日清戰闘畫報 第一篇 Smith-Lesouëf japonais 237 (1)    ○詔勅 天佑ヲ保全シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國 皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス 朕茲ニ淸國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ百僚有司ハ宜ク 朕カ意ヲ體シ陸上ニ海面ニ淸國ニ對シテ交戰ノ事 ニ從ヒ以テ國家ノ目的ヲ逹スルニ努力スヘシ苟モ 國際法ニ戻ラサル限リ各〻權能ニ應シテ一切ノ手段 ヲ盡スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ 惟フニ朕カ卽位以來茲ニ二十有餘年文明ノ化ヲ平 和ノ治ニ求メ事ヲ外國ニ構フルノ極メテ不可ナル ヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力 セシメ幸ニ列國ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ何 ソ料ラム淸國ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ對シテ著著 鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ擧ニ出テムトハ 朝鮮ハ帝國カ其ノ始ニ啓誘シテ列國ノ伍伴ニ就カ シメタル獨立ノ一國タリ而シテ淸國ハ毎ニ自ラ朝 鮮ヲ以テ屬邦ト稱シ陰ニ陽ニ其ノ內政ニ干渉シ其 ノ內亂アルニ於テ口ヲ屬邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮 ニ出シタリ朕ハ明治十五年ノ條約ニ依リ兵ヲ出シ テ變ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ 治安ヲ將來ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持 セムト欲シ先ツ淸國ニ告クルニ協同事ニ從ハムコ トヲ以テシタルニ淸國ハ翻テ種々ノ辭抦ヲ設ケ之 ヲ拒ミタリ帝國ハ是ニ於テ朝鮮ニ勸ムルニ其ノ秕 政ヲ釐革シ內ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ獨立國ノ權 義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ 肯諾シタルモ淸國ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ 妨碍シ剰ヘ辭ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ 水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力 ヲ以テ其ノ欲望ヲ逹セムトシ更ニ大兵ヲ韓土ニ派 シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ殆ト亡狀ヲ極メタリ則チ淸 國ノ計圖タル明ニ朝鮮國治安ノ責ヲシテ歸スル所 アラサラシメ帝國カ率先シテ之ヲ諸獨立國ノ列ニ 伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ條約ト 共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝國ノ權利利益ヲ損傷シ 以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク擔保ナカラシムルニ存 スルヤ疑フヘカラス熟〻其ノ爲ス所ニ就テ深ク其ノ 謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ實ニ始メヨリ平和ヲ犠牲 トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘ カラス事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝 國ノ光榮ヲ中外ニ宣揚スルニ專ナリト雖亦公ニ戰 ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠實勇武ニ倚頼 シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝國ノ光榮ヲ全ク セムコトヲ期ス   御名  御璽    明治二十七年八月一日         內閣總理大臣 伯爵 伊藤 博文         遞 信 大臣 伯爵 黑田 淸隆         海 軍 大臣 伯爵 西郷 從道         內 務 大臣 伯爵 井上 馨         陸 軍 大臣 伯爵 大山 巖         農商務 大臣 子爵 榎本 武揚         外 務 大臣    陸奥 宗光         大 蔵 大臣    渡邉 國武         文 部 大臣    井上 毅         司 法 大臣    芳川 顯正 第?序 古事を描冩するは、猶雲露を隔て、 艶花を望むに均しく、未だ嘗て隔鞾 掻痒の感ならむはあらす、前古用 ゆるゝ處の、衣冠什器の類、物換り星移 るに従ひ、変遷始を遺すことなし、若し 幸に當年の状況を模冩し切るものあら は後世大に資益するところあるへし、然 れとも数百年の後に至ては、いよに精 故研究するも、尚差異なきこと能はす、 然らは即ち、語り聞き古寺を冩しては 碗〻以て労せむよりは、寧ろ其目睫の間に □横せる、今事を描くの□易にして、而も 真を得るの□きには如かざる也、 信實の畫師草紙、覚猷の□□冊子 又平一蝶、長春筆の、浮世絵の今人に 学重せらるゝものは、豈□□筆墨の 秀抜なるのみならむや、蓋し衣冠と 知り、風俗を□するに明らかなるを以てな り、所謂六籍と功を同ふするものならむは あらす、 余□に國民新聞通信員として、□ □に航し、京城□□、成歓の戦争、親しく これを目撃することを得たり、帰来、友 人の当時の状況を尋問する者多し、一〻 これに応答するの煩なるに堪へす、是 等の事は、世人皆知らむと欲する所のも のなれは、以謂らく、今もし遊画にして、 其真を寫したるものを以て、江湖の御覧に 供せは、□幾かは人皆其一班を知り、思ひ半 に過るものあらむかと、遂に砲烟弾雨の 間に、写生いし来りたる者を、更に浄写 して、梓に上すことゝせり、然れとも拙陋麤 莽の筆、画虎類狗の誹り譏を免る能はす といへとも、□□後世史を修むる人の一 助するもの有らは大幸なり、 稿を筆するの初め、偶ま役務あり、専ら これか□写に従事する能はす、而し て、書肆主人の督促すること甚急な れは、舎弟金僊をして、其二三を画か しむ、龍山野営、大鳥公使入闕、戦利品 運搬、日本兵□王城諸門、及ひ龍山凱 旋の諸図、乃はち是なり、  明治甲午小春         米齋田明識 朝鮮全羅道に於て 東學党蜂起し 招討使鎮撫に向ふ 韓廷遂に援を清國に請ふ 李鴻章其麾下の精兵数千 を送り牙山に上陸せしむ 明治廿七年六月 日大鳥公 使は仁川に着し翌拂暁に 兵四百餘名を與に陸行し て京城に入る 同月 十二日 より以 後日 本陸 軍兵 陸続 として 仁川に 来る 我兵京城に 入りて日本居 留地を衛る 日本軍隊の仁 川に駐屯せるも の一半は居留地 に舎営し一半 は日本公國地 に野営し時 々これを交代 せり 日本軍隊は龍 山に幕営をなし 同處萬里倉に 参謀本部を置 く又漢江一帯要 害の地は哨兵を 置き以て之を扼 取せり  龍山は京城を□  る里許にして漢  江の瀬にあり   (此図 金仙筆) 