表紙 貼付け題箋 「麗斎叢書  二十」 内表紙 貼付け題箋 「壬戌記之外五集   乙卯危言   讒訴辨   東海貝譚   東都地震の記   水府斎【ママ】昭公   不可和十ヶ條」             朱丸印「麗」「斎」 近年外国より種々難題之申立有之様 相窺且内地不慮之変も出来仕内外共 御煩慮御時節柄哉と奉恐察候勿論 廟堂之御籌略外向より可窺計様も無之 御歴々之御評議御違策可有之とは不 考彼是以事ケ間敷申立候ては越俎之 御譴責奉恐入候得共当時勢 皇国之御栄辱ニ相拘候義も可有之哉と 奉考候ては区々之鄙表日夜難忘不得止 無根之世論えも心を留迂僻之議論兼々 相含居候ニ付不顧憚御内之申立見候右 世上之議論を取御政体えも相抱候義 申立候而者猶更恐懼之至御座候得共右鄙 誠之処被聞召分不悪御取計被成下候様 奉願候右申立度旨趣者先年以来度ゝ 申上候通待夷之御良策者 公武御一和 叡慮御遵奉ニ基き可申と数年相含候 鄙見ニ御座候過る午年以来 公武之御間御議論齟齬之儀有之様ニ 於世上奉窺計種ゝ雑説紛興仕段々 御手煩をも差起し余程御配慮ニも相成候 哉ニ奉窺候竊ニ右等之所由を愚案仕 見候処先年外国え和交御差許條約 御取替し相成候儀者元より無御拠御場合 有之候而之儀ニ候得共癸丑甲寅以来奮 激之人氣一且屈挫仕偸安之人情一日之 無事を貪り終ニ一統退縮之世風ニ罷成 御国躰更張之期無之様相成可申哉と氣 節を負ひ慨志を抱き候者外夷之威力ニ 圧れ安を偸み戦を忌む偽情より今以相成 候儀と存詰猥 公儀之御所置を如何敷 批判仕 叡慮之旨は鎖国之御舊規を 御確守被遊候様相唱へ破約戦争之説を 主張仕壮年血氣之ものへ憤言激行 をも醸成し且又彼我之形勢を相考へ 彼之功利技術を味ひ候者は開国之説を 主張仕猥彼を誇耀し我か固有之 正氣を折き商賣貪墨之風ニ染漬候 議論紛々両端ニ分れ一旦ニ攻撃之形を 成し人心恟々大崩瓦解之勢とも可申 哉天下之勢合へは強し離れは弱し 此支離解散之人心を以て一旦有事 時黙夷強虜ニ御當り被成候儀何とも御氣 遣之儀と奉存候然ニ右鎖国開国と申候は 待夷之御大躰ニ而関係重く候得共其根 本より観候得者是等者枝葉之説共可申 公武之御議論草野之可窺知事ニは 無之候得共斯〱枝葉之是非を以御違却 之儀出来仕候筋は有之間敷歟と奉考候 其故者能可守して是を攻め能攻むべく して守之候者兵家之常典鎖すこと 能はされば開くべからず不能開ハ鎖す へからず 御国躰不相立彼か凌辱 軽悔を請候而者鎖も真の鎖ニあらず開も 真の開ニ無之然れハ開鎖之實者 御国躰之上ニ有之べし 御国躰相立候得者開鎖和戦者時之宜ニ 随ひ守株膠柱之儀者全く有之間敷 然ニ又 御国躰被相立候基本と申候得者 大論大義を明ニし天下之議論純一 人心和協之御所置ニ有之哉右物議 紛々相起候本意を熟考仕候而も 公武之御間純然御合躰ニ而 御国躰相立候外有之間敷種ゝ之雑説 御手煩をも差起候者其未聊ニ可有御座候 に付其源を塞き其流を治被成候て 御鎮定強て御手間被為取候義ハ有之 間敷候往昔草昧之世と違ひ當 御治世以来厚御世話を以文教大ニ開け 論理世ニ明かにし 君親を可崇事者三尺之童子も口二 藉し候処二相成候付是迄迚も聊無御疎候 事には候得共天下之大経を被為立候儀者 御厚重ニ被為立度候事ニ付此時勢二當り 候而者今一際 天朝御崇奉之御取扱 振世上ニ相顕れ候ハゝ天下之人心感服仕 右物議御鎮静容易ニ相整 御国躰之基本も相立可申哉右基本被 相立候上者是迄開港和親被差許候者 乍恐未枝葉之御所置二も可有之哉二付 速二開国之御大規模を被相立 御国躰儼然ト相立候段御国論被相 定度候事二奉存候左候而御手を可被下 処者武備益御張興二而航海之術廣く 御開き人々心譫を練り知識を発明する 是二向ひ諸蕃之情実熟知之上者彼か 畏るゝに足らさる処をも知り我恃むべき 良策も相立可申右者此非常之時に 當つて中興之御大業を被為立度御事 には候得共人心之折合方深く御案被為 在候由過ル巳年御沙汰之趣も有之制度 御改め航海之術御開等之儀者疾御評 決可被為在今更當否利害等不能申上 儀ニ可有之其後追々御沙汰之趣を奉 窺候而も乍憚御趣意筋奉深察候然 処今以 御国内一統耳目一新仕候様 御沙汰振も無之候者何とか御深謀被 為在候事ニ可有御座其段者可奉窺筋二 無之候得共宇内之形勢者年序を追而 相開候付今日之如く御国論変革之 機會二臨候も自然之勢二可在之若舊習二 泥ミ漸々時勢二押移され無拠御変革相 成候而者 御手後ニ相成候而已ならず却而人 心之折合方えも相拘可申哉と深奉恐入候儀ニ付 右御国論速二御決定と相成候様相願候儀ニ 御座候右之通 御合躰之御取扱顕然と 相成天下之人心奉感服 御国躰儼然之御国論被相立候ハゝ定而 叡感も可被為在元より開鎖之躰え御泥ミ 被為在候義者有之間敷候付何卒 叡慮より被為起右御国是之旨 勅諚を以被 仰出右を御遵奉被遊 台命を以て列藩え御沙汰相成候ハゝ條理判 然人心弥感服仕退縮之氣一旦進張二 相改り偸安陋習も奮発仕 神州億兆之人心一和一團之正氣と相成 前後種々之物議も氷解仕毫も内顧之 御患無之 御国威凛然五大州え相振候 御大業も成就可仕哉と迂僻之私見二御座候 右者始より御廟議之上ニ出為に大海之 消滴とも相成度心懸候も無之候得共数代 無限 御寵命を奉戴御恩沢身ニ 溢れ居候付兼々報効之心得二罷在不図 時勢二盛発仕不顧僣妄申立候者只々 食芹之味進献仕見度區々之鄙誠不悪 御亮察被成下不都合之儀も御座候ハゝ 御聞捨被成下度重畳奉願候以上   十二月     松平大膳大夫 戌正月毛利より細川其外江申入候趣意書  先年以来  公武之御間御趣意齟齬之趣も有之哉二  於世上窺斗議論紛興人心解散其釁  隙二乗し外夷覬覦を生し不測之変  出来も難計且士気漸々退縮之趣き  御国威不相立様にも相成哉と不堪杞憂  過ル午年後両度 公武御一和  叡慮御遵奉二而待夷之御所置被為在  度旨 幕府得江及建策候然ル処其後も  外夷之猖獗日々ニ甚敷内地不慮之  変も度々出来時勢切迫二相成終ニ者  天下之御大患にも可相成哉と存付徒に  傍観仕候而者奉對  天朝 幕府年来之志も不相立先祖  以来之遺教にも不相叶儀と日夜煩言  致し時勢熟考候処右物議紛興鎖国を  固守し或者開国を主張し人心煽動餘  程御手煩ニ相成候得共其帰趣者  御国躰難相立儀を慨歎仕候外有之 間敷 御国躰儼然と相立候得者開鎖 者時之宜ニ随ひ御所置相成候而可然右 御国躰是迄無御麁略御事ニ者候得共今 一際 天朝御崇奉之御筋相立條理 判然 御合躰之御取扱振世上え顕然と 相成年来之人心之疑惑一旦氷釋海内 之議論純一一致之義勇を以干城敵愾 之路にニ相當り候ハゝ 御国威漂然と相立 其上ニ而開国之御大規模被為建武備を 御張興ニ而航海之術廣く御開彼か巣 巣穴を探り控制之御籌略被為在度 との主意去夏家来之者を以閣老え 及演達候処去冬参府初而閣老え為 對客罷越候節最前之建議尤之儀ニ付 追而及相談候義も可有之段久世大和守 安藤對馬守挨拶有之追而大和守より 達し有之極月八日右趣意委細 書面相認差出候処 公方様 御聴ニ達し此往取扱をも 被 仰付度御内慮之段旧臘晦日大和守より 家来之者召呼演達有之候処右者不 容易事柄ニ付熟考之上御請可申 上候間暫之内御猶豫之儀申入置候右ニ付 而者御高論も可有之無御腹臓御教諭 被下度致御願候以上    正月 毛利侯建白之旨者兼々申立も有之 候処去ル五日登 城ニ而久世侯え面會 申述候趣其大意者兼々 徳川家之御為存意建白仕度段々申 立置候処余之義にも無之追々天下之 形勢変革仕今日之如く相成候上者是非 大御英断無之候而者相成申間敷一躰 先年井伊掃部頭殿御在職之節者井伊殿 了簡より萬事御暴政之筋ニ而已成来候処 井伊殿退役後者安藤殿専権ニ而却而 【朱筆頭書 下ケ札暴政と申文字ニ者無之よし】 井伊殿在職之有様より甚敷御暴政ニ 相成天下中人心盡く 【朱筆頭書 鍋嶋家と名指不申よし】 徳川家を離れ居既鍋嶋様内願 之趣ニ而隠居被 仰付候処右者 徳川家之御暴政最早迚も不可救事と 存内実者専ら一国富強之目論ニ有之 其外大藩共各一国々々を専ニ守候て 勢皆 幕府之御仕向不宜処より斯者 相成 徳川家之御為誠ニ苦心之至ニ 御座候処夫者扠置 和宮様 御下向之儀者 御下向ニさへ被為 成候ハゝ 将軍家直様 御上洛と申事ニ まて各方御調印も有之誓をも御立 被成候程ニ者無之候哉然ル処其後之御様子を 拝見いたし候処二而者 御上洛処ニ而者無之 如何にも 京師を御踏付被遊候譯ニ而 萬事 天朝を欺き被遊候御軽蔑 最も甚敷と申此節 京師ニおゐてハ 天子盡く 逆鱗宮堂上之方一同憤激一方ならず 只今ニ 徳川家も如何様に可相成可 申上者 京師之御模様と申下ハ人心 之背叛と申実ニ危急累卵之 御場合ニ御座候大御英断不被為在候而者 相成間敷旨縷々談論有之候処久世侯 愕然之様子ニ而其御英断者如何之儀ニ候哉と 承り候処毛利侯黙して久世侯之顔を 睨ミ稍久敷答も無之候処再三承り候ニ付 左様迄ニ御聞被成度候ハゝ存意之事も 御英断ニ相成候事と相見候間可申述候 今日之処ニ而者御懿親と申人財と申 是非越前守御大老ニ御引上ケ一橋殿 をも御補佐ニ御用被遊折々御登 城ニ而御政事御相談も有之其外川路 佐々木之如き正議を以て被廃黙候もの 幷有志之者不残御役方え御用ひ被遊 往々此迄之政治復古之御手段之外者 有之間敷旨申述候処其勢ひ如何にも おそろしく久世侯誠ニ愕然ニ而答ニ者 誠御申聞之趣御尤至極ニ御座候間何分 尽力可仕乍然私一人え御申聞ニ而者指支 候間同列一同え御申聞被下候様ニとの事ニ而 内藤本多等一同列席之上前文之意味 又ハ縷々申述候処何れも驚入候様子ニ而更ニ 無言ニ而有之候ニ付毛利侯盡く憤激之 有様御答も無之を見れは愚意之趣御決 断にも相成さる事と相見候哉と被申候処一同ニ 決而左様之譯ニ者無之微力ニ而何共不案心ニ 存候旨答ニ及ひ候得者毛利侯重而弥 幕府ニおゐて紀綱御一新之勢も無之 京師えは御申譯も不被遊人心を御慰撫之 御手段も無之候ハゝ最早此上者 天子を挟て四方え号令仕候外者無之 此儀者薩肥等申合候事も御座候間弥御決 断も無之候ハゝ右様仕候心得ニ御座候左様相成 候節者流石丸而御負申心得にも無之候間 聢と御了簡被成候様ニとの事ニ而閣老一同 其雄威ニ恐れ早々申合可申旨答二付 毛利侯被申候者 京師之模様御疑惑 被成候ハゝ家来ニ長井雅楽と申もの有之 此もの義能心得居候間是へ御尋可被成旨 申述退散致候由依而閣老一同皆顔色を 変し早速長井を呼出し一々承候処 成程毛利侯之被申述候よりも大変なる 有様ニ而一層苦心も相増し何事やらん 十二日ニ 幕府おゐて長井 京師江発足いたし候趣   下ケ札ハ皆長州へ問合候処ニ而何れも虚誕之   説に者無之趣ニ而候 【貼付題箋】 乙卯危言 近世西夷砲銃《割書:大筒を砲と云|小筒を銃と云》の術次第ニ闢て其上 西洋諸国屢戦争の事在を以実験する事 数回故ニ其術日々ニ精密ニ至り且陣練隊 伍も全備する由遠く我国ニ聞傳へ其慮ニよ りて其法を盛ニ世ニ行るゝ事とハなりぬ 砲銃ハ元来西南夷より傳来する所に して其頃 本朝戦国故其術俄ニ盛ニ なり利器とはなりし也和銃とて明人も 其頃は恐入し也元和以来昇平の 御代と成て実地ニ用る事ハ寛永耶蘇 の賊寛政文化の頃松前の辺嶋《割書:シヤナ幷|カラフト》 魯西亜の騒櫌また近時大坂の悪徒一条の外 〈割書:大筒を砲と云|小筒を銃と云〉 〈割書:シヤナ幷|カラフト〉 実地の打放せし事なし近来者 雷火(ドントセ) 燧石(ヒウチ) 等弁利の打方追々行れ甚有益の法 次第ニ盛ニ成へし尤工夫練磨なしたき 事なり陣法戦略の如きは決て夷邦を 学ふべからず 皇国の神器を以て彼か 備を打破るへき術を構へ究操練なす 事急務也何程習練工夫なす共砲銃 の術大船の運用ハ彼に及さる也彼是 数百年精熟なし又夷邦ハ生質も異也 都て西洋人者機工の技ニ長ずるハ素より 自然ニ得たる所也我国の人膽氣強にして 勇武勝れたるも又自然也然るに日本戦国ニハ 武勇の人多しといへとも三百年に近き泰 平故中々以元亀天正頃の如き勇者ハ是なし 皆々柔弱のもの斗故迚も古代の如き先輩 血戦なす者なし恠弱の者多分也殊に 夷邦ハ砲銃斗を以て専らとなし五六 拾間の場合にて勝敗を決する戦略故此 方ニ而も彼か法を用ひ強弱を持合せ西洋 風の備立ニあらされハ彼と戦闘ハなし難しと云 其言理有ニ似たりといへ共其一を知て其 二をしらざる論と云へし真ニ兵機を知る者 の論ニあらず本邦風土の美五穀の豊 穣すへて外国ニすくれたる事ハ元より論なし 其土に生ける人故膽氣強く事に莅て 死を懼れさるの気質あるも自然備り たるなりたとへは鄙賤なる日雇体のもの 些の賃銭ニて雇ハれ供ニ立程の者ニ而 只一日の主人なれ共若道路二而辱ニあひ 他人ニ打擲事もされなは其者をハ赦す まし其節ニ至りてハ死生の分別もなく 我一分の相手となすニ至る是自然風土に 勇気を備へたれは也方今曻平なれば 安逸怠惰に流れ身體して柔弱なれとも 天性固有の勇氣決て亡ふへきの理なし 其勇氣を引立士氣を震起せは戦国 の士に劣るまし百人の中膽力勇壮 成もの十人是有其士を挙け用る時は 残り九十人の勇氣ハ引立へし勇壮成もの稀 なりと云て怯者同様ニ取扱なハ邂逅有 志の士は望を喪ひ中ニ死に至るとも怯弱 成ものと列はなすましと云族も有ぬ へし日本魂有士の志を抽き持前ニ備り たる勇気を撓ませ西夷の陣隊を学ハ 何事そや知己而知彼百戦而危からずと 兵書ニも有之とも己を知り彼を知るは 何の為そや敵の備立を知り是を破る