【シール】852 25 《題:種痘新編》  江戸書林  僊鶴堂發兌 種痘新編      馬場穀里先生閲   桑田玄眞之澤              【赤角印】土ふつ加文座 夫種痘の法は大人小児いまだ痘瘡を病ざる者をして 順症の痘を為さしめ自然流行の痘を免れしむるの 要術なり其法打膿法の如く腕或は脚に一小孔を為し 善性痘瘡の膿塾したるを潰し其液を疵口に塗り 其上に綿散糸を置き又其上に膏薬を貼け而後適宜に 温にし将息せしむる時は七日或は餘日を經て順痘自ら 發し来る是に於て法のことく保護すれは其痘 至つてかろく安穏にして危険なる諸の無症を發 【右頁】 する事なく瘥後痘痕の醜惡なるの患あることな し 此種痘法は都爾各(トルコ)《割書:國|名》及ひ尾勤西亜(ギリシア)《割書:國|名》に於て専ら行 はるゝ事久し歐羅巴(ヱウロツパ)の諸邦には近来此術を傳ふ初め 諳厄利亜(ヱンゲリア)《割書:國|名》にてこれを試るに良効あるを以て公子 公孫にも施して皆安全を得るとなり又/花諾穴尓(ハノヘル)《割書:地|名》諳(アン) 斯巴古(スパコ)《割書:地|名》等にても此術を行ふて總て良好を得たりと云 諳厄利亜(ヱンゲリア)及ひ佛朗察(フランス)《割書:國|名》に於て初め此術を怪み疑ひ 誹りて云是天理に背くの法なりと然れとも明達の志 其誹謗の邪説なる事を辨折して此法終に豁然と して世に明らかになるを得たり亜部刺花木八的爾(アフラハムハテル) 【左頁】 斯(ス)《割書:人|名》の痘瘡論に詳に記せり 夫痘瘡は人々生れなからに血中に潜伏する所の毒中 して時を俟てこれを表發するものなり是を以て 其毒久しく血中に蓄へはは漸々に増益して遂に危難 を為す故に大人の痘は険惡なる症多く是に反して 速に表發すれは其毒怪きを以て小児には順症なる もの多し是をもつて考ふるに其毒のいまた増ざる 以前に時節を量りて術を施して表發せしむかを 勝れりとす如此すれは體内潜伏の毒悉く發脱するか 故に後来流行の危難を免るなりしかせすして自然の 氣に觸て發するときは其父母始め痘瘡なるを知らず 【右頁】 して治療に怠り或は拙醫の誤治を施し是からために 天殤するもの少からず如此の厄難を免れ生命を保全する 事種痘の良法たる顯然として其理明白な季  右幣斯突兒(ヘイストル)《割書:人|名》傷醫全書本文の説なり以下曳(ユ)  爾河輪(ルホールン)《割書:人|名》の増説なり 凡内部の諸疾は總て流動すべき物の腐敗して性を變 するより起る事必せり其腐敗して性を變ずる始は甚た 著しからず若その物自然良能の力にて克治すること 能は御りれは其物漸々に増益す此特にあたりて治療の 術を施して其自然良能の力を扶助して毒物を退け あくにあらされは病治する事なし 是を以て良工は 【左頁】 自然良能を扶助するを肝要となす為しからずして 自然の力を助けず只毒のみ除き出さんと為ば反て天 機を損し其毒を克化する事あたはず終に治すへから ざるに至る是故に学者覃思研精して其病症と療術 とを比較して是を辨折するを醫学の捷法と為すな 李 我師幣斯突兒(ヘイストル)云凡内部の病を治するに其毒二箇あらば 先其一毒を専治すべし二毒を併せ攻るの法を施す事 勿れ如何となれば此を去るの法は必彼を留るの理あれば なり病毒を駆出するに手術を以てすくふに於て必用有 益なるは種痘の法とす是則痘毒を除去するの術なり 【右頁】 盖痘毒は體内に在て尤も能急疾の變を生して人命を 害するをもつて速に是を出し去らすんば有へからず 今世に知れる所の萬邦痘瘡の流行せさる所なく是を 患ずる人稀なり總て自然流行の悪性なる痘を受るか 或は醫治の誤るに由つて人を損する事少からす種痘術を 信用するの諸国はみな此患を免る事を得るなり 此種痘法の良功ある事は徧く歐羅巴(ヱウロツパ)中に於て稱誉せり 其初諳厄利亜(エンゲリア)にてこれを多くの罪人に試るに悉く順症 にして一人も危険症なきを以て其事益顯然たり盖其 理を究め其實に試るに明白良善の法なるを以ての故なり 然るに暗昧疑惑の輩此術を憎猜みてこれを誹る事 【左頁】 疽と為て治療すべからさる跛蹩廃人となる 禮印旁(レインハーン)《割書:地|名》にて一小児の痘毒足に着て骨節腐壊して 