【帙入】 《割書:地震|後世》俗語之種 《割書:初編|之一》 伝聞地震は陰陽の昇降浮沈の遅速に より発行して雷となり地震となる とかや春夏秋冬に臨て浮沈前後の 差別巡還ありといへとも予春寒退兼 て悪風を起し立夏より夏至に及す のころ冷気にして地を震秋暑難去 して邪気を発し立冬より冬至に及 すのころ暖気にして地震ふ事其例少 からす茲皆陰陽不順なる自然と不正の 病苦も流行し草木にあたるとかや水 火の勢大空にすれあひて雷となり百里 に響といへとも障なきをもつて不動地中 は是障多かゆゑに大地を動すといへり 茲皆陰陽五行五性の変化より発行 する処なりとかや 今爰に弘化四年丁未歳次清明の下旬 二十四日の夜亥の初尅天災不思議なる 大地震を発し信濃の一国を大に 破損す就中水内高井埴科更科 筑摩の五郡地水火の三災をもつて 人民牛馬およひ山野田畑を損事前 代未聞にして言語に絶たり此変化 たる事を奈何其予愚毫を止めて子 孫累世のなくさみに書残事を思慮なす といへとも幼時不勤学老後雖恨悔尚所 益有ことなしとかや我今紙を撫筆 をねふりて先後の有増を案すといへとも 何から先も不能思案こつては尚更混 雑不埒親の教訓を午の耳悔んて還 らぬ無学愚知述懐なとゝは金輪際 俗物プウヽヽ俗語なりと笑ふ子孫も あるならは草葉の蔭にて歓へし彼を 思ひ是を厭ひ徐く思案も一決し銕釘 元祖の手跡ても瓢単鯰の文章ても書 遺さへあるならは後世まても尽せすと おそまき思案の後悔は茲畢竟幼 時不勤学の由縁なるへしこの書は おろか書類をはいらさるものと麁抹【そまつ】 にし襖下張屑紙に用ゆる事は 必しも嗜慎給へかし俗語のくせに長 文句と誹謗もおつはり春の夜の笑の 種ともなれかしと子を覧事親に しかす可悋後悔なるは唯家に記録 なきことをのみ   于時弘化丁未の夏麦園に仮居の   折節徒然のあまり閑窓の下に   塵を払十六夜の月の照りを行   灯の影に写したはむれ書して   子孫のなくさみに遺す事しかり        粟生菴清陰 其本末白地而美言除只 恣後世之伝訛言誤頗雖 多不患他見之嘲而子孫 之憍情愛兼可恥我拙歟 因後世俗語之種表者也 人王三十代欽明十三年壬申十月十三日 自百済国聖明王貢献仏経之云 善光寺如来自百済渡来之図 【善光寺如来自百済渡来之図】 人王三十一代敏達二年如来自難波之 堀江出現同十四年守屋大臣再如来ヲ 難波之堀江ニ沈メ及仏閣経巻破却ス自 欽明十三年五十四年ヲ過如来難波 之堀江ヨリ出現   倭漢三才図会巻之第六十八 信濃国善光寺 在水内郡芋井郷寺領 千石 欽明天皇十三年本尊如来自百済 渡来而未倍推古天皇十年草創建寺於伊 奈郡麻続之里宇沼村而後皇極天皇元年 依勅伊水内郡建立本願主名本多善光因 以爲寺号慶長二年七月秀吉公以本尊奉 入於洛之大仏殿然仏不悦而有奇崇故同 八月復奉還焉      幸一謹写  自丹波駅河原長し所謂  吹上荒木中御所石堂善光  寺まて一里の間家続る書 犀川渡船の略図  三船をもつて旅行を渡すと  いへとも紙中挟【狭】けれは縮て其  略図を出すのみなり 【犀川渡船の略図】 従石堂田甫 善光寺市街 見上ル之 略図 小人閑居して不善をなす幸一幼少にして 父母の恩愛を恣にし不孝にして教訓を 等閑にす今爰に後悔朝夕たりといへとも恩罪 身にまとひて人前に無学の恥辱をさらす可 