へき手段をなす事也敵の陣法を学ひ 敵と同し様成方略をなすニハ非さる也彼は 其法を精熟し屡実地ニ越たる兵と同 法にて不鍛錬成兵卒と戦闘して勝 へしや勝ましきや三才の幼児といへ共 勝敗の形ち分明なり彼か長する所へ我 短なる者して闘ハ乍チ一敗地ニ塗候へし 論するに足らさる也前にも言如く砲銃 の製造ハ日々ニ精密ニならハ此方ニても 其上にも益工夫新製して実用ニ備べし 陣練戦略ニおゐては決て彼を学へからず 西夷の銃隊を破へき陣法奇正変化 研究練熟なす事當時の急務也古法ニ 拘はらず我か長る処を以て彼か短なる 所を攻るの工夫あるへし兵法の活機を 知るものを撰ミ用へし  余近頃西洋学をなす有名の者余が 【頭書 大艦ニ乗大砲」を打其国乃」長する処】 近親の内ニ有之故其者に尋して西洋 諸国も戦争の事絶さる故近来又々 戦格一変なし長柄鎗手を募り馬 上の馬上の長槍にて銃隊を突崩し 【頭書 野戦夜討戦ニ」短兵接戦者」我か長する処】 騎馬て蹂躙するの法盛ニ相成し由なり 元ハトルコ人此法ニて亜墨利加人を破り しゟ始申と也當今流行の西洋銃 陣は五六十年も前の方の由也苦心 して出来上り銃隊又夷絨の短兵ニ出 【頭書 都て弓銃を」長兵と云鎗」長刀を短兵と」いふ】 合突破らるへし其節に至り俄ニ持前の 短兵を用んとする共数年ケヘル斗 揑(コネ)廻したる 弱兵我国持前の刀の抜身も知らず槍ハ右を 前にするやら左を前になすやら知らさる者   狼狽廻るへしと思はるゝ也 一耶蘇宗門の禁は寛永以後別して厳禁候而  百姓町人も寺證文と云事有武家ニ而も同様ニ而  吉利支丹證文とて年々組支配江印紙を  差出す事定例と也街市にも吉利支丹の  訴人あらハ 上ゟ御褒美下さるへき由記し  有は人々しる事也邪宗門禁せられしは  何故そと云に彼の宗門ニて其宗旨の為に  死れは直ニ天堂江生るゝとの教なれハ死を  懼れす君父をも顧す一圖に宗門を尊信  する法故に既寛永には天草の一乱をも  生せし也當今西洋の法術を信する者若  其節を論破するものあれは真ニ激怒して  父兄朋友の差別なく其不平の思ひを  なし終には我祖宗以来国恩ニ浴し妻子  眷属を撫育せし廣太の御仁徳を忘れ  皇国の制度を誹謗し日本小国故規模  狭小にして西洋大国の体を知りぬ也と  漫りに教言する輩有全く  御禁制の邪宗門ニ引入られたる也凡て  物は好む所より入易きもの也日本曻  平にて上下奢侈安逸ニ耽りたまに  才力有も皆奸智姦才にして天命を  知す己か身力を尽さす懐手をして事を  成んと云様成悪怜悧ニなりし処へ付込ミ  先第一ニ蘭法の治療医師ニ傳へ蘭法の  治療流行する彼か妖教を廣むる手段也  蘭医にも稀には学問有も有れとも多  分ハ無学文盲ニても横文字譯書の假名  附にても讀薬名もしれぬ新薬凡宰領の  物ニても呑せ元より漢法の医者とハ論  議も致さす素人には猶更法意をも云す病  人の生死ハ元より医の工拙ニよらず只早く  癒へき症も手間取位の事なれは幸に  生利ある病人の一両人も治療なす時ハ誰々ハ  名人也と世人評判すれは衆皆雷同して  俄ニ高名ニ相成薬は名もしらぬ物を飲せ  薬代は人の知たる人参桂枝大黄等の  價ゟ多分貪取故に蘭法の医師ハ大  方ハ富をなせり最初ニ医術ニ而深く信  をとらせ又日本人漸々奸曲弁佞ニなり  戦闘己か身を全くなして敵を破る  仕方有へしと思ふ拙陋臆病なる心を 【頭書 火輪船」風車】  見込第二は砲術を強大無量無邊の  機工を教へ道具達斗をなす様ニ誑んと  する計策也此方ニてハ持前の血戦刀闘  は浮雲し同くは寐て居る敵を退る  仕方有んと工夫なす族は別て深く 信仰して種々の器械を製造なす事とは なりし也大砲何程用意なす共人力に 非されば用をなさず人を撰す器械の みを恃一朝の事あらハ重大の砲銃悉く 夷賊の物とならん大船も同様なり数万の金 銀を費し賊の援をなす事慨嘆するに 堪たり前条にも記せし通火器の機工 大船の乗方ハ幾十年工夫習学なすとも 異邦に及へからず兵法にも致_レ 人而不_レ致_二 於人_一 ̄ト 云り當今の有様事々物々人に 致さるゝの極ニして実ハ彼か奴隷と成 しも同し挙動也扠西洋流と唱へ是亦 調練ケヘル備へなりて横行に云廻る輩実ハ 三匁玉の鉄砲をも玉込ニてハ打掛し事 無き人八九分成へし是迄火縄筒にて 打覚し人々ハ西洋流の雷火燧石を用る共 元より丹練せし事故一廉用をなすへし 然るに玉込の五度か七度も致せしものも 小手袖こはぜかけ【小鉤掛】の服を着しケヘル筒を 肩にさへすれば武術ものと唱へ自分ニも 是ニて事足りと思へる人百が中八九分 なり其中には用立や用立間敷やと思ふ 人も有べし流行故立身発達の為ニも 成べしと欲心にて為者も有へし又ハ一向 無分別にて能事也と思へる愚人も有べし 愚にあらされハ必奸賊也外夷ハ銃隊ニ用る 兵は玉数二万餘打放し力量も衆に勝れたる 者を精選して戦士ニ育る由也當今形斗 の西洋流の臆病武士何程集るとも国家の 御警衛には成へからず是も彼か法術にて 一度心を狐惑する時ハ終身迷覚さる也邪宗 門とて別段の奇術有ニ非す万一夷賊と争 戦ニ相成共勝敗ハ兵の常なれは我敗する事 有は西洋流をなす者敵の勇を称し味方の 軍心を乱す者あらん大乱ニ及ひなハ彼か手 引をなし我ニ叛く徒有ましとは云難し 此言不可違余今追々老境ニ至れり後年思ひ 當るへし當路の大臣早く活眼を開き後患 有ん事を見抜西夷の妖教を禁し 皇国の神武を主張し 天照太神 東照大権現の御遺訓ニ従ひ 給ハん事を訴願す人誰か死せさる道を守り 國事ニ死す豈快事ならずや夷狄の媿態を 学ひ拙策狼狽し同く死て祖先を戮 辱す何の面目か祖宗ニ地下に見へんや此段 を書せんとする慷慨嘆嘆筆するに堪 さるなり  実用を専ニなし虚飾を禁せらるゝの令  下れり至當の事と云へし然共凡て  事には本末あり自国の実用を尽して  其上ニて他に有用の事あらハ試用べし  抑本邦弓を武器の最上となし次に  剱鉾等の兵器を重んせん事を人々知れる  處也然るに弓ハ的前の吟味斗剱鎗も形  の花美を称し何れも華法を崇ひ我  國の武術実用へも全からず我国ニ而一度も  試ミ用し事なき剱付筒を持狐に化されたる  様をなし実用なりと思へるハ何等の  盲昧そや弓も當世の射法を革ため貫  革を第一となし鎗刀も長短軽重の  度を極め試合の達者を専らとなし柔  相撲を以て身躰を堅剛ニなし御狩山  猟にて手足を損し馬も牧士の風に  達者斗を心掛ケ銃砲も是迄用来りし  法を丹練なし餘力あらハ西洋新製の  器をも用ひなば本末兼備るとも云へき也  自国の実用全からず夷賊の真似ニ心  術を奪ハる狐狸に魅せられしと同様也 一去丑年亜米利加船浦賀江乗入し節打 拂ハさるハ遺憾也去なから其頃浦賀御番 所には六貫目玉の筒二挺同玉も五ツ六ツ 合薬も少し斗有しと也其上押送り船 ニ艘ならでハ是なしと云成程打破る事 ならさるも尤也扠其後横濱ニて應接の時 し組て突殺さゝる事実に千載の遺 憾也其策をもなさんと云し人も有と聞 たり不勇不決断にて大切の機會を失ひ 此節に至り迂遠成西洋流だの足並が揃 ひしのと夢中の詭言也此程ハ大砲も数 千挺出来兵器大方備わり器械ハ其頃と は百陪せり然共人心次第ニ怠弛し西 洋風は漸々に傳深し此後六七年も 過なバ大半ハ夷人同様に成べし此節を 限り断然として洋学を禁遇し一決 して夷賊を打破るへき御計議有べし 一同夷を討の誠心感通せば神威も加 ハるべし案外夷賊を万里の外ニ退け後 患なかるべし此儘ニて益洋学盛ニならバ 一両年の内には必水災ニて凶荒有べし 内憂も起るべし天変地妖屢至りてより 心附給ふべし有難き御教也此度の 地震火災人の何と心得しや今にも夷賊 打入事あらバ此通也此中ゟ大砲小銃の 飛来るべし此御撤戒を何とも思ハす天変ハ 古今例有事なりと年代記を目當となし 我所置する処天地鬼神の心ニ叶ふや否 と心得へし當路の大臣達心を謙虚に なし天下英雄の士に向ひ謀り己を捨て 天下を唯持せん事をなすへきなり 一西洋の学ハ人を撰んて学ハしむべし 和漢の書を讀人倫の大道を心得たる者に 命し洋学をなさしむべし彼か国風 を知り我益となすへし然るに大学の素 読も出来ず刀の柄の持方もしらぬ人々西洋 の書を讀宇宙の間に是程尊き教ハなし と思ふ也中には武術は痛し学問は猶更 六ケ敷て出来す西洋流ハ骨折れす知れる人 稀なれは是にて己か拙劣を掩ふの道具 となす者往々是あり洋学は儒官の内ニ而 学はせミたりに横文字の書を所持する 事を禁し西洋法を軍事に用るべか らすと云令下りなば天災も消滅し 年々豊熟して 御代萬々世天地と共に無彊なるへし 一諸国寺院の梵鐘を大砲ニ鑄換る事時務 を知れる良策に似たれとも甚敷大害あり 京都より何ケ度仰越るゝとも御辞退有度 事ならずや只今始りたる事にもあらざる 夷國の防禦に大砲不足を云事 征夷大将軍の乍恐御恥なり其上大砲の数 斗多くとも用度を省き麁末の造法に ては発砲の時破烈すへし大砲の数多か らすとも鑄造精密ニて練熟の士を用ひて 打放させん事を要とす数萬の大砲有ても 製法も堅牢ならず不練之兵卒蝟集して 火薬を取扱ひ一旦過失あらハ我軍士を 損すへし且又寺院の鐘古物を除候共何れも 人民の力を合せて造出せし物なれハ万民の 思ひの凝結するもの也御国の為と思ふべし とは尤のよふにも聞ゆれ共百姓耕作して 武士を養ひ武士ハ倹素を守り兵器を備へ 乱を鎮むる事當然也飲食と婦女子の 為に器械をも備へす事有時に下民共の 些力の銭を集め寄進せし古物を鋳潰す 事言語に絶たる事ならずや昔大佛の鐘を 板倉伊豫守重宗か令して銭に鋳直せしニ 数萬の老若男女か見物して扠も勿体なき 事哉と一同に佛名を唱へければ鋳爐(タヽラ)にて 骨折しても鐘は鎔(トケ)さりしとて其時重宗 鐘に小便を仕かけ見せければ衆人鐘の方を ば忘れ重宗の所業を悪ミ一念重宗ニ移り しかば鐘は一時に湯に成しと也重宗の 活機実に感服するニ堪へたり又近頃有高 貴の人領内の寺院の梵鐘佛像迄も鋳潰し 大砲に造られし事あり佛に淫するの流 弊を一洗し僧侶の悪風を矯直す良方 大英雄の所業と云へき也人の善行ニ倣ふハ 美事なれとも時勢をしらされば行ハれず 第一十四五年も以前ハ夷船の風聞も有し かとも世間にてハ一向心も附さる程の事なり 此時には目覚る厳厲なる政も民心の怠りを 革むる良方也當今ニてハ表向には 上を恐れもすれは邊境民心穏ならす其民 心動揺する処 上にてハ由緒ある古物時の 鐘は除くへしなと細かなる触は下へハ届か ぬもの也頑愚なるもの共旦那寺の本尊迄も 打碎かるへしと思うふハ必定なり  領主地頭も自身領分知行所へ行事もあらす  家来手代等ニても遣ハすか又ハ寺社奉行の  云渡ニて僧を呼出すか地頭より名主庄屋  を呼出し鐘の員数ニ而も改るより外すべき  事なし其時ハ百姓は元より寺僧も鐘の  数を少く云立相應の賄ニ而も贈りなば  家来手代共の多くの中ニハ手の内ニ而差  繰いか様にも増減なるへきなり民心動揺し  罪人も夥しく出来なすへき事眼前也 一方人之外夷四方ニ充満し毫末の隙あらば 打入へきと窺窬なす時也此節は民心を鎮 静し士を養ひ急々應するの策を第一と なすへき時也去なから寺院ニより鐘を献す へしと願出るは格別の事京都ゟ仰出され しとて其儘触出すハ武将の位に然さる也 時所位ともに取亡ひ人の真似さへすれハ良 事と思へるハ何事成哉天下を以て己か任 となす人共故萬事決断なし去とて只も 居られず国家の大事を捨措にし人の議論を 恐れ是ニては當分人も合意すへきと法 令数々ニ相成百事人の害を防く手段斗二而 一分の決断一ツもなく其中には何れとか成へ しと始終人斗當てニなし所謂町内送と 云もの有て我門前ニさへ送り出せは先ニ而者 何様ニ成とも構はぬと云風ニ而人々日々白眼 合て月日を送る日月流るヽか如く五年十年 は暫時に過へし此姿ニ而何程まつ共良分別 の出へきやうなし日本国中一人も残らず 今度の地震に壓し殺され候と思ひ疑心を 生せす西洋流を止め日本風むやミ軍をなす べし思ひの外生地を得る事有べき也 大船乗出すや否破船せり釣船之往来なす 場所ニても如此し其学習なす処 祖宗の神慮に叶わぬ證し現然たり其学 ふ処天心に叛ける事かくのことし 一西夷の陣隊其餘奇技淫工を発禁すべし 砲銃の製造は元異国の器械なれば是而 已ハ廃すへからず弁利の法ハ採用ゆべし是 前書に云る事也乍去當世上下一統異教 に昏迷して是非西洋風にあらざれハ成難しと 云は都て日本に用ひ来りし兵器を銷し 武士も両刀を帯する事を止メ弓鎗の武器 も打折仕舞西洋銃一挺と定むへし実地ニ 臨ミてハ精心純一ならされハ勝を得べからず故ニ 余ハ用ひ来りし武術も多藝を欲せす一術 精練せん事を要とすへしと謂たる也西洋 人は剱刀ハ鈍し持前の膽力ハ弱し多端ニ而ハ 人々疑心有て死地ニ入難しと思量し 長短の火器斗し定めしハ国風の人情を察 知せし教法と云へし日本ニ而ハ武術の数多く していつれも泰平に相成席上の工夫ニ出来 せし術多し近来別して多藝の者と称 美なす風故人々一術も多く学習する事と 【頭書 戚継光ハ」明末の人」なり】 成し也無_二精藝_一膽不_レ大戚継光も云しなり然るに 月ニ六斎の稽古三年五年出精せしとて精練 すへき理なし不精練の術ハ死地ニ至れは 惑心生し十分の働きならさるもの也當世 遷遠の極メハ植溜ニて稽古ある体配の弓也 古代禮射の遺法成べけれは稽古人も外藝 術よりも出精せざれは片肌脱て立派に的前 は射られさる也騎射も同様ニて実地の用ニは 