【表紙 資料整理番号のラベル】 JAPONAIS  4520 【表紙裏(見返し) 題名を書いた紙を貼付(逆さま)】 仮名本朝孝子伝 【資料整理番号のラベル】 JAPONAIS  4520 【資料整理番号のラベル】 JAPONAIS  4520 【白紙】 【白紙】 【銀杏の押し葉】 【銀杏の押し葉】 仮名本朝孝子伝序 此ころたそや我 朝の孝子伝つくりいてゝ 世のおやもたる人のもてあそびぐさと なせりやくなきにあらずされどまんなに ものしてからのふみめきたれは文字しらぬ 児女のわらはなどのこれをよみがてにするを あかぬ事となんおもほす人もおほかり常 にむつれきこゆるふたりみたり又しか おもへりこゝにやつかれ【自分の謙遜。わたくしめ】みづからのつたなきを わすれひそかに彼ふみをまきかへしをよそ なゝそぢあまりひとりが孝のよつかす【世付かず】めで たきありさまともつく〳〵と見そなはし【見そこなはしの転。=ごらん遊ばす】 わかやまとことのはの今の世にいひならはし てあやしの【見苦しい】しづ【賎=身分の低い者】山がつ【山中に生活する身分の卑しい人】といへどきゝたどる まじきをみてつゐに飜訳(ほんやく)の筆にならひ侍る さりとて字ことにうつし句ごとにかへて本書 のことばをさとさむとにはあらず諸伝たゝ そのおほむねをのへてよみ見ん人の心に心をつ たへむ事をこひねがふのみならし賛(さん)はかんなの まねぶべきものならねばもらす論もかならず しもそのもとによらずとるとすつるとくはふる とそぐとすべてをのが臆裁(おくさい)にまかす其事 しりやすくそのむね得やすからしめんとて なりこれみな本書に罪をえぬへきことは しれど幼蒙獃癡(ようもうがいち)のためとなんおもへばかく はからざることをえずねがはくはゆるされむ 歳ひのえとらにやどるそれの月のそれの 日それの野に年ふるおきな筆を浅 茅が露にすゝぎ侍る 書題 ある人われにかたりていはくわが 国は神国なり わが道は神道なり今この孝子の伝を作りて ちはやふる神代の事より端をおこさゞるは 是もとをうしなへり真字(まんな)のほんはすでに成ぬ 此ふみなとて本によらざるいはゆる本とは あまてるおほん神は人にさとしてとをつみお やの止由氣(とよけ)のおほん神【豊受大神】を丹波の国より伊勢に むかへてあがめまつらしめ給ふ事代主(ことしろぬし)の神は その父おほなむちのみことをいさめ給ふてこの 御国を天孫(あめみま)にゆづりて父の御身をやすく たもたしめ給ふ木花開耶姫(このはなさくやひめ)は大山 衹(ずみ)の神の 御むすめなりて孫見たまひて妻とせんとのた まひけるをやつこ父あり問たまへとてとみには【頓には】 うけひき【聞き入れ】給はす父のおほせをうけて天孫 にちぎりたまひにけりこれみな孝の 御心せち【切】なるにあらずやされば孝は神代より かくめてたくおこなはれて千世よろづ代 我国民のそのかぞいろ【父母】につかふまつれる心の水の みなもとなればながれきよくて孝なる人は その心神の御心にかなひていみじきさいはひ をうけたもちにごりて孝ならざる人は其心 神の御心にたがひておそろしきわざはひに あふ事それまた影ひゞきのことし人しらで やはあるべきねがはくはとく是をしるせと なんいへり此こと誠にたうとし我すなはち こゝにしるして巻をひらくの第一義と せりよみ見ん人それつゝしめやこれに継て 本文の天子公卿士庶婦女今世五しなの孝に こゝろをとゞめたかきいやしき身におこなはば つゐに比屋(ひをく)【やなみ】封ずべくなりて唐虞(たうぐ)はさながら この 御世の天が下なるへし 仮名本朝孝子伝上目録  天子  《割書:一》仁徳天皇    《割書:二》顕宗天皇  《割書:三》仁明天皇    《割書:四》後三条院  公卿  《割書:一》久我太政大臣  《割書:二》帥内大臣  《割書:三》小松内大臣   《割書:四》藤原吉野  《割書:五》小野篁     《割書:六》藤原道信  《割書:七》藤原良仁    《割書:八》藤原衛  《割書:九 》 山田宿祢古嗣   《割書:十》藤原良縄  《割書:十一》藤原岳守    《割書:十二》紀夏井  《割書:十三》大江挙周    《割書:十四》日野阿新丸  《割書:十五》藤原長親    《割書:十六》北条泰時 仮名本朝孝子伝上  天子   仁徳天皇(にんとくてんわう) 天皇は応神(おうじん)天皇の第四の御子にてつねに父 みかとへ御孝行におはしまし何事もたゝ其御 心にしたがはせたまふ天皇の御兄に大山守のみこと と申奉るありけりある時父みかど大山守のみことゝ 天皇とをめしてなんちら子を愛(あい)するやとゝはせ 給ふみことも天皇もひとしく子を愛すとなん こたへ給ふ父みかど又とはせ給ふいとけなきと年たけ たるといつれかいといとおしきとみこと年たけ たるかいとおしとこたへ給ふ天皇は年たけたるは すでに人となれりたゞおさなきがいとおしと のたまふ是は父みかど御位を第五の皇子宇治 のわかいらつこにゆづりまいらせられたき御心 のおはしますをおしはからせ給てその御心に かなはせたまはむ御ためにこたへまいらさせ給ふ なりけり父みかど此御こたへをふかくよろこばせ給て 終に宇治のわかいらつこを太子にたてをかせ給ひ あけの年かくれさせ給ひぬ時に太子御位につかせ たまはずしてはやく天皇にゆつらせ給ふ天皇は 父の御心ざしにたがひ給はん事をふかくおそれて うけひき給はず太子は天皇のひしりの君に まします事をしらせ給へは国のため民(たみ)のため に御位につかせたまへとあながちにゆづらせ給へど 天皇きこしめしも入られずすでに三とせに なりにければ太子ちからをよばせたまはてみづ から御身をはからひてうせさせ給ひぬ天皇是 をなげかせ給ふ事まねぶにことばなしさりと てあるべき事ならねば人々おして天皇を御 位につけたてまつるそのゝち世の中ゆたかにて 雨風時にしたがひけふりとほしき民のかまと にきはらぬ所もなくて御世をたもたせ給ふこと 八十七年となむしるせり御孝行の冥加(みやうが)まことに いとめてたからずや    論   をよそ人のおや其兄なる子にはゆつらて   弟なる子に家をさづくれは兄なる子父を   うらみ弟をねたまざるはまれなり天皇   さる御身ながら露も父みかどをうらみまいらせ   らるゝ御心なく宇治の皇子におゐても御いと   おしみふかし父かくれさせ給て後なを其   御志にたかはむ事をおそれおぼしめして   御位つゐにうけさせ給まじき御けしきを   皇子見うけさせ給てみづから御身をやぶりて   うせさせ給ふ天皇孝の御心皇子御はらからの   道いづれもためしすくなからずや本論に   おもへらく応神天皇の御時くたらより王仁と   いふ物しりをめしてわか御国の人々にはしめて   堯舜周孔(げうしゆんしうこう)の道まなばしめ給ふとなむされは   天皇皇子の御徳 義(ぎ)かくいみじかりつるも   学問の御ちからそはせ給ふゆへなるべければ   人はたかきもいやしきも学問の道ばかり   あらまほしきわさはあらじ 【絵画 文字無し】 二 顕宗(けんそう)天皇 天皇は履(り)中天皇の御孫にして市辺押盤(いちべをしはの)皇 子の御子なり父の皇子雄略天皇にころされ させ給ひける時天皇いとけなく【幼く】て御兄 億計(をけ) の君とつれていなかへのがれ出給ひこゝかしこ おちぶれさせ給て清寧(せいねい)天皇の御時都に帰り いらせ給ひしがみかどに御子ましまさねは御よろ こびあさからでやがて億計の君をまふけの 君となし給ひみかどは程なくかくれさせ給ひに けりしかる処に億計の君天皇に御いさおし【功績】ある によりて御位を天皇にゆづらせ給ふ天皇は 御弟なれはさるまじき御事とたび〳〵かへさひ【辞退】申 させ給へと億計の君いたくゆつらせ給てみづから はなを坊に居たまふ爰に天皇おほせごとありて のたまはくむかし父の皇子 難(なん)にあひ給ふ時われ 兄弟いはけなく【年はがいかず】てにげかくれし故に御から【亡がら】をおさ めし所をだにしらず今これをもとむれども しれる人なしいかゞすべきとて御涙せきあへ させたまはず其後あまねくたずねとひ給けれ ばひとりのおうなこれをしりてつげ奉るあふみ のくにくだわたの蚊屋(かや)野の中にありとなん天皇 よろこび給ひ億計の君とともにその所にみゆき ありてはたして尋え給ひ御 墓(はか)をひらき御 骨(こつ)を見たまひてなけきかなしませ給ふことたとへ むかたもおはしまさず終にいみじくその所に あらためはふむらせ給ひけるとそ    論   やけば灰(はい)うづめば土なるものをとて親はらから   の葬(はふむり)にきはめておろそかなる人あり又国   をさり境(さかい)をへだてて父母の墓をそこと   しもしらずあるひはしりても問尋ねぬ人   ありかゝる人々もし此天皇の御代にあり   て此御有さまを見聞侍らはいかばかりか   くゐ恥んむかしもろこし晋(しん)の代に孫法宗(そんはうそう)と   いふ人あり隋(ずい)の末に王少 玄(げん)と云人ありみな   むまれていく程なくてその父いくさに   死しかばねをおさむる事もなかりしに   法宗少玄年十あまりに成て父の遺骨(ゆいこつ)を   えたく思ひて先その死せし所をよく〳〵   人に問きゝてその所に行ておほくの白骨   の中になきしほれ居たりけるにある人おし   へていはく父の骨をしらんとならばなんぢの   身より血(ち)を出してこゝらの骨にそゝき見よ   その血ほねにしみとほるあらばなんぢの父の   骨としるへしと少玄よろこびてわが身を   こゝかしこつきさし血を出して骨にそゝきける   に十日あまりにして血のしみとほる骨をえ   て大によろこびて家に帰て葬礼をまふけ   けり法宗は枯骨を見ては血を出してそゝき   見る事十年にあまりしかど終にその骨   をえざりしとなんあはれにかなしきわざ   ならずや此二人が事をのづからわが顕宗天   皇の御孝行に似まいらせける事の有   がたさよ 【絵画 文字無し】 三 仁明(にんみやう)天皇 天皇御母 檀林皇后(たんりんくはうごう)のおはしましける冷然(れいぜん)院に 入らせ給ふには常(つね)に御階(みはし)にとをくて鳳輦(ほうれん)よりおり させたまひ出させ給ふ時も又とをくてめしけり 嘉祥(かしやう)三年の春れいの入らせ給ふに大后我ふかき 宮の内にありて終に君の出入せ給ふよそひ を見ず今日出給はゞ階のもとより鳳輦にめし てその儀式を見せ給へとのたまふ天皇御 辞退(じたい) ふかゝりけれと大后ゆるしたまはず藤原の良房(よしふさ) なとにいかゞすべきとはからせ給へばたゞ大后の おほせのまゝにとなん申す力およばせ給はて御階の もとよりめして出させ給ひにけりその御うやま ひのふかきが御かたちにあらはるゝを見奉る人々 はみな涙をおとしけるとそ    論   人の子のその父母をたうとむへきことはりから   の文に見えたるはしはらくをきぬわが立田明神   の託宣(たくせん)し給へるは人の両親はすなはち是内 宮(くう)   外宮の神明なりなんぢらよくこれにつかへず   して外に祈りもとむるかと又三 島(しま)明神の   のたまふは人の家たかきいやしきかならず内外両   宮の神ましますよくつかへて崇敬(そうけう)をつくさは天神   地 祇(ぎ)ひるよるその家に降臨(がうりん)し給はむと是皆   人の二親を伊勢両大神宮になぞらへ奉りて   たうとみ申へしとおしへさせ給ふなりけりむへ   こそ天皇の冷然院のみはしより鳳輦には   めしかねさせ給ひつれ 【絵画 文字無し】 四 後(ご)三条院 此みかど東(とう)宮におはしましけるころ成尊(じやうそん)僧 都(づ)常 に御 祈祷(きたう)にまいれりある時僧都 北斗(ほくと)をおかませ 給ふにやと問たてまつりければみかどのたまひ けるは月ごとにこれをおがむされど身のさい はひをもとめんとにはあらず心の内におそるゝ事 ありてなりおそるゝ事他にあらずわれ坊に あらん程は主上の御 在位(さいゐ)千世もとこそ祈りて やむべきをやゝもすればわが即(そく)位のことの おもはれぬるを罪(つみ)ふかくおぼえてさる心なか らんやうにとてそ北斗をはおがむとなんのたまふ 成尊うけたまはりもあへず感涙をながしける とそ    論   たゝ人にていはく家の内の事わが世となり   なばとせんかくせむと思ふばかりは罪とも咎(とが)とも   みづからはしるまじきを此君御即位のことのかね   て御心にあるをあながちにあるまじき   ことゝおほしめし入せ給へる御心の内の有かた   さよされは年たけたる子その親の家はやく   得まほしとおもふはみな不孝の子ぞかし本論   におもへらくいにしへは妻をむかふる家には三日   音楽をせざりしとなんその故はわれ妻を   むかふる程のよはひとなれは父母の老おとろへて   家ゆつり給ふへきころちかづけりそれをかな   しと思ふほどに音楽などして祝ふべき心は   なきとなり人の子ふかく此心をしれや 【絵画 文字無し】  公卿 一 久我(こがの)太政大臣 大臣は六条の右大臣 顕房(あきふさ)の嫡(ちやく)子 雅実(まささね)公なり母は従 □位 隆子(隆子)となん申す大納言源の隆俊の女なり顕房 ある時隆俊と大内【内裏】を見めくり給ふ事ありけり大内 には子孫の殿上人を具(ぐ)して沓(くつ)の用意せざる人は はだしにて庭をあゆむ所のあるを顕房隆俊 さる用意もなかりけるに雅実公まだいとけなか りしころ沓を二そくひそかにふところにし来り てかしこにいたりてとりいでて両人にはかせまいら せられけり父なれば顕房へはさもあるべし隆俊へも おなじさまに心をつけられし事のいみじ【すばらし】さよ隆俊 感涙をながしてよろこばれけるとなんしりぞき て隆子のもとに行て公のいとけなくてをのれまで に孝のをよべる事をいひて又もろともによろ こばれけるとそ    論   ある人問ていはく雅実公いとけなくての孝心ま   ことに有かたし年たけ給ていかゞおはせしや答ふ   いまだかんがへずされど本論におもへらく此公   内大臣の左大将たりし時伊勢の奉幣使(はうへいし)うけ   たまはりて物いみにこもりておはせしにある   夜の夢のうちに神のあらはれさせ給て此ところ   仏経(ぶつきやう)ありはやく他所にうつすべしとつげ給ふと   見てうち驚きてこの所いかで仏経のあ   らんとはおもほしながらこゝかしこくまなく   尋させ給ひければ何人の置けるにやなげしの   上に仏経見えけりいそぎこれをとり捨て川原   に行てはらへし給ふとなん伊勢勅使部類記と云   ふみにしるせりされは仏経のけがれをのがれて   御使の事をまたくせさせ給ふこと神の御めぐみ   ふかきが故ならすや公の孝のいたれるをしるべし   いはく神の御めぐみに孝のいたれるをしれる   其理いかむいはく考なる人の家にはひるよる   天神地 祇(ぎ)くだりのぞませ給ふとなむ三島明神の託宣(たくせん)   し給ふこと前の論に見えずやあやしむ事なかれ 【絵画 文字無し】 二 帥(そつの)内大臣 一条院の御時内大臣伊周公あやまちありて 播磨(はりま)の国にながされ給ふ母の高階(たかしな)氏いたくなげ きやがて病にいねてあやうかりけりたゞそゞろ ごと【うわごと】し給ふにも大臣にあひ見ん事をのみいへり 大臣 配所(はいしよ)にて聞たまひてたとひこれより をもき罪(つみ)にはしづむとも母を一目見ずしては えたふまじくおぼしなりてひそかに配所を出て 忍びて京にのぼられけるが母のいまだ事きれ ざる内にのぼりつきてたいめんし給ひけるとなん 母いかばかりよろこび給ひけんやがて事もれけ れは罪いよ〳〵をもしとて此たびはつくしの 大宰府(ださいふ)にぞ流されさせ給ひける    論   ある人のいはく伊周公はもとよりよからぬ人   なるうへ御ゆるされもなきにをして配所より   のぼられたるは誠に罪ふかゝらずやいかで   此ふみにはとれる答ふよからぬことをよしと   してとるにはあらず母のをのれをこひてしぬ   ばかりやめるを聞て身にかへてのぼられ   ける心のうち孝にあらずと云べからず此   外はわがしる所にあらず 【絵画 文字無し】 三 小松内大臣 大臣名は重盛平相国(しげもりへいしやうこく)の嫡(ちやく)子なり相国おごりをきは め君をなみし【軽んずる】事ことによこ紙をさかれ【無理を押し通す】しを此 おとゞふかくうれへさま〴〵にいさめたゞして終に 大逆をなさしめ給はす孝まことにふかゝらずや 事は平家物語盛衰記にくはしけれは略す    論   親あしとてつよくいさむるはさかひてわろし   たゞわれをつくしてをのづからあらたまる   やうにすべしととく人もあれどあしきに   軽重ありかろきはさもすべしをもきはすみ   やうにいさむべししからざれはちゝ母を人   にそしらせわらはせあるひは罪をおほや   けにえせしむることありつとめていさめ   さるべけんやさりとて気をくだし声をやは   らげかほばせをよろこばしむる事をわする   べからすわが子か友かをせむるやうに木折【きをり=気が強くて愛想のないさま】   には申ましき也しからば此おとゞのいさめは   すこしつよきに過るにやいはくしからず清   盛位きはめてたかく行ひきはめてあしく   いさめもしゆるくは国みだれ天下うごかんなみ〳〵   の人のあしきには似るべからずおとゞも又時の大臣也   つよくいさめさる事をえたまはんやまさに   つよかるへくしてつよし又これ孝なり 【絵画 文字無し】 四 藤原吉野(ふちはらよしの) 吉野は参議(さんぎ)正三位兵部卿 綱継(つなつき)の子也学問してざえ【才】 かしこしつかへて中納言にいたれり父母をやし なふて孝なりある時家にあざらけき【新鮮な】肉(にく)あり 綱継人をつかはしてわかちとらしむ折節吉野 は参 内(だい)していまだかへられずくりや人その肉 をおしみてわかたず後に吉野これを聞て涙 おとしてくりや人をせめそれよりなかく肉食 せられさりしとなん    論   くりや人おろかにして肉をわかたで父の心に   そむきし事のうたてさにさる肉を見るも   うるさくやおもはれけむ後つゐに肉食せられ   さりしと也これにてをして思ひ見るに   この人一生何事をかちゝ母の心にそむかるへ   きいみしき孝子なりけんかし 【絵画 文字無し】 五 小 野(の) 篁(たかむら) 篁は参議 岑守(みねもり)の子也天長九年父にをくれて【先立たれて】かな しみふかくやせつかれたり又よく母につかふ承和(せうわ) 五年もろこしに使するとて船をあらそひて 心のごとくならざれは病にかこちてゆかざりし 時もこゝに篁水をくみ薪をとりて匹夫(ひつふ)【身分の低い男】孝を いたすべしといへりすゝむにもしりぞくにも 孝を忘れざるを見るべしつかへて参議にいた り従三位に叙せらる    論   たかむらは物しりにて歌などもよくよむ   人とは誰もしれどかゝる孝子なりとはしらず   又 下野(しもつけ)の国 足利(あしかゞ)の学校(がつかう)は此人のふみよまれし   所といひつたへて今も経(けい)書おほく聖像(せいざう)も   おはしませば知恵もおこなひも世にすぐれて   我 国の大 儒(じゆ)なりし事うたがひなし墓(む)所   は都の北 雲林院(うぢゐ)にありちかごろ我ゆきて   尋侍りしに雲林院の民居【民家】より辰巳にあたれ   る田の中のほそき道のちまたに土のすこし   高き所をそ篁の塚(つか)なりとそのあたりの   人はおしへ侍る物まなびするともからは心   してすぐへし 【絵画 文字無し】 六 藤原 道信(みちのぶ) 道信は左近の中将にて九条大相国 為光(ためみつ)公の子なり 正暦三年父みまかり給ふ道信かなしみにたへず月日 へていよ〳〵せちなりしかれども世のならはし 父の喪はむかはり月【迎はり月…一周忌】にしてやめばひとり其なら はしにそむくこともえせで心より外に服衣(ぶくゑ)を ぬぐとてなく〳〵思ひつゝけられける  かぎりあればけふぬぎ捨つ藤衣はてなきものは なみだなりけり    論   我此うたをすんし【ずんじ=誦じ】て其心ををしはかるにもし   三とせの喪をゆるさば此人かならずおこなひてん   世のならはし誠にかなしある人のいはく三年   の喪は聖人さだめ給ふといへと時も所もみな   ことなれば今こゝもとにて沙汰することには侍らし   いかんいはく本論におもへらく父母の喪はこれ天地   の常経(じやうけい)古今の通義(とうぎ)とて今もむかしもやまと   もからもいさゝかあらためかふべからざるの大礼   なり他の礼儀法度の時により所にした   がひてかけひきすへきがごときにはあらず   となむされば三年の喪おとろへたりと   いへどせんとおもふ人はみな是をせり趙宋(てうそう)   は三代よりは千数百年へだてたれと諸   儒の古礼によりしはかぞへもつくすべからず   大 明(みん)の世にいたりてもその人おほし時に   よりてあらためざるを見るべし宋の徽(き)   宗といひしみかどは金と云えびすの国にて   うせ給へりその臣 司馬朴(しばはく)朱弁(しゆべん)なといふ人君の   喪を法のごとくとらんとおもへど金の国にせざる   法なれはいかゞすべきとて朱弁ためらひけるを   司馬朴をしてつとめければ金の人々もかへりて   みな感しにけり朝鮮などにもちかき世に   河陽(かやう)の尹仁厚(いんじんこう)鎮川(ちんせん)の金 