【米斎の弟の金僊は金仙と表記されることあり】 南山野営  月高くして千里  明かき風冷にし  て露気深く鴻  雁度〻草蟲  吟す秋風この夕  豼貅の心堵果して  什麼 數日來病 と稱し居 たる哀世 凱は七月十 九日午前 四時突然 微行して 京城を出 て直に仁川 に下り軍 艦揚威に 搭して本 國に帰り 去れり 【袁世凱の「袁」が亠口衣ですが書き手は「哀」の異体字と承知で使っていると考えます】 七月十九日 大鳥公使 韓廷に照會 せることあり 二十三日午後 十二時を期し て回答を望 めり期に至て 答へは來れ り大鳥公使 はこの答に對 して何か決 する所あり 且韓廷王の 委嘱に依て 兵を送りて 王宮を守 護せしむ時 に七月二十三日 午前五時過 なりき而し て我兵の王 城裏門より 入らんとせし ものに向ひ閔 族雇兵の 發砲せし より已むを 得す應戦 し十五分時 にして是を 追ひ退けた り韓兵多 く北岳(王城 の後に峙てるも の)の上に遁け 去る この朝大 鳥公使は 大禮服を 着して王城 に参内し 王に謁して 韓廷改革 の事に付奏 上する所あ り程なく王 使は大院 君の邸に 到りて弊 政改革の 任に當ら れんことを 托せり王使 一度ひにし て大院君 起つ 大院君我兵一中 隊に護せられて王 宮に来【木の下に木】り其正門 光化門より入るを欲 せずるを以て西門 より入闕したりけり 此時驟雨沛然と して至り天地為に 暗澹たり 大院君 国王に面 謁するや 暫く相對 して一語な く互に涙 の泣如たる を覚へざ りきといふ 王城四面の諸門は遂 に我兵の守護する 䖏となりぬ蓋し王 城の内に於て騒擾あ らざらしめんか為也 この朝閔兵より分 捕したる刀槍砲□【石篇に充 u2549d】 は一時預り置かんと て悉く龍山野営 に送りたり           金仙補筆 二十三日午 前三時頃 我兵一中隊 は親軍総 衛営に至 り韓廷に不 忠なる閔 兵に向ひ穏 かに戎器を 渡して引 拂ふへしと 言ひ入れた るも彼の發 砲したるよ り直に門 を破りて入 り遂に我兵 の守䕶と なりぬ 海戦  其一 七月廿五日午前 七時我艦隊は 回航中南陽湾 前豊島附近に 於て清兵を載せ たる運送船を軍 艦の護送し来 れるに出遇ひ彼 の発砲したるにより 直にこれに應し 激戦一時二十分 に互りしに遂に 其の運送舩を 打沈め廣乙號 を焼失せしめ 軍艦操江號 を捕獲したり けり 海戦 其三 明治廿七年八月一日を以て我邦は淸國に對し戰端を開くべき旨を 各國に通達し、仝九月十三日畏くも 天皇陛下御親征として大纛を 廣島に進められ遂に同地に臨時議會を招集せらるヽに至りき。今そ の淸國と開戰せし所以を尋ぬるに朝鮮國に東學黨の蜂起せしに基 きたるものなりける。 抑東學黨なるものは朝鮮地方官の壓制甚しきに堪へかね鬱憤を霽 らさんとて起りし一揆にして年々朝鮮各道に蜂起し左程珍らしか らざる事なりしも年毎にその黨人の增加し行ことまことに夥しと いへり。本年の春も亦全羅道に蜂起するや。兼て閔泳駿の一族に對す る不平家。政府の暴政に憤懣せる有志者等は風を望て馳せ集り。忽ち にして無慮數千の多きに達したり。こヽに於て首領を戴き全羅道中、 古阜、井邑、泰仁、といへる三地方を根據地と定め、全州(全羅道の首府)泰 仁の間に在る白山に本營を設け天儉に頼りて官軍を引受けこヽに 戰を開きしは四月廿二日を初めとせり。 この第一戰には東學黨官軍八百の兵に脆くも破られしが、越て四月 廿六日といへるに大擧して寄せ來る官軍を導きて伏中に陷れ四面 より一度に起りて攻め立てけるに官軍大に亂れ戰死するもの二百 數十人に及び。其征討軍の本營所在地なる全州は全く東黨の手中に 落ちたりき。これより東黨は氣脈を各道に通ずるに風を聞て應援す るもの殆んど二萬人。其勢猛烈にして當るべからず。こヽに於て各部 署を定め各地に向て進撃を初めたり。 是れより先き京城政府にては東學黨蜂起して勢猖獗なりとの報に 接して狼狽一方ならず遂に洪啓黨を征討使として親軍總營衛の精 兵八百を率ひ直ちに進撃の途に上らせたり。 