丁】  国分寺碑(こくふんしのひ)《割書:薬師堂(やくしたう)の前(まへ)右(みき)の方にあり碑文(ひふん)は服元雄中英先生(ふくけんいうちゆうえいせんせい)撰(えら)む|書(しよ)は河保寿(かほうしゆ)にして当寺(たうし)法印(ほふいん)賢盛(けんせい)建(たつ)る所なり》  当寺(たうし)往古(そのかみ)源頼義朝臣(みなもとのよりよしあそん)同 義家朝臣(よしいへあそん)奥州征伐(あうしうせいはつ)発向(はつかう)の頃(ころ)も  当時(たうし)【寺ヵ】へ入給ひ其頃(そのころ)は盛大(せいたい)の寺院(しゐん)なりしと云あまたの星霜(せいさう)を  経(へ)て元弘(けんこう)の兵火(ひやうくわ)に亡(ほろ)ひしを新田家(につたけ)にて再興(さいこう)ありしも兵革(へいかく)の  世(よ)終(つひ)に古(いにしへ)に復(ふく)す事なし然(しかる)に宝暦年間(はうりやくねんかん)権大僧都(こんたいそうつ)法印(ほふいん)  賢盛(けんせい)衆縁(しゆうえん)を募(つの)り新(あらた)に医王閣(ゐわうかく)を営建(えいこん)し傳(つた)ふる所(ところ)の灵像(れいさう)を  安(あん)して霊跡(れいせき)を表(へう)す今(いま)古伽藍(こからん)の礎石(いしすへ)のみ厳然(けんせん)として田間(てんかん)  阡陌(せんはく)の間(あいた)に埋(うつも)れて懐旧(くわいきう)情(しやう)を催(もよほ)せり《割書:此(この)寺前(しせん)畑(はたけ)の中(なか)にかつたい塚(つか)|かうかけ場(は)なと字(あさな)する地(ち)》  《割書:あり或人(あるひと)云かつたいは乞食(かつたい)かうかけ場(は)は頸掛場(かうかけは)なるへしと依(よつ)て按(あんする)に古(いにし)へ合戦(かつせん)の|後(のち)敵方(てきかた)の首級(しゆきう)を掛(かけ)し地(ち)なれは其傍(そのかたはら)に乞食(こつしき)なと住居(ちゆうきよ)してありしならん 歟(か)》 富士見塚(ふしみつか) 国分寺(こくふんし)より西(にし)の方(かた)五町 斗(はかり)を隔(へた)つ此所(このところ)に登(のほ)れは一瞬(いつしゆん)千(せん)  里(り)殊(こと)に奇観(きくわん)たり東(ひかし)は浩茫(かうほう)として限(かき)りなく天涯(てんかい)はるかに地(ち)に  接(せつ)するを見(み)るのみ中秋(ちゆうしう)の夕月(ゆふへつき)のあかきには草(くさ)より出(いて)て草(くさ)に入(いる)の  古詠(こえい)に古(いにしへ)を想像(おもひやられ)て感情(かんしやう)少(すくな)からす此故(このゆゑ)に幽人(いうしん)騒客(さうかく)こゝに来(きたり)て 【右丁】 国分寺村(こくふんしむら)  炭(すみ)かま 【枠外】 三ノ百六十七 【左丁 文字なし】 【右丁】 《振り仮名:恋ゕ窪|こひ  くほ》 阿弥陀堂(あみたたう) 傾城松(けいせいのまつ) 牛頭天王(こつてんわう) 四国雑記  恋ゕ窪と  いへる所にて 朽はてぬ   名のみ 【四角囲い文字】 傾城松 熊野 八まん 庵 冨士見坂 【枠外】 三ノ百六十八 【左丁】 残れる  恋ゕくほ 今はた    問も  契   ならすや    道興准后 【四角囲い文字】 東商寺 こひかくほ 庵 阿弥陀堂 あみた坂 【右丁】  遊賞(いうしやう)せり《割書:高(たか)さ三丈はかりめくり|五十 歩(ほ)あまりあり》 阿弥陀坂(あみたさか) 富士見塚(ふしみつか)より十三町あまりを隔(へた)てゝ《振り仮名:恋ゕ漥村|こひ  くほむら》の地(ち)北(きた)へ  