郵 報知新聞 便 錦画第一号 北海道根室州釧路郡において 明治七年十二月二十五日午前十一時 過(す)ぎ 日(ひ)三つ並び出(いづ)るを見る驚愕(おどろき)を なすと雖(いえど)も怪(あや)しむにたらず其故は久々 の厚雲(あつくも)に大陽(たいよう)の曲(まが)り映(うつり)ずる天象(かたち) 西人(せいよう)是を「フアロス」暈(かさ)の類 と云ゝて昔時の奇(き)じは発明(はつめい) の世の常なり此一りを窮(きわ)めて 推考(さとり)せば年代記の奇 説(せつ)とても 驚くに足らずと江湖(よもの)の婦女 子にしか云 穂千堂   真文誌 郵                                 本若板 報知新聞                              新志座 便 錦画第十八号                          ホリまさ 大阪高津七番町栗駒常七 倅(せがれ)の 久吉は当十七才なるが去年 窃盗(せつとう)の 科(とが)により懲役(てうえき)六十日 蒙(かふむ)りなを慎(つゝ)し まず十二月雇われ先(さき)の金拾円持 逃し親 許(もと)知音(しるべ)へも立寄りがたく 式夜千日前みせ物小屋に臥(ふし)居たる 傍(そば)をかへり見れば拾才計の女子臥 たるに色欲(しきよく)を発(おこ)し無暗と手詰(てづめ)に なすといへども初年(おさなき)の女子なれば終(つい)に 大音を揚げ叫(さけ)ぶ声 巡査(おまはり)の耳(みみ)にふれ 駆来(かけきた)り捕(ばく)せられ後(のち)懲役七年に所(しょ) せられ此 初女(むすめ)はなんば村菅原茂兵ヱが 女にて家を出奔(ぬけいで)し爰を臥所(ふしと)とせり 明治八年六月の事情      よしなり            二代                                貞信                             編集人 西屋基二 郵便 報知新聞 第五百五十一号                         大蘇芳年 大坂(おおさか)舩越(ふなこし)町(まち)に骨接(ほねつき)を業(げふ)とする松本(まつもと) あいと呼(よ)ぶ婦人(ふじん)あり年(とし)猶(なほ)廿六才なるが 日頃(ひごろ)より柔術(やわら)にも長(たけ)たりしが其(その)妍(かほ)よ きを以(も)て人(ひと)其(その)勇(ゆう)を知(し)るものなし近(ちか)き 頃(ころ)隣(りん)家(か)の娘(むすめ)を連(つ)れて長柄(ながら)川(がは)の 堤(つゝみ)を過(よぎ)りしに川風(かはかぜ)寒(さむ)きかはたれ 時(とき)四人の荒男(あらをとこ)躍(をど)り出(い)でおあいと 隣(となり)の娘(むすめ)とを両人(りやうにん)づゝにて取(とり)おさへ 強淫(がういん)なさんと為(な)せしかば於あいは 大(おほい)に怒(いか)りつゝ組付(くみつい)たる一人を水中(すいちう) 投(なげ)こみ又一人を撞(つき)こかし隣(となり)の娘(むすめ)を押(おし) 臥(ふせ)て上(うへ)へまたがる一人の領髪(ゑりがみ)とつて 捻倒(ねぢたを)し拳(こぶし)を堅(かた)めて一人の眼(まなこ)の辺(あたり)を 打(うち)ければ何(いづ)れも恐(おそ)れ逃散(にげちつ)たり               三遊亭圓朝誌 【タイトル】 郵便 報知新聞 第四百四十九号 【本文】 枯(かれ)木(き)に再(ふたた)び花(はな)咲(さく)は彼(かの)開花翁(はなさきぢゝい)が 伎(き)倆(りやう)に出(い)でたる昔(むかし)語(がた)りに伝(つた)ふ を聞(き)く而己(のみ)爰(こゝ)に渡(を)島(しま)の福(ふく)山(やま) なる杉(すき)原(はら)美(み)農(の)と云(い)へるは挿(さし)花(ばな)を 以(も)て娯楽(たのしみ)とせり西(せい)京(きやう)池(いけ)の坊(ばう)四 十二世 専(せん)正(しやう)坊(ばう)の門にあそびて 功(こう)手(しゆ)に妙(めう)を得(え)たりとぞ去る弥(や)生(よひ) 五日にや活(いけ)たる梅の花の后(のち)其(その)枝(えだ)ゝ(〳〵) に実(み)を結(むす)び漸(やゝ)熟(じゆく)せしとは愛度(めでた) けれ師(し)翁(おう)仄(ほのか)に聞(ぶん)知(ち)せるより 前(ぜん)号(こう)の隺岡(つるをか)とよべるに因(ちな)みて 一 首(しゆ)を詠(よみ)て賜(たまは)りしとぞ 鶴岡は仙人(やまびと)の住む宿なれや  千世のみのりのうめの梅がえ 木偶道人誌 過日錦画新聞第十四号に摸写せる 五大力茂市は浪花の水に遡(さかのぼ)る鯉魚(りぎよ)の 勢ひ普(あま)ねく賞(しやう)して皛(きらびや)かなる晴天 の名を甲太皷(かんだいこ)に轟(とどろ)かす大角力にて 土俵入せる支躰(からだ) 寸量(かつこう)の本説(しつ) に曰く 大阪府下頭取   高﨑要左エ門   弟子   五大力茂市   当七年二ケ月  身丈 四尺五寸  目方 十八メ目 こゝに再画(さいぐは)し人気力 量(りやう)の栄(さか)ふ るすへを待のみ        其角  觝とり     ならふや   秋の唐錦 《割書:大|阪》錦画              花源堂しるす                             小信改二代                             貞信画                                 綿喜板                                 冨士政板                                  ほり九一 【新聞社名欄の刷りなし】      小信改二代                   重信 画                    冨士政板                    錦長板                    ほり 重 世にふ具(ぐ)なる を愁(うれ)ひ難病(なんびよう) にかゝりたるを 遠(とほ)ざけ愛着(あいじやく) を失(うしな)ふことと少なからづ人論に生れ 人りんたらんは素(もと)より天然(てんねん)の應授(さづけ)なの【り?】こゝに一話 あり生れつき粉芬(ちよふん)を粧(よそ)?ふ如く人にこへ色白くして 頭髪(かみのけ)赤くのびそろひたる一女あり親(おや)これをあやしみ て年をかさねたるうち近所の料理亭(りようりや)へ酌(しやく)とりにつかはし おきたるにある日此 亭(や)へさる異人(いじん)酒飯をもとめきたりすでに 一盃(いつこん)かたむくころ此婦人(ふじん)を見て是(これ)わが本国の 美女(ばつぐもの)なりとその容貌(かたち)に見とるゝことやゝ ありてたちまち妾(てかけ)にせまほしと親に乞(こ)へば 親はわが子の変生(へんしやう)なるを心になやめとも すでに異人の望(のぞみ)にまかせ妾(しやう)とさため時の 活計(くはつけい)□にけ女子(じよし)の生涯(せうがい) 安穏(あんおん)なるを経(へ)たり あゝ□【情?博?】 (ひろ)く世かいを見 れば捨(すつ)べき物やあらんかへつてふ具(ぐ)の幸(さいわ)ひあり世の人われを顧(かへりみ)ずして 人を謗(そし)り笑いやゝにもおらぬ放言(ほうげん)に其身をやぶりいわゆるあほうに銭もふけ せられなどよくこゝろへねばあるへからずといさゝか勧善懲悪(くはんせんちようあく)の意(ゐ)をしめすに                         本安板                         本若板                           ホリトラ 長門国小松田村長右ヱ門が息子  源二郎は元豊浦町東鳥居   辺の材木屋の子にて   二才にて捨(すて)たるを     長右エ門が     拾(ひろ)ひ育(そだ)てあげたる        おとなし物何某方へ丁稚(でつち)と         なりしが主人家内の気に         入って貰(もろ)ふた金は身に つけず拾ふた神の親里へおくる心の一燈(いつたう)の 育てた甲斐(かひ)の七光(なゝひか)りと喜ぶ影(かけ)のじつ親は左ほどの者になつたるかと許(もと)へ戻して育てたしと人を やつて掛合ふても□直(ちょく)一づの源二郎は二つで捨た親よりも今日迄そだてゝもろふたる親の恩義(おんぎ)の  深いとて渕(ふち)の浅 知惠(ちへ)うけつけずじつおや是に   一音もなくつい其まゝに成つたるは貧(ひん)といへども   子宝を捨るといふは道でなく育てゝおいてごらんなさい 役にたつことがありますと明治八年  第六月  讀賣第百二十一号に出         小信改二代         貞信画 大阪新聞錦画  第十七号 大阪新聞錦画 第三号             小信改二代                        貞 信 画 東京高井戸村辺に明治八年四月二十日ある家の七歳になる女の子が去年生(きよねんうま)れの 赤 児(ご)を守(も)りして夕方ひとり帰(かへ)り母は赤児を尋(たづね)しにおまへがいつもあんまり泣(ない)たら川へ はめるといふ通り泣て仕(し)よふがないゆへに川へはめて戻(もど)つたと聞より母は気も狂乱(くるい)いそぎ川 辺(べ)へ 居て見れど最早(もはや)流れて知れぬゆへ内へかへり女の子を捕(とら)へさん〴〵せつかんせし所あたり所が 悪(わ)るかつて此子も死んで大 変(へん)となりしを母は思ふやう夫(をつと)の留主に申 訳(わけ)なしと又此母も 身を投(な)げて因果(いんぐは)は巡(めぐ)る一日に三人連れの死出(しで)の旅(たび)三 途(づ)の川の浅はかな事とうわさも 高井戸のあわれといへど愛着(あいじやく)の薄(うす)きことにてあらずや 子のあるおかたは耳をさらへ よくおきゝと 読うり 八十八号に     歎(たん)ぜり                本 安 板                 文花堂誌      本 為 板 大阪新聞錦画 第四号 武州小ヶ谷村の平左ヱ門といふもの常々(つね〳〵) 倅(せかれ)に云ふ 若(もし)予(われ)【?】死なば嫁(よめ)と二人にて葬式(そうしき) を取おこなひいまだ定まれる嫁もなけれは 婚礼(こんれい)は棺(くゎん)の前にてして呉(く)れと云しに明治八年 四月はたして平左ヱ門は頓死(とんし)せり彼の遺言(ゆいげん)を 信じ急に近辺由右ヱ門が娘を仲人を以て貰請(もらひうけ) 野送りの日は棺の前へ花嫁入込み歓(よろこ)ひやら悔(くや)み やら高砂念佛のあへまぜ鱠(なます)妙な事があれば 有る物世に云ふ泣(なき)笑ひの放言(ほうげん)宜(うべ)なるかな遺言 も考へて云ぬと難義なことが出来ますと 読売百一号に出たり   文花堂誌        ホリトラ       本安板       本為板     小信改二代      貞信画 明治八年 大阪 錦【絵】 新【聞】 第廿四【号】 南円堂(なんゑんとう)に 嗅(かゝ)焼(や)くとは 順礼歌(じゆんれいうた)の横(よこ) 訛(なま)りそれにはあら で春(はる)の日(ひ)に男(をとこ)が二人(ふたり)も焼死(やけし) せしは当(この)三 月(くはつ)の四日にて奈良(なら)県下(けんか)なる若草山(わかくさやま)鹿(しか)と分(わか)らぬ事(こと)には非(あら)ず 慥(たしか)に三笠山焼(みかさやまやき)は例年(まいとし)馴(なれ)し事(こと)なれば麓(ふもと)の草(くさ)に火(ひ)を付(つけ)て容易(ようゐ)に 草(くさ)は焼尽(やけつき)じとかの絶頂(ぜつてう)に憩(やすら)ひしが思(をも)ひの外(ほか)に風(かぜ)はけしく 遁走(とんそう)せんと苛(あせ)れども猛火(もうくわ)四方(しほう)を塞(ふた)ぎてぞ是非(ぜひ)なく 死(し)せしは哀(あわ)れなり是(これ)のみならす誰人(たれひと)も万 事(し)に付て油 断(たん)から命(いのち)を失(うしな)ひ 財(たから)を失(うしな)ふ世 間(けん)に此類(これら)些(すく)なしとせず身(み)の用心(ようじん)火(ひ)の用心                     猩々堂九化述                     小信改二代                      貞信画                         いし和板 新聞図会 第十号 阿州名東県十五等出仕吉本信治いふ人の家に.傭(やと)ひ女の おつねといふ者は.主人の留守(るす)の戸(と)堅(かた)くろしく.寝(ね)もやらぬ夜に 押入し.一人りの賊(ぞく)は研(と)ぎすます.出刃と眼玉をひからして. 金子出せだせに驚(おどろ)くおつね.わたしは此家の傭人ゆへ.金子の 有所はしらねども.着類は爰(ここ)にと箪笥(たんす)から.出して渡せど 心では.旦那の留守に一と品でも.紛失(ふんしつ)なさばいゝわけなしと. 心もたけき女ゆへ.そつとしら刃をかくし持.とはしら浪の 白痴(しれもの)が.衣類を背負(せをい)出行を.思ひ しれよと切り付しが.賊もすかさず 出刃振り上.