【表紙】 【題箋】 江戸名所図会 十八 江戸名所図会(えとめいしよつゑ)巻之七(けんのしち)    揺光之部(ようくわうのふ)目録(もくろく)  富賀岡八幡宮(とみかおかはちまんくう)《割書:四隅鎮守(しくうちんしゆ) 園女桜(そのめさくら) 永代寺(えいたいし)|弥生山開(やよいやまひらき)の図 境内(けいたい)拍戸(りやうりや)雪中遊宴(せつちゆうゆうゑん)の図》 三十三間堂(さんしふさんけんたう)  洲崎弁財天(すさきへんさいてん) 砂村元八幡宮(すなむらもとはちまんくう) 深川木場材木屋図(ふかかはきはさいもくやのつ) 陽岳寺(ようがくし)《割書:英信勝(はなふさのふかつ)|之墓(のはか)》  海福寺(かいふくし)《割書:武田信玄(たけたしんけん)|九層塔(くしうのたふ)》 採荼庵旧蹟(さいとあんのきうせき) 浄心寺(しやうしんし)《割書:祖師堂(そしたう)|七面堂(しちめんたう)》 霊巌寺(れいかんし)《割書:六地蔵(ろくちさう)| 》  本誓寺(ほんせいし)《割書:石地蔵尊(いしちさうそん)| 》 一蝶寺(いちてうてら) 法禅寺(ほふせんし) 雲光院(うんくわういん)  五本松(こほんまつ)《割書:小奈木川(おなきかは)|尊空法親王(そんくうほふしんわう)御閑居之地(こかんきよのち)》 霊雲院(れいうんゐん)《割書:延寿稲荷(えんしゆいなり)社| 》 芭蕉庵旧址(はせをあんのきうし)  六間堀神明宮(ろくけんほりしんめいくう) 弥勒寺(みろくし)《割書:弥勒寺橋(みろくしはし)| 》 深川八幡宮御旅所(ふかかははちまんくうおたひしよ) 一之橋弁財天(いちのはしへんさいてん)祠  回向院(ゑかうゐん)《割書:千体弥陀如来(せんたいみたによらい) 三仏堂(さんふつたう) 一言観音堂(ひとことくわんおんたう) 藁囊(わらつと)弁才天祠 馬頭観音堂(はとうくわんおんたう)|円光大師堂(ゑんくわうたいしたう) 蓮池(はすいけ) 阿弥陀仏銅像(あみたふつとうさう) 開帳参(かいちやうまいり)の図》  猿江泉養寺蓮(さるえせんゆうしのはす) 日先社《割書:摩利(まり)|支天(してん)》 五百羅漢寺(こひやくらかんし)《割書:五百羅漢(こひやくらかん)造立之来由(さうりうのらいゆ)|仏殿羅漢堂(ふつてんらかんたう)内相(ないさう)之図》  《割書:三匝堂(さんそうたう) 天王殿(てんわうてん) 禅堂(せんたう) 鐘楼(しゆろう)|摂待所(せつたいしよ) 開山堂(かいさんたう) 漢門(からもん) 五ッ目 渡場(わたしは)》 亀戸天満宮(かめとてんまんくう)《割書:紅梅殿(かうはいてん) 老松殿(らうしやうてん) 回廊(くわいらう)|璥門(けいもん) 反橋(そりはし) 御岳(みたけ)社》  《割書:花園(はなその)社 頓宮神社(とんくうしんしや) 兵洲辺(ひやうすへ)神祠 連歌家(れんかや) 二月廿五日 御忌神事(きよきしんし)図|八月十五日 祭礼(さいれい)図 年中行事(ねんちゆうきやうし) 天神橋(てんしんはし)》 普門院(ふもんゐん)《割書:御腰掛松(おんこしかけまつ)|慈眼水(しけんすゐ)》  《割書:身代観世音(みかはりくわんせおん)| 》 亀戸邑道祖神祭(かめとむらたうそしんまつり)の図 臥竜梅(くわりやうはい) 入神明宮(いりしんめいくう)《割書:網干榎(あみほしえのき)|太平塚(たいへいつか)》  東覚寺(とうかくし)《割書:不動堂(ふとうたう)| 》 香取太神宮(かとりたいしんくう) 宝蓮寺(ほうれんし) 常光寺(しやうくわうし)《割書:六阿弥陀 六番目|来迎松(らいかうのまつ)》  《割書:竜灯松(りうとうのまつ)| 》 慈光院(しくわうゐん) 吾嬬権現(あつまこんけん)社《割書:吾嬬(あつま)の森(もり) 神木相生樟(しんほくあいおひくす)|神宝古鈴(しんはうこれい)》   殖髪太子堂(うゑかみたいしたう) 萩寺庭中(はきてらていちゆう)の図 柳島妙見堂(やなきしまみやうけんたう)《割書:鏡(かゝみ)の|松》 押上最教寺(おしあけさいけうし)  蒙古退治(もうこたいち)日(ひ)の丸(まる)旗(はた)曼荼羅(まんたら)縁起(ゑんき)并図《割書:七面堂(しちめんたう)| 》 大法寺(たいほふし)《割書:番神(はんしん)社|広布石(くわうふせき)》  霊山寺(りやうせんし)《割書:尊空法親王(そんくうほうしんのう)御廟(こひやう)|観音堂(くわんおんとう)》 法恩寺(ほふおんし)《割書:番神(はんしん)堂| 》 中の郷(かう)瓦匠(かはらし)の図  業平天神(なりひらてんしん)社 中郷八幡宮(なかのかうはちまんくう) 第六天(たいろくてん)祠 多田薬師堂(たたやくしたう)  遠州秋葉山宿寺(ゑんしうあきはさんしゆくし)《割書:図中|に在》 本久寺(ほんきうし) さらしの井  妙源寺(みやうけんし) 最勝寺(さいしやうし) 牛島神明宮(うししましんめいくう) 太子堂(たいしたう)  大川橋(おほかははし)の図 三囲稲荷(みめくりいなり)社 牛御前王子権現(うしのこせんわうしこんけん)社《割書:法華経千部供養碑(ほけきやうせんふくやうのひ)|千葉家旗(ちはけのはた) 古文書(こふんしよ)》【https://honkoku.org/app/#/transcription/346016D3BD3173DEAE979A550AD63DF7/2/】  長命寺(ちやうめいし)《割書:牛島弁才天(うししまへんさいてん) 長命水(ちやうめいすゐ) 梛樹(なきのき)|延寿(えんしゆ)の椎(しゐ) 自在庵旧址(しさいあんのきうし)》 弘福寺(かうふくし)《割書:仏殿(ふつてん) 木犀(もくせい) 座禅堂(させんたう) 牌堂(はいたう)|開山堂(かいさんたう) 食堂(しきたう) 天王殿(てんわうてん) 経蔵(きやうさう)》  《割書:鐘楼(しゆろう) 鎮守宮(ちんしゆのみや)|天桂石(てんけいせき) 漢門(からもん)》 請地秋葉権現(うけちあきはこんけん)千代世稲荷(ちよせいなり)社《割書:神泉(しんせん)|松》 寺島蓮華寺(てらしまれんけし)《割書:太子|堂》  白髭明神(しらひけみやうしん)社 隅田河(すみたかわ) 須田(すた)の河原(かはら) 隅田河堤(すみたかはつゝみ)《割書:堤春|景》  隅田(すた)の宿(しゆく) 都鳥(みやことり) 木母寺(もくほし)《割書:梅若山王(むめわかさんわう)|権現(こんけん)社》 梅若丸塚(むめわかまるのつか)《割書:同 縁起(えんき)| 》  《割書:印(しるし)の柳(やなき)|水神(すゐしん)社》 内川(うちかは) 御前載畑(こせんさいはたけ) 丹頂(たんてう)か池(いけ)  庵崎(いほさき) 関屋(せきや)の里(さと) 綾瀬川(あやせかは) 鐘(かね)か潭(ふち)  牛田薬師堂(うしたやくしたう) 若宮八幡宮(わかみやはちまんくう) 関屋天満宮(せきやてんまんくう)《割書:元天神| 》 葛西花畠(かさいはなはたけ)の図  渋江西光寺(しふへさいくわうし) 清重稲荷(きよしけいなり)社 青研藤綱之旧蹟(あほとふちつなのきうせき)《割書:古製(こせい)山葵㨸(わさひおろし)の図| 》【㨸=てへんに密、擦の書き間違いか】  木下川薬師堂(きけかはやくしたう)《割書:白髭(しらひけ)明神祠 太神宮 山王宮 弁才天祠|熊野祠 御神影 二王門 本尊彫造之来由(ほんそんてうさうのらいゆ)》 中川(なかかは)《割書:同 釣魚(いをつり)の図| 》  平井聖天宮(ひらゐしやうてんくう)《割書:不動堂(ふとうたう) 灯明寺(とうみやうし)|平井(ひらゐ)の渡(わたし)》 立石(たていし)《割書:南蔵院(なんさうゐん)| 》 熊野権現(くまのこんけん)祠  普賢寺(ふけんし) 葛西六郎墳墓(かさいろくらうのふんほ) 善通寺(せんつうし)《割書:什宝(しふほふ)中将姫製弥陀像(ちゆうしやうひめのせいみたさう)|親鸞上人筆十字名号(しんらんしやうにんのふてしふしめいかう)》  一(いち)の江(え)妙音時(みやうおんし)《割書:賓頭(ひんつ)|盧像(るのさう)》 二(に)の江(え)妙勝寺(みやうしやうし)《割書:水神(すゐしん)|宮(くう)》 浄興寺(しやうかうし)《割書:琴弾松(ことひきまつ)| 》 北条氏康(ほうてううちやす)小鷹狩(こたかかり)の図  今井渡(いまゐのわたし) 鎌田妙福寺(かまたみやうふくし)《割書:親鸞上人御影堂(しんらんしやうにんみえいとう) 鏡(かゝみ)か池(いけ)|袈裟掛松(けさかけまつ)》 柴又村帝釈天(しはまたむらたいしやくてん)社  新宿渡口(にゐしゆくわたしくち) 夕顔観音堂(ゆふかほくわんおんたう) 猿(さる)か脵(また) 和銅寺廃址(わとうしはいし)  半田稲荷(はんたいなり)社 松戸(まつと)の津(つ) 松戸 堤(つゝみ) 相模台(さかみたい)【https://honkoku.org/app/#/transcription/6833A3198946B63897C0F95AE482A057/2/】  小弓御曹子墓(おゆみおんそうしのはか) 行徳船場(きやうとくふなは) 弁財天(へんさいてん)祠《割書:船霊宮(ふなたまのみや)| 》 善照寺(せんしやうし)什宝(しうはう)古鈴(これい)  行徳八幡宮(きやうとくはちまんくう) 神明宮(しんめいくう) 金剛院廃址(こんかうゐんはいし) 徳願寺(とくくわんし)《割書:閻魔堂(ゑんまたう)| 》  行徳塩浜(きやうと[く]しほはま)《割書:同(おなしく)千鳥(ちとり)| 》 同 塩竃図(しほかまのつ) 甲宮(かふとのみや) 円光大師(ゑんくわうたいし)鏡御影(かゝみのみゑい)  長島湊(なかしまのみなと) 新利根川(しんとねかは) 迦羅鳴起瀬(からめきのせ) 市川渡口(いちかはわたしは)  市河城址(いちかはしろあと) 根本橋(ねもとはし) 総寧寺(そうねいし)《割書:太田道灌(おほたたうくわん)手植榎(てうゑのえのき) 同 梅(むめ)|塩竃明神(しほかまみやうしん)社》  国府台(こふのたい)《割書:羅漢井(らかんゐ) 殿守台旧址(てんしゆたいきうし) 浅間(せんけん)社|石櫃(せきひつ) 古墳(こふん) 断岸(たんかん)の図(つ)》 同 古戦場(こせんちやう) 鐘(かね)か淵(ふち)  国府城址(こふのしろあと) 金光明寺(きんくわうみやうし)《割書:国分寺(こくふんし)|なり》 《割書:楼門(ろうもん) 釈迦堂(しやかたう)|什宝(しふほう)》 内膳山(ないせんやま)  鏡石(かゝみいし) 持国坂(ちこくさか) 真間弘法寺(まゝくほふし)《割書:楓古樹(かへてこしゆ) 遍覧亭(へんらんてい) 楼門(ろうもん)|手児名(てこな)明神社》  真間浦(まゝのうら) 真間浜(まゝのはま) 真間入江(まゝのいりえ) 真間 於須比(おすひ)  真間継橋(まゝのつきはし) 真間 手児名旧跡(てこなのきうせき) 真間(まゝ)の井(ゐ) 梨園(なしその)  葛飾八幡宮(かつしかはちまんくう) 八幡不知森(やはたしらすのもり) 曽谷妙見(そたにみやうけん)尊 高石明神(たかいしみやうしん)社  安房須明神(あはのすみやうしん)社 正中山法華経寺(しやうちゆうさんほけけうし)《割書:祖師堂(そしたう) 祈祷堂(きとうたう) 法花堂(ほつけたう) 鬼子母神堂(きしもしんたう)|経蔵(きやうさう) 竜淵橋(りうゑんきやう) 常唱堂(しやうしやうたう) 泣銀杏(なきいてう)樹》  《割書:五層塔(こさうのたふ) 番神(はんしん)社 宗門最初転法輪旧地(しうもんさいしよてんほふりんきうち) 宝庫(はうこ) 支院(しゐん)|二王門(にわうもん) 中興日祐上人墓(ちゆうかうにちゆうしやうにんのはか) 奥(おく)の院(ゐん) 開山墓(かいさんのはか) 寺宝(しはう)》 若宮八幡宮(わかみやはちまんくう)  妙正池(みやうしやうかいけ) 妙正大明神(みやうしやうたいみやうしん)祠 葛飾明神(かつしかみやうしん)社《割書:葛(くす)の井(ゐ) 万善寺(まんせんし)|宝城寺(ほうしやうし)》  勝間田池(かつまたのいけ)《割書:熊野宮(くまのゝみや)| 》 洗川(あらひかは) 阿須波明神(あすはみやうしん)社 石芋(いしいも)  意富日神社初鎮座(おふひのしんしやはしめちんさ)の地(ち) 夏見厨(なつのみくりや) 船橋(ふなはし)  天道念仏(てんたうねんふつ) 遠(おち)か澪(みを) 慈雲寺(しうんし) 意富日神社(おふひのしんしや)《割書:世(よ)に船橋太(ふなはしたい)|神宮(しんくう)と云》  《割書:神宝(しんはう) 常盤御宮(ときはおんみや)|斎殿(いはひとの) 御饌殿(みけとの)》 九月廿日 祭礼(さいれい)図 茂侶神社(もろのしんしや) 【挿し絵】 富岡八幡宮(とみかをかはちまんくう)  五元集   永代橋   八幡宮奉納  汐干なり   尋て    まゐれ    次郎貝     其角 社内拍戸多きか中にも  二軒茶屋とよふもの  ことに名高し 【図中】 茶やまち 茶や 蓬莱橋 六地蔵 茶や 五本桜 そりはし 茶や 二の鳥居 表門 番屋 本宮 【挿し絵、富岡八幡宮の続き】 其 二 【図中】 弁天 観音 富岡 地蔵 茶や ゑま堂 神馬 仲町通り 茶やまち 二間茶や いせや 松本 御供所 本社 太子 神楽所 水や 不動 大こく 裏門 聖天 【挿し絵、富岡八幡宮の続き】 其 三 立ならふ  ときはの    まつも   いろそへて  をさまる御代は    なかき代の        てら        仁和寺宮 【図中】 二間茶や 山本 みこしや 花園門 永代寺 富岡八幡宮(とみかをかはちまんくう) 深川永代島(ふかかはえいたいしま)にあり別当(へつたう)は真言宗(しんこんしう)にして大栄山(たいえいさん)金剛(こんかう)  神院(しんゐん)永代寺(えいたいし)と号(かう)す 《割書:江戸名所記(えとめいしよき)に寛永(くはんえい)五年の夏(なつ)弘法大師(こうほふたいし)の霊爾(れいし)あるにより|高野山(かうやさん)の両門主(りやうもんしゆ)碩学(せきかく)其外 東国一派(とうこくいつは)の衲僧(なふそう)此 永代島(えいたいしま)に集会(しふくはい)し》  《割書:一夏九旬(いちけくしゆん)の間(あひた)法談(ほふたん)あり別(へつ)に弘法大師(こうほふたいし)の御影堂(みえいたう)を建(たて)て真言三密(しんこんさんみつ)の秘賾(ひさく)を講(こう)すそれより以後(いこ)|神前(しんせん)に竜灯(りうとう)のあかる事ありと云々》  本社(ほんしや) 祭神(さいしん) 応神天皇(おうしんてんわう) 《割書:神影(しんえい)は|菅神作(かんしんのさく)》 相殿(あひてん) 《割書:右 天照(てんせう)大神宮|左 八幡(はちまん)大明神》 三座(さんさ)  相伝(あひつたふ)往古(そのかみ)源三位頼政(けんさんゐよりまさ)当社(たうしや)八幡宮(はちまんくう)の神像(しんさう)を尊信(そんしん)す其後(そののち)千葉家(ちはけ)  及(およ)ひ足利将軍(あしかゝしやうくん)尊氏公(たかうちこう)鎌倉(かまくら)の公方(くはう)基氏(もとうち)又 官領(くわんれい)上杉(うへすき)等(とう)の家々(いへ〳〵)に伝(つた)へ  太田道潅(おほたたうくはん)崇敬(そうきやう)殊(こと)に厚(あつ)かりしか道潅(とうくはん)没(ほつ)するの後(のち)は神像(しんさう)の所在(しよさい)も定(さたか)  ならさりしに寛永(くはんえい)年間 長盛法印(ちやうせいほふいん)霊爾(れいし)によりて感得(かんとく)す 《割書:今(いま)当社(たうしや)より|十二町はかり》  《割書:東(ひかし)の方(かた)砂村(すなむら)の海浜(かいひん)に元八幡宮(もとはちまんくう)と|称(しよう)する宮居(みやゐ)あり当社(たうしや)の旧地(きうち)といふ》 依(よつて)此地(このち)に当社(たうしや)を創建(さうこん)すといへともいまた  華構(くはこう)の錺(かさり)におよはす唯(たゝ)茅茨(はうし)の営(いとなみ)をなすのみ然(しか)るに大和国(やまとのくに)生駒山(いこまさん)  の開基(かいき)宝山師(はうさんし)正保(しやうほ)三年丙戌 永代寺(えいたいし)周光阿闍梨(しゆうくわうあしやり)の法弟(ほふてい)となり寛文(くはんふん)  四年の頃(ころ)霊夢(れいむ)を感(かん)し宮社(きうしや)を経営(けいえい)す日あらすして落成(らくせい)し結構(けつこう)  備(そな)はるしかありしより以降(このかた)神光(しんくわう)日々(ひゝ)に新(あらた)にして河東(かとう)第一(たいいち)の宮居(みやゐ)と  なれり当社(たうしや)の額(かく)に八幡宮(はちまんくう)と書したるは青蓮院宮尊証法親王(しやうれんゐんのみやそんしようほふしんわう)の  真蹟(しんせき)なり社内(しやない)末社(まつしや)多(おほ)し依(よつて)悉(こと〳〵)く是(これ)を略(りやく)す  当社四隅鎮守(たうしやよすみのちんしゆ) 艮隅(うしとら) 蛭子宮(ゑひすのみや) 《割書:宮川町(みやかはちやう)の|川端(かははた)にあり》 巽隅(たつみ) 荒神宮(くわうしんくう) 《割書:入船町(いりふねちやう)の道(みち)の傍(かたはら)に|あり》  坤隅(ひつしさる) 摩利支天宮(まりしてんくう) 《割書:永代寺門前(えいたいしもんせん)|仲町(なかちやう)の南(みなみ)にあり》 乾隅(いぬゐ) 大勝金剛宮(たいしようこんかうくう) 《割書:同所 黒江町(くろえちやう)に|あり》  園女桜(そのめさくら) 《割書:永代寺(えいたいし)林泉(りんせん)のうちにあり正徳(しやうとく)年間 園女(そのめ)といひて俳諧(はいかい)を好(この)める婦女(ふちよ)これを植(うゑ)たりと|いへり歌仙桜(かせんさくら)とも名(な)つく今(いまは)枯(かれ)てわつかに存(そん)せりその頃(ころ)三十六 株(ちゆう)ありしゆゑに歌仙(かせん)とは名(な)つけたりしとなり》  二華表(にのとりゐ) 《割書:惣門(そうもん)の前(まへ)にあり石(いし)をもて製(せい)す左右の柱(はしら)に銘文(めいふん)を刻(こく)す此文(このふん)は鳴島氏(なるしまうち)撰(せん)する所(ところ)にして書(しよ)は|赤井得水(あかゐとくすい)なり其文(そのふん)左(さ)のことし》   富賀岡八幡神祠石華表銘並序   維著雍敦牂之歳都下人某某等拾柒名戮力率銭   建富岡八播祠歬石華表凡厥高壱丈伍尺左右中   間称焉石以代木備不朽也厥石取諸相之土肥山   焉蓋此挙也欽祈 国家旁及自祷云𨔁具状来諏   鳳卿以文之鳳卿聞之采■【憼ヵ】采蘋可薦於鬼神忠信   由中也而況於不朽周之所帰風之所自於是乎観   人載 上之心矣神之歆可知也因叙厥載勒右柱   銘以繋左柱亦其所需也   銘云   繄昔応神 帝徳恊天 発跡于豊 男山之遷   威霝顕赫 奕世且千 邈矣東海 斎祠壱公   惟石之柱 礱之祠前 懇祈報𤦒 私祷相延   敦忠祗粛 神監昭然 幽宮陰騭 福釐永年    元文戊午夏五月           東都中秘書監源鳳卿子陽甫撰           得水赤井啓拝書  山開(やまひらき) 《割書:毎年(まいねん)三月廿一日 弘法大師(こうほふたいし)の御影供(みえいく)を修行(しゆきやう)す此日より同廿八まて当社(たうしや)別当(へつたう)永代寺(えいたいし)の林泉(りんせん)|をひらきて諸人(しよにん)に見物(けんふつ)をゆるす俗(そく)に山開(やまひらき)ととなへて大(おほひ)に群衆(くんしふ)す》  祭礼(さいれい) 《割書:隔年(かくねん)八月十五日に執行(しゆきやう)す此日 神輿(しんよ)三基(さんき)本所(ほんしよ)一(いち)の橋(はし)の南(みなみ)蔵舟浦(おふなくら)【御船蔵ヵ】の前(まへ)なる行祠(おたひしよ)へ神幸(しんかう)同日|帰輿(きよ)すこの祭礼(さいれい)は寛永(くはんえい)二十年癸未八月十五日 初(はしめ)て執行(しゆきやう)ありけるより連綿(れんめん)たるよし江戸名所(えとめいしよ)》  