向(むか)ひて下(くた)る坂(さか)を云(いふ)此坂(このさか)の左(ひたり)に傍(そひ)たる岡(おか)に草庵(さうあん)あり土人(としん)阿弥(あみ)  陀堂(たたう)と称(しよう)す木像(もくさう)の阿弥陀如来(あみたによらい)を本尊(ほんそん)とす《割書:延享(えんきやう)四年 鶴心(くわくしん)と云(いふ)僧(さう)|此(この)草庵(さうあん)の廃(すたれ)たるを興(おこ)す》  土人云(としんいふ)古(いにしへ)の本尊(ほんそん)は銅像(とうさう)にして今(いま)府中六所宮(ふちゆうろくしよのみや)の社地(しやち)にあるもの  是(これ)なりと相傳(あひつた)ふ往古(そのかみ)畠山庄司次郎重忠(はたけやましやうししらうしけたゝ)此地(このち)《振り仮名:恋ゕ窪|こひ  くほ》の駅舎(えきしや)に  やとりし頃(ころ)寵愛(ちやうあい)せし遊君(いうくん)ありしか重忠(しけたゝ)平家追討(へいけつゐはつ)につきて西国(さいこく)へ  出陣(しゆつちん)せらる然(しかる)に其後(そののち)をこのものありて重忠(しけたゝ)討死(うちしに)したる由(よし)いつ  はりすかしたりしを実(まこと)としかの遊君(いうくん)歎(なけ)きのあまり終(つひ)に自殺(しさつ)し  たりしを後(のち)重忠(しけたゝ)聞(きゝ)てあはれと彼(かの)遊君(いうくん)か節操(せつさう)を感(かん)し菩提(ほたい)の  為(ため)に此(この)阿弥陀堂(あみたたう)建立(こんりふ)し銕(てつ)を以(もつ)て弥陀如来(みたによらい)の像(さう)を鋳(ゐ)て安置(あんち)  せしといふ《割書:因(ちなみ)に云(いふ)此地(このち)に道場畑(たうちやうはた)と字(あさな)する地(ち)あり土人(としん)云むかし此地(このち)に無量山(むりやうさん)|道成寺(たうしやうし)と号(かう)する寺院(しゐん)ありし故(ゆゑ)にしか昌(とな)ふるとそしかるときは此(この)》  《割書:阿弥陀堂(あみたたう)も其(その)境内(けいたい)にありしものなるへき歟(か)又云(またいふ)今(いま)府中六所宮(ふちゆうろくしよのみや)の社地(しやち)に|ある所(ところ)の銕像(てつさう)の弥陀佛(みたふつ)は重忠(しけたゝ)愛(あい)せし遊君(いうくん)の菩提(ほたい)の為(ため)造立(さうりふ)する所(ところ)の佛躰(ふつたい)》 【枠外】 三ノ百六十八百六十九 【左丁】  《割書:なりといへとも其(その)仏像(ふつさう)の銘文(めいふん)年号(ねんかう)等(とう)を考(かんか)ふれは重忠(しけたゝ)とは時世(しせい)大(おほい)に違(たか)ひ|誤(あやまり)なる事 明(あき)らけし猶(なほ)六所宮(ろくしよのみや)の条下(てうか)をみるへし》 《振り仮名:恋ゕ窪|こひ  くほ》 同所 坂(さか)より下(した)の低(ひく)き地(ち)をいふ古(いにし)へ東奥(とうあう)北越(ほくえつ)等の国々(くに〳〵)より  京師(けいし)及(およ)ひ鎌倉(かまくら)等へ至(いた)るの駅路(うまやち)にて其頃(そのころ)は遊女(いうちよ)の家居(いへゐ)なと  ありていとにきはしかりしとなり《割書:此地(このち)に牛頭天王(こつてんわう)の叢祠(さうし)あり竹林(ちくりん)の|中(うち)に凹(くほか)なる地(ち)あるを古(いにし)への北国街道(ほつこくかいたう)の》  《割書:旧址(きうし)なりといへり》  《割書:四国雑記 《振り仮名:恋ゕ窪|こひ  くほ》といへる所(ところ)にて|  