立間敷也騎戦の稽古も別に仕方何ほとも 有へき也正月の御弓場始にも拝領物等にも 多分の事也是等の事も御止メニて正月も 大砲ニ而も打初に 御覧あり大名の戦鎗二本道具三本道具 のと云て無用の槍を飾とする外飾尤なる 物なり神代よりの兵器残らず焼潰し西洋 斗ニ定るならハ四五年のうちには可成用立程 の備も立へき也前書ニも記せし通り是迄 の姿ニてハ幾十年学習なすとも西夷に 及ふへからず大艦も又同様にて是も勝手 次第萬国江交易 御免とならハ一昨年刑 せられし加賀の銭屋如き豪富の族諸国 に澤山有へき故資財に不吝造作し親船 水主の頭立たるものに金銀を多く与へ用ひ なば利欲の為に身命を忘るヽ程の無道 人故世界中乗廻すやうニ三四年の内には  相成へし其替りには耶蘇宗門行る  へし異国人も日本橋迄も乗入へきなり  都て天地の間両全の理なし彼を得る  には是を捨さる事能ハす我身命を捨す  敵に勝へき事を欲するは決して成さる  事なり一人の勝負ニてさへ我身を捨て  向ハざれば勝を得ず大勝負も同様なり  我銃砲の及ふ場合ならバ敵よりも同断也  其節は銃砲共工拙によるへし長兵斗を  恃み我打放する処敵ニ及はず我玉當らす  敵の玉は當る彼ハ其技に精熟し我は  多技に遅て学ふ処専ならず彼と同し  器械を用ひ彼と同し陣隊を用ゆ皆長す  る処彼にあり故に當今の勢ニて武術の  門を分ち一技を専らに習ハす事急務也 一弓に長せるものを撰ミ戦射を習ハせ他の  術を学に及ハず 一銃砲に得しものを集め和流西洋両よふに  好に随て習ハす 一剱を学ふものハ剱法斗を習ハす 一柔相撲又同様 一長刀棒皆同し 一馬術も達者を専らとすべし工拙は兎も  角も戦場迄ハ騎乗する丈の事ハ人々習ふ  へし馬上格別達者のものを集め銃隊  を蹂躙さすべし 一剱は人々帯する事故工拙ニよらず心得有べし 一鎗を学ふへしと思ふものハ鎗斗を習ハす 一生質多病ニて武術一事も習事能ハさる  ものハ筆道を習ハすへし 一学問ハ人倫の道四書小学ニて足べし  義理の要を知り身ニ行ひ心ニ翫味すべし  如此士を教育すべし怠惰を戒め出精  のものならハ褒詞あるへし褒美を遣し  品を給らねハ忝思わさるの風にならざる  よふに節義を重し利を軽く思ふ様に  士気を引立へし上の大利を欲せざる  時は下の節義も速ニ立へし上次第ニ而  廉恥の風にうつる事手を返するか如し  又有司の人も武術の中一藝ハ是非共  自身稽古すべし主将といへ共名将ハ自身  士卒と労を共にす老中衆ニても官職  の高下ある迄にて人臣に相違なけれバ  銃砲ニても鎗にても手を下して稽古す  へし御旗本御家人御勝手方役人迄も同様也  此法ニて四五年も御世話あらハ御膝元に  勇壮の健士夥しく出来して外藩の諸侯  達に勝る事万々成へし膽力壮勇の士数  萬是あらハ西洋人のことき劣弱成工夫の  陣隊にあらすとも本邦持前の先登勇  戦何そ難からんや何れにも二心を去ら  されば事は成就せす二ツなから全く  する事ハ天地の間に決して有へきの理なし 一大艦乗かた其餘軍備迄も蘭人に向学ハせ  らるの命を蒙りて出帆せし人々皆乳香  児の寄合ニて何を成就すへきや最初ゟ  弟子入をするには一向の素人に仰付らる  へし間違多き銘々の存寄ニて組立し  西洋学ニては却而私意有之習ひ得かた  かるへし諸藝とも悪き僻最初ニ覚へ  たる事ハ始終の邪魔ニ成事人々の知る  事也西洋流も一様ならず誰々ハかやう  彼等ニてハ此様ニとて皆自分〳〵の見識  にて門戸を立人を誹り我を誇其黨  を集め習練なすを感心なす輩の心中  更に別ち難し各区々の仕法ならは  其人々の工夫と見へたり笑べし不残  武邊ニくらき輩也其各を指ハ天下へ  の恐れあり素人の見斗ニて組立たる  兵法を衆人に教へ益有へしや実に  浅間敷事ならすや大艦乗方其外とも  西洋の法を知るへしハ佐賀侯抔江命  せらるへし長崎ハ近し其人膽智ハ備  ハりたれハ 御国躰をも失はせられす異  邦の風をも早く察せらるべし定めて  外藩の諸侯へ聞へてハ 御体裁も宜し  からず位の小量なる御評議成へし日本  国の人ならハ穢多非人ニ而も挙け用ゆ  へし国中ニて 将軍の代の替るハ珎敷  からず異国の辱しめに遇しハ開闢以  来初てなり弘安の頃ハ壱岐對馬の二嶋ハ  異人に攻取られし也然るに少しも疑心  を生せす終に打破りし也一度も兵を交  し事もなし蘭学者恐赫のをとし【「とし」右旁に「本ノマヽ」】らくらい  挙国戦栗して腰抜たり末世とは云なから  餘り卑劣なる事ならすや外藩の諸侯の手  前を恥る也と云事を止メされハ四海一家  とは云へからず体裁にのミ苦むハ愚朦の  極メと云へし万事諺に云負をしみに  いふ事をやめさへすれは武備に充実す  へし下向を恥ち同し了簡の者斗の評  議俗に云小田原評定と云もの也北条氏政  関八州を領して武道の心掛真ならず関左  の大軍ハ有なから上杉謙信か八千の小勢  にて城下迄攻入られしかとも評定決せず  小田原の城蓮池門も打破られしなり 一御国の為と云事人々云へとも御国の  大切君を大事とは夷人の奴僕に成  ても国中の人も損せす君の御命全  く自身にも壽命の盡る迄ハ甘き物を  食ひ居らんと思へるが御国の為成や  又ハ日本国をハ少しも異国のもの共に  穢させすたとへ人種ハ盡るとも異人の  侮りを受さるが御国の為成や我等は 文盲にて分ち難し諸葛武侯が蜀の 軍民の罪弊せるに拘ハらず度ゝ兵を 出して魏を討しを後世賞美せり夷 狄にも例の有事にて命さへ生れは 御国の為とは何ら合点ゆかさるなり 今の有様にてハいや〳〵なからざん切天窓 に小はぜかけニされそふな氣色也大英勇 大無道の振舞なから此方ゟ夷人の形に 相成り交易を諸国へ云掛て有用の 物を決して遣さす十分に権威を取り 西洋諸州と一統すへし左もなくばこハ〳〵 真似をして丸て奪われ夷人の奴僕と成 麦餅の二ツ三ツも貰ひ露命を繋くへし嘆息々々 「貼付題箋」 讒訴辨 全 斬姧【奸】趣意書  逆徒の訴状を検するニ心ハ叛奸之逆賊ニして口には  佞曲の弁舌を振ひ恣ニ妄言を咄て自ら報国忠直の  義士と称し世間を誑惑すといへ共闇の聲ニ應し影の  形に随ふが如し物然として掩ふへからず人皆盲聾  にあらされバいかでか終ニ其奸悪の謀略を弁得ざる  事あらん然といへ共今億兆の士民外夷拒絶冀  望難止此情ニ基是を名として奸舌を振ふ事  如斯実ニ時勢可歎之佞辨也是故ニ今是を弁  して其奸悪を露す事如左 申年三月赤心報国之輩御大老井伊掃部頭殿を 斬殺ニ及候事毛頭奉對 幕府候而異心を挟候儀ニ 無之掃部頭殿在執政以来自己之権威而已を振ひ 奉蔑如 天朝只管戎狄を恐怖いたし候心情より 慷慨忠直之義士を悪ミ一己之威力を示さんが 為ニ専ら奸謀を相廻し候體実ニ 神州之罪人ニ 御座候故右等の臣奸を倒候ハヽ自然 幕府ニおゐて御悔心も被為出来向後者 天朝を尊ミ戎狄を悪ミ国家之安危人心之向 背ニ 御心を被為附候事可有之と存込身命を 抛斬殺候処其後一向御悔心之御模様も相見不申弥御暴 政の筋而已成行候事 幕府之御役人一同之罪ニ者 候得共畢竟者御老中安藤對馬守殿第一之罪魁と 可申候  天下之御政務既 幕府江御委任之上者即  天朝之政府也是を不恐軽蔑しなり  上を凌くの暴言不敬如此自ら論外逆賊之身を以  赤心報国之輩と称するハ何事ぞや是二而も世間の人  を己か奸地【智】より誘引 上を窺之叛心顕然たる事  猶追々可弁之候〇天朝を蔑如し奉るといふハ其発端  より逆賊常ニ唱へて公武の御間を妨んとし己か叛逆  之徒を国忠といひて世間を欺く為之妄言にして  素々関東御政執方ニおゐて 天朝を蔑如し奉り候事者  曽て無之既去ル午年以来逆徒より虚妄の讒  言を以て 天朝を欺き 宸襟を悩め奉り候事  件者挙てかぞへかたき数ケ条之中ニ一二を以示し候ハヽ  去午年の春堀田備中守殿上京の砌逆徒より  鷹司大閤殿を以奏し候文言ニ関東の役人共者悉く  夷狄ニ属夷人と謀りて 天位を奪之企有之候間  早く年長賢明之一橋ニ 綸旨を被下柔弱暗愚之  當 将軍を退け不申候而者 天壌無窮之  神州茂眼前夷狄之封爵を請候様可相成候間一橋殿  西丸江相備候迄者関東之奏上決而御許容無之様  にと種々虚妄之讒言を構へて致言上候より  天朝にも御驚ニ而 主上御立退之御用意迄被為  在候程之事ニ至り其節備中守殿ニ附添罷登候両人  川路左衛門尉岩瀬肥後守左衛門尉者粟田宮ニ詣ける関東  ニ者承久之例を以 主上を遠き嶋江  遷幸之企有之候得共我等段々相諫め置候何分一橋殿  将軍家御家続不相成候而者国家之大事難斗抔一時之 計略被申上候ゟ 朝庭【ママ】の御騒と相成其後も毎々此妄 言を以 至尊を欺奉り 宸襟を悩め奉り候事 律条ニ依而糺し候ハヽ万死にも余りある大罪ニ候得共三公 方を始め高位高官之御方々多く逆徒之虚言ニ被 欺一旦御同意被成候上者重科ニ不忍翌未年二至 罪状之実事を不被挙事軽く御仕置相成候も全 公邊ニおゐて 天朝を御尊崇之故ニ候然るを逆賊共 自ら虚妄之偽言を以 天朝を欺奉り 宸襟を悩め奉り候者 天朝をも蔑如し奉り堂上 方を誑惑被致候所業ニ有之候を 幕府執政方之所持之如く唱候者天地掛隔之相違 言語道断之申条ニ候其上北条足利之逆政を引又 外夷親睦之讒言者去ル巳年以前ニ打出候事ニ而 京都江申上候者翌午年二月の事ニ候へ者掃部頭殿 御大老職仰蒙られ候而後同六月頃ゟ其妄言を以唱所々 悪行者皆御大老之斗の如く讒し候而世間を欺候を以 相考候へ者内実其人も指んニ而無之全樞要之御役人之 名を出して 公邊を讒する明證也然者御大老 御老中方江も乱妨致候事をも内実者 公邊之威を挫く為之悪行ニ而叛心顕然なる物ニ候 之処 幕府江對し奉り異心を挟候義ニ者無之と者 余り之虚言ニ候其異心之次第者追々可弁候〇只 管戎狄を致恐怖候心情より慷慨忠直之義士を 悪ミ云々忠直之義士と者己が悪逆之徒をさして いふが忠といひ義と称するハ善ニ随ひ悪を懲しむる 名義ニ候得者自ら暴逆国賊之所業をして身命を 抛候とて 公江對し忠義之士抔と可申立道理無之况 虚妄之偽言を以世間を欺なから直と唱ふるハ所謂 杓子之意規ニ而実ニ世間を盲聾ニしたる妄言也 既神奈川條約調印之事も京都江者御大老の 所業の如くニ申立候得共自ら其欺候事を存居候而信州 松本権頭茂左衛門之弟山本貞一郎と申もの其頃江戸 住居ニ而和歌を業として罷在候其者隠謀之徒ニ与し 去ル午年六月頃より京都江登り専ら周旋致堂上 方を欺き 幕府を讒し候折柄同八月木屋町 の旅亭ニ而病死いたし候其者之所持致居之品々之中ニ 自筆の手帳有之筆記致し候者多く江戸表出立 之砌逆徒と申合之約条之留記ニして其中にも 神奈川条約之事実者掃部頭殿不承知之処堀田 備中守殿松平伊賀守殿両人岩瀬肥後守井上信濃守を 遣し調印為致候へ共京都江者掃部頭殿久世大和守殿之 心ニ而調印いたし候と可申上事と申ケ条も有之其外 暴悪之所業を巧候ケ条斗多く相見候此手帳を御覧 候而より三条前内府殿始彼者ニ欺かれ候事を竊ニ 被成御後悔其後者奸謀之御評席ニ而も左右之 大臣方を御諫被成候事度々有之鵜飼父子か書 状中にも三条前内府殿ニ者近頃正理而已被申立 非常之方ニ者入込不被申右府公も内間ゟ被倒候事も 可有之と御心配被為在候由有之候其手帳幷鵜飼父子 が書状者今も其儘御役方之手ニ有之候扠三条前 内府殿ニ者是非を悔粗御改心之思召ニ者被為在候得共 同年八月八日正直にも無之 勅諚を出され剰 其 勅諚を幸吉如き軽きものニ御渡し竊に 水戸家江御届候連判ニ加り候事 天朝之御大則を破り御法を犯し候罪状難遁迚終ニ 入道被成鷹司殿父子近衛殿被成入道ニ而此一条 ニ付而也惣而奸賊共正路之論をば非常之妨と者 是を悪ミ己か悪謀之徒をバ忠直節義なとヽ 口には唱候へ共自ら欺候偽言者飽迄承知之上之 事ニ可有之候得者其異心推て知るべき事ニ候 抑外夷浦賀江入津以来午年三月迄阿部伊勢 守殿掘田備中守殿執政七八ケ年之間執政方之御所 置者存不申候へ共其節外国方之掛御役人方ニ者岩瀬 肥後守永井玄番頭等専ら外夷と実ニ親睦被致候 方ニ有之事者世間にも能知る処ニ候然るに逆徒 此人々之外夷親睦の事をば仮にも不唱却而 己が内間之謀反をしたるニあらすや然者今御役 方の上を讒するに表は外夷御取扱ニ託し候得共 内実者己か悪謀の妨となる真実忠直正路之 御役人を悪ミ候て終ニ乱妨ニ及候事掩ふべくもあ らぬ證跡有事ニ候既午年四月より掃部頭殿執政 之後者専ら夷狄之風俗ニ押移り候事を禁し 講武所御創立之砌も  今さらにこと国ふりをならハめや爰に傳ハる武士の道 と詠哥【吟?】ありて西洋風を禁られ候事ハ世間ニ知る処ニ候 然者其頃外夷拒絶の思召有之種々肝膽を碎 かれ候へ共差懸り内間ニ如此之姧賊共隙を伺候折 柄ニは外国江迄者手を下され候場ニ至り不申夫故御条 約相濟候而後者交易通商之事も御改革ニ不被 及空く時日を被移候事ハ京都ニても御承知被為 在候事ニ候左候得者外夷拒絶之道開ケ不申事者 皆悪謀共所持【為?】