憐可怖罪過消滅懴悔のため己か病根を爰に 於いて子孫に語る養父病に臥し給ひて終に遠行 の旅路におもむき給ふといへとも若年にして 看病の怠る事を覚実母此世を去給ふといへとも 是また左の如し年経て後不行跡にして 江府にありし実父の病ひ便りなき国に旅立し給ふ その日をもしらす父母居す時は遠遊せす是聖賢 の教を守らさるの後悔也自らなせる禍ひ難 遁不順にして恥辱を抱て再国に帰り養母 の腹立給ふを慰の詫を乞願ふといへとも是を心 よしとし給ふ事なし数日仮居して妻子と 共に憂辛苦をするといへとも困窮爰に止りて 朝夕患多し折しも夏の日の夕立篠をつく か如し雷鳴耳をつらぬき電光目に遮に おそろしといふも尋常なり此時己驚怖 して是を思ふに酉夢打其父天雷裂其 身斑婦罵其母霊蛇吸其命指をおりて 罪を数るに三枝反甫の礼をもしらす己か如き 不孝なるものならて誰か現罪を蒙らさる へき今にも一身撮み裂るへしと苦患堪か たく狂気の如くして有けるかしはらくして雨晴 電光止ぬ爰において懺悔して己か不孝にし て父母の遠行を残り多しとせす養家 を継て不行跡の科あり今我路途に迷ふ とて身儘にして再家に帰らん事を欲す養 母憤りて免し給ハす是畢竟己か身を 恨むるより他事なし妻子なくは剃髪して 菩提心を発し若不幸におちいるへき若気 もあらは此一条を談合もせはやと心痛 しきりにして是を悲む痛ましきかなそれ より此かた風雨を怖れ物に驚く事骨髄 に染込て遁るゝ事を得す是則己か病根 にして驚痛の恥を発し療養を加ふと いへとも治しかたく脳める事中に語るも恥 へき事なりけり爰に己か娘順は養母の 愛憐を蒙りて成長したりけるものなれは 祖母と孫との愛情の橋かけ初て終に詫を そ免し給ふる是を思ふ時は我子を愛 其孫を恵む事の情合子を見る事親に しかす有かたしといふもまたおろかなるへし 程経て養母も重き病に臥して終に遠に 赴給ふ此時始て看病をもし野辺の送り をも勤めけれはおのれなからに勧念して そ勘考しける心には墨染の袖に世のうさ をおほふといへとも煩脳すてかたく妻子の行先 に迷を尚不顧罪を重ぬる事こそおそろ しけれ養母のはかなく成給ふ看病の外 孝に似寄たるさまもなけれは自ら改めて名 乗を幸一とす此うへの未熟を世の人にひろめ 未熟を不患して罪を滅し是を子孫の幸 ひにす一ツは万物のはしめなれは幸一 過て改るにはゝかる事なかれ左に記す大災の 書も後悔にして其子細愚なり半はまて 綴りて是を見るに書写したる己にさへ可 笑み拙き事こそ多かりけれ尚閑をね らひて書損を改め清書する事を欲すれ とも病苦に逼れは其足事全からすや 紙数の散失なはん事歎か儘に先是を 仮にとしてそ置ものや若行届かすして 清書を遂す此儘子孫に送らはその拙事を 必誹謗ある事なかれまた己か無学病 根の罪過を懴悔消滅のため爰に書加へ たれは子孫に至り後悔の二字を深慎み 取返しかたき事を可怖実に前車の 見覆後車の為誡事を伝ふる而已        粟生庵主         善左衛門            幸一 【花押】   幸一折節し眼病に痛く   悩めるまゝに忰貞助に筆を譲   りぬ文字仮名違も多かるへけれと   いまた若輩なれはなりと教   学覧を仰奉願のみ 爰に善光寺如来の伝書に似寄又 当所の繁花を記せし事不屑にして物 知めかし亦此書を遠国他人に送るにも 