朽はてぬ名のみ残れる恋か窪今はたとふもちきりならすや 道興准后》 《振り仮名:傾城ゕ松|けいせい  まつ》 同所 艮(うしとら)の方(かた)八幡宮(はちまんくう)の社地(しやち)にあり同(おな)し程(ほと)の古松(こしよう)二株(ふちゆう)  雙立(さうりふ)せり土人(としん)重忠(しけたゝ)か愛(あい)せし遊君(いうくん)の塚印(つかしるし)の松(まつ)なりといひ伝(つた)ふ  然(しか)れとも社地(しやち)なるものは此(この)八幡宮(はちまんくう)の神樹(しんしゆ)なるへし 武蔵野(むさしの) 南(みなみ)は多摩川(たまかは)北(きた)は荒川(あらかは)東(ひかし)は隅田川(すみたかは)西(にし)は大嶽(たいかく)秩父根(ちゝふね)を  限(かきり)として多磨(たま)橘樹(たちはな)都筑(つつき)荏原(えはら)豊島(としま)足立(あたち)新座(にひくら)高麗(こま)比企(ひき)入間(いるま)  等(とう)すへて十 郡(くん)に跨(またか)る草(くさ)より出(いて)て草(くさ)に入(いる)又(また)草(くさ)の枕(まくら)に旅寝(たひね)の  日数(ひかす)を忘(わす)れ問(とふ)へき里(さと)の遥(はるか)なり杯(なと)代々(よゝ)の哥人(かしん)袂(たもと)をしほりしか 【右丁】  御入国(こにふこく)の頃(ころ)より昔(むかし)に引(ひき)かへ十 萬戸(まんこ)の炊煙(すいえん)紫霞(しか)と共(とも)に棚引(たなひき)  僅(わつか)に其(その)旧跡(きうせき)の残(のこ)りたりしも承応(しようおう)より享保(きやうほ)に至(いた)り四度迠(よたひまて)新田(しんてん)  開発(かいほつ)ありて耕田(かうてん)林園(りんえん)となり往古(そのかみ)の風光(ふうくわう)これなしされと月夜(けつや)  狭山(さやま)に登(のほ)りて四隣(しりん)を顧望(こもう)するときは嚝野(くわうや)蒼茫(さうはう)千里(せんり)無限(きはまりなし)  往古(いにしへ)の状(しやう)を想像(さうさう)するにたれり《割書:狭山(さやま)は弟【第】四 巻(くわん)|の中(うち)に入たり》  万葉十四東歌   武(ム)蔵(サシ)野(ノ)-尓(ニ)宇(ウ)良(ラ)敝(へ)-可(カ)多(タ)也(ヤ)伎(キ)麻(マ)左(サ)氐(テ)尓(ニ)毛(モ)乃(ノ)良(ラ)奴(ヌ)伎(キ)   美(ミ)我(カ)名(ナ)宇(ウ)良(ラ)尓(ニ)低(テ)尓(ニ)家(ケ)里(リ)   武(ム)蔵(サシ)野(ノ)乃(ノ)乎(ヲ)具(ク)奇(キ)我(カ)吉(キ)芸(キ)志(シ)多(タ)知(チ)和(ワ)可(カ)礼(ㇾ)伊(イ)尓(ニ)之(シ)与(ヨ)   比(ヒ)欲(ヨ)利(リ)世(セ)呂(ロ)尓(ニ)安(ア)波(ハ)奈(ナ)布(フ)与(ヨ)   古(コ)非(ヒ)思(シ)家(ケ)波(ハ)素(ソ)氐(テ)毛(モ)布(フ)良(ラ)武(ム)乎(ヲ)牟(ム)射(サ)志(シ)野(ノ)乃(ノ)宇(ウ)家(ケ)良(ラ)   我(カ)波(ハ)奈(ナ)乃(ノ)伊(イ)呂(ロ)尓(ニ)豆(ッ)奈(ナ)由(ユ)米(メ)   伊(イ)可(カ)尓(ニ)思(シ)氐(テ)古(コ)非(ヒ)波(ハ)可(カ)伊(イ)毛(モ)尓(ニ)武(ム)蔵(サシ)野(ノ)乃(ノ)宇(ウ)家(ケ)良(ラ)我(カ) 【枠外】 三ノ百七十 【左丁】   波(ハ)奈(ナ)乃(ノ)伊(イ)呂(ロ)尓(ニ)低(テ)受(ス)安(ア)良(ラ)牟(ム)   武(ム)蔵(サシ)野(ノ)乃(ノ)久(ク)佐(サ)波(ハ)母(モ)呂(ロ)武(ム)吉(キ)可(か)毛(モ)可(カ)久(ク)母(モ)伎(キ)美(ミ)我(カ)麻(マ)   