DENKICAN NEWS No. 135.      July 28th, 1921. ー△三角、キーストン映畫▽ (1)捕鯨船船 〔喜劇〕    二巻      説明者   宇野 英 一 ー△パテー、プラツクトン映畫▽ー (2)血の砲台(人情劇)    —△出演俳優及び製作役割▽— 【欄外・右横書き】 (四)大正十年七月廿八日発行 デンキカン・ニユース 第百三十五号 【上段】   「ミラクル・マンの思想」            蔭山逸刀太  ニイチエは「肉体は大なる理性なり、一 箇の意義を持つ複数なり、戦争にして且平 和なり、群畜にして且牧人なり」―長江氏 訳―「とアルゾォ、シユプラツハ・ツアラト ウストラ」で言つてゐる、彼は肉体の中に 精神があつて、霊魂は肉体に含有されてゐ る一部のものに過ぎぬと主張した、私は之 れに大なる反感を懐く者である。  「死」といふことは、霊魂が肉体なる外皮 を破つて新に独立することである。霊は肉 体と共に滅するようなそれ程貧弱なもので はない霊は飽くまで神秘である。そして崇 い。人間が自然から与へられた本能と感覚 は霊に依つて美化される。若しその本能を 名づけて「愛」としたならば、愛は始めて「霊 の神秘」に依つて純化され得る・その感覚 を名づけて「悪」としたならば、悪は霊の為 めに其の価値のために打破されてしまふ。 モオバツサンは“AMOUR”なる一作品に 於て、この二つ―本能と感覚―は文明の凡 らゆる考証と機因とに依つてのみ研磨され 得る。と言つた。其の考証と機因は何を以つ て其の源泉とするか?それは霊を以つてす ると答へる。霊は凡べての源泉だから、こ の言葉は矛盾のやうに聞える。か、一体「悪」 といふのは広義の上では善である。「悪」は 一時の発動性に過ぎぬ、人間に霊がある以 上、善は潜在性を持つてゐる、故に如何な る大悪人でも霊が肉体から独立する間際に は、凡べての悪を失ってしまふ、それは今 迄肉体といふ覆物(ヴエール)のためた【「に」の誤植か?】、其の活動を妨 けられてゐた霊が、突然なる解放に依つて 其の「神秘な力」を振ふからである。又解放 に至らずとも、偉大なる「霊の交通」Verk- 【中段】 ehr der Seeleといふことに依つても或る程 度までは其の力を振ひ得る。ミラクル・マン の一篇はこの「霊の交通」を適当に主張した 代表的の映画である。  フランク、バツカアド氏がこれを巧妙に 客観化したことは賞讃に余りある。氏は民 衆の理解を容易に生ましむべく至当な筋を 書いた。が余りに技巧を弄した処もある、而 しそれは映画劇の自然不自然云々を論ずる よりも広く民衆に意を用ひたと解釈すべき である。この一事で凡べては償ひ得る。跛 者が全癒した例を使つたのはこれである。 これ程人間の霊は尊いことを具体的に示し たのである。これはこの一篇のイデーの支 流であつて本流ではない。氏は余りこれを 使ふことに賛成しなかつたらうと思ふ。ミ ラクル・マン―彼は人間にして人間に非ず 神にして神に非ず―の全身にこそ氏のイデ ーは流れて居る。氏の思想は彼に集つてゐ て、彼をどこまでも「偉大なる人」として取 扱つたのである。  監督者 脚色者、俳優等はこの思想を理 解したかといふと、遺憾ながらこれを否定 する、映画劇となつたミラクル・マンは僅 かに原作で生きてゐる。殊にタツカア氏は 原作の思想を忘れて、徒に技巧方面に苦心 した傾向がある。全篇八巻の長いダラシナ イ作品を作つてしまつた。或る人は映画劇 はそれで好い―といふかも知れぬ。が、私 はそれだから日本映画は根本から間違つて ゐますと御 【脱字?】する。彼の独逸、仏蘭西、伊太 利の映画は、技巧よりも何よりも全篇を流 れるイデーに腐心する、情緒に腐心する、 だから深刻味な作品が出来るのである。私 は映画の技巧と思想をいふことについて何 方を選ぶといつたならば―勿論二つともあ ればよい―後者をとる。何よりも思想を表 現することが大切である。それを表現すべ く巧妙なる技巧が備はつてゐるならばこれ に越したことはないがそれは第二の問題だ 【下段】   神秘なる愛の力   雪原銀橇 宗教の力、―愛の力、それは『奇蹟と人』を 一貫したテーマである。 偉大なその力は、すべての世の悪人を悔ひ 改めさした。そしてあの大作をタツカーを してなさしめたタツカーの脚色監督の大き さはともかく、全篇に流るゝ、愛の大きな 魅力が、始めから終りまで、寸分の弛みも なく、観客をひつぱつてゐつた。 全巻の主□である、神の愛から、小さな小 児の犬に対する愛までが、我々観客に与へ た、微妙な旋律は、『奇蹟の人』の大作たる の真意義ではなからうか。 小児の跛がなほり、小女の病の治つたあの 奇蹟はむしろ児戯に等しい、然しそれを冷 笑の眼で見ることは、少くともあの映画を 解するものには出来ない、なんとなれば、 そこに偉大な神の愛を認めるからである。 フロツグが、老婆に対して、養子たらんと するの請ひを入れた。それは彼が、温かい 母の愛を得んがためである、関節をはずし てまで不具者を装ふた。冷血漢が母の愛を 得んとしてつとめる。その間に、考へるべ き或物がある。ドープが、田舎娘の純な愛 に生きんとする。その心理、そうして、ロ ージーが、あの、淫蕩な、女からリチヤー ドキングの愛の力に依つて、美しい心の女 に甦る。こゝに至つては愛の力の、余りの 神秘さに、驚くの他はないのである。そう して、これからのすべての愛の源泉たる神 の愛を考へる時はいかに無宗教者といへど も『神よ?』と讃美せざるを得まい。 「黄金何ぞ、愛を失ひて黄金なにするもの そ」とトムが絶叫した、その言葉を何人が 否定することが出来よう。 大正十年七月廿八日発行 定価一部三銭郵税二銭【郵税:郵便料金の旧称】         発行編輯兼印刷人  森田勝祐       浅草公園六区三号八番  デンキカン社            電話浅草三六二一・三六二二