SMITH - LESOUËF JAP 141   松田緑山鐵筆 《割書:銅版|新鎸》極細書畫便覧   皇都    玄々堂發行《割書:玄々堂|緑山筆?》 【横文字の書入・蔵書印・タグなどの入力をどうしましょう】 ○御内裏圖 今都ハ人皇五十代 桓武天皇延暦十三甲戌長岡ノ 宮ヨリ此平安城ニウツサセタマフ 紫宸殿○清涼殿○建礼門○ 建春門○宜秋門○承【u23d0e】明門〇 日花門○月花門○内侍所ニハ 三種ノ神祇ヲ納奉ル金玉ノ 鈴ノ聲人心ヲ澄無情ノ草 木枝ヲタレ葉ヲシク況ヤ人倫ニ 於ヲヤ○祚年始ノ御儀式 元日四方拜ニ朝拜二日三日ノ 御祝七日ハ七種ノ御粥 白馬ノ御節會十六日 踏歌ノ御節會十九日 舞御覧紫宸殿ノ 前ニヲイテ舞楽アリ 同ツルノ包丁アリ廿日 六十六本ノ左儀長 三月三日御トリ合 四月中酉ノ日賀茂 神社ヘ御葵マツリ 六月十六日嘉祥 七月七日梶ノ御鞠 飛鳥井難波両 家ニアリ同十四日 御燈籠八朔日従 公方様ヨリ 御馬御 献上 九月十一日 伊勢奉幣ハ 吉田神前ニ於テ 是行十月亥日 亥猪十一月廿八日 春日御祭時々 節々御政嘉 □【齢の異体字か 嘉齢延年の語あり】延年ノ 御儀式 ナリ 玄〃堂  緑山製 【下部書入あり】palace de Mikado Kioto 春の初のけさう文その売声をきゝてさへよならす吉事 ありとありといへりまして此みをもとめて見る人は其年のやくを はらひ開運はんしやう家内和順の守と成へしまた 女子は此文を求てひめ置給へは愛敬の守と成て空敷縁を 結ひ給ふへしとく〳〵求てよき幸を得玉ふへし 大平の御代に出たるけさうふみ 初子之日 野外 御遊之圖 むかし初春(はつはる)の子の日(゛)には大内(おほうち)の北乃野に みゆきまし〳〵て小松をひきわかなを つみて御遊(ぎよゆう)ありしなり 公事(くじ)根源(こんげん)に曰く 朱雀院(しゆしやくゐん)圓融院(ゑんゆうゐん)三條院などの御時 には此御遊はありけるにや中にも 圓融院の子ノ日(゛)させたまひけるは 寛和(くわんわ)元年二月十三日の事なり路(みち)乃 ほどは御車なりしが紫野(むらさきの)ちかく 成(なり)て上(゛)皇(くわう)は御馬にめされけり 左右大臣以下皆 直衣(なをし)にて殿(てん)上(゛)人には 布衣(ほい)なり幄(あく)の屋(や)をまうけ幔(まん)を 引めぐらし小 庭(には)となして小松を ひしと植(うへ)られられたり籠物(ひもの)折(をり)びつ桧破子(ひわりご) やうの物を奉る人ゝ和哥(わか)を献(けん)ず《割書:下畧|》 式日子は北方に配して一 陽(やう)来復(らいふく)乃 候(こう)とし又 釈氏(しやくじ)に北倶(ほくく)庐州(ろしう)の人の 千歳(せんさい)を経(ふ)るといへる説によりてまづ 大君(おほきみ)に其(その)齢(よは)ひをあやからせ奉らん 為此日の御遊を催(もよほ)されしになん  ねのひしにしめつる野へ乃      ひめ小まつひかてやちよの    かけをまたまし   清正   みゆきせし北野の春の           姫小まつ     引もかしこき      ためしなりけり     千蔭 【子ノ日の「日」や「上」に濁点「゛」がふられています。閲覧ではうまく表示されず残念。】                     春燈齊 鐫 高砂 能之   圖 【下部に薄くアルファベットの書入あり】                   安宅能之圖                       春燈齊鐫        春燈齊 鐫 猪の子餅乃由來 摂津國(せつつのくに)能勢郡(のせごほり)切畑(きりはた)の両村(りやうそん)より毎年(まいねん) 禁庭(きんてい)へ調進(てうしん)し奉(たてまつ)るこれを御玄猪餅(おげんちよもち)の調貢(てうぐ) といふ傳(てん) ̄ニ曰 ̄クむかし 神功皇后(じんくうくわうこう)三 韓(かん)を征(せい)し 御 凱陣(かいちん)乃とき 皇太子《割書:應神|天皇》を供奉(ぐぶ)し給ふ こゝに香阪(かうはん)王《割書:麛坂|ならんか》といふ無道(むとう)人あり国家(こくか)を 【割書部分「應神」に(わうしん)「麛坂」に(かこざか)のふりがな有り】 奪(うばゝ)んとて軍勢(くんぜい)を催(もやふ)し 皇后を滅(ほろぼ)さんとて所々にて挑みたゝかひ此山 中に追駆(をいかけ)奉り既(すて)に害(がい)し奉らんとする所に猪(ゐのしゝ)多く出て香阪王を喰殺(くひころ)し 永く怨敵(をんてき)亡(ほろ)びけるこゝに於て 皇后太子ともに危難(きなん)を免(まぬか)れさせ給ふ天下 静(しづ) まりて後(のち) 應神天皇の御代(みよ)より毎歳(まいさい)亥月亥日を祝(しゆく)し給ひ吉例として長く 御亥猪餅(おけんぢよもち)の供御(ぐご)を調貢(てうぐ)すべき詔(みことのり)ありて代々の 帝へ變らず三ツの亥共に捧(さゝ)げ 奉る也然るに中比に至り兵乱(へうらん)に依て中絶(ちうぜつ)しけるを百八代 後陽成(ごやうぜい)帝乃文禄 二年 再貢(さいぐ)ありて先規(せんき)の如く今に於てかはらず□□ 拾芥抄曰十月亥 ̄ノ日食_レ ̄ヘバ餅 ̄ヲ除_二 ̄ク萬病_一 ̄ヲ 下学集云 豕(いのこ)は毎年十二 子(し)を産(うむ)閏月 ̄ニハ 十三子を産故に女人 羨(うらやみ)_レ之 ̄ヲ 十月豕 ̄ノ日を祝(しゆく)すゆへに豕子と名づく十月を用るは 豕(ゐ)の月なるゆへに此月此日を用ゆ 委くは摂津名所圖會 ̄ニ見へたり