尓(ニ)末(マ)尓(ニ)吾(ワレ)者(ハ)余(ヨ)利(リ)尓(ニ)思(シ)乎(ヲ)   和(ワ)我(カ)世(セ)故(コ)乎(ヲ)安(ア)杼(ト)可(カ)母(モ)伊(イ)波(ハ)武(ム)牟(ム)射(サ)志(シ)野(ノ)乃(ノ)宇(ウ)家(ケ)良(ラ)   我(カ)波(ハ)奈(ナ)乃(ノ)登(ト)吉(キ)奈(ナ)伎(キ)母(モ)能(ノ)乎(ヲ)  《割書:新古今|  行末は空もひとつの武蔵野に草の原より出る月かけ     摂政|                               太政大臣》  《割書:続古今|  むさしのは月の入るへき山もなし尾花か末にかゝる白雲   通方》  《割書:玉葉|  旅人の行かた〳〵にふみわけて道あまたあるむさしのゝ原  右大臣》  《割書:続千載|  むさし野は猶行く末も秋萩の花摺衣かきりしられす     よみ人|                              しらす》  《割書:続後拾遺|  春もまた色には出すむさしのや若紫の雪の下草       家隆》  《割書:新続古今|  むらさきのゆかりの色も問わひぬみなから霞むむさしのゝ原 定家》  《割書:千五百番哥合|  若菜摘ゆかりにみれはむさしのゝ草はみなから春雨そふる  雅経》 【右丁】  《割書:夫木|  花の色も籠りし妻やこれならん一本菊のむさしのゝ原    為実》  《割書:回国雑記 むさし野(の)にて残月(さんけつ)をなかめて|  山遠し有明のこるひろ野かな               道興|                               准后》  《割書:桂林集  むさし野(の)に長陣(なかちん)せし時(とき)ほとゝきすを聞(きゝ)て|  むさしのは木陰も見えす時鳥幾日を草の原に鳴らん     直朝》  《割書:武蔵野記行|    天文(てんもん)十五年 仲秋(ちゆうしう)の頃(ころ)むさし野(の)をみんと此(この)年月(としつき)|    思(おも)ひ立(たち)ぬることなれは人〳〵あまたうちつれて小鷹(こたか)かり|    して遊(あそ)はんとて《割書:中略》むさし野(の)をかり行(ゆく)にまことにゆけ|    ともはてあらはこそ萩(はき)薄(すゝき)女郎花(おみなへし)の露(つゆ)にやとれる|    虫(むし)の声(こゑ)〳〵あはれをもよほすはかりなり|  むさし野といつくをさして分入らん行もかへるも果しなけれは 氏康|    いにしへの草(くさ)のゆかりもなつかしけれはなり是(これ)も|    むらさきのひともとゆゑなるへし|  道たつなよ我世の中の人なれはしるもしらぬも草の一本    同》  《割書:武蔵野(むさしの)の古哥(こか)は万葉集(まんえふしふ)をはしめとし代(よ)々の撰集(せんしふ)其余(そのよ)哥合(うたあはせ)およひ家々(いへ〳〵)|の集等(しふとう)にあまたあれとも枚挙(まいきよ)にいとまあらすたゝ世(よ)に耳(みゝ)なれたるもの其(その)|百(ひやく)かひとつを記(しる)しはへるのみ》 【枠外】  三ノ百七十一 【左丁】  武蔵野翁(むさしのゝおきな) 翁(おきな)は其(その)郷(かう)姓(せい)話(かた)らすたゝ郁芳門院(いくはうもんゐん)の一《振り仮名:﨟士|ろうし》と  云(いふ)院(いん)崩(ほう)するの後(のち)齢(よはひ)二十九にして世(よ)を避(のかれ)て諸国(しよこく)を遊歴(いうれき)し  此(こゝ)に止(とゝま)る庵(いほ)を結(むす)ひ月(つき)に臥(ふ)して武蔵野(むさしの)の広(ひろき)を愛(あい)す六十年を  