脱落せし者を見る名醫數輩其治療に思を盡すといへとも 効を奏する事なかりし凡如此なる痘毒は疫毒の頑惡 なるか如したとへ治術を盡すとも終に救ふべからす其時 を擇て種痘するには此険惡症を得る事絶へてなきなり 痘毒に惡性ある事斯のことし加之其毒の體中に在る時 は年齢を積に隨ひて増益するなり且其人の性質種瘍 を發し易く或は粘液多き者の如きは其痘毒最烈し きなり故に此等の人年長して流行の痘を患れは必す 死を免れず但幼年なれば偶生を得るものあり此草の 【右頁】 如きも種痘法を施す時は其危難を救ふべし 大人流行の痘を患ふる時は血液熱沸して脉絡緊張する 事其勢小児に比すれは最烈しく遂に血液の腐敗する に至る故に廿歳以上の人に於ては呼吸促悶して死する 者十の七あり小児は身體柔軟輭にして脉絡弛緩なる の故に疼痛を覚ゆる事少し是を以て惡症を得ると いへとも大人に比すれは死を免るもの頗多し況や順 痘を得或は種痘術を用ゆるに於ては其安穏なる事 知るべきなり 年の長したるものは順痘を得るとも其兼症甚た烈し たとへ療法にて救ふべしとも若拙工庸醫の治術度を 【左頁】 失ふ事あれは是か為に死するもの少からず 高年に至るまて痘を免るものあり是は幼年の時他病 ありて其治療に依つて體内の痘毒おのつから清除し たる者なり或は性質痘毒なきものも間々あり斯の如き 人には種痘を施すも痘を發する事なきなり又性質痘 毒の多きものあり此人は纔に其気を感すれば勿つち 發する事速にして必す稠密なり其毒皮下脂膜の部を 擾亂するを以て皮面に深き痕を為す此等の人にも 種痘を施せしに猶危ふき事なく功をつたり是に由て 祝るときは種痘によりて發するの痘は總て安穏なる事 知るべし嘗て是を試るに百人に死するもの僅に一人 【右頁】 あり是も種痘に因て死せしにあらす不幸にして痘中に 他病を發してこれかために死せしなり凡痘を種れは 體内の惡液是と共に發脱するか故に爾後は甚た壮健に なるものなり 凡種痘法を施すに尤も意を注くべき事あり第一に 身體堅固なる兒を撰て是を施すべし病弱の児には容 易に行ふる勿れ大抵一歳より十歳に至るまてを良と す但/諳厄利益亜(ヱレギリア)國に於ては數々大人にも施し試みしにいよ〳〵 危き事なく功を得たりといへとも年少き程最良と春 秋二分の寒温中度なる時候を擇て施すべし惡症流 行する時は是を為す事あるへからず其惡毒自然と 【左頁】 空氣中にありて善痘を種るといへとも猶惡症となる事 あり 又其人の年歯と血の多少とを豫め詳に察して或は 刺絡を為すか或は下劑を施すか其性質に隨ひて斟酌 して其度に適せしめ且軽く和らかなる食物を用ひし むべし此外用心支柱度する事あらは皆痘の發する己 前に備へ置べし自然流行の痘を患ふる者は其氣に 感したるを豫めおほへす不意に發するか故に前より 支度し備ふる事能はず是によりても亦危難に及ふ ものありそれのみならず拙醫は兼症に惑ひて痘瘡 なるを察せず治術の度を失ひ毒の發表せんするを 【右頁】 障つて遂に死地に至らしむる事世に聞々多くこれ あるなり  種痘法 種痘に六法あり 第一法は痘痂を聚め取て麝香を加へ綿に包み栓と為 し鼻孔に刺入れ置なり 此法試むるに最惡し殆と流行の痘を得る者に同し 如何となれは其鼻孔に入りたる痘毒直に脳神経に達 し又吸息に依て肺臓に入るを以て危篤の痘を發 するに至る是故に当時は此法全く廃せい但此法を 施して熱と痘と一同□□□者は悉く死す又發熱 【左頁】 の後二日を経て痘を發する者は危し又發熱の後三日 或は尚日を経て發する者は惣て安穏なり此法は非禄速弗(ヒロソプ) 託蘭洎古都(タランコト)《割書:書|名》に具載せり墨第加爾越洎意斯( メジカルセスサイス)《割書:書|名》にも 論辨せり 第二法は葉鍼を以て肉を創つけ痘痂膿汁あるものを 貼して其上に[ブラーシイ]《割書:豕羊の膀胱ナリ按に我邦にては|籜(タケノカワ)の類を代用して可ならん》を 覆ひ綿布を以て纏ひ置なり 此法疵口に毒留りて運行せさるか故に其毒増長して良 もすれは命を失ふものあり此法もし今時全く廃し て用ゆる事なく 第三法は痘疵を取つて是を腕と脚に附着し平らかに 【右頁】 研りたる椎の殻を以てこれを覆ひ厭布を置れ其上を 繃帯に適宜に結ひおくなり 第四法は鍼を以て膿熟したる痘を刺し其鍼頭に膿 汁をつけて此鍼にて種むと欲する者の皮肉を刺すなり 第五法は鍼三四箇を束ねて胸【?】