《割書:記(き)にみえたりまた慶安(けいあん)四年の秋(あき)天下泰平(てんかたいへい)の御祷(おむいのり)の為(ため)相州(さうしう)鎌倉(かまくら)鶴岡八幡宮(つるかをかはちまんくう)の法式(ほふしき)を摸(うつ)して|当社(たうしや)に流鏑馬(やふさめ)をはしむ左右に仮屋(かりや)桟敷(さんしき)をかまへて是(これ)を見物(けんふつ)す貴賎(きせん)市(いち)をなせるよし同書に》  《割書:みえたり後世(こうせい)にいたり浅草(あさくさ)の三十三間 堂(たう)をこゝに遷(うつ)されたるも其(その)流鏑馬(やふさめ)の余風(よふう)によれる|ならん歟(か)》  当社門前一華表(たうしやもんせんいちのとりゐ)より内(うち)三四町か間(あひた)は両側(りやうかは)茶肆(ちやや)酒肉店(れうりや)軒(のき)を並(なら)へて常(つね)に  絃歌(けんか)の声(こゑ)絶(たえ)す殊(こと)に社頭(しやとう)には二軒茶屋(にけんちやや)と称(しよう)する貨食屋(れうりや)抔(なと)ありて  遊客(いうかく)絶(たえ)す牡蠣(かき)蜆(しゝみ)花蛤(はまくり)鰻鱺魚(うなき)の類(たく)ひを此地(このち)の名産(めいさん)とせり 三十三間堂(さんしふさんけんたう) 同所二町はかり東(ひかし)の方(かた)にあり相伝(あひつたふ)寛永(くはんえい)年間 《割書:或人云十九年|なりと》 大江戸(えと)  の弓師(ゆみし)備後(ひんこ)といへる者(もの)射術稽古(しやしゆつけいこ)の為(ため)京師(みやこ)蓮華王院(れんけわうゐん)を摸(うつ)して三十三  間 堂(たう)を創立(さうりふ)せん事(こと)を乞(こふ)依(よつて)浅草(あさくさ)において地(ち)を賜(たま)ひ諸家(しよけ)に勧進(くはんしん)し  て建立(こんりふ)の功(こう)を募(つの)るこゝに於て同十九年壬午十一月 普請落成(ふしんらくせい)す 《割書:浅草(あさくさ)|清水寺(せいすゐし)》 【挿し絵】 永代寺山開(えいたいしやまひらき)  毎年三月廿一日より  同廿八日迠のうち  林泉(りんせん)をひらきて  諸人(しよにん)に見せしむ 【挿し絵、永代寺山開のつづき】 其 二 【挿し絵、永代寺山開のつづき】 其 三 【本文】  《割書:の辺(ほとり)を今(いま)矢崎(やさき)と字(あさな)するは三十三間 堂(たう)の旧地(きうち)なれはなりその地(ち)|今(いま)は町家(まちや)となれり俗間(そくかん)堂前(たうまへ)と唱(とな)ふるも三十三間 堂(たふ)の前(まへ)と云(いふ)へき略語(りやくこ)也》 然(しか)るに元禄(けんろく)十一年戊寅九月  回録(くはいろく)の災(わさはひ)に罹(かゝり)て灰燼(くはいしん)せしかは其後(そののち)今(いま)の地(ち)に移(うつ)させられたりとなり  《割書:江戸(えと)三十三間 堂(たふ)矢数帳(やかすちやう)に慈眼大師(しけんたいし)の発起(ほつき)なりとあり又 一説(いつせつ)にむかし森刑部直義(もりきやうふなほよし)といへる射術(しやしゆつ)一(いち)|流(りう)の武士(ものゝふ)これを建立(こんりふ)し江戸射術(えとしやしゆつ)の達人(たつしん)数輩(すはい)と共(とも)に力(ちから)を尽(つく)せし所(ところ)なりともいへり》 洲崎弁財天(すさきへんさいてん)社 同所 東(ひかし)の方(かた)洲崎(すさき)にあり別当(へつたう)を吉祥院(きちしやうゐん)と号(かう)す本尊(ほんそん)  弁財天女(へんさいてんによ)の像(さう)は弘法大師(こうほふたいし)の作(さく)といふ相伝(あひつたふ)元禄(けんろく)年間 深津氏正隆(ふかつうちまさたか)  台命(たいめい)を奉(ほう)し八幡宮(はちまんくう)より東(ひかし)の方(かた)の海浜(かいひん)を築立(つきたて)て陸地(くか)とす依(よつて)同  十三年庚辰 護持院(こちゐん)の大僧正(たいそうしやう)隆光(りうくわう) 《割書:字(あさな)栄春(えいしゆん)|河辺氏(かはへうち)》 此地(このち)に天女(てんによ)の宮居(みやゐ)を建立(こんりふ)すと  なり  此地(このち)は海岸(かいかん)にして佳景(かけい)なり殊更(ことさら)弥生(やよひ)の潮尽(しほひ)には都下(とか)の貴賎(きせん)袖(そて)を連(つらね)  て真砂(まさこ)の文蛤(はまくり)を捜(さく)り又(また)は楼船(ろうせん)を浮(うか)へて妓婦(きふ)の絃歌(けんか)に興(きよう)を催(もよほ)  すもありて尤(もつとも)春色(しゆんしよく)を添(そふ)るの一奇観(いつきくはん)たり又 冬月(とうけつ)千鳥(ちとり)にも名(な)を得(え)たり 長光山陽岳寺(ちやうくわうさんやうかくし) 深川(ふかかは)富岡橋(とみをかはし)の北詰(きたつめ)横(よこ)小路(こふち)にあり妙心寺派(めうしんしは)の禅宗(せんしう)に  して本尊(ほんそん)観音大士(くはんおむたいし)の像(さう)は恵心僧都(ゑしんそうつ)の作(さく)なりと云 向井氏忠勝(むかゐうちたゝかつ)開(かい) 【挿し絵】  此地(このち)は江都(かうと)東南(とうなん)の  佳境(かきやう)にして月(つき)に花(はな)に  四時(しいし)の勝趣(しようしゆ)多(おほ)かる  中(なか)に取(とり)わきて初雪(はつゆき)  の頃(ころ)なとには都下(とか)の  騒人(さうしん)こゝにつとひ  来(き)つゝ亭中(ていちう)の静閑(せいかん)を  賞(しやう)して一杯(いつはい)を酌(くみ)かわし  ては酔興(すゐきやう)のあまり  冬篭(ふゆごも)る梅(むめ)の木(こ)の本(もと)  秋(あき)ならは尾花(おはな)苅(かり)しき  一夜(ひとよ)の夢(ゆめ)を結(むす)ふもまた  多(おほ)かりぬべし  二軒茶屋(にけんちやや)  雪中遊宴之図(せつちゆういうえむのつ) 【挿し絵】 三十三間堂(さんしふさんけんたう) 五元集  新三十三間     堂にて  若草や   きのふの    箭見      も   木綿    うり    其角 【挿し絵】 洲崎(すさき)  弁財天(へんさいてん)社 【図中】 別当 本社 銅仏 とほめ かね  あり【遠眼鏡あり】 茶や 木場 料理や 料理や 波除碑 【挿し絵】 砂村(すなむら) 富岡元八幡宮(とみかをかもとはちまんくう)   洲崎弁天(すさきへんてん)より   十八丁あまり東(ひかし)   の海浜(かいひん)にあり   深川八幡宮(ふかかははちまんくう)の   旧地(きうち)なりと       いへり 【図中】 此辺  矢竹   多し 水神 弁天 いなり 本社 御供所 道祖神 此辺  矢竹   多し 【挿し絵】 深川(ふかかは)  木場(きは) 橋台に  菜の   花  さけり 舟  わたし  宗瑞 【陽岳寺の続き】  基(き)の精舎(しやうしや)にして文室和尚(ふんしつおしやう)を開山(かいさん)とす 《割書:陽岳(やうかく)は向井(むかゐ)|氏(うち)の法号(ほふかう)なり》 和尚(おしやう)は相州(さうしう)三崎(みさき)見(けん)  桃寺(たうし)白室和尚(はくしつおしやう)の法弟(ほふてい)なり 《割書:見桃寺(けんたうし)も領主(りやうしゆ)向井(氏(むかゐうち)|布金(ふきん)の道場(たうしやう)なりといふ》  出山釈迦如来(しゆつさんのしやかによら□)像 《割書:立像(りふさう)三尺はかりあり極(きはめ)て妙作(めうさく)なり坪内大隅正勝(つほのうちおほすみまさかつ)といへる人(ひと)当寺(たうし)文室(ふんしつ)|和尚(おしやう)の需(もとめ)に応(おう)して彫刻(てうこく)せしよし寺記(しき)にみえたり》  二代目 英一蝶墳墓(はなふさいつてうのふんほ) 《割書:当寺(たうし)卵塔(らんたふ)の中(うち)にあり碑面(ひめん)に機外道輪信士(きくわいたうりんしんし)元文(けんふん)二年丁巳閏十一月十二日|と記(しる)してあり通称(つうしよう)は長八 名(な)は信勝(のふかつ)といふ》 永寿山海福寺(えいしゆさんかいふくし) 同所寺町 通(とほ)り中程(なかほと)の右側(みきかは)にあり黄檗派(わうはくは)の禅林(せんりん)にして  江戸触頭(えとふれかしら)二箇寺(にかし)の一員(いちゐん)たり万治(まんち)元年戊戌の創建(そうこん)開山(かいさん)は隠元禅師(いんけんせんし)  中興(ちゆうこう)は独本和尚(とくほんおしやう)なり本尊(ほんそん)釈迦如来(しやかによらい)左右に迦葉(かせふ)阿難(あなん)十六 阿羅漢(あらかん)等(とう)  の像(さう)を安(あん)す開山(かいさん)隠元禅師(いんけんせんし)の肖像(せうさう)もあり 【挿し絵1】 大 徳? 宝 殿  仏殿(ふつてん) 《割書:額(かく)は二重|家根に》  《割書:掲(かく)る開山(かいさん)隠元禅師(いんけんせんし)の|筆(ふて)なり》 【挿し絵2】 無 尽 灯  《割書:本尊(ほんそん)の上(うへ)に|掲(かく)る額筆(かくひつ)》  《割書:者(しやい)かみに|おなし》 【挿し絵3】 妙相瑞発?万丈?玉亀長現瑞 慈門弘■千秋福?海尽来朝  聯(れん) 《割書:本尊(ほんそん)|の左(さ)》  《割書:右(いう)柱(はしら)に掲(かく)る|同し筆(ふて)なり》 【挿し絵4】 金■■二妙道■隆前?万代 禅刹中興法雷?振■■千秋  聯(れん) 《割書:同し前(まへ)の柱(はしら)に|掲(かく)る当寺七世》  《割書:対州和尚(つ?いしうおしやう)の筆(ふて)|なり》 【挿し絵5】 天 王 殿  天王殿(てんわうてん) 《割書:内(うち)に|関帝(くはんてい)の》  《割書:像(さう)を安(あん)す額(かく)は二(に)|階(かい)の軒(のき)にかくる》 【挿し絵6】 ■国衆?民風高■而潤?■ 降魔捕正法■■以安宇  聯(れん) 《割書:おなし|左右の》  《割書:はしらに掲(かく)る|大鵬(たいほう)の筆》 【挿し絵7】 鐘 楼  《割書:花鯨(かね)の銘文(めいふん)は隠(いん)|元禅師(けんせんし)撰(せん)する所(ところ)》  《割書:なり|其文(そのふん)左(さ)のことし》   当山洪鐘者寛文壬子年石川政勝本住居士捐之   為大福田因請銘乎 開山隠老和尚永令垂不朽   也時天和二年壬戌之冬劫火俄起焔燎殿宇巨器   等■者同氏思失先亡之本願忻然鳩金重新造焉   及乎竣工知事来乞銘遂再挙此以鐫其上銘曰   大化炉内 一火鋳成 中虚而寂 有扣則鳴   洪音嘹喨 醒覚群生 禅林令振 地府業軽   返聞自性 寂寂惺惺 寿源綿衍 福海澄清   化風永扇 家国昇平 覚王声教 大矣難名   開山八十一翁隠元琦謹題    右   天和三年癸亥小陽吉日 臨済正宗三十三世    永寿山海福禅師住持沙門独本和尚南謹識    檀主  石川氏《割書:正之|正茂》     冶工武州江戸居住中村喜兵衛斎藤正次  九層塔(きうそうのたふ)《割書:寺境(しきやう)池(いけ)のかたはらにあり高(たかさ)一丈はかりの石(いし)の塔(たふ)なり相伝(あひつた)ふ武田信玄(たkたしんけん)の|ものなりとむかし土屋氏某(つちやうちそれかし)これを持伝(もちつた)へしか当寺(たうし)へうつし建(たつ)るといへり》 【挿し絵】 総高一丈余 【本文】 採荼庵旧蹟(さいとあんのきうせき) 同所 平野町(ひらのちやう)にあり俳諧師(はいかいし)杉風子(さんふうし)の庵室(あんしつ)なり杉風(さんふう)本国(ほんこく)は  参州(さんしう)にして杉山氏(すきやまうち)なり杉山氏(すきやまうち)なり鯉屋(こひや)と唱(とな)へ大江戸(えと)の小田原町(をたはらちやう)に住(すむ)て魚售(なや)たり  後(のち)隠棲(いんせい)して一元(いちけん)と号(かう)す 《割書:蓑翁(すゐをう)蓑 杖(ちやう)|等(とう)と号(な)あり》 常(つね)に俳諧(はいかい)を好(この)み壇林(たんりん)風(ふう)を慕(した)ひ  のち芭蕉翁(はせををう)を師(し)として此 筵(むしろ)に遊(あそ)ふ事(こと)凡六十年 翁(おきな)常(つね)に興(きよう)せられ  て云く去来(きよらい)は西(にし)三十三 箇国(かこく)杉風(さんふう)は東(ひかし)三十三 箇国(かこく)の俳諧奉行(はいかいふきやう)なり  と 《割書:かはかりこの道(みち)の達人(たつしん)なりしなり杉風(さんふう)一(いつ)に芭蕉庵(はせをあん)の号(な)ありしか後(のち)桃青翁(たうせいをう)にゆつれり其(その)旧地(きうち)は|次(つき)の芭蕉庵(はせをあん)の条下(てうか)に詳(つまひらか)なり享保(きやうほ)十七年壬子六月十三日八十六歳にして没(ほつ)せり西本願寺(にしほんくわんし)の中(うち)成勝寺(しやうしようし)に》  《割書:塔(たふ)す|》   杉風句集 予閑居採荼庵それかかきねに      秋萩をうつしうゑて初秋の風ほのかに      露おきわたしたるゆふへ    白露もこほれぬ萩のうねりかな  はせを     このあはれにひかれて    萩うゑてひとり見ならふやま路かな  杉風     時雨    深川は月も時雨る夜かせかな  同     深川にとしくれて   川の音薮の起臥としくれぬ  同 法苑山淨心寺(ほふをむさんしやうしんし) 同し通(とほ)り正覚寺橋(しやうかくしはし)より北(きた)の方(かた)右 側(かは)にあり日蓮宗(にちれんしう)甲斐(かひの)  国(くに)身延山(にほふさん)に属(そく)す乃(すなはち)身延山(みのふさん)の弘通所(くつうしよ)と称(しよう)せり万治(まんち)元年戊戌 創建(さうこん)の  寺院(しゐん)にして開山(かいさん)は通遠院(つうをんゐん)日義上人(にちきしやうにん)と号(かう)す中興(ちゆうこう)は覚成院(かくしやうゐん)日念上人(にちねんしやうにん)  たり本尊(ほんそん)に釈迦如来(しやかによらい)の像(さう)を安(あん)す 《割書:この本尊(ほんそん)は延山(えむさん)の日脱師(にちたつし)より日念(にちねん)上人 授与(しゆよ)|ありて当寺(たうし)にうつしたてまつるとなり》 【挿し絵】 海福寺(かいふくし)  武田信玄(たけたしんけん)の  持(もち)つたへたりと  云(いふ)石(いし)の塔(たふ)  壱基(いつき)  堂前池(たうせんいけ)の    傍(かたはら)に     あり 【図中】 北条 石門 仏殿 天王殿 鐘楼 増林寺 九重塔 正覚寺橋通り  祖師堂(そしたう) 《割書:本堂(ほんたう)の左にならふ|日蓮(にちれん)上人の像(さう)を安(あん)す》 七面堂(しちめんたう) 《割書:同し堂前(たうせん)にあり当寺(たうし)の鎮守(ちんしゆ)とあかむ此(この)七面尊(しちめんそん)|は身延山(みのふさん)奥(おく)の院(ゐん)の七面(しちめん)と同作(とうさく)にてかしこより》  《割書:当寺(たうし)に遷(うつ)すと|いふ》  相伝(あひつたふ)当寺(たうし)は浄心院殿妙秀大姉(しやうしんゐんてんめうしうたいし)の菩提(ほたい)を吊(とむら)はせ給はんか為(ため)に御建(ここん)  立(りふ)ありし精舎(しやうしや)なりと当時(そのかみ)浄心尼(しやうしんに)は小堀正一(こほりまさかつ)入道(にうたう)宗甫(そうほ)の妾(せふ)なり 寛永(くはんえい)十八年辛巳  大樹(たいしゆ)  御誕生(こたんしやう)ありし頃(ころ)正一入道(まさかつにうたう)の忠心(ちゆうしん)を 補(おきな)ふの一分(いちふん)に備(そなへ)んと春日(かすか)の局(つほね)に就(つい)て 御乳母(おんめのと)となり 大樹(たいしゆ)を育(いく)し奉(たてまつ)る故(ゆゑ)に浄心尼(しやうしんに)卒(そつ)するの後(のち)も猶(なほ)生前(しやうせん)の勤労(きんらう)を思召(おほしめし)出(いた) され万治(まんち)元年戊戌当寺(たうし)境内(けいたい)若干(そくはく)の地(ち)を封(ほう)し賜(たま)ひ又 当舎(たうしや)経(けい) 営(えい)の料(れう)として大(おほい)に資財(しさい)を喜捨(きしや)し給ひ日義(にちき)上人をして当寺(たうし)開山(かいさん)たらしむ乃(すなはち)浄心尼(しやうしんに)の遺廟(ゆゐへう)を建(たて)又 香燭(かうしよく)の料(れう)として同三年庚子 寺(し) 産(さん)を付(ふ)せられたり 《割書:当寺(たうし)境内(けいたい)に阿部侯(あへこう)侍従(ししゆう)忠秋(たゝあき)の母堂(ほたう)加藤主計頭(かとうかすへのかみ)清正(きよまさ)の息女(しくしよ)蓮成院(れんしやうゐん)|殿日宗(てんにつそう)大姉の墓(はか)あり》 道本山霊巌寺(たうほんさんれいかんし) 同し北(きた)に隣(とな)る浄土宗(しやうとしう)関東(くはんとう)十八檀林(しふはちたんりん)の一室(いつしつ)にして宏壮(くわうさう)の  梵刹(ほんせつ)なり本尊(ほんそん)は阿弥陀如来(あみたによらい)開山(かいさん)は霊巌和尚(れいかんおしやう)たり 《割書:和尚 諱(いみな)は松風檀蓮社(しようふうたんれんしや)|雄誉(をうよ)と号(かう)す浄土高僧(しやうとかうそう)》  《割書:伝(てん)に姓(せい)は里見氏(さとみうち)南総小糸(なんそうこいと)の産(さん)なり十三歳 同県(とうけん)青竜寺(せいりやうし)の秀岩師(しうかんし)の室(しつ)に入 剃染(ていせん)す其性(そのせい)明敏(めいひん)に|して寔(まこと)に檀林(たんりん)の英(えい)たり寛永(くはんえい)十八年九月一日 化寂(けしやく)す報寿(はうしゆ)八十云々又 浄土伝灯系図(しやうとてんとうけいつ)に南総(なんそう)》  《割書:天羽郡(あまはこほり)佐貫(さぬき)の人或云 讃州(さんしう)府中(ふちゆう)の産(さん)姓(せい)は今川氏(いまかはうち)沼津(ぬまつ)浄運院(しやううんゐん)開山(かいさん)の|法嗣(ほふし)なりと和尚 開創(かいさう)の精舎(しやうしや)数箇寺(すかし)あり枚挙(まいきよ)にいとまあらす依(よつて)是(これ)を略(りやく)す》 台旨(たいし)によりて  寺産(しさん)を付(ふ)せらる寮舎(れうしや)僧坊(そうはう)甍(いらか)を連(つら)ねて魏然(きせん)たり正元坊(しやうけんはう)か造立(さうりふ)  せし銅像(とうさう)の地蔵尊(ちさうそん)は大江戸六地蔵の一員(いちゐむ)にして総門(そうもん)の内(うち)正面(しやうめん)に  対(むか)ふ毎歳四月朔日より同十日まて阿弥陀経千部(あみたきやうせんふ)読誦修行(とくしゆしゆきやう)あるか  ゆへに道俗(たうそく)群詣(くんけい)せり  相伝(あひつたふ)寛永(くはんえい)年間 当寺(たうし)開山(かいさん)霊巌和尚(れいかんおしやう)或日(あるひ)大江戸の東渚(とうしよ)を顧(かへりみ)て侍(し)  者(しや)に謂(いつ)て云く我 大藍(てら)を此地に建(たて)む侍者(ししや)の云く江潮(こうてう)浪(なみ)高(たか)く鉢(はつ)  盂(う)底(そこ)空(むな)し爭(いかて)巨楹碩梁(きよえいせきりやう)を架(か)せん師(し)笑(わらつて)云く俟(まて)夫(それ)日あらん於是(こゝにおいて)師(し)  化疏(けそ)を筆(ひつ)し諸檀家(しよたんか)を勧励(くはんれい)す一簀(いつき)毎(こと)に十念(しふねん)して脈譜(みやくふ)を結縁(けちえん)する  か故に四輩(しはい)競靡(きそひなひき)広汀(くわうてい)日あらすして陸地(くろ)となる 《割書:今 霊巌島(れいかんしま)と|称(しよう)するは其 旧地(きうち)也》 其地早く  成て梵刹(ほんせつ)を開創(かいさう)し霊巌寺(れいかんし)と号すこゝに於て学資(かくし)五十石を給ふ  爾(しかりしより)法幢(ほつとう)盛(さかん)に起(おこり)て五百の義竜(きりよう)恆(つね)に蟠(わたかま)る然に珂山(かさん)和尚の世 《割書:当寺第二世|松蓮社大誉(しようれんしやたいよ)》  《割書:頑魯(くはんろ)と号(かう)す|泉州堺(せんしうさかい)の人也》 明暦(めいれき)丁酉の回録(くはいろく)に罹(かゝ)り悉(こと〳〵く)灰燼(くはいしん)となるの後今の地に移(うつ)  