ニよりて之事ニて追々物資沸騰 下民之困苦ニ相成候も悪謀之なしたる同様執政方 之心ニてハ無之候〇専ら姧謀を相廻し候體実ニ 神州之罪人ニ御座候故云々とは逆徒自分之事ニ而 候を執政方の上として申唱候者表裏黒白之 違ひニ候○弥御暴政之筋而已ニ成行云々抑暴と 唱候者何等之御政事を指て申候事ニ候哉是等者 己の逆徒ニ 公邊を疎ませ術斗之妄言にして 可論迄も無之事ニ候去ル午年間部下総守殿御上京 有之悪謀共之逆 奏を一々御申解候而漸讒 奏之妄言相顕れ初而御氷解 公武益御一和之 勅諚下り候其節も下総守殿を御暴政と唱世間を 為騒候事件不少其節京都ニてハ小林民部少輔を始 鵜飼父子等夫々御召捕ニ相成御仕置被 仰付候事も 専ら暴政と唱候へ共彼者共之姧謀者筆帋ニ尽し難く 不容易事件而已若干之中ニ其一ニを挙て申さハ 同年九月十九日鵜飼吉左衛門同幸吉御召捕ニ相成同 人ゟ水府老職安嶋帯刀等江遣し候書状飛脚之者ゟ 御取上ニ相成候其書状二天下江 綸旨を下し候事何分只今之如き治世ニ而者難取  計候間江戸表二而大老ニ一発致し切込候ハヽ其騒動ニ  乗し早速 綸旨を下し候様可致旨鷹司右府殿  被仰候由小林民部少輔取次ニ而申出候由鵜飼父子ゟ  天狗連之者共江通達いたし又西郷吉兵衛と蜜談  之事を書取中ニ者西国之同志三ケ国より軍船を  大坂兵庫伏見等江差登せ下総守殿之旅館妙  満寺を踏潰し其勢ひニ東北之同志打合彦根城  を乗取抔之暴略も有之又吉田寅次郎大楽  源太郎京都ニ而者梁川星厳頼三樹八郎梅田  源次郎等発頭ニ而徳川之家格を御取上ケ當  大樹公をば當分諸侯ニ封し甲府江移し奉り  江戸城を請取候謀叛之訴状を上ケ候此書者薄  様七拾弐枚細字ニ相認只今も有之候又清水成  就院月照勢州久居之竹内近江等江者  将軍家と関白殿大老其外悪謀之妨と相成候樞  要之御役方を呪詛いたし候事共露顕ニ及ひ證跡も有  之候事故御仕置ニ相成候得共格別之 御宥恕ニ而  御親族之御方其張本たるニより罪状数等を  減し軽科ニ相成候安嶋帯刀御吟味之後被預候方ニ而  申候者ケ様之蜜計悉く露顕候事  公邊之御行届恐入候趣を申而舌を巻候事も  有之由然ルに自分之謀悪を掩ひ都而寛仁大  度之御仕置を暴政抔と唱候事悪謀共天誅  難遁之一端ニ候 對馬守殿井伊家執政之時ゟ同腹ニ而暴政之手傳を被致 掃部頭殿死去候後も絶而撫悔之心無之而已ならす其姧 謀危計者掃部頭殿にも起過し候程之事件多く有之 兼而酒井若狭守殿江申合堂上方ニ正義之御方有之候へ者 種々無失之罪を羅して 天朝をも同腹之小人而已ニ 致さん事迄相謀り万一尽忠報国之者烈敷手ニ余り候 族有之候節者夷狄之力を借り可押取との心底顕然 にて誠ニ 神州之賊とも可申方ニ候故此儘ニ打過 候而者奉悩 叡慮候事ハ不及申於 幕府も御失体之御政治而已ニ成行千古迄も汚 名を被為 請候様ニ相成候事鏡ニかけて見るがことく 不容易御儀と奉存候  對馬守殿井伊家執政之時ゟ同腹ニて御暴政之手傳を  被致云々 公邊江奉仕国忠之御方井伊家同腹者  勿論之義ニて何ぞ對馬守殿ニ限らん○其姧謀危計者掃  部頭殿ニも起過し候而對馬守殿壱人ニ而御執政被成候事者無之  然者此御方を而已姧謀危計と唱候ハヽ此御方若年寄  御勤殿【仕?】中ゟ水戸家御取締を仰蒙られ屢小石川江も御越ニ而  御家来内之悪謀を諫め 公儀御親族之御家柄ニ疵付  不申様御深切之御心添被成候事を却而遺恨ニ報候暴  言ニ有之既一昨年張訴いたし候事も有之候得共今度  之乱妨も其意趣を以致候事と存候人も可有之候得共此書  付之趣意を以相考候へ者中々左様之小事ニ無之表者  外夷之御所置ニ託し候へ共内実者執政方之中を己が  奸謀之妨と相成方を害し自儘ニ悪行を働可申之所  為ニ有之候事者正月十五日京都ニおゐても所々張訴投書等  いたし種々之悪斗を廻らし人気を為騒候由同日上方  にても右様之振舞いたし候ハヽ一昨年三月之時の如く  兼而此乱妨之事申合何歟奸謀之手術有之候事  顕然たりといへ共奉仕之御役人ニ真実忠直誠義之御方  對馬守殿壱人にも不限多分有之候へ者悪謀江荷膽も被成  間敷左候へ者此後も執政方江者何とか虚妄之悪名を  負せ追々乱妨可致事か実ニ鏡かけて見るが如くニ候  ○堂上方ニ正義之御方有之候へ者無罪之罪名を羅る云々  堂上方ニも正義之御方多分有之候事者勿論ニ候得共  大方一旦者悪謀の讒口ニ被欺彼是不穏候事件も相聞  候得共事実分明ニ相成候上正義之御方ニ者一旦被欺候事を  御後悔被成候中ニ近衛左府殿鷹司大閤殿同右府殿  三条前内府殿等者悪謀の讒口を倍し過雅【稚?】ニ虚妄之  事共を奏 聞せられ既 公武之御間確執之端を醸  され外ニも種々之子細有之候事実分明之後者  主上を被欺候罪難遁候迚各恐入隠遁被成候迄ニて  関東より別段御沙汰ニ不被及候者 天朝尊崇之故や  然者彼三公方罪名を負せ奉り候も皆悪謀奸舌之所  為ニして 天朝江對し奉り候而も重罪ニ候〇萬一尽忠  報国之志烈敷手ニ余り候族有之候節者夷狄之力  を借可取押との心底顕然云々御憐愍之御趣意を以  悪謀共を以厳科ニ不被所誅罪も御寛仁二して執政之  御方水戸家江迄被参種々御教訓有之候へ共却而柔弱  之御振舞と侮り候逆意此条ニて明白ニ候抑  天道ニ背き候悪謀共僅之逆徒を誅し候ハん事如何斗  之儀ニ有之何之為ニ夷狄之力を借なん  公邊を侮り候慢意可憎も余りある事ニ候 其上當時之御模様之如く因脩姑息之御政事ニ而一年 送りニ被為過候ハヽ近年之内 天下者夷狄乱臣之物ニ相成 候事必然之勢ひニ御座候故旁以片時も寝食を安し難く 右者全對馬守殿奸斗邪謀を専ら被致候処ゟ差起候儀ニ付 臣子之至情難黙止此度微臣共申合對馬守殿を及斬殺候  因脩姑息之御政事ニ者如此之乱臣逆徒之御誅戮之事ニ  して正路有志之大実ニ寝食を安し難く存候得共  日月照臨之限り者 天道之むかざる之謂れ明らかにし  て逆賊者追々自滅可致候得共 天下も夷狄ハ勿論  乱臣共の物と可相成氣遣ひ者無之候 對馬守殿之罪状者一々枚挙ニ不堪候得共今者一端を挙て 申候得者此度 皇妹御縁組之儀も表向者 天朝より被下置候様ニ取繕ひ 公武御合体之姿を示し候へ共 実者奸謀威力を以奉豪奪候も同様之筋ニ御座候故 此後必定 皇妹を樞機して外夷交易 御免之 勅諚を強而申下し候手段ニ可有之其儀若も不相叶候節者 竊ニ 天子之御譲位を奉醸候心底ニ而既和学者江申付 廃帝之古例を被為調候始末実ニ 将軍を不義ニ引入 萬世之後迄も悪逆之 御名を流し候様取計候所業ニ而 北条足利ニも超ん謀逆者我々共切歯痛憤之至可申様も無之候  凡是迄之妄言者 幕府にして実事と存候人有之間敷  事者奸謀之徒も能々合点致居なから唯上方筋を  始め遠隔之地ニ相聞候而被欺候人も有之候ハヽ往々  公武之間を妨叛逆之一助とも可相成欤之謀斗ニ有  之此度も京都江者専ら周旋致候程之事ニ候処今此  ケ条ニ至候而者忽狂乱発表之證を顕し候方今之事件  難欺之妄誕ニ心付不申候か又者暴慢之乱心より若も  己か叛逆之賊を仕遂候ハヽ其節 天下之人を可欺  為ニ兼而申置候事か兎にも角にも今度之  御縁組者 皇妹を豪奪し奉るとも同様とハ侍君  無人之讒口更ニ可申様も無之素ゟ此 御縁組之事  對馬守殿が分而御取扱被成候儀ニ無之事ハ 天下之諸人  能存居候事ニ候得共對馬守殿ハ申も即御執政方御一統  之上之御事詰る処者  公方様御上を悪様ニ申成し諸人ニ疎ませ  公儀江叛かしめん之底意二て其叛逆之悪謀ハ明らか  成ものニ候○皇妹を樞機して外夷交易 御免之  勅諚を強而申下し候手段云々とハ何事ぞや既  皇妹を豪奪し奉りと申ハ全 幕府者  天朝之為ニ賊にと申事ニ而此暴言之趣ニ而者其  皇妹を樞機いたし候迚 御免之 勅諚下り候道理者  有之間敷又強而 勅諚を申下し候と申もの即暴  政といわんか為之前言ニ候へ者 皇妹樞機抔之妄言  にも及間敷惣テ此件ニ至り忽ち天罰を蒙り心狂  乱いたし候も可有之候〇其義若哉不相叶候節者竊  天子之御譲位を奉醸候心底云々既  皇妹を樞機せすば 勅諚を下し難趣ニ乍申今  天子之 御譲位をさへ私ニ醸候抔ハ俗ニ所謂尻口之合  ぬ申条ニあらづや前にも申通り 幕府二て  廃帝之古例を御調北条足利之例を引候と申偽者  去ル午年之二月副使之讒言ゟ出たる妄言にして  其節之執政方ハ夢にも御存無之事ニ候へ者况其後  之執政方も存可有様も無之候凡如此妄誕之虚言を  構へて 幕府を朝敵之如く無実之罪名を負せ  なから佞舌を以て忽ち 幕府を不義ニ引入  萬世之後迄も悪逆之 御名を流し候叛逆人己の  外ニ有之様申唱候而いかなる悪人を可欺之巧言二候か 扠又外夷取扱之義者對馬守殿弥増慇懃丁寧を加へ何事も 彼等か申処ニ随ひ日本周海之測量之儀迄差許し 皇国之形勢委敷彼等ニ相教近頃者品川之御殿山を不残 彼等ニ貸遣し江戸第一之要地を外夷共ニ渡し候類者彼等を 導ニし我国を取らしめ候も同前之義ニ有之其上外夷應 接之後を毎々差向ひ二て密談数刻ニ及ひ骨肉同様ニ親 睦いたし候旨国中之忠義勇憤之者をば却而仇敵之 如く忌嫌ひ候段国賊と申も餘りある事ニ御座候故  廟堂之御政務者委敷窺知るべきニあらずといへ共大躰  當時之形勢を以推察いたし候へ者あたらずといへ共不遠  之道理二て今奸賊共對馬守殿を讒し候奸心より  侫舌ニ任せ余り妄言を咄候故却而自分虚妄之  偽言を顕し候事件不少候発端より外夷を拒む之御心  強應接之度毎ニ彼か申条を抽れ候事ハ承り及ひ  候得共今更慇懃丁寧之御あしらい可有様無之事ハ逆  徒も心ニ者能承知候事ニ可有之を口には如此妄言を咄事  めつらしからず候○日本周海之測量を差許され品川  御殿山を貸遣され候共無拠評義之上之御計ひにて  對馬守殿壱人之思召ニ可有之様ニ者無之其上周海測量  及御貸地等之事も夷人之申条強而挫き難候て御許  容相成候も内間ニ如此奸賊共隙を伺ひ居候折柄戦争  之端を開候而者天下之一大事ニ可及事を御心配  之様ニ可有之候左候へ者外夷之應接厳ならざるもと者  根元者皆逆徒之所為ニ有之候○彼等を導我国を取  らしめ候も同前之義とは決而悪謀之奸舌より出候妄  言ニして論すべき迄も無之事ニ候〇外夷應接  之後毎々差向ひ密談数刻ニ及ひ候事共彼を親  睦被致候て之故ニ而無之應接に難差許之事件を猶  又委敷解示され候事などは可有之も難斗候〇国  中之忠義勇憤之者とは己か逆徒を指ていう欤  然者其逆徒を国家の仇敵と忌嫌ひ候事何ぞ  對馬守殿御壱人ニ限らん逆徒を忌嫌ひ候者真実之  国忠なるをや 對馬守殿長く執政被致候ハヽ終ニ者 天朝を廃し 幕府を倒し自ら封爵を外夷ニ請候様相成候義明白 之事ニ而言語道断不届之所業と可申既先達而シイ ボルトと申醜夷ニ對し日本之政務ニ携呉候様相頼候 風聞も有之候間對馬守殿存入様ニ而者数年を出すして 我国 神聖之道を廃し耶蘇之邪教を奉候て 君臣父子之大倫を忘れ利欲専らの筋而已ニ落入 外夷同様禽獣之群ニ相成候者疑なし微臣共痛哭 流涕大息之余り無余義奸邪之小人を令斬殺候上ハ 奉安 天朝 幕府下者国中之万民共夷狄と 成果候処之禍を防候義ニ御座候毛頭奉對 公邊異心を放候義ニ者無之候間伏而願候ハ此後之處 井伊安藤二奸之遺轍を御改革被遊外夷共を攘逐 して 叡慮を慰めたまひ万民之困窮を被遊御救候而 東照宮以来之御主意ニ御基き真実ニ征夷 大将軍之御職任被遊御勤候様仕度候  天朝を廃し候とは前件ニ委敷弁候通己か逆徒  之讒口より出候事ニ而執政方之内左様之異心有之御方ハ  決而無之御事と幾度申出候而 幕府を讒し候ぞ○  幕府を倒すとハかくいふ逆徒之主類ニ而執政方御上ニ者  無之候○自ら封爵を外夷ニ請候様相成云々外夷者  勿論逆徒之封爵を請候も忠士之道ニ無之故御制度者  不相替厳重ニ而逆徒本意不遂候ハヽ天下之幸福  にて候〇シイボルトに對し日本之政務ニ携呉候様相頼候  風聞云々とは跡形もなく余り之妄言ニ候  本朝之執政何故醜夷ニ国政を頼候ハん妄言にも  程にてあれ今逆徒讒口ニ奢り如斯  皇国萬代之恥辱と成べき偽言を咄候事実ニ  神州之大罪無申計候〇神聖之道を廃し君臣  父子之大倫を忘れ也利欲専らの筋而已ニ落入外  夷同様禽獣之群ニ相成候とハ逆徒自分之所業之  事ニ候を近年有徳之民家ニ而者強盗を恣ニし  暴悪を自儘ニ行ひ候而諸人を苦しめ  天朝 幕府を腦奉り萬人を傷ひ候事枚挙ニ  不堪此逆徒之亡ひ候期至らずバいつか  叡慮を慰め奉り萬民の困苦を救し候時あらん早く  逆徒を誅戮し 東照宮以来之御主意を建真実ニ  征夷 大将軍之 御職任を被遊御勤候様仕度事ハ彼か  言を不待所祈ニ而候 若も只今之侭ニ而弊政御改革無之候ハヽ天下之大小名 各 幕府を見放し候而自分々々之国而已相固候 様ニ成行候者必定之事ニ御座候外夷之御扱さへ 御手ニ余り候折柄右様ニ相成候ハヽ如何御処置被遊候哉當時 日本中之人心市童老卒迄夷狄を悪ミ不申者一人も 無之候間萬人夷狄誅戮を名といたし旗を揚ル大名 有之候ハヽ天下者大半其方ニ心靡候事疑無之実以 危急之御時節と奉存候  此条ニ至逆徒弥己か奸謀を顕し候其子細者今弊政  御改革と申者前ニ井伊安藤二奸之逆轍を御改革  云々申たる同し事ニして其主意者自分共之申条ニ  随ひ被成外夷打拂と申を只今之御役方ニ而者とても  成就不仕候間午年以来御咎被 仰付候方被乞再勤被  仰付其方ニも天下之御政事御任せニ相成扠ケ様ニ申上候  天狗連共を始め諸国同意之者共を集め存分ニ仕度との  事ニ有之然れ共天下之御政事此逆徒之趣意ニ随て  御改革可相成様無之事ハ逆徒自分も能承知ニ可有之  然ルを如是成さる時者天下之大小名各  幕府を見放し己か叛逆ニ与し候様可相成と天下之  人ニ勧度存候下心を流石ニさも難申処より自分々々之  国而已固候様成行候抔申教候言中ニ忽隠謀之底意  相顕候へ共如何程勧め候迚誰人か累代高恩を蒙り候  公邊を見放し逆徒ニ与し候人是あらんや○外夷之御扱  さへ御手ニ余りける者午年之秋柔弱無道之徳川之家  格を取上云々申処之意氣ニして  幕府を侮り衰弱と致即天下之大小名ニ叛かし  めんと相謀り候下巧ニ候○當時日本国中之人心  市童老卒迄も夷狄を悪ミ不申者壱人も無之  云々とは逆徒之言をまたす誰欤是を思ハさらん  况執政方ニて不思召事あらんや然ルを此又勢に  市童老卒迄も悪ミ候夷狄を  公邊之御役人方のミ世間之人氣ニ反し候と候て諸人ニ  幕府を背かしめんと巧たる其底意推て知るへし  ○夷狄誅戮を名として簱を揚候大名有之候ハヽ  天下者大事其方ニ心靡き候事疑なしとは  逆徒自分夷狄打拂を名として簱を揚んの隠謀  をはるかに唱へてあらハすものや然共逆徒己か奸謀  之妨に不相成候人をバ真実外夷と親睦いたし候ても  其人の事をば更ニ不唱己か悪謀之妨となる御方々  をば外夷嫌ひと知り候ても強て虚名を負ハせ候て  悪ミ候を以て相考候へ者夷狄打拂と申ハ名目斗ニ而  別ニ隠謀之次第ある事ハ申まても無之顕然たる事ニ候 皇国之俗ハ君臣上下之大義を弁し忠烈節義之 道を守り候風聞ニ御座候故 幕府之御所置段々 天朝之 叡慮にも相反候処を見請候ハヽ忠臣義士之 輩壱人も 幕府之御為ニ身命を抛候もの有之間敷 幕府之孤立之勢ひニ相成果可被遊候夫故此度之御悔 心之有無者 幕府之 御興廃ニ御係り候事ニ御座候故 何卒此義御勘考被遊傲慢無禮之外夷を疎外候て 神州之 御国躰も 幕府之御威光も相立大小之 士民迄も一心合体仕候而 尊王攘夷之大典を正し 君臣上下之徑を分明ニまし〳〵天下を死生俱ニ致し 候様御所置希度是則臣等身命を投奸邪を殺戮し 幕府悪政之諸有司ニ懇願愁訴する処之微心ニ御座候 誠惶謹言             豊原邦之助 かそいろの育てし身をも君の為捨るハ代々の恵ミと思へハ  平親忠  皇国の俗ハ実ニ君臣上下之大義を弁し忠烈節義之  道を守り候風習ニて今此逆徒の如く君臣上下之大義を  忘れ忠烈節義之道ニ反して専ら虚偽妄誕之讒言を  構へ第一 天朝を欺奉り数百年之  御恩澤を忘却いたし候而已ならず却て恩を仇に  報して 公儀を讒し執政方へハ乱妨を働候始末ハ  皆外国之俗ニして 皇国之人臣ニ者曽てあるへき所  業ニあらず〇幕府之御所置段々  天朝之 叡慮ニ反し候御所置ハ曽て無之候事を  此段抔ハ別而奸侫之妄言を以  幕府を朝敵之如く申唱諸人を欺く讒口ニして  可申様も無之叛心を顕す一端や○忠臣義士之輩  壱人も 幕府之御為ニ身命を投候もの有之間敷と申  而已者 幕府之御為ニ身命を投候様ニ申偽候得とも  露斗も 幕府之御恩を存候ものたとひ私之恨ミ  有之候迚いかでかケ程之虚妄を構へて讒し候事  あらん天地ニ置処もなき身を以己か逆賊之偽【?】中ニ  のミ忠烈節義なとヽ申唱候共誰か其奸悪を弁へ  あらん○幕府者孤立之勢ひとて逆賊者望む処ニして  其余ニあるべき事ニあらず〇此処御悔心之有無者  幕府之 御興廃ニ係り候而者己か奸謀之君を出し 不相成候時者天下を奪取可申との暴言也○傲慢無 禮之外夷共を疎外せん事ハ願ふ処ニ候へ共差掛り 此傲慢無禮之逆徒を先疎外して 神州之 御国躰も 幕府之 御威光も相立 大小之士民迄も一心合体仕 尊王之大典を正し 君臣上下之徑を分明ニまし〳〵度ハ申迄も無之 外夷疎外ハ其後之事ニ候〇歌ニ君のためとあるは 逆徒己か尊仕する処之君をさすなるべし其君の 志を継候而 公儀を讒し執政之御方々に乱妨 いたし叛逆を謀候而身命を捨ルを忠義と心得 候得共実は其君の為にも忠ならず却而悪名を 相増し終には其君の大事を醸し候大不忠の振 舞ニ候とや   文久二年壬戌孟夏中旬借写すものや                   (朱角印「麗斎」) (貼付け題箋) 「東海貝譚 上下」 貝の噺上の巻         朱印「麗」朱印「斎」 四つの海もしつけき真中へ聲高砂と大 勢の智仁武勇の三徳を国にはらんで 築立の御台場とて厳重の御威勢 異国へ吹なびく風を嘯く寅の年 春日かゝやく差潮の中に栖し貝類は 蜊蛤に猿頬汐吹貝こそうちつれて そこかしこ這出す遥の渚に汐吹かあ ハれ無常のこへをしてコウ蛤さん是ハ とふ云事であろふ此海をアノよふニ深く 埋て我等か居所もなく親貝子貝傍輩 おもひ〳〵に数の行末迄も便りなくアノ人聲 のおそろしき御前様訳を御存じかへと云に 蛤ふり返り此海へあの様な山を築たのハ 大変じやどふ云訳と思内此間岳【おか】を住 居せし小雀か仲間へ飛入して岳の様子 を聞て海を埋るは御臺場とて去年 の夏ハ異国から船の来るので御要害 御大名の大騒で御金が入ると云手前ハ 今迄いつくに居たと聞たれハ私ハ暫く 勧学殿の簾に住居いたし御影ニて 聞覚たる蒙求や史記に左傳其外も 読書ハ大概覚込て夫から上野浅草 山の御堂に堀の内の祖師か八戒 八葉の妙法蓮華経の題目をも聞覚 たることありまた神道をも心掛神田 山王芝神明其外社内拝殿の住居 に飽て御座敷御家形の御座敷御縁 の先へもひよろり〳〵と御長屋迄も飛 めぐり市中残らず裏表住居の商人 は欲の引ぱるつらの皮諸色を高く 金銀の借貸までも不実意を見るも 中〳〵氣の毒故広野へ行ハ流行の 西洋流の砲術大筒の音人こへに廣ひ 世界にちいさひ身の過き処さへなき故に 姿をかへて海中へ飛込んて見れば 爰も俄ニ埋られたる有為転変の有 さまを聞に付ても御臺場の模様を 誰ぞに聞たいと厳重なる事に岩の 螺の貝か居るを見付て猿頬こえを かけコヽワ螺さんどふじや我等は居所を 埋られて爰までよろ〳〵迯て来た 螺貝夫りやとふした事であろふ猿頬 どふしたとはなさけなひ御存ないかへ ソレ唄にもやもめの烏の月影にうかれ 来る身のかなしさは今ハ我身に引替て 甲斐なき此からだねぐらに迷ふて居る わいのふ蜊猿頬時に螺さん品川の海を 埋めますハ何事で御座り升螺貝アノ海 を埋るは御臺場とて去年の異国船 か浦賀の港内へ俄ニ乗込て夫から 始て御要害の御臺場去年六月は 陸の方の大騒てまた今年ハ異船の 来るのさ夫て此御臺場を作りしは 深ひ御計策でも有かしらん我等には 頓と一切分らぬ夫人ハ萬物の霊とて天公 を尊ふ事は孔子の家語にも謂し三百 六十の内長者と云て智恵才覚あり賢ひ ものハないと云か此海中へ庭の居石を 見るやうに御要害の御臺場をこしらへて大 そふな御金を入れて萬一異国船か来て 軍を仕懸たらバ打拂ふための御要害じや そふなりやアちと不運ものじや都而か様の 所へ御備の陣取をするは死地といふて 軍立の備には余り好まぬ陣取じや其 譯は此御臺場へ味方から自由二續て 勢のうしろ備と云ものかなく異国の奴原 を一番に打拂ふて仕舞ならよけれとも 異国の船の来るといふハ春か夏かの間 であろふ軍法にも春は東を討取らず 夏は南を征さずと新田義貞ハ北国を 征さんと終に討死し唐土漢の高祖は 冬北国の匈奴といふ夷を責めて都而 利を失ひ大ニ敗北して夷ともに侮られ所々 大ニ悩まされて難義をする是らハ畢 竟天の時を考へすして敗北せしなり 此御臺場も夫々同し春秋ハ多く東風 南風か吹ものじや其時ハ南に向ひ大筒 や石火や鉄砲を打懸る時は忽に煙り か味方へなびき味かたの矢先ミへかね 又敵ゟ打懸る大筒ハ皆〳〵ミかたへ来るで あろふ味方ハ其時図【?】を放して萬一打損 したらバ味方皆死てあろふ其後詰の 御備建御手配も有であろふか昔の大将 方は好まぬ死地の陣取じや夫には能味 方の計策か有事であろふに蛤貝 螺貝のいふ通り去年異国の船か来た 時は世上大さハきて有た乗込て来た 異国の舶へわずか四艘の船て其上軍 を氣【率?】てもなく只軍船に乗て来て 居る斗日本て見た事ハない蒸気船か 死地へ四艘の船を乗入れて中〳〵手 出しをする氣遣ひハない陸の御大名の 大騒きハ何事てあろふ余り周章て 異国の奴原にちと氣の毒なさても 見よ四艘の艦へ五百人も乗ても高が 弐千人てあろふ日本の拾万石位の大名が 御二方も向ふたらバ一捻りニ捻り潰して 仕舞てあろふ夫々異国の艦か場がハ るいと艦を少し動したらバ岳の方では びつくり仰天町半鐘を打といふ事を諸 向へ觸出したと云事じゃ一向わけが 分らぬ螺さんなせ半鐘を打と云事じや 惣体軍の時ハ町半鐘を打と云法か有か え螺貝ヲゝヨ乱たる時は鉞を用ひず釼 戟を以て切り鎮め世を治め又能世の治り し時は楽を以て民の心を和めて其 楽器の五ツを作りて第一ニ演【?】と云五笛 を作りて是ハ北なり水の音にして五音 には羽と云唇の音と此聲ニ深く思ふと いふて思ふ事を司とりて又南を信と云 に造り火のこゑニて陽氣よく養ふ木 とす歓ひ慕ふ事を司る萬物を和せ しむ音拜【聲?】じや敢【鼓?】ハ東ニ属す東ハ日の 出る地秋氣発生する方角故蝶【ママ】蝀【螮蝀=虹】東に ある時は指さす事なし蝶蝀は西に属して 萬物盡殺と陰聲ニして都而別断と いふて強さをたつ時に取てハ秋の事 陰鬱の氣たる故ニ太鼓又震雷といふて 軍の時敵に責進而太鼓打て掛りまた 味方ニ引揚る時には鐘を鳴らして味方 の氣を鎮て引上る既ニ火事てさえ 出太鼓引鎮り鐘といふて打へし其陰 聲の半鐘を打て夫々の詰め所〳〵へ 集りしと云事てハあろふが昔の大将 方に左様な逆な事ハきらひて既順成 時分萬物を育て不順なる時ハ萬物を 弊す迄軍ハ惣して順を以て逆を打 を打といふて兎角天理ニ逆らハぬ様に するものじや螺さん御前ハ軍にきつい 功者たかとふ云事と知て居なさるへ 螺かい我等は先祖神代の時ゟ軍と いふハ一番がけじや其訳といふハヲイラノ聲ハ 十二律の外で秋氣りん〳〵とする処 螺貝こえを発る時ハ山々谷々も鳴響 猪猿狼其外の猛獣迄も大きに恐れ をなす故に軍掟は一番貝には兵粮を 遣ひ二番貝には具足を着て身を堅 め三番貝には皆持場〳〵の詰所へ出て 大将の下知を待数万騎の中でも貝 にて皆備を立る事神代より源平の 戦ひ應仁の乱又は新田足利楠夫 より武田信玄上杉謙信今川義元 織田信長の軍建陣取の模様も能々見 覚て居るに軍といふものハ大事の物 で軍師名臣ならでハならぬものじや 唐にてハ譬下賤の農夫たり共軍学ニ 達し智有ものを撰て軍師大将 に命して合戦をする故に周の武王 は太公望をかゝへ呉王は孫子を軍 師にし漢の高祖は張良韓信を抱 蜀の玄徳は臥龍山へ雪中に三度 足を歩んて諸葛孔明を頼て軍師 とし是等は皆下々より軍学に達し たる者を用ひ国家を治めて萬代に 名を残す吾国は高位高禄の人下に 寄事を恥とする国風故に農夫野夫 にも軍学に達したる智あるものをい つれなりとも是等を用る事をせず頗る 御用に立ものも埋れ木となるたとへハ信玄 公にて名将有し山本勘助を見出し 軍師として侍七拾五人を預け又秀 吉公は下々の内より勇士ニ成べき ものを撰ミて古今ニあらはしたる加藤 福島蜂須賀を初として末代ニ名を 揚たる勇士数多あり此度ハ日本の内 合戦とハ違ひて勝手しらぬ異国の奴原 の合戦をするは中々高位高官の人を 大将としてハとふあろふか異国の者は 砲術ニ妙を得たるといふ処萬の戦ひは 船手の合戦故ニ味かたも兼て其氣を 抜く方便なくてハならぬものじやが有 なら聞かしておくれ   上の巻終 同下の巻 汐吹がコウ螺さん其氣を抜くといふは とふする事じや螺貝其氣をぬくとは 軍事に臨て兼て氣変にありまづ 敵方も砲術の妙を得味方是と難義 の時は船手の戦ひ故ニ燒艦の用意して 六拾石位の船を百艘程こしらへ置又 押送りの船位の小舟を百艘用意して 燒艦には燒草を積置是ニ熖硝に 油を流置て先安房の方又ハ伊豆の 方浦賀上総江戸の方も四方八方手 配して萬一見分なく陣取法制を言其 法建の根元ハ東西南北の四隅是有 合せて五法と云て五人定め五人を一位 と云是備立の元也十五を一隊と云て 人数五拾人也何万人ニ成とも是ゟ段々 組立る故に曲と云共皆籠る也法制とハ 籏印馬印笠印袖印鐘太鼓進退の 相図也又官道とは小頭籏奉行鉄砲 頭弓大将長柄頭目付使番其外の 役は官道也至【主】用とハ兵粮小荷駄 金銀米穀城取陣取いろ〳〵の用具ニ 至り軍師の外を勤る役也誠に軍と いふものハ大名衆でも極て難義の事二而 第一金銀を多く費し兵粮米を潰し 其上家来を討死させたり万苦の上 下手をすると我国を敵に奪われ 先祖代々の家名を潰し妻子も道 路に迷ハし故に治国に乱を忘れす 下を愛し家来を憐ミ家事倹約を 元として武藝に儘すといへり兵書 にも兵は国の大事死生存亡の道 察せずんバあるべからずと是を使とする には五事を以てすると有れハ譬へバ 機の糸のことく竪糸三百六拾筋かよふハ 暦然と法を立て横糸ハ右よ左よと すれ共竪糸の延ちゝミなく動かぬ様に 軍法を立る事じや右軍法を立るに はよき大将や名臣かなくてハ中々出来 かたき事也其国に名士有る時ハ敵 国ゟ是をおかす事ならぬものじや譬へハ 山に猛獣ある時は其山へ■【操ヵ採木カ】業又ハ 樵夫もいらぬもので国によい軍法名士が なくてハなら【ぬ脱ヵ】ものじや智者あれハ戦ひ 強く小人の武勇壮健とは違ひて 軍は六ケ敷物入用の事ハ国用意足を 足事をよくする役人を用ひて軍事を 調国用を足の時は思ふ儘に備建 人を遣ふ事の出来る故に漢の高祖 は世を治て後蕭荷を第一の官禄 に高く報したるハ蕭荷は合戦に構ハす 国用を専らにして高祖ニ思ふまヽに 働せたる故四百余州手に入て治たる は全く蕭荷の働なる故じやと賞 したり御大名方ても軍事ハ第一の肝 要じや勝手かわるければ軍事の調ハ ぬものじや第一萬卒をあかなれむるも 出来す香餌の下には掛巣多く集る 重恩の下には勇士出来る士を軽くするも 賞の軽重ニ有と高名手柄も其時に 随ひ思ひ恩賞なくてハ皆動かすと調 練元ゟ第一の事なれば又国用を足すに 理ある故に役人を撰ミて内の事を足すも 一ツの軍法なりしかし余り噺に氣を 