非さる事を徒に紙数を費し愚毫を さらすに等し子孫累世に及ひて是を 見ん時は奈何嘲笑すへきもなからんや 愚おもふに満れは闕るのならひといへとも 遠境隔る所の通客は山国を侮り物言こと 鳥獣にひとしく人間に四足なき事を怪む 爰に今此小冊を残して諺に驕平家の 久からさる事を子孫に語り伝て聞天明 の頃始て当処へ雪駄二足を商人の 持来る事を是を求得て試見ん事を 評議区々なりとかや纔に六七拾年余 の今に至りては天鵞絨の二重紐も昔の 事におもひやはた黒桟留皮をこのみ 我幼年文化の頃は適々来駕の客を 饗応すといへとも内津のさゝ波一森なんとの 煎茶を極最とす讒に二十有余の年間の 今に至りては都の辰巳しかそすむ世を宇治 山の撰葉も差別を論して是を常とす 如斯驕奢に押移る事天の悪もまた恐 怖すへし人間生死を案する時は流行 栄花を深くつゝしみ四海皆是兄弟たる 事を勤てもつて長子孫を連続すへし 今天より大災を受て暫時に繁花を昔 にかへらしむかゝる盛衰を眼前に見る 事を思ひ徒に筆を採て気欝を 紙上にさらして累代のなくさみに残す  のみなり因て覧人笑を免し給へかし 抑当国善光寺三尊弥陀如来の来由は遍く 世の信仰にしる所にして霊験殊にいちしるし 三国伝来の伝書より人皇三十代の帝 欽明天皇の御宇にはしめて日の本に渡らせ給ひ 三十六代の帝 孝極天皇蘇生ましますの 縁に寄昔時本多善光へ勅命あり諏方の国へ 供奉して安置まします今呼て伊奈郡座光寺 是なり天平三壬寅年諏訪の国を信濃の国に あらため同国芋井の郷に遷し奉る此時高 島の郡諏訪明神の神職奈何の縁に寄てか 本多善光と倶に供奉し一山のうちいまの 中州に血脈を止めて連続すと云々今もなほ 御仏御超歳の御宮なりとて恐多くも 公義御普請の一宇において師走二ノ申の日の 夜尤秘密にして行之此夜にあたりて市町の 人家はいふもさらなり鳥獣たにも小声一言を 慎すんは必神の崇ありとてひそまりかへつて 恐怖す御超歳の首尾能済たる事を大鐘四方に 響の時を待て参詣群集たる事其例し 今もなほ昔に変る事なし是全神職 血統の修行に寄なるへし尤秘密なれは其 予詳なる事をしらす今の御堂より乾にあたり 箱清水村あり四方は芋井の郷にして一邑の 地中を深田の郷といふ村入のかたはらに十人河原 あり其昔如来誦経の料として深田の郷において 二百石を十二院へ給ふなほその頃は江拾三井 寺の末院たりといふ是なん一山のうち衆徒 なりとかや数百年の星霜を経て十二院は 名のみ残る是を誤て当所の人今呼て十人河原 といふとかや一山四門に勅額あり東門を定額山 善光寺西門を不捨山浄土寺南門を南命山 無量寿寺北門を北空山雲上寺  月かけや四門四州にたゝひとつ はせを翁 既に定額山善光寺は東門にて御堂も東向 なりしを数度焼失あり就中寛永十有 九年壬午五月九日の出火にて町〳〵およひ 御堂類焼す其頃大勧進御方本領上人御方 争論の事ありて仮御堂を御両寺の間に 建といへとも入仏再達の金も延引におよひ 尊像を焼跡に安置奉りぬ慶安三庚寅年 出入相□七ヶ年過寛文六丙午年四月十五日 御堂へ遷し奉り元禄元年始て如来 堂建替の願ありて諸国に勧化あり元禄 十二戊寅年【*】唯今の場所へ地祭りありて 普請はしまる同十四庚辰【*】年七月廿一日 下堀小路より出火南風烈敷御堂も財【材】木も 類焼す固落【?】