さるゝといへり其頃(そのころ)は今の地も海浜(かいひん)にして軏(たやすく)寺院(しゐん)構営(こうえい)もなりかた  かりしを珂碩和尚(かせきおしやう) 《割書:珂山和尚の弟子にして|奥沢九品仏(おくさはくほんふつ)の開基(かいき)也》 十方に勧進(くはんしん)して地を築固(つきかた)め諸(しよ)  堂(たう)を建立(こんりふ)せられしとなり 当知山本誓寺(たうちさんほんせいし) 重願院(ちゆうくはんゐん)と号す同通りの向側にあり浄土宗江戸四  箇寺(かし)の一員(いちゐむ)たり 《割書:京都(みやこ)知恩院(ちおんゐん)|に属(そく)せり》 唐仏(たうふつ)の阿弥陀如来を本尊とす  相伝(あひつたふ)此本尊は相州小田原の漁者(きよしや) 《割書:其名を|詳(つまひらか)にせす》 魚網(きよまう)を沈(ちん)して彼(かの)地の海中  に得(え)て後(のち)霊示(れいし)に任(まか)せ当寺に安し奉るといへり当寺往古は小田原に  ありて伝蓮社曜誉酉冏(てんれんしやえうよいうけい)和尚 《割書:酉冏師は北総飯沼(ほくそういひぬま)|弘経寺(くきやうし)の第三世也》 創建(さうけん)し藤枝氏(ふちえたうち)開基(かいき)の  精舎(しやうしや)なりしか文禄(ふんろく)四年丁未 厳命(けんめい)に依寺を大江戸に移す 《割書:其|旧》  《割書:地は今の御廓内(おんくるはうち)|日比谷(ひゝや)御門の辺なり》 貞蓮社大誉れ(しやうれんしやたいよ)上人文賀和尚 中興(ちゆうこう)の開祖となる 《割書:伝灯系図(てんとうけいつ)|に念誉(ねんよ)と》  《割書:あり俗姓(そくしやう)は田中氏相州小田原の人なり無双の|碩学(せきかく)にして門下に名僧おほしといへり》 其後馬喰町の辺にて地を賜(たま)ひし頃  水戸中納言頼房卿(みとちゆうなこんよりふさきやう)の御母堂(おんほたう)英勝院殿(えいしようゐんてん)当寺を修造(しゆさう)なし給へり 《割書:当寺もと|馬喰町に》  《割書:ありし頃まては朝鮮(てうせん)の三使(さんし)来聘(らいへい)のみきりは鴻臚館(こうろくはん)たり天和二年 回録(くはいろく)の後今の地にうつりてよりは|東本願寺(ひかしほんくわんし)を以て朝鮮(てうせん)人の旅館(りよくはん)に定め給へり》  地蔵尊石像(ちさうそんせきさう) 《割書:当寺 境内(けいたい)に安置(あんち)す始(はしめ)は卵塔(らんたふ)の中にありて人の印の石なりしか享保(きやうほ)の|霊験(れいけん)ありとて大に群集まる(くんしふ)せしとなり今一宇の香堂(みたう)を建(たて)てこれを安置(あんち)す奇(き)》  《割書:願(くはん)するに猶(なを)霊応(れいおう)|いちしるしといへり》 一蝶寺(いつてふてら) 同所東の方 海辺(うみへ)新田(うみへしんてん)薮(やふ)の内(うち)にあり京師(みやこ)妙心寺(めうしんし)派の禅(せん)  宗(しう)蒼竜山(さうりうさん)宜雲寺(きうんし)と号す元禄(けんろく)七年甲戌 創建(そうこん)の梵園(ほんゑむ)にして卓禅(たくせん)  和尚開山たり英一蝶翁(はなふさいつてふをう)曽(かつて)当寺に寓居(くうきよ)す其頃の遊(すさみ)とて仏殿(ふつてん)僧房(そうはう)  等(とう)の屏障(へいしやう)悉(こと〳〵)く翁(おきな)の画(ゑ)なり故に世俗(せそく)一蝶寺(いつてふてら)と字(あさな)す 《割書:一蝶の伝は第三巻|に見へたり》 日照山法禅寺(につせうさんほふせんし) 同所南の小路にあり浄土宗にして都師(みやこ)知恩院(ちおんゐん)に属(そく)す  本尊阿弥陀如来の像(さう)は仏工(ふつこう)安阿弥(あんあみ)の作なり 《割書:世に海中 出現(しゆつけん)の|霊像(れいさう)と称(しよう)す》 左右二十五  菩薩(ほさつ)の像(さう)は雲中に羅列(られつ)して常は行者を護念(こねん)し賜(たま)ふ所の体粧(ていしやう)  を模擬(ほき)す 《割書:奥院(おくのゐん)と称(しよう)するもまた極楽(こくらく)上品上生の体相(ていさう)ありて|荘厳(しやうこん)すこふる美(ひ)を尽(つく)せり故に世俗(せそく)極楽寺(こくらくし)と字す》 開山は長蓮社英誉心(ちやうれんしやえいよしん)  阿(あ)上人と号す 《割書:慶長(けいちやう)七年九月|廿二日に化寂(けしやく)す》 濃州(しやうしう)恵那郡(えなこほり)粕塚(かすつか)の住人(ちゆうにん)俗性(そくしやう)は伊賀氏(いかうち)  にして三郎五郎則俊(のりとし)と号く 《割書:伊賀左衛門佐 則吉(のりよし)の|三男なり後伊賀守に改む》 弘治(こうち)元年乙卯粕塚に  一城(いちしやう)を築(きつ)き江田(えた)の城(しろ)と号けかしこに居住(きよちゆう)す 《割書:斎藤山城守(さいとうやましろのかみ)の籏下(きか)たりしか永禄(えいろく)|三年 織田家(をたけ)に随(したか)ふ終(つい)に信長(のふなか)の》  《割書:為に|亡(ほろほ)さる》 後出家して駿州(すんしう)に至り中島と云地に閑居(かんきよ)をかまへ多良庵(たらうあん)  と号け雲碩(うんせき)と改めて浄業(しやうこふ)を修行(しゆきやう)しけるに 《割書:多良庵今|了善院(れうせんゐん)と云》 天正十八年関東  御打入(おんうちいり)の頃(ころ)道徳殊勝(たうとくしゆしよう)の聞へあるを以大江戸に召れ品川にをひて寺  境(ち)を賜(たま)ふ 《割書:今品川にも|法禅寺(ほふせんし)あり》其後 文禄(ふんろく)二年癸巳道三河岸へ移(うつ)され又柳原へ  地を替させられたりしか終(つい)に天和三年に至りて今の地にうつる 《割書:むか|し》  《割書:御城辺にありし頃は正月三元日の間ははゝかりて鉦鼓(しやうこ)を鳴(ならさ)さりしとそ|其 旧例(きうれい)にしたかひ今も正月三元日の間は鉦鼓を鳴さすといへり》 竜徳山雲光院(りふとくさんうんくわうゐん) 光巌教寺(くわうかんけうし)と号す同所西に隣(とな)る浄土宗江戸 四箇(しか)  寺の一にして本尊阿弥陀如来の像(さう)は京師(けいし)東山獅子谷 忍徴(にんちよう)上人  の作といふ開山は還蓮社往誉(くはんれんしやわうよ)上人 潮呑(てうとん)和尚と号す 《割書:観智国師(くはんちこくし)の法嗣(ほふし)に|して黒谷 清心庵(せいしんあん)》  《割書:に寂(しやく)|せり》 本願(ほんくはん)は阿茶局(あちやのつほね)なり 《割書:甲州(かうしう)武田家(たけたけ)の臣(しん)飯田(いひた)筑後守(ちくこのかみ)の孫同久左衛門某の女(むすめ)にして|後に駿州(すんしう)今川氏 義元(よしもと)の士神尾孫兵衛 久宗(ひさむね)の室(しつ)となる》  《割書:同 刑部少輔(きやうふのせういふ)|守世(もりよ)の母也》 局(つほね)は 大将軍家 泥近(ちつきん)の侍女(しちよ)にして元和(けんわ)六年庚午  女御(にようこ) 入内(しゆたい)の時 供奉(くふ)の功により従一位に叙(しよ)せらる当寺 創開(さうかい)の  砌も黄金二千枚をよひ堂材(たうさい)を下し賜(たま)ふ 《割書:雲光院(うんくはうゐん)は局(つほね)の法号(ほふかう)也雲光院|殿(てん)従一位尼公(しゆいちゐにこう)松誉周栄大姉(しようよしうえいたいし)》  《割書:と号(かう)すむかし柳原堤(やなきはらつゝみ)の南にありし頃(ころ)は当寺を光巌寺(くわうかんし)と号せり|天和二年 回録(くはいろく)の災(わさはい)にかゝる依おなしく三年今の地に移(うつ)れり》 雲光院(うんくわうゐん)の三大字(さんたいし)の  額(かく)は 後水尾帝(こみをのみかと)の勅(みことにり)を奉して良恕法親王(りやうしよほふしんわう)筆を染られしと  いふ 《割書:昔は堂に掲(かく)る今は|開山堂に収(おさめ)てあり》 五本松(こほんまつ) 同所 小名木川(をなきかは)通り大島にあり 《割書:或人云 旧名(きうめい)女木三谷(をなきさんや)なりと古き江戸|の図にうなき沢とも書り江戸 雀(すゝめ)》  《割書:小奈木川(をなきかは)に作る又此地に鍋匠(なへつくり)の家ある|故に俗間(そくかん)字(あさな)して鍋谷堀とよへり》 九鬼家(くきけ)の構(かまへ)の中(うち)より道路(たうろ)を越て水  面を覆(おほ)ふ所の古松をいふ 《割書:昔は此川筋に同し程の古松(こしよう)五株(こちゆう)まてありし|となり他(た)は枯(かれ)てたゝ此 松樹(まつ)のみ今猶 蒼々(さう〳〵)たり》 又此  川を隔(へたて)て南岸の地は知恩院宮尊空法親皇(ちおんゐんのみやそんくうほふしんわう)御幽棲(こいうせい)の旧跡(きうせき)な  り 《割書:同巻本所 霊山寺(りやうせんし)の|条下(てうか)を合せみるへし》 天王山霊雲院(てんわうさんれいうんゐん) 清澄(きよすみ)町大川の端(はた)万年橋(まんねんはし)の南 詰(つめ)にあり禅宗(せんしう)にして  武州(ふしう)越生(をこせ)の竜隠寺(りうをんし)に属(そく)す本尊は聖観世音(しやうくはんせおむ)開山(かいさん)は放光明東明(はうくわうみやうとうめい)  和尚(おしやう)と号く宝暦(はうりやく)七年丁巳 台命(たいめい)あり依創建(さうこん)する所の蘭若(てら)  なり 《割書:開基(かいき)の年歴(ねんれき)久しきにあらさるを|もて世俗(せそく)深川の新寺と称(とな)ふ》 【挿し絵】 深川(ふかかは)  霊雲院(れいうんゐん) 【図中】 霊雲院 ゑんしゆいなり 神明宮 芭蕉庵旧址(はせをあんのきうし) 同し橋の北詰(きたつめ)松平遠州候(まつたひらゑむしうこう)の庭中(ていちゆう)にありて古池(ふるいけ)の形(かたち)今  猶 存(そん)せりといふ延宝(えむはう)の末(すゑ)桃青翁(とうせいをう)伊賀国(いかのくに)より始(はしめ)て大江戸(おほえと)に来り  杉風(さんふう)か家に入後 剃髪(ていはつ)して素宣(そせん)と改む又 杉風子(さんふうし)より芭蕉庵(はせをあん)の  号(な)を譲請(ゆつりうけ)夫より後此地に庵(いほり)結ひ泊船堂(はくせんたう)と号(かう)す 《割書:杉風子(さんふうし)俗称(そくしやう)|を鯉屋(こひや)藤左衛門》 《割書: といふ江戸小田原(えとをたはら)町の魚牙(なや)子たりし頃(ころ)の籞(いけす)やしきなり後此 業(わさ)をもせさりしかは生洲(いけす)に| 魚もなく自(おのつから)水面(すいめん)に水草(みくさ)覆(おほ)ひしにより古池の如(こと)くになりしゆへに古池の口すさみあり》 《割書: しといへり|》   芭蕉を移す辞   菊は東籬にさかへ竹は北窓の君となる牡丹は紅白の是非ありて世塵にけかさる荷葉は   平地にたゝす水清からされは花咲すいつれの年にや棲を此境にうつす時芭蕉一もとを植ゆ   風土芭蕉の心にやかなひけん数株茎をそなへその葉茂りかさなりて庭をせはめ   萱か軒端もかくるゝはかりなり人呼て草庵の名とす旧友門人ともに愛して芽をかき   根をわかちて所々にをくる事年々になんなりぬ一とせみちのくの行脚おもひ立て芭蕉庵   すてに破れんとすれはかれは籬の隣に地をかへてあたり近き人〳〵に霜の覆ひ風のかこひ   なと頼置てはかなき筆のすさみにも書のこし松はひとりになりぬへきにやと遠き旅   寝のむねにたゝまり人〳〵のわかれ芭蕉のなこりひとかたならぬ侘しさも終に三年の   春秋を過してふたゝひはせをに涙をそゝく今年五月の半花橘のにほひもさすかに   遠からされは人〳〵の契りも昔にかはらす猶此あたりえたちさらて旧き庵もやゝちかう   三間の茅屋つき〳〵しう杉の柱いと清けに削なし竹の枝折戸やすらかに芦垣あつう   しわたし南に向ひ池に臨むて水楼となす地は富士に対して柴門景をすゝめてなゝめ   なり浙江の潮三股の淀にたゝへて月をみるたよりよろしけれは初月の夕より雲をいとひ   雨をくるしむ名月のよそほひにとてまつ芭蕉をうつす其葉ひろふして琴をおほふに   たれり或はなかは吹折て鳳鳥の尾を痛しめ青扇やふれて風を悲しむたま〳〵花咲   も花やかならす茎太けれとも斧にあたらすかの山中不材の類木にたくへてその性よし   僧懐素は是に筆をはしらしめ張横渠は新葉を見て修学の力とせしとなり予その   ふたつをとらすたゝこのかけに遊ひて風雨に破れやすきを愛す以上     古池や蛙とひこむ水のをと   はせを     花の雲鐘は上野か浅草か    同     芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉  同     明月や角へさしくる汐かしら  同     明月や池をめくりて夜もすから 同     初雪やさひはひ庵にまかりあり 同      いつれも此地にありし頃の吟詠なり 《割書: 翁(おきな)は伊賀国(いかのくに)上野(うへの)の産(さん)俗性(そくしやう)は松尾氏宗房(まつをうちむねふさ)といふ通称(つうしよう)は忠右衛門或は甚七郎とも号(なつく)るとそ実(しつ)に| 中興(ちゆうこう)の俳仙(はいせん)にして一家(いつか)の祖(そ)たり業(けふ)を拾穂軒季吟(しふすいけんききん)叟(そう)にうけて風月(ふうけつ)の才(さえ)に長(ちやう)す西行(さいきやう)宗祇(そうき)の》 《割書: 跡(あと)を追慕(ついほ)するの志(こころさし)ありて身(み)を風雲(ふううん)にまかせ生涯(しやうかい)遠遊(ゑむいう)を旨(むね)とし吉野(よしの)竜田(たつた)の花(はな)紅葉(もみち)に| うかれ更科(さらしな)越路(こしち)の月(つき)雪(ゆき)にさまよひ終(つひに)元禄七年十月十二日難波(なには)の偶居(くうきよ)にして身まかり》 《割書: ぬるよし其角(きかく)かあらはせる芭蕉翁(はせををう)| 終焉(しゆうえむ)の記(き)にみえたり》 神明宮(しんめいくう) 同所 森下(もりした)町にあり猿江(さるえ)の泉養寺(せんやうし)別当(へつたう)たり 《割書:天台宗東叡山(てんたいしうとうえいさん)|に属(そく)すこの寺(てら)》 【挿し絵】 芭蕉庵(はせをあん)  古池や    蛙   飛    こむ  水の    音   桃青 【本文】  《割書:むかしは社地(しやち)より南(みなみ)今(いま)の井上家(ゐのうへけ)|藩邸(はんてい)の地(ち)にありしとなり》 毎歳(まいさい)正月と九月の十三日には旧式(きうしき)の祭祀(まつり)あり  是(これ)を歩射(ふしや)と号(なつ)く相伝(あひつた)ふ昔(むかし)此地(このち)開創(かいさう)の里正(なぬし)深川(ふかかは)八郎右衛門 某(それかし)  宅地(たくち)に伊勢(いせ)両皇太神宮(りやうくわうたいしんくう)を勧請(くはんしやう)なし奉り泉養寺(せんやうし)の開山(かいさん)秀順法(しうしゆんほふ)  印(いむ)をして奉祀(ほうし)せしむるといふ此地(このち)は深川(ふかかは)氏 宅地(たくち)の旧跡(きうせき)なりといへり 《割書:付(ふし)て|いふ》 《割書: 泉養寺記録(せんやうしきろく)に深川(ふかかは)の起立(きりふ)の事実(ししつ)を載(のす)其略(そのりやく)に云く深川(ふかかは)の地(ち)往古(そのかみ)は広々(くわう〳〵)たる原野(けんや)なりしに| 其頃(そのころ)摂洲(せつしう)の産(さん)にて深川(ふかかは)八郎右衛門 某(それかし)と称(しよう)する人ありてこの地に居住(きよちゆう)す然るに慶長(けいちやう)元年丙申》 《割書: 大将軍家はしめて此地(このち)に至らせたまひ此八郎右衛門に地名を問(とは)せたまひしかと旧(もと)より此八郎右衛門の| 外(ほか)に住(すむ)人もなき荒広(くわう〳〵)の地(ち)なれは地名(ちめい)もなきよし答(こた)へ奉(たてまつ)りしに然らは汝(なんち)此地(このち)を開創(かいさう)し苗字(めうし)》 《割書: 深川(ふかかは)の文字(もんし)を地名(ちめい)に唱(とな)へまうすへき旨(むね) 厳命(けんめい)ありしより深川(ふかかは)の地名(ちめい)発(おこる)といふこの八郎右衛門の| 子孫(しそん)数世(すせい)此地に住(ちゆう)して里正(なぬし)たりしか宝暦(はうりやく)の頃(ころ)故(ゆへ)ありて其家(そのいへ)断絶(たんせつ)せりされと泉養寺(せんやうし)は八郎右衛門か》 《割書:香花院(ほたいしよ)なる故(ゆへ)に今も猶(なを)深川(ふかかは)氏 累世(るいせ)の墳墓(ふんほ)存(そん)せり同所 砂村新田(すなむらしんてん)の東(ひかし)に八郎右衛門 新田(しんてん)と称(となふ)る耕地(かうち)| あるも此人 開発(かいはつ)せし故(ゆへ)の名(な)なり今 土俗(とそく)字(あさな)して其地(そのち)を四十丁村とよへり》 《割書:  因(ちなみ)に云この泉養寺(せんやうし)の池(いけ)に重弁紅花(ちやうへんこうくは)の蓮(はちす)あり花形(くはきやう)牡丹(ほたん)に髣髴(さもに)たり故(ゆへ)に開花(かいくは)の時(とき)を待(まち)てこゝに|  あそふ人 少(すくな)からす寛政(くはんせい)十年の晩夏(はんか)初(はしめ)て此花(このはな)を生(しやう)せしより今に至(いた)り年々しかり奇観(きくはん)とすへし》 万徳山弥勒寺(まんとくさんみろくし) 同所二丁あまりを隔(へたて)て弥勒寺橋(みろくしはし)の北詰(きたつめ)にあり真言新(しんこんしん)  義(き)の触頭(ふれかしら)江戸四箇寺(えとしかし)の一室(いつしつ)なり本尊(ほんそん)は薬師如来 《割書:世(よ)に河上薬師(かはかみやくし)と称(しよう)せり|伝記(てんき)失(うせ)たりとて其(その)来(らい)》 《割書: 由(ゆ)を| 知(しら)す》 中興(ちゆうこう)開山(かいさん)を宥鑁(いうはん)上人と号(かう)す総門(そうもん)の額(かく)に弥勒寺(みろくし)と書せしは朝鮮(てうせん)  国(こく)雪月堂(せつけつたう)の筆跡(ひつせき)なり当寺(たうし)旧(もと)柳原(やなきはら)の地(ち)にありしを天和(てんわ)二年 回禄(くはいろく) 【挿し絵】 本所(ほんしよ)  弥勒寺(みろくし) 【図中】 弥勒寺橋 塔中 竪川二の橋通り 塔中 本堂 【挿し絵】 本所一目(ほんしよひとつめ)  弁財天(へんさいてん)社  深川八幡御旅所(ふかかははちまんおたひしよ) 【図中】 八まん いわや 弁天 一の橋 料理茶や  の後(のち)此地(このち)へ移(うつ)されたり毎月八日十二日を縁日(えむにち)として参詣(さんけい)多(おほ)し 深川八幡宮御旅所(ふかかははちまんくうおたひしよ) 大川端(おおかわはた)大船倉(おふなくら)の前(まへ)にあり富賀岡八幡宮(とみかをかはちまんくう)祭(さい)  礼(れい)の砌(みきり)は神輿(みこし)此地(このち)へ渡(わた)らせらる 弁財天(へんさいてん)社 同所 一(いち)の橋(はし)の南(みなみ)の詰(つめ)にあり祭所(まつるところ)相州江島(さうしうえのしま)に同し元禄(けんろく)  の始(はしめ)総検校(そうけんきやう)杉山氏(すきやまうち)勧請(くはんしやう)す己巳の日参詣(さんけい)多(おほ)し 《割書:相伝(あひつた)ふ杉山検校(すきやまけんきやう)奥州(あふしう)の|産(さん)にして信都(けいいち)といふその》 《割書: 志(こころさし)天下(てんか)に名(な)をなさんことを欲(ほつ)し三七日の間 飲食(いんしい)を断(たち)て相州江島(さうしうえのしま)に至(いた)り天女崫(てんによくつ)に参籠(さんろう)し| 至心(ししん)に其事(そのこと)を祈請(きしやう)せしに果(はた)して霊験(れいけん)あるを以て竟(つい)に鍼術(しんしゆつ)に妙(めう)を得たり故(ゆへ)に世に称(しよう)して》 《割書: 杉山流(すきやまりう)といふ慶安(けいあん)の頃 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り屢(しは〳〵)営中(えいちゆう)に召(めさ)れ泥近(ちつきん)す元禄(けんろく)のはしめ今(いま)の地(ち)をたまふこゝにをいて| 