経(へ)て西行法師(さいきやうほふし)に邂逅(かいこう)す一宿(いつしゆく)を投(とう)して通宵(よもすから)古(いにしへ)を淡(たん)【談ヵ】し涙(なみた)を  緇衲(しのふ)に濺(そゝ)き暁(あかつき)に迨(およん)て別(わつ)る《割書:続扶桑隠逸傳(そくふさうゐんいつてん)|の文意(ふんい)をとる》  《割書:西行物語 さしていつくを心(こゝろ)さすともなけれは月(つき)のひかりにさそはれて|  はる〳〵とむさし野(の)にわけ入(いる)ほとにをはなか露(つゆ)にやとる月(つき)末(すゑ)こす風(かせ)に|  玉(たま)ちりて小萩(こはき)かもとのむしのねいと心(こゝろ)ほそくむさし野(の)の草(くさ)のゆかりを|  尋(たつね)けんもなつかしくやとをは月(つき)にわすれてあすの道行なんと|  口(くち)すさひて行(ゆく)程(ほと)に道(みち)より五六町はかりさし入(いり)て経(きやう)をとくしゆする|  こゑしけれは人里(ひとさと)は此末(このすゑ)に遥(はるか)に道たゝりたるとこそ聞(きゝ)しにあやしと|  思(おも)ひて声(こゑ)につきて尋(たつ)ね入(いり)てみれはわつかなる庵(いほ)のうへをはうす|  から萱(かや)にてふき萩(はき)女郎花(をみなへし)いろ〳〵の秋(あき)の草(くさ)にてめくりをかこひ夜(よ)ふす|  所(ところ)とおほえて東(ひかし)によりてわらひのほとろを折(をり)しき西(にし)のかへに画(ゑ)さう|  の普賢(ふけん)をかけ奉(たてまつ)り御(み)まへには法華(ほつけ)八 軸(ちく)を置(おか)れたり庭(には)には千草(ちくさ)の|  花露(はなつゆ)にかたふき虫(むし)のこゑ〳〵所(ところ)からにあはれにいつこそと問(と)ふ人(ひと)もあら|  しとおもへはかよひちもたえにけり庵(いほり)の内(うち)を見(み)いれたれはかうへには雪(ゆき)|  ふりまゆには霜(しも)をたれたる老僧(らうそう)九十 有余(いうよ)とおほえたるか在於閑處(さいおけんしよ)|  修摂其心(しゆせうこしん)とよみたてまつる若(もし)仙人(せんにん)なとにてもやとあやしく思(おも)ひて|  八月十五 夜(や)名(な)にたかはぬ月(つき)のかけなれはいつくのかくれ家(か)まてもまかふ》 【右丁】  《割書:  へきかたもなしあゆみよりまへに侍(はへ)りけれともたかひにあきれたる|  さまにて物(もの)ものたまはすやゝ久(ひさ)しくありて西行(さいきやう)いかなる人のかくては|  おはするやらんと問(とひ)けれともこたふる事なしかさねて我(われ)は都(みやこ)のほとりの|  ものなりあつまのかたゆかしくて下(くた)りはへりしかむさし野(の)のけしき|  あるさとにて聞(きゝ)しよりもあはれに覚(おほ)えてわけ入(いる)程(ほと)になんこれより|  人(ひと)住(すむ)方(かた)もはるかなりときくなにをつたよりの御すま居(ゐ)にかいにしへの|  御事(おんこと)もゆかしくなんといへは老僧(らうそう)郁芳門院(いくはうもんゐん)の侍([さ]むらい)の一﨟(いちろう)にてはへりしか|  女院(によゐん)かくれさせたまひてのち出家(しゆつけ)して国々(くに〳〵)修行(しゆきやう)せしか此野(このの)へ仏道(ふつたう)|  修行(しゆきやう)のかくれ家(か)にたよりありとおもひて廿九の年(とし)よりすてに六十 余(よ)|  年 此所(このところ)にとゝまれりされは読誦(とくしゆ)の数(かす)七万 