徳崇(とくそう)なと云人古法に   よりて喪をおこなひて人是をたうとびけり   所によりてあらためざるを見るべししかれば   此ころこゝもとの人の喪はみじかきかよろし   きぞと力をきはめてをしへらるゝは是一人の   私言(しげん)なるべし天下の公論にはあらじある人又   いはくたとひ三年の喪をとれりといふともその心   誠すくなくたゞ力をもておこなひなさば誠有   人のみしかき喪にはかへりておとり侍らんかいはく   しからず喪は我身心をつくして父母 養育(やういく)の恩(おん)に   むくふる也たとへは臣下が君のあやうきにのぞ   みて心の内にはやるかたもなく君をいとおし   とおもひながら力を出してたゝかはざる人と   さばかりはおもはざれとも身をすてゝたゝかふ   人といつれかよく御恩を報すとはせんかの父   母に喪する人もいかに内に誠ありとても両   三月をだにへずして酒をのみに肉を食して   よろづ常のまゝならば何をもつてか恩に   むくゐん人の子これにしのびんや孔子のた   まへりなんぢにおゐてやすきかなんぢやすく   はこれをせよ 【絵画 文字無し】 七 藤原 良仁(よしひと) 良仁は贈(ぞう)太政大臣正一位冬 嗣(つぐ)朝臣の第七の子也その 心いたりて孝なり母にをくれてかなしみなきて 血(ち)をはき息(いき)たえ一時ばかりありてよみがへられし が猶其なげきにたへずつゐに病にをかされて みまかられけり年四十二    論やせて   ある人とふ喪にゐてやせて死にいたるは不孝   にひとしとこそうけ給はれ良仁をはなど此ふみ   につらねらるゝやいはく此事ありされどまめ   やか【誠実】に喪をおこなひて身のそこぬるもしらぬ   人を不孝とするには忍ひざるにや世々の   喪にたへざる人おほやう【大様=大体】孝をゆるされけり   その姓(せい)名本論にあきらけし此ふみに   この人をとれるより所なきにあらず 【絵画 文字無し】 八 藤原 衛(まもる) 衛は贈左大臣従一位 内麻呂(うちまろ)公の第十人にあたれる 子にて正四位下右京大夫たり此人二歳の時母に をくれて五歳にして母いかにと問てそのなきをかな しめる事年たけたる人のしたひなげくが ごとし大臣これをあやしとしてふかく愛し たまひけるが終にたてゝ嗣(つぎ)とし給へりされば 年十八にして文学人にすぐれてざえかしこかり つれは世の人 漢(かん)の賈(か)【商人】長 沙(しや)になぞらへけるとそ    論   本論におもへらく世の一二歳にて母にをくるゝ   ものおほしいやしき家の子はそのおきねくひ   物をのが心のまゝならぬにつけて五六歳にも   いたりぬれは人の母あるをうらやみわが母なき   をかなしむ事をしるもあれどやんごとなき   きはゝ事みな心のごとくなれば十歳といへど   猶なき母をしたひなげくはまれなり衛わつ   かに五歳大家にやしなはれてあかぬことなかる   べきをかくばかりなき母の世をいたみかなし   めるこれ誠にたぐひまれなる孝心な   らずやそれ孝は万事の紀(き)なれはひとつ   をとりて百善いたるといへりむべこそ大臣   のこの人をたてゝ嗣とはしたまへれ 【絵画 文字無し】 九 山田 宿祢(のすくね)古 嗣(つき) 古嗣は西京の人なり心きよくことばすくなしいと けなくて母をうしなひおばなる人につゝしみ つかへたり孝行殊にあつしある時ふるき文よみ て木しづかならんとすれど風やまず子やしなは むとすれど親いまさずと云ことばにいたりて かなしみにたへず文どもみな涙にぬらしけり 父みまかりけるときもそのなげきせちにし て形やせおとろへぬとなん    論   をよそ人のふるき文よめる口にてよめるあり   心にてよめるあり口にてよめるは鴉(からす)の   なき蝉(せみ)のさはぐにことならずといへり心にて   よめるそ誠によむなる古嗣の風木の   ことばをよめるがごとき是なりしかれば   孝のかたどるべきのみならずふみよむも又   此人をまねばんか 【絵画 文字無し】 十 藤原 良縄(よしなは) 良縄は正五位下備前守大津か子なり斉衡(せいかう)元年大津 備前の国にして病にいねてあやうし良縄きゝも あへずはやく国にくだらむとしけれど御ゆるされ なくてたゆたふ程に大津うせぬとつぐ良縄い といたふなげき血をはきてたえ入時をうつしていき 出ぬそのころは参議なりしが職をさりて喪に をれり貞観(じやうぐはん)三年母の紀(き)氏また病あつし良縄 ふかくいたはりて目をもあはせず【眠らず】帯をもとかで ひるよるあつかひきこえけれと母つゐに身まか りにければ父にはなれし時のごとくになげき つかれやせおとろへて心地しぬべくなんおほゆ 【絵画 文字無し】 十一 藤原 岳守(をかもり) 散位(さんゐ)従四位下藤原の岳守父みまかりて喪にをれ りそのつとめ法にすぎてしぬばかりになんやせ つかれけり天長七年の事なりけるとそ    論   ある人とふ良縄岳守が喪にをれる幸(さいはひ)に   死にいたらずといへどあやうし過たるに   あらずや答ふそこの此心たとへば人の人と   たゝかふとていまだ刀もぬきあはぬ内に   にげ道をはかり取さへ【仲裁する】の人をまつがごとし   いかにとなれは喪にゐてしぬばかりなるは   孝子の常なり礼記(らいき)に死を思ふは生を欲(ほつ)せ   ざるがごとくすといへるのたくひみるべしさば   かりなげきつかれて実(じつ)に死せんとする時に   人にたすけられて飲食をも口にいれさ   すがに死せざるやうにする事にてこそ   あれその愁嘆はあさくして先わが身の   やまずしなざるやうにのみするを交(まじはり)ふかき   友などの是をばしらで心もとなしとてくひ物   もちて行てとふらふにそのすこやかなること   日ごろにかはるかたもなければうちいでむ   言の葉もなくて帰るもありけり其さま   誠に人のたゝかひてしなんとすと聞て棒(ぼう)ち   ぎりきたづさへ行て二人がやゐばをへだて   命たすけんとてうちあつまりたるにさは   なくて刀をもぬかでにげ道にのぞみ居たれば   此とりさへの人々手をむなしくして帰るに似ざるべきや 【絵画 文字無し】 十二 紀夏井(きのなつゐ) 夏井は従四位下紀 善岑(よしみね)の子なり心きよくざえかし こし仁寿のみかどにつかへて右(う)中 弁(べん)にいたれり母を やしなふて孝なり母みまかれり夏井かなし みしたひて尸骸(しがい)を野辺にをくらずあらたに堂 ひとつをつくりて其内におさめ置てあした夕 これに入て母につかふることいける世にかはらず 三年ををへてやみぬるとそ    論   世の人父母のいける世には孝順に見ゆるも   おほかれど既になくなり給へはふた夜三夜とも   とゞめをかずさながらうるさきものをはらひ   やるやうに野にまれ【~であっても】山にまれ送りすて   てあながちに【ひたむきに】したひきこゆるさまも見   えずいにしへもちかき世にも死して日を   へて又いき出たるためしからやまとに   すくなからねばもし久しくとゞめ置なば   さることもやあらんにと思ひやるもいとかなし   夏井すみやかに送りすつるに忍ひず三とせ   までとゞめをかれし事まことにいみじ   き孝行ならずや 【絵画 文字無し】 十三 大江 挙周(のたかちか) 式部(しきぶの)権 ̄の大輔挙周朝臣は大江の匡衡(まさひら)の子にて母は赤染 乃右衛門にてぞありける挙周をもきやまひに いねてたのみ【望み】すくなかりけれは赤染そのおもひ にたへず住吉にまふでて七日こもりて挙周 此たひたすかりがたくはすみやかにわが命に めしかふべしと申て御幣(ごへい)のしでに  かはらむと祈るいのちはおしからでさても わかれんことぞかなしきとかきつけてたてまつり けるに御納受やありけむ挙周病 癒(いへ)たり赤染ふか くよろこびてひそかにわが死するをぞ待居ける 挙周是を聞ておどろきなげきをのれも又住吉 にまふでゝ申けるはさきにわが死ぬるいのちたすけ させ給ふは誠にありがたく思ひたまへられ侍れど 母の命にかへていき侍りては何のいさみか侍らむ あふぎねがはくは母ながらへてわが病はしめのごとく ならむとなんふかく祈りこふて京にかへりのぼり にけりしかれどもその身ふたゝびやまず母も又つゝ がなしおや子の孝 慈(じ)のやんごとなさを明神のあはれ させ給ふにこそと人みな申き    論   ある人とふ人のかなしみ老て子を先だつるに   しくなし赤染むへこそ挙周にかはらん事を   祈りつれもし引かへて挙周死せば赤染のなげ   きいふはかりなかるへし死は中〳〵にやすかり   なんしかれば挙周の祈り必しも孝にあら   ざる歟いはくかくのごとく穿鑿(せんさく)せされたゞ母   の身を殺(ころ)してわか命いくるには忍びずと   のみしりてやむべしもし忍ひばこれ禽獣(きんじう)   のみちなり孝と不孝との沙汰には及ばず 【絵画 文字無し】 十四 日野(ひの)阿新(くまわう)丸 阿新丸は日野中納言 資朝(すけとも)卿の子なり後醍醐(ごだいご)天皇 鎌倉(かまくら)の北条(ほうでう)がおごりをにくませ給ひほろぼさせ 給べき御くはたてありて資朝卿とはからせ給ふ を北条ふかくうらみたてまつりて先この卿をとらへ 佐渡(ざど)の国にながし其国しれる本間(ほんま)山 城(しろ)入道に あづけぬ阿新年十三母と都の内をのがれて 仁和(にんわ)寺のわたりにうち忍びてあられけるが父の 卿ちかき内にうしなはれ給ひぬべしと人のいひさは ぐを聞て心も心ならでたゞいかにもして佐渡と やらんにたつね行て父もろともにうしなはればや と思ひたゝれけることのいたはしさよ母にいとま をこはれしに母おもひもよらずとてゆるさるべき けしきもなきを父を一目見まいらせてやがて 帰りのぼり侍らむなとさま〴〵にいひなぐさめて わりなく【仕方なく】家を立出られし心の内おもひやるべし 父の卿ものゝふどもにとられて佐渡におもむかれ しころ家のたからみなちりぼひまどひて母と 阿新との朝夕のけふりもたえまがちなれは旅の ようひも何かはなしえむたゞしもべひとりを ぐしてありしまゝにて都を出て心ばかりは いそぐとすれどありきもならはぬ足に血ながれ 目にはひまなく涙のうかびぬれば行さきくらき やうにのみおほえてすゝみもやらずされど十日あ まりにして越前の国なるつるがと云ところにいたり それよりあき人【商人】の船にたよりをえてからう して佐渡にくだりつきてげ【ママ】りやがて本間が 館(たち)【「舘」は「館」の俗字】にあないしてかくといひきこえもあへずたゝはやく 父を見ばやとねがはれければ本間もいといたう あはれとはおもひながら鎌倉にきこえてをの がためいかならむとしばしためらふほどに 催促(さいそく)の使来りて元徳(げんとく)二年五月それの日資朝 つゐにうしなはれぬ入道が家の子本間三郎と 云ものぞ資朝のくびをばきりける入道は 阿新の心の内いたはしとおもひければ僧をまね きて資朝の尸骸を荼毘(だび)し骨をひろひて 阿新にあたへぬ阿新この骨をむねにあてゝ やがてたえ入られしが久しうしていきいでら れけれと猶うつし心【正気で理性ある心】もなし見る人みな泪にくれ けりそのゝち阿新おもへるやう入道がなさけな くわが父のいけるかほたゞ一目見せざりしことよ このうらみむくひでたゞにやみなんやいかにもしてかれ をころして我もしなばやとなん思ふほとに夜ふか く人しづまりてひそかにうかゞひくありといへど 入道がいねしあたりには尋もあたらで本間三郎 が一間なる所にふしたるを見つけぬこれ入道に あらずといへともたゞちに我父のくびきりし ものなればこれをころすも又かたきをうつなり とおもひさためてやをらちかづきよりて まづ足にて枕をけてうちおどろかしとみに【早急に】 刀をぬきてむねさしつらぬき咽(のど)たちきりぬ 三郎たちまち死す人いまだ是をしらず阿新 しりぞきて今は望(のぞみ)たりぬみづからしなばやとお もはれけるが又おもひかへして母をばやしなは ざらめや君にはつかへざらめや父のこゝろざしつが ざらめや人にころされんは力なしのがるべき道 あらばのがれもせばやと思はれければこゝかしこ道 もとめられけれど門はかたくとざしぬふかき池 よもにめぐりたればもりて【漏りて=隙間を通り抜けて】出べき方なし池 のほとり竹おひたり阿新こゝろみに大なる竹一もと にのぼりてつとめてうれ【先端】にいたりたればその竹 池の上にふして身はをのづからかなたの岸(きし)にちかづ きぬ終に汀(みきは)におりてしばらく心をおさめそれより 湊(みなと)のかたへとあゆみ行にみじか夜はやく明てその道 猶はるかなり追(をひ)手もやゝ近づきぬらむいかゞすべ きと思ひわづらはれけるにひとりの山ぶし行あひ たりつく〳〵と阿新を見てうるはしのちごや さて是はいづこよりいづこにゆかせ給ふととへは 阿新ありしまゝにかたりきこえられければ この山ぶしうちなきてわれ此人をすくはずは行法 それ何にかせむとて阿新をせなかにかきおひて 口には陀羅尼(だらに)をとなへいととくはしり行けるが 程なく湊につきて船かりてもろともにのりぬ 本間が館には日たけて三郎が死せるを見つけ てこれ何人のしけるにやとみな人あきれまどひ たりしが程へて阿新のわざなる事をしりて ものゝふあまたをひ来りたれど船はとく出してげれ ば阿新はつゝがもなくて京にぞ帰りのぼられける 天地 神明(しんめい)の孝子を加護(かご)しましますにあらずは この人いかで身をまたくせむ    論   ある人いはく資朝をころすものは高時なり   阿新入道をねらひ三郎をころすみなあたら   ざるかごとしいかむいはく阿新家は千里をへだて   身は敵国(てきこく)にとらはれひとりありける従者(じうざ)さへ   まづかへしのぼせたりたのむ所たゞ親と身   とのみつく〴〵とおもひみるに武将(ぶしやう)の家にむま   れ明暮弓矢とりならひてよはひさかりなる   人と云ともこゝにありてはいさましからじを   衣冠(いくはん)の中におふしたてられつねはあらき風   にもあたらず其年わづかに十あまりにして   はるかなる海山をこえたけくおそろしき   ものゝふをころす事て手にたらざるがごとし   誠にためしすくなからずやわれ此人の   身をすてゝ孝をなし勇(ゆう)力かくのごとく   なるに感じて入道をねらひ三郎をころすが   あたるあたらざるははかるにいとまなし後   の日をまちて論ぜん 【絵画 文字無し】 十五 藤原 長親(ながちか) 長親は南朝につかへて右近の大将にいたれる人也父の 三年の喪にゐていまだをはらず又主上かくれ させ給ふによめる  三とせまでほさぬなみだの藤衣こはまた いかにそむる袂(たもと)ぞ    論   世にこの大将を三年の喪つとめし人といひつたふ   るは此歌によりてなるべしされと新葉和歌   集の詞書を見るに妙光寺内大臣みまかりて   後三年の服(ぶく)いまだはてざりけるに又 後村上(ごむらかみの)   院(ゐん)の素服(そふく)を給はりて思ひつゞけゝるとあり   歌と此詞がきのみにては三年の喪の礼の   そなはれる所もつとも信じがたしといへど   世の人のいひつたふるにまかせかつはこの歌   のあはれにもよほされてしばらくこゝにつら   ぬるよし本論にもいへり 【絵画 文字無し】 十六 北条泰時(ほうでうやすとき) 泰時は武蔵(むさし)守にて鎌倉の執権(しつけん)北条 陸奥守平(むつのかみたいら) の義(よし)時の太郎がねなり義時みまかられて後 泰時事をとれり義時子おほし愛せらるゝ事みな 泰時にこえたり泰時父の心をもて心としてつねに 弟たちにあつし父みまかられて後いよ〳〵むつまし 所 領(りやう)をわかちとらるゝも弟たちにおほくえさせて みづからうくる所かへりてすくなしかくのごとくせ ざれば父の志(こゝろざし)にあらずとおもへり其いまだわかた ざる前に先わかつべき領地のほど〳〵をかき しるして二位のあまの政(まつりごと)きけるころなりけれ ばあま君へみせたてまつらるあま君うちおどろき てそこにうくる所かくすくなかるべからずさらに はかるべしとてゆるされざりければ泰時われ おろかなりといへども御政をたすくる人の数にいれり いかで所領の事におゐてきそひのぞむ所あらんや たゞ弟妹(ていまい)をよろこばしめむ事わがねがひに侍る となん申さるあま君感して泪おとして猶ゆるし もやられざるに泰時しゐて申こふて家に帰り て弟たちをあつめ配分(はいぶん)のほどをいひきこえて これあま君のおほせぞとてをのれははじめより この事しらざるがごとしはらからみなよろこび ほこりにけり是を聞つたふる諸国の武将(ぶしやう)心の うちにふかく恥(はぢ)て孝友(かうゆう)のみちにすゝみけるとそ    論   ある人とふ泰時は父の嫡(てき)長にして時の執(しつ)   権(けん)なりその禄(ろく)かろかるべからす父の志にした   がへばとて諸弟にわかつ所かくおほきは   事におゐて過たるにあらずや答ふ人の   子父母の心ざしにしたがふの道そのつくさるゝ   かぎりつくすをあたれりとす過るといふ   事あるべからず本論あきらかに是をこと   はれりされば伯夷は国をうけず泰伯は天   下をゆづり給へりいにしへの人是を過たり   といはず今やす時はその所領またくゆ   づられしにもあらずかくほど〳〵にわかち   あたへられたれば過たるにはあらじ父母の   ためには身をやぶり子をうづみし人だに   あり是なん過ぬといはんとすればもろこし   の孝子伝には猶のせてたうとべりいかなる   をか過たりとはせんされど泰時のこの事   世の中 庸(よう)を口にしきてつねにひかへて   すぐさゞる人は過たりと思ふもまたつき   なからず 【絵画 文字無し】 【銀杏の押し葉】 【銀杏の押し葉】 明治十年丑二月日小原日仙求        妙笑庵主人 【左上のラベル】 《割書:正|価》1-141 三冊        金一円        五十銭 【白紙の右隅に手書きメモ】 個【?】カトミ 【白紙】 【白紙】 仮名本朝孝子伝中目録  士庶 《割書:一》養老孝子    《割書:二》伴宿祢野継 《割書:三》丸部臣明麻呂  《割書:四》矢田部黒麻呂 《割書:五》伴直家主    《割書:六》風早審麻呂 《割書:七》財部造継麻呂  《割書:八》丹生弘吉 《割書:九》秦豊永     《割書:十》丈部三子 《割書:十一》信州孝児   《割書:十二》随身公助 《割書:十三》曾我兄弟   《割書:十四》鎌倉孝子 《割書:十五》大蔵右馬頭頼房 《割書:十六》楠帯刀正行 《割書:十七》本間資忠    《割書:十八》左衛門佐氏頼 《割書:十九》武州孝子    《割書:二十》養母孝僧 仮名本朝孝子伝中  士庶(ししよ) 一 養老(やうらうの)孝子 元(げん)正天皇の御時 美濃(みの)の国にまづしくいやしき おのこあり老たる父をもたり常は山の木草 をとりてうりて其あたひをえて父をやし なひけり父あながちに酒をほしがりければ なりひさごと云ものを腰(こし)につけて酒うる家に のぞみて常に是をこひて父にあたへ【「ゆ」にも見えるが「へ」とあるところ】けるある とき又山に入て薪(たきゞ)をこらむ【樵らむ】とするに莓(こけ)ふかき 石にすべりてうつぶしにまろびたりけるに 酒の香(か)のしけれはいとあやしくてそのあたり を見るに石の中より水ながれ出る所あり汲(くみ) てなむればめでたき酒なりいとうれしく てとりて帰て父にすゝむ父よろこべることはな はだしそのゝち日ごとにこれを汲ておもふ さまにぞ父をやしなひけるみかど此事をきこ しめして霊亀三年九月それの日その所に みゆきして酒 泉(せん)を叡覧(ゑいらん)ありて是すなはち かれが孝ふかきゆへに天神地 祇(ぎ)あはれみ給ふ てその徳をあらはし給ふとふかく感ぜさせ たまひやがてかれを美濃の守になされ其 酒の出る所を養老の瀧(たき)と名づけ年 号(がう)をも 養老とあらためさせ給ひけるとなむ    論   ある人とふ孝に吉 瑞(ずい)のいたれるはわが養老   のみならずもろこしにもおほしと見ゆ不孝   にわざはひのあらはるゝ事まのあたりそれ   と思ひよそへらるゝはあれど文などに   しるし置てその跡のあきらかなるをば   いまだ見ること侍らずねがはくは是をき   かんいはく本論に迪(てき)吉録と云ふみを引て   かきのせたる事どもありみなおそろし   いで【さあ】そのあらましをかたらむもろこし宋(そう)   の大 観(くわん)のころにや 羅鞏(らげう)といふ人学問して   都にありしが夢の内に神のつげありて   いはく汝(なんぢ)罪あり必死せんすみやかに国にかへ   るべしと羅鞏申す我つねに大なるあや   まちなしねがはくは罪をうるゆへをきかん   と神また父母死して久しくはふむらず   是その罪なりとのたまふと見て夢さ   めぬもろこしには人死すといへどまづしく   てはふむるへき地をもえず金銀をも   もたざればその尸骸(しがい)を棺(くはん)におさめてあま   たの年月過るまてはふむらざるものおほし   孝子は身をうり田をうりてもはふむるべき   時はふむる事なるを此羅鞏はふる郷に   兄ありそれをたのみてはふむりを心とせず   学問のみして居たりされとも兄は学問もせで   こゝろくらき人なれば罪かろし羅鞏は学者   にて義理をあきらめたれば罪をもし其   年羅鞏つゐに死す又 