一派(いつは)の規矩(きく)備はれり毎年(まいねん)二月十六日六月十九日には瞽者宝前(こしやはうせん)に集会(しふくわい)して琵琶(ひわ)を弾(たん)し平曲(へいきよく)を》 《割書: 奏(そう)す京師(けいし)積塔舎にならふて行ふ所(ところ)なり|》 国豊山回向院(こくふさんゑかうゐん) 両国橋(りやうこくはし)の東詰(ひかしつめ)にあり 《割書:昔(むかし)は此 辺(あたり)も柳島(やなきしま)の中(うち)にして大西(おほにし)と|称(しよう)したる由 事跡合考(しせきかつかう)といへる冊子(さうし)に見(み)ゆ》 当寺(たうし)は  称念(しようねん)上人の遺風(ゐふう)にして捨世一派(しやせいいつは)の仏域(ふついき)たり明暦(めいれき)三年丁酉の春(はる)大火(たいくは)  の時(とき)焼死(せうし)の輩(ともから)の冥魂(めいこん)追福(ついふく)のため毎歳(まいさい)七月七日 大施餓鬼(おほせかき)法会(ほふゑ)を  修行(しゆきやう)す又同八日 仏餉施入(ふつしやうせにふ)の檀主(たんしゆ)現当両益(けんたうりやうやく)の法事(ほふし)あり総門(そうもん)の額(かく)  に国豊山とあるは縁山定月和尚(えんさんちやうけつおしやう)の筆(ふて)なり  本堂(ほんたう) 本尊(ほそん)阿弥陀如来座像(あみたによらいささう)壱丈 許(はかり)あり 《割書:元禄(けんろく)十六年の冬当寺 回録(くはいろく)の|災(わさはひ)にかゝりてむかしの本尊 金(こん)》 《割書: 銅(とう)の阿弥陀仏(あみたふつ)銷化(とろけ)る故(ゆゑ)に当寺第四世 観誉(くはんよ)上人 祐鑑和尚(いうかんおしやう)ふたゝひ今の本尊を造立(さうりふ)す堂前に存(そん)する| 所の銅像(とうそう)の鋳型(いかた)をもて本尊とすこの堂むかしは今の方丈(はうちやう)の地にありしを天和(てんわ)二年 回録(くはいろく)の後(のち)当寺》 《割書: 第三世 喚霊和尚(くはんれいおしやう)今の| 地にうつされたりといふ》 備中千体阿弥陀如来(ひちゆうせんたいあみたによらい) 《割書:後堂(こうたう)に安置(あんち)す俗(そく)称(しよう)して奥(おく)の院(ゐん)といふ|本尊 長(みたけ)一尺一寸 恵心僧都(ゑしんそうつ)の作にして》 《割書: 黒本尊(くろほんそん)と同体(とうたい)なりといふ縁山(えんさん)二十三世の貫首遵誉(くはんしゆしゆんよ)貴屋(きをく)上人 念持仏(ねんちふつ)にして明暦(めいれき)の大火(たいくは)に焼死(せうし)| 溺死(てきし)せる所の十万八千余人の亡者(まうしや)を回向(ゑかう)あるへき旨(むね) 命(めい)せられ其頃(そのころ) 官府(くはんふ)より仮(かり)の仏(ふつ)堂を造営(さうえい)》 《割書: せしめたまひしかはこの霊像(れいさう)を本尊となして回向ありしと| なり故に焼死(せうし)溺死(てきし)の亡魂(ほうこん)得脱(とくたつ)の如来(によらい)とも称(しよう)したり》 三仏堂(さんふつたう) 《割書:本堂の右にあり弥陀(みた)釈迦(しやか)大日(たいにち)|等(とう)の三尊(さんそく)を安置(あんち)すこの堂は》 《割書: 牢死(らうし)刑死(けいし)の者の幽魂追福(いうこんついふく)の為 万治(まんち)年間 官府(くはんふ)より建立(こんりう)なしたまひし堂前の石塔婆(せきたふは)に其 旨趣(ししゆ)を| 彫付(ほりつけ)られてあり当寺より日々に大江戸の市街(いちまち)を順行(しゆんかう)し仏餉(ふつしやう)を乞(こふ)所(ところ)の僧徒(そうと)十六口常にこの堂中(たうちゆう)に居(を)れり》 一言観音(ひとことくはんおむ) 《割書:池の傍(かたはら)にあり本尊 聖観音(しやうくはんおん)恵心僧都(ゑしんそうつ)の作なり南都招提寺(なんとせうたいし)より遷(うつ)すといふ有信(うしん)の|人ありて至心(ししん)にこの本尊を念すれは其(その)祈願(きくはん)一言(ひとこと)にして成就(しやうしゆ)する故(ゆへ)に霊応(れいおう)の著(いちしるき)を》 《割書:表(ひよう)して|いふと也》 弁財天(へんさいてん)祠 《割書:同所にあり世に藁裹(わらつと)弁才天(へんさいてん)と称(しようす)昔(むかし)当寺(たうし)の開山(かいさん)上人 勤行(こんきやう)念仏(ねんふつ)の間|仏堂の前にして藁裹(わらつと)に弁才天(へんさいてん)の御首(みくし)はかりを入たるを拾(ひろ)ひ得(え)たりまさ》 《割書: しく弘法大師(こうほふたいし)の作なるへき事を推知(すいち)し新(あらた)に仏体(ふつたい)を|彫刻(てうこく)して小祠(ほこら)を営(いとな)み当寺の護法神(こほふしん)とあかめたりといへり》 馬頭観世音(はとうくはんせおむ) 《割書:本堂(ほんたう)の前左(まへひたり)の方にあり明暦(めいれき)中|幕下(はくか) 御慈愛(こちあひ)の名馬(めいは)斃(へう)し》 《割書: たるを深(くか)くあはれませたまひ当寺に葬(はふむ)り吊(とふら)ふへき旨(むね)| 台命(たいめい)ありしにより開山(かいさん)上人 馬頭観音(はとうくはんおん)にあかめけるといへり》 円光大師(えんくわうたいし)堂 《割書:同しならひにあり|円光大師(ゑんくわうたいし)播州(はんしう)室津(むろのつ)の》 《割書: 遊女(いうしよ)某(それかし)乞(こふ)にまかせて作りたまふ時に船子(ふなこ)出船(しゆつせん)を急(いそき)告(つけ)けれは御首(みくし)はかりをあたへらる其後(そのゝち)彼(かの)遊女(いうしよ)| 土をつかねて全身(せんしん)を造(つく)りそへたりとなり遊女(いうしよ)は尼(あま)となり念仏三昧(ねんふつさんまい)にして終(つい)に七十五歳にして大往生(たいわうしやう)》 《割書: を遂(とけ)たり| しと》 蓮池(れんち) 《割書:信誉(しんよ)上人常に蓮実(れんしつ)をもて念珠(ねんしゆ)に代(かへ)て称名(しようみやう)す其(その)蓮実(れんしつ)の積(つも)る事三十五石に|およへりとなり今この池(いけ)に生(しやう)する蓮(はちす)はこの種(たね)より生するところなりといへり》 樟(くす) 《割書:是も信誉上人 手自(てつから)植(うへ)られし|とて同し池のかたはらにあり》 阿弥陀如来銅像(あみたによらいのとうさう) 《割書:本堂の正面(しやうめん)にあり|座像(ささう)一丈六尺あり》 【挿し絵】 回向院(ゑかうゐん) 不見煙中寺 但聞煙外鐘 江城秋色遠 落日隠高峯    白石 【図中】 一言観音 弁天 表門 茶や 尺迦 本堂 方丈 茶や 【挿し絵】 諸国(しよこく)の霊仏(れいふつ)霊(れい) 神(かみ)等(とう)結縁(けちゑむ)のため 大江戸に出て 啓龕(かいちやう)せんと 欲(す)るもの多くは 当院(とうゐん)に於て 拝(はい)せしむ諸(しよ)方 より便(たよ)りよき 地なる故  殊(こと)に   参詣(さんけい)    多(おほ)し 回向院開帳参(ゑかうゐんかいちやうまいり) 【図中、不明瞭ではあるが、右ページ下の方、奉納された提灯に「富本豊前太夫」「中村屋」「坂東三津……」などの文字が見える】  相伝(あひつたふ)明暦(めいれき)三年丁酉の春 《割書:正月十八日|同 十九日》 大江戸(えと)大火(たいくは)に仍(より)て焼死(せうし)する者(もの)凡(およそ)  十万八千余人なり時(とき)に  台命(たいめい)ありて此地(このち)を卜(ほく)し方六十  許歩(きよほ)の地(ち)に件(くたん)の焼死骸(せうしのかはね)を埋蔵(まいさう)し上(うへ)に一堆(いつくはい)の塚(つか)を築(きつ)き号(なつ)けて漏沢(むえん)  園(つか)と唱(とな)ふ乃(すなはち)亡魂(はうこん)追福(ついふく)の為(ため)増上寺(そうしやうし)第二十三世 貴屋大和尚(きをくたいおしやう)をして  一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)を創起(さうき)せしめらる当寺(たうし)是(これ)なり 《割書:昔(むかし)は諸宗山無縁寺(しよしうさんむえんし)といふとそ|明暦(めいれき)大火(たいくは)の事実(ししつ)はむさしあふみと》  《割書:いへる冊子(さうし)|に見(み)ゆ》 諸宗(しよしう)の僧(そう)を集(あつ)め一七日の間(あひた)塚(つか)の前(まへ)に於(おいて)千部(せんふ)の経(きやう)を読誦(とくしゆ)せしめ  大法会修行(たいほふゑしゆきやう)ありされとも住持(ちゆうし)なかりしかは其頃(そのころ)小石川(こいしかは)知香寺(ちかうし)の信(しん)  誉(よ)自心(ししん)上人 道光(たうくはう)世(よ)に隠(かく)れなかりしかは当寺(たうし)に移住(いちゆう)せしめ第二世にて  開山(かいさん)と称(しよう)したまふ依(よつて)上人 彼(かの)塚上(ちようしやう)に堂宇(たうう)を建営(こんえい)し長(とこしなへ)に幽魂(いうこん)の冥(みやう)  福(ふく)を助(たすけ)むか為(ため)不断(ふたん)念仏(ねんふつ)の道場(たうしやう)とせられたり 《割書:因(ちなみ)に云(いふ)信誉(しんよ)上人 仏像(ふつさう)を造(つく)る|に妙(めう)を得(え)て恵心僧都(ゑしんそうつ)の彫(てう)》  《割書:刻(こく)に髣髴(はうふつ)たり当院(たうゐん)に安(あん)する所(ところ)の|仏像(ふつさう)は悉(こと〳〵)く此(この)上人の彫像(てうさう)なりといへり》 天恩山五百大阿羅漢禅寺(てnおむさんこひやくあらかんせんし) 本所(ほんしよ)五目 竪川(たてかは)より南(みなみ)にあり黄檗派(わうはくは)の  禅林(せんりん)にして河東(かとう)第一の名藍(めいらん)たり開山(かいさん)は鉄眼禅師(てつけんせんし)中興(ちゆうこう)は象先和尚(さうせんおせう)又 【挿し絵】 猿江泉養寺(さるえせんやうし)の池頭(いけ)に 生(しやう)するところの蓮花(はちす)は 重弁紅花(ちやうへんこうくは)にして花形(くはきやう) 牡丹(ほたん)に髣髴(さもに)たり故(ゆへ)に 奇観(きくはん)とす寛政(くはんせい) 九年の晩夏(はんか)  はしめて   この花(はな)を  発(ひらき)しより   今に     至(いた)り   年々(とし〳〵)に     しかり 【挿し絵】 猿江(さるえ)  摩利支天(まりしてん)祠  霊験(れいけん)炳然(いちしるし)とて  詣人(けいしん)常(つね)に絶(たえ)す  来由(らいゆ)は拾遺(しふい)江戸  名所図会に     よつて       みる        へし 【本文、五百羅漢禅寺の続き】  松雲禅師(しよううんせんし)を以(もつて)開基(かいき)の大祖(たいそ)と称(しよう)す  仏殿(ふつてん) 本尊(ほんそん)釈迦牟尼仏拈華像(しやかむにふつねんけのさう) 《割書:長(たけ)一丈六尺 下(した)に巨石(きよせき)を|畳(たゝみ)て座(さ)を儲(まう)く》 脇侍(けふし)文殊(もんしゆ)  普賢(ふけん) 《割書:各(をの〳〵)高(たかさ)|八尺》 阿難(あなん)迦葉(かせふ) 《割書:各(をの〳〵)高(たかさ)|九尺》 左右(さいう)の階壇(かいたん)に列(つらな)れる所(ところ)の五百阿羅漢(こひやくあらかん)  の像(さう)は各(をの〳〵)等身(とうしん)にして共(とも)に松雲禅師(しよううんせんし)彫刻(てうこく)する処(ところ)なり 【挿し絵1】 万徳尊  額(かく)《割書:本尊(ほ んそん)の|上(うへ)に掲(かく)る》  《割書:黄檗(わうはく)隠元老(いんけんらう)|人(しん)の筆なり》 【挿し絵2】 大六妙相前■■■■■祇園■地 半千■者現■■■■■■石■■  聯(れん) 《割書:同 堂内(たうない)|左右の》  《割書:柱(はしら)に掲(かく)る象(さう)|先(せん)の筆なり》 【挿し絵3】 螧【コマ40の挿し絵によれば虫ではなく山偏】 闍 崛【耆闍崛山=霊鷲山のことだとは思います】  額(かく) 《割書:同 堂内(たうない)|の正面(しやうめん)》  《割書:に掲(かく)る黄檗(わうはく)|即非(そくひ)の筆》  《割書:なり|》 【挿し絵4】 光 明 幢  額(かく) 《割書:仏殿(ふつてん)|二重》  《割書:家根(やね)の軒(のき)に|掲(かく)る隠元和(いんけんお)》  《割書:尚(しやう)の筆なり|》 【本文続き】  五百羅漢(こひやくらかん)造立之来由(さうりゆのらいゆ)  松雲禅師(しよううんせんし)は京兆(みやこ)の人 寛雄(くはんゆう)にしてすこしく正信(しやうしん)を具(く)す 《割書:或人(あるひと)云く松(しよう)|雲禅師(うんせんし)始(はしめ)は》  《割書:仏工(ふつこう)にして俗称(そくのな)を|九兵衛と呼(よひ)たりしとなり》 寛文(くはんふん)九年己酉 《割書:歳二|十二》 摂(せつ)の瑞竜精舎(すいりうしやうしや)に入て鉄眼禅師(てつけんせんし)に  隨(したか)ひ薙髪(ちはつ)して僧(そう)となる後(のち)遊方(いうはう)の懐(おもひ)あるにより師(し)の許(もと)を辞(し)して 【挿し絵】 小名木川(をなきかは)   五本松(こほんまつ)  深川の末   五本松といふ  所に船を     さして 川上と   この  かはしも      や    月の      友      芭蕉 【五百羅漢禅寺のつづき】  海西(かいさい)に飄歴(ひようれき)し豊前国(ふせんのくに)羅漢寺(らかんし)に至(いた)り唐土(もろこし)天台山(てんたいさん)の逆流(きやくりう)並(ならひ)に賢(けん)  順(しゆん)といへる二僧(にそう)一夜(いちや)に造立(さうりふ)せしといへる五百聖者(こひやくしやうしや)の石像(せきさう)を膽礼(せんらい)し【瞻礼のあやまりか】  恭敬(くきやう)日々(ひゝ)に厚(あつ)く其後(そのゝち)潜(ひそか)に五百羅漢(こひやくらかん)の像(さう)を手彫(しゆてう)せんとするの意(こゝろ)  あり帰省(きせい)の日(ひ)鉄眼禅寺(てつけんせんし)果(はた)して其命(そのめい)あるを以(もつて)遂(つひ)に貞享(ちやうきやう)年間 江戸(えと)  に来(きた)り元禄(けんろく)辛未 始(はしめ)て浅草寺(せんさうし)の境内(けいたい)寿松院(しゆしようゐん)に就(つい)て仮屋(かりや)を儲(まう)け  衆人(しゆうしん)をすゝめ羅漢(らかん)の木像(もくさう)を彫刻(てうこく)す興福寺(こうふくし)の鉄牛和尚(てつきうおしやう)衣資(えし)を喜(き)  捨(しや)し一尊(いつそん)を刻(きさ)ましむるといへとも時至(ときいたら)すして施(ほとこし)ある事 微(すくな)くこゝに  歳月(としつき)を歴(へ)たり然(しか)るに同壬申の年大倉前(おほくらまへ)一十六員(いちしふろくゐん)の道俗(たうそく)結盟(きつめい)  補佐(ほさ)す癸酉孟春に至(いた)り五十尊(そん)成(なる)甲戌三月 忝(かたしけなく)も  御国母(おんこくほ)桂昌一位尼公(けいしやういちゐにこう)金(こかね)を賜(たまは)り仏像(ふつさう)造立(さうりふ)の資(たすけ)となし給ふ此時(このとき)  十尊(しつそん)を彫営(てうえい)すしかありしより縁化(えんけ)響(ひゝき)の応(おう)するか如(こと)く施財(せさい)日々(ひゝ)  に多(おほ)く竟(つい)に一十余霜(いちしふよさう)を経(へ)て完(まつた)く本堂(ほんそん)丈六の釈迦仏(しやかふつ)及(およ)ひ  阿羅漢(あらかん)等(とう)すへて五百三千有 余(よ)体(たい)の仏像(ふつさう)縹緲(ひやう〳〵)として現(けん)す其(その) 【挿し絵】 五百羅漢寺(こひやくらかんし)   三匝堂(ささいたう) 【図中】 開山堂 方丈 【挿し絵、五百羅漢の続き】 其二 【図中】 渡しば 玄関 禅堂 東羅漢堂 庫裡 鐘楼 せつたい 西羅漢堂 茶や さゝい堂 茶や 天王殿 漢門  梵相(ほんさう)の奇古(きこ)座立(さりふ)の威儀(いき)儼然(けんねん)として生(いける)か如(こと)く其(その)妙手(めうしゆ)常人(しやうしん)のおよは  さる所あり瞻礼(せんらい)する者をして霊山(りやうせん)一会(いちゑ)未散(みさん)の嘆(たん)あらしむ同八年  乙亥夏五月 《割書:鐘(かね)の銘(めい)に|七月とす》  公聴(こうちやう)に達(たつ)し本境(ほんきやう)一千五百 畝(ほ)を賜(たま)ひ  又 天恩山羅漢寺(てんおんさんらかんし)の号(な)を賜(たま)ふ依(よつて)仮(かり)に堂宇(たうう)を造立(さうりふ)して仏像(ふつさう)を遷(うつ)  せり同年八月 黄檗(わうはく)高泉和尚(かうせんおしやう)偶(たま〳〵)東行(とうかう)あり迎(むかへ)て点眼(てんけん)の導師(たうし)とす  又 先師(せんし)鉄眼和尚(てつけんおしやう)をして開山祖(かいさんそ)とす是(これ)其原(そのもと)を貴(たふと)むの故(ゆへ)とそ又其時  黄檗山(わうはくさん)の末寺(まつし)となる松雲禅師(しよううんせんし)其頃(そのころ)既(すてに)伽藍(からん)建立(こんりふ)の企(くはたて)ありといへとも  時縁(しえん)至(いたら)すして宝永七年庚寅 一旦(いつたん)疾(しつ)に罹(かゝ)り月を越(こへ)て起(おき)す終(つい)に  同年秋七月十一日 奄然(あんせん)として化す時に歳六十有三なり 《割書:法臘四|十二年》 【図】五百大阿羅漢尊号 第一  阿若憍陳如尊者 阿泥楼頭尊者 有賢無垢尊者  須跋陀羅尊者  迦留陀夷尊者 聞声得果尊者  栴檀蔵王尊者  施憧無垢尊者 憍梵般提尊者  因陀得慧尊者 第十一  迦那行那尊者 婆蘇槃豆尊者 法界四楽尊者  優楼頻螺尊者 仏陀密多尊者 那提迦葉尊者  那延等目尊者 仏陀難提尊者 末田底迦尊者  難陀多化尊者 第二十一  優波毱多尊者 僧迦耶舎尊者 教説常住尊者  南那和修尊者 達磨婆羅尊者 迦耶迦葉尊者  定果徳業尊者 荘厳無憂尊者 憶持因縁尊者  迦那提婆尊者 第三十一  破耶神通尊者 堅持三字尊者 阿㝹楼駄尊者  鳩摩羅多尊者 毒竜帰依尊者 同声稽首尊者  毘羅昡子尊者 伐蘇密多尊者 闍提首那尊者  僧法耶舎尊者 第四十一  悲密世間尊者 献花提記尊者 眼光定力尊者  伽耶舎那尊者 莎底苾蒭尊者 婆闍提婆尊者  解空無垢尊者 伏陀密多尊者 富那夜舎尊者  伽耶天眼尊者 第五十一  不著世間尊者 解空第一尊者 羅度無尽尊者  金剛破魔尊者 願護世間尊者 無憂禅定尊者  無作慧善尊者 十劫慧善尊者 栴檀徳香尊者  金山覚意尊者 【挿し絵】 正面図 東羅 漢堂 東面 之図 五百羅漢堂 内相之図    共五枚 【図中、羅漢さんの中に置かれている箱の文字】 さいせん筥 賽銭□ □□箱 【羅漢の名前、かなり不明瞭】 はつたら尊者 ゑらく尊者【ゑこく尊者?】 しやりほつ尊者 ひんたら尊者【?】 もくれん尊者 【挿し絵、五百羅漢の続き】 東羅 漢堂 西面 之図 正 面 図 【図中、箱に書いてある文字】 賽銭筥 さい銭 さいせん箱 賽銭箱 さいせんはこ 【羅漢の名前】 しうほこ尊者【?】 きゆふそく尊者【?】 まんしゆく尊者【?】 くりうめふ尊者【?】 【この外にもいくつか見えるが不明瞭で読めず】 【挿し絵】 正 面 図 耆【山偏の耆】 闍 崛 万徳尊 正面 中尊 之図 正 面 図 十六善神 緊那羅王 大般若 大般若 けく?うみち さんけいみち はきものむよう 賽銭筥 【羅漢の名前】 にいまこんそく尊者【?】 ふゆふとく尊者【?】 【ほか柱にかかっている聯の文字が読めず。コマ32にあるのと同じもの】 【挿し絵、五百羅漢の続き】 正 面 図 西羅 漢堂 東面 之図 【図中、箱に書いてある文字】 賽銭箱 さいせん筥 【羅漢の名前】 世はち尊者【?】 によいりん尊者【?】 そひんた尊者【?】 ちゑ尊者【?】 こふ□い尊者 【挿し絵、五百羅漢の続き】 西羅 漢堂 西面 之図 正 面 図 【図中、箱に書いてある文字】 賽銭筥 【羅漢の名前】 ほうつふ尊者【?】 ひんつる尊者 ちゆ□□尊者 ほうめう尊者【?】 あいきよう尊者【?】 