余部(よふ)なりとかたる|  西行(さいきやう)も郁芳門院(いくはうもんゐん)の御事もよそならぬ御事なれはたかひに|  かたりこけのたもとをしほり名残(なこり)をしくおほえけれともあかつき|  かた立(たち)わかるゝとて|    いかて我きよくくもらぬ身となりて心の月のかけをみかゝん|    いかゝすへき世にあらはやは世をも捨てあなうの世やとさらに思はん|    秋はたゝこよひはかりの名なりけり同し雲井に月はすめとも》  紫草(むらさき) 武蔵野(むさしの)の景物(けいふつ)とす和名類聚抄(わみやうるゐしゆしやう)無良散岐(むらさき)と訓(くん)す  紫(むらさき)は最上(さいしやう)の色(いろ)にして古歌(こか)にも免(ゆるし)の色(いろ)又(また)位(くらゐ)の色(いろ)抔(なと)詠(よみ)あはせ  たり根(ね)を砕(しほり)て染(そむ)る故(ゆゑ)に紫(むらさき)の根染(ねそめ)又(また)紫(むらさき)の根摺(ねすり)ともいへり女(をんな)に  比(ひ)しては縁(ゆかり)の色(いろ)抔(なと)もいへり江戸(えと)の紫染(むらさきそめ)は最(もつとも)絶妙(せつみやう)にして他邦(たほう)に  比類(ひるゐ)なし故(ゆゑ)に江戸(えと)むらさきの称(しよう)あり 【枠外】 三ノ百七十二 【左丁】  延喜式 内蔵寮式曰   紫草二萬二百斤武蔵国信濃国二千八百斤云々  同書曰 民部省式曰   紫草三千三百斤云々  《割書:古今|  紫の一本故に武蔵野の草はみなからあはれとそみる   よみ人|                             しらす》  《割書:後撰|  むさし野は袖ひつはかりわけしかと若紫は尋わひにき  同》  《割書:新勅撰|  武蔵野の野中をわけて摘初し若紫の色はかきりか    九条|                             右大臣》  《割書:続古今|  むさし野に生とし聞は紫の其色ならぬ草もむつまし   小町》  逃水(にけみつ) 武蔵野(むさしの)の景物(けいふつ)なり里老(りらう)云(いは)く仲秋(ちゆうしう)の末(すゑ)霖雨(りんう)の頃(ころ)此(この)  野(の)を行(ゆく)に凹(くほか)なる所(ところ)に水(みつ)湛(たゝ)へて通(かよ)ひかたし此所(こゝ)に除(よけ)彼所(かしこ)にさけて  行(ゆく)に道(みち)も定(さたか)ならす草根(さうこん)沼(ぬま)の如(こと)し故(ゆゑ)に往来(わうらい)の人(ひと)《振り仮名:吟■|さまよひ》【注】歩行(あるく)を云と  此説(このせつ)信(しん)とするに足(たら)さるへし或(あるひは)云(いふ)天日(てんしつ)快明(くわいめい)の時(とき)嚝野(くわうや)陽熖(やうゑん)の気(き)に  よりて遠(とほ)く望(のそ)めは草(くさ)の葉(は)末(すゑ)の風(かせ)に靡(なひく)か水(みつ)の流(なか)るゝ如(こと)く見(み)ゆるを  いふ依(よつて)其所(そのところ)とおほしき辺(あたり)へ至(いた)れとも素(もと)水流(すゐりう)あるにあらされは 【注 ■は「口+由」。