明(みん)の嘉靖(かせへ)のころ通道(つうたう)   縣(けん)と云所の鄭文献(ていふんけん)と云人母死していまた十日   も過さるに及第(きうだい)といふ事せんとて都にのほり   常徳 堤(てい)といふところまて行つきて船にとま   りし夜俄に雷電(らいでん)おびたゝしくして文献   をふれころしぬ郭監生(くはくかんせい)といふ友おなし船に   ありつれどいさゝかも害(かい)なかりけり又 順(じゆん)天 府(ふ)   と云所の民その母わづらひければいのこの肉(にく)を   買(かい)て是をてうし【調じ=調理し】て母にすゝめよと妻にいひ   つけゝり妻その時しも子をうみたりしが   かの肉をばをのれくらひて母にはそのうみたる   子の胎衣(ゑな)を煮(に)ていのこぞといひてすゝめぬ   しかるにいづこよりともなくあかきへび   ひとつ来りて妻が口におどり入てその尾を   三四寸ばかり口より外にあませりちから   をきはめてひけどもぬけず是を聞つた   ふる人遠きもちかきもあつまりつゝ見る   に年老たるものゝ見るにはへびうごく   事なしわかき女の見けるときは尾をつ   よくうごかして妻か面(おもて)をひだり右にうち   たゝきけり妻やがて死しぬ又順 義(ぎ)と云   所に程(てい)を氏なる人あり母をやしなひて   きはめて不孝也子あり母それをいだき   居けるがあやまりて土におとしてひたい   すこしやぶれにけり程氏大きにいかり刀   をとりて母をさゝむとせしがいかゞしたり   けん母の身にはあたらでをのがはらにたち   てその疵(きづ)にてしにけるとなむいはく是   誠におそろしされとみな人の国のふる     ことなりわが御国にもさるためしありや   いはくこれあり日本善悪 霊異(れいい)記といふ   ふみに見えたりむかし難波の宮の御時   大和の国 添(そふの)上郡に瞻保(みやす)といふ人ありけり母に   孝なし常はやしなふ事もせされば母せん   かたなくてよねを瞻保にかりてみづから   かしきて日をおくりけるに瞻保その   よねをかへせと母にこひはたり【催促する】けり母   瞻保にむかひてわが乳(ち)ぶさを出して我   これにて汝をやしなひて人となしぬ汝   よねをかへせといはゞ我も又乳のあたひをは   たらん【徴らん=取り立てる】といふ瞻保ことばなくして入けるが   程なく物にくるひ出てこゝかしことまどひ   ありきぬ其家には火おこりて妻子はみなやけ   しにけり瞻保は終にうへてしにけるとぞ   又ふるき都のある人の妻きはめてその母   に不孝なり母世をわたるべきたつきも   なくていとけなき子ひとりをぐしてむすめ   のかたへ行てくひ物こひけるに折ふしくひ物   こそなけれとてあたへざれば母ちからなく   わが住家へ帰けるに道におち物のありけ   るをひろひて見れば物につゝみたる飯(いゐ)なり   けり母よろこびてかのいとけなき子とともに   是をくひてその日のうへをしのぎ家に入て   打ふしけるに夜なかばかりに人来りて   汝のむすめにはかにわづらひてむねに針(はり)   さすといひてしぬべくなん成ぬとつげゝれど   身いたくつかれて行もやらざりける内に   むすめははやみまかりにけり又 聖武(しやうむ)天皇の御   世にむさしの国 多摩(たま)郡に吉志火麻呂(きしひまろ)と云人   ありけりいかなる故やありけん母をにくみ   てころさばやとおもひいつはりいざなひて   ふかき山につれゆき刀をぬきてきらんとせし   にそのふめる所の土たちまちにさけて火麻   呂が身おち入けるを母その髪(かみ)をとりて天   にあふぎて是たすけさせ給へといへど髪ばかり   手にのこりて火麻呂はふかく土に入てしにけるとなん 【絵画 文字無し】 二 伴宿祢野継(とものすくねのつき) 野継は伴のすくね益(ます)立が子也益立 宝亀(ほうき)十一年に征(せい) 夷持節副(いしせつふ)使となり従四位下に叙せらる後に人 にしこぢ【讒言する】られてその爵(しやく)をうばはれぬ野継心を くだき身をつくしてしば〳〵父がためにうたへ【訴え】終に その無実(むしつ)をはらし恥(はぢ)をきよめて父をもとの 位にかへしぬ    論   よき人の讒(ざん)にあへるばかりうたてし【恐ろし】きこと   はあらし親はらからしたしき友ちからを   きはめてすくふといへどおほやう【大様=大方】はぬれ衣   ぬぎもえず或は遠き国にながされあるひ   はいのちをうしなはるかなしからずや益立も   さりぬべかりしを野継いかばかりの事をか   なしけん終にその無実をあきらめ【明らめ】其位   にさへかへしぬ孝のふかく誠のいたれる   にあらずしてこれをえんや 【絵画 文字無し】 三 丸 部臣明麻呂(べのをんあけまろ) 明麻呂は讃岐の国三野の郡 戸主(こしゆ)外従八位 己西成(こせなり)が 子なり承(ぜう)和のころにや年十八にして都にのぼり 朝(てう)につかへて力をつくせりその功によりて三野の 郡のつかさとなさるされどもその職(しよく)を父の己西 成にゆづりてをのれはすなはち父がたすけと なりぬそのゝち己西成 齢(よはひ)かたぶきて職をやめて 隠居すその所明麻呂が家とはそこばく【多少】の道を へだてたるに明麻呂あさゆふ行かよひ父母に つかへてひとひも【一日も】をこたらず郡中みな感し ていはくむかしの曽(そう)子のみ賢(けん)者にはあらずと    論   わか官職をわたくしに父にゆづるひがこと【間違い】   にあらずやいはく本論にいへるやうに   明麻呂が郡にかへりし時己西成なを年老   ずして政務(せいむ)のざえ人にこえたれは明麻呂   朝(てう)に申て大領(だいりやう)の官をゆつりてをのれはその   事をたすけたるらむ私にはいかでゆづる   べきそも〳〵あちはひよき食物かろく   あたゝかなる衣類をえてだにをのれはくは   ずきずしてもたゞ是をちゝ母にと思ふは   人の子の常の心なりまして父よりたかき   職をうけてゆづらでやむに忍びんや   明麻呂が此心人の子たれかなかるべき 【絵画 文字無し】 四 矢田部黒(やたべのくろ)麻呂 黒麻呂はむさしの国入間郡の人なり父母に孝 ふかしおもゝちつねにうらやかにしてうちよろ こひてつかへやしなへり父母うせければその うれへにたへずやせおとろえてしたひかなしみ 十六年があいださうじ物【精進物】のあしきくひてぞ 居けるその有さま都にきこえみかどふかく 感しおほしめしてかれがゑだち【役立ち=強制の労役や兵役】をゆるし孝 行をあらはし給ひにけり宝亀年中の事となむ 【絵画 文字無し】 五 秦豊(はだのとよ)永 【注】 豊永は美作(みまさか)の国久米の郡の人なりしがむまれ なからの孝子にていはけなきよりよく父母に つかへ父母みまかりにければねんごろにこれを はふむりおさめ常にその墓(はか)をまぼり【守り】居 けるとなんつねにまほるとしるしをければ 其久しさははかりしるべしこれもみや都に聞こえ 位三階をたまはりゑだちをゆるし門にしるし たてゝあまねく国にしらしめ給ふ貞観年中 【注 コマ120の「目録」には九番目に登場する人物。従って登場人物の順番が後ろにずれる】 の御事とかや    論   父母の喪(も)のことちかき世は四十九日を限(かぎり)とす   たゞしもし三 箇(が)月にわたれば身つきと   いふことばをいみて其日数をさへそぎて   三四十日あまりにしてもやむと見えたり   かなしきかなやをのが身のつきむ事は   おそるれども父母の恩を報(ほう)ぜんとはせず   さやうの人の必おもへるは喪に久しきは   わか国の事にあらずとされど此黒麻呂豊永   もろこしの人にもあらず又宝亀貞観の   みかどわか国にてすまじきことせりとものたま   はず何にはゞかりてさはおもひけるに   や浅まし 【絵画 文字無し】 六 伴直家主(とものあたひやかぬし) 安房の国 奏(そう)して申さく当国安房の郡伴直 家主父母につかへて常に孝なり父母をはりに ければ口にこきあぢはひをたちて久しく なげき居たりけるが猶したはしさのあまり 父母のすがたを作りて堂をたてゝ是をあがめ 四の時の供養(くやう)をこたらず誠にいけるにつかふる がごとしとなん勅して位二階にすゝめながく年 貢(ぐ) 所当をゆるしかねて門 閭(りよ)にあらはせ給ふ  【絵画 文字無し】 七 風早審(かさはやのあき)麻呂 天長十年十月十日安芸の国申す賀茂の郡の 民風早審麻呂身のおこなひもとよりたゞしく 二親につかへて殊にあつし父うせければ口に あぢはひある物をたち喪のわざよくつゝしみ てしたひなげく事久しくやまず母なく なりけるときも又しかりとなん勅して三階 に叙し年貢所当をゆるしたまふ 【絵画 文字無し】 八 財部造継(たからべのみやつこつぎ)麻呂 継麻呂は加賀の国 能美(のみ)の郡の人なり父母あり ける程は朝夕のつかへに其身をつくしうせける 後も猶その心をかへずしたひかなしみてやむ ときなしその里人見な感じて京に申 のぼせてければこれも位をたまひみつきを ゆるされけるとなん承(ぜう)和四年の冬の事 なりし 【絵画 文字無し】 九 丹生弘(にふのひろ)吉 弘吉は若狭の国 遠敷(をにふ)のこほりの民なりいと けなくて父にはをくれ母と居て孝をつくせり 其さま人の及ぶところにあらず外に出れば必まづ 父が墓(はか)にゆきて心のかぎりかなしみなげき 経(きやう)なとよみてさりぬさればその里なりはひ あしき年も此人の作れる田のみ雨風にもそこ なはれず日でりにもかはかず虫なども入えざり ければこれ明かに神明の孝にめでさせ給ふ故 ぞと里人みな感じあへり事やがて上にもれて 位二階に叙せられぬ貞観十二年の事となん    論   人あり問ていはく家主以下の四人その身いや   しき民なりといへどいつれもいみじき孝子   なれば人の子たるものはたれも〳〵かた   どらまほし【真似て欲し】きをある儒者のいへるはをよそ   民家は田つくりこがひ【蚕飼い】するにいとまなけれは   かく身をつくして父母にはつかふまじき也   たゞよくわざをつとめて其心に孝の本を   うしなはざればすなはち是孝子なりもし   本なくは小学の書にしるせる孝行ども   ひとつもかけず身よりなせるともたゞそれ   孝子のまねの狂言なるべしとなん此論の   ごとくならば家主 等(ら)四人の孝も必しも民家   のまねぶへき所にあらさるかいはくこの儒者   の論を思ふに内その誠なくて外のみつとめ   て孝行せんよりはたゞ外をやめて内を   つとめむにはしかじとおもへりその理なきに   あらず然れどもこれたゞ内をつとめ本を   たうとむ事をしりて内外本末もとより   ふたつなきの理をしらずあはれむべし   されは聖賢の人の子ををしへ給へる必そこ   ばく【いくらか】の法をたてゝそれにしたがひよらしめ   給ふ孝はたゞ本をえてやみねと説たまふ   事はなし本だにあれは孝道たりぬとおも   へる人のためにかたらば昔ある人父母   の住ける家のほとりに火おこりたりと聞   てあまりの心もとなさに諸神諸仏にねがひ   をたてゝ父母の息災をいのりすましてさて   行てすくはんとしける内に父母ははや   やけしににけり内の誠は有がたけれど   外にすべきことをそなはりたればなり   本をつとむる人かくおろかなるべしといふ   にはあらねどつゐへゆかば此たぐひにもや   似むことさらちかき世は人のならはしうすく   をのが身をたつるわざには懈(をこたり)もなくて父母   にはおほやううとししかるを今それに   をしへてもはら力を農桑(のうさう)につくして   父母にはさのみつかへずともといはゞいか   なる世にか成行はべらむおそろし 【絵画 文字無し】 十 丈部(はせかべの)三子 元正天皇の御時 漆(うるし)のつかさの令史(さくはん)はせかべの 路(みち)の忌寸石勝(いんきいはかつ)つかへのよぼろ【注】秦(はだの)犬麻呂二人漆 をかすめたりとて遠き国へながさるべきに さだまりぬ石勝三人のおのこあり太郎 祖父(そふ)麻 呂年十二次郎 安頭(あんづ)丸こゝのつ三郎 乙(をと)麻呂七 になんなりけるともに父が流罪(るざい)をかなしみうち つれて官所にまいりわれら三人ながく官の やつことなりて父が罪をあがなはんといひて 【注 「よほろ(丁)」のこと。古代国家のために徴発されて使役された人民】 せちにおもひ入たるさまなり人々是を奏(そう)せら れしにみかどふかくあはれませ給ひて士(し)の百 行たゞ孝 敬(けい)を先とすかれら孝なり其ねがひ にまかせて石勝か罪をなたむ【寛大に処する】べしとなんおほ せ出されければ犬麻呂ばかりそ配(はい)所には赴(おもむき) ける    論   むかしもろこし梁(りやう)の世に吉 翂(ふん)といへるわら   はべあり父罪にかゝりて官にとらはれ居ける所に   行て父にかはりてしなんとなむいふ人のをしへて   いはせけるにやと人々うたがひて罪人をせむる具(ぐ)   おほく取ならべて吉翂に見せけるにさらにおそ   るゝけしきなければみかども是をあはれがり給て   父子ともにゆるし給ふとなん吉翂はこの時十五   なりし祖父丸【「麻呂」】兄弟わつかに十二九つ七つにて   君にも臣にも露うたがはれまいらせずたゞ   一言の下に父子が罪をゆるされけるは何ぞや   その孝の誠いたればなるべし 【絵画 文字無し】 十一 信州(しんしうの)孝児 しなのゝ国の何がしとかや年ころの妻にやをくれ けん京にのほりし比女をおもひてぐして国に くだりけるに此女京に見し人ありて折々 文かよはすなるをある人ほのきゝて何がしに つげしらせけり何がしひまをうかゞひてさる べきふみあまたもとめえてけれどをのれは 物もえかゝざればよむ事かなはで思ひわづら ひてわがはやうもちたりし子の戸がくし山 に手【文字を書くこと】ならひてありけるをとみ【差し迫った状況】の事ありとて よびくだして彼文どもよませけり児これを ひらき見れば誠によのつねのふみにはあらず 児おもひけるは是をありのまゝによみなば まゝ母かならず父のためにうしなはれんしからば 父の心もいかでやすからんたゞ事なからむやう にと思ひけるほどに文の詞(ことば)みなかへてつねの 事によみなしけり父きゝてうちよろこびかへ りてつげしらせし人のことはうきたり【不確かである】と思へり されば児をば山にかへし女にももとのことくあひ なれけり女うれしさのあまりにいたゐけし たるものどもとりぐして児のもとへ文やるとて   信濃(しなの)なる木曽路(きそぢ)にかゝる丸木ばしふみ見し ときはあやうかりしをとなんかきつけてつかはし ければ児の返しに  しなのなるそのはらにしもやどらねどみな はゝきゞとおもふばかりそ    論   ある人いはく淫(いん)なれはすつとこそ礼経(れいきやう)にも   見え侍れまゝ母人と文かよはす此児などて   まことをつげて父にはからはしめざるや   いはく父をふかく愛する人はかならず後   の母にあつし罪あれどもあらはさず父の   心をやすからしめんがためなりむかし   晋(しん)の太子 驪姫(りき)かためにしこぢ【讒言する】られて身   あやうし人みな驪姫がつみあらはし給へと   いへば太子いへらくわが父老たまひて驪姫な   ければやすからずもしかれが罪をあらはさば父   いかりてかれをすてむ我しのびずとなん   いひて終にをのれころされ給ひぬ後の   是を議する人道理にあたらずなどいへ   どその孝心はまことに有がたしと信州   のこのちごを見るに晋の太子と事はかは   れどその父の心をやすめ母にもゆへ   なからしむることはすなはち相似たり   孝子にあらずやまゝ母も人なり児か心   にはぢ悔(くゐ)てそのあやまちをあらため   ざらめやいかで害(がい)せしむるにいたらん 【絵画 文字無し】 十二 隨身公助(ずいじんきんすけ) 公助は東三条太政大臣の御 鷹飼(たかかひ)随身 武則(たけのり)が子也 つねに父に孝なり右近(うこん)の馬 場(ば)の賭(のり)弓公助わろ くつかうまつりたりとて父いかりてはれなる 所にて公助をうちけるににげのく事もせて しばしか程うたれにけり人々いかでにげざりし ぞととへば公助がいはくもしにげなば父をひなん をひてはたふれなどし侍らばきはめて不便なり ぬべければ心なぐばかりうたれ侍るなりと申き きく人いみしき孝子なりといひつたふるほどに 世のおぼへもこれよりぞいできにける    論   むかし曽(そう)子父にうたれてたふれて絶入ぬ   すでにさめたればさらぬさまにて猶父につかへ   しりぞきては琴かきならし歌うたへり   これはそのうたれし所いたみもなくわづらは   しからずと父にしられんとおもひてなり   孔(こう)子これを聞ていかり給て舜(しゆん)の瞽瞍(こそう)に   うたれさせ給ふにその杖(つえ)ちいさやかなれば   うたれて父の心をなぐさめ杖大きなれば   必のかれにげ給ふ今曽 参(しん)父にうたれ大杖   をさけずしてたふれてたえいれりこれ   父を不義におとしいる不孝いづれか是より   大ならん参もし来らば門にいるゝ事なかれ   となむのたまひしとぞ是によりておもひ   見るに杖すこしくはにげざるもよしもし   大杖ならましかは公助もまた不孝におち   いりぬべしにげたらむがまさるまじきや   いはく舜曽の御事はしばらくをきぬ公助が   父老て腹あしくにげば必をはんをはば必たふれ   て其身をやぶらむ公助是を思へばにぐるに空   なし杖の大小も見るにいとまあらず人のおほく   て恥がましきもおぼえず今その心ををしはかれ   ば涙おちむねふさがりてわれらが親に   うすかりしこそくゐかなしまれ侍れかれが   不孝におちいるべきことはえしもしり侍らず 【絵画 文字無し】 十三 曾我(そが)兄弟 兄は十郎 祐(すけ)成弟は五郎時宗伊豆の国伊藤次郎 祐 親(ちか)が孫(まご)にして祐 重(しげ)が二人の子なり祐重 工藤(くどう)祐 経(つね) にころされし時祐成いつゝ時宗三つに成けるか母に したがひて曾我と云所にありけれは曾我とは 名のりけるなり兄弟すこし物の心しれるより 後は父の仇(あた)をむくひて敵(てき)とともに死なんと思ふ より外なし母ふかくこれをうれへてまつ時 宗を箱(はこ)根山にのぼせて法師とならしむ時宗 母の命(めい)にそむかず行て山にありといへとも露心 ざしをかへずある時師の僧をのれを得度(とくど)せん といふをきゝてにげて曾我に帰りぬ母いかり て相見ず時宗よるかよるかたなし祐成わが住ける 屋にかくし置て衣食(いしよく)をともにせり時宗打 なげきていはく母の心にそむかじとすれば父 に孝なし我にふたつの身なきをいかんと時に 建(けん)久四年なり右大将家しなのゝ浅間 下野(しもつけ)の 奈須野に狩(かり)す工藤これにしたがへり兄弟ひそか に行て隙をうかゞひけれとかなはず又冨士に狩 あり工藤したがひぬ此たびは兄弟死をきはめ て出立けりしかるに時宗母ににくまれ久し くあひ見ずして死なん事をいといたふかなし とおもひけれはをして母のもとにゆきて時 宗こそ十郎殿と冨士の御狩見にまかで侍べれ ねかはくはしばしの御ゆるされをえてたゝ一目 見たてまつりてゆかばやとなん人していはせ けるに母なをいかりてきゝ入べくもなし時宗泪 にむせびあはれたゞけふはかりはゆるされま いらせたくこそといへどこたへず祐成も来り てさま〴〵に侘あへれどゆるさず祐成心に おもへるやうわれ兄弟冨士にて必しぬべき 事を露はかりもらしなば母いかで時宗を 見たまはさらむされはとてつげまいらすべき にあらずたゞたばかり奉りて時宗を 一目見せまいらせ時宗にもこの世のねがひ みてしめはやとおもひければわざと言葉をあ らゝけて時宗かくまで母ににくまれまいらせて 世にありて何かはせんいで祐成 殺害(せつがい)して御 心にかなひ侍らむといひて刀(かたな)に手をかけてたちぬ 母うち驚きてやゝ祐成ゆるすぞといへは祐成 かぎりなくよろこぼひ【すっかり喜び】てやかて時宗をぐして 母のまへに出ぬ時宗なきはらしたる目ふり あげていとうれしげに母をぞまぼり居たり ける鬼(おに)をも神をもあざむくばかりたけきおの この母ならでたれにかかくはしほれむとありけ る人々みな涙おとしにけりかはらけ【素焼きの盃】めぐりて 後おの〳〵よろこひをつくしいとまをこひて出ぬ母 見をくりて御狩をはらばすみやかに帰るべし 時をすぐすなといへるをきける兄弟か心の内 おもひやるべし兄弟冨士野につきて工藤があり ける所よくあなゐしをきて一夜のいたうふけ ゆくほどらうして忍び入ぬ昼(ひる)狩くらしてつかれ たれば人みないぎたなし【寝汚し】されど工藤はこゝになし 兄弟せんすべしらずあきれまどひて立ける処に 人ありてさゝやきて工藤ふし所をかへぬこなたへと いひて道ひき行てまことにいねし所をぞをし へにける兄弟神の御めぐみとよろこびやをら すべり入て工藤かいねしさまを見ればうかれめ ともにふしたり時宗まづ女を床より引くだし 声なたてそといひてすなはち工藤が跡にせま れり祐成は枕にたてり兄弟面を見あひて 相よろこべるさまたとへをとるに物なし祐成 工藤にふれおどかして曾我の祐成時宗父の あたをむくふわとの【吾殿=おまえ】いかでふせがざるやと工藤 きゝもあへすをのが刀をぬきて起(をき)あがらむと せしを祐成きりぬ時宗も又きりぬいつゝみつ の年より何事をかねがひつるとておどりはね てきりけるまゝに工藤が身いくきだ【注】になりてか しにけむちかくふしたる王藤内もきられぬ そのゝち目をさましたる家の子ども夜うち ぞといひさはけば此たび右大将家にしたがひ 来し諸国の武士いであつまりて兄弟とたゝかふ 【注 物の切れ・刻み目を数える語】 兄弟心のまゝにきりめぐりけるあいだに祐成 まつうたれにけり時宗は猶しなざれば頼朝と ても祖父(おほぢ)祐親か仇(あた)なりうらむまじき人にも あらずさいはひに近づきたらば一太刀こそうた めとおもふ程にをして頼朝の館(たち)に入ぬある つはもの女のさましてたばかりよりて終に とりこにしてけり其しばりくゞむるやう 殊にきびし小川三郎祐 貞(さだ)と云ものありて これ強盗姦賊(がうどうかんぞく)にもあらずつながすとも にぐべからずなどかばかりにはといへば時宗 きゝてよくこそいへれされどわが此縄は孝行 によりてつきたればこの縄すなはち父のため によむ所の経のひぼ【紐】ぞかし何かはやましから むといひてうちわらひつゝ行て松が崎と云 ところにてきられぬ年わづかに二十祐成は 二十二なりし見と見きくときく【注】人これをあは れまずと云ことなし事のはじめをはり世の 人みなこまやかにかたりつたへ侍ればたゞ其おほ 【注 「見る」「聞く」を重ねて強調した表現】 やうをしるすになん    論   ある人とふかたきうつ人をばからやまと是   をころさず右大将家などて時宗を殺(ころ)すや   いはくわれむかし曾我物語見侍しに   頼朝は時宗をふかくかなしとおもへり後に   母にろく給ふてごせ【後世】とはせ給へるを見て   しるべししかはあれどありし夜かれがため   に疵(きづ)をかふむり身をころすものあまた也   工藤が門 族(ぞく)又おほしたすけをくともすゑ   とげずはかれに益なきのみならず国も   おだやかなるべからずしかじたゞうし   なはんにはとおもへるなるべしせんかたなき事   なめり又とふ兄弟五七歳より後は仇とゝも   に天をいたゞかじのおもひ誠にいたりつくせり   となんしからばもはら薪(たきゞ)にふし胆(たん)をなめ   し跡をこそしたふべきに旅屋【旅宿】にかよひて   うかれを愛せし事はいかんいはく旅屋は   敵(かたき)の行かふあたりなれは事をあそびによせ   てたよりをやうかゞひけむされど兄弟   がこのあそびたからの珠(たま)の瑕(きづ)とやせん是に   よりて身をあやぶめしこともおほかり   つればかの一大事のほいとげしは大なる幸   なりかしもし兄弟をまなぶ人あらば必   これをいましめていたく絶(たえ)ずはあるべから   ず 【絵画 文字無し】 十四 鎌倉(かまくら)孝子 鎌倉の相(さう)州禅門のさふらひ何がしとかや母あり きはめて腹あしくある時いかりて何かしを むちうたむとしてあやまりてたふれて身 すこしいたみければいよ〳〵腹たつまゝに禅門 の前に出てわが子こそ我をうちてつ土にたふれ しめ侍れといへば禅門おどろきて何かしをめし てとはれけるにたれかさは申つるととへばなんぢ が母のいへるなりとこたへらる何がし口をとぢ ぬ禅門おもへらく此不孝のもの近づくべからずと 終に流罪(るざい)にさだめらる母これを聞てむねう ちさはぎ又禅門の前に出てさきには我いかり のためにみだられてあらぬ事申つる也まことは わが子我をうたず我かれをうたんとしてあや まりてたふれて腹たちければ物にくるひ侍し なりわが子 咎(とが)なし流罪をなだめさせ給へと いひて泪をしのごひけれは禅門うちわらひて 又何がしをめしてなんぢ母をうたずいかでさきに さはいはざりしぞととはれければ何かしこたへて いはく母すでに我にうたれぬと申けるをさには あらずと申さば母をいつはれりと人のいひお もはんがかなしくおもひたまへられ侍りて申さ ざりつるとなむいへば禅門ふかくこれを感嘆(かんたん) し所領などましあたへてよき人えたりとよろ こばれけるとなむ    論   忠臣は孝子の門にもとむといへばむべこそ禅門   のこの人をよろこび所領をまして賞せられ   けれこれを見きく人忠孝にすゝむまじ   きや忠孝の人家におほくはその国たいらか   なるまじきや北条氏の代をかさねて天が   下まつり ごち(ごとせヵ)【「ごち」の左に「◦」を傍記】しは誠にその故なきにあらず 【絵画 文字無し】 十五 本間資忠(ほんますけたゞ) 源内兵衛資忠は相模の国の人本間九郎資 貞(さだ) が子なり正慶みつのと【癸】の酉のみだれに赤(あか)坂の城 せめんとて鎌倉より八万余のつはものはせのぼり けるとき此おや子ものぼりてすでに天王寺に たむろせしが大将あその何がし赤坂へはあさて【明後日】 ばかりよすべしとなんいひふれけり資貞 いかゞ思ひけんそのふれにしたがはず人見四郎 入道 恩阿(をんあ)と云ものとつれてひそかに天王寺を 【120コマの目録には「本間資忠」は十七番目になっている。「本間」が先に入ったことによって、番が一つ後ろにずれていく】 出てたゞ二 騎(き)赤坂にむかひてたゝかひてしに けり資忠これを聞て父がをのれをゐてゆ かざりし事をうらみて追(をふ)てかしこにしな むとおもへりある人そのありさまを見て いさめていへらくをよそ士(さむらい)の人に先だち てうちじにするもみつからその義をおこな ふのみにあらずそも〳〵子孫のさかへをおもふ なり資貞のそこにつけずして死せる心なき にあらじもし又行て死せば大きに父の志に そむくべきぞといへば資忠うちうなづきて 其人をかへし鎧(よろい)うちき太刀かたなとりてまづ 上 宮(ぐう)太子の影堂(ゑいだう)にまいり冥途(めいど)にてはかならず 父にめくりあはせ給へと祈誓(きせい)しやがて赤坂 へおもむきけるが石の鳥居を過るとて  まてしばし子をおもふ闇(やみ)にまよふらむ六の 地またの道しるべせむとよみてゆびくひきり その血して鳥居にかきつけさがみの国の住人 本間九郎資貞が子源内兵衛資忠年十八父 がかばねを枕としておなじく戦場(せんじやう)に死しをはん ぬとかきそへ馬引よせてうちのりしばしが 程に赤坂につきて城の木戸うちたゝきて 我はこれ今朝この城に死せし本間九郎が子也 父われにしらせざりつれば今まではをくれ 侍るねがはくははやく死して追(をひ)つきて父に 冥途につかへ侍らむ木戸ひらかせ給へとなんいふ 人々城より見るにたゞ一騎にして跡もつゞかね ば木戸あけていれぬ資忠よろこびてふかく 入こゝらのつはものとたゝかひ終に父が死せし所 にしておなじさまにしにけるとそ    論   資忠をいさめし人のことばあたれりなか   らへて家をつぎ祭をもたゝざるこそ父   が志にもかなひていみじかるべけれ其死   むやくならずやいはくしかりされと父   とともにいくさの陣(ぢん)にありて父死して   わかれとゞまるに忍びずゆきて幽途に   つかへむとおもふも又孝心ならざるにはあらず   もろこしにも此たぐひおほしおほやう   孝を称せられたり本論にその人を出   せり大抵本朝の士のたゝかひに死せる君   のためにするはいたりておほく父のために   するはきはめてすくなし君のためにす   るは或は名をおもふ父のためにするは   誠のみ孝なるかな資忠 【絵画 文字無し】 十六 大蔵右馬頭 頼房(よりふさ) 文和それの年 将軍(しやうぐん)尊氏 新田(につた)義宗義 興(おき)と むさしの国に相たゝかふ石 堂(だう)四郎入道それがし 将軍の手にありながら三浦 葦(あし)名二 階(かい)堂 等(ら)と ともにほこをさかしま【矛を倒さまにする=裏切る】にせんとはかりあすのたゝ かひに必ほいとげんと定めあひけりその夜石堂 わが子の大蔵右馬のかみ頼房をよびてひそかに 此事をつげたり頼房大きにおどろきさま〳〵 にいさめけれど父きゝ入べくもなければせんかた なくてしりぞき出てたゞちに将軍にまいり三 浦葦名 等(ら)君にそむく頼房が父も又是にくみせり はやくこれかそなへをなしたまへ頼房ふかく 不孝の罪ををそるといへど又申さでやむべき にはあらずもしかくつげ奉る事をいさゝか忠 ありとし給はゞさいはひに頼房がねかひをみ て給へねかふところ他にあらずはやく頼房が くびきらせ給ひて父がいのちをたすけたまへ いかなる御恩にもましぬべしといへば将軍つく づくときゝて涙おとして汝(なんぢ)か此忠わが世はをき ぬ子孫にいたりても忘るべからず父入道の事心に かけざればいかでかうしなふべきといひてすみ やかにつはものをつかはし三浦葦名等か陣をや ぶりて石堂をば問れずそのゝち頼房 仁(につ)木義 長をもて将軍に申す君頼房が父をころさず 恩にむくふるに道なしねがはくは頼房みづから 死して父が罪をあがなはむと将軍これをきゝ 給ひてあるへくもなしあなかしこいさひとゞむべしとぞ 義長におほせける世の中しづまりて後石堂父 子ともにつゝがなし    論   私恩(しおん)をもつて公義を害(かい)せさるはかたし私恩   をもつて公義を害せずして私恩も又やぶ   るゝことなきはいよ〳〵かたし伊藤九郎祐清松   田左馬助がともからのごときは私恩をもつて   公義を害せざる事はしれりかくのごとき人   猶えつべし頼房がこときは誠に得やす   からず祐清がともからの及ふべからざるのみ   ならずもろこし楚(そ)の弃疾唐(きしつたう)の李璀(りさい)といへ   ど又及はずわが国の人あるを見るべしたれ   かいふ忠孝ふたつながらまたくしがたしと   頼房これ其人なりある人いはく頼房   がことはさらなり君のおほせには父をもころ   すといひならはせば源の義朝(よしとも)の為義を   はからへるがごときはかへりて義に害なきや   いなやいはく人の禄(ろく)をうくる人その君のため   に父をわするゝことはあるべしすなはち   弃疾李璀かたぐひなりさはいへど義朝が   ことのごときは人たるものゝすべきわざに   あらず不義のいたりふ不孝のきはまれる   なりいかにとなれば保元(ほうげん)のみたれ義朝 功(こう)   あり身にかへてこひもとむる事この頼房   のごとく相似ば為義の罪いかで御ゆるされ   もなからむたゞをのが軍功の賞をのみむさ   ぼり父を見る事道ゆく人のごとし終にころ   して君にこびたりその罪 逆(ぎやく)たとふるに物なし   されば天はかならず罪あるを討(たう)せることはり   なれば父死していまだいく程あらざるに   かれ平氏とたゝかふてかたずにげて尾張   の国にいたりて郎等(らうとう)忠 致(むね)にころされ頸(くび)を   京都にさらさるその子義平朝長義圓範   頼義経かともから一人のその死をえたるなし   女子におゐても又しかりひとり頼朝さいはひ   に志をえられけれど世につたへて云その終り   をよくせられずと東鑑(あつまかゞみ)に逝(せい)去の月と所   とをしるさずはふむりをいはず是を證と   すべし又百錬抄といふふみには正治元年   正月十一日頼朝所労によりて出家せられ   十三日におはらるとしるせりかく終焉(しうゑん)の   すみやかなるも又一證とすべきか頼朝の   子頼家その弟実朝のためにころされ実   朝又その姪(めい)公 暁(けう)にさゝれ公暁もすなはち   死してつゐに藤氏にその家をつがるされば   聖人は俑(よう)つくるものをだに後なかるべし   とのたまへり義朝が子孫のこゝにいたれる   あやしむにたらむや人それこれをお   もへ 【絵画 文字無し】 十七 楠帯刀(くすのきたてわき)正 行(つら) 正行は河内の判官くすのき正 成(しげ)が長子なり建武(けんむ) 丙子の五月尊氏都をせむへしとて関より西の つはものいく万騎にやあらんみづからひきゐて すてに津の国にいたれり新田左中将これに対 しぬ主上正成にみことのりして中将をたすけしむ 正成かねてたゝかひかたざらむ事をしりて 死をきはめてかしこに赴(おもむ)く正行年十三父 とともに京を出て桜井のやどりにつきぬ 正成これより正行を河内に帰らしむるとて かきくどきをしへけるは異国(いこく)の獅子(しし)といふけだ ものはむまれて三日にしてよくその父をまな ぶとなん汝すでに十にあまれりわがこの ことばをこゝろにしめてしばらくも忘るべからず われもし死せば尊氏の世となるべしさあらむ とき身をたもたんとてかれにくだるべからず たゞ義あるいくさををこしていのちを君に いたすべし是汝が大孝ぞといひてなきてわかれ ぬおなし月の下の五月に正成終に兵庫(ひやうご)にて うたれぬ尊氏むかしのちなみわすれずいと あはれにおもはれけれは正成がくびを妻子の もとへをくらる正行父がくびをみ見て母とともに愁嘆 せしがそのかなしみにたへすやありけん刀をぬき て身をやふらむとす母いだきとゞめていはく いで汝あやまてり判官なんぢを桜井よりかへ されしは何のためとかしるや幸に人とならば 朝 敵(てき)をうちていのちを君にさづけまいらせよと はいはずやもし然らでいたづらにしなば不孝何 事かこれにまさんと正行うけたまはりぬとて刀 をばおさめけりそれより後はつねのあぞびたは むれにもたゞ太刀はき矢おひていくさのかけひ きをまねぶより外なかりけりやう〳〵年もかさ なりぬればまづ家の子五百余騎をゐて住吉天王 寺のわたりにいくさだち【出陣】しぬそのいくさののり いといみじくて父のしわざにもおさ〳〵おとらず すでにすゝみて細(ほそ)川むつの守 顕(あき)氏が三千のつは ものを藤井寺にうちて大にかちぬ又山名伊 豆(づ) のかみ時氏 等(ら)か六千騎にもかちぬ尊氏おそれ て高(かう)の師直(もろなを)師 泰(やす)におほせて正行をうたし むそのつはものゝ数八万なりとぞ正行三千騎を ゐて四条縄手にむかへたゝかふつはもの数すく なしといへどそのいきほひはなはだたけし むかふ所まへなし秋山大草居野なといふ勇士(ゆうし)も 正行とたゝかふてはやくうたれぬ次に武(たけ)田が 七百余騎又おほやううたる次に細川清氏が 五百余騎次に仁木 頼章(よりあきら)が七百余騎次に千 葉(ば)宇 津 ̄の宮が五百余騎次に細川 讃岐(さぬき)のかみ頼春が 七千騎おの〳〵馬にあせしほこさきをくだく正 行物のかすともせず鷹(たか)のごとくにあかり虎(とら)の ごとくにたけし師直が陣さゝへ【支え=応戦して食い止める】ずにげて八幡(やはた) をすぎ京に入もおほかり師直あやうし上山 六郎と云もの正行をあざむきてわれ師直ぞと いひてうたれぬ師直があやうきをすくひてなり正 行まことの師直ぞと思ひ上山かくびをとりていと いたうよろこびけるが師直猶ありと聞ていかりて 又すゝみけるに高の播磨(はりま)のかみがつはもの五十余人た ちまちに死す師直いよ〳〵あやうしこゝにつくし 人の中に弓に名をえし須(す)々木の何かしありてし きりにはなちて矢五つまでそ正行に射(ゐ)たてけ る正行心たけしといへど身その矢にたへずかなしき かないたましきかな弟の正時と心ゆくばかりさしちがへ てふしぬ年わづかに二十五正平四年の春正月五日 なり天下しるとしらざるとあはれ父が志を つぎけりとぞ感しあへる    論   ある人いはく正成のこゝろざしたゞ将軍家   をほろぼして南帝を世にたて奉るに   あり正行はかりことをめぐらしつはものを   あつめ時を待て其功をたつべきを力し   かざるにはやりてたゝかひやくもなき   しにしけるは父の志をつぐものにあらすいかん   いはく天下はいきほひのみといへり正行いき   ほひをいかゞせんそのかみ尊氏 威(い)勢日 々(”)に   まう【猛】なり南朝これにあたるべからず   いはんや君のあきらかならず臣も才なし   世の武士心を南方によするもの十がひとつ   ふたつなるをやたとひ年をかさねよは   ひをつむともいかでなしうるときのあらん   そのうへ其身病おほし不幸にして床に   ふさばくふともかひあらじたゞ父の遺(い)命   にしたがひてはやくたゝかひに死せんには   しかじとおもふなるべしこれ正行が正行   なるところなりつく〳〵とおもひ見るに   正成兵庫の志には身をもて道ひけるなり   正行四条縄手のたゝかひはその道をゆける   なり志をつぐにあらずして何そやある   人の物がたりにみかどある時 弁内侍(べんのないし)とき   こゆる優(ゆう)なる女房を正行に給はんとのみ   ことのり有ければ正行    とても世にながらふべくもあらぬ身のかり   の契をいかてむすばんとよみて奉りてかた   く辞(じ)し申けるよし吉野拾遺といふふみ   に見えたりとなんこれを見ても正行が父   の遺言露わするゝひまなかりしことを   しるべし 【絵画 文字無し】 十八 左衛門 ̄の佐 氏頼(うぢより) 氏頼は尾張修理(おはりしゆりの)大夫入道道朝か嫡(ちやく)子なり孝順 にして学問をこのみつはものゝ道にもくらからず 将軍これををもくせられ世の人もほめきこえ けりたゞ父の入道のみひとへに庶子(そし)の治部(ぢぶの)太輔 義將(よしまさ)を愛してをのれにかはりて政とらし めむと思ひける程に常に氏頼を将軍に さゝへけり氏頼これをしるといへど心にも色に もをこさで日ころ過けるかある時したしき 人々をわか館(たち)にまねき何となくかたり出ける はわれ忠孝をはげまして君と父とのよろ こびをえんとしけれどざえつたなくてなす 事もなし昔より子をしるは父□【「に」ヵ】しくなしと いひつたへたれば入道のわれを愛せざる誠に そのことはりあり今より後もし大なるあや まちあらば入道をはづかしめ先 祖(ぞ)の名をもくた すべければしかしたゞ仏道に入てふかき山にも すまんにはとおもふぞとなんいへりそのゝちいく 程もなくて家をいで髪(かみ)をそり衣をそめて名 を心勝とあらため紀(き)の高野山に入て住けり時に 年三十四その妻は佐々木入道道誉がむすめ にて子三人あり氏頼みなすてゝかへりみす 将軍ふかくおしみ給ひしは〳〵使を山につかはし その心をなくさめられけり立かへりつかへむ 事をねがひて也氏頼これをわづらはしとして ひそかに高野山を出て下野の国くろかみ山に かくる将軍なを打をき給はず鎌倉の基(もと)氏朝 臣におほせて立かへりつかへん事をすゝめられけれ どきゝ入へくもなししかるに世こぞりて氏頼 が山を出ざるは父道朝が悪 逆(ぎやく)をにくみてなりと 云を氏頼つたへ聞ていといたう是をうれへわが出 さるが故に父此そしりをうくわか罪ふかし いかで出ざらむやとおもへど我出てむかしの ごとくならば義將がためうしろめたくや父の 思はんとまづ基氏をたのみて我出ぬとも官禄をた まひ政をきかしめ給ふべからずと将軍に申し將 軍これをゆるし給ふて後ぞ山をば出けるよりて 京につきける後も京にのみはあらでともす れば若 狭(さ)の国に行て居けりこれ又父の心の やすき様にとはかりてなるべしさればかく 俗(ぞく)にかへりしやうなりつれどうち〳〵終に僧 律(りつ)をやぶらず後に又山に入しとなんいひつたふ    論   仏法わが 国にありてより世をそむき山   にいる人その道によらずと云ことなし既に   よれは父をも母をも忘はてゝひたみち【ひたすら】に   仏につかふるをいみじとおもへりしからされば   道心ならずとてみつからもはぢ人もわら   へりさるゆへ一たび世をそむき山に入て   なれは恩愛たちかたくて父母をしたふ心   の出くる時もつとめてそれをはらひすてゝ   もはら空寂(くうじやく)におぼるかなしからずや氏頼   すなはち其人にして今かへりて父のため   にたやすく山を出きたるはいかにそれ人   愛すべきを愛するは天命の性なりさらに   私心にあらずつとめてそれをさるはかへりて   性をくらますなり氏頼 釈(しやく)門にかくるといへ   どさいはひにいまだかの天性をくらましは   てず猶父を愛する心ふかしいかで彼くらまし   はてゝ父兄の難ありといへど山をでる心な   き人にならはんやすでに出て官禄をうけず   政をとらず僧律をやぶらず是を見てもかれ   誠に父のために出ける外また思ひなきをしるべし 【絵画 文字無し】 十九 武州孝子 昔むさしの国なにがしの里に二人ありひとり はとみひとりはまづしその交(まじはり)あさからずとも に身まかりぬ二人が子又したしある夜まづし き家の子夢のう内に父来りてわれいける世に とめる家の物そこばく【数量の多いこと】ばかりをかりてかへさず してをはりぬ心におゐてやすからずねがはくは 汝はやく是をつくのへ【償え】といへり夢さめてむね うちさはぎわれ父の此おひめある事をしらて いままて御心をやすめざることの罪ふかさよとて すみやかにその物をいとなみもとめてとめる家 にをくりて夢のつげかくのことくなればとぞ いひやりけるとめる家の子きゝもあへすわが 父世にありしほと此事をいはずそのこゝろざし しりがたし今父 冥途(めいど)にありわれ行てとふべ からず又此物をちゝがもとにをくるに道なくわれ みづからほしゐまゝにこれを家にもちゆべから ずしかれば我これをうけてせんすべをしらず これによりてうけずとなんいひてかへせりまづしき 家の子是をなげきてわが父のおほせ也まげてう け給ひてよとあながち【一途】に侘あへれどきかずすべ きやうなかりければ鎌倉に行て官所に申て 是をわか友それがしにうけしめて亡(ばう)父か心 をやすめさせ給へといへり官所すなはちかの とめる家の子をめしてしか〳〵といひきこゆ ればとめる家の子ことば前のごとくにして