再国〳〵勸化これあり同十 六癸未年より普請はしまる此時御両院 より熟願ありて松代御城主様より普請 支配として諸役人を給ふ惣奉行山田□を 始として上下の人数百二十五人御配役の次第は 別錄に委鋪して爰に略す元禄十六年末の 八月年号改元あつて宝永四年亥迄五ヶ年を 経て建立あり□善光寺御堂は大 伽藍にして遍久世の人の知る所なりと いへとも纔に五ヶ年の建立全成就なる事 尊敬すべしそのあらましを爰に記すに 御本堂《割書:桁行二十九間三尺一寸五分|梁行十三間七寸五分》高さ石居より箱棟迄九丈 【*:年と干支が合っていない】 坪数三百八拾七坪三合   余者別記委鋪して爰に略す 柱立宝永三戌年四月十六日 上棟同亥年七月朔日 入仏同八月十三日     供養同八月十五日   其余者別録に委鋪して爰に略す 是今の御堂にて諸国より参詣夥しく前代 未聞の群集にて善光寺の街はいふも更なり 近辺まても旅宿するもの多し通夜する者は 御庭に充満する事言語に難述しと云々昔時 欽明天皇の御代年号たに不定其昔日の本に 渡らせ給ひしより今弘化四年丁未まて年数百年の 大なるは普く世の人の知る処なりかゝる 旧地の霊場なれは年増日にまして繁昌し 諸国よりの奉納寄附のし□ふ〳〵善美を巻し 参詣の諸人は百里お遠しとせす老若男女は 王還の足労を不厭して爰に群集すまた 北国往来にして旅人多し御領は入交る といへとも世俗に善光寺平と唱ふるまての見渡し 丑寅より未申へ里数十余里東西五六里にして 悉平地なり□山国なれとも遠近山中に 村々多しいつれも市町nに弁利ありて炭薪 麻木綿雑穀を夥敷商ふ北海へ纔十五 六里を経て朝夕に生魚を得流水にすめる ものは名たかき千曲犀の両川より手をうつて 走り井の本に呼田畑ともにニタ毛を耕作 するの徳あり其外山海の魚鳥四季の野菜 もやし青物のたくひは呼声終らせるうちに鍋に 入り三ッ子といへとも料理を味ひて生死の蒲 焼を知る形の大なるを重しとし小魚の軽を好とす 就中化物織ものやくひ諸国の新製新 形をこのみ実に諺に京に鄙ありといひつへし しかるか中にも当所はいふも更なり東南西北の 駅路近辺まても利潤格外にして参詣群集なるは 一山の中に常念仏堂あり七八ヶ年の程を 経て五万乃至六万の日数を積りて惣回向 ありまた血縁のため前立本尊御開帳にり 尤累代の例によりて三月十日より四月三十日まて 日数五十日の間其賑しき事山国辺□にはまた 珍らしといへとも世に仏都と唱ふるをもつて 疑心を発すへからす凡累例の式作法をはしめ 此前年十月十夜に あたりて三都 を始当山二 天門前へ 立る事常例たりとかや 然るを今弘 化四未年御 回向につき午 年九月十日建札ありし事奈何の 由縁なるか其詳なる事をしらす此時御別当大勧進 《割書:大仏頂院権僧正|山海御代也》松代大守様元来の御懇意たる に寄時候御伺として御登城あり御懇の 御もてなし厚善美の御土産物まて 給はりて首尾全にして御帰山奈りといふ 此とき誰いふともなく此事を虚説して曰 十月十夜におよひて札を建事常例たり然るを 奈何三十日をなく届もなくして建札あるの よし同薩諸色買置を催しまた直上をた くむ人□騒立事三【五?】ヶ月とて可満を四ヶ月の ふ離通たりとて此旨御尋のありしゆゑ御記 【立て札横】 此札之書方者多分粗□【米に吾:齟齬?】