奪われ口から出ほふだいの事云ニ定めて 螺を吹といふて有ふ此噺ハ海の事ゆへニ 皆〳〵聞流しにして水にして貰ふ事 時に何合戦の時に風の模様ニよりて 風上より火をかけ敵を燒討にする 工夫か第一じや其火を懸るも時に取日 に取あり時取あり共天の燥なりといふ 日取とハ天の二十八宿の中箕宿壁【宿】翼  宿幹【ママ、軫】宿の四星の配當の日取を用ひ都而 晝の吹出す風ハ久しく吹夜の風ハ早く 止むと心得敵艦の風上より燒討を仕 懸る時は此火に夷賊の心を奪われ 自然燒討の方か空虚ニ成其図を 見込て味方より大筒小筒を船の水 際を眼當に打立すきまなく打すゝめ 其虚をねらひて兼て用意の押送り 船に水主拾人に若手血気の勇士弐拾 人程にて乗込せ得もの長柄槍長刀 熊手打鍵【鎌ヵ】の長道具に鉄砲をうち かけて程よく飛込無二無三に血気 盛んの人透を伺ひ切倒す工夫をなし 一艘の船を乗り取時は惣軍勝事に なるもの也かよふな事ハ皆大将の心中に 有事故ニ都而大将は始斗をいふ 事を第一にして五事七斗と云兵書 の意を知らねバ中々数多の人を 指揮して合戦ハ出来ぬものじやとそ 蛤貝の其始斗といふ事ハとふ云事じや 螺貝始斗とハ先合戦の始ると敵味 方の目算する事敵の人数と味方の 人数と見くらべる敵の大将の器量を 計敵味方の剛臆をくらべ又戦陣 の藝術砲術の目算を考へ夫を五事と いふて一番に道二番に天三番に地 四番に将五番に法と此五ツの事を 大将の胸にたヽんで諸事を指揮 するものじや先第一大将はハ萬卒の心 を一致にさせて死生を同ふする事掛 るも引も死するも生するも上たる人を 見捨ぬ様にする事上たる人も下々 の事を能思ひ遣りて仁恵を以て上下 合調して萬卒互に救ひ助て心を 剛なるやうにするを道と云其備ハさるを 以て敵と戦ふニハ甚危し道ハ暫くも 放るへからず離るへきハ道にあらず戦をして 勝べき道の見へさるを以て戦ひ万卒 のなき趣向の道のミへぬを以て軍立 をするを危し此図を能々勘察して 軍備を致事又弐番に天といふ事ハ天の 時なり昔も今も行の軍行ハ一ケ年 十二月の運ひ一ケ月三十日の運ひ一日十 二時の運ひ天は故より今に至る迄日夜 朝暮怠らず運ひ行故ニ惣して皆陰陽 とは日取時取方角の吉凶十二支 五運七曜九曜繰り方雲煙氣の見様○【朱】 【頭書 朱丸 五行相尅」を都而天の」時は春夏(朱三角)」秋冬日夜(朱三角)】 飢饉豊年日照洪水大風雨雪雷の 事潮の満干の類皆天の時也大風吹時ハ 風上より火をかけ敵を燒討し大雪の 時は日月をうしろにし釼戟を以て 敵をふせき其外天の時に臨て千変 万化の計略有三番目に地と云ハ遠 近廣狭とあつて所はゆるやかにして 難所は歩行立よろし狭地とせまき 所は小勢にてよろしく死地とハ味方 引く事ならぬ地ハ皆死地とするを云また 生地と云ハ味方守りよろしき天地の理の 理はいろ〳〵有又四番二将といふハ中〳〵 紙筆にハ申難き事なれ共将ハ智 なると有と中〳〵智恵斗にもあらず 又利口発明斗にもあらず学問の廣き にもあらず弓馬槍剣長刀の奥儀を極 めたるにもあらず又語道ニ発して三世に 通達したるにもあらず只能々人情に 通し抜通りたる主の下たるもの敵と なり味方となりてさま〳〵の人心をよく 知り意味深長の情合に通したる 大将の事也又五番に法といふ事ハ 孫子の兵書にある如く治は曲制官 道主用なり先怒制とは軍の備時 じやモウ汐かさして来る深ひ処へ往て 又別の咄しを仕様猿頬汐吹蛤初め 蜊も友につれ立てそろ〳〵と這出しぬ   巻の下終 【左丁奥 貼付け題箋】 東都地震の記         朱丸印「麗斎」  東都地震の事を記す 山謁【竭ヵ】川尽るはな【し脱ヵ】と昔しよりいひつたへたれと ニ【こ?】はかヽるへき理を挙つらへるあたし事 よと年頭おもひすてたりしかことし乙の 卯の神無月二日の夜亥の刻はかりに吾妻 の都にて西北とおほしきかたよりいといたふ 地震して千住ハ家居半くつれ小塚原ハ くつれたる上にところ〳〵火出吉原は兼て 役【設?】置たりし用心粉【橋?】てふもの或ハ落あるは 動かさりし上に時のまにやけいてける ほとに大川より外はのかるへき道なけれハ 死うせたるものいと多し  三浦屋とか云にはふたヽひ震ひいてん  事のミおもひくして燒出る事はかさりし  にや穴蔵てふものゝ中にひそミ居家の  内なこりなく蒸ころされたり姿海老屋とか  いへるは主しひとりのこしてミな死失岡本  とかいへるは主をはしめ遊ひめまて四十人  あまりやけうせぬおのれも角町といへる街  の家主金右衛門と云ものと同しちまたの  安次郎といへるものと元学の師をともに  してけれハ四日の日そかかりにやとりせし  大音寺前とかいへる処を訪たりしに金右衛門ハ  ひとりのまな娘をうしなひ安次郎ハ母弟を  はしめとして抱置たりし遊女八人まてうし  なひしとなん此廓より  公けへは六百三十人の外ハ死失せしもの  ありしとなと訴奉つれと三日のあしたゟ  七日の夕まて葬ふとてものせし屍ハ今  この里の寺ひと所にて千二百人あまり  ありしときけハ街にてこの里の死失  たるもの六千人にあまりけるしなと傳るも  誠ならんかし金右衛門安次郎なと訪たる折  しも帰路にこのさとよきりしか得ならぬ  臭の鼻を襲て堪へくもあらさりしに  やけたる屍をこもむしろに包五六十人も  おなし車につミかさね寺々へはこひ行様  哀なんと云はかりなし 吉原より東南のかたハ山谷橋場大かたは くつれ今戸よりも火出て田町一丁二丁より 竹川通南北馬道聖天横丁三芝居北谷 中花川戸山の宿なと大かたハやけ失たり よの常の災には燒たるあともぬりこめ立連 なり街の如なるハ此都のさまなれと此度は ぬりこめの土ゆりおとされし上に火かヽりつ れは浅草寺より北の方ハ只ひとめの燒 すなとなりはて又浅草寺より南のかたは 廣小路並木家居ミなくつれ駒形より火 いてゝ三軒町諏訪町黒船町御厩川岸迄 やけうせ西のかたハ菊屋はしのほとりより 火出て新寺町新堀なとニまち三まち燒 うせたり  諏訪丁壱丁にて四十七人死うせ茅町三丁  にて百十八人しにうせぬとそのほとりに  住る理兵衛と云ものゝかたりてき駒形ゟ  御厩かしまて残りたるぬりこめ三ツの外  あらさるよし 是より西のかたは外神田下谷根津金杉 箕輪大音寺前なときたのかた程はけしく て山崎町車坂廣徳寺前池のかた天神 坂下明神下仲町谷中くつれたる家居も なく坂下より二まち三まち茅町より切通し 廣小路より裏御徒丁長者町 御成道の邊りまておなしさまに焰となり 石川井上大関黒田小笠原堀内藤なとの 国つ守燒されハ崩る  堀の御家にてハしにらせたるもの百人に  あまりて奥かたも湯嶋天神のうらさかに  かヽり本郷へ退玉ハんとせしか石段くつれ  のほりかたかりしほとに取てかへし神田  明神の前まてのかれ玉ひしか駕籠の  中にて俄に失玉ひしと其邊に住居する  吉五郎といふものかたりて其後庄内の  御内人黒川一郎と云もの其御内の人より  聞しとてかたりけるか其折しも奥方ハ  ミこもりて八月になんなり玉ひしよし  あハれにもまたいたハしけれ 根津下谷より西のかた本郷にてハ加賀の 御家のミすこしハくつれつれとまるては けしくもあらさりしにや大塚の西なる鬼子 母神のほとりのミ三丁四丁やけうせ壊たる 家居いと少なし小石川水戸の御家に のミしにうせたるもの百三十人あまりにて 御家の北なる小笠原とかいへるは君も内君も 棟木にて押潰されうせぬるよし誠にや  水戸の御家にてハ前の中納言の君の  ふかくたのミ覚されし藤田虎之輔戸田  銀次郎も死失ぬ虎之輔ハはしめ難なく  のかれ出しかと老たる母刀自のあとに残り  しをおもひいて引かえし救出さんとして  軒の下に失果つと其国の人より聞ぬ此  国の儒者なる會津恒三の教子にて長  門の人に赤川淡水といへるものありしか  其物かたりに虎之輔の母ハいと雄々しき  老女にて我子なから日頃ハ物の用にも  立へきものよなとたのもしくおもひつるに  其甲斐もあらて深くたのまれ奉りし  君をおき翌をもしらぬ老の身のため  あたら命を棟のもとに捨たりし不覚さ  よとむつかりしよりこの母ありて此子とや  かゝる事をやなとゝ諸ともに語り合たりし 小石川より南のかたニてハ小川町ハ西俎板橋 より東猿楽町まてなこりなくやけうせ国つ 守の邸くつれたるハ青山土井酒井松平 讃州淀稲葉土屋伊東小出なとの御家々 にして松平駿州堀田備州松平豊州板倉 榊原内藤なとなこりなく燒失たり  讃州の御家に徒士の士廿人あまりも同し  長屋に住居せる中に其頃初のほりの若  ものありしをもろ人の日頃打より噺せしか  二日の夜ハいといたふさるかたく酒のミにまか  らんとかのわかもの只ひとりのこしおき  吉原に行たりしかは残りなく死失るとなん  豊州ハ僅五萬石の御家なるに馬十六疋人百  七十二人しにうせぬ 公へは七十六人と訴  奉りしと其国の人荻野錦橘かたりぬ  其他族もとの人々には佐藤千根野本郷  金澤酒井本間半井なとミな燒失せ  土岐といへるハ火をまのかれたりに十七人  死失しと其家の士森田市左衛門より聞ぬ  燒ぬ御家さらんかヽりせはまして燒たる  御方ゝの御家をやいつれの御家にかありけん  あるしの殿ハ先のかれいて玉ひしかと内君  より男子四人瓦の下にうつもれ玉ひしかハ  引返し下部とも諸共に力の限りはたら  きて二人ハ援出し玉ひし其間に下ゟ  火ほとはしりいて父上ハいつこ母上ハいかに  し玉へしあらあつやとおめきさけふ聲し  つるを救もあへす燒りしなひ玉ひしとかや  その父君の御心の内いかなりけんよそに聞  たに涙せきあへぬものを 小川町より東のかたハ駿河臺のミさるとも なかりしか内神田柳原ハ殊にはけしくて 公の穀番【蕃?】ふるぬりこめ六十間あまりくつれ 落ちたふかるハなし  おのれかやとりとしつる街のミにて廿四人  死失けるか中に稲本といへる家とめる  盲の其身いちとのあやまちもなかれと妻  娘をはしめとして七人まてうしなひしも有  又十七になんなりつる娘と七と三との男子  ミたり失てものくるほしくなりつる母も有  この同し長屋におのれか垢付たる衣そ  そきなとする女ありしかきて語つるに  其夜夫ハ遠き方へとて出たりしかハ十ニ  なりぬる娘といさうとさしていねハやなと  いひもあへぬにうつはりの下に押潰され息  も突あへぬほとなりしかハ心のそこにおの  れおさなかりし時御寺の聖の十二萬歳を  一劫とか云て此世の那【ママ】落の底とかいへるに  しつむものよなとの玉ひしを聞つるか  いま其時に逢たるなめれは吾夫のミか  天か下ニ生のこる人のあるましきよと思  ゐたりしにはるかなるかたに夫の聲して  娘の名吾名を呼ハせ玉ふにうれしやいき  ておハしけんされとあまりにはるけきかたを  のミたつね玉ふことのいふかしさよと思ひニ  たれは聲さへ得いてさりしに娘ハもの云  ことのおのれほとにかたくハあらさりけん爰に  そと聲かるゝ計こたえしかハ俄に多く  の人のこゑ立騒くさまして此火きやしなハ  救出さんするほとに心強く思ひてよと云聲  の猶はるかなる方にのミ聞へしか出てゝ見  れは隣なる家より火いてたりしを瓦  の下にうつもれゐしかハなとかたりける  か実にさなりけんと人〳〵と語合たりし 御城の内にてハ紅葉山にすへ奉りし世々の 御霊屋ハ更なりむかしよりおさめおかせられつる くさ〳〵の御寶こむるぬりこめをはしめとして 櫓石垣まて数を尽して崩れ落内腰 かけよりも火出てたり  其夜 将軍家も御小性【ママ】只ひとり召具し  玉ひ御玄関まていてられし折しも内藤  紀州のミ御供も具し玉ハす装たになく  してかけつけ玉ひ當直し居つる徒士  のやから廿人あまりと守護し奉り楓山まて  退せ玉ひしに百人番所もくつれおち  黒鍬てふもの九十七人しにうせつるよし  又見附ニての石垣ハわれさるところもなく  護持院原の石垣なと堀の中にしき  ならせしめてくつれ落つるよし 御城より東丸の内は酒井雅楽上中両屋敷 小笠原右京森川羽州會津上中の邸とも 火消屋敷因州遠藤但州松平総州本多 中務増山弾正なとミな燒うせて越州大岡 秋元池田永井松倉戸田松平伊賀阿部 勢州内藤紀州の御家なとなこりなく壊れたり  酒井の御家は五十八人死失内藤の御家は  廿八人死失て森川の御家ハ君の此日より  二三日前にかくれさせ玉ひけれハ柩のまゝに  また葬リ玉ハさるを得出し奉らでやき  失なひ玉ひつるに奥方も棟のもとに  うせ玉ひて若君ひとり庭の井にひそミ玉ひ  火をまのかれ玉へしとなん會津の御家ニ而ハ  所〳〵にあなる御やしき迄数ふれば七百六十人  失ひ玉ひしとかや五日の事なりし田町に  すめるもの来て昨日會津の御家よりとて  車十輌馬四疋長持四棹もて失し人の  なきからを高縄【ママ】の寺に運ひ行しなと  かたるもの有しかこの御家なる姫君の  かしつきなりし翁とかや其夜ハおのれか  長屋にありけるにこよなき地震ゆへ御館に  はせ参りしにはやなこりなく崩れ落姫君の  御行ゑも分らさりしかはくつれる家の棟に  立またかり腹切て失せけるとかやけなけ  にもまたいたわし阿部の御家ニ而ハ君の  公のことおハして表に居玉ひしまに奥は  くつれ落いとおしミ玉ひし側女を初め  女房達十一人侍廿人あまりうしなひ玉ひ  て奥方も梁にしかれ玉ひしかとも年頃  召仕玉ひし女房の内に甲斐〳〵しき  ものありておのか身をもて梁をさゝへ  あけ左右の手をつよくつき立息絶なから  奥方を覆ひ奉りちとも倒れさりし程に  左の御腕を柱にしかれ玉ひしかと御身ハ  恙なくおわしましつるよし後かの女房を  棺に入侍るに惣身の力を腕に盡したり  けらしいかに撓めてもたハまさりしとなむ  いまの世にはいとめつらしけれ増山の殿も瓦  のしたに敷れ救ひいたされ玉ひしか士より  上のもの二十人あまりも失ひし林家にて  すら十六人しにらせたりと其教子ゟ聞ぬ 外桜田は鍋しま毛利北条伊東柳澤我 御家をはしめとして薩州の装束やしきは ミな燒うせ上杉板倉小笠原石川三浦真田 小鍋嶋阿部播州水野出羽大岡朽木抔なこ りなく壊たり  亀井の御家は死うせしもの十一人と其  家の侍堀確三よりきヽぬこの確三と昌  平坂なるもの学所にありつる鍋嶋家の御内  人何某とかいへるは其親しきものヽ病ミと  らんと朔日の朝其御やしきニ帰りしかあくる  夜梁にしかれ立出べくもあらねは聲  をかけ人をよへるに火出来て救へき  すべなければ人々のいまはおもひきれよと  云すてゝ泣々も立去しか火しつまりて見  れは太刀をにぎり死しゐたりしにそ  扠は腹や切てけんなと云ものゝありしと  同し人のかたりても此御家にのミ死失せた  るもの三十五人とそか御内人木原善四郎  より聞ぬまたいつれの御家にやありけん士共  廿五人二日の暮過る頃国より爰に来りし  か生たるもの只ひとりの外はあらて毛利  の御家にては君のあすハやしきにつかせ  られんと武蔵の藤澤にやとらせられ御先  の人々の御門まて来し折しもかの禍して  鍋嶋の御家より火移しかは其さわき  いはんかたなかりしに死うせたるものも  三十二人侍ると其御内人小倉健作語りぬ  柳澤の御家は定府てふもの多き御なら  ハしなりけれハ女童のミなりつるに門々ミな  かたふき貫ぬきうこかさるより長屋の  窓をぬけ出て屏を躍越辛くして  のかれいてしものヽ外ハミな炎に立ま  かれ死失てけるにこの御家に京橋の邊り  とかや鳶頭てふいやしきものゝまなむすめ  を宮仕に出しつる男ありしかこの夜いかにも  して娘をたすけ出さハやと屏のくつれ  より入て見るに奥のかたハはや焰立散て  ける程に表のかた迄ものくるほしきまて  尋ねさまよひしにいやしからぬわかものゝ  にけもやらで御玄関に立居しを見人  の親の心は誰も〳〵同しからまし今に  なんするところにいわけなくにけもやらぬ  哀れさよ行ゑなき娘尋るよりは  とかの若ものを脊に負て帰りきしか  ひと目ふた目ハものにまきれて誰も問さり  しに娘もさたかにやけうせしなと聞え  けれはこのわかき人も親君の尋まとハ  せ玉ハめと其名問てけれとふかく包て  何ともいハさりしをかにかくせめてけれは  我は松平何某よとの玉ひしほどに扠ハ  と打驚きいそき御やしきに送り参ら  せしよしこのをのこなかりせハいかでか  助かり玉ハんといと哀れなりしなとかたる  ものありき我 御家ニては  君も梁に壓倒され玉ひしかと  御座のかたハらにすへ玉ひたりし文箱の  上に棟木落てければ筐ハくたけつれと  ふミにて支たりし程に御身は恙なく  まし〳〵けれと御内人ハ三十八人失ひ玉ひ  ぬこの夜麻布の里なる御下やしきに  退かせ玉ふにともし火たに持せ玉ねと御馬  にめされたれはかゝる中にもやんことなき  御方とはしらさりしかと會津の御家ニ而ハ  馬三十六疋失ひ玉ひしかは御のきにも  こよなくあやしかりしよし又北条の御家とか  きゝし若君其夜妻迎玉ふことのありしかハ  媒の君をはしめとしてよめ君まてあへなく  しにうせ玉ひしなとかたるものもありき誠なら  ましかはいと浅ましき事ニなん 日本橋通りははしより南のかたほといよ〳〵はけ しくて南伝馬町鍛冶丁五郎兵衛町を始として 東西の川岸より京はしまてやけうせ芝井丁 もまたやけたり其中にいと哀れなりしは さきつとし品川洋に夷ふせく料として 新たに築玉ひてける砲臺の中に會 津の御家にて請玉ハり玉ひしてころハ土の そこ割やしけんと思ふ斗ニ鳴はためき厳 しく立つらねつる小屋倒るヽまておしかたふき 戸も窓もひらかねはとやせましからやせましと ためかつしまに下より焰ほとはしり出し程に とても死んするいのちなれハと指違ふるも あり腹切るもあり総て十八人しにうせ幸 に火薬に火はうつらさりしかと御やしき ものまて数を尽して死うせたりしよし  黒川一郎の父は酒井家の物主にて其  夜うけ玉ハりつる砲臺にありしか會津  の御家にてうけ玉ハれるところと隣けれハ  救ひ玉へてよと人のきくにより船出し  つれと数ある臺場のその中に會津の  御家のハ初て築立る処なれハ小屋の上も  一尺の板もてふきそが上に石炭もて六寸  斗にてぬりかため其上を二重ぬりにこめ  たるなれハ戸も窓も打やふるへくもなくて  中なる人々のあらあつやさらハ腹切んなと云  こゑの外に聞へけれと助くへきすへもあら  さるしまに炎立藪しほとにもし火薬に  火うつらハひとりもいきのこるものハあらしと  船漕かへしけるか今宵ハ常に替りて  潮ミな乾き辛くしておのか持場迄帰しか  津波やこんと夜ひとよ安き心もあらさりし  とものかたりしとて一郎のおのれに語り  候き又芝の神明前に岡田屋とて今  昔しの文ひさく家ありしかそがぬりこめの  土屏たりしに日数へて其土とり拂ハせしに  駕籠にのり男の童獨具したる商人の駕籠  舁もろ共にうせゐしかこのものいつこの  人とも分たさりけり其妻や子のなけき  おもひやられて哀れなりとかたるものも  ありきまた日本はしの四日市なる商人の  ぬりこめの際にいやしけなる男女ふたり埋れ  ゐしものありしを辻君にやと云あへり 其他隅田川よりにしハ乙めはしの邊りより 大川はしまてやけうせ水野秋元安藤 なとくつれたるもあり燒たるもあり  水野の御家にては死うせたるもの三十九人と  其御内人照嶋春丈よりきヽぬ 墨田川より東のかたは先深川ハ永代橋 の邊り僅に残して相川町黒江町大嶋町 蛤町仲町八幡門前町皆やけうせ真田水野 安藝阿波土井一橋なとあるハやけあるハ崩れ 本所よりハ総て六所より燒出たり先竪川 通りハ相生町二丁め緑町花丁まて十一丁燒失 荒川本多中山鈴木浅倉松平今井中川 奥津稲葉山本近藤津輕なとの御家のこり 少に焰となりぬ是を一処としいま一処ハ御船 蔵前よりやけ出て柳川町六間堀瀧川町 高橋まてやけ西条小幡本多松浦松平遠州 井上河州吉田摂州小笠原佐州等やけされは くつる今一処ハ中の郷より出て荒井町番 場町弁天小路まてやけうせ松平防州 松浦壱州向井将監松平左衛門なと皆やけたり 亀井戸よりも二ヶ処やけ出小梅も引船の邊 まてやけうせぬ此六処に深川を添て死失 せたるもの四萬七千人なりしよし  深川仲町にかなものあきのふ家ありしか七人  八人の家の内のこりなく燒うせてければ三日  四日のほとは其なきから堀出すものもなかりしと  直野長三郎のかたりてけるか本所ニ而ハ津輕  の御家にのミ死うせるもの七十八人ありしとそ  小梅に名たゝる小倉屋といへる餅ひさく家  のほとりのミにて百人あまりも死うせつと  其邊りのものきて物かたりぬ 此夜の地震北は草賀越ヶ谷南は神奈川 川さき東は牛宿松戸行徳船橋まて 甚しく五十子臺まち芝駿河臺浅草上野 吉原堤本所小梅松戸神奈川なと三四尺 ほとも地割向しまの邊りハ一丈あまりさけ 砂と泥とを吹出せしところありなと云ものも ありき合せて指折搂れハ其はけしき処 は十里あまりにて火は三十あまり二処より いてたれと風烈しからぬをもて燒たる処ハ多くも あらねと街のかす五千七百あまり宮居寺は 凡六千二百余り塗籠の数十一萬四千五百余り 国つ守の御やしき四百あまり御旗本の方々より 輕きものまて其家居十八萬五千八百あまりある は崩れ或はやけうせて死うせたるもの 十壱萬八千六百人あやまちせしもの三十二萬六 十人あまりと公けヘ訴出しかともあるハ外つ 国よりのほり来しものあるはいつこのものとも さためぬものゝ死失たるなと数ひなハ二十萬にも あまりぬべしいまにして其夜のさまおもひ出るに 老たるを呼おさなきをたつね神を念し佛を 唱るハさてしもいはすむな木におしたほされ瓦に しかれうめきくるしむ其上に炎にまかれ 烟りにむせひいとくるしけになき叫ふ聲身 にしミて哀れともいたましとも得いふへくも あらぬに吉原の里に名たヽる遊め某よとて 紅井の打かけ着て白き脛の処〳〵より血流るヽ をすあしにて泣まとへるそれの処の殿よとて 太刀も佩玉ハて鞍も置ぬ馬に尾筒立髪 所々やけのこりたるに打またかり玉ひたる ふとくたくましけなるおのこの柱のもとに 打しかれ目のたま飛出死失たるあてやかなる 女房のをさな子の手をにきりもろ共に瓦の許に 打たほされ歯を喰しはり息絶たる見るに つけ聞に付あさましからぬはなしかたに 夜ひとよ夢の中にゆめ見る心地して大路に 立あかしけるに燃のこりたる炎の中より所々 青き火もえ上りなまくさき臭の鼻を襲も いと心うくて早明よかしと念しつるに明るに 随ひ大路を見渡せは夕へあやまちせし ものを戸板にかきのせ肩にかけいたハり 行人の路もさりあへず或ハ腕ぬけ足を れたるあるは頭打割れ腰たヽさる其浅 ましさいはんかたなきにやけたる屍を菰む しろにおし包ミ車につミしハさてしも いはず酒砂糖なと入るへき樽を柩の替りに し猶たるへくもあらて街に水たくわひあ りし桶ぬすミ行もありそもたらぬにか あらんなきからのミ埋帰るもあり夕へ廓をの かれ出しうかれめと覚しくて髪もおとろに 面も得あらハて紅ゐの湯具したるさすかに 日頃浅からずちきりおきし男にや手を引 合てたと〳〵しけに路行もあり又ひとや をのかれいてし罪人にやさかやきの跡長く のひ色青さめたる男のいきもたゆけに 行もありこのひよりして後は日毎に 五度六たひ地震せさることもあらねば 人の心もさはかしくて今宵ハ津波こそ 来るへけれ翌はさきに増たる地震こそ あらめと云のゝしりかたふきたる家おさむる ものもなく大路に戸障子かけ渡し其中に 起臥しつるほとなれは家を失ひやしきを やかれたる人々のミをよすへき処迚もなく おのかしゝつゝめるもの背負て東西に行迷ひ 住家たつねるさまもいと哀なりかゝる時にも 公にてハ人の心うしなハしとや幸橋御門外 浅草廣小路深川海邊大工町三ところに 御救ひ小屋てふものかけ渡し又代官伊奈 半左衛門をして米六七合の詰飯ひとつを日毎ニ まつしきものに人のかすほと玉ハりて御旗本 の人々には身のほとにより崩れたる程に より黄金若干つゝ玉ハりまた商人ハ更 なり萬の匠にも物のあたひ増まして掟し 玉ひけれとも匠共ハ四寸にもたらぬ丸木二 もともてき傾たる処支えなとしつるのミにて 黄金ひとひら玉ハれよと云のゝしり米商 ものもなく酒ひさく家もなく草鞋の直鐚 弐百文と云ほとになりしかはいのちにも かへしといとおしミたる妻子ハうしなひ ぬいける甲斐なき世に存生て何かせんと うちかこちあからさまにものうハひとらハれ ぬるもの日々してなきはなし かゝる時なん人の心のよしあしもおのつから いちしるしくてふたむね並ひたる蠟燭商ふ 家のひとりハくつれひとりハ残りしか残り つる家にて蠟燭ミな施せしもあり十もと はかり束ねたる葱を鐚三百文なりとて 街のものに打ころされし商人もあり草 鞋粥薬施こす家もすくなからて吉原 の里なる佐野槌といへる家の黛とか云 遊めハ救ひ小屋なる人々に土もて造れる 鍋ひとつ宛施し仙臺の御家ニてハ其屋 敷のほとりなるものに米ひと俵宛下し 玉ハりまし川瀬新石町の川邨とか云る 冨る家ニても其ほとりの賤しきものに精米 二斗宛ほとこし我しれる村上寛斎と いへるくすし二日の夜其身もうつはりに おしたほされしか板しきうち放し辛く してのかれいて又内に入草鞋取出ておのか 家の燒るもかえり見ず疵薬施し歩行 たるなとなさけ深きふるまひなるに深川 の蛤丁とかや罪ありて佐渡に流されたり しをひそかにのかれいて来りすミしもの ありて迚もなき身とおもひけん妻子うし なひ家居やかれつるものとも六七十人さ そひうこかし松平総州の御家なる  蔵やしきに押入蔵守る士足輕ともうち  倒し千石余りの米ぬすミ取しか此頃  大方は捕ハれしと云ものありき五日の  しのゝめに品川の州崎にて津波々々と  呼るものありしかはすはハやとて我も〳〵と  山邊にのかれゆきしかハかの津波と呼  わりしおのこの心静かに人の家に押入  物奪ひ船にて去つるもありしとかや沖に  おろせし米船も三処よところ火かけられたり  白刃もておひやかされ黄金奪ハれしものも  少からさりしよし 剰へ今年春の半にかたしけなくも 天朝より寺々の鐘鉄砲に鑄改め夷防く 用にせよと詔玉ひしをとかたして長月の 盡る日 将軍より寺々へ下知し玉ひしか 幾日もあらてかゝる災ひありしほとに法師 とものところ得顔に佛のもの奪玉ハんと せしゆへなと云もて行愚かなる下さまの 公の政うらミ奉るも少なからねは彼昔人の 云の葉むなしからましかハといとおそろしう おもふものから半はかたむきたる旅のやとりに くつれたる壁のそこより筆硯取出てと もし火のもとにしるし侍るになん  このとし神無月十日あまり二日の  夜吾妻なる於玉か池のやとりにしるす  なへふりし其夜より十日を経たり       陸奥岩手の里なる江幡通高 左丁奥 書下題箋 「水府齊昭公不可和十ヶ條」 昨八日三ヶ状書江注致候様御申聞も有之故拙考 拙文且急き昨晩腐眼ニ而認候故御見せ申候 尤清書之間も無之下書之儘ニ而候得者追而御返し 可給く御存意も候ハヽ承度猶又両城全意【雨城金言?】