しばしか程は戦(たゝか)へど. 女の腕(うで)のかい なさに.すでに 切ふせられんと せしが.近所の人が 聞(きゝ)つけて.かけ付来たる 有様に.賊は品物捨置て.逃 去りしゆへ一と品も.とられざりしは 此おつねが.心がけよき所とて 県庁(おかみ)さまより賞典(ごほうび)を.いたゞきしこそ手柄なりとぞ                        《割書:略誌|画図》笹木芳瀧                             八尾善板 大阪西大組拾一区新町通二丁目四十番地川口よしは元     小信改二代 倉橋屋(くらはしや)とて娼婦(ぢよろう) 芸妓(けいこ)の置屋(おきや)なりしが近年(きんねん) 遊女(ゆうじよ)       貞信画 解放(ときはな)しの令(おふれ)ありしの際(きわ) 朝旨(てんしのおゝせ)を遵奉(したがひむてまつり)して数金(あまたのかね) を出(いだ)してかへたる 多(おほ)くの女郎(こども)も各(おの〳〵) 其籍(そのせき)に 復(かへ)せしの後は活業(なりはい)を醤油商(しやうゆうや)と改めしも 天理(てんり)にや叶ひけん當三月廿五日古き土蔵を壊(こぼ)ち たりしに宝字(ほうじ)小判其外 種(さま)〱の金貨(かね) 数百金(たくさん) を得(ゑ)たり直(たゞ)ちに官庁(くわんちやう)へ訴(うつた)ければ 本人(ほんにん) 所持(しよじ)の地中より 掘出せしなれば 残(のこ)りなくたまわりしを當時(このごろの) 金貨(かね)に 交換(かへこら)せしかば千三百円余なりしとは 彼(かの) 支那(もろこし)の廿四孝 郭巨(くわつきよ)の釜(かま)にも              勝(なさ)るといふべし   あらかねの地(つち)より得(ゑ)てし金貨(かね)     なれど天(あめ)のめぐみと人のいふらん                猩々堂主人記 印   新聞図会  第           壹             号 新聞圖會 《割書:第八|  号》                    小信改二代                    貞 信 画                     八尾善板 盲人蛇(めくらへび)におぢすと いふ諺(ことはざ)にあらで盗賊にも 屈(くつ)せざる大丈夫はヒンヒン(貧々か)菴 と号し三味の曲弾に名を 得し人にして通称(つうしやう)生久卜 一朗当四月十一日玉江橋 北詰にて三人の賊車前を ふさき既に衣服を奪(はぐ)へき の所卜一一言を発して予が 如き貧民(ひんみん)の衣服売代なすともいさゝかの価 なるべし今我衣服を奪ふをゆるせば吾活業(わがなりはひ)たる 一曲を汝等(なんぢら)が耳に施べしと流石(さすが)の暴徒理言に伏し 奥ある事と思ひしにや軈(やが)て調らべを乞けるにぞ得手の 練(れん)曲 弾(だん)じければ其妙音にや感じたりけん手を空(むなしく)して かへる而已(のみ)かは円貨廿銭を卜一に与へ去しとぞ                正情道九化記 新聞図会 第廿号 巡邏卒(おまはりさん)は人皆 無益(むゑき)のように思へど 其(その)功能(こうのう)実(じつ)に少からず別て痴病(あほう)などには的薬(めうやく)也 既に六月五日午前三時大阪天神橋下に投身(みなげ)有(あり) 規則の如く陰陽両体 括(くく)り合せて流れ居たり 巡邏(おまはり)其外五六名にて引揚療治を加へしかば頓(やが)て 蘇生(そせい)したり男は西京笹屋町飯森宗吉とて 廿一の若盛(わかざか)り女は同所中立売中島某が母の 志津(しず)四十二年の年増後家(としまごけ)三年前より馴合(ちゝくりあひ)しが 金に手づまり身を投しと色は思案の外か なから廿歳(はたち)斗の身を以て初老を 越たる婆々【?】さんと死なんとせしは 痴漢(たわけ)の親玉此 難病(なんびょう)を救(すく)ひしも 全く巡回散(おまはりさん)の功能ならずや 四十二と廿一は二つ割に当りたれは ひと度は四二天作の後家さんと 二進(にっちん)が一子 救(すく)うめてたさ       □□楼主人□□ 本文には両人の書置あれど略く【はぶく?】       八尾善板     小信改二代      貞信画 筆者藤村滋枝        《割書:新開通|壹丁目》八尾善兵衞板 明治八年六月八日午前一時すぎ東京浅草新谷町佐藤麟造が留主(るす)に兄の終吉が泊(とま)り合はせ たるに更(ふけ)行く夜はにあやしき物音 起(おき)て見つ寝て見(み)蚊屋(かや)ごしに乗(の)り掛(かゝ)つたる泥棒(どろぼう)は揉(もみ)あふ内に 着(き)物を脱(ぬ)ぎ赤躶(はだか)にて迯げ出るを追かけ行けども終吉が病(やまひ)の跛(びつこ)はしりまけ見失ひたる 片足が空しき短夜物がたり跡にのこりし泥棒の木綿袷と三尺帯 鑿(のみ) 見たやうな物を捨て置こちらは一品も取られずに能くマアこんな分捕(ぶんどり)をいたしましたと 日〳〵新 聞千三十 六号に出 文花堂誌 新聞図絵 第卅六号 【上】 楽善堂三薬(らくぜんどうさんやく) 鎮溜飲(ちんりうゐん) りうゐんの妙薬(くすり)なり胸(むね) つかへ腹(はら)はり腰(こし)いたみ気(き) ふさぎ食物(しょくもつ)すゝまず常(つね)にむか〳〵として 嘔気(はきけ)を催(もよほ)す等(など)に用(もち)ゐて大によし ○穏通丸 つうじの薬(くすり)なり逆上(のぼせ)を引下(ひきさげ) 毒(どく)を下(くだ)すの功(こう)あり頭痛(づつう)めまひ 耳(みみ)なり歯痛(はいた)み腹(はら)はり胸(むな)ぐるしき等(とう)に用(もちゐ)て尤(もっと)も妙(みやう)なり ○補養丸 精根(せいこん)を補(おぎ)なひ元気(げんき)を養(やしな)ふ の良剤(くすり)なり病後産後(びょうごさんご)の 弱(よわ)りまたは生付(うまれつき)よわく魂気(こんき)うすき人に用(もち) ゆれば血(ち)の巡(めぐ)りを能(よく)し身体(からだ)を丈夫(じょうぶ)にするの 功(こう)あり  東京銀座 岸田吟香拝告 【右】 何(いづ)れも用(もち)ゐかた功能とも 各々その薬(くすり)の包紙(つゝみかみ)に委(くわ) しく記(しる)し置申候 此ほか養生(ようじょう)食 品いろ〳〵水すまし【?】 薬等私方にて売 弘め申候 【左】 《割書:目|薬》精錡水(せいきすい) 《割書:東京銀座| 岸田吟香製》 此御めぐすりは西洋(せいやう)の大医(たいい)より 直伝(ぢきでん)の名法(めいほふ)にして古今無類(ここんむるゐ)の 妙薬(みやうやく)なれば功能(こうのう)の著明(あらた)なることは 諸人(しょにん)の知(し)る処(ところ)なり ○血(ち)め○たゞれめ○のぼせめ○ やみ目○むしめ【?】○目ぼし○其他(そのほか)一切の眼病(がんびやう)《割書:に|よし》 近頃(ちかごろ)諸方(しょはう)に疑似(まぎらは)しき類薬(るゐやく)あまた出来(しゅったい)候間 私方の記号(しるし)よく〳〵御糺(おんたゞ)しの上 御求(おんもと)め可下候 【下】 三薬(さんやく)精錡水(せいきすい)とも取次(とりつぎ)売弘(うりひろ)め被成たき 御方は私方へ御申 越(こ)し被下候ハヾ受売方(うけうりかた) 薬数(やくすう)割合(わりあひ)等(とう)の書類(しよるい)早々御 届(とど)け可 申上候但シ三薬の儀は 実(じつ)に諸人(しょにん)の助(たす)け とも相成るべき霊薬(れいやく)に付 盛大(せいだい)に売(う)り 弘(ひろ)め度奉存候間取次の御方江は 多分(たぶん)の御利潤(ごりじゅん)に相成候様下直(けじき)に 卸(おろ)シ差上可申奉存候何卒多少に 不限 御注文(ごちうもん)奉願上候以上  銀座二町目壱番地 東京 岸田吟香 敬白           鮮斎           永濯 【右掛け軸】 (印)精錡【金偏に竒】水     東京銀座 岸田吟香拝(印) 此御目ぐすりは美国(アメリカ)の大医より 直伝(ぢきでん)の名法にして日本国中たゞ 我が一家(いつか)の外(ほか)には決(けつ)して類(るい)なき 妙薬(みやうやく)なり是(これ)まで世間(せけん)にありふれたる 目薬(めぐすり)は何(いづ)れも粘(ねば)りたる煉薬(ねりやく)の類(るい)にて却(かへつ)て目の 害(がい)となること少からず然(しか)るに此 精錡水(せいきすゐ)は澄明無色(すみきり)たる 水剤(みづぐすり)にして実(じつ)に目薬中(めぐすりちう)の第一等(だいいつとう)なる者なれば一切(いつさい)の眼病(がんびよう)に 用(もち)ゐて其 功能(こうのう)の著明(あらた)なるは素(もと)より世人(せじん)の遍(あまね)く知(し)る所(ところ)なり 【左掛け軸】 (印)楽善堂三薬    岸田吟香拝(印) 補養丸(ほやうぐわん) 精根(せいこん)を補(おぎ)なひ元気(げんき)を養(やし)なふの良薬(りやうやく)なり性質(うまれつき)の弱(よわ)き人または 病後(ひようご)産後(さんご)の肥立(ひだち)かねたるによし婦人(ふじん)ちのみちに妙(みよう)なり持薬(ぢやく)として 常(つね)に用(もち)ゆれば一生無病(いつしやうむびよう)にて長命(ちようめい)すること受合(うけあひ)なり 鎮溜飲(ちんりうゐん) りうゐんの妙薬(みやうやく)なり胸膈(むなさき)を開(ひら)き脾胃(ひゐ)を健(すこや)かにし 食物(しよくもつ)のこなれを能(よく)し腹中(ふくちう)を調(とゝの)へ気力(きりよく)を益(ます)の功能(こうのう)あり食物(くひもの)あぢ なく常(つね)にむか〳〵として胸(むな)ぐるしく苦(にが)き水(みづ)を吐(は)きなどするに用(もち)ゐて       尤(もつと)も功(こう)あり 穏通丸(おんつうぐわん) つうじの御薬(おくすり)なり胸(むね)つかへ腹(はら)はり食物(しよくもつ)すゝまず 何(なに)となく心地(こゝち)あしき時(とき)この御薬( くすり)を用(もち)ゆれば忽(たち)まち毒(どく)を下(くだ)し 逆上(のぼせ)を引(き)下げ腹中(ふくちう)を掃除(そうぢ)して気鬱(きうつ)を開(ひら)き 熱(ねつ)を醒(さま)すこと神(しん)の如(ごと)し          千束里の 楽善堂三薬 岸田吟香製 謹製 補養丸(ほやうぐゎん) 精根(せいこん)を補(おぎ)なひ元気(げんき)を養(やし)なふの良薬(くすり)なり性質(うまれつき)の弱(よわ)き人または病後産後(びょうごさんご)の 肥立(ひだち)かねたるによし婦人(ふじん)ちのみちに妙(みやう)なり持薬(ぢやく)として常(つね)に用(もち)ゆれば 一生無病(いっせうむびょう)にて長命(ちょうめい)すること受(うけ)合なり 鎮溜飲(ちんりうゐん) りうゐんの妙薬(みやうやく)なり胸膈(むなさき)を開(ひら)き脾胃(ひゐ)を健(すこや)かにし食物(しょくもつ)の こなれを能(よく)し腹中(ふくちう)を調(とゝの)へ気力(きりょく)を益(ます)の功能(こうのう)あり食(くひ) 物(もの)あぢなく常(つね)にむか〳〵として胸(むな)ぐるしく 折々(をり〳〵)苦(にが)き水(みづ)を吐(は)きなどするに 用ゐて尤(もっと)も功(こう)あり 穏通丸(おんつうぐゎん) つうじの御薬(くすり)なり胸(むね)つかへ腹(はら)はり食物(しょくもつ) すゝまず何(なに)となく心(こゝ)地あしき時(とき)この御薬を用(もち)ゆれば 忽(たちま)ち毒(どく)を下(くだ)し逆上(のぼせ)を引 下(さ)げ腹中(ふくちゅう)を掃除(そうぢ)して 気 鬱(うつ)を開(ひら)き熱(ねつ)を醒(さま)すこと神の如(ごと)し 御目薬 精錡水  東京銀座二町目 本家 岸田吟香 謹白       彫銀     解□     永□ 勧善懲悪 官許 錦画新聞【「勧善懲悪」「錦画新聞」は横書き、「官許」は縦書き】 第 壹 号 大坂平野町 御霊(ごりよう) 社 裏門(うらもん)まへに西洋造(せいようつく) りの家を建(たて)たる燕亭(えんてい)と いふ人は平民中(へいみんちう)の文明家(ぶんめいか) にて其行(そのおこな)ひに於(おゐ)て美事(びじ)【左ルビ:メヅラシ】 美談(びだん)【左ルビ:キコトハナシ】あまたあり就中去年(なかんづくきよねん) 中の嶋(しま)元 柳川(やまがわ)【柳のルビ:やなカ】の やしきを  私有(しいう)【左ルビ:ジフンノモノ】となして 豊公(たいこう)の社(やしろ)を建西洋 浴(ふろ)室及び 講場(こうしやくば)茶店(ちやみせ)等を設(まう)けて一の繁花場(はんくわば)を 開(ひら)きし事(こと)はよく人の知(し)る所(ところ)なり今又(いまゝた)その地内(ぢない)に我斯(がす) 燈数多取(とうあまたとり)たて一時(いちじ)に火を点(とも)して諸人(しよにん)の知識(ちしき)を 増(ま)さし めん事を 企(くわだて)て機器師(きゝし) 安田義房(やすだよしふさ)といへる ものに細工(さいく)をさせ みづからも手を下(おろ)して            笹 木 芳 瀧 画 地(ち)を堀功(ほりかう)を助(たす)けしに豈図(あにはか)らん  