可有之 唯其大卒を以図に出す而也覧人 不可違事謗 【立て札】 信州善光寺如来 常念仏六万五千日回向 来未年三月十日より四月晦日迄本堂に おゐて前立本尊開帳御印文頂戴毎 朝四ッ時法事修行有之もの也 として御登城ありけれとも御許容なし 因兹御回向は空しくなりしといふ此時予も 松城にありしか御城下町は更なり御家中に おいてたふ其取沙汰専らなり予も心を痛 帰る路すからも其説よち〳〵なり帰りても なは是を同ふに最早建札は引ぬる事を 取沙汰する事多かりけり其虚説にして 所にたらすといへとも爰に三月二十四日既に 御回向盛にして諸国参詣の旅人幾千人と なく一時に命を爰に群死は疑ふらくはかゝる 大災の前表にもありけるにや ○弘化三年午の十月朔日終日悦晴にして二日 雨降る三日天気にして四日終日雪降五日 終日雪降り午の半刻より雪大いにして 寒気尤厳なり酉の初刻雷鳴夥しく 雨戸障子の内まて其光りすさましく 心耳を驚す事尋常なり奈何大寒雪 中においてかゝる変事有事実に陰陽 昇降の遅速によるなるへきや予日記に しるし置たるをかゝる大地の震ふ事をおもひ  あたりし侭に爰にしるすもまた可愚なる哉 町々の奉納かざりつけの次第繁花の家並に 至り凡略図を紙数の中に愚毫をさらし置ぬ そのあらましをいはは先名たかき犀川の渡船 あり水の満微に随つて二船三船をもつて 縄をたくりて旅行を渡す其水上は木曽川 にして山国谷間を流れいてて平地に至れは 河原のほと尤長し浪あらくして瀬早し伏て 渡船を縄こしにす遠近の通舟茂た乗る 商人も船頭の様を便りにあら浪を上 下しをやけき月は浪のうね〳〵に光りを うつし初秋告る雁行かふ鴨いつれかあ はれならさらん千曲犀一川になりて北海に 流れ名物の川鮭此辺に漁り一瓢を□の るもまた面白く夜行には吹上の石燈籠 を見当に旅の労れをわすれはやくも善光寺 にいたりぬるかと宿入馬の鈴の音色も面にく 馬士うたにつれて 荒木村をすくれは中の御所むらあり昔時 征夷大将軍頼朝公建久年中善光寺 参詣の刻仮御所に定め給ひしゆゑに 字とせり爰に大将軍守仏髪の馬 頭観世音政子御前の守仏正観音 弘法大師御作地蔵尊安置の御堂あり これより三丁程歩行て石堂村あり かるかや親子地蔵尊の古跡石堂丸の 因縁によりて字を石堂村といふとかや是より 御本堂まて左右に家を建つらねて 【道標】               荒木村 従是北西 御代官 川上金吾助支配所 【道標左】 中之条御在陣と可知 諸商人おもひ〳〵に見せ店をまうけて 家業怠る事なし都て町〳〵の 有増を図画の大略をもつてす先程に 近来取にけて繁花賑ふにしたかひ一より 十□【百?】千に至るまて一ッとして不足する 事をきかす説前にも記せり如く善 光寺如来御回向とて来年の事をいへは 鬼の□【笑?】ふ今年より 我人におとらしと精を磨き魂【䰟】を碎て 利潤の大なる事を工風し新製妙 案なる事を催す其外旅籠屋茶 店に至り煤を払ひ行燈を張かへて 年のあくるをまつ或は芝居或は軽 業曲馬をはしめ遠近にあるとあらゆる 評判記を尋もとめ給金雑費の多 少をろんせす工風をこらす事 尋常なり 最明寺殿教訓の章の うちに冨貴貧賤も過去のやく そくなりとをとわて見れは 直に願ふへき富きもあらす いとふへき貧賤もあらす 秋の夜のせやけき月は 冨の家もわか草の戸も かりてさりけり        幸一 【白紙】 【裏表紙】