腕袴其他の皮肉を刺し 痘の膿汁を是に擦つくるなり 第六法は痘を種むとする小児をして順症の痘児の家に 至りて其児を手を握らせ體を相接して而後厚く衣 を着せ風寒を拒ひて我家につれ帰るなり 以上六法の内第三第四第五第六を良とす但第六法にては 或は發し来らさるものあり 【左頁】 右の術を施す時は最初に發熱してそれより赤疹を發し痘を 生し膿熟して而後痂となり落るなり其摂養乃法は自然流 行の痘と同し爰に暇す又痘の發したる間其前後變化乃 次第は内科書によりて知るべし 前件既に此法の有益なるを書載たりといへとも尚又諸 名家の考説を左に學て此法の信用すべく且切要なるを 證明す  古今證説 越麻拙越尓低莫泥烏斯(ヱマニユヱルネモニウス)《割書:人|名》の千七百十四年《割書:按に我享保|二年丁酉》の著書 に種痘の有益良功ありて甚た安全なるの究理を載せ たり其書中に亦/都爾格(トルコ)の人此法を以て流行の惡痘 【右頁】 を防くといゑり 達穴尓泥伊尓(タヘルニイル)《割書:人|名》の伯尓西亜(ハルシロ)《割書:地|名》紀行の第四巻十五章に云 伯爾西亜(ハルシア)は痘を患るもの稀なり但彼土の小児凡十歳或は 十二歳まての内に必皆頭瘡を生するなり其故は彼國習 にて小児生れて後五六ヶ月の間は産髪を剃らす是を以て 初生の二三月を経れは皆頭瘡を發す是によりて 體内に含有する所の痘毒も其頭瘡と其に發泄して痘瘡 を患ふ者少きなり是は前に云如く他病によりて痘毒の 發脱するの證なり 諳兀羅伊世《割書:書|名》第十二巻に云/亜私太蝋罕(アスタラカン)《割書:地|名》の山中に住む 人は顔面に痘痕あるものを見ず其故を考ふなり 【左頁】 彼處は種痘法専ら行われ一人も流行にて病むものなし 彼地に於ては小児七歳未満の間に針三箇を束 ねて是を以て心蔵の真上又中脘臍及て是を出 血すれほに刺し其上に痘の膿汁を擦つけ木 葉を貼し置なり斯の如くそれは五六日を経て痘 瘡を發すとなり 尾屈斯達弗(ハクスタフ)《割書:人|名》及/鐸鳥哈刺斯(ドウタラス)《割書:人|名》等は此種痘を危き事と いゑり然れとも明達の諸名家多く此を良法なりと 辨折して著述せい熟考ふるに此法を危み恐れし者は 必鼻孔より痘を種たるなるへし故に多く不幸に なり往きたらむ鼻孔より入る法は前に辨するごとく 【右頁】 甚た害あるを以ての故なり 伊勿令(イウリン)《割書:人|名》云此頃種痘法を施せし者百八十二人あり此内 に死せりもの唯二人なり餘は悉く安穏にして功を得たり 又/麻土爾(マトル)《割書:人|名》云種痘せし者凡三百人ありて死する者五人 其死せし所以を考ふるに皆痘のために死するにあらず 他病起りて斃れたる者なり 此三百人の中には七十歳になりし人もあり又妊婦も ありたれとも皆安穏なりと予熟考ふるに高年の人には 不宜と思はる二十歳以下の人に施用するを佳とすべし 流行の痘を患る人を二三年の間に其死生の数を平均 するに或は九人に一人或は十人に一人或は十一人に一人 【左頁】 必死せしなり種痘する者は九十人の中に死せし者 唯一人ありと其利害の數如此の相違あるを以て種痘 に益ある事信せずは有へからず若種痘に因て其痘 數の多く發する者は爾後必壮健になるなり此人にて 流行の痘を得るときは必す死すへきの大毒ある事 察すべし故に此法を施す時は人命を救活すれの 功豈すくなからんや 麻土爾(マトル)又云流行痘にて死する者の數を尚再ひ筭ふるに 五人の内に一人あり種痘せし者は一人も死せし事 なし又/白耳禄土帷尓立牙木(フルロクトウイルリヤム)《割書:人|名》の説に云此法にては ■人も死する事なく固より再ひ痘を病むの理なし 總て上に述るか如く此法は少しも危き事なきを以て 内外醫の手をかゝらす病家にて是を行ふとも其 功全く成就すへきなり 此法の良好なるに於ては尚其説甚た多しといへるも 煩冗を恐れて爰に載せす凡痘を種るには善性なる 痘の能く顆粒を分ちたるを撰み取つて用ゆへし甚た 幼弱なる児の痘は其氣も弱きか故に用ゆることなかれ 此等の事に能意を用て此法を施すときは悉く良功 を収る事更に疑ひなき所なり 種痘新編終