【挿し絵】 羅漢堂(らかんたう) 護法神(こほふしん)宮 本尊(ほんそん)の後(うしろ)に 安(あん)す 【図中】 一万度御祓 【本部、五百羅漢の名前の続き】   慧作尊者 助歓尊者 難勝尊者   善徳尊者 宝涯尊者 観身尊者   花王尊者 第百七十一   徳首尊者……  三匝堂(さゝいたう) 《割書:総門(そうもん)の内 左(ひたり)の方 天王殿(てんわうてん)にならふ本尊は白衣観音(ひやくえくわんおん)魚藍観音(きよらんのくわんおん)をよひ弥陀(みた)勢至(せいし)|地蔵(ちさう)等(とう)を本尊とす上繞(うへのめくり)は西国(さいこく)中繞(なかのめくり)は坂東(はんとう)下繞(したのめくり)は秩父(ちゝふ)以上百番の札所(ふたしよ)》  《割書:観音(くわんおん)の霊跡(れいせき)を模擬(うつ)して百躯(ひやくたい)の観音(くわんおん)また華厳会上(けこんゑしやう)五十三の善知識(せんちしき)の像(さう)を安置す|当寺 中興(ちゆうこう)象先和尚(さうせんおしやう)工夫(くふう)を凝(こら)し無上(むしやう)の法式(ほふしき)は右繞施匝(うねうせさう)を最勝(さいしよう)第一とするといへる意(こゝろ)を》  《割書:とりて寛保(くわんほ)元年辛酉是を造立(さふりふ)せられたり右繞三匝(うねうさんさう)にしておほえす三階(さんかい)の高楼(かうろう)に登(のほ)る|事を得はへり俗間(そくかん)栄螺堂(さゝいたう)と唱(とな)へ後世(こうせい)三匝堂を造(つくる)の規範(きはん)とす其 機功(きかう)称(しよう)するに堪(たえ)たり》 【原典中の帀、迊はともに匝の異体字】 【挿し絵1】 右 繞 三 匝 堂  額(かく) 《割書:向拝(かうはい)の|内に》  《割書:掲(かく)る当寺|雪村(せつそん)和尚の》  《割書:筆なり|》 【挿し絵2】 ■ ■ 閣  額(かく) 《割書:同堂|の二(に)》  《割書:階(かい)の軒(のき)|に掲(かく)る当》  《割書:寺 象先(さうせん)|和尚の》  《割書: 筆なり|》  天王殿(てんわうてん)  《割書:同所 右(みき)に並ぶ内には径山寺(きんさんし)の布袋和尚(ほていおしやう)護法(こほふ)|関帝(くわんてい)をよひ韋駄天(いたてん)毘沙門(ひしやもん)増長(そうちやう)等(とう)の三天ならひ》  《割書:に緊那羅王(きんならわう)の木像(もくさう)を安置(あんち)せり各(おの〳〵)松雲禅師(しよううんせんし)|の作(さく)にして享保(きやうほ)十六年の造立(さうりふ)なり》 【挿し絵3】 天恩山  額(かく) 《割書:天王殿(てんわうてん)の|軒に掲(かく)る》  《割書:当寺 宝州和尚(はうしうおしやう)|の筆なり》  禁石(きんせき) 《割書:羅漢同(らかんたう)の|まへにあり》  刹竿籏(せつかんき) 《割書:同所 左右(さいう)にた|つる享保十三》  《割書:年三月より建初(たてそむ)るといへり|》  禅堂(せんたう) 《割書:同所 右(みき)の方の|後(うしろ)にあり》 【挿し絵4】 ■ 仏 場  額(かく) 《割書:同し堂(たう)の軒(のき)|に掲(かく)る》  《割書:黄檗木庵(わうはくもくあん)|の筆》  接待所(せつたいしよ) 《割書:どうしょにならふ|》 【挿し絵5】 笑? 茶? 玄?  額(かく) 《割書:軒(のき)に掲(かく)る|細井九皐(ほそゐきうかう)の》  《割書:  筆なり|》  藤棚(ふちたな) 《割書:御腰掛(おんこしかけ)の傍(かたはら)|にあり元文(けんふん)》  《割書:四年己未是を| 栽(うへ)しめたまふと》  《割書:   いへり|》  鐘楼(しゆろう) 《割書:庫裡(くり)の前(まへ)にあり元禄(けんろく)九年 牧野備後侯成貞(まきのひんごこうなりさた)の令室(れいしつ)高祥院殿(かうしやうゐんてん)これを建(こん)|立(りふ)せらる銘(めい)は弘福寺(こうふくし)の鉄牛(てつきう)和尚 撰(せん)する所なり》   天恩山五百大阿羅漢禅寺鐘銘並引   武蔵国天恩山……   一音纔動警覚暁昏 修洪規範解塵労煩   観音大士如人此門 円通無礙卻忘聞根    幽明莫滞功徳難論 由声生悟直証本源   存没倶利消融百寃 国平氓泰斯子斯孫   雲禅巧烈函盍乾坤   元禄九年丙子四月穀旦  桜樹(さくら) 《割書:境内(けいたい)にあり元文(けんふん)五年庚申 桜樹(さくら)九十 余株(よちゆう)を |たまはりて是を植(うゆ)るといへり》  桃(もゝ)の土手(とて) 《割書:元文紀年(けんふんはしめのとし)丙辰|当寺(たうし)の境外(けいくわい)南(みなみ)》  《割書:の方(かた)の土手(とて)にこれを|栽(うへ)しめ給ふとなり》  開山堂(かいさんたう) 《割書:方丈(はうしやう)の東(ひかし)にあり此地は享保(きやうほ)十八年の頃(ころ)鉄眼禅師(てつけんせんし)当寺(たうし)を退去(たいきよ)の後(のち)|隠栖(いんせい)の地なりといへり鉄眼師(てつけんし)をよひ象先(さうせん)和尚ならひに松雲(しよううん)老人 等(とう)》  《割書:の像(さう)を置(をく)故(ゆへ)に三代堂(さんたいたう)とも唱(とな)ふ開山(かいさん)鉄眼(てつけん)|禅師(せんし)の行実(きやうしつ)は摂洲(せつしう)瑞竜寺(すいりうし)の碑文(ひふん)に詳(つまひらか)なり》  中興(ちゆうこう)象先和尚(さうせんおしやう)は黄檗(わうはく)四世の法孫にして鉄眼禅師(てつけんせんし)の法脈(ほふみやく)たり  当時(そのかみ)松雲禅師(しよううんせんし)化寂(けしやく)の後(のち)は仮堂(かりたう)も破壊(はゑ)し仏像(ふつさう)も雨露(うろ)の  為(ため)に侵(をか)されたりしを深(ふか)く患(うれい)とし正徳(しやうとく)三年癸巳 本師(ほんし)鉄眼和尚(てつけんおしやう)の命(めい)を受(うけ)始(はしめ)て大江戸(おほえと)に来(きた)り当寺(たうし)に住(ちゆう)す享保(きやうほ)二年丁酉  正月より十有余年の間(あいた)心肝(しんかん)を砕(くた)き寒暑風雪(かんしよふうせつ)の厭(いとひ)なく  日々に府下(ふか)の街市(いちまち)に入て行乞(たくはつ)し既(すて)にして勧進(くわんしん)の功(こう)を募(つの)り受(うく)  る所(ところ)の一握一投(いちあくいつとう)の米銭(へいせん)を積(つむ)て其料(そのれう)に充(あて)同十年乙巳に至(いた)り今(いま)  存(そん)する所の仏殿(ふつてん)僧房(そうはう)悉(こと〳〵)く建立(こんりふ)成就(しやうしゆ)せり依(よつて)同十四年己  酉二月 開堂総供養(かいたうそうくやう)の大法会(たいほふゑ)を行(おこな)ひまた盂蘭盆(うらんほん)の大施餓(たいせか)  鬼会(きゑ)を開(ひら)く当寺(たうし)開山(かいさん)は象先和尚(さうせんおしやう)たる事 其理(そのり)顕然(けんせん)たり  といへとも故(ゆへ)ありて鉄眼禅師(てつけんせんし)を開山(かいさん)とし自(みつから)の師(し)宝州和尚(はうしうおしやう)  を二代とし又(また)松雲禅師(しよううんせんし)創業(さうけふ)の大功(たいこう)あるを以(もて)一代 開基(かいき)と称(しよう)し  自(みつから)三代の席(せき)に座せらる隠元禅師(いんけんせんし)帰化(きけ)の後(のち)は持斎(ちさい)一食(いちしき)にして  深(ふか)く貧者(ひんしや)をあはれみ仏像(ふつさう)経巻(きやうくわん)と古(ふる)き袈裟(けさ)の外(ほか)には聊(いさゝか)も  身(み)に貯(たくは)ふる事(こと)なし日々の勤行(こんきやう)には般若(はんにや)理趣分(りしゆふん)五巻と花厳(けこん)  経(きやう)行願品(きやうくはんほん)百五十巻とを読誦(とくしゆ)し観音(くわんおん)の尊号(そんかう)を書写(しよしや)する事  其数(そのかす)積(つん)て山(やま)の如(こと)し又(また)大般若経(たいはんにやきやう)一部(いちふ)六百巻 一字百礼(いちしひやくらい)にして  是(これ)を書写(しよしや)す其先(そのせん)出家(しゆつけ)得道(とくたう)の時(とき)摂(せつの)瑞竜寺(すいりうし)に入て法道(ほふたう)成(しやう)  就(しゆ)の誓願(せいくわん)を発(はつ)し三年の間(あいた)双手(そうしゆ)の指(ゆひ)を切(きり)八十巻の花厳経(けこんきやう)を  血書(けつしよ)す其後(そののち)当寺(たうし)殿堂(てんたう)の営(いとなみ)大半(たいはん)成(なる)といへとも宗門(しうもん)の座禅(させん)  夏冬(なつふゆ)の結制(けつせい)行(おこなは)れたるを闕典(けつてん)なりとす依(よつて)後住(こちゆう)栄朝師(えいてうし)命(めい)  を受(うけ)て元文(けんふん)二年丁巳の冬 洞済両首座(とうさいりやうしゆそ)を立(たて)て五千指(こせんし)の僧(そう)を  集(あつ)め江湖(こうこ)の大会(たいゑ)を行(おこな)ふ此時(このとき)  大樹(たいしゆ)こゝに至(いた)らせたまひ  座禅(させん)の行相(きやうさう)をみそなはす則(すなはち)江湖(こうこ)の僧財(そうさい)として米(こめ)五百 俵(へう)  たまふ夫(それ)より後(のち)般若(はんにや)の全文(せんふん)を真読(しんとく)して御札(おむふた)を献(けん)す  竟(つひ)に寛延(くわんえん)三年己丑六月五日七十三歳にして涅槃(ねはん)の大定(たいちやう)  に入 貴賎(きせん)香花(かうけ)を捧(さゝけ)むとつとひ来(きた)る事三日三夜 炎暑(えんしよ)甚(はなはた)  しといへとも遺骸(ゆいかい)聊(いさゝか)変(へんす)る色(いろ)なく荼毘(たひ)して全身(せんしん)舎利(しやり)となる  《割書:其 舌根(せつこん)は宝塔(はうたふ)に収(おさめ)て今猶|中興堂(ちゆうこうたう)に存(そん)せり》  当寺(たうし)は黄檗派(わうはくは)江戸(えと)最大(さいたい)の禅園(せんゑむ)にして仏閣(ふつかく)の巍々(きゝ)たる事  日域(にちいき)にかくれなし元禄(けんろく)年間寺領山(しりやうさん)号等(かうとう)を賜(たまは)り享保(きやうほ)九 【挿し絵】 亀戸(かめと)  宰府天満宮(さいふてんまんくう)    当社(たうしや)の門前(もんせん)貸(りやう)    食店(りや)多く各(おの〳〵)    生洲(いけす)を構(かま)へ鯉魚(りきよ)を    畜(か)ふ業平蜆(なりひらしゝみ)もこの    地(ち)の名産(めいさん)にして    尤 美味(ひみ)なり 【挿し絵、亀戸天満宮の続き】 其 二 【図中】 妙義 末社 ひやうすへ神 とん宮 花その ■■ 藤棚 総門 茶や 茶や 天神はし 別当 神楽所 けい門 手水や 紅梅神 老松宮 本社 牛やとり こんひら 連寿や 梅その うら門 茶や 茶や 【五百羅漢禅寺の続き】  年甲辰十二月 大樹(たいしゆ)始(はしめ)て当寺(たうし)へ入せられ其後(そののち)同十五年正  月 晩課(はんくわ) 御聴聞(こちやうもん)翌年十二月 方丈(はうちやう)に於(おひて)陞座(しんそ)住持(ちゆうち)象先(さうせん)是(これ)を  勤(つと)む同十九年甲寅三十畝(ほ)の地(ち)を添(そへ)給ひ同二十年乙卯境(けい)  内(たい)に新殿(しんてん)を営(いとなま)せられ夫(それ)より後(のち)此地(このち)に 御放鷹(こはうよう)のころは  かならす当寺(たうし)へ立寄(たちよら)せ給ふ事となれり月毎(つきこと)の朔日には  観音(くわんおん)懺法(せんほふ)を修行(しゆきやう)し十五日には大般若経(たいはんにやきやう)転読(てんとく)あり七月  に至(いた)れは毎夕(まいせき)施餓鬼(せかき)を修(しゆ)し十六日廿一日廿五日晦日は殊(こと)に  道俗(たうそく)群参(くんさん)す象先師(さうせんし)より已来(このかた)当寺(たうし)の住持(ちゆうち)は風雨寒暑(ふううかんしよ)  を厭(いと)はす日々に大江戸(おほえと)の市中(しちゆう)を行乞(たくはつ)するをもつて勤行(こんきやう)  とせり 宰府天満宮(さいふてんまんくう) 亀戸村(かめとむら)にあり故(ゆへ)に亀戸天満宮(かめとてんまんくう)とも唱(とな)ふ  別当(へつたう)を天原山東安楽寺聖廟院(てんけんさんひかしあんらくしせいへうゐん)と号(かう)す司務(しむ)兼(けん)宮司(くうし)  大鳥居氏(おほとりゐうち)奉祀(ほうし)せり 《割書:当社(たうしや)別当(へつたう)は柳営(りうえい)御連歌(おれんか)の列(れつ)に加(くわ)へられ毎歳(まいさい)|正月十一日 営中(えいちゆう)に至(いたり)御連歌(おれんか)百韻(ひやくゐん)興行(こうきやう)す》 御旅(おたひ)  所(ところ)は当社(たうしや)の南(みなみ)竪川通(たてかはとほり)北松代町(きたまつしろちやう)四丁目にあり 《割書:筑前国(ちくせんのくに)榎寺(えのきてら)の模(うつし)なり|薬師堂(やくしたう)あり八月廿四日》  《割書:祭礼(さいれい)の時 神輿(みこし)を|此処(このところ)に遷(うつ)しまいらす》  本社(ほんしや) 祭神(さいしん)天満大自在天陣(てんまんたいしさいてんしん) 相殿(あひてん) 《割書:天穂日命(あまのほひのみこと)|土師宿禰(はしのすくね)》 三座  紅梅殿(こうはいてん) 《割書:本社(ほんしや)の前(まへ)右(みき)の方にあり筑前太宰府(ちくせんたさいふ)|より栽(うつ)す所の飛梅(とひむめ)の稚木(わかき)なり》 老松殿(おひまつてん) 《割書:同 左(ひたり)の方に並(なら)ふ花洛(みやこ)北野(きたの)の|法性坊尊意僧正(ほつしやうはうそんいそうしやう)の霊(れい)を勧請(くわんしやう)》  《割書:菅神(かんしん)の師(し)たるによりて是(これ)をまつるといふ卯の日を以て縁日(えんにち)とす|ことさら正月初の卯の日は参詣(さんけい)群集(くんしふ)せり》 花園社(はなそのゝやしろ) 《割書:御手洗(みたらし)|の池(いけ)の右(みき)》  《割書:にあり菅神(かんしん)の北(きた)の方(かた)並(ならひ)に御子(おんこ)|十四 前(せん)を相殿(あひてん)とす》 頓宮明神(とんくうみやうしん) 《割書:同所にあり昔(むかし)菅神(かんしん)筑紫(つくし)へ左遷(させん)の時 同(とう)|国(こく)榎寺(えのきてら)にて夕陽(せきやう)に至(いた)りけれと御宿(おんやと)もさた》  《割書:まらす然(しかる)に賎(しつ)の家(いへ)を求(もと)めさせ給ふにあるしの翁(おきな)左遷(させん)の人にてましませは御宿(おんやと)はかなふましき|よし情(なさけ)なく申けれと其家(そのいへ)の老女(らうちよ)は情(なさけ)ある者(もの)にて扉(とほそ)の上(うへ)に新(あたらしき)薦(こも)を敷(しき)て請(しやう)したてまつり》  《割書:麹(かうし)の飯(いひ)を松(まつ)の葉(は)に盛(もり)て捧(さゝけ)たりしに志(こゝろさし)は松(まつ)の葉(は)に包(つゝむ)とのたまひしとある諺(ことはさ)を表(へう)し|たり頓宮(とんくう)とは其 老嫗(らうう)をさしていへり老夫(らうふ)は縄(なわ)を以て縛(はく)すいつれも後(うしろ)の青赤(あをあか)の二鬼(にき)彳(たゝすみ)てあり》 兵洲(ひやうす)  辺神祠(へのしんし) 《割書:同所にあり菅神(かんしん)逢(あ)ひたまふ所(ところ)の河童(かはわらは)|をあかめたりといへり水中守護(すいちゆうしゆこ)の神(しん)とす》 連歌家(れんかや) 《割書:池(いけ)の西にあり此処(このところ)に|をひて連歌(れんか)を興行(こうきやう)す》  《割書:延宝(えんはう)五年丁巳二月十二日 大樹(たいしゆ)この辺(へん) 後放鷹(こはうよう)の時 此(この)連歌家(れんかや)に立(たち)よらせ給ひしとて|享保(きやうほ)の頃(ころ)も官府(かんふ)より修理(しゆり)を加(くわ)へられたりといへり》  裏白連歌会(うらしろれんかゑ) 《割書:正月二日 連歌家(れんかや)に|をひて興行(こうきやう)す》 若菜神供(わかなのしんく) 《割書:同七日 今朝(こんてう)若菜(わかな)の餅(もち)をたて|まつりすへて元日より此日に》  《割書:至るまて毎朝(まいてふ)宮司(みやつこ)|社人(しやにん)等 神供(しんく)を奉(たてまつ)る》 菜種神事(なたねのしんし) 《割書:二月廿五日菅神(かんしん)の御忌(きよき)によりて二十四日 通夜(よもすから)連歌(れんか)|興行(こうきやう)二十五日午時に至(いた)り神前(しんせん)にをひて社人(しやにん)等(とう)梅(むめ)の》   【挿し絵】 二月二十五日 菜種神事(なたねのしんし) 五元集  元禄十四年  二月二十五日  聖廟八百齢  御年忌於  亀戸御社詩  歌連俳令興  行一座  梅松    や  あかむる    数も  八百所    其角 【挿し絵】 亀戸天満宮祭礼(かめとてんまんくうさいれい) 神輿(しんよ)渡御(ときよ)行列(きやうれつ)之図(のつ)  毎歳(まいさい)八月廿四日 北松代町(きたまつしろちやう)  の御 旅所(たひしよ)へ神幸(しんかう)あり  て行粧(きやうさう)厳重(けんしうなり)  産子(うふこ)の町も練物(ねりもの)を出し  都鄙(とひ)の貴賎(きせん)群集(くんしふ)して  此辺(このへん)の一盛事(いつせいし)なり 【挿し絵、亀戸天満宮祭礼のつづき】 【幟の文字】   寛政十二庚申■■八月吉日 亀戸天満宮御祭礼 本所二つ目   氏子中  《割書:枝(えた)を持(もち)梅花(はいくは)の神詠(しんえい)二十八首を披講(ひかう)す又 夜(よ)に入(いり)て宮司(みやつこ)社人(しやにん)松明(たいまつ)を照(てら)し榊(さかき)と幣(にきて)とを|神体(しんたい)とし本社(ほんしや)より心字(しんし)の池(いけ)をめくり橋(はし)を越(こえ)て璥門(けいもん)より入(いり)社前(しやせん)に松明(たいまつ)を積(つん)て是(これ)を焚(たく)》  《割書:この祭事(さいし)は宰府(さいふ)の形(かたち)を|うつす所(ところ)なりといへり》 雷神祭(らいしんまつり) 《割書:四月朔日より七日に至(いたる)|まてこれを修行(しゆきやう)す》 神御衣(かんみそ) 《割書:四月晦日と九月|晦日の夜御衣(みそ)を》  《割書:たてま|つる》 名越祓(なこしのはらへ) 《割書:六月二十五日 竪川(たてかは)の西大河口(にしおほかはくち)|船中(せんちゆう)これを修行(しゆきやう)す》 七夕和歌連歌会(しつせきわかれんかゑ) 《割書:七月七日これ|を興行(こうきやう)す》  祭礼(さいれい) 《割書:隔年(かくねん)八月二十四日に修行(しゆきやう)す当日 竪川通(たてかはとほり)北松代町(きたまつしろちやう)の御旅所(おたひしよ)へ神幸(しんかう)同日 還輿(きよ)|あり 後水尾帝(こみつのおのみかと)の勅許(ちよくきよ)によりて神輿(みこし)供奉(くふ)の行粧(きやうさう)すへて宰府(さいふ)の礼式(れいしき)に》  《割書:准(なそら)へて尤壮観たり別当(へつたう)大鳥居氏(おほとりゐうち)乗車(しようしや)す生子(うふこ)の町々よりも練物(ねりもの)車楽(たんしり)等(なと)を出(いた)して甚(はなはた)|にきはへり翌(あくる)二十五日に至(いた)りて神詠(しんえい)披講(ひかう)社頭(しやとう)におよひて行ふ》  月見連歌会(つきみれんかゑ) 《割書:九月十三日|に興行(こうきやう)す》 火焼神事(ひたきのしんし) 《割書:十一月廿五日に|修行(しゆきやう)す》 年越神事(としこえのしんし) 《割書:十二月晦日|通夜(よもすから)修行(しゆきやう)》  《割書:せり| 》追儺神事(ついなのしんし) 《割書:節分(せつふん)の夜(よ)修行(しゆきやう)す其余(そのよ)一季(いつき)の中(うち)神事(しんし)多(おほ)しといへともこゝに略(りやく)す|当社(たうしや)の祭式(さいしき)はすへて宰府(さいふ)の例(れい)に准(なら)ふか故(ゆへ)に一社(いつしや)の法式(ほふしき)あり尤(もつとも)古(こ)》  