「呻吟」ヵ】 【右丁】 府中(ふちゆう)  八(や)はた   八幡宮(はちまんくう) 【四角囲い文字】 八幡宿 八幡 【枠外】 三ノ百七十三 【左丁】 【四角囲い文字】 染谷村 【右丁】  終(つひ)に其水(そのみつ)の原(もと)に至(いた)る事(こと)を得(え)す故(ゆゑ)に此名(このな)ありといふそよろしかるへき  《割書:夫木|  東路にありといふなる逃水のにけかくれても世を過すかな  俊頼》  《割書:同|  むさし野の草葉かくれに行水の逃かくれてもありとこそきけ よみ人|                               しらす》  性霊集詠陽燄喩 遅々春日風光動陽燄紛々嚝野   飛舉體空々無所有狂児迷渇遂㤀帰遠而似水近   無物走馬流川何処依下略   運敝註智論曰 飢渇悶極見熱気如野馬謂之為   水疾走趣之転近転滅走馬流川皆謂陽炎状貌也  唐陸勲志怪録曰 深州東鹿県中有水影長七八尺   遥望見人馬往来如在水中乃至前不見水  周處風土記曰 広野中陽燄望之如波濤奔馬謂之   水影此天地之気絪縕盪潏回薄変幻何往不有   《割書:按(あんする)に性霊集(しやうりやうしふ)其余(そのよ)前(まへ)に載(のす)る所(ところ)の書(しよ)いつれも陽燄(やうゑん)の気(き)のな■【すヵ】所(ところ)なりとす先(さき)の説(せつ)|思(おも)ひあはすへしされと今(いま)は悉(こと〳〵)く民居(みんきよ)又(また)は田園(てんゑん)に沿革(えんかく)して俤(おもかけ)をさへ残(のこ)す事なし》  武蔵野(むさしの)の勝槩(しようかい)たるや名所(めいしよ)多(おほ)きか中(なか)にも殊更(ことさら)に其(その)聞(きこ)え高(たか)く凡(およそ)  東西(とうさい)十三里 南北(なんほく)十里あまりもやあらん旧記(きうき)に四方八百里に余(あま)れ  りと書(かけ)るは筆(ふて)のすさひと云へし天正(てんしやう)以来(このかた)江戸(えと)の地(ち)を以(もつ)て御城営(こしやうえい)  に定(さため)させられしより広莫(くわうはく)の原野(けんや)も田に鋤(すき)畑(はた)に耕(たかや)し尾花(をはな)か浪(なみ)も 【枠外】 三ノ百七十四 【左丁】  民家(みんか)林藪(りんさう)に沿革(えんかく)して万か一を残(のこ)せるのみ《割書:元禄中(けんろくちゆう)柳澤矦(やなきさはかう)川越(かはこえ)を|領(りやう)せられし頃(ころ)北武蔵野(きたむさしの)》  《割書:新田開発(しんてんかいはつ)により下宿(けしゆく)といふ地(ち)の傍(かたはら)に原野(けんや)の形勢(かたち)を残(のこ)され大野(おほの)と号(なつ)くる|故(ゆゑ)に月(つき)にうそふき露(つゆ)をあはれみまた千種(ちくさ)の花(はな)を愛(めて)虫(むし)の音(ね)を賞(しやう)せんと|中秋(ちゆうしう)の頃(ころ)幽情(いうしやう)をしたふの輩(ともから)こゝに遊(あそ)へり其(その)行程(きやうてい)江戸(えと)よりは十里あま|りあり》 八幡宮(はちまんくう) 府中六所宮(ふちゆうろくしよのみや)の末社(まつしや)にして甲州街道(かいしうかいたう)八幡宿(やはたしゆく)の道(みち)より左(ひたり)に  あり祭(まつ)る所(ところ)応神天皇(おうしんてんわう)なり六所宮(ろくしよのみや)の神主(かんぬし)猿渡氏(さるわたりうち)兼帯(けんたい)奉祀(ほうし)  す相伝(あひつたふ)聖武天皇(しやうむてんわう)の御宇(きよう)日域(にちいき)の国(くに)々に勧請(くわんしやう)し営宮(えいくう)する所(ところ)の  もの皆(みな)是(これ)八幡村(やはたむら)の八幡宮(はちまんくう)といふ多(おほ)くは総社神祠(さうしやしんし)の近(ちか)きにあり  当社(たうしや)も古(いにしへ)は本社(ほんしや)礼殿(れいてん)並(なら)ひ建(たち)て荘厳(さうこん)蕩々(たう〳〵)たり其後(そののち)は漸(やうやく)  