いさゝかうくべきけしきもなしまづしき家 の子 泣(なき)てしゐぬ此あらそひを見る人みな泪を ぞながしにけるしからば二人をなじく此物 を用ひて仏事をなして二人の父が冥福(みやうふく)を たすくべしとぞ官よりは下知せられにける    論   ある人いはく夢ははかなしまことゝするに   たらず武州の孝子まどへるに近(ちか)からずや   いはく夢まことゝすべきあり殷(いん)の高宗 周(しう)   の武王孔子の見たまへる所のごときこれ也まこと   とすべからざるあり邯鄲槐安(かんたんくはいあん)のたぐひ是也   されどそれにはかゝはるべからずまこともあれ   まことならずもあれうせし親のうれへよろこ   びを見て夢なればとて我うれへよろこぶ   まじきやねがひあらばかなへまいらすまじき   やむかし大江の佐(すけ)国が子それがしすけ国身   まかりて後 蝶(てふ)となりて来りて花にたはふ   ると夢見しより日ごとに蜜(みつ)といふものを花に   そゝきて蝶のあそぶをもてなしけりなき   親の事となればかゝるはかなきわざをだにし   けり是をまどへりと笑へる人は見る所は   たかゝるべけれと孝子の心をばしらざらむ   かしいさゝかの事を忍ふより終には大なる   不孝にもおちいるぞかしよりてこゝに   思ふことあり友のこかねをかりてかへさで死   する人いかにもしてはやく返すべしと   その子にいひをけれど子それをかへさずかし   たる人の子しきりにこふて中あしくなる   ともがら世におほかり遺言(ゆいごん)は夢にはあらね   どまことゝせざればすべきやうなしさる人の   まなこより見ばこの武州の孝子が事いかば   かりもどかしからむ 【絵画 文字無し】 二十 養(やしなふ)_レ母孝僧 白川院の御時にや京ちかき所に住ける僧の老たる 母をやしなへるありこの母 魚(うを)なければ物をくは ざりけり僧人目もつゝましくくりやもまづし かりけれともとかくいとなみて常に魚をすゝ めけるに一とせ天が下 殺生禁断(せつしやうきんだん)のみことのり くたりて世に魚鳥のもとむべきなし僧せん かたなくてうほ【ママ】をそなへざれば母やゝ食をたて り日数ふるまゝによはりゆきて今はたのむかた なく見えけり僧かなしさのまゝにかなたこな たはしりまどひて魚をもとむといへどもえず おもひあまりてつや〳〵【全然】うほとるすべもし らねどもみつから川のほとりにのぞみてころ もに玉だすき【たすきの美称】して魚のたよりをうかゞひ居ける がとかくしてはへと云ちいさきうほひとつふたつ とりえたり友人これを見つけてやがて僧を からめとり院の御所にゐてまいりぬ殺生禁断 世にかくれなしいはんや法師の身にて此おかし【犯し=罪科】を なすこと一かたならぬ科(とが)なりとにくまぬ人なしさて 子細をとはれけるに僧涙をながして申けるは天下此 禁断の御時法師の身にてかゝるふるまひあるべ きことかはたゞしわれ老たる母あり我一人のほか たのめるものなしかれ魚なければ物をくはず今天 下うほをもとむるによしなくて母すてに食をた てりわれ心の置ところなく思ひあまりて川にのぞ みてからふして此魚をえたり罪におこなはれんことは あん【案=考え】の内に侍りされど此とる所のうほ今ははなつともいきじ 母のもとへ是ををくりて今一たびあざらけき【新鮮な】あぢはひ をすゝめて後此身いかにも成侍らは何のおもひかの こり侍らむといへばきく人みな泪をおとす院き こしめしてふかく感せさせ給ひて罪をゆるさせた まふのみならすさま〳〵の物を車につみて給はせ寺に かへし給ひにけり猶やしなひにとぼしき事あらば かさねて申べきよしをぞ仰下されける    論   客あり此ふみをよみてこゝにいたりてよろこび   ずしていはくそれ孝はよく父母につかふるの名   なりその文字をつくれるも老の字のかたへ【一部分】   をはぶきて子の字をそへたり老たる父母   のかたはらに子ありてよくつかふるを孝とす   るのいはれなりしかるに釈氏(しやくし)【僧侶】は家をいで   親をわするゝを道とすたま〳〵忘れはて   ざるもあらめど畢竟(ひつきやう)これ棄恩(きおん)の人也いかで   此ふみにはとれるやあるじこたへていはく   なへて釈氏の恩をすつるはうけたまはりぬ   此孝僧にありてはたゞよくやしなひ   よく愛するのみならず母のためにその   身をわすれ死にのぞみて志をかへずいま   その人を思ひその心をたづぬればおぼえず   涙ころもをうるほしかつわか不孝をくゐ   はづるにたへず誰も〳〵かくこそあらめ   しかれば此僧身は方外【浮世の外】にありといへどまこと   は孝門の先達ぞかしいかで此ふみにとること   なからむ恩をすつるをゆるすにはあらず 【絵画 文字無し】 【本文覧白紙 左欄外】 明治十年丑二月吉祥日        小原日仙求 【白紙】 【白紙】 仮名本朝孝子伝下目録  婦女       《割書:一》兄媛  《割書:二》佐紀民直    《割書:三》波自采女  《割書:四》難波部安良売  《割書:五》橘氏妙沖  《割書:六》薩州福依売   《割書:七》請僧孤女  《割書:八》供衣貧女    《割書:九》南築紫女  《割書:十》舞女微妙    《割書:十一》坂東僧女  今世  《割書:一》大炊頭好房    今泉村孝子  《割書:三》雲州伊達氏   《割書:四》中江惟命  《割書:五》川井正直    《割書:六》絵屋  《割書:七》神田五郎作   《割書:八》柴木村甚介  《割書:九》西六条院村孝孫 《割書:十》横井村孝農  《割書:十一》赤穂惣大夫  《割書:十二》由良孝子  《割書:十三》芦田為助   《割書:十四》安永安次  《割書:十五》大矢野孝子  《割書:十六》中原休白  《割書:十七》鍛匠孫次郎  《割書:十八》三田村孝婦  《割書:十九》小串村孝女  《割書:二十》宍栗孝女 仮名本朝孝子伝下  婦女 一 兄媛(ゑひめ) 応(をう)神天皇二十二年の春の末つかた難波(なには)にみゆき したまひたかき屋にのぼりてとをくのぞませ 給ふ兄媛ちかく侍り西のそらながめやりて 大になげく天皇問給ふ何ぞやなんぢがなけく ことのはなはだしきこたへて申さく此ころ父母 をおもふ事ふかし西にのぞむによりてことに なげかしねがはくはしばらく国に帰てち□□【「ゝ母」ヵ】 見侍らんかと天皇兄媛が孝ふかきに感ぜさせ 給ひてしばらく国にかへることをゆるさせ給ふ 国は吉備(きび)なり淡路(あはぢ)の御原の浦人あまためし て船子としてはやく吉備に送らせ給ひ織部(をんべ) のあがたをぞ所領にたまはりける    論   をよそ女子の国をへだてゝ人にゆくとき   その父母となきてわかれざるはまれなり   すでにゆきてその家に相 馴(なれ)ぬれはさきに   なきしことをくゐさるも又まれ也たゞ人   とすむたにしかりしかるを此人大内【内裏】にさい   はひせられまいらせてよろづたゞ心のごと   くなるべきをつねに父母を忘ることなく   そのしたひかなしめるさまはじめてわか   れし時のごとくなれば今みかどゝ西をのぞ   むによりておほえず大になげゝるならし   有かたき孝心ならずやみかど感し□□   めして御船にて送らせたまひ湯沐の   ところ【「湯沐の邑」のこと】ひろく給りし事みな孝行の   冥加(めうが)なるべし 【絵画 文字無し】 二 佐紀民直(さきのたみのあたひ) 民直は大和の国 添下(そふのしも)郡佐紀といふ所の民直氏の 女なりをなし郡の倭(やまと)の忌寸果(いんきはた)安か妻となれり しうとしうとめにつかへて孝の名ありおとこ死し てかたく志をまもり家をおさめてをのが子と こと腹【異腹】の子とすべて八人ありけるをなでやしなひ あはれめるさまいさゝかわくかたもなく【「分く方も無く」=分け隔てなく】見る をのれむめるがごとし孝 慈(じ)のいたり人みなほ【「し」が脱落ヵ】 感(かん)しけるとそ    論   この人たうとむべき道一かたならず舅姑(しうとしうとめ)によ   ろこびらるゝなりおとこ死して志をまもるなり   こと腹の子をのが子をわかずしてよくはぐゝめる   なりされば続(ぞく)日本紀にこれをのせて世につたへ   給ふ事も後代の人の妻のしうとしうとめにわ   ろくまゝ子をにくみおとこ死して後又人にあふ   事を恥(はぢ)しめ給はんためなるまじきやたか   きいやしきこれをおもひたまへ 【絵画 文字無し】 三 波自采女(はじのうねめ) 采女は対馬(つしま)島の上県(かみあがた)郡の人なりおとこ死して志を あらためず父みまかりてその墓(はか)にいほりす島の 民みなその孝義に感して上に申ければみつき【税】をゆる され門にしるされて名を世にあげしとそ称徳(せうとく)天 皇の御時なり    論   墓にいほりして住けること女の身にては   ことにしがたきわざなめり孝の□□□□   がゆへなるべしある人とふうねめおとこの   墓にはいかで庵(いほり)【注】せざるいはくしりがた   しされどこゝにおもふ事ありいにしへは   人死して妻などのなげきはさもあらで   賢(かしこ)き友たゞしき臣下(しんか)などのふかくした   ひかなしめるを死せる人の面目(めんぼく)とすさる   ゆへに心ある女はおとこの死をかなしめる   ことわか親や子にはおよばず魯(ろ)の敬姜(けいきやう)   が穆伯(ぼくはく)の喪にはひるのみ哭(こく)し文伯の喪に 【注 「庐」は「廬」の俗字。ここでは常用漢字の「庵」を使用】   はひるよる哭せしたぐひを見るべし   うねめ父の墓に庵しおとこのにはしか   せさるももしかゝる心やありけん 【絵画 文字無し】 四 難波部安良売(なにはべのやすらめ) 安良売は筑(ちく)前の国の人にていとけなきよりよく父 母につかふまつれりちゝ母はやくうせぬ安良売朝な ゆふな墓にまふでゝしたひかなしめるさまいとこよ なし【格別である】年十六にして宗像(むなかた)の郡の大 領(りやう)外正七位上宗 像朝臣秋 足(たり)にむかへられけりされど秋足世をはやう してやもめにて年へにければ此人をげさう【「けさう(懸想)」ヵ。】していひ わたるものおほかりけれどちかひてふたゝび人に ゆかず終に志をとげゝり天長の御時これをきこしめし て従二 級(きう)を給はりみつきをゆるさせ給ふとなむ    論   をよそ親に孝なればかならず君に忠也忠の   みにはあらず五のともからにおゐて皆そののりを   うると見えたりされば女の其父母に孝にしておとこ   に義ならざるはすくなし安良売を見てもしるべし   よりて思ふに世のめをめとる人その女の心のよし   あしをえらはばまづ孝なりやいなやを問て其   縁(えん)をさだむべしかならずのちの悔(くゐ)なけん 【絵画 文字無し】 五 橘(たちはな)氏 妙沖(めうちう) 妙沖は橘の逸勢(まさなり)がいとけきむすめなり承和九 年逸勢つみありて伊 豆(づ)の国にながさるむすめ わかるゝに忍ひずなく〳〵跡をしたひてゆく 逸勢をぐしてゆく人々しかりてをさへとゞむと いへどむすめひるはとゞまれるやうにしてよる〳〵【毎夜毎夜】 追(をひ)つきつゝ行て終に父にはなれず逸勢 遠江(とをとふみ) の国 板築(いたつき)のやどりにつきてみまかりぬむすめ是 をはふむりてやがてその墓(はか)にいほりし尼とさへ なりてみづから妙沖と名づくあけ暮なげきかなしみ ていほりにある事十とせに及べり道ゆく人これがため に泪をながさゞるはなし嘉祥(かじやう)三年みことのりあり て逸勢に正五位下を追贈(ついぞう)して本土にかへしはふ むらしめ給ふ妙沖大きによろこびてやがて父が ひつきをおひて京にぞ帰のほりにける時の人 こぞりて孝女とよへり    論   鳴呼(ああ)【「烏呼」の誤記ヵ】妙沖何それ人ぞや官禄(くはんろく)の家にむまれ   軽暖(けいだん)の衣につゝまれふかき閨(ねや)におふしたてら   れし身のまだいはけなき【物心がつかない】程に父にとをつ   国にしたかひ父うせければ墓にいほりし   人にそこなはれずけがされず十とせかあいだ   身をまたくして終に父のひつきを負(おひ)て京に   かへり入ける事あやしと云もおろかならずや   その辛苦(しんく)又いくそばく【幾そばく=どれほど】ぞたけきますらお   といふともたやすくはえたふべからずこれに   よりてつら〳〵おもふに人の辛苦にたへざる   は皆その志かたからざればなり志かたくは   たへぬ辛苦もあらじ人のつまやむすめいとくる   しとおもふとき世には妙沖もありし物をと   思ひいでゝよ必その辛苦をわすれん孝のみ   称(せう)してやむべからず 【絵画 文字無し】 六 薩州 福依売(ふくよめ) 福よめはさつまの国のいやしき民のむすめなりちゝ母 老ておのこなしたゞ此むすめのみありて父やまひ にさへふしたれば家のまづしさ思ひやるべし 福よめつねに人にやとはれていさゝかの物をえて ちゝ母をぞやしなひけるその辛苦にたへず さかりなるかたちもいたうおとろへかしけ【やつれる】に ければ人みなあはれと見けり父年八十やまひは いへざれとも猶しなざりけり福よめこれがため に薬を求(もとめ)すゝむることをよそ二十年なり母にも又 ふかくいたはりつかへけり殊にいみじかりしは 其身のいやしきにも似ずちゝ母につかふるさま やんごとなき人のその親をうやまひ給ふが□□【「ごと」ヵ】し 常におもゝちたゞしくしてかりにもたはれ【色恋に溺れる】 たる色なし同し里の人々有かたき事になん 思ひて終に上に奏(そう)してげ【ママ】ればやがて位三 級(きう)を たまひ門 閭(りよ)にあらはさせ給ひけるとぞ仁 寿(しゆ) 三年のすゑの夏の事なりし    論   人ありいはくむかし衣縫造(きぬぬひのみやつこ)金 継(つぎ)と云ものの   むすめ年十二父にをくれていたくなげゝり服(ぶく)【服喪】   はてゝその母かれがためによるへもとめんとしければ   ひそかにのがれて父が墓にいほりし朝夕   したひかなしみて更に家に帰らず母かれ   が志をしりて二たび人に見すべき事をいは   ず其後家に帰りふかく仏をたふとびて   常は母とともに経(きやう)うちよみてゐたりとなん   続(ぞく)日本 後記(こうき)に見えたり是いたれる孝なるべし   此ふみいかでこの人をすてゝたゞ妙沖福よめ   のみをとるやこたへていはく衣縫氏まことに孝   なるに似たりしかれとも人 倫(りん)をやぶる母   のよろこひうへからずなでう【どうして】此文にはとらむ   いはく人にゆかざるを云か妙沖福依売も人   にゆかずいはく妙沖福よめが人にゆかざるは   やむことをえずして也衣縫氏か故なくてゆ   かざるには似るべからずいはく人にゆかざる   をふかくにくめる故ありやいはく故ありを   よそ天地のあいだにおふる物は天地をのり   とせざるべからず天に地あり日に月あり   春に秋あり二気相あふてよろづのもの   いでくされば人より鳥けだもの草木にいた   るまてにめとおとありて物を生じて天地に   のとらずと云ことなししばらくもしからざれ   ば天地ふさがり人 物(ぶつ)たゆこゝにしれや人の   親の男をむめばすなはち妻あらん事を思ひ   女をむめばすなはち家あらんことをおもふ   これ天の理のまさに然るへきところにして   またく人の情の私にはあらずしかるにめに   しておなくおにしてめなきは天地の道にそむき   父母の心にもとる其つみかろからず衣縫氏がともがら   のごときにくまざるべけんや按ずるに列女(れつじよ)伝に名   をかけし婦女三百人にあまれり其内 夭殤(ようしやう)【わかじに】   殺死(さつし)をのぞきて一人の人にゆかざるなし人   倫のやぶるべからざるを見るべし 【絵画 文字無し】 七 請(しやうする)_レ僧 ̄を孤(こ)女 此女何氏の子なる事をしらずはやく父母をうし なひて家これがためにやつ〳〵し【非常にみすぼらしい】ある時おや の跡とふべき日いたりぬればひとりの僧をまね きうけて読経(どきやう)せさす僧来りて家を見れば ことのほかにあれまとひてはか〳〵しき人も見え ず斎(とき)なといとなみいづべきさまにもあらねば 僧も心ありて法事をいそぎてはやく立出 けるに簾(すだれ)のうちより女手づからきぬひとつと まきゑの手箱とをさし出して布施(ふせ)としけり 僧これをうけて帰りて手ばこの内を見れば歌をかき て入たりそのうたは  玉くしげかけご【掛子】にちりもすへざりしふた おやながらなき身とをしれ 【絵画 文字無し】 八 供(そなふる)_レ衣 ̄を貧(ひん)女 七月十五日はなき人のくる日とて人みな父母先 祖(そ) のために仏を供養(くやう)すこれをたままつりと云ある 所のまづしき女まつらんとするに物なしたゞあや のきぬひとつありそのうらをときすてゝ小が めの内に入てはちす葉をうへにおほひみづから たづさへて寺にゆきこれを仏にそなへうち なきて帰りぬ見ればはちす葉の上に歌かき つけたりそのうたは  たてまつるはちすの上の露ばかりこれをあは れとみよの仏に    論   おやの跡とふ事をわするゝ人はなけれとも   家きはめてまづしければ心の外に過ゆく   こともあるを此二人の貧女を見ればたゞ   いま僧にほどこし仏にそなへしものゝ外   更に物なかるべしあすをはからずして   けふをいとなみ身をわすれて恩(おん)にむくへり   ありがたき孝心にあらずやされば貧はめで   たきもの也 汝(なんぢ)を玉にすとぞ先儒もいへる此   人々もし富貴栄耀(ふつきゑよう)の家にあらましかば   たとひ大なるまつりすとも心その心に   あらでおや先祖の霊(れう)もうけよろこぶまじ   く又たれありていひつたへて今の世まで   に人を感ぜむ貧をうれふる人これをお   もへ 【絵画 文字無し】 九 南 ̄み築紫(づくしか)女 承保(せうほう)のころにやつくしに何がしとかやいひてとみさかへ たる民(たみ)ありけりある時ふと世の常(つね)なさをおもひ とり家をすてゝひそかにのがれまづ京のかたへ と行けるをあひしれる人の見つけて其家に つげゝれば家こぞりて追ゆきける程にやがて をひつきぬむすめひとりあり父がたもとをとり てあらかなしいづこへとてかゆかせ給ふたゞとゞ まらせ給へといへば父たもとを引さけてわが志 汝がためにさまたげられんやといひて刀(かたな)をぬきて みづからもとゞりきりてさりぬむすめ立わかるゝ に忍ひず父が跡をしたひつゝゆくに父は紀(き)の国の 高野(かうや)の山に入て僧となりてなにがしの院に おこなひすましてゐたり人みな南つくし上人と よべりむすめなれぬる国をもわすれとみ さかへたる家をもすてゝひたすら父をのみ したひ来けるがかの山は女をいめばおなし庵に はえすまでふもとにありて尼(あま)となりて父が 事をつとめけるとそ    論   ある人とふ父子の愛は天性なりともに断(たち)   がたししかるにむすめはかばかりしたひて   父のいがて【「いかで」とあるところか】なさけなかりしいはく父子の   愛は天性なりむすめはその性にしたがへり父   は利心のためにおほはる利心とは何ぞいはく   わが死後にくるしみあらむ事をおそれ   てつとめてその安 樂(らく)をもとむることいきて   富貴をむさぼるかごとしこれをもとむるが   はなはだしきにいたりては妻子はいふにや及ぶ   父母をすて君をもわすれてたゞ仏にのみ   へつらひつかへ戒(かい)などうけたもちてはひとつ   の虫をも愛してそこなはずあやまりて   そこなふ事あればふかくいたみかなしめり   彼すてられたる父母のよるかたもなきは飢(うへ)   て死するもなとかなからむ父母の飢て死する   はかへりも見でひとつの虫のそこなはるゝを   身にしめてかなしと思ふさかさま事にあら   ずやみなこれをのが身ひとつの安楽をえ   むがために父も君も目にだに見えず是いは   ゆる利心なり利は義と対(たい)すその心義   なきを見るべしいはく義あらばいかゞ心う   べきいはくたとへばたゞいま牛頭馬頭(ごづめづ)の   鬼(おに)が火の車引来て君父をすてゝ仏を   たのめさらずはこの車にのせ行て億劫(をくこう)【長い時間】   があいだせむべしと云ともしばらくも   君父をすてゝ身の安楽をばもとめじ是   義なり君父をえすてざりしがために   火の車にのりたらば火のくるまいかば   かり涼(すゝ)しからむ 【絵画 文字無し】 十 舞女微妙(ふじよみめう) 微妙は京の名をえし舞(まひ)ひめ也後にゆきて かまくらにあり将軍 頼(より)家その舞を比企(ひき)の判官能(はんくはんよし) 員(かず)か館(たち)に見て大によろこべり能員いはく此 女とをく京よりくだる心にねがひなからめ やと将軍みづからかれが願(ねが)ひをとはる微妙な きていひやらず将軍しば〳〵問給ひてのち なみだをおさへていひ出けるはわらはが父右兵 衛尉 為成(ためなり)人に讒(ざん)せられて罪にしづみ終に みちの国にをはれ侍る母はそのかなしみにたへず してみまかりぬわらは年わづかに七したしきものひと りもなしたゞ影のかたちにそふのみなれば明くれ たゞ父をしたひなげくといへどおとづれすべき やうもあらずさらば舞まふ事をまなびて 人になれより侍らば父がつてきく道もや あると思ひより侍しよりかゝる身とはなり 侍りぬねがふ所外になしたゞ父がゆくゑのきか まほしさにといひもはてず又なみだにぞむせ かへりけるこゝらありける人々もみな心をいこま【射こま】し めけり将軍はやく使を奥州(おふしう)につかはして微妙 が父をもとめらる二位の尼君かれが孝を感した まひていといたうあはれめり後はつかばかり にやかの使かへりていはく微妙が父為成奥州に 死せりと微妙きゝもあへずなきしづみ給入て 久しくしていきいでけるがやかて寿福(じゆふく)寺に行 てかざりおろして名を持蓮(ぢれん)とぞあらため ける二位のあま君いよ〳〵あはれみて家をふか 沢(さは)の里にたまふて仏につかへしめ給ひにけり    論   ある人いはく微妙孝なりといへとそのわざ   身をはづかしむるにあらずやいはく跡(あと)は   誠にしかり其心いかむと見よ心と跡と   ふたつなしといへど花のもとにねむれ   る猫(ねこ)はこゝろ胡蝶(こてふ)にありて花にあるに   あらずかれ父死せりと聞てすみやかに   尼となりてあひ見し古郡保忠(ふるこほりやすたゞ)ともそ   れよりたえはてけるを見るに何事も   たゞ父を見んためのはかりことなるべし   此あはれみすぐしかたくてこゝにはつらね   侍る也しらびやうしとなるをゆるすには   あらず 【絵画 文字無し】 十一 坂東(ばんどう)僧 ̄の女 あづまのある山寺に住持(ぢうじ)せる上人老て智徳(ちとく)あり 久しくやまひにいねて弟子(でし)ともあつかひ侘 ける比をんなのげしうはあらぬがふと入来て 上人久しくやみ給へるとなんうけ給るもし女 にて御寺にある事をゆるし給はゞ御かたはら に侍りてつかへ奉りたくこそといへば弟子ども をのがつかれやすめむとみなよろこぼひてゆ るしにけり此をんな心をくだき身をつくして 上人の病をいたはることいひやらんかたなしいか なる人にておはしますぞととへど道にまよひ きたれり人にしられまいらすべきほどの ものにも侍らずとのみいへりある時上人女に いへるは我久しくやみてしにもやらねば仏法 世法の恩(をん)ふかき弟子だにもおほやううち捨て 侍るをかくねんころに物し給ふ事しかるべき 前世(ぜんぜ)のちきりにこそと有がたくおもひたまへ られ侍るにいたくかくさせたまふことのいぶせ さ【胸のふさがる思い】よそも〳〵いかなる人にておはしますぞと あながちにとはれければ女うちなきて今は 申侍らむ上人わかくおはしましゝ比おもほし かけぬ縁(えん)にあはせ給ひて何がし氏の女人を 御らんじけることのありしとなん何がし氏われ をむめり上人はかくともしらせたまふまじ きを母なん汝(なんぢ)はかゝる事ぞとつげしらせて 侍ればすこしおとなびてより後は心のしたふ まゝにあはれいかにもしてかくとしらせ奉り 見もし見えまいらせずやと年ごろ心にかけて わするゝ時もなかりつれどかゝる御身にはゞかり ありてむなしく月日をすぐし侍しに此ころ例(れい) ならずわづらはせ給ひめしつかひの人もおほから ずなどつたへうけたまはりて心も身にそひ侍 べらねばをしておもひたちてまいりて候といへ ば上人も泪おとして思ひのほかなる孝養(けうやう)をこそ うけ侍れとて浅からずぞよろこびける女は猶 つとめてやまず上人をはりとれるまて心の かぎりつかへけるとそ    論   をよそ父母の子をあはれめる余所(よそ)より見   ては軽重(きやうじう)なからずその子はかりにも軽重   に目をかくへからずたゞ子はまさに父母に孝   すべしとのみしりて力をきはめてつかふまつ   るべしもし父母の恩の軽重を見てをのが   孝に斟酌(しんしやく)をなさば是ものをうりかふ人の心   にしてまたく父子のおもひにはあらず尤いやし   むべし此あづまの女恩は云にや及ぶをのれむ   まれて世にありともしられざりつる父を   こひてけうとき【気疎き】山寺にたづね入あらぬまじ   はりに月日ををくり身をくるしめて孝を   つくせり誠にありがたき志なりかしかの   恩の軽重を見て孝に斟酌するともがら   あらば此人に恥(はぢ)ざらめや 【絵画 文字無し】  今世 一 大炊頭好房(おほゐのかみよしふさ) 弘文(こうぶん)院の学士此人の行状つくれりその中にて孝 にあづかるべき事どもぬきいでゝ本書にしる せるを見れば好房姓は源氏 参河(みかは)の国松平家の 一 流朝散(りうてうさん)大夫殿中 監(かん)忠 房(ふさ)の嫡(ちやく)子なり江戸にむま れひとゝなれりいとけなきよりさとくさがし く孝の心いとふかし出る時はかならず申しかへ れば又かならずまみゆ常に父母のまします かたへあしをのべずめづらかなるものを人にえて は必まづ父母にたてまつり父母物をたまへば つゝしみてうけ愛してうしなはず父母文をた まふ事あればいたゞきてひらきよみ又いたゞきて おさむ父母のおほせひとつとしてそむかずめし つかひの人と物いひてそのことば父母の事におよへ ばふすといへども必をきてたゞしく坐して これをきけりあるひは母のかたはらにはべり てさざやか【細やか】なるやゐば針錐(はりきり)のたぐひあるをみては 必てづからとりおさむあやまりて母のこれにふれたま はん事をおそれて也以上はみないとけなくての孝 のさまなりやゝおとなびてこと所にうつろひすま れし後はあしたにかへりみゆふべにしつめてひ とひもおこたらず月花の折おかしければ父母を わが方におはしまさせて心のかぎりなぐさめ まいらせみづからも興(けう)に入ぬ父母病あれば其かたは【この頁の左下部、紙が斜めに欠損していて読めず】 はなれず薬かならずまづなめ粥(かゆ)かならず【以下欠損】 見てなんすゝめらる父母うれへにあ【以下欠損】 をつくしてなぐさめさとし其かなしみをゆるべられ けり年すでに十五のほどよりはをごりをにくみ 倹約(けんやく)をまもることをしりていさゝかもその志をはふら さず父その封邑(ほうゆう)【封ぜられた領地】におはして江戸にあられざる程は留守 のことよくつとめて母につかへていよ〳〵つゝしめり いさむ【諫む】べき事あれば声をやはらげてつぶさに 申し母の心にかなはずとしればみづからかへりみみつから くゐて心をつくさずといふ事なしそのよろこへる 色を見ざればしりぞかずいとまある日はまこ としきふみよみならひ又わが国の草子どもこの みてよみて其中にて忠孝のせちなる跡(あと)に あへばふかく心に感し面にもあらはれけりよ ろづにかくいみじかりけれどむまれながらに 病おほかりければ常にみづから父母のうれへ をなさん事をおそれて身をふかくつゝしまれ けるが終にはをもくわづらひてあやうし父母ゆ きて見給ふことにくるしさたふべくもあらねど しゐてをきゐてま見え病いかにととひ給へば やすしとのみぞこたへられけるかなしきかな いたましきかな寛文九年それの月それの日世 のはかなくつねなきならひにむかしかたりと なしはてにけりあはれと云もおろかならずや年 ははたちにひとつををなんあませり学士のつく れるふみのすゑにもし孝子伝あむ事あらば 此人もらすべからずとあればむべこそ本書に はとりてげれ    論   ある人とふ孝子大ていいやしきが中にはえやす   くてたかき家にえがたきは何ぞやいはく人   富貴なれば従者(じうざ)おほく用事たるされば   父も子にもとめなく子も父になれつかふる   に及ばずたゞ父子の礼儀をつくしめるのみな   れば礼儀かちて愛たらず愛たらされは   したしからずよりて孝子すくなきかいやしき   はこれにことなり父子相たすけされば   ひとひもたゝずあしき子はいふべきなしおほ   やうはしたしめり孝子おほきいはれなり   いはくしからば好房のしたしかりしはいかん   いはく愛たればなるべしいかにすれば愛たる   やいはく誠のいたれば歟 【絵画 文字無し】 二 今 泉(いづみ)村孝子 孝子は中村氏にして五郎右衛門となんよばる駿河(するが)の 国 冨士(ふじ)郡今泉村に世をかさねたる民也よく 父母につかへてそのよろこひをえたり父母を 愛する心ををして其里人にをよぼして里人 みなよろこべり父老てやみければよろづの事 心にいれずたゞその病をのみうれへさま〳〵に あつかひきこえてすでに身まかりにければいた みかなしめる事いたりてふかく父が住ける 屋にこもり居てをのが方へは帰ることなく人を も見ずしてぞありける母やみてしにける時も 又しかりしば〳〵仏事をなしてたからをおし まずあるひは里人のきはめてまづしきをにぎ はしあるひはよるべなきものゝうへこゞへをすくへ りみなうせし父母が後世(ごせ)の安楽をいのりてなり 世の人つたへていふ冨士のいたゞきにのぼりいたれば 現当(げんとう)【現世と来世】二世の利益(りやく)ありとこれによりて年〳〵夏 の日をまちてのぼる人おほかり此孝子のぼらん とては必まづ父母の霊(れう)につげてふたつの位牌(いはい)をよ くしたゝめてみづから負(おひ)てぞ出行ける是も又 その冥福(みやうふく)をたすけむがためならし従者(じうざ)かはりて 後位牌を負て道のつかれやすめんとすれどしば らくも身をはなさず孝状おほやうかくのごとし 天和みづのえいぬの春事あづまの都にもれて 台聴(たいてう)【「てい」と見えるが「てう」とあるところ】をうごかしたてまつりめされてまいりて いともかしこき 鈞命(ぎんめい)をうけたまはりぬ 御教(みげう)書ありひだりのごとし 駿河国冨士郡今泉村五郎右衛門父母に孝をつ くし行跡よろしく村中のたすけをなすのよし 国 廻(まはり)のともから是を演説(ゑんぜつ)す是に依て其作り 来る所の田畑九十石の事【「㕝」は「事」の古字】永代五郎右衛門に下し 授(さづく)る条 収(しゆ)納すべきもの也    論   ひそかにおもひみるに天の孝子にさいはひし   給ふばかりあきらけき事はあらじかゝる   下ざまのひとのしわざ  上(かみ)の御こゝろをうごかし奉りあつき御めぐみをうけ   て其名をあめが下にひびかすこれ人のちから   のよくする所ならめや詩にいへらく孝なら   ざる事あることなくしてみづからこのさい   はひをもとむと誠なるかな 【絵画 文字無し】 三 雲(うん)州 伊達(だて)氏 寛永のはじめつかた出雲(いづも)の国松江に伊達治左衛門と いふ人ありけり物よくかきて国のかみ堀尾氏のため に筆をとれり二親家にあり心をつくしてこれに つかふその禄(ろく)うすしといへど父母にすゝむる物はほど に過てゆたか也あしたゆふべ必みづからその あぢはひをとゝのへけり従者(じうざ)はをのがこゝろを つくすにをよばしとおもへばなりつかへのいとま ありける日はさらにあざらけき魚など求(もとめ)て 父母につげてけふは幸に此物を人にえたりいかゞ 調(てう)しはべらんといへば父はいはくあぶりものとせよ 母はいはくあつものにつくれこのむ所つねにこと なりかれそのこのみのごとくにしてをの〳〵す すめけりならひてつねとす父母あるひはをのが すむ方に来りあそばんといへばまづ飲(いん)食を あつくまふけて父のまへに来りわが力のこは きほどこゝろみさせたまへといひてかき負(おひ)て 出ぬ母にも又しかすかく力こはく年もさかり なるおのこなれど二親につかふるすがたありさ まはまだ世をしらぬ女子のごとし父母かれをつかふ に心なき事つねに下部(しもべ)をつかふにをなじ身を をふるまでしかり堀尾公これらの孝行をきゝ 給ひてふかく感じてしば〳〵よき飲食をもて 後父母にたまひしとなん人みないへり国に孝子 なきにあらずたゞ伊達なしと    論   人の二親につかふる愛かてばうやまひたらずうや   まひかてば愛たらず愛かちてなるゝはうるさし   うやまひかちてうときはすさまじ愛かつに   似てかたずうやまひたゝざるに似てたれるは   此伊達氏ならんかしまことに孝子といひつへし   ことにしがたかるべきは父母をのれをつかふに   心なき事しもべをつかふにひとしかりしと   云にぞありける 【絵画 文字無し】 四 中江 惟命(これなが) 中江与右衛門惟命はあふみの国高島の郡小川といふ 所の人なりけりはやうよりふみよむ事をこ のみて終に王氏の学を世におこせり母あり 是に孝なり一とせ加藤氏に伊予の国大 洲(ず)の城 につかへて母をその所にむかへやしなはんとせり 母のいはく婦人はさかいを越ずとこそきけね がはくは是をまもらむと惟命さかはずすなはち つかへをやめて国にかへらんとこへり加藤氏その ざえをおしみてゆるされず惟命うちなげきて われ不孝なりといへど禄(ろく)のためにつなかれて母 に定省(ていせい)【親孝行】をかゝめやいひて文かき置てひそかに のがれ小川にかくれ住て母のよろこびをえたり時 に年二十八寛永それの年月なりとそ    論   ある人とふ中江氏その門下にをしへていはく自(じ)   己(こ)の徳 性(せい)すなはちこれ父母の天 真(しん)【生まれつきの本性】なりさ   ればわが性をやしなふは親をやしなふ   いはれなり孝これより大なるなしちかくなれ   つかふまつるとしからざるとにかゝはる事なかれ   とこの語意(ごい)母のために禄をいなみて【拒否して】帰りやし   なはれけると相そむけるがごとしいかんいはく   此人けだしおもへらく性をやしなひ親をやし   なふ二あるにあらずよく性をやしなふ人いか   て親にうすからんとされば此人は誠にこれ   をふたつにせず身と言(ことば)とそむくに似て実   はそむかじ是をまねぶ人にいたりては思ひ   たがへてかの浮屠が恩をすてゝ性を見む事を   もとむる方にながれ入らんがおそろしきなり   いはく其をしへの流(ながれ)さるおそろしきわざあら   ばいかで此ふみに此人をとれるやいはく世の儒者   口には一日のやしなひ三公にかへずとときて身は遠つ   国にあそび冨(とみ)をもとむるに心のいとまなくて   帰りやしなふことは忘はつるもおほかりこれを   もて中江氏を見れば孝子なる事うたがひ   なしすでに是孝子也いかで此ふみにとらざらむ 【絵画 文字無し】 五 川井 正直(まさなを) 正直は洛陽二条の室町に住て布袋屋与左衛門と よばる物をあきなふて家とめりわかくして身の をこなひよからず年五十にちかづきて物まなびに こゝろざし小学といふふみよみてはじめて孝道 の人にをいていたりてをもきことをしりて過こし かたのやしなひのうすかりしことをくゐなげき身を つゝしみ用をはぶきてもはらちゝ母のたのしみを なんもとめける正直わかきより酒にふける父母是 をうれふこゝにいたりてのまずをよそをのがすき 好みて父母にいまれし事ともこと〳〵くやめて二たひ なさず父母大によろこべり正保ひのとの亥の春父病に ふしぬ正直かたはらをはなれずひるよる力をつくし 薬も粥(かゆ)もをのれこれをすゝめずと云ことなくおき ねたち居もをのれこれをたすけずと云ことなしあつ き日寒きあした雨に風にしはらくもをこたらず 心のかぎりあつかひきこえけれどいたく老ぬる身に 病もあつしう成行ければつちのとの丑のむつきの それの日父つゐに身まかりぬ正直なべてならざる【普通ではない】 なけきに物をだにくはず家の内の事みな妻と子と にまかせきこえてをのれはかくろへ【隠ろへ=人目を避ける】たる所にたゞ ひとりこもり居つゝ父が霊(れい)位に物そなふるをのみ ぞ事とはしけるゆきて母にま見ゆるならで其 所をでることなしかくて十月あまりこゝの月をへて 母またやみてうせぬ正直かなしみ父にひとしく身の やせくろめる事更にくはへぬ是よりして又三年の 喪をとりける程に前とあはせて四とせはかりぞこ もりゐにけるそのあいだふかくいためるいろ つゐに面(おもて)をさらず人みなあはれと見けりはじめ 父うせける時父の友あつまりつどひて火 葬(さう)に せんとはかる正直ひとより儒礼をたうとみけれ ばふかくこの事をうれへてよるひそかにひつき をかきて黒谷といふ山の奥に入て手づから埋(うづみ)て そ帰りにける母をはふむれるも又おなし喪礼かくて 時のならはしにしたがはざる事をそしりにくめ る人もおほかりけれど正直それを心とせず終に ほいのことくしけり後に商(しやう)家をいとひ京をしりぞ きてかの黒谷の山のふもとに田つくりてぞ居 ける時に年むそぢにこえけれど父母をしたへる 心ます〳〵せちなり常に我とひとしき友にいへる はわが物まなび他のおもひなし父母のこさ れしわが体なればよろづにたゞいさゝかもこの 身をけがしはづかしめじとつとむるのみなりされ ば大なるあやまちなしとぞ又いはく人のよし あししることはかたしされど其人の父母を愛する と愛せざるとをもて見侍ればおほやうはたがはす と又人の子や弟来りま見ゆる事あればかな らず孝梯の道をかたるにきく人心を動かさ ずと云事なし人と対してその物がたりわが考(ちゝ) 妣(はゝ)の事にをよべばかならず泪おとしにけり延宝 五年の春の末より正直こゝちわづらはしくて はつ秋風のおとづるゝ程しばしをこたりにけれ ば是をよろこべる色ふかし人ありとふていはく 翁(おきな)のやまひまたくいゆるにもあらずなどかばかり はよろこべるや正直こたふ此月のそれの日はわが 母の忌日なりおもはずにながらへゐて此日にあふ ことをよろこぶになん命のびん事をおもふには あらずとかれその身ををふるまでに父母をした ひてやまさる事これらを見てしりぬべしおなじ 年の冬をはりぬ年七十七子なる正俊(まさとし)に遺言(ゆいごん)し て黒谷にしてその父母の墓ちかき所にぞはふ むられける    論   後鳥羽院の御時左衛門尉藤原 ̄の朝綱(ともつな)といふ人   ありていはく二親なしといへどわが身すな   はち遺体(いてい)にて一言一行こと〳〵くこれ父母の   言行なればわがこゝろにまかせてする   事なしとなんこの事やまと論語と   いふふみに見え侍る正直が父母ののこし   をかれしわが身よろづにたゞいさゝかも   けがしはづかしめじなどいひしと符合(ふがう)   しけるを見れば朝綱も又そのかみのやん   ことなき孝子なるべし今その跡つぶさに   しるし置たる文見侍らねば此書には   つらねずしばらく此 詞(ことば)をこゝにつけてしれ   る人をまたんとすとそ 【絵画 文字無し】 六 絵(ゑ)屋 寛永の比にや京都小川の町出水といふわたりに 一人あり衣裳(いしやう)に絵かくるをわざとしければ絵屋 勘兵衛とぞいひける老たる父をやしなふて 孝なり父酒をこのむ絵屋夫婦しば〳〵買(かい)てす すむしかれども父その家のまづしきをしりて げればのめども心たのしまずあるひはのまず絵 屋これをうれへ夫婦ひそかにはかり年のくれ ゆく程こがね入べき箱ひとつもとめいでゝ石かはら を内に見てゝよくしたゝめ夫婦これをかきて父が 前に出てすぎし年まふけし物いつにもまして 侍れば債(おひめ)などみなつくのひ【償い】て是ほどがあまり 侍るこれを酒のあたひとなさばいきてまします ほどはえもつくし給はじといへば父うちおどろ きてよろご【ママ】ひにたへずそれよりこそおもふさま に酒をばのみけれ老くちてしにけるまでに まことにとめりとのみおもひけるほどにいさゝかうれ ふる色なかりしとそ    論   人はかりにもそらごと【嘘】すべからずよろづの道   是をいましめたりたゞし老たる父母の心をな   ぐさめうれへをとゞめんとてはやむことをえずし   てそらごとする時もあるべしそらごとせぬに   ほこりて父母のうれへおそるべき事をも口に   まかせていひちらすは人の子の心にはあらず   絵屋がそらごとそれむへならすやそら   ことによりて誠あらはる 【絵画 文字無し】 七 神田(かんだ)五郎作 明暦それの年江戸神田 鍛冶(かぢ)町の五郎兵衛と云 もの罪ありてとらはれにつき事をとはれてうきめ 見けりその子五郎作 官府にまいりて申す わが父すでに老たりもしくるしみにたへずし て死せば何事をか問給はんたゞ父にかへて 我をせめさせ給へしる事あらば申べしといへど 人々猶父をぞせめける五郎作天によばひ地 にたふれてなげきかなしみければ人皆涙 をぞもよほしけるその比まつりごととらせたまへる 阿部の前の豊後の太守これをあはれみ給ひて五郎 作をしばらく父にかへしめやがて又その罪の死にいたる まじきほどをたゞしあきらめて父子ともに ゆるし給ひけるとなん    論   しなんとしていくるも天なりいきんとして死ぬ   るも天なり善悪の報応(ほうおう)こゝにあらはる善は   孝より先なるはなし悪は不孝より大なるは   なししかれば此人父にかはりて死なんとして   いきたるこれたま〳〵しかるにはあらじ昔   もろこしにしても宋(そう)の鮑寿孫(はうじゆそん)と云ものゝ父   盗賊(とうそく)のためにころされんとせしに寿孫かはりて   死なんとこひければ賊ともあはれがりて父子ともにゆ   るしぬ衛(ゑい)州の陳顔(ちんがん)といひし人も父罪ありてせめ   くるしめられけるを見てかなしみなげきてかはらん   とこへばゆるしぬ孝の天を感じ人をうごかせる   からもやまともかはる所なきを見るべし 【絵画 文字無し】 八 柴木村甚介 甚介は備中の国浅口のこほり柴木村と云ところ の民なり母につかへてきはめて孝なり兄あり といへど母それとをる事をよろこびず常に 甚介がもとにのみ居けり甚介心をつくしてやし なふあさ夕のくひ物母いまだくはざればをのれも くはずしゐてくはざるにはあらず母のくはざる程は をのづから飢(うへ)をおぼえず母のくへるを見れば我 もくふべき心のいできてくふなり母いねんとすれ ば甚介みづからむしろをのべて冬はあたゝかにし 夏はすゞしくせりいねていねいらざる程はをの