地中(ちちう)より一ツつ壺(つぼ)をほり出し其中(そのうち)を みれは保享【享保カ保字カ】 小判(こばん)百 枚(まい)あり依(より)て早速其趣(さつそくそのよし)を坂府(はんぷ)へ届出(とゞけいで)たりとぞ 是天燕亭主人(これてんえんていしゆじん)の国(くに)のため人のために力(ちから)を尽(つく)すに感(かん)して其費用(そのいりよう)を 補(おきな)はしむる者ならんと人々いへり                    新聞局 《割書:本町四丁目|藤井時習舎》 第貳号 大坂第二大区八小区八 幡町三十七番地 赤沢(あかさ)何 某が妻(つま)おくらはもと川竹(かわたけ)の憂(うき) ふしに流(なかれ)わたれる者(もの)なれどもう きたる心(こころ)さらになく竹のすぐなる生(うま)れには此(この)赤沢(あかさわ)何某が 妻となりても操(みさを)正(ただ)しく千代(ちよ)の行末(ゆくすへ)を契(ちき)れり此頃(このごろ)夫(をつと)病事(やまひこと) ありて既(すで)に十死一生(じつしいつしよう)の場合(ばあひ)にいたり医師(いし)もさま〳〵手(て)を尽(つく)せ ども最早(もはや)治療(じりよう)の術(てだて)なしといふお倉(くら)はかくと聞(きひ)てあるにも あわれず夜(よ)な〳〵水(みづ)を浴(あび)み神佛(かみほとけ)をいのりて看病(かんひよう)實(げ)につ さぐる事(こと)なし其(その)真心(まこころ)天に通(つう)せしにや既(すで)に必死(ひつし)にきわまりたる病(やまい) 気 次第(しだい)に本復(ほんぶく)して此頃(このごろ)全快(せんくわい)せりと精神(せいしん)到(いたる)處(ところ)金石(きんせき)亦(また)徹(とほ)る と実(げ)に感(かん)ずべき事なり川竹(かわたけ)育(そだ)ちのうちにも又かゝる貞婦(ていふ)あり所詮(いわゆる) 泥中(どろうち)の蓮(はちす)とは此(この)おくらをいふべし 笹木芳瀧画 勧善懲悪 官許 錦画新聞【「勧善懲悪」「錦画新聞」は横書き、「官許」は縦書き】 第 三 號 大坂第一區廿一 小區拾九番地入江平助 が養女(ようじよ)おしかは江戸 端(は) うた舞(まい)の 指南(しなん)を わざとして 養父母をやしなひ浮(うき)たるわざに引かへて心正しく 孝心厚(かうしんあつ)きものなり然(しか)るに養父平助は心だてよろしからず養女 おしかに心を掛けて度〻(たび〳〵)いひよれどあらぬことよといひ消(きや)され此上は 妻(つま)を去(さ)りて思(おも)ひを遂(とげ)んとて是(これ)迄つれそひたる妻をも生国藝州廣しまへかへし跡は養 女とさし向ひ夜となく日となく責め口説(くと)き心に随(したが)はざるを憤(いきどふ)りて打擲(ちようちやく)に及(およ)ぶを度々 なれば近所 隣(となり)にても聞(きゝ)つけて何ことにやとなだむれば我(わ)がいふこと聞かぬ故(ゆへ)と一向平気(ひたすらへいき)の 平助が道(みち)にかけたるふるまひにさすがの孝女(こうしよ)もあきれはて此上は養母(はゝ)へ孝を尽(つく)すの外 なしとてある夜 厠(せつちん)にゆくふりして家を出厠の軒(のき)に提灯(てうちん)つりおきて猶内にあるていに しなし涙(なみだ)ながらに只独(たゞひとり)なれぬ旅路(たびじ)をはる〳〵と藝州廣嶋にたづねゆき覚(おぼ)えたる三味 線を身過(みす)ぎにして養母をやしふとなん   《割書:時習舎しるす|   よし滝画》               出版所《割書:本町四丁目|藤井時習舎》 官許  勧善懲悪 錦画新聞 第八号  世の中に何をほり江の三丁目か【?】 きこと【?】積る山川太助が女房せつはおのが名のせつ成る心に迫(せまり)て や去ル四月廿八日世を宇治川のほとりなるしるべの方へ尋(たづね)ゆき日 をふる雨に水かさ増(ま)す宇治の川づら打 咏(なが)め泡(はう)【フリガナ?】沫夢幻と佛も とく浮たか【?】此世にいつ迄か何ながらへんと思ひ絶水の怜(あはれ)や宇治が わに身を投たるはいかなる故と誰白波に浮沈むを折よくも伏見 第四区なる堀口治助といふ人通りたり此躰(このてい)をみて打驚(うちをどろ)き【?】 急に宇治川に踊入り流(なが)るゝ女を抱きとめ辛(かろ)うじて助け 挙(あぐ)るにはやこと切たれど鳩尾のあたり聊(いささ)かぬくみの有 をみて焚(たき)火をなして暖(あたゝ)めつゝさま〴〵【?】と介抱(かいほう)するに未(いまだ) 寿命(いのち)やつきざりけん漸(やうや)くにして蘓生(いきかへり)したり 依(よ)りて其(その)住所を問(と)ひ早速京都府へ 届(とゞけ)しかば京都府より大阪府へ 御 掛合(かけあひ)ありて女は夫へ引 渡(わた)しになり堀口治介 は身捨(みをすて)て女を救(すく)ひ しを神妙なるとて 京都府にて御賞 詞有て金七拾五 銭賜りしとぞ   新聞局 《割書:本町四丁目|藤井時習舎》 官許 勧善懲悪 錦画新聞 第九号 誤って悪事をなすとも 善心にひるがいる時は又天の恵(めぐ)み有り大阪 第一大区九小区内淡路町に住せる三嶋(みしま) 何某は其以前(そのまへ)。 遊蕩(ほうとう)にふけり。金の才覚(さいかく)に さしつかへ。三ッ井の贋札(にせさつ)をこしらへ遣(つか)ひしが 其事 終(つひ)に発覚(ほうかく)【?】して。芸子を連(つれ)て 筑後芝居の戻(もと)り道(みち)より足(あし)がつき。 捕縛(めしとり)せられ。長く牢内(ろうない)に有しが。 先非後悔(せんぴこうかい)して 悪意(あくしん)を改め。同牢内に居る者を深切(しんせつ)にいたはり。かならず 悪事をすまじき。 道理(どうり)を説(と)き聞(きか)せけれは此者の有し程(ほど)は 牢内 至(いた)つておだやか也しとなり此事上聞に達(たつ)しすでに 死刑(しけい)と極(きま)りたりし者なれとも格別の御沙汰を以て 当五月下旬より終身懲役と なりしとなり 時習舎述 笹木  芳瀧画   新聞局 《割書:本町四丁目|藤井時習舎》 官許  勧善懲悪 錦画新聞 第十三号 人の危難(きなん)をみて救(すく)ふは 則 測隠(そくゐん)【惻隠の誤りか?】の心なり大坂 第四大区十二小区 曽(そ) 根崎(ねさき)新地二丁目 鮓(すし)とせい古塚直助(こつか??すけ)【フリガナ?】 の母 隠居(いんきょ)して曽根 崎村にありしに当五月 廿日午前十一時ごろ ゐん居他出し留 主(す) をうかゞひ。二人の賊(ぞく) 忍(しの)ひ入り。すでに諸品(しょひん) をうばい去(さ)らんとなせし に。 此(この)とき隣家(となり)の川内伊兵ヱ の妻おそまは。此 物音(ものをと)をきゝつけ てうち驚(おどろ)き。 抱(ゐだ)きし児(こ)を其まゝ捨置(すておき) て。 急(きう)にはしり出て。この隠居の本家 なる鮓屋古塚かたへ知(し)らせんと走(はし)るほ とに 履(はき)ものももどかしとて。 木履(はきもの)を途中 にぬぎ捨て跣足(はだし)にてかけつけ。かく〳〵と 告るより。鮓やの若イ者四人。 手(て)に当る ものを引提(ひきさけ)て。隠居家にいたり難(なん)なく 二人の賊をとらへ。巡邏の屯所(たむろ)へさしいたし。 物ひとつ盗(ぬす)まれずして事済(ことすみ)たりとぞ。此伊 兵ヱ妻おそまは□ 隣家(となり)の危難に我子の泣 をも厭わず。本家へしらせたる事。隣家の好(よしみ) かくありたきこと也。依て御上にもそのこゝろざ しを賞(しやう)せられ。おそまへ金五十銭 彼(か)の鮓屋 の男ともへは。金一円 下(くだ)されしとなり。  時習舎主人述   笹木よし瀧画    新聞局 《割書:本町四丁目|藤井時習舎》 勧善懲悪 官許 錦画新聞【「勧善懲悪」「錦画新聞」は横書き、「官許」は縦書き】 第十五号                         編輯者時習舎                              画図                              笹木                               芳瀧 三潴県下筑後の国竹野郡石垣村 農夫滝作といへる者二人の娘あり姉(あね)は七歳 妹(いもと)は五歳なるが此二人は近所の畑(はたけ)へ遊びにゆき 芋(いも)や茄子(なすび)をとりたる事 度々(たび〳〵)なれども畑主(はたけぬし)も 子供(こども)の事故と見のがしたれど度かさなれば捨置(すておき)が たく親の滝作に向(むか)ひしか〳〵と物語(はなす)るに滝作は 立腹(りつぷく)し我子に限(かき)り左様(さやう)の事 決(けつ)してなしと 言(いゝ)つのり終(つい)に喧嘩(けんくは)となり滝作はざん〳〵に 恥(はじ)しめられ無念(むねん)に思ひこんな子が有ればこ そ親の顔迄よごすなれと人間(にんげん)たるものゝ有る まじき事か其夜十二時二人の娘をつれて筑 後川の岸(きし)に至(いた)り無慙(むざん)にも川へざんぶりと投(なげ) こんで我家へ帰(かへ)らんとせしに巡吏(おまはり)に見とがめ られ終に白状に及び縛(しばり)に付(つき)たりとぞ子に 教(おし)へざるは親の罪(つみ)なるを幼女を殺(ころ)すとは乱心とも        狂人ともたとへがたなきものなりとぞ                    新聞局 《割書:本町四丁目|藤井時習舎》 勧善懲悪 官許 錦画新聞【「勧善懲悪」「錦画新聞」は横書き、「官許」は縦書き】 第十七号 酒ははかりなし乱(みだす)に及ばずとは 古人の戒(いまし)めされとも多く 酒好は乱に及ばざれば愉快(ゆくはい) とせず西の宮 濱の町河内 音吉は酒 癖(くせ)あるものにて度〻(たび〳〵)の 乱暴(らんぼう)。父母ももてあまし段々(だん〳〵)の異見(いけん) に。音吉も禁酒(きんしゆ)する気になり。明日よりは 誓(ちか)ひて酒はのむまじ。今日 限(かぎ)りの禁 酒がため。快(こゝろ)よく一酌(いつぱい)せんとて。母を相手(あいて) の一合二合。 徳利胸(とつくりむね)の落付(おちつ)く迄と 数升(すしやう)の酒に一升を誤(あやま)る基(もとい)。はや舌(した)も まはらぬ程にまはされて。始(はじめ)の心どこへやら 例(れい)の如くにぐぜり出す。折から父の帰(かへ)り 来て。此有様に一(ひ)ト言三(ことみ)こと。異見があらそい 始に【「に」の横に「と」】て有あふものを投ちらし。父を打擲(たゝき)母も疵(きづ)を 負(おは)せたる科(とが)により 其身は終(つい)に縄目(なはめ)の 恥(はじ)。当四月より 懲役(ちやうやく)十年 申付られたり 慎(つゝし)むべくは  大酒なりけり    時習舎述    芳 瀧 筆                    新聞局 本町四丁目                        藤井時習舎 勧善懲悪 官許 錦画新聞【「勧善懲悪」「錦画新聞」は横書き、「官許」は縦書き】 第廿八号 角なる玉子は見ざれども三十日(みそか)の月を見 るにつけ真実有契情(まことあるけいせい)の一話(はなし)を聞(き)けり 新町通り二丁目高橋某が抱(かゝへ)の娼婦(まんた) 若靏といへる者の親里(をやざと)は阿波座下通り 一丁目にて父(ちゝ)ははやく世(よ)を去(さ)り母(はゝ)は 老年兄(としよりあに)は多病貧苦(たびやうひんく)にせまりて 遊女(ゆうぢよう)となりしが過(すぎ)る年(とし) 遊女ときはなしの 御布告(をふれ)にてはからず 親もとへ帰(かへ)れども人ませば水 増(ま)す とやら却(かへつ)て一人の口(くち)がふへます〳〵貧苦を かなしみてしなれる業(わざ)の賃洗濯(ちんしごと)なりふり かまはず母兄につくす実意(じつい)を賞美(しようび)して 或(あ)る旦那家(たんなか)が世話(せわ)してやろといへど若靏は 承知(かてん)せず今(いま)お客(きやく)をとりては是迄(これまで)の親(おや)方に 義理(ぎり)たゝずと貧苦の中にも義をまもる其(その) 真意(まごゝろ)を高橋が聞(きい)て大いに感(かん)じ入 我(わが)家へ 呼(よび)とり元の如(ごと)く娼婦(まんた)となし其 得(え)る所の金を こと〴〵く若靏にあたふ是によつて若靏 は母を安穏(あんをん)に養(やしな)ふとかやこれ孝子の徳とや                    いはん     時習舎主人述   笹木    芳瀧画 【タイトル】 勧善懲悪 官許 錦画新聞 第三十号 投書  編集 時習舎 【本文】 潔白(けっぱく)なる行(おこな)ひは聞(きい)てもいさぎよきもの也大阪天満辺の 一 商人(あきんど)の手代かけ取にいきしに 何(いづ)方にてか五円札を受(うけ)取(とり)て帰(かへ)り支配人(しはいにん)に差出(さしだ)すに是(これ)は贋(にせ)札と いはれ大きに驚(おどろ)き不調法(ぶちようほう)をつくのはんとて 其(その)贋(にせ)札を高麗橋四丁目岡田清藏 かたへ印紙(いんし)を買に持(もち)行しに折(おり)ふし 岡田の主人(あるじ)留主(るす)にて婦人(おんな)の事ゆへ 何心(なにこゝろ)なく贋(にせ)札を受取たりしが かの手代はしすましたりと悦(よろ)びて 家(いへ)に帰(かへ)りて朋輩(ほうばい)に斯々(こふ〳〵と) 告(つぐ)るを主人(しゆじん)洩れ聞(きゝ)て大いに 怒り贋(にせ)札としりながら是を 用(もち)ふるは人をおとしいるゝぎ也 左様(さやう)の不人情(ふひとがら)なる事をなすは 以(もつて)の外(ほか)の事也速(すみやか)に岡田氏に詫(わび)て取戻(とりもど)し来(きた)るべしと 言付(いつけ)られ手代その理(り)に伏(ふく)し岡田へ行しに又岡田かたも主人(あるじ) 帰(かへ)りて留守中(るすちう)に受取(うけとり)たる金札の贋(にせ)なるを見(み)てケ様(かやう)な物が 人手にわたらば難義(なんぎ)するものゝ出来(でけ)るもの也 とて速に引さき捨(すて)たり折からかの手代来(きた)りて 主人の口上(かうじやう)を述(の)べ厚(あつ)く詫(わ)びて正札五円を出すに 岡田氏是を受(うけ)ず贋作を受取(うけとり)たるは我方(わがかた)の 誤(あやまり)也 既(すで)に如斯(かくのごとく)引さきたり替(かへ)金に不及(およばず)といふに 手代感伏(かんふく)し家(いへ)に帰(かへ)り主人にかくと告(つぐ)るに主人 早速(さつそく)岡田へ来(きた)り手代の誤(あやま)りを謝(しや)して替金を出せども 岡田氏はさらにとらず互(たが)ひに押(おし)含 終(つい)に双方(そうほう)半 分(ぶん)の損(そん)と定(さだ)め 岡田氏へ金二円五十銭わたされしとぞ実(じつ)に互(たがい)の心かげは感心(かんしん)なものなり 新聞局 《割書:本町四丁目|藤井時習舎》 官許  勧善懲悪 錦画新聞 第卅六号                ホリゲンス【ゲニス?】 