衰敝(すゐへい)に逮(およ)ひ今(いま)は即(すなはち)茅宮小社(かやふきのしやうしや)なり《割書:四十年あまり前(まへ)まては老杉(らうさん)一 株(ちゆう)|ありて空(くう)に聳(そひ)え千歳の徴(しるし)と》  《割書:しるにたれりされと其樹(そのき)明和年間(めいわねんかん)の|暴風(はうふう)に吹折(ふきをれ)て今(いま)は其(その)あとのみを存(そん)せり》又(また)社境(しやけう)圃園(ほゑん)の中(なか)に《振り仮名:権ノ正|こん  かみ》といふ  地名(ちめい)あり古(いにしへ)の宮守(みやもり)居住(きよちゆう)の跡(あと)なりといへり 《振り仮名:滝の社|たき  しや》 当社(たうしや)も六所宮(ろくしよのみや)の末社(まつしや)にして八幡宮(はちまんくう)より三町あまり  東南(とうなん)の方(かた)にあり祭神(さいしん)倉稲魂大神(うかのみたまおほかみ)なり社(やしろ)の傍(かたはら)に少(すこ)し斗(はかり)の 【右丁】 府中(ふちゆう)  称名寺(しようみやうし)  弥勒寺(みろくし)  善明寺(せんみやうし)  高安寺(かうあんし) 【四角囲い文字】 称名寺 本堂 地蔵 天神 六所宮 【枠外】  三ノ百七十五 【左丁】 【四角囲い文字】 善明寺 本堂 熊野 みろく 本堂 弥勒寺 高安寺 七観音 本堂 【右丁】  飛泉(たき)あり六所宮(ろくしよのみや)の御手洗(みたらし)池と称(しよう)す毎年(まいねん)五月五日/大祭(たいさい)の時(とき)  神幸供奉(しんかうくふ)の輩(ともから)は五月朔日より此滝(このたき)に浸(ひた)りて身(み)を清(きよ)め神㕝(しんし)に  たつさはれりと云(いふ) 石塚社(いしつかのやしろ) 当社(たうしや)も又(また)六所宮(ろくしよのみや)の末社(まつしや)にして同所/南(みなみ)の方(かた)代小川(しろこかは)の辺(へん)に  あり祭神(さいしん)磐筒男命(いはつゝをのみこと)磐筒女命(いはつゝめのみこと)二/座(さ)なり 府中駅舎(ふちゆうのえきしや) 甲州街道(かうしうかいたう)の官駅(くわんえき)にして江戸日本橋(えとにほんはし)より七里《割書:布田(ふた)より|一里廿七丁》  《割書:日野(ひの)へ二里|八丁あり》旅舎(りよしや)多(おほ)し《割書:新宿(しんしゆく)本宿(ほんしゆく)番場(はんは)|宿(しゆく)等(とう)の名(な)あり》旧名(きうみやう)を小野県(をのゝあかた)と/称(しよう)す武蔵国(むさしのこく)  府(ふ)にして上古(しやうこ)国造居館(こくそうきよくわん)の地(ち)なり和名類聚抄(わみやうるゐしゆしやう)にも武蔵国府(むさしのこくふ)は  多麻郡(たまこほり)にありと載(のせ)たり徴(しるし)とすへし延喜(えんき)延長(えんちやう)の頃(ころ)一変(いつへん)して此辺(このへん)  すへて小川郷(をかはのかう)と称(しよう)す《割書:風土記曰小川郷穀二百六十七束|三毛田貢は松桃鞍靴之類云々》又/其後(そののち)小野小(をのを)  川(かは)の称(しよう)止(やむ)て府中領(ふちゆうれう)と総称(さうしよう)す尚(なほ)此郡(このこほり)玉川(たまかは)を境(さかひ)とし川南を多(た)  西郡(さいこほり)川北を多東郡(たとうこほり)とも称(しよう)したりし事(こと)古文書(こもんしよ)にみえたり《割書:常陸(ひたち)対(つし)|馬(ま)長門(なかと)》  《割書:越前(ゑちせん)越後(ゑちこ)皆(みな)|/府中(ふちゆう)と称(しよう)せり》 【赤印】尾﨑藏書 【枠外】 九ノ冊 三ノ百七十六 【裏表紙】