《割書:雅(か)にして他(ほか)に異(こと)なる|こと多(おほ)し》  社記(しやき)云 開祖(かいそ)信祐(しんいう) 《割書:菅原(すかはら)善外|の苗裔(へうえい)なり》 始(はしめ)筑前(ちくせん)太宰府(たさいふ)にありし頃(ころ)正保(しやうほ)三  年丙戌 一夜(あるよ)菅神(かんしん)の霊示(れいし)を蒙(かうふ)る其(その)夢中(むちゆう) 十立(かふたち)て栄(さか)ふる  梅(むめ)の稚枝(わかえ)かな といへる発句(ほつく)を得(え)たり依(よつて)其後(そののち)飛梅(とひむめ)を以て  新(あらた)に神像(しんさう)を造(つく)り是(これ)を護持(こち)して江戸(えと)に下(くた)り彼(かの)天満宮(てんまんくう)を今(いま)  の亀戸村(かめとむら)に勧請(くわんしやう)す 《割書:初(はしめ)勧請(くわんしやう)の地(ち)は今(いま)の宮居(みやゐ)より東南(とうなん)の方 耕田(かうてん)の中(うち)にあり|元宮(もとみや)と称(しよう)してかしこにも菅神(かんしん)の叢祠(そうし)あり》  其後(そののち)寛文紀元(かんふんはしめのとし)辛丑 台命(たいめい)を蒙(かうふ)り同年壬寅 始(はしめ)て今(いま)の  地(ち)を賜(たま)ふ同三年癸卯 宮居(みやゐ)を営(いとな)み心字(しんし)の池(いけ)楼門(ろうもん)等(とう)すへ  て社頭(しやとう)の光景(ありさま)宰府(さいふ)の俤(おもかけ)を模(うつ)せり依(よつて)同十一年辛亥  御水尾帝(こみつのおのみかと)震翰(しんかん)を灑(そゝ)き菅神(かんしん)の尊号(そんかう)を下(くた)し給ふ又 元禄(けんろく)  十年丁丑 一社(いつしや)の神事(しんし)法式(ほふしき)等(とう)宰府(さいふ)本宮(ほんくう)の例(れい)に准(しゆん)すへき  むね 同帝(おなしみかと)の勅許(ちよくきよ)を蒙(かうふ)る爾来(しかりしより)神威顕赫(しんいけんかく)として霊瑞昭(れいすいせう)  著(ちよ)なり当社(たうしや)至宝(しはう)と称(しよう)するものは菅神(かんしん)佩(はか)せらるゝところの天国(あまくに)  の宝剣(はうけん)なり 福聚山普門院(ふくしゆさんふもんゐん) 善応寺(せんおうし)と号(かう)す同所(とうしよ)一丁はかり東(ひかし)の方(かた)に有(あり)  真言宗(しんこんしう)にして今(いま)大日如来(たいにちによらい)を本尊(ほんそん)とす 《割書:慶安(けいあん)二年己丑 住持(ちゆうち)沙門(しやもん)栄賢(えいけん)博(はく)|給(きう)の誉(ほまれ)あるをもつて 公命(こうめい)を》  《割書:得(え)て寺産若干(しさんそくはく)を賜(たまは)り永(なか)く|香燭(かうしよく)の料(れう)に充(あて)しむとなん》  御腰懸松(おんこしかけのまつ) 《割書:堂前(たうせん)にあり昔(むかし) 大樹(たいしゆ) 御放鷹(こはうよう)の砌(みきり) 御腰(おんこし)を|かけさせられしとなり故(ゆへ)にこの名(な)あり》 慈眼水(しけんすい) 《割書:同所にあ|り加持水(かちすい)》  《割書:に用ゆ普門慈眼(ふもんしけん)の意(こゝろ)を|とりて名(な)とす》   【挿し絵】 普門院(ふもんゐん) 【図中】 御腰掛松 慈眼水 表門 【本文】  身代観世音菩薩(みかはりくわんせおんほさつ) 《割書:当寺(たうし)に安置(あんち)す伝教大師(てんけうたいし)の作(さく)にして|聖観音(しやうくわんおん)なり》  縁起(えんき)云大永(たいえい)二年壬丑 千葉介(ちはのすけ) 《割書:中務|太夫》 自胤(よりたね) 《割書:兼胤(かねたね)の孫にて|季胤(すへたね)の二男なり》 三勝(みつまさ)の城中(しやうちゆう)に  一宇(いちう)の梵刹(ほんせつ)を闢(ひら)き【闢はくにがまえ】此 霊像(れいさう)を安置(あんち)し長賢(ちやうけん)上人をして始祖(しそ)  たらしむ 《割書:今(いま)の普門院(ふもんゐん)これなり三胯(みつまた)といへるは隅田川(すみたかは)綾瀬川(あやせかは)荒川(あらかは)の落合(おちあ)ひ三俣(みつまた)に|なる所(ところ)をいへり昔(むかし)千葉家(ちはけ)在城(さいしやう)の地なり其頃(そのころ)普門院(ふもんゐん)の廓(くるは)と称(しよう)しける》 《割書: となり然(しか)れとも後(のち)兵火(へいくわ)にかゝり堂塔(たうたふ)こと〳〵く灰燼(くわいしん)せり此際(このきは)にいたり洪鐘(こうしやう)一口隅田川に| 沈没(ちんほつ)す其地を名(な)つけて鐘(かね)か淵(ふち)と呼(よ)ふ元和(けんわ)二年 《割書:或云|六年》住持(ちゆうち)栄真法印(えいしんほふゐん) 公命(こうめい)によりて三胯(みつまた)の》 《割書: 地(ち)を転(てん)して寺院(しゐん)を今の亀戸(かめと)の邑(むら)に移(うつ)すといふ| 猶当寺 縁起(えんき)をよひ当寺 新鐘(しんしよう)の銘(めい)に詳(つまひらか)なり》 往古(そのかみ)千葉自胤(ちはよりたね)の臣(しん)佐田(さたの)  善次盛光(せんしもりみつ) 《割書:後(のち)薙髪(ちはつ)して|観慧(くわんゑ)と号(かう)せり》 虚名(きよめい)の罪(つみ)により誅(ちゆう)に伏(ふく)す時(とき)日頃(ひころ)念(ねん)する  所の此 霊像(れいさう)の加護(かこ)にて其(その)白刃(はくしん)段々(たん〳〵)に壊(ゑ)し危難(きなん)を遯(まぬか)れたり  《割書:此(この)霊瑞(れいすゐ)により自胤(よりたね)三胯(みつまた)の城中(しやうちう)に当寺(たうし)を|創(さう)し長賢(ちやうけん)上人を導師(たうし)とし且つ(かつ)開祖(かいそ)とす》 又 天文(てんぶん)三年 国中(くにちゆう)大(おほい)に疫疾流行(えきしつりうかう)  し死(し)に至(いた)る者(もの)少(すくな)からすされと此(この)霊像(れいさう)を念(ねん)する輩(ともから)は悉(こと〳〵)く病(やまひ)  平愈(へいゆ)し将(はた)病(やまひ)に臨(のそま)さる者は病者(ひやうしや)と床(ゆか)を等(ひとしう)すといへとも敢(あへて)染(せん)  延(えん)の患(うれへ)なし其後(そのゝち)住持(ちゆうち)長栄(ちやうえい)上人 睡眠(すいみん)の中(うち)一老翁(いちらうをう)の来(きた)るあり  吾(われ)は是(これ)施無畏(せむい)大士なり多くの人に代(かは)り疫病(えきひやう)を受故(うくゆゑ)に病苦(ひやうく) 【挿し絵】 亀戸邑(かめとむら) 道祖神祭(たうそしんまつり) 毎歳(まいさい)正月十四日 にこれを興行(こうきやう)す 此地(このち)の童子(わらはへ)多(おほ)く あつまりて菱垣(ひかき) 造(つくり)にしたる 小(ちいさ)き船(ふね)に五彩(いついろ)の 幣帛(みてくら)を建(たて)松竹(まつたけ)抔(なと) をも装飾(さうしよく)し其中(そのちゆう) 央(あう)に宝舟(たからふね)といへる文字(もんし) を染(そめ)たる幟(のほり)を建(たて) たるを荷担(になひ)同音(とうおむ)に 唄(うた)ひ連(つれ)て此辺(このあたり)を 持(もち)歩行(ある)けり其夜(そのよ) 童子(わらはへ)集会(しうくはい)して遊(あそ)ひ   戯(たはむ)るゝを    恒例(こうれい)      とす 【普門院のつづき】  一身(いつしん)に逼(せま)れり上人 願(ねかはく)は我(わが)法一千座(ほういつせんさ)を修(しゆ)して予か救世(くせ)の加彼(かひ)  力(りき)となるへしと夢覚(ゆめさめ)て後(のち)益々(ます〳〵)軽重(けいちう)を加(くは)へ本尊(ほんそん)を拝(はい)し奉(たてまつ)るに  仏体(ふつたい)に汗(あせ)みちて蓮台(れんたい)に法(したゝ)?る感涙(かんるゐ)肝(きも)に命(めい)し夫(それ)より昼夜(ちうや)不(ふ)  退(たい)に一千座(いつせんさ)の観音供(くわんおんく)を修(しゆ)しけれは国中(こくちゆう)頓(とみ)に疫疾(えきしつ)の患(うれ)ひを  遁(のか)れけるとそ故(ゆゑ)に世俗(せそく)身代観世音(みかはりくはんせおん)と唱(とな)へ奉るとなり 臥竜梅(くはりうばい) 同所 清香庵(せいかうあん)にあり俗間(そくかん)梅屋敷(うめやしき)と称(しよう)す其花(そのはな)一品(いつひん)  にして重弁(ちやうへん)潔白(けつはく)なり薫香(くんかう)至(いたつ)て深(ふか)く形状(けいしやう)宛(あたか)も竜(りよう)の蟠臥(わたかまりふす)か  如(こと)し園中(ゑんちゆう)四方 数十丈(すしうしやう)か間に蔓(はひこり)て梢(こすゑ)高(たか)からす枝毎(えたこと)に半(なかは)は 地 中(ちゆう)に入 地中(ちちゆう)を出(いて)て枝茎(ゑけい)を生(しやう)し何(いつれ)を幹(みき)ともわきてしり  かたししかも屈曲(くつきよく)ありて自(おのつから)其 勢(いきほひ)を彰(あらは)す仍(よつて)臥竜(くわりう)の号(な)ありと  いへり梅譜(はいふ)に臥梅(くわはい)梅竜(はいりう)抔(なと)いへるにかなへり  《割書:梅譜曰 去都城二十里有臥梅偃蹇十余丈相伝唐|物也謂之梅竜好事者載酒遊之云々》 神明宮(しんめいくう) 同所にあり宮居(みやゐ)は一堆(いつたい)の塚上(ちようしやう)にあり相伝(あひつた)ふ上古(いにしへ)此地(このち)は  一の小島(こしま)にして其繞(そのめく)りは海面(かいめん)なりしと其頃(そのころ)渡海(とかい)の船(ふね)風浪(ふうらう)の  難(なん)に逢(あひ)けるに伊勢(いせ)両皇太神宮(しやうくわうたいしんくう)の加護(かこ)により命(いのち)を全(まった)ふせし  報賽(ほうさい)のため此地(このち)に此(この)御神(おんかみ)を勧請(くわんしやう)なし奉り宮居(みやゐ)を営(いとな)みし  といふ 《割書:往古(そのかみ)は此地(このち)船(ふね)多(おほ)く泊(とま)る所なる故に入(いり)と唱(とな)へしをもて|今も古(ふる)きを失(うしな)はすして此地(このち)字(あさな)に呼(よふ)といふ》 網干榎(あみほしえのき)と云は社  の傍(かたはら)にありて神木とす 《割書:昔(むかし)此辺(このへん)ひとつゝきの海(うみ)なりし頃(ころ)漁者(きよしや)の網(あみ)を懸(かけ)|干たる故にしか号(なつく)るといふ今も此あたりの地を》  《割書:穿(うか)ては土中(とちゆう)より漁網(きよまう)に具(く)する所の硾(いは)と名つくるもの出るとなり依(よつて)海辺(かいへん)なりし証(しやう)とする|よし土人云ならはせり此 榎(えのき)の一名を太平榎(たいへいえのき)と号(なつ)く社地をも太平塚(たいへいつか)と称せり》 明王山東覚寺(みやうわうさんとうかくし) 同所南の方にあり真言宗(しんこんしう)にして寺島(てらしま)の蓮(れん)  華寺(けし)に属(そく)す本尊(ほんそん)は弥陀(みた)観音(くはんおん)勢至(せいし)の三尊(さんそん)なり当寺(たうし)は享禄(きやうろく)  四年辛卯 草創(さうさう)する所の寺院(しゐん)にして開山(かいさん)を玄覚法印(けんかくほふゐん)と号(かう)す  不動(ふとう)堂 《割書:当寺(たうし)に安置(あんち)す良弁僧都(らうへんそうす)の彫像(てうさう)にして相州(さうしう)大山寺(おほやまてら)の本尊と胴体(とうたい)|なりといへり》  《割書:縁起(えんき)曰当寺 往古(そのかみ)草庵(さうあん)たりし頃(ころ)開山(かいさん)玄覚法印(けんかくほふゐん)こゝに住(ちゆう)せらる然(しか)るに享禄四年|辛卯 或時(あるとき)負笈(ふきう)の優娑塞(うはそく)来りて投宿(とうしゆく)を乞(こひ)求(もと)む法印 許諾(きよたく)し其夜同床に安臥(あんくは)》  《割書:しぬ翌朝(あくるあさ)法印 疾起(とくおき)て仏間(ふつま)に入むとするに傍(かたはら)に一人の壮夫(さうふ)の忙然(はうせん)として彳(たたすむ)あり|法印 怪(あやし)み其故を問(とふ)といへとも壮夫(さうふ)は聾唖(ろうを)の如くさらに答(こた)ふる所なし其時(そのとき)投(とう)》 【挿し絵】 梅屋敷(むめやしき) 白雲   の  竜を はゝ   む  や 梅の   花   嵐雪 如月(きさらき)の花盛(はなさかり) には容色(ようしよく) 残(のこん)の雪(ゆき)を 欺(あさむ)き余香(よかう)は 芬々(ふん〳〵)として四方(よも)に 馥(かんはし)また花(はな)の 後(のち)実(み)をむすふ を採(とり)収(おさめ)て日に 乾(かはか)し塩漬(しほつけ) として常(つね)にこれ を賈(あきな)ふ味(あちは)ひ 殊(こと)に甘美(かんひ) なれはこゝに 遊賞(いうしやう)する人 かならす    估(かふ)て  家(いへ)土産(つと)   とす 【東覚寺の続き】  《割書:宿(しゆく)の優娑塞(うはそく)これを聞(きゝ)立出(たちいて)て示(しめ)して云くこれ我笈(わかおひ)の中(うち)に安する所の不動尊(ふとうそん)罰(はつ)したまふ|所ならんと云て即(すなはち)笈(おひ)の前(まへ)にひさまつき漸(やゝ)祈念(きねん)せしに不例(ふしき)に彼(かの)壮夫(さうふ)身体(しんたい)の自由(しゆう)なる》  《割書:事をおほえこゝにおいて語(こ)を発(はつ)する事を得(え)て大に歓喜(くわんき)し且つ(かつ)盗賊(とうそく)なる事を示(しめ)し|其罪(そのつみ)を謝(しや)して永(なか)く良心(りやうしん)にひるかへさむ事 約(やく)し去(さり)ぬ依(よつて)法印これを奇(き)とし其本尊の由縁(ゆへ)》  《割書:を問 優娑塞(うはそく)こたへ云くむかし良弁僧都(らうへんそうつ)相州大山(さうしうおほやま)を開基(かいき)したまふ頃 我(わか)始祖(しそ)其 麓(ふもと)なる|子安村(こやすむら)に住(ちゆう)せしか其時僧都を供奉(くふ)しまゐらせ前路(せんろ)を開通(かいつう)し僧都をして山頂(さんてう)に》  《割書:至らしむこれ相州(さうしう)大山寺の興基(こうき)なり其御僧都 随従(すゐしう)の労(らう)を謝(しや)して此本尊を我(わか)始祖(しそ)|に付属(ふそく)なしたまひ告(つけ)て云く人界(にんかい)の大患(たいくわん)は盗難(とうなん)剣難(けんなん)のふたつに過たるはなし此 霊像(れいそう)を護持(こし)》  《割書:せは永(なか)く汝(なんし)か子孫(しそん)およひ見聞(けんもん)結縁(けちゑん)の輩(ともから)も又 其難(そのなん)を遁(のか)れしめんと云々しかありしより|我家(わかいへ)に相伝(さうてん)せし事今に至りて二十五代なり回国(くはいこく)の間も路中(ろちゆう)危難(きなん)を遁(のか)れし事 屢々(しは〳〵)多》  《割書:かりしもこの霊像の応護(おうこ)による所なりと語けれは法印 深(ふか)く感歎(かんたん)しこの霊像を永く|此地にとゝめ一宇(いちう)を建立(こんりふ)し普(あまね)く衆生(しゆしやう)を結縁(けちゑん)せんと欲(ほつ)し頻(しきり)に此霊像を乞求(こひもと)む》  《割書:優娑塞(うはそく)も終(つい)に其意(そのい)を応(おう)しこの尊像(そんそう)を玄学(けんかく)に付与(ふよ)す玄学(けんかく)直(すく)に一宇(いちう)の香堂(かうたう)を|営(いとな)むて此霊像を安す当寺これなり故(ゆゑ)に世人 盗難除(とうなんよけ)不動尊(ふとうそん)と称(しよう)しまゐらせり》 香取大神宮(かとりたいしんくう) 同所二丁許 乾(いぬゐ)の方にあり 《割書:此地も昔は泰平津かと等(ひと)しく海|にして一の離島(はなれしま)なり亀(かめ)の浮(うか)へるに》  《割書:似(に)たりとて旧名(きうめい)を亀津島(かめつしま)と|唱(とな)へたりといふ》 本社(ほんしや) 祭神(さいしん)経津主命(ふつぬしのみこと) 《割書:下総一宮の|神胴体》 相殿(あひてん) 《割書:建甕槌命(たけみかつちのみこと) 鹿島大神宮|猿田彦命 大杉大神宮》 三座  当社(たうしや)は亀戸村(かめとむら)草創(さう〳〵)よりの勧請(くはんしやう)にして此辺(このへん)第一(たいいち)の古跡(こせき)なりと  いへり 《割書:或説に当社は大職冠(たいしよくわん)鎌足(かまたり)|公の勧請なりといふ》 例祭は毎年六月十四日十五日に修(しゆ)  行(きやう)す旅所(たひしよ)は吾妻森(あつまのもり)より二三十歩東の方 田(た)の中(なか)にあり往古(そのかみ) 【挿し絵】 入神明宮(いりのしんめいくう)  太平榎(たいへいゑのき) 【挿し絵】 香取太神宮(かとりたいしんくう) 【図中】 神木 本社 水神 神主 金ひら 【挿し絵】 亀戸邑(かめとむら)の常光寺(しやうくわうし)は江戸(えと) 六阿弥陀回(ろくあみためくり)の第六番目(たいろくはんめ) なり春秋(はるあき)二度(にと)の彼岸(ひかん) 中(ちゆう)都鄙(とひ)の老若(らうにやく)参詣(さんけい)    群集(くんしふ)      せり 【図中、幟の文字】 本堂建立 【亀戸村、香取大神宮の続き】  祭礼(さいれい)を行(おこな)はむとせし頃(ころ)は此辺(このあたり)なへて海面(かいめん)なりしかは舂(うす)【注:春ではない】を流(なか)し  其(その)止(とゝま)る地(ところ)を以(もつて)旅所(たひしよ)に定(さたむ)へしと誓(ちか)ひたりしに其舂(そのうす)かしこに止(とゝま)り  しとなり故(ゆゑ)に今(いま)も昔(むかし)の例(れい)により僅(わつか)の間(あひた)なからも十間川(しつけんかは)に至(いた)り  て神輿(みこし)を船(ふね)に移(うつ)し旅所(たひしよ)へ神幸(しむかう)なしまゐらす 東林山宝蓮寺(とうりんさんはうれんし) 華蔵院(けさうゐん)と号(かう)す真言宗(しんこんしう)にして寺島(てらしm)の蓮華寺(れんけし)に属(そく)す本尊(ほんそん)虚空蔵菩薩(こくさうほさつ)は行基大士(きやうきたいし)の作(さく)なり 《割書:江戸三虚空蔵|の一員(いちゐん)なり小石川(こいしかは)》  《割書:白山西福寺(はくさんさいふくし)品川(しなかは)|養願寺(ようくわんし)等(とう)なり》 当寺(たうし)は吾嬬権現(あつまこんけん)の別当寺(へつたうし)なり相伝(あひつたふ)嘉元(かけん)元年  癸卯 俊鑁(しゆんはん)法印 草創(さうさう)する所の精舎(しやうしや)にして始(はしめ)は相州小田原(さうしうをたはら)に  ありしとなり鎌倉(かまくら)北条家(ほうてうけ)の時 此地(このち)に移(うつ)すといふ 西帰山常光寺(さいきさんしやうくわうし) 同所一丁あまり巽(たつみ)の方にあり曹洞派(さうとうは)の禅刹(せんせつ)  にして橋場(はしは)の総泉寺(そうせんし)に属(そく)す開山(かいさん)は行基大士(きやうきたいし)中興(ちゆうこう)は勝庵最大(しようあんさいたい)  和尚(おしやう)と号(かう)す本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)の像(さう)は即(すなはち)行基大士の作(さく)なり 《割書:江(え)|戸(と)》  《割書:六阿弥陀(ろくあみた)第(たい)|六番目(ろくはんめ)なり》 来迎松(らいかうまつ)は仏殿(ふつてん)の前(まへ)に存(そん)せり 《割書:中古 火災(くわさい)の時当寺の本尊 火焔(くはえん)|を出(いて)て此樹上にうつりたまふといへり》  竜灯松(りうとうのまつ)は同し左(ひたり)の方にあり 《割書:時として樹上へ|竜灯(りうとう)揚(あか)るよしいへり》 毎歳(まいさい)二月八月の彼岸(ひかん)中(ちゆう)参詣(さんけい)多し 亀命山慈光院(きめうさんしくわうゐん) 同所十間川を隔(へたて)て向(むか)ふにあり当寺(たうし)も洞家(とうけ)の  禅林(せんりん)にして同しく総泉寺(そうせんし)に属(そく)す永正(えいしやう)十一年甲戌 