雑報 大阪第三大区 廿二小区 本田(ほんでん) 二番町の 藤野(ふじの)久治良 の雇人(やとひど)頭取 藤嶋内(ふじしまうち)の 藤(ふじが)ヶ瀧(たき)久五郎なるもの久治良と 同道(どう〳〵)にて去る六月廿二日の夜十一時 頃(ころ) 亀井橋 辺(へん)を通(とお)りかゝる折(をり)ふし浜先(はまさき)より 身投(みなげ)せし婦人(をんな)ありソレト久五郎が差図(さしづ)に任(まか)せ ドツコイそ□はと藤ヶ瀧 角力(すもふ)の 相手(あいて)は投(なげ)たをせと身投(みなげ)はさせじと 抱(だき)とめられてカノ女は危(あやふ)き命(いのち)の 土俵際(どひやうぎは)十万億土(ぢうまんおくど)へ突出(つきだ)さ れもせず助(たすか)る事(こと)の得(え)たるは 久治良久五郎が誠心(まこと)のなす所 にして此事 庁(おかみ)に聞(きこ)へ危急(ききう)の人命(じんめい)を 救(すくひ)候 段(だん)【ずん?】奇特(きどく)の旨(むね)を以(もつて)当七月三日 久五郎へ御褒美(ごほうび)を下(くだ)されしとなり此(この)救(すく)はれ たる婦人(おんな)は第三大区十六小区北堀江二番町 後家(ごけ) 山口ゑつといふものなるよし也                時習舎述                芳瀧画         新聞局 《割書:本町四丁目|藤井時習舎》 大阪日々■■       綿喜板       彫ユ九一 米相庭師(こめそうばし)のならいとて 夢(ゆめ)を信(しん)じ占(うらない)を頼(たの)み霊有(れいある) といへば鰯(いわし)の頭(かしら)を拝(はい)す爰(こゝ)に 船場 辺(へん)の人仕合せ悪(あ)しく 堂嶌より帰(かへ)る後(うしろ)より廿 七八の女 声(こへ)かけて君(あなた)に一(ひとつ)の願有(ねがひあり) 我(われ)は狸(たぬき)にて候が二疋の子 狸(たぬき) を取(とら)れ溝(みぞ)の側(かは)の医師(いし)にて 生胆(いきゝも)を薬(くすり)にせんとす哀(あわれ) 命(いのち)を助給(たすけたまは)らば君(きみ)の望(のぞ)み蔭(かげ)より 遂(とげ)しめんといふに男は此事 請(うけ)が【?】ひ立別(たちわか)れ次(つぎ)の日(ひ)医者(いし)を訪(と)ひ価(あたへ)七十 円(ゑん)に 買取り東馬場(ばんば)を聞(きゝ)し所【一+灬】へ持行(もちゆ)き親(おや)の□を叫(よ)へども来(きた)らぬゆへに 子狸(こたぬき)を放(はな)し帰路(かへり)に医師(いし)の門(かど)を見れば戸閉(とざし)て誰(たれ)も居(い)ぬ所から初て心に 当(あた)り隣家(りんか)で様子(ようす)を尋(たづ)ぬれば急(きう)に転居(やどがへ)なせ□□いふにカノ狸(たぬき)より 睾丸(きんたま)の釣上(つりあが)りたる大損(だいそん)は大 欲(よく)却て無慾(むよく)とは是等(これら)の説を いふ成べし       大水堂 狸昇記               小信改二代                貞信画                       略文長谷川徳太郎筆刻 大阪日々新聞       綿喜板       彫ユ九一 米相庭師(こめそうばし)のならいとて 夢(ゆめ)を信(しん)じ占(うらない)を頼(たの)み霊有(れいある) といへば鰯(いわし)の頭(かしら)を拝(はい)す爰(こゝ)に 船場 辺(へん)の人仕合せ悪(あ)しく 堂嶌より帰(かへ)る後(うしろ)より廿 七八の女 声(こへ)かけて君(あなた)に一(ひとつ)の願有(ねがひあり) 我(われ)は狸(たぬき)にて候が二疋の子 狸(たぬき) を取(とら)れ溝(みぞ)の側(かは)の医師(いし)にて 生胆(いきゝも)を薬(くすり)にせんとす哀(あわれ) 命(いのち)を助給(たすけたまは)らば君(きみ)の望(のぞ)み蔭(かげ)より 遂(とげ)しめんといふに男は此事 請(うけ)が【?】ひ立別(たちわか)れ次(つぎ)の日(ひ)医者(いし)を訪(と)ひ価(あたへ)七十 円(ゑん)に 買取り東馬場(ばんば)を聞(きゝ)し所【一+灬】へ持行(もちゆ)き親(おや)の□を叫(よ)へども来(きた)らぬゆへに 子狸(こたぬき)を放(はな)し帰路(かへり)に医師(いし)の門(かど)を見れば戸閉(とざし)て誰(たれ)も居(い)ぬ所から初て心に 当(あた)り隣家(りんか)で様子(ようす)を尋(たづ)ぬれば急(きう)に転居(やどがへ)なせ□□いふにカノ狸(たぬき)より 睾丸(きんたま)の釣上(つりあが)りたる大損(だいそん)は大 欲(よく)却て無慾(むよく)とは是等(これら)の説(こと)を いふ成べし       大水堂 狸昇記               小信改二代                貞信画 大阪日々新聞 二百五十三号 紀州周参見村 浜田(はまだ)某の娘(むすめ)まつは 本年十九才心 潔(いさぎよ)き 性質(せいしつ)にて風の 柳のなよやかに あいてきらはぬ さゝめ言(ごと)国に有 てもつくまなべ 尻(しり)の早(はや)くも大阪の 今木新田某へ奉公 するより又直になんば村久三良方へ 仲人なしの夫婦中 一重(ひとへ)つまでは肌(はだ)さむしと重(かさね)る 妻の幾重(いくへ)とも数(かづ)さへ定(さだ)めぬ みる【?】かおばさながら売女(ばいぢよ)同やう【?】の しまつに其を発覚して久三良もうとみはて 追出さんと思へどもさばかりにてはあきたらずと 近辺の若もの六七人もかたらいて浜さきより 小舟にひそみまつを呼出(よびだ)しさそい入五六丁 もこぎ出し久三良をはじめとしまつを なぶりものにすまつは鬼がしまへもつれ ゆかれんと人こゝちもなかりしに豈(あに) はからんやおのがこ【?】のめる筋なれど 酒ずきも過(すご)せば二日よいのづゝう▲ ▲もちずきも 過(すご)せば食もたれ にてにのおもく ついに千島新田 葭(よし)の中へ 追あげられて夜をあかし わが身(み)をくやむは先にたゝず   柳桜記    媱婦まつ       彫福      川伝 大阪日々新聞 二百七十八号 靱辺(うつぼへん)某(なにがし)の妻(つま)でつち一人 連(つれ)て住吉(すみよし)へ詣(もう)でんと 時をたがへて夜(よ)あけず賊(ぞく) きたりて女をはだかにする でつちおそれてはたけ中に ひそむ女 悲泣(ひきう)すれども 外(ほか)に人なし女なればはだか にてはいづくへも行(ゆき)がたくじ ひをたれて下帯(したおび)だけ恵(めぐ)み 給へこれは直内(ねうち)かあると 引すてし車の ほろう与(あた)へるゆへ 女是を得て去る 処へ又一人ぞく来る 今女をはぎてほろう あたへし事を云ほろうには廿円を ぬい込(こみ)置(おき)たり衣(い)るいを奪(うば)ふも金を失(うし)なはゞ そん有(あり)婦人を追(おい)とめんと二人のぞくははしり行(ゆく)あとに でつちは車の内の衣(い)ふくをくる〳〵と小わきにかい込み 飛(とぶ)が如くに家(いへ)に帰(かへ)り主(しゆう)のつつがなきをよろこび 両 賊(ぞく)の云し事をいへばかのほろうを見(み)るに はたして廿円の金札あり夜(よ)の明(あけ)るを まちて訴(うつた)へければでつちの計(はから)ひ神妙 なりとて賊金はでつちに賜(たま)わりける 頃(ころ)は戌の二月五日也とぞ   柳櫻記                     川傳 彫福                    茂廣 【タイトル】 日々新聞 空(そら)寝入(ねいり)を狸(たぬき)といひ年増(としま) 女郎(をんな)を古狸(ふるたぬき)といふ 是等(これら)は さらに世(よ)に害(がい)なけれどぬく〳〵饅頭(まんちう)と化(ばけ)て重兵衛(ぢうべい)に犬(いぬ)の 屎(くそ)をつかませバツチヨ笠(かさ)に化(ばけ)て雨 夜(よ)に往来(ゆきゝ)を妨(さまたけ)るなぞ 害ありとこそいはめ八 畳敷(ちようしき)の睾丸(きんたま)は風説(うわさ)に聞(きけ)ども 実況(じつきやう)を見す長(なが)さ六尺の大狸(おほたぬき)は雑話(はなし)に さへも聞(き)ざれども新聞紙上(しんぶんしじやう)に目(め)の前(まへ)に 見るソノ大狸を殺(ころ)せしは当三月の廿八日東京第三大区二小区の〇 〇麹町(かうじまち)にて巡査(じゅんさ)なる原(はら) 正則(まさのり)といふ 人の見 廻(まわ)る 向(むか)ふにカノ 怪物(くわいぶつ)ランプ を置(おき)て伺(うかゞ)ひ 居(い)ればラン フの傍(そば)に 歩(あゆ)み寄(よ)り 油を舐(なめ)ん とする処 正則得たりと 官捧(くわんぼう)にてカノ大狸 打(うち)ころせり方今(いま) 世の中の野蛮(ばかなる)人狐狸を尊崇(そんそう)する惑(まどひ)を 解かんとこゝに画(ぐわ)すなり  《割書:文福社中の| 狸親父》九化野郎述 日々 新聞  第廿三号 大阪府下道頓尸【堀の略字?】なる川竹に洗ひ上げ たる世渡りいざ【?】りと意気地を立通て【?】の妓 のうへに限(かぎ)るへし爰(こゝ)に三人と【?】算(かぞ)へたるは早く文明 の時に通(つう)じ日々の新聞を晛(み)て心を慰め 坐鋪(さしき)の秒(せこんど)透間(すきま)【?】なく誓て曰《割書:成| 》「トウモ新聞 紙をよまぬと人情【?】におくるゝやうダヨ《割書:つう| 》「そうサ まことに善(よい)ことをすゝめわるいことを懲(こら)す はこれにかぎりますヨ《割書:久| 》「このせつ流行(りうこう)の新聞 錦画(にしきゑ)もよく□□()にかなひてきれいダヨと」世事 深情(しんじつ)【?】の美談(びたん)をなすも色(いろ)の諸訳(しよわけ)の勉強に 南枝(なんし)の花敷また日々(にち〳〵)に盛(さかん)なり たしなみし  こゝ□に□し   □化粧 花源堂 【右の女】《割書:三 | 栄》久□ 【中の女】《割書:□ | □》成□【?】 【左の女】《割書:一 | 富》つう      □政板      彫九一      小信改二代       貞信画 日々新聞      小信改二代       貞信画        綿政板          彫九一 信州(しんしう)佐(さ) 久(く)郡(ごう)岩 村田の町に或(ある)豪家(ごうか)有しが 当一月の末(すへ)夜(よ)剛盗(ごうどう)三人入て 主人及ひ手代両人を斬害(きりころ)し 巨万(あまた)の貨幣(くわへい)を掠奪し其家 を出去んとす然るに当家の番頭商 用にて他行し遅(をそ)く家に帰らんとする時測 らず此三人の賊(ぞく)に出逢(いであひ)恐怖(けうふ)し家にも入ず逃退(にけのか)んと 駈(かけ)出すに追迫(をひせめ)らるゝ如く覚へければ途中松の大木によ り【?】登り難(なん)を遁(のが)れんとする処に右三人の賊此松の下に来り て件(くたん)の掠(かす)め取たる金を面々分ち取て竟(つひ)に立去りたるか番 頭 辛(かろう)じて家に帰れば家内は右の為体(ていたらく)ゆへに弥(いよ〳〵)騒動(そうどう)云(いわ)ん方なく庁(ちやう) に出て之(これ)を訴(うつた)へしか番頭夜中に他出せしと有に疑(うたが)ひかゝりさま〴〵 拷問(ごうもん)にかゝりたるゆへ大きに身躰(しんたい)労(つか)るれ共いまだ賊を正(まさか)に云ず迚(とても) 責殺(せめころ)さるゝ物ならば云では我身賊に陥入(をちい)るべしと心に思ひけるにぞ 重役(じうやく)の人へ賊(ぞく)はかやう〳〵如此々々(しか〳〵)の人也と見たる処を申し告るに 豈測(あにはから)んや三人の賊(ぞく)はみな是よし有 士族(しそく)の人也しかば皆々(みな〳〵)二度 恟(ひつく)りして終(つひ)に召捕(めしとら)はれ番頭は九死一生(きうしいつせう)を得(ゑ)て助(たす)かりしとかや 日々新聞 文明の徳沢(とくたく)たるや区々(くゝ)に小(せう) 学(がく)を建築(けんちく)して。