之 事も昨日申掛候処今日御用透にも候ハヽ御一同江 御逢申御了簡振承度存候以上     十日         前中納言         福山殿           御許ヘ    海防愚存 一和戦之二文字御決意 廟算一定始終御動無之義  第一之急務与被存候事 一本文和戦之利害戦を主といたし候へ者天下之  士気引立仮令一旦敗を取候共遂ニ者夷賊を  追退ケ可申和を主与いたし候へ者當座之平穏ニ  服し候而者天下之人氣大ニゆるミ後ニ者滅亡ニも  至候義漢土歴史之上ニ明證有之古今識【試?】者之  確論有之候得者委細ニ申ニ不及候得共今試ニ  其大略を論候に和すべからざる筋合十ケ条有  之候扠 神国之幅員廣大ならす候へ共外夷ニ  ては畢竟往古神功皇后三韓御征伐中古  弘仁【ママ】之蒙古御退治近古文禄之朝鮮征伐  慶長寛永之切支丹御禁絶等其明断御威武  海外ニ振居候故ニ有之候然ニ此度渡来之アメ  リカ夷御制禁を心得なから浦賀江乗入和睦  合圖之白籏差出し押而願書を奉り剰内海江  乗込空砲打鳴し吾儘之測量迄いたし其  驕傲無禮之始末言語同断二而実ニ開闢以来  之国恥とも可申と城下之盟者国之恥と承候処  右之通御制禁を犯し 大城程近之内海江乗込我  をおびやかし我を要し候夷賊を御退治無之  のミならず萬一願之趣 御聞濟ニ相成候様二而ハ  乍憚 御国体ニおゐて相濟申間敷決而  不可和之一ケ条ニ候 一切支丹宗之義者 御當家御法度之第一ニ相成居  国々末々迄も高札建置候処夫ニ而さへ文政年中  於大坂右宗門之族内之相弘候者有之御仕置ニ  相成邪教の毒夢ニ御油断不相成候况アメリカ  新ニ御近付相成候ハヽ何程御制禁有之候而も自  然右宗門再起之勢必然之義乍憚  租宗之神霊江被為對御申譯無之是決而不可和之  二ケ条ニ候 一我金銀銅鉄等有用之品を以て彼か羅紗硝子等  無用之物ニ換候義大害有之小益無之候間和蘭陀  之交易さへ御停止ニ而も可然時勢ニ候都而和蘭陀の外ニ  又々無用之交易御開き相成候ハヽ  神国之大害此上者有間敷是決而不可和之  三ケ条ニ候 一ヲロシヤアンゲリヤ等先年ゟ交易を望候へ共  御許容無之処アメリカ国へ御許容被遊萬一ヲロ  シヤ等ゟ願書差出候へ者何を以て御断可被遊候哉  是決而不可和之四ケ条ニ候 一夷国人ハ外ニ悪心無之交易さへ御許容有之候へ者  何等之次第無之候旨世俗二而唱候へ共初者先交  易を以固を求め遂には邪教を弘め又者種々之  難題を申懸候義彼等か国風ニ有之遠くハ  寛永以前邪宗門之患近くハ清朝鴉片之  乱前車之覆轍ニ候是決而不可和之五ケ条ニ候 一萬国之形勢往古と相違いたし候処我  神国而已鎖国之趣意を守り大海ニ孤立致候義  始終無覚束候間矢張外国へ往来廣く交易之  道を通し候方可然との説蘭学者風抔竊ニ唱  候哉ニ候得者 神国之民心固結武備充是中古  以前之国風にも回復いたし外国迄押渡し恩威  を弘め候事も相成可申候へ共當時太平惰弱の  風俗外国ゟ僅ニ数艘之軍艦渡来二而さへ人心  恐怖いたし彼ニ要せられ候而交易相始候様二而ハ  外国へ渡り遠略を施し候事などは一々席上の  空論ニ候是決而不可和之六ケ条ニ候 一浦賀彦根若松等へ守衛被 仰付此度抔ハ会津  家来共炎天を犯し七八十里の遠路日夜廉直ニ  駈付候由其外内海警固連々人数繰出し候向も  相聞奇特之事ニ候夷賊内海へ乗入我儘ニ測量  等致し候而も打拂之義不相成諸国之士民空敷  奔命ニのミ疲候様ニ而者人々解体之勢可有之  是決而不可和之七ケ条ニ候 一長崎海防黒田鍋嶋へ被 仰付候義清国和蘭江  御手當のミには無之惣而外夷の御手當ニ可有之処  浦賀近邊ニ而外夷の願書御受取ニ相成候様子ニ而ハ  間道の往来御許し右両家無用之御関所番被  仰付置候姿ニ相當両家之氣請如何可有之哉  是決而不可和之八ケ条ニ候 一此度夷賊之振舞眼前一見致候者ハ匹夫ニ而も心  外ニ存斯迄無禮之夷御打拂も不被遊候而ハ御臺  場御備ハ何之御入用ニ可有之哉と内々相歎候者も  有之由実地ニ而夷賊驕傲之振舞を見候而ハ如何様  右様ニ被存候筈小民なからもさすが  御國恩ニ沐浴いたし居候様と実者頼母敷事ニ候  無智の匹夫さへ左様ニ相歎候に打拂之義御決定ニ  不相成余り寛宥仁柔之御所置而已ニ而ハ御懐合  不方故奸民共御威光を不恐異心を生し候も  難斗是決而不可和之九ケ条ニ候 一夷賊打拂之義ハ 祖宗之御細注殊ニ文政度  重而被 仰出候義ニ候へ者御懐合固より戦之方ニ  御決定ニ相成候而も何を申も太平打続武備  備り兼候故容易ニ夷賊之氣を傲候其禍難測  其節ニ至不得已和議御取結ニ相成候様ニ而ハ益  御威光を損し候故先々當節は枉而御忍夷賊之  氣を御なやし被差置其内専全備御世話被為  在追而御手當等全備之上弥旧法之通厳重可被  仰出と申も尤之論ニ候へ共當時妄居姑息之  人情朝暮御励し被成候而さへ必至之人氣ニ相成兼候  况 上ゟ武事を御示し被成候ハヽ幾年を歴候  而も諸家之武備相整候義何共無覚束既寛  政度夷騒動御城備御世話有之候得共御行届ニ  不相成又々去ル寅年打拂御宥豫被  仰出畢竟先外夷之氣を御寬め其内武物  御整之御趣意と相見候へ共十二ケ年之間諸家の  武備格別ニ行届候共不被存此度夷賊渡来  にて一統狼狽いたし夷船滞留中少々本氣ニ  相成候ものも有之候へ共退帆ニ付平日之通心得候様被  仰出候へ者一統又々無事ニ安心いたし俄ニ取集候武器も  直様散失可致風情譬ハ縁の下ニ火の廻り居候而も  不心付火防の手當を忘れ居候も同様の姿実ニ  浅間敷士風ニ候 廟堂ニ而も聊も和義御含  有之候へ者日々御觸相成候にも人氣引立不申従而  臺物其外の手當も皆文具ニ而軍用ニ適し申  間敷今日にも愈打拂之方へ御決着ニ相成候へ共  天下之士氣十倍いたし武備令せすして相整候義  影響より早く可有之左候而社征夷の御大任二も  被為代諸国一統武家の名目にも相當可致候是  決而不可和之十ケ条ニ候尤肝要之急務ニ候扠和  戦之利害右ニ而粗相盡し候へ共是又知れば  易く是を行バ難く衰弱の世は兎角和議ニ泥  防戦を好不申戦を主とし候者ハ事を好乱を  楽候様讒言いたし甚敷ニ至り候而ハ戦を主とし候  ものを罰し候而敵方ニ申分ケいたし和議を取結ひ  遂ニ滅亡を招候義笑止千萬ニ候  神国勇武之俗一旦 廟議御一決之上ハ左様  臆病之少人ハ有之間敷候へ共忠言逆耳良  薬苦口姑息苟且ハ人情ニ溺れ易く候故  兼而御用心有之一旦御決定之上ハ始終御動  無之義海防第一義と存候 廟議戦之一字ニ  御決着ニ相成候上者国持大名津々浦々迄大  号令被 仰出武家ハ勿論百姓町人迄覚悟  相極 神国惣躰之心力一致為致候義可為  肝要事   本文号令之義其筋二而調候へ者如才有之間敷候   得共多端ニ相成候而者 御趣意貫不申候間簡   易明之愚夫愚婦迄も憤激ニ不堪必至と   覚悟ニ相成候御仕向も有之度候奢移【侈】遊惰を   禁し質素倹約を勤候類當節之急務勿論ニ   候へ共萬一交易御許し人氣相ゆるミ候而ハ日々   倹約等の御觸有之候迄も自然奢移ニ趣可申   打拂之御議定ニ相成候へ者一統之人氣締り   質素倹約ハ勿論万事古の武士風ニ立帰り   乍憚享保以来御美事ニ而御中興此上有間敷   奉存候事  一八日にも御話申候如く太平打續候へ者當世姿ニ   ては戦者難く和ハ易く候へ者戦御決ニ相成   天下一統戦を覚悟いたし候上ニ而和ニ相成候へハ   夫程の事ハ無く和を主と遊し萬々一戦ニ   相成候節者當時の有様ニ而者如何共被遊様   無之候へ者去ル八日御話申候者海防懸り計りに   極密ニ被成於 公邊も此度者実ニ御打拂之   思召ニ而号令被出度臍の下ニ和の事有之   候へ者自然と他へ洩聞候故拙策御用に   相成候事二も候はヽ和の字ハ封し候而海防掛而已   の預りニいたし度事ニ候右故本文ニ和の事一切   不認候 一槍剣手詰の勝負 神国之所長ニ候間御籏本  御家人ハ勿論諸家一統試合実用之鎗剱悉  練歴いたし候処有之度事本文鎗剱之儀ハ  神国之長技たる事不及申近来試合之槍  剣ニ至てハ其妙極り然れ共蘭学者風抔  説被行外夷戦艦銃礮の堅利なるに忘れ  所詮外夷には勝事あたわざる様ニのミ思ふ  もの無之にあらず是其一を知て其二を知らず  と云へし戦艦銃礮ハ手詰の勝負ニ便なら  ず仮令彼の夷人一旦ハ邊海の地を侵と  いへとも上陸せざれ者其欲を逞する事を  得ず我壮勇の士卒を撰槍剣の隊を備へ  機に臨ミ変に應し我長技を以て我短所  横合ゟ突て出或は敵の後より切て廻り  雷光石火の如く血戦せば彼夷賊原を鏖ニ  せん事掌の中ニ有へし去ば  神国の武士ならんもの第一ニ槍剣の技錬磨せす  んハ有へからず然るに諸家には今以て弊を守り  或ハ花法を守り試合を専らニせず或ハ試合も  また新弊を生し勝負の分合のミ争ひ  真剱二而なしかたき業を講する族も有之  是等ハ精々御世話有之諸家一統戦実用の  槍剣を講し道具の軽重長短等真剱に  基き粗あらまほしき事ニ候本文たとへば  彼か船ニ乗入對談いたし候様ニ欺行なし  船将を突殺し又上板の上ニ居て打寄  出る処を長刀太刀等ニ而切殺し帆縄を打  拂等せんニ左右前後何程之火銃を仕かけ  置其内へ向て打事ハ不叶上板の上ニ居る  人者内ゟ見へざれば炮ニ而打事不相成僅の  人数ニ而大艦中の人ハ退治すべし 一當秋出帆之蘭人江命之軍艦蒸気船幷  船大工按針役等惣而用前丈取揃ひ尚又大小  銃炮近来新工夫之処も有之候ハヽ是又取揃  国許江相帰り次第不時ニ積立献上仕候様に  御沙汰有之度事 一本文之義外国ゟ献上為致候而ハ御外見如  何と申説も超【ママ、起ヵ】り可申候得共外国之所長を  取て御用ひ被成候ハヽ都而 神国之廣大な  る処ニ有之既五経博士を始種々之職人共  追々三韓ゟ献上為致候義古史ニ的例有之  聊苦からず義と存候一体夷賊ハ新工夫に  長し扠右細工を見る処ニ而製造致候事ハ  神国之所長ニ候間蒸気船なとも追々彼より  勝れし製造も出来可申第一委細ニ其製  明らめ候へ者彼を打破候心得にも相成一挙両  得共可申候扠和蘭之交易一廉御益と及承候処  軍艦等相済候而者御益も容易ならず其年々  御益無之都而莫太之御損と相成候間有  司之過憂も可有之候へ共蘭船之御益年々  之通相作り候而も別之軍艦等相製被成候ハヽ  莫太之御入用ニ可有之候間和蘭交易之利  を軍 ニ御廻し被成候御見透しニ候ハヽ御損  失との次第ハ有之間敷候扠  公邊御初大名へも分限ニ應し員数を限り  大艦済ニ相成西国大名等海路ニ而浦賀江  参勤いたし候ハヽ莫太之失費を省き候  のミならず右艦羽根田本牧邊内海へ掛置  非常之節ハ直ニ防戦ニ相用ひ候ハヽ此度之  如く夷賊容易ニ乗込候様之事も有之間敷  於 公邊ニも京大坂遠国筋往来を始め  御米之運漕等右大艦を御用ひと成候ハヽ永世  之益と存候海防要務戦艦大銃を主と  し候事近来誰も能申候へ共此方之職人江  申付無益之年月を費し候ゟ献上を命し  候方簡便ニ而実用ニ適可申存候扠和蘭陀  より献上ニ相成上ニ而船材等取集候而者御手  後れニ相成候間此節ゟ 公邊ニおゐても御用  のミにニ限らず大名江も心懸させ候ハヽ手繰  宜敷可有之材木之大小長短銅鉄之多  少等ハ當時入津いたし候蘭人江御聞被成候ハヽ  大概ハ相分り可申候銃礮之技近来追々ニ  相開候へ共未外夷之精妙ニ難及候間  公邊御初諸家ニ而も精々研究いたし可申  成銃数を増火薬弾丸等存分備置度事 一本文銃礮者防守第一之利器ニ而彼専ら是  を以て我を刧時者我亦是を以て彼ニ應  せずん者有べからず兵銃と違ひ火憤はいまた  盛ニ被行ず内太平ニ相成候故貫目以上之  大銃ニ全く其上伝来之器ハ車架銃車銃  等全備せざるもの多く従而発砲之術も  実用ニ不適もの多く候間諸家皆実用之  器用を製て実之技を講し一発鏖賊之  妙を心懸高銃も皆雷粉燧火を用ひ候様ニ  有之度近来銅材次第ニ減し候寺之鐘を  潰し候迄には至り不申候共せめて火鉢燭  臺等無用之銅器も潰し右品々銅ニて  製し候義以来制禁ニ相成尚又蘭人江御渡の  銅も御差略被成候ハヽ銅材格別之不足有  之間敷抑剱槍と違ひ銃礮のミ有之候間  玉薬無之候而者其詮無之候間佃島之揚火ハ  勿論総而花火之類一圓ニ制禁し玉ひ尚又  諸国被為命造焔硝存分にニ制造有之度七ケ  年之病に三ケ年之艾を求るか如く一日後  れ候へハ一日之不手當ニ相成候間何分速ニ御沙  汰あらまほしく候 一御料私領海岸要害之場所江屯戌を設け漁師  等ニ取交士兵相備度事 一本文海岸場所何之地も油断不相成候処夷  船渡来之時ニ城下等ゟ人数差出候而者機會に  後れ平日人数差出置候へ者自然ニ手當差  略いたし候様ニ成行候間土地之猟師等を組訳  いたし外ニ人を撰頭奉行様之ものを見立  郷士等身を持ち候ものを隊士とし機を見合せ簡  便ニ調錬いたし萬一之節ハ軍功ニ寄格々の  恩賞可有之旨平生厚く申含置候ハヽ  筋骨丈夫ニ殊に海上鍛錬之者其道天晴  の働いたし候ものも可有之城下陣屋等ゟ人数  差出候迄ニ一支ニ相成べく候尤要害之濱ニハ  右の外城下遊卒之内ゟ人撰屯戌を設け平  日共文武之修行等迄も為致事有時ハ右士卒  を指揮して火炮幷槍剣等ニ夷賊退治致候  仕方も可有之候扨屯戌之制度士兵之組立を始め  或ハ夫役を免しける其国風家風土俗ニ據一  概ニ論しかたしといへ共詰る処者実用を主と  し永續之手當あらまほしく候 裏表紙