葛西(かさい)出雲守(いつものかみ)  某(それかし)の令室(れいしつ)慈光院殿(しくわうゐんてん)草創(さうさう)する所の寺院(しゐん)たり開山(かいさん)は嵐巌和尚(らんかんおしやう)  本尊(ほんそん)観世音菩薩(くわんせおんほさつ)の像(さう)は此地より東の方の土中(とちゆう)より出現(しゆつけん)  ありしといふ又 境内(けいたい)に安置(あんち)せる弁財天(へんさいてん)の像(さう)は智証大師(ちせうたいし)の作(さく)  にして葛西出雲守某(かさいいつものかみそれかし)の尊信(そんしん)ありし霊像(れいさう)なりといへり 吾嬬権現(あつまこんけん)社 同所十間川の端(はた)にあり此地を吾嬬森(あつまのもり)又 浮州森(うきすのもり) とも号(なつ)く別当(へつたう)は宝蓮寺(ほうれんし)なり  本社(ほんしや) 祭神(さいしん) 弟橘媛命(おとたちはなひめのみこと) 一座  日本書紀神代巻曰 日本武尊初至駿河其処賊  陽従之欺曰是野也麋鹿甚多気如朝霧足如茂林  臨而応狩日本武尊信其言入野中而覓獣賊有殺  王之情放火焼其野王知被欺則以燧出火之向焼  而得兎   一云王所佩剣叢雲自抽之薙攘王之傍草因是   得免故号其剣曰草薙也叢雲此云武羅玖毛  王同殆被欺則悉焚其賊衆而滅之故号其処曰焼  津亦進相模欲往上総望海高言曰是小海耳可立  跳渡乃至干海中暴風忽起王船漂蕩而不可渡時  有従王之妾曰弟橘媛穂積氏忍山宿祢之女也啓  王曰今風起浪泌王船欲没是必海神心也願以妾  之身贖王之命而入海言訖乃被瀾入之暴風即止  船得著岸故時人号其海曰馳水下略 相生樟(あいをひのくすのき) 《割書:本社(ほんしや)の前(まへ)右(みき)の方(かた)にあり世に連理(れんり)と称(しよう)するものにして一根(いつこん)二幹(にりん)なりわつかに|地(ち)を離(はな)るゝ事四尺はかりにして二股にわかる社記(しやき)に往古(そのかみ)日本武尊(やまとたけのみこと)弟橘媛(おとたちはなひめ)の神霊(しんれい)を》  《割書:鎮(しつめ)まゐらせ御 食(しき)し給ひし時樟(くすのき)の御箸(おんはし)をもて末代平天下(まつたいへいてんか)ならんには此箸(このはし)二本共に栄(さか)ふへし|と宣(のたま)ひ御手自(みてつから)御廟(こひやう)の東(ひかし)の地(ち)にさゝせ給ひしに》  《割書:後(のち)枝葉(しえふ)を生(しやう)し今に至(いた)りて栄茂(えいも)す又| 其傍(そのかたはら)に同し樟(くす)の蘗(き)あり是も一根二幹(いつこんにけん)なり》  神宝(しんはう)古鈴(これい)一口 《割書:長(なか)さ八寸はかりあり|銅色愛すへし》【挿し絵1】   《割書:是(これ)に同しきもの常陸(ひたち)の鹿島正等寺(かしましやうとうし)にもあり又 息男県麿(そくなんあかたまろ)か|家(いへ)にも蔵(さう)せり其形状(そのけいしやう)大同小異なる故(ゆゑ)に図を臨し加(くは)ふのみ》 【挿し絵2】 鹿島正等寺蔵 【挿し絵3】 藤原県麿蔵  社記(しやき)曰(いはく)人皇(にんわう)十二代 景行天皇(けいかうてんわう)の御宇(きよう)四十年 皇子(わうし)日本武尊(やまとたけのみこと)東夷(とうい)を  征伐(せいはつ)し給ふ時(とき)相模国(さかみのくに)より上総国(かみつふさのくに)に往(ゆか)むとし王船(みふね)に乗(のり)たまふ  海中(かいちゆう)に至(いた)り給ふ頃(ころ)暴風(あからしまかせ)忽(たちまち)起(おこ)り王船(みふね)漂蕩(たゝよひ)て渡(わた)るへからす時(とき)に  妾(ひめ)弟橘媛(おとたちはなひめ)曰(のたまはく)今(いま)風(かせ)起(おき)浪(なみ)泌(はやく)して王船(みふね)没(しつま)むと欲(ほつ)す是(これ)必(かならす)海神(わたつみ)の  心(こゝろ)なり願(へかはく)は妾(やつこ)の身(み)を以(もつ)て王(みこ)の命(いのち)を贖(あかな)ひて海(うみ)に入(いら)むと言訖(のたまひをはり)て瀾(なみ)を  披(わけ)て入給ひぬ暴風(あからしまかせ)即(すなはち)止(やみ)て王船(みふね)岸(きし)に着(つく)事を得(え)給ふ 《割書:難風(なんふう)に逢(あい)たまふ|海上(かいしやう)を馳水(はしりみつ)と云》  《割書:今 走水(はしりみつ)に|作(つく)る》 其後(そのゝち)弟橘媛(おとたちはなひめ)の御裳(みも)此辺(このあたり)の海上(かいしやう)に浮(うか)ひけれは尊(みこと)群臣(くんしん)に  命(めい)して此所(このところ)に収(をさ)め壇(たん)を築(つ)かしめ瑞籬(たまかき)を巡(めくら)して御 廟(ひやう)となし給ふ  《割書:尊骸(そんかい)の寄(より)ける地(ち)に御 廟(ひやう)を築(つ)きたてまつる上総国(かみつふさのくに)君不去(きさらす)の吾妻(あつま)明神是なり|又 其(その)御櫛(みくし)の寄(より)けるを取揚(とりあけ)て御陵(こりやう)を造(つく)るは今(いま)の相州梅沢(さうしううめさは)の吾妻明神(あつまみやうしん)なりと云》 当社(たうしや)古(いにしへ)は  荒陵(くはうりやう)のみなりしを承久(しやうきう)元年 北条泰時(ほうてうやすとき)の幕下(はくか)鈴木隼人正(すゝきはやとのかみ)神尾(かみを)  采女(うねめ)井出(ゐて)大学(たいかく)等(とう)の諸士(しよし)小祠(しようし)を創営(さうえい)し神領(しんりやう)三百石を付(ふ)したり  しとなり其後(そのゝち)永禄(えいろく)の頃(ころ)も小田原(をたはら)北条家(ほうてうけ)の臣(しん)遠山丹波守(とほやまたんはのかみ)当社(たうしや)  を再興(さいこう)せしといへり 【挿し絵】 吾嬬森(あつまのもり) 吾嬬権現(あつまこんけん) 連理樟(れんりのくす) 鳥かなく  あつまの    森を  見わたせ      は   月    は   入江の    波そ  しら    め     る     藤原恭光        入道 此(この)和歌(わか)は戸田茂睡(とたもすい) 入道のあらはせし 鳥(とり)の跡(あと)といへる和歌(わか) の集(しふ)に載(のせ)たりし 自(みつから)の詠(えい)なりその はしにこの吾妻(あつま)の 森(もり)は東人(あつまひと)といへるか 住(すみ)し所なりとあり この東人いかなる 人にやいまた     考へす 【図中】 十間川 神木樟 本社 いなり 【挿し絵】 日本武尊(やまとたけのみこと)東夷(とうい)征伐(せいはつ)し たまふ時 相模国より上総(かみつふさの) 国(くに)に往(ゆか)んとし給ひし 其(その)海上(かいしやう)暴風(あからしまかせ)忽(たちまち)起(おこ)り 王船(みふね)漂蕩(たゝよふ)て危(あやう)かりし かは妾(みめ)弟橘媛(おとたちはなひめ)自(みつから)の御身(おんみ) をもて贖(あかなひ)尊(みこと) の命(いのち)をたすけ まいらせん事を 海神(わたつみ)に誓(ちか)ひ 竟(つい)に瀾(なみ)を披(わけ) て入たまひ ぬる事は 日本紀(にほんき)に  みえ   たり 【吾嬬権現社の続き】  《割書:按に小田原北条家の所領役帳(しよりやうやくちやう)にも遠山丹波守(とほやまたんはのかみ)所領(しよれう)の中に葛西小村井(かさいをむらゐ)の地名(ちめい)を注(ちゆう)し加(くは)ふ小村|井は亀戸(かめと)村に接(せつ)して即(すなはち)此社(このやしろ)の北の人村をいふ昔(むかし)社地(しやち)の辺(あたり)も丹波守の領地(りやうち)にてやありけん故(ゆゑ)に当社(たうしや)を》  《割書:修理(しゆり)せしならん歟(か)|》 殖髪聖徳太子堂(うゑかみしやうとくたいしたう) 同所 亀戸天満宮(かめとてんまんくう)の裏門(うらもん)の通り川端(かははた)に傍(そひ)  て慈雲山竜眼時(しうんさんりうかんし)といへる天台宗(てんたいしう)の寺境(しきやう)に安置(あんち)す聖徳太子(しやうとくたいし)の  御影(みえい)は太子 自(みつから)彫像(てうさう)なし給ふとて御長(みたけ)二尺五寸あり 《割書:其霊像(そのれいさう)の|頂(いたゝき)に太子と》  《割書:妃(みめ)との鬘髪(みくし)を殖(うゑ)させたまふと|なり故に世に殖髪(うゑかみ)太子と称(まう)す》 当寺(たうしの)蔵(さう)太子(たいし)縁起(えんき)云 推古天皇(すゐこてんわう)十一年癸亥  太子 御齢(おんよはひ)三十二歳同年十一月廿八日 桧隈宮(ひのくまのみや)におひて霊木(れいもく)を得(え)  て自親(みみつから)影像(えいさう)を作(つく)り斑鳩(いかるか)の夢殿(いめとの)に納(をさめ)たまふ 《割書:太子 伝暦(てんれき)等(とう)に此年(このとし)影像(えいさう)|を造(つく)る事を載(の)せす》  其後(そのゝち)代々(よゝ)の帝王(ていわう)大寺(たいし)をなし世々の君子(くんし)堂(た)に移(うつ)す仍(よつて)天智帝(てんちてい)の  七年に百済寺(くたらてら)を営(いとな)むて安置(あんち)奉(たてまつ)りしより慶長(けいちやう)七年壬寅に至(いた)る  迄の間(あひた)南都(なんと)大安寺(たいあんし)及(およ)ひ花洛(くはらく)蓮花王院(れんけわうゐん)高雄(たかを)の神護寺(しんこし)あるひは  豆州田方(つしうたかた)の般若王寺(はんにやわうし)相州鎌倉(さうしうかまくら)の法華堂(ほつけたう)武州小菅(ふしうこすけ)の最明寺(さいみやうし)  江州滋賀(こうしうしか)菅原寺(すかはらてら)摂洲(せつしう)金胎寺(こんたいし)等(とう)へ移(うつ)し奉(たてまつ)り竟(つい)に宝暦(はうれき)十二年  壬午十月 武州荏原郡(ふしうえはらこほり)の清谷寺(せいこくし)より移(うつ)し長(なか)く当寺(たうし)に安置(あんち)  し奉るといへり  当寺(たうし)の後園(こうえん)萩(はき)を多(おほ)く栽(うゑ)て中秋(ちゆうしう)の頃(ころ)開花(かいくは)の時節(しせつ)は壮観(さうくはん)  たり故(ゆゑ)に世俗 萩寺(はきてら)と字(あさな)せり 妙見大菩薩(めうけんたいほさつ) 同し川端(かははた)橋(はし)を越(こえ)て向(むか)ふ角(かと)にあり日蓮宗(にちれんしう)法(ほふ)  性寺(しやうし)に安(あん)す本尊(ほんそん)の来由(らいゆ)詳(つまひらか)ならす近世(きんせい)霊験(れいけん)著(いちしる)しとて詣人(けいしん)  常(つね)に絶(たえ)す堂前(たうせん)に影向松(えうかうまつ)と号(なつく)る霊樹(れいしゆ)あり本尊(ほんそん)初(はしめ)て此樹上(このしゆしやう)に  降臨(かうりん)ありしといふ故(ゆゑ)星降松(ほしくたりまつ)とも千年松(せんねんまつ)とも呼(よへ)り元和(けんわ)の頃(ころ)  大樹(たいしゆ)此地(このところ)に至(いた)らせ給ひし頃(ころ)更(あらため)て鏡(かゝみ)の松(まつ)と号を賜(たま)ひしと云(いひ)  伝(つた)ふ 天松山最教寺(てんしやうさんさいけうし) 同所三丁はかりを隔(へた)てゝ西(にし)の方(かた)にあり日蓮宗(にちれんしう)  にして本尊(ほんそん)に釈迦如来(しやかによらい)の像(さう)を安(あん)す寛永年間(くはんえいねんかん)延山(えんさん)二十七世 通(つう)  心院(しんゐん)日境(にちきやう)上人 開基(かいき)す当寺(たうし)に鎌倉将軍(かまくらしやうくん)惟康親王(これやすしんわう)蒙古鎮制(もうこちんせい) 【挿し絵】  竜眼寺(りうかんし) 庭中(ていちゆう)萩(はき)を多(おほ)く 栽(うへ)て中秋(ちゆうしう)の一(いつ) 奇観(きくはん)たり故(ゆへ)に 俗(そく)呼(よん)て萩寺(はきてら)と 称(しよう)せり万葉集(まむえうしふ) 芳子(はき)に作(つく)り和名(わみやう) 抄(せう)鹿鳴(はき)草に作(つく)る 続日本後紀(そくにほんこうき)に 仁明帝(にんみやうてい)承和(しやうわ) 元年八月 清涼(せいりやう) 殿(てん)に内宴(ないえむ)す 是(これ)を芳宜(はき)華 の讌(えむ)といふと ありて皇朝(くわうてう) 古(いにしへ)より萩(はき)を 愛(あい)せられし 事(こと)かくの    如(こと)し 【挿し絵】 柳島(やなきしま)  妙見堂(めうけんたう) 【図中】 十間川 妙見堂 ふち山 法性寺 影向松 【挿し絵】 押上(おしあけ)  最教寺(さいけうし)   当寺(たうし)に蒙古(もうこ)   退治(たいち)の籏曼(はたまん)   荼羅(たら)あり 【本文、西教寺の続き】  の為(ため)に書(かゝ)しむる所の日蓮(にちれん)上人 親蹟(しんせき)の曼荼羅(まんたら)の旗(はた)あり  七面堂(しちめんたう) 《割書:境内(けいたい)にあり本山(ほんさん)身延(みのふ)同体(とうたい)の霊像(れいさう)なりと云 三沢流祈祷(さんたくりうきとう)の本尊(ほんそん)にして当寺(たうし)第一世の|住持(ちゆうち)仙能院日宗(せんのうゐんにちそう)尊師(そんし)二百日 加行(けきやう)して池(いけ)の傍(かたはら)に社殿(しやてん)を建立(こんりふ)すと云》  日(ひ)の丸(まる)旗曼荼羅(はたまんたら) 一幅 【挿し絵】  竪六尺五寸  幅五尺五寸  毎歳(まいさい)七月十六日  よりおなし廿二日  まて虫払(むしはらひ)として  七面堂(しちめんたう)に掲(かけ)て諸(しよ)  人(にん)に拝(はい)さしむ  月の丸 曼荼(まんた)  羅(ら)は身延山(みのふさん)に  あり   両面之大旗来由記   弘安四年辛已五月二十一日従大元国蒙古賊船   四千余艘人数二十四万余責来七月於九州防戦   其時這八大竜王之御旗円中日蓮聖人為祈濤之   大漫荼羅令書此御旗先立向親王九州給時其為   武之大将至九州則日本霊神擁護有神風吹彼賊   船其人数第不残破異国江追払給目出度旗成故   我家是預給畢    十二月二十一日   這両面之大旗者 帷康親王所持之御旗也弘安   四年五月二十一日従大元国蒙古来船四千艘人   数二十四万人也于時親王此旗四方八大竜王四   角四天王中円相内十界大曼荼羅日蓮聖人仰而   令書是為持九州向攘蒙古災給御旗是也    正応元年十月十三日 武州池上村               右衛門太夫宗仲判  蒙古退治旗曼荼羅来由(もうこたいちはたまんたらのらいゆ) 人皇(にんわう)九十代 後宇多帝御宇(こうたのていのきよう)弘安(こうあん)  三年庚辰 春(はる)二月 《割書:元(けんの)至元(しけん)十|七年に当(あた)る》 鎌倉(かまくら)において元使(けんし)杜世忠(とせいちゆう)を殺(ころ)す 《割書:元史(けんし)|日本(にほん)》  《割書:伝(てん)に元(けん)の世祖(せいそ)の至元(しけん)一年 《割書:日本文永|元年に当る》 高麗人(こまひと)趙彝(てうい)等(ら)日本国(につほんこく)に通(つう)すへしと言(ことは)を以て使(つかひ)を遣(つかは)すへき|者を択(えら)ふ同三年八月兵部侍郎(へいほうしらう)黒的(こくてき)礼部侍郎(れいほうしらう)殷弘(いんこう)等(ら)に命(めい)し日本(につほん)に使(つかひ)すとのりて日本の弘(こう)》  《割書:安(あん)四年迄元使(けんし)日本(につほん)へ書(しよ)を奉し来る|事しは〳〵なりといへともこれに応せす》 元王(けんわう)憤(いきとほり)て阿刺罕(あしかん)《割書:五倫書巻二十一 阿斯罕(あしかん)に作(つく)る|阿刺罕(あしかん)途(みち)にして病(やまひ)に係(かゝり)て》  《割書:卒(そつ)すこゝに於(おい)て阿塔海(あたふかい)|を以て是に代(かはら)しむ》 范文虎(えんふんこ)。及(およひ)欣都(きんと)。洪茶丘(こうさきう)等(とう)の四将に師(いくさ)十万を牽(ひきゐ)  しめて日本を撃(うた)むとす 《割書:東国通鑑(とうこくつうかん)巻の三十八高麗記云 茶丘(さきう)欣都(きんと)蒙麗漢(もうれいかん)四万の軍(いくさ)|を牽(ひき)て合浦(かつうら)を発(はつ)し范(えん)文 虎(こ)蛮軍(はんくん)十万を牽て江南を》  《割書:発し倶に一岐島(いきしま)に会すこと太平記|三百万騎とし縁起(えんき)二十四万人とす》 同四年辛巳 夏(なつ)五月 《割書:元至元十八|年に当(あた)る》 蒙(もう)古の賊(そく)  船(せん) 《割書:東国通鑑(とうこくつうかん)戦鑑(いくさふね)三千五百 艘(さう)又 太(たい)平記七万|余艘とす縁起四千余艘として一ならす》 督(とく)し来(きたつ)て鎮西(ちんせい)に冠(あた)し壱岐(いき)対馬(つしま)  の二島及ひ筑前 肥(ひ)前に入る 《割書:元史(けんし)日本伝六月 海(うみ)に入七月平 壺島(ことう)に至り五竜(こりう)|山にうつる八月一日風船を破(やふ)るとあり異称日本伝(ゐしやうにほんてん)》  《割書:に平 壷(こ)また平戸なり 戸(こ)壷(こ)音(おん)通(つう)す平戸こゝには比羅度(ひらと)と云 三才図会(さんさいつゑ)|飛蘭鳥に作る五竜山は鷹島なり此島は筑前(ちくせん)の国にある所なり》 天下の人 民(みん)戦慄(せんりつ)  せさるはなしこゝに於て鎌倉には征夷(せいい)大将軍 帷康親王(これやすしんわう)蒙古退治(もうこたいち)  の為自(みつから)九州(きうしう)に向はむとしまつ宇都宮貞網(うつのみやさたつな)をして先陣(せんちん)の大将(たいしやう)た  らしむまた日蓮上人に命(めい)して日月(しつけつ)の旗(はた)の円中(えんちゆう)に大 曼荼羅(まんたら)を  書(かゝ)しめ其 旗(はた)を貞綱(さたつな)に与(あた)へ西海(さいかい)に発向(はつかう)せしむ其時同年閨七月  一日なり貞(さた)網 海浜(かいひん)に至(いた)り彼旗(かのはた)を押 立(たつ)るに颶風(くふう)俄(にはか)に起(おこ)り逆(けき)  浪(らう)天を浸(ひた)し賊船(そくせん)漂蕩(へうたう)し或(あるひ)は巌崖(かんかい)に触(ふれ)て多(おほ)く壊(くつ)れ蛮軍(はんくん)  溺死(てきし)して魚腹(きよふく)に葬(はふむ)らるゝもの其数(そのかす)を知らす元師(けんし)大(おほひ)に敗北(はいほく)  す虜(とりこ)にする者(もの)凡(およそ)三万人 悉(こと〳〵)く是を梟首(きうしゆ)す其 余(よ)于閶(むしやう)。莫青(はくせい)。