人財(にんざい)を養(やしな)ひ 開化(かいくは)の仁恵(じんゑい)たるや。各(かく)府県に 病院(ひやういん)を設立(せつりう)して健康(けんこう)を 保(ほ)す。方(へ) 今(まや)西京上十 二区に。一院をしつらひ 病者を助けんとの くはだてから。砂持をなせしは。明治八年 四月五日より晴天十日にして。区々の人数 材おとらじの花美(はなやか)は。都ぞ春の錦を 着錺り【着飾り】。各町(まち〳)の目印のだしいは八阪(ぎをん) 神事(まつり)の山鉾(やまほこ)にさも似たり 中にも一層。見事なり しは。下京の 第三区【画面左下へ】 第四区たり猶近日豊国 神社の砂持ありと是も 定めて賑ふなるべし しゝ菊(きく)の眼(め)に立(たて)て見(み)る塵(ちり)もなしと翁(おきな)が秀句(しうく) せられしごとくさも美(うつく)しき其風情(そのふぜい) 時(とき)しも 頃は如月の廿九日の事なりし 山形県下(やまかたけんか) 旅篭(はたこ)町 廊宿(ろうしゆく)【?】柏屋(かしわや)茂八【?】が家(いえ)に新庄(しんしやう) 在(さい)より泊(とま)り客ありて夜(よ)る二時頃(にじごろ)まで 物語して居(ゐ)たる折(おり)ふし障子(せうし)【フリガナ?】の外面(そとも) よりさも艶(うるわ)しき声(こへ) を出(いだ)し清吉(せいきち)さんと 呼【?】者あり新庄(しんしやう)の 者と猟作(りやうし)【または獲作?狩作?】にて清吉(せいきち)と いふ者なれば其声(そのこへ)を聞(きく) コハ人間(にんげん)ならず定(さだ)めて狐(こ) 狸(り)の業(わさ)ならんと彼障子(かのせうじ) をわる【?】やいな娘(むすめ)と見(み)せし 古狐を煙管(きせる)を以(もつ)て打殺(うちころ)し は死を庁(ちょう)へ出(いた)せしと 日々新聞      小信改二代       貞信画        綿政板          板元          塩町通四丁目          前田喜兵ヱ社中          彫ユ九一      略文長谷川徳□□□筆記【?】         小信改二代                  貞 信 画             冨士 政 梓                彫 九一 いつも新(しん)ふんと申せは情死盗賊密夫(しんぢうどろほうまおとこ) 欠落と美事(よいこと)は一ツも有ませぬゆへ作者も 心配いたしまして今日は珍(めつら)しい貞女を 出しました是は備中浅口郡の長尾村 小野亀吉の後家(ごけ)おはる今年二十と 八才なるか十六才に亀吉へ嫁(よめり)ましてから 子を明治二年に産(うみ)ましたが其時分から 亀吉は癩病(らいひよう)といふ難 症(せう)ゆへ日々腐(ひに〳〵くさ)るとも 心はくさらぬお春の貞実乳呑子(ていじつちのみこ)かゝへて 髪(かみ)を結ひわづかの賃(ちん)銭に細烟(ほそけふ)り操(みさほ)を 共(とも)に立(たつ)る身を不便(ふひん)に思ひ父母(ふたおや)は離別(りへつ)せ よとは進(すゝ)むれと道(みち)を守(まも)りてうけひかず 日を送りしか去年の秋 夫(おつと)亀吉死しければ 又もや再縁(さいゑん)すゝめても此幼子が夫(おつと)のかたみ此子に 家名(いへ)をつがせねは何面目に冥土のおつとに見ゆべしと 決(けつ)して得心(とくしん)せざるとは是(これ)そ心(こゝろ)の美人(びじん)なるべし           正情堂九化記  日々新聞          小信改二代          貞 信 画              冨 士 政 板              ホリ 九 一 大阪府下浦江村 方(かた)の小 使壽造(づかひぢうぞう)が家に明治七年夏の頃(ころ) 有夜強盗(あるよごうどう)二人 押(おし)入り壽造をとらへて村中 有財(ゆうざい)の家に案(あん) 内(ない)せよと罵(のゝし)るに壽造 手早(てはや)く藻切鎌(もきりかま)を携(たづさへ)るを見て 凶賊忽(けうぞくたちま)ち白刀(しらは)を翻(ひらめ)かし切付るを女房ゆきは夫(おつと)を 助(たす)んとあせるに甲斐(かひ)も情(なさけ)なく夫は四十年(よそじ)を一 期(ご)として 空(むな)しく一 命(めい)を果(はた)したり倅由松 弟(おとゝ)を連(つ)れ村内 人家戸長(しんかこちやう)の宅迄加勢(いへまでかせい)を触(ふれ)るに 多人数馳(たにんぢうは)せ寄(よ)る間(ま)に賊(ぞく)は迯伸(にけのび) 門辺(かどべ)に倒(たを)るゝ妻(つま)のゆきは最前(さいぜん) 戸口に固(かた)めし一 賊(ぞく)に鉄砲(てつほう)をもて 腹(はら)を撃(うた)れたるよし語(かたり)も果(はて)ず 息絶(いきたへ)たり壽(ながきいのち)もゆきと消(き)へ夫婦(ふうふ) 連(つ)れなる死出(しで)三 途血(づち)で血を洗(あら)ふ 凶賊は天網免(てんこうのが)るゝ事 協(かな)はず間も なく捕縛(ほばく)せられ斬罪(ざんざい)に處(しよ)せらる           花源記  日々 新聞               小信改二代              貞 信 画                  綿 政 板                   彫 九 一                   同 浅二郎 我(われ)とわが心(こゝろ)の内(うち) にある鬼(おに)をあら おそろしと見(み)る 人ぞ知ると是(こ)は大(おほ) 阪(さか)の強盗(ごうとう)小伝法(こでんぼ)の庄吉(しようきち) といへる者(もの)。 去(さんぬる)る明治八年 二月 小田県(をだけん)にて召捕(めしと)られ 大阪に送(おく)られ既(すで)に きびしく糺問(きうもん)せられ。 是迄(これまで) なせし悪事(あくじ)の始末(しまつ)。 残(のこ)りなく白状(はくじよう) なし。 扨言(さてい)ふ様(やう)。 我等(われら)是迄人を殺(ころ)せし こと数(かづ)をしらず。 其折(そのをり)は何(なに)のこともなか りしに。小田県にて忍(しの)び居(い)る頃(ころ) より。毎夜(まいよ)殺したる男女の霊(れい)。 形(かたち)を顕(あらは)し或(あるひ)は 怒(いか)り又はのゝしり終(つひ)には白昼(はくちう)も形を顕し。 其おそろしきこといふばかりなしと。 云(いゝ)しことなり。 是は賊心壮(ぞくしんさか)んなる時(とき)は。其 怨(うら)みもなさず いつか罪(つみ)をおそれて。 迯(にげ)かくれるに望(のぞみ)て。 かゝるためし世(よ)に多(おほ)しとぞ 日々新聞 第五号        小信改二代                 貞 信 画                    綿政板                    彫工政七  大阪新町二丁目板倉 喜兵ヱといふ者雲州松江旅店 に逗留(とうりう)せしが日々 飲食(のみくひ)と藝(あそ) 妓(び)に奢侈(おごり)を極め千金 遣(つかふ)事湯 水の如しされど楮弊(さつ)を用ひる事なく 只 金貨(しゆうきん)のみつかひたるにうたがはしくと 見る目にかぐられ或夜(あるよ)【目に懸ぐられ】 捕縛(ほばく)せられ糺問(きうもん) せらるゝに件金(けんきん)は 明治七年九月大坂 三井ノ金庫を毀(こぼ)ち 貳万七千円 盜(ぬす)み取(とり)たる  大盗人 成(なり)とは報知新聞に     つまびらかなり 世の中に貧(ひん)侱【程の誤字?】つらき物はなしと爰(こゝ)に 阪府東大組塩町一丁目に母と娘と二人    住居(すまひ)の者ありさせる稼(かせぎ)もあらず    して細き煙たに立かぬる     うち又さらに母は   病の床にふし娘はとや   せんかくやせんと明暮   かなしむ折からに  母は去(さる)る十二月二十七日の夜(よ)          版元 にあはれむべし病苦を忍(しの)びて              塩町通四丁目 家を抜出(ぬけいで) 三休橋より身投して            前田喜兵ヱ社中 死(し)せり娘は病人の居(お)らぬに驚きさがしもとめる内母の入水(じゆすい)の 由をきくやいなや其身(そのみ)も共に彼(かの) 橋より飛入しに折ふし通りかゝる 小舟の上に落(おち)たれば船頭(せんどう)あつく介抱(かいほう)して命つゝがなかりしといふ此(この)舩頭は            権(ごん) 兵衛とか云(いひ)し者なりと或(あ)る人の                 語(かた)りしまゝ茲に記(しる)す                                  彫九一                                 □政板 日々新聞  第                    小信改二代        六                    貞信画         号    客文長谷川徳右衛門伝筆納                小信改二代                貞 信 画 東京(とうきやう)小石川原町に無禄(むろく)の士族(しぞく)鈴木定次郎 は兇盗(けうぞく)の為(ため)に殺害(せつがい)されし事実(ことのよし)といふは 明治八年 弥生(やよひ)の末(すへ)三十一日 午前(こぜん)四 時(じ)なる頃(ころ)なりて 花(はな)に嵐(あらし)のいた〳〵敷(し)く落散(おちゝ)り有(あり)し割魚刀(でばほうちよ)を 四大区 四等出仕(しとうしゆし)石川金造 命(めい)を蒙(かふむ)り是(これ)を取揚(とりあ)け つく〴〵詠(なが)め又 足跡(あしあと)の向(むかひ)しを慕(した)ひ鞭打如(むちうつごと)く 駒込(こまこめ)の片町富川与八が其日(そのひ)包丁(ほうちやう)を鬻(うり)しに手掛(てがゝり)りを もとめ定次郎が一子長之助と和(くわ)せざる より家分(いへをわけ)けたるに心附(こゝろつき)長之助を 招(まね)きし跡箪笥(あとたんす)を捜(さぐ)れば 定次郎の衣服(いふく)はたして出(いで)て 犯?人(にん)一子に事極(こときわま)り直(たゞち)に捕縛(ほばく) せられしは実(じつ)に天暴悪(てんぼうあく)を 示(しめ)すに早(はや)く良才(りようさい)の巡査出(じゆんさいで)しは 懼(おそる)べき事なりける           花源記 日々新聞 第七号 日々新聞 第八号     小信改二代                貞信                 綿政板                 彫九一 奸通(かんつう)は盜(とう)心と 同事 爰(こゝ)に珍(ちん)成 老人所は福島辺とかや 五良右ヱ門とて六十の 上三ツ四ツ超(こ)し ながら 同村なる お梅とて是も五十二三 とかや此(この)お梅には本夫 ありいかゞの縁(ゑん)や五良 右ヱ門と奸通(かんつう)なせしを 評判(へうばん)になりしは天のしる処(ところ) 今はたまらず両人は闇夜(あんや)に まぎれかけおちは梅川忠兵ヱが様(やう)なれど 老人 達(たち)が彼風(かのふう)はいと馬鹿々々(ばか〳〵)しやにくむべし 日々新聞 第八号      小信改二代       貞信画        綿政板        彫九一 奸通(かんつう)は盗(とう)心と 同事 爰(こゝ)に珍(ちん)成 ▲ 老人所は福島辺とかや 五良右ヱ門とて六十の 上三つ四つ超(こ)し ながら 同村なる お梅とて是も五十二三 とかや此(この)お梅には本夫 ありいかゞの縁(ゑん)や五良 右ヱ門と奸通(かんつう)なせしを 評判(へうばん)になりしは天のしる処(ところ) 今はたまらず両人は闇夜(あんや)に まぎれかけおちは梅川忠兵ヱが様(やう)なれど 老人 達(たち)が彼風(かのふう)はいと馬鹿々々(ばか〳〵)しやにくむべし                   小信改二代                    貞 信 画                       綿 政 板                        彫 九 一 大阪府下日本橋四丁目に田元 弥助といふ人あり名古町の古(ふる)き より星霜(としつき)をはるかに経(へ)て今百六才の 齢(よわひ)を保(たも)ち此体(しんたい)は取重(とりかさね)たる節分の豆〳〵 敷万夫(しくばんふ)に勝(すぐれ)て達者なるは古来 稀(まれ)なる喜(き)の字(じ) 采(とる)の字を後(あと)にし只三浦の大助とやら爰に有ば 膝(ひざ)をよせる長壽なるを 府廰(かみ)へ召(めさ)れ若干(そくばく) 賞貨(ほうび)を給(たま)わりし  何人の口すさみにや 命をは百六ツ田元弥助どの余り珍らし人に大阪             花源楼筆記  日々新聞 《割書:第|九》       《割書:号|》 日々新聞 《割書:第| 拾三》        《割書:号|》 泉州佐野市場村なる辻本屋といふ宿屋へ 堺県下の小商人松兵ヱは明治八第三月中旬 一泊せしに下女なるお梅の容麗なるに はや煩悩(ほんのう)の一念はつし菅笠の すげなきや脚伴の紐のとけ 安きまでに甲掛のそこいわか らず二朱札の一枚にておれて 汚れる袖の縁間せまき宿に 多人の泊りなればお梅の簪を松兵ヱの あたまへさし是をしるべに忍あわんと ちかひし事を合宿の長兵ヱ洩(もれ)れきゝはやそれ〳〵の 旅枕道の労れに松兵ヱもよく熟睡の折をゑて 長兵ヱは一計めくらしその簪を我があたまへさしかへ待間間うそ〳〵お梅の足音 闇(やみ)にとらへてしばらく語ひ八声のとりと松兵ヱ目覚し宵の 約束(やくそく)のかんざしなくお梅を呼(よん)でたづるに初てこいの的ちがひ 矢竹(やたけ)になつてお梅は罵(のゝし)り果は大声のいさかひとなり一夜流の 水掛論実に珍説笑に絶たり             花源誌 日々新聞 第拾三号       小信改二代        貞信画         □□□          綿政板           彫福刀 泉州佐野市場村なる辻本屋といふ宿屋へ 堺県下の小商人松兵ヱは明治八第三月中旬 一泊せしに下女なるお梅の容麗なるに はや煩悩(ぼんのう)の一念はつし菅笠の すげなきや脚伴の紐のとけ 安きやどに【?】