れもねむらずしゐてねむらさるにはあらすをの づからねむたからず夜いたくふけ過るといへど 猶かたはらにありて物いひなぐさめいたむ所あれ ばさすりかゆき所あればかくやゝあけほのゝ空 にもなれば必みづから茶をせんじ座をはらひて 母のをき出るをまつ家にしく物はみなわらむしろ なりけれどたゞ母の居ける所のみ藺(い)のむしろを しけり母むしろにつけば甚介その前にありて すゝむもしりぞくもたつも居るもたゞ母の心のまゝ なり事ありて府にいり市にゆけば必あざら けき魚めづらかなるくだ物などかひもとめて帰 りてすなはち母にすゝむ母年やそぢにいたり ぬれど其かほばせ六十の人のごとし人その故を とへば母こたふ甚介われをやしなふてわか心のごと くならざることなしやむごとなき人の母うへと いふとも我心ばかりはよもたのしからじさればにや 形(かたち)もおとろへずとぞいふめる【「める」の左に小さな◦を傍記】甚介か父しにけるとき 甚介はらからに其田をわかちあたへたりこゝら 年へて後兄甚介にいひけるはわが田やせて汝が 田こゑたりさるゆへに我まつししばらくかへてつくり なんと甚介すなはち兄が心にまかす然れども其 田おの〳〵かりおさむるにいたりては甚介がよね 兄がうる所よりもおほし里人みなおもへらく これ孝と不孝とのしるしならんとある時甚介 胡麻(ごま)といふ物を畑(はたけ)にうふるに時すこしはやかり ければ里人みなあやまてりとす後はをのれも しか思へりうへし時はやかりつればおさむることも 又はやしすでにおさめていく程もなくて長雨ふ りて水ひたゝけ【ひたひたと打ちつけること】一(ひと)里の胡麻こと〳〵くなかれちり ぬれくちてたゝ甚介が家のみ胡麻にとめりまた 日てりて水かれあるひは風のため虫のために ひと里の田おほやうそこなはるゝ時も隣(となり)をさかひて 甚介が田はさかへうるほへりすべてこれ孝徳の まねきひく所とぞ人はみなほめたうとびける れいの兄一とせみつきをかきて罪をえたりみづから 人に物かりて是をつくのはんとすれと人した がはす甚介ふかくうれへて先をのがたくはへし かきり出しつくしてそのたらざるがほどを人に かりければ人みなよろこびて甚介に力をあはせ ける程に兄やがて罪をまぬかれぬかゝる事ども いはゞつきめや過し承応の比にや備前の府君(ふくん) 羽林次將(うりんじしやう)松平公是をきゝ給ひ備中の浅口もわがみ ざうなりければ甚介をめしてたいめんたまはり母 に孝をつくせるのみならず兄にも悌(てい)なる事をくり 返しほめ給ひてかれがもとよりつくりきたれる 田はたけみなながら子むまごまでにその租税(そぜい)を ぞゆるされけるある人柴木村の人にあひて甚介田 はたけたまはれりなんぢらうらやまずやといへば村の 人きゝもあへず甚介が孝まねぶへからずわれら いかでうらやみ侍らむとなん云一さとの人のことば皆 同じ 【絵画 文字無し】 九 西(にし)六条院村孝 孫(そん) 西六条院村も又備中の国浅口郡にありそこなる民 ふたりの子もたり兄を惣十郎といひ弟を市助と 名づく兄弟はやく父をうしなひておほち【祖父(おおじ)】なる おきなと田つくりて居たりけるが不幸にしておほぢ 耳(みゝ)つぶれ目しゐてあし手もかなひがたし兄弟 母あり母子三人みな此おほぢにつかへて孝なりおほ ぢ茶をこのみ酒をすけり兄弟まつしといへと しばらくもこれをかゝず農(のう)の事いとまあれば薪を 山にとりてひさきて茶酒の料(れう)とせりもし 料たらずして人にもとめかる【借る】事あれば人みな おほぢがためにしてをのが身のためにあらざる 事をしりてこふにしたがひてかしけりあさ 夕のくひ物おほちにすゝむるはくはしく母子三人 がくへるはあらしおほぢ物くふごとに母 箸(はし)をとり てくゝむ【口に含ませる】その目しゐ手しひれたるが故なりけが れのうつはものも母と兄弟日ごとに是をとれり その足なへてかはやにも行えざれば也冬の夜の いたうさむきには兄弟かはる〳〵おほぢが跡に ふしぬその足をあたゝめんがため也夏の夜のあつく いぶせきにも兄弟かたはらにありていねすして 蚊(か)をはらへりはりぬべき帳なければ也よろづにかく 孝なりけれど母なをかれらがたゆまん【気持ちがゆるむこと】ことをおそ れて折〳〵にをしへていはくおほぢの世におはし まさん事今いくばくの日とかしるやなんぢらをこ たることなかれいさゝかもをこたりなはおはしまさ ざらむ世にくふともかひあらめやと兄弟つゝしみ うけたまはりていよ〳〵孝行をそはげみけるおほぢ 母にいひけるはそこの孝徳まことにいひやらんかた なし徳必むくひあり惣十郎市助が妻あらむ時 その妻そこに孝なる事必そこの我をあはれめる がごとくなるべしとおほぢ惣十郎に妻もとめしむ 惣十郎うけ給りぬやかてこそむかへ侍らめといひて もとめずおほぢのやみけがれたるさましたしから ぬ人に見えむがつゝましければ也かくて日数ふる まゝにおほぢのやまひ様(やう)かはりて物ぐるはしく なりぬ此時しも市助は人につかへて外にありけり 家にはたゞ母と惣十郎とのみありてひるよるまぼり 居てうちもねず母子が心ぐるしさおもひやるべし それより又二とせばかり過ておほぢをはりぬ母 と惣十郎となげきかなしみ衣をうりて葬祭(はふむりまつり)を つとめいとなみけるとなん惣十郎が父の跡とふべき 月日此時しもめぐり来ぬされども家に物なければ心 にもまかせざりしをその年みのらずとて国主 倉(くら)を ひらき給ひて国たみをにぎはされければ惣十郎其 よねをうけていさゝかもをのが用とはなさで父をと ふらふわざになんつくしにけり市助も又外にあり といへと物を送りて祭をたすけ母のやしなひ に力をそへけりそのゝち惣十郎妻をむかへて あひともに母につかへぬつねに妻にいひけるやう はなんぢざえなきはわがとがむる所にあらず もしわづかにも不孝ならばすみやかに出しやらん われ此ことばをたがへじとなむよりて妻も よくつゝしめりされと猶家の内の事ひとつと して夫婦が心にまかせず事ごとに母にとひてその 云ところのまゝにす田はおほぢが病にまぎれて 久しく力もいれざりければ今年はことになり はひもあしかるべくおもひ居けるにさはなくて よくみのりて人の田にははるかにましたり是 天地神明の孝にめでさせ給ふ故とぞ人は みな申あひける国主もふかく感じ給ふて母にも 子にも物たまひけり 【絵画文字無し】 十 横井(よこゐ)村孝 農(のう) 備前の国津高郡 横(よこ)井村といふ所にひとりの民 あり太郎左衛門とよべりその父母をやしなふて よくおしみよくうやまへりかれ父と田にあり てかれいゐ【飯】すゝめんとおもふときはまづ草葉の 露うちはらひおほく刈(かり)とりて土の高き所に のべしき父を其うへにをらしめをのれは下に ひざまづきゐてつゝしみていゐをすゝめ父のくひ はてぬるを見ざればをのれはくはずならひて 是を常とす父がこの人を見るも礼儀なきに あらずさればその家に有けるおとこ女すべて これにならひてうや〳〵しからずと云ことなし ひとさとの民みな是を見てわらふをのが父 母と居ていたうをこたれるにさまかはりたれ はなりをよそ貧 賎(せん)のその親をやしなへるを 見るにいとおしみはふかきもあれどうやまひは 必たらずこの人誠にえがたし国主もあやし とし給ひてあつく賞 賜(し)せられけるとそ 【絵画 文字無し】 十一 赤穂(あかほ)惣太夫 備前の国 岡(おか)山 紺(こう)屋町のこうかき【紺掻き=紺屋】何がし一とせ妻子 をゐて【率て】播磨(はりま)の国にうつり住て赤穂(あかほ)といふ所にて 死けりその子惣太夫母をやしなふて孝なり妻も 又よくつかふ母の云ところうけしたがはずといふことなし 母つねにいふ備前の岡山はわがふる郷なりねがはく は汝(なんぢ)夫婦と帰りすまむと惣太夫うけたまはりぬと て其いとなみし侍れど家きはめてまづしければ かてをつゝむべきよすがもなくて心ならず過ゆく ほどに母ふと旅のよそひしてけふなん岡山に帰ると いひて出ければ惣太夫夫婦物もとりあへでぞした がひゆきける母あしたゆげ【弛げ=だるそうなさま】なれば惣太夫おひぬ ありく時は妻その手をひくくひ物たらざれば 夫婦(ふうふ)はくふまねのみしてくはずたゞ母にのみすゝめ けりすでにして備前の内かぐと村といふ所につき てかて絶(たえ)ぬ母も妻もいたうつかれにければすべき やうあらであたり近き福岡村の実教(じつきやう)寺といふ 寺に入てくひ物こひけりあるじの僧かれがあり さまを見て孝子なる事をしりてはやくその 飢(うへ)をすくひ寺のかたへにやどし置て朝夕の食をく りやにうけしむ是によりて母子三人食物は たり侍れどやゝ冬ふかく成ゆくまゝに母の衣の うすきをかなしみよる〳〵【毎夜毎夜】は夫婦ひそかにをのが 衣をひとへづゝぬぎていねし母が身にくはへけり これをきく人あはれがりてよね一たはらとら せければいといたうよろこぼひて衣を買(かい)て母に きせけり母うけずしていはくわが衣さいはひに うすからずよめが衣やぶれてうすしはやく 是をきすべしとよめがいはくわれとしわかく 身すこやかなりさむくともやまひはせじしう とめもし是をき給はずは必わづらひたまふべし たゞはやくき給へと母なをきずしていへるやう 我はかく老おとろへぬ病もおそるゝにたらずしぬる もおしまずたゞねがはくはなんち夫婦つゝがなか らん事をいはんや我さむからずいかで此衣をかさ ねんといひて手をだにふれずよめも猶ゆづりて 【銀杏の押し葉】 【銀杏の押し葉】 きざりければ此ころもいたづらにぞ有ける人又 これを聞てさらに衣ひとつを母にあたへければ よめもはじめてさきの衣をきけりかゝる事 ども先だちて岡山にきこえければ府君ふかく 感し給ふてかれ夫婦をあはれめるのみならず 実教寺のあるしが慈悲ふかゝりしことをほめて よねを寺によせられしとそ    論   国いつれか国ならざる民いつれか民ならざる   たゞ備前の前代のみ孝子おほく忠臣義人も   すくなからざるは何ぞやいはく国の先主少将   の君いにしへを好みたまひ学 舎(しや)をたてゝ人   ををしへらるよりてひじりの道をこりてこと   なるはしやゝやみぬいはんやひとりも孝なる   子悌なる弟ありといへば必それを讃歎して   物たまはらずといふ事なし忠義の人を見るも   又おなじさればそのいまだ孝ならずいまだ   悌ならずいまだ忠義ならざるものも是に   よりてはぢくゐてうつりあらたまらざ   るはまれなりこれその人のおほきいはれ歟   我幸に孝子がありさまこれかれ人に   聞侍てこゝにつゞりつけ侍る柴木村より   下四人と巻の末なる二女これなり外はすべ   て後の人のえらびにゆづりきこゆるとぞ   本論に見えたる 【絵画 文字無し】 十二 由良(ゆら)孝子 淡路(あはぢ)の国の由良といふ所に久左衛門といふ民あり 父を愛する事人に過たり出て田をたがへす といへど父を思ふことあれば鋤(すき)をすてゝしばらく 帰り父を見て又ゆく人にやとはれつかへて外に ありける日も俄に雨風あれておそろしげ なればそのわざををへずしてはしりかへり父を まもりなぐさめていでずいでざれば物をえず 出れば値つくといへど更にかへり見ずこれ父をま もりなぐさめんとのみにもあらずをのが雨風に をかされん事を父やうれへむとおそれて也けり 父出てをのがつくる田みんといへばすなはち父を 背(せなか)におひて行めぐり或はくろ【畔】におろし置て その心をなぐさめけり後は父おとろへつかれて 出てもえ見ざりければいなぼつみとりてもち来 りて見せけるにもしをのがつくる田よからざれ ば人の田にもとめてきはめてよきいなぼを とりてぞみせける父をよろこばしめんとてなり 冬の夜ことさらに寒さおぼゆる時はよるか 暁(あかつき)ともいはずおきて衣(ころも)をもとめて行て父が ふすまにくはふ父目さめてわがふすまうすから ずむまご【孫】らがいねし衣にくはへてよといへばさも こそし侍らめといひてしりぞきちごどもには きせず父がねむりいれるを待て二たびもち行 てぞきせけるかれが父を愛せるさまおほやう 此たぐひなるべしその里人みなほめきこえければ 国の事あづかりきける稲(いな)田の何がしかれをめし てなんぢか孝行のありさまかたれといへば人は さもこう申侍れどわれ更に孝ならずとなん こたふそのさまいさゝかこと葉つくる道しるべくも あらずをのれまことに孝ならずと思ふなるべし 稲田又とふなんぢ父につかへて力をつくせりされど なを心にあかぬ事ありやといはくわが母うせし とき父いまだおとろへずわれのちの母もとめんとし 侍れど父ゆるさず終にやもお【妻のない男】にして老ぬよりて 今老をたすくる人にとぼし是なん常に心に うらむる所に侍ると又とふなんぢ今日こゝに来 れる事父しれるやいはくよのつね家を出るに は必そのことのまことをつげ侍れど今日はしからず たゞ此わたりの市にあそぶとなん申つるといはく いかでまことをばつげざりしいはくおほやけのめし【召し】 ありときかば此事なめりとしらざらむほとは心 もとなくおもひたまへ侍るべければわざとつげ申さ ざりしとぞいへる稲田うちなげきてその孝心を 感じ物くはせろくかづけて由良にかへしけるとなん    論   孝はたゞ父母の志をやしなふをいたれりと   す味をとゝのへあたゝかなるをきせてその   体(たい)をやしなふ事をつとむとも心をやすむ   る事なくは孝行にはあらざるべし由良の   孝子いやしといへどその孝たゞ志をやしなふ   にありたうとまざるべけんやある人のいはく   かれ孝なることは誠に孝なり我その人を   見しにをよそびとの中にも誠にしなくだり   心くらし孝は人にをいていみじき徳性   なりすでに孝なる人いかでかばかりは   つたなきやいはく人の心あきらかなる筋(すぢ)   ありくらき筋ありすべて明かなるはひじり   なりおほやう明かなるはかしこき也ひとつ   ふたつ明かなる筋あるを筋ごとにをし   ひろむるはその次なり由良のおのこたゞ   孝一すぢに明かにしてこと筋にをしひ   ろむる事をしらずされば其孝はめでたし   其人はつたなしいはくかれがこときもをし広   むることをえんやいはくえぬべし烏獺(うたつ)もその   あきらかなる一筋はあれど物なるか故に   をすには及ばす人は物のおさにして郷(きやう)人より聖   人にいたると云もをせばひろまるが故にあら   ずやいはく何にたよりてかをすいはく学(がく)なり   たかきいやしきよく学びてをしひろめえざるは   あらじさればにやいにしへは王 宮(きう)国都より閭巷(りよこう)   に及ぶまで学あらずと云ことなかりき 【絵画 文字無し】 十三 芦田為(あしだため)助 《割書:本書の此伝は弘文院|春斉翁つくれり》 丹波の国 天田(あまだ)郡 土師(はじ)村の孝子は芦田七左衛門為助 とそいひける家まつしけれどあつく父母をやし なへり父母のいふ所したがはずと云ことなし寒き 夜父母いねむとすればまづをのがはだへ【皮膚の表面】をもて 其むしろをあたゝめて後父母をいねしめあるひ は父母の足ををのがふところに入てあたゝむ すでにしりぞきては又ゆきてやすくいぬるや さらずやとうかゞひ見る事夜ごとに二たび三たび にいたれり夏の日いたうあつきにはすゞしげ なる木かげをえらびて床をかまへ父母をいざな ひ行てひねもすその心をたのしめ暮ればともに かへり枕をあふぎてぞふさしめける衣食たらず といへどとかくいとなみて父母には常にあまり あるやうにのみおもはせけり更にをのれがとぼし きをしらしめず母いかづちをおそるよりてかみ なる日にあへばことにそのかたはらをはなれず出て 外にありといへどもすみやかに帰りてうちそひ 居けり為助妻をまふく【設く…持つ】その妻又孝なり父母とも に足なへて道ゆく事かなはずゆかんともとむる かたあれば夫婦かならずいだきおふて出けり 万治三年の夏母みまかりぬ年八十寛文六年の春 父死す年八十三為助かなしみにたへずしたひてやま ずをのか家ちかき所に葬(はふむ)り日ごとに墓にまふでぬ かみなる声いさゝかも耳(みゝ)にいればかならず母の墓 に行てなみ泪おとしてまぼり居けりかゝる孝行ども ちかき里〳〵にかくれなかりければやがて福智山 にきこえて城主(じやうしゆ)松平氏 忠房(たゞふさ)ふかくかれが孝志に 感じ物たふで褒賞(ほうしやう)し給ひぬ為助其たまはりし 物を兄それがしにあたへけり兄これをうけずはら から相ゆづりてやまず終にその物をつゝみおさめ て家のをもき宝(たから)とせり城主かさねてみつきを ゆるしゑだち【役立ち=強制の労役や兵役】をのぞかれけるとなん論ありいはく 人のおこなひ孝より先なるはなしされば孝なれ ばいやしきがいたりといへど人なり孝ならされ ばいとやんごとなききはといへど人ならず舜(しゆん)の聖(ひじり) なる曽(そう)子のかしこきみな孝にもとづき給はずや 孔子のたまふわがおこなひ孝経(けうきやう)にありと孝経 さいはひに家〳〵にありて人ことによめりよめ とも孝ならされば鴉(からす)のなき蝉(せみ)のさはぐにこと ならずしかるを此為助其やしなひやんごとなき 人にもまさりそのつかへ文よむともがらにも こえたりたれか是をほめざらむ妻もよくした がひ兄もゆづれり為助がよきにならへば也かれら 為助にならふだにその家みなよし国郡(くにこほり)しらせ 給ふ人もし身をもて先だちたまはゞいかばかりの 人かそのよきにならひてめでたからむしからざる 事のうたてさよそも〳〵いにしへは孝子あれば 下かならず上にまふし上それをあらはしたまふ 近き世はしからず今福智山の城主下のつぐるを よろこびて芦田を賞ぜらるゝ事誠にこれすた れたるをおこすのひとつのはしにあらずやこれ を国〳〵につたへて人の子の志をすゝめまほしき 事にぞ有ける 【絵画 文字無し】 十四 安永(やすなか)安次 《割書:本書の此伝は林|春常丈つくれり》 肥前の国島原に加津佐村の津波見名といふ所あり そこなる民久右衛門氏は安永名は安次とそいふ なる父母につかへて孝なり父名は安平いまたいた くは老ざれとも安次ふかくいたはりて常(つね)に身を やすくのみあらしめてたゞをのればかりそ耕(かう)作 をばつとめける安平ある時安次が田作りていといたう くるしめるを見て我いまだ力おとろへず折〳〵は 草をもとりて汝が手すこしやすめんといへば 安次をのれ更につかれ侍らずいかで今さらさる 事はしたまふべきといひて耕作の具(ぐ)手にも とらせず年ごとにをのが田そこばくをわかちて 心をもちゐて作りなしてこれを父母がわたくしの 用にそなへけりをのれきはめてとぼしき事あれ ども此父母か用にそなへしよねをば外のことには 露もちひず年みのらずして物なけれとも猶父 母にはゆたかなりとのみいひきこえけりあしたに かへりみ夕にしづめ夜なかあかつきとなく安否(あんふ)を とふ事つねにをこたらず雨の日など父母の住ける 所いと物さひしげなれば必をのが方にいざなひ来 て子むまこさしつどへて其つれ〳〵をそなぐ さめける事ある時もつげざれば外にいでずかへ ればまづ面を見せずと云ことなし市にあそぶ 事あればかならず食物のよきをもとめて帰り てすゝむ人に物えたる時もまづ父母にすゝめて あまらざればをのれは用ひず父母ともに仏 をたうとみてしば〳〵寺院にあそふ安次いとま ある時にわらぐつおほくつくり置て父母が寺 院に行ごとに必そのふるきくつをすてゝあたら しきをなんはかせけり心をもちゆるのせちなる おほむね此たぐひなりかれか一 族(ぞく)ならびにその里 の人々此ありさまをしたひまねぶもおほかり事 つゐに太守にきこえければ物たふでその孝をほめ 戸租丁役(こそていゑき)みなゆるされけり太守とは誰を かいふ島原の城主 尚舎奉御(しやうしやほうきよ)源の忠房也忠房 むかし丹波の国 福智(ふくち)山をおさめ給へるころ孝 子あり芦田(あした)為助がこときものなり今また安次 がともがらありこれ太守のその親にあつくし てたみ仁におこれるものか 【絵画 文字無し】 十五 大矢(おほや)野 ̄の孝子 《割書:本書の此伝は人見|友元老つくれり》 肥後の国 天草(あまくさの)郡大矢野の今泉村と云ところに喜左衛門 となんいひてよく父母につかふる民あり妻も又しうと しうとめに孝なりもとより家まづしきにちかごろ しきりに年あれければをのれ夫婦はくふべき 物もなけれどちゝ母の食物のみはとかくしていとなみ 出ぬかのとの酉の年国又大きに飢饉(ききん)す喜左衛門 父母にこひて長尾といふ山にうつろひ住て薪(たきゝ)を とりて人にひさきくづわらびをほりて食とすをなし 年の夏父やまひにふしてあざらけき魚(うほ)をねがへり ふかき山の奥(おく)にしあればもとめ出べきやうあらて いかゞすへきとおもひわつらひけるに妻ひそかに山をくだ りて海のほとりをまよひありき人に釣竿(つりざほ)かりて つりたれければやがて魚こそかゝりにけれ見れば 鯛(たい)と云うほのごとく【濁点の位置の誤記と思われる】にしてその色くろしよろこびて 是をもてかへり喜左衛門にとらせけり喜左衛門すなは ちてうして【調じて=調理して】父にすゝむ父ねがひみてけりとゑみ まげてそ悦びけるおのこだに手なれざれは釣え がたきを女のあからさまにしづめしつりはりに やがて此うほののぼり来けるも不 思議(しぎ)なりまことの ふかきがいたすところ歟父つゐにみな月の廿日あ まりにみまかりぬ喜左衛門妻とともになげきかなし むこと浅からずしばしは物をだにくはざりけり すでにはふむりて後はいはゐを家にまふけ朝な ゆふな物をそなふる事いける日のごとし母は老の のち目しゐたり喜左衛門夫婦これにつかへて殊に つゝしめり母わがしたしきものゝ方にあそび或は 仏にまふでけるときは喜左衛門又は妻かならずおひ てぞ行ける其道十四五町もありけりとなん此天草 のこほりと云も肥前の国の島原の城主松平氏かね おさめ給へる所なればかの喜左衛門を島原にめし て夫婦が孝をほめて白銀そこばくをぞたま はりける喜左衛門家に帰りてしたしきものどもを あつめてともに此たまものをいただきこれを うくるも又父の故にしあればいさゝかも他の事に 用ひば誠に罪ふかゝるべしたゝ父の跡とふ料(れう)と のみこそなし侍らめといへば人いよ〳〵感しあへり    論   右三の伝ひとつの論は二林人見三名 儒(じゆ)の筆作   なれば此ふみの本書つくりし伊 蒿(かう)子とかや   その文字ひとつをもたがへずしてうつしのせ   侍けるを我今かんなにかへんとするに筆つた   なければをのづから本文にたがふ方やおほからん   其 事実(じじつ)もまたいさゝかはぶけり罪まことに   恐るべし伊蒿子又三伝をすべて論ずること   ばあり是ももらしがたければそのおほむねを   こゝにあらはすむかし揚雄(やうゆう)かの法言【書名。