呉(こ) 【挿し絵】 鎌倉将軍(かまくらしやうくん) 惟康親王(これやすしんわう) 蒙古夷賊(まうこのいそく) 退治(たいち)の図(つ) 【挿し絵、惟康親王蒙古退治のつづき】 其 二 【惟康親王蒙古退治旗曼荼羅来由のつづき】  万五(はんこ)等(ら)を赦(ゆる)して還(かゑ)らしむ是(これ)此事(このこと)を元主(けんしゆ)にしらしめんか  為なり蒙古(もうこ)の敗卒(はいそつ)還(かゑ)る事(こと)を得(う)る者 僅(わつか)に此三人のみ 《割書:大学衍(たいかくえん)|義補(きほ)に》  《割書:云元(けん)の世祖(せいそ)の至元(しけん)十八年 日本(につほん)を撃(うつ)兵十余万 海島(かいとう)に死(し)す還(かゑ)る事を得(う)る者(もの)僅(わつか)に三十人とある|を異称日本伝に三十人の十の字は衍(あやまり)なりと云々 元史(けんし)に十万の兵還(へいかゑ)る事を得(う)る者三人のみと》  《割書:ありて三人の名(な)を挙(あけ)たり曰く于閶(かんしやう)曰く莫青(はくせい)曰く呉万五(こはんこ)等なり以上 元史日本伝(けんしにつほんてん)東国(とうこく)|通鑑(つうかん)続(そく)資治 通鑑(つうかん)綱(こう)目 大学衍義補(たいかくえんきほ)五倫書(こりんしよ)帝王編年集成(ていわうへんねんしふせい)太平記(たいへいき)北条(ほうてう)九代記 当寺(たうし)》  《割書:縁起(えんき)等(とう)の|要(やう)を摘(つむ)》 依(よつて)凱陣(かいちん)の後(のち)勧賞(けんしやう)として永(なか)く此旗(このはた)を貞綱(さたつな)に賜(たま)ふ貞(さた)  綱(つな)来由(らいゆ)を書(しる)して身延山(みのふさん)に納(をさむ)然(しかる)を当寺(たうし)開山(かいさん)日境(にちきやう)上人 身(み)  延(のふ)より携(たつさへ)来(きた)りて永(なか)く当寺(たうし)の什宝(ちうはう)たらしむるとなり 宝聚山大法寺(はうしゆさんたいほうし) 同三丁はかり西(にし)にあり日蓮宗(にちれんしう)にして同所 法(ほう)  恩寺(おんし)に属(そく)す当寺(たうし)は大永(たいえい)六年丙戌 創立(さうりう)の梵宇(ほんう)にして開山(かいさん)は  法恩治(ほうおんし)第八世 大権院日功(たいこんゐんにちかう)上人なり其頃(そのころ)は法恩寺(ほふおんし)と共(とも)に  今の御廓内(おんかくない)平川(ひらかは)の地にありしを後(のち)谷中(やなか)に移(うつ)され又 元禄(けんろく)年  間 今(いま)の地(ち)に転(てん)せしむるとなり  三十番神堂(さんしふはんしんのたう) 《割書:本堂(ほんたう)の左にあり番神(はんしん)の像(さう)は日功(にちこう)上人の作(さく)なり日功尊師(にちかうそんし)六歳の時疱瘡(はうさう)|を病 既(すて)に死(し)せり父母(ふほ)悲(かなしみ)に絶(たえ)さる所に三十番神の霊示(れいし)に良薬(りやうやく)を得(え)て》  《割書:忽(たちまち)に蘇生(そせい)す則(すなはち)広布石(くわうふせき)并に番神(はんしん)の加護(かこ)なりとて後(のち)其(その)子を出家(しゆつけ)せしむ日功 是(これ)なり|今猶 夢想(むさう)の疱瘡(はうさう)の守礼(まもり)当寺(たうし)より出せり》  広布石(くわうふせき) 《割書:当寺(たうし)本堂(ほんたう)に秘安(ひあん)す今 卵塔(らんたふ)の内(うち)に其模(そのうつし)を置(おき)たり真物(しんふつ)は日蓮(にちれん)上人親筆(しんひつ)|の法華首題(ほつけしゆたい)を鐫(ゑり)たる石塔(せきたふ)なり伝へ云 往古(そのかみ)此 霊石(れいせき)亀戸(かめと)村の地にありしと》  《割書:亀戸村 昔(むかし)は鎌倉(かまくら)への海道(かいたう)たり建長(けんちやう)五年日蓮上人 下総国(しもつふさのくに)より鎌倉へ至り給ふ頃(ころ)彼|所を過(すき)たよひ此 石面(せきめん)に法華(ほつけ)の首題を書 賜(たま)ひ大(おほひ)に広宣流布(くわうせんるふ)の願を誓(ちか)ひ給ふ依(よつて)広(くわう)》  《割書:布石(ふせき)と号(なつ)く其後(そのゝち)千葉家(ちはけ)に相伝(さうてん)せし故 千葉石(ちはいし)とも称せり然るに日功上人は俗性(そくしやう)千|葉氏なりし故に出家(しゆつけ)得度(とくと)の後 当寺(たうし)を創立(さうりう)し此霊石をもこゝに安置(あんち)あり功師も又》  《割書:自(みつから)此石面に三十番神の尊号(そんかう)をも|彫添(ゑりそへ)られけるとなり》 常在山霊山寺(しやうさいさんれうせんし) 二尊教院(にそんけうゐん)と号(かう)す同所の南(みなみ)法恩寺(ほふおんし)の北(きた)に隣(とな)る  浄家(しやうけ)十八 壇林(たんりん)の随一(すゐいち)なり本尊(ほんそん)阿弥陀如来(あみたによらい)の像(さう)は慈覚大師(しかくたいし)  の作(さく)釈迦如来(しやかによらい)の像(さう)は唐仏(たうふつ)なり 《割書:此故(このゆゑ)に二尊|教院といふ》 開山(かいさん)は念蓮社専誉(ねんれんしやせんよ)  上人 大超和尚(たいてうおしやう)と号(かう)す中古 寺院(しゐん)既(すて)に荒廃(くはうはい)し壇林(たんりん)の統脈(とうみやく)絶(たえ)ん  とせしを最蓮社親誉俊応(さいれんしやしんよしゆんおう)和尚 深(ふか)く此事(このこと)を慨(なけき)屢(しは〳〵)  官府(くわんふ)に訟(うつた)へて竟(ついに)貞享(しやうきやう)二年 壇林(たんりん)再興(さいこう)の命(めい)を蒙(かふむ)りて往昔(むかし)の浄(しやう)  域(いき)に復(ふく)すされとも功(こう)を後住(こちゆう)に譲(ゆつり)て武州(ふしう)熊谷寺(くまかやてら)に隠(かく)る故(ゆゑ)に  光蓮社明誉遊安廓栄(くわうれんしやみやうよいうあんかくえい)和尚を中 興(こう)開山(かいさん)とす廓栄(くわくえい)和尚は一 宗(しう) 【挿し絵】 押上(おしあけ)  法恩寺(ほふおむし)  霊山寺(りやうさんし) 【図中】 庫理 方丈 法恩寺 塔中 表門 塔中 庫理 霊山寺 くわんおん 表門 まりし天 【挿し絵】 瓦師(かはらし)  中之郷(なかのかう)の辺(へん)  瓦師(かはらし)の家(いへ)  多(おほ)く是(これ)を  業(なりはひ)と   するもの     多し 【常在山霊山寺の続き】  の高徳(かうとく)碩学(せきかく)にして往生要集(わうしやうえうしふ)指麾抄(したいしやう)を著(あらは)し大に世に行(おこな)はる  当寺昔は湯島妻恋坂にありしか明暦 火災(くはさい)の後浅草に  移りまた元禄年間今の地にうつる 《割書:浅草にありし頃の地は今の誓(せい)|願寺(くはんし)中安養寺の所なり》  知恩院 尊空法親皇(そんくうほふしんわうの)御廟(こひやう) 《割書:本堂の西にあり尊空親皇(そんくうしんわう)は深川に小名木川辺り|五本松に御 閑居(かんきよ)あり其故はしはらくこゝに》  《割書:略す御影堂(みえいたう)は地中 照満院(しやうまんゐん)にあり| 浄土伝灯系図曰 尊空天蓮社帝誉号照満伏見》  《割書: 守邦親王子入于霊巌室剃染嗣法住洛知恩院元| 禄元年十一月七日寂》  観音堂 《割書:本堂の前右の方にあり本尊は慈覚(ちかく)大師の作にして|桂昌一位尼公(けいしやういちゐにこう)御念持仏(こねんちふつ)なりしといへり》 平河山法恩寺(へいかさんほふおんし) 柳島出村にあり日蓮宗にして花洛(くはらく)本国寺  の触頭(ふれかしら)江戸三 箇寺(かし)の一員(いちゐん)たり本堂には宗祖上人の像を安す  日法上人の作なり相伝ふ当寺は太田大和守 資高(すけたか) 《割書:道潅(たうくわん)の孫なり|法華霊場記(ほつけれいちやうき)》  《割書:に資高は江戸谷中法恩寺|日悦尊霊(にちゑつそんれい)なりと云々》 先考(せんかう)六朗左衛門 資康(すけやす)入道 法恩斎(ほふおんさい) 《割書:日恩(にちおん)|と号》  十三回忌 追悼(つゐたう)の為三田村の内を寄付(きふ)し日住上人を開祖とす  則大永四年甲申武州江戸下平河に精舎(しやうしや)を営建(えいこん)し一家の霊(れい) 【挿し絵】 業(なり) 平(ひら) 天(てん) 神(しん) 祠(やしろ)  此処王孫遊  煙波落日浮  自看洲鳥白  京国至今愁   右在五祠      南郭 中郷(なかのかう)  第六天(たいろくてん)  八幡宮(はちまんくう) 【図中】 南蔵院 夫婦竹 天満宮 ちそう 第六天 八まん 【平河山法恩寺のつづき】  牌(はい)を居ると云々  三十番神堂(さんしふはんしんたう) 《割書:本堂の前右の方にあり 関東古戦録(くわんとうこせんろく)といへるものに云 傍(かたはら)に三十番神の堂|をしつらひ密談所(みつたんしよ)にかまへ置たりと又北条五代記小田原 実記(しつき)等(とう)の書》  《割書:に資高(すけたか)北条家を背(そむ)き里見 義弘(よしひろ)に刀をあはせ永く豊島郡の地を知行(ちきやう)せんとて兄弟の|ともから番神堂の前にて神水を呑此事思ひ定ぬるうへは再(ふたたひ)かへすへからすと誓約(せいやく)ありしよし》  《割書:記(しる)せり其頃は今の御城内|平川の地にありしなり》  当寺 往古(そのかみ)は今の御城内平河にありて本住院(ほんちゆうゐん)と号(かう)せしとなり 《割書:北条|家の》 《割書: 所領役帳(しよりやうやくちやう)に本住坊寺領(ほんちゆうはうしりやう)に三田内総領分の地を| 付すとあり則本住坊は本住院の事を云なるへし》 法恩寺(ほふおんし)と改しは後世の事と  みえたり遥(はるか)に天正の後柳原の辺へ移(うつ)され其後谷中清水坂の地へ  転(てん)せられ元禄(けんろく)の初今の地へひかれたりといへり 《割書:境内(けいたい)に平河清水と称|する稲荷の小 祠(みや)あり》  《割書:是乃ち平河より清水坂へうつりたりし証にして|ふたつの地名をあはせてかくは称するなり》 業平天神(なりひらてんしん)社 中(なか)の郷(こう)南蔵院(なんさうゐん)といへる天台宗の寺境(しきやう)にあり伝(つた)いふ  在原業平朝臣(ありはらなりひらあそん)の霊(れい)を鎮(しつむ)ると云々 《割書:江戸名所記に業平すでに都にのほ|らむとし舟に乗(しやう)すしかるに其乗する所》  《割書:の舟このあたりの浦にて覆(くつかへ)り溺死(てきし)す乃(すなはち)里民(りみん)塚(つか)に築(つき)こめたりし故に塚のかたち舟の|ことくなり其在所を今も業平村と云と又江戸鹿子といへる冊子にも成平に作り相撲(すまい)》  《割書:とす紫の一本にも業衡(なちひた)に作り武夫(たけを)とするの類(たく)ひ猶多しといへともいつれも証と|するにたらす求涼亭(きうりやうてい)云く此 祠(やしろ)昔は今小梅の水府公(すゐふこう)御やしきの地にありしとなり横川》  《割書:掘割(ほりわり)の頃(ころ)今の地に移(うつ)さるゝとはり又 南向亭(なんかうてい)の説(せつ)に中(なか)の郷(こう)は業平(なりひら)仮住(かちゆう)の地(ち)なれは|中将(ちゆうしやう)の郷(こう)といふへきを誤(あやま)りて中(なか)の郷(こう)と云とあれとも付会(ふくはい)なるへし》   《割書:按に当社(たうしや)の伝説(てんせつ)紛々(ふん〳〵)として詳(つまひらか)ならす南向亭(なんかうてい)の茶話(さは)に河越(かはこえ)の三吉野(みよしの)の里(さと)は|在五中将(さいこちゆうしやう)の詠(えい)によるとなくなるみよしのの里とありし地なれはにや後(のち)三吉野 天(てん)》   《割書:神(しん)の相殿(あひてん)に業平(なりひら)の霊(れい)と菅神(かんしん)とを合(あは)せまつれりされは此所(このところ)も隅田川(すみたかは)の流 近(ちか)く|はた彼(かの)伊勢物語(いせものかたり)に因(ちなみ)てこゝにも業平の霊を斎(いつき)まつり菅(くはん)神をも勧請(くはんしやう)せし故に》   《割書:業平天神とは称しけるならん歟(か)とあり此 説(せつ)の如く伊勢物語を作りたるものと|しらて後世に付会(ふくはい)せしものならん》 中郷八幡宮(なかのこうはちまんくう) 同所 南(みなみ)の方(かた)荒井(あらゐ)町にあり南番場(みなみはんは)町 天台宗(てんたいしう)泉(せん)  竜寺(りうし)奉祀(ほうし)す相伝(あひつた)ふ文明(ふんめい)七年乙未の鎮座(ちんさ)なりといへり 第六天(たいろくてん)祠 同 北(きた)に隣(とな)る大川端(おほかはのはた)普賢寺(ふけんし)別当(へつたう)たり当社(たうしや)も文明(ふんめい)五年  癸巳の勧請(くはんしやう)なりと云伝(いひつた)ふ 多田薬師堂(たゝやくしたう) 同所 大川端(おほかはのはた)にあり玉島山明星院(きよくたうさんみやうしやうゐん)東江寺(とうこうし)と  号(かう)す 《割書:天台宗(てんたいしう)東叡(とうえい)|山(さん)に属(そく)す》 総門(そうもん)に掲(かく)る所の玉島山(きよくとうさん)の額(かく)は韓人(かんしん)雪月堂(せつけつたう)  李三錫(りさんしやく)の筆(ふて)なり本尊(ほんそん)薬師仏(やくしふつ)の像(さう)は恵心(ゑしん)僧(そう)都の作(さく)にして  多田満仲(たゝまんちゆう)公の念持仏(ねんちふつ)なりといへり 《割書:左右(さいう)の脇壇(けうたん)に十二 神将(しんしやう)|の像(さう)を置(おき)たり》  相伝(あいつた)ふ村上帝(むらかみていの)御宇(きよう)天徳(てんとく)二年 摂洲(せつしう)多田郷(たゝのかう)に一宇(いちう)の伽藍(からん)を 【挿し絵】  秋葉社は毎年  十一月十六日祭礼  ありて賑へり 多田薬師(たゝのやくし)堂 【図中】 秋葉 本堂 元三大師 旅宿寺 東江寺 【挿し絵】 中之郷(なかのかう)  さらし井 世の   中は  蝶々  とまれ かくも   あれ   西山    宗因 【本文、多田薬師堂の続き】  造営(さうえい)ありて沙羅連山石峰寺(しやられんさんせきはうし)と号(かう)し此(この)本尊(ほんそん)を安置(あんち)す其(その)  後(のち)文永(ふんえい)の頃(ころ)兵火(ひやうくは)に罹(かゝ)りて諸堂(しよたう)悉(こと〳〵)く回禄(くはいろく)す依(よつ)て一山の大(たい)  衆(しゆ)これを悲(かなし)み此(この)本尊(ほんそん)を石函(せきかん)に収(をさめて)山中(さんちゆう)に埋(うつ)め奉りぬ  夫(それ)より後(のち)星霜(せいさう)を経(へ)て慶長(けいちやう)元年 郷民等(こうみんとう)沙羅山におひて  此(この)石函(せきかん)を穿(うかち)出(いた)せり蓋(ふた)に沙羅連山 石峰寺(せきはうし)薬師(やくし)の銘(めい)あり郷(こう)  民等(みんとう)奇異(きい)の思(おも)ひをなし直(すく)に一 宇(う)を営(いとなむ)て是(これ)を安す同八年  其庵主(そのあんしゆ)宗玄(そうけん)と云 者(もの)に本尊(ほんそん)告(つけ)給ふ事ありて都師(みやこ)五条(こしやう)の因幡(いなは)  堂(たう)に暫(しはら)く安置(あんち)し又 五条(こてう)の橋詰(はしつめ)東(ひかし)の方 若宮八幡宮(わかみやはちまんくう)の辺  に堂舎(たうしや)を建(たて)て石峰寺(せきほうし)と号(かう)す宝永(はうえい)の頃(ころ)彼(かの)寺(てら)は黄檗(わうはく)の千(せん)  呆(はい)和尚 深草(ふかくさ)に移(うつ)す其時(そのとき)故(ゆゑ)ありて本尊(ほんそん)薬師仏(やくしふつ)を当寺(たうし)に  安置(あんち)なし奉るといへり 照法山本久寺(しやうほふさんほんきうし) 北本所表町(きたほんしよおもてまち)にあり日蓮宗(にちれんしう)にして平賀本土寺(ひらかほんとし)  に続(そく)す天正(てんしやう)三年乙亥の創立(さうりふ)にして開山(かいさん)は清眼院日有(しやうけんゐんにちう)上人と   【挿し絵】 中郷(なかのかう)  最勝寺(さいしようし)  神明宮(しんめいくう)  太子堂(たいしたう) 【図中】 最勝寺 如意輪寺 太子 神宮寺 聖天 いなり 神明 【照法山本久寺の続き】  号(かう)す当寺(たうし)に安置(あんち)する所(ところ)の宗祖大士(しうそたいし)の像(さう)は日朗師(にちらうし)御首(みくし)を彫刻(てうこく)  し日法師(にちほふし)全体(せんたい)を造(つく)り添(そへ)られしといふ体中(たいちゆう)三寸に六寸の首(しゆ)  題(たい)の札(ふた)を収(をさ)めたり日朗(にちらう)およひ日法(にちほふ)等(とう)の真跡(しんせき)なりといへり  此(この)御影(みえい)始(はしめ)谷中(やなか)感応寺(かんおうし)に安置(あんち)す元禄(けんろく)四年 彼寺(かのてら)改宗(かいしう)の時(とき)  檀家(たんか)に八牧弥宗(やまきやそう)と云へる有信(うしん)の人ありしか此(この)影像(えいさう)ならひに  三 光天子(くはうてんし)大黒天(たいこくてん)等(とう)を其家(そのいへ)にうつして崇教(そうきやう)ありしを後(のち)当(たう)  寺(し)に安置(あんち)し奉るとなり境内(けいたい)安置の七面大明神(しちめんたいみやうしん)は花洛村汲む(くはらくむらくも)の  尼御所(あまこしよ)随竜寺殿(すゐりやうしてん)仕女(しちよ)数馬女(かすまめ)感得(かんとく)の霊像(れいさう)にして故(ゆへ)ありて当寺(たうし)  に安置(あんち)し奉るとなり 正覚山明源寺(しやうかくさんめうけんし) 同所 北本所(きたほんしよ)番場町(はんは)町にあり日蓮宗(にちれんしう)にして下(しも)  野(つけ)佐野(さの)妙顕寺(めうけんし)に属(そく)す建武年間(けんむねんかん)の草創(さう〳〵)にして中老(ちゆうらう)僧(そう)天目(てんもく)  上人 開山(かいさん)たりといふ総門(そうもん)の額(かく)正覚山(しやうかくさん)の三大字は平林惇信(ひらはやししゆんしん)の  筆跡(ひつせき)にして消日居(せうしつきよ)と記し(しる)してあり 牛宝山最勝寺(きうはうさんさいしようし) 明王院(みやうわうゐん)と号(かう)す同所表町にあり天台宗(てんたいしう)にして  東叡山(とうえいさん)に属(そく)す本尊(ほんそん)不動明王(ふとうみやうわう)の像(さう)は良弁僧都(らうへんそうつ)の作(さく)なり当(たう)  寺(し)は牛御前(うしのこせん)の別当寺(へつたうし)にして貞観(ちやうくわん)二年庚辰 慈覚大師(しかくたいし)草創(さう〳〵)  良本阿闍梨(りやうほんあしやり)開山(かいさん)たり寛永年間(くはんえいねんかん)   大樹(たいしゆ) 此辺(このあたり)御遊猟(こいうりやう)  の頃(ころ)屢(しは〳〵)当寺(たうし)へ  入御(しゆきよ)あらせられしにより其頃(そのころ)は仮(かり)の御殿(こてん)抔(なと)  栄構(えいこう)なし置(おか)れたりとなり 《割書:今(いま)も御殿(こてん)跡(あと)と称(しよう)する地(ち)に|山王権現(さんわうこんけん)を勧請(くはんしやう)す》 牛島神明宮(うししましんめいくう) 同所に並(なら)ふ相伝(あひつた)ふ貞観(ちやうくはん)年間(ねんかん)の鎮座(ちんさ)なりと別(へつ)  当(たう)を神宮寺(しんくうし)と称(しよう)して最勝寺(さいしやうし)より兼帯(けんたい)す 《割書:江戸名所記(えとめいしよき)云 安徳帝(あんとくてい)の|寿永(しゆえい)年間 本所(ほんしよ)の郷民(こうみん)》 《割書: 夢(ゆめ)みらく伊勢大神宮(いせたいしんくう)虚空(こくう)よかけり大光明(たいくはうみやう)の内(うち)に微妙(みみやう)の御声(おんこゑ)にて我(か)此 土(と)安穏(あんおん)天人(てんにん)常(しやう)| 充満(しゆまん)と云 法華経(ほけきやう)寿量品(しゆりやうほん)の文を唱(とな)へ我(われ)はこれ伊勢(いせ)の大神宮(たいしんくう)なりとのたまふとみて夢(ゆめ)覚(さめ)》 《割書: たり郷中(こうちう)の人民(しんみん)互(たかい)に語(かた)りあいするにすこしも夢(ゆめ)の趣(おもむき)たかふ事なし依(よつて)奇異(きい)とし宮処(くうしよ)をかまへ| 伊勢(いせ)の御神(おんかみ)を勧請(くはんしやう)し奉るよしみえたり》 《割書:  因(ちなみ)に云 牛島(ふししま)は北条家(ほうてうけ)の分限帳(ふんけんちやう)にも江戸牛島(えとうししま)四ヶ村とありて富永(とみなか)弥(や)四郎の所領(しよりやう)の中(うち)|  なり今も本所(よんしよ)中(なか)の郷(こう)辺(あたり)より須崎(すさき)まてこの総名(そうみやう)とせり江戸(えと)の古図(こつ)に回向院(ゑかうゐん)の辺に牛島(うししま)と記(しる)して》 《割書:  あり|》 太子堂(たいしたう) 同所元町にあり天台宗(てんたいしう)如意輪寺(によいりんし)に安置(あんち)す本尊(ほんそん)聖徳太子(しやうとくたいし)  の像(さう)は十六歳にならせ給ふ時(とき)自(みつから)親造(つく)り給ふとなり当寺(たうし)は淳和(しゆんわ)  天皇(てんわう)の嘉祥(かしやう)年間(ねんかん)慈覚大師(しかくたいし)東国遊化(とうこくいうけ)の頃(ころ)の創建(さうこん)にして帝(みかと)百(ひやく)  畝(ほ)の水田(すゐてん)を寄付(きふ)し給ふ天文(てんふん)の頃(ころ)此地(このち)祝融氏(しゆくゆうし)の災(わさはひ)にかゝりし  ときも太子(たいし)の霊像(れいさう)は自(みつから)火焔(くはえん)を遁(のか)れ出(いて)給ひて恙(つゝか)なかりしよし  江戸名所談(えとめいしよはなし)にみえたり 【裏表紙】