甲掛の□□□わか らず二朱札の一枚にておれて 汚れる袖の縁間せまき宿に 多人の泊りなればお梅の簪を松兵ヱの あたまへさし是をしるべに忍あわんと ちかひし事を合宿の長兵ヱ 洩(もれ)れきゝはやそれ〳〵の 旅枕道の労れに松兵ヱもよく熟睡の折をゑて 長兵ヱは一計めくらしその簪を我があたまへさしかへ待間うそ〳〵お梅の足音 闇(やみ)にとらへてしばらく語ひ八声のとりに松兵ヱ目覚し宵の 約束(やくそく)のかんざしなくお梅を呼(よん)でたづるに初てこいの的ちがひ 矢竹(やだけ)になつてお梅は罵(のゝし)り果は大声のいさかひとなり一夜流の 水掛論実に珍説笑に絶たり   花源誌 日々新聞 第十四号  小信及二代   貞信画    綿政板  東京麻布宮川 町小久助といふ欲はり親父(おやし) 有(あ)りその娘におとみといへり は親(はゝあ)にも似(に)ぬ心も顔(かほ)も 美(うつく)しきによき鳥をかけん と芝(しば)の丸山へ茶店を出(いで)せしが 親の心も白銀辺(しろがねへん)に寄留(きりう)せし 元ト(もと)し山口 県(けん)の士族木田梅太郎といふ人今 巡査(しゆんさ)勤中折々【抈々?】の休暇(どんたく)に爰(こゝ)に来り茶を 呑しが縁(ゑん)となりいつしか濃茶(こいちや)の中となりしを 親父(おやし)は知(し)りてやかましく云(い)へは娘は死の 死(しな)ぬと古(ふる)い文句(もんく)に困果て ぜひなく養子(ようし)に取(とり)な□□【なから?】 元よりこのまぬ婿なれ ばり縁(ゑん)にされて梅太郎は 元の寄留(きりう)に帰(かへり)りしが娘も跡(あと)を慕ひて抜出一と先(まつ)長門へと△ △横(よこ)はまに 走(はし)りしか 先(さき)へ親父 へ廻りいて 娘をこつちへ かへせばよしと伴内 もどきの争(あらそ)へば終に 邏卒の眼にとまり 双方説諭に娘は中々 聞入(きゝい)れぬも是(これ)爺(おやじ)の 欲(よく)の間違より おこりし ならんか 大水堂 猩昇誌 日々新聞 第拾六号 徳(とく)島 通(かよひ)の蒸気(しようき)去ル二月廿二日の夜に 淡州 岩屋(いわや)の沖にて船中誤て火を 失し荷物に火移りて火勢盛んに なるを一同力をつくし鎮(しつ)めんとどう 舟中(せんちう)の乗客(のりきやく)の気も石炭(せきたん)を十倍 して走(はし)る程(ほと)に黒煙天(くろけふりてん)を覆(おゝ)ひ只(たゞ) 一 瞬(しゆん)の間(ま)に陸地へ達(たつ)す二百余人の 乗組辛(のりくみかろふ)じて命を拾ひしは是無事 丸の無事を歓(よろこ)び船司の良(そく)計(ち) 憤発(をとこき)を感(かん)ずべし     江湖堂       真文記                     ホリ忠治                    綿政板               小信改二代                貞 信 画 日々 新聞  第廿号 大阪府下舩越町に接骨(ほねつぎ)を業(ぎよう)とする松本 あいと号(いふ)一婦人(おんな)あり心に柔術(やわら)のたしなみ あれど二十六年にて容貌(ようぼう) 美(び)なるに 其勇かくるゝ 明治八年第一月 の初 近傍(きんぼふ)の女子一人を 連立(つれた)ち長柄堤(ながえつゝみ)を 通るに川風寒き黄(ゆふ) 昏(ぐれ)に四人の荒男(あらおとこ) 跳(おど)りかゝり 二女をとらへて 戯(たはむる)るにはじめは弱(よわ)く云のがれしに不作法(ぶさほう) 次第(しだい)に 強(つよ)うなり二人を倒(こか)し上へ乗(のり)たる有りさま松本あいは最(も) 早免して置べきかと四人の男を一人にて馴(はね)のけ蹴散(けちら)し 手練(しゆれん)の早業川へざんぶと投(なぐ)るもあり悪党はこれに 恐れ皆々(みな〳〵)是はと一同に跡白浪(あとしらなみ)の川 岸(ぎし)を灰(はい)まくごと如く 迯散(にげちり)【逃の異体字】たり 元此いかなる人の果(はて)やらん父は剣法(けんはう) 柔術(にうじゆつ)に定めて名を 得し人柱も長柄の橋のあと絶(たへ)て娘の勇気(ゆうき)が匡(かたみ)かと感(かん)せぬ 人はなかりけり     花源堂誌           小信改二代            貞信画             綿政板 月夜(つきよ)に釜(かま) とは抜(ぬけ)【?】けた文句 の尻(しり)かあわず順慶町四丁目要嘉といふ 袋物商(ふくろものや)なるが発明製造(はつめいせいぞう)の品に思(おも)わく有て五尺の大釜(おゝかま) 一つ求(もと)め工夫 最中(さいちう)明治八二月七日の出火に其家 類焼(るいしよう)して土蔵(くら)と 此大釜のみ跡(あと)に残るに板屁(いたひさし)【庇の誤り?】して置(おき)しに翌(よく)八日の夜 忍(しの)び来る者(もの) あり番の僕(もの)【フリガナ?】伺(うかゞ)ふに大釜に手をかけてアツヽといふて取も得(ゑ)ず逃去(にげさ)る事 三夜に及(およ)ぶいつもアツヽと云て空(むな)しく立去る跡(あと) にて考へるに此家 炭団(たどん)を沢山買て此 釜へ山 盛(もり)に貯(たくわ)へ置しが出火の為(ため)に火と なり上より灰になり底(そこ)に火気(くわつき)あるに 気が付たり盗人(ぬすびと)事を仕果(しはた)さず是や郭巨(くわつきよ)か 孫(まご)【フリガナ?】か十六日の亡者(もうしや)【?】嶋やの番頭(ばんた)か終(つい)に石川五右ヱ門 の末葉(ばつよう)なりと新聞紙に一決一笑(いつけついつしよう)【?】せり 日々新聞 第廿一号      小信改二代       貞信画         □政梓【?】        彫政七 月夜(つきよ)に釜(かま) とは抜(ぬけ)けた文句 の尻(しり)かあわず順慶町四丁目要嘉といふ 袋(ふくろ)物(もの)商(や)なるが発明製造(はつめいせいぞう)の品に思(おも)わく 読売新聞 第百十五号             守川周重筆  つきぢ一丁目の十ばん地にゐる 山口県山もとたでをは□【深】川万年町 二ばん地の木むらおふくという女とわるい ことをしてゐたがおふくは先ごろさくら田 ふしみ町のふく井某のうちへきて ゐん〱又ふく井とふぎを してくわいにんに なりましたが どちらのたね やら〼 〼 わかり かね かけ合 ちう五月 二十九日に 山本がふしみ丁を 通るをおふくが みつけて山もとをひがさ にてうちたゝき大さわ  ぎをやらかしました 讀賣新聞【横書き】 第百九号        周重筆 むかふしまうへ はんといふ れうり 屋へ△▲ △▲ いまとへんの なにかはさまとか    いふ華族《割書:くわ|ぞく》のごゐん 居(きよ)がきてお酒をのんでいまし たが此せきへでたおせんと いふ女かほはさらなり こゝろまでやさしきすが たにさんごじゆの一寸あまりの たまをつかはしきざけてすこし  あてこんだがおせんはあいにくかたぎ にてそんないやらしい事はごめんください 茶屋《割書:ちや|や》女こそいたしてをれ□こゝろ□□であ□【な?】  たのごきげんはとりませんといふところ○▲ 【下段】 ○▲さすが あひけう しやうばい ゆへてい よくご いんきよ はね られ まし た 讀賣新聞【横書き】 第百号           浅草山谷ほり人力車ひき冨五郎と いふものゝむすめおふぢあさ くさたんぼへんに用たしに ゆき夕かたうちへ かへるときぶん あしといふほどなく むすめのからたへ石を しきりとなぐるかない のものにはすこしもあた らずあたりてもいたしも なし又さらはちに あたりてもこわれず これはふしぎといふ うちむすめは むちうになり いろ〳〵と口 はしるこれは きつねの【続きを示す絵文字あり】  【下段-続きを示す絵文字あり】 つきしなる かとしゆ〳〵 きとうし やう やくおち つきしとそ 読売新聞 第百十五号 【右上】 □【本?】所相生町五丁目十九番地の なには【?】清へゑといふものがことし 三月中同所のぢめんをかひいれ 四月廿九日につちのなかより かゞみいちめんほり だして大きに よろ こび いな りに まいりて 四月廿九日 三十日さいれいを ○● 【左上】 ○● したといふ 又よこはまとべの山に大きな穴【?】があつて〼 【右下】 〼 きつねが まいにちなくとて きんじよの 皆が【?】さいせんや あぶら▲ 【左下】 ▲ □げをあげて 願【?】がけするといふ   守川    周重筆 平假名繪入新聞【横書き】 第十六號 五月十四日の夜(よ)しば口二丁目 のあらものやはら三平 のいえにはいりし どろぼう あさ ひなのはりこの めんをかぶりこんのふろ しきにておもてをつゝみ ぬきみをさげおさだまりの もんくにて かねをだせ といふ女 房ふるへながら 云ふにたらぬ かねを出すこれ ではたらぬきも のを出せといふハイ〳〵ト たんすのひきたしより三四枚 《割書: |○》 《割書:○|》いだす をとろぼう▽△ ▽△そのきも のをつゝ まんと 刀をしたにおくとき 三平すかさす 刀をうばひ とり ▢ ▢ どろぼう のかほに五刀 きり付るあさひなも ワツトいつてたをれると おまはりかけきたるをなか まと思ひ切付をほう にてうけと【?】れ廻り秀 もりなるぞといふに 心付□ けを □る とうぼうす 繪入新聞【横書き】 十八号 ながしま             周重筆 町(てう)にすむ こびきしよ くの松五郎と いふ人のによう ばうおきんは こまものやを してほう〴〵の とくゐををあるく ところがふだん からおゝざけ のみでかひ ぐひが すきで ちつとの まうけ ぐらひでは おいつかない ゆへていしゆに かくして○ ○ていしゆの まつ五郎の名まへで あちこちから▽▲ ▽▲かねを かりてつかふていたのが塵《割書:ち|り》つもつて 山ほどになりじぶんのちからでは おさまらなくなつてきてまつ五郎へめん ぼくないとて□□じま丁の川へざぶりとやらかして しにましたがことし三十二三ぐらひのわかざかりくひものゝために いのちをすてるとはいかに口がかわいゝといつてあんまりつまら ◐ ◐ない では あり ませ ぬ か 【タイトル】 《割書:大|阪》錦画日々新聞紙 第□【廿?】九号 【本文】 明治八年四月三十日 邏卒(らそつ)井上徳三郎は西成三区上福嶌村を巡邏(じゅんら) する時二人の童子(こども)本梃の先(さき)を鋭(するど)くし地に投(な)げて刺(さ)し勝負を 決(けつ)す互(たがひ)に争(あらそ)ひ挑(いど)みたるに近付き示(しめ)さんとせしに早く二童(二人)逃(にげ)て 其家に帰るを慕(した)ひたるに同村安藤佑七が悴(せがれ)米吉三木松なれば 親へ説諭(せつゆ)して最早(もはや)八才五才の童子 入学(にうがく)の年頃なるに 遊戯(ゆうげい)に耽(ふけ)らしむるはよろしからずと述(のぶ)るに家 困究(こんきう)にて 学校入費(がつこうにうひ)行届かずとこたへ□□□【ける?】