去程に洪啓黨は仁川より船に乗じ布帆恙なく群山に着せしは五月 一日の事なり洪等は初め東學黨もし親軍の派遣せられたりと聞か ば未だ戰ずして逃亡すべしと確信し又一は直ちに上陸して東黨と 戰ひ萬一にも敗北するとあらば東黨の勢いよ〳〵振はんことを恐れ。 左右(さう)なくは上陸せず船に留りて敵の樣子如何と伺ひ居たり。されど 東學黨は親軍の來りしとて遁亡せざるのみならず却て我一に討ち 取て巧妙手柄せんとその準備おさ〳〵怠りなし。この事洪の軍に聞 へければ偖こそかヽる事もあつたりけりとて。一方には京城に援兵 を請ひ。一方には二分隊の兵を全州監衞李璟鎬に附して一時の急に 赴かしめ、勝敗如何と待ち居たりしが、李璟鎬は遂に賊兵に敗られ、京 城の援兵は來るべき模樣もなし、こヽに於て洪啓黨も意を决して上 陸し、全隊を二分して一隊は全州に、一隊は羅州に向ひ雙方立ち併て 進發せんとしたりしも。賊勢尚も屈する色なく却て全力を進めて迎 へ戰はんと用意を整へ居るよし聞ゆるに、さらばとて再び兵を群山 に集め一手となりて井邑に向ふことヽせり。 東學黨もまた四萬の大兵の一部を分ちて各地を侵略せしめ本軍は 井邑に於て親軍と會戰せんとて本營より動き出る途次全州を襲ひ 其監司監營を走らせたり。 偖ても官軍は五月十二日未明井邑に着し諸軍を休めて犒ふひまも なく賊兵は早や犇々と攻め寄せて互に入り亂れ。激闘奮戰數時に亘 りしが官軍遂に支へ得ず一方の圍を破り纔かに血路を開きて全州 さして落ち延びける。この戰に官軍死するもの百七十名。逃亡せし者 二百名にして征討使に隨ひ漸く一身を全ふせしもの僅かに四百數 十人なりき。 この井邑の大捷は東學黨をしていよ〳〵威を振はしむるに引換へ 征討使は大に落膽して神色沮喪して爲すべき術もなく唯々京城に 向て急ぎ援兵を送らるべしといひ送るのみ。 京城政府にては敗報漸りに來りけるより、かくては外國の兵を借り て討ち拂ふべしなどいふものもありしかども、若しヽかするときは 獨立自主の本旨に違ふのみならず日、淸、孰れの兵を借らんにも條約 のあるあれば萬一これを破らしむる曉に於ては當朝鮮は其交戰地 となりて人民いよ〳〵騒動すべければ此議然るべからずとてこれ を排斥し更に徐丙炳薰をして江華營兵五百人の總督たらしめ五月二 十二日海路仁川を發して全羅道に向ひ直ちに上陸して全州なる洪 招討使の軍と合したり。然れどもこれ又東黨の敗る所となり全州は 遂に全く賊兵に略取せられぬ。かヽる有樣なるを以て賊はいよ〳〵 蔓延し、破竹の勢を以て洪州石城をも占據し將に京城にも進まんず 有樣なりける。 斯くと聞へし京城政府の搔動大方ならず。この時に當りて日頃より 朝鮮に事あらば其機に乗じ朝鮮をして支那屬邦の實を擧げしめん と待搆へゐたる袁世凱は時こそ至れりとて韓廷の權力者なる閔泳 駿を説きて支那政府に援兵を請ふべしとすヽめけるに泳駿も同意 し公然韓廷より助力せられたき旨を五月三十日電報を以て淸國に 言ひ送れりき淸國乃はちその請に應じ李鴻章より令を傳へて天津、 旅順口の兵三千を送り出して忠淸道牙山に上陸せしめこれと同時 に天津條約に基き外國居留人民保護を名として出兵せし旨を我邦 に通達し來りたり、これ六月六日の事なりき。こヽに於て我邦も又淸 國政府へ公使、領事の兩舘及び人民保護の爲其兵員を派遣する由を 通報したりけり。 これより先き大鳥圭介氏は朝鮮特命全權公使となりて未た任に赴 かでありしか、外務省參事宮本野一郎氏と與に六月五日の一番滊車 を以て東京を出發したり。また警視廳巡査二十名も高崎警部か引卒 して大鳥公使の一行に隨ひ行けり。仝し月の八日の午後四時海上恙 もなくて無事仁川に達したり折柄碇舶なし居たる各國軍艦よりは 祝意を表して發砲せり。 其夜公使一行を護送し來りたる日本帝國軍艦松島、赤城、千代田、八重山諸艦の水兵四百名ばかり上陸し、翌九日の拂曉公使一行と與に陸