儒教の書】つくりし   とき蜀(しよく)の国のとめる人あし十万をおくりて   名を法言にのせられん事を求(もと)む揚雄ゆるさ   ずしていはく冨(とみ)て仁義なきはおりの中のけも   のゝごとしいかでしるしはのすべきとなん今此   為助安次大矢野の人はみなきはめてまづし   くいやしければ一銭をもをくる事をうべからず   しかるを時の名家のためにかくいみじき伝(でん)   つくられ孝の名をながき世につたふかの蜀の   とめる人とそのめいぼく【面目】いつれぞやたゞに   富貴をのみしたひて仁義忠孝のおこなひ   なき人いかで是をおもはざる城主尚舎君   しきりに孝子をあらはし給ふがたうとむ   べき事は三儒の筆につぶさなれば   われら又何をかのべむ 【絵画 文字無し】 十六 中原休白(なかはらきうはく) 休白は筑前の国 遠賀(をんか)郡中原といふ所の人なりみづ からその姓氏をあらはさずたゞ中原の何かしとなん よばる中原にはうらかたを業(わざ)とする人おほし 休白も其ひとりにしてかねて農耕(のうかう)をそつとめ ける人からいとまめ〳〵し里人みなつゝしみした がへり父につかへて孝なり父もまたせちに 休白を愛す休白いとけなかりしよりはじめの 老の坂(さか)うちこえていそぢのなみのよせくるまでに しばしが程も父とすみかをことにせずえさらぬ事 ありて外に出るはさらなり家にだにあれば つねにかたはらにのみ打そひて事ごとにした がひつかへけりそのさまさながらうなひ子の母にむつ るゝがごとし夜のほどゝいへどしば〳〵をきて 父がふしどにいり耳をかたふけていきのとき【疾き】 ゆるきを聞ていぬる事のやすきくるしきをうか がひ父目さむればさむさあつさうへかはきをとふ てつゝしみて其心のごとくにしてしりぞくあるひは 又父外にいでゝあそばんといへば野にもあれ山にも あれ必したがひ行て相たのしみて日ををへ身の いとなみのかくるをしらずある年のさ月の事にや 休白けふは田をうふべしとて朝とくをき出人あ またやとひもてきて時をきざみていそぎける に父その日しも豊前の国の小倉(こくら)といふ所に行て あそばんと思ひ立て休白にいへるは我よのつね 出てあそべば汝(なんぢ)かならずしたがひきたるけふは田の 事かくのごとくなれば汝したがひきたるべからず 小倉道ちかしやがてこそ帰らめとて出ぬ休白手 にある物をすてゝ足かきあらひ父に追つきつゝ をのれ家にあらねども田の事さまたげるき よしをつぶさにのべてうちしたがひゆけるさま 露もかへりみおもふ所なきがごとし見る人みな 感嘆(かんだん)しけり休白つねにおもへらくをよそ事をの が身に利あらむとて父の志にたがはゞ悪(あく)いづれか 是より大ならんと又いへらく父の志にしたがひ 父のよろこびをうるわがたのしみ是よりふかきは なしとその孝心はかり見るべし父いたく老てしぬ べくなりぬ休白ちからをつくしてそのことぶきをもと めけれど終にかひなかりければなげきかなし める事いたりてふかく一さとの人の心をいたまし めけるとなん    論   うらかたをわざとするものは人みなこれを   いやしむわざはいやしむべきにあらねと   その人おほやう誠すくなくて人をあざむく   事おほければなり休白はしからず父に孝   なる事かく誠ふかゝりければうらもて他   人をあざむくことも必なかるべしおもひみる   に此人一生のおもひたゝ父を愛(あひ)するにあり   さればその孝 始(はしめ)もなく終(をはり)もなし世のおさなく   てはひたすら父母をしたひすこしおとなび   ぬれば色などに心をよせて父母には日ゝにう   とくなる人休白にはづる事をしれや 【絵画 文字無し】 十七 鍛匠(たんしやう)孫次郎 孫次郎は肥後の国山 鹿(が)の郡 湯(ゆ)町の鍛工(かぢ)なりわざ つたなくしてうられず家きはめてまづしよはひ 五十にいたれどもいまだめとる事をえず父は はやく死して母とをれり孝心ことにふかしわが 身には常にまたき衣だになくて母のやしなひは ほどに過てあつし母酒をこのめりわづかにもあし あれば必かひてすゝむ酒うる家かれが孝ふかきに 感じて酒をあたへてあしをとゞめざればかれよろ こびずしていはくかくのごとくなれはそこに我母 に酒をすゝめらるゝ也わかすゝむるにはあらずねが はくはわが酒をこそすゝめまほしけれとてさり てこと所にかひけり酒うる家〳〵後はかれが志を しりてあしはかへさゞれどもあたひをはぶきてぞ うりける一さとの人つどひあつまりて物くひ酒のむ 事あれば孫次郎もゆきてまじはりけるによき 酒さかなあればをのれは用ひずしてたづさえかへ りてかならす母にすゝむ後は人々これをあは れみて母にすゝむべきをばさらにあたへけり里に 出湯(いでゆ)あり母これにゆあぶることをこのみ又しげく仏 寺にまふでんことをねがふされどやそちの後のおひ 人にて道ゆく事かなはざれはかれ日ゝにいだき おひてぞ行けるある時母かれにいへらく汝(なんぢ)とし 五十わかきにもあらずわれにつかへてかくくるしめり わが心にをいてやすからすと孫次郎こたへて いはくわが身もとよりこはく力も人にすぎ侍る 又道ゆく事をこのめり今母とともにゆく何のたの しみか是にまさり侍らん我常にやんことなき 人の出給ふを見るに輿(こし)あり馬ありわが母まづし くしてこれなし幸にひとりのおのこ持たまへりこは き事馬にもましぬわが母これにのれり更に何をか うらやみ給はんといひてせなかさしむけておひぬおひ て家を出るにいたりてかへりみて母にたはふれて いはくこの馬のときをそきたゞ母の心のごとくなら むとすでにしてはしりすゝみあるひはとゞまり てやすらひ足(あし)をはねかうべをふりてまことの馬の いきほひをなす母大にわらふ里人の是をみるもの 先わらひて後はみなうちなげきてその孝心をぞ ほめける母すでに出湯にいればをのが身にて母の 衣をあたゝめてまち夏はその身をあふぎて涼 しむ寺にゆきても又ひとへに母の心のごとくせり 冬れいよりも寒しと思ふ夜はをのがよるの衣を ぬぎて母のふすまにくはへをのれはやをらすべり いでゝ身を出湯にうちひてゝ【浸して】その夜のさむさを ふせぎやゝ明がたにぞ家には帰りける母やまひ にふしぬかれ身ををくに所なげなり母のくふべき ほどの物ちからをきはめていとなみそなへ母の衣 けがれぬれば皆みづからすゝぎてきよくすすで にみまかりければなく〳〵ちかき野べにをくりはふ むり事をはりぬれどとみには帰りもやらず終に かへりて家にありといへど猶日ごとに行てなげき かなしみけりことにあはれふかゝりしはいはふべき 日にあへばまづ母が墓にゆきて泪をしのごひ【押拭う】 ていくとせか此日を家にむかへていゐはあはけれど 母とともにあき【満足し】酒はうすけれど母とともにゑひた ればわが心あかぬ事やはありし今母を捨てこの 野にありたとひ郡司(ぐんじ)のとみをうるとも又はた我 何にかせんやあゝわが母いかで帰りきたらざる やといひてなきまどへるさまたとへむ物なし是 を見る里人なみだをおとさざるはまれなり寛文 のはじめつかた国主 細(ほそ)川公つぶさにかれがありさま を聞給ひてろくをもくたふで国府にうつろひ すましめ給ふとなん云    論   いにしへにいはく五十はじめておとろふとあがり   ての世すでにしかりいはんや今の人をや孫次郎   はしめておとろふるの後にして日ごとに母をお   ひて行めぐれりいとたへがたからざらめやたゞ母   のをのれをいたはらむ事をおそれてみづから   身のこはきにほこり心にもあらぬたはふれ事   して母の心をやすめなぐさめ母の身ををふ   るまでにいさゝかも辛苦(しんく)の色を見せずたれか   これをかたしとせざらん其身は下が下に   してかくばかりいたりつくせる孝の心の   ありがたさよ孟子のたまふ五十にしてしたふ   ものはわれ大 舜(しゆん)にをいてこれを見る   と人老て父母をしたふ事のかたき此ことば   を見てもしるべし孝なるかなこの人 【絵画 文字無し】 十八 三田(みた)村孝婦 孝婦は備中の国 窪屋郡(くぼやくん)三田村の民久兵衛と いふものゝ妻なり久兵衛父ありきはめてかたくな なり孝婦をつかふてわづかにも心にかなはざる事 あればすなはちうちたゝきけりしかれども孝婦 是を心とせずふかくその罪をうけてさかは【さかふ=おのずから逆らう】ず つかへてをこたらずしうと年八十その脚(あし)よはし 孝婦これがき起居(たちゐ)をたすけてよるひるをわかずある 夜孝婦つかれふしてしうとがをくるをしらず しうといかりて孝婦が日々に物つくなる臼(うす)の内に ゆばり【尿】す孝婦目さめてこれしるといへど露 いろにあらはさずいたくをのがいぎたな【前後不覚にぐっすり眠ること】かりし ことをはぢらひしうとがいかりとくるを待て何と なくしりぞき出てかの臼をあらひけりそのやはらき したがへるさまよろつにかくのごとしさればかばかり あしきしうとなりつれど終には孝婦が志に感じ まへのひが事をくゐあらためけりその比しも国 のなりはひ見めくりける人かれが門を過けるに しうと出てま見えて孝婦□【「か」或は「が」ヵ】孝のいみじき事どもかき くづしかたりきこえにければその人やがて国主に申 孝婦にろくたまはせけるとそ    論   ちゝはゝ我を愛し給ふは誠によろこふへし   されどわれ力を用るところなし父母われをつ   かひ給ふに折〳〵はひが事おはしますこそわれ   力を用る所はありけれ是もまたよろこふべし   となんある人いへりいとよしこの婦かたくな なるしうとにつかへてをのか力をほどこす道 えたりとよろこべるがごとし孝なるかな孝な るかな世には人のよめとしてわづかにしうと しうとめのいかりにあへばしばらくもえたへで なきておとこにかこち或はをのがおやのがり行 て我にはとがなししうとしうとめのわろさよなど 口にまかせていひのゝしるもおほかるをいかなれば 此婦かくまては孝順なりしやその心のうちお もひやればすゞろに泪ぐまれ侍る 【絵画 文字無し】 十九 小 串(ぐし)村孝女 孝女は備前の国 児島(こしま)郡小串村に住ける七郎 兵衛と云ものゝむすめ也家もとよりまづしければ 孝女もいとけなきほどより人につかへて外にあり けるが年へて家に帰りけるに父いたく老たり 母はのちのおやなりけるがこれもやゝおとろへぬ 子ももたらずたゞ此むすめひとりのみぞ有ける よりてしたしき辺のあひはかりむことりて父母 をやしなはしめんとしけるに孝女いなひて【辞退して】いはく 人の心しりがたしわがおとことなるものもしわが 父母によからずはくふるともかひあらめやしかし たゞはじめよりさる人なからんにはわれ女なりと いへどたゞふたりある親にしあればともかふも やしなひてこそ見侍るべけれとてみづから田つくる事 に心をもちゐ身をつくしけり人みなしゐてむこのこといへ ど終にうけひく【承け引く=承諾する】けしきもなしたへがたきわざにもよく たへ忍ひて力のかぎりつとめけるほどに父もまゝ母も よろづにとぼしからであけくれよろこび居けるとなん 【絵画 文字無し】 二十 宍栗(しさう)孝女 播磨(はりま)の国宍栗こほり三方(みかた)町といふ所にひとりの 女子あり紀伊(きい)と名づく母はうせぬ父はやみて 足たらずはらからもなくゆかりもなし家きは めて貧(まづ)しければあさ夕のけふりも絶(たゆ)るばかり なるを紀伊さま〳〵にいとなみはかりてちゝがやし なひをばかゝざりけりその辛苦(しんく)いふもおろかなり あるとき其となりなる人紀伊にをしへていはく なんぢ孝にしてざえありよくくるしきにたゆ もし人にゆきてその家をおさめば必よろこび られぬべししからばなんぢの父をやしなふもさばかり はくるしまじいかでさはせざるといへば紀伊こたふ 人にゆけば身をその人の心にまかす既(すで)にその人の 心にまかせて又わが父の心のごとくする事をえん や思ひもよらずとなんいへりきく人みな感じあへ りそのころ此郡おさめ給へりし松だいら備後(ひんご)の 太守かれが孝行を聞てふかくあはれみて 年ごとによねたまはりければ後はこゝろやすく てぞ父をやしなひをはりにける    論   飲食(いんしよく)男女は人の大 欲存(よくそん)すとてのみくふ物と   おとこ女のちぎりとは人のねかひのおほかる   中にことにせちにいたりてをもし是さだ   まれることはり也しかるを小串村三方町両所   の孝女人にあふことをかくいとへるは何そや   いとへるにはあらず親をいとおしと思へるこゝろ   その欲にかてばなり又有がたき孝心なら   ずや世の男女の欲(よく)にひかれてよからぬ事など   しいだし【し始める】をのれは云にや及ぶ父母の面(おもて)をけが   しあるひは老たる親を捨(すて)てはしりまどひ   にげかくれてあらぬかたにさすらふるたぐひ   もおほかりもし此ふたりの孝女よりその   ともがらを見ばさながら畜類(ちくるい)のごとくならむ 【絵画 文字無し】  追加 一 志村(しむら)孝子 築後の国下 妻(つま)のこほり志村といふ所の里のおさは 市右衛門となんいひけりかれ父母をやしなひて孝 なり父はひが〳〵しくあやまちおほきものにて一類【一族】 にもしたしまれすその子むまごといへど皆うとく てありけるをたゞ市右衛門のみぞふかく愛して よくつかへける母はちかごろやまひにいねていとあや うかりけるが市右衛門かたはらをはなれずひるよる いねず心のかぎりあつかひきこえてからうじて ながらへしめたりこれにつかふるさま殊にせち なりよろづの事たゞ母の心のことくせすといふ ことなし母つねにたばこといふ物をこのめり市右ヱ門 よるといへともしば〳〵おきて母のふし所にいり 寒温(かんうん)をとひたばこをすゝむ日と夜もかゝず又母 外にあそびあるひは寺にまふでんといへば ずざ【従者】ありといへどそれを用ひず市右衛門かならず みづから負(おひ)て行かへれり市右衛門あねありやも めにして事なし母その家にあらんことをねがふ 市右衛門さかはずはやくあねのもとにすましめ 日ごとにゆきてつかふるさまをのが家にありし 時にかはらずさればひと里の人みな感じあひ □□【「て人」ヵ】の子のおやにつかふる市右衛門をもてのり【範】と せずはあるべからずといへり貞享のはじめつかた 事つゐに城府にきこふ府の君有馬公ふかく 感ぜさせたまふて物おほくたふでかれが孝行 を賞し母にもたへなる薬(くすり)などあたへて病のあた りをくすさしめ給ふ 二 対馬(つしま)太田氏 太田氏は対馬の国の士人なにかし正次かむすめなりし がおなし国のあき人嘉瀬成元といふものゝ妻とな れりかれ成元が家によろしくしうとめにつかへて 孝なり延宝三年の夏成元やみて死ぬ太田氏かなし みにたへずおなし道にとおもひ入けるを人々いさめて いひけらく成元死して老母ありこれをやしなふに 人なし身をまたくしてこれをやしなはゞ成元草の かげながらいかばかりよろこびんと太田氏いさめに したがひてそれよりもはらしうとめをやしなふこと をなん事とはしける時に年二十六なり父正次かれ が年わかく子なくしてはやくやもめなる事を いたみてあらためて人に見せむとす太田氏うけひか ずもししゐてのたまはゞふかき淵(ふち)にもと思ひとり 侍るといへば正次かさねていひもいてず心にまかせて しうとめをぞやしなはせける成元死して後いつと なく家の内まづしく成もてゆけば太田氏うみ【績み】つ むぎ【紡ぎ】おり【織】ぬふ【縫う】わざをしてやしなひのよすがと せり人そのみさほに感じて物をおくりて衣食(いしよく) をたすけむとすれはいさゝかもそれをうけ ずしていはく故なくして人のほどこしをうけは 心におゐてやすからめやわがちからわづかに しうとめをやしなふにたれり何をもとめてか 心にこゝろよからざることをせんやと成元死して 十とせあまり露もそのかたちをかざらす髪(かみ)は 月ごとにたちてながゝらしめず成元か牌主(はいしゆ)につかへ て猶いけるにつかふるがごとしかゝる事とも太守に きこえけれはふかくその貞節(ていせつ)を賞してよねお ほくたまひにけり貞享二年の秋の事とそ 三 神(かう)山孝女 すぎし寛文のころにや津の国能勢の郡神山と いふ所に并河(なびか)道悦といふものありけりくすしをわざ とせり心ざまもあしからさりしがさいはひなく てつみにおち入その太郎なる子とともにひとやの 内にとらはれてあしかせなどいふ物に身をくるしめ 居けり道悦むすめあり名をは亀(かめ)となんいひて 年は十にふたつばかりぞあまれる父か此こと をいたうなげきそのくるしみをおもひやりて 身ををくに所なげなり夏は蚊のこゑのしげくわつ らはしきに母とはらからは帳(ちやう)はりていぬる【寝ぬる】ををの れはひとり帳の外(と)にのみいねて父のひとや【牢獄】の内に おはしてい【寝】をやすくもしたまふまじきをわれ家に ありていかでゆたかにはいぬ【寝ぬ】べきといへりみ山も さやぐ霜夜には又さよのころも【夜着】をかさねずして かのひとやの内いかばかりさむからんにわれさむから てやはいぬべきと思へりちかき山のふかくしげれる 方にいにしへより観音(くはんおん)の堂(だう)ありけり亀なげきのあ まりにかの堂にまふでゝ父かわざはひにまぬかれん ことをいのる堂は里とははるかの道をへだてゝ けうとき【気疎き】山のおくなりけれは年たけたるおのこだ にいと物すごくおもへりそのうへたけきけだものな どもすみて折ふしは人をそこなふ事もあるを 亀いさゝかいとはずおそれず夜なかあかつきにも行 かよひてもしあやしきけだものにあへば我はかゝる ねがひありて観音にまふでくるものぞけだ 物といふとも心あらは此身をそこなはてよといへ はちかづきよるけだものもなし人みなこれを あやしみけりさてもかのひとやの内にはつまや 子のゆくゑもしらずたゞ身のくるしきにたへかね てのみ月日へにけるがある夜何ゆへともなくあ しかせゆるびたるやうにてふたつの足(あし)こゝろ のまゝなり道悦よろこびにたへずされどまもる 人の見てとがめんがうるさければつねは猶あり しまゝに足さし入てぞ居けるそれを聞つたふ る人はあきらかにこれ神山の観音大 慈(じ)の亀が 心をかなしませ給ひてせさせ給ふらむとぞいへる かくて六とせばかりありて道悦ゆるされて帰り ぬ亀よろこべることかぎりもなし父もありし 事ともおち〳〵とひ聞てなきみわらひみ【「…み…み」と重ねた形で「…したり…したり」の意を表す】よろこび あへりそのころは亀もやう〳〵をよすげ【成長する】ねひま さり【ねびまさり=成熟の度が際立つ】たれば父母さるべき人にも見せてさかゆ く【ますます栄えて行く】末をまたはやといへは亀おもひもよらすとなん 云を父母あやしみてとへはわれ父のわざはひを観 音にいのり申し時父故なくは我いけるあひだ おとこを見侍らしとちかごと【誓言】し侍りぬしかるを たゝいま其ことはにたがへさせ給はゞわが身の 事はいふにやをよぶ父のさためもいかならむ とおそろしたゞ此まゝに候はんこそあらまほし う候へといふ父はゝせんかたなくておもひわづらひ けるか亀やかてちゝ母にこひて尼となりて名を 智信(ちしん)とあらためけりその後いく程もなくて病に おかされて年二十三にしてうせぬとなん   右三人の孝状誠(かうしやうまこと)にあはれふかしことにその   国〳〵の人のかたりきこえていさゝかうき   たる事にあらねば聞(きゝ)すてかたく覚え侍   りて筆のつゐでにかきくはへ侍る此のち   猶このたぐひあらはたれも〳〵しるしそへ   給へ人の善をおほはざるのみにあらず人の   子を感激(かんけき)して孝道(かうだう)を世にひろむるのわざ   何事か是にすくへき 仮名本朝孝子伝大尾 貞享四年丁卯五月    梓 行 明和七年庚寅三月  平安  石田氏門人藏版 【左欄外 朱書き】 明治十年丑二月 小原日仙求 【白紙】 【裏表紙】 【和綴じ本の背の写真】 【書物の天或は地の写真】 【書物の小口の写真】 【書物の天或は地の写真】 【葉の模様の中の白抜き字】 特製 【本文】 防虫薫   非売品 此の防虫薫は書画幅及書 籍等の虫害を防くに特効 あり当店多年の経験に依 り精製せしものにて毎年一度 御取換あらは最も有効なり   大阪 山中箺篁堂