を井上 不便(ふびん)に 思ひ二児(ふたり)を同村事務 所へ連(つれ)ゆき自(みづか)ら金一円 差出し入校(にうこう)の筆墨紙を 与(あた)へ後(のち)に戸長より五十銭戻り 学に導(みちびき)せしに親の歓喜(よろこび) 巡卒(じゆんそつ)の深志(こゝろざし)天意に叶ひ人民 保護(ほご)の 有様(こと)なりと実(じつ)に感賞(かんしやう)すべきなりと 報知六百五十五号にのせたり 《割書:大|阪》 錦画日々新聞紙 《割書:第  |五十四号》                         冨士政板                         綿 喜 板 神奈川県下」下 作延(さくのへ)村 の関口次良兵ヱの息子は 十三才なれど力 強(つよ)く物に恐れぬ 気丈者(きじやうもの)明治八年六月八日年 経(ふ)る 大きな狐(きつね)が隣の鶏(にはとり)を一羽くはへ 迯はしりしを取られし 人は残念なるべしとあとを 追かけ麦畑にしのび入り穂(ほ)に あらわるゝ古狐を肥(こへ)おもかけず生捕(いけとり) て鶏(とり)は隣へ戻してやり一 挙(うち)に殺(ころ)して此狐を 料理して皆にくへと汁に奈須野の物がたり 【三浦上総両介那須野九尾狐討取】 三浦上総の両介が矢先もあざ       【三浦介義明、上総介広常】 むく誉(ほまれ)れもの一人りで仕 留(とめ)し ふるまいは十三ぐらいでゑらい者で 【下段】 ありますと読けり 百廿六号に出  花源堂□                         ホリ砂こし定二                        小信改二代                       貞 信 画 大阪 錦画日々■■【新聞】紙 第四十五号 東京隅田川に寓(ぐう)する岡目八茂久が筆硯(ひつけん)の暇(いとま)あるごとに 堤上(つゝみ)を逍遥(せうよう)し世情(せじよう)風 骨雅味(こつがみ)を目になぐさめ物に感慨(かんがい)せし折 から一葉の舩二 挺櫓(てうろ)を搧(あを)ぎ漣(さざなみ)をたゝんで風のまに〳〵 媚(なまめ)く声清 冷(れい)たる水 調弦(てうし)時にきこへて三四段も上手へ 遡(さかのぼ)りゆくほどに羨(うらやま)しき今そ有かなと我を悟(さと)り 心 寂寞(じやくばく)たる折舩中より小紙あまた散(ち)り出し翩(ひら〳〵)くと して叢(くさむら)より数(す)【?】千の蝶 起(おき)【フリガナ?】るかと疑(うたが)われ風さそふ花 空(そら)に知られぬ雪浪に漂(たゞ)ふありさま飄零()【フリガナ?】として一片 岡目が手に落るを見るに南無阿弥陀仏と書たるに あいそもこそも尽果て如何なる白痴(たわけ)と許(もと)をさぐれは日本ばし 槙町の亀岡とかいふ愚(ぐ)人にて浅草向島辺に別荘三ヶ所を 構(かま)へ一 荘(せう)【?】に一 妾(しよう)【?】を置き輪番(じゅんばん)に遊泊(ゆうはく)し安房宄然(あぼうきうぜん)【?】の楽(たのし)み 妾(てかけ)に配分(はいぶん)して書したる六字の名号(めいごう)三万三千三百三十 三枚に満(みつ)れば懺悔善根(ざんげぜんごん)を表(ひよう)し弘誓(ぐぜい)の舩は 色に耽(ふけ)り酒に湎(ひた)りて仏門 冥理(めうり)【?】の道に叶わんと するは思ふも哀(あわれ)にも思へりと歎息(たそく)せしは 報知六百八十六号に出     小信改二代      貞信画       綿㐂板宄       □政板         ホリ徳   略文長谷川徳太□□筆□     板元 塩町通四丁目 前田喜兵ヱ社中 諸国日々新聞集 明治八年【横書き】 夫人命を助(たすく)るは万善(ばんぜん)の 源にして孰(たれ)も勉(つとめ)たき事也     茂廣    川傳梓 茲(こゝ)に四月廿三日夜十一時頃 道頓堀清津橋ゟ入水せし 婦人有是は高津町みぞのかは田原(ほていや)と  云宿やに止宿(とまり)致せし駒(こま)といゝて 本年(ことし)卅四才也四年先に男 音五良に別(わか)れ色〻心 遣(つかひ)して 身を投(とう)せし物ならんか辺(ほと)りの 湯(ゆ)やの男 早速(じきに)飛(とび)こみ 巡査(じゆんさ)の御 指令(さしづ)にて引あげ 介抱なし命につゝがなかりしは 実(け)にたのもしき湯やの 男と御 誉(ほめ)をいたゞき しは天晴(あつぱれ)なる 事とも也 〽みな底(そこ)の  どろによご  れし其身  をは洗(あら)ひあげたる  清津湯かな   柳櫻記 紀州周参見村 濱田(はまだ)某の娘まつは 本年十九才心 潔(いさぎよ)き 性質(せいしつ)にて風の 柳のなよやかに あいてきらはぬ さゝめ言(ごと)国に有 てもつくまなべ 尻(しり)の早(はや)くも大阪の 今木新田某へ奉公 するより又直になんば村久三良方へ 仲人なしの夫婦中 一重(ひとへ)つまでは肌(はだ)さむしと重(かさね)る 妻の幾重(いくへ)とも数(かづ)さへ定(さだ)めぬ みそかおばさながら賣女(ばいぢょ)同やうの しまつに其こと發覚して久三良もうらみはて 追出さんと思へどもさばかりにてはあきたらずと 近辺の若もの六七人もかたらいて濱さきより 小船にひそみまつを呼出(よびだ)しさそい入五六丁 もこぎ出し久三良をはじめとしまつを なぶりものにすまつは鬼がしまへもつれ ゆかれんと人こゝちもなかりしに豈(あに) はからんやおのがこのめる筋なれど 酒ずきも過(すご)せば二日よいのづゝう▲【上段終了】 【下段開始】 ▲ もちずきも 過(すご)せば食もにれ にてきのおもく ついに千島新田 葭(よし)の中へ 追あげられて夜をあかし わが身(み)をくやむは先にたゝず         柳櫻記 明治八年 錦画 新聞 第三月の六日の夜。淀の小橋の          石 和 板 中程(なかほど)に。 男女(ふたり)の衣類(きもの)ぬぎ捨(すて)て 上(うへ)に壱封(いちふ)のかき置(おき)は。 情死(しんぢう)と見ゆ れど姿(すがた)は見へず。とふしたわけと ことのもと。 尋(たつね)て聞(き)けば西京の 上七軒(かみひちけん)の客舎(おちやや)なる 山浅内の若菜(わかな) とて。 顔艶(みめうつく)しき 倡婦(うかれめ)と。 添遂(そひとげ)る気(き)の遊男(たはれを)は 散財花(ちらすはな)さへ数千本(すせんぼん)。 通北(かよひきた) 野(の)にほど近(ちか)き。 笹井町にて 鳥店(とりや)ゆへ。 籠(かご)の鳥なる若菜とは。気も食鶏(あいのこ)の悪縁か 互(たが)ひに好(すき)と鋤鍋(すきなべ)で。身をこがしたるつゞまりの。 思案(しあん)も 今は煮(に)へつまり。せんかたなくも身を水に。 没(しつめ)て浮名流(うきななが)す とは。あさはかすぎる愚(おろか)さとの噂(うはさ)のまゝをこゝに画ス 身を水にさらすのみかは名(な)もさらし 行をさらしたことゝ言はれん       芳瀧誌 東京本所 三笠町六番地 小川宇作と いふ者の。女房おせいは 泥棒にて。 召(めし)とられしが亭主の。宇作も 以前(もと)は此おせいが。人の女房でありしとき 密通(よこどり)をして邪合(どれあい)の。 非道(むほう)は似(に)たる夫婦中(ふうふなか) 魚と水との悪縁は のがれがたなき天の 網。かくりやつながる 縄付(なはつき)と。 成(なり)ゆく 二人(ふたり)は当然(とうぜん)の むくひきたると いうべし 明治八年 錦画                      笹木 新聞                       芳瀧画 武州高麗郡大谷澤村に 力(ちから)も人に壮男(ますらを)の名は大河内 清兵衛とて。 釖術(けんじつ)さへも よはからず。すぐれて強(つよ)き気性にて。 或(あ)る時(とき)近村 よりの戻(もど)りしが。何かあやしき家内(うち)の様子。よく〳〵 聞(き)けは盗賊(どろぼう)ゆへ。 隣家(きんじよ)の木太刀借り来(きた)り。声も ろともにかけつけつ。千変万化 手負(ておひ)ながらも ついに賊(ぞく)をは捕縛(いけどり)ば同国(どうこく)入間郡越生村 田嶋惣兵衛といへる者にてありしとぞ  木だちから火花ちらせば土(ど)ろぼうの    金だせ〳〵も水になりけり     正情堂       九化誌            石 和 板   図会 第卅八号              呂太夫 昔から名高き大阪天満のはら〳〵薬の 元の主人は今は呂太夫とて浄瑠璃の 大 天窓(あたま)となり其女房は京人形と 混名(あだな)を得(ゑ)たる二十二三の美人(べつひん)なるが 何(いつ)の程(ほど)よりか其家にのらくらしたる 食客(いそうらう)と密通して居たる事を 呂印が嗅(かぎ)つけ何(いつ)の間(ま)に誂(あつら)へ 置しや或日一畳敷の大のし紙 持来るを其侭女房の背中(せなか) に結ひつけ彼 寓公(いそうらう)を呼(よび)出し此 京人形を貴さまの玩物(をもちや)にやる さかい何処(いづく)へなりとも持行けと 共に其家を追出しけると扨も 愉快(ゆくわい)なはら〳〵薬ならずやと  東京日々新聞にまで出たり もろ人もかたり傳へてきゝつらん  扨もきれいな はら〳〵薬   圖會 第卅八号 昔から名高き大阪天満のはら〳〵薬の 元の主人はい今は呂太夫とて浄瑠璃の 大 天窓(あたま)となり其女房は京人形と 混名(あだな)を得(ゑ)たる二十二三の美人(べつひん)なるが 何(いつ)の程(ほど)よりか其家にのらくらしたる 食客(いそうらう)と密通して居たる事を 呂印が嗅(かぎ)つけ何(いつ)の間(ま)に誂(あつら)へ 置しや或日一畳敷の大のしを 持来るを其侭女房の背中(せなか) に結ひつけ彼 寓公(いそうらう)を呼(よび)出し此 京人形を貴さまの玩物(をもちや)にやる さかい何処(いづく)へなりとも持行けと 共に其家を追出しけると扨も 愉快(ゆくわい)なはら〳〵薬ならずやと 【はらはら薬は胃腸薬】   東京日々新聞にまで出たり もろ人もかたり伝へてきゝつらん  扨もきれいなはら〳〵薬 横浜野毛町四丁目 髪結職鈴木藤松が蓄猫(かいねこ)が子を 三疋 産(うみ)おわつて死(し)せりかねて獣好(けものすき) にて洋犬(ようげん)の雌(め)も飼(かい)たるに明治八年 五月のころ柴犬も子を産みしに望(のぞ)み人 ありて早く子を譲(ゆづり)り【衍字か?】たれば親(おや)犬の乳汁(ちしる)たれてやまざるを 孤猫(こねこ)にあてがい昼夜 養育(やしなひ)おこたらず家内店のお客迄も 不思儀(ふしぎ)た【と?】て傍へよれば子猫をとらるゝやと洋犬の吼(ほへ)たつる程(ほど)になりたり 実(まこと)に全国兄弟の契(ちぎ)り貴族(きぞく)官員が平民を軽蔑(けいべつ)せるは犬にだも鹿猿 可(べ)けんやと 日日新ぶん千三十 五号に出ず 大阪錦画新話第八号 □□□□二       小信改二代        貞信画         阿波文板         森□板 大阪錦画新話 第十二号 小信改二代  貞信画 森文蔵板 阿波文板 ホリトラ 兵部省の雇人足某は同省より円金五円を受取り 帰り其夜寐処の下へ入れ置き翌朝うちわすれ出張(しゆつてう)せしが フト思ひ出し驚(おどろ)き家にかへりさがせども更(さら)になし此者の娘 七才なるにたづぬれば今朝五厘をひらひ菓子を 買ふたといふにつけ早そく菓子やにゆきしか 〴〵を語れば我も心つかず蕪(かぶら)をかふたといふに 又〳〵かふらやを爰(ここ)かしこと捜(さが)しよう〳〵 見あたり云々(しか〴〵)かたれば我も円金を受取 たる否(いな)やを知らずと財布を打あけ見 れば果(はた)して有りかぶらや大に おどろき是 君(きみ)の所有(もの)なればと すみやかにかへし 五厘を呉(く)れといふ正直なるに感(かん)じ一朱をあたへて 是を謝(しゃ)す若(もし)この円金(かね)なくば蕪にあらぬ株(かぶ) 仕舞なれども円(まる)くおさまりたるもよく〳〵 五円の有金なりアヽ金銭は正直大切に致(いた)さねば なりません 日々新聞 二百四十号出ル 大阪錦画新話 第十号【横書き】 崔(さい)南といふ人の妻唐 婦人(ふじん)は其 姑(しうとめ)長村夫人は年老て 食事かなはざれば常に乳(ちゝ)をあたへて孝を尽(つく)せしは 世の人よく知るところなり是はそれには引かへて 東京北神保町七番地に嶌田政七と云人 の妻おつるは千年の齢(よはひ)もまたず明治 七年の頃 産(うみ)し女の子を忘れ匡(かたみ)に死したりしか 此家の老母(ばさま)は愁傷(かなしみ)にたへず孫を自(わ)が手で育(そだ)つるに 七十余旬の皺乳(しわちゝ)を孫に呑せ居たるに不思儀と 此ころ乳汁(ちゝ)発(いで)てはしるに孫は此 乳(ち)に肥満(ひまん)せるハナント 稀(まれ)な事ではありませんか 読売八十五号紙上に 詳なり         大水堂                森文蔵板 阿わ文板           狸 昇 誌          二代                          貞 信 画                     小信改二代  阿波文板                     貞 信 画  森文蔵板 静岡県沼津在推路村の士族鈴木某は去明治八年 より東京へ出て巡査(じゆんさ)を勤めて居しがその妻おのぶと の【野?】へし花の十九廿年 㒵と心のうつくし きうへ歌道を たしなみ夫(おつと)の留 主の一人り寝はいとはず姑女(しうとめ)に よく孝育(こういく)なし或る日 叔母(おば)がきたりおのぶへ告(つげ)るには夫(おつと) 鈴木は東京にて外に女を貰(もら)ツタといふがナゼ捨て置ノダ はやく踏(ふみ)出し逢(あつ)ておいでと言われてモシ叔母さま御 戯談(ぜうだん) おやめそれは少しも怨(うら)みませぬ御身まはりの世話も行届き また私は御留主を守るは女房の役親を残して行くもいかゞと 貞節美言(うつくしことば)に叔母は言(ことば)をかへさず立帰る跡におのぶは捨がたき心のそこ 意(い)筆とりて   東路に月は照るやと終夜(よもすがら)啼あかしてむ山時鳥 ト 一 首(しゆ)をつらね遠(とを)き夫(おつと)へおくりしは年も若きに感心な嫁では有りませんかと 読売百廿二号に出たり        筆者高田俊二  大阪錦画新話 《割書:第  |十四号》 東京日々新聞 七百三拾六号                        一蕙斎芳幾画 岸田(きしだ)吟香(きんかう)は新聞(しんぶん) 探訪(たんばう)の為(ため)。 陸軍(りくぐん) に従ひて台湾(たいわん)に在(あ) る事二ヶ月余。 諸蕃(しよばん)降伏(かうふく)の 後(のち)ある時(とき)牡丹(ぼたん)生蕃(せいばん)の地に遊歩(ゆうほ)し。 帰路(きろ)石門(せきもん)の渓流(こかは)を渉(わた)らんとて靴を 脱(ぬが)んとする折から。 土人(どじん)来(きた)りて 背(せ)に負(お)ふて越(こさ)んと云ふ。 吟香 辞(じ)すれども尚(なを)聴(きか)ざるゆゑ 渠(かれ)が背(そびら)に乗(のり)たりしに。 力(ちから)微(よわく)して立(たつ)こと能(あた) はず。 遂(つひ)に笑(わら)つて止(やみ) たりとぞ。 蓋(けだ)し 吟香は躯幹(からだ)肥大(ふとり)て。 重量(めかた)二十三貫目に余(あま)れり  吟翁が同社の硯友    轉々堂藍泉記 東京日々新聞 三百廿二号 民(たミ)に親愛(しんあい)を教(おしゆ)る孝より 善は莫(なし)と.尓(さ)れば氷(ひよう)上に 鯉(り)魚を獲(ゑ).雪中に笋(たかんな)を 抜(ぬ)く.古(ふる)き教(おしへ)を固(よく)守て. 老母が長(なが)き病(いたつき)に 食料(しよくりやう)湯薬(たうやく)二便(にべん) の看護(かんご).聊(すこし)も他人の 手を借(から)ず至(いた)れり 尽(つく)せる其(そが)うえに.快(くわい) 晴(せい)の日は背負(せお)ふて遊歩(いうほ)し. 母の喜(よろこ)ぶ体(さま)を見て.吾(わ)が 第一の歓楽(くわんらく)とす而(しか)して多年(たねん) も一日の如し.未(ま)だ秋 浅(あさ)き 季候(ころ)なるも氷を食(しよく)せんこと を望(のぞ)めば.数里(すうり)を阻(へだ)たるに 長沼(ながぬま)山の.渓間(たにそこ)深(ふか)く下(おり)たちて 僅(わつか)に氷を索得(もとめゑ)つ.母に與(あた)へし孝子は 之(こ)れ.福島 県下(けんか)岩代(いわしろ)の国 岩瀬郡(いわせごほり). 鏡沼村(かゝみぬまむら)の農民(ひやくしやう)にて.褒金(ほうきん)若干(そこばく) 賜はりたり   轉々堂鈍々記 一蕙斎芳幾 東      吉備大臣                 一蕙齋                              芳幾 京      市川團十郎                                印 日 々   芝新ぼりの戯場(げきじやう) 河原崎(かわらさき)【原本は嵜の異体字】 座(ざ)に 新  おいて吉備大臣(きびだひじん) 支那物語(しなものがたり)と題(だい)し    たる新狂言(しんきゃうげん)を取仕組(とりしく)めり 吾朝(わがてう)の 聞  吉備大臣 日唐の間に於て    云々の儀に付 唐(とう)の玄宗皇帝(げんそうこうてい)に      迫(せま)つて貢金(ちようきん)を出(いで)さしむ この場(ば)を演(ゑん)すか の大臣に 九百十七号     扮するは雷名(らいめい)の市川團十郎なりと聞(き)けば色ゝの               能辨(のうべん)を以て 安禄山等との 議論(ぎろん) 妙(めう)なるべし                作者は有名の 河竹翁(かはたけおう)なれば定(さだめ)て興(きよう)ある事あらんと評せし 東京日々新聞 八百三拾二号 世の人を救(すく)ふ誓(ちか)ひの網(あみ)の目と漏(もれ)たつもりの兇賊(わるもの)が 浅(あさ)き工(たく)みの浅 草(くさ)寺。 其(その)境内(ぢない)なる 奥(おく)山に茶屋 揚弓場(やうきうば) 鱗次(いゑなみ)の。中に潜(しそ)みて居 たりしを捕(とら)へんものと 査官(やくにん)が。 的(まと)ハはづ さぬ弓張(ゆみは)りの。月も廿日の 真夜中(まよなか)に踏込(ふみこ)む目先へ白刃(ぬきみ)を振(ふ)り。 手向ひなせしを事ともせず所持(てにもつ)官棒(くわんぼう)とり なをし勇気凛々威儀揚々(ゆうきりん〳〵ゐぎやう〳〵)。 大喝(たいかつ) 一声(いつせい)をどりこむ。此勢に鼡賊(そぞく) ども。おのが名(な)呼(よ)ぶ濡鼡(ぬれねづみ)。 猫(ねこ)に 追(おは)れし有様(ありさま)に。 狼敗(ろうはひ)なせ しぞこゝち よき 墨陀西岸  温克堂   龍吟誌      蕙斎芳幾      《割書:人形|町 》具足屋  渡辺彫栄 東京日々新聞【横書き】           一蕙齋芳幾 頃日専(このごろもつは)ら刊行(おこなは)るゝ。 福澤氏(ふくさはうし)が学問(がくもん) の進(すゝ)めと題(いへ)る教諭(おしへぶみ)史第八篇の文中に。 一 夫(ぷ)の多妾(たせう)を犯(をか)せるは畜類(ちくるい)なりと論(ろん)ぜ しも。理(ことはり)なるを此(これ)は之獣(これけもの)の名に因(よ)る熊谷(くまがへ)県下に。 孀婦(ごけ)のおなほが長女(むすめ)のお袖(そで)。 次女(いもと)のお蝶三人と。 輪交(かえ〳〵) まくら川 越(ごへ)の多賀町に住(す)む滝(たき)次郎。 清(きよ)き流(ながれ)の名にも 似(に)ず放蕩無頼(はうたうふらい)の悪漢(わるもの)なれば。三 婦(ぷ)に姦(かん)する故(ゆへ)をもて親(おや)子 互(たが)ひに 睦(むつ)ましからず。平日(つね)に葛藤(くせつ)の絶(たえ)ざりしが。或時例(あるときれい)の口角(いさかひ)より母を 柱(はしら)に溢(くゝり)つけ。其 面前(めのまへ)に戯(たはむ)れて姉妹(はらから)も亦愉快(またゆくわい)とす。 醜態言語(しうたいごんご)に絶(たえ)たりし人畜生(にんちくしよう)が 挙動(ふるまい)の。官(くわん)に聴(きこ)へて捕(とら)へられ。 入間郡(いるまこほり)の 裁判所(さいはんじよ)へ   轉々堂主人録 一同送致(いちどうおくられ) たりと なん 東京日々新聞 九百十二號 一蕙斎芳幾 武州 秩父(ちゝぶ)郡(こほり)芦(あし)ヶ 久 保(ぼ)村(むら)の農(のう)何某(なにがし)は沙魚(ざこ)を取(と)らんと 網(あみ)を携(たづさ)へ七歳(なゝつ)に成(な)りし児を連(つ)れ て渓川(たにがは)に臨(のぞ)み小児をは川 岸(ぎし)に遊(あそ)ばせ置(お)き 己(おの)れは網(あみ)を打(う)ち入(い)れて彼方(かなた)此方(こなた)と漁(りやう)を しつゝ歩(ある)行しに児は忽(たちま)ち声(こえ)を 揚(あ)げてアレとゝ様(さま)や蛇(へび)が坊(ぼう)を食(く) ふよと叫(さけ)ぶゆえ駆(か)け附(つ)け見(み)れば小桶(こだる) 程(ほど)の蟒(うはばみ)か後(うしろ)の山より蜿蜒(のたり)いで 既(すで)に吾子(わがこ)を丸呑(まるの)みに△ △ せんとする勢(いきほ)ひなるにぞ側(そば)に有り 合ふ杉(すぎ)の丸(まる)木ををつ取(と)りて力(ちから)を極(きは)めてドツと 打(う)てば蟒(うはばみ)は忽(たち)まち草木(くさき)を推(お)し分(わ)けて 後(うしろ)の山へ逃(に)げ隠(かく)れしが此(こ)の小児(こども)は何の 替(かは)りし事(こと)もなく其(その)父(ちゝ)も煩(わづら)ふ事 などは絶(た)えてなかりしとぞ此の 網打(あみうち)は膽(きも)の太(ふと)き男(おのこ)なり 東京日々新聞 九百廿六号 日向國(ひうがのくに)臼杵郡永井村にて先月 十三日明見社の祭礼ありしに 村の者ども集(あつま)りて例(れい)の村 芝居(しばゐ) を催(もやう)したるに狂言は則ち忠臣蔵 なりしが五段目に至りて此村の精蔵(せいざう)と 云ふ者かの定九郎に扮して舞台(ぶたい)に出て 彼(か)の久しぶりの五十両と云ふ件迄 首尾(しゆひ) よく行たれば今日の出来は精蔵兄の定九郎 なりと見物も誉(ほ)め居たりしに 勘平に扮したる男かねて所持 の猟銃(りやうじう)を持出しハタと火蓋を 切て落(おと)すや否や定九郎は弾丸(たま)に 打貫(うちぬ)かれてウンと仰(のつけ)に倒(たを)れたるまゝ即死し たりと勘平も相済ずとて腹を切りしや否や⧖ ⧖未た確報(かくほう)なし扨も村戯場(しばゐ) 可笑(おか)しき事も有るべし 此精蔵の如き猪打報ひもあるまじきに 実(ぢつ)に憫然(びんせん)の至りなりと人々 興(けう)を醒(さま)し たるべし 東京日々新聞【横書き】九百六十四号 相州江の島弁才天女の廟は往古より七年ごとに開帳あること世人の能く知る所なり然るに当亥年 四月一日より五月二十日に至るまで五十日の間 臨時大祭(りんじたいさい)を行な はるゝよし是に就(つい)て此島に住める一新 講(かう)社中有名なる■ ■ 旅館(りよくわん)ゑ びす屋は此頃 新(あら)たに三階の 高楼を築造したり其 結構(けつこう)は日 本風の立かたにして尤も間取りの 注意より諸式みな風雅(ふうか)を尽(つく) せり此楼上より望(のぞ)めば三浦鎌 倉由井の浜の風景眼下 に集り冨士は 遥(はる)かに白く 箱根は△ △ 近く翠(みどり) なり 空(くう)気 清快にし て健康(けんこう)を補(おぎ)なふべく殊(こと) に海味に富て佳肴(かこう)乏しから ず御参詣のお方はお上り有て御試 しなされ頃日この三階の楼上に 掛んと坂東彦三良中村芝翫 菊五郎左團次團十郎半四郎 等を始め俳優(はいゆう)十余人其外作者 留場抔にて名前を染め付け たる暖簾(のれん)を拵らへ恵 日寿屋へ送らんと専ぱ     蕙齋 ら其用意 最(さい)中なりと云へり   芳幾                   《割書:人形|町》 具足屋 渡辺彫栄 東京日々新聞【横書き】 九百七十八号 長州小月村の京泊りと云ふ所の長谷川熊吉と云ふ 者の女房おすゑに去年十月ころより阿部(あべ)の清明(せいめい)とか 云ふ狐が乗(の)り移(う)ツたとて色〻妙な事をしやべり 散(ち)らし本年一月には火の雨が降(ふ)り火の風が 吹(ふ)きて世界(せかい)がみな黒土(こくど)に成るなどゝ 云ひ触(ふ)らしけれど近村の 人まで聞(きゝ)き伝へて 何(ど)うそ火災を免(まぬか)れ る様(やう)にと祈祷(きとう)して京泊に 稲荷(いなり)の社 を建立(こんりう)して 小豆 飯(めし)や 油揚を備(そな)へて 鼠(ねずみ)の油煎だのお洗 米だのと噪(さわ)ぎ立けるが国中の大 評(ひよう)判となり参詣(さんけい)する者引も切らず 灸点を下して貰(もら)へば何(ど)の様(やう)な病気でも治ると云ひ或は 手の相を見て貰(もら)へば運(うん)の吉凶(よしあし)が別(わか)るなどと持て林して蟻(あり)の如く集(あつま)りけるが風と或る人  より此稲荷にはまだ官位がないから京都へ位を受けに行くが能(よ)いと云ふ相談が始まりて 商人仲間で何程かの金を調のへ本年一月中旬におすゑは亭主熊吉と隣りの金六が 女房おみすを連れ船にのりて出帆せしが備後の尾ノ道にて上陸して或る酒楼(たかや)にて路用を皆(みん) な飲(の)んで仕 舞(ま)ひ上京する事も出来ず詮(し)方が無く成りて遂に帰る事に成りしが三人 倶(とも)に道々を 南無妙法蓮華経〳〵と唱(とな)へて人の門に立つゝ稍々(よう〳〵)芸州(けいしう)の広島まで帰(かへ)り来り暫(しば)らく ∞ 【下段】 ∞ 爰に逗留して亭主の熊吉を国元へ戻し路用の工 面(めん)をさせて帰国せしがおすゑ稲荷さまハ前に替らぬ 繁昌(はんじやう)なり此おすゑ様が広島を出る時に同国の瀬川(せがは)百丸と云ふ役者と同伴(どう〳〵)して船の中で乳栗(ちゝくり)あひ大恍(おほのろ) 惚(け)に成り国へ帰りて亭主に云ふ様私は男を禁(きん)じ身を清潔(きれひに)せねば罰(ばち)が当(あたる)とて別に家を借りて居て 毎晩百丸と密(ひそ)かに枕を並べて楽(たのし)みしと此おすゑ稲荷様も人の身の上吉凶 禍(くわ)福はいろ〳〵と 御しやべり成されて随分人を魅したれども神様も人間も恋(こひ)は思(し) 案(あん)の外と見えて百丸に魅されたは奇談(きだん)と申そうか愚談と 申そうか呆れ返(かえ)ります        蕙齋                    芳幾              人形町 具足屋 渡邉彫栄 肥後国海中え毎夜光物出ル所之役人行 見るニづの如之者現ス私ハ海中ニ住アマビヱト申 者也当年より六ヶ年之間諸国豊作也併 病流行早く私シ写シ人々ニ見セ候得と 申て海中へ入けり右写シ役人より江戸え 申来ル写也 弘化三午四月中旬